封仙娘娘追宝録9 刃を砕く復讐者(下)
ろくごまるに
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)殻然《かくぜん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|損《そん》な性格をしている
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目次
『破片《はへん》に映《うつ》るもの』
終 章『かけらの記憶《きおく》』
あとがき
[#改ページ]
『破片《はへん》に映《うつ》るもの』
破壊《はかい》された。
全《すべ》てが砕《くだ》けていく。全てが終わり行く。
全ての可能性は今ここに断たれた。
砕ける視界《しかい》に無限《むげん》の影《かげ》が踊《おど》る。
鏡の割《わ》れる音がした。それが己《おのれ》の砕ける音だった。
崩壊《ほうかい》する喉《のど》が叫《さけ》ぶ。
「和穂《かずほ》!!」
一つの影が、きらめきながら崩《くず》れゆく破片に映《うつ》り、無数の影となる。
影は地面に倒《たお》れる和穂の姿《すがた》だった。
[#改ページ]
終 章『かけらの記憶《きおく》』
今までに怒《いか》り狂《くる》う人間を和穂《かずほ》は、どれほど見てきただろうか。
和穂は「怒り」について充分《じゅうぶん》理解《りかい》しているつもりだった。
和穂とて、今までに腹《はら》のたつこともあった。
だが、彼女の怒りは長く続かない。それは一瞬《いっしゅん》閃《ひらめ》くものであって、松明《たいまつ》のようにえんえんと燃《も》えつづけるような感情《かんじょう》ではなかった。
怒りに身を焦《こ》がす者たちの心を和穂は本当には理解していなかったのだ。
今、彼女は初めて怒りの持つもう一つの側面を知った。
怒りはなんと優《やさ》しいのか。
怒りは苦しみや絶望《ぜつぼう》を紛《まぎ》らわしてくれる。
怒りは苦しみや絶望を追い払《はら》ってはくれないが、少なくとも和《やわ》らげてはくれるのだ。
寝台《しんだい》に横たわる和穂の目に、黒く煤《すす》けた天井《てんじょう》が見えた。
瞼《まぶた》にまとわりつく、瞳《ひとみ》の腫《は》れぼったさは眠《ねむ》りに落ちる前に泣いていた証《あか》しだろう。
どこか近くで心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》を思わせるような、機織《はたお》りの規則《きそく》的な音がしていた。
和穂の記憶は混乱《こんらん》し、曖昧《あいまい》になっていた。
確実《かくじつ》に覚えている事といえば、洞窟《どうくつ》の中での殷雷《いんらい》の言葉ぐらいだった。
殷雷はあの洞窟の中で確《たし》かに言った。
『俺《おれ》の体はもう長くはもたない』
そんな大事な話をどうして今まで私に黙《だま》っていたのか。それが怒りと涙《なみだ》の理由だと思ったが、実際《じっさい》はそうではなかった。
殷雷を失う恐怖《きょうふ》を、怒りで必死になって紛らわそうとしていただけだったのだ。
そうとは判《わか》っていても再《ふたた》び怒りがこみ上げてくる。
怒りの熱だけが、悲しみの冷たさを和らげてくれるのか。
トントンと機織りの音が聞こえつづけていた。
和穂は上体を起こした。部屋の片側には機織りの機械が据《す》えられている。
機織りの女の背中《せなか》が見て取れた。短めに切りそろえた髪《かみ》の毛、すらりと伸《の》びた背中。和穂とそれほど年が離《はな》れているのでもないだろうが、遥《はる》かに大人びて見えた。
機織りの女は、和穂に背中を向けたまま言った。
「一番ましなのは『あの人は死にました』その次は『あなたはそのうち死ぬでしょう』一番|辛《つら》いのは『あの人はそのうち死ぬでしょう』死の宣告《せんこく》なんてそんなものよ」
一般論《いっぱんろん》や憶測《おくそく》から来た言葉ならば、そこに一種のうねりが起きる。自分が見ていないものを語る時の微《かす》かな澱《よど》みだ。彩朱《さいしゅ》の言葉にはうねりも澱みもない。淡々《たんたん》と自分の経験《けいけん》を語っているに過《す》ぎなかった。
寝起《ねお》き直後の掠《かす》れた声で、和穂は機織りの女に言った。
「彩朱さん……」
彩朱は自分そのものも機織りの一部になったかのように、機械的に体を動かしつづけていた。
彩朱の姿《すがた》があるところをみると、洞窟での騒動《そうどう》の後、結局この村にまで戻《もど》ったのだろう。
混乱していた和穂の、細切れの記憶が少し元の形へと戻っていった。
「慰《なぐさ》めの言葉でもかけてあげたいけどね。
そんなもの、たいした役にたたないって骨身《ほねみ》に泌《し》みて判っているから何も思いつかない」
機織りの手を止め、彩朱は言葉を続けた。
「感情は魂《たましい》を癒《いや》してくれる。でも、そんなものはどうだっていいのよ。
魂が引き裂《さ》かれようと、打つ手がある間は行動するしかないのよ」
重い言葉だった。そう、そうするしかないのだ。殷雷はまだ死んではいないのだ。
「彩朱さん、判ってはいるんです。でも……」
振《ふ》り向き彩朱はニッコリと笑った。
「全てを糧《かて》にして前に進むの。感情も魂もあなたを引き止めるためにあるんじゃない。
一番|簡単《かんたん》なのは、殷雷に怒りをぶつけて泣き叫《さけ》ぶ事。二番目に簡単なのは、恐怖や悲しみを含《ふく》めた、感情を全て押《お》し殺す事。
でも、感情を殺したところで、それはやっぱり感情に振り回されてるのと同じ。
一番|難《むずか》しいのは、最悪の結果を覚悟《かくご》しながらも普段《ふだん》と同じように最善を尽《つ》くす事」
和穂には理解出来なかった。全ての感情を殺して最善を尽くすのなら出来るかもしれない。悲しみ、恐《おそ》れを感じるのを拒絶《きょぜつ》しながらならば前に進めるかもしれない。
だが、普段と同じように行動するなどとても出来そうにはない。
うっすらと涙が浮《う》かぶのを和穂は感じた。
「私には出来ません」
彩朱は微笑《ほほえ》んでいた。だが和穂に向けられた笑顔には刃《やいば》の鋭《するど》さがあった。
「そう。だったら好きにしなさい。
死にかけてる殷雷に、甘《あま》えようっていうのならば、止めはしない。
それだって別に論外に悪い答えってわけじゃないのよ」
言葉を残し彩朱は部屋を出ていった。
殷雷は壊《こわ》れようとしている。その事実を殷雷は隠《かく》していた。
それは何故《なぜ》か?
