ふたかた
わかつきひかる
プロローグ
教室のドアが開き、ひとりの女子生徒が入ってきた。
「おはよう」
ややハスキーだが、透明感のある明るい声が響く。
「おはよ、……えっ?」
「えっ、えぇっ、な、なんで!?」
「み、瑞希《みずき》さんっ……ど、どうして?」
授業がはじまるまでの時間をそれぞれに過ごしていた生徒たちの間に、どよめきが走った。
ぽかんとした表情で彼女を見るもの、怖そうに後《あと》ずさるもの、あっけに取られて口を開き、そのまま言葉を失って黙りこむもの。
教室は奇妙な静けさに包まれた。
女子生徒は、不思議そうに小首を傾げた。
くるくる動く茶色の瞳《ひとみ》が教室を見渡す。
「どうしたの? 私の顔に、なにかついてる?」
桜色の唇《くちびる》が紡《つむ》ぐ声は笑《え》みを含《ふく》んではずんでいる。
リボンのついたカチューシャで止めたショートヘアが、セーラー服の特徴的な襟《えり》の上でさらりと揺れる。窓から差しこむ朝日に照らされて、頬《ほお》のうぶ毛が金色に光った。
彼女は学生カバンをぶらつかせながら、窓際の自分の席に移動した。女性らしいやわらかさや、ふくらみに乏《とぼ》しい身体つきで、どこか少年っぽい肢体《したい》をしている。
「あら、綺麗《きれい》なお花。いただけるのかしら。うれしいわ」
彼女は、自分の机の前で足を止め、シンプルな花瓶《かびん》に生けられた花を見て顔を輝かせた。
学園のマドンナの死を悼《いた》んで生けられたかすみ草とチューリップの花びらが、窓から吹きこむ朝の風に揺れている。
「せっかくだけど、勉強の邪魔だから」
彼女は、カバンを机の端《はし》に掛け、花瓶を両手で持つと、教壇《きょうだん》へと移動した。教卓の上に花瓶を置き、指先でチューリップの位置を整える。
がたっと椅子《いす》が鳴り、ひとりの女子高生が立ちあがった。明るい色の髪をツインテールに結んだ、気の強そうな雰囲気の女の子だ。
つかつかと歩み寄り、柳眉《りゅうび》を逆立《さかだ》てて、教壇の少女をにらむ。
「高志っ!! なにをふざけているのっ!?」
「あら、優亜《ゆうあ》ちゃん。ふざけてなんかいないわ」
「瑞希さんは死んだのよっ!!」
桂《かつら》瑞希。
ラクロス部所属、二年B組。学園のマドンナの名をほしいままにする明るくて元気な少女。
瑞希は四日前、下校途中に亡くなった。
暴走するトラックに轢《ひ》かれたのである。
お通夜《つや》とお葬式《そうしき》も終わり、日常が戻ってきた……はずだった。
「私は瑞希よ……どうしてそんなことを言うの」
「高志っ。双子《ふたご》のお姉さんが死んでショックなのはわかるわっ。でもね、こんな悪ふざけ、よくないわ!!」
優亜は、セーラー服の少女の肩をつかんで揺さぶった。
ツインテールが大きくハネて、高志と呼ばれた少女の喉《のど》をサラサラ撫《な》でる。
彼女は、くすぐったそうに肩をすくめ、白い喉をのけぞらした。
喉仏《のどぼとけ》が目立ち、セーラー服の彼女がまぎれもなく少年であることを証明する。
教室の皆から、おおお、と声があがった。
「だいたい君は男でしょっ」
優亜は、瑞希のスカートをばーっとめくった。女物のショーツをつけた少年のお尻があらわれる。
「きゃーっ、エッチッ」
瑞希は、スカートを後ろ手で押さえ、身体をくねらせた。
そのあまりの女っぽいしぐさに、またも、おおお、と教室の皆から声があがる。
「えっ、ちょっ、ちょっと、高志っ、もしかしてっ!?」
優亜は問答無用《もんどうむよう》とばかりに、瑞希のセーラー服をめくりあげた。
縦長《たてなが》のお臍《へそ》を真ん中に刻《きざ》んだ平《たい》らなお腹《なか》と、ブラジャーに包まれた平面の胸があらわれる。
少年の胸に、ムリヤリ女物のブラジャーをつけているので、カップはへこんでベコベコし、なんとも情けないありさまになっている。
おーっ、と、どよめきが走った。
「やだっ。優亜ちゃんっ、なんてコトするのよっ!?」
瑞希は、胸を押さえ、身体をくねらせてイヤイヤをした。
肢体は少年のものなのに、恥じらう様子が、おそろしく色っぽい。
性別を超越した病的なほどのエロティックさに、クラス中の皆が目の色を変えて瑞希を見る。
「なんてコトするのはこっちのセリフよっ!? これじゃヘンタイじゃないのっ!! 目を覚ましなさいっ、覚ますのよっ」
優亜は、ぐっと拳《こぶし》を握りしめると、瑞希の顔面に右ストレートをお見舞いした。
異様な緊張感が満ちた教室に、ゴンッと景気のいい音が響く。
「……痛えっ!! ゆ、優亜、ひでぇよぉ……」
瑞希の喉から、少年の声が響いた。声のトーンはまったく同じなのだが、まぎれもなく少年の口調だった。
優亜の表情が、ほうっとゆるみ、笑顔が浮かんだ。
だがすぐ表情を引《ひ》き締《し》めて、キッとにらむ。
「な、なんだよ? なんで僕が優亜に殴《なぐ》られなきゃいけないんだよ?」
「君は誰? 性別はっ!?」
「は? な、なんで? 桂高志……男……だけど」
桂高志。
私立|瑠璃色《るりいろ》高校二年B組。
男にしては小柄《こがら》な彼は、桂瑞希の双子の弟だ。
顔立ちは整っているにもかかわらず、学園のマドンナの存在感の大きさに隠れてしまい、影の薄い少年だ。
「双子の弟がヘンタイなんて、瑞希さんが草場《くさば》の陰《かげ》で泣いているわよ」
優亜は腕組みをしてツンと顎をあげた。
高志はわけがわからないというふうに、優亜をぼんやり眺《なが》めている。
「へっ? なんで? ヘンタイ? 僕が?」
「服っ!!」
「え……っ?」
そのとき、はじめて高志は、自分の服装が詰《つ》め襟《えり》でないことに気付いたらしい。
「わーっ、わわあああああっ、うわぁあっ。ぼ、僕、ど、どうして、セーラー服なんだよっ!? うぁあああっ。ブラジャーまでつけてるぅっ!! 胸が苦しいと思ったんだよーっ。うわぁっ。こ、これっ、ぴちぴちだと思ってたら、ボクサーブリーフじゃなくて女物のパンティだぁっ。わーっ、こ、これ、お姉ちゃんのだぁっ、うあぁああっ」
パニックを起こした高志は、セーラー服を脱ごうとした。
だが、脱ぎ方がわからないのか、もたもたしている。
お腹がモロだしになり、スカートがめくられてショーツが露出《ろしゅつ》し、女装《じょそう》少年のストリップと化した。
女子生徒がきゃあきゃあ騒ぎ、男たちがうおおおっと叫ぶ。
「脱ぐなっ。スカートをめくりあげるなぁっ。ここは教室でしょおっ!!」
優亜の右ストレートが、高志の鳩尾《みぞおち》に炸裂《さくれつ》した。
「う……っ」
高志は仰向《あおむ》けにガタンと倒れた。
見事なほどのノックアウトだった。
倒れた高志のすぐ前で、ツインテールを乱した優亜が右拳《みぎこぶし》をギリギリと握りしめ、ハーハーと息を荒げている。
第1章 二重人格になっちゃった
「解離性同一性障害《かいりせいどういつせいしょうがい》……ですか?」
聞き慣れない病名に、優亜《ゆうあ》が首をひねりながら聞き返す。
木崎《きざき》優亜。
私立|瑠璃色《るりいろ》高校二年B組。
桂《かつら》姉弟の隣《となり》の家に住み、頼りない高志を姉のようにかまってくる幼《おさな》なじみ。
手が早いという欠点はあるものの、ツインテールがよく似合う、元気の良い女の子だ。
白衣《はくい》を着た初老の医師は、おだやかに笑いながら言った。
「解離性同一性障害は多重人格なんですがわかりやすく言うと、二重人格ですね」
「二重人格……」
ドラマで聞き慣れた言葉だが、まるで現実感がなかった。信じられなくてつい繰り返してしまった声は、淡《あわ》い黄色の壁に力なく吸いこまれていく。
虹橋《にじはし》メンタルクリニックは、心を病《や》んだ人のための病院だから、壁の色が白ではなく、パステルトーンのやわらかい色で塗《ぬ》られ、絵画がそこかしこに飾られている。
静かなリズムのクラッシックが、おしつけがましくなく流れている。
「女装なんて、オカマのヘンタイだって思いました」
「異性の服装で身を包みたいという願望を持つ人を、医学用語ではオカマではなくトランスヴェスタイトと呼ぶのですが、高志くんの場合はそれにはあてはまりません」
ずっとうつむいていた高志が顔をあげて医者を見た。不安そうな表情だった。カチューシャを取り、体操服を着ているので、ちゃんと少年に見える。
さらさらのショートカットは、散髪をさぼったせいで伸びてしまいましたといわんばかりの無造作《むぞうさ》ヘアだ。
女装していたときのさわやかな美少女の面影はない。
高志は、患者が座る椅子《いす》に腰掛け、足をぶらぶらさせている。雨に濡《ぬ》れて鳴いている犬のような瞳が、呆然《ぼうぜん》としていた優亜をしゃんとさせる。
――そうだわ。一番不安なのは、高志なのよね。
――高志には、お母さんもお姉さんもいないんだから、私がしっかりしなきゃいけないのよ。
「えっと。それって、薬を飲めば治るのでしょうか?」
優亜は気を取り直して聞いた。
医者は笑った。
「薬を飲めば治る、というものではありません。もう一度確認しますね。四日前に、高志さんの双子のお姉さんである瑞希《みずき》さんが、帰宅途中に交通事故に巻きこまれた」
「はい。そうです。トラックが暴走してきて……即死だったそうです」
「高志くんは泣きましたか?」
「いえ、それが、ぜんぜん。泣いていたのは私のほうです。高志のお父さんの秘書さんが二人やってきて葬儀をやってくれたんですが、高志はあんがい冷静でした。涙をこらえながら、ちゃんと喪主《もしゅ》をやっていて、えらいなぁって見直しました」
「ショックが大きすぎると、人って意外と泣けないものですよ」
「そういうものなんですか?」
「優亜さんは高志くんの親戚《しんせき》ですか?」
「いいえ。赤の他人です。隣の家に住んでいるだけで……。高志の親戚って……あんまり聞いたことがありません」
「お母さんはとうに亡くなっていて、お父さんも遠くに住んでいる。親戚もいない。気に掛けてくれるのは幼なじみの優亜さんだけ。お姉さんが不慮の事故で死亡。ショックですよね」
「そう……ですね」
「お姉さんはまだ生きていると思いたい。そこで、お姉さんの人格を心の中につくってしまったわけです。葬儀が終わり、ほっとしたせいで、お姉さんの人格がつい出てしまった。解離性同一性障害というのは、強い心的外傷を受けることにより、個人の同一性、つまり高志くんらしさが一時的に損《そこ》なわれてしまうことなんですよ」
なるほど、これならわかる。
女装して出歩き、自分のことを瑞希と名乗った少女は、高志の妄想《もうそう》だ。
高志も、そうなのかな、という表情で首を傾げている。
患者の不安を解消させるわかりやすい説明は、なるほどさすが精神科医だと納得せずにはおられない。
「じゃあ、あれは、病気なんですか? 悪ふざけにしては度がすぎていると思っていたんですが。だったら、また瑞希さんの人格が出てくるというわけですか?」
「可能性はあります」
「やっだっ。また女装して出歩くかもしれないってコトじゃないですか!? いやだわっ。そんなのヘンタイよっ」
「僕はヘンタイじゃない……」
ずっと黙っていた高志がぼそっと言った。
「あ、ご、ごめんね……」
ノーマルな少年である彼にとって、女装して出歩いたのはショックだろう。ヘンタイ呼ばわりは、もっとショックなはずだ。
「そうです。高志くんはヘンタイではありません。心が疲れてしまっただけです。病気ですので温かく見守るよう、周囲の人に要請《ようせい》してください」
「ってことは、学校にも言ったほうがいいんでしょうか?」
「そのとおりです。診断書を書きますから、学校に提出してください。異常を指摘したりしないように。ヘンタイだとか、女装だとか、オカマだとか言っちゃダメですよ。高志くんがいきなり瑞希さんになってしまったときは、話を合わせるようにしてください。生前の瑞希さんとして応対するのです。キズが癒《い》えるとき、高志くんの心の中のお姉さんはいなくなります」
「わかりました。担任の先生に連絡します」
「報告は早いほうがいいでしょう」
「先生、薬は出していただけないんでしょうか?」
「精神安定剤や抗《こう》不安薬を出してもいいのですが、解離性同一性障害の場合、薬物依存《やくぶついぞん》に陥《おちい》りやすいので、出さないほうがいいんですよ。原因がこれだけはっきりしているわけですから、治るのも早いと思います」
「早く治るんですねっ!?」
優亜は勢いこんで聞いた。
医者が苦笑する。
「まあ、早いといっても、明日いきなり治るってものじゃないです。高志くんは、お姉さんの死を、いま弔《とむら》っている最中なんです。ですから、四十九日をすぎても症状が治まらないようなら、もう一度来てください」
「ただいまぁ」
高志は律儀に声を掛けながら、誰もいない家のドアを開けた。
姉のいない家は妙に広く森閑《しんかん》として、よそよそしい空気に満ちている
セーラー服とカチューシャを入れた紙袋と学生カバンを食卓の上にぽいと置き、奥の和室に行き、仏壇《ぶつだん》のリンを鳴らす。
涼《すず》しげな音が部屋に響く。
行儀《ぎょうぎ》良く膝《ひざ》をそろえて座り、両手を合わせる高志を、母と姉の遺影《いえい》が見つめている。
母は上品な着物姿。姉はセーラー服で無邪気《むじゃき》に笑っている。
高志は遺影を見あげて話しかけた。
「お姉ちゃん。どうして死んだんだ。僕、まだ信じられないよ」
『私も信じられないのよねー』
姉の声が聞こえた。
高志は心臓が止まるほどびっくりした。
遺影が返事をしたのかと思った。
合掌《がっしょう》したままでたっぷり数分間沈黙する。
――錯覚《さっかく》だ。勘違《かんちが》いだ。僕は病気だ。心が疲れてしまっただけだ。いずれ治る。
『もう、高志ってば、聞こえないの? 返事しなさい』
クリアな声だった。
錯覚でも勘違いでもなく、物理的な音声として聞こえてくる。
高志は合掌したまま目をつぶり、聞こえていないフリをした。
嫌な汗がたあらりと背中を伝う。
返事をすると、異常を認めてしまいそうで怖い。
――平常心だっ。平常心っ!!
高志は顔を汗まみれにしたまま、合掌を続けた。
『あの医者、てきとうなこと言ってたねー。二重人格ですって? 高志は健康よ。病気なんかじゃないわ。でもま、よかったじゃない。二重人格だと都合がいいもん。私が君の身体を使ってもぜんぜん違和感がないもんねー』
――都合がいい。違和感……。
「やっぱりあれは、お姉ちゃんが犯人なのかよ!?」
つい大声を出してしまい、両手で口を押さえる。
高志は周囲を見渡した。
手の甲で目をこすり、天井や壁、窓を順繰《じゅんぐ》りに見る。当然ながらなにもない。精神科医のいうように、声しか聞こえないこの存在は、きっと高志の妄想だ。
『犯人ってひどいなぁ。だってさ、私はこんなになっているのに、目の前に同じ顔の人間がいて、幸せそうにぐーすか寝てるんだよ? ムカついて殴《なぐ》ってやろうとしたのにスカスカして殴れないしさ。だったらさ、高志の中に入れるかどうか、ためしてみたくなるのが人情ってもんでしょ?』
「ためすなよっ」
――僕、妄想と会話してる……。
高志は頭をかかえた。
『でもためしてよかったのよ。あっさり取り憑《つ》けてびっくりしちゃった。高志が寝てるときって、君の身体を使えるのね。高志が起きてるとだめなんだけど。優先順位はやっぱり君が上なのね。高志の身体だから、仕方ないのかな。わかんないけど』
「わかんないのかよ?」
『だって、はじめての経験だもの。女の子にとって、初体験はドキドキなのよーっ』
高志はかっと顔を赤くした。
姉のきわどい言葉使いに、どんなリアクションを取っていいのかわからない。
「うぅ……」
『うなってるんじゃないわよ。高志ってば、私が見えないの?』
「見えるわけがないじゃないかよっ!!」
『あらそ、高志は霊感皆無《れいかんかいむ》なのね。……鏡見てびっくりしちゃった。高志って、女の子の格好《かっこう》が似合うのねー。私の弟がこんなにかわいいなんて思わなかったわ。あんたって、どんくさくってパッとしない男の子だって思っていたけど、ほんとは美形だったのね。ま、この美しくてやさしい私と同じ顔なんだから当然だけどさ。あっはははっ』
生前と同じ無邪気な口調を聞いていると、姉の死亡であんなにもショックを受けたのがなんだったんだろうと思えてきた。
世界中の不幸を一身《いっしん》に集めている気分になってきた。
「ひどいよっ。お姉ちゃんっ。ひどすぎるよっ」
『あら? 私、君にひどいこと、なにもしてないわよ』
「ひどいよっ、じょ、女装、して、通学、なんて……。明日、どんな顔をして学校に行けばいいんだよっ! ぼ、僕にだって人権ってもんがあるんだよーっ」
『私にも人権があると思うわよ。だって、私はここにいるんだから』
「お姉ちゃんは死んでるんだよ。人権なんてないってば、僕の妄想のくせして、僕の身体を使わないでよぉっ」
『ひ、ひどいわ……、私が高志の妄想だっていうの?』
「僕は幽霊なんか信じないっ!!」
『そ、そんな……、そんなひどい……私は高志のお姉ちゃんなのよ。なんてひどいの……あぁっ、私の弟が、こんなに薄情《はくじょう》だなんて思わなかった……。私、まだ十七歳なんだよ。死んでしまうなんて、なんてかわいそうなのかしら』
姉の声が湿《しめ》りを帯《お》びた。
額《ひたい》の前に手の甲《こう》を置いて、大げさにヨロめく姉の姿が脳裏に浮かぶ。
「そ、それは、思う、けど……」
これはいつものパータンだ。
来るぞ来るぞと身構える。
『だったら……ぐすぐすっ……身体、使わせてくれても、ひくっ、いいじゃないのよ』
来た。
姉の泣き落としだ。
パタパタと涙の滴《しずく》が落ちる様子が目に浮かぶようだった。
『私……死にたく、なかったよぉ……えぐえぐっ、ぐすっ……しくしく……っ。ほんのちょっと、君の身体を、ぐすぐす……使いたいだけなの……』
泣きマネは姉の得意技だ。
姉弟げんかをしたとき、姉はいつもこの手を使う。
子供のときからずっとそうだった。
お菓子のとりあいになったとき、「ぐすっ、ひくっ、しくしく……このケーキ、高志にあげるね。だって、私、お姉ちゃんだもん、我慢《がまん》する」としゃくりあげる。
申し訳なくなった高志はケーキを譲《ゆず》り、「お姉ちゃんごめんっ」と姉に謝罪する。
姉は「そんなに謝るなら、しかたないから食べてあげるね……私が欲しいんじゃないんだけど……」ともったいをつけてケーキを食べる。
そして、「はい、食べてあげたわよ。感謝なさいね。もう、頼りない弟を持つと困っちゃうのよね。あー、私って、いいお姉ちゃんよねっ」と胸を張る。
高志は自分のお腹《なか》の鳴る音を聞きながら、満足そうな姉に「ありがとう」とお礼を言うのだった。
姉はいつもこの手で高志をやりこめた。
お茶碗《ちゃわん》を洗う当番でいさかいを起こしたときも、テレビのチャンネル権も、掃除《そうじ》も全部だ。
姉の手口はわかりきっているにもかかわらず、女の涙は根拠《こんきょ》のない罪悪感を男に与える。
しかも瑞希の場合、ほんとうに涙が出るのだから始末に負えない。
だが、今回はことがことだ。
取り憑かれているのか二重人格なのか知らないが、死んでしまった姉に、自分の身体の使用を許諾《きょだく》するのは、さすがの高志でもできなかった。
『ちょっとだけ、君の身体、使わせて』
両子を合わせた上目遣《うわめづか》いのお願いポーズで高志を見あげている姉の姿が脳裏によみがえった。
『ねっ? お願い』
ねっ、という声が甘く響く。
「ダメ」
『ひっどいーっ。わーんっ、わぁんわぁん。えーんえーん』
泣き落としをする姉の泣き声が派手になった。
これは間違いなく瑞希だ。
幽霊だと言われても、いまひとつ納得できないところがあるものの、瑞希であることは間違いがない。
非難されている気分で居心地《いごこち》が悪い。
高志は悄然《しょうぜん》としてうなだれながら、畳の目をじっと見つめていた。
居心地の悪さがMAXに達したときのことだった。
電話が鳴った。
『ひくっ』
姉がびっくりして泣きやんだ。
高志はほっとした気分で電話を取った。
「はい。桂です」
「瑠璃色高校の校長の黒崎《くろさき》です。桂高志くんをお願いします」
受話器から流れてきた渋い重低音に、思考回路が停止する。
――コウチョウって? ……校長かよ!?
耳から入ってきたバラバラな音声をつなぎ合わせ、意味のある言葉に直す作業をして、ようやく電話の主《ぬし》に気付いた。
高志は電話の前でかしこまった。
「は、はいっ。桂高志ですっ」
受話器を敬礼の状態で持ったまま、気をつけのポーズで話す。
――なんで校長先生が、直接僕に電話をかけてくるんだよっ!?
「君の病気についてのファックス、さっき見せてもらいました。大変だったね」
「は? ファックス?」
「木崎優亜さんから、君の診断書が、学校あてに流れてきました。宛名は担任の赤石《あかいし》先生になっていましたが」
しっかりものの優亜らしい行動だった。高志が通学する前に、根回しをしようとしたのだろう。
診察を終えて家に帰るなり、ファックスしたようだ。
「診断書、み、見たんですか?」
「もちろん教職員全員で見ましたよ。タイミングがよく、職員会議の前に流れてきたのでね」
――わーっ!!
自分の恥ずかしいところを、知らないうちに他人に見られてしまった気分だった。
穴があれば隠れたい、いやいっそ、穴を掘って隠れたい。
ウチの高校の個人情報はぜんぜん保護されていないようだ。
「瑞希さんのことは残念だったね。君のショックはよくわかる。君はなにも心配はいらないよ。安心してください。学校をあげて、君の病気が治るよう支援《しえん》します」
「…………」
高志はショックなことが起こると、頭が真っ白になって、言葉が出てこなくなる。
瑞希がどんくさくてパッとしないと評した通りだ。
言いたいことはいろいろあるはずなのに、胸の中で渦《うず》を巻くモヤモヤが、言葉の形を取らないのである。
受話器を握りしめたまま、埴輪《はにわ》と化してしまった高志に、瑞希が話しかける。
『心配いらないだってさ。よかったね。でも、具体的になにをどう支援してくれるのかしら?』
「ど、どう、してくれるんですか?」
動揺のあまり感情のこもらない棒読みの口調になり、まるで結婚サギにあった中年女が若い年下のホストに恨《うら》み言《ごと》をいうような感じになった。
失礼ではないかと恐縮したものの、電話の向こうの校長はいたって平静だ。
「全校生徒に電話連絡|網《もう》を回しました。桂高志くんの女装は、双子のお姉さんの死が引き金になって起こった解離性同一性障害という心の病気なので、温かく見守るように。ヘンタイだとかオカマだとか言ってはいけない」
全校生徒に、電話連絡網……。
高志の女装を、全校生徒に連絡……。
「わああああぁああああっ!!」
高志は叫んだ。
瑠璃色高校の生徒全員が、高志の女装を知る!
いま、この瞬間も、電話回線の中では、女装だのオカマだのヘンタイだのの言葉が飛び交っているのだ。
それはノーマルな少年である高志にとっては、考え得る限り最高最悪最大の、羞恥《しゅうち》プレイだった。
受話器から、生徒たちの笑い声が聞こえてくる気分になる。
「あっ。すまない。ヘンタイだとかオカマだとか言ってはいけないと診断書に書いてあったのに、言ってしまったね。ショックを与えてしまったようで謝罪する」
電話口で校長に謝られ、高志は恐縮《きょうしゅく》してしまった。オカマ、ヘンタイと連呼《れんこ》されたことについてはショックだが、文句を言うべきタイミングを失《しっ》してしまった。
高志はまたも黙りこむ。
『もう、うざったいわねぇ。なんとか言いなさいよ』
高志の煮え切らない態度に業《ごう》を煮やした姉が文句を言い出した。
「こうした連絡は、ホームページの生徒用連絡ページにアップするのだが、それだと生徒たちだけではなく、不特定多数の人間が見るのでね。マスコミが来たりするようなことがあってはよくない、生徒たちに確実に伝えるなら連絡網がいいと職員会議で決まったのだよ。もしも君を不快にさせるようなことがあれば謝罪する」
「いえ、そ、その……謝ってもらわなくてもいいです……気を遣《つか》っていただいてありがとうございます」
「君にお礼を言われるには及《およ》ばない。これは理事長の要請でもあるからね」
理事長、という一言で、高志はまたも言葉を失った。
瑠璃色高校の理事長は高志と瑞希の実の父だ。
父は、瑠璃色高校だけではなく、いろんな会社を経営している資産家で、町の名士《めいし》だと聞いている。
姉も高志と同じ気持ちなのだろう。
嫌そうな口調で話す。
『あの人は、そりゃ、そう言うでしょうね。あの人は私たちを、やっかいものとしか思っていないもん。私のお葬式のときも秘書をよこしただけだから』
「父が、支援するようにって……そう、言ったんですか?」
抑えたつもりだったが、声がはずみ、喜色《きしょく》を帯びた。
姉が亡くなったとき、不安で悲しくて、父に話したかった。
喪主だし、僕は男なのだから、人前で泣くものか。
父に逢うまで泣くまいと、そう思っていた。
だが、やってきたのは父の秘書が二人だった。
五分だけでも父に逢いたいと秘書に言ったのに、待っても待っても父はやってこなかった。
その父が、高志に便宜《べんぎ》を図《はか》ろうとしてくれた。
それは高志に取ってじわっとうれしい事実だったのに、姉は吐き捨てるように言う。
『あの人にとっちゃ、私たちなんか、どうでもいいのよ。大事なのは本宅でしょ』
うれしさが霧散《むさん》し、葬儀のときのせつなさに取って変わられる。
姉の声はクリアで、こんなにも辛辣《しんらつ》だ。
瑞希はいったい何なのだろう。高志の心が作り出した妄想だろうか。高志に取り憑いた幽霊なのだろうか。もしも妄想だとしたら、高志は本音のところで父を恨《うら》んでいたのだろうか。
父には、別に家族がいて、その人たちと一緒に住んでいる。
生まれる前からそうだったのだから、そういうものだと割り切っていたつもりだった。父を憎む気持ちはない。
離婚したのではない。
母と恋愛したときから、父には家族がいた。
母は、銀座のクラブで働いていたという。
クラブホステス、という仕事がどういうものなのか、高校生である高志《たかし》にはあいまいにしかわからない。
瑞希と高志を慈《いつく》しんで育ててくれた美しくやさしい母は、数年前に、事故で鬼籍《きせき》に入ってしまった。
母は、父のことをなにひとつ語らないまま逝《い》ってしまった。
瑞希と高志は、婚姻《こんいん》関係にない両親の間から生まれた非嫡出子《ひちゃくしゅつし》だ。
私生児、ラブチャイルド、庶子《しょし》……。
そういう存在らしかった。
庭つき木造二階建てのこの家を買ってくれたのも父だし、学費を払ってくれているのも父だ。じゅうぶんすぎるほどの生活費も、毎月振りこまれている。
なにかあるとすぐさま秘書がやってきて、手助けをしてくれる。
だが、父は、母が亡くなってからはこの家によりつかず、あげくに姉の通夜や葬式にさえ来なかった。
『私の親は、お母さんだけよ。あの人なんか関係ない。高志もね。あの人がちょっと親切ぶったからって、あんまりうれしそうにするんじゃないわよ。あとで裏切られるだけだから』
明るく元気な姉とは違い、口が重く、話し下手《べた》な高志は、受話器を構えたまま黙りこむことしかできない。
高志の沈黙をどう誤解したのだろう。
校長はあわてたようにつけ加えた。
「着替えや体育、トイレ等の問題については、今、用意している最中だ。明日までになんとかする。君はなにも心配せず、通学すればいいんだよ」
「ありがとうございます」
高志は仕方なく言った。
自分でもうんざりするほど陰気《いんき》な口調になってしまった。
「うむ。明るい学園生活を送ってくれたまえ。学校をあげて支援する」
電話を切ると、重い沈黙が立ちこめた。
呆然としていたとき、電話が鳴った。
「ひゃあっ!!」
受話器に手を置いたままだったのと不意打ちだったので、驚きのあまり受話器を取り落としてしまう。落ちるというより、真横に向けて飛んでしまった受話器は、ぐるぐるのコードに引っ張られて跳ね返ってくる。
高志はなんとか空中でキャッチする事に成功した。
「わ、わわあっ。わぁっ……か、桂ですっ」
「二年B組の大堀《おおほり》です」
大堀すみれ。
市松《いちまつ》人形のような、まっすぐに切りそろえた黒髪が美しいクラスメートだ。
華道家元《かどういえもと》の娘で、本物のお嬢《じょう》様。
学園でも一、二を争う才媛《さいえん》だ。運動は苦手みたいだが、成績が優秀で、学年にひとりしかいない特待生《とくたいせい》に選ばれている、
創立祭で行われるミス瑠璃色コンテストの本命馬でもある。
いつも冷静沈着な彼女だが、高志の騒ぎようにびっくりしたのか、声に動揺が感じられる。
「ど、どうなさったの? なにか事故でも? お取りこみ中なら、かけ直すわよ」
「あっ。はいっ。いえ、なんでもありませんっ!!」
すみれの突然の電話に驚いて、ついつい敬語になってしまう。
「いま、いいのかしら?」
「はいっ。もちろんですっ」
「連絡網が回ってきました」
「うぅ……っ」
高志はうなり声をあげた。
ついに来た。
連絡網だ。
連絡は普通はネットにあがるので、連絡網が回ってきたのははじめてだ。
桂の前が大堀だと、知っているはずなのに失念していた。
――どうして日本語ってのは、あいうえおの次がかきくけこなんだよっ。
五十音に恨みを抱《いだ》いたのは、後にも先にもはじめてである。
「連絡は次の二点です。まず一点目、桂高志くんの女装は病気です。温かく見守るようにしてください。二点目、ヘンタイとかオカマとかほんとうのことを言ってはなりません。病気が悪化します……ごめんなさいね。本人に言うような連絡じゃないのだけど……連絡網ですから許してね」
「うぅぅ……」
高志はうめいた。あまりといえばあまりな連絡内容だ。どこをどうなって、こうなってしまったのだろう。
――校長先生。確実に伝わってないです……。
『伝言ゲームでありがちなことね。伝言していくうちに、伝言内容が変わっていってしまうのよ。っていうより、あんまりおもしろいから、脚色《きゃくしょく》がちょっぴりずつ加えられていって、こうなってしまったのかも。ホームページのお知らせページのほうが、伝達手段としては優《すぐ》れているよね。まあ、女装少年を全校あげて温かく見守る学校があった! なんてネタになって新聞に載《の》るかもしれないけど』
姉がどうせ他人事とばかりに解説をする。
「嫌だぁ……っ」
高志はもう泣き声だ。
いったいなんのバチが当たったのだろう。
高志は善良な男子高校生だ。
ヘンタイだのオカマだの病気だの、あまりにもひどすぎる。
「ご、ごめんなさいね。次に回すの、私がします。あのう。桂くん。いろいろあって大変だと思うけど、どうか元気を出してね」
大堀すみれの恐縮した様子が、電話線を通じて伝わってくる。
そそくさと電話が切られた。
高志は仏壇に向かうと、位牌《いはい》に向かって話しかけた。
「お姉ちゃんっ」
姉の姿は見えないし、遺影を見あげるのもなんとなくシャクだったので、位牌に向かって愚痴《ぐち》を垂《た》れる。
「お姉ちゃんはいったいなにがしたいんだよっ!?」
『したいことはいっぱいあるわ。おいしいもの食べたり、買い物したり、遊んだり、恋愛したり、結婚したり、勉強したり……ラクロスももっとやりたかったな。あ、そうだ。ミス瑠璃色学園にも出たかったの。だってさ、私って、学園いちの美少女だもーん』
瑞希は、ミス瑠璃色学園にノミネートされていた。
「お姉ちゃん、お願いがあります。僕を自由にしてください。さっさと成仏《じょうぶつ》してください。僕の妄想だとしたら、今すぐ消えてください。お願いしますっ」
『ひどいわっ。実の姉に消えろっていうの? ひどいわひどいわひどすぎるわっ!!』
「ひどいめにあっているのは僕ですっ!! お姉ちゃんにもしも心残りがあるとしたら、僕が代わりにやってあげます」
『あのね、高志。おいしいものを食べるのは私でなきゃダメなの。高志が食べるのを見てて楽しいと思う? それに恋愛って、男とよ? 私はノーマルな女だから、女と恋愛する気はないわ。高志、男とキスできる? これは真剣な質問よ? できないでしょう? だから私が君の身体を使うほうがいいのよ』
姉の口から、言葉の奔流《ほんりゅう》が流れ出る。
まさしく立て板に水だ。
なにひとつ言い返せない。
「うぅ……」
高志は、うめき声をあげるばかりだ。
口から先に生まれてきたような姉に、言葉でかなうわけがないのであった。
なにしろ姉には、十七年間、口論で一度も勝ったことがないのだから。
明るくて陽気な姉に家事|一切《いっさい》を押しつけられる、どんくさくて陰気な弟、それが高志という少年の役回りだったのである。
電話が鳴った。
『ほら、電話よ。うーうーうなってないで早く出なさい』
「はい、桂です」
「私よ」
「あ、優亜……ど、どうしたんだ?」
「電話連絡網が回ってきたのよっ」
優亜はトゲトゲしい口調で答えた。
そうとう怒っているようだ。
