封仙娘娘追宝録・奮闘編4 夢の涯
ろくごまるに
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目次
暁《あかつき》三姉妹《さんしまい》密室《みっしつ》盗難事件《とうなんじけん》顛末《てんまつ》
夢の涯《はて》
西の狼《おおかみ》、東の虎《とら》
雷《いかずち》たちの饗宴《きょうえん》
刀鍛冶《かたなかじ》、真淵氏《しんえんし》の勝利
あとがき
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暁《あかつき》三姉妹《さんしまい》密室《みっしつ》盗難事件《とうなんじけん》顛末《てんまつ》
黒い鞘《さや》に収《おさ》められた刀を手に、娘《むすめ》は雑踏《ざっとう》の中を駆《か》け抜《ぬ》けていた。賑《にぎ》やかな町並《まちな》みの中、無数の人々が行《ゆ》き交《か》っていたが、娘は人と人の隙間《すきま》をすり抜けながら疾走《しっそう》していく。
娘の後頭部で括《くく》られた柔《やわ》らかい髪《かみ》と、彼女が身につけている道服《どうふく》の袖《そで》が、疾走に合わせ小気味良《こきみよ》くはためいていた。娘の瞳《ひとみ》は鋭《するど》く研《と》ぎ澄《す》まされ、その瞳の上には少しばかり太めの眉毛《まゆげ》がのっている。
雑踏を抜けると、人のざわめきの代わりに、娘の蹴《け》り上げる砂利《じゃり》のザクザクという音が響《ひび》いていった。
間もなく娘の行く手に一つの屋敷《やしき》が現《あらわ》れた。大きな門は閉じられていたが、娘は走る速度を緩《ゆる》めはしない。そして、扉《とびら》に激突《げきとつ》する寸前に人間ならざる跳躍《ちょうやく》を行い、門を跳《と》び越《こ》えた。
娘の心が叫《さけ》ぶ。
『い、殷雷《いんらい》! ちょっとまずいんじゃないの。これじゃ殴《なぐ》り込《こ》みじゃない!』
黒い鞘の刀、殷雷|刀《とう》から心を通して、答えが返る。
『かまうか、和穂《かずほ》。さっさと片《かた》をつける』
娘の名は和穂といった。和穂の手から弾《はじ》けるように殷雷刀が離《はな》れ、途端《とたん》に刀は爆煙《ばくえん》に包まれ同時に娘の眼差《まなざ》しから鋭さが消え、代わりに彼女本来の温和《おんわ》な瞳に戻《もど》る。
爆煙の中からは一人の青年が姿を現した。
猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭い眼光に長い黒髪《くろかみ》、全身を覆《おお》うのは袖付きの黒い外套《がいとう》だった。
大柄《おおがら》な男ではなかったが、その鋭い眼光とピンとした背筋《せすじ》が、彼を一端《いっぱし》の武人であると物語る。青年の名は殷雷刀、刀の宝貝《ぱおぺい》である。
宝貝。仙人《せんにん》が己《おのれ》の秘術《ひじゅつ》を尽《つ》くし、造《つく》り上げた神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。ある時、一人の仙人が誤《あやま》って宝貝を人間の世界にばらまいてしまった。責任《せきにん》を感じたその仙人は、人間の世界にこれ以上の混乱《こんらん》を巻き起こさない為《ため》、己の仙術を封印《ふういん》し宝貝|回収《かいしゅう》の旅に出た。その仙人こそが和穂だったのだ。殷雷はそんな彼女に力を貸《か》しているのであった。
殷雷は和穂の言葉に耳を傾《かたむ》けず、屋敷全体の気配《けはい》を探《さぐ》った。建物や庭の中からは気配を隠《かく》す素振《そぶ》りは全く感じられず、ごく普通《ふつう》の話し声が殷雷の耳に届いた。殷雷は反射的に声の聞こえる部屋に向かい、駆《か》けだした。慌《あわ》てて和穂も後を追う。
庭にむかい開け放たれていた窓から疾風《しっぷう》のように廊下《ろうか》に侵入《しんにゅう》し、そして殷雷は部屋の扉を蹴破《けやぶ》った。
これじゃ、強盗《ごうとう》と間違《まちが》われても仕方がないと思いつつも、和穂も部屋の中に駆け入った。
和穂の予想通り、部屋の中に居た人物たちは呆気《あっけ》に取られているようだった。
虚《きょ》を突《つ》かれたせいで、奇妙《きみょう》な静寂《せいじゃく》が部屋の中を支配していた。
和穂は少しばかり頭をひねった。
『失礼します、私は怪《あや》しい者じゃありません』と言って、この状況《じょうきょう》で、誰《だれ》が納得《なっとく》してくれるだろうか? 言葉に詰《つ》まる和穂に部屋の中から声がかかった。
「はははっは! 私は探偵《たんてい》なのだよ」
それは、あまりにも場違いな言葉に聞こえた。問答無用《もんどうむよう》の侵入者に対して、いきなり自己紹介《じこしょうかい》で切り返してくるのは尋常《じんじょう》ではない。
ついでに探偵とはどういう意味なのだ?
「? 探偵ってなんですか?」
「和穂君。複雑怪奇《ふくざつかいき》に入《い》り組《く》んだ事件《じけん》を、その明晰《めいせき》な頭脳で解決《かいけつ》するのが探偵なのだ!」
どうやら、部屋の中に居た、五人の人物が全員、和穂たちの乱入に驚いているのではなさそうだ。
部屋の中を見回し、これはややこしい話に首を突っ込んでしまったのだと、和穂の本能は感じた。
今までの経験《けいけん》と照《て》らし合《あ》わせても、かなりややこしい部類《ぶるい》に入りそうな予感がしてならない。どうにか、和穂は言葉をつなぐ。
「それってつまり、街の警備《けいび》を司《つかさど》る役人、衛士《えいし》みたいなもんですか?」
探偵は嬉《うれ》しそうに声高々《こえたかだか》に答えた。
「おしい! なんたるおしさ! 探偵とは事件の背後《はいご》に隠《かく》された謎《なぞ》を暴《あば》き、真実を白日の下《もと》にさらけ出すが、衛士と違って社会的|権力《けんりょく》は一切《いっさい》ないという小粋《こいき》な職業《しょくぎょう》だ!」
和穂の隣《となり》では殷雷が大きく深呼吸《しんこきゅう》していた。
殷雷はどうやら、自称《じしょう》探偵を知っているらしく、その取り扱《あつか》いに少しばかり躊躇《ちゅうちょ》しているようであった。
「あ、あんただったのか導果《どうか》先生よ。お願いだから、素直《すなお》に回収されてくれ!」
殷雷の先生という言葉には、あまり尊敬《そんけい》の念が込められているようには聞こえなかった。
導果は勝ち誇《ほこ》ったように笑う。
「もし、私がこの場から消えてしまったら、この奇怪《きかい》な事件に心を悩《なや》ませる、この馬氏《まし》はどうなる? 殷雷君よ。君に解決|出来《でき》るとは思えないんだけどねえ」
和穂と殷雷が乗り込んだ、屋敷《やしき》の一室に居たのは導果以外には壮年《そうねん》にさしかかりそうな、やつれた顔の男が一人と、歳《とし》の頃《ころ》なら二十歳《はたち》ぐらいの娘《むすめ》が三人、それぞれ椅子《いす》に座《すわ》っていた。娘たちの顔は、髪形《かみがた》を含《ふく》めて全《すべ》て同じだった。
なんの事はない、突然《とつぜん》の侵入者《しんにゅうしゃ》にまともに驚《おどろ》いているのは、馬氏と呼ばれるやつれた男一人だけだったのだ。娘たちは、和穂たちの姿を見ても、クスクス笑っているだけだ。
和穂は三人の娘たちと視線が合った。
導果は言った。
「こちらが馬氏。そして馬氏の娘さんたちだ。只《ただ》の三つ子だから驚くにはあたらないよ」
ややこしくなる、絶対にややこしくなる、同じ顔をした三人の娘を見つめながら、和穂は確信《かくしん》した。
馬氏はポカンと口を開けていた。馬氏を襲《おそ》った、この複雑怪奇《ふくざつかいき》な密室盗難《みっしつとうなん》事件を解決するべく、今この部屋では事情聴取《じじょうちょうしゅ》の最中だったのだ。
馬氏が驚きの声を上げるより先に、導果は自分の事を唐突《とうとつ》に探偵《たんてい》だと侵入者に説明しだしたのだ。導果は侵入者の名前を知っているようで、恐《おそ》らく知り合いなのだろう。
結果として馬氏は驚きの声を発《はっ》する機会《きかい》を失ってしまっていた。
馬氏は導果に目をやった。
この難事件を解決出来るであろう、ただ一人の男、友人やら商売上の知人の紹介《しょうかい》でどうにか連絡《れんらく》のとれた評判《ひょうばん》の『探偵』だ。
外見は特徴《とくちょう》だらけの男だが、馬氏は導果の素性《すじょう》がよく判《わか》らない。
若いのは確かだが、年齢《ねんれい》としては十代の半《なか》ばのようでもあり、あるいは二十代後半にも見える。
今まで商人《しょうにん》として生きてきた馬氏は、人を見る目を持っていた。幾らごまかそうが向かいあった相手が現在までにどのような人生を送ってきたか、ある程度《ていど》は読めるのだ。
だが、そんな馬氏にも導果が何者かよく判っていなかった。彼が今に到《いた》るまで、どんな人生を送ったのか理解《りかい》出来《でき》なかった。
理解を超《こ》える相手に最初は違和感《いわかん》を感じた馬氏だったが、相手は探偵なのだ。
馬氏が人生の中で最初に見た、そして恐らく最後《さいご》になるであろう、探偵を生業《なりわい》としている男なのだ。素性《すじょう》が読めないのは当然かもしれないと馬氏は考えはじめていた。
馬氏が当惑するぐらいだから、導果の年齢は外見からはよく判らない。スラリとした背の高い男で、身長《しんちょう》に合わせたかのように甲高《かんだか》い声をしている。
甲高い上に早口なのだが、それは落ちつきのなさを感じさせはしなかった。滅多《めった》にない事だが、早口が導果の思考《しこう》の速さを裏付けているように感じられた。
殷雷よりは短いが、髪《かみ》の毛《け》は襟《えり》にかかるぐらいの長さがあった。白髪《はくはつ》によく似た銀髪《ぎんばつ》だが、銀髪のくせに黒い髪が混《ま》じるという、理解しがたい髪をしていた。
恐らく整《ととの》った顔だちをしているのだろうが、導果が真顔《まがお》をしている時はほとんどなかった。
怒《いか》りの表情、笑顔《えがお》に絶望、多くの表情がひっきりなしに導果の顔の上を駆《か》け抜《ぬ》けていくが、表情と感情にそれほど関係がないと判るまで馬氏はしばらく時間を要《よう》した。
服装もまた一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない。
馬氏が導果を招《まね》き、初めて会った時には導果は真紅《しんく》の外套《がいとう》を羽織《はお》っていた。
あまりに鮮《あざ》やかな紅《くれない》に馬氏が感嘆《かんたん》の声を上げると、導果は『探偵《たんてい》とはそういうものです』とよく判らない説明をした。
今日は黒に黄色が複雑に絡《から》み合《あ》った服を身につけている。さながら、黄色い空に黒い雲《くも》が広がるような感じであった。
馬氏と導果が会って、今日で三日目だが、毎日服装が違《ちが》っていた。それがとてつもなく馬氏には不思議《ふしぎ》だった。導果はどう見ても、荷物らしい荷物を持っていないのだ。
驚《おどろ》いてばかりもいられないので、馬氏は口を開いた。
「導果様。そちらはいったいどちら様で?」
恐《おそ》ろしく深刻《しんこく》な表情をしながら、導果は高笑いをする。深刻な表情にはなんの意味もないのだろう。
「はははっは。この人相《にんそう》の悪いのが、殷雷といって私の古い知り合いです。
で、こちらの娘《むすめ》が和穂さん。私も初対面《しょたいめん》ですが、一応殷雷の保護者《ほごしゃ》です」
殷雷の肘《ひじ》が導果の頭を小突《こづ》く。
「逆だ。俺《おれ》が和穂の子守兼護衛《こもりけんごえい》だ」
馬氏の顔から疑惑《ぎわく》の表情が消えないのを見て、導果は説明した。
「この殷雷というのは、かように凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》えをしていますが、悪人ではありません。
こいつはまあ、軍人や兵隊《へいたい》と似たような職業についておりましてな。
私はその昔、殷雷君に力を貸《か》してあげたのです、まあそういう知り合いです」
殷雷は哀願《あいがん》するように言った。
「そんな事はどうでもいい。導果先生、早いとこ回収《かいしゅう》されてくれよ」
先刻《せんこく》からの殷雷の言葉が馬氏にはひっかかっていた。
「回収? どういう意味です、殷雷さん」
口を開いた殷雷を遮《さえぎ》るように、導果の甲高《かんだか》い声が響《ひび》く。
「はははっは。言葉のあや。専門用語《せんもんようご》みたいなもんです。何せ殷雷君は軍人や兵隊と似たような職業についてますからねえ。しかも、生まれついての生粋《きっすい》の」
殷雷のイライラは、怒《おこ》り方が判《わか》らないようにも見えた。
「いいから、来てくれ!」
導果は真顔になった。
「さっきも言ったが、殷雷君。これはもう私が手掛《てが》けはじめた仕事なんだよ。きみの能力では解決《かいけつ》出来ない。私の能力では解決出来る。すでに探偵報酬《たんていほうしゅう》は前払《まえばら》いで貰《もら》っているんだ」
「だったら、その金を返せよ」
「生憎《あいにく》、その金は助手が持っている」
殷雷に代わり、和穂が口を開いた。
「さっき、街の中で会った人が使用者で助手だったんだ!」
嬉《うれ》しそうに導果はこくりと領《うなず》く。
「使用者。というのも専門用語だから、気にしないでくださいな。で、和穂君。あの助手は何か言い残していなかったか?」
「えぇと、確か『ごめんなさい。もう疲《つか》れました。探《さが》さないでください』みたいな言葉を残して、それこそ逃《に》げるように人込《ひとご》みに消えていきました。一応、その時、ここの屋敷《やしき》の場所も教えていただいたんです」
導果は首を横に振《ふ》った。黒い髪《かみ》の混ざった銀髪《ぎんぱつ》が揺《ゆ》れる。
「なんとまあ、恩《おん》知らずな奴《やつ》だ。私のお陰《かげ》でどれだけ豪勢《ごうせい》な暮《く》らしが出来たと思ってるんだか。終計都《しゅうけいと》の三十六の怪事件《かいじけん》を解決し、我《わ》が名声は留《とど》まるところを知らず、探偵料も鰻登《うなぎのぼ》りに跳《は》ね上《あ》がった矢先にこれか」
殷雷は自分の髪の毛をクシャクシャとかきあげた。
「その、助手とやらと、どのぐらいの期間、一緒《いっしょ》に居た?」
「ざっと半年かな?」
「なるほど。まっとうな人間の神経の限界《げんかい》ってとこだな。助手とは橋の上で会ったが、もしかして身投げを考えてたのかもな」
「はははっは。殷雷君は冗談《じょうだん》が好きだねえ」
笑ったのは導果一人だけであった。
殷雷は冷《ひ》ややかに導果をにらんだ。
「探偵料とやらは俺が返すから、導果は連れていくぞ!」
馬氏は椅子《いす》から立ち上がった。
「ま、待ってください! それは困《こま》ります!
導果先生が居なくなったら、この事件はどうなってしまうんですか! お願いします、私を助けてください」
馬氏の表情には本気で当惑《とうわく》する者の表情があった。殷雷も少し気まずくなる。
「んなこと言われてもよ」
和穂が口を開いた。
「ねえ、なんだか事情はよく判《わか》らないけど、力を貸してあげようよ」
和穂がそう言いだすのは、殷雷は百も承知《しょうち》だった。導果は静かに言った。
「なに、心配はいらん。解決までにはそんなに時間はかからんはずだ。いい加減《かげん》、この生活にも飽《あ》きてきたから、事件の片《かた》がつけば、おとなしく回収されてやろうじゃないの。おっと、回収だなんて私も専門用語だ。
異存《いぞん》はないね、殷雷君に和穂君」
殷雷は舌打《したう》ちし、和穂は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「よろしいよろしい。で、逃《に》げた助手からは何も預《あず》かってなかったかい?」
和穂はポンと手を打ち懐《ふところ》に手を入れた。
「そういえば、『これを買ってくるように言われてたので、渡《わた》してください』って。
これって、かんざしですよね?」
それはどこからどう見ても、かんざしであったが、和穂には導果とかんざしが結び付かなかった。
たいして代《か》わり映《ば》えしない似たようなかんざしが、三本、和穂の懐から姿を現《あらわ》した。
赤いかんざし、青いかんざし、そして黄色いかんざしだった。
導果はかんざしを受け取り、今までのやりとりを、にこにこ笑いながら静観《せいかん》していた三人の娘《むすめ》たちの前に立つ。
「さあ、お嬢《じょう》さんたち。
安物のかんざしですが、私からの贈《おく》り物《もの》です。受け取っていただけますね?」
三人は同じ声で言った。
「ええ、喜んで」
和穂の背筋《せすじ》が何故《なぜ》か、ゾクリとした。
導果はくるりと振り向き、馬氏に言った。
「まあ、そんな理由で、助手が謎《なぞ》の逃亡《とうぼう》をしてしまったので、急遽《きゅうきょ》和穂君と殷雷君に助手の代わりを務《つと》めていただこうと思います。
つきましては、少々三人で打ち合わせしたいので、しばらく時間をいただけますかな?
詳《くわ》しい、事情聴取《じじょうちょうしゅ》はその後で」
馬氏に異論《いろん》はなかった。
「昼からは、仕事も入っていませんので構《かま》いません。導果先生。なにとぞ、事件の解決を宜《よろ》しくお願いします」
「当然! 正義はたいがい勝利《しょうり》するものですからねえ」
「虚《むな》しい勝利もあるけどよ」
殷雷はポツリと言った。
馬氏の屋敷《やしき》の一室が、導果に貸しあたえられていた。豪勢《ごうせい》な客室であったが、豪華《ごうか》な調度品《ちょうどひん》は無数の紙屑《かみくず》の中に埋《う》まっていた。
殷雷と和穂を部屋の中に招《まね》き入《い》れた導果は椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
机の上に広がる紙の一枚を和穂は手に取ってみた。
紙の上に視線を走らせたが、和穂には全く理解《りかい》出来ない文字でつづられていた。
紙屑の造り手は導果に違《ちが》いなかった。現に今もどこから取り出したのか、紙束《かみたば》に筆《ふで》で何かを書きつけている。
導果の手元《てもと》を見たが、書きつけているのはやはり和穂には理解出来ない文字だった。
馬氏の前に居た時より、少しばかり落ちついた声で導果は言った。
「まあ、座《すわ》りたまえ、椅子の一つや二つ、そこらへんに埋まっているだろうからね」
さすがに、椅子を埋まらせるほどの紙の量ではなく、部屋の奥《おく》には別の椅子が用意されていた。
殷雷は口をきくのも面倒《めんどう》そうにウンザリしていた。
和穂はいまだ、状況《じょうきょう》が把握《はあく》しきれていない。が、殷雷の態度《たいど》を見る限《かぎ》り、殷雷には少しばかり事情が判《わか》っているようだった。
「殷雷、これっていったい、何がどうなってるの?」
腹筋《ふっきん》が軋《きし》むような溜《た》め息《いき》をつき、殷雷は導果にお伺《うかが》いをたてた。
「導果先生よ。言っていいのか?」
導果は鼻唄《はなうた》交じりに筆を動《うご》かしている。
「いや。ダメだ。和穂君も要素《ようそ》の一つだ。馬鹿《ばか》な助手の代わりにしては充分《じゅうぶん》だ。私のやりかたは充分承知しているよな、殷雷君」
「ああ。いやってほどな」
こんな殷雷の態度を見るのは、和穂は初《はじ》めてだった。殷雷が他《ほか》の宝貝《ぱおぺい》のいいなりになっているなんて、まずある事ではない。
「あの、導果さん。導果さんって、宝貝なんですよね」
基本的な質問《しつもん》から、和穂は始めた。宝貝に間違いはないが、導果は宝貝|離《ばな》れしている。
「勿論《もちろん》。きみたちの調査《ちょうさ》は無駄《むだ》じゃない」
終計《しゅうけい》と呼ばれる街に宝貝の反応があった。
反応の場所に急行した和穂たちだったが、反応はすでに港を出た船の上からであった。
甲板《かんぱん》に一人《ひとり》佇《たたず》む娘《むすめ》が宝貝所持者であるのは間違いなく、殷雷はその姿を目に焼き付けた。
三日|遅《おく》れの船でこの街に辿《たど》り着《つ》いた和穂たちは偶然《ぐうぜん》、その娘の姿を発見《はっけん》し、この屋敷《やしき》の場所を聞き出したのだ。偶然とはいえ、あの人込《ひとご》みの中から娘の顔を見分けたのは殷雷の鋭《するど》い観察能力のお陰《かげ》であった。
「あの助手さんが、導果さんの使用者なんですよね」
「使用者だった、のほうが正確《せいかく》だな。
あいつは貧乏《びんぼう》に祟《たた》られていてな。貧乏がこじれて、厄介《やっかい》な事件に巻《ま》き込《こ》まれた。
そこに現《あらわ》れたのが私で、奴《やつ》を助けてやったのさ。これこそが、終計都《しゅうけいと》最初の怪事件《かいじけん》という次第《しだい》さ。事件を解決《かいけつ》してはやったが、貧乏を解消してやらぬ限《かぎ》りは、また事件に巻き込まれる可能性がある。そこで探偵稼業《たんていかぎょう》で金を儲《もう》ける事にしたのさ。かくて、わずか半年で三十六もの怪事件を解決し、この辺《あた》りでは知らぬものはいないほどに名を売ったのに、その恩を忘れるとは失敬《しっけい》な奴だが、まあそれはそれで構《かま》わん」
「で導果さん。あなたは探偵の宝貝なんですか?」
殷雷は露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をし、導果はおおらかに笑った。
「『探偵』などという道具があるかね? 私が何の宝貝かは、事件が解決するまでは秘密《ひみつ》にしておこう。いいな、殷雷君。可愛《かわい》い和穂君が頭をひねっているからといって、答えを教えてはいかんぞ」
「うるせえな。判《わか》ってるぜ」
やはり、殷雷の態度が和穂には不思議だった。
「どうしたの殷雷? いつもなら、こうもっと威勢《いせい》よく言い返すじゃない。
導果さん相手だと何かおとなしくない?」
殷雷に代わり、導果が答えた。
「さっきも、少し言ったが、かつて仙界《せんかい》で、私は殷雷君たちと組んで仕事をした過去がある。
そう。互《たが》いに欠陥《けっかん》宝貝の烙印《らくいん》を押《お》される前の話だがね」
「その話はやめろ。思い出すだけで腹《はら》が立つぞ。なんで武器の宝貝がお前みたいな武器の宝貝以外の奴の指示を受けねばならなかったのだ」
「はははっは。ともかく、その『将軍《しょうぐん》』の事件以来、殷雷君は私の能力に一目置《いちもくお》くようになったのだ」
将軍の事件がいかなる事件かは、和穂には判らなかった、判るのは、その事件について殷雷が話したがっていない事だけだった。
和穂は将軍の事件に関する質問は止《や》めにした。
「導果さんの能力って?」
こつんと導果は自分の頭を叩《たた》いた。
「知恵《ちえ》さ。それ以外にたいした能力はない」
殷雷は異議《いぎ》を唱《とな》えた。
「嘘《うそ》をつけ、いろいろ出来るじゃねえか。髪形《かみがた》を自在《じざい》に変えたり、服装も自在に変化出来る。あと、この紙もお前が出したんだろうに」
「知恵の前には些細《ささい》な能力さ」
導果は宝貝である。宝貝であるからには、その能力には宝貝としての意味があるはずだった。殷雷が武人として腕《うで》がたつのも、彼が刀の宝貝であるからに他《ほか》ならない。
ならば、導果の能力も彼の正体に関係しているはずだった。
「和穂君、私が何の宝貝かは、現時点《げんじてん》であまり意味がない。私は宝貝だが、その前に探偵《たんてい》であると思っていてくれたまえ」
だが、探偵という言葉が和穂にはいまいち理解出来ていない。和穂の納得《なっとく》のいかない表情を導果は見て取る。
「こんなところで頭を使う必要はない。馬氏も衛士《えいし》に頼《たよ》れない事情《じじょう》があって、探偵である私に事件の解決を望んでいるんだ。
頭を使うべきは、馬氏の事件。密室盗難《みっしつとうなん》事件の解決にこそ知恵を使うべきなのだ」
「密室盗難事件!」
「そうだ、和穂君。密室盗難事件、すなわちこの屋敷《やしき》から密室が部屋ごと盗《ぬす》まれたのだ」
「えっ!」
殷雷は鋭《するど》く言った。
「導果先生よ。次、くだらん冗談《じょうだん》を言ったらぶん殴《なぐ》るぜ。あと、和穂。そんな馬鹿《ばか》な話を信用するんじゃない」
「はははっは。やるな殷雷君。冗談はさておき、密室盗難事件というのは事実だ。密室から、献上用《けんじょうよう》の宝刀《ほうとう》が盗まれたのだ!」
「その犯人を見つければいいんですね」
「うむ。全くもってそのとおり!」
殷雷は日溜《ひだ》まりの猫《ねこ》より脱力《だつりょく》しながら、机の上に突《つ》っ伏《ぷ》した。
「どうせ、犯人はあの三つ子の中の誰《だれ》かなんだろ? くだらねえな。もしくは、三人の共犯《きょうはん》か、あの馬氏とかいう父親の狂言《きょうげん》か、ま、どれかが答えだな」
珍《めずら》しく導果は怒《おこ》った。
「ええい、そのように身《み》も蓋《ふた》もない口を叩《たた》くんじゃない!」
「でも、そうなんだろ?」
「ま、そうなんだけどな」
事件の骨格は至極単純《しごくたんじゅん》なものだった。
献上用の宝刀を盗む事、これすなわち馬氏の信用を落とし失脚《しっきゃく》させるのが目的としか考えられない。
信用を失ったからといって、馬氏ほどの豪商《ごうしょう》が落ちぶれるわけもなかったが、商人組合の手前、責任をとり一線から退《しりぞ》き隠居《いんきょ》の身に追い込まれるのは必至《ひっし》だった。
馬氏が隠居となるならば、跡目《あとめ》は三姉妹《さんしまい》が平等《びょうどう》に受《う》け継《つ》ぐ形になる。
当然、犯人は三姉妹の中にいると見られたのであった。ここまでは、導果のかつての助手の手により完璧《かんぺき》に裏付けが取れていた。
「と、まあ、事件の背景《はいけい》はこんなもんだ。
私が芝居見物《しばいけんぶつ》を決め込んでいる間に、助手はその辺の調査《ちょうさ》をこなしてくれたよ。
家庭内のいざこざに衛士を頼《たの》むわけにもいかずに、名探偵《めいたんてい》の登場となった次第《しだい》だな」
和穂が想像《そうぞう》していたよりは、単純な事件そうだった。
「それで導果さん。具体的《ぐたいてき》に私たちは何を手伝えばいいんですか?」
「周辺調査は助手の手で完了《かんりょう》している。あとは馬氏と三姉妹の事情《じじょう》を聴取《ちょうしゅ》すればいい。
ちょうど事情聴取の最中に和穂君たちが現《あらわ》れたって寸法《すんぽう》さ。和穂君の推理《すいり》で事件が解決するのならば、それでよし、さもなくばこの名探偵がスパパパと解決してくれよう」
事情聴取という大事な時に、助手は街にかんざしを買《か》いに出掛《でか》けていたのか? 和穂は不自然《ふしぜん》に感じた。
「でも、助手さんはどうして、買い物なんかに?」
導果は筆を走らせつつ答えた。
「ああ、三姉妹に対する聞き込みで、少々|精神《せいしん》が錯乱《さくらん》したようなのでね。頭を冷やさせる意味合いもあって、買い物を言いつけたのだ」
「精神が錯乱?」
「あの三姉妹はちょいと愉快《ゆかい》だからねえ。
まあ、ここでうだうだしていても仕方がない。和穂君、さっきの部屋に戻《もど》って事情聴取を始めようじゃないか。質問の内容はきみに任せる。ちなみに三姉妹の名前は、長女から赤蘭《せきらん》、青蘭《せいらん》、黄蘭《こうらん》だ。なんと素敵《すてき》に素晴《すば》らしい名前じゃないか」
まもなく、部屋の中に三姉妹と馬氏の姿が現れた。三姉妹はそれぞれの髪《かみ》に、赤いかんざし、青いかんざし、黄色いかんざしをさしていた。
これでどうにか三人の見分けが和穂にもつくようになっていた。
心労《しんろう》が溜《た》まったせいか、やつれた馬氏を見る限《かぎ》り、この事件が馬氏の狂言《きょうげん》である可能性はないと和穂は感じた。
娘《むすめ》たちの心の内を探《さぐ》るための、狂言|盗難《とうなん》はありえる話かもしれないが、ここまでやつれたふりは出来ないだろう。
そんな馬氏に比べ、三人の娘たちは相変《あいか》わらず、クスクスと笑っている。殷雷は、部屋の壁《かべ》にもたれかかっていた。
軽く咳払《せきばら》いし、和穂は赤いかんざしをつけた娘に語りかけた。
「では、赤蘭さん。お話をお伺《うかが》いします」
赤いかんざしの娘は、微笑《ほほえ》み続けたが相槌《あいづち》の一つも打ちはしなかった。
聞こえているのかと、和穂は不安になった。
「あの、赤蘭さん?」
三人の娘は一斉《いっせい》に笑いだし、赤いかんざしの娘がやっと言葉を発《はっ》した。
「和穂さん。私は赤蘭姉さんじゃなくってよ。赤いかんざししているからって、赤蘭姉さんとは限らないでしょ」
至極《しごく》真っ当な意見だった。和穂はペコリと頭を下げた。
「ごめんなさい。えぇとそれじゃ名前をお伺いしていいですか?」
「はい。私は黄蘭です」
「では、黄蘭さん……」
「あはは、青蘭姉さんったら、冗談《じょうだん》ばかりおっしゃって」
「冗談は赤蘭姉さんの方よ」
「おほほほ、二人とも冗談が好きでねえ。和穂さん、黄蘭は私です」
青色のかんざしをした娘が笑った。
和穂の頭の中が軽く、グルグル巻《ま》きになっていった。
「? 青色のかんざしが黄蘭さんで」
黄色のかんざしの娘がさらに話をややこしくした。
「今のところ、三人のうち二人が嘘《うそ》をついていますねえ」
「へ?」
「嘘よ。そういうあなたが一人だけ嘘をついてるんじゃないの」
「違《ちが》いますよ。三人とも、嘘と真実《しんじつ》を交互《こうご》に話しています」
元助手が、何故《なぜ》精神を錯乱《さくらん》させたのかが和穂には判《わか》りかけてきた。
「え? え? この真ん中の席に座《すわ》って、黄色いかんざしをさしているのは誰なんですか?」
娘《むすめ》たちはさらに笑う。
「黄蘭、その赤色かんざしって意外と可愛《かわい》いわね。私のかんざしと交換《こうかん》してよ」
「よろしくてよ、青蘭姉さん」
「本当に冗談が好きね、私が青蘭よ。どうでもいいけど、この椅子《いす》に敷《し》いてある厚布《あつぬの》、少し柔《やわ》らかすぎるの。どちらでもいいけど、座っている場所を換《か》わりましょう」
「はい、お姉様。ただし、かんざしを交換してくださいな」
「はいはい。でも私はあなたの姉じゃないでしょ」
和穂の慌《あわ》て方も尋常《じんじょう》じゃない。
「わ、わ。ちょっと待って、席を換わらないでください」
「あら、もう換わっちゃったわよ。次からは気をつけるわね」
導果の調子|外《はず》れの笑い声が響《ひび》くが、笑うだけで口をはさもうとはしない。壁《かべ》にもたれ、両目をつぶっていた殷雷の片目が急に開いた。
そして、鋭《するど》い視線で三人娘たちを睨《にら》み付けた。
「判ったぞ」
娘たちの声で賑《にぎ》やかだった部屋の中が、途端《とたん》に静まり返った。導果は殷雷の言葉が予測《よそく》出来たのかニヤリとしていた。
殷雷は言った。
「元凶《げんきょう》は、お前だ馬氏。子供の教育がなっとらん。全《すべ》てはお前のせいだ。自《みずか》ら招《まね》いた災《わざわ》いだ。おとなしく観念《かんねん》しな」
馬氏は泣きそうな顔になった。
「ごもっともですが、今は事件の解決を」
和穂はほとほと困《こま》り果《は》てた。
「ああ、いったい、誰《だれ》が犯人なの?」
赤いかんざしを揺《ゆ》らして娘が言った。
「私が犯人よ」
「へ?」
青いかんざしと、黄色いかんざしの娘も言った。
「私が犯人よ」
目眩《めまい》を覚えつつ、和穂は言った。
「それはつまり、共犯《きょうはん》だと?」
娘《むすめ》の一人が答えた。
「いいえ。私も誰が犯人かは知らないけれど犯人を庇《かば》ってあげてるの」
「そう。私は犯人の気持ちが判《わか》るからね」
「私たちの名前で気がついたでしょ、和穂さん。
お父様は私たちを生まれた時から、ないがしろにしていたのよ。赤青黄《あかあおき》の蘭《らん》なんていい加減《かげん》な名前をつけて」
馬氏は弁解《べんかい》した。
「いや、別にお前たちを憎《にく》んだりはしていないぞ」
青いかんざしが、笑う。
「そうでしょうよ。憎むなんてほどの関心《かんしん》もなかったんでしょ。お父様が本当に欲《ほ》しかったのは、跡取《あとと》り息子《むすこ》だったんでしょ? お父様のそういう態度が癪《しゃく》に障《さわ》っていたのよ」
「そうよねえ。これは私たちからのささやかな仕返《しかえ》しだと思ってくださいな」
甲高《かんだか》い声で導果は言った。
「うむうむ。お嬢《じょう》さんたちの言い分にも一理《いちり》あるね。だが、そろそろお灸《きゅう》も効《き》いてるようだから許《ゆる》してあげてはどうかな」
導果の言葉に従《したが》う者はなかった。
殷雷は面倒《めんどう》そうに伸《の》びをした。
「三つ子だから、どいつも似た性格だなんて俺は考えねえ。三人の中に一人だけ、ちょいと利口《りこう》で悪い娘がいるようだな。
そいつが親父《おやじ》を蹴落《けお》として、自分が、跡を継《つ》ごうと考えている。親父の困《こま》る顔《かお》を見て、世間知らずな他《ほか》の二人も攪乱作戦《かくらんさくせん》に協力してくるとまで、読んでいやがるんだな。
馬氏よ。そんな娘の才覚《さいかく》を見抜《みぬ》けなかったのがお前の失敗だ。世間知らずの娘の中にも、牙《きば》のある奴《やつ》がいたんだ。
それを見抜いて、ちゃんとした跡取りに仕込《しこ》めばこんな事件にゃなりやしなかった」
和穂の顔がわずかに明るくなった。
殷雷は事件の真相《しんそう》を確信しているに違《ちが》いない。殷雷の言葉に自信と説得力《せっとくりょく》があった。
「じゃ、殷雷にはその才覚のある娘《むすめ》さんがどの人だか判《わか》るんだね?」
鋭《するど》い殷雷の視線が和穂を射抜《いぬ》く。
「判らねえよ。女の嘘《うそ》は簡単《かんたん》には見抜けないからな」
「じゃ、導果さんは」
「はははっは。私は推理《すいり》をするのが得意な切れ者だが、人を見る目はそれほどないからねえ。ちなみに殷雷君の意見と私の推理は大まかな部分で一致《いっち》している」
結局、このままでは何も判っていない。
「困ったなあ」
困る和穂の顔を見て、三人の娘たちが笑った。そして、何故《なぜ》か導果も笑う。調子っぱずれの長い長い笑い声だ。
あまりの長い笑い声に娘たちの笑い声は、ゆっくりとかき消《け》されていった。そしてわずかな笑《え》みを残《のこ》しながら、導果は言った。
「さあ、調査《ちょうさ》が行《い》き詰《つ》まったところで、名探偵《めいたんてい》の登場といこうじゃないか」
登場してどうなるのか、和穂には判らない。
「でも、こんなんじゃ犯人は判らないと思います」
「いや。聞き込みなんか、実はどうでもいいんだ。すでに犯人は判っている」
「なんですって!」
「しかも、これは家庭の中の盗難《とうなん》事件なんていう甘《あま》い事件なんかではないのだ」
いきなりの言いぐさに、殷雷も驚《おどろ》く。
「おい、待てよ」
導果は笑顔で殷雷の言葉を押《お》さえ込む。
「助手に調査をさせ、私は芝居見物《しばいけんぶつ》を決め込んでいるように見せかけて、私はこの街全体の犯罪《はんざい》を調査していたのだよ。
馬氏。両替商《りょうがえしょう》の所に入った強盗《ごうとう》事件は知っていますな」
「はあ。それとこの事件に何の関《かか》わりが?」
「おおありですとも。他《ほか》にも、美術商《びじゅつしょう》の所に何度か泥棒《どろぼう》が入った事件もご存じですな」
いきなりの唐突《とうとつ》な話に和穂は面食《めんく》らう。そんな話は今まで一言《ひとこと》も聞いてはいない。
だが、馬氏には覚えがあるらしかった。
「それは勿論《もちろん》、知っていますよ。でもこの盗難事件とは毛色《けいろ》が違《ちが》いすぎています。そりゃ献上用《けんじょうよう》の宝刀だから、安いものじゃありません。でも、そんな外部の人間が狙《ねら》う類《たぐい》のものじゃありません。だいいち、他にも価値《かち》のある品物があったのに、それは盗《ぬす》まれてないんですから」
導果はうなずく。
「全くです。でも、逆ですよ。この街で多発《たはつ》している盗難事件、だが、しかしその盗難事件の犯人が全《すべ》て同一犯だとは、誰も考えていますまい。現在、未解決の盗難事件は、全てある盗賊集団《とうぞくしゅうだん》の手によるものなのです」
「それじゃ、宝刀を盗んだのも外部の犯行なんですね?」
「いいえ。内部の犯行です」
和穂は息《いき》をのんだ。
「それじゃ、まさか」
風を斬《き》るような大げさな身《み》ぶりで、導果は和穂を指さした。
「そう。この中の娘《むすめ》さんの一人が窃盗団《せっとうだん》の首領《しゅりょう》なのです!」
三姉妹《さんしまい》の顔から笑顔《えがお》が消えた。
慌《あわ》てるのは、馬氏も同じだった。
「待ってください、そんなのはあまりに唐突だ! 信じろという方が無茶《むちゃ》ですよ」
「証拠《しょうこ》なら、ありますよ。見てください」
等果は懐《ふところ》から、幾《いく》つかに折《お》り畳《たた》んだ紙を取り出した。そして、紙を広げると中には木屑《きくず》のようなものが入っていた。
「これが、盗難事件の現場には必ず落ちていたのです」
馬氏は不思議そうに、紙の中を覗《のぞ》く。
「? 普通《ふつう》のおが屑じゃないですか。これがなんの証拠に?」
導果は勝ち誇《ほこ》ったように言った。全ての謎《なぞ》が解《と》きあかされたかのように。
「それは、おが屑じゃありません。鰹節《かつおぶし》の削《けず》り滓《かす》です! この削り滓こそ、あの非常識なまでに奇想天外《きそうてんがい》な密室盗難事件の謎を解く鍵《かぎ》なのです!」
それはあまりにも、堂々《どうどう》とした声だった。その迫力《はくりょく》に和穂すらのみ込まれてしまう。
導果は続けた。
「全ては同一犯の仕業《しわざ》です。その犯人が、この事件に限《かぎ》ってはあまりに個人的な動機で犯行を行っているのです。
もし、盗賊団《とうぞくだん》の存在が公《おおやけ》にされていたのならば、そんな馬鹿《ばか》な真似《まね》はしなかったでしょうな。だが、私の手にかかれば、盗賊団が存在するなど、お見通しなのです! さらにこの盗賊団が幾《いく》つかの誘拐《ゆうかい》事件に関与《かんよ》している証拠さえ、私はつかんでいます。なんとも凶悪《きょうあく》な集団ではないですか! 恐《おそ》ろしいにもほどがある!」
と、その時。青ざめた顔をして黄色いかんざしをつけた娘が立ち上がった。
「ま、待って!