私を悲しませない為《ため》だ。
和穂は息が止まりそうになった。
泣き叫べば、感情を殺せば、私は苦しまなくて済《す》む。だが、殷雷はそんな私の姿を見てどうなるのか。
不思議なくらい感情が静まっていくのを和穂は感じた。
じんわりと彩朱の言葉が和穂の心の中に染みこんでいく。
「こうやって男三人で雁首揃《がんくびそろ》えて手酌《てじゃく》で酒を呑《の》んでると侘《わび》しくて泣けてくるな」
豹絶《ひょうぜつ》は自棄《やけ》になる理由も無いのに、自棄酒をかっくらっている気分だった。
隣《となり》の部屋からは、豹絶の妻である彩朱が、機織りを操《あやつ》る音がカキタコンカキタコンと響《ひび》いていた。
男三人が雁首を揃えて卓《たく》周りで酒を呑んでいるというのは、あまり正確な表現《ひょうげん》ではなかった。
まず、実際に酒を呑んでいるのは豹絶一人だけであり、豹絶以外の二人の男は酒を口にしていない。さらにその二人は人間ではなかったのだ。
「おっと、こいつは気がつきませんでしたな。僕《ぼく》が酌をしましょう」
自分の手から徳利《とっくり》を奪《うば》おうとする青年の手を、追っ払いながら豹絶は吠《ほ》えた。
「うるせい、このオトボケ宝貝《ぱおぺい》め。お前に酌をされるぐらいなら、手酌の方が遥かにましだ」
「オトボケ宝貝だなんて酷《ひど》いなあ。静嵐《せいらん》っていう立派《りっぱ》な名前があるのに」
酔《よ》っぱらい独特《どくとく》の意地悪な目つきで、豹絶は静嵐の顔を見た。
顔面に引っかき傷《きず》や、青痣《あおあざ》を作っている武器《ぶき》の宝貝をオトボケ宝貝と呼ばずにどう呼べばいいのか。名誉《めいよ》の負傷《ふしょう》というより、どうみても痴話喧嘩《ちわげんか》で女にひっかかれたとしか思えない姿だ。
「なんじゃい、そのみっともない傷は?」
「ああ、これね。和穂に引っかかれちゃいました」
「やっぱりオトボケ宝貝じゃねえか、小娘《こむすめ》に引っかかれてそのざまか? お前の面《つら》を見てると、只《ただ》のでくの坊《ぼう》にしか見えねえぞ。どこが刀の宝貝だ」
さすがに豹絶の言葉が心外だったのか、静嵐は言い返した。
「いえいえ、こう見えても色々と尋常《じんじょう》ならざる特殊《とくしゅ》な能力《のうりょく》が備《そな》わっているんですよ」
意外といえば意外な答えだった。刀の形に変化するぐらいしか芸当はないと豹絶は思っていた。どちらかというと人間の姿をとる方が宝貝としての芸当なのだが、酔っぱらいは細かい部分にこだわらなかった。
「ほお、そいつは初耳だな。いったいどんな能力があるんだ?」
「『静嵐』の名は伊達《だて》ではありません。空気の流れを自在《じざい》に操ってですね」
驚《おどろ》き、豹絶は言った。
「なに、嵐《あらし》を起こせるのか!」
「いやそこまでは出来ないんです。もっと微妙《びみょう》というか繊細《せんさい》というか。こう、指先の空気を操って一時的な真空|状態《じょうたい》を作るとですね」
卓の上に落ちていた短い麻糸《あさいと》を静嵐は手に取る。
途端《とたん》、静嵐の指先で麻糸は二つに千切れた。
「どうです、すごいでしょ。鉄とかを切るほどの力はないですけど、こうやって細い糸ぐらいなら簡単に」
豹絶は絶句していた。
頭の中を色々な言葉が駆《か》け巡《めぐ》ったが、とりあえず一番|適切《てきせつ》な言葉を一つしか思い浮かばなかった。
「くだらねえ。とてつもなくくだらねえ能力だ」
少しむきになり静嵐は言い返す。
「いや、割《わり》と便利なんですよ。ちょっとした糸切り鋏《ばさみ》や小刀の代わりになるんだし」
必死の弁明《べんめい》は勝手に言わせておくに限《かぎ》ると豹絶は考えた。自分には糸切り用の小刀に匹敵《ひってき》する特殊能力があると力説する、刀の宝貝にかける言葉を豹絶は知らない。
それよりも気にかかるのは、和穂にやられたという静嵐の引っかき傷だ。
豹絶はことの経緯《けいい》をよく知らない。『奴《やつ》』を討《う》ち滅《ほろ》ぼしてから祝宴《しゅくえん》続きで酒が抜《ぬ》ける暇《ひま》がなく、頭がはっきりしなかったのも一つの理由だった。
それでも、和穂たちが村の外れに怪《あや》しい洞窟《どうくつ》があるから、ちょいと調べにいくとかなんとか言っていたのは覚えていた。
が、彼らが洞窟から帰ってきたときの一|騒動《そうどう》はそれと関係があったのかが、豹絶にはよく判《わか》らない。
戻ってきたときには和穂が泣き叫《さけ》び大暴《おおあば》れしていたのだ。
なだめすかして彩朱が和穂を隣の部屋に連れていき、和穂は静かになった。彩朱の事だ、優《やさ》しく鳩尾《みぞおち》を殴《なぐ》って落ち着かせたのだろう。それから四半刻《しはんとき》は過《す》ぎただろうか。
その間、卓につくもう一人の男、殷雷は静かに腕《うで》を組み目を閉《と》じ口を開かない。
とはいえ豹絶もわめく和穂の言葉から、うすうす事情が見えてはいた。
押し黙《だま》る殷雷の身に何かが起きようとしている、恐《おそ》らく命にかかわる重大事だ。
「見た目は頑丈《がんじょう》そうじゃねえか」
殷雷は一言も答えない。豹絶とて怪我《けが》人やら病人に絡《から》む趣味《しゅみ》もない。
和穂の尋常じゃない暴れっぶりからみて、洒落《しゃれ》や冗談《じょうだん》ではなさそうだった。
「ま、彩朱にまかせせりゃらいじょうぶらろうよ」
自分でもいまいち何を喋《しゃべ》っているのか、豹絶には判らなくなってきた。だが、自分の家で酒を呑んで前後不覚になろうと誰《だれ》に文句《もんく》を言われる筋合いもない。