「あ、そうか。桂の次、木崎だっけ……大堀さんが連絡したんだな……」
あいうえ大堀、桂、木崎……。
高志はまたも、五十音を恨んだ。
「それがねぇ。ひどいんだよ。高志のこと、なんて言われているか知ってる? 私、ほんとびっくりしたのよ。ヘンタイだとか女装だとか、病気が悪化するからオカマとかほんとうのことを言うな、とか、暴《あば》れ出すとか、もうすごいのよっ。あることないこと言ってくれちゃって、みんなほんとにひどいんだからっ!!」
「うぅ……」
ヘンタイ、女装、病気が悪化する、オカマ……。
言葉のそれぞれが鞭《むち》のようにしなりながら、高志の心をベシベシ叩く。サンドバッグにされた高志は、世にも情けない顔をした。
――もう、かんべんしてください……。
「あんた、泣いてるの?」
「え、ぼ、僕、泣いてる? ほ、ほんとだ……」
指摘されてはじめて気付いたが、高志はボロボロと涙をこぼしていた。優亜は、高志の息のはずみようで、泣いていると気付いたらしかった。
さすが幼なじみと感心する。
手の甲で拭《ぬぐ》うが、拭っても拭っても涙が落ちる。
「わ、わけがわからなくて……ひくっ、自分のことなのに……ごめん……みっともないよな」
男のくせに情けない、泣くんじゃないわよっ、という反応が返ってくるかと覚悟していたのに、優亜の反応は子想外だった。
「ううん。高志は悪くない。悪いのはおもしろがっているみんなだわ。高志は病気なの!! 高志が悪いわけじゃないわっ」
「う、病気だ、と言われるのもちょっと……」
「じゃあどういえばいいの?」
僕は病気じゃないと言いたいのだが、女装して出歩いたのも、姉の声が聞こえるのも事実なので、うまい言葉が見つからない。
高志はまたも黙りこむ。
優亜は、ふぅっとため息をついた。
もう高志ってばあいかわらずなんだから、と首を振っている姿が目に浮かぶようだった。
「とにかく、私だけは君の味方だからねッ! 私が正確な病状と注意事項、クラスのみんなに連絡してやるっ」
「あ、あのー、ネットには流さないで欲しいんだ……っ」
「バカねーっ。そんなことしたら大騒ぎになっちゃうわっ。私が高志をいじめるようなこと、なんでしなきゃいけないのよっ」
――いつもいじめてるじゃないかよ……。
とは、口ベたな高志は言葉にできない。
「もう、早くみんなに電話しなきゃっ。じゃあねっ!!」
優亜がそそくさと電話を切った。
『知らなかったな。優亜ちゃん、高志に気があるのね。いいなぁ。高志には、かわいい恋人がいるんだもの』
「それはないよ。お姉ちゃん」
優亜はなにかというと手が出るし、がみがみと叱りつけるし、気があるなんてありえない。
しかも彼女の場合、パーではなくグーで殴るから、冗談ではなく意識が飛ぶほど痛いのである。
優亜の高志へのおせっかいは、恋愛ではなく友愛であり、愛情ではなく友情だ。
もちろん優亜の好意はありがたく受け取っているもの、恋人だとかラブラブだとかとはまるで違う。
「優亜は僕をいじめて、おもしろがっているだけだと思うよ」
『そうかなぁ。私のカンが、優亜ちゃんは高志が好きだって言ってるんだけどな。女のカンは当たるのよ』
――女のカンったって、僕の妄想のくせに……。
とは口に出さない。姉がひどいと泣き伏すのは火を見るよりも明らかだ。
「お姉ちゃんには好きな人はいなかったの?」
『そんなこと、あんたになんで言わなきゃいけないのよ!?』
声が怒っていた。
瑞希がつんと顎をあげる様子が脳裏に浮かぶ。
「いないんだろ? いたら、自慢するもんな」
『もう、嫌な子ねっ。高志が寝たら、私が君の身体を乗っ取ってやる!!』
「じゃあ、寝なかったらいいんだ」
高志は居間で、テーブルに突《つ》っ伏《ぷ》しながら船を漕《こ》いでいた。
睡魔《すいま》と戦うべく、コーヒーをがぶがぶ飲んでカフェインを投入したのだが、疲労に心労が重なった状態で、「寝ない」なんて無茶なことを実行できるわけがなかったのである。
しっかりと引いたカーテンの隙間から朝日が射《さ》しこみ、母親そっくりの横顔を斜めに彩《いろど》る。
うとうとしている高志の横顔は、少年ぽっさはカケラもなく、まるっきり女の子だった。
長いまつげも、形の良い鼻梁《びりょう》も、半開きになった唇《くちびる》も、そんじょそこらのアイドル歌手では及ぼないぐらいに整っている。
「やっと身体が使えるのねぇ」
ややハスキーな女の声が高志の喉から出た。
高志の妄想のはずの、瑞希だった。
「あぁもう、汗くさいんだからっ」
女の子そのもののしぐさで両手を伸ばして背伸びしてから立ちあがり、洗面所に向かう。
「いや、もうっ。ほっぺ、机の線がついてるじゃないっ!! これ、化粧してごまかすしかないかなぁ。化粧すると、肌が汚れる感じがするからいやなのよねぇ」
ひとりごちた瑞希は、ぽいぽいと服を脱ぎ、シャワーを浴びる。
少年のつるんとした胸が水滴をはじいて朝日に光る。
高志の身体を乗っ取った瑞希は、全裸に胸から巻いたバスタオルという格好で、部屋をうろうろした。
「あった」
制服を入れた紙袋をようやくみつけて自分の部屋に戻り、姿見《すがたみ》の前でバスタオルを取った。
異性の自分は、不思議な感じがした。
「高志のコレって、サイズ的にはどうなのかしらね?」
掛《か》け値《ち》なしの処女なので、比べるものがなく、大きいのか小さいのかわからない。
「へんな形よね。こんなみっともないの、ぶらさげて歩くの、ちょっとイヤね。……これってなんだか顔みたい」
つい好奇心にかられて触ってみたところ、先端《せんたん》のところが、イーしている口みたいに見えた。
「ふふっ」
瑞希はにまにまと笑いながら、机の引き出しからサインペンを取り出した。
キュッと音を立ててフタを開け、先端の剥《む》けたところにてんてんを書く。
とぼけた表情の顔ができ、不気味さが薄められた。
「うん。これでかわいくなったなーっ」
お姉ちゃんが弟のナニにいたずら書きををしているなんて、高志が気付いたら、大騒ぎしそうだった。
「まっ、いいか。お風呂入ったら消えるでしょ」
女物のショーツは、ナニを納《おさ》めるとどうも具合が悪いのだが、股間《こかん》に挟《はさ》むようにして、ムリヤリにショーツを穿《は》いた。
まったいらな胸とブラジャーのカップの間には、少し考えてから、自分の二ーソックスだのストッキングだのを詰めた。
「パッド買ってこなきゃいけないわね。ヌーブラのほうがいいかなぁ」
これで胸がベコベコするのはなくなるはずだ。
ちゃんとしたパッドみたいなわけにはいかないが、胸をすっぽり覆《おお》うフルカップのブラをつけたので、胸らしいふくらみができあがった。
「やだっ。セーラー服、シワになってるっ。もうやだぁっ」
ずっと紙袋に入っていたせいで、制服がシワシワになっているのが許せない。
ハンガーに掛けないと、制服がシワになり、しみったれてしまうのである。
いくら弟の身体を使うとはいえ、ミス瑠璃色学園に選ばれるだろう私が、みっともない姿で通学するわけにいかない。
アイロンとアイロン台を用意して、下着のままでアイロン台の前にちょこんと座ってアイロンを掛けた。
「ふふっ。これでオッケー。あっと、なんかニオイが違うのよね。制服のニオイじゃなくて、体臭か。やっぱ、男のニオイなのよねぇ。えっと、確か、お母さんからもらった香水がどこかに……うん。これでいいや。うぇえっ。つけすぎたかな。酔っちゃいそう」
香水をつけた手首を洗面所で洗ってニオイを消す。
ほんのり香る程度がいい。
瑞希は、鏡にうつる自分の顔を見た。
「うーん。ほっぺの線が取れないや。やっぱ、ちょっとだけでも、化粧したほうがいいのかな。学校だしなぁ。うっすら色づく乳液だけでも……だめだわ。化粧水のノリが悪いわ。パックしなきゃね」
瑞希は憤《いきどお》った。
高志はスキンケアがなってない。もっとお肌のお手入れをするべきだ。
「あー、もう、学校に通学するだけなのに、どうしてこんなに大変なのよ!?」
少年が女の子の姿をすることの大変さにあらためて気付き、ため息をつく瑞希であった。
第2章 学園新聞に載っちゃった
朝のひととき、バス停から瑠璃色《るりいろ》高校の校門までのあいだの道は、生徒たちの着ている制服の紺色《こんいろ》に染《そ》まる。
その中で、ぽっかりと空間が開《あ》いたスポットがあった。
その中央にいるのは、さわやかな印象の女子高生だ。
中肉中背で、さらさらショートヘアをリボンのついたカチューシャで押さえている。
セーラー服をきちんと着て、ヒダスカートを朝の風に揺らしながら歩いている。手足が長く、少年のようにしなやかな身体つきだ。
カバンをさげて通学路を行く彼女の周囲だけ人がいず、遠巻きにするようにして生徒たちがおずおずとついていく。
春の終わりの強い風が、ひゅうっと音を立てて吹きすぎた。
彼女は足を止め、きゃっと小さな悲鳴をあげて髪とスカートを手で押さえた。
クロスするように伸ばした手が太腿《ふともも》を押さえ、Sの字にくねった上半身から、甘い香りが立ちのぼる。スカートがめくれあがり、太腿のつけ根が白く光る。
おおおお、と生徒たちがどよめいた。
一種異様な光景に、道行く人が何事だろうときょろきょろする。
注目の的《まと》になっているのが、あか抜けた印象があるものの、ごく普通の女士高生であることに気付き、興味なさそうに目をそらす。
彼女が校門をくぐったとたん、生徒たちのザワめきがひときわ大きくなった。
「わーっ。桂《かつら》くんよーっ」
「うわぁ、すごーい。ほんとうにセーラー服だぁっ!!」
「桂くん、すっごくかわいいーっ」
「しぐさが女だーっ。女の子みたい。オカマっぽいや」
「そういうこと言っちゃ、病気が悪化して暴れ出すからダメなんだって」
「病気は病気でも、ウイルスみたいに移ったりしないから安全だって聞いたよ」
「性同一性障害だったけ」
「違うよ。解離性同一性障害。性同一性障害だと、オカマになっちゃうんだって」
「でもあれ、まるっきりオカマだよ」
「そうだね。ま、とにかく、ヘンタイだよね」
「変体《へんたい》なんて、怪人とか怪獣に変身しちゃいそうだ」
――連絡網で伝言を回すっていうの、おもしろいわね。
伝言ゲームさながら、伝言内容が転がっていき、とんでもない話になってしまうのを実体験すると、渦中《かちゅう》にいるにもかかわらず笑みがこぼれて止まらない。
――でも、ヘンタイ呼ばわりは困っちゃうわね。高志《たかし》が泣くかも。なにかないかしら。伝言ゲームじゃなくてみんなに状況を伝える方法が。
「ああ、あの笑い方、瑞希《みずき》さんそっくりだなぁ」
「そりゃ双子だもん。髪が短いっていうだけで、ほんと瑞希さんそのものだよねぇ」
シャッター音がして、フラッシュが光った。お姉さまたちのひとりが、ケータイを構えている。
「きゃーっ。撮れたぁっ。これ、待ち受けにするんだっ!!」
「見せてっ。わー。かわいいーっ」
「ほんとねー。かわいいーっ。桂くんってさ、顔はかわいいのにどんくさくって、冴《さ》えない男の子だったのよ。女装するとこんなに目立つなんて思わなかったわーっ」
「あーっ。最高、かわいい男の子っていいわよねぇーっ」
「こっち見たよーっ。視線が合ったぁっ。きゃーっ。桂くぅんーっ」
三年の女子がキャイキャイと騒いでいる。
かわいい男の子好きのお姉さまたちだ。
ひとりが写真を撮ると、まるで堰《せき》を切ったように皆がケータイで写真を撮りはじめた。
――そうよね。同感だわ。確かに高志はかわいいよね。男のままだとどんくさいのに、女装するとかわいくなるなんてサギだと思うわ。高志って女顔なのよねぇ。
瑞希は会釈《えしゃく》をしながら、お姉さま集団の前を通り過ぎていく。お姉さまたちが、彼女のあとをぞろぞろとついてくる。
「お早うッス。瑞希さんっ」
「おはよう」
小首を傾げて挨拶すると、その愛嬌《あいきょう》いっぱいの笑い方に、うぉーっと男声が答えた。
「MIZUKI LOVE」のピンクの腕章《わんしょう》が、彼らの詰め襟の腕にはまっている。
瑞希さん親衛隊《しんえいたい》の隊士たちである。
――あら、あの腕章、まだつけてたんだわ。
いつもなら親衛隊の歓声《かんせい》は、うざったいなぁと思うだけなのに、今日はそうではなかった。
彼らは、父さえ出席しなかったお葬式とお通夜に来てくれた。
モノトーンで染まる通夜の席にピンクの腕章がずらりとそろい、やたらと目立って恥ずかしかったが、それでもうれしかった。
彼らが瑞希のために流してくれた涙はちゃんと覚えている。
どうせ親衛隊なんて遊びだから、今頃別の人の隊士をしているだろうと思っていたのに、死んでなお腕章を捨てなかった律儀《りちぎ》さがうれしい。
ありがたい、と思ってしまう。
「瑞希さんが生き返ったみたいだ」
「生きていてよかったなぁ。おいっ!!」
彼らは滂沱《ぼうだ》と涙をこぼして肩を叩き合っている。
「ありがとう!」
声を掛けると、彼らがきょとんとした表情で黙りこんだ。
――あ、そうだった。高志の声ってば、私より低いのよね。
男にしては高いとはいえ、地声《じごえ》はやはり少年の声だ。
瑞希は喉《のど》に指先を当て、意識して高い声を出した。
「みなさん、お葬式に来てくれて、ありがとう!!」
親衛隊のみんなは、喜んでいいか、悲しんでいいか困っている……という雰囲気で固まっている。
たっぷり数分の間をおいて、うぉーっという歓声が響いた。
「瑞希さんが、お礼を言ってくれたっ!!」
「お葬式なんか、何度でも行かせてもらうぜーっ」
「あはは。いやだ。私、そんなに何度も死なないわよ」
瑞希が喉に指先を当てたままで笑うと、親衛隊のメンバーが、またも凍りついた。
彼らの視線は、喉仏とお腹のあいだを行ったり来たりしている。
セーラー服は、襟がVの字にえぐれている。さらに、指で喉を押さえているから、喉仏がやたらと目立ってしまうのである。
瑞希にお礼を言われた興奮に紅潮していた顔は、だんだん青ざめていき、次第に冷や汗にまみれてくる。小刻《こきざ》みにふるえだした男まで出てくるありさまだ。
彼らは円陣《えんじん》を組み、ひそひそと相談をはじめた。
「お、男、だよな?」
「う、うん。で、でも、実の弟だし。同じ血を分けているんだし、姿形《すがたかたち》はまぎれもなく瑞希さんなんだし……髪の長さが違うだけでそっくりだよな?」
「瑞希さん度の高い人物だよ」
「ってことは瑞希さん親衛隊の我々としては……」
相談がまとまったらしい。
円陣がほどけ、真横一列に並ぶ。
「我ら瑞希さん親衛隊は、瑞希さんを応援しますっ」
「ウスッ!!」
彼らはいっせいに、瑞希に向かっておじぎをした。
まるで、巨大な黒い板がベコッと折れ曲がったようで、迫力がある。
おびえた生徒たちが、蜘蛛《くも》の子を散らすようにして逃げていく。
「こちらこそよろしくお願いします」
瑞希も彼らに向かっておじぎをした。
そのとき、やっと気付いた。
ブラジャーのカップの内側につめておいたストッキングが歩く動作でずれてしまい、セーラ服の裾《すそ》から少しだけのぞいている。
視線がやけにお腹に集まったのは、ストッキングのせいらしい。
「いやだ……どうしよう……」
やはり少年の身体に女物のブラジャーというのはムリがある。胸囲は高志のほうがあるらしく、ブラジャーのアンダーベルトが胸に食いこんできつい。
瑞希は、ストッキングをカップに納め直すことをあきらめて、指先でストッキングを引っ張った。
周囲がシンと静まりかえった。
ブラジャーが引っ張られる感じがわずかにして、パンストがずるずると出てくる。
瑞希は、出てきたストッキングをくるくる丸め、スカートのポケットにつっこんだ。
瑞希さん親衛隊の隊士たちは、引きつった顔に笑顔を浮かべ、彼女を見ている。
少年らしさが顕現《けんげん》するたびにキズつけられる男心と、瑞希への愛情の狭間で苦悶《くもん》しているらしい。
「はしたないわ……いやだわ……もう……」
うつむきながらセーラー服の裾を指先で引っ張り、恥じらった。
顔を左右に振ってイヤイヤをする。
香水の匂いがかぐわしく立ちのぼった。
親衛隊の男たちの表情がだらしなくとろける。
「うおーっ!! み、瑞希さん、な、なんてかわいいんだぁっ!!」
瑞希への崇拝《すうはい》がキズつきやすい男心に勝《まさ》ったようだ。
こうなると、もはや止められない。
新たに校門をくぐった生徒たちが、異様な光景に驚いて、びっくぅっと身体をすくめる。
「俺たちは、瑞希さん親衛隊として、瑞希さんの応援をすることをここに誓う! 瑞希さん親衛隊|隊士ノ掟十箇条《たいしのおきてじゅうかじょう》っ!!」
「その一、瑞希さんの嫌がることは絶対にしない!!」
「その二、抜け駆けを許さず!!」
「その三、瑞希さんの幸せを祈るため、誠心誠意努力する!!」
「その四、瑞希さんを苦しめるものあれば、瑞希さんを守り戦う!!」
「その五、死して屍《しかばね》拾うものなし!!」
「その六……」
野太い声で隊士ノ掟十箇条を暗唱《あんしょう》はじめた親衛隊のみんなに背を向けて、教室へと歩き出したときのことだった。
「桂瑞希さんっ。今の気持ちはっ?」
目の前にボイスレコーダーを突きつけられた。
パシャパシャとシャッター音がしてフラッシュが光る。デジカメだが、一眼レフの本格的なカメラを構えている。
「新聞部ですっ!!」
言われなくてもわかる。
腕に新聞部の腕章をつけているからだ。
瑠璃色高校は、制服がクラッシックなので、腕章がぴったりくる。
「身体が高志くんになってしまったことに関して、なにかひとことお願いします」
さすが新聞部というべきか、伝言ゲームに毒されない、正確な情報をつかんでいるようだ。
瑞希を生まれついての女性として扱っていることに感心する。
瑞希はおだやかに笑いながら教室に向かおうとしていたが、次のひとことで立ち止まってしまった。
「ミス瑠璃色学園に瑞希さんはノミネートされていましたが、実行部は参加資格があると判断しました。参加されますか?」
ミス瑠璃色学園は、学園いちの美少女を選ぶイベントだ。
もうすぐ開催《かいさい》される、瑠璃色学園創立祭のメイン行事だ。
創立記念日は、本来なら休んでもかまわないのだが、優秀な生徒の表彰があったり、体育会系の生徒たちはバザーをしてもうけたお金を部費に当てたり、演劇部やコーラス部、それにダンス同好会が舞台発表をするので、ミニ文化祭のように盛りあがる。
ミス瑠璃色に、瑞希はノミネートされていた。
瑞希は即答した。
「もちろん参加します」
「水着審査もありますが、瑞希さんはどのようになさいますか?」
「弟と相談します。弟の身体を使わせてもらっているのですから」
「コメント、瑠璃色新聞に載せてもかまわないでしょうか?」
「ええ。ですけど、弟の解離性同一性障害についても、きちんとした情報を載せて欲しいんです。オカマ扱いなんて弟がかわいそうなので」
新聞部は、このネット時代に、紙媒体《かみばいたい》での学園新聞を出すことに必死になっている。
発行部数も、驚くほど多い。
誰と誰がつきあいはじめたの別れたの、学園七不思議を検証するだのの記事が多く、いささか下世話《げせわ》な新聞だが、たぶんこれがいちばんいい方法だろう。
――高志、お姉ちゃんに感謝なさいね。ああ、私って、なんていいお姉ちゃんなのかしら。
じいいんっと感動に浸《ひた》りながら、学生カバンから、一通の茶封筒《ちゃぶうとう》を取り出した。茶封筒を新聞部に手渡す。
「どうぞ」
「なんでしょう? 見せていただいてもいいんですか? ……わ、いいんですか? 診断書じゃないですか?」
「えっ? 診断書っ?」
「うわーっ。ほんとうだーっ」
部員がわらわらと寄ってきて、診断書をのぞきこむ。
「掲載《けいさい》してもいいんですかっ?」
「はい。コピーですから。掲載されるなら、そのままでお願いします。弟の病気のことを知っていただきたいんです」
瑞希は弟に取り憑いている幽霊だが、幽霊なんて他人に、言う必要はない。高志の二重人格にしておくほうが都合がいい。それには診断書を皆に見せるのがいちばんいい方法だ。なにしろ、医者のお墨付《すみつき》きなのだから。
「ありがとうございます。では、病気の部分だけ掲載して、住所とか個人情報については、隠すようにします。できた新聞は、いちばんに桂さんにさしあげます。コピーは返却《へんきゃく》したほうがよろしいでしょうか?」
「いえ、だいじょうぶです」
「わかりました。ではシュレッダーに掛けることにします。ありがとうございました。診断書、いただいてまいります」
部員たちは、瑞希に向かってふかぶかと頭をさげた。
「やったな。桂高志の診断書だっ!!」
「大堀《おおほり》すみれと森永愛梨《もりながあいり》、それに桂瑞希のコメントを載せると、すげぇ内容になるぜっ」
「そうね。これは売れるわっ。がんばらなきゃねっ!!」
「表題は、桂瑞希、美しき復活で決まりだね!!」
新聞部のみんなは、診断書のコピーを大事そうに持ちながら、カメラを担《かつ》いで部室のある第二校舎に向かって走っていった。
部室に籠《こ》もって新聞作成をするつもりだろう。この喜びようだと、授業をサボッて新聞を作成するかもしれない。
「おはよう、桂くん」
「おはようございます。赤石《あかいし》先生」
昇降口《しょうこうぐち》のところで立っていた、初老の男性に会釈をして、おっとりとおじぎをする。
服装の寄稿さで目立ってしまう存在だからこそ、行儀良くふるまいたい。
「…………」
なにか用事がありげな様子だが、担任の先生は、ポカンと口を開けて瑞希を見ている。セーラー服の瑞希を見て、言葉が出てこない様子だ。
――もうっ。用事があるんなら、早く言ってよっ。
内心で吼《ほ》えながらも、如才《じょさい》なく笑顔を浮かべて担任を促《うなが》した。
「なにかご用件でしょうか?」
担任はゴホンと咳払《せきばら》いをした。
「こちらへ来て欲しいんだ。理事長からの要請《ようせい》で、君用に用意したものだ」
「はい? ですが、もうすぐ授業が……」
「時間はとらせない。すぐ終わる」
初老の男性教諭は、瑞希を先導するようにして歩き出した。
首をひねりながらついていく。
瑞希さん親衛隊の隊士たちと、かわいい男の子好きのお姉さまたちも、瑞希のあとをぞろぞろとついていく。
担任は、渡り廊下を通りすぎ、噴水と花壇のある中庭に瑞希を案内した。
花壇の横に、工事現場で見かける仮設トイレが、どーんとばかりにそびえ立っている。
その横にあるのは、ホームセンターで売っている物置だ。農機具などが納まっていそうな外観である。
美しく咲きそろうパンジーが、無粋な光景にげんなりしたように首を垂れ、五月の薫風に揺れている。
「これが君用のトイレ。こっちが更衣室だ。夏になると暑いかもしれないが、そのときはなにか考えよう」
「ありがとうございます。ですが私は女ですので、女性用のトイレと更衣室を使うつもりでいたのですが……」
「きゃーっ」
かわいい男の子好きのお姉さまたちが悲鳴をあげた。
「ねぇねぇ。高志くんが女子更衣室を使うんだってー」
「ああーっ。美少年のハダカよーっ。育ち切ってないつるんとした胸がっ、股間のふくらみがっ、太腿の白さが、きゅっと締まった美少年のお尻が、私たちの目の前であらわになるのよっ」
「ストリップだわっ!! ストリップだわっ。ああ、どうしようっ、いけないいけないいけないわっ!! 私、お嫁に行けなくなるわっ」
「目の保養よねぇ、想像するだけでうっとりするわ。……あぁ、生きていてよかったわ……」
お姉さまたちはうれしくてならないとばかりの嬌声をあげ、くすぐったそうに身体をくねらせている。
目がぎらぎらしてかなり怖い。
じゅる、とよだれをすすりあげる音もする。
瑞希は背中をぞくぞくさせた。
お姉さまたちに集団レイプされそうな気分になったからである。
さりとて、男子更衣室を使ってハダカの男たちの中で着替えるのは、さすがの瑞希でも荷が重い。
高志のアレだのナニだのは触ったって平気だが、それは二卵性双生児の片割れだからだ。双子の弟のハダカに動揺するほど幼くない。
それに、大きな問題があった。
女装した高志は、瑞希とそっくりなだけあって、胸を張れるほどかわいい(もっとも、少年である高志には張れる胸はないのだが)。
男子更衣室で着替えをすると、興奮した男たちに集団レイプされる可能性がある。
親衛隊の隊士たちも、男の身体をした瑞希を守る勇気は、さすがにないだろう。
どちらで着替えるにしても、弟の貞操を守ることは難しいのであった。
「そうね、物置、使わせていただきます」
「よかった。ありがとうっ!! 桂くん、ありがとうーっ」
赤石先生が瑞希の両手を取り、ぶんぶんと左右に振った。
よほどうれしかったらしく、感涙にむせんでいる。
「こ、これで、く、首にならずにすむっ!」
「先生、そんな大げさな……」
「家のローンが大変なんだよ……。俺のこづかいさえ、値切られているありさまなんだ。なのに、妻は……子供は……、君たちにはわからないかもしれないが」
初老の担任は、ふっとばかりにため息をついた。どんよりした表情が浮かんでいる。教壇に立っているときの堂々とした態度が消えうせ、くたびれた中年男の素顔がのぞく。
瑞希はとりあわなかった。
中年男の悩みにつきあっていられるほどヒマではない。
身体の支配権は、いつ高志に戻るかわからないのだから。
赤石先生の周囲を取り巻くどす黒いオーラを手をパタパタして払いのけながら、担任に言う。
「先生、中を見せてもらってもいいですか? 鍵は? このタイプの物置って外鍵で、内側からは掛けられないんですよね?」
「内鍵はつけておいた。鍵はここだ。なくすなよ。君が持つようにして欲しい。それと、ドアを閉めると真っ暗になるので、天井に懐中電灯をつるしてある。大変だったんだぞ」
初老の担任がドアを手を掛けた。
――あれ、鍵、開いてるわね。
ドアを開くと、物置の中に、セーラー服の少女が座っていた。
彼女はドアが開くと同時に立ちあがり、瑞希をねめつけた。
明るい髪色のツインテールが揺れて汗にまみれたうなじにまとわりつき、キツイ印象を与える彼女の顔を凄艶《せいえん》に彩った。
セーラー服の女子高生が、物置の中に立っている様子は、まるでガラスケースに納まった等身大のお人形のようだ。
身体の前でつくった握り拳を小刻みにふるわせながら立っている女子高生……。
それは木崎優亜だった。
「優亜ちゃん。どうしてここに?」
「高志ーっ。そのまま動くなーっ」
優亜が怒鳴り、右ストレートが炸裂した。
ガツッと音がして、優亜の握り拳が瑞希の顎にヒットする。
体重を掛けた、なかなかに重いパンチだった。目の裏で星が飛び、瑞希が持っていた身体の支配権が高志へと移動する。
高志は、後ろ向けに倒れ伏した。
「痛ぇ……っ」
高志は地面に座りこんだままで、そっと顎を押さえた。さながら虫歯のように、じんじんと顎全体に痛みが響く。
「えっ? 僕? セーラー服、き、着てる? ま、また、やったの?」
朝日のまぶしさに混乱して、なにがなんだかわからない。
顔の前で手を開いたり閉じたりして、身体が動くことを確認した。
「あっ。優亜、ど、どうして? ここ、どこだ?」
「学校の中庭っ。これは高志のために用意された更衣室っ」
「そ、そうじゃなくて、どうして優亜が物置の中にいるんだよ?」
「だってさ、高志を迎えにお隣に行ったら、詰め襟が置いてあって、高志がいないんだもんっ。セーラー服で出かけたなって気付くわよ」
「う、そ、そりゃ、そうだ……」
「あわてて自転車で学校に行ったら、業者さんがトンカチやってるし。更衣室にするから内鍵をつくらなきゃいけないって話してるし……だったら、ここで待ってるほうが早いじゃないっ!? 業者さんに言ったら、鍵を開けたままにしてくれたわよ」
「待ってくれたのか?」
うれしさのあまり声がはずんだ。
――お姉ちゃんは、優亜は僕に好意を寄せてる、って、そう言ってたな……。
――でもなぁ。お姉ちゃんは僕の妄想だしなぁ。優亜が僕のことを好きだといいなって、そう思っているせいかもしれないな……。
「着替えなさいっ!!」
紙袋を差し出され、おずおずと受け取る。
詰め襟が入っていた。上着もズボンも、男物のハンカチもある。ボクサーブリーフまで入っている。
桂家に入り、着替えを紙袋に入れて、持ってきてくれたらしかった。
「か、鍵は? お姉ちゃん、家の戸締まりしなかったのか?」
「鍵はかかってたわよ。でも、私、何年、高志のお隣さんをしていると思っているの? 高志と瑞希さんが、どこに鍵を隠してるかぐらい知ってるわよっ!!」
優亜は、勝手に家に入ったらしかった。
「木崎くん、そ、その……桂くんは病気だから、その……な、殴るのは……」
担任がおそるおそるという感じで優亜を取りなした。
高志の前にそうっと立って、背中でかばう。
――ああ、先生、お父さんのこと、気にしてるんだな……。
高志が理事長の息子だということは、学校の皆には、内緒にしてもらっている。特別扱いされるのが嫌だったからだ。
だから、生徒たちの大半は高志の父が理事長であることを知らないハズだが、もちろん教職員は知っている。
理事長から温かく見守るようにと要請されたのだ。
担任が腫れ物に触れるようになるのは仕方ないのだろう。
ここは父の学校だし、赤石担任の反応は当然だ。
割り切らなくてはならない。
それは高志だってわかっている。
だが、理性と感情は別々で、苦い粒でも噛み砕いた気分になる。
胸の奥がせつなく痛い。
「ええ、知ってますよ。私が病院に連れて行ったんですから。叩くと戻るから叩いただけよっ!」
優亜がつんとした口調で言った。
「調子の悪くなったテレビみたいに、言うなよ……」
「早く着替えなさいって言ってるのよっ。なんで私が君のパンツまで用意しなきゃいけないのよっ!!」
「わ、わかった。着替える。着替えます……」
優亜はあきれるぐらいにいつも通りだ。
だが、高志には、優亜のマイペースさが心地良かった。
赤右先生の態度にちょっとだけ感じた苦い思いが薄らいでいく。
「せ、先生は行くからな」
高志は、赤石先生の後ろ姿を見ながら更衣室に入り、ドアを閉めた。
――あれ、なんでこんなにたくさん人がいるんだ?
ドアを閉める一瞬、たくさんの人がいることにはじめて気付き、不思議な思いにかられる。
中庭は、あまり人の来ないスポットのはずだ。
明るいところから暗いところに入ったので、一瞬なにも見えなくなったが、天井からさがっている懐中電灯をつけてしのぐ。
高志は、セーラー服を脱いでいく。
脇にファスナーがあることが気付かず、もたもたしたが、なんとか脱ぐことに成功する。
ブラジャーを取ると、ほぉっとため息が出てしまった。
――女の子って、窮屈なもん、つけてるよなぁ……。
――うぇっ。僕、女物のショーツをつけてる……。
――なんでこう、身体を締めつけるようなものばかりつけるのかなぁ、こんな面積の狭い布、身体が冷えるんじゃないかなぁ。
姉と二人で暮らしてきたせいで、ブラジャーだのショーツだのは見慣れている。
洗濯はほとんど高志の役割だったのだ。姉の下着を見るたびに照れていては、洗濯物も干せないし、一緒に暮らすこともできない。
ショーツを脱いだときのことだった。
ナニに違和感を感じ、なんの気なしに見た高志は絶叫をあげた。
「うわあぁあああぁあっ!!」
先端に、サインペンで目が書かれていた。
――お姉ちゃんがやったんだ……。
サインペンは水性らしく、こすったら取れそうだ。
高志は泣きそうになりながら、親指の腹で、いたずら書きをこする。
まずいことになった。
朝起きたときのように、反応がはじまった。
男の身体の中で、いちばん敏感なところを指でいじっているのだから、自家発電と効果は同じだ。
高志はあわてた。ズボンの前をふくらませて外に出るわけにはいかない。
「うぅ……っ」
「高志、どうしたのっ!?」
ドアが開き、優亜が顔を出した。内鍵があることを知っているのは瑞希で、そのとき姉に支配権を取られていた高志は、なにひとつとして聞いていない。
高志は当然ながら全裸である。
優亜の目が丸く見開かれた。
その瞳が、高志のナニをまじまじと見ている。
ぱんぱんに反り返っていたそれは、次第に力を失っていき、空気の抜けた風船のようにしぼんだ。
二人は、朝日の中で見つめ合った
気まずい沈黙が立ちこめる。
「きゃあああああぁあっ」
「うぉおおぉおおおぉっ」
優亜の肩越しに全裸の高志をちらっと見たお姉さまと親衛隊の隊士が、うれしさと悲しさと驚きが入り交じった悲鳴をあげる。
ピシャッと音を立てて、ドアが閉まった。
――お母さん、お願いです。助けてください。僕がいったいなにをしたというんですか……。
高志は、自らの不幸を呪いながら、詰め襟に着替えた。
扉の外で、見たの見れなかったの、大きかったのかわいかったのとお姉さまたちが高志のナニを評している声が漏れ聞こえてくる。
物置を出ると、かわいい男の子好きのお姉さまたちのうっとりしたため息が漏れた。
「詰め襟もステキねぇ……」
「美少年って、なにを着ても似合うんだわ……」
女子生徒が、高志を見てほうっとため息をついている。
――えっ? 僕が美少年?