私は盗賊団の首領なんかじゃ、ありません。
誤解《ごかい》なんです。宝刀を盗《ぬす》んでくれとある方に頼《たの》んで、私は手筈《てはず》を整《ととの》えただけです! たぶん、その人が盗賊団の一味《いちみ》だったんです!」
馬氏は娘《むすめ》の顔を見た。
「赤蘭《せきらん》!」
殷雷がパチパチと拍手《はくしゅ》をした。
「相変わらず見事《みごと》だな。これで一件落着だ」
和穂には何が何だか判《わか》らない。
導果は優《やさ》しく微笑《ほほえ》む。
「馬氏。事件も解決したので、私はこれで失礼しますよ。あぁ、鰹節《かつおぶし》やら盗賊団の一件は全部|嘘《うそ》ですから、気になされないように」
導果は先にたって部屋の扉《とびら》に向かった。
三姉妹と馬氏と和穂はポカンと大口を開けていた。殷雷は和穂の首根《くびね》っこをつかみ、導果に続いて部屋を出て行った。
歩きながら和穂は頭を抱《かか》え込んでいた。
「わけが判らない!」
口笛を吹《ふ》き導果は答えた。
「宝刀を実際に盗んだのは、事件の首謀者《しゅぼうしゃ》じゃない。大金を積んで誰かに盗んでもらうように依頼《いらい》したってのは最初から判っていたんだよ。盗みの手際《てぎわ》のよさから見て、馬氏の娘に出来る芸当じゃないからね。
でも、実行犯と首謀者との間にどれだけ信頼関係《しんらいかんけい》があるんだか。そこをつついたんだ。盗人の手を借りただけで、極悪盗賊団の親玉と勘違いされたらたまらんだろ?」
「でも、それだったら、事情聴取《じじょうちょうしゅ》の真似事《まねごと》なんかしなくても」
「相手は自信《じしん》があった。その自信の前に右往左往《うおうさおう》する和穂君がいる。それを見て安心したいところだが、噂の名探偵《うわさめいたんてい》はニコニコ笑っている。これが重要《じゅうよう》なんだ。これで、相手を揺《ゆ》さぶりやすくする」
殷雷が言葉を続ける。
「そこで俺たちにとっちゃ荒唐無稽《こうとうむけい》にしか聞こえない推理の炸裂《さくれつ》だ。
だが、事件の首謀者にすりゃ無茶な話には思えない。雇った盗人が、よそでどんな悪行を働いているか判ったもんじゃない。
かくて、標的《ひょうてき》は思わず口を割《わ》るって寸法《すんぽう》さ。凄《すさ》まじい尋問能力《じんもんのうりょく》だな」
「失敬《しっけい》だな。私はそのような下品な能力を持っているつもりはない」
和穂にはまだ二つだけ謎《なぞ》があった。
「そういや、導果さんって何の宝貝なんですか?」
「私は導果筆《どうかひつ》。戯曲《ぎきょく》、芝居《しばい》の筋《すじ》を書く宝貝さ。舞台《ぶたい》の演出《えんしゅつ》だって手掛《てが》けるし、役者の真似事《まねごと》ぐらい出来る」
「芝居? ですか?」
「そう。今回は追い詰《つ》められた犯人が、ついに自《みずか》らの口を割って真実《しんじつ》を語る芝居を書いた。
ま、役者は自分が役者になっている事にすら気がつかないんだがね。だから、いつでも名演技だ」
殷雷は目を細めた。
「導果先生の機嫌《きげん》を損《そこ》ねて、間抜《まぬ》けな道化《どうけ》の役を割り振《ふ》られたら、それこそ災難《さいなん》だ」
私が道化役だったのかと、考えつつも、和穂の頭には一つの疑問《ぎもん》が残っていた。
「そうだ、そうだ、あの密室盗難《みっしつとうなん》事件の仕掛《しか》けって、どうなってたんですか?」
導果はいつものように調子っぱずれの声で笑った。
「はははっは。知ったこっちゃないな。謎になんか、これっぽっちも興味《きょうみ》はないからねえ」
『導果筆』
戯曲の制作《せいさく》、及《およ》び演出を手掛ける能力を持つ筆の宝貝。欠陥《けっかん》はその強引《ごういん》な演出|展開《てんかい》。見物《けんぶつ》を決め込めない芝居は、単に身近にある恐怖《きょうふ》にしか過ぎない。
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夢の涯《はて》
「お母さん、おはよ」
寝惚《ねぼ》けた声を上げながら、娘《むすめ》は厨房《ちゅうぼう》の中に姿《すがた》を現《あらわ》した。
ごく、普通《ふつう》の家庭にある厨房である。
壁沿《かべぞ》いには簡単な造りだが、二つのかまどが据《す》えられ、その隣《となり》には一抱《ひとかか》えほどの小振《こぶ》りな水瓶《みずがめ》が置かれている。
石造《いしづく》りの床《ゆか》には、ばらけた薪《まき》や箒《ほうき》などの細々《こまごま》したものが置かれていたが、娘はうとうとと夢遊病者のように頼《たよ》りない足つきながらも、転《ころ》びもせずに厨房の隅《すみ》の卓《たく》に腰《こし》を下ろした。
かまどの前で鉄鍋《てつなべ》を操《あやつ》っていた母親は、そんな娘に呆《あき》れた声を上げた。
「また、寝惚けてるのかい? だいたい、あんたはなんで顔を洗ってもそうやって寝惚けてられるんだろうね」
呆れながらも、鉄鍋はガシガシと揺《ゆ》さぶられ油の弾《はじ》ける音が周囲に広がった。
母親の年齢《ねんれい》は四十前後に見えた。短めの髪《かみ》の中にちらほらと白髪《しらが》があったが、それほど老《ふ》け込《こ》んでも見えない。
キリリとした顔には、かまどの炎《ほのお》のせいかわずかに汗《あせ》が滲《にじ》んでいた。
「そこまでいけば、なんかの才能かもね」
変な恰好《かっこう》になってるんじゃないかと、母親は娘の服装《ふくそう》を遠目《とおめ》で確認《かくにん》したが、とくに問題はないようだった。
こんな状態《じょうたい》で寝惚けながら、寝間着《ねまき》から着替《きが》えたはずなのに裾《すそ》や襟《えり》、帯《おび》の結《むす》び方《かた》もちゃんとしている。
桜色《さくらいろ》をした上着《うわぎ》には、最近の流行《はや》りらしい複数の組紐《くみひも》が絡《から》んでいたが、どれもキッチリと結ばれていた。
「母さんが子供のころにも、似《に》たような服が流行ったけどね。一度着て、組紐あんまり面倒《めんどう》だったから二度と着なかったよ。おかげで死んだお祖母《ばあ》さんと大喧嘩《おおげんか》だ。確かに、せっかく買ってやった服を子供が一度しか着なきゃ腹も立つね、今にして思えば」
うなずいているのか、コクリコクリと娘の頭が上下した。
母親は徳利《とっくり》の中の醤油《しょうゆ》を、鉄鍋の中に豪快《ごうかい》にぶちまけ、さらに料理を続けた。
娘の年齢は十五、六|歳《さい》に見えた。
どことなくあどけなさの残る顔は母親にはあまり似ていなかったが、細《ほそ》めの顎《あご》と鼻の形はよく似ていた。
櫛《くし》でよく梳《す》かれた娘の髪《かみ》は背中の辺《あた》りまで伸《の》びている。流れるままの黒髪は、窓《まど》から射《さ》し込《こ》む陽《ひ》の光《ひかり》のせいでわずかに飴色《あめいろ》に見えた。
娘《むすめ》が聞いていようが、聞いていなかろうがお構《かま》いなしに母親は言葉を続けた。
「お前の寝起《ねお》きが悪いのは、もしかしたら母さんのせいなのかもね」
一段落《ひとだんらく》ついたのか、鉄鍋から手を離《はな》し小さめの土鍋《どなべ》の蓋《ふた》を開ける。
流れるような手つきで茶碗《ちゃわん》をとり、土鍋の中の粥《かゆ》をよそう。
「だいたい、朝の忙《いそが》しい時に子供の面倒なんてみてられないじゃない。父さんの支度《したく》があるし、洗濯物《せんたくもの》も干《ほ》さなきゃなんないし。
だから、お前がもっと小さかったころは、昼前まで寝かしてたんだよ。
それで、寝起きが悪くなっちゃったんだろうね」
粥をよそった茶碗は、そのまま小さな盆《ぼん》の上にのせられた。
盆の上には、既《すで》に取り分けられた卵焼《たまごや》きやら、漬物《つけもの》の入った鉢《はち》の姿《すがた》もあった。
盆を持ち、娘の座《すわ》る卓の前に歩《あゆ》みより、母親は言った。
「粥はちょっと冷《さ》めてるけど、文句は言わないでよ。
もう少し早く起きてりゃ、父さんと一緒《いっしょ》に出来立ての粥が食べられたんだからね」
温《あたた》かい粥と、睡眠《すいみん》時間。娘がどちらを選ぶか母親は充分承知《じゅうぶんしょうち》していた。
口うるさく怒《おこ》らなければ、朝飯抜《あさめしぬ》きで出掛《でか》けていくに違《ちが》いない。
寝惚《ねぼ》けながらも、器用《きよう》に箸《はし》を操《あやつ》る娘を見ながら、母親は湯飲《ゆの》みに茶を注《つ》いだ。
コポコポと音をたて、茶が湯飲みを満《み》たしていった。
と、その時。厨房奥《ちゅうぼうおく》の勝手口《かってぐち》が勢《いきお》いよく開かれた。
「おはようございます!」
「あら、おはよう純花《じゅんか》ちゃん。あいかわらず朝っぱらから元気だねえ」
「そうですか! これぐらい普通《ふつう》ですよ!」
純花の大きな声に、娘の体はまるで風に吹《ふ》かれた草のように揺《ゆ》らぐ。
それでもまだ、うとうとし続ける娘の顔を母親はペシペシと叩《たた》く。
「いい加減《かげん》、起きなさいよ。純花ちゃんが迎《むか》えに来てくれたんだから」
ドタドタと足音をたてて歩き、純花も卓のそばに近寄った。
「ありゃ。まだ御飯《ごはん》の最中だったの和穂《かずほ》」
和穂と呼ばれた娘はコクリコクリと首をたてに振《ふ》った。
申《もう》し訳《わけ》なさそうに母親は言った。
「悪いね。すぐに支度《したく》をさせるから」
和穂の髪《かみ》に比《くら》べて、純花の髪はわずかばかり、短かった。だが、和穂の髪に比べてさえさらに艶《つや》のある髪だった。
歳《とし》のころも和穂とほとんど同じで、着ているものも良く似ていた。
どちらも袖《そで》の細い長袖の服に、装飾《そうしょく》として幾《いく》つかの組紐《くみひも》が結ばれた服だ。形式は似てはいるが、同じ服ではない。
和穂の顔に少女のあどけなさが残っているのならば、純花の顔には少年を思わせるような活気《かっき》が漂《ただよ》っていた。
寝惚ける和穂には慣《な》れているのか、純花は呆《あき》れた様子《ようす》も見せない。
「おばさん、お茶もらうね!」
あまっていた湯飲みにコポコポと茶を注《つ》ぎ純花は、喉《のど》を潤《うるお》す。
「ほら、いい加減にシャンとしなさい」
「いやあ、毎度《まいど》の事だけど、和穂もしぶといよねえ」
必死《ひっし》に娘《むすめ》を起こそうとする母親に比べて、純花は呑気《のんき》なものだった。
悪戦苦闘《あくせんくとう》する和穂の母親のさまを見ながらキュウリの漬物《つけもの》を摘《つま》む。
いくら揺さぶっても、ぼんやりし続ける娘に母親は軽《かる》く切れかかった。
「そうかい。そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがあるからね」
言うなり、床《ゆか》に転がる手桶《ておけ》を拾《ひろ》い、一気に水瓶《みずがめ》の前に駆《か》け寄った。
和穂の巻《ま》き添《ぞ》えをくらい、水浸《みずびた》しになるのもかなわないと、純花が椅子《いす》から立った途端《とたん》、唐突《とうとつ》に和穂の目が開かれた。
ぼんやりとした顔がわずかに引《ひ》き締《し》まり、少しばかり太めの眉《まゆ》がピクリと動く。
「あら、おはよう純花。どうしたのよ、そんなとこに立って? 座《すわ》んなよ。
母さん? 手桶なんかぶら下げてどうするの」
「……可愛《かわい》い娘に水浴《みずあ》びでもさせてやろうかと思ってね」
「なんの冗談《じょうだん》?」
思いっきり力が抜《ぬ》ける母親をよそに、純花は弾《はじ》けるように笑《わら》った。
一人、和穂は事情がのみ込めてないようであった。
あきらめ顔で、母親は手を振《ふ》った。
「いいから、食事が済《す》んだなら、さっさと塾《じゅく》に行っておいで」
朝の街中は人の流《なが》れでごったがえしていた。
行《ゆ》き交《か》う人々の歩みは速《はや》く、和穂と純花をゆっくりと追《お》い抜《ぬ》いていった。
荷車を引く牛が、建物の壁沿《かべぞ》いにゆっくりと歩いていく。
いまだ納得《なっとく》のいかない顔で和穂は言った。
「わたし、そんなに寝惚《ねぼ》けていた?」
「そりゃあ、あんた。見事なまでの寝惚けっぷりだったじゃない。
寝惚けてるくせに、惚《ほう》けた風《ふう》じゃないってのが凄《すご》いよ。
ちょっと聞くけど朝|起《お》きてから、私に会うまでの事、思い出せる?」
「? 起きて、塩で歯を磨《みが》いて、顔を洗ってから服を着替《きが》えて、朝|御飯《ごはん》を食べて」
覚えているけど、本当に覚えているのではないと、純花は悟《さと》った。和穂はその行動を無意識《むいしき》のうちにやっているのだ。
これはこれで、便利《べんり》な特技《とくぎ》のような気がしないでもない。
「別《べつ》に構《かま》わないよ。寝惚けて馬鹿《ばか》な事をしてるんじゃないんだから」
「なにか、頭の芯《しん》がしっかりしなかったような気がしないような、そうでもないような」
「ほら! 別にどっちでもいいじゃない。
誰《だれ》に迷惑《めいわく》かけてるわけでもないんだから!」
やはり、和穂は納得がいかない。
何かが腑《ふ》に落《お》ちない。
「でもね、殷雷《いんらい》」
「は?」
隣《となり》にいるのは純花であり、殷雷ではない。それ以前に殷雷って誰だ? 和穂は自分のこめかみをグリグリと押《お》してみた。
「本当だ。寝惚けてるみたいだね。純花ちゃんの名前を間違《まちが》えるなんて、どうかしてる」
そんな言葉で納得する純花ではない。
和穂の顔をじっとみつめ、ニンマリと笑う。
「とぼけないでよ。殷雷って誰よ? どう考えても女の名前じゃなさそうね。
ねえ、誰なのよ。教えなさいよ」
「別に、口が滑《すべ》っただけで。あ、こういう場合は口が滑ったとは言わないか」
「ほらほら、誤魔化《ごまか》さないで。その殷雷ってのとはどこで知り合ったの?
私の知ってるかぎりじゃ、あんたの親戚《しんせき》にそんな名前の人はいないからね」
「誰だったっけ? ただ、なんとなく口から出ただけのような気がするんだけど。
駄目《だめ》だ、やっぱり寝惚けてるんだ」
純花は口許《くちもと》に手を当てたが、彼女の笑顔《えがお》はそんなものでは隠《かく》しきれなかった。
「あれだけ、寝惚けてないって強情張《ごうじょうは》っていたくせに、都合《つごう》が悪くなると寝惚けたせいにするの?
そんなんじゃ許《ゆる》さないからね。
殷雷って誰なのよ」
誰だろう。誰だったのか? 本当にそんな名前の人物が居《い》たのだろうか? すとん、すとんと全《すべ》てが一つの形にまとまり、違和感《いわかん》が和穂の中から消《き》えていった。
「やっぱり知らない。殷雷なんて人」
「ああ、もう。別にからかったりしないし、取ったりしないんだから、正直《しょうじき》に言いなさいってば!」
部屋の中には大きな机《つくえ》があった。煮込《にこ》んだ砂糖《さとう》のような飴色《あめいろ》の机の前に、和穂と純花が並《なら》んで座《すわ》っていた。
あと、二、三人座れるぐらいに余裕《よゆう》のある大きな机だ。
西側の壁《かべ》には書架《しょか》があり、多くの書籍《しょせき》が並んでいた。
常に使われている書架らしく、埃《ほこり》は一つもなかったが、その乱雑《らんざつ》な書籍の並び方の理由は主《あるじ》以外は知りようもなかった。
東側の窓から入る光はぎりぎり書架までは届《とど》いていない。
机に向かい、和穂は墨《すみ》を擦《す》っていた。純花は軽く顎《あご》を突《つ》き出し、少しばかり機嫌《きげん》の悪そうな顔をしていた。
「じゃ、寝惚けてる和穂に説明《せつめい》してあげる。
ここは三敷語《さんしきご》の塾《じゅく》で、和穂と私は生徒《せいと》なの」
殷雷の正体を教えなかったので、純花は不機嫌《ふきげん》なのだ。かといって和穂も知らないものは答えようがない。
「純花ちゃんてば」
「先週まで、短期の基礎《きそ》三敷語会話を勉強しに来てたお姉さん連中がいたけど、今の生徒は和穂と私の二人きり。
あ、そうそう知ってる?」
「なにを?」
「この塾の先生って私の従兄弟《いとこ》なんだよ」
「知ってるってば。お願いだから機嫌直してよ」
機嫌が悪いのか、困《こま》る和穂の姿を見て喜《よろこ》んでいるのか、純花は彼女が当然知っている説明を続けた。
「そもそも三敷語というのは、半人造《はんじんぞう》の交易言語《こうえきげんご》だから単純《たんじゅん》なものなんだけどね。
けど、単純|故《ゆえ》に方言《ほうげん》が多くて商売上の細かい会話には通訳《つうやく》が必要でね。私と和穂は通訳を目指《めざ》して勉強中なわけ。ま、翻訳家《ほんやくか》って手もあるけど」
「怒《おこ》らないでよ純花ちゃん。ほら、純花ちゃんの墨も擦ってあげたから」
純花は指をパチンと鳴らした。
「でも、これは知らないでしょ。私と和穂は小さいころからの幼《おさな》なじみなのよ。
和穂の父さんと私の父さんは、同じ交易所に勤《つと》めていて」
横目《よこめ》で和穂を見たが、どうやら口を割《わ》りそうにない。
和穂がここまでしぶとい性格《せいかく》をしていないと純花は考えた。少しは面白《おもしろ》い事になりそうかと思ったが、それはどうやら期待外《きたいはず》れに終《お》わったようだ。
「判《わか》ったわよ。本当に寝惚《ねぼ》けてただけみたいね。
ま、そんなのどうだっていいや。
こないだ、新しい小間物屋《こまものや》が開店したのは知ってる? 帰りに寄っていこう。和穂も耳飾《みみかざ》りの一つぐらい買いなさいよ」
「うん」
宝貝《ぱおぺい》。仙人《せんにん》が己《おのれ》の能力《のうりょく》の粋《すい》を結集《けっしゅう》して造《つく》り上げた神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
本来、仙人の世界にしか存在してはならない宝貝が、ある日不幸な事故《じこ》により人間の世界へとばらまかれた。
宝貝をばらまいてしまった仙人は、責任を感じ宝貝|回収《かいしゅう》の為《ため》に人間の世界に降《お》り立った。
が、地上にこれ以上の混乱《こんらん》を巻き起こす危険《きけん》を避《さ》ける為、その仙人は全《すべ》ての仙術《せんじゅつ》を封印《ふういん》されていた。
回収にあたり、彼女が手にしていた宝貝は三つ。
一つめは、宝貝の位置を探《さぐ》り当てる宝貝、『索具輪《さくぐりん》』。外見は質素《しっそ》な白い珠《たま》のついた耳飾りにしか見えない。
ふたつめは、回収した宝貝を封じ込める宝貝、『断縁獄《だんえんごく》』。その内部に莫大《ばくだい》な空間を持つ瓢箪《ひょうたん》の形をした宝貝である。
そして、最後の一つは刀《かたな》の宝貝、『殷雷刀《いんらいとう》』であった。
殷雷刀は人の姿に転《てん》じる能力も持ち、仙人の護衛役《ごえいやく》をもつとめる。
朝に比べれば少ないが、昼過《ひるす》ぎとはいえ街中を行く人の流《なが》れは途切《とぎ》れなかった。
塾《じゅく》が終《お》わった和穂と純花は、小間物屋|目指《めざ》して街中を進んでいった。
純花はジャラジャラと手の中で小銭《こぜに》をもてあそんでいた。
「我《わ》が従兄弟《いとこ》ながら、本当に腹《はら》が立つわ。
せっかく翻訳《ほんやく》の手伝いをしてあげたのに、たったのこれだけしか小遣《こづか》いくれなかったんだから」
「そうだね。でも、一応|実技《じつぎ》の課題《かだい》って意味だったんだし」
「あんなのハッタリよ。上手《うま》い具合にこき使って」
純花の従兄弟であり、和穂たちの先生にあたる男も教師《きょうし》が本職《ほんしょく》ではなかった。
ときたま、自分の仕事を和穂たちに手伝わせ実習|替《が》わりの授業《じゅぎょう》としていたのだ。
純花はその報酬《ほうしゅう》の少なさが気に入らない。
「これじゃ、欲《ほ》しかったかんざしが買えないじゃない、あてが外《はず》れた」
文句を言いつつも、小間物屋《こまものや》に近づくにつれ、純花の表情は嬉《うれ》しそうに綻《ほころ》んでいった。
結局、和穂は気に入った耳飾《みみかざ》りを見つけられなかった。純花は桜色の飾り布《ぬの》を気に入り、代金を払《はら》いに店の奥《おく》へ消えた。
純花が戻《もど》ってくるまで、和穂は店先の壁《かべ》に飾られた首飾りを見物《けんぶつ》する事にした。
と、その時。和穂の名を呼ぶ声がした。
「はん。やっと見つけたと思ったら呑気《のんき》に買い物かよ。
まあ仕方があるまい。さあ、さっさとここから消えるぜ和穂」
和穂は店先から通りに顔を向けた。
そこに居《い》たのは青年と女の二人|連《づ》れだった。
黒い袖付《そでつ》きの外套《がいとう》を羽織《はお》った、長髪《ちょうはつ》の青年だ。髪《かみ》の毛が後頭部《こうとうぶ》の辺《あた》りで、一つにまとめられている。
大柄《おおがら》な男ではなかったが、その鋭《するど》い視線《しせん》に独特《どくとく》の威圧感《いあつかん》があった。その瞳《ひとみ》は、まるで猛禽類《もうきんるい》を思わせた。
和穂に声を掛《か》けたのは、この長髪の男だったのだ。
が、和穂には男の顔に見覚《みおぼ》えがない。
男の隣《となり》にいるのは、背が高くわずかに痩《や》せた女だった。肩《かた》にかかるかかからないかの髪は癖《くせ》があり軽く波うっていた。
瞳を隠《かく》すかのように前髪が顔を覆《おお》うが、女の眼光《がんこう》までは隠しきれていない。
女は冷《つめ》たく笑《わら》っていた。
「どうしたんですか?」
和穂は声を震《ふる》わせながら、どうにか声を出した。男も女も知らない人間だった。が、もしかしたら自分が顔を忘れているだけかもしれないと、和穂は考えた。
和穂の言葉を聞き、男の視線がさらに鋭くなった。
「なに、間抜《まぬ》けな返事をしていやがる」
妙《みょう》だ。この二人は妙だ。
この二人だけが、違《ちが》う色をしている。
和穂にはどう説明すればいいかは判《わか》らない。
たとえるならば、この昼下がりの時刻に、夕焼《ゆうや》けの光をまとっているような、微《かす》かだが黙殺《もくさつ》出来ない異様《いよう》さがあった。
この二人は普通《ふつう》じゃない。
和穂は後《あと》ずさった。
男は怒鳴《どな》った。要領《ようりょう》の悪い人間を叱《しか》る声だった。
「早くこっちに来い。どうって事ない、どこにでもありそうな、つまらねえ宝貝だったんだが、一応大事をとって調べてたんだよ。
問題は一切《いっさい》ない。『内側』からなら簡単に脱出《だっしゅつ》出来る」
男のちょうど死角《しかく》になる位置に佇《たたず》む女は、楽しそうに笑っていた。和穂からは真正面《ましょうめん》だが、男から見れば女は後ろに立っているのだ。
突然《とつぜん》、男は女に向き直った。
「なにがおかしい!」
男は完全な死角になっていた女の表情を見切《みき》っていたのだ。その事実が、さらに和穂の恐怖《きょうふ》を煽《あお》った。
動こうとしない和穂に痺《しび》れを切らしたのか、長髪《ちょうはつ》の男はツカツカと彼女に向かって歩きはじめた。
和穂も後《あと》ずさるが、男の歩みは見た目よりも余程《よほど》素早《すばや》く、すぐに追いつく。
「さあ、和穂」
黒い袖付《そでつ》き外套《がいとう》を着《き》た、長髪の男は和穂の右手首を掴《つか》んだ。
その時、和穂の恐怖は頂点《ちょうてん》に達《たっ》した。
悲鳴《ひめい》を上げ、男の手を振《ふ》りほどくように和穂は尻餅《しりもち》をつく。
途端《とたん》に男の顔から気迫《きはく》が消《き》え、代《か》わりに狼狽《ろうばい》の表情が浮《う》かんだ。
「おい、どうしたんだ和穂! しっかりしろ!」
男の手を振りほどこうと必死《ひっし》の和穂には、彼の言葉は聞こえていない。道を行く人々はまるでこの騒《さわ》ぎが見えていないかのように、淡々《たんたん》と歩み続けていた。
やっかいごとに巻き込まれるのを恐《おそ》れ、無視《むし》を決め込んでいるようには見えない。
彼らは和穂たちから、視線《しせん》をそらそうとすらしていないのだ。
いきなり悪夢《あくむ》にひきずりこまれた和穂は、力のかぎり叫《さけ》び、男の手をほどこうとした。
だが、男の手は和穂の手首から離《はな》れようとはしなかった。
慌《あわ》てながら長髪の男は女に向かい怒鳴《どな》った。
「おい、李収《りしゅう》! こいつはどういう事だ! 説明《せつめい》しろ!」
李収と呼ばれた女は、静かに和穂の側《そば》に寄った。そして、有無《うむ》を言わさず和穂の顎《あご》を掴み、自分の方を向かせた。
「和穂。私やこいつは、お化《ば》けなの。だから、他《ほか》の人たちには見えない。
でも怖《こわ》がらなくていい。あなたに危害《きがい》は加えない。もっとも、利益《りえき》も与《あた》えないんだけどね」
そして李収は長髪の男に言った。
「説明は外でしてあげる。このまま叫び続けて、和穂の喉《のど》が悲鳴で引き裂《さ》かれても困《こま》るでしょう?」
男の舌打《したう》ちと共に、和穂の手首から男の手が外《はず》れた。
いや、男そのものが消滅《しょうめつ》したのだ。続いて女の姿も消えた。
和穂は軽い目眩《めまい》を覚えた。そして、次の瞬間《しゅんかん》、全《すべ》ては何事もなかったかのようにありふれた日常へと戻《もど》っていた。
「どうしたのよ、和穂」
純花の声に和穂はやっと、正気《しょうき》を取り戻した。
「た、大変よ純花ちゃん! 今ねお化けを見たの!」
「へえ、そいつはおっかないわね」
「本当なの!」
「だったら、本当におっかないわね。こんな昼間から仕事してるなんて、えらく働《はたら》き者のお化けだ事」
「信じてよう!」
はなから、信じる素振《そぶ》りを見せない純花に和穂はまどろっこしさを感じたが、説明を続ければ続けるほど、今見たものが和穂にとっても信憑性《しんぴょうせい》を失ってきた。
「……その二人は消えちゃったの」
和穂は嘘《うそ》をつく人間ではないし、人を騙《だま》すような性格もしていないと純花は承知《しょうち》していた。
が、お化けの存在を信じるつもりはなかった。
「あのね、和穂。そうやって、ぼうっとしてるから、誰《だれ》かにからかわれたのよ」
「そ、そうかなあ……そうだよね。手品《てじな》かなんかだよね。でも上手な手品だったよ」
李収は薄《うす》ら笑《わら》いを浮《う》かべ続けていた。長髪《ちょうはつ》の男はそれが気に入らない。
「李収よ! 和穂は一体、どうなったんだ? 記憶《きおく》をなくしているのか!」
「そんな芸当《げいとう》が出来る宝貝じゃないのは、承知しているでしょ。慌《あわ》てるんじゃないの、殷雷」
李収は長髪の男を殷雷と呼んだ。
蝋燭《ろうそく》の明かりだけが灯《とも》る、薄暗《うすぐら》い部屋だった。壁《かべ》に備《そな》えつけられた棚《たな》には、細かい引き出しが無数《むすう》に並んでいた。
その引き出しのそれぞれに漢方薬《かんぽうやく》の原料が収納《しゅうのう》されていて、部屋の中に微《かす》かな異臭《いしゅう》を漂《ただよ》わせていた。
そこは薄暗い診療室《しんりょうしつ》だった。
なんの飾《かざ》りもない、狭《せま》い寝台《しんだい》が診察台《しんさつだい》の代わりであり、その診察台の上で和穂は眠《ねむ》っていた。
和穂は仙人《せんにん》が身につけるような袖《そで》の大きな道服《どうふく》をまとい、その柔《やわ》らかな髪《かみ》は後頭部の辺《あた》りで飾り布《ぬの》で括《くく》られている。
殷雷は和穂の首筋《くびすじ》に手を添《そ》え、李収は黒色の鎖《くさり》で作られた首飾りをもてあそんでいた。
李収は言った。
「どうって事ないわ。記憶は消してない。というか、記憶を消すなんて凄《すご》い能力はないわよ。現実の記憶が夢《ゆめ》の中に溢《あふ》れださないように覆《おお》いで囲《かこ》ってあるだけ。夢から覚《さ》めれば、記憶は元《もと》に戻《もど》る」
殷雷はじろりと、前髪の向こうから覗《のぞ》く女の目をにらんだ。
「嘘《うそ》ではなさそうだな」
「充分《じゅうぶん》判《わか》ってるでしょ? 緩終鎖《かんしゅうさ》は、どこにでもあるようなつまらない宝貝なの。
本当にありがちな宝貝よ」
李収は首飾りを楽しそうにまさぐった。
「ただし、見てのとおり一度|機能《きのう》したら緩終鎖を外しても、夢から覚めたりはしない」
緩終鎖を破壊《はかい》しても和穂は目覚めはしない。和穂は既《すで》に緩終鎖の術中《じゅっちゅう》に落ちているのだ。
だが、殷雷にはさほど焦《あせ》りはなかった。
李収は囁《ささや》く。
「あなたは刀《かたな》の宝貝。使用者の体を操《あやつ》り武人《ぶじん》の動きを再現《さいげん》出来る。つまり、少しばかりは使用者の精神《せいしん》に侵入《しんにゅう》出来るんでしょ。
侵入すれば、力ずくで和穂を目覚めさせるぐらい簡単じゃない」
「あまりにつまらない宝貝だから、逆に勘繰《かんぐ》っただけだ。お前は何かを企《たくら》んでいるな。
俺を騙《だま》そうとしているな」
女の首は横《よこ》に振《ふ》られた。
騙しはしない。でも、あなたを納得《なっとく》させる自信はあるわよ。女の心の底《そこ》までは殷雷は読みきれなかった。
「ならば、もう一度和穂の魂《たましい》に会いに行く。そして今度はわめこうがどうしようが、連れ戻してやる」
「誰《だれ》も邪魔《じゃま》はしないわよ」
「さっきと同じように、お前にも一緒《いっしょ》に来てもらうからな。和穂を起こす隙《すき》に『外側』から何かしでかされたらたまらんのでな」
「考えすぎよ。私に何が出来るって? そんなに心配ならば、もう一度緩終鎖を調べてみなさいよ」
この女には死《し》の香《かお》りが漂《ただよ》っている。殷雷は敏感《びんかん》に勘《かん》づいていた。が、刀の宝貝を混乱《こんらん》させたのは、それはあまりに純粋《じゅんすい》な死の雰囲気《ふんいき》だったからだ。
血や憎悪《ぞうお》の匂《にお》いは微塵《みじん》もない。なのに李収からは死の冷《つめ》たさが漂い続けている。
殷雷は首飾《くびかざ》りを手に取りじっくり見つめた。
真剣《しんけん》な殷雷の眼差《まなざ》しを嘲《あざけ》るように、李収は言った。
「単純な宝貝でしょ」
李収の言葉に間違《まちが》いはない。これは実に単純な宝貝だった。
複雑《ふくざつ》な能力《のうりょく》を持てば持つほど、宝貝は気迫《きはく》のような貫禄《かんろく》をまとうと殷雷は承知《しょうち》していた。
「つまらねえ宝貝だ」
緩終鎖に向かい、この言葉を殷雷は何度口にしたか。緩終鎖の単純さと李収の自信がどうしても殷雷の頭の中では結びつかない。
「そう。緩終鎖は仕掛《しか》けた相手に夢《ゆめ》を見させるだけの宝貝。
たったそれだけの能力しかない。笑《わら》っちゃうのは、仕掛ける相手が眠気《ねむけ》を全《まった》く覚えてなかったら、簡単に抵抗《ていこう》されるのよ。
もしも、あなたたちが朝のうちに私の所に来ていたら、和穂を眠らせられなかったでしょうね。眠り薬の方がよっぽど凄《すご》い」
「判《わか》った、もういい。和穂を起こしに行くぞ」
殷雷は緩終鎖を李収に渡《わた》した。
李収は右手に緩終鎖を握《にぎ》り、和穂の肩《かた》に左手を添《そ》えた。
殷雷は和穂の首に手を添える。
李収は呟《つぶや》く。
「殷雷。和穂をもう少し眠らせてあげれば」
「どういう意味だ?」
「あなたは、相手がどれだけ弱《よわ》そうに見えても、油断《ゆだん》するような間抜《まぬ》けじゃないのは承知している。
でも、緩終鎖の能力がどの程度《ていど》かは、自分の目で確かめたんでしょ?
緩終鎖は恐《おそ》れるに足らない宝貝だと、納得《なっとく》してるのよね」
「くだらん小細工《こざいく》でも仕掛けるか?」
「違う。
緩終鎖は相手に夢を見させる宝貝。それもいい夢をね。悪夢《あくむ》を送る力すらないの。
どこにでもあるような平凡《へいぼん》な生活の夢を見させるの。
極上《ごくじょう》の楽しい夢ですらない。ごく普通《ふつう》で平凡な幸福な夢を見させる」
殷雷はその手を食《く》うかと、鼻で笑う。
「どうせ、その夢を自由に操《あやつ》って、和穂をどうにかしようという魂胆《こんたん》なんだろ」
「まさか。そんなに気の利《き》いた能力なんかありはしない。
緩終鎖の見せる夢は、平凡な現実《げんじつ》世界の写《うつ》しでしかないの。どんな現実世界を使うかの設定《せってい》は私には出来ない。
私は夢の内容《ないよう》を制御《せいぎょ》出来ない。
緩終鎖を調べたなら判っているんでしょ、この宝貝にはそんな能力すらない」
殷雷は口をつぐむ。
やはり、李収の言葉には嘘《うそ》はない。緩終鎖がどんな夢を送りつけるか、たとえその使用者でも関与《かんよ》は出来ない。
いや、関与させるだけの能力がないのだ。
「だからどうした。緩終鎖がどんな夢を送りつけるか、判ったもんじゃない。
さっきのは平凡な生活だったが、もしかしたら悪夢に変わるかもしれないだろ」
「簡単に言うのね。悪夢を送りつけるなんてのは、攻撃行為《こうげきこうい》よ。
攻撃が出来るほど複雑な宝貝なんかじゃないでしょ。
くどいけど、緩終鎖はそんなに気の利いた能力はないの」
なんで俺はこんな繰《く》り言《ごと》を繰り返しているのか。
殷雷は李収の考えが全く読めなかった。
「うるせえ! たとえ悪夢を見せる危険はなかろうが、このまま和穂を眠《ねむ》らせておく理由はない!」
「判《わか》ってないのね。どこにでもありそうな、平凡な生活の夢を和穂は見ているのよ」
「それがなんだ!」
李収は和穂から手を離《はな》した。
そして、寝台《しんだい》の横の椅子《いす》に腰《こし》をかけた。
「たまには和穂を休ませてあげなさいよ」
「なんだと!」
先刻から殷雷は怒鳴《どな》り続けていた。
それが不安感の証明《しょうめい》であると知って、李収は喜《よろこ》びを感じた。
「あなたと和穂は、宝貝回収の旅を続けてるんでしょ?
いくら普通《ふつう》に見えても、和穂の魂《たましい》は疲《つか》れを感じているとは思わない?」
殷雷は一瞬《いっしゅん》、言葉に詰《つ》まった。李収はその隙《すき》を見逃《みのが》さない。
「緩終鎖の夢はどうって事のない夢。でも、現実の苦労《くろう》を忘れるにはちょうどいいんじゃないの?
休息には持ってこいだと思う。緩終鎖の見せる夢は最大で三刻《さんこく》(約六時間)しか続かない。
まあ、夢の中で感じる時間はもっと長いでしょうけど、現実の時間では一晩《ひとばん》ぐらいの時間しかもたないの。
たとえ、一晩でも楽しい夢を見させてあげなさいな」
殷雷の顔に笑顔《えがお》が浮《う》かんだ。やっと敵《てき》の手の内が判ったような安堵《あんど》の笑顔だ。
「なるほどな。
やっとお前の狙《ねら》いが判った。楽しかった夢から現実に戻《もど》された時、落差《らくさ》で和穂を苦《くる》しめるつもりか。
危なかったな。下衆《げす》な小細工に引《ひ》っ掛《か》かるところだった」
だが、李収は図星《ずぼし》をさされた時の狼狽《ろうばい》の表情を見せない。
「それが出来れば面白《おもしろ》いんだろうけど、そんな能力すらないの。
夢から覚《さ》めれば夢の内容は忘れてしまう。
夢の内容を記憶《きおく》に転《てん》じる能力がないから仕方がないんだけどね。
だから、そんな心配はいらないのよ殷雷」
「いや、だが待て!」
「そうね。
夢の中の和穂が夢から覚めるのを拒《こば》む可能性はあるよね。
でも、その時こそ殷雷、あなたが無理やりにでも和穂を起こせばいいんじゃないの?
そりゃ、少しは可哀相《かわいそう》だと思うけど、夢にすがり付いていても仕方ないもの。
それぐらいの厳《きび》しさは、あなたにもあるでしょ。
どうせ目が覚めれば、夢の内容は綺麗《きれい》さっぱり忘れて、心に傷《きず》が残るような可能性はないし」
李収の言葉は全《すべ》て理《り》に適《かな》っていた。
殷雷の脳裏《のうり》に呑気《のんき》に小間物屋《こまものや》をのぞいていた和穂の顔がふと浮かんだ。
李収を少しばかり、買いかぶりすぎているのではないかと殷雷は考えはじめた。
相手はただの医者だ。そんなに大きな仕掛《しか》けを企《たくら》んでいるのだろうか?
