封仙娘娘追宝録・奮闘編5 最後の宝貝
ろくごまるに
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目次
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》仙界編《せんかいへん》『龍華《りゅうか》陶芸《とうげい》に凝《こ》り、またしても護玄《ごげん》心労《しんろう》す』
封仙娘娘|追宝録《ついほうろく》外伝《がいでん》『秋雷鬼憚《しゅうらいきたん》』
封仙娘娘仙界編『仙客万来《せんきゃくばんらい》』
封仙娘娘追宝録外伝『雷《いかずち》たちの大饗宴《だいきょうえん》』
封仙娘娘追宝録外伝『最後《さいご》の宝貝《ぱおぺい》』
封仙娘娘仙界編『きつね狩《が》り』
あとがき
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封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》仙界編《せんかいへん》
『龍華《りゅうか》陶芸《とうげい》に凝《こ》り、またしても護玄《ごげん》心労《しんろう》す』
「はっはっは! この大間抜《おおまぬ》けめ! 誰《だれ》が貴様《きさま》なんぞに服従《ふくじゅう》ずるか!
私は自由に生きるんだ!
この広い仙界《せんかい》の隅《すみ》から隅まで旅してやるんだよう!
誰も私を止められはしないんだ!
お前だって例外じゃない、お前のちんけな仙術《せんじゅつ》なんざ、この私に通用しないんだ。
判《わか》ったらさっさと道をあけるんだね」
女は楽しそうに怒鳴《どな》りつけた。
ゴツゴツとした体ではあるが、男の筋肉の付き方とは明らかに違《ちが》っている。
鍛《きた》えられた筋肉というよりは、野生の動物が持つしなやかな筋肉に近い。
頭には赤茶《あかちゃ》けた髪《かみ》の毛が、バサバサに生《は》えていたが見苦しさはなかった。炭よりも黒い瞳《ひとみ》は、恐《おそ》れを知らずに輝《かがや》き続けていた。
嗄《か》れてはいるがよく響《ひび》く声で女は吠《ほ》える。
「さあどけ、誰も私を止められないんだよ、私を湯呑《ゆの》みだと思ってなめてかかると、痛い目にあうよ!」
男は、道服《どうふく》と呼《よ》ばれる袖《そで》の長い服を着ていた。いわゆる仙人がその身に纏《まと》う服である。
白い道服には幾《いく》つかの飾《かざ》りがあしらわれていたが、いたって質素《しっそ》なものだった。
歳《とし》の頃《ころ》は二十代の半《なか》ばに見えたが、その外見にはさほど意味はない。
何故《なぜ》なら、男は正真正銘《しょうしんしょうめい》の仙人だったからだ。
その仙人は普段《ふだん》は温和《おんわ》な顔をしているせいか、今、眉間《みけん》に寄《よ》っている皺《しわ》が全《まった》く似合《にあ》っていない。
眉間の皺の下には、糸のように細い目があった。
仙人の名は護玄《ごげん》。
護玄は言った。
「で、それがこの状況《じょうきょう》とどう関係があるんだい?
赤ん坊《ぼう》がうっかり小皿《こざら》を割《わ》ったからといって、普通はこんな大騒《おおさわ》ぎにはならないだろ?
普通は」
『普通は』という言葉を、護玄は噛《か》みしめるように言った。
どうせ、普通じゃないのだろう。
護玄は半ば呆《あき》れながら、腕《うで》を体の前で組んでいた。
目の前の代物《しろもの》にどこから手をつけようかと思案《しあん》しているようでもある。
護玄の細い目は、目の前の岩の塊《かたまり》を見つめていた。
岩の塊、大きさは立ち上がった人間ぐらいある。
岩とはいえ、自然にある岩石の類《たぐ》いとは少しばかり様子が違う。
赤く燃《も》え盛《さか》る溶岩《ようがん》が時間と共に冷えて、固まればこんな感じになるだろうか。
その岩の塊からは、まるで人間の腕のような細長い、でっぱりが突《つ》き出ていた。
「護玄様。和穂《かずほ》様が小皿を割られたのは、事件の発端《ほったん》でございまして」
一人の女が護玄の質問に答えた。
部屋の中には、護玄以外に二人の娘が居《い》る。
部屋の大きさはそれ程《ほど》広くはない。
ボロボロの大きな机が部屋の中心に置かれているが、これはどう見ても家具というよりは、作業用に使われているものだった。
机の上や床《ゆか》には槌《つち》などの工具が散らばっているし、引き出しが妙《みょう》に多い棚《たな》もある。
散らかり具合を別にすれば、典型《てんけい》的な工房《こうぼう》だ。
北東と南の壁《かべ》に景気よく風穴《かざあな》があいているが、工房の散らかり具合から見てそれほど不自然でもない。
壁の間からは遠くの山の景観《けいかん》がよく見えている。
女の言葉を遮《さえぎ》り、護玄は言った。
「その前に確認《かくにん》しておくが、この工房の散らかりっぷりは事件と関係あるのかね」
「いえ、特に関係はございません。
あ、一応|奥《おく》の壁が吹《ふ》き飛んでいるのは、事件の影響《えいきょう》でございますが」
奥ではない手前の壁が吹き飛んでいるのは関係ないのかと、護玄は考えた。
いまいち、女の言葉は要領《ようりょう》をえない。
遠慮《えんりょ》は無用とばかりに、護玄は言った。
「気を遣《つか》う必要はない、理渦記《りかき》よ。
どうせ、この岩の塊の中に封《ふう》じ込められているのが、龍華《りゅうか》なんだろう?」
「ははあ! ご明察《めいさつ》、恐《おそ》れ入ります!」
「ご明察もへったくれもあるまい。
龍華の工房で、肝心《かんじん》の龍華の姿が見えない。
わざわざ私を呼んできて、岩の封印《ふういん》を解《と》いてくれとなりゃ、答えは一つだ」
理渦記と呼ばれた女は、心底《しんそこ》平伏《へいふく》したように頭を下げた。
「いやはや、まっこと恐れ入ります」
理渦記の年齢《ねんれい》は二十歳《はたち》前後に見えた。
だが、その外見も護玄と同じようにさほどの意味はない。
護玄は仙人であるが、理渦記は仙人ではない。
理渦記の正体は宝貝《ぱおぺい》であった。
宝貝。仙人の造《つく》り出す神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。仙人が己《おのれ》の仙術をもって造り上げた宝貝は当然、尋常《じんじょう》ならざる能力《のうりょく》を持つ。
理渦記の本性《ほんしょう》は一|冊《さつ》の本であったが、人間の姿をとる事が出来た。
切れ長の目の上には長い睫毛《まつげ》、理知《りち》的な空気が漂《ただよ》うのは、己の本性が滲《にじ》み出ているせいであった。
柔《やわ》らかな長い髪をかきあげ、理渦記は言う。
「そんな次第《しだい》で、どうか封印|解除《かいじょ》のほどを」
「いいから放《ほう》っておけ。
見たところ、どうせまた、自業自得《じごうじとく》の馬鹿な事をしでかしたんだろ?
相手に封印術を仕掛《しか》けたはいいが、弾《はじ》き返されて逆に自分が封印されたってとこか。
たまにはいい薬だ。
龍華だって、一人前の仙人だ、そのうち自力で封印は破《やぶ》るだろうよ」
部屋に居るもう一人の娘は、つづらの上に座《すわ》っていた。
壁際《かべぎわ》に置かれた大きなつづらだった。つづらの周《まわ》りには複雑な文字が記された無数の符《ふ》が無節操《むせっそう》に張りつけてある。そのつづらの上でぐんにゃりと座る娘は等身大の操《あやつ》り人形を思わせた。
異常なまでに整《ととの》った顔だちに、長い髪、焦点《しょうてん》をどこで結んでいるか判《わか》らない瞳を持っている。
その娘がゆっくりと口を開いた。
「……いいの?」
理渦記と護玄が同時に言葉に詰《つ》まる。娘の言葉が誰に向けられたものか、理解出来なかったからである。
護玄が言葉を受ける。
「いいって、なにがだい? 流麗絡《りゅうれいらく》?」
流麗絡。彼女もまた理渦記と同じく宝貝であった。流麗絡の本性は織《お》り機《き》である。
「……龍華だけじゃない。一緒に四海獄《しかいごく》らも封印されてるのよ」
四海獄。瓢箪《ひょうたん》の宝貝だ。
「四海獄ら[#「ら」に傍点]って?」
相手を苛立《いらだ》たせる独特《どくとく》の間を空《あ》けて、流麗絡は言った。
「……四海獄とね……。龍華が背負《せお》っていた和穂も一緒に岩の中」
「なんだって!」
呑気《のんき》に構えていた護玄だったが、その一言で慌《あわ》てふためく。龍華は仙人、四海獄は宝貝だ。どちらも頑丈《がんじょう》に出来ている。
が、和穂は普通の赤ん坊なのだ、万が一の可能性もある。
護玄の指が、次から次へと複雑な印《いん》を結《むす》び続けた。素早く動く指先が空気を切る音は蜂《はち》の羽音《はおと》を思わせる。
「どうしてそれを先に言わぬ!」
恐縮《きょうしゅく》しながら、理渦記は頭を掻《か》く。
「事情を説明するからには、やはり最初から順を追っての方がよろしいかと」
「ともかく、こっちが先だ!」
護玄の術に反応し、まるで、目に見えない石工《せっこう》が丹念《たんねん》に鑿《のみ》をふるっているかのように、岩から小さな石のかけらがこそげ落ちていく。
たった今まで岩の塊《かたまり》にしか見えなかったものが途端《とたん》に人の形に近づき、片腕を正面に突き出した石像めいた雰囲気《ふんいき》を帯びだした。
その腕に亀裂《きれつ》が入る。
パリン。
ゆで卵の殻《から》が割れるように、石像の中から人間の腕が現《あらわ》れ、次の瞬間には石像そのものが爆煙《ばくえん》を上げて木《こ》っ端《ぱ》みじんになる。
もうもうと立ち込める煙の中から現れたのは、背中に赤ん坊を背負った一人の女だった。
女は叫ぶ。
「湯呑《ゆの》み風情《ふぜい》が、この私にたてつくとは笑止千万《しょうしせんばん》!」
調子っぱずれの声を上げて流麗絡は笑った。
「……あはははは。本当に笑止千万ね」
女、すなわち龍華は流麗絡を怒鳴《どな》りつけた。
「何がおかしい!……あれ、奴《やつ》はどこに消えた?」
護玄の眉間に深々と皺が刻み込まれていた。
先刻《せんこく》よりも、刻み込まれっぷりが少しばかり堂《どう》に入っている。
「事情は全然知らないが、これだけは言わせてもらうぞ!
『いい加減《かげん》にしろ!』
まったく、今度は何をしでかした!」
「? あれ、護玄じゃないか。しばらく無沙汰《ぶさた》だったが、こんなところで何をしてるんだ?」
「無様《ぶざま》に岩石|漬《づ》けになってるお前を、理渦記に呼ばれて助けに来たんだよ!」
「相変わらずお節介《せっかい》だな。あの程度の封印術、私一人の手でも破れたのに」
「お前は平気でも和穂が心配だったんだよ」
「なに言ってるんだか。私がおぶってるんだよ。和穂には傷一つついてない」
調子っぱずれの流麗絡の笑い声が響く中、今度は場違《ばちが》いなまでに感動にうち震《ふる》える声が理渦記の口から吐《は》き出される。
「ああ、よくぞ御無事《ごぶじ》でございました龍華様。
理渦記は心配で心配で、命が削《けず》られる思いでございました」
龍華は舌打《したう》ちした。
「黙《だま》りやがれ! お前の世辞《せじ》など聞《き》きたくもない!」
「またまたぁ、龍華様ったらお照れになられなくても」
「かっ! そういう媚《こ》びた態度が気に入らんと言ってるんだよ!」
龍華の腰帯《こしおび》にくくり着《つ》けられた、瓢箪《ひょうたん》、四海獄が老人を思わせる声で言った。
「護玄様。差し出がましいようですが、よろしければ、頭痛のお薬でもお出ししましょうか?」
こくりこくりこくりと、護玄は首を縦《たて》に振《ふ》った。
ここまでくればある種、混沌《こんとん》の海を思わせる荘厳《そうごん》さがあると勘違いさせるほどに散らかった工房の中で、護玄は茶をすすった。
卓《たく》の向かい側の背もたれのない椅子《いす》に座《すわ》った龍華は、ばつが悪そうに天井《てんじょう》を見つめている。
護玄は言った。
「えらく清楚《せいそ》な恰好《かっこう》をしてるじゃないか、龍華よ」
事件の本質《ほんしつ》にいきなり触《ふ》れて意地になられるのもかなわないので、護玄はさり気ない話題を振った。
確《たし》かに今の龍華は護玄の知るいつもの姿とは違っていた。
普段の龍華はきらびやかな装飾《そうしょく》が絡《から》んだ深紅《しんく》の道服を身に着け、その髪にもかんざし、櫛《くし》などの髪飾りが絡みついている。
が、今の龍華は髪の毛を短く切り、かんざしの類《たぐ》いは一切《いっさい》着けていない。
道服には複雑に燃え盛る炎をあしらった、派手《はで》な刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》されてはいるが、装飾品は着いていない。
道服の鮮《あざ》やかさが目立っているだけに、和穂を背負うその姿は見事なまでに似合《にあ》っていない。
工房の壁沿《かべぞ》いに盆《ぼん》を持ったまま立っている理渦記が言った。
「いやはや、龍華様におきましてはいかような恰好をなされてもお似合いで」
怒るのが面倒なのか、理渦記を相手にせず、龍華は簡単に護玄に答えた。
「こうやっておぶってるとだな、和穂がとりあえず何でも口に入れちまうから、宝石の類いは着けられないんだよ。
髪の毛も口に入れるから、髪型もこうなっている」
「そういう恰好をしていると、修行中の道士だった頃の姿を思い出すな」
「くだらない昔話にゃ興味《きょうみ》はないな。
手間賃代《てまちんが》わりに、茶の一杯《いっぱい》ぐらい飲ませてやるから、飲み終わったらさっさと帰りな」
護玄は茶をすする。
「茶と言えば、さっき湯呑みがどうのこうのと言っていたが?」
龍華は軽く舌打ちした。
「相変わらず物好きだな、護玄。
護玄先生の食指が動くような、面白《おもしろ》い事件じゃないよ。
ほんのささいな、つまらない手違《てちが》いさ」
護玄は軽く笑う。
「言ってみな。話ぐらいなら聞いてやるぞ」
誰が、一言でも話を聞いてくれと頼《たの》んだものか。だが、追い返してすんなり退散《たいさん》するような男ではないと、龍華は知っていた。
軽く咳払《せきばら》いをして、龍華は言った。
「最近、陶芸《とうげい》に凝《こ》りはじめたんだ」
「誰が?」
護玄の頭の中では、龍華と『陶芸』という言葉が結びつかなかった。
「私がだよ! 私が陶芸をやっちゃおかしいのかい?」
意外といえば、意外な言葉だった。強気を装《よそお》ってはいるが、やはり『将軍の事件』を気に病《や》んでいたのだろう。
「いや、お前が宝貝《ぱおぺい》作製以外に興味を持つとはな」
「ともかくだ、予想してたよりは面白くて幾《いく》つか皿《さら》や壷《つぼ》なんぞを焼いたんだ。
やってるうちに、気に入った代物《しろもの》も出来てくる。
そんな気に入った小皿を、ある時、和穂が割《わ》ってしまったんだよ」
そういえば、理渦記がそんな話をしていたと護玄は思い出した。
やはりそれが事件の始まりなのか。
「龍華よ。それで和穂を叱《しか》ったりしたんじゃあるまいな」
「生憎《あいにく》そこまで直情型《ちょくじょうがた》じゃないんでね」
「そいつは失礼。形ある物はいつかは壊《こわ》れる、なんて事は言うまでもなかったな」
龍華の声が少しばかり居心地《いごこち》が悪そうになる。
「いや、まあ、その、なんだ。
壊れるのは仕方がないと心じゃ判っているんだが、ちょいと腹が立ってな」
和穂を叱ったんじゃないのでは、何に腹を立てたのか?
訝《いぶか》しがる護玄をよそに龍華は言葉を続けた。
「そこで、ちょっとばかり壊れにくい陶芸をやってみようかなあ、なんて思ったりしちゃったのよ」
護玄の鋭《するど》い嗅覚《きゅうかく》は、龍華の話に僅《わず》かに含《ふく》まれたきな臭《くさ》さを嗅《か》ぎ当てた。
「どうせ陶器《とうき》の強度を上げたんだろ?」
ぶんぶんと龍華は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「そう。当然の発想だろ?」
芸術|云々《うんぬん》より、実用性を重んじるならそれもまたよかろう。
「落としても壊れない陶器なんざ、別に……ん?」
居心地の悪さを振り切るように、龍華の顔が真剣《しんけん》になる。
「うむ。ちょっと工夫《くふう》をしてみた」
きな臭すぎる言葉が護玄の耳に刺《さ》さった。
ちょっとした工夫。
龍華の口からこの言葉が出た場合、ろくな事にはならないと、護玄は経験《けいけん》でいやという程知っていた。
「なんと不吉《ふきつ》な言葉を……」
「まず対衝撃能力《たいしょうげきのうりょく》を増大させたんだ」
「『たいしょうげきのうりょく』だと?」
「単純な慣性制御《かんせいせいぎょ》能力を応用したんだ、極小結界《きょくしょうけっかい》を」
「待て! 何の話をしている? それじゃ陶器というより鎧《よろい》の宝貝の話じゃないか」
誇《ほこ》らしげに理渦記が言った。
「そこは素晴《すば》らしき龍華様。今までの鎧の宝貝の常識を覆《くつがえ》すような新しい技術を開発なされまして」
龍華は、自分の顎《あご》には存在しない鬚《ひげ》を撫《な》でる仕草《しぐさ》をした。
「鎧の宝貝とは発想が違う。鎧の場合には鎧の実体と仙術的《せんじゅつてき》な仕掛《しか》けが別々に必要だからどうしても、信頼《しんらい》性に欠ける部分が出てくる。まあ、信頼性を向上させる仕掛けもつけるから問題はないんだが、陶器が相手じゃそれは無粋《ぶすい》というものだろう」
無粋だ。頑丈《がんじょう》な陶器はありだろうが、そのために鎧の宝貝を造る技術、いやその技術を超越《ちょうえつ》する技術を応用するのは無粋だ。
「無粋だからやめたのか?……そんなわけはないな」
「あれは、素材そのものに工夫が施《ほどこ》されている。有巣氏系《ゆうそうしけい》仙術で使われる『女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]泥《じょかでい》』を使って陶器でありながらも鎧の宝貝に匹敵《ひってき》する防御能力を乗せる事に成功して」
護玄が言葉を遮《さえぎ》る。
「陶器じゃない! どう考えてもそれは宝貝じゃないか!」
龍華は一息つき、軽く背中の和穂をあやした。
「ま、結果的には、湯呑みの宝貝と言ってもよい代物《しろもの》が出来た。
結果論《けっかろん》だがな」
護玄は軽く咳払《せきばら》いをした。今まで飲んでいた茶が無性《むしょう》に不味《まず》くなった気分がした。
「まあよい。非常識に硬《かた》い湯呑みぐらいならば、驚くには値《あたい》しない……驚くけども実害はないじゃないか」
龍華は不敵《ふてき》にニヤリと笑った。不敵に笑う意味が護玄には理解出来なかった。どうせ恐《おそ》らく事態は笑い事ですまないようになっているのだろう。
「その湯呑みは試作《しさく》に過ぎない。物理攻撃《ぶつりこうげき》には強くても、仙術的な攻撃の前には何の意味もない」
「どこの馬鹿が、湯呑み相手に仙術をぶっ放《ぱな》すんだよ」
「それもそうだったな。言われてみればその通りだ。
でも、私はまたちょっと工夫してみて、対仙術能力を付け加える事にした」
理渦記が言った。
「そこでまた龍華様は、あっと驚く着想《ちゃくそう》を得《え》られたのです」
「いや、そうでもない。
鎧《よろい》の宝貝《ぱおぺい》は、一応|着用者《ちゃくようしゃ》を守るという前提《ぜんてい》があるから、それほど無茶は出来ない。
でも、湯呑みの場合はその心配がないわけで」
護玄の全身を脂汗《あぶらあせ》が流れた。
「心臓《しんぞう》に悪い。結論を言ってくれ」
「簡単に言えば学習能力だよ。
ある程度《ていど》、破壊されても食《く》らった攻撃に対する防御機構を自分で構築《こうちく》出来るようにした。
つまり、いかなる攻撃にも対応出来る防御能力を持つに至《いた》ったんだ。同じ攻撃は二度|効《き》かないって寸法《すんぽう》さ」
「対物理、対仙術能力を持った湯呑みを造《つく》ったんだな。いや、湯呑みの宝貝を」
「正確にはちょっと違うな。そういう能力を持った泥《どろ》を造ったんだ」
「一緒《いっしょ》だ!」
「事の顛末《てんまつ》はそんな感じだ」
肺が潰《つぶ》れんばかりに護玄は息を吐《は》いたが、理渦記はさらに護玄を追い込む。
「龍華様。謙遜《けんそん》が過ぎますよ。あの湯呑みは龍華様の予想を裏切るぐらいの学習能力を発揮《はっき》したじゃありませんか。
設計段階じゃ、対仙術能力しか見込んでいなかったのに、逃亡《とうぼう》の際に龍華様の封印術《ふういんじゅつ》を見事に撥《は》ね飛《と》ばしています。
理渦記が思いますに、奴の学習能力は防御機構にとどまらないのではと。
すなわち『術』そのものを学習し、自《みずか》らその術を会得《えとく》しているかと」
和穂に髪の毛を引っ張られる痛みを堪《こら》えて龍華はうなずく。
「ありうるか。となると、奴を止めようと私が使った火炎術《かえんじゅつ》や雷撃法《らいげきほう》も会得《えとく》されたか」
呆《あき》れ続けるのにも気力が必要なのだと護玄は知った。
「龍華。同じ過ちをくり返すのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》だぞ」
「? 湯呑みを取り逃がしたのは、今回が初めてだぞ」
「そうじゃない! 以前にも狐《きつね》に宝貝を盗まれたじゃないか」
「そういや、そうだったな。
が、待てよ。失敗の性質が違うから、同じ失敗とは言うまい」
厄介《やっかい》な事件の説明の間、流麗絡は行き倒れのようにつづらの上に突っ伏《ぷ》していた。
その体勢のまま、死にそうな声で囁《ささや》く。死にそうな声を出す理由は護玄にも、龍華にも理渦記にもよく判《わか》らない。
「……龍華に説教しても無駄《むだ》だって、まだ判らないの? 馬鹿に説教するのは時間の無駄よ」
流麗絡の無礼な口利《くちき》きに理渦記が慌《あわ》てふためく。
「り、流麗絡! 言葉を慎《つつし》みなさいよ!」
流麗絡は優《やさ》しく、つづらの蓋《ふた》を指先で撫《な》でながら優しく微笑《ほほえ》む。
「……文句があるなら、このつづらの中に私を封印《ふういん》して欲しいものね。
欠陥宝貝《けっかんぱおぺい》の烙印《らくいん》を押されて、つづらに封印される方が、間抜けたちの相手をするより遥《はる》かにまし」
龍華の怒《いか》りを予想し理渦記は青ざめたが、意外にも龍華は笑っていた。
「はっはっは。正直でいいじゃないか、流麗絡。でも私は、正直者を封印する程の馬鹿じゃないぞ」
「……くやしい。どう足掻《あが》いても、間抜けな理渦記のせいで、私が利口《りこう》に見えてしまうのね」
「誰が間抜けだ!」
怒る理渦記を護玄は抑《おさ》えた。
「ともかく、その湯呑みの宝貝を放置しておくのはまずいぞ。どうにかしなければ」
耳の後ろを掻《か》いて龍華は言った。
「面倒《めんどう》だな。学習能力のせいで、下手《へた》に仙術は使えんときた」
ここぞとばかりに、理渦記が手を上げた。
「龍華様! 私めに秘策《ひさく》がございます!」
「言ってみな」
「毒《どく》を制《せい》するには、毒もてあたるのが良策《りょうさく》かと存じ上げます。
すなわち、残りの女|※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]《か》泥を使いまして、刺客《しかく》を造《つく》り上げるのでございます」
「刺客か」
理渦記は続けた。
「有巣氏系仙術《ゆうそうしけいせんじゅつ》でよく使われる泥の人形、いわゆる『化修《かしゅう》』を造られてはいかがでしょうか?
同じ泥を素材にしておりますので、湯呑みと能力は互角《ごかく》、刺客の役には充分《じゅうぶん》かと」
いまいち、気乗りしない顔で龍華は答えた。
「やだ。化修を造るのは簡単だけど、作業がしち面倒なんだよ。同じ作業を陰陽《いんよう》五行ごとに五回もやるなんて、まっぴらごめんだね」
「確かに、龍華様のお手を煩《わずら》わせるのは考えものですが……そうですな、ここは利口な流麗絡に作製を御命令なされるのが、得策《とくさく》かと」
もとより、宝貝作製の助手代わりの仕事をさせられている流麗絡であった。
充分な器具の揃《そろ》った、工房の中であればその程度《ていど》の作業は可能なはずだ。
面倒な仕事を流麗絡に押しつけ、理渦記はしたり顔であった。
龍華は大きく欠伸《あくび》をした。
「よし、それでいこう。流麗絡、判《わか》ったな。刺客用の化修を造って、送り出せ。
どうせ、互角《ごかく》の能力のせいで千日手《せんにちて》になって互《たが》いに動けなくなると予想出来るけど、それでいい。
動けなくなったところを回収《かいしゅう》するからな。
一刻《いっこく》(約二時間)で造れるな?」
「……その間、あなたたちは何をしているつもりなの?」
「そうさな、母屋《おもや》に戻って護玄と碁《ご》でも打つか」
「……それでしたら喜んで引き受けます、龍華様」
「必要なら、理渦記にも手伝わせるが?」
「……間抜けな連中の面《つら》を見なくて済《す》むから、喜んで引き受けるのにそれじゃ意味がないでしょ?」
そして、一刻のときが流れた。
最初のうちは、護玄の碁の相手をしていた龍華だったが、護玄の弱さにほとほと手を焼かされた。
とっくに勝負は決まっているのだが、護玄にはそれが実感出来ていないのだった。
「これで、どうして私の負けになるんだい?
もしかしたら逆転勝ちが出来るかもしれないじゃないか?」
「判らん男だね。この状態で護玄が勝つためには三手以上、そっちが連続で打つ必要があるだろ。つまり、負けって事だ」
「どうして?」
説明が面倒《めんどう》になった龍華は、碁盤の上の碁石をグチャグチャにかき混《ま》ぜた。
「理渦記。お前が相手をしてやれ」
椅子《いす》から立ち上がり、龍華は背中の和穂をあやそうとしたが、とうの和穂は熟睡《じゅくすい》の真《ま》っ只中《ただなか》だった。
理渦記が龍華に代わり、椅子に座《すわ》ろうとしたその時、部屋の扉《とびら》は開かれた。
相変わらず無表情な顔で、流麗絡が部屋の中へしずしずと入ってくる。
龍華は言った。
「化修は出来たか?」
首を縦にも横にも振らず、流麗絡は龍華を見つめた。
「……龍華様。一応、擬戦盤《ぎせんばん》を使って、湯呑《ゆの》みと化修の戦いがどうなるか調べてみました。
……少し気になる結果が出たので報告|致《いた》したほうがよいかと」
龍華様。流麗絡が、様なんていう敬称《けいしょう》をつける時にはろくな事がないなと、知りつつも龍華は言葉を促《うなが》す。
「どうなった?」
擬戦盤。名前のとおり、実戦を行う前に簡単な模擬戦《もぎせん》を行う能力を持つ宝貝《ぱおぺい》であった。
「……かなりの高確率で、化修が裏切る結果が出ました。
……つまり、湯呑みと化修が手を組むという危険性があります。
当然ですよね。二人の境遇《きょうぐう》はとても似《に》ているんですもの。意気投合《いきとうごう》するのが当たり前」
「!」
龍華は驚き、理渦記は飛《と》び跳《は》ねた。自分の策には問題点があったのだ。
理渦記の動揺を見てゆっくりと、とてつもなくゆっくりと流麗絡の口許《くちもと》が綻《ほころ》ぶ。
「……どうしましょう?」
「判ったよ。他の手を考えるしかない。刺客を放つ前に判っただけよしとする」
「……化修はもう、放ちましたよ。化修を送り出すのが龍華様の命令でした」
「なんだと!」
流麗絡は擬戦盤を使い、結果を承知《しょうち》の上で化修を送り出したのだ。
裏切るのが確実ならば、厄介《やっかい》な怪物《かいぶつ》が二つに増える事になる。
理渦記はここぞとばかりに手を上げた。
「龍華様! 理渦記に良策がございます!」
「却下《きゃっか》だ、この馬鹿者が!」
流麗絡はすかさず言った。
「……馬鹿者の意見を取り入れるのは、馬鹿者のする事じゃないの?」
いちいち怒っている余裕が、龍華にはない。
「化修そのものの寿命《じゅみょう》は三日程だから、問題はないとして、化修を使わずに湯呑みを仕留《しと》めるにはどうすればいい? やはり、力押ししかないか?」
護玄も立ち上がる。
「落ち着け龍華。力押しで押し切れればいいが、堪《こら》えられたらどうする?」
当然、湯呑みは龍華を仙術的に超越《ちょうえつ》した存在《そんざい》になる。
そして、さらに成長する可能性もあるのだ。
「うるせい、それでも力押しだ!」
大声で怒鳴り散らす龍華の顔がだんだんと真剣《しんけん》みを帯びていく。
「もし、力押しが通用せず、あの湯呑みが私を凌駕《りょうが》する力を手に入れたら……護玄お願いがある。その時は……」
「龍華……」
冗談ではなく、龍華は本気で言った。
「その時は護玄、お前のお得意の小細工《こざいく》で上手《うま》い具合《ぐあい》にやってくれ」
護玄は龍華の言い草にムッとした。
「お得意の小細工ってなんだよ」
「いいではないか、何かいかにも『私は仙人でございますよ』って感じの、ひねった解決策《かいけつさく》をだな、こう、ちょちょいっと」
「勝手な事を言うなよ! そう都合《つごう》よく手が打てるもんか」
もとより、龍華は作戦会議の類《たぐ》いは好きではない。
「ともかく、湯呑みの所に行ってみるぞ、全《すべ》てはその場で考えよう!」
理渦記が軽く手を振る。
「龍華様、御武運《ごぶうん》を」
「お前も来い、少しは何かの足しになるかもしれん!」
素早《すばや》く理渦記の襟首《えりくび》を掴《つか》み、龍華は部屋の扉を蹴破《けやぶ》る。
護玄は叫《さけ》んだが、叫びが届くよりも早く龍華は走り出していた。
「待て龍華! 和穂は置いていけ! あぁ、行っちまいやがった!」
流麗絡は人形のような表情を浮かべ、立ち尽くしている。流麗絡の虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》が護玄には気にかかっていた。
「流麗絡。どうして、裏切ると知りつつ化修を送ったんだい? お前は龍華を嫌《きら》っているかもしれないが、そんな嫌《いや》がらせをしなくても」
「……嫌がらせなんかじゃない。私はもう、こんな間抜けな騒動《そうどう》に煩《わずら》わされるのが嫌になったの。さっさと終わらせたかった」
「しかし、お前の行動は騒動を大きくしているだけじゃないか」
「……本当はね、普通の化修なら裏切るかどうかは、五分と五分だった。
でも、あの化修は確実に裏切るように私が細工したの」
「なんだって!」
「……龍華が好きな『ちょっとした工夫』ってやつ。感情耐性《かんじょうたいせい》を弱めて……」
流麗絡の行動が護玄には理解出来ない。
「どうして、そんな事を?」
流麗絡の虚《うつ》ろな瞳が護玄を射抜《いぬ》く。
「……さっさとこの事件を終わらせて欲しいのよ。
共倒《ともだお》れ狙《ねら》いなんて呑気《のんき》な方法じゃ、時間が掛《か》かりすぎる」
流麗絡の言葉の意味が護玄には判らない。
化修と湯呑《ゆの》みが戦い、共倒れになるよりも、化修が裏切った方が早く解決出来るという意味にしかとれない。
「そりゃ、早く解決出来るように、やるだけやってみるが……、流麗絡、お前も来てくれるな?」
「……いいわよ」
「飼い犬に手を咬《か》まれるとはいうが、二匹の飼い犬に同じように牙《きば》を剥《む》かれるとは、間抜《まぬ》けもいいところだな、龍華大仙人よ!」
赤茶色の髪を振り乱し、湯呑みは笑っていた。
さも当然のごとく宙に浮かび上がり、地面に立つ龍華を見下ろしている。
地面に立つ龍華は湯呑みを見上げつつ、砕《くだ》けんばかりに奥歯《おくば》を噛《か》んでいる。
龍華の足元には、理渦記が腰《こし》を抜かして座《すわ》っているが、これは、湯呑みを追いかけていたときの龍華の飛行術《ひこうじゅつ》の影響であった。いかな宝貝《ぱおぺい》といえど、平気でいられないような高速度で移動《いどう》した結末だ。
悔《くや》しげにギリギリと歯を噛む龍華の視線の先には、湯呑み以外にもう一人の人影があった。
化修だ。見た目には人間と変わりはないがその全身は赤茶色だった。
全身を覆《おお》う、鱗《うろこ》のような鎧《よろい》と皮膚《ひふ》も同じ赤茶色をしている。
龍華は自分が何に対して、一番|怒《おこ》っているかがよく判らない。
湯呑みや化修に対する怒《いか》りもあった。が、それに負けず劣らず、流麗絡への怒りも感じていた。
何故なら、化修は男の姿をしていたからだ。通常の化修ならば性別はない。
わざわざ、男の姿をしているのは、女である湯呑みと意気投合するように、わざと仕向けているとしか考えられなかった。
仲むつまじく、化修は湯呑みの肩に手を置いていた。
「我らは同族《どうぞく》なのだ。同じ土より生まれし、同じ種族《しゅぞく》なのだ。
龍華よ。こいつとの激闘《げきとう》の中で、お前の言いなりになる理由のなさに俺《おれ》は気がついたのだ!」
湯呑みは笑った。
「どうする龍華? 私一人すら封印しそこねたのだぞ! 二人を相手にどうやって戦うというのか」
苛立《いらだ》たしい。流麗絡め、なんて事をしてくれやがったのか。
ギリギリと歯を噛む音が、地鳴《じな》りのように周囲《しゅうい》に響《ひび》く。歯ぎしりの音が湯呑みと化修にとっては、心地《ここち》よくて仕方がない。
と、その時。一陣《いちじん》の風が吹《ふ》き、護玄と流麗絡が姿を現した。
龍華ほど手荒《てあら》な移動仙術ではなかったのか、流麗絡はいつもと同じ様子であった。
化修の目が鋭《するど》くなる。
「そっちも二人がかりか。まあ、作戦としては無難《ぶなん》なところだな!」
どんな毒蛇《どくへび》でも殺せそうなほどの鋭い視線で、龍華は流麗絡をにらみつけた。
だが、流麗絡の顔には何の表情も浮かんではいない。
「流麗絡。何て事をしでかした」
答えは返らない。護玄は湯呑みと化修に目をやり、気難《きむずか》しそうに顎《あご》を撫《な》でる。
「こいつは、いかんな」
「そっちの仙人は利口《りこう》だな! 我らの行く手を遮《さえぎ》るのが無理だと承知《しょうち》しているようだ!」
勝《か》ち誇《ほこ》っている。楽しそうに笑っている。湯呑みと化修、互《たが》いに互いを気に入っているのだろう。
力押しで押さえ込めればどんなに良かったか。それをあの、流麗絡め。
流麗終に対する怒《いか》りが、龍華の中で燃《も》え上がっていく。
龍華の歯ぎしりが、ふと止まった。
流麗絡から外れ、湯呑みたちに向けられた表情には気まずさがあった。
「化修。お前は化修だ」
「何が言いたい! 化修の本分《ほんぶん》を全《まっと》うし、命令に従《したが》えとでもほざくか!」
「化修よ。お前の素材は特殊《とくしゅ》だが、お前は化修としてそれほど手を加えてはいない」
「だからどうした!」
「手を加えれば加えるほど、化修の寿命《じゅみょう》は短くなる。だから、お前は化修としては長生きするだろう。三日は生きられる」
「!」
「三日しか生きられないと言ったんだ」
化修には普通《ふつう》、感情を与《あた》えない。与えるのは高度に知性的な本能《ほんのう》だけだ。
与えられた本能により化修は作戦を遂行《すいこう》する存在なのだ。そんな化修に、流麗絡はまっとうな感情を与えたのだ。
蜻蛉《かげろう》は寿命を恐《おそ》れない。寿命と本能が相《あい》いれているからだ。だが、感情と寿命は簡単には相いれない。
湯呑《ゆの》みの顔が青ざめる。
「三日だと?」
「湯呑みよ。お前は破壊されない限りは生き続ける。が、化修は化修なんだ。化修には寿命がある」
壮絶《そうぜつ》な沈黙《ちんもく》が周囲を包む。誰も声を上げはしない。
化修が呟《つぶや》く。
「俺は死ぬのか?」
懐《ふところ》から取り出した煙管《キセル》を龍華は口にくわえた。途端《とたん》に火がつく。
気まずそうに龍華は煙管をくゆらせる。
「助ける方法がないってわけじゃない」
パッと湯呑みの顔が明るくなる。
「どうすれば助かる!」
湯呑みに射《さ》し込んだ希望の明かりは、同時に謀略《ぼうりゃく》を明らかにした。
「まさか! それが貴様らの塊胆《こんたん》だな! 化修を助けてやる代わりに、私に捕《つか》まれというのだな!」
溜《た》め息と共に、龍華は口から煙を吐《は》いた。
「それが一番の得策《とくさく》なんだろうが、そういうのは私の流儀《りゅうぎ》じゃないんでね」
「ならば」
判った判ったと龍華は首を横に振った。
「仕方があるまい。一時休戦といこうじゃないか。化修を一時的に女※[#「女+咼」、第3水準1-15-89]泥《じょかでい》に還元《かんげん》して、新たに湯呑みに造《つく》りなおしてやる。
心配するな、人格はそのままで魂《たましい》はちゃんと継続《けいぞく》する。
まあ、流石《さすが》にお前のような無敵の湯呑みにするわけにゃいかんがな」
疑わしげに化修は龍華に言った。化修からすれば、龍華の行動は不自然なものにしか見えない。自分で組んだ策を自分で放棄《ほうき》しているのだ。
「信じていいんだな?」
後味が悪そうに、龍華は答えた。
「いいから信じろ。お前を湯呑みに造りなおして、休戦は終わりだ。
それでかまわないだろ?」
不安げに湯呑みは言った。
「化修の体は……」
「人間並みに頑丈《がんじょう》には造ってやる。だが、それ以上は望《のぞ》むな。お前みたいな化《ば》け物には出来ないからな」
湯呑みの顔に浮かぶ、一瞬の恐怖《きょうふ》を護玄は見逃《みのが》さなかった。
自分が壊れる恐怖ではなく、自分の愛するものが消えてなくなる恐怖だ。
どんな事態《じたい》になろうと、湯呑みはこの仙界で生き抜く自信があった。だが、化修を守って生き続ける事が出来るのか。
「龍華。捕まるよ。逃亡《とうぼう》はやめた」
化修が湯呑みの体を揺《ゆ》さぶる。
「どうした! お前は仙界を自由に旅するんじゃなかったのか」
がくりと湯呑みはうなだれ、化修の胸に顔を埋《うず》める。
「お前がいない旅など、面白《おもしろ》くもない。それならばお前と共に居た方がいい。
龍華。化修と共に居させてくれるな?」
「かまわん」
間の抜けた大声で理渦記は言う。
「おお、これぞまさしく夫婦湯呑《めおとゆの》み!」
龍華は理渦記の後頭部《こうとうぶ》をどつき、そのまま襟首《えりくび》を掴《つか》む。
そして、ゆるりと宙に浮かぶ。
「さて、帰るか」
浮かび上がりながら、流麗絡に言った。
「流麗絡。覚悟《かくご》は出来てるだろうな。腹を決めたら帰ってこいよ」
ヒュンと音を立て、龍華と理渦記は一筋《ひとすじ》の光となり姿を消した。
続いて化修と湯呑みの姿も消える。そして、護玄の姿も消えた。
ただ一人となり、流麗絡はニヤリと笑う。
途端、護玄が姿を現した。流石《さすが》の流麗絡もアッとなる。護玄の顔には笑顔《えがお》が浮かんでいた。
「流麗絡。お前は利口《りこう》な宝貝《ぱおぺい》だな」
「……何を言っているか判らない」
「全部、お前の計算通りだったんだ。最初から龍華を怒《おこ》らせて、つづらの中に封印《ふういん》されるつもりだったんだろ?」
「…………」
「化修の命を人質代《ひとじちが》わりにつかい、湯呑みを捕まえる。そんな作戦を龍華がよしとするはずはない。
だからこそ『湯呑みと化修にとって酷《ひど》い事にはならない』ような手を龍華は打つ。
二人が問題なく、幸《しあわ》せに暮《く》らせるようになるのは確実だ。
それに龍華の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れれば『間抜けな連中』と付き合う必要のない、つづらの中に封印される。全てが丸く収《おさ》まるんだ」
