封仙娘娘追宝録・奮闘編2 切れる女に手を出すな
ろくごまるに
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目次
切れる女に手を出すな
ごつい男のゆううつ
心《こころ》迷《まよ》わす蜂《はち》の音《おと》
殷雷《いんらい》の最期《さいご》!!
切れる女とおとぎばなし
あとがき
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切れる女に手を出すな
「ねえ、ふくろうの作り方、知ってる?」
そう言って、娘はススキ野原から一本のススキを引き抜いた。
夕闇《ゆうやみ》迫《せま》る、ススキ野原の一本道には、道服を着た娘と、棍《こん》を持つ長髪《ちょうはつ》の青年の影《かげ》しか見て取れなかった。
袖《そで》の大きい道服を着た娘、和穂《かずほ》は、ススキの穂で自分の頬《ほほ》をくすぐり感触《かんしょく》を楽しんだ。
「宿屋のオバさんに、教えてもらったんだけども、ススキを上手《うま》く細工したら……」
だが、青年は歩みを止め、凍《こお》り付いたように、遠くを見つめるだけだった。
「どうしたの? 殷雷《いんらい》」
和穂は、ススキの穂で、殷雷と呼んだ青年の鼻の頭をくすぐる。途端《とたん》、弾《はじ》けるように青年は絶叫《ぜっきょう》した。
「奴《やつ》が来る! 嫌《いや》だ! 勘弁《かんべん》してくれ。あいつは厄介《やっかい》すぎる!」
尻尾《しっぽ》を踏《ふ》まれた猫でも、ここまでは慌《あわ》てなかっただろう。
殷雷は右手に持った、銀色に輝く棍を地面に落とし、両手で長い黒髪《くろかみ》を掻《か》きむしった。
袖付きの外套《がいとう》に包《つつ》まれた肩が、荒《あら》い息に合わせて大きく上下に揺れている。
「ちょっと、ちょっと、いきなりどうしたのよ殷雷!」
だが、殷雷は自分の額《ひたい》に手を当て、ブツブツと独《ひと》り言《ごと》を繰《く》り返し、目は虚《うつ》ろだった。
いつもの武人を思わせる、猛禽類《もうきんるい》のような眼光は消えてなくなっていた。
これは、ちょっと普通ではないと、和穂は考えた。
殷雷がここまで慌てふためく宝貝《ぱおぺい》が、近寄っているのだろうか。
そう考えると、和穂の少しばかり太い眉毛《まゆげ》の間にも皺《しわ》が寄った。
宝貝。仙人が造りし神秘《しんぴ》の道具を、宝貝と呼んだ。仙術《せんじゅつ》の精華《せいか》を結集して造られた宝貝は、時として恐《おそ》ろしいまでの破壊力《はかいりょく》を持つ。
「ねえ、殷雷。そんなに凄《すご》い宝貝が近づいてるの!」
荒い息を吐《は》き、殷雷はやっと口を開いた。
「ベ、別に凄くはない。程度はたかが、知れている」
「え? だったら、そんなに慌てなくても」
「これが慌てずにいられるか! くそう。逃げるわけにはいかん、ならばとっとと捕《つか》まえて封じてくれるのみだ!」
「全然、訳《わけ》が判《わか》らないよ。第一、どうして殷雷に、宝貝が近寄っているのが判るの?」
「人間には聞こえんのだ、あの深霜刀《しんそうとう》の能天気《のうてんき》な歌声が! ああ、こんな事を言ってる間にも奴は近寄って来る!」
人間には聞こえないと殷雷は言い切った。その歌が聞こえるとは、すなわち彼は人ではなかった。
彼の正体は殷雷刀、刀《かたな》の宝貝である。
和穂にはまだ事情が飲み込めない。
「殷雷ってば、ちゃんと説明してよ」
脂汁を拭《ぬぐ》うかのように、髪をかきあげ、殷雷は説明を始めた。
「和穂よ、例のつづらを覚《おぼ》えているな」
忘れるはずがなかった。七百二十七個の欠陥《けっかん》宝貝を封印《ふういん》していた、つづらだ。
かつて仙人になりたての和穂は、誤《あやま》ってこのつづらの封印を破《やぶ》ってしまい、地上に宝貝をばらまいてしまったのだ。
その数は、七百二十六個。
一個、計算が合わないが、封印が破れた時に逃走《とうそう》しなかった宝貝が一つだけあった。
それが殷雷刀なのである。
彼は他人の失敗《しっぱい》につけこんで、逃走するのを良しとしなかったのだ。
和穂は首を縦《たて》に振った。
「忘れるわけがないよ。私があのつづらを壊《こわ》したから、今もこうやって宝貝の回収を続けてるんじゃない」
自分がばらまいてしまった宝貝だから、自分で回収する。言うのは簡単《かんたん》であったが、そう生易《なまやさ》しい話ではなかった。
地上にこれ以上の混乱《こんらん》を巻き起こさない為《ため》に、和穂の仙術は全《すべ》て封じられている。
宝貝対仙術の戦いになれば、それこそ収拾《しゅうしゅう》がつかなくなる可能性《かのうせい》があったからだ。
仙術の使えない仙人、和穂は見ためのままの、十五歳の少女にすぎないのだ。
しかし、全《まった》く手掛《てが》かりなしでは、宝貝の回収は不可能である。
その為に、和穂には二つの宝貝が与えられた。
一つは、宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》り当てる、耳飾《みみかざ》りの宝貝、索具輪《さくぐりん》。ただし、精度《せいど》はそれほどでもない。げんに今も、殷雷の方が深霜刀の位置を、正確に把握《はあく》している。
もう一つは、回収した宝貝を収納《しゅうのう》する、ひょうたんの宝貝、断縁獄《だんえんごく》だ。
この二つの宝貝だけでは、あまりに心細いと考えた和穂の師匠《ししょう》とその友人の仙人は、殷雷刀に和穂の護衛《ごえい》を頼《たの》み込んだ。
面倒《めんどう》そうな素振《そぶ》りを見せつつも、殷雷は銀色の棍を報酬《ほうしゅう》として、護衛を引き受け、和穂と共に地上に降《お》りたのだ。
殷雷は地面に転《ころ》がった棍を拾《ひろ》い上げ、大事そうに土を払《はら》った。
「あの、封印の中ってのは、別に牢獄《ろうごく》みたいになっていたわけじゃない。
断縁獄の中身と一緒《いっしょ》で、そこには別の世界があると考えればいい。
もっとも、たとえ自由に動ける世界があっても、それは所詮《しょせん》、造られた世界。
囚《とら》われの身であるという、やるせなさは拭いきれるものじゃなかった」
「……そうなんだ」
「今は、囚われの身の苦しさなんかは、どうでもいい。問題は、奴、深霜刀だ。
俺《おれ》は封印の中で、奴に追い掛け回されていたのだ」
和穂は首を傾《かし》げた。どういう意味だろう。
「どうして? 刀の宝貝同士で、いい好敵手《こうてきしゅ》だったとか?」
殷雷は頭痛《ずつう》を堪《こら》えるかのように、左手でこめかみを握《にぎ》った。このままひとおもいに、頭を握り潰《つぶ》せば、この苦しみから逃《のが》れられるのに、といった気迫《きはく》が漂《ただよ》う。
「深霜刀。あの女は、妙《みょう》に惚《ほ》れっぽい性格をした、刀の宝貝なんだ!」
淵捷《えんしょう》はススキ野原の一本道を、フラフラと歩いていた。
年の頃《ころ》なら四十過ぎ、痩《や》せた頬に、不精髭《ぶしょうひげ》が生《は》えていた。
全体的にしまりのない顔つきが、ただの酒呑《さけの》みを思わせたが、狼《おおかみ》のような眼光《がんこう》が時折《ときおり》見て取れた。
淵捷は自分の殺気じみた目が嫌いだった。
酒に酔《よ》ったふりをすれば、自分の眼光を隠《かく》せると気づいたのは、二十歳《はたち》の頃だっただろうか。
そしてすぐに、酔ったふりではなく、実際《じっさい》に酔っぱらっても構《かま》いやしないと気がつき、淵捷は酒に溺《おぼ》れた。
だが、彼の目が鈍《にぶ》る事はなく、だらけた除《まぶた》が、狼の眼光を覆《おお》い隠しただけだった。
淵捷の左腰には二本の刀《かたな》が差されていた。
一本は、刀術《とうじゅつ》の訓練《くんれん》に使う為《ため》の模擬《もぎ》刀だった。刃《は》を潰《つぶ》してあるが、見た目は普通の刀と変わりはしない。
彼自身が刀の訓練をするのではない。
淵捷の腕《うで》を見込んで、刀術の訓練を依頼《いらい》された時に使うのだ。
今も、金持ちに頼《たの》まれ、その息子《むすこ》を仕込んできたところだ。
誰《だれ》に言うのか、淵捷は口を開いた。
「刀にゃ、刃がついてるんだから、体を鍛《きた》えて、相手より先に一撃《いちげき》を当てられるようになりゃ、技術なんて、要《い》らないんですがねえ」
丁寧《ていねい》な口調《くちょう》ではあった。だが、ろれつの回らない酔っぱらいのような、独自《どくじ》の巻《ま》き舌《じた》が所々に混じっていた。
意地悪《いじわる》く、四十男は笑う。
「それ言っちゃ、飯《めし》の食い上げだから、大層《たいそう》な技法を、あのガキに教えましたよ。
おっとっと、でたらめを教えちゃいませんぜ。
あの技法は、『源天《げんてん》流|槍術《そうじゅつ》、呑龍回帰《どんりゅうかいき》』を打ち返す為のやつで、ちゃんと武芸書にも載《の》ってますぜ。
もっとも、あのガキがこれからの生涯《しょうがい》で、源天流槍術と何度やりあうかは、知った事じゃないですがね。ま、よくて一回あるかないかってところですかい。
武芸の流派は、星の数ほどあるからねえ」
笑いながら、淵捷は模擬刀ではない、もう一つの刀の鞘《さや》をさすった。
赤い鞘には、美しい鳳凰《ほうおう》が描《えが》かれている。
鞘の微《わず》かな振動から、淵捷は刀も笑っているのを知った。
風が吹いた。
ススキ野原のススキが揺《ゆ》れる。
「いい風だ。深霜よ。町につくまでおとなしくしててぇくださいよ。
この歳《とし》になっちまうと、女と連れ立って歩くのが、恥《は》ずかしくてぇ仕方がない」
和穂の皮肉《ひにく》っぽい口調というのは、珍《めずら》しかった。
深霜刀のしつこさを力説されるうち、なんとなく和穂は腹が立ったのだ。
元仙人は感想を述《の》べた。
「で、結局《けっきょく》殷雷は、自分はこれだけもてたんだぞって、自慢《じまん》したいの?」
またしても、棍を地面に落とし、殷雷は和穂の胸ぐらをつかんだ。
「俺《おれ》の話のどこをどう聞けば、そんな感想が出てきゃがるんだ!
あの女、甘《あま》やかせばつけあがるし、怒鳴《どな》れば泣くし、逃げれば追っ掛けてくるし、俺の髪を三《み》つ編《あ》みにしようとするし……」
和穂は、やれやれといった感じに手を振った。
「ふぅぅぅぅぅぅん。色男はつらいってところかしらね?」
殷雷は怒鳴る。
「て、てめえ!
馬鹿|正直《しょうじき》と素直《すなお》さなんていう、飯の役にもたたん取《と》り柄《え》しかないくせに、皮肉をかましやがったな、術も使えん能無《のうな》し仙人が!」
「う。それとこれとは関係《かんけい》ないでしょ」
「黙《だま》れ、この能無し能無し能無し……
おや、もしかして和穂お嬢《じょう》さん、俺にやきもちでも妬《や》いてるのかい」
「違《ちが》うってば。私には、深霜刀の一途《いちず》さが判《わか》るような気がするの。
そんな深霜刀の気持ちも知らずに、殷雷ってば、うるさがるだけで」
殷雷は絶句《ぜっく》した。和穂も女なのだ。俺の感情よりも、深霜の感情の方が理解しやすいのだろうか。
だが待て、論点《ろんてん》がずれているぞと、殷雷は考え直す。あの女の何が一途なのだ。
呼吸を整《ととの》え、しばし殷雷は考えを巡《めぐ》らした。そして、一つのいい例《たと》え話に、辿《たど》り着《つ》いた。
「和穂、こう考えろ。子猫《こねこ》をガキに与えたとしよう。ガキは子猫を可愛《かわい》がっているつもりでも、子猫にとっちゃ災難《さいなん》でしかない。
子猫は適当に飯が食えて、寝られれば幸《しあわ》せなんだが、ガキは子猫の世話《せわ》と称《しょう》して、首に縄《なわ》つけて引っ張り回したり、湯で体洗ったりしちまうんだよ。
俺が嫌がる一途さなど、意味があるまい」
うむ、我ながらよい説明だと、殷雷は考えた。
元仙人は冷《ひ》ややかに言った。
「殷雷のどこが、子猫なのよ」
殷雷の頭脳《ずのう》は白旗を上げた。和穂が女である以上、俺の説明は通用しない。
「判った、判った。事情はどうあれ、いつものように、あいつを封印せねばならんのは判ってるな?」
和穂はうなずいた。
「うん」
「くそう。断縁獄《だんえんごく》に、相手を無理矢理《むりやり》にでも吸引する機能があればいいんだが。
ま、仕方あるまい。ともかく、深霜刀の所持者が抵抗《ていこう》するならば、力ずくでもあいつを取り返して、速《すみ》やかに断縁獄の中に入れっちまうそ。いいな」
「判った」
宝貝《ぱおぺい》は、道具の業《ごう》を背負《せお》っている。
地上にばらまかれた宝貝は、そのまま地面に落ちているのではない。
道具の業、つまり誰かに使われたいという欲求を持っているのだ。
宝貝は、今まで一度の例外もなく、人の前に現れていた。
殷雷は、ふと考えた。深霜刀はどんな奴の手に渡ったのだろう? あんな口うるさい宝貝を、喜んで使う奴などいるのだろうか?
これから起こる戦いに、殷雷は気を滅入《めい》らせた。
頼むから、泣くのだけは勘弁《かんべん》して欲しかった。
「せめて、刀の形でいてくれよ」
人間の姿で泣きわめかれ、一方的な痴話喧嘩《ちわげんか》になるのだけは、避《さ》けなければならない。
殷雷は緊張《きんちょう》に生唾《なまつば》を飲み込んだ。
「俺は、こっちに避《よ》けるから、あんたらはそっちに避けてぇくださいな」
夕闇《ゆうやみ》迫《せま》る、ススキ野原の中の一本道を、淵捷は歩いていた。すると正面から若い男と女の二人連れが現れたのだ。
淵捷は道の端《はし》に避けようとしたが、相手の二人連れは動こうとしない。
「こういう時は譲《ゆず》り合いが基本《きほん》でしょうに。やれやれ、ま、若いうちはくだらん見栄《みえ》も張りたいからねえ」
自分がまだ若かった頃に少しばかり、思いを馳《は》せて淵捷はススキの中に入っていった。
だが、男の持つ銀色の棍《こん》が、胸の前に突き出され、行く手をはばんだ。
仕方なく立ち止まり、淵捷は右手を袖《そで》の中にしまいこみ、二人の顔をじっくりと見た。
伊達《だて》に修羅場《しゅらば》は抜けてない、人相《にんそう》を見るぐらいはわけがなかった。
男の方は二十歳《はたち》前、袖付きの黒い外套《がいとう》を身に着けている。
男にしては長い髪《かみ》を、後頭部で括《くく》っているようだ。中肉中背で、たいして鍛《きた》えているようには見えない。
が、淵捷は男の眼光の鋭《するど》さに一目《いちもく》置いた。
どんな、服装、風貌《ふうぼう》をしていようが、淵捷はその猛禽類《もうきんるい》のような眼光だけで、男を武人と判断した。
若いのに、棍使いか。
やるねえ。
淵捷は心の底で感心した。棍術を使うだけの棍使いならば、珍《めずら》しくもない。だが、恐《おそ》らく槍術《そうじゅつ》、剣術、杖術《じょうじゅつ》も混ぜ合わせていやがるなと、淵捷は判断した。棍を握る手が、あまりに柔《やわ》らかかったからだ。
相手の動きに反応し、即座《そくざ》に槍、剣、杖、棍術、どれにでも変化する為には、この柔らかい握《にぎ》りが絶対に必要だった。
刀の腕《うで》を上げたけりゃ、腕力《わんりょく》をつければよい。だが、鍛えるのにも限界がある。
そこで初めて、技巧《ぎこう》が生まれるのだ。
この若い男は、それを承知《しょうち》している。
「ただもんじゃないね、兄ちゃんよ。ま、器用貧乏《きようびんぼう》ってぇ言葉もありますがね」
淵捷の言葉に反応し、男は苦笑いしながら声を上げた。
「うるせえ。名は殷雷だ。後ろのは和穂」
「……淵捷と申《もう》します」
続いて、淵捷は後ろにいる娘に目をやる。
殷雷とかいう、若造の陰《かげ》にはいるが、隠《かく》れているのではない。殷雷が背後《はいご》にかばっているのだ。
十四、五歳ぐらいか。まだ、わずかに幼《おさな》さが残るが、太い眉毛《まゆげ》に、黒メノウのような綺麗《きれい》な目をしている。
殷雷の刺すような目を見返すのは、造作《ぞうさ》なかったが、淵捷は和穂の目を見続けるのに苦労した。
和穂の目が、あまりに真《ま》っ直《す》ぐな目だったからだ。意志《いし》の強さ、一途《いちず》さ、懸命《けんめい》さ、どれをとっても、淵捷が遠い昔にどこかに捨てたものが和穂の目には光っていたのだ。
似たようなものならば、今の淵捷にもある。意志の強さは、意地《いじ》となり、一途さは、見栄《みえ》という名のこだわりに、懸命さは、執念《しゅうねん》へと変わってしまった。
柔らかそうな髪は、後頭部の辺りで括られ、左の耳には小さな耳|飾《かざ》りがある。
でも、なぜ道士みたいに袖のでかい道服を着ているのか、淵捷には判断しかねた。本当なら真っ白な道服なんだろうが、夕焼《ゆうや》けを浴《あ》びて紅色に染《そ》まっていた。
淵捷は、和穂には紅色は似合《にあ》わないと思った。
「棍を持った辻斬《つじぎ》りたぁ、珍しいねえ」
「誰が辻斬りだ!」
袖の中で、淵捷は銀貨をジャラジャラともてあそんだ。
「ならば、おいはぎですか。
困《こま》ったねえ、今、刀術|指南《しなん》の仕事が終わったばかりで、金は持っちゃいるんだがね、こいつを持っていかれちやあ酒が呑《の》めねえ」
「……おいはぎでもない」
「殷雷さんとかいいましたな。用がないんなら、ここを通して欲しいんですけどねえ」
棍を持つ殷雷の目が、細く、引き絞られていく。
「用はあるぞ」
袖に引っ込めた右手を懐《ふところ》から出し、淵捷は左の頬《ほほ》をポリポリと掻《か》いた。
「何の御用《ごよう》ですかいな」
殷雷は言った。自分の言葉が戦いの合図になると、半《なか》ば確信《かくしん》していた。
「淵捷。刀を渡しな」
手だれの男は、笑って答えた。笑《え》みの中、開かれた瞼《まぶた》には狼《おおかみ》の眼光が宿《やど》り始めた。
「この刀を持っていかれると、刀術の稽古《けいこ》がつけらんなくなっちまって、飯の食い上げですよ。
それに、これは模擬刀《もぎとう》で、何の価値《かち》もないでしょうに」
わずかに気勢《きせい》を削《そ》がれて、殷雷はイラついた。
「そっちじゃない! 深霜刀の方だ」
淵捷は、赤い鞘《さや》をいとおしそうに撫《な》でた。
鳳凰《ほうおう》の飾《かざ》り彫《ぼ》りの手触《てざわ》りが心地好《ここちよ》い。
「これが欲しけりゃ、力ずくで来なさいよ」
殷雷は鼻で笑った。
「もとより、そのつもりだ」
「でもよ、殷雷さん。その服はちょっと勘弁《かんべん》してくださいな。
知ってますぜ。その服は柔らかいくせに、着ている人間の体を守ってくれるんでしょ。
なんせ、その服は『鞘』だからねえ。
鞘を着ているなら、あんたはやっぱり刀なんですかい?」
棍を突きつけたまま、殷雷は器用に外套を脱ぎ始めた。
袖を抜く時に、一度、棍を持つ手を入れ換えたが、隙《すき》は全くなかった。
外套の上からでは、予想もつかなかった鍛えられた筋肉《きんにく》が顔を出した。
ポリポリと淵捷は、頬を掻き続けた。
棍で胸を押さえられ、一見《いっけん》不利だが、この状態の棍は死んでいるも同じだ。
この体勢からいくら力を入れても、致命傷《ちめいしょう》は与えられまい。一度、棍を引く必要があった。
こっちはこっちで、頬を掻く右手を鞘に回して、力を引き抜かねばならない。
淵捷は考えるのをやめた。ともかくやるしかない。
次の一瞬に、幾《いく》つかの事が同時に起きた。
殷雷の棍が、引かれるのに合わせ、淵捷の背中がギリギリとねじられ、体勢が低くなっていく。
まるで、背中から体当たりを開始するかのようだ。
背中がどれだけ引き絞られても、淵捷の顔は殷雷に向けられたままだった。
棍がさらに引かれる。
ついに鞘の先端が、殷雷に向くほど、淵捷の体はねじられた。
四十男の弛《ゆる》んだ瞼《まぶた》が見開かれるのを合図に刀が抜かれ、棍がうねり、刀が走った。
互《たが》いに相手の攻撃を受ける気は、さらさらなかった。手の中の武器を、相手より速く叩《たた》き込むだけだ。
肉と鉄がぶつかる音がした。音は一つだけだった。すなわち、相打ちではない。
和穂は息をのんだ。
殷雷はゆっくりと、地面に倒れていった。
淵捷は荒《あら》く息をついた。
「人を斬るのは、嫌《いや》なものだねえ。
お嬢《じょう》さん。俺を恨《うら》みに思うのは判るけどもね、互いに真剣勝負《しんけんしょうぶ》だったんです。
出来れば、勘弁《かんべん》してくださいな」
「殷雷!」
和穂は慌《あわ》てて、殷雷の側《そば》に駆《か》け寄《よ》り、体を揺すぶった。口からは血の泡《あわ》が出ている。
傷口を見なければならない、たとえ手遅《ておく》れでも怪我《けが》の程度を確かめなければならない。
宝貝《ぱおぺい》の刃を正面から食らい、只《ただ》で済《す》むとは和穂も思っていなかった。
淵捷の口許《くちもと》が面白《おもしろ》そうに歪《ゆが》み、妙に芝居《しばい》がかった声が上がる。
「おっと、こいつぁいけません。うっかり間違《まちが》えてしまいましたよ」
右手に持った刀を見つめ、四十男は言葉を続けた。
「深霜刀を抜いたつもりが、模擬刀を抜いてました」
殷雷の腹《はら》から血は出ていなかった。だが、刃が無いとはいえ、鉄の塊《かたまり》で腹を打たれたのだ。
殷雷は土を握りしめ、うめいた。
「ぐげ」
淵捷の腰《こし》から、もう一つの刀が勝手《かって》に抜けた。まるで滑《すべ》り落ちるかのように、赤い鞘から外《はず》れる。
そして外れた途端《とたん》、軽い爆発音と共に、爆煙《ばくえん》の代わりに霧《きり》を撒《ま》き散《ち》らす。
霧が消えた後には一人の娘が立っていた。
背丈《せたけ》は殷雷とほとんど同じ、栗毛色《くりげいろ》の長い髪を緩《ゆる》く一本に編《あ》んでいた。
少しばかりつり上がった目は、狐《きつね》を思わせたが、狡猾《こうかつ》さまでは感じさせなかった。
彼女の顔の中で一番目を引くのは、細い顎《あご》の上にある唇《くちびる》だった。決して太くはないが真紅《しんく》の唇をしている。
娘は文句《もんく》を言った。
「ちょっとちょっと、淵捷、どおゆうつもりよ、大体《だいたい》、刀を間違えるなんて……」
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に、娘、深霜はまくしたてた。
地面でうごめく殷雷は、必死《ひっし》の思いで両耳を押さえた。
「か、勘弁してくれ……」
深霜に問い詰められ、淵捷も困った顔をしたが、その顔の中にはわずかな笑《え》みが含《ふく》まれていた。
「いやあ、すまん深霜よ。酒が切れたんで、ちと惚《ぼ》けてぇましたぜ」
呆《あき》れた溜《た》め息《いき》をつき、深霜は淵捷の腰に差された赤い鞘を手にとる。そして、鞘をねじると、まるで絡《から》まった洗濯物《せんたくもの》が解《ほど》けるように一着の赤い上着《うわぎ》となった。
殷雷と同じような、袖付きの外套《がいとう》だ。だが細部はかなり違っていて、特に背中の鳳凰《ほうおう》の刺繍《ししゅう》が美しかった。
外套を羽織《はお》り、深霜はつかつかと殷雷と和穂の方へ歩み寄った。
「久《ひさ》し振《ぶ》りね、殷雷」
殷雷は地面を這《は》って、逃《に》げようとした。だが、背中を深霜に踏《ふ》まれ、身動きが取れなくなった。和穂は必死になって、深霜の足をどかそうとしたが、ビクともしない。
「どうしたのよ、般雷。私と、よりを戻したくてここまで来たんじゃないの」
「ふ、ふざけるな。てめえの、かお、なんざみたくも、ねえ」
深霜はやっと和穂の存在《そんざい》に気がついたように、大袈裟《おおげさ》な声を上げた。
「あ、お前は和穂! すると宝貝回収に手を貸してる宝貝ってのは、殷雷だったの!」
グリグリと深霜は、殷雷の背中を踏んだ。見兼《みか》ねた淵捷が声を上げた。
「深霜。怪我人をいたぶるのはよしなさい」
殷雷の背中から足を動かし、甘く、素直《すなお》な声で答えが返った。
「はあい。でも、武器の宝貝なんて頑丈《がんじょう》に出来てるから、こんな打ち身ぐらい三日もすれば治《なお》るんだよ。
ね、今のうちにとどめを刺しておきましょうよ。つきまとわれたら、うっとうしいじゃない」
深霜が振り返ると、殷雷の前には和穂が両手を広げて立ちふさがっていた。
「なによお。どうせ術も使えないんでしょ。それで私と戦おうっての?」
和穂の頬《ほほ》に、深霜の手が伸びた。細く、白い指先は氷のように冷たかった。
淵捷は、模擬刀を鞘に収《おさ》め、大きく欠伸《あくび》をする。
「弱いもんいじめは駄目《だめ》ですぜ、深霜。
殺生《せっしょう》は、あまり好きじゃないんでね。
構《かま》いやしねえさ。つきまとわれる度《たび》に、倒してさしあげりゃ、いいんだからねえ。
殷雷さんよ。悔《くや》しかったら、いつでも相手になりますよ。
せいぜい鍛《きた》えて、腕を上げてくださいな。
いくぜ、深霜」
なついた子犬のように、深霜は淵捷の側に駆け寄り、二人はススキ野原の一本道を歩いていった。
和穂の頬を一筋《ひとすじ》の血が流れた。
深霜に撫《な》でられた部分が薄く、切れていたのだ。
殷雷は、和穂に背を向け、地面に座《すわ》っていた。
丸まった殷雷の背中に、和穂はどう声をかけていいか判《わか》らなかった。それでも、殷雷の外套をたたみながら、口を開く。
「あのね、殷雷。そりゃ、昔の彼女にああいう態度をとられたら、落ち込むと思うけど、元気をだしてよ」
殷雷は猫背《ねこぜ》を向けたまま、地面の棍《こん》を拾《ひろ》い上げ、そのまま和穂に向かい棍を突いた。
「誰が、彼女だ! これで判ったろ、あの女は一途《いちず》でもなんでもねえ。
惚《ほ》れやすいのは、まあいい。
冷《さ》めた時の、あの掌《てのひら》を返したような態度、自己《じこ》中心的な、おつむの中身が、むかつくんだ。
俺《おれ》が、深霜を嫌《きら》う理由は判ったな」
鼻先に突きつけられた棍に、ドキリとしながらも和穂はうなずいた。
「よく判った」
棍は鼻先から、和穂の手の中の外套に動いて、一気にはね上げた。
宙《ちゅう》を舞《ま》う外套に合わせ、殷雷は立ち上がり左手を上げる。
狙《ねら》いすましたかのように、外套の袖は殷雷の左手に収まった。
殷雷は、口の中の血の塊を吐き捨て、和穂に向き直った。
「問題は、深霜じゃねえ。あの淵捷とかいう奴だ」
言われて初めて、和穂は気がついた。殷雷はうなずきながら、言葉を続けた。
「武器の宝貝が、使用者にとんでもない能力を与えるってのは、よくある話だ。
だが、あの淵捷ってのは、宝貝の力を借りずに俺に勝ちやがった」
「淵捷ってオジさんは、殷雷より強いんだ」
口に出してから、和穂は口を押さえた。
身も蓋《ふた》もない言《い》い様《ざま》に、殷雷は再び背中を向けて地面に座った。
「ごめん、殷雷」
「謝《あやま》るな! 謝られると、余計《よけい》にやるせないわい!」
和穂は慌《あわ》てて、取《と》り繕《つくろ》うとした。
「ね、でも大丈夫《だいじょうぶ》よ。何か策《さく》を考えたら、上手《うま》くいくって」
「……武器の宝貝が、生身《なまみ》の相手に策を使えというのか……」
これはまずいと、和穂は考えた。いつもの殷雷なら怒鳴《どな》り返すはずだが、言葉に勢《いきお》いが感じられなかった。
「ほらほら、落ち込むなんて殷雷らしくもないよ、今までも手強《てごわ》い宝貝と戦ってきたんだから!」
「……宝貝に後れをとるのはいいんだよ……宝貝対宝貝の戦いは、奥の手の要素があるから、何が起こっても不思議《ふしぎ》じゃない。
茶碗《ちゃわん》の宝貝が、武具の宝貝に勝つ事だってある……
淵捷と俺は、正面からぶつかって……俺が負けちまったんだ……」
ずるずると、蟻地獄《ありじごく》に落ちるように、殷雷の言葉が暗くなっていく。
生身の人間に負けたのは、刀の宝貝の誇《ほこ》りをここまで傷つけたのだ。
少しでも殷雷を元気づけようと、和穂は殷雷の肩に両手をかけ揺さぶった。
普段の殷雷なら、
『うっとうしい!』
とでも怒鳴っただろう。だが、今の殷雷は力なく和穂に揺さぶられるままだった。
「ね、殷雷。あのオジさんが殷雷より強いんだったら、特訓《とっくん》でもして、殷雷がもっと強くなればいいんじゃない」
「……そう簡単に強くなれるか……一日や二日の鍛錬《たんれん》で……」
殷雷は何気《なにげ》なく、和穂の顔を見上げた。
頬の下が薄く切れ、滲《にじ》み出た血が、微《かす》かなかさぶたになっている。
言葉を遮《さえぎ》り、殷雷は立ち上がった。
そして、和穂のかさぶたに親指をあて、こそぎおとした。
「……深霜め、やってくれたじゃねえか。……特訓か、面白《おもしろ》い。やれるとこまでやってみるか」
湯豆腐《ゆどうふ》には、ちと早い。冷《ひ》や奴《やっこ》は冷たすぎるだろう。
淵捷は思案《しあん》して、冷や奴と熱燗《あつかん》を頼《たの》む事にした。
ざわめく酒場の中、淵捷と深霜は角《かど》の席に陣取《じんど》っていた。
やさぐれた酒場の、澱《よど》んだ空気の中で、深霜の美しさは場違いであったが、淵捷にちょっかいを出すような馬鹿はいなかった。
蝋燭《ろうそく》だけの薄暗い酒場の中で、深霜の白い肌はより浮き立っていた。
深霜は腕を組み、ふくれていた。
仕方がないので、差し出された熱燗を自分の手で湯飲みに注《つ》いだ。
「ねえ、淵捷。どおして殷雷とやった時、模擬刀を抜いたのよお!
間違えたなんて与太《よた》は通じないからね」
ジャリジャリと生妻《しょうが》を擦《す》り下《お》ろしながら、四十男は答えた。
「さて、どうしてだろうねえ」
深霜の顔に、珍《めずら》しく影がさした。
「もしかして……」
「あの、殷雷さんには殺気がなかったから、こっちも加減《かげん》をしたまでさ。
殺気がない奴を殺すほど、あっしも臆病《おくびょう》じゃないですからねえ」
深霜は、ホッと息をつく。
「殺気がなかった? 本当に馬鹿な奴ね、昔とちっとも変わってない。
知ってる? あの殷雷は、刀のくせに情に脆《もろ》いって欠陥《けっかん》があって、それで封じられてたのよお」
擦った生妻を豆腐の上にのせ、醤油《しょうゆ》をじゃぶじゃぶとかけ、竹箸《たけばし》で四つに切り分け、一切れ口に入れる。
「美味《うま》い豆腐だねえ。時に、深霜よ、お前の欠陥ってのは、なんなんですかい?」
一瞬《いっしゅん》、言葉に詰《つ》まりながらも刀の宝貝《ぱおぺい》は答えた。
「……顔が美人過ぎるのよ」
可愛《かわい》い嘘《うそ》だと、思わず淵捷は笑ってしまった。笑いを誤魔化《ごまか》す為《ため》に、慌《あわ》てて酒を呑《の》む。
「そいつぁ、いいや」
「何がおかしいのよ! それより、次に殷雷とやる時には、絶対に私を使ってよ。
刃を出したり出さなかったりは、淵捷の望むままに出来るんだから」
「深霜はおっかないからねえ。こっちが峰打《みねう》ちにしたくても、勝手《かって》に刃を出しちゃうんじゃないのかい?」
空《から》になった湯飲みに、深霜は酒を注ぐ。
「……あんたの言うことなら、ちゃんときくよ」
ヘラヘラ笑いながら、淵捷は深霜の顔を見た。可愛い女だ。
わがままで、やいやい口うるさいだけの女には違いない。
でも、自分の目を恐《おそ》れずに、始終《しじゅう》にぎやかにしてくれるのが淵捷は心地好《ここちよ》かった。
淵捷が本気でにらんでも、この女は気後《きおく》れしないだろう。それがただ、どうしようもなく嬉《うれ》しかった。
だが、深霜は女である前に、刀なのだ。
淵捷は湯飲みに口を付け、小さな溜《た》め息《いき》をつき、考えた。
『困ったねえ。殷雷さんは強いからねえ』
五日後。再び、ススキ野原。
朝日の下《もと》、殷雷は棍を振り回しながら、和穂に説明した。風にのり深霜の上機嫌《じょうきげん》の歌声が、聞こえてくる。だが、もう少しは時間があった。
「本当は、こういうやり方は好きじゃない。
この五日の訓練《くんれん》で、俺は強くなったわけじゃないからな。
正確には、打撃の威力《いりょく》を弱め、代《か》わりに、打つ速度を上げる為の、微調整《びちょうせい》をしたにすぎん」
和穂は首を縦《たて》に振った。
「それで、あのオジさんには勝てるの?」
刀の宝貝は、首を横に振った。
「五分《ごぶ》だ」
「五分って!」
「勝つか負けるか、判《わか》らんと言ったのだ。あいつを相手にして、これ以上の勝算を上げるのは、まず無理だ」
殷雷は完全に言い切った。
まるで、殷雷の言葉が聞こえたかのように、淵捷がのそりと姿を見せる。
「殷雷さん、朝っぱらから、えらく威勢がいいじゃないですか。
これから稽古《けいこ》をつけに行くんですが、その前に相手をしてさしあげましょう」
「望むところだ。和穂、下がっていろ」
殷雷は、背後《はいご》に跳《と》びすさり、間合いを開け棍を構えた。同時に淵捷も、深霜刀の柄《つか》に手を回していく。
じりじりと、互《たが》いに間を詰めていった。
殷雷は淵捷の手が、深霜刀にかかっているのを見て、目を細めた。
『深霜刀で来るか』
間合いを詰める緊張感に耐《た》えきれず、殷雷が動いた。このまま、間合いを詰めれば、淵捷の気迫《きはく》に押し込まれると、判断したのだ。
淵捷の狼《おおかみ》の目がギラリと光り、深霜刀は抜き放たれた。
深霜刀の太刀筋《たちすじ》に、キラキラときらめく、氷の粒《つぶ》が舞った。
ぶん。
と、音をたてて殷雷の棍も走り抜ける。
またしても、肉と鉄のぶつかる一つの音。
ドクドクと、殷雷の額《ひたい》を脂汗《あぶらあせ》が滴《したた》り落ちていった。
そして、淵捷は地面に倒れた。
「殷雷!」
思わず和穂は駆《か》け寄《よ》っていく。
殷雷の顔に勝利の喜びはなかった。
淵捷が地面に倒れた今でも、和穂にはどちらが勝ったか、判《わか》らなかった。
足を止める和穂に向かい、殷雷は大きく息を吐《は》いた。
「勝ったぜ、和穂」
口許《くちもと》の血を拭《ぬぐ》いながら、ゆらりと淵捷は立ち上がり、殷雷に向かい深霜刀を投げた。
「強いですねえ、殷雷さん。この五日で見違えるように強くなりましたよ」
「黙《だま》れ!」
「……そういう事にしてくださいな。
では、私は仕事があるので」
腰に差された赤い鞘も、四十男は投げ捨てた。軽い冷気を放出し、深霜は人の形をとっていく。
淵捷はちらりと、深霜の姿を見た。うつむき、すすり泣いている。
言葉もかけずに淵捷は道を歩いていった。
場の重苦しい空気に、和穂は押しつぶされそうになった。一体、何が起きたのだ?