高志は、自分の耳を疑った。
姉が学園のアイドルとして注目されているのは知っていたが、高志は太陽のような姉の陰に隠れ、いたって地味な存在だった。
自分に向かって注がれる、お姉さまたちの憧憬《しょうけい》の視線が落ち着かない。
瑞希さん親衛隊の隊士たちはひとりもいない。
さすがの彼らも、全裸の高志を見て、気力をなくしてしまったらしかった。
チャイムが鳴った。
「ぼ、僕、教室に行きますっ!! 失礼しますっ!!」
高志は、お姉さまたちにおじぎをした。
さすが双子というべきか、こういうときの態度は瑞希とまったく同じだ。
「高志、学生カバン忘れてるっ!! 手ぶらで教室に行ってどうするっていうのっ!?」
優亜がカバンを差し出した。
優亜は、真っ赤に染まった顔を背けている。高志の全裸を直視してしまったのだから当然だ。
高志はおどおどしながらカバンを受け取った。
――うぁ、み、見られた……。
優亜は、恥ずかしくてならないらしいのに、その恥ずかしさを押し殺してかまってくれている。
うれしい反面、照れくさくて恥ずかしくていたたまれない。
「鍵を早く閉めなさい」
「ぅうっ……そ、その」
お姉さまたちの視線が痛い。
「なに、この子? 恋人なの?」
「まさか。恋人が右ストレート、する?」
「友達でしょ?」
「美少年に女の子の友達かぁ……微妙ねぇ。恋人が女の子っていうよりはマシでしょうけど」
「美少年はやっぱり、美少年とカップリングしたいよねぇ」
「でもさ、高志くん以外に美少年なんている? ウチの高校によ?」
「いないわねぇ。つまんない、早く行きましょ」
お姉さまたちの集団がバラけていき、三々五々教室へと向かう。
「グズグズするなっ。早く行こうっ。……もうっ。ショーツ、脱いだままでほったらかしじゃないっ!! もうちょっと恥じらいってもんを持ちなさいねっ!!」
「うっ。うぅーっ。ゆ、優亜、ショーツを振り回すの、やめてくれぇーっ、は、恥ずかしいじゃないかよー」
「自分が脱いだくせにっ」
優亜が高志の手を取り、ショーツをムリヤリに握らせた。
恥ずかしくてならないのだが、好奇心には勝てないとばかりの表情で優亜が聞いた。
「ね? ちょっと、聞いていい?」
「ん? いいけど……なに?」
「………………君のアレの……えっと、さきっぽの顔みたいなの、なに?」
優亜は、恥ずかしそうにまつげをゆらしながら聞いた。
高志は言葉を失ってうなり声をあげる。
「うぅ……」
脱ぎ立てのショーツはホカホカで、ちょっと情けなかった。
高志は、蛇口をキュッとひねった。
洗面所にはじけていた水が止まる。
濡らしたハンカチを硬く絞り、顎に当てる。
「おー、痛ぇ……」
優亜のパンチは威力がある。
授業中ずっと顎が痛くてたまらなかった。
――うわ。顎、腫れてるじゃねぇか……。
鏡に映った自分は、いかにも情けなさそうな顔をしていた。
顎が拳の形に赤く染まっているせいもあり、どう見ても美少年には見えない。
――保健室に行って、熱冷まし用シートをもらってきたほうがいいのかな……。でも、顎に貼ると目立つしなぁ……っ。
わぁ、と歓声が響いた。
――桂くんよ。ほら、連絡網で伝言が回ってきたでしょ?
――あ、あのオカマ……。
――オカマって言っちゃダメなんですって。
――でもでも、やっぱりオカマよ。桂くんの女装、見たかったな。
くすくすと笑う声が聞こえてきた。
教室から一歩外に出ると、くすくす笑いとウワサ話が高志の背中を追いかけてくる。
――うぅ、いたたまれねぇ……。
高志は、そうそうにその場を立ち去った。
ハンカチで顎を押さえ、顔を伏せて廊下を歩く。
――は、早く教室に入ろう……。教室はマシだしな……。
覚悟していたのに、教室は、びっくりするほど普通だった
優亜が昨日、電話を掛けまくったせいだろう。
むしろ、普通すぎるほど普通すぎて、みんなが高志を気にしていることが逆にわかってしまったが、珍獣よろしく注目を浴びる居心地の悪さよりはずっとマシだ。
「おほほっ、おーほほほーっ。おほほーっ」
廊下の向こうから甲高い笑い声が聞こえてきた。
耳にキンキンくる音だ。
見なくてもわかる。
ほほほ笑いをするのは、この学園には彼女しかいない。
森永愛梨。
学園の女王だ。
森永財閥のひとり娘で、生粋のお嬢様。
はじめてこの声を聞いたときはぎょっとした。こういう笑い声は、ドラマの中だけのものだと思っていたからだ。
彼女は、お付きの少年を従えて、胸を張って歩いている。
廊下を歩く生徒たちが廊下の端へと移動し、お嬢様の行幸に道を譲る。
高志も廊下の端に移動し、愛梨が行き過ぎるのを待った。
「桂くんね?」
お嬢様は高志の前に足を止めた。
強い光を宿した大きな瞳が、高志をねめつけていた。
値踏みする視線だった。
「はい。そうですが……」
豪華なストレートロングの黒髪に、窓から差しこむ太陽光線が当たり、真珠の粒が伝い落ちてくるようにきらきらと光る。
決して背が高いわけではないのだが、彼女の周囲がくっきりと切り取られて見える。
大輪《たいりん》のバラのようなあでやかさと、あたりを払うような迫力は、さすが財閥のお嬢様だと感心する。
サクランボを思わせるつやつやの唇が言葉を紡ぐ。
「あなた、男よね?」
人の上に立つことを当然と思っている少女特有の、驕慢さが感じられる口調だ。
「はい」
「ミス瑠璃色に出席なさるの?」
「えっと、その」
高志は口ごもった。
姉がミス瑠璃色に出たがっているのは知っていたが、こうなってしまった今、実際に舞台に立つのは高志だ。
高志としては……出たくない。
ノーマルな男なのに、なにが悲しくて水着審査まであるミスコンテストに出なくてはならないのだろう。
「ミス瑠璃色の執行部は、あなたに参加資格ありと判断したそうよ」
「あ……そうなんですか? 姉は出たがってますけど……ま」
まだわかりません、と続けようとしたのだが、愛梨の眉がピクッと動いた。
「ふん。男なんかには負けないわ。学園いちの美人は私ですのよ!」
柳眉を逆立てる、という表現がぴったりくる表情で言い放つ。
高志はリアクションに困り、顔を伏せた。
創立祭のミスコンなんて、どうせ遊びじゃないかと思っていた。賞品は花束と図書券だし、テレビに出られるわけでもなければ、ハワイ旅行に行けるわけでもない。
だが、出場者にすればそうでもないらしい。
ミス瑠璃色学園の肩書きは、彼女らにとってとんでもなく魅力的らしい。
さばさばして、物事にこだわりがなさそうな姉も、コンテストには出たがっている。
――そういうもんなのかなぁ。
ノミネートしている参加者で、高志が名前を知っているのは三人だけ。
ひとりが姉の瑞希。
もうひとりが華道家元の娘で、お雛様のような和風少女の大堀すみれ。
そして目の前の森永愛梨。
たしかにいずれ劣らぬ美少女だ。
「お嬢様、次は教室移動ですので、そろそろご用意なさいませんと……」
愛梨の背後にいた地味な少年が遠慮がちに声を掛けた。
いつもお嬢様のあとをついて回っている少年で、お付きの人だと聞いたことがある。
メガネの分厚いレンズに瞳が隠されているせいか、それとも行儀が良すぎるせいか、ロボットみたいに見える。
愛梨の存在感の大きさに隠されて、地味で小柄な印象だ。
「そうね。そろそろ行きましょう。おーほほっ、ほほほーっ、おほほーっ」
愛梨はなにが楽しいのか、手の甲で口を隠し、身体をのけぞらして笑った。
ウワサのお嬢様とちゃんと話したのは今がはじめてだが、見た目の上品さを裏切るテンションの高さにとまどってしまう。
――変わった人もいるもんだな……。
二人は高志の前を通り過ぎ、歩き去っていった。
笑声《しょうせい》としか表現できない笑い声が、ゆっくりと遠ざかっていった。
「戻ろ……」
今の高志には、教室が唯一の安息場所になっていた。
――優亜のおかげなんだよな……。
優亜がクラスメートに電話を掛けまくり、正確な連絡内容を伝達してくれなかったら、どうなっていたことか。
高志はまだじんじんする顎を濡れたハンカチでそっと押さえた。
「お姉ちゃん」
『なぁに』
殺風景な物置の中で、高志は姉を呼び出した。
姉と二人きりで話せるところは、学校ではここしかない。
壁にもたれ、姉と会話する。
「お姉ちゃんは、ミス瑠璃色に出たいの?」
『出たいわよ』
姉は即答した。
姉の姿は見えないが、言葉は物理的な音声として聞こえてくる。
「お姉ちゃんらしくないよ」
『そうかな?』
「お姉ちゃんがミスコンに参加希望するって言ったとき、僕はネタだなって思ったんだ。だって、お姉ちゃんって、そういうの、こだわらないタイプじゃないか」
『あら、ネタじゃないわ。学園いちの美少女なんてステキじゃない。私らしいと思うわよー。あーっ、私ほどミス瑠璃色にふさわしい女子生徒はいないわね』
「そういうもん?」
『そういうもんよ』
姉の声は、生前と全く同じだ。姉はいったい何だろう。本人が主張するように、高志に取り憑いた幽霊なのか。それとも高志の妄想か。
「水着審査があるんだよ?」
『そんなもの、どうにでもできるわよ』
「出るのは僕なんだよ」
『私が高志の身体を動かすから、君はなにもしなくってもいいのよ』
「恥ずかしいよっ」
『それはみんな同じよ』
やはり姉にはかなわない。
高志は迷った。
これを言うのは最後のような気がした。
姉に言質《げんち》を与えてしまうと、どんな結果になるかわからない。
だが、ミスコンに出るよりずっとマシだ。
いちばん嫌なひとつを断るためには、比較的嫌ではない他のなにかを、ひとつだけ引き受ける。姉を説得するにはそれしかない。
「お姉ちゃんは、おいしいものを食べたり、買い物したり、遊んだり、勉強したり、ラクロスしたかったんだよね?」
『うん。そうよ』
「今日の放課後、してもいいよ」
『わっ。ほんとっ。君の身体、使わせてくれるのね?』
胸の前で両手を打ち合わせて喜ぶ姉の表情が目に浮かぶ。
「その代わり、僕はミスコンに出ないよ」
『さすがうまいわね、交換条件かぁ……』
顎に手を置き、フムフムと頷く瑞希が目に見えるようだ。
『まっ、いいかぁっ。またゆっくり、説得してあげるわよ』
「説得しなくていいから」
『わぁっ。うれしいなぁっ。私の自由時間かぁ。なにをしようかなぁ?』
「ひとつだけ条件がある」
『なによ? 着替えるな、なんて条件、聞かないわよっ。私、ぜったいにセーラー服を着るからねっ!! だって、詰め襟なんて、イヤだもん!!』
「わかった。セーラー服でもいい。でも、お姉ちゃんが出ているとき、僕の意識がなくなるのはイヤだ。自分の身体がなにをしているのかは知りたいんだ」
『わかった。そうする。ほんとうに今日の放課後、いいのね?』
「いいけど。ムチャはしないでよ」
『わかってるわよ』
「あと、それから、これは僕のお願いだけど……下着は変えないで欲しいんだ……」
下着という言葉を紡ぐのが恥ずかしく、ひそめた声になってしまった。
『うん。そうね。仕方ないわね。ブラジャーはおじぎするとズレて詰めものがこぼれるし、ショーツだと君のアレが邪魔だしね』
瑞希のあけすけな物言いに驚いて、心臓がボボンと音を立てた。
自分のナニが邪魔と言われた弟は、真っ赤に染まった顔を両手で覆って座りこんだ。
姉は落ちこんでいる弟に、さらに追い打ちを掛けた。
『あ、そうだ。私、不思議だったんだけど、君のアレってさ、大きいの? 小さいの? それとも普通サイズなの? 不気味だったから、顔を描いてあげたのよ。かわいくなったでしょう。感謝なさいね』
物置のドアを開けて外に出ると、物置の周囲に、二重三重の人垣ができていた。高志はかっと顔を赤くさせた。
――なんでこんなにたくさん人がいるんだよ?
誰にも気付かれないよう、そっと物置に入ったつもりなのに、いきなり増えた野次馬の多さにびっくりする。
高志が物置に入ったことを気付いた誰かが、ケータイで知らせたのだろう。
瑠璃色学園の校則はかなりゆるく、授業中に電源を切ってさえいれば、ケータイの持ちこみに目くじらを立てられることがない。
今まさに、渡り廊下から走り寄ってくる生徒もいるありさまだ。
高志を見たギャラリーから、ため息が漏れた。
「なんでぇ男のままなのかよ」
「なんかしゃべってるみたいだったし、女装して出てくると思ったのになぁ」
――僕は男です……。生まれついての男です。男のままだと悪いんでしょうか……。
とは、内向的《ないこうてき》な彼は口に出せない。
赤く染まった顔を伏せて、かかりにくいドアの鍵と格闘する。
「桂くーんっ。女装してーっ」
かわいい男の子好きのお姉さまたちが、高志に向かって声を掛ける。
「フレーフレー瑞希さんっ。出てこい出てこい瑞希さんっ。|L《エル》、|O《オー》、|V《ブイ》、|E《イー》、瑞希さんっ」
ピンクの腕章をつけた男子生徒の一群《いちぐん》が、いっせいに歌いはじめた。
瑞希さん親衛隊の隊士たちだ。
「女装なんてしないでっ!! 女装したら殴るわよっ!」
優亜が握り拳をブルブルさせている。
「優亜、どうして?」
「高志が用もないのに物置に入ったって内容のメールがねっ、私のところまで来たの。チェーンメールみたいにねっ」
――僕、みんなのオモチャかも……。
高志はいよいようなだれた。
「みなさん、冷静にね。桂さんは病気なのよ」
凛とした声が聞こえた。
大堀すみれだった。
華道家元の娘で、若宗匠《わかそうしょう》(次期家元)だけあって、カリスマ性のある彼女の声は、中庭の生徒たちに水のように染み渡った。
ヒートアップしていた雰囲気が沈静化していく。
まるでタイミングを合わせるようにしてチャイムが鳴った。
生徒たちがバラけていく。
「大堀さん。ありがとうございます」
「気にしないで。クラスメートとして当然のことよ」
彼女は花がこぼれるように笑った。
静かなイメージがある彼女だが、笑顔はとても華やかだ。市松人形とか、お雛《ひな》様を連想してしまう。
――そういえば、大堀さんも、ミス瑠璃色にノミネートしているんだよな……。
第3章 ノーマルな女装
高志は、詰め襟のままでゆっくりゆっくり通学路を歩きながら、瑠璃色学園新聞に掲載されている瑞希の写真を眺めていた。
恥ずかしくて直視できないので、少し見ては目をそらし、目をそらしては、また視線を落とす。
さっき、校門を出るとき、待ち受けていた新聞部の部員たちに渡されたのだ。
「桂瑞希、美しき復活」というゴシック文字が躍る表題の横に、セーラー服を着た笑顔の少女の写真が掲載されている。
カチューシャのリボンが光をはじき、無邪気な笑顔が輝やいていた。
――お姉ちゃん、だなぁ……。
女装している自分の顔を見るのははじめてだが、どこから見ても瑞希の顔だ。
目立った違いはカチューシャだけなのに、これが自分の顔なのかと思うほどに女の子っぽい。
――これ、ほんとうに僕なのか? 昔に撮ったお姉ちゃんの写真を、掲載したんじゃないのかよ?
『違うわよ。通学のときに新聞部が写真を撮ったの。放課後にもうできているんだもん。新聞部の人たち、仕事が早いのね。びっくりしたわ』
姉が話しかけてきた。
耳元でクリアに聞こえる声に驚き、つい周囲を見渡してしまったが、当然ながら誰もいない。
返事しそうになったが、すんでのところで黙りこむ。
――ひとりごとなんか言っちゃだめだ。ただでさえヘンタイ呼ばわりされているんだよ。
『だいじょうぶよ。ヘンタイ扱いはされなくなるわ。ほら、ここよ』
「えっ、どこ?」
つい声に出してしまい、あわてて口をつぐむ。
『写真の下』
「わーっ」
診断書がそのまま掲載されていた。
病院の名前や担当医師の名前は黒線で消されていたものの、高志の診断書であることには間違いない。
「ど、どうして? どうしてこれが?」
診断書を持っているのは、高志と優亜、優亜がファックスした診断書を受け取った教員だけだ。
優亜や先生が、新聞部に診断書を渡すとは考えられない。
『新聞部からコメントを求められたとき、私がコピーを渡したの』
「わーっ、な、なんてこと、お姉ちゃん、なんてことをっ!?」
『だって、連絡網の伝言がアレだったでしょ? ネットにアップできないし。みんなに確かな情報を知ってもらうには、こうするほうがいいと思ったのよ』
「で、でも、でも、瑠璃色学園新聞って、ゴシップ新聞だよっ」
彼の周囲から、波が引くようにさわさわと人気《ひとけ》がなくなった。
瑞希の声は、高志以外に聞こえない、
道ばたで紙を片手に持って立ち止まり、突如としてしゃべりはじめた詰め襟の少年を、怖そうに避けていく。
通行人は、見てはいけないものを見てしまったように目をそらしている。
――なんだ、あれ? 陽気がいいせいかな?
――お芝居の練習でしょ……。
ささやく声が聞こえてきた。
『ゴシップ新聞のどこが悪いの? 瑠璃色の生徒全員が買っている新聞よ。高志の診断書を生徒全員に見せる方法が他にあるっていうの?』
「うぅ……」
『教室の中は居心地良かったでしょ。優亜ちゃんがクラスメートに電話を掛けてくれたせいだと思うわよ。だから、きっと、明日からは、学校中が教室と同じになるよ。親衛隊とお姉さまたちは、まとわりついてきてうるさいかもしれないけど』
「そ、そりゃ、そうかもしれないけど……」
『これで高志は誰からもヘンタイ呼ばわりせずにすむわ。あーっ、なんて弟思いのお姉ちゃんなのかしらーっ。お姉ちゃんのやさしさにはゾクゾクしちゃうよねぇ』
学園新聞に診断書を載せるなんて、高志には思いつかない手段だった。
この脳天気さと、思いがけないことをあっさりとやってのける行動力は、いかにも瑞希らしかった。
――なんか、本物のお姉ちゃんっぽいなぁ……。お姉ちゃんの正体って、なんだろう?
『何回、言えばわかるの? 私は瑞希よ』
――じゃあ、お姉ちゃんは、成仏できなかった幽霊なのか?
――い、いや、そんなことあるはずない。幽霊なんて、いるわけないじゃないかよっ。
――お姉ちゃんは僕の脳が作り出した錯覚だ。僕は疲れてるだけなんだっ!!
『まあ、いいわ。信じられないのは仕方がないから。私がなにを言ったって、君は信じないでしょうしね』
「お姉ちゃんは、僕の心を読んでるのか?」
『高志の意識の表層に、言葉が浮かびあがってくるの。字幕みたいにね。それが読めるだけ。でも、高志がなにを考えているのかまではわからないわよ。……もういいじゃない。早く着替えて』
「わかった。コンビニのトイレでいい?」
『うん。いいよ』
――うわぁ。お店の人がびっくりしているよーっ。
詰め襟の男子高校生がトイレに入った、と思うと、セーラー服の女子高生になって出てきたのだから、驚くのもムリはない。
レジの内側に立っている若い店員は、顎が外れそうなほどびっくりしている。信じられないとばかりに、手の甲で何度も何度も目をこすっていた。
身体の支配権を取った瑞希は、店員に会釈をして店を出た。驚く店員を店内に残して、ガラス扉を閉める。
姉は、うきうきした足取りで、繁華街を歩いていく。
――うぅ……は、恥ずかしいよーっ。
支配権は、自分の身体を好きに動かせる権利だ。
今は姉が支配権を取っているから、高志にはなにもできない。
とはいうものの、風が髪をなぶる感触もわかるし、視界も聴覚も生きている。
高志の意識がしっかりある状態で、女装して街を歩いているのだから、これほど恥ずかしい行為はない。
まして高志は、そういう趣味のまったくないノーマルな男子だったから、もしも支配権があれば、恥ずかしさのあまりのたうちまわっていただろう。
――うわぁ。スカートがスウスウする。女の服って頼りないんだなぁ……。
――み、見てるよーっ。みんな見てるーっ。そ、そりゃ、胸、まったいらだし、セーラー服はムリがあるかも……。
――でも、ちょっと、くすぐったい、っていうか。見られるのって、気持ちいい……っていうか。こう、じいん、とくる、っていうか……。
――わーっ。僕、な、なにを、考えているんだぁーっ。
自分ではない自分が、見慣れた街並みを歩くのは、新鮮な体験だった。まるで別の人間になったみたいでくすぐったい。
姉は、見事に街並みにとけこんでいた。
少年っぽさや違和感はまるでない。
道行く人も、普通の女子高生を見る視線で通り過ぎていく。
瑞希は、ときおり立ち止まり、ショーウインドに映る自分の姿をチェックする。
――女の子、だなぁ……。
男として生まれてきたはずなのに、セーラー服の瑞希は嫌になるほど女の子だった。これが自分なのかと驚くぐらい、さわやかな美少女になっている。
胸なんかまったいらだし、スカートの下はトランクスだ。
だが、それでも、風が吹いたときに髪を押さえるときや、学生カバンを持ち変えるときの、なんでもないしぐさが女の子っぽい。
これがほんとうに自分なのかと目を見張る。
――お姉ちゃんが幽霊じゃなくて妄想だとしたら、……僕に、女の子になりたいって願望があって、無意識に出てしまった、とか……。い、いや、それはない……。僕はノーマルだ。
――で、でも、僕、ほんとうにノーマルなのか? 女装してるのに、そんなイヤじゃないっていうか……イヤじゃないどころか、ちょっと、なんか、気持ちいい、っていうか……。
姉は、大きな書店に入り本を見て歩いたあと、いったん店を出て、その横のケーキショップをのぞいた。
もう一度書店に入り、店内をぶらぶらしている。
姉とはいえ、自分の身体を他人が使うのを体験するのは、不思議な気分だった。
「お姉ちゃん、こんなのがしたかったの?」
姉は答えない
なにを考えているのか、ただただ無言で、店内を歩いている。
窓ガラスに映る自分の顔は、唇をきゅっと結んだ真剣な表情だ。
それは、本を探しているというよりは、本を選ぶフリをして誰かを待っている、というふうに見えた。
――誰かって、誰だ?
――僕には、本屋で逢う誰かなんていないぞ。
――僕の知らない、誰か……なのか?
――ありえない。そんなこと。お姉ちゃんは、僕の妄想なんだぞ。なんで妄想が、僕の知らない誰かを探すんだよ?
結局、「誰か」は見つからなかったらしい。
姉は、フッとため息をついて肩を落とした。
本屋を出て、道を隔てて向かい合うハンバーガーショップに入った。
コーヒーを注文し、窓際の席に座り、ぼんやりと書店を眺める。
「お姉ちゃん。おいしいものを食べたいって言ってたろ。コーヒーなんか飲んでないでさ、せっかくだから、なにか注文しろよ。お金なら気にするなよ。お香典だとか御霊前《ごれいぜん》とかいっぱいもらったんだ。それとも、誰かと約束でもしているの?」
姉は答えない。
瑠璃色学園新聞を取り出し、机の上に広げる。
だが、あまり新聞には興味がなさそうで、ぼんやりと窓の外を眺めている。
まるで、高志の気持ちをそらせるために、わざと新聞を取り出したみたいに見えた。
間《ま》が保《も》てなくなった高志は、しかたなく学生新聞に目を落とす。
【桂瑞希、美しき復活】
【大堀すみれと森永愛梨の、二大マドンナ激突だと思われたミス瑠璃色学園だが、桂瑞希の復帰により、優勝候補はこの、三人に絞られた。今回の紙面では、三人の属性と優勝確率を検証する】
――属性と優勝確率、かよ……。
まるで競馬新聞のようなあおり文句にげっそりする。
【大堀すみれ、属性、華道娘。知性派の和風美少女。
江戸時代から続く華道の流派、大堀|花心《かしん》流家元の娘。すみれ自身も、若宗匠(次期家元)として、華道の指導にいそしむ毎日である。まっすぐなみどりの黒髪と切れ長の瞳が特徴。成績優秀の特待生。
プロポーション? 美貌◎、知性◎、親しみやすさ△、華やかさ○、神秘性◎】
プロポーション?とはなんだろうと思ったが、|B《バスト》|W《ウエスト》|H《ヒップ》のうち、Bの数字が、?になっている。小さな字で注釈がついていた。
【大堀すみれのバストサイズの公称はBカップだが、あげ底疑惑があるため「?」とする】
姿勢が良く堂々としているので気付かなかったが、たしかにすみれはスレンダーな体型だ。グラマーな印象はない。
Bの数字がいちばん大きいのは森永愛梨だった。
【森永愛梨、属性、お嬢様。
森永財閥のひとり娘。財閥のトップとなるべく育てられたため、成績優秀スポーツ万能。語学が堪能で、英語、中国語、フランス語、イタリア語を操る。社交ダンスはプロ並み。華やかな美貌が特徴。
プロポーション◎、美貌◎、知性◎、親しみやすさ×、華やかさ◎、神秘性△】
◎の数が他の参加者に比べてずっと多い。これを見ていると、優勝するのは森永愛梨しかないと思えてくる。
【桂瑞希、属性、明るくて親しみやすい庶民派アイドル。
明るい笑顔としゃきしゃきした口振りが元気な彼女。瑞希さん親衛隊の隊員は、実に二十人の大所帯を誇る。ラクロスの選手としても活躍している。
なお、桂瑞希は、弟の桂高志の身体を借りて復活を果たしたが、美貌はまったくと言っていいほど損なわれておらず、むしろあやうい魅力が増しているように思われる。
プロポーション×、美貌◎、知性○、親しみやすさ◎、華やかさ△、神秘性◎】
――ふうん、お姉ちゃんもけっこう◎が多いんだ……。
高志はうなった。
プロポーションの×は、高志が男なのだから当然だが、もしも姉が瑞希の身体のままで出場していたら、愛梨といい勝負になりそうだ。
――そうか。うちのお姉ちゃん、人気者だったもんな……。
自分の姉だからあまり気にしなかったが、家事を高志に押しつけ、下着姿で部屋の中をうろうろするあの怠惰な姉が、こんなにも生徒たちの人気を集めていることに驚くばかりだ。
ゴシップ新聞とはいえ、ミスコンはもっとも盛りあがるイベントだから、取材にも力を入れているようだ。情報の精度は高いだろう。
「この新聞、二百円だもんなぁ。コンビニでコピーしても二十円だろ。十倍だもんなぁ。高いよなぁ……でも、これ、売れてるんだよなぁ……不思議だよなぁ。みんなゴシップが好きなのかなぁ?」
A3サイズの紙を両面コピーし、二つ折りにしたもので、誰と誰がつきあったの別れたの、保健室のおばさんが実は美人の探偵だの、学園伝説を検証するだの、校門の横の池には徳川の秘宝と呼ばれる財宝が埋まっているだの、地下には防空壕が掘られていて、死体がいっぱいつまっているだの、やくたいもない記事であふれている。
新聞部がネットでもなく、フリーペーパーでもなく、紙媒体での新聞発行にこだわっているのは、このゴシップ性といいかげんさによるのだろう。
こんなアヤシゲな内容を、ヘタにネットにアップすれば炎上必至だ。学校を巻きこむ大騒ぎになるのは間違いがない。
「佐藤さん……っ」
ふいに姉が立ちあがった。
椅子が、がたっと不穏な音を立てる。
飲みかけのコーヒをそのままにして席を立つ。
『えっ、おいっ、お姉ちゃんっ!? カバン、置きっぱなしっ!!』
姉は、椅子を蹴飛ばす勢いで路上へと走り出る。
瑞希は、なにを考えているのか、書店の前で立ち止まった。
伸びあがるようにして店内をのぞきこんだり、髪を手で撫でつけたり、セーラー服の裾を引っ張ったりしてもじもじしている。
視線の先になにがあるのだろう。書店のガラスが光の加減で反射して、店内の様子が見えないのがもどかしい。
――お姉ちゃん。なんか恋する少女って感じだ……。
――ってことはつまり……?
五分ほど待っただろうか。
やがて書店のドアが開き、黒スーツの青年が静かに出てきた。小脇に、本を入れた紙袋をかかえている。
「佐藤さん……っ」
高い背と、着慣れたスーツ姿のせいで、ずっと年上に見えたものの、青年はずいぶん若かった。
高志とほとんど年齢が変わらない。せいぜい大学生、いや、高校生かもしれない。
だが、目の前の佐藤という青年は、学生特有のふわふわしたところが皆無だった。
働いている大人、それも接客業についている青年、という感じがした。
くっきりした目鼻立ちなのに、表情はやさしげで、老成した落ち着きを感じさせる。
なるほど女子高生が夢中になりそうなヤサ男だ。
子供向けの特撮アクション番組にチャンネルを合わせれば、似たような顔立ちの俳優がわんさか出てきそうだ。
――なんかホストみてぇ……。
「佐藤さん。久しぶり!」
姉の声ははずんでいた。
これが自分の声帯から出た声なのかと驚くほど甘い響きを帯びた声だ。
イケメンホスト男は瑞希がわからないらしく、無言で姉を見ている。
――なんだよこいつ? なんでこんな目で僕を見るんだよ?