落ち着いた態度《たいど》も、宝貝にそれほど執着《しゅうちゃく》していないのならば納得《なっとく》がいく。
緩終鎖は、それほどまでにたいした能力をもっていないのだ。
殷雷は欠伸《あくび》にも似た大きなため息を吐《つ》いた。
「け。楽しい夢のひとときを、ってわけか。どうせ一晩だ。夢でもなんでも見るがいい」
殷雷は寝台《しんだい》の隣《となり》の椅子《いす》に腰《こし》を下ろした。
前髪《まえがみ》に覆《おお》われた李収の眼光は、鬼火《おにび》を思わせる静《しず》かな光を帯《お》びていた。
「そう。それがいいわ」
ピンと張《は》り詰《つ》めていた、殷雷の緊張感《きんちょうかん》が消《き》え去《さ》ったのを李収は感じ取った。
隙《すき》を見せているのではないが、もう自分を危険な敵《てき》とはみなしてないのだろう。
さっきまでの眼光の鋭《するど》さは消えていた。
これで勝負はあった。
私は和穂を倒《たお》す事に成功《せいこう》した。
私は宝貝の回収者を始末《しまつ》する事に成功したのだ。
全《すべ》ては李収の作戦通りだった。
和穂は死《し》すべき運命《うんめい》からは逃《のが》れられない。
殷雷は言った。
「たった一つ気になるのは、お前の薄《うす》ら笑いなんだがな」
「こう見えても、私は医者なのよ。
苦しんでいる人間が少しでも楽な気分になれれば、それが私の幸せでもあるの」
道理は通っていた。
疑えばきりがない。
「いいな、俺がここにいるかぎり、眠《ねむ》っている隙に和穂を倒すのは無理だからな」
李収に武器の宝貝の隙を突《つ》くつもりは毛頭《もうとう》なかった。
「本当に用心深いわね。
安心しなさい。緩終鎖には他《ほか》の能力は全くないし、私には万が一にも殷雷を倒せるような手段もありはしない。
宝貝を持っている他の仲間もいないし、なんの切《き》り札《ふだ》もありはしない。
それは武器の宝貝であるあなたが、一番判《わか》っているんでしょ」
そう、全ては李収の言葉のままだ。
李収に勝ち目はない。
だが、李収から漂《ただよ》う自信の根拠《こんきょ》が判らない。李収の持つ死の冷《つめ》たさの意味が判らない。
李収は優《やさ》しく和穂の顔を見つめた。
「おやすみなさい、和穂。
いい夢を見るのよ」
そして、夢の涯《はて》でもう一度会いましょう。李収は、そう心の中で言葉を続けた。
老人は既《すで》に事切れていた。
わざわざ確認《かくにん》する必要もなかったが、李収は老人の首筋《くびすじ》に指を添《そ》えた。生きている証《あかし》である、血管《けっかん》の脈動《みゃくどう》は止まっていた。
指先からは、何の鼓動《こどう》も伝わらない。脈を診《み》ている間にも老人の体からは体温《たいおん》が消えていく。指を戻《もど》し、李収は診察台《しんさつだい》の上に横たわる老人の顔を見た。
安らかな死に顔だ。
その安らかさだけが、自分の行動に対する唯一《ゆいいつ》の救《すく》いであったのはいつの事だっただろう。今は、安らかな死に顔であろうと、苦悶《くもん》の形相《ぎょうそう》で朽《く》ち果《は》てていようと、心はたいして動かされない。
どんな表情であろうが、死人は死人だ。
診察台の脇《わき》に置《お》かれた小さな机《つくえ》には、水差《みずさ》しと晒《さら》し布《ぬの》が置かれていた。
煎《せん》じた漢方薬《かんぽうやく》が、水差しの中で粘《ねば》りけを増《ま》していった。
水差しをどけ、李収は晒し布を手に取る。
そして、適当《てきとう》な大きさに布を裂《さ》く。
蝋燭《ろうそく》の明かりだけが灯《とも》る診療室《しんりょうしつ》の中で、布は赤みを帯《お》びていた。
その布を李収は老人の青白い顔に被《かぶ》せた。
夜明けまでは、しばし間《ま》がある。
が、墓守《はかもり》は夜中の訪問に怒《おこ》ったりはしないだろう。
李収は墓守の家に連絡《れんらく》を取ろうと、椅子《いす》から立ち上がった。静まり返る診療室の中、椅子と床《ゆか》が擦《す》れる音が響《ひび》く。
ふと、李収は気配《けはい》を感《かん》じた。
何かが居《い》る。
と、次の瞬間《しゅんかん》、診療室の扉《とびら》は蹴破《けやぶ》られた。
「この人殺《ひとごろ》しめやっと現場《げんば》を押《お》さえたぞ!」
診療室になだれ込むように、数人の衛士《えいし》が姿《すがた》を現《あらわ》した。
街の警備《けいび》を預《あず》かる衛士たちは、革《かわ》で作られた鎧《よろい》を身につけていた。
衛士たちが李収を後《うし》ろ手に縛《しば》り上《あ》げていったが、彼女自身は興味《きょうみ》がなさそうに衛士の陰《かげ》に隠《かく》れている男を見た。
同業の男だ。医者にしては珍《めずら》しいまでに卑屈《ひくつ》な顔をしている。
訓練《くんれん》された兵士でもある、衛士の動きは静かで無駄《むだ》のないものであったが、その後ろで同業の男だけが、一人で興奮《こうふん》しているのだ。
くだらない。李収は声を出した。
「いきなり、人殺し呼《よ》ばわりとは失礼ね。この患者《かんじゃ》に手の施《ほどこ》しようはなかった。
こんなに酷《ひど》い亀腹《かめばら》(腹膜炎《ふくまくえん》)に似た病《やまい》じゃ、どうしようもなかった。あなたも、医者なら判《わか》るでしょ。治療《ちりょう》なんて出来るはずもない」
「ほざくな李収! 手の施しようがなかったから、殺したのか!」
「言いがかりもいいところね。患者はお亡《な》くなりになったけど、殺したんじゃない」
無駄口を叩《たた》く衛士もいず、李収の言葉も落ちついていた。
ただ、同業の男の怒鳴《どな》り声だけが響く。
「そんな説明で言い逃《のが》れが出来るか!」
軽く咳払《せきばら》いをして、一人の衛士が李収の前に立ちふさがった。
他の衛士たちとは、鎧の装飾《そうしょく》が少しばかり違《ちが》っていた。衛士たちの隊長なのだろう。
「通報がありましたので、一応|調《しら》べさせていただきます」
「ご苦労さまです。そんな馬鹿《ばか》の通報でも動かないわけにはいかないなんて」
騒《さわ》ぐ男を無視して、隊長は言った。
「同業者同士のいさかいならば、捨《す》ておくんですが、生憎《あいにく》と彼の通報の裏《うら》がとれましたので」
「へえ。どんなふうにです?」
隊長は頬《ほお》の無精髭《ぶしょうひげ》を撫《な》でた。
「患者さんが死に過ぎですよ。この三か月の間に何人死なれたか」
「生憎と薮《やぶ》医者なものでね。
言い訳させていただけるのならば、私の診療所《しんりょうじょ》に来られる患者さんというのは、重病《じゅうびょう》の方が多いんです」
隊長の肩《かた》から覗《のぞ》き込むように、男は文句を言った。
「誤魔化《ごまか》すなよ李収! お前は家族にとって邪魔《じゃま》になった病人を金を貰《もら》って殺してるんだ!」
李収は高らかに笑った。
「たとえ患者《かんじゃ》さんが死んでも、親族から治療費はいただくに決まってるじゃない」
「逃《に》げられんぞ! お前は薬と偽《いつわ》って毒《どく》を飲《の》ませて患者を殺しているんだ! そこの死体が証拠《しょうこ》だ! 腑分《ふわ》け(解剖《かいぼう》)すれば絶対に証拠が出る!」
李収の目がわずかに鋭《するど》くなった。
診療所の前に行き倒《たお》れ同然に、なぜ老人がうずくまっていたのか。
全《すべ》てはこいつの差《さ》し金《がね》だったのか。
証拠をつかむ為《ため》に、わざと身寄りのない重病人を放《ほう》り出したのか。親族がいれば、そう簡単に腑分けは出来ない。
「……あんた、許《ゆる》さないよ」
隊長がどうにか、その場を取り繕《つくろ》う。
「まあ、公正《こうせい》な調査を行いますので、どうか信用してください」
全《すべ》ての調査が終わっても、李収は罪《つみ》に問《と》われはしなかった。
医者である李収である。
調合次第《ちょうごうしだい》で人を殺せる薬は幾《いく》らでもあったが、その薬を使ったならば、死体に何らかの徴《しるし》が残るはずであった。
不自然な徴は一切《いっさい》発見されなかったのだ。
他の医者からは、徴が見つけられない毒物の存在も指摘《してき》されたが、それに該当《がいとう》する薬は李収の診療室《しんりょうしつ》からは発見されなかった。
李収は完全に無罪《むざい》となった。
無罪だけで李収はよしとしなかった。あの老人がどうして自分の診療所に来たのか、調べるように訴《うった》え出て、結果《けっか》としてあの医者の非道《ひどう》が明《あ》かされる事になった。
助かりようのない、病に苦《くる》しむ老人を捨てていったのだ。
医者が失脚《しっきゃく》するには充分《じゅうぶん》な理由だった。
「肝《きも》が据《す》わっているのか、それとも自棄《やけ》になっているのかは知らないが、よくこんな状況《じょうきょう》で眠《ねむ》れるもんだな」
少しばかり呆《あき》れた声が、李収の耳に届《とど》いた。
男の声に反応して、李収の背中《せなか》がピクリと動いた。
「……少しウトウトしていたみたいね」
部屋の中央には狭《せま》い診察台が置かれ、その両脇《りょうわき》には二つの椅子《いす》が置かれていた。
片側には殷雷が座《すわ》り、道側には李収が座っていたのだ。
診察台の上ではいまだ和穂がコンコンと眠り続けていた。
李収は髪《かみ》をかきあげた。
「夢《ゆめ》を、夢を見ていた」
殷雷はつまらなそうに言葉を吐《は》く。
「二人|揃《そろ》って夢の中か。呑気《のんき》で結構《けっこう》だな」
目が覚めたばかりで、李収の言葉は軽く呂律《ろれつ》が回っていなかった。
「昔の夢だった」
「言っておくけど、他人の見た夢の話ほどつまらねえものはないんだからな」
「緩終鎖のせい?」
李収の左手には黒い鎖《くさり》で出来た首飾《くびかざ》りが絡《から》まっていた。
この首飾りこそが、宝貝《ぱおぺい》、緩終鎖であった。
「緩終鎖がどうした?」
「緩終鎖を持ったまま眠ると、変な夢を見る。
全然夢らしくない、昔にあった事実《じじつ》をそのまま再現した夢」
「さあな。こちとら武器の宝貝なんで、そっちの方は専門外《せんもんがい》だ。で、どんな夢なんだ」
「患者《かんじゃ》が死ぬ夢よ」
「えらく物騒《ぶっそう》だな」
「助けようがなかったのよ。歳《とし》もとって抵抗力《ていこうりょく》もなくしていたし、私が見つけた時には意識《いしき》もほとんどなかった」
「け。やっぱりつまらねえ。きくんじゃなかった」
李収の瞳《ひとみ》はいつも冷たい光を湛《たた》えていた。
その冷たさに殷雷は死の香《かお》りを感じ取っていた。が、それはあまりに純粋《じゅんすい》な死の雰囲気《ふんいき》であった。
血なまぐささとは程遠《ほどとお》い死の香りに、武器の宝貝である殷雷は戸惑《とまど》いを感じていた。
殷雷は殺気や憎悪《ぞうお》と混《ま》ざり合った死の香りしか、知らなかったのだ。
「そんな辛気臭《しんきくさ》い夢の話なんかどうでもいい。そろそろ和穂を起《お》こしに行くぞ」
李収は緩終鎖に手を伸《の》ばす。
冷たい鉄《てつ》の手触《てざわ》りと共に、和穂が見ている夢の状態《じょうたい》が李収の心の中に流れ込む。
「いいわよ。和穂を起こしに行きましょう」
李収の口許《くちもと》が綻《ほころ》んだ。
既《すで》に勝負はついたも同然《どうぜん》だった。私は宝貝の回収者《かいしゅうしゃ》を倒《たお》すのに成功《せいこう》したのだ。
殷雷が和穂の首に手を添《そ》えた。
李収も左手に緩終鎖を持ち、右手で和穂の手を握《にぎ》った。
閉じた瞼《まぶた》の裏に焦点《しょうてん》が合うような、奇妙《きみょう》な感覚の後、二人は和穂の夢の中に居《い》た。
夢はいつも揺《ゆ》らいでいる。夢を見る者も同じように揺らいでいるので、夢の中では夢の矛盾《むじゅん》に気づけない。
だが、緩終鎖によって作られる夢に矛盾はなかった。
夢の中の街並《まちな》みも、現実の街並みとなんら変わりはなかった。
行《ゆ》き交《か》う人々の雑踏《ざっとう》の中に、殷雷と李収は居た。
殷雷は隙《すき》なく人込《ひとご》みに視線《しせん》を這《は》わす。
「和穂はどこだ?」
「さあ? でも、近くに居るはずよ」
「……この街は前と同じ街か?」
「どうして?」
「いや、何か匂《にお》いが違《ちが》う」
李収は答えなかった。
殷雷は奇妙な胸騒《むなさわ》ぎを感じた。だが、違和感《いわかん》の理由がはっきりとはしない。
殷雷はさらに注意深く、街の中へと視線を走らせた。
その視線の隅《すみ》に、以前|見掛《みか》けた小間物屋《こまものや》を発見した。
「なんだ、前の時と同じ場所じゃねえか」
小間物屋の店先に並ぶ、耳飾《みみかざ》りや組紐《くみひも》などの装飾品《そうしょくひん》が以前の時とは変わっていたが、それはある意味《いみ》当然の話だった。
夢の中でも時間は流《なが》れているのだろう。
時間?
自分の違和感の理由を殷雷が悟《さと》りかけた時、ついに和穂が街並みの中に姿を現した。
しかし、それは殷雷の知る和穂の姿ではなかった。
絶句《ぜっく》しながら、殷雷は李収に顔を向けた。
李収は優《やさ》しく微笑《ほほえ》み、言った。
「そんなに驚《おどろ》く事じゃない。
この間、和穂に出会った時からざっと五年ばかり時間が流れている。
ただ、それだけの話よ」
和穂の身長がかなり伸《の》びたような錯覚《さっかく》に殷雷は襲《おそ》われた。
が、実際にはさほど体格《たいかく》そのものには変化はなかった。
だが、五年前の和穂から漂《ただよ》っていたあどけなさは、しなやかさに姿を変えていた。
細い顎《あご》に眼差《まなざ》し、柔《やわ》らかな笑顔《えがお》は和穂に間違いはなかった。
李収はとてつもなく嬉《うれ》しそうに囁《ささや》く。
「思ってたより綺麗《きれい》になったわね。あの太い眉毛《まゆげ》はどうかと心配だったけど、こうやって見ると悪くはないじゃない」
殷雷は胡散《うさん》臭《くさ》げに李収を睨《にら》む。
「何をたくらんでいる!」
「さあ、どうかしらね。何もたくらんでないとは言わないけど」
「どっちにしろ、無駄《むだ》だ。夢から覚めれば、元の和穂に戻《もど》るんだろ」
李収はこくりと頭を縦《たて》に振《ふ》った。
「あら、あの和穂より、前の和穂の方が好みだったの。
……怒《おこ》らないの。これは夢なのよ。現実の和穂の体は元のまま。目が覚めれば、全《すべ》ては元通りよ」
殷雷はつかつかと人込《ひとご》みの中を、和穂に向かい歩き始めた。
少し遅《おく》れて、李収が後に続く。
和穂は、殷雷と李収の姿を見て、軽く小首《こくび》を傾《かし》げた。
朧《おぼろ》げな記憶《きおく》の彼方《かなた》に、李収と殷雷の面影《おもかげ》を見つけて、和穂は叫《さけ》ぶ。
「あ、あの時の手品《てじな》の人!」
殷雷は口許《くちもと》をニンマリと歪《ゆが》ませた。
「その、ちょいとばかり見当外《けんとうはず》れなところは直《なお》っちゃいないようだな、和穂よ」
「あなたは一体、何者なんですか? この間は急に姿を消しちゃうし」
「うるせい、いいから来い」
殷雷は素早《すばや》く和穂の手首を掴《つか》む。
和穂は思わず悲鳴《ひめい》を上げた。
「痛《い》てて、なにをするんですか!」
「和穂から手を離《はな》せ!」
言葉と共に、拳《こぶし》の一撃《いちげき》が殷雷に放たれた。
風を斬《き》る素早い拳だったが、殷雷は悠々《ゆうゆう》と攻撃《こうげき》を避《よ》ける。
同時に殷雷の手が和穂から離れた。
軽く間合いを取りつつ、殷雷は攻撃を仕掛《しか》けた者の姿を見た。
「誰《だれ》だお前は?」
和穂を背中にかばいつつ、男は言った。
「強盗《ごうとう》に名乗る、名前はない!」
「誰が強盗だ!」
「ならば、和穂を誘拐《ゆうかい》するつもりか」
男は唐突《とうとつ》に現れたわけではなかった。男は最初から和穂の隣《となり》に居たのだ。
大柄《おおがら》な男だが、均整《きんせい》のとれた肉体なのであまり威圧感《いあつかん》はなかった。
普段《ふだん》は温和な男なのだろう、殷雷に向ける鋭《するど》い視線《しせん》からは、殺気《さっき》ではなく必死の思いしか伝わらない。
武術家ではあるが、武人じゃないと、殷雷は判断《はんだん》した。そこそこの腕前《うでまえ》はあるが実戦を踏《ふ》み越《こ》えた者の気迫《きはく》はない。
殷雷は構《かま》えをとるのも面倒《めんどう》だった。
「いいから邪魔《じゃま》をするな。俺《おれ》は和穂に用事があるんだ」
男は小声で、背中の和穂に問《と》いただす。
「知り合いか?」
「手品の人……じゃなくて、知らない人」
「だ、そうだ。強盗だか誘拐犯だかは知らないが、さっさと消え失《う》せろ!」
殷雷は首を横《よこ》に振《ふ》った。
「無駄《むだ》な事はやめようじゃないか。お前は俺に勝てないし、勝敗の決まった戦いをする趣味《しゅみ》は俺にはない」
男の目はさらに鋭さを増す。
「勝てないだろうね。でも、和穂を逃《に》がす時間|稼《かせ》ぎぐらいは出来る。いいな、和穂。逃げるんだ」
「雄践《ゆうせん》!」
和穂は男を雄践と呼んだ。
「和穂。頼《たの》むから、逃げてくれ。無駄死にだけはごめんだからな」
舌打《したう》ちしながら、殷雷は李収を見た。
以前、和穂の夢の中に侵入したときは、和穂以外には自分たちの姿は見えなかった。
緩終鎖を持つ、李収の細工《さいく》だ。
ならば、この雄践とかいう男に自分たちの姿が見えるのもまた李収の仕業《しわざ》なんだろう。
殷雷にはその意図《いと》が判《わか》らない。
しゅっしゅっと空を斬《き》る拳《こぶし》の音が殷雷の耳に届《とど》く。
李収から視線を外《はず》さないまま、殷雷は雄践の攻撃《こうげき》を受け流す。
二人のそんな様《さま》を、李収は薄笑《うすわら》いを浮《う》かべながら見つめていた。
殷雷は雄践に向き直った。
「お前に恨《うら》みはないが、さっさと終《お》わらせてしまうぞ」
上体《じょうたい》を屈《かが》め、雄践の攻撃を殷雷は避《よ》けた。
そして、再び上体を起こす勢《いきお》いに乗せて、殷雷の肘撃《ちゅうげき》が寸分狂《すんぶんくる》わず雄践の鳩尾《みぞおち》に入る。
瞬間《しゅんかん》、雄践の動きは凍《こお》りついた。
もはや、痛みと痺《しび》れでしばらくはまともに動けまい。
雄践はそのまま地面に倒《たお》れこんだ。後は、激痛《げきつう》で意識《いしき》を失うまでだ。
殷雷は、口を押《お》さえたまま、青《あお》ざめた顔で二人の戦いを見つめていた和穂に近寄ろうとした。
が、殷雷の足首を掴《つか》む者がいた。
息を吐《つ》き、殷雷は足元の雄践を怒鳴《どな》りつける。
「悪あがきはやめろ!」
くぐもった雄践の声は既《すで》に言葉にすらなっていなかった。体中を走る激痛に襲《おそ》われながらも、雄践は和穂を睨《にら》み付《つ》けた。
早く逃《に》げろ。
その瞳《ひとみ》が意味《いみ》するのはその一言だけだった。
だが、和穂の足は動かない。
殷雷は言った。
「勘弁《かんべん》してくれ、倒れてる奴《やつ》を足蹴《あしげ》にするような真似《まね》までさせるのか」
殷雷は掴まれていない方の足で、地面に横たわる雄践の脇腹《わきばら》を蹴《け》った。
肋骨《ろっこつ》と肋骨の間の点穴《てんけつ》(ツボ)を狙《ねら》った正確な蹴りだった。
が、雄践はいかなる攻撃にも決して殷雷の足首を掴む手を緩《ゆる》めなかった。
そして、和穂が自分の身を案《あん》じて逃げられないと悟《さと》り、激痛を誤魔化《ごまか》しつつも顔に笑《え》みを浮かべた。
殷雷の声が低くなる。
「ほう。捨《す》て身《み》ってわけか。
そっちがその気なら、こっちも本気《ほんき》でやらせてもらうぞ」
いかに強靱《きょうじん》な精神力とて物理法則まで超越《ちょうえつ》出来るわけではない。
激痛に耐《た》えられようが、折れた骨《ほね》や砕《くだ》けた関節《かんせつ》は動《うご》きはしないのだ。
殷雷は今まで雄践の骨や筋《すじ》を痛めないような攻撃《こうげき》だけを仕掛《しか》けていたが、このままでは埒《らち》があかないと考えた。
「治りやすい部分の骨で勘弁《かんべん》してやる」
殷雷が雄践に向かい、攻撃を仕掛けようとしたその時、和穂が雄践の体に覆《おお》いかぶさった。
そして、涙《なみだ》を流しながらも殷雷を鋭《するど》く睨み付けた。
「……どうして、こんな酷《ひど》い事を! 許さないわよ」
「な、なにを! お前を助《たす》ける為《ため》に」
言葉をなくしかけた殷雷に代わり、李収が言葉を繋《つな》ぐ。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ和穂。
医者の私が保証《ほしょう》してあげる。その男の怪我《けが》は見た目よりたいしたものじゃない。すぐに治るわよ。
優《やさ》しいよねえ、殷雷は。細心の注意を払《はら》って相手を痛めつけてるんだから」
そして、次の瞬間《しゅんかん》には殷雷と李収の姿は消滅《しょうめつ》していた。
和穂の全身から安堵《あんど》の汗《あせ》が流れ落ちた。ただ、謎の女が言った男の名前が心にひっかかる。
「殷雷?」
診療所《しんりょうじょ》に戻《もど》った殷雷は、李収の胸《むな》ぐらを掴《つか》んだ。
そして、大きく揺《ゆ》さぶった。
「お前は何を仕掛けた! 一体、何がどうなってる!」
揺さぶられるままに、李収は答えた。
「和穂にすごまれたのが、よっぽどこたえたみたいね。
でも、普通《ふつう》は怒《おこ》るでしょ。婚約者《こんやくしゃ》をあんなに痛めつけたんだから」
殷雷の動きがピタリと止まった。
「婚約者ってのはなんだ、婚約者ってのは」
「名前は雄践。街の武道館の師範代《しはんだい》、まあ武道といっても護身術《ごしんじゅつ》の類《たぐい》だけどね。
ま、単純にああいう男が和穂の好みかどうかは結論出来ないんだけど。
でも、婚約者を逃《に》がす為《ため》だけに捨て身になれるんだから、男を見る目はあるね」
殷雷は李収の瞳《ひとみ》の奥《おく》を覗《のぞ》き込んだ。
「なにをたくらんでいる! 力ずくでも白状《はくじょう》してもらうぞ!」
「仙術《せんじゅつ》は万能じゃない」
「誤魔化《ごまか》すな!」
だが、李収は怯《ひる》まない。その死の香《かお》りを湛《たた》えた瞳で、殷雷の瞳を覗き返す。
「仙術は万能じゃない。死んだ者を生き返らせる術《じゅつ》はないし、歴史を改変《かいへん》する術も一応は不可能。
それに神馬《しんば》の骨折《こっせつ》も治せはしない。
笑うでしょ。細切《こまぎ》れになった者でも、処置《しょち》が早ければ再生出来る仙術すらあるのに、神馬の骨折が治せない。たかが、骨折よ?
骨折した神馬は、そのまま死ぬに任《まか》せるしかない」
「なんの、なんの話をしている?」
「だからこそ、仙人は神馬を大切《たいせつ》にするんでしょうね」
殷雷も神馬の事は知っていた。仙界《せんかい》に住《す》む馬だ。仙人も騎乗《きじょう》するが、その存在は珍重《ちんちょう》されている。
「馬の話なんざどうでもいい!」
「足の骨を折った神馬はとても苦《くる》しむ。だから、仙人は助からない神馬に死をおくってあげる」
「なんで、お前が仙界の話を知っている!」
「緩終鎖が教えてくれたのよ。
緩終鎖は神馬に死をおくる為《ため》の宝貝」
「なんだと! くだらん嘘《うそ》をつくな! 緩終鎖に相手を殺すだけの力はないはずだ!」
李収は笑う。
「殺すんじゃない。神馬に死を受け入れさせるの。神馬に別の人生を送らせて、最後に死を甘受《かんじゅ》させる」
殷雷はグビリと唾《つば》を飲み込む。
「そ、それじゃ和穂の見ている夢《ゆめ》は」
「夢の中で和穂は別の人生を歩む。そして、夢の最後、臨終《りんじゅう》のとき、夢の涯《はて》で和穂は選択《せんたく》を迫《せま》られる。今までの人生を夢として目覚めるか、そのまま夢の中の人生に満足して死ぬかをね」
「……李収。お前は医者なんだよな?」
「そうよ。苦痛だけで助かりようのない患者《かんじゃ》に、死を受け入れさせる医者」
李収から漂《ただよ》う、死の冷たさの理由が今、殷雷には判《わか》った。
「それのどこが医者だ!」
「そうかもしれないわね」
殷雷は李収の胸《むな》ぐらから手を離《はな》した。
「そうやって、和穂を殺すつもりだったんだな。だが、お前は間抜《まぬ》けだ。
そんな話を聞いて、和穂をこのまま眠《ねむ》らせていると思うか? 力ずくで叩《たた》き起《お》こしてやる。
何があろうともだ!」
再び、和穂の首筋《くびすじ》に手をやろうとする殷雷に李収は言った。
「どうして?」
「どうしてもへったくれもあるか! 和穂は助かりようのない病人でもなければ、骨折した神馬でもない」
李収は殷雷の耳元で囁《ささや》く。
「あなたは刀の宝貝。人間に比べれば途方《とほう》もなく強い。雄践なんかは足元にも及《およ》ばないでしょうね。
あなたは、宝貝を回収する旅の中で和穂を守ってきた。これからも、ある程度は守ってあげられるでしょう。
でも、それは和穂を幸《しあわ》せにしているのとは違《ちが》うのよね」
「…………」
「雄践は、あなたと違って和穂を幸せに出来る」
「黙《だま》れ。全《すべ》ては夢ではないか。夢の中の幸せになんの意味がある!」
「そう? あなたがどれだけ強くても、あなたより強い宝貝は幾《いく》らでも居るんでしょ?
激闘《げきとう》につぐ激闘で、魂《たましい》の安らぐ暇《ひま》のない現実とどちらがましかしら?」
「…………」
「夢だから、偽物《にせもの》だから、なんてのはたいした意味はない。私たちから見れば、和穂は夢の中にいるかもしれないけど、和穂にとっては、今の夢も現実なのよ。
現実世界に無限の選択肢《せんたくし》があるとするなら、緩終鎖の夢は有限《ゆうげん》だけど、莫大《ばくだい》な選択肢がある。
もっとも、現実の世界とは違って、緩終鎖の世界は総合的に幸せな人生に落ちつくように出来ているけどね」
「まやかしだ!」
「殷雷刀。あなたは何の為《ため》に和穂を守ってあげているの? 和穂の幸せを願っているからなんじゃないの」
殷雷は言葉に詰《つ》まった。
李収は和穂の手を握《にぎ》った。
「すぐに答えを出す必要もない。和穂の人生の断片《だんぺん》を見ながら、結論を出せばいい」
吹《ふ》きすさぶ砂嵐《すなあらし》のように、時間は流れていった。
李収と殷雷は常《つね》に街並みの中に佇《たたず》み続けていた。
「陰《かげ》ながら、和穂の人生を見守るなんてのも覗《のぞ》きっぽくて嫌《いや》だから、街の中に視点《してん》を固定して時間を早めるわね。
別の街に引《ひ》っ越《こ》しでもしたら、自動的にそっちの方へ視点は変わるし」
殷雷は答えず、街の中に佇む。
残像《ざんぞう》を残して行《ゆ》き交《か》う人々、昼と夜とが混《ま》じり合い、乳白色《にゅうはくしょく》の世界が広がる。
殷雷はその持ち前の、刀の宝貝としての眼力で和穂の影《かげ》を見つめる。
李収は緩終鎖に手を伸《の》ばし、同じように和穂の行《ゆ》く末《すえ》を見る。
もはや、李収には殷雷の選択などはお見通しだった。
「あなたは、宝貝。人間とは違《ちが》い寿命《じゅみょう》はない。
まあ、武器なんだから長生きする保証《ほしょう》まではないんでしょうけど、人間とは違う時間の流れの中で生きているのね。
仙人《せんにん》相手に暮らしていたなら、問題はなかったでしょうけど、仙人ではなくなった今の和穂にはちゃんと寿命まであるんだからねえ」
李収の言葉にも殷雷は反応しなかった。ただ静かに街並みを見つめ続ける。
時たま見える、和穂の残像は確実《かくじつ》に成長していった。
李収もその姿《すがた》を見た。
「あら、和穂に子供が生まれたようね。男の子かしら、女の子かしら?」
殷雷の答えを待つ迄《まで》もなく、次に現れた和穂の影は、男の子供の手を引いていた。
殷雷は言った。
「お前はこうやって、他人に人生を与《あた》えてきたのか」
李収の薄《うす》ら笑《わら》いが消えた。
「そうよ。文句があるの? 医者にだって不可能はある。助けられないなら、痛みをとってあげるだけでも」
殷雷は軽く目を瞑《つむ》った。
「文句はないよ」
和穂の影は二人目の子供の手を引いていた。
二人目の子供は女の子だった。
母親に似《に》て、少しばかり眉毛《まゆげ》が太かったが父親に似てキリリとした顔だちの中に上手《うま》い具合に納《おさ》まっている。
残像のきらめきを残し、和穂は老《お》いていった。
代わりに娘《むすめ》の姿が、若き日の母親の姿を映《うつ》していく。
そして、その娘もまた自分の子供の手を引きはじめた。
「孫《まご》まで生まれたわね」
李収は緩終鎖に手をやる。
この夢の内容を、客観的《きゃっかんてき》に媛終鎖は李収に教えた。
「雄践が死んだ。内臓《ないぞう》の病《やまい》か。天寿《てんじゅ》を全《まっと》うとはいかなかったけど、長生きね。
和穂は嘆《なげ》き悲《かな》しんだが、立ち直った。孫に泣き顔ばかりは見せられないからね」
そして、暴《あば》れ狂《くる》う時間の流れが穂《おだ》やかなものへと変わっていった。
今までの状態からは信じられないぐらい緩《ゆる》やかな流れであったが、これこそが実際の時の流れであった。
李収は医者の顔をして言った。
「そろそろ終《お》わりよ。
ついに夢の涯《はて》にまでやってきた。六十八年分の和穂の人生が終わる」
「これからどうする」
「……緩終鎖には宣告《せんこく》が必要なの。
今までの人生が全《すべ》て夢であったと告《つ》げなければならない」
殷雷の表情に僅《わず》かな不安が混じった。
「おい、それはあまりに酷《こく》だろ」
李収は首を横に振《ふ》る。
「そうでもないわよ。夢であったかどうか、信じる信じないは勝手《かって》ですもの。
その後、死を受け入れるかどうか、本人の意思で決めてもらう。
……答えは決まっているけどね」
寝台《しんだい》に和穂は横たわっていた。寝台の周《まわ》りを和穂の親族たちが取り囲んでいる。
親族たちの悲壮《ひそう》な顔に比べ、皺《しわ》くちゃな和穂の顔には笑《え》みが浮《う》かんでいた。
親族たちのさらに後ろに、李収と殷雷は立っていた。
笑みを浮かべながら、和穂はゆっくりと眠《ねむ》りに落ちていく。
李収は言った。
「夢が終わる」
眠る和穂の呼吸がだんだんと虚《うつ》ろなものへと変わっていった。
寝台の横に座《すわ》る医者が、和穂の脈《みゃく》を取《と》り、首を横に振ろうとした瞬間《しゅんかん》、周囲《しゅうい》の景色《けしき》は消滅《しょうめつ》した。
暗闇《くらやみ》の世界の中、寝台に横たわる和穂と李収と殷雷だけが存在した。
和穂は老《お》いた体をゆっくりと起こした。
「ここは? いったいどうしたんですかいの? ここが冥府《めいふ》なんですかい?」
李収は優《やさ》しく微笑《ほほえ》んだ。殷雷は李収の裏のない笑顔を初めて見た。
「お婆《ばあ》さん。今から私の話を聞いてください。
お婆さんは、かつては仙人《せんにん》で、ある時|誤《あやま》って宝貝を人間の世界にばら蒔《ま》いてしまった。
お婆さんは……まあ、その時は若かったんですけど、宝貝を回収《かいしゅう》する為《ため》に……」
とつとつと、李収は和穂に本当の人生を語《かた》りはじめた。そして、今までの人生が宝貝の力によって見せられたものだとも。
その言葉にも和穂は動じなかった。
李収は当然のごとくうなずく。
「信じられないのも当然です。信じてくれなくてもいいんですよ。
ただ、お婆さんには選《えら》んでもらわなければなりません。このまま、死へと旅立つか、十五|歳《さい》だった頃《ころ》のあの時に戻《もど》るか」
和穂は殷雷に視線を向けた。
「……あなたは、確か。何度か顔を合わせてる」
「そうだ。雄践を痛《いた》めつけた」
「ああ、あの時の人。名前は殷雷さん」
殷雷は首を縦に振《ふ》った。
李収は和穂の手を撫《な》でた。
「お婆さん。私の話を理解《りかい》してもらえましたか」
「ええ。よく判《わか》りましたとも。地上に宝貝をばら蒔いたのは私で、李収さんはその宝貝の一つを拾《ひろ》った、お医者さん。
その緩終鎖の能力というのもよおく判りました」
老婆《ろうば》はニコニコと笑い続けた。李収の説明は、とても丁寧だった。一言、一言、言葉を選び無用の恐れや不安を抱かせないように、細心の注意を払う姿が和穂には嬉しかった。
宝貝。それは道具の業《ごう》、すなわち使用者の望みを叶《かな》えようとする本能を持つ事も和穂にはよく理解出来た。
李収の望み。緩終鎖の能力。そして、和穂は自分の手に添《そ》えられた李収の手を優《やさ》しく握《にぎ》り返した。
「可哀相《かわいそう》に。つらかったんだね」
びくりと、李収の背中《せなか》が動《うご》く。
「な、なにを言いだすんですか!」
皺《しわ》の中に埋《う》もれそうな細い目で、和穂は李収の瞳《ひとみ》を見つめた。
「可哀相に。つらかったんだね。お医者として頑張《がんば》ってたのに、この世界にゃあなたの力じゃどうしようもない患者《かんじゃ》さんばかりで」
「!」
怯《おび》えるような李収の背中を、ゆっくり和穂は撫でた。
「緩終鎖は患者の苦痛を救ってくれる。でも、それは患者を殺しているのも同じ事。
心も張《は》り裂《さ》けるような毎日だったろうに」
李収はパクパクと口を開いた。
和穂は言葉を続けた。
「これだけ生きていれば、あなたの瞳《ひとみ》の奥《おく》にあるものが何かぐらいは判りますよ。
とても頑固で意地っ張りで、そのくせとてつもなく優しい瞳だね。
自分が犠牲になっても他人の哀しみを引き受けようとする強いけど優しい瞳だよ。
もう大丈夫、緩終鎖は私が回収してあげるから、
さあ、じゃあ戻りましょうか。十五歳だった頃の本当の私に。
緩終鎖は人間には過《す》ぎた宝貝だからねえ。いや、仙人《せんにん》にとっても使いこなせない宝貝なのかもね。
たとえ、その人の為《ため》を思っても、その人を殺す宝貝だなんて。
だから封印《ふういん》されたんでしょ。そんな危険《きけん》な宝貝が他《ほか》にもあるかもしれないなら、ここで呑気《のんき》に死ぬわけには。
緩終鎖はあなたにゃ、重すぎます」
和穂に抱《だ》きついたまま、李収はくぐもった声を上げてすすり泣いた。
和穂は子供をあやすように、李収の背中を叩《たた》く。
「もう、苦しまなくてもいいんだよ」
「……でも、元の世界に戻《もど》れば、お婆《ばあ》さんは夢の中の記憶《きおく》を全《すべ》て忘れるのよ。
今までの人生が消えてなくなってしまうのよ!」
トントンと和穂は背中を叩く。
「いいじゃないの。記憶が消えても。私が楽《たの》しい人生を送れたのは本当なんだから。
思い出が消えてなくなろうが、幸《しあわ》せだった人生が消えたわけじゃない」
「……でも!」
そして、殷雷が口を開いた。
ゆっくりと低い声で、己《おのれ》の魂《たましい》から絞《しぼ》り出《だ》すような声だった。
「和穂。
お前はここで死ね。
緩終鎖は俺が責任を持って破壊《はかい》してやる」
「あらまあ、えらい言われようだね。
あなたは、一緒《いっしょ》に宝貝の回収を手伝ってくれている宝貝なんでしょ」
殷雷は和穂の目を睨《にら》み付《つ》けた。意地《いじ》でもその視線《しせん》を外《はず》すつもりはない。
「この先の旅で何が待っているか。
確実《かくじつ》に言えるのは、和穂が夢の中で過ごした人生よりましな代物《しろもの》ではないという事だ。
宝貝回収の旅はここで終わりだ。
このまま幸せな人生と共に死ぬんだ」
和穂は静かに言った。
「確かあなたに最初に会ったのは、街の雑貨屋《ざっかや》か小間物屋《こまものや》だったねえ。
あの時は、本当に怖《こわ》かった。あんなにおっかない目をした人間が居《い》るんだろうかと、不思議に思ったぐらいだったよ。
その次に会ったのは、うちの人と一緒に居た時だったね。
よくもまあ、うちの爺《じい》さんをこてんぱんにしてくれたもんだ。あん時は噛《か》みついてやるつもりだった」
「もういい。もういいんだ和穂」
「歳《とし》を取ると、色々見えてくるものもあるって言っただろ。
あの時は怖かったり、憎《にく》たらしく見えたりしたけどね、あなたのその日、今ならその意味《いみ》が判《わか》るよ」
「……なんだと?」
「私の事を大切に思っていてくれたんだろうね。
あなたと歩《あゆ》んでみる人生も面白《おもしろ》そうだ。
それが現実に戻《もど》る理由だよ。別に文句はないだろう? ま、ちょっとぐらい大事にしてくれたところで、うちの爺さんにゃ負けるだろうけど」
和穂は李収の首に掛《か》けられた緩終鎖に手を伸《の》ばした。
かくて、夢は完璧《かんぺき》に消滅《しょうめつ》した。
「いやあ、おはよう、殷雷! ってどうして私はこんな所で寝《ね》てるのかな?」
朝日の差し込む診療所《しんりょうじょ》で、和穂は目覚めた。
半《なか》ば愕然《がくぜん》とした表情で李収は、椅子《いす》に座《すわ》っていた。だが、その瞳《ひとみ》からは死の香《かお》りが消えていた。
殷雷は真顔で腕《うで》を組《く》んでいた。
和穂には殷雷の態度《たいど》の理由がよく判らない。
「どうしたのよ、殷雷」
殷雷は呆《あき》れた声で言った。
「お前にゃ、敵《かな》わないよ」
「? なにが?」
「いいから起きろ、婆《ばあ》さんよ」
『緩終鎖』
もう一つの人生と死を与《あた》える宝貝。死を司《つかさど》る事は命のある者の手には余る。故《ゆえ》に封印《ふういん》された。
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西の狼《おおかみ》、東の虎《とら》
「あああああ、殷雷《いんらい》! もっと速《はや》く走《はし》らないと追《お》いつかれちゃうよ!」
通《とお》りを走っていた道服《どうふく》の娘《むすめ》は、走るのを止《や》め後《うし》ろを振《ふ》り向《む》きながら叫《さけ》んだ。
夕闇《ゆうやみ》迫《せま》る光の中、士林街《しりんがい》は叫び声を上げていた。通りに面《めん》した家々の柱《はしら》は軋《きし》み、湿《しめ》った咳《せき》に似《に》た音を立て土壁《つちかべ》はゆっくりと崩壊《ほうかい》しかけている。
火中《かちゅう》の栗《くり》が弾《はじ》ける音の正体《しょうたい》は、屋根《やね》に葺《ふ》かれた瓦《かわら》に亀裂《きれつ》が走る音だった。
地震《じしん》でもなければ、嵐《あらし》でもない。
いかなる自然《しぜん》の災害《さいがい》でもありえなかった。ただ、通りに面した家々が震《ふる》え鳴動《めいどう》しているのだった。道服の娘、和穂《かずほ》は軋む街《まち》の中で焦《じ》れったそうに足踏《あしぶ》みをしていた。
彼女の視線《しせん》の先で、一人の黒髪《くろかみ》の青年《せいねん》がのらりくらりと前に進んでいた。
青年の片手《かたて》に握《にぎ》られた銀色《ぎんいろ》の棍《こん》は、武器《ぶき》ではなく杖代《つえが》わりに使《つか》われていた。
「殷雷!」
殷雷と呼ばれた青年は、それでも歩《あゆ》みを速める事はなかった。ぬかるみのなかを、杖だけを頼《たよ》りに一歩《いっぽ》一歩進んでいるようである。
「でええい! これ以上、速く走れてたまるか!」
八《や》つ当《あ》たりにも似た怒鳴《どな》り声だったが、その声は不自然《ふしぜん》に低《ひく》かった。
和穂も焦《あせ》っているばかりではなかった。いや焦り以上に混乱《こんらん》していた。だが、敵《てき》はすぐそこまで迫ってきているのだ。
パシッ!
和穂が慌《あわ》てて音がした方角《ほうがく》を向くと、そこでは荷車《にぐるま》の車輪《しゃりん》がバラバラになりはじめていた。粉砕《ふんさい》というよりは、留金《とめがね》を失った車輪が崩《くず》れるように、一つ一つの部品へと分解《ぶんかい》をはじめている。
ピシッ!
がらくたになりかけている荷車の横《よこ》には、火災防止《かさいぼうし》の為《ため》に汲《く》みおかれた、木組《きぐ》みの四角《しかく》い水桶《みずおけ》が置《お》かれていた。
その大きな水桶からは、水が漏《も》れだしていた。組まれた木の隙間《すきま》からは噴水《ふんすい》のように水が漏れだしている。
和穂の背中《せなか》を冷《ひ》や汗《あせ》が流《なが》れた。
これはかなりヤバい状況《じょうきょう》ではないのか?
