封仙娘娘追宝録・奮闘編3 名誉を越えた闘い
ろくごまるに
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《》:ルビ
(例)擬戦盤《ぎせんばん》
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(例)一番|貧乏籤《びんぼうくじ》をひいた
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目次
名誉《めいよ》を越《こ》えた闘《たたか》い
その男の名は
揺《ゆ》るぎなき誓《ちか》い
災《わざわ》いを呼ぶ剣士《けんし》
傷《きず》だらけのたかかい[#「たかかい」に傍点]
最後の審判《しんぱん》
あとがき
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名誉《めいよ》を越《こ》えた闘《たたか》い
鍛冶屋《かじや》の跡取《あとと》りは言った。
「殷雷《いんらい》とやら。先鋒《せんぽう》、中堅《ちゅうけん》と続けて勝ち抜《ぬ》くとは、さすがに準決勝《じゅんけっしょう》まで残るだけの事はある。だが、俺《おれ》は今までの二人とはわけが違《ちが》うからな!」
なにがどう違うんでございましょうかな? と、殷雷は考えたが口には出さない。
聞けば答えが返るだろう。そう、わざわざ口に出して、懇切丁寧《こんせつていねい》に違いを教えてくれるだろうが、そんなものには興味《きょうみ》がなかった。
中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》の体に長い髪《かみ》、袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》を羽織《はお》った青年、殷雷は聞こえるように大きく溜《た》め息《いき》をついた。
「へいへい。なんでもいいからとっとと始めようじゃないの」
別に相手を挑発《ちょうはつ》する気持ちなんか、これっぽっちもなかったが、鍛冶屋の跡取りは愚弄《ぐろう》されたと感じた。
「ほおう。えらい自信じゃないか」
間違《まちが》っても殷雷には、試合《しあい》を盛《も》り上げようなどというつもりはなかった。しかし、思惑《おもわく》に反し、鍛冶屋の跡取りとの会話に観衆《かんしゅう》は一層《いっそう》の興奮《こうふん》を見せた。
客席を見上げ、まあ、よくこれだけの客が入ったものだと殷雷は今更《いまさら》ながら感心した。
闘技場《とうぎじょう》自体も結構《けっこう》な広さがある。丸や四角ではなく、八角形の大きな闘技場だ。
闘技場とはいえ、見ている限《かぎ》りには大人《おとな》の腰程《こしほど》の分厚《ぶあつ》さのある、八角形の大きな板に過ぎない。板には、水面に垂《た》らした墨汁《ぼくじゅう》のような奇妙《きみょう》な模様《もよう》があった。
その闘技場を囲《かこ》むように、すり鉢状《ばちじょう》の観客席《かんきゃくせき》が組まれている。観客席は満員《まんいん》で、観客数はざっと五千人と殷雷は見た。
「殷雷!」
闘技場のすぐ横に立つ、一人の娘《むすめ》が殷雷の名を叫《さけ》んだ。淡《あわ》い桜色《さくらいろ》をした唇《くちびる》に、細い顎《あご》、澄《す》んだ黒色の瞳《ひとみ》の上には、少し太めの眉毛《まゆげ》がのっかっていた。
十五、六の年頃の娘らしく、小さな耳飾《みみかざ》りを着《つ》け、年頃の娘らしからぬ、袖の大きな道服《どうふく》を着ていた。
道服。仙人《せんにん》や道士《どうし》が羽織る、袖の大きな服だ。似合《にあ》っていないわけではないが、若い娘の道士|姿《すがた》は珍《めずら》しかった。
道服の娘の名は和穂《かずほ》。
和穂は慌《あわ》てふためいていた。和穂の隣《となり》にはもう一人青年がいて、和穂と同じように慌てている。
「殷雷君! よそみをしている場合じゃ!」
「なんだ? 典源《てんげん》の大将《たいしょう》に、和穂まで大声出してからに」
和穂の隣の青年を、殷雷は典源と呼《よ》んだ。武人《ぶじん》の眼光《がんこう》を持つ殷雷に比《くら》べれば、どこにでもいそうな普通《ふつう》の男だった。
二人が何に驚《おどろ》いているか、殷雷は薄々《うすうす》感《かん》づいていた。どうせ、鍛冶屋の跡取りが面白《おもしろ》い大道芸《だいどうげい》でもやっているのだろう。
仕方《しかた》なく殷雷が視線《しせん》を戻《もど》すと、確《たし》かに鍛冶屋の跡取りは、尋常《じんじょう》ならざる事になっていた。
殷雷は素直《すなお》な感想《かんそう》を述《の》べた。
「おお。燃《も》えとる。派手《はで》に燃えておる」
鍛冶屋の跡取りを中心に、巨大《きょだい》な炎《ほのお》の渦巻《うずま》きが天に向かい荒《あ》れ狂《くる》っている。
鍛冶屋の跡取りが先刻《せんこく》の試合で、炎を操《あやつ》っていたのを殷雷は見ていた。だから驚きはしない。いや、これがたとえ初戦でも、殷雷は驚きはしなかっただろう。
驚いて当然《とうぜん》のような能力を持った奴《やつ》が、この大会には多すぎた。風やら氷《こおり》やら雷《かみなり》を操る出場者がゴロゴロいて、なぜ今更、炎で驚く必要《ひつよう》があるのか。
「くっくっく。殷雷とやら。そんなに落ち着いていて大丈夫《だいじょうぶ》なのか! 貴様《きさま》らごときに村長の座《ざ》は渡《わた》さん!」
殷雷はバツが悪そうに耳の後ろを掻《か》いた。
これは無意味《むいみ》ではないが、それほど有意義《ゆういぎ》な戦《たたか》いじゃない。鍛冶屋の跡取りは[#「鍛冶屋の跡取りは」に傍点]、宝貝の持ち主ではないからだ[#「宝貝の持ち主ではないからだ」に傍点]。
「こっちも負けるわけにゃ、いかねえんだ」
「……大体《だいたい》、貴様のような村人《むらびと》でもない部外者が、なぜこの大会に参加している」
もっともな疑問《ぎもん》だと殷雷は思った。
「ま、そこの典源の助《すけ》っ人《と》だ」
「……典源か。村長の御子息《ごしそく》であるな。確か前大会までは、村長と兄者《あにじゃ》で組んでおったのではないか?」
「色々《いろいろ》事情があるんだよ。それはそうと、村長決定武道大会に参加しておいて、こんな事を言うのもなんだがな、どうして、そんなに村長になりたがるんだ?」
「たわけ! 村人と生まれたからには村長を目指《めざ》すのは当然の理《ことわり》!」
鍛冶屋の跡取りの堂《どう》に入《い》った声に、観衆は思わずどよめく。
和穂は少し困《こま》った顔で、首を傾《かし》げた。
「そ、そういうもんかな?」
「やめとけ和穂。考えるだけ無駄《むだ》だ。それより、鍛冶屋のあんちゃんよ。そこでボウボウ燃えてるだけじゃ勝負《しょうぶ》は終わらんぞ」
鍛冶屋の跡取りは、紅蓮《ぐれん》の炎の中心で不敵《ふてき》に笑った。
「殷雷よ。お前は一つの間違《まちが》いを犯《おか》している。貴様は俺の能力が炎を操るものだと推理《すいり》してるな」
推理も何も、目の前で炎の柱《はしら》になっているのだ。
「違うのか!」
「本当は、決勝まで明《あ》かすつもりはなかったが、ここで負けては元《もと》も子もないからな。
見るがいい! 真の姿《すがた》を!」
「真の姿を! ってあんちゃんよ……」
炎の渦《うず》が一際《ひときわ》、火力《かりょく》を増《ま》した。まるで溶岩《ようがん》のようなとろみを持つ炎に、さらに闘技場の光が凝縮《ぎょうしゅく》していく。
炎と光が混《ま》ざり、ゆっくりと人の形が現《あらわ》れていく。巨大な人影《ひとかげ》だった。鍛冶屋の跡取りの身長の楽に三倍はある。
それだけの巨体を支《ささ》えるのだから、当然だと訴《うった》えるような太い足が、鍛冶屋の跡取りに覆《おお》い被《かぶ》さっていくが、彼は全《まった》く圧迫感《あっぱくかん》を感じていないようだった。
炎の化《ば》け物《もの》だった。
だが、決して醜《みにく》くはない。炎には幾《いく》つもの色がある。肉体を形作る紅《くれない》の炎を覆うように、紫《むらさき》の炎が燃え上がり鎧《よろい》をかたどった。
鍛冶屋の跡取りは勝利を確信《かくしん》し、言った。
「これが、炎を統《す》べる冥界《めいかい》の鬼神《きしん》だ。俺はこの鬼神を操るんだよ」
観衆は一斉《いっせい》に驚《おどろ》きの声を上げた。そして、その驚きをかき消すような声で、炎を統べる鬼神は吠《ほ》えた。
「るおおおう!」
鬼神の姿に一番驚いたのは、闘技場横の典源《てんげん》だった。和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、飛《と》び跳《は》ねながら叫《さけ》ぶ。
「かかかかか、和穂君。どうしよう! あんなのに勝てる道理はないぞ! 殷雷君が負けたら、次は中堅《ちゅうけん》の和穂君の番で、その次は大将《たいしょう》の僕《ぼく》だ! そ、そうだ! 殷雷君が負けたら棄権《きけん》しよう!」
典源に振り回される和穂だったが、どうにか口を開いた。
「でも、この武道大会じゃ怪我《けが》はしないんでしょ?」
「しない! でも痛《いた》いものは一応《いちおう》痛いし、熱《あつ》いものは熱いんだ! 試合が終われば治《なお》るけども、終わるまではつらいぞ! 棄権だ棄権だ!」
「棄権してもいいんですか?」
「い、嫌《いや》だ! せっかくここまで勝ち抜けたのに棄権なんか嫌だ! でも熱いのは嫌だし、僕は村長になりたいんだ! 決勝で親父《おやじ》に勝ちさえすれば、僕が村長なのに!」
殷雷は後ろを振り向き、典源を怒鳴《どな》りつけた。
「やかましい、勝手《かって》に盛《も》り上がるな。負けやしねえよ」
炎を統《す》べる鬼神と殷雷を見つめ、村長は言った。村長、すなわち前大会の優勝者《ゆうしょうしゃ》の一人である。
「ほお、面白《おもしろ》い。どう見る嫁御《よめご》よ」
村長の声には帝王《ていおう》の風格《ふうかく》があった。
精神《せいしん》と肉体《にくたい》は不可分《ふかぶん》だ。精神あっての肉体であり、逆もまたしかり。
静かに猛《たけ》り狂《くる》う魂《たましい》は、その屈強《くっきょう》な体躯《たいく》の中にしか居所《いどころ》を見出《みいだ》せない。
そろそろ老人と呼んでも差《さ》し支《つか》えない年齢《ねんれい》であったが、外見《がいけん》の上に老《お》いはなかった。
問い掛ける村長に、嫁御と呼ばれた一人の娘が答えた。
「常識《じょうしき》では鬼神の勝ちでございましょう。でも、典源さんの連れてきたあの助《すけ》っ人《と》、底《そこ》が知れませぬ」
村長は一見《いっけん》粗雑《そざつ》な椅子《いす》に座《すわ》っていた。適当《てきとう》に木を組んだだけの粗末《そまつ》な椅子に見える。
だが、それこそが村長の証《あかし》であった。観客席《かんきゃくせき》より下、闘技場《とうぎじょう》と同じ高さに置かれた椅子だが、背の高さがあるので、戦《たたか》いがよく見えた。
肘掛《ひじか》けの上には、村長のゴツゴツした腕《うで》がのり、どこからが腕で、どこからが椅子か瞬時《しゅんじ》には判断出来《はんだんでき》なかった。だが、幾《いく》ら村長が身動きしようが、椅子は全《まった》く軋《きし》まなかった。
装飾《そうしょく》はないが、名のある職人《しょくにん》の手で作られた椅子だった。
娘は椅子の少し後ろに、控《ひか》えるように立っていた。村長の気迫《きはく》のこもる言葉にも、全く動じていない。
瞳《ひとみ》の大きな娘だった。年《とし》の頃《ころ》なら二十歳《はたち》過ぎだろうが、独特《どくとく》の落ち着《つ》きがある。
短いが柔《やわ》らかい髪《かみ》が、サラサラと風になびいていた。娘は、村長の息子《むすこ》、典源の兄の妻《つま》であった。
二人の視線《しせん》と、観衆の視線は闘技場の上に注《そそ》がれている。
観衆は息をのみ、村長と嫁の会話だけが不自然なまでに響《ひび》き渡《わた》っていた。
いつ現れたのか、村長の長男《ちょうなん》は妻の肩《かた》に手を置いた。
母親に似《に》たのか、ほっそりとした顔の男だった。口許《くちもと》に笑《え》みを浮《う》かべ、妻に囁《ささや》く。
「だが、どちらにしろ、我等《われら》三人の勝ちで終わるはずだ。典源の馬鹿《ばか》が我等に反旗《はんき》を翻《ひるがえ》そうがどうにもなるまい。村長の地位は安泰《あんたい》だよ」
村長決定|武道《ぶどう》大会。
その名のとおり、村長を決定する為《ため》の武道大会であった。三人で一つの組を作り、勝ち抜《ぬ》きで戦うのだ。
当然、村長になれるのは一人だけだがそれ以外の二人にも莫大《ばくだい》な賞品が与《あた》えられる。
今回で八回目を迎《むか》える大会であったが、今までの大会は全《すべ》て、初代村長の組が優勝をおさめていた。
「駄目《だめ》だぁ。ここで負けるんだ! 負けるのは嫌《いや》だけど、どうせ負けるなら熱《あつ》い思いもしたくない! 和穂君。どうにかならないか! もう少しで、君《きみ》たちの御陰《おかげ》で大《たい》した苦労《くろう》もせずに村長の座《ざ》が手に入るのに!」
良くも悪くも嘘《うそ》のつけない人だと、和穂は典源の事を考えた。相手を騙《だま》して利用しようとする人間よりはましだろう。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。さっきは私も少し慌《あわ》てましたけど、よく考えたら殷雷《いんらい》は……」
和穂はそこまで言って、言葉から力を抜いた。これは、殷雷に口止《くちど》めされている事だと思い出したからだ。
慌てる典源は、和穂の不自然《ふしぜん》な物言いにまで注意が回らない。
「そりゃ、殷雷君は強いけど、炎《ほのお》を浴《あ》びれば強いもへったくれもないじゃないか! 鍛冶屋《かじゃ》の若旦那《わかだんな》は炎の中に居《い》るし、どうやっても勝ち目はない!」
鍛冶屋の跡取りは間合《まあ》いを詰《つ》め、その動きに遅《おく》れず鬼神《きしん》が続く。そして、鬼神の巨大な拳《こぶし》が殷雷に向かい放《はな》たれた。
典源は思わず、顔を覆《おお》った。
「くはあ、手遅れかもしれんが、殷雷君も棄権《きけん》してくれていいよ!」
へらへら笑って殷雷は言った。
「嬉《うれ》しい心遣《こころづか》いだねえ。でも、棄権などするか!」
そして、一瞬《いっしゅん》にして笑顔は消え去り、真面目《まじめ》な顔になった殷雷は、鍛冶屋の跡取りに尋《たず》ねた。
「さて、どうあっても自分の拳で戦《たたか》うつもりはないんだな。力量《りきりょう》はどうあれ、真摯《しんし》に戦う奴《やつ》にはそれなりの礼儀《れいぎ》で答えるつもりなんだが」
殷雷の言葉には少し寂《さび》しさがあった。
だが、答えは返らない。次の瞬間《しゅんかん》に起きた事は、観衆の誰《だれ》にも予想《よそう》は出来なかった。鬼神の拳は殷雷を捉《とら》え、殷雷は炎に包《つつ》まれる。
が、殷雷は火達磨《ひだるま》にはならない。せいぜい桶《おけ》の中の水を引《ひ》っ掛《か》けられたように、殷雷の髪《かみ》がなびいただけだった。
鬼神を操《あやつ》る鍛冶屋の跡取りと同じように、殷雷も炎には全《まった》く動じなかった。
そして、鬼神など存在《そんざい》しないかのように、ツカツカと鍛冶屋の跡取りの側《そば》により、拳を放つ。
ドスンと重い音を立て、殷雷の拳は腹《はら》を打った。重い拳は彼を吹《ふ》っ飛《と》ばす。
宙《ちゅう》を舞《ま》いながら、鍛冶屋の跡取りは、呟《つぶや》いた。
鬼神の炎で焼《や》けなかった男。鍛冶屋の跡取りに考えられる理由は一つだけであった。
「ま、まさか。貴様《きさま》も炎を操る術者《じゅつしゃ》か!」
が、素《そ》っ気《け》なく否定《ひてい》の言葉が返る。
「違う」
生憎《あいにく》と俺《おれ》は宝貝《ぱおぺい》なんで炎は平気なんだよ。
殷雷は説明してやりたかったが、今回はそういうわけにもいかなかった。
今回の回収《かいしゅう》は、極秘《ごくひ》のうちに行わなければならないのだ。
おとぎ話に民謡《みんわ》に童話《どうわ》、あまたの物語で語られる、不思議《ふしぎ》な能力を持った道具を宝貝と呼ぶ。
時の流れを駆《か》け戻《もど》る砂時計《すなどけい》や、人の形をとる刀《かたな》など、常識《じょうしき》の一線をちょいと超《こ》えたこの道具たち、実は仙人《せんにん》の手により造《つく》られた物であった。
本来《ほんらい》は仙界《せんかい》にあったこの宝貝だが、ある時一人の仙人の手違《てちが》いで、人間界にばらまかれてしまった。宝貝により人間界に大混乱《だいこんらん》が起きるのは、必至《ひっし》であった。
宝貝をばらまいた仙人は責任《せきにん》を感じ、自《みずか》ら宝貝を回収する事を願《ねが》い出た。
だが、宝貝の回収には一つの条件《じょうけん》があったのである。
これ以上、人間界に混乱を起こさない為《ため》に仙術は全《すべ》て封《ふう》じる事。
かくて、仙術の使えない仙人は宝貝回収の為に、人間界に舞い降《お》りたのだ。
その仙人の名は和穂。そして、彼女の護衛《ごえい》は殷雷|刀《とう》。人の姿《すがた》もとれる刀の宝貝である。
勝負《しょうぶ》を決めた殷雷は、ヒョイと闘技場《とうぎじょう》を飛び降り、和穂たちのそばに寄《よ》った。満面《まんめん》の笑《え》みを浮《う》かべて典源《てんげん》は出迎《でむか》えたが、男の歓待《かんたい》など殷雷には嬉《うれ》しくもなんともなかった。
「凄《すご》いぞ、殷雷君! ついに決勝戦《けっしょうせん》じゃないか! この調子《ちょうし》で親父《おやじ》もやっつけちゃってくれたまえ!」
殷雷は大きく伸《の》びをしながら、闘技場の向こうを見た。
鍛冶屋《かじゃ》の跡取《あとと》りが悔《くや》しそうにこちらを見つめていたが、怪我《けが》はしていないようだった。
典源を呼び寄せ、殷雷は言った。
「悪いが典源の大将《たいしょう》よ。茶と、何か食う物を持って来てくれ。さすがに腹《はら》が減《へ》った」
不服《ふふく》そうに典源は答えた。
「ええっ。僕は大将なのに、先鋒《せんぽう》の使いっ走りはないだろ」
「……言う事聞かねえと、棄権《きけん》するぞ」
「判《わか》ったよ。でも、水なら近くに選手《せんしゅ》用の水瓶《みずがめ》が置いてあるぞ」
「うるせえ。俺《おれ》は熱い茶が飲《の》みたいんだ。観客席《かんきゃくせき》の外に屋台《やたい》が出てるだろ? そこまで行って買って来い。決勝戦までには、たっぷり時間があるだろ。それに働《はたら》いた者をねぎらうのも、村長の仕事。今のうちから練習《れんしゅう》だ」
「おおう」
ポンと納得《なっとく》の手を打ち、典源はスタコラと買い出しに出掛《でか》けた。典源の姿《すがた》が消えたのを見て、殷雷は安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》をついた。
「やっと消えたか、あのスットコドッコイ。
それにしても、素性《すじょう》を隠《かく》しての回収は、神経《しんけい》を使うな」
嘘《うそ》をついている訳《わけ》ではないが、隠し事をするのに和穂も少し疲《つか》れていた。
幸《さいわ》い、典源は和穂たちの素性にあまり興味《きょうみ》はないらしく、嘘をつく必要《ひつよう》も無《な》かった。
「そうだよね、殷雷。でも、どうして私たちの正体《しょうたい》を明《あ》かしちゃいけないの? 大慌《おおあわ》てでこの大会に参加して、全然《ぜんぜん》説明してくれなかったじゃない」
殷雷は答える代《か》わりに闘技場を蹴《け》った。元《もと》より、腰《こし》の高さ程《ほど》の厚《あつ》みがあるので蹴り応《ごた》えは充分《じゅうぶん》だった。
「こいつは擬戦盤《ぎせんばん》。闘技場のふりをしてやがるが、立派《りっぱ》な宝貝《ぱおぺい》だ」
闘技場が小声で答えた。
「うるせえぞ殷の字。こっちも好きでやってるんじゃねえんだ。なまくら刀《がたな》のくせにでかい口を叩《たた》くんじゃねえぞ!」
ドカスカと擬戦盤を殴《なぐ》る殷雷を抑《おさ》え、和穂は言った。
「よしなよ、殷雷。でも、闘技場の宝貝なんて初めて見た」
闘技場は少々|柄《がら》が悪かった。
「誰《だれ》が闘技場だ、話はちゃんと聞きやがれ、この術《じゅつ》の使えぬ仙人《せんにん》よ!」
どこを見て喋《しゃべ》ればいいのか、和穂は少し迷《まよ》った。仕方《しかた》がないので殷雷が蹴り飛ばしていた辺《あた》りに向かい口を開いた。
「擬戦盤さん。あなたは何の宝貝なんですか?」
「け。術の使えぬお嬢《じょう》ちゃんにゃ、ちょいと難《むずか》しいかもしれねえが、俺は戦術計算用の宝貝なんだ」
確《たし》かにちょいと難しい。和穂はすぐには理解《りかい》出来なかった。
殷雷が説明した。
「こいつは、そんなにたいした宝貝じゃねえよ。計算で盤とくりゃ算盤《そろばん》の親戚《しんせき》みたいなもんだな」
擬戦盤は大いに不服《ふふく》だったが、殷雷は文句《もんく》を却下《きゃっか》し説明を続けた。
「戦《たたか》いの前に相手の戦力が判《わか》ったとしよう。当然、自分の戦力は判っているから勝算《しょうさん》がどちらにあるか計算出来るな。
ただ、戦いは数字だけじゃ割《わ》り切《き》れないのも事実《じじつ》だ。そこで、こいつを使う。
簡単《かんたん》な例《たと》え話をするぞ。
敵《てき》が槍《やり》を使うと判った。こっちは大斧《おおおの》を使う。戦いは湿地《しつち》で行われるとする。
これらの条件《じょうけん》を擬戦盤に掛けると、湿地で行われる戦闘《せんとう》が、仮想《かそう》の空間に再現《さいげん》されるんだ。
重要《じゅうよう》なのは、その仮想の世界に自分も参加出来るようになっているところだな。仮想とはいえ、実戦《じっせん》さながらの戦闘だ。主《おも》に精神的な子測外《よそうがい》の出来事も調査可能《ちょうさかのう》ときている。
もしも斧の攻撃力《こうげきりょく》が槍より勝《まさ》っていても、実際に戦ってみたら、戦闘の恐怖で腰《こし》が引けるなんて可能性もあるからな」
「なるほど」
殷雷は刀の宝貝。擬戦盤は武器《ぶき》の宝貝ではないが、戦いに関係する宝貝だった。
殷雷は武器の宝貝に顔がきくが、恐《おそ》らく擬戦盤とも面識《めんしき》があったのだ、だから最初から擬戦盤の能力を知っていたのだろう。
「あ、そうか。仮想の戦いっていうぐらいだから、戦いで怪我《けが》をしても実際には傷《きず》を負《お》わないんだ。
この武道大会で、勝負《しょうぶ》が決まれば怪我が消えるのもそのせいなんだ。この武道大会も仮想の戦いなんだね」
殷雷は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「そうだ。見事《みごと》な茶番《ちゃばん》じゃねえか、擬戦盤よ! 一応武道と名のつくこの大会に、敬意《けいい》を表して、棍《こん》も使わずに素手《すで》で参加してみりゃ、風だ氷《こおり》だ鬼神《きしん》だと、とんでもない奴《やつ》ばかりではないか」
「黙《だま》れ。好きで茶番に手を貸《か》すか。全《すべ》ては使用者の望《のぞ》みなのだ」
擬戦盤も戦いに縁《えん》のある宝貝だ。このふざけた大会に力を貸すのは乗り気ではなかったのだろう。これだけの説明では、どうして自分たちの素性《すじょう》を明《あ》かしてはならないのか、和穂には理解出来なかった。
「それじゃ、大会に参加している村の人は、自分で好きな能力を決めて、その能力同士の仮想の戦いをしているんだ。
でも、それはそれとして、どうして私たちの正体《しょうたい》を知られちゃ駄目《だめ》なの?」
擬戦盤を殴《なぐ》る殷雷の拳《こぶし》は、悪友《あくゆう》を諫《いさ》める拳に近かった。
「そうだ。こいつの能力がなんであろうと、さっさと破壊《はかい》して回収すれば関係はない。
だがな、こいつの間抜《まぬ》けな欠陥《けっかん》のせいで、そうはいかないんだ。
仮想の戦闘に参加している人間に、こいつは仙術的《せんじゅつてき》な力を貸している。普通《ふつう》、力を貸す能力がある宝貝は、自分が破壊されればその力は無害《むがい》となり消滅《しょうめつ》する。
擬戦盤先生は、そこに欠陥がありやがる。擬戦盤が破壊されれば、与《あた》えられている力が制御《せいぎょ》を失《うしな》い暴走《ぼうそう》を始めるんだ。
暴走といっても、せいぜい爆発《ばくはつ》だろうが、生身《なまみ》の体じゃ耐《た》えられやしない。
出場|登録《とうろく》した選手《せんしゅ》は、闘技場《とうぎじょう》の上以外では普通の人間だ。でも、登録した時点で仙術的な力は与えられてしまう。
力が解除《かいじょ》されるのは、試合に負けた時だけと、こいつは使用者に設定《せってい》されてるんだ」
「だったら、殷雷。武道大会が終わった後に回収すれば?」
擬戦盤が答えた。戦いに関係する宝貝であるからなのか、その口調《くちょう》は殷雷に似《に》ていた。
「話はちゃんと理解しろよ、能《のう》なしの元仙人め。負けた奴《やつ》は安全だ。逆に言えば、優勝《ゆうしょう》した奴は、次の大会まで力を預《あず》けっぱなしになるだろ。常に誰《だれ》かが力を背負《せお》ってるんだ。使用者が変更《へんこう》しない限り、その設定は永遠《えいえん》に有効《ゆうこう》ときてる」
事情がだんだんとのみ込めてきたが、自分たちが武道大会に参加しなければならない理由が判《わか》らない。和穂の疑問《ぎもん》を見越《みこ》したのか、擬戦盤は言葉を続けた。
「そして、設定はもう一つある。『大会に優勝した者が、俺《おれ》の新たな所持者《しょじしゃ》となる』
判ったな? 大会に優勝し、俺の所持者となって、『全《すべ》ての力を解除』しなければ、安全な回収は無理なんだよ。もしも、殷の字たちが、宝貝の回収を狙《ねら》っていると知れたら使用者、今の村長が設定を変更するかもしれないだろ? 下手《へた》すれば参加者の命を人質《ひとじち》にするやもしれん。だから、お前らは素性《すじょう》を隠《かく》してこの大会に優勝せねばならんのだ!」
殷雷《いんらい》の正拳《せいけん》が擬戦盤に飛んだ。
「なにが優勝せねばならんのだ! だ。ふざけるなよ、こっちの身にもなれ!」
和穂は最後の疑問をぶつけた。
「でも、擬戦盤さん。そんな情報《じょうほう》を私たちに教えていいんですか?」
意外《いがい》と真面目《まじめ》な声で擬戦盤は言った。
「構《かま》わん。命令はちゃんとこなしてるし、大会に手心《てごころ》も加えん。やるべき仕事はしておるんだ。それよりも早く、俺をこんな茶番劇《ちゃばんげき》の舞台《ぶたい》なんていう役割から解放《かいほう》してくれ!」
それが本音《ほんね》であった。
和穂たちがそこまで話し終えると、大きな紙袋《かみぶくろ》と、茶瓶《ちゃびん》を持った典源《てんげん》が帰ってきた。
袋の口からは何本もの竹串《たけぐし》が見えていた。
「いやあ、待たせたね般雷君。焼《や》き鳥《とり》で良かったかな。しかし、どうしてこういう所の屋台《やたい》って、値段《ねだん》が高いんだろうね」
典源の素振《そぶ》りから、殷雷が闘技場と会話をしていたのはバレていないようだ。
「そりゃ、お前。買う奴がいるからだよ」
和穂も焼き鳥を一本|貰《もら》いながら言った。
「典源さん。前の大会までは、家族の人と組んでいたそうですが、どうして今回は私たちみたいな部外者《ぶがいしゃ》と組んだんです?」
「きいてくれるか、和穂君。前の大会で、親父《おやじ》と兄貴《あにき》と僕《ぼく》の組は優勝したんだ。いや、今までの大会は全《すべ》てその組で優勝していたんだよ。ところが、業突張《ごうつくば》りのあの親父は、兄貴や僕には一度も村長の座《ざ》を譲《ゆず》ろうとはしないんだよ。
兄貴は別にそれでも良いみたいだが、僕は村長になりたいんだ。それで仕方無《しかたな》く親父たちとの組を解散《かいさん》して、他の出場者を探《さが》していたんだ。他の連中は親父に遠慮《えんりょ》して、僕と組みたがらなかったから、殷雷君たちに出会えた時はホッとしたよ」
タレを使わず塩をふっただけの焼き鳥だったが、意外と美味《うま》いと殷雷は思った。
「村長か。そんなに大騒《おおさわ》ぎしてまで、なりたい職業《しょくぎょう》かね」
典源は、それは嬉《うれ》しそうに答えた。
「それはもう、莫大《ばくだい》な金が手に入ります」
和穂は不思議《ふしぎ》だった。武道《ぶどう》大会の活気《かっき》を除《のぞ》けば、この村はごく普通の村に見える。そんな村の村長が儲《もう》かるのだろうか。
逆に、そんなに儲かるのなら、村長になった人は、その地位を独占《どくせん》したくなるのではないだろうか。擬戦盤の話では、勝負《しょうぶ》はきちんと公正に行われているらしいから、余計《よけい》に判《わか》らない。
周囲《しゅうい》には村長の声が響《ひび》いている。いつものように、風格《ふうかく》と貫禄《かんろく》のある声だ。
「ほお。ついにここまでやってきたか典源。どこのどいつか知らぬが、ここまできて、いまだ手《て》の内《うち》を明《あ》かさないとは、なかなかの助《すけ》っ人《と》ではないか」
一撃必殺《いちげきひっさつ》ばかりで、氷《こおり》やら鬼神《きしん》を使わない殷雷の事を言ってるのであろう。
村長の言葉は続く。
「だが、それもここまでだ。
我等《われら》の前に貴様《きさま》たちは敗北《はいぼく》するのだ!」
典源も村長に向かい言い放《はな》つ。
「親父《おやじ》よ。貴様は老《お》いさらばえた。もはや村長である資格《しかく》はない!」
観衆《かんしゅう》がどよめき、決勝《けっしょう》へ向けていやが上にも盛《も》り上がりを見せた。
和穂は言った。
「……老いさらばえた村長って、別に居《い》ても不思議じゃないような」
殷雷が答えた。
「やかましい。こんな茶番《ちゃばん》に常識《じょうしき》を持ち込むんじゃねえ」
村長と典源の会話は、会場中に響き渡ったが、和穂と殷雷の会話はざわめきの中にかき消えていた。恐《おそ》らく、村長が選《えら》んだ会話だけを擬戦盤が拡声《かくせい》しているのだ。
でもなぜだろう? もしかしたら、この武道大会の真の意味を私は理解《りかい》してないのじゃないかと、和穂は考えた。
「殷雷。たとえ茶番劇でも茶番劇なりの意味があるんじゃないの?」
殷雷は答えず、静かに首をひねっていた。
かくて決勝戦が始まった。
長男《ちょうなん》が操《あやつ》る『人間の生と死を司《つかさど》る冥府《めいふ》の役人《やくにん》』を殷雷は打《う》ち砕《くだ》いた。(生憎《あいにく》殷雷は人間ではなく宝貝《ぱおぺい》なので、この戦《たたか》いは只《ただ》の殴《なぐ》り合いにしかならなかった)
長男の嫁《よめ》は『猫《ねこ》』を操《あやつ》った。
豹《ひょう》よりもでかい『猫』が、虎《とら》とどう違《ちが》うのか、殷雷は理解に苦しんだ。まあ、確かに三毛《みけ》の虎はいないだろうが。
だが、この戦いで番狂《ばんくる》わせが起きた。
嫁を場外に吹《ふ》き飛《と》ばした殷雷は、一瞬《いっしゅん》油断《ゆだん》をし、その隙《すき》に『猫』の体当たりを食らったのだ。真剣勝負《しんけんしょうぶ》なら、大事《だいじ》に至《いた》らない攻撃《こうげき》だったが、殷雷はうっかりと場外に転落《てんらく》してしまった。判定《はんてい》は相打《あいう》ちとなった。
典源は慌《あわ》てていた。
「わ。どうしたんだい殷雷君! こんなつまらない負け方をして!」
「うるさいな。実戦《じっせん》と競技《きょうぎ》じゃ勝手《かって》が違うんだよ」
観衆のざわめきは頂点《ちょうてん》に達《たっ》していた。
これが歓声《かんせい》の一言《ひとこと》で済《す》ませられるのか、闘技場《とうぎじょう》のすぐ側《そば》の和穂には判《わか》らなかった。
これに一番近いのは、地鳴《じな》りだと和穂は感じた。地鳴りと同時に空気が震《ふる》えている感触《かんしょく》だった。人が作り出す地鳴りと共《とも》に村長は動いた。
ゆるりゆるりと、闘技場の上に村長は登《のぼ》った。一瞬、和穂は村長の動きが地鳴りを巻き起こしているように錯覚《さっかく》する。
典源が自分を見ていると、和穂は気がついた。彼の額《ひたい》に不自然《ふしぜん》に流れているのは冷《ひ》や汗《あせ》なんだろうか。
「どうしたんです、典源さん?」
「……どうしたって、次は和穂君の番だよ」
「あ、そうでした」
和穂がどんな戦《たたか》い方をするのか、典源は知らなかった。
今まで大会に参加していて、典源は薄々感《うすうすかん》づいていた。尋常《じんじょう》ならざる力を得ているとはいえ、出場者が全《すべ》て尋常ならざる力を持っているなら、結局は実力の勝負にしかならないのではないだろうか?
確《たし》かに親父《おやじ》は普段《ふだん》から、腕《うで》っぷしが立つ。それが優勝《ゆうしょう》の原因なのかもしれない。
ならば、和穂が親父に勝てるだろうか?
