C・W・ニコルの旅行記
C・W・ニコル 著
竹内和世/蔵野 勇 訳
も く じ
JAPAN 日 本  訳/竹内和世
人間、この旅するもの We Are All on Journey
誇り高きハンターたち Yes, I am a Hunter
海をわたる男たちの歌 Takabe!
INDIA・NEPAL インド・ネパール  訳/竹内和世
古代へといざなうヒマラヤの地 Namaste! Hello!
PONAPE ポナペ  訳/蔵野 勇
アドベンチャー それは新しき一歩 One Step More
AUSTRALIA オーストラリア  訳/竹内和世
コアラとエリマキトカゲだけの国じゃない Not Just Cold Beer, Koalas and Frilly Necked Lizards!
ZAIRE ザイール  訳/竹内和世
旅にはほほえみと手を振ることを忘れないで Never Forget a Smile and a Wave!
森の人 ――ピグミー族 People of the Forest
湖と猟師たち、そしてニーゴンゴ Of Lakes and Fishmen and Niragongo
IRELAND アイルランド 訳/竹内和世
ケルト人の島 That Celtic Island
アルスター 爆弾と歌が語るもの Ulster
THE ARCTIC, THE ANTARCTIC 北極、南極  訳/竹内和世
ハンターの胸に響く海からのシンフォニー Callings
人生という旅の途中(あとがきに代えて) Travel
C・W・ニコルの旅行記
JAPAN 日 本
人間、この旅するもの We Are All on Journey
あの偉大なる宇宙の旅人、ハレー彗星《すいせい》の訪れが今年(一九八六年)中に迫った今、私の心をよぎるのは、地球というこの惑星に生きるすべての仲間たちもまた、いつまでも終わることのない旅を続けているという思いである。太陽系を回り、銀河系を旅し、そして銀河系自体も動きつづけるという果てしない旅の途中にいる私たち――。さらに目を体の内部に転じれば、そこでもあらゆる組織のすみずみにまで巡らされた無数の管や器官を通じて、日夜絶えることのない旅が続いている。
旅することが人間の基本的本能であるというのは、別に驚くべきことではない。人類の最初の祖先は狩人であり、採取者であった。彼らは常に移動して生きてきたのである。その後共同体が形成され、強化されて、動物の家畜化が始まると、人々の移動はそうした家畜たちの放牧の季節に合わせて行われるようになった。家畜の群れが大きくなるにつれて、人々の中には放牧地を求めて驚くほど遠くまで、しばしば大陸全体にまたがるほどの距離を移動する集団もでてきた。また一方では、草や植物などを作物として改良することによって、農業に従事する人々の集団も生まれた。彼らはしだいに移動をやめ、一定の土地に住みつくようになる。農業の発達は、村や町の成長をうながし、さまざまな技術の専門化を進めていった。
しかし、人間のもつ旅への強い衝動は、まったく死滅したわけではなかった。隣の国で起こっていることにはなんの興味も示さない人でさえ、旅を映すテレビのスクリーンにはかじりつき、画面に流れる「身代わり」の旅をとっくりと味わっている。
母が語ってくれたところによると、私の旅は母の胎内にいたときからすでに始まっていたのだという。遠く戦場に行った夫を案じ、母はひとり嘆きながらウェールズの山々を歩き回っていたらしい。成長してイングランドの学校に通うようになってからも、私は復活祭や夏期休暇、クリスマス休暇と、学校が休みになるたびにはるばる祖父母のいるウェールズに戻っていった。八歳になるころには、すでに私はひとりっきりで一日がかりの旅をやってのけていた。それも、ロンドンで汽車を乗り継ぎ、いくつかの乗り換え駅を経るという大旅行である。
十四歳のころには、私はイギリス中、ときには遠くスコットランドまでも旅して回っていたし、十五歳のときには交換学生としてフランスに渡り、ボルドーの近くのスロンという小さな村で三ヵ月間暮らした。カナダ北極圏への最初の遠征行にでかけたのは、十七歳のときである。そして今、住んでいる所といえば、もちろん日本の山の中だ。
そういうわけで、私は正真正銘の旅人なのである。
旅で得られた最大の喜びは、妻であり
友人であり……そして新しい故郷だ
けれども今、来しかたを振り返り、あるいはこれからを思うとき、私は自分がほんとうに楽しんでいるのは、移動≠サのものではないということに気づく。私が好きなのはまず、旅を計画する段階で、自分の心と想像力とをはるか未来へと投げやるときだ。つぎにいざ到着するときの喜びと、さらに滞在するときの楽しさと、これらを私は十二分に味わい飽きることがない。
これまで旅を続けてきて、私が得ることのできた最大の喜びは、妻であり、家族であり、友人であり、新しいことばであり、自分というものの新しい存在証明であり、そしてまた、私にとっての新しい故郷《ふるさと》であった。私の故郷は北極であり、ウェールズであり、日本である。新しい国を訪れるたびに、私はいつも忍耐と勇気とをもって、その国に飛び込み、身をゆだね、全力をあげてみずからをその国に合わせてきた。こうすることによって、私は今述べたあの宝物を手に入れることができたのである。
こういうことをいうと、私に向かって、さぞたいへんだったろうとか故郷≠ノ帰りたかったろうとか、尋ねる人がいる。
そのような人たちは、地球というこの惑星に生きるすべての生命に通じる、基本的なすばらしい真理を知らないのである。すべての生命は移動し、すべての生命は新しい土地に住みついていく。――そう、バクテリアのようなものさえも。日本のスズメ、カナダのスズメ、アフリカのスズメ……、彼らはみな、それぞれにひと所に留まっているように見える。けれども、彼らの住む地域がもし完全に孤立していたのならば、確実に種の変化が生じ、今のように相互に交配し合ってヒナを産むことなどは不可能になったはずである。そのような根本的変化が、ついには生じえなかったという事実を、あなたがたはどう説明するだろうか。人間の場合はどうか。ピグミーはイヌイット(エスキモーは自分たちのことをイヌイットという。エスキモーということばは、「生肉を食う人」という意味の蔑称《べつしよう》で、カナダでは公的に使用を禁止している)との間に子供を作れるし、私についても、あるいはあなたがたについても、同じことがいえる。
すべての人間はひとり残らず、きわめて密接につながり合っている。私たちはほんとうの意味で兄弟であり、姉妹なのだ。このことは、まさに私たちのすべてがかつていずれの時期にか地球という星の上の旅人であったという事実を証明することにほかならない。将来いつの日か、人間が旅することをやめることがあるとしたら、そのときこそ、私たち種属の終焉《しゆうえん》の日になることであろう。
誇り高きハンターたち Yes, I am a Hunter
世界中どこの国を見回してみても、日本ほど同じ国土の中にさまざまな自然の姿をもつ国というのは、まず見当たらない。国土の北端は流氷に接し、南端にはサンゴ礁の海が広がる――こんなすばらしい自然の変化に恵まれた国が、日本のほかにあるものか。大いなる大地――あの偉大なるロシアですら、これにはかなわない。このことを、以前から私は繰り返しいいつづけてきた。そして、こうした自然が生み、はぐくんできたこの国の文化と歴史もまた、それゆえに世界中でもっとも魅力的かつ変化に富んだものだということも確信をもっていいつづけてきたことである。と同時に、私は、日本の人々が自分の国についていうときによく使う、あの独善的な決まり文句にはひどく反発してしまう。いわく、日本人は単一民族である――なんたるばかばかしさ。いわく、西洋の野蛮人が渡来するまでは日本人は肉を食わなかった――ますますもってナンセンスだ。この国の文化は海と森と山に生きた古代の狩人たちの努力と勇気から生まれたものではなかったか。サムライと水田とは、それよりもずっと後世になってからやってきたのである。
列島を取り巻く海は今もなお、豊かな動植物群に満ち満ちているが、初期の日本人たちが生きていた時代には、そこは文字どおり自然の恵みの宝庫といえた。海辺にでれば、岩についた貝やカニが簡単に捕れたし、食用となる海草もふんだんにあった。砂の中からアサリやハマグリ、それに小さなタコなどを掘りだすこともできた。簡単な銛《もり》を使って、いろいろな種類の魚が捕れたし、川や潮の流れの中に石や木で作った※[#「たけかんむり」/「奴」]《ど》(魚を捕らえる罠《わな》。イヌイットは今日でもこの種の罠を使っている)を置くことも覚えた。やがて、釣り針と、アゴつきの銛、そして銛づなという、画期的な道具が開発されるようになると、こんどは大きな魚やカメ、そしていろいろな海洋哺乳類が漁の対象となった。
日本人が現在もなお、鯨やイルカの肉を食べているということ――私の目にこの事実はきわめて大きな意味をもって映る。その昔、人々の食糧源としてこれらがいかに重要な位置を占めていたかがわかるというものだ。
豊富な降雨量と山の多い地形、このふたつが結びついて山々には無数の奔流《ほんりゆう》が生まれ、その清澄な流れはやがて緩やかに扇形に広がって、広い湿地の三角江《エスチユアリ》を形成した。今はその大部分が埋め立てで姿を消してしまったが、かつてそこはカモやガンやシギや、それこそあらゆる種類の渉禽類《しようきんるい》(水中を歩いてエサを捕る、くちばしやくび、脚の長い鳥類)や水鳥たちであふれていたのだった。海岸や崖《がけ》や、岸から簡単に行ける小島などは海鳥たちの営巣地でもあり、その卵もまた昔の人々の栄養豊かな食糧源のひとつとなっていた。
洗練されたひと粒の米の内側に
古代日本の生命の力を見いだした
山々にはうっそうと竹やぶが広がり、みごとな森や林が広がって、さまざまな木の実やドングリ、キイチゴの類、野ブドウ、キノコなどの宝庫となっていた。これらがいくつもの生態系からなる野生の鳥獣たちの集団を支えていたのである。二種類のクマ(ヒグマとツキノワグマ)、シカ、カモシカ、イノシシ、ノウサギ、タヌキ、アナグマ、ムササビ、リスなどの獣たち。キジ、ヤマドリ、ウズラ、コジュケイ、ライチョウ、トキ、ツルなどの鳥たち。そのほかにも数え切れないほどの生き物たちの暮らしがそこにはあった。川に行けば行ったで、ヨーロッパ以外のどの国よりも豊富な種類の魚が見られるのだった。
日本という国土が生みだした自然の豊かさは、とうてい書きつくせるものではなく、私がどんなにがんばってもそのほんの表面をかすめるぐらいのことしかできない。
私が今住んでいる地域でも、石器時代には人々がナウマンゾウやオオジカ(ジヤイアントエルク)のような巨大な獣を狩って生活していたことがわかっている。
そう、古代日本人は狩人だったのだ! 日本における狩りと漁の伝統は、アメリカインディアンや北極のイヌイットたちのそれに劣らず古いし、採取の伝統にしたって、アフリカのピグミー族と同じくらいか、あるいはそれ以上に古いはずだ。この国の生みだす食べ物がかくも変化に富み、かくも新鮮で、美味であり、しかも胸躍るほどに刺激的なのも、けだし当然といえるではないか!
古事記にでてくるホオリノミコトとホデリノミコトというふたりの神の物語――それぞれに山の幸《さち》と海の幸《さち》をとってくるというあの兄弟の神々の話――を読んだとき、私は閉ざされていた自分の心の扉が開かれていくのを感じた。
もともと、私が日本にきた目的は武道の習得であり、今でもその勉強は続けているのだが、それでも私にとってサムライのライフスタイルや思想体系の勉強だけではあまりにも退屈すぎた。塀《へい》に囲まれた日本庭園も、たとえそれがどれほど芸術的であったとしても、私の好みには合わなかった。死を崇高化する倫理観も、ほとんど私の心をとらえることはなかった。世間ではよく私を「冒険家」と呼ぶけれど、私は一度として栄光ある死を求めたことはない。私が求めてやまないのは「生」そのものなのだ。
いや、だめだ。この日本で私の見つけたものが、もし武道だけでしかなかったなら、あるいはまた伝統美術や音楽、ロマンチックな芸者などのイメージ、それに稲穂たれる水田や祭りといったものだけでしかなかったとしたら……そう、申しわけないが私はとっくの昔に退屈しきってしまい、ふたたびカナダの荒野やアフリカに戻るか、それともオーストラリアなり南米なりに足をのばしていたことだろう。
そうなのだ。この国の文化に見る絹に米、それにお茶といった、高度に洗練された表面の薄い層の下に、私は古代の生命がはちきれんばかりに脈打っているのを感じとったのである。これだ、と私は思った。これについて知りたい、もっともっと多くを感じとりたいというのがそのときから私の望みとなった。
日本の鯨捕りとの航海で
鯨と自分とを一体化するコツを学んだ
一九六五年、今から二十年も前のこと、私は日本の鯨捕りたちと初めての航海にでた。彼らから、教科書で教わる生物学とかサンプリングのデータとかいったものよりもはるかに多くのことを教えてもらった。鯨の行動や習性も学んだ。肉はどこを切ったらうまいかということも知った。おいしい鯨の料理法も、何十種類か習得した。彼らのおかげで私は、鯨と自分とを一体化させるコツを学んだのである。
かつて北極の海を航海したとき、つれはイヌイットのハンターであり、西洋人の探検家たちであった。だが大西洋と太平洋、そして南極の海を旅したときは、日本の鯨捕りたちが常に私の傍らにいた。
日本の鯨捕りたちのことをもっと知りたいと思った私は、和歌山の太地《たいじ》まででかけて、一年間そこで生活した。捕鯨船に乗り込んで三ヵ月間、南氷洋で鯨を追いもした。捕鯨漁港や基地のある村々には残らず足を向けた。
一九七〇年、初めて私は日本のハンターたちといっしょにイノシシ猟にでかけた。その前の二年間、エチオピアのシミアン山脈国立公園長として動物保護の任務を果たし、帰ってきたばかりのところだったけれど、ここ日本の険しい雪山と、疲れを知らぬハンターたちの強靱《きようじん》さには驚いてしまった。それにまた、山小屋で薪《まき》のストーブを囲んで食べたあのシシ鍋と酒のうまかったことといったら!
個性をもってたたずむ黒姫の山々に
私はひと目で恋をしてしまった
ここ黒姫の地に私が初めて足を踏み入れたのは一九七八年のことだった。友人の谷川雁を訪ねて、冬の間の二、三ヵ月をここで過ごしたのである。初めて見たこの土地の静かな雪深い森と、それぞれにゆるぎない個性をもってたたずむ山々とに、ひと目で私は恋をしてしまった。その山々は広々と開けた陽ざし豊かな信濃高原を取り巻いて立ち、そこに水を供給し、風を吹かせ雨を降らせているのであった。
一九八〇年八月、結婚したばかりの私は、妻とともに黒姫で暮らすべく、この地に移ってきた。当時、私たちはとても貧しく、妻に与えられるものといえば、愛情といくつかの夢のほかには皆無に近かった。ワラぶきの古い大きな農家を借りて、そこに移り住んだ。暗い陰気な家だった。その冬の記録的な豪雪のせいで、家の中はいっそう暗かった。雪は屋根の庇《ひさし》よりも高く積もったからである。
貧しかったけれど、ここでの毎日はすばらしく豊かであった。そしてここで、私は友人たちを得たのである。
そのひとりが風間義雄であった――郵便配達夫で、百姓もやり、ハンターで、熱心な読書家のうえに釣りもやる男だ。そのとき、私たち夫婦は野尻《のじり》湖のそばの小さなレストランで休んでいた。外は雪が降っていたが、中は薪のストーブが燃えて暖かだった。そこへ入ってきたのが風間さんだった。ジープの風よけが凍ってしまったので、溶かすためにお湯を借りにきたのだが、結局はそのまま私たちのそばに腰を落ち着けてしまい、鉄砲のこと、弾丸の鋳型《いがた》のこと、狩猟のことなどをさかんに話し込んでいったのである。そして一週間後、私は雪靴をはき、風間さんのあとについて、雪の中、野ウサギを追っていた……。その冬の間、彼は何回か私を猟に連れて行ってくれ、山の奥深くまで分け入った。クマを追ったことさえあった。
そのときはまだ私には狩猟ライセンスがなかったから、銃を所持するわけにはいかなかった。だが、こうやって猟に同行し、見物しているだけで、私の心はふたたびあの高揚した気分を感じ、古代の生命の鼓動が脈打つのをとらえていた。友人がウサギのハラワタを抜き、皮をはいでゆく、あの一連の儀式めいた行動の中にさえ、ヨーロッパとはまったく違った古い様式を――はるかな昔に、そう、カモやシギの棲《す》む沼沢地《しようたくち》がまだ水田に侵食されてしまう前、イワナやハヤやヤマメの泳ぐ川がその流れを変えられてしまうずっと前の時代に山の幸《さち》をとっていた人々のやり方を――かいま見ることができたのであった。
私の住むこの土地からは、四季折々、それこそたくさんの美味、珍味がとれ、私たちはそうした自然のごちそうをたっぷりと楽しんでいる。春と初夏の時分には野生の山菜、秋にはキノコ、そして昆虫まで食べられるのだ! ジガバチの幼虫をはじめ、昆虫を食べる習慣は恐らく古くからあったものにちがいない。家のストーブで燃やすための薪を割りながら、長くて白い甲虫類の幼虫「テッポウムシ」を見つけた私は、その料理法と食べ方を教えてもらった。稲穂の実った田んぼの中でイナゴをとらえ、それを食べることも覚えた。こうしたことはヨーロッパや今の北米の住民たちにとっては想像もつかないことだろう。
もうひとりの友人、加藤三男と出会ったのは、あるパーティーの席であった。その数日後、いつもよりひどく雪の降った日の朝だったが、私はたったひとりであの古い家の屋根に登り、はるか眼下に村を見下ろしながら雪下ろしをしていた。そこへ現れたのが加藤さんだった。片方の肩にはシャベルを担ぎ、もう片方には二本の白ワインをぶら下げている。雪下ろしをしている間、ワインを雪で冷やしておこうという魂胆だ。
野尻湖でナウマンゾウの化石が発見されたとき、そのきっかけとなったゾウの歯を見つけたのは、彼のお父さんである。そのお父さんのほうもハンターであり、漁師であって、今もなお野尻湖で漁にいそしんでおられる(読者の中で、その日に捕れたばかりのワカサギを食べたことのある人はいるだろうか?)。
あくる年の一九八一年、必死の猛勉強と、風間さんの熱心なコーチのおかげで、私はついに鉄砲所持の許可証と狩猟のライセンスを手に入れた。今年一九八五年は、私が日本の狩猟ライセンスをとってから五年目の年にあたる。私の狩猟用胴着《ハンテイングベスト》の胸には、まるい青色のバッジが五個とも全部、小さな男の子がよくやるように誇らしげにつけられている。この五年間、日本の自然遺産に対する私の認識も、年ごとに高まる一方であった。
六年前、クマを追う風間さんのあとについて歩き回ったあの森や林は、すでに跡形もない。昼におにぎりを食べようと腰を下ろした川辺は、今は木陰すらなく、木屑《きくず》やゴミの浮かぶ川面は窒息死寸前である。森林作業員のまきちらす生ゴミの類は至るところに散乱しており、中でもとくに目につくのがチェーンソーオイルの空き缶である。妙高《みようこう》、黒姫、飯綱《いいづな》、斑尾《まだらお》……むきだしにされた山肌が痛々しいかぎりだ。落葉樹と針葉樹からなるみごとな野生の雑木林はどんどん切り倒されて、単一種の針葉樹植樹林に姿を変えつつある。森に棲《す》む野生の生物たちは今やその生命の支えを失いつつある。
スキー場のスロープは黒姫の処女林の中にまで侵食し、広がってきている。これまでは手がつけられていなかった斑尾のこちら側にも、新しいスキー場がのび、残っていた森の約十分の一がスロープに姿を変えた。
鳥獣類は大幅に激減した。クマはまもなくここから姿を消すだろうし、歌を聞かせてくれる鳥たちの数も少なくなるだろう。
それではなぜ、と人は尋ねるだろう。それでいてなお私が銃を手放さないのは、いったいどういうわけなのだと。
その答えはこうだ。逆説なようではあるけれども、その答えこそ今現在、私が強烈に感じている心境なのだ。要するに、自然の推移を感じとり、嘆き悲しむハンターが存在するかぎり、その自然が生き残るためのチャンスもまたわずかにせよ存在するということなのである。無知な人々にとっては、木はどれも同じ木にすぎない。百種類もの違った樹木がまじり合ってつくりあげている森を破壊して、ただ一種類の木からなる林に変えるという行為にしても彼らにとっては別にたいした意味をもたないのだ。チェーンソーを振るうのはけっしてハンターではないし、いわゆる開発を唱えたり、それに出資したりするのも同様にハンターではない。自然保護への闘いの中で、先頭に立つのはハンターでなければならないというのが私の考えだ。なぜなら私たちハンターこそ自然を知る人間と言えるからである。自然を歩き、自然に耳を傾け、自然をとり、自然を食べる、それが私たちの生き方だからなのだ。
無気力な目には見えない自然の美に対しても、ハンターはずっと敏感に感知することができる。現にハンターたちのテリトリーからは、野生生物は消滅していないのだ。このことは信じてほしい。農民や牧畜業者、都市居住者、レジャーランドの開発業者の土地からは、とうの昔に野生の生き物は姿を消したではないか。
この国の古代遺産は、ハンターや漁師たちの心と精神と体の中にしっかりとしまいこまれている。できるかぎりそれを知りたい、彼らから学びとりたい――これが私の望みである。だからこそ、私は狩りをするのだ。
友人のハンターたちとしとめた
ごちそうのなんとすばらしいことか!
昨日、十一月十五日は狩猟解禁日だった。風間さん、加藤さん、外谷さん、中村さん、その他何人かと連れ立って私は猟にでた。夜の間にこの冬初めての雪が降り、野原や田畑を白く覆っていた。狩りの道中もまだ降りつづいている。こんな天候はキジ猟にはまことに具合が悪い。鳥たちは群れのまま隠れ場にひそんでしまって、動こうとしないからである。そこでわれわれはカモを追うことにきめた。
最初は野尻湖近くの大久保池にでかける。ここでカルガモを三羽撃ち、つぎにキジを捕ろうとむだな努力を重ねたあとで(ハンターたちはみな、むだだ、むだだといいながらも、結局は歩き回りたがったのである)、ハトを一羽だけしとめてから、黒姫の上にあるかなり遠い池まで登って行った。スキー場からでも歩いてだいぶかかる距離だ。この池で、われわれは獲物を待ち伏せして撃ち、二羽のカルガモと一羽のキンクロハジロを手に入れた。いったん家に帰って朝食をとったあと、またでかけてみる。家をでて、鳥居《とりい》川を渡った所まで歩いてみたが、ハトが一羽捕れただけでほかに収穫はなかった。帰りぎわに、私は足を滑らせて川に落ち、冷たい水の中でぬれねずみになってしまったけれど、たいして気にもならなかった。相変わらずタフで、疲れを知らない風間さんのほうは、そのあと自分のお気に入りの場所で猟を続け、雄のキジを二羽しとめてきた。
その晩のごちそうのすばらしさといったら!
捕ってきたカモの胸肉は、脂のついた皮を少しつけたまま、薄いスライスに切る。これをホットプレートで焼いてグリーンライムと大根おろしを添え、しょうゆにつけて食べるのだ。もちろん、カモ肉によく合う長ネギを添えるのを忘れてはならない!
ハトは割りばしぐらいのサイズに切り分けてから、カモのももや手羽の部分の肉といっしょにこれもホットプレートで料理する。さっと酒をかけまわして、アルコール分を飛ばしてから、ふたをすっぽりかぶせてやり、湯気がでなくなったころを見はからってふたをとれば、肉はすっかりやわらかく煮えているのだった。そうそう、これにマイタケを入れたのだっけ。いやはやなんとも美味だった! 残りの鳥の骨やガラは水で煮込んでスープをとり、これにゴボウとタマネギ、ミソ、酒で味をつける。
野尻湖畔でレストランと旅館を経営している加藤さんは料理の達人でもあり、こんどもキジの胸肉を美しくスライスして刺身にしてくれた。これをワサビじょうゆにつけて食べるとまことにうまい。もちろん、アルコールもたっぷり用意してあった。
山の幸《さち》、海の幸《さち》を捕ることができたという喜びと満足感、それにみずからの努力で食べ物を手に入れたという誇らしい気持ちが心にわき起こってくるのも、こうしたパーティーではいつものことだった。こんなとき、ハンターや漁師たちの間で交わされる会話は常に活気と刺激に満ち、洞察力にあふれている。そして私もまた彼らから、周りの自然についてなにがしかの新しいことを学ぶのであった。このようなパーティーに集まった人たちの間では私は断じて「ガイジン」なんかではない。私はあくまで「ナカマ」なのだ!
そんなわけでこのとおり、私はハンターである。友人たちもまたハンターだ。そして私は断固、そのことを誇りに思っている!
海をわたる男たちの歌 Takabe!