でも一体《いったい》、何《なに》がどうなっているのだ?
ふと、和穂は腰《こし》に違和感《いわかん》を感《かん》じた。
何か岩《いわ》のようにゴツゴツした物が腰に当たっている。
和穂は生唾《なまつば》を飲《の》み込《こ》んだ。いつもなら、腰紐《こしひも》には瓢箪《ひょうたん》をくくりつけている。
和穂は瓢箪に手《て》を伸《の》ばした。
丸《まる》みを帯《お》びた瓢箪|独自《どくじ》の感触《かんしょく》はない。
和穂は腰の瓢箪を外《はず》し、目の前に持ってきてみた。
それは確《たし》かに瓢箪であった。
が、まるで氷漬《こおりづ》けになったかのように、透明《とうめい》で硬《かた》い物の中に埋《う》まっていた。
「断縁獄《だんえんごく》が! こ、これって!」
瓢箪の名は断縁獄。そんじょそこらの瓢箪とはわけが違《ちが》う瓢箪であったが、今の姿《すがた》はあまりにも異常である。
続《つづ》いて左の耳《みみ》たぶに痛《いた》みが走る。
何かに耳たぶを引《ひ》っ張《ぱ》られるような痛みだった。
とても重《おも》い物が耳たぶにくっついているとしか考《かんが》えられない。
いや考えるまでもない。
左耳に着《つ》けている物といえば耳飾《みみかざ》りだ。その耳飾りが突然《とつぜん》重くなったのだ。
「索具輪《さくぐりん》まで?」
耳飾りの名は索具輪。この外見《がいけん》は質素《しっそ》で安物《やすもの》にしか見えない耳飾りも、その正体は尋常《じんじょう》ならざる耳飾りである。
索具輪が急《きゅう》に重くなったのか?
和穂は力《ちから》なく首を横に振《ふ》った。
違う。
これが索具輪の本来《ほんらい》の重さなのだ。が、この重さでは耳飾りの重量《じゅうりょう》としては少しばかし重すぎる。だから、軽くなるように仕掛《しか》けられていたのだろう。その仕掛けが……
夕焼《ゆうや》けの光が、断縁獄を包《つつ》む透明の塊《かたまり》に反射《はんしゃ》した。
混乱する和穂が我《われ》を取《と》り戻《もど》した。
今は考えている場合《ばあい》じゃない。
家々の軋《きし》みがさらに大きくなっていく。
和穂は断縁獄を袖《そで》の中に放《ほう》り込み、殷雷のもとへと走った。
「どうしたの殷雷!」
「あいつだ、あいつのせいだ! あんな間抜《まぬ》けにしてやられるとは!」
殷雷の声は低いだけではなく、その口調《くちょう》までもがおかしくなりはじめていた。
いつもの口調に比《くら》べ粘《ねば》つくように遅《おそ》い。
断縁獄、索具輪、そして殷雷まで様子《ようす》がおかしくなっている。
「! 殷雷、その額《ひたい》!」
最初は、白い泥《どろ》が殷雷の眉間《みけん》にこびりついているのかと、和穂は思った。
だが、間近《まぢか》で見るとそれは泥なんかではなかった。
和穂は恐《おそ》る恐る、殷雷の額を触《さわ》る。手から伝《つた》わるのは岩の感触《かんしょく》だった。
何の説得力《せっとくりょく》もない声で殷雷は言った。
「心配《しんぱい》するな。ちょいとやばいが、壊《こわ》れるわけじゃない」
「でも、普通《ふつう》じゃないよ!」
殷雷の肩《かた》を揺《ゆ》さぶる和穂の顔《かお》に影《かげ》が落《お》ちた。和穂はゆっくりと顔を上げた。
夕闇《ゆうやみ》迫《せま》るこの時刻《じこく》、全《すべ》ての影は長《なが》く長くどこまでも長く伸《の》びていた。
和穂にかかる影は人の影だった。
遠《とお》く遠く、まだ遠くにその影の持《も》ち主《ぬし》が居《い》た。
夕焼けの逆光《ぎゃっこう》の中でも、その大きく開《あ》いた口許《くちもと》だけは見て取れた。
乱み震《ふ》れる街並《まちな》みの中、その男はゆっくりと和穂たちに向かい歩《ある》きつづけている。
弱気《よわき》になりそうな気持ちを奮《ふる》い立《た》たせ、和穂は大きく息《いき》を吐《は》く。
そして、左手で殷雷の襟首《えりくび》を握《にぎ》り、右手では銀色の棍《こん》を掴《つか》む。
殷雷を引きずりながら、男から逃《のが》れる為《ため》に一気《いっき》に街を駆《か》けはじめた。
どれだけ逃《に》げつづけたのだろうか?
必死《ひっし》の和穂には時間《じかん》の感覚《かんかく》がなくなりかけていたが、既《すで》に日は落ちていた。
代わりに満月《まんげつ》と星《ほし》たちが周囲《しゅうい》を照《て》らしていた。
街の中心《ちゅうしん》からは離《はな》れているのは確かだったが、まだ街の外ではない。
殷雷を引きずりながら、和穂は橋《はし》の上にまで来た。
和穂は肩を震わせ、ぜいぜい息を吐く。
「ご苦労《くろう》さん、お嬢《じょう》さん。でも俺《おれ》から逃げるには、ちょいと足《あし》が遅《おそ》すぎたな」
和穂には驚《おどろ》く気力《きりょく》もありはしなかった。
最初から逃げきれるとは考えていなかったのだ。
先刻《せんこく》から和穂を歩きながら追跡《ついせき》していた男が、橋の側《そば》に一人で立っている。
五十ぐらいの初老《しょろう》の男だったが、尋常《じんじょう》ではないほどにガッチリとした体格《たいかく》をしている。
まばらに白髪《しらが》の混《ま》じった髪《かみ》に、顔《かお》には鋭《するど》い眼光《がんこう》を宿《やど》している。が、その表情《ひょうじょう》には笑《え》みが浮《う》かんでいた。
勝利《しょうり》を確信《かくしん》した笑みのいやらしさはない。普段《ふだん》からそういう顔をした男なのだろう。
和穂を追《お》い詰《つ》めたはいいが、男は少し困《こま》った声を出した。
「ま、自己紹介《じこしょうかい》ぐらいしておこう。
俺は典仁《てんじん》。職業《しょくぎょう》は……無職《むしょく》というか金持《かねも》ちというか……。あぁ、最近《さいきん》は趣味《しゅみ》で強盗《ごうとう》なんかもやっておるな。
それはそうと、どうして、お嬢さんを追いかけたんだ? そっちの髪の長い男に不意打《ふいう》ちを仕掛《しか》けられたのには少しは驚いたが、そんなのは日常茶飯事《にちじょうさはんじ》だしな」
和穂は虚《きょ》を突《つ》かれた。
誰《だれ》に対《たい》しての何の質問《しつもん》なんだろうか?
それとも他《ほか》に誰かいるのか?
ふと、軽《かる》く挙手《きょしゅ》するように典仁の右手《みぎて》が上がった。
革《かわ》の手袋《てぶくろ》にしては少しばかり厚手《あつで》の物に典仁の右手は覆《おお》われていた。
腕《うで》に満遍《まんべん》なく泥《どろ》をかけ、それを乾《かわ》かす。乾いた後に手を動《うご》かせば、関節部分《かんせつぶぶん》の泥は剥《は》がれる。
典仁の右手はその状態《じょうたい》に似《に》ていた。
違《ちが》うのは、漆《うるし》の光沢《こうたく》を持《も》つ薄《うす》い金属《きんぞく》が泥の代《か》わりに彼《かれ》の手を覆っている事だ。指先《ゆびさき》から肘《ひじ》にかけて、関節|以外《いがい》を全《すべ》て覆っている。そして、関節部分からのぞいているのは、彼の肌《はだ》ではなかった。
焼《や》けた鉄《てつ》を思わせる赤《あか》い物が、典仁の指や手首《てくび》の関節を包《つつ》み込《こ》んでいる。
挙手の体勢《たいせい》のまま、典仁の手が滑《なめ》らかに動きだす。
まるで、それ自体《じたい》が一つの生《い》き物《もの》を思わせるように、指がうねる。
うねりに合わせ、典仁の右手が声を出す。
「それはねえ、親方様《おやかたさま》。そいつが宝貝《ぱおぺい》の回収者《かいしゅうしゃ》だからですよ。
前にも一度《いちど》説明《せつめい》したでしょ?」
右手が喋《しゃべ》っているんじゃない、右手を包むモノが喋っているのだと、和穂は気《き》づく。
典仁は首《くび》を傾《かし》げた。
「そんな話《はなし》をしたかいな?」
続《つヴ》いて典仁の左手が右手と同じように、軽い挙手の体勢になった。
右手と途轍《とてつ》もなくよく似た左手であったが、関節からのぞくのは赤色ではなかった。
夕暮《ゆうぐ》れと夜《よる》の間《あいだ》の僅《わず》かな時間《じかん》だけ、空《そら》に広《ひろ》がる藍色《あいいろ》と同《おな》じ色をしている。
左手の指は、中指《なかゆび》と薬指《くすり》と親指《おやゆび》をくっつけ、人差《ひとさ》し指《ゆび》と小指《こゆび》をピンと立てた。
影絵《かげえ》で作《つく》る狐《きつね》と同じ形《かたち》だ。
左手が会話《かいわ》に加《くわ》わった。
「私と東虎《とうこ》で何度《なんど》も説明したじゃないですか。いつかは宝貝の回収者が現《あらわ》れるって」
わずかに困った表情が典仁の顔に浮《う》かぶ。
「そういやそうだったな。
あんまり興味《きょうみ》がないから忘《わす》れてた」
ため息《いき》をつくように典仁の両手《りょうて》がぐんにゃりとする。
和穂はどうにか声をあげた。
「籠手《こて》の宝貝?」
典仁の右手が唸《うな》る。
「そう。俺が東虎で」
左手も稔る。
「私が西狼《せいろう》」
典仁が機嫌良《きげんよ》さそうに言葉《ことば》を引《ひ》き継《つ》ぐ。
「二つ合わせて封機握《ふうきあく》ってわけだ。
だがな、宝貝の回収者と俺の娘《むすめ》に何の関係《かんけい》があるってんだ?」
典仁の両手が激《はげ》しく動き、異議《いぎ》を唱《とな》えた。
「とりあえず始末《しまつ》しておくに越《こ》したことはないでしょ?」
「そうですよ、親方。それに俺たちだってたまには手強《てごわ》い獲物《えもの》と戦《たたか》ってみたいし」
左手が同意《どうい》した。
「そうそう。そこいらの桶《おけ》や荷車《にぐるま》よりは能力《のうりょく》の発揮《はっき》しがいがあるってもんです」
面倒《めんどう》そうに典仁の首が縦に揺《ゆ》れる。
「判《わか》った。好《す》きにしな」
途端《とたん》、典仁の両手がしなやかに構《かま》えられた。左手は軽く伸《の》ばされ、ちょうど典仁の鼻《はな》の高《たか》さに上げられる。
右手は左ひじの少し下に位置取《いちど》り、典仁の体を防御《ぼうぎょ》する態勢《たいせい》に入った。
だらりと脱力《だつりょく》させた両手の指は、何故《なぜ》か獲物を狙《ねら》う蛇《へび》の姿《すがた》を思い出させた。立ち上がろうと四苦八苦《しくはっく》する殷雷を和穂は背中《せなか》に庇《かば》う。
「殷雷に何をしたの!」
西狼は言った。
「先刻の襲撃《しゅうげき》のさい、そいつの肉体《にくたい》に『石《いし》』を打ち込んだ。ゆるゆると能力を封《ふう》じられ、そいつはやがて石像《せきぞう》のようになる。
別《べつ》に死《し》ぬんじゃない。宝貝としての機能《きのう》を抑《おさ》え込《こ》まれるだけだ」
東虎が続ける。
「でも、心配《しんぱい》するな。そんなちんけな『石』が体に回るより先《さき》に、この手でキッチリと休眠状態《きゅうみんじょうたい》にしてやる」
「ちんけとは、心外《しんがい》だな東虎よ。私の方が先に『石』を仕掛《しか》けたのがくやしいか?」
「ああ、くやしいね。だから、この獲物は直接《ちょくせつ》封じ込めてやる」
「おお。それは私とて同意見《どういけん》。『石』で仕留《しと》めたんじゃ面白《おもしろ》くもなんともない」
殷雷を庇うどころか、自分の身《み》すら危《あや》うい。
和穂は言った。
「あなたの能力って……」
西狼が答《こた》えた。
「もう察《さっ》しがついてるだろう。我《われ》らの能力は道具《どうぐ》の機能を抑え込む事にある。
我らの前ではいかなる道具とて意味《いみ》をなくす。並《なみ》の道具なら崩壊《ほうかい》、いかに宝貝とて休眠状態にたたき込める!」
典仁の左手の指が鷹《たか》の爪《つめ》のように力《りき》む。
「あ、待《ま》て西狼! ここじゃ仕掛けるな」
右手の叫《さけ》びの意味をすぐに、左手は悟《さと》った。
「いけね」
ギシリ。
擦《す》れる音を立てて、何かが緩《ゆる》む音がした。
ドボン。
小さな何かが川の中に落《お》ちる音がした。
典仁がため息をつく。
「はりきり過《す》ぎだ。深追《ふかお》いは駄目《だめ》だからな」
ドドン。
大きな何かが川のなかに落ちる音と共に、典仁は背後《はいご》に飛《と》びすさった。
同時《どうじ》に橋が大きく軋《きし》みだした。和穂が叫ぶ。
「! どうしよう!」
どうする間《ま》もなく、橋は崩壊し和穂と殷雷は川の中へと転落《てんらく》する。
両手が慌《あわ》てて典仁に訴《うった》える。
「追いましょうよ親方《おやかた》!」
「捨ておけ。わざわざずぶ濡《ぬ》れになってまで、あんな連中《れんちゅう》を追いかけるつもりはない」
「岸《きし》には小舟《こぶね》ぐらいあるでしょ!」
典仁が岸を覗《のぞ》き込《こ》んだが、そこに舟はなかった。
川辺《かわべ》には一本の杭《くい》とほつれかけた縄《なわ》の残骸《ざんがい》だけがあった。
本当ならあの杭が川面《かわも》に浮《う》かぶ小舟をつなぎ止《と》めていたのだろう。
「駄目《だめ》だな。舟はとっくの昔にぶっ壊《こわ》れたようだ」
両手が残念《ぎんねん》そうにうち震《ふる》えたその時、川辺の杭が地面から抜《ぬ》けた。
杭は杭としての役目《やくめ》を放棄《ほうき》して、ただの棒切《ぼうき》れとなったのだ。
典仁は目を細《ほそ》め、水面《すいめん》を流《なが》れ行《ゆ》く橋の残骸をながめた。
「さて、酒《さけ》でも買《か》って帰《かえ》るか」
懐《ふところ》にしまった紙幣《しへい》に指を伸《の》ばすと、血《ち》のようなヌメヌメした感触《かんしょく》が伝《つた》わった。
東虎が申《もう》し訳《わけ》なさそうに懐で喋《しゃべ》る。
「すいません、俺もやりすぎたようで」
東虎の指先に粘《ねば》りつく顔料《がんりょう》と、その顔料が染《し》みついた白い紙《かみ》がまとわりついていた。
「! 勘弁《かんべん》してくれ、札《さつ》が全部無茶苦茶《ぜんぶむちゃくちゃ》じゃないか。もっと狙《ねら》いを定《さだ》めて仕掛《しか》けられんのか?」
だが、典仁は本気《ほんき》で怒《おこ》っているようでもなかった。
「申し訳ないです。我《われ》らの能力《もうりょく》は結界《けっかい》能力の変形《へんけい》ゆえ泡状《あわじょう》に作用《さよう》するのでして。つまり『道具を使えない空間《くうかん》』の広《ひろ》さは制御《せいぎょ》出来《でき》ますが、個別《こべつ》の道具を狙いうちというわけには」
「仕方がない。帰りがてら小銭《こぜに》を強盗《ごうとう》でもして行こう」
宝貝《ぱおぺい》。
仙人《せんにん》が己《おのれ》の仙術《せんじゅつ》の粋《すい》を結集《けっしゅう》して造《つく》り上げた、神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
人知《じんち》を超越《ちょうえつ》した能力を持《も》つ、その道具たちは本来《ほんらい》人間《にんげん》の世界《せかい》にはあってはならない物であった。
だがある時、一人の仙人の過《あやま》ちから宝貝が人間の世界にばらまかれてしまったのだ。
責任《せきにん》を感《かん》じたその仙人は、宝貝の回収に乗《かいしゅうの》り出す事にした。
だが、これ以上人間の世界に混乱《こんらん》を巻《ま》き起《お》こさない為《ため》にその仙人の仙術は全《すべ》て封印《ふういん》されていたのだ。
仙人の名は和穂。
彼女は宝貝回収にあたり、三つの宝貝を携《たずさ》えていた。
一つは宝貝の位置《いち》を探《さぐ》る、耳飾《みみかざ》りの形をした宝貝、索具輪。
一つは回収した宝貝を封じこめる、瓢箪《ひょうたん》の宝貝、断縁獄。
そして和穂の護衛《ごえい》に当たる刀《かたな》の宝貝、殷雷刀《いんらいとう》。
殷雷刀はその本性《ほんしょう》が刀でありながらも人間の姿《すがた》をとれ、一端《いっぱし》の武人並《ぶじんな》みの力《ちから》を持っていた。
川の流れは少しばかり速《はや》くはあった。
が、水の量が少なかったせいで和穂は溺《おぼ》れずにすんだ。
むしろ、橋《はし》から落ちたときにそれほど体《からだ》を打《う》ちつけずにすんだ幸運《こううん》を喜《よろこ》ぶべきだったのかもしれない。
和穂は水に滞《ぬ》れブルブル震《ふる》えながらも、殷雷の肩《かた》を揺《ゆ》さぶる。
「殷雷! 大丈夫《だいじょうぶ》なの!」
舌打《したう》ちをしながら、殷雷は和穂の手を解《ほど》こうとしたが、その動きに機敏《きびん》さは微塵《みじん》も感じられなかった。
「うるせえな。大丈夫だと言っておろうが」
「でも」
「でこに触《さわ》るな!」
「ごめん! 痛《いた》かった!」
一人の女が焚《た》き火《び》の世話《せわ》をし、さっきまで橋だった材木《ざいもく》を炎《ほのお》の中にくべている。女は二人のやりとりを見てイライラを募《つの》らせていた。
「やめい! いちゃいちゃしておる場合《ばあい》か!」
確《たし》かに、いちゃいちゃしているように見えなくもなかった。本気で嫌《いや》がっているのなら、さっさと和穂の手を振《ふ》りほどけばよさそうなものだった。
「誰《だれ》がいちゃついてるか! それと和穂、『石』が回《まわ》りきるのにはかなり時間がかかるから今は気にするな」
実際には『石』が回り、和穂の動きを振りほどくのにも殷雷は必死《ひっし》だったのだ。
焚き火の世話をしているのは骨太《ほねぶと》の女だった。歳《とし》の頃《ころ》は二十歳過《はたちす》ぎだろうか、少しばかり痩《や》せた目《め》には独特《どくとく》の鋭《するど》さが宿《やど》っていた。
一歩間違《いっぽまちが》えば、疲労感《ひろうかん》にしか見えない眼光《がんこう》の鋭さだ。艶《つや》のある黒髪《くろかみ》は襟《えり》のところで綺麗《きれい》に切《き》り揃《そろ》えられている。
女の服《ふく》は少しばかり変《か》わっていた。
どう見ても私服《しふく》ではなさそうだ。なめされた革《かわ》と厚手《あつで》の布《ぬの》が渾然一体《こんぜんいったい》と配置《はいち》された一種《いっしゅ》の鎧《よろい》のようにも見えた。
が、あまり高級《こうきゅう》な服には見えない。
本来なら腰《こし》に吊《つ》るされている小剣《しょうけん》は外《はず》され、彼女のわきに置《お》かれていた。
軽く、くしゃみをして和穂は言った。
「あの、どうも助《たす》けていただいてありがとうございます」
女はジロリと和穂の顔《かお》をにらんだ。
「礼《れい》には及《およ》ばん。こっちはこっちの都合《つごう》があるんでね」
「えぇと、私の名前《なまえ》は和穂と言います。で、こっちにいるのが殷雷です。
あの、名前を教《おし》えていただけますか?」
女は面倒《めんどう》そうに笑《わら》い、懐《ふところ》から一枚《いちまい》の紙切《かみき》れを出した。和穂が紙切れを開《ひら》いてみると、そこには一人の女の顔が描《えが》かれていた。
犯罪者《はんざいしゃ》の手配書《てはいしょ》だ。人相書《にんそうが》きの下には典凰《てんおう》と名前が記《しる》されていた。
目の前の女と同じ顔だ。細《ほそ》めの顎《あご》に貧相《ひんそう》な頬《ほお》の感《かん》じがよく特徴《とくちょう》をとらえている。
「……典凰さん?」
助けてもらったはいいが、相手《あいて》は手配中の人間《にんげん》だった。どうしようかと思い、和穂は殷雷に視線《しせん》を投《な》げかけるが、相変《あいか》わらず殷雷は苛立《いらだ》った顔をしている。
戸惑《とまど》う和穂の顔を見て、典凰は言った。
「手配されてるけど、罪人《ざいにん》じゃない。私はこの街の衛士《えいし》の典凰だ」
衛士。街の治安《ちあん》を司《つかさど》る役人《やくにん》の名称《めいしょう》だった。典凰の服装《ふくそう》は衛士の制服《せいふく》なのかと、和穂は納得《なっとく》した。
「でも、どうして手配書に? その手配書は偽物《にせもの》なんですか?」
「本物の手配書だよ。でも、正式《せいしき》な手配書じゃない」
和穂には意味《いみ》がよく理解出来《りかいでき》ない。
「それってどういう意味なんです?」
「他《ほか》の衛士は私を捕《つか》まえて、無理《むり》やり辞職《じしょく》させたいんだよ。いや、街の連中《れんちゅう》も全員《ぜんいん》、私を捕まえたがっている」
彼女は彼女でややこしい事情《じじょう》を抱《かか》えているのだろう。
「そうなんですか。事情は判《わか》らないですけど大変《たいへん》なんですね。出来る事があれば、力をお貸《か》ししたいんですけど」
殷雷の声はやはり不自然《ふしぜん》に低い。
「どこにそんな余裕《よゆう》がある?」
和穂が急《きゅう》に手を叩《たた》く。
「あ! もしかして典凰さんって、さっきの……典仁さんとかいう人の娘《むすめ》さんなんじゃ?」
露骨《ろこつ》にいやそうな顔をして典凰は言った。
「……どうしてそう思う?」
「どことなく顔が似《に》てると思って」
典凰は草《くさ》むらに唾《つば》を吐《は》く。
「そうだ、娘だよ」
殷雷は言った。
「偶然《ぐうぜん》、助けたんじゃないな。お前は俺《おれ》らを見ていた」
こくりと典凰がうなずき、短《みじか》い髪《かみ》が揺《ゆ》れた。
「父様とのやりとりは見させてもらった。あんたたちは宝貝を回収しているのか? だったら父様の封機握《ふうきあく》も倒《たお》せるんじゃないのか」
和穂の頭の中に先刻《せんこく》の戦《たたか》いの記憶《きおく》が蘇《よみがえ》った。
「ねえ、殷雷。断縁獄を覆《おお》ってる、これも『石』なのかな?」
ボソボソと殷雷は答えた。
「対《たい》宝貝用|仙術《せんじゅつ》に対抗《たいこう》する防御機能《ぼうぎょきのう》だろ。生憎《あいにく》俺にはそんな機能はなかったようだな」
殷雷が口を開《ひら》くたびに、典凰はイライラするようだった。
「ああ! さっきから聞《き》いてたら、なんだいその男は! もっとしゃっきりしたらどうなんだよ!」
和穂が慌《あわ》てて割《わ》って入る。
「待《ま》ってください典凰さん! 殷雷は封機握に『石』を打《う》ち込《こ》まれて……」
和穂に庇《かば》われる居心地《いごこち》の悪《わる》さに比《くら》べれば、自分《じぶん》の失策《しっきく》を自分で説明《せつめい》したほうが殷雷にとって、はるかにましだった。
「石って何よ?」
「簡単《かんたん》にいえば、毒《どく》だ。ゆっくりと俺の体は石になりかけている」
「なんでもいいから、封機握を回収でも破壊《はかい》でもしてちょうだいよ。こっちはいい迷惑《めいわく》なんだから!」
和穂には、いまいち事件《じけん》の輪郭《りんかく》が掴《つか》めない。罪《つみ》もないのに手配《てはい》され、衛士《えいし》どころか街の住人《じゅうにん》からも姿《すがた》を隠《かく》している、典凰。その父親の典仁が宝貝の所持者《しょじしゃ》だとして、これのどこが繋《つな》がるのか?
「封機握のせいで、どうして典凰さんが困《こま》っているんですか?」
ギリギリと歯《は》ぎしりをして、そしてゆっくりと典凰は笑《わら》った。
「全部《ぜんぶ》、あの馬鹿《ばか》で過保護《かはご》な父様が悪いんだ。それは判《わか》っちゃいるが、封機握がある限《かぎ》り、あの大馬鹿の父様を止《と》められないんだよ」
「どういう事です?」
「……判ったよ。恥《はじ》を忍《しの》んで、身内《みうち》の恥を晒《さら》してやるよ。父様は私が衛士の仕事《しごと》に就《つ》くのを反対《はんたい》してたんだ。それは今でも一緒《いっしょ》だ。
今すぐにでも、衛士をやめさせたいんだ。衛士なんていう危険《きけん》な職《しょく》に就くのは絶対許《ぜったいゆる》さないってのが、あの馬鹿の理屈《りくつ》さ」
「でも、それと封機握は」
舌打《したう》ちして典凰は言葉を続《つづ》けた。
「父様の妨害《ぼうがい》にあいつつも、どうにか衛士|試験《しけん》に合格《ごうかく》した頃《ころ》だったか、父様はあの変《へん》な宝貝を拾《ひろ》ったんだ。父様は喜《よろこ》んだ。そして、私にあの宝貝を渡《わた》そうとした。
封機握があれば、少しは安全だろうってのが奴《やつ》の考えさ。でも、私は断《ことわ》った。危険が怖《こわ》くて衛士になれるか? 危険が怖くて宝貝に頼《たよ》れっていうのか?」
「?」
「判ってるよ、そんなに不思議《ふしぎ》そうな顔をするんじゃない。ここまでなら、普通《ふつう》の発想《はっそう》だ。
まだ理解出来《りかいでき》る行動《こうどう》だ。ところが、父様はとんでもない行動に出たんだ。
うちは、金持《かねも》ちなんだよ。だから、ありとあらゆる人脈《じんみゃく》と金を使って、衛士を首《くび》にさせようと父様は策略《さくりゃく》を仕込《しこ》んだ。
あんたなんかに言っても判らないと思うけど、衛士ってのは皇帝直属《こうていちょくぞく》の部隊《ぶたい》なんだよ。
簡単《かんたん》に言えば、田舎《いなか》の役人《やくにん》に賄賂《わいろ》を掴《つか》ませたぐらいでどうにかなるような仕事じゃないんだ。私が真面目《まじめ》に職務《しょくむ》を果《は》たしている間は、部外者《ぶがいしゃ》が何をしようが、絶対に首になんかならない。
それで、父様は強盗《ごうとう》になったんだよ。封機握の力を使ってね。
両替屋《りょうがえや》やらに真《ま》っ正面《しょうめん》から乗《の》り込《こ》んで、金をかっさらって玄関《げんかん》からお帰《かえ》りって感《かん》じでね。
封機握があるんだ、どんな抵抗《ていこう》も無駄《むだ》になる。
衛士は、目の前に居《い》る強盗を捕《つか》まえる事が出来ない。これが何を意味するか判る?」
「もしかして、衛士のお仕事を首になるって事ですか?」
「私だけじゃない。この街の衛士は全員免職《ぜんいんめんしょく》になるでしょうよ。衛士長がどうにか中央《ちゅうおう》との連絡《れんらく》で踏《ふ》ん張《ば》ってるけど、一か月|以内《いない》に奴を捕まえないと駄目《だめ》だろうね」
「それじゃ、その手配書《てはいしょ》は?」
「父様が衛士たちを揺《ゆ》さぶってるの。私を捕まえて、辞職《じしょく》させたらこんな馬鹿《ばか》げた事は止《や》めるって。だから、衛士は私を捕まえたがっている。力ずくで、辞職|願《ねがい》に私の掌紋《しょうもん》を押《お》しつけるつもりなんでしょ。街の人だってそうよ。父様が何かの拍子《ひょうし》に封機握を使えば大騒《おおさわ》ぎになるし」
どうにか問題のあらましは判った。
「でも封磯握の力が凄《すご》くても、力ずくで典仁さんを捕まえられるんじゃないんですか? 武器《ぶき》は使い物にならないと思いますけど」
「父様はああ見えても武術《ぶじゅつ》の達人《たつじん》なの。
金持ちは暇《ひま》だからねえ。死《し》んだ祖父様《じいさま》が片《かた》っ端《ぱし》から武術の師匠《ししょう》を連《つ》れてきて、自分の息子《むすこ》、つまり父様を鍛《きた》えさせた。間《ま》の悪《わる》い事に父様には武芸《ぶげい》の才能《さいのう》があったらしく、次《つぎ》から次へと武術を習得《しゅうとく》しちゃったのよ。
網《あみ》か何かで父様の動《うご》きを封《ふう》じて、集団《しゅうだん》で掛《か》かればどうにかなるだろうけど、素手《すで》と素手じゃいくら頭数《あたまかず》を揃《そろ》えても父様は倒《たお》せない。
封機握がある限り、奴《やつ》は無敵《むてき》なの。
判《わか》ったら、あの封機握をどうにかしてちょうだいよ」
和穂は返答《へんとう》に困った。
「ごめんなさい。正直《しょうじき》言って、私にもどうしたらいいか判らないんです」
そんな和穂の胸《むな》ぐらを典凰は揺さぶった。
「ちょっと待て! わざわざあんたたちを川から助《たす》けたのは無駄だったの?」
澱《よど》んだ瞳《ひとみ》の殷雷は廃人《はいじん》のように笑った。
「封機握なんざ、恐《おそ》れるに足《た》らぬ。簡単に勝《か》てる」
和穂を放《ほう》り投《な》げ、今度《こんど》は殷雷の胸ぐらを掴《つか》んで典凰は叫《さけ》ぶ。
「だったら、その方法《はうほう》を教《おし》えなさいよ!」
殷雷は不敵《ふてき》に笑い、そして絶句《ぜっく》した。
「奴を倒すには……あれ、なんだったっけ」
「面白《おもしろ》い冗談《じょうだん》ね」
「待て、あれ? くだらんほど、簡単な方法で、ありゃ度忘《どわす》れしたか?」
「じゃ、私もちょっと面白い冗談でもやってみようかしら」
そのまま殷雷を焚《た》き火《び》の中に叩《たた》き込《こ》みそうな勢《いきお》いの典凰を和穂はどうにか押《お》し止《とど》める。
「ま、待ってください。殷雷は武器の宝貝として一番肝心《いちばんかんじん》な部分が抑《おさ》え込《こ》まれてるんだと思います。相手《あいて》の弱点《じゃくてん》とか、過去《かこ》の戦《たたか》いから学んだ経験《けいけん》とかが封じられているんだと」
眠《ねむ》る猫《ねこ》のようにグニャグニャになりながら殷雷は言った。
「いや、本当にくだらん答えだ。簡単に導《みちび》ける答えなんだ」
殷雷は答えは簡単だと言った。すぐに答えは見つけられると言ったのだ。
和穂の頭の中で何かが、ふと一つの形《かたち》を作《つく》った。封機握は道具の能力《のうりょく》を抑え込む宝貝だ。それが答えじゃないのだろうか?
「あの、典凰さん。封機握そのものに防御《ぼうぎょ》能力はないんですか?」
「そうだ。籠手《こて》の宝貝のくせに、その能力はない。攻撃《こうげき》を防御しているのは父様自身なんだよ。でも無駄《むだ》だ。父様は武術の達人だ。矢《や》で狙撃《そげき》しても封機握の能力で、矢が崩壊《ほうかい》する。
父様を倒《たお》すには武器が必要《ひつよう》、武器は封機握のせいで使い物にならない。
そりゃ、素手《すで》でも父様より腕《うで》の立《た》つ武人《ぶじん》が居《い》れば、真正面《ましょうめん》から奴《やつ》を倒せるでしょうよ。
でも、人探《ひとさが》ししている暇《ひま》はないのよ!」
和穂の中で一つの考えが着実《ちゃくじつ》に、固《かた》まりはじめていた。
「……判《わか》りました」
「何が判ったんだよ!」
「多分、この方法で典仁さんは倒せます。
典凰さん。この街に大きめな廃屋《はいおく》はありますか? そこで仕掛《しか》けてみようと思います」
典仁は指先《ゆびさき》で手紙を叩《たた》いた。
「さて、この娘《むすめ》と和穂とかいう女から送《おく》られた招待状《しょうたいじょう》、戦術的《せんじゅつてき》に見ればどう考えても罠《わな》が仕掛けられている。
どう思う?」
右手と左手は同時《どうじ》に笑《わら》う。
「罠は道具ですよ、親方。すなわち無意味《むいみ》ですな」
答えは既《すで》に出ていた。典仁は今、招待状に記《しる》された場所《ばしょ》に向《む》かい、ゆっくりと歩いている最中《さいちゅう》だったのだ。
「指定《してい》された場所には、確か大きな倉庫《そうこ》があったはずだ。川原《かわら》に建《た》てたはいいが、増水《ぞうすい》する度《たび》に水浸《みずびた》しになって使い物にならない。かといって、取《と》り壊《こわ》すにも手間《てま》が掛《か》かるから放置《ほうち》されている廃屋《はいおく》だ。
俺の読《よ》みでは、廃屋をお前らの能力で倒壊《とうかい》させて俺を自滅《じめつ》させる作戦《さくせん》だと思うが」
両手《りょうて》はしばし沈黙《ちんもく》した。
「どうした?」
「……大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。お恥《は》ずかしいですが、我《われ》らが持《も》つのは、道具の機能《きのう》を封《ふう》じ込《こ》める能力です。倉庫は道具の範疇《はんちゅう》に入りますが、廃屋は道具じゃありません。我らの能力じゃ倒壊《とうかい》させるのは無理です」
「なら、典凰の作戦|倒《たお》れか?」
「恐《おそ》らくは」
わずかにうなじの産毛《うぶげ》が逆立《さかだ》つ感覚《かんかく》を、典仁は覚《おぼ》えた。不吉《ふきつ》な予感がしないでもない。
だが、思《おも》い煩《わずら》う前に両足は倉庫の前の小石を踏《ふ》んでいた。
扉《とびら》の前に立っただけで、黴《かび》の異臭《いしゅう》が漂《ただよ》っている。が、封機握に反応《はんのう》して軋《きし》む様子《ようす》はない。
半《なか》ば外《はず》れた扉は既に扉の役目《やくめ》を果《ま》たしていない。軽く蹴《け》ると湿《しめ》った音を立て扉だったものは吹《ふ》き飛《と》んだ。無造作《むぞうさ》なようで隙《すき》なく、廃屋の中を進《すす》んでいく。
薄暗《うすぐら》い倉庫の中には、幾《いく》つもの燭台《しょくだい》が置《お》かれ、一本の道《みち》を形作《かたちづく》っていた。
燭台の上では爛爛《らんらん》と蝋燭《ろうそく》が燃《も》えていたが、典仁、いや封機握が近寄《ちかよ》ると途端《とたん》に炎《ほのお》が消《き》える。それはまるで典仁の体から強烈《きょうれつ》な風が巻《ま》き起《お》こっているようであった。
押《お》し黙《だま》る典仁を見て、封機握も言葉を慎《つつし》んでいる。
彼らの使用者《しょうしゃ》は、燭台の作る道の果てに人間の気配《けはい》を感じていたのだ。そのうちの一つは間違《まちが》いなく自分の娘《むすめ》の気配である。
進めば進むほど、炎の数は減《へ》り廃屋《はいおく》の内部を闇《やみ》が支配《しはい》した。
やがて、道の終わりに三人の姿《すがた》が現《あらわ》れた。典凰と和穂と殷雷だった。
父親《ちちおや》の気迫《きはく》に負《ま》けまいと、典凰は鋭《するど》い目つきでこちらをにらんでいる。和穂の顔に浮《う》かぶ微妙《びみょう》な変化を典仁は不安の現れと見た。
殷雷はグンニャリと地面《じめん》に座《すわ》り込んでいる。典凰が口を開く。
「父様。いい加減《かげん》馬鹿《ばか》な真似《まね》はやめていただきましょうか」
「お願《ねが》いだから、典凰や。そんな危《あぶ》ない仕事はやめてこの老《お》いさらばえた、父を安心させておくれ」
たちの悪《わる》い冗談《じょうだん》を聞《き》かされて、典凰の瞳《ひとみ》がさらに鋭く引《ひ》き絞《しぼ》られた。
「父様。少しばかり怪我《けが》をしてもらうかもしれません」
封機握たちは殷雷の姿を見て嬉《うれ》しそうにはしゃぐ。
「あぁ、宝貝だ。思う存分《ぞんぶん》に我らの力を発揮《はっき》出来るぞ! 親方様《おやかたさま》、指示《しじ》を!」
封機握は獲物《えもの》を狙《ねら》う蛇《へび》のように鎌首《かまくび》をもたげている。先手必勝《せんてひっしょう》だ。典仁は叫《さけ》んだ。
「行くぞ封機握! この場の道具を全《すべ》て止めてしまえ!」
と、その瞬間《しゅんかん》。典仁の頭上《ずじょう》から莫大《ばくだい》な量の砂《りょうすな》が落下《らっか》を始《はじ》めた。
「!」
辺《あた》り一面《いちめん》に轟音《ごうおん》が響《ひび》く。
砂煙《すなけむり》は、和穂たちの所にまでは届《とど》かなかった。典凰はにやりと笑う。
「成功《せいこう》したようね、和穂。天井《てんじょう》の側《そば》の柱《はしら》に帆船《はんせん》の帆《ほ》に使《つか》う布《ぬの》を天幕《てんまく》のように張《は》る。
天幕の上には砂を山盛《やまも》りにしていた。
封機握が殷雷を封《ふう》じようと、本気で動きだした途端《とたん》に『布を止めていた縄《なわ》』がその役目《やくめ》を放棄《ほうき》する。
当然《とうぜん》、砂は落下。父様は生《い》き埋《う》めって寸法《すんぽう》ね」
「でも、大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか? 早く助《たす》けないと!」
「心配《しんぱい》いらないわよ。怪我はしても死《し》ぬようなたまじゃない」
もうもうとたちこめる砂煙がようやく落《お》ちつきを取《と》り戻《もど》しはじめていた。
そして、和穂は砂煙の向こうに立つ、人影《ひとかげ》を見る。
「あ!」
そこには腕《うで》を組《く》んだ典仁が佇《たたず》んでいた。
ため息を混《ま》じらせつつ、その顔《かお》に笑《え》みが浮《う》かんでいた。
「作戦|倒《だお》れだったな」
和穂は唖然《あぜん》とした。
「馬鹿《ばか》な! 封機握に普通《ふつう》の防御能力《ぼうぎょのうりょく》はないはずでは」
「ああ。ないよ。かといって、俺の技《わざ》で砂を蹴散《けち》らしたんじゃない。そんな芸当《げいとう》は出来ないからな」
「じゃ、いったいどうやって!」
間抜《まぬ》けな音を立て、柱に絡《から》みついていた布がやっと地面《じめん》に落ちた。典仁は答える。
「お嬢《じょう》さん。お嬢さんは『砂』を俺を倒す為《ため》の道具として考えたんだろ? だったら、砂も道具じゃないか?」
右手が続けた。
「なれば、無意味」
左手も続く。
「いかなる道具も我らの前には無意味。
さあ、殷雷刀。そんな中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な状態《じょうたい》で辛《つら》いだろう。私が完全《かんぜん》に封《ふう》じ込めてやる」
典凰は慌《あわ》てふためく。
「だ、駄目《だめ》だ! やっぱり勝《か》てない! 和穂、逃《に》げるぞ!」
その時、殷雷が和穂の道服《どうふく》の袖《そで》を力なく引《ひ》っ張《ぱ》った。
「逃げるな。勝てる」
「でも!」
突如《とつじょ》西狼が大きくしなった。続いて軋《きし》んだ音を立て、あっというまもなく、殷雷の体は石の塊《かたまり》と化した。
西狼が喜《よろこ》びの雄叫《おたけ》びを上げる。
「はっはっは! ついに殷雷を封じ込めたぞ!」
東虎がうろたえる。
「何をする! 抜《ぬ》け駆《が》けとは酷《ひど》いぞ! 俺の虚《きょ》を突《つ》いて、仕掛《しか》けるとは!」
「ええい、怒《おこ》るな東虎よ。武器の宝貝だからもう少し手応《てどた》えがあるかと思ったが、なんのなんの。あんなのじゃ抵抗《ていこう》のうちにも入らぬ」
殷雷ですら封じ込まれてしまった。命には別状《ベつじょう》はないのだろう。だが、封機握がある限《かぎ》り、殷雷は永遠《えいえん》にこのままなのだ。無駄《むだ》と知りつつも、和穂は殷雷を揺《ゆ》さぶった。
「殷雷!」
逃げの態勢《たいせい》に入った娘《むすめ》に、父親は言った。
「無駄だ。衛士《えいし》たちには連絡《れんらく》しておいた。この倉庫は囲《かこ》まれている。
諦《あきら》めて、父の言う事をきいておくれ」
「ま、負《ま》けちまった! あんな父様の言いなりになるなんて!」
衝撃《しょうげき》でボンヤリとした和穂の意識《いしき》は焦点《しょうてん》を失《うしな》いかけた。
そんな和穂の頭に殷雷の姿《すがた》が浮《う》かぶ。
殷雷はどうしてこんなに圧倒的《あっとうてき》な封機握を恐《おそ》れるに足《た》らぬと言ったのだろうか?