殷雷は、すすり泣く深霜に向かい、怒鳴った。
「やい馬鹿女! てめえ、前より欠陥《けっかん》が酷《ひど》くなってるじゃねえか」
深霜は涙《なみだ》をこすったが、次から次へと涙が流れていく。
「うるさいよお、黙《だま》りなさいよお」
「惚《ほ》れた相手に使われると、舞い上がっちまって重心を狂《くる》わしてしまうんじゃ、模擬刀にも劣《おと》るだろうが」
「うるさい、うるさい」
和穂が疑問を挟《はさ》む。
「でも、それだったら、前みたいに深霜刀を使わなければ、殷雷に負ける事は……」
「深霜は刀なんだ。
刀として、淵捷の側《そば》にいたかったんだよ。
自分の欠陥を否定してくれるような、使い手をこいつは探したんだ。重心が狂っていようがいまいが、敵を蹴散《けち》らしてくれる強い使い手だ。
淵捷は強かった。だが、重心の狂った刀で俺に勝つほどではなかったんだ。
使い手の足を引っ張るようでは、刀はそいつの側に、いられはせん。
淵捷め、そんな刀の気持ちまで判っていやがったのか。
だから、素直に深霜を俺たちに返したんだよ」
殷雷は泣き続ける深霜の肩に手をかけた。
「もう泣くな。全《すべ》ては終わったんだ」
肩の力強い手に、深霜は細い手を絡《から》ませ、殷雷の顔を見上げた。
ぶつかりあう、視線と視線。
その日の中に輝《かがや》く光を見て、殷雷の髪の毛が逆立《さかだ》った。深霜は甘い声でささやく。
「……やっぱり、殷雷は優《やさ》しいよ」
「ちょ、ちょっと待てい。
今の今まで、淵捷になついていたじゃねえか! 和穂、何とかしろ!」
和穂は、くるりと背中を向け、言った。
「またそうやって、自分がもてるのを自慢《じまん》してる」
「な、なんでそうなるんだよ」
「もお。和穂なんかほっときなさいよ!」
いつものように騒《さわ》ぐ、深霜の明るい声を背中に聞き、四十男はニヤリと笑った。
「ま、達者《たつしゃ》で暮《く》らしとくれ、深霜よ」
『深霜刀』
刀の宝貝。女性の形態もとる。
欠陥は惚れっぽい性格。惚れた相手に使われると、刀としての機能が極端に落ちる。
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ごつい男のゆううつ
見上げるばかりの長い竹たちが、天に向かい生《は》えていた。
かなりの齢《とし》を経《へ》た竹林らしく、数多くの竹がそびえ初夏の日射《ひざ》しを優《やさ》しく遮《さえぎ》っていた。
竹林の中には一人の娘と二人の男がいた。
若い男と娘は、もう一人の男の前に立ちふさがっていた。
娘の歳《とし》の頃《ころ》は、十五、六。年頃の娘にしては珍《めずら》しく道服《どうふく》を着ている。
仙人や道士が着ていそうな、真っ白で袖《そで》の大きな道服だ。
娘の柔《やわ》らかい髪《かみ》を結ぶ髪|飾《かざ》りと同じ色をした腰帯《こしおび》には、一つのひょうたんが結びつけられている。
娘の名前は和穂《かずほ》。
和穂が口を開こうとした時、彼女の隣《となり》にいた青年が先に動いた。
邪魔《じゃま》をするなとばかりに、和穂のほっそりとした肩をつかみ、自分の背後《はいご》にかばった。
青年の片手には、銀色の棍《こん》があった。
低い声で青年は、目の前の男に言った。
「お前のように、凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》えをした野郎《やろう》に宝貝《ぱおぺい》が渡っていたかと思うと、正直《しょうじき》言ってゾッとするぜ。
宝貝を使って、どれだけ悪さをしてやがった?
だが、悪行三昧《あくぎょうざんまい》もここまでだ。観念《かんねん》してもらおうか。
ま、どうせ素直《すなお》に宝貝を返しゃしねえだろうから、力ずくで奪《うば》い返してやるぜ」
宝貝という、聞き慣《な》れない言葉《ことば》を青年は使った。目の前の男には、説明《せつめい》せずとも意味は通ると確信《かくしん》しているようだ。
青年の名は殷雷《いんらい》。
殷雷は、手慣れた動作で銀色の棍をクルリと回し、構えに入った。
竹林の中には風が吹いている。
竹から生える短めの葉が風に揺《ゆ》れ、清々《すがすが》しい香《かお》りを周囲に振りまいていた。
殷雷の、男にしては長い黒髪は風に吹かれても微動《びどう》だにしなかった。
彼の中肉中背の体を包み込むのは、髪の毛と同じツヤを持つ、袖付きの外套《がいとう》だ。
棍を握《にぎ》る骨太《ほねぶと》の手は、まるで小鳥を捕《つか》まえるように、柔らかく脱力されている。
全身に無駄《むだ》な力が一切《いっさい》入っていないのに、その眼光《がんこう》は鷹《たか》のように鋭く、相手を見つめている。
殷雷の前に立つのは彼の言葉どおりに、なかなか凶暴《きょうぼう》な面構えをした男だ。
鋼《はがね》の骨組みに、ありったけの粘土《ねんど》を叩《たた》きつけてこねあげたような巨大な体躯《たいく》は、体重だけを比《くら》べても殷雷の数倍はあるだろう。
だが、太っているのではない。
身長もかなりある。殷雷の倍とはいかなくとも、和穂を肩車《かたぐるま》してやっと同じ程度の高さになるぐらいだ。
髪の毛一本ない頭に比べ、顎《あご》には髭《ひげ》がボウボウと生えている。
一言でいえば、岩のような男だ。
この風体《ふうてい》では、年齢すらよく判《わか》らない。
「力ずく? 面白《おもしろ》い」
男は左手を竹に伸ばし、つかむ。
威嚇《いかく》とばかりに一気に力を入れれば、節《ふし》の厚い竹がまるで卵の殻《から》のように割れ、ひしゃげた。
黒く澄《す》んだ目を見開き、和穂は男の怪力に驚《おどろ》く。
「わ、凄《すご》い!」
和穂の声に、殷雷は鼻で笑った。
「下《くだ》らん。それで脅《おど》したつもりか」
男はゴツゴツした顔の中で、一段と奥まった目を光らせ、唇《くちびる》の端《はし》をニヤリと歪《ゆが》ませた。
牙《きば》でも生えてれば、さぞや似合っただろうと、殷雷は考えたがさすがに男とて化け物ではない。
凶暴な面構えに比べ、服装は結構《けっこう》まともだった。たいして装飾のないところを見れば、何かの作業衣《さぎょうぎ》なのだろうか。
半袖で、白い糸で織《お》られた、どちらかというと力仕事向きではない服装だ。
もっともこれだけ大きければ、綿《わた》を詰めるだけで、普通の布団《ふとん》が完成するだろう。
右手には、把手《とって》のついた箱を持っている。薄く漆《うるし》が塗《ぬ》られた箱で、引き出しが三つついていた。
男は面白そうに、和穂と殷雷を見た。
「怪我《けが》をしたくなければ、とっとと行ってしまえ。それに宝貝って何だ?」
殷雷は男が、自分を甘く見ているのを感じとった。
しかし、殷雷とて一流の武人、相手に甘く見られれば見られる程《ほど》、仕事がしやすくなるのを充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していた。
相手の隙《すき》をつかなくとも、勝てる自信はあったが、油断《ゆだん》している相手にわざわざ注意をする必要もあるまい。
ともかく、男を倒して宝貝を回収しなければならない。
今まで風にそよがなかった髪が、わずかに動き出した。殷雷の呼吸に合わせて、ほんの少しだけ動く。獲物《えもの》に飛《と》び掛《か》かる寸前の、猫や豹《ひょう》の髭が小刻《こきざ》みに震《ふる》える様を思わせる。
大事そうに箱を地面に置く男から、片時も目を離さずに、殷雷は色々と考えた。
まず、普通に動くぶんには問題はないが、あちらこちらに竹が生えているので、棍を振り回す訳《わけ》にはいかない。
槍《やり》のように、突いて使う必要があった。
土の中に埋《う》もれて判りづらいが、無数の竹の根が網《あみ》の目状に広がっている。
軟らかい土に踏《ふ》み込んだ時に、足を根に引っ掛ける危険があった。
だが、問題はそのぐらいだ。
相手が宝貝を持っている時点で、どんな些細《ささい》な油断も禁物だ。
宝貝の力があれば、剣を持ち上げる腕力《わんりょく》のない子供でも、達人の技を繰《く》り出す危険はあった。
殷雷は男の動きに細心の注意を払い、宝貝の攻撃《こうげき》にそなえた。今のところ、男が宝貝を使っている素振りは見えない。
最良の手は、相手が宝貝を使う前に仕留《しと》める事だ。
男は殷雷の眼光に臆《おく》せずに言った。
「どうした。怖《こわ》いのか?」
答える代《か》わりに、殷雷は棍を突いた。
左手で狙《ねら》いを定め、棍を握る右手を軽く押し出す。
棍と左手の皮が擦《こす》れる乾《かわ》いた音に、分厚《ぶあつ》い肉を勢《いきお》いよく叩く音が被《かぶ》さる。
棍を通して伝わる、肉よりは硬く、骨よりは軟らかい感触。殷雷は寸分違《すんぶんたが》わずに男のみぞおちを突いていた。
「ぐ!」
男はひざまずき、そのまま前のめりにドサリと倒れた。
棍は既《すで》に最初の構えに引き戻されている。
和穂には、今の攻撃が全《まった》く見えていなかった。
「え、終わったの、殷雷」
地面で呻《うめ》く男を尻目《しりめ》に、殷雷は大きく伸びをした。
「そ。終わった。どだい、この手のチンピラは腕《うで》っぷしは強くても、防御《ぼうぎょ》や間合いがてんで判ってない。
こんな太い竹を握り潰《つぶ》すなんざ、俺《おれ》にも出来ない芸当だが、それだけで勝てる程甘くはないぞ」
岩のような男に、少々|気後《きおく》れしていた和穂だが、いまだに地面にうずくまる姿を見て心配になってきた。
「あの、大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
男に近寄ろうとする和穂を殷雷は制した。悪《わる》足掻《あが》さでもされれば面倒《めんどう》だ。
「心配無用だ和穂。ちょいと強めにみぞおちを突いてやったが、これだけの図体《ずうたい》をしてるんだ、後遺症《こういしょう》は残るまい」
殷雷は、棍を下段に構え、男に言った。
「おい、チンピラ。さっさと宝貝を返せ。宝貝で判らないなら、最近|不思議《ふしぎ》な道具を拾《ひろ》ったはずだ。
それを返してもらおう。宝貝はもともと、仙界にあった道具で、人間界にあってはならぬ代物《しろもの》だからな。
素直に宝貝を渡せば、医者ぐらい連れていってやるぜ。それとも、そのまま二、三日地面にうずくまっているか? 灸《きゅう》の一つでもすえてもらえば、大分楽になるぞ」
余程《よほど》苦しいのか、男の頭からも脂汗《あぶらあせ》が滴《したた》り始めていた。
が、ふいに男は地面を転《ころ》がり、足で殷雷の棍を蹴《け》り上げた。
とっさの出来事に、さすがの殷雷も虚《きょ》をつかれ、棍から手を離してしまった。
岩のような男は、呆気《あっけ》に取られる殷雷の右手をつかむ。
伸びきったままの右手を、男は軽く持ち上げ、がら空きになった殷雷の脇腹《わきばら》に手を添《そ》えた。
地響《ぢひび》きのような声で男は笑った。
「ふっはっは。肋骨《ろっこつ》は勘弁《かんべん》してやろう。だがなチョイト痛いから覚悟《かくご》しな!」
男が渾身《こんしん》の力で、殷雷の腕を引っ張ると、呆気なく殷雷の肩の関節《かんせつ》は脱臼《だっきゅう》した。
「て、てめえ!」
「あんたぐらいの腕前の武人だと、脱臼ぐらい自分で治せるだろ? けどそうはさせんからな!」
殷雷の袖を手早くめくると男は直立させた人差し指と中指で、殷雷の腕を数回突いた。
途端《とたん》に、関節を外《はず》されダラリとした右手が硬直した。
男を捕まえようとする、殷雷の左手を軽くかわし、そのまま背後に回り込む。
殷雷の束《たば》ねられた髪の毛を、鷲《わし》づかみにした時、男は妙《みょう》な感触に気がついた。
殷雷の髪は、まるで動物の尻尾《しっぽ》のような手触《てざわ》りがした。確かに髪の毛には違いない。だが髪の毛は男の手をはねのけようと、少し暴《あば》れたのだ。
男は殷雷に言った。
「お前、人間ではないな?」
答えを待たずに、再び人差し指と中指で、殷雷の首のツボを数か所突いた。
殷雷の両足は固まり、ピクリとも動かなくなる。
唯一《ゆいいつ》の頼《たの》みの左腕は、硬直だけはしなかったが、凄《すさ》まじい痺《しび》れに襲《おそ》われ、完全に握力《あくりょく》が消えていく。
殷雷は不敵に笑った。
「おやおや、力まかせの大馬鹿かと思えば、結構|繊細《せんさい》な攻撃《こうげき》をしてくれるではないか」
「人間じゃないから、ツボが効《き》かないなんてのはよしてくれよ」
「生憎《あいにく》、ツボを突く点穴《てんけつ》も、関節をきめる擒拿《きんだ》も、この姿ならば通用するぜ。
和穂、来い!」
慌《あわ》てて和穂が殷雷の側《そば》に駆《か》け寄《よ》る。男はこんな娘に何が出来るのかと、いぶかしむばかりだった。
その隙《すき》をつき、殷雷は己《おのれ》を本来の姿に戻《もど》していく。
軽い爆発音と共に、殷雷の体から薄い霧《きり》のような爆煙《ばくえん》が拡《ひろ》がり姿を隠《かく》す。
走り寄った和穂は、爆煙の中から一振《ひとふ》りの刀《かたな》を取り出した。
殷雷の外套と同じ色を刀の鞘《さや》に見つけ、男は少々驚いた。
「おい、まさかさっきの男は!」
和穂はスラリと刀身を抜き放ち、鞘を赤い腰帯にひっかける。
和穂の目に、殷雷の眼光を感じとり、男の疑問《ぎもん》は確信へと変わった。
「そう。我《わ》が名は殷雷|刀《とう》。刀の宝貝だ」
殷雷は、和穂の声で名乗りを上げた。
「ほほう。まるでその娘さんにとりついてるようだな。鬼の類《たぐい》ならば、わしが成敗《せいばい》してくれよう!」
和穂は和穂の声で説明する。
「いえ、そういうんじゃないんです。とりつかれてるのとは違って」
「これは、少しやりにくい。さっき、わしを気づかってくれた娘さんを、傷つけるかもしれぬとは」
「ふん。遠慮《えんりょ》はいらんぞ。素手《すで》対刀で不公平だと思うなら、そこの棍でも拾え」
「それには及《およ》ばぬ。素手で充分だ」
男と和穂はジリジリと間合いを詰めていった。やはり点穴を狙《ねら》おうと、男の右人差し指と中指はつき立てられたままだ。
殷雷は厄介《やっかい》だと考えた。
心を通して、和穂に語りかける。
『和穂、ちとまずいな』
『どうして? 体が痛《いた》むの?』
『俺の体は心配ない。刀でいる間は影響は出ない。それよりも、あのチンピラをどうやって始末《しまつ》する? 関節を外され、首の点穴を突かれておいてなんだが、あいつは大して強くはない。
かといって、戦闘《せんとう》不能にしようとみぞおちを突いても、すぐ回復しやがる』
『もう一度、ちゃんと説明してみようよ』
『あの面《つら》が、人の話をきく面か』
男も刀を前にして、そう簡単に身動きがとれない。
互《たが》いにどうしたものかと、思案《しあん》していると突然に声が掛かった。
「あ、いた。先生、こんな所で何を遊んでいるんですか? 早く戻って来て下さいよ」
和穂ぐらいの年頃の娘が、声の主だった。
髪をきつく上にあげ、男と同じような服装をしている。
ぼそりと、殷雷が和穂の声でいう。
「先生だと? 用心棒《ようじんぼう》でもやっているのか」
ゴツゴツした顔面は、表情が豊かだった。
だが、ただ笑うだけでも相当な迫力《はくりょく》があった。
「そういう風に見えるか?」
まさか、竹林の中で、真剣勝負《しんけんしょうぶ》をやっていると、呼びに来た娘は考えなかった。
第一、相手は道服を着ている若い女だ。決闘の相手には相応《ふさわ》しくない。
「先生ってば。午後の検診《けんしん》の前に、食事をすませて下さいよ。
鏡粋《きょうすい》先生、聞こえてないんですか」
思わず、和穂は構えを解《と》いてしまった。
「もしかして、お医者さんなんですか?」
いい邪魔《じゃま》が入ったとばかりに、鏡粋も手を下ろした。
「そう。名は鏡粋。鍼灸《しんきゅう》を少しばかりたしなんでおる。
……この姿を見て、医者だとは思わなかったのか? 第一、薬箱《くすりばこ》を持っているんだぞ」
言われてみれば、鏡粋の服装は医者のものだった。
本人の異様さの前に霞《かす》んでいるが、動きやすそうな清潔《せいけつ》な服だ。
漆塗《うるしぬ》りの箱も、箱だけを見ればありふれた薬箱に過ぎない。
もっとも、鏡粋の手からさげられていれば、中に武将の撥《は》ね飛《と》ばされた首級《しるし》が入っていても不思議ではない。
「医者って面か。もろに山賊《さんぞく》顔じゃねえか」
「あ、ごめんなさい。殷雷、そんな言い方したら失礼だよ」
次から次へと口調《くちょう》が変わる和穂を見て、鏡粋を呼びに来た娘は首を傾《かし》げた。
「あの、先生。この方は患者《かんじゃ》さんなんでしょうか?」
娘の言葉に大笑いし、鏡粋は片手を上げ、和穂を招《まね》き入れる仕種《しぐさ》をした。
「そっちにやる気がないのなら、こっちも力ずくでどうこうする気はない。
良ければ家に来て、話をきかせてくれまいか。昼飯《ひるめし》ぐらい食わせてやるぞ」
殷雷の笑顔《えがお》で和穂は言った。
「いざ行かん、山賊の館《やかた》へって訳《わけ》だな」
「い、殷雷ってば」
宝貝。仙人が造り上げた、神秘の道具をそう呼んだ。
その形態《けいたい》は無数存在し、この世に存在する道具には、それに対応する宝貝があると考えても差《さ》し支《つか》えない。
無論《むろん》、仙人が造り上げた道具なので、何の仕掛けもないはずがなかった。
宝貝の使用者は、常識《じょうしき》を遥《はる》かに凌駕《りょうが》した力を手に入れる事もあり、それこそ宝貝を使用している間は、仙人に匹敵《ひってき》する力を得られたのである。
幾《いく》ら常軌《じょうき》を逸《いっ》した能力を持つ道具たちでも、仙人たちの住む世界、仙界にあるぶんには特に問題はない。宝貝で騒動《そうどう》が起きても、仙術で臨機応変《りんきおうへん》に対処《たいしょ》すればよいのだ。
が、これが人間の住む人間界の話になると少しばかりややこしくなる。
本来ならば、人間界には全《まった》く存在しないはずの宝貝が、とある事故をきっかけに地上にばらまかれた。
その数、七百二十六個。宝貝の中には、思慮《しりょ》深いものもあり、宝貝が即《そく》危険な道具とは限らないのだが、この七百二十六個の宝貝は仙界の中で、欠陥品《けっかんひん》として封印《ふういん》されていたものだから、話はまたしてもややこしくなってしまう。
欠陥は欠陥でも、他の宝貝より能力が落ちるという欠陥ではなく、製造者の意思《いし》に反して危険な能力を持つ宝貝が多く含まれていたのだ。
仙界は仙人による宝貝回収を放棄《ほうき》した。
宝貝だけで混乱している人間界に、仙術を自在に操《あやつ》る仙人が介入《かいにゅう》すれば、もはや収拾《しゅうしゅう》はつかないと考えたからだ。
仙人対宝貝の戦いになれば、宝貝を持たない人間にどれだけの被害《ひがい》が出るか想像すらできない。
この決定に異議《いぎ》を唱《とな》えたのが、誰《だれ》あろう和穂であった。
和穂こそが、宝貝をばらまいた事件の当事者であり、責任を強く感じていた。
仙界の決定に対し、自《みずか》らの術を封じ込め一切の仙術を使えないようにして、宝貝の回収を行うと願い出たのだ。
和穂の願いは通じ、宝貝回収の為《ため》に彼女は地上に降《お》り立った。
完全に術が使えない、普通の人間として。
醤油《しょうゆ》で煮込《にこ》んだ筍《たけのこ》にパクつき、鏡粋は質問した。
「つまり、和穂お嬢《じょう》ちゃん。きみは術が一切使えないんだな? ならば、どうしてわしが宝貝を持っていると判ったんだ? もっとも俺《おれ》は宝貝なんて言葉は知らなかったんだが」
「はい。宝貝回収の為に必要な宝貝は、人間の世界に降りる時に渡されたんです。
宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る宝貝と、宝貝を保管する宝貝の二つだけなんですが」
診療室《しんりょうしつ》を兼《か》ねている広間に、和穂たちはいた。壁《かべ》には人体のツボを記した掛《か》け図《ず》がぶら下がり、部屋の壁には巨大な薬箪笥《くすりだんす》が置かれている。
箪笥の中の無数の引き出しには、乾燥《かんそう》させた漢方薬《かんぽうやく》が入っている。
鏡粋から、硬化《こうか》を解《と》くツボを突かれやっと呪縛《じゅばく》から逃《のが》れた殷雷は、さっきまであちらこちらの関節をポキポキ鳴らしていたが、それにも飽《あ》きたのか和穂たちと共に、机《つくえ》の上で食事をとっていた。
器用《きよう》にはめ治したとはいえ、まだ右腕には痛みが残っているようだ。
鏡粋は、箸《はし》で殷雷を指す。
「で、こいつも宝貝だ。この呑気《のんき》に筍を食ってる刀も、その逃亡《とうぼう》した宝貝なのか?」
殷雷はジロリと鏡粋を見たが、何も言わない。和穂が説明する。
「殷雷も七百二十六個の宝貝と、一緒《いっしょ》に封印されていたんですけど、一人だけ逃走しなくって。
人間界に降りる私を心配した師匠《ししょう》たちが、殷雷に護衛《ごえい》を頼《たの》んだんです」
「護衛? 俺は子守《こもり》だと思ってるが」
「……また、子供|扱《あつか》いする」
宝貝をばらまいて大変だと騒《さわ》いでるのに、欠陥宝貝を護衛につけるとは、妙《みょう》な了見《りょうけん》だと鏡粋は考えた。
が、先刻《せんこく》の経緯《けいい》を思い出し、薄々《うすうす》事情が飲み込めた。
殷雷は和穂の身を守り、鏡粋を相手にしても致命的《ちめいてき》な攻撃は避《さ》けていた。
あれだけの勢《いきお》いで、棍《こん》を突けるのならばそれこそ内臓《ないぞう》を突けばもっと酷《ひど》い目にあわせられたはずだ。
この刀の欠陥は、少し優《やさ》しすぎるのではないかと鏡粋は推理《すいり》した。
殷雷がやっと口を開く。
「もっと早く気がつくべきだったな。
若い頃にさんざん悪事を働《はたら》いて、それで罪滅《つみほろ》ぼしに医者になった、なんてのはよく聞く話じゃねえか」
「馬鹿を言え。これでも代々医者の家柄《いえがら》なんだぞ。
それに若い頃ってのは何だ。わしはまだ二十二歳だぞ」
「えええ!」
思わず大声を出したのは和穂だった。余程《よはど》驚いたのか、箸を落としそうになったぐらいだ。
殷雷は和穂の反応を楽しみ、意地悪《いじわる》くたしなめる。
「こら、和穂。鏡粋先生に対して失礼であろうが。なんだその驚きは」
とっくの昔に殷雷は、鏡粋がまだ若いと勘《かん》づいていた。人相はともかく、身のこなしの機敏《きびん》さは若さ故《ゆえ》のものだ。
「ごめんなさい、鏡粋さん。驚いたりしちゃったりして」
衝撃《しょうげき》の大きさに、和穂のろれつがよく回っていない。
和穂は本当に申《もう》し訳《わけ》なさそうに、頭を下げた。鏡粋を傷つけないように、気を配《くぼ》っているつもりなのだろうが、殷雷は無駄《むだ》だと考えた。
鏡粋は己《おのれ》の風貌《ふうぼう》を嫌《いや》がってはいまい。もしそうならば、顔のどこかに卑屈《ひくつ》な歪《ゆが》みが出るはずだ。
凶暴な面構《つらがま》えなのは確かだが、先入観をなくせば、おおらかに構えているのが判る。
和穂にはそこまで人を見る目がなかった。
腹もいっぱいになった殷雷は、そろそろけりをつけようとした。
「てな事情が、こっちにはあるんだ。宝貝を返してもらおうか。
もっているんだろ」
箸を置き、鏡粋はうなずいた。
「うむ。それらしき物は持っている。だが、返してやんない」
理由《わけ》ありかと、殷雷は判断《はんだん》した。この事の人物は自分の利益《りえき》よりも、他人の幸せを考える性格だろう。
判っていて、あえて殷雷は和穂に言った。
「見ろ、和穂が失礼な事ばっかり言うから、鏡粋先生は、気分を害してしまったではないか。ええい、和穂よどうしてくれるんだ」
「わ、ごめんなさい。ごめんなさい。悪気があったわけじゃないんです」
呆《あき》れた溜《た》め息《いき》をつき、鏡粋は殷雷の頭を軽く殴《なぐ》った。
「お前はいつもそうやって、和穂お嬢ちゃんをからかっているのか。
こんな純粋《じゅんすい》な娘を、面白半分《おもしろはんぶん》にからかっては可哀《かわい》そうだろ」
鏡粋の優しい言葉に、和穂はホッとした。
「鏡粋先生……」
「時に、和穂お嬢ちゃん。別に深い意味はなく今後の参考に聞きたいんだが、わしは何歳ぐらいに見えたんだ?」
え? と和穂は考えた。嘘《うそ》はつきたくないが、失礼な事も言いたくない。
「ええと、に、にじゅうう」
鏡粋は首を傾《かし》げ、和穂に迫《せま》る。
「二十?」
「いえ、さんじゅうう」
「三十? 正直《しょうじき》に言ってくれ」
「よんじゅううう、いちに」
「四十、二? 失礼にも程があるな。とっとと失《う》せろ!」
「和穂、なんて事を言うんだ!」
「わ、ごめんなさい!」
泣きそうな顔になり、和穂は謝《あやま》る。
鏡粋は何事もなかったかのように、殷雷に言った。
「確かに、これだけ表情がコロコロ変わるとからかっていて面白いな。だが、程々にしておかぬと、根性《こんじょう》がねじくれてしまうぞ」
和穂はがっくりと肩を落とした。
「いいんですよ。そうやって皆で私をからかって喜《よろこ》んでたら。それぐらいじゃ、くじけませんもの」
「はっはっは。そう、気を落とすな。宝貝は返してやらんでもないが、少しばかり待ってくれ。
恐《おそ》らく、この間、手に入れた不思議《ふしぎ》な鍼《はり》が宝貝なんだろう」
やっと殷雷の頭から疑問《ぎもん》が消えた。
「その鍼で、ツボを刺してみぞおちのマヒを治《なお》してやがったか。
ついでに、やばいツボも突いたんだな」
「むざむざ、棍を持った盗人《ぬすっと》に倒されるぐらいならば、拐穴《かいけつ》の一つでも刺す」
拐穴の意味が判らなかった和穂は、鏡粋に質問した。
鏡粋は手早く、力や素早《すばや》さを倍増《ばいぞう》するツボで、後遺症《こういしょう》が残る可能性のある危険なツボだと説明した。
「人体図に載《の》っているもの以外にも、ツボはあるって事だぜお嬢ちゃん。
倍の力を引き出して、三倍の疲労《ひろう》をしっぺ返しにする。騙《だま》してふんだくるのと同じだから、拐穴さ。
おっと、宝貝の話だったな。
そいつで治療《ちりょう》したい患者がいるんだ。まだ小さい子供なんだが」
宝貝の鍼で治療したいと思うぐらいなのだから、もしかして難病《なんびょう》なのだろうかと和穂は心配になった。
心なしか、鏡粋の表情も子供の話を口にした途端《とたん》に険《けわ》しくなった。
「あの、鏡粋先生。その子供って重い病気なんですか」
鏡粋は言葉に詰《つ》まり、ゆっくりと椅子《いす》から立ち上がった。
そして窓から外を眺《なが》め、和穂たちと視線を合わさないようにして、小さな声で言った。
今までの鏡粋からは信じられない声だ。
「難《むずか》しい病気だが、決して治らない病気ではない。だが、だが……」
途切れた言葉の重みが、和穂の肩《かた》にのしかかった。
「鏡粋先生、何か問題があるなら教えて下さい。
私に手伝えるのなら、幾《いく》らでも手を貸しますから」
和穂の言葉に勇気づけられたのか、鏡粋は重い口を開いた。
「……あの子は……わしを怖《こわ》がって鍼を打たせてくれんのだ。
そんなにわしって怖い顔か」
これは難題だと、和穂は考えた。
「そうなんですか。少し困《こま》りましたね」
殷雷は腹を抱《かか》えて笑った。
「和穂お嬢ちゃん。今のは冗談《じょうだん》だよ。そこまで真剣に受けとめられると、さすがのわしも少しは傷つくぞ。
わしとしては、『鏡粋先生ったら冗談ばっかしなんだから』とでも言ってくれると思ってたのに。
……宝貝返すのやめちゃおうかなぁ」
鏡粋は、ぶっとい指で窓枠《まどわく》に『の』の字をかく。
和穂は涙を拭《ぬぐ》う仕種《しぐさ》をしながら、言った。
「楽しい? 楽しい? そんなに私をからかうのって楽しいの?」
地響《じひび》きのような声で、鏡粋は笑った。
「はっはっは。ちとしつこすぎたようだな。ま、和穂お嬢ちゃんは可愛《かわい》いからついついちょっかいを出したくなるんだよ。
なあ、殷雷」
「馬鹿言ってるんじゃねえ!」
「何を赤くなってるんだ。変な刀だな」
殷雷は呆《あき》れた声を出す。
「そのおっさんくさい、からかいかただけは勘弁《かんべん》してくれ」
鏡粋は真顔《まがお》になり、説明を始めた。真面目《まじめ》に喋《しゃべ》っていると、不思議《ふしぎ》なものでちゃんとした医者に見えてくる。
「鍼を打たれるのを嫌《いや》がっている子供がいるのは本当なんだよ。
彩珪《さいけい》という、十になったばかりの男の子でな」
今度ふざけたら、本当に怒《おこ》りますよという表情で、和穂はたずねた。
「どうして、嫌がっているんです?」
椅子に深く腰掛《こしか》けていた鏡粋は、ごそごそと袖《そで》の中から小さな箱を取り出した。
平べったい鉄製の箱だ。
和穂の掌《てのひら》ぐらいの大きさで、それほどかさばる物ではない。
鏡粋は、フタをパチリと開ける。
中には教本の鍼が入っており、その中の一本を取り出した。
指先でつままれた小さな鍼は、突然に長さを増した。
「これが、宝貝なんだろう。この間、消毒《しょうどく》中に気がついたんだが、米粒《こめつぶ》よりも小さい字で九転鍼《きゅうてんしん》と書いてあった。
鍼術《しんじゅつ》に使う鍼は全部で九種類あって、この鍼はわしが望《のぞ》んだ種類の鍼になるんだ。
これがかなり便利《べんり》でな」
鏡粋の言葉は、和穂の質問の答えになっていなかった。
だが、宝貝を目の前にして和穂の頭に一つの疑問《ぎもん》が浮《う》かんだ。
「欠陥が何かは判《わか》っているんですか?」
鏡粋は胸に顎《あご》がつくぐらい、大きく首を振った。
「うむ。この鍼を使えば、普通の鍼よりも早く良く治《なお》るんだが、一つばかり恐《おそ》ろしいところがあってな。
この鍼を刺《さ》すと、べらぼうに痛いんだ」
「痛い?」
「そう。無茶苦茶《むちゃくちゃ》に痛い。
彩珪の同室に凄腕《すごうで》の猟師《りょうし》がいたんだ。わしから見ても、いかつい男だったんだが、鍼を打ったら泣き叫んじまってな。
彩珪はその姿を見て、鍼を打たれるのを怖《こわ》がるようになっちまった。
我ながらうかつだった」
殷雷が自分の意見を言う。
「いっその事、無理にでも鍼を打ったらどうだ? 結果的にはそのガキの為《ため》になるんだからよ」
「ちと、打ちにくい場所にあるツボでな。それに気血の流れを活発にする為のツボだから落ち着いた状態で打った方がいいんだよ。
気血を締《し》めて、相手の動きを封じるツボとは訳が違うんだ」
ガリガリと殷雷は頭をかいた。
「ならば、普通の鍼で我慢《がまん》しろ」
「……そうも考えるんだが、九転鍼の威力《いりょく》を知るとな。一度打てば、その後の鍼は普通のでも充分《じゅうぶん》なんだがな。
特に彩珪のは慢性的《まんせいてき》な病気だから、九転鍼の力は魅力《みりょく》的なんだ」
和穂はふと、殷雷刀の力を思い出した。
「ねえ、殷雷。殷雷は刀の時は使用者の肉体を操《あやつ》れるんでしょ? だったら、殷雷が彩珪君の病気を治してあげたら」
「病気の程度にもよるが、慢性病ならたいして役に立たないぜ。俺《おれ》を手放《てばな》した途端《とたん》に、病気が再発するだけだ」
自分の禿頭《はげあたま》をピシャリと叩《たた》き、鏡粋は立ち上がる。
「ここで話していても仕方《しかた》ない。彩珪に会いにいってみるかい?」
和穂たちはうなずく。
鏡粋は、鍼を懐《ふところ》にしまい部屋《へや》を出、和穂たちも後に続く。
彩珪は、それほどやつれているようには、見えなかった。
同じ年頃の男の子供と比《くら》べれば、少し痩《や》せてはいたが、痛々《いたいた》しい程ではない。大人《おとな》用の寝台の上に、ちょこんと座《すわ》っていた。
和穂が彩珪に向かい、小さく手を振ると彩珪はニコリと笑った。
鏡粋は適当《てきとう》に椅子《いす》を引っ張り出し、腰《こし》を下ろす。
「どうだ彩珪、調子は。おっと、こいつらの紹介《しょうかい》をしておこうか。こっちの可愛《かわい》いお嬢さんが和穂、あっちの目付きの悪いのが殷雷」
殷雷は空《あ》いている寝台に座る。
「鏡粋、お前に人相の事をとやかく言われる筋合いはないぞ」
鏡粋は彩珪の熱を診《み》たり、脈《みゃく》をとったりした。特に問題はないようだ。食器の上の昼食も綺麗《きれい》に平らげている。
彩珪は心配そうに言った。
「ねえ、先生。やっぱり鍼を打つの?」
「そうだ。あれを打てばもう一発で調子が良くなるぜ」
「……痛いから、やだ」
「痛くないと言えば嘘《うそ》になるが、たかが知れているさ。まあ見てな。わしが試《ため》しにやってみよう」
九転鍼を片手に持ち、鏡粋は目を閉じて深呼吸を始めた。
コオコオと深い呼吸音だけが周囲に響《ひび》き、ついに、クアッと鏡粋の目が見開かれ、九転鍼が掌にチクリと刺された。
「つあっ!……ほら、あんまり痛くない」
恐ろしいまでの気合を炸裂《さくれつ》させて、痛くないと言われても、なんの説得力《せっとくりょく》もなかった。
鏡粋のこめかみの血管が、ヒクヒク震《ふる》えるのが余計《よけい》に壮絶《そうぜつ》だった。
「う、嘘だ、やっぱり痛いんだ!」
殷雷は腕を組み、首を左右に振った。
「やれやれ。何をやっているんだか。
鏡粋、俺に打ってみな。彩珪よ、もし俺が耐《た》えられたら、お前も鍼を打ってもらいな」
「……うん」
袖《そで》をまくり殷雷は鏡粋に腕《うで》を差し出した。
殷雷とて、武器の宝貝、いかに鍼が痛いとはいえ、たかがしれていると考えていた。
今までにくぐりぬけた戦いを思えば、耐えられぬはずはない。
机の上の消毒用のろうそくで、しばし鍼をあぶり、冷《ひ》えたのを確認して鏡粋は殷雷の腕をとる。
「それじゃ、当たり障《さわ》りのないツボに、打つぞ」
チク。
大騒ぎする程の痛みかと殷雷は思った。
蜂《はち》に刺された方がもっと痛い、せいぜいトゲが刺さったぐらいの痛みではないか。
表情を変えずに、殷雷は鼻で笑う。
「ふん。この程度の、の、の、のぉ!」
突如《とつじょ》、鍼に刺された部分に激痛《げきつう》が走った。蜂は蜂でもスズメ蜂に刺された痛みに近い。
スズメ蜂の針を、長い一本の釘《くぎ》にして、金槌《かなづち》で思いっきり叩《たた》き込む感触《かんしょく》がした。
普通、痛みは一瞬《いっしゅん》で残りは山彦《やまびこ》のようなものだが、これは違う。しばらくの間、純粋な痛みが鍼の先から体内に流れるのだ。
殷雷は椅子に座ったまま、垂直《すいちょく》に跳び上がった。
「な、なんだこれは! 本当に鍼灸《しんきゅう》用の鍼なのか! もしかしたら拷問《ごうもん》用の針じゃないのか!」
跳び上がる殷雷の胸ぐらを、鏡粋はつかんだ。
「どあほう。余計に怖がらせてどうするんだよ。痛みを力説してどうなる! せめて黙《だま》って転がってろ!」
「す、すまん。でも、この痛みは洒落《しゃれ》にならんぞ!」
鏡粋と殷雷は、彩珪に聞こえないように小声で喋《しゃべ》っていたつもりだったが、元々《もともと》地声の大きい二人の会話は、彩珪にもはっきりと聞こえていた。
聞かない方が身の為だと思いながらも、彩珪はついつい殷雷の言葉に耳を貸してしまった。
痛みを想像したのか、幼《おさな》い顔にしわが寄っていく。でも、殷雷から目を逸《そ》らす事も耳を塞《ふさ》ぐ事も出来ないでいる。
和穂は一つの覚悟《かくご》を決め、鏡粋に言った。
「鏡粋先生。私にも鍼を打って下さい。
ね、彩珪君。私に我慢《がまん》出来るぐらいだったら、彩珪君も大丈夫《だいじょうぶ》だよね」
「そりゃ、そうだけど。お姉ちゃん、無理しないほうがいいよ」
鏡粋と小声で怒鳴《どな》りあっていた殷雷は、慌《あわ》てて和穂を制した。
「馬鹿者! 仮にも、お前の子守《こもり》を引き受けてるものとして、こんな鍼に刺されるのを黙って見逃《みのが》す訳にはいかんぞ!」
鏡粋は殷雷の髪《かみ》の毛をつかむ。
「だから、そういう恐怖《きょうふ》をあおるような事は思っていても言うな!」
和穂はあえて呑気《のんき》に言った。
「大丈夫よ。別に怪我《けが》とかはしないんでしょ? だったら少しぐらいの痛みは」
「だから、少しじゃねえんだよ」
「頼《たの》むから余計《よけい》な口をきかんでくれ!」
和穂は殷雷が止めるのも開かずに、道服の袖を大きくまくる。
「さ、鏡粋先生。やっちゃって下さい」
再び鏡粋は鍼をあぶる。
「じゃ、打つぞ」
自分の意見が無視され、殷雷は少し怒りぎみだった。
「どうなっても知らんからな!」
ブスリと九転鍼が、和穂の肌《はだ》に刺さった。鋭利《えいり》な鍼の先端は、和穂の皮膚《ひふ》から血の一滴も流させない。
和穂はきょとんとした。殷雷の時と同じように、時間差を置いて痛みの波がやってくる。
「わ!」
和穂も椅子から跳び上がった。その上、部屋の中を駆《か》けずり回った。
走れば、痛みから逃《のが》れられるかのようである。
「痛い痛い痛い痛い、何これ!」
「だから、言ったろ! 九転鍼てのは、もしかして九種の鍼に転ずるって意味じゃなくてよ、七転八倒《しちてんばっとう》の上を行くって意味じゃねえのか!」
「そ、そうかもね! うわ、もう痛いというよりこれは、響《ひび》くって感じよね。
血管と筋肉が反発しあってるみたい」
「いやいや、それじゃまだ甘いぜ和穂」
和穂と殷雷は、九転鍼の痛みを互《たが》いに力説した。
殷雷にも和穂の狙《ねら》いが判《わか》ったようだ。
鏡粋は髪の毛のない頭を掻《か》きむしる。
「今までの努力が! 少しずつ鍼への恐怖心を取り除《のぞ》こうとしていたのに!」
和穂と殷雷の力説は続く、おおげさにしつこいぐらいに、何度も何度も。そしてしばらくの後、彩珪はボソリと言った。
「ね、ね、鏡粋先生、僕にも鍼を打ってみてくれる!」
鏡粋には何がなんだか判らなかった。
和穂と殷雷は全《すべ》てを計算していた。
好奇心は恐怖よりも強い感情なのだ。
山葵《わさび》の辛《から》さを知らない子供がいたとする。
その子供の前で、山葵の辛さに、大人《おとな》がもんどりうっている。
それを見て山葵を食べたがらない子供がいるだろうか?
