封仙娘娘追宝録・奮闘編1 くちづけよりも熱い拳
ろくごまるに
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)九鷲《きゅうしゅう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一歩|間違《まちが》えば病的なまでの肌《はだ》の白さ
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目次
バラの酔っぱらい
くちづげよりも熱い拳
意地を断ち切る犬の門
大地に蠢《うごめ》く花の王
バラの酔っぱらい、ふたたび
あとがき
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バラの酔っぱらい
「宝貝《ぱおぺい》だ宝貝だ、絶対に宝貝の仕業《しわざ》に違いねぇ! 不自然だ、あまりにも不自然すぎる。あぁ、もうふざけるな!
ぬえい。髪《かみ》を引っ張ってんじゃねえ! そのスルメをどげろ、漬物《つけもの》も引っ込めろ。
糖漬《ぬかづ》けを肴《さかな》に酒を飲むほど、俺《おれ》はまだ人生に煮詰《につ》まっちゃおらん」
のどかな春の日射《ひざ》しの下、八十六人の酔《よ》っぱらいに、揉《も》みくちゃにされながら、棍《こん》を握《にぎ》りしめた青年、殷雷《いんらい》は叫《さけ》んでいた。
老若男女《ろうにゃくなんしょ》の酔っぱらい、若い方は二十歳《はたち》ぐらいから、結構《けっこう》な歳《とし》の老人もいる。
さながら正月間近の魚市場か、厳冬《げんとう》の日溜《ひだ》まりの中で、もつれあう猫たち、通称《つうしょう》猫玉といった感じだ。
殷雷は相棒《あいぼう》に向けて声を張りあげた。
「おい、和穂《かずほ》! お前の馬鹿|師匠《ししょう》は、どんな宝貝を造《つく》ったっていうんだ。
なんの宝貝が、こんな、すっとこどっこいな状況《じょうきょう》を巻きおこしていやがるんだ! っておい、和穂、どこにいる! はぐれてしまったか?」
とうの和穂の姿は、酔っぱらいの団体の中に完全に埋《う》もれていた。
「殷雷! どこにいるの?」
声を出すのがやっとの和穂だった。
だが、彼女の涼《すず》やかな声では、酔っぱらいのざわめきを突《つ》き破《やぶ》る事が出来ない。
彼女は必死《ひっし》になって、殷雷、すなわち旅の同行者を捜《さが》した。たいして大柄《おおがら》の男ではないので、人ごみの中、簡単《かんたん》には見つかりそうにない。
殷雷は懐が狭《せま》く、目がチカチカするような奇妙《きみょう》な黒色の、袖《そで》付き外套を羽織《はお》っているのだが、それらしい姿は、見あたらない。
押《お》されながら、苦労して体勢《たいせい》を変え、もう一度、見回す。
長い髪を適当《てきとう》に括《くく》った、殷雷の頭だけでも見つからないかと、見渡《みわた》すが、やはり視界《しかい》には入らない。
殷雷がいつも、肌身離《はだみはな》さず持っている、銀色の棍も見えなければ、鷹《たか》だか鷲《わし》だかを思わせる鋭《するど》い顔も、もちろん見えない。
同じように殷雷もまた、見失った和穂の姿を捜していた。
「か、和穂、どこにいる!」
殷雷の周囲の酔っぱらい密度《みつど》は、和穂の周《まわ》りの比ではなかった。
大声を出せば、ちょっとやそっと離れていても、和穂に声ぐらいは届《とど》きそうなのだが、酔っぱらいに揉まれ、肺《はい》の辺《あた》りを押さえつけられ、呼吸《こきゅう》をするのがやっとだった。
だから、殷雷の声は引き絞《しぼ》るような、掠《かす》れた声にしかならなかった。
殷雷は、必死になって首を動かし、和穂の姿を捜した。
淡《あわ》い白色で懐《ふところ》のゆったりした和穂の上着《うわぎ》、すなわち、道士《どうし》が着用する道服《どうふく》は見えない。
ゆったりと背中で括った、和穂の黒髪も見えなければ、十五歳の歳相応に、わずかに残ったあどけなさと、歳の割には芯《しん》の強そうな、眉毛《まゆげ》がのっかっている、顔も見えない。
もちろん、和穂の細い腰《こし》に結ばれたひょうたんは、影《かげ》も形も見えはしない。
八十六人の酔っぱらい。
すなわち村人のほとんどが、酔っぱらっていた。
どういう具合か、泥酔者《でいすいしゃ》は一人もおらず、みんな心地好《ここちよ》いほろ酔い気分であった。
年寄りも若者もうっすらと、頬《ほお》を紅色《べにいろ》に染《そ》め、ニコニコとした笑顔《えがお》を浮《う》かべている。
酔っぱらった村人は、一人残らず村の広場に顔を出し、二人の客人、和穂と殷雷を歓待《かんたい》していた。
すくなくとも、村人は歓迎《かんげい》をしているつもりだっただろう。
だが、安物の押し寿司《ずし》のごとく、ぎゅうぎゅうに揉みくちゃにされ、とうとう殷雷は、辛抱《しんぼう》の限界《げんかい》にきた。
こめかみの血管が大きくひくつき、激怒《げきど》した狸の尻尾《しっぽ》さながらに、殷雷の黒く、長い髪の毛が逆立《さかだ》つ。
「て、てめえら」
腕組《うでぐ》みしたまま、片手で棍を持つ体勢だったのだが、殷雷はゆっくりと腕を開きはじめた。
垂直《すいちょく》に握られた棍によって、殷雷の動きは鉄格子《てつごうし》を腕力《わんりょく》でこじ開けようとする、盗賊《とうぞく》の姿を思わせる。
不自然に押されて、村人の何人かは苦痛《くつう》の悲鳴《ひめい》をあげたが、殷雷はおかまいなしだ。
「てめえら、どきやがれ!」
歓待を受けているのに、失礼な言葉であるが、八十六名の酔っぱらいと、おしくらまんじゅうをしている身になれば、彼の罵声《ばせい》も納得《なっとく》出来るであろう。
しかし、さすがは酔っぱらい、ちょっとやそっと怒鳴《どな》られて、静かになるはずもない。
『「ま、そういわずに一杯《いっぱい》どうだ」「おやあんた、どこから来なすった」「雀《すずめ》の焼いたやつはどうだ」「酒だ、酒」「名前は?」「うひぇひぇ」「俺《おれ》の酒が」』
殷雷が力まかせに空《あ》けた隙間《すきま》に、再び酔っぱらいが流れ込んできた。
ギチギチと押され、村人の肘《ひじ》が鼻の頭にあたり、足は踏《ふ》まれ、さんざんである。
殷雷は、ギリギリと歯ぎしりをした。
村人の間に顔が埋まってしまい、視界なんてあったものじゃなかった。
我《われ》を忘れかけていた殷雷だったが、かすかに聞き覚えのある声がした。
殷雷は大声で叫ぶ。
「和穂! どこにいる!」
「ここよ」
押し合いへし合いの人の壁《かべ》の隙間から、白く細長い指を持つ女の手が、チラリと見えた。
殷雷は左手で、ほっそりとした手をつかみ多少|強引《ごういん》だが、力まかせに引き寄せた。
荒《あ》れ地に生《は》えた、芋《いも》を引き抜《ぬ》くように、殷雷の胸に一人の娘《むすめ》が飛び込んだ。
それは紛《まぎ》れもなく和穂であった。二度とはぐれてなるものかと、殷雷は和穂の腕をしっかりと握った。
「ちょっと殷雷、腕が痛いよ」
奥歯《おくば》が砕《くだ》けんばかりに、強烈《きょうれつ》に歯ぎしりして殷雷は怒《おこ》る。
「こ、これが宝貝の仕業じゃなけりゃ、ただじゃすまさんぞ! 腕が痛い? 少しぐらい辛抱しやがれ。
それより和穂、宝貝はどこにあるんだ?」
宝貝。
さっきから殷雷が繰《く》り返すこの言葉、あまり聞き慣《な》れない言葉だ。
だが、娘は宝貝という言葉に、何の疑問も覚えず、当然のように同意の相槌《あいづち》を打った。
「うん、ちょっと待ってよ」
和穂は、耳につけた小さな飾《かざ》りに指を添《そ》えて目をつぶる。
まるで、祈《いの》るかのように精神を集中させると、彼女のまぶたの裏《うら》に、光の点が浮かび上がった。
その光の点が現実には、どの場所を指し示すのか、和穂は慎重《しんちょう》に見極《みきわ》めようとした。
首を動かすと、光の点も動く。
和穂は光の点が、自分の真正面に来るようにして、目を開けた。
まぶたの裏の光は残像《ざんぞう》を残して消えたが、残像に重なるように、一つの建物が見えた。
そしてすぐに答える。
「ほら、あの小屋《こや》の中にあるはずよ」
和穂は少し高くなった、坂の上にある小屋を指差した。
土塗《つちぬ》りの壁《かべ》に囲まれた、何かの物置か作業場のように貧相《ひんそう》な小屋だ。
殷雷はうなずき、右手に持つ棍を杖《つえ》代わりにする。左手は和穂の腕を握ったままだ。
酔っぱらいをかきわけ、泥沼《どろぬま》を進むように殷雷は小屋へ向かい、方向を転換《てんかん》する。
『「旅の人、どこに行くんだい? あんな仕込《しこ》み小屋に行ってもつまらないよ」「そうそう、それよりも酒を飲みなよ」「酒、酒、酒だ」「うひぇうひぇ」』
和穂は一所《いっしょ》懸命《けんめい》に、村人に返事をした。
「でも、私はあの小屋に行かなければならないんです。仕込み小屋? 一体何を仕込んでいるんですか?」
「和穂! 酔っぱらいと、まともに口をきいてもラチはあかぬぞ!」
村人の言葉にいちいち答えようとする和穂を引っ張り、殷雷は進んでいく。
息が詰《つ》まるような酒の匂《にお》い。
そんな匂いをかぎながらも、気分が悪くならなかったのは、酒の匂いに混《ま》じる、爽《さわ》やかなバラの香《かお》りのおかげであった。
小屋の中で一人の女が叫《さけ》んだ。
「あぁ、やっぱり、私を探して、あいつらはやって来たんだ」
酔《よ》っぱらいの群《む》れをかきわけ、確実に小屋に近寄る殷雷たちを小窓から見つめ、女は土がむき出しになった床《ゆか》に、へたりこんだ。
小屋の中は薄暗《うすぐら》く、少し湿《しめ》っていたが、心地好《ここちよ》い酒の香《かお》りが充満《じゅうまん》していた。
日の光が、たいして射《さ》し込まない小屋の中でも、女の白く美しい顔ははっきりと見てとれた。
一歩|間違《まちが》えば病的なまでの肌《はだ》の白さ、色の薄い唇《くちびる》。
だが、力強い生命力を秘《ひ》めた大きな目が、不健康さを打ち消していた。
女は助けを求めるような声を上げる。
「ねえ、泉渇《せんかつ》、どうしよう。あいつらは、私を捕《つか》まえにきたのよ」
やはり、部屋《へや》の暗がりに、泉渇と呼ばれた男はいた。
適当《てきとう》に木を組んだだけの、簡素《かんそ》な寝台《しんだい》の上に寝《ね》っ転《ころ》がっている。
女とは対照的《たいしょうてき》に、地黒の肌をした男だ。ぼさぼさの髪《かみ》に、顎《あご》には不精髭《ぶしょうひげ》が生《は》えていた。
女に呼ばれ、泉渇は上体を起こした。
がっしりとした体だが、酒呑《さけの》み独特のトロンとした目をしている。
「九鷲《きゅうしゅう》。酒をよこせ」
女の名は九鷲といった。女の名前にしては変わっている。九鷲は、気楽に構《かま》える泉渇に少し腹を立てた。
「ちょっとあんた、人の話を」
ごしごしと、泉渇は目をこすった。
「酒だ」
どうしようもない洒呑みだと、半《なか》ばあきれながら九鷲は、茶色の湯飲みに水瓶《みずがめ》から水をくんだ。
そして泉渇の隣《となり》に座《すわ》り、湯飲みを渡《わた》す。
渡された湯飲みに口を付けたが、やはり只《ただ》の水だ。
「誰《だれ》が水をよこせと言った。酒を持ってきやがれ」
恨《うら》めしそうな目をして、九鷲は泉渇をにらんだ。
いまだかつて、彼女のそんな表情を見た覚えのない泉渇は仕方《しかた》なく、口を閉じた。
「どうしよう、このままでは捕まってしまうよ」
しかし、泉渇もいきなりの話で、状況《じょうきょう》がよくつかめていない。
「なんだ、役人でも来たか。……お前はやはり罪人《ざいにん》か何かだったのか。
そうでもなけりゃ、俺《おれ》みたいな男の所に転がりこんだりはするめえ」
九鷲が、泉渇の元《もと》に現れてから、もう三か月は経《た》っていた。
酒造りの職人《しょくにん》でありながら、酒を飲んでばかりで仕事もしない泉渇の所に、ふらりと九鷲はやって来た。
うさんくささを感じながらも、どうせ人に言えない事情があるのだろうと考えて、泉渇は黙《だま》って自分の家に置いてやった。
ところが、この美しい娘《むすめ》は泉渇の身の回りの世話《せわ》はおろか、どこで知ったのか酒の造り方を心得《こころえ》ていて、泉渇の住居|兼《けん》、仕事場であるこの小屋の中で酒を造り始めた。
この酒が、事の他、美味《うま》かった。
少々きつめの酒なのだが、喉《のど》から鼻に抜ける清涼感《せいりょうかん》溢《あふ》れる香気《こうき》が、なんともいえない。
香気にはどことなく、バラの花を思わせる甘《あま》さがあった。後味《あとあじ》は非常に良い。
まさに、この世の物とも思えぬ酒だ。村人は、こぞってこの酒を買い求めたのである。
不思議《ふしぎ》といえば、この酒を酒乱のごとく飲み続けても、体に一切《いっさい》の変調は起こらず、逆に病《やまい》が癒《いや》される事すらあった。
眠《ねむ》りの中で酔いが覚めそうになれば、起き出して一杯《いっぱい》ひっかけるように、村の連中は、水のごとく九鷲の酒を飲み続けたのだ。
もしも九鷲が酒造りの職人なら、こんな田舎《いなか》の村でくすぶっている理由はない。
理由があるとするならば、人前に出られない事情だろうと、泉渇が考えるのも無理《むり》はなかった。
だが、泉渇に罪人|扱《あつか》いされ、九鷲は慌《あわ》てて首を横に振《ふ》った。
「違う! 私は罪人なんかじゃない」
まだ酒が残る朦朧《もうろう》とした意識で、泉渇は疑問をはさむ。
「なら、追手なんざかからねえだろ?」
泉渇の言葉に九鷲は一瞬《いっしゅん》、びくりとした。
いよいよ、自分の素性《すじょう》を語る覚悟《かくご》を決めたのだと、泉渇は感じとった。
「泉渇。信じられないかもしれないけど、私は人間じゃないの」
あっと、驚《おどろ》き、泉渇は湯飲みを落としそうになった。
泉渇の頭の中に少し早めの雪が降《ふ》った、半年前のあの日の出来事が思い浮かんだ。
さながら、記憶《きおく》の深淵《しんえん》に沈《しず》んだ夢を急に、しかも鮮明《せんめい》に思い出したかのようだ。
しんしんと、雪が舞《ま》っていたある夕方。
酒を買いにきた、バクチ仲間の猟師《りょうし》が酒代の代わりに、一|匹《ぴき》の白い狸《たぬき》を持ってきた。
四本の足をくくられ虫の息だった狸である。
冷え込んでいるし、これは狸|鍋《なべ》にしたら温《あたた》まると、泉渇が準備を整え、いざ狸の戒《いまし》めを解《と》くと、まるで急に気がついたように走りだし、ついには逃《に》げ去ったのだ。
「あ、もしかして半年前に狸鍋にしようとして、うっかり逃がしてしまった狸が、俺に恩返《おんがえ》しに来ていたのか?」
無礼《ぶれい》をたしなめるような目をして、九鷲は怒鳴《どな》った。
「私のどこが、狸なのよ! 第一、狸鍋にしようとした人間に、恩義《おんぎ》を感じるわけがないじゃないの」
そんな事をいっている場合ではないと、九鷲は思い直した。追手はすぐそこまで来ているのだ。泉渇にだけは、自分の素性を明かさねばなるまい。
「泉渇。私の正体は『九鷲器』。徳利《とっくり》の宝貝《ぱおぺい》なのよ」
昔話に言い伝え、お伽話《ときばなし》に民話に童話。
その中で語られる、不思議な道具を総称《そうしょう》して宝貝と呼ぶ。
して、その正体とは、仙人《せんにん》が造《つく》り上げた神秘《しんぴ》の道具に他《ほか》ならない。
九鷲《きゅうしゅう》の言葉の意味が理解出来ない泉渇は、ぽかりと口を開けた。
「は?」
言葉で説明しても判《わか》ってもらえないと考えた徳利の宝貝は、泉渇の手から水の入った湯飲みを取り上げた。
徳利の姿に戻《もど》れば、議論《ぎろん》の余地《よち》はないが、泉渇に人ではない姿を見せるのは嫌《いや》だった。
「よく見ててよ泉渇」
言うなり、九鷲は湯飲みを揺《ゆ》さぶった。中に入っている水は、湯飲みの中でゆっくりと回転していった。
緩《ゆる》やかな回転と共に、かすかな燐色《りんしょく》を帯びた途端《とたん》、水は酒の香《かお》りを放ち始めた。
薄暗《うすぐら》い小屋《こや》の中は、湯飲みの中の光で、まるで蝋燭《ろうそく》を灯《とも》したかのように明るくなった。
が、それも束《つか》の間《ま》、明かりは消えて全《すべ》ては何事もなかったかのように静まりかえった。
「……飲んでみて」
泉渇は差し出された湯飲みに口を付け、中の液体を一気に飲み干した。紛《まぎ》れもない酒であった。
目を丸くしている泉渇に九鷲は説明した。
「その酒は九鷲酒という仙洒《せんしゅ》よ。
私はどんな液体からでも、九鷲酒を造る能力を持った、徳利の宝貝なの」
驚《おどろ》きを隠《かく》そうともしない泉渇だったが、意外に肝《きも》が据《す》わっているようで、事実は事実としてすんなり受け止めた。
「信じられねえが、信じるしかあるまい。
……言われてみりゃ、村の連中のあれだけの注文を、この小屋だけでさばききれるはずはなかったんだ。
お前が直接、酒を造ってたんだな」
「うん。やろうと思えば、井戸《いど》ごと酒にも出来たんだけど、赤ん坊《ぼう》がいる家もあるし」
「でもよ、九鷲。もしも、お前が宝貝って奴《やつ》だとしても、追われる理由にはなるまい?」
九鷲は悲しそうに目をふせて、静かに全てを語り出した。
「私を造ったのは龍華《りゅうか》という仙人でね。
その仙人は、私を失敗作だと考えたのよ。そして私を他の欠陥《けっかん》宝貝と同じように、封印《ふういん》したの」
「ほお」
泉渇は興味《きょうみ》深げに、九鷲の顔を見つめた。見ようによっては、儚《はかな》げな美人である。しかし雰囲気《ふんいき》からは活力が感じられた。
酒の持つ、二つの面が表れているのだと、泉渇は考えた。
それにしても、なぜ、失敗作なのか、泉渇にはよく判らない。
九鷲は説明を続けた。
「龍華には、和穂という弟子《でし》がいたの。
ある日、和穂は誤《あやま》って宝貝を閉じ込めていた封印を解いてしまった。その隙《すき》に私たち、七百余りの宝貝は逃げ出したのよ。
追手がこないと思われる人間の世界にね。
仙人は、人間界には干渉《かんしょう》しないという、大原則があるから」
泉渇の頭には、酔《よ》いが残っていて、それほどはっきり物を考えられなかったが、それでも話が矛盾《むじゅん》していると感じた。
「でも、追手が来た? 変じゃねえか?」
当然の疑問だった。うなずきながら、泉渇の所に来る前に、他の宝貝仲間からきいた、噂《うわさ》を教えた。
「うん。和穂は自分の責任を感じて、全ての仙術を封じて人間に戻ったらしいのよ。
そして、宝貝を集めているの」
「で、その和穂がやって来たと?」
再び九鷲はうなずく。
「もう一人、男のくせに髪《かみ》の毛が長いのがいたけど、あいつが誰《だれ》なのかは知らない」
と、その時、小屋の扉《とびら》を叩《たた》く音がした。
音と同時に扉の外で聞き慣《な》れぬ男の、怒鳴《どな》り声が聞こえた。
「馬鹿、扉を叩いたら不意打《ふいう》ちにならないだろうが!」
「でも、殷雷」
酔いの回った泉渇の頭でも、追手が少々お人好《ひとよ》しなのは判った。
村人の歓待《かんたい》は、小屋《こや》へ向かう途中《とちゅう》の坂道で終わった。
どうやら、眠《ねむ》くなったらしい村人たちは、そのまま家に帰って、眠ったようだ。
勝手《かって》な連中だと毒《どく》づきながら、殷雷《いんらい》は和穂と共に小屋へ向かった。
見すぼらしい作業小屋のようだ。
実用本位の土壁《つちかべ》に木で出来た扉が見えた。殷雷は、棍《こん》を小脇《こわき》に抱《かか》えて、注意深く小屋の周囲を見回した。
殷雷の長い髪《かみ》が、少し、ふわっとした。
小屋の中から、話し声が聞こえた。
声の種類は二つ。他には気配《けはい》はない。
声の主《あるじ》は、たいして警戒《けいかい》するでなく、普通《ふつう》にしゃべっている。
殷雷はまるで、自分の髪を通して、世界を見つめるかのように髪に神経を集中した。
髪から伝わる気配もやはり、小屋の中にいるのは二人だけだと告げた。
だが、慎重《しんちょう》な殷雷は、それが罠《わな》である可能性も考慮《こうりょ》した。
油断《ゆだん》しているフリをして、さらに相手を油断させるのは、戦術の基本だ。
殷雷は髪をかきあげ、深く深く考えた。
『さて、宝貝《ぱおぺい》の種類が問題だな。正体が判《わか》れば先手も打てるが……』
髪の毛をかきあげていた手を、額《ひたい》に当てて分析《ぶんせき》を続ける。
『今思えば、村人の行動は不自然だったな。あれは操《あやつ》られていたのか。すると、人間を操る力を持つ宝貝か? 操っている割にはたいした事をやってこなかった。
操る力が弱いのか?
ならば、どんな宝貝が考えられる。催眠術《さいみんじゅつ》か? いやそれならもっと強力に操られるはずだ。
まあ、待て、結論を急いではいけない。
時間の許《ゆる》すかぎり、ギリギリまで分析するんだ。
そうすれば、絶対に最善手《さいぜんしゅ》が見つかる』
出来るかぎり客観的《きゃっかんてき》に状況《じょうきょう》を判断し、自分の力を過信せず、過少にもみず、貪欲《どんよく》なまでに最高の作戦を追い求める、武人の思考だ。
小屋の前で必死に考える殷雷を横目に、和穂《かずほ》はふらりと扉の前に立つ。
そして、何の疑問も覚えずに、扉をコンコンと叩《たた》いた。
戦略や、駆《か》け引《ひ》きや、調査をものともしない、和穂の素朴《そぼく》な行動に殷雷はひっくりかえりそうになった。
別に和穂が何も考えていないのではない、戦いに関する駆け引きに疎《うと》いのだ。
一つ間違《まちが》えば、馬鹿のつく和穂の素直《すなお》さに舌打ちしながら、棍を抱えた殷雷は扉に向かって走った。
和穂は不思議そうに、殷雷の顔を見た。
「どうしたの? 怖《こわ》い顔して」
「馬鹿、扉を叩いたら……」
扉から日の光が射《さ》し込み、光と共に和穂が小屋の中に現れた。
ばつが悪そうに不機嫌《ふきげん》な顔をして、殷雷が後に続く。
薄暗《うすぐら》い小屋に目をならそうと、何度もまばたきをする和穂。殷雷の目は、そんな行為《こうい》を全《まった》く必要としていない。
殷雷は、手に持った棍で凝《こ》りをほぐすように、自分の肩《かた》をコンコンと叩いていた。
つんとした、酒の匂《にお》いと花の香《かお》り、微《かす》かに混《ま》じる黴臭《かびくさ》さを和穂は感じた。
部屋の中央には、ワラで編《あ》んだ大きなムシロが敷《し》いてある。酒に疎《うと》い和穂は、そのムシロの下の地面で、酒造りに重要な麹《こうじ》の醗酵《はっこう》が行われているとは判らない。
ただ、不思議そうに、ムシロを見つめた。
「ねえ、殷雷、あのムシロは?」
「……あの下で酒の素《もと》になるやつを造るんだよ。なあ、そうだよな?」
殷雷は小屋の中に潜《ひそ》む、二つの影《かげ》に問い掛《か》けた。答えは返らなかったが、和穂も二人の気配《けはい》にやっと気がついた。男と女が一人ずついた。
和穂は、暗がりの中の男に向かって、言った。
「お願いします、宝貝を返して下さい」
一体一体を見て、それが宝貝か人間かを見極《みきわ》めるのは難《むずか》しいが、九鷲《きゅうしゅう》が宝貝である事に間違いは無かった。
泉渇《せんかつ》の目は、大事な者を奪《うば》われてなるものかという気迫《きはく》に満ち、九鷲の目は追手に脅《おび》えていたのだ。
和穂に声をかけられ、面倒《めんどう》そうに泉渇が重い腰《こし》を上げた。
「悪いがそうはいかねえ。こいつがいれば俺《おれ》は一生酒を飲んで暮《く》らせるんだ。
ちょいと、痛い目にあってもらうぜ」
殷雷の目が一瞬《いっしゅん》、鋭《するど》くなった。
九鷲は本能的に叫《さけ》ぶ。
「駄目《だめ》だ! 泉渇!」
二、三発|殴《なぐ》ってしまえば、おとなしくなるだろうという、泉渇の考えだった。
長髪《ちょうはつ》の男が少し気になったが、ちょうど娘《むすめ》を真ん中にして死角《しかく》になっている。
もし泉渇の動きを止めるのならば、娘の横から回り込まなければならなかった。
和穂は襲《おそ》いかかる酔《よ》っぱらいに驚《おどろ》き、反射的《はんしゃてき》に自分の顔をかばった。
殷雷は口許《くちもと》を歪《ゆが》め、微《かす》かに笑った。
「いかんな、女に暴力《ぼうりょく》をふるっちゃ」
殷雷の言葉にドスンという、布団《ふとん》を叩くような音が被《かぶ》さった。
殷雷の棍が、泉渇の、みぞおちを突《つ》いたのだった。和穂の脇腹《わきばら》をかすめるように、片手で行った突きだ。
ほとんど痛みはなかったが、泉渇は息が詰《つ》まり、ゆっくりと地面に倒《たお》れていった。
九鷲の顔色が変わった。
「泉渇!」
慌《あわ》てて、地面に倒れこんだ泉渇の肩を抱《かか》えて、怪我《けが》の様子《ようす》を探《さぐ》っている。
顔を覆《おお》っていた和穂には、何が起きたのか全然判っていない。
「あれ? どうしたの?」
倒れている泉渇を抱《だ》き起こそうとする九鷲と、背後《はいご》に立った殷雷を交代に見るのが、精一杯《せいいっぱい》であった。
「殷雷、乱暴《らんぼう》な事をしたんじゃないでしょうね!」
呆《あき》れた溜《た》め息《いき》をつき、殷雷が答えた。
「その酔っぱらいが先に仕掛《しか》けた。ちゃんと加減《かげん》はしてある」
身動き出来ないが、怪我らしい怪我はしていないと、九鷲は確認した。ホッとする表情になった途端《とたん》、今度は体中に殺気をみなぎらせ、殷雷をにらむ。
殷雷は和穂の肩に手を添《そ》えた。
「下がっていろ、和穂」
ユラリと立ち上がる、九鷲の気迫《きはく》を感じとった和穂は、慌てて後ろに下がった。
殷雷もゆっくりと棍を中段に構《かま》えた。
九鷲は殷雷を見すえた。
殷雷と九鷲、顔が似ているのではない。口調《くちょう》が似ているのでもない。仕種《しぐさ》が同じでもない。殷雷と九鷲では何から何まで違《ちが》う。
だが、九鷲の第六感は、殷雷が自分に似ていると激《はげ》しく指摘《してき》した。
「……殷雷とか言ったね。あなたも、人間じゃないでしょ?」
棍《こん》はまるで、残像を残しそうなほど滑《なめ》らかに動き続けた。
殷雷《いんらい》は一瞬《いっしゅん》たりとも、九鷲《きゅうしゅう》から視線を外《はず》さないように注意し、問い掛けに答えた。
「いかにも、我《わ》が名は殷雷|刀《とう》。刀《かたな》の宝貝《ぱおぺい》だ」
「殷雷刀! 聞いた事があるわよ。あんたも私と一緒《いっしょ》に封印《ふういん》されていた宝貝じゃないの。
だったらどうして、和穂に手を貸しているの! あんたは私たちの仲間じゃないか」
「勝手《かって》に味方《みかた》にするんじゃねえ。お前は何の宝貝だ?」
軽蔑《けいべつ》した声が返る。
「九鷲器。徳利《とつくり》の宝貝よ」
「正体は徳利か。ならば、抵抗《ていこう》は無駄《むだ》だ。おとなしく捕《つか》まってしまえ」
九鷲は地面に転がる泉渇をちらりと見た。
「それはどうかな? 今のは泉渇が悪かったけど、ここまですることはないじゃない」
「加減はしてやったぜ」
殷雷の言葉に耳を傾《かたむ》ける気は、もともとないようだった。
九鷲はゆらりと、水瓶《みずがめ》に近寄り、右手を付けた。一瞬にして、水が消えてなくなる。
身構える殷雷に見せつけるように、九鷲は右の掌《てのひら》を上げた。途端《とたん》、握《にぎ》り拳《こぶし》大の水球が、その上に浮《う》かびあがった。
薄暗《うすぐら》いに部屋《へや》の中、わずかな光を拾い上げ猫の目のごとくきらめく水球は、水晶玉《すいしょうだま》を思わせたが、表面がわずかに揺《ゆ》らめいている。
殷雷は、水球のわずかな香《かお》りを見抜《みぬ》いた。
「そんな、酒球でどうする?」
浮かんでいるのは、水ではなく酒だった。
殷雷の言葉に答えず、九鷲は酒球を持った手を振《ふ》った。
酒球は一瞬、長いつららのようになり、そして一振《ひとふ》りの剣《けん》に変わった。
真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しで、九鷲は口だけで笑う。
「あんたも、何か術があるんじゃないの。それとも、その棍も宝貝?」
殷雷は正直《しょうじき》に答えた。もはや駆《か》け引きの必要はない。
「あいにく、術らしい術は使えなくてね。もっぱらこの棍に頼《たよ》っている。ま、この棍も宝貝でもなんでもないんだが。
それにしても、龍華《りゅうか》め、何で徳利の宝貝にまで、戦闘《せんとう》機能をつけてやがるんだ。いい加減にして欲《ほ》しいぜ、まったく」
二人の会話に一瞬の間《ま》があく。
そして戦いが始まった。
殷雷は取り敢《あ》えず、小手調《こてしら》べとばかりに、棍の突きを九鷲に見舞《みま》う。シュッという乾《かわ》いた音と共に、棍は九鷲に襲《おそ》いかかるが、酒の剣で受け止められた。
が、所詮《しょせん》は酒で作られた剣、受けた部分から折れ、折れた部分から先は滴《しずく》となって弾《はじ》け飛んだ。
「九鷲、それでは勝負《しょうぶ》になるまい!」
「どうかな?」
剣の切断面《せつだんめん》が湧《わ》き水《みず》のように盛り上がり、先刻とまったく同じ剣に復元した。
殷雷は眉間《みけん》にシワを寄せる。
「やっぱり、素人《しろうと》だな。そんないい奥《おく》の手をわざわざ披露《ひろう》するとは。もったいねえ」
「そう。だったら次の相手からは、黙《だま》っておくよ」
殷雷は、豹《ひょう》のように身をかがめ襲《おそ》いかかっていった。
「次は無い」
とは、言ったものの、殷雷は少し厄介《やっかい》だと思った。あの剣は簡単《かんたん》にへし折れるが、さすがに折れれば、棍の勢いも消される。
折れた剣先は滴になって消し飛ぶので、無視すればいいが、再生の速度が思ったよりも速い。
下手《へた》に立ち回ると、再生した剣先に死角をつかれそうだ。
考えがまとまらない殷雷に、九鷲は何度も何度も挑《いど》みかかった。
一方、殷雷とて武器の宝貝、そう簡単に後《おく》れはとらない。
疲《つか》れを知らぬ二人の戦いは、知らず知らずのうちに長期戦へとなっていった。
「そろそろけりをつけるぜ、九鷲よ」
殷雷は棍を投げ捨てた。土煙《つちけむり》を上げて、棍は地面を転がる。
「ふうん、たいした自信じゃないの。でも甘《あま》いんじゃない?」
下手に棍を使うから、死角が出来ると殷雷は判断した。九鷲は大きく、息を吐《は》いた。
「そこまでよ。殷雷刀!」
剣を構え、九鷲は突進を仕掛けた。
捨て身の攻撃《こうげき》かと、殷雷は少し呆《あき》れた。
この間合いで、そんな攻撃をくらう程甘くはない。
が、殷雷が少し油断《ゆだん》した時、背後に気配を感じた。視界《しかい》の中の泉渇は、まだ地面に倒れたままだ。
「なに?」
驚《おどろ》いた時には、すでに遅《おそ》く、頬《ほお》を赤く染めた和穂が、殷雷の首にかぶりついていた。
「へへ、殷雷だぁ」
しまった。
和穂は酔《よ》っぱらっていた。
折れた剣先が弾《はじ》け飛ぶ時、空気の中に酒が混《ま》じっていたのだ。その空気を吸って、和穂は酔っぱらってしまった。
殷雷も多少酒を吸い込んでいたが、和穂より酒に強いため、さほど気にもかけていなかったのだ。
「どけ、和穂!」
和穂は一瞬、きょとんとして、それから目に涙《なみだ》を浮かべた。
「う。殷雷が怒《おこ》ったぁ!」
ただ、泣くのならいいが、殷雷の首を閂締《かんぬきじ》めにして泣かれたから、始末《しまつ》が悪い。
「死ね」
突撃《とつげき》をかける九鷲。
迫《せま》り来る酒の剣。
酒の剣が、身動きがとれない殷雷をとらえきった。もはや逃げられない。
酒の剣が脇腹《わきばら》に触《ふ》れる寸前、殷雷は刃《やいば》の腹に肘《ひじ》を落とした。衝撃《しょうげき》で折れる剣。だが、そのまま剣の柄《つか》が腹に密着《みっちゃく》した。
剣はじきに再生し、新しい剣先が今度は殷雷の腹を貫《つらぬ》くだろう。
殷雷はそのまま、拳《こぶし》を九鷲のみぞおちに向かい撃《う》つ。ぶん、と音をたて拳が走る。
再生された刃の盛り上がる感覚を覚えながらも、拳が九鷲をとらえた。
『相打ちか!』
さすがに殷雷もヒヤリとした。
だが、酒の剣は九鷲が吹《ふ》っ飛ぶと共に消えてしまった。
地面を転がる、九鷲。くうくう寝息《ねいき》を立てて地面に崩《くず》れる和穂。
冷《ひ》や汗《あせ》をぬぐいながら、殷雷は立っていた。
地面を転がった九鷲が、静かにしゃべりだした。
「私が、何をしたっていうのさ。私の何が欠陥《けっかん》宝貝なのさ?」
殷雷には答えられない。
「九鷲酒を喜んでくれる人が私は好きよ。他に何が欲しいってわけじゃない。
九鷲酒を飲んで、楽しそうに笑ってくれる、それだけで私は満足なのよ。
それがだいそれた望みだっていうの?」
九鷲の声に、だんだんと涙が混じった。
殷雷はこういうのが苦手《にがて》であった。
「ま、気持ちは判《わか》るが、捕《つか》まってくれ」
「いやよ、あんたなんかに何が判るっていうのさ。九鷲酒をもっと飲んで欲しいし、泉渇とも別れたくない」
殷雷は言葉に詰《つ》まった。
「九鷲よ。捕まっちまえ」
声の主は泉渇だった。まだ、体の自由は利《き》かないが、どうにか声はあげられるようだ。
泉渇の言葉に九鷲は衝撃《しょうげき》を受けた。
「あんた、私がいなくなっても、いいの?」
「良かぁねえさ。でもよ、やっぱりお前の造る酒は美味《うま》すぎるんだよ。
人にはもったいねえほど、美味いんだ。だから封印されたんじゃないか」
「……あんた」
「へっへっ。そんな声を出すんじゃねえ。
美味いからって、指をくわえて見てるわけにゃいかねえ。こんな呑《の》んだくれでも、俺《おれ》も酒師《さかし》のはしくれ、いつかは九鷲に負けないぐらい美味い酒を造ってみせる。
だから、行ってしまえ。お前がいる限り、俺はいつまでも呑んだくれだ」
「……あんた。
……体には気をつけるんだよ」
殷雷はこの手の話に弱かった。思わず涙ぐんでしまった。
殷雷は情にもろいのだ。その為《ため》、宝貝回収という無理難題《むりなんだい》に挑《いど》む和穂に、手を貸しているのであった。
情にもろい武器という、致命的《ちめいてき》な欠陥の為に殷雷は封印されていたのである。
涙を誤魔化《ごまか》す為に、慌《あわ》てて殷雷は側《そば》にあった酒瓶《さかびん》から酒をすくい、飲む。
口の中に広がる、なんともいえぬ涼風《りょうふう》、そしてじっくりと痺《しび》れるような熱さ。
微《かす》かにただようバラの香《かお》り。
「……確かに美味いが、仙酒というほどの代物《しろもの》では……」
酔いがじっくりと、殷雷の血管をしみとおっていく。熱い温《ぬく》もりの中に、自分がゆっくりと溶けていくようであった。
それとともに、自分の心の中のイラつきや葛藤《かっとう》も流れ出していく。
そして殷雷は理解した。
九鷲酒は、村人を酔わせて操っていたのではなかったのだ。
このどうしようもなく温《あたた》かく、自分の心が和《なご》んでいく感覚。陽気さとともに、忘れていた人懐《ひとなつ》っこさがあふれてくる。
さすがの殷雷も、思わずうなずく。
「……まさに仙酒の名に相応《ふさわ》しい酔いだ」
地面では、ホウキを抱いた和穂が無邪気《むじゃき》な笑顔を浮かべて眠っている。
湯飲みを右手に持ち、殷雷は泉渇たちの所へと歩いていった。脅《おび》えと絶望《ぜつぼう》が混じる視線が刀の宝貝に注《そそ》がれた。
殷雷は言った。
「そんな顔するなよ。どうせ今日はこの村に泊《と》まっていくつもりなんだ。別れの宴《うたげ》ってのも、ちいっと辛気臭《しんきくさ》いが、今夜は飲もうぜ」
にっこり笑って、殷雷は腰《こし》を下ろす。
そして三人は酒を酌《く》み交《か》わした。夜もふけた頃《ころ》、九鷲器は和穂の持つひょうたんの中に回収されたが、心地好《ここちよ》い酔いの為に辛《つら》い別れにはならなかった。
泉渇と殷雷は柔《やわ》らかい眠りへと落ちていった。
朝。
和穂はパチリと目を開けた。何かが妙《みょう》だ。耳の奥で、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》のような、そうでないような音がする。
目に入る天井《てんじょう》の模様《もよう》がグルグルと回って見えるではないか。
何かが妙だ。
和穂の耳にあちらこちらであがるうめき声が、もれ聞こえていた。
「な、何が美味すぎるから、封印された宝貝だ!」
小屋の中、むきだしの土の上に横たわった殷雷は怒鳴《どな》っていた。
だが怒鳴り声が、自分の頭蓋骨《ずがいこつ》の中で反響《はんきょう》して殷雷は悲鳴《ひめい》を上げた。
脳みその中で、ねじくれた鉄のバチと、巨大なドラが音楽を奏《かな》でる。
すなわち、どぐらぐおわぁんおわぁんぁんぁん。
「う、う。殷雷、お願いだから静かにして」
和穂の半《なか》ば断末魔《だんまつま》めいた声が返った。
殷雷の馬鹿でかい声が聞こえると、鼓動音が不快なまでに大きくなった。
地面に転がる泉渇は、歯をくいしばっていた。
「ふ、ふ、ふ、この程度で騒《さわ》ぐとはだらしねえな」
ムッとした殷雷は泉渇の横にフラフラと歩み寄り、両手で頭を揺《ゆ》さぶってやった。
断末魔の悲鳴を上げ、泉渇は気絶《きぜつ》した。
「強がってるんじゃねえ! うっ、ぐげっ」
またしても、自分の大声が頭の中で壮大《そうだい》な山彦《やまびこ》を引き起こす。
すなわち、ぐおらあんぁうぁんうぁん。
ちなみに和穂の頭の中は、じんじんじんじんじぃんじぃぃん。という音に支配されていた。
静かにすれば、音も静かになるが、ドラの音のようになかなか鳴り止《や》まない。
そのくせ、ちょっとした弾《はず》みで再び高らかな音が鳴る。
そう、すなわち宿酔《ふつかよい》の音だ。
殷雷は大袈裟《おおげさ》に、宙をかきむしりながら言った。