勝算《しょうさん》はなさそうだ。かといって、自分が親父に勝てるかというと、これも怪《あや》しかった。
「和穂君。きみはどんな戦い方をするんだったっけ?」
口を開こうとした和穂を抑《おさ》え、殷雷が答えた。
「それが典源、和穂は刀《かたな》を操《あやつ》ると決めていたんだそうだ」
モゴモゴともがきつづける和穂の口を押さえたまま、殷雷は和穂に言った。
「和穂、俺《おれ》が刀に戻《もど》るから、お前はそれで戦え」
手が緩《ゆる》み、和穂も小声で答えた。
「……まあ、優勝しなくちゃはじまらないんだからそうするけど」
「よし。あ! 典源、足元に金《かね》が落ちているぞ!」
「え、どこどこ?」
そして、殷雷の体が弾《はじ》け、爆煙《ばくえん》が漂《ただよ》う。
尋常ならざる現象《げんしょう》だが、この大会を見慣《みな》れた者にとっては騒《さわ》ぐ程《ほど》の現象ではなかった。
爆煙の中から現《あらわ》れた刀を和穂は手にとる。
黒い鞘《さや》の普通の刀だった。
和穂は左手に鞘、右手に柄《つか》を持ち、一気《いっき》に刀を抜《ぬ》き放った。雷光《らいこう》を思わせる輝《かがや》きが、刃《やいば》に宿《やど》っている。金を探《さが》し、地面を見つめていた典源は顔を上げる。
「お金なんて落ちてないよ。ありゃ、和穂君。殷雷君は?」
「気にしない、気にしない」
「はあ?」
和穂は闘技場《とうぎじょう》へ向かい飛《と》び跳《は》ねた。道服《どうふく》の袖《そで》が、鳥の羽《は》ばたきのようにバサバサと鳴った。殷雷|刀《とう》は刀の宝貝《ぱおぺい》である。その刀を持つ者には尋常ならざる達人《たつじん》の技《わざ》を与《あた》える。
今の和穂の肉体は殷雷刀が操っているのであった。
「そろそろけりをつけようではないか。
倅《せがれ》や嫁《よめ》は派手《はで》にやってくれたようだが、生憎《あいにく》わしの『術』はそんなに凄《すご》いものじゃなくてな。簡単《かんたん》なものなんだ」
村長の手が天へと差し出され、雪のような細《こま》かい光が凝縮《ぎょうしゅく》していく。
咄嗟《とっさ》に和穂は背後《はいご》に飛びすさり、間合《まあ》いを外《はず》すが、村長は追い掛けない。天へと向けられた手には、一振《ひとふ》りの刀が握《にぎ》られていた。
刀としては異常に長い。装飾《そうしょく》等に凝《こ》った部分は無《な》いが、大剣《たいけん》ぐらいの長さがあった。
刃《やいば》の厚《あつ》みは、普通の刀と同じなので、まるで直線状に硬直《こうちょく》した鞭《むち》や、棍《こん》の姿《すがた》を思い浮《う》かばせた。
「奇遇《きぐう》だな。わしもお嬢《じょう》も刀を操るとは」
和穂の顔に不服《ふふく》そうな表情が浮かんだ。それは殷雷の不快感《ふかいかん》であった。
「長い刀ってのは、黒い白馬《はくば》ぐらい意味の無い言葉だぞ。長いのがいいなら、剣にしろ」
当然、戦《たたか》いに水を差すような鋭い突《つ》っ込《こ》みは拡声《かくせい》されない。
村長は闘技場《とうぎじょう》を軋《きし》ませる巨大な声で、吠《ほ》えた。
「いくぞ!」
長い刀は、空《くう》を切《き》り裂《さ》きながら和穂に向かい放《はな》たれる。
長い刃《やいば》は闘技場の上に存在《そんざい》する、村長以外の者を全《すべ》てなぎはらうように振り回された。
だが、殷雷刀にとって、それは長い縄跳《なわと》びにしか過ぎなかった。動きに合わせて刃の上を飛び越《こ》えれば済《す》むだけの話だったのだ。
打ち込めばすぐに終わりそうだったが、一応《いちおう》用心《ようじん》の為《ため》、殷雷刀は構《かま》えを取った。
その構えを見た途端《とたん》、村長は驚《おどろ》きの声を上げた。
「そ、その構え泰山四皇剣法《たいざんしおうけんぽう》!」
和穂は顔の前で、手を振った。
「違う違う。第一、刀を使って剣法でもないだろうに。刀なら刀法《とうほう》だ」
やはり、和穂の声だけは、拡声されなかった。
村長は誰《だれ》に説明するのか、親切《しんせつ》に説明を始めた。
「泰山四皇剣法。
その源流《げんりゅう》は古代《こだい》の四皇帝《よんこうてい》の時代にまで遡《さかのぼ》るという、伝説の剣法。途絶《とだ》えたと思っていたが、その使い手がいたとはな」
「……古代の四皇? 三皇《さんこう》だろ? それに百歩|譲《ゆず》ってそうだとしても、途絶えた剣法の構えを、なんであんたが知ってるんだよ」
殷雷の結構《けっこう》鋭《するど》い突っ込みに、村長の頬《ほお》に照《て》れの赤《あか》みが差した。だが、観衆《かんしゅう》には伝説の剣法の使い手と相対《あいたい》して、村長の顔に力が漲《みなぎ》ってるとしか映《うつ》らなかった。どよめく観衆。
和穂は心を通して殷雷に話し掛けた。
『どうして、この大会に参加している人って戦《たたか》いに関係のない話を、ベラベラ喋《しゃべ》るんだろうね?』
『……判《わか》らん。三流どころの使い手が、相手を挑発《ちょうはつ》して喜《よろこ》んでるようなものかと最初のうちは思っていたが、そうでもなさそうだ』
『あのさ。戦い方の指図《さしず》が出来るとは思ってないけど、早く勝負《しょうぶ》をつけてあげたら?』
和穂に武芸《ぶげい》の心得《こころえ》はほとんどない。だが、幾度《いくど》となく殷雷の真剣勝負を見てきているのだ、村長の腕《うで》の程度《ていど》は充分《じゅうぶん》に判った。
どう見ても素人《しろうと》だ。
和穂の頭の中で、ゆっくりと武道《ぶどう》大会に対する謎《なぞ》が解《と》けていった。
村長に与《あた》えられる莫大《ばくだい》な富《とみ》。やたらと喋る出場者。客席を埋《う》め尽《つ》くす観衆。屋台《やたい》。
『あ! 判った。村の人はみんな、この戦いを盛《も》り上げようとしているんだ!』
『だから、なんでそんな事をするんだよ。……そうか!』
全《すべ》ては最初から判っていたのだ。判っていないのは典源《てんげん》だけだったのだ。その典源に合わせて考えていたから、こんな単純《たんじゅん》な意味が判らなかったのだ。
この大会は、村の名物《めいぶつ》、客寄せの観光名所《かんこうめいしょ》みたいなものなのだ。村長の座を巡《めぐ》る、この世のものとも思えぬ超絶的《ちょうぜつてき》な戦い。
村長の地位が問題じゃない。戦い自体が目的なのだ。村人の中では典源だけが観衆と同じように、この戦いを間違って理解《りかい》していたのだ。
村長に莫大な富が与えられようが、それは大会を盛り上げる為《ため》の仕掛《しか》けでしかない。
意味が判れば、村長の苦労《くろう》が少しは理解出来た。やむなく殷雷は、それっぽい動きで切りかかり、受けるまでもない村長の攻撃《こうげき》を大袈裟《おおげさ》に防御《ぼうぎょ》し、数度|刃《やいば》を交《まじ》える。
その都度《つど》まきおこる観衆のどよめきにタラタラしつつも、ついに村長の足を打った。
さすがの村長も、フラフラと膝《ひざ》をつく。
殷雷刀を持った和穂は言った。
「そこまでだな」
さあ、やっとこのふざけた回収劇《かいしゅうげき》が終わったと殷雷が思った途端《とたん》、村長は最後のハッタリを仕掛けた。
「くはっ。やるなお嬢《じょう》。とうとうこの左手の封印《ふういん》を外《はず》す時が来たようだな!」
村長はゆっくりと、左手に着《つ》けていた腕輪《うでわ》に手を伸《の》ばす。和穂はゆらりと村長に近づきひくつく笑顔《えがお》で、腕輪を握《にぎ》る村長の手をさらに握り、言った。これ以上は付き合う義理《ぎり》もなかろう。
「外《はず》さんでよろしい」
そして、和穂は殷雷刀の柄《つか》でドスンと村長の腹を打った。たまらず闘技場《とうぎじょう》、いや『舞台《ぶたい》』に崩《くず》れ落ちる村長。
さて、ちゃんとけりはつけてやろうじゃないかと、殷雷は行動を開始した。
和穂は天に向かい殷雷刀を掲《かか》げ、勝利を宣言《せんげん》した。沸《わ》き立《た》つ観衆、歓声《かんせい》を受けて典源も闘技場に登《のぼ》り、和穂に抱きつき飛《と》び跳《は》ねて喜《よろこ》んだ。
「やった。これで僕《ぼく》がついに村長なんだ」
殷雷の眼光《がんこう》を持つ和穂は、大きくうなずいた。
「だが、典源。経緯《けいい》はどうあれ、肉親《にくしん》同士が戦う武道大会など悲《かな》しいじゃないか。この戦いで、俺《おれ》……私は戦いの虚《むな》しさを知った」
典源と和穂の会話は大音声《だいおんじょう》で会場に響《ひび》き渡《わた》った。シンとなる会場。
両手を広げ、和穂は観衆に向かい言った。村長や鍛冶屋《かじや》の跡取《あとと》りと同じだ。彼らは、殷雷や和穂にではなく観衆に向かって語りかけていたのだ。和穂も観衆に語る。
「願わくば、典源新村長|殿《どの》。これからは、武道大会などで争《あらそ》わず平和に暮《く》らしてほしい。この大会はこれで最後にしようじゃないか」
判断《はんだん》に困《こま》る典源の耳元《みみもと》で、和穂は囁《ささや》いた。
「納得《なっとく》しろよ典源。この武道大会をやめちゃえば、これから先はずっとお前が村長でいられるんだぞ」
典源はパッと明るい表情になった。闘技場にうずくまっていた元《もと》村長は、慌《あわ》てて立ち上がろうとするが足元がおぼつかない。
「そ、そうだね。よし、この大会をもって村長決定武道大会は終了《しゅうりょう》だ」
おおう、と観衆は歓喜《かんき》の声を上げた。闘技場の周囲《しゅうい》にいた村人も声を上げたが、それは歓喜の声ではない。
「ば、馬鹿《ばか》! 典源、意味が判ってるのか」
観衆の声の前に、村人の声は消えた。
和穂は静かに言った。
「さて、典源村長。武道大会を終了したのなら、この闘技場はいらないよな。よければ、記念にこの闘技場を私にくれないかな?」
「……こんなの、嵩張《かさば》るだけじゃないか。
でも欲《ま》しいのなら進呈《しんてい》するよ」
「ありがたい。それでは、この闘技場、擬戦盤《ぎせんばん》をいただき、私は退散《たいさん》しましょう」
道服《どうふく》の娘《むすめ》は腰《こし》のひょうたんを外《はず》し、床《ゆか》に向け、叫《さけ》ぶ。途端《とたん》に闘技場は一陣《いちじん》の風となり、ひょうたんの中に吸《す》い込まれた。
訳《わけ》も判らず、ただ観衆は盛《も》り上がった。村人たちは絶望《ぜつぼう》の声を上げ和穂に迫《せま》ったが、道服の娘は疾風《しっぷう》のように、会場を駆《か》け抜《ぬ》けていく。和穂の姿《すがた》を見失《みうしな》った村人たちは、典源に怒《いか》りの矛先《ほこさき》を変えた。
一人気がつかぬ典源は、それを新村長に対する歓迎《かんげい》の証《あかし》だと勘違《かんちが》いした。
「おお! みんなそんなに喜んでくれるのか!」
村長決定武道大会を観光の目玉とし、莫大《ばくだい》な利益《りえき》を上げていた、くだんの村のその後を和穂は知らない。が、擬戦盤を客寄せの道具とした柔軟《じゅうなん》な発想《はっそう》を持つ村長がいるのだ。
心配はないだろうと和穂は思った。
心配なのは、村人に袋叩《ふくろだた》きにあって村長の座《ざ》から引きずり降《お》ろされたであろう、典源だった。でも、まあ大丈夫《だいじょうぶ》だろう。たぶん、きっと。
『擬戦盤』
仮想戦闘《かそうせんとう》を行う宝貝《ぱおぺい》。欠陥《けっかん》は本体破壊時に使用者の安全が保証《ほしょう》されない事。
[#改ページ]
その男の名は
「はっはっは。お嬢ちゃん。
確《たし》かに俺《おれ》の店は、酒場《さかば》や食堂《しょくどう》にしちゃ立派《りっぱ》だろうけど、生憎《あいにく》本当は宿屋《やどや》なんでね。
だから、あんまり珍《めずら》しい酒は置いてないんだ。けど変わった名前の酒だね。酒にゃ少しうるさいが『宝貝《ぱおぺい》』なんて酒は初耳《はつみみ》だ」
男はそう言って、豪快《ごうかい》に笑った。
男の言葉に嘘はなく、ここは酒場と食堂と宿屋を一つにしたような店だった。
一階から二階は吹《ふ》き抜《ぬ》けで、一階の石畳《いしだたみ》の上には幾《いく》つかの卓《たく》が置かれている。
昼食《ちゅうしょく》には遅《おそ》く、夕飯《ゆうはん》には早いこの時刻《じこく》、ほとんどの卓の上には、椅子《いす》がひっくり返して置かれたままだ。
石畳には所々《ところどころ》小さな水溜《みずた》まりがあった。
掃除《そうじ》を済《す》ませて、埃《ほこり》を抑《おさ》える為《ため》に軽く水をうったのだろうか。
男が座《すわ》る卓には三つの丼《どんぶり》が置かれている。
一つにはこぼれ落ちんばかりの、えんどう豆の莢《さや》が入れられている。
一つには取り出された、えんどう豆。当然《とうぜん》のようにもう一つの丼には、まだ莢に収《おさ》まったままのえんどう豆が入っていた。
男は楽しそうに笑ったまま、ゴツゴツとした太い指で、えんどう豆を莢からはぐ。
宿屋の入り口で、男に声をかけたのは一人の少女だった。
年の頃《ころ》なら十五、六、ほっそりとした顎《あご》に黒曜石《こくようせき》のような輝《かがや》きを持つ瞳《ひとみ》をしていた。
温和《おんわ》な顔の中で、意志《いし》の強そうな少し太めの眉《まゆ》が目立つ。だが、全体に調和のとれた顔立ちをしている。
娘《むすめ》の名は和穂《かずほ》。
和穂は首を横に振り、言葉を続けた。
「あの、違うんです。お酒の話をしているんじゃなくて。宝貝をですね……」
宝貝。
仙人《せんにん》が、己《おのれ》の秘術《ひじゅつ》の限りを尽《つ》くし、造《つく》り出した神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
人の姿《すがた》をとる刀《かたな》や、その内部に莫大《ばくだい》な空間を持つひょうたんなど、人間の常識《じょうしき》を遥《はる》かに超《こ》えた道具たちである。
だが、その存在を知らない者にとっては、お伽話《とぎばなし》の中だけのものに過ぎない。
男にとっても、それは同じだった。男の頭の中で、『宝貝』の名前をつけられて一番|不思議《ふしぎ》でないものは酒だった。『炎帝《えんてい》』やら『鬼哭《きこく》』など、とかく豪快《ごうかい》な名前の酒は多い。
いきなり宝貝の話をされればえんどう豆の男のような反応をするのが普通《ふつう》なのかもしれない。
至極《しごく》まっとうな反応に、和穂が逆に言葉を詰《つ》まらせた時、若い女の声がした。
「ほらほら、馬鹿《ばか》みたいにいつまでも笑ってるんじゃないよ。お嬢ちゃんが困《こま》ってるじゃないか。気にしなくてもいいよ。
この人は年がら年じゅう、間抜《まぬ》けに笑ってるんだから。一体《いったい》、何が面白《おもしろ》いんだろうね」
「へへ。俺は元々《もともと》こういう顔なんだよ。渋《しぶ》い面《つら》してるより愛想《あいそう》がよくていいだろうが」
店の一角《いっかく》が簡単《かんたん》な厨房《ちゅうぼう》になっていた。厨房を囲《かこ》むように少し高めで、細長い卓が置いてある。女はその厨房の中に腰掛《こしか》けて、芋《いも》の皮を剥《む》いていた。シャリシャリと手慣《てな》れた仕種《しぐさ》で、女は包丁《ほうちょう》を操《あやつ》る。
男も女も三十前だろうか。料理の下ごしらえをしながらも、二人にはどこかくつろいだ雰囲気《ふんいき》があった。
そうか、ここはこの人たちの家なんだと和穂は考えた。この二人は従業員《じゅうぎょういん》などではなくて、ここの経営者《けいえいしゃ》なのだ。若い夫婦《ふうふ》か何かなのだろうか?
男の屈託《くったく》のなさをたしなめた女だったが、彼女の顔にも柔《やわ》らかな笑顔《えがお》が浮《う》かんでいる。
兄妹《きょうだい》というより、小さな店を切り盛《も》りする惚《とぼ》けた夫と、しっかり者の妻《つま》に見えた。
和穂は言った。
「ええぇと、それじゃ宝貝は持ってらっしゃらないんですね?」
笑顔の男は冗談《じょうだん》で言った。
「そ。宝貝を持ってる人間が、こうやってせっせとえんどう豆を剥いて、夕飯の準備《じゅんび》に精《せい》を出すと思うかい」
男は全然《ぜんぜん》本気にしていないが、確《たし》かにこの付近に宝貝はあるはずだった。和穂の耳につけられた、小さな白い耳飾《みみかざ》りは宝貝の存在を和穂に教えているのだ。
宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る耳飾り、この耳飾りもまた宝貝であった。名は索具輪《さくぐりん》。
が、和穂にはこの二人が嘘《うそ》をついているようには到底《とうてい》思えなかった。
少し困った顔をして女は言った。
「生憎《あいにく》宝貝はないけど、食事なら出来《でき》るよ。昼の残りだからちょっと冷《さ》めてるけど。
しばらくしたら夕飯の時間になるけどね」
和穂を押《お》し退《の》けるように、一人の青年が店の中に入ってきた。黒く長い髪《かみ》に、袖付《そでつ》きの外套《がいとう》を着ている青年だ。
青年は銀色に輝《かがや》く棍《こん》を両肩に担《かつ》ぎ、その棍にだらしなく両手を絡《から》めている。
まるで礫《はりつけ》になった罪人《ざいにん》か、田んぼの中の案山子《かかし》のようであった。
「どうだ、和穂。宝貝はそいつらが持ってるのか?」
「あ、殷雷《いんらい》。この人たちじゃないよ」
「……どうして、そうだと判《わか》る?」
「だって、宝貝を持ってるぐらいなら、えんどう豆の皮を剥いたりしないって」
理屈《りくつ》が通っているのかどうか、よく判らない話だ。
「それで、『はい、そうですか』って納得《なっとく》したってのか」
「……借金《しゃきん》の取り立てが満足《まんぞく》に出来ない子分《こぶん》を叱《しか》ってる親分《おやぶん》みたいな言い方はやめてよ。
でも、本当に知らないそうよ」
殷雷は面白《おもしろ》そうに口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く。
「ほお。ま、和穂よ。お前の言葉を信じてやろうじゃないの」
そして、宿屋の二人に向かい笑顔を振りまいた。
「さてと、お二人さんよ。ちょいと質問を変えさせてもらうぜ。
この宿屋に怪《あや》しい泊《と》まり客はいないか?」
「そうさな。怪しいかどうかは知らないが、泊まりの客は一人しかいないぜ」
厨房《ちゅうぼう》の女は慌《あわ》てたが、すでに手遅《ておく》れだ。
「ちょっと、そう簡単《かんたん》にお客さんの事をばらしてどうすんのよ! 厄介事《やっかいごと》は御免《ごめん》だよ」
「居場所を知られて困《こま》るような客なら、そいつを庇《かば》う方が厄介だろ」
「で、そいつの部屋《へや》はどこだ?」
宿屋は吹き抜けになっている。
壁沿《かべぞ》いに階段《かいだん》があり、一階を見下《みお》ろす手すり付きの廊下《ろうか》が、階段の先に続いていた。
「階段上がって、角《かど》から二つ目の部屋だ。名前は桂双《けいそう》っていう若い男だぜ」
和穂と殷雷は階段に向かう。
「そうか、ありがとよ。出来るだけ静かにやるが、ちょっとドタバタするかもな」
殷雷はソロリソロリと廊下を歩み、扉《とびら》の前に立つ。続いて和穂も後《あと》を追う。
宿屋の男は面白そうに、一階から殷雷たちの動きを見物《けんぶつ》していた。
少しばかり楽しそうな男の表情に、女は不満そうだった。男は女に言った。
「心配するな。俺は今の生活で満足してる」
そして、殷雷は扉を蹴破《けやぶ》り、部屋の中に突入《とつにゅう》した。慌てて和穂も後を追う。
女は肩をすくめた。
「何が、出来るだけ静かにやる、よ」
犬と猫を三十匹ずつ一つの狭《せま》い部屋に閉《と》じ込めたような騒《さわ》ぎが、客室の中で巻き起こった。一階からは中の様子《ようす》は全然《ぜんぜん》判《わか》らないが、宿屋の男は別に慌てる様子もない。しばしの騒動《そうどう》の後、突然《とつぜん》の爆発《ばくはつ》が起き、客室の扉は吹《ふ》っ飛《と》び、一階へ向けて落ちていった。
女がたまらず言った。
「喧嘩《けんか》ぐらいならいいけど、火薬《かやく》は勘弁《かんべん》してよ。ちょっとあんた、黙《だま》らせてきて」
「いいじゃないの。やらせておけ。
それよか、あれは火薬の煙《けむり》じゃないぜ」
と、その時、扉をなくした客室の入り口から和穂が転《ころ》げ出た。
あまりに強い勢《いきお》いに、手すりをへし折《お》り二階から一階に向けて、先刻《せんこく》の扉のように宙《ちゅう》を舞《ま》う。
と、同時にもう一つの人影《ひとかげ》が部屋から飛び出した。死に物狂《ものぐる》いのイタチのように、体勢《たいせい》を低くし、階段を一陣《いちじん》の風のごとく駆《か》け降《お》り、そのまま宿屋の出入り口に向かう。
宙を舞う和穂に、出口へ向かう影。
次の瞬間《しゅんかん》、尋常《じんじょう》ならざる幾《いく》つかの行動《こうどう》が起きた。
宿屋の男は、ヒョイと立ち上がり、三つの丼《どんぶり》を右手と左手に一つずつ、もう一つを胸《むね》の高さまでに上げた左足の膝頭《ひざがしら》の上に乗せた。
その動きから全《まった》く途切《とぎ》れずに、左足で卓《たく》を強く押した。
蹴ったのではない。
強く押された卓は、石畳《いしだたみ》の上をガラガラと滑《すべ》り、落下《らっか》する和穂と、地面の間に入る。
卓と和穂は激突《げきとつ》し、壮大《そうだい》な音を立てて質素《しっそ》な卓が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にへし折れた。
だが、和穂にとっては、石畳に叩《たた》きつけられるより、遥《はる》かに少ない衝撃《しょうげき》ですんだ。
男の動きは途切れずに、今度は左足の爪先《つまさき》を今まで座《すわ》っていた椅子《いす》に絡《から》め、そのまま蹴り飛ばす。
宙を飛ぶ椅子は一直線に逃亡《とうぼう》を図《はか》る影の後頭部《こうとうぶ》に向かう。
空《くう》を切る奇妙《きみょう》な音に、影は何気《なにげ》なく振り向いた。不運にも、椅子はその瞬間《しゅんかん》、影の顔面《がんめん》に命中した。
影は額《ひたい》を押さえ、悲鳴《ひめい》にも似《に》た叫《さけ》びをあげた。
「何をする! それが客に対する態度《たいど》か!」
和穂と激突した卓は、細《こま》かい木の屑《くず》と埃《ほこり》を撒《ま》き散《ち》らしていた。
埃の向こうで男は言った。
「桂双《けいそう》さん。本日の宿代《やどだい》はまだ貰《もら》ってませんよ。宿代を踏《ふ》み倒《たお》すのは泥棒《どろぼう》と一緒《いっしょ》で、泥棒は見逃《みのが》せませんな」
「や、やかましい。俺は急いでいるんだ!」
宿屋の男の顔にはいまだに笑顔があった。それが普段《ふだん》の顔なのだろうか? それとも、今、降参《こうさん》すれば痛《いた》い目にはあわせないでやるという『優《やさ》しい』意思《いし》の表《あらわ》れなのだろうか?
桂双はゴクリと唾《つば》を飲《の》み込んだ。
第一、こいつは何者だ? 身のこなしが尋常《じんじょう》ではない。こんな男から逃《に》げきるのは不可能《ふかのう》なのではないか?
「判った……」
桂双が逃亡する気力をなくしたのを確認《かくにん》して、男はコクリとうなずく。
しばしの沈黙《ちんもく》が周囲《しゅうい》を包《つつ》む。沈黙が男に冷静《れいせい》さを取り戻《もど》させ、宿屋の中のなかなか素敵《すてき》な惨状《さんじょう》が目に入る。卓なんか、冗談《じょうだん》みたいに木っ端微塵だ。
悪戯《いたずら》が見つかった子供のような表情で、男は女に言った。
「すまねえ、虎蘭《こらん》。ちょっと散らかっちまったな」
厨房《ちゅうぼう》の女、虎蘭は頭痛《ずつう》を堪《こら》えるように、額《ひたい》に手を当てた。
「まったく、しょうがない人だね。
厄介事《やっかいごと》は勘弁《かんべん》してって言ったのに」
へへへと恥《は》ずかしそうに笑いつつ、宿屋の男は言った。
「はて? 部屋の中には、三人いたはずだよな虎蘭?」
「そこでのびてるお嬢《じょう》ちゃんに、宿代踏み倒し男でしょ。そういや棍《こん》を持った、髪《かみ》の長い兄《にい》ちゃんは、どうしたんだろうね?
嫌《いや》だよ、部屋の中で死んでるんじゃないだろうね」
「まさか。あの兄ちゃんが、こいつに殺されたりするもんか。あいつは、凄腕《すごうで》の武人《ぶじん》だったんだぞ」
臨戦態勢《りんせんたいせい》であろうが、完全に気を抜《ぬ》いた状態《じょうたい》であろうが、武人には常《つね》に独特《どくとく》の仕種《しぐさ》がついてまわる。それは、獲物《えもの》を狩《か》るのが上手《うま》い豹《ひょう》も下手《へた》な豹も、動作の根幹《こんかん》に潜《ひそ》むものが同じであるのと一緒だった。
一目《ひとめ》で殷雷の腕前に気付いていたこの男もまた、一端《いっぱし》の腕前を持っていたのだ。
二人の会話が聞こえていたのか、もう一つの影が扉《とびら》のない客室から現《あら》れる。
足元《あしもと》もおぼつかぬふらふらとした人影。
顔色一つ変えずに和穂を助け、桂双を捕《つか》まえた宿屋の男ではあったが、その人影の顔を見た瞬間《しゅんかん》大声をあげた。
「あ!」
部屋からは桂双がもう一人出てきたのだ。
虎蘭は叫んだ。
「ちょ、ちょっと、一体どうなってるの!」
無様《ぶざま》に叫んだ姿《すがた》を取《と》り繕《つくろ》い、少しばかりやせ我慢《がまん》し、宿屋の男は余裕《よゆう》を見せた。
「決まってるだろ。宝貝《ぱおぺい》のせいだぜ虎蘭」
こんなにも理不尽《りふじん》な話があっていいものかと、桂双はわめき続けた。
正確《せいかく》には、宿屋から逃げ出そうとした方の桂双だ。彼は蓑虫《みのむし》のように、縄《なわ》でグルグル巻きに縛《しば》られていた。
彼を縛りつけたのは、宿屋の男である。椅子《いす》がぶつかって出来たタンコブに、硫黄《いおう》の臭《にお》いがする膏薬《こうやく》を塗《ぬ》りこんでくれたが、包帯《ほうたい》までは巻いてくれない。
宿屋の男の名は狼憂《ろうゆう》といった。
桂双は怒鳴《どな》った。だが、狼憂の底知れぬ実力を恐《おそ》れているのか、誰《だれ》に対する怒号《どごう》なのかがよく判《わか》らない。
「こんな馬鹿《ばか》な話があるか! 和穂と殷雷《いんらい》をどうにかしのいで、逃げる機会《きかい》を見事《みごと》につかんだのに、宿屋の親父《おやじ》に捕《つか》まっただと!
そんな理不尽《りふじん》な話があってたまるか!
お前のその動き、兵隊崩《へいたいくず》れか何かだな! たまたま泊《と》まった宿屋の経営者《けいえいしゃ》が、都合《つごう》よく兵隊崩れだったなんて、そんな馬鹿な」
大声が一番|響《ひび》いたのは、案《あん》の定《じょう》自分のタンコブであった。尋問《じんもん》というには、少しばかり奇妙《きみょう》な雰囲気《ふんいき》だった。
宿屋の卓《たく》には、グルグル巻きの桂双が座《すわ》り、その正面《しょうめん》には虎蘭と狼憂が居《い》る。
後《あと》から部屋を出た方の桂双も卓についているが、放心《ほうしん》しているかのようにボウっとしていた。和穂は、壊《こわ》れた卓の上から別の卓に動かされ、そこでのびたままだ。気付けに酒でも浴《あ》びせる手もあったが、狼憂はそこまでする必要はないと考えた。
息《いき》はハッキリしている。すぐに正気《しょうき》に戻《もど》るはずだ。
虎蘭の手には包丁《ほうちょう》も芋《いも》もない。さすがに、夕飯《ゆうはん》の準備《じゅんび》どころではないだろう。
「失礼《しつれい》ね。うちの旦那《だんな》は、兵隊崩れじゃないわ。
ちゃんと勤《つと》めあげた、兵隊上がりよ。報奨金《ほうしょうきん》で宿屋を開いて、文句《もんく》を言われる筋合《すじあ》いはないからね」
狼憂は虎蘭と違《ちが》い、えんどう豆の莢剥《さやむ》きを続けたままだった。豪胆《ごうたん》そうな風体《ふうてい》だが、意外にも指先を動かしていた方が落ち着《つ》く性質《たち》なのだ。
桂双は舌打《したう》ちした。
「もういい! さっさと役人に突き出せ!」
人をつきうごかすのは、名誉《めいよ》や金だけではない。好奇心《こうきしん》も立派《りっぱ》な行動の理由になる。
虎蘭は嬉《うれ》しそうに、もう一人の桂双、おし黙《だま》ったままの桂双を指差《ゆびさ》す。
「そうしようかと思ったけど、こんな不思議《ふしぎ》なものを見せられちゃ、そうもいかないでしょ。実は双子《ふたご》でした、なんて言ったら、グルグル巻きのままドブに捨《す》てちゃうからね」
さっきまで、厄介事《やっかいごと》は嫌《いや》だと騒《さわ》いでいた割には楽しそうじゃねえかと、狼憂は妻《つま》の顔を見て考えた。
俺《おれ》が、ちょいとちゃらんぽらんなものだから、普段《ふだん》は分別《ふんべつ》のあるふりをしてやがるが、自分だって好奇心をくすぐられて瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせている。からかってやろうかとも思ったが、所帯《しょたい》やつれした顔より、ガキみたいな無邪気《むじゃき》な好奇心にかられている顔の方がいい。
桂双は話題《わだい》をすり替《か》えようと、必死《ひっし》になった。
「なあ、判《わか》るだろ? 宝貝《ぱおぺい》は本当にこの世の中にあるんだよ。もう一人の俺も、宝貝のせいでここにいるんだ。
宝貝をお前らに渡《わた》す訳《わけ》にはいかないが、代《か》わりに金をやる。色々《いろいろ》とぶっ壊《こわ》しちまった物の弁償《べんしょう》なんてチャチな額《がく》じゃないぞ。
こんな宿屋を切り盛《も》りしなくても、一生《いっしょう》遊《あそ》んで暮《く》らせるだけの額だ」
虎蘭は桂双の頬《ほお》をつねった。
「こんな宿屋で悪かったね。夫婦《ふうふ》二人でやっていくには丁度《ちょうど》いい広さなのよ」
「いでで、いでで!」
腕《うで》を組みつつ狼憂は静かに言った。
「生憎《あいにく》だけど桂双さん。一生遊んで暮らせるぐらいの銭《ぜに》は持ってるぜ。一生遊んで暮らせて、人間一人殺しても弁償出来るぐらいの銭はある」
桂双の背筋《せすじ》をゾクリと悪寒《おかん》が走った。
「はっはっは。冗談《じょうだん》だってば。弁償出来るからって、人を殺したりするか!」
修羅場《しゅらば》を見た人間の冗談は冗談には聞こえないのだと、桂双は知った。
窮地《きゅうち》の真《ま》ん中《なか》で沈黙《ちんもく》すれば途端《とたん》に恐怖《きょうふ》が増大《ぞうだい》すると、桂双は今までの人生で学《まな》んでいた。考えても仕方《しかた》がない時に、考えるとろくな事にはならないのだ。
「そんなに金があるなら、なんで宿屋なんかやってるんだ!」
「遊んでばかりだと、遊ぶ事が楽しくなくなるでしょ。働《はたら》いてないと、休日の嬉《うれ》しさが判《わか》らなくなるのよね」
今までの言動から虎蘭も狼憂も一般常識《いっぱんじょうしき》をわきまえた、人格者《じんかくしゃ》であると桂双には判ってきた。
良くも悪くも、怒《おこ》らせない限りは普通《ふつう》の連中だ。が、万《まん》が一《いち》彼らの逆鱗《げきりん》に触《ふ》れたのなら何が起きるのか予想《よそう》がつかない。
狼憂は立ち上がり、丼《どんぶり》の中の莢《さや》を塵箱《ちりばこ》の中へ投げ捨《す》てた。
「うわっはっは。そんなに怖《こわ》がらんでもいいって。ちゃんと事情《じじょう》を説明《せつめい》してくれたら、宿代の踏《ふ》み倒《たお》しは大目《おおめ》に見てやるからさ。で、一体《いったい》何がどうなったんだ?」
「判った。説明はする。だがな、信じられないからといって、嘘《うそ》をついているとは思わないでくれ」
狼憂はうなずき、のびている和穂の側《そば》に寄《よ》った。
「あんたの言い分だけじゃ不公平《ふこうへい》だから、お嬢《じょう》ちゃんにも起きてもらうか」
そして、そのまま和穂の上体《じょうたい》を起こし、背中《せなか》の点穴《てんけつ》(ツボ)をグイと突《つ》く。
息の塊《かたまり》を吐《は》き出すような、大きな咳《せき》と共《とも》に和穂は正気《しょうき》づいた。
「げほっ!」
慌《あわ》てる和穂に優《やさ》しく虎蘭は囁《ささや》く。
「はいはい、大丈夫《だいじょうぶ》よ。桂双は捕《つか》まえてあるからね。
とにもかくにも事情を教えて頂戴《ちょうだい》な」
「あ! 殷雷が!」
「落ち着いて。あんた、お茶をいれてよ」
「へいへい」
『ここにいる、虎《とら》と狼《おおかみ》は人になれていて、とてもおとなしいのです。髯《ひげ》を引《ひ》っ張《ぱ》ろうが、牙《きば》を叩《たた》こうが、決して噛《か》みついたりはしませんよ。
ここにいるのは、とても優しい虎と狼、悪い人以外には危害《きがい》を加えません。
そして、俺は悪い人と普通の人との境界線《きょうかいせん》にいるのだ。
誰《だれ》かと誰かが戦《たたか》っていて、片方が善人《ぜんにん》だと知れたら、戦っている相手が悪人だと思うのが人情《にんじょう》ではないのだろうか。慌《あわ》てている和穂を、虎蘭は根気《こんき》よくなだめている。
必死《ひっし》に旅の同行者《どうこうしゃ》、殷雷の無事《ぶじ》を心配《しんぱい》している姿《すがた》は、健気《けなげ》に見える。
これが、自分の本性《ほんしょう》を隠《かく》した芝居《しばい》であるのならば、突《つ》き崩《くず》せるかもしれないが、生憎《あいにく》そうではないのだ。
桂双は考えた。どうすれば、宝貝《ぱおぺい》を持ったままこの死地を抜《ぬ》けられるのか?
目の前には、自分と同じ姿をした他人がいる。こいつが鍵《かぎ》だ』
桂双は深く深く考え、額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
和穂はどうにか落ち着きを取り戻《もど》した。
そして、思い詰《つ》めているのか何も考えていないのか判断《はんだん》に苦しむ表情《ひょうじょう》を浮《う》かべた、もう一人の桂双を見つめた。
「殷雷! しっかりしてよ!」
答えは返らない。
これは興味本意《きょうみほんい》で首を突っ込むような事件じゃなかったのかと、少し心配しながらも虎蘭は言葉を繋《つな》げた。
「まあ、心配なのは判るけど、何がどう心配なのか判らないんじゃ、私たちも協力《きょうりょく》しようがないじゃない。最初から話してね」
そして和穂は語り始めた。
自分が元仙人《もとせんにん》である事。ある日|誤《あやま》って欠陥《けっかん》宝貝の封印《ふういん》を破《やぶ》り、人間の世界に宝貝をバラまいてしまった事。責任《せきにん》を感じ、全《すべ》ての仙術《せんじゅつ》を封印して宝貝の回収《かいしゅう》に出た事。
狼憂《ろうゆう》は笑う。
「んな馬鹿《ばか》な話を信じられるかよ。
と、言いたいがやっぱり『コレ』は宝貝の仕業《しわざ》なのか?」
指差《ゆびさ》したのは、二人の桂双だった。和穂はうなずいた。
「はい。宝貝の反応《はんのう》を探《さぐ》る宝貝があるんですけど、細《こま》かい場所までは判らなくて。
それで、さっき狼憂さんに尋《たず》ねたんです。
で、結局《けっきょく》桂双さんの部屋に入って……」
先刻《せんこく》までの騒動《そうどう》を虎蘭は思い出す。
「……とっくみあいになったんだね、お嬢《じょう》ちゃん」
「そうです。それで桂双さんが、懐《ふところ》から小さな筆《ふで》を出して殷雷に何かをしたと思ったら、突然《とつぜん》爆発《ばくはつ》が起きて、殷雷が桂双さんになっちゃったんです」
宝貝の存在《そんざい》を否定《ひてい》しないなら、全然《ぜんぜん》不思議《んふしぎ》な話ではない。狼憂が火薬《かやく》ではないと、分析《ぶんせき》したのは正解《せいかい》だった。あれは宝貝が作動《さどう》した時の爆発だったのだ。
宝貝の正確な能力《のうりょく》が判れば、全《すべ》てに道理《どうり》が合うのだろう。丁寧《ていねい》に『さん』付けをしていたが、だんだんと桂双を見つめる虎蘭の目に鋭《するど》さが増《ま》していった。
「……さて、桂双さん。その宝貝ってのはどこにあるの?」
「なあ、あんたたち。
あんたたちには、俺《おれ》は宿代を踏《ふ》み倒《たお》して、その上、拾《ひろ》った宝貝を返さない悪人に見えてるだろうが、それは違《ちが》うぞ。宝貝の尋常《じんじょう》ならざる能力を知れば、俺の行動だって納得《なっとく》いくぜ」
「……いいからどこにあるの?」
「……懐の中だ」
いわれるまでもなく、狼憂は桂双の縄《なわ》を解《ほど》きにかかった。
冗談《じょうだん》みたいに、グルグル巻きにしていたので少しばかり手間取《てまど》る。
その間にも、もう一人の桂双は頭痛《ずつう》でもするのか、胎児《たいじ》のような格好《かっこう》で頭を強く抱《かか》えていた。
「お、思い出せない」
「殷雷……」
しばしの時が流れ、ようやく桂双のいましめが解《と》かれた。血の巡《めぐ》りを元《もと》に戻《もど》そうと肩《かた》を動かす桂双の鼻先《はなさき》に狼憂は指を突き立てた。
「動くな」
桂双に宝貝を使われるのを警戒《けいかい》しての言葉だった。
用心《ようじん》深く狼憂は懐を探《さぐ》るが、それらしい物は全《まった》くない。
「思っていたよりいい度胸《どきょう》じゃないか。宝貝はどこだ!」
「な、ないだと! まさか、さっきふん縛《じば》られた時に落としたのか!」
桂双の頭の中を嫌《いや》な想像《そうぞう》が駆《か》け巡る。宝貝の在《あ》り処《か》を隠《かく》すという行動は、虎《とら》と狼《おおかみ》の逆鱗《げきりん》にチョッピリ触《ふ》れる気がした。
しかし、本当に知らないのだ。言《い》い訳《わけ》をする前に冷《ひ》や汗《あせ》がダラダラと流れる。
「ありゃ、これかな? 卓《たく》の下に落ちていたが?」
冷や汗は安堵《あんど》の汗になり、どちらにしろ桂双の体は汗だらけになった。額《ひたい》のタンコブに汗が染《し》みてヒリヒリする。
卓の上に置かれたのは、小さな白い筆《ふで》だった。宝貝と呼ぶには、あまりにも可愛《かわい》らしい筆である。それでも、虎蘭《こらん》は用心深く筆を手に取った。
狼憂は素直《すなお》に桂双に頭を下げた。
「すまん。疑《うたが》ったりして。おわびに、今度は手首だけで勘弁《かんべん》してあげよう」
簡単《かんたん》だが恐《おそ》ろしく硬《かた》い結《むす》び目《め》で、桂双の手首は後《うし》ろ手《で》に括《くく》られた。
「もがくと締《し》まるから、静かにしろよ。
しかし、それが本当に宝貝か? 筆は筆でも、そいつは化粧用《けしょうよう》の筆じゃないのか? 眉《まゆ》を塗《ぬ》ったり、頬紅《ほおべに》を散《ち》らしたりするやつじゃないか。夫婦《ふうふ》になってから、あんまり使わないよな、虎蘭お嬢《じょう》さま」
筆をもてあそぶ虎蘭の背中が、一瞬《いっしゅん》ビクリとした。続いて女の顔に驚愕《きょうがく》の表情《ひょうじょう》が浮かんだ。
「本物よこれ!」
「虎蘭や。なんで本物だと判《わか》る? お前は宝貝を前に見た覚《おぼ》えでもあるのか?」
「違《ちが》う! 筆が教えてくれたのよ!