流麗絡は恨《うら》めしげに護玄に言った。
「……油断《ゆだん》していた。得意技《とくいわざ》が小細工の仙人《せんにん》なら、見抜《みぬ》かれてしかるべきだった。……馬鹿な龍華の厄介事《やっかいごと》に、いちいち首を突っ込むお節介《せっかい》な仙人が、このまま私を放っておいてはくれないんでしょ」
護玄の笑顔がさらに大きくなる。
「ああ。お前は利口な宝貝だよ。封印されるには惜《お》しいからね」
護玄に負けないような笑顔で流麗絡は言った。
「……諦《あきら》めないわよ。いつの日にかきっと、私は封印されてみせる」
「今回の湯呑みや化修のように、誰も傷つけずにだろ?」
「……龍華より気に食わない仙人がいるなんて驚いたわ」
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封仙娘娘|追宝録《ついほうろく》外伝《がいでん》
『秋雷鬼憚《しゅうらいきたん》』
「参零《さんりょう》! あの女には逆《さか》らうな! 命が惜《お》しければ素直《すなお》に宝貝《ぱおぺい》を返すんだ! 忠告《ちゅうよく》してやる、あいつに逆らえば命がいくつあっても足《た》りんぞ!」
久しぶりに聞く凶悪《きょうあく》な怒鳴《どな》り声、いや以前よりもさらに気合いの入った叔父《おじ》の怒鳴り声に参零は見舞《みま》いの無駄《むど》さを知った。
「叔父上! しばらく見ぬ間に耄碌《もうろく》なされたか! に、してもその酷《ひど》い怪我《けが》は私をからかおうとしておいでか? 叔父上、私もそろそろいい歳《とし》です、そんな冗談《じょうだん》じゃ驚《おどろ》きはしませんぞ」
参零は三十前の男だった。娘《むすめ》が一人とはいえ一応家庭を持つ身なので、あまりうわついた感じもない。浅黒《あさぐろ》く焼けた肌《はだ》をしていた。
ゴツゴツとしたタコだらけの手を持つが、それは農民や職人のタコとは形が違《ちが》っていた。左手の薬指と小指の歪《ゆが》んだタコが特に目立つのは彼が剣士《けんし》である証《あかし》であった。
可愛《かわい》い甥《おい》に忠告を与えている叔父は、寝台《しんだい》の上に横たわり息も絶《た》え絶《だ》えだった。が、それは怪我のせいではなく、渾身《こんしん》の怒鳴り声で息が切れているだけだった。
しかし、何かの冗談のように叔父の体が包帯《ほうたい》でぐるぐる巻きにされているのは事実だった。
「叔父上。どれだけ裁縫下手《さいほうべた》が作った人形でも、もう少しましな恰好《かっこう》をしていると思いますが」
だが怒《いか》りやら後悔《こうかい》やらの炎《ほのお》が複雑に絡《から》みあう叔父の眼光《がんこう》に冗談の気配《けはい》は微塵《みじん》もない。
「こんな間抜けな恰好が洒落《しゃれ》で出来るか! この怪我は全《すべ》て和穂《かずほ》に負わされた傷だ!」
この世の中にはやってはいけない事が幾《いく》つかある。
怪我人の怪我を疑う事もその範疇《はんちゅう》に入るのかもしれない。嘘《うそ》の怪我ならまだしも、本当の怪我なら怪我人は嬉々《きき》として己《おのれ》の傷口の凄《すご》さを自慢《じまん》しにかかるからだと、参零が思い至《いた》ったときには既《すで》に叔父は包帯を解《と》きにかかっていた。
「怪我に障《さわ》ります! 叔父上!」
当然、本当に怪我に対する心配がないわけではなかったが、それよりも生々しい傷口を見せつけられるのが参零には堪《たま》らなかった。
「ほおれ見ろ見ろこの斬《き》り傷《きず》。え、どうだ参零これが作り物か?」
叔父は視線を逸《そ》らそうとする参零の頭を鷲掴《わしづか》みにし、もう片方の手で咄嗟《とっさ》に閉じた瞼《まぶた》を無理矢理《むりやり》広げる。
「わ、判《わか》りました叔父上! 傷を拝見《はいけん》させていただきますってば!」
寝台の上に座り何故《なぜ》か叔父は勝ち誇《ほこ》った顔をして、傷口を見せびらかしていた。
いやいやながらも参零は叔父の傷を見た。
ある程度予想していたが奇妙《きみょう》な傷だった。
紅色《べにいろ》単体で彫《ほ》られた刺青《いれずみ》のような傷口が上半身を覆《おお》っていた。繊細《せんさい》な傷、繊細過ぎる傷だ。尋常《じんじょう》の刃《やいば》では到底《とうてい》叶《かな》わぬような鋭利《えいり》な傷口だ。
間違いはなかった。宝貝《ぱおぺい》の武器による怪我だ。それもなぶり殺しを狙《ねら》っていたのは明白《めいはく》だ。これだけの傷を負わせられるのなら急所を一突《ひとつ》きするぐらい造作《ぞうさ》もないだろう。
「これはさすがに酷い傷ですな。残虐《ざんぎゃく》というか悪趣味《あくしゅみ》というか」
参零の感想に叔父は一瞬だが眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。さっきまで喜んで傷自慢をしていたのに、今の叔父の態度が参零には不思議だった。
「どうかしましたか?」
「うるさい。ともかくあの女と関《かか》わり合いになるな。と、言っても頼《たの》みもしないのに奴《やつ》の方から勝手にやってくるんだがな。
もし、あの女がお前の前に現れたらすぐに宝貝を渡して、さっさと逃げろ。さもなくば、お前も俺の二の舞《まい》だ。
もしかして、この傷が和穂に付けられたのを疑っているのか?」
「いえいえ、滅相《めっそう》もない」
叔父上は鋭い。隠《かく》すつもりはなかったが表情《ひょうじょう》に出たのだろうか。自分でも理解出来ないが、釈然《しゃくぜん》としないものが参零の心の中にあったのは確かだ。
「そうか信用できないか。ならば、お前の宝貝で、俺の言葉が嘘か真《まこと》か探《さぐ》ってみるが良かろう」
そういうことかと参零は納得《なっとく》した。叔父上は私が苦労の果てに手に入れた宝貝を見てみたいのだ。
「さすが叔父上、情報が速いですな。鷹《たか》でも使いましたか」
「け。自慢の鷹も今はただの鷹だ。
お前があんな眉唾物《まゆつばもの》の宝貝を探しに行くと言い出したときは呆《あき》れて物も言えんかったが、まさか本当に実在したとはな」
「四年。四年かかりました」
「生まれたばかりのガキを背負《せお》って噂《うわさ》だけを頼りに荒野《こうや》をうろつくとはご苦労だったな。
まあそんな事はどうでもいい。
見せてもらおうじゃないか、死者を蘇《よみがえ》らせる宝貝、ついでに人の嘘をも見抜く戻心珠《れいしんしゅ》とやらを」
どこまでも優《やさ》しい冷たさに女は包《つつ》まれていた。月の光に似《に》た心地《ここち》よさがそのまま人の形をとっているような女だ。
華奢《きゃしゃ》で小柄《こがら》な体はしなやかで、どことなく秋の植物を思わせる風情《ふぜい》があった。細い銀髪が肩にまで伸《の》びている。
優しく微笑《ほほえ》みながら、女は抱きかかえた子供をあやしていた。どこにでもいる母親のようにも見えた。だが、そうではなかった。彼女は人間ではなかったのだ。
彼女の名は戻心珠。その正体は宝珠《ほうじゅ》の宝貝《ぱおぺい》である。
秋の日の柔《やわ》らかな明かりが射《さ》し込む廊下《ろうか》で、戻心は子供をあやしながら主《あるじ》の用事が済《す》むのを待っていた。
扉が開き、参零がひょこっと顔を出したので用件が終わったかと思ったが、そうではなかった。参零は戻心を手招《てまね》きした。
「戻心、ちょっと来てくれ」
呼ばれて戻心は子供と一緒に部屋の中に入る。部屋の中に置かれた寝台の上には傷だらけの初老《しょろう》の男が座っていた。
男は、値踏《ねぶ》みするように戻心の姿を見ている。そして、彼女が抱っこしている子供に視線を落とす。
「ほお。あのときの赤ん坊《ぼう》がこんなにでかくなったか。名前はなんだっけ?」
参零が答えた。
「信星《しんせい》ですよ」
「男か女か?」
「女の子です! ちゃんと生まれたときに挨拶《あいさつ》に参りましたでしょ」
「うるせえな。葬式《そうしき》でごたごたしてたから忘れたんだよ」
「叔父上!」
「判ってる。これでも余計《よけい》な口を叩《たた》く趣味《しゅみ》はない」
人見知りしない性格なのか信星は戻心の胸の中で、父親とその叔父の会話を面白《おもしろ》そうに見つめていた。
さすがの叔父も、いかに年端《としは》のいかぬ信星がまだ理解できなくとも、お前の母親はお前を産んだ後、産後の肥立《ひだ》ちが悪くて死んでしまったという事実を喋《しゃべ》る気はなかった。
「そんな話はどうでもいい。おい、戻心珠。俺が今から言うことが本当かどうかを参零に教えてやれ」
叔父は手を振り回し全身の傷を指《さ》し示《しめ》す。
「俺のこの傷は和穂に付けられた。俺の言葉は真実だな?」
戻心は叔父の体をゆっくりと視《み》た。穏《おだ》やかな眼光《がんこう》の中に一瞬、尋常《じんじょう》ならざる光を宿《やど》しその首を縦《たて》に振った。
叔父は再《ふたた》び勝ち誇る。
「ほれみろ、やっぱり本当だったろうが!」
「はあ、そのようですね」
叔父は上着《うわぎ》を羽織《はお》りながら甥にしつこく忠告を出す。
「ここいらに戻ってきたって事は、やはり蘇《よみがえ》りには遺体《いたい》が要《い》るんだな?」
参零と戻心はうなずく。
「死んだ女房《にょうぼう》を生き返らせるのも結構《けっこう》だが、和穂がお前らの前に立ちふさがったら、すっぱりと諦《あきら》めろ。
あの女に勝てる奴なんていない。命が惜しければ宝貝を全部返すしかないぞ」
参零は唇を噛《か》み締《し》めた。
「和穂の足取りについて何か判りますか?」
「俺《おれ》がこんな酷い目に遣《あ》わされたのは、二週間前だ。それからあの女は北に消えていった。
そう、お前の女房の墓《はか》も具合《ぐあい》の悪いことにここから見て北にある。知ってるだろうが、馬を飛ばせば我《わ》が血族《けつぞく》の墓所《ぼしょ》までは一週間だ。
あの女の考えなんぞ知りたくもないが、俺の次に狙いを定《さだ》められた哀《あわ》れな宝貝使いを倒《たお》したら、次はお前が和穂に一番近い宝貝所持者になると覚悟《かくご》しておけ。
ま、和穂が現れる前に墓所に着けるか正直言って運|次第《しだい》だな。
くどいのは百も承知で言うぞ。参零よ。お前も幾《いく》つか宝貝を持っている。それを使えば和穂を倒せると考えているかもしれんが絶対に無理だ。あの女にだけは逆らうな」
叔父の言葉に同意せず参零は言葉を返した。
「ともかく時間が勝負ですな。私と戻心だけなら五日で墓所まで辿《たど》り着けると思いますので、申し訳ないですがその間だけ信星を預かっていただけないでしょうか?」
「断《ことわ》る。一週間や二週間ガキを預かるぐらいならば承知してやる。
だがな、もしもお前が和穂に殺された場合はどうなる? お前に代わってガキを育てるなんざまっぴら御免《ごめん》だ」
「判りました。では急ぎますのでこれにて失礼」
部屋を後にしようとする参零に叔父は声をかけた。
「待て。和穂に関する情報で面白いものがあったのを思い出したぞ。いざとなったらこの手を使ってみろ」
渦巻《うずま》いていた。
黒と自とが大きな渦を作っていた。大きな渦の端《はし》では別の小さな渦がクルクルと流れ続けていた。渦巻《うずまき》の意味が参零には理解出来た。理解出来たのだが把握《はあく》出来ない。渦巻の形には意味があり、刻一刻《こくいっこく》と姿を変えることにより、喋られた言葉のようにその意味を参零に伝《つた》えるが、彼はそれを把握できない。母国語《ぼこくご》よりも聞《き》き慣《な》れた意味も知らぬ異国《いこく》の言葉のようであった。
渦が回《まわ》る。それは空なのか、それとも壁《かべ》なのか。
世界にはただゆっくりと回る無数の渦巻と一人の女の姿があった。
渦巻を背にした女をやはり参零は把握できない。見えているが把握できない。
女は言った。
「脅《おび》えなくてもいいわよ。今のところはね」
張りのあるよく通る声だが抑揚《よくよう》の乏《とぼ》しさが凄味《すごみ》を出していた。女の言葉は続く。
「名前は確か参零だったわね。単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言うわよ、参零さん。
宝貝を返してもらう。抵抗《ていこう》したけりゃしてもいい。逃げたければ逃げてもいい。でも、足掻《あが》けば足掻くほど苦しむのはあなたよ」
「和穂! なのか?」
女は渦巻たちを見つめ舌打《したう》ちした。
「こういうのは結構あるんだけど、腹が立つわ。本当ならあなたの記憶を漁《あさ》るぐらい簡単なはずなのに誰かが邪魔《じゃま》をしている。そのせいで読み取れたのはあなたの名前ぐらい。
でも勘違《かんちが》いしないでね。記憶が手繰《たぐ》れないからといって、そっちに勝ち目はない。こっちの手間が増えるだけの話だから」
「これは夢《ゆめ》だ!」
「次の獲物《えもの》は参零、あなたよ。そのうち直接お会いできるから楽しみにしておいて」
言葉の終わりと共に、全《すべ》ての輪郭《りんかく》がぼやけだした。そして全ての形が消え去る瞬間、参零は和穂の笑《え》みを見た。
「!」
参零は目を見開いた。
瞳《ひとみ》の中に夜空の星と戻心の心配そうな顔が飛び込んできた。
戻心に丁度《ちょうど》、膝枕《ひざまくら》をされるような形になり、彼女の細い指が参零のこめかみに添《そ》えられていた。
たき火を囲《かこ》み野宿《のじゅく》をしていたのを思い出し参零は上体を起こした。
「和穂だ。和穂の夢を見た!」
ただの悪夢にしては夢の記憶が異常にはっきりしている。和穂の言葉の一つ一つが乾《かわ》いた血のように心にこびりついていた。
参零は薪《たきぎ》の爆《は》ぜる音と信星の寝息を聴きながら汗をぬぐった。
「夢には違いないけど、ただの夢ではなさそうだ。そういえば、記憶を読み取るのを邪魔してどうのこうのと言っていたが、もしかして戻心が助けてくれていたのか?」
女はこくりとうなずく。
「助かったぞ戻心。こっちの手の内が向こうに筒抜《つつぬ》けになっちゃ打つ手がないからな」
参零の無事を確かめ一度は心配そうな表情を崩《くず》した戻心だったが、今の参零の言葉で再び顔が曇《くも》る。
「和穂との戦いはもはや避《さ》けられまい。あの女は俺に標的《ひょうてき》を定《さだ》めたようだしな。だが、ここで諦めるわけにはいかないんだ。
せっかくお前を手に入れ、妻の復活《ふっかつ》が叶《かな》うんだ。和穂に邪魔はさせない。心配してくれるのは嬉《うれ》しいが信星のためにも負けられない」
指の背で、参零は眠る信星の頬《ほお》を撫《な》でた。
「ただの一度、ただの一度だけでもいい。妻に信星を抱かせてやりたい、信星に母親のぬくもりを教えてやりたいんだ。そのためにはいかに和穂といえども倒《たお》す」
娘をあやす父親の背中を見て、戻心の表情にさらに悲しみが増していった。
薄《うす》い雨雲が辛《かろ》うじて陽《ひ》の光を遮《さえぎ》っていた。
そして煙《けむり》のように細かい秋雨《あきさめ》が女を濡《ぬ》らしていた。
女はゆっくりと荒涼《こうりょう》とした大地を踏《ふ》みしめ歩き続けている。彼女の膝《ひざ》から足首までを包み込む暗い銀色をした具足《くそく》は奇妙《きみょう》な形をしていた。本来は膝よりも上の部分も、足首より先もあったのだろう。
だが、膝の部分は引き千切《ちぎ》られたように歪《ゆが》み、古い火傷《やけど》を思わせる肉の盛り上がりが破壊《はかい》された断面を覆っていた。具足そのものが生き物じみた気配《けはい》を放《はな》っている。人間とは違う理《ことわり》に従《したが》った筋肉や腱《けん》を持つ生物の足。それが具足として女の足を覆っている。
具足の異常さに比《くら》べれば目立たないが、彼女の履《は》く靴《くつ》も尋常《じんじょう》な代物《しろもの》ではなかった。
外見上は革靴《かわぐつ》の類《たぐ》いにしか見えない。
だが足首より先に侵蝕《しんしょく》しようとする具足を革靴は押し止《とど》めていた。何の動きもないようだがそこには確《たし》かに攻防《こうぼう》の気配があった。たとえ人の目には止まっているように見えても、別種《べっしゅ》のツタとツタが寄生先《きせいさき》の樹木を争うような緊迫感《きんぱくかん》がそこにはあったのだ。
具足と同じように暗い銀色をした籠手《こて》が女の左腕を包み込んでいた。やはり同じように怪物《かいぶつ》じみた奇妙《きみょう》な造りの籠手で具足と揃《そろ》いの代物であるのは間違いはなかった。
ごつごつとした造りの中で、指先だけは絹《きぬ》の手袋《てぶくろ》に包まれたように細い指の形が見て取れた。
籠手が彼女の腕をどこまで守っているかは定かではなかった。肘《ひじ》までなのか、あるいは肩のつけ根までなのか? 何故なら籠手は彼女の着ている服の袖《そで》の中に消えていたからだ。
彼女が着ているのは、袖が大きい俗《ぞく》に言う道服《どうふく》である。白い道服の赤い帯には瓢箪《ひょうたん》が一つ結びつけられていた。
女の歳ごろは二十五、六であろうか。スラリとした背中、肩にかかるぐらいで切り揃《そろ》えられた短い髪が雨のせいでしっとりと濡れている。
ほっそりとした顎《あご》に薄《うす》い唇《くちびる》、意志《いし》の強さを思わせる太い眉毛《まゆげ》の下には、氷のように冷たい瞳が輝いていた。
女の名は和穂。
和穂は左耳の耳飾りに指を伸ばし目を閉じた。そしてゆっくりと目を開き、笑う。
「どうやら素直《すなお》に返す気は毛頭《もうとう》ないってわけね、参零さん」
道もない荒野の中には唐突《とうとつ》に一軒の家が建っていた。あの中に標的《ひょうてき》が居る。
露骨《ろこつ》な罠《わな》だ。
だが、和穂は何の躊躇《ちゅうちょ》もなく家に向かい歩いていった。
「髪を切ってみたのよね。だから今日の私は機嫌《きげん》がいいの」
「来やがったな疫病神《やくびょうがみ》め!」
「ふふ。やる気満々ね」
部屋の中では、参零がひとり、椅子《いす》に座っていた。生活感も何もないガランとした空間だけの部屋だ。
気迫《きはく》と気迫のぶつかりあいなら参零も負ける気はしなかったが、和穂には何の気負《きお》いも感じられない。
濡れた髪をもてあそび和穂は言った。
「別に髪型《かみがた》が似合《にあ》っているかどうかなんて訊《き》いちゃいないのよ。機嫌がいいと言いたいだけで。どうせ罠を仕掛けてるんでしょ? 練《ね》りに練ったこの策《さく》ならば、いかに凶悪な回収者といえど恐《おそ》れるに足りぬ! みたいな自信満々の策なんでしょうね。
でも無駄《むだ》よ。
今|謝《あやま》って宝貝《ぱおぺい》を返してくれたならそれでよしとしてあげる。そうね。謝る必要はないかもね。私が勝手にばらまいた宝貝をあなたは拾《ひろ》っただけだもの」
「宝貝は渡さんぞ!」
「まあ大変。宝貝をおとなしく返してくれたなら少しぐらい感謝《かんしゃ》の念を覚えてあげたってよかったのに。実際に少しは居るのよ。悪名に恐れおののいたのかなんだか知らないけど、私に素直に宝貝を返してくれた人って。そのときは、ちゃんとお礼ぐらい言ってるわ。ありがとうの一言を口にするのに抵抗を感じる程《ほど》、嫌な女じゃないの」
場違《ばちが》いなまでの和穂の余裕《よゆう》の根拠《こんきょ》を考えるだけで、参零は空|恐《おそ》ろしいものを感じた。
「返せと言われて素直に返せるものか! 宝貝を手に入れるのにどれだけ苦労《くろう》したと思ってるんだ!」
和穂は参零の姿をじっくりと見た。
武器らしい武器は片手に持った剣《けん》ぐらいのものだろうか。しかし、その武器もまだ鞘《さや》から抜かれていない。
僅《わず》かだが懐が膨《ふく》らんでいるのは何らかの小型宝貝を隠し持っているからだろう。
どっちにしろ雑魚《ざこ》だと和穂は結論付けた。
「宝貝の所持者って、幾つかの類型《るいけい》があってね。
一つは本当に偶然宝貝を手に入れた人。宝貝には道具の業《ごう》って奴があって自分を本当に必要としている人の前に現れる。
こういう人たち相手に回収を仕掛《しか》けるのは少しばかり心が痛いの。心底《しんそこ》困っているときに、宝貝という解決策が手に入って喜んでたのに私が現れて『宝貝を返しなさい』でしょ。
そりゃ普通、怒るよね。
そういう人たちが抵抗しても、流石《さすが》に本気で戦いにくい。正直|手加減《てかげん》してあげる。
もう一つはね、宝貝を手に入れて味を占《し》めて、それで欲の皮をつっぱらかして、他《ほか》の宝貝まで欲しがる連中ね。
参零さん。多分あなたもその類《たぐ》いね。幾つの宝貝をお持ちかしら?」
自分の張った罠の中で、何故罠に落ちた敵に尋問《じんもん》されなければならないのか。理不尽《りふじん》ながらも参零は必死に言い訳をした。
「誤解《ごかい》だ! この宝貝は俺の宝貝を狙ってきた奴を返り討《う》ちにして手に入れた物ばかりなんだ」
「私は『幾つ宝貝を持っているか』と質問したのよ。言い逃《のが》れするぐらいならさっさと返しなさい。
今ならまだ機嫌がいいから」
「手の内を明かせるか! 宝貝の数など教えてたまるか!」
和穂は大きく溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
そして眼光がさらに鋭《するど》くなる。機嫌がいいかどうかは、相手を追い詰めるための脅《おど》しの手段ではなかったのだ。どうやら本当に今までの和穂は機嫌が良かったらしい。しかし、その機嫌もゆっくりと壊れていっていると参零は知った。
和穂は言った。
「参零さん。あなたの今までの行動はある程度《ていど》把握《はあく》してるのよ。宝貝を探して長い旅に出てたそうじゃない。小細工《こざいく》とかは嫌いじゃないけど、嘘《うそ》つきは嫌いよ」
「! 違う戻心は例外だ。あいつだけは確かにこっちから手に入れようと必死になった。
和穂、頼む、俺の話を聞いてくれ!」
「生憎《あいにく》、この世界には呆《あき》れ返るほど宝貝が溢《あふ》れてるのよ。あなた相手に割《さ》ける時間はもうない!」
来る!
参零は和穂の殺気が炸裂《さくれつ》したのを見た。素早《すばや》く腰につけた瓢箪を外し中から何かを出そうとしている。
本能的に参零はあの瓢箪も宝貝だと判断した。瓢箪そのものが武器なのか瓢箪から何か出るのかは定《さだ》かではないが、今仕掛けねば敗北する。
剣を鞘《さや》から引き抜きながら参零は和穂との間合いを計った。
互いの攻撃はまだ衝突《しょうとつ》しない間合いだと和穂は判断しているのだろう。和穂の表情にはまだ軽い笑《え》みが残っている。
和穂の判断は間違いない。攻撃はまだ衝突しない。攻撃はだ。
和穂の目には参零の構えは、突進する和穂を迎《むか》え撃《う》とうとしている体勢に見えた。
足を必死にふん張り、剣を中段に構えているからだ。
だが、それは間違いだった。
いかなる攻撃動作、さらに現時点での第三者による不意打ちにも和穂は対応出来ただろう。
が、参零の採《と》った行動は攻撃ではなく、封印《ふういん》のためのものであった。
ひゅっひゅっひゅっ、下手《へた》な口笛にも似た奇妙《きみょう》な言葉が参零の口から放《はな》たれ、途端《とたん》に剣の刃が細かな細波《さざなみ》のように揺《ゆ》れはじめた。
それと同時に参零の筋肉が軋《きし》みを上げながら強《こわ》ばっていく。本人の意志ではどうしようもない強ばりに、参零の体は身動きが取れなくなっていった。
「参零さん。それでどうしようというの?」
和穂の言葉が終わるか終わらないかのうちに和穂の動きも鈍《にぶ》くなっていった。
「何?」
網《あみ》をかけられたように体の動きがぎこちなくなっていく。
いかに宝貝とはいえ、言葉一つで相手の動きを封じるような代物《しろもの》に和穂は出会ったことがない。
言葉は所詮《しょせん》、きっかけにすぎない。
言葉により何かが動き、その動いた何かによって結果がもたらされる。
言葉は弓ではあるが、矢ではない。
和穂は余裕を見せながらも、その何かに対しては細心の注意を払《はら》っていたのだ。
参零は恐怖を踏み越えて笑う。
「油断したか? それとも慢心《まんしん》したか? どっちにしろ噂ほどではなかったな!」
自分を束縛《そくばく》しようとしているものの正体に気づくのが遅《おそ》すぎた。和穂は舌打《したう》ちした。
「水か!」
参零が動きを封じているのは和穂ではなく、和穂の体を濡らしていた雨水だった。
部屋に入る以前に和穂は罠に落ちていたのだ。
もしも和穂が水の中に居たのなら完全に動きを封じられていただろう。いかに雨水に濡れた程度とはいえ和穂の動きは極度に遅くなっていた。
「雨を呼ぶ宝貝を持っていたの? あの天気が既《すで》に罠だったのね。不覚だった。だけどね参零さん。あなたも動けないんじゃないの?」
水を封印すると同時に参零も剣を構えたままピクリとも動いていなかった。いかに遅いとはいえ和穂は動きを止めていない。
ジリジリと間合いを詰める和穂に対して、参零は何の恐怖も覚えていなかった。
「和穂。当然手は打ってある!」
「そりゃそうでしょうよ」
途端、天井《てんじょう》が開きもう一人の参零が舞《ま》い降りた。その手には参零と同じように剣を持っていた。
参零の剣とはよく似ているが、別の剣だと和穂は見抜《みぬ》く。
「ややこしい。どっちが本物の参零なの」
二人の参零は同時に答えた。
「正直、俺にもよく判らない。姿形どころか記憶や心まで全く同じように化《ば》けてるんでな。片方は俺の娘《むすめ》が化けている」
「子持ちだったの? そんなに大きい娘が居るようには見えなかったけど」
「大きい娘じゃない。四歳の娘だ。名前は信星」
「子供までこんな危険に巻き込んで。正気の沙汰《さた》じゃない」
二人の参零は同時にムッとした。
「危険じゃないさ。ちょっとしたお父様のお手伝いってところだろ」
そして、天井から降り立った参零は常から剣を抜き放った。
和穂の読み通り、この剣は最初の参零が持っていたのとは別の剣だ。和穂を封じている参零が持つ剣の刃《やいば》が水を思わせる冷たい輝《かがや》きを持つのに対して、天井から下りてきた方の剣はどことなく赤みを帯《お》びている。
滑稽《こっけい》な程遅い動きで和穂は剣を避《よ》けようとした。
逃げられる要素は全くなかった。
軽く剣が翻《ひるがえ》り、刃は和穂の腹に沈《しず》みそのまま引き抜かれる。具足と籠手《こて》の防御《ぼうぎょ》能力か、刃に不自然な抵抗《ていこう》があったが剣の宝貝の前ではそれは防御の足しにもならなかった。
ゆっくりとゆっくりと和穂は床《ゆか》に倒《たお》れ、血が床に広がっていく。
呆気《あっけ》なく和穂は致命傷《ちめいしょう》を食《く》らった。
刃に着いた血を払《はら》い、参零は和穂の手に握《にぎ》られていた瓢箪を蹴《け》る。
瓢箪はもう一人の参零の足元に転がった。
封印動作を解き、参零は瓢箪を拾った。
たとえ封印を解かれても和穂は傷のせいで地面にうずくまったままだった。
それでもどうにか口を開く。哀《あわ》れなまでに脅《おび》えた声で和穂は言った。
「油断していた。慢心していた。こんな奴《やつ》に倒されるはずがないと思っていた」
二人の参零は静かに和穂の言葉に耳を傾けていた。
「お願い、助けて。私の持っている宝貝は全《すべ》てあなたにあげる。だから医者に連れていって。死にたくはないの!」
すっと片方の参零は後ずさり、瓢箪を持つ参零は椅子《いす》に座って言った。
「身内の悪口を言うのは嫌なんだが。僕の叔父上《おじうえ》は残酷《ざんこく》な人なんだ。いや、残虐《ざんぎゃく》な人なんだ。身内にはまあ普通《ふつう》に接するけど、赤の他人にゃ無茶《むちゃ》をする。勝てる相手でもネチネチと怪我《けが》を負わせて楽しむ種類の人間だ」
「でもあなたはそうじゃないでしょ?」
「そうだよ。なぶり殺しは趣味《しゅみ》じゃない」
和穂の口元から血が滴《したた》った。
「そう、判《わか》ったわ。あたしを生かしちゃおけないのね。生かしておいて万が一|復讐《ふくしゅう》されたら堪《たま》らないもの。
だったら、とどめを刺《さ》して。痛いのよ。苦しいのよ。一思いに楽にさせて」
参零は静かに言った。
「身内として謝るよ、和穂。経緯《けいい》は知らないが叔父上には大分痛めつけられたんだろ」
和穂はよろよろと口元の血をぬぐった。血の気が引くと共に和穂の瞳《ひとみ》がギラギラと研《と》ぎ澄《す》まされていく。
そして今までの懇願《こんがん》する空気が和穂の声から消えた。
「奴の親族だったか。奴から話を聞いたの?」
「いや。和穂には逆《さか》らうな! という忠告はしてくれたけど。後になって気がついたんだ。叔父上が食らった傷は残虐な傷だ。まるで叔父上が敵《てき》に刻《きざ》みつけて喜びそうな傷だ。
あれは叔父上が和穂につけた傷だ。その傷を叔父上に返したな? 宝貝《ぱおぺい》の力で」
和穂は咳《せ》き込《こ》みながら笑った。
「意外と利口《りこう》じゃないの。推理《すいり》だけで転業珠《てんごうしゅ》の存在《そんざい》を予想するなんて。
大正解よ。怪我をそのまま相手に付け替《か》える宝貝、転業珠。間抜《まぬ》け面《づら》して近づいてくれればこの傷をお返ししたのに。
でも、ばれてたんじゃ仕方がない」
「和穂。お前の負けだ」
「残虐であろうとなかろうと叔父さんの忠告に従うべきだったの。あなたのことを心配してくれていたのだけは確かなんだから。
でも、もう今さら遅いけどね」
参零たちは身構えた。まだ奥《おく》の手があるのか? 怪我のせいで和穂は立ち上がる事も出来そうにはない。よく観察すれば和穂の右手は懐《ふところ》に差し込まれている。懐の中で傷を移す宝貝を握っているのだろう。それ以外の宝貝が懐にあるのかもしれない。が、参零はうかっに和穂に近づけない。
「はったりでおびき寄せるつもりか? それとも転業珠は人間以外にも使えるのか!」
自棄《やけ》なのか、本当に楽しいのか和穂は笑った。
「懐に鼠《ねずみ》でも隠し持っていて、鼠に傷を押しつけるとでも思った? いい発想だけど生憎、私は人間だから私の傷は人間にしか移せない。
あぁぁ、やばい。死に掛けなのにべらべら喋《しゃべ》ったから意識が遠くなってきた。もうすぐ私は死ぬんでしょうね。
でもね、『もうすぐ』なんて永遠に来ないのよ!」
途端《とたん》、和穂の輪郭《りんかく》はぼやけ赤い光の粒子《りゅうし》へと姿を変えていった。
危険を承知で参零は踏《ふ》み込む。
が、光の粒子は虚空《こくう》へと消えていった。
光速を超《こ》える光の中、和穂は過去に向かい逆流していった。
荒《あ》れ狂《くる》う光の中で和穂の傷は瞬《またた》く間に消えていった。さらに逆行を続けながら和穂は右手の指に嵌《は》められた指輪に言った。
「あいつらの魂《たましい》は覚えたな? 『次』は逐一《ちくいち》私に奴《やつ》らの魂の居場所を報告しろ」
沈黙《ちんもく》の中で指輪は肯定《こうてい》の意思を示す。
そんな指輪の態度が和穂には可笑《おか》しかった。
「いいかい? この間のように二度と逆らうなよ。以前の所持者に義理立てして、私を陥《おとしい》れようと妙な復讐心《ふくしゅうしん》を出したら、即座《そくざ》に破壊《はかい》するからね」
氾濫《はんらん》する光の中で和穂の髪《かみ》がゆっくりと伸びていった。
霧《きり》のような秋雨が降りしきる荒野を和穂は歩いていた。
荒野の中には一|軒《けん》の家が唐突《とうとつ》に建っていた。
参零の仕掛《しか》けた露骨な罠だ。だがよくできた罠だと和穂は思った。
和穂は右手に見えない槍《やり》を持っていた。
和穂はその槍を頭上でクルリと回し、そのまま地面に突き刺した。
途端、奇妙な地響《じひび》きが巻き起こり、続いて大きな爆発《ばくはつ》が起きた。
炎《ほのお》も何もない純粋《じゅんすい》な爆煙《ばくえん》が巻き起こり、周囲の視界を遮《さえぎ》る。
煙《けむり》が消えた後、和穂の足元には壊れた小さな板が転がっていた。幾何学的《きかがくてき》な八角形か六角形をしていたのだろうが、割《わ》れてしまった今では定《さだ》かではない。
和穂は板を拾《ひろ》い、腰につけた瓢箪《ひょうたん》の中に回収した。瓢箪の入り口より遥《はる》かに大きい破片《はへん》は、何の苦もなく瓢箪の中に吸い込まれる。
周囲の景色は一変していた。
そこは荒野ではなくありふれた森の中だった。鬱蒼《うっそう》とした森ではなく、木と木の間もかなり離れているが、大木に寄って雨宿りを決め込むことぐらいは出来そうだった。そして太陽の角度が先刻《せんこく》とは微妙《びみょう》に違っている。
偽《いつわ》りの荒野は森の上に存在したのだと和穂は知った。落下の衝撃《しょうげき》がなかったのは、荒野の偽物を作り出した宝貝の最後の意地だったのか。
偽物の荒野の中を歩いていたのだ。荒野を操《あやつ》っていた宝貝は逐一こちらの行動を参零に伝えていたのだろう。だが、和穂は小細工を仕掛けていたのでもない。行動を把握《はあく》されてなんの問題もない。
激変《げきへん》する景色の中で、しかし、一|軒《けん》の家は先刻と同じ距離に建ち続けていた。
和穂は家に向かい歩いた。秋雨が体を濡らしたが彼女は気にもしなかった。
霧のような秋雨が和穂の持つ槍の影《かげ》を僅《わず》かに浮き上がらせている。
「せっかく髪を切ったばかりなのに。腹が立って仕方がないわ。最近じゃ三倍返しどころじゃ済《す》まなくなってるのよ! 最低移動時間も意外と長いし」
「来やがったな疫病神《やくびょうがみ》! 三倍返しって?」
剣を片手に椅子《いす》に座り、和穂を待ち受ける参零よりも、和穂は自分の髪の毛の方が気になっているようだった。襟首《えりくび》の濡れた髪を押さえて和穂は言った。
「これだけ髪が伸びるのにどれぐらいかかる? もしかして一年近く使ってしまったか」
「何の話だ?」
「今の私は機嫌が悪いって事よ」
参零は立ち上がり剣を鞘《さや》から抜きはじめた。
和穂は左手の籠手《こて》を自分の顔の前に移動させる。和穂の行動の意味を探《さぐ》ろうとして、参零の動きが鈍《にぶ》った。籠手に包まれた和穂の細い指が握《にぎ》り締《し》められ拳《こぶし》を形作る。
その途端、和穂を濡らしていた水滴《すいてき》が、熱した鉄板の上に落とされた水滴のように一気に吹《ふ》き飛んだ。
和穂の髪がその衝撃で小さくなびく。
和穂は水滴を敵の攻撃《こうげき》だと鎧《よろい》に認識《にんしき》させたのだ。当然、鎧は水を排除《はいじょ》した。
呆気にとられる参零がどうにか剣を鞘から抜いたときには、和穂は次の動作に出ていた。
右手に握られている透明な槍を天井《てんじょう》に向け投げつけたのだ。
破片の動きでしか推測出来ないが、確実に槍は天井をぶちぬく。
同時に部屋全体が爆風に包まれた。先刻、和穂が偽りの荒野を破壊したときと同じ爆煙だった。周囲の視界が煙に遮られる。
「信星!」
参零の叫びをあざ笑うかのように視界はなかなか戻《もど》らない。しかし、それでも煙は確実にひいていった。
参零の背中を嫌《いや》な汗が流れる。
視界の先に娘《むすめ》の影を見るまでその汗は止まらなかった。家は消え去り、柱を思わせる細長い石の塊《かたまり》が無残に折れていた。信星は驚《おどろ》き過ぎて泣く事すら出来ないようだった。ただ、キョトンとしながら地面にへたり込んでいた。
信星の頬《ほお》の下についた傷《きず》からは血が流れていた。間違《まちが》いなく刃の傷だ。天井を刺し貫《つらぬ》いた武器が信星の頬に傷をつけたのだ。
擦《す》り傷なんてやわなものじゃない、参零はどうにか怒《いか》りを抑《おさ》え込む。逆上して当然の状況《じょうきょう》だが、それでは信星を守りきる事は出来ない。
「和穂! 娘になんてことをしてくれた!」
怒声《どせい》を上げたがそれでも自分を抑え込んでいる。
和穂は事もなげに言った。
「下衆《げす》なのは、あなたよ。参零お父さん。娘を巻き込んだのはあなたでしょうに。それにどっちが本物かまでは判らなかった」
参零の頬を雨水が流れた。
咄嗟《とっさ》に参零は剣を構え、封印の動作に入ろうとした。
和穂は首を横に振《ふ》る。
「無駄《むだ》。よく見て」
雨は和穂に触《ふ》れていない。和穂を中心とした球形の場が雨を拒絶《きょぜつ》していた。ならば、球形の場ごと封印を仕掛けようとする参零の考えを和穂は見透《みす》かしていた。
「体が自由に動くんだから、この剣で水自体を破壊して動ける。それ以前に封印そのものもこいつの刃で砕《くだ》けるかもね」
爆煙の中で引き抜いたのか、和穂の右手には巨大《きょだい》な剣が握られていた。
なんのてらいもない剣だ。参零の剣のような質素な装飾《そうしょく》もない。ただの剣だったが、見る者を威圧《いあつ》せずにはおかないのはその刃のせいだった。鋭《するど》さや繊細《せんさい》さとは次元の違う刃だった。その刃はただ破壊だけを望んでいる。形をある物からその意味をなくし残骸《ざんがい》にする欲求だけで光り輝いてる。
その剣を和穂は軽々と持ち上げた。剣自体が宙に浮き、和穂は手を添《そ》えているだけのように無駄な力が抜けていた。
荒れ狂《くる》う猟犬《りょうけん》の首輪を引っ張り獲物《えもの》を覚えさせるのと同じ素振りで和穂は剣の刃を参零に向けた。
「この剣はおっかないわよ。一応押さえつけるように努力はするけど」
「意外と優《やさ》しいじゃねえか」
「ちょっと違う。斬《き》るつもりのないものを斬られると腹が立つだけ。宝貝《ぱおぺい》ごときに命令を無視されるのが嫌なのよ。
で、どうする。口を酸《す》っぱくして言ってるんだけど、宝貝を返してくれない」
「なにをほざく。その台詞《せりふ》は夢の中で一度聞いただけだぞ!」
「そうだったかしら? じゃ、きっちり最後通告してあげる。宝貝を返しなさい。そうすれば手荒《てあら》な真似《まね》はしない」
和穂の言葉に異議があるのか、剣が低い唸《うな》り声を上げた。
参零は答えた。
「断る」
剣と和穂は笑う。
「酷《ひど》いお父さんね」
次の瞬間、参零は自分が和穂の剣の間合いに居ることを知った。和穂は尋常《じんじょう》ならざる速度で間合いを詰《つ》めたのだ。踏《ふ》み込みが速いとかそういう次元の話ではなかった。具足とせめぎ合いながらも和穂の靴《くつ》が奇妙《きみょう》な軋《きし》み音を立てていた。
軋む音に混ざり鏡《かがみ》が砕《くだ》ける音がし、参零の左腕《ひだりうで》の感覚がなくなる。
「!」
参零の剣は粉砕《ふんさい》されていた。キラキラと剣の破片が宙を舞《ま》う。
言いようのない恐怖と危機を覚え参零は左腕を目の前に動かしてみた。腕ごと吹き飛ばされていても不思議はない。
感覚はやはりないが、確かに左腕は存在していた。ただし、手首の骨が砕けている。
激痛があればまだましだった。激痛の代わりに参零は軽い吐《は》き気を覚えた。
自分の剣が砕かれその衝撃で手首の骨が折れたのだと把握《はあく》したとき、和穂は信星の前に立っていた。
一閃《いっせん》し和穂の剣は信星の横に転がっていた剣を鞘ごと粉砕した。そのまま、なんの抵抗もなく信星に向かい刃が走るが、その動きは和穂の左腕の籠手《こて》が遮る。籠手は刃を握り締め、剣は腹立たしげに捻る。
「どうする? このまま娘を見殺しにして私を後ろから攻撃する? ま、武器があればだけど。それとも、素直《すなお》に宝貝を返す? 抵抗《ていこう》されていちいち宝貝をぶっ壊《こわ》していくのも能率《のうりつ》が悪いのよ」
「わ、判った和穂。俺の話を聞いてくれ」
和穂は剣を地面に突き刺し、信星を抱《だ》きかかえた。