『九転鍼』
九種類の鍼へ自在に姿を変える宝貝。
欠陥は、刺された時の異様なまでの痛み。
[#改ページ]
心《こころ》迷《まよ》わす蜂《はち》の音《おと》
朝市の混雑《こんざつ》が過ぎても、まだ街《まち》の中にはかなりの人通りがあった。
ありふれた会話が無数に繰《く》り広げられ、一つの大きな喧騒《けんそう》へとまとまっていく。
小川のような緩《ゆる》やかな人の流れの中を、一人の娘と青年は立ち止まっていた。
片手には銀色の棍《こん》、しなやかな体を、黒い袖付《そでつ》きの外套《がいとう》に包《つつ》んだ青年は、隣《となり》に佇《たたず》む娘に言った。
「……どいつだ? 和穂《かずほ》。
厄介《やっかい》だな。これだけ人が多いと、下手《へた》をすれば大騒《おおさわ》ぎだぞ。
とっとと始末《しまつ》して、さっさとずらかるか」
青年の長い髪《かみ》は、後頭部《こうとうぶ》でまとめられていた。
彼の髪は、その鋭《するど》い眼光《がんこう》と同じぐらいに油断《ゆだん》なく、敵《てき》の襲来《しゅうらい》に備《そな》えていた。
人の姿をしているが、彼の正体《しょうたい》は人ではない。
和穂と呼ばれたのは、十五、六歳のまだ幼《おさな》さが残る普通《ふつう》の娘だった。優《やさ》しそうな澄《す》んだ目の上には、意志の強さを表すかのように、少し太めの眉毛《まゆげ》がのっている。
外見こそ、道士が身につける袖の大きな道服を着ているが、取り立てて不自然《ふしぜん》な様子《ようす》はなかった。
柔《やわ》らかそうな髪の毛を、赤い飾《かざ》り布《ぬの》で結んでいる。
和穂は、耳につけた小さく丸い耳飾りに手を添《そ》え、青年の質問に答えようとする。
「近いよ、殷雷《いんらい》。だんだんこっちに近寄ってくる。
たぶん、人の流れの中を普通に歩いているんだと思う」
耳飾りに手を添えた和穂の視界《しかい》には、一つの光が見えていた。
道を歩く人々の体を、透《す》かすようにして光る一つの点。
光はゆっくりと、だが確実に輪郭《りんかく》をハッキリさせていった。
どんな人なのだろうか? 話して判《わか》ってもらえれば、問題はないんだけど。
和穂の緊張《きんちょう》は徐々《じょじょ》に高まっていく。
緊張と共に、体が硬《かた》くなる和穂に対して、殷雷は緊張と共に、余計《よけい》な力が抜けていく。
今まで棍をガッシリと握《にぎ》っていた指も、卵《たまご》を扱《あつか》うように柔らかくなっていた。
昼食をあてこんだ道|脇《わき》の露店《ろてん》には、無数の蒸《む》し器《き》が置かれ、だんだんと強い蒸気《じょうき》を吐《は》き出していった。
露店の親父《おやじ》は、蒸し器を調節しながら和穂と殷雷に声をかけた。
「よお、お二人さん。今|丁度《ちょうど》、サザエが蒸しあがったんだが、どうだい?」
殷雷は吐き捨てるように言った。
「黙《だま》れ! 今とりこみ中だ!
親父、厄介に巻き込まれたくないなら、逃げた方がいいぜ」
「えらく物騒《ぶっそう》だな、兄ちゃんよ。喧嘩《けんか》でもやろうってのか?」
露店の親父は、蒸し器の横の焼けた金網《かなあみ》の上に別のサザエを置き、ジョボジョボと醤油《しょうゆ》を垂《た》らした。
「兄ちゃん。こっちのほうが口に合うか? 焼きサザエだぜ、焼きサザエ」
焼けた醤油の香《かお》りが立ち込める。
「黙れと言ってるだろうが!」
さらに、広がる醤油の匂《にお》い。一瞬《いっしゅん》、葛藤《かっとう》する殷雷の心。
「……親父。今は手が放せないが、あとで二つばかりもらうか。焼いた方のサザエだぞ」
「へい、毎度《まいど》」
片手を耳飾りに添え、空《あ》いた方の手で和穂は慌《あわ》てて殷雷の髪の毛を引っ張った。
「殷雷! あの人よ!」
焼きサザエに、わずかばかり精神の集中を乱《みだ》されていた殷雷は、慌てて和穂が示した人物を見た。
「な、なんだこいつは! あの人って、こいつか?」
「そう、真ん中の男の人よ!」
殷雷が見たのは、周囲に数人の女をはべらせた男だった。
女たちは互《たが》いに競《きそ》い合うように、壮麗《そうれい》かつ派手《はで》な服に身を包んでいた。
競い合う目的は、中央の男の関心をひくためなのだろう、歩きながらも誰《だれ》が男と腕《うで》を組むかで大騒ぎしている。
殷雷はゲンナリしながら言った。
「なんで、こうややこしそうな奴《やつ》ばかりと、戦わねばならんのだ」
女たちの中央にいたのは、二十歳《はたち》ぐらいの若い男だった。
ほっそりと贅肉《ぜいにく》もなく、目鼻だちが整《ととの》っている。
中肉中背の殷雷よりも背が高く、括《くく》ってはいないが、殷雷と同じような黒髪を長く伸ばしていた。
男は、行く手に立ちふさがる和穂たちに気がつき、足を止めた。
互いに相手の素性《すじょう》を探《さぐ》るべく、間合いは大きく空けたままだ。
和穂は男に向かい、言った。
「お願いします。宝貝《ぱおぺい》を返してください」
男は和穂を見つめ、爽《さわ》やかに笑った。口許《くちもと》から零《こぼ》れた歯が光ろうものなら、殷雷は即座《そくざ》に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けただろう。
殷雷はこの手の男が嫌《きら》いだった。
男は優しい声で和穂に答える。
「おおう、これはまた可愛《かわい》らしい娘さんじゃのう、この細陵《さいりょう》に何か用かい?
よければ、お嬢《じょう》さんのお名前を教えてくれんか」
黙《だま》っていれば色男、という種類の人間だなと、殷雷は地面にへたり込みそうになった。
だが、辛《かろ》うじて棍を杖《つえ》代わりにして体を支える。
和穂は一所《いっしょ》懸命《けんめい》に説明を続けた。
「和穂と申《もう》します。
いえ、だから宝貝を返して欲《ほ》しいんです。宝貝はもともと、仙界にあった道具で人間の世界にはあってはならないものなんです。
えぇと、細陵さんでしたっけ? 宝貝に心当たりがあるかと思うんですが」
にこやかな笑顔で細陵は首を縦《たて》に振った。だが、後に続く言葉《ことば》は和穂に対する答えに全《まった》くなっていない。
「ほほう。和穂さんかい。
いい名前だの。それに、なんと愛らしい声をした娘さんじゃ」
「あの、宝貝の話をしているんですけど」
「黒メノウのような、吸い込まれそうな澄んだ瞳《ひとみ》じゃないの。
あなたのような娘さんと、知り合いになれたんじゃ、この細陵、真に幸せ者じゃい」
ここまで自分の言葉を無視され、和穂は少し不快になった。
珍《めずら》しく、和穂の口調《くちょう》が硬くなる。
「とぼけないでください」
細陵の笑顔は変わらなかったが、細陵の脇に控《ひか》える女たちの表情が、険《けわ》しくなった。
和穂に対する怒《いか》りというより、細陵に褒《ほ》められる和穂に、嫉妬心《しっとしん》を覚《おぼ》えているのが表情から読み取れた。
薄《うす》い紅色《べにいろ》の着物《きもの》を着た女が、さっそく和穂にくってかかった。
「ちょっと、なによあんた。そのデカイ態度《たいど》は。細陵様に対して失礼でしょ。
ちょっといい気になってるんじゃない?」
その言葉をキッカケに、女たちの罵倒《ばとう》が和穂に襲《おそ》いかかった。
『「そうよそうよ、貧相《ひんそう》な小娘のくせに」「若いからって威張《いば》ってるんじゃないよ」「なんで道服なんか着ているの」「眉毛《まゆげ》太いんじゃない」』
次から次へとまくしたてられる罵声に、和穂はたじろぐ。
ひるむ和穂を見て、手加減《てかげん》を加えるどころか、さらに罵倒の勢《いきお》いをましていく。
特に、眉毛が太いという悪口に過敏《かびん》に反応した和穂に、ここぞとばかりに眉毛が太いとからかいの言葉が飛ぶ。
言い返す隙《すき》もなく、半分泣きそうになる和穂の頭を、殷雷は棍で軽くつついた。
「なにやってんだか。口で言って判らん手合いには、実力行使《じつりょくこうし》しかあるまい。
あんな派手な取り巻きは無視してりやいいんだよ」
うっすらと浮《う》かんだ涙《なみだ》を、和穂は手の甲《こう》で手早く拭《ぬぐ》った。
「……殷雷、そんなに私の眉毛って太い?」
またしてもずり落ちそうになる体を、殷雷は棍で支えた。
「あんな悪口でいちいち泣くな!」
殷雷の言いたい事は和穂にも判っている。だが、どうしても涙が零れそうになった。
「……判ってるよお。でも、今まであんな事を言われたの初めてだから」
そりゃそうだろうよ。と、殷雷は舌打ちした。
仙術の粋《すい》を結集《けっしゅう》して造《つく》られた神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
本来は人の世にあってはならぬ、常識《じょうしき》を軽く超越《ちょうえつ》した道具たちだ。
かつては仙人であった和穂は、うっかりと欠陥《けっかん》のある宝貝を閉じ込めていた封印を破《やぶ》ってしまった。
和穂の師である女仙人が造った、七百二十七個もの欠陥宝貝が解き放たれたのだ。
欠陥宝貝たちは、人間の世界に逃亡《とうぼう》し、責任《せきにん》を感じた和穂は、全《すべ》ての仙術を封印し宝貝回収の為《ため》に降り立った。
和穂の耳飾りは宝貝の在《あ》り処《か》を探る宝貝、索具輪《さくぐりん》であった。索具輪は細陵に反応している、細陵は宝貝を持っているはずだ。
いくら超越的な能力を持つとはいえ、やはり宝貝も道具であった。
道具である限り、誰《だれ》かに使って欲《ほ》しいという道具の業《ごう》を背負《せお》い、結果として宝貝は全て人の前に現れる事となった。
今まで和穂の行く手に立ちふさがり、また和穂が行く手に立ちふさがった敵は、この宝貝所持者なのである。
宝貝により、常軌《じょしうき》を逸《いっ》する力を持った敵はいちいち、和穂の眉毛が太いなどという悪口を飛ばしたりはしない。
たぶん、これからも敵もそんな子供っぽい真似《まね》はしないだろう。
かつて経験《けいけん》のない斬新《ざんしん》な攻撃《こうげき》に、和穂の心は多少なりとも動揺《どうよう》しているのだ。
舌打ちのついでに溜《た》め息《いき》を吐《つ》いた殷雷は、和穂に言った。
「はいはい、和穂よ。お前の眉毛は太くないぜ。だから気にするな。
……ちょっと濃《こ》いとは思うけど」
「……うう。殷雷まで……」
大袈裟《おおげさ》な手振りをつけて、細陵は首を振った。
「おやおや、いかんぞ、よってたかって和穂さんをからかっちゃ。
和穂さん、あなたを理解出来るのは、この私だけのようだの」
棍を構《かま》えながら、殷雷は叫《さけ》ぶ。
「なんでそうなる! 俺《おれ》はお前みたいな人間が嫌《きら》いでね。
自分が色男か何かと勘違《かんちが》いしてるんじゃねえのか!」
細陵は面倒《めんどう》そうに手を振る。
「おおう。何かと思えば、例によってもてない男のひがみだったんかい。
いやだいやだ、未練《みれん》たらしいのお。
自分がもてないからといって、この細陵にあたるのは、それこそ八つ当たりというもんじゃろう」
細陵の言葉に釣《つ》られて、女たちの罵声は数倍|激《はげ》しくなった。
だが、さすがに殷雷は悪口など頭から相手にしない。
細陵は、一歩|後《あと》ずさりながらも勇《いさ》ましい声で言った。
「まさかその棍で私を殴《なぐ》ろうってんじゃあるまいな!
そんな脅《おど》しに屈《くっ》する細陵じゃないぞ」
様子を見る限り、屈しはしないが逃げ出す事はありそうだった。
「おとなしく宝貝を返せば、それでよし。そうでなければ、しばき倒す。鼻の一つでもへし折ってくれるぞ」
殷雷の威嚇《いかく》は女たちの怒りに、火をつけてしまった。
「なんですって! 細陵様に指一本|触《ふ》れさせるもんですか!」
女たちは殷雷に飛び掛かろうとした。
慌てず騒がず棍の先端を女たちに向ける。
少しでも武術の心得《こころえ》があるのならば、殷雷の棍の恐《おそ》ろしさが判っただろう。
下手に近寄れば、一撃で叩《たた》き潰《つぶ》されるのは明白《めいはく》だった。
一度動きを止め、殷雷に隙が出来るのを待つのが普通の反応だ。
が、飛び掛かろうとする女たちに、武術の心得もなければ、本能的に危険を感知する繊細《せんさい》さもなかった。
女たちは突進し、全く速度を落とさずに殷雷に襲いかかる。
驚《おどろ》いたのは殷雷のほうだった。
「い?」
威嚇が全く威嚇にならず、かといって本気で相手を攻撃する訳《わけ》にもいかず、手加減してあしらうには人数が多すぎた。
あっというまに取り囲まれ、情《なさ》け容赦《ようしゃ》なく引っぱたかれ、噛《か》みつかれ、引《ひ》っ掻《か》かれた。
「て、てめえらいい加減にしろよ!」
棍の威嚇にも動じなかったのだ、殷雷の叫びにひるむはずもない。
女たちは、殷雷の髪を引っ張り、棍を持つ左手に噛みつき、顔を引っ掻き、布団《ふとん》を叩くように殷雷の背中をビタンビタン叩いた。
どれも命が危険にさらされるような攻撃ではなかったが、殷雷のいらつきはやがて頂点《ちょうてん》へと達《たっ》した。
殷雷はゆっくりと、肺《はい》の奥《おく》に空気を溜め込み一気に吠《ほ》える。
「どけい!」
空気を打ち震《ふる》わせる爆発音《ばくはつおん》のような、殷雷の怒鳴《どな》り声に女たちは、思わず自分の耳をおさえた。
その一瞬の隙を見逃《みのが》さず、女たちの間を抜け、細陵に向かい駆《か》けた。
殷雷の視界の中で、グングンと細陵の姿が大きくなっていく。
いざ棍を振りかぶろうとした時、一つの影《かげ》が細陵の背後《はいご》より現れた。
殷雷は足をとめる。
殷雷は引っぱたいていた女たち以外にも、女がいたのだ。
スラリと高い背に、女豹《めひょう》のようになめらかで隙のない動き。
細い顎《あご》に短い髪、殷雷に匹敵《ひってき》するほど鋭いが、どことなくもの寂《さび》しそうな眼光がこちらを見つめている。
着飾《きかざ》る女たちとは違い、細い袖がついた動き易《やす》そうな服を着ている。
つやを消した黒い素材《そざい》の服には、黄色の緑取《ふちど》りがしてあった。
腰帯《こしおび》の代わりに黄色の布がまかれ、余《あま》った部分は左の腰の横で結《むす》んである。
ふんわりと結ばれた黄色い布は、うつむきかけた百合《ゆり》の花びらを思わせた。
腰には二本の刀が差されている。
気配《けはい》の消し方、足の運びから、殷雷はこの女がかなりの腕前《うでまえ》だと判断した。
「どいてくれねえかな。そいつに返してもらいたいものがあるんだがね」
「…………」
無言の女は答えの代わりに、ジャキリと音をたてて鞘《さや》から刀を抜いた。
右手と左手に一つずつ刀を握《にぎ》る。
殷雷の背後で鼓膜《こまく》を押さえていた、女たちは大声で叫ぶ。
「『瑞絡《ずいらく》! そんな奴、こてんぱんにしてやりなさいよ!」「そうよそうよ、やっちゃいなさい、私が許《ゆる》すから」「細切《こまぎ》れよ、ぶつ切りよ」』
瑞絡はゆっくりと首を横に振った。
「……この人、強いですよ」
ひっかかれた傷がとリヒリ痛むのを感じながら、殷雷は棍をくるりと回す。
「判ってるならどいてくれ。お前の後ろにコソコソ隠《かく》れてるような男を、助ける義理《ぎり》でもあるのかい?」
「細陵様は私が守る」
瑞絡は半身《はんみ》に構《かま》え、右足で地面を強く踏《ふ》み締《し》めた。
それに対し左足は地面から離し、曲げた膝頭《ひざがしら》を胸《むね》に当たるぐらいまでに持ち上げる。
左手の刀は、目の少し上に構え、右手の刀は不自然なまでに、だらんと垂《た》れ下がっていた。
殷雷は瑞絡の構えに合わせ、胸の高さで棍を両手で握った。棍を三等分する部分にそれぞれ右手と左手をおいている。
ジリジリと瑞絡と殷雷のにらみあいは続いていく。
瑞絡に声援《せいえん》を送っていた女たちだが、さすがに二人の気迫《きはく》に声も出なくなった。
しばしの時が流れた。
殷雷は棍を下げ、構えを解いた。そして不機嫌《ふきげん》な表情で瑞絡に言う。
「け。とっとと行きやがれ。次はそうはいかんぞ。なぜ、そこまでするんだ?」
二本の刀をスルリと鞘に納《おさ》め、瑞絡はつぶやく。
「……あんた甘いね」
ホッとした表情で、瑞絡の後ろに隠れていた細陵が顔を出す。
「おおを。なんだかよく判らんが、でかしたぞ瑞絡、勝ったんだな?」
「一応、この場は」
女たちも殷雷に罵声を浴《あ》びせながら、細陵のそばに戻る。
『「やあい、負け犬」「見掛《みか》け倒し」「目付きが悪いからって恰好《かっこう》つけてるんじゃないわよ」』
女たちの声は殷雷には届《とど》いていなかった。
立ち去る細陵たちの後ろ姿をみながら、殷雷は考えた。
瑞絡のあの構えは、捨《す》て身《み》のものだった。
持ち上げた左足で潜み込み、上げた左手の刀で最初の一撃。避《よ》けられた場合は、踏み込みの勢《いきお》いを利用し右手を鞭《むち》のようにしならせて、次の一撃を放つ。
最初の一撃を避け、体勢が崩《くず》れたところに次の一撃を叩き込む戦法だ。
殷雷に打つ手がないのではなかった。
最初の一撃をかわしながら、棍を突き、瑞絡を突き殺せば次の一撃はこない。
だが、突きに少しでも迷《まよ》いがあれば次の一撃は放たれ、瑞絡と殷雷は相打ちになっていたはずだ。
そこまでして、細陵を守ろうとする理由が殷雷には判らなかった。
「ねえ、殷雷。その傷は大丈夫《だいじょうぶ》? お医者さんに診《み》てもらった方がいいんじゃない?」
「うるせい。
こんな引っ掻き傷、ちゃんと消毒《しょうどく》しとけば大丈夫だ。
あぁ、みっともない、ミミズ腫《ば》れになってるじゃねえか」
露店《ろてん》の裏《うら》で、親父《おやじ》に安物の焼酎《しょうちゅう》を分けてもらい殷雷は、傷口を洗《あら》っていた。
心配そうな和穂とは対照的《たいしょうてき》に、露店の親父はニヤニヤしながら殷雷を見ていた。
「てっきり、細陵に女をとられた腹いせに喧嘩《けんか》を吹っ掛けてるのかと思ってたが、そうじゃないようだな?」
和穂は親父に質問をぶつけた。
「細陵さんて、何者なんですか?」
炭火《すみび》を団扇《うちわ》であおぎ、ついでに焼けた醤油《しょうゆ》の香《かお》りをばらまきつつ、答えが返った。
「見てのとおりのいけすかない奴だよ。
ちょいと、整《ととの》ってる顔をしてるからと思っていい気になってる野郎だ。
同性から嫌《きら》われ、異性から敵視されるってやつだな。
まあ、今までは恰好をつけても、もててなかったから愛嬌《あいきょう》があったんだが、最近急にもて出したから、洒落《しゃれ》が洒落にならんようになったんだよ」
「急に、ですか?」
「そ。あの馬鹿が、この間うちの客を口説《くど》いてるのを見たけどよ。
『あなたにこの曲を捧《ささ》げます』とかなんだか訳《わけ》の判らん事を言ってだな、懐《ふところ》から笛《ふえ》取り出してビイビョロロと下手《へた》な演奏《えんそう》をはじめやがったんだ。あれなら、蜂《はち》や蚊《か》の羽音《はおと》の方がよっぽど名曲だ。
俺《おれ》が笑うのを必死に堪《こら》えてたら、なんと驚《おどろ》いた事に女の顔がポッとなったじゃねえの。
サザエが焼けるのを待っていた後ろの娘さんまで、ポッとなったんだぜ。
判んねえよな、女心って。
特にあの瑞絡は、凄腕《すごうで》だけど堅物《かたぶつ》で有名だったのにな」
その笛が宝貝《ぱおぺい》だと和穂と殷雷は確信《かくしん》した。
一通り消毒がすんだ殷雷は、焼けたサザエを手にとり、竹串《たけぐし》で身をほじりだす。
「えらく、俗《ぞく》な宝貝じゃねえか和穂よ。
笛の音を聞いてもこの親父は何ともなかったんなら、純粋《じゅんすい》に異性を魅了《みりょう》する宝貝かよ。
お前の師匠《ししょう》もくだらん宝貝を造ったもんだな」
いつもなら、師匠の悪口を言われればむきになって言い返す和穂だったが、今回だけは口調が弱かった。
「いや、まあ、私も結構《けっこう》、アレな宝貝だと思うけどね。
一応、欠陥《けっかん》宝貝として封印したんだから、師匠も自分でアレだなあと、考えたんじゃない?」
焼けすぎたサザエを金網の端《はし》に動かし、露店の親父は言った。
「宝貝、宝貝って。そんなお伽話《ときばなし》みたいな事が本当にあるのかね。確かに、最近の細陵は尋常《じんじょう》じゃないがな」
殷雷はニヤリと笑う。
「さあ、宝貝なんざ本当にこの世にあるのかねえ。ともかく俺らは細陵の笛に用があるんだよ」
「そうか。細陵に一泡《ひとあわ》吹かすつもりならば、色々と教えてやろう。
正直、俺も少々ムカついてるんだが、正面きってつっかかれば、もてない男のひがみみたいで恰好《かっこう》悪いからな」
言われてみれば、細陵や瑞絡と戦っている時、野次馬《やじうま》たちはみんなニヤニヤ笑っていたと殷雷は思い出した。
壮大《そうだい》な溜《た》め息《いき》をつき、殷雷は残ったサザエを口の中に入れた。
その街《まち》の前には海が広がり、背後には山がそびえ立っていた。
街には魚市場や、魚の取引の場などがあり賑《にぎ》やかであったが、基本的には人は住んでいなかった。
冬場には、大|時化《しけ》の影響《えいきょう》をもろに受け、街全体が海水まみれになるからである。
人々は、山の向こうの丘陵《きゅうりょう》地帯に住居《じゅうきょ》を構《かま》えていた。
街に出るには四半刻(三十分)ばかり、緩《ゆる》やかな山道を歩く必要があるのだが、時化で全財産を流される事を考えれば、それほど苦にはならなかった。
露店の親父は、この山道が不意打ちに最適《さいてき》だと太鼓判《たいこばん》を押した。
不意をつくつもりはなかったが、街中での騒動を避けたい殷雷たちは、山道で細陵が来るのを待つ。
数日後の山道。
山道とはいえ、木の香《かお》りよりも潮《しお》の香りがきつかった。
目の前に現れた、和穂と殷雷を見て、娘たちは大騒ぎした。
『「ちょっと、また出たわよ」「このあいだ瑞絡にかなわなかったくせに」「そうよそうよ」「弱いくせに、しつこいんだから」』
殷雷は相手をせずに、瑞絡を見つめた。
「よお、今日はけりをつけてやるぜ」
殷雷の言葉に誘《さそ》われたのか、ユラリと瑞絡が正面にでた。
「……望《のぞ》むところだ」
「驚《おどろ》いて腰《こし》をぬかすなよ」
言うなり、殷雷の体は軽い爆発音をたて、爆煙《ばくえん》の中へ姿を消した。
和穂は爆煙の中から、黒い鞘《さや》につつまれた一振りの刀を引きずり出す。
何事かと見守る女たちだが、爆煙と共に姿を消した殷雷を見て、慌《あわ》てふためく。
『「わ、消えた」「ちょっと、もしかして」「あの刀がアイツなの?」「きゃあ、化け物よ!」』
余程《よほど》驚いたのか、細陵と瑞絡を除《のぞ》いた女たちは、散《ち》り散《ぢ》りに逃げていく。
瑞絡は冷静に、状況《じょうきょう》を判断しようとしていたが、細陵はかなり驚いていた。
「な、なんじゃい貴様《きさま》は! もしかして」
和穂は一気に、刀を鞘から抜き放った。
雷光を思わせる、青白い刃《やいば》がギラリと光っている。
和穂は、ゆっくりと言った。
「そういう訳《わけ》です。
細陵さんが持っている以外にも、宝貝はあるんです。
お願いします、宝貝は元々は仙界の道具、人間の世界にはあってはならないものなのです。
宝貝を返してください」
腰を抜かさんばかりに、細陵は慌てふためく。
「わ、渡さないぞ、この笛だけは! 瑞絡、頼《たの》む、こいつを始末《しまつ》してくれ!」
驚きはしたが、瑞絡は動揺はしていなかった。
「あの男はどこに消えた?」
和穂は刀を目の前に上げた。和穂の口調は殷雷のものへと変わった。
「ここにいるさ、瑞絡よ。
我《わ》が名は殷雷|刀《とう》。刀の宝貝だ。刀の時は喋《しゃべ》る口がないから、和穂の声を借りているんだよ。
細陵は笛の宝貝で、お前を操《あやつ》っている」
「馬鹿な。そんな話が信じられるか!」
「信じられないならば、戦うまでだ」
瑞絡は二本の刀を抜き、以前と同じ構えをとる。
殷雷刀の鞘を腰帯に差し、和穂は切っ先を瑞絡に向けた。
瑞絡は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄《よ》せた。
「……小娘とて、加減はせんぞ」
「遠慮《えんりょ》はいらんぞ。戦いに関しては、和穂の体は俺が操っているからな」
「細陵、下がっていてください」
一人の男が刀に姿を変えた事より、瑞絡にとっては、和穂の身のこなしが以前とは比べ物にならない鋭《するど》さを持った事の方が、不思議《ふしぎ》だった。
本当にそれが宝貝の刀なのだろうか? 疑問《ぎもん》はつきなかったが、瑞絡は戦うしかなかった。
しばし、迷《まよ》った挙《あ》げ句《く》、迷いを断ち切りながら瑞絡は一気に踏み込んだ。
左手の刀が和穂に向かい走った。
和穂も殷雷刀を一閃《いっせん》させる。だが、体勢がぐらついてしまった。
逃《のが》すかとばかりに、右手の刀がしなりながら和穂を狙《ねら》う。
殷雷刀の刃が再び光る。
馬鹿な! 瑞絡は目の前の光景が信じられなかった。
刀を折られる可能性は考慮《こうりょ》していた。
だが、もし刀を折られた衝撃《しょうげき》を感じたならば、別の攻撃を仕掛ける考えだった。
瑞絡はもう一度、両手の刀を見てみた。
刀身が綺麗《きれい》になくなっている。
刀を折られた衝撃は感じていない。
瑞絡は息《いき》を飲《の》んだ。
殷雷刀は、瑞絡の刀をへし折ったのではなかった。
殷雷刀は、刀身を切断《せつだん》していたのだ。
研《と》ぎ澄《す》まされた剃刀《かみそり》が、紙を切断するかのように。
衝撃がうまれるはずはなかった。
「ま、宝貝だから、これぐらいの芸当は出来て当たり前なんだがね。
人の事を甘いとか言ってやがったが、今のお前の攻撃は峰打《みねう》ち狙いじゃねえか」
声は瑞絡の背後《はいご》で聞こえた。
振り向く前に首筋《くびすじ》に重い手刀《しゅとう》が落とされ、瑞絡は膝《ひざ》をついた。
裏返った声で細陵は叫ぶ。
「ず、瑞絡!」
くるりと振り向き、和穂は殷雷刀を細陵に突き出した。
「さて、観念《かんねん》しな」
細陵は後ずさりながら、袖《そで》の中から紅色《べにいろ》の横笛《よこぶえ》を取り出した。
和穂はジリジリと細陵に近づく。
「ふん。無駄《むだ》なあがきを」
心の中で、和穂は殷雷に異議《いぎ》を唱《とな》えた。
『ちょっと、殷雷。別に無駄じゃないでしょ? あの笛で私が操《あやつ》られたらどうするのよ』
『……そういや、お前は女だったな』
『そういやって何よ? そういやって』
ここぞとばかりに、細陵は横笛に息を吹き込む。
ビィビャロビャロロォォ。
お世辞《せじ》にも綺麗とはいえない音が、奏《かな》でられる。甲高《かんだか》い振動音《しんどうおん》は、どことなく昆虫《こんちゅう》の羽音《はおと》を連想させた。
その音色《ねいろ》を聞いた途端《とたん》、和穂の体が鉛《なまり》のように重くなった。
髪の毛が逆立《さかだ》ち、音に抵抗《ていこう》しようと必死《ひっし》になって身構《みがま》える和穂の姿に細陵は驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。
今までの相手は、抵抗する素振《そぶ》りもみせずに易々《やすやす》と魅了《みりょう》出来たのだ。
このままではいかんと細陵は息を強め、さらに音を大きくした。
音が大きくなるにつれ、和穂の顔の苦痛《くつう》も大きくなっていく。
このままゆけば、自分の勝ちだと細陵はほくそえんだ。
横笛を握《にぎ》り、力のままに息を吐き続ける。
殷雷は和穂の心の中で、舌打ちをした。
『ちと、油断《ゆだん》したか』
『だ、大丈夫なの殷雷!』
『堪《こら》えろ。奴の息とてそう続くはずはない』
だが、意外にも細陵の笛の音はやむ気配を見せなかった。
仮にも宝貝の笛だ。使用者が望《のぞ》む限りは幾《いく》らでも奏で続けられたのだ。
脂汗《あぶらあせ》を流しながら、和穂はゆっくりと膝をついた。
そろそろ限界だろうと、細陵はさらに笛の音を大きくした。
と、その時。
がさりと何かが山道へ現れた。
笛を吹きつつ、一瞬にして和穂に負けないぐらいの脂汗が細陵の体を濡《ぬ》らす。
現れたのは、一匹の虎《とら》だった。
虎にしては小柄《こがら》だったが、体長は殷雷よりも長い。
飢餓《きが》に狂った目でグルルグルルと捻《うな》っているのではなかった。
日向《ひなた》の猫《ねこ》のように機嫌《きげん》が良さそうな顔をして、喉《のど》をゴロゴロ鳴らしている。
ゆっくりとゆっくりと、細陵に向かって歩いていく。
耳の裏《うら》をかいて欲しくてたまらないような仕種《しぐさ》に見える。
膝をつきつつ、和穂は言った。
「危《あぶ》ない! 細陵さん……笛を吹くのをやめないと……それは、たぶん、雌《めす》の虎……」
細陵は虎から離れつつも、笛を離さない。
和穂は言葉《ことば》を続ける。
「その虎は……細陵さんに……なついてる……でも、じゃれつかれたら、……背骨《せぼね》ぐらいは簡単《かんたん》に折れますよ……」
だったらどうしろというんだ、と細陵は目で叫んだ。
「……大丈夫。……私と殷雷で……虎はどうにかします。……笛を……」
一《いち》か八《ばち》か、細陵は笛から口を離した。
途端《とたん》に、和穂は大地を駆《か》け、細陵の手の横笛を、右手に持つ殷雷刀で一刀両断《いっとうりょうだん》にした。
そしてそのまま、虎に馬乗りになった。
暴《あば》れる虎の首に左手を絡《から》ませ、まるで手綱《たづな》のように押さえつける。
笛の音が消え、突然暴れだす虎。
暴れ馬を乗りこなすがごとく、虎の背中で和穂の体が跳《は》ねる。
しばらく暴れた虎に、疲《つか》れが見えたところで、和穂は虎の背中から飛び下り、刀の背で虎の後ろ足を軽く打つ。
やっとのことで呪縛《じゅばく》を逃れた虎は、慌《あわ》てて山の中へと走り去っていった。
ホッと息をつき、和穂は右手の殷雷刀を宙《ちゅう》に放《ほう》り投げる。
軽い爆発音をたて、刀は再び人の形をとった。
「さて、これで一段落はついたんだが、細陵よ。
色々と、手間をかけさせてくれたではないか。
俺《おれ》はお前みたいに、人の心をもてあそぶ奴が大嫌いなんでね。
ちょいと痛《いた》い目にあってもらおうか」
殷雷は指の骨をボキリボキリと鳴らした。
殷雷の怒《いか》りの視線に、細陵は尻餅《しりもち》をつき後ずさろうとする。
が、殷雷と細陵の間に、一人の女が割って入った。
細陵をかばうように、殷雷に対して両手を広げ、首を横に振っている。
瑞絡だった。
殷雷は顎《あご》をしゃくりあげた。
「どけい。瑞絡よ。
宝貝を破壊《はかい》したんだ、お前は術《じゅつ》から覚《さ》めているはずだ。
お前とてこいつには腹がたつだろう」
瑞絡は静かに言った。
「……うちは武家の一族でね。男子に恵《めぐ》まれなかったんで私は物心ついた時から、刀術の修行《しゅぎょう》に明け暮《く》れていた。
遊びたいと言っても、許《ゆる》してはもらえずに鍛練《たんれん》の毎日だった。
泣いてもわめいても、果てる事のない修練の毎日さ。
辛《つら》いと思う気持ちがある事が辛かった。
私は自分でも知らないうちに、自分の感情を自分の中にしまいこんでいたんだ」
「お前の身《み》の上《うえ》話など」
「喜怒哀楽《きどあいらく》の感情を封じ、刀の腕だけはメキメキと上がっていったんだ。
強くなったのを、喜《よろこ》ぶ気持ちも既《すで》になくしているのにさ。
そうやって何年も生きてきて、細陵に出会ったんだよ。細陵の笛を聞いて、私の心は揺《ゆ》さぶられた。
他人に好意を持つ自分が、信じられなかったよ。
皮肉《ひにく》なもんだ。細陵に心を奪《うば》われたおかげで、しまいこんでいた感情も再び外に出られたんだ」
尻餅をついていた細陵は立ち上がり、瑞絡の肩に手を置く。
「そうだったのか、瑞絡。そうとは知らずに俺は、『結構腕がたつし、手元においときゃ何かの役にでもたつんじゃないか』ぐらいの、本当に軽い気持ちでお前を口説《くど》いていたんじゃ」
肩に置かれた細陵の手を、瑞絡は強く握りしめた。
ばつが悪そうに殷雷は自分の頭をかいた。
「ふん。瑞絡よ、お前が怒《おこ》ってないのなら、俺がそいつをブチのめす必要もあるまい」
瑞絡は細陵の手をさらに、強く握る。
「話は最後まで聞きなよ、刀の兄ちゃん。
細陵のおかげで、私は感情を思い出した。
けども、それはそれ、これはこれだ。
宝貝の力でよくもまあ、私をたぶらかしてくれたな細陵よ」
自分の手を握る、瑞絡の力に不吉なものを感じつつ細陵は言った。
「いや、まあ、ともかく感情を取り戻せて良かったんじゃないかのう。
喜怒哀楽の気持ちがあれば、人生もまた彩《いろど》るであろうよ」
「確かにな。ちなみに、今の私の感情は喜怒哀楽のどれだと思う?」
「喜かな? 楽かな? 哀ってはずはないよな?」
「怒だ」
腕を後ろ手にひねりあげられ、細陵は大声で叫んだ。
「わ、わ。そこの二人、助けてくれい!」
瑞絡を説得《せっとく》しようとした和穂に、殷雷は首を横に振った。
「かまうことはない、好きなようにやらせておけ」
「でも」
「痴話喧嘩《ちわげんか》に首を突っ込むもんじゃないぞ。
笛は拾《ひろ》ったな、行くぞ和穂」
立ち去る和穂たちの背中に、細陵の断末魔《だんまつま》の叫びが響《ひび》く。
『蜂引笛』
仙界の一部で猛威《もうい》を振るった、半《なか》ば妖怪化《ようかいか》した蜂《はち》の群《む》れに対抗《たいこう》する為《ため》の宝貝。れっきとした兵器である。
欠陥は、女王蜂を手懐《てなず》ける機能《きのう》のせいか、種族を問わず、女性を魅了《みりょう》する効果《こうか》を持ってしまった事である。
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殷雷《いんらい》の最期《さいご》!!