自分の能力に略歴《りゃくれき》、使い方、名前に欠陥《けっかん》までもよ。
名前は照双筆《しょうそうひつ》。幾《いく》つかの失敗作を経《へ》て造《つく》られた、変化術《へんげじゅつ》の宝貝の完成品! 変化術の宝貝はこの照双筆の完成をもって、終了《しゅうりょう》したんだって!」
和穂には思い出すところがあった。
「そういえば、龍華《りゅうか》師匠《ししょう》は変化の術が苦手《にがて》で変化術に係《かか》わる宝貝も、あんまり出来《でき》がよくなかったんです。
まさか、完成品があったなんて」
只《ただ》一人、狼憂だけは疑心暗鬼《ぎしんあんき》だった。
「いまいち、信用《しんよう》出来ないな。どれ、貸《か》してみな」
百の説明よりも、触《さわ》る方がいいだろうと、虎蘭は照双筆を手渡す。狼憂の背筋《せすじ》も一瞬ビクリとしたが、彼は慎重《しんちょう》だった。
「なるほど。だがな、虎蘭よ。これだけで信用したんじゃ、甘《あま》いぜ。実際に使えるか調べてみないとな。……そうだな」
照双筆を狼憂は自分の顔に使った。変化術の宝貝ならば、実際《じっさい》に変化させてみるに限《かぎ》る。
さらさらと筆は走り、狼憂の周囲《しゅうい》が突然《とつぜん》爆発《ばくはつ》した。
「あんた!」
煙《けむり》は朝もやのように、すぐさま晴《は》れ、そこには和穂がいた。
顔は勿論《もちろん》、体格《たいかく》から服装《ふくそう》まで全《まった》く和穂と同じ姿《すがた》をしている。虎蘭と和穂は呆気《あっけ》にとられるが、狼憂本人だけはすぐに実感が湧《わ》かなかった。
が、自分の指先がほっそりとした女のものになっているのを見、変化が実現したのを知った。
「これは! よし虎蘭、俺はちょっと水浴《みずあ》びをしてくるぞ!」
途端《とたん》に虎蘭の張《は》り手《て》が、狼憂が化《ば》けた和穂の頬《ほお》に炸裂《さくれつ》した。身も疎《すく》むような断崖絶壁《だんがいぜっぺき》から転《ころ》げ落ちたとてつもなく巨大《きょだい》な牛《うし》が、海面《かいめん》に叩《たた》きつけられるような音がした。
爆煙《ばくえん》を上げながら狼憂は吹《ふ》き飛《と》び、変化は解《と》かれた。
「ぶべっ! ほんの冗談《じょうだん》だろうに」
「冗談が年寄《としよ》りくさいわよ!」
自分が殴《なぐ》られたのではないが、自分と同じ姿をしたものが、あれだけの勢《いきお》いで殴られたのだ、和穂は思わず涙目《なみだめ》になり、自分の頬を摩《さす》った。
「い、痛《いた》そう!」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ、あれぐらい」
そうだ、それよりも早く殷雷《いんらい》を元に戻《もど》さねばと和穂は思い出した。
「それじゃ、照双筆の能力で殷雷は桂双《けいそう》さんの姿になってるんですね……でも、どうして元に戻らないんです?」
虎蘭は狼憂を手招《てまね》きする。
「照双筆には欠陥《けっかん》があるでしょ。それがこれなのよ」
狼憂の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、虎蘭はサラサラと照双筆で狼憂の顔に細工《さいく》をした。
またしても爆発が起こり、狼憂は再《ふたた》び和穂となった。
それの何が欠陥なのか和穂には判《わか》らない。
「それがどうしたんです?」
「それがどうしたんです?」
二人の和穂は同じ声で同じ質問をした。狼憂がふざけているのかと和穂は思ったが、そうではなさそうだ。
二人の和穂の中で疑問《ぎもん》が渦巻《うずま》く。困《こま》っている時の自分はこんな顔をしているのかと、本物の和穂は少し照《て》れた。
二人の和穂を見て、虎蘭は言った。
「自分で変化《へんげ》をしたのなら、これに欠陥はない。けど、他人に変身させられれば自分が何であるかを忘れてしまう……いや、正確には魂《たましい》までも複製《ふくせい》されちゃうのよ」
腕《うで》を縛《しば》られていた桂双が口を挟《はさ》む。
「自分に変化する意思《いし》がないと、変身行為《へんしんこうい》に精神《せいしん》が巻き込まれるんだ」
狼憂の和穂は大きくうなずく。
「へえ、そうなんですか。あ! それじゃ殷雷は無理やり変身させられたから、自分が殷雷だって判らなくなっちゃってるんだ」
まさに完璧《かんぺき》な変化であったが、自分の旦那《だんな》が完璧にこなす娘《むすめ》の姿に、虎蘭の顔が引きつる。
本物の和穂が続いて喋《しゃべ》る。
「でも、狼憂さんを私に変えたって事は、元に戻す方法も判ってるんですよね」
虎蘭は卓《たく》を見回す。和穂と桂双が二人ずついる卓は壮観《そうかん》と言えば壮観だったが、かなりややこしい状況《じょうきょう》だった。
「そうよ。馬鹿《ばか》みたいだけど、こうすれば変化は解《と》けるって照双筆《しょうそうひつ》は教えてくれた」
むんずと狼憂の和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、虎蘭は力任《ちからまか》せに揺《ゆ》さぶった。
「いい? あんたは和穂じゃなくて、狼憂なのよ!」
「なに言ってるんですか。私は和穂です」
「いいや違《ちが》う、狼憂、狼憂狼憂狼憂」
名前を繰《く》り返《かえ》すだけだが、それが呪文《じゅもん》であった。自分の名前。それがたとえ変身の呪縛《じゅばく》の中でも本来《ほんらい》の自分を呼《よ》び覚《さ》ます。
またしても爆発が起き、途端《とたん》に狼憂は元の姿に戻る。
「あれ? 俺《おれ》はどうしたんだ?」
「いいから黙《だま》ってなさいよ。
ま、そういう事。髪《かみ》の長い兄《にい》ちゃん……殷雷だっけ? 彼の名前を繰り返し耳元で唱《とな》えれば元に戻る」
安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》が和穂の口から漏《も》れた。
後ろ手の桂双が文句《もんく》を挟《はさ》む。
「待《ま》て! むざむざ宝貝《ぱおぺい》を返す必要なんかないんだぞ! その小娘《こむすめ》が幾《いく》つか宝貝を持ってるはずだ。そいつを倒せば、お前たちにも宝貝が手に入るんだ!」
虎蘭はポンと手をうった。
「言われてみれば、それもそうね。和穂ちゃんと桂双さんを倒すのなんて簡単《かんたん》だものね」
「そうだな虎蘭。そうするか?」
桂双の顔から血の気がひいた。手首を縛《しば》られた桂双に、狼憂が迫《せま》り虎蘭は和穂の前に立ちふさがった。桂双はわめく。
「わわわ判った。照双筆は渡《わた》すから命だけは助けてくれ!」
ゆるりと虎蘭は和穂の胸ぐらを掴む。
が、和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「怖《こわ》がったりしませんよ、虎蘭さん。冗談《じょうだん》なんでしょ? 静かに生きるのに、宝貝なんか必要ないですもん」
狼憂は両手を上げた。
「若いのにたいした眼力《がんりき》だ。俺たちがもう望《のぞ》む物は全《すべ》て手に入れてると見抜《みぬ》くとはな。
宝貝なんて余分《よぶん》な物は欲《ほ》しくない。欲しいのは日常と、たまの刺激《しげき》だ。和穂お嬢《じょう》ちゃんよ、あんたにゃ悪いが、今回の騒動《そうどう》はいい刺激になったぜ」
和穂は首を横に振り、冷《ひ》や汗《あせ》を流す桂双を横目に、卓にうずくまる桂双に語りかけた。
「しっかりして殷雷《いんらい》。あなたは殷雷、刀《かたな》の宝貝なのよ。あなたの名前は殷雷。殷雷|刀《とう》よ。思い出して。殷雷、殷雷、殷雷」
「さて、あとはこいつを役人に引き渡して、そいつがポンと弾《はじ》けて元の兄ちゃんに戻《もど》ればめでたしめでたしだ」
和穂は何度も、殷雷の名を繰《く》り返した。
が、桂双はいつまでたっても桂双のままであった。
半刻《はんこく》(一時間)後。
状況《じょうきょう》がかなりやばくなったと、桂双は肌《はだ》で感じた。気の抜《ぬ》けた桂双は、いつまでも桂双で殷雷には戻らない。
これこそ最後の手段だと、照双筆が狼憂の手でへし折《お》られてからも、かなりの時間が経過《けいか》していた。
しかし、それでも変化《へんげ》は解《と》けなかった。照双筆が壊《こわ》れても、変化そのものは解けなかったのだ。
腹《はら》の中のどこかに余裕《よゆう》を見せていた、虎蘭《こらん》と狼憂の顔からも笑《え》みが完全に消えていた。
和穂は完全に青ざめ、何度も殷雷の名を呼ぶが状況は変わらなかった。
八《や》つ当たりの矛先《ほこさき》が、いつ自分に向けられるかと思うと桂双は気が気ではない。
「ちょっと、ちょっと殷雷。本当にしっかりしてよ!」
非力《ひりき》な娘《むすめ》とはいえ、これだけ長い間|揺《ゆ》さぶられ続け、桂双の顔からは、さらにしまりがなくなっていく。
「…………」
軽く握《にぎ》った拳《こぶし》で、コンコンと虎蘭は頭を叩《たた》いた。
「こりゃやばいね」
狼憂は言った。
「あ、照双筆を使って、もう一度この桂双を殷雷に変化させりやよかったんだ」
妙案《みょうあん》だった。この提案《ていあん》の前に、照双筆を壊《こわ》せば殷雷は元に戻ると力説《りきせつ》して実行さえしなけりゃ惚《ほ》れ直《なお》していたのにと、虎蘭は呻《うめ》く。
卓の上の照双筆は、真《ま》っ二《ぷた》つに折られている。
「先に言いなさいよ、あんた!」
「殷雷ぃぃ。元に戻って!」
ついでに後《うし》ろ手《で》の桂双も叫《さけ》ぶ。
「俺のせいじゃないぞ! 逃《に》げる為《ため》の時間|稼《かせ》ぎぐらいのつもりで、照双筆を使ったんだからな!」
叫びの後には、重い沈黙《ちんもく》が流れた。
打つ手をなくした和穂は、惚《ほう》けたままの桂双の顔を抱《だ》き締《し》めた。
もはや祈《いの》りしか頼《たよ》れるものがない和穂は、桂双の髪《かみ》を優《やさ》しく撫《な》でて言った。
「お願い……」
和穂の瞳《ひとみ》から一筋《ひとすじ》の涙《なみだ》が零《こぼ》れ、桂双の髪に触《ふ》れた。
その途端《とたん》、桂双は和穂の手を優しく解《ほど》き、立ち上がった。タンコブをこしらえている桂双も自分の事なのか他人事《ひとごと》なのか、少し混乱《こんらん》しながらも、もう一人の自分の行動を見る。
今までの虚《うつ》ろな瞳に、少しばかり輝《かがや》きが戻っているようだった。祈りは通じたのかと、狼憂と虎蘭も息を呑《の》んだ。
和穂と宿屋夫婦《やどやふうふ》、そしてタンコブの桂双の注目《ちゅうもく》を浴《あ》び、桂双は言った。
「いや。私は桂双だ」
舌打《したう》ちしながら虎蘭と狼憂は、和穂から桂双をひっぺがし、その拳を桂双の顔に炸裂《さくれつ》させ二人で同時に叫ぶ。
「ここで、元に戻れば盛《も》り上がるのに!」
もう一人の桂双のようにタンコブは出来《でき》なかったが、それでも痛《いた》いものは痛い。
「んな事言われても!」
和穂は力をなくし、フラフラと石畳《いしだたみ》の上にへたりこんだ。
狼憂と虎蘭は加減《かげん》しながらも、タンコブのない方の桂双をポカポカ殴《なぐ》った。
「ほれ、可哀《かわい》そうじゃないか、こんなに落ちこんで!」
「でも、私は桂双で殷雷じゃない!」
「くあ! いつまでそんな意地《いじ》を張《は》るか」
意地ではないと知りつつも、夫婦は八《や》つ当たりを続けた。
と、その時。和穂がふいに笑い始めた。屈託《くったく》のない明るい笑顔に、さすがの宿屋夫婦の背筋《せすじ》にも冷たいものが走った。
「しっかりしな。あんたがしっかりしなくてどうする!」
和穂は涙を拭《ふ》いた。それは悲しみの涙ではなく、笑いの涙だった。
「はっはは! 簡単《かんたん》な話じゃないですか。さっき虎蘭さんは狼憂さんを、私に化《ば》けさせましたよね」
「そうだけど」
「あの時の狼憂さんて、やる事まで私にそっくりだったでしょ」
姿形《すがたかたち》は当然《とうぜん》とし、言葉や考えかたまでも確《たし》かに一緒《いっしょ》であったと虎蘭は思い出す。あの時の狼憂は魂《たましい》まで本物の和穂を写《うつ》していた。
和穂は続けた。
「でも、この二人の桂双さんが似《に》ているのは姿だけです。行動《こうどう》は全然《ぜんぜん》似ていません。だから……」
あっと、虎蘭は理解《りかい》したが、狼憂には判断《はんだん》がつかない。
「それがどうしたんだい、お嬢《じょう》ちゃん」
「完全な複製《ふくせい》が出来るはずなのに、本物と複製の行動が違《ちが》うんですよ。
それはどういう時に可能かと言えば」
狼憂も答えに辿《たど》り着《つ》いた。
「! 本物の方が普段《ふだん》と違う行動を取っている!」
和穂はうなずき、虎蘭たちは一斉《いっせい》に桂双を指差した。立ち上がった桂双ではなく、後ろ手に括《くく》られたタンコブの桂双の方だ。
そして、三人は言った。
「こっちが、殷雷だ!」
「な、なんだと俺《おれ》は、俺は、俺は……」
途端《とたん》、タンコブの桂双は爆発に包《つつ》まれた。
爆煙《ばくえん》の中から、殷雷は姿を現《あらわ》した。立ち上がっていた桂双は両手を上げる。
「判《わか》った。私の負けだ」
殷雷は卓《たく》に座《すわ》ったまま、えんどう豆の莢《さや》を剥《む》いていた。彼の記憶《きおく》は、桂双が照双筆《しょうそうひつ》を使った時点から途絶《とだ》えていた。ゆえに、自分の額《ひたい》になぜ、タンコブがあるのか殷雷には理解出来なかった。
「……ともかく、こいつら二人に世話《せわ》になったのは判《わか》ったぞ和穂」
和穂は厨房《ちゅうぼう》の中で芋《いも》の皮を剥く。意外と器用《きよう》に包丁《ほうちょう》を扱《あつか》っている。
「でしょ。二人が助けてくれなきゃ、もっと厄介《やっかい》な事になってた。お礼《れい》はしなくちゃね」
「判っているが、和穂。なんで謝礼《しゃれい》の金《かね》を包むんじゃ駄目《だめ》なのだ?」
虎蘭と狼憂は、殷雷と同じ卓の上で、チビチビと酒を呑《の》んでいた。
虎蘭は言った。
「やるべき仕事をやらずに済《す》むのが、楽しいんじゃないの。金なんかいらないから、夕飯《ゆうはん》の準備《じゅんび》を頼《たの》むよ」
殷雷が切り返す。
「だから、謝礼の金で二、三日|休養《きゅうよう》でもすりゃ」
狼憂は酒をあおる。
「休むんじゃなくて、さぼるのが楽しいんだよ。兄《にい》ちゃん、まだまだ若いな。
ほら、虎蘭。もう一杯《いっぱい》いきな」
『照双筆』
他人に化《ば》ける為《ため》の宝貝。龍華《りゅうか》はこの能力《のうりょく》を持つ宝貝を幾《いく》つか製造《せいぞう》したが、照双筆をもってほぼ完成の域《いき》に達《たっ》した。
場合により、変化《へんげ》の対象人物《たいしょうじんぶつ》の人格《じんかく》まで複製《ふくせい》してしまう欠陥《けっかん》を持つ。
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揺《ゆ》るぎなき誓《ちか》い
「和穂《かずほ》、僕《ぼく》が宝貝《ぱおぺい》だ」
少年は優《やさ》しく微笑《ほほえ》みながら、道服《どうふく》の娘《むすめ》、和穂にそう告《つ》げた。
少年といっても、子供ではない。青年と少年の丁度《ちょうど》境界《きょうかい》のような年頃《としごろ》だった。
どことなく中性的な雰囲気《ふんいき》がある華奢《きゃしゃ》な少年であったが、その体を形作る骨格《こっかく》は男性のものであった。
長い髪《かみ》ではなかったが、柔《やわ》らかい髪質なのか、弱い風にもゆっくりとそよいでいる。
細身《ほそみ》であるが、病的な感じは一切《いっさい》ない。その為《ため》、彼の白髪《はくはつ》は銀髪《ぎんぱつ》にしか見えなかった。
少年は林の中にいた。
林といっても、深いものではなかった。どうにか日射《ひざ》しは遮《さえぎ》っていたが、深い林の持つ独特《どくとく》の湿《しめ》り気《け》まではなかった。
草も踏《ふ》み固《かた》められていて、恐《おそ》らく地元《じもと》の人間が近道として使っている場所なのだろう。
少年の笑顔《えがお》は、真の笑顔と言えた。善意《ぜんい》にしろ悪意《あくい》にしろ、喜《よろこ》びにしろ自棄《やけ》にしろ、理由のある笑顔とは違《ちが》っていたのだ。真の笑顔の前に、和穂は少し気を呑《の》まれた。
「ええと、あの、その、それじゃ回収《かいしゅう》させてもらいます」
和穂も少女と娘の境界に立っているような年頃だったが、少年がギリギリに少年であるように、和穂はギリギリに娘であった。
まだ幼《おさな》さが残る顔には意志《いし》の強さを表《あらわ》す、しっかりとした眉毛《まゆげ》が、のっている。
ほっそりした顎《あご》の少し上には、どんな口紅《くちべに》でも作れないような、淡《あわ》い紅色《べにいろ》をした唇《くちびる》があった。彼女の細い指は、耳につけられた小さな耳飾《みみかざ》りに添《そ》えられたままであった。
少年の正体《しょうたい》が少年ではなく、和穂の正体も普通《ふつう》の人間と、少し違《ちが》うように、その耳飾りも尋常《じんじょう》の耳飾りではなかった。
耳飾りの名は索具輪《さくぐりん》。地上にある宝貝の在《あ》り処《か》を示《しめ》す宝貝であった。
仙人《せんにん》が造《つく》り出した、神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼《よ》ぶ。仙人が己《おのれ》の仙術《せんじゅつ》をもって造った道具である。宝貝は尋常ならざる能力を持っていた。
宝貝の在り処を探《さぐ》る索具輪であったが、索具輪は少しばかり精度《せいど》に問題があった。
近くに宝貝があると、和穂に示してはいたが、実際《じっさい》にどれが宝貝かまでは教えていなかったのだ。
林の中には、少年以外にも小道を行く人の姿《すがた》があった。キョロキョロと周囲《しゅうい》を見回す和穂に対して少年は、先に自分の正体を語ったのであった。
「さっさと、自分の正体を白状《はくじょう》するとはいい心掛《こころが》けじゃねえか」
和穂の後ろに立つ青年が口を開いた。青年の名は殷雷《いんらい》。男にしては長い黒髪《くろかみ》を持ち、髪と同じような黒い袖《そで》付きの外套《がいとう》を羽織《はお》っている。肩《かた》には銀色の棍《こん》を担《かつ》いでいた。
それほど低い声ではなかったが、相手を圧倒《あっとう》するような気迫《きはく》に満ちた声だった。
その声に負けないように、眼光《がんこう》も鋭《するど》かった。大柄《おおがら》な男ではなかったが、そのたたずまいは一目見るだけで、殷雷が武人《ぶじん》であると物語《ものがた》っていた。
少年が自分は人間ではなく宝貝であると告《つ》げても、殷雷と和穂は少しも不思議《ふしぎ》には感じなかった。当の殷雷も、その本性《ほんしょう》は殷雷|刀《とう》という刀《かたな》の宝貝だったのだ。幾《いく》つかの宝貝は人間の姿をとる能力を持っていた。
少年は殷雷に目をやるが、その笑顔は和穂に向けたものと全《まった》く変わっていなかった。
「僕たち宝貝を地上にばらまいてしまった和穂仙人は、責任《せきにん》を感じて自分の仙術を封《ふう》じて宝貝回収の旅に出た。というのは本当の話だったんだね。
仙術の使えぬ和穂には殷雷刀が護衛《ごえい》についているというのも本当なんだ。そっちの人が殷雷なんだろ?」
和穂はこくりとうなずいた。後頭部《こうとうぶ》で括《くく》った彼女の髪が揺《ゆ》れた。
和穂は索具輪から手を離《はな》し、腰《こし》につけたひょうたんを外《はず》した。
ひょうたんもまた、断縁獄《だんえんごく》という宝貝であった。宝貝、断縁獄の中に和穂は宝貝を回収しているのだ。
ひょうたんを持ちつつ、和穂は言った。
「あの、お名前を教えていただけますか?」
少年はうなずき、答えた。
「僕の名は帰書文《きしょぶん》。悪いけど、回収される訳《わけ》にはいかないんだ」
和穂の肩に手を置き、彼女を下がらせて殷雷が一歩前に出た。
「よく判《わか》らん奴《やつ》だな。自分が宝貝だとさっさと白状した割にゃ、回収されるつもりはないだと? 見たところ武器の宝貝じゃないんだろ。力ずくで回収されたいか!」
何かが少し奇妙《きみょう》だと和穂は感じた。
今までに何度も繰《く》り返《かえ》した宝貝回収だが、いつもと少し違っている。
目の前にいる少年の正体が宝貝なのは、間違《まちが》いなさそうだ。
だが、肝心《かんじん》の使用者《しようしゃ》の姿がどこにも見当《みあ》たらないのだ。
いかに仙人が造《つく》り、尋常《じんじょう》ならざる能力を得たとはいえ、宝貝もまた道具である。
誰《だれ》かに使われたいという、道具の業《ごう》を持っているのであった。
今までの回収では、一度の例外《れいがい》もなく、宝貝は宝貝の使い手と共《とも》に居《い》たのだ。
和穂は尋《たず》ねた。
「帰書文さん。あなたの使用者は、どこに居《い》るんです」
殷雷も同じ疑問《ぎもん》を感じていたのか、口を挟《はさ》まず帰書文の返答《へんとう》を待った。待ちながらもその瞳《ひとみ》は、隙《すき》なく少年を見つめていた。
帰書文は、ゆっくりと目の前の土の塊《かたまり》を指差《ゆびさ》した。
大きな鰻頭《まんじゅう》のような形をした土の塊、それは墓《はか》でしかなかった。作られてからまだ数日も経《た》っていないのか、土はまだ乾燥《かんそう》してはいなかった。
驚《おどろ》く和穂たちに、帰書文は言った。
「僕の使用者はこの人だ。
僕の能力を知らずに僕を使った。でも、亡《な》くなっちゃった」
和穂は言った。
「亡くなられた?」
「そう。でも勘違《かんちが》いしないでね。盤達《ばんたつ》は誰かに殺されたとか、そういうんではないんだ。
年老《としお》いて体が弱ったところに、厄介《やっかい》な病気を背負《せお》いこんでしまったんだ。
たいして苦しまないうちに死んだのは、幸《しあわ》せだったと言うべきだろうね」
使用者を誰かに殺され、その仇《かたき》を討《う》ちたがっているのでもない。殷雷は、少し焦《じ》れた。
「なら、さっさと回収されちまえ」
帰書文はうなずく。
「でも、盤達の為《ため》にも回収される訳にはいかないんだ」
仇討ち以外の理由があるのだろうか。軽く溜《た》め息《いき》を吐《つ》き、殷雷は棍《こん》を構《かま》えた。
「気持ちは判《わか》らんでもないが、死んだ使用者に義理立《ぎりだ》てしてどうする」
真の笑顔が少し崩《くず》れ、帰書文の笑顔が悪戯《いたずら》っぽいものに変わる。
「刀《かたな》の宝貝なのに、情《じょう》に脆《もろ》い欠陥《けっかん》を持つという殷雷刀の言葉とも思えないじゃないか。きみの欠陥は有名だからねえ」
殷雷は挑発《ちょうはつ》には乗らなかった。それ以前に帰書文に挑発する考えがあったのかも定《さだ》かではない。
「義理立てするなというのは、一般論《いっぱんろん》だ。
だがな、使用者がいないのに、地上をふらついてどうする」
帰書文は真の笑顔で言った。
「勘違いしているよ、殷雷。僕は盤達に義理立てしてるんじゃない。自分の宝貝としての機能《きのう》を全《まっと》うしたいだけだ」
舌打《したう》ちしながら殷雷は切り返す。
「お前の言葉は、いまいち理解《りかい》に苦しむが、抵抗《ていこう》するなら力ずくで回収させてもらうだけの話だ」
帰書文は首を横に振った。
「無理《むり》だ。きみに僕は破壊《はかい》出来《でき》ない」
殷雷の唇《くちびる》が上向《うわむ》きに引きつり、笑顔を作った。
「け。珍《めずら》しく素直《すなお》な宝貝かと思ったが、慇懃無礼《いんぎんぶれい》というやつか。こちとら、刀の宝貝なんでね。気勢《きせい》が乗れば、鎧《よろい》の宝貝とて叩《たた》き斬《き》れるんだ! いくぞ和穂!」
「ちょっと待ってよ! 事情《じじょう》を教えてもらおうよ!」
「うるせい。武具《ぶぐ》の宝貝でもないくせに、俺《おれ》の刃《やいば》が通用しないとほざいてるんだ。ちょいとばかし、お手合《てあ》わせ願《ねが》おうじゃないか」
殷雷は銀色の棍を軽く宙《ちゅう》に放《ほう》り投げ、後ろに飛びすさった。
飛びすさりながら、彼の体を爆煙《ばくえん》が包《つつ》み込んでいく。殷雷の体が消えた瞬間《しゅんかん》に、煙《けむり》の中から現《あらわ》れた一振《ひとふ》りの刀を和穂は慌《あわ》てて掴《つか》む。
この刀こそが殷雷刀であった。
あたふたとした和穂の動きが、殷雷刀を握《にぎ》った途端《とたん》に達人《たつじん》の動きに転じた。
断縁獄《だんえんごく》を握ったままの左手を器用に操《あやつ》り、殷雷刀の鞘《さや》を抜《ぬ》く。鞘を抜く動作自体が、既《すで》に斬撃《ざんげき》動作の一部であった。
鞘から抜かれた時には斬撃速度は、神速《しんそく》の域《いき》に達し、そのまま迷《まよ》いなく帰書文に刃を叩きこもうとした。
少年の笑顔に変わりはない。
帰書文には、この素早《すばや》い一撃《いちげき》が見えていないと殷雷は判断《はんだん》した。
刹那《せつな》に生きる殷雷の動きに合わせ、和穂の思考《しこう》も加速《かそく》されていた。
心を通じて、和穂は殷雷に言った。
『殷雷、無茶《むちゃ》はしないでよ!』
『心配するな。頬《ほお》の皮一枚ぐらいしか傷つけやしねえよ』
殷雷刀の刃が少年の頬に触《ふ》れた。
刃と頬の衝突《しょうとつ》が、巻き起こす轟音《ごうおん》よりも先に、殷雷は少年の言葉が真実だと知った。
『馬鹿《ばか》な! 俺の刃じゃ斬れないだと!』
殷雷刀は少年の体に弾《はじ》かれた。にわかに信じられない殷雷は、二度、三度と少年に攻撃《こうげき》を加えた。が、結果《けっか》は同じだった。
殷雷は和穂を背後《はいご》に飛びすさらせ、間合《まあ》いを離す。凝縮《ぎょうしゅく》された時間は、ゆっくりと通常の時間へと戻《もど》っていく。
殷雷刀が仕掛《しか》け、弾かれた三つの攻撃の衝突音が、今になってやっと周囲《しゅうい》に轟《とどろ》く。
それから、宙に投げられていた銀色の棍《こん》が地面に落ちた。
棍を見つめ、和穂は言った。だが、和穂の声を操《あやつ》っているのは殷雷だった。
「お前の面《つら》に擦《す》り傷《きず》を負《お》わせて、その棍が他面に落ちる前に拾《ひろ》うつもりだったんだがな」
帰書文は言った。
「僕には宝貝《ぱおぺい》としての欠陥《けっかん》が二つあるんだ。
普通《ふつう》の宝貝は、使う前に所持者《しょじしゃ》に自分の能力を伝《つた》えられるだろ。生憎《あいにく》、僕にはその能力がない」
和穂の体は、殷雷に支配されているのではない。あくまでも主導権《しゅどうけん》は和穂にあり和穂が望《のぞ》まない限《かぎ》り、殷雷は和穂を操る訳《わけ》にはいかない。戦闘《せんとう》を殷雷に任《まか》せると決めたら、後は自分の体の力を抜けばいいのであった。
だが今、和穂は自分の体に奇妙《きみょう》な緊張感《きんちょうかん》があると感じた。それが、殷雷の緊張感であるとはすぐには気がつかなかった。
『どうしたの殷雷?』
『……あいつは何者だ? 恰好《かっこう》をつけてみたが、俺の刃で折れない物もそりゃ存在《そんざい》する。
だがな、一度でも打ち込めば、斬れない理由は判《わか》るんだ。あと、どれだけ鋭《するど》ければ斬れるか、どれだけ斬撃《ざんげき》に重みをかけたら、斬れるかなんてのも判る。
……判らん。奴の硬《かた》さが全然《ぜんぜん》判らん』
帰書文は言葉を続けた。
「もう一つの欠陥は、僕が強すぎる事だろうな。龍華《りゅうか》は僕を恐《おそ》れたんだ。龍華とて僕を簡単《かんたん》に止められはしないだろう」
和穂は生唾《なまつば》を飲《の》み込《こ》んだ。
龍華。和穂の師匠《ししょう》にして、この地上にばらまかれた宝貝の制作者《せいさくしゃ》でもある仙人《せんにん》の名前だった。
龍華でさえ彼を止められないとは、殷雷の斬撃どころか、龍華の仙術《せんじゅつ》すら通用しないと語っているのだ。殷雷は軽口《かるくち》を叩《たた》いた。だが、その声は心なし上擦《うわず》っていた。
「へん。自分は無敵《むてき》で最強の宝貝だとでも、ほざきたいか!」
「そう言ってもいいかもしれないが、あんまり意味はない。
僕は他の宝貝とは、ちょっとばかり質が違うんだ。上等《じょうとう》だ、下等《かとう》だなんて言ってるんじゃないよ。殷雷|刀《とう》と僕では、宝貝としての意味が違うんだ」
和穂は帰書文の声に、わずかな悲しみを感じた。
強い弱いで言えば、帰書文はとてつもなく強いのだろう。だが、だからといって少年の願《ねが》いが叶《かな》うかと言えば、そうではないのかもしれない。
殷雷刀ですら全《まった》く歯が立たず、龍華でさえ自分を止められないと、少年は語ったのだ。
誰《だれ》も彼を止められない。
が、止められないとしても、目的地に到達《とうたつ》出来るかどうかは別の問題なのだろうと、和穂は考えた。
和穂は殷雷刀を鞘《さや》に収《おさ》めた。
「帰書文さん。話を、聞かせてもらえますか?」
少年はコクリとうなずいた。
夕明《ゆうめい》は凄腕《すごうで》の商人《しょうにん》であった。
二十歳《はたち》過ぎの娘《むすめ》の商人としては、尋常《じんじょう》ならざる資産《しさん》を得ていた。確《たし》かに、彼女の商売《しょうばい》は一から始めたものではなく、彼女の親から引《ひ》き継《つ》いだものであった。
だが、引き継いだ商売の規模《きぼ》を、彼女は僅《わず》か数年の間に何倍にも拡張《かくちょう》していたのだ。これを才能《さいのう》と言わずしてなんと言う?
商売の駆《か》け引《ひ》きに、生きがいを感じる夕明は、強欲《ごうよく》な商人というより、真剣勝負《しんけんしょうぶ》に生きる勝負師《しょうぶし》の気迫《きはく》に満《み》ちていた。
市《いち》が立つ町中《まちなか》を夕明は、フラリとうろついていた。たまの休日である、気に入った服や小物でもあれば買おうと考えていたのだ。
商売の才能と一脈《いちみゃく》通じるのか、高価だから価値《かち》があるような服に彼女は興味《きょうみ》を示《しめ》さなかった。価値があるから高価な服には、彼女は金に糸目《いとめ》をつけなかったのだ。
結果として、夕明の服の趣味《しゅみ》はかなり良かった。体につけている装飾品《そうしょくひん》で、一番|目立《めだ》つのは耳に付けた翡翠《ひすい》の飾《かざ》りであったが、それとて論外《ろんがい》に高価な代物《しろもの》ではない。
そんな夕明に声が掛《か》かった。
「こんにちは、夕明さん。
御無沙汰《ごぶさた》してます、帰書文です」
夕明が振り返ると、そこには一人の少年が立っていた。夕明は心の中で舌打《したう》ちした。商売でそこそこ成功《せいこう》を収《おさ》めているのだ、彼女の記憶力《きおくりょく》は確かであった。
少年の顔には見覚《みおぼ》えがあった。つい先日、仕事場に現《あらわ》れた少年だ。
そして、この少年は自分から、借金《しゃっきん》を取り立てようとしたのだ。
夕明は商売用の笑顔《えがお》ですっとぼけた。
「あら、どなたでしたっけ?」
帰書文は頭を掻《か》きながら、以前に会った時にした説明を繰《く》り返《かえ》した。
「あれ、忘れてましたか。まあ、いいです。
それじゃもう一度説明しますね。
夕明さんは、盤達《ばんたつ》さんからお金を借《か》りましたね?
金額《きんがく》はキッチリ百万|源《げん》です。内訳《うちわけ》は九十八万源に利息《りそく》が二万源。返済《へんさい》が半年|遅《おく》れるごとに、二万源の利息がつきます。
そういう契約《けいやく》のはずでしたね?」
すっとぼけた笑顔の中で、夕明の頭脳《ずのう》は素早《すばや》く回転《かいてん》を始めた。
そう。この少年の言葉は真実だった。
あれは数か月前、とっくに隠居《いんきょ》を決め込んだ、元《もと》商人の盤達から金を借りた。その前より夕明はちょっとした情報《じょうほう》を仕入《しい》れていた。わずかに体調を崩《くず》した盤達は、医者《いしゃ》にかかっていたのだ。
夕明は医者から情報を買った。
高齢《こうれい》の盤達の体力から考えて、このまま病気が癒《い》えるとは考えにくく、治療《ちりょう》を続けたところで後《あと》、半年も生《い》き延《の》びられはしないと医者は語っていた。その事実を、医者は盤達自身には告《つ》げていない。
そこで夕明は、医者に口止《くちど》めをし、盤達に借金を申し込んだのだった。盤達に家族はおらず遺産《いさん》を相続《そうぞく》する者もいないはずだった。
夕明は軽く呟払《せきばら》いして、世間話《せけんばなし》を装《よそお》い帰書文に探《さぐ》りを入れた。
「ところであなたは、盤達さんの親類《しんるい》か何かですの?」
ブンブンと帰書文は首を横に振《ふ》った。
「いえ違《ちが》います」
「盤達さんは、身寄《みよ》りがなかったそうですねえ」
「はい」
さてどうする? 夕明の頭の中を、借金に関係する、あまたの法律《ほうりつ》が駆《か》け巡《めぐ》った。
色々《いろいろ》細《こま》かい部分を考慮《こうりょ》にいれても、盤達の遺産を受《う》け継《つ》いだ者がいない限り、あの借金は法律上、消滅《しょうめつ》したも同然《どうぜん》だ。
夕明の分析《ぶんせき》は、戦闘《せんとう》に際《さい》しての武人《ぶじん》の分析に通じるものがあった。
形は違うにしろ、どちらも真剣勝負《しんけんしょうぶ》には変わりなかったのである。
商売の一番|肝心《かんじん》な原則《げんそく》を、夕明は思い出していた。
『払うべき金はさっさと払い、払ういわれのない金は絶対《ぜったい》に払わない』
婦書文は遺産の相続人ではなく、ましてや国の役人でもない。
ここは、とぼけるに限った。
「帰書文さん。あなたのお話は全然《ぜんぜん》理解《りかい》出来ません」
「……法律は知っています。
借金を認《みと》めた上で、返す必要がないと言われるのなら、それはそれで納得《なっとく》出来るんですけどね」
夕明の中にも罪《つみ》の意識《いしき》はあった。最初から借《か》り得《どく》を狙《ねら》って、盤達に借金を申し込んだのに間違《まちが》いはない。さすがに後ろめたい気分がないではなかったが、だいたい、盤達は死んでいるのである。
死んだ人間に金を返してどうなるのだ?