「わからない? 瑞希よ。よかった。逢いたかったの。ケータイのメモリ消えちゃって、電話できなくて……」
姉は親しげに話しかけるが、青年の顔には、困ったような表情が浮かんでいる。どうしてこの子がここにいるんだ? とでも言いたそうな雰囲気だ。
よそよそしい空気は、姉が青年を慕うほど青年が瑞希のことを思っていなかったことの証明で、二人の温度差がはっきりわかる。
――うーん……。
高志はうなった。
――決まりだな。
医者が二重人格だと言うので妄想かと思いこんでしまったが、いまイケメンホストを憧れの視線で見あげている瑞希は、妄想の産物ではない。
こんな姉は、生まれてはじめて見た。
これは高志の知らない瑞希だ。
――幽霊なのか。姉さんは……。
――この男が心残りになって成仏できなくて、僕に憑依《ひょうい》したのか……。
高志は不思議なほど平静だった。
瑞希が幽霊で、いままさに幽霊に取り憑かれているとわかっても、ぜんぜん怖くなかった。
――したいことはいっぱいあるわ。おいしいもの食べたり、買い物したり、遊んだり、恋愛したり、結婚したり、勉強したり……ラクロスももっとやりたかったな。あ、そうだ。ミス瑠璃色学園にも出たかったの。だってさ、私って、学園いちの美少女だもーん。
あのときはなんとも思わなかった言葉が、重みを持って迫《せま》ってきた。
姉は死んだ。
事故で、トラックの下敷きになって。即死だった。そうだ。姉の瑞希は、死んでしまったのだ。
瞳がうるっとなり、鼻がツンとした。
「う……っ、ぐすぐす……ぅうっ」
高志は泣いていた。
感情が激しく揺さぶられ、涙が流れて止まらない。
いま、身体を使っているのは姉の瑞希だから、物理的に泣き出すことはない。
だが、それでも高志は泣いていた。
お通夜も葬儀も泣けなかったのに、今頃になって泣き出すなんて信じられない。
――ああ、そうか。僕は、お姉ちゃんの死を、信じられなかったんだ。だから、ずっと、泣けなかったんだ……。
お葬式の間中、どこか現実感がなく、まるでドラマのようだった。
父の秘書が二人きて、葬儀を取り仕切ってくれたとはいえ、喪主はひどく忙しく、泣くヒマさえなかった。
哀しみをこらえて喪主の役割をきちんとこなしているなんて、立派だと、担任の赤石《あかいし》先生や大人たちに誉められたが、高志は少しも偉くない。
ぴんと来なかっただけなのだから。
だが、今、ようやく実感した。
これは現実に起こったことなのだ。
あの明るく元気な姉はもういない。
「失礼」
黒服ホストは、軽くおじぎをすると、きびすを返した。
――んっ? この声……。
どこかで聞いたことのある声だ。
だが、こんなイケメン男、高志の周囲にいない。テレビで見たか聞いたかしたのを、間違えているのだろう。
姉は「あ」と声をあげて立ち止まり、本をかかえて立ち去っていくホスト男の背中をじっと眺めていた。姉の表情はわからないが、呆然としているだろうことは間違いがない。
今にも泣き出しそうに、肩がふるえている。
だが、瑞希の反応は、高志の予想とまったく逆だった。
「はは……っ、はははっ、や、やだなぁ……っ」
瑞希は笑った。
「あははっ、ははっ、はははっ……や、やだなぁ……っ、やだよぉっ……あははっ」
楽しくてならないとばかりに、ケラケラと笑っている。
――そうだった。お姉ちゃんって、こういう人間だったんだ。
姉は、悲しいときほど笑ってしまう人間だ。
多少の困難は笑いながら乗り越えていく。
そんな明るい姉と一緒にいたからこそ、非嫡出子という陰気になりがちな立場でも、楽しい毎日を過ごせたのではないか。
道ばたで立ち止まり、突如として笑い出したセーラー服の少女を、道行く人が気持ち悪そうに避けていく。
――あ、身体、動くな……。
自分の身体が自由に動くことに軽い驚きを感じながら、ハンバーガーショップに入って、置きっぱなしの紙袋と学生カバンを持つ。
ほんとうは早く着替えたかったのだが、姉が気になった。
姉は放心しているらしく、黙りこんでいる。
ショックを受けている気配だけが伝わってくる。
口が重く、陰気な弟は、こういうとき、うまい言葉を掛けられない。
高志は、さっき姉が座っていた席に座った。
側頭部に食いこんで痛いカチューシャを外し、飲みかけのコーヒーを飲んで、気持ちを落ち着かせる。
コーヒーはすっかり冷めていて、ぜんぜんおいしくなかった。
「冷たい……」
『あはは、そうね。冷たいね……』
高志はケータイを取り出して、数字盤に親指を走らせた。
【元気出せよ】
『ありがとう。迷惑を掛けちゃってごめんね』
ケータイの日本語機能を使って、姉と会話する。
言葉に出すことはできなくても、メールなら書ける。
表示して消すだけなので、厳密にはメールではないのだが、はためには、女子高生がケータイでメールを打っているようにしか見えないだろう。
『高志はケータイあっていいよね。私、事故のとき、壊れちゃったんだよね。メモリどころか、本体ごとね。でもま、この身体じゃ、ケータイがあっても扱えないけどね』
【当然だよ】
『なにがよ?』
ホスト男、と書こうとしてやめる。
【さっきの男だよ】
『どうしてよ?』
【死んだはずのお姉ちゃんが急にあらわれたんだよ。びっくりして当然だと思う】
瑞希が返してきたのは沈黙だった。
沈黙がひどく重く、まずいことを書いたのかなと後悔する。
【急に貧乳になったから、びっくりしたのかも】
生前の姉は、Fカップの巨乳の持ち主だった。
くっきりした谷間を誇っていた双丘《そうきゅう》が、突如としてさわやかな平原に変わったら、誰だってびっくりする。
『そうよねっ。私、胸は大きいよねっ!! かわいいし、プロポーションもいいし、学園のアイドルよぉっ』
【うん】
瑞希はまさしく学園のアイドルだった。
彼女がひとりいるだけで、教室の雰囲気がぱっと明るくなるような、そんな元気のいい女の子だった。
姉も学園のアイドルらしくふるまっていたから、有志が親衛隊を組織するほどの人気だった。
家での怠惰な姉を知っている高志には、姉の楚々としたアイドルぶりは演技過剰すぎておもしろく映り、笑いをこらえるのに苦労したことを思い出す。
『高志ってば、今日は素直だねーっ。いつもはうぅ、ってうなるだけなのに』
【うぅーっ】
『あははっ。はははっ』
姉はひとしきり笑ったが、声が湿っていた。すぐに黙りこむ。
ややあって、ぽつりと言った。
『佐藤さん、私が死んだこと、知ってたのかな?』
【そりゃ、知ってるだろ。びっくりしてたし】
『そうかぁ。知ってたのかぁ。お葬式もお通夜も来なかったから、私の死を知らないんじゃないかと思ったの……知らないんならラッキーだし、生きてるフリしてつきあっちゃえーって、そう思ってた」
行動力はあるものの、後先を考えない姉が言いそうなセリフだった。
【お姉ちゃん。つきあうの、僕なんだよ。僕が佐藤さんに押し倒されたら、どうするつもりだったんだよ?】
『考えてないもん。そんなの。いいじゃん。私の代わりにエッチしてよ、私、体験せずに死んじゃったのが、心残りなのよね』
「うっ」
言葉を失って黙りこむ。
脳裏では、男に犯される妄想がぐるぐると渦巻いて、あまりの気持ち悪さに冷や汗が用る。
姉もまた黙りこんだ。ややあって、ぽつりと言う。
『そうか、知ってたのかぁ……』
【さっきの人、お姉ちゃんの恋人?】
『まさか。たまに逢うだけの人』
【ほんとは好きだったんだろ?】
『うん。……でも、佐藤さんは、そうじゃなかったんだね』
静かな声だった。
だが、落ち着いた口調だからこそよけいに、姉の落胆がはっきりわかる。
――したいことはいっぱいあるわ。おいしいもの食べたり、買い物したり、遊んだり、恋愛したり、結婚したり、勉強したり……。ラクロスももっとやりたかったな。あ、そうだ。ミス瑠璃色学園にも出たかったの。だってさ、私って、学園いちの美少女だもーん。
【秘書さんに頼んで、調べてみようか?】
『それはダメ。お父様になんか頼りたくない』
佐藤さんのことを知りたかったのだが、姉が嫌がっているのだから、あえて調べることはないと思い直す。
『高志、外……』
「えっ?」
顔をあげた高志の目に映ったのは、ガラスの向こうに立ちつくし、怖い顔をして高志をにらみつけている優亜だった。
「う、うぁ……」
怒りの波動が、彼女の周囲をぶわっとばかりに取り巻いている。
胸の前でつくられた握り拳がブルブルしているのが見て取れた。
明るい色のツインテールが夕陽に輝き、気の強そうな彼女の美貌を明るく彩っている。
「優亜、そ、その、怒ってるみたいなんだけど」
『そうね。怒ってるみたいね』
優亜は、ちょいちょいと手招きをした。
「出ろって合図してるんだけど」
『出ればいいんじゃないの?』
「殴られそうなんだけど……」
『いいんじゃないの?』
姉に相談したのがそもそもの間違いだった。
高志は飲み終えたコーヒーの発泡カップを握りつぶしてゴミバコに放り入れると、処刑場に引き出される牛の気分で、どぎまぎしながら店を出た。
「高志よね? その格好はなにかしら?」
優亜は、にっこりと笑いながら聞いた。
「それとも高志じゃなくて、瑞希さんなのかな?」
真っ黒なオーラが、優亜の周囲にどよんどよんとたゆたって、なかなかの迫力だ。
――うぅ。背中がゾクゾクするよぉ……。
高志だと言うと半殺しの目に遭《あ》いそうで、ひどく怖い。
「嫌だわ。優亜ちゃんってば。私、瑞希よ。み、ず、きっ」
高志は上目遣いに見あげながら、意識して高い声で言い、合わせた両手を胸の前でねじるようにした。さらに、小首を傾げてしなをつくり、唇を尖らせる。
高志の女の子のフリはオーバーアクションで気持ち悪く、本物の少女である優亜の気持ちを逆《さか》なでした。
「高志でしょっ!?」
右ストレートが高志の鳩尾《みぞおち》を狙う。
「わーっ、殴るなっ。殴るなぁっ」
握り拳がヒットする瞬間、後方へと飛びすさる。
殴れなかったことが優亜の怒りに油を注いだのか、優亜は学生カバンを振り回して高志を追いかけてきた。
「あんたのそれって、ただのオカマじゃないのっ!?」
バコンバコンと学生カバンで頭を叩かれ、ぎゃあぎゃあ悲鳴をあげてしまう、
「二重人格だとか、言い訳でしょっ!! 趣味で女装してるんじゃないのっ!? このヘンタイッ!! なにが、私、み、ず、き、よっ? カマっぽかったわよっ。瑞希さんが泣くわよっ。やだもうっ、最低っ!!」
「うあああっ、や、やめてくれーっ。やめてくれよぉっ!! 優亜、優亜ぁっ!! カバンの留め金のところが当たって痛いんだよぉーっ」
優亜は、怒りにハーハーしながら、学生カバンを振り回している。
明るい髪色のツインテールが大きくハネて、見るからに気の強そうな彼女の美貌を、凄艶《せいえん》に彩った。
いずれ劣らぬセーラー服の美少女二人が、突如としてはじめた大喧嘩に、ハンバーガーショップの店員も、書店員も、道行く人も、なんだなんだとばかりに見物している。
「ご、ごめんっ、ごめん。悪かった。な、殴らないでっ」
「こっち来なさいっ!!」
優亜は、高志の襟首をむんずとつかむと、問答無用とばかりに書店に入った。
セーラー服の三角襟のホックがぶちぶちっとはじける。
「ゆ、優亜、ふ、服、ぬ、脱げるっ」
優亜は高志の手をガシッとつかみ、ずんずんと歩いていく。高志は、優亜の迫力に飲まれてしまった。襟のボタンを嵌《は》めながら、優亜に引っ張られるままちょこちょこと歩く。
優亜は、お店のいちばん奥のアダルトコーナーに入った。
柳眉を逆立てた気の強そうな女子高生と、見るからに気の弱そうな女子高生の二人連れが、不穏な空気を漂わせながらアダルトコーナーに入ってきたものだから、DVDや写真集、エロコミックや官能小説を選んでいた男性たちが、ぎょっとした顔をして固まった。
びっくぅっと手をふるわせて、手にしていたDVDを取り落としてしまった男性客もいるし、ぽかんと口を開けて二人を見ている客もいる。
彼らは、まるで悪いことをした子供のように顔を伏せながら、そそくさとその場を離れた。
そして、アダルトコーナーの入り口でたたずんで、早く出てってくれないかなーっという表情で優亜たちをのぞきこむ。
「高志はねっ。男成分が足りないのよっ!! これでも読んで男に戻りなさいっ」
優亜は、投稿写真雑誌を棚から引き抜くと、高志の胸にエロ雑誌を突きつけた。
「はいっ、これっ。これもっ。これもっ!!」
グラビアアイドルのきわどい水着DVDに、黒い表紙に黄色の文字がやたらと目立つ官能小説、アニメ絵の美少女がにっこりしている美少女ゲーム雑誌、エロコミックに熟女雑誌と、ありとあらゆるものを棚から引き抜いて高志の胸に押し当てる。
高志はしかたなく受け取った。
セーラー服で人前に立っているだけでも恥ずかしいのに、興奮した優亜がハーハーと息を荒げながらエロ本とエロDVDを押しつけてくるものだから、恥ずかしさのあまり、いたたまれなくなってくる。
「優亜、こんなに買えないよ……」
高志は、怒りで沸騰したあまり、正常な判断能力がなくなっているらしい優亜に、遠慮がちに声を掛けた。
本やDVDは、高志の手の上にどっさりと積みあげられ、今や顎に当たるほどになっている。
中身は男とはいえ、高志の見た目はセーラー服の女子高生だ。
十八禁のコーナーに女子高生が二人も入っているだけでも目立つのに、怒りを含んだ優亜の高い声はよく通り、店中の人間がアダルトコーナーの入り口に集まっている。
エプロンを掛けた店員は、声を掛けるタイミングをつかもうとしてもじもじしているし、グラビアアイドルの水着DVDを片手に持った客は、もうちょっと選びたかったんよだなーっという表情で、居心地が悪そうに、肩をすくめている。
一般客は眉をひそめて首を振っているし、瑠璃色高校の制服の男子生徒は、おもしろくてならないとばかりの顔をしながらケータイをいじっている。
パシャッと音がして、フラッシュが光った。
瑠璃色の生徒がケータイを高く掲げ、明るい口調で声を掛ける。
「スクープ、いただきましたっ! 瑠璃色学園新聞ですっ!!」
「くっ、こ、このっ、パパラッチがっ!!」
高志は顔をひきつらせた。
女装写真と診断書が瑠璃色学園新聞に掲載されたときも恥ずかしかったが、エロ本を山ほどかかえた女装写真が載るかもしれないと思うと、あまりのいたたまれなさに叫び出しそうになってしまう。
優亜が、えっ? という表情で、高志と新聞部員を見比べている。彼女の驕慢そうな顔が、パパッと赤くなった。
状況の恥ずかしさに、ようやくのことで気付いたらしい。
「きゃーっ、いやーっ!!」
優亜は、まるで痴漢に遭ったような悲鳴をあげ、手に持っていたエロDVDとエロ雑誌を高志に向かってぽいぽいと投げつけた。
「わーっ、わわわーっ。わーっ」
両手いっぱいにDVDと本を重ねて持っている状況では、受け止めることは難しい。おろおろしながら、肩と首の間だの、脇の下だのでキャッチする。
上のほうに重ねてある本がぽろぽろ落ちた。
「いやっ。いやいやいやーっ。恥ずかしいっ!!」
優亜は両手で顔を覆い、自らが招いた羞恥プレイから逃げ出した。
「お、おいっ。優亜っ、優亜っ!!」
追いかけようとしたが、両手にエロ本の山をかかえた状況では身動きがつかない。
「お客さん。ご購入ですか? それらは十八禁なので、十八歳以下のお客さんにはお売りすることができません。身分証明書を見せていただけますか?」
エプロンをつけた店員が進み出てきて、高志の前に立ちふさがった。
高志は、店員にエロ本の山を押しつけた。
「すみませんっ」
店員におじぎをする。
あまりにも勢いよくやりすぎて、スカートがぺろっとめくれてしまい、トランクスを穿いた少年のお尻があらわになった。
高志のお尻を見てしまったギャラリーから、うぎゃおぉぅっと悲鳴があがる。
女子高生の羞恥プレイを眺めていたつもりだったのに、スカートの下からあらわれたのが少年のお尻だったのだから悲鳴をあげるのもムリはない。
高志は、優亜を追って書店を出た。
優亜は、学生カバンをぶらつかせながら夕暮れの道にたたずんでいた。
ローファーを履いた足先で、路上に落ちていた空き缶をつんつんしている。
見るからにしおたれた様子だった。
「優亜っ。おいっ、待ってくれっ」
長い影を従えた彼女が振り返った。顔が、ほんのりと上気《じょうき》している。
――ああ、優亜ってかわいいなぁ……。
こんなときだというのに、幼なじみに見とれてしまう。
明るい色のツインテールが、夕陽を跳ね返してキラキラ光っている。長いまつげが伏せられて、整った顔に影を落としている。
――優亜ちゃん。いい子ねぇ。高志が心配でならないんだわ。
――まさか優亜ちゃんが、高志を意識してたとはねぇ。ウチの弟、どんくさいし、冴えないのに。
――高志はいいなぁ。こんなかわいい女の子に好かれていて。
――私なんか、こんななのに……。死んじゃったのに、生きてさえいないのに。
高志の身体を使いたい。
高志が自分の身体を使っているときは瑞希はなにもできない。それがとてももどかしい。
「優亜、ごめん。ありがとうっ!!」
「どういう意味よ?」
「僕のことを気にしてくれてありがとう! ……本とかDVDは全部返してきた。十八禁だし。僕ら、十七歳だしさ」
優亜の表情が動いた。
泣き出す寸前の表情だ。
――あらら、いい雰囲気じゃない?
――お姉ちゃんとしては、弟の恋愛を温かく見守ってあげるべきよねっ。うん。
――あーっ。いいお姉ちゃんだわぁっ。私って。
「全部返しちゃったの? じゃあ、私が恥ずかしい思いをしたの、意味がないじゃない!?」
優亜は瞳をウルウルさせて、ハナをすすりあげた。
――優亜ちゃん、かわいいなぁ……。恥ずかしいのに高志のためにエロ本を買おうとするなんて、けなげよね……。
「ごめん。でも、僕、その……、ああいうの、恥ずかしくて買えないんだ……優亜と一緒に見れるならムリしてでも買うけど……」
――ええっ、ちょ、ちょっと。高志ってば、それ、冗談になってないよ? なんてバカなの?
――エロDVDを一緒に見たいなんてセクハラよっ。最低だわっ。殴ってやろうかしらぁ。
幽霊である瑞希は高志を殴れないのだが、握り拳をつくり、ハーと息を吹きかけたときのことだった。
瑞希が高志に向けて握り拳をふるった。
「エッチなことを言わないでっ!!」
予備動作のない、いきなりの右ストレートだ。
顎にがーんと衝撃が来て、脳味噌がシェイクされる。
ふいうちだったので、もろにくらってしまう結果になった。
さらにアッパーカットを受けて、仰向《あおむ》けにバタンと倒れる。
瑞希は、意識をなくした高志に変わり、身体を支配した。
「きゃあっ」
転びそうになっていたが、女の子っぽい悲鳴をあげながら、すんでのところで踏みとどまる。
優亜は激昂し、肩を激しく上下させている。怒りのあまり身体をふるわせているありさまだ。瞳に涙を溜めて高志をにらんでいる。
高志から瑞希にスイッチしたことなど、まさか気付いていないだろう。
――どうしよう。優亜ちゃん、すっごく怒ってる……。
――ええい。こういうときは荒療治よっ!!
――どうせ高志の身体だしっ。殴られるかもしれないけど、痛いのは高志だしっ!!
瑞希は優亜を抱き寄せた。
「えっ?」
甘い匂いのする優亜の身体から、とまどいと驚きの気配が伝わってくる。
――女の子って、フワフワでいいなぁ。
瑞希は、高志の女友達のツインテールをそっといじった。フローラルシャンプーの香りがフワッと立ちのぼり、鼻腔をくすぐる。
――いい匂いがするな。男の身体だと、香水つけても、なんかヘンな匂いなのよね、どうせ取り憑くんなら、女の子のほうがよかったなぁ……。私が高志だったら、こんなかわいい子、ほっとかないのになぁ。でも、優亜ちゃんに取り憑くのはかわいそうね。高志はいじめてもいいけど、女の子はいじめたくないなぁ。
優亜はきょとんとしていた。
「ど、どうしたの? 高志らしくないよ? もしかして、イヤな思いをさせちゃった? 私、やりすぎちゃったかな?」
とまどった口調で。言う。
「泣いてるの? 痛かった? ごめんね……」
さわやかな息が頬ではじけてくすぐったい。
――泣いてないよ。だいじょうぶよ。高志、優亜ちゃんにかまってもらって、くすぐったい思いをしてたと思うけど、イヤな思いはしてないよ。高志もきっと、優亜ちゃんが好きだよ。
優亜は、高志の顎をそっと撫でた。
ひんやりした小さな手が、殴られてじんじんしているところを撫でる。
やさしい手つきで、優亜は高志を慰めている。
いま、優亜の手の感触を覚えているのは瑞希なのに。
私はいない。
どこにも存在しない。
胸がキュンと疼《うず》く。甘いのに苦い。せつなくてねたましい。そんな思い。まったくはじめての感情で、ぐるぐると渦巻きながら、瑞希を混乱させていく。
――高志、感謝しなさいっ。私、百合じゃないよ。でも、高志のためにやってあげるんだからねっ……。
「君が好きだ……」
瑞希は、優亜の頬を両手で挟んで上向かせると、唇にそっとキスをした。
これは瑞希のファーストキス。
弟の身体を使っているとはいえ、まぎれもなくファーストキスだ。
優亜は瞳を閉じることも忘れて、呆然としている。
今、自分の身に起こっていることが信じられないという感じだ。その瞳がとろんと曇る。うろたえて緊張していた優亜の身体から力が抜けた。
――優亜ちゃん、気持ち良さそう……。そうよね。好きな男の子にキスされてるんだもん。気持ちいいよねーっ。
――私も、生きてるときに、佐藤さんといっぱいキスしたかったなー。
彼は、手さえ繋いでくれなかった。
好きだったのに。
キスをしたかった。デートしたり、BとかCとか、したかった。
私は彼が好きだったけど、彼は、私を好きじゃなかった。
佐藤のあの笑顔は、誰に向いていたのだろう。
鼻の奥がツンとなる。
――私ってイジワルだ。
高志のため、なんて言うけれど、ほんとうは、弟のためなんかじゃない。
――私は高志がねたましいんだ。
弟は、ちゃんと生きていて、身体があって、幼なじみの女の子に愛されている。
優亜は、こんなにも高志を心配している。
私は高志の姉で、二人の恋愛の味方をするべき立場なのに、いったいなにをやっているんだろう。
罪悪感でいっぱいになり、唇をはなそうとしたときのことだった。
フラッシュが光った。
「写真っ、いただきっ!! 新聞部に送信しましたぁっ。明日の学園新聞、期待してくださーいっ!!」
さっきの新聞部員が、ケータイを高く掲《かか》げてウインクする。
――あ、そっか。さっきの部員、まだいたのね……。マズイなぁ……。
優亜がはっと身体を緊張させる、
そして、唇をはなすと、後方へと飛びすさった。
手の甲で唇をこすり、困ったような悲しいような顔をした。
「最低っ!!」
強烈な平手打ちが瑞希の頬に炸裂した。
なにも考えられなくなるぐらいの、強烈な張り手だった。
瑞希の意識が飛んでしまい、身体の支配権が高志に移る。
「痛ぇ……」
高志は顎を押さえた、
わけがわからなかった。顎に瑞希の右ストレートを受けた、と思う間もなく、次の瞬間には泣き顔の優亜が頬を叩いていたのだから。
――お姉ちゃん、なにかやったな。
姉が優亜を怒らせた。
瑞希は、いったいなにをやったのだろう。
「嫌いよっ!!」
優亜は、涙をいっぱいに溜めた瞳で高志をにらんでいる。
「好きだなんてひどい。からかうなん最低よ!! 嫌い嫌いっ!! 大っ嫌いっ!! キスするなんて、許さないっ、許さないんだからぁっ」
身体の脇で作った握り拳をブルブルさせながら、半泣きで叫ぶ。
――えっ。キスしたのか?
――お姉ちゃんが、優亜に? 好きだって言った?
あまりの内容に呆然として、棒立ちになってしまう。
優亜は、きびすを返すと、走り去っていった。
ツインテールが大きくハネて、セーラー服の特徴的な襟を掃《は》く。
路上には、ぼんやりしている高志と、ケータイで写真を撮りまくる新聞部員、そして、いきなり展開された百合百合しいキスシーンに呆然としている人たちが残された。
追いかけようとしたが、あの様子では優亜をよりいっそう怒らせるだけだと思い直す。
肩を落としてとぼとぼと帰途につく高志に、瑞希が話しかけてきた。
『ごめんね。やりすぎちゃった。お姉ちゃんが悪かったわ……』
「いいよ。もう……。やってしまったことはしかたない……」
高志はセーラー服のままだ。
もう、服装なんてどうでもいい。
しおたれた様子で道を歩くセーラー服の女子高生を、道行く人が眺めていく。
泣きそうな表情を浮かべている高志の外見は、雨に濡れた子犬のようで、守ってあげたい系のかわいさだ。
「お姉ちゃん、いったいどういうつもりで、そんな軽いことをしたんだよ?」
すれ違った主婦風の女性が、びっくうっ、と身体をすくめた。
ぶつぶつとひとりごとを言う高志を見て、気の毒そうに顔をしかめ、左右に首を振って逃げていく。
どうせ姉のことだから、高志がドンくさいから代わりにキスしてやったのよ、とでも言うだろうと思っていたのに、姉の回答は予想とは違っていた。
『えーと、そのね……うらやましかったんだ。ごめんね……』
「うらやましい?」
『私さ、佐藤さんと、なんにもなかったんだ』
「なんにもって?」
『好きって言ってないの。キスもしてないし、BもCもしてないよ』
かっと顔が熱くなった。
姉のあけすけな物言いに、どう答えていいものか困り果てる。
「お姉ちゃんらしくない」
瑞希は明るくて無邪気な女性だ。
あとさき考えない行動力が魅力で、高志と正反対だった。反面思慮が浅く、同じ失敗を何度となく繰り返す。
『好きすぎて、好きだって、言えなかったの』
姉は、問わず語りに話しはじめた。
あの書店で、同じ本に手を伸ばし、一冊しかない本を佐藤さんが譲ってくれた。
読み終えたあと佐藤さんに本を貸したら、返してもらった本の中にお礼の手紙が入っていた。
手紙に書いてあったケータイの番号に、自分から電話をかけた。
カフェで、二人で一緒にキャラメルマキアートを飲んで、いろいろおしゃべりした。
メールのやりとりをするようになり、週に二度ほど、放課後に待ち合わせるようになった。お茶を飲んでおしゃべりをするだけの交際は、二ヶ月にも及んだ。
『キスしたかったのよね。BもCもしたかったなー。デートしたかった。一緒に旅行に行って、一晩中一緒にいたかった』
「デート、してない?」
『うん。一度も……。土日は仕事で忙しいって……。遊園地とか、行きたかったなぁ』
「うーん……」
佐藤さんは姉を、友人知人としてしか認識していなかったのだろう。
だが、たんなる友達だとしても、お通夜にもお葬式にも来なかったのは冷たい気がした。
『あのときもね、佐藤さんと待ち合わせしてたんだ』
「あのときって?」
『私が死んだときよ』
待ち合わせスポットでたたずんでいる瑞希に、ノーブレーキのトラックがつっこんできて……そして姉は亡くなった。
高志は無言になった。
――佐藤さんって、何者なんだ?
高志と瑞希は、資産家の庶子だ。
父の事業が大きければ大きいほど、いらぬ恨みを買う可能性は否定できない。
そして、その恨みが、瑞希に向かったのだとしたら……。
非嫡出子だから、誘拐や殺人、脅迫などの心配はしてなかった。
だが、本宅は警備が厳しくて、狂った感情がノーガードの瑞希に向かった可能性がある。
――調べたほうがいいな。佐藤さんの正体と、お姉ちゃんを轢き殺したトラックの両方を。もしも繋がりが見つかったら、これはもう決まりだな。
弁護士さんに聞けば、トラックのほうはわかるだろう。
ケータイには、弁護士さんの電話番号を入れてなかったから、家に帰ったらソク電話だ。
――着替えたらすぐに行動だな……。
佐藤の家に行って彼に逢う。トラックの運転手にも逢って話を聞く。
これがもし、たんなる事故なら良し。
そうでなければ……。
いや、たんなる事故だとしても、佐藤を殴ってやらなくては気が済まない。
高志は女装のままで帰路を急いだ。
着替えにコンビニのトイレに寄る時間も惜しい、今日、調べきれなかったら、明日調べる。祝日だから、ちょうどいい。
――お姉ちゃん、やめろって言うかな……?
高志が考えたことは、意識の表層に字幕のように浮かびあがってくるから、読みとることができると姉が言った。
だが、瑞希は、自分のことでいっぱいで、字幕を読んでいなかったらしい。
『だからね、高志。好きな人がいるなら、好きだって言わなきゃダメよ。やり残したことが多すぎると、私みたいに幽霊になっちゃって、成仏できなくなっちゃうんだから』
「優亜は友達だよ。好きとか嫌いとかそういうのじゃないよ」
『ふうん。そうかなぁ。優亜ちゃん。高志が好きだよ。好きじゃなきゃ、高志のためにアダルトコーナーに入ったりしないよ。女の子がそういうところに入るの、すごく勇気がいるんだからね』
高志はうろたえた。
お隣さんで、幼なじみ。幼稚園からずっと一緒にすごしてきた。
もちろん優亜は好きだが、友達の好きであり、恋人だとかつきあうだとか、そんなふうに思ったことはなかった。
「お、お姉ちゃんの勘違いだ……」
姉は黙りこんだ。
高志も、もう、なにも言わなかった。
ただ、黙って、道を歩いていく。
ショートヘアーがさわやかなセーラー服姿の女子高生を、暮れていく夕陽が明るく照らしている。
第4章 姉の恋人?
高志は、手紙の末尾に書かれていた住所と、ケータイに表示される地図を見比べながら、日曜のオフィス街を歩いていた。
平日の朝は、行き交う会社員とOLでにぎわうだろう広い道はがらんとして、猫の子一匹姿を見せない。
道の両脇に立ち並ぶ銀行や会社、昼休みの会社員を当てこんだレストランは、どれもこれも固くシャッターを閉ざしている。民家など、とうていなさそうな雰囲気だ。
『高志、もう、やめようよ………』
瑞希が、元気のない声で話しかけてきた。
『佐藤さんの家を探すなんて、なんか、未練たらしい気がするの』
「でもさ、お姉ちゃん。佐藤さん、なんか勘違いしてるだけかもしれないだろ。お姉ちゃんみたいないい女が振られるなんて、ありえないよ。女装した僕がキモくてびっくりしただけかもしれないし」
誰もいないので、姉と心ゆくまで会話できる。
『それもそうねっ!! 美貌の点じゃ、高志は私に及ばないもんねっ。女装した高志ってかわいいけど、やっぱり女装少年にすぎないもんっ』
姉らしい反応に苦笑する。
『高志っ。ミス瑠璃色までに、美人になってもらうわよっ!! お肌のお手入れは大事なんだからねっ!! パックと洗顔よっ。わかった?』
「やっぱりミスコン、出なきゃいけないのかよ?」
『もちろんよ。思い残したことがありすぎるから、私が幽霊になっちゃったのよ。高志の身体を使って、やりたかったことをひとつひとつ叶えていくの。で、私、成仏して、空を渡る風になるの。お空のお星様でもいいわね。ああ、なんてステキ……』
「そうだな……」
『あれっ、高志、私が幽霊だって信じているの? 私は高志の妄想なんでしょ? 僕は幽霊なんて信じないって、そう言ったじゃない』
姉が高志をからかってきた。
高志は沈黙を返した。
瑞希は妄想ではない。
高志の知らない人に恋をし、高志の知らない夢を紡ぎ、高志の知らない人生を歩んでいた。
双子で、毎日一緒にいて、一番近い人間で。顔さえもそっくりで。身長も同じ。
……だが、高志とは別の人間だ。
今は幽霊だが、それでも……。
「お姉ちゃんはお姉ちゃんだ」
『そうよっ!! ――よくわかってるじゃないっ!?』
姉の声がはずんでいる、存在を認められてうれしいのだろう。
男性のシンボルにラクガキはするわ、勝手に優亜を抱き寄せてキスをするわ、とんでもない姉だが、姉の無邪気さに明るさに救われる気分になる。
――やっぱり、初七日《しょなのか》、やめたほうがいいな……。
高志は昨日、家にやってきた秘書とのやりとりを思い出していた。
咋日は、まるで家に帰るのを見計らったようにして、秘書の訪問を受けた。
初七日の相談に来たという。
葬祭場で行い、高志は喪主としておじぎをするだけでよく、あとはすべて秘書と葬祭場の職員がするそうだ。
姉は今も高志の中で生きているのに、初七日なんて不思議で、ぴんと来ない。
初七日が、偶然にも瑠璃色学園の創立祭に当たっていることも、高志の気を重くさせた。
「初七日って、しなきゃ、いけないんですか? お葬式の日、繰りあげ初七日法要っていうのをやりましたよね」
「高志さんの気持ちしだいです。こうした儀式は、瑞希さんのため、というより、残された遺族のためなんです」
「僕のために、っていうんなら、そっとしておいて欲しいです。僕はその……病気ですから……」
やんわりと断ったのにも関わらず、秘書は食いさがった。
「高志さんのご病気のことは、瑠璃色学園の校長先生から聞いています。ですから、初七日法要をおすすめしているんです。法要を重ねることによって、高志さんのお気持ちが晴れるのではないか、と社長が申しておりました」
「父は来ますか?」
「社長は、瑠璃色学園創立祭のゲストとして招かれていますから、参加できません」
通夜も葬儀も来ず、初七日も来ない……。
父親なのに。
「考えさせてください」
高志はとりあえず保留にすることで引きさがった。
「お姉ちゃん。初七日、どうする?」
『したくないわ。創立祭のある日に、なんでしなきゃいけないの? ラクロスの友達も、親衛隊のみなさんも、誰も来ないわよ』
「わかった。秘書さんに電話をして断っておく」
『お父様、高志に、ミスコンに出て欲しくないのかも。だって、葬儀の日に繰りあげ初七日法要やったから、ほんとは初七日、しなくていいんでしょ?』
「そうかもな……」
女装し、姉のフリをして、ミス瑠璃色学園に出るなんて、父からすれば信じられないだろう。父が、なんとみっともないことをするのだと憤っていても不思議ではない。
『高志、ミス瑠璃色、出てくれる? ……出て欲しいな。私、出たいのよ。私の心残りだったのよ』
「お……」
――お姉ちゃんが、それで成仏できるなら……。
と言いそうになり、あわてて口を閉じる。
ミスコンに出るのは勇気がいる。
セーラー服だけでも恥ずかしくてならないのに、ドレスだの水着審査だの、考えるだけで熱が出そうだ。
「あれっ、ここ、だよね……」
瑞希がもらった手紙とケータイの地図、目の前のビルを見比べる。
番地まで同じだが、たんなるコンクリートの建物で、人が住んでいる気配は皆無だった。
「入ってもいいのかな?」
どきどきしながら、建物の中に入る。
入り口のパネルには「|MAIL《メール》 |FORWARDING《フォワーディング》 |SERVICE《サービス》(私書箱)」と書いてあった、
「な、なんで? ちょ、ちょっと聞いてくるっ!!」
『やだっ。高志、聞かないでよっ』
がらんとした広いホールに、何百ものポストが整然も並んでいる様子は、一種異様な光景でSF映画を思い浮かばせた。
受付に住所を書いた手紙を差し出す。
「この人と手紙のやりとりをしていたんですが、えっとその、急に返事が来なくなって……」
「ああ、A−101だね。この人、つい先日、引き払ったばかりだよ」
ガンときた。
頬を叩かれた気分だった。
姉もショックを受けているらしく、息を詰めている。
「そ、そうですか。ありがとうございました」
お礼を言ってビルを出る。
呆然としながら、がらんとしたオフィス街を歩いていく。
五月の強い風が、ビルの谷間を吹きすぎる。
陽気はいいのにもかかわらず、いらだたしくなるほど寒い。
――住所は、ウソだった。
――佐藤さんは、お姉ちゃんを、騙していた。
殺人……という言葉が浮かんだ。
まさかそんな、と思う一方で、十分にありうることだと思ってしまう。
――警察に行くか?
まだ早い。佐藤の正体もわからないし、佐藤とトラック運転手に繋がりがあるのかもわからない。なにもかもわからないままだ。
今日はこのあとトラック運転手に逢う子定で、弁護士の先生からの連絡待ちだ、
昨日、弁護士事務所に電話を掛けたところ、先生は出張中で不在だった。電話に出た事務員は、明日先生から高志のケータイに電話をするよう手配すると請け負ってくれた。
漫然と弁護士からの連絡を待っていると、胸の奥がキュウッと縮むような、不安と焦燥がふくれあがり、じりじりしてきた。
待つよりも、なにかしたかった。
――なにをしたらいいんだろう。
高志は人気のないオフィス街を、無目的に歩いていた。
『……もう、いいっ……』
「なにが?」
『ミスコンよ。もういいっ。出ないでっ!!』
「な、なんでだよ……?」
高志はあわてた。
姉の気持ちがわからない。
さっきまであんなにミスコンに出たがっていたのに、いきなりの心変わりはどうしてだろう。
「まさか、佐藤さん?」
『そうよ。佐藤さんにすすめられたの。瑠璃色の生徒だって言ったら、そんなに綺麗なんだから、ミス瑠璃色学園に出たらどうかって……じゃあ、チケットあげるから見に来てね、って言ったら、創立祭には仕事があるから必ず行くって……。そう言ってくれたの』
――ああ、そうか。そうだったのか。
姉が、ミス瑠璃色なんてらしくないイベントに出場を決めたわけが、やっとわかった。
好きな人に、ドレス姿の自分を見せたいと思ったのだろう。
瑞希は、サバサバした性格で、名誉に対する執着はない。
ミスコンに参加するよりも、観客席できゃあきゃあ騒いで楽しむタイプだ。
「佐藤さんの仕事ってなんだろ。すごく若く見えるんだけど」
『さあ、わかんないけど、照明とか音響とか、外部の業者さんに頼むでしょ。そっちの関係だと思う』
――お姉ちゃん、佐藤さんのこと、ほんとになにも知らないんだな……。
――僕がミスコンに参加したら、佐藤さんに逢えるんだよな?