「妙《みょう》な人? そういうの多いからね、この辺《あた》りは。大道芸人《だいどうげいにん》やら、曲芸師《きょくげいし》なんか掃《は》いて捨《す》てるほどいるわよ」
茶屋《ちゃや》の女は、二人|連《づ》れの客に水を出しながらそう言った。そして、客の顔を見た。
一人は若い娘《むすめ》だ。歳《とし》の頃《ころ》なら十五、六。柔《やわ》らかそうな髪《かみ》を背中で束《たば》ねている。ほっそりとした顎《あご》、意思《いし》の強そうな太めの眉《まゆ》が、澄《す》んだ黒色の瞳《ひとみ》の上にのっかっていた。
年頃の娘らしく、小さな白い耳飾《みみかざ》りを着《つ》けているが、ただの安物だろう。
顔を見ている限りでは、普通《ふつう》の娘と変わらないが、服装《ふくそう》は奇妙《きみょう》だった。
娘は仙人《せんにん》や道士《どうし》が着ているような、白い道服《どうふく》を着ていた。若い娘の道士なんて、聞いた事がない。茶屋の女は木の盆《ぼん》を胸《むね》に抱《かか》えて、言葉《ことば》を続けた。
「お客さんたちも、妙って言えば、妙よ。
若い娘の道士なんかに、縁起担《えんぎかつ》ぎを頼《たの》む人なんているの? あんまり、娘の道士じゃありがたくないじゃない。
あ、もしかして、修行中《しゅぎょうちゅう》の道士かなにかかしら?」
道服の娘の前、卓《たく》を挟《はさ》んで座《すわ》る青年は笑って、茶屋の女に言った。
「へへへ。馬鹿を言っちゃあいかん。
こいつは、この前まで道士どころか仙人だったんだぜ。なあ、和穂《かずほ》大先生。
もっとも、術《じゅつ》は使えないんだぜ」
青年は娘とは対照的《たいしょうてき》に、黒い袖《そで》付きの外套《がいとう》を身につけていた。
たいして大柄《おおがら》な男ではないが、俊敏《しゅんびん》そうな体格《たいかく》をしている。和穂と呼ばれた娘よりも長い黒髪を、無造作《むぞうさ》に、括《くく》っていた。
店に入ってきた時に持っていた、銀色の棍《こん》は、今は卓に立て掛《か》けている。
青年の鷹《たか》のような眼光《がんこう》から、茶屋の女は男の棍がハッタリの武器《ぶき》ではないと見抜《みぬ》く。
強がって喜《よろこ》んでいるチンピラとは、わけが違う。本当に強い奴《やつ》はこういう目をしていると、茶屋の女は知っていた。
和穂は頭をかきながら答えた。
「また、殷雷《いんらい》ったら、そういう意地悪《いじわる》な言い方をするんだから」
茶屋の女は、盆を持ち直した。
「ここいらじゃ、珍《めずら》しくもないわよ。皇帝《こうてい》の血を引いているだとか、金鉱《きんこう》の在《あ》り処《か》を印《しる》した宝の地図を持っているとか、そういう奴も多いからね。仙人じゃなくて、元仙人なんてこけおどしなら、可愛《かわい》い方だと思うわよ。
で、注文《ちゅうもん》は何にする?」
殷雷は、瞬間《しゅんかん》、真剣《しんけん》な目付きになり素早《すばや》く思案《しあん》し答えを出す。
「団子《だんご》と、玄米茶《げんまいちゃ》だ」
「えぇと、緑茶《りょくちゃ》と、私も団子」
「はいよ」
茶屋の女は、厨房《ちゅうぼう》の奥《おく》へと姿《すがた》を消した。
和穂は水を飲み、一息吐《ひといきつ》いた。
「それにしても、賑《にぎ》やかな町だね。それほど大きくもないのに」
茶屋の店内は、広々としていた。卓もかなりの数が用意されている。
「さあな。馬鹿でっかい滝《たき》とかの観光名所《かんこうめいしょ》が近くにあるか、祭《まつ》りでもあるんじゃないか。通りのあちこちに提灯《ちょうちん》が飾《かざ》ってあったぞ。
ま、そんなこたあ、どうでもいい。宝貝《ぱおぺい》の場所は判《わか》ってるのか? 今の店員の話じゃ、特に厄介事《やっかいごと》は起きてないようだが。
正確《せいかく》な宝貝の場所は判るか?」
宝貝。
仙人が己《おのれ》の技術《ぎじゅつ》の粋《すい》を結集《けっしゅう》して、造《つく》り上げた神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
岩石《がんせき》ですら両断《りょうだん》する剣《けん》に、炎《ほのお》を操《あやつ》る槍《やり》、幾千里《いくせんり》もの距離《きょり》を瞬時《しゅんじ》に移動《いどう》する靴《くつ》など、無数の種類の宝貝があり、それぞれが特異《とくい》な能力《のうりょく》を持っていた。それらの宝貝は、仙人たちの世界である仙界にしか、存在《そんざい》してはならない道具たちだった。
人間の世界においては、その超絶的《ちょうぜつてき》な能力は災厄《きいやく》の元でしかない。
だが、一人の仙人の過《あやま》ちにより宝貝は人間の世界にばらまかれてしまったのだ。
それも、一つや二つではない。その数は七百二十六個。
しかも、ばらまかれた宝貝は通常の宝貝とは異《こと》なりそれぞれが欠陥《けっかん》を抱えていたのだ。
地上に混乱《こんらん》が起きるのは、必至《ひっし》だった。この重大《じゅうだい》な事件《じけん》に、仙界がとった態度《たいど》は、静観《せいかん》の一手だった。
仙人の仙術による宝貝|回収《かいしゅう》は、余計《よけい》に混乱を巻き起こすと仙界は判断《はんだん》したのであった。
この決定に、宝貝をばらまいてしまった仙人が異議《いぎ》を唱《とな》えた。名前は和穂。
仙術で、より混乱が起きるのならば自分は仙術を封《ふう》じ込めて、宝貝の回収を行うと志願《しがん》したのである。
願《ねが》いは聞き届《とど》けられ、彼女は幾つかの宝貝と共《とも》に地上に降《お》り立った。
彼女の耳飾りは宝貝の在り処を探《さぐ》る宝貝、索具輪《さくぐりん》であり、道服の赤い腰帯《こしおび》にくくりつけたひょうたんも断縁獄《だんえんごく》という宝貝であった。
そして、彼女の前に座る、黒髪の男も宝貝であった。
名前は殷雷|刀《とう》。人の姿を取ってはいるが、彼の正体は刀《かたな》の宝貝である。
殷雷は口を開いた。
「遅《おせ》えなあ、団子」
これでも一応、刀の宝貝である。
索具輪で、宝貝の在り処を探っていた和穂は耳飾りから、細い指を離《はな》した。
「多分、この町に一つの宝貝がある。もう一つ宝貝の反応《はんのう》があるんだけど、町からは少し離れてると思う」
「索具輪はまた調子《ちょうし》が悪いのか?」
索具輪は、他の宝貝の在り処を教える宝貝である。
だが、その精度《せいど》には好不調《こうふちょう》の波があり、時として使いものにならない。
「この町の、恐《おそ》らくこの通りにあるのは判るんだけどね。
賑やかな町だから、誰《だれ》かまで探り当てるのは無理《むり》。もう一つの反応は町の外だよ」
「じゃ、ともかく、町の中の方から順に片づけていくか」
「うん」
ふと、殷雷は和穂の声にいつもの張《は》りがない事に気がついた。ちょっと鼻《はな》にかかったような声になっている。顔も少し赤いようだ。
「どうした和穂? 風邪《かぜ》か?」
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫。たいした事はないよ」
「なら、いいが。一段落《いちだんらく》したら、二、三日|休養《きゅうよう》しよう」
二人が話していると、茶屋の女が、湯飲《ゆの》みと団子をのせた盆を持って現れた。
一本の竹串《たけぐし》に、草色をした三つの団子が刺《さ》さっている。
「はい、お待たせ。悪いけど、祭りの間は特別料金で二|割増《わりま》しだからね」
なんの祭りだろうかと、和穂は思った。
「祭りですか?」
「そう。隣町《となりまち》で、明日《あした》から銀龍神《ぎんりゅうじん》の社《やしろ》の建立《こんりゅう》五十周年の祭りをやるんだよ」
「へえ、そうなんだ。上手《うま》い具合《ぐあい》に、祭りの時に来たなんて、運《うん》がいいな」
茶屋の女は口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く。
「そうでもないわよ。来月は白猿様《はくえんさま》の社の建立五十周年だし」
「へ?」
「頭のいいのが、昔、隣町にいてね。
何の名物もなかった町に、百二十柱の神様を祭る社を、一月《ひとつき》おきに建立したのよ」
殷雷は真正面《ましょうめん》から、団子を一口《ひとくち》で食べた。流石《さすが》に武器の宝貝、竹串の間合《まあ》いを完璧《かんぺき》に考慮《こうりょ》していて、紙一重《かみひとえ》の見切りで、竹串で喉《のど》を突《つ》くのを避《さ》けていた。
「もぐ。
それじゃ、毎月、どこかの社が建立何十年かの祭りじゃねえか」
「そ。でも、その御陰《おかげ》で隣町は観光地になって、この町まで繁盛《はんじょう》してるの。だから、芸人とかが多いのよ。うさんくさい奴も、浮《う》かれてる人間を目当てにやってくるんだけどね。
そうだ、さっきの話だけどね。
ここらへんの人間で一人《ひとり》妙なのがいたよ」
団子を食べようとしていた、和穂は手を止めた。
「妙な人ですか?」
「そう。鈴旋《りんせん》ていう女なんだけどね。
凄《すご》いわよ、賭《か》け事《ごと》で儲《もう》けて蔵《くら》を建《た》てたのよ」
殷雷は鼻で笑う。
「ふん。だからどうした。そうやって、一山当てる奴がたまにいるから、博打《ばくち》に狂《くる》う奴が後《あと》を絶《た》たないんだ」
茶屋の女も負けじと、笑う。
「一回、大穴《おおあな》を当てたわけじゃない。
ここ、半年、博打場で負け知らずなのよ。
だいたい、ここいらの博打場ってのは、役所《やくしょ》が仕切《しき》ってて、観光客の暇《ひま》つぶしみたいなものだから、動くお金はたかが知れててね。
それなのに、あれだけ勝つなんて絶対《ぜったい》に普通《ふつう》じゃない。役所の仕切りだから、出入り禁止《きんし》にもされないしね」
興味《きょうみ》を覚《おぼ》えたのか、殷雷の猛禽類《もうきんるい》のような眼光が鋭《するど》く光った。
「その、鈴旋ってのは、隣町に住んでいるのか?」
「鈴旋に会うつもり? あいつなら、この町に住んでるよ。博打場が開かれるのは、祭りの間だけだから、そこらへんの酒場《さかば》でもうろついてるんじゃない?」
和穂は茶屋の女に、鈴旋の特徴《とくちょう》を尋《たず》ねた。茶屋の女は和穂の質問《しつもん》に答えた。さらに、一つの忠告《ちゅうこく》を与《あた》える。
「鈴旋とやりあうなら、一筋縄《ひとすじなわ》じゃいかないよ。
歳《とし》は若いけど、それでもあいつは勝負師《しょうぶし》なんだから。
しかも、だいぶ性根《しょうね》が腐《くさ》ってるからね」
話をきいても殷雷と和穂は、口を開かなかった。なぜ、相槌《あいづち》の一つも打たないのかと、茶屋の女は不思議《ふしぎ》に思った。
この緊張感《きんちょうかん》は何だろうと、茶屋の女は考えた。
まさか。
ゆっくり振《ふ》り返ると、そこにはニヤニヤ笑った鈴旋が、片膝《かたひざ》を立てて卓の上に座っている。
「性根が腐ってて悪かったね」
茶屋の女は、出来《でき》るかぎり大胆《だいたん》に言い返した。こういう時に、脅《おび》えを顔に出すと後々《あとあと》つけあがられるかもしれない。
「優《やさ》しいお嬢《じょう》さんです。とでも紹介《しょうかい》してほしかった?」
言うだけ言って、茶屋の女は奥へさっさと引っ込んでしまう。鈴旋もまた、殷雷と同じように抜《ぬ》け目《め》のない目をしていた。
年齢《ねんれい》は二十歳|前後《ぜんご》だろうか、短《みじか》めに揃《そろ》えた髪と、きつめの化粧《けしょう》で鋭さが増されている。
赤い服には、絡《から》みつくような柳《やなぎ》の刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》されていた。
鈴旋はチラリと、腕前《うでまえ》を品定《しなさだ》めするように殷雷を見つめた。殷雷の強さを充分《じゅうぶん》に認《みと》めた上で、勝負師らしく大胆な態度を取る。
卓から降り、和穂たちの側《そば》に寄《よ》る。
「鈴旋は私だけど、何か御用《ごよう》?」
そう言って、和穂がまだ口をつけていない団子を手に取った。
「あ、私の団子!」
自分の事を嗅《か》ぎ回《まわ》っている、この奇妙な二人連れは何者だ? 男は戦《たたか》いなれた武人だと一目で判る。なら、この小娘は何者かと、鈴旋は吟味《ぎんみ》した。
団子を取り戻《もど》そうとする、和穂の頭を押さえ、その瞳《ひとみ》を見る。
……ただの小娘だ。
その瞳の奥にあるのは、明るさと無邪気《むじゃき》さだけでしかない。
団子の一本で大騒《おおさわ》ぎするなんて、ただの子供ではないか。
和穂に見せつけるよう、鈴旋は団子を美味《うま》そうにたいらげる。
そして、鈴旋は意地《いじ》の悪さを包《つつ》み込む笑顔《えがお》を作り、厨房《ちゅうぼう》に向かい注文した。
「悪いけど、この娘の頼《たの》んだ団子をもう一皿持ってきて」
和穂の顔に嬉《うれ》しそうな表情が浮かんだのを鈴旋は見逃《みのが》さない。
自分の団子を食べられたのは、ただの冗談《じょうだん》で、ちゃんと新しいのを返してくれると、考えているのだ。
すぐに、追加《ついか》の団子がやって来たが、鈴旋は当然のごとく、その団子をパクリと自分で食った。
絶望《ぜつぼう》にうちひしがれる和穂に向かい、殷雷は言った。
「『何すんのよ、この厚化粧《あつげしょう》のババァ!』ぐらい怒鳴《どな》ってやったらどうだ?」
「そんな事言ったら、このオバさんに失礼《しつれい》だよ!」
なんのためらいもなく、鈴旋は和穂の頭をポカリと殴《なぐ》る。
「誰《だれ》がオバさんだ! お前と十歳も歳は離れてないわよ! 最近、不摂生《ふせっせい》がたたって、ちょっと肌《はだ》が荒《あ》れてるだけなんだからね! 若いからって、いい気になってるんじゃないわよ。若さなんて、努力《どりょく》の賜物《たまもの》でもなければ、才能《さいのう》でもないんだからね! むかつくむかつくむかつく。『私はまだ若いから、化粧なんかしなくていいや』なんてぐらいにしか思ってないんでしょ。あぁ、もお、眉毛《まゆげ》が太いくせに!」
「うわあ、ごめんなさい!」
ポカポカと和穂の頭を小突《こづ》きながら、鈴旋は殷雷をにらむ。
「あんたと、この娘はどういう関係よ?」
玄米茶をすすり、殷雷は少し考えた。
「ま、護衛《ごえい》といったところか」
「……護衛なら、助けてやんなよ」
「馬鹿らしい。年増女《としまおんな》に苛《いじ》められてるぐらいで、護衛が動くか」
騒いでいる最中《さなか》に、和穂は大きなくしゃみをした。
「くしゅん!」
慌《あわ》てて、鈴旋は和穂から離れる。
「何よ、あんた。風邪でもひいてるの? うつさないでよ! 明日から、祭りが始まるんだからね。あっちいってよ! 汚《きたな》いわね」
くしゃみがかかったのか、鈴旋は自分の手を和穂の頭にこすりつける。
様子《ようす》を見ていた殷雷は、喧嘩《けんか》に興味《きょうみ》はないとばかりに口を開く。
「鈴旋。やけに景気《けいき》がいいそうじゃないか」
「文句《もんく》ある? 別にいかさまをやってる訳《わけ》じゃないわよ」
和穂が宝貝について、問いただそうとするのを殷雷は目配《めくば》せで、阻止《そし》した。
問いただす前に、その目で確認《かくにん》しようとする殷雷の作戦《さくせん》を、和穂は何となく理解《りかい》した。
殷雷は、懐《ふところ》から銀《ぎん》の塊《かたまり》を取り出す。これだけの銀なら、だいたい、一か月は充分《じゅうぶん》に遊んで暮《く》らせるだけの価値《かち》はある。
「どうだ。一つ、勝負をしてみるか」
銀の塊を見て、鈴旋の顔に大きな笑みが浮かんだ。和穂を小突いていた表情からは、想像《そうぞう》も出来ないような柔《やわ》らかな笑顔だ。
「えらく気前がいいじゃない。こんなに大金を私にくれるの?」
「勝負に勝てばな」
「もし、私が負けたら?」
「そのツキの秘密《ひみつ》を教えてくれ」
「いいわ。じゃ、勝負は何でする。札《ふだ》でもいいけど、役の説明《せつめい》が面倒《めんどう》よね。
代《か》わりにこれでいいかしら?」
鈴旋は胸元《むなもと》から、白いサイコロを二つ取り出した。サイコロの宝貝か? 殷雷は思案《しあん》を巡《めぐ》らした。
「サイコロで充分だが、変な仕掛《しか》けがないか確かめさせてくれるよな?」
殷雷は鈴旋の反応を見た。だが、鈴旋は返事をするまでもなく、殷雷にサイコロを手渡した。
手早《てばや》く調べたが、どうみても普通のサイコロだ。手の中で転《ころ》がしてみても、宝貝どころか、イカサマサイコロですらない。
「いいぜ。いいサイコロだ」
「じゃ、勝負よ」
鈴旋は卓の上に置いてあった、竹製の箸立《はした》てを掴《つか》み、中に入っていた朱色《しゅいろ》に塗《ぬ》られた赤い箸を無造作《むぞうさ》に、床《ゆか》へ捨《す》てた。
そして、空《から》の箸立ての中にサイコロを投げ込み、手慣《てな》れた仕種《しぐさ》で何度も振り、一気に卓の上に、箸立てを置く。
伏《ふ》せられた箸立ての中で、サイコロは一体どの目を現しているのか? 鈴旋は笑って言った。
「お兄さん。イカサマをしていないのは、判るよね。あんたほどの腕利《うでき》きの前で、イカサマをやる程《ほど》、馬鹿じゃないよ」
イカサマはしていない。それどころか、宝貝を使う暇《ひま》もなかったと、殷雷は判断《はんだん》した。
鈴旋は自信満々《じしんまんまん》の顔をしている。
だが、奇妙な自信だと、殷雷は気がついた。
鈴旋の自信は、勝利を確信しているというより、敗北《はいぼく》を恐れていない『余裕《よゆう》』に近いようだ。
まるで、大金持ちが小銭で賭け事をしているようである。サイコロは宝貝ではなく、宝貝を使ったようにも見えない。
少し戸惑《とまど》う殷雷に鈴旋は言った。
「さあ、丁《ちょう》(偶数《ぐうすう》)か半《はん》(奇数《きすう》)か?」
「よお、和穂。どっちだと思う?」
茶屋の卓の上には勝負事の緊張感《きんちょうかん》が、漂《ただよ》い始めていた。
まだ痛《いた》いのか、泣きそうな顔で小突かれた頭を撫《な》でながら和穂は言った。
「丁だと思う」
間髪《かんはつ》入れず、殷雷は勝負に出た。
「よし、鈴旋。半だ!」
和穂は慌《あわ》てる。
「殷雷、私は丁だと言ったんだよ」
「判っている。だから、半だ!」
「どういう意味よ! そりゃ私って、運がいい方じゃないけど」
鈴旋は、ゆっくりと箸立てを卓の上から離す。現れたのは、二と五の目。
出目《でめ》は、半だ。殷雷の勝ちだ。
奇妙な空気が流れた。殷雷は半《なか》ば、自分が負けると予想《よそう》していたのだ。
鈴旋を見れば、敗北の悔《くや》しさは微塵《みじん》もなかった。平然とした顔をしている。
「あら、負けちゃった」
「……もしかして、本当にただの強運《きょううん》だったのか」
「いいえ。次は負けないもの」
「次などあるか! 一回勝負だ! 貴様《きさま》、宝貝を持っていたのではないか!」
鈴旋は動じない。声に含《ふく》まれる余裕は、只事《ただごと》ではない。
「宝貝《ぱおぺい》? 宝貝を知っているの? なるほどね。それじゃ、和穂が宝貝を回収《かいしゅう》している元仙人で、殷雷が刀の宝貝なわけか。噂《うわさ》には聞いていたけど、こんな小娘だったとは。ツキの秘密を教えるんだったね。簡単《かんたん》よ。今の勝負の出目は半だった。それを覚えておくの。次の勝負の時には、私から先に半に賭《か》けさせてもらう。それが、勝負に負けない絶対《ぜったい》の方法よ。ツキなんかじゃない。
まあ、追《お》っ手《て》と判ったからには『次』は呑気《のんき》にサイコロ博打《ばくち》なんかやらないけどね」
鈴旋は一歩後ずさり、殷雷との間合いを開けた。そして、袖口《そでぐち》から小さな砂時計《すなどけい》を取り出した。
「あなたたちは絶対に私に勝てないのよね。可哀《かわい》そうに。この砂時計は、再来砂《さいらいさ》という宝貝でね」
「再来砂だと!」
殷雷が弾《はじ》けるように、椅子《いす》から立ち上がり棍《こん》を手にした。
殷雷の棍の一撃《いちげき》より早《はや》く、鈴旋は再来砂を作動《さどう》させた。途端《とたん》に、鈴旋の輪郭《りんかく》はぼやけ赤い光の粒子《りゅうし》になる。鈴旋は言葉を続けた。
「じゃ、一か月ぐらい過去《かこ》に戻《もど》る」
光の粒《つぶ》になった鈴旋は、吸《す》い込まれるように虚空《こくう》に消えていった。
光を超《こ》える光になり、鈴旋は時間の中を遡《さかのぼ》っていった。再来砂は、使用者を過去に引き戻す能力を持つ。だが、いかに宝貝とはいえ、限度《げんど》なく過去に戻す力はない。
再来砂の使用者は、まず砂《すな》の落ちきった再来砂を引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》さなければならない。
その引っ繰り返した瞬間《しゅんかん》が、再来砂で戻れる過去の限界点《げんかいてん》なのだ。
際限《さいげん》なく砂の落ちる奇妙な砂時計、それが再来砂が機能《きのう》している姿である。
春に再来砂を引っ繰り返し、夏に海を秋に山を訪《おとず》れ、今は冬だとしよう。
秋に戻れば、山にいた自分に戻り、夏に戻れば海にいた自分に戻る。だが、春の前には、戻れず、未来《みらい》に行くのも不可能《ふかのう》だ。
鈴旋の場合、半年前に再来砂を拾《ひろ》った時がその限界にあたる。
それで鈴旋には充分だった。
祭りの時に開かれる、博打場の出目を記憶《きおく》し、過去へ遡る。結果《けっか》の判《わか》っている博打で負けるはずがなかった。
こうやって鈴旋は、幾度《いくど》か時間を遡り、蔵《くら》を建《た》てる程《ほど》の儲《もう》けを得ていたのだ。
そして、今、宝貝を回収に和穂と殷雷がやって来た。殷雷はかなりの腕前《うでまえ》だが、恐《おそ》れるには足《た》りない。奴《やつ》らが今日《きょう》、この町にやって来るのはこれで判った。歓迎《かんげい》の準備《じゅんび》をする余裕《よゆう》は充分にある。
鈴旋が遡ったのは、殷雷たちと遭遇《そうぐう》した日の丁度《ちょうど》、一か月前だった。
一か月もあれば、殷雷たちを歓迎する準備は充分に間に合うだろうと、考えたからだ。
鈴旋が今|居《い》る場所は夕闇《ゆうやみ》迫《せま》る路地裏《ろじうら》だ。一か月前のこの日、自分は何をしていたのか鈴旋は思い出そうとした。
なかなか、一か月前の自分の行動を思い出すのには手間《てま》がかかる。
それでも鈴旋は、今は路地を抜け、酒場に行く途中《とちゅう》だったと思い出した。
一部を思い出すと、それに引きずり出されるように、幾《いく》つかの記憶《きおく》も戻る。
「銀龍《ぎんりゅう》の前月? 青鳥《あおどり》の祭りの一日前だな。
確か、この日は酒場で馬鹿な飲み比《くら》べをやって、酷《ひど》い目にあったっけ。
酒場はやめて、家に帰ろう」
明日からは、色々《いろいろ》やる事がある。
「妙《みょう》な人? さあ、知らないわよ」
水を置くだけ置いて、茶屋《ちゃや》の女はそそくさと逃《に》げるように店の奥《おく》へと帰っていった。
殷雷は、棍《こん》を卓《たく》に立《た》て掛《か》け、毒《どく》づいた。
「愛想《あいそう》の悪い店員だな」
和穂は軽くくしゃみをして、水を飲む。
「それにしても賑《にぎ》やかな町だね。それほど大きくもないのに」
「さあな。近くに観光地《かんこうち》でもあるんだろ。それとも祭りでもあるんじゃないか」
賑やかな茶店だった。広い店内には無数の卓があり、その卓の殆《ほとん》どが埋《う》まっている。
殷雷も水を飲む。
「まったく、注文《ちゅうもん》ぐらい取りにこいよ。それより和穂、宝貝《ぱおぺい》の在《あ》り処《か》は近いのか?」
二人の会話に耳を傾《かたむ》け、鈴旋は笑いを堪《こら》えるのに必死《ひっし》だった。和穂と殷雷の卓から少し離れた卓に、鈴旋は座《すわ》っている。
『馬鹿ねえ、油断《ゆだん》しちゃって!』
油断するも何も、目の前を鈴旋が横切ったところで、和穂たちは警戒《けいかい》しないだろう。
既《すで》に、この茶屋の中の客は、和穂たち以外は全《すべ》て、鈴旋の雇《やと》った刺客《しかく》だった。屈強《くっきょう》な荒《あら》くれ者たちに客のふりをさせているのだ。
鈴旋が聞き耳を立てていると、和穂がボソリと言った。
「ねえ、殷雷」
「なんだ?」
「そりゃ、自分のお金なんだから、どう使おうが勝手《かって》だと思うよ」
「は? 何の話だ」
和穂は小さく手招《てまね》きして、殷雷の顔を招き寄《よ》せる。
「勝手だと思うけど、ごつついオジサンたちが、よってたかって、茶屋で団子《だんご》を食べてるのって変じゃない?」
『し、しまった!』
鈴旋の額を冷《ひ》や汗《あせ》が流れた。このままでは罠《わな》だと勘《かん》づかれてしまう。
慌《あわ》てて、鈴旋は手に持った湯飲《ゆの》みを床《ゆか》に叩《たた》きつけた。砕《くだ》け散《ち》る、湯飲みの音が襲撃《しゅうげき》の合図《あいず》だった。一斉《いっせい》に男たちは椅子《いす》から立ち上がり、椅子と床が擦《こす》れる音が、爆走《ばくそう》する牛車《ぎっしゃ》のような轟音《ごうおん》を撒《ま》き散《ち》らす。
立ち上がった男たちは、それぞれが刀《かたな》やら棍棒《こんぼう》やら、椅子やらを手に持ち、殷雷たちに襲《おそ》いかかる。驚《おどろ》かされた描《ねこ》の尻尾《しっぽ》のように、殷雷の髪《かみ》の毛が逆立《さかだ》った。
「な、なんだいったい!」
驚きながらも、さすがは武器の宝貝、とっさに卓の上を転《ころ》がって、椅子に座る和穂の背後《はいご》に近寄り、一気に和穂ごと椅子を仰向《あおむ》けに倒《たお》した。
「きゃ!」
そして、倒した椅子を和穂ごと、卓の下に押し込み、自分は卓の上に飛び乗った。
一番近くにいた男たちの攻撃《こうげき》が、殷雷に襲いかかる。
だが、殷雷は卓の上で飛び跳《は》ねつつ、どうにか攻撃をかわし、棍を手に取った。
そして、それが本能《ほんのう》であるかのような滑《なめ》らかな動きで、棍を下段《げだん》に構《かま》える。
全身に漲《みなぎ》る気迫《きはく》とは、恐《おそ》ろしいまでに対照的《たいしょうてき》に、殷雷の体は柔《やわ》らかくしなやかだった。
棍を握《にぎ》る手も、まるで小鳥を包《つつ》み込むように脱力《だつりょく》している。
どんな間抜《まぬ》けでも、今の殷雷に隙《すき》が無《な》い事に気がついただろう。
だが、悲しいかな最前列の男たちは、間合《まあ》いを離そうにも、次から次へと迫《せま》り来る、他の刺客の為《ため》に身動きが取れない。
殷雷は、にいと笑い、最前列の男たちも仕方《しかた》がなく、にいと笑った。
「誰《だれ》かに雇われたのか、操《あやつ》られてるのか、どっちだか判《わか》らんが、運がなかったな。武器を持ってる奴に加減《かげん》はせんぞ!」
瞬間《しゅんかん》、棍の突きが最前列の男たちを襲う。棍の一撃は、正確《せいかく》に男たちの鼻《はな》の付け根に炸裂《さくれつ》する。もんどり打って倒れようにも、押し合いへしあいでそれもかなわない。どうにか殷雷と同じように卓へ上《のぼ》ろうと悪戦苦闘《あくせんくとう》する者もいたが、次から次へと棍の餌食《えじき》になる。
意外《いがい》と呆気《あっけ》なく、勝負はついた。刺客たちは呻《うめ》き声を上げつつ、床に横たわった。かなりの人数が、戦いの間に逃《に》げ出していたが、それでも大漁《たいりょう》の魚市場《うおいちば》さながらに男たちが、床に転《ころ》がっていた。
殷雷は和穂を押し込んだ卓に、足をかけ一気に蹴《け》り上げる。
何が起きたのか、よく判ってないが、取り敢《あ》えず驚いてる和穂の姿がそこにあった。
何が起きたのか、完全に把握《はあく》している鈴旋の表情も、和穂とあまり変わりはない。
愕然《がくぜん》とする鈴旋の前に、殷雷は飛び降りた。
「よお。面白《おもしろ》い事やってくれるじゃねえか」
「あ、あんた無茶苦茶《むちゃくちゃ》強いじゃないか!」
「馬鹿め、こんな狭《せま》い場所で、これだけの人数で攻《せ》めたら、同士打ちになるに決まっておろうが。こいつらの三分の二は、自分たちの武器で倒れたんだ」
殷雷の棍が鈴旋の肩《かた》を強く打った。
慌てて和穂は鈴旋のもとへ駆《か》け寄《よ》る。痛さで小刻《こきざ》みに震《ふる》える肩は、まるで寒さに凍《こご》えているようであった。殷雷が手加減しているのは判ったが、それでも和穂は叫《さけ》ばずにはいられない。
「殷雷! 乱暴《らんぼう》しちゃ駄目《だめ》じゃない!」
「うるせい。あの連中はこの女の指図《さしず》で襲《おそ》ってきたんだ!」
信じられないような表情が和穂の顔に浮かんだ。
「本当なんですか? どうしてそんな事を」
「はん、うるさいわね。だから、どうだっていうのよ。あんたにとやかく言われたくないわね。殷雷がいなけりや、何も出来ないくせして!」
言葉に詰《つ》まる和穂の姿が、鈴旋には心地好《ここちよ》かった。鈴旋は高らかに笑う。
笑いながら、懐《ふところ》から取り出した再来砂《さいらいさ》を作動《さどう》させ鈴旋は赤い光となり虚空《こくう》へと吸い込まれる。
夕闇《ゆうやみ》迫る路地裏《ろじうら》で、鈴旋は荒い息をついていた。肩にはまだ痛みが残っていた。
「ええい、殷雷め! 刀の宝貝だけあって奴は簡単《かんたん》には倒せん! 何か手はないのか!」
鈴旋のフツフツと煮《に》えたぎる闘志《とうし》が、ふと覚《さ》めた。冷静《れいせい》に考えれば別に戦う必要《ひつよう》など、全《まった》くなかったのだ。
殷雷と和穂が一か月後にやって来るのは判っている。ならば、逃げればいいのだ。
「そうか。逃げまくっているうちに、他の宝貝の使い手が、奴らを倒してくれるかもしれないじゃないか」
だが、どっちに逃げればいいのか?