「話し合いの余地はない。いいから返せ」
「あぁ、返す。だがあと、ほんの少しだけ待ってくれないか。お願いだ」
「借金《しゃっきん》取りじゃないよ、私は。待って利息《りそく》が増えるでもなし」
「頼む。妻を生き返らせるまで待ってくれ」
参零は懐《ふところ》から白色に輝く宝珠《ほうじゅ》を取り出し、そのまま放《ほう》り投げる。
途端、軽い爆発が起き戻心が姿を現す。
「こいつは戻心珠。死者をも蘇らせる能力を持った宝貝だ。復活には一部でいいから亡骸《なきがら》が必要で」
参零の説明に耳を傾《かたむ》けつつ和穂は戻心の値踏《ねぶ》みをした。
和穂の眼光《がんこう》に戻心は目を逸《そ》らす。それでも恐《おそ》る恐る和穂の目を見ようと努力している。
「妻の墓所はすぐそばだ。四日、いや三日でいいから待ってくれ。そうすればおとなしく宝貝を返す!」
どうにか戻心は和穂の瞳《ひとみ》を見た。怒りやら憎《にく》しみやら恐れをぶつけようとしているのなら、和穂は戻心を無視しただろう。が、少しばかり何かが違う。少なくとも怒りは微塵《みじん》も感じられない。
和穂は参零に言った。
「知ったことじゃない。死者の復活なんざできるわけないでしょ。そんな世迷《よま》い言《ごと》に付き合う義理はない」
「取り引きだ和穂」
「なにを? どう?」
「殷雷《いんらい》を復活させてやる」
「!」
「叔父上《おじうえ》から事情は聞いている。
砕《くだ》かれた殷雷刀を戻心なら元に戻《もど》せる。もしこの取り引きに乗らないなら、戻心を破壊する!」
もはや参零の手には宝貝の武器はない。あるのは護身用《ごしんよう》の小刀一つだ。
通常ならこんな物で宝貝は破壊出来ない。だが、戻心は破壊されるのを承諾《しょうだく》してくれていたのだ。破壊を受け入れてくれるのならば人を殺せるような攻撃でも宝貝を破壊できる。
今の言葉で和穂の瞳に迷いが出た。参零は微《かす》かな希望を見いだした。戻心を殺さずにすむからだった。妻の復活への希望が見えたからだ。和穂は信星を地面に置き、腰に着けた瓢箪《ひょうたん》を外した。
「面白《おもしろ》い。余興《よきょう》にしちゃ上等」
瓢箪の中からたちたまち一振《ひとふ》りの折れた刀が姿《すがた》を現《あらわ》した。柄《つか》から拳《こぶし》二つ分ぐらいまで刃はあるが、そこから先は折れていた。
ずしりとした重みを感じながら、折れた刀を参零の足元に投げつけた。
そして、地面に突き刺した剣を再び手に取る。
「ふざけた真似をしたら、判《わか》っているでしょうね」
参零は戻心に向かい首を縦に振った。
一度大きく目を瞑《つむ》り、戻心は地面に転がる刀に近寄る。
戻心は和穂の瞳を見た。和穂も戻心の瞳を見つめ返す。さっきからのこの態度《たいど》、戻心の目は何かを訴《うった》えようとしている。だが、何を訴えようとしているのか和穂には判らない。
膝を折り戻心は折れた刀に向かい、手を翳《かざ》した。ホタルを思わせる青白い光の塊《かたまり》が幾《いく》つも戻心の腕から放《はな》たれた。
光が殷雷刀の周りを舞《ま》う。光に照らされて本来ならば折れて存在しない刃《やいば》の、影が浮かび上がる。欠損《けっそん》した刃が影の中から浮上《ふじょう》し一つの完全な刀を造《つく》りあげた。
光たちの動きはさらに速くなる。
光に導かれ殷雷刀は持ち上がる。柄を上、刃が下になっていた。
青白い光はさらに強くなり殷雷刀の姿を識別する事が困難になっていく。
和穂は光の中の殷雷刀を見極《みきわ》めようとしたが叶《かな》わない。
と、その光は消滅《しょうめつ》し、代わりに完全なる球形の闇《やみ》が出現した。闇はドロリと溶《と》け、最後には宙に浮かぶ殷雷刀だけが残った。
先刻までの刃とは明らかに違う。刃に力が漲《みなぎ》っていた。
次の瞬間、刀を中心とした爆発が起き爆煙が周囲の視界をはばむ。宝貝を破壊したときの爆発とは明らかに違う、雷鳴を思わせる爆発音だ。戻心珠が宝珠の形から人間の形になったときの爆発音と同種の音だった。
和穂はかつてこの音を何度も聞いていた。殷雷刀が人の姿を取るときの音に間違いはない。
霧雨が爆煙を静かに散らしたとき、そこには一人の青年がたたずんでいた。小柄《こがら》だが引き締《し》まった体は青年が一端《いっぱし》の武人《ぶじん》であると物語っている。
武道の練習着のような服をまとい、長い髪が後頭部の辺《あた》りで束《たば》ねられていた。
猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭い瞳が周囲を見回している。その姿を見て剣を握る和穂の指の力が抜けた。だが、剣の柄はぴたりと和穂の指にまつわりつき、地面に落ちるのを拒絶《きょぜつ》した。
「殷雷」
殷雷は和穂の姿を見た。
「えらく凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》えになったな」
一歩、また一歩、殷雷は和穂に近づく。
そして、和穂に言った。
「すまなかった」
殷雷は和穂を抱《だ》き寄せ、後悔《こうかい》に塗《まみ》れ悔《くや》しさに軋《きし》むような小声で言った。
「俺《おれ》が不甲斐《ふがい》ないせいでお前にこんなに苦労をかけてしまった。だが、もう大丈夫だ。お前は俺が守る」
和穂の右手の指輪が慌《あわ》てて、和穂に報告した。和穂の心を通じ音のない会話であった。
『和穂! そいつは本当に殷雷だ! 魂《たましい》の形が殷雷と同一だ!』
殷雷に身を寄せ、殷雷の肩越《かたご》しに和穂は参零の顔を見た。
事の成り行きがどうなるのか必死に見極《みきわ》めようとしていた。策《さく》やら小細工《こざいく》を仕掛《しか》けている人間の顔じゃない。殷雷と私の姿に、復活した妻と自分の姿を重ねているのだろうかと和穂は思った。
和穂は瞼《まぶた》を閉じた。瞳の奥《おく》から涙が溢《あふ》れるのを待つ。半《なか》ば祈《いの》るような気持ちで涙が零《こぼ》れ落ちるのを待つ。
だが、涙は流れない。
瞳を開けた和穂は戻心の姿を見た。
戻心は涙を流していた。雨水なんかではないれっきとした涙だ。哀《かな》しげな涙だ。涙を流しながらこっちを見ている。戻心の涙が妙に癖に障《みょうしゃくさわ》った。
私は泣けないのに、何故《なぜ》お前は軽々と涙を流せる? 和穂の視線に気がついた戻心は大きく首を縦に振《ふ》った。和穂は言った。
「涙の一粒《ひとつぶ》も流れやしない」
和穂は殷雷との間合いを外し一気に剣を振りぬいた。
「!」
斬撃《ざんげき》は殷雷を打ち砕《くだ》く。参零は自分の目が見たものが信じられなかった。
「何故だ和穂!」
答えず和穂は剣を泳がせる。剣は次の標的《ひょうてき》戻心に向かい走り出す。
「やめてくれ和穂、戻心だけは!」
くどいのは嫌《きら》いだったが和穂はもう一度だけ戻心を見た。走り寄る刃に恐怖を覚えたようでもなく、意を決めている。ならば刃を走らせるまでだ。
喜びの捻《うな》りを上げる刃は戻心を粉砕《ふんさい》した。
参零は放心状態になった。深く息を吐《は》き、和穂は言った。
「痛みすら感じやしない」
割《わ》れた宝珠と折れた刀が地面に散らばっていた。和穂は左手で瓢箪《ひょうたん》を外し宝貝《ぱおぺい》の残骸たちの回収《かいしゅう》にかかる。気が滅入《めい》る程《ほど》、周りには宝貝の残骸だらけだ。
うわごとのように参零は言った。
「何故《なぜ》だ、何故、何故」
和穂は参零の懐《ふところ》から二本の筆を奪《うば》い取った。無傷で済んだのはこの二本の宝貝だけだった。参零には抵抗《ていこう》する気力はない。
「私は取り引きなんてしないのよ」
回収は終わった。
参零たちを背に和穂は森の中を進んでいった。信星の泣き声が森の中に響《ひび》いた。
森の中を歩きつつ和穂は頬《ほお》の下の傷に手をやった。血は既《すで》に乾《かわ》き瘡蓋《かさぶた》になろうとしていた。だが、質《たち》の悪い傷だ。頬骨は切れている。これなら素直《すなお》に骨折してくれていた方がましだ。宝貝の刃は斬れすぎる。
怪我だけでも腹が立つのに右腕の剣がさらに疎《うと》ましかった。使える剣だが瓢箪の中に仕舞《しま》うのにいつも大騒ぎだ。今は疲《つか》れていた。剣相手に騒ぐ気にはなれなかった。
さらに今日は指輪までがやかましい。
「和穂! そこまで非情な女だったか! あの殷雷は確かに本物だったのに!」
「偽物じゃなかったね。あんたが言うんだから魂も同じだったんでしょ。でも、あれは殷雷じゃない。殷雷と同じだけど殷雷じゃないのよ。戻心珠の能力は死者を蘇《よみがえ》らせるなんてものじゃなかった。恐《おそ》らく、人やら物の記憶《きおく》を読み取ったり再現《さいげん》する能力なんだと思う。殷雷の残骸《ざんがい》から殷雷の記憶を引き出し記憶を元にして形作るもの、あれは調査《ちょうさ》や探査《たんさ》系の宝貝だと思う」
「しかし記憶も魂も再現出来るのならそれはもう本物と変わらないのでは?」
「違う。あれは殷雷の影に過ぎない。殷雷が言いそうな事や、やりそうな事を再現してたんでしょうけど、あんなの殷雷じゃない」
「何故、そうだと判《わか》ったんです?」
籠手に包まれた指先を胸の前で握り締め、和穂は哀しげに目を瞑《つぶ》った。
「私の涙が流れなかったから。もし、あれが本当の殷雷だったら私は取り乱して泣《な》き崩《くず》れてたと思う。だけど何も魂に触《ふ》れるものがなかった。一粒の涙も流れなかった。だから、偽物じゃなくても本物でもないと判った。本物の殷雷は私の心の中に生きているのよ」
途端、剣が笑いだす。眠気《ねむけ》を誘うような静かで、それでいてどこまでも低い声だ。
「とんだ冗談《じょうだん》だな和穂。お前は戻心の素振《そぶ》りを見て戻心の能力を読んだ。あの女は確かに破壊されたがっていた。何故《なぜ》だ? それは奴《やつ》に死者を復活させる能力なんざないからだ。情を移したガキに母親のまがいものをあてがうはめになるのを恐《おそ》れていたのだ。本物の殷雷は心の中で生きているだと? 笑わせるな」
剣の言葉を聞き終え、和穂は目を開いた。開かれた瞼《まぶた》の下にあるのは氷の瞳だった。氷の瞳は意地悪く剣を見つめた。
「たまには感傷《かんしょう》に浸《ひた》るふりぐらいしてもいいでしょ。それにしても戻心の感情を理解出来るなんて、意外とあんたも甘《あま》いのね。見損《みそこ》なったわよ」
怒り狂う剣を手に、和穂は次の獲物《えもの》に向かい歩きはじめた。
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封仙娘娘仙界編
『仙客万来《せんきゃくばんらい》』
「まさか護玄《ごげん》君のように優秀《ゆうしゅう》な仙人《せんにん》が、かように大胆《だいたん》かつ不敵《ふてき》な盗《ぬす》みを働《はたら》くとは、この商隠《しょういん》いまだに信じられぬ。
龍華《りゅうか》君においては護玄君と同門ではないとはいえ、日頃《ひごろ》から親《した》しくしておられるのだから吾輩《わがはい》より信じられぬ気持ちはさらに強かろう」
龍華は答えて言った。
「いやいや、だいたいああいう風に普段《ふだん》から真面目《まじめ》ぶっている奴《やつ》に限《かぎ》って、とち狂《くる》うと何をしでかすか判《わか》ったもんじゃないからね」
龍華の工房《こうぼう》の中には、商隠仙人以外には工房の主《あるじ》である龍華仙人と一人の赤ん坊《ぼう》の姿が見えた。
工房を構《かま》える仙人は珍《めずら》しくない。
仙人は山の中の洞窟《どうくつ》に屋敷《やしき》を構え、屋敷の中に研究用の工房を構えるのが一般《いっぱん》的であった。ただ、工房が何を目的にして造られるかの違《ちが》いはある。
ある者は仙丹《せんたん》作製用の工房を造り、龍華のように宝貝《ぱおぺい》製作用に工房を使う者もいる。
宝貝。仙術《せんじゅつ》によって造られる神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼《よ》ぶ。龍華は宝貝の製作では、色々な意味で仙界に名の知られた仙人であった。
彼女は九遥《きゅうよう》山と呼ばれる深山《しんざん》に九遥|洞《どう》という洞府《どうふ》を構えている。
仙人の住まいが洞窟の中に造られているとはいえ、仙術的な調整《ちょうせい》が施《ほどこ》されているので、明かりは充分《じゅうぶん》にあり極度《きょくど》の湿気《しっけ》とも無縁《むえん》の世界である。
工房そのものは珍しくもなんともなかったが、龍華の工房の佇《たたず》まいは少しばかり尋常《じんじょう》ではなかった。
何か爆発《ばくはつ》の一つや二つが巻《ま》き起こったかのように、部屋の中は散らかっている。
爆発が起きたにしては、部屋の中に焦《こ》げはなく、また工房の主である龍華の落ち着いた態度《たいど》からして、この様子が普段の姿なのであろう。
あちらこちらに槌《つち》やら機械の部品のような物が転《ころ》がり、筆《ふで》で描《か》きなぐった設計図と思わしきものが散乱している。
工房の壁際《かべぎわ》には炉《ろ》と厳重《げんじゅう》な封印《ふういん》が施されたつづらが置いてあった。噂《うわさ》ではその封印の中には龍華が製作した欠陥《けっかん》宝貝が山のように閉《と》じ込《こ》められているらしかった。
部屋の中央には作業用の大きな卓《たく》が置かれていたが、その卓の上も例外ではなく散らかっていた。
龍華は卓に向かい、商隠と会話をしながらも手を止めずに宝貝の設計図を描いている。客の相手をしているのに無作法《ぶさほう》といえば無作法ではあったが、商隠も急な来訪《らいほう》であったために咎《とが》める気は毛頭《もうとう》ない。
赤ん坊は、卓の上に積《つ》み重《かさ》ねられた本を椅子代《いすが》わりにして、ちょこんと座《すわ》り、龍華の描く設計図を興味深そうに覗《のぞ》きこんでいた。
龍華の正面に座る商隠の姿は中年の男性のものだった。鉄製の重量感溢《じゅうりょうかんあふ》れる実用的な鎧《よろい》を身に着け、あまり仙人の様相《ようそう》には見えない。
ぴんと伸《の》びた口ひげも厳《いか》つかったが、その口調からは温厚《おんこう》さが滲《にじ》み出ていた。
商隠と比《くら》べれば仙人らしいとはいえ、龍華の姿も普通の仙人とは大分《だいぶ》かけ離《はな》れている。
外見は若い女で、眼光《がんこう》だけは異様《いよう》に鋭《するど》い。伸びた髪に色々と派手なかんざしを刺《さ》してはいるが、その身につけた派手な紅色《べにいろ》の道服《どうふく》の前ではそれほど違和感《いわかん》もない。
流石《さすが》に工房で本格的な作業をする時には、もう少しましな作業着を身にまとうが、今は設計図の作成をしているためにこの恰好《かっこう》であった。
護玄仙人は龍華の友人であった。護玄が事件を巻《ま》き起《お》こしたことについての、龍華の突《つ》き放《はな》すような言い草《ぐさ》に、商隙は深く頷《うなず》く。
「うむうむ。友人であればこそ、罪を犯《おか》した護玄君に辛《つら》く当たるのであろうな」
「いや、別にそういうわけじゃないんですがね。
あ、応接間《おうせつま》にお通しもせずに大変無作法なのは承知《しょうち》してますが、恐《おそ》らく、応接間にお通しした方が余計に無作法になると思うんで。
ここ数百年、扉《とびら》も開けてないんで恐らく応接間はちょっとした秘境《ひきょう》に」
洒落《しゃれ》や冗談《じょうだん》である口ぶりではなかった。
「かまわんかまわん。突然《とつぜん》の来訪で無礼《ぶれい》を働いているのは吾輩《わがはい》の方だからな」
友人である護玄が事件を巻き起こしたのだ。龍華の心中《しんちゅう》を察《さっ》して、商隠は少しばかり話題を外した。
「その赤ん坊が和穂《かずほ》なのか?」
「ええ、そうです」
「なかなか利発《りはつ》そうな顔をしているじゃないか」
商隠は風の噂で龍華が子供を拾《ひろ》ったことを聞き及《およ》んでいた。仙人の住む仙界と人間界は異なる世界であったが、時たま二つの世界の一部が重なることがある。
人間界の九遥山と仙界の九遥山が重なり合ったとき、たまたま龍華が人間界の九遥山に捨てられていた和穂を拾ったのだ。
こんな赤ん坊を育てているのに、あの派手な装飾品《そうしょくひん》の数々はいかがなものかと商隠は思わないではなかった。和穂が間違えて飲み込んだりしたら一大事ではないか。
が、余計な口出しをしている場合でもなかった。
龍華は設計図から顔を上げた。
「で、護玄の行方《ゆくえ》はいまだ判《わか》らないってわけですか?」
「左様《さよう》。現在|調査《ちょうさ》中なので時が経《た》てばもう少し逃走経路もはっきりするだろうが、現在の時点では足取りは掴《つか》めておらん」
龍華は少しばかり考えて言った。商隠も仙人ではあるが、龍華とは少し立場が違っていた。
仙人に弟子《でし》入りした時点で道士|扱《あつか》いされ、そこから一人前の仙人を目指《めざ》して師匠の下《もと》で修行を積《つ》む。仙人の資格試験に合格すれば晴れて一人前の仙人となり洞府を構えるのが、一般的な流れであった。仙人となった時点で、かなりの自由が与《あた》えられる。
が、商隠の場合、大仙と呼ばれる通常の仙人より少しばかり格上《かくうえ》の仙人の弟子であったため、仙人資格を習得《しゅうとく》した後でも、色々な公務《こうむ》をこなす必要があったのだ。
それもまた大仙へと至《いた》る修行の一部であった。龍華たちのような仙人でも、勅命《ちょくめい》という形で仕事を命じられる事もあったが、商隠のように頻繁《ひんぱん》ではない。
護玄の事件で商隠が動いているのも、その公務の一環《いっかん》であると龍華は気がついたのだ。
呑気《のんき》に世間話をしに来ているのではない。
「こいつは気がつきませんでした。私は護玄を匿《かくま》ったりしてませんよ」
「うむ。気を悪くしたらすまぬ。護玄君の行方が判《わか》らないのでこうやって、彼の立ち寄りそうな場所を回《まわ》っているという寸法《すんぽう》だ」
「お勤《つと》めご苦労様ですな。どうぞ、この九遥山をお調べになりたいならお好きなように」
龍華は指をパチリと鳴らした。途端《とたん》、周囲に漂《ただよ》う気配《けはい》が微妙《びみょう》に変わった。全体の空気が軽くなり、音の伝達《でんたつ》、光の伝播《でんば》の加減《かげん》が確かに変わった。
商隠は目を閉じ、耳を澄《す》ますように精神を集中する。
再び彼の目が開くと共に龍華はもう一度、指を鳴らし全ての気配《けはい》は元に戻った。
龍華は指を鳴らす事により、この九遥山に張《は》り巡《めぐ》らされている防御結界《ぼうぎょけっかい》を一時的に解《と》いたのだ。
物理的な防衛《ぼうえい》のための結界というより、探索《たんさく》を阻止《そし》するための結界である。
商隠が調べた限り、護玄らしき者の気配は全く感じられなかった。
龍華はつけ加えた。
「ですが、そこはそれ『優秀』な護玄仙人の事ですから、必死になって符術《ふじゅつ》の一つや二つを展開していれば気配ぐらいは誤魔化《ごまか》せますがね。なんなら本格的に捜索《そうさく》します?」
「いや、それには及ぶまい。
長々と邪魔《じゃま》してすまなかった。護玄君の居場所について何か思い当たる節《ふし》があれば、連絡《れんらく》してくれ。
ではこれにて失礼」
言葉が消えるよりも先に、商隠は光の塊《かたまり》となり、光の塊は一陣《いちじん》の風を残して消滅《しょうめつ》した。
飛び散りそうになる数枚の設計図を龍華は押《お》さえ込んだ。
「あれ、設計図にどこまで描き込んでたっけ? ま、いいか」
「龍華! 貴様《きさま》が護玄の事件の真犯人《しんはんにん》だ!」
「違うよ」
「え! そうなの!」
男は手に持つ宝珠《ほうじゅ》を慌《あわ》てて覗《のぞ》きこむ。宝珠から零《こぼ》れる清《す》んだ白色は、龍華の言葉に嘘《うそ》がないことを示《しめ》していた。
嘘を吐《つ》いた証《あかし》である赤黒い光はいつまでたっても現れない。それどころか白い光も消え去り、宝珠には光の屈折《くっせつ》で引《ひ》っ繰《く》り返った男自身の顔が映《うつ》るのみだった。ざっくりと切られた髪に端整《たんせい》な顔だちをしてはいるが、鉤鼻《かぎばな》のせいかあまり色男という風体《ふうてい》ではない。それでももう少し寡黙《かもく》ならばまだ見られたかもしれないが、九官鳥《きゅうかんちょう》のごとく甲高《かんだか》い声で、さらに早口でまくしたてる癖《くせ》がある。
袖《そで》の細い種類の黒い道服を身にまとい、道服には燻《いぶ》した銀色の糸で簡単な装飾《そうしょく》が施《ほどこ》されていた。
若い男の額に冷《ひ》や汗《あせ》が流れる。
「じゃ、龍華がこの事件の黒幕《くろまく》だ!」
「違う」
「げ、本当に違う!」
やはり宝珠は白い光を撒《ま》き散らすばかりだった。宝珠を顔から離《はな》したり近づけたりしたが、結果は変わらない。宝珠には自分の顔と龍華の散らかった工房が、やはり引っ繰り返って映るのみだった。
男にしても、もう少し駆《か》け引きがあると想定《そうてい》していたのだ。まさかこう、一間一答で簡潔《かんけつ》なやりとりになるとは思っていなかった。
「……もっとこう、含《ふく》みをもたせた答えにしてくれないと、盛り上がるものも盛り上がらないじゃないか。それに俺の立場もないじゃないか」
「言いたいことはそれだけか、孫歳《そんさい》? お前のせいで、どこまで計算してたか判らなくなっちまったじゃないか」
設計図を描くために握《にぎ》っていた筆を置き、龍華は指の骨をポキポキと鳴らしはじめた。
「設計の邪魔《じゃま》どころか偉《えら》く面白《おもしろ》い事をやってくれたじゃないか。
尋問《じんもん》用の宝珠を許可なく犯人でもない仙人に使うとは、いい度胸《どきょう》だ。
無理矢理《むりやり》にでも尻尾《しっぽ》を掴《つか》もうとしたんだろうけど、生憎《あいにく》、私は護玄じゃないから尻尾は生えていないんでね。さあ、その鼻をへし折《お》ってやる」
凄味《すごみ》のある龍華の声に、孫歳と呼ばれた男は恐怖《きょうふ》を隠《かく》そうともしない。
「落ち着け、龍華! これでも俺はお前の先輩《せんぱい》なんだから、ここは一つ穏便《おんびん》に!」
「何遍《なんべん》言ったら気がすむ? あんたは私の先輩じゃない。時刻的にはほぼ同時らしいが、仙人|資格《しかく》を受けるための試験は私の方が先に受けている。その試験で合格してるんだから、私の方が先輩だろ」
余程《よほど》嫌いな相手以外では、先輩後輩の礼儀《れいぎ》をある程度はわきまえている龍華ではあったが、同じ時期に仙人になったのに先輩後輩の関係を持ちだされて、いい気がするわけでもなかった。
「そりゃ、俺の方が試験に入ったのは後だけども、龍華が長々と試験をやっている間に俺は合格したんだから、やはり俺が先輩の仙人になるだろう? いや、別に後輩でもいいから、手荒《てあら》な真似《まね》はよそう! 先輩や後輩なんかどうだっていいじゃないか。同じときに試験を受けた同輩《どうはい》って事でここは一つ。
正直、今日は一戦を交《まじ》えるための準備《じゅんび》を何もしてないんだ! 自慢《じまん》じゃないが、防御符《ぼうぎょふ》の一枚も用意してないんだぞ!」
納得《なっとく》した振りをして龍華はふんふんと首を縦《たて》に振った。
「ふむふむ。争《あらそ》う気は毛頭《もうとう》なかったんだな?」
「そうそう」
「それはつまり、私が護玄の事件の黒幕に違いなくて、尻尾さえ押さえれば戦うまでもないはずだと考えたって意味だな?」
証拠《しょうこ》さえ掴めば長居《ながい》は無用で、さっさと孫歳は逃げ出すつもりだった。
龍華の言葉に図星《ずぼし》を指され、孫歳は言葉を失う。しかも落ち度は完璧《かんぺき》にこちらにある。
あまりに完璧にこちらにしか落ち度がないのが不公平のような気もしたが、それを口にするのは流石の孫歳でも躊躇《ちゅうちょ》した。
孫歳は卓の上に座る赤ん坊《ぼう》に目をやる。このさい手段は選んでいられない。赤ん坊を利用してでも窮地《きゅうち》を逃《のが》れるしかない。
「やあ、龍華。この子が和穂だね。ほら、こんな可愛《かわい》い赤ん坊の前で、物騒《ぶっそう》な事はやめようじゃないか。ここは和穂に免《めん》じて丸く収めよう」
呆《あき》れて物が言えないのか、龍華は黙《だま》って再び筆を手に取る。
やはりこの作戦はてき面に効《き》く。育てている赤ん坊を誉《ほ》められて嫌な顔をする奴《やつ》などいるはずがない。孫歳は自分の策の素晴《すば》らしさに舌を巻いた。
「ほらほら。いや本当に利口そうな赤ん坊だね。顔も整《ととの》ってるし、ほら、特にこの太い眉毛《まゆげ》なんか凛々《りり》しいじゃないか。こんな太い眉毛をした赤ん坊なんか、そうそう見られるもんじゃないぞ。将来は男前になるよ」
龍華は嬉《うれ》しそうな微笑《ほほえ》みを孫歳に向けた。龍華の屈託《くったく》のない笑顔《えがお》を孫歳は初めて見た。
釣《つ》られて笑う孫歳の笑顔は龍華の言葉で凍《こお》りついた。
「和穂は女の子だよ。だいたい、名前で判《わか》るだろ?」
孫歳は無駄《むだ》に恰好をつけてみた。
「腐《くさ》ってもこの孫歳、女の子の名前だから、この子は女の子に違いない、などという固定観念《こていかんねん》に凝《こ》り固まった判断などしてたまるか!」
固定観念の呪縛《じゅばく》を超越《ちょうえつ》して、わざわざ間違《まちが》った答えを導《みちび》き出すのも、そう簡単に出来る話でないとは龍華も思うが、納得《なっとく》するのは馬鹿らしかった。
「赤ん坊の性別が判らなけりゃとりあえず女の子として話を進めりゃ無難《ぶなん》だろ?」
恰好をつけるのが意外に面白かったので、孫歳はさらに続けた。
「違う! 性別が判らないのに適当に話をするなど、この孫歳の美学に反する。俺はこの赤ん坊が、男の子だと確信《かくしん》して喋《しゃべ》っていたのだ!」
「たわ言《ごと》を力説《りきせつ》するのもいいけど、怒《おこ》ってるぞ」
ハッとして孫歳が和穂の顔を覗きこむと、赤ん坊にしては信じられない鋭《するど》い眼光で睨《にら》まれているような気がした。
さっさと帰って欲しい客に限って長居するものだと、龍華は溜め息を吐《つ》いたが、孫歳はまだ工房の中に居る。ご機嫌《きげん》取りのつもりかベラベラと情報を提供しているのだ。
「つまり事件の顛末《てんまつ》はこうだ。
護玄は仙首《せんしゅ》であらせられる柳剛《りゅうごう》様の宝物庫の番人を仰《おお》せつかった。普通、よほど信頼《しんらい》がないと番人なんて仕事は割《わ》り当てられん」
柳剛は大仙の一人で、あまたの仙人を束《たば》ねる地位に居る仙人であった。仙術には各種の流派があり、その流派の中には仙首と呼ばれる柳剛のような仙人が居る。
孫歳は説明を続けた。
「まあ、柳剛様の勅命《ちょくめい》じゃなくて、柳剛様の所の弟子《でし》の頼《たの》みで引き受けたみたいだから、雑用《ざつよう》といえば雑用だ。第一、ある程度の仙人を束ねる仙首の宝物庫に忍《しの》び込《こ》んで盗みを働こうと考えるような仙人が、そうそう居るとは考えられん。俺が知っている仙人の中でもそんな事をやりかねないのは一人しか居ない。
いや当然、龍華先輩の事じゃないので、今の言葉は訂正《ていせい》して、一人もいない。
訂正したんだから、そんな恐い顔で睨《にら》まないように。
でだ。起こってはいけない事件が起きてしまった。事もあろうに秘宝は盗まれ、護玄の姿は消えてしまったって寸法だ。どうだい、有意義《ゆういぎ》な情報だろ?」
孫歳のキンキン声に頭痛を覚《おぼ》えながらも龍華は答えた。
「何が有意義なもんか。商隠のおっさんが、この間、丁寧《ていねい》に説明してくれた」
「まあまあ、そう遠慮《えんりょ》せずに情報提供ならば喜んでしてやるぞ」
たいして興味もなかったが、龍華は質問した。孫歳のような手合いは、ある一定以上の分量《ぶんりょう》だけ喋《しゃべ》れば、喋ることに飽《あ》きてくれるだろうという、あまり確信のない希望《きぼう》のためだった。
「で、結局、何が盗まれた?」
「仙界にも二つとない宝石らしいぞ」
「下《くだ》らない。仙界に二つとない至宝《しほう》なんか、仙界には幾《いく》らでもあるじゃないか。どうせたいした代物《しろもの》じゃないんだろ」
龍華の反応に孫歳は驚《おどろ》きもしない。
「そりゃ龍華が興味をひかれるような代物じゃないのは確かだね。宝貝でも、宝貝の材料になるような物でもない」
だったら、何故私が犯人だと勘繰《かんぐ》ったのか!
と龍華は口にしようとしたが、やめた。
こと、言い訳になれば今以上の饒舌《じょうぜつ》さでまくしたてられるような気がしたのだ。
「かといって美を理解する心のある者ならば、誰が欲しがっても不思議はない代物だ。
実用的かどうか? だけで物の価値を判断する、荒《すさ》んだ心の持ち主には到底《とうてい》理解出来ない世界の詰ってわけだ」
「面倒《めんどう》だから、いちいち食って掛《か》からないからな。
孫歳。今度の一件、『騒動《そうどう》』としては何処《どこ》まででかくなると思う?」
「仙首側がそれほど騒いでないから、護玄|討伐《とうばつ》の勅命が下るなんて大事にはならないだろうね。
だいいち、仙首側にしても、護玄に警護《けいご》を頼《たの》んだ手前、半《なか》ば自業自得《じごうじとく》のような考えなんだろう。
問題は護玄の身内の方だ」
龍華は腕を組む。
「そうかな? 護玄の身内も、門派《もんぱ》の威信《いしん》にかけて草《くさ》の根分《ねわ》けても捜し出す! とまではやらんだろう。一応、護玄も道士じゃなくて一人前の仙人なんだから、護玄の不祥事《ふしょうじ》を一門の不祥事とまで考えまい」
甘い甘いと孫歳は首を振った。
「護玄と我らは一切《いっさい》無関係でござい、なんて無責任な事が、あの律義《りちぎ》な師匠に出来るもんかよ。
大事にしたがってない仙首の手前、表だって護玄の師匠様や兄弟子連中が動くなんて事はやらないだろうが、護玄を捕《つか》まえて連れていけば、それなりの手間賃《てまちん》は払《はら》ってくれるだろ。
それを目当てにした有象無象《うぞうむぞう》の下《した》っ端《ぱ》の仙人が、護玄を捕まえようと躍起《やっき》になるのは目に見えてるね。なんせ俺がそうだ。
あ! 龍華もそれを目当てにして何かを企《たくら》んでるんだな!」
「興味ないな。ご褒美《ほうび》なんざ、たかが知れてる」
「何をほざくか。
護玄の師匠といえば、仙界|屈指《くっし》の巨大書庫《きょだいしょこ》の運営を司《つかさど》ってるじゃないか。ちょっとやそっとじゃお目にかかれない書物の閲覧《えつらん》許可が確実に下りるぞ」
仙人といえ、ある意味|学究《がっきゅう》の徒《と》には違いはなかった。その意味では孫歳の反応の方が普通であった。
「私や宝貝の材料にでも使える、真鋼《しんこう》の塊の方が、食指《しょくし》が動くけどね」
「そんな露骨《ろこつ》な謝礼《しゃれい》はないだろうよ。賞金首《しょうきんくび》じゃないんだから」
筆を置き、龍華は虚空《こくう》から煙管《キセル》を取り出した。紫煙が煙管から立ち上る。
「どっちにしろ、護玄の破門《はもん》は確定的だな」
孫歳は答えた。
「破門だけで済むってのが、人徳《じんとく》といえば人徳なんだけどな。俺や龍華が、仙首の所から盗みを働けば、確実に討伐《とうばつ》の勅命が下るんだろうけど」
龍華に異論はなかったが、護玄について討伐の勅命が下らないだろうというのも、憶測《おくそく》に過ぎない。
「ま、お前が何を読みたがっているかは知らないが、ここに居たって護玄は捕まえられないぞ。
競争相手が多いんだったら、さっさと他《ほか》の所に当たってみたらどうだい?」
言われるまで気がつかなかったのか、孫歳は慌《あわ》てて席を立つ。
「それもそうだ! 護玄の行方《ゆくえ》について何か手がかりを思い出したら、すぐに連絡《れんらく》してくれよ!」
「嫌だね」
「ふん。なんだかんだ言って、護玄を庇《かば》うつもりか?」
「違う。お前に教えるぐらいなら、商隠に連絡する」
龍華の心得《こころえ》違いを孫歳は正したかったが、事態《じたい》は一刻《いっこく》を争うのかもしれなかった。こうしている間にも、誰かが護玄を捕まえてしまうかもしれない。
「ええい。とんだ無駄足だった!」
捨て台詞を残し、孫歳の姿は掻《か》き消え、後には一陣《いちじん》の風が残るのみだった。
「きゃあきゃあ可愛《かわい》い可愛い!」
それが愛情表現なのか、娘《むすめ》は和穂を振り回していた。流石《さすが》の龍華も、そのまま手を滑《すべ》らせて和穂が工房の床《ゆか》に放《ほう》り投げられるんじゃないかとヒヤヒヤした。
娘の名は燕寿《えんじゅ》。彼女もまた仙人であった。
どう見ても十七、八だがその年齢《ねんれい》は数百を超《こ》えているのは龍華とて一緒《いっしょ》であった。
ひっつめた髪のせいで、少しばかり吊《つ》って見える目は、和穂を珍《めずら》しそうに見つめていた。
桜色の道服が派手といえば派手であったが、龍華の道服の前で目立ちもしない。
「燕寿。頼《たの》むから落とすなよ。工房だから色々と危《あぶ》ない代物《しろもの》も多いんだから」
小さめの耳は、あまり龍華の言葉に注意を向けているようではなかった。
「きゃあ可愛い。これだけ振り回しても泣かないなんて偉い偉い。
目元なんか、龍華姉さんそっくり! 口元は護玄兄さん似《に》かな?」
「さりげなく、不穏当《ふおんとう》な事を言ってんじゃないぞ。だいたい、お前は護玄の妹弟子かもしれないが、私とはなんの関係もないだろうが。なにが龍華姉さんだ」
「可愛い、可愛い。ねえ龍華姉さん、この子ちょうだいよ」
「犬の子じゃないんだから、そう簡単に渡すか」
不服《ふふく》そうな声を出しながらも、燕寿は和穂を卓の上に置いた。
が、それでも珍しいのか、赤ん坊の小さい手を離《はな》そうとはしない。
「そういや、龍華姉さんと会うのは久しぶりね。何十年ぶりかしら? 会わないときって本当に会わないね。九遥洞に遊びに来てもいつも龍華姉さんは留守《るす》だし。ほんと、いつもどこをほっつき歩いてるの?」
今日に限って、九遥洞の入り口にある門は大きく開き放たれていた。わざわざ呼び出すのも逆に手間をかけさせて悪かろうと、仙人たちは龍華の居そうな工房に勝手に来訪していた。
「お前とは出来るだけ顔を突《つ》き合わさないように、居留守を使ってたんだよ」
正直な告白《こくはく》だったが、燕寿は冗談《じょうだん》と受け取り大笑いした。ある意味、孫歳より扱いにくいと龍華は考えた。孫歳ならば、一応|理詰《りづ》めで追い払うことは出来る。
「で、用事はなんだ? まあ、どうせ護玄の件に決まってるんだろうが」
燕寿と護玄の師匠は同じで、燕寿は護玄の妹弟子にあたる。律義《りちぎ》な師匠が護玄を一門の恥《はじ》として、本格的な討伐に乗り出したのだろうか? が、それで燕寿が出てくるとは龍華には考えにくい。燕寿より格段に凄腕《すごうで》の弟子が何人もいるはずだ。
燕寿は再び和穂を抱きかかえた。
「和穂を見てたらどうでもよくなっちゃった」
「だったら帰れよ。工房の卓に座って設計図を前にして筆を握ってる私の姿を見ても、お前には理解出来なかったようだが、私は今、設計図を描《か》いてるんだ」
燕寿が和穂を振り回したせいで、龍華は微妙《びみょう》に設計の計算を間違えてしまったような気がしていた。検算《けんざん》をする手間を考えるとゾッとしたが、しないわけにもいかない。
商隠や孫歳と話をしているときにも、微《かす》かな書き間違いがあったような気もする。
そこも含《ふく》めて検算する必要があるのは当然であったが、狂《くる》おしいまでに面倒だ。
このまま突っ走って設計を続けようという誘惑《ゆうわく》が龍華を襲《おそ》う。
いらいらする龍華の顔を見て本当に追い出されるのを恐《おそ》れた燕寿は、護玄の事件について語り出した。護玄の事件|云々《うんぬん》より、龍華の反応を確かめるような、ゆっくりとした口ぶりであった
「龍華姉さんならともかく、あの優秀な護玄兄さんが、あんなだいそれた盗みを働くなんて」
あえて龍華は異《い》を唱《とな》えない。
優秀かどうかを別にしてさえ、護玄はその手の問題を引き起こす種類の仙人には全《まった》く見えない。
優秀かどうかを考慮《こうりょ》にいれてさえ、龍華の方がその手の問題を引き起こす種類の仙人に見えただろう。
龍華の周りにある、きな臭《くさ》い噂《うわさ》は珍しくもない。龍華はさりげなく宝貝の設計を再開していた。
「言っておくが、私は今回の件に関しては一切《いっさい》関《かか》わってないからな」
和穂の両手を掴《つか》み、簡単な拍手《はくしゅ》をさせつつ燕寿は和穂に言った。
「『今回の件に関しては』だって、和穂。今回以外の件に関しては、どれだけ愉快《ゆかい》な事をやってらっしゃるのかしらねえ。今は呑気《のんき》に工房で宝貝設計なんかしてるけど、昔の龍華姉さんは凄《すご》かったのよう」
「お願いするから、あまり馬鹿な事は口にするなよ」
「龍華姉さんは邪仙討伐《じゃせんとうばつ》の勅命を受けては、悪い仙人をばっさばっさと打ち倒してね。その腕前《うでまえ》はそれは見事なものだった。
でも和穂は騙《だま》されちゃいけませんよお。邪仙討伐の勅命なんて、それ自体が罰《ばつ》の一種なんだからねえ。一体、どれだけきな臭い不祥事《ふしょうじ》を起こせば、邪仙討伐の勅命なんか承《うけたまわ》れるのかなあ」
「勘弁《かんべん》してくれ。聞きたいことがあるなら、教えてやるから」
燕寿は踊《おど》りのように、和穂の両腕を動かした。
「護玄兄さんがここに来たでしょ?」
「はて? 何のことやら?」
惚《とぼ》けているのか、本当に気がついてないのか燕寿には判断がつかなかった。
「護玄兄さんは、普段の恰好をしてなかったはずだけどね」
「どういう意味だ?」
和穂に腕組みをさせ、考える恰好をさせて燕寿は説明した。
「護玄兄さんは『変容《へんよう》の呪《のろ》い』をかけられてるはず。宝石を保管《ほかん》していた箱には罠《わな》が仕掛《しか》けてあったの。それが変容の呪い。
現場の反応から見て、護玄兄さんが呪いにかかってるのは確実みたい」
「変容の呪い?」
「命に別状《べつじょう》はないけど、異形《いぎょう》の物に変容させられる呪いよ」
「そんな呪いにかけられてるのに、護玄は逃《に》げたのかい? さすが優秀《ゆうしゅう》な仙人様は異形になっても優秀だ」
「異形になってもある程度の仙術《せんじゅつ》は自由に使えるらしいからね」
「だったら、罠の意味がないではないか。仙術が使えるなら逃げられる」
燕寿は首を横に振った。
「そのかわり、変容の呪いはちょっとやそっとじゃ防御出来ない。それに異形化してると意思の疎通《そつう》もほぼ不可能《ふかのう》になる。だから、他の仙人に解呪《かいじゅ》の助けを求めようとしてもそうはいかない。もっとも、そう簡単に解ける呪いじゃないと思うけど」
龍華は遠くを見つめ、記憶《きおく》の中を探《さぐ》る仕草《しぐさ》をした。
「あ、そういえば、わけのわからない獣《けもの》がこの間、九遥山にまぎれ込んできた。白鷺《しらさぎ》と象と鮒《ふな》と鎧《よろい》が交《ま》ざりあったような珍獣《ちんじゅう》なんだが、今から思えば、あれが護玄の変わり果てた姿だったのか?