「しつこいですよ。帰書文さん」
夕明が左手を上げると、人ごみの中から、巨漢《きょかん》の男が現れた。
彼は夕明の護衛《ごえい》であった。万が一の時の為《ため》に、休日でも彼女は護衛を付けていたのだ。
その辺《あた》りにぬかりのある女ではない。
「さて坊《ぼう》や。ここは天下の往来《おうらい》で、夕明お嬢《じょう》様に声を掛《か》けるのも勝手《かって》だ。でもな。お嬢様はこれ以上、お話はしたくないんだよ」
護衛の拳撃《けんげき》は小さく鋭《するど》いものであった。
護衛は人間の体が、どれだけの衝撃《しょうげき》に耐《た》えられるか熟知《じゅくち》していた。帰書文程度の体格《たいかく》なら、この一撃で充分《じゅうぶん》身動《みうご》き出来なくなると、護衛は判断し、拳《こぶし》をみぞおちへと走らせる。
ガキン。
護衛は青ざめた。拳は帰書文に命中《めいちゅう》したが鉄板《てっぱん》を殴《なぐ》ったような衝撃が拳に走る。
骨にヒビが入ったのを確信《かくしん》し、呻《うめ》きながら護衛は言った。
「貴様《きさま》、化《ば》け物か!」
「失礼《しつれい》な。人間じゃないだけだよ。
僕《ぼく》は暴力《ぼうりょく》が嫌《きら》いなんだ。借金の取り立てだけど、お金を強奪《ごうだつ》するつもりはないんだ」
護衛の大男のような拳をもろに受けて、帰書文は平気だったのだ。
護衛と同じように夕明も驚《おどろ》いたが、彼女の肝《きも》は護衛よりも据《す》わっていた。
「し、知らないものは知らないわよ!」
喧嘩《けんか》とは少し様子《ようす》の違う騒動《そうどう》に、だんだんと人が集まってくる。
と、その時。
一陣《いちじん》の風のように一人の青年が現れた。
青年の手には一本の銀色の棍《こん》が握《にぎ》られている。
青年は殷雷《いんらい》であった。
殷雷は帰書文に向かい、棍を構《かま》えた。
「むむむ。その気配《けはい》、貴様、妖怪変化《ようかいへんげ》の類《たぐい》であるか!」
帰書文の顔に笑顔が浮《う》かぶが、少年はそれを慌《あわ》てて隠《かく》す。
「ええい、うるさい! お前こそ何奴《なにやつ》!」
「我《わ》が名は殷雷。お前のような化け物を倒す事を生業《なりわい》としている!」
途端《とたん》、殷雷は棍を振り回し、帰書文に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けた。棍と人間がぶつかる音では決してありえない、金属音《きんぞくおん》が周囲《しゅうい》に響《ひび》いた。
護衛の攻撃は全《まった》く平気だった帰書文も、殷雷の攻撃は通用するのか、打たれる度《たび》に足元がフラフラとしていく。
帰書文は笑いをかみ殺し、言った。
「少しはやるようだな。
だが、それじゃ僕を倒《たお》すのは無理だよ」
出来るだけ不自然《ふしぜん》でないように言葉を喋《しゃべ》ろうとすればするほど、帰書文の声は芝居《しばい》じみていった。
だが、棍であれだけ打たれても、それほど効《き》いていない帰書文の異様《いよう》さのせいで、彼の芝居気に気付く者はいなかった。
殷雷が攻撃を仕掛けてどれほど経《た》ったか、挽いて一人の娘《むすめ》が現れた。
娘は和穂《かずほ》だった。和穂の姿《すがた》を認《みと》めて、殷雷は言った。
「おお、我《わ》が相棒《あいぼう》の和穂|道士《どうし》ではないか」
殷雷の言葉も帰書文に負《ま》けず劣《おと》らず芝居じみていたが、攻撃は真剣そのものだったのでやはり気付く者はいない。
殷雷は言葉を続けた。
「すまぬが、この妖怪変化に少々手こずっておるのだ。お前の仙術《せんじゅつ》でこやつを打ち払ってくれはしないだろうか」
和穂の顔が少々引きつった。
殷雷のあまりの芝居|臭《くさ》さに、思わず笑いそうになったのだが、ここで笑う訳《わけ》にはいかなく、顔がついつい引きつってしまうのだ。
「ぷ。
判《わか》りました殷雷。それでは私の仙術をもってその妖怪変化を追っ払ってみせましょう」
さっきは殷雷の言葉に、笑いそうになったが、自分の台詞《せりふ》もかなりのものだと和穂は感じた。
が、今はそれどころではない。
和穂は適当《てきとう》に道服《どうふく》の袖《そで》をバタバタ振り回して、恰好《かっこう》をつけようとするが、どう見ても袖の中に毛虫でも入って慌《あわ》てているようにしか見えなかった。
続いて適当に指を色々な形に動かし、印《いん》を形作るが今一つ、様《さま》にならない。
そして、ゆっくりと呪文《じゅもん》を唱《とな》える。
呪文というより、調子《ちょうし》っ外《ぱず》れの歌にしか聞こえない呪文が炸烈《さくれつ》する。
殷雷の顔も、さっきの自分と同じように引きつっているのが和穂には見えた。
彼も笑いを堪《こら》えているのが判ったが、それはお互《たが》いさまだ。だが、呪文を聞いた途端《とたん》に帰書文は頭を抱《かか》えてのたうちまわった。
「う、うわあ、何という仙術! あ、頭が割れそうに痛《いた》い!」
実際に頭が割れそうに痛いのに、自分の状態《じょうたい》を口に出して喋《しゃべ》る余裕《よゆう》があるのか? という鋭《するど》い疑問《ぎもん》を覚《おぼ》える人間はいなかった。
全体的に異様なのだ。細《こま》かい不自然さは全く目立《まつためだ》たない。
帰書文は頭痛に耐《た》え兼《か》ねたのか、そのまま人ごみの中へ消えていった。
呆気《あっけ》に取られ、キョトンとしていた夕明《ゆうめい》がどうにか口を開く。
「な、なんなんです、あなたたちは?」
和穂が答える。
「はい、見てのとおりの道士です。私の名前は和穂で、こっちは相棒《あいぼう》で武人《ぶじん》をやってる殷雷です」
「娘の道士なんて、見た事もないわよ!」
顎《あご》をさすりながら殷雷が言う。
「この高名《こうめい》なる和穂道士の名前を知らないとな? まあ、腕前《うでまえ》の程《ほど》は今の妖怪との戦《たたか》いで判ったであろう。素晴《すば》らしすぎる、凄《すご》い仙術だったではないか」
恰好はともかく、術が通用していたのは本当だった。それよりも、あの帰書文とは、何なのだ?
「和穂道士! 今の帰書文というのは化《ば》け物なんですか!」
「はい。恐《おそ》らく、何か目的があって、あなたにまとわりついているんだと思います。
心当たりがあるなら、原因《げんいん》を解明《かいめい》したほうが良いと考えますが」
「し、知らないわよ!」
なにせ、百万|源《げん》である。そう簡単《かんたん》に手放《てばな》せる金額《きんがく》ではない。が、このままあの帰書文とかいう化け物にまとわりつかれるのも、夕明は勘弁《かんべん》願いたかった。
「それじゃ、高名なる和穂道士様。和穂道士様なら、あの妖怪を倒《たお》せるんじゃないんですか! お礼はしますから、どうか奴《やつ》を倒してください!」
和穂に夕明は言ったつもりだが、答えは殷雷から返った。金銭関係《きんせんかんけい》の受け持ちはこの男なのだろうかと、夕明は思った。
「妖怪|退治《たいじ》は少々、値段《ねだん》が張るぜ。俺《おれ》と和穂で五十万源ずつ貰《もら》おうか」
夕明の眉毛《まゆげ》がひくつく。
何故《なぜ》、百万源の金を守るのに、百万源も使わねばならないのだ。
「ふざけんじゃないわよ。武人だか道士だか知らないけど、払えるのは二人合わせて一万源が限度《げんど》よ!」
一万源。だいたい四人家族が一か月暮《く》らせるぐらいの金額である。夕明の言葉はちゃんと相場《そうば》を押さえている。殷雷が吠《ほ》えた。
「たったの一万源で働《はたら》けだと? そっちこそふざけんじゃねえぞ」
和穂が殷雷をなだめつつ言った。
「駄目《だめ》だよ、殷雷。困《こま》ってる人の足元を見て高いお金をふっかけちゃ。お金が目的の仕事じゃないんだから。
判《わか》りました、それじゃ一万源で結構《けっこう》です」
金が目的じゃないのなら、ただにしやがれと夕明は思ったが、ここで値切《ねぎ》っている場合ではない。
殷雷は不服《ふふく》そうだった。
「和穂道士が引き受けるのなら文句《もんく》はない。だがな、相手は妖怪だ。どこに住んでるかも判らないから、必然的《ひつぜんてき》にお前の屋敷《やしき》を見張《みは》って現れたところを始末《しまつ》するようになるぞ」
仕事場を兼《か》ねた自宅《じたく》の周《まわ》りをウロチョロされるのは、あんまり気分のいい話ではなかったが、それは仕方《しかた》がなかった。
「……しょうがないわね。
ただし、二週間|経《た》ってもなんの進展《しんてん》もないようなら、お金は払わないからね」
和穂になだめられ、殷雷は怒鳴《どな》るのをやめた。
「まあよかろう。その代《か》わり、寝る場所と食費は面倒《めんどう》みてくれよ。
心配するな、鍋《なべ》の一つでも、貸《か》してくれりゃ、庭先《にわさき》で自炊《じすい》するから」
当然だ。自分と同じ食事をするのなら、食費だけで雇《やと》い賃《ちん》を超《こ》えるかもしれないと、夕明は思った。
和穂と殷雷に、僅《わず》かばかりの胡散《うさん》臭《くさ》さを感じていた夕明だったが、彼女たちにとりたてて妙《みょう》なところはなかった。
たまたま仕事が早く終わったので、夕明は和穂たちの様子《ようす》を見に行く事にした。
庭先に和穂たちはいた。丸い卓《たく》を囲《かこ》んで座《すわ》り呑気《のんき》に茶をすすっている。
夕明は皮肉《ひにく》っぽく言った。
「おやまあ、なかなか忙《いそが》しそうじゃないの。和穂道士様、そろそろ十日経ったわよ、帰書文《きしょぶん》退治《たいじ》はどうなってるの」
和穂が答えた。
「あ、夕明さん、お茶でもどうです?」
どうですも何も、自分の金で買っている茶なのだ。当然のように、夕明は卓の上に伏《ふ》せてあった湯呑《ゆの》みを取り、和穂に差し出す。
殷雷は肩《かた》をコキコキ鳴《な》らして言った。
「高名《こうめい》なる和穂道士様に、茶をくませてどうするんだよ!」
「……そんなに凄《すご》いんなら、仙術《せんじゅつ》で帰書文の居場所《いばしょ》を探《さぐ》ったらどうなのよ」
「和穂道士になんと無礼《ぶれい》な口をきくか! なんでも仙術でけりをつけるのは、無理なんだよ。そりゃそうと、夕明よ。趣味《しゅみ》でガラクタを集めてるって話を使用人《しようにん》からきいたぜ」
ガラクタ。その言葉を開き、夕明の眉毛《まゆげ》が軽くひくつく。夕明には骨董品《こっとうひん》を集める趣味があったのだ。
ガラクタ呼ばわりされて、夕明もいい気はしない。
「ガラクタ?
物を見る目のない人間にとっちゃ、どれだけ素晴《すば》らしい骨董も、ただのゴミにしか見えないでしょうからね」
ムッとした夕明の表情を見て、殷雷はニヤリと笑う。その笑顔に、相手をからかって喜《よろこ》ぶ以外の意味があったとは、夕明は気づかなかった。
「俺《おれ》はこれでも目|利《き》きなんだぜ。ほら、お前のつけてる、その耳飾《みみかざ》り、本物の翡翠《ひすい》だがそんなに大きくないよな。でも時代物《じだいもの》だから、一万|源《げん》ってとこか、和穂道士」
「そうだね」
夕明は、ハッと息《いき》をのむ。殷雷の見立《みた》てどおり、この翡翠の耳飾りの価値《かち》は一万源といったところなのだ。
「へえ、少し見直したわ。正解《せいかい》よ」
もしも、殷雷たちに骨董の価値を見極《みきわ》める目がなければ、夕明はこんな行動には出なかっただろう。
「どうせ暇《ひま》なんでしょ。特別に私の秘蔵《ひぞう》の骨董を見せてあげる」
物の価値が判《わか》るならば、絶対に自分の蒐集《しゅうしゅう》した骨董を見れば、感嘆《かんたん》するに違《ちが》いないと夕明は考えたのだ。なかなか、骨董の真の価値を見極める人間は少ないのだ。
殷雷と和穂は椅子《いす》から立ち上がった。
それは特別に造《つく》られた蔵《くら》だった。蔵の中に棚《たな》が作られ、棚の上に茶碗《ちゃわん》やら壷《つぼ》やらが飾られていた。夕明が、自信を持つだけの事はあり、並べられた骨董は本物だけが持つ、独特《どくとく》の威圧感《いあつかん》を放《はな》っていた。
夕明は嬉《うれ》しそうに説明した。
「たまにこうやって飾ってみるの。仕舞《しま》ってるだけじゃつまらないでしょ」
和穂が蔵の中を見回した。
「うわあ、凄《すご》いですね」
褒《ほ》められて嬉しくもあるが、同時に壊《こわ》されはしないかとの不安も入《い》り交《ま》じる。
「言っとくけど、割ったりしたら弁償《べんしょう》してもらうからね!」
「承知《しょうち》してます。割れた物は仙術を使っても元《もと》には戻《もど》りませんからねえ」
「だったら気をつけるのね。弁償するのに一生かかるような物もあるんだから」
「はい。注意します」
「……立派《りっぱ》な骨董ですね。返済《へんさい》はこの骨董でも構《かま》いませんよ」
唐突《とうとつ》に帰書文《きしょぶん》が出現《しゅつげん》した。棚の上の透《す》き通るような白色の茶碗を手に取り、うなずきながらつぶやく。
「これなんか、相場《そうば》じゃ五万三千源はくだらない」
あまりの驚《おどろ》きに夕明は口をパクパクするだけであったが、殷雷の驚きかたは妙に冷静《みょうれいせい》だった。
「や、貴様《きさま》は帰書文。まさに神出鬼没《しんしゅつきぼつ》であるな! だが、この殷雷、貴様を逃《に》がしはしないぞ!」
片手に持った棍《こん》を構《かま》えた殷雷を見て、夕明は弾《はじ》けるように叫《さけ》ぶ。
「ば、馬鹿《ばか》! ここで暴《あば》れたりしたら!」
「んな事言われても、あいつがここに出たからにゃ」
「う、うるさい! もしも、割ったりしたら弁償してもらうわよ! 必要経費《ひつようけいひ》だなんて言い訳《わけ》はきかないからね!」
殷雷は首を捻《ひね》る。
「なら、邪魔《じゃま》になりそうな骨董は、お前が抱《かか》えてろ」
言うなり、殷雷は手の届《とど》く場所にあった茶碗と湯呑《ゆの》みを夕明に向かい放《ほう》り投げた。
蜜《みつ》をまぶしたような独特の黒い釉薬《うわぐすり》で飾《かざ》られた、茶碗と湯飲みが宙を舞《ま》う。
瞳《ひとみ》を完全な真円の形に見開きながら、夕明は茶碗と場飲みを受け取った。
夕明の心臓《しんぞう》は張《は》り裂《さ》けんばかりに高鳴《たかな》っていた。もしも、受け取りそこねたらどうするつもりだったのか。
「ななな、なんて事をすんのよ! もしも落としでもしたら」
ガクガクと膝《ひざ》を震《ふる》わせる夕明に、殷雷は思い出したように言った。
「そうだ、まだ護衛料《ごえいりょう》を貰《もら》ってないじゃないか。後で支払いを渋《しぶ》られると困《こま》るから、今払ってくれ」
「今はそんな場合じゃ!」
すまなさそうに和穂が言った。
「その翡翠《ひすい》の耳飾りで結構《けっこう》です」
今はともかく帰書文《きしょぶん》をどうにかして、骨董の安全を図《はか》るのが先決だと考え、茶碗と湯呑みを抱えながら夕明は薪翠の耳飾りを和穂に渡す。
白色の茶碗を持つ帰書文に向かって夕明は悲鳴《ひめい》じみた叫《さけ》びを上げる。
「あんた、まさかその茶碗を盗《ぬす》む気じゃないでしょうね!」
「あのね、僕《ぼく》は借金《しゃっきん》の取り立てをやってるだけで、泥棒《どろぼう》じゃないんだから。判《わか》りました、返しますよ」
ポイと、白色の茶碗を夕明に向かい、軽く投げる。追い詰《つ》められた人間は、時に武人《ぶじん》もかくやという動きを見せる。夕明は、恐《おそ》ろしく素早《すばや》く動き、白色の茶碗を掴《つか》む。
「な、投げんじゃないわよ!」
殷雷は叫ぶ。
「さて、帰書文よ。始末《しまつ》してやるぜ」
途端《とたん》に殷雷は棍《こん》を振り回し、帰書文に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けた。うなりを上げる棍は、壷《つぼ》のすれすれを動きながらも、帰書文を打つ。
しばし打ち合ったのち、帰書文は間合《まあ》いを外《はず》し、殷雷が追う。
「おっと、この皿《さら》と壷も邪魔《じゃま》だな」
殷雷の次の行動は見え見えだった。骨董《こっとう》の危機《きき》に脂汗《あぶらあせ》をダラダラ流し、夕明は先に釘《くぎ》を打つ。
「投げるな!」
皿に手を伸《の》ばしていた、殷雷の動きがピタリと止まる。
「……壊《こわ》れても構わないという意味かな?」
「ち、違う!」
「じゃ、やっぱりお前が持ってろ」
帰書文の攻撃を避《よ》けながら、殷雷は皿と壷を夕明に投げた。
「!」
馬《うま》の絵皿《えざら》と、鶴《つる》の首のように白く細長い壷を、慌《あわ》てふためきながら夕明は受け取った。
手にも汗をかいていた為《ため》、受け取った壷が僅《わず》かに滑《すべ》った。
「ぎえい!」
裂帛《れっぱく》の気合いで夕明は指先に力を入れ、壷の落下《らっか》を防《ふせ》ぐ。
湯呑みと茶碗を持ったまま、壷と皿を受け止める事自体がなかなか難《むずか》しかった。それ以上に心理的な緊張《きんちょう》が尋常《じんじょう》ではない。
狭《せま》い蔵《くら》の中を縦横無尽《じゅうおうむじん》に動き回り、殷雷と帰書文は戦《たたか》った。動く度《たび》に、殷雷は手近の骨董を夕明に投げつけた。
夕明が手に持つ骨董を、戦いから離れた場所に置こうとするとすぐに、殷雷は壷やらを投げつけるのだ。
今や夕明は両手いっぱいに骨董を抱《かか》えている状態《じょうたい》だ。悲鳴《ひめい》のように夕明は叫《さけ》ぶ。
「いいいい殷雷! もう受け取れないわよ、もう投げないで!」
「よし、和穂|道士《どうし》様。帰書文がチョコマカ逃《に》げないように呪文《じゅもん》を唱《とな》えてくれ!」
またしても、和穂のどう見ても無茶苦茶《むちゃくちゃ》な呪文が炸裂《さくれつ》するが、帰書文は苦しみだす。
「う、うわあ。体が動かないし、力もでないよう!」
「さあ、とどめだ!」
殷雷は棍《こん》を帰書文の頭のてっぺんに放《はな》つ。
「う、うわあやられた」
いまだかつて本当に倒《たお》された人間が叫んだ事のない叫びを上げて、帰書文は倒れかけた。
倒れる帰書文の体の前には大きな絵皿があった。
慌てて殷雷は絵皿に手を伸ばし、そして放《ほう》り投げた。
「いけね、別に投げなくても良かったか」
夕明の髪《かみ》の毛が逆立《さかだ》った。この、仙人《せんにん》が力ずくで龍《りゅう》を押さえ込む絵が描《えが》かれた皿の値段《ねだん》は、五百六十三万三千五百源だった。
今までは、夕明が受け取りやすい位置に、殷雷は投げていたのに、今回は的外《まとはず》れな場所に向かい絵皿は飛んでいった。
咄嗟《とっさ》に夕明は、尋常《じんじょう》ならざる素早《すばや》さで計算する。今、自分が抱えている骨董の総額《そうがく》は百二万二千源だ。
五百六十三万三千五百源の絵皿が、危機《きき》に陥《おちい》っている。
ならば、答えは一つ。
夕明は抱えていた骨董を放り投げ、絵皿に向かい、飛《と》び掛《か》かった。だが、あと一息《ひといき》というところで間《ま》に合いそうにない。
夕明の目の前が真《ま》っ暗《くら》になる、その時、別の手が絵皿を受け取った。
和穂が五百六十三万三千五百源の絵皿を受け取ったのだ。
殷雷は言った。
「何をしてるんだ夕明。お前にゃもう持ちきれないだろうから、和穂に投げたんだよ」
夕明が放り投げた骨董が、床《ゆか》に向かい落ちていった。殷雷は神速《しんそく》の動きで小さな湯呑《ゆの》みを地面に落ちる前に拾《ひろ》い上げた。
残りの骨董は音を立てて割れた。
殷雷は言ったが、とても夕明の耳には届《とど》いてなさそうだった。夕明は大きく口をあけ、愕然《がくぜん》としながら硬直《こうちょく》している。
「自分の意思《いし》で、抱えていた骨董を壊《こわ》すとはねえ。この湯呑みと和穂の絵皿は、ちゃんと返しておくからな。帰書文《きしょぶん》は始末《しまつ》した。もうお前の前にこいつは現《あらわ》れない」
湯呑みの値段は三万二千源。結局、夕明は九十九万源の骨董を自分の意思で壊してしまったのだ。
地面に倒《たお》れた帰書文は一枚の紙切れになっていた。その紙切れは、夕明が盤達《ばんたつ》から金を借《か》りたと記《しる》された証文《しょうもん》だった。
盤達の墓《はか》の前に、和穂と殷雷が居《い》た。そしてもう一人、証文の姿《すがた》から再《ふたた》び人間の姿になった帰書文も居る。帰書文は言った。
「ありがとう、和穂、殷雷。手を貸《か》してくれて助かったよ」
和穂が疑問《ぎもん》を挟《はさ》む。
「これで取り立てになったんでしょうか?」
帰書文はうなずいた。
「盤達はいない。でも夕明はお金を返さねばならない。だから、夕明には百万源分の財産を自分の意思で吐《は》き出してもらったんだよ。僕《ぼく》が見立《みた》てた骨董の価値《かち》に間違《まちが》いはない」
帰書文が言葉を続ける。
「これでいいんだ。僕の機能《きのう》は全《まっと》うされる、契約《けいやく》は果《は》たされるんだ」
殷雷は言った。
「契約を果たす為《ため》に、お前はほとんど無敵《むてき》の力を持つのか。恐《おそ》るべしは契約だな」
帰書文は、墓に翡翠《ひすい》の耳飾《みみかざ》りを供《そな》えた。
「これで百万源。さあ、仕事は終わった。喜《よろこ》んで回収《かいしゅう》されるよ」
耳飾りを墓に供え、帰書文の使命《しめい》は今、完璧《かんぺき》に遂行《すいこう》された。
役目を終えた帰書文は白紙《はくし》の証文の姿に戻《もど》った。
『帰書文』
証文の宝貝《ぱおぺい》。契約内容を実行する為に作動《さどう》している間は、完全に無敵。そのあまりの完璧さに龍華《りゅうか》自身《じしん》が恐れて封印《ふういん》したというのは本人の弁《べん》。
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災《わざわ》いを呼ぶ剣士《けんし》
京重《けいじゅう》は叫《さけ》んだ。
「つ、ついに追《お》い詰《つ》めたぞ! 和穂《かずほ》め、この始末《しまつ》はつけてもらうからな」
京重は、所々《ところどころ》鞘《さや》が割れた、ボロボロの剣《けん》を杖《つえ》のようにしていた。
この杖がなければブッ倒《たお》れそうな疲労感《ひろうかん》が京重の周囲《しゅうい》に漂《ただよ》っている。
短めの髪《かみ》の毛はバサバサしていて、今までに奥歯を食いしばり過ぎたのか、アゴの周《まわ》りの肉が少し発達《はったつ》している。
全身から疲《つか》れが漂っているが、ただ眼光《がんこう》だけは、開き直ったような活力に満ちていた。
彼の体を包《つつ》むボロ布は、風よけか、日よけか、雨よけか、それともその全《すべ》てを兼《か》ねているのか。
本来《ほんらい》ならば、スラリとした長身の若者なのだが、剣によりかかるその姿《すがた》は年寄《としよ》りめいて見えた。
京重の頭上《ずじょう》高くには、餌《えさ》を求めるカラスがグルグルと群《む》れをなして飛び回り、かあかあかあと鳴き続けていた。
京重の視界《しかい》には、小さな店が見えていた。
目指《めざ》すはあの蕎麦屋《そばや》。あの蕎麦屋に絶対《ぜったい》に和穂がいる。
そうでも思わなければ、疲れ切った足は一歩も動かなかっただろう。
「せいぜい頑張《がんば》れよ」
京重とは明らかに違《ちが》う声が響《ひび》いた。だが、京重の側《そば》には人影《ひとかげ》は一切《いっさい》なかった。
「本当に近くに宝貝《ぱおぺい》の反応《はんのう》はないんだな?」
青年は山葵《わさび》をすりおろしながら、卓《たく》の向こうに座《すわ》っている娘《むすめ》に確認《かくにん》した。
青年の問《と》い掛《か》けに、娘は念をおすかのように、左の耳たぶに着《つ》けられている、小さな耳飾《みみかざ》りに手をやった。
娘は卓の上に置かれたざる蕎麦のつゆに、袖《そで》が引《ひ》っ掛《か》からないよう注意する。娘の服装《ふくそう》は道士《どうし》が身に着けるような、袖の長い俗《ぞく》にいう道服《どうふく》姿だった。
「ちょっと待ってね。もう一度、ちゃんと確認してみるから」
娘の歳《とし》は十五、六。そんな年頃《としごろ》の娘が着けていても不思議《ふしぎ》はなさそうな耳飾りだった。
小さな純白《じゅんぱく》の石の耳飾りだが、間違《まちが》っても真珠《しんじゅ》には間違えられないだろう。
真珠が持つ、白色の中に練《ね》りこまれた虹色《にじいろ》のきらめきがないのだ。
そこらへんに転《ころ》がっている、ただの石ころのような白色をした、質素《しっそ》な装飾品《そうしょくひん》にしか見えない。
昼下がりの青麦屋の中、客らしい客は娘と青年の二人だけだった。
平凡《へいぼん》に見えながらも、娘の耳飾りはただの耳飾りではなかった。
同じように、青年もまた、見た目とその正体《しょうたい》には大きな隔《へだ》たりがあった。
青年は人ではない。耳飾りと同じく、その正体は宝貝であった。
仙人《せんにん》が造《つく》りし、神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼《よ》ぶ。
仙人が己《おのれ》の秘術《ひじゅつ》を尽《つ》くし、造り上げた宝貝は尋常《じんじょう》ならざる能力《のうりょく》を秘めていた。
娘の耳飾りは、索具輪《さくぐりん》と呼ばれる宝貝で、他の宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る能力を持つ。
青年は生欠伸《なまあくび》をかみ殺した。
「いい蕎麦なのに、つゆが甘《あま》過ぎるな。
つなぎが多いんだから、もうちょい辛《から》めにすべきだろうに」
文句《もんく》を言いつつ、すった山葵をつゆの中に入れる。
青年の名は殷雷刀《いんらいとう》。その名が示《しめ》すように刀《かたな》の宝貝である。
黒い袖付きの外套《がいとう》を羽織《はお》り、男にしては長い黒髪《くろかみ》を持っている。戦闘《せんとう》に際しては、鋭《するど》く引《ひ》き締《し》まる猛禽類《もうきんるい》を思わせる眼光《がんこう》にも、今は締まりがない。
それは逆に彼が刀の宝貝として持つ本能、気配《けはい》を察知《さっち》する能力に不審《ふしん》な物が引っ掛かっていない事を示している。
それでも、彼が操《あやつ》る銀色の棍《こん》は、万が一の時に備《そな》えて、卓に立て掛けてあった。
殷雷の正面《しょうめん》に座る娘の名は、和穂。ほっそりとした輪郭《りんかく》の中に、まだあどけなさが残る娘だった。
黒く澄《す》んだ瞳《ひとみ》の上には、意志《いし》の強さを表《あらわ》すかのような、太めの眉《まゆ》がのっている。
外《はず》れかけた耳飾りを直すような仕種《しぐさ》をしながら、索具輪に白く細い指を添《そ》え、彼女はまぶたを閉じた。
途端《とたん》に彼女のまぶたの裏《うら》には、幾《いく》つもの光点が浮《う》かび上がった。
この光点こそが、宝貝の反応だった。光点の中心は索具輪自身の反応で、その側《そば》に殷雷の反応があった。
彼女が目指《めざ》す宝貝は、ここよりかなり遠くで光を放《はな》っていた。
目を開け、和穂は答えた。
「だいぶ、遠いよ。次の回収《かいしゅう》は五日ぐらい後《あと》になるんじゃない? 向こうから近づくなら話は別だけど」
ずるずると蕎麦をすすり、殷雷は首を縦《たて》に振った。
「ふむ。ま、たまにゃ、呑気《のんき》に旅を楽しんでもよかろう。最近、宝貝の回収がたてこんでたからな」
宝貝の回収。それが和穂の使命《しめい》だった。
彼女はかつては仙界《せんかい》に住む仙人《せんにん》であった。
だが、とある事故《じこ》の時、誤《あやま》って人間の世界に宝貝をばらまいてしまった。
この地上に、七百二十六個の宝貝がばらまかれてしまったのである。
責任《せきにん》を感じた和穂は、自《みずか》らの仙術を封《ふう》じ宝貝を回収する為《ため》の旅に出たのである。
元《もと》仙人とはいえ、現在の彼女は普通《ふつう》の娘にすぎない。
仙人の持つ壮大《そうだい》な術は一切《いっさい》使えないのだ。
殷雷刀はそんな彼女の護衛《ごえい》である。
和穂が、ふと小首《こくび》を傾《かし》げた。たった今、使った索具輪だが、宝貝の反応に少し妙《みょう》なものがあったのだ。
殷雷は、蕎麦をほとんど噛《か》まずに飲み込んだ。
「どうした和穂?」
「索具輪に変な反応があったの。なんていうか、暗い星みたいな、ハッキリしない反応なの。前にも言ったよね?」
和穂が、この反応に気付いたのは、数か月も前の話だった。その時殷雷は、索具輪の捜査《そうさ》を逃《のが》れる能力を持つ宝貝かと、一応《いちおう》警戒《けいかい》した。
「例《れい》の反応だな。気にするな」
「どうして? もしかして、これも宝貝の反応じゃないの?」
「俺《おれ》もそう思ったが、それが宝貝の反応だとしたら、行動が不自然だろ?
俺たちに気がつかれないように、不意《ふい》を打《う》つつもりならば、さっさと仕掛《しか》けりゃいいんだし」
軽く傾げた和穂の首が、もう少し大きく傾《かたむ》く。
「もしかして、私たちを探《さぐ》ってるんじゃないの?」
「探るって何をだ?」
ここにいるのは、殷雷刀と術の使えぬ元仙人だ。和穂が宝貝を回収しようとしているのは、宝貝たちにとっても周知《しゅうち》の事実《じじつ》だった。
殷雷の言葉のように、何を今更《いまさら》調《しら》べる必要があるのだろう。
和穂の接近を、他の宝貝の使い手に警告《けいこく》している様子《ようす》もない。
奇妙《きみょう》な反応に気付いてから、今までに和穂たちから逃げる素振《そぶ》りをした宝貝はいなかったのだ。
殷雷は端的《たんてき》に結論《けつろん》をだす。
「他の宝貝の反応の残像《ざんぞう》か何かだろ」
「それもそうね」
「ちょいと、心配性《しんぱいしょう》になってやがるな。気が抜《ぬ》ける時には、気を抜いとかないと、いざって時に踏《ふ》ん張《ば》りが利《き》かないぞ。
ほら、早く食わねば、蕎麦《そば》がのびるぞ」
「うん」
和穂は青麦を掬《すく》い、つゆの中にじゃぶじゃぶとつけ、もぐもぐと噛《か》み締《し》めた。
殷雷は溜《た》め息《いき》をつきながら、首を横に振った。
「このド阿呆《あほう》め。蕎麦というものはそうやって食うんじゃない」
「別にいいじゃないの。どうせ、つゆにサッと通して、噛まずにズルっと飲み込めっていうんでしょ? 私はこういうふうに食べたいの」
一歩一歩|着実《ちゃくじつ》に京重《けいじゅう》は蕎麦屋に近づいていった。
その歩みは、まるで今までの苦労《くろう》を噛み締めるかのようであった。
京重の頭の中を、今日までに遭遇《そうぐう》した無数の試練《しれん》が駆《か》け巡《めぐ》っていった。
「今となっては、美しい思い出だろ、京重様よ」
「だ、黙《だま》れ!」
やはり、京重の近くには誰《だれ》もいない。
「京重様。聞こえませんか?」
京重は耳を澄《す》ました。
パカランパカランと、馬が駆ける音がしていた。
京重の全身を脂汗《あぶらあせ》が流れた。
「今度は馬か!」
「……正確《せいかく》には暴《あば》れ馬でございます」
まさに疾風《はやて》のような馬だった。京重の視界にその姿が現《あらわ》れたかと思うと、すぐさま彼の方に向かい駆けてくる。
どんよりと疲《つか》れた、京重の目が一瞬《いっしゅん》、鋭《するど》く光った。
パカランパカランという足音が、ドカドカドカという轟音《ごうおん》に変わっていく。
今まさに、京重が馬にはねられようとした、その瞬間《しゅんかん》、彼は飛《と》び退《の》き体をフラリと躱《かわ》した。
なんの訓練もしていないような人間に出来る動きではなかった。
彼が持つその剣《けん》は、たとえボロボロでも見せ掛《か》けだけの物ではなかったのだ。
馬をやり過ごし、脂汗は安堵《あんど》の汗に変わるが、まだ安心するには早かった。
「京重様。なんとなく、あの馬は京重様を気に入《い》らなかった御様子《ごようす》です」
「な、な、な」
「獣《けもの》の心というのは、気まぐれですからな。人に馴《な》れていない獣の動きは、『運』『不運』に影響《えいきょう》されているのですかね?」
確信《かくしん》している事を、惚《とぼ》けて語る嫌《いや》な口調《くちょう》だった。
だが、声の指摘《してき》のように、馬はグルリと大きな円を描《えが》きながら、再《ふたた》び京重に狙《ねら》いを定《さだ》めているようだった。
「……やるしかないのか?」
「そうでしょうねえ」
馬が駆け寄《よ》り、その足音が地鳴《じな》りのように大きくなった。
京重の持つ剣は、外見はボロだが、その実は名剣《めいけん》、なんていう事はなく、本当にただのボロボロの剣だった。
だが、頼《たよ》れるのはこの剣一本だ。
京重は剣を構《かま》えた。
「僭越《せんえつ》ですが、京重様。鞘《さや》から抜《ぬ》けていませんよ」
「静かにしやがれ!」
そして、馬と京重が交差《こうさ》した。
京重は素早《すばや》く、剣先で馬の点穴(ツボ)を突《つ》く。己《おのれ》の疾走《しっそう》する力で、馬は地面を転《ころ》がりながら吹《ふ》っ飛《と》んだ。
「どうして、殺さなかったので? 思いの他《ほか》お優《やさ》しい」
「……お前はこの馬を殺させたがってるような気がしてな」
しばしの後、今度はドタドタと人間の足音が聞こえてきた。
とてつもなく嫌な予感がしつつ、京重は足音の方角に顔を向けた。
走ってきたのは、二人の男だ。キッチリとした。全《まった》く同じ服を着ている。
間違《まちが》いなく下っぱの役人だ。
一人は馬の横に駆け寄り、もう一人は京重の前に立ちふさがった。
「貴様《きさま》、轟髪龍《ごうはつりゅう》を殺したのか!」
ヘラヘラ笑いながら京重は言った。たまに笑わなければ、精神《せいしん》が駄目《だめ》になる。だから、とくに笑う状況《じょうきょう》でなくても京重は笑うようにしていた。
「もし、殺したのなら?」
「挿《つか》まえる。この轟髪龍は、県令《けんれい》様に献上《けんじょう》する為《ため》の名馬《めいば》なのだ。それを殺すとは、盗《ぬす》むのと同罪《どうざい》!」
無茶《むちゃ》な理屈《りくつ》だと、京重が文句《もんく》を言おうとしたその時、馬に近寄った役人が声を上げた。
「おお、轟髪龍は息をしている。それに擦《す》り傷《きず》はあるが、骨に異常はないぞ」
役人たちに安堵《あんど》の笑顔《えがお》が浮《う》かんだ。
もし、この馬を殺していたらと考えると、京重はゾッとした。
「擦り傷ぐらいじゃ、文句《もんく》はあるまい。もともと、この馬が暴《あば》れたのが悪いんだから」
今まで偉《えら》そうな口調《くちょう》だった、役人の態度《たいど》が途端《とたん》に変わった。
「先程《さきほど》の無礼《ぶれい》な言動《げんどう》、どうか許《ゆる》していただきたい。我《われ》ら、轟髪龍を県令様のもとへお連《つ》れする任務《にんむ》に、命をかけていたのだ」
失敗《しっぱい》したら、くびが飛んでいたのだろう。職《しょく》を失《うしな》う意味か、言葉通りの意味か、京重は判断《はんだん》しかねた。役人は続けた。
「そこで、轟髪龍を助けていただいたお礼に、宴《うたげ》を開きたいのだが、勿論《もちろん》、参加《さんか》するであろうな」
そうきやがったか。馬を殺そうが殺すまいが、役人は俺《おれ》を連れていこうとするのだ。京重は笑う。可笑《おか》しくなかったが、笑う。
「だが、甘《あま》いぞ凶鎖丸《きょうさがん》!」
途端に京重は、鞘《さや》付きの剣を振り回し、役人の腹《はら》を打った。
そして、今までの疲《つか》れた動きからは想像《そうぞう》も出来ないような跳躍《ちょうやく》で、もう一人の役人に飛び掛かり、同じように腹を打った。
二人の役人は、同時に地面に倒《たお》れた。
「京重様。人殺しは感心《かんしん》しませんな」
「殺してはおらん。ちょっと眠《ねむ》っているだけだ」
「手荒《てあら》ですな。せっかく私も知恵《ちえ》を使っているのに、そう力業《ちからわざ》でこられると」
彼は左手の中指の指輪《ゆびわ》に向かい、叫《さけ》んだ。
「ほざけ、凶鎖丸!」
宝石《ほうせき》が付いているでもない、単純《たんじゅん》な指輪だった。それは、まるで闇《やみ》を溶《と》かしたような真《ま》っ黒《くろ》な指輪だった。
殷雷《いんらい》の、束《たば》ねられた髪《かみ》の毛がピクリと動いた。
まるで、呑気《のんき》に昼寝《ひるね》をしていた猫《ねこ》が突然《とつぜん》起き上がり、見えない物を見ている仕種《しぐさ》を思わせた。
ざる蕎麦《そば》をすすっていた和穂が驚《おどろ》く。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
駆ける馬の音と、それ以外のドタバタとした幾《いく》つかの音。
人間が生きている限り、常《つね》に無数のドタバタ音は巻き起こるのだ。
その全《すべ》てに殷雷は注意を払《はら》ったりはしなかった。和穂の護衛《ごえい》として、肝心《かんじん》の気配《けはい》を探《さぐ》る為には、どうでもいい音に注意を向ける必要はなかった。
殷雷は何事《なにごと》もなかったかのように、再《ふたた》び箸《はし》を持つ。
だが、和穂は妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎを感じた。
何が、どう? という訳《わけ》ではなかったが、まるで何かが背後《はいご》に忍《しの》び寄るような不吉な感覚《かんかく》だった。
その不安を紛《まぎ》らわすかのように、半《なか》ば無意識《むいしき》に、和穂は索具輪《さくぐりん》を作動《さどう》させた。
先刻《せんこく》とほとんど変わらない、宝貝《ぱおぺい》たちの光の点だった。安心しながら、和穂は索具輪から手を離そうとし、気がついた。
「殷雷! さっきの奇妙《きみょう》な反応がすぐ側《そば》に来ている!」
次の瞬間《しゅんかん》、蕎麦屋の扉《とびら》を開けつつ、京重《けいじゅう》が店の中に転《ころ》がりこんできた。
間違《まちが》っても、さあこれから蕎麦を食うぞ、いやウドンにしようか? と考えている人間の動きではない。
片手に剣を持った男は、二人の姿《すがた》を見た途端《とたん》に声を上げた。
「見つけたぞ! 和穂!」
殷雷は、京重の姿を見て、瞬時《しゅんじ》にその腕前《うでまえ》を判断した。
武器を持つものは、その体格《たいかく》に微妙《びみょう》な特徴《とくちょう》が現《あらわ》れる。全ての構えには表《おもて》と裏《うら》があり、軸足《じくあし》が存在《そんざい》する時点で、完全に均整《きんせい》のとれた肉体を持つ武人《ぶじん》は存在しない。
京重の右肩《みぎかた》の僅《わず》かな下がり具合《ぐあい》、京重の右手首の発達《はったつ》具合から、殷雷は男が剣士《けんし》だと結論《けつろん》を出した。
片手に持つ剣は飾《かざ》りではなさそうだ。そこそこの腕を持つ、一流の武人だろう。
殷雷は立て掛けていた棍《こん》を取り、滑《すべ》るように駆けた。
殷雷は心の中で笑う。
『馬鹿《ばか》め、油断《ゆだん》してやがったな』
それでなくても、剣は長い。剣を抜《ぬ》かずにノコノコ現れるのは、鞘から抜き打つ速さに自信があるからなのだろう。
並《なみ》の武人ならば、それでいいかもしれなかったが、殷雷刀は動きの素早《すばや》さには自信があった。
相手が剣を抜く前に、勝負《しょうぶ》をつける確信《かくしん》を持った。
「でい!」
鋼《はがね》より硬《かた》い、銀色の棍は、殷雷の滑《なめ》らかな動きに操《あやつ》られ、まるで鞭《むち》がしなっているかのように見えた。
殷雷の棍の一撃《いちげき》は、確実《かくじつ》に京重の一番下の肋骨《ろっこつ》と腰骨《ようこつ》の間を打った。
完璧《かんぺき》な手応《てごた》えが殷雷の手に響《ひび》く。
並《なみ》の人間ならば、これで身動きが出来なくなるはずだが、相手は恐《おそ》らく宝貝《ぱおぺい》を持っているのだ。
床《ゆか》にゆっくりとうずくまる京重を見ながらも、殷雷の構えは解《と》かれない。
床にうずくまった男は声を上げた。
「くっくっく。このなまくらの殷雷刀め、そんな攻撃《こうげき》で俺《おれ》を倒せると思ったか!」
「なんだと!」
怒《いか》りながらも、殷雷は冷静《れいせい》さを失《うしな》っていなかった。
僅かな違和感《いわかん》を感じてはいたが、敵《てき》を排除《はいじょ》するのが、今一番大事な事だった。
殷雷は京重の顎《あご》を蹴《け》り上げ、その蹴りの衝撃《しょうげき》で京重の体が完全にのびた状態《じょうたい》で持ち上がる。
完全に無防備《むぼうび》の京重のみぞおちに、殷雷は棍《こん》の突《つ》きを叩《たた》き込む。
吹《ふ》っ飛《と》ぶ京重を見ながら、殷雷はさっきの違和感の理由を考えた。
横では和穂が反射《はんしゃ》的に叫《さけ》んでいる。
「最初の時と声が違《ちが》う!」
そうだ。店の中に入ってきた時と、今の声は全《まった》く違うではないか。
が、だからどうした? その行動に戦術的《せんじゅつてき》な意味を殷雷は見出《みいだ》せない。
声を変えて何が面白《おもしろ》い?