鈴旋は、和穂たちの会話を思い出した。確か、あいつらは祭《まつ》りの事を知らなかったはずだ。
「つまり、隣町とは逆の方からやって来ているんだ! なら、隣町を抜けて、西へ西へと逃亡《とうぼう》すればいいんだ!」
逃げきる自信《じしん》は充分にある。和穂たちとは一か月も離れているのだ。もし、追いつかれたとしても……鈴旋は懐の再来砂を握《にぎ》りしめた。
完璧《かんぺき》だ、完璧すぎる作戦ではないか。
一年が過《す》ぎ、二年が過ぎ、五年が過ぎ、七年の月日が流れた。その間、鈴旋のもとに和穂たちは姿《すがた》を現しはしなかった。
もはや、和穂たちは他の宝貝によって倒されたのだろうと、安心した鈴旋は、とある港町《みなとまち》に落ち着いた。
この町にも博打場《ばくちば》はある。生活に不自由《ふじゅう》はしない。
そして、鈴旋が和穂たちの事をコロリと忘れ、さらに三年が過ぎた。
夕闇迫る、船着《ふなつ》き場《ば》を鈴旋は歩いていた。人通りもなく、風もピタリと止《や》んでいる。
その鈴旋の前にフラリと一つの人影《ひとかげ》が立ちふさがった。夕焼けを背中にしているので、顔がよく判らない。
「誰《だれ》よあんた?」
立ちふさがったのは、背筋《せすじ》のシャンとした女だった。腰《こし》に届《とど》きそうな程《ほど》の長い髪《かみ》をしている。一陣《いちじん》の風が吹き、女の髪と大きな袖《そで》を緩《ゆる》やかになびかせた。夕日のまぶしさを、少しでもやわらげようと、鈴旋は軽く顔を手で覆《おお》い影を作る。
ぼんやりと、女の顔が見えた。鋭《するど》いながらも、どこか物悲《ものがな》しい瞳《ひとみ》。その上には意思《いし》の強さを表すような、太めの眉《まゆ》。
女は静《しず》かに言った。
「判っているでしょ? 宝貝を返してちょうだい」
鈴旋は生唾《なまつば》を飲み込んだ。この声には聞き覚《おぼ》えがある。和穂だ。頭の奥深くでほこりにまみれていた記憶《きおく》が、鮮明《せんめい》に蘇《よみがえ》る。
昔の声にあった、甘《あま》ったるさは、涼《すず》やかな落ち着きに変《か》わっていた。だが、これは和穂の声だ。身長もだいぶ伸《の》びている。
十年間逃げ通して、思い出したように追《お》っ手《て》は現れたのだ。
が、和穂は一人だけのようだ。
「か、和穂? 殷雷はどうしたの!」
和穂は瞬間《しゅんかん》、息《いき》をのんだ。そしてゆっくりと語った。
「殷雷は死んだわよ。忘れもしない、十年前のあの日。銀龍神社建立《ぎんりゅうじんじゃこんりゅう》五十周年とかいう祭りの日だった。
祭りが行われていた町に住む、湯飲《ゆの》みの宝貝の使い手に倒された。私が風邪《かぜ》のせいで倒れた瞬間、私を守ろうとして……」
よし、まだ運はある。懐には再来砂以外にも、短刀《たんとう》が忍《しの》ばせてある。殷雷ならば、通用しないだろうが和穂ぐらい、簡単《かんたん》に倒せるはずだ。
鈴旋は短刀を構《かま》え、和穂に飛《と》び掛《か》かった。
「それは残念《ざんねん》ね! こっちは修羅場《しゅらば》を何度もくぐり抜けたのよ! あんたなんかに、みすみすやられないから!」
突き出される、短刀を持った鈴旋の手首を和穂は、簡単に掴《つか》む。そして後ろ手に事《こと》も無《な》げにねじりあげた。
「!」
和穂は容赦《ようしゃ》なく腕《うで》を締《し》め上げ、鈴旋の耳元で囁《ささや》いた。
「修羅場を乗り越《こ》えたのはお互《たが》い様《さま》よ」
抑揚《よくよう》のない和穂の声に潜《ひそ》む気迫《きはく》に、鈴旋はゾクリとした。
不自然《ふしぜん》な体勢《たいせい》になりながらも、鈴旋は懐に手を入れ、再来砂を掴む。
「ふ、ふふ。でも残念ね和穂。私はあなたに捕《つか》まりはしない。宝貝は返さないわよ。私は自由に過去に戻《もど》れるんだから」
それでも和穂は驚《おどろ》かなかった。
「そう。過去へでもどこへでも逃《に》げるがいいわ。でも、逃げ切る事は出来ないわよ。私の命《いのち》がある限り、あなたの命がある限り、どこまでも追《お》い詰《つ》めてあげるから。せいぜい、惨《みじ》めな逃亡者の生活を満喫《まんきつ》しなさい」
これが、団子《だんご》を取られたからといって大騒《おおさわ》ぎした娘の言葉なのだろうか。しかも、脅《おど》し文句《もんく》ではないのだ。言葉に含まれる大いなる自信に、鈴旋は恐怖《きょうふ》した。
ただ、もうこの場所から離れたい。この時間から遠く立ち去《さ》りたいという思いと共《とも》に、鈴旋は再来砂を起動《きどう》させた。
和穂の手の中で、赤い光となり鈴旋は虚空へと消えた。
時間を逆行しながら鈴旋は、だんだんと今までにない不快感を感じてきた。
普通の人間にとって時の流れは一本の線でしかないが、鈴旋の時間は複雑な網《あみ》の形をしている。過去に戻り、以前とは違う行動をおこせば、時間は二つに別れるのだ。
鈴旋の時間の流れには、そんな無数の別れ目があった。
魂《たましい》が干《ひ》からびるような疲労《ひろう》に、鈴旋は吐《は》き計《ナ》を覚えた。よろけ、床《ゆか》に手をつくと、目に入ったのは皺《しわ》だらけの腕だった。
「こ、これは!」
鈴旋の絶叫《ぜっきょう》に驚いたのは、茶屋《ちゃや》の女だけではなかった。卓《たく》に座《すわ》る和穂と殷雷も慌《あわ》てている。和穂は立ち上がり、ひざまずく老婆《ろうば》に歩《あゆ》み寄《よ》った。
「どうしたんです? お婆《ばあ》さん」
誰が婆さんだ! と、怒鳴《どな》る気力はない。
この腕を見れば、自分の姿は簡単に想像《そうぞう》出来た。しかも、間違えたみたいだ。この過去は、一番最初に和穂と出会った過去ではないか。
本当ならば、和穂に一か月の差を開けて逃げている過去に行かねばならなかったのだ。
鈴旋の手から再来砂が転《ころ》げ落ちる。途端《とたん》に殷雷の目の色が変わった。
「これは、再来砂! さては、おまえが今話していた鈴旋か?」
茶屋の女は首を横に振《ふ》った。
「違《ちが》うよ。歳《とし》よりふけて見えるけど、鈴旋はもっと若い女だよ」
殷雷は再来砂の能力を知っていた。そして欠陥《けっかん》すらも知っていた。
「ほお。もっと若い女か。でもな、こいつが鈴旋だ。再来砂を使えば博打《ばくち》で蔵《くら》を建てるなど、造作《ぞうさ》もない。だが、無理《むり》な使い方をしたんだ」
和穂は鈴旋を支《ささ》えながら、殷雷に尋《たず》ねた。
「どういう意味?」
「再来砂は使用者を過去へ引き戻す。だが、若返《わかがえ》らせる訳《わけ》ではない。五年前に引き返そうと思えば、五年の老化《ろうか》が起きる。
一里《いちり》の距離を往復《おうふく》するには、二里の距離を歩かねばならんのと一緒《いっしょ》だ。同じ道を引き返したとて、疲《つか》れは消えないだろ。
この再来砂は、そこに致命的《ちめいてき》な欠陥があるんだよ。時間を戻すのに、三倍の寿命《じゅみょう》を奪《うば》いさるんだ。数週間や数か月なら、気がつくまい。だが、一気に十年や二十年を引き返すと酷《ひど》い目にあう。
だがな、和穂。再来砂は切《き》り札《ふだ》になる。最悪の結果になった場合、人生をやり直せる。無闇《むやみ》に使えぬが、最後の切り札として」
殷雷の言葉より、和穂は老婆が気になって仕方《しかた》なかった。ぜいぜい、細《こま》かい息を吐《つ》いている。
「ねえ、殷雷。このお婆……鈴旋さんは、元に戻せないの?」
殷雷は和穂をにらみつけた。それどころか本気で和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》む。
「再来砂は、宝貝回収の鍵《かぎ》を握《にぎ》っていると言ってもいいんだぞ! その女は哀《あわ》れだとは思うが、自業自得《じごうじとく》だ」
殷雷は妙《みょう》な部分で正直《しょうじき》だった。元に戻す方法はないと嘘《うそ》をつけば、和穂も納得《なっとく》していただろう。だが、和穂は食《く》い下《さ》がった。
「元に戻す方法を教えて」
吐き捨てるように、殷雷はその方法を和穂に告《つ》げた。
「……そいつが、未来で見たものを誰《だれ》にも話してないのなら、再来砂を破壊《はかい》すれば肉体は元に戻る。もちろん、未来の記憶は消滅《しょうめつ》する」
「良かった。鈴旋さん、元に戻れますよ」
老婆になった衝撃《しょうげき》の中で、和穂の微笑《ほほえ》みが鈴旋には心地好《ここちよ》かった。この微笑みを忘れないまま、和穂には成長してほしいと、鈴旋は願《ねが》った。あの悲しい目をした女には、ならないで欲しい。
その為《ため》には、殷雷が明日死ぬ事を教えなければならない。
殷雷が死ななければ、歴史《れきし》は大きく変わるのだ。鈴旋は口を開いた。
が、慌《あわ》てて、和穂は鈴旋の口を塞《ふさ》ぐ。
「もが! もがもが!」
「駄目《だめ》ですよ、鈴旋さん。喋《しゃべ》ったりしちゃ。さあ、殷雷。早く再来砂を壊《こわ》して」
殷雷はあまりの勿体《もったい》なさに、泣きそうな顔になっていた。
「あぁぁ。切り札なのにぃぃ!」
「もがが!」
棍は一閃《いっせん》し、再来砂は脆《もろ》くも砕《くだ》け散《ち》った。途端《とたん》に、鈴旋の体を青い光が包《つつ》み、ゆっくりと肉体が若返っていく。
「ぐがが!」
抵抗《ていこう》しようにも、老《お》いた力ではどうにもならない。青い光が活力《かつりょく》を与えるが、同時に記憶も砂漠《さばく》に滴《したた》った水のように消えていく。
伝えなければ、和穂の為に、和穂の為に、和穂の為にする事がある、和穂の為に! 和穂に対する思いが強くなればなるほど、記憶は薄《うす》れていく。
茶屋の女は盆《ぽん》を引っ繰り返し驚《おどろ》いた。若返った老婆は、確かに鈴旋だったのだ。とうの鈴旋はキョトンとしながらも、和穂の手を握った。
「和穂……」
「何ですか?」
だが、鈴旋は口をパクパクさせているだけだ。ただ、心の中にあるのは強い思い。
和穂の為に何かしなければ、何をしたかったのだろう。老婆の時に何を考えていたのだろうか。
そして、和穂はくしゃみをした。
心配そうに鈴旋は和穂の額《ひたい》に手を当てた。
「和穂、風邪《かぜ》? 今年の風邪はこじらせるとたちが悪いわよ。私の家で治《なお》るまで休養《きゅうよう》するといい。医者ぐらい呼んであげる。お礼《れい》の代《か》わりだから、断《ことわ》ると承知《しょうち》しないわよ」
殷雷が不服《ふふく》そうに言った。
「なんだよ。それじゃ、銀龍神《ぎんりゅうじん》の祭《まつ》りが見れないじゃねえか」
鈴旋は静かに言った。
「そうね。何だったら、あんた一人ででも見物《けんぶつ》に行く?」
「こいつは俺《おれ》がいねえと何も出来ねえんだ。離れるわけにいくか」
「そう? じゃ、和穂に変な苦労《くろう》をさせないように、せいぜい頑張《がんば》りなさいよ。
お願《ねが》いだからね。お願いだから、苦労をかけさせないでよ」
『再来砂』
使用者を過去へと引き戻す砂時計の宝貝《ぱおぺい》。
殷雷が語る欠陥《けっかん》は、不老不死《ふろうふし》の仙人《せんにん》にとっては、さほど問題ではない。
常《つね》にやり直しのきく人生。それは同じ場所をグルグル回り続けるだけの、迷路《めいろ》に過ぎない。
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切れる女とおとぎばなし
てくりてくりと、和穂《かずほ》たちは次の宝貝《ぱおぺい》を目指《めざ》し、街道《かいどう》を歩いていた。
水はけを考えてばらまかれている砂利《じゃり》が、和穂の足元で小さな音を立てている。
さすがの殷雷《いんらい》も、砂利道を音を立てずに歩くような芸当《げいとう》は出来《でき》なかったが、それでも和穂より格段《かくだん》小さな足音しか立てていない。
そして、殷雷が、くしゃみをした。
「ぶぇっくしゅい!」
殷雷のくしゃみを合図《あいず》にし、街道を進む和穂の足がピタリと止まった。鼻をグシュグシュいわせながら、殷雷も立ち止まる。
街道には数人の人影があったが、茫然《ぼうぜん》としているのは和穂一人だけであった。
他の者にとって、くしゃみをする者の姿など、珍《めずら》しくもなんともなかったからだ。
和穂にしても、自分が何に驚《おどろ》いたのか、すぐに忘れてしまった。
だが、今、自分がとても驚いた記憶《きおく》だけはしっかりとあった。
和穂は言葉が見つからず、口をパクパクさせるだけであった。
殷雷が言った。
「なにをボケッとした顔をしてやがる。えっくしゅい!」
くしゃみ。そう、くしゃみだ。くしゃみはくしゃみでも、何かが鼻をくすぐった時の、軽いくしゃみとは、少しばかり様子が違う。
どちらかというと、咳《せき》に近いような響《ひび》きがする、絡《から》みつくようなくしゃみだった。
和穂のパクパクする口の動きに唐突《とうとつ》に声がのった。
「……どうしたの殷雷、くしゃみなんかして! もしかして風邪《かぜ》をひいたの? この間の私の風邪が移《うつ》っちゃったの!」
「たわけ。宝貝が風邪をひくか。でも、ちょいとまずいといえばまずいな」
殷雷は否定したが、和穂には風邪をひいているようにしか見えなかった。
さっきのくしゃみをきっかけに、殷雷の声は少し鼻声になっているし、目も微《わず》かに充血《じゅうけつ》しているようだった。
風邪は一つのくしゃみをきっかけに始まるものである。
「でも、そのくしゃみは?」
殷雷は腹立《はらだ》たしそうに答えた。当の殷雷にはくしゃみの原因は判《わか》っていた。
「いかに宝貝とて、万能《ばんのう》ではない。常《つね》に最善《さいぜん》の状態で永久《えいきゅう》に動き続ける訳《わけ》にゃいかないんだよ。
人の状態《じょうたい》を取り続ければ、気血《きけつ》の運行に偏差《へんさ》も生まれる」
「? よく判らないけど、宝貝でも疲《つか》れが溜《た》まるって意味?」
殷雷は首を縦《たて》に振《ふ》ろうか、横に振ろうかしばし迷《まよ》った。
「人間の場合、一度疲れ始めたら休養でもして回復しない限りは、疲れは溜まる一方だ。でも、そういうのとは少し違う。普段は十割の能力を発揮《はっき》してるが、気血の偏差で九割程度に能力が下がったとしよう。宝貝は、あえて能力を八割ぐらいにまで下げて、余剰《よじょう》した力を使って回復《かいふく》しようとするんだ」
「それじゃ、今の殷雷って……」
舌打《したう》ちしながら、殷雷は咳《せ》き込《こ》んだ。
「そうだ。正常時の八割の状態だ。外から見るぶんにゃ、風邪をひいてるようにしか見えんだろう。普通の武人《ぶじん》が風邪をひいて腕が鈍《にぶ》るように、俺の腕も八割に落ちてるって寸法だな」
和穂は心配そうに殷雷を見つめた。
「大丈夫《だいじょうぶ》? 苦《くる》しくはないの?」
「け。こんなのは、人間でいう鼻風邪ぐらいのもんで、苦しいというより鬱陶《うっとう》しい程度の話だ」
殷雷は強がって見せたが、和穂の顔からは心配の表情は消えない。
「ねえ、治《なお》す方法はないの? 薬とか何か方法は?」
「心配《しんぱい》はいらん。気血の偏差は病《やまい》ではない。大体《だいたい》宝貝用の薬なんざあるか! ま、三か月もすれば通常の状態に戻《もど》る」
口調を荒《あら》らげたところで、元気な振りを装《よそお》っているようにしかみえなかった。
「本当に大丈夫?」
「うるせえな」
とは言ったものの、殷雷に不安が無いわけではなかった。
完全ではない状態で、他の宝貝と戦うのはあんまり気分のいいものではない。
日常|雑貨《ざっか》の類《たぐい》の宝貝ならば、充分《じゅうぶん》に戦えるだろうが、相手も武器の宝貝だとしたら、状況《じょうきょう》はかなり不利《ふり》だ。
風邪をひいている時に、あまり真剣勝負をしたくはない。
力が衰《おとろ》えるだけならまだましなのだが、微熱を抱えた人間のように、咄嗟《とっさ》の判断力にまで影響がでるのが心配だ。
殷雷の隣《となり》で、和穂はまるで、正体不明の病魔に侵《おか》された病人を見るような目で殷雷を見ている。
こんな面を三か月も拝《おが》まされるのかと思うと、殷雷の気も滅入《めい》った。本当に厄介《やっかい》なのは今のように症状が表に出ない時なのだが、説明しても和穂には理解出来まいと殷雷は考えた。
半《なか》ば渋々《しぶしぶ》殷雷は口を開いた。
「……治す方法がなくもない」
パッと和穂の顔が明るくなる。
「え、どうすればいいの!」
「……宝貝として作動しながら、気血の偏差を治そうとするから、三か月もかかるんだ。
安定した場所……そうさな、断縁獄《だんえんごく》の中で回復に専念《せんねん》すりゃ、一週間もあれば充分正常に戻れる」
ホッと安堵《あんど》の溜め息を和穂は吐《つ》いた。
「なんだ、だったら断縁獄の中でゆっくり静養してちょうだい」
「……あのな和穂」
和穂はドンと自分の胸《むね》を叩《たた》いた。
「大丈夫! 私なら、心配いらないから!」
本調子の殷雷ならば、『どの面下げてそんな口が叩けやがる!』とでも怒鳴《どな》ったところだろうが、今の殷雷は軽いめまいを覚《おぼ》えるだけで、叫《さけ》ぶ気にもならない。
殷雷のめまいもまた、和穂は不調の表れだと勘違《かんちが》いした。
「やっぱり、気分悪そうだよ」
たった一週間、それでも一週間である。
ここ数日、殷雷は宿屋の一室で机に向かい索具輪《さくぐりん》を片手に色々《いろいろ》と計算を続けていた。
幾《いく》つかの宝貝の反応はあるが、それほど近い場所にはない。
が、一直線に和穂を狙《ねら》ったとしたら、数日で辿《たど》り着《つ》ける距離だ。
一つの土地に定住する宝貝使いもいれば、気儘《きまま》に旅をしている使い手もいるだろう。生憎《あいにく》、索具輪の反応だけではその違いは判《わか》らない。
連続して索具輪を使い、反応の動きを知りそれと地図を重《かさ》ね合わせ、移動の方向を分析《ぶんせき》する。
距離が遠くても、街道をこちらに向けて進んでくる使い手がいれば、おちおち休むわけにはいかない。
使い手たちの軌道《きどう》を描《えが》いた、沢山《たくさん》の紙をにらみつけ、慎重《しんちょう》に慎重を重ね、殷雷はその動きを分析する。
星の動きを分析し、国の吉凶を占《うら》う天台官《てんだいかん》でも、ここまで慎重に頭は使わなかっただろう。
そして、殷雷はやっと結論を出した。
「ま、大丈夫だろう。
この宿屋、この街にいる限り、ここ一週間で敵と遭遇《そうぐう》する可能性はなかろう。治安も良さそうだから、昼間に大通りに出るぐらいなら、それほど物騒《ぶっそう》じゃあるまい。
だが、和穂。この一週間は、この宿屋から離れるんじゃないぞ」
和穂はコクリとうなずく。
「大丈夫よ。殷雷が元気になるまで、私もおとなしくしてる」
それほど強く注意する必要はないと、殷雷は考えた。和穂はちょいとお人好《ひとよ》しであり、その度が過ぎて間抜《まぬ》けな行動に出る時もなくはないが、基本的に馬鹿ではない。
護衛《ごえい》もなしで、ヒョコヒョコ危険な場所に出歩いたりはしないだろう。
「さてと。ならグズグズしている暇《ひま》はない。和穂、断縁獄をよこしな」
索具輪と引換えに、和穂は断縁獄を殷雷に渡した。
そのまま、殷雷は自分で自分を断縁獄の中に入れるかと和穂は思ったが、少し違っていた。
殷雷は断縁獄を手に叫ぶ。
「深霜刀《しんそうとう》!」
途端《とたん》、断縁獄の中から一陣《いちじん》の風が吹きすさび、一人の娘が姿を現した。
深霜は大きく深呼吸《しんこきゅう》をしながら、思いっきり伸《の》びをした。
そして、猫《ねこ》が魚に見せるような笑顔で殷雷の腕《うで》に飛びついた。
「きゃあ、殷雷。私に会いたくなったのね」
焼《や》け焦《こ》げた蜂蜜《はちみつ》のような深霜の甘い声に、殷雷は口を開いたが言葉がすぐに出ない。
殷雷の態度《たいど》に深霜は疑問《ぎもん》を覚《おぼ》えた。
「どしたの?」
殷雷の開いた口は、言葉より先にくしゃみを炸裂《さくれつ》させる方を選ぶ。
「べぇっくしゅい!」
至近距離《しきんきょり》で、顔に向かってくしゃみを浴《あ》びせられ、さすがの深霜のこめかみも、ピクリとひくついた。
「……えらいご挨拶《あいさつ》じゃないの」
「すまんすまん。悪気があってやってるんじゃない」
深霜とて、殷雷と同じく刀《かたな》の宝貝である。
説明をされる前に、殷雷の体調に気がついた。
「あれ、気血の偏差?」
鼻をムズムズいわせ、殷雷は首を縦《たて》に振った。
「そうだ。それで二週間ばかり、休息を取ろうと思うんだが、深霜よ。
その間、和穂の護衛を引き受けてはくれないか?」
チラリと深霜は和穂に目をやる。その視線は殷雷に向けた柔《やわ》らかい視線とうって変わって鋭《するど》いものだった。
「……どうして私が和穂の子守《こもり》なんかしなくちゃ……」
と、そこまで口に出した深霜だが、慌《あわ》てて言葉を取《と》り繕《つくろ》った。
「うん、判った。殷雷の頼《たの》みとあっちゃ、断《ことわ》れるはずがないじゃない。
和穂の事は私に任《まか》せて、殷雷はゆっくりと休んでて」
「ごほ。そうか、引き受けてくれるか。
ま、そんな面倒《めんどう》な仕事じゃない。
俺《おれ》が回復するまでの間、和穂はこの宿屋に留《とど》まる。街《まち》に出る用事もあるだろうから、その時はついてやってくれ。
それだけでいいからな。
それと、和穂」
「なあに?」
「やれ、気血の偏差だと騒《さわ》いでいるが、別にそんな大掛《おおが》かりな治療《ちりょう》をするんじゃない。
ちょいとでもやばいと思ったら、遠慮《えんりょ》なく俺を呼び出せ」
一応和穂はうなずいたが、出来るだけ殷雷にはゆっくりと休息して欲しかった。
深霜が割って入る。
「大丈夫よ。私がついてるんだから、何の心配もないわよ」
殷雷は壁に立て掛けていた棍《こん》を、手に取った。
「休んでる間は、棍も用無《ような》しだな。深霜よ、使うんだったら、この棍を貸しておいてやるぜ」
しばし深霜は考えたが、首を横に振った。
「いらない。棍は私の趣味《しゅみ》じゃないもん」
「そうか。じゃ、一緒《いっしょ》に断縁獄の中に持っていこう。
ではそろそろ、休ませてもらうか。
じゃあな」
言葉が終わると共に、殷雷と棍の姿は一陣の風となり、断縁獄の中に消え去った。
地面に落下しようとする、断縁獄を素早《すばや》く深霜がつかんだ。
深霜は幸《しあわ》せそうにニコニコしていたが、それと裏腹に和穂の表情は、考え事でもあるのか、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄《よ》っていた。
深霜が言った。
「何、心配してんのよ。別にあんたを酷《ひど》い目に合わせたりゃしないわよ」
和穂はそうではないと首を振った。
「ちょっと不思議だったの。
どうして殷雷が深霜に護衛を頼んだのか、理由が判《わか》らない」
少し照《て》れ、嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》みながら深霜が答える。
「やあねえ、そんなの決まってるじゃないのさ。
私に言わせるつもり?」
「別にいいよ」
和穂の言葉を無視し、深霜は続けた。
「殷雷はなんだかんだいって、私を信用してるのよ。
まあ、ああいう性格だから素直《すなお》に、
『あぁ、俺が頼れるのは愛する深霜、お前だけだ。だから和穂の事を頼む』
とは、言わないだろうけどね、きゃ」
当の殷雷が居《い》れば、『何が、きゃ、だ!』とでも怒鳴《どな》っただろうが、彼は今やひょうたんの中である。
和穂は深霜の説明には、全《まった》く納得《なっとく》がいかないようだった。腕を組みながら、頭をひねっている。
「そうかなあ? どこかがおかしいな」
深霜の笑顔が少しひくつく。
「今の説明のどこがおかしいのよ!」
ついに納得のいく結論に辿《たど》り着き、和穂はポンと手を打った。
やっと謎《なぞ》が解《と》け、和穂は嬉《うれ》しそうにはしゃいだ。
「判った! せっかく断縁獄の中で休むつもりなのに、深霜がいたらまとわりつかれて休息どころじゃなくなるじゃない。
それで、自分が断縁獄に入《はい》る替《か》わりに、深霜を外に出したんだ」
和穂の両手を優《やさ》しく握《にぎ》り、深霜は和穂の言葉の続きを喋《しゃべ》る。
「それで、間抜けな深霜は頼りにされたと勘違いして、舞い上がって健気《けなげ》に和穂の子守にせいを出すって事かな?」
氷のような素晴《すば》らしい深霜の笑顔に、和穂の笑顔も固まっていく。
両手を握りあったまま、二人の娘の間に奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》がしばし流れた。
深霜の言葉が沈黙を破《やぶ》る。
「誰《だれ》が『間抜けな深霜』だ!」
「それは私が言ったんじゃないよ!」
「やかましい、問答無用《もんどうむよう》。然《しか》るべき罰《ばつ》を受けてもらうわよ!」
焼《や》けた鉄板《てっぱん》の上に滴《したた》った水滴が、蒸発《じょうはつ》するような音がした。
それが深霜に握られた自分の手から出ている音だとすぐに和穂は気がついた。
「つ、冷たい!」
「ふふふ。お前のような女は、季節外れの霜焼《しもや》けに苦しむがいいのよ!」
大分、落ち着いたのか、深霜は茶を啜《すす》りながら窓の外を眺《なが》めていた。
「いいお天気ねえ、和穂さん」
和穂は呑気《のんき》に天気の話をしている余裕《よゆう》はなく、宿屋の従業員に用意してもらった二つの盥《たらい》の中に、順番に手を着けていた。
当然、片方の盥には湯、もう片方には水が入ってる。
「あぁ、とリヒリする」
深霜は窓の外で遊ぶ雀《すずめ》を見つめる。
「和穂には判らないのよ。あなたは愛を知らない女ですもの」
話が妙《みょう》に大きくなっているのに和穂は気がついた。
「そんな大袈裟《おおげさ》な。ねえ、深霜。仲良くやりましょうよ」
茶で口を湿《しめ》らせ、深霜は言った。
「判ってるわよ。得にもならない喧嘩《けんか》をやる趣味はないからね」
和穂の手から、どうにか痛みはひいていたが、代わりに霜焼け独特の、痒《かゆ》みが起きていた。
和穂は特に霜焼けの酷《ひど》い、左手の小指に塗《ぬ》り薬を着け、小さな包帯《ほうたい》で小指をグルグル巻きにした。
「でも、深霜。こうやって一週間も宿屋にいるのって結構《けっこう》退屈《たいくつ》だね」
窓の外を見つめていた深霜は、呆《あき》れた顔をして振り向いた。
「あんた、何を言ってるのよ」
「へ?」
「宝貝を集めなくてどうするのよ」
ほんのついさっき、殷雷におとなしくしていろと言われたばかりだ。が、深霜はそのとおりにするつもりは最初からなかったようである。
和穂は慌てた。
「だって、殷雷はこの街に居ろって」
顔の前に人差《ひとさ》し指《ゆぴ》を立て、深霜は舌《した》をならした。
「ちっちっち。
殷雷にいいとこ見せる、絶好《ぜっこう》の機会《きかい》じゃないの。気血の偏差を元に戻して、一週間ぶりに外界に戻ったら、なんと宝貝が回収されてるのよ。
『おお、さすがは深霜、子守どころか宝貝の回収までやってくれていたか!』
って、大喜びするに決まってるじゃない」
「……なんか動機《どうき》が不純《ふじゅん》なような」
それどころか、例《たと》え宝貝を回収出来たとしても、殷雷はおとなしくしていなかった事を怒るんじゃないかと、和穂は思う。
和穂の考えを知ってか知らずか、深霜はまくしたてた。
「うるさいね。和穂だって、少しは殷雷に見直されたいんじゃないの?
しょうがないな、私一人の手柄《てがら》じゃなくて和穂と二人で協力して回収したって事にしてあげるからさ。
だったら文句《もんく》はないでしょ」
殷雷に怒られるのが、問題ではない。
余計《よけい》な行動を起こして、せっかく、休んでいる殷雷を呼び出すはめになるのが和穂は嫌《いや》だったのだ。
「駄目《だめ》だよ、やっぱり」
ガリガリと氷を噛《か》み砕《くだ》く音が、深霜の口から響《ひび》いた。いらついた深霜は、手に持つ湯呑《ゆの》みの茶を凍《こお》せたのだ。
「融通《ゆうずう》の利《き》かない女ね。いつも殷雷に頼りっきりなんでしょ?