永久《えいきゅう》に封じ込められた殷雷。という事実《じじつ》から逃《のが》れる為《ため》か、和穂の頭にはその事しか浮《う》かばなかった。
「ず、ずるいぞ西狼! いくら歯《は》ごたえがなくとも、そんじょそこらの道具とはわけが違《ちが》ったんだろう?」
虚《うつ》ろな和穂の心に、雑音《ざつおん》のように東虎の言葉が響《ひび》く。
「あぁ! 本気で我《わ》が力を使える相手はどこにいるのか!」
どうしていいのか判《わか》らない典凰は、取《と》り敢《あ》えず和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》んで振《ふ》り回《まわ》す。
「どうすんのよどうすんのよ」
父親は笑う。
「さあ、全《すべ》ては終《お》わった」
ドガスカと廃屋《はいおく》の壁《かべ》を蹴破《けやぶ》る衛士たちの騒音《そうおん》が響く。と、その時。
和穂は笑った。妙《みょう》にほがらかな笑い声はその場の空気《くうき》には全《まった》くそぐわなかった。
驚《おどろ》き、典凰は和穂から手を離《はな》す。
「ど、どうしたの? しっかりなさい」
答えず和穂は典仁に向かい歩く。
「どうした、お嬢《じょう》さん」
和穂は典仁の両手、西狼と東虎を掴む。何も出来ないと高《たか》をくくる典仁は抵抗《ていこう》しない。
無理《むり》やり拍手《はくしゅ》をさせるように、和穂は典仁の両手を動かす。そして、言った。
「居《い》るじゃない。あなたがその能力をもってして、立ち向かえるような強敵《きょうてき》が。
東虎と西狼、強いのはどっち?」
典仁の額《ひたい》を瞬時《しゅんじ》に冷《ひ》や汗《あせ》が流《なが》れる。
「小娘《こむすめ》!」
が、全ては遅《おそ》かった。典仁の両手は複雑《ふくざつ》に絡《から》み合《あ》っていた。東虎は西狼に西狼は東虎に噛《か》みついていたのだ。
「気づくのが遅いんだよ。こんな見え見えの間抜《まぬ》けを倒《たお》すのに、どれだけ大騒《おおさわ》ぎしてやがるんだ」
和穂が振り向くと、そこにはばつが悪《わる》そうに、耳の裏《うら》を掻《か》いている殷雷の姿があった。
『封機握』
籠手《こて》の宝貝。周囲《しゅうい》の道具《どうぐ》の機能《きのう》を阻害《そがい》する能力を持つ。その能力の前では宝貝とて例外《れいがい》ではない。そして、彼らも道具であるが故《ゆえ》に、己《おのれ》の能力を封《ふう》じ込めてしまう。
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雷《いかずち》たちの饗宴《きょうえん》
「なんて無意味《むいみ》な偽物《にせもの》なんだ。意味がないにもほどがあるぞ!」
殷雷《いんらい》は怒鳴《どな》りながら、右手で眉間《みけん》を掻《か》く。
銀色に光る棍《こん》を持つ左手は、それでもしなやかに脱力《だつりょく》されていた。
呆《あき》れてはいるが、油断《ゆだん》はしていない。
頭痛《ずつう》を堪《こら》えるように目をつぶっているが、相手の気配《けはい》は常《つね》に把握《はあく》していた。
広大《こうだい》な林ではあるが、木そのものはあまり密集《みっしゅう》していないので、日の光はよく通っている。木が作りだす死角《しかく》はあるが、死角の位置《いち》そのものを把握しているので特に問題《もんだい》はない。
どの死角を突《つ》かれても十分に対処《たいしょ》出来る位置関係は保《たも》たれている。
敵《てき》は殷雷を中心に駆《か》け続けていた。
林の中をビュウビュウと風が吹《ふ》きすさんでいったが、彼の黒髪《くろかみ》は微動《びどう》だにしていない。
殷雷の背後《はいご》に立つ娘《むすめ》、和穂《かずほ》は敵の動きに合わせて周囲《しゅうい》をグルグルと見回すが、殷雷とは違《ちが》い敵の動きを追いきれてはいなかった。
「ねえ、殷雷。何か目印《めじるし》でもつけておこうか?」
「いるか! そんなもん! 間違えるはずがなかろう!」
和穂の歳の頃《ころ》は十五、六だった。
年頃の娘にしては珍《めずら》しく、袖《そで》の大きい白い道服《どうふく》を身にまとっていた。
あどけなさが残《のこ》る顔の上には、意志《いし》の強さを表《あらわ》す太《ふと》めの眉《まゆ》がのっている。
後頭部《こうとうぶ》で柔《やわ》らかく括《くく》った髪の毛は、殷雷と違い風に合わせて柔らかにそよいでいた。
そして、敵も和穂と同じ姿《すがた》をしていた。
姿そのものは全く同じと言っていい。
だが殷雷は、和穂と和穂の偽者を間違えない自信があった。
いかに姿形《すがたかたち》は同じだとしても、その瞳《ひとみ》から迸《ほとばし》る気迫《きはく》には雲泥《うんでい》の差《さ》があったのだ。
「猫《ねこ》と虎《とら》の子を見間違えるものか。いや……犬と狼、豚《ぶた》と猪《いのしし》と言った方が正確《せいかく》か」
殷雷の悪態《あくたい》には慣《な》れているのか、和穂は平然《へいぜん》としていた。
「どうせ、私の方が猫や犬や豚だって言いたいんでしょ?」
「当たり前だ」
悪態ではあったが、あながち嘘《うそ》ではなかった。
和穂の偽者《にせもの》から漂《ただよ》う気迫は、武人《ぶじん》のソレと言って良かった。
殺気《さっき》ではなかったが、十分に威圧感《いあつかん》は漂っている。
木々の隙間《すきま》を影《かげ》が飛《と》ぶ。素早《すばや》い動きであったが、殷雷は敵の姿を完全に把握している。
「それと、もう一つ、あの偽者がおまえと違う点がある」
「むこうの方が可愛《かわい》い。とかって言うんでしょ」
「たわけ。この非常時《ひじょうじ》になにをほざく。
あの偽者は右手に籠手《こて》を着けている。黒《くろ》い籠手だ」
「籠手? 剣《けん》を持つ時の?」
「違うな。籠手は籠手でも拳《こぶし》を守《まも》る時の籠手だ。奴《やつ》は拳撃主体《けんげきしゅたい》の攻撃《こうげき》を得意《とくい》としてる」
「あ、もしかして」
「そう。あの籠手が宝貝《ぱおぺい》だ。間違《まちが》いない」
ヒュンヒュンと素早く円を描《えが》く敵であったが、だんだんとその円の半径《はんけい》がせばまっている。
こっちの間合《まあ》いを外《はず》し、隙を見て拳撃の間合いに踏《ふ》み込《こ》もうという魂胆《こんたん》なのだろう。
接近戦《せっきんせん》を得意とする者がとる戦法《せんぽう》としては珍《めずら》しくはない。どちらかというと、攻防一体《こうぼういったい》の手堅《てがた》い作戦《さくせん》だ。
殷雷はイライラしていた。
理《り》に適《かな》った戦法をしく敵が、どうして偽者の恰好《かっこう》をしているのだ。正面切《しょうめんき》って攻《せ》めてくるなら、偽者の意味がないではないか。
「くそう。やはり腑《ふ》に落《お》ちん。なんで敵は和穂の恰好をしている!」
「殷雷が戦いにくいようにじゃない?」
殷雷は左手に持つ棍《こん》を軽く肩《かた》に担《かつ》ぐ。担いだ棍の先端《せんたん》は和穂の鼻《はな》の寸前《すんぜん》で止《と》められていた。
「面白《おもしろ》い冗談《じょうだん》だな和穂。
まあいい。考えていても仕方《しかた》があるまい。
とっととけりをつけるぞ!」
途端《とたん》、殷雷の手から棍が滑《すべ》り落ち、続いて殷雷の体を爆煙《ばくえん》が包《つつ》み込んだ。
殷雷がその本来の姿になって勝負《しょうぶ》をつけようとしていると知り、和穂はその爆煙の中に入る。
二人を包む爆煙が消えたとき、そこに居《い》たのは和穂一人だった。
だが、和穂の手には武器《ぶき》が握《にぎ》られている。
その武器こそが、殷雷の本来の姿であった。
彼は人間の姿をしていたが、その正体は宝貝であったのだ。
殷雷。
その本当の名は殷雷|剣《けん》。彼は剣の宝貝である。
鏡《かがみ》のような輝《かがや》きを持つ、白銀色《しろがねいろ》の剣を和穂は軽々《かるがる》と上段《じょうだん》に構《かま》えた。
和穂の眼光《がんこう》には今までとは違う鋭《するど》さが宿《やど》っていた。
剣の宝貝である殷雷は、自《みずか》らの使用者の体を操《あやつ》り、達人《たつじん》の技《わざ》を繰《く》り出させる事が出来たのだ。
宝貝。
仙人《せんにん》が己《おのれ》の仙術《せんじゅつ》の粋《すい》を結集《けっしゅう》し造《つく》り上げた神秘《しんぴ》の道具《どうぐ》を宝貝と呼《よ》ぶ。
尋常《じんじょう》ならざる能力《のうりょく》を持つ、その道具たちは本来仙人の住む世界、仙界《せんかい》にしか存在《そんざい》してはならないものだった。
だが、ある時、一人の仙人が自らの過《あやま》ちで人間界《にんげんかい》に七百個を超《こ》える宝貝をばらまいてしまった。
責任《せきにん》を感じたその仙人は、宝貝を回収《かいしゅう》する旅《たび》に出た。
しかし人間界にさらなる混乱《こんらん》を招《まね》き寄《よ》せる危険《きけん》を避《さ》ける為《ため》に、その仙人は全《すべ》ての仙術を封《ふう》じ込《こ》められてしまう。
その仙人の名は和穂。
黒籠手《くろこて》の和穂は、殷雷剣を構える隙《すき》を見逃《みのが》しはしなかった。
間合いを探《さぐ》る円運動《えんうんどう》から、一気に剣の和穂に向かい踏《ふ》み込《こ》みを開始《かいし》する。
普通《ふつう》の剣からは考えられないほど、素早《すばや》い剣捌《けんさば》きだったが、構えに入る為にはどうしても間《ま》が出来た。
その際に、黒籠手の和穂は拳撃の間合いに敵を捉《とら》える。
疾走《しっそう》するイタチのように体勢《たいせい》を沈《しず》めた黒籠手の和穂の視線《しせん》と、剣の和穂の視線が一瞬《いっしゅん》交差《こうさ》した。
二人の和穂は同じ笑《え》みを浮《う》かべていた。
殷雷剣を操《あやつ》る時、和穂の体は殷雷剣が操っているのである。
だから、和穂が笑っていても、その笑みの主《ぬし》は殷雷なのであった。
剣の和穂には、間合いに踏み込まれた焦《あせ》りは微塵《みじん》もなかった。
必殺《ひっさつ》の間合いを握《にぎ》った黒籠手の和穂の笑みと、相手を罠《わな》に陥《おとしい》れた剣の和穂の笑み。
互《たが》いの思惑《おもわく》はぶつかりあい、思惑は驚《おどろ》きへと形《かたち》を変えようとしている。
突如《とつじょ》、雷撃《らいげき》が周囲《しゅうい》に炸裂《さくれつ》し、剣の和穂の周囲に雷《いかずち》の場《ば》が出現した。
剣先《けんさき》を先端《せんたん》にして、和穂を中心とした球形《きゅうけい》の場に青白《あおじろ》い閃光《せんこう》が満《み》ちあふれた。
剣を持つ和穂は、心を通じてその手に持つ殷雷剣に話しかけた。
『やった! 仕留《しと》めたの?』
いつもの手だった。油断《ゆだん》とみせかけ、相手を至近距離《しきんきょり》に踏み込ませる。
剣と使用者の間の空間は、通常《つうじょう》、完全なる死角でしかない。
が、殷雷剣はその狭《せま》い空間の雷気《らいき》を自在《じざい》に操る能力《のうりょく》を持っていた。剣にとっての死角は殷雷剣にとっては逆《ぎゃく》に自分に有利《ゆうり》な間合いだったのだ。
いつもなら、この雷撃を食《く》らった敵は確実《かくじつ》に気絶《きぜつ》する。
『! なんだと!』
黒籠手の和穂の動きが僅《わず》かに怯《ひる》んだ。だが、そこまでだった。
ほんの僅か、前髪《まえがみ》を焦《こ》がしてはいるが、気絶《きぜつ》をしようという様子には見えない。
黒籠手の和穂は、それでも危険《きけん》を冒《おか》す愚《ぐ》を避《さ》け、剣との間合いを外《はず》した。
剣の間合いの外まで疾走《しっそう》し、黒籠手の和穂は言った。
「生憎《あいにく》、自分の身《み》に降《ふ》りかかる雷気ぐらいは防《ふせ》げるんでね。ま、殷雷握《いんらいあく》の名はだてじゃねえってわけだ。
それにしても、和穂の姿を真似《まね》る間抜《まぬ》けな敵かと思えば、なかなかやるじゃねえか」
和穂の口を通して、殷雷剣は吠《ほ》えた。
「殷雷握だと! なんだそりゃ!」
「偽者《にせもの》ごときが偉《えら》そうな口を叩《たた》くんじゃないね。
偽者よ。本当の名を名乗ってみろ。お前は何の宝貝だ? 本当に剣の宝貝なのか?」
和穂は剣の構《かま》えを解《と》いた。
「名は殷雷剣。少しばかり事情《じじょう》がありそうだな」
構えを解いた剣を、和穂は中空にポイと投《な》げた。同じように、もう一人の和穂も黒籠手を外し放《ほう》り投げる。
空中で二つの爆発《ばくはつ》が起《お》こり、爆煙《ばくえん》が消失《しょうしつ》すると、そこには二人の殷雷が居《い》た。
二人の和穂が同じ顔をしているように、二人の殷雷の姿《すがた》も同じだった。
が、和穂も殷雷も微妙《びみょう》に姿が違《ちが》う。
別々《べつべつ》に会えば、もしかして混乱《こんらん》するかもしれないが、同時に姿をさらせば互《たが》いに互いの相方《あいかた》を見間違えるはずもない。
殷雷剣が口を開く。
「お前たちは善倒《ぜんとう》じゃないのだな?」
善倒。殷雷剣が追《お》っていた宝貝の所持者だった。
殷雷剣の動きに勘《かん》づき、この林の中に逃《に》げ込んだ若い男だ。
もう一人の和穂は、てっきりその善倒が宝貝を使って変化したものだと考えていたが、どうも様子がおかしい。
殷雷握の隣《となり》の和穂が答えた。
「違います。私たちも善倒さんを追いかけてこの林に入ったんです。
そしたら、殷雷と私がもう一人居たんで、てっきり善倒さんが何かを仕掛《しか》けたんだと思って」
互いの事情は似《に》たようなものか。
だが、一体、何がどうなっている?
殷雷剣は地面に落ちた銀色の棍《こん》を拾《ひろ》い、殷雷握は和穂に銀色の棍を取り出すように、指示《しじ》を出す。
和穂は腰《こし》の瓢箪《ひょうたん》を外し、その中から銀色の棍を取り出す。
「なんてこった。断縁獄《だんえんごく》まで一緒《いっしょ》なのか?」
瓢箪の名は断縁獄。これもまた宝貝であった。
さすがの殷雷も唖然《あぜん》としている。
そして、それは瞬間的《しゅんかんてき》な油断だった。
二人の殷雷は互いに状況《じょうきょう》を理解《りかい》しようとして、気配《けはい》の察知《さっち》をほんの少しばかり怠《おこた》った。
その隙《すき》を見逃《みのが》す、敵ではなかった。
ヒュン。
木の上から放《はな》たれた矢は、正確《せいかく》に和穂と殷雷たちを狙《ねら》っていた。
だが、殷雷剣も殷雷握も易々《やすやす》と飛び道具の一撃《いちげき》を食らうほど、甘《あま》くはなかった。
瞬時に矢の弾道《だんどう》を見切《みき》り、棍の旋回《せんかい》で矢を叩《たた》き落とす。
叩き落とす棍の動きから全く淀《よど》みなく、襲撃者《しゅうげきしゃ》が居るであろう木の枝に向《む》かい、棍を投げつける。
トスン、トスンと棍が何かにぶつかる音がし、それに続いて木の上の襲撃者が枝の上から落ちるドサリという音がした。
殷雷握は言った。
「出来れば、善倒であって欲《ほ》しいが……」
二人の和穂は同時《どうじ》に叫《さけ》んだ。
「あ、あれって!」
答えるまでもなく、二人の殷雷は面倒《めんどう》そうに額《ひたい》を掻《か》いていた。
木から落ち、ゆっくりと立ち上がったのは和穂だったのだ。
右手には二本の棍《こん》を持ち、左手には朱色《しゅいろ》の強弓《ごうきゅう》を握《にぎ》っている。
木から落ちたバツの悪さを隠《かく》す為《ため》か、和穂は大声で怒鳴《どな》った。
「間抜《まぬ》け面《づら》して何していやがる。
俺《おれ》や和穂の偽者《にせもの》を使おうってのならまだ判《わか》るが、偽者同士で雁首《がんくび》そろえてどうするんだよ。
言っておくが、棍は命中《めいちゅう》してないぞ。当たる寸前《すんぜん》に手《て》で受《う》け止《と》めて、その弾《はず》みで木から落ちたんだ!」
負《ま》けじと殷雷剣も叫《さけ》ぶ。
「いいからお前もこっちに来い! えぇと、たぶん弓《ゆみ》だから、殷雷弓《いんらいきゅう》!」
「それじゃ、殷雷弓も善倒さんを追いかけていたんですね?」
三人目の殷雷は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「そうだ。奴《やつ》を追いかけてこの森に入った。人の気配がしたんでやって来たら、お前たちが居た」
殷雷弓もやはり、二人の殷雷と同じ姿をしていた。そして、やはりどことなく他《ほか》の二人とは雰囲気《ふんいき》が違《ちが》う。
それは三人目の和穂にしても同じであった。
殷雷握の隣《となり》の和穂は腕《うで》を組《く》みつつ言った。
「殷雷、これって」
「なんだ」
「どうした」
「おうよ」
三人の殷雷が同時に答え、三人の殷雷は同時に和穂の髪《かみ》の毛《け》を引《ひ》っ張《ぱ》る。
「殷雷だけじゃ、どの殷雷か判《わか》らないだろうが!」
二人の和穂が割《わ》ってはいる。
「あぁ、もう。髪の毛引っ張ったりしちゃ可哀相《かわいそう》じゃない!」
無意味《むいみ》なややこしさに、殷雷の我慢《がまん》の限界《げんかい》が近《ちか》づいてくる。
「何が言いたかったんだ、和穂……便宜上《べんぎじょう》、籠手の和穂でいくぞ。お前は剣の和穂で、お前は弓の和穂」
そう呼び名をつけなければ収拾《しゅうしゅう》がつかない。
籠手の和穂は答えた。
「どう考えても、これって善倒さんの宝貝の仕業《しわざ》としか思えない。
奇妙《きみょう》なのは判るけど、ともかく善倒さんを捜《さが》してから、何が起きているか考えてみませんか?」
剣が笑《わら》った。籠手と弓は笑っていないので三人が全く同じ思考《しこう》をしているのではないようだった。
「善倒は間抜《まぬ》けだな。
奴《やつ》がしているのは、敵を増《ふ》やしているだけに過《す》ぎないではないか。
これは、多分ただの悪《わる》あがきに過ぎまい」
弓が反論《はんろん》する。
「それはどうかな。逃亡《とうぼう》の為《ため》の時間稼《じかんかせ》ぎか悪あがきかは知らないが、なんとなく嫌《いや》な予感《よかん》がするんだがな」
剣は笑う。
「えらく弱気《よわき》じゃねえか殷雷弓よ。姑息《こそく》な飛び道具らしいといえばらしいがよ」
「図体《ずうたい》だけがでかい剣じゃ、頭まで血が巡《めぐ》ってなくても仕方《しかた》ないな。
この状況《じょうきょう》では、楽観《らっかん》なんて出来《でき》るはずがないだろう!」
二人の殷雷の間を緊張感が駆《か》け抜《ぬ》ける。
籠手が笑った。
「俺も弓に賛成《さんせい》だ」
「なんだと!」
「自分と同じ面《つら》した宝貝が、目《め》の前《まえ》に居《い》るのはどうにも落ちつかない。腹《はら》が立《た》つと言ってもいいだろう。内輪《うちわ》もめを狙《ねら》ってる可能性《かのうせい》もあるぜ、剣の旦那《だんな》よ」
剣は首を横に振《ふ》った。
「判《わか》った。悪かったな弓よ。互《たが》いに気に食《く》わないと思うが、ここは協力《きょうりょく》しよう」
「さっさとケリをつけるのが、互いの為《ため》だな……」
三人の殷雷がふと、口を閉じた。
そして、同時に大きなため息を吐《つ》く。
剣が言った。
「飛んでやがる」
弓が言った。
「全部で、何人居るんだ?」
籠手が言った。
「さあな。ともかく、今度は槍《やり》だ」
途端《とたん》、一陣《いちじん》の旋風《せんぷう》が巻《ま》き起《お》こり槍を構《かま》えた和穂が姿を現す。
地面に水平《すいへい》に投げられた槍のように、低空《ていくう》ではあるが、確《たし》かに飛行《ひこう》している。
三人の殷雷が棍《こん》を構え、槍を持つ和穂は間合《まあ》いを外《はず》し、叫《さけ》ぶ。三人の殷雷に向かってではなく、彼らの背後《はいご》の林に向かってだ。
「おい、ここに三人ばかりいるぞ!
早《はや》く来《こ》い! 殷雷刀《いんらいとう》!」
殷雷槍《いんらいそう》は殷雷刀に向かい、声を張《は》り上げていた。
籠手の和穂はゆっくりと指《ゆび》を折《お》った。
「殷雷握、殷雷剣、殷雷弓に、殷雷刀。あれは槍だからやっぱり殷雷槍なのかな」
剣の和穂は首を傾《かし》げた。
「他《ほか》に武器《ぶき》って、何があったっけ?」
弓の和穂は答えた。
「杵《きね》とか。あ、でも武器に限定《げんてい》されてるわけじゃないんでしょ?」
和穂の言葉を裏付《うらづ》けるように、林の奥《おく》から殷雷刀の声が戻《もど》る。
「少しはゆっくりと動け! あと、いちいち飛んでんじゃねぇ! 俺はともかく殷雷鏡《いんらいきょう》は武器じゃねえんだからよ!」
「まあ、きみたちも薄々《うすうす》勘《かん》づいているだろうが、これは偽者《にせもの》を使ってどうこうしようという話じゃない」
そう語る殷雷鏡の姿は、他の殷雷とはかなり違《ちが》っていた。顔そのものは同じだが、他の殷雷たちが羽織《はお》っているような袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》を身《み》に着《つ》けていない。薄《うす》い革製《かわせい》の上着《うわぎ》を羽織ってはいるが、外套ではなく色も薄《うす》い茶色だった。
他の殷雷と比《くら》べ髪《かみ》の毛も短《みじか》く、鋭《するど》い目つきをしてはいるが、他の殷雷のような猛禽類《もうきんるい》を思わせる眼光《がんこう》とまではいかない。
殷雷鏡はとても武人《ぷじん》のようには見えない。
殷雷たちから文句《もんく》の声が上がるが、殷雷鏡はうなずいて言葉を続けた。
「変化《へんげ》の類《たぐい》なら、俺が見逃《みのが》すはずはない。殷雷鏡の名にかけて言うが、きみたちは全員|本物《ほんもの》だ。何かが化《ば》けているんじゃない」
意地悪《いじわる》く殷雷刀が言った。
「そういうお前が偽者だったりしてな」
「疑《うたが》うのは勝手《かって》だが、得策《とくさく》じゃない。信《しん》じられない気持《きも》ちは判《わか》るが、嘘《うそ》だと思うのなら和穂たちよ、索具輪《さくぐりん》を使《つか》ってみな」
索具輪。小さく質素《しっそ》な耳飾《みみかざ》りが和穂たちに着けられていた。だが、この耳飾りも宝貝《ぱおぺい》であった。
索具輪を使えば、宝貝がどこに存在《そんざい》するかが即座《そくざ》に判明《はんめい》した。
耳飾りに手を伸《の》ばす和穂たちの顔に困惑《こんわく》の表情《ひょうじょう》が浮《う》かんだ。
殷雷鏡が驚《おどろ》きの意味を説明《せつめい》した。
「判っただろ。この林の中には、考えられないほど多くの宝貝が存在する。一つを除《のぞ》いて全《すべ》てが殷雷と索具輪と断縁獄の反応《はんのう》さ」
殷雷たちも林の中に充満《じゅうまん》する、多くの気配《けはい》を感《かん》じ取っていた。
殷雷刀が言った。
「一つを除いて、か。ならば、善倒はまだこの林の中に居《い》るんだな?」
殷雷鏡はうなずき、林の一角《いっかく》を見た。
他の殷雷が気配を手繰《たぐ》るのとは違い、彼は全《すべ》てを『見《み》』ていた。
林の一角から一人の男が姿を現《あらわ》す。武器の宝貝たちの髪の毛が一斉《いっせい》に逆立《さかだ》った。
男は善倒だった。
髪の毛の短い痩《や》せた男で、不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべている。まだ若い青年だが、独特《どくとく》の落《お》ちつきがある。
狡猾《こうかつ》さが漂《ただよ》うが、それが不快感《ふかいかん》には結《むす》びつかない。
狐《きつね》のような男ではあるが、智恵《ちえ》の回る誇《ほこ》り高《たか》い狐だ。
片手《かたて》には大きな旗《はた》を持っている。
旗には無数《むすう》の文字《もじ》が書かれていたが、その文字の意味が判るものは一人も居なかった。
勝《か》ち誇った笑みを浮かべ、善倒は言った。
「僕《ぼく》の負けだ」
殷雷槍が胡散《うさん》臭《くさ》げに善倒を値踏《ねぶ》みする。
「とても、そういう面《つら》には見えないが」
善倒は答えた。
「いやいや。僕の負けだ。和穂と殷雷からは逃《に》げきれない。
僕の負けだが……殷雷と和穂たちよ。君たちが簡単《かんたん》に勝てるって事じゃないから、軽《かる》はずみな行動は控《ひか》えろよ。
この甚来旗《じんらいき》を破壊《はかい》しようもんなら、大変《たいへん》な事が起きる」
殷雷弓が言った。
「はったりだと信じたいな」
善倒は不敵に笑《わら》う。
「甚来旗を破壊すれば、今後の宝貝|回収《かいしゅう》に支障《ししょう》が出《で》る可能性《かのうせい》があるとしてもかい?」
全《すべ》ての殷雷たちは押《お》し黙《だま》った。
ザワザワと、もはや人込《ひとご》みと言っていいほどの和穂と殷雷たちがその林の中に居た。
刀の和穂は周囲《しゅうい》を見回す。
「なんか、いっぱい居るね。全部が殷雷と私なんでしょ? でも、顔とか姿が違《ちが》う人たちも居る」
刀の殷雷は不機嫌《ふきげん》に答えた。
「この馬鹿《ばか》な事態《じたい》の説明を、善倒|自《みずか》らがしてくれるんだとよ。ありがたく聞こうじゃないか」
殷雷は一つの木の上を見た。
そこには甚来旗を片手《かたて》に持つ、善倒が座《すわ》っている。だが、これだけ無数《むすう》の殷雷から睨《にら》み付けられても、善倒は臆《おく》していない。
善倒は言った。
「世界には無限《むげん》の可能性がある。
無限の選択肢《せんたくし》に無限の選択。選ばれなかった選択は消《き》えてなくなるわけじゃない。選ばれなかった選択が選ばれた世界も存在《そんざい》する。
世界は無数に存在するんだ。無数の選択の積《つ》み重《かさ》なり具合《ぐあい》が違う世界たちだ。
ある世界では殷雷は刀だろうし、別の世界では剣かもしれない。
無限に存在し、かかわり合うはずのない世界の扉《とびら》を開けるのが、この甚来旗さ。
甚来旗を使って、無数の和穂と殷雷をこの世界に招《まね》き入れた。
それが今の状況《じょうきょう》さ」
どよめきが走った。一部の殷雷は大きな叫《さけ》び声を上げた。その殷雷たちは善倒の言葉の意味を察《さっ》していたのだ。
刀の和穂は首を傾《かし》げた。
「善倒の行動に意味はあるの?」
殷雷刀の宝貝の顔は青《あお》ざめていた。
「まずいぞ! 修羅場《しゅらば》になる!」
和穂には殷雷の驚《おどろ》きの意味が判《わか》らない。善倒の言葉は続く。
「甚来旗を破壊《はかい》すれば、ちゃんと元《もと》の世界には戻《もど》れる。甚来旗の破片《はへん》は、甚来旗を破壊した者と同じ世界に流れ着く」
武器の殷雷たちが一斉《いっせい》に慌《あわ》て出すが、武器以外の殷雷にはまだ事情《じじょう》がのみ込めていないようだった。
善倒はさらに続ける。
「僕が居た世界の和穂と殷雷が、甚来旗を破壊すれば全《すべ》ては丸く収《おさ》まる。
だが、僕と違《ちが》う世界の和穂と殷雷が甚来旗を破壊すればどうなるかな?」
全ての殷雷たちが慌てだしたが、和穂はまだ全体の三割ぐらいしか事の次第《しだい》が判っていない。
「一つの世界から、甚来旗は消滅《しょうめつ》し、甚来旗が二つ存在する世界が出来てしまうんだ。
甚来旗が消滅した世界の和穂と殷雷は、宝貝の完全《かんぜん》回収が不可能になる!」
刀の和穂にもボンヤリと重要《じゅうよう》さが理解出来はじめた。
「それって」
背後からやさしく和穂の肩《かた》を掴《つか》む手が伸《の》びた。
歳《とし》の頃《ころ》は二十五、六の女だ。白い道服《どうふく》を身に着《つ》けているし、顔には面影《おもかげ》も残っている。
彼女も和穂なのだろう。
だが、その瞳《ひとみ》は氷のように鋭《するど》く引《ひ》き絞《しぼ》られている。
殷雷を使っている時でさえ、こんなに殺気《さっき》じみた瞳にはならない。
氷の瞳の和穂は背後から刀の和穂に向かい囁《ささや》いた。
「簡単《かんたん》よ。和穂。確実《かくじつ》に宝貝を回収したいのなら、甚来旗を自分たちの手で破壊するしかない。みんながそう考えてる。でも、破壊出来るのは一人だけ。
だったら、私にとってあなたは邪魔者《じゃまもの》でしかない」
ゾクリとした寒《さむ》けが、和穂を襲《おそ》う。肩に掛《か》けられた手に異様《いよう》に強《つよ》い力が漲《みなぎ》る。
途端《とたん》に、殷雷の棍《こん》の一撃《いちげき》が氷の瞳の和穂に向《む》かい放《はな》たれた。
易々《やすやす》と棍を避《さ》け、氷の瞳の和穂は言った。
「殷雷。あなたに会えて嬉《うれ》しかった。まさかこうやって姿を見れる日が来るなんて」
「お前の居た世界じゃ、俺《おれ》はぶっ壊《こわ》されたみたいだな」
軽くうなずき、和穂は言った。
「そりゃもう、見事《みごと》に壊れてくれたわよ。……私を守《まも》る為《ため》にね」
二人のやりとりを見物《けんぶつ》していた、殷雷杵《いんらいしょ》は言った。
「盛《も》り上がるのは勝手《かって》だけどよ。俺は元の世界でとっくに甚来旗を回収してるんだ。
ここに呼《よ》び込《こ》まれたのはトバッチリもいいとこなんだ。さっさとけりをつけてくれよ」
刀の和穂が答《こた》えた。
「本当にもう、手当《てあ》たり次第《しだい》にあっちこっちの世界から、私や殷雷を呼び集《あつ》めているんだね」
殷雷杵は答えた。
「そうじゃない。甚来旗の欠陥《けっかん》なんだ。善倒は、『自分を追いかけてこの林にやってきた和穂と俺』をこの世界に追い込んだんだろう。
そうでなければ、争《あらし》う必要《ひつよう》がないからな。
最初のうちは、条件《じょうけん》を満《み》たしたものだけを呼び寄《よ》せるんだが、だんだんと条件が曖昧《あいまい》になってくるんだ。
そっちのおっかねえ和穂も、俺も善倒の条件は満たしてないはずだ」
ザワリザワリとどよめきがいつになっても収《おさ》まらない。
殷雷刀は、さらに和穂と殷雷の姿が増《ふ》えていると直感《ちょっかん》した。
「色々あるだろうがよ、ともかく甚来旗を止めてしまえ! 相談《そうだん》はそこからだ。これ以上《いじょう》増えてきたらどうにもならんぞ!」
氷の瞳《ひとみ》の和穂は言った。
「適当《てきとう》な事は言うもんじゃない。
この事態《じたい》を綺麗《きれい》に収拾《しゅうしゅう》するのは、ほぼ無理《むり》よ。まず不可能《ふかのう》と言ってもいいんじゃない。
私たちは善倒にしてやられた。
善倒は圧倒的《あっとうてき》な敗北《はいぼく》を、覆《くつがえ》したのよ。
この大混乱《だいこんらん》の中じゃ、誰《だれ》も善倒に手が出せない。
圧倒的な敗北を、勝負無《しょうぶな》しにまで持《も》ち込《こ》んだのね」
周囲《しゅうい》の殷雷から同時《どうじ》に声が上がる。
「それじゃ、俺らはこれからどうなる!」
「これだけ数《かず》が居るんだもの。
甚来旗を回収出来《かいしゅうでき》ない、一人の可哀相《かわいそう》な和穂を作って、他《ほか》の全員《ぜんいん》が助《たす》かるしか手はない」
殷雷たちは言葉《ことば》に詰《つ》まるが、氷の瞳の和穂に容赦《ようしゃ》はない。
「問題《もんだい》は誰が、『可哀相な和穂』になるかなのよね。
殷雷たちが力ずくで戦って決める? 最初に甚来旗を破壊《はかい》したものが勝者《しょうしゃ》って事で」
それしかないという答えはとっくの昔に出ていた。
だが、それを実行《じっこう》するだけの気合《きあい》が殷雷たちには入らなかったのだ。
敵を出《だ》し抜《ぬ》くには躊躇《ちゅうちょ》はしないが、自分たちを助ける為《ため》に、和穂を踏《ふ》み台《だい》にする気にはなれなかったのだ。
氷の瞳の和穂は呆《あき》れた笑《え》みを浮《う》かべる。
「笑わせてくれるわね。
これだけ殷雷が雁首《がんくび》を揃《そろ》えて、全員が『情《じょう》に脆《もろ》い』なんていう欠陥《けっかん》を持ってるの?」
殷雷たちは返す言葉がない。
人事《ひとごと》のように殷雷杵は言った。
「いやはや、ご苦労《くろう》さまですな。俺には関係がないけどな」
「殷雷ってば!」
杵の和穂が殷雷杵の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》ったりたしなめる。重苦《おもくる》しい空気が周囲《しゅうい》に流れた。
善倒は宣言《せんげん》した。
「さあ、どうする。お前らは俺を倒《たお》せるが倒した後の面倒《めんどう》には対処《たいしょ》出来ない」
善倒の言葉のままだった。
現状《げんじょう》を打開《だかい》するには、和穂を一人|犠牲《ぎせい》にするしかない。
だが、その選択《せんたく》をする事を殷雷たちは躊躇している。
氷の瞳《ひとみ》の和穂は言った。
「生憎《あいにく》、私はそこまで甘《あま》くはないんでね。
可哀相《かわいそう》だとは思うけど、私が甚来旗を破壊させてもらう。
文句《もんく》があるなら、私を倒してみな」
ズンズンと殷雷と和穂の人波《ひとなみ》の中を氷の瞳の和穂は突《つ》き進《すす》む。
何人かの殷雷は押《お》し止《とど》めようとしたが、彼女の気迫《きはく》の前に全く妨害《ぼうがい》にはならない。
もうすぐ、甚来旗に到達《とうたつ》しようとしたその時、一人の和穂が、氷の瞳の和穂の前に立ちふさがった。氷の瞳が和穂を射貫《いぬ》く。
「どけ。他人を犠牲《ぎせい》にして自分が助かるなんて選択をして生《い》き延《の》びて、ここの和穂たちが、これからの人生をまともにやっていけると思うか?
私ならば、それに耐《た》えられる。
だから、私が甚来旗を破壊《はかい》するんだ」
「深刻《しんこく》にならなくても、大丈夫《だいじょうぶ》よ。和穂。
ま、私も和穂なんだけどね」
「いいからどけ!」
「どかないわよ。結局、善倒と同じ世界の和穂か殷雷が甚来旗を破壊すれば、全《すべ》ては丸く収《おさ》まるんでしょ? だったら簡単《かんたん》じゃない」
「簡単じゃないから、困《こま》ってるんだ!」
どれだけすごまれても、和穂は怯《ひる》まなかった。
殺気《さっき》にも似《に》た視線《しせん》を前《まえ》にして、必死《ひっし》に抵抗《ていこう》するふうもなく柔《やわ》らかな笑顔《えがお》を振《ふ》りまく。
立ちふさがる和穂にあるのは、間違《まちが》いなく余裕《よゆう》の表情《ひょうじょう》だった。
氷の瞳をした和穂は小声で呟《つぶや》く。
「……お前、もしかして」
答えずに和穂は言った。
「善倒と同じ世界に居たのは殷雷刀よ。
殷雷刀と和穂に追い詰《つ》められた善倒は、甚来旗を使った。
ね、間違いないでしょ?」
途端《とたん》、善倒の顔色が変わった。いくら痛《いた》めつけられても自白《じはく》する気《き》は毛頭《もうとう》なかったが、いとも簡単に事実《じじつ》を言《い》い当《あ》てられ、善倒は慌《あわ》てふためく。
その驚《おどろ》きを見逃《みのが》す、殷雷たちではなかった。
見つかるはずのない答えが見つかったのだ。
人波をかき分け、殷雷刀と和穂が善倒の前、甚来旗の前に立った。
殷雷刀は言った。
「なかなかいい、悪《わる》あがきだったぜ。悪あがきでここまで苦《くる》しめられたのは初めてだ」
「……俺の戦法の何処《どこ》に間違いがあったんだ? あの状況《じょうきょう》は打開出来ないはずだったのに!」
「さあな。運《うん》が悪《わる》かったんじゃないのか?」
言《い》い残《のこ》し、殷雷刀は棍《こん》を振《ふ》り下《お》ろす。甚来旗の支柱《しちゅう》と旗《はた》はズタズタに破壊《はかい》された。
途端、林の中に無数《むすう》の光が交錯《こうさく》し、あっと言う間もなく、光は消滅《しょうめつ》した。
光と共《とも》に無数の和穂と殷雷たちも姿を消していた。
林の中には、善倒と壊《こわ》れた甚来旗、そして和穂と殷雷刀が居た。
殷雷は言った。
「どうやら、あの和穂の言葉に間違いはなかったようだな」
だが、和穂は釈然《しゃくぜん》としなかった。
「なんか、自分で回収したって気分にならないよ。
でも、どうしてあの和穂は、答えが判《わか》ったんだろう」
「あいつと一緒《いっしょ》に居た殷雷は、人の心を読《よ》む能力でもあったんじゃないか」
それが、一番簡単な答えだ。
「そうか。そうだね」
敗北感にうちひしがれる善倒の背中を殷雷は叩《たた》く。
「ちょいと欲張《よくば》り過《す》ぎたな。俺を呼べば呼ぶほど状況は混乱するが、俺の能力《のうりょく》でしてやられる可能性《かのうせい》もあったんだ」
「馬鹿《ばか》な! 心理《しんり》を読める能力や、過去《かこ》に遡《さかのぼ》って情報収集《じょうほうしゅうしゅう》の出来る能力を持つ殷雷の召喚《しょうかん》は禁止《きんし》してたんだぞ!