うつらうつらする豹絶の耳に、静嵐と殷雷の会話が聞こえたがあまり興味はそそられなかった。
肩《かた》に毛布《もうふ》が掛《か》けられた感触《かんしょく》で、豹絶は目覚めた。まだ程《ほど》よく酔いが残っているので本格《ほんかく》的に寝入ってはいないと知った。
卓には静嵐と殷雷が同じように座《すわ》りつづけていた。肩ごしに振《ふ》り返ると彩朱がいたが、毛布を掛けてくれたのだろう。
ちょいといちゃついてやろうかと豹絶が考えたとき、部屋の扉《とびら》が開いた。
現《あらわ》れたのは和穂だった。
瞑目《めいもく》していた殷雷の目が開く。
何か場を和《なご》ませるような言葉を吐《は》こうと、静嵐は考えを巡《めぐ》らすが、こういう時に限って軽口は出てこない。
和穂は泣いているようにみえたが、それは錯覚《さっかく》だった。
ただ、瞳《ひとみ》が赤く腫《は》れているのは先刻《せんこく》までの涙《なみだ》のせいに違《ちが》いない。和穂の声は少し嗄《しゃが》れていた。
「殷雷」
「なんだ?」
張《は》り詰《つ》め、重い緊迫《きんぱく》感が漂《ただよ》うが、彩朱は優しく和穂を見つめていた。
ゆっくりと和穂は腰《こし》につけた瓢箪《ひょうたん》、断縁獄《だんえんごく》を外した。
和穂は瓢箪の蓋《ふた》を開けた。
「殷雷。断縁獄の中に入っていて」
殷雷の目が鋭《するど》くなる。
「用なしだから、さっさと消えろという訳《わけ》かよ? さっきみたいな体《てい》たらくじゃ、命がいくらあってもたらねえからな」
洞窟《どうくつ》の中の戦いで、殷雷は一瞬《いっしゅん》機能《きのう》を停止《ていし》してしまったのだ。一瞬とはいえ、戦闘《せんとう》のさなか和穂を無防備《むぼうび》で危険《きけん》な状態にさらしてしまったのだ。和穂の護衛役《ごえいやく》としては致命《ちめい》的な醜態《しゅうたい》に違いない。
和穂は首を横に振った。
「違うのよ殷雷。殷雷には壊《こわ》れてほしくない。だから、断縁獄の中に入っていて。
断縁獄の中なら、少しでも長く体がもつんじゃないの?」
戦いの中に身を置くよりは、断縁獄の中に居《い》るほうが安全だろう。
殷雷はジロリと和穂の瞳を見据《みす》える。赤い瞳に宿っていたのは静かな感情だった。
殷雷は拍子抜《ひょうしぬ》けした。もっとうだうだと泣き叫ぶと予想していたからだ。
殷雷は場違いな程、大きな声で笑った。
「はっはっは。思ったより腹《はら》が据わってるじゃねえか。だがな、お断《ことわ》りだ」
「殷雷!」
全身で不機嫌《ふきげん》さを現しながら殷雷は言った。
その不機嫌さは和穂にではなく、意地で和穂を危険にさらした自分に向けられているようであった。
「判っている。和穂よ。もうやせ我慢《がまん》はしないと約束してやろう。
実際《じっさい》問題として、俺の機能にそれほど問題はない」
和穂には嘘《うそ》としか思えない。
壊れかかっているのに、問題が無いわけがない。和穂の疑問《ぎもん》を察したのか、殷雷は静嵐を指さした。
「俺が言っても信用出来ねえだろうから、この馬鹿《ばか》に説明してもらおう。こいつなら、客観的に俺の状態が説明できる。俺の言いなりになって口裏《くちうら》合わすような気の利《き》いた芸当なんざできやしねえのは知ってのとおりだ」
「殷雷、また僕を馬鹿にする」
「違うな。嘘の吐《つ》けない正直者だって誉《ほ》めてるんだよ」
納得《なっとく》しかねつつも静嵐は口を開いた。
「説明するよ。殷雷の不調ってのは、自己復元《じこふくげん》能力の機能不全なんだ。復元能力の障害《しょうがい》となる気血の偏差《へんさ》は普通《ふつう》の武器の宝貝ならちゃんと勝手に治るけど、殷雷の場合はそうじゃなくて」
酔いどれの豹絶は言った。
「酔っぱらいの兄ちゃんにも判るように、説明してくれよ。理屈《りくつ》はいいから、今、何が、どうなってるかを教えろ」
「えぇと、たとえ話ですが武器《ぶき》の宝貝には千の機能があるとするでしょ? その内の機能を五百に絞《しぼ》れば、殷雷の体力でも実戦は可能《かのう》なんです。
さっきの洞窟での戦いみたいに、無理に千の機能を使おうとすれば、全体が破綻《はたん》してしまうわけで」
納得のいく説明には聞こえなかった。それではなんの解決《かいけつ》にもなってはいない。
「でも、殷雷」
「いいから静嵐先生の説明をきけ」
「ごほん。つまり、殷雷が休止|状態《じょうたい》にした機能を僕が補佐《ほさ》すれば当面の戦闘《せんとう》に問題はないといえます。
具体的には超長距離《ちょうちょうきょり》からの狙撃《そげき》に対する気配感知みたいな、手間の割《わ》りには実際《じっさい》にはまず必要にならない機能を僕が受け持って、替《か》わりに殷雷は近距離戦闘の機能に専念《せんねん》すれば、普段《ふだん》と全く変わらないように動けます」
やはり機嫌が悪そうに殷雷は付け加えた。
今度の不機嫌さは静嵐に向けられている。
「こんな、オトボケ宝貝の肩を借りるような真似《まね》をするのは癪《しゃく》だが、それしか手はない」
嘘ではないのだろう。でも肝心《かんじん》の部分を隠《かく》していると和穂は感じ取った。
和穂は首を横に振った。
「殷雷、お願いだから本当の事を言って」
「えらく疑《うたぐ》り深いじゃねえか。俺が嘘をついているとでも?」
「……もし、静嵐の助けを借りるだけで解決するような問題だったら、どうして殷雷は今まで必死になって自分の不調を隠《かく》していたの?」
鋭《するど》い指摘《してき》だった。
「判ったよ。ちゃんと説明してやろう。だがな、嘘はついてない。