言われてみれば、やけにつきまとうくせに頭を撫《な》でてやろうとすれば嫌《いや》がるし、奇妙《きみょう》といえば奇妙だったな。
あ、思い出してきたぞ。あの虎縞《とらしま》の尻尾《しっぽ》はまんま護玄の尻尾じゃないか。
そうか、それで餌代《えさが》わりに腐《くさ》りかけた桃をやっちゃったのに怒って、どこかに飛んでいったんだな」
やはり燕寿には龍華の真意が掴みきれない。知ってて惚けているのか? それとも今、あれが護玄だったと本当に気がついたのか? 何を企んでいるのかは判らない。
「恐らく、それが護玄兄さんよ。色々と調査して、護玄兄さんの逃走経路がだんだんと判明してきたからね」
「その逃走経路に、この九遥山も含《ふく》まれてたってわけか」
「そう。九遥山から出て、しばらくして護玄兄さんの痕跡《こんせき》は消滅《しょうめつ》してるの。事件が起きて、護玄兄さんに会ったのは、恐らく龍華姉さんだけ」
巫山戯《ふざけ》ているのか、鎌《かま》をかけているのか、龍華は燕寿の顔色を見ながら言った。
「もしかして、可哀想《かわいそう》な護玄はそのまま野垂《のた》れ死《じ》んでしまったんじゃないか? 珍獣のままじゃ、妖怪《ようかい》にでも食われてしまったかもしれん」
あっさりと燕寿は否定《ひてい》した。
「死ねば死んだで、冥府《めいふ》から連絡《れんらく》が来るでしょうよ。どうしてこんな事件を巻き起こしたのか、宝石は今、どこにあるのかも冥府経由の情報ではっきりする。
でも、現時点で死んでいないのは確実ね。でも行方がとんと判らない。
これはもう、誰《だれ》かさんが匿《かくま》ってるとしか考えられない」
「誰かさんが匿っているのかもしれないが、それは私じゃない。本当に護玄の居場所を私は知らない」
護玄を匿っていないという、龍華の言葉の意味を燕寿は考えた。私が匿っているのだ、そう簡単に見つけられはしないという自信の表れた言葉なのか、もしかして、本当に知らないのか?
燕寿にしても褒美《ほうび》目当てに護玄を見つけようという魂胆《こんたん》はなかったし、誰かに命じられて護玄を捜《さが》しているのでもない。
純粋《じゅんすい》に行方《ゆくえ》不明になった兄弟子《あにでし》を心配しているだけなのだ。
龍華の下に潜伏《せんぷく》しているのならば、それはそれで良い。居場所さえはっきりしているのならば、わざわざ大騒ぎして誰かに知らせるつもりは毛頭《もうとう》ない。
それで、それとなく様子を見に龍華のところにやって来たのだ。問題は龍華が素直《すなお》に真実を話してくれるような仙人ではない事だった。
嘘《うそ》か真《まこと》か判断つきかねる燕寿の表情を龍華は楽しんでいる様子だった。
「さあ、真実はどうなんだろうね? 気の利《き》いた宝貝の中にでも匿えば、護玄の気配を隠《かく》すことはそれほど難しくもない。
でも、それは私の流儀《りゅうぎ》じゃないってのは判るよな燕寿? 私が無駄な時間|稼《かせ》ぎをするような性格をしてない事ぐらい知っているだろう。護玄を匿う事によって、事態が好転《こうてん》するような理由は全くない。
その一点だけで、私が護玄を匿っていない証拠《しょうこ》になると思うがな」
読み違えたか。燕寿は己《おのれ》の考えの甘さを知った。護玄の窮地なのだ、龍華が何らかの形で力を貸そうとするのは当然のことだと燕寿は読んでいた。
一見、非協力を装《よそお》いながら行える協力とは、護玄を匿うことだと燕寿は決めつけていた。
だが、それは甘かったのだ。
自分が考えていた程、龍華は護玄の事を親身《しんみ》になって考えてはいなかったのだ。護玄の心配をするよりも宝貝の設計をする方が大事らしい。
「見損《みそこ》なったよ、龍華姉さん。護玄兄さんは仙首様の所で事件が起きて真っ直《す》ぐに九遥山に来たんだよ。それだけ龍華姉さんの事を頼りにしてたんだと思う。それなのに」
その一言を待っていたのか、龍華は嬉《うれ》しそうに笑った。
「見損なっただと? お前に人を見る目がないだけの話だろ。それを私のせいにされてもねえ。
私に説教している暇《ひま》があるんだったら、さっさと護玄を捜しに行った方がいいんじゃないのか」
答えず燕寿は席を立つ。
心配そうに自分を見る和穂の頭を撫で、燕寿は泡《あわ》のような光の塊《かたまり》に変わり、次の瞬間には消え去っていた。
「勝手に上がらせてもらったぞ」
少しばかり建《た》て付《つ》けの悪い扉を開け、一人の女が龍華の工房の中に姿を現した。
すらりとした背の高い体に、道服《どうふく》ではなく赤い武道着を着ているが、彼女もやはり仙人であった。左の腰には剣が差されていて、辛《かろ》うじて仙人らしいと言えるのは、右の腰に着けられた瓢箪《ひょうたん》ぐらいのものだった。
かつて長い髪《かみ》を持っていたときの習慣か、束《たば》ねるには少しばかり短い髪の毛を、半ば無理矢理《むりやり》後頭部で束ねている。歳《とし》の頃は龍華に近く、その佇《たたず》まいもどことなく龍華に似《に》ているものがある。
ある種の職業に就《つ》く人間同士が、似た雰囲気《ふんいき》を持つのと同じような感覚だった。
同じ源《みなもと》から流れる二つの要素《ようそ》の一つ一つをそれぞれ女と龍華は持っていた。女が持つのは冷酷《れいこく》さで龍華が持つのは不敵《ふてき》さだった。
龍華と互角《ごかく》に渡《わた》り合える程《ほど》の鋭《するど》い瞳《ひとみ》は碧眼《へきがん》だった。
龍華は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、笑う。
「偉《えら》く珍しいお客じゃないか。『剣仙様《けんせんさま》』が何の御用だ? まさか、宝貝の剣を造ってくれなんてほざくんじゃないだろうね。あんたには、その何の変哲《へんてつ》もない剣で充分《じゅうぶん》さ」
いくら超絶的《ちょうぜつてき》な能力を持つ宝貝とて道具に過ぎない。そして、道具の優劣《ゆうれつ》が意味をなくす境地《きょうち》というものが、武道にはあった。
女はその境地に居る。
龍華の言う、『剣仙様』は当然、女の名前ではなく、その境地に至《いた》っていることを半ば皮肉《ひにく》めいて指摘《してき》しているに過ぎない。
剣仙は腰につけた剣を外し、工房の壁《かべ》に立てかけた。形だけでも敵意《てきい》のない事を示してはいる。
龍華の正面に座りながら、剣仙は言った。
「しばらく見ないあいだに、仙人らしい風体《ふうてい》になったもんじゃないか」
工房の卓に座り宝貝を設計しているのだ。仙人らしいと言えば仙人らしいと言えただろう。
意外な来客で、その設計にまた少しばかり計算間違いが起きていたとしてもだ。
「古い友人相手に昔話でもしに来たのかい? たいして、いい思い出はないけどな」
「無駄話をする気はない。もう知っているだろうが、護玄の事件についての話だ。何か情報を掴《つか》んでいるんじゃないか?」
龍華は心底驚いた顔をした。
「まさかとは思ったが、あんたまで護玄を捕《つか》まえようってのかい? おいおい、まさか書庫閲覧につられたのか? あんたが、書庫でお勉強か」
「そんなに意外か? 仙界|屈指《くっし》の書庫なんだ、面白《おもしろ》い剣譜《けんふ》もあるだろうさ」
卓《たく》の上の和穂は二人のやりとりを不思議《ふしぎ》そうに見ていた。剣仙は和穂の姿を一瞥《いちべつ》したが、特に何も言わない。
龍華は顎《あご》を摩《さす》り、記憶を探る仕草をした。あまりに芝居《しばい》じみた仕草に、全《すべ》てが冗談《じょうだん》のように見える。
「別にあんただから情報を教えてやらない。なんて、せまい了見《りょうけん》じゃないんだけどね。生憎《あいにく》たいした情報はないよ。
そりゃ護玄には会ったけど、変容の呪いか何かで、護玄先生は哀《あわ》れな珍獣姿《ちんじゅうすがた》で何言っているか判《わか》りもしなかった。なんせ、意思の疎通も出来ないらしいじゃないか」
碧眼は静かに龍華を見つめた。
「そうか。護玄は何も言っていなかったのか?」
「喋《しゃべ》られる状態じゃなかったね。……でも、何か言ってたのかもしれない。ぼうぼうという鳴き声だったが。
あれが何か、意味のある言葉だったのかもしれない。意味はあってもそれは判らない。なんせ変容の呪いだ」
「それじゃ、ここに話を聞きに来たのは無駄足だったな」
「いや、待てよ。あの鳴き声を未知《みち》の言語と想定すればどうだ? 未知の言語だから、私には意味が理解出来ずに意思の疎通は出来ない。
でも、鳴き声そのものに情報は含まれているんじゃないか。解析《かいせき》は可能《かのう》かもね」
「ほう」
とてつもなく面倒《めんどう》そうな表情で龍華は言った。
「ある程度の鳴き声の情報があれば解析そのものは可能だな。
でも面倒だねえ。護玄が喋っていた音声を完璧《かんぺき》に思い出して、それを手間暇《てまひま》かけて解析するのかい。悪いが、私ゃごめんだね。
それにそこまでして解析する必要があるのか。必死になって解析した結果が『龍華助けてくれ、とんだへまを踏んじまった……』なんて泣き言が関《せき》の山だろ」
剣仙は低い声で喋った。
「つまり、龍華は護玄の言葉を解析していないんだな?」
「当たり前だ。そんな大仕事をやるには、九遥山じゃ設備《せつび》が不足《ふそく》だ。まがりなりにも『意思の疎通がほとんど不可能』ってのが売りの変容の呪いなんだぞ」
興味深そうな剣仙に向かい、龍華は吐き捨てるように言った。
「解析したけりゃあんたがやりな。別に商隠や燕寿と協力してやってもいいし。
私はせいぜい、護玄の鳴き声を思い出してやるぐらいしかやらないぞ」
剣仙は腕を組んだ。
「ふううん、そうか。そうなのか」
次の瞬間、剣仙の碧眼は工房の中を完全に『視《み》た』。
その挙動《きょどう》は誰にも勘《かん》づかれる事はない。
碧眼はゆっくりと工房の中を見回したが、それは瞬間《しゅんかん》の時間にすら満《み》たない間に行われた事だった。
存在しない程《ほど》の僅《わず》かな時間で、剣仙は考えを巡《めぐ》らす。己《おのれ》の碧眼が伝える情報を吟味《ぎんみ》し次の一手を探すのだ。
龍華の企《たくら》みは剣仙にはお見通しだった。
護玄を突き放し、たいして興味のなさそうな素振《そぶ》りを見せてはいるが、それは嘘《うそ》だ。
龍華は護玄の無実を信じている。信じている上で、本当の犯人に罠《わな》を仕掛けているのだ。
なんだかんだ言って、昔と変わっていない龍華の性格が剣仙には面白《おもしろ》かった。
誤解《ごかい》している仙人が多いが、龍華は決して場当たり的な行動だけに頼《たよ》る女ではない。
力に頼り、力で問題をねじ伏《ふ》せているかのように見え、実際にその通りであるが、そうそう単純なたまではないと、剣仙は熟知《じゅくち》していた。
龍華は力業《ちからわざ》に持ちこむために、周到《しゅうとう》な罠を張り巡《めぐ》らすときがある。今回もそうだ。
罠の張り方も、相変わらず、なかなか巧妙《こうみょう》だ。
あえて自分は目立つ行動をしない。あくまで自然に振る舞《ま》おうとしている。
自然な振る舞いの中で、自分が重要《じゅうよう》な情報を掴《つか》んでいる事を広めさせて、真犯人を誘《おび》き寄《よ》せようとしている。
護玄の鳴き声。
これが真犯人を誘き寄せるための餌《えさ》だ。
護玄の鳴き声、それすなわち真犯人が誰であるかの証言に他《ほか》ならない。
真犯人が誰か、自分が罠にはまり変容の呪いを受けてしまった顛末《てんまつ》の証言だ。
真犯人は解析を阻止するために、龍華の始末にやって来るはずだ。
この広い仙界、逃亡《とうぼう》を決め込めばたとえ真犯人が誰か判明しても、逃げられる可能性が高い。
龍華はそれを避《さ》けるために賭《か》けに出た。
自分を始末さえすれば、逃亡者として仙界を逃げ回るまでもなく、護玄に濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せたまま、悠々《ゆうゆう》と今まで通りの生活が続けられるという誘《さそ》いだ。
護玄は龍華の下《もと》に辿《たど》り着いたまでは良かったが、和穂の事を失念《しつねん》していたのだ。仙人同士の戦闘《せんとう》に和穂が巻き込まれる危険《きけん》を考えて、すぐに逃亡し、次の手を考えようとして真犯人に捕まった。
つまり私にだ。
剣仙はゆっくりと隙《すき》を作らないように綿密《めんみつ》に考える。宝石を無事手に入れ、護玄を仕留め、腰の瓢箪に封印《ふういん》することにまで成功したのだ。後は龍華を始末すれば全《すべ》ては上手《うま》くいく。追っ手に脅《おび》え、仙界を流浪《るろう》するなど御免《ごめん》こうむりたい。
邪仙の心理を知《し》り尽《つ》くしているのか、龍華の罠はとても美味《おい》しそうだと剣仙は感心した。
まず大事なのは、龍華の口を封じようとした行動を証拠《しょうこ》として、誰かに通知するような仕掛《しか》けが一切《いっさい》施《ほどこ》されていないことだった。
九遥山から外部に向けて、一切の情報は流れていない。窮地《きゅうち》の龍華を助けに来る者も居ない。
みえみえの囮《おとり》とはいえ、囮に釣《つ》られたところで、敵は囮だけなのだ。獲物《えもの》にとってこれ程魅力的な罠があろうか。
とはいえ、それは龍華が己《おのれ》の腕前《うでまえ》に自信を持っている証明であった。
自分を始末しに来た者を返り討《う》ちにする自信がなければ、こんな罠は罠として成立しなかった。全てを力でねじ伏せるための巧妙《こうみょう》な仕掛けだ。
剣仙とて龍華の腕前は熟知していたし認めてもいた。だから、碧眼《へきがん》の『視た』情報をじっくりと吟味する。力で来るのならば、その戦力を見極《みきわ》める必要がある。
まず、工房の中に何らかの符術《ふじゅつ》が施されているかどうかを確認《かくにん》する。
部屋の片隅《かたすみ》に、欠陥宝貝《けっかんぱおぺい》を封印していると噂《うわさ》されているつづらから符術の反応があった。
が、とりたてて問題はない。符術は符術でも封印の符術でそれ以外の何ものでもない。
一時的に解除《かいじょ》するにもかなり手間がかかるような厳重な封印だ。たとえ中に何が入っていようが、龍華との戦闘には関係すまい。
どちらにしろ勝負は一瞬でつけるつもりだった。
つづら以外に符術の反応は全《まった》くない。気配消しの符術も存在《そんざい》しないと剣仙は踏《ふ》んだ。
警戒《けいかい》している仙人の至近距離《しきんきょり》で、気配を消しとおせる符術はまずありえない。僅《わず》かな違和感を感じ取られ、真犯人が尻尾《しっぽ》を出さずに逃げ出す危険を龍華は冒《おか》すまいと、剣仙は判断した。
次に宝貝の反応だ。
ごちゃごちゃと宝貝の部品が散乱してはいるが、まともな宝貝は一つしか見当たらない。
無造作《むぞうさ》に壁にかけられた楯《たて》は紛《まぎ》れもない宝貝だ。それ以外に宝貝は存在しない。
未完成と呼べるような宝貝すらない。
後は、仙術的な仕掛けの有無《うむ》だ。
龍華そのものが偽物《にせもの》である可能性もある。符術ではないとしても、別の何かが化けているかもしれない。龍華だけでなく、卓《たく》の上の和穂も偽物であるかもしれない。特に和穂は、罠という性質上、危険を冒させないために何らかの仕掛けが施されている可能性が高い。
碧眼は『視た』。
龍華からは龍華の気配しか感じ取れない。
和穂からは確かに和穂の気配がしている。
二人とも本物だ。
場違《ばちが》いな哀《かな》しさを剣仙は唐突《とうとつ》に感じた。
かつて仲間とは言えなくとも、共に戦いその腕前《うでまえ》を認めた龍華が、いつのまにこんなに甘い罠を仕掛けるようになったのか。
楯の宝貝からは透明《とうめい》で細長い糸が伸《の》び、和穂の周囲に繭《まゆ》のようなものを作り上げている。
これは防御結界の一種で、糸の一本一本が結界であり、攻撃を防ぐための代物《しろもの》であった。
これで和穂を真犯人の攻撃から守ろうというのだ。
自分自身の守りは、道服《どうふく》に忍《しの》ばせてある符で賄《まかな》う考えなのだろう。発動前の符は流石《さすが》の碧眼でも見破《みやぶ》るわけにはいかないが、仙人ならば常識的に防御の符ぐらいは忍ばせているものであった。
和穂は楯で守り、自分は符術で真犯人のとっさの攻撃を防ぎ、その後は通常の戦闘に持ち込む算段《さんだん》だと剣仙は判断し、軽い失望《しつぼう》を覚えた。龍華の勘《かん》は鈍《にぶ》っている。
考えるまでもなく、剣仙は次の一手を弾《はじ》き出した。
楯から伸びる防御結界はあまりに脆弱《ぜいじゃく》だ。
楯そのものの強度で守るのならば話は別だが、この防御結界は一昔前の代物だ。
邪仙《じゃせん》と蔑《さげす》まれる連中は、ある意味、常に実戦の中に身を委《ゆだ》ねている。末端《まったん》の技術は常に練磨《れんま》されているのだ。
もし、真犯人が私ではなく他《ほか》の邪仙であってもこんな結界は容易《たやす》く分断出来るであろうと剣仙は考えた。
防御結界が無意味である時点で、龍華の敗北は確定したようなものだ。
最善の攻撃手順を剣仙は組み上げてみた。
まず、袖に忍ばせた刀を実体化させつつ、和穂に斬撃《ざんげき》を加える。宝貝の防御結界が意味をなさないと知った龍華は、和穂に向かい符術を使う。
龍華と和穂の両方を守れるぐらいの大きさの符術は使えない。そんなに大きい符が展開するより先に斬撃は和穂を捉《とら》えるからだ。
龍華は刃そのものを無効化する符を使うだろう。刃にまつわりつき、刃を包み、刃を空間に固定する符ならば和穂を守れる。
剣仙の斬撃と龍華の符術は速度的に互角《ごかく》だった。龍華本人に対する斬撃ならば、全《すべ》て符術で防げるだろう。
だが符術の対象は和穂だ。自分に対する符術に比べ、どうしても致命的《ちめいてき》な隙《すき》が出来る。
一枚目の符は打てても、二枚目には僅《わず》かな隙、実戦では致命的な巨大《きょだい》な隙が生まれる。
刀は両方の袖に忍ばせてある。和穂を狙う刃は止められても、もう一つの刀がある。龍華が自分の身を守るための符は間に合わない。
そして勝負はつく。
なんと呆気《あっけ》ない幕切《まくぎ》れか。
剣仙は心の中で溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
龍華に気取《けど》られないだけの微《かす》かな時間で、剣仙はここまで読んだ。
後は実行するだけだった。当然、剣仙には何の躊躇《ちゅうちょ》もなかった。
その刀もまた符術の一種であった。袖口に仕込まれた一枚の符は、斬撃の動きに合わせて刀へと姿を変えていった。
剣仙の手刀にも似た動きが和穂に向けて放たれた。ただ、その掌《てのひら》は存在しない柄《つか》を握るように曲げられている。袖口の符は奇妙な蛇《へび》のように袖口から這《は》い出し、素早《すばや》く剣仙の手にからまる。
稲妻《いなずま》のように符は尖《とが》り、刃を形作る頃《ころ》にはもう和穂の首筋まであと僅《わず》かだった。
驚きの表情の準備段階の表情をしながら龍華の腕が動く。腕の動きに合わせて、龍華の袖口から一枚の符がするりと飛び出、指先に絡《から》まる。
符は布のように伸《の》び、刃に向かい走る。
和穂の寸前で、龍華の符は剣仙の刃を捉えた。そして、そのまま刃をグルグル巻《ま》きに押さえ込《こ》んでいった。
その時にはもう、剣仙のもう片方の腕は動きはじめていた。龍華はもたつきながら、もう一枚の符を取り出そうとしている。
全《まった》く間に合わない。
龍華の符が袖口からまだ姿《すがた》を現しきっていない段階で、剣仙の刀は龍華の首に到達《とうたつ》しようとしていた。
龍華とて仙人であるから、首を落とされた程度では死にはしない。が、絶望的《ぜつぼうてき》なまでに無力化されるのは確実だった。
そのまま仙骨《せんこつ》を切《き》り刻《きぎ》まれて致命的な死に至るか、もしくは簡単に封印《ふういん》されてしまうだろう。
刃《やいば》が龍華の首に触《ふ》れようとした刹那《せつな》、まさに言葉通り紙一重《かみひとえ》の隙間《すきま》に符が潜《もぐ》り込んだ。
和穂を刃から守ったのと同じ種類の符だった。
何が起きた?
剣仙は混乱《こんらん》した。龍華はまだもたついている。当然、仙術で腕を増やしている暇《ひま》などもないから、龍華の腕は二本しかない。
部屋の中には、自分と龍華と和穂しかいない。和穂? 剣仙は視線を走らせた。
龍華を仕留める筈《はず》だった刃に絡まる符は和穂の手から伸《の》びていた。恐ろしく遠近感が狂う、嫌な感覚が和穂を見ていると起きた。
「! 赤ん坊じゃない!?」
龍華は答えた。
「そうさ。不老不死の仙人様には、どうしようもない思考の隙がある。剣仙よ。お前が和穂の事を知ったのはいつだ?」
剣仙は息を飲む。
「三年前!」
「まあ、仙界の広さからすれば速い情報だろう。それでもおかしいな。三年前に赤ん坊《ぽう》を拾《ひろ》って、どうして現在も赤ん坊なんだ。
正確には私が和穂を拾ったのは五年前、もう私に弟子《でし》入りして、今じゃ立派な道士様ってわけだ。自分が不老不死だから、うっかり子供の成長を見逃《みのが》すんだ」
もはや和穂の姿を見ても、遠近感の狂いは感じられなかった。
赤ん坊の和穂の姿はそこにはなく、代わりにもう少し成長した五|歳《さい》の和穂がそこにいた。小さいながらもちゃんとした道服を身につけ、柔《やわ》らかそうな髪はお下げに切り揃《そろ》えられている。太めの眉毛《まゆげ》の下の黒い瞳は、緊張《きんちょう》のせいでまん丸く見開かれていた。
剣仙は首筋に冷たいものを感じた。
龍華の二枚目の符は刃封じの物ではなかった。剣仙が使ったのと同じような、刀の符だった。龍華の刀は剣仙の首筋にピタリと添《そ》えられている。
「どうだ剣仙。罠は二つあったんだ。
あえて時代|遅《おく》れの防御結界を宝貝に張らせて、油断《ゆだん》を誘い攻撃を決断させる。
もう一つは和穂を和穂に化けさせる。
さすがに読み切れなかっただろ。
だが、まさかお前が犯人だったとはな。
和穂! 母屋《おもや》に行って四海獄《しかいごく》を持ってきな。剣仙よ、とりあえず四海獄の中に入っていてもらおうか? 嫌とは言うまい」
龍華の不敵《ふてき》な笑《え》みに負けじと、剣仙も笑った。
「甘くなったな龍華。こんな小細工《こざいく》に頼《たよ》るとはな。昔のお前はこうじゃなかった。昔のお前なら、己《おのれ》の技《わざ》の誇《ほこ》りにかけて真正面《ましょうめん》からぶつかっていた」
「これでも私は和穂の師匠様なんだよ。たまにはこういう搦《から》め手《て》の授業も必要なんでね。
それにこれは和穂のための狩《か》りなんだ。お前は私に負けたんじゃない。道士の和穂に負けたんだよ」
ふと、剣仙から緊張《きんちょう》の気配《けはい》が消えた。
「そうか。お前もいつしか弟子をとる身になったんだな。
勝手な願いだが和穂が一人前の仙人になったなら、龍華よ。もう一度、昔のように私と手合わせしてくれないか。
それと護玄は腰の瓢箪の中に封印している。出してやってくれ。奴には本当に悪いことをした」
龍華は殺気《さっき》のなくなった剣仙の鼻先に向かい、顔をずいと近づけた。
「剣仙様よ。勝負はついたんだ。悪あがきはやめてもらおうか。
その瓢箪にはどんな仕掛《しか》けがしてあるんだい? もしかして土壇場《どたんば》で旧友面《きゅうゆうづら》したら、私が油断するとでも思ったのかい? 剣仙様も甘くなったねえ」
途端、銅鑼《どら》の音のような殺気が剣仙から放たれた。
龍華の言葉は図星だったのだ。
凄《すさ》まじい形相《ぎょうそう》で剣仙は龍華を睨み続けた。
剣仙の姿はもうなかった。代わりに瓢箪が工房の中にあった。瓢箪の名は四海獄、見た目は平凡《へいぼん》な瓢箪だが、その内部には莫大《ばくだい》な空間が広がる宝貝である。
剣仙は四海獄の中に封印されている。
いまだ緊張がとれないのか、和穂の額《ひたい》には汗《あせ》が流れていた。
龍華が不思議《ふしぎ》そうに言った。
「どうした、深刻《しんこく》な顔して?」
「だってあたしの符が間違えたり遅《おそ》かったりしたら、どうなってたか」
「よせよせ、失敗したときの事を考えても何の得《とく》にもならんぞ」
龍華は場馴《ばな》れていたが、和穂にとっては初めての実戦だった。普通《ふつう》の仙人が弟子にいきなり命がけの実戦を仕向《しむ》けるなど、通常は有《あ》り得《え》なかったが、和穂はそんな事を知らない。ただ、仙人になるためにはこんな凄《すさ》まじい修行も必要なのだと、一人で納得《なっとく》していた。
龍華の機嫌《きげん》は上々だった。
剣仙を捕まえた上に、少しばかり惨劇《さんげき》の予感がしないでもなかったが、どうにか宝貝の設計図まで完成しているではないか。
「どうだ、初めての狩りの感想は。その面じゃ、楽しむところまでは無理だったようだな。
だが、初めての狩りにしては、なかなか上物《じょうもの》の獲物《えもの》が獲《と》れたな。最初の狩りの獲物が孫歳だったら、恥ずかしくて人前じゃ言えんからな」
自分の手柄《てがら》なのだろうか? 和穂には実感がなかった。
「あたしはあんまり、何もしてません」
「馬鹿を言っちゃいけない。この罠の肝《きも》はお前だったんだ。
もしも真犯人が剣仙ほどの腕前じゃなくて、私の強さに恐《おそ》れをなすような相手であっても、和穂という偽物《にせもの》の弱点に誘《さそ》われて、尻尾《しっぽ》を出したはずだったからな。
今回の件は全部お前の手柄《てがら》だよ」
どちらにしろ、誰の手柄かどうかはあまり和穂には興味がなかった。少しばかり舌《した》ったらずの声で和穂は言った。
「でも、これで護玄様は助かるんですね、よかったよかった。師匠が護玄様に力を貸してあげて嬉《うれ》しかったです」
微妙《びみょう》におかしい敬語を気にするような種類の師匠ではない。
和穂の狩りという名目であったが、窮地《きゅうち》の護玄を助けてやったことに違いはなかった。
「あんなのはついでだ。
一応、借りらしきものもあったから、返してやったまでだ。
それにだな和穂。護玄のような律義《りちぎ》な仙人に恩を売っておくと、あとあと得するぞ」
それが照《て》れ隠《かく》しの言葉なのか、本気でそう言っているのかは、和穂に判断は出来なかった。恐らく両方なのかもしれない。
「今日の事件は勉強になりました」
和穂の正直な感想だった。龍華の言葉だけでは今まで信じられなかったが、本当に悪い仙人というものは存在したのだ。
真面目《まじめ》な師匠の顔になり龍華は和穂に言った。
「今回の件から何か教訓《きょうくん》は学べたか?」
「はい、悪いことはしちゃいけない。って思いました」
龍華は少しばかり額を掻《か》いた。
「いや、取り違えてはいかん。
悪いことをするときにはもっと綿密《めんみつ》な策《さく》を練《ね》りましょう、というのが今回の教訓だ」
厳しいながらも、たまに無茶な冗談《じょうだん》を言う龍華師匠を和穂は大好きだった。
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封仙娘娘追宝録外伝
『雷《いかずち》たちの大饗宴《だいきょうえん》』
殷雷《いんらい》は立ちすくみ、殷雷は跪《ひざまず》き、殷雷は空を見上げ、殷雷は地面を見つめ、殷雷は呆気《あっけ》に取られ、殷雷は鼻で笑い、殷雷は腕組《うでぐ》みしながら思索《しさく》し、殷雷は状況《じょうきょう》を完璧《かんぺき》に把握《はあく》し、殷雷は状況を全《まった》く理解《りかい》していなかった。
和穂《かずほ》は無邪気《むじゃき》に喜び、和穂は冷《ひ》や汗《あせ》を流し、和穂は首を傾《かし》げていた。
和穂の行動は、殷雷ほど多種多様《たしゅたよう》ではなかったが、それでも善倒《ぜんとう》に比べれば気が遠くなる程《ほど》の多くの仕草《しぐさ》があった。
善倒はただ、不敵《ふてき》に笑っていただけだったのだ。
息が詰《つ》まるように青く植物が茂《しげ》るこの森の中で、無数《むすう》に存在《そんざい》する和穂と殷雷たちを前にして、たった一人、善倒は笑っていた。
我ながら会心《かいしん》の悪あがきだと、善倒は自分の咄嗟《とっさ》の思いつきに酔《よ》いしれていた。
一ノ一
宝貝《ぱおぺい》。
仙人《せんにん》の造《つく》りし神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。尋常《じんじょう》ならざる能力を持ったその道具たちは、本来《ほんらい》、人の世界には存在してはならないものである。
が、あるとき一人の仙人の過《あやま》ちによって無数の宝貝が地上にばらまかれてしまったのだ。
仙人の手による回収は、さらなる混乱《こんらん》を巻《ま》き起《お》こすだけだと仙界の長《おさ》たちは判断《はんだん》した。超絶的《ちょうぜつてき》な能力を持つ宝貝を手に入れた人間が、返せと言われて素直《すなお》に宝貝を返すとは考えにくく、力ずくの回収はさらなる混乱を巻き起こすだけでしかないと考えたのだ。
かくて仙界《せんかい》の長は仙人たちに、人間の世界への干渉《かんしょう》を厳重《げんじゅう》に禁止《きんし》したのである。
だが、一人の仙人が宝貝の回収を申《もう》し出た。
さらなる混乱の危険《きけん》があるというならば、自《みずか》らの仙術を全《すべ》て封《ふう》じてくれていい。ただの人間としてでも宝貝の回収に向かいたいと仙人は訴《うった》えた。
仙界の長は仙人の望《のぞ》みを聞き入れた。宝貝を全て回収するその日まで、仙術を全て封じ込まれ人間の世界に降《お》り立ったのだ。
その仙人の名は和穂。彼女こそが地上に宝貝をばらまいてしまった仙人である。
和穂がばらまいた何百という宝貝は、全て彼女の師匠《ししょう》である龍華《りゅうか》仙人の手によって造られたものであった。
しかも、何らかの問題があるとして封印《ふういん》されていた欠陥《けっかん》宝貝たちだったのだ。和穂はその封印を壊してしまい、結果《けっか》として宝貝たちは人間界に逃走《とうそう》したのである。
彼女が宝貝回収にあたり、仙界の長から託《たく》されたのは、宝貝の在《あ》り処《か》を調べる、耳飾《みみかざ》りの形状《けいじょう》をした宝貝『索具輪《さくぐりん》』、回収した宝貝を封じ込める瓢箪《ひょうたん》形の宝貝『断縁獄《だんえんごく》』だった。
死地《しち》に赴《おもむ》こうとする弟子《でし》に龍華仙人は、護衛《ごえい》として一つの宝貝を渡す。
自らも欠陥宝貝の封印に閉《と》じ込《こ》められていながら、逃走しなかった唯一《ゆいいつ》の宝貝、彼は和穂の失敗《しっぱい》につけこんでの逃走をよしとしなかったのだ。その甘《あま》さが彼の欠陥であるとも言われている。
人の姿にもなれる、その宝貝の名は殷雷刀《いんらいとう》……あるいは殷雷|剣《けん》、もしかしたら殷雷|杵《しょ》であり、場合によっては殷雷|槍《そう》で、下手《へた》をしたら武器《ぶき》ですらない殷雷|鏡《きょう》であるか、それとも……
一ノ一ノ一
青年の長く伸《の》びた髪《かみ》は、燃《も》え盛《さか》る炎《ほのお》のような深紅《しんく》の色をしていた。炎を思わせるのは髪の色だけではなく、その瞳《ひとみ》も彼が羽織《はお》る袖付《そでつ》きの外套《がいとう》も同じような赤色に染《そ》まっていた。
青年の名は殷雷炉《いんらいろ》という。
殷雷炉は用心深《ようじんぶか》く周囲《しゅうい》を見回した。
互《たが》いに探《さぐ》り合う鋭《するど》い視線《しせん》が飛び交《か》っていたが、特に今すぐ事を荒立《あらだ》てるような気配《けはい》は誰からも感じられない。
実際に視界《しかい》の中に居るのは数人であったが、これだけ鬱蒼《うっそう》とした森の中である。少しばかり距離《きょり》をとられ気配を消されたならば、存在は把握《はあく》出来まい。
しかしながら、不意《ふい》を打たれるような状況ではないと、殷雷炉は確信《かくしん》していた。下手に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けて、この奇妙《きみょう》な均衡《きんこう》状態を崩《くず》すのは得策《とくさく》ではない。
「ねえねえ、殷雷。これってなんなの?」
えらく能天気《のうてんき》な娘の声が響《ひび》いたが、それでも流石《さすが》に場の緊張《きんちょう》は解《と》けない。
この状況なら、娘の言葉を無視《むし》すれば殷雷炉は自分がこの娘と無関係《むかんけい》であると誤魔化《ごまか》せるような気がしたが、そうもいかない。
「いいから黙《だま》ってろ、このスットコドッコイ」
「黙っていろスットコドッコィ。なんて言われて黙る奴なんか居るわけないでしょ?」
「和穂。お前には今この目の前に広がってる状況が見えないのかよ!」
「見えてるから、訳《わけ》が判《わか》らないって言ってるのよ。あんまり神経質《しんけいしつ》になって考えても仕方ないんじゃない?」
無神経《むしんけい》とかガサツとかいう言葉では、殷雷炉は和穂を定義《ていぎ》出来《でき》ないと、嫌《いや》という程《ほど》、思い知らされていた。
和穂のすらりと伸びた背は、殷雷の身長とさほど変わらない。柔《やわ》らかく細い髪が襟足《えりあし》のところまで伸びていた。十五歳の歳《とし》の割《わり》には大人《おとな》びた顔のつくりは、その屈託《くったく》のない笑顔《えがお》に隠《かく》れてあまり目立たなかった。白く袖《そで》の長い、いわゆる道服《どうふく》を身にまとっている。黒曜石《こくようせき》のような輝《かがや》きを持つ、黒い瞳の上には細めの眉《まゆ》が乗《の》っていた。
和穂はぐるりと周囲を見回す。
「どことなく、私の偽物《にせもの》みたいなのが揃《そろ》っているのは判《わか》る」
周囲に居《い》るのは和穂によく似た娘たちと、殷雷炉に似た服装《ふくそう》をした青年たちであった。
不思議《ふしぎ》と言えば不思議な光景ではある。
「殷雷、あんた一人が浮《う》いてるよ。あんたがいなけりゃ、そっくりさんの集会って事で割と説明《せつめい》がつくのに。ほら、私のそっくりさんの側《そば》に一人ずつついてる、兄ちゃん連中も皆《みな》似たような顔をしてるじゃない」
殷雷炉は一瞬、躊躇《ちゅうちょ》した。『あんた』呼ばわりされたことに怒《おこ》るべきか、『そっくりさんの集会』ではなんの説明にもならないと異議《いぎ》を唱《とな》えるべきなのか。
「だから、和穂よ。こいつらは一体何者かが問題なんだろ?」
この場に居る、娘たちは娘たちで、青年たちは青年たちで、それぞれ顔がよく似ていた。
和穂は殷雷炉が一人だけ浮いていると指摘《してき》したが、その言葉はあまり正確《せいかく》ではない。殿電炉も他《ほか》の青年たちと顔つきはよく似ていたのだ。ただ、他の青年は概《おおむ》ね黒い髪を後頭部で括《くく》ったような髪型をし、殷雷炉と同じような袖つき外套を羽織っていた。
ただ、違《ちが》うのは外套は殷雷炉のような赤色ではなく、だいたいが黒系統に染《そ》められていた。
殷雷炉も野放しにしている長髪《ちょうはつ》を括《くく》り、髪を黒く染め、外套も黒色系統のものに替《か》えれば、この集団の中に簡単に溶《と》け込《こ》んだだろう。
他の連中にしても、似てはいるが全《まった》く同じ恰好《かっこう》というわけではない。
髪の色や長さが微妙《びみょう》に違うし、外套の装飾《そうしょく》も細部《さいぶ》が違っている。鏡《かがみ》に映《うつ》したような同じ顔が揃《そろ》っていると言えなくもないが、もしそうならばその鏡はだいぶ歪《ゆが》んでいるだろう。
和穂にしても、他の連中は殆《ほとん》どが和穂よりも長い髪をして、飾り布で髪の毛を束《たば》ねていたのだ。さらに何故《なぜ》だか知らないが、他の連中の大部分が立派な眉毛《まゆげ》をしている。
状況を判断《はんだん》しようと誰もが相手の出方を見守る、重い緊張感《きんちょうかん》の中で和穂は一人だけ呑気《のんき》だった。
「一体、何者かが判らないって? だったら聞けばいいじゃない。こんにちは、私は和穂と言うんだけど、あなたは誰?」
あまりに剛胆《ごうたん》な和穂の問いかけに、殷雷炉は目眩《めまい》いにも似た感覚に襲《おそ》われる。何故《なぜ》に、こいつはこんなに後先《あとさき》考えずに行動出来るのか? 龍華師匠の持つ一種危ういまでの繊細《せんさい》さがどうしてこの弟子には全く引き継《つ》がれなかったのか、殷雷炉は不思議で仕方がなかった。
いきなりの挨拶《あいさつ》に釣《つ》られたのか、側《そば》に居《い》た娘の一人が返事《へんじ》をした。
「あ、はじめまして私も和穂です」
その声からは素直《すなお》さが滲《にじ》み出ていた。相手の出方を見るために、あえて何かを仕掛《しか》けているような素振《そぶ》りはみえない。
屈託《くったく》のない笑顔《えがお》に軽い嫌《いや》みを滲《にじ》ませるという離《はな》れ業《わざ》で殷雷炉に向かい和穂は言った。
「ほら、これであの子が誰かが判《わか》ったでしょ。
あの子は和穂。他《ほか》の娘たちもまず、和穂でしょうよ。何者かが判ったからと言って、どうなるっていうの?」
「うるせいな。どっちにしろわけが判らない状況に変わりはなかったな。
でもよ。余《あま》りに意味がないだろ。これは何だ? 足留《あしど》めのつもりか? 逃《に》げるための時間|稼《かせ》ぎなら、成功《せいこう》のようでも無意味だぞ。そりゃ、こいつらのせいで善倒を見失ったのは確《たし》かだが、索具輪があるんだ。逃げ切れるもんじゃない」
殷雷炉と和穂は善倒という男を追ってこの森の中に入ってきたのだ。当然、善倒が持っているはずの宝貝を追い求めてである。
「そうね。そう言えばあの善倒の小父《おじ》様の姿が見えないわね」
「うぉじいさぁまぁねえ」
殷雷は出来る限《かぎ》り口を歪《ゆが》め、和穂の言葉に異議《いぎ》を唱《とな》えようとした。が、和穂は剛胆で細かいところにはこだわらないくせに、なかなか他人《たにん》の異議を認めない。
「あら、素敵《すてき》な小父様だったじゃないの。ああいう発想《はっそう》の瞬発力《しゅんぱつりょく》がありそうな大人って恰好《かっこう》いいと思うわよ」
発想の瞬発力というのも変な言葉ではあったが、実際に善倒の顔を見ている殷雷は和穂のいわんとするところが判らないではなかった。
見た目は痩《や》せこけたただの中年で、嫁《よめ》の二、三人に逃《に》げられたような独特《どくとく》の貧相《ひんそう》さが滲み出ていた。ぼさっとした髪の中に一筋《ひとすじ》の目立つ白髪があったが、あれはわざと染めているのか天然《てんねん》なのかは殷雷炉の知ったところではなかった。
才能《さいのう》はある種《しゅ》の呪《のろ》いでもある。
酒場に居る善倒のすぐ側《そば》まで殷雷炉と和穂は迫《せま》ったのだ。臭覚《しゅうかく》にも似た独自《どくじ》の勘《かん》で善倒は殷雷炉たちが自分の持つ宝貝を狙《ねら》っていると判断《はんだん》した。
別段《べつだん》、善倒が武術《ぶじゅつ》の達人《たつじん》で他人の気配《けはい》や殺気《さっき》を読む能力に長《た》けているわけではない。
善倒は生まれ持って、窮地《きゅうち》を切《き》り抜《ぬ》ける才能を持っているのだと殷雷は考えていた。
酒場からこの森に至《いた》るまでの追跡劇《ついせきげき》で殷雷炉は自分の考えが間違《まちが》っていないと確信《かくしん》した。
まさに絶妙《ぜつみょう》な逃走経路《とうそうけいろ》だった。
最善《さいぜん》の追跡経路は全て外し、二番手、三番手の逃げ道を駆《か》け抜けていくのだ。殷雷炉にしてみれば、最善の追跡経路への対応をおざなりにするわけにはいかない。
索具輪があるので、そう簡単に逃げ切られる心配はないのだが、下手《へた》に時間を与《あた》えて何らかの策《さく》を練《ね》られるのは避《さ》けねばならなかった。なにせ、能力が不明とはいえ善倒の手には宝貝があるのだ。
殷雷炉は鼻で笑う。
善倒には窮地を切り抜けるための性能《せいのう》がある。
だが、それは呪《のろ》いだ。性能があるが故《ゆえ》に善倒は窮地と共に人生を歩《あゆ》んでいる。
窮地を切り抜けられる才能があるのだ。何故、窮地に至らないような努力をする必要がある?