「わ、判ったぞ、あの宝貝が封印されていた理由が!」
「お願いだから、静かにして!」
ぐおらあんぁうんうぁん。
じんじんじぃんじぃぃん。
『九鷲器』
まさに仙酒に相応《ふさわ》しき、深い味わいと清涼感《せいりょうかん》に満ちた、九鷲酒を造る徳利《とっくり》の宝貝《ぱおぺい》。
が、造り上げた九鷲酒のあまりに酷《ひど》い宿酔の為に、封印された宝貝である。
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くちづけよりも熱い拳
天には、恐《おそ》ろしく大きな三日月《みかづき》が昇っていた。
赤い三日月が照《て》らし出すのは、一人の娘《むすめ》と髪《かみ》の長い男、そして彼女たちを、ぐるりと取り囲《かこ》む無数の獣《けもの》じみた影たちだ。
男は銀色の棍《こん》を構《かま》え、娘を背中にかばっていた。完全に包囲《ほうい》され、男の顔にはかすかな緊張《きんちょう》の色が見てとれた。
娘は道服を身に着けていた。
仙人《せんにん》や道士が着用する袖《そで》の大きな上着だ。本来は真っ白な道服なのだが、赤い光を受けて、薄《うす》い紅《べに》色に染《そ》められている。
彼女の柔《やわ》らかい髪は、飾《かざ》り布で括《くく》られ、腰《こし》には一つのひょうたんが結ばれていた。
黒い炎《ほのお》のように影が揺《ゆ》らぎ、一|匹《ぴき》の獣によく似た、獣でないものが娘に飛び掛《か》かった。
娘と男の真後《まうし》ろ、完全な死角《しかく》からだ。
男は正面を見つめたまま、棍を肩《かた》に担《かつ》ぐように動かし、背後《はいご》の敵を打つ。
獣でないものは棍を食らい、闇《やみ》の破片《はへん》を撒《ま》き散《ち》らし消えていく。
鷹《たか》のような眼光《がんこう》をギラつかせ男は言った。
「おいおい、いい加減《かげん》にしてくれよ。ひい、ふう、みい、よお、ざっと二百八十匹の妖怪《ようかい》か」
男は背後の娘に声をかけた。
「和穂《かずほ》。いちいち、お前の安全を気にしてたらラチが明かん。刀《かたな》に戻《もど》るから俺《おれ》を使って戦え。一気にケリをつける」
「え? ちょっと待ってよ殷雷《いんらい》」
娘、和穂の言葉を待たずに、殷雷は手に持った棍を空高く放《ほう》り投げ、同時に彼の体は軽い爆発《ばくはつ》を起こしながら、刀へと形を変えていく。黒い鞘《さや》に収《おさ》まった刀は、吸い込まれるように、自分の柄《つか》を和穂に握《にぎ》らした。
途端《とたん》、今までの娘の緩《ゆる》やかな仕種《しぐさ》に、恐《おそ》ろしいまでの鋭《するど》さが宿《やど》る。
電光の速さで刀身《とうしん》を抜《ぬ》き放《はな》ち、道服の腰帯《こしおび》に鞘を差す。
同時に、器用《きよう》にひょうたんを外《はず》し、天に掲《かか》げると、宙を舞《ま》っていた棍は、一陣《いちじん》の風と共に、ひょうたんの中へと消えた。
ひょうたんを腰に戻し、和穂は刀を中段に構えた。赤い月光を浴びながらも、青白い光を放つ刃《やいば》。
和穂の動きに、殷雷の動きが宿っていた。そう、まさに今は殷雷が和穂の動きを操《あやつ》っているのだ。
和穂は影の中へと身を躍《おど》らせ、甘い旋律《せんりつ》を思わせる動きで刃をたたき込んでいく。
青白い刃の光に切り裂《さ》かれるように、消滅《しょうめつ》していく妖怪《ようかい》たち。
殷雷の舌打ちが、和穂の心に聞こえた。
『ちっ。どうして妖怪がいるんだ。この世にこんなに多くの妖怪なんざ、いるはずがないのに』
『……妖怪はいないって、殷雷も妖怪みたいなもんじゃないの? 刀の宝貝《ぱおぺい》ってのは、刀のお化《ば》けって感じなんじゃ』
今までの軽《かろ》やかな動きがピタリと止まり、右手に持った刀がズイズイと和穂の顔に近づいた。
鋭い刃に、娘の黒く澄《す》んだ目と、意思《いし》の強さを表す、しっかりとした眉毛《まゆげ》が、鏡《かがみ》のように映《うつ》りこんだ。
『誰《だれ》が妖怪だ! 宝貝と妖怪の区別もつかんのか! お前はそれでも、元仙人なのかよ』
『う。でも、仙術に関係するような知識《ちしき》は、術《じゅつ》の記憶《きおく》と一緒《いっしょ》に、封《ふう》じられてるから』
『いいか和穂、よく聞け。妖怪というのは、天と地、陰《いん》と陽《よう》の澱《よど》みだ。
仙人が己《おのれ》の最高技術を使って造《つく》り上げた、尋常《じんじょう》ならざる道具、宝貝とは全《まった》くの別物だ』
『なるほど』
『澱みだから、こいつらに、意思もなければ命もない。だが、散らすのは可能だ。川に浮《う》かぶ渦《うず》みたいな物だと考えろ。
で、問題なのは、この御時世《ごじせい》に簡単《かんたん》に妖怪が生まれるような、澱みは出来ねえんだよ。
人間界に、まだ仙人がゴロゴロいた太古《たいこ》の昔ならいざ知らず、今はせいぜい七、八十年に一匹、変な虫程度の物が、出るか出ないかだな』
が、影の中に潜《ひそ》むのは無数の妖怪たち。
和穂は大きく刀を振り回し、上段に構え直した。
荒《あら》い口調《くちょう》で娘は言った。奥歯《おくば》をかみ、唇《くちびる》の端《はし》をつり上がらせ、和穂の声で殷雷は言ったのだ。
「起こりえない現象《げんしょう》が起きている。つまり、これは絶対に宝貝のせいだ! どこかにある宝貝の力で、これだけの妖怪が大量に出現したんだ」
みぎいあ、みぎいあと唸《うな》る、三つ目の黒豹《くろひょう》が涎《よだれ》を滴《したた》らせ飛び掛《か》かった。
だが、間髪《かんぱつ》入れずに、黒豹の脇腹《わきばら》に刃を差し込む。
中心を失った渦が、滑《なめ》らかな水面《みなも》に戻るように、黒豹の輪郭《りんかく》は溶けていった。
和穂が持つ刀こそ、殷雷刀。これぞまさしく、刀の宝貝である。
赤い月光は、深い森の中にまで射《さ》し込んでいた。
月光は、一つの炭焼《すみや》き小屋《ごや》を照《て》らし上げていた。二人の人間が住める住居も兼《か》ねていたので、かなりの大きさがある。
小屋の中には一組の男女がいた。
男の方は、学者じみた小柄《こがら》な体格で、少し垂《た》れた目からは、おっとりとした性格が滲《にじ》み出ていた。
女は短めの髪に、活発《かっぱつ》そうな、切れ長の目をしていたが、疲《つか》れているのか眼光に勢《いきお》いがない。
二人とも二十ぐらいで、歳《とし》は離《はな》れていないようだが、男の方が少し年上に見えた。
二人の顔の中で、ほっそりとした顎《あご》と、鼻の形がよく似ていた。
女は汗《あせ》を流して、入口の扉《とびら》の前に、木製の椅子《いす》やら机やらを積み上げていた。
それに比べて男は呑気《のんき》に、板を打ちつけた窓の、ほんの僅《わず》かな隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いて、嬉《うれ》しそうな顔をしていた。
「おぉ、見てごらん桃綺《とうき》。珍《めずら》しい、水涅虎《すいねこ》がいるぞ。
水虎《すいこ》と、水涅虎の見分け方なんだが、体の模様《もよう》が、水涅虎は黒の虎縞《とらじま》だというのは、俗説《ぞくせつ》に過ぎなくて、本当は水涅虎の爪《つめ》は水虎と違《ちが》って、牛のような蹄《ひづめ》なんだ……聞いてるのかい桃綺?」
無論《むろん》、聞いていなかった。妖怪《ようかい》は妖怪であり、妖怪の見分け方には全く興味《きょうみ》を覚えられなかった。それに疲れていた。
どうにか、外部から妖怪が侵入《しんにゅう》するのを防ぐ為《ため》の壁《かべ》を築《きず》き終えた桃綺は、一人で荒い息をついていた。
明日の朝になれば、この机や椅子たちを、再び動かして、外に出られるようにしなければならない。
それを考えるだけで、桃綺の疲労《ひろう》は何倍にも増幅《ぞうふく》した。
妖怪が出没《しゅつぼつ》しだして、かれこれ二週間になる。桃綺は、来る日も来る日も、夕方になれば机を積み上げ、朝日が昇《のぼ》れば元に戻《もど》しているのだ。
しかも、味方《みかた》らしい味方は、妖怪の姿を観察して喜んでいる、実の兄の桐滋《とうじ》のみ。
一応《いちおう》学者ではあるが、各地の伝承《でんしょう》や妖怪話を収集するのが専門で、全《まった》く金とは縁《えん》のない男だ。
「に、兄さん。妖怪は兄さんの専門なんでしょ? あいつらを倒《たお》す方法は判《わか》らないの?」
桐滋は妹に向き直り、答えた。
「うむ。自慢《じまん》じゃないが、判らないな。
兄さんはそういう、実践《じっせん》向きの知識は専門でないからな。わっはっは。
足跡《あしあと》から見て、妖怪たちは湖の向こう側の洞窟《どうくつ》からやって来ているのは判るんだが、それだけだな」
緊張感《きんちょうかん》のかけらも感じられない桐滋の返答に、桃綺の苦悩《くのう》は倍増し疲労は三乗された。
腹いせに、桐滋をしばき倒し、妖怪たちが練《ね》り歩く外に放《ほう》り出さなかったのは、肉親|故《ゆえ》の情の為《ため》ではなかった。
長年の付き合いで桐滋に頼《たよ》るのが、どれだけ無駄《むだ》か、体に染《し》み込んでいたのだ。
小屋の中を見回し、こんな事件に巻き込まれるなら、炭焼きの仕事など引き受けるんではなかったと、桃綺は後悔《こうかい》したが、後《あと》の祭りである。
樵《きこり》という仕事は結構《けっこう》もうかる。
木を切り、炭焼き小屋で炭に仕上げ、町で売り飛ばせば、かなりの収入になるのだ。
ただ、一年の大半を人里《ひとざと》離れた山奥《やまおく》や、森の中で過ごさなければならない。
桃綺と桐滋が居《い》る、この炭焼き小屋の本来の所有者は、ちょいとばかり孤独《こどく》に耐《た》えられない性格の樵だった。
そこで彼は炭焼きの仕事を、人づてに桃綺に頼んだのである。
炭にする為の木は、小屋の周《まわ》りに山積みされ、後はその木を適当な大きさに切り、炭として焼き上げる。
力のいる仕事ではあるが、桃綺は華奢《きゃしゃ》な体格の割には力があったので、この仕事を引き受けた。
力があるとはいえ、人里からかなり離れた炭焼き小屋に、一人で住むのは心細かったので、桃綺は桐滋も一緒《いっしょ》に連れてきた。
むきだしの地面に、へたりこみ桃綺はつぶやいた。
「あぁ、いつまでこんな生活が続くのよ。樵の大将が帰ってくるまで、まだ四か月もあるんだよ。
そのうちに妖怪に食べられちゃうんだ」
桐滋が示した見解は、明るいものだった。
「それほど、悲観《ひかん》する必要もないさ、
妖怪たちはこうやって、戸締《とじま》りさえしっかりしてれば、わざわざこじ開けてまで、小屋の中に入ろうとはしないしね。
それに、朝日が昇《のぼ》れば、妖怪たちは消えて無くなってしまうんだから」
そう。妖怪たちは太陽が昇ると、消滅《しょうめつ》してしまう。
厄介《やっかい》なのは日が出ているうちに、小屋を脱出しても、夜になる前に、近くの村まで辿《たど》り着けないのだ。
一番近い村まで、徒歩《とほ》で丸二日かかる。
夜になれば再び妖怪たちが現れてしまう。さすがに、屋外《おくがい》で妖怪に襲《おそ》われたら、ただではすまないだろう。
呑気《のんき》な桐滋の言葉は続く。
「大丈夫《だいじょうぶ》。四か月なんて、すぐに過ぎるよ。樵の大将は炭を運ぶために、馬を連れて帰ってくるはずだろ。馬の脚力《きゃくりょく》なら隣《となり》村まで充分逃げられるはずだ」
この状況《じょうきょう》で、深刻《しんこく》にならない兄の性格を、妹は別の意味で感心した。
「でも、こんな毎日は耐《た》えられない」
「少なくとも、昼のうちに食料の調達《ちょうたつ》は出来るから、食べ物の心配はいらないだろ。
兄さんはこうみえても、釣《つ》りは得意だからな。はっはっは」
彼の言葉どおり、どういうわけか、桐滋は釣りだけは上手《うま》かった。
呑気な性格が、釣りに向いているのだろうと以前は考えていたが、人の話では少し短気なほうが、釣りには向いているそうだ。
だとすれば、これはもう生まれ持っての本能に近い才能なのだろう。
財の神は、金に縁《えん》がなく生活能力が皆無《かいむ》の桐滋に、釣りの才能を与《あた》えたのだ。
炭焼き小屋にある道具を利用し、すでに幾《いく》つかの魚は燻製《くんせい》にして、非常食として溜《た》め込んでいた。
「兄さん。今度釣りに行く時は声を掛《か》けてよね。私も一緒についていくから」
「おやおや、桃綺よ。一人になるのが怖《こわ》いのかい? お前は子供の頃《ころ》から、お化けとかは苦手《にがて》だったからね」
そういう問題ではない。と桃綺は言い返したかったが、労力《ろうりょく》の無駄だと思い直した。
存在しない化け物を怖がるのは、臆病《おくびょう》だと思われても仕方《しかた》がない。
だが、人食い虎《とら》や、毒蜘蛛《どくぐも》を恐《おそ》れるのは臆病とは言わないはずだ。
今、そこにいる妖怪を恐れて何が悪いというのか。
「本当に誰《だれ》も助けに来てくれないのかしら」
深刻な表情の妹に、兄は一つの話をしてやった。
「桃綺よ。こういう話がある。
この世に巻き起こる、理不尽《りふじん》な厄介事《やっかいごと》は全《すべ》て宝貝《ぱおぺい》の仕業《しわざ》である」
宝貝。桃綺はこの言葉を知らなかった。
「宝貝?」
「仙人が造り上げた神秘《しんぴ》の道具の事だ。
仙人が造ったくらいだから、摩訶不思議《まかふしぎ》な能力を持っているんだ。
だから、今回の事件も、もしかしたら宝貝が原因なのかもしれない」
だから、どうしたというのだ。
宝貝の仕業であろうが、冥府《めいふ》の扉《とびら》が開かれたのが原因であろうが、たいした問題ではない。
壁《かべ》一枚|隔《へだ》てた所に妖怪が、うじゃうじゃいるのが問題なのだ。
「……もし、宝貝の仕業だったら、どうだってのよ? 何かいい、まじないでもあるっての?」
兄は首を横に振り、言葉を続けた。
「その宝貝というのは、本来人間の世界にある物ではなくて、仙人の世界にしか存在しない物なんだ。
ところが、ある日、一人の見習い仙人が自分の師匠《ししょう》が造った、何百という欠陥《けっかん》宝貝を、うっかり人間の世界に、落としてしまった。
今、この世にある宝貝ってのは、その欠陥宝貝だという話だ」
「それで?」
「その、見習い仙人は人間の世界に降《お》りて、自分がばらまいてしまった宝貝を、一つずつ回収しているらしい。
もし、あの妖怪たちが、宝貝の力で現れているんなら、その仙人がやって来て、妖怪たちを倒してくれるかもしれないな」
桃綺は大きく溜《た》め息《いき》をついた。
少しでも気分を和《やわ》らげようとする、兄の気持ちは嬉《うれ》しかったが、こんなおとぎ話を信じろというのか。
「兄さん。ちょっとでも、気を楽にさせようっていう、気持ちはありがたいけど、そんな言い伝えを心から信じられる程、私は子供じゃないよ」
桐滋は本気なのか、とぼけているのか、すぐには判断出来ないような表情で答えた。
「いや、これは言い伝えとか、民話とか、伝承《でんしょう》ではなくて、つい最近、風の噂《うわさ》に聞いた話なんだよ」
「またまたぁ」
「いや、ほんとの話。えぇと、誰《だれ》に聞いたんだっけ」
「それはそうと、兄さん。以前から気になっていたんだけど」
「何だ?」
「もしかして、兄さんは、今のこの状況を楽しんでない?」
「ば、馬鹿な事を言うんじゃない」
桐滋は慌《あわ》てて窓へと近寄り、外を覗《のぞ》いた。
「おお、あれは黒孔雀《くろくじゃく》じゃないか。鬼趣記《きしゅき》という文献《ぶんけん》に載《の》っている鳥で、本当なら一か月以上、長雨が続くと現れると伝えられているんだ」
楽しんでやがると、桃綺は確信した。
今までは文献の中でしか見られなかった妖怪を、実際にその目で確認出来て、嬉《うれ》しくてしょうがないんだ。
一人で気を滅入《めい》らせる桃綺であったが、助けは、すぐそこまで来ていたのである。
時刻は正午を過ぎていた。
昨日の夜明け前に到着《とうちゃく》した森の中で、適当な木を見つけ、その上で眠《ねむ》りについていた和穂《かずほ》は、大きく伸《の》びをして目を開けた。
眠っている間も、和穂の手には刀が握《にぎ》られたままであった。
周囲を見回し、妖怪《ようかい》の姿がないと確認した和穂は、殷雷刀《いんらいとう》を鞘《さや》に収める。
簡単な朝食を済《す》ませた和穂は、森の中へと進んでいった。
時々立ち止まって、耳に着けた小さな飾《かざ》りに細い指を添《そ》え、目をつぶった。
途端《とたん》に、まぶたの裏《うら》に幾《いく》つかの光の点が浮かび上がる。
この光点こそが、宝貝の存在する場所を示していた。
かなり近くに宝貝があると、光は教えている。
道服の娘は気持ちを引き締《し》めて、さらに道を進んでいく。
ほどなくして、和穂は森の中の大きな湖に到着した。
宝貝の在《あ》り処《か》までは、まだ距離《きょり》がある。
湖を迂回《うかい》するには、どうすればいいかと和穂が立ち止まって考えていると、二人の若い男と女が現れた。
男の方は、片手に釣《つ》り竿《ざお》を持っていた。湖で、魚でも捕《つか》まえていたのだろう。
若い二人組は、和穂の顔を見て、アングリと口を開けた。
二人に注目され、和穂は少し困った顔をして口を開く。
「あの、こんにちは」
和穂の挨拶《あいさつ》は、二人には届《とど》いていないようだった。
よくみれば、二人の目鼻だちは似ているので兄妹《きょうだい》なのだろうか?
驚愕《きょうがく》の表情を崩《くず》さない二人に対して、さらに和穂は声をかけた。
「えぇと、いい天気ですね」
やはり返答はない。
もしかして、私の後ろに熊《くま》でもいるんじゃないかと、和穂は半分冗談《じょうだん》めかして、自分の背後《はいご》を振《ふ》り返った。
無論《むろん》、熊も虎《とら》もいない。
奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》を破《やぶ》ったのは、二人連れの女の方だった。
「お嬢《じょう》ちゃん、どうやってここまで来たの?
化《ば》け物に襲《おそ》われなかったの?」
和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「えぇ、何とか蹴散《けち》らして来ました」
途端、和穂の腰に帯びていた刀が、鞘ごと宙に跳《と》び上がった。
アッと驚く二人を横目に、刀は軽い爆発音を立てる。
一瞬《いっしゅん》、静電気の嫌《いや》な感覚が周囲に広がったかと思うと、一人の男が爆発の中から出現した。
中肉|中背《ちゅうぜい》の若い男だ。男の割には、長い黒髪《くろかみ》をしている。
むきだしの腕《うで》を見る限りでは、鍛《きた》えられた体をしていた。
猛禽類《もうきんるい》を思わせる眼光と合わせて考えれば、かなりの腕前の武人なのだろうか。
長い髪を、後頭部《こうとうぶ》の辺《あた》りで握《にぎ》ると、括《くく》ったわけでもないのに、髪がまとまった。
黒髪の男は、地面に落ちた鞘を拾いながら道服の娘に言った。
「和穂よ。それでは、まるでお前が妖怪どもを倒《たお》したように聞こえるではないか?」
和穂と呼ばれた娘が答えた。
「別にそういうつもりはなかったけど、細《こま》かく説明するには、時間がかかりそうだったからね」
男が黒い鞘を捻《ねじ》ると、途端にそれは、袖《そで》付きの黒い外套《がいとう》へと姿を変えた。
「ま、別にどっちでもいいがな。和穂、棍《こん》を出してくれ」
和穂はうなずき、腰のひょうたんを外し、ふたを取る。
途端、ひょうたんの中から人間の身長ぐらいの長さがある、細長い銀色の棍が現れた。
「はい、殷雷」
和穂は、黒髪の青年、殷雷に棍を手渡《てわた》す。
外套を羽織《はお》りながら殷雷は男と女に言った。
「判っている。聞きたいことが山程あるんだろ? 刀がどうして人になったか、ひょうたんからどうして、身《み》の丈《たけ》程もある棍が飛び出したかを。
答えてやるが、その前に俺《おれ》の質問に答えてくれ。
ここらへんで宝貝を見かけなかったか?」
桃綺《とうき》は最高の笑顔《えがお》で、和穂たちをもてなした。
炭焼き小屋の中には、たいした物はなかったが、それでも一番いい茶を和穂たちに勧《すす》めた。
遠慮《えんりょ》がちに茶を飲み和穂は、宝貝をばらまいてしまい、それを回収する旅を続けている事を桃綺に説明した。
殷雷は魚の燻製《くんせい》を茶菓子《ちゃがし》代わりに、豪快《ごうかい》に茶を飲み干《ほ》した。
桐滋《とうじ》は、そんな殷雷を見て感動の声を上げていた。
「おぉ! 刀の宝貝が茶を飲んでいるぞ!」
がむがむと、殷雷は燻製をかじる。
「茶ぐらいいくらでも飲むぞ。うむ、半生《はんなま》の燻製というのもなかなかいけるな。
桐滋とやら。酒を飲む刀の宝貝というのは見たくはないか?」
「おぉぉぉ! ぜひ拝見《はいけん》したいですな。今すぐに用意しましょう」
「酒の後は、炊《た》き立ての飯《めし》に、ほぐした燻製をのせた茶漬《ちゃづ》けを食う、刀の宝貝を披露《ひろう》してやるぞ」
慌《あわ》てて、和穂が割って入る。
「ちょっと、殷雷。お酒を飲んでる場合じゃないでしょ。いいんですよ、桐滋さん、お酒なんか持って来なくても」
和穂の背中を叩《たた》き、桃綺は言った。
「遠慮《えんりょ》はいりませんよ、和穂|大仙人《だいせんにん》。あの妖怪たちを倒していただけるんだったら、安いもんですよ」
「はぁ」
桃綺は笑いながら言葉を続けた。
「それじゃ、先に妖怪を追っ払《ぱら》ってもらいましょうか? 祝《いわ》いの酒宴《しゅえん》はその後でやるって事で。霧《きり》や霞《かすみ》しか食べないなんて、野暮《やぼ》は言いっこなしですよ。
ささ、ズバット一発、派手《はで》な仙術で妖怪たちの湧《わ》き出てくる洞窟《どうくつ》を、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にでもしてやってくださいな」
ほんの少し、桃綺たちが誤解《ごかい》していると和穂は気がついた。
宝貝をばらまいてしまい、それを回収する旅を続けているのは、確かに間違いはない。
だが、ほんの少し、致命的《ちめいてき》な部分に誤解がある。
助けが来た嬉しさを、隠《かく》そうともしない桃綺の笑顔に向かい、和穂の声が少し小さくなった。
「あの、桃綺さん」
「はいな。なんざんしょ」
「実はですね。私は仙術が使えないんです」
一瞬、氷のような沈黙《ちんもく》。
桃綺は笑ったままだった。笑ったままで、頬《ほお》が少し引きつっているのが和穂には判った。
「使えないって、派手な術は使えなくて、地味《じみ》で渋目《しぶめ》の術は使えるとか?」
「いえ、全《まった》く使えません」
謙遜《けんそん》だ、謙遜であってくれと目で訴《うった》えながら桃綺は言った。
「……仙術は使えなくても、それに代わる凄《すご》い技が使えるとか?」
「いや、だからそういうのは、全く使えないんです」
二人の会話を横で聞いていた殷雷は、燻製を飲み込み、説明した。
「桃綺よ。和穂はそこらへんにいる、十五の小娘《こむすめ》と何も変わらんぞ。
人間界に降りるときに、全《すべ》ての仙術は封じられちまったからな。今じゃ、嘆《なげ》かわしい事に、妖怪と宝貝の区別もつきやがらねえ。
だから、刀の宝貝たる俺《おれ》が、お守《も》り代わりに付いてるんだよ」
ずいずいと、殷雷の前に桃綺は近寄り、刀の宝貝の両手を握《にぎ》った。
「それじゃ、それじゃ。殷雷さんは、刀の宝貝っていうぐらいだから、その強さは完全無敵で、比類《ひるい》なき破懐力《はかいりょく》を秘《ひ》めて、負け知らずなんでしょ?」
殷雷は自分の髪の毛で、うなじを掻《か》いた。どうやら動物の尻尾《しっぽ》のように、髪が自由に動くらしい。落ち着いた声で、殷雷は答える。
「そこまで強くねえ」
不作法《ぶさほう》を装《よそお》っているが、本当は奥床《おくゆか》しくて自分の強さを自慢《じまん》しない、好青年であってくれと祈る表情が、桃綺の顔に浮かぶ。
「う[#底本では「う゛」]、う[#底本では「う゛」]ぞでじょ。謙遜してるんだよね」
殷雷は、虚勢《きょせい》も張らなければ、謙遜もしない。冷静に真実を伝える。
「ま、普通《ふつう》に戦えば、大抵《たいてい》の奴《やつ》には後《おく》れはとらぬが。不意《ふい》をつかれたりしちゃ、ちいっとばかりやばいな。
当たり所が悪ければ、矢の一本でも簡単にやられちまう」
桃綺はすがるように、和穂の持つ、ひょうたんを指差した。もはや、やけだ。
「だったら、あの不思議《ふしぎ》なひょうたんに、妖怪たちを全部吸い込むんだ」
和穂は首を横に振った。
「申《もう》し訳《わけ》ないんですけど、これは吸引《きゅういん》に抵抗するものは吸い込めないんです」
桐滋が感慨《かんがい》深げに、両腕を組んでうなずいた。
「へえ、それじゃ色々《いろいろ》と大変でしょ」
「それが、結構《けっこう》なるようになるもんでな」
「勝負《しょうぶ》は時の違ってやつですな。わっはっはっは」
幸運にも意外な助けはやって来た。
だが、だからといって、助かる保証《ほしょう》はどこにもなかったのだ。
うちひしがれる桃綺の耳に、殷雷と桐滋の会話が聞こえた。会話の内容は、桜の木を使った燻製の話だった。
運命とか、人生は、自分の手で切り開くものなんだ。
桃綺《とうき》は拳《こぶし》を強く握《にぎ》った。
人に頼《たよ》っていてはいけないんだ。
美味《うま》い燻製《くんせい》の作り方を力説するような、刀《かたな》に頼ってはいけないんだ。
桃綺の悲壮《ひそう》な表情を見て、殷雷《いんらい》は言った。
「借金で首が回らなくなって、とうとう夜逃《よに》げを決意したって面《つら》だな」
「やかましい、この食い逃《に》げ野郎。茶と燻製の金を払《はら》って出ていきやがれ」
殷雷は棍で自分の肩《かた》を叩《たた》いた。
「心配するな。茶と燻製分の働きはしてやるぜ」
和穂《かずほ》が話を切り出す。
「宝貝《ぱおぺい》の位置は大体|判《わか》っているんです。桃綺さんたちと出会った、あの湖の丁度《ちょうど》対岸|辺《あた》りなんですけど、何か思い当たる事でもありませんか?」
桃綺は説明した。
「だろうね。あそこには、小さな丘《おか》があって洞窟《どうくつ》があるんだ。足跡《あしあと》から見て妖怪《ようかい》たちは毎晩、そこから現れてるようだから、宝貝もあるんだろ」
一つの疑問が和穂の頭に浮《う》かぶ。
「今までの宝貝は、一つの例外もなく誰《だれ》かに使われていたんです。
その洞窟に誰かが住んでいませんか?」
「? あんな場所には誰も住んでいないよ。この森で生活しているのは、私たち兄妹《きょうだい》ぐらいのもんだ」
理不尽《りふじん》な厄介事《やっかいごと》を巻き起こす、宝貝であるが、正確には厄介事を巻き起こすのは、宝貝を使う人間なのである。
いかに宝貝とはいえ、道具に違《ちが》いはないのだ。道具には、使用者が必要だ。
桐滋が呑気《のんき》な声を上げた。
「あの洞窟の側《そば》は、よく魚が釣《つ》れるんです」
桃綺と殷雷は、思いっきり桐滋の発言を無視したが、和穂だけは相槌《あいづち》を打った。
「へえ、そうですか」
殷雷が口を開く。そろそろ本気になったのか、声の調子が少し低い。
「で、その洞窟ってのは大きいのか?」
殷雷の声に比較《ひかく》すると、余計《よけい》に桐滋の声の緊張感《きんちょうかん》のなさが目立った。
「いえ、小さなものです」
「ならば、日のあるうちに洞窟までいくとしようか。日没《にちぼつ》までまだ二刻《ふたとき》(四時間)はあるだろうからな」
急な言葉に、桃綺は慌《あわ》てた。
「待ちなよ、せめて明日の朝にでも」
刀の宝貝は首を横に振《ふ》った。
「状況《じょうきょう》が悪くなる可能性もある。焦《あせ》りは禁物《きんもつ》だが、始末《しまつ》は出来るだけ早い方が良い。
これ以上、時間をかけても、情報は集まらないだろうからな。
行くぞ、和穂」
普段《ふだん》は、じっくりと策を練《ね》る殷雷であったが、決断を下してからの行動は早い。
席を立ち上がりながら、和穂は尋《たず》ねた。
「ねえ、殷雷。刀《かたな》には戻《もど》らないの?」
「攻撃《こうげき》主体でいくから、人形《ひとがた》のままだ。時間が長引けば、相手の方が有利になるからな」
人の形態《けいたい》で戦う場合、殷雷は常に自分と和穂の守りを頭において、戦わなければならなかった。
刀の形態で、和穂の体を操《あやつ》り戦えば、防御《ぼうぎょ》にかかる手間《てま》が少なくなる。
複数の敵と戦う場合には、この方法が有利であった。
だが、人の形をとり、棍を持った殷雷は、殷雷刀を持った和穂よりも、棍の分だけ戦闘《せんとう》能力が上がるのだ。
殷雷は戦いを速《すみ》やかに終わらせる為《ため》に、棍を持つ方を選んだのである。
礼をのべ、立ち去ろうとする和穂を、桃綺は押し止《とど》めた。
「待って、私も連れていって」
静かな声で殷雷は言った。
「来るのは勝手《かって》だが、危険だぞ。出来るかぎりは守ってやるが、完全に守りきる自信なんてのはない。
危《あぶ》ないと思ったら、すぐに逃げろ」
「うん。足手まといになるつもりはない。
ただ、どんな奴《やつ》が、妖怪なんていう物騒《ぶっそう》な物を操っているか、見てみたいんだ。
ふざけた奴だったら、とっちめてやる」
さすがに心配そうに兄は言った。
「桃綺、あまり無茶《むちゃ》はするんじゃないよ」
桃綺は兄の首ねっこをつかむ。
「何言ってるのよ。兄さんも来るの」
昼過ぎの太陽に照《て》らされ、湖面は直視出来ないほどの光を、乱反射していた。
桃綺の案内により、和穂たちは確実に洞窟へと近寄っていく。
恐《おそ》る恐る進む一同の中で、殷雷だけが涼《すず》しい顔をしていた。
だが、彼の鋭敏《えいびん》な知覚は、確実に周囲の気配《けはい》を読んでいた。
少なくとも、近くに人の気配はない。
やがて一行は、小さな洞窟の入口に到着《とうちゃく》した。
洞窟の中の冷気が周囲に流れ出し、桃綺は思わず鳥肌《とりはだ》を立てた。
「ここが、その洞窟よ」
言葉の通り、入口周辺の地面には、正体がよくわからない無数の足跡《あしあと》が残っていた。
和穂も耳飾《みみかざ》りに手をやり、すぐそばに宝貝があると確認した。
殷雷は軽くうなずき、神経を集中した。途端《とたん》に彼の長い髪《かみ》が少しふわりとした。
わずかな気配も髪を通して、知覚しようというのだ。
彼は髪を通して、洞窟の中の気配を感じとった。
一人の人間の呼吸音が感じられる。
息を殺すでもなく、ごく通常の呼吸音だ。
棍を軽く握《にぎ》り直し、殷雷は注意した。
「中に誰《だれ》かいるぜ。油断《ゆだん》するなよ。桃綺に桐滋よ。さっきもいったが、やばいと思ったらすぐに逃げろ」
兄妹は黙《だま》って首を縦《たて》に振《ふ》った。
隙《すき》を見せるよりましだが、ちょいと硬《かた》くなりすぎたと、殷雷は考えた。
「そう緊張《きんちょう》するな。日が出てれば、妖怪も出ては来るまい」
少し声を震《ふる》わせて、桐滋は言い返した。
「判《わか》りませんよ。奇景談義《きけいだんぎ》という書物には、洞窟に住む、惨猟鬼《さんりょうき》という妖怪の話が載《の》っています。
角《つの》が生《は》え、脇腹《わきばら》から四本の手が生えた、大きな鬼《おに》で、これは、昼間でも現れるそうで」
殷雷は鼻で笑った。
「ふん。考えすぎだ」
和穂は軽く首を傾《かし》げた。
「そうかなぁ、なんとなく、嫌《いや》な予感がするんだけど」
長話をしている暇《ひま》はなかった。
「恐《おそ》ろしいんなら、ここで待ってな」
殷雷はヒラリと洞窟の中に入っていった。
慌てて和穂も後を追う。
「待って、殷雷!」
意を決した兄妹も後へと続く。
だが、和穂はすぐに殷雷の背中に当たり、顔をぶつけた。
兄妹たちも、和穂の背中に当たった。
和穂は、ぶつけた鼻の頭を撫《な》でた。
「ちょっと、殷雷どうしたの?」
今まで明るい外にいたので、洞窟の中ではすぐに目が利《き》かなかった。だが、ゆっくりと暗さになれると、それの姿が見て取れた。
殷雷の目の前には、彼の身長の倍はある、大きな男が立ち尽《つ》くしていた。
眉間《みけん》からは一本の角が生え、脇腹からは昆虫《こんちゅう》のように、四本の手が生えていた。
見開かれた虹彩《こうさい》は縦《たて》に裂《さ》け、真っ赤な光を発していた。
殷雷は自分の顎《あご》を撫で、一同に尋《たず》ねた。
「この中で、自分は人より、ちいっとばかし運が悪いと思う奴は手を上げな」
桃綺が手を上げ、和穂が手を上げた。
桐滋が手を上げていないのを見て、桃綺は無理矢理《むりやり》、兄の手を上げさせる。
肺の中の空気を全《すべ》て吐《は》き出し、殷雷は溜《た》め息《いき》をついた。
「なんてこったい」
一瞬《いっしゅん》の間《ま》。
続く電光石火《でんこうせっか》の瞬間に、全《すべ》ては決着した。
殷雷の棍《こん》の一撃《いちげき》が、身動きを始めた惨猟鬼の脳天《のうてん》を促《とら》え、そのまま叩《たた》き下ろされた。
悲鳴を上げる間もなく、化《ば》け物は闇《やみ》へと姿を変えた。
つまらなそうに、殷雷は棍の残心《ざんしん》を解《と》いた。
「いやぁ、活劇《かつげき》だねえ」
呆気《あっけ》にとられた桃綺だったが、大喜びで殷雷の髪《かみ》を引っ張った。
「わ、凄《すご》いじゃないの!」
「髪を引っ張るな! これで茶と燻製分の働きはしたからな」
和穂は洞窟に横たわる、一つの人影を発見した。
驚《おどろ》き、和穂も殷雷の髪を引っ張る。
「ねえ、殷雷あれ!」
「引っ張るなってのに!」
和穂の指差した先には、大きな石の上に横たわる一人の男がいた。
男は和穂たちに背を向けている。木製の枕《まくら》を敷《し》いているので、眠《ねむ》っているのだろうか。
殷雷は油断なく、棍を構え直した。
男の頭上には、陽炎《かげろう》のような空間の歪《ゆが》みがあった。歪みの彼方《かなた》には、今や見慣《みな》れた妖怪たちの影がある。
刀の宝貝は、ゆっくりと口を開く。
「そうか、だいぶ話が見えてきたな。あいつは夢から、妖怪を引きずり出していやがったんだ。ならば、あの枕が宝貝だな」
己《おのれ》の身の危険を、知ってか知らずか、眠っている男は、微《かす》かにうなり声を上げ、寝返《ねがえ》りをうった。
和穂たちに向けられた顔を見て、一同は絶句《ぜっく》した。
男は桐滋だった。
桐滋は叫《さけ》ぶ。
「思い出した! あの日、釣《つ》りに出掛《でか》けた私は、あの枕、廊虚夢《ろうきょむ》を拾ったんだ。
丁度《ちょうど》、夕立《ゆうだち》が来たので、私はこの洞窟に雨宿《あまやど》りに入り、うたたねをしたんだ」
和穂は混乱した。
「それじゃ、今、話している桐滋さんは?」
殷雷は、和穂に棍を渡《わた》す。
そして、指の骨をバキバキ鳴らしながら質問に答えた。
「こいつは、夢の中の桐滋だ。夢の中の自分自身も、引きずり出していたんだ」
桃綺も負けずに指の骨を鳴らした。
「つまり、兄さんは呑気《のんき》に妖怪の夢を見て、その夢から妖怪が漏《も》れていた、ってわけなのね」
冷《ひ》や汗《あせ》を流し、桐滋は笑った。
「どうやら、そのようだね。どうりで、最近頭の回転が鈍《にぶ》くなっていたんだ。夢の私なんだから仕方《しかた》がないか」
「兄さんは、前とあんまり変わってないよ」
「それはないぞ、桃綺。それに、どうして指の骨を鳴らしているんだ?」
桃綺と殷雷は、その顔に全く同じ笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
右の唇《くちびる》だけを吊《つ》り上げ、八重歯《やえば》をのぞかせて、だが、目は笑っていない。
「宝貝に囚《とら》われている、可哀《かわい》そうなお兄さんを、目覚《めざ》めさせてあげるのよ。
兄妹でなけりゃ、熱い接吻《くちづけ》でも構《かま》わないんだけど、代わりに、この熱い拳《こぶし》をお見舞《みま》いしてあげる」
刀の宝貝は深く、感心した。
「まさに、麗《うるわ》しき兄妹愛だな。俺《おれ》も少しばかり手を貸してやろう」
さすがの桐滋も、これから行われようとしている、荒《あら》っぽい目覚ましに、慌《あわ》てふためいた。
「ははは。大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。自分の事ぐらい自分でやります」
夢の桐滋は、眠る桐隊の肩を揺《ゆ》すった。
「起きろ、起きるんだ」
だが、静かな寝息は全《まった》く変わらない。
「起きてくれ!」
夢の桐滋の肩に手をやり、殷雷は首を横に振った。
「どうやら、こいつの欠陥《けっかん》は、自分の意思で自分を起こせない、ってところだな。ま、悪夢ってのはそんなもんだ」
桃綺は大袈裟《おおげさ》に泣き真似《まね》をした。
「あぁ、なんて不憫《ふびん》な兄さんなの。
よくも、この二週間、くだらない苦労をかけさせやがって、じゃなかった。
二週間も、こんな洞窟で眠り続けていたなんて。あぁ、可哀そう」
和穂は、殷雷と桃綺を止めようとした。
「あの、二人とも、あまり無茶は……」
だが、誰《だれ》も聞く耳は持っていなかった。
仕方がなく、和穂は爆竹《ばくちく》の炸裂《さくれつ》に身構《みがま》えるように、両方の人差し指で耳をふさいだ。
和穂の隣《となり》では、夢の桐滋も同じ恰好《かっこう》をしている。
かくて、洞窟にこだまする桐滋の絶叫《ぜっきょう》。
『廊虚夢』
夢と現実の間に扉《とびら》を開き、夢を現実の世界に引きずり出す、枕の宝貝。
欠陥は、夢の自分を、夢から引きずり出すと、自分の意思では起きられなくなってしまうのであった。
夢の自分が見る現実は、果たして夢か現実か?