「お姉ちゃん。僕、ミスコン、出るよ」
『出ないでいいって言ってるでしょっ!?』
「僕が、僕の意志で女装して、ミスコンに出るんだ。お姉ちゃんは黙ってて欲しい」
姉が、えっ? と言って口ごもった。
『ど、どうしちゃったの? 高志……?』
そのときだった。
「ぎゃっ」
なにかにぶつかりそうになり、飛び退《の》いた。台車だった。花を刺したバケツが台車の上にいくつも並んでいる。
まるで花屋がそのまま移動しているみたいだった。
「ごめんなさい……台車が重くて、道がガタガタで押しにくくて……」
台車を押していた、ジーンズにトレーナーの女の人が恐縮している。
長い黒髪を首の後ろでくくった若い女性だ。
セーラー服でないのでわからなかったが、この人は……。
「大堀さん」
「桂くんね。それとも桂さんかな?」
「高志です」
「そうね。ジーンズとシャツだもの」
「この花、どうしたんですか? こんなにたくさん?」
「生《い》けこみよ」
「生けこみ?」
「この近くの会社と契約しているの。ロビーにね、お花を生けるのよ」
「えっと、大堀さんって、若宗匠ですよね? そういうのって、お弟子さんがするんじゃないんですか?」
「若宗匠だからするのよ」
「ああ、なるほど……お弟子さんが生けるより、若宗匠が生けるほうが、ありがたみが増しますね。若宗匠って大変なんだなぁ。日曜なのにこんな重たい思いをして……」
そのとき、すみれの表情がこわばった。
手がビクッとふるえ、車輪が敷石のつなぎ目に引っかかって台車が止まる。すみれの周囲を、怒気《どき》がオーラのように取り巻いた。
「じゃあね。いい休日を……」
だが、ほんの一瞬浮かんだ怒りの表情は、高志が気付く前に消えてしまい、いつもの静かなほほえみに戻っている。
「もうっ。車輪がひっかかるのよねっ」
すみれは、顔をしかめながら、いかにも重そうに台車を押している。
しゃれた敷石は溝が多く、台車を押すのは大変そうだ。
「手伝います」
「あら、いいのよ。楽しんでいらして」
「僕は今、男ですから」
「そうなの。ありがとう。でも、重いわよ」
「ほんとだ……お、重い……」
水と花がいっぱい入ったバケツをいくつも並べているものだから、台車の重さは尋常ではなかった。
「ごめんね。水が重いのよ。でも、お花がかわいそうだし。水揚《みずあ》げが悪くなっちゃうの。生けこみまで、買ったままで持ってきたいのよね」
「はい。がんばります」
高志は、台車を押す作業に集中した。
バケツの水をこぼさないように台車を押すのは難しい。
『親切なのねー』
姉が話しかけてきた。
――弁護士さんから電話が来るまで、なにもできないからだよ。
心の中で答える。
高志は、汗まみれになりながら、台車を押して歩いた。
ビルの裏口で管理会社の人から鍵を借りて中に入る。
シャッターと窓を閉め切りブラインドを下ろした無人のフロアは、薄暗く空気が悪い。かなり広いのにもかかわらず、息苦しく狭苦しい感じがした。
「ありがとう。あとは私がするわ」
すみれは、革製のポーチから、ごつい鋏《はさみ》を取り出した。歯が分厚くぎらぎらして、人が殺せそうなほど重々しい。
「花切り鋏なの。このポーチはシザーケース」
「床屋さんが似たような袋、持ってました」
「そうよ。これ、美容師さんが使うカバンなの。鋏を持ち運ぶのにちょうどいいの。華道家は、だいたいみんなシザーケースを使ってるわね」
「生けるところ、見てもいいですか?」
「ええ、どうぞ。よくってよ」
すみれは、エプロンをつけながら答えた。
ホールに生けてあった古い花を取り去ると、花瓶を台車に乗せてトイレに行き、すぐに戻ってきた。花瓶の水を換えてきたらしい。
花切り鋏で丈《たけ》をつめ、大きな花瓶に花を生けていく。
パチンパチンと小気味の良い音が響く。
ムダのない手の動きと、真剣な横顔に見とれてしまう。ぴんと空気が張りつめる。
わずか十分ほどで、見事な生け花ができあがった。三百年続いた華道家元と学園新聞に書いてあったが、少しも古めかしくなく、若々しくて華やかな作品だ。
カラフルな花を色鮮やかに盛った大作で、どちらから見ても同じ形の、さわやかな作品にしあがっていた。
花を見ていると、気持ちがスッキリして、モヤモヤが消えていく気分になる。
この会社に勤める会社員たちも、花を見て気持ちがなごむことだろう。
すみれがふっと息を吐き、エプロンを取り去った。緊張がやわらかくほどける。
「うわぁ。綺麗だなぁ……なんか、モダンですねぇ。若宗匠の生け花っていうから、もっと堅苦しいのかって思ってた。生け花っていうより、フラワーアレンジメントっていうんですか? 西洋生け花って感じですねぇ。あの、名前を書いた板、置かないんですか? 町の文化祭だと、でっかいのが置いてありますよね」
すみれの身体が静電気に触れたようにふるえた。
柳眉が逆立ち、怖い表情になっているが、高志はまるで気付かない。
「ええ。主役はお花ですもの」
声がいちだん低くなり、すごみを増した。
『ねぇ、高志、大堀さん、怒ってない?』
姉が話しかけてきた。
――えっ? そ、そうかな? 僕、なにか、マズイこと言ったかな。
すみれの顔をあらためて見るが、いつものお人形さんスマイルだ。
――お姉ちゃんの錯覚だよ。
彼女はポケットから取り出した小さなボトルを傾けて、透明な液体を花瓶に入れた。ツンと来る匂いが立ちのぼる。
さらに、細長い紙包みを指先で切って、中の白い粉をさらさら入れる。
「なにを入れたんですか?」
「お花の延命剤よ。持ちが良くなるの」
「砂糖みたいだ」
「砂糖よ。お花の栄養になるの」
「じゃあ、さっきの匂いのキツイ液体は?」
「漂白剤。水が腐らないのよ。これを入れると、一週間ぐらいお花が保《も》つわ」
「へえ、そんなのでいいんですか? 安あがりでいいなぁ」
すみれが顔をこわばらせた。
身体が小刻みにふるえだす。
「寒いですか?」
「寒くないわ。漂白剤と砂糖って、市販の延命剤と成分は同じよ」
静かな声に、ひそめたいらだちがにじんでいる。
高志は首をひねった。確かに姉の言うとおり、すみれは機嫌が悪そうだ。
すみれを怒らせるなにかが高志の側にあったのだろうが、なにが彼女を刺激したのかわからない。
「たしかにこの花、まだ元気ですよね。延命剤のおかげなのかな。なんか捨てるのもったいないみたいな……」
「そうね。ちょっと待ってくださる? 私も、お花、捨てるの、イヤなのよねぇ」
すみれは古い花の中からちょいちょいと綺麗な花を選び出し、手早く丸く重ねていく。
あっという間にブーケになる。
ワイヤーを口にくわえ、根本のところをキュッと結ぶ。
満開に咲きそろった花ばかりの、豪華な花束ができあがった。
「どうぞ……っていうのもヘンかしら。桂くん、というより、瑞希さんにプレゼントよ。手伝ってくれたお礼。お花、満開だから、そんなに保たないわよ。古いお花でごめんなさいね」
瑞希が『わぁ』と声をあげた。
うれしそうな瑞希の顔が目に浮かぶようだ。
「ありがとうございます。仏壇の花、そろそろダメになりかけていたので助かります。仏壇の花は絶やしたくないですから」
『仏壇じゃなくて、花瓶に生けて、食卓の上に置いてよ。私、仏壇の花なんていらないわよ。私は仏壇の中にはいないんだから。わかった?』
姉が文句を言う。
――でも、お母さんにもお花をあげなきゃいけないだろ。
『それもそうね』
「仏壇なの?」
「半分仏壇で、半分花瓶に生けて、食卓の上に置きます。こんなに綺麗なんですから」
「桂くんが病気なんて信じられないわね」
「僕も信じられないです」
すみれは華やかに笑った。生けこみという仕事を終えて、ほっとしていることもあるのだろう。いつも冷静で、日本人形のような印象のある彼女だが、笑顔はこんなにもイキイキしている。
「あなた、ほんとうに、ミス瑠璃色に出場なさるの?」
「はい。出ます」
「瑞希さんとして? 桂くんとして?」
「桂高志として、桂瑞希の代理で出ます」
「審査はどうなさるおつもり? スピーチとフリースタイル、それに水着審査よ」
「まだ、考えてません。気楽にやります」
すみれの表情がこわばった。
空間が、ぴきっと音を立てて凍りつく。
黒髪の華道少女の周囲を、絶対零度の空気がとりまいた。
瑞希が息を呑んだ。
『高志、やっぱり、大堀さん、怒ってるよっ!!』
――うわーっ。ほんとうだ……。怒ってる。すごーく、怒ってるっ! なんか信じられないよ。大堀さんって冷静沈着ってイメージがあったんだけどな……。
「そう、気楽になさるのね? 男の身体で舞台にあがるおつもり?」
「は、はい……」
高志は後ずさった。
「桂くんにさしあげたいものがあるの。古いお花だけだとあんまりだから。……背中を向けてくださる?」
彼女は、目を細めて笑った。怖い笑顔だった。
「はい……」
――くれるものって、なんだろう?
言われるままに背中を向けた高志の背後で、ごそごそと気配がしている。
ぺりぺりと。なにかをはがす音もする。
――なんの音だろう?
ふっと甘い匂いが立ちのぼった。花の匂いではない。瑞希が生きていたころによく嗅いだ匂い。若い女の子特有の、シャンプーの香りと体臭が入り交じった甘い匂いだ。
無人のフロアに、淫靡《いんび》な気配が立ちこめる。
「……いいわよ」
振り返ると、すみれが顔を赤くして立っていた。
恥じらうようにして肩をすくめているくせに、瞳は挑むように輝いている。
広いホールの中央にいるとはいえ、シャッターとブラインドを固く閉ざしたビルの中だ。
――密室に、二人きり、なんだ。
あらためて意識する。
かっと顔が赤くなった。
すみれは手に、肌色のふんわりしたものを持っている。
「これ、どうぞ。コンテストのときに使ってね」
受け取って首をひねる。
ほんのり温くて、甘い匂いのするぷにぷにした物体だ。お皿を伏せたような形だが、真ん中のところがふっくらと盛りあがり、フチが薄くなっている。
まったく同じ形のものが二つあった。
「なんですか?」
高志は、肌色のふわふわを両手の指先でぶらぶらさせながら聞いた。
「パッドよ」
「パ、パッド……っ、パッドって、その……」
そのとき、気付いた。
恥ずかしそうに上半身をひねっているすみれの胸が、まったいらだ。
「わあーっ。こ、こ、これ、お、大堀さんのっ!?」
「誰にも、言わないでね」
すみれは、唇の前に人差し指を立てて笑った。どこかイジワルっぽい笑顔に見えてしまう。
この、ほんのりとした温かさは、すみれの体温だ。
『ねぇ。高志、大堀さんって、ヘンじゃない?』
――ああ、そういや、瑠璃色学園新聞の下馬評ではプロポーションが「?」だったっけ。大堀すみれのバストには、あげ底疑惑がある……とか……。
ゴシップだらけのアヤシゲな新聞だと思っていたが、意外にも真理をついていたらしい。なかなかの情報分析能力だと感心する。
「ミスコンに出るなら、パッドがいるでしょう? ドレスコードがあるのだから、ドレスを着るのに、胸がまったいらだと困るわよ。私、いくつか持っているから、ワンセットさしあげるわ」
「い、いただけないですっ」
高志は怖そうに腰を引きながら手のひらに乗せたパッドをすみれに向かって差し出した。
『大堀さんって、やっぱりヘンだわ。大堀さんはいったいなにを考えているの? 高志をからかって、おもしろがってるの? かわいい男の子好きのお姉さまならまだわかるんだけど……高志、なにか、大堀さんを怒らせるようなことやったんじゃない?』
瑞希が言うが、高志には思い当たるフシがない。
「つけ方がわからないなら、教えてさしあげてよ」
すみれは、花切り鋏をシザーケースから取り出し指先でくるくるし、花瓶の花のうち、外側に出ていた花を一瞬で切り落とした。目にも留まらぬ早さだ。
そして、もう一度シザーケースにストッと納める。
まるで手品のような、あざやかな手つきだ。
西部劇のガンマンが、拳銃の引き金に指を掛けてくるっと回したみたいだった。
いつでも引き金は引けるんだぞ、という腕利きガンマンのパフォーマンス。
「花切り鋏って切れ味がいいのよ。指ぐらい簡単に切り落とせるわ。だから危なくないように、革のシザーケースに入れてるのよね。私は一歳からおもちゃがわりに鋏を持って育ってきたのよ」
すみれの全身から、黒いオーラが立ちのぼる。
気の弱い人間なら、失禁しそうな迫力だ。
「な、なにを……、教えてくれる、んですか?」
「パッドのつけ方を教えてさしあげる、って言ってるのよ」
すみれは、華やかに笑いながら、高志に歩み寄ってきた。
高志はすくんでしまって声も出ない。
『こ、怖い……この人、怖いよ……っ刺されそうっ』
瑞希が高志の代わりに悲鳴をあげる。
すみれの手が、高志の襟首に向かって伸ばされた。そして、シャツのボタンをプチプチと外していく。
斜めがけにしたすみれのポーチが高志の腰骨にコツコツ当たる。
刃物を納めた袋が、するっと股間を撫でた。胃がキュッと縮こまる。
――うぅ……っ。怖いっ、……切り落とされそうだ……。
すみれは高志のシャツを左右に広げ、胸を丸出しにした。
少年のまったいらな胸があらわになる。
「い、いやだっ、や、やめて、くださいっ!!」
夏の海だと当たり前のスタイルだし、胸を出すなんてぜんぜん平気なはずだった。
なのに、秘密をのぞかれているようで気恥ずかしい。
まして、すみれがつけようとしているパッドは、さっきまですみれの肌に密着していたものだ。
「パッドは、こうやって、胸に直接張りつけるのよ。水分が接着剤になるから、中の空気を抜くようにするのがコツね」
やさしげな手つきで、パッドをつけてくれる。
ひんやりした手が胸の上で動いてくすぐったい。事務的な手の動きなのに、妙にエッチっぽく感じてしまう。
恥ずかしさといたたまれなさに身体の芯が熱くなる。
高志の位置からだと、すみれのトレーナーの襟から、中身が見える。
真っ白なブラジャーにすっぽりと隠された、谷間のぜんぜんない胸だった。
手のひらサイズの、Aカップ程度の大きさだ。パッドであげ底して、ようやくBになるのだろう。
――まずい、な……。
すみれの指先が、高志の胸にパッドを張りつけようとして、ぷにぷにと押してくる。
目の前には、トレーナーの襟元があり、鎖骨のヘコミと白いブラジャーがのぞいている。
すみれの襟元から立ちのぼる、甘い肌の匂い。
ぷわぷわぷりぷりした感触のパッドが、細い指先で押しつけられる感触。
喉が干あがる気分になる。
――き、気持ち良すぎる……っ。
鼻血が出そうだった。
内側に鋭い刃物を入れたやわらかい革製のシザーケースが、すみれが身動きするたびに揺れながら股間を撫でる。
――うぅっ。興奮する。うぁっ、ゆ、指が……む、胸を、お、押して。うぅっ……。
『ど、どうしちゃたのっ!? 高志?』
高志を心配し、姉が不審そうな口調で聞く。
高志は自分の興奮をなだめることに必死で、瑞希に説明する余裕はない。
気持ちいいはずなのに、ひどく苦しい拷問のような時間は、唐突に終わった。
「できたわ。どうかしら?」
すみれが指をはなして、上半身を起こす。
視界から手のひらサイズの乳房が消え、胸に感じていた圧迫感がなくなった。
興奮がゆっくりと引いていく。
胸に可憐な大きさのふくらみができていた。
AカップとBカップの中間ぐらいの大きさだが、つるんとした少年の胸が、ふくらみかけの少女の胸に変わってしまったみたいだ。
なるほどこのパッドなら、ブラジャーをつけてもズレないに違いない。
「あ、ありがとうございました」
「もらってくださる?」
「は、はい、い、いただきます」
「恥ずかしかったでしょ?」
「え、いえ、そ、その……」
「ミスコンテストに出ると、今以上に恥ずかしい思いをするかもしれませんわよ」
すみれは、あでやかに笑った。
『わかったっ!! 大堀さん、高志が男のくせにミスコンに出るの、ムカつくんだわっ。でも、大堀さんの性格だと、森永さんみたいに面と向かって悪口が言えないから、イジワルが出ちゃったんだわっ。知らなかったわっ。大堀さんって黒いのねぇ』
瑞希が興奮してしゃべりまくっている。
――たぶんそうだろうな。
この綺麗な人は、外見通りの人ではない。外面菩薩《がいめんぼさつ》内面夜叉《ないめんやしゃ》だ。
稚気ともいえるライバル意識をストレートにぶつけてくる森永愛梨のほうが、わかりやすい分マシかもしれない。
「僕がミス瑠璃色に出るの、大堀さんはイヤですか?」
「あら、どうして? 私は平気よ。でも私たち、この日のためにウォーキングの練習したり、努力してるのよ。衣装代とかエステとか、お金もけっこう使っているわ。なのに、気楽にやりますじゃ困るのよね。出るのなら、覚悟して出てくださいね」
「はい。そのとおりだと思います……がんばります」
どうも、「気楽に出る」と言ったひとことが、すみれの逆鱗に触れたらしい。
すみれのご機嫌の悪さは、そればかりではないような気がしたが、これ以上よけいなことを言うと、墓穴を掘りそうで口をつぐむ。
高志は謝罪をして引きさがった。
「すみませんでした」
「あらいやだ。何を謝罪してらっしゃるのかしら? ミス瑠璃色に出ることなの? 出場辞退されるのかしら。だとしたら残念だわ。私、瑞希さんと競いたかったのに」
すみれは、どこか楽しそうな口調で言った。
はっきり口に出したわけではないのに、出場辞退してしまえ、とばかりの口調が怖い。
「僕が謝ったのは、大堀さんを不愉快にさせたことです。僕はミス瑠璃色に出ます」
きっぱりした口調で言いきるとすみれがキッと高志をにらんだ。
「そうなの。がんばってね」
「はい。ありがとうございます。大堀さんも、がんばってください。……失礼します」
「そうね。さようなら」
すみれはにっこりと笑った。
「はー、こ、怖かった」
『怖かったねーっ。大堀さんがああいう人だなんて知らなかったーっ』
「お姉ちゃん、やっぱり男がミスコンに出るのって、他の出演者から反発を食らうのかな?」
『当たり前でしょ。美の競演なんだから。だから、もう瑠璃色には出なくっていいって言ってるのよ』
「でもさ、次に佐藤さんに逢えるの、ミス瑠璃色のときしかないんだよ?」
『佐藤さんのことはいいってばっ!!』
「事情があるかもしれないだろ」
『私、失恋のダメ押しなんかしたくないっ!!』
「僕が僕の意志で瑠璃色に出るんだから、お姉ちゃんは関係ない」
日曜のオフィス街、誰もいない路上で、高志は幽霊になり果ててしまった姉と言い争いをした。
知らない人がもし見れば、ひとりでぶつぶつしゃべる彼は、さぞかし不気味なことだろう。
まして高志は、ジーンズにシャツという軽装だが、胸はほんのりふくらんで、中性的な魅力を放っている。
高志のケータイが振動した。
「はい」
「弁護士の藍田《あいだ》です。桂くんだね? 加害者の居場所なんて、どうして知りたいのか教えて欲しい」
「遺族だからです」
「そんな理由では教えられない」
「納得したいからです」
「納得……?」
「僕は、姉の死をまだ信じることができません。だから、運転手さんに逢って、納得したいんです」
「君の病気は聞いている。大変だったね」
「聞いた? だ、誰からっ!?」
「君のお父上から相談を受けたんですよ。お父上は、君のことを心配しておられました」
『どうせ、非嫡出子が精神障害になった。可及的速やかに精神病院に入院させる方法はないだろうか、って聞いたんでしょ? もう最低なんだからっ』
姉がぶつぶつと文句を言う。
「父は、なんて言ってましたか?」
「息子が助けを求めてきたら、できる限り便宜を図ってやって欲しい……とのことです」
『ふん。高志、騙されちゃダメよ』
姉を無視して、弁護士に聞く。
「だったら、どこに行けば運転手さんに逢えるか、教えてください」
「桂くん。私は弁護士だ。依頼人である君の父上と、君を守る義務がある。被害者の遺族が、加害者と直接逢うのはよくない。だから、今から言うのはひとりごとだ。一度しか言わない。いいかね。群青《ぐんじょう》市|鶸色《ひわいろ》町……マゼンダ運送、名前は……」
学校に行くときと違い、メモるものがなにもない。
高志は弁護士の先生がいうひとりごとを、必死の思いで暗記した。
「ですね?」
『群青市鶸色町……マゼンダ運送』
瑞希も、一緒になって暗唱している。
「加害者なのに、監獄に入ってないんですかっ!?」
「事件性がないから、保釈金を積めば出られるよ」
「そうですか。わかりました。ありがとうございました」
「気をつけて」
「はい。気をつけます」
――お姉ちゃんは、殺されたのかもしれないんです。それを調べに行くんです。気をつけて調べます。
――遺族じゃなければ、いいんですよね?
「群青市|雛《ひな》色町」
『違うわ。鶸色町よ』
「ああ、そうだっけ」
姉の記憶と照らし合わせながら、住所を地図で検索する。あんがい近い。
いったん家に帰って用意をしても、一時間もあれば到着するだろう。
『逢いに行くの?』
「そうだよ」
『どうしても?』
「どうしてもだ。お姉ちゃんだけの問題じゃない。僕自身の問題でもあるんだ。これがもし……だとしたら、次は僕かもしれないんだから」
殺人だとしたら、と声に出さずに言う。
『わかった。好きにして。でも、気をつけてね。私は君を守ってあげることができないんだからね』
姉はしぶしぶという感じで答えた。
第5章 華道娘の怒り
ショートカットにリボンのカチューシャをつけた少女が、ケータイを片手に持ち、ときおり液晶画面に視線を落としながら歩いている。液晶画面には地図が表示されていて、彼女に行く手を示してくれる。
祝日なのにセーラー服を着た彼女は、さっぱりした美貌の持ち主だった。
手足が長くすらっとしていて、妖精のように神秘的な雰囲気だ。
中性的な感じなのに、思い詰めた表情とどこか不安そうな様子が、守ってあげたい系の魅力を誘発する。
道を行く人が、ふっと立ちのぼった甘い匂いに引かれて足を止め、すれ違っていく少女に見とれた。
リボンの結び目が揺れる胸元はごくごくわずかに隆起している。遠慮がちな大きさで、世間一般の基準からすれば貧乳といえる大きさだったが、その可憐な形はセーラー服の布越しであってもはっきりわかる。
少女は、注目を浴びていることに気付き、恥ずかしそうに目を伏せた。
長いまつげが揺れ、整った顔に影を落とす。
スカートを気にしながら歩くしとやかさが、今時の少女とはまるで違う、浮世離れした美しさをかもしだす。
お日様の光さえこの繊細な少女には毒ではないかと思うほどだ。
シャンプーのコマーシャルに出てきそうな、コロンの香りもさわやかなこの少女が、生まれついての少年で、自らの意志で女装しているなんて、いったい誰が気付くだろう。
「ここかな?」
桂高志は柵に囲まれたトラック会社の前で立ち止まり、ひとりごちた。
地図に表示されている住所は間違いなくここだが、祝日ということもあり、門は固く閉ざされている。
柵の向こうに、少しずつ形の違う大型トラックが整然と並んでいた。人気《ひとけ》はなく、静かな空気が満ちている。
荷台を斜めにあげた状態で止まっているトラックの奥に、小さな事務所があった。
「電気、点《つ》いてるのかな?」
柵の外からでは、事務所に人がいるかどうかわからない。
見たところ、門にはインターフォンの設備はない。中に入ろうとして、門の取っ手に手を掛けたときのことだった。
「あ、だめだ。鍵かかってる……」
『や、やだ……あ、あのトラック……お、思い出しちゃった……うぇえ、ど、どうしよう。き、気持ち悪くなってきちゃった……』
姉が声をふるわせた。
「トラックが、私の前に迫ってきて……すごく、大きくて……どんどんどんどん大きくなって……。運転手のおじさんが、びっくりした顔で、大口を開けてたわ。急ハンドルを切ってハンドルを持つ腕が交差してた。車輪が浮いて、トラックが斜めになったのよ。私、なにが起こってるのかわからなくて、悲鳴もあげられなかった」
瑞希は熱に浮かされたように話している、
『ミラーからさがっていたリラックスウサギのぬいぐるみがね、こんなふうにして揺れてた。ギギギッてすごい音がしてたのに、ふっと音が聞こえなくなったの。私が最後に見たの、ウサギのマスコットだったのよ……』
当事者だからこそわかるリアルな話に戦慄する。
『や、やだ、……いやだぁっ!! 怖いっ、怖い、怖いよぉっ!! いやあぁああああっ!!』
「ご、ごめん。お姉ちゃん。ごめん」
高志はかっと顔を赤くさせ、おろおろと謝罪した。
姉がイヤな思いをする、というのは、じゅうぶん予想できたはずなのに。
女装までして、気負《きお》ってやってきた自分が恥ずかしい。
――僕、お姉ちゃんに、黙ってて欲しい、僕自身の問題でもあるんだ、なんてことまで言ってしまった……。
『わ、私はだいじょうぶよ。たしかにこれは、高志の問題でもあるんだもの』
「…………でも、悪いのは、僕だ……」
『帰っちゃうの? せっかく来たのに? 女装までしたのに』
――女装までしたのに?
とたんに自分の格好が恥ずかしくなってきた。
胸にパッドまでつけて、スカートを穿いて、姉のセーラー服を着て……。
カチューシャで髪を飾って……。
姉のコロンまで振って、おしとやかに内股で歩いて……。
――僕はいったいなにをやっているんだろう。運転手に逢って話を聞くなんて、お姉ちゃんを苦しめるだけじゃないか。
マイナス思考のデフレスパイラルに落ちこみそうになったときのことだった。
『あ、あの人だわっ。高志っ、ぼんやりしているんじゃないわよっ!!』
顔が自分の意志とは関係なく、右側を向いた。
まるで見えない手に頬を挟まれ、ムリヤリに右を向かされたみたいだ。
『え? う、動かせたわ、なんで?』
「えええっ?」
『それどころじゃないわっ。あれを見てっ!! あの人よっ。ほ、ほらっ、向こうのほうから歩いてくる。事務所に入るつもりなんだわっ!!』
中年男性が歩いていた。
薄汚れたジーンズにシャツという格好で、のんきに口笛を吹いている。
鍵のヒモを指先に掛け、鍵をぐるぐるさせていた。
高志は呆然と立ちつくした。
――こんな人だったのか……。
姉を轢《ひ》き殺した犯人、まして大型トラックの運転手だから、大柄でたくましい男性を想像していた。
だが、目の前にいる彼は、貧相な中年男にすぎなかった。
男性は、セーラー服の高志を見て、顔をひきつらせた。棒立ちになっている。
自分が轢き殺した少女が、目の前にあらわれたのだ。
驚くのはムリもない。
「お、おまえは誰だっ!?」
「マゼンダ運送の、藤波《ふじなみ》さん、ですね」
「誰だって聞いてるんだっ!! お、俺を、脅すつもりかっ!? そ、そんな、格好をしても、だ、騙されないからなッ! ゆ、ゆゆゆ、幽霊なんか、いるわけがないんだっ。お、俺の錯覚なんだっ」
相手があまりにも興奮しているので、自然と冷静になってくる。
高志は失礼にあたらないよう、ていねいな口調で言った。
「聞きたいことがあるんです。お願いですから教えてもらえませんか」
「か、帰れっ!! 帰りやがれっ!! 警察を呼ぶぞっ」
藤波運転手は、あろうことかケータイを取り出した。とっさに警察の番号が思い浮かばないらしく、数字盤に乗せた親指をふるわせている。
「事故のことを、教えて欲しいんです」
「し、知ってるぞっ。双子がいるんだよなっ!? 幽霊なんかじゃないんだろ。遺族が脅迫しに来たって、警察に、で、電話、し、してやるっ。こ、公判が、有利になるんだぞっ。知らないのかっ!!」
――ああ、なるほど、先生が言っていたのは、こういうことか。
遺族が加害者に逢うのは良くないと弁護士は言った。
脅迫になるとは思わなかった。
――僕はバカだ。先生も、行くな、って言ったのに……。
どうしていいかわからなくなり、泣きそうになってしまう。
藤波が持つケータイから、ストラップのリラックスウサギが揺れていた。
「このウサギ、トラックのミラーにもさがってましたね。ミラーからさがっていたほうが、ずっと大きかったけど」
瑞希が言った。
男が、えっ、とつぶやいた。
あっけに取られた表情で口を開け、下から窺《うかが》うようにして高志を見る。
驚いているのは高志も同じだった。姉が、高志の声帯を使ってしゃべっている。
――ど、どうして……。お姉ちゃんどうして? いま、身体の支配権を取ってるの、僕なのに……、お姉ちゃんがしゃべれるなんて……。いままで、こんなこと、できなかっただろ?
高志のしゃべる言葉は口から出ず、頭の中に反響する。
姉は、声帯の支配権を取ってしまったらしい。
「どうして、それを……ウサギは、血で汚れたから、捨てたのに……」
「私が最後に見たの、ゆらゆら揺れる、リラックスウサギでした。藤波さんが必死でハンドルを切ってるの、ちゃんと見ました」
姉が高志の声帯を操作している。
あふれる感情を押し殺したあげくそうなってしまったというような、感情のこもらない平坦な口調だ。
藤波運転手の手から力が抜け、ケータイが落下し、軽い音を立てた。
ケータイを追うようにして、その場に力なくへたりこむ。
まるで腰が抜けたみたいだった。
「……やっぱり、ゆ、幽霊なのか……?」
姉は口をつぐんで答えようとしない。
自分が幽霊なんて、認めたくないのだろう。
――お姉ちゃん、ごめん。
高志は心の中で姉に謝罪しながら、姉の名前を名乗った。
「私は桂瑞希です」
ちゃんと声が出たことに安堵する。
中年男は後ろ手をつくと、逃げたそうに手足を動かした。
ショックのあまりうまく身体が動かないみたいで、後方へとずりずりと移動していく。泣きそうに顔を歪ませながら高志を見ている。
「す、すまないっ、ゆ、許してくれっ、整備不良だったんだ……っ!! 踏んでも踏んでもブレーキが利《き》かなくてっ……で、でも、避《よ》けようとしたんだっ。……お、俺も、必死だったんだっ」
「藤波さん、お葬式も、通夜も来ませんでしたね……」
高志は男との距離をつめていく。
運転手は、怖そうに片腕をあげ、顔を背けた。
「事情聴取を受けていて、行けなかったんだっ!! 仏壇に手をあわせに行こうと思ってたけど、怖くて、い、行けなかった……」
藤波運転手は、砂利道にはいつくばり、土下座をした。
「ゆ、許してくれっ。すまないっ!! こ、殺さないで、くれぇっ。お、俺には、妻も子もいるんだっ!!」
おでこを土にすりつけて、すまない、許してくれ、と、何度も何度も繰り返す。
「休みの日に会社に来たのは、なにか用事ですか?」
「トラックを整備するためだ」
「まだ運転手をしてるんですか? 免許は停止でしょう」
「そのとおりだ。今は、配送センターが職場だ。荷物の仕分けをしているんだ。だけど、休みの日に、みんなのトラックを整備してるんだ。……あんな事故を、二度と起こさずにすむように……」
高志は呆然として男を見た。
姉の代わりに殴ってやろうと思っていた。だが、そんな気持ちは失せてしまった。
これは事故だ、不幸な事故。
この人にも生活があり、人生がある。
『よかった』
姉が高志の頭の中でつぶやいた。
いろんな意味を含んだ言葉だった。
――佐藤さんが関係なくてよかった。
――事故でよかった、殺人じゃなくてよかった。
――このおじさんが、整備をするために休みの日に出てきてくれて、よかった。
高志にも、言いたいことはいっぱいあった。
だが、気持ちがぐるぐるするばかりで、うまく、言葉になってくれない。
言葉の代わりに涙が出た。
――お姉ちゃんって、すごい……。
自分を轢き殺した運転手に対して、自分を裏切ったのかもしれない佐藤さんに対して、よかったと言える姉が、すごいと思う。
――僕のお姉ちゃんが、お姉ちゃんでよかったな……。
姉は黙りこんだまま返事をしない。膝をかかえて座っている姿が目に浮かぶようだった。
高志は立ったままでぽろぽろと涙をこぼした。
手の甲で涙を拭く。
「ありがとうございました」
「えっ?」
「お話を聞かせていただいて、ありがとうございました」
高志は中年男に向かって、ふかぶかとおじぎをした。
あっけに取られた表情で座りこむ男に背を向けて、高志は家に向かって歩き出した。
『ありがとう、なのね』
姉が話しかけてきた。
『高志って、すごいわ』
「お姉ちゃんも、すごいと思うよ。よかった、なんて言えるんだからさ」
『さすが姉弟だわね……』
瑞希の声は、今にも泣き出しそうにふるえている。
「ごめんな。お姉ちゃん。イヤな思いをさせちゃって」
『そうね。でも、これでよかったんだと思う。なんか、さっぱりしちゃった。』
「さっきのやつ、どうやったんだ? 僕の顔を横向かせたり、声帯だけ操ったりしたろ。いままであんなのできなかったよな?」
『そんなの知らない。高志ってば、私が指さしても見てくれないし、頬を挟んでこっち向けぇーってやってみたの。まさか動くなんてなんて思わなかった』
瑞希はいつもそうだ。
明るくて元気、行動力はあるが、物事を深く考えない。失敗しても、まあいいかで済ませてしまう。
『顔をそっち向かせることだってできたんだから、しゃべることだってできるかなって思って、やってみたらできちゃった』
「そ、そうなると、この先も、僕を無視して、お姉ちゃんが勝手にしゃべりだすかもしれない、ってコトだよな?」
『あーっ。そうだよねーっ』
瑞希は、いまはじめて気がついた、という口振りで言った。
ぽん、と胸の前で手を打ち合わせるしぐさが見える気がした。
『でもま、いいじゃない? 高志は病気だからって、みんな生温かく見てくれるわ。わー。なんか、できること増えてるよーっ。私、なんだか、元気でてきたぞーっ』
だが、まだ、佐藤の件が残っている。
「お姉ちゃん、その、佐藤さんのことだけど……」
『なにか事情があるのよ。佐藤さんはお屋敷に住んでいるお坊ちゃんで、親がうるさいのかもしれないし』
「おぉっ!! いきなり前向きっ!!」
そんなことあるわけないとはとてもいえない。
『高志、ミス瑠璃色、出るのよね?』
「う、うん……」
『出るって、言ったよね?』
姉が再度念を押し、頬をつんつんした。
物理的に叩かれているわけではないのに、見えない指でつつかれている感じがして、ちょっと怖い。
イヤだと言うと、殴られてしまいそうだ。
高志は甲高い声で答えた。
「うんっ」
『じゃあ、特訓ねっ』
「と、特訓、かよ……っ?」
『当然でしょっ!? 私の代理なんだから、お肌のお手入れは完璧にしてもらうわよ。あと、ワキ毛、剃ってね』
「げえっ」
『なによぉっ、迷惑そうねっ。水着審査があるんだから、当然でしょっ。女だって剃ってるんだからねっ』
あまり考えたくない話題だった。
背中を嫌な汗が伝う。
さすがに快諾できず、話をそらす。
「よかった。お姉ちゃん。元気になったんだ」
『うん。……私、きちんと失恋したいんだ。……こんなのはイヤだ。佐藤さんと、ちゃんと話したい。それで、納得できたらいいな……成仏できるかどうかわからないけど。』
――納得したい、かぁ。やっぱり姉弟なんだなぁ……。
「そうだね……」
お芝居の練習さながらひとりごとを呟きながら歩く少女に、道行く人がかわいそうな子供を見る視線を送りながら通り過ぎていく。
すっかりうす暗くなった家の前、白い人影がたたずんでいる。
ツインテールに結んだ髪が、夜の風に揺れていた。ミニスカートからすんなりと伸びている足が寒そうだ。
「あ、あれ、優亜……ど、どうしたんだ?」
優亜は女装の高志を見て、複雑な顔をした。直視できないようで目をそらすが、意を決した、というふうに顔をあげ、また視線を外す。
彼女にすれば、幼なじみの女装は、複雑な感情を誘発するらしい。
――あれ、優亜、殴ってこないな……。
優亜の右ストレートを覚悟して身構えていた高志は、優亜の真意を測りかねて首をひねった。
「女装なのね。瑞希さんなのかな?」
「高志だよ」
「ああ、なるほど、カチューシャがあると瑞希さんで、ないと高志なのね」
「どうしたんだ?」
「待ってたの。話したいことがあったから」
「ケータイを鳴らしてくれたらよかったのに。隣に住んでるんだし、なにも外で待たなくても……寒いだろ。入れよ」
高志は郵便ポストのダイヤルキーを解除して、中に入れておいた鍵を出した。
「その習慣、ずっと続いているんだね」
「あ、ああ、そうだね」
高志は、瑞希がいたときからの習慣を、今でも律儀に守っていた。
いま家にいるのは高志だけなのだから、鍵を持ち歩いてもいいのだが、習慣を矯正するにはもっと時間が必要だ。それに瑞希は今も高志のそばにいる。
鍵を開け、家に入る。
「おじゃまします」
優亜の声が明るく響いた。
誰もいない家の、ひんやりした空気が高志を包んだ。家族がいたときは、ほっこりした温かい空気が満ちていたのに、やっぱり変わってしまったのだと思ってしまう。
高志と優亜は、交互に仏壇のリンを鳴らし、手を合わせた。
優亜は、まじめな表情で、高志に向き合う。
「高志、いいかな? 言いたいことがあるのよ」
「い、いいよ」
家の前で高志の帰りを待っていたほどだから、大事な用事があるのに違いない。ケータイではなく、面と向かって話さなくてはならない、なにか。
優亜は思い詰めた表情をしている。あらためて絶縁宣言をしに来たとしても不思議ではない。
覚悟して待っていたのに、優亜の喉から出た言葉は、まったく逆の内容だった。
「ごめんなさいっ!!」
「えっ?」
「あれからずっと考えてたの。殴っちゃってごめんなさい。高志が、あんな軽いこと、冗談でもするわけないもんね。二重人格って、ああいうことなのね。お医者さんからも言われてたのに、私、ぜんぜんピンとこなったの。これからは、ちゃんと話を合わせるし、温かく見守るようにするから」
優亜は一気に言った。
そして、恥ずかしそうにつけ足す。
「その、キスされるのは、ちょ、ちょっと、困るけど……。そ、それ以外だったら、私、高志の手助けするよ。た、たとえば、女物の下着を買いたいとかでも、言ってくれたら手伝うからね」
手助けは欲しい。
高志は、パッドのつけ方さえ知らなかった。
ミス瑠璃色の参加者の本気度は、すみれの件でよくわかった。
ミスコンに出るなら、女の子の手助けが必要だ。
――お姉ちゃん。優亜に相談してもいい?