私たちは柏原《かしわばら》の小さな店で買い物をしていた。黒姫駅から少し歩いた所にあるその店に立ち寄ったのは、タマネギとかしょうゆといったごく日常的な品物を買うためだったのだが、このときの私の注意はもっぱら、店主の池田さんが魚を入れておくガラスケースのほうに向けられていた。いつもこうなのだ。もちろん魚が大好物だというせいでもある。しかしそればかりではない。私という人間は根っからの生物学者で、生き物の全身標本を眺めるのはもともと大好きなのだ。たとえば東京築地の魚市場を、それこそ何時間と歩き回っても飽きないし、どこかの遠い小さな町の魚市場をのぞくためならば、苦手の早起きだっていとわないだろう。こう書くと、私がいかにも魚を買うのにひどくうるさく吟味する人間であると思われるかもしれない。別にそういうわけではないのだ。ただ、魚や昆虫や鳥や、その他ありとあらゆる生き物に、強く心を魅かれるだけなのである。
それはともかく、そのとき、黒姫の駅に近いその小さな店の冷えたガラスケースの向こう側には、脇腹に金のしま模様を光らせた銀色の魚が一ダースほど並べられていた。全長二十センチぐらいの小さな魚だ。
「タカベだ!」と私は日本語で叫んだ。妻は振り向き、私が興奮して指さすほうを見やった。
「タカベだよ!」私はまたいった。池田さんはおうように私を見てニッコリし、ひと言、「そうです」と答えた。
わが家では魚を買い、ハラワタをだし、料理をするのは、日本人である妻ではなく、この私の役目である。私はポケットからクチャクチャになったお札をつかみだすと、その魚を四尾買い込んだ。
家に着いてから早速、私は買い込んだ魚の始末にとりかかり、夕食のことで妻の予定をすっかり狂わせてしまった。四尾のうち二尾はハラワタとウロコをとったあと塩を振ってそのまま焼くことにした。残りの二尾はバターと塩、コショウ、それに白ワイン少々とレモンひと切れを加えてアルミホイルで包んだ。それが済むと、私はひとりハミングしながら酒を温めた。
まるで子供みたいに興奮していた。この金色のシマをもつ魚たちは、私の心に過去の記憶を――なんとも強烈ですばらしい、けれども一抹のほろ苦さを含んだそれを、洪水のようによみがえらせたのである。
大都会東京の夏から逃れて
式根島へと飛び立つ
あれは一九六四年の夏、あの輝かしい東京オリンピックの年だ。当時私は二十四歳、すでに一年半前から日本で過ごしていた。そのころ東京に暮らしていた私は、毎日混雑した通勤電車に揺られて四谷まででかけ、朝は空手のけいこ、午後は日本語のレッスン、そして夕方からは長時間にわたって英会話を教えていた。仕事が終わると、また長いこと電車に乗って家に帰るのだ。ときには途中で焼き鳥屋にちょっと立ち寄ったりもしたものだけれど。
その前の年の夏は、東京のうだるような暑さから逃れて四ヵ月間カナダに戻り、北極遠征に参加していた。それは私の四回目の北極行であった。
私にとって大都市で過ごす夏というのはこれが初めての経験であり、浴びるほど飲んだ冷えたビールにもかかわらず、私にはあまり好きにはなれない代物であった。
「逃げださなくちゃだめだよ。どこか田舎《いなか》に行くんだ」
アメリカ人の友だちが小さな島に行くよう強く勧めてくれた。
そんなわけでその年の八月、私は伊豆七島のうちのひとつ、式根島《しきねじま》にでかけ、三週間を過ごすことになった。
私たちが泊まったのは島の民宿だった。同じ宿には大勢の学生たちが泊まっており、その中の数人がハワイアンのバンドを作って、夜な夜な私たちにセレナーデを奏でてくれたものだ。
砂浜も、岩の多い磯も、北の国の海岸に慣れていた私の目にはいかにも珍しく、新鮮に映った。水は温かく、海面を境にして、その上も下もすべて輝くような色彩に満ち、私は朝も昼もほとんど一日中水の中で過ごした。
いくつもある浜の中には、砂を掘るとお湯が浸みでてくる所があった。私たちはめいめい穴を掘り、わいてきたお湯の中で天然の風呂を楽しんだりもした。
夜になれば星空の下に座り、甘いかき氷をすくったり、冷えたビールをすすったりしながら、いつの時代の若者にとってもお気に入りの、あの果てしない哲学的な議論を熱っぽく続けたものだった。
海の男たちがうたっていたあの歌は
時の流れの中に消えていった
これまでに私はどこにいても、船乗り、漁夫、鯨捕り、猟師といった人たちと友だちになることができた。ここ式根でも、きてまだ日の浅いころすでに、漁師たちから招かれて、彼らの漁に同行するまでになっていた。
夜明けとともに私たちは出発した。総勢九|隻《せき》である。エンジンがついているのは一隻だけで、残りは長い櫓《ろ》でこぐようになっていた。櫓は全部で三本、左右に一本ずつと船尾《とも》に一本ついている。船にはそれぞれ九人かそれ以上の男たちが乗り組んでいた。
小さな船団は青い海の上を進んで行った。大きくうねる波が緩やかに私たちを持ち上げ、そして沈める。男たちは歌をうたい始めた。荒々しい船こぎの歌だ。歌声は波といっしょに高まってはまた低くなり、それとともに押してはきしむ櫓の音が、シンコペーションのリズムで伴奏を奏でていた。歌詞の意味はひとつもわからなかったし、男たちも私に説明することはできなかったけれど、この歌がどんなに私を感動させたか、とうてい忘れることはないだろう。それはまっすぐに私の心に突き刺さった。音と、色と、動きと、そして伝統の渦の中に、私はそのまま、深く深くひきずり込まれていくのを感じていた。あのころの日本はなんてすばらしい所だったのだろう、なかでもこの式根島は……。
島がすでに青灰色にかすみ、海からつきでた丘ほどにしか見えなくなったころ、船団は速度を落とし、海上に散開しはじめた。船長たちは、底がガラスになった桶《おけ》で海の中をのぞきこんでいる。トビウオが跳ね、水の上を滑るように飛んだ。海底にはあらゆる種類の魚が泳いでいたが、きょうの目当ては彼らではなかった。
ふいにどよめきが走った。タカベの群れを発見したのだ。二隻の船が勢いよく飛びだして、海上に半円の網を広げた。ほかの船からは男たちがつぎつぎと船べりを越えてゆく。彼らはみな、とてつもなく奇妙な道具を持っていた。長い綱のついた木の桶だ。二個の鉄の輪のおもりが綱の先につけられており、それが海底でひきずられて、ものすごい音をたてるのだった。綱にはずっと上のほうまで、薄い金属片がつけられていて、男たちが桶を押しやったり、綱が水の中を動いたりするたびにヒラヒラと舞い、大きな魚のような動きを見せた。
男たちは泳ぎながら半円の輪を作った。私もまた海に飛び込み、魚の大群を網のほうへ追い込むのを手伝った。魚たちが網の中に入り込んだとみるや、出口はふさがれ、網は円形となって、魚はそのまま閉じ込められた。
歌が変わった。今、男たちは網を手繰《たぐ》り、その輪をきつく、きつくしぼっていく。チラチラ光る金と銀の集団は、二隻の船の間に引き上げられ、獲物は船の中に移された。
漁が一段落すると、わずかな間だがひと休みとなる。船上におかれた砂箱の上に炭を置き、うちわで火をおこす。ひとりの若者が巧みな包丁さばきで、刺身を作ってゆく。タカベのほかにも、捕れたばかりのさまざまな魚がネタだ。大なべいっぱいに魚が投げこまれ、ジャガイモやタマネギといっしょに煮込まれる。ミソを加えてできあがりだ。今捕れたばかりのタカベが炭火の上であぶられている。海苔《のり》で巻いたおにぎりが現れた。船長が船べりから手をのばし、ヒモで水中につるして冷やしておいた一升ビンを引き上げる。これで宴会の雰囲気がぐっと盛り上がった。まぶしい太陽が照りつける下で、私たちは存分に笑い、飲み、そして食った。
この日、このあと二度、私たちはタカベの群れを網の中に追い込んだ。そしてやはり二度、あの歌を聞いた。漁を終えて船団が帰路につくとき、歌は別のものに変わり、さらに船が水から引き揚げられるときも、私はまた別の歌を耳にしたのだった。
聞くところによると、今ではもうタカベをあんなふうに捕ることはないし、男たちもああした歌をうたうことはないということである。今ではもう、あのときのように、百人近い屈強な男たちの歌声が海の上をわたってゆくのを、だれも楽しむことはできないのだという。
悲しいことだ。
それでもなお、これからも店でタカベを見かけるたびに、私はいつもそれを買うのだろう。そして、いつもいつも思いだすことだろう。
INDIA・NEPAL インド・ネパール
古代へといざなうヒマラヤの地 Namaste! Hello!
ニューデリー空港の早朝。私は疲れ果て、いらだっている。ブリーフケースの中身をひっかきまわす横柄な兵隊たちの、あの憎々しげな態度がたまらないし、汚いトイレも気に入らない。すでに腹の調子もおかしくなっている。ああ日本に帰れたら、と思う。
私たちはここで国内便に乗り換えるのだ。機を降り、すでに予約確認済みの切符を再確認し、それからふたたび行列を作って、ますますもって敵意に満ちた兵隊たちが、また初めから荷物を検査するのを見ていなくてはならない。兵隊は私のブリーフケースの中身をぶちまけるとすみからすみまで乱暴にいじりまわし、そのあとを私に詰め直させる。
つぎに降りるのはスリナガルだ。ここには撮影隊の残りのメンバーが、大男のシーク教徒のガイドを連れて待っている。ここではかなり順調に手続きが済んだ。だが今度は、レー行きのつぎの便に乗るために、またまた搭乗前検査を受けなくてはならない。ブリーフケースがふたたびいじくりまわされる。検査官はペンと折りたたみのクシを「プレゼント」に要求する。そこらじゅうに立っている兵隊たちは、軽機関銃《サブマシンガン》で武装し、いやな目つきであたりをにらみつけている。やつらを空手の道場にぶち込んで、ひとりずつ片づけてやれたら! すでにもう私はインドが嫌いになりはじめている。
レー。インドのチベットだ。機が着陸態勢に入るとき、インダスの河が見えた。眼下にうねうねと流れるそれは、銀色と青緑色《ターコイズ》のリボンのようだ。
レー空港に着く。これまで以上のおびただしい書式やら質問やらがわれわれを待ち構えている。またまた武装兵士の集団が周りを取り囲む。私はいらだちをわきに押しやって、ヒマラヤの雪をかぶった峰々が銛《もり》の歯のように鋭くそそり立つ姿や、恐ろしいばかりの崖《がけ》の連なり、そして、急な斜面のひしめき合うさまを眺めることにする。空気は冷え冷えとしているが、陽ざしは明るい。色彩は乏しいけれども、きわめて鮮明である。
ホテルまではひどいでこぼこ道で、埃《ほこり》っぽいドライブが続く。このカンガリ・ホテルは、われわれ十四人――十三人の日本人と私――のために特別に開いたものだ。高度は三千五百メートル。部屋には水がきておらず、したがってトイレは水洗ではない。部屋の中は恐ろしく寒く、私の脈拍数はひどく跳ね上がってしまったものの、その他の点では調子はいい。マトン・カレーとチベット風ギョーザがうまい。ビールもまたしかりだ。
古代文明が交差した町レーは
生のままのヒマラヤを感じさせた
レーは古代の諸文明のまじり合う、その中心地である。中でも支配的なのは、基本的にはチベット文明から発生したそれであり、ラダク人が身にまとうチベット風の衣服は、きわめてよく目につく――先端のカーブした帽子、つま先の反り返ったフェルトのブーツ、女性が背中につける、トルコ石の飾りのついた長いパッド状の布、そして顔立ちに見られるモンゴロイドの特徴。
私は町を歩いて行く。いつのまにか過去の時代にきてしまったような錯覚にとらわれる。僧院の城郭が、町の上にぬっと現れる――ラマ教の寺院だ。祈祷《きとう》文を書いたのぼりが風にはためいている。小さな、やせこけた牛たちが通りをうろつき、落ちているごみを、枯れ葉や、紙くずまで食べあさっている。男や少年たちがヤクやロバ、ときには長毛種のヤギや小さなヒツジの群れを追って通りすぎる。民族と宗教のるつぼ――ラダク人、ヒンズー教徒、シーク教徒、回教徒、そしておびただしい兵士たち。
町は、カササギの鳴き声で騒がしい。ポプラの樹々の枝にはカラスやハトが見られる。土壌はきわめて貧しく、侵食もはなはだしい。ただ水はふんだんで、町中を流れる川の水は、あらゆることに使われている。町はずれに行くと、平屋根の上にかいばと燃料とが蓄えられているのが目につく。
この土地にわれわれは一週間とどまった。今、思い出をたどると、さまざまな印象が奔流のようによみがえってくる。この地で起きた多くのおもしろい事柄を記すスペースがとてもない以上、私としてはただそうした印象の波に身を任せるしかない。印象は強烈で、しかも強圧的だ。インドのお役所仕事と、威張りくさった兵隊たちのせいで引き起こされた私のいらだちは、たちまちのうちに消えうせる。どんなことばでこれをいい表せよう?
そう、いかにも――雪をかぶった巨大な山々、インダスの深い渓谷に見る青緑色の美しさ、岩々、埃、空、雪、寒さ。私はある夕暮れの空を思いだす。その空から、山々はきっかりとカミソリで切り取られたかのようだった。すみずみまで真鍮《しんちゆう》と黄金の色に染まった空は、やがて青みを帯びた銀色の中に没していく。それはまたしだいに濃さを増して、深いスミレ色に変わっていくのだった。
まろやかな丘陵もある。女性的とでも呼べそうなそれは、実際は岩だらけの裸山だ。そのひとつの頂上に砦《とりで》が見えた。山々からは侵食によって砕けた岩石のかけらが巨大な扇状になだれ、広がって、堆積《たいせき》している。われわれの通りすぎる道の両側は、日光と霜の作用で風化した岩石の巨大な斜面となっている。岩肌の色合いは驚くほど多様だ――さまざまな緑、茶、ピンク、赤、灰色、そして黒と白。
レーのことならそれこそ百ページでも書けるだろう。私にとってこの地こそ、ヒマラヤ山脈というものの生のままの、そして変わりゆく広大さを初めて味わわせてくれた所だったのだ。ここの空気にはなにか緊張感がみなぎっていて、そのため私は常に監視されている感じを受けたのだが、事実そのとおりで、私たちの行動は秘密警察に見張られていたのである。
この町で見たいくつかの光景を思いだす。路地裏にある照明の薄暗い居酒屋、そこで密輸の軍用ラム酒を飲んでいる私。給仕のチベット女。通りに向かって開いた店先につるされた大きな真鍮のポットなどが、私の記憶に焼きついている。ヤギとヒツジの死体を入れたかごを背負って重そうに歩いている少年。靴直したちの列。歩道に座り込み、皮や古いタイヤの切れっぱしを使って靴を繕う彼ら。哀れなほどわずかな野菜の束を売っている女たち。牛たちが売り物を盗もうと近よるたびに、彼女たちの罵声《ばせい》がとぶ。
あまりにも鮮やかで、とても現実とは思えないほどの光景もある。夜明けの山のラマ寺院「ゴンパ」。数多の朝餉《あさげ》のかまどから立ち昇る煙。騒々しい音の供宴。カラスの鳴き声、コケコッコー! 時を告げる鶏、ムクドリのさえずり、家畜の番をする少年たちをどなりつける女たちの声、どなり返す少年たち。庭や床下の囲いの外へ動きだしてはメエメエ鳴いているヤギやヒツジの群れ。これらすべての騒音の中にひときわ響くラマ教寺院からの太鼓と鐘のリズム。
やがて寺院に入った私に、また別のイメージの洪水が襲ってくる。最後のイメージは四面の壁に極彩色で描かれたエロチックな壁画だ。
この一ヵ月間のことをすっかりここで述べることはできないが、強烈な印象はまだまだ残っている。
私たちは一連のカーリバンガム文明の遺跡の上を歩く。まことに古い遺跡である。インド最古のものだ。鮮やかな緑色をしたオウムたちがわれわれの上を金切り声を上げて飛び交う。陰気なようすをしたラクダが、荷車を引いて行く。農作物、綿花、そして人間たちが荷物だ。私は村の、ある家に食事に呼ばれる。夜明けは、驚異に満ち、古代そのものだ。歩いている自分の足の下に人間の骨や体の破片が存在しているのを意識する。そしてこのことが私を謙虚な気持ちにさせるのだ。
このあと、下痢で苦しみながらインドのバスに揺られる地獄行が続く。ホテルの一室で高熱にうなされる私。花火のとどろく音を半ば意識しながら横たわっている。その日は光の祭りなのだ。これまで、これほど具合の悪かったことはめったにない。かけている毛布まで、汗でぐっしょりぬれてしまった。
白い山と稲妻、そしてひょう
たしかにネパールは大空に一番近い国だ
つぎはネパールだ。
微笑と花のあふれるこの国に足を踏み入れただけで、私は心からほっとして、幸せな気分になってしまう。空港にいるグルカ兵までが微笑を浮かべている。
ポカラへ飛ぶ。丘陵のふもとまで、胸躍るジープの旅が続く。昔の隊商ルートがここをぬけて、曲がりくねって続いている。ああ、今も、あまりにも多くのイメージが私を襲ってくる! 道を行くロバの行列、首につけた大きなベルからは音楽的な音色が鳴り響き、頭の赤い羽根飾りがヒョコヒョコ揺れる。子供たちがわれわれに呼びかける……。
「|ナマステ《こんにちは》! ハロー! 一ルピーおくれ!」
われわれはシェルパのガイドたちといっしょにキャンプし、アンナプルナとマチャプチャレの山々が顔を見せるのを待った。山々が姿を現したのは夜明けの、それもごく早い時間で、そのあとは雲がわきでて隠してしまった。雲はどんどん重なり、午後になるころには、雷鳴がとどろき、稲妻の閃光《せんこう》がきらめきだした。稲妻はわれわれの頭の真上で垂直に光り、ジッパーなどの上に火花を散らせた。そうしてそのあと、まるで私の願いを聞きつけたかのように、ひょうが空から地面をたたきつけてきた。ビー玉のように大きなそのひょうは、ウイスキーに入れて口に含むと、まことにけっこうな味わいであった。
PONAPE ポナペ
ポナペ島――ミクロネシアのカロリン諸島東部に位置する直径二一キロメートルの円形の島。一九八六年一一月までアメリカ信託統治領。現、ミクロネシア連邦。
アドベンチャー それは新しき一歩 One Step More
眼下にグアム島が見えた。濃い緑色のジャングル、近代的な市街と空港、サンゴ礁の海のそばに並ぶ豪華な高層ホテル、絶壁の下に押し寄せる白い波。今では観光客であふれるこの島も、かつては戦争で破壊しつくされた島だったのだ。
われわれの飛行機は、この島にしばらく止まってから、さらに飛びつづける。トラック諸島が見えてきた。私は首をのばして環礁に囲まれた海をじっと見下ろした。ここは、かつての日本艦隊の墓場なのだ。島は濃い緑のジャングルに覆われ、白い波が寄せている。そして、鮮やかな七色の海。
ポナペ島に着いたときには、すでに夜になっていた。
ポナペの空港は、たしかに成田空港とまったく同じというわけにはいかなかった。たとえば、私の妻がトイレに行こうとしたら、「申しわけありませんが、トイレの鍵《かぎ》を持っている人間がもう家に帰ってしまいました」……! しかし、この空港は活気にあふれている。なぜなら、大勢のポナペ人たちが集まっているからだ。もっとも、彼らのほとんどは、だれかを出迎えにきたわけではない。どんな人間が到着するか、それを見物しようとして集まってきているのが、私の目にもはっきりとわかった。
なるほど、飛行機はいろいろな人間を吐きだして見せてくれる。世界各国からやってきた観光客たち。何人かのアメリカ人の行政官。彼らの仕事は、たぶん主に外交関係、その中でもとくにアメリカとの間の問題についてポナペ政府を援助することなのだろう。それから、ハワイからやってきたロックンロール・バンドの一行。そして数人のポナペ人たち (彼らは、おおらかな、人なつこい、それでいて、いくぶん恥ずかしげな笑みを浮かべているのですぐにわかるのだ)。そして最後になったけれど、書きもらすわけにはいかないのは、風変わりな物書きひとりと日本人の細君。それに頭をつるつるにそった、いかつい体のカメラマンだ。このカメラマン氏、風体こそマフィアの殺し屋そっくりだが、実際はあのなつかしい大きなテディ・ベア (おもちゃの縫いぐるみのクマ) のように優しい優しいおじさんなのである。
税関は簡単に通してくれた。めんどうなやりとりはいっさいなし、入国手続きも、それ以上に簡単に済んでしまった。
われわれが第一夜を過ごしたのは、熱帯地方の伝統どおりにバナナの葉で屋根をふいた、ロマンチックでかわいらしい小屋であった。しかも、その小屋には、害虫よけのためであろうか、ヤモリが二、三匹住みついていた。その夜は免税のウイスキーを何杯かひっかけると、すぐに眠りの世界に入ってしまった。
故郷ウェールズを離れて以来
初めて心に強く響いてくる歌を聞いた
朝だ。まばゆい日光と豊かな色彩が、まるで爆発したようにあふれだす。私たちの小屋は、入江と、さらにその対岸にある木の生えた高い絶壁を見渡せる場所に建っていた。太平洋戦争中、日本軍は、その絶壁に岩をくりぬいた防衛陣地を造ったのだが、ついにそれは使われることはなかった。連合軍はポナペを迂回《うかい》し、日本の守備隊は孤立して取り残されてしまったのである。
熱帯の明るい輝き。その輝きは、大気の中に一種のワインのように満ちあふれ、海と空の青さや、森とジャングルの濃い緑を、そして赤や黄色に咲き誇る花や、蝶や鳥たちの色彩を強烈に引き立てる。
しかし、その朝のことでもっとも忘れがたいのは、あの歌の響きだ。はるか入り江を越え、すばらしいハーモニーの歌声が聞こえてきたのである。私は、故郷のウェールズを離れて以来、あれほど喜びとハーモニーに満ちた歌を人々がうたうのを聞いたことがなかった。思いだしてみても、あのポナペの歌ほど、私の心に強く刻みこまれた歌はない。首府のコロニアでは、どこに行ってもコーラスの練習や、楽しげな歌声が聞こえていた。
あるグループがうたっているのを聞いて、作曲家である妻に、その曲を書き留めてくれるように頼んだときのことも書いておこう。私はその曲がポナペのフォークソングだと思ったのである。妻はノートにおたまじゃくしを書き込んでいたが、そのうち笑いだした。その歌は、なんと『レッド・リバー・バリー』だったのである。彼女の説明によると「音程が四度と五度の和音だから……」なのだそうだが、傾聴させていただく私は、ただうなずいて「なーるほど」と申し上げるのみであった。
ポナペの人々の歌は、たしかに生命力とハーモニーに満ちている。うたう者は、男性も女性もみんな、自分の気に入っている部分は喜ばしげにうたうけれど、あまり気乗りのしないところにくると力を抜いてしまうらしい。そのため、彼らの歌は、あるいは高く、あるいは低く上下する。それはまるでサンゴ礁に絶え間なく押し寄せてくる、あの外洋の大きく力強い波のうねりのようだ。彼らの歌は光であり、色であり、そして律動そのものだ。歌とハーモニーこそ、ポナペの人々のあらゆる生活の間を縫って通っている、一本の糸のようなものだといえるのではないだろうか。
水面下は、まるで虹が流れるような
すばらしい色彩だった
私は、舷外《げんがい》に浮き木のついたカヌーの中に座っている。太陽が照りつける。こうしていると、私は二十一年前、伊豆七島のひとつである式根島へでかけたときのことを思いだす。私はそのとき、ちょうど今と同じように、式根島の漁師たちといっしょに沖へ漁に向かった。
目の前にがっしりとした褐色《かつしよく》の背中が見えるカヌーに座りながら、私は、船の上の、砂を入れたイロリの炭火で焼いたあのタカベの味を思いだしている。それに、名前は忘れたが、別の魚の造りたての刺身、そしてもちろん船べりから海の中につるして冷やしておいた酒の味……。こういう思い出をもっているおかげで、私は今回繰り広げられている新しい体験を、一段と強く味わうことができた。太陽の光はここのほうが強烈だし、海の色もずっと深い藍《あい》色をしている。しかし、自分は今、海の幸をとって生活する男たちと、ふたたびいっしょに船の上にいるのだ。そう思うと、あのかつて体験した爽快な気分が胸の内にふつふつとわき上がってきた。
サンゴ礁に近づくにつれて、水面下にはすばらしい色彩の世界が展開しはじめる。私は漁場に着くのが待ちきれずに、船べりからドブンと飛び込んでしまった。他の作家たちが熱帯のサンゴ礁を描写することにいろいろと苦心を払っていてはくださるが、それよりも実物のほうを拝見させていただきたいというわけである。
ポナペの人々は、長い長いロープを使って魚を追いたてる。このロープには、緑色の葉のついたままの枝が一定の間隔でしばりつけてある。網が張られると、男たちはロープを持って、サンゴの上をバランスをとったり、外洋のうねりでスロー・モーションのバレエのようにゆられたりしながら、繰りだしていって大きな囲みを作る。やがてロープがだんだんと手繰《たぐ》り込まれていくと、水の中で動く枝や葉と、その音に驚いた魚たちは、矢のように突進したり、急に向きを変えてみたり、あるいはサンゴの陰に隠れようとしてみたり、パニック状態に陥ってしまう。あわてふためいて右往左往する魚の群れが、まるでたくさんの虹が流れるような、すばらしい光景を展開する。
ロープの輪が閉じられると、またまた大さわぎ。魚たち (中にはとてつもなくでかいやつもいる) は、網を手繰られたために大きなかたまりとなって突進を続けるのだが、やがて網に包み込まれ、ついには水から引き上げられてしまう。まもなく、カヌーの中は、色とりどりの輝きでいっぱいになった。
網を二回揚げると、漁師たちは休憩して食事をとる。彼らは、ナイフや歯を使って、小さい魚の皮をはぎ、生で食べる。われわれもやってみたが、悪い味ではなかった。が、なんといってもしょうゆと「ワサビ」で食べるほうが、私の口には合っているようだ。
このころになると、もうおたがいのはにかみや堅苦しさは消え去っていた。ボートとカヌーの間で、笑い合い、冗談を交わし、楽しさと、そしてもちろんのことであるが、食料とビールも分け合った。
その晩、われわれは、この島に住む鈴木さんが経営するジョイ・レストランで、さらに刺身と、その日の収穫の分け前の魚とヤシのミルクで作ったすばらしい味の魚スープを味わった。忘れがたいごちそうであった。
しかし、その夜、私はなかなか眠りつくことができなかった。漁にでている間、ほとんどシャツは脱がなかったし、自分でもとくに気をつけていたつもりなのだが、ひどく日に焼けてしまったのだ。あのポナペの太陽は、シャツを着ていても肌を焼く。シャツの色が白っぽかったり、ぬれているときにはとくにひどい。海に入っている間も、気がつかないかもしれないが、太陽は背中や脚の裏までも照らしつづけているのだ。
豚や犬、子供や胸をだした女たち
エキゾチックな光景が通り過ぎる
まったく、今になっても思いだすとぞっとする。
つぎの旅への出発は、翌日の、それも早朝であった。私は日に焼けすぎたために熱がでて、しかも、背中、首筋、脚などに着ているものがこすれると痛いので、まるでロボットのようにしゃちこばって歩かなければならない。どうしてもっと気をつけなかったのか、自分で自分のことがいまいましかった。
ジョイ・レストランの外では、ふたりの猟師がわれわれを待っていてくれた。一行のリーダーは、乱ぐい歯で顔にしわのよった晩年のターザンといった格好の人物で、われわれは即座に「オヤジ」というあだ名をたてまつった。
小型トラックにドヤドヤと乗り込んだわれわれは、けたたましい騒音をあげて出発した。われわれは、後部の荷台につかまって立っている。まもなく町からでて、両側が林になっている道をどんどん進んで行く。車はガタガタ揺れる。豚、犬、それに子供や胸をだしたままの女性など、私にはエキゾチックに感じられる光景がちらっと通り過ぎていく。時々、厚いマングローブの林の間から、海が一瞬見えることもある。
早朝の空気は、さわやかで涼しい。おかげでしばらくの間、日焼けを忘れることができた。エチオピアでの同じような早朝のドライブが頭をよぎる (私は、かつてエチオピアの新しい国立公園を創設するためにそこに二年間住んでいたことがあるのだ)。
焼き畑があるのだろう。木を焼く煙がふっとにおってくることもあるが、その煙のにおいには、私には判別できない木のものもまじっている。ぶつかりそうな木の枝が近づくと、頭をひょいと下げてくぐり抜ける。そして、名前の知らない鳥がいると、すばやく観察をする。荷台にしがみつきながら、時折路上の見知らぬ人々に手を振っているわれわれを乗せて、トラックはでこぼこ道をガタゴトと進んで行く。
まもなく、汚い川のそばに家が少し固まっている場所に到着した。この川はマングローブの林の間を抜ける運河で、満潮のときにやっと海にカヌーを押しだせるぐらいの深さしかない。ここに建っている家は昔ながらの構造で、前面にカヌーをしまう広いスペースが口を開けており、その側面と後部が風通しのいい住居になっている。豚と犬と鶏と、そして子供たちが、泣いたり、しゃべったり、遊んだりしていた。
猟師たちが勢揃いした。彼らの装備は、マチェーテ (山刀・長刃のナタ) と、二二口径マグナム・ライフルが二丁である。実は、ポナペではこの二二口径しか狩猟用には認められていないのだという。私はそれはおかしいことだと思う。もともと、この口径の実包は、米軍がコンバット・ライフルに使用していたものを、スポーツ用に転用したものである。この二二口径の弾丸では、たとえマグナム弾であっても、シカには小さすぎて無益の傷を与えて苦しめるだけだ。狩猟用の弾は、たとえ心臓をはずれても獲物を殺してしまう威力をもっていなくてはいけない。だから、日本では二二口径の実包を狩猟用に使用することは完全に禁じられているし、カナダでは高速度の二二口径でさえ、シカやカリブー用としての使用は禁じられているのである。しかし、ポナペには、ポナペの法律があるというわけだ。
ものすごく蒸し暑い
冷たいヤシの実でリフレッシュ!