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意地を断ち切る犬の門
「さて、創常《そうじょう》ちゃんよ。
とっととあきらめて捕《つか》まってもらおうか。
この俺《おれ》に抵抗《ていこう》したって無駄《むだ》なのは、判《わか》っているよな。
まさか、そのガキを『楯《たて》』にするんじゃあるまいな?」
銀色に輝《かがや》く棍《こん》を構《かま》え、殷雷《いんらい》は『楯』という言葉を強調しながら話しかけた。
それが気の利《き》いた冗談《じょうだん》であるかのように、口の端《はし》にかすかな笑《え》みが浮《う》かんでいる。
殷雷の前には、一人の娘《むすめ》と一|匹《ぴき》の白い犬がいた。
飴色《あめいろ》をした門の前に、犬は腹這《はらば》いになっていた。門に相応《ふさわ》しい豪勢《ごうせい》な屋敷《やしき》が、塀《へい》の向こうに見える。
まだ五|歳《さい》になったばかりの少女は、しっかりと犬にしがみついていた。
たいして長くない犬の毛に指を絡《から》め、殷雷の目をにらんでいる。
「お前なんかに、シロは負けないよ!」
殷雷は体格こそは大きくないものの、獲物《えもの》を探《さぐ》る鷹《たか》のような鋭《するど》い眼光をしていた。
少女は恐怖《きょうふ》を感じたが、より強く犬にしがみつくと、心地好《ここちよ》い安心感に包まれた。
温かい肌《はだ》ごしに伝わるシロの力強い鼓動《こどう》。シロは、こんな奴《やつ》には絶対負けない。
さらに強く、少女は殷雷をにらみ返した。猛禽類《もうきんるい》の鋭さを持つ目、袖《そで》付きの黒い外套《がいとう》、男にしては長い髪《かみ》、ギラリと光る棍。
脅《おび》えれば、シロを信頼《しんらい》していない事になると、少女は考え始めていた。
門のせいで日陰《ひかげ》になり、余計《よけい》に棍と目の光が強調されている。
殷雷の口調《くちょう》はとぼけていたが、子供をからかって遊んでいるようには聞こえない。
「おい、ガキ。さっさと、その宝貝《ぱおぺい》をよこせ。宝貝は、おもちゃじゃねえんだ」
間髪《かんはつ》入れずに答えが返る。
「やだ! お前みたいな悪い奴の言うことなんか、きくもんか」
殷雷の口許《くちもと》から笑みが消えた。
「悪い奴とはえらい言われようだな、このガキ!」
「シロを連れて行こうとする奴は、皆悪い奴だ。それにガキじゃない、柚香《ゆうか》だ!」
二人が言い争っていると、一人の娘が慌《あわ》てて走ってきた。
年の頃《ころ》なら十五、六。娘にしては珍《めずら》しい、袖の大きな道服《どうふく》姿だ。
足の運びにあわせて、緩《ゆる》く後頭部で結ばれた柔《やわ》らかい髪と、腰帯《こしおび》にくくりつけたひょうたんが飛び跳《は》ねている。
娘の姿を見た殷雷は怒鳴《どな》った。
「遅《おそ》いぞ、和穂《かずほ》!」
小さな口からゼイゼイと息を吐《は》き、和穂と呼ばれた娘は口を開く。
「そんな事言ったって、裏門から正門までこんなに距離《きょり》があるなんて……」
どうやら娘は男の仲間だと知り、柚香は溜《た》め息《いき》をついた。
娘の優《やさ》しそうな目を見て、ほんの少し助けを期待していたのだ。
息を整えた和穂は、柚香に声を掛《か》けた。
「えぇと、あなたが柚香ちゃんね? お父さんから、だいたいの話はうかがったよ。
お願い、宝貝を返してちょうだい」
和穂の、悪意のない優しい声に、柚香の心が少しグラつく。
だが、慌てて首を振《ふ》った。
殷雷が軽く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く。
「柚香よ。今、宝貝を返してくれたら、飴《あめ》を買ってやるぜ」
「馬鹿にするな! 飴なんかで、シロを渡《わた》せるか!」
「そうか。じゃ、実力行使だ。判《わか》るか? 力ずくで、創常をぶっ壊《こわ》すって意味だ」
物騒《ぶっそう》な発言に、和穂は慌てた。
「ちょっと殷雷、そこまでやらなくても。
柚香ちゃんに、ちゃんと説明して」
殷雷は全《まった》く取り合わない。
「柚香。今、創常を渡せば奴は無傷《むきず》で済《す》む。
もう一度きくぞ、創常を渡せ。
今なら期間限定特別|御奉仕《ごほうし》で、飴を二個にしてやろう」
この男はシロに勝つ自信を持っている。
でも、シロも全く動じていない。
そうだ、シロを信じるしかないのだ。
「嫌《いや》だ!」
殷雷の手の棍が大きく上段に構《かま》えられた。
慌てて和穂が殷雷の腕《うで》をつかむ。
「殷雷! 本気なの」
舌打ちし、柚香に聞こえないような小さな声が、和穂の耳に届《とど》く。
『心配するな。犬の変化が解けるぐらいの衝撃《しょうげき》だ。あいつは頑丈《がんじょう》だから、そう簡単に壊《こわ》れはしない』
「でも、柚香ちゃんがあんなに近くにいちゃ危《あぶ》ないでしょ!」
『自分の腕を鼻にかけるのは嫌《きら》いだが、ガキに当てないぐらいの技《わざ》はある。
それにあのガキは創常から離《はな》れやしない』
「でも」
柚香に向かい、殷雷は言った。
「仕方《しかた》ねえ。飴二個に杏仁豆腐《あんにんどうふ》を付けてやるぜ」
柚香は黙《だま》って殷雷の目を見据《みす》える。
空気の中に、ゆっくりと緊張感《きんちょうかん》が広がっていく。
棍の動きは、既《すで》に止まっていた。後は振り下ろすだけだ。
「最後の警告《けいこく》だ。創常|楯《じゅん》は楯の宝貝だから、大丈夫《だいじょうぶ》だと思ってるなら、いいことを教えてやろう。
俺の名は殷雷|刀《とう》。刀《かたな》の宝貝だ。
楯の宝貝の程度ぐらい、おみとおしだ。
……飴二個に杏仁豆腐、特別にお手玉三個でどうだ」
もはや、柚香の言葉は絶叫《ぜっきょう》に近かった。
「シロは負けないもん!」
「そうか。ならば、特別御奉仕の期間は終わりだ」
殷雷を止めようとする和穂を軽くかわして、棍は振り下ろされた。
空気を切り裂《さ》く棍の音に、思わず柚香は目を閉じた。
そして次の瞬間《しゅんかん》、金属と金属が当たったかのような、衝突音《しょうとつおん》が広がる。
強大な激突音は、しばらく周囲を漂《ただよ》い続けた。
柚香は細い首をすくめながら、自分の頭に棍が当たったのかと考えた。衝突音はそれだけ耳なりに似ていたのだ。
恐《おそ》る恐る、目を開けると、殷雷の気迫《きはく》に満ちた目と、目が合ってしまった。
脅《おび》え、もう一度目をつぶり、ゆっくりと目を開ける。
何かが妙《みょう》だと柚香は思った。
振り下ろされた棍は、シロと柚香の頭上でピタリと止まっていた。
ただの脅《おど》しだったのだろうか?
だが、殷雷の様子《ようす》が変だった。
棍を振り下ろしたまま、ピクリとも動かなくなっていた。
柚香は喉《のど》の渇《かわ》きを覚えた。
「お、脅《おゼ》しても駄目なんだから」
殷雷は答えずに、代わりに両手に握《にぎ》られていた棍は地面に落ちた。
ついに殷雷が動き出した。両方の掌《てのひら》をまるで、水を払《はら》うかのように揺《ゆ》さぶる。
奥歯《おくば》を噛《か》み締《し》める、ギリギリという音が、柚香の耳にまで届いた。
殷雷は飛び跳ねながら叫《さけ》ぶ。
「痛! い、いてえ!」
呆気《あっけ》にとられる柚香の顔を、シロは嬉《うれ》しそうになめる。
安堵《あんど》の溜め息をつきながら、五歳の少女は何が起きたか理解した。
「だから言ったでしょ。シロは誰《だれ》にも負けないって」
人の姿をとる刀と、犬に化《ば》ける楯。尋常《じんじょう》ならざる能力を持った、神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
そんな道具を造《つく》れるのは、人ではなかった。
宝貝は仙人《せんにん》の手によって造られる。
柚香に耳の後ろをかいてもらいながら、創常楯は殷雷の姿を見つめた。
久し振りの再会であったが、懐《なつ》かしさは込み上げてこなかった。
欠陥《けっかん》宝貝を閉じ込めた封印《ふういん》の中で、創常楯と殷雷刀は、お互《たが》いを見知っている。
創常楯は、殷雷刀よりも、隣《となり》に立つ和穂に興味《きょうみ》を覚えた。
和穂か。誤《あやま》って封印を破《やぶ》り、欠陥宝貝を地上にばらまいてしまった仙人だ。
噂《うわさ》では、責任を感じ、全《すべ》ての仙術を封じ込め人間界に降りて、宝貝の回収を行っていると聞く。
自分の前に、こうやって姿を現したからには、噂は本当だったのだろう。
さらに噂が語るところによれば、自《みずか》らも欠陥宝貝のくせに、和穂の宝貝回収に手を貸している奴がいるらしい。
犬にしては少し奇妙な、豹《ひょう》のような青緑色の目で、創常楯は殷雷を見つめた。
奴か。
殷雷刀なら納得《なっとく》もいく。悪ぶってはいるが刀として致命的《ちめいてき》な、情に脆《もろ》いという欠陥を持つ宝貝だ。
豪華《ごうか》な客室に、和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》はいた。
幾《いく》種類もの陶器《とうき》が飾《かざ》られ、壁際《かべぎわ》には真っ白な水仙《すいせん》が生けられている。
だが、頭に血がのぼっている殷雷には、部屋《へや》の飾《かざ》りなど目に入らない。
「あぁ、むかつくむかつくむかつくむかつくむかつく。創常楯《そうじょうじゅん》の奴《やつ》め、ちょいと腕を上げたからって、いい気になりやがって。
楯の宝貝としちゃ、たいした能力もないくせに」
膏薬《こうやく》を染《し》み込ませた布を、適当《てきとう》な大きさに切りながら、和穂はつぶやく。
「負けた相手の悪口を言うのは、みっともないよ」
和穂の向かい側に座《すわ》っていた殷雷は、椅子《いす》から立ち上がり、机越《つくえご》しに和穂の胸《むな》ぐらをつかむ。
『なんだと、和穂!』
と、殷雷は怒鳴《どな》るつもりだったが、指先から伝わる激痛《げきつう》の為《ため》に、
「なわ!」
と、意味不明な叫びになる。
「ハサミを持ってるから危ないでしょ。
さあ、怪我《けが》を見せて」
舌打ちをしながら殷雷は両手を差し出す。
和穂は怪我の酷《ひど》さより、怪我の痛みを想像して、首をすくませた。
殷雷の右手の爪《つめ》は、親指を除《のぞ》いて全《すべ》て剥《は》がれていた。生爪越しに、血にしては少し薄《うす》い体液が、ジワジワと染みだしていた。
「殷雷、ちょっと痛いと思うけど我慢《がまん》して」
和穂は器用《きよう》に傷口に布を巻き付けていく。
殷雷は騒《さわ》がなかったが、額《ひたい》から流れる脂汗《あぶらあせ》が痛さを物語っていた。
「でもさ殷雷。この怪我って、創常楯の攻撃《こうげき》のせいなの?」
こめかみをひくつかせ、答えが返る。
「奴は楯だ。攻撃はしない。間合いを読み損《そこ》ねて、自分の力が自分に跳《は》ね返ったんだよ」
「殷雷が間合いを読み間違《まちが》えるなんて、珍《めずら》しいね」
「うるさい。奴の防御結界《ぼうぎょけっかい》ごと叩《たた》き潰《つぶ》すつもりだったが、あいつめ、攻撃が当たる寸前《すんぜん》に結界の大きさを変えやがった。
おかげで、当たり場所がメチャクチャになって、このざまだ」
「創常楯は、どうして犬の形をとるんだろ」
「両手がふさがる武器を持ったとき、使用者と一緒《いっしょ》に行動して結界を張るんだ。だが、奴は移動しながら結界を張れないという、欠陥を持つ」
「ふうん。左手も見せて」
殷雷の左手は右手に比《くら》べれば、はるかに軽傷だった。親指の付け根の膨《ふく》らみに、大きな青痣《あおあざ》が出来ているだけだ。
和穂が殷雷の手当てを続けていると、部屋の外から声が掛かった。
「和穂さんに殷雷さん、よろしいでしょうか?」
和穂が答えると、一人の中年の男が部屋の中に入ってきた。
ブクブクに太った体に、禿《は》げた頭。だが、人懐《ひとなつ》っこそうな表情が、肉体的な特徴《とくちょう》を、全て『恰幅《かっぷく》の良さ』に変えていた。
この男こそが、屋敷《やしき》の主人にして柚香の父親である、財丈《ざいじょう》であった。
左手に持った皿の上には、湯気《ゆげ》を立てた肉饅頭《にくまんじゅう》がのっていた。
「どうです、昼飯《ひるめし》代わりに?」
机の上に皿を起き、財丈も椅子《いす》に座《すわ》った。
包帯《ほうたい》が巻かれた殷雷の手に、自然に目が向く。
「おやおや、シロにしてやられましたか。前から不思議《ふしぎ》な犬だと思っていましたが、まさか宝貝だったとは。
本当に宝貝なんて物があるんですねえ」
むかついていた殷雷は、怒《いか》りの矛先《ほこさき》を財丈に向けた。
「何を呑気《のんき》に言ってやがる。財丈よ、娘の教育がなっちゃいねえぞ!」
「いやはや、何ともお恥《は》ずかしい。
素直《すなお》な娘なんですが、どうも祖母《そぼ》に似て頑固《がんこ》なところがありましてねえ」
和穂は疑問を口にした。
「どうして、柚香ちゃんは、創常楯を手に入れたんでしょう?」
財丈には質問の意味が判《わか》らなかった。
「どうしてです? 偶然《ぐうぜん》拾ったか何かではないのですか」
「宝貝には、誰《だれ》かに使われたいという、道具の業《ごう》があるらしくて、自分を望む者のところに現れるんです。
柚香ちゃんが楯を欲《ほ》しがる理由が、判らなくて」
肉饅頭を手に取りながら、財丈はうなずいた。
「思い当たります。
あの子の母親は、胸の病《やまい》を患《わずら》って山の方で療養中《りょうようちゅう》なんです」
肉饅頭にかじりついていた殷雷は、露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をした。
「び、病気ネタか」
財丈は話を続けた。
「いや、胸の病気にしては、それほど酷《ひど》くはないんですが、柚香のような子供にうつると少し厄介《やっかい》でしてね。
かれこれ一年ばかり、娘は母親の顔を見ていませんね。
私がかまってやればいいんですが、絹《きぬ》の卸《おろし》の仕事がなかなか忙《いそが》しくて、そうもいかずに。
少し柚香が不憫《ふびん》に思えて、気が紛《まぎ》れればと考え、可愛《かわい》い子犬を与《あた》えたんですよ」
殷雷はこめかみを押《お》さえた。
「病気ネタと、健気《けなげ》な動物ネタか」
「ところが、可哀《かわい》そうに子犬は」
机に額《ひたい》をつけ、殷雷は叫《さけ》ぶ。
「判った判った、もういい。聞くんじゃなかった」
財丈は、情感を込めて言葉を続ける。
「そう、ちょうどその子犬の名前も、シロと言いましてな」
「もういいと言ってるだろ! 勘弁《かんべん》してくれよ、俺《おれ》はこの手の話に弱い、じゃなかった、この手の話は嫌《きら》いなんだ。
甘《あま》ったるくて、お涙《なみだ》頂戴《ちょうだい》で、虫酸《むしず》が走るわい!」
と、怒鳴り、殷雷は財丈や和穂と目を合わさないように、壁《かべ》の方を向いた。
「ねえ、殷雷ってば」
少しばかり鼻声になった、殷雷の言葉が返った。
「やかましい。今回の一件、俺は降りるぞ。和穂、お前が泣き叫ぶ柚香から、創常楯を取り戻せ。
それと、忠告《ちゅうこく》しておくが、代わりに他の犬をあてがうなんてやり方は、俺は認めんぞ。
そういうのは欺瞞《ぎまん》というのだ」
楯の宝貝にしてやられ、闘争心《とうそうしん》に火がついていた殷雷であったが、財丈の言葉を聞き、一気にやる気がなえた。
財丈は、和穂の道服の裾《すそ》を引っ張り、小声で言った。
「私、何かまずい事を、言っちゃいましたかね?」
「いえ、本当の事なんでしょ?」
「ええ。余計《よけい》な御世話《おせわ》かもしれませんが、『楯の宝貝にやられっぱなしでいいの?』とでも、焚《た》きつけたらどうでしょうか」
「……殷雷の気持ちが私にも判りますから、そういう事はしたくありません」
「そうですか。仕方《しかた》ないですね。親の私が柚香に言い含《ふく》めましょう」
和穂と財丈が相談していると、廊下《ろうか》を走る音が聞こえた。
トタトタと、小さな足音が客室の前までやってきて、柚香が扉《とびら》を開ける。
そして、精一杯《せいいっぱい》強がった声で宣戦《せんせん》を布告《ふこく》する。
「勝負よ、和穂に殷雷。
今、シロに門番をするように言った。
シロを壊《こわ》すなり、どうにかして門番が、出来ないようにしたら、あんたたちの勝ち。
シロを渡してあげる。
でも、絶対に絶対に絶対に無理よ。
殷雷みたいな、なまくら刀じゃ、絶対に絶対に絶対に、シロには勝てないんだから。
場所を守れって命令されたら、シロは一番強くなれるのよ。
すぐに諦《あきら》めるしかないって思うよ」
壁を向いていた殷雷の、黒く長い髪《かみ》が一瞬ピクリと動いた。
そして椅子から立ち上がり、扉につかつかと歩《あゆ》み寄り、左手で柚香を持ち上げる。
殷雷の目が少し赤くなっているのを、和穂は見逃《みのが》さなかった。
「クソガキ! 誰《だれ》がなまくらだ。
お前を、しばき倒《たお》して、無理にでも創常楯を手に入れる方法もあるんだぞ!」
負けじと柚香も叫《さけ》ぶ。
「そ、そんなことは、殷雷はしない。
さっきだって、シロに攻撃《こうげき》するまで、何度も何度も、あたしに、どけって言ったじゃない。
本当に乱暴《らんぼう》な奴なら、そんなことはしないはずでしょ」
額《ひたい》の血管を膨《ふく》らませながら、殷雷は柚香を床《ゆか》の上に戻す。
そして、高笑いと共に叫ぶ。
「はっはっはっ! おもしれえ! 柚香、お前の挑戦《ちょうせん》を受けてやるぞ。
創常楯をブッ壊して、門番どころじゃないようにしてくれる!」
財丈が事の成り行きに少し驚《おどろ》いた。
「おいおい、柚香。正門の門番って、仕事の邪魔《じゃま》になるんじゃないだろうな。
絹糸《けんし》の搬入《はんにゅう》の邪魔しちゃいかんよ」
だが、腹をくくった娘は容赦《ようしゃ》がなかった。
「父様も、和穂や殷雷の味方《みかた》だから、門を通してあげない。
裏門を使えばいいじゃない!」
力の限り扉を閉め、柚香は廊下《ろうか》を走っていった。
財丈は慌《あわ》てふためいた。
「ちょ、ちょっとどうしてくれるんですか、和穂さん!」
肉饅頭に食らいつき、殷雷が答えた。
「和穂を責《せ》めてどうする。自分の娘のわがままだ、我慢《がまん》するんだな。
ときに財丈、カラシはないのかね?」
肉饅頭《にくまんじゅう》を平らげた殷雷《いんらい》たちは、作戦を立てることにした。
正門が使えなくなり、商売にどれだけ影響《えいきょう》が出るか調べる為《ため》に、財丈は席を外した。
いかにして創常楯《そうじょうじゅん》を倒すか? その為には創常楯について、どこまで判《わか》っているか検討《けんとう》する必要があった。
殷雷は、説明を始めた。
「さっきも言ったが、創常楯の欠陥《けっかん》は判っている。
奴《やつ》は防御結界《ぼうぎょけっかい》を張る能力を持っているんだが、動きながら結界を張れないときているのだ。
柚香《ゆうか》が創常楯に、門番を言いつけたのは正解だな。
一つの場所に留《とど》まって結界を張る限り、奴の欠陥らしい欠陥はなくなる。
創常楯は口をきけるわけじゃないが、使用者に、自分の欠陥をそれとなく伝えるぐらいの機能はあるんだろう」
和穂《かずほ》が疑問を挟《はさ》む。
「防御結界って何?」
殷雷は大袈裟《おおげさ》に手を広げ、わざとらしく嘆《なげ》いた。
「これが、元仙人《せんにん》の質問かね」
「仕方《しかた》ないでしょ。術《じゅつ》の記憶《きおく》と一緒《いっしょ》に、そういう知識も封《ふう》じられてるんだから」
「口じゃ説明しにくいんだよ」
殷雷はそう言って、引き出しの中から、筆《ふで》と紙を探し出した。
「まず、これが創常楯だ」
紙の上に、殷雷は犬の絵を描《か》いた。
椅子に座《すわ》っていた柚香は異議を唱《とな》える。
「シロは、こんな変な犬じゃない」
口笛《くちぷえ》を吹《ふ》いて、殷雷は話す。
「おい、なんで俺《おれ》たちの作戦会議に、敵の総大将まで出席してやがる?」
バタバタと足を振《ふ》って柚香が答えた。
「いいじゃない、別に。そっちは大人《おとな》が沢山《たくさん》いるんだから。それにここは、あたしの家なんだから、どこにいてもいいでしょ」
「……答えになっちゃいねえ。
ま、ガキにばれて困るような、チンケな作戦をたてる気はないから、よしとするか。
で、防御結界にも、収束《しゅうそく》結界やら色々《いろいろ》種類があるんだが、創常楯の場合はこうだ」
サラサラと犬の周《まわ》りに、ウニやいが栗《ぐり》のような刺《とげ》を描《か》き込む。
「この刺が防御結界の正体だ。刺とは言ったが、それほど尖《とが》ってはいない。尖っていたなら、武器として使えるからな。
この刺の一本一本を、創常楯は操《あやつ》る。だから、完全な球形の結界も張れれば、少しばかりいびつな結界も張れる。
刺というより、硬《かた》さを自由に操れる、透明《とうめい》な髪《かみ》と考えた方がいいかもしれんな。
柚香の接触《せっしょく》は許《ゆる》し、俺たちの侵入《しんにゅう》を拒《こば》むことが出来るのも、この能力のせいだ。
柚香は柔毛《じゅうもう》で包み、俺たちには刺だ」
殷雷の怪我《けが》の理由が、和穂にも判りかけてきた。
「じゃ、創常楯は防御結界の大きさを、自由に操れるから、殷雷は間合いを読み損《そこ》ねたんだ」
「ま、そうだ。創常楯が結界を操るのは計算に入れていたが、奴の動きはそれを超《こ》えていた」
嬉《うれ》しそうな顔をして、柚香は言った。
「だから言ったでしょ、シロは負けないって」
「うるせえぞ、総大将」
和穂は腕を組み、考えた。
「その防御結界って、破壊《はかい》出来るの?」
殷雷は、意外な答えを返した。
「防御結界は、破壊不可能」
「じゃ、絶対に勝てないじゃない!」
「大丈夫《だいじょうぶ》。防御結界にかかる圧力や衝撃《しょうげき》は全《すべ》て、結界を張ったものに加わるのだ。
結界だと大騒《おおさわ》ぎしても、結局は楯《たて》の硬さが肝心《かんじん》なのだ」
小さな総大将は、勝ち誇《ほこ》った声を上げた。
「どっちにしろ、殷雷はシロを倒《たお》せないんでしょ」
殷雷は怒《おこ》らず、冷静に真実を伝えた。
「俺の渾身《こんしん》の一撃《いちげき》で結界を叩《たた》けば、創常楯にヒビを入れるぐらいは出来る。
一度ヒビが入れば、楯の機能は極端《きょくたん》に弱くなるからな。当てれば、俺たちの勝ちだ」
ブルンブルンと柚香は首を横に振った。
「だって、当たらないもん。さっきみたいに変な所で当たって、殷雷が怪我をするだけ」
和穂が割って入る。
「ねえ、殷雷。具体的に、何かいい方法があるの?」
顎《あご》を撫《な》でつつ、刀の宝貝は大きく首を縦《たて》に振った。
「うむ。蹴《け》りだ」
和穂には殷雷の言葉が理解出来なかった。
「蹴り? 蹴りでどうするの?」
「俺の渾身の蹴りで、奴にヒビを入れてやると言ったのだ」
「……真面目《まじめ》に考えてよ。さっき、勝てなかったのに、勝てるはずないでしょ」
「黙《だま》れ。今度は正確に当てる!」
和穂が止めるのもきかず、殷雷は席を立って部屋を出ていった。柚香も慌《あわ》てて後を追った。
いつも口が悪い殷雷だが、その奥《おく》には常に冷静さを秘《ひ》めている。
だが、今の殷雷は、楯の宝貝にしてやられた悔《くや》しさで、冷静さのかけらもなかった。
部屋に一人残された和穂は、今回の回収はかなり厄介《やっかい》になりそうだと考えた。
守りに入った楯を突《つ》き崩《くず》そうというのだ。
頭に血がのぼった殷雷に、そんな事が可能なのだろうか。
考え続ける和穂の耳に、
『うおうりゃあ!』
という、殷雷の気迫《きはく》のこもった掛《か》け声が届《とど》いた。
屋敷《やしき》中の空気を振動《しんどう》させる、渾身の気合に違《ちが》いなかった。
続いて響《ひび》く、金属がぶつかり合う激突音《げきとつおん》。
一瞬の沈黙《ちんもく》。
『ぐげ!』
屋敷にこだまする殷雷の絶叫《ぜっきょう》。
和穂は腕を組み、首を傾《かし》げた。
「柚香ちゃんと、創常楯か。
もしかしたら、とてつもなく手強《てごわ》いかもしれない」
一か月経過――
この一か月、殷雷《いんらい》は創常楯《そうじょうじゅん》に四十二回|挑《いど》みかかり、四十二回返り討《う》ちにあった。
十二回目の返り討ちまでは、殷雷も悪態《あくたい》をついていたが、ついに悪態の在庫《ざいこ》が切れてしまった。
二十五回目の挑戦《ちょうせん》は、棍《こん》を槍《やり》のように水平に構《かま》え、突進《とっしん》するというものだった。
これならば、どこで結界に衝突《しょうとつ》しても、それなりの衝撃《しょうげき》が創常楯に届《とど》くはずだ。
創常楯が対抗策《たいこうさく》として張った結界は、高さ二寸(約三十センチ)ばかりの、平べったい結界だった。
突進し、最高速度に達した殷雷は結界につまずき、向こう脛《ずね》をしこたま打つという結果に終わった。
和穂《かずほ》と袖香《ゆうか》は、殷雷たちの戦いを見守り続けた。
和穂が声を掛《か》けても、最初は強がるばかりの柚香だったが、殷雷の攻撃《こうげき》が豪快《ごうかい》に失敗すれば、ときおり無邪気《むじゃき》な笑顔《えがお》を見せた。
だんだん柚香の態度が柔《やわ》らかくなったと和穂は感じていたのだが、ここしばらく、柚香の顔に思い詰《つ》めた表情が浮《う》かび始めた。
笑わなくなった柚香は、時々、和穂の顔を見て、悲しそうに唇《くちびる》をかんだ。
本日の挑戦は、二十五回目の挑戦の改良だった。
やはり棍を槍のように構えるのだが、棍の先端《せんたん》を地面スレスレにまで低く構え、結界につまずくのを防《ふせ》ぐ。
棍が何かに触《ふ》れた瞬間《しゅんかん》に、棍を構え直して地面を突《つ》く。勢《いきお》いで殷雷は空中に跳躍《ちょうやく》し、創常楯の頭上に、棍を構えて落下するという作戦だった。
結果。
跳躍まではじつに上手《うま》くいった。殷雷は身長の五倍近い高さまで跳躍し、創常楯の真上に到達《とうたつ》した。
が、殷雷は落下出来なかった。創常楯は跳躍の頂点の高さまで結界を張っていたのだ。
殷雷は、創常楯の頭上でピタリと止まり、そのまま結界を滑《すべ》り落ちた。
殷雷の腕《うで》の擦《す》り傷《きず》に、和穂は赤い薬を塗《ぬ》り付けた。
日は既《すで》に落ち、窓の外に闇《やみ》が広がっていた。
「今日の怪我は軽そうね。殷雷は傷の治《なお》りが早いけど、無茶《むちゃ》しちゃ駄目《だめ》よ。
……それにしても殷雷って、思ってたより根気があるのね」
「たわけ。根気ではない、意地《いじ》だ。
もはや、創常に一泡吹《ひとあわふ》かせてやらねば、俺の気がすまん」
仕事を終えた財丈が、殷雷の様子《ようす》を見に、客室に顔を出した。
「満身創痍《まんしんそうい》って感じですな殷雷さん」
「見た目よりは、酷《ひど》くねぇ」
和穂は財丈に頭を下げた。
「すいません、手間取《てまど》ってしまって。
正門が使えないせいで、お仕事に支障《ししょう》が出ているのに」
財丈は首を横に振った。
「あぁ、それね。
ちと、裏門だけじゃそろそろ限界なんで、東の塀《へい》に門を一つ造《つく》ります。
大工《だいく》たちを何人も雇《やと》ってきましたから、明日にでも着工します。
いや、いいんですよ。もともとは柚香のせいなんですから」
疲《つか》れたのか、殷雷は大きく欠伸《あくび》をした。
「悪いが、怪我してる時は、宝貝《ぱおぺい》でも寝《ね》た方がいいんだ。部屋《へや》に帰らせてもらうぜ」
殷雷は、自分にあてがわれた客室に向かうため、部屋から出ていった。
「それでは。私も失礼します」
続いて財丈も部屋から姿を消した。
疲れを見せた殷雷を見て、和穂は楯《たて》を相手にした持久戦《じきゅうせん》の無謀《むぼう》さを痛感《つうかん》した。
早いうちに手を打たなければ。
和穂が考えていると、部屋の扉《とびら》がゆっくりと開かれた。
風呂《ふろ》から上がったばかりなのか、赤く上気した顔に、湿《しめ》った髪《かみ》の柚香がそこにいた。
「和穂、風呂が空《あ》いた」
「はい、ありがとう」
柚香は、そう言った後も、立ち去ろうとしなかった。
「どうしたの柚香ちゃん、部屋に入りなよ」
トタトタと走り、少し苦労しながら椅子《いす》に腰《こし》を乗せる。
和穂は立ち上がり、道服の袖《そで》から櫛《くし》を取り出し、柚香の髪を梳《す》いてやった。
黙《だま》って、和穂のするがままになっていた柚香だったが、やっと口を開いた。
「……そうやって、私に優《やさ》しくして、シロを返してもらおうと考えてるんだろ」
ニッコリ笑って和穂は答えた。
「なに言ってるのよ。柚香ちゃんとの勝負に勝って、創常……シロを返してもらうよ」
短い沈黙。柚香が何かを悩《なや》んでいると和穂は感じた。少し小さな声で柚香は言った。
「宝貝を全部集めないと、和穂は、おうちに帰れないの?」
仙界《せんかい》に戻《もど》るには、全《すべ》ての宝貝を回収しなければならない。
「うん。まあね」
「やっぱし、和穂のおうちには、父様や母様がいるの?」
「ううん、いないよ。でも師匠《ししょう》がいる。私を育ててくれた、龍華《りゅうか》師匠がいる。シロや殷雷を造《つく》った、凄《すご》い仙人《せんにん》なんだよ。
私にとっては、親のように大切《たいせつ》な人」
「師匠に会いたい?」
今度の沈黙を作ったのは和穂だった。髪を梳かれている柚香からは、和穂の顔は見えない。
滲《にじ》み出た涙《なみだ》を指で拭《ぬぐ》い和穂は答えた。
「……うん。会いたい。会いたいよ。一度でいい、一度でいいから」
柚香も涙を流す。ただ、涙を拭おうとはしない。
「……あたしも母様に会いたい。だから和穂の気持ちは判《わか》る。
……シロを返してあげようか? 和穂ならシロをいじめたりしないから、返してあげてもいい」
意外な言葉が和穂から返った。
「駄目《だめ》よ、柚香ちゃん。
勝負に情けは禁物《きんもつ》なんだから。意地は最後まで張りとおさなければ、ただのわがままになっちゃうでしょ」
「でも、和穂や殷雷じゃ、シロには絶対《ぜったい》勝てない」
髪を梳き終わった和穂は、柚香の顔を濡《ぬ》らす涙を拭《ふ》いてやった。
「大丈夫《だいじょうぶ》。今、シロに勝つ方法を思いついちゃったから」
さすがに柚香も、アングリと口を開けた。
「そんなの無理《むり》よ。殷雷が一か月かけても歯が立たなかったシロに」
「柚香ちゃん。もう夜も遅《おそ》いわ。お休みなさい」
四十四回目の挑戦《ちょうせん》か。
朝日の中に殷雷《いんらい》の姿を発見し、創常楯《そうじょうじゅん》は身構《みがま》えた。戦績が、たとえ四十三連勝であっても、創常楯は決して油断《ゆだん》しなかった。
百回勝とうが、二百回勝とうが、一度でも敗北すれば回収されてしまう。
創常楯は常に、自分には後がないと自覚《じかく》していたのだ。
殷雷の体には擦り傷やら切り傷など、無数の怪我《けが》があったが、致命的《ちめいてき》な怪我は一つもない。
五回に一度ぐらいはヤケになり、力まかせの挑戦になるが、基本的には以前の敗北を分析《ぶんせき》し同じ失敗をしないように心掛けている。
ゆっくりと歩く殷雷を追い越して、柚香《ゆうか》が走り寄ってきた。
結界を部分的に緩《ゆる》め、柚香の接近を創常楯は許《ゆる》した。
首の周《まわ》りの柔《やわ》らかい毛を撫《な》でながら、柚香は少し悩《なや》んだ。だが、和穂《かずほ》は真剣に勝負をすると言っていた。自分も最善《さいぜん》の手を尽《つ》くすべきだと少女は考える。
「シロ、気をつけてよ。今回は和穂が作戦を立ててる。
朝|御飯《ごはん》の時、私だけ部屋から追い出されたの。あの時に、和穂が作戦を説明したんだと思う」
創常楯は低い唸《うな》り声を上げた。
負けるわけにはいかない。再び自由を奪《うば》われ、封印される恐怖《きょうふ》よりも、柚香と離《はな》れ離《ばな》れになる恐怖が強かった。
殷雷が歩みを止め、創常楯の前に立ちふさがる。今日の殷雷は素手《すで》であった。
「柚香。邪魔《じゃま》になるからどけ。お前を守る為に創常に隙《すき》が出来たら、勝った気がしないんでね」