召喚を禁止したものを間違《まちが》って召喚なんてした事は一度もなかったのに!」
「所詮《しょせん》、甚来旗は欠陥宝貝《けっかんぱおぺい》なのさ。
ともかく善戦《ぜんせん》だったな。褒《ほ》めてやるぜ」
和穂にはやはり、腑《ふ》に落《お》ちない何かがあった。氷の瞳《ひとみ》の和穂が甚来旗に向かった時に立ちふさがったもう一人の和穂。
立ちふさがったのは和穂。和穂、ただ一人なのだ。どうして殷雷はいなかったのだろう?
殷雷が善倒の心を見抜《みぬ》き、それを和穂に教《おし》えてくれたのだろうか。
でも、それは殷雷の行動としては不自然《ふしぜん》だった。わざわざ、手間《てま》をかけて人に花《はな》を持たせるような行動を……
それに、氷の瞳に睨《にら》まれて全く怯《ひる》まなかった、あの自信はなんなのだろう。
たとえ答えが判《わか》っていてもあの瞳の前で平気でいられるほどの余裕《よゆう》とは……
「あ!」
和穂はこれでもかというほどの大声を出した。半《なか》ば震《ふる》えながら、うわ言《ごと》のように見つけ出した答えを呟《つぶや》く。
「あの和穂は、仙人《せんにん》なんだ。全《すべ》ての宝貝を回収し終えて、仙人に戻《もど》れた私なんだ!」
『甚来旗』
無数に存在するもう一つの世界とこの世界を交錯《こうさく》させる能力を持ち、ある種《しゅ》の召喚を行う。
欠陥は、召喚時の指定が時間の経過《けいか》と共《とも》にあいまいになる事。が、それでも禁止《きんし》したものを誤《あやま》って召喚する事はない。
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刀鍛冶《かたなかじ》、真淵氏《しんえんし》の勝利
鼻をくすぐるのは乾燥《かんそう》した木の匂《にお》いだった。しばらく使っていなかった私の眼《め》は焦点《しょうてん》の合わせどころにとまどった。仰向《あおむ》けに横たわったまま私の視線は暗闇《くらやみ》の中をさまよう。
混乱がなかったといえば嘘《うそ》になる。
ここが暗闇だと判《わか》るのは、射《さ》し込むわずかばかりの光のせいだ。光がなければ自分が暗闇に居《い》ることさえ、すぐには理解出来無《りかいできな》かっただろう。
そうだ、ここは棺桶《かんおけ》の中だ。
棺桶の中であると思い出した途端《とたん》に、言いようのない息苦しさを感じたが、それは錯覚《さっかく》に過《す》ぎない。
棺桶の中には違《ちが》いないが、別に埋葬《まいそう》されているのではないから、呼吸《こきゅう》に問題はない。
射し込む光が土の中ではないと証明《しょうめい》してくれたし、外から、がやがやとした話し声も聞こえてくる。私と同じように他《ほか》の村人も目覚《めざ》め始めたのだ。
話の内容までは判らなくとも、その声の調子からは困惑《こんわく》と驚《おどろ》き、そして安堵《あんど》が感じ取られた。
目覚めた村人にも幾《いく》つかの種類が居る。
ある程度この事件を把握《はあく》し、自分の置かれている状況《じょうきょう》を理解している者と、全く理解していない者。
最初の頃《ころ》の被害者《ひがいしゃ》は自分が何故《なぜ》、棺桶の中に入れられているかが判るはずもない。
だが、最初の被害者を見ていた連中《れんちゅう》は、自分の身に起きた事を理解し、ついでに自分も被害者になったと理解できている。
理解している連中が、安堵の声を上げているのだ。棺桶の中での目覚め、それは事件の解決《かいけつ》を意味しているからだ。
事件の解決。
私の顔はゆっくりと綻《ほころ》んでいった。
事件は解決した。つまり私は宝貝《ぱおぺい》の回収者に勝ったのだ! もとより私の宝貝が敗《やぶ》れるはずはなく、当然の勝利ではある。
ともかく和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》を追《お》い返すことに成功したのだ。
私は勝利を噛《か》み締《し》めながらも、浮《う》かぶ笑顔《えがお》を静かに消していった。笑顔の代《か》わりに村人として適当《てきとう》な表情《ひょうじょう》を浮かべた。
そして、棺桶《かんおけ》の蓋《ふた》を内側から押《お》し上げた。
ガタリと音を立て棺桶は開いた。私はゆっくりと上体を起こす。
半《なか》ば呆然《ぼうぜん》としたふりをして周囲《しゅうい》を見回せば私と同じように棺桶から起きあがろうとする村人たちの姿が目に入る。
不自然《ふしぜん》にならないように気をつけながら、慎重《しんちょう》に周囲を見回すが、やはり和穂と殷雷の姿は見えない。
混乱《こんらん》する村人の中を一人の青年が忙《いそが》しそうに駆《か》けている。焔雄《えんゆう》だ。
焔雄は大きく両手を叩《たた》いた。
ざわめく村人たちはその音を聞き口を閉《と》ざす。
村人たちが自分に注目したのを見て、焔雄は大声を出した。
「そのつまりなんだ。言いにくいんだけども。いや、悪《わる》い知らせって意味じゃなくてよ。
ともかく、ぶっとい眉毛《まゆげ》の娘《むすめ》と共に災難《さいなん》は去《さ》った。万事《ばんじ》丸く収《おさ》まったから安心してくれ。
結果《けっか》としちゃ、被害らしい被害もなかったんでよしとしよう」
村人たちの安堵《あんど》の声に続いて幾《いく》つかの質問《しつもん》が飛び出す。
焔雄はゆっくりと首を横に振《ふ》る。
焔雄の歳《とし》は確か十五かそこらの苦《はず》だ。歳の割《わり》に落ちついているのはまがりなりにも海の男であるからか。
質問の声に首を振り焔雄は言葉を続けた。
「判《わか》ってるって、宿屋《やどや》の親父《おやじ》さんよ。あんたは特に訳《わけ》が判らんだろうな。
ともかく何が起きたのか、最初から説明するからよ。質問はその後って事で」
隠《かく》していた笑みがうっかりと私の顔に戻《もど》ってしまった。だが、私に注目している者は一人も居ない。皆《みんな》は焔雄の言葉を待っている。
そして、私も焔雄の言葉を待っていた。
焔雄が語るのは、和穂と殷雷がいかに敗北《はいぼく》したかの顛末《てんまつ》だからだ。
やつらはいかにして、私の宝貝の前に無様《ぶざま》な敗北を喫《きっ》したのだろうか。
私は村の連中と共に焔雄の言葉に耳を傾《かたむ》けた。
「おう、説明してやるさ。説明してやるともさ」
唐突《とうとつ》に村の医者《いしゃ》が場違《ばちが》いな笑い声を上げた。焔雄は医者を無視《むし》して説明を始めた。
「さあ! どうするどうする、いったいどうしてくれやがる? なあ和穂ちゃんよ、なんとか言ったらどうなんだ」
焔雄は和穂を振り回していた。
掃除《そうじ》の前のはたきがけよりは、少しばかり丁寧《ていねい》な振り回し具合《ぐあい》だった。
が、仮《かり》にも、はたきではなく生身《なまみ》の人間を振り回しているのだ。
しかも焔雄の右|腕《うで》に巻《ま》かれている包帯《ほうたい》は飾《かざ》りではなかった。彼は右腕を負傷《ふしょう》していたのだ。
船頭稼業《せんどうかぎょう》で培《つちか》われた焔雄の太い腕があるからこそ出来る芸当《げいとう》であった。
怒《いか》りと困惑《こんわく》と絶望《ぜつぼう》がいりまじった、どうにもならない笑顔《えがお》が、目に焼けて赤銅色《しゃくどういろ》をした焔雄の顔に浮《う》かんでいる。
海で鍛《きた》えられた精悍《せいかん》な顔つきは、実際《じっさい》の年齢《ねんれい》より焔雄を大人びてみせていたが、和穂と歳は離《はな》れていない。
「頼《たの》む、頼むから事件を解決してくれ!」
焔雄の悲痛《ひつう》な叫《さけ》びは半ば自棄《やけ》だった。本気で和穂になんらかの策《さく》を期待しているのならば、ここまで和穂を振《ふ》り回しはしないだろう。
これでは和穂の口からはまともな言葉が出てくるはずはなかった。
部屋の中には焔雄と和穂以外にも十二人の村人がいた。
奇妙《きみょう》に高い天井《てんじょう》、明かり採《と》りの窓《まど》からは光がさしこんではいるが、全体的に薄暗《うすぐら》い。
だだっ広く寒々《さむざむ》とした印象《いんしょう》を与《あた》えるその部屋は倉庫《そうこ》の風情《ふぜい》があった。
村の集会所《しゅうかいじょ》に使われているが、かつては材木《ざいもく》の保管《ほかん》場所として作られていた建物である。今でも切り出された材木の心地《ここち》よい香《かお》りが僅《わず》かに残っている。
大小|幾《いく》つかの卓《たく》に腰《こし》を降《お》ろす村人たちの表情は一様に暗く、焔雄と和穂のやりとりに関心を持つものの姿は少なかった。
振り回される和穂に同情《どうじょう》する人間も居なければ、わざわざ焔雄を止めようとする人間も居ない。
卓に座《すわ》る村人たちの瞳《ひとみ》には、一様に疲《つか》れの色が浮かんでいた。答えのでない難問《なんもん》を前に村人たちは疲れ切っていたのだ。
「ほらほら焔雄、和穂ちゃんをいじめてても仕方《しかた》がないでしょ」
一人、村人の中で張《は》りのある声を出した女がいた。彼女の瞳の中にだけは絶望の色はない。
しかしそれだけであった。別段《ベつだん》、この異様《いよう》な状況《じょうきょう》を打開《だかい》する手だてを持っているわけではなく、単純《たんじゅん》にこの大問題を深刻《しんこく》に考えていないだけの話だった。
明るく透《す》き通《とお》るような声は、場の空気をなごませはしなかった。ただ、場違《ばちが》いな不謹慎《ふきんしん》さをまきちらしただけであったが、それを諫《いさ》める気力のある人間もいない。
女の名は瑞雅《すいが》。焔雄のいとこであった。
焔雄は瑞雅が苦手《にがて》であった。村人の中で瑞雅を苦手としていないものはいなかったが、村人たちは普段《ふだん》の行いに気をつけさえすれば、瑞雅と関《かかわ》り合《あ》いにならずにすむ。
瑞雅は医者だったのだ。
日ごろから摂生《せっせい》に気をつければ、病魔《びょうま》と瑞雅には関り合いにならずにすむ。
他《ほか》の医者を探《さが》そうにも、この村、この島《しま》に瑞雅しか医者はいない。
焔雄にいたっては、唯一《ゆいいつ》彼女の親戚《しんせき》であるが故《ゆえ》にいくら健康《けんこう》に気をつけても無駄《むだ》であった。
「でもよ姉ちゃん」
当然、瑞雅は人の話をきっちりときくような奇特《きとく》な心得《こころえ》を持ってはいない。
「ははん。さてはあんた、和穂ちゃんが好《す》きなんでしょ。
だからそうやって、いじめて喜《よろこ》んでいるんだ。やあね、子供なんだから」
平和な村の茶飲《ちゃの》み話としては、少しは面白《おもしろ》い話題の振《ふ》りだったかもしれない。
が、今はそれどころではない。村の一大事なのである。
焔雄は真面目《まじめ》な顔をして言った。
「生憎《あいにく》、俺《おれ》は眉毛《まゆげ》の太い女にゃ興味《きょうみ》はねえんだ」
つい勢《いきお》いで焔雄は瑞雅に対して皮肉《ひにく》を言った。
瑞雅は焔雄より一つ年上であった。すらりとした長身《ちょうしん》に長い髪《かみ》、鼻筋の通った美人《ぴじん》であり、黒曜石《こくようせき》を思わせる瞳《ひとみ》の上には、太い眉毛がのっていた。
瑞雅は微笑《ほほえ》む。
「まあ! それって焔雄の初恋《はつこい》の相手が私ってこと?」
訳《わけ》がわからない。何がどうすれば今の会話からそういう結論が導《みちび》かれるか焔雄には全《まった》く理解できない。
人の話をよく聞いてないから、会話の受け答えが変になるのならまだいい。
瑞雅の場合は、適当に自分の都合《つごう》のいい解釈《かいしゃく》を行い、その解釈に基《もと》づいて会話を続けているのだ。
「なんでそうなるんだよ!」
「淡《あわ》い初恋が無残《むざん》に破《やぶ》れちゃった悲《かな》しみが、眉毛の太い美人に対する拒絶反応《きょぜつはんのう》になっちゃったのね」
「誰《だれ》の初恋が無残に破れたって?」
「だってね、焔雄は全然私好みの男じゃないんだもん」
くらくらと目眩《めまい》がしたが、焔雄はそれでよしとした。少なくとも自分は瑞雅に好かれていないことだけでもよしとした。
「傷《きず》ついた?」
「喜んでんだよ! よくそんなんで医者になれたな」
「こうみえても小さいときから、家事《かじ》は得意《とくい》だったもんね」
落ち着け落ち着け。家事と医者がどこかで繋《つな》がるはずだ。瑞雅は医者は医者でも、漢方《かんぽう》とかの薬学《やくがく》が専門《せんもん》じゃない。骨折《こっせつ》やら縫合《ほうごう》を専攻《せんこう》してたらしいから、針仕事《はりしごと》の事を言っているのか? と、焔雄は考えを巡《めぐ》らした。
考えを巡らし、それが巡らし損《ぞん》だと知る。
瑞雅の、わやくちゃな論理《ろんり》を理解しても、これでもかというほど意味がない。
「ええい。ともかく和穂ちゃんよ、お前が全部悪いんだ。なんでもいいからこの状況《じょうきょう》を解決してくれ、もう打つ手はないのか?」
「ありますありますあります」
眉毛《まゆげ》の太い女を信用《しんよう》しない焔雄は疑《うたが》いのまなざしを和穂に向けた。
とうの和穂は振《ふ》り回されすぎたせいか、目がグルグル巻《ま》きになっていて焔雄の表情にまで気が回らない。
「あるんだったら、最初っから手を打ちやがれ!」
どう和穂が答えても癪《しゃく》に障《さわ》る。特に眉毛が気に入らない。
さらに焔雄は和穂を振り回す。
見かねたのか瑞雅は椅子《いす》から立ち上がり、焔雄の手をおさえる。
「いい加減にしなよ焔雄。だいたい、眉毛が太くても美人は美人なんだから」
根が真面目《まじめ》なせいか、無駄《むだ》と知りながらもついつい焔雄は瑞雅の論理を追いかけてしまう。
どうやら、自分が和穂を振り回しているのは、眉毛の太い女が嫌《きら》いだからと理解しているようだ。それは合っていたが、初恋云々《はつこいうんぬん》はとんでもない言いがかりだ。
「だから、姉ちゃんよ。そもそも」
「どっちにしろ、打つ手があるって言ってんだから聞いてあげれば?」
焔雄の手から離《はな》れた和穂は、転びそうになりながら、床の上をクルクルと回りつづけていた。酷《ひど》く目は回っていたが辛《かろ》うじて呂律《ろれつ》はまわる。
「もうこうなったら、最後の手段です。ここまで訳がわからないのなら、あの人に頼《たよ》るしかないです」
空《むな》しい言葉だった。和穂の言葉を誰も信用していない。誰も希望《きぼう》など持っていなかったのだ。
和穂の言葉に心を動かされる村人はいなかった。
もう、この状況は打開《だかい》できない。たとえ誰であろうとこの異常な事件を解決できやしないと村人たちは考えていた。
ただ一人瑞雅だけは和穂の言葉に瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせた。
事件がどうこうよりも、瑞雅は単純に断縁獄《だんえんごく》から色々なものが出たり入ったりするのを見るのが好きだったのだ。
「ね、ね、また断縁獄から何か出すの?」
どうにか目の焦点《しょうてん》が合った和穂は壁《かべ》に向かって喋《しゃべ》っていたことに気がつく。
軽くせき払《ばら》いして、村人たちのほうへ向き直り腰《こし》につけた断縁獄を手に取り、和穂は彼の名を呼んだ。
途端《とたん》、一|陣《じん》の風と共に一人の男が断縁獄の中から姿を現《あらわ》した。
「はははっは。それではさっそく犯人《はんにん》を適当に見繕《みつくろ》ってみようじゃないか!」
その姿が現れた途端、何故《なぜ》か壮大《そうだい》なる雷鳴《らいめい》が、どんがらがっさんと轟《とどろ》き、大地を揺《ゆ》るがす地鳴《じな》りが起こった。
地鳴りの終息《しゅうそく》と共に蛙《かえる》と烏《からす》の鳴き声が巻き起こる。さながら現れた男を称《たた》えるような合唱《がっしょう》であったがその真意《しんい》は蛙と烏しか知りようがない。だが、壮大すぎるせいで、とてつもない馬鹿馬鹿しさが広がったのは確かだった。
姿を現したのは導果《どうか》だった。つい先刻まで断縁獄の中にいたのだ。犯人をどうのこうのと言っているが、彼は全く状況《じょうきょう》を把握《はあく》してはいない。
蛙と烏の合唱は聞こえないことにし、焔雄は、とてつもなく優《やさ》しい笑顔《えがお》を和穂の鼻先に近づけた。
「俺《おれ》はこう見えても、そんなに怒《おこ》りっぽい性格をしてるんじゃないんだよ。
眉毛《まゆげ》の太い女にゃ少しばかり恨《うら》みがあるんで、和穂ちゃんには冷たく当たってるけど、些細《ささい》な失敗《しっぱい》にいちいち目くじらをたてたりするような心の狭《せま》い男じゃない」
焔雄の言葉は優しかった。俺の言葉に異議《いぎ》を唱《とな》えればただじゃおかないぞという気迫《きはく》に満《み》ちた優しさだった。
「なあ、和穂ちゃん。出す奴《やつ》を間違《まちが》えたんだな? まさか、こんな奴が最後の手段じゃあるめえな」
言い分はもっともだった。せめて登場ぐらいは普通にしてくれると和穂は期待していたが、簡単《かんたん》に裏切《うらぎ》られたのだ。
いや、本当に期待していたのか? と、和穂は不安になった。導果にまともな行動を期待してよかったのだろうか?
ともかく気を取り直し、気迫に押《お》されながらも和穂は答えた。
「いえ、この人でいいんです」
焔雄の言葉は、導果の甲高《かんだか》い声で押さえられた。
「よし、それじゃ和穂に食《く》って掛《か》かってる、そこの包帯《ほうたい》を巻いたお兄さんが犯人というのはどうかね?」
なんてさわやかないいがかりなんだと、焔雄は驚《おどろ》いた。彼の人生の中で、全く完全にこれっぽっちの根拠《こんきょ》もないいいがかりをつけられたのはこれが初《はじ》めてだった。
誤解《ごかい》の上でのいいがかりならば、言い返す余地《よち》もあろう。
が、完全に根拠のないいいがかりには、弁解《べんかい》する余地も全くない。それはある種の清々《すがすが》しさを思わせた。
いいがかりに同意する瑞雅を無視して焔雄は吠《ほ》える。
「根拠はあるんだろうな!」
いまだ止まらぬ蛙《かえる》と烏《からす》の合唱を背に導果は言った。
「こんな感じでどうだ?
『宝貝の能力で使用者は、自分が使用者であるという記憶《きおく》を封印《ふういん》してる』
つまり本人すら自分が犯人であると気がついてないというオチだよ」
理屈《りくつ》は通っているようだが、無茶苦茶《むちゃくちゃ》には違いない。自分と犯人を結びつける根拠が脆弱《ぜいじゃく》過ぎる。いや、脆弱ならばまだいいが、最初から結びつけようという努力すら放棄《ほうき》している。
「根拠にゃなってないぞ。証拠《しょうこ》はあるのか」
少しばかり困った顔で導果は言った。
「ふむ。お気に召《め》さないか。確かにどこにでもありそうなありふれた筋書《すじが》きだったな。
なに、ありふれているだけなら別に構《かま》わないんだが、
『どうだ、ひねったオチだろ』
と恰好《かっこう》をつけてるのにありふれているというのが、いかんともしがたいな。
よし、じゃ、今の推理《すいり》は、やっぱりやめ」
この瓢箪《ひょうたん》から出てきた男の匂《にお》いはどこかでかいだ匂いだ。それもごく身近で。
焔雄は導果の隣《となり》で拍手《はくしゅ》をしている瑞雅に視線を走らす。
考えるまでもない。瑞雅と同じ匂いだ。
焔雄は導果の胸《むな》ぐらを掴《つか》む。
「いいか? 犯人を見つけるのに、
『適当に見繕《みつくろ》う』だの『こんな感じでどうだ』だの『今の推理はやっぱりやめ』なんて言葉を使っていいと思うか?
だいたい、あんたは誰なんだ?」
「はははっは。名は導果」
「で、導果さんよ。あんたは何の宝貝《ぱおぺい》なんだよ?」
待ってましたとばかりに、導果は答えた。
「私は探偵《たんてい》なのだよ!」
一瞬《いっしゅん》の間《ま》。焔雄は探偵の意味を知らない。珍《めずら》しそうに導果を見ていた瑞雅は、ひときわ大きく手を叩《たた》いた。
「凄《すご》い! 都《みやこ》の医学|塾《じゅく》に通ってたときに、噂《うわさ》で聞いたことがあります。
確か、さまざまな難事件をその明晰《めいせき》な頭脳《ずのう》で解決されるお仕事なんですよね」
「はははっは。厳密《げんみつ》に言いますとですね、
『ほうっておけば一人の被害者《ひがいしゃ》だけですむ完全犯罪に首を突《つ》っ込んで、沢山《たくさん》の被害者が出る不完全犯罪』にしちゃう、憎《にく》いあん畜生《ちくしょう》って感じの仕事ですかな」
瑞雅の拍手は止まらない。
「まあ素敵《すてき》!」
ゆるりと焔雄は和穂の背後《はいご》に忍《しの》び寄り、耳打ちした。
「いいかい、和穂ちゃん。瑞雅姉ちゃんだけでももてあましてるというのに、なんであんなややこしい奴《やつ》を呼び寄せたんだ。
ほれ見ろ。
訳のわからん者同士、意気投合《いきとうごう》してるじゃないか」
焔雄の言葉はもっともだった。和穂は一応答えた。
「大丈夫《だいじょうぶ》です。導果さんに任《まか》せれば、きっとこの事件は解決します」
蛙《かえる》と烏《からす》の合唱を背にしている宝貝に太鼓判《たいこばん》を押《お》すとは、我《われ》ながら説得力《せっとくりょく》のない言葉だと判《わか》ってはいたが、今はそう言うしかなかった。
漁師《りょうし》は海上を吹《ふ》きすさぶ風の匂《にお》いで、迫《せま》りくる嵐《あらし》を予感《よかん》する時がある。似たような繊細《せんさい》さが焔雄にはあった。
「じゃあ聞くぞ。信用出来るのなら、何故《なぜ》に最初から導果を出さなかった?」
「あっ、それはまた鋭《するど》い名推理」
ふざけるつもりはなかったが、ついつい導果の口調《くちょう》が和穂にもうつってしまった。焔雄の軽めの殺気《さっき》に気がつき、和穂は言葉を続けた。
「導果さんの場合は、なんと言いましょうか、もつれた糸をするりと解《ほど》くように謎《なぞ》を解《と》くって感じじゃないんです」
さらに殺気が強くなる。今になって先刻までのぶん回しには全く悪意は無かったのだと和穂は知った。それを知って安心するわけにはいかない。目の前の殺気があるから、先刻の無邪気《むじゃき》さが浮《う》き彫《ぼ》りになったに過ぎないのだ。
焔雄は凄《すご》む。
「謎が解けねば意味はないぞ」
「ですから、もつれた糸をさらにもつれさせて、糸を引きちぎるように謎を解くんです」
「そういうのを謎を解くと言うのか?」
馬氏三姉妹《ましさんしまい》の事件を解決したのだ。導果の腕前《うでまえ》は確かなはずだ。そう思い和穂は導果を断縁獄の中から呼び出した。
確かに確かなはずだったが、和穂の脳裏《のうり》にあの事件のときの導果の言葉が蘇《よみがえ》った。
『謎になんか、これっぽっちも興味《きょうみ》はないからねえ』
落ち着いて考えれば、三姉妹の事件は口先三寸《くちさきさんずん》で片をつけただけではなかったのか?
あの事件では探偵《たんてい》を名乗《なの》り、嘘八百《うそはっぴゃく》の推理で犯人を動揺《どうよう》させ自白《じはく》に追い込んでいた。
今回の事件にその手が通用するのだろうか。
この島の事件にも、犯人に対する心理的な揺《ゆ》さぶりが意味を持つのだろうか。
和穂は肝心《かんじん》な部分に気がついた。
馬氏の娘《むすめ》は、宝貝の所持者《しょじしゃ》じゃなかったのだ。
それゆえに心理的な揺さぶりがてきめんに効《き》いたのではないか? 得体《えたい》の知れない宝貝という物を前にしたからこその、動揺があったのは間違《まちが》いない。
和穂は心ここに無く卓《たく》にすわる村人たちの顔を見た。
焔雄や瑞雅を含《ふく》めた十三人の村人の中に犯人がいるはずだった。
惟悴《しょうすい》しきった、村人の顔を見るのは辛《つら》い。自分を含め家族も事件に巻き込まれた村人たちだ。怒《いか》り狂《くる》えば少しは気が楽になったかもしれないが、話は単純ではない。
犯人は確実に村人の中に居るのだ、疑心暗鬼《ぎしんあんき》で村人たちの心は窶《やつ》れきっていた。
誰もが本当に困っているとしか和穂には思えない。しかし、その中で犯人は困ったふりをしているだけなのだ。表情から誰が犯人かは、和穂には全く見当もつかない。そこまで狡猾《こうかつ》な犯人をどうすれば、心理的に追い詰《つ》められるかと、和穂は疑問に思った。
さらに犯人は宝貝がいかなるものかを知っているのだ。導果を過大評価《かだいひょうか》して尻尾《しっぽ》を出すような真似《まね》をするのだろうか。
「た」
「たぶん解決してくれます。なんてほざきやがったら、岬《みさき》の灯台《とうだい》から放《ほう》り投げるからな」
先手を取られて和穂は言葉に詰まった。
「導果さんはこの状況《じょうきょう》を打破《だは》してくれます。私は信じています」
「打破? 和穂ちゃん。あえて解決という言葉を避《さ》けやがったな」
「いや、あの、それは」
果《は》たして謎《なぞ》は暴《あば》かれ、真実は白日《はくじつ》の下《もと》に晒《さら》され、事件は解決するのであろうか。
蛙《かえる》と烏《からす》の合唱にセミの鳴き声も混じりはじめていった。
村人たちに向かい和穂は必死に訴《うった》える。村人の中に居るであろう犯人に、少しでも導果の『凄《すご》さ』を伝えられれば、犯人の表情に焦《あせ》りの色ぐらいは浮かぶかもしれない。
しかし、あまりに必死になりすぎても逆に不自然だと考えたまではよかったが、役者でもない彼女はそこまで器用《きよう》に表情を操《あやつ》る術《すべ》を持たない。
結果としてその表情はかなりひきつっていた。
「で、この導果さんは凄《すご》いんですよ。
なんと、終計都《しゅうけいと》三十六の難事件を解決なされた実績《じっせき》があるんです!」
動揺《どうよう》まで行かなくてもいい、少しでも変わった反応を期待したが、和穂の瞳《ひとみ》に映《うつ》る村人の表情は先刻とあまり変わらない。
導果ならば、わずかな表情の変化を見抜《みぬ》けるかと、ちらりと横を見たがニコニコ笑いながら美味《うま》そうに茶をすすっているだけだった。
「瑞雅《すいが》さん、おいしいお茶をありがとう」
焔雄は極限《きょくげん》にまで目を細め、顎《あご》も突《つ》き出しこれ以上無いほどの疑いを和穂にぶつける。
「終計都三十六の難事件ねえ。
そいつは一体どんな難事件だったんだい和穂ちゃん。それは凄《すさ》まじい事件だったんだろうな」
しまった。導果が三十六の難事件を解決したらしい事は知っていたが、具体的《ぐたいてき》にどんな事件を解決したかまでは、和穂は知らなかった。
思いっきり言葉に詰《つ》まる和穂を見かねたのか、単純に自分の話であるからか、導果が説明する。
「食い逃《に》げを捕《つか》まえたり、逃げた犬を捕まえたり、あと迷子《まいご》が家に帰るのを手伝ったり」
慌《あわ》てて和穂が割って入る。
「わ、わ、献上用《けんじょうよう》の天下の宝刀《ほうとう》が盗《ぬす》まれた複雑怪奇《ふくざつかいき》な盗難《とうなん》事件を解決したことも」
あれだけグデングデンの論理を振《ふ》りかざしていたくせに、導果は細《こま》かいところにこだわった。
「馬氏|三姉妹《さんしまい》の事件は終計都の事件じゃないよ、和穂君。それにあれは難事件でも何でもない」
焔雄が言った。
「もういいから、そいつを瓢箪《ひょうたん》の中にしまっちまえ。食い逃げを捕まえる技術《ぎじゅつ》が何の役に立つ」
ここで和穂は気がついた。出現と同時に導果が犯人を捕まえると叫《さけ》んだりしたので、ごちゃごちゃになっていたが、まだ、導果に協力《きょうりょく》を頼《たの》んではいなかった。
「導果さん、お願《ねが》いです。とても困っているんです、力を貸《か》してもらえませんか?」
導果はゆっくりと村人たちを見回す。疲《つか》れ切った暗い顔がそこにある。そのあまりの暗さに導果の口元が綻《ほころ》ぶ。その暗さが、導果の宝貝としての本能をくすぐったのだ。
「和穂君。私に力を貸せと?」
「はい、事件を解決してほしいんです」
「いいよ事件を解決してあげよう[#「事件を解決してあげよう」に傍点]」
その答えと共に、馬鹿《ばか》馬鹿しいまでに壮大《そうだい》な稲妻《いなずま》がまたしても光った。
稲妻の迫力《はくりょく》はあったが、あまりに軽い承諾《しょうだく》が、逆に焔雄には気に入らない。事件の概要《がいよう》も知らずに引き受けるなど安請《やすう》け合《あ》いにしかみえなかったからだ。
それにあの趣味の悪い落雷《らくらい》はなんだ? どうせこいつも宝貝なんだから、自分でやってるんだろうと焔雄は読んだ。
「へん。おまえが、この大事件の犯人を見つけてくれるだと?」
導乗は軽《かろ》やかに笑った。そして言った。
「頼《たよ》られると嫌《いや》といえない性分《しょうぶん》でね。和穂君は私を頼ってくれたから願いをきいてあげよう。でも焔雄君は私を信用してないようだから望《のぞ》みを叶《かな》えてあげないよ」
言葉の意味が焔雄にはいまいちよく判《わか》らない。自分も眉毛《まゆげ》の太い元仙人《もとせんにん》も、同じ頼み事をしているんじゃないか。それを片方はきいて片方は断るとはどういう了見《りょうけん》か。
まさか俺にだけ犯人を教えてくれないのかとも思ったが、馬鹿げた話だった。
「判ったよ。どうせもう打つ手はないんだ。お手並《てな》み拝見《はいけん》といこうじゃないか」
こくりこくりと微笑《ほほえ》みながら導果は頷《うなず》いたが、その瞳《ひとみ》は村人たちに向けられているのを和穂は見逃《みのが》さなかった。村人を見つめる導果の瞳には、焔雄を相手にしたときと違《ちが》い真剣《しんけん》さがあった。
この中から犯人をみつけだせるのか?