今の静嵐の説明にゃ全く嘘はない。しかし静嵐の補佐でしのげるのはそんなに長い時間じゃないのは確かだ。機能そのものが徐々《じょじょ》に落ちていくんだから根本的な解決|策《さく》にゃならない」
和穂はこくりとうなずく。
「とはいっても、明日、明後日《あさつて》に自然にぶっ壊れる程、深刻《しんこく》な状態じゃないってのは信用しろ。普通の状況《じょうきょう》じゃ数か月はもつ」
静嵐が言葉を続けた。
「もし、戦闘で重傷《じゅうしょう》を負えば、かなり危《あぶ》ないんだけどね。気血の偏差を自己|修復《しゅうふく》出来ないんだから。今までは少しぐらいの怪我《けが》を負っても数週間もあれば完全に治ってたでしょ。
でも、次の負傷《ふしょう》からは、自力での回復は不可能だといったところだね、殷雷」
殷雷は静かにうなずく。
「そういうこった。ついでに言えば、断縁獄の中にいる限りは、自然に壊れるような状況にはならない。断縁獄の中じゃ、宝貝は強制《きょうせい》的な安定状態に措《お》かれるからな」
宝貝|回収用《かいしゅうよう》に設計《せっけい》されている断縁獄には宝貝の保全能力がある。断縁獄の中で宝貝同士が戦っても互《たが》いに傷《きず》をつけられないのもこの能力の一部であった。
回収したはいいが、断縁獄の中で壊れていくようでは機能に問題があるからだ。
生体の保全《ほぜん》能力はないので、断縁獄内部に保管されている食糧《しょくりょう》は腐敗変質《ふはいへんしつ》もするのだが、腐敗を進行させる微生物《びせいぶつ》の類《たぐい》が、断縁獄内部に現状は一切存在《いっさいそんざい》していない為《ため》、結果として食糧は腐敗しない。
殷雷の説明を聴《き》いても和穂の手は断縁獄にかかったままだった。
「断縁獄の中にいれば安心だったら、すぐにでも入って」
殷雷はゆらりと立ち上がり、断縁獄を持つ和穂の手をはね上げた。
そして、食いつくような声で囁《ささや》く。
「いい加減《かげん》しつこいぞ和穂。俺はまだどうにか動けるんだよ。意地といえば意地かもしれんが、無謀《むぼう》な意地を張《は》るつもりもねえ。あと、一回だ」
「一回?」
「あと一回だけ宝貝の回収に手を貸《か》させろ。
次の一回が終われば、おとなしく断縁獄の中にでも入ってやろうじゃねえか」
ふと湧《わ》き起こる疑問に静嵐は自問自答した。黙《だま》って自問自答している限り、なんの問題もなかったのだが、ついつい疑問を口に出す。
「殷雷にしちゃ素直《すなお》だね。休めと言われて、素直に休むなんて」
それ以上くだらん事をほざけばただではおかぬぞと語る、殷雷の瞳を静嵐は当然のごとく見落とした。
「あっそうか。自分のわがままを通して、また和穂を危険な目に遭《あ》わせるのが嫌《いや》なんだ」
崩壊《ほうかい》の危機にある宝貝とは思えぬような素早い動きで、殷雷は棍《こん》を手に取り、無数の突《つ》きを静嵐に食らわす。
冷めた酒を注ぎながら、豹絶は言った。
「言わなくていい事を言わせたら、一流の腕前《うでまえ》だな。糸切り小刀より、そっちの能力の方が凄《すご》いんじゃねえか?」
とてつもなく巨大《きょだい》な溶鉱炉《ようこうろ》から火が落ち、炎《ほのお》と熱の迫力《はくりょく》は消えたが炉そのものの設計の卓越《たくえつ》さが浮《う》かび上がるかのようであった。
轟武《ごうぶ》から怒《いか》りが消えたのだ。
理渦《りか》にはそれが、あまりにも奇妙《きみょう》に感じられた。その身を構成《こうせい》するのは怒りのみ、怒りだけを糧《かて》に生きていたような宝貝《ぱおぺい》だと理渦は轟武を分析《ぶんせき》していたのだ。
鏡閃《きょうせん》が轟武に取り引きを持ちかけ、轟武はその話に乗った。
殷雷《いんらい》の破壊《はかい》に手を貸してやる替《か》わりに、和穂《かずほ》も殺害してくれ。
それが鏡閃の示《しめ》した条件《じょうけん》だった。
殷雷への報復《ほうふく》の邪魔《じゃま》をした鏡閃に怒り狂《くる》っていた轟武だったがその条件をのんだ。
それ以来、轟武の周囲からは怒りが嘘《うそ》のように消滅《しょうめつ》したのだ。
怒りの激情《げきじょう》が消え、替わりに轟武の素《す》の姿《すがた》が浮かび上がる。
巨大武器の宝貝が持つ、大らかさにも似《に》た伸《の》びやかな迫力は全《すべ》ての所作に自信を漂《ただよ》わせていた。
理渦は寒けを感じた。怒りに身を焦《こ》がしているとはいえ、轟武も武器の宝貝、自分にとって有益な条件を示せば、利用できると理渦は確信《かくしん》してはいたが、それでも轟武が何かを仕掛《しか》けているのではないかと勘繰《かんぐ》ったのだ。
だが、轟武は何かをたくらむような素振《そぶ》りを全く見せはしなかった。
轟武は取り引きを承諾《しょうだく》したその日、軽い食事を求め、そのまま眠《ねむ》ってしまったのだ。
食事に睡眠《すいみん》、それは宝貝にとって全く必要のない行為《こうい》だ。裏《うら》には絶対《ぜったい》何かがあると理渦は警戒《けいかい》したが、特に何も起きもしない。
殷雷の破壊に全てをかけている轟武の事だ、今すぐにでも殷雷の破壊に赴《おもむ》いても当然だったが、大剣《たいけん》の宝貝轟武はそうは動かなかった。
翌日《よくじつ》、目覚めた轟武は理渦に情報を要求した。
和穂が宝貝|回収《かいしゅう》の為《ため》に仙界《せんかい》から降《お》り立ち、現在に至《いた》るまでの旅の記録。それと、鏡閃が今までに回収した宝貝の目録。
半日をかけて、轟武は情報に目を通した。
あまりの呑気《のんき》さに、逆《ぎゃく》に理渦が焦《あせ》りを感じるほどだった。