ともかく狩りの仲間と犬たちは集まった。しかし、そのときになっても、私には歩けるかどうか確信はもてなかった。それほど日焼けがひどく、また、頭もズキズキ痛んでいたのだ。しかし、私はそんなことで簡単に参ってしまう男ではない。内心ではため息をつきながら、せめてもと、切り取った大きな葉っぱを帽子の後ろに差し込んで、オヤジと彼の犬たちのうしろについて出発したのであった。
こんなひどい山が続いては、たとえ気候があの黒姫の秋のように涼しかったとしても、さすがの私の息づかいも荒くなる。しかも、ここは名だたるポナペ島。暑い、それもものすごい蒸し暑さだ。これでは拷問《ごうもん》だ。しかし、こんな島で戦争をしなくてもいいだけでも、涙がでるほどありがたいというものだ。汗が滝のように流れる。のどの渇きにいたっては、どう表現していいかわからない。
やっと小休止。一行のひとりがヤシの木によじ登り、新鮮な緑色の実をいくつか落とす。すばやくマチェーテでたたき切って、カップ一杯ずつのリフレッシュ・ドリンクの配給。こいつは私が今までに飲んだうちで最高のものだった。冷たくて、それはそれは信じられないほどの甘さと風味。それに、酒を入れると、一段とすばらしい。人生においては、ほんのちょっとしたものではあるけれど、たまたまそのとき自分のしていることに、これこそうってつけだと思われるようなものに出会うことがあるものだ。天国をかいま見るとは、そんな経験のことをいうのではないだろうか。私にとっては、このポナペの山歩きのときに味わったとりたてのヤシの実のジュースこそ、まさにそれ……私は天国をのぞかせていただいたのである。
飲みほしたカップを切り開くと果肉が現れる。やはり一行のひとりが、ヤシの実の外皮を切り取ってスプーンを作る方法を教えてくれた。果肉はミルクのように白くて柔らかい。私は子供のころ、イギリスでもヤシの実を食べたけれども、ここのはそれよりもはるかに美味である。イギリスで食べたのは、味は悪くはなかったがそのままでは少々固いので、すって食べるのがいちばんうまい。しかし、ポナペで食べたヤシの実は赤ん坊でも食べられるほど柔らかかった。
信じられないことだが
確かにシカの足音が近づいてきた
いよいよ山奥深く入り込んできた。毛の短い、鼻のとがった小型の犬たちは、興奮して、シカのにおいを追って扇状に広がって行く。この島のシカは、かつてポナペを占領して植民地にしていたドイツ人が、鶏とともに雌雄一頭ずつを持ち込んだものだ。それが草の多いポナペの森林によく適していたために繁殖し、今ではハンターたちの主な狩猟獣となっているのである。
さらに歩きつづけ、上へ上へと登って行く。それにつれて、暑さもさらに増していく。マンゴーの小さな林にでた。
そこでもう一度休止。新鮮なマンゴーの実が、あたり一面に落ちていて、とり放題だ。甘くて、果汁がたっぷりあって、滋養がある。この自然のごちそうも、また忘れがたいもののひとつとなった。
さらに進み、ふたたび急なジャングルの中を臭跡をたどって登って行くと、深い茂みの中にある家のそばを通り過ぎた。これはカヌーやその他の彫り物をする男の家だそうだが、この家のすぐそばにすばらしい流れがあって、美しい淵《ふち》がいくつもある。帰りの水浴びはここに決定。
歩くにつれて、自分のまったく知らないたくさんの植物や果実が目にとまる。今までに何度も経験したことではあるが、あらためて自分の知識の狭さを思い知らされると同時に、この島で発見した新しい世界にすっかり魅惑されてしまった。
私としては、シカの姿が見られるなどとは期待していなかった。ハンティングというものは、少なくとも私の経験からいわせてもらえば、細心の注意を払い、忍びやかに行わなければならないゲームなのだ。ところが、これではピクニック気分の遠足だ。ともあれ、ジャングルの中の急な坂を登って行き、森の中の空き地にでた所でわれわれは待つことにした。ところが、驚いたことに、三十分ほどたつと、なんと、まぎれもないシカの駆けてくる足音がするではないか。しかし、その足音は、聞き耳を立てるためか、ちょっと立ち止まっただけで、またすぐに駆け去って行ってしまった。ジャングルが茂りすぎていて、われわれにはその姿は見えなかった。
「幸運を祈るぜ、シカよ」――ハンターであるにもかかわらず、私という人間には、獲物が逃げてくれるといつも満足感を感じるという、一種あまのじゃくなところがあるのである。
われわれはある小さな丘の頂上の、ヤシの木の下で休憩して、弁当を食べた。ジョイ・レストランで作ってくれた「オニギリ」、ジャングルでとった新鮮なマンゴー、新鮮なヤシのジュース、焼いたパンの木の実と魚。さらに、一行のひとりが、マチェーテでシュロの木を一本切り倒し、その芯《しん》を取りだしてくれたが、それはサクサクしてまるで生野菜のような味がした。
たとえ無人島であったとしても、ポナペではちょっとした知識とマチェーテというふたつの武器があれば、生き延びていくのは難しくないだろう。そのうえに釣り針と釣り糸があったら、それこそ鬼に金棒というものだ。
コウモリのヤキトリに
犬のバーベキューを召しあがれ
さて、その翌日、われわれはミクロネシアではごちそうだとされている、フルーツ・コウモリ狩りにでかけた。
今回のガイドは、図体のでかい、きわめて陽気なポナペ生まれの人物であった。名前は――みずから名のるところによれば――ミスター・ウィリアムズである。
彼は道路から十五分ほど引っ込んだ森の中に住んでいる。私には彼の生活がうらやましく思えた。彼は、豚、犬、それに鶏を飼っている。森の中のあちこちには、ヤマイモも植えてあるが、これは石を積み上げて、豚どもの鼻でかぎつけられないように守られている。また、パンの木やマンゴー、それにヤシも豊富にあり、それを魚と交換することもあるという。彼はほんとうに幸せな男だ。家族のことを愛しているのが、私たちの目にもはっきりわかる。彼のものごしには郷士の風格といったものが備わっている。
コウモリ狩りは簡単だった。このこげ茶色のコウモリどもは、まるでフルーツのような格好で、いつも決まった木にぶら下がっていてくれる。そこへ、静かに、時々手の甲を吸ってチューチューとコウモリの鳴き声をまねしながら近づいて行く。そして、そいつらをミスター・ウィリアムズが二二口径の銃で撃ち落とすというわけだ。しかし、こんなことなら、私が日本で持っているエア・ライフルだって十分だ。
そこで、私はミスター・ウィリアムズとエア・ライフルについて語り合ったのであるが、彼は私がつぎにポナペへくるときに、どうしても彼のために一丁持ってきてほしいという。私としてもそうしたいとは思うけれど、そんなことをしたら一年もたたないうちに、この辺にいるコウモリや小鳥たちは、すべて彼の手にかかって撃ち落とされてしまうであろう。
狩りが終わってから、われわれはウィリアムズ家の風通しのいいベランダに座って、ごちそうをいただいた。ブダイの刺身、焼いたパンの木の実、ヤシのジュース、それに、マンゴーだ。豚や鶏が、ベランダの下でキーキー、コッコッと鳴きながら、われわれの食べ残しを片づけてくれる。
コウモリは、料理のほうもきわめて簡単だった。パラオ島ではこれをスープにしているけれど、ポナペではわれわれのホストがしたように、ただ、毛を全部焼き、内臓を取り除き、ちょうど「ヤキトリ」のように塩焼きにしてしまう。こいつはうまかった。なんといっても、フルーツ・コウモリはその名のとおり、いつもフルーツを食べているのである。
「申しわけないですね。白米の料理がなくて」
と、彼は何度もいう。
「いや、見てごらんなさい」と、私はいった。「日本では、ここにあるようなパンの木の実や新鮮なマンゴー、それにフルーツ・コウモリなんて絶対に食べることはできません。でも米なら、だれだって食べているんです。だから、これは私たちには、すごいごちそうなんですよ」
彼は顔を輝かせ、奥さんにも通訳した。それを聞いた奥さんも、うなずきながら、うれしそうにニコニコと笑っている。
私がこの家の小さくて毛の短い犬の耳をなでていると、彼が、
「そいつを殺して、焼いてあげましょうか。犬はうまいですぜ!」
実をいうと、西洋人の帆船がこの島にやってくるまでは、ポナペでは犬が唯一の家畜であった。そして、祭りや宴会の第一のごちそうはといえば、犬だったのだ。今日でこそ、犬たちは料理のメニューの人気ものという、自分たちにとってのありがたくない地位は、豚どもに押しつけてしまうことができたとはいうものの、ポナペの人々にとっては、今でも犬はたいへんなごちそうなのである。ミスター・ウィリアムズは、われわれを歓待しようと、熱心に勧めてくれる。小さな犬だから、すぐ料理できるそうだ。
小犬は茶色のつぶらな瞳で見上げながら、私の手をペロペロとなめている。
「いや、けっこうです。えーと、マンゴーをもうひとついただけますか?」
帰り道、われわれは、ある谷川の深い淵になっている所で足を止めた。水はとてもきれいで、子供たちが淵にそった崖《がけ》の上から、うれしそうに大声を上げながら、水に飛び込んでいる。
われわれも我慢できなくなって飛び込んだ。すると驚いたことに、水の中には私の知らない種類の、小さな魚がたくさんいるではないか。私はそこにいたポナペ人にその名前を尋ね、彼もポナペ語の名前を答えてくれたのではあるが、サルマタの……おっと失礼……えーと……そう、スイミング・トランクスの中にはノートを入れていなかったので、失念してしまった。また、英語の名前も尋ねたのではあるが、彼は恥ずかしげにニヤッと笑って肩をすくめ、ひと言、「fish」。
きちんと整備された運河をもつ町を
いったいだれが破壊したのか
ポナペの旅をするなら、ナン・マドール遺跡を忘れてはならない。そこへ行くには、満潮のとき、モーターボートを利用する。私はこんなものを見られるとは、まったく思ってもいなかった。
まず目を奪われるのは、海水の入り込む運河に囲まれ、海に面して建っている巨大な建築物だ。その壁は外側に向かって優美なカーブを描いている。建物の内部には、いくつもの部屋や中庭、それに深い井戸か貯水タンクのような設備がある。かつては、一種の要塞兼用の寺院であったらしい。壁や運河の堤防は大きな石の板で造られている。これほどの石をきちっと並べるためには、さぞかし高度な技術と膨大な労働力が必要であったにちがいない。
階段を上り、石造りのアーチの入口を通って中庭に入って行くにつれて、私は無気味な感じに襲われはじめた。ガイドの説明によると、この遺跡は約九百年ほど前のものだそうだが、私にはそれよりもはるかに古い時代のもののように思われる。鳥肌が立った。荘重で、しかも華やかな感じはするが、ここはかつて、残忍な戦争のために恐怖と苦悶と死とが満ちあふれた場所ではなかったのか。
遺跡の中心部を見たあと、ボートで運河の見物をしたが、私はまったく驚嘆させられた。それぞれの運河は、完全にまっすぐで、碁盤の目のように走っている。堤防は高い石垣になっていて、今では、はびこってきたマングローブにすっかり覆われているものの、七十か八十の街のブロックが整然と並んでいる。ここは見捨てられ、やがてマングローブに飲み込まれてしまったベニスといってもいい場所だ。
それぞれのブロックにかつて建っていた建物は、木造であったにちがいない。しかしそれらが朽ち果ててから――あるいは、私の想像では焼け落ちてから――もうすでに気の遠くなるような長い年月がたっている。
専門的に考古学調査をしたら、どんな秘密が明らかになるだろうか。マングローブを切り払ったら、この古代の太平洋のベニスの運河網の全体のプランが明らかになるのではなかろうか。また、どうしてこの古代文明は消えてしまったのだろうか。はたして、ここを破壊したのはだれなのだろう。海のかなたから急襲してきた侵略者たちであったのだろうか……。
ナン・マドールからほんのわずかの所に、鈴木氏が個人で所有しているジョイ・アイランドがある。ここではきわめて手ごろな値段でかわいいコテージを借りることができる。食事は作ってもらうこともできるけれど、浜辺の、壁のない草ぶき屋根の台所を使うこともできる。ここには底が白い砂地になっている浅くて美しい入り江があり、子供たちや、海水浴だけをする客にとっては理想的な場所といえよう。
この島のもう一方の側には、サンゴ礁の一部があり、魚たちの典型的なパラダイスになっているが、ここも安心して遊べる場所だ。そのさらに向こうは、島を取り囲むほんとうのサンゴ礁になっていて、引き潮のときには歩いて渡ることができる。ここには大きな波が音をたてて押し寄せてくるが、水面下には色とりどりのサンゴや貝の光彩が入り乱れ、まばゆいばかりに輝いている。そして、さらに、ここは釣りにも最適の場所である。
ただ、もしもこの島へ行くのなら、寝るときの用意にぜひ蚊帳《かや》を持参することをお勧めしたい。
ここでも、われわれはポナペの伝統的な料理を賞味した。豚を一頭殺して内臓を抜き取る。毛をすっかり焼いてしまうと、皮に血をなすりつける。一方、丸太を割った薪《まき》を注意深く積み、その周りに岩を積み重ねて火をつける。岩は焼かれて中には赤くなるものもあるほど熱せられる。つぎに、その岩をくま手でかき立て、その上をバナナの皮で覆うと、いよいよ豚がのせられ、その周りをパンの木の実、バナナ、そして熱い岩で囲む。そして最後に、さらにたくさんのバナナの葉を積み重ねてその全体をすっかり覆ってしまうのである。こうしている間、われわれは新鮮なパパイヤを食べたりしていたが、私はシャカオ作りの手伝いもさせてもらった。私は、カーバ、他の島ではクァーバとも呼ばれているこの一風変わったどろどろした飲み物について、読んだことがあった。これは胡椒《こしよう》科の木の根をつぶして作られる。その根は硬くて繊維が多いため、大きな平らな岩の上で、すべすべした石を使ってたたきつぶされる。つぶされてどろどろになったところに少しずつ水を加えながら男たちは歌をうたう。岩はたたかれるといい音をして響くのだが、彼らの歌は、根をつぶす鈍い音をバックに、その岩をたたく音とともに、複雑な拍子のシンコペーションになっている。
つぎに、そのどろどろしたものを、木の皮の長い帯にくるんでしぼると、ぬるぬる、ねばねばした、泥のような色の液体ができあがる。その味は、まったく正直なところ――私には――ひでえもんだった! こいつをヤシの殻の器ですするのだが、私は口直しにビールをガブガブ飲まずにはいられなかった。ところが、まもなくすると、舌と唇がジリジリしびれてきて、気がつくと私は夢見るような、陶然とした気分になっていた。
シャカオは麻薬であるが、弱くて、習慣性はないから大丈夫と、彼らは私に請け合った。アルコールと違って、これはけっして人間を狂暴にすることはない。そのため、あるポナペ人のいうには、祭りや宴会でシャカオを飲むと、あらゆる暴力ざたのきっかけが抑えられ、それよりも、みんなで歌をうたいたくなってしまうということだ。
さて、そうしているうちに、豚が焼きあがった。もちろん、こっちのほうは、すばらしい味であった。
サメが敵だって!
ここでは子供もいっしょに遊んでいる
われわれは気分を変えて、ザ・ビレッジという豪華なホテルに移動した。このホテルはその食事、サービス、バー、眺望など、すべてがすぐれている点で、心から推薦することができる。ただし、例外は、あのでかいアイリッシュ・ハウンドのやつだ。こいつがぶらっと食堂に入ってくると、人がなにを食べているのか見ようとして、その毛むくじゃらのでかい頭を、いつ急に人の肩ごしにぬーっと現すかしれない。大きさはポニーぐらいもあり、そんなに大きな動物をあまり見たことのない、大勢の日本人の客たちをびっくりさせている。しかし、人間にはまったく害を加えないからご安心。
バーとレストランは、大きな草ぶき屋根のある堂々とした建物で、一方が開いていて、じかに海が見渡せるようになっている。ここから眺める夕陽はすばらしい! また、ここには、電気仕掛けの虫取り装置が上のほうについているが、これも経営者の配慮の深さを思わせる。おかげで、レストランの中では、蚊に悩まされる心配はない。しかし、広々としたコテージに戻ると、ここにもルームメイトのヤモリが住んでいてはくれるが、蚊はちゃんと侵入してくるので、やはり、蚊帳があったほうがよろしいようだ。
食事のほうはすばらしい。私たちは、魚料理とマングローブ・ガニを食べたが、味はまさにデリシャスであった。
コテージも、きわめて快適だ。広々としていて、大きなウォーター・ベッドが備えつけられている。ここから、すぐにモーターボートをチャーターできるので、われわれもそれに乗って、最後のアドベンチャーに出発した。
われわれのガイドをしてくれたのは、ピーター・アーサー、このホテルの経営者の子息だ。ピーターは十三歳のときからポナペに住み、ポナペ人の女性と結婚している。彼は優秀なガイドであり、ボートマンであり、それに漁師でもある。
アンツ・アイランドは、大きな|ラグーン《礁湖》と、それを取り囲むいくつかの島々で、ある一族の所有物になっている。われわれがそこへ行ったときは、管理人がひとりいるだけであったが、そこに立ち入るには彼の許可をもらわなくてはならなかった。
あの藍《あい》色の大きなうねりを乗り切り、ポナペ本島のサンゴ礁を越えていく旅は、じつに感動的なものであった。スコールがやってくる。雨がカーテンを引くように移動しながら、われわれの背後にある深いグリーン一色に覆われた丘を隠していく。スコールは何度となく海を渡ってきて、その雨脚がまるでわれわれを元気づけようとするかのように激しく打ちつける。
やがて、島のひとつを回り、サンゴ礁の切れ目を入って行ったわれわれは、思わず息をのんだ。そこはもう、白い砂浜をもつエメラルド色の島々に取り囲まれた、美しいラグーンの中だった。これほど水がきれいで透明度の高い場所を見たのは、あのカナダのずっと北のほうにあったグレイト・ベア・レイク以来初めてだ。あの湖の水は、まさしく極地の冷たさをたたえていたが、このラグーンの水には熱帯の温かさがあふれている。ここのサンゴは、まったく人手に触れられておらず、また、海底のあちこちには巨大なハマグリがたくさんころがっている。その十五メートル、あるいはそれ以上の深さのある海底のようすが、水の上から手にとるように見えるのである。
島のうちのひとつは、無数のアジサシたち――黒アジサシや純白の優美な姿をしたアジサシたち――の生息地になっている。また、この島にはちょっとこっけいな感じのするカツオドリたちも巣を作っている。鳥たちは人間を怖がらないので、すぐそばまで近づくことができる。しかし、そのために、鳥たちは危機にさらされているという。事実、われわれも、空になった二二口径の薬莢《やつきよう》を見かけたが、ピーターの話によると、地元のチンピラがやってきては、座っている鳥を標的にして不法所持のピストルで近距離からねらい撃ちにするのだそうだ。
このラグーンでは、サメは神様ということになっている。ここでは、お祭りがあると、ごちそう用に豚を殺すが、その血だらけの内臓は、子供たちが海の中に持って行き、それを食べにきたサメたちといっしょに遊ぶのだそうだ。サメも、その子供たちには絶対危害を加えないという。
「けっしてここのサメを傷つけてはいけませんよ。そんなことをすると、めんどうなことになるから」と、ピーターは注意した。
南太平洋の島での現実は
昔、思い描いた夢の世界以上だった
鳥の島を訪ねたあと、私たちは少し釣りをしてみた。これがまた簡単なのだ。なにしろこの私でさえ、魚が釣れたのだから。獲物は、貪欲だが味のいいハタであった。しかし、このラグーンには、ほかの神様たちもお住みになっているのだろう。まもなく恐しいことが起こり、われわれの釣りは打ち切られてしまった。
突然、われわれの釣りざおの先がブンブン鳴りだした。あたりの大気が異様な感じを帯びてきた。と、思っているうちに、私の妻の長い黒い髪の毛が逆さに立ちはじめたではないか。静電気だ!
ピカッと光る。神の見えざる指が、その雷を打ち降ろす場所を探しておられるのだ。
「下げろ! さおをみんな下げろ!」と、全力でいかりを引き上げながら、ピーターが叫ぶ。
逃げて行くわれわれの背後や周りでは、閃光《せんこう》が走り、大気がすさまじい音をとどろかせて振動する。
われわれは島のひとつを目指して船を走らせた。そこに行けば、その美しい浜辺には高いココヤシの木陰がある。浅いサンゴ礁の上をでかいエイがこちらに向かってやってきた。ものすごいスピードで水面を盛り上がらせながら、そのエイはすぐそばをかすめ去って行った。
われわれの釣りは打ち切られてしまったけれど、夕食に十分なだけの量は、すでに釣れていた。われわれは火を焚《た》いて料理の用意を始めた。アイス・ボックスには、冷えたビールが入っている。それにサンドイッチもある。さらに、ヤシの実を探していたピーターが、まるまると太ったヤシガニを見つけてきた……こいつが、またデリシャス! すばらしいピクニックだった。私なら、一週間でもこのままでいてもいいくらいだ。
アンツ・アイランドは私有地で、主にヤシの実の栽培に使われている。しかし、このように自然環境を破壊しない無害な方法でこの場所の利用を続けることはけっこうだとしても、私は、後代のためにも、ここの開発を全面的に禁止して、公園にするべきだと考える。ここは私が今までに訪れたうちでも、もっとも人間の手に触れられていない、しかも人の心を興奮させずにはおかない場所のひとつであり、ダイバーにとっては、まさしく天国であるといってもいいだろう。
しかし、かつてはあんなにも美しかった沖縄の海で、現在どんどん行われているあの乱獲のありさまを目の当たりに見ている私は、それと同じことがここで起こるのを恐れている。
もし、あのラグーンをめちゃめちゃにする不心得者がいたら、どうぞサメ神様、昼食としてそいつのハラワタを存分に食いちぎってやってください! と私は祈ってやるぞ。
帰りの旅もすばらしかった。われわれのボートは、沖にでてエサをあさったり、空中で輪を描いたり、喜ばしげな鳴き声をあげたりしている無数のアジサシの群れの中に突っ込んだ。この鳥たちがいるのは、その下にまちがいなくマグロがいるしるしのはずなのだが、このときばかりは、見込みちがいで、いたのはイルカたちだった。この遊び好きの生き物たちの群れは、われわれのほうにやってきて、ボートを検査してみたり、しばらくの間、ボートの船首のほうに並んで競走したりしていたが、また、さっさとどこかへ行ってしまった。
われわれのポナペでのアドベンチャーは、もうすぐ終わろうとしている。しかし、この島でのことは、いつまでも鮮明に私の心に刻み込まれて消え去ることはないであろう。
あの笑みを浮かべたポナペの人々の顔、名も知らぬ果実とその味。入道雲の立つ空を背景に、雲のように集まって喜ばしげに飛び回る鳥の群れ。その下に広がる、限りなく深い藍《あい》色の海。イルカたちが跳ねる。顔をしたたり落ちながら、日に焼けた肌を冷やしてくれる、とてもいい味のさわやかな雨。わき上がる入道雲はとてつもなく高く、てっぺんは巻雲の漂うあたりまで広がっていく。その巨大な長靴をはいた足のような形は、まるで神様がご自分で創ったすてきな世界を楽しもうと、逆立ちをして太平洋に頭を突っ込んでいる姿のようだった。私はまた、たったひとりでカヌーを操って勇敢にも沖合いはるかに乗りだしていく孤独な漁師を見た。ガラスのように透明な、深い深い水底で、魚たちが釣り針のエサを食べている光景を思いだす。そして、飛行機のように水面下をかすめて去って行ったあのエイ。シュロやパンの木や、それにマンゴーの木の間をひらひらと飛んでいたフルーツ・コウモリ。そして、あのサンゴ礁の色。ああ、あのすばらしい色彩……!
子供のころから、南海のアドベンチャー・ストーリーを読みふけっていた私は、このような場所にいつかくることをずっと思い描いてきた。しかし、実際に見たそれは私のいかなる想像よりもはるかにすばらしいものであった。
あのアンツ・アイランドのような場所が、心ない人間の手によってその姿を変えられることなく、いつまでも残されていくことを祈る。私たちと同じ心を抱く人々、みずからすすんでさらに新しき一歩を踏みださんとする人々のために。
アドベンチャー……それはまさに、みずからすすんで新しき一歩を歩みだすことなのだ。
AUSTRALIA オーストラリア
コアラとエリマキトカゲだけの国じゃない Not Just Cold Beer, Koalas and Frilly Necked Lizards!