「少しばかり甘《あま》く見ていたな。時間を与えないようにしていたつもりだが、思いつきで最善手を選びやがったかもしれぬ」
目の前に居る、似たような顔をした集団、それが善倒の仕掛《しか》けであることに間違いはあるまい。
が、それで何をしたいのだ? やはりその部分は謎《なぞ》だった。目の前の集団は牽制《けんせい》をしあっているが、とりたてて追跡の邪魔《じゃま》をしようとしているようには見えない。
互《たが》いの動向を気にしながら小声で喋《しゃべ》る青年と娘たちはそれぞれ、今の状況を相談《そうだん》しているようにしか見えない。
和穂がポンと手を叩《たた》く。
「よし細かいところは気にしない」
「いや、幾《いく》ら何でもこの状況を気にしないってのは無茶《むちゃ》だろ」
「だからあんたは神経質なのよ。ともかく善倒を捕《つか》まえればすむ話じゃない」
「さすがは剛胆な和穂元仙人。神経質と無神経の中間ってものはないのかね?」
「考えるだけ無駄なときは考えないってのは立派な戦略《せんりゃく》だからね」
「お前は考えるのが面倒《めんどう》くさいだけだろ」
その話題は終わったとばかりに和穂は細い眉毛をひくつかせ、左の耳に着けられた質素《しっそ》な耳飾りに指を伸ばす。
どこにでもあるような安物の耳飾りだ。真珠《しんじゅ》に似ているが、そのざらりとした質感《しつかん》は余程《よほど》の慌《あわ》て者でなければ、真珠と間違《まちが》える事はないだろう。
この耳飾りこそが宝貝の在《あ》り処《か》を調べる索具輪であった。和穂は目の前のややこしそうな連中は無視《むし》して、直接善倒の居場所を探《さぐ》ろうとしたのだ。ともかく善倒の宝貝さえ回収出来れば他の事件《じけん》にはあまり興味《きょうみ》はない。
和穂が軽く目を閉《と》じると、彼女の瞼《まぶた》の裏に星のような光点が浮かび上がった。
この光が宝貝の位置を示している。
屈託のない笑顔《えがお》が滅多《めった》に消えない和穂の表情が僅《わず》かに曇《くも》る。
そして、その場で軽く顔の向きを変えてみた。続いてピョンピョンと跳《と》び跳《は》ねた。
和穂が何をしているのか、殷雷炉には判らない。
「何をやっとるんだお前は」
和穂は答えた。
「やられた。宝貝の反応がそこかしこにあってどれが善倒のおっさんの反応かは断定《だんてい》出来ない。
というか、そこらへんに居る兄ちゃん連中もれっきとした宝貝だね。ちゃんと索具輪に反応《はんのう》していやがるよ」
和穂の動作は索具輪が正確《せいかく》に反応しているかどうかを確かめるためのものだった。自分の動きに合わせて光点が移動したのならば、索具輪の動作不良とは考えられない。
殷雷炉とて欠陥宝貝として封印《ふういん》されていた身だった。全員とはいわないまでも、ある程度特徴のある宝貝は噂話《うわさばなし》としてでも、その存在を知っていたつもりだった。
だが、こんなに複数《ふくすう》の似た宝貝の話など聞いた覚《おぼ》えはない。
「どういう意味だ?」
髭《ひげ》など生えてないのに、和穂は鬚《ひげ》をこする仕草をした。
「なるほどねえ」
「嘘《うそ》をつけ。全然意味が判ってないだろ」
「いや、ここで取り乱したら善倒の思うつぼだから、はったりでもいいから余裕《よゆう》をかましておこう」
「そういうのは小声で言え。お前の地声のでかさはどうにかならんのか?」
索具輪を指先でもてあそんでいた和穂がふいに黙《だま》った。
冗談《じょうだん》なのか本気なのかは当然、殷雷炉には判らない。
「殷雷。何かが来る」
「どこからだ!」
「そこ」
森の一部を指差すかと思えば和穂は殷雷炉の目の前を示した。
「冗談も大概《たいがい》にしやがれよ」
「本気と冗談の区別もつかないなんて意外と可愛《かわい》いじゃないの」
そう言い、和穂は来るべきものとの間合いを外す。和穂が示した先には薄《うす》ぼんやりとした影《かげ》が浮《う》かび上がっていた。
霧《きり》で作り上げた彫刻《ちょうこく》のような影は、すぐさま焦点《しょうてん》を合わしそのまま実体化した。
現《あらわ》れたのはやはり、和穂らしき人物と一人の青年だった。長い黒髪を後頭部でくくり、猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭《するど》い眼光《がんこう》を持った青年だ。
途端《とたん》、爆発音《ばくはつおん》が響《ひび》いた。
影から実体になった途端、その来訪者《らいほうしゃ》は爆煙《ばくえん》に包まれる。
爆煙を切り裂《さ》きながら出現《しゅつげん》した和穂は、片手に刀を持っていた。
疾走《しっそう》する狼《おおかみ》のように刀の和穂は走り、気がつけば殷雷炉を羽交《はが》い締《じ》めにして、その首に刃を押しつけていた。
なんの言葉はなくとも、妙《みょう》な動きをすれば殷雷炉の命はないと宣言《せんげん》しているのと同じであった。
周囲に殺気|混《ま》じりの緊張感が広がっても、眉毛の細い和穂に躊躇《ためら》いはない。
「多分、あなたも和穂なんでしょ? 生憎《あいにく》とそいつは人質《ひとじち》なんかにならないわよ。
そう見えてもそいつは殷雷炉という宝貝だから、尋常の刃じゃ傷《きず》一つつかない」
殷雷炉が少しばかり訂正《ていせい》した。
「あの、和穂さん。お忘れですか? 人間形態のときは幾《いく》ら尋常の刃でも、刺《さ》されるとやばいんですが」
「だったらさっさと原形に戻りなさいよ」
刀の和穂が低い声で牽制《けんせい》した。
「妙な動きをするな。原形には戻るな」
人質というのはあまり恰好の良いものではない。殷雷炉は少しばかり恰好をつけておくことにした。
「ふっ。原形への変換《へんかん》は瞬時《しゅんじ》に行える。尋常な刃で俺に傷をつけることなど、事実上不可能《ふかのう》なのだ」
刀の和穂は舌打《したう》ちをした。
その舌打ちを聞き殷雷炉はいい気になってしまう。
「とんだ誤算《ごさん》だったな。判ったなら今すぐ解放《かいほう》してもらおうか?」
刀の和穂は殷雷炉の耳元で答えた。
「二人の人影が一つになって、一つの影は刀を持っていた。ならば、自分の首に当てられてるのが、尋常の刃じゃなくて宝貝の刃であるとは考えられないのか? 普通《ふつう》はそう考えるぞ」
細い眉の和穂は名残惜《なごりお》しげに手を振《ふ》った。
「とんだ誤算は殷雷の方だったようね」
刀の和穂は殷雷炉の背中《せなか》を軽く突き飛ばした。薄々《うすうす》事情を察《さっ》したのか、人質をとっても仕方ないと判断したようだった。
そして、右手に持つ刀を空中に放り投げる。
再び軽い爆発が起こり、そこには一人の青年が立っていた。鋭《するど》い目で殷雷炉を睨《にら》みつける。
先刻《せんこく》まで刀を手にしていた和穂の瞳《ひとみ》からは鋭《するど》さが消滅《しょうめつ》していた。
細い眉毛の和穂は言った。
「あのさ。あんた誰よ? 私は和穂で、この赤いのは殷雷。いや、正確には殷雷炉」
刀を手にしていた和穂が答えた。
「えぇと。私も和穂で、彼の名前は殷雷刀です」
もはやたいした驚《おどろ》きもなかった。刀を持っていた時と今の和穂の雰囲気《ふんいき》があまりにも違っているが、それは武器の宝貝を使用した時の独自の現象《げんしょう》だと、細い眉毛の和穂は知っていたからだ。
そういう敵《てき》と幾度《いくど》か渡《わた》り合った経験《けいけん》があった。武器を使っている最中《さいちゅう》は、使い手の肉体《にくたい》は武器の宝貝自体が操《あやつ》っていて、当然《とうぜん》その眼光も使用者に宿《やど》るのだ。
殷雷刀は周囲を見回し、そこにいる自分と和穂によく似てはいるが違う存在たちを確認《かくにん》した。殷雷刀は驚きもしない。何が起きているかが判ったからだ。
殷雷刀は言った。
「くだらん」
今まで静かに殷雷炉たちの言動を見守っていた、別の青年が静かに声を上げた。
外見は殷雷刀に酷似《こくじ》しているが、殷雷刀の中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》の体格に比べ、威圧的《いあつてき》にまで大きな体躯《たいく》をしている。
「俺は殷雷|斧《ふ》。どうやらお前は何が起きているか判っているようだな。
殷雷刀よ、そこの殷雷炉がさっきから騒《さわ》いでくれたおかげで、大体の状況は俺にも推察《すいさつ》出来たが間違っていたら教えてくれ」
じろりと殷雷刀は殷雷斧を見る。似たような眼光が宿るが、殷雷斧には自信に裏づけされたような落ち着きがあった。
「正解だ。お前が推察出来たと考えているなら、その推察に間違いはない」
笑って殷雷斧はうなずき、小声で自分の隣《となり》に居る和穂に説明をはじめた。
殷雷炉は納得《なっとく》しない。
「まってくれ、俺にも教えてくれよ」
面倒《めんどう》くさがり口を開かない殷雷刀に代わり隣の和穂が答えた。
「皆《みな》さんは多分、善倒さんの持つ宝貝を追ってこの森の中に入ってきたと思うんです。
で、善倒さんはこのままでは宝貝を回収されると考えて、自分の持っていた宝貝|甚来旗《じんらいき》を発動させて、別々の世界に居る私と殷雷をこの世界に呼び込んだんです」
大きな胡坐《あぐら》をかき、殷雷斧はフムフムと首を縦《たて》に振った。
だが、殷雷炉にはその説明の意味が判らなかった。
「善倒があんたたちを呼《よ》び寄《よ》せたんだな? でもどうして?」
細い眉の和穂が殷雷炉の袖を引っ張る。
「あんまり馬鹿《ばか》な事、言わないでよ。恰好悪いでしょ」
「何がだ?」
「いい? 呼び寄せられたのは私たちかもしれないでしょ」
言われてみればそのとおりだった。もしかしたら、殷雷斧が追いかけていた善倒が、宝貝の能力で自分たちをこの世界に呼び込んだのかもしれない。
それは理解《りかい》出来たが、いまいち殷雷炉は納得がいかない。それで何になるというのだ?
「『何が』起きてるかは判った。でも『何故《なぜ》』だ? それで善倒は何をしたい?」
殷雷斧は面白そうに答えた。
「殺《ころ》し合いさ」
「!」
「誰か一組がこの世界の住人で、それ以外は別世界の客だろ。問題なのは誰が住人で誰が客なのかが判らないってところだな。甚来旗は一つ。だが甚来旗を必要《ひつよう》としているのは俺たち全員ときたもんだ」
やっとの事で殷雷刀は喋《しゃべ》りだした。
「生憎《あいにく》、俺《おれ》と和穂はほとんど部外者だ。俺たちの世界で甚来旗の回収は済《す》んでいる」
殷雷炉の隣で和穂は大きな地声で言った。
「じゃあ、あんたたちは、なんでここに来たの?」
「別に。甚来旗の欠陥《けっかん》なんだよ。別世界から条件つきで召喚《しふうかん》を行うんだが、たまに条件から外れた奴も呼び寄せちまう。おかげで無駄《むだ》な手間《てま》だ」
そう言いつつも殷雷刀は嫌な予感に襲《おそ》われた。自分が今、とてつもなく不吉《ふきつ》な言葉を吐《は》いてしまったような居心地《いごこち》の悪さがつきまとう。
不吉さの正体が判らないまま、殷雷は適当な木を見つけ地面に座《すわ》りもたれ掛かった。そして欠伸《あくび》をかみ殺しながら言った。
「ともかく早いとこ、けりをつけてくれ」
どすん。岩と岩がぶつかるような音がした。それは殷雷斧が自分の両方の拳《こぶし》を胸の前で叩きつけた音だった。
にっこり笑って殷雷斧は殷雷炉を見た。
「待て殷雷斧! なんでいきなり俺を獲物《えもの》に決める! 他《ほか》にも色々|居《い》るだろうが!」
「もう、仕掛《しか》けに気づいている者たちがほとんどだろうが、一応説明しておく。
お前たちは全員本物だ。お前たちは全員が本物の和穂と殷雷に間違いはない。まあ、殷雷は殷雷でも殷雷槍や殷雷剣の違《ちが》いはあるだろうがな。
つまり甚来旗には別の世界から、指定《してい》したものを呼び寄せる能力があるのだ。
俺は甚来旗を使い、『俺を追ってこの森に侵入《しんにゅう》した和穂と殷雷』を呼び寄せた。
全《すべ》てを元に戻したいのなら話は簡単だ。俺の甚来旗を破壊《はかい》すればいい。そうすれば、全てはあるべき世界へと還《かえ》ることになる。
ただし、甚来旗は甚来旗を破壊したものと同じ世界へと流れ着く事になる。
判《わか》ったな?
万が一、俺と違う世界の和穂と殷雷が、甚来旗を破壊したのなら、この世界から甚来旗は消滅《しょうめつ》し、破壊者の世界には甚来旗が二つ存在するようになる。
俺と同じ世界に居た和穂と殷雷には宝貝《ぱおぺい》の完全|回収《かいしゅう》が不可能となるのだ」
善倒《ぜんとう》の言葉にどよめきが走った。
寸前で窮地《きゅうち》を切り抜ける喜びを胸に善倒はさらに付け加えた。
「ちなみに、『無事《ぶじ》に状況を打開出来る能力を持った和穂と殷雷の召喚《しょうかん》は禁止』という条件をつけた。呼び寄せる条件については甚来旗には欠陥《けっかん》があるが、禁止条件については動作に問題はない。
既《すで》に自分の世界で甚来旗を回収した和穂と殷雷は呼び寄せてしまうかもしれない。が、『無事に状況を打開出来る能力』すなわち、俺と同じ世界に居た和穂と殷雷はどいつなのかを見極《みきわ》める能力や、それに類似《るいじ》した能力を持った者は、間違っても召喚されていないってわけだ。
ここに居《い》るのは事件を解決出来ない間抜《まぬ》けな殷雷と和穂だけなのさ。まあ、誰《だれ》が甚来旗を破壊《はかい》するか話し合いなり殺し合いなりで決めるという手はあえて残してあるがね」
どよめきは殺気《さっき》によって打ち消された。
殷雷炉は殷雷斧によってブン回されている最中で、どよめきにも殺気にも加わっていなかった。殷雷斧と共に旅をしている和穂は、殷雷炉を助けようと必死になっていたが、当の眉《まゆ》の細い和穂は殷雷炉について気にもしていない。
殷雷炉は置《お》いておき、木にもたれる殷雷刀の側《そば》に近寄《ちかよ》る。
「自分には関係ないから部外者を決めこもうっての?」
「ありていに言えばそうだな。お前も俺と同じ状況《じょうきょう》に置かれればそうするだろ?」
確かに自分たちは部外者といえたが、だからといって静観《せいかん》していていいのか刀の和穂は疑問《ぎもん》だった。
「ねえ、殷雷」
うるさいうるさいと殷雷刀は手を振《ふ》った。
「深刻になるなよ馬鹿らしい。殷雷斧はふざけて殷雷炉を振り回してるだけで、別段《べつだん》どうこうしようとしてない。そっちの和穂も判《わか》ってるんだろ?」
細い眉の和穂はにっこりと微笑《ほほえ》む。
「さすが、武器の宝貝は読みが鋭《するど》い。回収|済《ず》みのあんたたちが居るって事は、どうやって回収したかの知識があるんだ。
だったら騒《さわ》ぐ必要なんかない。善倒がいかに巧妙《こうみょう》に仕掛《しか》けたところで、正解《せいかい》を知っている奴がいるんだからね」
珍《めずら》しく他人に感心した素振《そぶ》りを見せて、殷雷刀は答えた。
「ほお。和穂、見てみろ血の巡《めぐ》りのいい和穂ってのも居るんだな。……やっぱり名前が一緒《いっしょ》だと呼びにくいな。お前の名前はこの間と同じように『刀の和穂』でいくぞ。そっちの和穂は……」
「一緒に旅をしてるのは、殷雷炉」
「よし、じゃあ『細《ほそ》い方の和穂』でどうだ?」
刀の和穂が異議《いぎ》を唱《とな》える。
「細い方って何よ、細い方って!」
細い方の和穂は刀の和穂を慰《なぐさ》める振《ふ》りをしてさらに追い込む。
「ほんと。体重は私の方が少しばかりありそうなのにね」
細い方の和穂の読み通り、その言葉を受け、殷雷刀がキッチリと説明する。
「体重じゃない。眉毛が『細い方』って意味だ。別に『炉《ろ》の和穂』と『眉毛の太い方の和穂』でもいいが?」
基本的に眉毛の太い和穂が和穂の集団の大勢《たいせい》を占《し》めているのだ。その呼び名では色々|不都合《ふつごう》があるのは確かだが、真面目《まじめ》にこれ以上|騒《さわ》ぐとどんな呼び名をつけられるか判ったものではないので、刀の和穂は渋々と引いた。
「刀の和穂と細い方の和穂でいいよ」
細い方の和穂は刀の和穂の頭を撫《な》でた。
「まあ、素直《すなお》で可愛い娘ね」
いつの間にか殷雷斧の手から逃《のが》れた殷雷炉がつぶやく。
「よくもまあ、ぬけぬけと。お前と同じ和穂だろうが」
殷雷刀はちょっとした感想を述《の》べる。
「しかし、似たような連中が集まっているが性格は意外と違うもんだな。刀の和穂と細い方の和穂なんざ全く別人だ」
殷雷斧から自分を助けてくれた斧《おの》の和穂や、刀の和穂の様子を見て、殷雷炉は和穂は基本的に優《やさ》しいのだと知った。どうやら自分のところだけは例外《れいがい》らしい。
殷雷炉は言った。
「いや。この和穂も昔はこんな性格ではなかったのだ。ある宝貝との戦闘《せんとう》で後遺症《こういしょう》を負《お》ってその結果として、このようなお気の毒《どく》な性格になってしまったんだよ」
「待て、それはどんな宝貝だ! その宝貝についての情報を教えろ!」
必死に殷雷炉を揺《ゆ》さぶる殷雷刀の後頭部を細い方の和穂は力任せにぶん殴《なぐ》る。
「冗談《じょうだん》に決まってるでしょうが! それに私も太い方の和穂も違うのは髪型《かみがた》ぐらいでしょ」
一触《いっしょく》即発《そくはつ》の空気が流れる森の中で、ここだけはまるで異次元《いじげん》のような呑気《のんき》な空気に包まれていた。刀の和穂には何処《どこ》から話に加わっていいのか判らない。真面目な話が通用するのだろうか。
「あの、ちょっといいですか?」
自分の意見を言うのに周りの許可《きょか》を得《え》ようとする刀の和穂の姿に、殷雷炉は言いようのない感動を覚えた。
「ああ、もうなんでも言ってちょうだい。こいつらが聞いてなくても俺だけはちゃんと聞いてあげるから」
「ありがとうございます。さっきの善倒さんの言葉がちょっと気になりました。
私たちの回収のときは、『ある人』のおかげで、無事に誰が善倒さんと同じ世界の私かが判ったんですけど、ここの世界の善倒さんの召喚禁止条件《しょうかんきんしじょうけん》だとその人はここに現れないと思うんです」
言われてみればそうだと、殷雷刀も考えを巡《めぐ》らす。殷雷刀が回収をしたときの善倒の召喚禁止条件は、もっと緩やかだった。『無事《ぶじ》に状況を打開出来る能力を持った殷雷|及《およ》び和穂の召喚禁止』のような問答無用な条件づけはなかったはずだ。
「確かにそうだ。こんな条件だったら『あいつ』はやって来られないな。こりゃ、ここの世界の善倒には、してやられたかもしれん。
俺たちの経験じゃ何の解決《かいけつ》にもならないぞ」
洒落《しゃれ》と冗談《じょうだん》が渦巻くこの周囲で、何が真実であるかを見極《みきわ》めるのかは正直、難しかったが、刀の和穂の言葉にだけは、いかなるひっかけもないだろうと、殷雷炉は思う。
ならば状況はとてつもなくやばいのではないか。
「それじゃ俺たちは一体どうなる?」
殷雷斧は何も言わずに殷雷炉たちの会話に耳を傾《かたむ》けていた。殷雷刀には解決策に至《いた》る知識がないと聞《き》き、斧《おの》の眼差《まなざ》しは少しばかり鋭《するど》くなる。
殷雷炉は慌《あわ》てる。
「いかん、斧が本気になってるぞ! 互いに潰《つぶ》しあう事になったらどうする! 殷雷刀、力を貸《か》してくれるな?」
「やだね。俺は中立。どうしても誰かに協力しなけりゃならんなら、斧につくね。あいつは強いぞ」
この言葉が冗談だったらどれだけ嬉《うれ》しいかと殷雷炉は思うが、そうそう自分たちの都合よく殷雷刀が動くとは考えられない。
細い方の和穂はそれでも呑気《のんき》に笑っている。
「か、和穂! どうするよ?」
細い方の和穂は不敵に笑う。
「どうもしない。思い出してよ殷雷、私たちは今までに何度も窮地《きゅうち》を乗りきってきたじゃないの」
「いや今回はまずいって。なんの策《さく》も思いつかんぞ」
「奇遇ね。私も思いつかないっ」
「じゃあ、どうしてそんなに落ち着いている?」
「判《わか》らない? これだけ和穂と殷雷がいるのよ、私たちが思いつかなくても誰《だれ》か一人ぐらい状況を打開する方法を考えつくんじゃない」
「馬鹿かお前は! 状況を打開出来る能力を持った奴《やつ》は召喚されてないんだぞ!」
「いちいちうるさいわね。どっしりと構《かま》えてたら、どうにでもなるって! 善倒みたいに中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に利口《りこう》な奴は己《おのれ》の策《さく》にはまって身動きがとれなくなるって相場は決まっているのよ」
確かに威風堂々《いふうどうどう》と細い方の和穂は構えていた。策を巡《めぐ》らせ結果を待つ身でもないのに、ここまで落ち着けるのはある種《しゅ》の才能《さいのう》を思わせた。
心配になり殷雷刀は殷雷炉に尋《たず》ねた。
「……本当にあいつの性格は昔からああなんだな? 本当に何かの宝貝のせいでああなったんじゃないんだな?」
善倒は愕然《がくぜん》としていた。
細い方の和穂の言葉に間違いはなかったのだ。
殷雷と和穂たちの人ごみの中に、一筋《ひとすじ》の道が出来ていた。道の終端《しゅうたん》には跪《ひざまず》き呆然《ぼうぜん》とする善倒が、甚来旗に寄りかかっている。
そんな善倒の周囲には四人の和穂と殷雷が立っていた。
その和穂たちが、善倒と同じ世界に居た殷雷と和穂が誰《だれ》であるかを言い当てたのだ。
そんな能力のある和穂は召喚されないはずであった。
和穂たちにその能力はない。だが、四人の和穂たちは、その能力を持つ宝貝を所持していたのだった。
道の向こうから殷雷炉と細い方の和穂が歩み進んできた。善倒と同じ世界に居たのは殷雷炉たちだったのだ。
何故《なぜ》だか勝《か》ち誇《ほこ》った表情で殷雷炉たちは歩き、ついに善倒の下《もと》に辿《たど》りつく。
和穂はゆっくりと甚来旗に手を伸《の》ばし、旗《はた》を持ちあげる。善倒には旗を掴《つか》む気力もほとんど残っていなかった。
高々と旗を掲げ、周囲に一礼をしたのち、和穂は甚来旗を折《お》った。殷雷と和穂の中で比較的呑気《ひかくてきのんき》な連中が拍手《はくしゅ》と歓声《かんせい》を送っている。
歓声の中、さながら麩菓子《ふがし》のように呆気《あっけ》なく甚来旗は折られ、周囲の殷雷と和穂たちの姿はだんだんと薄《うす》ぼんやりとした影《かげ》へと還《かえ》っていく。
殷雷刀は言った。
「よくもまあ、こんな下らない回収劇《かいしゅうげき》があったもんだ」
一ノ一ノ一ノ一
「でも、結局良かったじゃない。無事に回収出来たんだからさ」
和穂の言葉に素直《すなお》に頷《うなず》く殷雷刀ではない。それに不吉な予感は消えたわけではなかったのだ。
未知の何かが近寄る不吉さではなかった。致命的《ちめいてき》な見逃しを行ったような不吉さだった。前提条件は全《すべ》て示されているのに問題を把握《はあく》出来ていないもどかしさに近い。
殷雷の不機嫌《ふきげん》さの理由が和穂には判《わか》らなかった。幾《いく》ら和穂が話しかけても、殷雷は気のない返事しか返さず、二人は森の中を歩み続けた。
ふと、殷雷の足が止まる。
「! 何か来るぞ!」
言葉が消えると共に殷雷の姿は爆煙《ばくえん》に包まれ、和穂は慌てて刀の姿に戻《もど》った殷雷刀を手に取る。
途端、和穂の瞳《ひとみ》には猛禽類《もうきんるい》を思わせる殷雷の眼光が宿《やど》る。
殷雷の知覚能力を和穂は共有し、側《そば》に居る何かの気配《けはい》を知った。
ぼんやりとした気配だったが、気配は余りにも唐突《とうとつ》に出現したのだ。似たような感覚を和穂は覚えていた。当然、殷雷も覚えていたが中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に記憶に引きずられ、行動を躊躇《ためら》いはしなかった。
気配の前後を確かめ、気配の死角に回り込《こ》み、一気に羽交《はが》い締《じ》めにする。
鷹《たか》が獲物《えもの》を仕留《しと》める速さで、殷雷刀の刃は羽交い締めにしたモノの首に添《そ》えられていた。
和穂のうなじがざわめく。奇妙な気配はこれ一つではない。無数の気配がだんだんと質感《しつかん》を持って現れてくる。
何が起きているか、和穂は完全に理解した。
殷雷は自分が何にたいして不吉感を覚えていたのかを知った。
羽交い締めにされ、殷雷炉は呻《うめ》いた。
「いい加減《かげん》にしろよ! これだから武器の宝貝は嫌《きら》いなんだ!」
ほう。と細い方の和穂は軽く頷《うなず》いた。事の異常さを理解したのだ。
自分たちがはまった泥沼《どろぬま》を細い方の和穂はすぐに気がついた。しばし間を置き、刀の和穂も気がつく。一人殷雷炉だけはまだ、自分が陥《おちい》った窮地《きゅうち》に気がついてない。
げほげほと殷雷炉は咳《せき》をした。殷雷刀は既《すで》に人間の姿へと変わっていた。
三人の深刻そうな顔を見ても、それが冗談《じょうだん》であるような気が殷雷炉にはしていた。刀の和穂も二人に騙《だま》されているのかもしれない。
「何やってんだよ。お前らはお前らの世界に還ったんだろ? 今さら何しに来やがった」
緑に萌《も》える森の中、どこか遠くで声がした。
よく通る、若い女の声だった。
「そろそろ気がついたと思うけどね。ここに居るのは全員本物よ。よく似た偽物を使ってどうこうしようというんじゃない。嘘だと思うんなら索具輪《さくぐりん》でもなんでも使ってみるがいい。
私の宝貝、甚来旗《じんらいき》は別々の世界からの召喚を可能《かのう》とするのよ。この私『善倒を追ってこの森に入った殷雷と和穂を召喚する』という条件で、異世界の和穂と殷雷を招待したってわけ……」
じんわりと殷雷炉にも事情が飲《の》み込《こ》めた。
「つまり、今回は俺たちは召喚されたってわけだな。そっちの刀は三回目か?」
刀の和穂は首を縦に振った。
今はまだ三回目だ。だが、これが何千回何万回、いや永遠に続く可能性があった。
世界は無数にあり、無数の世界に存在する別々の和穂と殷雷を甚来旗は呼《よ》び寄《よ》せる。
それはすなわち、無数に存在する世界の無数の善倒により、和穂と殷雷が無限《むげん》に呼び出される事を意味しているのだ。甚来旗を回収しているか否《いな》かは問題ではない。
甚来旗は呼び寄せる能力に関しては、いまいち条件が甘いのだ。
森の中には緊張感《きんちょうかん》が広がっていた。
だが、四人の周りには異質《いしつ》の緊張感が広がっている。
細い方の和穂は言った。不幸中の幸いにも目の前には武器の宝貝が居る。戦闘力以上に細い方の和穂は武器の宝貝の分析能力《ぶんせきりょく》が頼《たよ》りになると知っていた。
「殷雷刀。対応策《たいおうさく》は?」
いかに武器の宝貝とはいえ、無限《むげん》に対抗する術をすぐには思いつかない。
「駄目だ。思いつかん。相手は無限に存在する善倒だ。俺たちは有限だ。有限がどうやって無限に対抗しろというのだ!」
個別《こべつ》への対応ならば可能だろう。この世界の善倒と渡り合い、善倒を倒す事ならば出来るだろう。だが、それでどうなるというのだ? この一件が解決し元の世界に戻ったところで、また新《あら》たな召喚を受ける。
そして、それが永遠に繰《く》り返《かえ》されるのだ。
「私たちはここから抜《ぬ》け出せない」
細い方の和穂が声を絞り出したとき、遠くで歓声が聞こえた。
この世界の和穂と殷雷が、めでたく甚来旗を折ったのだろう。殷雷炉たちの姿《すがた》が影となり消えた。
一ノ一ノ一ノ一ノ一
「あはははは。ついぞ見《まみ》えるはずのない、殷雷と和穂たちの饗宴《きょうえん》さ。せいぜい楽しんでくれたまえ。どのみち饗宴は血でもって締《し》めくくられるんだろうがね! この善倒の……」
「ついぞ見えるはずがないだとよ。俺《おれ》たちがこうして雁首《がんくび》を付き合わせてるのは何回目だったっけ」
殷雷炉の問い掛けに誰《だれ》も答えない。殷雷刀は正確な答えを知っていた。七十三回目だ。だが、間違《まちが》っても答えるつもりはない。
「いいからお前も真面目に考えろ。どうやったらここから抜け出せる!」
軽く拗《す》ねた声で殷雷炉は答えた。
「武器の宝貝《ぱおぺい》様が必死になって考えても判《わか》らないのに、私のごとき日用雑貨の宝貝に何が出来るんでげすかね?」
細い方の和穂は事も無《な》げに言った。
「それもそうね」
殷雷炉はぐうの音も出ない。
刀の和穂は言った。
「やっぱりここは、他《ほか》の私や殷雷たちと協力した方がいい。皆で力を合わせれば、きっとどうにかなるよ」
「寝ぼけたことが言いたいなら、そこで寝てていいわよ」
やはり細い方の和穂の言葉に容赦《ようしゃ》はない。
殷雷刀は声を引き絞った。
「駄目《だめ》だ。ここにあるのは無限の停滞《ていたい》でしかない」
この意見に対してだけは細い方の和穂からの容赦のない言葉はなかった。彼女もそう感じていたからだ。
実際には、最初の召喚からまだ半日も経過してはいない。だが、殷雷の精神的な焦《あせ》りはただものではない。他の宝貝と同じように殷雷刀自身は、無限に近い時の流れにも耐《た》えうるように設計はされている。問題は和穂だった。
この無限の停滞を前に僅《わず》か百年の行《い》き詰《つ》まりでさえ、和穂の身には致命的《ちめいてき》だろう。
それ以前にこの繰《く》り返しが数万回繰り返されれば神経に異常を来《きた》しても不思議ではない。
答を見つけようと焦れば焦るほど、神経はすり減《へ》っていく。
いまいち緊張感に欠けているのは殷雷炉だけであった。
が、このまま馬鹿にされたままというのも彼の自尊心《じそんしん》が許しはしない。
殷雷炉はゆるりと立ち上がり、両の手を広げた。
「ふん。この呪《のろ》われた森から出られないというのなら、この森を偽炎《ぎえん》で焼《や》き尽《つ》くすのみ!」
途端、殷雷炉の掌《てのひら》から白い炎が迸《ほとばし》った。
周囲の和穂たちは驚《おどろ》いたが、殷雷たちは炎を避《さ》けもしない。偽物の炎の名は伊達《だて》ではない。意思の力一つで燃焼を拒絶《きょぜつ》できる、仙術的《せんじゅつてき》な炎だった。
さすがに植物には効果があるので、言葉通りに森を焼き尽くすのは可能かもしれない。
殷雷は狂《くる》ったように笑った。
「ぶはは。いかにも日用雑貨らしい後先《あとさき》のことを考えない、つまらない行動だな。
そんな事をして何になる? でもよ、殷雷炉。いいところに気がついたな。
いいから炎を消せ、そんな大道芸《だいどうげい》なんざしてる暇《ひま》はないぞ」
殷雷刀は殷雷炉を呼《よ》び寄《よ》せ、珍《めずら》しく彼を誉《ほ》めた。
「いいぞ、殷雷炉。結局はお前の言葉にしか活路《かつろ》はない」
誉められた本人には誉められた理由が判っていない。
「?」
「いいか? 鍵《かぎ》は召喚《しょうかん》条件だ。善倒は『自分を追ってこの森に入った和穂と殷雷』を召喚している。つまり、鍵は『森』だ。
この森から抜《ぬ》け出《だ》せば、俺たちは召喚条件から除外《じょがい》される。つまり、ここから逃《に》げられるってわけだ。いやあ、お前の間抜《まぬ》けな行動がなければ後《あと》、半刻《はんこく》は判《わか》らなかったぞ」
だいたい殷雷刀の性格《せいかく》を理解しはじめていた殷雷炉は、それが殷雷刀の最上級の誉め言葉だと理解した。
細い方の和穂は慎重《しんちょう》だった。
「それほどいい手とは思えない。森の中心部に私たちは居るんだからね。そう簡単《かんたん》に外に出られる?」
「召喚と召喚の間にどれだけの間隔《かんかく》が空《あ》くかによる。しかも召喚のたびに位置が森の中心に向けてずれてるようだからな。正直確実な方法とは言えないかもしれないが、可能性はある。賭《か》けるだけの価値はあるぞ」
「博打《ばくち》は貧乏人のやる事よ。ま、今回は仕方ないけどね」
殷雷は刀へと姿を変えた。殷雷炉と細い方の和穂も走る準備に入る。刀の和穂と殷雷炉たちは互いに背中《せなか》を向けていた。
細い方の和穂は言った。
「同じ方向に走ってもいいけど、万が一私たちだけが脱出《だっしゅつ》しそこねたら、そっちの和穂は立ち止まって助けようとするでしょ。悪いけどそういうのは嫌《きら》いなんでね」
遠くから喜びのどよめきが聞こえた。そろそろ召喚《しょうかん》が終わりを告げるだろう。
「では、これでさよならになればいいんですが、殷雷炉さんに……細い方の和穂さん」
声を出さずに細い方の和穂は笑い、歓声《かんせい》が起き、世界は一瞬ぼやける。
背中に気配が消えたのを感じ、殷雷たちは走りはじめた。
心を通し、殷雷刀は和穂に話しかけた。
『いいか。負けることを考えて手を打つような真似《まね》はしたくない。
だが、忠告《ちゅうこく》しておくぞ。一回で森から脱出出来なくとも諦《あきら》めるな。腹は立つが脱出の機会は無限《むげん》にある。そのうち一回でも成功すればいいんだからな』
『うん、判ってる』
殷雷刀を片手に和穂は森を駆《か》けていた。疾走《しっそう》する豹《ひょう》のごとく体勢《たいせい》を低くし、風を斬《き》る音に己《おのれ》の吐息《といき》を流し、緑の森を残像と化しながら。
森は深い。
制限《せいげん》されている時間が具体的に判っているのならば、焦《あせ》りはなかっただろう。単純に脱出が可能か不可能かが判るからだ。
和穂には無限の機会があると言ったが、和穂の体力にも限界はある。
焦りに包まれながら殷雷刀は和穂の体を駆った。
あまりの速度のために歪《ゆが》む視界《しかい》の中、ぼんやりと光の筋《すじ》が見えた。それは森の外を流れる川の姿だった。川の手前、河原にまで走り込めば脱出は成功だ。焦り、焦り、焦りながらも和穂は駆けた。静かに誰かが自分を引き寄せるような感覚が和穂の身に近寄る。極限《きょくげん》にまで薄《うす》い絹《きぬ》で造《つく》られた透明《とうめい》な手が擦《す》り寄《よ》るような感覚が迫《せま》る。
だが、引き寄せる透明な手に捕《つか》まれる寸前、和穂は森の外に出た。
靴《くつ》を通して感じる小石の感覚に、和穂の速度は落ちていった。
『脱出出来た!』
もはや森は背後《はいご》に存在している。
殷雷刀は人の姿をとった。
「さてと。とりあえずはめでたしめでたしだな」
和穂はそう簡単に納得《なっとく》出来ない。
「でも殷雷炉たちは大丈夫だったのかな?」
殷雷刀の力を借りて、半《なか》ばギリギリだったのだ。殷雷炉たちが脱出出来たのかどうかはかなり怪《あや》しかった。
殷雷の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。
「あいつらが脱出しようがしまいが、俺たちには関係がない」
「でも」
「冷《つめ》たい言い方かもしれんが、奴らが脱出に失敗したからといって俺たちには何も手を貸してやる事は出来ん」
和穂は森を見つめ、動こうとはしなかった。和穂の気持ちを思えば、殷雷は怒鳴《どな》る気にもなれない。