鏡閃にとって、時間に余裕《よゆう》はなかった。彼の軍師《ぐんし》たる理渦は焦りを感じたが、鏡閃を急《せ》かすのも得策《とくさく》とは思えなかった。仕方がなしに彼女は押《お》し黙《だま》る。
更《さら》に幾《いく》つかの情報を轟武は求め、そのまま部屋の一室に閉《と》じこもった。
轟武が再《ふたた》び鏡閃の前に姿を現したのは、それから丸一日たってからであった。
姿を現した轟武の巨躯《きょく》を鎧《よろい》が覆《おお》っている。遠目には普通《ふつう》の鎧に見えたが、その正体は無数の鋼《はがね》の糸が、籐《とう》細工のように規則《きそく》正しく轟武の体に巻《ま》きついているのであった。鋼の糸の幾本かは禍々《まがまが》しい朱《しゅ》色に染まっている。
何十人もが使えるような場違《ばちが》いなまでに大きな机《つくえ》に向かって鏡閃は座《すわ》っていた。その隣《となり》には理渦が立つ。
鏡閃に向かい合うように、轟武は座り、肩肘《かたひじ》をつきながら飽《あ》きもせずに資料《しりょう》に目を通している。
全身に殺気を漲《みなぎ》らせていた時とは、うって変わり、轟武の周囲には涼《すず》やかなまでの静かさが漂っていた。
紙を捲《めく》る音だけが部屋の中に響《ひび》く。
理渦は、自分たちが焦《じ》らされ、値踏《ねぶ》みされているのではないかと考えはじめたが、とうの鏡閃は理渦の隣でおとなしく轟武の様子をみているだけだった。その顔からは焦りの感情の類は見て取れない。
唐突《とうとつ》に轟武は言った。
「馬鹿げた話だ」
無礼な言葉が理渦の癪《しゃく》に障《さわ》る。鏡閃はそんな理渦を制《せい》した。
「どこが馬鹿げている? 私に落ち度でもあったかな?」
指先で資料を弾《はじ》き、轟武は言った。
「鏡閃よ。お前は然《しか》るべき時期が来るまでは、殷雷や和穂に倒《たお》れられるわけにはいかなかった。故《ゆえ》に、お前らは俺を封《ふう》じ込《こ》めた。そうだったな?」
うなずく二人を見て、轟武は首を傾《かし》げた。
「だったら馬鹿げている。俺を封じた癖《くせ》に愚断剣《ぐだんけん》や斬像矛《ざんしょうぼう》との戦闘《せんとう》には介入《かいにゅう》しなかったのか? 今まで和穂と殷雷が無事に生き延《の》びたのは奇跡《きせき》としか思えん」
理渦が答えた。
「卦《け》を立てるのと、卦を解釈《かいしゃく》するのではわけが違います」
轟武は嫌そうに顔をしかめた。卦にかかわる話はいまいち腑《ふ》に落ちない。卦の解釈は理屈《りくつ》で追えるが実感として納得《なっとく》できないのだ。
構わずに理渦は説明を続けた。
「鏡閃様は龍華《りゅうか》と和穂に対する、復讐《ふくしゅう》を願っておられました。
そこで、私が僭越《せんえつ》ながらお望みを叶《かな》える為《ため》に卦を立てたのです。
出た卦にしたがい、轟武。あなたを封じ込めました」
轟武は椅子《いす》に座りながら伸びをした。巨漢でありながらしなやかな筋肉《きんにく》は、低い音を立てつつ引き絞《しぼ》られた。
「卦によって最善策《さいぜんさく》の行動は示された。だが、行動の意味する事が判《わか》ったのは最近ってわけかい。
『轟武封じるべし』の卦の意味が、殷雷や和穂の身を守らせる為だとは最近までは判らなかったと」
卦に頼《たよ》る行為《こうい》自体がそもそも轟武の好みではない。行動は自分の知覚出来る範囲《はんい》の判断によって決定されるべきで、知覚の外にある『卦』によってなされるものではない。というのが轟武の信念でもあった。
ありていに言えば『轟武封じるべし』の卦に従《したが》った所で、鏡閃の願いが全《すべ》て叶う道理もないのだ。もし和穂たちが愚断剣に倒されていれば卦など水泡《すいほう》に帰す。
轟武に言われるまでもないと、理渦は言葉を繋《つな》ぐ。
「我《われ》らの行動も綱渡《つなわた》りの連続だったのです。本来ならばとうていかなう術《すべ》のない、鏡閃様の願い、その僅《わず》かな可能性《かのうせい》の糸を手繰《たぐ》り寄せ、確実な綱とする為に我らは行動していたのです」
轟武は轟武で理渦に言い返す気もなかった。
その調子で卦に頼って他にも幾つかの行動を起こしてきているのだろう。卦の奴隷《どれい》になる奴《やつ》の末路など知れている。
ぱらぱらと資料を捲り、轟武は言った。
「さてと。鏡閃の旦那《だんな》よ。これはとても重大なことなんだが、お前が軍師《ぐんし》としてたてているそこの馬鹿女の欠陥《けっかん》は知っているか?」
理渦の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。鏡閃は静かに言った。
「知っているよ」
鏡閃の答えが轟武には意外だった。
「おいおい、本気か。その女は肝心《かんじん》な部分で状況《じょうきょう》を読み違えるんだぞ。
一番肝心な部分をだぞ! それを承知で軍師にしているのか!」
理渦が怒鳴《どな》る。
「私にそのような欠陥はない!」
轟武は取り合わない。鏡閃はやはり静かに言った。
「理渦はよく働いてくれているよ。もし、理渦が間違いを起こし、その間違いに私が気づかなかったら、それは私の過《あやま》ちだ。
理渦に責任《せきにん》はない。私は理渦を信用している」
「……鏡閃様」
轟武は鼻で笑う。
「そうかい。物好きとしか言いようがないが、まあいい。お前が理渦の間抜《まぬ》けさに巻《ま》き込《こ》まれて自滅《じめつ》しようが、俺には関係がないからな。
最初に言っておくが、俺は理渦を信用してはいないから、そいつの指示《しじ》に従うつもりはない。それだけは覚悟《かくご》してくれ」
理渦をなだめて、鏡閃は言った。