心の中で問いかける。
『うん。そうだね。ミスコンの特訓、女の子がサポートしてくれるほうがいいな。私じゃ、口しか出せないもん』
――お姉ちゃんのことも、説明しなきゃいけなくなるんだけど、いい?
『いいよ。当然でしょ。でもさ、優亜ちゃん。信じてくれないかもしれないよ。高志の正気をうたがって怖がるかもよ』
――優亜はそんな女の子じゃないよ。
姉の快諾を得た高志は、優亜に言おうとして、口ごもった。
なにから話していいかわからない。
高志でさえ、にわかには信じられず、妄想の産物だとずっと思っていたほどなのに、優亜は信じてくれるだろうか。
――まあ、いいか。全部、正直に言うしかない。僕にできることは、それしかないんだから……。
「あのう、優亜、びっくりしないで聞いて欲しいんだけど、お姉ちゃんは、存在してるんだ」
「はぁっ?」
優亜は、熱心に妄想を紡ぐ女装の幼なじみに、うんうんと相づちを打っていた。
――そうかぁ。病気って、こういうことなんだ……。
優亜には、高志が妙な電波を受信しているとしか思えなかった。
瑞希がイケメンホストに騙されたらしい、というのもウソっぽい。
自分を轢き殺した犯人に、逢いに行ったというのも普通じゃない。
さらに言うなら、瑞希を騙した若いイケメンホストが、「仕事で」ミス瑠璃色に来る、というのも妄想としか思えなかった。
――なんか、高志の女装、上手になってきたみたい。はじめて見たときは、ブラジャーのカップがベコベコして、おかしかったのにね。
――高志の胸もと、ほんのりふくらんでる……パッドなのかな?
――わぁ。まつげ長ぁーい。髪の毛サラサラ……。女の子みたい……、すごくかわいい。
――唇、ピンクだぁ。すべすべのぷるぷるで花びらみたい。私、あの唇とキスしたんだ……。
――キスしたのが瑞希さんで、好きだって言ったのも瑞希さん……っていうのは、複雑だなぁ……。
――もう一度、キスしたいなぁ……。瑞希さんじゃなくて、高志とキスしたい……。
――うわぁっ。私ってば、なんてコトを考えてるのっ!?
「優亜、ど、どうかしたのか? 妙な顔して……」
「な、なんでもないわっ!!」
「だからさ、優亜、手伝って欲しいんだ」
「な、なにを?」
「ミスコンさ」
「えっ? で、出るの?」
「うん。だから、お肌のお手入れとか、サポートを手伝って欲しいんだ。ほら、僕はやっぱり男だから、ドレスとかわからないんだよ。優亜が頼りなんだ」
――やっぱり男だし? 高志、自分を男だって認識してるの?
少年である彼がドレスを着てミスコンに出るというだけでアレな気がするが……。
――優亜が頼りなんだよ。
――そこまで言われたら……。
「うん」
――と答えるしかないわ。
――女装ぐらいなによっ!! こんなことでめげてちゃいけないわっ!
「私、手伝うわよっ!!」
「わぁっ。よかったなぁ。お姉ちゃんっ!! 優亜が手伝ってくれるんだって……お姉ちゃんが、ほんとうに手伝ってくれるのか念を押しておけ、ってさ」
「うん。ほんとうよ。私、瑞希さん、好きだしね」
――あのキス、瑞希さんがしたって高志が言うんなら……瑞希さんになら、キスしてもいいのよね?
思いつくと同時に身体が動いた。
優亜は、首をさしのべると、高志の唇にチュッとキスをした。
唇の先だけが触れる軽いキス。
ほんの一瞬だけのキス。
高志は面食らった顔をして、きょんとんとしている。
「瑞希さんに、好きだって言ってくれたお礼っ!」
瑞希さんに、と、お礼の部分を強調する。
「……た、高志にしたんじゃないからねっ」
憎まれ口を叩いてつんと顎をあげる。
「そ、そうなんだ……ありがとう」
高志の顔が、ぱーっと赤くなってきた。高志は照れくさくてならないとばかりにうつむいてしまった。
優亜の頬も熱い。きっと高志とおなじぐらい、顔が赤くなっていることだろう。恥ずかしさのあまり下を向く。
カットソーとミニスカートの女子高生と、ショートカットにセーラー服の女装少年は、二人して顔を見合わせてテレテレした。
――高志の言うこと、信じてる演技をしよう。高志が瑞希さんがいるっていうんなら、いるつもりでふるまおう。
それが病気を治す近道だと医者が言っているのだからだ。
「おっ、おう」
「おう?」
「応募規定がお姉ちゃんの部屋にあるんだってさ。今、取ってくる」
「うん、待ってる」
「スピーチ、フリースタイル、水着審査、ドレスコードあり、高志、水着審査ってどうやってするの?」
「海水パンツ。まさかビキニとか着れないだろ」
「あはは。そりゃそうね。なんだったら、私のスクール水着貸してあげるよ」
「うぅ、そ、それは……その」
「念のために持っていこうかな。女装美少年のスクール水着なんか見ちゃったら、かわいい男の子好きのお姉さまたち、興奮して失神するかもね」
はじめて気付いた。優亜は、姉の瑞希と似ている。
容姿はぜんぜん違うし、姉は優亜と違って握り拳は出ない。
優亜が「念のために」というところを、瑞希なら「シャレで」とか「ネタのつもりで」とか言うだろう。
だが、優亜と瑞希は、お姉ちゃん気質《かたぎ》とでも言うのだろうか、世話好きでかまいたがりのところが同じだった。
「スピーチは?」
「即興だってさ」
「瑞希さんらしいわね」
――優亜って、僕の話、信じてるのかな? 話、合わせてるだけなのかも……。
――まあいいや。それでも……。
「ドレスは?」
「お母さんの昔のワンピースをクリーニングに出してるんだって、なんか、特別な布地で、でぎあがるのが当日の朝になるらしい」
「ワンピースなの? ドレスじゃなくて?」
「うん。お母さん、仕事のとき、着物ばっかりだったんだ。だから、ワンピースっていうのは、お母さんの仕事着じゃなくて、お出かけ着だって」
高志と瑞希の母は、銀座のホステスだった。
昔のアルバムには、母が仕事をしていたときの写真がある。和服を着て髪を結い、あでやかに笑っている写真ばかりだ。ドレスで接客している写真は一枚もない。
「ふうん。そうかぁ。フリースタイルは?」
「お姉ちゃんはラクロスをやるって言ってる」
「いいね。それ。コスチューム、かわいいしね。じゃあ、ボールを投げる役、私がするね」
「助かる」
「練習しようか。あっ、もう暗いかな? その前に、服装、戻す?」
「いいよ。女装、慣れたいし。ラクロスの衣装ってポロシャツとスカートだもんな」
――なんか、ちょっと楽しいな……。
隣に住んでいる幼なじみでしかなかった優亜との距離が、一気に縮まったみたいで、くすぐったい。
「そうね。じゃあ、行こう」
優亜が高志の手を握ってきた。
「あっ」
温かいやわらかい手にどきどきする。
――殴る以外に、優亜が僕に触ってきたの、はじめてかも……。
「か、勘違いしないでねっ。女同士だからねっ」
「そ、そっか、女同士かぁ……」
うれしいような、困ったような高志であった。
第6章 ウワサの二人
気の強そうなツインテールの少女と、ショートカットのさわやかな容姿の少女が、肩を並べて歩いている。
いずれ劣らぬ美少女二人は、まるで、交際しはじめたばかりのカップルのようだった。お圧いに照れくさそうなところがほほえましい
瑠璃色学園の生徒たちは、百合百合しい彼女らを遠巻きにしながら、ウワサ話に花を咲かせている。
――あの二人、どういう関係なのかなぁ。仲良さそうだなぁ。
――しかし、桂のやつ、どっから見ても女の子にしか見えねぇ。カップル、っていうより、むしろ百合ってか。
――道ばたでキスしたり、エロDVDを一緒に買う仲……なんだよね
――まさか、あの木崎さんがヘンタイとつきあってるなんてなぁ……。心の恋人だったのに……もしもミス瑠璃色が他薦OKだったら、俺はぜったい木崎さんを推薦したのになぁ……。
――ヘンタイって言っちゃいけないって。桂くんの女装は、解離性同一性障害って病気だってば。学園新聞に診断書が出てたでしょ。
――うーん。桂くん、おっぱいがまったいらだーっ。確かにかわいいけど、中性的な美少女だよね。
――そりゃそうだろ、男なんだし。
高志はスカートを気にしながら、おしとやかに歩いている。恥ずかしそうに目を伏せている様子が、男性の劣情を煽ってやまない強烈な魅力をかもしだす。
「ウワサ、してるね」
「うん。学園新聞、もうみんな見てるんだね。私と瑞希さんのキスシーン、出てるのかなぁ」
「新聞部の連中、仕事が早いからなぁ」
通学路でさえこうなのだから、校門をくぐるのが怖い。どんな騒ぎになっているかと思うと気が重い。
新聞部は、紙媒体での学園新聞発行にこだわっている。
咋日は日曜だったから、新刊の発売はどんなに急いでも今日の朝だ。
だが、学園新聞を手に入れた誰かが、ケータイで写真を撮って一斉送信してしまえば、通学途中の生徒まで新聞の内容を知ってしまう。
そして彼ら彼女らは、さながら予告編のようなメールの内容を確かめようとして、学校につくなり財布の紐をゆるめ、学園新聞を買い求めるのだ。
高志と優亜は、校門の前で立ち止まった。
黒塗りのリムジンが、しずしずと到着した。
毎朝の儀式なので、慣れっこになっている生徒は、あわてずさわがずリムジンに道をあける。
黒いスーツを着た男性が、運転席から出て回りこみ、後部座席のドアを開ける。絵に描いたような執事だ。
「ありがとう」
足をそろえてリムジンから降り立ったのは森永愛梨《もりながあいり》。
朝日に照らされた彼女は、まるでアカデミー賞のレッドカーペットを歩くハリウッド女優のように、堂々と胸を張っている。
「愛梨さん。おはようございますっ」
「いよいよ明日ですね。がんばってください」
生徒たちから、声が飛んだ。
本物のお嬢様である彼女は、瑞希のような庶民派と違い、親衛隊こそ結成されていないが、彼女を崇拝している生徒は多い。
――あれっ、そういえば、親衛隊のみんな、今朝は見かけないな。エロ本事件とキスシーンで引いたかな……。
「みなさん。おはよう」
愛梨は、鷹揚《おうよう》に挨拶すると、手で肩にかかる髪を払った。
ストレートロングの黒髪が翻り、セーラー服の胸を押しあげる双つの胸のふくらみが、ぶるるんと揺れる。
助手席のドアが開き、メガネをつけたお付きの少年が降り立つ。自分のカバンに加えて愛梨の学生カバンを胸に抱き、さらになにやら大きいボストンバッグを手にさげて、お嬢様のあとを目を伏せて歩いていく。
「僕、森永さんに、男なんかに負けないって、言われたことがあるんだ」
「すごいじゃない。優勝候補にライバル視されてるなんてよっぽどのことよ」
愛梨が学園の敷地内に入るなり、新聞部が愛梨にボイスレコーダーを突きつけた。
明後日に迫ったミスコンについて聞いているらしい。
「そんなの、私が優勝するに決まっているじゃありませんか!? おーほほほっ、ほーほほほっ、ほほほっ」
「あいかわらず、森永さん、テンション高いね」
「うん」
高志と優亜がのんきな感想をしゃべっているすぐ前で、愛梨が手の甲を口に当て、後頭部をのけぞらし、呵々大笑《かかたいしょう》している。
その後ろで、地味なメガネの少年が、一歩さがって待っていた。
「優勝する自信? もちろんありましてよっ。ほーほほほっ……」
愛梨が興奮のあまり、手を振り回したときのことだった。手の甲が背後にひかえる少年のメガネに当たり、落ちそうになった。
「あっ」
「あら、失礼」
お付きの少年はすぐさまメガネをかけ直したが、ほんの一瞬素顔がのぞいた。意外にハンサムで目を見張る。
『あっ。そ、そんな……っ!?』
瑞希が声をあげた。
「ど、どうしたんだ。お姉ちゃん?」
姉は黙ってしまって返事をしてくれない。霊感のない高志には、姉の姿は見えない。
だが、姉が、動揺している気配が伝わってくる。
「高志、どうしたの? あ、今は、高志じゃなくて瑞希さんかな?」
優亜が遠慮がちに問いかけた。
そのとき、目の前に学園新聞が差し出された。
「桂瑞希さん。これをどうぞさしあげます」
「うっ」
高志は声を失って黙りこむ。女装の高志がエロ雑誌を両手いっぱいに持って困った顔をしている写真と、高志と優亜のキスシーンが一面を飾っている。
「どうです? 綺麗に撮れてるでしょう?」
優亜が手を伸ばして、新聞を取りあげた。一瞥《いちべつ》した彼女の眉間に青筋が立ち、柳眉が逆立つ。不穏な空気が、彼女の周囲にゴゴゴとばかりに立ちこめる。
新聞を持つ手がわなわなとふるえているところを見てとって、新聞部員たちが怖そうに後ずさった。
――優亜、殴るなよっ。お、お願いだから、新聞を破らないでくれえっ。これ以上、学園新聞にネタを提供するのはやめてくれよなっ、コンテスト、いよいよ明日なんだからなっ。
「あらぁ。よく撮れてるのね」
優亜は、意志の力を総動員して小首を傾げ、にっこりと笑った。
だが、笑顔の形に唇を歪ませているものの、目は笑っておらず、さらに迫力が増した。
――優亜、こ、怖いよぉっ……。
だが、こんなことでビビるようなパパラッチ集団ではなかった。部員はごほんと咳払いすると、気を取り直して高志に向かってボイスレコーダーを突きつけた。
「いよいよ明日、コンテスト当日ですが、瑞希さんのさわやかな美貌を保つ秘訣《ひけつ》について教えてください」
高志は冷や汗を掻《か》いた。
美の秘訣について質問され、とっさに答えられる男子高校生がいるのなら教えて欲しい。
――お姉ちゃん。代わってくれよぉ。
心の中で悲鳴をあげるが、姉は代わってくれない。なにか気になることがあるのか、ぼうっとしている。
「えっと、よく寝て、よく遊び、よく食べることだと思います」
「ちょっと、高志、それじゃ子供よ」
優亜が肘で脇腹をつつき、小さな声でささやくが、どう言っていいのかわからない。
引きつった笑顔で新聞部員の応対をする高志の前から、愛梨とお付きの少年が去っていく。ずいぶんと小柄な少年だ。
「瑞希さんは、ズバリ、ミス瑠璃色に選ばれると思いますか?」
「姉は参加することに意義がある、ベストをつくすと言っています」
「ちょっと、高志、それじゃ、スポーツよ」
――うわぁ。だ、だめだ。もっと女っぽくしないとっ。
「木崎優亜さんにお聞きします。木崎さんは、桂瑞希さんのなんでしょうか?」
「マネージャーよ」
優亜はつんとして答えた。
「みなさん、桂瑞希の応援をよろしくお願いします」
優亜は、高志の手を引っ張ると、会釈をしてその場を離れようとした。
「瑞希さんっ!! 木崎さんがマネージャーっていうのはほんとうですかー!?」
ドドドと砂煙《さえん》を立てながらやってきた詰め襟の男たちが、高志と優亜を取り囲む。瑞希さん親衛隊の隊士たちだ。
真っ青な顔をして、滂沱《ぼうだ》と涙を流しながらハアハアしている彼らは、かなり怖い。
――女っぽく、女っぽく、僕は女だっ。女だって思いこむんだっ!!
まるで自己催眠のように、女、女、と心の中で繰り返しながら、小首を傾げて答える。
「ええ、そうよ」
――うわ。僕、かわいいじゃないかよ。
外見に引きずられてしまったのか、女だと自己催眠を掛けたことが原因なのか、無意識に出てしまったナチュラルな少女っぽさにげっそりする。
「木崎さんには、ミス瑠璃色のマネージャーをお願いしたの」
隊士の表情がやや明るくなる。
彼らは、おそるおそる、という雰囲気で聞いた。
「じゃあ、ミス瑠璃色が終わったら、マネージャー契約は解消ですね」
「そのとおりよ」
「恋人……とかでは?」
「やっだぁっ! どうして私が、木崎さんの恋人にならなきゃいけないの? 私、女なのよ〜」
――うわぁうわぁっ、ぼ、僕ってかわいいっ!!
腰の奥からじいんと響くような、熱い陶酔が忍びあがる。
かわいくてうれしいという感情は、まったくはじめての興奮で、ノーマルな少年である高志の目をくらませた。
――僕、ちょっとアブナイかも。
――こ、これは僕じゃないんだっ!! お姉ちゃんなんだっ!! お姉ちゃんのつもりで話さなくちゃんいけないんだ。
――僕は桂瑞希だっ。瑞希なんだっ
「しゃ、写真が……キスシーンの写真が……、エロ本とエロDVDを持った写真も……お、俺たち、ショックで……」
「合成写真よ」
高志はしれっと言ってのけた。
あっさり言うほど、ほんとうっぽいというものだ。
「学園新聞がどういう新聞かについては、みなさんご存じでしょ?」
不安そうだった隊士たちの表情が、一瞬で晴れやかなものに変わる。
「合成なのっ!?」
甲高い女性の声が響いた。
「みんなーっ。あの写真は合成なんだって。木崎さんはマネージャーなんだそうよーっ」
「えっ。ほんとぉ?」
かわいい男の手好きのお姉さま軍団がわらわらとやってきた。
「よかったわねぇ。そうよねぇ。女装美少年がエロDVDに女の子とキスじゃ、あまりにも夢がなさすぎるわっ」
「明日のミスコン、がんばってね! 私、必ず投票するわ」
「私もよっ」
お姉さまたちが力強く応援してくれる。
いっぽう、瑞希さん親衛隊の隊士たちは、ラガーマンのように円陣を組み、肩を叩き合っていた。
「そ、そうか……よかった」
「よかったよなぁっ。おいっ」
彼らはやがて、円陣をほどいて一列に並んだ。
「俺たちは、瑞希さん親衛隊として、瑞希さんの応援をすることをここに誓う! 瑞希さん親衛隊隊士ノ掟十箇条っ!!」
「その一、瑞希さんの嫌がることは絶対にしない!!」
「その二、抜け駆けを許さず!!」
「その三、瑞希さんの幸せを祈るため、誠心誠意努力する!!」
「その四、瑞希さんを苦しめるものあれば、瑞希さんを守り戦う!!」
「その五、死して屍拾うものなし!!」
「その六……」
「ありがとうみなさん。先に失礼しますね」
――つ、疲れる……っ。
高志はかわいく会釈し、優亜と一緒に教室へと向かって歩いて行った。
優亜と一緒に教室に入った高志は、ほうっとため息をついた。
ざわざわしてさわがしい学校のなかにあり、教室は唯一息をつける場所だ。
――クラスメートってありがたいなぁ……。
学園新聞を見ている生徒もいるはずなのに、みんな普通に接してくれるのがうれしい。
ドアが開き、花を入れた花瓶が入ってきた。正確には、花瓶を持った大堀《おおほり》すみれが教室に入ってきたのである。洗面所で水を換えてきたらしい。瑞希の机に載っていた花だ。
すみれは教卓に花瓶を置くと、やさしい表情で花の位置を整えていく。
華道家元の娘であるすみれは、当たり前のように花の世話をしている。その様子が、昨日見た生けこみの光景に繋がった。
日曜の無人のオフィス。濃密な花の匂い、閉め切られてよどんだ空気、胸に張りついたパッドのもちもちっとした感触。
――ミスコンに出ると、今以上に恥ずかしい思いをするかもよ。
――この日のためにウォーキングの練習したり、努力してるのよ。気楽にやりますじゃ困るのよね、出るのなら、覚悟して出てくださいね。
すみれは咋日、やたらと機嫌が悪かった。
――なんでだったんだろう?
瑞希は、高志がミスコンに参加するのが理由だと言ったが、それだけではない気がした。
花を生けるすみれは、甘い笑顔を浮かべている。昨日の真剣な表情とはぜんぜん違う。じっと見ていたことが悪かったのだろう。すみれはふと顔をあげた。視線がバチッと合う。
――うぅっ……。
いやな汗がたらりと背中を伝う。
すみれは高志に向かってにこっと笑った。誰もがうっとりするような明るい笑顔だ。だが、目が笑っていない。ぎらぎらする瞳で高志をにらんでいる。
――うぅっ、こ、怖いっ……。
そのとき、女子生徒が興奮して止りこんできた。
「ねぇっ。聞いてっ!! すごいのっ!! 森永さんが、更衣室で、ドレスのフィッティングやってるの!! 炎みたいな真っ赤なドレスなの。すごくステキ〜ッ」
高志と優亜は顔を見合わせた。
「なんで更衣室でフィッティングだよ? 家ですりゃいいのに。意味ないよな」
「パフォーマンスでしょ、私のドレスはこんなに豪華なのよーっていう」
「ああ、他の参加者に、圧力掛けてるわけか。動揺したら儲けもん、っていうことかな」
すみれは涼しげな顔で花の世話をしている。
愛梨のドレスなんかどうでもいいわ、といわんばかりの表情だ。
「見に行く?」
「行ってどうすんだよ? 僕は女子更衣室、入れないよ」
「そうね……。私だけ見に行ってこようかなぁ……、あ、そうだ。愛梨さんのお付きの人、ろくろうって名前なんだって。大きなカバンさげてたけど、あれってドレスが入っていたのね」
『……っ!』
姉が息を呑んだ。なにか。言いたそうな雰囲気だ。
「んっ、どうした? お姉ちゃん」
『佐藤さん!?』
姉が悲鳴をあげた。
その瞬間、目の前がぐるんと回った。重力がおかしくなる感触に胃がねじれる気分になる。
『ええっ? ま、回ってるみたいな……』
確かにしゃべったはずの声は口から出ず、頭の中に反響する。
「佐藤さんっ!!」
姉が教室を飛び出して、廊下を走っていく。
支配権が姉に移っている。
『お、お姉ちゃん?』
ありえない。こんなこと、ありえるわけがない。
支配権交代は、高志が眠りこんだり失神したりして、意識をなくしたときに限っていたのではなかったか。
『佐藤さんって、あの佐藤さんなのかよッ!?』
瑞希は返事をしない。
顔色を変えて、泣きそうな様子で走っていく。
「ちょっ、ど、どうしたのよっ!? 高志? 瑞希さんなのっ?」
優亜が追いかけてきた。
授業がはじまるまでの時間をそれぞれにすごしている生徒たちが、血相を変えて廊下を走る女装少年を見て、驚いたようにして道を譲る。
愛梨と、お付きの少年が廊下を歩いている。彼は大きなボストンバッグをさげていた。たぶんバッグの中には、ドレスが入っているのだろう。
「佐藤さんっ!!」
瑞希が叫んだ。
お付きの少年がビクッとして足を止めた。
「佐藤さんでしょっ!? 私、瑞希よっ。桂瑞希っ!!」
愛梨が振り返った。ストレートロングの黒髪が揺れ、砂のような音を立てて、セーラー服の肩に落ちかかる。
愛梨は、瑞希とお付きの少年を見比べた。
「禄郎《ろくろう》、好きになさい」
「はい。お嬢様」
禄郎と呼ばれた少年は、立ち去っていく愛梨におじぎをした。
「佐藤さん、よね……森永さんの付き人だったのね。ずっと、同じ学校に通ってたんだ。言ってくれたらよかったのに」
――ええっ。これが佐藤さんっ? ウソだ……。
まるで別人だった。
書店で見た佐藤は、背も高くて姿勢が良く、端整な顔立ちをしていた、黒スーツの似合うイケメンホスト、特撮ヒーローをおとなしくした感じ。それが高志の佐藤の印象だった。
だが、目の前の少年はまるで逆だ、背が低く、伏し目がちで前屈み、印象に残らない顔立ち。たやすく人影にまぎれてしまいそうだ。
「私、佐藤さんの家に行ったのよ。私書箱だったね。解約したって聞いたわ。びっくりしちゃった。私、佐藤さんに、ウソつかれていたのかな?」
少年がメガネを取り、詰め襟の胸ポケットにメガネを入れた。
あらわれた素顔に驚愕する。
あのイケメンホストだ。身長までも変わって見える。弱々しく、遠慮がちな感じだったのに、素顔をさらして背中を伸ばした今は、老成した落ち着きを漂わせている。
原因はおそらく愛梨お嬢様だろう。彼女の印象が強すぎるから、付き人が小さく見えてしまったのだ。
「ごめん。場所を替えて話そう」
禄郎が、先導するようにして歩き出した、
「僕は、森永家のフットマンなんだ」
校舎裏へと場所を替えた禄郎は、校舎の壁に背中をもたせかけながら、問わず語りに話しはじめた。
姉は、胸の前で両手を組み合わせ、心配そうに禄郎を見あげている。
優亜は遠慮して教室に戻った。
もう授業ははじまっていて、校舎裏は静かな空気が流れていた。新校舎の音楽室から聞こえてくるクラッシックが、のんびりと響いている。
「フットマンって?」
「召使いかな。執事見習いだよ」
「ふうん。そうなんだ。そんな仕事、実在するんだね……」
「僕は森永家に住みこんでいるから、住所を私書箱にしたんだ。愛梨さんと同じ住所なんて知られるとマズイからね。近くにもっと便利な私書箱ができたから、前の私書箱を解約したんだよ、あの私書箱、ちょっと遠くて、使いにくかったんだ」
「そうなんだ……」
ウソをついたわけではなく、都合の悪いことを言わなかった、というだけのことだろう。
「佐藤さんとデートするの、私、楽しかった……。佐藤さんは大人でさ、聞き上手で、話題が豊富で……。ロマンス小説を読む男性がいるなんて思わなかった。もっと佐藤さんとお話したり、一緒に映画を見たり、いろんなことをしたかった」
「……愛梨さんがロマンス小説が好きなんだ」
禄郎は言いにくそうに答えた。
出会いのきっかけになったというロマンス小説。一冊しかない本に同時に手を伸ばし、禄郎が瑞希に譲った。
「佐藤さん、私のお葬式とお通夜、来なかったね?」
「うん。ごめん。フットマンって、自分の時間がとりにくいんだ」
禄郎は姉のことをどう思っているのだろう。友達以上恋人未満。いや、友達でもお葬式には来るだろう。友達でさえもないのだろうか。
「来て欲しかったなー。私が事故に遭ったの、佐藤さんを待ってたときのことだし、佐藤さんに、最後のお別れをしたかった。私が成仏できなかったの、佐藤さんに逢えなかったせいかもしれないよ。……あははっ。やだ、そんなヘンな顔をしないでよ。私ってば、幽霊なんかじゃないよ。私の死亡でショックを受けた弟が、私はまだいるって思いこんで、私みたいにふるまっているだけだってば」
瑞希がおどけた口調で言った。
笑いにまぎらわせているが、姉の本音なのだとはっきりわかる。
「ごめん。お嬢様が参列するなら、僕ももちろんつきそいに行ったんだけど」
高志は激昂《げっこう》した。
『おいっ、おまえ、なんてコトを言うんだよっ。それって、お嬢様は大事だけど、お姉ちゃんはどうでもいいってコトじゃないのかよっ!?』
高志の叫んだ声は声帯をふるわせることはなく、頭の中に反響した。
言ってはじめて納得する。きっとそうなのだ。禄郎にとって大事なのは姉ではなく、愛梨お嬢様なのだ。
楽天家の瑞希も、この理由にはショックだったようだ。
禄郎への視線を外し、ふるえる声で、言う。
「そっか。当然だよね。佐藤さんの立場じゃ……。いちばん大切なのは、ご主人様だもんね……」
「すまない」
「だったらさ、どうして私に、ミス瑠璃色の参加をすすめたの? ライバルが増えると、ご主人様が不利になるよ」
「明日、コンテストが終わってから、説明させてくれないか」
「うーん、そうかぁ……。説明もしてくれないのかぁ。私、どうでもいいんだね。私、参加するの、よそうかなぁ……。なんか、私がミスコンに出る理由、なくなっちゃったし……」
「瑞希さんには、ミスコンに参加して欲しいんだ」
「なんで?」
「今は、言えない」
「今は? ああ、そうだっけ、明日コンテストが終わってから、だったよね……わかった。じゃあね」
天地がひっくり返り、ゆっくりと回転する錯覚のあと、支配権が高志に戻った。
姉はそうとうショックを受けているらしく、黙りこんでしまっている。
「あ、あの……」
なにか言わなくてはいけない気がして、高志は立ち去っていく禄郎を呼び止めた。
「負けませんから」
お姉ちゃんを、勝たせてあげたい。
瑞希よりも愛梨を選んだ禄郎の前で、お姉ちゃんのほうが綺麗なのだと証明してやりたい。
「お姉ちゃん、絶対ミス瑠璃色になりますからっ」
禄郎は、満足そうな笑顔を浮かべてきびすを返し、片手をあげる。
優勝してくれ、期待してるよ、というふうに。
――な、なんだよ? この反応?
さっぱりわけがわからない。禄郎が姉の優勝を応援する理由がない。
だが、これで心が決まった。
姉が出ないなら、高志が高志の意志で、ミス瑠璃色コンテストに出る。
そして、優勝し、ミス瑠璃色になってやる!
第7章 ミス瑠璃色は誰の手に?