「行くぞ。もしも、あいつらの役に立てるような宝貝が見つかったら、またここに戻ろう。それで納得しろ」
回収すべき宝貝はまだ沢山《たくさん》あるのだ。後ろ髪を引かれる思いで、和穂は歩きだした。
一ノ一ノ一ノ一ノ一ノ一
「……召喚条件はこうさ、この私『善倒《ぜんとう》を追いかけてこの廃村《はいそん》に入った和穂と殷雷を召喚する』すなわち、きみたちは全員が本物ってわけだ。本当だ。嘘だと思うなら調べてみるがいいさ。そして絶望に打《う》ち震《ふる》えろ! この善倒が……」
殷雷刀と和穂は目を丸くして立ちすくんでいた。街道を挟むようにして、廃村があった。ただそれだけの話だった。
和穂と殷雷はその街道を歩いていただけだったのだ。あの森を出てすぐの話だ。
「だ、駄目《だめ》だ。相手を甘く見ていた。善倒は無限《むげん》に存在する。森だろうが平原だろうが、廃村だろうが、そんな物は関係ない。
ありとあらゆる場所で善倒は俺たちに追いかけられ、ありとあらゆる場所で悪あがきの召喚《しょうかん》を行っている!」
和穂は殷雷刀に言った。
「殷雷。森に戻ろう。殷雷炉たちが森からの脱出に必死になっていたら可哀想《かわいそう》だよ。そんな脱出は無意味だって、教えてあげよう」
一ノ一ノ一ノ一ノ一ノ一ノ一
汗《あせ》だくになりぜいぜいと息を吐きながら、殷雷炉と細い方の和穂はへたばっていた。
殷雷刀と刀の和穂の口によって、脱出が無意味だと知らされて意外《いがい》な事に二人は喜んでいた。
「こ、これでもう走らなくていいんだな!」
抱きついて喜んでいるところをみると、二人の中は他人が見るほど悪いものではないようだった。
殷雷刀は腕を組み渋《しぶ》い表情で言った。
「俺が甘かった。謝《あやま》る」
「殷雷……」
「こんな日用雑貨の思いつきに乗せられて、軽はずみな手をうってしまった。予想されて然《しか》るべきだったのに」
怒る以前に自分の息を整《ととの》えるのに殷雷炉は必死だった。
「今は走らなくていいという幸せに包まれてるんだ。何を言われても怒らないぜ」
だが、呼吸《こきゅう》が整うと共に言いようのない絶望感が殷雷炉を襲《おそ》う。
「森から出ても意味はない。何処《どこ》に居ようと善倒に召喚されてしまうんだな?」
刀の和穂は静かに頷《うなず》く。
「はい。善倒の居る世界も無限に存在するわけです。森で追い込まれた善倒も無限なら、それ以外の場所で追い込まれた善倒も無限に居るんです。その善倒の手には無限の甚来旗があって、無限に召喚が行われているのは確実《かくじつ》です」
手を扇《おうぎ》代わりにパタパタしながら、細い方の和穂は言った。
「ありていに言えば、万事休《ばんじきゅう》すってところか。いや、それ以上だね。これは宝貝回収に失敗したっていう次元の問題以上に厄介《やっかい》だ。私たちはここから出られない。どの和穂もこの場所で野垂《のた》れ死《じ》ぬ運命から逃《のが》れられないんだ」
言いつつも細い方の和穂はさばさばしていた。絶望《ぜつぼう》に打ち震えるような素振《そぶ》りは微塵《みじん》も見せていない。大きな地声で和穂は続けた。
「だけど何故だか、あまり深刻《しんこく》な気分になれないのは何故だろう? 深刻どころか、どうしようもない馬鹿馬鹿しさを感じてきた」
それはお前が無神経だからだという、殷雷炉の言葉を和穂は無視した。
ふと、和穂が疑問を口にした。
「そう言や、殷雷斧の姿が全然見えないのは何故なんでしょうか?」
「和穂。そりゃその刀が頼《たよ》りにならないからといって、斧《おの》に頼ろうという態度は感心しないね。私なんかこんな宝貝と一緒《いっしょ》に、文句の一つも言わずに回収を進めてるんだよ?」
殷雷刀も不思議に感じた。
「確かに奴は、一度会ったきり、それ以降は森の中に来ていないぞ。奴の気配《けはい》は全くしていない」
日用雑貨は的外《まとはず》れな分析《ぶんせき》をした。
「! そうか、本当の敵は善倒じゃなくて殷雷斧だったんだ!」
思いつきで喋《しゃべ》っているだけの殷雷炉を、殷雷刀と細い方の和穂はボカスカ殴《なぐ》った。殴ることにより精神を静めようとしている部分もあった。
刀の和穂は言った。
「ごめんなさい。私だけかもしれないけど、状況がややこしくて何か見落としているかもしれない。
召喚条件は、
『善倒を追ってこの森に入った、殷雷と和穂』
で、
『ただし、この状況を無事に打開出来る能力を持った殷雷と和穂』の召喚は禁止。
なんだよね? 召喚条件の方は少しばかりいい加減《かげん》で、既《すで》に甚来旗を回収《かいしゅう》している私たちも召喚されたりしてるけど、召喚禁止条件は確実《かくじつ》に守《まも》られてる。で、いいんだね?」
殷雷炉はぼそりと言った。
「そうか。甚来旗の欠陥《けっかん》は、召喚条件を厳密《げんみつ》に守れない事なんだ。もし、その欠陥を修正《しゅうせい》してやる事が出来れば、俺たちは召喚されずに済《す》む。これか!」
殷雷刀と細い方の和穂は殷雷炉を優《やさ》しく手招《てまね》きした。自分の手柄を誉めてもらえるのかと思い、殷雷炉はぬけぬけと二人に近寄った。
だが、待っていたのは拳《こぶし》の乱打《らんだ》だった。
「どあほうが! どうやって欠陥宝貝の修正をこの場で行う! 万が一そんな事が出来たとしても意味はないだろ! 欠陥を持った無限《むげん》の甚来旗が、俺たちを召喚し続けるんだぞ! この場の甚来旗をどうこうしても仕方あるまい!」
拳の乱打で調子が出てきたのか、殷雷刀の表情が急にふっ切れたものに変わった。
「あ、そうか。くだらん」
次の瞬間、殷雷刀の姿は消滅《しょうめつ》した。
あまりの唐突《とうとつ》さに三人は言葉を失《うしな》う。今回の召喚も甚来旗の破壊《はかい》によって解決《かいけつ》され、またしても元の世界に戻ったのかと、一瞬《いっしゅん》考えたが、姿が消えたのは殷雷刀のみで刀の和穂はその場に残っている。
「殷雷!」
何が起きたのか? 殷雷炉は言った。
「まさか、多重召喚《たじゅうしょうかん》? 召喚の最中に召喚されて……」
細い方の和穂は否定した。
「いや、それはないでしょ。そんなのが起きるのなら、とっくに起きてるはず。だと思うけど?」
あまり確信のなさそうな言葉だった。もう少しばかり説得力のある説明を細い方の和穂は考えようとした。
「だからさ、『あ、そうか。くだらん』という言葉に意味があるんじゃないの。殷雷刀は何かを思いつきそれが『あ、そうか。くだらん』って言葉の意味で」
説明しながら答えを探《さぐ》る態度《たいど》に殷雷炉はいらいらした。
「消えた理由にはなってないぞ。なんで消えたんだ? 奴にそんな能力があるんじゃないだろ」
「私に言われたってね。消えた理由か。殷雷斧は一度しか呼び寄せられなかったって言ってたよね」
「それがどうした?」
「おかしいじゃない。この無限《むげん》の牢獄《ろうごく》ってのは二つに一つしかないのよ。善倒を打《う》ち倒《たお》す能力を持つ者は、一切、この無限召喚には囚《とら》われない。能力のない者は全て無限召喚に囚われる。殷雷斧はどうして、一度きりの召喚で済んでるの? あいつには善倒を打ち倒す能力があるんだかないんだか……」
細い方の和穂の言葉が止まった。
何かを掴んだ。一番|肝要《かんよう》で一番馬鹿らしい部分に自分の手が触《ふ》れたような感覚《かんかく》がしたのだ。沈黙《ちんもく》の後、最後に出たのは次の一言だけだった。
「あ、本当だ。つまらない」
その言葉を残して、細い方の和穂の姿も消え去った。
「げ! 何がどうした?」
殷雷刀と細い方の和穂の姿は消えてしまった。なんの余韻《よいん》もなく元からそこには何も居なかったような静寂《せいじゃく》だけを残して。
残された二人は慌てた。
「和穂! 俺にはさっぱり判らないぞ」
慌てても仕方がない。焦《あせ》っても仕方がない。心の中では判っていても、刀の和穂は焦り慌《あわ》てた。
「大丈夫です。きっと何か理由があるはずですよ」
消え去るなんていうのは尋常《じんじょう》ではない。その理由はなんだ? 今の状況で考えられる理由はなんだろうか?
「消えた理由は……あ、そうか!」
「とか言ってる最中にお前まで消えるんじゃないだろうな!」
和穂は考えた。消えた理由は何か? 一番自然な考えは甚来旗が殷雷たちを元の世界に返したからだろう。でも、なぜ甚来旗はそんな事をしたのだ? 殷雷や細い方の和穂も取り立てて何か行動を行った様子すらない。
和穂はもう一度、考えた。
一度だけしか召喚されなかった、殷雷斧と斧の和穂。唐突《とうとつ》に姿を消した殷雷刀と細い方の和穂。
彼らには何らかの共通点があるはずだ。この世界には居てはいけない理由があるから、彼らはここには居ない。その理由とは?
思い当たるのは召喚禁止条件しかない。
『この状況を打開《だかい》出来る能力を持った殷雷と和穂は召喚禁止』
判《わか》らない。そんな能力を突然身につける事など可能なのだろうか。だが、殷雷たちが消えた理由はそこにあるとしか考えられない。
「消えた理由は、召喚禁止条件に触《ふ》れたからだと思います……」
刀の和穂の口調が妙《みょう》だと殷雷炉は思った。自分の考えをまとめながら喋《しゃべ》るようなその口調は、細い方の和穂が消えたときと全く同じだ。
「消えるなよ! お願いだから消えるなよ」
殷雷炉の言葉は和穂の耳には届いていなかった。
ただ、手探《てさぐ》りながらもゆっくりと真実に向かい和穂の思考は進む。
能力を持つ? 能力とは何か? 一度だけ召喚された殷雷斧。召喚条件。召喚禁止条件。つまらない。くだらない。殷雷たちによる潰《つぶ》しあいを画策《かくさく》した善倒。和穂に能力はなくとも、和穂の持つ宝貝の能力によって崩壊《ほうかい》した善倒の策。召喚条件、召喚禁止条件に使われている言葉。言葉。状況を打開《だかい》出来る能力があればこの無限召喚の外に出られる。そんな簡単に能力の取得《しゅとく》が出来るのか。結局、和穂により同じ世界の和穂と殷雷を言い当てられてしまう善倒。甚来旗を折《お》る、細い方の和穂。麩菓子《ふがし》のようにもろく崩れる甚来旗。折れる甚来旗。殷雷たちによる、潰しあい、何故なら甚来旗は破壊《はかい》したものが居た世界へと流れ着くから。甦菓子。甚来旗。善倒。
刀の和穂は叫ぶ。
「あ! そんなんでいいんだ」
虚空《こくう》を掴《つか》む殷雷炉の手の前で、刀の和穂の姿は消えてなくなった。
「……とうとう、俺一人になってしまったのか」
周囲に広がるのは殷雷と和穂たちによって作られる雑踏《ざっとう》の喧騒《けんそう》だった。
和穂は生あくびを力の限りかみ殺していた。
森の中には和穂の姿しかなかった。
和穂は待った。どれだけの時間が過ぎたのだろうか、唐突に殷雷炉の姿《すがた》が現れた。心労《しんろう》が重《かさ》なったせいか、だいぶ窶《やつ》れてみえる。
和穂は面白そうに言った。
「どう、判った? それともまだ判っていない?」
「うるせい。ちゃんと判ったよ。ちゃんと判って甚来旗に弾《はじ》き飛《と》ばされた」
待ちくたびれたせいか和穂は大きく伸びをした。
「なかなか面白《おもしろ》い回収《かいしゅう》だったね」
無限召喚《むげんしょうかん》という極限状態を面白がる和穂の神経が殷雷炉には理解出来ない。
「面白くもなんともない。腰砕《こしくだ》けの下らん回収だ。大体、あんな力ずくってのは趣味《しゅみ》じゃない。いや、別に力ずくってわけでもないのか」
善倒の仕掛けた状況を打開出来る能力を殷雷炉は身につけていた。それはあまりに単純で力ずくな方法だった。だが、その方法は実行する必要すらないので、力に頼《たよ》らない力ずくの方法であると言えた。
力ずくで構《かま》わない、無理矢理《むりやり》善倒《ぜんとう》の腕《うで》でもなんでも掴んで、その手で甚来旗を破壊《はかい》させる。
それが答えだった。その答えに気がついた者は『状況を打開出来る能力を身につけた』事になる。善倒は甚来旗と共に善倒の居た世界に、殷雷と和穂は甚来旗が破壊されたので元に居た世界へと帰り着く。かくて状況は打開されるのだ。
それに気がつけば、その行動を実際に起こす必要すらなかった。
殷雷炉の肩《かた》に顎《あご》をのせ、和穂は意地悪く質問した。
「一番は殷雷刀で、二番は私。で、ちょっとばかしトロそうだった、あの和穂とあんたのどっちが先に正解に辿《たど》り着いたの?」
無限の世界に存在する無限の和穂。殷雷斧に振り回される俺を助けてくれた斧の和穂や、刀の和穂の誰もが優《やさ》しかった。無限に存在する和穂のほとんどは優しいのだろう。
が、なんでこの和穂だけが例外的にこんな性格をしているのか、殷雷炉は泣けてきた。
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封仙娘娘追宝録外伝
『最後《さいご》の宝貝《ぱおぺい》』
和穂《かずほ》の声は震《ふる》えていた。
「……これで宝貝《ぱおぺい》が全部|揃《そろ》ったのね。七百二十六個の宝貝が全《すべ》て回収出来たんだね」
歳《とし》の頃《ころ》なら十五、六、いつもは柔和《にゅうわ》な笑顔《えがお》を絶《た》やさない和穂の顔だったが、今は極度《きょくど》の緊張《きんちょう》で泣き出す寸前の表情にも見えた。
声だけでなく、小刻《こきざ》みに肩も震えている。
宝貝の完全回収という、この瞬間《しゅんかん》に到達《とうたつ》出来る事を固く信じながら続けた長い長い旅路《たびじ》もついに終わるときが来たのだ。
和穂の言葉を聞いても殷雷《いんらい》の表情《ひょうじょう》はいつもと変わりがないように見えた。
中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》の体に羽織《はお》る黒い袖《そで》つきの外套《がいとう》、長い髪を後頭部で無造作《むぞうさ》に留《と》めたその青年の姿からは殷雷の正体を推《お》し量《はか》るのは不可能であった。
さり気ない所作《しょさ》に表れる、しなやかな動き、猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭《するど》い眼光《がんこう》から、殷雷が一介《いっかい》の武人であるところまでは注意深く観察すれば判ったであろう。だがそれは彼の一面ではあるが本質ではない。
彼は人ではない。
彼の名前は殷雷|刀《とう》。彼の正体は刀の宝貝であった。
殷雷は力強く腕を組み、射《い》すくめるような眼光で和穂をにらみつけながらも、首を縦《たて》に振った。
「ああ。今、このとき、全《すべ》ての宝貝の回収は完了《かんりょう》した。
ふん。これでやっとお前の子守《こも》りから解放《かいほう》されるってわけだ」
宝貝。
仙人が造《つく》りし神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
あまたの民話や神話にその片鱗《へんりん》を見せる宝貝には、尋常《じんじょう》ならざる能力が秘《ひ》められていた。
仙人の住む仙界《せんかい》においてすら、騒乱《そうらん》の元凶《げんきょう》になりうる宝貝は当然、人間の世界には存在してはならない存在であった。
だがあるとき、七百二十六個の宝貝が仙界から地上に撒《ま》き散《ち》らされてしまう事件が起きたのだ。
しかもその七百二十六の宝貝は只《ただ》の宝貝ではなかった。その機能に問題があるとして封印されていた欠陥《けっかん》宝貝だったのだ。
一人の仙人の過《あやま》ちにより封印は破《やぶ》られ、宝貝たちは仙界から人間の世界へと逃亡《とうぼう》を果たした。
当然、仙人による宝貝回収が行われても不思議《ふしぎ》ではなかったが、仙界の長《おさ》たちは宝貝の回収を行わないという判断を下《くだ》したのだ。
宝貝を持つ人間と仙人が戦えば、今以上の混乱が地上に広がるというのがその理由であった。
全てはもはや手遅《ておく》れなのだ。
だが、長たちの決定に一人の仙人が異《い》を唱《とな》えた。仙人による回収がさらなる混乱を巻き起こすというのならば、自《みずか》らの仙術《せんじゅつ》を封印し一人の人間として宝貝の回収を行いたい。
そう願い出たのは、封印を破り宝貝を地上にばらまいてしまった仙人だった。
その仙人の名は和穂。
無口そうなその男は、べらべらとよく喋《しゃべ》った。
「そう。俺は孤独《こどく》な復讐者《ふくしゅうしゃ》なのさ。殺された姉の仇《あだ》をとるという重大な決意を誰《だれ》にも語らず、流浪《るろう》の旅を続ける男なのだ」
そう言われて瑪維《めい》は言葉に詰《つ》まった。
ご大層《たいそう》な決意の嘘臭《うそくさ》さ、微妙《びみょう》に矛盾《むじゅん》しているその言葉、どこから聞き返せばいいのか?
判《わか》りにくい洒落《しゃれ》や冗談《じょうだん》の一種かと思わないでもなかったが、当の本人は至《いた》って真顔《まがお》で巫山戯《ふざけ》ている様子もない。
だから余計に厄介《やっかい》であった。
歳《とし》の頃《ころ》なら二十歳《はたち》ぐらいだろうか、冗談のようにどこにでも居《い》そうな青年ではある。眼光|鋭《するど》いとは間違っても言えないが、瞳《ひとみ》の輝きからは真剣《しんけん》さが滲《にじ》み出《で》ていた。
だから余計に厄介なのだ。
やむなく瑪維は、どこにでもありそうな猫《ねこ》の話をした。
「その昔、ある人が猫を飼っていたのよ。
どこから見ても普通《ふつう》の猫で、普段も奇妙な素振《そぶ》りなんて全《まった》く見せなかった。
で、飼い主が庭をぼんやり見ていると、その猫が木の実をついばんでる小鳥を獲《と》ろうと狙《ねら》っていたわけ。
よっぽど必死だったんだろうね、飼い主が見ているなんてちっとも気がついてない。
小鳥の動きに細心の注意を払《はら》い、足音を殺して忍《しの》び寄り、一気に獲物《えもの》に飛び掛かった。
でも、小鳥は素早《すばや》く猫の動きを察《さっ》して逃げちゃった。
猫は途轍《とてつ》もなくくやしかったのか、
『しくじったか』と、つぶやいた。
ハッと猫が後ろを見ると、飼い主がこっちを見ているじゃないか。
見られてはいけない物を見られてしまって青ざめた猫の表情に、飼い主は少しばかり可哀想《かわいそう》になったのね。
そして飼い主は猫に言ったの。
『何も聞こえなかったよ』と。あいさ、べんべん」
自称《じしょう》、流浪の旅を続ける孤独な復讐者は瑪維に問い返した。
「そうか。口封じのために飼い主を食い殺した、その化け猫を俺に退治してくれと言いたいのだな」
「壊滅的《かいめつてき》に違います」
勝手に怪談《かいだん》にするんじゃないよ、『俺は仇討《あだう》ちという重大な決意を誰にも語らず胸に秘めている』なんて事を世間話|替《が》わりにベラベラ喋《しゃべ》る矛盾を指摘《してき》してるんだと瑪維は言いたかったのだ。だが、この男はあまり口論《こうろん》したい種類の男ではなかった。
「遠慮は要《い》らないぞ瑪維。我《わ》が相棒、塊邪星《かいじゃせい》はいかなる邪《よこしま》なる存在《そんざい》も打ち払う、秘めたる能力がある」
だから秘めたる能力をベラベラ喋るんじゃないよ。と、さっきから遠回しに瑪維は指摘しているのだ。
が、それとても自分の言いたいことから大分ずれていると瑪維は考えた。
どう考えても復讐やら邪なる存在を打ち払うカイジャセイなんて物を信じる気にはなれないのだ。
自分だけじゃない、こんな話を信じる奴《やつ》は一人も居ないはずだと瑪維は信じたかったがそうではなかった。
たった一人、この話を信じた人間が居たのだ。
それがよりにもよって、瑪維が居候《いそうろう》を決めこんでいた、村の長者《ちょうじゃ》だったのが運のつきであった。
長者は長者の呼び名に恥じぬ大金持ちだったが、地味に金を溜《た》め込《こ》む種類の金持ちではなかった。
一体どういうこの世の仕組みになっているか瑪維には想像もつかなかったが、長者は金をドンドン使っていた。
普通の金持ちがやるような、無駄《むだ》づかいにくわえて、食客《しょっかく》とは名ばかりの、旅芸人やら素性《すじょう》の怪《あや》しい人間を屋敷《やしき》に住まわせ、食事の世話をするという道楽《どうらく》を長者は好んだ。
この世には善人《ぜんにん》ばかりではない。お人好《ひとよ》しな長者は絶好のカモに見えただろう。
が、長者は詐欺《さぎ》の類《たぐ》いには全くひっかからなかった。詐欺師にとって致命的《ちめいてき》なまでに長者には欲がなかったのだ。
盗人《ぬすっと》にとっても格好《かっこう》の的であるはずだった。
が、食客たちが邪魔になった。
瑪維が気づいただけでも食客たちの中には盗人がかなりの数まぎれ込んでいたのは確かだった。
だからどの盗人も思うように動けない。
丸々と太った美味《うま》そうなカモが居て、それを狙う盗人が山のように居るのだ。
盗人たちは牽制《けんせい》しあって身動きが取れない状況《じょうきょう》にあり、妙《みょう》な平和が作られていた。
瑪維の本職は旅芸人《たびげいにん》であった。曲芸の類いの芸ではなく、琵琶《びわ》を片手に各地を周り講談《こうだん》や歌を披露《ひろう》する芸人であった。
職業のためか瑪維は見栄《みば》えの良い顔をしていた。目鼻立ちがはっきりしているが、それは化粧《けしょう》のせいであり、いまいち素顔が想像しにくい顔である。化粧のせいで大人《おとな》びて見えるが、年齢は復讐に生きる男とさほど変わりはない。
瑪維は景気の加減で少しばかり食うに困り、長者《ちょうじゃ》の屋敷でしばらく居候をしていたのだ。
講談を生業《なりわい》にしている割には、先刻《せんこく》の猫の話に味も素っ気もないのは、当然、金を貰《もら》った仕事ではないからだった。
瑪維は男に尋《たず》ねた。
「そう言えば、あんたの名前は?」
「天鷹《てんおう》だ」
瑪維も、その名前は知っている。
「そうじゃなくて本名よ」
「偽名《ぎめい》など使うか。天鷹が本名だ」
嘘臭《うそくさ》いまでに恰好のいい名前だ。あまりに恰好良過ぎて、講談でよく使われる名前だった。
あまりに恰好良く、あまりによく使われる名前なので講談の中では平凡《へいぼん》な名前と言っても差《さ》し支《つか》えなかった。
それを本名だと言い切るのだ。
まあ、講談好きの親が子供に名づけるぐらいならばありえるかと瑪維は考えたが、その恰好の良い名前で、しかも復讐に生きているというのは尋常ではない。
復讐に生きる男でも腹が減るらしく、天鷹は長者の屋敷に転がり込み、長者は天鷹の旅の目的を知った。
誰にも語らない、復讐という重大な決意に長者はいたく感動して、彼に手を貸すようにと瑪維に頼《たの》み込《こ》んだ。
助《すけ》っ人《と》役ならば瑪維以上に腕《うで》の立つ食客はゴロゴロ居たが、丁度《ちょうど》その場所に居合わせたのが瑪維だったのだ。
偶然と言うより、腕の立つ食客は、敏感《びんかん》に天鷹から渉み出る厄介事《やっかいごと》の匂《にお》いに感づいて姿をくらませていたせいであった。
講談と歌を生業《なりわい》にしている娘《むすめ》を助っ人に世話されたのだ。瑪維本人は天鷹が丁重《ていちょう》にお断りしてくれると信じていたが、何を思ったのか瑪維の助っ人を承諾《しょうだく》したのだ。
瑪維にとっては迷惑この上ない話だったが、長者の世話になっている以上、嫌《いや》がるわけにもいかなかった。
虎視耽々《こしたんたん》と『偶然に天鷹とはぐれる』機会を探《さぐ》る瑪維であったが、その隙《すき》を天鷹はなかなか見せない。
「で、天鷹さん。どこに向かってるの? あてもなく仇を捜《さが》してるんじゃないでしょうね」
あてもなく捜している可能性が高い気もしないではなかったが、瑪維は一応牽制してみた。
「もし、手がかりがないんだったら、二手《ふたて》に分かれて聞き込みをやりましょう、そう、きっとそれがいい!」
当然、そのまま天鷹とはぐれようという、瑪維の作戦だった。
天鷹は足を止めた。
「邪気《じゃき》だ。邪気の匂いがする。塊邪星《かいじゃせい》が奴《やつ》らの匂いを嗅《か》ぎつけ、武者震いしている」
瑪維は目を輝《かがや》かせた。はぐれるには絶好の機会だ。
「へぇ。そりゃ大変だ。私はどこか遠くに離れた場所に避難してるんで」
「駄目だ。俺《おれ》の近くに居ろ。油断《ゆだん》すると邪気に巻かれてしまうぞ。塊邪星の力で邪気を振り払ってくれる」
塊邪星、塊邪星とさっきから言ってる割には天鷹が武器らしい武器を持っていないのが瑪維には不思議だった。
どうせその塊邪星とやらは、ご大層《たいそう》な剣か刀に決まっているのだろう。復讐に生きる天鷹さんがお使いになる邪気を払う武器が、まさかハタキなんかじゃあるまいなと、瑪維はかすかに笑った。
瑪維の笑いには興味を示さず、天鷹は己《おのれ》の懐《ふところ》に手を入れた。
短刀の類いを取り出すのかという瑪維の予想は大きく外れた。
懐から取り出されたのはホウキだった。
見た目は庭掃除《にわそうじ》や枯れ葉集めに使う、普通のホウキだ。
大きさも普通のホウキと大差ない。すなわち常識的にどう考えても懐には入るはずもないホウキだった。
宝貝回収にあたり、和穂には幾《いく》つかの宝貝が与《あた》えられていた。
小刻みに震える和穂の手に、しっかりと握《にぎ》られた瓢箪《ひょうたん》もそんな宝貝の一つである。
瓢箪の名は断縁獄《だんえんごく》。見た目は普通の瓢箪であるがその内部には莫大《ばくだい》な空間が広がっていた。回収した宝貝は、全てその中に閉《と》じ込《こ》められているのであった。
そして、ついに全ての宝貝は断縁獄の中に回収されたのだ。
少し落ち着いたのか、和穂の声はいつもの調子を取り戻した。そして、意志《いし》の強さを表す少しばかり太い眉毛《まゆげ》が動く。
眉毛が作り上げたのは疑問の表情だった。
「えぇと。この後はどうなるの?」
間抜けと言えば間抜けな質問であった。宝貝回収という、限りなく不可能に近い仕事をやりとげた後には相応《ふさわ》しくない。
だが、さすがの殷雷も間の抜《ぬ》けた質問に怒りを現したりはしなかった。それだけ途轍《とてつ》もないことを和穂はやり遂げたのだ。
「俺に聞かれても知るか!……とはいえ、回収が済んじまったんだから、お前の封印《ふういん》されてた仙術が元に戻るとか、仙界のお偉《えら》いさんたちが迎《むか》えに来るぐらいあるだろうよ、いくらなんでも」
唐突《とうとつ》に和穂の目から涙《なみだ》が溢《あふ》れた。
回収をやり遂げたという感動の涙ではなかった、回収を完了して仙人に戻れるという喜びの涙でもない。
ただ、自分の師匠《ししょう》である龍華《りゅうか》仙人《せんにん》と再び会えるという涙だった。
殷雷は堪《たま》らなく嫌そうに言った。
「頼むから泣くな。あの馬鹿《ばか》仙人に会えるからといって何が嬉《うれ》しいんだか」
和穂が自分の涙の意味を知るよりも早く、殷雷は和穂の涙の理由を悟《さと》っていた。
ばつが悪いのか殷雷は手に持った銀色の棍《こん》を使って伸《の》びをした。棍をゆっくりと振り回しながら生欠伸《なまあくび》をかみ殺す。
和穂は自分の涙を抑えた。今はまだ泣くときじゃない。泣くのは師匠にあってからでも遅くはない。
「宝貝が全部回収されたって、すぐに仙界《せんかい》に伝わるかどうか判《わか》らないもんね」
いや、それぐらい判るだろう。と、殷雷は思ったが、そんな言い争いをしても仕方がないだろう。
自分の与《あずか》り知る話ではないが、仙界は仙界の都合で動いているのだと殷雷は考えた。
「近い、近いぞ! この世ならぬ存在がすぐ近くに居る!」
瑪維は塊邪星を手に草原を駆《か》けていた。
少し遅れ、慌てながら天鷹が後に続く。
「瑪維! 一体、何がどうなっている?」
天鷹には何が何やらさっぱり判らない。
あのホウキの名前が塊邪星だというのは判った。だが、あのホウキは一体なんなのだ?
この世に存在してはならぬ物を打《う》ち払《はら》うとか瑪維は言っていたが、天鷹にはその言葉の意味が判らない。
確かに、あのホウキが尋常のホウキではないらしいのは、天鷹も認めないではなかった。
あのホウキは変幻自在に大きさを変える。もっとも小さい方に姿を変えることはあっても、巨大化をしたりはしないようだが、その一点だけでも普通のホウキでないのは確かだった。
変幻自在に大きさを変える事に比べたら、かなり小さい事ではあるが、もう一つ奇妙《きみょう》な事があった。
あのホウキで、特に何もない場所を掃《は》くと緑色に光る小さな塊《かたまり》がそのホウキの中に搦《から》め取《と》られる事があった。
瑪維の説明によれば、それは邪気の塊で、この世にあってはならない存在らしい。
問題なのはその説明の意味が判らないというところだった。
瑪維の言葉だけでは只《ただ》の血迷《ちまよ》い事《ごと》にしか過ぎなかったが、実際《じっさい》にホウキが掃いた後では掃かれた場所の様子が確かに違っていた。
掃かれた事により、その場所の空気が軽くなったような気がするのを天鷹は肌《はだ》で感じていた。
確かに何かが掃かれている。
かといって適当に好きな所を掃いたところで、その場所の空気が格段に軽くなる様子はなかった。
邪気を払うのだから、邪気のない場所を掃いても何の変化もないのは当然なのかもしれない。
瑪維は言った。
「私だって詳《くわ》しくは判らない。だけどあんただって塊邪星が掃《は》き清《きよ》めた場所がどれだけすっきりしたかは感じたでしょ?」
わけは判らないとしても、天鷹はうなずくしかない。
「そりゃまあそうだけど」
瑪維はホウキのせいで一種の潔癖性《けっぺきしょう》になっているのだと天鷹は直感した。
邪気だかなんだか知らないが、あの淀《よど》みに鈍感《どんかん》な内は全く気にはならないとしても、淀みを一掃出来るとなったなら、淀みが目について仕方がないのだろう。
「私には判るのよ、この世ならざる尋常じゃない気の存在が! 全部払ってやる!」
軽く狂気《きょうき》じみている。さながらホウキに操《あやつ》られていると言ったところだろうか?
「そりゃ気持ちは判るぜ、瑪維|姉《ねえ》ちゃん。邪気だかなんだか知らないが、今まではっきり見えなかったゴミの存在が判るようになって、それを掃く事も出来るんだ。
掃き清めたくなるのは道理ってもんだ」
かといってホウキ片手に村中を駆けずり回る姉の姿を見るのは、弟としていい気分ではない。
やるにしても、もう少し落ち着けと天鷹は言いたかった。
「あらかた村中の邪気は払った。村の中は奇麗《きれい》なもんよ。
でも、何か奇妙な気が近づいて来てるのよ。
せっかく奇麗にしたのに、汚されちゃ堪《たま》らないでしょ」
故にその奇妙な気が村に入る前に打ち払おうという瑪維の考えだった。
「? 待てよ瑪維。邪気が向こうから歩いて来るっていうのか?」
水の淀みや吹《ふ》き溜《だ》まりの感覚で気が淀み、邪気になるというのなら、まだ天鷹は納得《なっとく》した。が、邪気が向こうからやって来るとはどういう意味なのか。
呆《あき》れたように姉は言った。
「だから慌ててるんじゃないの! どんな化け物が来るかは知らないけど、それに打ち勝てるのは塊邪星だけなんだから!」
「いきなり出て来て人をゴミ扱いか!」
殷雷は力なく怒鳴《どな》った。
ホウキを持った娘《むすめ》と、その隣に男が一人、どことなく顔の造作《ぞうさく》が似《に》ているので姉弟か親戚《しんせき》か何かだろうと殷雷は考えた。
瑪維は隙《すき》なくホウキを構《かま》えた。
「あんたの気は尋常じゃない。そっちの小娘も少しばかり奇妙だけど、あんたに比べれば可愛《かわい》いもんよ。
まさか邪気の塊が人間の姿をしてたとは思わなかったけどね!」
殷雷とて宝貝である。尋常ならざる気を出していて当然といえば当然であった。
かといって尋常ならざる気を無神経《むしんけい》に撒《ま》き散らすという真似《まね》をしているのではない。
微《かす》かな気、そしてその気の性質まで鋭く見抜《みぬ》くのは塊邪星の能力であった。
殷雷は肩に担《かつ》いだ棍を軽《かる》く振り回す。棍の動きに合わせ、殷雷の関節がぽきぽきと音をたてた。
「誰が邪気の塊じゃい! 無礼千万《ぶれいせんばん》な奴《やつ》め。まあいい、そのホウキは宝貝だな。さっさと返して貰《もら》おうか。回収せねばならん宝貝はまだ何百もあるんだ。ホウキごときに時間をかけてられるかよ」
殷雷に負けじと瑪維もホウキを振り回す。
「お黙《だま》りなさい。この塊邪星で掃き清めてやる!」
和穂は首を傾《かし》げた。
「幾《いく》ら師匠でも、ホウキの宝貝に戦闘能力《せんとうのうりょく》なんてつけてないよね?」
本気でそう思っているのならば、確認《かくにん》をする必要はない。
和穂の師匠である龍華|製作《せいさく》による宝貝には、一般常識が通用しない事が多々《たた》あったのだ。
万が一、ホウキに戦闘能力があったところで和穂は驚《おどろ》かなかっただろう。それはすなわち万が一が全然万が一になってない事を示していた。
馬鹿馬鹿しかったが、殷雷は嫌《いや》みたっぷりに答えた。
「戦闘能力は『ほとんど』ない。ホウキの宝貝に『ほとんど』戦闘能力をつけなかった、お前の馬鹿師匠の良識《りょうしき》には感服《かんぷく》するな」
もっともな嫌みだけに、和穂はなかなか上手《うま》く言い返せない。
「そこはそれ、いざってときのためだよきっと」
掃除の最中にどんな『いざ』があるのか殷雷は問い詰めたかったが、さすがにそれだけの隙はなかった。ほとんどないとはいえ、塊邪星には一応戦闘能力はあるのだ。
殷雷は軽く棍を構えた。
少しばかり目端《めはし》が利《き》いたのか、天鷹は殷雷の構えの隙のなさに驚く。
「無茶《むちゃ》だ姉ちゃん!」
咄嗟《とっさ》に天鷹は瑪維を止めにかかった。
瑪維はホウキを上段に構え、殷雷の脳天《のうてん》に向けて振り下ろそうとしている。
鳩尾《みぞおち》を突《つ》く、ホウキを打《う》ち払《はら》う、ホウキを握《にぎ》る腕を打つ。幾つかの選択肢があったが、殷雷はホウキの一撃を棍で受ける事にした。
瑪維にしてみれば、力任せにホウキで岩を叩《たた》くのとたいして変わらない。しかも瑪維が想定《そうてい》している打撃点を殷雷は少し外していた。
攻撃を受けられた衝撃で指が痺《しび》れるのは確実だった。
天鷹は姉を助けようと、殷雷と瑪維の間に入ろうとしていたが、間に合わない。振り下ろされたホウキを殷雷は軽々と棍で受けた。
ガン。
鈍《にぶ》い音がした。衝撃で瑪維は塊邪星を手から離す。
ここまでは殷雷の筋書き通りだった。が、少しばかり筋書きからはずれていた。
激突の衝撃でホウキからホタルのように邪気が撒き散らされたのだ。
邪気の保持能力《ほじのうりょく》が弱い。それが塊邪星の欠陥だと殷雷は気がついた。
しばしの時が流れた。少しばかり時間がたち過ぎている。
幾ら何でも、仙界の反応が遅過《おそす》ぎる。
翠嵐吹《すいらんふ》きすさぶ、山中の田園《でんえん》で二人揃っていつまで立ち尽くしていなければならないのだ?