あれだけの攻撃を受けながらも、辛《かろ》うじて京重は意識《いしき》を保っていた。
床に転《ころ》がりながら、手を横に振っている。
声ではなく、体を使い、京重は『違う、違う』と叫んでいた。
疑問《ぎもん》を覚《おぼ》えつつ、殷雷は男の持つ剣に棍の一撃《いちげき》を浴《あ》びせ、へし折《お》った。
「困《こま》りますよ、お客さん。店の中で喧嘩《けんか》なんかされちゃ」
蕎麦屋《そばや》の主人は迷惑《めいわく》そうに言った。
が、殷雷は素《そ》っ気《け》なく答えた。
「心配はいらん。この男が弁償《べんしょう》してくれるだろうよ」
「本当ですか?」
「もし、金がないようなら、役人に突き出しな。剣のない剣士なんざ、恐《おそ》れるに足《た》りん。一応、棒状《ぼうじょう》の物は近くにおくなよ」
「へい。心得《こころえ》ました」
和穂と殷雷が座《すわ》っていた卓《たく》に、京重も座っていた。
特に縄《なわ》をかけられたりはしていない。だが殷雷が隙《すき》なく京重の挙動《きょどう》を見守っている。
下手《へた》な動きをすれば、棍の一撃《いちげき》が炸裂《さくれつ》すると、京重は重々《じゅうじゅう》に承知《しょうち》していた。
体の痛《いた》みを堪《こら》えて、京重はやっと口を開いた。
事の次第《しだい》を話す前に悪態《あくたい》の一つもつきたい気分だった。
「……人がこんなに苦労してるのに、お前らは呑気《のんき》に蕎麦なんか食ってやがったか」
殷雷は意地悪《いじわる》く笑った。
「宝貝《ぱおぺい》を操《あやつ》る連中は、ややこしいやつらばかりでな。たまにゃ、蕎麦でも食って息抜《いきぬ》きだ。
お陰《かげ》でお前みたいな間抜《まぬ》けが釣《つ》れた」
お前呼ばわりされ京重は少し腹《はら》がたった。
「名前は京重だ。俺が間抜けだと?」
「そうだろうよ。俺たちの隙をついて、寝首《ねくび》を掻《か》こうとでも思ってたんだろ? ところが簡単《かんたん》に返《かえ》り討《う》ちだ。己《おのれ》の力量《りきりょう》も判《わか》らないのかねえ?」
京重は息を荒らげながら言った。
「黙《だま》れ。こっちが平和的にやろうとしてたのに、勘違《かんちが》いして、攻撃《こうげき》など仕掛《しか》けやがってからに!」
「負《ま》け惜《お》しみか?」
「違う。俺は宝貝を返しに来たんだ!」
「見《み》え透《す》いた嘘《うそ》をつくんじゃない」
殷雷は強い口調《くちょう》で京重を問《と》い詰《つ》めたが、和穂には京重が嘘をついてるようには感じられなかった。
殷雷との戦《たたか》いに敗《やぶ》れ、少しでも自分を取り繕《つくろ》おうとして『宝貝を返しに来た』などという言い逃《のが》れをする人間には見えなかったのだ。
和穂は殷雷に言った。
「ねえ、殷雷。京重さんの話をちゃんと聞いてみようよ」
「ふん。時間の無駄《むだ》だ」
仕方《しかた》がないので和穂は京重に問い掛けた。
「どういう経緯《けいい》なのか、教えていただけませんか」
疲《つか》れ切った表情の京重をいたわる和穂の優《やさ》しい声だったが、京重にはそれが逆に癪《しゃく》に障《さわ》った。
「うるさい、和穂め! お前のせいだ。みんなお前のせいなんだぞ!」
和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》もうとする動きは、殷雷の棍の一撃で止められた。
「ほらみろ、和穂。逆恨《さかうら》みも甚《はなは》だしい奴《やつ》ではないか。
宝貝を拾《ひろ》っていい気になって、俺らを倒しに来たが返り討ち、とうとう和穂のせいにまでしやがったぞ。
何が宝貝を返しに来た、だ。いらぬ宝貝ならドブにでも捨《す》てればよかろう」
和穂は首を振った。
「いいから、黙《だま》ってて。京重さん、私がばらまいた宝貝で何か困《こま》った事になったのなら、謝《あやま》ります。
だから、詳《くわ》しい話を聞かせて下さい」
舌打《したう》ちをしながらだったが、京重は自分の悲劇《ひげき》を語り始めた。
「言っておくが、今までの俺の言葉に嘘《うそ》はないし、これからの説明《せつめい》にも嘘はない。
まあ、疑問《ぎもん》に思うのも不思議《ふしぎ》ではないだろうからな。
最初にハッキリさせておこう。俺は宝貝の所持者《しょじしゃ》だ。この宝貝は俺には必要がない。捨てて済《す》む話なら、とっくにそうしている。
だが、捨てるに捨てられないんだよ、この宝貝は!」
今まで胡散《うさん》臭《くさ》げに京重を見ていた殷雷の表情に鋭《するど》さが戻《もど》った。
「おい京重。まさか凶鎖丸《きょうさがん》か?」
京重はコクリとうなずく。
殷雷は肺《はい》が引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》りそうなほど、溜《た》め息《いき》をついた。
「京重よ。また早まった真似《まね》をしたもんだ」
どうやら、殷雷は凶鎖丸の一言で事情がのみ込めたらしいが、和穂にはどんな事情だかさっぱり判《わか》らない。
「凶鎖丸?」
殷雷が答えた。
「そう。仙術《せんじゅつ》でも武芸《ぶげい》でも何でもいい。技芸《ぎげい》と精神力《せいしんりょく》を鍛《きた》える宝貝だ」
殷雷の説明が京重には納得《なっとく》がいかない。
「それは嘘だ。俺も、そういう能力があるのならばと思って、凶鎖丸を使ったんだ。
これでも修行《しゅぎょう》中の剣士のはしくれ、少しでも鍛錬《たんれん》の足《た》しになると思ったのに、なんだこの宝貝は? 欠陥《けっかん》にも程《ほど》があるぞ!」
殷雷はジロリと京垂をにらみつけた。
「いや。凶鎖丸には基本的《きほんてき》には欠陥はない。凶鎖丸は己《おのれ》の使命を果《は》たしているだけだ」
「なんだと! 凶鎖丸を使ってから、俺の身には不運ばかりが起きる。やる事なす事、全《すべ》てが裏目《うらめ》だ。街《まち》を歩けばスリにあうし、山道を歩けば山賊《さんぞく》に襲《おそ》われる。船に乗ったら大時化《おおしけ》で、喉《のど》が渇《かわ》けば水筒《すいとう》の底が抜《ぬ》けてる!」
和穂にもゆっくりと、事情がのみ込めてきた。
「あ、もしかして、その不運を乗《の》り越《こ》えるのが鍛錬ってわけ?」
殷雷はコクリとうなずく。
「そう。例《たと》えば、こいつが何か目的を立てたとする。凶鎖丸は目的を妨害《ぼうがい》させるような試練《しれん》を作り上げるんだ」
それはとてつもなく強い能力ではないのかと、和穂は考えた。
「それって凄《すご》くない? どんな事でも起こせるんなら」
和穂の疑問をとっくに見通していたかのように殷雷は説明を補足《ほそく》した。
「実はそれほど凄くない。ちょいとばかし偶然《ぐうぜん》に作用する能力があるだけなんだよ。無《む》から有《ゆう》を生み出すほどの力はない。たまたま山賊が側《そば》にいれば、運悪くこいつが標的《ひょうてき》にされ、雨がふる気配《けはい》があれば嵐《あらし》になるって寸法《すんぽう》さ」
卓《たく》を叩《たた》いて京重は叫《さけ》ぶ。京重の苦しみを察《さっ》したのか、殷雷は文句《もんく》を言わない。
「充分《じゅうぶん》に凄い能力だ! 本当ならとっくに修行を切り上げて、故郷《こきょう》に帰るつもりだったのに、この宝貝のせいで、それもままならぬのだぞ!
俺の不運に故郷が巻《ま》き込《こ》まれたらどうしてくれる!
もしも、唯恋《ゆいれん》が俺の不運に巻き込まれたらどうする!」
和穂が言った。
「あの、唯恋さんて?」
「許婚《いいなずけ》だ! 戻《もど》ると約束《やくそく》した日から、もう何か月が過ぎたか!」
そして、和穂は京重の困難《こんなん》を知った。
「それじゃ、もしかしたら凶鎖丸を外《はず》したいという京重さんの目的にも反応《はんのう》するんだ」
京重は左手をバンと卓の上に出し、凶鎖丸を二人に見せた。
「そうだ、和穂。外れないんだよ! 今までの苦労は水に流してやる。
だからこの宝貝を外してくれ!
凶鎖丸を外すには、宝貝を回収している和穂たちに会うしかないと、俺はどれだけ辛《つら》い旅を続けてきたことか」
さすがの殷雷も、京重の苦労を思うとあまりきつい口を叩けなくなった。
「心中《しんちゅう》察《さっ》するに余《あま》りあるとはこの事か。さっき外でドタバタやってたのも、こいつが引き起こした騒動《そうどう》だったのか」
「そうだろうよ。たまたま、役人が連《つ》れていた馬が暴走《ぼうそう》して、散々《さんざん》な目にあった。
下手《へた》したら和穂たちに会えなくなるところだったんだ!
ともかく、早く外してくれ! 一刻《いっこく》も早く故郷に帰って唯恋に会いたいんだ!」
和穂は殷雷の側《そば》に寄った。
「事情が判《わか》れば、話は早いじゃない。
殷雷、この凶鎖丸を壊《こわ》してあげようよ。殷雷|刀《とう》なら斬《き》れるでしょ?」
殷雷は京重の指で、不気味《ぶきみ》な黒光りを放《はな》つ凶鎖丸をじっくりと見た。
「ふむ。特に、防御能力《ぼうぎょのうりょく》に長《た》けた硬《かた》い宝貝でもなさそうだ。
軽くぶった斬って、のびちまった蕎麦《そば》の代わりに新しい蕎麦でも注文《ちゅうもん》するか」
途端《とたん》、殷雷の体が爆煙《ばくえん》に包《つつ》まれた。和穂は慌《あわ》てる様子《ようす》もなく、煙《けむり》の中から一本の刀《かたな》を取り出した。
この刀こそ、殷雷刀。殷雷の本来《ほんらい》の姿《すがた》であった。
京重は、殷雷が刀になった事よりも、刀を持った途端《とたん》に和穂の気配《けはい》が変わった事に驚《おどろ》いた。和穂は説明する。
「ええと、殷雷刀を持っている間は達人《たつじん》の技《わざ》が身につくんです」
同じ和穂の声で、口調《くちょう》が急に変わった。
「戦《たたか》いに関しては、俺が和穂の体を操《あやつ》っている。ほらよ、間抜《まぬ》け面《づら》をさらしてる暇《ひま》があったら、斬りやすいように、指を広げて卓の上に置きやがれ」
逆《さか》らう理由もなく、京重は黙《だま》って指示《しじ》に従《したが》った。そして、殷雷刀が一閃《いっせん》しようとした、その時。いや、一閃している最中に、京重の指がピクリと動く。
元《もと》より、攻撃《こうげき》の速さには自信のある殷雷刀である。少しぐらい動いたところで、攻撃には何の問題もないはずだった。
が、京重とて剣士である。その動きには実戦《じっせん》で磨《みが》かれた、素早《すばや》さがあった。
殷雷刀は寸前《すんぜん》で動きを止め、そのまま元の構えに戻《もど》った。
「動くな! 馬鹿野郎《ばかやろう》。指が落ちるぞ!」
京重は答えようとしたが、唐突《とうとつ》に起きたシャックリでそれどころではない。
「凶鎖丸め、悪《わる》足掻《あが》きしやがって。やい京重よ! 息を止めて目をつぶって、力を絶対に抜《ぬ》くなよ! シャックリの次はクシャミでしたなんて手には乗るなよ!」
必死《ひっし》の形相《ぎょうそう》で京重は手を卓に押しつけた。もはや、体を千本の剣で刺《さ》し貫《つらぬ》かれようが動かないつもりだった。この辛《つら》さに耐《た》えれば、愛《いと》しい唯恋《ゆいれん》に会えるのだ! 京重は必死に唯恋の事だけを考え続けた。
そして、殷雷刀は一閃《いっせん》した。
京重は恐《おそ》る恐る目を開けた。手の上には、何故《なぜ》か倒福《とうふく》(上下を逆にした福の字の形をした図案《ずあん》。縁起《えんぎ》が良いとされる)の色紙《しきし》が乗っている。
恐《おそ》らく、商売繁盛《しょうばいはんじょう》を祈願《きがん》して蕎麦屋《そばや》の親父《おやじ》が天井《てんじょう》の梁《はり》に張《は》っていたのが『偶然《ぐうぜん》』に落ちたのだろう。
すると、またしても失敗《しっぱい》か? 京重はゆっくりと倒福の色紙を動かし、自分の手を見つめた。
そこには、あるはずの凶鎖丸の姿《すがた》はなかった。
「や、やったぞ! ついにやったぞ和穂!」
京重は飛び跳《は》ねて喜《よろこ》んだ。和穂は片手に持った殷雷刀をポイと放《ほう》り投《な》げる。
先刻《せんこく》と同じような爆煙《ばくえん》を上げ、今度は人の形をした殷雷が姿を現《あらわ》す。
喜ぶ京重に比《くら》べて、和穂と殷雷の表情はとてつもなく暗かった。
「どうした? 一体どうしたんだ! これで唯恋に会えるんだ、喜んでくれよ!」
和穂と殷雷は揃《そろ》って京重の額《ひたい》を指差《ゆびさ》した。京重もそれにつられて、自分の額を触《さわ》った。
そこにはツルリとした違和感《いわかん》があった。
和穂たちの表情が全《すべ》てを説明していた。
この額の出《で》っ張《ぱ》りは凶鎖丸。
殷雷が言った。
「くそう。油断《ゆだん》した。まさか、自分の意思《いし》で移動《いどう》出来る宝貝《ぱおぺい》だったとはな、油断して二撃目を放《はな》とうと思ったら、天井から色紙が落ちるし!」
殷雷の絶望《ぜつぼう》を嘲笑《あざわら》い、凶鎖丸は言った。
「残念《ざんねん》だったな、なまくらの殷雷刀め。俺《おれ》は京重の頭蓋骨《ずがいこつ》に食い込んでやったぞ。もし、俺を破壊《はかい》すれば、俺の破片《はへん》はこいつの脳《のう》に飛び散るって寸法《すんぼう》だ」
目の前が真っ暗になりつつも、京重は諦《あきら》めなかった。
「殷雷! 他《ほか》に手はないか?」
殷雷とて武器の宝貝。状況《じょうきょう》の分析《ぶんせき》には鋭《するど》いものがあった。殷雷は状況を完全に判断《はんだん》していた。
「生憎《あいにく》、打つ手はない。お手上げ。もう俺にゃ何も出来ないし、この状況を解決《かいけつ》出来る宝貝も俺たちの手にはない」
殷雷の言葉なら、悪い冗談《じょうだん》である可能性もあった。だが、その隣《となり》では和穂が目に涙《なみだ》を浮《う》かべている。
「ごめんなさい。京重さん」
三人はドンヨリと落ち込んでいた。
もう打つ手はないのだ。厨房《ちゅうぼう》からは楽しそうな笑い声が聞こえてくる。京重のこれからの人生で、本当の笑いはやってくるのか。
と、その時、蕎麦屋《そばや》の扉《とびら》を開け、一人の娘《むすめ》が姿を現した。
スラリと伸《の》びた背筋《せすじ》に均整《きんせい》のとれた体。本来《ほんらい》は長い髪《かみ》の毛をきつく縛《しば》っている。
その姿はまさに旅人《たびびと》そのものだった。
それも楽しい旅ではない。悲愴《ひそう》な旅を送ってきた気迫《きはく》が娘の体から漂《ただよ》っていた。
悲しい事にその悲槍さが、娘の美しさをより際立《きわだ》たせていた。
うつむく京重に向かって、娘は言った。
「京重様……」
聞き覚《おぽ》えのある声に、京重は跳《と》び起きた。
「ゆ、唯恋《ゆいれん》!」
唯恋は、はらはらと涙《なみだ》を流した。唯恋の涙は京重にとって、一番見たくないものであった。
「京重様。京重様はどうして唯恋をお捨《す》てになられたのですか? 私をお嫌《きら》いになったのならば、唯恋は諦《あきら》めます。
でも、せめて別れの言葉が針しかったのです。私を嫌って、姿を消される前に、当部別れの言葉が欲しかったのです」
「ち、違《ちが》うんだ唯恋!」
唯恋は、京重が自分を嫌い、姿を消したのだと考えていた。京重の行動だけを見ればそう考えても不思議《ふしぎ》はない。
京重は必死《ひっし》に事情《じじょう》を説明するが、唯恋にとってはなんの説得力《せっとくりょく》もない。
それでも京重は説明するしか方法はなかった。そんな二人を見ながら、和穂と殷雷は困《こま》りながら言葉を交《か》わした。
「くそう。凶鎖丸《きょうさがん》の圧倒的勝利《あっとうときしょうり》ではないか。京重にとって、唯恋を自分の不幸に巻き込むってのが一番|試練《しれん》だ。
凶鎖丸は最大の目的を達《たっ》したって訳《わけ》だ。
京重の望《のぞ》みを妨害《ぼうがい》し、京重が避《さ》けようとした事は着実《ちゃくじつ》に実行してやがる」
「それじゃ、京重さんがあまりにも可哀《かわい》そうだよ」
「だが、こいつばかりは打つ手がない。全《まった》くもってどうしようもない」
和穂は悩《なや》み、一つの考えに辿《たど》り着《つ》く。
「殷雷。唯恋さんの側《そば》に行ってあげて」
殷雷はブルンブルンと首を振った。
「泣いてる女を慰《なぐさ》めるのは、性《しょう》に合わん。ああいう問題は当人同士に任《まか》せてだな」
「いいから、唯恋さんの側に行って。……ちゃんと棍《こん》を持ってね」
和穂の言葉の意味をしばし吟味《ぎんみ》し、殷雷の顔にも微《かす》かな笑《え》みが浮《う》かぶ。
「判《わか》った」
殷雷は棍を持ち、泣き続ける唯恋の隣《となり》に立った。
「事情はよく判りませんが、お嬢《じょう》さん、泣くのはおよしなさい。あなたを捨てた、こんな男の為《ため》に涙を流しては勿体《もったい》ないですよ」
てっきり、凶鎖丸の説明を手伝ってくれるだろうと思っていた京重は、驚《おどろ》く。
「何を言い出す」
優《やさ》しく片手で唯恋の背中で撫《な》で、片手の棍で京重の胸元《むなもと》を突《つ》く。
「唯恋さんに近づくんじゃないよ、この人でなしめ」
殷雷につっかかろうという気分にはならなかった。理由はともあれ確《たし》かに、自分の行動がどれだけ唯恋を傷《きず》つけたか。
京重は押されるまま、フラフラと後ろに下がった。
それでも判って貰《もら》おうと、口を開く京重に和穂が声をかけた。
「京重さん」
「なんだ! 話なら後にしてくれ! どうせ何も出来ないくせに!」
和穂は京重の言葉を無視《むし》して続ける。
「結局《けっきょく》、京重さんは自分の身が助かれば、それでいいんですよね? 他の人間がどうなろうとも知ったこっちゃないんだ」
「何を言い出す? 俺はただ、凶鎖丸の力から逃《のが》れたいだけだ!」
「それで、私に凶鎖丸を押しつけようとしたんでしょ?」
「押しつけるだと! 厄介《やっかい》な宝貝《ぱおぺい》を返そうとして何が悪い!」
和穂は京重の言葉を全《まった》く信じようとはしない。それどころか、京重の神経《しんけい》を逆撫《さかな》でするように言葉を続けていく。
「違います。やっぱり京重さんは自分だけが助かればそれでいいんです」
京重とて一応は剣士《けんし》。怒《いか》りに身を任《まか》せ、暴力《ぼうりょく》を振るう趣味《しゅみ》はなかったが、和穂の無礼《ぶれい》な口のききかたに体が動いた。
和穂の胸ぐらを掴《つか》み、怒鳴《どな》る。
「黙《だま》れ、この元仙人《もとせんにん》め!」
和穂は怯《ひる》まない。
「凶鎖丸を外《はず》す、いい方法が一つだけあるんですよ」
「なに!」
「物体を、瞬時《しゅんじ》に入れ換《か》える宝貝があるんです。これを使えば、凶鎖丸を他の人に付《つ》け替《か》えられるかもしれません。
あ、勿論《もちろん》私は御免《ごめん》ですよ。
どうです? そこの唯恋さんにその凶鎖丸を付け替えてあげましょうか?」
和穂を突き飛ばすようにして、京重は飛びすさった。そして、額《ひたい》の凶鎖丸を必死《ひっし》に押さえつけた。
「駄目《だめ》だ! なんて事を言いやがる!」
「いいじゃないですか。京重さんは助かるんですよ」
葛藤《かっとう》など微塵《みじん》もなかった。
自分の身を助ける為《ため》に、唯恋を犠牲《ぎせい》にするなど絶対に出来ない。
「駄目だ駄目だ! 凶鎖丸は絶対に唯恋に取りつかせないぞ!」
次の瞬間《しゅんかん》、凶鎖丸は京重の額から外れた。
絶対に凶鎖丸を、唯恋に取りつかせないという意志《いし》に、凶鎖丸が反応したのだ。
外れた凶鎖丸は、電光の素早《すばや》さで、唯恋の額に向かい飛ぶ。
そして、唯恋の隣《となり》には凶鎖丸を待《ま》ち構《かま》え、棍《こん》を握《にぎ》りしめた殷雷《いんらい》がいた。
電光の速さを上回る、殷雷の突きが凶鎖丸に到達《とうたつ》した。
ガシャン。
鏡《かがみ》が割れるような音を立て、凶鎖丸は砕《くだ》け散《ち》った。
京重は力なく床《ゆか》に座《すわ》り込み、締《し》まりのない笑顔《えがお》で笑った。
「はっはっは。和穂。物体を入れ換える宝貝なんてないんだろ?」
「はい。ごめんなさい。騙《だま》したりして」
「構うもんか! これでやっと唯恋と故郷《こきょう》に帰れるんだ」
京重は、唯恋に一言、「すまない」とつぶやき、彼女を強く抱きしめた。
その横では、のびた蕎麦《そば》を弁償《べんしょう》しろと騒《さわ》ぐ殷雷を、和穂が必死《ひっし》になって黙《だま》らせていた。
『凶鎖丸』
確率《かくりつ》に作用《さよう》し、あらゆる不運を呼《よ》び寄《よ》せる宝貝。その災厄《さいやく》を乗り越《こ》える事により己《おのれ》の修行《しゅぎょう》とする為の宝貝である。
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傷《きず》だらけのたかかい[#「たかかい」に傍点]
「いやあ、こうやって腹這《はらば》いになって、干《ほ》し肉《に》をガシガシ噛《か》んでると、いかにも極限状態《きょくげんじょうたい》って感じがするよね」
青年はそう言って、懐《ふところ》の中に仕込《しこ》んだ袋《ふくろ》から干し肉を取り出し、口にくわえた。
煙管《きせる》ほどの長さの干し肉は、下手《へた》な箸《はし》よりも硬《かた》かったが、男は手慣《てな》れたようにガリガリと囓《かじ》り続ける。所々《ところどころ》に兎《うさぎ》の毛皮を取り付けた男の服装《ふくそう》は、彼が猟師《りょうし》であると物語っている。
そこは平原《へいげん》だった。
視界《しかい》の中に、人工的な建物《たてもの》は全《まった》く見えはしなかった。遠くに見える山々と森の影《かげ》だけが地平線の邪魔《じゃま》をしている。
陽《ひ》の光は柔《やわ》らかく平原に降《ふ》り注《そそ》ぎ、真《ま》っ青《さお》な空では一匹の鷹《たか》がゆうゆうと輪《わ》を描《えが》いていた。
そんなのどかな平原の下、二人の青年と一人の娘《むすめ》が地面にはいつくばっていた。
風がそよぐ音以外に聞こえるのは、彼らの話し声だけだった。
腹這いになっている猟師は、干し肉を煙管のようにもてあそび、隣《となり》で同じように腹這いになっている娘に言った。
「どう。和穂《かずほ》さんも干し肉食べる? あと五、六本はあるから遠慮《えんりょ》なく」
和穂と呼ばれたのは、年《とし》の頃《ころ》なら十五、六の娘だった。白色の袖《そで》の長い服、いわゆる仙人《せんにん》が着ていそうな道服《どうふく》を身にまとっている。
後頭部《こうとうぶ》で括《くく》られた柔らかい髪《かみ》は、腹這いになっている為《ため》に彼女の背中で広がっていた。
「いえ、いらないです」
「? なんか顔色が悪いけど、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ちょ、ちょっと胸焼《むねや》けが。
さっき食べた昼御飯《ひるごはん》のうどんと、食堂のおばあさんがくれた、お汁粉《しるこ》がお腹《なか》のなかで」
息も絶《た》え絶《だ》えな和穂を見ても、猟師の声は呑気《のんき》なままだった。どことなく虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》には緊張感《きんちょうかん》のかけらすらなかった。
「あそこの婆《ばあ》さん、甘《あま》い物が好きだからねえ。猟師相手の商売《しょうばい》だから、まだこの季節はやってないんじゃなかったっけ」
たいした質問でもないので、捨《す》てておけば良さそうなものなのに、和穂は律儀《りちぎ》に答えた。
「お店は開いてなかったんですけど、一人で食事してもつまらないからって、一緒《いっしょ》に御馳走《ごちそう》になったんです。あ、最初は道を尋《たず》ねようと思って。丁度《ちょうど》昼どきで」
気分の悪さのせいで答えが要領《ようりょう》を得《え》ない。
見かねたのか、もう一人の青年、殷雷《いんらい》が会話に割《わ》って入った。
「やかましい。飯屋《めしゃ》の話なんかどうでもいいんだ。やい、猟師! 名前は丈雲《じょううん》だったか?
何がどうなってるか状況《じょうきょう》を説明しやがれ。そもそも、アレは何なんだよ!」
殷雷は黒い袖付き外套《がいとう》を羽織《はお》っていた。男にしては長い黒髪が目立つ。
腹這いになりつつも、彼の片手には寄《よ》り添《そ》うように銀色の棍《こん》が握《にぎ》られている。
殷雷の鷹《たか》や鷲《わし》のような、猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭《するど》い瞳《ひとみ》は猟師の丈雲を睨《にら》み付けていた。
「だから、雷渦《らいか》。あれは雷渦」
殷雷の求める答えではなかった。
「雷渦ってなんだよ!」
殷雷の額《ひたい》と頬《ほお》に幾《いく》つかの傷《きず》があった。古傷《ふるきず》の類《たぐい》ではなく、ついさっきついたばかりの生傷《なまきず》だった。その傷の一つから血がたらりとしたたった。それを見て、和穂は慌《あわ》てた。
「あ、殷雷! 血が出てるよ!」
和穂は腰《こし》に括《くく》り付けたひょうたんに手を伸《の》ばしながら、立ち上がった。殷雷の傷の手当てをするつもりだったのだ。
「馬鹿《ばか》! 立つな!」
ひゅん。
刃《やいば》が空《くう》を斬《き》る音にとてつもなくよく似《に》た、音がした。
稲妻《いなずま》のように素早《すばや》い、黒い影が疾《はし》った。
尻尾《しっぽ》を踏《ふ》まれた猫《ねこ》よりも素早く、殷雷は立ち上がり、和穂の肩を突き飛ばす。和穂は大地を転《ころ》げ、黒い影は和穂が元《もと》居《い》た場所を過ぎ去っていった。
そんな状況でも決して、殷雷の棍を握る手は力《りき》んではいなかった。殷雷の瞳は影の正体《しょうたい》を見据《みす》えた。
和穂の安全を確保《かくほ》した殷雷は棍を旋回《せんかい》させ、黒い影に打ち込もうとしたが、その隙《すき》はない。
黒い影が体勢《たいせい》を整《ととの》える前に殷雷は再《ふたた》び腹這いになった。黒い影は天空《てんくう》へと戻《もど》っていった。
丈雲は干《ほ》し肉を囓《かじ》りながら言った。
「ほお。人の形をしている時でもそんなに強いんだ。さすがは宝貝《ぱおぺい》、殷雷刀《いんらいとう》」
「やっと判《わか》ったぞ。鷹か。黒い影の正体が、雷渦という鷹なんだな」
「ご名答《めいとう》」
宝貝。
仙人が造《つく》りし神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
仙人が己《おのれ》の持てる仙術《せんじゅつ》の粋《すい》を結晶《けっしょう》し造り上げた尋常《じんじょう》ならざる能力《のうりょく》を持つ道具たち。
それはまた、決して人の世界にあってはならない道具たちであった。
だが、ある事故により、数多くの宝貝が人間の世界にばらまかれてしまったのだ。
しかも、その宝貝たちには何らかの欠陥《けっかん》があり、通常の宝貝よりもさらに危険《きけん》な可能性《かのうせい》を秘《ひ》めている。
宝貝をばらまいてしまった仙人は己の責任を果《は》たす為《ため》に、宝貝の回収《かいしゅう》に乗り出した。
その仙人の名は和穂。
だが、彼女は地上にこれ以上の混乱《こんらん》を巻き起こさない為に仙術を封《ふう》じられていた。
宝貝回収にあたり彼女に与《あた》えられたのは三つの宝貝であった。
一つは彼女の腰《こし》に括《くく》られた、ひょうたんの宝貝、断縁獄《だんえんごく》。一見、普通《ふつう》のひょうたんにしか見えないが、その内部には莫大《ばくだい》な空間が広がっていてその中に回収した宝貝を閉じ込める役目を持つ。
もう一つは耳飾《みみかざ》りの宝貝、索具輪《さくぐりん》。
彼女の耳たぶにつけられた、質素《しっそ》で丸い白石の飾りの姿《すがた》をしたこの宝貝こそが、他の宝貝の居場所《いばしょ》を探《さぐ》り当《あ》てる能力を持っていた。
索具輪は、この平原のどこかに宝貝の存在があると示《しめ》していたのだ。
そして殷雷もまた宝貝であった。
彼の本当の名は殷雷刀。
断縁獄や索具輪とは違《ちが》い、人の姿をとり己の意思《いし》すら持つ宝貝であった。
時はほんの僅《わずか》か遡《さかのぼ》る。索具輪の反応《はんのう》をもとに平原にやってきた和穂たちだったが、そこには人影が全《まった》く見当たらない。
あてが外《はず》れた怒《いか》りを隠《かく》そうともせず、殷雷は意地の悪そうな口調《くちょう》で和穂に言った。
「誰《だれ》も居《い》ないぞ。これじゃ話になるまい」
「それはほら、やっぱり敵《てき》も警戒《けいかい》して気配《けはい》を消しているとかじゃ」
殷雷は、和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》み持ち上げた。
「術も使えぬ能《のう》なしの仙人が、気配がなんだと利《き》いた口をきくなよ!
戦術に関《かん》しては俺《おれ》の方が専門《せんもん》なんでね」
殷雷は空《あ》いた手で平原を指さす。
「待《ま》ち伏《ぶ》せでもしてると思うか?」
手足をバタバタさせ、和穂は言った。
「違《ちが》うの?」
「見事《みごと》な待ち伏せっぷりだな。
わざわざ、こんな平原で待ち伏せとは余程《よほど》の馬鹿《ばか》だ。
俺たちの接近《せっきん》が察知《さっち》されていたとして普通《ふつう》の神経《しんけい》ならば、この平原に来る途中《とちゅう》の山道か森の中に隠《かく》れるに決まってるだろうがよ!