私の父は英国海軍《ロイヤルネイビー》に二十七年間奉職し、ほとんど世界中を回ったのだが、オーストラリアだけは訪れたことがなかった。いちばん行ってみたい所といえばオーストラリアだなあと、いつもいっていたものだ。だが、悲しいことに、父はその夢を果たすことなくこの世を去った。
私が六歳のころ、隣にマーガリートという名の同い年のかわいい女の子が住んでいた。ふたりはよくいう「ちっちゃな恋人」同士となり、それは彼女が十二歳になるまでずっと続いていたのだが、その年、彼女の両親がオーストラリアに移住することになり、私たちのこの関係も終わりを告げた。彼女は手紙をくれて、大きくなったらぜひきてねと書いてよこしたけれど、ついぞその機会は訪れなかった。
そして、最近になってオーストラリア人の友人の結婚式で、花婿の付添人を務めたりもした。今年の初め、香港での挙式だった。
そんなわけで、私のこれまでの人生はオーストラリアという国とまるっきり無縁だったというわけでもなく、この国についての断片的知識はけっこうちょこちょこと耳に入ってはいたのである。たとえばロットネスト島に棲《す》むクワッカワラビーのことなんかはちゃんと知っていたりするわけで、だからこの国は私にとって、ただのコアラやエリマキトカゲの国だけではけっしてないのだ。
天から降ってくるようないい話というのはだいたいがそうなのだが、今回のオーストラリア行きのチャンスもそれこそ突然降ってわいたように現れたのである。このところの私のスケジュールときたら、超過密もいいところなのだが、このチャンスを逃す手はない。まず、黒姫の自宅をでて博多に向かった私は、そこで講演を済ませ、テレビのインタビューに出演し、ラジオ番組をいくつかこなし、最後に著書のサイン会にでた。サイン会が終わるや、すぐさま福岡空港に駆けつける。羽田では車が待機しており、そのまま私を乗せて成田まで直行だ。成田空港ではきれいなお嬢さんが、私の荷物とビザのスタンプを押してもらってあるパスポート、それに帰りの航空券を手に、私を待っていた。
シドニーまでは約九時間かかった。疲れてはいたけれど、私は眠れなかった。カンタス機の座席は狭すぎたし、私の肩幅は広すぎたからである。シドニー空港では、飛行機の乗り換えに大わらわをさせられた。ここで、私は今まで気がつかなかったオーストラリア人気質に初めて触れた。本国のオーストラリア人たちは、万事にひどくのんびりしているのである。乗り換えの時間は迫って、搭乗案内放送もこれが最後だといって乗客をせきたてており、しかも列を作って待っている人たちが大勢いるというのに、カンタスのカウンターにいるふたりの男は、のんびりと落ち着きはらい、五十人以上ものお客さんが、予定している飛行機に乗れなくなるかもしれないなんてことをちっとも気にしていないようなのだ。ただ私は手際よく席をたって、列の先頭についていたから、難なくブリスベーン行きの飛行機に乗り込むことができた。ブリスベーンでは友人の「ガイ」――イソガイ氏――が笑顔で私を待ってくれていた。これからふたりして、オーストラリアにきて初めての、氷のように冷えたビールを楽しもうというわけだ。ブリスベーンからはジェットでハミルトン島へ飛ぶ。ここはキース・ウィリアムズという名の精力的な実業家の所有になるもので、ぜいたくな保養地《リゾート》として開発された所だ。ウィットサンディ諸島の一部をなすこの島は、ブリスベーンからジェットで二、三時間もかからずにこられる。
日本をでるときの慌ただしいあの騒ぎから十八時間たった今、私はぜいたくなホテルの一室のベランダでゆったりとくつろいでいる。左手にはトロピカルブルーの海が広がり、灰緑色のユーカリや名も知らぬ花の樹の茂る山が見渡せる。手には、はや二杯目の冷たいビールだ。体から汗がしたたり落ちる。私もガイも北半球の人間で、ふたりとも暑さには慣れていないのだ。
あたりの色彩はあくまで鮮やかだった。森の音色、インコ、そして大きな黒と白の鳥。その鳴き声は騒々しいながらも旋律は美しく、これまでに聞いたどんな音色とも異なっていた。
世界最大のサンゴ礁の上を
単発水上機は飛んだ
このリゾートはリゾートたるものに必要とされるものすべてを備え、しかもそれ以上であった。ぜいたくなリゾートがお好みなら、ここハミルトン島はベストのうちに数えられよう。巨大なプールもあり、中央には小さな島をこしらえて、そこにサウナによくあるようなジャグジー・バスまで作ってある。すばらしいレストランが数軒、いくつものビーチと熱帯の海、ジム、サウナ。日に焼けたビキニ姿のきれいな女の子たちの姿を見たときは、この哀れな中年男の目の玉が飛びだしたまま元に戻らないんじゃないかと、心配になるほどだった。
オーストラリアでは上等のホテルはどこでもそうだが、ここも部屋は大きいし、清潔で、空調つきだ。テーブルの上には果物かごが置かれ、冷蔵庫にはあらゆる種類の飲み物とミネラルウォーターが何種類か、それともちろんあの味もさわやかな上等のオーストラリアワインもそろっている。「ミニ・バー」にはウイスキーからジン、ラム、そしてウォッカと、酒飲みの楽しめそうなものはなにもかもつまっている。コーヒーや紅茶を入れるポットもあり、ビスケットまで添えてあった。
私たち――友人と私――は、そこに座ったまま、太陽が丘のかなたに沈み、海鳥の群れが沖のほうから樹々のねぐらへと戻ってくるのを見つめていた。
疲れてはいたが、食事が待っていた。生まれて初めてコーラル・トラウトを味わうことになっているのだ。上品な味の、肉のしまった白身の魚で、マーガレット・リバー地域産の上等な白ワインとすばらしくよく合ってうまかった。オーストラリアのワインはじつに美味である。わからなければ自分の好みをワイン・ウェイターにいえば、ぴったりなのを選んでくれるはずだ。杯が重ねられ、コンサートが耳を楽しませてくれる。私たちはすぐにみんなと打ち解け合い、友だちになってしまった。
しかし、私にとって、この旅のいちばん胸躍る部分はこれから先なのだった。リゾートから小型の単発水上機をチャーターして、グレート・バリア・リーフへ向かう。島をでて二十分も飛んだろうか、眼下に世界最大のサンゴ礁が見えてきた。この中の、静かなラグーンに、これから私たちの乗る「リーフ・エンカウンター号」という名の船が錨《いかり》を下ろしているのだ。この船は昔、陸軍の演習用に標的《ターゲツト》を曳《ひ》いており、もとは「サンダ号」と呼ばれていたということだ。船はおよそ二十名の乗客を乗せることができ、小さいが清潔な船室が用意されている。セルフサービスのバー、すばらしい食事、そして船長をはじめ船員たちの気持ちのよいことといったら、これ以上はとても望めないほどだ。
この船ではダイビングのコースをとることもできる。必要な道具はだいたい貸してくれるが、本格的なダイビングをやりたいのなら、ウェットスーツは持っていくことだ。ダイビングのコースとは別に、フィッシングのコースとか、海洋生物学者とともにサンゴ礁を散策するというコースもある。
サンゴ礁や熱帯の魚についていうなら、ここはまさに天国だ。ただ、ここのずっと北のほうはオニヒトデに荒らされてしまっているが。
船ででる食事は凝ったものではないけれど新鮮である。パリッとしたサラダが何種類もでるし、焼きたてのパンにコールドミート、それにもちろん魚はお手のものだ。
泥んこ≠ニいう店ででてきたカニは
小さめのものでも胃袋がいっぱいになった
私はこれまで、世界中それこそモンゴルからエチオピア、果ては北極に至るまで、各地の食べ物を味わい、かつ楽しんできたけれど、ここで自信をもっていうことができる。オーストラリアの食べ物はじつにすばらしい。ここでは材料をいろいろなソースであえるようなことはしないし、基本的には料理法はシンプルである。だが材料がいかにも豊富なうえ、このうえなく新鮮で、自然のままなところがいい。まさにいうことはないのだが、ひとつだけ、日本人の女性づれの観光客には忠告しておこう。注文はひとり分にすることだ――それだけでもふたり分には十分すぎるほどだろう。サラダなどはビュッフェスタイルでだされており、全部はとても食べ切れない。
私たちはこのサンゴ礁とリゾートには四日しかいられなかった。ちょっと慌ただしかったが、しかたがない。編集者から決められたとおり、ブリスベーンへ戻り、この町で一晩を過ごすことにする。このブリスベーンでは、ありとあらゆるシーフードが食べられるが、私が勧めたいのは、小さいがうまい新鮮なカキと、オーストラリア人が「バッグズ」と呼んでいるザリガニの一種、それと巨大な「|マッド・クラブ《泥ガニ》」(マングローブ・クラブ) というおいしいカニの三つだ。私たちが入ったのは「|マディーズ《泥んこ》」という名の有名なレストランだった。カニは大きさで三種類に分かれており、私はいちばん小さいのを注文したが、それでも多すぎるほどだった。このカニのツメひとつ分の肉だけで、普通の日本人の胃袋なら十分だろう。
つぎの日、私たちはシドニーに戻った。朝の四時まで飲みつづけ、それからディスコに行き、五時すぎにキングス・クロスでスパゲッティとオックステイル・シチューを食べる。そして最後に、朝の曙光《しよこう》が大海原を染めあげていくのを、ボンディビーチから眺めたのだった。
シドニーの町のことで、ひとつだけ注意をしておきたい――この町でタクシーをつかまえるのは至難の業だ。一台つかまえるのに、ゆうに一時間はかかる始末。最後の日、いざホテルを引き払い、空港に向かおうとした私たちは、これでにっちもさっちもいかなくなってしまった。時間の余裕をみておいたからまあ助かったものの、そうでもなかったら確実に帰りの飛行機に乗りそこねたことだろう。タクシー会社へ電話しようにも、線は全部ふさがっており、私たちふたりはホテルの外に放りだされたまま、哀れっぽく手を振りつづけるしかなかった。そのとき、ひとりの婦人が車を止めて、空港まで乗っていらっしゃいといってくれた。そこから空港まではかなりの距離だったけれど、家へ帰る途中だから構わないということだった。空港に着いて車から降りたあと、どうお礼をしたらいいかという私に、婦人は笑ってこういった。
「ありがとうといってくださればけっこう。それからよいクリスマスをね」
私の生まれて初めてのオーストラリアの旅はこんなふうに終わったが、いかがだろう? 私としては今からまた行くのが待ちきれないほどである。
ZAIRE ザイール
旅にはほほえみと手を振ることを忘れないで Never Forget a Smile and a Wave!
友人で写真家のマイケル・スタンレーがある晩、黒姫の家に電話をよこし、アフリカに行く気はないかといってきたとき、私はすぐさま答えた。
「行くとも!」
それから、ふとわれにかえって尋ねたものだ。
「いつなの? 期間はどのくらい?」
人類誕生の大地、アフリカの水を一度でも飲んだことのある人間は、たとえどこに行こうとも、永遠にこの地へ引き戻されるのだという。私にとって、これは十六年ぶりの帰還であった。一九六七年から二年間、私はシミアン国立公園の公園長として働いていた。共産主義による武力革命が起こる以前のエチオピアでのことである。そのあとも、私はいつだってアフリカに戻ることを考え、その日のくることを夢みていたものだったが、はるか遠くにいて私の耳に入ってきたものは、戦争でズタズタにされた大陸のこと、武装共産主義に蹂躙《じゆうりん》された国々のこと、独裁政権下の残虐行為、大虐殺、戒厳令、そして忌まわしい貧困と紛争のニュースだけであった。こうしたことはすべて事実だったのだろうが、それらは私自身の記憶にあるあの美しい躍動的な大地とそこに住む人々、私がそこで出会った温かな歓迎と、親切、友情の思い出からは、あまりにもかけ離れたものであった。
もっともアフリカといっても、ザイールには一度も行ったことがなかった。そしてこの国についてこれまでに聞いていたことから、私は少々不安な気持ちにならざるをえなかった。ここでいっておくがもちろん、ザイールがどこにあるかなどという基本的なことは以前からちゃんとわかっていた。驚いたことに、私が話してみた日本人のほとんどがそれを知らなかったのである。アフリカ最大の、しかももっとも豊かな(少なくとも天然資源については)この国が日本ではほとんど知られてないというのは、信じられないほどである。恐らく、植民地時代の名前でだったら、別だったのだろうけれど。長く続いた流血の闘争、内戦、陰謀を経て、ザイールがついに独立したのは、すでに二十年も前のことである。それ以来ずっと現在の強力な指導者、モブツ・セセ・セコが終身大統領となって権力を握っている。この国くらい、過去、外国の傭兵《ようへい》たちによる活動が激しく目についた所はない。しかしザイール人に聞こえる所で、「傭兵」などということばを口にするのはタブーである。外国人にとって、それは身の危険さえ招く。それだけ、彼らについての過去の記憶はおぞましいものなのだ。
アフリカの他の諸国と比べて、この国ほど世界の列強から求愛され、買収され、そしていじめられた所はない。しかもなお、ザイールの暗い森から、そして巨大な川からは、蛮人たちや、人食いの話がいまだにもれ聞こえてくるのだ。私の実の弟まで心配してはるばるイギリスから電話をよこし、彼の友人が首都のキンシャサで兵隊にマシンガンを突きつけられ、身ぐるみ強奪されたと脅かしてきた。「贈り物」を要求する威張りくさった軍隊や警察の連中についての話もさんざん聞かされた。それにいうまでもなく、他のアフリカ諸国と同様、ここでも恐るべき悪疫が流行中である。エキスパートたちの忠告は、「行くな」というものだった。
だが、どうだろう? 昔、私がエチオピアに出発する前だって、今と同じように脅かされたのではなかったか? シミアンの奥深い山々の中でもとくに人里離れた山の中で、道路からも警察からも、まして電話など文明の利器からはるか離れた所に、当時私は二年も暮らしたのではなかったか? 武装した密猟者を捕らえるという役目上、常に大きな危険にさらされていたものだが、それでもあのとき私は、なんのためらいもなく自分自身と、それに幼い家族までもアフリカとアフリカの人々にゆだねてしまったではないか。
それに比べて、今回はどうだ。旅行者として、しかもテレビのドキュメンタリーを撮るという大義名分もあり、ちゃんとした許可証まで持参するのだもの、はるかに安全なはずである。
ふと気がついて、この二十年間にアフリカで襲われてケガをしたり殺されたりした旅行者がどのくらいいるかを調べ、アメリカやヨーロッパのそれと比べてみた。イギリス生まれの私も、アメリカ生まれのマイケルも、その結果にはすっかり恥じ入ってしまった。アフリカのほうがずっと安全だったのである。けれどもまあ、旅行雑誌というのはこうしたことは書かないものなのだろう。
さてと、予防接種を受けてと、マラリアの薬は持ったかな? 小さな浄水器も携帯したほうがよかろう。あといちばんたいせつなのは、いつでもほほえみを用意しておくことだ。手を振り、できれば親しげなあいさつのことばをかければよい。そうすればアフリカもアフリカ人も必ずこれにこたえてくれるはずだ――。
ザイールのことを知りたいなら
ゴマのアミザ旅行社をお勧めする
マイケルは一足先に日本を発ち、喧噪《けんそう》とさまざまなコントラストにあふれた町、首都のキンシャサに向かった。ここを経て私たちに合流することになっている。私とテレビチームの残りのメンバーは、ベルギーからアフリカに入り、見たところ静かな小国のルワンダ共和国を通ってザイールに入ることになった(一九六二年の独立からその直後まで続いた恐るべき流血の事態――バトゥツィ族の大虐殺――にもかかわらず、今、ここは平和で静かな国である)。
ルワンダのキガリ空港では、ケニア在住の日本人、サミイ・ゴトウ氏がわれわれ一行を迎えにきてくれていた。彼はこれまで会ったうちで最高のツアーコンダクターである。はやくもアフリカのとりこになってしまっているディレクター氏の顔も見える。あとひとり、笑みを浮かべたハンサムなザイール人サンタナ・キアサウウカ氏もきている。多国語を使い分けることができるこの人物は、旅行中われわれの運転手として、通訳として、仲介者として、さらにはアドバイザー、よき仲間として、働いてくれたが、私たちにとってその値打ちは計り知れないほどであった。あなたがたがもしほんとうにザイールのことを知りたいのならば、ゴマにあるアミザ旅行社で彼を頼んでみることをお勧めする。
霧にかすむ高い丘陵地帯を二、三時間、われわれの車はひた走りに走った。中国の援助で造られたこの道は、アフリカでも最高の道路のひとつで、ドライブはまことに快適であった。ユーカリの木立や、茶の大農場、丈の高いバナナの木が緑の列を作り、よく管理の行き届いた畑が道の両側に続いている。気持ちのよい眺めだし、退屈もしなかったけれど、私にとってこの景色はあまりにもおとなしすぎた。あまりにも人の手が入りすぎていた。見たかったのは、もっと荒々しい、野生の国だったのだ。滑らかな舗装道路の上をタイヤがうなりをたてて滑ってゆく。その絶え間ない律動音を聞いていると、ここでは野生生物はたいして期待できそうにもないと思えた。
ところがいったんザイールに入るや、事情は変わりはじめた。道路はお世辞にも上等とはいえなくなり、周囲の田園風景も、相当に人の手は入っているにしろ、目に見えて森の緑が増えてきた。
ブラック・アフリカではどこでも
見知らぬ人に対して好奇心をむきだす
税関でテレビ機材の通関が済むまで、私たちは外で待つことにした。ゴマの中心部で車の中にいる私たちを見て、大勢のザイール人たちが車を取り囲む。どこからきたのか、なにをしているのか、どのくらいここにいるつもりか、どこへ行くところなのか、私のはいているブーツはいくらしたのか、帽子はどこで手に入れたか、つぎつぎに興奮して質問をあびせかける。例によってチップやらタバコやら記念品やらをせがむ騒ぎももちろんあったけれど、そんなのはこっち側が軽くふざけ返してやれば別にどうってこともないのだ。ポラロイドのカメラを持ってきていたので、これで何枚か写真を撮り、できたものを手近にいる連中に渡してやった。みんな大喜びで、感心して眺めたり、取り合ってけんかしたり。そうこうするうちにも人々の数はどんどん増えてきて、バンの窓に押し寄せては写真を撮ってくれとせがむのだった。
日本人がいるのを知って、空手のことを尋ねられる。ところがどっこい、空手の段をもっているのは日本人ではなくてこの私なのだ。そこで私がみんなから空手をやってみせてくれとせがまれるはめになり、とうとうゴマの町のど真ん中で、百人ほどの群衆に取り巻かれ、空手の型を披露して拍手かっさいを浴びることになった。
その日以来、私たちのパーティーは全員、ゴマ中の人と友だちになったのだった。
ブラック・アフリカではどこへ行っても、住民――ことに田舎《いなか》の住民――は、見知らぬ人を見ると、好奇心をむきだしにしてじろじろ眺めまわす。初めての人間にとって、これはあまり愉快な感じではないし、敵意でももっているんじゃないかと思えるほどだが、実際にはそうではないのだ。こうやって見つめられたら、こちらのすべきことはただひとつ、にっこりほほえむか、手を振ればいいのだ。ザイールでは、これに「ジャンボ」とか「ボンジュール」とかつけ加えれば最高だ。とたんに相手の顔は笑いにくずれ、熱心なあいさつが返ってくるだろう。島国の日本では、同じ日本で生まれた人々に対してすら「外人」とか「黒人」とかいうほどだが、その日本人もここアフリカでは自分たちが「外人」なのだということをよく肝に銘じておくべきだ。そしてまた、ここでは最初にあいさつをしなくてはならないのは、新参者のほうだということも……。
カリブ・ホテルはキブ湖の湖岸に建つ
すばらしいホテルだ
ゴマをでてすぐの所に、ベルギー人夫婦の経営する「カリブ」という名のホテルがある。琵琶湖のほぼ四倍はあるキブ湖の湖岸に建つすばらしいホテルだ。この湖の水は澄んでいて冷たく、寄生虫などいないから、泳ぎが達者なら、そして湖岸のそばの溶岩洞から漏れてくる火山性メタンのたまったくぼみに注意さえすれば、ここは水泳を楽しむのには絶好の場所だ。
ホテルの食事もすばらしいし、ここでだす「テムボ」くらいうまいビールは初めてである。まる一ヵ月ザイールにいて、仲間の六人の日本人のうちだれひとり日本食を恋しがった人間はいなかった。はっきりいって、こんなことはめったにあるものではないのだ。香辛料のきいたザイール料理はまさに絶品だし、種類もひじょうに多い。魚あり、肉あり、そして野菜や果物は、アフリカ原産ばかりかヨーロッパ原産のものまですべてそろっている。芽キャベツとかジャガイモとか、その他ヨーロッパで手に入れられる野菜はなんでもあるし、ベルギー人の移住者たちはチーズやバター、ハム、ソーセージの製造法までこの国にもち込んでいたのである。しかもそれがまた、まことにうまいのだ。
だが、ぜいたくな食事や親切なサービスを楽しむ一方で、私たちがほんとうに望んでいたのはより野生のものであった。そして私たちは結局、失望せずに済んだのである。
一ヵ月におよぶアフリカ滞在で、とくに忘れがたい経験のひとつに、ビルンガ国立公園にしばらく滞在したことがあげられる。ここはゴマから一日ぐらいのドライブで楽に行ける所で、途中の景観はまことに壮大である。ニーラゴンゴ、カリシンビ、ミケノ、ニヤムラギラなどの火山峰が雲を突き抜けてそびえ立ち、その周囲を衛星状の火口や広大な恐るべき溶岩流が何列にもなって取り巻いている。この溶岩流はうっそうとした森や農地を焼きながら押し進み、今の形をなしているのだ。
ビルンガ国立公園はアフリカでは最古の公園のひとつで、面積は五十万平方キロである。公園のゲートをくぐると、なんとまあ、鳥の多いこと――色鮮やかなタイヨウチョウ、足の速いシャコ、カンムリヅル、アフリカハゲコウ、オジロワシなどなど、おびただしい鳥の群れである。ヒヒの群れが行く手を横切る。道の右手にはルチュル川が流れ、川の両岸ではカバの群れが、ブーブーと低い声を上げている。
サバンナにあるマイヤモト温泉群に
野生の動物たちが集まってくる
ルウィンディにある公園本部へ向かう途中に、マイヤモトの温泉群がある。ここはたしかに一見の価値がある所だが、必ずレンジャーを連れて行ってほしい。温泉を目指してしばらく行ったころ、左側に険しい丘が姿を見せてくる。そのふもとから湯気の立つお湯の筋がいくつも流れでて、右側の川へ流れ込んでいるのが見える。道から二、三百メートルはずれた所に噴出口がある。ここは自然の造った広いくぼみとなっており、淵《ふち》からは、やけどしそうに熱い、泡立つお湯がシューシュー沸き立って、悪魔のヤカンのように煮えたぎっていた。イオウなどミネラルの沈澱物《ちんでんぶつ》のせいで、地表は奇妙な模様に彩られている。
くどいようだが、必ずレンジャーを連れて行くことだ。われわれがここを訪れたときも、バッファローを一頭驚かせてしまい、怖い目にあった。彼は温泉のお湯が蒸発したあとに残った塩をなめにここに降りてきていて、われわれに遭遇したのだ。
見つめ合うこと数秒間、今にも突っかかってこられるかと思ったけれど、結局は攻撃してこず、向こうへ走って行ってしまった。そしてその途中、近くの木立の中で夕食用の獲物を待ち伏せしていたヒョウを逆に脅かしていった。塩のせいで、ここは動物たちがよく集まってくるのだが、中には危険なものも多いのである。
温泉のお湯はつかるのには熱すぎるが、川にもう少し近づいて行くと小さな滝と、その下にちょうどフロおけぐらいの淵《ふち》が見つかった。温度もちょうどよい。
ルウィンディの周囲には開けたサバンナの平原が一面に広がっている。ここは何千頭もの小さなコーブや、何百頭ものトピ、ウォーターバック(それぞれレイヨウの一種)、イボイノシシ、それにブラックバッファローの群れの生息地だ。
ライオンを見るのにいちばんよい時間はまだ薄暗い早朝である。これ以外の時間は、彼らはそこらにごろごろしてうたた寝をしているだけだ。カバは多い。カバの生息数ではここビルンガが世界最多を誇っている。ただ気をつけてほしいのは、このカバも人間にとって危険な動物となりうるという事実だ。現に私たちがここに滞在している間も、ひとりのレンジャーがカバに襲われて死んでいる。ライオンもまた人間を殺せるし、事実何人かが殺されている。暗くなってからは外にでないよう、車から離れないよう気をつけることだ!
見境いのない密猟の横行で、殺されたゾウはおびただしい数にのぼる。悲しいことに、この公園でも一頭でもゾウを見られたら幸運だとまでいわれるほどになってしまった。密猟者は自動小銃で武装している。レンジャーよりも重装備なほどだ。なんとも忌まわしい、悪質な商売ではないか。日本人はこのことをよく考えてほしい。アフリカから密輸される象牙《ぞうげ》の八〇パーセントが最終的には日本に陸揚げされるのだ。国内、国外を問わず、どこででもいっさい象牙を買わないようにはならないものだろうか。公園内には殺されたゾウの骨が散乱している。レンジャーのガイドたちが指し示すそれらの残骸はみな密猟者によってやられたゾウのものなのだ。
見るべき野生生物は多い。見物して回ったあとはルウィンディのすてきなロッジに戻り、壁に囲まれた美しい中庭を見ながら冷たいビールやワイン、上等の食事で疲れをいやすがいい。庭にはブーゲンビリヤの花が咲き乱れ、大きな樹からは、半分人に慣れている何百羽ものチャガシラキンハタオリ(ハタオリドリ科の鳥)の巣が下がっている。
くれぐれも大動物ばかり追いかけようとしないことだ。鳥たちもまた楽しみたまえ。それじゃあ気をつけて。そしていつもほほえみと、手を振るのだけは忘れないように。
ジャンボ!