ちょいとでも危《あぶ》ない目にあったら、
『きゃあ、殷雷、助けて!』
なんて叫んでるくせに」
それこそいいがかりだと、和穂は首を横に振った。
「そんなことないよ」
そう。和穂が殷雷に頼りきった事は、今までに一度もなかったのだ。
和穂の反論を聞き、深霜の顔に愕然《がくぜん》とした表情が浮かぶ。
「あんたもしかして、殷雷に頼ったり甘えたりしてないの?」
「それでなくても、いつも殷雷に助けてもらってるのに、これ以上頼っちゃ可哀《かわい》そうじゃない」
深霜はゴクリと口の中の氷を飲み込む。
「本当に信じられない。
あんたは、術の使えぬ能無しの元仙人なんでしょ? 適当に甘えて、頼ったりして殷雷をいい気分にさせてあげなきゃ、他にやる事がないでしょうに」
「そ、そういうもんなの?」
てんでなってない剣撃を見せられた、武術の師範《しはん》のように深霜は大きく溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「まったく、あんたって女は。
ちょっとでも困《こま》れば、死にそうな声で、
『殷雷、助けてえ!』
で、殷雷が助けてくれたら、
『きゃあ、殷雷ありがとう!』
とでも言って、首ねっこにかじりつきゃ、殷雷に限らず、大抵《たいてい》の男はいい気分じゃないの」
和穂には全くピンと来ない。
「?」
これは一から教え込む必要があるなと、深霜は考えた。
「愛を知らないどころか、あんたにゃ女の情念《じょうねん》て奴《やつ》が欠《か》けてるわね。
まあいい。この一週間でそういう部分を私がみっちり教えて上げるからね」
あまりそういう事を教えてもらっても、楽しそうな感じが和穂にはしなかった。
「いいよ別に」
和穂を見つめ、深霜は考えた。それよりも問題は、この頑固《がんこ》な和穂をどうやって宝貝回収に駆《か》り出《だ》すかだ。
深霜は何のためらいもなく、それらしい嘘《うそ》をつく。
「それはそうと和穂。気血の偏差ってどういう時に起きるか知ってる?」
「ううん、知らない。殷雷は病気とかじゃないって説明はしてくれたけど」
深霜は湯呑みを卓の上に置き、少しばかり目頭《めがしら》を押さえた。
「気血の偏差はね。精神《せいしん》に悩《なや》み事なんかの負担《ふたん》があると、余計《よけい》に酷《ひど》くなるのよ」
和穂は首を傾《かし》げた。
「殷雷に悩みなんか……」
うっすらと涙《なみだ》を浮《う》かべ、その涙を隠《かく》すように深霜は和穂から視線を外し、窓の外を見つめた。
完璧《かんぺき》な演技《えんぎ》だ。
「この場合、悩みというよりも心理的な負担ね。
能無しの元仙人を危険から守るために、いつも気が抜けないのよ。
神経に緊張《きんちょう》が掛《か》かり続ければ、そりゃ気血の偏差だって酷くなるのよ」
完全な出任《でまか》せであったが、当の和穂にそれを知るよしもなかった。
どだい、戦闘に関する緊張感で神経が参《まい》るようでは、武器の宝貝がつとまるはずはないのだ。
が、深霜の言葉は少なからず和穂の心に衝撃《しょうげき》を与えた。
「それじゃ、私の護衛が殷雷にとって、そんなに負担になっているの? でも、殷雷はそんな話は」
深霜は軽く鼻水をすすった。
「殷雷の性格を考えてみなさいな。
そんな弱音を吐《は》くはずがないじゃない」
適当に嘘の中に真実が混ぜられている。殷雷が弱音を吐きそうにないのは事実だった。
言葉を失《うしな》う和穂の気配を察《さっ》し、深霜は口の端をニヤリと歪《ゆが》めた。
当然、和穂からは深霜の笑みは見えない。
深霜は畳《たた》み掛《か》けた。
「さあ、そんな殷雷が今は休養中よ。
休息を終えて戻ってみたら、自分のいない間に宝貝が少しは回収されていたとしましょうよ。
今まで只《ただ》の能無しの元仙人だと思っていた和穂が、意外としっかりしてると判《わか》ったら、殷雷の気苦労も少しは減《へ》るとは思わない?」
沈黙する和穂。
勝利を確信する深霜。
ゆっくりと和穂が口を開く。
「……判った。殷雷が休んでる間に、一緒に宝貝を回収しましょう」
心の中で高らかに勝利の雄叫《おたけ》びを上げながら、深霜は親身《しんみ》なふりをし、ウンウンとうなずいた。
「そうでなくっちゃね。
そんなに深刻にならなくても大丈夫よ。
私だって武器の宝貝なんだから。
殷雷と和穂で今までやってこれたんなら、私だって役に立つから」
深霜とて武器の宝貝、状況の分析能力《ぶんせきのうりょく》には長《た》けていた。
殷雷が断縁獄の中から外に戻ったとき、たとえ宝貝が回収されていても、喜びはしないのは深霜も充分|承知《しょうち》だった。
刀の宝貝であろうがなかろうが、自分が立てた綿密《めんみつ》な計画を無視されて気持ちがいいものではないからだ。
当然、その時は、
『私は護衛として必死に止めたんだけど、どうしても和穂が宝貝を回収するって言ってきかなかった』
と、嘘をつくつもりだった。
面倒《めんどう》をかけた和穂を必死に守り、結果として宝貝の回収に尽力《じんりょく》したとしったら、殷雷が自分を見る目も変わるだろうと、深霜は計算していたのだ。
まあ、少しは和穂にとっちゃいい迷惑《めいわく》かと思わないでもなかったが、結果として宝貝が回収されるんだから、かまいやしないと、深霜は勝手に納得していた。
深霜は優しく問い掛けた。
「で、宝貝の反応は?」
和穂は左の耳に索具輪を着け、宝貝反応の場所を語り出した。
和穂《かずほ》たちが辿《たど》り着いたのは、宿屋のある町から街道《かいどう》沿いに五日進んだ場所にある街《まち》だった。
以前の街よりもより大きく、商都というよりは観光地《かんこうち》に近い様相の街だった。祭りを行っているようでもなかったが、常に人々の雑踏《ざっとう》の中に威勢《いせい》よく破裂《はれつ》する爆竹《ばくちく》の音が混ざっている。
町中を歩きつつ、和穂は言った。
「恐《おそ》らく、この街の中に宝貝があるはずよ。
……聞いてる? 深霜《しんそう》」
深霜は通りにある、みやげ物屋の店先を覗《のぞ》き込んでいた。店頭には、なぜだか塔の置物《おきもの》が所狭《ところせま》しと並《なら》んでいる。
和穂にではなく、みやげもの屋の店員に深霜は問い掛けた。
「ねえねえ、お兄さん。この塔って、何の塔なの?」
店の中でハタキを振り回していた、大柄《おおがら》な男が答えた。
「へいお客さん。これは西海名物、奇岩群を見物する為《ため》に立てられた、観覧塔《かんらんとう》の模型《もけい》でさあ」
「なにそれ?」
慣《な》れた口調で店員の説明は続く。
「この辺《あた》りの遠浅《とおあさ》の海には、海面からひょこひょこ顔を出してる、奇妙な形の岩の群れがあるんですよ。
海辺で見る分にゃ、ただの変な岩なんですが、観覧塔みたいな高い建物から見物すりゃあ、見渡す限りの岩の群れで、それは豪快《ごうかい》なんですぜ。
この観覧塔は本来、二十八年前に灯台《とうだい》として立てられた……」
後ろで喋《しゃべ》る和穂を無視し、深霜は店員の話の腰《こし》を折《お》る。
「能書《のうが》きはいいのよ。そんな塔はどこにあるの?」
首をひねりつつ店員は答えた。
「どこもそこも、街のド真ん中にあるんですが、西の門、そう、そこの門から入ったら丁度《ちょうど》、あの馬鹿でかい六階建ての宿屋の影になっちゃって、角度の都合《つごう》でここからは見えないんで。
この通りをもう少し進めば、嫌《いや》でも目に入りますぜ。どうです、
みやげとして、お一つ?」
当然の疑問を深霜はぶつけた。
「奇岩が名物なのに、どうして奇岩を見物する塔が置物になるのよ? 奇岩でいいじゃないの?」
「岩の模型じゃ、ただの石ころと変わらないんで売れないんですよ」
「なるほどね。でも、ただの模型じゃ買っても仕方《しかた》ないね」
待ってましたとばかりに店員は説明した。
「そこにぬかりはございません。観覧塔は灯台も兼《か》ねてるんで……」
店員は深霜の手の中の模型を取り、パカリと開く。塔の模型は、蝶番《ちょうつがい》で繋《つな》がれており、魚の開きのように二つに割れた。
店員はその塔の台座の内側にある、細長い刺《とげ》を指差す。
「ほら、お嬢《じょう》さん。ここの刺《とげ》に蝋燭《ろうそく》を立てれば、蝋燭立て、燭台《しょくだい》としても使えるんです。
丁度《ちょうど》、塔のてっぺん辺りの隙間《すきま》から光が零《こぼ》れて、それはもう、まさしく灯台です」
店員から塔の模型を受け取り、深霜は大きく感心した。
「凄《すご》い。気に入った。それじゃ、これ一つ貰《もら》っていくわね。
あ、勘定《かんじょう》はこっちの娘から貰《もら》ってね」
「へい、毎度」
スタスタと深霜はみやげ物屋から出ていき和穂も後を追おうとするが、店員は逃《に》がさない。
「お客さん、お支払いを」
「あ、深霜、待ってよ!」
ともかく、深霜は商品を持っていっているのだ、お金は払わなくてはならない。
やむなく、和穂は断縁獄《だんえんごく》から代金を取り出した。
店員は嬉《うれ》しそうに言った。
「ありがとうございます。はい、これはお釣《つ》り」
釣り銭を受け取り、和穂は急いで深霜の後を追った。
和穂の背中を見送りながら、店員はふと疑問《ぎもん》に思った。
手の中にある小銭《こぜに》は、どう考えてもあのひょうたんの口より大きい。
あの娘はどうやって、この小銭を取り出したのだ? 店員は硬貨《こうか》を囓《かじ》ったが、それは間違いなく本物だった。
危《あや》うく、深霜を見失《みうしな》いかけた和穂であったが、またしても店先を覗《のぞ》いている深霜の後ろ姿をどうにか見つけた。
みやげもの屋の次は、小物屋《こものや》の前にへばりついている。
やっと深霜の側《そば》に寄ると、何をもたもたしているのかと叱責《しっせき》するような強い声で、深霜は和穂に言った。
「ちょっとちょっと、あの耳飾《みみかざ》り可愛《かわい》いじゃない。
買ってよ」
呆《あき》れつつもついつい和穂も店先を覗いた。
「深霜、だからこの街にね」
和穂の言葉に生返事で答え、深霜は小さな水晶《すいしょう》の耳飾りを手に取った。
「いいじゃない。別にそんなに高いのを買えなんて、言ってんじゃないし。
ほらほら、片方ずつでも買えるような安いやつなんだからさ」
「だから、宝貝《ぱおぺい》が」
「ほら、和穂はどれがいい?」
深霜は幾つかの耳飾りが無造作《むぞうさ》に放《ほう》り込まれた、小箱を和穂に見せる。
「私は、これがいい……ってそうじゃなくてね」
「そうか、和穂は索具輪《さくぐりん》があるから、左と右で違う耳飾りになっちゃうのか。
じゃあ、店の奥にある飾《かざ》り布《ぬの》でも見てみようか。ちょいと店員さん」
ズイズイと店の中に入る深霜の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》り、止めようとするが、深霜とて武器の宝貝である。
和穂程度の力ではその歩《あゆ》みを止めるのは無理《むり》だった。
刀の宝貝であるが故《ゆえ》の幾《いく》つかの機能《きのう》を、深霜は戦闘とは関係ない部分でも惜《お》しみなく使っているのであった。
和穂が重いというより、和穂を引っ張りながら歩くのもみっともないので、ようやく深霜は和穂の言葉にまともに答えた。
「判《わか》ってるわよ。宝貝の使い手を倒したいんでしょ。
買い物が終わったら、ちゃんとやるから。どうせ、殷雷が戻ってくるまであと二日もあるんだし、慌《あわ》てなくても大丈夫《だいじょうぶ》よ」
深霜を止めるのに、余程《よほど》真剣に力を使ったのか、和穂はゼイゼイと息を吐《は》いていた。
「はあ、はあ、そうじゃなくて」
「はいはいはいはい。
和穂って貧乏性よね。
目の前に心配ごとがあると、先にそれを片づけないと落ち着けないんでしょ。
判ったわよ。それじゃ、さっさと宝貝を取り戻して、ゆっくりと買い物といこうじゃないの。
で、宝貝はどこにあるって?」
和穂はコクリとうなずく。
「だから、さっきから言ってるでしょ。
この街の中にあるはず」
「さっきから何度も聞いてるわよ。
だから、どいつが宝貝の所持者《しょじしゃ》なの? とっとと、そいつを倒そうじゃないの」
どうも話が噛《か》み合わない理由が、やっと和穂には判ってきた。
深霜は、索具輪の精度がどの程度なのかを知らないのだ。
索具輪を、宝貝の在《あ》り処《か》を正確無比《せいかくむひ》に示す宝貝だと思っているのだろう。
本来ならば、それぐらいの精度はあるのだが、現在の索具輪は原因不明の不調《ふちょう》の為《ため》、時と場合によっては、大まかな位置関係しか把握《はあく》出来ないのだ。
索具輪は、街全体を覆《おお》うようなボンヤリとした宝貝反応を和穂に示していた。
「深霜、今の索具輪じゃそこまで採《さぐ》れない。
原因は知らないけど、ときどき索具輪の精度は、落ちちゃうの。
今判るのは、せいぜいこの街の中に何らかの宝貝があるだろうって事だけ」
露骨《ろこつ》に面倒《めんどう》そうな表情が、深霜の顔に浮《う》かんだ。
「それじゃ何? 誰《だれ》だか判らない宝貝の所持者を、この街の中から捜《さが》し出せっていうの? かったるいわね。
宝貝の回収には、そんなに手間《てま》がかかるっての! 宝貝反応を見て、所持者をしばき倒して回収終了って訳《わけ》にゃいかないっての!」
「いかないよ、そう簡単《かんたん》には。
だからいつもは、それらしい人を勘《かん》づかれないように探り出して……」
自分が喋《しゃべ》りたくなると、深霜はお構《かま》いなしに相手の言葉を遮《さえぎ》る。
「よし、判った」
「判ったって、なにが?」
深霜は片手に持った、観覧塔の模型を和穂の前にズイと出す。
「この観覧塔が怪《あや》しい」
なぜ、このおみやげが怪しいのか? 和穂はキョトンとしながら塔の模型をじっくりと見つめた。
お構いなしに深霜の罵倒《ばとう》が炸裂《さくれつ》する。
「馬鹿ね! この模型が怪しい訳ないじゃないの! 本物の観覧塔が怪しいのよ! もしかしたら、宝貝かもね」
「……さっきの店員さんは、この塔が出来て二十八年経ってるとか言ってなかったっけ、私が宝貝をばらまいたのは、そんなに昔じゃないんだし……」
ギロリと深霜の眼光が和穂を射抜《いぬ》く。
「お、だ、ま、り。
刀の宝貝が怪しいっていってんだから、素直に信用しなさいよ!」
和穂は和穂で、脅《おど》しに屈《くっ》するような性格はしていない。
「もしかして、深霜。その観覧塔に見物に行きたいって思ってるだけなんじゃないの?」
高らかに深霜は笑った。
「おほほ。
和穂ちゅわん、今度はそのホッペタを霜焼《しもや》けにしてあげようかしら」
敵の宝貝使いと戦い、負傷するならばまだしも、どうして味方を相手に霜焼けの恐怖と戦わなければならないのか?
指先の霜焼けは、この間、治《なお》ったばかりなのに。和穂はブンブンと首を横にふる。
深霜は満足気《まんぞくげ》に言った。
「判ればよろしい。
でも、口答えした罰《ばつ》よ。観覧塔に行く前に耳飾りを買って貰《もら》うからね」
あぁ、私は一体何をやっているのだろうかと、和穂は頭を悩ましたが、こんな事でくじけている場合ではない。
殷雷の為にも頑張らなくてはと、和穂は自分に言い聞かせ、その拳《こぶし》を力強く握《にぎ》った。
和穂の視界の隅《すみ》では、深霜が嬉しそうに耳飾りの品定めを進めていた。
全身から噴《ふ》き出しているのは、本当に汗《あせ》なのだろうかと、宿屋《やどや》の主人は考えていた。
もしも、これが汗ではなく血であれば、この苦痛からさっさと逃げる事も出来たであろうに。
だが、死んでどうなる? 問題は解決しない。問題が自分の手のとどかない所に行くだけでしかない。
自分の手から離《はな》れた問題はどこに行く? 考えるまでもない。我《わ》が一人娘、香純《こうじゅん》の前に立ちふさがるのだ。
自分の手にも負えないのだ。娘の手に負えるはずもない。
宿屋の主人の前には、黒く袖《そで》の長い道服を着た道士がいた。
そう。彼は凄腕《すごうで》の道士だ。
だが、人間であるかどうかの保証《ほしょう》はない。もしも、この道士の正体が人間ではなかったとしても、驚《おどろ》きはしないだろうと宿屋の主人は考えた。
人間の化け物か、動物の化け物か。肝心《かんじん》なのは、目の前に居るのは化け物であるという事だけであった。
宿屋の主人は、額《ひたい》を流れる汗を拭《ふ》いた。
革靴《かわぐつ》に油を塗《ぬ》り込めるような感覚がする。
黒服の道士の袖は、風もない、この部屋の中でゆっくりとたなびいていた。
道士は己《おのれ》の顎《あご》を撫《な》で、主人に言った。
「忘れてはいるまいな、親父殿《おやじどの》。
祝言《しゅうげん》は明日《あす》だ」
宿屋の主人は、カラカラに乾《かわ》いた喉《のど》から声を振《ふ》り絞《しぼ》る。
「ま、待ってくれ、封傑《ふうけつ》道士《どうし》。香純の体調がすぐれないんだ。祝言を延期《えんき》してはくれまいか」
鳥の鳴き声のような笑い声を上げ、黒服の道士、封傑は言った。
「香純の不調はだな、親父殿。
親父殿が我等《われら》の祝言を快《こころよ》く思っていないからなのだよ」
「嘘《うそ》をつけ!
香純を逃《に》がさせない為《ため》に、旅に耐《た》えられぬような体調にしたんだろう!」
「くけけ。
どちらにしろ、祝言を済《す》ませば、香純の不調など消えてなくなるわい。それで文句《もんく》はあるまいて。
明日で、香純は十五になる。よもや、約束を破《やぶ》れるとでも思っていまい」
宿屋の主人の顔から血の気が引く。
「わ、判った」
「うむ。物わかりがいいのが一番だ」
「違う。
全《すべ》てを返す。この宿屋をお前に返す。
それで許《ゆる》してくれ。私の財産を全てくれてやる、だから香純だけは許してくれ」
封傑の目に殺気《さっき》が宿《やど》った。
「ふざけるんでないぞ、親父殿。
お前は十年前、娘を俺《おれ》の嫁《よめ》に差し出すという約束で、俺から強運《きょううん》を授《さず》けられたのだ。
破産《はさん》し、潰《つぶ》れかけていたボロ宿屋が、ここまで繁盛《はんじょう》しているのだ。
やること、なすこと、全てが上手《うま》くいったではないか。
どうだった? 夢のような十年間だっただろう」
あまりの後悔の大きさに、主人は砕《くだ》けんばかりに歯を食《く》い縛《しば》った。
「悪夢でしかない。
あの時、俺は魔《ま》が差したのだ。香純と共《とも》に野垂《のた》れ死ぬぐらいならばと思って、藁《わら》にもすがる思いで、お前の口車《くちぐるま》に乗ってしまったんだ。
お前との約束を後悔《こうかい》しなかった日は、一日たりともなかったぞ!」
封傑は嘲笑《あざわら》うように、主人の神経を逆撫《さかな》でしていく。
「商売人なら、計算はお手のものだろう。
十年前に死んでいれば、親父殿と香純の二人の死人がでてそれで全ては終りだった。
が、我《わ》が道術《どうじゅつ》のお陰《かげ》で、少なくとも、親父殿、あんたはこれからも生き続けられるんだ。
お互いに得な取り引きだったんだ。
もっとも、後悔の念に押《お》し潰《つぶ》されて、自殺するのはそちらの勝手《かって》だがな」
「貴様《きさま》!」
怒りに任《まか》せ、主人は己《おのれ》の拳《こぶし》を封傑の顔面に叩き込んだ。
拳の衝撃で封傑の頭部はボンと破裂《はれつ》した。自分の拳がしでかした異様《いよう》な事態《じたい》に、主人は愕然《がくぜん》としたが、破裂した頭部から血は流れずに変わりに真っ黒な鳥の羽《はね》が飛び散った。
散乱《さんらん》する鳥の羽。嵐《あらし》の中の羽のように、羽は渦《うず》を巻き舞《ま》い散《ち》り、主人の視界を遮《さえぎ》った。
そして、茫然《ぼうぜん》とする主人の肩《かた》を背中から叩《たた》く者がいた。
驚く事に疲《つか》れた主人は、振り向く気力すらなかった。
主人の耳には聞き慣《な》れた封傑の声が響《ひび》く。自分の背後でせせら笑う封傑の顔を見る気には到底《とうてい》なれなかった。
「そういう訳《わけ》だ親父殿。
約束からは逃《のが》れられぬ。
どうしても、娘を差し出したくなければ、この私を殺すんだな」
殺す? そうだ、こいつを殺すしか手はあるまい。
だが、どうやればこの化け物を倒せるというのか?
宿屋の主人は妙《みょう》に可笑《おか》しくなった。
十年前、死にかけた時のように、今度は別の道士に封傑|退治《たいじ》を依頼《いらい》するか? その為《ため》には何を差し出せばいい? 香純がいずれ生むかも知れない子供か?
「はっはっは」
主人は笑い、封傑も笑う。
笑いながら主人の瞳《ひとみ》からは涙《なみだ》が零《こぼ》れていった。
封傑は道服の袖《そで》を翻《ひるがえ》した。
「では、さらばだ親父殿。祝言の準備はこちらでさせてもらおう。祝福したくなさそうだから、親父殿は出席せずともよい。
明日の夜には、香純を貰《もら》い受けに来るからな」
バサバサバサ。狂ったように道服の袖がはためく音が轟《とどろ》き、やがて沈黙《ちんもく》が訪《おとず》れた。
封傑の姿は消えてなくなっていた。
主人は、床《ゆか》に散らばったままの黒い羽を握《にぎ》りしめた。
強く強く握りしめられた拳からは、血が滴《したた》り羽を濡《ぬ》らす。
腹《はら》の底から主人は呻《うめ》いた。
「く、あの烏《からす》め!」
途端《とたん》、窓枠《まどわく》をブチ破り、突風が吹きすさんだ。突風を纏《まと》いながら、封傑は再び姿を現したのだ。
目を血走《ちばし》らせた封傑は、主人の襟元《えりもと》を締《し》め上げて軽々《かるがる》と持ち上げた。
「貴様《きさま》! 誰《だれ》が烏だ! 愚弄《ぐろう》するにも程があるぞ。我は黒鷺《くろさぎ》だ!」
それがたとえ、何の意味も持たない怒りでも主人は気力を振《ふ》り絞《しぼ》るしかなかった。
「黒鷺か。ならば、百人の猟師《りょうし》を雇《やと》い貴様を射殺してくれようか」
「百人の猟師が放つ、千本の矢とて俺を貫けはしない」
「ならば、神が宿《やど》る天の弓矢で貴様を撃《う》ってやろうか」
「有りもせぬものに望みを託《たく》すか?
だが、無駄《むだ》だ。例えお前の手の中に、宝貝の弓と矢があろうとも、この封傑を殺す事は叶《かな》わぬのだ!」
「ならば、ならば、貴様の手に香純を落とすぐらいなら、我が手で我が娘を殺してしまおうか!」
「それで怯《ひる》むとでも思ったか、親父殿。
その手で香純を殺すとな?
良いぞ。
味は落ちるが、俺の手間が省《はぶ》ける」
「死肉を食らうとは、やはり貴様は烏だ!」
「下賎《げせん》の烏と一緒にするな。
我は羽のあるものの中の王、選んだ肉しか口にはせぬのだ!」
再び突風。舞い散る黒鷺の羽。
床を叩《たた》き続ける、宿屋の主人。
「……お父様」
床を叩き、うなりつづけていた宿屋の主人は、ハッと我《われ》に返り振り向いた。
そこには香純が、扉《とびら》によりかかるようにして立っていた。
どこまでも白い肌と、闇夜《やみよ》よりも黒い髪《かみ》の娘だ。
髪は膝《ひざ》の裏《うら》にまで届《とど》きそうな程に長い。
髪と同じ黒さをした瞳《ひとみ》が、その顔の中にはあった。
白い肌と、黒い髪と瞳、そして唇《くちびる》の朱色《しゅいろ》の三つの澄《す》んだ色だけで形作られたような娘だった。
香純の美しさは、そのまま儚《はかな》さの美しさであった。天を舞《ま》う粉雪《こなゆき》、一度でも嵐《あらし》にあえば吹き飛ぶような可憐《かれん》な花のせつなさがあった。
血と肉で作られた人間の形が作り上げた美しさというよりは、それだけで純粋《じゅんすい》な美、光のような美しきであった。
家の中を歩くだけでも疲《つか》れたのか、香純の息は弱々《よわよわ》しかった。
長い黒髪は結《ゆ》わえられ、右肩の所から体の前に垂《た》らされている。
娘の姿を見つけ、主人の顔が青ざめた。
「香純! 見ていたのか!」
「すいませんお父様、盗み聞きなどはしたないまねをして」
香純の苦しみは、病《やまい》の苦しみではないと宿屋の主人は思い知る。
思い悩む、自分の姿を見て、同じように苦しんでいるのだ。
主人は、根拠《こんきょ》のない笑顔《えがお》で、どうにか娘を力づけようとした。
「ははは。違うぞ香純。何も心配はいらぬ」
そんな父の姿すら哀《あわ》れむように、香純は首を横に振った。
「知っております。ここ数日、お父様があの封傑という道士の訪問を受け、私を嫁《よめ》に差し出すように脅《おど》されている事も、十年前にお父様と封傑の間にどんな約束があったかも」
娘を安心させる為の嘘《うそ》は、自分の責任《せきにん》を誤魔化《ごまか》す為の嘘なのではないか? 宿屋の主人の心は沈む。
今必要なのは、嘘をつき現実を誤魔化す事ではない。
主人は娘に頭を下げた。
「許してくれ香純! この父の軽はずみな言葉で、お前をこんな目に合わせるなんて!」
崩れるように膝を折り、香純は頭を下げる父親の肩に手を置いた。
「お父様。仕方《しかた》がなかったのでございます。
香純はお父様を責《せ》めたりはいたしません。
それよりも、この十年間のお父様の、心の苦しみを思うと、私も辛《つら》くなります」
「香純!」
「お父様、どうかご自分をお許《ゆる》しになって下さいませ」
辛《かろ》うじて主人は顔を上げ、呟《つぶや》く。
「ああ、こんな時に雷納《らいのう》がいてくれれば」
「雷納兄様……」
「もう、五年になるのだったな」
雷納。宿屋の主人にとっては、息子、香純にとっては兄のような存在の青年であった。
香純が生まれた頃、この宿屋に病《や》んだ男が一人|泊《と》まった。
旅先での病気の身である。宿屋の主人は心細《こころぼそ》かろうと、自分の商売が上手《うま》く行ってないことも省《かえり》みずに、色々《いろいろ》と面倒《めんどう》を見てやったのだが、男はあえなく亡《な》くなったのだ。
その男には十歳になったばかりの、一人の息子《むすこ》がいた。
それが雷納であった。
雷納の言葉では、他に身寄《みよ》りはいないという話だった。
主人は、実直《じっちょく》な性格をした雷納を引き取り育てた。
香純を生んですぐに妻も病で亡くなり、再婚する気には、どうしてもなれなかった主人は、ゆくゆくは香純の婿《むこ》として、雷納を跡取《あとと》りとして考えていたのかも知れない。
そう、貧乏宿屋の主人であったが、あの頃はまだ明日に対する希望があったのだ。
だが、歯車はどこかで狂い出した。十年前のあの日、封傑道士の誘《さそ》いに乗ってしまい、さらに、雷納が徴兵《ちょうへい》され異国の戦争に連れていかれたのは五年前の話だ。
戦争が終了して、すでに四年は過ぎていたが雷納の行方《ゆくえ》は知れない。
「香純よ。私たちは一体どうなってしまうんだろうか? 雷納のいない今、私は誰《だれ》に頼《たよ》れというんだ」
父親の言葉に香純は珍《めずら》しく強い口調で、反論した。
「お父様。雷納兄様はきっとどこかで生きておいでです!」
「……そうかも知れない。だが、もしも雷納が戻って来た時に、お前がいなくなっていたら、私はどの顔で雷納に会えるというのだ」
天高くそびえる巨大な塔《とう》、というほど凄《すご》い建物《たてもの》ではなかったが、観覧塔《かんらんとう》を含《ふく》むこの街《まち》がちょっとした高台にあるせいか、塔からの視界は非常に良かった。
みやげものの塔は、観覧塔をかなり正確に再現していた。
実際に塔の最上部《さいじょうぶ》は灯台になっており、一般の観光客の立ち入りは禁止されていた。
話によると、季節《きせつ》によっては一般にも開放されて見学《けんがく》が出来るのだが、生憎《あいにく》今はその時期ではなかった。
観覧塔の大体、五分の四ぐらいの高さに、展望台《てんぼうだい》が作られている。
異様に細長い四角錐形《しかくすいけい》の塔を囲《かこ》むような、四角の展望台だ。
展望台とはいえ、何のことはない、塔の途中《とちゅう》から外に出られるようにして、一応《いちおう》の柵《さく》をつけただけなので、高いところが苦手《にがて》な人間にとっては、かなりきついものがあった。
もしも、落ちたらどうなる? という生々《なまなま》しい想像を起こさせるよりは、遥《はる》かに高いがそれでもたまに吹く突風で、木造の観覧塔が軋《きし》む音は恐怖を巻き起こす。
ついさっきまでは、展望台に到達《とうたつ》する為《ため》に作られた、塔の内部の螺旋状《らせんじょう》の階段《かいだん》にこれ以上ないほどの悪態《あくたい》をついていた深霜《しんそう》であったが、景色《けしき》を眺《なが》めると今までの不機嫌《ふきげん》が嘘のように吹き飛んだ。
柵から身を乗り出すようにして、海をながめている。
海からの風が、客たちの髪《かみ》をなびかせていた。
「ふうん。名所になってるだけの事はあるじゃないの。
高いだけで名物になってるなんて、つまらないかと思ってたけど、さすがに気分がいいわね。
ねえ、和穂《かずほ》? こっちにいらっしゃいよ」
和穂はペタリと、塔側に背中を寄せ、動こうとはしなかった。
塔の影になり、表情までは判《わか》らないが、和穂が肩《かた》で息をしているのは判った。
和穂の呼吸《こきゅう》が乱《みだ》れているのが、螺旋階段を登り疲《つか》れたせいなのか、高所への恐怖なのか深霜はちょいと興味《きょうみ》があった。
深霜の少しばかり意地悪《いじわる》そうな視線を、敏感《びんかん》に察知《さっち》したのか和穂は話題を変えようとした。
「買うのは耳飾りだっていったのに……」
そう。小物屋で耳飾りを買えと大騒ぎしていた癖《くせ》に、深霜の耳には耳飾りの姿はなかった。
かわりに、しなやかな指先には真珠《しんじゅ》の指輪《ゆびわ》が光っていた。
機嫌良《きげんよ》さそうに真珠の指輪を撫《な》で、深霜は鼻唄《はなうた》を歌った。
「いいじゃない。あんたの話を聞いてるとまるで私が節操《せっそう》もなく、無駄遣《むだづか》いしてるように聞こえるじゃないの」
和穂はめまいがしそうになった。さっきの観覧塔の置物もさっさと飽《あ》きてしまい、側《そば》に居《い》た子供に上げていたのだ。
「だって、無駄遣いしてるじゃないの!」
待ってましたとばかりに、深霜は言い返した。
「ふむ。でも、『私が無駄遣いをしている』というのは間違いね。
真実は『私たちが無駄遣いをしている』じゃないの。
似合《にあ》ってるわよ、その髪留《かみど》め」
ドキリと、和穂は痛いところを突かれた。
塔の影からゆっくりと和穂は深霜の側に寄っていった。
いつもは後頭部《こうとうぶ》の辺《あた》りで、緩《ゆる》く飾《かざ》り布《ぬの》で結んでいる和穂の髪型が、変わっていた。
後頭部の真ん中で、一つに結《ゆ》わえているのではなく、真ん中から少しばかりずらした右と左で二本に纏《まと》めてある。
髪を括《くく》っているのは飾り布ではなく、小さな緑色の珠《たま》を繋《つな》げた、小さな腕輪《うでわ》のような髪留めであった。それを幾度《いくど》か捩《ね》じり、その中に髪を通していた。
「うう。
深霜が楽しそうに小物を見てるから、私も何か欲しくなっちゃったのよ」
深霜は当然とばかりに、大きくうなずく。
「ま、あんたを責《せ》める気はないけどね。
こういう時は、
『深霜も買ってるんだから、仕方《しかた》ないじゃないの!』
とでも怒鳴《どな》るのが正解ね。
道理《どうり》が通《とお》ってなくても、捲《ま》くし立てたらどうにかなる時もあるのよ。
どう、勉強になるでしょ?」
「勉強にはなるけど、為にはならないような気がする」
深霜に近づいてきた和穂だったが、ある場所まで来て歩みを止めた。
深霜は親切そうな顔で和穂に言った。そろそろ和穂にも、この親切そうな顔がただの罠《わな》であることが判りはじめてきた。
「どうしたのよ? 高いところが怖《こわ》いの?」
「……高いところが怖いっていうより、この展望台が怖い。
だって、揺《ゆ》れてるじゃないの」
「あぁ、落ちるのが怖いってんなら、心配無用よ。私が保証《ほしょう》する」
怖さ半分、景色の見たさ半分で和穂も手すりまでやってきた。
恐怖は消えなかったが、それを覆《おお》い隠《かく》すような景色《けしき》の素晴《すば》らしさがある。
見渡す限りの海は、波が小さく、その海面からは鍾乳石《しょうにゅうせき》に少し似《に》た岩が伸びていた。
鍾乳石に似ているが、それよりも遥《はる》かに複雑《ふくざつ》な形で曲がりくねっている。
冗談《じょうだん》めかして、ポンと深霜は和穂の背中を押した。
条件反射で、和穂は軽く飛び上がる。
「ははは。ビックリした。でもそれぐらいじゃ大騒ぎしないわよ」
心の底で、『へえ、そうなの?』と思いつつ深霜は笑った。
やはりまだ親切そうな笑顔に見える。
もしかしたら、深霜は少しいたずらっぽいだけの宝貝《ぱおぺい》なのかと、和穂は思う。
だが、少し違った。深霜は、和穂の背中を押したとき、もっと派手《はで》に驚《おどろ》いて欲しかったのだ。深霜は言った。
「万が一、ここから落ちたとしても、怖《こわ》がる必要なんかないのよ」
和穂も深霜の笑顔に答えた。
「そ、そうだよね。刀《かたな》に変わった深霜が力を貸してくれたら、どうにか塔の壁にでもへばりつけるもんね」
深霜は軽く首をひねった。
「そうだけど、私はそういう意味で言ったんじゃないの。
これだけの高さがありゃ、途中で気絶《きぜつ》するから痛みは感じないのよ。
安心して」
ゾクリと、和穂の背中に得体《えたい》の知れない悪寒《おかん》が走った。
「は、は、は、は。何だか、殷雷《いんらい》が言いそうな冗談だね」
「冗談じゃないわよ。
あなたを殺せば、私は再び自由の身になれるのよね。
私は情熱的な女だから、愛の為《ため》に死ねる。でも、自由の為になら愛を捨《す》てられる。
ごめんなさい、殷雷。私は自由になりたいのよ!」
殷雷が敵に見せる、殺気に満ちた視線とそっくりな気迫《きはく》が深霜の視線に宿《やど》った。
そして、再び深霜は和穂の背中を押した。
今度の和穂は飛び跳ねなかった。が渾身《こんしん》の力を込めて、柵《さく》に掴《つか》まり悲鳴を上げた。
深霜の悪戯心《いたずらごころ》を充分《じゅうぶん》に満足させるだけの大きな悲鳴だったが、叫んでいる時間が長すぎた。
他の観光客の視線を浴《あ》びて、深霜は恥《は》ずかしさを覚《おぼ》えた。
「きゃあきゃあきゃああきゃあ!」
「ちょ、ちょっと和穂! 冗談に決まってるでしょ」
「きゃあきゃあ落ちる、落ちる!」
「あぁもう、仕方《しかた》ないわね!」
力づくで和穂を柵から引《ひ》き剥《は》がし、展望台の入口にまで和穂を運ぶ。
顔面蒼白《がんめんそうはく》の和穂はまだブルブルと震《ふる》えていた。
深霜は宥《なだ》めるというより、怒るように和穂に言った。
「本当恥ずかしい女ね。人前でギャアギャアわめいて。
だいたい、あんたを殺して自由になるつもりなら、さっさと殺して山の中にでも埋《う》めてるわよ」
「そ、それもそうね」
「今までの旅で命を賭《か》けて戦った事もあるでしょうに、どうしてあれぐらいで叫んだりするのよ」
生きるか死ぬかの真剣勝負と、突き落とされる恐怖は全く別物だと和穂は思った。だが大声で叫んでいたのが妙に恥ずかしい。
「……ごめんなさい……って、深霜が驚かすから悪いんじゃないの!」
状況が不利《ふり》なので、深霜は正論で話を混ぜっ返した。
「和穂! こんな事で、ワイワイと遊んでいる暇《ひま》が今の私たちにあって?
殷雷の休養が終わるまでもう少しなのよ。
一刻《いっこく》も早く、敵の宝貝使いを見つけるの」
この街に着いた時から、宝貝を探《さが》そうって言ってたじゃないかと、和穂は考えたが、深霜がやる気になっているのだ。いや、いるのだろう。
ここは、真面目《まじめ》に宝貝回収を始めるべきだろう。だが、深霜に振り回されっぱなしでさすがの和穂も、意地悪《いじわる》な口の一つでも叩《たた》きたくなった。
「で、この観覧塔は怪《あや》しくなかったのね?」
三十倍ぐらいになって意地悪が返ってくるかと和穂は身構えたが、別段深霜は怒ったようすもないようだった。
変に微笑《ほほえ》んだりもしていない。
さも当然《とうぜん》の如《ごと》く、和穂の疑問に答えた。
「まあ、待ちなさい。別に岩っころが見たい為にこの塔に登ったんじゃないのよ。
この展望台は観覧塔をグルリと囲《かこ》んでいるでしょ?