「判《わか》っているよ『将軍《しょうぐん》』。きみは目的さえ達してくれるのなら、自分の判断で好きなように行動してくれて結構《けっこう》だ」
最後に将軍と呼ばれてからもうどれぐらいの時間が過《す》ぎたのか轟武には判らなかった。
理渦が皮肉を込めて言った。
「あの龍華を相手に対等に渡《わた》り合った轟武将軍ですから、軍師の策なんてものは必要ありますまい。
過信《かしん》が破滅《はめつ》を招《まね》かないことを心からお祈《いの》り致《いた》しますが」
皮肉の上滑《うわすべ》り具合が轟武には可笑《おか》しかった。過信と共にあるのは、俺よりもお前だろうと轟武は考えた。
「ご忠告《ちゅうこく》感謝《かんしゃ》しておこう利口な軍師|殿《どの》。
さて、話は変わるが、この鏡閃殿が回収した宝貝ってのは、宝貝の能力を利用するとかじゃなくて、単純《たんじゅん》にこれから造る新たな宝貝の材料にするんだな?」
皮肉が応《こた》えていないようなのが理渦には不満だった。
「心配無用よ。あなたは宝貝の材料には適《てき》していない」
理渦に対しては軽く挑発《ちょうはつ》する空気はあったが、鏡閃に対する轟武の口調にはふざけたものはなかった。轟武は資料を指し示した。
「お前らが回収した宝貝の目録の中で、印がついてない奴はまだ破壊《はかい》されてないんだな?」
鏡閃が答えた。
「名前が線で消された奴はすでに素材として破壊|済《ずみ》。印がついてないのは破壊前だ。印がついている奴は、もののついでで回収した奴で特に必要がない。まあ、無用とはいえ宝貝|制作《せいさく》の際《さい》には補助《ほじょ》物資として全て破壊して使う予定だがな。
轟武よ、必要ならば無用の宝貝を使ってくれても構わないが……」
「その必要もあるまい。
しかしまあ、なんだな。なんの宝貝を造《つく》ろうとしているかは知らぬが、勿体《もったい》ない話だな。
九天象《きゅうてんしょう》まで材料にするとは正気の沙汰《さた》じゃないぞ」
理渦が答えた。
「九天象も直《じき》に破壊します。轟武将軍、つまり失敗は許《ゆる》されません。あなたに提供《ていきょう》できる殷雷たちの情報は、これが最初で最後です。ですから確実に和穂と殷雷を仕留《しと》めて下さい」
もとから『二度め』を期待するような武器《ぶき》の宝貝がいるはずはなかった。
「皮肉の才能においても、刀の宝貝にすら後れをとってるぜ、理渦軍師よ。
せいぜい、哀《あわ》れな宝貝たちの残骸《ざんがい》を無駄《むだ》にしないでくれよ」
轟武は椅子から立ち上がった。
鏡閃はその巨大《きょだい》な背中を見た。
「始めるのか?」
「いや、焦《じ》らすようで申し訳ないが、もう少し待ってくれ。
この目録の中に面白《おもしろ》い名前を見つけた。そいつとちょっと話がしたい。話が済んだら殷雷の始末にとりかかる」
女のすすり泣きが暗闇《くらやみ》の中に響《ひび》いていた。
暗闇とはいえ、物の形を見るのに光を必要とするものはこの世界には居なかった。
この場所にあるのは宝貝と、かつては宝貝であったものの残骸だけだった。
破壊され無様な破片《はへん》となったような残骸は少ない。丁寧《ていねい》に細かく分解され部品に還元《かんげん》された残骸が地面を埋《う》めつくしていた。
物によっては、最小の単位に分解されてさえ巨大な姿《すがた》をしているものがあり、それは破壊された建物を思わせ、この世界を廃嘘《はいきょ》じみたものに見せていた。
廃嘘の中には無数の気配があった。ただ気配だけがあった。
天の高さも地の深さも定かではない。
残骸の荒野《こうや》の中に女の泣き声だけが響き続けていた。
やがて泣き声に男の声が混《ま》じった。
廃嘘の世界の中であまりに特異《とくい》な落ち着いた声だった。
すすり泣きとそれをなだめる男の声が荒野に広がっていった。
一人の女が残骸の荒野の中で泣いていた。
背中を丸め、腰《こし》かけ程度《ていど》の大きさの残骸に座《すわ》り、しなやかだが力強い指先が顔を覆《おお》っている。
指の隙間《すきま》からは、滴《したた》り落ちる血のように涙《なみだ》が零《こぼ》れ落ちていた。
袖付《そでつ》きの外套《がいとう》を纏《まと》った女、その赤い外套には鳳凰《ほうおう》の刺《し》しゅうが施《ほどこ》されていた。
彼女の流れるような黒髪《くろかみ》は、ゆったりとした大きな三つ編《あ》みに編まれている。
すすり泣く女の隣に男が座っていた。
座っていても背の高さが判るような、すらりとした背すじの男だ。白髪《はくはつ》めいた銀髪が襟《えり》にかかっている。宝貝の常《つね》として、外見と実|年齢《ねんれい》に関係がある理由もなかったが、それでも男の年齢|不詳《ふしょう》の風貌《ふうぼう》は奇妙《きみょう》だった。十代後半にも見え二十代後半にも見えなくはない。
手練《てだ》れの役者のように、男の本性《ほんしょう》は簡単《かんたん》には見抜けそうにもない。
女に慰《なぐさ》めの声をかけているのは、その男だった。すすり泣きの声に肩《かた》を貸すように、男の声は優《やさ》しかった。
ゆっくりとゆっくりと、女の泣き声は小さくなっていった。
泣き声に代わり、残骸を踏《ふ》む轟武の足音が周囲に広がった。
力強く残骸を踏みつけ、轟武は男の声を目指し荒野を歩いていた。
男の声は近い。目的の地はすぐそこだ。
ザクリザクリと歩き続け、轟武は男の前に立った。
男はすすり泣く女の背中を優しく叩《たた》いていた。
轟武は男に言った。
「お久《ひさ》しぶりです導果《どうか》先生」
導果と呼ばれた男は顔を上げ、ニコニコと微笑《ほほえ》んだ。
「やあ、将軍。久しぶりだね。いやまて、将軍より、やはり魔王《まおう》の方がよかったかね?