森の人 ――ピグミー族 People of the Forest
琵琶湖の四倍はある巨大なキブ湖、その湖岸にあるゴマの町から私たち一行はゴリラ保護地区を目指して出発した。全員、休養は十分にとれていた。泊まっていたホテルはこの上なく快適で、料理――ヨーロッパ料理もザイールの料理も――は最高、バーにしろサービスにしろとにかくすばらしかった。広い緑の芝生にシャレー風の山荘が散在するこのホテルの経営者はベルギー人のラビオー夫妻で、これまた文句のつけようのないホストだった。湖は、アフリカに多いとされるビルハルツ住血吸虫の心配もなく、水泳に最適である。そのうえどこへ行くにも、ここを起点として予定を組むことができる場合が多い。
私たちは早朝にここを発ち、ゴマからベニに至るルートをとった。ブライの村までは、数時間のドライブである。ザイールではだいたいどこも道路事情は貧しくて、悪路ばかりなのだが、この道は幹線道路らしく、一応は二輪駆動の車でも走れる。ただ、ブライから先、ジョンバまで二十六キロの道は、ホイールベースの高い、四輪駆動車でないと無理だ。まさに「ガタピシドライブ」とでも名づけたいような旅である。植民地時代、ここは壮麗な並木を誇る美しい道であった。今でも道の両わきには、丈の高いみごとなシブノキとユーカリの木々がびっしりと立ち並んでいる。この道路から左右あちこちに小道が分かれている。やはり並木道で、植民地時代の邸宅や農園の廃墟に通じているのだ。
ジョンバに着いたら、車はそこの小さな村落に預けておく。料金もごく安い。荷物がたくさんあるようだったら、ここでポーターを雇ってもいい。六人が泊まれるベース小屋までは、近いけれども、険しい登り道だ。
ここで私たちはイギリス人の生物学者で、一九八五年五月からジョンバに滞在しているマイケル・コスタスの出迎えを受けた。ここにくる前もルワンダで、やはりゴリラの研究をしていたという男である。
ここの研究は、主にフランクフルトの動物学協会が資金をだし、これに世界野生生物基金と国際自然保護連合が援助をして実現したということだ。保護区内のパトロールとガイドには、NATO支給のFNライフルで武装したザイール人の男たちが数人で当たっている。この仕事はひじょうにきつく、タフなもので、彼らはじつにひたむきにそれに打ち込んでいるのだが、なに分にもその俸給たるやいかにもお粗末で、これだけでは食べていくのもやっとというありさまなのである。タバコ二、三本なりチョコレートなりをあげれば、ひどく喜ばれるだろうが、彼らのほうからこれを要求することはけっしてない。
農業用地に最適な肥えた土壌の地こそ
マウンテンゴリラの棲《す》みかなのだ
珍しいマウンテンゴリラの棲《す》みかであるビルンガ山脈は、ザイール、ルワンダ、ウガンダ三国の国境にまたがっている。うっそうたる森林と、肥えた火山性土壌とに恵まれた土地だ。高地全体に豊かな森林と下草をはぐくんでいるこの土壌は、きわめて生産性が高く、そこからとれる収穫も驚異的なものがある。農民たちがこうした高地性土壌をつけねらうのも無理のない話なのだ。そうやって森林の多くが伐採され、焼き払われ、年々、その面積を狭めていく。ジョンバに向かう道中でも、ゴリラ保護地区ぎりぎりの所まで、広々した野菜畑が迫っているのが見られた。青々とした新鮮な野菜がそれこそ何種類も――ジャガイモ、リーキ(西洋ネギ)、タマネギ、ニンニク、キャベツ、ホウレンソウ、ニンジン、ベニバナインゲン、グリーンピース、芽キャベツ、バナナ、アボカド、オレガノ、サトウキビ、等々――いかにも豊かに栽培されていた。私の知るかぎりでは、ここは世界でも恐らく最高の市場向け菜園経営地域のひとつに数えられるだろう。
しかし悲しいかな、ゴリラ絶滅の危機を招いているのは、まさにこの豊かさなのである。もし、現在も続いている調査研究や保護の活動がなかったならば、ゴリラたちはとうの昔に絶滅に追い込まれていたことだろう。個人の立場でいえば、私はやはり保護論にくみしたい。どう考えても、人類がこんなことをしてよいとは思えないのである。世界全体で今把握されているマウンテンゴリラの数は約三百五十頭。そのうち二百五十頭がここビルンガ山脈に、残りの百頭そこそこがウガンダ南西部のブリンディ森林地域に生息している。生息環境が破壊され、分断された結果、ゴリラたちはこうした小さな地域に孤立して棲むようになり、たがいの交流は断たれてしまった。成獣になったゴリラは生け捕りにするわけにはいかない。彼らはおたがいに守り合うからだ。また、子どものゴリラをつかまえるにしても最初に成獣のゴリラ(銀白色の背をもつためシルバーバックと呼ばれる)を殺してからでないと、近づくこともできない。こうしたことから、彼らは依然孤立させられたまま、グループ間の遺伝子交換も不可能な状態におかれているわけである。
野生生物保護にあたっているマイケル・コスタスやボスのエイベリング博士のような人たちが、今熱心に推進しているのは、ツーリストたちを人選して小さなグループに組み、森に案内して野生のゴリラと対面させる試みである。これによって一般の関心と興味を盛り上げることができるし、同時にこの国の外貨収入にも役立つだろうというわけである。さらに、人々が定期的にゴリラをチェックするようになったことで、密猟者たちの活動も慎重になってきている。彼ら密猟者は、相手がザイール人のレンジャーなら殺すのもためらわないだろうが、外部の人間を殺すとなると、やはり考えてしまうからである。最近、ルワンダで保護活動に当たっていたダイアン・フォッシイが殺された事件は、国際的な憤激を招いた。したがって今度、密猟者が似たような事件を起こそうものなら、彼らの敵はもはやレンジャーだけでなく、重武装に身を固めた優秀なコマンドたちを何百人も相手にしなければならなくなるだろう。
ベース小屋は質素ではあるが快適である。前にもいったように六人が眠れるようにはなっているものの、寝袋は持参したほうがよいだろう。ここは夜、ひどく冷えるからだ。あと、自分の食料や飲料もおおかたは持ってくるといい。その他、ランプと懐中電灯を忘れないように。
ゴリラたちと対面すべく
森の道を進んで行くと……
午後の三時、ちょっと遅めだったが、私たちはジョンバのベースを出発した。いよいよゴリラたちと対面するのだ。マイケル・コスタスとチーフ・レンジャーのムブラヌムウェとが案内役だ。ゴリラの群れがいちばん最後に動いた跡を探しながら、森の道を進んで行くのである。まもなく道をはずれ、ゴリラたちの巨体が押し通って行ったとみられる狭い小道を見つけてそこをたどりはじめた。下草が一面にびっしりと茂っているので、マチェーテ(山刀・長刃のナタ)で草をあちこちたたき切りながら一歩一歩進まなければならない。歩きながらマイケルが、ゴリラの食べる草や木をいろいろ教えてくれる。ゴリラは大食漢なのだ。大きな成獣の雄では、毎日三十キロもの植物をとる必要があるという。教えてもらった草を、片っ端から口に入れてみる。胸の高さまで伸びている野生のセロリは、なかなかうまいものだった。
途中、道の真ん中に一メートルの深さに穴があいていた。
「アリだよ」とマイケルがいった。「そこにあんまり立ってないで」
柔らかな白アリのタマゴを食べようと、ゴリラたちが掘り返したあとなのである。怒ったアリたちが何千匹も集まって、なにかかみつくものはないかと探しまわっている。こんなのにたかられてごらん、それこそバラのトゲでひっかいたとか、汗が目に入ったなんてことでは済まなくなる。
それまでの悪戦苦闘が報われる瞬間が訪れた。突然、目の前の木の枝が動いた。と、木の上のほうで、黒っぽい毛のムクムクした小さな影が目に入る。ゴリラの子どもだ!
マイケルとムブラヌムウェのふたりが、のどの奥からだす深いうなり声を上げはじめた。これはゴリラたちがおたがいに安心させるためにだす声色である。ゆっくり、ゆっくり、私たちは近づいて行った。まもなく、目の前に巨大な群れのリーダーが、その恐ろしくも堂々たる巨躯《きよく》を現した。|銀白色の背《シルバーバツク》をもつ、マルセル≠ニいう名の雄のリーダーである。強い顎《あご》の筋肉を支えているのは頭蓋骨《ずがいこつ》だが、その上には巨大な隆起部が盛り上がってみえる。この隆起のせいで、最初の印象では頭が異常に大きく感じられるのだが、つぎの瞬間、その利口そうな黒い目と、こちらの目とが出会ったとたん、マルセルの顔自体が人間の顔よりもはるかに大きいのだということがわかる。十分気をつけながら、もっと近づいてみる。ガイドたちは彼らを安心させるためにあのうなり声を上げつづけ、時々ゴリラのするようにうずくまっては葉っぱを引き抜いたり、そこらをひっかいたりする。
まもなく、そこら中にゴリラが姿を現した。若い物見高い連中は、木の上からこちらを見下ろしているし、マルセルは終始十四頭からなる自分の群れを守って、注意を怠らない。長く尾をひいたオナラの音が、私たちの微笑をさそう。あんなに野菜を食べるのだもの!
マルセルが胸をたたき、こちらに向かって突進しそうなそぶりをみせる。これは恐ろしかった。心臓の弱い人には実際よくない眺めだが、そんなときでもこちらが動かずにじっとしていて、逃げたりさえしなければ、攻撃してくることはないのである。彼の肩の筋肉といい、背中の横幅といい、これに比べたらどんなに大きいレスラーでも小人みたいに見えてしまうだろう。威嚇して口を大きく開くと、ライオンのような牙がのぞいた。
しかも、それでいながら、マルセルはこの上なく優しいのであった。器用な手つきでブドウのつるの皮をむき、その髄をしゃぶる。腰を下ろして休む彼の傍らに、雌が座り、赤ん坊に乳を飲ませる。マルセルが優しく彼女の毛づくろいをしてやる。
私たちは彼らから十二フィートほど離れた所で見守っていた。
マルセルがごろっと仰むけになった。片脚をつかんでそれを前後にゆすっている。またまた、でっかい、長く尾をひいたオナラが流れる。十五フィートほど離れた向こうの樹の上でブランコをしている三匹のチビゴリラが、ボタンのようなきらきらした目でこっちを眺めている。こんな生き物たちを、傷つけようなどと、いったいだれが思うだろうか? だが現に今、人間たちはそれをやっているのである。動物園用にゴリラの子を生け捕ろうとやってくる人間に対して、大きな雄は自分の子孫を守ろうと必死で立ち向かう。けれども彼がどれほど力が強くても、しょせん銃の前にはあっけなく倒れてしまうのだ。
私にとってゴリラとともに過ごしたことは忘れられない経験だったし、同時に優しさというものについてすばらしい勉強をすることができた。これまでに、何百人もの人たちが、この経験を味わっている。あなたがたも望めば、見せてもらえるはずだ。
私たちはラッキーだった
放浪の旅を続けるピグミー族に出会えた!
ゴリラ保護地区をあとにした私たちはつぎに、広大なイトゥリ森林地域へ向かって旅を続けた。ここは現存するアフリカ最大の雨林であり、ピグミー族たちの住みかでもある。私たちの目的地はイトゥリ地域の中の丘のひとつ、ホヨ山だ。ここにはカリブ・ホテルと同じ経営者がやっているロッジがある。ホヨ山までの道中は、長く難儀なドライブであった。山からは、地平線までとぎれることなく続く、雄大な緑の景観が望まれる。森は、侵略農業によって徐々に失われてはいるものの、いまだに広大である。ザイールの政府にここを保護区にするだけの勇気と、先見の明があることを切に祈るのみだ……。
私たちはラッキーだった。放浪の旅を続けてきたピグミーの一集団が、今この近くに村を造って住んでいるというのである。五十人ほどの大人と子供からなるグループで、ノフェという名のリーダーが率いている。
木の枝や葉でできた彼らの小さな円形の小屋は、私に子供のころよく森の中にみんなと造った小屋のことを思いださせた。今度の旅でコーディネーターをしてくれているサミイ・ゴトウは、スワヒリ語を話すうえ、人の心をひきつける陽気で楽天的な性格の持ち主である。そのことと、それから彼が日本人としてさえ小柄なほうだったこともあって、サミイはすぐさまスワヒリ語をしゃべる二、三のピグミーの男たちと友だちになってしまった。塩や茶、砂糖、タバコ、コンビーフといった贈り物のお返しとして、ピグミーたちは、私たちが彼らを撮影するのを許してくれた。
今から二十九年前、初めてイヌイットたちと暮らしたとき以来、このピグミーの人たちほど愉快で、陽気で、しかも騒々しい人々と出会ったことはなかった。森には彼らのたてる叫びと笑い声が響き渡り、その合い間をぬって、手製のリラかハープのような楽器の奏でるメロディックなリズムがこだまするのだった。
彼らが身にまとっているものは樹皮をたたいて作った腰布だけ、女と子供は体中に黒の塗料で模様を描いている。男たちは弓矢を携えている。あと、小さなハープや竹製のバンブーパイプも持ち歩いているようだ。彼らはこのパイプでマリファナを吸っていた。矢筒の中に入れた矢のうち、二、三本には鉄の矢じりがついている。彼らはこの矢じりで、物を切ったり削ったり、皮をはいだり、あるいはむいたりするのである。村にいた四日間に私が見たこれ以外の道具といったらわずか一丁の古いマチェーテだけだった。矢じりのような小さな物を道具として扱う彼らピグミーたちの手先の器用さを見ているうち、ふと昔、北極で手伝ったことのある研究の仕事を思いだした。それはトゥーレ文化圏イヌイットたちの恐らくは先祖だとされる、大昔のドーセット文化人(細石器文化)の研究であった。彼らもまた、小さな道具を扱うのにきわめて巧みだったのである。私自身、ベルトには刃わたり七センチのナイフをいつもさして携帯している。これ一本と、あとオノが一丁あれば、荒野でだって十分生きていける。こんなに小さなナイフでも、大きな動物の皮をはいだり、肉を切り分けたりできるのだ。たいていの場合、小さなナイフのほうが、いわゆる「冒険家」の連中が愛好している大きな重たいナイフより都合がいいのである。
ピグミーたちは自分たちの使う鉄を物々交換で手に入れるが、その鉄の使用も、矢じりとか槍の穂先、マチェーテ、なべなどに限られている。彼らはまさしく「森の人」なのであり、いまだに石器時代にさえ足を踏み入れていない状態にあるのだ。鉄を作る人々と接触する以前、彼らの使っていた道具にしろ武器にしろ、石ではなく、木であった――。
しかし、そんな単純な武器しかなくても、彼らは恐るべき狩人である。私はここの人々が森から六種類ものいろいろなタイプの植物を採取してきて、それから毒汁をとるところを見せてもらった。とってきた草はたたいてから、アシの皮で編んで作った精巧なしぼり器に入れ、幅の広い葉の上にしぼりだすのだ。鉄の矢じりはアンテロープ(レイヨウの一種)のような大型の獣の猟に使われる。これが体に刺されば出血するから、たとえ即死でない場合でも、血の跡をつけていけば獲物を手に入れることができるからだ。跡をつけるのは、ホイペットに似た、やせた小型の犬たちである。サルや鳥を射るとき、あるいは戦いのときなどには、ふちにギザギザの切れ込みを入れた針のように鋭い木製の矢じりを使う。鳥を撃つ矢には、三つまたか四つまたに先端の裂けた矢じりがついている。矢じりは毒液につけ、火にかざして固めていく。先端が固いタール状に覆われるまで、作業を繰り返す。こうしてできあがった毒矢で射られると、たとえ傷は浅くても、鳥や猿なら数分で倒れてしまう。大の男ですら、この毒矢が一本ささっただけで、三十分から一時間で死んでしまうはずだ。
弓は短いが強力だ。弦《つる》はなにかの固い樹皮でできていて、矢を放った瞬間、手首のプロテクターにピシッと跳ね返る。このプロテクターというのは、革の袋に草をつめて、手首の所にひもでゆわえつけたものである。矢を放つと、パシーンという大きな音が響き渡る。ふだんでもなにかの議論になって、自分の語調を強めたいときなどには弓の弦をはじいて音をたてることもある。
この私自身、ハンターであり、これまでにもイギリス人、イヌイット、クリー族のインディアン、そして日本人たちと狩りをやってきた。だから今回、ここの森の人たちといっしょに狩りにでるのは、じつに楽しみでもあり、すばらしい経験であった。ただ、残念なことに、テレビチームが同行したことで、だいぶ興がそがれたのも事実である。
男は身をひそめて待ち、女が歌で追い込む
狩りの方法の基本は万国共通か!?
狩りは、村の住民全員がそろってぶらぶらと森の中へ歩いて行くことから始まった。人々の歌声と、ヨーデルのような叫びとが、森にそびえたつ大寺院のような巨木の幹の群れをふるわせ、こだまを呼んだ。狩りの場所に着くと、まず焚火《たきび》をおこし、それから特別な香草をくべる。かぐわしい青い煙が立ち上る。男たちは火の周りに座って、その煙を自分の体にこすりつける。煙はやがて青いもやとなって木々や灌木《かんぼく》の間を漂っていき、頭上高くに覆いかぶさる茂った葉の天蓋《てんがい》からは、光の筋が斜めに差し込むのがはっきりと見える。火が消えると、男たちは残った灰を額につける。煙によって動物たちのかんを鈍らせ、狩人たちの体には周囲と同じ臭いがつくというわけなのだ。煙の流れていく向きが、狩りをする方向である。
今や、男たちはいっせいに姿を消す。声もたてずにさっと飛びだしたかと思うと、散らばって物陰に身を潜める。ピグミーたちは思いどおりに、姿を見えなくすることができるのだ。
女や老人はアシの束を編み込んだ太い棒で、地面をたたき歌をうたい、ヨーデルのような叫びを上げて、動物たちを驚かせ、目の前に飛びださせる。二頭のダイカー(小型のレイヨウ)が飛びだしてきた。頭上ではミドリザルの叫びが上がる。これは昔ながらの狩りのやりかたで、冬の長野でも、野ウサギを追い立てるときに私たちハンターが使う方法と、非常によく似ている。ただもちろん、私たちの武器は弓矢ではなくて鉄砲なのだけれど……。
アンテロープが四頭、それに小さな獣がたくさん目の前を横切る。だがテレビ撮影の一行がまごまごもたついて、状況の把握がサッとできずにいるうち、結局は獲物に逃げられてしまい、小さなリスを一匹しとめただけに終わった。だが、ピグミーたちが森と、そこに棲む動物や植物に深い理解をもっていることは、このときはっきりとわかったのだった。
ピグミーとともに過ごした何日かの間、私たちは肉を、キノコを、そして蜂蜜を分けてもらった。そして、彼らは私たちにたくさんの物語と、数多くの歌を聞かせてくれた。そうした物語の中には、魔法使いの話、神々の話があった。ゾウ狩りや、恋の物語、戦《いくさ》の物語もあった。そんなときふと私は、自分が今、祖先である古代ケルト人の時代にふたたび生きているような、そして巨大なオークの森に住む小さな人たちの話を聞いているような錯覚に捕らわれるのだった。当時はイギリス全土が、こうした森に覆われていたのである。
こうして私たちは、短い期間にふたつの森を体験した。ひとつは巨大な、しかもあくまで優しいゴリラたちとともに。もうひとつは、陽気で歌好きな森の人々とともに。その体験は私の心の中にある古い痛みをふたたびえぐりだした。いわゆる文明人と呼ばれるわれわれが破壊し失ったように見えるなにかに対する、それは根強い痛みなのだった。
湖と猟師たち、そしてニーゴンゴ Of Lakes and Fishmen and Niragongo
ゴマにあるカリブ・ホテルで過ごした朝のひとときは、私にとって忘れられない経験だった。湖面いっぱいに太陽の光を受けたキブ湖の広々とした水の輝き、鮮やかな芝生の緑、エサをついばむホロホロチョウのひと群れ、そして私たちを待つ焼きたてのロールパンと、おいしいコーヒーと紅茶の香り……。キブ湖は琵琶湖の約四倍の大きさで、湖水にはほんの少しだけ塩分が含まれているから、ビルハルツ住血吸虫に汚染されている心配はない。この寄生虫のせいで、アフリカの大部分の地域では淡水で泳ぐには覚悟がいるのである。湖面の大部分は澄み切っているし、冷たくて気持ちがよいが、溶岩流がかたまってできた険しい崖《がけ》の近くに行くとメタンガスのでるくぼみがあるので、注意する必要がある。ホテルにはプールもあるが、湖で泳ぐほうがずっと気持ちがよい。湖に潜ると色鮮やかな小さな魚たちがたくさん泳いでいるのが見える。中でもとくに壮観なのは、湖中に流れ込んでそのまま水の中で奇妙な色や形に固まってしまった溶岩流のあとである。
湖の向こうに黒くぼうっとした姿をみせているのがニーラゴンゴ火山である。ニーラゴンゴとはこの地方の古いことばで赤ん坊をおぶった女≠ニいう意味である。巨大な円錐《えんすい》形をした火口のわきに、シャヘルという名の小さな火口を伴っていることからこう呼ばれているのだろう。このニーラゴンゴの高さは三千四百七十メートルである。この火山は休んでいるといってもほんとうに眠っているわけではなく、いつなんどき目を覚ますかわからない。事実、九年前にこの山が目覚めたときには、ゴマは恐ろしい被害を被り、多くの人命が失われたのだった。今回のザイールTV遠征行の最後が、このニーラゴンゴ登頂となっており、カリブ・ホテルからこの山を見ると、いかにもたいへんな登山になりそうなのだった。
われわれ一行はまる一ヵ月の間、ザイールの国内をあちこち旅して回った。私がとくに興味をもち、どうしても見てみたかったものにこの国の淡水湖漁業があった。もともと私の専門は漁業(海洋哺乳類と北極漁業)なのである。その湖水漁業の取材で、われわれがキャンプをはったところはビルンガ国立公園の一画、イディ・アミン湖からセムリキ川が分かれる所だった。美しいキャンプサイトで、湖から流れだすセムリキ川の冷たく清らかな流れが真下に見下ろせる。このキャンプサイトは動物保護官らに守られている。断崖《だんがい》から見下ろすと、眼下を川幅の広い澄んだ流れが走り、二百頭ほどのカバが川底に沿って歩いているのが見えた。
川を車で越えるのには渡し船が使える。いかにものんびりした渡し船で、川のあちこちにさおをさして、ゆっくりと進んで行く。川の向こう岸についてから少し車に乗って、キアビニオンゲという名の湖畔の村に着いた。なかなかおもしろい漁村で、二百隻の漁船をかかえ、これで村中が生計を立てているのだ。漁船といっても、船外モーターのついているものは、ほんのわずかしかない。
イディ・アミン湖には
巨大で奇妙な姿の魚が棲んでいる
この湖(地図にはイディ・アミン湖として載っているものの、古くからエドワード湖として親しまれてきた)は、ザイールとウガンダの二国に岸辺を接する巨大な古い湖である。われわれ一行は村から二、三隻の漁船を借りて湖上の漁にでた。三、四人の男が船を操り、湖面にでてから湖底に刺し網をうっては、ナマズやティラピア、アフリカン・カープ、ナイルパーチ(この地方では「キャピタン」と呼ばれるもの)などを捕るのだった。この湖では、三百六十ポンドもあるナイルパーチが捕れているし、ときには巨大なハゼも捕れる。今まで最大の記録は二百四十七ポンドのものである。この魚は変な魚で、陸の上でも進むことができる。沼沢地《しようたくち》やパピルスなどの茂みには肺魚という奇妙な魚が生息している。その稚魚はオタマジャクシに似ているのだが、成長すると百ポンドにもなり、水鳥などひとのみにしてしまう。深い所には奇妙な姿をした魚が棲《す》んでおり、触れるとかすかな電気ショックを与える。
この湖に生息している魚はほかにもたくさんいるが、主なものは今あげたものである。中でもいちばんたくさん捕れるのがティラピアだ。この魚はこれまで私が食べた魚のうちでもっともおいしい魚のひとつである。味はややタイに近くて、風味のよい白身の肉はどのように料理してもおいしく食べられる。ただ気をつけなくてはならないのが寄生虫だ。淡水の魚には人間にも危険な寄生虫がいるため、どんなにうまくても刺身にしようなどと考えてはいけない。
鳥の数も種類もおびただしい。村の周辺でよく見られるものをあげれば、まず色鮮やかなエジプトガンの群れ、えばりくさって歩いているハゲコウ(大型コウノトリ)、ギャーギャーとうるさい声を上げるペリカン、黒と白のミサゴなどである。カモメやアジサシも多い。岸辺にはさまざまな種類のシラサギやコウノトリが群れ、中には背の高さが一メートル二十センチもあるオニアオサギ(アフリカ産アオサギ属大型サギ)もまじっている。セイタカシギなどの渉禽類《しようきんるい》も多い。渡り鳥の中にはシギ、チドリ、コシギ、トウネンなどが見られる。断崖のある所はどこでも、さまざまな色の羽をもつカワセミの巣があるはずだ。
ハゲコウは、人間たちの中にも平気で歩いてきて、ハラワタやくず肉などを片づけるのを手伝ってくれるし、ペリカンも人の手からエサをもらうくらい慣れきっている。ミサゴは見かけは堂々として威厳があるが、鳴き声はカモメみたいにうるさく、家の屋根の上にとまっては自分たちの出番を待っている。岸からちょっと離れた所にはカバの小さな群れが見える。低い声でブーブーうなったり、鼻を鳴らしている彼らもまた、人間たちにはまったく無関心だ。
ここでティラピアがこんなによく捕れるのは、ひとつにはこのカバのおかげである。カバたちは夜、地上で草をはみ、昼は湖中でずっと過ごす。こうしてカバの落とすおびただしい量のフンは、浅瀬の地味を肥やし、結果としてティラピアやコイのえさも豊富となるわけである。
漁が近づくと村人は全員集合し
あとにはゴミも汚れもいっさい残らない
漁船が獲物を陸揚げするために岸に近づいて、派手に飾りたてた二百隻の船が、長い湖岸に沿っていっせいに並んだ。村人全員が岸にでて、漁を見守り、手伝うのである。魚は市場に持って行くものもあれば、その場で売り買いされるものもあり、あるいは開いて塩漬けや干物にしてしまう。あとにはゴミも汚れもいっさい残らない。ビニールやプラスチックの類、ボール箱などは使っていないし、魚のハラワタは鳥が片づけてくれるからだ。私は、ここの人たちの使っている網の目が、日本で普通使われているよりも大きいサイズのものだということに気づいた。これだと、まだ成魚になっていない小さな魚は網にかからず、それだけ生き延びるチャンスも多くなるわけだ。その上、船外機を使っていない船がほとんどだから、ここでは汚染らしい汚染などないし騒音や汚れもでないのである。
(現在、北海道の観光漁村は憂慮すべき状況にある。事実、北海道から沖縄までの日本の漁村のすべてが、捨てられるゴミやオイルのせいで情けない状態になっているのだ。最近私は北海道の美しい小さな港で釣りをしたが、このとき一隻の釣り船がその油溜めを海に空けてしまうという事件が起こった。もちろん油は港中に広がってしまったのである。ザイールではそんなことはなかった。カナダでもしかり、ウェールズでだって……)
標高が上がるにつれて
ニーラゴンゴは姿を変えた
われわれの旅の最後は、ニーラゴンゴ火山への登頂であった。ゴマから少し車を走らせた所にビルンガ国立公園のキバティ地区管轄基地がある。ここで許可をもらい、ガイドを雇うのだ。
われわれのガイドはムララという名のハンサムな若者で、制服に古いカービン銃といういでたちだった。銃は第二次大戦の放出物資である。キバティ着は七時五分、ポーター全員を伴ってそこを出発したのが七時三十五分であった。
古い溶岩流を越え、険しい登り道をたどり、その狭い道の両側から押しよせるように茂っている厚いトゲだらけの下草をかき分けて進みながら、私はテレビカメラに向かって、自然がいかに溶岩流の襲撃に耐えて、ふたたびここに息を吹き返しつつあるかを語りつづけ、バナナ農園と比較してこうした天然林の周辺では、自然の成長もより早く、より変化に富んでいることを指摘したのだった。
汗をかき、あえぎながら、われわれ一行は上へ上へと登って行った。高くなるにつれて、あたりの風景が変化していることに気づく。びっしり茂ったトゲだらけの林は下草がひどく厚くて、とても通り抜けられない。こうした高地の森はインコやタイヨウチョウの棲みかだ。少し高く登ると、木々の種類も変わってくる。熱帯種は少なくなり、下草も薄くなる。さらに上へ行くとセミの鳴き声が聞こえてくる。もう少し高い所で、ジャイアントヒースの木々が見えはじめ、やがてそれが林となっている場所へ着く。そこを越えるとロベリアのようなアフリカ高山植物の茂る一帯となる。ここは空高く舞うタカやカラスの棲みかである。
ニーラゴンゴの頂上への登りはきつく、けっこうハードだけれど、人並みに強い脚と、破れそうもない心臓の持ち主ならだれでもやってのけることができる。われわれ一行が登っていたときも(この間、TVディレクター氏は、これがいかに危険でスリルに満ちた遠征であるかという印象をなんとか前面に押しだそうとやっきになっていたが)、同じ日にゴマの男女の高校生が二百人ほど登ってきていた。
ただこの山に登るときは、一気に頂上を目指したりして急がないようにしてもらいたいものだ。しばしば休憩をとって、高度の変化を心にとめ、あたりの景色に目をこらしてほしい。木の幹に根づいて咲いた珍しい小さなランの花に目をとめ、聞こえてくる小鳥の歌声が高さによって変わってきていることに注意してほしい。この山では、こうした変化がことに激しく、しかもはっきり目につくのである。
ニーラゴンゴに最後の噴火が起こったのは今から九年前、一九七七年のことである。このとき、熱い溶岩流があふれでた噴火口周辺の頂上一帯も、今ではアフリカ高山植物や、そうした植物を食べ、あるいは共生関係にある昆虫たちによってふたたび生命を取り戻しつつある。ふと気がつくと、頂上からちょうど三百メートルの所に小さなハタネズミの穴とフンが目についた。
頂上近くに丸い小屋が三つ建っている。二、三年前までは木の床が張られ、ストーブや寝床が備えてあったのだが、今では汚れ放題、床板ははがされてマキにされ、ベッドも同様に燃やされてしまったらしい。窓は壊され、汚物やゴミがおびただしく散乱している。こうした光景を見ると、つい観光客や登山者に対して軽蔑《けいべつ》に似た悪意を抱きたくなる。そうした悪い連中が全体のごく一部にすぎないことは、もちろん承知しているのだが。
頂上に近い所で、レンジャーのムララがはるか向こうの森の中に見える煙を指さした。見えてはいるがここからは二日間のきつい歩きの行程だ。
「密猟者です」
公園のこの地区ではレンジャーが四人しか配備されておらず、しかもその四人もたいていはガイドの仕事をやらされている始末なのだ。森に棲むゾウもバッファローも、そしてヒョウも、ほとんど姿を消した。ゴマの通りではこうした動物たちの皮やキバやツノが堂々と売られている……。
アフリカの空は澄み渡り
アマツバメが矢のように飛んでいた
頂上から見ると一九七七年の噴火による溶岩流が茶色の帯となって、ゴマ空港のちょうど端の所までのびているのがわかる。眼下の高度二千六百八十九メートルの所に、この山の子供にあたる火山のシャヘリが見える。シャヘリの火口付近はおびただしい枯れ木が林立している。はるかかなた、太陽の昇る方向に、レンズ雲を頭上に頂いたカリシムビの峰が壮大な姿を見せている。カリシムビはニーラゴンゴより一千メートルほど高く(四千五百八メートル)、その雪に覆われた峰はよき魂の行く所といわれている。他方、ニーラゴンゴの噴火口は地獄への門なのだ。カリシムビには妹の円錐《えんすい》火山でミケノという、少し小さな火山がその片側に控えている。夜明けに見るこの山の姿はじつに印象的だ。
太陽が昇るころ、火口のへりにたたずみ、穴の底にたゆたうかすかな煙を見ていると、今から九年前にここから熱い溶岩の壁が三メートルもの高さに噴きだし、怒濤《どとう》のように山腹をなだれ落ちて、ブクム地区を飲み込んでしまったとは、想像もできないほどだった。このときの死の壁は時速八十キロのスピードで押し寄せ、十二の村を滅ぼしさったという。
そのことを思いながらも、ふと足元に目をやると、ハゲニアの木のすそには紫色のランが花をつけ、見上げればいかにも澄み渡ったアフリカの空を、アマツバメたちが矢のように速く飛んでいるのだった。
IRELAND アイルランド
ケルト人の島 That Celtic Island
西へ西へと人々は移動して行った。戦いを続け、音楽を作りながら、ひたすら西へと進んできた彼らがついにたどり着いたのは、地上のあまたある島のうちでももっとも古く、もっとも緑濃く、かなたには波高い大海原の広がるこの島であった……。
私はウェールズで生まれ育った。ウェールズ人であるからには当然、生まれついての歌好きなのだが、かといってうたっている歌が全部ウェールズのものかというとそうではなく、レパートリーの半分以上はアイルランド原産の歌なのだ。ウェールズもアイルランドも住民の圧倒的多数はケルト人種であり、彼らの有する古いケルト系言語は、今もなお生活の中に力強く息づいている。竪琴という民族楽器も同じなら、何世紀もの間イングランドに支配されてきた歴史も似通っている。
私の父方の祖先はスコットランドの西方諸島の出身である。ニコルというのもスコットランド系の名前だ。スコットランドの動乱の歴史は、これまで無数の小説や映画や戯曲の中にロマン化されて描かれてきているから、ほとんどの人にとってこの国はすでにおなじみであろう。
生まれついてのウェールズ人である私でさえ、スコットランドを訪れると、自然に気持ちが落ち着いてくる。正式の席に招待されたときなども、イングランドのペンギンスーツなどより、むしろニコル一族のタータンのキルトのほうを好んで着用する。
だが、アイルランドとなると……。アイルランドについて、私がなにを知っているというのだろう? たくさんの歌……それだけか?