「さて、事件を解決する前に、折角《せっかく》ですから一体どんな事件が起きているかを説明してもらいましょうか?」
何がどう折角なのか、焔雄を始めとして村人は呆《あき》れて物も言えない。
たちの悪い冗談なら、一喝《いっかつ》でも出来ようが、とうの本人は真面目《まじめ》な顔つきである。
「それはそれは恐《おそ》ろしい連続殺人事件《れんぞくさつじんじけん》なんですよ」
透《す》き通《とお》るような朗《ほが》らかな声で瑞雅が説明をしようとしたが、焔雄は首を横に振《ふ》った。
「姉ちゃんは黙《だま》っていろ。あんたの説明じゃ因果関係《いんがかんけい》が無茶苦茶になる」
「あら、お言葉ね」
「第一、まだ誰も死んじゃいねえのに、連続殺人よばわりは止《や》めろ。医者なんだからそういうところにはこだわれよ」
導果は、その言葉に興味をひかれた。
「まだ、誰も死んじゃいない? ほお。面白《おもしろ》そうな話じゃないか」
死んでいない人間を死んでいるといいきった医者の後では、事件を面白がる導果の非常識さも、さほど目立たない。
和穂もどこから説明していいのか判らない。
「ともかく得体《えたい》のしれない事件なんです」
今までの態度が嘘のように、導果はまともな言葉を吐《は》く。
「ふむ。探偵術《たんていじゅつ》にとって、二番目に必要なのは正確な証拠《しょうこ》だからね。
一応現場を見物しながら説明していただこうかな」
見物が見学だったら完璧《かんぺき》だったのにと、焔雄は考えたが、ともかく真面目な言葉がきけて少しは、ほっとする。
二番目に必要なのは正確な証拠。では一番めは何かと気にはかかったが、聞かない事にした。焔雄は導果をそこまで信用していない。
どうせまたろくでもない言葉をほざく可能性《かのうせい》があった。
「まあ、導果さん。それじゃ一番目に大切なのはなんでしょう?」
瑞雅の言葉に焔雄は頭痛を覚えた。
導果は誇《ほこ》らしげに答えた。
「当然、一番大切なのは引き立て役です。探偵の素晴らしさを浮き彫りにする、引き立て役です」
ずるりと焔雄は壁《かべ》にもたれかかった。額《ひたい》で一心に体重を支《ささ》え、そのまま地面に滑《すべ》り落ちないようにふん張《ば》る。
心配し近寄る和穂に向かい首を横に振《ふ》る。
「判《わか》った判った。とっととあいつと和穂ちゃんで事件のけりをつけてくれ。俺は船小屋《ふなごや》に帰って寝《ね》る」
導果の説明は続く。
「さよう、引き立て役が重要《じゅうよう》なのです。
目の前に示《しめ》された正確な証拠を前に、誰にでも思いつくような面白くも何ともない推論を組み立てて、しかもその推論は大外《おおはず》れというのが望ましいですな。
ところが困ったことにですね」
導果は和穂の両方の肩《かた》をぽんぽんと叩《たた》く。
「この和穂君は引き立て役にしては、ちょいと弱い。
彼女の悪いところは、判らないものに関しては、素直《すなお》に判らないと認める悪癖《あくへき》があるのです」
何がどう悪癖なのかが判らない和穂は導果の言葉にキョトンとした。
導果はさも残念そうに首を横に振る。
「探偵《たんてい》としましては、判らないことには、自分に都合《つごう》の良い勝手な解釈《かいしゃく》で事実をねじ曲《ま》げてくれてはじめて引き立て役がつとまるというのに、これじゃ探偵|稼業《かぎょう》も上がったりです」
瑞雅が言った。
「それなら大丈夫《だいじょうぶ》です、導果さん。うってつけの引き立て役が私の親戚《しんせき》にいます!」
じたばたすれば瑞雅の思うつぼだろう。何故《なぜ》それが思うつぼなのか、何故瑞雅の思うつぼにはめられるのかは焔雄《えんゆう》には理解出来無い。
恨《うら》めしげに笑い焔雄は手を上げる。
「はあい。引き立て役の焔雄です。
せいぜい間抜《まぬ》けな推理で、あんたを引き立てりゃいいんだろ」
導果はブンブンと首を横に振る。
「とんでもない。きみにはきみなりに一所《いっしょ》懸命《けんめい》に事件に当たってもらうよ。
引き立て役なのはあくまでも結果論だからね、そんなに気にしなくていいのだ。
はははっは」
「そうかい。うっかりあんたより先に謎《なぞ》を解《と》いちまって、大恥《おおはじ》をかかせたらそんときは、ごめんよ」
「よいよい。その意気込《いきご》みだよ」
そして導果は、うやうやしく村人たちに一礼した。
「そんなわけです皆様《みなさま》。これから私めは事件の経緯《けいい》を拝見《はいけん》してまいります」
焔雄に対する無礼《ぶれい》な言動《げんどう》に比べて、あまりに礼儀正《れいぎただ》しい所作《しょさ》だった。村人の中に居る犯人に対する、導果の挑戦《ちょうせん》なのかと和穂は考えた。
天は深紅《しんく》に染《そ》まっていた。
深紅の空には、烏《からす》の黒が墨《すみ》のように飛《と》び散っている。紅《くれない》の空の中の僅《わず》かな淀《よど》みが雲《くも》だった。
有《あ》り得《え》ない空の色ではない。
ただ、見事な夕焼《ゆうや》けであった。
先刻のやりとりの間にも日は傾《かたむ》きかけていたのだ。
小さくはなったが、烏と蛙《かえる》の鳴き声はいまだ響《ひび》いている。いや鳴き声は四人について移動しているようだった。耳|障《ざわ》りではあったが、これも導果の仕業《しわざ》なんだろうと焔雄は考えた。
しかし、鳴き声を止めてくれと『お願い』するのが癪《しゃく》なのであえて無視《むし》する。
ゆらりゆらりと四人は道を歩いていた。一応|整備《せいび》はされていたが林の中の一本道には彼ら以外に行《ゆ》き交《か》う者の姿もない。
気楽な散歩《さんぽ》に見えなくもなかったが、焔雄と和穂の顔には気楽な表情は全く見えない。
「で、いつものように宝貝《ぱおぺい》を追ってこの島に渡《わた》ったんです」
ふむふむと、導果は和穂の言葉に耳を傾ける。
最初は捜査《そうさ》のふりだけをするのかと考えていた和穂の予想《よそう》とは違《ちが》い、導果は本当に事件の経緯《けいい》に興味を示していた。
最初の現場につくまでに、事件の簡単《かんたん》な経過を和穂は説明しようとした。
導果は周囲《しゅうい》を見回す。
「ここは島か。島ねえ。島とは」
それが意味のある言葉か、口から出ただけの言葉か誰にも判《わか》らない。焔雄は言った。
「島が一つの村で、俺はこの村の出身。今は海峡《かいきょう》向かいの大州《だいしゅう》に住んではいるけどね」
導果は大きく息を吸《す》い込む。
「漁村《ぎょそん》って様子じゃないようだが」
「大昔は漁村だったけど、大州にでっかい漁港が出来たからな。
ま、どうってことのない居住地《きょじゅうち》だよ。村の中央には、今歩いてる稲鈴《とうれい》の森《もり》があるから、大州向けに木を売ったり、海峡|越《ご》えの船のために灯台《とうだい》が置かれたりしている。
俺は大州と村との間に船を出すのを仕事にしている。でかい船じゃないが村の連中の役には充分《じゅうぶん》だ」
和穂が続ける。
「焔雄さんの船でこの村に渡《わた》ったら、事件が起きたんです」
今のところは取り立てて怒《おこ》っている訳でもなかったが、夕焼けの色が焔雄の顔色を激怒《げきど》の朱色《しゅいろ》に染《そ》めていた。
「そう、和穂ちゃんは、ちょいと可愛《かわい》い疫病神《やくびょうがみ》ってところだな。眉毛《まゆげ》が太いんで妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎはしてたんだ」
導果は至極《しごく》当たり前の意見を言った。
「事件が起きれば衛士《えいし》に相談《そうだん》するのが当たり前じゃないのかね」
「生憎《あいにく》、島に常勤《じょうきん》の衛士は居ない。事件があれば大州の衛士が来る取り決めになっちゃいるんだが、海が荒《あ》れていて船が使えない」
導果は興味を引かれたようだ。
「つまり、事件が起きた途端《とたん》に海が荒れたというのかね? でも、嵐《あらし》って風情《ふぜい》じゃないね」
「潮《しお》が荒れるんだよ。別に今までにもなかった話じゃない。
記録《きろく》じゃだいたい四十年に一度はこの潮になる。だから村には食料の貯《たくわ》えはちゃんとある。
まさか二年も三年も潮が続けばやばいけどな」
「今年はその四十年に一度の年なのかね?」
「いや、陰陽官《いんようかん》が作った潮の暦《こよみ》によれば、あと三年はある。
まさかそれも宝貝のせいなのか? 潮を変えるなんて強力な」
「混沌《こんとん》を統《す》べる法そのものは美しいまでに単純だよ。法に掛《か》かる因子《いんし》に作用《さよう》するのは、強い力でなくても可能だ。
とかなんとか、それっぽいはったりをかましたりしてね」
和穂にはよく判《わか》らない。導果が本気かどうかもよく判らないし、どこからが宝貝の仕業《しわざ》なのかすら判らない。
和穂は耳の索具輪《さくぐりん》に手を伸《の》ばす。
「索具輪は不調《ふちょう》で、宝貝の正確な場所までは判らないし」
瑞雅が道の端《はし》を指|差《さ》す。
「あ、猫《ねこ》だ」
焔雄は完全に無視したが、導果は猫に目をやる。
「ほう、三毛《みけ》の子猫だね。しかも雄《おす》だ」
焔雄は疑わしげに導果を見た。
「探偵《たんてい》先生の観察欲《かんさつよく》は素晴《すば》らしいな。いちいち猫の股《また》ぐらまで観察して、性別判断《せいべつはんだん》かよ」
「馬鹿《ばか》を言ってはいけないよ。私はそんな無礼《ぶれい》をしない。
性別ぐらい顔を見れば判る。焔雄君も雄に違《ちが》いない。太鼓判《たいこぽん》だ」
「ご名答《めいとう》。さすがは探偵先生」
和穂は首を傾《かし》げた。
「確か、雄の三毛猫って珍《めずら》しいんですよね」
「俺は探偵先生の見間違いに賭《か》けるね。雄の三毛なんて見た事がない」
ちっちっちと必死に舌打《したう》ちし、瑞雅《すいが》は三毛猫を呼《よ》び寄《よ》せた。
そして、遠慮《えんりょ》なく猫の股間《こかん》に視線を走らす。
「まあ大変。焔雄の言ったとおりだ。この猫は雌《めす》ですよ」
導果はかかかと大笑《たいしょう》した。
「こいつは参《まい》ったな。この私とした事が、本当に参ったな。
さすがは海の男、賭け事には強い、強い」
「あんたが俺を誉《ほ》めることがあるなんて夢《ゆめ》にも思わなかったぜ」
「さすれば論理的に考えて、焔雄君の性別も怪《あや》しくなるな」
「心配するな。そっちはご名答だ。
てな感じで、世間話をしている暇《ひま》なんかないんだよ!」
可哀想《かわいそう》に親猫とははぐれてしまったのだろう。三毛猫の肩甲骨《けんこうこつ》をぐりぐりと按摩《あんま》してから、瑞雅は猫を抱《かか》え込んだ。
和穂は言った
「でもいくらなんでも、この猫は事件とは無関係ですよね」
導果は答えた。
「そいつは後の、お楽しみだ」
三毛猫が示しているのは、探偵のへボさでしかないではないかと焔雄は考えた。
「ともかく、和穂ちゃんたちをこの島に送り届けて、その日の仕事は仕舞《しま》いにしたんだ。
どうせ患者なんて誰も居ないから、いつものように姉ちゃんの所の診療所《しんりょうじょ》を宿代わりにして、俺は寝《ね》た」
瑞雅はつまらなさそうに言う。
「村の連中って体だけは頑丈《がんじょう》なんで、つまらないったらありゃしない」
そんなことを言ってるから患者《かんじゃ》がこないんだと焔雄は心の中でつぶやく。
和穂は出来るだけ正確に、当時の状況《じょうきょう》を説明しようとしたが導果に注意された。
「説明は適当《てきとう》でいいよ。だいたいの所が判《わか》れば充分《じゅうぶん》」
「船の中で焔雄さんに宿の場所を聞いていたんで、私と殷雷はそこに向かいました」
殷雷は島全体が敵の術中に陥《おちい》っている可能性を考慮して、一度宿に落ちつこうとしたのだ。
導果は鼻の頭をかいた。
「宿屋なんてあるのかい」
「樵《きこり》や材木の買い付け人がたまにくるから、小さい宿屋はあるんだよ」
そして和穂はゆっくりと言った。
「宿屋の扉《とびら》を開けて中に入ると。宿屋の旦那《だんな》さんは倒《たお》れていました」
焔雄が道の前方にある建物を顎《あご》で差す。
「あれが、その宿屋」
異様《いよう》な建物ではない。
大きく開かれた門|構《がま》え、門からのぞく建物も決しておかしくはない。低《ひく》めの塀《へい》の内側には松《まつ》の木が植《う》えられ目隠《めかく》しと潮風を防《ふせ》ぐ役目を果《はた》している。
ありふれた宿屋だ。
ごく普通《ふつう》の宿屋であるから、逆に和穂は気味《きみ》の悪さを感じた。どこにでもある普通の宿屋。だからこそ、人の気配《けはい》が全くしない今の状態がとてつもなく寂《さび》しく感じられる。
門と建物の間に敷《し》かれた敷石《しきいし》の上を、導果はピョンピョンと飛び跳《は》ね、宿屋の暖簾《のれん》をくぐった。
ぞろりぞろりと他《ほか》の三人も続く。
高い天井《てんじょう》に湿《しめ》ったような石畳《いしだたみ》、明りとりの窓からは紅《くれない》の日が差し込んでいる。
幾《いく》つかの卓《たく》が置かれているのは、泊《と》まり客目当ての食堂も兼《か》ねているからであろう。
無数の卓には逆《さか》さにした椅子《いす》が置かれていて客の不在を物語っていた。ただ一つ壁の横の卓の上には椅子が置かれていない。
その卓を前にして導果は、顎を摩《さす》っていた。
そんな導果の顔を見て、焔雄は面白《おもしろ》そうに笑う。
「どうだ、探偵《たんてい》先生。面白いだろ?」
和穂が言葉をつなぐ。
「そうです。導果さんが見ているその卓の上で宿屋の旦那《だんな》さんは倒れていました」
その卓の上にだけは椅子は置かれていない。
ちゃんと石畳の上に置かれた椅子の上に宿屋の主人は座《すわ》っていたのだ。
「椅子に座って、上体を投げ出すようにです。最初は居眠《いねむ》りでもしてるのかと思ったんですけど」
導果は黙《だま》り卓を見つめた。とうの昔に宿屋の主人は運び出されている。
それでも導果は卓を見る。
「この卓の模様《もよう》は何かね? 細工《さいく》にしちゃ見事だが」
焔雄が答えた。
「細工じゃないよ。宿屋の親父《おやじ》が新しい卓でも仕入《しい》れたのかと、最初は俺も思ったがそうじゃない。
その卓は俺もよく知っている卓だ。そこの角《すみ》っこに焼《や》け焦《こ》げがある。そいつは、俺が二年ほど前に、キセルを落っことしてつけた焦げだ」
宿屋の主人が倒れていた卓の一面には、幾何学的《きかがくてき》な模様が記《しる》されていた。蝶《ちょう》の羽《はね》を思わせるような曲線《きょくせん》が躍《おど》り、深い海に住む魚だけが持つ、異様な文様《もんよう》にも見えた。
導果は卓を食い入るように見つめた。
軽い、失望感《しつぼうかん》を焔雄は感じた。
心のどこかでは、導果が軽く謎《なぞ》を蹴散《けち》らすことを期待していたのかもしれない。だが、今の導果の行動はごく普通《ふつう》の反応だ。
誰もが不思議《ふしぎ》がるこの模様を見て、普通に不思議がっている。
「判《わか》ったろ。何かが妙《みょう》なんだ。犯人の目くらましか? とてもそうは思えんし、理解に苦しむ。
その模様には絶対意味があるはずなんだ」
焔雄が言葉を止めたのは、導果が異常な行動に出たからだ。
導果はクンクンと卓《たく》の匂《にお》いを嗅《か》いでいた。
和穂の袖《そで》をひっぱり焔雄は耳打ちした。
「奴《やつ》は何をしている? まさか犬|並《な》みの嗅覚《きゅうかく》を持ってるなんてオチじゃねえだろうな」
導果は笑う。
「はははっは。生憎《あいにく》、鼻は人並みだ。地獄耳《じごくみみ》ではあるがね」
「で、どんな匂いがした?」
「ご飯と魚と醤油《しょうゆ》と味噌《みそ》。まあ、食堂の卓としては当たり前の匂いがほとんどだな。
ちょっとばかり面白《おもしろ》い匂いもしたが」
この模様を前に焔雄は何時間も頭を絞《しぼ》っていた。だが、さすがに匂いを嗅《か》いだ事はない。
焔雄も卓に鼻を近づける。
「確かに、飯やら醤油やら味噌の匂いが残ってはいるな。後は焼き魚の匂いか。
でも、他《ほか》には何の匂いもしないが」
瑞雅は言った。
「うちの家系って思ったより、素直《すなお》だったのね」
瑞雅の言葉で焔雄は我《われ》に戻《もど》る。
何が悲しくて、食堂の卓の匂いを、必死になって嗅がねばならないのだ。卓の匂いを喚いで、謎が解《と》けるはずもない。
まんまと導果に一杯《いっぱい》食わされたのかと、頭に血が上《のぼ》る。
焔雄は吠《ほ》えた。
「で、結局、この模様の意味は判ったのかよ!」
「他の現場にも似たような模様があったのかい」
「ご名答《めいとう》。他の現場にも、これと似たような訳のわからん模様が残されている。
当然、犯人が残したもんだろう。でも、何故《なぜ》そんな物を残す!」
真剣《しんけん》な表情で導果は言った。
「決めつけは良くないな。果たしてこの模様は本当に犯人が残したものなのかね?」
「どういう意味だ?」
「たとえば哀《あわ》れな被害者《ひがいしゃ》が、意識を失《うしな》う前に犯人の手がかりを残そうとしてだな、最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》り……聞いてる?」
「聞いてない」
和穂も何度もこの模様には頭を悩《なや》ませていた。
事件の現場には必ず、この模様が残されていたのだ。
ただ、奇妙《きみょう》な模様そのものは全く同じ形をしていない。よく似ているが、じっくり見比べれば違《ちが》いが判《わか》る。それに大きさもまちまちだ。
この卓《たく》の模様が一番大きく、他の物はせいぜいが掌《てのひら》程度の大きさだ。
この模様には何かある。しかし、模様の意味は判らない。
「導果さん。もしかして、これは『符《ふ》』の一種じゃないんでしょうか?」
呪符《じゅふ》。仙術的《せんじゅつてき》な力で事件が巻《ま》き起《お》こされているのだろうか。
確かにそう考えるのが一番楽だったが、導果は即座《そくざ》に否定した。彼自身は呪符の類《たぐ》いを操《あやつ》れないが、符を読む知識は持ち合わせていた。
「まさか。これは、符でどうこうした、そんなつまらない事件じゃないよ。
こいつは符じゃない。そいつは太鼓判《たいこばん》だ」
いっそ、これは不思議なことを巻き起こす不思議な呪符だと言い切られたほうが、焔雄にとってはすっきりした。
「じゃあ、なんなんだよ。この模様にはどういう意味が隠《かく》されている? どうせあんたにも判らないんだろ!」
さも当然のごとく、導果は答えた。
「いや、意味は判るよ。何が書いてあるか読めるからね」
さり気ない一言だが、焔雄と和穂の顔にとてつもない驚《おどろ》きの表情が浮《う》かぶ。
と、同時にまたしても落雷《らくらい》が起き、烏《からす》と蛙《かえる》の大きな鳴き声が響《ひび》き渡《わた》ったが、今回に限っては過剰《かじょう》な演出《えんしゅつ》ではなかった。導果の言葉に和穂と焔雄は雷《かみなり》で打たれたぐらいの衝撃《しょうげき》を受けていたのだ。
ただ、瑞雅だけはさっき拾った三毛の子猫《こねこ》の方が気になっているようだったが、その神経が焔雄には理解できない。
「わ、判るって、また冗談《じょうだん》かよ!」
模様の真ん中を横切るように導果は卓をなぞった。
「これは一つの文様じゃない。よく似ているけど、上半分と下半分は全く別の種類の文様だ。
上半分が四渦《しか》族、下半分は覚覚螺《かがら》族に伝わる呪《まじな》い文様《もんよう》だ。ちなみに二つとも砂漠《さばく》の民族《みんぞく》ではあるが、住んでいる場所は全く別の砂漠だよ」
初めて手がかりらしきものが掴《つか》めたのだ、焔雄は慌《あわ》てた。
「呪い文様だと!」
「たいしたもんじゃない。今じゃ土産《みやげ》物の敷物《しきもの》に織《お》り込《こ》まれているぐらいだからね。終計都の古物屋にも少しは出まわってる。
ただ、同じように見えても当然文様ごとに別の意味がある」
「和穂ちゃん、他《ほか》の文様も!」
言われて急いで和穂は懐《ふところ》から分厚《ぶあつ》い短冊《たんざく》を取り出した。そこに描《えが》かれているのは文様の正確な写《うつ》しだった。
導果はそれらにも目を通す。
「うむ間違《まちが》いない。全部同じ民族が用いる呪い文様だ」
「文様の意味も判《わか》るんだな」
得意げに導果は答えた。
「当然だよ、焔雄君」
「判った、少しは、いや思いっきり見直したぞ探偵《たんてい》先生!」
「はははっは。でもどうせすぐに馬鹿《ばか》探偵呼ばわりするんだろ」
「とんでもない! で、意味は?」
宿屋の主人が倒《たお》れていた椅子《いす》に導果は座《すわ》り短冊に筆《ふで》を走らせる。筆をどこから取り出したのか疑問《ぎもん》に思う余裕《よゆう》すら焔雄にはなかった。
文字どおり、目にも留《と》まらぬ速《はや》さで導果は短冊に意味を書き込んだ。
「出来たぞ。でも忠告《ちゅうこく》しよう。焔雄君、見ないほうがいいと思うぞ」
ごくりと焔雄は生つばを飲み込んだ。
文様の答えが犯人に直結《ちょっけつ》しているのか? そして犯人を知ることが自分の為《ため》にならないとでも言いたいのか? しかし、焔雄は引き下がるわけにはいかない。
別の椅子に座り、焔雄は短冊を手に取る。肩《かた》ごしに和穂も視線を走らす。
最初の項《こう》には当然のように、宿屋の文様、すなわち今目の前にあるのと同じ文様が記《しる》されている。
視線を落とすとそこには二つの文字が書かれていた。上と下に一文字ずつ、それぞれの文様と対応しているのだろう。
上には『敵《てき》』と下には『讐《しゅう》』の文字があった。
冷《ひ》や汗《あせ》に似た嫌《いや》な汗が和穂の背中を伝った。
これが文様の意味なのか。
「犯人は復讐《ふくしゅう》のつもりでこの事件を?」
焔雄は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「どうやらそうらしいな」
真剣《しんけん》な二人を横にして、導果と瑞雅は猫《ねこ》をあやして遊《あそ》んでいる。
導果の忠告が気がかりな焔雄は、和穂に言った。
「まさか、復讐には俺が絡《から》んでいるのか?」
「判《わか》りません。でも次の項を見れば」
いわれなくても判っていた。判っていたが項を捲《めく》る手が僅《わず》かに震《ふる》える。
続いて現れたのは『船』と『主』の二文字。
「船の主。どうやら俺に間違《まちが》いない」
「焔雄さん」
「いや心配無用《しんばいむよう》。たとえ真実が何であれ受け入れる勇気《ゆうき》はある。それにやましい事はないんだよ」
次の項には『殺』と『犬』の字が。
和穂は分析《ぶんせき》する。
「焔雄さん、もしかして犬を殺したことがあるんじゃ?」
「いやない。この場合の『犬』は罵倒《ばとう》の意味での犬呼ばわりだろう」
猫は困っていた。瑞雅が尻尾《しっぽ》の毛を逆《さか》なでするのが気持ち悪かったが、導果には喉《のど》をなぜられて心地《ここち》が良かったからだ。
続いては『花』と『土』。
「これはどういう意味なんでしょうか?」
和穂には判らなかったが焔雄はすぐに答えを思いつく。
「お前を殺して土の中に埋《う》めて、花を飾《かざ》ってやる! と見た」
「割と手厚《てあつ》いんですね」
次は『窓』と『糸』。
「首に縄《なわ》をかけて窓から突《つ》き落として首つりだ! と読んだ」
「でも、縄じゃなくて糸って」
「うるさい。先に進めば判る」
だが、判らなかった。
次に現れたのは『鰤《ぶり》』と『霜《しも》』だったのだ。
意地悪《いじわる》く導果は言った。
「どうだ凄《すご》いだろ。砂漠《さばく》の民族なのに、鰤や霜を表す文様があるんだ」
「黙《だま》れ馬鹿探偵《ばかたんてい》!」
珍《めずら》しく瑞雅が驚《おどろ》く。
「まあ凄《すご》い。導果さんの予想通り、焔雄が馬鹿探偵って!」
当然その事は焔雄も覚《おぼ》えていた。だからわざわざ言ったのだ。
「わざと言ってるんだよ姉ちゃん!」
和穂はパラパラと頁《ページ》を捲《めく》ってみたが、やはり意味は見いだせない。『死』やら『病』などの物騒《ぶっそう》な文字もあったが、肝心《かんじん》の繋《つな》がりが見いだせない。
「導果さん、これはどういう意味なんですか?」
「意味はない。しかし意味がない事に意味があるのかもしれないね。
何故《なぜ》、無意味な文様が残っていたかという理由は当然ある。心配無用。いずれ教えてあげよう、この模様がなんであるか」
もったいぶった態度《たいど》は焔雄の好《この》みでは無かった。
「今、教えろ」
「駄目《だめ》だってば、焔雄君。こういう代物《しろもの》は、もっと場を盛《も》り上げてから謎《なぞ》を解かなければ面白《おもしろ》くないでしょ」
瑞雅が同意する。
「そうよ。村の連中もこの模様の謎を知りたがってるのに、焔雄だけ知ろうなんて不謹慎《ふきんしん》よ」
瑞雅と言い争う趣味《しゅみ》は焔雄にはない。
「判った、判った。その代《か》わり、後で絶対説明してくれよ」
説明できなければただではおくまいと焔雄は心に誓《ちか》う。
和穂は事件の説明を続けた。
「あと、肝心《かんじん》なところなんですけど、宿屋の旦那《だんな》さんは死んじゃいません。意識を失《うしな》ってるだけなんです」
医者は呑気《のんき》だった。
「ちょっと違《ちが》う。意識を失っているというより、臨終《りんじゅう》間近の昏睡状態《こんすいじょうたい》に近いね。
普通《ふつう》ならそのまま臨終なんだけど、死ぬでなし、かといって意識が戻《もど》るでなし」
「死んではいないんだね」
「正直《しょうじき》言って、よく判《わか》らない。今さらこれぐらいの症状じゃ驚《おどろ》きゃしないけどね。
息があるから、死んではいないのだけは確か。看護《かんご》しても良くならないけど、看護しなくても平気なようだから、被害者《ひがいしゃ》は棺桶《かんおけ》の中に入れてる」
焔雄が『棺桶ではなく、人が一人、ちょうど横になって眠《ねむ》れるだけの大きさの木箱だ』と、瑞雅の言葉を訂正《ていせい》したが、面倒臭《めんどうくさ》がりの医者は同意《どうい》しない。
導果は状況《じょうきょう》を確認《かくにん》した。
「つまり、哀《あわ》れな宿屋のご主人と同じような状態の人間が何人もいる。
その状態になった現場には模様が残っていると」
和穂は頭をひねる。
「模様の件を置いておけば、なんらかの病気が広がっているとも、考えられそうなんですが。
あ、それでも無理《むり》か。被害者の人は一人の時に狙《ねら》われてるんです。被害者の人が倒《たお》れる所を目撃《もくげき》した人はいなくて。
明らかに誰《だれ》かに狙われて、昏睡状態に落とされてるんです」
和穂の言葉を導乗はにこやかな笑顔《えがお》で聞いていた。そして、口を開く。
「で、何人が被害に?」
「百五十二人。生き残りは和穂ちゃんを除《のぞ》いて十三人」
導果は驚く。
「なんと。それは大事件じゃないか!」
「やっと気がつきやがったか。名探偵《めいたんてい》ならさっきの短冊《たんざく》の枚数で気付けよ!」
「そんな大事件なのに、どうみても事件の関係者である和穂君を野放《のばな》しにしているのは感心せんね」
焔雄は答えた。
「全くだね。俺はこんな怪《あや》しくて眉毛《まゆげ》の太い疫病神《やくびょうがみ》はさっさと鱶《ふか》の餌《えさ》にでもしちまえと提案《ていあん》したんだが、村の連中はお人好しでな。
悪いのは和穂ちゃんが追いかけてる宝貝の所持者なんだから、和穂ちゃんに協力すると決めたんだ」
和穂は居心地《いごこち》が悪そうだが、焔雄の怒《いか》りは当然でもあった。村人たちは、宝貝の回収|劇《げき》のとばっちりを受けているのだ。
そんな和穂に気を遣ったのか、導果は話題を変えた。
「それで、最初の被害者《ひがいしゃ》が出てからどれぐらいの日にちが経過《けいか》している?」
和穂は指折り数える。
「二週間です」
事件はあまりにも急激《きゅうげき》に進行していた。それゆえに和穂を責《せ》める声が起きる余裕《よゆう》すらなかったのだ。
あまりに異様で急激で尋常《じんじょう》ならざる事件に村人たちは怒りの前に憔悴《しょうすい》していた。
それがあの村人たちの暗い表情の理由かと、導果は納得《なっとく》した。
焔雄にしたところで、自分の家族が被害者になっていたら、今の気力が保《たも》てていたか定かではない。
蛙《かえる》が鳴く。烏《からす》が鳴く。大きくはないが断続的に雷《かみなり》が轟《とどろ》いている。
導果は首を捻《ひね》り、首の骨をコキコキと鳴らした。
「二週間か。さてと、百五十か所も現場を回るのは面倒《めんどう》だから、現場|検証《けんしょう》は止《や》めだ。
次は被害者の見物に行こう」
瑞雅が先頭に立つ。
「数が多いから、村の材木置き場に棺桶《かんおけ》は集めてるの」
材木置き場とはいえ、さすがに野ざらしではなかった。
簡易《かんい》ではあるが大きな屋根《やね》と、その屋根を支《ささ》える数本の太い柱《はしら》がある。
純粋《じゅんすい》な材木置き場というよりは、出荷《しゅつか》する材木をある程度《ていど》加工する為《ため》の施設《しせつ》を兼《か》ねている。村の集会所の造《つく》りに似ていた。
その屋根の下、棺桶が整然《せいぜん》と並《なら》べられていた。
「どう、凄《すご》いでしょ」
さすがの導果も、なぜこの風景を前に、瑞雅《すいが》が誇《ほこ》らしげに胸を張っているのかが推理《すいり》できない。
そんな導果を見て瑞雅は言った。
「この棺桶は全部私が作ったんです」
「ほお、そいつは凄い」
瑞雅はコンコンと近くの棺桶を蹴《け》る。当然、中には被害者が入っている。
「最初は上手《うま》く作れなかったんですけど、数を重《かさ》ねていくうちだんだん面白《おもしろ》くなってきて、面白くなれば出来もよくなって」
「いやはや全く、継続《けいぞく》は力なりですな」
「大工《だいく》仕事の基本《きほん》は、いかにして水平と垂直《すいちょく》を作り上げるかなんで、棺桶づくりも奥《おく》が深いんですよ」
医者の言葉とも思えないが、焔雄は辛抱《しんぼう》した。
導果はぐるりと棺桶を見回す。幾つかの棺桶は蓋《ふた》が開けられ、中には何も入っていない。
「凄いですな。ちゃんと棺桶は十三個|余分《よぶん》に作ってある」
「まあ、さすがにお目が高い!」
怒《おこ》るな怒るな、瑞雅には悪気《わるぎ》はない。だからいいのかとも思うが、瑞雅の相手をしている余裕《よゆう》は焔雄にはない。
「どこに誰が入っているかは、棺桶じゃなかった、箱の蓋《ふた》に書いてある。
どうする? やっぱり宿屋の旦那《だんな》から見てみるか」
導果は屈《かが》み込み、蓋を外《はず》しに掛《か》かった。
「いや、どれでも構《かま》わん」
そして、棺桶の蓋は外された。
横たわるのは、一人の青年であった。
底《そこ》には布が敷《し》かれ、腕《うで》は腹《はら》の上で組まれている。
瑞雅も棺桶を覗《のぞ》きこみ言った。
「どうです。やすらかな寝顔《ねがお》でしょ」
「ふむ。まさに寝顔ですな」
導果は横たわる青年の頬《ほお》をつつく。
「体温《たいおん》も下がっていますな」
「体温は低下《ていか》して、呼吸も微《かす》かなもの。でも特に異状はなし。敢《あ》えて言うなら、冬場の蛙《かえる》みたいな冬眠《とうみん》状態と、診《み》ましたが?」
「冬眠かどうかはさておき、目を覚まさせようとして、色々なちょっかいを出してない判断には敬服《けいふく》いたしますな。
症状《しょうじょう》が完璧《かんぺき》に不明だから、処置《しょち》をしないなんて、そうそう出来るもんじゃない」
瑞雅は焔雄の背中を思いっきり叩《たた》く。
「ほらみなさい。見る人が見れば、私の判断の正しさが判《わか》るのよ」
「だがよ、このまま放《はう》っておけば、やがて餓死《がし》しちまうんだろ」
「うるさいわね。だからといって、打つ手がないんだから仕方がないじゃない」
ともかく、この人たちを助けるまでは絶対に気が抜《ぬ》けないと和穂は考えた。
「導果さん。治療《ちりょう》方法はあるんでしょうか? 殷雷は仮死《かし》状態だから、宝貝を止めない限りはどうしようもないって言っていました」
人の虚《きょ》をつくことは多い導果であったが、珍《めずら》しく和穂の言葉で自分が驚《おどろ》く。
「あ! そういやころっと忘れていたが、殷雷君の姿が見えないようだね。
奴《やつ》は何処《どこ》に居る?」
焔雄は腕の包帯を焔雄に見せつけた。
「あの馬鹿《ばか》なら、牢屋《ろうや》の中だ。何をとち狂《くる》ったのか、俺に斬《き》りかかりやがった」
瑞雅は殷雷をかばう。
「そんな擦《す》り傷で大騒《おおさわ》ぎするんじゃないよ。本気で斬りかかられたら、腕《うで》だけじゃ済《す》むもんですか。太い血管《けっかん》はちゃんと避《さ》けて斬ってるんだから凄《すご》いもんよ。私も見習いたいぐらい」
とうの焔雄も傷を負《お》わされたことについてはさほど気にしてないようだった。包帯こそ巻いてはいるが、腕の動きにぎこちなさはない。
「別に怪我《けが》に怒《おこ》ってるんじゃない。
あいつは俺が犯人だと早とちりしやがったんだ。それが腹立《はらだ》たしい」
「焔雄さん、本当にすいません。私がもう少し早く殷雷を止めていれば」
「気にするな。気にするんなら、この事件に村を巻き込んだことを気にしやがれ」
「はい」
少しばかり焔雄は後味が悪かった。村人たちが決めたように、悪いのは和穂ではなく、宝貝の所持者だ。
「だいたい、犯人は村のどいつなんだ? 十三人の生き残りの中に犯人は居るんだろ」
瑞雅は自分も事件に巻き込まれているのに呑気《のんき》だった。
「それじゃ、このまま生き残りが減《へ》っていけば犯人も探しやすくなるじゃない」
「姉ちゃん。犯人もそこまで馬鹿じゃない。ここんところ、灯台|守《もり》の爺以外《じじいいがい》被害者《ひがいしゃ》はいないだろ」
「なるほど、意外に犯人は利口《りこう》なのね」
意外ではない。とてつもなく利口だ。だから追い詰《つ》められているのだ。この村にそんな利口な奴がいるのが焔雄には意外でもあった。
ぽつりと和穂は言った。
「あ、もしかして犯人は被害者の中《なか》に」
珍《めずら》しく慌《あわ》てて導果は和穂の口を塞《ふさ》ぐ。
「おっと、和穂君。そういう鋭《するど》い指摘《してき》は軽はずみにするもんじゃない。
探偵《たんてい》の名推理が霞《かす》んでしまうじゃないか」
耳元でささやく導果の言葉に和穂は口をつぐんだ。和穂の言葉を誤魔化《ごまか》す為《ため》に導果は大声を張り上げた。
「いやはや全く、十三人の中で犯人は誰なんだろうねえ」
「何を呑気に。言っておくが適当に犯人をでっち上げようなんて考えるなよ。
犯人を見つけて、こいつら全員を助けない限り事件は解決しないんだからな」
「十三人の中でお薦《すす》めの怪《あや》しい奴《やつ》はいないかね」
大きく焔雄は溜《た》め息を吐《つ》く。
「そういう問題か? 正直言ってここまでくりゃ全員|怪《あや》しいんだよ」
瑞雅が不満を口にした。
「ちょっと私も疑ってるの? 私の何が怪しいのよ」
「姉ちゃんは疑ってない。でも怪しさではこの村一番だぞ」
瑞雅の場合は、怪しさが常《つね》にある為、言動《げんどう》の怪しさが日常と化している。
宝貝《ぱおぺい》の所持を隠《かく》す為に、怪しい言動をとっているとは考えにくいのは確かだった。
が、それすら裏をかく為の作戦なのかもしれない。
もう少し村の生き残りが居て、もう少し事件の進行が遅《おそ》ければ、村の中に疑心暗鬼《ぎしんあんき》の風がふきすさんだだろう。
しかし、疑心暗鬼に躍《おど》るには村人たちは疲《つか》れ果てていた。
牢《ろう》の中に敷《し》かれた筵《むしろ》の上に座《すわ》り、殷雷《いんらい》は機嫌《きげん》が悪そうに壁《かべ》を見ていた。
牢の中には殷雷しかいない。
武器《ぶき》の宝貝が持つ鋭《するど》い感覚をふるうまでもなく、賑《にぎ》やかな連中が近づいているのが判《わか》る。
その声の中に導果のものを聞き、殷雷の眉間《みけん》に皺《しわ》が作られた。
どやどやと牢に続く階段を一行は降《お》りてきた。
導果が口火《くちび》を切る。
「やあ、殷雷君よ。とうとう牢に繋《つな》がれるまでに零落《おちぶ》れたか! それに、きみは昔から、ふてくされると壁に向かう癖があったな」
「やかましい」
振《ふ》り向くのもいやなのか、殷雷は壁を見つめたまま、こちら側を見ようとしない。
檻《おり》につながれた珍《めずら》しい動物を見るかのように導果は無邪気《むじゃき》に牢を揺《ゆ》する。
「なんだ、どれだけ凄《すご》い牢獄《ろうごく》かと思えば、酔《よ》っぱらいをぶちこむ虎箱《とらばこ》じゃないか。
こんな木|組《ぐ》みの檻なんか、殷雷|刀《とう》の前じゃ紙の牢と同じじゃないのかい?」
しっしと手を振るように、殷雷の束《たば》ねられた髪《かみ》の毛が動く。
「和穂」
「はいはい」
「よりによって導果先生か? 他《ほか》に呼ぶ奴《やつ》はいなかったのか」
とはいえ、役に立ちそうなのは導果しかいないのは殷雷も承知《しょうち》していた。
「導果先生よ。哀《あわ》れな刀の宝貝を見物して気が済んだなら、とっとと事件を解決してくれよ」
殷雷の機嫌の悪さには構《かま》わず、導果は触《ふ》れられたくない場所に切り込む。
「殷雷君。きみは見当|違《ちが》いで、無実の人間に斬《き》りつけたそうじゃないか」
「うるせい」
「なあに、そんなことはどうでもいい」
どうでもよくはないという焔雄の言葉を導巣は無視した。
「間違って人を斬った殷雷君は、和穂君に無茶苦茶怒《むちゃくちゃおこ》られて、それでおとなしく牢屋に入ったと推理したがどうだい?」
壁《かべ》に顔を向けているおかげで、殷雷は力の限り屈辱的《くつじょくてき》な表情を浮《う》かべた。
「だったらなんだ。俺をからかいにきたのか?」
「いや、これもまた事件を解決する為《ため》の重要な証拠《しょうこ》だよ」
「先生。言ってる意味が完璧《かんぺき》に判《わか》らん」
導果は和穂に言った。
「和穂君! きみは今までに自分の過《あやま》ちを素直《すなお》に反省《はんせい》する殷雷君を見たことがあるかね!」
辟易《へきえき》として殷雷はうなる。
「いいから事件を解決しろよ」
導果はこくりこくりと頷《うなず》いたが、頷いたからといって、導果が他人の指示に従《したが》うと勘違《かんちが》いするお人好しはいなかった。
導果は珍獣《ちんじゅう》の解説をする教師《きょうし》のように、和穂たちに向き直った。
「さあ、今から殷雷君の破綻《はたん》した推理を披露《ひろう》してもらおうじゃないか。
そうすれば事件を解決する糸口が見つかるかもしれん」
出ていけといって出て行くたまじゃないのは、殷雷も承知していた。
「何が聞きたいんだよ」
「殷雷君。敵《てき》が持っている宝貝の種別《しゅべつ》はなんだと思う?」
「はん。そんなのは判り切っている。
敵の正体は暗器《あんき》、つまり隠《かく》し武器の宝貝だ。それは間違いない」
瑞雅は暗器の意味がよく判らない。
「隠し武器?」
「隠す。って部分にゃ強い意味はない。
人知れずに相手を倒《たお》す武器という意味に受け取れ。隠すのは、その為の手段だからな。
暗器の宝貝となりゃ、そりゃ手際《てぎわ》は見事なもんさ。よほど入念に罠《にゅうねんわな》を仕掛《しか》けない限り、尻尾《しっぽ》は出さない。
とはいえ、いくらなんでも武器の宝貝の目前で仕事をすりゃ当然ばれるぜ」
武器と暗器。当然に得意とする部分があった。いかに暗器とはいえ、警戒《けいかい》している武器の宝貝の目前では、簡単に動きはとれないと殷雷は語《かた》っているのだ。
導果は焔雄たちの表情を楽しむ。
「なるほど、殷雷君。暗器ならば、犯行の手際の良さが説明出来るな。
では、あっちこっちに残された、あの不思議《ふしぎ》な模様は何とする?」
「なめられてんだよ。挑発《ちょうはつ》されてんだ。
あの模様には絶対に何か意味があるんだろうが、理解できん。
おい、導果先生。まさかあの模様の謎《なぞ》を解《と》いたのか?」
殷雷の質問の相手をする気は、導果には全くない。
「被害者《ひがいしゃ》のあの状態はなんと見る?」
「けっ。只《ただ》の仮死状態じゃねえか。暗器どころか気の利《き》いた武器の宝貝《ぱおぺい》なら、あれぐらいの芸当《げいとう》は出来る。
わざわざ仮死状態にしているのが、余所者《よそもの》じゃなくて村人の中に宝貝所持者が居る証拠《しょうこ》になっている。
さすがに、自分が逃《に》げ延《の》びる為《ため》に、顔見知りの村人を殺すのは忍《しの》びないんだろう。だから仮死状態だ!」
焔雄の顔から迷いがふと消えた。
「なんだ、殷雷。暗器が巻き起こした事件。それが事件の全貌《ぜんぼう》なんじゃないか。
そりゃ、誰が暗器を使っているかは判《わか》らないが、事件そのものは不思議じゃない」
「黙《だま》れ船頭《せんどう》」
「船長だ!」
「おかしいんだよ。何かが変なんだ。
事件が重《かさ》なってはじめて、俺は敵が暗器を使っているのに気がついた。
それまでは武器の宝貝だと思っていた」
殷雷が何を悩《なや》んでいるのかが、焔雄には理解できない。
殷雷は続けた。
「ちょいとばかり油断《ゆだん》した。暗器だと気がつくまでに、二度ばかり油断していた」
「油断?」
瑞雅が焔雄の小腹をつつく。
「駄目《だめ》よ、焔雄。野暮《やぼ》な事きいちゃ。
武器の宝貝さんが油断したってことは、二度ばかり和穂ちゃんの身を危険《きけん》にさらしたって意味でしょ」
怒鳴《どな》り返したいが、瑞雅の指摘《してき》に間違《まちが》いはない。
殷雷はグシャグシャと頭をかく。
「暗器の宝貝ってやつは、たいがいが蛇《へび》みたいに狡猾《こうかつ》なんだよ。
身を潜《ひそ》めて仕掛《しか》け時を待ち、僅《わず》かの隙《すき》を見つければ一気に仕掛ける。
なのに敵は和穂を倒《たお》そうとはしなかった。
何故《なぜ》だ?」
和穂の護衛《ごえい》である殷雷が、呑気《のんき》に牢獄《ろうごく》に繋《つな》がれている。
それは殷雷は和穂の身の安全を確信《かくしん》しているのだ。狡猾な敵が二度の隙を見逃《みのが》す筈《はず》はない。逆に言えば敵は和穂の命《いのち》を狙《ねら》っていないのだ。
武器の宝貝|独特《どくとく》だが、実戦《じっせん》に裏打《うらう》ちされた正確な読みだった。
殺せる機会《きかい》に殺さないのは、殺す意思《いし》のない証拠《しょうこ》としか考えられない。
殷雷の大声は遠吠《とおぼ》えにしか聞こえない。
「奴《やつ》の狙いはなんだ?」
たとえ思いついても口に出しにくいことに限って瑞雅は大声を出す。
「判《わか》った。敵の狙いは村人なのよ。
村人を始末するのが敵の目的で、村人じゃない和穂ちゃんには害《がい》を加える気がないんだ。
それなら納得《なっとく》ね!」
「納得じゃないよ、姉ちゃん。
だったら昏睡《こんすい》だか仮死状態だか知らないけど、そんなしち面倒臭《めんどうくさ》い仕掛けをせずに村の連中を殺せばいいだろ」
「焔雄は小さい頃《ころ》から口答えばっかりするんだから」
殷雷は最後に等果に問いただす。
「導果先生よ。この事件の正体はどんな代物《しろもの》なんだ?
判ってる。詳《くわ》しい説明を頼《たの》んでも、どうせきいちゃくれないだろ。
だから、感触《かんしょく》だけでもいい。
これはどんな事件なんだ」
大きく手を広げクルクル回り、導果は言い放った。
「これは凄《すさ》まじく、大変な事件だよ。
とてつもなく大きい人質《ひとじち》を取られてしまったね」
人質。
仮死状態の村人を意味しているとしか焔雄には考えられない。
眠《ねむ》りつづける村人たちが人質なのか。
だが、敵は人質をとって何をしようというのか。
依然《いぜん》、謎《なぞ》は何一つ解かれてはいない。
くるりくるりと回る導果の仕草《しぐさ》。
大げさな言葉を操《あやつ》る言葉は低く、どこまでも通り抜《ぬ》けていきそうだった。
導果は不敵《ふてき》に笑う。
不敵な笑《え》みの理由は、その心が傲岸不遜《ごうがんふそん》だからではないと、和穂はようやく判《わか》りかけてきた。
不敵な笑みは遠くからでもよく見えるからだ。
和穂にもようやく飲み込めてきた。
導果はふざけていない。
とてつもなく本気に事件に当たっている。
だけど誰もそれには気がつかないだろう。
導果の宝貝としての正体を知らぬ限り、彼の行動は道化《どうけ》にしかみえない。
彼は劇《げき》の筋書《すじが》きを綴《つづ》る宝貝なのだ。
導果は診療所《しんりょうじょ》に生き残りの村人たちを集めさせた。
そして村人が到着《とうちゃく》する前に、瑞雅が作り上げた十三の棺桶《かんおけ》を器用に積《つ》み上げ、一番後ろに座《すわ》る村人からでもよく見えるように、壇《だん》を作り上げた。
てきぱきと流れるように指示を出し、渋《しぶ》る焔雄をこき使い、壇の上に一つの卓《たく》を設置し、村人たちと相対するように自分の椅子《いす》を置く。
だいぶ悩《なや》んだ揚《あ》げ句《く》、自分の右手に焔雄の席を置き、左手に和穂の席を置く。
瑞雅の椅子は壇の上ではあるが、卓からは少し離《はな》れていた。
ぞろりぞろりと姿を現した村人たちの目には何の期待もない。
ただ一人導果だけは嬉々《きき》として、卓やら蝋燭《ろうそく》やらを自分の気に入るように設置していた。
指折り数《かぞ》えて、導果は村人たちが全員集まったのを確認《かくにん》した。
そして和穂たちにも壇の上の席に座るように指示を出す。
和穂は確信した。
これから劇が始まるのだ。舞台《ぶたい》に居るのは自分の役柄《やくがら》を知らない役者たちだ。
導果さんは探偵役《たんていやく》を演《えん》ずるのだろう。焔雄さんは、村の人たちの代弁者《だいべんしゃ》として疑問《ぎもん》をぶつける答えの引き出し手に違《ちが》いない。
瑞雅さんの役割はよく判《わか》らない。舞台の端《はし》に座っている事に意味があるはずだ。導果さんは道化には二種類あると言っていた。
間抜《まぬ》けな道化と、巫山戯《ふざけ》ながらも真実をさらけだす利口《りこう》な道化。彼女は端《はし》に座っているから主役の扱《あつか》いじゃない。ならば、利口な道化なんだろうか。
では私の役はなんなのだろうか? 和穂は考えたがよく判らない。それに肝心《かんじん》の犯人はどこにいるのか?