ほざけ。創常楯は柚香を振りほどくように首を振った。柚香は創常楯のそばから離れ、それでも二人の戦いが見渡せる場所まで、急いで下がった。
戦いの前の、気迫《きはく》と気迫のぶつかり合いが始まった。鷹《たか》の眼光を持つ人間と、豹《ひょう》の眼光を持つ犬の視線が激しくぶつかる。
そして殷雷はゆっくりと腕を広げながら、さらに創常楯に近寄った。
楯《たて》の宝貝は慎重《しんちょう》に結界を張る。
殷雷の手は結界に当たり、それ以上進まなくなった。
殷雷の口許《くちもと》がニヤリと歪《ゆが》んだ。
「勝負だ創常!」
途端《とたん》、殷雷の左手に力がこもる。のけ反《ぞ》った指先が、恐《おそ》るべき力で結界を形作る、刺《とげ》と刺の間に食い込んだ。
創常楯は冷静に、刺の間隔《かんかく》を縮《ちぢ》めた。多少食い込まれたが、これ以上の侵入《しんにゅう》は阻止《そし》出来る。
続いて殷雷は腰を落とし、重心を下げた。
創常楯は殷雷の狙《ねら》いを悟《さと》る。
持ち上げるつもりだ。
食い込んだ指先を、引っ掛かりにして殷雷は創常楯を結界ごと持ち上げようと試《こころ》みた。
結界の重さとは、すなわち創常楯の重さであった。
殷雷は軽々と創常楯を頭上に持ち上げた。
犬を中心とした、巨大な透明の球だ。
「投げ飛ばしてくれる!」
が、殷雷は頭上の創常楯の重さが、増えているような気がした。
楯《たて》に必要なのは、硬《かた》さと重さであった。
軟《やわ》らかければ、相手の攻撃を防《ふせ》げないし、軽ければ攻撃を受け止めたとき、衝撃で吹っ飛んでしまう。
どんな楯の宝貝《ぱおぺい》にでも、瞬間的に自分の重量を増やす機能があった。
防御結界には詳《くわ》しくても、刀の宝貝にその知識はなかった。
「馬鹿な!」
重さはさらに急激に増え、背骨《せぼね》が押しつぶされる危険を考えた殷雷は、やむなく変化を解き、刀へと姿を変えた。
地面の刀の上に、結界ごと創常楯は落下していく。
四十四回目にして、ついに門の前から動かされたかと、創常楯は冷《ひ》や汗《あせ》を流す代わりに、口を開けてハアハアと息を吐《は》く。
殷雷が気絶状態にあると判断し、楯の宝貝は結界を解く。
勝負があったとみた柚香は、走りより、シロの頭を撫《な》でる。
束《つか》の間《ま》の勝利を喜ぶ、一人と一|匹《ぴき》であったが、その目が同時に丸くなった。
目の前に、信じられない光景が広がろうとしていた。
無数の男たちの叫《さけ》び声と共に、正門がゆっくりと崩壊《ほうかい》していったのだ。
大きい木槌《きづち》を持った大工《だいく》たちが、屋敷《やしき》の内部から正門を破壊《はかい》にかかっていた。
倒れる材木が巻き起こす、土煙《つちけむり》の中から一人の娘が、柚香たちに向かい歩いてきた。
和穂だった。
道服の娘は膝《ひざ》を折り、柚香の視線に顔を近づけた。
「判《わか》る? 正門がなければ、もうシロは門番は出来ない。『門番を出来なくする』という勝負だったよね」
柚香は和穂の首に抱《だ》きついた。柔らかい日向《ひなた》の香りがした。
「うん、判った。あたしの負けだよ、和穂お姉ちゃん。シロを可愛《かわい》がってあげてね」
和穂は柚香の背中を優しく叩いた。
二人の姿を見て、再び人の形に戻った殷雷は、悪態《あくたい》をついた。
力なく腰を下ろし、足はだらしなく伸ばされている。
「何が、和穂お姉ちゃんだ。今までさんざんわがまま、かましやがったくせに。
なあ、創常よ」
殷雷のかたわらに座《すわ》っていた創常楯は、黙《だま》って殷雷の腕をガブリと噛《か》んだ。
柚香の悪口を許《ゆる》すシロではなかった。
『創常楯』
楯の宝貝。犬の形態もとる。
欠陥《けっかん》は、動物形態時の防御能力の不備。移動しながら防御結界が張れないのだが、これでは動物形態をとる意味がない。
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大地に轟《うごめ》く花の王
「しかし、まあ、のどかだねえ。
これだけ、のどかだと事件の一つでも起きてくれないかと思っちまうね。そうだな、敵は俺《おれ》よりちょいとばかり格下《かくした》で、余裕《よゆう》を見せながらでも勝てるぐらいのがいいな」
黒く長い髪《かみ》を、後頭部の後ろで括《くく》った殷雷《いんらい》は、銀色の棍《こん》をダラリと持ちながら、つぶやいた。
眠気《ねむけ》を堪《こら》えるのがやっとという、だらけた顔の前を、二|匹《ひき》の白い蝶々《ちょうちょう》が飛んでいく。
殷雷の言葉は、彼の横にいる和穂《かずほ》をあきれさせた。
「なに言ってるのよ、殷雷。変な騒動《そうどう》が起きないんだったら、それが一番じゃない」
娘《むすめ》は、袖《そで》の大きな道服を身に着けていた。
腰帯《こしおび》にくくりつけたひょうたんと、軽く結《ゆ》わえた髪の毛が、歩くたびにゆっくりと揺《ゆ》れる。
まだ、幼《おさな》さが少し残る眼差《まなざ》しの上には、少し太めだが、柔《やわ》らかな眉毛《まゆげ》がのっていた。
ふと、和穂の横を歩く、殷雷の顔に、緊張感《きんちょうかん》が漲《みなぎ》った。
今までのだらけた顔から一変し、突《つ》き刺《さ》すように鋭《するど》くなった眼光は、彼が武人《ぶじん》であると物語《ものがた》っていた。
「いや、違《ちが》う。この間抜《まぬ》けなまでの、のどかさに騙《だま》されて、俺らは既《すで》に誰《だれ》かの術中《じゅっちゅう》にはまっているんだ。
俺たちは死地にいるんだ」
と、根拠《こんきょ》もない文句《もんく》を言うだけ言い、どんな老猫《ろうびょう》にも出来ないような大アクビをした。
彼が言うように、のどかな風景が周囲に広がっていた。
柔らかい日射《ひざ》しが、水を抜いた田んぼに降《ふ》り注《そそ》いでいた。
田植えの季節《きせつ》には、まだ間があるので、無数のレンゲが、赤紫《あかむらさき》の花を咲《さ》かせている。
「あ、もしかして殷雷、刀の血が騒《さわ》ぐなんて言うんじゃないでしょうね」
「やかましい、退屈《たいくつ》なんだよ」
和穂の頭に一つの思いつきが、閃《ひらめ》いた。殷雷には、いつも子供|扱《あつか》いされているのだ、少しやり返してやろう。
「退屈だ、退屈だって。まるで駄々《だだ》をこねてる子供じゃないの」
ピクリと頬《ほお》をひきつらせ、殷雷は笑った。
「お前にガキ扱いされるとは、この殷雷|刀《とう》も落ちぶれたもんだな。
能無しの元|仙人《せんにん》のくせしやがって」
殷雷、すなわち殷雷刀。彼は人の姿をしてはいたが、本当は人ではない。
彼の本性《ほんしょう》は刀《かたな》である。無論《むろん》、尋常《じんじょう》な刀ではない。
彼は刀の宝貝《ぱおぺい》であった。
仙人の造《つく》り出す、摩訶不思議《まかふしぎ》な能力を持つ神秘《しんぴ》の道具を宝貝と呼ぶ。
刀の宝貝に能無しと呼ばれ、和穂は言葉に詰《つ》まった。
「う」
「ほれほれ、くやしかったら、術を使って、火の一つでも出してみやがれ」
刀の宝貝とはいえ、殷雷は別に仙術《せんじゅつ》が使えるように造られてはいない。
和穂にいたっては、元仙人の呼び名が示すように、今は術が使えない。
元仙人、和穂はかつては仙人であった。
炎《ほのお》の中の炎、真の炎を操《あやつ》れた。天空を轟《とどろ》かせる龍《りゅう》を捕獲《ほかく》した事もあった。
あまたの術を使い、天地の理《ことわり》すら凌駕《りょうが》する絶大《ぜつだい》な力を持っていた。
が、それは全《すべ》て昔の話。
たった一度の失敗の為《ため》、彼女は全ての仙術を封《ふう》じ込められて、仙界から人間の住む世界に降《お》り立つ事になった。
和穂は、欠陥《けっかん》宝貝を封じ込めた封印を破《やぶ》ってしまい、人間界に宝貝をばらまいてしまったのだ。それが彼女の失敗だった。
しかも、十個や二十個の宝貝ではない。その数、七百二十六個。
自《みずか》らの責任を感じた和穂は、宝貝の回収を志願し、人間界に無用の混乱を起こさない為に、仙術を封じられたのだ。
無論、回収に必要な最低限の宝貝は、授《さず》けられていた。
まず一つは彼女の腰《こし》にあるひょうたん、名前は断縁獄《だんえんごく》。
普通《ふつう》のひょうたんに見えるが、その内部には巨大《きょだい》な空間が広がり、回収した宝貝を収容するようになっている。
かなり大きな物でも、内部に吸収《きゅういん》するが、吸引に抵抗《ていこう》するものは吸い込めなかった。
もう一つは、彼女の耳に着けられた、質素《しっそ》な耳飾《みみかざ》りである。一見《いっけん》、小さな真珠《しんじゅ》に見せ掛《か》けた、白い陶製《とうせい》の安物の耳飾りのようだが、紛《まぎ》れもない宝貝であった。名は索具輪《さくぐりん》。
人間界に存在する、全ての宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る為の、宝貝である。
そして殷雷刀だ。
もともと殷雷刀も、欠陥宝貝を封じ込めた封印の中にいた宝貝であったが、人の失敗に付け込んで逃亡《とうぼう》するのをよしとしなかった。
人間界に降りる和穂の身を案じた、彼女の師匠《ししょう》とその友人、龍華《りゅうか》仙人と護玄《ごげん》仙人に頼《たの》まれ、彼は和穂の護衛《ごえい》を引き受けたのだ。
護衛の報酬《ほうしゅう》として受け取ったのが、彼の手にある棍だ。
タネも仕掛《しか》けもない普通の棍だが、材質が普通の物とは違い、真鋼《しんこう》と呼ばれる非常《ひじょう》に珍《めずら》しく、硬《かた》い金属で出来ていた。
その棍を、和穂の鼻先に突きつけて、殷雷は言葉を続けた。
「どうした、早くやってみな。火が無理ならば、氷《こおり》でも雷《いかずち》でもかまわんぞ、術を使って出してみたらどうだ。ほれほれ」
「…………」
「ほれほれ」
和穂は言い返せなかった。顔が徐々《じょじょ》にうつむきになり、完全に顔を伏《ふ》せた。
そして、悔《くや》しさにうち震《ふる》えるように、色が白くなるまで、強く拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
何か妙《みょう》な雲行《くもゆ》きになりそうだと、殷雷は嫌《いや》な予感に襲《おそ》われた。
「……おい、和穂」
うつむいた和穂の顔を、覗《のぞ》き込もうとしたが、素早《すばや》く背を向け顔を見せようとしない。
殷雷に見えるのは、ブルブルと小刻《こきざ》みに震える拳だけだ。
だが、その拳は突如《とつじょ》開かれ、和穂の顔を覆《おお》った。手の隙間《すきま》からは、か細いすすり泣きの声が聞こえた。
「……私だって……私だって」
『しまった、やっちまった』
声に出さずに絶叫《ぜっきょう》し、殷雷は痛恨《つうこん》の表情を笑顔《えがお》で取《と》り繕《つくろ》うとし、なかなか複雑な愛想笑《あいそわら》いの顔になった。
「あの、ちょっと和穂」
考えてみれば、和穂も好きこのんで、仙術を封じ込められているのではないのだ。
宝貝をばらまいてしまった事件も、半分は事故《じこ》のようなもので、宝貝回収は誰に命じられたのでもなく、己《おのれ》の責任感《せきにんかん》から人間界に降りているのだ。
普段は、そんな素振《そぶ》りは全《まった》く見せないが、ほとんど全能の仙人から、ただの十五の娘になったのだ、時にはどうしようもない無力感に襲《おそ》われた事もあっただろう。
そんな和穂の気持ちも考えずに、ちょいとからかい過ぎたと、殷雷は反省《はんせい》した。
「すまん、和穂」
殷雷は和穂の肩《かた》をつかみ、向き直らせた。
顔を両手で覆ったまま、和穂は顔を上げていった。
そして、いないいないバァをするかのように、両手を開き、大声で笑った。
「なあんてね」
和穂と殷雷の顔はちょうど、向き合っていた。和穂は笑いながら、顔の横で手をニギニギと閉《と》じたり開いたりしている。
それを見た殷雷の目付きが、ゆっくりと変わっていく。
突き刺す眼光どころか、人よりは鷹《たか》に近い眼光へと、変わっていったのだ。
ゆっくりと変わる眼光に合わせるかのように、和穂の手のニギニギもゆっくりとなり、太めの眉毛の横を、一筋《ひとすじ》の冷《ひ》や汗《あせ》が流れた。
「あまりの恐怖《きょうふ》に、声が出ないのかえ。それとも己《おのれ》のしでかした過《あやま》ちに、戦慄《せんりつ》でもしているのかえ」
どこからか聞こえる、ねばっこい言葉に、螳弦《とうげん》は驚《おどろ》いていた。だが、恐怖も戦慄もしていない。ただ、訳《わけ》が判《わか》らなかった。
どこからともなく声がするのだから、怪談《かいだん》めいてはいる。だが、真《ま》っ昼間《ぴるま》に、庭に出ていてどこからか声がするのだから、普通《ふつう》は誰《だれ》かが隠《かく》れていると思うだろう。
螳弦は後ろに流した髪《かみ》を、さらに押《お》さえつけるようにかきあげた。
どう見ても、螳弦は肝《きも》の据《す》わった青年には見えない。度胸《どきょう》のある武人《ぶじん》というより、普通の貧乏《びんぼう》学生だ。
それでもやはり、大騒《おおさわ》ぎするほどの事ではなさそうだと螳弦は思った。
声は続く。
「ほうっほ。人とは愚《おろ》かなものよのう。
事が起きてからでないと、後悔《こうかい》すらできないんじゃからな。
もっとも後悔したところで、滅亡《めつぼう》への歩《あゆ》みを止められはせんがのう。哀《あわ》れ哀れ」
何やら、話がどんどんと大きくなっていくようだった。滅亡への歩みとか言ってるが、自分の事なのだろうか? それとも人間全体の事なのだろうか? 螳弦は少し考え、嫌《いや》な気分になった。
自分だけにしろ、人間|全《すべ》てにしろ、どう転《ころ》んでも自分は滅《ほろ》んでしまうんじゃないか。
螳弦は口を開いた。
「は?」
「……まさかとは思うが、貴様《きさま》は自分が何をしでかしたか、判っていないんじゃあるまいの?」
充分《じゅうぶん》承知《しょうち》していた。
「植木鉢《うえきばち》に、観賞《かんしょう》用の高価なレンゲを植《う》え替《か》えて、じょうろで水をやっていた」
「うむ、判っておるではないか。
どれだけ後悔しても、したりぬであろう。己のその手で、人間全てを葬《ほうむ》り去《さ》る事になったのだからのう」
冗談《じょうだん》にしては、あまり面白《おもしろ》くない。螳弦は何か妙《みょう》な事が起き始めていると、本能的に勘《かん》づいた。
狐《きつね》の類《たぐい》に化《ば》かされているのだろうか? 螳弦は、右手に持ったじょうろを、目の前にまで上げ、話しかけた。そう、じょうろにだ。
「どうして、人間が全て滅びるんだい」
もしも、今が真夜中で、ここが墓地《ぼち》か何かで、話しかけられた言葉が『おのれ、口惜《くちお》しや、口惜しや、口惜しや』だったら、螳弦は腰《こし》を抜《ぬ》かして逃《に》げ出そうとしただろう。
だが、今の螳弦は、脂汗《あぶらあせ》をかきながらも、この場に踏《ふ》み止《とど》まっていた。
じょうろからは返答はなかった。しばしの沈黙《ちんもく》の後、またしても同じ声がした。
「……貴様はなぜ、じょうろなどに話しかけておじゃる」
「いや、なんとなく、形が狐《きつね》に似ているかと思って」
「じょうろを狐と似ていると感じる、貴様の感性に興味《きょうみ》を覚《おぼ》えないといえば、嘘《うそ》になってしまうが、一つ忠告《ちゅうこく》しておこうかの。
私は妖怪変化《ようかいへんげ》の類《たぐい》ではないぞえ。ましてや狐が化かしているのではないぞ」
力なく、じょうろを地面に落とし、螳弦は目の前の植木鉢を見た。
そこらへんの道端《みちばた》に生《は》えているレンゲに比《くら》べて、花が大きい。観賞用というくらいだから、花の色も鮮《あざや》かな青紫色《あおむらさきいろ》をしている。
よく見れば、風もないのに花弁《かべん》が小刻みに振動《しんどう》しているではないか。
螳弦は生唾《なまつば》を飲み込んだ。
「ま、まさか」
「そうだ。やっと気付いたか、というより今まで気が付いてなかったのが、多少|屈辱的《くつじょくてき》ではあるが、まあ大目に見てしんぜよう。
どうせ貴様らの種族は、我《われ》の前に滅ぶ運命なのじゃからな」
花びらの一つ一つが、蜂《はち》の羽ばたきのように小さく複雑に振動している。絡《から》み合った振動音が言葉となっていたのだ。
今さらのように、螳弦は慌《あわ》てた。
逃げ出そうと、後ろを振《ふ》り向きかけたが、彼の頭の中を幾《いく》つかの考えが駆《か》け抜けた。
このレンゲは彼女への贈《おく》り物《もの》用に、買った物だ。
とても高かった。質素《しっそ》な食事ならば、三か月は食っていける程の値段がした。
チラリとレンゲを見る。確かに普通ではないし、恐《おそ》ろしいが、レンゲはレンゲ。
まだ何とかなるんではないかと考え、螳弦は逃げるのを止《や》めた。
何と強い、彼女への思いであろうかと、螳弦は感動した。一皮《ひとかわ》めくれば、『食費三か月分』が顔を出すのだが、動機《どうき》はともあれ、ここに踏み止まるのは、英雄《えいゆう》的な行動のような気がしていたのだ。
「あの、レンゲ。いやレンゲさん。どうして人間を滅ぼすなんて物騒《ぶっそう》な事を。
人間とレンゲならば、明るく楽しく共存出来るような気がするんですが」
「……共存? 我を畑の肥《こ》やしぐらいにしか考えてない人間と、どうやって共存するんじゃ? 蜂《はち》を使って蜂|蜜《みつ》を取るのは、まあよいであろう。
酷《ひど》いのになると、レンゲを妙《いた》め物にして、食ってる奴《やつ》までいるではないか。
勘違《かんちが》いするでないぞ、報復《ほうふく》の為《ため》に人間を滅ぼすんじゃない。弱肉強食《じゃくにくきょうしょく》の大自然の掟《おきて》にそって、人間と戦うだけだ。文句《もんく》はあるまい」
「待ってくれ、待ってくれ、待ってくれ。私はさっき、植木屋《うえきや》でレンゲを買ったんだ。
それがあんただ。贈り物のつもりで、奮発《ふんぱつ》して高いのを買ったんだ。
そのレンゲが口をきいているのか! どうしてくれるんだ、高かったのに!」
「恐怖に混乱《こんらん》する姿を見るのは、小気味《こきみ》いいが、貴様のその言葉ではまるで、高いレンゲが台なしになってしまったのを、怒《おこ》っているようにとれるぞい」
「あぁ、あの植木屋、こんな変な物を売りつけやがって。返品《へんぴん》だ、返品してやる!」
「……自《みずか》らが属す種が、存亡《そんぼう》の危機《きき》を迎《むか》えておるのに、金の心配をしておるとは、真の愚《おろ》か者め。
我を、そこらのレンゲと同じように考えるとは、万死《ばんし》に値《あたい》するぞよ」
螳弦は頭を掻《か》きむしった。
「えぇい、植木屋の親父《おやじ》め。もう庭の手入れは頼《たの》んでやらんぞ!」
「自分の過《あやま》ちを植木屋になすりつけるとは、見下げた奴よ。植木屋に罪《つみ》はないぞえ」
「レンゲ! 植木屋の肩《かた》を持つとは、やはりグルだったのか!」
植木屋の親父に怒《いか》りをぶつけている間は、目の前の喋《しゃべ》るレンゲの事を考えずにすむような気がした。
だが、レンゲは植木屋の弁護《べんご》に回った。
「植木屋の店頭に、ヒナゲシと一緒《いっしょ》に並んでいた時は、我はまだ普通のレンゲと、何の違いもありはしなかったのじゃよ。
貴様がやらかした致命《ちめい》的な失敗とは、我をこの植木鉢に植え替えた事ぞえ」
植木鉢? 意外な言葉に、螳弦はレンゲを植えた植木鉢に目をやる。
別にこれといって、変わった所のある物ではない。
焦《こ》げ茶色に、滴《したた》る蜜のような黒色の釉薬《うわぐすり》がかけられている代物《しろもの》だ。
「その植木鉢がいったいどうしたんだ?」
「驚《おどろ》くがよい。この植木鉢は宝貝《ぱおぺい》なのじゃ」
「ぱ、宝貝? そんなのは、お伽話《とぎばなし》……」
お伽話だ。と言いかけたが、実際に目の前でレンゲが、煮詰《につ》まった砂糖《さとう》みたいな声で喋《しゃべ》っているのだ。
呼吸を整《ととの》えつつ、螳弦は言った。
「あぁ、拾った植木鉢なんか使うんじゃなかった、レンゲの事で頭がいっぱいで、鉢の事まで手が回らなかったんだよう!
……いや、待て。たとえ宝貝だとしても、結局お前はただのレンゲじゃないか。
えらく威勢《いせい》はいいが、何が出来る!」
答える代わりに、植木鉢の中にもう一本のレンゲが生《は》えた。
レンゲという植物は、一つの根から幾《いく》つもの花が咲《さ》くようになっている。
さらに、レンゲの花が咲いていく。
あっというまに、植木鉢の上には無数のレンゲがひしめき合った。
そして、蔓草《つるくさ》のように茎《くき》が伸びたかと思うと、器《うつわ》から水が零《こぼ》れるように、レンゲたちは植木鉢の外へと伸びていく。
地面に降り、すぐに仮の根を張るものもあれば、先へ先へと進んでいくものもある。
植木鉢の中では、さらに勢《いきお》いよく、茎が育っていく。まるで緑色の水を吐《は》き出す湧《わ》き水のように、とめどもなくレンゲは成長していった。
辺《あた》り一面に、レンゲがあふれかえるのを見て、螳弦はレンゲの話が、まんざら嘘《うそ》でもないような気がしてきた。
「この植木鉢の名は練樹鉢《れんじゅばち》。我に莫大《ばくだい》な力と知性を与《あた》えてくれた、真《まこと》の恩人《おんじん》」
庭の端《はし》に達した茎は、朝顔《あさがお》のように塀《へい》にからまり、そのまま家の外へと伸びていく。
螳弦は力なく言った。
「こんな事ならば、レンゲではなく、ヒナゲシを買っておくべきだった」
「……馬鹿者め。その時は我に代わって、ヒナゲシがこの地上に覇権《はけん》を唱《とな》えるべく、動き出すだけじゃろうが」
「いや、もしかしたらヒナゲシはレンゲに比べて、少しは温厚《おんこう》な性格かもしれないじゃないか」
「奴が我よりも温厚? 冗談《じょうだん》はよさぬか」
「痛い、痛い、本当に殴《なぐ》った」
和穂はしゃがみこみ、頭をさすっていた。もしかしたら、殴られた場所から湯気《ゆげ》でも出ていそうな、痛さだった。
「やかましい。自業自得《じごうじとく》だ」
「うう、ほんの冗談だったのに」
「あぁ、面白《おもしろ》い冗談だったな。
お前みたいな奴が、たまにやる冗談だから余計《よけい》に効果的だ。面白すぎて、おもわず拳《こぶし》がうなっちまったぜ」
殷雷は腹が立っていた。和穂の嘘《うそ》泣きにひっかかった事ではなく、泣いた和穂を必死《ひっし》になって取り繕《つくろ》うとした、自分にだ。
彼の名は殷雷|刀《とう》、悪ぶってはいるのだが、土壇場《どたんば》での甘《あま》さ、情《じょう》に脆《もろ》いという、武器として致命的《ちめいてき》な欠陥《けっかん》を持っていた。
不快そうに目を細め、殷雷は和穂を見た。
「いつまで座《すわ》っている、先を急ぐぞ」
頭を撫《な》でているうちに、和穂の頭からはようやく痛みが消えた。
ツカツカと街道《かいどう》を歩み始めた殷雷を、和穂は慌《あわ》てて追う。
「あ、待ってよ殷雷」
和穂は耳の索具輪《さくぐりん》に手を添《そ》えた。
蛍《ほたる》のように無作為《むさくい》に飛び回る、雑多な光の点が、彼女の視界に重なっていった。光の点こそが、宝貝の反応だった。殷雷刀たち以外で、一番近い宝貝の位置を探《さが》したいという、和穂の意思《いし》に従《したが》って、光点は一つを残して消滅《しょうめつ》する。
「殷雷、そっちじゃないよ」
街道から少し外《はず》れている、光の場所を和穂は指し示し、光の横にある数字を読む。
「こっちに一里半(六キロ)」
直線で進むならば、田んぼの中を突《つ》き進む形になる。
「そうか。ま、この状態じゃ、田んぼの中を歩いても、文句《もんく》は出まい」
和穂たちは、レンゲ畑と化している田んぼの中を歩み始めた。
しばらくは無言で進んでいたが、足元の花に和穂は興味《きょうみ》を覚えた。
小さな赤紫色《あかむろさきいろ》をした花びらが、絨毯《じゅうたん》のように周囲を埋《う》め尽《つ》くしている。
「ねえ、殷雷。これって何の花?」
武器の宝貝になんて事をききやがる、という表情で殷雷は答えた。
「和穂よ。お前には、俺《おれ》が花を愛《め》でるような粋《いき》な男に見えるのか?」
「……いいよ、別に知らないんだったら」
殷雷は面倒《めんどう》そうに、足元の花を一輪《いちりん》、つみとった。
「知るも知らぬも、こんなのは普通のレンゲだろうに」
「レンゲ?」
普通の仙人《せんにん》は、人間界である程度修行を積み、それから仙界に渡《わた》っていくのだが、和穂の場合は少し事情が違《ちが》っていた。
和穂の場合は生まれてすぐに、仙人に拾われ、そのまま仙界で育ったのだ。
だから、たまに一般|常識《じょうしき》のような知識が、スコンと抜け落ちている事がある。
無知と言えばそれまでなのだが、ありふれたレンゲの花を見ても、新鮮《しんせん》な感動を得られるのだ。
何が悲しくて、武器の宝貝が花の説明をしなければならないのか、と思いつつも殷雷は口を開けた。
「そう、レンゲだ。田んぼや畑も、一年中使ってはいまい。収穫《しゅうかく》し、次に作物を植えるまでの間にこうやって、生《は》やしているのだ」
「どうして?」
「理屈《りくつ》は知らんが、レンゲを植えておくと、次に作物を植えた時に収穫が伸《の》びるらしい」
「へえ」
「あと、レンゲの蜜《みつ》は、蜂《はち》蜜として集められる事もある」
「ふうん」
「意外と油で妙《いた》めても、美味《うま》い」
「そうなんだ」
別に、たいした説明をしているのでもないが、和穂が感心げにうなずくのを見て、殷雷はついつい調子に乗る。
「が、ときたま変種が生まれて、ものによって食虫植物の特徴《とくちょう》を持ち、野鼠《のねずみ》ぐらいの小動物なら、バクリバクリと食ってしまう」
「え!」
信じる和穂が悪いのか、騙《だま》す殷雷が悪いのか。
「十六倍体と呼ばれる、人の身長程もある巨大《きょだい》な変種は珍《めずら》しくもないが、ごく希《まれ》に十六倍体の中に、食虫植物の属性を持つレンゲが発生し、大騒動《おおそうどう》になる時がある」
「結構《けっこう》、おっかないんだ」
幾《いく》ら、人を疑う事を知らない素直《すなお》な性格とはいえ、ここまですんなり信じ込むとは、とうの殷雷も考えていなかった。
「巨大食虫レンゲを専門に狩《か》る、レンゲ師《し》という職業《しょくぎょう》があり、彼らは日頃《ひごろ》から血の滲《にじ》むような習練をしていると、風の噂《うわさ》にきいた事がある」
和穂はしゃがみ、レンゲの花をつついた。
「こんなに、可愛《かわい》い花なのにね」
和穂に背を向けながら、殷雷は左手で口を押さえ、必死《ひっし》になって笑い声がこぼれないようにした。
『嘘に決まってるだろ!』
と、殷雷がネタを割ろうとした時、和穂が先に喋《しゃべ》り出す。
「それじゃ、これも変種の一つなんだ」
和穂の指には、蛇《へび》のようにニョロニョロと茎を動かす、青紫色のレンゲが絡《から》まっていた。
途端《とたん》、殷雷の束《たば》ねられていた髪《かみ》は、弾《はじ》かれたかのように広がり、周囲の気配《けはい》を細《こま》かく探《さぐ》り出す。
彼の髪は微弱《びじゃく》な雷気《らいき》の変動を通じ、異変《いへん》を感じとった。
レンゲ畑の中に、別の種類のレンゲが混じり蠢《うごめ》いている。
迂闊《うかつ》にも、今まで気が付かなかったのは、レンゲが風になびいているとばかり、考えていたからだ。
注意してみれば、風向きとレンゲの向きには、全《まった》く関係がない。
レンゲは波紋《はもん》が広がるように、一点を中心にしている。
殷雷は冷《ひ》や汗《あせ》を流した。下手《へた》をしたら完全に隙《すき》を突《つ》かれていたのだ。
「和穂、宝貝が何かをしでかしてるぞ! 急げ!」
「? どうしてそんな事が判《わか》るの?」
「いいから来い」
説明している暇《ひま》はないと殷雷は考え、棍《こん》を突き出し、和穂の道服の襟《えり》に絡《から》ませた。
そして竿《さお》を担《かつ》ぐように、棍を肩《かた》の上にのせてレンゲの中心へと向かい、ひた走る。
無論《むろん》、棍の先には和穂が、とっ捕《つか》まった野兎《のうさぎ》のごとく釣《つ》られたまんまだ。
「うわ! 殷雷、降ろしてよ!」
「うるせい」
手荒《てあら》な扱《あつか》いであったが、少なくともこの体勢《たいせい》からなら、レンゲが和穂に襲《おそ》いかかる心配はなかった。
満《み》ち潮《しお》になったのに気が付かず、岩場に取り残された気分だと螳弦《とうげん》は考えた。
水の代わりに、彼の足は膝下《ひざした》近くまでレンゲに浸《ひた》っていた。
今や目の前の練樹鉢からは、間歇泉《かんけつせん》のごとく勢《いきお》いよく、レンゲの茎が伸《の》びていた。
「ふむ。さっさと逃《に》げ出すか、そうでなくても助けを呼びに行くかと思ったが、この場に踏《ふ》み止《とど》まる勇気があったとはのう。
敵ながら尊敬《そんけい》するぞえ」
彼女の為《ため》に踏み止まると決めたのだ、何を今さら、撤退《てったい》など出来るか。と己《おのれ》の高潔《こうけつ》な精神を讃《たた》えつつも、一応参考の為に、ちょいと可愛い声でたずねてみる。
「逃がしてくれる?」
「踏み止まる限りは、尊敬にあたいするからしばらくは危害《きがい》を加えぬ。
だが、逃亡者《とうぼうしゃ》を見逃《みのが》す事は出来んのう」
「し、しばらくっていつまでだよう」
「我《われ》がもう少し、広がるまでじゃ。広がる程に、我が動ける範囲《はんい》が広がるのだからな」
「ど、どういう事かな?」
「……こういう事じゃぞ」
レンゲの中から、人影《ひとかげ》が立ち上がった。まるで、深い沼《ぬま》から人が浮《う》かび上がるようだった。
その姿を見て、螳弦は思わず気絶しそうになった。
人影はレンゲの茎で出来ていた。籐《とう》で出来た等身大の人形のようであるが、勿論《もちろん》全身が緑色である。もう少し枯《か》れていれば、案山子《かかし》のように見えたかもしれない。
微動《びどう》だにしなければ、それなりに愛嬌《あいきょう》があったのかもしれないが、妙《みょう》に滑《なめ》らかな動きが軽い恐怖心《きょうふしん》をかき立てた。
足元は、他のレンゲと同化していて、くるぶしより下は見えない。
それと同時に、今まであれほどの勢いで茎を伸ばしていた練樹鉢の動きが、ピタリと止まった。
「これだけレンゲを広げれば、しばらくの間は、用が足《た》りるのう。
本当に重要な力は、練樹鉢から採《と》っているのだが、それ以外は、茎から生やした仮の根を通じて大地から吸収《きゅうしゅう》しておるのじゃ。
おかげで、根詰《ねづ》まりもおきぬ」
レンゲ男が進もうとすると、踵《かかと》側の茎は解《ほど》けて、大地に根を張り、進んでいる方向の茎は足を形作った。
そして練樹鉢を自分の腹の中に、茎をかき分けて押《お》し込めた。
「これで、レンゲの中では、自由自在に歩けるようになったぞい!」
「けど、少し気持ち悪いぞ、レンゲ男!」
「レンゲ男? 無粋《ぶすい》な。我こそは、レンゲの王なるぞ。この地上|全《すべ》てを、レンゲで覆《おお》い尽《つ》くしてくれるぞえ」
「……人間をどうやって滅《ほろ》ぼす!」
「うむ。我に立ち向かう奴《やつ》らは、この体を使って直々《じきじき》に相手をしてやるが、基本的には、地上の植物全てに、我がとって代わるだけじゃな。我はヒナゲシとは違《ちが》うのだ。上品なものじゃろう」
「……それだけ?」
「じきに、もっと茎を強化し、食らえぬようにするから、草食動物は滅《ほろ》び、肉食動物も滅び、人間も滅びるであろうな。人間を滅ぼすには、かような手間《てま》がかかるぞえ」
螳弦がゲンナリしていると、またしても見知らぬ声が響《ひび》き渡《わた》った。
「レンゲの王とは、えらく大きくでたな。
宝貝《ぱおぺい》がなければ、そこいらのレンゲと何も変わらぬくせに」
助けが来たのか! という喜びより、螳弦は、またどうせ、ややこしいのが増えたのだろうと考えた。レンゲの王の次は何だ? タンポポの帝王《ていおう》か? それともスズメノエンドウの騎士《きし》だろうか?