いらいらを隠《かく》しもせず、殷雷は軽く和穂を怒鳴《どな》る。
「和穂。お前、まさか宝貝の数を間違えちゃあるまいな。よく見たら七百二十五個でした! なんてことはないだろうな」
異議《いぎ》を唱《とな》える和穂の手から殷雷はひったくるように断縁獄を取り上げた。
瓢箪《ひょうたん》のどこかに標《しるし》があるのでもない。
だが、使用者の意思に反応して回収済みの宝貝の数を断縁獄は知らせた。
心の表層《ひょうそう》を駆ける僅《わず》かな細波《さざなみ》のような信号だった。視覚《しかく》か聴覚《ちょうかく》か定《さだ》かではない、どちらかといえば、思い出された記憶《きおく》に近いような感触《かんしょく》で数字が伝わる。
七百二十六。
間違いない。断縁獄の中には七百二十六の宝貝が入っている。ついでに言えば三十八日分の食料と百二十五日分の水も入っている。意外にも殷雷は酒を待ち歩かない主義なので、酒は一切《いっさい》入っていない。回収したつもりだが、回収出来ていない宝貝があるわけではない。
「ほら、ちゃんと七百二十六個でしょ?」
自分の言いがかりを素直《すなお》に謝《あやま》るような性格を殷雷はしていない。
「だったらどうして何も起こらない!」
夏が終わり秋も近い。
少しばかり冷たい風が稲穂を揺《ゆ》らし、殷雷と和穂の風も揺らす。
「あ!」
と、ほぼ同時に二人は声を上げた。
「そうか、欠陥宝貝の数は七百二十七個なんだ。殷雷も欠陥宝貝だ!」
和穂には当然、殷雷に対してこれっぽっちの悪意もなかった。
が、面と向かって欠陥宝貝呼ばわりされて殷雷は腹が立った。
和穂の頬《ほお》をひねりあげ、和穂が充分《じゅうぶん》承知している事をわざわざ再度説明した。
説明の間は頬をひねり続けるつもりであろう。
「そうか。お前の馬鹿師匠が俺をお前の護衛《ごえい》とした時の話だな。あの封印《ふういん》の中に居たのは俺を含《ふく》めて確かに七百二十七個の宝貝だったな。が、俺は封印を破《やぶ》られても逃亡《とうぼう》しなかった。人間界に逃げたのは七百二十六個の宝貝だった」
和穂の失敗に付け込《こ》み、他の宝貝のように逃亡するのを殷雷はよしとしなかった。
それはまた武器の宝貝としての甘さに通じるものであり、それこそが殷雷の欠陥と呼ばれているものであった。
人間界にばらまかれた宝貝を回収するのに、仙人の介入《かいにゅう》を禁止したぐらいである。和穂が仙界から人間界に持ち込める宝貝が制限《せいげん》されるであろうことは、和穂の師匠である龍華や、龍華の友人である護玄《ごげん》仙人にとって当然予測は出来ていた。
そこで龍華は、人間界に逃亡したのは七百二十七個の宝貝だと偽《いつわ》りの報告を行い、殷雷に和穂の護衛を頼み込んだのだ。仙術を封じ込められた和穂は殷雷刀を隠し持つようにして人間界に降《お》り立《た》ったのである。
殷雷は大きく頷《うなず》く。
「俺も断縁獄の中に入って、初めて回収が完了《かんりょう》というわけだ」
やっとのことで和穂は頬《ほお》を離《はな》された。ヒリヒリとする痛みで軽く涙《なみだ》ぐむ。
「判《わか》ったんなら和穂。さっさと俺も断縁獄の中に入れてしまえ」
和穂はコクリと頷《うなず》き、瓢箪の蓋《ふた》を外した。そしてゆっくりと瓢箪の口を殷雷に向ける。
後は殷雷の名前を呼ぶだけで、殷雷刀は断縁獄の中に吸《す》い込《こ》まれるはずであった。
断縁獄はその中に大概《たいがい》の物を吸い込む事が出来たが、吸い込まれる事に抵抗《ていこう》の意思を示すものは吸い込めない。
厳密《げんみつ》には名前を呼ぶ必要すらないのだ。和穂が吸い込む意思を示し、吸い込まれる相手がそれを承諾《しょうだく》しているのなら、それだけで吸引《きゅういん》が出来る。
和穂の体が強《こわ》ばっている事を殷雷は知った。
「何やってんだ和穂。早くしろ!」
「……もしも殷雷を断縁獄の中に入れたらどうなるの?」
「どういう意味だ? 俺が入って、めでたく七百二十七個の宝貝の完全回収だ。お前は元の仙人に戻《もど》って仙界に帰れる。そして、あの馬鹿師匠と涙のご対面《たいめん》か?」
ブンブンと和穂は首を横に振った。
「そうじゃない。殷雷はどうなるの?
七百二十七個の欠陥宝貝は私の師匠が造《つく》ったものだけど、そのまま師匠に返されると思う?
これだけの混乱が巻《ま》き起こったんだもん、多分今度は神農《しんのう》様の手によってもっと厳重《げんじゅう》な封印《ふういん》を施《ほどこ》されるかもしれない」
神農。仙界の長《おさ》である仙人の一人の名前である。断縁獄は神農が造りあげた宝貝であった。
和穂の言葉はもっともであった。宝貝が龍華師匠の下《もと》に返されるのであれば、何の問題もない。だが、それは考えにくくもあった。
殷雷は敵《てき》にさえ滅多《めった》に見せないような鋭《するど》い眼光を和穂に向けた。
「余計《よけい》な事を考えるな。何でもいいから俺を断縁獄の中に入れるんだ」
「でも!」
ずい、と殷雷は和穂の前に立ちふさがった。
「ここまで来て、寝ぼけたことをほざいてんじゃねえぞ。俺を回収しなければ、お前の旅は終わらない」
さらに口を開こうとする和穂の頬に殷雷の平手《ひらて》が飛ぶ。
和穂は衝撃によろめき、手に持った断縁獄を落とした。
自分の頬の痛《いた》みなんかはどうでも良かった。和穂は急いで断縁獄を拾《ひろ》おうとしたが、彼女よりも先に殷雷が断縁獄を拾い上げていた。
「殷雷!」
殷雷は断縁獄の口を自分に向けた。
そして和穂に向かい笑った。
「じゃあな和穂」
途端《とたん》、一陣《いちじん》の風が起《お》き殷雷刀は断縁獄の中へと吸い込まれていった。
殷雷の姿は消え、断縁獄は地面に落ちる。
和穂は叫んだ。
「殷雷! 殷雷! 殷雷!」
何かが妙《みょう》だった。尋常ならざる事態《じたい》が起きているのには間違いはなかった。
本来ならばこの異常事《いじょうじ》の原因を探《さぐ》るべきだったのであろうが、今は妙にばつの悪い空気が消え去ってくれるのを待つだけであった。
殷雷は言った。
「そのつまりなんだ。何か馬鹿みたいに盛り上がっていた気がしないでもないが、結局どうなったというんだ」
殷雷の姿を見られて和穂は嬉《うれ》しかった。
嬉しくはあったが、事態《じたい》が異様《いよう》な展開を見せようとしているのに間違いはなかった。
「うん。殷雷が断縁獄に入って、七百二十七個の欠か、ごほん。宝貝が全部回収されたはずなのに」
分析能力《ぶんせきのうりょく》に長《た》ける武器の宝貝たる殷雷は、わざわざ和穂に説明されるまでもなく、おおよその事は判っていた。
だが、今は和穂に喋《しゃべ》らせる事にした。
「回収されたはずなのに、やっぱり何も起こらなかったの」
風が吹《ふ》き、稲穂《いなほ》が揺れた。
「邪気《じゃき》に巻《ま》かれるって何よ? せいぜい肩《かた》こりが酷《ひど》くなるとかそんなんでしょ?」
邪気という物が、今一つ瑪維にははっきりしなかった。
知識としてあるのは、鍼《はり》の先生が肩こりとは肩に邪気が溜《た》まるから発生する、みたいな話をしていた記憶《きおく》だけだった。
「ああ、そうだ」
適当な知識を適当にぶつけただけなのだ。それを肯定《こうてい》されて瑪維は驚《おどろ》いた。
「肩こりぐらいなら我慢《がまん》する! 戦いの邪魔になると申し訳ないんで私は遠くで隠《かく》れておくね」
逃げようとする瑪維の首根《くびね》っこを天鷹は掴《つか》んだ。
「邪気に肉体が抵抗《ていこう》して肩こりが起きるだけならまだいいさ。だが、邪気の量が多過ぎて最悪の場合」
瑪維は生つばをのんだ。
「死んじゃうの?」
天鷹は首を横に振った。
「死にはしない。ただ、惑乱《わくらん》が起きる」
「惑乱って何?」
「惑乱は惑乱さ」
混乱《こんらん》や錯乱《さくらん》のことを天鷹は言っているのだろうか?
「わけが判《わか》らなくなるの?」
珍《めずら》しく天鷹は少し困《こま》った顔をした。
「訳は判っている。反応も通常と同じ。だけど惑乱してるんだ」
「……夢《ゆめ》を見てるような感じ?」
「近いと言えば近いが、やはり少し違う。規模《きぼ》の大きい思い違いが起きるのさ。
事実ではないものを事実と信じる。……いやこれも違うな。信じる信じないの話じゃなくて、事実でないものを何の疑《うたが》いもなく事実として受け取ってしまうんだ」
天鷹の説明で瑪維は判ったような判らないような妙な気分になった。
「それってつまり夢じゃないの」
天鷹はやはり首を横に振った。
「夢じゃないんだよ。まあ無理して理解する必要はない。理解したところで、巻かれてしまえば何も出来ないからな。でも心配は無用だ。こっちには塊邪星《かいじゃせい》がある」
天鷹の周囲には強烈《きょうれつ》な邪気が立ちこめていた。ここまで強烈な邪気を見た記憶は天鷹にはなかった。
何かが妙である事は瑪維にも判った。肩こりでもなんでもいい、不快感が起こって然《しか》るべきなのに、対象が強烈過ぎて抵抗反応さえ起きてこないような恐ろしさがあった。
が、それとて天鷹の今までの話があったから気づいたのかもしれない。
言われていなければ、この奇妙《きみょう》な空気に何の疑問も覚えなかっただろう。
天鷹はくるりと塊邪星を振《ふ》り回《まわ》し、足下《あしもと》を掃いた。
ざっざっ。
何を掃いているのか? 何も見えなかったがホウキには確かに何かの手応《てごた》えが見て取れた。
ざっざっ。
「ホタル?」
ホウキに緑色の小さな光が巻き込まれていった。
ざっざっ。
唐突に風の匂《にお》いが変わった。
周囲にあった草原は消《き》え果《は》て、そこには田園《でんえん》風景が広がっていた。
「!」
瑪維は意味が理解出来ずに驚《おどろ》き、天鷹は意味を理解して驚いた。
「ほお。これは凄《すご》い。土地まで邪気に巻かれていたのか」
「そんな事って!」
「だから言ったろ。夢とは違うと。ま、土地だって夢ぐらい見るのかもしれないがな」
瑪維は場違いな疑問を覚えた。
そう言えば、私の商売道具である琵琶《びわ》は一体どこにあるんだろう?
「何が足りないというのだ!」
七百二十七個の宝貝は全て断縁獄の中に回収した。それなのに何故《なぜ》、何も起きないのだ? 殷雷は考えを巡《めぐ》らすが、理由は一向に判らない。
和穂もきょとんとしながらも、頭を絞《しぼ》って考えていた。
「まさか破片《はへん》とかそういう物が足りない?」
「ありえない話じゃあるまいが、それならば断縁獄が数として勘定《かんじょう》していないはずだ。それに、断縁獄に吸収するときに微細《びさい》な破片も一緒に吸収されているはずだぞ」
宝貝を回収しても宝貝の残骸《ざんがい》が人間界に残ったままならば、少しばかり厄介《やっかい》な事になる可能性はあった。
幾《いく》つかの宝貝は回収に際《さい》して、破壊《はかい》されている。破壊された宝貝を断縁獄に吸収する時には、ほんの微《かす》かな破片も同じように回収されているのを殷雷はその目で見ていた。
破片が広範囲に散らばっているせいで、回収の勘定に入っていない宝貝があるとも考えられない。もしそうなら断縁獄が七百二十六という数字を弾《はじ》き出《だ》さないはずである。
「もしかして断縁獄の調子がおかしいのかな? 間違った数を教えているのかも?」
無意味《むいみ》な仮説《かせつ》だった。
当の殷雷も回収《かいしゅう》した宝貝の名前は全て記憶しているのだ。その数は七百二十六で間違いはなかった。
「そんな筈《はず》はない。奴が七百二十六個目の宝貝だった」
「ふっ。ついに見つけたぞ、この世ならざる邪気の塊《かたまり》め!」
殷雷は少しばかり驚《おどろ》いた。
男と女の二人連れが、背後から声をかけてきたのだ。今までそんな気配《けはい》は全くなかったのにだ。
奇妙であるが殷雷はさほど興味を持てなかった。宝貝は全て回収しているのだ。
今さら少しばかり変なのが出てきても慌《あわ》てる必要がない。
それでも、男の手にあるホウキが妙《みょう》に殷雷の癪《しゃく》に障《さわ》った。
「我が名は天鷹、そしてこのホウキが塊邪星。こっちにいる娘さんは瑪維だ」
ご丁寧《ていねい》に名前の紹介をしている時点で、この二人は脅威《きょうい》になりそうにない。
そう殷雷は判断し、自分の判断に妙に苛《いら》ついた。
和穂は隣《となり》でペコリと二人に挨拶《あいさつ》をした。
「何か御用《ごよう》でしょうか?」
「ふっふっふ。お嬢《じょう》さん、今助けて上げるから、安心しなさい」
瑪維の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄《よ》る。
邪気を払い、邪気に巻かれて自分が草原だと思っていた畦道《あぜみち》を正気に戻した現場を目撃《もくげき》しているとはいえ、やはりホウキを片手に見得《みえ》を切る姿は恰好《かっこう》がいいとは思えない。
道服姿の娘はともかく、銀色の棍《こん》を手に持つ男の冷たい視線《しせん》が痛かった。
「では参《まい》るぞ! 覚悟《かくご》しろ!」
天鷹は弾《はじ》けるように跳躍《ちょうやく》した。
なかなか素早《すばや》くいい動きだが、並みの人間に不可能な動きではないと殷雷は判断し、殷雷はやはり自分の判断に苛《いら》つきを感じた。
宝貝は回収してあるのだ、男の持つホウキは宝貝の筈がない。
どんなに宝貝のように見えても、宝貝である筈がない。
本気で天鷹と打ち合うことは、天鷹のホウキが宝貝であると認めてしまう事になる。
殷雷は和穂の襟首《えりくび》を掴《つか》み、天鷹の進行方向から体を逸《そ》らした。
天鷹は交錯《こうさく》する視線の中で、ニィと笑った。
ホウキが振り回されたが、それは間合いの外の話であった。ホウキは殷雷や和穂に触《ふ》れる事は出来ない。
「そこまでだ」
ホウキの斬撃《ざんげき》が和穂と殷雷の側《そば》をかすめた。
当たってはいないが、ホウキに何かの手応《てごた》えがあるのを殷雷は見て取った。
今の斬撃は命中したのか?
ホウキは緑色の光の塊を搦《から》め取っていた。
途端、和穂と殷雷は惑乱から目を覚ました。
和穂は呆気《あっけ》に取られていた。
「! 勘違《かんちが》いだったの? 宝貝を全て集めたというのは……」
天鷹は不敵《ふてき》に笑った。
「お嬢さんたちは邪気に巻かれていたのさ。事実でないものを事実と認識して、その誤謬《ごびゅう》の中に囚《とら》われていた。
だが、我が塊邪星の手により邪気は打ち払われたのだ!」
殷雷はばつが悪そうに言った。
「判ってしまえば、どうしようもなく下らん話だ。邪気のせいでちょっとした混乱状態に落とされていただけなのか」
なんたる不覚をとってしまったのかと殷雷は不機嫌になった。
邪気は邪気だ。それ自身になんら意思はない。たまたま偶然《ぐうぜん》、状況としてあり得《え》そうな惑乱を起こしたに過ぎない。
それは一時の幻惑《げんわく》であったはずだ。天鷹が現れなくても、殷雷は宝貝回収は真実ではないという結論に辿《たど》りつけただろう。
しかし、邪気に巻かれた事実が殷雷には腹立たしかった。
天鷹は勝《か》ち誇《ほこ》っていた。
「ふむ。礼には及《およ》ばない。我が塊邪星の力の前では」
無口そうな表情で饒舌《じょうぜつ》に己の置《お》かれた状況や復讐という使命について、天鷹は語り続けていた。
一心に語り続けていたせいで、殷雷が刀の姿に戻り、和穂が殷雷刀を構えて自分に近寄って来ている事にすら気がつかない。
抜き身の刀を手に歩み寄って来ているのだ。少しばかり気おくれして瑪維は後ずさったが、間合いは詰《つ》められるばかりだった。
殷雷刀を片手にした和穂から漂《ただよ》うのは、背を向けて逃げ出せるような甘い気迫《きはく》ではなかった。
間近に迫る和穂を見て、慌てて天鷹は塊邪星を構えた。
「どうした? 邪気は払ったはずだぞ!」
天鷹と瑪維は刀の間合いに囚われていた。
間合いの中に居《い》るから生かされている、間合いから出ようとすれば、即座《そくざ》に斬《き》り伏《ふ》せられるような気合いが、二人を包《つつ》む。
そして、殷雷刀の斬撃《ざんげき》が走った。
何処《どこ》を斬られたのか、天鷹には判らなかった。恐《おそ》らく、脅《おど》かすだけ脅して塊邪星を切断《せつだん》したのだろうと考えたが、そうではなかった。
でも、確かに刀は何かを斬っている。
何かを斬り伏せた音が届いていたのだ。
ぞくりとした寒気を胸に、天鷹は瑪維の居る場所に視線を走らせた。
そこには天鷹と同じように、背筋《せすじ》を凍《こお》せた表情の瑪維が居た。
天鷹が見る限り、どこも斬られた様子はない。が、次の瞬間にパッと真っ二つになるのではないかという恐怖が付きまとう。
掠《かす》れる声で天鷹はどうにか瑪維に声をかけた。
「だ、大丈夫か姉《ねえ》ちゃん」
姉ちゃん? 姉は死んだのではなかったか、姉の復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》い俺は旅を続けていたのではなかったのだろうか、いや本当はどうだったのだろうか?
とっくの昔に殷雷刀は再び人間の姿に形を変えていた。
さっきまでの、殷雷の不機嫌な表情は少しばかり晴れていた。
「ふむ。これで借りは返したぞ」
天鷹と瑪維の隣では、切り払われた邪気が周囲の光の中に埋《う》もれ薄《うす》まりはじめていた。
和穂から断縁獄を受け取り、殷雷は塊邪星を断縁獄に入れた。
天鷹と瑪維の姉弟は塊邪星を手放すことに難色を示しはしなかった。
実際自分たちが邪気に巻かれた事により、塊邪星の危険を身に染《し》みて知ったからだ。
些細《ささい》な邪気を払っている分には、何の問題もない。が、塊邪星は邪気を消滅《しょうめつ》させているのではないのだ。
己の中に邪気が蓄積《ちくせき》され、その蓄積された邪気が何かの弾《はず》みで撒《ま》き散《ち》らされれば、また邪気に巻かれるかもしれない。手放して当然と言えば当然だった。天鷹たちに近づいていた和穂たちも、そうやって撒き散らされた邪気に捕《と》らわれてしまったのだろう。
断縁獄からは、現在その中に回収されている宝貝の数が殷雷へと伝わった。
目眩《めまい》いがする程《ほど》、先は長そうだった。
殷雷は和穂に断縁獄を渡《わた》し、歩き始めた。
歩きながらチラリと横目で和穂の表情を見た。
塊邪星その物は邪気によってどんな惑乱を起こすか制御《せいぎょ》する能力はない。あの惑乱は偶然起きただけに過ぎないのだ。
だが、それにしても残酷《ざんこく》と言えば残酷な惑乱だと殷雷は思った。
宝貝が全て揃《そろ》ったと喜んだのに、それは一種の錯覚《さっかく》に過ぎなかったからだ。
さぞや和穂は落ち込んでいるだろうと思ったが、いつもの笑顔に変わりはない。
「拍子抜《ひょうしぬ》けしたな。もう少しがっかりするなり落ち込むなりしろよ。そんなにお前は能天気な奴だったか?」
落ち込んだ姿を見せないために、無理矢理《むりやり》笑顔を作っているのかと考えたが、どうもそういうわけでもないらしい。
「あれぐらいのこと、大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
「嫌だ嫌だ。お前も人間の世界に長く居過ぎたせいで図太《ずぶと》くなってしまったのか。まあ、もとより繊細《せんさい》ってわけでもなかったが」
殷雷の言葉に和穂は怒《おこ》ったりしなかった。
「宝貝が回収出来たと思ったときは、そりゃ嬉《うれ》しかったよ。
でも、その後、殷雷と離《はな》れ離《ばな》れになるかもしれないってなったとき、とても哀《かな》しかったの。だからかな? 全《すべ》てが本当じゃないって判《わか》ったとき、なんだか少しホッとしたの」
絶望的な旅のもっとも望《のぞ》ましい結末。それとても殷雷との永遠の別れである可能性があるのだ。
だが、和穂は前に進むしかない。
「ふん。俺は清々《せいせい》としてたんだがな」
精一杯《せいいっぱい》の嫌みを言ったつもりだったが、殷雷の表情はひきつっていた。
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封仙娘娘仙界編
『きつね狩《が》り』
「狸《たぬき》じゃないか」
「うむ。狸だな」
「でも、狸じゃないんだろ」
「ああ、狸じゃないんだろうな」
護玄《ごげん》の言葉は要領《ようりょう》を得《え》ない。
護玄から手渡《てわた》された宝珠《ほうじゅ》を龍華《りゅうか》はもう一度|覗《のぞ》きこんだ。宝珠の中に刻《きざ》みこまれた映像《えいぞう》の記録は焦点《しょうてん》がぼやけていた。
奇妙《きみょう》な記録である。
一瞬《いっしゅん》の出来事を辛《かろ》うじて記録したのならば、この程度《ていど》のぼやけは起こりうるだろう。
が、映像は一瞬ではない。かなり長い間ぼやけた映像が続いていたのだ。
ぼやけながらも、そこに映《うつ》っているのは狸の姿に他《ほか》ならなかった。
「まさか、狸っぽい毛並《けなみ》の丸顔の狐《きつね》じゃあるまいな?」
龍華の疑問《ぎもん》に護玄は答えない。問題の焦点はこの映像が狸か狐であるかには、あまり関係していなかったからだ。
わざわざ護玄|自《みずか》ら、九遥洞《きゅうようどう》の宝貝工房《ぱおぺいこうぼう》にまで出向くからには、少しは面白《おもしろ》い話を持ってきたのかと思っていた龍華は急速に興味《きょうみ》を失った。
ぽいと宝珠を放《ほう》り投げ、龍華は工房の大机《′おおづくえ》に向かった。
工房の主にしか理解|出来《でき》ない秩序《ちつじょ》で、工房の中には色々な物が散乱《さんらん》している。どこまでが工具でどこまでが材料か。どこまでが試作品《しさくひん》でどこまでが部品なのか、さすがの護玄にも見当はつかない。
放り出された宝珠を受け取り、護玄も大机の前の椅子《いす》に座《すわ》った。
客人の護玄に茶を出す者もいない。
「目撃者《もくげきしゃ》の話じゃ、確《たし》かに狸だったそうだ。少しばかり毛皮《けがわ》のツヤが尋常《じんじょう》でない美しさだったらしいが」
護玄の話を聞いているのかいないのか、龍華は机の上の部品を神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで吟味《ぎんみ》している。
「さっさと要点を言いなよ。どうせ厄介事《やっかいごと》なんだろ?」
龍華と同じような神妙な表情で護玄は言った。
「この狸が仙人《せんにん》を狩《か》っている」
消えかけた興味が少しばかり元に戻りかけたのか、龍華の視線が捩《ね》じくれた鉄板から護玄の顔に移《うつ》る。
「おやおや。丸顔の狐疑惑を持つ狸の手によって仙人|殲滅《せんめつ》、仙界|消滅《しょうめつ》の危機《きき》ってことかい。そいつは大変だな」
もしそれが本当なら、今ごろはもっと大騒《おおさわ》ぎになっているだろう。龍華の耳にはそんな話は伝わっていない。
「正確には返り討《う》ちなんだがな。ちょいと珍《めずら》しい狸だから、仙人連中が捕《つか》まえようとちょっかいを出したんだが返り討ちにあって、狸には逃げられてるって寸法《すんぽう》さ」
机の上の部品を幾《いく》つか組み上げ、龍華は煙管《キセル》を造《つく》りあげた。今造り上げられたばかりのはずの煙管には何故《なぜ》か火が点《とも》っていた。
「仙獣《せんじゅう》か。博学泰斗《はくがくたいと》な護玄先生のその態度《たいど》からして、新種だな?」
「うむ。狸にちょっかい出して、返り討ちにあったなんて話をわざわざ誰《だれ》も口にしなかったんだが、噂《うわさ》ってのはどこからともなく流れるからなあ。
今じゃ知る人ぞ知る狸ってわけさ」
返り討ちにあったのは恥《は》ずかしいが、そのままうやむやにしておくのも悔《くや》しい。そこでさり気なく探《さぐ》りを入れていくうち、噂が立ち上った程度の話であろう。
「返り討ちといったところで、たかが知れているんだろ?」
生きるか死ぬかの重傷《じゅうしょう》を負ったならば、もっと話は広まっているだろう。その素振《そぶ》りは全くない。
「そうだな。共通しているのは全身ズタズタに切り刻まれて、身動きがとれなくなり、その隙《すき》に狸は逃亡という流れさ」
「仙人様が全身バラバラとは情けないねえ。仙人じゃなきゃ死んでた。ってとこかい」
面白《おもしろ》そうに龍華は笑う。
なんの事はない、護玄は与太話《よたばなし》をしにきただけなのだ。元が真面目《まじめ》で表情も真面目なものだから、妙《みょう》に勘繰《かんぐ》ってしまっていたのだと龍華は考えた。
「龍《りゅう》や虎《とら》の大型獣ならまだしも、そんな小動物に後れを取るとは、ふぬけた連中も多いもんだな」
護玄はもう一度、宝珠を龍華に渡した。
何の気なしに龍華は宝珠に目を落とす。今度は狸の映像ではなく、ただの名簿《めいぼ》だった。
「なんじゃい、これ?」
「自己申告《じこしんこく》ってわけじゃないんだが、周辺の調査《ちょうさ》で明らかになった、狸に返り討ちにあった仙人の名簿さ」
冷たい微笑《ほほえ》みで龍華は名簿を見た。
「ほほお。名前が挙《あ》がって当然《とうぜん》の、おっちょこちょい連中に交ざって、面白い名前もあるじゃないか」
龍華の例を取るまでもなく、仙人とて聖人君子《せいじんくんし》の集まりではない。利害《りがい》、怨恨《えんこん》により対立関係にある仙人たちも当然|存在《そんざい》する。
龍華の場合、対立関係にある仙人が通常《つうじょう》の仙人と比べて少しばかり数が多かった。
名簿の中には、そんな仙人の名前も交ざっていたのだ。
「一門から邪仙《じゃせん》を出して、それを私に討伐《とうばつ》されたからといって私に逆恨《さかうら》みしている愉快《ゆかい》な連中が交ざってるな。そんなんだから狸に後《おく》れをとるんだよ」
「うむ」
「聖人護玄先生にしちゃ、私|好《ごの》みの面白い情報を持って来てくれたじゃないか。いやはや珍《めずら》しく礼を言うぞ」
護玄の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。
「で、その一門がごねてるんだよ」
「?」
「あの狸は仙獣じゃなくて宝貝なんじゃないかってな」
「へぇ」
「確かに仙獣にしちゃ怪《あや》しい点も幾《いく》つかあるんだ。新種にしちゃ、そんな辺境《へんきょう》で見つかったわけじゃない。私もあれが、仙獣か宝貝かの判断は出来ていない」
「ほぉ。で?」
ずいと護玄は身を乗り出し龍華の前に顔を出す。
「あの狸って、お前が造った宝貝じゃあるまいな?」
「失礼な! だいたい仙人に手傷《てきず》を負わせるような、危険な宝貝を野に放つなどという、非常識|極《きわ》まりない事を私がするというのか!」
鼻白《はなじら》む表情で護玄は言った。
「そうだね」
怒鳴《どな》っている本人は、別に護玄に向かって口泡《こうほう》を飛ばしているわけではなかった。
必死に宝珠を覗《のぞ》きこみ、ぼやけた狸の姿と自分の記憶を参照《さんしょう》している。
「神農《しんのう》の舌にかけて誓《ちか》ってやるぞ! あんな宝貝を造った記憶はない」
「『造ってはいない』じゃなくて『造った記憶はない』か。造ったのを忘れてた場合は、今の誓いにひっかかるのかい?」
答えず龍華は咳払《せきばら》いした。
「で、なにかい? 護玄先生は私を疑って調査に来たって事なのか。まあ、普段《ふだん》の素行《そこう》がちょっとアレなのは自覚してないわけでもないので、怒《おこ》りはしないさ。嫌疑《けんぎ》が晴れたんならさっさと帰りな」
どこらへんの嫌疑が晴れたのか、護玄には理解しがたかった。もとより、誰かの勅命《ちょくめい》で龍華の調査に来ていたわけでもない。
「上の指示で動いてここに来たわけじゃないよ。なんにしろ、そろそろ本格的《ほんかくてき》に狸狩りが始まると思われる。
それ以前にちょっと面白い獲物《えもの》だから仙人連中の中にも、本気で狩りを仕掛《しか》ける奴《やつ》も出て来る頃合《ころあ》いだと思う。
新種の仙獣にしろ、廃棄《はいき》か逃亡《とうぼう》宝貝だったにしろ結論を出さずに済ます道理もないからな」
何かに思い当たったのか、龍華は不敵《ふてき》に笑った。
「なるほど。万が一、あいつら一門が狸を狩ったなら、証拠《しょうこ》を偽造《ぎぞう》して私が造った宝貝だって事にしかねないな。厄介事《やっかいごと》になる前に、こっちで捕まえようって肝《きも》だな護玄?」
「まあ、大筋《おおすじ》でそうだ」
適当《てきとう》に護玄は話を合わす。
そうそう証拠の偽造など出来る話ではないと護玄は知っていた。その可能性よりも、龍華が本当に狸の製作者であった可能性を危惧《きぐ》しているのだ。自分で回収《かいしゅう》したのならば、まだ申し開きがたつであろう。
「でも意外だな、龍華。自分の身の安全を守るために手間をかけるとは正直《しょうじき》期待していなかったぞ」
不敵な笑みはまだ消えていない。
「保身《ほしん》なんていう、卑俗《ひぞく》な話なんてどうでもよい。
それよりも、あいつらが一杯食《いっぱいく》らわせられた狸を私が軽々《かるがる》と狩ったら、あいつらの面目丸潰《めんぼくまるつぶ》れじゃないか」
「そういうのは、卑俗な目的とは言わないのかよ」
いちいち気にする龍華ではない。
護玄は口調を改《あらた》めた。
「これで話がついたな。
さて、狩りの方法はどうする? 虚《きょ》を衝《つ》かれたのかどうか知らないが、たとえ本気じゃない仙人とはいえ、返り討ちにした狸だ。こっちも用心してかからないと、他《ほか》の連中と同じ目に遣《あ》わされるやもしれん。
こういう狩りの類《たぐ》いは正直、私は苦手でな。
龍華よ、お前の方が手慣《てな》れているだろ」
流石《さすが》の龍華も少しばかり思案《しあん》した。
「おう。狩りは慣れている。で、その狸って神出鬼没《しんしゅつきぼつ》なのかい?」
「いや、厭湿《えんしつ》の大湖《たいこ》から動こうとはしていない」
「無水の大湖か。なるほど、仙獣の線を捨て切れんわけだ」
厭湿の大湖。水の禁地に存在する、水のない湖である。独自《どくじ》の生態系《せいたいけい》が存在してはいるが基本的には只《ただ》の窪地《くぼち》に過ぎない。
が、隠伏《おんぷく》の術《じゅつ》が効果《こうか》を発揮《はっき》出来ないという特徴《とくちょう》がある。自生の植物に流れる樹液《じゅえき》が水に近い性質を持つので各種の動物の住《す》み処《か》となっている。
趣味《しゅみ》で仙獣を狩り、乗騎《じょうき》とする仙人は多い。
そのため、多くの仙獣は隠伏の術が効かないこの地に生息《せいそく》している。
「確実性《かくじつせい》を増すために、対狸用の宝貝でも造った方が良いよな? どんな宝貝が有用なのか私には判らないんだが」
護玄の話を聞《き》きながら、既《すで》に龍華は机の上に紙を置き、図面を引き始めていた。
「了解《りょうかい》だ。狩りに使う道具は私が造る」
「うむ。任《まか》せたぞ。製作日程を考えて、一ヶ月後ぐらいに狩りを決行するか? 急《せ》かすようで悪いが、他の仙人が動きだす可能性があるからな。適当に仕事を分担《ぶんたん》してくれれば、私も協力する」
「いや、明後日《あさつて》には出来てるんじゃないか」
いつもながらの軽い脱力感《だつりょくかん》と憤《いきどお》りに似《に》た絶望感《ぜつぼうかん》を護玄は味わう。龍華と会話をする時にはよく現《あらわ》れる感覚《かんかく》だ。
事件がややこしくなる前兆《ぜんちょう》は、いつも龍華の態度《たいど》に現れている。
「明後日ってなんだ! そんな時間じゃ基本設計も出来ないだろう」
さらさらと龍華は図面の上で筆を走らせている。既に完成品の輪郭《りんかく》とおぼしき物が見えてきている。
「対狸用に投入《とうにゅう》した宝貝が、狸以上の厄介事を巻き起こすなんてオチはやめてくれよ」
気さくな冗談《じょうだん》と思ったのか、龍華は笑った。
「そんな間抜けな不始末《ふしまつ》する仙人が何処《どこ》に居《い》るってんだい」
ぼやく護玄をなだめる手間すら龍華はかけていない。
護玄にしても狩りに関して具体的な提案《ていあん》が出来ないだけに口調が重い。
「護玄、そんなに心配なんだったら狩りは一人でやるよ」
「心配だから首を突っ込んでるんじゃないか!」
やれやれと龍華は首を振る。
「損《そん》な性格だな。悪い性格はさっさと治《なお》すに限るよ」
「私か? 私なのか? 事件をさらなる混迷《こんめい》に導《みちび》いた責任者は?」
「心配性《しんぱいしょう》だな。どうせたいした事にはなりはしないさ」
「……五日後に来る。その間に、せめて宝貝の動作確認だけはしっかり頼む。それと私が来るまで、絶対に狩りには行かないでくれよ」
機嫌《きげん》がいいのか、図面を描《えが》きつつ空いた左手を振り、龍華は護玄に別れの挨拶《あいさつ》をした。
ごろりと笑飆《しょうひょう》は大地に身を投げ出した。
見る者が見れば、またとない奇景《きけい》なのだそうだが笑飆には実感がない。この辺りの大地を覆《おお》う植物はたった一つの株《かぶ》から生えているそうだ。しかも、その植物の根はここより遥《はる》かに離《はな》れた場所に存在するという。
草原を形作る無数の草も視界《しかい》の所々《ところどころ》に見える巨木《きょぼく》や森も、同じ種類どころか全《まった》く同一の植物だというのだ。本来なら砂漠《さばく》以上に生命とは無縁《むえん》の厭湿の大湖だが、この気まぐれな植物のおかげで生命に満ちあふれていた。
笑飆は仙人である。
だが、外見は仙人じみてはいない。
歳の頃は二十歳《はたち》程度の青年で若く見える。もっとも仙人の外見|年齢《ねんれい》はあてにはならない。
短めの髪に少々|痩《や》せ気味《ぎみ》であったが、それは精悍《せいかん》さという印象しか与えていない。眼光《がんこう》は鋭《するど》かったが殺気《さっき》に満ちあふれている様子ではない。
ざわざわと風が草を揺らす。
水が存在しない世界の風は、確かに通常の風と匂《にお》いが違っていた。
笑飆が身にまとっているのは道服《どうふく》ではなかった。狩人《かりゅうど》が身にまとうような質素《しっそ》ではあるが動き易《やす》そうな服であった。
柔《やわ》らかくはあるが、風ではためく部位はなかった。
内側に湾曲《わんきょく》した世界の底で笑飆は寝転《ねころ》がっていた。
この地では隠伏《おんぷく》の仙術は意味をなさない。
だが、身を隠す事は出来る。
消えてなくなる事は出来なくとも、その地に存在するものと一体化するのは可能であった。
別段と難《むずか》しい話でもなかった。この地で過ごし、この地に慣《な》れていけば、存在の質はやがて同化していく。手間はかかるが仙術に頼《たよ》る必要はない。
うつ伏《ぶ》せになりながら、笑飆は彼方《かなた》にある森の中を見た。
厭湿《えんしつ》の大湖《たいこ》の中に存在《そんざい》するその森の中に例の狸《たぬき》はいる。
落ち着き、狸の動きを分析《ぶんせき》する事が、狩《か》りにとっての重大事の一つであった。
視線を感じたのか、一瞬狸の動きが止まった。
こうやって、この地に同化し、狸の観察《かんさつ》を始めて何日が過ぎただろうか。
分析はかなり進み、狸の挙動《きょどう》も大分理解出来てきた。だが、絶対の自信を得るところまでは来ていない。恐《おそ》らく、絶対の自信を得るのは不可能なのであろう。
極限《きょくげん》にまで切り詰《つ》めれば、追い詰められた狸の行動は三、四種類に限定される。問題はそのたった三つか四つの行動のどれをとるかが判らないのだ。
違いと言っても微妙《びみょう》な差異《さい》で、しかしその差異が狩りにとっては重要であった。
「理《り》で詰めるのにも限界があるか。後は咄嗟《とっさ》の判断、直感頼りしかあるまい」
てこずりながらも笑飆の声は楽しげであった。焦《あせ》りを抑えるのも狩りの楽しみの一つであったからだ。
「狸狩りですか?」
恵潤《けいじゅん》は龍華に渡された宝珠《ほうじゅ》を覗《のぞ》きこんでいた。そこに映《うつ》っている妙《みょう》なぼけ方をした映像は確かに狸めいて見えた。
「不服かい?」
「創造主《そうぞうしゅ》たる龍華仙人|直々《じきじき》の勅命《ちょくめい》とあらば、この恵潤刀、命に代えても任務遂行《にんむすいこう》にあたります。とかなんとか言えばいいんですか?」
やめろやめろとばかりに、龍華は手を顔の前で振った。
工房の中、龍華の前に一人の娘が立っていた。流れるような長い髪《かみ》に、あどけなさと鋭《するど》さが混じり合った奇妙な眼光を持った少女であった。
袖付《そでつ》きの外套《がいとう》をまとっているその少女は仙人ではなかった。彼女の名は恵潤刀。その正体は龍華が、この一件が起きる少しばかり前に造った刀《かたな》の宝貝《ぱおぺい》である。
「もしかして御機嫌斜《ごきげんなな》めなのかい、お嬢《じょう》ちゃん」
「はい」
「そうかい、それは残念。でもそんなのはどうでもいいから本題に入るとしよう」
「私は、任務のより好みで怒《おこ》ったりはしません。狸狩りとは別の話です」
「その狸ってのは」
「納得《なっとく》がいかないのは私の能力についてで」
「普通の狸とは訳《わけ》が違《ちが》って」
「私の索敵手法《さくてきしゅほう》が殷雷たちと違うのは何故《なぜ》なんですか?」
工房の机をバンと叩《たた》き龍華は怒鳴《どな》る。
「お嬢ちゃんは人の話は聞《き》かない、その上、頑固《がんこ》ときたもんだ、か。
あぁあぁ、その件に関して私も似たようなもんだ、とかなんとか言って皮肉《ひにく》をかまそうとしたな? な? どうだ、お前の考えそうな悪態《あくたい》なんざお見通しなんだよ」
驚《おどろ》きながら恵潤は言った。
「自覚《じかく》してたんですか?」
「何がだ?」
「龍華仙人ご自身が人の話を聞かない頑固者だってことをです」
「誹誘中傷《ひぼうちゅうしょう》なんてのは、事実無根《じじつむこん》で根拠《こんきょ》がないから成り立つんじゃないか」
「つまり私が、人の話を聞かない頑固者じゃないとお認めになられるのですね」
しゅっと澄《す》んだ瞳《ひとみ》で、正論《せいろん》で畳《たた》み掛《か》ける宝貝の取り扱《あつか》いに龍華は躊躇《ちゅうちょ》した。
基本的に適当な性格の龍華である。護玄のような種類の真面目《まじめ》な性格には強いが、恵潤のような性格は苦手であると、今初めて自覚《じかく》した。
「しょうがない。造られてたいして日にちも経《た》ってない実戦経験もない、ひよっこ宝貝相手だ。少しばかり私の度量《どりょう》の広いところを披露《ひろう》してやろうじゃないか」
「龍華大仙人ともあろう方が自らの心血《しんけつ》を注《そそ》いで造りあげられた、ひよっこ宝貝|如《ごと》きの御機嫌をわざわざ取って頂いて感謝します」
「何か? お前は元々そういう性格なのかい。それとも機嫌が悪いからそういう態度なのかい?」
「御機嫌斜めだから、こんな態度なんですよ」
何やら知らぬが分《ぶ》が悪い。龍華はさっさと降参《こうさん》する事にした。
「何が気に入らない?」
「索敵《さくてき》の方法ですよ。なんで私のはこんな二度手間なんですか。殷雷《いんらい》たちみたいに普遍的《ふへんてき》に存在する気を感知《かんち》するような手法の方が効率的《こうりつてき》です」
大袈裟《おおげさ》にかつ適当に龍華は言った。
「何を言い出す。それが個性という物じゃないか。画一的《かくいつてき》に同じ能力を持った宝貝だけじやつまらないだろ。個性|万歳《ばんざい》だ」
適当な部分が恵潤の標的《ひょうてき》になる。
「無意味な個性など個性の意味がありません」
「手厳《てきび》しいですな。ひよっこのくせして」
澄んだ瞳で恵潤は龍華を睨《にら》みつける。
「だって造っちゃったもん仕方《しかた》ないじゃないか。今さらどうこう言われても変えられるもんじゃないしさ」
恵潤の瞳は雄弁《ゆうべん》だった。龍華の言葉を聞き、己《おのれ》の愚《ぐ》を悟《さと》った悲しみの色に瞳《ひとみ》が染《そ》まっていく。自分の索敵能力に大した意味はなかったのだ。この仙人の適当な思いつき、気まぐれで決められた能力に過ぎなかったのだ。
そして自分は一生、この適当に与えられた能力を背負って生きていかねばならないのである。一筋《ひとすじ》の涙が恵潤の頬《ほお》を伝う。
龍華は嫌《いや》そうな顔をした。
「盛り上がってるみたいで悪いが、流石《さすが》に面白《おもしろ》半分や勢《いきお》いだけで適当に宝貝を造ったりは滅多《めった》にしないぞ」
滅多にはない。正直さが美徳《びとく》になりえない事を若い宝貝は初めて知った。
龍華は説明する。
「無意味な二度手間なんかじゃないよ。一応、使いみちを考えてお前の能力は与えてある。索敵としちゃいまいちなのは認めるが、それ以外の使いみちがある」
「……それを実戦経験を積《つ》みながら、自分の手で発見するのが、宝貝として成長するという事なんですね!」
「無駄《むだ》に盛り上げるなと言うておる。そんな面倒《めんどう》な手間はかけずともよろしい。使い方は教えるから」
恵潤は小さな顎《あご》を動かし、こくりと頷《うなず》く。
「お前さんの索敵方法ってのは、わざわざ自《みずか》らが『場』を広げて『場』の中の気配《けはい》を探《さぐ》るって種類だ。殷雷たちに比べて索敵|範囲《はんい》は狭《せま》いし、『場』の中に入ったものはすぐにそれと気がつく。索敵してるのがみえみえでしかも範囲が狭いってんだからこれは笑えるよな。
だが、お前は少しばかり『場』を支配できる。本当に些細《ささい》な力だが、この力を使えば相手の索敵能力を少し殺す事も出来る」
「?」
「たとえて説明するなら、殷雷は周囲の雷気の乱れによって索敵するな。雷気は普遍的に存在する物だが、『場』の中の雷気を抑え込めば殷雷の索敵能力は減《げん》ずるって寸法《すんぽう》さ。別に雷気に限った話じゃない。正直《しょうじき》に言うが『場』の支配で出来る事はたかが知れている。
だが、そのわずかな能力の重要さは説明せずとも判るな?」
実戦経験のない恵潤にとって、具体的な方策《ほうさく》までは考えつかなかった。だが、そこにある可能性の存在は手応《てごた》えとして実感出来た。
恵潤は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》む。声に響《ひび》くはしゃぐ気配を隠《かく》しもしない。
「はい! 判りました。で、実戦はいつ開始なんですか? 狸|捕獲《ほかく》用の宝貝を造るのが先なんですよね。しばらく時間がかかるようだったら、訓練《くんれん》で自分の能力の使いみちを色々と考えたいです」
龍華は首を振った。
「狸捕獲用の道具はとっくに出来てるよ。ほら、これだ」
場違いと言えば場違いな道具が工房の机の上に置いてあった。
「……龍華仙人。捕まえるのって狸なんでしょ?」
龍華が指し示したのは鳥籠《とりかご》だった。
「おう。狸を閉じ込められるように大きめに造っておいたぞ。造るのに半日かかったよ」
半日で造りあげるのは、勢《いきお》いだけで造ったのとは違うのだろうか?