俺はそれよりも、ここには宝貝も宝貝の使い手もいないと信じたいね」
どうにか地面に下ろされた和穂はそのままペタリと地面に座《すわ》り込《こ》んだ。
「殷雷の言う事も判《わか》るよ。でも、平原に潜《ひそ》むのはそんなに無茶《むちゃ》な話なの?」
「やってやれなくもないが。動きが取れん。
草むらに潜んだ場合、少しの動きで気配が漏《も》れる。森ならば常《つね》に死角《しかく》が存在《そんざい》するから、待ち伏せからの襲撃《しゅうげき》も可能だがな。
ま、どちらにしろ刀《かたな》の宝貝に不意打《ふいう》ちを喰《く》らわせるのは簡単《かんたん》じゃない」
和穂はポンと手を叩《たた》く。
「じゃ、やっぱり完璧《かんぺき》に気配を消せる宝貝でね、ついでに使用者の姿も見えなくさせるような機能もあって、この平原に居《い》るんだけど見えないんだ」
問答無用《もんどうむよう》とばかり、殷雷は和穂の襟首《えりくび》を掴み今来た道を引き返そうとした。
「思いつきだけで、喋《しゃべ》るんじゃない。そんな宝貝はないんだよ」
殷雷に引きずられながらも、和穂はどうしても納得《なっとく》がいかない。
「どうして? 気配と姿を消せる宝貝があっても不思議《ふしぎ》じゃないじゃない」
刀の宝貝は溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた。
「そんな宝貝が存在しちまって、こんな何もない平原で、いとも簡単に不意打ちを仕掛《しか》けられるんじゃ、武器の宝貝の商売《しょうばい》上がったりだ」
「そんなの殷雷の都合《つごう》だけじゃない」
「うるせいな。逆に言えば、そんな宝貝が造れないから、武器の宝貝の存在|価値《かち》があるんじゃねえか」
かなり引きずられながらも、和穂は平原から目を離《はな》せない。
「じゃ、単純《たんじゅん》に気配を隠《かく》すのが上手《じょうず》な宝貝だとしたら、相手も武器の宝貝?」
勘弁《かんべん》してくれという表情をしながら、殷雷は答えた。
「どんな間抜《まぬ》けな武器の宝貝でも、平原で不意打ちを仕掛けたりしねえ!」
風の向きが変《か》わった。
和穂の疑問《ぎもん》は解《と》けない。
「じゃ、この索具輪《さくぐりん》の反応は? 索具輪の使い方は間違《まちが》えてないよ」
ずりずりと、殷雷は和穂を引きずり続けた。
納得がいくまでは、自分の足を使いそうにはない。
「あぁ、もう。無駄《むだ》に頑固《がんこ》な奴《やつ》だなお前も。
いいか、前から思ってたんだが、索具輪ってのは高度までは探《さぐ》れないだろ」
「?」
「ここはちょっとした、高原《こうげん》だ。来る途中《とちゅう》に谷も越《こ》えただろ。
ここの地下《ちか》に洞窟《どうくつ》か何かがあるんじゃねえか。場所はここだが、もっと地下に宝貝があるんだろうよ」
小首を傾《かし》げ続けていた和穂の顔がパッと明《あか》るくなった。
「あ、そうか!」
やっと納得がいったのか、和穂は立ち上がった。
そして、殷雷の分析《ぶんせき》の鋭《するど》さに感心した。
「凄《すご》いね、殷雷。私じゃぜんぜんそこまで考えが回らなかったよ」
「け。お前に褒《ほ》められても嬉《うれ》しくないな」
「でも、本当に凄いよ。
さすが武器の宝貝だね。与《あた》えられた情報から的確《てきかく》に状況《じょうきょう》を分析出来るんだもん」
絶賛《ぜっさん》されるのに慣《な》れていないのか、少しばかりの照《て》れを隠《かく》しつつも、軽く殷雷は悪態《あくたい》をついた。
「やかましい。これぐらいの事はそんな、たいした分析じゃない。ま、頭を使ったうちにも入りやしねえな」
「だったら、余計《よけい》に凄いよ。
私なんか、一所《いっしょ》懸命《けんめい》に考えても気が付かなかったのに」
「お前の脳味噌《のうみそ》と比《くら》べてどうするんだよ」
いい加減《かげん》、殷雷の口の悪さにも慣《な》れてきた和穂は、これぐらいの言葉では怒《おこ》らなかった。
「またまた、そんなに照れなくても。
褒めてるんだから、素直《すなお》に喜んでよ」
「誰《だれ》が照れるか! うだうだ言ってないで、洞窟の入り口を探《さが》すぞ。洞窟の入り口探しか。ちょいとばかり面倒《めんどう》そうだがな」
と、その時。
「おしいけど、間違《まちが》い。ここいらに洞窟なんかないんです」
和穂と殷雷は完璧《かんぺき》に虚《きょ》を突《つ》かれた。
もしも、これが不意打ちならば殷雷は思考《しこう》よりも速く動いていただろうが、声の主《ぬし》はあまりにゆっくりと地面から立ち上がったのだった。
最初は人の形をした草の塊《かたまり》にしか見えなかった男だが、立ち上がると共《とも》に、体の表面を覆《おお》っていた草が地面へと落ちていった。
「あなたは誰ですか?」
驚《おどろ》きにも幾《いく》つかの段階《だんかい》があり、和穂の場合はビックリした程度で、すぐに口がきけるようになったが、殷雷の驚きはまさに驚愕《きょうがく》であり、口をパクパクと動かすだけであった。
「な、な、な」
男はバサバサと自分の体を払《はら》い、草を振り落とした。
そして、申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔をして殷雷に顔を向ける。
「殷雷さんですよね。
お願いします。助けてください。雷渦《らいか》をどうにかしてください」
「なんだお前は!」
「もちろん説明しますが、その前に地面に伏《ふ》せた方がいいですよ」
猟師《りょうし》はそう言って、さっさと腹這《はらば》いになった。
そして、黒い影が殷雷を襲撃《しゅうげき》した。
雷渦は焦《あせ》っていた。
丈雲《じょううん》の姿《すがた》を見失《みうしな》ってしまったのだ。
相手をみくびっていた。所詮《しょせん》、人間の動きなど地を駆《か》けるものや、水の中を進むものに比べれば、とてつもなく鈍《にぶ》いはずだった。
いや、実際《じっさい》に鈍い。
だが、人間には知恵《ちえ》がある。しかも、奴《やつ》は猟師だったのだ。
幾《いく》つかの傷《きず》を負《お》わせはしたが、まんまと姿《すがた》を消されてしまったのだ。
逃《に》がしてしまったのかという、不安すら感じた。そのまま、里《さと》へ飛ぼうかという、とてつもなく強い欲求《よっきゅう》を感じたが、それは出来ない。
丈雲を見失ったままで、安易《あんい》な行動は起《お》こせない。
雷渦は大きく空《くう》を舞《ま》う。
魚の鱗《うろこ》が水を撫《な》でるように、雷渦の翼《つばさ》は風を感じとった。やがて、丈雲を見つける代《か》わりに視界《しかい》に入ったのは一人の青年と娘《むすめ》の姿だった。
奴らの名は和穂と殷雷だと、足首《あしくび》の宝貝《ぱおぺい》が教えてくれた。奴らは宝貝の回収《かいしゅう》を目的として旅をしているのだと。
状況《じょうきょう》が動き始めている。
雷渦は判断《はんだん》し、その鋭《するど》い瞳《ひとみ》で二人の動向《どうこう》を観察《かんさつ》し続けていた。
そして、丈雲は動いた。
奴は草の中に姿を紛《まぎ》らわせていたのか。
雷渦は己《おのれ》の瞳《ひとみ》を引き絞《しぼ》り、大きく広げられた翼をゆっくりと閉《と》じていく。
今までねっとりと翼に絡《から》みついていた風の流れが途端《とたん》にサラリとしたものに感触《かんしょく》を変えた。第一の標的《ひょうてき》は黒髪《くろかみ》の男、殷雷だ。
翼を閉じ、空を舞うことを止《や》めた雷渦は大地に向かい急降下《きゅうこうか》を始めた。
邪魔《じゃま》はさせない。
「はっはっは。面目《めんぼく》ない。鷹《たか》に宝貝を付けてやったら、突然《とつぜん》襲《おそ》いかかられてね。まさに、飼《か》い犬に手を噛《か》まれるってのはこの事だね」
丈雲は呑気《のんき》に笑いながら、和穂に状況を説明した。
殷雷に突き飛ばされ、和穂はかなりの距離《きょり》を転《ころ》がった。そこからここまで匍匐前進《ほふくぜんしん》で戻《もど》る羽目《はめ》になったが、体を動かしたお陰《かげ》で胸焼《むねや》けがだいぶ楽になっていた。
和穂は確認《かくにん》をとるように言葉を返した。
「それじゃ、鷹用の宝貝なんですか?」
「簡単《かんたん》に言えば、そうなんですよ。鷹の能力《のうりょく》を飛躍的《ひやくてき》に向上《こうじょう》させる力を持つ、足環《あしわ》の形をした宝貝でした」
「それじゃ」
全《すべ》てを承知《しょうち》という表情をして、丈雲は答えた。
「そう。欠陥《けっかん》は鷹の性格を凶暴《きょうぼう》にしちゃうようですね。肉体的な能力だけじゃなく、知恵《ちえ》も回るようになってしまって難儀《なんぎ》していました」
かなり鷹に襲《おそ》われつづけていたのか、丈雲の頭や顔には幾《いく》つかの傷《きず》が見て取れた。
が、致命的《ちめいてき》な傷はないのか本人は平気な顔をしている。
丈雲と和穂の隣《となり》で、殷雷が大声で怒鳴《どな》った。
「ふざけんな! 無茶苦茶《むちゃくちゃ》厄介《やっかい》だぞ!」
痛みになる前の痒《かゆ》みの為《ため》か、丈雲は額《ひたい》の生傷《なまきず》を掻《か》いた。
「ご面倒《めんどう》をお掛《か》けして、申《もう》し訳《わけ》ない」
「いいか急降下|攻撃《こうげき》なんてのは、確実《かくじつ》に成功《せいこう》する時だけに仕掛《しか》けるものなんだ。
言葉を換《か》えれば、外《はず》すと致命的《ちめいてき》な隙《すき》が出来るんだ! それがなんだ、あの鷹は垂直《すいちょく》降下から、いきなり水平飛行《すいへいひこう》に変わりやがるじゃないか!」
一度雷渦の動きを把握《はあく》した殷雷は、正確に鷹の動きを分析《ぶんせき》していた。
うんうんと首を縦《たて》に振《ふ》りながら、丈雲は説明した。
「宝貝の名前は界転翼《かいてんよく》と言って、鷹の能力の増大《ぞうだい》と、確《たし》か自在《じざい》に落下角度《らっかかくど》を制御《せいぎょ》出来るような機能があったはずです。
さすがにある程度の隙があるようで、地上から一定の高さの間には下りてきません。だから、腹這《はらば》いになってる間は安全です」
殷雷の視界の隅《すみ》で、雷渦は落下する速度で空へと向かい上昇《じょうしょう》していった。
「思いっきり不利《ふり》じゃねえか、素早《すばや》いだけの鳥かと思えば、対空《たいくう》、対地戦闘《たいちせんとう》にも応用が利《き》くぞ」
さらにさらに雷渦は上昇していった。
油断《ゆだん》なく雷渦の動きを見つづける殷雷に和穂は言った。
「ねえ、殷雷。刀《かたな》に戻《もど》ってよ。
素早い敵が相手なら、刀に戻って戦《たたか》った方がやりやすいんじゃない?」
舌打《したう》ちしながら、殷雷は吠《ほ》えた。
「あ、そうかいいところに気がついたな、和穂。と、でも褒《ほ》めて欲《ほ》しいか?
生憎《あいにく》、刀に戻る隙なんぞ見せようもんなら簡単《かんたん》に目玉《めだま》をくり抜かれるぞ。
あの鶏野郎《にわとりやろう》は今は上昇してるが、一瞬《いっしゅん》でこっちに向けて襲撃《しゅうげき》がかけられるんだからな。
いいからお前らは大人《おとな》しくしてろ。
だが勝てない相手じゃない」
あまりにも呑気《のんき》な声が返る。
「それじゃお言葉に甘《あま》えましょう。
しかしまあ、和穂さんも大変ですなあ。宝貝|回収《かいしゅう》の旅とは、骨《ほね》が折れるでしょう。
おっと、最初にお断《ことわ》りしておきますが、私は抵抗《ていこう》する気はありませんからね。
雷渦から命を助けてもらったんだし、雷渦をどうにかしていただければ、界転翼《かいてんよく》は喜《よろこ》んでお返しします」
和穂の顔が明るくなった。
「本当ですか! ありがとうございます」
丈雲《じょううん》の声は低く、抑揚《よくよう》がない平坦《へいたん》な声であった。
「礼《れい》には及《およ》びますまい。もともと、宝貝はあなたの物なんでしょうから」
「えぇと、正確には私の師匠《ししょう》の物なんですけど」
地上に飛《と》び散《ち》った、無数の宝貝。
宝貝を解放《かいほう》してしまったのは和穂であったが、宝貝を制作《せいさく》したのは彼女の師匠であった。
隙のない瞳《ひとみ》でどこまでも上昇する雷渦を見つめながら、殷雷は丈雲に言った。
「呑気に世間話《せけんばなし》かよ。
いまいち、緊張感《きんちょうかん》に欠けやがる男だな。
それにしちゃ、気配《けはい》の消し方が上手《じょうず》だったな。
武器の宝貝にすら悟《さと》られないなんて、かなりの腕前《うでまえ》だぞ」
ゆっくりと顔を歪《ゆが》ませ、丈雲は笑った。
「いやはや、お恥《は》ずかしい。これでも猟師《りょうし》なもんで、気配の消し方は得意《とくい》なんです。
野生《やせい》の動物相手の商売《しょうばい》ですからね」
殷雷は静かに考えた。
丈雲の言葉に嘘《うそ》はないだろう。いかに宝貝とはいえ、動物にすら気取《けど》られないような男の気配は簡単《かんたん》には読めない。
恐《おそ》らく、呼吸《こきゅう》一つとっても風の流れに合わせて行《おこな》っていたのだろう。
だが、殷雷は丈雲の呑気さが気に喰《く》わなかった。
「和穂さん、こんな山中にまで来るのは大変だったでしょう」
和穂はこくりとうなずいた。
「でも、途中《とちゅう》で小さな村があって、そこで休んできましたから」
「で、何か変わった事はありませんでしたかね。村に」
丈雲もその村の人間ではないのだろうか?
和穂は少し疑問《ぎもん》に思った。
村に辿《たど》り着《つ》くまでの山道はかなり、長かったが、村から平原《へいげん》まではそんなに距離《きょり》は離れていない。村の外《はず》れにある飯屋《めしゃ》から見れば、平原はかなりの近さだ。
「変わった事ですか? 別にありませんでしたけど。どうかしましたか?」
和穂の声に含《ふく》まれる疑惑《ぎわく》に丈雲は敏感《びんかん》に反応した。
「それは良かった。いえいえ、一度|猟《りょう》に出ると、なかなか村には戻《もど》れませんからね。
たとえどんなに近くても」
微妙《びみょう》な違和感《いわかん》を殷雷は感じたが、今はそれどころではなかった。
天へと舞《ま》い上がった雷渦《らいか》の動きがピタリと止まったのだ。鷹《たか》を見つめていた殷雷は不敵《ふてき》に笑った。
「け。仕留《しと》めてやるぜ。かかってきな」
殷雷は、棍《こん》を片手に立ち上がった。
さすがに武器の宝貝、そう簡単には倒《たお》す事は出来なかった。
だが、負けるわけにはいかないのだ。
絶対に負けるわけにはいかないのだ。
雷渦は覚悟《かくご》を決めた。
これ以上、時間をかけるつもりはない。
次の一撃《いちげき》で勝負《しょうぶ》はつく。
これ以上|昇《のぼ》れば、雪に視界《しかい》が遮《さえぎ》られるギリギリの高さまで雷渦は昇りつめた。
雷渦は地上、遥《はる》か彼方《かなた》の殷雷の姿《すがた》を見つめた。
尋常《じんじょう》の生き物ならあり得ざる事に、殷雷と雷渦の目が合った。そして、殷雷はニヤリと笑《え》みを浮《う》かべた。
猛禽類《もうきんるい》を思わせる、殷雷の瞳《ひとみ》は伊達《だて》ではないのか。
考えすぎる危険さを雷渦は知っていた。
もはや、考えを巡《めぐ》らす時は過ぎた。
あとは行動あるのみ。
ヒュルリと雷渦は天から落ちていった。
風が轟音《ごうおん》となり、雷渦の体を揺《ゆ》さぶろうとするが、雷渦の羽《はね》は風の中をすり抜けていく。
風の激流《げきりゅう》の中で、雷渦の視線《しせん》はゴウゴウと揺れていたが、それでも標的《ひょうてき》からは全《まった》く視線を外《はず》さない。
標的は銀色の棍《こん》を構《かま》えはじめていた。
ゆっくりとした構えであったが、雷渦と殷雷がぶつかり合う瞬間《しゅんかん》には充分に間《ま》に合う速度だった。
殷雷に隙《すき》はない。
ならば、この加速に全《すべ》てを賭《か》け、殷雷の棍の一撃《いちげき》よりも素早《すばや》く仕掛けるだけだ。
それは蜂《はち》の羽が数回交差するだけの時間の戦《たたか》いであった。
雷渦の嘴《くちばし》は殷雷の頭上《ずじょう》を捉《とら》えた。
相手が通常の生き物ならば完璧《かんぺき》な死角《しかく》になるはずだが、殷雷には通用しない。
雷渦は承知《しょうち》の上だった。
死角にはならないが、攻撃《こうげき》をするには無理な場所には違《ちが》いない。
が、殷雷の手には棍がある。
あの棍で打ち払われる危険があった。
棍の突《つ》きがかわせるか、否《いな》か。それが勝負《しょうぶ》の分かれ目であった。
間延《まの》びした時間の中で、雷渦と殷雷の間合《まあ》いが交差する時がやってきた。
まずは、棍の分だけ殷雷が先に有利《ゆうり》な間合いに入った。
落下する雷渦と同じくらいに素早い突きが雷渦|目指《めざ》して放《はな》たれた。
大きくかわせば、次の一撃を相手に繰《く》り出す隙を与《あた》える。雷渦は棍を寸前《すんぜん》にまで引きつけ、そして注意深く棍を持つ殷雷の手を見た。
力なく脱力《だつりょく》されいかなる攻撃にも転《てん》じられるようなしなやかな握《にぎ》りであったが、人間の手の形をしている以上、動きにくい角度《かくど》は存在する。
雷渦は殷雷の小指のある方向へ、落下角度を調整《ちょうせい》した。
棍の先端《せんたん》が雷渦の真横《まよこ》で空《くう》を斬《き》った。
さながら、棍を伝《つた》う稲妻《いなずま》のように雷渦は降下《こうか》を続けた。
棍を突きから払いに転じて雷渦を叩《たた》き落とすのは角度的に無理だ。
『仕留《しと》めた!』
雷渦は標的《ひょうてき》をさらに絞《しぼ》り込む。殷雷の、さらに右目に嘴を突き刺《さ》そうと雷渦は降下を続けた。猛禽類《もうきんるい》と同じ輝《かがや》きを持つ殷雷の瞳《ひとみ》が細《ほそ》く引《ひ》き締《し》まった。
それが、不敵《ふてき》な笑《え》みから転じた、勝利の笑《え》みだと気がついたとき、雷渦は地面に叩きつけられていた。
嘴は殷雷に触《ふ》れられなかったが、それでも爪《つめ》は殷雷の頬《ほお》に軽い傷《きず》をつけた。
「ま、当然といや当然だが。この鶏《にわとり》め、棍との戦いには慣《な》れてないようだな。
棍や槍《やり》は柄《え》を回転《かいてん》させて使う物なんだよ。
先端をかわしたとて、柄に触《ふ》れれば只《ただ》ではすまぬのだ。
お前はほんのちょいとばかり、羽が棍に触れたんだよ。棍の回転にお前の翼《つばさ》は巻き込まれたって理由《わけ》だ。
そう簡単に死角を見せると思ったか?」
丈雲《じょううん》の呑気《のんき》な歓声《かんせい》が上がる。
「ああ、さすがだ!」
腹這《はらば》いの体勢《たいせい》で掛けられる声援《せいえん》はあまり嬉《うれ》しくはなかった。
ちらりと殷雷は丈雲をにらむ。
「可愛《かわい》い鷹《たか》に怪我《けが》をさせちまったな。右の翼が折れてるはずだが、なに治《なお》せない傷じゃねえ」
と、その時。
翼のはためく音が周囲《しゅうい》に巻き起こった。
不規則《ふきそく》でもがくような羽音《はおと》だが、決して弱々しいものではない。
ゆらりゆらりと、地面から雷渦は飛び上がった。
雷渦の足音には銀色《ぎんいろ》に輝く指輪《ゆびわ》のような界転翼《かいてんよく》が嵌《は》められている。その足環《あしわ》から銀色の蔓《つる》が大木《たいぼく》に巻きつくように、雷渦の足に巻きついていた。
銀色の蔓は雷渦の体を伝い、右の翼にまで及《およ》んでいた。蔓の先は銀色の翼へと形を変えている。
殷雷は棍で自分の肩を軽く叩《たた》いた。
「諦《あきら》めろ。お前じゃ俺に勝てないし、それ以上やるだけ無駄《むだ》だ。お前も獣《けもの》なら、勝てない相手に歯向《はむ》かうなよ」
そんな殷雷の言葉が理解《りかい》出来たのか、雷渦は嘲《あざけ》るように噂《な》いた。
ぴぃひょろろろろ。
殷雷の頭に途端《とたん》に血が昇《のぼ》る。
「鷹のくせに鳶《とぴ》みたいに、ぴぃひょろ啼きゃがって!
もう、怒《おこ》ったぞ。お前は焼き鳥にして食ってやる」
ゆらりゆらりと空を飛ぶ雷渦を追いかけ、殷雷は平原を駆《か》けはじめた。
もはや、殷雷には雷渦の動きが読めていた。怪我の程度から見ても、先刻《せんこく》のような素早い動きは不可能だ。
「和穂! ぼさっとするな! 今日《きょう》の晩飯《ばんめし》が逃げちまうぞ!」
「あっ、待ってよ殷雷!」
慌《あわ》てて和穂も殷雷の後を追い、そして丈雲も軽く舌打《したう》ちをしながら二人と一|羽《わ》の後を追った。
もはやこの手段《しゅだん》しかない。あまりに危険な賭《か》けだが、選ぶ余地《よち》はない。
殷雷には勝てないのだ。それはあまりに単純な理屈《りくつ》だった。
相手は戦闘用《せんとうよう》に造《つく》られた宝貝《ぱおぺい》で、こちらにあるのは鷹の能力を増大《ぞうだい》させる宝貝なのだ。
狩猟《しゅりょう》の手際良《てぎわよ》さなら負けはしないが、純粋《じゅんすい》な戦闘では、やはり歯が立たない。
突然の不意打《ふいう》ちならば、勝てたかもしれないが、それは今となっては意味のない妄想《もうそう》でしかない。
あまりに頼《たよ》りなく、雷渦は空を飛んでいた。
だが、雷渦はまだ完全に諦めてはいなかった。
切り抜《ぬ》ける。絶対にこの状況《じょうきょう》を切り抜けてやる。
雷渦は殷雷たちの動きを見た。
どうにか、間《ま》が取れているのは、和穂の足の遅《おそ》さの為《ため》でしかない。
殷雷は時間が経《た》てば経つほど自分が有利《ゆうり》になると判断《はんだん》して、わざと泳がせているのか。
その判断に間違《まちが》いはないと雷渦は知っていた。今の雷渦は最後の力を振《ふ》り絞《しぼ》っているに過ぎない。
静かに、だが確実に自分の命が足首の宝貝に吸《す》い取られていくのを雷渦は感じていた。
己《おのれ》を討《う》ち滅《ほろ》ぼそうとする宝貝。
しかし、この宝貝を外《はず》すわけにはいかない。
バサバサと雷渦は空《くう》を舞《ま》った。
そして、ついに目的に辿《たど》り着《つ》く。
そこには、一人の男と一羽の鷹《たか》が草の上に横たわっていた。
和穂は一人息を切らせて走っていたが、殷雷と丈雲の息は全《まった》く乱《みだ》れていない。
二人の足が止まったのを見て、ようやく和穂もここが、雷渦が辿《たど》り着《つ》いた場所であると判《わか》った。
大きく深呼吸《しんこきゅう》しながら辺《あた》りを見回し、そこで和穂は意外《いがい》なものを見た。
「あ!」
雷渦は草の上にとまっていた。
そして、雷渦の隣《となり》には息絶《いきた》えた鷹がゴロリと転《ころ》がっている。
そして、雷渦の向こう側には一人の青年が横たわっていた。その服装《ふくそう》は丈雲と良く似《に》ていたので、この男も猟師《りょうし》なのだろう。
和穂は思わず息を呑《の》む。
横たわる青年の顔や、剥《む》き出しになった腕《うで》には無数の傷《きず》があった。
その傷は程度は違《ちが》えど、殷雷や丈雲につけられた傷と同じだった。だが、遥《はる》かに深い傷だった。
「ちょ、ちょっと殷雷!」
「……。鷹は死んでるが、人間の方はまだどうにか生きてるようだな。息の音がしているが、見てのとおり半死半生《はんしはんしょう》だ」
殷雷の声が静かに低くなっていく。
「雷渦よ。お前は本当に利口《りこう》な鷹だな。
この土壇場《どたんば》で人質《ひとじち》をとって切り抜けようなんざ、たいした知恵《ちえ》だ。どうやら俺はちょっとばかし判断《はんだん》を間違えていたか。
丈雲の傷はたいしたものじゃなかったからよ、俺はてっきりお前は威嚇程度《いかくていど》の襲撃《しゅうげき》しかしてないと思っていた。
俺と戦《たたか》う時は、目玉を狙《ねら》っていたがあれは仕方《しかた》あるまい。俺を倒せなければ、自分の命《いのち》が危なかったんだからな」
そして、殷雷は大きく息を吐《は》く。
「ところが、お前は面白《おもしろ》半分に人間を半殺《はんごろ》しにして、同族まで打ち殺していやがったのかよ。
で最後にゃ、人質か」
殷雷は雷渦の呼吸《こきゅう》の乱《みだ》れを感じ取っていた。
雷渦は追い込まれている。
が、追い込まれたとしても人質を取るような戦法《せんぽう》は気に入らない。
ジリジリと殷雷は間合《まあ》いを詰《つ》めていく。
その殷雷の姿《すがた》を雷渦はじっと見つめていた。
殷雷は言った。
「お前はそれでも鷹か? 宝貝《ぱおぺい》のせいで正気《しょうき》を失《うしな》ったとは言わさんぞ」
くぐもった声を上げ、地面に横たわる青年が上体《じょうたい》を起こしかけた。
殷雷が叫《さけ》ぶ。
「立ち上がるな! 嘴《くちばし》で喉《のど》を突《つ》かれるぞ」
丈雲《じょううん》も叫ぶ。
「殷雷さん、早く雷渦を殺して下さい!」
丈雲の声に後押《あとお》しされ、殷雷は雷渦に向かい飛《と》び掛かった。
雷渦は舞《ま》い上がった。が、傷ついた翼《つばさ》の力では殷雷の身長|程《ほど》の高さにまでしか上昇《じょうしょう》できない。
充分《じゅうぶん》な加速もなしに、雷渦は水平《すいへい》に落下《らっか》を始めた。宝貝の能力による、ありえない角度《かくど》の落下だった。
殷雷は正面《しょうめん》から雷渦を叩《たた》きつぶそうと、棍《こん》を振り上げた。
この速度ならば外《はず》すはずがない。
が、雷渦が自分の体を標的《ひょうてき》としていない事に殷雷は気づく。
方角としては和穂の居《い》る場所だ。自分には敵《かな》わないから、和穂を道連《みちづ》れにするつもりなのかと殷雷は考えた。
「この外道《げどう》の鷹め!」
悪あがきにしてもたちが悪い。躊躇《ちゅうちょ》なく棍を振り下ろそうとした殷雷の心を、違和感《いわかん》が貫《つらぬ》いた。
「?」
違和感の正体《しょうたい》に気づくのに殷雷は半拍程《はんぱくほど》の時間がかかった。
まず、死んでいる鷹に外傷《がいしょう》がない。
なぜだ? 雷渦に殺されたのなら、どこかに傷が残るのではないのか?
そして、丈雲は雷渦を殺してくれと叫んだのだ。
鷹を使う男が、自分の鷹を殺してくれと頼《たの》んだのだ。
可愛《かわい》がっていた鷹が、人に危害《きがい》を加える化《ば》け物になった。助かる見込みがないとみて、心を鬼《おに》にしての頼みなのか? いや、殷雷は丈雲の声になんの苦しみも感じ取れなかった。
殷雷は寸前《すんぜん》で棍を引き、そのまま体を捻《ひね》り雷渦の狙《ねら》うものを見た。
そこには和穂が居る。
和穂の背後《はいご》には短刀《たんとう》を振り上げ、和穂に切りかかろうとする丈雲の姿《すがた》があった。
しまった、俺は状況《じょうきょう》を読み違えていたのだ!
殷雷は咄嗟《とっさ》に棍を持ち替《か》え、丈雲に向かい棍を投げつけた。
雷渦は和穂をかすめ、丈雲の短刀の柄《つか》に激突《げきとつ》し、その刃《やいば》を地面に叩き落とした。
殷雷の棍は丈雲の眉間《みけん》に命中し、昏倒《こんとう》させた。
全《すべ》てが終わり、殷雷と雷渦は大きく息を吐《は》いた。
一人和穂は状況が全《まった》く理解《りかい》出来なかった。
「え? え? いったい何がどうしたってのよ?」
地面に倒れていた青年の名は紫岳《しがく》。消耗《しょうもう》は激《はげ》しかったが、命に別状《べつじょう》はなかった。
和穂は紫岳の傷に薬《くすり》を塗《ぬ》り、包帯《ほうたい》を巻き、殷雷は雷渦の翼《つばさ》に合うように副木《そえぎ》を当てていた。
雷渦の足からは界転翼《かいてんよく》は外《はず》されており、丈雲は荒縄《あらなわ》でグルグル巻きにされていた。
和穂には今回の事件の顛末《てんまつ》が全く判《わか》っていなかった。
「で、その丈雲さんが私を殺そうとしたのはどうしてなの」
殷雷は呆《あき》れた顔をした。
「馬鹿《ばか》かお前は。お前を殺せば、宝貝《ぱおぺい》は全て丈雲のものじゃねえか」
「そりゃそうだけど、全然|事情《じじょう》がのみ込めないよ」
面倒《めんどう》そうに殷雷は言った。
「雷渦は紫岳の鷹なんだよ。紫岳を襲《おそ》ったのはそこで死んでる鷹。死んでる鷹の持ち主は丈雲先生ってわけだ。
くそう、見事《みごと》に騙《だま》されたぜ」
「じゃあ、雷渦は紫岳さんを守ろうとしていたの?」
かなり細《こま》かく殷雷は雷渦の副木《そえぎ》を調整していた。
「そう。雷渦は村に助けを呼びに行きたいが肝心《かんじん》の丈雲はまだ平原《へいげん》をうろうろしてるときやがる。丈雲を威嚇《いかく》してた時に俺たちが来たのさ」
やはり和穂にはのみ込めない。
「でも」
紫岳が声を出した。猟《りょう》で鍛《きた》えているためか、怪我《けが》の割《わり》にはしっかりとした声だった。
「最初から説明しましょう。界転翼を初めに手にいれたのは丈雲です。
界転翼の能力を使えば、巣《す》の中の獲物《えもの》も追えるんで、こんな時期《じき》にも狩《か》りが出来ます。
それどころか虎《とら》や熊《くま》だって仕留《しと》められます。
別にそれだけなら構《かま》わないんですが、界転翼の欠陥《けっかん》というのが」
殷雷が言葉を続ける。
「鷹の体力を異常に消耗《しょうもう》させる。だな?」
「そうです。丈雲は自分の鷹を使い捨《す》てるようにして狩りを行《おこな》っていたんです。
私はそれを止《や》めるように丈雲に頼《たの》んだんですが、聞き入れて貰《もら》えませんでした」
「それどころか、自分の鷹にお前を襲《おそ》わせたんだな」
紫岳はこくりと領《うなず》く。
「可哀相《かわいそう》な鷹です。丈雲の命令に忠実《ちゅうじつ》に従《したが》っただけなのに、命を落として」
「代《か》わりにお前の命は助かったってわけだ」
「私は急いで、界転翼を雷渦に付《つ》けてどこか遠くに捨ててくるように命じました」
殷雷がへラヘラ笑う。
「どこか遠くに回収《かいしゅう》しにいく身にもなれよ」
和穂が余計《よけい》な事を言わないの、と殷雷の背中を叩《たた》く。
「でも、雷渦は私の命を守る為《ため》に、ここに留《とど》まったんです。
後は殷雷さんの説明でお判《わか》りでしょう」
和穂もようやく納得《なっとく》がいった。
殷雷は罪滅《つみほろ》ぼしのように、雷渦の怪我《けが》を丁重《ていちょう》に手当てしている。
「ちっ。単純な分析《ぶんせき》間違《まちが》いだった。万が一、鷹が凶暴《きょうぼう》になったところで、主人に歯向《はむ》かうはずがなかったんだ。
鷹の忠誠心《ちゅうせいしん》をコロッと忘れて、丈雲に利用《りよう》されるとはな」
和穂がポツリと言った。
「そういや、殷雷の目って鷹に似《に》てるよね」
雷渦を手当てしていた、殷雷の動きがピタリと止まり、ゆっくりと和穂に向かい振り向いた。その口許《くちもと》はひきつっていた。
和穂は慌《あわ》てて、笑う。
「いや、別に深い意味はないよ」
そんな言い訳《わけ》は殷雷に通用しない。
「ほお、なんか俺がお前に忠誠を誓《ちか》ってるように聞こえたがな。忠誠を誓った相手のほっぺたをつねり上げるなんて、普通《ふつう》は出来ないよなあ? どうだ? 答えてみろ」
和穂は声が出ない。殷雷の言葉の途中《とちゅう》で、既《すで》に頬《ほお》をつねられていたからだ。
『界転翼』
猛禽類用《もうきんるいよう》、足環《あしわ》の宝貝《ぱおぺい》。
使用した猛禽類の能力を飛躍的《ひやくてき》に向上《こうじょう》させ自在に落下角度《らっかかくど》を制御《せいぎょ》する機能も持つ。
欠陥《けっかん》は、装着《そうちゃく》されたものの生命力を極度《きょくど》に消耗《しょうもう》させ死にすら至《いた》らせる。
[#改ページ]
最後の審判《しんぱん》
虚《きょ》の一
「?」
それはとてつもない違和感《いわかん》だった。
目の前に見ず知らずの人間が居《い》たとしても、それほど違和感は感じないだろう。
知らないはずの者を知らなかったとしても違和感は生《う》まれはしない。
卓《たく》を挟《はさ》んで目の前に座《すわ》る女の名前を和穂《かずほ》は知っていた。
「泉棋《せんき》さん?」
泉棋の顔はきつく見える。
襟元《えりもと》にようやく届《とど》くくらいの髪《かみ》の毛を、半《なか》ば無理《むり》やりに後頭部《こうとうぶ》で結《ゆ》っているから、どうしても眉《まゆ》や瞳《ひとみ》が引《ひ》っ張《ぱ》られてしまうのだ。
だが泉棋が悪人《あくにん》ではないと和穂は知っていた。
泉棋の中には厳《きび》しさがあったが、その厳しさが向けられるのは自分に対してなのだろう。
己《おのれ》の甘《あま》さを戒《いまし》め、武芸《ぶげい》の腕《うで》を上げようとする姿勢《しせい》がその引《ひ》き締《し》まった表情から漂《ただよ》っているのだ。
若干《じゃっかん》大人《おとな》びて見えなくもないが、年《とし》の頃《ころ》は自分とかわらない十五、六だろうと和穂は考えていた。
黒い武道着《ぶどうぎ》の上から、赤い革製《かわせい》の上着《うわぎ》を羽織《はお》っているが、これには簡単《かんたん》な鎧《よろい》の意味もあるのだろう。
その証拠《しょうこ》に上着の形が微妙《びみょう》に左右対称《さゆうたいしょう》ではない。動きやすそうな右腕に比《くら》べて、左腕を包《つつ》む上着は若干ゴツゴツしていた。
よく見なければ見逃《みのが》しそうだが、動きやすさと防御力《びょうぎょりょく》を折《お》り合わせようとして作られているのは確実だ。
泉棋の眉間《みけん》には皺《しわ》が寄っていたが、それは不快《ふかい》さを意味してるんじゃないと和穂は感じ取った。
たぶん、違和感に戸惑《とまど》う自分も同じように眉間に皺を立てているのだろう。
「和穂?」
奇妙《きみょう》な感覚《かんかく》だった。
まるで時間の流れまでがギクシャクしているようであった。
あまりに馬鹿《ばか》な質問で、泉棋が口にするのを拒《こば》んでいる問《と》い掛《か》けが和穂の口から出た。
「あの、泉棋さんって誰《だれ》なんですか?」
釣《つ》られて泉棋も言った。
「そういう和穂は誰なんだよ?」
顔見知りの人間相手に自己紹介《じこしょうかい》するという独特《どくとく》の恥《は》ずかしさを感じながらも、このまま埒《らち》が明《あ》かないよりはましだった。
「えぇと私は和穂……って名前は知ってるんですよね。
元仙人《もとせんにん》で宝貝《ぱおぺい》を回収《かいしゅう》する旅に出ていて」
ここまで喋《しゃべ》ったところで和穂は言葉《ことば》に詰《つ》まった。
が、言葉に詰まった理由が判《わか》らない。
和穂の言葉が止まったので、今度は自分の番だと泉棋は口を開く。
「名前は泉棋。修行中《しゅぎょうちゅう》の剣士《けんし》だ」
和穂がなぜ黙《だま》ったのか泉棋は理解《りかい》した。
自分が最近何をしていたかを語る言葉が、出てこないのだ。
和穂は首を傾《かし》げた。
「これって、二人ともごく最近の記憶《きおく》が抜け落ちてるんじゃないでしょうか?」
「はっはっは。何を馬鹿な事を言ってるんだい。
そんな不思議《ふしぎ》な話があるもんか……」
和穂はキョロキョロと部屋《へや》の中を見回していた。
泉棋も同じように視線《しせん》を走らす。
どうにか雨風《あめかぜ》を凌《しの》げるぐらいのあばら家《や》だ。
壁《かべ》の板の隙間《すきま》から外の光が漏《も》れこんでいる。
掘《ほ》っ建《た》て小屋《ごや》というか、狭《せま》い納屋《なや》とでもいったところか。
部屋の中には四角い小さな卓《たく》があり、自分と和穂が向かい合って座《すわ》っているのだ。
泉棋は瞳《ひとみ》を閉《と》じ、卓に肘《ひじ》をつき掌《てのひら》で顔を覆《おお》った。
まるで頭痛《ずつう》に苦《くる》しむ姿《すがた》のようだった。
「和穂。『いちにのさん』で言うんだよ」
泉棋はゆっくりと数を数《かぞ》え、合図《あいず》に合わせて二人の娘は同時に言った。
「ここって何処《どこ》?」
この場所に見覚《みおぼ》えはない。ついでに、ここへどうやって来たのかも記憶にない。
寝ている間に連《つ》れ去《さ》られ、知らない場所で目が覚《さ》めたのならば、こんな感覚を味わうのかもしれない。
が、眠っていた覚えもなければ、今、目が覚めた感覚もない。ない。ない。綺麗《きれい》さっぱり何もない。
あまりにも異常《いじょう》な事態《じたい》だ。
卓《たく》を引っ繰り返したい気分だったが、泉棋は言った。
「ついてるわね。少なくとも和穂は私の味方《みかた》なんでしょ」
「はい。でも不思議です。記憶がなくても、気持ちとか感情って残ってるんですね。
それにしても、本当にここは何処なんでしょう?」
と、その時。
和穂と泉棋以外の声が小屋の中に響《ひび》いた。
「ここが何処かはたいして重要な問題じゃない。
重要なのはコレさ」
唐突《とうとつ》に小屋の中に現《あらわ》れた人物は、和穂たちが座る卓の上に小さな物を置いた。
二人の娘は眉間《みけん》をひくつかせながら、卓の上に置かれた湯呑《ゆの》みを見た。
湯呑みからそっと手を離《はな》し、青年と少年の狭間《はざま》に位置する男は言った。
「この湯呑みを敵《てき》に割《わ》られたら、君たちの敗北《はいぼく》なんだ。
だから、充分《じゅうぶん》に気をつけておくれ」
掠《かす》れるような声で和穂は言った。
「あなたは帰書文《きしょぶん》!」
「そう。和穂、僕《ぼく》を信用してくれて本当に嬉《うれ》しいよ」
何をどう信用したのか和穂には判《わか》らなかったが、しなやかな銀髪《ぎんぱつ》の下にある中性的な顔は優《やさ》しく微笑《ほほえ》んでいる。
泉棋は意地《いじ》になっていた。たとえこんな不可解《ふかかい》な状況《じょうきょう》であろうとも絶対に取《と》り乱《みだ》すつもりはなかった。
「帰書文! あんたの顔も見覚えがあるけど誰だか忘れちゃったみたいね。
でもいいわ、そんな事はどうだって。それより、なんで湯呑みなの!」
微笑みを崩《くず》さずに帰書文は泉棋を見つめた。
「ま、この湯呑みは偽物《にせもの》なんだけどね」
「はい? 湯呑みに偽物も何もありゃしないでしょ? 骨董《こっとう》じゃあるまいし」
「繰《く》り返すよ。
この湯呑みを敵に割られたら、君たちの敗北なんだ。この偽物の湯呑みを割られたら敗北。
そして期限《きげん》は三日だからね」
泉棋はゆっくりと深呼吸《しんこきゅう》をしている。
厄介事《やっかいごと》が目の前で輪《わ》を作って踊《おど》っているのだ。面倒《めんどう》でも少しずつけりをつけるしかない。
「敗北? つまりこれは勝負《しょうぶ》だって言いたいのね? 期限は三日って事は、三日間この湯呑みを守りきれば私たちの勝ちなの?」
「期限は三日。
この湯呑みを敵に割られたら、君たちの敗北」
帰書文。彼も宝貝《ぱおぺい》だ。それは覚《おぼ》えている。でも帰書文が何の宝貝であったか、和穂は思い出せない。
「ねえ、帰書文。これって全部、宝貝の仕業《しわざ》なの?」
「全部が全部ってわけじゃないけどね。
不安すぎて進行に不具合《ふぐあい》が出ても困《こま》るからこれだけは教《おし》えて上げよう。
和穂と泉棋の記憶《きおく》の一部は封《ふう》じられている」
うすうす感じてはいたが面と向かって言われて初めて、泉棋は憤《いきどお》りを感じた。
「一体、なんでそんな酷《ひど》い真似をしたのよ!」
「勘違《かんちが》いしないでおくれよ。
記憶は封じられているけど、ちゃんと許可《きょか》はとってあるんだから」
今にも帰書文の胸《むな》ぐらを掴《つか》みそうになりつつも泉棋は自制《じせい》した。
「誰《だれ》が、なんの権利《けんり》があってそんな許可を出した!」
帰書文はチラリと和穂の表情を見た。許可を出したのは誰か? そして、それがどれほど重大《じゅうだい》な意味を持っているのか? 和穂は理解しかけているようだった。
「そうだよ、和穂。
和穂は和穂から、泉棋は泉棋から。
自分の記憶を封じる事の了解《りょうかい》はちゃんと君たち自身から取っている。勝負が終われば記憶は戻《もど》る」
「帰書文。殷雷《いんらい》は?」
「心配無用。少なくとも勝負が終わるまでは無事《ぶじ》だよ。それと、索具輪《さくぐりん》や断縁獄《だんえんごく》は勝負の間、僕が預《あず》かっているから」
殷雷の記憶ははっきりと残っている。
だが、殷雷が今、どこでどうなっているかが判《わか》らない。いや、たぶんその記憶も封じられているのだろう。
一体、何が起きたのか?