黒髪《くろかみ》の若い男が、棍《こん》を担《かつ》いで、塀《へい》の上に器用《きよう》に立っていた。
「うわ、ちょっと高い、高いってば殷雷」
棍の先に釣《つ》られている、若い娘《むすめ》がジタバタしている。
レンゲの王は、塀の上に向かって吠《ほ》えた。
「貴様《きさま》、なに奴ぞ! 名乗れ、名乗れ!」
「レンゲに名乗る名前などない。
さあ、宝貝を返してもらおうか」
「お、落ちるってば殷雷」
螳弦は、ここぞとばかりに声を上げた。どうやら味方《みかた》のようだ。
「植木鉢の宝貝は、レンゲ男の腹の中です」
「ふむ。そうか」
殷雷は棍を振《ふ》り回し、和穂を螳弦の前に落とした。
「わ!」
だが、分厚《ぶあつ》いレンゲの層の為《ため》に、痛みは感じなかった。
棍を構《かま》えた青年は、塀の上から言葉を続けた。
「おとなしく宝貝を返しな。さもなくば、妙《いた》めて食っちまうぞ」
「食らう! 食らうと言ったか、貴様! 地上の覇者《はしゃ》たる我に対して、食らうとぬかしおったのかえ!」
棍を持たぬ左手で、アゴをさすりながら、殷雷は低い声で言った。もし、殷雷のアゴに不精髭《ぶしょうひげ》が生えていたら、ジョリジョリと音を立てたであろう。
「もっとも、春の七草《ななくさ》にも入っておらぬようでは、味はたかが知れとるだろうがな」
レンゲ男の体から、ギチギチと音がした。怒《いか》りの為に、体を構成する茎が、より強く締《し》まったのだ。
「たわけ、たわけ、たわけ。なんという屈辱《くつじょく》じゃ! よりによって、我をハコベラ以下だと、ほざくのか!」
レンゲの価値観は、人知の及《およ》ぶ範囲《はんい》ではなかった。
レンゲの怒りはさらに、増大する。
「貴様の躯《むくろ》を、我《わ》が糧《かて》としてくれる」
「俺の躯は、美味《うま》くないとおもうがな」
まさに一触即発《いっしょくそくはつ》の瞬間《しゅんかん》、螳弦は叫《さけ》ぶ。
「高いレンゲだったんで、出来れば無傷《むきず》で。……いや、せめて根っこだけでも」
ギロリと殷雷ににらまれ、螳弦はそそくさと和穂の側《そば》に歩み寄った。
レンゲ男と殷雷は、お互《たが》いの手の内を探《さぐ》る為にか、緊張感《きんちょうかん》を保《たも》ったまま全《まった》く動かなかった。
和穂は小声で螳弦に尋《たず》ねた。
「私は和穂、あの戦っているのは殷雷と申します。わけあって、宝貝を集める旅をしているんですが、えぇと……」
「螳弦です」
「あの、螳弦さん。宝貝は、あなたの持ち物だったんですか?」
「そうですそうです、質素《しっそ》でしたが、結構上等そうな植木鉢を拾って、レンゲを植えたらこのざまです。
もう、どうでもいいから、あのレンゲ男を倒《たお》して、植木鉢も持っていって下さい。
……でも出来れば、根っこは無事で。いえ人間の存亡《そんぼう》が第一ですが、せめて心の片隅《かたすみ》にでも、覚《おぼ》えていてもらえれば」
と、その時、殷雷が塀の上から飛んだ。
懐《ふところ》の狭《せま》い上着であったが、それでも羽ばたきを思わせるバサバサという音をまといながら、大上段から棍を振り下ろす。
棍は見事《みごと》にレンゲ男の脳天《のうてん》に炸裂《さくれつ》し、肩《かた》まで食い込む。
殷雷は素早《すばや》く棍を引き、相手の動きを観察した。
潰《つぶ》れた頭は、踏《ふ》まれた雑草《ざっそう》がすぐ元に戻《もど》るように、形を整《ととの》えた。
殷雷は深く息を吐《は》く。
「ま、そんなところだろうな」
「貴様がどれだけ強いのか知らぬが、中々やりづらいであろうぞえ。ほうっほうっほ。既《すで》に我の手の中にいるのだからな」
「まあな。だが、手の中にいるのが、蜂《はち》だったらどうする」
「……刺《さ》される前に握《にぎ》り潰せば、よいことよのう」
殷雷の背後の茎が盛り上がり、ムチのようなしなやかな一撃《いちげき》が走る。
だが、殷雷は振《ふ》り向きもせずに攻撃《こうげき》をかわした。
かわしながら、重心を恐《おそ》ろしく低く下げ、豹《ひょう》のように疾走《しっそう》する。
レンゲ男を守ろうと、地上から無数のクキが伸びるが、殷雷を捉《とら》えきれずに、彼の残像を虚《むな》しく掻《か》きむしるのみ。
走りながら、ジャキリと棍を構《かま》え、体重をのせたい重い一撃を、まるで槍《やり》を突《つ》き刺すように、殷雷は相手の腹に叩《たた》きこんだ。
だが、返るのは柔《やわ》らかい手応《てごた》えだった。
破壊力《はかいりょく》は、ほとんどが茎に吸収《きゅうしゅう》されてしまい、腹の中の宝貝を割るまでには、いたらない。
「惜《お》しいのう。槍だったら、勝てておったじゃろうに。棍では無理じゃ。お前に勝ち目はないぞえ」
殷雷は舌打ちしながら、棍を投げ捨てた。そしてレンゲ男の気迫《きはく》に押《お》されるように、ゆっくりと和穂たちの場所へ向かい、後退《こうたい》していく。
殷雷の狙《ねら》いが、和穂には判《わか》った。レンゲ男に悟《さと》られぬよう、和穂はゆっくりと前に進んでいった。
そして、その瞬間。
殷雷は後ろに跳《と》びすさりながら、爆《は》ぜた。人の体が薄《うす》れ、ゆっくりと爆風《ばくふう》の中から、冷たい光を放つ刀身《とうしん》が現れた。
和穂が前に跳《と》ぶ。
無数の茎が和穂に向かうが、一瞬《いっしゅん》、殷雷刀をつかむ和穂の方が速かった。
和穂に迫《せま》っていた茎は、神速で叩《たた》き切られた。
和穂が殷雷刀を操《あやつ》っているのではない。殷雷刀が和穂を操り、戦っているのだ。
和穂の眼光には、今、殷雷の眼光がやどっている。
刃を濡《ぬ》らす、緑色の草汁《くさじる》が、流れ落ちるように地面に滴《したた》り、ギラリと刀身が光った。
殷雷の正体を知り、愕然《がくぜん》としながらレンゲ男は、自分の体内から練樹鉢が切り離《はな》されたと知る。
和穂の左手に高々と上げられた練樹鉢はコトリという音をたて、真っ二つに割れた。
ポタポタと泥《どろ》と一緒に、レンゲの根も地面に落ちた。レンゲ男は解《ほど》けて倒れた。
和穂の声を使い、殷雷は言った。
「俺の正体がばれていたら、ちょいとばかしやばかったかもな」
殷雷刀を握《にぎ》る右手を見ながら、言葉が続いた。
「もし、右手に茎を絡《から》められたら、負けていた。そこそこ強かったぞ、レンゲよ。
お前に敬意《けいい》を表して、以後、レンゲは食わぬと誓《ちか》おう」
和穂は荒い息を吐いた。
練樹鉢《れんじゅばち》は真っ二つに割られたが、その中の根は無事だった。和穂《かずほ》は根っこを拾い、螳弦《とうげん》に投げ、それから、殷雷刀《いんらいとう》を空中に放《ほう》り投げた。
螳弦は、ホッと息をついた。
これで全《すべ》てが丸く収まる。
「いやあ、本当にありがとうございました。
根さえ無事ならば、またレンゲを育てられると思います。
……まさか、また、あんなレンゲ男になりませんよね」
パキパキと軽い炸裂音《さくれつおん》をたて、人の形に戻った殷雷は答えた。
「なってたまるか。練樹鉢さえなければ、それはただのレンゲだ」
「本当ですか。良かった良かった。彼女への贈《おく》り物《もの》が無事だったんでほっとしましたよ」
「彼女への贈り物?」
「そうです。花の好きな綺麗《きれい》な娘《むすめ》さんで」
「……やめといたほうがいいぞ」
「どうしてです? もう危険《きけん》じゃないんでしょ」
地面にあるレンゲを見つつ、和穂は少し沈《しず》んだ声で言った。
「殷雷、このレンゲは皆《みんな》枯《か》れちゃうの? 練樹鉢にあった根っこから、切り離されたんじゃ……」
殷雷は、一仕事終えた後の充実感《じゅうじつかん》を漂《ただよ》わせつつ、和穂に言った。
「見てみろ。茎が地面にへばりついてるだろう? それは独立した根っこだ。レンゲ男は、自由自在にレンゲを操った。
それこそ手足のように扱《あつか》ったが、それ以前にレンゲ自体を強化する必要があった。
そこで、このレンゲに、強靱《きょうじん》な生命力を与《あた》えたんだ。
雑草並みの強靱な生命力だ。
やっきになって枯らそうとしないかぎり、枯れはせんし、しぶとく繁殖《はんしょく》するはずだ」
和穂の顔はパッと明るくなり、それに逆行して螳弦の顔が暗くなる。
「……あの殷雷さん。それってもしかして」
「花の好きな綺麗な娘さんに、そこらへんの雑草を贈るというのも、粋《いき》かもしれんな。
どうなるかまで責任《せきにん》はとれんが」
レンゲの根を握りしめたまま、螳弦は真後ろにひっくり返った。
柔《やわ》らかだが、しなやかなレンゲたちは、螳弦の背中を力強く支えた。
殷雷が肩の関節《かんせつ》をグルグル回し、地面に落ちていた棍を拾《ひろ》った。
「ま、ちょいとした暇潰《ひまつぶ》しにはなったな」
そんな殷雷の姿を、和穂は腕《うで》を組みながらジッと見ていた。
「なんだ、和穂」
「いや、殷雷ってさ。いいレンゲ師《し》になれるんじゃない」
「レ、レンゲ師ね。お褒《ほ》めに与《あず》かり光栄《こうえい》でございますな」
「あれ? 妙《みょう》に素直《すなお》じゃない」
「はははは」
『練樹鉢』
植木鉢の宝貝。
本来は植物の進化を速めたり、植物自体を強化する機能《きのう》を持ち、植物実験を補佐《ほさ》する為《ため》の宝貝。
欠陥は、進化促成《しんかそくせい》機能の副作用か、植えた植物が自分の意思を持つのである。
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バラの酔っぱらい、ふたたび
黒い水の世界だった。人の世の、天と地の間に無限《むげん》の気が満ちているように、その世界には黒い水があった。
黒い水の世界で偽祝《ぎしゅく》は呻《うめ》いた。
だんだんと体が裂《さ》けていく。
以前まで自分の肉体であったものが、今は不快で仕方《しかた》がない。
卵《たまご》から雛《ひな》が孵《かえ》るように、偽祝は自分の体を自分の力で裂いていた。
体が裂けるたびに、世界が広がるようだった。
どこまでが、自分の体なのだろう。
かなり遠い所までだ。
遠い遠い世界、偽祝は黒い水の中で呻いていた。
苔《こけ》をまとった山肌《やまはだ》から、たった今|染《し》み出した清水《しみず》たちは、谷へ流れ出、そして渓流《けいりゅう》になった。
このまま流れ続ければ、やがて緩《ゆる》やかな川になり、海へと注《そそ》ぎ込むのだろうが、生まれたばかりの流れは、無数の岩とぶつかり、荒々《あらあら》しくも涼《すず》しげな音をたてていた。
深い深い山だった。そびえ立つ無数の木は日の光を優《やさ》しく遮《さえぎ》っている。あるのは、木と苔と水の匂《にお》いだ。差し込む光は、日の匂いを伝えるほどに強くない。
渓流のほとりの大岩に、一人の老人が座《すわ》っていた。
起きているのかどうかも、さだかではない細い目をして、渓流に釣《つ》り糸を垂《た》れている。
まるで、山奥《やまおく》に居《きょ》を構《かま》える仙人《せんにん》のように見えたが、彼は仙人ではない。
ついこのあいだまで、仙人であった娘《むすめ》より余程《よほど》仙人らしかったが、彼は仙人ではなかった。
「あの、斉願《さいがん》さんですね?」
和穂《かずほ》は石の上の老人に声を掛《か》けた。和穂たちに背を向け、斉願と呼ばれた老人は釣り糸を垂らしたまま、振《ふ》り向こうともしない。
水面を見つめたまま、静かに、ほどよく枯《か》れてはいるが、どっしりとした低い声で、斉願は答えた。
「誰《だれ》じゃ?」
「はじめまして、私は和穂。こっちにいるのは殷雷《いんらい》です」
斉願はやはり、振り向かなかった。
殷雷の右手には、竹串《たけぐし》を刺《さ》した焼き魚が握《にぎ》られていた。塩がたっぷりとまぶされ、焼きたての湯気《ゆげ》がまだ立ち昇《のぼ》っている。
殷雷は魚の腹《はら》に食らいつき、言った。
「どうでもいいが、こっち向けよ爺《じい》さん」
とぼけた表情で殷雷は魚を食らい続けた。程よい苦《にが》みが美味《うま》かったが、だんだんと味わう余裕《よゆう》はなくなってきた。
老人の、どっしりと落ち着いた態度《たいど》は、自分の持つ宝貝《ぱおぺい》に自信のあるあらわれだろう。
さて、どんな宝貝を使いやがる?
斉願はゆっくり振り向いた。
皺《しわ》だらけの斉願の顔の中に、無数の古傷《ふるきず》があった。
一際《ひときわ》大きな傷が、右の頬《ほお》に刻《きぎ》み込まれている。
頬の傷は綺麗《きれい》だった。
まるで、計算ずくの入《い》れ墨《ずみ》のように、三本の真《ま》っ直《す》ぐな傷が頬を走っている。
斉願の顎《あご》の右に火傷《やけど》のような丸い傷があるのに、和穂は気がついた。
そして、和穂はぞくりとした。
一目《ひとめ》見た時は、余程《よほど》鋭《するど》い刃物《はもの》でつけられた傷だと思ったが、そうではないのだ。本当は顔の傷は、獣《けもの》につけられたのだと、気がついたからだ。
親指をがっしりと顎に食い込ませ、それ以外の三本の指が、類の肉をむしりとるように爪《つめ》を立てたのだ。
和穂の視線を感じ老人は頬の傷をなでた。
「傷か?」
「はい。失礼かもしれませんが、どうしてそんな傷が?」
和穂は不思議《ふしぎ》だった。あれだけ大きな傷をつけられたなら、顔の肉はほとんどむしりとられているだろう。
それが、傷だけですんでいるとは、爪が恐《おそ》ろしく鋭利《えいり》だったのだ。どんな獣ならば、そんなに爪が鋭いのだろう?
不思議がる和穂の横で、自分の手の内を探《さぐ》ろうとする、殷雷の表情を楽しみながら、斉願は言った。
「お前の知った事か。
わしの名を斉願と知っておるとは、川漁師《かわりょうし》の雇《やと》った刺客《しかく》か?」
魚を平らげた殷雷は、竹串を投げ捨て、棍《こん》を構えた。
「誰が刺客だ。別に雇われているわけじゃないぜ。
ここいらで、怪《あや》しい奴《やつ》がいないか漁師の溜《た》まり場で話を聞いただけだ。連中は間髪《かんはつ》入れずにお前の名前を教えてくれたぜ」
「ぼんくら漁師どもめ。己《おのれ》の技量《ぎりょう》のなさを棚《たな》に上げて、岩魚《いわな》の数が減《へ》ったのを、わしのせいにしておるな」
殷雷は棍をくるりと回した。
「釣り人と漁師の争いなんかに、興味《きょうみ》はないぞ。
ま、今のところは、焼き魚をおごってもらったから漁師に味方《みかた》したい気分だがな」
斉願は、再び背を向け釣り糸へと目を落とす。
「魚の一|匹《ぴき》で、取り入る相手を間違《まちが》うとは愚《おろ》か者め。怪我《けが》をしたくなければ、さっさと立ち去れい。
こう見えても、『優《やさ》しいおじいちゃん』という歳《とし》の食い方はしてないんでな」
「け。言われなくても、その面《つら》を見りゃ判《わか》るぜ」
斉願は、釣《つ》り竿《ざお》をしゃくり、釣針《つりばり》を川の中のあちらこちらへと動かす。
「わし、強いぞ。女でも殴《なぐ》るぞ」
斉願に言われるまでもなく、殷雷は老人の強さを分析《ぶんせき》していた。
言葉に嘘《うそ》はない。
屈強《くっきょう》な漁師たちを相手に、そこそこやりあっているのだ。ただの爺様ではない。
「和穂を殴る前に、俺を倒《たお》して欲《ほ》しいもんだな」
「お前は、わしより強い」
殷雷の口許《くちもと》がニヤリと歪《ゆが》む。
「素直《すなお》でいいねえ」
「本気を出して戦っても、この老いぼれが倒されるのは時間の問題だな」
言葉とは裏腹に、斉願は背を向けたままだった。自分より格上の敵と対峙《たいじ》している緊張感《きんちょうかん》は全《まった》くなかった。
「判っているなら抵抗《ていこう》するなよ」
斉願の釣り竿がピクリと動いた。
竿の先端《せんたん》が軽く軋《きし》むと、斉願は軽く魚を釣り上げた。
水しぶきを上げつつ宙を舞《ま》った魚は、簡単《かんたん》に釣針から離《はな》れ、そのまま和穂の腕《うで》の中に落ちた。
「わ!」
腕の中でピチビチとはねる魚に、和穂は慌《あわ》てる。
落とさないよう、必死《ひっし》に魚を抱《かか》えて和穂は走り回った。
斉願は振り向き、そんな和穂に孫《まご》でも見つめるような柔《やわ》らかな視線を送る。
「その魚をくれてやるから、わしに関《かか》わり合いを持つのはやめろ。
これでも、『平穏《へいおん》な余生《よせい》を釣りに勤《いそ》しむ呑気《のんき》な爺様』って姿に憧《あこが》れんわけでもないんじゃから。
岩魚より、そっちの魚の方が珍《めずら》しかろう」
「きゃ、きゃ、でも、わ! そういう訳《わけ》にはいかな、わ! いんで」
殷雷は、和穂の持つ魚を見て、老人の持つ宝貝は釣り竿だと確信した。
和穂は、鋼《はがね》で出来たように照《て》り輝《かがや》く、脂《あぶら》ののった鰹《かつお》を抱《かか》えている。
斉願は、渓流から鰹を釣り上げたのだ。
殷雷は臨戦態勢《りんせんたいせい》に入った。
「釣り竿の宝貝か? こんな山奥で海の魚を釣り上げるとは、龍華《りゅうか》にしちゃあ、気の利《き》いた宝貝を造《つく》ったもんだ」
殷雷の言葉を聞き、老人の目も鋭さを増した。
「宝貝? 貴様《きさま》、この釣り竿が宝貝と知っているのか? さては、刺客ではないのか」
「さっきから、刺客じゃないと言っているだろうが!」
「油断《ゆだん》しておった。
この鱗帝竿《りんていかん》の、圧倒《あっとう》的な能力を狙《ねら》っておったとは!」
鰹と踊《おど》りながら、和穂は尋《たず》ねた。
「圧倒的な能力?」
釣り糸をたぐりよせ、斉願は誇《ほこ》らしげに語り始めた。今までの、じっくりと噛《か》み締《し》めるような口調《くちょう》から、急に軽《かろ》やかな口調になっていく。
「まさに、夢のような釣り竿だ。
真鮒《まぶな》竿から、長尺《ながしゃく》の鮎《あゆ》竿まで自在に長さを変え」
老人の手の中で、鱗帝竿は言葉通りに長さが変わっていった。
「さらに道糸《みちいと》の太さも、これまた自在」
斉願は和穂に鱗帝竿の、素晴《すば》らしさを見せつけるつもりのようだった。
竿の長さが変わったのは判《わか》ったが、糸の太さの変化は和穂の目ではよく判らなかった。
さらに、己の刀剣《とうけん》を自慢《じまん》する武人《ぶじん》のような口調で言葉が続く。
「釣針のカエシの有無《うむ》は言うに及《およ》ばず、芸の細かいのは、外掛《そとが》け、徳利《とっくり》結びまで望みのままなのだぞ!」
だんだん、和穂にはわけが判らなくなってきた。具体的《ぐたいてき》な凄《すご》さが全然《ぜんぜん》判らないのだ。
和穂に判ったのは、斉願は釣りの話になると途端《とたん》に、ペラペラと喋《しゃべ》りまくる事だけだった。
少々おとなしくなった鰹を小脇《こわき》に抱えて、和穂は言った。
「あの、それって凄《すご》いんですか?」
斉願の口許《くちもと》が引きつる。
「くは! ええい、貴様などには判らん。この宝貝がどれだけ素晴らしいのか!
浮《う》き代わりの目印ですら、羽から山吹《やまぶき》の茎《くき》まで思いのままに作り上げるのだぞ!」
「えぇと。もしかして、釣り糸や針も宝貝なんですか?」
和穂には、いや釣り人以外には理解出来ないのを覚悟《かくご》の上で、老人の言葉に力が入っていった。
「違う。竿《さお》の穂先《ほさき》が変化して、糸や、自在の仕掛《しか》けになるのだ! 餌《えさ》まで作り上げるんじゃぞ。ミミズ、カワゲラは言うに及《およ》ばず、茄《ゆ》で麺《めん》から……」
和穂は本格的に斉願の説明に、ついていけなくなった。
本人は、ついに結論を述べる。
「一番凄いのは、わしの望んだ魚を自在に釣り上げる事だ。
渓流から鯛《たい》を釣り上げるのも可能ならば、水溜《みずた》まりから鯉《こい》を釣り上げる事すら不可能ではない。
どうだ、凄いだろ?
これの凄さは、ド素人《しろうと》のお嬢《じょう》ちゃんでも判るだろうが」
和穂はコクリとうなずいた。
「はい」
「だから、こんな凄い宝貝を手放すつもりはない」
うなずいた首を少し傾《かし》げて和穂は言った。
「凄い宝貝ですけど、自分の望んだままに魚が釣れるんじゃ、面白《おもしろ》くないんじゃないですか?
魚を釣る為《ため》の仕掛けを、わざわざ器用《きよう》に変えなくても、宝貝なんだし、糸を垂らすだけでも釣れるんでしょ?」
老人はグビリと息を飲み込んだ。
「……お嬢ちゃん、言うてはならん事を言うてしまったな。
そういうのは、釣り師《し》に向かって、『網《あみ》を使った方が効率《こうりつ》がいいんじゃないの?』
と、言うぐらい愚劣《ぐれつ》な言葉だぞ!
わしの逆鱗《げきりん》に触《ふ》れたからには、ちょいと痛い目にあってもらおうかの、お嬢ちゃん。いや、この小娘め!」
殷雷が痺《しび》れを切らして、口を開いた。
「いいからとっとと、宝貝を返せ。
さっさと回収して、日のあるうちに山を降《お》りたいんだからよ。
武器の宝貝ならともかく、そんな釣り竿を使っても俺《おれ》にはかなわんぞ」
老人は、ゆらりと立ち上がった。
靴《くつ》が少しずれたのか、大岩にトントンと爪先《つまさき》を叩《たた》きつける。
そして、足を代えてもう一度、トントンと靴を足に馴染《なじ》ませる。
「さあこい若造《わかぞう》。ぶん殴ってやるぞ」
殷雷は駆《か》けた。
弾《はじ》けるように地面を蹴《け》って、上体を低く低く落としながら斉願を目指《めざ》す。
目まぐるしく揺《ゆ》れる肉体の中で、殷雷の目は獲物《えもの》を狙《ねら》う鷹《たか》のように、斉願を捉《とら》えたままだった。
殷雪は大岩目掛けて飛び上がり、老人も岩を蹴った。
宙を舞《ま》う斉願の右足は、ムチのようにしなり、殷雷の顔面に放《はな》たれた。
一瞬《いっしゅん》の間《ま》。
殷雷は当たる寸前《すんぜん》の蹴りを、右手の掌《てのひら》で受けた。
だが、斉願は蹴り足を握《にぎ》られる前に、素早《すばや》く蹴り戻《もど》す。
殷雷の右手には斉願の靴が握られていた。殷雷の口が大きく笑《え》みを浮かべると、刀《かたな》の宝貝の頬から、一筋《ひとすじ》の鮮血《せんけつ》が流れた。
「やってくれるじゃねえか、斉願よ」
殷雷は、握りしめた靴を岩の上に叩《たた》きつけた。
布と皮で作られているはずの靴は、岩に当たり金属音を響《ひび》かせる。
靴の爪先からは、鋭《するど》い刃が伸《の》びていた。靴に刃物が仕込《しこ》んであったのだ。
背筋《せすじ》をしゃんと伸ばし、曲げた右膝《みぎひざ》を胸に付くぐらいに上げ、斉願は答えた。先刻の噛《か》み締《し》めるような口調に戻っていた。
「自分の方が格上だと判っていたら、もう少し油断《ゆだん》するもんだぞ。
掌を潰《つぶ》してやるつもりだったが、指の間で刃を挟《はさ》みおったか。
そっちは棍を持ってる。暗器《あんき》(隠《かく》し武器)ぐらいで文句《もんく》をいうなよ」
「別に文句を言う気はないが、その含《ふく》み針はやめておけ。
俺には通用せんし、間違えて飲むと厄介《やっかい》だぞ」
答える代わりに、斉願は口の中の針を吐《は》き出した。指の先程の鋭い針が地面に刺《さ》さる。
老人の動きに気を配りながら、殷雷は鱗帝竿にも注意を払《はら》っていた。
もし、釣り糸を首に巻き付けられても、すぐに引きちぎれるだろう。
厄介なのは、釣針で目を狙われる事だがかわす自信は充分《じゅうぶん》にあった。
「それにしても、物騒《ぶっそう》な爺様だな。普段《ふだん》からそんな暗器を持ち歩いているのか?」
「非力《ひりき》なおいぼれの、みだしなみだ。漁師相手には使わなんだがな」
意外と強い斉願に、和穂は生唾《なまつば》を飲み込みながら鰹を抱き締めた。
年老いた、武芸の達人《たつじん》という人物もいるだろう。
肉体は衰《おとろ》えても、研《と》ぎ澄《す》まされた技《わざ》で相手に打ち勝つ強者《つわもの》だ。しかし、斉願はそういう雰囲気《ふんいき》ではなかった。
老人でありながら、相手を力でねじふせようとする気迫《きはく》に満ちている。
殷雷は再び駆けた。
斉願は、殷雷の身のこなしの速さを先刻の攻撃《こうげき》で理解したつもりになっているだろう。
だが、それは殷雷の罠《わな》だった。
斉願に迫《せま》り、殷雷は最前の攻撃の倍に匹敵《ひってき》する速さで、棍を繰《く》り出した。
予想を超《こ》える速さに、老人の防御《ぼうぎょ》は全《まった》く間に合わない。
棍を打ち払おうとする掌《てのひら》を、嘲笑《あざわら》うかのように、銀色に光る棍は老人の腹を突《つ》いた。
棍は老人の服を突き破り、不自然《ふしぜん》な金属の感触《かんしょく》を殷雷に伝えた。
殷雷は棍による第二波を、急速《きゅうきょ》取り止《や》めて背後に飛びすさった。
服の破れ目からは、編み込んだ金属の鎧《よろい》が見て取れた。
『なんでこいつは、完全武装で釣りなんかしてやがる!』
殷雷の叫《さけ》びが、言葉になる前に斉願は懐《ふところ》に手をやり、三つの物を殷雷に向かい投げた。
そのうち二つは小刀だった。
作業用に使う小刀を投げたのではない。投げやすいように、重心が調整された武器としての小刀だ。
そして、もう一つは小さな竹《たけ》の筒《つつ》だ。
宙を走る、二本の小刀と一つの竹筒は、飛びすさる殷雷を、正確に目指《めざ》した。
殷雷は棍を旋回《せんかい》させ、小刀二本を叩《たた》き落とした。
小刀から少し遅《おく》れて竹筒が迫《せま》る。
どうせ、目潰《めつぶ》しだろうと殷雷は考え、殷雷は竹筒も叩き落とそうとした。
目潰しならば、顔の間近で破壊《はかい》しなければ別に問題はない。伸ばした棍の先端《せんたん》で落とせばいいのだ。
棍を繰り出しつつ、殷雷は自分のうなじが逆立《さかだ》つのを感じた。
『本当に目潰しか?』
斉願が目潰しなどという搦手《からめて》に頼《たよ》るのが、どうも納得《なっとく》出来なかった。
殷雷はとっさに棍を引き、代わりに竹筒に手を伸ばした。
宙を切る竹筒を、まるで小鳥を握るかのように、殷雷の手は柔《やわ》らかく包み、そのまま竹筒を渓流の中へと放り投げる。
殷雷に叩き落とされた小刀は、クルクルと回り、柔らかい草むらに突き刺さった。
竹筒もゆっくりと回りながら、キラキラと光る水面に触《ふ》れた。
その瞬間、竹筒は割れ、閃光《せんこう》と爆風《ばくふう》が広がる。
さすがの斉願も舌打《したう》ちをする。
「優勢《ゆうせい》なんだから少しは油断しろ。付け入る除《すき》がないではないか」
爆発に巻き込まれた水が周囲に飛び散り、にわか雨のように降《ふ》り注《そそ》いだ。
「爆薬《ばくやく》だと! たまらん爺様だ! 暗器に爆薬か?」
斉願は右手に釣り竿を持ち直した。
「悪いが、死んでもらうぞ。人殺しは趣味《しゅみ》ではないが、脅《おど》かして逃げてくれるような若造じゃないしな!」
斉願は右手の鱗帝竿を振り回した。
ヒュンと風を切る音を立てて、爆発のせいで未《いま》だ白く泡立《あわだ》つ渓流の中に、釣り糸が沈《しず》む。
殷雷には、斉願の狙いが判らなかった。
「どうした斉願! 鯨《くじら》でも釣るつもりか」
「たわけ。鯨は魚ではないわい!」
斉願は鱗帝竿を引き上げた。
大きくしなり、ギシギシと音を立てる竿。まるで鋼《はがね》のように硬《かた》くなる釣り糸。
一瞬、渓流に黒く巨大な影が浮かぶ。
そして、次の瞬間、斉願は一匹の巨大な魚を釣り上げた。
「名前は眼破《がんぱ》とつけた。
最初はあまり可愛《かわい》くなかったが、猪《いのしし》や鹿《しか》を餌《えさ》にやってるうちに懐《なつ》きおってな。
わしの言うこともよく聞くぞ。結構《けっこう》頭もよくてな。
ただ、どういう種類の魚かは聞かんでくれよ。異界の魚なんだからな」
眼破の口から、釣針が吐《は》き出された。
眼破は宙を泳いでいた。
ドロドロに溶けた鉄のような、赤く巨大な魚だった。
口の大きさだけで、充分斉願の身長分はある。
それが、魚であるのは誰の目にも明らかであった。だが、何という魚であるかは誰にも説明出来ない。
魚にしては少し動物じみている。
大きくしなやかな、胸《むな》ビレ、尾ビレ、背ビレがあった。
胴体の感じはどことなく鰐《わに》を思わせる。鰐皮を素材に作った、魚の模型《もけい》のようだ。
鯛《たい》のような、平たい形ではない。鰹《かつお》のような流線型でもない。胴体の形だけを見れば鮎《あゆ》に似ている。
鎧《よろい》のような鱗《うろこ》が、全身を覆《おお》っていた。
肉食であるのか、下顎《したあご》が大きく発達していた。口許《くちもと》からギザギザの歯が見て取れる。
一番、普通の魚と違うのは、目であるかもしれない。
少しとぼけた感じのする、魚独特の丸い目ではなかった。
その目こそが、眼破に動物じみた雰囲気《ふんいき》を与えていた。眼破には瞼《まぶた》があったのだ。
瞼の隙間《すきま》から、青白い眼光が見て取れた。
ユラユラと眼破は、斉願の頭上を旋回《せんかい》している。
動きを変えるたびに、長く伸びたヒレが熱線のような光を放つ。
普段は滅多《めった》に呆気《あっけ》にとられない殷雷が、さすがに宙を泳ぐ、異形の魚を見て愕然《がくぜん》とした。
その隙を斉願は見逃《みのが》さなかった。
「行け! 眼破!」
斉願の号令《ごうれい》と共に、巨大な魚は殷雷に飛び掛かった。
まさに釣《つ》り餌《え》に魚が食いつくがごとく、巨大な口が殷雷を捉《とら》える。
轟音《ごうおん》と共に眼破が通り過ぎた後には、えぐれた地面が残っているだけだった。
「殷雷!」
和穂は叫ぶ。彼女の心配をよそに、返事はすぐに戻った。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。この世にあらざる異界《いかい》の魚か。まあ、これぐらいの芸当ができなきゃ、宝貝のありがたみはねえよな」
殷雷に食らいつき、再び宙を泳いでいた眼破の顔が、和穂の目に映《うつ》った。殷雷は眼破の口の中にいた。
殷雷は銀色の棍を、つっかえ棒《ぼう》代わりに、眼破の口に立て掛けていたのだ。
眼破は、棍ごと噛《か》み砕《くだ》こうと悪戦苦闘《あくせんくとう》していたが、そう簡単に真鋼《しんこう》の棍は折れたりはしない。
斉願の口許が歪む。
「でも、貴様の負けだ。勝負はあったぞ」
斉願の手の鱗帝竿がしなり、釣り糸が棍に巻きついた。そして、老人は棍を引き抜く。
宙を舞い、投げ捨てられた棍は渓流沿いの岩にぶつかり、高く澄《す》んだ鉄琴《てっきん》のような音を立てた。
釣り糸は、スルスルと短くなり斉願の手に戻る。
邪魔物《じゃまもの》が無くなった眼破は一気に、口を閉じようとした。
「げ!」
慌《あわ》てながらも、殷雷は牙《きば》を両手に掴《つか》み、しっかりと両足を踏《ふ》ん張《ば》った。
ギリギリと引き絞《しぼ》られる、眼破の顎《あご》。
殷雷も力任《ちからまか》せに抵抗《ていこう》するが、ゆっくりと口が閉じられていく。
殷雷の全身から汗が流れ、眼破に負けないような歯を食《く》い縛《しば》る音が周囲に広がる。
「ぐお!」
こめかみの血管が脹《ふく》らみ、束《たば》ねられている長髪《ちょうはつ》が解《ほど》けた。
だが、殷雷の力にもついに限界が来た。
眼破の口は、鉄の扉《とびら》を叩《たた》きしめる音をたてて閉じられた。
「殷雷!」
今度の和穂の叫びには、返事は戻らなかった。
巨大な魚は、モグモグと顎を動かして続けている。
斉願は静かに言った。
「若い者は引き時を知らぬから、いかん。
お嬢ちゃんよ。髪《かみ》の長い兄ちゃんが死んで、わしを恨《うら》みに思うだろうな」
和穂は言い返す。
「殷雷は、死んじゃいません!」
眼破はまだ、モグモグとやっている。
「気持ちが判るが、死んだものは仕方《しかた》があるまいて」
「死んでませんてば」
知り合いの死をかたくなに認めたくない表情とは少し違《ちが》うと、斉願は考えた。
和穂の表情は、心配しているが、絶望《ぜつぼう》はしていない。
牛一頭を、噛み砕ける時間が経《た》っても、眼破はモグモグとやっている。
「お嬢ちゃん。だいたい、わしが宝貝を持っているのを覚悟《かくご》の上で、あんな棍一本だけで戦いを挑《いど》むのが無謀《むぼう》なのだよ」
そう。無謀だ。なぜこの小娘と今の男はそんな無謀な戦いを仕掛けたのだろう?