「うぅ。寒い……っ」
高志は、海水パンツにハイヒール、肩にバスタオルという珍妙な格好で、よろよろと中庭を走っていた。
緊張した表情と海水パンツのせいで、まるで、今からリングにあがるボクサーのようにも見える。
「あ、足、痛いなぁ……」
足に食いこむハイヒールは、舞台用に用意したもので、母の形見のひとつだ。ちゃんと足に合っていることを確認したのにもかかわらず、歩けば歩くほど足が痛くなってくる。
ハイヒールがこんなにも歩きにくいものだとは思わなかった。
女の人は平気でハイヒールを履いてアスファルトの上を歩いているが、足が金属でできているのではないかと思ってしまう。
かててくわえて、他の出場者のように体育館の横の楽屋を使えないため、往復するのに時間がかかる。
――遅くなってしまったなぁ……。優亜、心配してるだろうな。
マネジャーを自認する優亜は、今は体育館で係員に説明してくれているはずだった。
高志は近道のつもりで校庭を突っ切った。
校庭には、いくつもの長机に、体育会系の生徒が持ち寄った不要品がちんまり並び、柔道着や野球のユニフォーム姿、テニスウェアの生徒がいそいそと作業をしている。
長机には、紙テープやテッシュでつくった花、ポスターや風船でにぎにぎしく飾られていた。
スピーカーからは、J−POPがにぎやかに流れ、創立祭らしい華やかな雰囲気になっていた。
創立祭はいつもこうだ。本来は保護者や外部見学者を入れない校内イベントだが、ミニ文化祭のように盛りあがる。
「おっ。桂だーっ。すげえなぁ。ハイヒールに海水パンツかよ。まさか水着審査、あの格好で出るつもりか?」
「ビキニを着るわけにいかないでしょ? いちおう、桂くん、男だし」
「顔は女の子なのにねー」
部活の生徒たちの注目の視線を浴びながら、長机の間を走っているときのことだった。
「創立祭を開催します。校長先生と理事長先生のお話のあと、つづけてミス瑠璃色学園の選考会へと移ります。ミス瑠璃色の参加者のみなさんはスタンバイしてください」
ずっとかかっていた陽気な音楽がいきなり途切れ、生徒会長が開会を宣言した。
「わーっ。スタンバイしてないよぉっ」
高志は悲鳴をあげた。
バザー準備の最中の、部活の生徒たちがそわそわしはじめた。
ミス瑠璃色は、創立祭のメイン行事だ。
創立祭の開会式のあとすぐミス瑠璃色の選考会があり、合唱部のコーラスや演劇部のミニ演劇のあと、昼休みを挟み、いよいよミス瑠璃色の発表だ。
選考は、ケータイでの投票に加え、投票箱も受けつける。校長や理事長、先生方も、投票には参加する。
「そろそろ行く?」
「あと十五分はだいじょうぶだよ」
「ああ、そうよねぇ。校長先生の話って、長いもんねぇ」
体育会系の生徒たちがおしゃべりをしている。
「校長先生からお話を伺《うかが》います。校長先生、生徒へのお話を二分間でお願いします」
「校長の黒崎《くろさき》です。今日はよく晴れました。五月のこの時期の風を薫風《くんぷう》と言います。薫《かお》る風と書くのです。そもそも五月というものは……」
校長のスピーチが、眠気を誘うリズムで響いてくる。生徒たちはきっと船を漕いでることだろう。音響装置を通しているせいで、長話による睡眠作用がいっそう増しているようだった。
スタッフや、議事進行役の生徒会長がいらいらしているのが目に浮かぶ。
体育館の横の出口から優亜が走り出てきた、血相を変えている。高志を捜しているのだろう。きょろきょろしている。片手に紙袋を持っていることが見て取れた。
「優亜、ここっ!!」
高志は拘束具のようなハイヒールを脱ぐと、裸足で走りはじめた。
ハイヒールに慣れようとしたことがそもそもの間違いだ。ハイヒールは舞台だけでいい。
「もうっ、高志っ、なにやってるのよっ!? 大変なことになっちゃったのっ!」
優亜は、周囲を見渡すと、高志の耳に手を当てて、小さな声でささやいた。
「えっ、そ、そんな……」
「規定に、ちゃんと書いてあるんだって。女性用の水着って……。男物の海水パンツだと、規定違反で失格だって。私、診断書見せて交渉したんだけど、決まりだからダメの点張りなの」
「どうすんだよーっ。女物の水着なんて用意してないよー」
「持ってきてるわよ、念のためのつもりだったんだけど」
優亜は紙袋から、黒いものを取り出して両手で広げた。太腿《ふともも》の食いこみを隠すようにして、布が被さっているデザインのスクール水着だ。
「き、着なきゃ、いけないのか……」
「当然でしょっ……あっ、どうして戻るのよ。君用の更衣室に行く時間ないよっ。校長の話が長いったって、限度があるでしょっ。こっち来なさいっ。そのバスタオルで私が隠してあげるから」
「うぅ、は、恥ずかしいよ……」
「もうっ、男でしょっ。しっかりしなさいっ!!」
「これじゃ不便だから、あとで高志用の更衣室をこっちに持ってくるね」
「高志用の更衣室、こっちに持って来るね」
「ムリだって。物置は業者さんが固定したんだろ。重いと思うよ」
「平気だってば。外せばいいだけ。それに、私の力、知ってるでしょ?」
「そりゃ、優亜のパンチ力は身をもって知ってるけど」
「失礼ねっ!! 怪力女みたいに言わないでよっ」
「……なぁ、海水パンツ、脱がなきゃだめかな?」
「当然でしょっ!! 早くしなさいっ!!」
優亜にぽんぽんと叱りつけられながら、スクール水着を纏《まと》う。
「うぅ……」
股間が見るからにアヤシゲだし、胸がまったいらで幼女の水着姿さながらだ。
親に見せられない格好だ。
――って、来てるんだよな。今日、お父さんが……。
――お姉ちゃん。代わってくれよ。黙ってないで。ミスコンだけでいいから。僕、やっぱり恥ずかしいよ……。
心の中で姉に話しかけるが、姉は黙りこんでしまって相手をしてくれない。
――ミスコンに出るの、よそうかなぁ。理由、なくなっちゃったもんなぁ……。
あのとき、瑞希はそう、言った。
出るのよそうかな、どころではなく、参加したくない、になってしまったのだろう。
参加すると、イヤでも禄郎《ろくろう》と顔を合わせてしまう。
さっきも、高志用更衣室の中で海水パンツに着替えながら、瑞希を説得しようとしたのだが、はかばかしい返事が返って来ず、それで時間がギリギリになってしまったのである。
「パッドもつけなさいねっ。袋の中に入れておいたでしょ?」
「つ、つけるのかよ?」
「あ、でも、パッドなんて、私、つけ方わかんないよ。どうしよう」
「だ、だいじょうぶだよ。やってみる」
高志はスクール水着の肩紐をずらして胸を露出させた。そしてパッドを開封し、二つ合わさった肌色のそれを引き剥がして別々にした。
ぷるぷるの感触は、ゼリーやプリンやババロアのようだった。
パッドの真ん中を押さえて胸に張り付け、周囲を指で押さえて密着させていく。
――大堀さん。ありがとう……。
内心で、大堀すみれに感謝する。
巨乳とはいえないまでも、プロポーションの良い優亜は、パッドのお世話になったことがないらしい。
貧乳のすみれだからこそ、パッドのつけ方を教えてくれることができたのだ。
ちょっといじわるをされたような気がするが、この際もう忘れてしまおう。
左右の胸にパッドをつけスクール水着の紐を直すと、遠慮がちな大きさの愛らしい隆起ができあがった。
「優亜、そのバスタオル貨して」
バスタオルを腰に巻く。
舞台の裏口から体育館に入ったときのことだった。
明るいところからうす暗いところに入ったので、一瞬視界が利かなくなる。
拍手が響いた。
校長のスピーチがようやく終わったらしい。どこか眠そうな拍手だった。
「では理事長先生。スピーチをお願いします」
「理事長の桂です。創立祭、楽しんでください」
理事長がすぐにスピーチを終え、マイクを置いた、長くなるぞと身構えていた生徒たちは、あまりの短さにきょとんとしていたが、一瞬置いて拍子をする。
高志は舞台の下から父を見あげた。
――お父さん……。
舞台の下の息子と、舞台の上の父の視線が絡み合う。
母の初盆のときに逢って以来だから、一年半ぶりだろうか。
父は、スクール水着の高志を見ても、表情ひとつ変えない。その様子は高志の目には冷たく見えて、男のくせにミスコンテストに出る息子を、さげすんでいるような気がした。
「桂さんっ。桂瑞希さんっ。こっち並んでっ!! すぐに音楽入りますっ!!」
係員の腕章をつけた生徒会役員が、高志の背をぐいぐいと押し、舞台の下に並ばせる。ベニヤ板で囲まれた一角で、観客席からは見えないようになっている。
そこには水着の女子生徒が、人溜まりをつくっていた。
女の子たちの汗と甘い体臭でむせかえるようだ。
自らの美貌とプロポーションに自信を持ち、自薦した女の子たちだから、いずれ劣らぬ美少女揃いだ。
「部外者はダメッ、外に出てっ」
「私はマネージャーです!!」
「マネージャーでもですっ!!」
係員と優亜がいさかいを起こしているが、高志は自分のことでいっぱいになっていた。
――うっ。
ビキニ姿の森永愛梨《もりながあいり》の巨乳が、どーんとばかりに視界に飛びこんできた。
――で、でかいっ。メロンかスイカみたいだ。
プールや海辺での女の子の水着姿は平気なのに、なんでもないときのビキニは破壊力がある。
目のやり場に困った高志は後ろを向いた。
誰かの胸の谷間に顔を埋めてしまいそうになり、あわてて飛び退く。
手の甲に、温かくてぽよんとしたものが触れる。
どうやら他の女の子のお尻だか太腿だかに触れてしまったらしかった。
密集しているのだからしかたないかもしれないが、女子生徒に触れてしまうのは失礼だ。胸の前で手を組んだが、今度は肘に乳房が当たった。
「きゃっ」
悲鳴をあげたのは高志である。
生理現象が起こった。
股間が反応してしまったのである、
バスタオルを腰に巻いているので目立たないものの、こんなこと誰にも知られるわけにはいかない。
困り果てたあげく、その場にしゃがみこんだところ、ビキニの股間が目の前に来た。ハイレグ水着のビキニラインの食いこみまではっきり見える。
お尻の谷間も、股間を隠す布に縦に走ったスリットの状況もわかってしまう。
見ちゃダメだ、失礼だ。目を閉じなければ、と思うのに、ついついお尻に視線が行く。
――うぅっ。鼻血が出そう……。
挙動不審な態度を取る高志に、女の子たちはぜんぜん注意を払わない。
彼女らの関心のすべては、舞台へと行っているらしかった。
ベニヤ板で囲まれた角からは、舞台の上は見えにくいのだが、怖いほどの真剣さで、舞台を歩く参加者を見つめている。
「理事長、ありがとうございました。それではミス瑠璃色学園、水着審査からはじめます」
照明がいちだんと光度を増し、ダンサブルな音楽が響く。
「エントリーナンバー一番、二年E組森永愛梨さん、三月五日生まれ。身体の中で好きなところは足。趣味は社交ダンスと読書。意外にもロマンス小説が好きなのだそうです」
「意外にも、はよけいだろーっ」
観客席からヤジが飛んだ。
愛梨は、男なんかには負けなくてよ、と高志に迫ったときの怖い表情がウソのように、にこやかに舞台を歩き、ポーズを取っている。
あんなにカカトの高いハイヒールで足が痛くないのかなと心配するが、さすが社交ダンスが趣味というだけあって、堂々としたものだ。
舞台の隅まで歩いてくるっと回ってポーズを取り、また中央でくるっと回り、反対側の階段から降りていく。
まるでハリウッド女優か、パリコレのモデルのようだ。
客席から拍手が響いた。
すぐに次の参加者の名前が読みあげられ、ビキニの女子生徒が舞台へと歩き出す。
『あっ!! 佐藤さんっ!!』
姉が声をあげた。
高志たちがいるのと反対側に、あのフットマンの少年がいて、愛梨を見守っている。
姉は禄郎が気になるようで、やきもきしているのが気配でわかる。
だが、高志はそれどころではなかった。
前屈みになったまま、立ち上がれないのだ。
「かんじーざいぼーさつ、ぎょうじんはんにゃはーらみたーじ、しょうけんごうんかいくうどーっ」
姉の葬儀でいやになるほど読経《どきょう》を耳にし、なんとなく覚えてしまった般若心経《はんにゃしんぎょう》を口の中で暗唱して、気持ちを落ち着かせようとがんばる。
だが、心臓が口から出そうなほど高鳴っていて、なにがなんだかわからない。
「ぎゃーてぎゃーて、はらそーぎゃーて、ぼーじそわかー、はんにゃーしんきょーっ」
「エントリーナンバー九番、二年B組大堀すみれさん。十一月十五日生まれ。身体の中で好きなところは髪。大堀花心流若宗匠です。若宗匠とは次期家元のこと。華道をはじめたのは一歳のときだそうです」
「はい」
すみれが律儀に返事をし、舞台へと進み出た。
ビキニ姿で健康美を誇っている参加者の中にあり、彼女だけがおとなしいデザインのワンピース姿だ。
モデルのような歩き方なのは、ウォーキングの練習をしたせいだろう。
だが、彼女は、愛梨のようなイッちゃってる雰囲気はなく、どことなく恥ずかしそうに歩いている。
それが、華道家元の娘で若宗匠という彼女の出自にぴったり合い、舞台の雰囲気をわびさび色に染めていく。
BGMは踊り出しそうに陽気な曲なのに、まるで雅楽の調べに乗っているような優雅な雰囲気が漂う。ほぉっ、と生徒たちからため息があがった。
すみれが舞台を降り、次の参加者の名前が読みあげられる、
お尻や股間、太腿が高志の視界から減っていくにつれて、緊張が増してきた。
――みんなすごいなぁ。どうしてあんな風に歩けるんだろう……。
――僕、スクール水着で、みんなの前に立つんだよな……。お父さんが見てるのに……。
――うぅ。お姉ちゃん。代わってくれよぉっ!!
「次、桂瑞希さんです。用意してください。タオル、取ってくださいねっ!!」
生徒会役員がささやいた。
「タオル、と、取るんですか?」
「当然ですよっ!! 早くっ」
背中を押され、しぶしぶ舞台へと通じる階段を上がる。タオルはつけたままだ。
「エントリーナンバー十番、二年B組桂瑞希さん。六月十日生まれ。身体の中で好きなところは目。好きなスポーツはラクロス。弟の桂高志くんの身体を借りての参加です」
股間のふくらみと心臓の動悸が治まらない。
舞台の端でためらっていたら、係員がタオルを引っ張った。あわてて前を押さえるが、抵抗むなしくタオルをむしり取られた。
「や、やめてっ、いやっ、取らないでっ!!」
自分でもびっくりするほど、女っぽい悲鳴が出てしまう、
「辞退しますか?」
「い、いえ、出ますっ!!」
高志は、ふらふらした足取りで、舞台の上へと歩み出た。股間を気にして、前屈みで歩く。
絶体絶命とはこういうことを言うのだろう。
――あっ。元に戻ってる。よかった。
緊張のあまりだろう。生理現象がおさまってほっとした高志は、舞台の中央で立ち止まり、おじぎをしようとして観客席を見た。
――うわっ、す、すごいたくさんの人……っ。みんな見てる……ぼ、僕を見てる。
視界が回る錯覚に襲われ、クラクラした。
見慣れた体育館が、様変わりしていた。
椅子がびっしり並べられ、そのそれぞれに生徒たちが座っている。席が足りなくて、後ろに立っている人までいるほどだ。
立っているのは、ユニフォーム姿の体育会系の生徒たちが圧倒的に多い
全校生徒が集まっているのではないかと思うほどの人数だ。
創立祭は休んでもいい日だから、こんなに多いとは思わなかった。
生徒たちは静まりかえり、あぜんとした表情で舞台の上の高志を見ている。
内股でもじもじしている彼は、乳房にあたる部分が遠慮がちに隆起しているせいもあり、上半身だけ見ていると、ふくらみかけの胸をスクール水着につつんだローティーンの少女のようだ。
だが、ウエストから下は、女物の水着をムリヤリ着こんだ少年だ。
声にならないため息が渦巻いて、彼らがドン引きしているのがはっきりわかる。
妙な緊張感が満ちた体育館に、明るいリズムの音楽が空々しく響いている。
フラッシュが光っているのは、写真部の連中らしい。ファインダーがどこを狙っているのかを考えるとうんざりするが、高志にはどうすることもできない。
「瑞希さんだぁっ!!」
ふいに野太い声があがった。
瑞希さん親衛隊の隊士のひとりだ。
「みんな、あれは瑞希さんだぞーっ」
「瑞希さんが恥ずかしさと戦いながら、真っ赤になってがんばってるんだぞーっ。俺たち親衛隊が瑞希さんを応援しなくてどうするっていうんだっ!?」
「瑞希、がんばれっ、ミズキッ、がんばれっ、LOVE!! MIZUKI!!」
彼らは、下半身は見ないことに決めたらしい。
滂沱と涙をこぼしながらも、瑞希コールを繰り返す。
「桂くーんっ!! がんばってー」
かわいい男の子好きのお姉さまたちも、負けじと声を張りあげる。
「みんな、美少年のナニにげっそりしてどうするっていうのっ!?」
「かわいい男の子にアレがあって当然よ!!」
「そうよっ。私たちは、桂くんのありのままを愛でるべきなのよっ!!」
興奮のあまりだろう、甲高い声でアレだのナニだの連呼するお姉さまたちを、たしなめる咳払いが、ゴホンゴホンとあちこちで起こる。
高志はみんなに向かっておじぎをし、せいいっぱい笑顔を浮かべた。
緊張で身体を小刻みにふるえさせながらも、けなげにも浮かべた笑みは、まさしく天使のほほえみだった。
舞台を降りようとして歩き出したが、ハイヒールのせいで思うように歩けない。
カカトがなにかにひっかかり、ばたっと倒れ伏した。あわてて起きあがった彼は、両手で顔を覆い、走るようにして舞台を降りていく。
観客席から、くすっと笑い声があがった。
「か、かわいいっ」
「すっ、すっごーい、かわいいっ。なんかもう、ずっきゅーんって来ちゃったっ!!」
「うぉーっ。やっぱり瑞希さんはかわいいぞーっ」
舞台を降りた高志は、転んだときにぶつけた腕をさすりながら、舞台の奥にしつらえてある審査員席の父を見た。
父は、顔色ひとつ変えていない。
スクール水着で登場した、心を病んだ息子の登場も、父の気持ちを動かすことはないらしい。
父はいつも高いところにいて、高志を見おろしている。
胸の奥がシンと冷える。
「これより休憩に入ります。次は十五分後からフリースタイルです」
「なんですって!?」
体育館の裏側で、愛梨の高い声が響いた。
着替えのために更衣室に急いでいた高志は、柳眉を逆立てた愛梨を見て足を止めた。
愛梨はピンク色のドレスを着ている。
花びらを重ねたようなデザインは、キツイ印象の彼女を甘い雰囲気に変えている。
咋日フィッテングしていた赤いドレスとはやはり別だ。
前日の更衣室でのお召し替えは、他の参加者に圧力を掛け、私はこんなに豪華なドレスを持っているのよ、というパフォーマンスだったのだろう。
「緑川《みどりかわ》さんが来られないですってぇっ!?」
――緑川さんって誰だ?
「はい。交通渋滞で、間に合うかどうかギリギリだそうです。順番を入れ替えてもらうよう、生徒会と交渉しました。エントリーナンバー九番の大堀すみれさんが交代してもいいと申し出てくださいました。ですが、すみれさんは、交換条件として、時間を二分多く欲しいとおっしゃっています」
フットマンの少年がお嬢様に奏上している。
「仕方ないわね。その条件を呑みますわ。大堀さんに感謝しますとお伝えして。演目を変えましょう。曲をラ・クンパルシータに。三分のバージョンのもの、持ってきてるわよね」
「はい。お嬢様」
「タンゴは目立つダンスだし、緑川さんはラテンダンスよりスタンダードのほうが得意だから、むしろそのほうが都合がいいかもしれないわね」
愛梨が親指の爪を噛みながら言った。
どうやら、ダンスのお相手らしい。きっと腕のいい男性なのだろう。
「お嬢様。そのクセ、おやめになったほうが……爪の形が悪くなります」
「あら、いやだ。つい出ちゃうのよね」
「血が……お嬢様、お手を」
「よくてよ」
「失礼」
禄郎が愛梨の手を取り、絆創膏を指に巻く。ていねいな手つきだった。二人の間に漂う空気は、主従というより恋人同士のそれのようにも見えてどきっとする。
高志は、見てはいけないものを見た気分で目を逸らした、
『ひくっ』
ずっと黙っていた瑞希が鳴咽した。
「お姉ちゃん……」
つきそいの優亜が心配そうに高志を見ている。
『ごめんね。高志。ひくっ、ぐすぐすっ……私、ミスコン、出られないや……。高志が出てね』
「うん。わかった。がんばる」
「行こうっ……。時間、ないよ」
優亜が、高志の背中をポンと叩いた。
静まりかえった体育館に、花切り鋏《ばさみ》で茎を切る音が鮮やかに響く。
大堀すみれが、和服姿で花を生けている。
淡い紫の着物で、すみれの模様が染め抜かれた鮮やかな振り袖だ。
長い袂《たもと》が正座している膝の横に美しく流れ、彼女自身が花であるかのように美しい。
――うわぁ。綺麗だ……っ。
すみれが日曜の会社で生けた花は、カラフルで綺麗だが、ありがちな作品だった。
だが、すみれが今生けているお花は、流派の伝統にのっとったものなのだろう。床の間に置くとぴったりというような、純日本的な作品だ。
天《てん》位置の木は躑躅《つつじ》、人《じん》の花は百合、人の添《そ》えは白の小菊で寄り添うようにしっとりと。地《ち》の花は美しく流して。地の添えは小菊。止め花としての躑躅の枝は柔らかく撓《た》めて。
三百年の伝統を誇る大堀花心流の若宗匠の実力は、見るものを圧倒する。生徒たちが、息をつめてすみれの手元を見ている。
白い手が流れるように動き、花が彩る美しい空間をつくりあげていく。ひかえめでありながら華やかで、静謐《せいひつ》なのに語りかけてくるようなすばらしい作品ができあがった。
すみれは、手を止めると、水盤《すいばん》を持って立ちあがり、舞台の隅に置いた。そしてお花の横に木の札を立てる。
高志のいる場所からは見えなかったが、流派の名前と彼女の名前を書いた札だとはっきりわかる。
高志は、大堀花心流若宗匠(次期家元)の腕前を示す生け花を階段の下で見あげながら、日曜日のオフィスで彼女が生けた花を思い出していた。
今思うと、あの花は、個性のない、印象に残らない花だった。
カラフルで綺麗だが、誰が生けても同じというような、なるほど会社に置くにはぴったりの、仕事の邪魔にならない作品だ。
――こっちがほんとうの大堀さんの実力なんだな。
そういえばあのとき、すみれは、名前を書いた札を置かなかった。作品ではなく、商品のつもりだったのだろう。
すみれは、余った小菊を、コーヒーカップに小さく生けた。
こちらは、あっという間にできあがる。
無人のオフィスで、捨てるはずの花を花束にして、瑞希にプレゼントしてくれたことを思い出す。
コーヒーカップに小菊という取り合わせが新鮮で、観客席の生徒たちがざわつく。
「わっ。かわいいっ」
「これなら私でもできそう……っ」
「なんかお花習いたくなってきたね」
すみれはあでやかにほほえむと、着物の裾をさばいて立ちあがり、舞台を降りる。
なにをするのかなと思って見ていたら、コーヒーカップごと観客席の生徒に渡した。お花をもらった生徒は、うれしそうな様子でカップを膝に乗せている。
客席がどよめいた。
そして、再び舞台にあがり、水盤を両手で持って退場していく、
陶器の水盤はかなり重いはずだが、すみれは顔色ひとつ変えない落ち着いた物腰は、さすが若宗匠と感心する。
拍手が響いた。
その拍手は、議事進行役の生徒会長が、次の参加者のエントリーナンバーを読みあげても消えないほどだった。
――五分間って、長いんだなぁ……。
ピンクのポロシャツとチェックのミニスカートを着た高志は、舞台の下で屈伸したり肩を回したりしながら、パフォーマンスをする女の子たちを見あげていた。
フリフリの衣装を着て、今流行のJ−POPを二曲連続で披露した参加者がいた。あまり上手とはいえないアイドル歌手ばりの歌唱力が、観客席の生徒たちの笑顔を誘い、なごやかな雰囲気だった。
ヒップホップダンスを見事な腕前で踊ってみせた参加者がいた。
だぶっとしたストリート系の衣装の下はおへその見えるレオタードで、そっけない振り付けが逆に女の子の魅力を伝えてくるようだった。
黒板を持ち出して、センター試験の数学の問題を無言で解いた参加者がいた。メガネ美人というのだろうか。理知的な雰囲気の少女だったから、数学の問題をひたすら解く彼女は生徒たちのため息を誘った。
――みんなうまいなぁ。
皆は練習を重ねてミスコンに挑んでいる。
優亜と一緒に練習したとはいえ、にわか仕こみのラクロスで、果たしてうまくできるのだろうか。
――優勝します、なんて、タンカ切るんじゃなかったな……。
反対側の舞台の下で、優亜が心配そうに立っていることが見て取れた。
参加者の本気を感じ取り、彼女も不安になっているらしかった。ツインテールが揺れているのは、ふるえているのだろうか。
――お姉ちゃん。代わってくれぇ……っ。僕、やっぱり怖いよぉっ。
姉に何度めかの懇願をしたときのことだった。
「エントリーナンバー一番、森永愛梨さん」
――うぅっ。次だ。なんで僕がトリなんだようっ。
参加申しこみをした順だと知っていても、順番の巡り合わせにげっそりしてしまう。
「種目は社交ダンス、お相手は佐藤禄郎さん。曲はラ・クンパルシータ。タンゴです」
『えっ。ウソッ!!』
姉が悲鳴をあげた。
あのフットマンの少年が、黒スーツに白い手袋をつけ、お嬢様をエスコートしている。
渋滞に巻きこまれたダンスのお相手は、結局間に合わなかったらしい。
禄郎は、地味なメガネを外し、素顔をさらしている。姿勢がいいので、詰め襟のときより、ずっと身長が高く見えた。
哀切《あいせつ》を帯びたギターの音色《ねいろ》に合わせ、舞台の中央に進み出た彼と彼女は、まず観客席に向かっておじぎをする。
そして、二人で手と手を取り合って組になり、曲に乗って踊り出した。
――うわぁ。あの男の人かっこいい……俳優みたい……ハンサムねぇ……。
女子生徒がささやきあう声が聞こえてくる。
あの地味なお付きの少年だとは、気がついていないに違いない。
観客席から女子生徒のため息が漏れる。
二人は、息がぴったりだった。禄郎がお嬢様をやわらかくリードし、愛梨がフットマンにやさしげに笑いかける。
美男美女の二人は、オルゴールの上のくるくる回るお人形のようだった。愛梨はフットマンを信頼し、フットマンはお嬢様を愛情で支える。主従を超えて、信頼で結びついている二人……そんな風にも見えた。
『うぅっ……ひくっ、しくしく……ぐすっ』
姉が鳴咽《おえつ》している。
慰めの、言葉も出てこない。
――お姉ちゃんは、佐藤さんのことが、本気で好きだったんだなぁ……。
「棄権しようか……」
姉がこんな状況なのに、舞台に立つのは残酷な気がした。
たとえミス瑠璃色学園になったところで、姉のキズは癒えないのだから。
『棄権しないでっ!!』
「で、でも……」
『私、出るわっ』
「エントリナンバー十番、桂瑞希さん。ラクロスをします。お相手は木崎優亜さん」
出ようかどうしようかと迷っていたとき、あの平衡感覚が失墜し、視界がぐるんと回る錯覚が起こった。
『うわ、お姉ちゃんっ』
「ごめんっ。高志、身体、借りるねっ!!」
『お姉ちゃん。なにをする気なんだよ?』
高志の声は、脳裏に反響するだけで、物理的な音にならない。もう高志にできることはなにもない。ただだまって正面を見つめるだけだ。
姉は手ぶらだ。ラクロスのラケットも持っていない。
反対側の舞台の袖で、ボールを持った優亜が、心配そうに高志を見つめている。
瑞希は舞台の中央に進み出ると、にっこりと笑った。
観客席に向かって一礼する。
「五分間笑い続けます」
優亜が、えっ? という表情で、口に手をあてて瑞希を見ている。
「あははっ、はははっ、ははははっ」
瑞希は、両手を後ろで組んで小首を傾げ、楽しそうに笑った。
姉はすみれのようにクスクスと上品に笑うのではなく、愛梨のようにおーほほほっと笑声《しょうせい》をあげるのではなく、大口をあけてあははと笑う。
観客席の生徒たちも、議事進行役の生徒会の面々も、舞台の下で瑞希を見あげている出番を終えた参加者たちも、あっけにとられて彼女を見ている。
「おい……マジかよ」
「笑うったって、五分間って長いぜ。楽しくもないのに、五分間も笑い続けられるのか? 二分間でも、キツイぜ」
生徒たちがザワつく声が聞こえてくる。
「お姉ちゃんは、楽しくないからこそ、笑いたいんだ……」
いかにも瑞希らしい行動だった。
学園のアイドルの名をほしいままにする美少女なのに、少しも気取っていなくて庶民的。
ものごとにこだわらないから、同じ失敗をよくやるが、元気で気楽で、明朗そのもの。
いやなことがあっても笑ってしまう。
姉はそんな少女だった。
――お父さん、どんな顔をしているだろう。
――お姉ちゃん、泣いてるんじゃないのか?
気になったものの、瑞希が身体を使っている今は何もできない。ただじりじりする焦燥をもてあますだけだ。
「二分経過しました」
観客席から、うーんというため息が漏れ、いっせいに拍手が響く。
「あははっ、はははっ、はははっ」
楽しそうに笑う瑞希に、観客席から声援が飛ぶ。
「瑞希さーんっ、がんばってーっ!!」
女の子の声だった。瑞希さん親衛隊の隊士でもなければ、かわいい男の子好きのお姉さまたちでもない。瑞希の笑い声に感心した生徒が、つい応援してしまったらしかった。
「ムチャしやがって……」
「桂くぅーん、がんばってーっ」
「ファイト、瑞希っ、瑞希、がんばれーっ」
観客席がざわつく。
緊張感で空気がぴんと張りつめる。
「三分経過」
――お姉ちゃんって、すごいなぁ……。
頬に、熱い液体が伝う。
泣いているのだ。
姉は、泣きながら笑っている。
その様子は、観客席からは、笑いすぎて涙を流している様子に見えたに違いない。
「四分経過」
再び生徒たちから拍手が来た。さっきよりも、ずっと大きな拍手だった。
笑う声がかすれてきた。
腹筋が痛い。
喉が痛む。
息が苦しい。
頬が熱くなっている。
さっきまであんなににぎやかだった観客席が、またも静まりかえった、瑞希の必死さに圧倒されているのだ。
「あと三十秒です」
誰かが遠慮がちに手拍子をはじめた。
その手拍手は、観客席全員を巻きこむ大きなうねりとなって、体育館を巻きこんでいく。
「あと十五秒、十四、十三、十二……」
笑い声が一瞬止まる。もう、息が続かない。
顔が苦しそうに歪む。
観客席がはらはらしているのがはっきりわかる。立ちあがる生徒まで出るありさまだ。生徒たちはどんどん立ちあがりはじめ、やがて総立ちの手拍子となった。
瑞希はまた笑いはじめた。
「あははっ、はははっ、ははは……あははっ」
「五、四、三、二、一。……お疲れさまでした」
瑞希は笑うのをやめて、観客席に向けておじぎをした。
「瑞希さんっ、すごいーっ」
「ほんとうに五分間笑い続けたな……」
「よくやったーっ。瑞希ーっ」
観客席から声が飛ぶ。
「ありがとうございました」
無理な笑いがたたったのか、かすれた声だった。
万雷《ばんらい》の拍子が瑞希を包む。
喉とお腹の痛さを気にしながら階段を降りたとき、再びあの視界がぐるんと回る感覚がやってきた。身体が高志に戻ってくる。
「お姉ちゃんはすごいよ……うぇぇ。すごいなぁ。この声……」
姉がはっと緊張した。
「高志、ごめんね。もう一度だけ、身体を貸して。ケリ、つけてくる」
姉が出口に向かって走っていく。瑞希の視界の先に、黒スーツの背中が見える。
『うん。お姉ちゃん……がんばれっ』
「佐藤さん」
瑞希が話しかけると、禄郎は足を止めた。
五月の陽光の下で、黒いスーツがお葬式の参列者のように見える。
「理由、聞かせて。約束だったでしょ」
「すごい声だな」
「うん。五分間も笑ったからね。腹筋がちょっと痛いよ。……終わってからでないとダメかな」
瑞希にすれば、もう終わった。
恋愛も。
コンテストも。
命も……。
だから、今、聞かせて欲しかった。
「僕は、愛梨さんに、負けて欲しかったんだ」
「どうして……」
「愛梨さんは、優秀な人だ。少し練習すると、どんなジャンルでも、プロ並みの腕前を発揮してしまう、だけど、愛梨さんには、やさしさが足りないんだ」
「やさしさ……?」
「そうだよ。弱いものとか、できない人に対するやさしさが足りない。なまじ自分ができるから、できない人のことが理解できないんだろうな。お嬢様は、将来、森永グループのトップに君臨される方だ。人の上に立つ人間なのに、それはよくない。僕は、愛梨さんに負けて欲しかったんだ」
「だから私に参加をすすめたの?」
「そうだ。お嬢様に勝てるのは、学園のアイドルの瑞希さんだけだと思ったんだ」
『勝手なことを言いやがってっ!! おまえ、お嬢様ばっかりじゃないかよっ!!』
弟が憤《いきどお》っているが、無視して話を進める。
「佐藤さんはそれでいいの? 愛梨さんはお嬢様で、佐藤さんはフットマンなんでしょ。愛梨さんは、佐藤さんの恋人になれないよ? 別の男と結婚するかもしれないのよ」
「いいんだよ。お嬢様が幸せになってくれたらそれで。僕はお嬢様を支えて生きていく」
「ひとつだけ聞かせて。私と逢っていたときの佐藤さんは、愛梨さんのフットマンとしての佐藤さん? それとも、愛梨さんとは関係のない佐藤さんとしての佐藤さん?」
フットマンの少年は黙ってしまった。
「それが答えなのね?」
姉も黙りこんだ。
気まずい沈黙が落ちる。
「健闘を祈ります」
禄郎は、重い空気を断ち切るようにして立ちあがった。
「……うわっ!!」
きびすを返した禄郎の頭上に、ラクロスのラケットがベコンベコンと振りおろされた。
優亜だった。
瞳に涙をいっぱい溜め、ラケットを握りしめて叫ぶ。
「ひどいっ。許さないっ!! 瑞希さんがかわいそうよっ。死んじゃったのよっ!! 瑞希さんはっ。ぜったい許さないんだからあっ!!」
『うわっ。優亜、やめろぉっ!!』
高志の声は脳内に反響するばかりで声帯をふるわせない。
今すぐ優亜を止めなくては思うものの、ぼうぜんとした姉は棒立ちになっていて、高志には何をすることもできない。
「私の付き人に、なにをなさっているのっ!!」
甲高い声が響いた。
セーラー服に着替えた愛梨が、握り拳を脇腹に当てて肘を張っている。
「なんでもありません。少し行き違いがあっただけです」
禄郎が静かな口調でお嬢様に説明する。
「あなたたち、私の付き人になにかしたら、承知しませんわよっ!!」
お嬢様がすごむ。
優亜は振りあげていたラケットを力なく降ろした。この主従はどうしようもないとばかりに首を振る。
「お嬢様、スピーチの練習をなさいませんと」
「禄郎が時間を測らないと、練習なんてできなくてよ」
二人はしゃべりながら歩き去ってしまった。
ようやく支配権を取り戻すことに成功した高志は、泣きそうな表情で立っている優亜の髪をくしゃっと撫でた。
「ありがとう」
「なんでよ?」
「お姉ちゃんの代わりに怒ってくれたから……僕たちも行こう。ワンピースのファスナー、僕だけじゃあげられない」
「そうね」
ファスナーは、優亜に手伝ってもらってもあがらなかった。
「もう、どうして試着しなかったのよーっ」
「お姉ちゃんが試着したよ」
「あのね、女の子の瑞希さんと、男の高志じゃ、胸囲が違うの。ドレスコードがあるんでしょっ。ワンピース着ないと」
ドレスコードとは、正装で出てください、という決まりだ。
正装はフリースタイルのときでも、スピーチのときでもいいのだが、一度は正装を纏わないと失格になってしまう
「身体の幅、小さくしなさいっ!!」
「ムチャ言うなよぉーっ」
愛梨がマイクに向かってスピーチをする声が聞こえてくる。ほんとうは、用意をしていなければいけない時間なのに、高志と優亜は高志用の更衣室でもたもたしていた。
場所は中庭ではなく、体育館の横である。
フリースタイルの演技の最中、優亜が更衣室を運んできたのだ。
ほっそりして力がなさそうな優亜の、思いがけない怪力ぶりに驚くが、いかにも優亜らしい行動だ。
「どうなさったの?」
やわらかい声がかかった。
「あっ。大堀さんっ」
着物の脱ぎ着は時間がかかりそうに見えるのに、すみれはもう、セーラー服に着替えている。
「ああ、サイズが合わないのね? 私の着物、貸してあげましょうか? 予備に一枚、持ってきたの。訪問着ですけど」
「いいんですかっ!?」
「もちろんよ」
「わーっ。うれしいっ。ありがとうございますっ」
優亜が喜んではしゃいでいるが、高志は日曜の生けこみのときの、いじわるなすみれを見ているので、彼女の親切を素直に喜べない。腹に一物《いちもつ》ありそうな気がして、ついつい腰が退《ひ》けてしまう。
「大堀さん。敵に塩を送るようなマネ、なんでするんですか? 大堀さん、順番、僕の前ですよ。間に合わなくなりませんか?」
「間に合わなくてもかまわないわ。私の目的は、もう終わったから」
「えっ?」
「ミス瑠璃色はどうでもいいの。どっちかっていうと、なりたくないのよね。賞品の図書カードなんて、食べられるわけじゃないでしょう。ミス瑠璃色に選ばれると、文化祭とか体育祭とか、イベントのたびにかり出されるし。メイクだなんだってお金がかかるし」
高志は首をひねった。
図書カードなんて食べられないだの、お金がかかるだの、華道家元のお嬢様らしくもない言い方だ。
「大堀花心流って古典だから、厳しそうに見えるらしくって、若いお弟子さんがどんどん少なくなっているのよね。借金だらけで、家なんかとうに抵当に入っているわ。お花はそんなに難しくないのよ、お花は楽しいのよ、って、パフォーマンスをするのが目的だったのよ……内緒にしてね」
すみれは、唇に人差し指を立てて、ちゃめっけたっぷりに笑った。
優亜はぽかんとしている。
まさかこの日本人形のような若宗匠が、借金まみれの貧乏娘だんて、にわかにはしんじられないに違いない。
だが、日曜の生けこみを見ていた高志は納得していた。
ジーンズとトレーナーという格好で、重い台車をひとりで押し、あえて没個性な花を生けた。
――ああ、そうか……あれは大堀さんの、アルバイトだったんだ……。
すみれがキレたのは、西洋生け花みたいだと言ったときだった。流派とは違う花を、華道家のプライドを曲げて生けることに、忸怩《じくじ》たる思いをしていたのに違いない。
高志が砂糖と漂白剤を延命剤にするなんて安あがりだと言ったのも、借金まみれのお嬢様を刺激したらしい。
「で、でも、大堀さんのお着物、ステキです。すごく高級っぽく見えるんですが……」
優亜が遠慮がちに聞いた。
「あら、高そうに見えまして? この着物はレーヨンよ。生け花をするときは、汚れても平気な着物でないとね。子備で持ってきたのは、母が若い頃に着ていた訪問着だしね。お金はぜんぜんかかってなくってよ」
「でも、着物、お似合いです。お花もステキでした」
「でしょう。お花は楽しいわよ。木崎さんも、どうぞお花を習いに来てね、桂さんもどうかしら? 花を生けると、気持ちがなごみましてよ」
優亜と高志は顔を見合わせた。
「すみません。僕はその、興味ないので……」
「私も遠慮します」
「そんなことを言わないで。ねっ?」
すみれは、ずずいと二人に迫った。笑顔を浮かべているが、瞳がぎらぎらしていて怖い。
優亜の顔が冷や汗にまみれていくのが見て取れた。
習わないと答えてしまうと、もう和服は貸さないわよ、とでも言いそうな迫力だ。
すみれに圧倒された優亜は、泣きそうになりながら答えた。泣きそうな表情だ。
「い、行きますっ。はいっ」
「そう。よかった。桂さんはどうかしら」
「ぼ、僕も習います」
すみれはにんまりと笑った。
魚を釣りあげた釣り人の笑顔だ。
『ほんとうに習うの? 大堀さん、なんか、怖いよ……?』
――習うしかないじゃないか? 大堀さん、着物を貸すのとお弟子さんになるのと交換条件だって、言ってるんだよ?