診療所の扉《とびら》を閉《し》めた焔雄が席に着く頃《ころ》、周囲には重い沈黙《ちんもく》が漂《ただよ》いはじめていた。
導果が沈黙を破《やぶ》る。
「さて、この世にはあってはならない尋常《じんじょう》ならざる道具、宝貝という言葉を皆《みな》さんは御存《ごぞん》じですかな」
導果は村人たちに語りかけていた。
焔雄はとんだ酔狂《すいきょう》につきあわされている自分が情《なさ》けなくて仕方がない。
「えらくはじめから説明してくれるんだな」
喋《しゃべ》った後、焔雄は居心地《いごこち》の悪さを感じた。
まるで喉《のど》に何かがつかえたような違和感《いわかん》がある。
いつもより声が出ていない気がした。
導果は両手を広げた。
「まあ、おとぎ話にもよく出てくるし、言葉ぐらいは御存じでしょうな。
実際に殷雷君の姿を皆さんは知っておいでだ。
彼が刀に姿を変える現場に居合《いあ》わされたのなら、宝貝の存在に異議《いぎ》を唱《とな》える方はおられますまい。
何を隠《かく》しましょう、この私めも宝貝なのでございます」
「知ってるよ。瓢箪《ひょうたん》の中から出てきたじゃないか」
焔雄は軽く咳払《せきばら》いした。やはり声が変だ。ぜんぜん声が通っている感覚がない。
そんな声では聞こえんとばかりに、導果は続けた。
「証拠《しょうこ》というにはつまりませんが、簡単な芸当なんぞ一つ」
導果の指がぱちんと鳴《な》り、卓《たく》の上に置かれた蝋燭《ろうそく》に火が灯《とも》った。導果は露骨に、おどけて言った。
「なんだ宝貝と偉《えら》そうに言ったところで、出来るのは手品《てじな》まがいの見世物《みせもの》かと思われたらごめんなさい。
しかし、とてつもない能力を持つ宝貝もあるのです」
自分の声の違和感の理由がやっと判《わか》った。
声は普段《ふだん》通りに出ている。
導果の声の前にかすんでいるのだ。導果の声の響《ひび》きに比べれば、自分の声は消え入りそうなものだ。
焔雄はしっかりと腹《はら》に力をいれ、声を絞《しぼ》り出した。
「宝貝|談義《だんぎ》に意味があるのかい? 俺たちゃ、能書《のうが》きなんかより犯人に興味があるんだ」
「これだから海の男は短気でいけない。
海の男といえば、きみは博打《ばくち》はやるのかい?」
「海で働《はたら》く人間に偏見《へんけん》があるんじゃないのか?
そりゃ博打は嫌《きら》いとは言わんが、仕事をそっちのけにしてまではやらないぜ。
海に出られない時に、暇《ひま》つぶしにやる程度かな」
どう答えようが導果には関係がなかった。
博打は嫌《きら》いだと答えれば、導果は小心者《しょうしんもの》として焔雄を挑発《ちょうはつ》するだけだった。
「そうかい。ではちょっとやってみるか」
ごそごそと袖《そで》に手を入れ、導果は七個の賽子《さいころ》を取り出す。
「あんたの袖にゃ、いろいろ入っているな」
「小道具はね」
「?」
「あぁ、あまり専門的《せんもんてき》な勝負《しょうぶ》をやっても仕方がないんで、単純《たんじゅん》なのをやろう。
出た目の大きいほうが勝ちだ。
勝負を公正《こうせい》にする為《ため》に、振《ふ》り役は和穂君にお願《ねが》いしよう。村の人たちにも解《わ》かり易《やす》いように、目は読み上げてくれ」
和穂は賽子を受け取る。
導果がうながす。
「まず、私の分だ」
乾《かわ》いた心地《ここち》よい音を立てて、賽子は転がっていく。
目は一、一、一、四、四、五、六。
「てんでなってないな。一が三個も出てやがるじゃないか。よし、次は俺の分を頼《たの》む」
同じように転がり、今度の目は二、二、三、三、三、六、六。
「おやおや、私の負《ま》けじゃないか」
口車《くちぐるま》に乗せられ、ついつい応《おう》じたが賽子で遊んでいる状況《じょうきょう》ではないと、焔雄は正気づいた。
「おい。ふざけるのはよしにしよう。村の連中の前だぜ」
「和穂君。次は私の分だ」
目は一、一、一、四、四、五、六。
「おい」
「次は焔雄君の分だ」
目は二、二、三、三、三、六、六。
面白《おもしろ》そうに見えたのか、壇《だん》の端《はし》から瑞雅の声が飛ぶ。
「次は、あたしの分をお願い」
目は六、六、六、六、六、六、六。
導果は大げさに驚《おどろ》く。
「ほお、さすがですな」
「だから、やめろって」
「和穂君。焔雄君の為《ため》に三回続けて振ってごらん」
目は二、二、三、三、三、六、六。
次の目も、三度目の目も。
奇妙《きみょう》だった。
七個の賽子《さいころ》が同じ目を出し続けている。
そうそうありえる事じゃないのは明白《めいはく》だった。
村人たちの間に軽いどよめきが走った。
しかし、焔雄は首を横に振《ふ》る。
「どうせいかさまだ。
指を鳴らして蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》をつけられるんじゃ、賽子の目を操《あやつ》るぐらい軽いもんだろ」
「それは心外《しんがい》だな。この導果、勝負は正々堂々と行うぞ」
いかさまがらみの騒動《そうどう》は焔雄はごめんだった。これほど不毛《ふもう》な争《あらそ》いはない。
「どうでもいいよ。金を賭《か》けてたわけじゃなし。
おっと、賽子なんかどうでもいいんだ」
大げさに。明らかに大げさに導果は立ち上がった。
「とんでもない。これが今回の事件の答えだよ」
絶望《ぜつぼう》の沈黙《ちんもく》ではなかった。
驚愕《きょうがく》ゆえの沈黙が広がっていった。
途端《とたん》、雨が降《ふ》った。導果の笑顔《えがお》に汗《あせ》が光った。叩《たた》きつける雨音が滝《たき》のような音を巻き起こした。
導果は答えと言った。事件の謎《なぞ》を解いたのか? しかし答えの意味が、誰にも理解できない。焔雄の声が絞り出された。
「なんだって」
ゆっくりと歩き、導果は卓《たく》と村人たちの間に立つ。
それほど広い壇《だん》ではないので、導果一人がやっと立てる程度の広さだ。卓に置かれた蝋燭の明かりは、立ちはだかる導果の体に遮《さえ》ざられて村人たちには届かなくなった。そのせいで村人たちはいきなり明かりを消されたような感覚に包まれる。導果の姿は巨大な影法師《かげぼうし》のように見える。雨音が一層強くなったが雨音ごときで導果の声はかき消されない。
「全部|偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》です」
虚《きょ》を突《つ》かれた。導果の言葉に破綻《はたん》はない。
だが、誰も導果の言葉を納得《なっとく》出来無い。
焔雄は言った。
「おい、偶然の一致だと? 村の連中が倒《たお》れていった理由が偶然の一致だと?
あれは攻撃《こうげき》されて、仮死状態になってるんだろ」
「いえ。あれはああゆう病気《びょうき》なんです」
「病気だと?」
「見た目が似ているといっても、それが同じものだとは限りますまい。
武器の宝貝が敵の腹をぶん殴《なぐ》れば、相手は腹痛《ふくつう》になります。気かなんだか知りませんが、そいつを浸透《しんとう》させれば痣《あざ》も残りません。
だからと言って、この世の腹痛が全《すべ》て宝貝のせいですかな。
殷雷君の見立《みた》てが間違《まちが》ったのも仕方がないでしょうな。暗器の宝貝の仕掛《しか》けだとしたら外傷《がいしょう》が残ってないのは当然と見た。
それ以前に、それが病気だからこそ外傷はないのに」
軽い混乱が起きた。
しかし、本当に軽い混乱であった。なぜなら、奇病《きびょう》の原因は宝貝にあるのは明白《めいはく》だったからだ。
「病《やまい》を操《あやつ》る宝貝? 伝染《でんせん》するのか!」
「あのね、焔雄君。
それじゃ偶然の一致じゃないでしょ。
あれは伝染するような病気じゃない。なのに百何人かが同時期に発病、ゆえに偶然の一致なんです。
瑞雅さん。医師としての御意見《ごいけん》は?」
「正体不明の眠《ねむ》り病。いいんじゃない? よくある奇病っぽくて」
ゆらゆらと体を動かし、導果は自分の姿をより影法師のように見せた。
「奇病ではありますが伝染はしない。
何千万人のさらに何千倍の人間が居ても数人の患者《かんじゃ》しかいないような病気です。
それが一つの島で大量発生だ。
して、焔雄君そのこころは?」
「答えは偶然の一致だなんてほざく、学者が居たらそいつは即刻廃業《そっこくはいぎょう》だ。
普通《ふつう》は奇病の、未知《みち》の原因がその村にあると考えるだろうな」
張《は》り詰《つ》めた緊張感《きんちょうかん》を、導果は自分の声だけで少し緩《ゆる》めた。
声の張りだけで壇上《だんじょう》の緊張感、村人たちの緊張感を操っている。
「言葉は恐《おそ》ろしいものですな。
焔雄君の言葉間違ってはいますが、正確でもある」
「頼《たの》むから、もう少し理解できるように説明してくれよ」
「よいでしょう。
さて、村の皆様《みなさま》は承知《しょうち》でしょうが、例の潮《しお》です。
本来発生する時期《じき》よりもずれて発生したようですな。事件と同時に。
これも偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》です」
導果は何を説明しようとしているのか。
村人たちには理解できない。
ただ、導果は全《すべ》てを偶然の一致で片づけようとしているだけなのか。
偶然の一致ならば、事件は解決しようがないのではないか。
根底《こんてい》で話が食い違《ちが》っているのではないかと焔雄は危惧《きぐ》した。
「探偵《たんてい》さんよ。
つまり全ては偶然の一致で、宝貝の使い手なんて最初っからいなかった、とでもいいたいのか?」
「まさか。宝貝の所持者はこの村の中に居ますよ」
「訳が判《わか》らん!」
村人たちの間に苦悩《くのう》と苦痛が広がっていく。導果は鋭《するど》く、その度合《どあい》を計《はか》りとる。
そして、ちょうどいい頃合《ころあ》いとみて、事件の答えを言う。
「複雑怪奇《ふくざつかいき》な謎《なぞ》が絡《から》み合っているようなこの事件ですが、本質は実に単純|明快《めいかい》。
敵が所持しているのは、暗器の宝貝なんかじゃない」
「だったらなんなんだ!」
「使用者の望《のぞ》みを叶《かな》える宝貝です。文字どおり『望みを叶える』という能力を持ちます」
雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》き、雨が吹《ふ》きすさぶ。蛙《かえる》と烏《からす》が狂《くる》ったように鳴き叫《さけ》ぶ。百万頭の馬が嘶《いなな》くような奇妙《きみょう》な音がする。
ぐるりぐるりと目が回る。まわりながらも中心に近づく感覚が広がっていく。
焔雄は何度も首を縦に振《ふ》った。
「つまり、潮も奇病も、宝貝の所持者が望んだって意味か?
でもそれじゃ偶然の一致じゃない」
「全ては偶然の一致です。
偶然の一致を引き起こす能力を持つ宝貝、それが敵の正体だ。
さて、村の皆様《みなさま》。現場を巡《めぐ》る最中《さいちゅう》に大変|面白《おもしろ》い猫《ねこ》を見ました。骨相学的《こっそうがくてき》に見て、どう考えても雄《おす》なのに雌《めす》だった三毛《みけ》猫です。
これも、まさに偶然の一致」
「潮《しお》と奇病もよいとして、三毛猫の性別を操《あやつ》ってなにが楽しい?」
「そう誤解《ごかい》するだろうね。
違《ちが》うんだ。敵は潮も奇病も三毛猫も、ついでに雷鳴や豪雨《ごうう》、蛙や烏に馬の嘶きに似た怪音《かいおん》を起こして、どうしようとする気はない。
奴《やつ》は和穂君と殷雷君から逃《に》げる事を望んだ。宝貝はその望みを叶えようとしている。
さあ、和穂君たちがこの村にやってきた。潮を操ってこの島を閉鎖《へいさ》したのは、状況《じょうきょう》を出来るだけ固定して不確定《ふかくてい》な要素《ようそ》が島にまぎれ込むのを防《ふせ》ぐ為《ため》だ。
潮の異状《いじょう》は敵の宝貝が望んだ偶然《ぐうぜん》だ。
でもそれは同時に、別の偶然を撒《ま》き散《ち》らす事になるんだ」
導果が出現してからの雷鳴を始めとした喧騒《けんそう》も全《すべ》ては敵の仕業《しわざ》なのかと焔雄は知った。
だがやはり意味がまだ通じていない。
「信じられないね。
本気で逃げたいのなら、選択肢《せんたくし》を十三人の村人にまで減らす理由がない」
「減っちゃいないよ。敵はこの中にいるかもしれないし、和穂君が気付いたように眠《ねむ》りの棺桶《かんおけ》の中にいるかもしれない。まあ、確実に眠っている村人の中に犯人はいるだろう。眠っていれば尻尾《しっぽ》も出しにくい」
奇病《きびょう》にしろなんにしろ、誰も死んではいない。哀《あわ》れな被害者《ひがいしゃ》の中に敵がまぎれ込んでいるとは十分に考えられる。
しかし、それでもまどろっこしいと焔雄には感じられた。
「まあいい。偶然を操るのならば、さっさとどこかへでも飛んでいけばいいじゃないか。偶然の一致《いっち》で空ぐらいとんでも驚《おどろ》きゃしない」
「駄目《だめ》な理由が二つある。
飛んで逃げても本質的な解決にはならない。
和穂君たちが追いかけていくからね。
それともう一つ。
人間が空を飛ぶなんて偶然の一致を巻き起こしたら、三毛猫《みけねこ》や文様《もんよう》どころの騒《さわ》ぎじゃすまなくなる」
「やっと判《わか》りかけてたのに、また判らなくなってきたぞ。猫と文様の意味は?」
噛《か》み砕《くだ》くように導果は説明した。
「銭《ぜに》を借《か》りれば、返さねばなるまい。
自分が望む、無茶な偶然《ぐうぜん》の一致を起こせば、どうやらその反動《はんどう》で訳の判らん偶然の一致も同時に引き起こるらしい。
宝貝の所持者を探《さぐ》りにくくする為《ため》に、例の奇病が偶然に起きる。宝貝の望む偶然だ。
と、同時に宝貝が望んだ訳じゃない、例の文様出現という偶然も起きる。
天秤《てんびん》ばかりと一緒《いっしょ》だよ。片方に重りを乗せれば釣《つ》り合いをとるにはもう片方にも重りを乗せねばならん。
あの文様は純粋《じゅんすい》な熱によって焼きつけられたものだ。
だから、焼け焦《こ》げの匂《にお》いがする。普通《ふつう》は滅多《めった》にない自然発火《はっか》がおき、さらに偶然に意味のある焼け焦げが出来る。
ああいうややこしい三毛猫がこの村にまぎれ込んだのも『偶然』の清算《せいさん》の一つだろう」
「一応、辻褄《つじつま》はあってきたじゃないか。
でもまだ信用できんな。
村人をあんな目に遭《あ》わすぐらいなら、和穂ちゃんを直接|始末《しまつ》したほうが遥《はる》かに簡単じゃないか。
謎《なぞ》の奇病《きびょう》よりも、心臓麻痺《しんぞうまひ》を和穂ちゃんに起こさせたほうが、偶然の清算も遥かに簡単だろうに」
「はははっは。そんな事をしてみろ。
殷雷君が死に物|狂《ぐる》いで敵を追い詰《つ》めるじゃないか。偶然に、殷雷君に少しぐらいの推察間違《すいさつまちが》いを起こさせられてても、さすがに宝貝を偶然の一致で破壊《はかい》するのは骨《ほね》だよ。いったいどれだけの『偶然』の代償《だいしょう》を払《はら》わねばならんか。
敵の宝貝も、自分の使用者の身の安全のために出来うるかぎり望んだわけじゃない『偶然の一致《いっち》』を撒《ま》き散らさないようにしているからね」
「つまり、今回の事件は和穂ちゃんから逃《に》げ切る為に起きた事件なんだな」
「そういうこと。逃げ切る為に偶然の一致が村には溢《あふ》れかえったんだ。
だけどそんなもの、私の手にかかればちょちょいのちょいだ。偶然の一致を素直《すなお》に偶然の一致と認める、私のなんという素晴《すば》らしさ。
偶然の一致が起きるのは、偶然の一致を巻き起こせる宝貝のせいなのです!
いかに和穂君とはいえ、ここまで素直に物事は考えられまい」
「一歩間違えば、ただの妄想《もうそう》だぞ。ただ、さっきの賽子《さいころ》があるから、信じてやろう。
探偵《たんてい》先生のお蔭《かげ》で、敵の尻尾《しっぽ》は捕《つか》まえたんだ。で、結局どいつが宝貝の所持者なんだ?
種はばれたんだ。とっとと和穂ちゃんに宝貝を返させよう」
うんうんと導果は領《うなず》く。
村人の間にも確かに活気《かっき》が戻《もど》っていた。
導果も満足げに頷く。が、彼の頷きは事件解決を喜《よろこ》ぶ為《ため》のものではない。
ドンデン返しを楽しむ為のものだった。
「では諸君《しょくん》。静粛《せいしゅく》に願おう。宝貝の所持者は……」
有《あ》り得《え》ない偶然《ぐうぜん》が荒《あ》れ狂《くる》い、雷鳴《らいめい》がまたしても轟《とどろ》き、馬の嘶《いなな》きに似た怪音《かいおん》が弾《はじ》けた。蛙《かえる》や烏《からす》の鳴き声もおそらくは蛙や烏が巻き起こしているのではないのだろう。有り得ない音たちは、偶然の影《かげ》でしかない。
導果の全身から汗《あせ》が吹《ふ》き出す。その汗は熱演《ねつえん》ゆえのものだけではない。断縁獄《だんえんごく》から出現して以来、導果はとてつもない頭痛《ずつう》に襲《おそ》われていたのだ。が、彼はそんなことをおくびにも出してはいなかった。
偶然の一致《いっち》で、宝貝を破壊《はかい》するのは至難《しなん》の業《わざ》とは言った。だが、不可能でもない。怪音の高鳴りとともに、導果の頭痛も極限《きょくげん》にまで酷《ひど》くなる。
さすがの導果もそろそろ自分の耐久力《たいきゅうりょく》が限界に来ているのを認《みと》めるしかなかった。このままでは『偶然』に破壊されるかもしれない。
もし破壊されなければ、世界の箍《たが》にヒビがはいるかもしれない。
世界を統《す》べる理《ことわり》と自分の体のどちらが頑丈《がんじょう》か少しばかりは興味があった。
そんな彼の心内を知らずに全員の視線が導果に集まる。
痛みの中、観客たちの視線を思う存分《ぞんぶん》楽しみ、導果は一人の娘《むすめ》の前に歩《あゆ》み寄る。
壇上《だんじょう》の娘。和穂の前にだ。その動きのせいで多少光は戻ったが、それでも導果の表情は村人たちからはよく判らない。
そして、驚《おどろ》く和穂をさらに驚かせる言葉が導果の口から放《はな》たれた。
「和穂君。
悪いが誰が宝貝の所持者か判《わか》らない。全くもって申《もう》し訳《わけ》ない」
皆《みんな》が言葉を失った。同時に怪音がピタリと止《や》み、導果の頭痛も消滅《しょうめつ》した。
それは彼の言葉が導果お得意のおふざけではないことを示していた。
「尻尾《しっぽ》は握《にぎ》った。絶対確実に犯人は村人の誰かだ。
だけどこれ以上|追及《ついきゅう》すると人質《ひとじち》の身が危険にさらされる」
焔雄の額《ひたい》も汗が浮かんでいる。
「寝《ね》ている村人がか?」
「ご冗談《じょうだん》を。
人質はこの世界そのものだ。
素晴《すば》らしく頭の切れる私がこれ以上、犯人を追い詰《つ》めたとしたらどうなる?
犯人を守る為《ため》にさらに偶然《ぐうぜん》の一致が巻き起こる。しかも尋常《じんじょう》じゃない破壊的《はかいてき》な偶然の一致だ。偶然に海が干上《ひあ》がるか? 偶然に世界は炎《ほのお》に包《つつ》まれるか? 私の口を黙《だま》らせる偶然と吊《つ》り合《あ》う程の偶然さ。
たぶんこの世界の理《ことわり》が崩壊《ほうかい》しかねないぐらいの大惨事《だいさんじ》が起きるだろうね。
恐《おそ》らく、今回の事件を巻き起こした宝貝は半|自我《じが》半自動的な代物《しろもの》だ。
最善手《さいぜんしゅ》を常に模索《もさく》するが、最善手がどれだけの惨事を巻き起こそうが躊躇《ちゅうちょ》はしない。己《おのれ》の所持者の命はできる限り守ろうとはするでしょうが、それとても使用者の願いを叶《かな》えるという目的より優先《ゆうせん》するかどうか。
私が犯人を追い詰めれば追い詰めるほど、最善手と最悪の事態との差が縮《ちぢ》まっていく。
だから私はこれ以上、犯人を詮索《せんさく》しない。犯人を追い詰めるのは自滅《じめつ》行為だ。
龍華《りゅうか》の鼻っ柱に賭《か》けたっていい」
和穂の前の導果の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、焔雄は言った。
「まて、それじゃ村はどうなる?
俺たちはいったいどうなるって言うんだ!」
「焔雄君。それはつまり村を助ける方法を私に尋《たず》ねているのかい?」
「そうだ! あるのか?」
「あぁ、至極《しごく》簡単な解決方法がある」
「言え!」
「簡単だ。和穂君や殷雷君、宝貝の所持者を探《さぐ》ろうとするものがこの村から立ち去り、二度と戻《もど》ってこなければ村の連中は助かる」
和穂も椅子《いす》から立ち上がった。
「でも、それじゃ」
「あの奇病《きびょう》だが、当然、あのまま半永久的に眠《ねむ》り続けられるわけはない。
生命の代謝《たいしゃ》能力が極端《きょくたん》に落ちているから、飲まず食わずでもだいぶもつが、そのうちに餓死《がし》だ。半自動宝貝にしちゃなかなか痛いところを突《つ》いてるじゃないか。私にとっては世界の理《ことわり》が人質《ひとじち》、和穂くんには村人が人質だ。
請《う》け負《お》ってもいい。和穂くんが諦《あきら》めたら、村人たちは目覚め始めて潮《しお》の異状《いじょう》も消えてなくなる」
犯人は探せない。
村人を助けるには村から離《はな》れて、宝貝所持者が誰であるかを探すのを諦《あきら》めなければならない。
とまどう和穂の姿を見て焔雄は鼻で笑う。
「そういうことだ。悪いが宝貝の回収は諦めてくれ」
「でも」
「でもじゃねえ。宝貝回収と引き換《か》えに村人の命を危険にさらすか? よく鞘らんが、世界を崩壊《ほうかい》させる危険もあるんだろ」
瑞雅《すいが》は冷たく言った。
「仕方ないんじゃない。私なら諦める。村人や世界には申し訳ないけど」
諦める方向が全く逆《ぎゃく》である、いとこを捨て置き、焔雄は和穂に迫《せま》る。
「宝貝を回収しなければ、仙人《せんにん》の世界に帰られないんだったな。
いくらでも同情《どうじょう》はしてやる。
だが、諦めてくれ。それになんだ。もしかしたら、この宝貝に打ち勝てるような宝貝が見つかるかもしれんじゃないか。
それまでは、この村は後回しってことでどうだ?」
導果が首を振《ふ》る。
「まず、そんな都合《つごう》のよい宝貝はあるまい。
万が一あったとして、その宝貝に近寄ればまた偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》が巻き起こり、その宝貝には近寄れなくなる。
言っておくが、こういう世界の根幹《こんかん》に作用できる宝貝の有効範囲《ゆうこうはんい》は、莫大《ばくだい》に広いぞ。
恐《おそ》らく人間の世界全体を包めるはずだ」
「余計《よけい》な口をはさむな! いいな、和穂ちゃん。可哀想《かわいそう》だが、解決策がない時点であんたは負けたんだ。
負けを認めてくれ。じたばたして他人に迷惑《めいわく》をかけるな」
宝貝を全《すべ》て回収しなければ和穂は仙界《せんかい》に戻《もど》れない。
だが、宝貝回収を自《みずか》ら望んだ理由は、宝貝による被害《ひがい》を出来るだけ小さくしようという願いからであったのだ。
和穂はゆっくりと口を開きかけた。
と、同時に導果は笑う。
「はははっは。和穂君。
きみは悲劇《ひげき》の主人公《しゅじんこう》だ!」
それが私に割り振られたこの舞台《ぶたい》での役だったのかと、和穂は愕然《がくぜん》とした。
導果は続けた。
「宝貝回収のために骨身を削《けず》って戦《たたか》うきみが、人の命を助ける為《ため》に、己《おのれ》の志《こころざ》しを捨《す》て去《さ》ろうというのだからね。
しかし、そんな安っぽい悲劇は私の好みじゃないんだ。
臭《くさ》い臭い。臭いだけならまだいいが、何のひねりもないじゃないか。
断《だん》じて認《みと》めん。そんなつまらない筋書きなど、この導果|筆《ひつ》は断じて認めんぞ!」
導果は笑う。
棺桶《かんおけ》で作られた舞台の上で、船乗りと元仙人と医者が見守る前で笑う。
舞台を見つめる村人たちの気持ちを導果は完璧《かんぺき》に把握《はあく》していた。
観客《かんきゃく》の望みはこうだ。
この苦しみから解放《かいほう》されたい。もしも、和穂が村人たちを犠牲《ぎせい》にしてでも宝貝回収を優先させるような真似《まね》をしたら村人たちは許《ゆる》しはしない。
だが、自分たちも和穂を犠牲にして、自分たちが助かろうとしているのだ。先刻《せんこく》の巫山戯《ふざけ》た瑞雅の言葉が今になって村人たちの心にずしりと響《ひび》く。申し訳ないけど諦《あきら》めてもらう。村人をか? 宝貝をか? どちらが自分に都合がいいかだけの違《ちが》いだ。本質は全く変わらない。
本当の元凶《げんきょう》は和穂ではない。村人の中に居る、宝貝の所持者なのにだ。
村人たちの葛藤《かっとう》を導果は承知《しょうち》していた。
静かだが巨大《きょだい》な葛藤のうねりを導果は、楽しむ。
そして、葛藤の解放にかかる。
くるりくるりと壇《だん》の上を回り蝋燭《ろうそく》の後に立つ。明かりが、導果のこの上もない笑顔を照らしあげた。
そして導果は舞台の上で観客たちに宣言《せんげん》した。
高らかに、誇《ほこ》り高く、やはり笑いながら。
「さて、そんなつまらない悲劇を、この導果筆が喜劇にしてさしあげよう。
ありふれた、自己犠牲の美しさを歌《うた》う説教臭くて、至極《しごく》つまらない悲劇を馬鹿《ばか》馬鹿しい、全くもって馬鹿馬鹿しい、見事なまでの喜劇に変えて見せましょう」
どこまでも突《つ》き通るような大きく、それでいて全く不快《ふかい》でない導果の大声は島の隅々《すみずみ》にまで響《ひび》き渡《わた》る。
かくて、次の瞬間《しゅんかん》に解き放たれた導乗の言葉で、この事件は解決した。
意外な言葉に観客は一瞬|沈黙《ちんもく》し、続いて爆笑《ばくしょう》の渦《うず》が巻《ま》き起こり、舞台《ぶたい》に向かって賞賛《しょうさん》の拍手《はくしゅ》が巻き起こる。
導果筆は満足した。初めて村人たちの暗い顔を見たときから、どうにかしてこの観客たちを沸《わ》かしたくてウズウズしていたのだ。
舞台は終わった。導果は観客たちに向かい深く一礼した。
朝日が昇《のぼ》っていた。
何の代《か》わり映《ば》えのしない朝日だったが、その平凡《へいぼん》さこそがこの事件の終焉《しゅうえん》を物語っていた。
潮風《しおかぜ》が吹《ふ》きすさぶ船着《ふなつ》き場《ば》で、殷雷《いんらい》は頭を抱《かか》えている。
殷雷たちを送り届けた焔雄《えんゆう》の船は、既《すで》に再び村に向かい波をかきわけ進んでいった。
わざわざ焔雄を見送るつもりもなかったが、殷雷はぼんやりと彼の船を見続けていた。
「それでどうなった? 事件は解決したのかよ。ま、したんだろうが」
殷雷の手には紅色《くれないいろ》の光を放つ宝玉《ほうぎょく》が握《にぎ》られていた。うずらの卵《たまご》程度の大きさだが、その光は強い。
船から視線を外し、殷雷は手元の宝玉《ほうぎょく》を見つめた。宝貝、理合珠《りごうしゅ》。今回の事件を巻き起こした宝貝に他《ほか》ならない。
ありとあらゆる望みを叶《かな》える宝貝。その能力は絶大《ぜつだい》で、物理法則《ぶつりほうそく》すら確率《かくりつ》の名の下《もと》に支《し》配する。
その宝貝にどうやって勝ったのか。
「で、どうやって解決したんだ!」
説明は既《すで》に受けた。だが、あまりの内容に殷雷はそれを理解できなかった。
いや理解したくはなかったのだ。
あれだけ厄介《やっかい》な事件が、そんな無茶《むちゃ》な解決策で対応できたなどとは。
導果は誇《ほこ》らしく胸を張った。
「はははっは。殷雷君もあの舞台《ぶたい》の上に役者として、招待《しょうたい》してやればよかったね。
でも、うっかりきみの存在をころっと忘れてたんだ。すまんすまん。
そう。あの時、私は高らかに叫《さけ》んだんだ。
村の中に、文字どおり響《ひび》き渡《わた》るような声でね。
『さあ、その凄《すさ》まじい能力で完膚《かんぷ》なきまでに和穂君に打ち勝った宝貝君よ!
きみは本当に素晴《すば》らしい。素晴らしすぎるほど、素晴らしい。
きみは、きみの使用者の望みをほぼ完璧《かんぺき》に叶《かな》えたんだ。
私が予想《よそう》するに、きみの使用者は和穂君たちから自分の身を隠《かく》すこと、自分が宝貝所持者だとばれないことを望んだんだね。
きみは完璧に仕事をしようとしている。
だけどまだ完璧じゃない。
僭越《せんえつ》ながらこの導果にきみの仕事の手伝いをさせてくれないか。
宝貝君。
実に簡単、なおかつ単純な解決法がある。
これに従《したが》えば、きみは完璧に使用者の願いを叶《かな》えられる! こう見えても和穂君は元仙人《もとせんにん》だ。人知《じんち》を越《こ》えた能力を隠《かく》しもっている可能性もあるだろう。
だが、そんな和穂君を完全に押《おさ》え込む方法がある。
この方法に従えば、きみはまさしく完璧に使用者の望みを叶えられる。
いいかい、宝貝君。
今すぐ姿をあらわし、和穂君に回収されるんだ! そうすれば、きみの所有者は永遠にその正体がばれる危険から解放される!』
とね。
途端《とたん》に理合珠《りごうしゅ》はその真紅《しんく》の輝《かがや》きをほとばしらせ、窓から部屋の中に飛び込んできたという次第《しだい》さ」
そんなんでいいのか? 殷雷は頭痛《ずつう》を覚えた。
そりゃそうだろう。宝貝を回収すれば、宝貝の所持者に意味はない。
殷雷は首を横に振《ふ》った。ともかく事件は解決したんだからよしとしよう。
和穂が呑気《のんき》に言った。本人は真面目《まじめ》だろうが、殷雷には呑気な意見にしかきこえない。
「どんな望みも叶えられるんなら、全《すべ》ての宝貝を回収出来るんじゃ」
ハラリと季節《きせつ》はずれの雪《ゆき》が『偶然』降りかけたのを見て導果は素早《すばや》く説明した。
「和穂君。そうは問屋《とんや》が卸《おろ》さんよ。
理合珠は今も所有者の願いを叶える為《ため》に作動《さどう》中だ。
別の願いは、今の願いを破棄《はき》する事を意味する。それは許されない」
殷雷は理合珠を和穂に向かい、ぽいと投げる。
和穂は理合珠を受け取る。
殷雷は再び焔雄の船に目をやった。
「眠《ねむ》り続けていた村の連中に、これから、このくだらん事件の経緯《けいい》を説明しなけりゃならん焔雄よりゃましだな」
時を置かず、村人たちは目覚《めざ》めるだろう。
認めるのは癪《しゃく》ではあったが、暗器《あんき》の宝貝による昏睡《こんすい》状態ではないのだ、原因が消えた途端《とたん》に鮮《あざ》やかに目覚めるものでもない。
ゆっくりと目覚める村人の中に今回の犯人が、確実に居るのだ。
その犯人の心境《しんきょう》はいかなものだろうか。
「こんな絶大《ぜつだい》な宝貝を操《あやつ》って、招《まね》いた結果がこれか。
犯人が焔雄の説明を聞いて、どんな顔をするのか見たいもんだな」
「はははっは。
私は犯人になんかこれっぽっちも興味はないがねえ」
探偵《たんてい》にあるまじき暴言《ぼうげん》を吐《は》いて、導果は笑った。
『理合珠』
いかなる望みも叶える宝貝。願望成就《がんぼうじょうじゅ》の為に偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》に作用《さよう》する。かくてねじまげられた偶然は、別の偶然によって補《おぎな》われようとし、強大《きょうだい》な望みであれば、世界の根幹《こんかん》すら破綻《はたん》させうる危険性をもつ。
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あとがき
寝てました。それはもうヌラヌラと。昼やら夜やら朝やら夕方が完全に溶《と》けあう程、ただひたすらに。眠りの渦《うず》の中で記憶の張《は》りも失《う》せ、忘却の波に流され、ああ、そろそろ何もなくなって真っ白になってしまうなあと、人ごとのように感じたところで目が覚めた。
危《あや》うい一線《いっせん》からから引き戻った、というのではなくその一線の向こうに居るのも自分だと思い知った時、ふつふっと血《ち》の猛《たけ》りが蘇《よみがえ》った。笑わせてくれるではないか。真っ白になったところで、その「白」は俺の「白」に他ならないのだ。
てなわけでえらく遅くなって申し訳ない。去年中にはどうにかしたかったけど、間に合いませんでした。
『新年あけましておめでとう作戦』
意外かもしれんが、ワシはわりと律儀《りちぎ》に初詣《はつもうで》に出掛けるほうなのだ。別に信心深《しんじんぶか》いって訳《わけ》でもなく、なにやら毎年行ってるから今年も行こうか、ってな感じで正月は神社に行く。
が、今年は友人たちの都合《つごう》が合わず、初詣は取りやめにしようかという話になった。さすがに一人で参拝《さんぱい》に行くほど奇特《きとく》ではないのだ。
そんなこんなで炬燵《こたつ》で丸くなっていると、友人から連絡が入る。
「昼間は無理だが仕事が終わってからなら初詣に行けるぞ」
ってなことで、やはり元日に初詣に出掛けることになった。
ああ、なんという事であろう。その時にイヤな予感はしていたのだ。さながら首の後《うし》ろがひきつる感覚とでも言おうか。戦闘民族|河内人《かわちじん》の本能が、これから起こる悲劇を敏感《びんかん》に察知していたのであろう。愚《おろ》かなワシはその血の警告を無視してしまったのだ。
集合は午後八時。待ち合わせ場所にやって来たのは先刻電話をしてきた男がただ一人。以後そいつを、たこ焼き八段と呼ぶが別にたこ焼きに似ているのではない。たこ焼きについて熱く語るときのみ、そいつの魂《たましい》は光り輝く男だからだ。かなり勘弁《かんべん》してほしい人のように思えるが、こっちも「猫道《ねこどう》」とかほざいてる人間なので互角《ごかく》である。
たこ焼き八段とワシは同級生なので、三十過ぎのおっさん二人がで手に手をとって初詣という、いかんともしがたい状況である。ちなみに他に誘《さそ》った者は「仕事で疲《つか》れてるんで寝る」という返答だったそうだ。そりゃ普通そうだわな。
馬鹿らしくなったので帰ろうかとも思ったが、待ち合わせした場所がかなりの辺境《へんきょう》に位置し(日本の果てまで徒歩二十分ぐらい)ここで帰れば完璧《かんぺき》な無駄足《むだあし》なので腹をくくって神社に向かう。
いくら元日とはいえ昼間の混雑が嘘《うそ》のように人通りが少ない。電車を降り参拝道《さんぱいどう》を歩くが行《ゆ》き交《か》う人もほとんどおらず、閉まりかけた屋台のうすぼんやりした明かりだけが道を照らすという、見事な宮沢《みやざわ》賢治《けんじ》っぷりが困った感じである。
たこやき八段は晩飯《ばんめし》を食ってないという理由で、ベビーカステラを屋台で買ってばくばく喰《く》ってやがる。ワシにもカステラを勧めるが、晩飯代わりにベビーカステラを食っている男を見るだけで胸がいっぱいになったんで断《ことわ》る。
待て八段、屋台がこれだけ出ているのに、たこ焼きを買わないのは何故《なぜ》だ? 問いかけると、たこ焼きは帰りに買うという返事が返る。恐るべし八段、空腹時にたこ焼きを食うと、舌に迷《まよ》いが出るという事なのか! いやたぶん考えすぎだろう。
やがて小雨が降り出し宮沢賢治ワールドに拍車《はくしゃ》がかかる。これで狐《きつね》が飛《と》び跳《は》ねでもしたら完璧《かんぺき》だ。
かくて雨の中を突き進み、闇《やみ》の中にそびえる神社の入り口に到着する。
神社の門は閉《し》まってました。
神社にも営業時間ってあったのか! 初詣で門前払いを食わされ、雨の中泣きながら家路《いえじ》につきました。それでも八段は帰りにたこ焼きを買って満足げ。負け。
『対イタリア人作戦』
イタリア人と話す。
英語は難しいという意見で意気投合。そうかそうかやっぱりそうか、前からそうじゃないかと思ってたのだ。引き分け。
『いきなり文芸論作戦』
新聞の勧誘《かんゆう》のしつこさに腹が立つのは、今更言うまでもあるまい。まともな勧誘は断るとすぐ引き下がり、数か月は勧誘に来ない。そういう勧誘には別に文句もないが、当然例外も居る。
仕事場の玄関に新聞が放り込まれていた。さては、勝手に新聞を配達し後から集金に来る作戦か! と思ったらさすがにそうではなく、いわゆる見本紙だった。見本紙とはいえ普通の新聞に「見本」のスタンプが押されているだけのものである。あと、ちょっとした宣伝チラシも張り付けてあった。
そのチラシによると「我が素晴《すば》らしい新聞は、大学人試問題に出題されること比類なき! ああ、素晴《すば》らしい我が新聞よ永遠なれ」みたいな内容が書いてあった。
ふむ。どうやらこの新聞は高卒程度の知識をもつ人間が、注意深《ちゅういぶか》く真剣にキッチリ読み込まなければ文章の意味が通らないらしい。
新聞記事としては致命的《ちめいてき》だと思うがどうか? 判定待ち。
『消費税作戦』
とんかつ屋で、みぞれかつ定食を喰う。値段は1050円(税別)理不尽《りふじん》なり! 敗北。
『猫道地獄歌』
この話は書くべきか。それとも書かざるべきか。下手《へた》したら家庭崩壊の危機もある恐ろしい話である。
小学校からの知人が結婚して子供が産まれた。おめでたい話である。電話で連絡を受け、ひさしぶりにしばらく話す。
そして子供の名前を聞いて、ワシは目眩《めまい》を起こした。
子供の名は、そいつが小学生の頃に飼っていた猫の名と(ほとんど)同じなのである。無類《むるい》の猫好きなのは知っていたが、嫁《よめ》はんはその事実を知っておるのだろうか。みけやたま、みたいな簡単な名前じゃないから、気づいてないんだろうな。
あとがきの話のネタで家庭を崩壊させるのもなんなんで、これ以上は書けない。
『作品解説』
ネタがばれるかもしれないので注意。
「暁三姉妹密室盗難事件顛末《あかつきさんしまいとうなんじけんてんまつ》」
怒られるかと思ったが、別に怒られなかった。もしかして呆《あき》れられたのかもしれない。
ノックスの十戒《じゅっかい》って何ですか?
「夢《ゆめ》の涯《はて》」
探偵の次がこれなんだから泣けてくる。
「西の狼、東の虎」
対宝貝用の宝貝《ぱおぺい》だ! ぬう、なれば対対宝貝用の宝貝でござる! かくなる上は対対対宝貝用の……とやろうかと思ったけど訳が判らないのでやめ。ふと、ここで、この三編の小説全てに衛士《えいし》が絡《から》んでることに気がつく。「いやあ、今回の奮闘編は衛士でまとめてみました」とかなんとか格好をつけてやろうかとも思っていたが……
「雷たちの饗宴《きょうえん》」
しまった衛士が出てこない! しかも話の構成上、出しようがない! かくて野望はここに潰《つい》える。
「刀鍛冶《かたなかじ》、真淵《しんえん》氏の勝利」
タイトルどうり真淵氏が、和穂たちを追っ払い見事に勝利をつかみ取る話。道義的《どうぎてき》にいかんともしがたいタイトルのような気がせんでもないが、ヴァンダインの二十則って何ですか?
てな所で紙数も尽きた。ではまた。
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初出
暁三姉妹密室盗難事件顛末 月刊ドラゴンマガジン2000年5月号
夢の涯          月刊ドラゴンマガジン2000年6・7月号
西の狼、東の虎      月刊ドラゴンマガジン2000年8月号
雷たちの饗宴       月刊ドラゴンマガジン2000年9月号
刀鍛冶、真淵氏の勝利   書き下ろし
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》・奮闘編《ふんとうへん》4 夢《ゆめ》の涯《はて》
平成14年6月25日 初版発行
著者――ろくごまるに