眼破はさらにモグモグしているが、心なしか表情に困《こま》ったものが浮かび出している。
「いっそ一思いに、あいつの後を追わせてやろうか?」
「殺される気はありません!」
「でもな、お嬢ちゃん」
眼破が歯と歯をこすりつける音が、だんだんと耳障《みみざわ》りになってきた。
「眼破?」
眼破の口から、黒く細長い物が見えた。
それが、刀《かたな》の鞘《さや》だと知った時、斉願は全《すべ》てを承知《しょうち》した。
「あの男、刀の宝貝だったのか!」
とうとう噛《か》み砕くのをあきらめたのか、眼破は口の中の刀を吐き出そうとした。
すかさず、斉願は命令を出す。
「眼破、吐き出すな! そのまま飲み込んで、腹の中にしまっておけ! わしの命令がない限り、吐き出すんじゃないぞ!」
半《なか》ば激怒《げきど》にも似た笑顔《えがお》で、斉願は和穂の胸ぐらを掴んだ。
「これで、手詰《てづ》まりだな。わしも無益な殺生《せっしょう》は嫌《きら》いでな。
二度とわしの前にあらわれんと約束するなら、あの刀は返してやろう。鱗帝竿をあきらめて、どこへも、立ち去れ」
「嫌《いや》です!」
もしも、斉願の言うことをきいて、殷雷を助けたところで刀の宝貝は喜ばないだろう。
和穂は首を縦にふれなかった。
拍子抜《ひょうしぬ》けした表情で、斉願は和穂の目を見つめる。
「馬鹿|正直《しょうじき》な娘だな。
ここは、承諾《しょうだく》したふりをしてあの刀を取り戻すのが、最善手じゃのに。
まあいい。ならば、この斉願を倒《たお》して、鱗帝竿を取り戻してみろ」
首を締め上げられながらも、和穂は首を縦に振った。斉願はニッコリと笑った。
「ではまた会おう。ここで素直に逃がしてやりゃ、結構優しい爺様なんだろうが、やはり、わしには無理だな」
胸ぐらをつかんだまま、斉願は和穂を渓流に投げ飛ばした。
「きゃ!」
和穂は宙を舞い、そのまま激流の中に身を落とす。
水面に叩きつけられる衝撃《しょうげき》と、身を切られるような水温の低さが和穂を襲《おそ》う。
どうにか立ち上がろうとするが、渓流の流れは和穂をどんどんと流していく。
息を吸おうともがいても、顔はなかなか水面へと出ない。
気管に詰まった水は、煮《に》え湯のように熱く感じられる。
息苦しさに気を失いそうになりながらも、和穂は一つの事を思い出した。
斉願の姿を求めて、和穂と殷雷は渓流の下流から昇《のぼ》ってきたのだ。
その道すがら、大きな滝《たき》を見た。
あんな高い滝から滝|壷《つぼ》に落ちれば……和穂がそこまで考えたとき、渓流は滝となり、和穂は落ちていた。
「び、びえっくしゅん! し、死ぬかと思った」
「普通《ふつう》、死ぬわよ」
滝壷の横の川原で、赤々《あかあか》と焚《た》き火《び》の炎《ほのお》が燃《も》えている。
焚き火の前では和穂《かずほ》が、断縁獄《だんえんごく》から取り出した、馬でも包み込めそうな大きな毛布《もうふ》にくるまって、暖《だん》をとっている。
焚き火には串刺《くしざ》しにされた鰹《かつお》と一緒《いっしょ》に、和穂の道服《どうふく》がかけられていた。
余程《よほど》川の水が冷たかったのか、毛布の上からでも和穂の震《ふる》えが見て取れた。
「ぶえっくしゅ!」
「あぁもう、みっともないくしゃみをする娘《むすめ》だね。
まあ、春っていっても、まだ山の水は冷たいから仕方《しかた》ないけどさ。
それより、さっさと髪《かみ》の毛を乾《かわ》かしなよ。毛布を燃やなさいように、気をつけてね」
「う[#底本では「う゛」]、う[#底本では「う゛」]。ありがとう九鷲《きゅうしゅう》」
焚き火を挟《はさ》んだ和穂の正面には、九鷲が座《すわ》っていた。どことなく儚《はかな》げで、病的な美しさを持った娘だ。だが、活気に満ちた瞳《ひとみ》が、その体の中の生命力を物語っていた。
人肌《ひとはだ》のぬくもりを持つ氷のような、不思議な雰囲気が九鷲にはあった。
鰹の片面がだいぶ焼けたのを確認して、逆側を炎に向ける。
そして、掌《てのひら》の上に、和穂の赤い飾《かざ》り布を乗せて、パンパンと叩《たた》き水気《みずけ》を飛ばした。
九鷲の横には、薪《たきぎ》が集められていて、炎が弱まると、まめに継《つ》ぎ足《た》していく。
薪の横には、銀色に輝《かがや》く棍《こん》があった。
「さっき、薪を集める時に、滝《たき》の上を少し調べたけど、この棍しかなかったよ。
完全武装して釣《つ》りをやってた、その物騒《ぶっそう》な爺様《じいさま》もいなけりゃ、冗談《じょうだん》みたいな、化《ば》け物の魚もいなかった」
少し間を起き、言葉を繋《つな》げる。
「殷雷《いんらい》もいなかったけどさ」
鼻水をすすり、少し潤《うる》んだ目で和穂は九鷲にたずねた。
「殷雷、大丈夫《だいじょうぶ》だよね?」
「ま、大丈夫でしょ。武器の宝貝《ぱおぺい》はそう簡単《かんたん》につぶれやしないから」
「自分の力で、殷雷は脱出《だっしゅつ》出来るかしら?」
「無理《むり》なんじゃない? 脱出出来るなら、さっさと魚の腹の中で暴《あば》れてるでしょ。
自分の力じゃ、魚はビクともしないから刀《かたな》の形態《けいたい》で待機《たいき》してるのよ。
人の姿なら、消化されちゃうし」
やはりどうしても、あの物騒な爺様から鱗帝竿《りんていかん》を取り戻《もど》すしかないのだ。
棍で焚き火をつつき、風の流れをよくして九鷲は言った。
「さあ、和穂と殷雷は物騒な爺さんから、宝貝を取り返そうとした。
が、刀の宝貝は、爺さんの宝貝で呼び出された化け物魚に食われてしまった。
ここまではいいわよ。で、どうして私が呼び出されたわけ? そりゃ、私は徳利《とっくり》の宝貝なのに、少しは戦えるわよ。
でもこれって、もともと、たちの悪い酔《よ》っぱらいをあしらう為《ため》に付けられた能力なんだからね」
「うん。九鷲|酒《しゅ》を斉願《さいがん》に呑《の》ませて、宿酔《ふつかよい》で七転八倒《しちてんばっとう》してる隙《すき》に鱗帝竿を取り戻そうと思うの」
九鷲はニコニコと笑っていた。でも笑い声はたてていない。
笑っているにしては、笑顔《えがお》の口許《くちもと》が少し引きつっている。
ギリギリという歯ぎしりの音は、何の音だろうかと、和穂は考えた。
歯ぎしりの主《あるじ》は九鷲だ。
和穂も釣《つ》られて笑う。
「ははは。前にも冗談《じょうだん》言って、殷雷に怒《おこ》られて、頭|殴《なぐ》られちゃった事があるの」
「……悲劇《ひげき》は繰《く》り返《かえ》されるってわけね」
九鷲の手刀《しゅとう》が一閃《いっせん》し、和穂の眉間《みけん》に炸裂《さくれつ》する。
「……ごめんなさい。私が軽率《けいそつ》でした」
熱でも計《はか》るように、和穂は額《ひたい》に手を当て、うずくまっていた。
九鷲は焚き火の中に薪をくべた。
「判《わか》ればよろしい。今度、九鷲酒を毒扱《どくあつか》いしたら簀巻《すま》きにして川の中に放《ほう》り込むからね」
「本当はね、殷雷が本当に大丈夫かどうか、他の宝貝に、念を押《お》して欲《ほ》しかったの」
「言われてみりゃ、断縁獄の中にあんたが気軽に相談出来そうな宝貝は、私ぐらいしかいないわよね。そりゃそうと、和穂」
「なに?」
九鷲は棍で滝を示した。
「どうやって、滝から落ちて助かった?」
血の巡《めぐ》りのよくなった手で、頬《ほお》を温《あたた》め和穂は答えた。
「断縁獄を使ったんだよ。川の水を吸い込んで、すぐに吐き出して、反動で取り敢《あ》えず滝から空中に飛び出した。
でね、滝壷に叩《たた》きつけられる前に、もう一度水を吐き出して、速度を落として爪先《つまさき》から飛び込んだわけ。
あと、川底の岩に、ぶつかりそうになったから、その岩も大分《だいぶ》断縁獄に吸い込んだ」
なるほどと、九鷲はうなずく。
「咄嗟《とっさ》に、よく思いついたもんだ」
焼かれた鰹の香《こう》ばしい匂《にお》いが、だんだんと強くなった。
木の枝をつかみ九鷲は和穂に鰹を渡《わた》した。
「食べな」
「あんまり、おなかすいてない」
「でも、食べるの。
殷雷が心配で食欲がないのは判るけど、ちゃんと食べなきゃ、いざって時に困るよ」
「うん。判《わか》った」
手渡された鰹に、和穂は歯を立てた。やはり、半《なか》ば無理に食べているので、喉《のど》につかえて苦しそうだった。
そういう性分《しょうぶん》なのか、ついつい九鷲は世話《せわ》を焼きたくなる。
「食べにくそうね。そうだ、何か飲む物がいる? 九鷲酒なら、焼き魚にもあうわよ」
慌てて和穂は腰《こし》の断縁獄を外《はず》す。
「大丈夫、大丈夫。飲み水は断縁獄の中に沢山《たくさん》入ってるから」
「……その慌てようが、ちょっとむかつくわね。やっぱり簀巻きにしてやろうか」
「ごめんなさい。でも、あの宿酔だけは、勘弁《かんべん》して欲しいの」
肩《かた》を少し落とし、溜《た》め息《いき》をつきながら九鷲は言った。
「別にいいわよ。
で、これからどうするの? 私はその、やばい爺様《じいさま》と戦うのは嫌《いや》だからね。
これでも徳利《とっくり》の宝貝《ぱおぺい》なんだから、武器代わりに使われるのは御免《ごめん》だ」
和穂は沈《しず》んだ声を出す。
「どうにか、頑張《がんば》ってみる」
少し、イライラしながら九鷲は和穂の言葉に食らいつく。
「だから、どうにかって、どうするの? 勝算はあるの? 策《さく》の一つでもあるの?」
「正直《しょうじき》言ってない。
御免《ごめん》ね、九鷲。九鷲酒を毒みたいに言っちゃって。
殷雷が本当に大丈夫だって判って、少しは安心した。そろそろ、断縁獄に戻る?」
「一度|捕《つか》まったんだから、今更《いまさら》断縁獄に入るのを嫌がったりするわけじゃないけど、まだ戻らない。
和穂の次の一手が知りたい」
「もう一度、説得《せっとく》して、それでも駄目《だめ》なら、力ずくにでも」
道服はだいぶ乾《かわ》いたようだ。九鷲は道服を外し、綺麗《きれい》に折り畳《たた》んだ。
和穂の声がだいぶ鼻声になっている。
風邪《かぜ》でもひいたかと、九鷲は考えた。
「言うことだけは立派《りっぱ》だね」
言うことだけが立派で、行動が伴《ともな》わないなら、九鷲は和穂の事をさほど気にも留めなかったかもしれない。
だが、和穂は言葉通りに斉願に戦いを挑《いど》むのだろう。策を巡《めぐ》らすには、和穂の手にある駒《こま》は少なすぎた。
畳んだ道服を和穂に渡すとき、九鷲は和穂の肩にある大きな痣《あざ》に気がついた。
「どうしたの、その痣?」
九鷲に言われ、初めて和穂も気がついたようだ。
「あれ? 痛《い》てて! 川を流されたとき、岩で打ったんだと思う。
大丈夫。二、三日もすれば治《なお》るよ」
風邪を引き、鼻声で強がる和穂を見て、九鷲は大きく溜め息をついた。
九鷲はこういう、いかんともしがたい状況《じょうきょう》にある人間をみると、ほうっては置けなかった。
酒師《さかし》でありながら、自分が酒に溺《おぽ》れていた泉渇《せんかつ》の時もそうだった。
「……和穂。手を貸してあげようか?」
「本当!」
九鷲の言葉が和穂には嬉《うれ》しかった。だが、どう手を貸すのだろう? 武器として使われるのは嫌だったはずだ。
「九鷲。斉願と戦うの?」
「そうじゃなくて、徳利《とっくり》の宝貝として手を貸してあげる」
「あ、やっぱり九鷲酒を斉願に盛《も》るの?」
再び、ひきつった笑みが九鷲の顔に浮《う》かんだが、今度は手刀を使わない。
一瞬《いっしゅん》、体をかがめ、和穂の顎《あご》に下から突《つ》き上げるように拳《こぶし》をあて、そのまま足を伸ばしながら拳を、天に向けて打ち抜《ぬ》く。
毛布ごと宙を舞う和穂。
「……和穂。その斉願という爺様に倒《たお》される前に、私に倒されるわよ。
むしろがないから、簀巻きは勘弁《かんべん》してあげよう」
九鷲の言葉が終わり、やっと和穂は地面に落ちた。なにか今日一日で、ズタボロになった気分になりながらも、毛布を担《かつ》いで和穂は焚き火の側《そば》にもどった。
「悪気はないけど、九鷲に出来るのはそれぐらいじゃないの?」
「……意外と打たれ強いのね、あんた。
まあいいや、ちゃんと毛布にくるまってなさいよ。宝貝の設計の仕方《しかた》は覚《おぼ》えてる?」
和穂は首を横に振《ふ》った。
「覚えていない。思い出せない」
「仙術《せんじゅつ》の粋《すい》たる宝貝だから、設計方法はそれこそ無限にあるでしょ。
でも、私の場合はある程度、基本設計に沿《そ》って造《つく》られたみたいね」
「基本設計?」
「徳利の宝貝の基本みたいなのがあって、それを元に造るのよ。
で、最後に徳利ごとの能力を付け加える。
私が他の徳利の宝貝と違うのは、自在に九鷲酒を造れるってところでしょ?」
「うん」
「だから、九鷲酒を呑《の》んで酔《よ》っぱらっても、暴《あば》れる事なんてないのに、私には酔っぱらいをあしらう能力がある。
これは、基本設計に含《ふく》まれている能力なんだと思う」
「何が言いたいの?」
「私には九鷲酒以外の酒を造る能力も、少しだけあるの」
九鷲は得意気《とくいげ》に和穂に語った。だが、和穂にはそれがどういう意味なのか、判らない。
「九鷲酒以外のお酒が造れたら、どうなるの?」
待ってましたとばかりに、九鷲は懐《ふところ》に手を入れ、小さな袋《ふくろ》を三つばかり取り出した。
「九鷲酒は仙酒《せんしゅ》よ。
それ以外にも仙酒が造れるのよ。もっともね、この袋にある麹《こうじ》に頼《たよ》らなきゃ駄目《だめ》だから無尽蔵《むじんぞう》に造れるわけじゃない。
ほんの少しの量だけど、仙酒が造れるの」
やはり、和穂にはピンとこない。
「……九鷲酒より、強い毒が造れ、ぐはっ!
ごめんなさい。続けて」
「仙人の酒よ。美味《うま》さ以外にも、仕掛《しか》けのある仙酒だってあるの。
少しぐらいの怪我《けが》なら、治してしまう仙酒や、不老長生《ふろうちょうせい》を授《さず》ける仙酒。
そしてね、酔っている間は、鬼神《きしん》の強さを得られる仙酒もある」
和穂は飛び上がって喜んだ。
「じゃ、その仙酒を造ってくれるの?」
「そ。嬉《うれ》しい?」
「うん」
自分の造る酒を、心の底から喜ぶ和穂の姿を見て、九鷲も悪い気はしなかった。
「じゃ、ちょっと断縁獄を貸して。水は入っているんだね?」
和穂から断縁獄を受け取った九鷲は、袋を草の上に置き、空《あ》いた手に水をかけた。
飛び散るはずの水は、九鷲の手の中で青白い光を放ち、丸い球となった。スイカぐらいの大きさがある。
「これが、九鷲酒になる直前の真酒《しんしゅ》。酒精《しゅせい》すら全《まった》く混《ま》じらない、真水よりも純粋《じゅんすい》な白紙の酒よ。
これに、麹……厳密《げんみつ》には違うんだけどね……を混ぜる」
断縁獄を地面に置き、代わりに袋の一つを手に取り、器用《きよう》に口を開ける。
袋を傾《かたむ》け、さらさらと銀色に輝《かがや》く粉を酒球にまぶした。袋の中身が空になったのを確かめ、九鷲は袋を捨て再び断縁獄を手に持つ。
銀色の粉は酒球に溶け、無色|透明《とうめい》に変わった。
だが、同じ透明でも、先刻の酒球よりも光り輝《かがや》いていた。まるで、同じ湖の水でも、日の光によって、きらめき具合《ぐあい》が違うかのようである。
九鷲は断縁獄に向かい、酒の名を呼ぶ。
「七命酒《しちめいしゅ》!
これが、酔っぱらっている間に、体の怪我や病気を治す七命酒。さすがに半死半生とかは治せないけど、少しぐらいの打撲《だぼく》なら大丈夫」
断縁獄に、七命酒が吸い込まれ、九鷲は同じ手順で別の袋を使った。
七命酒とは違い、今度の酒球は蜜《みつ》のような黄金色《こがねいろ》をしていた。
「そして、五吼酒《ごこうしゅ》。
酔っぱらっている間は、ちょっとした武人並みの力を発揮《はっき》出来る」
五吼酒も断縁獄の中に姿を消す。
「これだけあれば、充分《じゅうぶん》でしょ」
和穂はもう一つの袋が、気にかかった。
「その袋は?」
「……魂沌酒《こんとんしゅ》を造る麹。これは、ちょっとやばいからね」
少し和穂はあとずさる。
「ふ、宿酔が酷《ひど》いとか!」
ニッコリ笑って、九鷲は手招《てまね》きしたが、和穂は遠慮《えんりょ》して近寄らなかった。
九鷲は袋をもてあそんだ。
「魂沌酒。
和穂が私と泉渇の所に来て、私は殷雷と戦ったでしょ? あの時も、この魂沌酒を使うかどうかで迷ったわ。
私自身は、お酒に酔わないように造られているから七命酒や五吼酒は、効《き》かないの。
でも、この魂沌酒だけは、酒の種類が違うから、私にも効く。
呑んだ者には、五吼酒とは比べ物にならない通常の何十倍もの力を授《さず》けるのよ」
「でも、それじゃ五吼酒よりも使えるんじゃないの?」
「五吼酒は、人を武人にする。
でも、魂沌酒はそうじゃない。力と共に、呑んだ者の理性を吹《ふ》き飛ばして、野獣《やじゅう》にしてしまう。
そう長い時間じゃないわ。心臓が三十も鼓動《こどう》すれば、呑んだ者はブッ倒れて再び目が覚めたときには、理性も戻るから。
でも、その理性が吹っ飛んでいる間の、空白が怖《こわ》かった。
殷雷だけじゃなく、見境《みさかい》なく泉渇まで叩《たた》き潰《つぶ》したら思うと、怖くて使えなかった。
どうする?
造れってんなら、造ってあげるけど」
和穂は考えた。確かに危険な酒だ。斉願と戦うだけなら必要はないかもしれない。
しかし、和穂の脳裏《のうり》には、眼破《がんぱ》の姿が蘇《よみがえ》った。
眼破と戦う事にでもなれば、いかに武人の力を五吼酒で得ていても、勝てるかどうか怪《あや》しいものだ。
「……一応、造っておいて。
九鷲、勝手《かって》なお願いだと思うけど、もしも私が魂沌酒を呑んだら、すぐに逃げて。
出来れば斉願もつれて。斉願と戦う為《ため》には使わない」
「その化け物魚用に使うのね。
ま、呑んだ者には害がないんだし。周囲に敵《てき》しかいないんなら、使える酒かもしれないね。
覚えておいてよ。理性の空白の後には、ブッ倒れる。これこそ、最後の策、魂沌酒を呑むのは、一気にけりをつける時だと肝《きも》に銘《めい》じてね」
和穂はコクリとうなずいた。
九鷲は最後の袋を開け、魂沌酒を造り始めた。
彼女の手の中で、水は踊《おど》り、尋常《じんじょう》ならざる酒へと姿を変えていく。ふと、和穂がニコリと笑った。
水を酒へと練《ね》り上げながら九鷲は言った。
「なによ。ニヤニヤして」
「九鷲って優《やさ》しいんだね」
さっきから、何度もぶん殴《なぐ》られているが、それを除《のぞ》けば、細々《こまごま》と和穂の世話《せわ》を焼いているのだ。
別に照《て》れるでもなく、そっけなく徳利の宝貝は言い返した。
「そうでもないわよ。
ただね、どうしようもなく情けない奴《やつ》をみると、黙《だま》ってらんないの」
「泉渇さんみたいな?」
その一言に、敏感《びんかん》に反応し九鷲は片手で和穂の頬《ほお》をつねりあげた。
「いでで!」
「……あんたが、泉渇の事を言えた義理《ぎり》?
酒に溺《おぼ》れる酒師と、術の使えない仙人《せんにん》じゃどっちがましだってのよ?」
「いで、いでで! ごめんらさい」
「ふん。
こうやってお酒を造って、和穂にも少しは手を貸してあげたけど、泉渇の時みたいに、体を張って危《あぶ》ない橋を渡《わた》る気はないからね。
そこんところは、覚えておきなさいよ!」
でろんと、伸びてるんじゃないかと思うほど九鷲につねられた頬は、熱く痛かった。
和穂は泣きそうになりながらも、自分の頬をさする。
九鷲は完成した魂沌酒を、断縁獄の中に注《そそ》いだ。
「判ったら、今日はもう寝《ね》なさい。
火の番は私が夜通しやってあげるから、ここでも寒くはないでしょ。
それと打ち身が痛いようなら、七命酒を一口呑むといい。
酔っぱらうほど呑めば、すぐに治るけどもったいないでしょ? 一口だけでも一晩|眠《ねむ》ればかなり回復するから」
「うん。そうする」
空には夕焼けが広がっていた。
日はまだ落ちていなかったが、和穂は九鷲の指示通りに、毛布にくるまって眠ろうとした。
「ほら、もっとちゃんと毛布にくるまんないと、滝の飛沫《しぶき》がかかるでしょ。
本当に風邪ひいちゃうわよ。……風邪ぐらい七命酒で治せるけどさ」
「はあい」
ゴオゴオという滝の音が、今は心地好《ここちよ》かった。横になるだけで、睡魔《すいま》が忍《しの》び寄る。
「明日の朝は起こした方がいい? いつごろ起こす? 夜明けでいいよね?」
「……はい」
頭に当たる川原の小石が、少し痛かったので毛布を折り返し、和穂は枕《まくら》代わりにした。
うつろになる意識は、睡眠《すいみん》の静寂《せいじゃく》へ……
「あ、朝|御飯《ごはん》どうする? 断縁獄の保存食より、ここだったら魚を捕《つか》まえて焼いといたげよか?」
「…………」
和穂は眠りに落ちた。
九鷲は黙《だま》って、薪をくべ続け、和穂が毛布を蹴《け》っ飛ばさないかに気を配る。
そして、ゆっくりと夜が更《ふ》けていった。
滝の轟音《ごうおん》に包まれながら、九鷲は空を見上げた。
木々の間から、細い細い月が顔を覗《のぞ》かせていた。
同じ山の中、さらに深い林の中でも同じ月を見上げている男がいた。
斉願だ。
服や靴《くつ》に仕込んだ暗器《あんき》の重さは、まるで罪人《ざいにん》を縛《しば》る鎖《くさり》のようだった。
彼の頭の中に、殷雷や和穂の事は一切《いっさい》なかった。
月の光に魂《たましい》を掻《か》き乱される狼《おおかみ》のように、斉願は細長い月を一心に見つめた。
老人の体を激情がかけていく。
熱く、喉《のど》ではなく魂を震《ふる》わせながら斉願はつぶやく。
「ついに、星辰《せいしん》は巡《めぐ》りよったか。
明日こそは、十三年ぶりに巡り来た日食《にっしょく》の日。
明日を逃《のが》せば、次は四十六年後、もはやわしは生きてはおるまい。
だが、明日で全《すべ》てを終わらせてやる」
静かなつぶやきは、叫《さけ》びに変わる。
喉に絡《から》まる血を吐《は》き出すように、斉願は叫んだ。
「偽祝《ぎしゅく》よ!
宝貝の力を借りて、貴様《きさま》を釣《つ》り上げて血祭《ちまつ》りに上げてくれる!
間抜《まぬ》けの漁師《りょうし》どもは貴様を『万川呑淵《ばんせんどんえん》・偽祝公』などと祭り上げて社《やしろ》を建ておったが、わしがブッ壊《こわ》してくれたわい!
明日になれば、貴様の鱗《うろこ》を一枚ずつ引きちぎってくれる! それまでせいぜい、湖底にへばりついて泥《どろ》でも啜《すす》っているがいい!」
斉願は、とてもとても大きな声で笑い続けた。
そして、翌朝。
さっき起きたばかりの和穂《かずほ》は、川の水で顔を洗った。まだ、髪《かみ》も結《むす》んでおらず、道服も羽織《はお》っていない。
顔を洗っても、まだ少し寝惚《ねぼ》けた顔をして和穂は、もしゃもしゃと焼いたヤマメを食べはじめた。
川魚独特の苦《にが》みは、あまり好きになれなかったが、贅沢《ぜいたく》をいっている場合ではない。
夜の間、少し弱められていた焚《た》き火《び》の炎《ほのお》は九鷲《きゅうしゅう》の手により強められていた。
九鷲は和穂の横に座《すわ》り、竹を割って作った湯飲《ゆの》みに酒を注《つ》いだ。
「はい、五吼酒《ごこうしゅ》よ。今の内から呑《の》んでおいた方がいい。斉願《さいがん》とかいう爺《じい》さんなら、酔《よ》っぱらう前に斬《き》りかかってきそうじゃない」
和穂は差し出された湯飲みを受け取り、五吼酒に口を付けた。
酸味が強い蜜柑《みかん》のような味がした。思っていたより呑みやすい。
九鷲は言った。
「たいして美味《うま》い酒じゃないけどね」
「そう? さっぱりした蜜柑みたいで美味《おい》しいよ」
さすがは、徳利《とっくり》の宝貝《ぱおぺい》、酒の味に関しては少々うるさかった。
「だから、それじゃ蜜柑の美味さになるでしょ。酒なら酒の美味さが判《わか》るようじゃなきゃさ。
こんな時に、酒の味の話をしても仕方《しかた》がないけどね」
昨日の夜、寝る前に呑んだ七命酒《しちめいしゅ》は、少ししつこい甘《あま》さがあり薬草の臭《くさ》さもあった。
和穂はふと、五吼酒は果実酒で七命酒は薬草酒のような気がした。
「でも、魚の苦みがあるから丁度《ちょうど》呑みやすくていいよ」
お茶代わりに、和穂はガブガブと五吼酒を呑んでいった。
四半刻《しはんとき》(三十分)後。
「おかわり!」
目の前にグイと突《つ》き出された湯飲みに、九鷲は嬉《うれ》しそうに酒を注いだ。
だいぶ和穂は『出来上がった』ようだ。
豪快《ごうかい》に足を組んで、焚き火の前に座っている。
頬《ほお》はほんのり桜色に染《そ》まり、嬉しそうにニコニコ笑っていた。だが、ほんの少し呂律《ろれつ》が怪《あや》しくなってきていた。
九鷲から受け取った酒を和穂は、一気に呑み干す。
「ぶはあ!」
「いやあ、なかなかいい呑みっぷりじゃないのさ。見直したよ」
「そうお?」
空になった湯飲みに断縁獄《だんえんごく》から酒を注ごうとする九鷲を、和穂は制した。
「どうしたの?」
「いちいち、注いれもらってらら、面ろうくさいよ。らん縁獄をちょうらい」
落下寸前の皿回しの棒《ぼう》のように、和穂の体はユラユラと揺《ゆ》れていた。
九鷲に向かい、喋《しゃべ》る時も既《すで》に目はトロンとして、九鷲の遥《はる》か遠くで視線の焦点《しょうてん》があっているようだ。
「意外と、豪快《ごうかい》な酔い方ね」
「あああん。いいから、断縁獄をちょうだい!」
困った顔をしながらも九鷲は笑っていた。徳利の宝貝だけあり、酔っぱらいの相手をするのは苦ではなかった。
九鷲から断縁獄を受け取り、和穂はひょうたんに口を付け、ふんぞり返るように背中を反《そ》らし一気に酒を呷《あお》る。
「ぷはあ!」
断縁獄から口を離《はな》し、口許《くちもと》に流れていた酒の雫《しずく》をゴシゴシと手でこする。
「うわ、絵にかいたような酔っぱらいね。いいわよ、それでいいわよ!」
「へへへ。それにしても、いい音色《ねいろ》の笛《ふえ》ね」
「は?」
最初、和穂の言葉の意味が判らなかった九鷲だが、これはかなり酔っているぞと再確認した。
和穂の頭の中で鳴り響《ひび》く、酔いが巻き起こした笛の音が九鷲には聞こえるはずもない。
だが、そこは心得《こころえ》ている。
「そうね、いい音ね!」
和穂は頭の中の笛の音に合わせて、軽く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》いた。当然、音程は目茶苦茶《めちゃくちゃ》だった。
呂律が回らないのに、どれだけの口笛が吹けるというのか。
「よし、そろそろいい気分らし、殷雷《いんらい》を助けに行くわよ! ついといで、九鷲!」
今にも、ぶっ倒れそうなのに、決して倒れず、本人だけが気持ちのいい口笛を吹き、とうとう気分まで大きくなっているようだ。
そんな素直《すなお》な酔い方をする和穂を見て、九鷲は妙《みょう》に面白《おもしろ》かった。
「はあい、とっとと殷雷を助けよう!」
和穂は立ち上がり、道服を羽織る。そして少しばかり苦労しながら、腰帯《こしおび》を結んだ。
だが、続いて髪を結ぼうとするが、細《こま》かい指先の仕事がなかなか上手《うま》く出来ない。
見兼《みか》ねて、九鷲が手を貸す。
「はいはい、私がやってあげるわよ」
「いやあ、悪いねえ」
九鷲に髪をまとめてもらい、今度は断縁獄の赤い紐《ひも》を、グルグルと左手の掌《てのひら》に巻き付けた。手の甲《こう》に断縁獄を乗せ、紐はしっかりと握《にぎ》り込む形だ。
左手での攻撃《こうげき》は少し不便《ふべん》かもしれないが、こうしていれば、勝負の鍵《かぎ》である断縁獄を落としたりはしない。
和穂は断縁獄から、水を呼び出し、焚《た》き火の上にかける。
もうもうと立ち込める湯気《ゆげ》を浴《あ》びて、和穂は言った。
「さあ、行くわよ九鷲。
殷雷の弔《とむら》い合戦よ!」
「いや、弔いはまずいんじゃない、弔いは。一応、まだ生きてるんだしさ」
酔っぱらっている和穂は、あまり細かい事は気にしなかった。
「どうらっていいわよ! ともかく、殷雷を助けに行くの!」
小さな耳飾《みみかざ》りに手を添《そ》え、和穂は斉願の位置を探《さぐ》るために目をつぶる。
和穂たち以外に、宝貝の反応は一つしかなかった。
まぶたの裏の光点は、微妙《びみょう》に動いて定まらない。
酔いのせいで、目が回っているのだと虚《うつ》ろな状態の和穂でも判った。
仕方がないので、目を閉じたまま、光点が止まるのを待つ。
しばしの静寂《せいじゃく》。
索具輪《さくぐりん》を触《さわ》ったまま、目をつぶり、そのまま妙に規則正しい呼吸《こきゅう》を始めた和穂を見て、九鷲は声をかけた。
「……和穂?」
「……くう。……くうくう」
「ちょっと、寝《ね》てる場合じゃないでしょ!」
酔っぱらったまま、目を閉じていたせいで和穂は思わず眠《ねむ》っていたのだ。
酔い以上に寝惚《ねぼ》けた瞳《ひとみ》で、元|仙人《せんにん》は大笑いした。
「はっはっは! ちょっとした冗談《じょうだん》よ!」
こんな調子じゃ、本当に弔い合戦になりかねないと、さすがの九鷲の笑顔《えがお》も強張《こわば》る。
「……索具輪を貸して。私が相手の居場所を探ったげるからさ」
「いやあ、何から何まで、手間《てま》かけさせて悪いねえ九鷲!」
九鷲の背中を嬉しそうに、バンバン叩き、耳につけた索具輪をむしりとるように和穂は外《はず》した。
自分の耳に索具輪をつけながら、九鷲は考えた。
上手《うま》い具合に、斉願とかいう物騒《ぶっそう》な爺様を倒して、殷雷を無事に救出出来たとしても、こんな和穂の姿を見たら、殷雷にどやされるんじゃなかろうか?