街の方も見れるじゃないの。
街そのものを観察して、怪しい部分を探そうと思ったの」
和穂の表情に、疑惑《ぎわく》の表情が浮かんだ。
途端《とたん》、深霜の目付きが鋭くなる。
「文句《もんく》あるの和穂! 人がたまに本当の事を言ってるんだから信用しなさいよ!」
凄《すさ》まじい理屈《りくつ》を凄まじい勢《いきお》いで捲《ま》くし立てられ、和穂は一瞬《いっしゅん》、自分がとてつもない疑《うたぐ》り深い性格になっていたような気がした。
深霜は塔から街を見下ろす。
どこを見ているか焦点《しょうてん》が定まっていない癖《くせ》に、その眼光は鋭かった。
それはとてつもなく巨大な獣《けもの》と相対した武人が、相手の全貌《ぜんぼう》を見定《みさだ》めている表情にも見て取れた。
今までのチャランポランな言動が全く嘘《うそ》のように、和穂には思えてきた。
視界の全《すべ》ての人間の動きを深霜は追い掛けていた。どこにでもあるありふれた街のあり触れた日常。
深霜の真剣な眼差《まなざ》しを見て、和穂は急に謝《あやま》りたくなった。
「もしも、うるさくて邪魔《じゃま》だったら言ってね深霜、喋《しゃべ》るのはやめるから。
深霜、ごめん。どうせさっきみたいに、
『む。あそこの茶店は、汁粉《しるこ》が美味《うま》そうだから調査してみる必要がある!』
とか言い出すもんだと思ってた。深霜も真剣に宝貝を探そうと思ってたんだね」
驚いたように和穂の顔をみる深霜の表情はなぜか、少し赤くなっていた。
『褒《ほ》められるのが苦手《にがて》なんだ』
と、和穂は考えたが、深霜の心の叫びは、
『なんで、茶店の事が判《わか》ったのよ!』
であった。
軽《かる》く咳払《せきばら》いして、やむなく深霜は本気でこの街の奇妙《きみょう》な部分を探った。
だが、いざ探してみると、奇妙と奇妙でないもの、日常と非日常の区別はなかなか付かなかった。
横では和穂が期待に目を輝《かがや》かせて、自分を見ている。
こりゃ、適当に誤魔化《ごまか》してこの場を逃れようかと、深霜が考えたとき、彼女の視界に何かが引っ掛かった。
「?」
何だ? 深霜は確《たし》かに不自然なものを感じとり、そこに視線を集中した。
通りの一部に人だかりが出来ている。
人だかり自体は何の不思議もない。安売りの店の前にすら出来るのだ、この街の中にどれだけの人だかりがあるという。
奇妙な人だかりは、店の前に出来ているのではない。通りの中央に出来ている。
さながら、大道芸人《だいどうげいにん》の前に見物客《けんぶつきゃく》が集まるかのようであった。
いかに凄まじい視力があろうと、物を透《す》かして見る訳《わけ》にはいかない。
人だかりの中心を把握《はあく》するには、根気《こんき》強く観察を続ける必要があった。
深霜のさほど、粘《ねば》りけのない根気が今まさに尽《つ》きようとした瞬間《しゅんかん》、人だかりの中心の姿が見えた。
道士だ。和穂と同じような、袖の長い白い道服を身に纏《まと》っていた。
筆《ふで》を片手に何かをしている。その道士を往来《おうらい》を行く人々は見つめているのだ。
見物人で、視界が一瞬|遮《さえぎ》られたと深霜は感じた。道士の片手には筆、片手には炎《ほのお》が握られている。
ゴクリと深霜は生唾《なまつば》を呑み込み、記憶を整理《せいり》した。
炎は唐突《とうとつ》に現れたのだ。その為《ため》、深霜は炎が現れる瞬間を見物人の為に見逃したと判断したのだが、どうやらそうではない。
いや、そうであっても不思議《ふしぎ》はないのだ。
自分はこの街の奇妙な人間を探しているのではなかったのか。
消えた炎の中から現れた小さな短冊《たんざく》を握る手が見えた。
筆があるならば、筆で文字を書くための紙がいり、その紙を束《たば》ねる短冊も必要だ。
道士は短冊に、筆で何かをしたためているのだ。
道士が書き終えた瞬間、短冊を持つ手には鷹《たか》が一匹《いっぴき》出現していた。
和穂の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、深霜は怒鳴った。
「居《い》たわよ。宝貝《ぱおぺい》の使い手が」
「え、どこ?」
場所を指し示す手間を深霜は省《はぶ》き、胸ぐらを掴んだ和穂と共に一気に柵《さく》を飛び下りた。
周囲の観光客が慌《あわ》てて、覗《のぞ》き込む。
「わ、飛び下りだ!」
そして観光客はとても奇妙なものを見た。飛び下りた二人は、何故か爆煙《ばくえん》に包《つつ》まれながら落下していく。
煙《けむり》は瞬間的に晴れ、二人だったはずの娘たちの姿は一人だけしか確認出来ない。
しかも、その一人の娘は刀《かたな》を片手に持っている。
まるで、こんな事は日常茶飯事《にちじょうさはんじ》と言いたげに、道服の娘は落下の風を上手《うま》く操《あやつ》り、自分を塔の壁《かべ》に近づけた。
そして、壁に足が触《ふ》れるやいなや、道服の娘は塔の壁を地面に向けて駆《か》け出したのだ。
落下速度よりは遅《おそ》くなったが、それでも壮絶《そうぜつ》な速度で娘は駆けていく。
言葉を通じ、和穂は喋《しゃべ》った。
『深霜!』
『うるさいわね、私のやり方に指図《さしず》は無用だからね。
塔の上から怪しい奴を見つけた。だから、そいつ目掛《めが》けて速攻《そっこう》でいくわよ』
『それはいいけど!』
『なら黙《だま》って。敵は道士風の若い男。持っているのは恐《おそ》らく、筆か短冊の宝貝よ。
ま、宝貝という面白《おもしろ》いおもちゃを拾《ひろ》ったから、道士の真似事《まねごと》でもしたくなったんでしょうね。どっちにしろ、楽勝よ』
『でも、関係ない人を巻き込んで怪我《けが》をさせたりしないでよ』
『面倒《めんどう》ね。……判ったわよ』
ほぼ、一直線に深霜は標的を狙《ねら》い突き進んでいった。
これが、荒野《こうや》や草原ならまだしも、完全な街中である。筆を持つ道士との間に、直接通じる道など、はなからない。
暴《あば》れ馬に追い掛けられるように、通行人は慌《あわ》てふためくが、深霜は人間を完全に避《よ》けて進んだ。
が、その手間《てま》の不満をぶちまけるかのように、壁やら防火用の水桶《みずおけ》をブッタ斬《ぎ》りながら和穂は駆けていった。
行く手に民家があるのなら、壁に深霜刀を突《つ》き刺《さ》し、手掛《てが》かりとして屋根《やね》に飛び上がり瓦《かわら》を蹴《け》り飛《と》ばし、踏《ふ》み割《わ》りながらさらに進む。
『あの、深霜。出来れば物も壊《こわ》さないように……』
『何言ってるの! この瞬間《しゅんかん》にも宝貝使いが街の人々に危害《きがい》を与えるかもしれないのよ。
人命優先なんでしょ!』
深霜が語る筋《すじ》の通った意見には、必ず裏《うら》があると和穂は学んでいた。
人命優先の為、物を壊しても仕方がない。
と、
人命優先でやってるんだから、物でも壊させてもらわないと面白《おもしろ》くない。
では、意味が全く違う。
和穂の考えを知ってか、知らずか、知っていても恐らく無視して深霜は駆け、ついに道士のいる通りに出た。
このまま、通りに飛び下りれば、人を巻き込むと判断し、乾物屋《かんぶつや》の屋根の上で深霜は和穂の声を使い、高らかに叫ぶ。
「さあ、そこまでよ!」
見物人たちは、最初ちらりと声の方角を見ただけだった。
そこでは、珍《めずら》しい娘の道士が、抜《ぬ》き身《み》の刀の切《き》っ先《さき》を男の道士に向けているのだ。これは一波瀾《ひとはらん》ありそうだと見物人たちの期待《きたい》が高まっていく。
「なんだ! 殴《なぐ》り込《こ》みか!」
見物人たちはザワザワと騒《さわ》ぐが、当の道士は落ち着き払っていた。
「貴様、何奴《なにやつ》?」
「そうさねえ。愛を知らぬ非情の女道士の和穂。とでも名乗っておきましょうか」
心を通じて和穂から文句《もんく》が飛ぶが、深霜は相手にしない。
道士が吠《ほ》える。
「この私に勝負《しょうぶ》を挑《いど》むつもりか!」
耳の裏をかきながら、深霜は和穂の声で叫ぶ。
「さっさと、その筆と短冊を寄越《よこ》しなさい」
「馬鹿め。我が師匠《ししょう》である封傑《ふうけつ》大道士《だいどうし》から授《さず》けられた、この筆と短冊を渡せとな? かような無礼《ぶれい》をほざくとは成敗《せいばい》してくれる」
深霜は和穂に舌打《したう》ちをさせた。
「あんまり、能書《のうが》きばかり、くっちゃべってると、雑魚《ざこ》みたいでみっともないわよ。どうせ、宝貝で客寄《きゃくよ》せして、インチキな符《ふ》でも売り飛ばそうってセコイ魂胆《こんたん》なんでしょ。
いいから、かかってらっしゃい! あんたを倒したら、汁粉《しるこ》を食べにいくんだから」
怒《いか》りの臨界点《りんかいてん》を超《こ》えた道士は、サラリと短冊に蛇《へび》の絵を描《えが》いた。
短冊から千切《ちぎ》った紙を宙《ちゅう》に放り投げると、途端《とたん》に、ぬめぬめとした鱗《うろこ》に全身を覆《おお》われた白い大蛇が姿を現す。
慌てて見物人たちは後《あと》ずさり、乾物屋と道士の間には一本の道が出来た。
「さあ、この白蛇は我《わ》が修行《しゅぎょう》の成果《せいか》であり、その……」
乾物屋の屋根から飛び下り、深霜刀は瞬時に大蛇をブツ斬《ぎ》りにした。
「この間抜《まぬ》けめ。蛇を出すなら、もっと潜《ひそ》ませて出しなさいよ。居場所《いばしょ》の割れてる蛇なんか怖《こわ》くもなんともない! 馬鹿馬鹿馬鹿、大馬鹿め」
大蛇は、ポカンといういささか間抜《まぬ》けな音を立てて煙へと姿を変えた。
「貴様《きさま》!」
再び道士は筆を走らせていく。
深霜は、筆の動きを軽く分析《ぶんせき》した。
『ふん。次は犬だってよ。こんな街の中じゃ大蛇よりは使えるわね』
が、深霜は短冊の中の絵が完全に実体化させるだけの余裕《よゆう》を与えない。
実体化させる為《ため》に宙を舞《ま》う紙を、そのまま切《き》り裂《さ》く。
「さあ、これで、汁粉の時間よ!」
深霜は和穂の体を操り、道士のみぞおちに膝蹴《ひざげ》りを叩《たた》き込み、激痛《げきつう》の為に、しゃがみこもうと下がった道士の顎《あご》にも膝蹴りを放つ。
おまけとばかりに、重心《じゅうしん》を失《うしな》いかける道士の足首に爪先《つまさき》を引《ひ》っ掛《か》け、すっ転《ころ》ばす。
気を失った道士の手から、筆と短冊が地面に落ちた。
和穂は右手に深霜刀を持ったまま、左手で筆と短冊を拾《ひろ》う。
『…………』
深霜と和穂の心に沈黙《ちんもく》が走った。
『……さあ、和穂。これで宝貝の回収は終わったわよ……』
『でも』
筆と短冊、どちらが宝貝かはっきりしないが、描いた物を実体化させる能力を持つ宝貝だ。
深霜はとっくに奇妙な点に気がついていたが、ここは宝貝を回収した事にして、汁粉を食べに行きたかった。
『いいじゃない、これで終わり』
『やっぱり変よ。師匠《ししょう》が作った宝貝にしちゃ、普通すぎる。
龍華《りゅうか》師匠が造《つく》った宝貝なら、もっとアクが強いというか、無茶《むちゃ》な要素《ようそ》があるはず。これじゃ素直《すなお》すぎる』
深霜刀がゆっくりと、和穂の首に刃《やいば》を向けた。
『ほお。私のどこがアクが強くて、無茶なのか、こってりと教えてもらおうかしら?』
『別にそういう意味じゃないよ。
なんというか、宝貝としての発想に工夫《くふう》がないじゃない』
『いいの。龍華だって、たまには普通の宝貝も造るのよ』
『それもそうだと思う。でも、普通の宝貝だとしたら、逆に厄介《やっかい》な欠陥《けっかん》があるのが自然だと思う』
『……判《わか》ったわよ。和穂、あんたの意見が正解よ』
途端《とたん》、和穂はグシャリと手に持つ筆と短冊を握《にぎ》り潰《つぶ》した。
『!』
『これは宝貝じゃない。普通の筆と短冊。宝貝じゃないから、余計《よけい》に話がややこしい』
『これはいったい?』
『私に質問しないでよ』
深霜は、ともかく道士を締め上げるしかないと判断し、和穂の体を操り道士の胸ぐらを持ち上げた。
気絶していた道士は息苦《いきぐる》しさに、意識《いしき》を取り戻《もど》す。
「げほ」
そして、地面に落ちている折れた筆とグシャグシャになった短冊を見つけた。
「あぁ! 封傑大道士から授けられた宝貝があ! こんな事が知れたら、殺される!」
「えらく物騒《ぶっそう》な話じゃないの。封傑って何者よ。そいつの居場所《いばしょ》を白状《はくじょう》しなさい」
「い、言えぬ。封傑大道士を裏切るような真似《まね》は!」
和穂の顔に深霜の笑顔が宿った。笑顔の奥にある眼光《がんこう》の鋭《するど》さに道士はすくむ。
脅《おび》える道士の姿を楽しむように、深霜は言葉を操る。
「馬鹿ね。封傑とやらがあんたに貸《か》した宝貝が壊《こわ》れて、怒った封傑はあんたを殺すかもしれない。
だったら、いっその事、冷酷非情《れいこくひじょう》のこの私に」
和穂からの文句が入る。
『あのさ、深霜。もうちょっと普通にやってよ。さっきから聞いてると、私が悪人に聞こえるような気がするんだけど』
『うるさい。こいつを脅迫《きょうはく》してるんだから我慢《がまん》しなさい』
咳払《せきばら》いして脅しは続いた。
「この私に、封傑について詳《くわ》しく喋《しゃべ》る方が、あんたの命にとっては得《とく》でしょ? 私が封傑を血祭りに上げれば、あんたを殺す余裕《よゆう》なんてなくなるじゃない」
理屈《りくつ》は通っている。だが、それを理解してもなお、道士の心の中には強い葛藤《かっとう》があるようだった。
「封傑大道士を倒すなど不可能《ふかのう》だ!」
「無駄口《むだぐち》はいらない。どうするか、さっさと決めろ」
道士は一つの考えに辿《たど》り着いた。この娘は封傑大道士に勝てはしないだろう。
それでも、少しの間は時間稼《じかんかせ》ぎにはなるのではないか? その間に少しでも遠くまで逃げられるのではないだろうか?
封傑の目から逃れるのは、不可能なような気がするが、封傑が捜索の手間《てま》を面倒《めんどう》がる可能性はあるかもしれない。
「わ、判《わか》った。俺《おれ》にも封傑の居場所は判らない。だが、封傑が立ち寄りそうな場所に心当たりはある」
そして、道士は封傑が香純《こうじゅん》という娘を狙《ねら》っていると、和穂に告《つ》げた。
少しでも自分の延命《えんめい》に繋《つな》がると考えたのか道士は封傑と、宿屋の主人の間の経緯《けいい》についても詳《くわ》しく語り出した。
深霜は少しいらつく。
『なんで、十年前にまで話が遡《さかのぼ》るのよ? その時はまだ宝貝がなかったじゃない』
『でも手掛《てが》かりは、その宿屋ぐらいしか』
『判ってるわよ。その宿屋に行ってみましょう』
和穂は手を離し、道士は地面に倒れた。右手の深霜刀を和穂は鞘《さや》に納《おさ》めた。
「あ」
いつのまにか人だかりが消えていたような気がしたが、そうではなかった。和穂と道士を中心に、遠巻きにして怖いもの見たさの視線を送り続けている。
視線の対象は自分だと和穂は気付く。
視線を浴び、少し照《て》れながら和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「あはは、すいませんちょっとどいて下さいね」
「ひいい、助けてくれ!」
道を開《あ》けるというより、逃げまどうようにして和穂の行く手から人は消えていった。
「大丈夫《だいじょうぶ》です、別に辻斬《つじぎ》りじゃないんですから」
深霜はボソリと語る。
『何の説得力《せっとくりょく》もありゃしない。乾物屋《かんぶつや》の屋根から抜き身の刀を振り回しながら現れて、道士をしばき倒したのよ』
おもわず和穂は手にもった刀に向かい叫んだ。
「だって、これはみんな、深霜がやったんじゃないの!」
和穂をとりまき、ザワザワ喋《しゃべ》っていた見物人の尚に妙な沈黙が流れる。
刀を振り回し、道士を倒し、刀に話しかける娘の姿は、かなり怪《あや》しかった。
もしかしたら、見物している自分の身にも危険が降りかかるのではないかと、波が引くように見物人たちは逃げていった。
深霜はしみじみと語る。
『可哀《かわい》そうな和穂。人間の為《ため》に一所《いっしょ》懸命《けんめい》回収作業をやってるのに、褒《ほ》められるどころか、こんな冷たい仕打《しう》ちが待ってるなんて』
泣きたい気分には違いなかったが、どっと疲《つか》れが押し寄せ、泣く気力もない。
「そりゃ、普通、怖がるよね」
『本当に可哀そう。こうするしか手段がなかったのに』
「……あの道士の後をつけて、隠《かく》れ家《が》に戻《もど》った所で仕掛《しか》けるとか、幾《いく》らでも手はあったんじゃないの」
『面倒でしょ。そういうやり方』
ここで挫《くじ》けてなるものかと和穂は堪える。
殷雷を少しでも安心させてあげる為には、深霜に振り回されたぐらいで弱音を吐《は》いてはいけない筈《はず》だ。
そして、自分を励《はげ》ますために、低い声で笑う。
「ふっふっふ。負けないわよ」
『そうよ和穂。なかなか情熱的な笑い声ね。
その調子《ちょうし》でどんな困難《こんなん》も乗《の》り越《こ》えるのよ』
とりあえず一番の困難が、和穂を励ましてくれた。
宿屋の主人の目に生気《せいき》はなかった。もはや悩《なや》む事に疲《つか》れたのだろう。
そんな父親の姿を見る香純《こうじゅん》の姿にも、病魔《びょうま》の影が見え隠れしていた。
ここは宿屋の中の一室。主人と香純の家は宿屋の五階の一角を区切り私宅としていた。
先刻、封傑《ふうけつ》が出ていった窓は破《やぶ》れ、潮《しお》の香《かお》りが混《ま》ざった風が、部屋《へや》の中に吹き込んでいた。
椅子《いす》に座《すわ》りながら、宿屋の主人は窓を斬《き》り破り現れた侵入者《しんにゅうしゃ》に言った。
「……強盗《ごうとう》なら明後日《みょうごにち》にしてくれ。娘が奪《うば》われたら、私も死ぬつもりだから」
道士の話を知っている和穂《かずほ》は、主人の疲労《ひろう》が痛い程《ほど》判《わか》った。
和穂は手に持つ深霜刀《しんそうとう》を放り投げた。
途端《とたん》、刀《かたな》は爆煙《ばくえん》に包《つつ》まれ、煙の中から深霜が姿を現す。
だが、この異様な光景も宿屋の主人を驚かせるだけの役には立たなかった。
さすがに香純は、目を丸くしている。
和穂はペコリと頭を下げた。
「手荒《てあら》な訪問《ほうもん》になってすいません。
従業員《じゅうぎょういん》の方に取次《とりつぎ》をお願いしたのですが、会っていただけなかったので」
深霜は言った。
「ほんと、嫌《いや》よね。こういう力づくで会おうなんて暴力的《ぼうりょくてき》なやり方」
和穂がピシャリと言った。
「黙《だま》って、深霜」
やだやだ張り切ってと、深霜は小声で呟《つぶや》いたがそれ以上はつっかからなかった。
宿屋の主人はようやく言葉を返した。
「道服などみたくもない。封傑の同類なんだろう?」
背筋《せすじ》をピンと伸ばし、和穂は主人の目を見た。
「違《ちが》います。その封傑について詳《くわ》しいお話を聞きたいのですが」
「奴《やつ》は化け物だ。俺《おれ》は化け物に娘を売った大馬鹿だ。それが全《すべ》てだ」
深霜がくってかかる。
「それじゃ判《わか》らないでしょうが!」
父親を庇《かば》うように、香純が割って入った。
「どこで、私たちの話をお聞きになったか知りませんが、父を責《せ》めないで下さい」
疑《うたが》いを解《と》こうともしない宿屋の主人であったが、和穂は根気よく話を続けた。
「その封傑に関してですが、もしよろしければ私たちの力を貸してさしあげられるかもしれません」
だらしのない笑顔で主人は言った。
「ふん。それで報酬《ほうしゅう》は何が望《のぞ》みだ?」
深霜の顔色が途端《とたん》に明るくなった。
「まず汁粉《しるこ》でしょ。それといい服もあったから、あれも欲しいよね」
「深霜!」
「何よ、あんたの指図《さしず》は受けないわよ」
深霜は和穂の頬《ほお》を捻《ひね》るが、今回は負けじと和穂も深霜の髪《かみ》の毛を引っ張る。
しばらくやりあったが、深霜がそっぽを向き、戦いは終結した。本気でやれば和穂を倒すなど造作《ぞうさ》もない深霜だったが、口げんかを力づくで解決する趣味《しゅみ》はなかったからだ。
和穂が言った。
「お見苦しい所をお見せしてどうもすいません。報酬《ほうしゅう》は必要ありません」
値踏《ねぶ》みしながら主人は言った。
「ただ働《ばたら》きをあてにする主義ではないんでね。親切心だけで封傑と戦うなんて、信用《しんよう》出来《でき》るか」
深霜は鋭《するど》く指摘《してき》した。
「さっきの道士もそうだけど、あんたも大馬鹿ね。どうせ打つ手はないんでしょ? 娘の命以上に失《うしな》って困《こま》るものもないんだったら、さっさと助けを求めたらいいのよ」
和穂も説得《せっとく》する。
「たぶん、封傑という道士は宝貝《ぱおぺい》を持っていると思います。その宝貝の力でこんな事をしでかしているのだと。
私はその宝貝を回収しているのです。報酬とは少し違いますが、私は宝貝が欲しいのです」
香純《こうじゅん》も父親の説得に混ざる。
「お父様。この二人を信用しましょう。確かに駄目《だめ》で元々《もともと》という言葉もございます」
はかなげながらも、強く訴《うった》える香純の瞳《ひとみ》であった。そんな表情をしている香純を殴《なぐ》れる男は、この世界に存在しなかったかもしれない。
だが、深霜は人間でない以前に、男ではなかった。
香純の頭をポカリと殴りながら叫ぶ。
「駄目で元々とは、えらい言いぐさだね、この女!」
慌《あわ》てて和穂は深霜を止めようとした。
「頼むから、他の人につっかかるのはやめてよ深霜!」
殴られて怒るというより、深霜の行動に香純はポカンとしていた。
確かに深霜の行動は目茶苦茶《めちゃくちゃ》であったが、逆に言えば小細工《こざいく》の臭《にお》いは全くしなかった。
不思議《ふしぎ》と、訳《わけ》が判らない女ではあるが、得体《えたい》の知れない不気味《ぶきみ》さはない。
たとえ、悪《わる》足掻《あが》きに終わろうが、無様《ぶざま》にもがけるのならば、もがくしかないのかと、宿屋の主人は考えた。
その瞳に僅《わず》かな希望の光を輝かせ、宿屋の主人は首を縦に振った。
「判った。お願いだ、香純を守ってくれ」
香純の部屋《へや》には、色とりどりの無数の花が飾《かざ》られていた。
香《こう》を焚《た》いているのではないが、部屋全体に花の甘い香《かお》りが溢《あふ》れている。
部屋の明《あ》かりの為《ため》に立てられている蝋燭《ろうそく》は上等の物らしく、安物の蝋燭が持つ嫌《いや》な臭《にお》いは全くしていない。
深霜は機嫌《きげん》が悪そうに、椅子《いす》に座《すわ》り、両足を卓《たく》の上に乗せていた。
寝台に座る香純は隣《となり》に座る和穂の手をしっかりと握《にぎ》っていた。
深霜が口を開く。
「困《こま》ったわね。二つの事について文句《もんく》を言いたいんだけど、どっちから文句を言おうか迷《まよ》っちゃうね」
和穂が先手を打つ。
「別に無理して文句を言わなくても」
聞く深霜ではない。
「よし、まず一つ目。部屋が子供っぽい。十五にもなって、部屋にお花がいっぱい、でもないだろうに。
二つ目は、女同士でグチャグチャくっつくな。見ていて気持ち悪い」
和穂が言い返す。
「部屋の趣味《しゅみ》は、人の勝手《かって》でしょ。そうやって酷《ひど》い事ばっかり言ってるから、香純さんは深霜を怖《こわ》がって、私にくっついてるのよ」
言いつつも、香純が深霜をそれほど恐れてはいないと和穂は感じていた。
和穂にくっつくこの感じは、一言で言えば甘えている感覚に似ている。
同年代で、この言葉を使うのも変だと和穂は思ったが、一番|適切《てきせつ》なのは、懐《なつ》いているといったところだろうか。
寄《よ》り添《そ》うようにべったりとくっつかれ、和穂は少し居心地《いごこち》が悪かった。
居心地が悪いのは深霜も同じなようで、椅子に座りながら、もぞもぞしている。
が、居心地の悪さに耐えられる性格を深霜はしていない。
ついに、椅子から立ち上がる。
「ああ、もう。この椅子、小さ過ぎるわよ! だいたい、椅子《いす》といい卓《たく》といい、小作りなのよ! 金持ちなんだから、もっとこうデカイのを買いなさいってば!」
こんな椅子に二度と座ってなるものかと、深霜は不作法《ぶさほう》に卓に座った。
確かに、この部屋の家具《かぐ》は普通のよりも少し小さい。
和穂は、子供の頃から使い続けている家具だと考えた。
「いいじゃないの、別に。
ほら、愛着《あいちゃく》のわいた家具って、なかなか捨《す》てられないじゃない。思い出とかもあったりしてね。
香純さん、本当に深霜の言う事なんか気にしなくていいからね」
和穂の心配をよそに、香純は深霜の言葉など全く気にせず、和穂の髪の毛を優《やさ》しく撫《な》でている。
「和穂姉様の髪《かみ》の毛って綺麗《きれい》、それにいい香《かお》りがする……」
部屋の中を嫌《いや》な衝撃《しょうげき》が駆《か》け巡《めぐ》る。和穂の顔に居所《いどころ》のない猫《ねこ》のような表情が浮《う》かぶ。
「いや、あの香純さん。『姉様』って私も十五歳だから同い歳ですからね、あの」
助けを求める和穂の視線を、深霜は軽く叩《たた》き斬《き》った。
「困ったわね。私にはソッチの趣味《しゅみ》はないからなあ。
よし、二人でお風呂《ふろ》にでも入ってらっしゃいな。なかなか面白《おもしろ》そうじゃない」
「し、深霜……そういう冗談《じょうだん》は」
和穂の困《こま》っている顔を見るのも面白《おもしろ》かったが、それ以上に女同士でくっついている姿を見るのが深霜には不快だった。
やむなく、深霜は香純に話しかけた。
「和聴姉様に甘えてるのを邪魔して悪いんだけど、香純ちゃんよ。
隣《となり》の部屋って空き部屋なの?」
和穂の髪から手を離し、香純はゆっくりと説明した。
「隣の部屋は、雷納《らいのう》兄様のお部屋《へや》です」
「雷納? そんな奴《やつ》、この宿屋にいた?」
「……雷納兄様は、五年前に戦《いくさ》に行ってしまわれました。戦が終わって四年|経《た》ちますが、雷納兄様はまだ帰ってこられないのです。
兄様がいつ戻《もど》られてもいいように、あのお部屋はそのままにしてるのです」
深霜が喋り出すのを見て、和穂はドキリとした。
戦地に赴《おもむ》いての、四年の空白である。「馬鹿ね、死んでるに決まってるじゃない」とでも、言ったらどうしようか? 和穂が止める間もなく、深霜は言った。
「そう。早く帰ってくるといいわね」
肩をすかされる和穂を横目に会話が続く。深霜は雷納について語る時の香純の表情を見逃さなかった。悲しさの中に複雑《ふくざつ》に混《ま》ざる憧《あこが》れの表情だ。
「ふうん。香純は、雷納が好きなんだ」
なんの照《て》れもなく、香純は答えた。
「はい。私は雷納兄様が大好きです。雷納兄様はとても優しい方なんですのよ」
深霜は大きくうなずく。
「なるほど。男でも女でも香純は、両方|大丈夫《だいじょうぶ》なのか。
便利《べんり》だな、和穂」
「ベ、便利って何がよ?」
「いや、よく判んないけどさ」
喋りながら、深霜は雷納の部屋の気配《けはい》を探《さぐ》った。意外と封傑の隠《かく》れ場所だったりする可能性を考えたのだが、その様子《ようす》はなさそうだった。
気配を隠す宝貝《ぱおぺい》ならば、話は別だろうが、話を聞くかぎり、封傑の持つ宝貝はそんな性質の宝貝ではなさそうだ。
万が一、隣《となり》に封傑《ふうけつ》が潜《ひそ》もうが、香純《こうじゅん》と同じ部屋にいる限り、裏はかかれない。
封傑から香純を守るのは深霜にとっては、面倒な仕事でしかなかった。
だが、武器《ぶき》の宝貝として、敵《てき》に後《おく》れをとるのもしゃくだったのだ。
深霜は冷静《れいせい》に気配《けはい》を読む。
その深霜の感覚に何かが触れた。
あってはならぬ気配、この世界の理《ことわり》に逆《さか》らうような僅《わず》かな気配《けはい》。
「……その封傑って奴《やつ》が来る」
「え、でも約束《やくそく》の日は明日《あす》じゃ」
「脅《おび》える顔を見て喜《よろこ》ぶような趣味のあるやつだ。今日もご挨拶《あいさつ》のつもりなんだろ」
気配は空を飛んでいる。形の定まらぬ気配の中に、僅《わず》かな羽音《はおと》が混ざっていた。
気配の主は鳥か? だが、鳥が一直線に、この宿屋に向かい飛ぶ理由があるか?
宿屋のすぐそばにまで近寄った鳥の気配が、一瞬にして人の形をとり、次の瞬間には部屋の窓が外側から開く。
突風の為《ため》に、花びらが舞《ま》った。
そして、封傑がそこにいた。
「どうした、親父殿《おやじどの》の部屋は? 板が打ちつけてあったが、あれでこの封傑を防《ふせ》げるとでも思ったのか?」
深霜がニヤリと笑う。これでも武器《ぶき》の宝貝なのだ。戦闘に際《さい》し、臆《おく》する性格《せいかく》はしていない。
「隣の窓枠はね、ちょっとした事情でブチ壊させてもらったのよ」
封傑の視線は和穂と深霜に向けられた。
「誰《だれ》だお前たちは? 香純の友人か?」
脅《おび》える香純の手を、一度強く握《にぎ》り、和穂は寝台《しんだい》から立ち上がった。
同じように、深霜も卓《たく》の上から立ち上がりゆっくりと和穂の側《そば》に寄《よ》った。
深霜が不敵《ふてき》に笑《わら》う。
「さあ、封傑。さっさと宝貝を渡《わた》して、とっとと立《た》ち去《さ》りなさい。
さもなくば、痛《いた》い目《め》にあうわよ!」
驚《おどろ》きもせず、呆《あき》れた声が封傑から返った。
「……親父殿にも呆れたもんだ。
護衛《ごえい》を雇《やと》うに事かいて、こんな小娘たちを使うなどとは」
深霜は脅しでも、冗談《じょうだん》でもなく正直《しょうじき》に言った。
「峰打《みねう》ちだとか、手加減《てかげん》とかは苦手《にがて》だから、急所だけは外《はず》して本気でいくわよ。
死ななくても、重症《じゅうしょう》は覚悟《かくご》してよ」
それは封傑に言ったのか、それとも和穂に言ったのか?
次の瞬間《しゅんかん》、爆煙《ばくえん》と共《とも》に深霜は刀《かたな》となり、和穂は素早《すばや》く深霜刀を持つ。
封傑は驚き、間合《まあい》いを外す。
「何!」
まさに言葉通りに、風を斬《き》るような斬撃《ざんげき》が深霜刀から放《はな》たれた。
ぶん。
同時に放たれた斬撃は、蜂《はち》の羽音《はおと》のような低い振動音《しんどうおん》を放った。
あまりに素早《すばや》い斬撃に、攻撃をくらった封傑よりも、和穂が驚く。
『す、凄《すご》い! 殷雷《いんらい》の攻撃より遥《はる》かに素早《すばや》いじゃないの!』
深霜とて、武器の宝貝《ぱおぺい》。自分の攻撃を褒《ほ》められて、悪い気はしない。
『ほほほ。おだてるんじゃないよ。
だって私は、殷雷と違って、防御《ぼうぎょ》の事は一切《いっさい》考えてないんですもの』
和穂の背中を冷《ひ》や汗《あせ》が流れた。
冗談にしては、深霜の動きは本当に速い。
本当に防御の事は気にしてないのだろう。
和穂の緊張を深霜は笑う。
『大丈夫《だいじょうぶ》。一応《いちおう》、攻撃は避《よ》けるから。殷雷は防御を優先させて、相手の攻撃を刀で受ける事も考えてるんだと思うよ。
避け損《そこ》なった時には、刀で受けられるようにしてるのよ。
私は、そういうの好きじゃないからね』
さらりと説明されたが、これはかなりおっかないぞと、和穂は考えた。だが、今は封傑を倒すのが先だ。
目の前では、一瞬の沈黙《ちんもく》を経過《けいか》して、封傑の体が切れ始めていた。
まさに、ズタズタの一言だった。
急所を外すという言葉に嘘《うそ》はなかったが、重要な血管がありそうな場所を残し、無数の切れ目が封傑の体に現れていた。
一つの傷の深さは、だいたい親指の第一関節ぐらいある。
次の瞬間には、封傑は血塗《ちまみ》れになると、和穂は息を飲んだ。
死にはしないだろうが、大|怪我《けが》だ。
『深霜、やりすぎよ!』
『……ところが、そうでもなさそうよ。最初の一撃の時の切れ味が変だった。
あれが普通の切れ味だったら、もうちょっと浅目にきったんだけどね』
深霜の言葉を理解するより先に、和穂の目の前に答えが現れた。
封傑の切り口からは、血が流れなかったのだ。
その代わり、羽毛《うもう》の枕《まくら》を破《やぶ》ったかのように黒い羽《はね》が飛び散った。
肉体の切れ目どころか、道服の切れ目からも羽が飛び散った。
「ぐ、ぐおお」
自分の体を抱き締めるように手を回し、封傑は呻《うめ》いた。
封傑の次の一手を待つように、深霜は攻撃せずに、宙を舞う羽を一枚手に取った。
深霜の頭に疑問《ぎもん》が浮かぶ。
『鶏《にわとり》の羽?』
『? 鶏がどうしたって?』
封傑が叫ぶ。
「き、貴様《きさま》! よくもやってくれたな! だがこの程度で俺《おれ》は倒せんぞ!」
欠伸《あくび》をかみ殺しながら、深霜は和穂に語らせた。
「師弟《してい》そろって、雑魚《ざこ》みたいな口を叩《たた》くんじゃないよ。
どうでもいいから、さっさと宝貝《ぱおぺい》でも使ったらどうなの!