きみの渾名《あだな》については、最後まで悩《なや》んだんだよ。本人の意見がきければよかったんだが、生憎《あいにく》そういうわけにはいかない状況だったからねえ。
あと魔神なんてのも考えないでもなかったが、それはさすがに大袈裟《おおげさ》すぎだね」
間の抜けた感じさえ漂《ただよ》う導果の甲高《かんだか》い声を聴《き》き、轟武も思わず笑ってしまった。
かつて死闘《しとう》を繰《く》り広げた、仇敵《きゅうてき》と言っても差し支《つか》えない男との再会《さいかい》の空気は微塵《みじん》もなかった。
轟武は龍華に対して反乱《はんらん》を企《くわだ》てた。それだけならば、別に珍《めずら》しい話ではない。
あの龍華が造《つく》った宝貝《ぱおぺい》だ、少しばかり奇妙な行動をとって何が不思議か?
だが、事態はそう単純《たんじゅん》なものではなかったのだ。
轟武の顔が引き締《し》まる。
「導果先生が私を『将軍』と呼ぶようになってから、誰も私に油断《ゆだん》してくれなくなりましたよ。
龍華の造った馬鹿な宝貝の間抜けな反乱ごっこ。最初のうちは誰もが油断してくれた。
だけど、導果先生が私を将軍と崇《あが》め立てて大袈裟に扱《あつか》ってくれたから、誰もが足元を見据《みす》えて行動に慎重《しんちょう》になった」
龍華と轟武の戦いは泥沼《どろぬま》化した。反乱には違いなかったがその規模《きぼ》は戦争と呼んでも差し支えなかった。
戦況は常《つね》に龍華が有利に立っていた。いつまでもいつまでも龍華が優勢《ゆうせい》だった。
だが、轟武は負けなかった。常に劣勢《れっせい》であったのに負けなかったのだ。
業を煮《に》やした龍華はついに軍師を立てた。
それが導果だったのだ。
「はははっは。きみは賞賛《しょうさん》に値《あたい》する宝貝に違いはないからね。
もっとも魔王と呼ぶには君の宝貝としての能力はたかが知れていたかもな」
轟武も笑うしかなかった。
「導果先生にはかないませんな」
敵《てき》と味方に別れたとはいえ、戦友同士の気安さを轟武は感じていた。正直、導果には辛酸《しんさん》を嘗《な》めさせられてきたが恨《うら》みは微塵《みじん》も感じなかった。
「導果先生には色々お話をうかがいたいと思っていました。
礎備渓谷《そびけいこく》の城塞《じょうさい》を潰《つぶ》す為《ため》に、わざわざ月を落としたのは導果先生のお知恵《ちえ》でしょう?」
導果は目を丸くした。大袈裟過ぎて本当に驚《おどろ》いているようには今ひとつ見えない。
「なんと! いかにも龍華|仙人《せんにん》が思いつきそうな無茶苦茶《むちゃくちゃ》な作戦にしてやろうと考えたのに、ばれておったのか!」
ばれたところで当時の轟武に何が出来たのか。言葉の通り、空に輝《かがや》く月を大地に落としたのだ。
「確かにあの城塞は堅牢《けんろう》な代物《しろもの》でしたが、塁摩《るいま》級の宝貝が八体も居《い》れば突破点《とっぱてん》ぐらいはこじ開けられましたよ」
「ところが龍華仙人は本家塁摩と代わり映《ば》えしない宝貝をわざわざ七体も造るのなんて、まっぴらごめんときたもんだ。
仕方がないんで龍華仙人の手を煩《わずら》わせない作戦を考えたんだよ。うぅむ。しかしあの作戦が私の立案だとばれていたとはね」
「あの仙人はああ見えても風流を好みますからね。月見が出来無くなるような作戦を立てるとは思えませんでした」
導果は心外そうな顔をした。あまりに不快《ふかい》そうな表情は、やはり表情の説得力を無くしていた。
「失敬《しっけい》な! 私の作戦が風流じゃないとでも言うのかね! 確かに九遥山《きゅうようざん》の辺りで月見は出来なくなったが、落下の衝撃《しょうげき》で立派《りっぱ》な海が出来たじゃないか!」
「月の沈《しず》まぬ海に風情《ふぜい》はありますまい」
「お! やるな将軍。今の切り返しは、なかなかよろしい。大型武器の宝貝は色々と多才だが、文才までも持っていたのか」
談笑《だんしょう》といってもいいぐらいの呑気《のんき》な会話だった。そんな会話に絡《から》みつくすすり泣きが、轟武の耳に障《さわ》る。
腰《こし》を降《お》ろした導果の膝《ひざ》で泣く女を轟武は見下ろした。
「先生。その女は?」
「深霜《しんそう》だよ。お前と同じぐらいに哀《あわ》れな女さ。
自分の使用者を守りきれなかったんだ。
その悲しさ、自分の非力《ひりき》さに耐《た》えられなかったんだ」
聞き覚えのある名前だった。轟武の顔に少しばかり不快そうな翳《かげ》がかかった。
「深霜……殷雷の身内ですな」
「殷雷、深霜、恵潤《けいじゅん》、静嵐《せいらん》。四本刀の一振《ひとふ》りだから身内と呼んでも差し支《つか》えあるまい。
哀れな話だ、彼らは形は違えど、どの刀も似たような欠陥《けっかん》をもっている。あれ、静嵐君はそうじゃなかったっけ? ま、あんにゃろうの事なんか、どっちでもいいか。
おっと、哀れさでいえば、きみもかなりのもんだよ轟武将軍」
憐《あわ》れみをかけられたぐらいでは怒《おこ》る気にもなれない。
「先生の目から見れば、復讐《ふくしゅう》に身を焦《こ》がすなど哀れさの極《きわ》みでしょうがな」
「うははは。下らん下らん。復讐などあまりに下らん。あまりに下らんから、復讐とは聖《せい》なる権利《けんり》だ」
導果の言葉にどこまで合わすべきかが轟武にはよく判《わか》らない。真理を突《つ》いた名言なのかふざけた戯言《ざれごと》なのかの見極《みきわ》めがつきにくくて仕方がない。
「それにしても理解に苦しみますな。あの鏡閃という男、導果先生を手に入れておきながら、理渦ごときを軍師にたてるとは」
「愉快《ゆかい》愉快。だから、鏡閃はただ者じゃないんだよ。私の素晴《すば》らしさを理解したうえで、理渦君を軍師にするなんて、そう簡単に出来ることじゃないからねえ」