「でも、ま、いいよね。どうせ他に手はないんだしき」
九鷲が何を心配していたのか和穂には判らなかったが、大きく首を縦《たて》にふる。
「そうそう、大丈夫《だいじょうぶ》。
ともかく、きっと、全部上手くいくよ。
はっはっは! 殷雷、待ってなよ!」
今は自分の造った仙酒《せんしゅ》の力を信じるしかあるまい。
それと忘れちゃいけないのが、和穂が酔い潰《つぶ》れて、敵の前でグウグウ眠らないように気をつけるだけだ。
深く、静かに呼吸を整《ととの》え、斉願《さいがん》は湖の辺《ほとり》に立っていた。
水は澄《す》んだ無色でも、湖には色がある。
透明《とうめい》な水で作られた森の中の湖は、濃《こ》い紺色《こんいろ》に見えた。
静かな湖だった。
水鳥の姿は、一羽も見えない。
対岸は、背の高い水草で覆《おお》われていたが、こちら側は踏《ふ》み固めてある。
漁師《りょうし》たちが社《やしろ》を建てるために、草を刈《か》ったのだ。
静か過ぎる湖だった。生き物の気配《けはい》が全《まった》くない。夜中の墓地《ぼち》ですら、地を這《は》う虫の息吹《いぶき》は感じられる。
ときおり吹《ふ》く風だけが、湖に小波《さざなみ》を起こし束《つか》の間《ま》の静寂《せいじゃく》を破《やぶ》るが、それもわずかの時間の事だ。
『馬鹿な漁師《りょうし》どもめ! この静けさを、福を招《まね》く瑞兆《ずいちょう》の静寂と勘違《かんちが》いするとは、間抜《まぬ》けにも程がある。
この、禍々《まがまが》しい静けさは、死の静寂だ!』
日食を待つまでもなく、斉願は鱗帝竿《りんていかん》を使い、偽祝《ぎしゅく》を釣《つ》り上げようかと考えた。
だが、それはやめた。
今までと同じように、戦い、そして奴《やつ》を仕留《しと》めるのだ。討《う》ち死《じ》にしたとて本望《ほんもう》だ。
斉願が決死の覚悟《かくご》で、偽祝との避逅《かいこう》を待ち詫《わ》びているその時、老人は呼び止められた。
「お、は、よ。斉願」
先刻までの決死の決意を、あざわらうかのような、緊張感《きんちょうかん》のない楽しそうな声だった。
鱗帝竿を手に、斉願は振《ふ》り向き、声の主《あるじ》をにらみつけた。
「お前は、いつぞやの娘《むすめ》ではないか!」
「和穂よ。か、ず、ほ。昨日あったばかりなのに、冷たいなあ。名前くらい覚えてよ」
斉贋に凄《すご》まれても、和穂は全く怯《ひる》まずにへラヘラと笑っていた。
それが、余計《よけい》に斉願の神経を逆撫《さかな》でする。
こっちが、決死の決意を固めている最中《さなか》にこの娘は何が嬉《うれ》しいのだ?
「ええい。鱗帝竿を諦《あきら》めて、刀《かたな》の宝貝《ぱおぺい》を返してもらいに来たのか! ならば、返してやるから、さっさとどこかへ行ってしまえ!
わしは、べらぼうに忙《いそが》しいんじゃい!」
斉願が怒鳴《どな》り散らしている間、和穂は呑気《のんき》に断縁獄《だんえんごく》から、酒を呑《の》んでいた。
「忙しいって、別に何もしてないじゃない。
それとも、これから釣《つ》りでも始めるつもりらったのかしら?
うっく。
それよりも、殷雷を返してもらいに来たんだからね。
へっへっへっへ。
勿論《もちろん》、鱗帝竿は諦めたりしないよ」
斉願の人生で、今以上に神経を逆撫でしたのは偽祝だけだった。
「娘! さてはお前、朝っぱらから酒をかっくらっておるな!
いい若いもんが、なんだそのざまは。
刀の宝貝が助けられんから、やけになっておるのか!」
「やけじゃ、ないよんよんよん。
きゃあ、待ってえぇ、断縁獄!」
手の甲《こう》に乗せた断縁獄から、和穂はさらに酒を呑もうとした。
だが、左手がふらついてなかなか、ひょうたんに口がつけられない。
和穂は、叫《さけ》びながら断縁獄を追う。
斉願は顔中の血管が全部ブチ切れ、脳髄《のうずい》が沸《わ》き立った。
偽祝への怒《いか》りを、こんな所で無駄使《むだづか》いしているのが、余計に耐《た》えられない。
怒りで、目の前が真っ赤になりながらも、斉願は和穂の後ろの人影《ひとかげ》に気がつく。
酔っぱらいの相手をしても、時間の無駄だ。後ろの女は、少なくともシャンと背筋《せすじ》を伸《の》ばして立っている。酔っぱらってはいないようだ。
「女! 貴様《きさま》は何やつだ!」
九鷲《きゅうしゅう》は自分の顎《あご》を少し撫《な》でて、落ち着いた声で答えた。
「そうさねえ。
全《すべ》ての酔っぱらいの味方《みかた》、と言ったところかしら」
「ええい、わけが判《わか》らん! さては貴様も宝貝か!」
斉願の怒鳴り声が、九鷲の耳にガンガンと響《ひび》いた。
「御名答《ごめいとう》。私も宝貝、名前は九鷲とでも呼んでちょうだい。でも、別に私の事は気にしなくてよくってよ。
私は戦うつもりはないから」
素性《すじょう》は判らないが、この女とならまっとうな会話が出来る。斉願は息を吐《つ》き、少しは落ち着いた。
和穂は、自分の左手の断縁獄を追い掛《か》けながら、まだ右往左往《うおうさおう》している。
「待ってえぇ、らん縁獄う!」
酔っぱらいは無視して、言葉を続けた。
「なぜ、わしと、偽祝の戦いの邪魔《じゃま》をする!
我《わ》が人生は偽祝との戦いにあるようなものなんだぞ!」
偽祝。
聞き慣れない名前だった。偽祝とは何か九鷲が尋《たず》ねようとした、その時、フラフラと歩き回っていた和穂がピタリと立ち止まり、九鷲の前で酒をグビリと呑む。
「わっはっは。冗談《じょうだん》よ。
ちゃんと、断縁獄からお酒呑む事ぐらい出来るもん」
酔っぱらいの味方と、自称《じしょう》するだけあり、九鷲は微笑《ほほえ》み、和穂の頭を撫《な》でた。
九鷲酒と違《ちが》い、五吼酒《ごこうしゅ》や七命酒《しちめいしゅ》の酔いは人間の本性がもろに出る。
その酒で、陽気に酔えているのだ。
和穂の頭を撫でながら、さっきの疑問を斉願にぶつけた。
「偽祝って?」
「偽祝! 奴《やつ》こそ、この池の主《ぬし》! 奴をこの手で始末《しまつ》せぬ限り、死んでも死にきれんのじゃよ!」
斉願の言葉を聞いて、和穂はケラケラと笑い出す。
「なあんだ、それで鱗帝竿を返したくなかったんだ。
一言いってくれたらよかったのにさ」
胸をドンと叩き、和穂は続ける。
「そんな、池の主だか何だか知らないけど、たかが魚を一匹釣り上げるぐらいなら、待ってあげたのに」
「た、たかが魚だと!
お前は偽祝を甘く見ているぞ! 奴は尋常《じんじょう》ならざる魚で……」
「でも、魚なんでしょ?」
老人の目に宿《やど》ったのは確かに殺気だった。
「偽祝の前に、お前を血祭りじゃい!」
衝突《しょうとつ》が避《さ》けられるなら、それに越《こ》した事はない。
九鷲は間に割って入る。
「まあまあ、そう頭に血を昇《のぼ》らせなくても。
今のは、ちょっと和穂が悪いわよ。
自分では見てもいないものを、こうだと決めつけて」
いわれてみれば、その通りだ。
和穂はペコリと頭を下げた。
「ごめんらさい」
「判ったら、さっさと消えろ!」
「その偽祝を倒したら、鱗帝竿は返してくれるんですか?」
「ふん。お前は気にいらん。返してやるものか!」
酔いのせいで、感情の起伏《きふく》がかなり激しくなっているようだ。和穂は泣きそうな顔になった。
「そんなあ。どうしても力ずくじゃないと駄目《だめ》なんて」
九鷲は、斉願の顔を見た。ちょいとした自慢《じまん》のために、湖の主を釣りたがっているような表情ではない。
「ねえ、斉願。どうして、その偽祝にこだわるのよ?」
斉願は違い目をして語り出した。
「あれは、まだわしが子供の頃《ころ》の話だ。
育ち盛《ざか》りのわしは、この湖に釣り糸を垂《た》らして、魚を釣っておった。少しは腹《はら》の足《た》しにするつもりだったのだ。
その頃のわしは、まだまだ釣り師《し》として未熟で、なかなか魚が釣れなかった。
空腹《くうふく》でブッ倒れそうになったとき、初めてわしは鮒《ふな》を釣り上げたのだ。
涎《よだれ》を垂らしながら、湖から鮒を引き上げようとした時、奴が来たのだ」
「偽祝?」
「そう。当時の偽祝も小さかった。せいぜい子牛程度の大きさの、魚だ。
その偽祝が、湖面に顔を出したかと思うとわしの鮒を、口にくわえて奪《うば》い去ったのだ。
怒りに燃《も》えたわしは、空腹も忘れ、湖の中に飛び込み、偽祝と戦った。
だが、やはり水の中。わしは偽祝にかなわずに手傷を負わされてしまったのだ!」
絶叫《ぜっきょう》のような激しい、斉願の告白を聞き、和穂は大笑いした。
「わっはっはっ。子供の頃の食べ物の恨《うら》みを晴らしたいの?」
「ち、違うわい! 釣り師として、水の中の生き物に後《おく》れをとったのが、屈辱《くつじょく》なのだ!」
斉願は更《さら》に、何度も繰り広げられた偽祝との死闘《しとう》を語ろうとした。だが、和穂が笑い続けているので説明をやめてしまった。
もしも、和穂が斉願の説明をしっかりと聞いていたら、偽祝が尋常ならざる魚であると気がついたであろう。
偽祝が日食の刻にしか、姿を現さない事、遭遇《そうぐう》するたびに、巨大《きょだい》に成長している事、そして人の言葉を喋《しゃべ》る事。斉願の顔の傷が、偽祝の爪《つめ》によりつけられた事。つまり偽祝には手も腕もあるのだ。
だが、今の和穂はただの酔っぱらいであったのだ。
「わははは!」
「黙《だま》れ。もう、お前らに説明はしてやらんからな!」
だいたいの事情が、九鷲にも飲み込めた。斉願という爺様《じいさま》は、偽祝の事で頭が一杯《いっぱい》で冷静さを欠いている。
少しばかり、頑固《がんこ》な頭を柔《やわ》らかくしてやれば、万事は上手く行くかもしれない。
九鷲は口に手を当て、こっそりと笑った。
これはまさしく九鷲酒の出番ではないか。九鷲酒の心地好《ここちよ》い酔いで、心の頑《かたく》なさを取り払《はら》ってあげれば、わざわざ和穂が戟うまでもなく、全《すべ》てが丸く収まるじゃないか。
鱗帝竿を返す約束をしてもらい、殷雷を自由にしてくれれば、戦う理由なんか全くないのだ。
少しは、宿酔《ふつかよい》があるかもしれないけども、そんなのは九鷲酒の酔いからすれば、ほんの些細《ささい》なものだ。
と、九鷲は考えた。
にこやかな笑顔で、九鷲は目を血走らせている老人に言った。
「ねえ、斉願。お酒はお好き? 美味《おい》しい酒があるんだけどさ。
いや、判《わか》ってるわよ。
偽祝とやり合うのに、酒なんか呑んでる場合じゃないって思うかもしれないけど、景気づけにチョコットだけさ」
斉願は吐《は》き捨てるように言った。
「酒だと? 酒なんざ、馬鹿の呑む物だ」
全てが上手くいく名案だと思ったが、斉願に酒を呑む嗜好《しこう》がないのなら、仕方がなかった。
そこは、徳利《とっくり》の宝貝、酒を呑まない人間には酒を勧《すす》めないだけの礼儀《れいぎ》はあった。
「無理強《むりじ》いはしないけどさ」
酔っぱらってフラフラの和穂を、斉願は横目でにらんだ。
「大体、酒などというのは、毒でしかない。そんな毒をありがたがって、呑む奴の気がしれん」
九鷲が下手《したて》にでたから、斉願が付け上がったのではない。
斉願は元々《もともと》、少しばかり、ねちっこい性格だったのだ。
「毒」
ピクリと九鷲の頬《ほお》がひくついた。
「……ちょっと、しつこいんじゃない?
毒だ毒だって。そりゃ、体によくない酒もあるけど、薬草で造った酒もあるでしょ」
「それが、馬鹿だというんじゃい。
なんでわざわざ薬草を混《ま》ぜる。薬草はそのまま、薬草として食らえばいいんだ。
それに、毒を入れるお猪口《ちょこ》や徳利までを美術品|扱《あつか》いして、珍重《ちんちょう》しておる馬鹿もおる」
和穂は、呑気《のんき》に思った事を口に出した。
「あ、何か険悪な、雰囲気《ふんいき》」
和穂の言葉に、自分を取り戻し、九鷲は冷静になった。
徳利の悪口を言われたぐらいで怒るのも、大人気《おとなげ》ない話だ。
「斉願。どうとでもいいなさい。何をどう考えようが、あんたの勝手《かって》よ」
斉願はさらに続けた。
「それに、一番腹が立つのは、毒を売って金儲《かねもう》けしておる奴だな。
酒師《さかし》なんざ、人殺しと同然だ」
その一言が、九鷲の堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を切った。
徳利の宝貝は、激怒《げきど》に声を荒《あら》らげたりせず、静かに和穂に言った。
「和穂」
「はあい、なあに?」
「やっちまえ!」
和穂は、右手を高らかにあげた。
「おう!」
斉願は後ろに飛びすさり、和穂との間合いをあけた。
「くるかい、お嬢《じょう》ちゃん。
今のわしは、人生の瀬戸際《せとぎわ》にいる気分じゃからな。加減《かげん》なんてせんぞ!
お嬢ちゃんを、さっさと始末《しまつ》して偽祝と戦う」
一度口を開きかけた和穂だが、しゃっくりが出始めて慌《あわ》てて胸を叩《たた》く。
「うっく。
さっさと始末。ってわけにはいかないと思うよん。
ひっく」
「ほざけ、酔っぱらい!」
さあ、始まったと、九鷲は素早《すばや》く後ろに下がった。
鎖《くさり》の鎧《よろい》を着込んだ老人とは思えぬ動きで、斉願は駆《か》けた。
地を這《は》うイタチのような素早さで迫《せま》る斉願に退治《たいじ》した和穂だが、特に構《かま》えも取らずにフラフラとしている。
竿《さお》を左手に持ち直し、右手の拳《こぶし》が和穂の頬を打ち抜く。
痛そうに九鷲は顔をひそめてつぶやく。
「本当に酷《ひど》い爺様だな。女の顔を本気で殴《なぐ》りやがった」
昨日、和穂が九鷲酒を毒扱いするたびに自分も殴っていた事は棚《たな》に上げておく。
頬は頬でも、顎《あご》の付け根に近い部分を殴ったのである。
この角度で入れば、いかに鍛《きた》えていようが間違《まちが》いなく顎|関節《かんせつ》は脱臼《だっきゅう》するはずだ。それどころか、下手《へた》をすれば首の骨が折れたとて不思議《ふしぎ》ではない。
「さらばだ、娘。
再三警告したはずだ。わしを恨むな」
が、何かが妙だと斉願は思った。
まるで時間が止まったような錯覚《さっかく》に陥《おちい》っている。
なぜだろう?
自分の拳は娘の頬に当たっている。
そう。
絶対《ぜったい》に当たっている。
げんに今も、拳は娘の頬にめりこんでいるではないか。
拳の威力《いりょく》で、娘の首は無理《むり》やり右に曲がっているではないか。
斉願の背筋《せすじ》を冷《ひ》や汗《あせ》が流れた。
ここで、時間が止まっている。
娘は拳を頬に受けたまま、倒れようとはしなかった。
こんな拳を食らえば、いかな大男とて地面に崩《くず》れ落ちるだろう。
だが、この小娘は微動《びどう》だにしない。
吹《ふ》きすさぶ風が、斉願の頬を撫でる。
時間は止まっていない。
ゆっくりと和穂は、右に曲がった首を正面にもどした。ゆるりとしているが、壮絶《そうぜつ》な力で斉願の拳は押し戻されていく。
「き、貴様《きさま》、化《ば》け物か!」
和穂はフラフラしていたが、これは攻撃《こうげき》のせいではなく、酔っぱらっているせいだ。
和穂は九鷲に手を振《ふ》った。
「凄《すご》い! 七命酒って、殴られてる最中に怪我《けが》を治しちゃうんだ!」
九鷲は大きくうなずく。
「そりゃ、それだけ酔っぱらってたら、七命酒の威力《いりょく》も上がるわ。
五吼酒も七命酒も、酔えば酔うほど効《き》き目が強くなる」
九鷲に振った右手で拳を握《にぎ》り、愕然《がくぜん》と硬直《こうちょく》する斉願の腹《はら》に、和穂は攻撃を放つ。
服の下にまとっている、斉願の鎖鎧《くさりょろい》がジャラリと軋《きし》む。
そして、攻撃の衝撃で斉願は後方に吹っ飛んだ。
少し呆《あき》れて、九鷲は言った。
「和穂、和穂。一応、女の子なんだからさ。殴らせといて、倍にして返すなんて、剛拳《ごうけん》の戦いじゃなくて、もっと軽《かろ》やかにやんなよ。
殴られても、たいして痛くないでしょうけど、見てる方が痛々しくてつらいわ」
和穂は、断縁獄からさらに酒を呑む。一口目は七命酒。二口目は五吼酒。
「くはあ。
そんなに上手く出来るかな?」
「大丈夫《だいじょうぶ》。五吼酒の力を信じなさい」
地面にひざまずき、斉願は自分の腹を押さえていた。
鎖の鎧は少しばかりひしゃげている。
これは油断《ゆだん》出来ないと、老人は考えた。
鱗帝竿は、使用者の望むがままに、そのしなり具合を調整出来た。
斉願は、鱗帝竿を紐《ひも》のように柔らかくし、腰帯《こしおび》の上に巻き付けた。
いかに宝貝とはいえ、相手が魚でないのなら、どれだけ通用するか疑問だった。
なにかの間違《まちが》いで、鱗帝竿を奪《うば》われる心配もある。だが、こうして腰に巻いておけば、自分が倒されない限り、鱗帝竿を奪われる心配はない。
さて、あの娘とどう戦うかと、斉願は思案した。拳の一撃が全く通じていない。素手《すで》で戦うのは無理だろう。
斉願は懐《ふところ》に手を忍《しの》ばせ、鉄の束《たば》を取り出した。
薄《うす》く、細長い鉄の板を数枚束ねてあるものだ。小刀の刃の部分のようだが、先端《せんたん》が釘抜《くぎぬ》きのように曲がっている。
和穂から目を放さず、斉願は鉄の束を解きガチャリガチャリと組み立てる。
それは、携帯用《けいたいよう》に作られた、鉄の鉤爪《かぎづめ》だった。
垂直な三本の爪と、その根本を横に結ぶ一本の棒。形としては『山』の字に似ている。
横の棒を握《にぎ》り込めば、指と指の間から三本の鋭《するど》く、内側に曲がった長い爪が姿を覗《のぞ》かせる。
斉願は、鉄の爪を左手に着けた。
「ふん。偽祝の体に取りついたときは、振《ふ》り落とされないように、こいつを用意したが、今は貴様を切り刻《きざ》む為《ため》に使ってやろう」
鉄の鉤爪を見たぐらいで、怯《ひる》む和穂ではない。
「爆薬やら、鉤爪やら、お魚相手に、凄《すご》い準備れすね」
「黙れ! アレはただの魚ではないと言っておろうが!」
九鷲は少し心配そうに、指示をだす。
「和穂、刃物《はもの》はちょっとやばいわよ。
切られた傷は、打ち身と違って七命酒の力じゃ治りにくいから」
「らいじょうぶ。
あんなの当たらなきゃ、ただのハッタリじゃないの」
今の言葉には斉願は怒りを現さなかった。後ろを向いて、九鷲に話し掛《か》ける和穂に向かい黙って駆《か》ける。幾《いく》らなんでも油断しすぎの和穂に、九鷲は叫《さけ》んだ。
「和穂! 危ない!」
振り上げられた鉤爪は、熊《くま》の一撃のように和穂に向かい、走った。
が、和穂は逆に斉願との間合いを詰《つ》めた。
結果として、和穂の頭に当たったのは鉤爪ではなく、鉤爪を握り込む斉願の拳だった。
「ういっく。
そんなんじゃ、猫にじゃれつかれた程にも効《き》かないわよ」
再び和穂の拳が斉願の腹を打った。
「あ、いけない。
また、力技《ちからわざ》でやっちゃった。軽やかにだったわね、軽やかに」
和穂は軽く飛びすさり、斉願との間合いを外した。
七命酒の力で、和穂は頑丈《がんじょう》になっているがそれとまっとうにやり合える斉願の体も、かなり鍛《きた》えられている。
「よっとっと。斉願、あなたも、なかなか元気なお爺ちゃんよね」
「くっ。
偽祝と戦う為に、この体は鍛えておるわい」
和穂は軽やかに戦おうと、ピョンピョンと飛び跳《は》ね始めた。
「今度は、こっちからいくわよ」
踊《おど》るように軽やかな足取りで、和穂は斉願に近寄る。
斉願は鉤爪を振り回したが、和穂は背筋を思いきって反《そ》らせ、かわす。
背筋を反らせながら、酒をまた一口。
反らせた頭が、そのまま地面に着きそうになった瞬間《しゅんかん》、和穂は両手を地面に置き、逆立《さかだ》ちになる。
当然、逆立ちになる時、足の振り上げで斉願の顎を蹴《け》った。
斉願がよろめいた隙《すき》に、和穂は逆立ちを崩す。自分の腹側に倒れ込み、虎伏《こふく》(腕立《うでた》て伏《ふ》せ)の体勢《たいせい》となり、そのまま足を手の側《そば》まで寄せ、しゃがむ状態になった。
「ちょっと、痛いかもしれないけど、勘弁《かんべん》してね」
立ち上がりつつ、右膝《みぎひざ》を斉願の腹に叩《たた》き込み、体を半身に回転させ、上げた右足で斉願の左足を踏《ふ》んづける。
斉願も伊達《だて》に鎧《よろい》を着ているのではない。靴《くつ》には刃と共に鉄が仕込んであり、和穂に踏まれてもなんの問題もなかった。
和穂は、斉願に体の右の側面を見せている。
和穂は右手をムチのようにしならせ、手の甲《こう》で斉願の顔を打った。
咄嗟《とっさ》に斉願も、自分の顔を右手で守るが、和穂の右手は斉願の寸前で軌道《きどう》を変え、そのまま老人の腰帯に迫《せま》る。
刹那《せつな》の瞬間にさらに数手の攻防《こうぼう》が起きた。
腰帯の上の、鱗帝竿を和穂は狙《ねら》っていた。だが、斉願は簡単にそれを予測していた。
左手の鉤爪が繰り出され、和穂の右手を刃がかすった。
和穂は正面を向き直し、斉願の首を蹴り抜くが、斉願も同じく和穂の首を高く上げた足で蹴る。
相手に蹴られた衝撃《しょうげき》と、相手を蹴った衝撃で、二人は同じ様に地面を転がり、そして同じように立ち上がる。
再び戦えるように、二人は間合いを離《はな》したまま構えをとった。
その構えは、全く同じであった。
右足を軸《じく》に、左膝は高く上げている。
右手はダラリと垂れさせ、左手の拳を顔の前に置く。
九鷲は和穂の右手に流れる血を見た。
「和穂、腕《うで》に傷が!」
「らいじょうぶ。ただのかすり傷よ」
「だから! かすり傷も治せないって事は、七命酒は切り傷には通用しないって事でしょう!」
「ありゃりゃ、それは困っちゃうね」
斉願は、左手の鉤爪に着いた和穂の血を、見せつけるように嘗《な》めた。
同じ仕種《しぐさ》で、和穂は左手の断縁獄《だんえんごく》から酒を呑む。
あの娘は、刃物には弱い。それだけでも勝算があった。斉願に少し余裕《よゆう》が生まれる。
「お嬢ちゃん。やるじゃないか。あの刀の宝貝より強いんじゃないか? 名前は殷雷《いんらい》だったか?」
殷雷の名を聞き、和穂の構えがフラリと解けた。
「う、殷雷! 殷雷を返して!」
そのまま、地面に座《すわ》り込み、和穂は泣き出した。
大泣きする和穂に、九鷲は独りごちだ。
「ううむ。やっぱしどうしても、感情の起伏《きふく》が激しくなりすぎるな。
理性と戦闘《せんとう》能力を上手《うま》く融合《ゆうごう》させるのは、やっぱり無理なのかな」
泣き叫ぶ和穂を見ても、斉願の魂《たましい》は全く動じない。彼は修羅場《しゅらば》をくぐり過ぎていた。
「殷雷、殷雷と、奴がいなければ何も出来ないのだろう?
頼《たよ》るべき殷雷がいない今、泣くしか出来まいよ。
お前が殷雷より強いといったのは冗談《じょうだん》だ。お前は殷雷の足元にも及《およ》びはしないさ。
奴を眼破《がんぱ》の中に封《ふう》じられた時点で、お前は負けていたんじゃよ。
お前はそうやって、泣き叫ぶしか出来ない能無しだ。
勝負の分かれ目は、魂の強さだ。
泣いてわめく、お前の脆弱《ぜいじゃく》な魂でわしに勝てるはずがない。
少々、化け物じみた力を持っていようが、勝負の分かれ目は、最後まで絶望しない魂の強さ。それ以外ない」
斉願は、和穂にとどめを刺すべく歩み寄った。もう、戦う気力はないのだろう。
だが、和穂は立ち上がった。
「斉願、私もその意見には賛成。
絶望しない方が勝つのよね」
「黙れ! 泣きながら、何を言う!」
「龍華《りゅうか》師匠《ししょう》は言っていた。
泣いても構わない。だが、立ち止まって泣くな。前へ歩きながら泣け。
ってね。
殷雷がいなくて、悲しいわ。泣きたくなるぐらいに。
でも、それは頼るべき者がいない、不安の涙じゃないよ。
殷雷が心配だから、泣いてるのよ」
斉願は飛び掛かり、和穂も受けて立つ。
際限なく繰り出される、無数の拳と蹴りの応酬《おうしゅう》。
九鷲は少し呆《あき》れてきた。
「和穂はともかく、頑丈な爺様だなあ」
えんえんと、戦いは続く。
そして、刻一刻と日食の時間は迫って来ている。
偽祝は、すぐそばまで来ていた。
和穂《かずほ》と、斉願《さいがん》の戦いはさらに続いていた。
五吼酒《ごこうしゅ》の力は、だいたい完全|武装《ぶそう》した武人《ぷじん》と同じ程度の戦闘《せんとう》能力を与《あた》えていた。
斉願と和穂の力は、上手《うま》く釣《つ》り合ってしまった。互《たが》いに、一進一退を繰《く》り返すが、勝負を決めるまでには到《いた》らない。
そうなければ、勝負の鍵《かぎ》は持久力になるのだが、七命酒《しちめいしゅ》を呑《の》む和穂は疲《つか》れを知らず、戦いに手慣《てな》れた斉願は、無駄《むだ》な動きを抑《おさ》えて体力の消耗を防ぐ。
拳《こぶし》を打ち、防がれ、相手の蹴《け》りを受ける音が、デケデケデケデケと九鷲《きゅうしゅう》の耳に響《ひび》いていた。
「ねえ、和穂。いい加減《かげん》に飽《あ》きたわよ。さっさとけりを付けなさいよ!」
「わ、わかってるけろ、鎧《よろい》のせいで攻撃《こうげき》があんまり通用しない!」
「当然じゃ! この鎧は飾《かざ》りではないわい」
さらに、デケデケデケデケと打ち合いの音が響く。
ふと、九鷲は肌寒《はだざむ》さを感じた。
春とはいえ、まだ時折冷たい風が吹《ふ》いても不思議《ふしぎ》ではない。
それに、少し薄暗《うすぐら》くなってきたようだ。
もしかして、にわか雨でもふるんじゃないかと九鷲は空を見上げた。
空は暗かった。だが、雲は一つもない。
日が暮れるには、早すぎる。
九鷲は空を見回す。
薄暗さの原因が九鷲には判《わか》った。
太陽が欠《か》けているのだ。
九鷲は叫《さけ》ぶ。
「ね、ね! 見てみて、日食よ、珍《めずら》しい!」
叫んでから、少々|場違《ばちが》いにはしゃいでしまった事を知る。
一応《いちおう》、和穂と斉願は戦っている真《ま》っ最中《さいちゅう》なのだ。幾《いく》ら珍しくても、休戦して呑気《のんき》に日食を眺《なが》めるはずがない。
が、斉願は間合いを外《はず》し、空を見上げた。初めて見せた、斉願の大きな隙《すき》に和穂は逆に攻撃の手を休めてしまった。
空を見上げる斉願の表情は、怒《いか》りと絶望と狂喜《きょうき》が混《ま》じり合ったものだった。
「どうしたの爺《じい》さん! 日食ぐらいでおらついれ、おらら、おたついてるんじゃないよ」
和穂は思いっきり、舌を噛《か》んでしまった。切り傷なので、七命酒はあまり効《き》かなかった。
今までの斉願のどんな攻撃よりも、激しい舌の痛みに和穂はもんどりうつ。
「だれが、日食でおたつくか!
お前と遊んでいたせいで、とうとう奴《やつ》が来てしまったではないか! どうしてくれる。
だいぶ体力を消耗してしまったぞ!」
口の中の血を吐《は》き、和穂は言った。
「奴? ああ例の偽祝《ぎしゅく》?
ったく、判ったわよ。しょうがないわね。
そんなに気にかかるなら、さっさと釣《つ》っちゃいなさいよ。
それぐらいなら、待っててあげるから」
和穂は大地にドスンと座《すわ》り、グビグビと酒をあおる。
そんな和穂に目もくれず、斉願は湖面に視線を落とした。
「来るぞ!」
口許《くちもと》の酒を和穂は拭《ぬぐ》う。
「来る。ったって魚なんれしょ。日食とどう関係あるの?」
日は刻一刻《こくいっこく》と欠けていき、ついに全《すべ》て欠けた。
空に輝《かがや》く日輪《にちりん》は、漆黒《しっこく》の丸となり、その周囲には、最後の足掻《あが》きのような、光のうねりが踊《おど》り狂《くる》っていた。
ぞくりとした冷気が、湖に降り立った。
和穂は酒を呑みつつ、呑気《のんき》に言った。
「凄《すご》いね九鷲。完全な日食だよ」
九鷲は答えず、斉願と同じく見入られたように、湖面を見つめている。
「どうしたのよ?」
遅《おく》ればせながら、和穂も湖に顔を向けた。
酔っぱらい、豪胆《ごうたん》になっていた和穂だが、それを見て、さすがに少し驚《おどろ》いた。
「何、あれ?」
湖面はブクブクと泡立《あわだ》っていた。
空気の泡が、溢《あふ》れていると和穂は考えたがそうではなかった。
巨大《きょだい》な湧《わ》き水のように、湖の水量が増大しているのだ。
その証拠《しょうこ》に、増えている水は、この湖本来の水の色とは違っていた。
それは黒く光り輝く水だった。
「ちょっと、ちょっと、斉願! 何なのよ、あの黒い水!」
「異界《いかい》の水じゃよ。完全なる日食の刻、この湖は異界とつながる。そして、偽祝がやって来る」
この世にあらざる、異界の水は、湖の水とは混ざらなかった。
異界の水が吹《ふ》き出し、湖の水と絡《から》みあうが決して混ざらない。
吹き出す異界の水が減《へ》っていき、やがて湖は静かになった。
だが、湖面は奇観《きかん》を呈《てい》していた。
混ざらなかった異界の水のせいで、湖面はまるで木目のようになっていた。
広がり、たゆたう黒い線が油膜《ゆまく》のようになり、狂った木目を作っているのだ。
目の錯誤《さくご》だと判っていても、所々に人の顔を思わせる木目もある。
和穂は斉願の頭をポカポカ殴《なぐ》った。
「ぎ、偽祝って何なの!」
「偽祝は偽祝だ。それ以外ではない」
「あ、眼破《がんぱ》みたいなものなの?」
斉願は大きく笑う。
「そうだ。あれより、二回り程でかいが。娘《むすめ》よ。わしの獲物《えもの》に手を出すんじゃないぞ」
腰《こし》に巻いた、鱗帝竿《りんていかん》を斉願は解《ほど》く。
和穂は様子《ようす》を見るため、九鷲の所にまで下がった。
「ねえ、九鷲。どうなってるの?」
「知らないわよ!」
斉願は釣り竿を繰《く》り、湖に糸を垂らした。途端《とたん》に、湖面から雷《かみなり》を思わせる、光が轟《とどろ》く。
「さあ、釣り上げてくれるぞ、偽祝!」
斉願の言葉に反応《はんのう》したのか、鱗帝竿が大きくしなった。
ぎしぎし、ぎしぎしと、釣り竿は今にも折れそうだった。
「鱗帝竿! 偽祝を釣り上げろ!」
湖面の雷がさらに激しくなる。
斉願の額《ひたい》を滝《たき》のような汗《あせ》が流れ落ちていった。
湖面に突《つ》き刺《さ》さるかのように張り詰《つ》めた糸はやがて、狂ったように動き始める。
「さあ、ついに釣り上げてやるぞ!」
湖の中の影《かげ》に、九鷲と和穂は気がついた。巨大な何かが、湖の中にいる。
鱗帝竿の軋《きし》みが、だんだん小さくなっていく。
斉願の顔に、笑《え》みがこぼれた。
「へん。いかに偽祝とはいえ、所詮《しょせん》は魚。鱗帝竿の前に敵ではない」
さらに鱗帝竿を斉願は、しゃくる。
まるで、湖自体を釣り上げているようであった。湖面は鱗帝竿の釣り糸に引っ張られるように、盛《も》り上がっている。
「さあ、観念して釣られてしまえ!
水の中では、お前に何度も敗北したが、陸の上ではどうかな?
判《わか》っているぞ、化《ば》け物め!
お前は、眼破と違い陸では生きていけまいよ!