アイルランド人の友人というのなら、それこそたくさんいる。だいたいはカナダとかアフリカ、日本やホンコンなどの外国で出会った人たちだ。アイルランド人の友だちといっしょにいれば、まず、退屈することはない。だが、彼らがアイルランドについてなにを教えてくれたかということになると……歌、丘、川、そして|ピート《泥炭》のほかには?
英語という言語を、アイルランド人ほど優美に、滑らかに、しかもシニカルな機知を込めて使いこなすことのできる民族は、ほかにいない。ひとたび英語がアイルランド人の唇にのぼると、ロンドンっ子たちのがさつで鼻にかかった音とはまるで違った、美しい響きのことばと化す。アイルランド生まれの詩人、小説家、劇作家、作家、俳優たちは、それこそ綺羅《きら》星のごとく、英語文化全体にわたって輝きを放っている……ジョナサン・スウィフト、オスカー・ワイルド、ジョージ・バーナード・ショウ、ジェイムス・ジョイス、イェーツ、ブレンダン・ビーン、エロール・フリン、ピーター・オトゥール……。ケネディ一族ももちろんその出身はアイルランドである。
世界中どこを旅しても、人はアイルランド人にでくわす。波高い大西洋の大海原も、それほど長くはケルト人たちの移動を阻むことはできなかったようだ。
ではなぜ、外に出た人たち、いわゆるアウトサイダーは、自分たちの父祖の国についてあんなにおぼろげなイメージしかもたないのだろう? 彼らのイメージをくもらせている霧に包まれたベールの正体は、いったいなんなのだろうか? 世界の人々の多くが、アルスター(北アイルランド)で今なお続いている暴動や爆弾騒ぎを見て、その原因がただ単にカトリックとプロテスタントの住民間の宗教的対立だと信じているのは、これまたどうしたわけなのだろう?
国境だけでなく歌によっても
くっきり断ち切られた土地へ
きっかけは、イングランド生まれの私の姪《めい》の洗礼パーティーでのふとした出来事だった。その席上で、私はある歌をうたい始めた。昔から知っていて、とても好きな歌だ。内容はひとりの無法者《アウトロー》の生涯をつづったものである。英語のフォークソングには無法者のことをうたったものがひじょうに多いのだが、それがなぜなのか、このときまで私は考えてもみなかった。アイルランド系オーストラリア人の間でうたわれていたその歌は、こう始まっている。
『昔、乱暴者の植民地の少年がいた
彼の名前はジャック・ダガン
生まれ育ちはアイルランドで
キャスルメインという町だ
父にとっては大事なひとり息子
母にとっては誇りと喜びだった
ふたりとも心からこの子を愛した
この乱暴者の植民地の少年を』
このあと、何番も歌詞はあって、捕えられてオーストラリアに送られたこのアイルランドの若者の生涯がめんめんとうたわれていた。若者はやがて脱走し、強盗となり、最後には三人の州警察の警官と闘って二人を殺して自分も死ぬ。これと似たテーマをうたったフォークソングはひじょうに多い。
二番の歌詞の中ほどまできたとき、イングランド生まれの義妹が歌をやめるようにいった。私の声が音痴だったとか、そんな理由ではない――ウェールズの人間にうたわせたら、イングランド人でかなう連中はいないのだから――そうではなくて、彼女のいうには自分の家の中でそんな歌をうたわせるわけにはいかないというのだった。
「どうして?」びっくりして私は尋ねた。
「それ謀反人の歌でしょ、だからよ。場所によっちゃあそんな歌うたったら、頭にビンをたたきつけられるわよ」
私は笑って、今度はひどく卑猥《ひわい》な別の歌に切り替えた。けれども弟の女房のそのことばは私の胸に突き刺さった。アイルランドへ行こうと思ったのはそのときだった。武装した国境線によってふたつに分断されたその島、国境だけではない、歌によってもまた、くっきりと断ち切られたその土地を、どうしてもこの目で見なくてはと私は決心したのである。
こんなわけで私はあのよき聖パトリックのように、ウェールズから海を渡ったのだった。
着いてすぐの私の印象は、なんとまあこの島はツーリストや写真家や感傷的な物書きにぴったりの場所じゃないかというものだった。実際、そこは一面の緑であった。黄金《きん》色のハリエニシダが燃えたつような輝きをそえ、川の水はあくまで透明に、さらさらと流れていた。冷たく澄み切った湖が緑の中に点在していた。絵葉書にあるような農場や、小さな草ぶきのコテージが、花咲く牧草地のそこここに見ることができた。馬や羊、牛やロバたちが緑の中でのんびり草を食《は》んでいる。川には白鳥が泳ぎ、外からでもよく見える所に巣を作っていた。高い木々の上ではミヤマガラスが騒々しく群れている。住民はたとえようもなく親切だし、食べ物は健康的でおいしい。ギネスのスタウトときたら、これまで飲んだうちで最高だし、ウイスキーもまた上等だった。パブでは人々がうたい、田舎《いなか》道で行き交う人は、見たこともない顔にまで陽気に手を振るのだった。
これはしかし私の探しているアイルランドではなかった。私のまだ知らないアイルランド。これからの旅で、いったいどんなアイルランドが見えてくるのだろう。
陽気で親切なアイルランド人がもつ
想像以上に激しい感情とは
私たちはダブリンまで車を走らせた。初めてアイルランド人と、出会いらしい出会いをしたのは、途中の、とある街角でのことだった。車から降りた私は、そこに立ったまま、ちょっと途方にくれた感じで周りの古い赤レンガの建物群を見回していた。目の粗い生地の作業服を着た男がひとり、私に近づいてきた。金をたかられるんじゃないかな、と私は思った。
「なにを探しておられるんで?」と男は尋ねた。
「どこか食べる所がないかと思ってね」
「わしについてきなさるがいい」
男はこういうと私の腕をつかんで、そのまま通りを少し行ってから角を曲がった。彼はそこで一軒のレストランを指さした。
「ここらへんじゃ、あれが一番の店ですよ。食べ物はうまいし、今どきにしちゃ、珍しく安いしね」そういうと、男は手を振って私に笑いかけ、そのまま行ってしまった。ほんとうに、そこでだされたアイリッシュ・サーモンと新ジャガイモ、それにグリーンピースを添えた料理はとてもおいしかった。
その晩、私たちはダブリンのとあるパブにでかけて行った。そこではいつもアイルランド音楽が演奏されていると聞いたからである。店の中は煙臭く、薄暗くて汚らしかったが、そこの人たちはみんな感じがよく親切だった。ドニゴール出身の漁師だという男が私たちのテーブルにやってきて、歌の内容を説明してくれた。ゲール語がこの男の母国語なのだった。
パブで聞いた「ジョリー・ベッガーメン」の演奏はよかった。だが、このグループがイングランドで演奏することは絶対にないといってよい。ほかの英語圏諸国の中で演奏するのも、きわめて危険なことになりかねない。この晩、彼らがつぎつぎにうたっていた歌はすべて、英国人に対する激しい憎しみに満ちていたからである。パブにつめていた連中は歌に合わせて自分たちもうたい、夢中になって手をたたいたり、はやしたりしていた。私はいっしょに来ていたイングランド出身の娘さんを振り返った。
「不愉快じゃないかい?」
彼女は首を振った。「そんなことないわ。ここの人たち、とってもよい人なんですもの。みんなすごく親切だったわ、私にも、それからパパやママにもね。私たち、前に何年かアイルランドに住んでいたことがあるの」
アイルランドの魂の中にも、一種の分断があったのだろうか? 一方にはイングランドの人々に対する激しい嫌悪があり、一方には陽気で人なつこく、親切な人間性があり――。あのとき、若いアウトローのことをうたった私の歌が、イングランド生まれの私の義妹をあれほど怒らせたのだとしたら、この歌を聞いたら彼女はどう思うことだろう?
……『そして、あの|イギリスの野蛮人《ブリテイツシユ・ハンズ》どもが
ロングレンジの銃を構え
地獄の弾丸を降りそそいだ
霧たちこめる朝露の中に!』
それとも、こんなのはどうだろう。
……『畜生ども、でてきやがれ
貴様ら、|ブラックエンドタン《Black and Tans》の野郎ども
男らしくおれと戦ったらどうだ』
つぎつぎとうたわれる歌はすべて、イングランド人と戦って、あるいは処刑され、あるいはイングランドの牢獄で餓死していったアイルランド人のことをうたったものばかりだった。
アイルランドの歴史については私もまるっきり知らないわけではなかった。一般のアウトサイダー(海外のアイルランド系の人々)よりも少しは知っていたはずだ。第一次大戦直後、イギリスの支配に対する反乱がアイルランドに起こったとき、イギリスの小型砲艦がダブリンの町を砲撃したことも知っていたし、ブラックエンドタンについてもある程度は聞いていた。反乱の最中、イギリス側ではこれを鎮圧するために特別の軍隊を徴集した。アイルランドでは一般に信じられていることなのだが、このときの軍隊というのは囚人を寄せ集めてできたものだというのである。事実はそうでなく、このとき徴集に応じた人たちの大半は、あの四年にわたる大戦の終わったあとの世の中に身を落ち着けることができず、一日十シリングと三食寝場所つきの保障と引き換えに、喜んで新しい戦場に身を投じた人々なのであった。制服が不足していたため、陸軍のカーキ色と警官の黒い制服の混成となり、これが『|ブラックエンドタン《黒と黄褐色》』という名の由来となったわけである。
今日でも、アイルランドの人々は彼らのことを激しい憎しみをもって記憶している。その感情は一九二〇年当時と比べて、少しも薄らいではいない。
「わしらアイルランド人にゃあ、昔っからの忘れられん記憶があるんだよ」
コークで乗ったタクシーの運転手はこういうのだった。彼はブラックエンドタンのことで祖父から聞いたという話を私に聞かせてくれた。この祖父は、連中のひとりが赤ん坊を母親からかっさらって、通りの真ん中で銃剣で刺し殺したところを目撃したという。私にはとうてい信じがたい話だったが、その運転手はかたく信じて疑わなかった。たしかに、彼らは四年間の塹壕《ざんごう》戦ですっかり人間性を失っており、すさみきった状態でここに送り込まれてきた。だれが敵でだれが友人かもわからないこの土地で、彼らは今、いつなんどきアイルランドの反乱分子に襲われるかしれない不安な日々を送っていたのだった。銃で狙われるかもしれないし、爆弾を投げ込まれるかもしれない。しかも相手は自分たちが軽蔑《けいべつ》しか抱いていない連中だ。彼らは大英帝国が最盛期であったころのイギリス人であり、イギリスの支配権を信じ、アイルランド人を裏切り者とみなしていた。
ダブリンのパブで聞いたあの歌の数々がひどく心にひっかかっていたので、私は本を読み、話を聞いてみることにした。報復、焼き打ち、略奪、レイプ、狙撃……話という話がこれであった。反乱側の行動も、けっして穏やかなものではなかった。反乱分子による爆弾の投げ込み、処刑、電撃攻撃、待ち伏せなどで、数多くのイギリス兵士や警官が殺されている。
それにしても、このバイオレンスのすさまじさはいったいどういうことなのだろう。
われわれウェールズ人たちも、スコットランドの人々も、長い間イングランドに征服されてきたことはアイルランドと同様である。同じように暴動と反乱の歴史をもち、いまだに独立を望んで活動しているグループもある。しかし、イングランドに対するわれわれの感情が、憎悪のそれであることはまれである。
そうした感情は、歌の中にみることができた。しかし、その答えは歴史の中に求めなくてはならない。
ノルマン人がウェールズのつぎに
目をつけた美しい島
アイルランドはヨーロッパでもっとも古い島であり、その最先端に位置している。イギリスの他の部分が大陸につながっていた時代にもここはすでに島であった。この島の初期の歴史は古い歌にうたわれて今に記録されており、そこには火の使用も金属も知らず、ケルト族の侵入の前に滅ぼされたこの島の先住民族のことが語られている。ケルトの侵入はキリスト生誕に先立つことおよそ五百年ごろのことだ。このときから、アイルランドはケルト族の至宝となった。ケルトの小王国がいくつも生まれ、王や王子たちの武勲は宮廷の語り部「フィリ」たちの手で今に伝えられている。彼らの宗教は、古代の神々と自然への信仰を中心とする汎神《はんしん》論的なドルイド教であった。これらの神々の定かならぬ起源は、遠くインドにまでさかのぼることができる。アイルランドにたどり着くまで、ケルト人たちは絶えず西へ向かって移動を続けており、ここにきてようやく無限の大西洋の広がりが――一時的にせよ――彼らの移動を阻んだのだった。
西暦四三二年、ひとりのキリスト教宣教師がウェールズから船出した。その名はパトリック。ローマ法皇ケレスティヌス一世によってアイルランドに派遣されたのである。パトリックはヨーロッパで学問を修めたが、それ以前はアイルランドで奴隷であったから、ケルト諸言語によく通じていた。三十年間、彼はアイルランドのタラ王の下で熱心に布教に努め、数多くの修道院や教会を建てて、アイルランドを学問の一大中心地に変えた。驚くべきことに、彼の下でアイルランドの大半がカトリックに改宗した。今日に至るまでこの国は敬虔《けいけん》なカトリック教国である。
八世紀になって、海のむこうからやってきた狂暴な襲撃者によってこの島の平和は破られた。スコットランドに基地をおくデーン人の来襲である。彼らは島を襲い、略奪をかさね、あらゆるものを破壊しさった。二百年というものアイルランドは彼らと戦いつづけた。その間デーン人のほうではこの島に沿岸基地を設けるのに成功していた。
このとき現れたのがアイルランドの偉大な指導者、ブライアン・ボルーである。赤毛の大男であった彼は、小王国のひとつの王の弟として生まれ、一〇一四年には国全体の統一に成功、アイルランドの民を率いてデーン人との最終戦に臨んだ。この戦いでアイルランドはついにデーン人を打ち破ったものの、ボルーは戦死した。
指導者を失ったあとのこの国には、長期にわたる無政府状態と衰退とが訪れる。
一方、イングランドでは、一〇六六年にノルマン人がイギリス海峡を越えて侵入し、先住のサクソン民族を打ち破った。サクソン人たちはこれより以前、北からのバイキングの侵攻に対して戦いつづけ、勝利を収めはしていたものの、すでに疲弊《ひへい》しきっていたのである。サクソンの王ハロルドは目を矢に射ぬかれて倒れ、まもなくイングランド全土は、よろいかぶとに身を固めたノルマンの騎士たちに占領されてしまう。サクソンや他の諸部族はすべて封建奴隷の身分に変えられた。ノルマン人たちはつぎにウェールズに侵入する。彼らはこの地におびただしい数の城や砦《とりで》を建ててケルトの諸部族を支配せんとした。今でもウェールズには、ヨーロッパのどこよりも一平方マイル当たりの石の大建造物が多いのである。ウェールズは抵抗した。実際、その抗争は何百年もの間続いたのだったが、すでにノルマンの支配は堅固なものとなっていた。つぎはアイルランドの番であった。晴れた日にはウェールズからもよく見ることのできるこの美しい島に、土地に飢えたノルマンの領主たちが目をつけたのは当然の帰結といえた。
一一七二年、ヘンリー二世の騎士たちがアイルランドに攻め込んできた。略奪ののち、彼らはこの地に移り住み、教会とアイルランド人の土地を没収した。
彼らの植民したこの土地は美しく、穏やかで、魔法のような魅力に満ちていた。ときがたつにつれて、ノルマンの城の住人たちはこの土地に同化し、アイルランド人以上にアイルランド化していった。この時期、イングランドによる支配は退けられ、ロンドンの無情な手はダブリンとその周辺にしかのびることはなかったのである(当時のダブリンは『ザ・ペイル』と呼ばれていた。英語に『|ペイルの向こう側《beyond the pale》』という表現があるが、これは常軌を逸した無教養なふるまいという意味である)。
長い歴史の中で島の人々は
彷徨《さまよ》い、流されつづけたのだろうか
一五〇九年、ヘンリー八世が王位に就き、三十八年間におよぶ治世を行った。この王様は六人もの妻を持ち、うるさくなるとつぎつぎに首をちょん切ってつぎのと取り替え、はては離婚問題をめぐって法皇とけんかをしたということで、歴史の本の中ではひどく悪名高い人物になっている。しかしそんなことよりも彼のした中でもっと重要だったのは、イングランドを堅固な島の要塞に仕立て、ローマ法皇の影響力を一掃して、プロテスタントの一派である英国国教会《アングリカンチヤーチ》を創設したことであった。彼は修道院をはじめ、カトリックに関係のあるいっさいのものを破壊し、その財産と土地を没収した。アイルランド人たちは反抗したが、ふたたび鎮圧されてしまう。
ヘンリー八世が死に、娘エリザベスが王位に就いたとき、アイルランドにはまた、新たな反乱が起こった。この反乱は十年間続いたが、その結果はアイルランドにとって悲惨なものだった。以前にも増して多くの土地がイングランド人の植民者に与えられた。この期間にアイルランドの人口の三分の二が殺された。英国国教会が権力を握り、カトリック教徒はすべての公民権を剥奪《はくだつ》された。
ここで公平を期するためにいうなら、この当時、強力なカトリック王国スペインが、イングランドの征服を企てていたという事実を念頭に入れておく必要があろう。恐らくスペイン側では、同じカトリック教国であるアイルランドを基地として利用する考えであったと思われる。スペインの宗教裁判の恐ろしさは広く知られており、もしここでスペインが勝てば、イングランドのプロテスタントにも同じような運命が待っているのは明らかだった。いいようもないおぞましさと恐怖の念が、人々を襲った。しかし、ノルマン人以降イングランドに侵入しようとしたすべての外国勢力と同じく、スペインもまたイングランド軍の前に敗れさったのである。大暴風もイングランドに味方し、スペインの大艦隊をちりぢりに放逐《ほうちく》した。
イングランドの歴史は悠々と歩みを続けた。王たちは、みずから神授《しんじゆ》王権を信じ、それによってつぎつぎと王位に就いた。だが、ここにひとりの王が自分の神権を過信するあまり、議会を無視するという挙にでた。チャールズ一世がその人である。これに対し、議会はピューリタンの政治家オリバー・クロムウェルに率いられて、王に反抗して立ち上がった。最後には王は捕らえられ、宮殿の正面に据えられた断頭台の上で、大きなオノで首を切られるはめになる。
イングランドとウェールズにまたがるこの内乱は、激しくもまた残酷なものだった。チャールズ一世は、アイルランド反乱運動の指導者を王の軍隊に迎え入れ、その助けを借りてクロムウェルを打ち破ろうとした。それまでイングランドの植民者によって土地を奪われつづけてきたアイルランドの人々は、この期に乗じていっせいに蜂起《ほうき》し、何千人ものイングランドの植民者を血祭りにあげた。チャールズを討ち取ったあと、クロムウェルの怒りはアイルランドに向けられた。一六四九年、彼は戦争経験のある一万人もの軍隊をこの地に送り込む。上陸した軍隊はまずドローエダの町を急襲し、守りについていた町の人々を、女だろうが僧侶だろうが、ひとり残らず殺戮《さつりく》した。やがてアイルランド全土を手中に収めたクロムウェルは、何千人というアイルランド人をアメリカ両大陸に奴隷として送り込んだ。今に残る記録はわずかしかないが、クロムウェル治下の九年間に殺されたり、流刑に処せられたアイルランド人の数は五十万人以上にものぼったといわれている。全体で千百万エーカーにおよぶアイルランド人の土地が取り上げられ、クロムウェルの兵士に与えられたというのも確かなようである。
クロムウェルが死ぬとまもなく、チャールズ二世の復帰を迎えて王政復古がなされた。チャールズ二世の死後、さまざまな運命の曲折を経てイングランド王位に就いたのが、カトリック王ジェームズ二世であった。この王の短い治世の間、イングランドのプロテスタントたちには恐るべき弾圧が加えられた。その結果国内には、ヨーロッパのカトリシズムと法皇に対する憎しみがふたたび燃え上がったのだった。イングランドの人々は反乱を起こして王を退け、チャールズ一世のプロテスタントの孫をオランダから呼び寄せて王位に就けた。
アイルランドはカトリック王ジェームズを支持しており、人々は王の下にはせ参じた。イングランドに上陸したプロテスタントの新王オレンジ公ウィリアムが圧倒的勝利を収めて王位に就くや、ジェームズはフランスに逃れた。やがてフランス王の助けを借りてアイルランドに上陸したジェームズは、ついに一六八九年、ボイン川の戦いでウィリアムの軍隊に敗れさったのである。プロテスタント系アルスター地方(北アイルランド)では今もなお、このボイン川の勝利を祝ってお祭り騒ぎが行われている。
これから先は、一世紀にわたるアイルランドのカトリック教徒への迫害が始まる。復讐《ふくしゆう》に燃えたイングランドは彼らへの弾圧を強め、やがてアイルランド北部地方の大半はイギリスの入植者に占領されてしまった。アイルランドとイギリス領植民地との間の貿易は禁止され、アイルランドの大規模な羊毛貿易はつぶされた。ますます多くのアイルランド人たちが国外への移住を余儀なくされた。一八二九年になるまで、アイルランドのカトリック教徒は国内で公職に就くことさえ許されていなかった。
何世紀もの長い歴史の流れをこれだけに要約するのだから、どうしても説明は単純化せざるをえない。だが、そうした長い歴史が全体としてアイルランドになにをもたらしたかははっきりしている。ケルト系カトリックのアイルランド住民の大半が、小作人としてやせたちっぽけな土地を与えられ、常食としては栄養があって栽培の簡単なジャガイモに頼っているといった状態――これがアイルランドに与えられた現実なのだった。
一八四六年から一八四八年にかけて、病害のためにジャガイモの収穫が激減したが、イギリス政府は救済のためにほんのわずかの努力しか払わなかった。しかもこの間、農民が飢えているのをしり目に、豊作であった大量のトウモロコシと畜牛がイギリスに向けて船積みされていったのである。
このときのことをうたった悲しい歌がある。
『ああ、ガチョウだったらなあ
夜も朝も、夜も朝も
ああ、ガチョウだったらなあ
そして平和に暮らせたら
死のそのときまで
トウモロコシを食べて
トウモロコシを食べて』
飢餓による死者と移民の増大で、アイルランドの人口は半分にまで減少した。
イギリスでは、アイルランド問題をめぐる人々の政策は真っ二つに分かれていた。イギリスの代表的な自由主義政治家グラッドストーンはアイルランド自治権を推進していたが、上院はその考え全体に反対の立ち場をとっていた。
第一次大戦|勃発《ぼつぱつ》の一九一四年までには、アイルランド自治法案はすでにアスキス首相の手で議会に提出されていた。この人物はアイルランド自治を基本政策に掲げて首相に選ばれたのであり、大戦さえ起こらなければ、この法案は実施に移されていたかもしれなかった。だが、激高したプロテスタント系アルスターの住民が、これに反発し、武力抵抗をも辞せずとの構えをとった。アイルランド内の大多数の住民の希望とは逆に、彼らだけはイギリスの翼の下にとどまることを望んだのである。大戦の嵐が吹き荒れ、イギリスはアイルランド問題を一時棚上げせざるを得なくなった。何千人ものアイルランドの若者が戦場にでかけ、イングランド人のためにドイツと戦った。
アイルランド国内では、若いインテリのグループが反乱を起こし、アイルランド共和国の樹立を宣言した。だが一週間にわたるダブリンでの戦いののち、この反乱は鎮圧される。こののち、|アイルランド共和国軍《IRA》の戦術はゲリラとテロに移っていった。
一九一八年、ヨーロッパにおける大戦が終結した。翌年、アイルランドのシン・フェーン党が独立宣言を公表する。抗争はどんどんエスカレートしていったが、一九二一年には休戦が宣言された。アルスターの北部六州は連合王国内にとどまることを主張した。内部の紛争はその後も続いたが、結局一九三七年になって、アルスター六州を除くすべての州からイギリス軍事基地が撤退し、ここに初めて中立の自由な国家としてアイレ共和国(のちにアイルランド共和国と改名)が誕生した。
すべてを語るアイルランドの歌は
世界のすみずみにまで広がっている