『ああ、そうか。なるほどね。そういう意味なのねー』
姉はさかんに納得している。マイペースな姉らしい反応だった。
「そう。よかった。明日にでも申し込み書を持ってきますね。こっちにおいでなさいな。もうみなさん着替えていらっしゃるから、楽屋を使わせていただきましょう。お化粧もしてさしあげますわ」
すみれは、両手に持った帯をぎりぎりと引き絞っている。高志はお腹を帯に締めあげられる苦しさに、顔を赤くしたり青くしたりした。
「うわーっ、お、大堀さん……お、帯……く、苦しいですーっ」
「苦しいぐらいにきつく結んでおかないと、帯がゆるんで大変なことになっちゃうわ。舞台の上で帯がほどけちゃイヤでしょう」
「そ、それはイヤです……」
「じゃあ、我慢するのね」
「うぅぐおーっ」
「高志ってば、下品だわ」
優亜があきれてため息をついた。
「でもでもっ、苦しいんだよーっ」
「男の子って、すぐに弱音を叶くのよね……私なんか、毎日着物ですごしているのに。……はい。帯が結べたわ。次は帯揚《おびあ》げね」
「ま、まだ、巻き付けるんですか?」
「ええ。帯揚げの次は帯留《おびど》めよ」
「うえーっ」
高志は悲鳴をあげた、
お腹のあたりを腰紐だの帯だの帯揚げだの帯留めだの、何本の紐で巻き付けられて、息をするのも苦しいぐらいになってしまった。
すみれは薄い笑いを顔に張り付けたままで、いろんな紐を力いっぱい引き絞り、高志に悲鳴をあげさせている。
ほっそりして力のなさそうな彼女の、憎しみさえ感じるほどの熱心さに恐怖を覚えたときのことだった。
「ハイ、できたわ」
軽く背中を叩かれた。正確には叩いているのではなく、帯の上をぽんぽんして、結び具合を確かめているのである。
「帯、苦しい?」
「それほどでも……」
着付けの最中はあんなに苦しかったのに、今はそれほどではない。
きりりと帯を結ばれたことによって、背中が伸びた気分になった。
すみれがいつも背筋を伸ばしているのが納得できる。
「うわーっ。綺麗ねー。着物ってすごいなぁ。身長とか性別とか体型とか関係なしに、誰だって着れちゃうのね」
優亜がしきりに感心しているが、鏡がないのでわからない。
だが、綺麗だと言われると胸の奥がムズ痒くなってくる。うれしいような困ったような、妙な気持ちだ。甘酸っぱい陶酔を帯びたそれは、高志の目をくらませた。
だが、すみれは、高志を感慨に耽《ふけ》らせてはくれなかった。
「化粧、するわよ。こっち座って。目をつぶって」
すみれは高志を椅子に座らせ、顔に化粧水を含ませたコットンをパタパタする。
ひんやりした指先が繊細が動く感触に、あのムズ痒いような甘酸っぱさがじんわりと広がっていく。
「大堀さん。慣れてますねー。化粧、よくするんですか?」
「初生けとか、イベントのときは化粧しますよ」
「ああ、そりゃそうでしょうね。若宗匠ですもん」
「桂くんって、少年なのに肌が綺麗なのね。つるつるで感心しちゃう」
「私が高志にパックしたんです」
「あらそう? それで肌が綺麗なのね。でも、キメが細かいのよ。これは生まれつきね。化粧映えする肌だわ」
高志は目を閉じて、すみれの指先が肌の下で動く感触を覚えていた。ファンデーションを伸ばし、アイシャドーを伸ばし、マスカラをつけ、細い紅筆《べにふで》が唇をなぞって口紅をつける。
「エクステンションもつけますからじっとして」
――エクス? 何だろう?
髪が引っ張られる感じがし、頭が重くなっていく。
「エクステなんかつけたら、時間かかるんじゃないですか?」
「だいじょうぶよ。すぐだから」
すみれと優亜がなごやかに話している。
「エクステって、何ですか?」
「つけ毛よ。髪を長くするの」
髪をいじられるのはイヤではなかった。うっとりしてしまう。
そして……。
「はい。目をあけて。立ってこっちへ来て、鏡を見てね」
「わあ。ステキッ!!」
優亜が歓声をあげた。
「桂くんの着物姿、とてもステキね。別人みたい」
すみれが同意し、姉がほうっと感心のため息をつく。
『お母さんみたいだわ』
高志も姿見に映る自分を見て、呆然としてしまった。
――こ、これが僕……?
どこから見ても女の子だった。
――知らなかった。僕って、お母さんに似てたんだ。
銀座のホステスをしていたという母は、こういう着物を好んで着ていた。派手さはないが、いかにも上品な、しっとりとして落ち着いた訪問着だ。
長い髪が背中を覆っているので、まるきっり女に見える。
「エントリーナンバー九番、大堀すみれさん」
「では先に行ってきますね。桂さんも、舞台の下に行かれたほうがいいですよ」
すみれは鷹揚に笑いながら行ってしまった。
「大堀さん、なんだかんだ言って、親切ね。着付けと化粧だけじゃなくて、エクステンションまでつけてくれたんだもの」
「そりゃ、もちろん、大事なお弟子さんだもんね……」
二人は顔を見合わせてため息をついた。
興味のない生け花を、あの大堀すみれの指導で練習しなければいけないのかと思うと、げっそりする。
「それにしてもすごい声になっちゃったね? だいじょうぶかなぁ……スピーチは、審査員との審議応答があるんだよ」
「わかんないけど、やってみるしかないよなぁ」
「行こう」
「うん」
「エントリーナンバー十番、桂瑞希さん」
「はい」
高志は、歩きにくい草履《ぞうり》を気にしながら、舞台の中央に向かい、ゆっくりと歩いた。エクステンションが揺れて、和服の肩をさらさら撫でる。
舞台の奥で、がたっと音がした。
審査員である理事長が立ちあがったのだ。
歩くことに必死の高志は、審査員席を見ていない。
――わっ。すごぉいっ。綺麗っ!! お人形さんみたい……。
――すげぇっ。これが桂かよっ!? 別人じゃんっ。
――男か女かわかんねぇな。化粧、してるんだな……それでこんなに綺麗なのかなぁ……。
観客席がざわめくのもムリはない。上品な訪問着を纏《まと》い、化粧をして、エクステンションでさらさらの髪を背中に垂らした彼は、女の子にしか見えなかった。
女の子というより、性というワクを取り払い、美だけを抽出したような、浮き世離れした美しさだ。
生徒たちは、見慣れた少年がこんなにも変わるのかと目を見張る。
和服が昔風のデザインだったことも、しとやかで上品な印象を高めていた。
スピーチは即興だと言い切っていた姉は代わってくれそうになかったので、高志のままでマイクの前に立つ。
フラッシュが光った。舞台の下を見る余裕はないが、新聞部の連中がうろちょろしているようだ。
「桂瑞希です。いろいろとありましたが、こんな形でも参加できてよかったなって思っています」
がらがら声だが、ちゃんと話せてほっとする。
会場がシンとした。
水を打ったようにという表現そのままの怖いほどの沈黙に、高志は一瞬言葉を切る。
――なんだ? なんでみんな、黙ってるんだ?
生徒たちは、彼の声を聞いて驚いていたのだ。
超絶美形の少女の口からでたのは、しわがれて低い少年の声だったのだから
「オカマ……」
誰かがつぶやいた。
「ほんとね。オカマだわ……すごい声……」
忍び笑いが漏れ、それがどんどん伝染していく。
高志は真っ青になった。
舞台の上でたったひとりで立っている彼を、学園の皆が嗤《わら》っている。
それは足下《あしもと》の地面が砂になって崩れて落ちていくような、お腹の奥がキュウと冷えて、氷に変わっていくような、そんな衝撃だった。
舞台から降りることもできず、さりとてなにをしゃべったらいいかもわからず、高志は棒立ちになっていた。
「なんてことを言うのよっ。失礼よっ!! 声が低いぐらいどうだっていうのよっ」
「瑞希さんはオカマじゃないぞっ、訂正しろっ」
「あー、もう、うるさーいっ」
かわいい男の子好きのお姉さまたちが騒ぎ、瑞希さん親衛隊が野太い声を張りあげる。他の生徒がうるさがってブーイングをする。
「静かにしてください。不適切な発言は慎《つつし》んでください」
議事進行役の生徒会長が注意する、
そのとき、突然、舞台の奥の審査員席に座る理事長がマイクに向かって話しはじめた。
「いや、気持ちはわからないでもない。君は芸者か女形か、あるいは銀座のホステスのようだ」
理事長の声は、大声をはりあげているわけではないのに、体育館いっぱいに響き渡った。体育館は、シンと静まり返った。
校長が十五分話すスピーチを二分で終える理事長が、求められてもいないのに個人的な感想を言う驚きに、生徒たちは黙りこんでしまっている。
納得する気配が、観客席の生徒に染みていく。
――女形ですって。ほんとね……。
くすくす笑いがよりいっそう大きくなる。
がたがたがたっ、と音がして、女子生徒が駆けあがってきた。
優亜だった。
生徒たちがシンとして、なんだなんだとばかりに目を見張る。
優亜は、ツインテールを振り乱し、柳眉を逆立てている。
彼女は意外な行動に出た。
「謝れーっ!!」
理事長の顎に向けて、右ストレートを振るったのである。
拳が顎にぶつかるときの、ごつっ、という鈍い音が、理事長の前のマイクを通して生徒たちに伝わる。
驚いた生徒たちがいっせいに立ちあがる。
「優亜……」
優亜は、拳を腰の横で握りしめ、がたがたとふるえていた。
体育館は怖いほどに静まりかえった。水を打ったような体育館に優亜の声が甲高く響く。
「瑞希さんに謝れーっ!!」
優亜は、肩をふるわせ、涙を流している。
幕がすごい勢いで降りてきて、マイクの前で棒立ちになっている高志の周囲が暗くなった。
「ミス瑠璃色学園選考会は終了いたしました。十分後から合唱部のみなさんによるコーラスの発表と、演劇部のお芝居があります。投票の受け付けは十一時までとします。みなさんの投票を楽しみにしております」
議事進行役の生徒会長が、殴打《おうだ》事件などなかったような口振りでアナウンスしている。
「……ごめんなさいっ!!」
優亜は、理事長に向けておじぎをした。
ツインテールが勢いよくハネる。
彼女は、きびすを返すと、走り出ていった。
無我夢中で殴ったものの、ことの重大さに気付き、怖くなって逃げ出したのだろう。
高志は少しだけ迷ったものの、優亜を追うことにした。
歩きにくい草履を脱ぎ、足袋《たび》はだしで走る。帯が胸板に食いこんで痛いし、思うように走れない。
「優亜っ、ちょっ、ちょっと待ってくれよっ。この着物じゃ走れない……っ」
体育館の裏側に走り出た優亜が立ち止まった。
「ごめん。高志のお父さん、殴っちゃった……だって、あんまりひどいだもんっ」
「そんなに怒らなくてもよかったのに。泣くようなことじゃないだろ……」
「だって、瑞希さんはもう殴れないし、高志は男だから泣けないでしょう!? だから、私が代わりに泣いてあげるのよ……っ」
優亜は興奮が冷めないのか、ガタガタとふるえ、ハーハーと息を荒げている。
涙もまだ止まらないようで、きかん気な子供のように手の甲で涙をぐいっと拭く。
「私、知ってるんだからっ。お葬式の日、高志がずっとお父さんを待ってたことも、瑞希さんがお父さんを好きだったことも、ちゃんと知ってるんだからっ。お隣同志なのよっ。ずっと一緒に過ごしてきたのよっ。幼なじみを甘くみないでよねっ!?」
幼なじみで、お隣さん。
高志と瑞希、優亜の三人で、ずっと一緒に遊んだ。
瑞希の葬儀のとき、泣けなかった高志に代わり、いちばん泣いていたのは優亜だった。葬儀の手伝いも一生懸命やってくれた。
優亜は当然ながら、桂家の事情を知っている。
葬儀のときに秘書を二人よこしただけで、理事長が来なかったことも知っている。
母が死んでからは家によりつかず、父親らしいことをほとんどしてこなかったことも知っている。
謝れ。
父親らしいことをしなかったことを姉弟に謝れ。
葬儀に来なかったことを瑞希さんに謝れ。
優亜はそう言いたかったのだ。不適切な発言で怒ったわけではない。そんな程度では、舞台の上に駆けあがって理事長を殴りつけるなんてことまでしない。
優亜が高志を思ってくれる気持ちが胸に染みる。
泣きそうになった。
「優亜……その、ありがとう……」
「ありがとうですってぇっ、このドンカンッ!! 私ね、高志が好きなのよ……っ。ずっとずっと好きだったのよっ、好きな人のためならね、理事長どころか神様だって殴るわよっ」
泣きながら、怒りながら、ふるえながら、優亜は叫びまくっている。
「やだもうっ。私ってバカッ!! どうしてこんな、こんな風にしか告《コク》れないのよっ!? あーっ。もう、私って、最低っ!!」
高志は優亜を抱き寄せた。
女形みたいだと言われた和服姿。エクステンションをつけてメイクした、そのままの格好で……。
優亜は驚いたのかびくっとし、ふりほどくようなそぶりを見せたが、高志が抱き寄せる腕に力を入れると、身体の力を抜いて高志にもたれかかってきた。
気付いていた。
優亜が高志に好意を寄せてくれていることは、高志だって知っていた。
優亜と一緒に笑ったり、殴られたり、叩かれたり、怒られたり、かまってもらえたりするこの時間が心地よくて、つきあいたいなんて思わなかった。
告白したら、二人の関係が変わってしまう。この心地のよい空気がなくなってしまう。そんな気がした。
だからずっと、関係が深まることを無意識のうちに避けていた。
「好きだよ、高志……」
優亜は、長いまつげを揺らしながらじっとしている。触れあっているところから、彼女の体温が伝わってきた。
「ぼ……」
僕も好きだよ、と言おうとしたときのことだった。
「二年B組の桂高志さん、桂高志さん、いらっしゃいましたら新校舎一階の校長室においでください」
生徒会長の声で放送が入った。
「校長室って、理事長が呼んでるのかな?」
「うん。たぶんね。……ケリつけてくる!」
さすが姉弟というべきか、姉とまったく同じセリフが出てしまった。
「私も行くっ!!」
「優亜は来ないでくれ」
「えっ」
高志らしくもないきっぱりした拒絶に、優亜がびっくりしている
「これは僕と父の問題なんだ。だから、僕が、ひとりで行く」
高志は、和服と足袋はだしという格好のままで、新校舎に向かって歩き出した。
高志が校長室のドアをノックすると、内側から男性の声で、はい、と応答があった。
「桂高志です。入ってもよろしいでしょうか」
「入りなさい」
父の声だ。
高志は覚悟を決めて校長室のドアを開けた。
校長はいず、父がひとり、黒い革のソファにゆったりと腰掛けている。その後ろに影のように立っているのは父の第一秘書の若竹《わかたけ》だ。
葬儀にも来てくれたし、初七日《しょなのか》をすすめてくれたのもこの人だ。
若竹は、高志に会釈をして、入れ違いに出ていった。
気を利かせて席を外してくれたらしい。
高志は父に向かい合った。
体育館で合唱部の歌うアベマリアが、緊迫した雰囲気をよりいっそう張りつめさせる。
「久しぶりだね」
「はい。一年半ぶりだと思います」
高志は父の前でかしこまった。
昔はもっと親子らしかったはずだが、ここまで疎遠になると敬語しかでない。優亜が殴った顎を見るが、目立った外傷はなさそうだ。
審査員席の父は、もっと大きく見えたのだが、久しぶりにすぐ近くで見た父親は、老《ふ》けて小さくなっていた。
――お父さん、老けたなぁ……。
『そうね。昔はもっとギラギラしてたっていうか、こんなに枯れてなかったよね』
ずっと黙っていた姉が言う。
「さっきは、つまらないことを言ってすまない。私は、その……君がお母さんそっくりだと言いたかったんだ。着物まで昔風のデザインだね。桜子《さくらこ》が戻ってきたみたいだ」
――君は、女形か芸者か銀座のホステスのようだ。
父はあのときそう言った。
これはすみれの母親の若い頃の訪問着。なるほど、若いときの母そっくりだったことだろう。
言わなければならないことがある。
「お父さんにお願いがあります」
「いいよ、なんでも言ってくれ」
「木崎優亜を……、えっと、その、お父さんを殴った女子生徒ですが、処分しないで欲しいんです」
「もちろんしない。悪いのは不適切な発言をした私のほうだ。優亜ちゃん。知ってるよ。隣の家のお嬢さんだろ。高志と瑞希と、よく一緒に遊んでいたよなぁ。綺麗になったもんだ。もし優亜ちゃんが参加していたら、ミス瑠璃色は優亜ちゃんで決まりだったかもな」
『あらら、お父さんが冗談を言ってるわ。珍しい……』
姉がひとりごとを言う。
「私の息子には、いい友達がいるようだ」
高志は心の中で、私の息子、という言葉を繰り返した。
うれしそうな父を見ていると、気持ちが少しなごんできた。
言いたいことはいっぱいあった。
――お父さんは、お母さんをどう思っていたんですか?
――お母さんが綺麗だから愛したんですか? 綺麗な蝶を虫かごに入れるようなつもりだったんですか? ほんとうに好きだったんですか?
――僕たちのことはどう思っているんですか?
――お姉ちゃんのお通夜もお葬式も来なかったのはどうしてですか?
だが、高志は言葉を呑みこんだ。
「もう行っていいですか?」
「ああ」
「失礼します」
ドアを開けて外に出ると、秘書の若竹が、小腰を屈めて高志に会釈をした。
高志も軽くおじぎをする、
秘書は、周囲を見回して、廊下に人気がないことを確認すると、高志に小声で話しかけてきた。
「高志さん、社長は、けっして高志さんをないがしろにしているわけではありません」
おじぎをして歩き去ろうとしたが、次のひとことで立ち止まった。
「瑞希さんの事故は、私が社長に知らせなかったのです」
「ど、どうして……」
「瑞希さんの事故が起こった日、社長はアメリカにいらっしゃいました。瑞希さんの状態を病院からお聞きし、大事な商談の最中でしたので、急いで帰国しても同じだと判断しました」
「で、でも、お葬式ぐらい……」
「商談を優先させたのは、私の独断です」
「そ、そうなんですか……でも、せめて、仏壇に線香ぐらい……」
「社長は、瑞希さんとお母様のご位牌《いはい》をお寺からわけてもらってきて、毎朝手を合わせてらっしゃいます。社長は、たぶん、桂家に行きにくいんだと思いますよ」
高志は無言になった。
姉も黙りこんでいる
「高志さんと瑞希さんのお名前のいわれ、ご存じですか?」
「い、いえ。母はなにも……」
「社長が命名されたのです。男女の双子だから、高い志と瑞々しい希望だとおっしゃって」
高い志と、瑞々しい希望。
なにを言えばいいのかわからなかった。
いろんな気持ちがぐるぐると渦巻いて、感情が激しく揺さぶられる。鼻がツンとなり、涙となってぽろっと落ちた。
この秘書は、社長をかばってウソをついているのだろうか。姉の事故の日、父がアメリカにいたかどうか調べるすべは高志にはない。
――それでも、いいか。
冷たいと思っていた父に、腹心の部下がいる。
優亜を処分しないと父は言った。それでもう、じゅうぶんだ。
私の息子、と父はそう言ったのだから。
高志はおじぎをしてから、その場を離れた。
足袋はだしで歩いているため、足袋がひどく汚れていることに気がついた。
足袋の裏地は分厚いので足はそれほど痛まないが、すみれが怒りそうでヒヤヒヤする。
「大堀さん、この足袋、買い取れって言うかもな」
『ふっかけられないように気をつけてね……えっと……お父さんって、お母さんと十七歳違いだったから……やっだっ、お父さんって六十歳よ……老けて当然よねぇ』
「長生き、して欲しいな……」
「そうね……」
「セーラー服って、ほっとするなぁ」
ひとりごちたところ、姉がきゃーっと声をあげた。
「なんでキャーだよ?」
更衣室の中なので、思う存分脳内キャラと会話ができる。
『だって、そのセリフ、女の子っぽいじゃないのっ。私のせいで高志に女装が目覚めちゃった、なんてイヤだからねっ!!』
「わ、和服が、その、お、帯が窮屈だったんだよっ。エクステンションは髪が引っ張られて地肌がヒリヒリするしさっ」
『あ、カチューシャ、つけないの?』
「つけない。頭が痛くなるんだ」
『そっか。じゃあ、いいか』
高志の意志で女装しているときは、カチューシャをつけないと決めていた。姉が支配権を取ったときは、トレードマークのカチューシャをつけるのだから、高志のときは外していたい。
『早く行きましょ。もうすぐ発表会よっ』
「うん」
「やっぱり優勝は私かしらねっ」
「うん。きっとお姉ちゃんが優勝だよ」
「ミス瑠璃色の投票総数は四百五十九票。このうち、審査員の先生の票も一票ずつ含まれています」
生徒会長のてきぱきした声が、スピーカーを通して聞こえてくる。
舞台のいちばん隅に立っている高志は、セーラー服の裾をいじりながら、観客席をじっと見ていた。
どうせミス瑠璃色には選ばれないだろうと思うせいか、生徒たちの顔がよく見える。新聞部の連中がカメラを構えている様子もはっきりわかる。
コンテストの最中は、緊張してしまって観客席があまり見えなかった。
「先生の票も一票なのかよーっ」
観客席の生徒からヤジが飛んだ。
「もちろんです。私たちは当初、票は分散するだろうと思っていました、ですが、予想に反して、ひとりの生徒に票が集まってしまいました」
「もったいつけてないで早く発表しろーっ」
「そうだそうだーっ」
観客席からヤジが飛ぶ。
生徒会長は、ゴホンと咳払いをした。
そして、マイクを持ち直すと、やにわに発表した。
「発表します。ミス瑠璃色学園は、二年B組、木崎優亜さんに決定しました」
高志も大堀すみれも森永愛梨も、コンテスト参加者の全員がえっと声をあげて目を見張っている。動揺を隠す余裕もない。
「私なのーっ!?」
舞台の袖にいた優亜が悲鳴をあげ、自分の鼻を指さしてぽかんと口を開けている。
大堀すみれが笑顔で拍手をしはじめた。真っ青な顔をした愛梨はしぶしぶという感じで、他の皆も表面上は祝福しているフリをして、拍手をしはじめる。
参加者の拍手が伝染して、観客席の生徒たちもいっせいに拍手をした。
『これでよかったんだよ。もしも私に選挙権があったら、私も優亜ちゃんに投票してた。ミス瑠璃色は、我が校の代表だから、これで校長だって、優亜ちゃんを処分できなくなっちゃうね』
姉が言った。
優亜をミス瑠璃色に選んでしまえば、いくら理事長だって処分はできない。
みんなの総意が、ノミネートされていない優亜の優勝という結果に繋がった。
いざというときには学園をあげて団結するなんて、いかにも瑠璃色学園らしかった。
――なんか、いいな。こういうのって……。
父をかばい、責任を被《かぶ》ろうとすると秘書がいて……。
高志のために父を殴った優亜がいて……。
優亜のために、票を入れた仲間がいる。
高い志と、瑞々しい希望という、すばらしい名前をつけてくれた父がいる。
『優亜ちゃん。綺麗だし、かわいいもの。ミス瑠璃色、ぴったりだと思うわ。まっ、いちばん綺麗なのは私だけどねっ』
「木崎優亜さん、舞台においでください」
優亜が、おずおずと階段をあがり、舞台に立った。
困ったようなうれしいような表情で首をひねっている。私でいいのかな? とでも言いたそうな、不思議そうな顔つきだ。
拍手がいっせいに響く。
「木崎さーんっ」
「優亜ちゃーんっ!! おめでとうーっ」
「ミス瑠璃色、ぴったりだよーっ」
生徒たちが歓声をあげた。
優亜の表情がほころんで、観客席に向かってぎこちなく笑った。
拍手がまた大きくなる。
「理事長から、ミス瑠璃色をお祝いして、花束の贈呈と副賞の図書券の授与があります」
理事長が審査員席を離れた。
殴られた理事長と、殴った女子生徒が舞台の中央で向かい合う。
生徒会役員のひとりが、舞台の下から花束と封筒を理事長に手渡した。
理事長が優亜に花束と図書券を手渡す。
「おめでとう」
優亜は、なんとなく納得できない表情のままで、花束を受け取った。
フラッシュが光り、新聞部の連中が写真を撮る。
「ありがとうございます」
さすがミスコンの副賞だけあって、豪華な花束だ。
優亜は、花束に顔を埋めるようなしぐさをして香りを楽しんだ。
花に誘われたようにして、優亜が笑顔を浮かべた。
ミス瑠璃色にふさわしい、華やかな笑顔だ。
理事長が拍手をした。
まるでそれが合図だったかのように、拍手と歓声がよりいっそう大きくなる。
「木崎さーんっ。おめでとうっ」
「優亜ーっ。おめでとーっ!!」
ミス瑠璃色を祝う拍手はいつまでも響き、優亜を包んでいた。
エピローグ
長かった一日がようやく終わり、くっきりした影を従えた高志と優亜は、通学路をゆっくりした足取りで歩いていた。
高志はセーラー服のままだ。カバンの中にはすみれからお買いあげした汚れた足袋が入っている。三千円も取られてびっくりした。
優亜は、セーラー服の胸に花束を抱いている。
「びっくりしちゃった。まさか私がミス瑠璃色なんてね」
『いいじゃない。もらっておきなさいよっ』
姉が会話に参加したが、高志はとりあわなかった。
優亜に対し、ずっと胸の中で転がしていた言葉を紡ぐ。
「優亜は綺麗だし、ミス瑠璃色にぴったりだと思う」
優亜が足を止めた。
驚きの表情で高志を見ている。高志らしくもない、と思っているらしい。
優亜はやにわに手を伸ばすと、高志のおでこに手を当てた。
「どうしたの? 高志? 病気なのっ? 熱はないよね?」
「びょ、病気じゃないよ。本気で言ってるんだよ」
『おーっ。ついに告白かぁっ。がんばれーっ』
姉がちゃちゃを入れるが、無視して優亜に向かい合う。
「優亜は、綺麗で、最高の女の子だ」
「やだなぁ、ミス瑠璃色になったからって、いきなりお世辞を言わなくても」
『ふうん。やっぱり優亜ちゃんは違うな。私なら、そんなほんとうのこと、言わなくてもって。言うけどなぁ』
「お姉ちゃんは黙っててくれ」
「そっか。高志のお世辞、瑞希さんのアドバイスなんだね」
「お姉ちゃんは関係ない、僕の気持ちだ。僕も優亜が……だ」
好きだ、と言ったつもりだが、言葉が口から出てくれない。
――お姉ちゃんだろ、邪魔してるの!?
『こんな道ばたで告《コク》るんじゃないわよ、場所と状況を考えなさいね。もう、どうしてうちの弟って、こんなにデリカシーがないのかしらっ』
――うっ、それもそうだな。
「なに?」
「そ、その家に帰ってから話す」
優亜は、不思議そうな顔をしていたが、結局なにも聞かないことに決めたらしい。
「うん。わかった。ふふっ、なにかなっ? 楽しみーっ」
――うぅ。心臓が口から出そう……。
一歩家に近づくごとに緊張が募《つの》ってくる。
なるべくゆっくり歩いたつもりだったのに、あっという間に家についた。
「こっちに来て欲しいんだ」
高志は優亜の手を引いて、庭に行った。
家の中には仏壇と遺影があるため、姉がちょっかいをかけてきそうな気がしたのだ。瑞希は高志に憑依《ひょうい》しているのだから、どこにいても一緒なのだが、これは気分の問題だ。
高志は優亜に向かい合い、はっきりした口調で話す。
「……だ」
好きだと言ったはずの声は、口から出なかった。
――お姉ちゃん、マジで邪魔してるだろ?
『だってさ、私は失恋しちゃったしー。私ってば成仏することもできなかったのに、弟がラブラブなんて悔しいじゃない。だからちょっぴり邪魔してやろうかなーっ、なんて思っちゃってぇーっ』
――くっ、こ、この悪魔っ。
『あらぁ、小悪魔なんてうれしいわ。女にとって最高の誉め言葉だわーっ』
「どうしたの。高志? なんで固まってるのよ」
優亜は小首を傾げて笑った。
――優亜、すげぇかわいい……。
頬のうぶ毛が夕陽に光り、桃のように見える。
「これ、瑞希さんにあげる」
『わ。ほんと。うれしいっ。わー、綺麗なお花ーっ』
高志は差し出された花束を受け取った。姉が花を見てはしゃいでいる。
「ありがとう。でも、いいのか? ミス瑠璃色のお祝いだろ」
「うん。私、図書券もらったからいいの。瑞希さん、花だとかロマンス小説だとか、ロマンチックなものが好きだったでしょ。だから喜んでくれると思うの」
「あぁ。そうだったよね……お姉ちゃんって、お花好きだったよなぁ」
高志は姉のことを、あまり知らなかった。
双子の姉弟で、いちばん近い存在のはずなのに、瑞希に好きな人がいたことも、瑞希が花やロマンス小説が好きだったことも、ぜんぜん知らなかった。
「ふふっ……高志っ、大好きよ」
優亜は、高志にちゅっとキスをした。
花びらのようなぷにぷにの唇が合わさり、すぐに離れる。
優亜が高志に抱きついてきた。彼女の胸の双丘が胸板に密着する感触にどきんとする。彼女はどこもかしこもやわらかく、いい匂いがする。
高志は後ろ手に花束を持ったままで、優亜の背中を抱きしめる。
「高志も私が好きでしょ?」
「ああ」
『あっ、やられたっ。花束をもらって、油断しちゃった。好きだよ、は邪魔してやったのにっ、く、この手があったのねっ』
姉が脳内でわめいている。
高志は、姉を出し抜いたことに内心で快哉《かいさい》をあげ、優亜をしっかりと抱きしめた。
姉が成仏しない以上、優亜との恋愛は、難航を極めるだろう。
だけどきっと、なんとかなる。
姉は、ちょっとだけいじわるをしても、高志と優亜が仲違《なかたが》いをするような、そんな悪質ないやがらせは絶対しない。
「高志、大好き、すごく好き」
猫がなつくように、額をスリスリしてくる優亜がかわいい。
熱い息が耳元ではじける。
キスしたくなり、再び唇を合わそうとしたところ、顔がふいに逆を向いた。
「うっ、こ、これは、僕の意志じゃないんだ。お姉ちゃんなんだ……」
「うん。そうね……瑞希さんが幽霊になって取り憑いているのか、二重人格なのか、私にはわかんない。でも、高志は高志だし、私は高志が大好きなの。だから安心して。私、高志がちょっとぐらいヘンでも、気にしたりしないから」
「あ、ありがとう」
高志は右手を、やあ、というふうにあげた。花束を持った左手を次にあげたものだから、抱擁がほどけてしまった。
「えっ?」
今度は右膝が勝手にあがった。次には左膝だ。
高志はぎくしゃくと踊り出した。ロボットが動くような、不器用な動きだ。花束は持ったままである。
もちろん高志の意志ではない。
瑞希が操っているのである。
『うわーっ。おもしろーいっ。なんかコツをつかんじゃった気がする。手足とかだったら、憑依しなくっても操作できるんだねー』
「お姉ちゃんっ、や、やめてくれぇーっ。ひどいよぉっ」
『でも、声帯と足とか、同時に動かせないのね。動かせるのはひとつだけなの。まだまだ研究の余地があるわ』
「け、研究、しなくていいから。うわーっ。手だけ横に引っ張るなよぉーっ、か、身体、ねじれるぅっ」
「もう、瑞希さんってばっ」
優亜がくすくすと笑い出した。
口の横に両手を当てて拡声器《かくせいき》をつくり、遠くの人間に話しかけるようなしぐさをする。
「高志ぃっ。私は君がちょっとぐらいヘンでも気にしないけど、三人一緒にエッチなんかまっぴらだからねっ。瑞希さんをなんとかしなきゃ、BとかCとかなしだよーっ」
「うわーっ。わああぁああっ。前途多難だーっ」
花束を持ったまま、不器用なダンスを踊る高志と、ツインテールを揺らしながら大笑いする優亜を、暮れていく夕陽が明るく照らしている。
あとがき
はじめまして。わかつきひかるです。
華々《はなばな》しくスタートした、一迅社ライトノベルの創刊ラインナップ中に、ひっそりとまぎれこんでいる女流ポルノ作家です(本当)。
フランス書院ナポレオン大賞を二〇〇一年に頂き、以来、ジュブナイルポルノをせっせと書いてきました。
ジュブナイルポルノっていうのは、ライトノベルや漫画のラブコメがキスシーンで終わるその先を書くお話、と説明すればわかって頂けますでしょうか。
少女漫画を読んでいて、なんでここ(キスシーン)で終わるのよーと身悶《みもだ》えし、書かれていないその先を想像してぼうっとする女の子だったので、ジュブナイルポルノ作家はなるべくしてなった職業だと思っています。
ライトノベルを書き始めたのは去年あたりから。
キャリアは長いですが、ライトノベルでは無名です。
なのに私を創刊第一弾に起用するなんて、勇気のあるレーベルだと思います。
「ふたかた」は、ノーマルな男子高校生が双子の姉の遺志《いし》を継《つ》ぎ、女装してミスコンテンストに出るお話です。
タイトルは双子の片方、みたいなつもりでつけました。
魅力的な少女たちが、彼の前にたちはだかります。次々に起こるトラブルに、幽霊になってしまった姉の恋愛までも絡んできます。
はてさて彼は、ミスコンテストを終わらせて、無事にミスになることができるでしょうか。
女装する男性のことを、TV(トランスヴェスタイト)と呼ぶそうです。
私がトランスに興味を持ったのは「転校生」という映画です。男女の魂が入れ替わるお話ですが、十年以上前ですから、若い読者さんは知らないですよね。
この映画、すごくおもしろかったんですが、男になってしまった女の子がうじうじした少年になり、女の子になった少年がガサツになるのがイヤでした。
私が男になったら、あんなこともするのに、こんなこともするのに〜っ、女の子になった少年には女の子以上にかわいくなって欲しいわ〜っと身悶えていました。
あげくにあれこれ想像してぼうっとしてました。
あの頃の妄想は、十年以上たって、こんな形で小説になりました。
これはエロのないライトノベルですが、私の小説の書き方はジュブナイルポルノもライトノベルも同じです。
ただ、キスシーンより前にポイントを置くか、キスシーンのあとにポイントを置くか、の違いだけ。
見せ所が違うというだけの、似通ったジャンルなので、実は、ジュブナイルポルノ作家がペンネームを変えてライトノベルを書くのって、そんなに珍しくないんですよ。
私は幸運にも、同じペンネームで書かせて頂くことができました。
この小説、雰囲気はエッチかもしれませんが、一迅社の規定により、直接的なエロはありませんし、そういう用語も出てきません。
かわいい男の子が女装して、美少女たちの中で右往左往する、甘酸《あまず》っぱいときめきを楽しんで頂けたらうれしいです。
二〇〇八年四月十日
わかつきひかる 拝
二〇〇八年六月十五日 初版発行
2008/07/11 作成 ルビは一部のみ