そのせいで、いつもわしに逃《に》げられているんだ。
陸の上で、お前がどういうふうにもがき苦しむか見せてもらおう!」
湖面が盛り上がり、泡が逆立つ。
湖の中で、何か巨大なものが動く轟音《ごうおん》が湖の外まで響く。
「さあ、こい! 偽祝!」
そして、偽祝は湖面から姿を現した。
偽祝の姿を見て、和穂と九鷲は戦慄《せんりつ》を覚えた。
いや、とうの斉願ですら、度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれていた。
斉願の知る偽祝より、その偽祝は遥《はる》かに大きかった。眼破《がんぱ》と比べて、何回り大きいかでは、説明にならない。
湖から現れたのは、偽祝の首だけだった。湖の下にはどれだけ巨大な体があるのだろうか。
目を丸く見開き、声を少し裏返して斉願は言った。
「え、えらくでかくなったな」
鱗帝竿に食らいついていたのは、一|匹《ぴき》の龍《りゅう》だった。
大きく裂《さ》けたロ、巨大な牙。岩のように頑丈《がんじょう》な無数の鱗《うろこ》。
青白く輝く、鋭《するど》い眼《め》。
龍は言葉を発した。
人間ではない動物が、人の声を真似《まね》た声だった。湖が喋《しゃべ》っているかのように、巨大な声で龍は斉願に語った。
「久し振《ぶ》りだな、斉願。俺《おれ》は偽祝だよ。今まで幼体《ようたい》だった。
くっくつく。でかい体になったはいいが、この姿は腹《はら》が減《へ》って仕方《しかた》がない。
斉願よ。お前を食らったぐらいでは、とても俺の飢《う》えはおさまらぬ。近くの里にでも降《お》りて、手当たり次第《しだい》に、食ろうてやるかな」
「……水から出られるのか?」
「出られずとも問題はない。俺の体はとてつもなく長いんでね」
九鷲は和穂の胸《むな》ぐらを片手で掴《つか》み、空《あ》いた方の手で、偽祝を指差《ゆびさ》しわめいていた。
「ちょ、ちょっと和穂、どうするのよ! 偽祝って龍じゃないの! やばいわよ! 人間を食べるって言ってるわよ!」
胸ぐらを掴まれ、激しく揺《ゆ》さぶられ、酔《よ》っぱらっている和穂は目を回す。
「目、目、目、目がまわ、まわ、回るうう」
斉願には九鷲の、錯乱《さくらん》したわめきは聞こえていなかった。
姿が変わったとて、こいつは偽祝なのだ。
それで、充分《じゅうぶん》だ。斉願の顔に再び笑みが戻る。
「せっかくでかくなったのに、お前の命運もここまでだ。今日はお主《ぬし》に勝つぞ。
この顔の傷の恨《うら》みと、お前に盗《ぬす》まれた鮒《ふな》の恨みは晴らさせてもらう」
鱗帝竿の釣り糸を口にくわえたまま、偽祝は唇《くちびる》をめくる。
それが笑顔を意味すると、斉願は知っていた。
「毎度の事だが、戦う前は威勢《いせい》がいいな。
今日はお前を逃《のが》しはせんぞ。
この口で、かみ殺してくれる!」
「水から出られないのなら貴様《きさま》の負けだ。
今、引きずり出してやる!」
斉願は後ずさりながら、鱗帝竿を引っ張った。
ギリギリと鱗帝竿は軋み、偽祝の唇をめくりあげる。
その姿は、まさに偽祝の笑顔だった。
「斉願よ、さっきから何をしている?」
「ふん。いかに、貴様とて宝貝《ぱおぺい》の前では鰯《いわし》と変わるまい!」
鱗帝竿は、さらに偽祝の唇をめくる。
その笑顔は、偽祝の作る笑顔か、鱗帝竿の作る笑顔か。
「はっはっは!」
「何がおかしい!」
偽祝は勝ち誇《ほこ》った声で言った。
「宝貝? 宝貝だと? その程度の宝貝が、俺に通用するとでも思ったのか!」
その言葉に九鷲は気絶《きぜつ》しそうになった。
己《おのれ》の言葉を証明するかのように、偽祝は鱗帝竿の釣り糸を噛《か》みきった。
どんな罪人《ざいにん》でも、自白しそうなほどの強さで、九鷲は和穂の胸《むな》ぐらをさらに揺さぶった。
「ど、どうしよう和穂! 何か凄《すご》い事言ってるよ、あの龍!」
「目、目、目、まわ、回るううう」
「あぁ、もう。ちょっと酔いすぎよ和穂!」
九鷲は手を離《はな》し、ようやく和穂は口を利《き》けるようになった。
「どうしらのよお、九鷲」
「だ、か、ら! 偽祝って龍だったのよ! どうしよう!」
まだ少し、目をまわしながら、和穂は答えた。
「龍? らいじょうぶ。これれも、仙人《せんにん》になる時、龍を収めた事があるんだから。
仙人になる為《ため》の資格試験は、龍を捕《つか》まえる事れれ」
酔えば酔うほど、和穂は強くなる。だが、状況《じょうきょう》判断が出来ないほど酔っぱらえば、本末転倒《ほんまつてんとう》だ。
九鷲は無数の平手《ひらて》を、酔いすぎでぐったりしはじめた和穂に見舞《みま》う。
「ぶベベ。らにするのの九鷲。べつにいたふないへろ、なぐられれはいいひはひはい」
「ああ、もう何言ってるか判らないわよ! ちょっとしっかりして!
龍を収めた事がある? 龍に勝った事があるのね?
じゃ、何か龍には弱点があるの? しっかりと話して」
和穂はゆっくりと、話した。
「龍の、ね、倒《たお》し方れすか?
難《むずか》しい、けど、理屈《りくつ》は、簡単《かんたん》よ」
「じゃ、早く倒してよ!」
「説明、して、あげます。
使用する、仙術《せんじゅつ》は、仙術は? あ、思い出せない! どうして?」
九鷲は後ろに引っ繰《く》り返りそうになった。
「せ、仙術って! あんた、仙術を封《ふう》じられてるんでしょ!」
和穂は焦点《しょうてん》の定《さだ》まらぬ目で、ボンと手を叩《たた》く。
「そういや、そうれした。うっく。ちょっと、酔い、過ぎた。悪いけど、少し、寝《ね》る」
和穂は地面に崩《くず》れ落ちた。
「わ、駄目《だめ》よ、こんな時に寝ちゃ!」
酔っぱらいはどこででも寝る。
九鷲に揺さぶられようが、平手打ちを食らおうが、和穂は目を覚まさなかった。
そして、斉願は偽祝に戦いを挑《いど》んだ。
鱗帝竿《りんていかん》の糸は切れた。だが、破壊《はかい》はされていなった。
竿《さお》自体が破壊されなければ、大丈夫《だいじょうぶ》なように造《つく》られているのだろうと、斉願《さいがん》は考えた。
そして、頭上の偽祝《ぎしゅく》を見上げる。
巨大《きょだい》な龍《りゅう》だ。
さらに上体を湖から引き上げ、鳥のような爪《つめ》までが見えている。
まだ偽祝が幼体だった頃《ころ》、今より遥《はる》かに小さかったあの爪で、この顔の傷は付けられたのだ。偽祝は、地響《じひび》きのように笑った。
「どうした。そうやって、いつまでも俺《おれ》を見上げているつもりか?」
「でかい、図体《ずうたい》をしおって。切り刻《きぎ》んでやるにも、手が届《とど》かんわい」
斉願の言葉に反応し、鱗帝竿は蛇《へび》のように老人の右|腕《うで》に巻きついた。
龍は、その長い胴体《どうたい》を急激にしならせながら叫《さけ》ぶ。
「それはすまなかったな!」
その姿はまさに、獲物《えもの》を狙《ねら》う蛇《へび》の一撃《いちげき》だった。巨大な牙《きば》が斉願に向かい襲《おそ》いかかる。
すんでの所で斉願は、偽祝の一撃をかわした。
偽祝の首は地面すれすれで止まり、斉願と偽祝は互《たが》いの息づかいが聞こえる程の近さにいた。
「斉願よ。どうやって、俺に傷を負わすつもりだ」
偽祝の瞳《ひとみ》に映《うつ》る斉厳の姿は、実物と全《まった》く同じ大きさだった。
巨大な瞳に、老人は左手の鉤爪《かぎづめ》を振《ふ》るう。
ガキン。
岩に切り付けたような音がして、鉤爪は全《まった》く歯が立たない。
偽祝はまばたきをした。
瞼《まぶた》に巻き込まれた鉤爪は、バリンと砕《くだ》け散った。
鉤爪の破片が、斉願の頬《ほお》を切る。
ゆるりと、再び偽祝は上体を持ち上げた。
「もはや、打つ手もあるまい!」
再び、偽祝の一撃が斉願を襲《おそ》う。
だが、斉願は懐《ふところ》から竹筒《たけづつ》を取り出し、龍に向かい投げつける。
斉願には勝算があった。たとえ鋼《はがね》の刃が通じない、岩のような体を偽祝が持っていようと、爆薬にはかなうまい。
爆薬の力ならば、岩ですら砕ける。
「吹《ふ》っ飛んでしまえ!」
偽祝の顔に当たり、竹筒は吹き飛んだ。斉願まで届いた熱い爆風ですら、彼には心地好《ここちよ》い。爆薬《ばくやく》の巻き起こす爆煙《ばくえん》の黒い煙《けむり》が広がる。
この煙が晴れた時、目の前には偽祝の死体が横たわっているはずだ。ついに偽祝を葬《ほうむ》り去ったのだ。
黒い煙を切り裂《さ》き偽祝の顔が現れた。
偽祝の顔には、火傷《やけど》も傷もない。斉願は膝《ひざ》をついた。
闘志《とうし》が見るまに萎《な》えていく。不屈《ふくつ》の闘志には自信があった。だが、なぜこんなにも力が抜《ぬ》けるのか、斉願には不思議《ふしぎ》だった。
答えは判《わか》っていた。
幼体の偽祝と、今の偽祝は全く別の生き物なのだ。あまりに、自分と格が違《ちが》い過ぎる。
腕の差ならば、偶然《ぐうぜん》の一撃で勝てる可能性はある。だが、自分の攻撃は完全に通用しないのだ。勝てる確率が少ないだけならば、膝を屈《くっ》しはしなかっただろう。だが勝てる可能性はないのだ。
まだ、幾《いく》つかの武器は仕込《しこ》んである。だがどの武器もこの龍に傷を付けられない。この龍を倒せる武器を想像する事すら出来ない。
もはや、勝つ術《すべ》はない。
敗北《はいぼく》を認めたくはなかった。だが、魂《たましい》の奥底では敗北を認めてしまっている。
打倒偽祝のために費《つい》やした斉願の人生が、今まさに無駄《むだ》になろうとしているのだ。
偽祝は、唇《くちびる》をめくった。
「長年戦ってきたが、とうとう戦意を喪失《そうしつ》したか。今までにも貴様《きさま》を殺そうと思えば、殺せたぞ。
だがな、俺はお前の不屈の魂が、俺に屈する姿が見たかったのだ。
だから、逃げ出すお前を本気になって追い掛《か》けはしなかった。
その姿を見れば、もうお前に用はない。
死んでしまえ!」
九鷲《きゅうしゅう》は慌《あわ》てて和穂《かずほ》を起こそうとする。
「起きなさいよ和穂!」
少しばかり眠《ねむ》った和穂だが、九鷲のあまりのしつこさに、とうとう目を開けた。
「なによお。眠らせてよ」
「それどころじゃないでしょ!」
そして、偽祝の一撃が斉願を捉《とら》えた。
巨大な龍の体をしならせた体当たりが、老人の体に当たる。
無数の骨が折れる音を立てて、斉願は地面に叩《たた》きつけられた。
「ぐぼ!」
「さあ、では食らってやろう」
偽祝の口が開かれたが、和穂の言葉が龍の動きを止めた。
「ちょっと、待ちなさいよ」
フラフラとよろめきながら、和穂は斉願のそばへと歩み寄った。
恐《おそ》れを知らず、堂々《どうどう》とした和穂の態度《たいど》に逆に偽祝は気をのまれた。
「なんだ貴様は?」
「和穂よ。ちょっと待っててね。私が相手をしてあげるから」
和穂は、今にも命の灯《ひ》が消えそうになっている斉願を、抱《だ》き抱《かか》えた。
「斉願、勝負の決め手は、魂の強さらなかったの? あきらめてどうするのよ」
気絶している人間の顔に、水をかけるように、和穂は斉願に七命酒《しちめいしゅ》を浴びせた。
口許《くちもと》から染《し》み込んだ七命酒が、斉願を酔《よ》わせる。
斉願は自分の体から、痛みが消えていくのを感じた。
七命酒の力で、斉願の打撲《だぼく》は見るまに治った。しかし、完治《かんち》はしていない。あまりの強烈《きょうれつ》な打撃《だげき》に肉体の一部は、裂《さ》けて血が出ているのだ。その部分の怪我《けが》は治っていない。
痛みを消し去る酔いは、気持ち好《よ》かったが、酔いに身を委《ゆだ》ねている場合ではなかった。
「か、和穂。なぜ俺を助ける!」
うとうとしながら、和穂は七命酒を斉願に浴びせ続けた。
「当たり前れしょ。別にあんたを殺すつもりはないんらから。
頑固《がんこ》な爺様《じいさま》相手に、話し合いが通用しなかったから、力に頼《たよ》ったけど、あんたを殺すつもりはないの。
判ったでしょ? 最初に殷雷《いんらい》と戦ってた時、殷雷はあんたより、ずっと強いのに、殺さないように加減《かげん》をしてた。だから、隙《すき》をつかれたんだよ」
断縁獄《だんえんごく》から滴《したた》り落ちる、七命酒がピタリと止まった。
「ありゃりゃ。七命酒は品切れか。
直接、傷にかけたら出血も治るかと思ったけど、違ったみたいね。
ちょっと、もったいない事しちゃったかな? わはは。
まあいいや。あの龍を倒《たお》すのには、もう必要ないからね」
「偽祝と戦うつもりか!」
「そうよ。謝《あやま》ったからって、許してくれそうにないじゃない」
「正気か! 奴《やつ》には武器も爆薬も通用しないんだぞ! 勝算はあるのか!」
「あるわよ。普通《ふつう》の武器なら、通用しなくても、宝貝《ぱおぺい》の武器なら通じるはずよ。
判ったれしょ。殷雷を返して。殷雷の刃なら、通用する」
その手があったのだと、斉願は驚《おどろ》く。呆気《あっけ》なく眼破に倒された殷雷が戦力になるとは、全く気がついてなかった。あれでも刀の宝貝なのだ。
斉願の瞳に活気が戻った。
斉願は右手の鱗帝竿を外《はず》した。
和穂は締《し》まりのない顔で言った。
「やっと、言うことを聞いてくれるわね」
「判った。殷雷は返してやる。だがな。殷雷を使って偽祝を切り刻《きざ》むのは、俺にやらせてくれ!」
「仕方《しかた》ないわね。その代わり、偽祝を倒《たお》したら素直《すなお》に宝貝を返しなさいよ」
「ええい、判っておる」
斉願は鱗帝竿を操《あやつ》り、釣《つ》り糸を湖に垂《た》らした。そして、一気に眼破《がんぱ》を呼び出す。
異形《いぎょう》の魚が途端《とたん》に湖から出現したが、偽祝の大きさから見れば、鮫《さめ》の前の鰯《いわし》に見える。
斉願は叫《さけ》んだ。
「眼破! 刀《かたな》を」
偽祝はしなり一口で眼破に食らいついた。
そして、その巨大な牙《きば》で、グシャラグシャラと、眼破を噛《か》み砕《くだ》いていく。
眼破の骨も楽々と噛み砕く偽祝の顎《あご》だったが、口の中の異物感《いぶつかん》に少し戸惑《とまど》う。
「ふむ。この硬《かた》いのが宝貝の刀か。そんな物騒《ぶっそう》な物は、腹《はら》の中にしまっておこう」
グビリと偽祝は、殷雷|刀《とう》を飲み込んだ。
「眼破!」
「殷雷!」
最後の望みも、本当についえたと斉願の顔に絶望が浮《う》かぶ。
和穂は、舌打《したう》ちをしながらグビグビと五吼酒《ごこうしゅ》をあおる。
何度も何度も、五吼酒をあおり、そして斉願に言った。
「斉願。あそこに九鷲がいるれしょ。あそこまで下がってなさい」
「まだやる気なのか!」
「たりまえよ。ここで諦《あきら》めてどうする。歩くぐらいなら出来るれしょ。
早く!」
和穂に怒鳴《どな》られ、斉願は九鷲の側《そば》へと歩いていく。まだ全身に残る痛みと、七命酒の酔いで斉願の歩《あゆ》みは頼《たよ》りない。
立ち去る斉願に代わり、自分をにらみつける少女に偽祝は興味を覚えた。
「お前は誰《だれ》だ?」
「和穂」
「仙人《せんにん》のような気だが、少し妙《みょう》だな」
「そうかもね。仙術《せんじゅつ》が使えないように封印《ふういん》されてるんらから」
偽祝の目に嘲《あざけ》りの色が浮かぶ。
「術の使えない仙人だと? それがこの俺と戦うのか?」
「そうよ。あんたをどうやって倒そうか、考えてるのよ」
湖面が一瞬《いっしゅん》、大きくざわめく。
「ほお、面白《おもしろ》い。俺を仙術も使わずに倒す方法があるとでも思うのか? 頼《たの》みの刀は俺の腹の中なのだぞ!」
和穂はしばし、沈黙《ちんもく》した。
そして、最後の一口《ひとくち》の五吼酒をあおる。
これで、後は酔いが覚めるだけ。酔いが覚めれば覚める程、和穂の力は落ちていく。
そして、和穂は言った。
「……思いついたわ。怪我《けが》したくなかったらさ、さっさと殷雷を吐《は》き出して、とっとと本来の世界に帰りなさい」
「……帰ると思うか?」
「へへへ。思わないけどさ」
和穂は不敵に笑った。
斉願は息を吐《つ》いた。
「女! あの小娘《こむすめ》は何をするつもりだ!」
「怪我を治す、七命酒。武人《ぶじん》の力を与《あた》える五吼酒。今まで使っていたのは、その二つ。
でももう一つ、酒がある。魂沌酒《こんとんしゅ》よ」
「その酒にも、妙な仕掛《しか》けがあるのか?」
「魂沌酒は、呑《の》んだ者の理性を吹《ふ》っ飛ばす代わりに、本来の何十倍もの力を与える酒。そのあと、しばらく気絶するけど」
「その酒を使って、気絶するまでにあの娘は偽祝を倒せるのか?」
九鷲は首を横に振《ふ》る。そして、和穂に向かい忠告する。
「和穂! 魂沌酒を呑んでも、偽祝には勝てないわよ! 魂沌酒が増大させるのは、あなたの本来の力、五吼酒で強くなっている和穂の力じゃない!
元の数字が小さいんだから、増大させてもたかが知れてる!」
斉願は、九鷲の袖《そで》を引く。
「待て。ならば、わしがその魂沌酒を呑《の》めばどうなる? あの娘と違い、わしは元々強いんじゃぞ」
九鷲は、斉願の全身をながめた。七命酒の力でどうにか動いているが、怪我の程度が酷《ひど》い。恐《おそ》らく、内臓の幾《いく》つかは出血しているのだろう。
「あなたなら、勝てたかもね」
「勝てた。とはどういう意味じゃ!」
「魂沌酒は、怪我は治せない。
あなたのその怪我じゃ、強くなっても偽祝とは戦えない。魂沌酒を呑んで、やっと偽祝と互角《ごかく》になれるのよ。
同じ力の相手が戦うのに、片方は無傷、片方はズタボロじゃ勝負にならないでしょ」
「ならば、あの娘は何をやる気なんじゃ!」
「……策を思いついたんだろうけど。酔っぱらってるからねえ。ちゃんと理屈《りくつ》を通して考えてるかな?」
「……皆殺《みなごろ》しにされるぞ」
偽祝は、ズイズイと和穂に顔を近づけた。術の使えない仙人が、自分をどうやって倒すか、興味を覚えたのだ。
「さあ、どうやって俺を倒す? 下らんハッタリはやめろよ」
「ハッタリじゃないよん」
和穂は断縁獄《だんえんごく》を、今にも自分を食らう為《ため》に開かれそうな、偽祝の牙と牙の隙間《すきま》に差し込んだ。そして素早《すばや》く叫ぶ。
「出ろ、魂沌酒! あるだけ全部よ!」
断縁獄から吹き出す魂沌酒を、偽祝は思わず飲み込む。
そして、和穂は叫ぶ。
「九鷲! 斉願を連れて逃《に》げるわよ!」
九鷲は和穂の狙《ねら》いを知った。
偽祝に魂沌酒を呑ませ、数十倍の力を与える。だが、これは、どうでもいい事だ。
和穂は、その後の気絶を狙っているのだ。数十倍の力を得る、わずかな時間を逃げきれば、偽祝は気絶するはずだ。
九鷲は和穂の狙いを完全に理解し、怒鳴った。
「無茶《むちゃ》にも程があるわよ! 逃げきれなかったらどうするのよ!」
「そんときゃ、また考えるわよ!」
和穂は出来るだけ、偽祝との距離《きょり》を稼《かせ》ぎたかった。理性を失い、暴《あぼ》れる偽祝の巻き添《ぞ》えになるのは願い下げだ。
逃げる和穂の背中を見て、龍は言った。
「術の使えぬ仙人よ。
所詮《しょせん》は小細工《こざいく》だな。何を呑ませたか知らないが、俺には通用せんぞ」
理性の宿《やど》る声に、三人の動きがピタリと止まる。一番驚いたのは、九鷲だった。
「そんな、馬鹿な。あれは仙酒《せんしゅ》よ。たとえ龍でも、呑めばその効果があるはず! 仙人にだって効くのに!」
「素直《すなお》に呑めばな。
口に入れ、臓物の中に落ちたとて、まだ呑んだ事にはならん。
俺が望まぬ物は、俺の臓物は一切吸収《いっさいきゅうしゅう》しないのだ。
俺の血肉とならぬ限り、いかな仙酒とて効果はない!」
九鷲と斉願は、地面に力なく座《すわ》り込んだ。
「ここまでね」
そして和穂は、くるりと偽祝に振《ふ》り向いた。その顔には笑《え》みがこぼれている。
「さあ、勝負があったわね。
偽祝。素直に私の言うことをきいてたら、痛い目に遭《あ》わずにすんらのに。
魂沌酒が効かない? もしかしたら、それぐらいの事はやるんじゃないかと思ったわよ。あんたは、判断を間違《まちが》えた。より自分に不利な方を選んらのよ」
「開き直りか! 何を根拠《こんきょ》に……」
偽祝の言葉がピタリと止まった。
和穂は偽祝に背中を向け、九鷲たちの側にゆっくりと歩いていった。
そして、酔っぱらいの独《ひと》り言《ごと》をブツブツとつぶやく。
「まあ、あれだけ図体《ずうたい》がでかいんだから、死にはしないと思うよ。
でもね。しばらくの間は、美味《おい》しく御飯《ごはん》は食べらんないれしょうね」
偽祝の口から叫《さけ》び声が洩《も》れた。くぐもった不自然な叫び声だ。
和穂は九鷲の隣《となり》に座ると、そのまま大の字になった。
「九鷲。ちょっと寝《ね》る。その爺《じい》さんが逃《に》げないように見張ってて」
「ちょっと和穂! 偽祝はどうするの」
「……もう終わってるわよ。私たちの勝ち。やっぱし殷雷《いんらい》って頼《たよ》りになるよね」
そして、小さな寝息《ねいき》をたてはじめた。
「殷雷って、どういう意味?」
偽祝の叫びはだんだんと大きくなる。獣《けもの》じみた叫びだが、偽祝自体は微動《びどう》だにしない。
だが、龍の表情は強張《こわば》り始めていた。
獣の叫びが周囲にも聞こえる。
上体を持ち上げていた、偽祝の体がユラリと揺れ、そのまま地面に倒れこんだ。
土煙《つちけむり》と轟音《ごうおん》の中でも、獣の叫びは聞こえている。偽祝は白目をむいていた。
さらに強くなる獣の叫び。
そして、偽祝の牙は内部からへし折られ、飛び散った。
「ぐおおおう!」
雄叫《おたけ》びにも似た、獣の叫びの主《あるじ》は、偽祝の体から躍《おど》り出た。
それは殷雷だった。
髪《かみ》の毛は逆立《さかだ》ち、豹《ひょう》のように爪《つめ》を逆立てている。歯と歯を噛《か》み締《し》める音が叫びの間に轟《とどろ》いている。
全身に浴びた赤い血が、殷雷の帰還《きかん》の方法を物語っていた。
恐《おそ》らく、偽祝は食道から胃にかけて、かなりの傷を負わされているのだろう。
殷雷は太陽に向かい狂喜《きょうき》の叫びを上げた。捕《と》らわれの野獣《やじゅう》が解放された喜び、そのままだった。
そして、殷雷はバッタリと倒れた。
九鷲は腰《こし》を抜《ぬ》かしながらも、周囲を見回した。全《まっと》うに立っているのは自分だけだった。
「ともかく勝ったのね!」
和穂と殷雷は、大の字になって眠《ねむ》りながら互《たが》いにいびきをかいていた。
殷雷は眉間《みけん》に手を当て、首を激しく振《ふ》る。意識を取り戻《もど》しても、まだ魂沌酒《こんとんしゅ》の酔いが残っていた。
なぜだか、横では和穂が嬉《うれ》しそうに殷雷の背中をポカポカ叩《たた》いている。
「殷雷だ! 良かった良かった。わはは」
和穂も酔っぱらってやがると、殷雷は考えた。一体何が起きたのだ? 周囲を見回せば赤い顔をした斉願がいた。こいつも酔ってやがるな。
そして、殷雷は九鷲の姿を見つけた。
「て、てめえは九鷲! なんれ外に出ていやがるんら」
頭の芯《しん》が揺《ゆ》らめき呂律《ろれつ》も上手《うま》く回らない。
「あんたを助ける為《ため》に、和穂に手を貸してたのよ」
「和穂に何をした?」
「五吼酒《ごこうしゅ》を造ってあげたの」
和穂の酔いの意味を殷雷は知った。この仙酒の名は殷雷もよく知っていた。
和穂は背中に続いて、ポカポカ殷雷の頭を叩きだしたが、振り払《はら》うのも面倒《めんどう》だ。
「どうやって、俺を助けたんら?」
「魂沌酒は知ってるね? あれを龍を呑《の》ませたの。龍は魂沌酒を拒絶《きょぜつ》したけど、腹の中のあんたには効《き》いたみたいね」
「お、俺は酒なんか、呑んれないろ」
「魂沌酒は、普通《ふつう》の仙酒とは質が違う。防御《ぼうぎょ》しない限り、触《ふ》れただけで体内に吸収《きゅうしゅう》されるのよ」
だいたいの事情は殷雷にも飲み込めた。
不快な酔いではなかったが、上手《うま》く頭が回らないのが殷雷には、腹立たしかった。
斉願の酔いはまだ、ましなようだ。
「偽祝は死んだのか?」
「いや、まだ息はあるろ」
「とどめを刺《さ》さねば!」
斉願の声が聞こえたのか、偽祝の姿が薄《うす》れていく。異界《いかい》の黒い水も消えていく。そして、黒く欠《か》けていた太陽も本来の光を取り戻していった。
「逃げるか、偽祝!」
殷雷は斉腰の肩《かた》を強引《ごういん》に引き戻す。
「そうさ、奴《やつ》は逃げたんら。もう、人間の世界にちょっかいは出さぬだろう」
吐《は》き捨《す》てるように、斉願は言った。
「ふむ。奴には誇《ほこ》りある死より、逃走《とうそう》という屈辱《くつじょく》がお似合いだ」
へらへら笑っていた和穂は、またしても余計《よけい》な事を言う。
「はっはっは。斉願も、偽祝の前から何回も逃げてたんらないんれすか?」
ムッとした斉願の拳《こぶし》が、和穂の眉間《みけん》に炸裂《さくれつ》し、反射的に殷雷の回し蹴《げ》りが斉願の首に入った。和穂も斉願も、七命酒の酔いが残っているのでたいした怪我《けが》にはならない。
九鷲はそんな三人を見てボソリと言った。
「この酒の酔いって、基本的に上品さに欠けるわよね」
スタスタと九鷲は、和穂のそばに歩み寄り自分の耳に着けていた索具輪《さくぐりん》を返す。
代わりに、和穂の手から断縁獄《だんえんごく》を外した。
殷雷は、酔いを覚ますのに必死《ひっし》で、九鷲の行動にまで気が回っていない。
九鷲は断縁獄から、竹の湯飲みを取り出して水を注《そそ》ぐ。
そして、何回か湯飲みの中の水を回して、和穂に渡《わた》す。同じように、別の竹の湯飲みを斉願にも渡して、最後に殷雷にも渡す。
そして、三人に言った。
「いいじゃないの。結局丸く収まってさ。和穂は鱗帝竿《りんていかん》を取り戻せたし、どうにか偽祝にも一泡《ひとあわ》ふかせられたしね。
さ、みんなで祝杯《しゅくはい》を上げましょ。
せえの、乾杯《かんばい》!」
三人は九鷲に促《うなが》されるままに、竹の湯飲みをぶつけ合い、そして湯飲みの中身をあおった。
殷雷の動きがピタリと止まる。あれだけ呑気《のんき》に酔っぱらっていた和穂でさえ、体を強張《こわば》らせた。これは、水じゃない。
殷雷が怒鳴《どな》り声を上げる前に、九鷲は軽く笑って別れの挨拶《あいさつ》をした。
「じゃ、そういうこと。礼には及《およ》ばない。徳利《とっくり》の宝貝《ぱおぺい》として、当然の行いよ。じゃあね」
そして、九鷲は自《みずか》らを断縁獄の中に収容した。断縁獄は、柔《やわ》らかい草の上に落ちた。
竹の中の酒を斉願はゆっくりと味わった。
「そうか、あの女は徳利の宝貝だったのか。ならば悪い事を言ってしまったのかもな。
それにしても、美味《うま》い酒じゃな。酒の悪口を言ってしまったが、わしはたいした酒を呑《の》んだ事がなかっただけじゃったわい。
こんなに、美味いのなら酒もいいもんじゃないか。
なあ、刀《かたな》の宝貝よ。この酒の喉越《のどご》しの良さに清涼感《せいりょうかん》、微《わず》かに漂《ただよ》う花の香《かお》りなんざ、美味いとは思わんか?」
斉願の言葉は無視して、和穂と殷雷は喉《のど》を抑《おさ》えていた。
もはや、何をしょうが後の祭りだ。
和穂は泣きそうな声で言った。
「の、呑まされちゃったよう。九鷲酒!」
『鱗帝竿』
自在にその姿を変え、自由自在に己《おのれ》の望む魚をいとも簡単に釣《つ》り上げる釣り竿《ざお》の宝貝。
当然、すぐ飽《あ》きる。
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あとがき
『奮闘編』
奮闘編? て事は外伝か何かなのか? 本編を読んでいなくても、意味が判《わか》るかな?
と、お悩《なや》みの諸君《しょくん》。大丈夫《だいじょうぶ》、意味は判るようになっておるよ。
私も外伝っぽい本を見つけた時には、いつもそう考えるから、気持ちはよく判る。
外伝にも色々《いろいろ》あって、本編のエピソードの後日談《ごじつだん》とか、本編では脇役《わきやく》だった登場人物が主役の物語とかあるが、これはそういうのとはちょっと違う。
何とこの奮闘編、本編とやっている事が全《まった》く一緒《いっしょ》という、考えようによっちゃ凄《すさ》まじい外伝なのである。
本編も奮闘編も、目的は一つ。宝貝《ぱおぺい》の回収なのだ。
奮闘編は、短編集でもあり、各短編で一つの宝貝を回収する。
長い話は、読むのが面倒《めんどう》だ! という御仁《ごじん》には、こっちの奮闘編の方が性《しょう》に合うであろう。
両方読んでくれれば、それが一番|嬉《うれ》しいが、本編を読まずとも奮闘編の内容は判るし、逆に奮闘編を読んでいなけりゃ判らない宝貝が、本編の方に登場したりもしないと思う。
今のところは。
『編集後記』
そんなわけで、皆さんこんにちは、ろくごまるにだ。
以前から要望《ようぼう》が多かった、短編版「封仙娘娘追宝録」をまとめて、奮闘編としてみた。
この短編は、ドラゴンマガジンに掲載《けいさい》されていたのだが、結構《けっこう》見落としていた方が多いようだ。
まあ、ちょくちょく載《の》っていたのに、別に連載《れんさい》でもなんでもなく(本当)、次号予告に載ってなかったりしたから(本当)、油断《ゆだん》してたら見逃《みのが》してしまうわな。
別にいいや、文庫にまとまってから読むから。なんて思っていると、「封仙娘娘追宝録」幻のカラー特集を見逃すような事になったりする。
「封仙娘娘追宝録」の特集なんざ、次にいつあるか判らないし、こればっかりは、後《あと》で見る事も出来ないぜい。
そんな訳で皆で読もうドラゴンマガジン、「封仙娘娘追宝録」は載ってなくても、担当Y氏やS女史の編集後記は毎月載っている。
傾向として、Y氏の後記は馬や牛(?)の話が多く、S女史の後記は、妙《みょう》に寂蓼感《せきりょうかん》が漂《ただよ》っているぞ。
おっと、ドラゴンマガジン誌上では、Y氏は(ヤ)、S女史は(さ[#底本では○の中にさ])になってるので注意。
『作品解説』
さて、困《こま》った。あとがきのネタがない。いや、色々と面白《おもしろ》い話はあるのだ。
夜明けの迫《せま》る午前四時、南河内《みなみかわち》のショットバーでバツ三の飲んだくれたマスターが、刺身《さしみ》をつつきながら語ってくれた、人生の極意《ごくい》とモンゴイカの話とかな。だが、わしも酔《よ》っぱらっていて、モンゴイカの話は覚《おぼ》えているが極意の方は忘れてしまった。
そこで、今回はあとがきらしく、作品解説をやってみよう。
ネタが割れるかも知れないので、先に短編の方を読んでおいとくれ。
「バラの酔っぱらい」
これぞ、世にも珍《めずら》しい、締切《しめきり》に追われずに書いた話。自分で自主的に書いて、Y氏に見てもらったのだ。
それで、ドラゴンマガジンに載せようという話になり、一連の短編群の礎《いしずえ》となったのである。
内容が内容なだけに、掲載《けいさい》に到《いた》るとは考えていなかったが、「食前絶後!!」の時といい、結構《けっこう》一か八かの冒険が好きなY氏である。
うむ。お酒は二十歳になってからだ。
「くちづけよりも熱い拳」
「封仙娘娘追宝録」を書き始めた時に、決めた事がある。それは、妖怪《ようかい》ネタはやらないという事だ。
妖怪ネタはやらないと決めたから、妖怪は出ないんだよう。では、いまいち説得力《せっとくりょく》に欠《か》けるので、妖怪が出ない理由をこの話で明らかにした。
余談《よだん》だが、かの殷雷刀《いんらいとう》は妖怪を相手にした場合、絶大なまでの切れ味を見せる。妖怪にあまり手応《てごた》えがないのは、その為《ため》である。
あと、タイトルは会心《かいしん》の出来。
「意地を断ち切る犬の門」
三本目の掲載作。そろそろ、ネタに困りはじめる。仕方がないので、長編用のアイデアをこちらに持ってきた。
狼《おおかみ》の形態《けいたい》をとる武器の宝貝というアイデアを、短編用にアレンジし、こういう話になった。
「大地に轟《うごめ》く花の王」
今までの三本を見て、気がついた。どの話も妙にスケールが小さいではないか。
小屋や洞窟《どうくつ》や、門の前で戦ってばかりだ。
ならば、ここは一つ派手《はで》に、人類の存亡《そんぼう》を懸《か》けた戦いにしようと考えたのが、この話。
かつてない壮大《そうだい》なスケールの話だが、戦っているのは、やはり人の家の庭先だった。
どう考えても、絵にしたら間抜けだろうと思っていたレンゲの王が、ドラゴンマガジン掲載時のイラストでは、かなりそれっぼくなっていた。こういう所が、ひさいち氏のイラストの凄《すご》さだと思うが、どうか?
「バラの酔っぱらい、ふたたび」
書き下ろしの中編。
ドラゴンマガジン掲載分を、文庫にまとめた時には、書き下ろしが付く事が多いようである。
奮闘編を出す話が出る前から、薄々《うすうす》予想していたので、原稿用紙四十枚分の、書き下ろしのアイデアは温めていたのだ。
が、
打ち合せの時、Y氏は言った。
「書き下ろしは百二十枚ですよ」
鼻血《はなぢ》を噴《ふ》き出しながら、引っ繰り返ったがこんな事で、負けてはいけない。
ゼイゼイ息を吐《は》きながら、立ち上がった私にY氏の、さらなる一撃が襲《おそ》いかかる。
「奮闘編を出版するのを、一か月早めようと思うので、締切も一か月短縮ね」
涙を流し、震《ふる》えるように首を横に振る私を残して、Y氏は東京へ帰っていった。
けどまあ、こうして本が完成しているのだから、上手《うま》くいったのだろう。人間やれば出来るもんである。
あ、あの化け物は、異界の生物であり妖怪じゃないぞ。けど、紛《まぎ》らわしいから、異界の生物ネタもついでに封印してしまおう。
くどいようだが、お酒は二十歳になってからだ。
『以下、次巻』
そんなこんなで、紙数も尽《つ》きた。恐《おそ》らく二巻も出ると思うので、またお会いしよう。
ではまた。
……モンゴイカのゲソは、あまり美味《うま》くないらしい。
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初出
バラの酔っぱらい 月刊ドラゴンマガジン1996年5月号
くちづけよりも熱い拳 月刊ドラゴンマガジン1996年8月号
意地を断ち切る犬の門 月刊ドラゴンマガジン1996年10月号
大地に轟《うごめ》く花の王 月刊ドラゴンマガジン1996年12月号
バラの酔っぱらい、ふたたび 書き下ろし
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》・奮闘編《ふんとうへん》1 くちづけよりも熱《あつ》い拳《こぶし》
平成9年10月25日 初版発行
著者――ろくごまるに