これまで私は、ごく大ざっぱにアイルランドの歴史を述べてきた。すべての歴史と同様、これもまた、別のさまざまな角度から見ることができよう。だが、この緑の島の、大半がケルト系のカトリック教徒からなる住民たちが、千年以上もの間、外国からの弾圧に耐え、苦しみながら、しかもみずからの誇りと特性を保持しつづけたという事実は、変わることはない。弾圧の形見は、この島の至るところに目につく城や砦《とりで》となって残っている。オーストラリアやカナダ、アメリカ、あるいはニュージーランドで、ちょっと電話帳をめくってみるがいい。アイルランド系の名前の占める割合の大きさにきっと驚くにちがいない。そのすべてを語って、アイルランドの歌は、世界のすみずみにまで広がっている。
そういうわけで、アイルランドは城と歌の国なのだ。アイルランド人は議論好きだし、けんか早いことでも悪名がとどろいているが、これにだって長い歴史を背景にもつ、ちゃんとした理由があるわけだ。たとえ今はそれを楽しんでいるのがツーリストたちだとしても、数多くの城はツーリストのために建てられたのではなかった。
それにつけても、ああ、この国はなんと美しいのだろう。いかにも優しく、なだらかに起伏する緑の牧草地。荒涼たる山々とムーアの影。高くそびえる崖《がけ》の上を、鳴き声をたてて旋回する鳥たちの群れ。いくつもの大河、澄んだ湖水の数々。外からやってきた人々がだれもかれもこの地に魅せられ、わがものにしようと夢中になったとしても、無理はない。
三週間、私は島中を旅して回った。その間ただの一度も、意地の悪いことばを耳にせず、ただの一瞬も飽きるということはなかった。アイルランドの人たちは心の底から君たちを歓迎してくれる。ほんとうにそうだ。これはけっして観光業者の宣伝文句ではない。
今や私の心の中の探索の旅は終わりに近づいている。ちょうど昔のバイキングたちが、戦利品を手に引き揚げてきたように、バイキングならぬウェールズ人のこの私も、やはり戦利品を持って帰ってきた。しかし、私の戦利品は、金や銀や宝石などのバイキングのそれよりもはるかに時に耐える値打ちをもっている。アイルランドから私の持ち帰った戦利品は、歌と音楽、そして海に向かってなだらかにすその広がったあの山々のイメージだ。その調べは今もなお私の耳に響き、そのイメージは私の心に焼きついたまま、けっして失われることはないだろう。
アイルランドを理解できたかって? もちろん答えはノーだ。だが、私は知っている、アイルランドがそこにあることを。そしてこれからもずっと、そこにありつづけるだろうということを。
アルスター 爆弾と歌が語るもの Ulster
ダブリンから北へ、短いけれども快適なドライブであった。北アイルランド(アルスターとも呼ばれる)へ入る国境では、予想に反して調べられることもなかった。私たちは海沿いのルートをとることにした。昔、叔父のひとりがよくうたっていた歌の文句がメロディを伴って、私の耳の中で鳴り響いていたからである。
『おお、メアリイ
ここロンドンは素敵な眺めよ
昼でも夜でもせわしなく
働く男たちの姿が見える
ジャガイモをまいてるんじゃない
大麦でもなきゃ小麦でもない
代わりに道路の真ん中で
土を掘ってる連中がいる
黄金《きん》を掘っているんだとさ
とにかくおいらが尋ねたら
やつらはそうだっていったんだ
だからおいらもみんなみたいに
黄金を掘ることに決めたのさ
だけどつくづく思うんだ
おいらが掘った土の中から
どんなおたからがでてきたって
やっぱりあそこに帰りたいよ
なつかしいモーンの山並みが
海に向かって広がるとこに』
少年のころ、遠征行の合い間合い間に、私はイギリス本国で土方のアルバイトをして金を作っていた。当時のイギリスにはアイルランド人の労働者がひじょうに多かった。もちろん彼らのうちのだれひとりとして、自分たちが金を掘っているなんて思ってやしなかったにせよ。やっていることはこの歌の主人公と同じで、日夜を問わず土を掘り返していたし、やはり同じように、ふるさとのアイルランドに帰りたがっていた。
今、私たちの乗った四輪駆動車は、ディーゼルエンジンの低いうなりを響かせながら、この歌にうたわれた緑なすモーン山地の山すそを走っている。目も覚めるような緑の中に、ハリエニシダの黄金《きん》色が燃えるように輝き、あくまでも青い海には点々と漁船が浮かぶ。いかにものどかで、またとなく美しい平和な風景であった。
道はすいていた。自転車に乗った男たちが(アイルランドではどこへ行っても自転車に乗った老人たちに出会う)、こちらを見て手を上げ、親しげにうなずいてみせる。私たちのような見知らぬ人間にさえ、人々はこうやって陽気にあいさつを投げるのだった。村々ではどこの街角でも、二、三人から数人の老人たちがたむろして、議論に熱中している姿を見かけた。まことに哲人と雄弁家の国、アイルランドならではの光景であった。
道中、アルスターの子供たちの一団が、学校から飛びだしてきたところにでくわした。そろって赤っ毛で、顔中ソバカスだらけの、典型的なアイルランドの子供たちだった。カメラを向けると、あっというまに、車はてんでに笑ったりしゃべったりしている子供たちの群れに取り囲まれてしまった。彼らは私たちにつぎつぎと質問をあびせかけた。
おじさんたち中国人?
日本人? ほんと? じゃ、カラテできるの?
おじさんはアメリカ人?
これ日本のジープ?
スピードでる?
乗せてくれよ!
どこに行くの?
名前なんていうのさ?
私が日本語を話すのを発見したときの子供たちの驚きようといったらなかった。私はひとりの小さな男の子に、学校でゲール語は習わないのかと聞いてみた。その子はきっぱりと首を振って答えた。
「ううん、ぼくたちみんなアルスターの子だもん、英語だよ」
年は十歳ぐらいかな、と私は思った。
フォーラムホテルは
安全堅固な駐車場つき?
やがてベルファストの市中に車を乗り入れた私たちは、五時の交通ラッシュに巻き込まれて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。道幅は広いものの、やたらわかりにくい道路を、半時間ほどあちこち走り回った末、ついに私は車からでてタクシーをつかまえ、どこか町の中心部にあるいいホテルまで連れて行ってくれるよう頼んだ。ただし、安全堅固な駐車場のついている所でなくては困る。ここにくる前、私たちはベルファストでは車の駐車によほど気をつけないと、どんな目にあうかわからないと脅かされ、恐ろしい話をさんざん聞かされていたからである。車が荒らされでもしたら、今度の旅全体がおじゃんになってしまうのだ。
タクシーが連れて行ってくれたのは、フォーラムホテルという近代的な建物だった。立派なレストランやバーもあって、上等なホテルである。駐車場は高いフェンスで囲まれており、出入りには守衛のいる検問所を通らなくてはならない。警備員はいたけれど、私たち一行は別に不審には思われなかったようだ。持ち込んだ山のような荷物にも、見向きもされなかった。チェックインを済ませたあと、連れの日本人ふたりは被写体となるものを求めて町へでて行き、私は私で、人々とおしゃべりできる機会を求めて、のどを潤す場所を探しにホテルをでた。
運のよいことに、ちょうど道をはさんでホテルと真向かいに、ベルファストで最高といわれる酒場のひとつがあった。ここは十九世紀のパブで、今から百年前の、あの凝った装飾ときんきら趣味のビクトリア朝様式がそのまま残されていた。ここで私は、透明なブラックベルベットを一パイントもらい、さらにもう一杯おかわりし、滑らかで風味のあるギネスをもちろん樽抜きで飲み、それから生ガキを一ダースとスパイシーな肉とポテトのシチューを一皿たいらげた。そのあとはシングルモルトのブッシュミルズにする。このアイリッシュ・ウイスキーは一六〇八年創業というウイスキー工場でできたものだ。世界最古のウイスキーメーカーというだけあって、実際その味は伝統にたがわぬ逸品であった。
こんな雰囲気では、当然舌も滑らかになるというもので、まもなく私はベルファストの印刷業者だという男と話に花を咲かせていた。彼は以前、このパブの写真を何枚か使ってカレンダーを作ったことがあるという。事実、ここはイギリス諸島中でももっともユニークなパブとして知られ、今はナショナル・トラストが資金をだして維持しているらしい。
「どこに泊まってるんです?」と、男が尋ねた。
「向かいの、ほら、フォーラムですよ」
「こりゃ驚いた。なんだってあんなとこに泊まるんです? あそこはこれまでにもう二十九回も爆弾騒ぎがあったんですよ。知らなかったんですか?」
いやはや、しかも私たちが気にしていたのはただもう、ひたすら安全な駐車場のことばかりだったのである……まったく、なんというお笑い草だ。
相手がウイスキーをおごってくれたので、私のほうもお返しをしようと財布をとりだし、中に入っている三種類の通貨を選り分けようとしたときだ。突然彼が私をどなりつけた。
「金《かね》を見せるんじゃない! チャラチャラちらつかせるのは、ここじゃ禁物なんだ!」
「別にちらつかせてなんかいませんよ。金といったって、イギリスポンドが三十ポンドでしょう、それにアイルランドのが二十プンツ、それと日本円が少しあるかな」
「シッ! 大声でしゃべるんじゃない! あんたに注意しておきますがね、そんなにたくさん金を持ち歩くのはここでは危険なんだ。私はベルファストの人間だし、それを誇りに思ってはいるが、ただ、どうしようもないゴロツキもこの町にいることは確かなんでね」
私は肩をすくめた。アフリカで、カナダで、そしてニューヨークで、何度も私は悪漢どもに襲われ、背後からはがいじめにされかかったものだけれど、いつだってケガをするのは私のほうではなく、やつらのほうだった。
「そう、あんたは大きいし、腕っぷしも強そうだ。だが、いいかね。ああいった不良のやつらに目をつけられたが最後、そんなのはなんの役にも立たないんですよ。三八口径のピストルで体に二、三発ぶち込まれてごらん、ひとたまりもないんだから。いや、実際やつらの手口はそうなんだ。忠告は聞くもんですよ。すぐホテルに戻って、その金は金庫に預けるんだね。持ち歩くのはせいぜい五ポンドぐらいにしときなさい」
「それじゃあ、ディナーにも足りないでしょう」
「それなら、靴の中とかほかのポケットに分けて入れとけばいい。あんた、ほんとに気をつけたほうがいいですよ。ここはタフな町なんだから」
私たちはそれから一時間ほど飲んだりしゃべったりして過ごした。そのうち話題は必然的にIRA――アイルランド共和国軍――へと移っていった。
「うす汚ねえギャングの畜生どもさね!」
男の口調は、ほとんど吐き捨てるようだった。
「やつらはね、事実ギャングと変わらないんです。だが、ここじゃあしゃべれない。行きつけのパブがあるから、そこに行きましょう、さあ」
彼が先に立ち、私たちは店をでた。
「この町じゃあ、私はちっとばかり顔なんでね。私といっしょにいればまず大丈夫だから。さあ、これからほんとうのベルファストの人間が飲む所に案内してあげますよ」
連れて行かれたパブは彼のいうとおり、観光客やIRAのシンパたちがたむろしそうな所とはまるっきり違っていた。ビクトリア女王の巨大な肖像画が壁にかかっており、その晩年のころの、いっそう尊大さが加わった絵姿は、この酒場全体を威圧しているようだった。店内はタフな顔つきをした男たちでいっぱいであり、てんでに飲んだり、しゃべったり、金をかけたりしていた。みんな労働者で、造船所や工場で働いている男たちである。
伝統あるベルファストの町で
今なにが起こっているのか
やはりなんといっても、ベルファストという町は、二、三百年からの伝統をもつ勤勉な工業都市なのだ。ビクトリア朝とそれに続くエドワード朝の時代に栄えた造船と織物産業は、今、息を吹きかえしている。ここの造船所はイギリス内の数ある造船所のうち、不況に苦しんでいない唯一のものである。ごく最近になって航空宇宙産業が台頭し、アルスター最大の製造業にまで成長してきた。ここでは発着陸距離の短い航空機が何種類か造られ、世界中の航空会社や軍隊に納品されている。フォークランドでアルゼンチンの戦闘機を撃ち落とすのに使われたタイプの誘導ミサイルもここで生産され、米空軍をはじめとする各方面で広く使用されているし、そのほか貨物輸送機、戦闘ヘリコプター、ジェットエンジンなどの製造も行われている。
こうした産業には、高度に熟練した労働者が必要であるが、アルスターではその点でも手抜かりなく、優秀な人材が続々と育成されている。大学は二つ、中でも理学、工学系にとくに強い。アルスター全土にわたる充実した学校教育の普及は、高い評価を得ている。
いくつもの国際企業がアルスターに進出し、成功を収めている。このことは、この地方の将来が明るく確信に満ちたものとして、多数の人の目に映っていることを示すものだ。
それではIRAのほうはどうなのだろう。過去何十年もの間、私たちはテレビや新聞の報道で、IRAによる爆弾テロや殺戮《さつりく》が繰り返されるのを見てきた。爆弾が投げ込まれ、多くの人々が殺された。商店にショッピングセンター、パブ、ホテル、役所、個人の住宅、警察、ロンドン近衛騎兵連隊のパレード、軍楽隊、クリスマス直前でにぎわうハロッズ百貨店、サッチャー首相の泊まっていたブライトンのホテル……。私たちがベルファストに到着する直前にも、ロケット弾による襲撃で交番がやられ、複数の警察官が殺されたし、ここを去った翌日には、大規模な自動車爆弾によるテロで四人が命を失うという事件が起こった。たいていの場合、犠牲者はなんの罪もない市民たちであり、しばしば外国人までが、このヨーロッパでもっとも古く、もっとも組織化されたテロリストグループの手で殺されているのだ。すでにその犠牲者の数は何千人にものぼっている。これを書いているとき、私はIRAの行ったいちばん最近のゲームのことを読んで知った。彼らは長い導火線のついた強力な時限爆弾をいくつも用意し、観光客で込み合う夏のシーズンの真っ最中に合わせて、ホテルの部屋で爆発するように仕掛けたのである。爆弾のひとつはロンドンのホテルで発見されて、回収されたものの、残るいくつかはまだ国中のホテルにばらまかれているものと心配されている。明らかに、IRAは殺す相手を選ばない。中でもベルファストは彼らからいちばん目をつけられている場所なのだ。この町はちょうど、第二次大戦のさなか、空からドイツに爆撃された直後のロンドンを思わせるものがある。町中の至るところに、そこだけ異様に開けた空き地が目につく。空き地の真ん中にあるのは、焼かれ、爆破された店や住宅の残骸《ざんがい》である。
IRAは、自分たちが戦っているのはアルスター地方をアイルランドの残りの部分、つまりカトリック系アイルランドと統合せんがためであると公言している。しかし、ここで問題なのは、アルスターのカトリック教徒はあくまで少数派なのであって、住民の大多数は今までどおりイギリスに帰属することを望んでいるという事実だ。統一論が根拠としているのは、北アイルランドのオレンジメン(オレンジ党員、北アイルランドの新教徒たちを指す)はもともと他所《よそ》者《もの》なのであって、何世紀にもわたって外部からアイルランドに入り込み、北の豊かな土地からアイルランド人を追いだして、代わりに入植した人々の子孫ではないかという歴史的議論である。けれども、ほぼ四百年におよぶ長い年月は、彼らプロテスタントたちをも、カトリックの人々同様にアイルランド化せしめたのであり、先住の人々に劣らず誇り高く、頑固な民族に仕立てあげたのだった。ではいったい、IRAというのは何者なのか。
「どうしようもないやくざな連中ですよ」あるとき乗ったタクシーの運転手が皮肉な軽蔑《けいべつ》を込めて、いったものだ。自分はカトリック教徒だと彼はいった。
「アルスターが共和国に戻ったとしてさ、連中が騒ぎをやめると思うかい、お客さん? どういたしまして、やめるわけないやね。あいつら、すっかり楽なやりかたを覚えちまったもの。連中ときたひにゃ、なんにでも首を突っ込みやがるんですぜ。|保護料に名を借り《プロテクション・ラケツト》てゆすりはやる、ドラッグには手をだす、銀行強盗はお手のものといった調子でね」
IRAにはしかし、アルスターのカトリック系住民や、南の共和国の人々から、広い支持が寄せられている。ダブリンで聞いた歌の数々には、統一を願う人々の熱い声援が込められていた――。アメリカからは大量の武器と資金が送られてくる。アイルランド系アメリカ人による支援である。私自身、かつてニューヨークのバーで飲んでいたとき、ふたりのアイルランド系アメリカ人が帽子を持って人々の間を回り、「ベルファストの若者たちのためになにがしかのご寄付」を募っているのを目撃したことがあった。
フォールズ・ロード地区には
バスももう走っていない
バイオレンス、ハイジャック、暴動――ベルファストにおけるこの種の報道で、いちばん頻繁《ひんぱん》に現れる場所といったら、まずフォールズ・ロード地区があげられるだろう。ここの住民は圧倒的にカトリック系である。アイルランドに渡る前、私は何人もの人から、この地区には絶対に足を踏み入れないよう警告を受けており、それが逆にいっそう私の気持ちをそそる結果となった。ただし車をだめにされたくないので、そこに行くにはタクシーを使わなくてはならない。探し回った末、なんとかいやがらずに行ってくれるというタクシーが見つかった。
「いっときますがね、あそこで車を止めるのはまっぴらですぜ」とその運転手はいった。
「車からでようなんて気は起こさないでくださいよ。それと、その望遠レンズを向けるときは相手に気をつけて」
このフォールズ・ロード地区にはバスももう走っていない。路線はとうに廃止されているのだ。代わりに見られるのはいわゆる「準軍隊組織《パラミリタリー》」による「人民タクシー」なる代物である。このタクシーはIRAに五百ポンドの「税」と、週に五十ポンドの徴収金を納めているということだ。友人の奥さんが、あるときビクトリア病院に知人の見舞いに行った帰り、まちがってフォールズ・ロード側の出口にでてしまったことを話してくれた。慌ててこの「人民タクシー」に乗り込んだところ、なんとひざに銃をのせた男が隣に座っていたというのだった。
私たちの乗ったタクシーは、その種のものではなく、運転手はひじょうに慎重だった。彼は私たちのために、できるだけゆっくりと車を走らせてくれた。どこもかしこもまるで戦場のようだった。道路のあちこちに、焼けただれた跡が黒くこげて残り、鉄条網だの割れた窓ガラスだの、爆弾で吹き飛ばされた建物だのが、やたら目についた。今にも倒れそうな高いフェンスは、隣り合ったプロテスタント地区の住民とこの地区とを遮るためのものだった。メインストリートから左右に分かれて走る小さな道の両側には、赤レンガの壁いっぱいに、極彩色の巨大な壁画が塗りたくってあった。どれもこれもアイレ(アイルランド共和国)との統一をうたい、イギリス人の追放とIRAへの支持を叫んでいた。一九八一年に獄中でハンスト死したボビー・サンズのように、ハンストをやって牢屋につながれている若者たちへの賛歌も多かった。彼らハンガーストライカーたちは、今や大義への殉教者として人々の崇敬の的となっているのであった。
私たちが事態の恐るべき深刻さをはっきりと感じとったのは、このとき見たスコットランド兵士たちのパトロールの光景だった。テロに対する警備のために、イギリス本土から派遣されてきた兵士たちは道路の両側に散開し、装填《そうてん》した攻撃用《アソールト》ライフルを油断なく構えて、張り詰めた表情で足を運んでいた。ひとりの兵士は、背中に背負った無線機で絶えず司令部と連絡をとっていた。
「頼むから、あの連中にはカメラを向けないでくださいよ!」運転手が脅すようにいった。私たちは彼のことばに従った。この兵士たちにとって、これはけっしてゲームなんかではない。私たちはこのとき、それをはっきり悟った。ここには彼らを殺したいと思っている人々がいる。そして彼らのほうでもそれに対してすぐさま逆襲できるよう、すさまじいほどの警戒態勢をとって臨んでいるのだった。
以前から、アイルランドの歴史は私の心をとらえ、魅了してやまなかった。反逆者たちの歌の数々は、昔から私の愛唱歌であったし、自由な統一アイルランドに寄せるこの島の人たちの熱い願望についても自分なりに理解もし、同情もしているつもりである。しかし、ことはそれほど単純な問題ではなかった。もしイギリス政府がアルスターを見捨て、アイレへの帰属ということになりでもしたら、アルスターの住民の大部分はただちに反撃に転じ、抵抗を開始するであろう。彼らはそう公言もしているし、現実にその種のテロ組織さえ存在しているのだ――今のところは組織もまだ弱いし、活動も目立っていないが、確実に危険が潜在している。そしてこのふたつのサイドにはさまれているのが、気の毒な兵士たちなのである。
「アルスター全体を海に押しだしたらいい」
その教師はつぶやいた
南のアイルランド人たちと交わしたたくさんの会話から私にわかったのは、南の共和国のほうでも、人々の考えはふたつに分裂しているらしいということだった。IRAによる反乱をたたえ、賛美する歌は、それこそあらゆる所で聞かれたけれど、その一方で、あるときひとりの教師がつぶやいたことばは、私の会った人々のうちの多数の気持ちを端的に表していた。彼はこういったのである――。
「私は思うのですよ。アルスターとの国境沿いにずっとダイナマイトを並べて、いっせいに爆発させ、アルスター全体を海に押しだしてしまったらどんなにいいだろうかとね」
アイルランドの人たちの大多数は、打ちつづく殺戮《さつりく》に震え上がっているのである。
私たちはまたタクシーを雇って、今度はプロテスタント系のシャンキル地区を訪れた。ここの雰囲気は、フォールズ・ロードとじつによく似ていた。ただ違うのは、書きなぐられた落書きやら壁画やらが、こちらはアンチIRA、アンチ法皇であり、むろん親《プロ》イギリスであって、敵意に満ちた調子で激しくアイルランドの統合に反対していることであった。私にとって、ここで見たある教会の焼け落ちた残骸《ざんがい》ぐらい、この紛争の恐怖を象徴的に示しているものはなかった。フォールズ・ロードとシャンキルと、このふたつの地区の間の憎しみは今なおくすぶりつづけていた。悪意と敵意が空中に満ちており、そこからでたとき私は心からほっとしたのであった。
ほかの点ではベルファストは活気もあるし、親切で感じのよい町だ。よいレストランや商店も多い。主なショッピングエリアの入り口に、武装して防弾チョッキを着込んだ警備員や警察官が立ち、客が入るたびにバッグの中身をあらためるのを除けば、この町はまるでテロの脅威なぞ忘れ去っているかのように見える。
ただふだんから私は、どんなに調子のよいときでさえ、いわゆる都会派人間《シテイボーイ》にはなれない。今度の場合でもそうだった。町の人たちは親切で、気持ちはいいし、食事はうまく、そのうえウイスキーやギネスはとびきりときているにもかかわらず、私たちはここに長くとどまることをせず、まもなく町をあとにしたのである。町をでてしばらくすると私たちの車は目も覚めるような緑の田園風景の中を走っていた。アイルランド最大の湖、|ネイ湖《ロツホ・ネイ》がはるかに広がっている。全長約三十キロ、幅は約二十キロのこの湖は、サケなどのフィッシングを楽しめることでも有名である。
アルスター地方にはアイルランドでももっとも肥沃《ひよく》な土地が含まれている。道中至るところで、太った健康な牛や羊の群れが目につくし、豊かな小麦畑はなだらかな起伏をなして広くのびていた。カトリック系の村や町を除いて、どこへ行っても家々にはユニオンジャックの英国旗が誇らかに翻《ひるがえ》っている。その光景を見ているうち、また別の歌が思いだされてきた。南などでうたおうものなら殺されかねないような歌だ。フォールズ・ロードでも禁物である。これは一六八九年のボイン川の戦いで、プロテスタントのオレンジ公ウィリアムがイングランドのカトリック王ジェームズを打ち破ったのを記念した歌で、アルスターのオレンジマン(プロテスタント系住民)たちは今でもこの日になると、オレンジの飾り帯を締め、ユニオンジャックの旗を打ち振りつつ、この歌をうたって勝利のパレードに参加するのである。その歌というのはこんな文句だった。