……あんた、人間じゃないんでしょ? 妖怪《ようかい》の類《たぐい》なら、宝貝の刀《かたな》の前にゃかなうはずないんだからね!」
深霜の言葉はただの脅《おど》しではない。妖怪に宝貝の刃は覿面《てきめん》に利《き》くのだ。当の妖怪ならばその事を充分に承知《しょうち》しているはずだが、封傑は引かない。
「ほざけ! 我を倒すなど不可能《ふかのう》だ!」
和穂は駆《か》け、体当たりを封傑に仕掛《しか》けた。
二人はそのまま、壁際にまでもつれこんでいった。
封傑の右手が、和穂の首を締《し》め上げる。
その封傑の右手を和穂の左手がさらに締め上げる。
首が折れたか、腕《うで》が折れたか、ポキリと骨の折れる音がした。
もんどりうって苦しみの声を上げたのは、和穂ではなく封傑だった。グニャリとした腕が、和穂の首から外される。
さらに力で押さえ込もうと、和穂の手に力が入るが、封傑は自分の背中が窓枠に達したと知り、強く床《ゆか》を蹴《け》った。
その反動で、封傑と和穂は窓の外に飛び出る。
香純が窓際《まどぎわ》へと駆け寄る。
「和穂姉様!」
バサッ、バサッ。
封傑の背中からは、黒い羽が生《は》え、宙を舞《ま》っていた。
だが、しがみつくように、背後《はいご》から和穂に羽交《はが》い締《じ》めにされ、思うように飛べず、まるでコウモリのような動きになっている。
もう一度、香純は叫ぶ。
「和穂姉様!」
月だけが怪しく光る夜空を、和穂を連れて封傑は飛んでいった。
フラリフラリとしていたが、封傑《ふうけつ》の高度は全《まった》く下がらない。
だが、陸から海に吹く風に逆《さか》らうだけの力はなく、ゆっくりと海へと流されていく。
和穂《かずほ》の腕《うで》は完璧《かんぺき》に封傑の喉《のど》を締《し》め上げていたが、封傑を窒息《ちっそく》させる事は出来《でき》なかった。
たぶん、封傑は息《いき》をしておらず、首に血管も通っていないのだろう。
深霜《しんそう》は心で叫《さけ》ぶ。
『こいつは一体《いったい》なんなの!』
意味のある返答ではないと考えつつ、和穂が答える。
『妖怪なんじゃ?』
『違う。こいつは妖怪じゃない。
人でもない。じゃあ、一体何なのよ!』
和穂が封傑の耳元で怒鳴る。
「あんたの正体は何なのよ!」
「くあ、我《わ》が名《な》は封傑。仙術《せんじゅつ》の奥義《おうぎ》を究《きわ》めし道士だ!」
それは嘘《うそ》だ、と深霜は思った。仙術の奥義を究めているのならば、逆にこれだけ手こずるはずがない。
もがきながら、深霜は時を待った。
深霜の読みの通り、封傑はやがて海の上に流されていった。
「よし。あんたの正体がなんであろうが、知ったこっちゃないわよ。
でも、消えてもらうからね!」
封傑を羽交《はが》い締《じ》めにしつつ、深霜は封傑の重心《じゅうしん》を探《さぐ》った。
そして、背骨《せぼね》の中程に重心を見つけると、一気《いっき》に勝負に出た。
和穂は、体を丸め、首を締める腕を離すと一息《ひといき》に、封傑の重心のかかった背骨を蹴《け》りぬいた。
和穂が封傑の背中から、飛び上がったのか封傑が和穂に蹴られ、高度を下げたのか、和穂にはよく判《わか》らなかったが、ともかく封傑との間に大きな空間が空《あ》いた。
ゆっくりと和穂は落下していく。
落下しながらも深霜刀は封傑に狙《ねら》いを定《さだ》めた。
そして、封傑と空中で擦《す》れ違う刹那《せつな》、己《おのれ》の持てる最速の斬撃《ざんげき》を全《すべ》て封傑に叩《たた》きこんだ。
「ぐげえ」
封傑の悲鳴さえ細切《こまぎ》れにしそうな攻撃が封傑に命中した。
空一面に黒い羽《はね》が飛び散った。
落下しながら深霜は笑った。
『ふん。なんだか判らないけど、ともかく倒したわよ。これで死ななきゃ、お手上げよ』
『お、落ちてるよ深霜、どうするの!』
『下は海水よ。一切《いっさい》、問題なし』
『……ここらへんの海って遠浅《とおあさ》なんじゃなかったかしら?』
『あ、忘れてた』
『!』
『ま、大丈夫でしょ』
そして、和穂は海面に向けて真《ま》っ逆様《さかさま》に落ちていく。
『わあわあ』
『うるさいわね。海底に当たりそうになったら、海底を黄粉《きなこ》みたいに切《き》り裂《さ》くから、潰《つぶ》れはしないわよ』
和穂はどうにか息をついた。
そうこうしているうちに、ついに着水しようとした瞬間《しゅんかん》、和穂の視界に黒い影がよぎった。
月の明かりを浴びながら、ゆっくりと封傑が空に浮かんでいたのだ。
「!」
壮絶《そうぜつ》な音を立てて、和穂は海に落ちた。
ザプン、ザプンと波は奇岩に当たり、消えていった。その波の中から、にゅいと一本の腕《うで》が伸びた。
もがくように、腕は動き、一本の奇岩を掴《つか》む。そして、一気に海面から自分の体を引き上げた。
和穂である。
全身ずぶ濡《ぬ》れになりつつも、不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべていた。
もう片方の手には勿論《もちろん》、深霜|刀《とう》が握《にぎ》られたままだ。
「やってくれるじゃないの」
楽しそうに、和穂は笑う。それは深霜の笑顔《えがお》だった。
月明かりの中、封傑の姿を深霜は探《さぐ》った。
東の空を街に向かい、ゆっくりとはばたく封傑の気配《けはい》が感じとれた。
先刻の攻撃《こうげき》が効《き》いているのか、封傑の動きはノロノロとしている。
これなら充分《じゅうぶん》に追いつける。もしも、追いつけなくとも、封傑に一泡《ひとあわ》ふかせねば、宝貝《ぱおぺい》としての誇《ほこ》りが傷《きず》つく。
片手に深霜刀を持ったまま、和穂は奇岩の上に登《のぼ》る。
そして、別の奇岩の上に飛び移り、また別の奇岩へと。
そうやって和穂は、街《まち》へと向けて飛《と》び跳《は》ねていった。
「待ってろよ、あの鶏男《にわとりおとこ》め!」
そう言えば、さっき深霜が鶏がどうのこうのと言ってはいなかったか?
和穂は尋《たず》ねた。
『鶏がどうしたの?』
『最初、奴《やつ》に切りつけた時、羽が飛び散ったでしょ。あれは鶏の羽だったのよ』
『でも、香純《こうじゅん》さんたちの話じゃ、封傑は自分の事を黒鷺《くろさぎ》だっていってたんじゃ?』
『知ったこっちゃないわよ。焼けば、どんな鳥も焼き鳥よ!』
強い怒《いか》りを糧《かて》にして、和穂は奇岩の上を飛ぶように、進んでいく。
『あ、でもさっき、これで死ななきゃ、お手上げだとか言ってたじゃない?』
『……いちいちうるさいわね。もう一回やったら通用するかもしれないじゃないの』
いまいち説得力《せっとくりょく》に欠《か》けてはいたが、深霜がついに本気を出し始めているのだけは確かだった。
「お、親父殿《おやじどの》! よくもやってくれたな!」
香純の部屋《へや》の騒ぎを聞きつけ、宿屋の主人はすぐに部屋に現れた。
だが、そこには香純の姿だけがあり、深霜と和穂の姿はなかった。
脅《おび》える香純がどうにか説明を終《お》えた頃《ころ》、再び封傑が窓の外から現れた。
全身に無数の傷《きず》が走り、その体はどこまでが道服でどこからが体なのかがよく判らない、影のような形になっている。
道服の垂《た》れた長い袖《そで》が、まるで畳《たた》まれた羽のように見える。
「あの二人はどうしたんだ!」
「くつけっけ。知るか。親父殿、こんな酷《ひど》い目に合わせてもらった礼はするぞ。
香純には約束通り、明日《あす》になるまでは手を出さない。
だがな、親父。お前の命を奪《うば》う事は約束《やくそく》には反してないのだからな!」
封傑はさらに黒く、黒くなっている。もはやすでに影絵《かげえ》の様相《ようそう》だ。その体の中で、目だけが怪《あや》しく光を放っていた。
ジワリジワリと、封傑は宿屋の主人に迫《せま》っていく。
「一撃《いちげき》で貴様《きさま》の首をへし折ってやる!」
封傑の拳《こぶし》が放たれようとした、その瞬間、ずぶ濡《ぬ》れの和穂が窓から室内に転がりこんだ。
そして、一気に封傑の背中に深霜刀を埋《う》めた。
一瞬、大きく仰《の》け反《ぞ》った封傑だが、すぐに振り返りながら、和穂の腹《はら》を殴《なぐ》った。
深霜の言葉に、どうやら嘘はなかったようだ。封傑の攻撃を避《よ》け損《そこ》ねた和穂は、思いっきり壁に叩《たた》きつけられた。
『く、あんな奴《やつ》に負けてしまうのか!』
深霜は、ついに自分に打つ手がないのを認《みと》めてしまった。
あれだけやっても、封傑に致命的《ちめいてき》な攻撃を放てなかったのだ。
不快《ふかい》であったが、封傑に自分の力が通用しないと深霜は認めた。
『深霜! どうにかしないと!』
『くやしいけど、無駄《むだ》なのよ! 一体あいつは何の宝貝《ぱおぺい》を持っているっていうのよ! 全く見当もつかない!』
『あきらめちゃ駄目!』
『ええい、勝てないもんは勝てないのよ! あいつの本性すら判《わか》らないのに!』
そうだ。一体、封傑はなんの宝貝を持っているんだろう? 和穂も考えたが全《まった》く判らない。
それに、封傑は本当に強いのだろうか? 得体《えたい》が知れないのは確実だ。深霜の攻撃を受けて致命傷にならないのに、ある程度は攻撃が通用している。
……判らない、全く判らない。鎧《よろい》の宝貝ならば、深霜の攻撃を防《ふせ》げても不思議《ふしぎ》はない。
だが、鎧の宝貝《ぱおぺい》であるならば、そうだと深霜が真《ま》っ先《さき》に気付くはずだ。
和穂は、自分の力でゆっくりと立ち上がった。深霜が叫ぶ。
『よしなさい! 悪いけど、宿屋の主人は助けられない! 捨て身で攻撃をあんたが食らってどうなる? 次に宿屋の親父を狙《ねら》うだけでしょ!』
『でも』
今まさに、封傑の手刀《しゅとう》が宿屋の主人に炸裂《さくれつ》しようとした、その瞬間《しゅんかん》、部屋の扉《とびら》が蹴《け》り破《やぶ》られた。
木の破片が飛び散る中には、一人の青年がいた。
すらりとした長身に、贅肉《ぜいにく》の全《まった》くない体。完全に均整《きんせい》の取れた顔には、鋭い眼光《がんこう》が宿《やど》っている。
手には大きな剣を両手で握《にぎ》っていた。
香純が叫ぶ。
「雷納《らいのう》兄様!」
深霜は和穂の声で叫ぶ。
「んな、馬鹿な! 危機一髪《ききいっぱつ》すぎる!……いやそうでもないか、とてつもなく幸運じゃなくて、とてつもなく不幸だ!
折角《せっかく》帰ってきたのに、封傑に倒されるっていうの!」
宝貝の刃《やいば》が通用しないのだ。今さら人間が一人現れてどうなるのか? 深霜は万が一の事を考え、雷納が持つ剣に目をやる。
よく鍛《きた》えられた業物《わざもの》であると、その刃が語っているが、所詮《しょせん》は普通の剣だ。
封傑は吠《ほ》えた。
「そこの小僧《こぞう》、貴様《きさま》から血祭《ちまつ》りだ!」
深霜も叫ぶ。
『無茶《むちゃ》だ! あんな大剣じゃ、天井《てんじょう》に引《ひ》っ掛《か》かるわよ! 横斬りじゃ壁に当たるし!』
雷納は大きく息を吐《は》き、迫《せま》り来る封傑に気合をぶつけ、大上段に振りかぶった剣を一気に振り下ろした。
深霜の心配はある意味正解だった。
大剣は天井に当たり、天井を切り裂いた後に封傑を脳天から真っ二つに叩き切り、その後、床に刺さったのだ。
たいした腕だが、これで死ぬのなら、さっきの海上で封傑は死んでいたのよ、と深霜は考えた。
が、封傑は断末魔《だんまつま》の叫《さけ》びを上げていた。
「く! よくもこの私を倒してくれたな!」
和穂を操《あやつ》り深霜は異議《いぎ》を唱《とな》えた。
「ど、どうして通用するのよ!」
異議に答える者は誰《だれ》もいない。和穂は口をあんぐりと空《あ》けて茫然《ぼうぜん》としている。封傑は雷納の一撃で、本当に消滅《しょうめつ》したのだ。姿を隠《かく》しているのではないと、深霜の感覚《かんかく》は証明《しょうめい》していた。
香純は急いで、雷納のもとへと走った。
「あぁ、雷納兄様。この日をどれだけ待《ま》っていた事でしょう。香純は、ずっと雷納兄様をお慕《した》い申《もう》しておりました」
自分の胸《むね》に飛び込む香純の髪《かみ》を優《やさ》しく撫《な》でて、雷納は言った。
「あぁ香純よ。私もお前の笑顔《えがお》を忘れた日は一日たりともなかったのだよ。
お願いだ、私と結婚しておくれ」
深霜は、和穂にガリガリと歯ぎしりをさせた。何か納得《なっとく》がいかない。
宿屋の主人は満足そうに、うんうんとうなずいている。
「あぁ、これで万事《ばんじ》上手《うま》く言った。
なんとめでたい事だろうか」
何故《なぜ》だ? 深霜の頭の中を疑問《ぎもん》が猛速度《もうそくど》で駆《か》け抜《ぬ》けていった。
『う、うわあ、全然《ぜんぜん》納得いかない!』
和穂も事態が少し変だとは思っていたが、幸せそうな香純たちを見ていると、これはこれでいい気がしてきた。
『都合《つごう》がいいけど、良かったじゃない。封傑は油断して、雷納さんに倒されたんじゃないのかしら? ほら、深霜が戦う時は、威嚇《いかく》してたから封傑も用心《ようじん》してたんじゃ』
『うるさいわね。そんなに都合よく、この世の中が回ってたまるもんですか!
それに和穂! 肝心《かんじん》の宝貝《ぱおぺい》がどこにあるのよ! 封傑は消えた。雷納に倒されたんだ。それはいいとして、だったら封傑の使っていた宝貝が、そこらへんにあってもいいじゃないの! あああもう。封傑は一体、なんの宝貝を使ってたというのよ!』
そう。問題は残っている。だが、和穂は喜《よろこ》ぶ三人の姿を見ていると、謎《なぞ》を解《と》くのは後で良いような気がしてきた。
『それは後でゆっくり考えようよ。
でも、凄《すご》いよね。まるで、おとぎ話みたいじゃない。
悪い化け物に命を狙《ねら》われて、それを助けてくれたのは、行方《ゆくえ》知れずだった、大好きだった人なんでしょ。こんな事もあるのねえ』
『あってたまるか!……おとぎ話?』
和穂の言葉が深霜の中で、何かの閃《ひらめ》きを与えた。和穂は深霜の様子が変わった事に気が着いた。
『どしたの? 深霜』
『おとぎ話? おとぎ話か!』
パタパタパタと、深霜の頭の中で全《すべ》てが組み上がっていった。収まる所に全ての謎が収《おさ》まっていったのだ。
『封傑という悪い道士。黒鷺《くろさぎ》の化け物の羽はなぜか鶏の羽、いや違う、鶏の羽しか鳥の羽を知らないのか? 和穂にべったりとくっつく香純、あれは和穂に懐《なつ》いていたのか?』
『深霜?』
『……花がいっぱいの香純の部屋、香純の部屋にある家具は、どれも小さい。あれじゃ子供部屋だ!』
『まだ、そんな事を。だから、思い出があったんじゃないの? もしかしたら雷納さんとの思い出とか』
『……和穂。この部屋の香純の家具は、五年も前の古いものじゃない』
和穂は家具に目をやった。家具の古さを見破《みやぶ》る程《ほど》の知識《ちしき》は和穂にはなかったが、言われてみれば少し変だ。
子供の頃に悪戯《いたずら》をして、家具に傷を付ける事など不思議《ふしぎ》でもなく、そんな傷が香純の家具にもついている。
が、その傷は古くはない。
『でもそれが?』
『五年も行方不明だった人間が、絶好の機会に帰宅した。
そうか、そうだったのか。……なんと哀《あわ》れな』
そして、和穂は泣いた。
その涙は深霜の涙《なみだ》だった。とめどもなく深霜は泣いた。
流れる涙をぬぐいもせず、ただ、泣いた。
『どうしたのよ深霜!』
いきなり泣き出す深霜に、和穂は驚《おどろ》く。
深霜刀と和穂は心を接している。言葉はなくとも、深霜の悲しみは、和穂に伝わっていく。
この涙は偽《いつわ》りの涙なんかじゃない。
深霜は和穂をゆっくりと立ち上がらせた。
宿屋の主人が嬉《うれ》しそうに言う。
「紹介《しょうかい》がまだでしたね。こいつが、雷納、まあ私にとって倅《せがれ》のような者です」
その言葉はどこか誇《ほこ》らしげだった。
だが、宿屋の主人は和穂の様子に少し戸惑《とまど》う。
「どうしたんです? 何が悲しいのです」
雷納と香純も、和穂の様子に戸惑った。
雷納の胸《むね》の中で甘えていた香純は、体を離し心配そうに和穂を見た。
それでも和穂の涙は止まらない。
そして、深霜刀は己《おのれ》の刃《やいば》を、雷納の胸に深々《ふかぶか》と突き刺した。
「!」
度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれたのは和穂も同じだった。
『し、深霜! どうしたの!』
香純が耳を押さえ叫ぶ。
「きゃあ!」
宿屋の主人は目を見開き叫ぶ。
「な、何をするんだ!」
雷納は、少し困《こま》った顔で言った。
「酷《ひど》いなあ。痛いじゃないですか」
優《やさ》しい雷納は、自分の胸を貫かれても、怒りはしなかった。ただ、軽くたしなめただけだった。
宿屋の主人の驚《おどろ》きは二つに別れた。
なぜ、和穂は雷納に刃を突き刺した?
なぜ、雷納は刃を体に受け、平気な顔をしているのだ?
そして、和穂は深霜の行動の意味を悟《さと》った。
そして、和穂も涙を流す。
雷納に突き刺した刀を抜き、和穂はゆっくりと、耳を押さえ、しゃがみ込む香純に向き合った。
そして、深霜刀を大きく振りかぶった。
「娘に何をする!」
飛び掛かる宿屋の主人を、和穂は突き飛ばした。
そして、涙を流しながら、刀を振り降ろした。
深霜は和穂の声で呟《つぶや》く。
「駄目《だめ》よ香純。いくら辛《つら》くても、偽者《にせもの》を愛してはいけないのよ」
それは、その存在を疑わなければけっして見えない檻《おり》だった。
幻影《げんえい》が流れ出し、幻影に包まれた、宝貝の檻。
檻を使ったのも、檻の中にいたのも香純だったのだ。
幻影は檻を見えなくし、香純の本当の姿も包みこんでいたのだ。
深霜刀は香純を切り裂いたのではなかった。
深霜刀は香純の入っていた、檻を叩き切っていたのだ。
檻は壊《こわ》れ、雷納は消滅《しょうめつ》した。部屋の中に残っていた封傑の羽も消滅した。
檻の中で泣きじゃくっているのは、十歳の香純だった。
まだ、和穂の涙は止まらなかった。
翌日《よくじつ》。
和穂《かずほ》と深霜《しんそう》は、また観覧塔《かんらんとう》に登《のぼ》っていた。この間のように、潮風《しおかぜ》が二人の髪《かみ》をなびかせるが、二人はおし黙《だま》っていた。
和穂の足元には、破壊《はかい》され、数本の鉄の柱の姿になった宝貝《ぱおぺい》の残骸《ざんがい》が置かれている。
深霜が宝貝の残骸を見つめ口を開いた。
「望全界はね、本来は牢屋《ろうや》の宝貝《ぱおぺい》なの」
「牢屋?」
「そう。仙人《せんにん》を閉《と》じ込める為《ため》の牢屋。仙人を脱出させない為の一番いい方法は何だと思う?」
「判《わか》らない」
「……自分が牢の中にいると悟《さと》らせなければいいのよ。それに気がつかなければ、脱出しようなんて思いもしない。
だから、望全界は幻影を与える。自分の知っている世界と、全く同じ世界をね。
香純《こうじゅん》みたいに、まだ世界への認識《にんしき》が甘い場合は奇妙《きみょう》な世界になる」
「香純は牢の中にいたの?」
「そうよ。でも、閉じ込められるのを恐《おそ》れて牢を閉《し》めてはいなかった。
開かれた牢の中から、幻影が広がっていたのよ。封傑も幻影、雷納《らいのう》も幻影、封傑の弟子《でし》は実在《じつざい》の人物だけど、筆《ふで》と短冊《たんざく》は幻影。当然、香純の父親と封傑の約束なんか、最初からなかった。
幻影と世界が混《ま》じってしまったの。
香純の造った世界は、まるでおとぎ話のようだった。
香純は雷納に会いたかったのよ」
和穂は、右の髪留《かみど》めを外した。
「そこが判らないの。行方不明《ゆくえふめい》の雷納さんに会いたいのなら、雷納さんの幻影だけを出せば良かったんじゃない?」
「……子供だからって、馬鹿じゃない。
香純は心の底で、四年も行方《ゆくえ》が判らない雷納は死んでいると考えた。
香純は、不思議《ふしぎ》な偶然《ぐうぜん》が起きても不思議ではない世界をおもったのよ。
悪い道士が存在するような世界をね。
不思議な道士が、存在するぐらいなんだから、行方不明の雷納が帰ってきてもいいじゃない。
理屈《りくつ》は無茶《むちゃ》だけど、彼女はそういうおとぎ話を望《のぞ》んだんだ。それに雷納と吊《つ》り合《あ》いがとれるように、自分の姿を十五歳にしてたのね。十歳の子供部屋に住む十五歳の娘。この違和感にさっさと気がつくべきだった」
和穂は左の髪留めも外《はず》した。解《ほど》かれた髪は大きく風に靡《なび》いた。
「……どうして泣いたの、深霜?」
「雷納が香純の前から姿を消したのは、彼女が五歳の時よ。
そんな小さな子供にとって、四、五年なんて永遠に近い長さに感じられる。
それだけの長い間、淡《あわ》い恋心を抱《いだ》き続けていたのよ。
……泣かずにどうする」
和穂はうなずき、いつもの赤い飾り布で髪を括《くく》った。
「……悲しい話だよね」
ボンヤリと街《まち》を見ていた深霜の顔が、いきなり強張《こわば》った。
「あ!」
「どしたの?」
答えずに深霜は刀に姿を変えた。隣《となり》の観光客が腰を抜かしたが深霜はお構《かま》いなしに、和穂の視覚《しかく》を操《あやつ》った。
そして、和穂は港《みなと》から降《お》りる雷納の姿を発見した。幻影の雷納と比《くら》べて、かなりくたびれた感じがするが、確かに雷納だ。
『深霜! 良かったね! 雷納さんが帰ってきたんだ!』
『違うわよ。私や現実の厳《きび》しさが嫌になったね』
深霜は和穂の視覚を再び動かす。
雷納の横には、雷納に付《つ》き添《そ》うように一人の娘がいた。娘の手には、小さな赤《あか》ん坊《ぼう》が抱かれていた。
『あ、あれってやっぱり』
『わざわざ下まで降りて、はっきりさせる気力はないからね。
ま、しょうがないじゃない。初恋なんてズタズタに破《やぶ》れるのがオチなんだから』
『そんな、身《み》も蓋《ふた》もない』
『そこで挫《くじ》けてちゃ、私のような情熱的な女にゃなれないわよ』
『うううむ』
『おっと、そろそろ愛《いと》しの殷雷《いんらい》を呼びましょうよ。もう一週間|経《た》ったわよ』
和穂は深霜刀を離し、深霜は人の形を取った。
そして、腰《こし》の断縁獄《だんえんごく》を外す。
「殷雷|刀《とう》!」
途端《とたん》、一陣《いちじん》の風が巻き起こり、殷雷刀が姿を現す。いつもの気迫《きはく》に満ちた殷雷の姿に和穂は、ホッと息を吐《は》く。
深霜は急いで殷雷の腕に飛びついた。
殷雷は腹立《はらだ》たしそうに叫ぶ。
「たまらんぞ、この一週間は全《まった》くの無駄《むだ》だった!」
和穂は驚《おどろ》く。
「え、休養出来なかったの?」
「違う。駄目《だめ》でもともとだと思って、痛いのを我慢《がまん》して九転鍼《きゅうてんしん》を使ってみたんだ。
そしたら、どうだ。あの鍼、人間の形をしてりゃ宝貝《ぱおぺい》にまで効《き》きやがった。
あっというまに気血《きけつ》の偏差《へんさ》は治《なお》っちまったんだ。
深霜よ、お前も気血の偏差が起きたら、九転鍼を使え、すぐに楽になるぜ」
「きゃあ、殷雷ってば優《やさ》しいんだからあ」
そして殷雷は今更《いまさら》ながら、キョロキョロと周囲を見回した。
「どこだここ? それに、あの棒は宝貝なのか?」
さあ、ここからが腕《うで》の見せ所だ。
「あ、聞いてよ殷雷! 和穂ったら私が止めるのも聞かずにあの宿屋から飛び出して、宝貝の回収をはじめたのよ!」
和穂は驚く。
「な、何言ってるの深霜!」
殷雷の死角から、深霜は意地悪《いじわる》く舌《した》を出した。
「でも、私は殷雷から和穂の事を頼《たの》まれてるじゃない。そんな約束も守れない和穂を、私は一所《いっしょ》懸命《けんめい》に守って上げたの。
そして、苦労に苦労を重ねて、あの宝貝を回収したって訳《わけ》」
ジロリと、殷雷は和穂をにらんだ。
和穂は言った。
「約束を破《やぶ》ったのはごめんなさい。でも、深霜に殷雷は私の護衛《ごえい》に気を遣ってるから、気血の偏差に苦しむんだ、私がもう少ししっかりしたら、殷雷も楽になるっていわれて」
殷雷は横目で深霜を見た。
「そんな事をほざきやがったか、この嘘《うそ》つきめ!」
ブンブンと深霜は首を横に振る。
「嘘よ、私はそんな事いってないもん。そんな理由で気血の偏差が酷《ひど》くなるはずないじゃないの」
和穂の背中から、一気に力が抜けた。
あれは嘘だったのか? この一週間、私は深霜の口車《くちぐるま》に乗せられていただけなのか。
和穂はへたりこんだ。
殷雷は大きくうなずきながら言った。
「一週間の子守《こもり》、大層《たいそう》御苦労《ごくろう》であった。この殷雷、心の底から礼を言うぞ」
飛び跳ねて、深霜は喜んだ。
「殷雷にそんな事いってもらうなんて、深霜|嬉《うれ》しい!」
殷雷が鋭く切り返す。
「馬鹿め。深霜、お前に言ってるんじゃないぜ。和穂に言ってるんだ」
「え、あたし?」
「そうだ。こんな、女と一緒に断縁獄の中にいたら休暇《きゅうか》もへったくれもあるまい。
それで和穂にこいつの子守を頼もうとしたんだ。
もしも、そんな事が深霜のド阿呆《あほう》に勘《かん》づかれたら一大事だと思って、和穂にも黙《だま》っていた。
和穂よ。こんな女と一週間も暮《く》らした苦労まさに想像に絶《ぜっ》するが、よくやり遂《と》げた。
これからは、鍼があるから、そんな異様な苦労はかける必要もないな。
いや全く、めでたしめでたしだな」
殷雷は腕に巻きつく深霜から、ただならぬ殺気を感じた。
「酷《ひど》いわ殷雷、乙女《おとめ》の純情《じゅんじょう》を踏《ふ》みにじるなんて!」
叫《さけ》びながら、平手打ちの一つでも放ったのなら絵になったであろうが、深霜にそんな甘さはない。鋭《するど》い肘打《ひじう》ちが殷雷の喉《のど》に見事《みごと》に入った。
「グボッ」
「殷雷さんよ、人が甘い顔を見せてるからってちょっといい気になってんじゃないの? だいたい、昔からあんたのそういう所が嫌《きら》いだったのよ!」
可愛《かわい》さ余《あま》ってというより、殷雷を好きでいる事に深霜はそろそろ飽《あ》きてきた。
一度、飽き始めると、そのぶり返しの怒りはさらに強い。
殷雷は殷雷で、一応深霜を騙《だま》していた形になるのであんまり強くやり返せない。
「ま、待て深霜。そんなに怒るな。少しはお前にも感謝してるんだから!」
「うるさい! 何を今更《いまさら》!」
どかすかべきばきと、殷雷は深霜に殴《なぐ》られる。
「か、和穂! 一週間もこいつの相手をしてたんだろ! やめるように言ってくれ!」
和穂は溜《た》め息《いき》を吐《つ》き、言った。
「駄目《だめ》よ。人の恋心を玩《もてあそ》んだ、殷雷が悪いのよ」
和穂が言いそうにない台詞《せりふ》に、殷雷は面食《めんく》らった。
「し、深霜! 和穂に何を仕込《しこ》んだ!」
「ふん。女の情念《じょうねん》をちょいとばかしね」
『望全界』
仙人を閉じ込める為《ため》の牢屋《ろうや》の宝貝。
牢の中の者は、自分の知る現実と寸分|違《たが》わぬ幻影に包まれ、己《おのれ》が牢の中にいる事に気がつけない。
牢が完全に閉められていないと、幻影がこぼれ出し、現実の世界と混ざり合う欠陥を持つ。
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あとがき
『祝、十冊目』
そう、この巻で、わしの書いた小説が丁度《ちょうど》十冊目になるのだ。
ああ、実にめでたい。富士見書房からは十冊目の刊行《かんこう》を祝《いわ》い、記念品の楯《たて》とトロフィーと副賞として「命ある限り食いやがれ、南イタリアペペロンチーネ食い倒れの旅、三十泊三十一日」が送られ……という事は別になかった。
いや待つんだ。このあとがきを書いている時点では、当然、この本は発売されてはいない。
ははあん、なるほど。書店にこの本が並んでるのを確認したわしが、「誰《だれ》も祝ってくれなかったや」としょんぼりと小石を蹴《け》りながら仕事場に出向くと、突然仕事場の明かりが点く。
続いて炸裂《さくれつ》するクラッカーの音に混ざって「十冊目おめでとう!」との歓声《かんせい》、そこにはわしに内緒で、富士見書房|主催《しゅさい》のパーティーの準備《じゅんび》がされていたのでありました、ベンベン。
という計画が、水面下で進められているのだな、きっと。
てな冗談《じょうだん》はさておき、実際には十冊の本を書いたという実感はあまりない。
毎回毎回、ネタを出すのにひいひい言ってる割りには、まだまだやりたりないという気分が強いのは何故《なぜ》か? 不思議《ふしぎ》といえば不思議なもんである。
『病気|自慢《じまん》は爺様《じいさま》の証《あかし》』
最近、ちと胃《い》の調子が悪い。まあ大丈夫《だいじょうぶ》だろうと思っていたのだが、一週間ぐらい徹夜《てつや》をするとかなり苦しいので、大事をとって病院に行くことにした。
だいたい作家という仕事は、自由業なので定期検診《ていきけんしん》というものには縁《えん》がない。
そこで、ここ六年分の健康診断《けんこうしんだん》を兼《か》ね、奮発《ふんぱつ》し、かなりでかい病院に行ってみた。
医者からの質問に幾《いく》つか答え、腹《はら》を押さえられたりして、出た返答は、
「胃|潰瘍《かいよう》か、十二指腸《じゅうにしちょう》潰瘍かもしれないので胃カメラを飲んでみましょう」
軽く青ざめながら、そんなに酷《ひど》いのかと驚《おどろ》く。が、医者はかなり呑気《のんき》だ。
「バリウム飲んで、レントゲンとってもいいけどさ、面倒《めんどう》でしょ。胃カメラ飲めば、結果はすぐ出るし、楽でいいでしょ」
わしは全然楽ではない。楽なのは、医者であるあんただ。
と、思いつつも、こっちは六年分の健康診断であり、あまり強い事も言えない。
胃カメラを飲んで、診断の結果が『食べ過ぎ』とかだったら、かなり面白《おもしろ》いと思うが、どうせそんな時には、
「うむう。胃壁が荒れてますねえ」
とか言ってとりつくろうんだろう。
この診断の日から、胃カメラを飲む日までは丁度、二週間の間隔《かんかく》がある。
その間、徹夜を控《ひか》えると、胃の痛みは冗談のように消えていくではないか。
あとがきを書いている時点では、まだ胃カメラは飲んでいない。
後《あと》で考えてみると、胃カメラを飲むのはかなり辛《つら》いという話を聞いた覚《おぽ》えがある。
わしはいまだかつて胃カメラを飲んた事がなく、少し不安になったので医療《いりょう》関係に詳《くわ》しい友人に尋《たず》ねてみた。
「きみ、一つ教えて欲しいんだが、胃カメラを美味《おい》しくいただく方法はないものかね?」
「あるか、馬鹿」
持つべきものは友人である。その後、こいつは延々《えんえん》と胃カメラの苦しさを、わしに親切丁寧《しんせってんねい》に教えてくれたのだ。
お陰で胃が痛くなりました。
これぞまさしく本末転倒《はんまつてんとう》な、いいオチが着いたが、当事者にとっちゃ面白くもなんともない。
『作品解説』
奮闘編@で作品解説をやっていたので、今回も作品解説をやってみよう。
例によって、ネタが割れるかも知れないので、ここから先は短編を読んでから見てくださいな。
「切れる女に手を出すな」
殷雷刀《いんらいとう》とほぼ同時期に造られた、四振りの刀《かたな》。その名は「静嵐《せいらん》刀」「恵潤《けいじゅん》刀」そして、「深霜《しんそう》刀」
長編の方には、静嵐刀と恵潤刀が登場し、この短編集である奮闘編には、深霜刀が登場する。
どうして? と問われても、そうなっちゃったんだから仕方《しかた》がない。
殷雷は雷気《らいき》を操《あやつ》れないのに、どうして深霜は冷気を操れるのか? と疑問に思われるかもしれない。
実際、殷雷もちょこっとは、雷気を操れるが、攻撃手段として実戦ではなんの役にも立たないので使っていないだけなのであった。
「ごつい男のゆううつ」
鍼《はり》である。やってもらった事がある人は判《わか》ると思うが、鍼はそんなに痛くはない。
ただ、鍼によっては、ズブズブと数センチも体の中に打ち込む種類の物もあり、あれはやられているより、見ている方が百倍痛く感じる。
「心迷わす蜂の音」
今までの短編で扱《あつか》っているのは、日常雑貨や武器ばかりであった。
そこで、楽器《がっき》の宝貝《ぱおぺい》を考えてみた。
ところが、楽器の宝貝を考えて、思いつく能力は、音を聞いた相手を操る事ぐらいしかなかった。
で、ちょいとひねってみたがどうか?
「殷雷の最期!!」
衝撃《しょうげき》の最終回である。というのは大嘘《うそ》である。
元々《もともと》、こういった時間ネタは好きなのであるが、人気のあるテーマだけに、新しいネタは考えにくい。
ドラゴンマガジン掲載分《けいさいぶん》には、致命的《ちめいてき》な矛盾《むじゅん》点があったのだが、どうやら、気付かれずに済《す》んだようだ。
勿論《もちろん》、今回の収録《しゅうろく》に当たって修正《しゅうせい》はした。
掲載時のドラゴンマガジンをお持ちの方はどこで辻襟《つじつま》を合わせたか調べてみるのも、意地悪《いじわる》で面白いかもしれない。
「切れる女とおとぎばなし」
奮闘編|恒例《こうれい》の、殷雷がいない回収劇の第二弾。
殷雷の代わりに、深霜と共《とも》に宝貝を回収しようという、いろんな意味でスリルとサスペンス溢《あふ》れる話である。
さて、もしもこの宝貝の回収を深霜ではなく、いつものように殷雷と共に行っていたならば、果《ま》たして上手《うま》く回収は出来たであろうか?
『以下次巻』
てな訳で、お次は第三巻である。
時期《じき》は未定ではあるが、短編の数自体はちゃんと揃《そろ》っていると思うので、近いうちにまたお会いしましょう。
ではまた。
……胃カメラを覗《のぞ》きながら、医者が実況中継《じっきょうちゅうけい》をしてくれると、くだんの友人は言っていたが本当だろうか?……嫌《いや》だなあ。胃カメラ覗きながら爆笑《ばくしょう》でもされたらどうしよう。
[#改ページ]
初出
切れる女に手を出すな  月刊ドラゴンマガジン1997年1月号
ごつい男のゆううつ   月刊ドラゴンマガジン1997年2月号
心迷《こころまよ》わす蜂《はち》の音《おと》     月刊ドラゴンマガジン1997年3月号
殷雷《いんらい》の最期《さいご》!!      月刊ドラゴンマガジン1997年12月号
切れる女とおとぎばなし 書き下ろし
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》・奮闘編《ふんとうへん》2 切《き》れる女《おんな》に手《て》を出《だ》すな
平成10年10月25日 初版発行
著者――ろくごまるに