思い出す努力は無駄《むだ》に終わると知りつつも泉棋はついつい、頭をひねってしまう。
「あぁぁぁ。
これは悪夢《あくむ》よ。きっと悪夢に違《ちが》いない」
帰書文は大げさな身振《みぶ》りで天を仰《あお》いだ。そこには天井《てんじょう》しかなかったが。
「悪夢だなんてとんでもない。これは現実だよ」
「だいたい、負けたらどうなるの? 勝ったらどうなるの?」
「生憎《あいにく》、その質問には答えられない。
じゃ、そろそろ僕は消えるけど、用事があれば遠慮《えんりょ》なく呼び出してくれ」
言葉と共《とも》に帰書文の姿《すがた》は消えた。
椅子《いす》から立ち上がり泉棋は怒鳴《どな》った。
「わけが判らないにも程《ほど》がある! 何がどうなってるのよ!
馬鹿《ばか》らしい! 三日も湯呑《ゆの》みを守り続けろですって?
そんな間抜《まぬ》けな勝負に付き合う義理《ぎり》なんてないわよ。そうでしょ、和穂」
そうだ。確かに無茶苦茶《むちゃくちゃ》だ。その無茶苦茶さが和穂には気掛《きが》かりだった。
「泉棋。でも、やるしかないと思う」
「三日も湯呑みを守れって?」
「うん。無茶苦茶で理不尽《りふじん》な勝負なのは確かよね。
でも、私たちはその勝負を受けた。勝負を受けた記憶は封《ふう》じられているけど」
「言っておくけど、私はそんな悪ふざけに乗るような暇人《ひまじん》じゃないからね」
「でも泉棋も勝負に乗った」
「それって……」
「勝負に乗るしかないほど、切羽詰《せっぱつ》まった状況《じょうきょう》だったんじゃないかな?」
和穂の言葉はもっともだった。普通《ふつう》の状態ならこんな馬鹿げた勝負を受けるなんて考えられない。
「でも、やっぱり釈然《しゃくぜん》としない。
あの帰書文とかいう、ちょっとした色男《いろおとこ》が何かを仕組《しく》んでるんじゃないの」
「……それはない。帰書文は誰かを騙《だま》すような宝貝《ぱおぺい》じゃない、と思う」
和穂は卓《たく》の上の湯呑みに手を伸《の》ばした。
焦《こ》げた蜜《みつ》をまぶしたような、ありふれた湯呑みだ。
「悪いけど、私は戦《たたか》ってみる。
ごめんね、泉棋。
思い出せないけど、宝貝を回収《かいしゅう》する時の騒動《そうどう》にあなたを巻《ま》き込《こ》んだのは間違《まちが》いないようだから」
居心地《いごこち》が悪そうに泉棋は後頭部《こうとうぶ》をポリポリと掻《か》いた。
釈然とはしないし、どことなく不快《ふかい》ですらあるが、それは和穂のせいではない。
全《すべ》ては宝貝のせいだ。
宝貝。仙人《せんにん》の創《つく》り出した神秘《しんぴ》の道具、神話《しんわ》やおとぎ話の世界にしか存在しない道具。
これだけ違和感《いわかん》を感じながら、宝貝の存在を全《まった》く疑《うたが》わない自分の心が泉棋には不思議《ふしぎ》だった。
それに、納得《なっとく》はいかないが、一度は受けた勝負から降《お》りるのも癪《しゃく》に障《さわ》るといえば癖に障る。
「いいのよ、和穂。私も一緒《いっしょ》に戦う。別に恩《おん》に着《き》る必要《ひつよう》はないからな」
「ありがとう泉棋!」
先刻《さっき》からの苛立《いらだ》ちの正体《しょうたい》が泉棋にはゆっくりと判《わか》りはじめていた。
記憶を封じられた不快さ。
ふざけた勝負に参加させられる理不尽《りふじん》さ。
勿論《もちろん》、それが苛立ちを引き起こしているのは確かだが、それ以上に泉棋の魂《たましい》を逆撫《さかな》でするものがあった。
「礼《れい》には及《およ》ばん。和穂。これは和穂の戦いだけども、私の戦いでもある。
和穂や私にこの勝負を仕掛《しか》けた人間を、私は多分《たぶん》嫌《きら》い抜《ぬ》いている。
さっきから腹《はら》の虫《むし》がおさまらないのは、きっとそのせいよ」
泉棋は椅子《いす》から立ち上がり、軽く伸《の》びをした。
袖《そで》の細《ほそ》い上着《うわぎ》から伸びる泉棋の腕《うで》は薄《うす》い布製《ぬのせい》の籠手《こて》で覆《おお》われていた。
が、肝心《かんじん》の剣《けん》はどこにも見えない。
和穂は湯呑《ゆの》みを袖の中に入れた。
「じゃ、湯呑みは私が持っているね。
……でも、敵《てき》ってなんなんだろう?」
武人《ぶじん》らしく泉棋は状況《しょうきょう》を分析《ぶんせき》した。
ならば少しでも作戦を練《ね》るべきだと、泉棋は言いかけたが敵はそこまで余裕《よゆう》を与えてくれない。
「この勝負を持ちかけた『敵』と湯呑みを割《わ》ろうとする『敵』は別物《べつもの》でしょ。
……本当の敵は、私や和穂が必死《ひっし》になって湯呑みを守る様子《ようす》を高《たか》みの見物《けんぶつ》していると思う」
「どうして?」
「対等《たいとう》な勝負を相手が望んでいるのなら、私たちの記憶を封じる理由がない。
なんとなく判《わか》ってきた。大昔《おおむかし》の刑罰《けいばつ》と同じ遣《や》り方なのよ、これって」
「?」
「大きな檻《おり》を用意して、その中に虎《とら》を放《はな》す。
罪人《ざいにん》を連《つ》れてきて帝王《ていおう》は言うわけよ。
『汝《なんじ》、この檻の中に入って一刻《いっこく》(約二時間)の間、生《い》き延《の》びられればその罪は放免《ほうめん》とする』
で、帝王は逃げまどう罪人を見物して、ご満悦《まんえつ》って寸法《すんぽう》よ。悪趣味《あくしゅみ》、ここに極《きわ》まれりだね」
「やっぱり、この状況って結構《けっこう》まずいのかな?」
泉棋は不敵《ふてき》にニヤリと笑う。
「大丈夫《だいじょうぶ》。私が受けた勝負なんだから、絶対に勝機《しょうき》はある」
全く勝ち目がなく、なぶり殺しにされるのが見え見えだったら、最初からこんな勝負を受け入れてはいなかっただろう。
突然《とつぜん》、小屋の扉《とびら》が吹《ふ》き飛《と》んだ。
反射的に泉棋は半身《はんみ》に構《かま》えて、扉を蹴破《けやぶ》った者の姿《すがた》を見る。
どうやら自分の読みは当たっていたようだ。
この勝負を仕掛《しか》けた敵と、部屋の中に転《ころ》がり込んで来たものが同じとは、とても見えない。
小屋の中に突入《とつにゅう》したのは、人間ではないようだった。
和穂も化《ば》け物《もの》の姿に唖然《あぜん》としている。
「これって?」
「虎じゃなかったか。なんて幸運《こううん》なんだろうね、私たちって」
扉を破った弾《はず》みで、躓《つまず》くように膝《ひざ》をついていたそれは、ゆっくりと立ち上がろうとしていた。
それは巨大な泥《どろ》の人形《にんぎょう》だった。
泉棋より二回《ふたまわ》り程《ほど》大きい。人の形に似《に》ているが、人形を作るほどの手間《てま》がかけられているようには見えない。
胴体《どうたい》、手、足、頭と文字通《もじどお》り人の形をしているが、それだけに過《す》ぎない。
頭には顔もない。
不気味《ぶきみ》といえば不気味だが、どこか滑稽《こっけい》でもあった。
生まれたばかりの動物が、自分の体の使い方に試行錯誤《しこうさくご》しているように動きがぎこちない。
泉棋は手を伸《の》ばし、先刻《さっき》まで座《すわ》っていた椅子《いす》を引き寄せる。
「和穂、あんたも手伝《てつだ》いな。椅子をもってこっちにおいで」
「椅子でどうするの?」
嬉《うれ》しそうに泉棋は笑った。
「椅子で、しばき倒《たお》す!」
言葉《ことば》と共《とも》に泉棋は椅子を泥人形に向かい振《ふ》り下《お》ろした。
どうみても化け物でしかないが、万が一その正体《しょうたい》が人間であった時の事を考えて取《と》り敢《あ》えず、足元《あしもと》に狙《ねら》いを定《さだ》める。
最初の一撃で、椅子は大破《たいは》したがその攻撃《こうげき》で泉棋はピンと来た。
やはりこいつは人間ではない。
人の体は皮《かわ》、肉《にく》、血《ち》、骨《ほね》で出来《でき》ているが、この殴《なぐ》った感触《かんしょく》はそれとは全《まった》く違《ちが》う。
この化け物はたった一つ、見たままの泥だけで出来ている。
「和穂! 遠慮《えんりょ》はいらん」
相手が人でないと判《わか》った途端《とたん》、泉棋は加減《かげん》せずに椅子の残骸《ざんがい》で殴《なぐ》り掛《か》かった。
容赦《ようしゃ》のない釣瓶打《つるべう》ちに和穂は心配そうな声を上げた。
「ちょっと泉棋、あんまり無茶《むちゃ》は」
「問答無用《もんどうむよう》。
やられる前にやるの、勝負《しょうぶ》の鉄則《てっそく》よ!」
ドカスカと景気《けいき》のよい太鼓《たいこ》のような音が小屋の中に響《ひび》く。
和穂が何度か呼びかけたが、泉棋の動きは止まらない。
どれだけの時が流れたのか、やっと泉棋は一息《ひといき》ついた。
額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》い手に持った椅子の残骸《ざんがい》を放《はう》り投げる。
「よし! どうやら完全に伸びたみたいね。
いやあ、一汗《ひとあせ》かくと気持ちがいいねえ」
床《ゆか》の上には泥人形が横たわっていたが、仰向《あおむ》けなのかうつ伏《ぶ》せなのか、和穂には判らなかった。
「……まさか、この泥人形の正体が殷雷《いんらい》でした。なんて事はないよね?」
軽く言葉を詰《つ》まらせて泉棋は答えた。
「ははは。その時はその時よ。
あいつがこの程度の攻撃で伸びるはずがないでしょ」
いまいち根拠《こんきょ》がはっきりしないが、今はそう信じるしかない。
言葉を誤魔化《ごまか》すように、泉棋は叫《さけ》ぶ。
「帰書文《きしょぶん》! 出ておいでよ。
勝負はついたよ。敵《てき》は倒した! 私たちの勝ちだ!」
「大声を出さなくても聞こえるよ」
泉棋と和穂が振り向くと、そこには帰書文が居《い》た。
いつものような笑《え》みを浮《う》かべ、帰書文は言った。
「和穂。この泥の人形は化修《かしゅう》といって、殷雷じゃないから安心していいよ」
泉棋は勝利の笑みを浮かべた。
「さあ、帰書文。勝負は終わった。約束《やくそく》通り記憶《きおく》を元《もと》に戻《もど》してよ」
首は横に振られる。
「期限《きげん》は三日。
敵に湯呑《ゆの》みを割られたら、君《きみ》たちの負け。
それが勝負の規則《きそく》だよ」
舌打《したう》ちする泉棋に代《か》わり、和穂が質問した。
「まだ、敵が居るって事?」
返答《へんとう》の代わりに微笑《ほほえ》みが返る。
泉棋の笑みもまだ消えない。
「ま、そうだろうね。
こんな泥人形……化修を倒して、勝負が終わり。なんて簡単《かんたん》な話じゃないのは、予想|出来《でき》た。
それはそうと、帰書文」
「なんだい?」
「別にこの小屋から出るのは構《かま》わないんだろうね?」
「ああ。どこに行くのも自由さ。もしも羽《はね》があるのならば空を飛《と》ぶのも自由さ」
和穂が言った。
「……でも、ここがどこかって記憶はないから地《ち》の利《り》を生かすのも無理《むり》なんだ」
泉棋はテキパキと行動を始めていた。
手始めに卓《たく》を蹴《け》り割《わ》り、卓の足を武器《ぶき》がわりに手にする。
「いいよ和穂。三日ぐらいだったら、移動しながら時間を稼《かせ》いだほうがいい」
「そうね」
「じゃ、さっさと移動しよう。次の敵はもう少し歯《は》ごたえがあるといいけどね」
やせ我慢《がまん》を口にし泉棋は小屋を出た。
続いて和穂も後を追う。
小屋の中の帰書文は、そんな二人を手を振《ふ》って見送る。
ゆっくりと静かに小屋の中を時間が駆《か》け抜《ぬ》けていく。
和穂たちが立ち去り数刻《すうこく》の時が過《す》ぎた時、ゆらりゆらりと佇《たたず》む帰書文の足元《あしもと》で、化修がゆっくりと立ち上がった。
帰書文は言った。
化修に言ったのか、それとも独《ひと》り言《ごと》だったのかは当の帰書文にしか判《わか》らない。
「三日は長いよ。
一日持ちこたえられれば、僕は奇跡《きせき》だと思う」
実《じつ》の一
「お、恐《おそ》ろしい! あの御方《おかた》に歯向《はむ》かうなんて正気《しょうき》の沙汰《さた》じゃない!」
これじゃまるで悪人《あくにん》だと思いつつも、殷雷《いんらい》は村人の胸《むな》ぐらを揺《ゆ》すった。
「そんなに怖《こわ》いのか? だったらちょうどいいじゃねえか。
俺《おれ》がそのおっかない奴《やつ》を始末《しまつ》してやるからさ。そいつの情報《じょうほう》を教えてくれよ」
村人は血《ち》の気《け》を失《うしな》いながら、首を横に振《ふ》った。
「下手《へた》なことを喋《しゃべ》って、江棋様《こうきさま》ににらまれたらどうするんだ」
あんまり脅《おど》かしちゃ可哀相《かわいそう》だという和穂の意見を無視《むし》して、殷雷は尋問《じんもん》を続ける。
「ありがとうよ。まず最初の情報を教えてくれたな。
そいつの名は江棋。うむ、君《きみ》は名前ぐらいはと思うかも知れないが、結構《けっこう》重要なんだよな名前って」
別に名前を知った所で何がどうなるものでもない。だが、殷雷はそうやって村人の恐怖心《きょうふしん》を煽《あお》った。
「勘弁《かんべん》してくれ」
「で、江棋の大馬鹿野郎《おおばかやろう》は具体的《ぐたいてき》にどんな厄介事《やっかいごと》をしでかしたんだ?」
「大馬鹿野郎だと? 野郎じゃない、江棋様は女の方《かた》だ」
殷雷は胸ぐらをさらに締《し》めつけニッコリと笑う。
「情報その二。江棋は女だ。いやあ、これまた重要な情報|提供《ていきょう》、感謝《かんしゃ》するよ」
「お願いだから離《はな》してくれ。これ以上は本当にヤバいんだ!」
「もう手遅《ておく》れだって。どうせ助からないんだったら、俺たちに協力した方が利口《りこう》ってもんだ。
そう、いちかばちか、その江棋様を俺が倒《たお》すって言う賭《かけ》に乗れよ」
「博打《ばくち》は嫌《きら》いなんだよう。それに負けが確実な賭に乗る奴《やつ》がいるもんか!」
「……判《わか》ったよ。
じゃあ、話題《わだい》を変えて楽しい世間話《せけんばなし》をしようじゃないか」
「胸ぐらを掴《つか》まれたままで世間話もあるもんか!」
慌《あわ》てて殷雷は男から手を離し、続いて銀色の棍《こん》を構《かま》えた。
「よし。これで楽しい世間話の準備《じゅんび》はいいよな」
棍の先は確実に村人の眉間《みけん》を狙《ねら》っている。
和穂は殷雷の腕《うで》を動かそうとしたが、刀《かたな》の宝貝《ぱおぺい》の腕はビクともしない。
村人は哀願《あいがん》した。
「頼《たの》む! 見逃《みのが》してくれ!」
「では世間話を始めるぞ。
一つ。こんな山の中にどうしてこんなにでかい街《まち》がある? 街道《かいどう》からこれだけ離れてるのに不自然《ふしぜん》じゃないか。
ここに来る前に地図で見たが、地図じゃここは小さな村だったぞ。
二つ。街の規模《きぼ》に比《くら》べて住んでいる奴が少なすぎるのは何故《なぜ》だ? だいぶ街のなかを探《さが》して、やっとあんたを見つけたんだぞ」
「あああ、なんで見つかってしまったんだ」
「質問の答え……じゃなかった、世間話の答えになってないぞ」
どこの世間話が返答《へんとう》を強要《きょうよう》するのだと思いつつも、村人は気が気ではない。
「み、みんな逃《に》げてしまったんだよ。この村に残っているのは、逃げる勇気がなかった連中《れんちゅう》さ。
そ、それにこの街を造《つく》ったのは江棋様なんだ。元々《もともと》は小さな村だったんだ。
もういいだろ!」
本気で恐《おそ》れている人間をいたぶるのは、殷雷の趣味《しゅみ》ではない。
殷雷は棍の構えを解《と》く。
「判ったよ。最後にこれだけは教えてくれ。
その江棋様ってのは、あの屋敷《やしき》に住んでいるんだな?」
殷雷が指さした先には巨大な豪邸《ごうてい》があった。
平屋《ひらや》の建物《たてもの》ではあるが、天井《てんじょう》そのものが高いせいか屋根《やね》が高く、一種の城砦《じょうさい》のように見えなくもない。
変わってはいるが、あり得《え》ないような建築物《けんちくぶつ》ではない。
が、幾《いく》ら人の気配《けはい》が少ない街とはいえ、繁華街《はんかがい》の中心部に建《た》っているのはすこぶる不自然ではあった。
村人は殷雷の指《さ》し示《しめ》す方角と正反対の方向に逃げ出しつつ叫《さけ》ぶ。
「そうだ、あれが江棋様のお屋敷さ。
悪いことは言わん! 江棋様にはかかわるな!」
あっと言うまもなく、村人の姿《すがた》は街の中へと消えていった。
「殷雷! 無茶《むちゃ》しすぎよ! 可哀相《かわいそう》じゃない!」
ポリポリと殷雷はうなじを掻《か》く。
「仕方《しかた》あるまい。でも、幾つかの情報は手に入ったぞ。
あいつに迷惑《めいわく》がかからないように、さっさと江棋様とやらの宝貝《ぱおぺい》を回収《かいしゅう》するぞ」
その街は静かすぎた。
その街はあまりにも綺麗《きれい》すぎた。
少なくとも人の住む街ではない。
和穂は言った。
「この街を造り上げた宝貝?」
「大工道具一式《だいくどうぐいっしき》の宝貝だったら、大笑いだがそうはいくまいな」
確かに大工道具一式では、先刻《さっき》の村人の恐れの説明がつかない。
ゆらりゆらりと鳥籠《とりかご》は揺《ゆ》れていた。
この鉄の鳥籠はどこから吊《つ》り下げられているのかと泉棋《せんき》は不思議《ふしぎ》でならなかったが、考えるだけ無駄《むだ》だろう。
部屋《へや》の中は燦然《さんぜん》と輝《かがや》いていたが、明かりの源《みなもと》もよく判《わか》らない。
一つだけ確実なのは、部屋の中に散《ち》らばる黄金《こがね》やら宝石自体《ほうせきじたい》が光を放《はな》っているはずはないという事だ。
黄金そのものは自《みずか》ら光を放ちはしない。
ゆらりゆらりと鳥籠は揺れている。
これは巨大な鳥籠なのか、それとも私が小鳥《ことり》の大きさになったのか?
どことなく遠近感《えんきんかん》の狂《くる》ったこの部屋の中ではそれを確かめるのも困難《こんなん》だった。
鉄で組まれた円柱型《えんちゅうがた》の鳥籠だ。
鉄の隙間《すきま》から上を見上げてみた所で、天井《てんじょう》は見えない。
ゆらりゆらりと鳥籠は揺れていく。
この鳥籠の中に閉《と》じ込《こ》められて何日が過《す》ぎたのだろうか。
少しばかり空腹《くうふく》に悩《なや》まされはしたが、座《すわ》る気にはなれなかった。
ちょっとでも弱った所を見せれば、あの女は大喜《おおよろこ》びするだろう。
腕《うで》を組み泉棋は正面《しょうめん》を見据《みす》え、負け惜しみのような気がしながらも思いをめぐらせた。
『楽しいわ。楽しいわ。江棋に正面きって楯突《たてつ》けるなんて、私は幸《しあわ》せ者だ』
青白い光が、泉棋の視線《しせん》の少し下で弾《はじ》けた。
光の中から一人の女が姿《すがた》を現《あらわ》す。
女は椅子に座り、その椅子は中空《ちゅうくう》に浮《う》かんでいた。
泉棋は微笑《ほほえ》む。
微笑む理由は簡単《かんたん》だった。
自分の笑顔が、椅子に座る女、江棋にとって一番|腹立《はらだ》たしいのは確実だったからだ。
出来《でき》るだけ相手の神経《しんけい》を逆撫《さかな》でしょうとして、泉棋は優《やさ》しく言った。
「どうやら、この鳥籠が大きいんであって、私が小さくなったんじゃないのね」
椅子に座った江棋の姿は巨大《きょだい》には見えない。
ならば、自分の体の大きさは元《もと》のままなんだろう。
江棋の姿は二十歳《はたち》前後に見えた。
しなやかな髪《かみ》には幾《いく》つかの飾《かざ》りが差《さ》し込《こ》まれ、その指には無数の指輪《ゆびわ》が光っている。
意地悪《いじわる》く江棋は笑った。
こんなに意地悪な笑顔が似合《にあ》う女なんてそうそういないと、泉棋は思った。
「相変《あいか》わらず、やせ我慢《がまん》だけは得意《とくい》ね、泉棋ちゃん。
命乞《いのちご》いをしろなんて言わないけど、少し恐怖《きょうふ》や焦《あせ》りを感じて欲《ほ》しいのに」
「江棋。あんたの趣味《しゅみ》の悪さには感心《かんしん》する。一つ一つは綺麗《きれい》なのにあんたを中心として飾られた宝石《ほうせき》たちのなんと無様《ぶざま》な事」
華《はな》やかといえば華やかな江棋の姿だったが、あまりに着飾《きかざ》り過《す》ぎている。
「泉棋ちゃん。あなたは礼儀《れいぎ》には厳《きび》しいと思っていたけどね。
江棋じゃなくて、江棋|姉《ねえ》さんでしょ」
「今更《いまさら》、先輩風《せんばいかぜ》を吹《ふ》かされてもねえ。
剣《けん》を捨《す》てたあんたを姉さん呼ばわりする義理《ぎり》はないでしょ」
二人の会話はとても静かだった。
が、その静けさの意図《いと》は、いかに相手を憤慨《ふんがい》させようかという一点に集中されている。そのせいで異常《いじょう》な緊張感《きんちょうかん》が周囲《しゅうい》に広がっていった。
「まあまあ。そんな剣を捨てた駄目《だめ》な先輩に手も足もでなかったのは、だあれ?」
「剣の勝負《しょうぶ》だったら、負けなかったでしょうね。
嘘《うそ》だと思うなら、やってみる?」
もしも、江棋の心の何処《どこ》かに剣士の意地《いじ》が残っていたのなら、この挑発《ちょうはつ》に乗るだろう。
泉棋は考えたが、期待《きたい》していたのではない。
江棋は笑う。
「私は剣を捨てた。あんなくだらない武芸《ぶげい》に興味《きょうみ》はない」
「その方が、あんたの為《ため》だったし他《ほか》の皆《みな》の為でもあったね。
だいたい、稽古《けいこ》が嫌《きら》いな癖《くせ》に勝負には汚《きたな》いんだから」
「あら、負けず嫌いって結構《けっこう》、大切《たいせつ》な要素《ようそ》なのよ」
言うだけ無駄《むだ》だ。説教《せっきょう》して反省《はんせい》するような人間じゃないのは泉棋も承知《しょうち》していた。
「まあいい。化《ば》け物《もの》に文句《もんく》をいってもね」
「化け物じゃなくってよ。私は宝貝《ぱおぺい》を手に入れたの」
「それで悪さを働き、その悪評《あくひょう》が師匠《ししょう》の耳にも入った。
いかに破門《はもん》されたとはいえ、同門の不始末《ふしまつ》のかた[#「かた」に傍点]はつけねばならない」
「で、私を懲《こ》らしめにやってきた泉棋ちゃんは籠《かご》の鳥って大失態《だいしったい》。笑っちゃうよね」
数年ぶりの再会であったが、あいも変わらない駄目《だめ》っぷりに、泉棋はクラクラしてきた。
少しは人間として成長してるかと期待した自分が馬鹿《ばか》らしくなってきた。
口を閉《と》じ軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しを向ける泉棋に怯《ひる》むような江棋ではない。
江棋は軽く、椅子《いす》のひじ掛《か》けを叩《たた》く。
途端《とたん》に虚空《こくう》から一振《ひとふ》りの剣が出現《しゅつげん》し、椅子の周《まわ》りをクルクル回りだす。
「ふふふ。泉棋ちゃん。あなたの剣よ。
剣士が剣を奪《うば》われてちゃね。
剣は剣士の命なのに」
もう一度泉棋はひじ掛けを叩く。
途端《とたん》に剣は二つに折《お》れた。
「あははははは」
高笑いする江棋と一緒《いっしょ》に、何故《なぜ》か泉棋も笑う。
「……泉棋ちゃん。何が可笑《おか》しいの? 剣士の誇《ほこ》りでもある剣を折られたのよ?」
「だって、うっかりあんたを斬《き》り殺《ころ》したら、剣が汚《よご》れちゃうもん。
私の剣は師匠の所に置いてきたの。それはそこいらの武器屋《ぶきや》で買った、護身用《ごしんよう》の安物《やすもの》。そんなのも判《わか》らない?」
「……しばらく見ないあいだに、腕《うで》を上げたわね泉棋ちゃん」
何気《なにげ》ない江棋の言葉ではあったが、それが一番泉棋の胸《むね》に応《こた》えた。
なんとなく人格《じんかく》の駄目っぶりが互角《ごかく》になったような気がしたからだ。
が、ここで怯んではいけない。
「江棋。いや江棋|姉《ねえ》さん。あなたは私の進む剣の道の指標《しひょう》だった」
「あら、お世辞《せじ》?」
ブルンブルンと泉棋は首を横に振った。
「本当よ。剣に誓《ちか》ってもね」
剣に誓うとは尋常《じんじょう》じゃないと、さすがの江棋も知っていた。
泉棋は続ける。
「私はいつも江棋姉さんを見ていた。
絶対、ああいう風《ふう》にはならないぞ、決してあんな自堕落《じだらく》な人生は歩《あゆ》まないぞって」
江棋の笑顔が僅《わず》かにひきつる。
「……冗談《じょうだん》が上手《うま》くなったな。泉棋ちゃん、私に屈《くっ》しないかぎりご飯《はん》はあげないわよ。
お得意《とくい》のやせ我慢《がまん》がいつまで通用《つうよう》するか楽しみね」
と、その時。日の光が部屋《へや》の中に差し込んだ。
壁際《かべぎわ》の扉《とびら》が開《ひら》かれ、一つの影《かげ》が部屋の中に転《ころ》がり、それに遅《おく》れてもう一つの人影が部屋の中に入った。
江棋は別段《べつだん》驚《おどろ》きはしなかった。
「珍《めずら》しい。お客人とはね。
でも、招《まね》いた覚《おぼ》えはない。覚悟《かくご》は出来《でき》てるの?」
部屋に現《あらわ》れたのは殷雷《いんらい》と和穂《かずほ》だった。
部屋の中に散らばる金銀財宝《きんぎんざいほう》に和穂は驚いたが、殷雷は鳥籠《とりかご》の女と浮《う》かぶ椅子《いす》の女から目を放《はな》さない。
「どっちが江棋だ!」
「私よ。道服《どうふく》を着《つ》けた若い娘《むすめ》と、黒い袖付《そでつ》き外套《がいとう》の男……。
和穂と殷雷か。この授術座《じゅじゅつざ》を回収《かいしゅう》しに来たか」
椅子の宝貝《ぱおぺい》。
殷雷は、その能力を把握《はあく》しかねた。
「いいから降《お》りてきな。さっさと返せば痛《いた》い目に会わずにすむぞ!」
反射的《はんしゃてき》に泉棋は怒鳴《どな》った。
「逃《に》げろ! あんたでも勝てない!」
一目《ひとめ》見て、殷雷が武術の達人《たつじん》だと泉棋は見抜《みぬ》いた。
しかし、どれだけ腕《うで》が立とうが意味はないのだ。
江棋はトトンと小刻《こきざ》みにひじ掛《か》けを叩《たた》く。
同時に幾《いく》つかの雷球《らいきゅう》が椅子の周囲《しゅうい》に浮かび上がり、殷雷に向かい放《はな》たれた。
殷雷は鋭《するど》く飛びすさり、雷《かみなり》は床《ゆか》を打った。
甲高《かんだか》い音を立て金塊《きんかい》が吹《ふ》っ飛ぶ。
「雷を操《あやつ》る宝貝?」
江棋は勝ち誇《ほこ》った笑《え》みを浮かべた。
「そんなつまらない能力じゃない」
両手の指が無造作《むぞうさ》に、ひじ掛けを叩く。
再《ふたた》び雷球が浮かぶ。
続いて炎《ほのお》と水の柱《はしら》が蛇《へび》のように椅子の周《まわ》りをのたくりはじめた。
「!」
愕然《がくぜん》とする和穂と殷雷の顔を見て、江棋は満足感《まんぞくかん》を得《え》た。
「宝貝の回収者なら、判《わか》ってくれるよね。
授術座を使用する者は、仙術《せんじゅつ》を操《あやつ》る事が出来《でき》る!」
椅子。椅子の宝貝。その素性《すじょう》が朧気《おぼろげ》ながら殷雷にも理解《りかい》出来た。
あれは仙人《せんにん》の座る椅子だ。
仙人が仙術を研究《けんきゅう》する時に使う椅子なのだろう。
研究時にいちいち仙術を唱《とな》えるのも面倒《めんどう》だから、椅子そのものに仙術を封《ふう》じ込め、簡単《かんたん》な指示《しじ》で術が発動《はつどう》出来るように仕掛《しか》けてあるのか?