「龍華仙人。頻度《ひんど》の高い行動を『滅多』にと言うのは間違っていると思います」
ゆるりと吹く風と同じ速さで走り、仙獣《せんじゅう》と同じ足音をたて、吐息《といき》はせせらぐ草の音と同じとなった。
笑飆は周囲に同化した。
見つめられている事にすら狸は感づいていない。周囲の安全を確認した狸は、木の実を囓《かじ》り虫を食《く》らっている。
笑飆は焦《あせ》らない。これで準備が済んだに過ぎないのだ。狩《か》りはこれからが本番なのだ。
待つ事が狩りの本質だった。絶対の一瞬《いっしゅん》に全《すべ》てをかける。裏を返せば、その瞬間まで待ち続ける気力が狩人《かりゅうど》としての度量《どりょう》を決めるのであった。
狸の動きがピタリと止まる。虎《とら》に似た肉食の仙獣の気配を読んだのだ。途端《とたん》、疾風《しっぷう》のような影《かげ》が舞《ま》い、狸の姿が消える。
影は怒《いか》りに荒《あ》れ狂《くる》い、そして虎の姿に戻る。
「木の上に逃げたと見せかけて、地面に掘《ほ》っておいた穴ぐらに逃げる。と、見せかけて走って逃げる」
樹上に飛び掛かろうとした素振りから、不意《ふい》に仙獣は草に隠《かく》された穴ぐらに狂暴《きょうぼう》な爪《つめ》を一気に差し込んだ。
しかし、そこには何もいない。
笑飆の読み通りに狸は一目散《いちもくさん》に走って逃げていた。
狸の行動を裏打ちする知識を、笑飆は自分の意識に上る前に分析していた。いつしか直観の完成度で狸の動きの先読みが可能となっていた。
狩りの準備は完全に整《ととの》った。
後は獲物《えもの》が現れるのを待つだけだった。
「天下の大仙人《だいせんにん》二人がかりで、ひよっこ宝貝《ぱおぺい》の御機嫌《ごきげん》取りってのもおつなもんだな、護玄よ」
恵潤は大岩に腰《こし》かけプイと横を向いていた。
護玄は軽く困《こま》っていた。
「そりゃ、初仕事が狸狩りじゃ刀《かたな》の宝貝としての誇《ほこ》りに傷がつくかもしれないが、ここは我慢《がまん》してもらえないだろうか?」
二人がかりだと龍華は言ったが、説得に回っているのは護玄一人だけだった。言うことを聞かない宝貝を相手にして、先刻《せんこく》まで恵潤に負けず劣《おと》らず龍華も不機嫌であった。
が、今は恵潤を説得する護玄の態度を面白《おもしろ》がって見物している。
恵潤は言った。
「別に狸狩りが不服なわけじゃありません。どうしてよりにもよってこんな場所に私を連れて来たのですか?」
「そう言われても、狸が居《お》るのはここなわけだし」
厭湿《えんしつ》の大湖《たいこ》に二人の仙人と宝貝は居た。
既《すで》に狩りの現場に到着《とうちゃく》しているのだ。
「困ったな。龍華、恵潤刀が居ないと狩りは無理《むり》なんだろ?」
冗談めいた思案顔《しあんがお》をして龍華は言った。
「うむ。手持ちの宝貝の中でこいつしか、今回の狩りには使えるのはないな。任務《にんむ》のより好みなんか宝貝どころか仙人でも出来ないんだ。たるんだ根性《こんちょう》を叩《たた》き直すためにひっぱたいちゃえよ護玄先生」
そう言いながら本人は手荒《てあら》な真似《まね》をする素振りすら見せない。質《たち》の悪い冗談《じょうだん》であった。
只《ただ》のわがままで駄々《だだ》を捏《こ》ねていると思われるのは恵潤にとっても心外であった。
「いいですか護玄仙人。私の能力は水遁《すいとん》の流れを汲《く》んでいるんです」
「仙人相手に仙術の講義《こうぎ》ときたぜ、護玄先生」
護玄は龍華を諫《いさ》める。
恵潤は続けた。
「そんな宝貝をよりによって厭湿の地に連れてきてどうするんですか。ここって水の禁地なんですよ! 能力は三割方落ちるわ、髪《かみ》はぱさつくわでいい加減《かげん》にして欲しいです」
「髪は関係ないとして」
連れてきた龍華本人がからかう。
「酷《ひど》い物言いだね。女心が判《わか》っちゃいない」
少し落ち着かせようと護玄は話題を変えた。
「で、龍華。それが半日で造った宝貝なんだな?」
龍華の手には大きな鳥籠《とりかご》が握《にぎ》られていた。
どんな仕掛《しか》けがあるのか護玄は知らない。逆に短時間で仕上げられた代物《しろもの》なら、暴走《ぼうそう》しても被害は少ないだろうと護玄は無理矢理《むりやり》納得《なっとく》していた。
龍華は面白《おもしろ》そうに笑い、護玄の質問をまともにとりあわない。
護玄は溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「龍華。本気なんだか巫山戯《ふざけ》ているのか、どっちなんだよ」
水の禁地に恵潤を連れてくるぐらいだから巫山戯ているようでもある。だが、その格好《かっこう》は普段と違っていた。
いつもからは想像もつかない質素な道服に、髪飾《かみかざ》りを始めとした一切《いっさい》の装飾品《そうしょくひん》を今日は身につけていないようだ。動きやすいように髪も珍《めずら》しくきっちりと編んでいる。
恰好だけを見ればやる気に満ち満ちているといえた。
「失礼な。私はいつだって本気だよ」
「だいたい、どうして恵潤を連れてきたんだよ」
「おや。こんなひよっこ宝貝は仕事の邪魔《じゃま》だってよ、お嬢ちゃん」
「頼《たの》むから余計《よけい》に話を混乱させるな。誰もそんな事を言ってるんじゃない」
「あのう。よろしいでしょうか?」
声の主に誰も聞き覚えがなかった。振り向けばそこに一人の童子《どうじ》が立っていた。
歳《とし》の頃なら十|歳《さい》ぐらいで人間の男の子の姿をしていたが、その年齢|素性《すじょう》は見た目通りではあるまい。
子供に向ける物とも思えない鋭《するど》い眼差《まなざ》しで龍華は童子を睨《にら》みつけた。
「仙府《せんふ》からの使いか。どっちだ?」
龍華と護玄。どちらに対しての伝令であるかと龍華は訝《いぶか》った。
ぺこりと頭を下げ、童子は言った。
「護玄仙人に対しての勅命《ちょくめい》が下《くだ》っております」
懐《ふところ》から折り畳《たた》んだ青い紙を取り出し、それを礼儀《れいぎ》正しく童子は護玄に渡した。
「ご苦労様。確かに受け取った。しかし、よりによって今、勅命とは困ったな」
「何だって? 青紙だから詰《つ》まらない用事だろ」
「そういう物言いだから、色々と敵を作るんだよ龍華」
護玄は青紙に目を走らす。元より龍華の言葉のように、重大な勅命ならば青紙で来るはずもない。
「私が管理している書物の閲覧《えつらん》願いか。参《まい》ったな急を要するみたいだ」
「緊急《きんきゅう》じゃないんだろ?」
「まあ、それはそうだが。狩りにはどれぐらい時間が掛かる?」
「早けりゃ半刻《はんこく》以下。遅《おそ》けりゃ十日以上。いいよ、行ってくるがいい」
一応|管理責任者《かんりせきにんしゃ》である。閲覧中に席を外すわけにもいかず、かといって閲覧を急《せ》かすわけにもいかない。
「狩りの間に戻ってこられるか判らないぞ」
「心配いらない。狩りの手柄《てがら》は独《ひと》り占《じ》めにしといてやるから。元から、お前の力を期待してない」
こくりと護玄は頷《うなず》いた。
「判った。すまないが行ってくる。童子、待たせたな」
一陣《いちじん》の風が吹き、童子と護玄の姿は掻《か》き消えた。
笑いながら凄《すご》み、龍華は恵潤を睨みつけた。が、流石《さすが》は刀の宝貝、龍華の気迫《きはく》に怯《ひる》みもしない。
「さて。狩りの手順《てじゅん》を説明する。とりあえず、『場』を展開《てんかい》しろ」
そっぽを向きながらも恵潤は指示に従った。自分がここに居るのは間違った用兵としか思えなかったが、それは龍華の愚《おろ》かさに過ぎないと開き直ったからだ。
すう。
突然の驟雨《しゅうう》のように『場』が広がる。
途端《とたん》、恵潤の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。
気配以前に、言いようのない悪意、敵意が感じられた。
利害《りがい》の絡《から》む敵意のような表層的《ひょうそうてき》なものでなく、もっと根源的《こんげんてき》な敵意だった。
「……龍華仙人。ここは嫌《いや》です。物凄《ものすご》い、大きい、巨大《きょだい》な敵意が。何かが私たちを狙《ねら》っています」
「人聞きの悪い事を言うな。その敵意はお前さんにだけ向けられてるんだ。長閑《のどか》でいい場所だよここは。それは水の禁地としてのこの土地の意思だ」
「どうすれば?」
「黙殺《もくさつ》しとけ。小細工《こざいく》でどうにかなるもんじゃない。気配にだけ集中するんだ」
冷《ひ》や汗《あせ》を流しながら恵潤は気配を探《さぐ》った。
ざわざわ。
蠢《うごめ》いている。平安の地がたった今、脅《おびや》かされたざわめきが広がり始めていた。
承知《しょうち》の事だったのか龍華が説明した。
「気配を読まれていると仙獣たちが気がついたんだ。狩人の存在を知り、怒りや恐怖が広がっているんだよ」
「龍華仙人。この間のアレ、やってみていいですか? 相手の気配|察知《さっち》能力を抑《おさ》え込《こ》むというやつ。そのために私を連れてきたんでしょ?」
「やってみな」
恵潤は意識を込めた。だが、この地の意思が恵潤の意識を拒《こば》む。
「!」
「やったところで、ほとんど気配察知能力は殺せまい。なんせ、全てがお前を嫌《きら》っている」
「……じゃあ、どうして私がここに居るんですか」
龍華は答えない。
「狸の居場所が判るか」
恵潤は気配を精査《せいさ》した。
ぼやけていたとは言え、狸の映像を知っているのだ。絞《しぼ》り込みは出来る。
「痛《いた》!」
恵潤は目の奥に痛みを感じた。龍華が質問の前に答えた。
「あまり感度を上げるな。おおよその位置が判ればいい」
指示を出し、龍華は腕《うで》を曲げ、膝《ひざ》を曲げゆっくりと屈伸《くっしん》を始めた。
視界の中で龍華の動きを見つつも、恵潤は狸|捜索《そうさく》を続ける。
ぼんやりとした気配が恵潤の神経に触《さわ》った。
「あれです」
「見せてみな」
龍華は恵潤の『場』の中に居る。恵潤が感知したものを受け取るのは造作《ぞうさ》なかった。
ぼんやりとしているが特徴《とくちょう》は似ている。
「うむ。あれだな。遅延《ちえん》はどの程度だ?」
「三拍《さんぱく》程度です。こんな場所じゃなければ二拍切りますが」
恵潤が見せた物をほぼ同時に龍華は見ている。ほぼ同時、すなわち同時ではない。
龍華は伸びをし、背骨《せぼね》がバキバキと音をたてた。
「恵潤。今回の一件のオチは見えたな」
何故、資料映像はボヤけ続け、気配を探ろうとしたら目が痛くなり、龍華は鳥籠を半日で作れ、そして今目の前で体をほぐしているか。
「あの狸。対仙術用の特性を持っていますね」
「御名答《ごめいとう》。攻撃にしろ捕獲《ほかく》にしろ、あいつに向かって放《はな》たれた仙術、恐らくあいつの周囲に近づけば、術の性質とは無関係に仙術的な力は仙気《せんき》に還元《かんげん》され、術者本人に返ってくる。それだけの話さ」
「その鳥籠って、対狸用の鳥籠なんですね」
「そうさ。対狸用宝貝ってわけじゃない。ただのでかい鳥籠だ」
「狸は仙獣なんでしょうか、宝貝なんでしょうか?」
「どっちでもいいよ。軽いだろ?」
恵潤は首を縦《たて》に振った。
気配には多くの情報が含まれる。大きさの大小だけでは判別出来ない。底の深さを垣間見《かいまみ》る事も出来た。
狸の気配は軽い。仙獣だろうが宝貝だろうが、出来る事の範囲《はんい》、種類は極端《きょくたん》に少ない筈《はず》だった。
「でも、あれがそのまま……」
言葉の途中《とちゅう》で恵潤は答えに辿《たど》りつく。気配を軽く見せている危険さを考えたのだが、ここは埋伏《まいふく》の術が効かない水の禁地である。
狸の気配に裏はないだろう。
恵潤は言った。
「で、仙術に頼《たよ》らず自力《じりき》で狸を捕まえるって作戦ですか?」
「そうだよ。下らないだろ。で、恵潤。お前にはもう一つやってもらいたい事がある」
龍華は人差し指を恵潤の眉間《みけん》に当てた。
言葉にならない意思が恵潤に伝わっていく。
途端、恵潤は嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「龍華仙人。そんなにまで私を信用してくれているんですか」
無邪気《むじゃき》に笑い。龍華は言った。
「だから失敗するなよ」
二人を相手にしては勝てない。幸運に頼《たよ》るという無様《ぶざま》な手を使ってすら、逃げ切るところまでは不可能だ。
運良く龍華を仕留《しと》めても、逃走《とうそう》は護玄にはばまれる。
だが、笑飆の狩りに護玄の処理《しょり》は対応済《たいおうず》みだった。
視界の中から護玄と童子《どうじ》は消え去った。
勅命《ちょくめい》自体は本物である。気まぐれな性格の多い仙人だ。唐突《とうとつ》な閲覧請求《えつらんせいきゅう》に不自然《ふしぜん》な点は少ない。
それでも護玄がこの場に留《とど》まったのならば、その時は狩りが中止になるだけの話だ。
ほぼ確定《かくてい》と確定の間に横たわる溝《みぞ》の大きさを笑飆は知っていた。護玄とて勘《かん》の鈍《にぶ》い仙人ではない。胸騒《むなさわ》ぎを感じ、舞《ま》い戻《もど》る可能性はある。
その場合もやはり中止だ。が、舞い戻り気配を消して様子を探る事もまた不可能なのだ。
中止と続行の判断は確実に決められる。
さわ。
周囲に『場』が広がり笑飆の体も『場』に包まれる。
だが、それだけの話だ。
あの宝貝《ぱおぺい》が幾《いく》ら気配を読もうとしても自分の気配は読めない。いや、読めても理解出来ない。
隠しもしてない仙人の重い気配である。
いつ活動するか判らない、火山や地震《じしん》の活性点《かっせいてん》の一つとして宝貝には認識《にんしき》されているはずだ。この仙界にそんな活動点など無数に存在する。この地に同化した今、宝貝どころか龍華にすら見分けがついていないはずだ。
狩りの時間が近づいてきている。
問題は笑飆の術が発動し、龍華に到達《とうたつ》するまでの時間だった。
笑飆は宝貝から龍華への伝達《でんたつ》は二拍と読んだ。距離から換算《かんさん》して笑飆の術が発動するのに半拍、到達に半拍かかる。つまり一拍だ。
計算上問題はない。そして、狩人としての直観も問題はなしとしていた。
龍華を死に致《いた》らしめる矢は確実に命中する。
狸《たぬき》を捕まえるには防御《ぼうぎょ》仙術を含《ふく》めて全ての仙術を停止する必要があった。
完全に無防備《むぼうび》になるのだ。龍華も警戒《けいかい》しているだろう。
仙人の勘を笑飆は甘く見ない。宝貝に気配感知をさせているのは用心程度だ。相手は実戦に長《た》けた龍華だ。仙術を使わずとも異変《いへん》を察知《さっち》し防御仙術を張《は》りかねない。
笑飆は迷う。
そして、ゆっくりと狸の視覚《しかく》を共有《きょうゆう》してみた。狸の正体は宝貝であった。
だが、笑飆は狸を操《あやつ》ってはいなかった。狸の精神は自律《じりつ》している。笑飆にすら狸の動きは制御《せいぎょ》出来ない。また、制御された動きならば龍華に勘《かん》づかれる。故《ゆえ》に笑飆でさえ、時間をかけて狸の挙動を観察し学ぶ必要があった。
せいぜい狸にすら気づかれずに、狸の五感を共有するのが限界だった。
狸の視界に遠方《えんぽう》の龍華の姿は映っていた。それは狸の視力《しりょく》をも超《こ》えている眺望《ちょうぼう》だった。
「?」
何かがおかしかった。その違和感《いわかん》の正体を笑飆はすぐに知った。
狸から見える龍華たちの姿と笑飆から見る龍華たちの姿に差異《さい》があった。
龍華を挟《はさ》むようにして一直線上に狸と笑飆は居る。狸は龍華の正面を見、笑飆は龍華の背後を見ている形になる。
狸との視界の時間差によるズレかと笑飆は判断しかけたが狩人の直観がそれを許さなかった。
『あの宝貝、光をずらしているな』
場を展開《てんかい》する能力があるのだ。場の中をある程度は制御出来るのだろう。ほんの僅《わず》かだが光を動かし、実体の位置をずらしている。
途端《とたん》、笑飆の全身を冷や汗が流れた。
『龍華にばれている!』
僅かな差異、僅かなズレ。そして致命傷《ちめいしょう》となるはずの攻撃が無意味と化す。
『用心か? 罠《わな》を張っているのか?』
笑飆の精神力は冷や汗を押し止《とど》めた。
『どちらにしても同じか』
己を餌《えさ》にして返り討《う》ちにするつもりだったとしても、その仕掛けは見抜かれているのだ。
いや、あれは用心だ。
笑飆は自分が考え過ぎていたと判断した。罠だと知っているのならば、龍華は周囲に攻撃を仕掛けるはずだ。狸を除《のぞ》いての無差別攻撃、その後に狸狩りを始めてもおかしくない性格だ。
『だが、油断《ゆだん》は出来まい』
笑飆の考えは結局初期の物へと戻《もど》っていった。
一瞬の虚《きょ》を衝《つ》き、龍華を仕留《しと》める。
狸を仕留めた時の一瞬の隙《すき》だ。
狩人ならば必ず持つ、あの喜びの一瞬に全てを仕掛ける。
「仙術は使ってないはずよね」
呆《あき》れながら恵潤はつぶやく。
「凄《すご》い身体能力だわ。仙人にとってなんの意味があるか理解出来ないけど」
地を駆《か》け、龍華は狸に挑《いど》みかかっていった。
何か得体《えたい》の知れないモノがやってくる。恐怖《きょうふ》にかられ狸は逃げる。鉛《なまり》のように重たい気配がいかなる仙獣よりも素早《すばや》く狡猾《こうかつ》な動きで狸を追い詰めていく。
狸は戦慄《せんりつ》した。あれは一体なんだ?
ぎゅおん。
異様《いよう》な音を立てて銀色をした塊《かたまり》が狸の目前を通り過ぎって行った。
狸は跳《は》ね、木に飛び上がった。
それは狸よりも高く飛び上がり、再び銀色の塊を振り回す。
しゅおん。
狸の鼓動《こどう》は高まり息は荒《あ》れ、動きが僅《わず》かにぶれる。
しゅん。
塊はやはり狸をかすめただけだ。わざと外《はず》したのだ。
狸は確信した。これは狩りを楽しんでいやがる。まるで質《たち》の悪い猟犬《りょうけん》だ。
『色々と無茶《むちゃ》な仙人だと聞いていたがここまでとはな』
呆《あき》れながらも笑飆は油断《ゆだん》はしない。
あいつの仙人になる前の素性は狼か何かじゃないかと笑飆は考えた。
狸はとっくの昔に追い詰められている。
だが龍華はなかなか狸を捕まえようとはしない。
こちらの動向を探《さぐ》っているかどうかの推察《すいさつ》するのも馬鹿らしかった。龍華は狩《か》りを楽しんでいるようにしかみえない。
どれ程時間が経過《けいか》したのか、龍華の眼光《がんこう》が変わったのを笑飆は見逃《みのが》さなかった。
『来たか』
しゃあん。
まるで殴《なぐ》りつけるかのように龍華の手の鳥籠《とりかご》が狸に向け振り下ろされた。反動で籠の扉《とびら》が開く。
掬《すく》い取るように龍華は狸を掃獲するつもりだ。万策尽《ばんさくつ》きた狸は硬直《こうちょく》している。
狩りが成立する次の瞬間に全てが終わった。
鳥籠は狸を掬い取り、反動で籠の扉は閉まっていく。
むっくりと起き上がった笑飆は術を発動した。光が収束《しゅうそく》し、弓と矢が出現した。
出現の動きと笑飆の弓を引く動作は完全に同調している。
光が散り実体化した弓と矢が出現したときには、既《すで》に矢は放たれた。
無茶《むちゃ》な早撃《はやう》ちであった。覚悟《かくご》の上とはいえ笑飆の全身に痺《しび》れが走る。
一瞬にも満たない間、恵潤は笑い、さらにそれよりも短い時間で笑顔は驚愕《きょうがく》に変わった。
万が一のときのために光を動かすという作戦が上手《うま》い具合に働いたと思い、彼女は笑い、ずらした動きはきっちりと補正《ほせい》され、実体に向かい矢が飛ぶ事実を知り、彼女の顔は青ざめ始めた。
龍華と笑飆の中間地点に恵潤は居た。
恵潤の真横を矢が通り過ぎたときには、笑飆の体から痺れは消えていた。
恵潤は髪を逆立て『場』を動かそうとした。だが矢の速度には追いつかない。
矢を追いかけるように、煙《けむり》のような水蒸気《すいじょうき》が走る。地の怨嗟《えんさ》の念に恵潤は軽く吹き飛ぶ。
龍華は背中を向けたままだった。
矢の存在には気がついていない。
矢はそのまま龍華の心臓《しんぞう》を目指《めざ》す。
仙骨《せんこつ》が働き、仙術的防御がある状態ならば心臓を射貫《いぬ》かれようが死には至《いた》らない。逆に非作動状態の仙骨を射貫かれても、死には至らないのだ。致命的《ちめいてき》に近い怪我《けが》を負い死亡するかもしれないが、耐《た》えきる可能性もあった。
龍華は自《みずか》らの心臓に刺さって初めて、矢の存在を知った。
「仕留《しと》めた!」
よろめき地面に倒れかける龍華の姿が一陣《いちじん》の風となり躍動《やくどう》する。狸を閉じ込めた烏龍が宙《ちゅう》を舞う。
次の瞬間、龍華は笑飆の背後に立っていた。
龍華の人差し指は笑飆の後頭部に触《ふ》れている。
少し間の抜けた時間の後に恵潤の報告が届《とど》いた。
『矢が!』
龍華は静かな声で言った。
「仙人とて愚《おろ》かなものね。理解出来ていてもそれが実践《じっせん》出来ると限らないとは。
獲物《えもの》を仕留めた瞬間に隙《すき》が出来るのは承知《しょうち》してたんでしょ。隙が出来るのを知っていてあなたは私という獲物を仕留めた瞬間に隙を作った。私を仕留めてすぐに逃げれば、たとえ結果として仕留めそこなっても捕まる事はなかった。護玄はきっちり追い払《はら》っていたんだから」
「どこでばれた? 護玄の勅命《ちょくめい》の時か?」
「ばれてはいなかった。強《し》いて言うなら矢が刺さった瞬間ね」
「嘘《うそ》だ。攻撃の瞬間を読んでいたから仙術で防御《ぼうぎょ》出来たんだ」
「嘘をつく必要なんてないでしょ」
「全てが罠《わな》だったんだな? 俺を仕留めるための!」
「そうじゃない。あなたが存在するかどうかに関係なく、私は今回の行動をとっていた。全てが罠だった時のための罠。罠の存在を確信してやっていたわけじゃない」
「なぜ、危険《きけん》な手をとった? 狸捕獲を断《ことわ》れば全ては流れたはずじゃないか」
龍華は素《そ》っ気《け》なく言った。
「罠かどうか判《わか》ってなかったし、罠なら犯人を捕まえたいじゃない」
狩人としての格が自分と龍華では違うのか?
それだけではすまない違和感を笑飆は感じ取る。
「つまり、獲物《えもの》を仕留めるあの一瞬の喜《よろこ》びさえ放棄《ほうき》していたんだな? 俺が居る居ないにかかわらず?」
「そうよ。狩りは嫌《きら》いなんだもの。得意だけどね。あんな狸の宝貝を用意したり、護玄を勅命で動かすなんて仕掛けが出来るんだから大物が絡《から》んでそうね」
ぐりぐりと人差し指を龍華は笑飆の後頭部に突きつけた。
「判った。負けを認める。殺せ」
「誰《だれ》の差《さ》し金《がね》か生かしておいて口を割るわけはないか。いいわ。見逃《みのが》してあげる」
「……甘《あま》いな」
「甘くはないわよ。どうせ黒幕《くろまく》から適当《てきとう》ないいがかりをつけられて、あなたは邪仙認定《じゃせんにんてい》される。勅命を受けた仙人たちが次々とあなたの命を狙《ねら》うはず。
でも、面白《おもしろ》いと思うわよ。仙人たちと渡り合うってのは、あなたの性格にあってる気がするしね」
底が抜けたように笑飆は笑った。
「全てが罠だったときのために罠を張るんだな。罠の存在があろうとなかろうと」
龍華も笑う。
「そう。その手でしばらくは生き延《の》びられるわよ」
「わかった。龍華よ。お前が俺の討伐に来る日を楽しみにしてるぞ」
一陣の風となり笑飆の姿は消えた。
狸の入った鳥籠を抱えながら恵潤は龍華の下《もと》に歩いてきた。
「鳥籠持ってきました」
「ご苦労。どうだ初仕事が無事成功した感想は?」
結局、自分の機能不全《きのうふぜん》と経験不足に期待されての任務《にんむ》だったのだ。狩人からしては絶好《ぜっこう》の隙に見えるための。
恵潤は堂々《どうどう》と言った。
「つまんなかった」
龍華は首を振った。
「まだまだ甘いねえ」
ツンとした怒《いか》りの表情の中にも、まだあどけなさが抜けきっていない。生まれながらにして戦術戦略の類《たぐ》いを刻《きざ》みこまれてはいるが、それはまだ実戦を伴《ともな》った経験へと変化していないからだった。
やれやれと思いつつも、この宝貝がどんな成長を遂《と》げるのか楽しみな龍華であった。
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あとがき
本編九巻から三ヶ月後にこの奮闘編五巻の刊行ですよ。筆が速いのだけがとりえだからねえ。と、あんまり洒落《しゃれ》にならない冗談《じょうだん》を書きつつ近況報告など。奮闘編四巻からどれぐらい経《た》っているか気にしてはいけない。
『防爆《ぼうばく》バールのような物』
完全無欠《かんぜんむけつ》のゴールド免許証《めんきょしょう》所持者であることから判るように、私はペーパードライバーなのでございます。
教習所の教官の傍若無人《ぼうじゃくぶじん》っぷりに、『免許取ったら二度と運転なんかするものか!』とよく判《わか》らない誓《ちか》いを立てて幾星霜《いくせいそう》、今やブレーキとクラッチの位置があやふやになる程《ほど》の立派《りっぱ》なドライバーに成長した次第《しだい》でございますよ。誓ったくせに二度ばかり運転してるのは内緒《ないしょ》ダヨ。
で、ペーパードライバーってのは基本的に車に興味《きょうみ》がない人間で、私もタイヤが四本あるから車、二本だったらバイク、地獄《じごく》の七人の乗ってるバイクに関してはその限《かぎ》りに在《あ》らず。ぐらいの認識しかないのです。
そんな私が大阪で開かれたナントカモーターショーに行ってまいりました。この手の文章でナントカとかカントカと書いてる場合、商標にかかったら面倒《めんどう》くさいや、ぐらいの感覚でわざとぼかしたりするのですが、今回に限って本気で正確な名前を忘れたというか、最初から認識していなかったりします。流石《さすが》二十年近いペーパードライバーは一味《ひとあじ》ちがいますな。
ニュースでやってたでしょ? 球形っぽい運転席がグルグル回って車庫入れがしやすい! って車が展示されてたやつでございます。
車に興味のない奴がモーターショーに行って何が嬉《うれ》しいのか? キャンギャル目当てか? と疑問に思われる方もおいででしょう。何のことはない友人に誘《さそ》われて行っただけだったりします。
とはいえ付き合いで行くだけで済《す》ますわけもなく、本目的とは関係ないどうでも良さそうな物をしっかりと見てきたわけですよ。
なんでキャンギャルのお姉ちゃんは舞台《ぶたい》の上でパラパラを踊《おど》るのか? モーターショーなのに何故《なぜ》ジュース屋のブースがあるのか? 何故、車を撮影しているお兄さんたちのカメラより、キャンギャルを撮影しているお兄さんたちのカメラの方が遥《はる》かに高級品なのか? デジカメなり携帯電話についてるカメラが全盛の時代に、使い捨てカメラを必死《ひっし》に売ろうとしている売り子の運命や如何《いか》に? 食い物屋の屋台の場所代から推理《すいり》する、ベトナム料理の屋台の売上は幾らぐらいか?
各種、あらゆる謎《なぞ》に馬鹿な解答をでっちあげつつ会場を回ったわけです。あまりの馬鹿解答ぶりに抗議《こうぎ》が来そうでここには書けないぐらいの馬鹿っぷりです。
そんな見物の中で一番心|惹《ひ》かれたのはタイトルにも書いてある『防爆』グッズでございました。
防爆。
なんと心躍る言葉ではありませんか。いかなる爆発《ばくはつ》の中での作業《さぎょう》にも耐《た》えられる対高熱対圧力|処置《しょち》を施《ほどこ》された黄金《おうごん》色に輝《かがや》く神秘《しんぴ》の工具《こうぐ》、防爆レンチ、防爆スパナ、防爆ピンセットが、展示どころか販売までしているじゃありませんか!
と、思ったら同行の友人が『防爆工具ってのは石油施設《せきゆしせつ》とかで使う、火花《ひばな》が起きないような処置がしてある道具じゃい』と教えてくれました。
さらば浪漫《ロマン》。
とはいいつつ黄金色に輝く一メートルのスパナに心惹かれて、もう少しで買うところでございました。インテリアによいですよ、これ。
『作品解説』
奮闘編五巻は今までの奮闘編とは、ちょいと毛色が変わっております。今までの四巻とは違って本当の意味での外伝作品的な造《つく》りになっております。
何のことはない、今までの奮闘編と違って掲載誌《けいさいし》が違うんで変わったことをやろうとした結果、こうなった次第です。
「龍華《りゅうか》陶芸《とうげい》に凝《こ》り、またしても護玄《ごげん》心労《しんろう》す」
仙界の話を書こうというのは、昔から考えていて丁度《ちょうど》タイミングも良かったので書いてみた一編。
壮大《そうだい》なんだかよく判らないが、今まで張《は》り巡《めぐ》らされた湯呑《ゆの》みの宝貝《ぱおぺい》の謎がここに明らかになったりならなかったりしてますな。
「秋雷鬼憚《しゅうらいきたん》」
壮大なんだかよく判らないが、張り巡らされた氷の和穂《かずほ》の謎が、別に明らかになっているわけじゃない一編。
本編の構成上《こうせいじょう》、再登場が無理な宝貝なり人物なりを外伝風味にして登場させるっていうのは、やはり書いてて面白《おもしろ》いのですよ、たまにやるぶんには。
既出の宝貝が無名で出てますが、幾つ判るかな? っぽい読み方も暇《ひま》つぶしにどうぞ。
「仙客万来《せんきゃくばんらい》」
仙人が沢山《たくさん》出てくる話を書こう。と思って出来た一編。
まともな仙人は、ほとんど居《い》ないじゃないか、とか言ってはいけない。
こういう工房でグダグダしてる話というのは個人的に好きですな。
「雷《いかずち》たちの大饗宴《だいきょうえん》」
雷たちの饗宴の続編。
雷たちの饗宴を書いてしばらくしてから、あの話が完結してない事に気がついたのです。
構成が前編と同じだから、書くのが楽ちんで大儲《おおもう》け! てなわけにはいかず七転八倒《しちてんばっとう》し
ながら書きましたな。
同じネタ振りで解決策を数種類用意しようってんだから、正気《しょうき》の沙汰《さた》じゃありませんですよ。
「最後《さいご》の宝貝《ぱおぺい》」
この話の辺《あた》りから、心身共に七転八倒の極致に達していた記憶があったりなかったりしますのう。
ネタに詰《つ》まった時には散歩に出て、ネタを考えるのですが、この話の時には片道三時間ぐらい歩きましたぜ。しかも雨の中。只《ただ》のノイローゼじゃないか。
四巻までの外伝と作りは同じなのに最後に宝貝解説がない辺りに、違和感というか鬼気《きき》迫《せま》るものを感じますな、本人としては。
作品としての完成度が云々《うんぬん》、なんて甘い話をするつもりじゃないのですよ。この話だけ完成度のベクトルが異質な場所に飛んでいってます。
これを書いてた時の阿鼻叫喚《あびきょうかん》っぷりが、今思えば面白いですな、本人としては。ある種の到達点に違いはない、ただし、何に到達したのか本人にも不明でございます。
でも、第三者から見たら他の話とたいして変わってなかったりするんでしょうな。
「きつね狩《が》り」
短編集御馴染みの書きおろしの一編。
仙界編は結局、龍華《りゅうか》死闘《しとう》編になってますな。
今回も仙界編|御馴染《おなじ》み、仙人対仙人の仙術|乱《みだ》れ飛ぶ壮絶《そうぜつ》バトルですよ、たぶん。
てなところで紙数も尽《つ》きました。ではまた。
[#改ページ]
初出
封仙娘娘仙界編『龍華陶芸に凝り、またしても護玄心労す』
[#地付き]ファンタジアバトルロイヤル 2000.OCTOBER
封仙娘娘追宝録外伝『秋雷鬼憚』[#地付き]ファンタジアバトルロイヤル 2002.NOVEMBER
封仙娘娘仙界編『仙客万来』[#地付き]ファンタジアバトルロイヤル 2003.MAY
封仙娘娘追宝録外伝『雷たちの大饗宴』[#地付き]ファンタジアバトルロイヤル 2003.AUGUST
封仙娘娘追宝録外伝『最後の宝貝』[#地付き]ファンタジアバトルロイヤル 2003.AUTUMN
封仙娘娘仙界編『きつね狩り』[#地付き]書き下ろし
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》・奮闘編《ふんとうへん》5 最後《さいご》の宝貝《ぱおぺい》
平成18年2月25日 初版発行
著者――ろくごまるに