『古いながらも美しいもの
この上もなくすばらしいもの
この小さな緑の島で
九十年余もの長きにわたり
人々はこれを身につけてきた
オレンジと紫に飾られた
祖先から誇らかに伝えられてきたよき宝
法皇狂いのカトリック連中は
これを見て恐れおののく
その宝とはわが|飾り帯《サツシユ》
父のまとったこの帯なのだ!』
単純なことばの中に見いだした
住民たちの心の奥の事実
私たちはそのまま車を走らせ、やがてカリバッキイという小さな村へ着いた。ここには私の親しい友人で歌手のウィル・ミラーの妹一家が住んでいる。彼と私は一九七六年の沖縄海洋博で、私の勤務していたカナダ館がカナダデイに当たって彼を招待して以来の友人である。ウィルはアイルランドでもっとも有名な歌手のひとりであり、この二十年間、ザ・ローバーというグループを率いてヨーロッパや北アメリカ、ニュージーランド、オーストラリアで精力的な活動を続けている。テレビ出演やコンサートのほか、ゴールドレコードやプラチナレコードも数多くだしている人気歌手である。沖縄で初めて会って友人となった私たちは、バンクーバーに戻ってからもたがいによく行ききしたものだ(当時、ふたりともそこに住んでいたのである)。いく晩となく、私は彼の家で過ごし、薪《まき》の暖炉の前で歌をうたい交わした。うたい疲れると、のどの滑りをよくするためにブッシュミルズを流し込み、またうたいはじめるのだった。
ウィルの妹とはそれまで会ったことはなかったのだが、着いたとたんに家に呼ばれ、お茶とケーキとサンドイッチの歓待を受けた。彼女の夫、つまりウィルの義弟が家にいて、私との間にいろいろな話題がはずんだ。ハト撃ちのこと、ウサギ猟のこと、釣りのこと、農業のこと、ウィルと彼の歌のこと、そしてアイルランドのこと……。この家族の中でアイレ(アイルランド共和国)に行ったことがある人はほとんどいないと彼らはいった。
「外部の人たちは、私たちとカトリック教徒との間にいざこざがあると思い込んでますがね、それは違うんですよ」と、ウィルの義弟はいうのだった。「私の友だちにもカトリックの人間はいますし、近所にだっていますがね、みんなよい人だし、仲よくつき合ってますよ。アメリカの連中とか、あのギャングどもとかが首を突っ込まないでいてくれたら、なにひとつ問題は起こらないんですがね」
単純といえば、まことに単純な考えかたではある。しかし、この単純なことばの中には、ある真実が――今問題を抱えている国々の多くにそのまま当てはまるようないくつかの真実が示唆されてはいないだろうか。弾圧はテロを生み、テロはさらに多くの弾圧を呼ぶ。おびえた人々はゲットーに身を寄せ合う。ゲットーはテロの温床となり、しばしばゲットー全体がテロリズムに支配されるに至る。この悪循環を断ち切るのは至難の業だ。ある人たちにとってIRAはギャングであり、殺し屋以外の何者でもないのに対し、ある人たちの目には、彼らは英雄と映る。両方の側の人たちが、たがいに相手側の見方を理解し合える、そんな日がはたしてくるのだろうか。疑わしいものだと私は思う。どちらの側にも歌があり、その歌は政治家の演説などよりもはるかに多くのことを語りかけているのだ。
パトロール中の若い兵士ふたりは
笑いながらカメラに収まってくれた
私たちはふたたび車を走らせた。
カトリック系住民の住むオーマーの町をでたすぐの所で、またイギリス軍兵士のパトロールにでくわした。敵が待ち伏せて奇襲をかけてくるのを警戒して、兵士たちはたがいに間隔をとり、田舎道に目を凝らしながら武器を構えて歩を進めていた。しんがりのふたりははるか後方で、十字路の周辺を調べていたが、そこへ私たちの車がさしかかったのである。車を止めて、写真を撮ってもいいかと尋ねると、ふたりは陽気にうなずき、笑いながらカメラに収まってくれた。ふたりとも十代の終わりか、二十代の初めごろの、健康そうな若者だった。政治のことなどには、これっぽっちも関心なく、ただ上から命ぜられたとおり、行動しているだけなのだ。
男同士、一対一の闘いならば、IRAは恐らくイギリスの兵士に対して勝ち目はないだろう。過去におけるIRAの闘いや勇敢な行為、そして大義のために死んだあまたの殉教者たちをたたえて、数多くの英雄的な歌がうたわれているけれども、今のIRAの戦いぶりは、どう見てもそうした歌の内容にはふさわしいとはいえぬ代物である。今や彼らの戦法は、ひそかに爆発物を仕掛け、罪のない一般市民まで無差別に殺すというものに変わってしまった。時々は、ヒットエンドラン式の待ち伏せ襲撃とか、ロケット弾による攻撃を仕掛けることはあるけれど、そんなときでさえ、彼らは最後までとどまって戦い抜くこともない。こうやって今もなお、若い兵士や罪のない人々の命が絶えず危険にさらされているというのは、じつに許しがたいことではあるまいか。しかし事態は今後もそのまま続くだろうし、簡単に解決のつく問題でもないのだ。
兵士たちに手を振って別れを告げたあと、私たちの車はパトロールの一行のわきを走り過ぎた。やがて見えてきた町は、IRA称賛の文字一色にぬりつぶされていた。雨が激しく降りだしてきた。私たちは車を飛ばした。エニキスレンの古い町を過ぎ、美しいアーン湖の岸辺を走って、ひたすらに国境へと急ぐ。これ以上一刻もアルスターにとどまりたくはなかった。私は打ちのめされ、気持ちはめいる一方だった。ここにはまだ、私たちの行っていない美しい所や観光向きの名所などがたくさんあることは知っていたのだが……。
「パスポートを見せてください」
国境を越えようとする私たちにこういったのは、イギリス陸軍の若い士官だった。空挺《くうてい》部隊の兵士の着る迷彩色のアノラックを着込んでいる。私たちはパスポートを手渡した。片側には防弾チョッキを着た兵士がひとり、FNライフルを構えて立っている。検問所のわきには、堅固なピルボックス(機関銃座:機関銃を巡らした鉄筋コンクリートの低い構築陣地)が設けられ、細長く切れ込んだ銃眼がいくつものぞいていた。
「どこからきたんですか?」
私は彼の質問に答えた。
「それで、北アイルランドでなにをしているんです?」
私が『プレイボーイ』誌の依頼で取材にきているのだと説明すると、士官の顔にはちょっと信じられないといった笑みがかすかに浮かんだ。彼は車の後部座席に積んだ荷物に目をやり、私たちがテロリストではないことを了解した。
「プレイボーイ、ですか?」パスポートを私たちに戻しながら、士官がいった。銃を携えていた兵士が私たちに向かって片目をつぶってみせた。
「警備隊の隊員および建物いっさいは写真に撮らないように」
「オーケー」と私はいったものの、はたしてこの感じのいい若い兵士たちが私たちのカメラに収まったからといって、なにか困ることでも起きるのだろうかと考えた。
士官は手を挙げて敬礼し、門を開けて私たちをアイレへと通した。雨は前よりもいっそう激しくなっていた。
The Arctic, The Antartic 北極・南極
ハンターの胸に響く海からのシンフォニー Callings
私がアザラシを初めて殺したのは十八歳のとき、二度目の北極遠征行の最中だった。若いワモンアザラシをしとめて、私はひどく誇らしかった。自分がハンターとしてやっと一人前になれたと有頂天になったものである。
だが、そのとき、ひとりのイヌイットの老人のいったことばはまっすぐ私の胸に突き刺さり、それ以来いつまでもそこにとどまりつづけた。
「男が生きるうえで背負わにゃならん最大の重荷はな、自分が殺した動物たちの魂の重みなのじゃよ」
それから今日まで、私が殺した海洋哺乳類の数は千頭を超える。みな銛《もり》やライフルでしとめたものだ。研究目的のこともあったし、人と犬の食料として、あるいは皮をとるために殺したこともあった。私の仕事は海洋哺乳類の研究で、彼らに対する人間の依存ということがテーマであったから、もちろん殺しもしたが、標識や鑑札をつけて調査した数のほうがはるかに多かった。誓っていうが、一度だってタテゴトアザラシの子をこん棒で殴り殺すようなまねはしたことはない。
イヌイットとともに暮らし、ともに狩りをするという経験とは別に、私は何回かアザラシの繁殖地を訪れて標識調査を行った。場所はタテゴトアザラシやズキンアザラシ、ハイイロアザラシの群れが子を産む北の氷原だ。陸の影すら見えないその広大な氷原はアザラシの巨大な群れで満ち、その周りはアザラシの子どもたちの鳴き声で耳もろうせんばかりだった。
それでも、氷面下のシンフォニーは、私たちの耳には聞こえてはこなかった。
私たちはひたすら群れの数をかぞえ、標識をつけ、調査を続けた。そして政府の研究職にあった人間の大部分がそうであったように、心はひたすら寂しかった。
こんなにも無力な、ふわふわした小さな生命の束が、いずれはこん棒で殴り殺されるのを知っていたからである――食料のためでなく、ファッションのために。
ブリストル海峡の美しい島には
身投げした女の幽霊がでる!?
アザラシ――これまでの私の人生に彼らの占めてきた比重のいかに大きかったことか。
二度目と三度目の遠征行の合い間に、私はイギリスに戻った。大学に入るためであったのだが、実際にはすぐに中退してしまった。アルバイトにプロレスをやっていたのがばれて退学になる直前に自分から飛びだして、そのあと半年間ブリストル海峡にある美しい島に逃れたのである。島には多くの伝説があったが、そのひとつは身投げした女の幽霊が夜な夜な水から上がっては恋人の死を嘆き悲しむというものだった。彼女が身を投げたという場所は崖《がけ》のてっぺんにあった。
勇気と胆力にかけては人一倍自信のあった私は、ある夕方、家をでて崖の上まででかけてみた。女の身投げしたというその場所に座り、暗くなるのを待つ。ウサギがでてきて、ワラビと芝の間を跳ね回り、時々止まっては草をかじる。シャクナゲの茂みから、数頭のニホンジカがそうっと姿を現した。頭上にはハヤブサが旋回し、海鳥が巣や止まり木に帰っていくのが見えた。足もとでは波がひたひたと穏やかに打ち寄せている。夏の長い黄昏《たそがれ》はしだいに暮れて、あたりは暗くなっていった。
突然、不気味な叫び声があたりにこだました。悲嘆にくれる女の叫びのようにもそれは聞こえ、私は全身総毛だつのを感じた。
崖っぷちに寄って、下をのぞいてみる。その叫び声は、波で侵食した岩のくぼみに反響していた。そして、そこ、すぐ下の岸辺に、波のしぶきを背にくっきりと浮かび上がったのは、人間の大きさの形をしたものだった。今にも水から上がってくるところだ。私は逃げだしたい衝動を抑え、なんとか踏みとどまって目を凝らした。つぎの瞬間、私は思わず笑い声を上げた。女と見えたのはなんとハイイロアザラシであった。
また、別の記憶がよみがえる。
ウィブ・ホックと私、それにイヌイットのハンターの三人でカナダ北東部のバフィン島のクリアウォーター・フィヨルドまで、激流を越えてこぎ入った日のことである。私たちはアザラシを追っていた。フィヨルドの水は鏡のように静かで、周りにそびえる雪を頂いた山々の影を映していた。小さな氷山が優美に滑るように動き、まるで巨大な白鳥の舞いを見ているようだった。
アザラシだ! ライフルの銃声がとどろく。だめだ、撃ち損じた。アザラシは水に潜ってしまう。私たちはカヌーのエンジンを切り、彼がもう一度海面に頭をだすのを待った。三人でアザラシの黒い頭が現れるのを見張っているうち、どこからともなく奇妙な音が聞こえてきた。私たちは顔を見合わせた。気をつけてみるとその音はカヌーの船体を伝って反響しているのだった。口笛の響き、嘆きの叫び、うめき声、そして鈴のように鳴り響く音の調べ――信じられないほどの音域と透明感をもつその響きは、滑らかに、しかもろうろうとさえわたっていた。私は何年か前に聞いた話を思いだした。孤独なハンターたちにうたいかけ、彼らの魂を海に引きずり込む、海の魔女ルーマの物語である。
水面の上からも音が響いてきた。成獣や子どものシロイルカの群れが吐きだす息の音だ。全部で百頭は超えていたろう。私たちはライフルを傍らに置いてしゃがみ込み、耳を傾けた。ウィブは小型のテープレコーダーのマイクを防水布で覆ってから、水中にたらし、テープを回した。そのテープのコピーは今も私の宝物のひとつになっている。
シャチはどうかって? |海のオオカミ《シー・ウルフ》、|殺し屋の鯨《キラー・ホエール》とも呼ばれるあのオルカたちは? もちろん彼らには何度となく驚かされたものだ。その同じ年、やはりバフィン島のカンバーランド湾で、タテゴトアザラシを追っていたときのことだ。開氷面で私たちはアザラシの大群を追いつめた。こんどは私がへさきに立ちライフルを構える。と、うしろからなにかの群れが近づいてきた。私たちをまるで無視して、水面からイルカのように飛び上がりながら、アザラシを追って疾走してくる。アザラシたちはパニック状態に陥り、ちりぢりに逃げ惑っていた。パニックの原因は六頭からなるシャチの群れであった。
一頭の雄のシャチの黒い大きな背ビレが水面を切り、異常なスピードで旋回している。そいつが潜ったかと思うと、目の前でタテゴトアザラシの一頭が空中に音立ててはじき飛ばされた。シャチの尾の一撃でやられたのだ。そのアザラシは落ちてきて水を打ったところを、即座にくわえ込まれてしまった。この神技に、いったいどんなハンターが対抗しえようか。
南氷洋でもシャチには何度となくでくわした。疾走する工船のブリッジに立っては二百頭以上ものシャチの群れが船の数百メートル先を悠々と泳いで行くのを見たものだ。
「ふむ、今日はあまりミンククジラは捕れんな」と傍らの作業員がいった。
それでいて、よく知られているように、彼らはほんとうにおとなしい動物なのだ。
人類と海の生き物との
すばらしい融合
一九八〇年のことだった。南氷洋捕鯨の漁期最後の日、私はキャッチャーボートに乗っていた。南極の山々を望むその海域には氷山が島のように漂っていた。四隻のキャッチャーのうちほかの三隻はその割当分をすでに捕り終え、母船に帰る用意ができていたが、船団随一の砲手であった背古砲手は、漁期最後の一頭をこれまでの最大のミンククジラで飾ろうと決心していた。七頭ほどいる巨大なミンククジラの群れのごく近くまで私たちは迫っており、なんとかそいつを片づけようとみないらいらしていた。マストの上の見張り台からは、|甲板長《ボースン》が大声でつぎつぎと指令を出していた……|ポール《とりかじ》、|エイー《ようそろ》、|フルスピー《全速》、|スターボール《おもかじ》、もうすこうし、エイー、エイー、そうら! その間ずっと船のエンジンは脈打ちつづけ、船も私たちもみんながひとつの生命体――ハンター――の一部になって、ひたすら鯨を追っているのだった。これまでに私は、イワシクジラ、マッコウクジラ、ナガスクジラ、ミンククジラと捕鯨を見てきており、そのつど鯨を哀れとは思ってきたが、それでもあの刻々と盛り上がる興奮の一部に自分がなったときの気分は忘れられない。背古砲手は群れの中から一頭を選びだした。捕鯨砲が振動した。つんざくごう音に、私たちはみな耳をふさいだ。銛《もり》づなが巨大なムチのように水の上をぐんぐん延びる。
「命中! やったぞ!」と甲板長がわめいた。それはまさに必殺の一撃だった。銛が心臓を打ち抜いたのだ。船長にマイクを手渡された私は、今年の漁期最後の鯨を無事しとめたことを無線で母船に報告した。鯨をウィンチで船にくくりつける作業がまだ続いているのに、甲板長が早くもマストから降りてくる。双眼鏡の長いヒモを束にして肩にかけている。船のへさきではふたりの乗組員が捕鯨砲にカンバス布のカバーをかけ、ヒモでくくっている。みんな国へ帰れるのだ。私はその最後の鯨といっしょに母船に戻った。母船の船尾に開いた巨大な口から鯨が飲み込まれていく。私のほうは舷側からバスケットに積まれて母船の甲板に引き上げられた。
私たちは口々にありがとうと叫び合い、日本に帰ったらまた会おうと約束し合った。これから日本に帰還するまでの一ヵ月の航海を、男たちは一刻も早く始めたがっていた。
友人の荒井さんがブリッジから降りてきた。ふたりで海に向かい、離れていくキャッチャーボートに手を振りつづける。船の周りはそこら中鯨だらけだった。恐れげもなく悠々と潮を吹きながら泳いでいる。狩りが終わったのを、はたして彼らは知っているのだろうか?
これを書いている一九八七年の今、あのときと同じ船、同じ男たちが南氷洋で、今度こそはほんとうに最後の捕鯨を終えているはずである。そのことが鯨たちにはわかっただろうか?
今、鯨は現実にいるのだ! 移動の日、つまり捕鯨ぬきで船を走らせていたとき、私たちは二百頭以上ものミンククジラが一列に並んで泳いでいるのを目撃した。彼らの吹く潮で、海面はまるで霧のカーテンがかかったようだった。その日、八時間の航海中に八百四十頭のミンククジラを見たけれど、そのうちの一頭も、私たちは殺さなかったのである。
南氷洋捕鯨は終わりを告げた。今後鯨の肉が日本の食料の一部となることは二度とないかもしれない。あらゆる肉のうちでもっともおいしく、もっともこくのあるこの鯨肉を日本人が食べるようになったのは、仏教が四本足の動物の肉食を禁じたからだなどという理屈をつけるのは、あまりにもさみしい考えかたではあるまいか。鯨は私たちの暮らしに、それこそひととおりでなく役立ってきた。今、私たちができることは、ただここに静かに座り、彼らに対して敬虔《けいけん》な気持ちになることだ。
これを書きながら私には、スポーツとしてでなく、食べるために動物を殺すハンターたちの感ずる矛盾した思いが手にとるようにわかる。陸と海、人類と海の生き物とのこのすばらしい融合――私を幸福にもし、悲しくもさせるのはそのためなのであった。
あとがきに代えて
人生という旅の途中 Travel
旅。これは私たち人間がひとり残らず、それも四六時中続けている行為である。なぜなら、私たちが今、現にその上で暮らしている地球という惑星自体、宇宙という大空間を巡る旅をしているからだ。そればかりではない。もっと小さな規模でも、私たちそれぞれはやはり毎日旅をしている。子供たちは学校へ行くし、主婦はいろいろな会合やら買い物やら、またはパートへとでかけて行く。彼女たちがフルタイムの職場に出勤するケースもどんどん増えている。もちろん男たちは大部分がそうした旅を続けている。
こうしたことをわざわざ指摘したのは、先日ある人から、ニコルさんは旅になにを持って行きますかと聞かれたからである。それに対する私の答えは、ただひと言、持ち物は最小限にということだけだ。たとえば二日間の予定で東京にでるのに、靴下を一ダースも持って行くことはないし、タイプライターだって必要ない。まして持っている辞書を全部携帯していくこともなければ、フライパンだって必要ないわけだ。
だが、猟に行くとなると今度は銃が必要になってくるし、上等なブーツに、猟にふさわしい服装、それに弾薬やナイフ、軽い双眼鏡などが要《い》る。
旅に関する問題のポイントは、どこで(場所)、どのように(方法)、なぜ(理由)、そしてどれくらい(期間)ということにしぼられる。
この八月一日に私たちは日本を発った。最初に立ち寄ったのはアラスカである。ここでサケとオヒョウ釣りを少し楽しむとともに、友人たちと旧交を温めようというわけだ。友人のひとりはプロの猟師で体の大きさも私と同じくらいだったから、今回私はとくに防寒の支度とか船旅用の服装は用意せず、ブーツや釣り道具などもいっさい心配しないですんだ。そこに行けば全部そろっていることがわかっていたからである。私たちは普通の旅行者用の服装をし、あとはパスポートなどの書類を携行して出発したのだった。
ただし私は荷物の中に、お気に入りの小型の双眼鏡と、これまた気に入っている軽いパーカ、それと小さなサヤ型ナイフを詰めるのは忘れなかった。私の黒帯と、一対の重いサイ(空手用具のひとつ)を入れたのはもちろんである。
アラスカを発った私たちはスペインのガリシア地方に向かった。パンソンという名の小さな漁村である。途中マドリードで一泊し、そこでタイプライターを買った。
私たちのアパートにはなべややかんの類、寝具その他が備えつけてある。その他、去年ここをでるときにも、スペアの空手着と服をいくらか残しておいた。アパートをでてすぐの所に、砂のきれいな、美しい長い海岸がある。真夏の盛りでも、朝のうちはこの海岸には人っ子ひとりいない。その無人の砂浜で私はひとり小一時間もの間、走ったり、空手のけいこに汗を流すのだ。サイを持参したのもそのためである。とにかく一刻も早く、けいこを始めたかったわけだ。スペインでサイを売っているかどうかはわからなかったし、いずれにせよパンソンの村で手に入らないのは確かだ。
ほかに必要な品はなんでもここで買える。しょうゆまでそろっているほどだ。ここでは生きのいいおいしい魚が簡単に手に入るので、私はそれで刺身をこしらえ、しょうゆにつけて食べるのである。
旅については、私はエキスパートといえるだろう。世界中を遠征して回ったし、旅の手段も船、車、ジープ、飛行機、カヌー、はては犬ゾリと、多岐にわたっている。こうした旅のそれぞれには特別な必需品があるのだが、いずれにせよ、旅のいちばんの必需品のひとつにエネルギーがあげられる。道中あまりにも多くのエネルギーを使いすぎると、その旅は当然ひどくしんどいものになるし、同時に危険にもなりうる。
ひと言で旅といっても、それは一定の本拠地――ベース――を構えた旅なのか、それとも船とかキャンピングカーなどのように移動するベースによる旅なのか? さらに、どうしても必要なもので、道中、あるいは目的地では手に入らないものがあるかどうか。荷物は自分で運ぶつもりか、ポーターに頼むか、それとも動物に運ばせるのか、あるいは自動車か。たとえば大人ふたりに赤ん坊ひとりででかけるというのなら、大人の荷物をかなり減らすべきである。子供を連れて行く人間はせいぜい小さな荷物ぐらいしか扱えないことに注意する必要がある。持てるとしてもショルダーバッグぐらいで、スーツケースなどはもってのほかである。必要な品を目的地で買う余裕のない場合は、前もってそれを送ってしまうことだ。きのうも日本から私のウェットスーツのスペアと、あと本が何冊か届いた。こうしたものをわざわざ自分で持参するほど、私はばかではないつもりだ。車や飛行機などに山のような荷物を積み込んででかけたり、ことに自分でそれを運んだりするのは、じつに愚かしいとしかいいようがない。ほんとうに必要なのはなんなのか。宿泊先のホストや親戚に、そんなにたくさんおみやげがほんとうに要るのだろうか? 郵便や船であとから届いたっていいのではないのか?
十一月まで、私たちはヨーロッパにいるつもりである。来週、私たちはフランスに行く。十月はスコットランドでアカシカ猟に行く予定を立てている。どの旅についても、私は慎重に、慌てずに、落ち着いて計画を立てる。日本ではライフルは買えないし、また所持も許されていないが、スコットランドではこれが必要となる。今、私が考えているのは、スコットランドの銃砲店でライフルを買い、キープしておくべきか、それともひとつ借りることにするかということだ。歯ブラシは人に借りられないけれども、ライフルとかテントとか、あるいはフライパンなどは借りたって一向にさしつかえあるまい?
北極で、たとえば続けて何ヵ月も荒野に暮らしたときなど、私はほんとうに役に立ち、しかも自分に適《あ》った少数のお気に入りのものだけを携行していったものだ――ナイフ、ライフル、寝袋、コンロ、衣服――そのどれも、いまだに私のもとにある。
もしなんらかの理由で、黒姫のわが家に二度と戻れないような事態が起こったとしたら、もちろん私はあとに残してきた友人や動物たちのことを思って嘆き悲しむだろうけれども、残してきたものについてはこれっぽっちも嘆くことはあるまい。それらのものに、私が愛着がないというわけではなく、ただ私は、たとえそれがどんなに小さなものであれ、この人生という旅の道中の重荷にはしたくないからなのだ。
一九八七年十月 スペインにて
C・W・ニコル
この作品は一九八七年十二月、実業之日本社より刊行されたものです。
講談社文庫版は一九九一年四月刊。
本電子文庫版は、講談社文庫版を底本とし、写真・解説は割愛いたしました。