「け。大体《だいたい》、奴《やつ》の宝貝の正体《しょうたい》が判ってきた。
あの椅子に座ってれば、仙術が使える。簡単な仙術だけだろうがな!」
江棋が呆《あき》れた声を出す。
「簡単? たとえそうでもこんなに便利《べんり》な宝貝はないでしょ!」
「まあな。逃げるぞ和穂!」
まがりなりにも仙術が使える相手に、正面切《しょうめんき》って戦《たたか》うなど、無茶《むちゃ》な話だった。
ここは一度|退却《たいきゃく》し、作戦を練《ね》るしかない。
が、殷雷の動きよりも江棋の指の方が先に動く。
中指の動き一つで、部屋《へや》の中から扉《とびら》が消滅《しょうめつ》した。
江棋は軽く思案《しあん》した。
「刀《かたな》の宝貝。どんな奥の手があるか判ったもんじゃない。
ならば、憂《うれ》いを断《た》つか!」
江棋を包《つつ》む雷《かみなり》、炎《ほのお》、水が一つに入り交《ま》じり拳大《こぶしだい》の黒い球となる。
その球は殷雷に向かい放《はな》たれた。
直線的な雷撃《らいげき》は避《さ》けられたが、今度の黒い球はゆっくりと殷雷を追い詰《つ》めた。
江棋は叫《さけ》ぶ。
「鷲《わし》にでもなってな」
黒い球が殷雷を直撃《ちょくげき》した。
不自然《ふしぜん》な軋《きし》みを上げ、殷雷の体が爆煙《ばくえん》に包《つつ》まれた。
爆煙の中から現《あらわ》れたのは、一|羽《わ》の巨大な鷲だった。
和穂は叫ぶ。
「殷雷!」
鷲はその鋭《するど》い瞳《ひとみ》を江棋に向けた。瞳の輝《かがや》きは殷雷であった時と何の変わりもない。
鷲は大きく羽《は》ばたき、江棋に向かい飛び掛《か》かろうとした。
が、既《すで》に鷲の足には鎖《くさり》が繋《つな》がれていた。
鷲となった殷雷に近寄ろうとする和穂の前に、椅子《いす》に座《すわ》った江棋が滑《すべ》り込《こ》む。
「生憎《あいにく》だったね、和穂。あんたの負けだ」
虚《きょ》の二
袖《そで》の中の湯呑《ゆの》みを落とさないように気をつけながら、和穂は森の中を歩きつづけた。
和穂のほんの少しばかり前には泉棋《せんき》が居《い》た。
片手には卓《たく》の足を棍棒替《こんぼうが》わりに握《にぎ》っていた。
「何とかこの間抜《まぬ》けな戦《たたか》いを、さっさと終わらせる方法はないのかな?」
無理《むり》だろう。三日という期限《きげん》が重要なのは確実だった。
「泉棋さんって、何か武術《ぶじゅつ》を?」
こくりと泉棋はうなずく。
「一応は剣《けん》を操《あやつ》る」
「? でも剣が?」
「出掛《でか》ける前に師匠《ししょう》の所に置いてきた」
やはり居心地《いごこち》が悪い。
記憶《きおく》が所々|抜《ぬ》け落ちているのは、完璧《かんぺき》に記憶がないよりも始末《しまつ》に負《お》えなかった。
師匠の所に剣を預《あず》けて、ここまで来た。で、ここがどこかの記憶はないのだ。
それは和穂も同じだった。いいようのない焦《あせ》りを感じてはいるが、何故《なぜ》焦っているのかは判《わか》らない。
多分《たぶん》、殷雷の身に何らかの危機《きき》が訪《おとず》れているのだろうが、思い出せないし、帰書文《きしょぷん》も答えてくれそうにない。
ふと、泉棋の足が止まった。
和穂も周囲《しゅうい》を見回す。
「どうしたんです?」
「二人目の敵《てき》か? さっきよりはマシなようだね」
泉棋の耳は草を踏《ふ》む足音を聞き分けていた。
さっきの化修《かしゅう》とかいう泥人形《どろにんぎょう》よりはしっかりとした、足|運《はこ》びをしているようだ。
だが、気配《けはい》を隠《かく》そうなどとは考えていないようだった。
それに足音は一つしか聞こえない。
こんな勝負《しょうぶ》、数に任《まか》せれば一気にけりをつけられるはずだった。
やはりどう考えても、本当の敵はかなりの悪趣味《あくしゅみ》な人物としか考えられない。
ガサリ。
姿《すがた》を現《あらわ》したのは、またしても人形だった。
化修と比《くら》べて、より人間らしくなっている。
体の前と後《うし》ろも見て取れるし、顔もちゃんとあり、目や鼻《はな》や口も確認《かくにん》出来《でき》る。
化修に比べれば、かなり水気《みずけ》が減《へ》ってはいるが、やはり泥か土で出来た人形だ。
「面倒《めんどう》ね。結果の見えてる勝負なんて、やるだけ無駄《むだ》なのに」
よっこらせとばかりに泉棋は卓《たく》の足を構《かま》えた。
どう見ても、気の利《き》いた戦《たたか》いの出来る相手ではない。
「和穂。湯呑《ゆの》みは頼《たの》んだからね」
軽く踏み込み、棍棒《こんぼう》の一撃《いちげき》を泉棋は見舞《みま》う。
「!」
棍棒はへし折《お》れた。その衝撃《しょうげき》で、泉棋の左手首は軽く捻挫《ねんざ》した。
「大丈夫《だいじょうぶ》、泉棋!」
打ち損《そこ》ねたのではない。相手の硬《かた》さを見誤《みあやま》ったのだ。
折れた棍棒を右手で握《にぎ》り直す。短刀《たんとう》を構《かま》えるように逆手《さかて》に握り、一度|間合《まあ》いを外《はず》した。
「さっきの奴《やつ》よりは厄介《やっかい》ね。巻き込まれないように、後《うし》ろに下がってて!」
棍の一撃の衝撃で、人形を包《つつ》む泥の一部が崩《くず》れ落《お》ちた。
中にあるのもまた泥に違《ちが》いなかったが、人形の形が少し変わってきたのに和穂は気がついた。
精巧《せいこう》な木彫《きぼ》りの人形を作る時は、最初は大まかな形に彫《ほ》り、それをだんだんと仕上げていく手法《しゅほう》をとるが、それに似《に》ていた。
粗削《あらけず》りな泥人形の下からは少しばかり精巧な泥人形が現れているのだ。
今まではおおざっぱな人形でしかなかったが、今の泥人形は全身を薄い鎧《よろい》で覆《おお》っているように見えた。
泉棋は再《ふたた》び踏み込み、突《つ》き刺《さ》すように棍棒の破片《かけら》を叩《たた》きつける。
「な、何よこいつ!」
泉棋とて鎧を着《つ》けた人間と戦った事がある。
鎧のせいで、攻撃《こうげき》が通用しないぐらいでは驚《おどろ》きはしない。
通用しなくとも、叩きつけられる力で少しは体勢《たいせい》が揺《ゆ》らぐのが普通《ふつう》だったが、この泥人形は言葉《ことば》どおりに全《まった》くビクともしないのだ。
少しばかりの反撃があったが、泉棋は軽く避《よ》ける。そして和穂の側《そば》にまで後退《こうたい》した。
「なによこいつ!」
歩くよりは少しばかり早い動きで、泥人形は和穂に近寄《ちかよ》ってくる。
あとずさりながら、和穂は事の重大さを知った。
この動きならば、走れば逃《に》げられるだろう。
だが、三日も走りつづけるなど和穂には出来《でき》ない。泉棋にも無理《むり》だろう。
疲《つか》れ、足が遅《おそ》くなった所で確実に追いつかれる。
泉棋は笑う。
「良かった。これで敵《てき》の狙《ねら》いが判《わか》って、すっきりしたわね和穂」
「いや、それはまあそうですが」
狙いは判ったが対抗策《たいこうさく》はない。
腹立《はらだ》たしげに泉棋は怒鳴《どな》る。
「せめて剣《けん》があれば! ギンギンに研《と》がれた剣があれば、もしかして」
「剣だね。ギンギンに研がれた」
言葉の主《ぬし》は帰書文《きしょぶん》だった。
いきなりの出現《しゅつげん》に驚《おどろ》く和穂たちに向かい帰書文は言った。
「じゃ、剣」
いつの間《ま》に現《あらわ》れたのか、帰書文の手には大振《おおぶ》りな剣があり、その剣を帰書文は泉棋に渡す。
「助かった!」
剣を受け取り、泉棋は前に出る。
そして大上段《だいじょうだん》に構《かま》え、一気に振り下ろす。
泥人形の脳天《のうてん》に直撃《ちょくげき》した時点で剣はピタリと止まった。
が、泉棋は怯《ひる》まない。
「でも斬《き》れないってわけじゃない。剣と鋸《のこぎり》は引いて斬るんだ!」
止まった剣を一気に泉棋は引いた。
するりと刃《やいば》は泥人形の中に沈《しず》み込み、人形は真《ま》っ二《ぷた》つに分断《ぶんだん》された。
疲れの汗《あせ》というより、冷《ひ》や汗が泉棋の体を流れ落ちた。
「帰書文。胡散《うさん》臭《くさ》い奴《やつ》だと思っていたのは謝《あやま》る。あんたのお陰《かげ》で助かったよ」
「気にしないで。
希望《きぼう》の武器《ぶき》を提供《ていきょう》してもいい規則《きそく》なんだ。
その規則を教《おし》えていい規則はないんだけどね」
言っている意味が少し判《わか》らなかったが、当面の敵は倒《たお》されたのだ。
真っ二つになった泥人形はピクリとも動かない。
和穂は言った。
「この泥人形って、何なんですか?」
「前にも言ったよ。これは化修《かしゅう》。
そう化修なんだよ」
嬉《うれ》しそうに剣を振り回し泉棋は言った。
「今のはどういう意味だ。敵は『化修』という名前の泥人形たちを使うのか?」
「化修は化修さ」
さっきの化修よりは今の化修の方が強い。
ならばどうして最初からこの化修を敵は使わなかったんだろう。それが和穂には不思議《ふしぎ》だった。
敵は私達をいたぶって喜《よろこ》んでいるだけなのだろうか?
いや、違《ちが》う。
和穂はゴクリと唾《つば》を飲み込んだ。
「この化修って、さっきの化修と同じ化修なんだ!」
泉棋は引きつった笑《え》みを浮《う》かべた。
「それじゃ何か? さっきの化修は、椅子《いす》でぼてくりこかされ[#「ぼてくりこかされ」に傍点]たから、打撃《だげき》に対して耐性《たいせい》が出来《でき》たとでも。
それが万が一本当だとしても、それじゃ」
今は動かない化修も再《ふたた》び、いや三《み》たび動きだすのか。
そして、その時は切断《せつだん》に耐性が生まれているのだろうか。
「うわ和穂! どうしよう!」
実際《じっさい》に化修をなぐった泉棋が一番|承知《しょうち》していた。
打撃に強くなったというより、全《まった》く打撃という行為《こうい》が化修の前では無意味《むいみ》になっていたのだ。
打撃の強弱《きょうじゃく》はあまり関係ない。ならば、どんな鋭《するど》い剣でも次の化修は折《き》れない。
帰書文《きしょぶん》は静かに言った。
「先は長いよ。まだ半日ぐらいしか経《た》ってない。
ちなみに、君《きみ》たちは疲労《ひろう》はするけど、空腹《くうふく》や渇《かわ》きは感じないからね。そういう規則《きそく》なんで」
なんて分《ぶ》の悪い戦《たたか》いを受けたのか。そして、受けなければならないほどの、際《きわ》どい状況《じょうきょう》になっていたのだろうか。
帰書文はさらに言った。
「ちなみに、化修の『学習』速度は加速度《かそくど》的に速《はや》くなるからね。
今はまだ可愛《かわい》いもんさ」
泉棋が文句《もんく》を言う。
「一体どうすればいいのよ!」
考えろ、考えろ。手はあるはずだと和穂は思った。
私や泉棋はこの勝負《しょうぶ》を受けたのだ。絶対に打つ手はある。
和穂はポンと手を打つ。
「そうだ! 倒そうと考えるから大変なんだよ泉棋」
「降参《こうさん》しろっての?」
「違うよ。化修を遠くに追いやればいいんだってば」
「それが出来れば苦労《くろう》しないわよ」
追《お》っ払《ぱら》えるのなら、最初から問題はないのだ。
和穂は首を横に振る。
「甘《あま》い考えかもしれないけど、谷かどこか、断崖《だんがい》でもいいけど、そこから化修を落とせば時間が稼《かせ》げるよ。
どんな断崖から落ちても化修は平気だと思う。
でも、断崖を登《のぼ》る時間が稼げるじゃない」
和穂の言葉《ことば》には一理ある。
問題はこの見ず知らず、もしかしたら知っているのかもしれないが、記憶《きおく》のない土地のどこに崖《がけ》があるというのか。
「いい作戦ね。崖さえあれば」
ここで和穂は言葉に詰《つ》まった。
帰書文は笑いつづけていた。
「崖が必要なのかい? どんな崖?」
和穂の顔がパッと明るくなる。
「崖があるの? 出来るだけ落差《らくさ》の大きい崖がいい」
トントンと爪先《つまさき》で帰書文は地面を叩《たた》いた。
「この森を道|沿《ぞ》いに真《ま》っ直《す》ぐ進めば、崖があるよ。かなり大きな崖さ。それはもう、『出来るだけ大きな崖』だよ」
いつもの事だが帰書文の言葉の端々《はしばし》が妙《みょう》であった。
しかし気にしている場合ではない。いつ化修が復活《ふっかつ》するのか判《わか》らないのだ。
和穂と泉棋は急《いそ》いで、斬り倒《たお》された化修を引きずりながら道を進んだ。
帰書文はそんな二人を手を振って見送る。
間《ま》もなくして二人の姿《すがた》が帰書文の視界《しかい》から消えた。
「いいのかよ。公正《こうせい》じゃないんではないか」
誰《だれ》の物とも判らない、声だけが帰書文の周《まわ》りに響《ひび》く。帰書文は答えた。
「規則《きそく》に反してはいないよ」
「本当にでかい崖だぞ。着地《ちゃくち》するのに五日はかかる。
崖から化修を落として、和穂たちの勝ちって事か?」
「僕にきくより、君《きみ》の方が詳《くわ》しいんじゃないか」
「そりゃそうだが」
実《じつ》の二
「殷雷《いんらい》! 殷雷はどうなったの!」
慌《あわ》てる和穂の表情を江棋は楽しむ。これが泉棋だったらどんなに嬉《うれ》しかったろうか。
「心配はない。
私は殺しは嫌《きら》いなんだよ和穂。
授術座《じゅじゅつざ》が壊《こわ》れれば、全《すべ》ては元《もと》に戻《もど》るよ」
鳥籠《とりかご》の中の泉棋が吠《ほ》える。
「殺しは嫌いだけど、弱いもの苛《いじ》めは大好きなんだけどね、その女は。
江棋。その娘は逃《に》がしてやんな。あんたの邪魔《じゃま》になりはしない」
江棋は泉棋の言葉《ことば》を無視《むし》して、和穂に語《かた》りかけた。
「授術座は強すぎる。強すぎて、最近つまらないんだ。
こんな田舎《いなか》でくらすのも馬鹿《ばか》らしいから、街《まち》を造《つく》ってみたけどあまり面白《おもしろ》くないし、金銀財宝《きんぎんざいほう》も集めれば集めるほど、価値《かち》が消えていく感じがしてね」
泉棋は唾《つば》を吐《は》きたい気分になった。
殷雷を助けて欲《ほ》しければ……とほざいて、あの娘、和穂を苛めるのだろう。
「やめろ江棋。あんたの相手は私がしてやるから。その和穂とかいう娘は逃がしてやれ」
「あいつの名前は泉棋という、馬鹿な剣士《けんし》さ。
他人が困《こま》っている顔を見るのが嫌いなんだろうね」
状況《じょうきょう》は絶望的《ぜつぼうてき》に悪い。
しかし、どうにかしなければならない。和穂は必死《ひっし》になって考えた。
相手は仙術《せんじゅつ》を使えるのだ。尋常《じんじょう》な作戦では太刀打《たちう》ち出来《でき》ない。
せめて授術座の欠陥《けっかん》が判《わか》れば打つ手もあるのだが。
江棋は和穂の瞳《ひとみ》にいまだ希望《きぼう》の光が宿《やど》っているのを見た。
「ちなみにこの授術座の欠陥は、移動能力《いどうのうりょく》に欠《か》ける事なんだ。自在《じざい》に空を飛ぶぐらいは出来るんだが、その移動速度は人間の徒歩《とほ》と同じぐらい。
都《みやこ》にでも行けば、こんな田舎《いなか》より遥《はる》かに楽しいんだろうけど、いつ着《つ》くか判《わか》りゃしない。だから街を造《つく》ったんだけどね」
欠陥は判明《はんめい》した。だが、欠陥につけいるのは無理《むり》だった。
必死に知恵《ちえ》を絞《しぼ》る和穂の姿《すがた》を見て、江棋は満足《まんぞく》そうに笑う。
「さあ、大変だ。どうやって私に勝つ?」
泉棋は鳥籠《とりかご》を揺《ゆ》さぶる。
「あんたって奴《やつ》は、本当に勝負《しょうぶ》に汚《きたな》いわね。勝ち目のない相手をいたぶって、何が楽しいのよ」
「だって、負けるのは嫌《いや》なんだもん」
「そうだったわね。碁《ご》を打ってて、あんたが負けそうになった途端《とたん》にぶん殴《なぐ》られた奴もいたっけね」
泉棋という人が江棋と喋《しゃべ》っている間に、少しでも手を打たねばならない。
が、何が出来るというのか? 相手は仙術を使えるのだ。それに対抗《たいこう》出来る宝貝《ぱおぺい》なんているのか? 和穂は考えた。仙人にすら対抗《たいこう》出来る宝貝は一つしかない。だが、彼[#「彼」に傍点]は力を貸《か》してくれるだろうか?……駄目《だめ》だ。彼は公正《こうせい》な宝貝だ。味方にはなってくれまい。
泉棋は怒鳴《どな》り続けた。
「だいたい、勝負事が嫌《きら》いなら、それはそれでいいわよ。
勝負が好きなのに、負けるのが嫌いってのが泣けてくるわよ」
「さっきも言ったでしょ。負けず嫌いは大切《たいせつ》なんだって」
相手をぶん殴って勝負をうやむやにするのは、負けず嫌いとは言うまい。
もっとも、そんな意見を取り入れる女じゃないのは百も承知《しょうち》だった。
二人の会話を聞いているうちに、和穂の中で一つの考えがまとまりだした。
彼は公正だ。公正だから頼《たよ》れるのではないか?
この状況は打開《だかい》出来る。
和穂は腰《こし》の瓢箪《ひょうたん》を外《はず》す。
「江棋さん。私と勝負をしませんか?」
江棋は蛇《へび》の目で、和穂を睨《にら》む。
「あんた、今の状況を判ってる? この状況で私が五分《ごぶ》の勝負を受けるとでも?」
受けはしないだろう。
和穂が名を呼ぶと、手にした断縁獄《だんえんごく》から小さな八角形の板が飛び出した。
「……これは疑戦盤《ぎせんばん》と言って、色々|設定《せってい》した条件で戦《たたか》いが出来る宝貝なんです」
和穂の手からふんだくるように、江棋は疑戦盤を取る。
途端《とたん》に疑戦盤の使用方法が江棋の意識《いしき》の中に流れ込む。
「ふん。それで私と戦えっていうの? 面倒《めんどう》だね」
やはり駄目《だめ》だったか。和穂の背筋《せすじ》を冷《ひ》や汗《あせ》が流れた。このままでは負けだ。
疑戦盤を放《ほう》り投げようとして、江棋は面白《おもしろ》い物に気がつく。
疑戦盤には既《すで》に設定済《せっていず》みの状況が幾《いく》つか組み込まれていたのだ。
その中の一つに江棋は興味《きょうみ》を覚《おぼ》えた。
湯呑《ゆの》みの宝貝を倒《たお》すための計算に使われた設定だ。
湯呑みを倒すために、化修《かしゅう》といういかなる攻撃《こうげき》も学習し、抵抗力《ていこうりょく》を得《え》る仙術的兵器を投入《とうにゅう》するという設定になっていた。
意地悪《いじわる》く江棋は笑う。
この化修という化《ば》け物《もの》と泉棋を戦わせてみるのも面白そうだ。
いかに泉棋とはいえこの化修には手こずるだろう。いや、敗北《はいぼく》するだろう。
「和穂。いいわよ。そのかわり、泉棋にも参加してもらう」
勝ち目があるのかどうか知らないが、泉棋は和穂を信用してみる事にした。
「いいでしょ」
「それで僕《ぼく》にどうしろっていうのかい?」
断縁獄から疑戦盤に続いて帰書文《きしょぶん》が呼び出された。
和穂は答えた。
「帰書文には勝負の審判《しんぱん》をして欲《ほ》しいの」
泉棋は江棋が審判を立てる事に同意《どうい》したのが意外でならなかった。
この女に公正《こうせい》な勝負を楽しもうという気持ちが微塵《みじん》にでもあるとは信じられなかったのだ。
帰書文は江棋の座《すわ》る、授術座《じゅじゅつざ》をチラリと見た。
「お安《やす》い御用《ごよう》さ。僕を信頼《しんらい》してくれて嬉《うれ》しいよ、和穂」
江棋が口を開く。
「三日の間に化修が湯呑みを割る事に成功したら、私の勝ち。
私が勝てば泉棋ちゃん。あんたに土下座《どげざ》でもして詫《わ》びてもらおうかしら」
「ふん」
「ついでに剣《けん》の道も捨《す》ててもらう。殷雷《いんらい》は永久《えいきゅう》にこのままで、和穂には手持ちの宝貝《ぱおぺい》全《すべ》てを渡してもらって、以後私の宝貝を狙《ねら》ってはいけない。これでいい」
「私たちが勝てば?」
「殷雷を元《もと》に戻《もど》して、授術座は破壊《はかい》する。それでいいでしょ」
泉棋が笑う。
「私や村の人に『ご迷惑《めいわく》かけてごめんなさい』の一言《ひとこと》と、黙《だま》って師匠《ししょう》の所にしょっぴかれるという約束《やくそく》も欲しいわね」
江棋は首を縦《たて》に振った。
「いいわよ。
当然、湯呑みの宝貝は宝貝としての能力を一切削除《いっさいさくじょ》、ただの湯呑みとする。
それと、疑戦盤に立った瞬間《しゅんかん》から、この勝負とそれに関する記憶《きおく》は封《ふう》じて欲しいんだけど、帰書文、あんたにそんな能力はある? なければ、この勝負は無《な》し」
やっと江棋の魂胆《こんたん》が見えた。何も知らずに化修と死闘《しとう》を繰《く》り広げる私の醜態《しゅうたい》を見たいのだろう。それに和穂の作戦を封《ふう》ずる意味もある。和穂が、この二つの宝貝を使い、自分を策《さく》にはめる危険をなくしたのだ。どんな奥の手があろうが、その作戦を思い出さなければ意味がない。
帰書文はうなずく。
「僕は何だって出来るよ。和穂と泉棋が納得《なっとく》すればだけどね」
「三日の間、空腹《くうふく》や渇《かわ》きは感じないようにして」
江棋の言葉に泉棋は驚《おどろ》く。
「優《やさ》しいじゃない」
「その代《か》わり、肉体的|苦痛《くつう》は普通《ふつう》に感じるようにして」
「前言撤回《ぜんげんてっかい》する」
「あと、戦いに必要《ひつよう》な物は全《すべ》て和穂と泉棋に与《あた》えて。但《ただ》し、仙術的《せんじゅつてき》なものは駄目《だめ》」
「まあ優しい。今度のオチは?」
「戦いに必要な物は全て与えられるという規則《きそく》は、本人たちが望むまで秘密《ひみつ》」
この規則の意味は簡単《かんたん》だった。
出来るだけ化修との死闘を盛《も》り上げて欲しいんだろう。
倒《たお》しても倒しても現《あらわ》れる化修に対する、恐怖《きょうふ》の顔を見たいのだろう。
帰書文は何度もうなずく。
「武器《ぶき》に関しては疑戦盤に出してもらおう。但し、僕を通《つう》じてだ。
僕はその勝負の審判《しんぱん》と、勝負が成立《せいりつ》する為《ため》の情報《じょうほう》を和穂たちに与えればいいんだ。
これは和穂たちと化修の戦いと理解《りかい》していいんだね?」
江棋はそうだと答える。勝負というよりは、賭《かけ》に近い。当然、互角《ごかく》の賭ではないが。
「以上で取り決めは終わりかな?」
泉棋が不服《ふふく》を唱《とな》える。
「ふざけないで。こんなの私達に勝ち目がないじゃない。そんな条件は飲《の》めないね」
「じゃ、勝負は無《な》しよ」
和穂が泉棋の袖《そで》を引《ひ》っ張《ば》る。
「お願いです、泉棋さん。この勝負を受けてください」
必死《ひっし》の和穂に泉棋は言葉《ことば》を詰まらせた。
自分の場合は泉棋に頭を下げ、剣の道を捨《す》てればいい。確かに辛《つら》いが、それは自分にとってだけの話だ。
だが、和穂は違《ちが》う。あの殷雷《いんらい》とかいう男を助けなければならないのだ。
どんな条件でも戦うしかないだろう。
和穂の肩を泉棋は叩《たた》く。
「……判《わか》ったよ。手を貸《か》してあげる」
「大丈夫《だいじょうぶ》です、絶対に負けません」
虚《むな》しい言葉だと泉棋は思った。本気で言っているのだろうか。
帰書文《きしょぶん》は一同を見回した。
「では一番|肝心《かんじん》な所だけ、最後に確認《かくにん》しておこう。
勝負は三日。化修《かしゅう》が湯呑《ゆの》みを割《わ》れば江棋の勝ち。皆《みんな》、判《わか》ったね」
虚《きょ》と実《じつ》の三
「何だか化修が可哀相《かわいそう》な気がします」
和穂の言葉が理解出来《りかいでき》ないでもなかった。
戦《たたか》い倒《たお》されさらに強くなる。それを繰《く》り返《かえ》す化修は哀《あわ》れといえば哀れだ。
「可哀相だね。でも、それどころじゃない」
和穂に返す言葉はない。
底の見えない崖《がけ》の上から、泉棋と和穂は化修を投《な》げ捨《す》てた。
既《すで》に打撃《だげき》に耐性《たいせい》の出来ている化修である。
地面に叩《たた》きつけられても大丈夫なのだろう。
「ともかく、これで化修はしばらくは出てこない。その間に三日が過《す》ぎてくれればいいんだけどね」
「そうですね」
そして二人は崖に背を向けて歩きはじめた。
何十歩進んだであろうか。
泉棋と和穂の足がピタリと止まった。
背後《はいご》に何かの気配《けはい》がする。
何かが空気《くうき》を押さえつけているような奇妙《きみょう》な雰囲気《ふんいき》だった。
恐《おそ》る恐る泉棋と和穂は後《うし》ろを振《ふ》り向いた。
そこにいたのは化修だった。
もはや化修の姿《すがた》は人と全《まった》く同じだった。
泥色《どろいろ》の絵の具で描《か》かれた人間だ。
全身を覆《おお》う薄《うす》い鎧《よろい》と一体化した肉体はどことなく昆虫《こんちゅう》めいてみえたが、その顔は紛《まぎ》れもなく人間だった。
化修は宙に浮《う》かんでいた。
泉棋は力なく怒《おこ》る。
「そんなの絶対、勝てないじゃない! 落ちている最中に落下《らっか》する事に耐性が出来て、飛べるようになったっての!」
化修が答えた。
「そう。その通り。だから私に逆《さか》らうのは無意味だ。さっさと湯呑《ゆの》みを渡しなさい」
「知恵《ちえ》までついてきたか」
叫《さけ》び、泉棋は化修に飛《と》び掛《か》かる。宙に浮かんでいるとはいえ、引きずり下ろすことぐらいは出来るだろうと、化修の足を引《ひ》っ張《ぱ》ったがビクともしない。
そういえば、落下には耐性が出来ているのだと泉棋は思い出す。
化修は言った。
「失礼《しつれい》」
わずかに化修の体が地面に近寄り、泉棋の鳩尾《みぞおち》を膝《ひざ》が打つ。
さほど痛みはなかったが、泉棋の全身に痺《しび》れが走る。
そう言えば、最初の泥人形だった時に鳩尾を殴《なぐ》ったなと思いつつ、泉棋は意識《いしき》を失《うしな》った。
「泉棋!」
和穂の前に化修が立ちふさがる。
「さあ、お嬢《じょう》さん。湯呑みを渡すんだ」
和穂は首を横に振った。
化修は答える。
「お嬢さん。お嬢さんは私に色々と優《やさ》しい言葉をかけてくれたね。
出来ることなら、お嬢さんが嫌《いや》がる真似《まね》はしたくない」
化修はぐいと和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》む。
「でも、『優しさ』にも耐性が出来たんでね!」
「帰書文《きしょぶん》!」
「およびかな。何か御用《ごよう》で?」
「もう一度、勝負《しょうぶ》の規則《きそく》を!」
「期限《きげん》は三日。その間に化修に湯呑みを割《わ》られたら、和穂たちの負け」
化修は笑う。
「渡しなさい。湯呑みを」
和穂は袖口《そでぐち》に手を入れ、湯呑みを取り出す。
「そう。それでいいんだ」
「化修に湯呑みを割られたら負けなのよね?
だったら!」
和穂は地面に向かい、湯呑みを叩《たた》きつけようとした。
気絶《きぜつ》する泉棋《せんき》の姿《すがた》を見て、大笑いしていた江棋《こうき》は慌《あわ》てて椅子《いす》から立ち上がりそうになった。
疑戦盤《ぎせんばん》は村の外《はず》れに設置されている。江棋は、和穂たちの闘いを部屋の中で見物していた。
授術座《じゅじゅつざ》の力で空間を歪曲《わいきょく》し、和穂たちからは見えない一方通行《いっぽうつうこう》の窓《まど》を作り出していたのだ。
無様《ぶざま》に戸惑《とまど》う泉棋たちの姿は彼女を満足《まんぞく》させてくれたが、和穂の行動は予定外だった。
そうだ、もっと規則《きそく》を厳密《げんみつ》に決めておくべきだったのだ。
あの規則では和穂が湯呑みを割った時点で化修による湯呑みの破壊《はかい》が不可能になる。
負ける訳《わけ》にはいかない。
いや、負けたところで何も恐《おそ》れるものはない。帰書文とて仙術《せんじゅつ》の前には打つ手があるまい。
しかし、あんな小娘《こむすめ》にしてやられるのは、癪《しゃく》だった。
和穂の行動を見て、江棋は授術座のひじ掛《か》けを叩きまくった。
途端《とたん》に無数の雷《かみなり》、炎《ほのお》、氷《こおり》の刃《やいば》が、浮かびあがる。
授術座から放たれた仙術たちは、いとも簡単に窓をくぐり抜け疑戦盤上で炸裂《さくれつ》した。
江棋は思った。「私に勝ちかける」という無礼《ぶれい》をはたらいたのだ。当然の報《むく》いだろう。
「ふん。小細工《こざいく》なんかして。ちょっと痛い目にあってもらうわよ」
和穂たちが居た場所は爆煙《ばくえん》に包《つつ》まれていた。既《すで》にその衝撃《しょうげき》で森は消滅《しょうめつ》していた。
江棋の攻撃《こうげき》によって疑戦盤《ぎせんばん》の機能《きのう》に障害《しょうがい》が発生《はっせい》していたのだ。
「いい気味《きみ》だわ」
もうもうと立ち込める煙《けむり》が薄《うす》れ、そこにはうっすらと人影《ひとかげ》が浮《う》かんでいた。
「化修?」
そんなはずはない。化修は疑戦盤の造《つく》った物でしかない。その疑戦盤は今の攻撃で大破《たいは》している。
人影の正体《しょうたい》がやがて江棋の前に姿を現《あらわ》す。
それは帰書文だった。
帰書文の足元《あしもと》には気絶《きぜつ》し目を回している和穂と泉棋の姿が見えたが、怪我《けが》はしていないようであった。この状態《じょうたい》では帰書文が和穂たちを守ったとしか見えない。
帰書文の視線《しせん》が江棋と交差《こうさ》する。
珍《めずら》しく無表情で帰書文は言った。
「規則を破《やぶ》ったね。これは化修と和穂たちの勝負《しょうぶ》だったはずだ。貴女《あなた》が手を出すのは規則|違反《いはん》だ」
「だ、だからどうした! それよりどうしてお前が仙術を防《ふせ》げるんだ? 武器《ぶき》の宝貝《ぱおぺい》でもないくせに!」
帰書文は静かに笑う。
「僕は『絶対《ぜったい》』なんだ。貴女は契約者《けいやくしゃ》。契約した時点で僕は貴女に対して『絶対』になっていたんだよ。宝貝も仙術も、たとえ貴女が仙人であろうと関係はない。
貴女は契約を履行《りこう》する義務《ぎむ》がある。
和穂たちの権利《けんり》は守らなければならない。
さあ、覚悟《かくご》はいいね」
殷雷《いんらい》はバツが悪そうに眉間《みけん》を掻《か》いていた。
「つまり、最初から江棋が反則《はんそく》をするって読んでいたのか?」
和穂はこくりとうなずく。
「うん。もし規則を破れば、帰書文が動きだす。帰書文なら仙術にも平気だと思ったの」
もとより、帰書文は契約書の宝貝。仙人|同士《どうし》の契約にも立ち会えるように作られているはずだった。
呆《あき》れた瞳《ひとみ》で、殷雷は帰書文を見た。
殷雷の瞳の先で、帰書文は大破した疑戦盤に謝《あやま》っていた。
「ごめんよ、疑戦盤。きみを守るところまで手が回らなかったんだよ」
疑戦盤は吠《ほ》えた。
「結局、俺《おれ》が一番|貧乏籤《びんぼうくじ》をひいたんじゃないのか!」
縄《なわ》でグルグル巻《ま》きにされ、その縄を泉棋《せんき》に掴《つか》まれた江棋は言った。
「軽はずみに契約書を使うもんじゃないわ。肝《きも》に銘《めい》じる」
泉棋が言った。
「あら、少しは勉強になった?」
「次からは口約束《くちやくそく》に徹《てっ》する。それならば、どうにでもごり押せるからね」
「……私たちが勝てば『その身勝手な性格を改《あらた》める』って条件も出しときゃよかったよ」
振り向き帰書文は言った。
「さすがにそれだけは、僕にも無理《むり》だよ」
『授術座《じゅじゅつざ》』
座《すわ》る者の意志により仙術を繰《く》り出《だ》す椅子《いす》の宝貝。移動《いどう》能力に難《なん》があり、迅速《じんそく》な動きができない。
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あとがき
『好友、人和、教訓、心情、長寿はくれてやるが親の死に目にゃ会えぬと覚悟《かくご》せい』
朝の五時すぎの話。
起きてるんだか寝《ね》てるんだか判《わか》らない状況《じょうきょう》で原稿用のネタを考えていると、テレビで早朝《そうちょう》番組が始まった。
碁《ご》の番組である。
悪いが過去三十年間生きてきて、碁に興味を持ったのは、今まで三回ぐらいしかない。
小学校の頃、将棋《しょうぎ》が流行っていたのでついでに興味を持った事は何度かあり、その度《たび》にルールが全《まった》く理解《りかい》出来なかったのだ。
そんな体《てい》たらくだから、その番組を見ていても何が何やら理解出来るはずもない。
番組の構成としては、通常の碁盤《ごばん》より小さいミニ碁(九路地盤《きゅうろじばん》)を使って、素人《しろうと》同士を対局させるというものである。
当然、別室《べっしつ》にはプロ棋士《きし》とアシスタントが控《ひか》えており、大きな碁盤に素人が打った手を再現《さいげん》して解説してくれるのだ。
当然の当然として、この戦いは勝《か》ち抜《ぬ》き戦《せん》で、勝ち抜けば勝ち抜くほど豪華《ごうか》な商品がいただけちゃうのである。
当然の当然の当然として、豪華商品の中には『時計』とか『パソコン』も含《ふく》まれているが『賞金百万円』とか『ユーラシア大陸横断|食《く》い倒《たお》れの旅』は含《ふく》まれてはいないので、豪華な豪華商品というより清楚《せいそ》な豪華商品といった感じだ。
そんなこんなで対局が始まり、見るともなしに、ワシはテレビを見ていたのだ。
プロ棋士のおっさんが、「これは良い手」だ「これは悪い手」だと解説している時、その事件はおきたのだ。
先手《せんて》か後手《ごて》か忘れたが、ある一手を打った。
途端《とたん》に、プロ棋士とアシスタントが大爆笑したのである。
やや、これはどうしたハプニングか?
と身を乗り出してテレビを見ると、別に何も起きていない。
純粋《じゅんすい》に、その一手が大爆笑ものだったらしい。
あぁ、なんて悔《くや》しいんだ。千載一遇《せんざいいちぐう》の笑える一手に遭遇《そうぐう》しながら、ワシはそれを理解出来なかったのだ。
てな理由で、最近碁の勉強を始めた。
小学生の頃から数十年の時を経《へ》て、少しは利口《りこう》になったのか、どうにか碁のルールは一部を除《のぞ》いて理解出来た。
判《わか》らないのは、どっちが勝負《しょうぶ》に勝ったのかという部分である。
碁の入門書によると「勝負をこなせば、勝ち負けが判るようになります」と、なかなか頓智《とんち》の効《き》いたコメントが書いてあった。
深遠《しんえん》なる碁の世界、一筋縄《ひとすじなわ》ではいかないようである。
『作品解説』
毎度お馴染《なじ》み、各短編についての作品解説をやってみよう。
毎度毎度、全然作品解説になってないぞという意見もチラホラあるけど、気にしてはいけない。
一応、ネタが割れる可能性があるので要注意《ようちゅうい》だ。
「名誉《めいよ》を越《こ》えた闘《たたか》い」
格闘トーナメントとであり、バトルであり、ついでにワシは戦闘民族『南河内人《みなみかわちじん》』なのである。
こうやってバトル巨編(短編だけど)を書けるとは夢にも思ってなかっただけに、感無量《かんむりょう》であるというか何というか、こんなのばっかしかというか。
あまたの実戦をくぐり抜けた(ケンカとかじゃないよ)経験から言えば『強い相手』には、頑張《がんば》っても勝てやしません。
何故《なぜ》かというと、『強い相手』は自分よりも頑張っているから『強い相手』なんだからねえ。
鍛冶屋《かじや》の跡取《あとと》りがあんなに恰好《かっこう》良くていいのか?
「その男の名は」
全くもって素晴《すば》らしい、五人が卓《たく》に座《すわ》ってああでもないこうでもないと知恵《ちえ》を巡《めぐ》らせるだけの、アメリカ映画じゃまずこうはいかないぞ、という話である。
これが四人で頭を捻《ひね》っていたら麻雀だ。
あれ? おかしいぞ? 殷雷《いんらい》がいない回収劇《かいしゅうげき》は、奮闘編の書き下ろし用の設定じゃないのかな?
てな事を言ってはいけない。
ワシもこの作品解説を書くまで、気がついてなかったのだ。
「揺《ゆ》るぎなき誓《ちか》い」
長編で殷雷が『最強《さいきょう》』などという概念《がいねん》はない。みたいな話をしていたので『最強』の宝貝《ぱおぺい》が出てくる話を考えてこうなった。
死人が借金の取り立てにやってくるという話は民話に多いパターンで、中には結構《けっこう》ハードなバリエーションもある。
そのパターンの中でワシがお気に入りのやつを披露《ひろう》したいところだが、冗談抜《じょうだんぬ》きに洒落《しゃれ》にならんので、気になる人は各自調べてみよう!
ヒントは中国の民話。後味《あとあじ》の悪さは天下一品なので、見つかればピンと来るはず。
「災《わざわ》いを呼ぶ剣士《けんし》」
逆境を乗り越えて人は成長していくんだ。という、たいへん有《あ》り難《がた》い教訓に満ちた話であり、諸君らの人生の道しるべとなれば幸《さいわ》いである。
という冗談はさておく。
実際には少しぐらいの不幸より、中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な幸福の方が余程《よほど》質《たち》が悪いのだ。
不幸には対抗《たいこう》出来るけど、幸福には対抗出来ないからねえ。
「傷《さず》だらけのたかかい[#「たかかい」に傍点]」
タイトルは新担当のK氏の発案。大変良く出来ました。
あんまり頓智の効《き》いたタイトルを考えると作家が落ち込むので以降《いこう》気をつけるように。
短編の中では珍《めずら》しく敵がちゃんと敵になっている話。
宝貝以外の部分で捻《ひね》っているのも、珍しいかもしれない。
「最後の審判《しんぱん》」
いわゆるキリスト教圏における、教義としての最後の審判と古代中国の神仙《しんせん》主義が……という深遠《しんえん》な問題を扱っている筈《はず》もはなく、当然あの人が出てくる話であった。
で、実戦において化修《かしゅう》はあの宝貝の破壊に成功したのかどうか興味深《きょうみぶか》いところである。
『以下、次巻』
そろそろ紙数も尽《つ》きた。
続く四巻は、割《わり》と早めに出せるかもしれないので、乞《こう》ご期待。
ではまた。
「どうも。挑戦者の、ろくごまるにです」
てな感じでワシも出てやろうか。パソコンを手に入れるか、それともワシの一手でスタジオを爆笑の海に沈《しず》めてくれるか。
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初出
名誉《めいよ》を越《こ》えた闘《たたか》い   月刊ドラゴンマガジン1998年6月号
その男の名は     月刊ドラゴンマガジン1998年7月号
揺《ゆ》るぎなき誓《ちか》い    月刊ドラゴンマガジン1998年11月号
災《わざわ》いを呼ぶ剣士《けんし》    月刊ドラゴンマガジン1998年12月号
傷《きず》だらけのたかかい[#「たかかい」に傍点]  月刊ドラゴンマガジン2000年4月号
最後の審判《しんぱん》      書き下ろし
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》・奮闘編《ふんとうへん》3 名誉《めいよ》を越《こ》えた闘《たたか》い
平成12年7月25日 初版発行
著者――ろくごまるに