どこまでも会話が上すべりする気がしたので轟武は話を変えた。
「単刀直入に言います。導果先生、状況をどう見ますか?」
相手が導果でなければ、こんな大雑把《おおざっぱ》な質問《しつもん》をする気にはなれなかっただろう。
優しく深霜の背中を叩きながら導采は答えた。
「みんなで寄ってたかって綱渡《つなわた》り合戦だ。それぞれが自分の張《は》った綱の上で、えっちらおっちらやっている。何が面白《おもしろ》いのか判らないから、とても面白そうだ」
充分《じゅうぶん》な答えだ。
「もっともです。しかし、最初に綱から落ちるのは殷雷と和穂だ。鏡閃は私も綱から落とそうとしているのかも知れませんが、殷雷が落ちた後ならばそれでも構いません」
へらへら笑っていた導果は急に真顔になり、轟武の顔を覗《のぞ》きこむ。
「きみは本当に哀れだよ」
今度は逆《ぎゃく》に轟武が笑う。
「承知《しょうち》しています」
導果は唐突《とうとつ》に轟武から視線《しせん》を外した。そして、問いかけた。
「やっぱり殷雷君をぶっ壊《こわ》しに行くんだろうね。どうかな? 勝算はあるかい?」
愚問《ぐもん》に過ぎた。殷雷の強さがどうこう以前に情報戦では完璧《かんぺき》な優位に立っているのだ。
殷雷の動向は手に取るように判り、過去《かこ》の行動|分析《ぶんせき》も完全にすましている。
殷雷の『状態』も把握《はあく》していた。
九天象の能力で必要な情報は全《すべ》て手に入っているのだ。この時点で勝敗は決していると言ってもいい。
「負ける要素はないですが、こっちの手駒《てごま》も完璧とはいえませんがね。
なにせ我《わ》が相棒《あいぼう》は、核天《かくてん》との戦いで和穂にさっさと回収されてしまった。これは少しばかり痛《いた》い。でもまあ、奴《やつ》が居《い》なくと殷雷の始末|程度《ていど》はどうにかなります」
「ほほほう。で、本当に私に聞きたいのは何かね? 心配事があるんだろ?」
轟武は息を吐《つ》く。負ける要素は確かに存在《そんざい》しない。だが、不確定要素の塊《かたまり》が殷雷の側に居るのだ。
「向こうには静嵐君が居る。私の手の内を導果先生より先に見破《みやぶ》った静嵐君が居る。
彼が居るとなると、いかなる策《さく》も無意味と化すような気がしてなりませぬ」
導果は豪快《ごうかい》に笑う。
「そりゃそうさ。静嵐君はずるいからねえ。私や轟武将軍がいくら賢《かしこ》いとはいっても、静嵐君にゃかなわない。
なぜならば静嵐君は理論的根拠《りろんてきこんきょ》もなしに正解に辿《たど》りつくんだ。ずるいずるいずる過ぎる。
だけど大丈夫《だいじょうぶ》。彼は理論を一生|懸命《けんめい》に積み上げて間違った結論に達する能力も人一倍だ。必要以上に気にする必要はなし」
そして、もう一つだけ肝心《かんじん》な質問《しつもん》があった。
「それと、私の手の内は宝貝連中に知れ渡っているんでしょうか?」
轟武の宝貝としての能力は問題ではない。だが、能力の真の意味を知られているかは重要であった。
導果は嬉《うれ》しそうに答えた。この嬉しそうな表情だけは演技《えんぎ》じみてない。
「いや。きみの能力を知らぬ宝貝はいないだろうが、きみが何故《なぜ》、長きに亘《わた》って龍華仙人と戦いつづけられたのかを知る宝貝はいまい。
龍華仙人は己《おのれ》の失敗を言いふらしたりはしないし、私も口にしていない。だって誰も私に質問しないんだからね。
静嵐君は自分が見破った事の重大さに気がついてなかったから、喋《しゃべ》ったりもしていまい。結論《けつろん》は誰も知らない、だ。かくて轟武将軍が憎《にく》き殷雷刀を破壊するのに障害《しょうがい》となるものは何もなし。
この導果が太鼓判《たいこばん》を押《お》してあげよう、轟武将軍はそれはもう呆気《あっけ》なくポッキリと、殷雷刀を確実に破壊するとね」
導果の太鼓判までもらったのだ。もはや思索《しさく》を巡《めぐ》らす時期は終わった。後は行動あるのみだと、轟武は導果に礼をした。
「ありがとうございます導果先生。
ところで鏡閃は宝貝の材料として、ここにある宝貝を破壊しようと企んでおります。
まあ、既《すで》に壊れているのが多数のようですが。導果先生を宝貝の材料として破壊するなどもったいなくて仕方がありません。よろしければお救いいたしますが?」
導果はブンブンと首を横に振《ふ》った。
「いや、構わんよ。このままにしておいてくれ。私は深霜君と一緒《いっしょ》に破壊されるとしよう。
どっちにしろ同じことだからね」
導果の言葉の意味が轟武には判らない。同じこととはどういう意味なのか?
だが轟武は導果に敬意を示し、それ以上は何も言わず彼の意志《いし》を尊重《そんちょう》した。
立ち去る轟武の後ろ姿《すがた》をしばし見つめていた導果は、ふいに大声を出す。
「おぉい。轟武将軍。その右足はどうした?」
歩き方のわずかな歪《ゆが》みを見破られた事に轟武は驚きはしなかった。少しばかりの注意力があれば誰もが気づくだろう。轟武は振り返り質問に答える。
「これですか。恥《は》ずかしい話ですが、殷雷とのあの戦いで踝《くるぶし》に傷《きず》を負いました。
厄介《やっかい》な傷でどういう理由か、いまいち再生《さいせい》が上手《うま》くいきませんで。しかし、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。この程度の怪我《けが》で殷雷に後《おく》れはとりません」
導果は目を閉じ、大きくうなずいた。
「踝の怪我か。踝ねえ。踝とは。……きみは本当に哀れだねえ」
「?」
「哀れだ。本当にきみは哀れだ」
かつてその湖は静寂《せいじゃく》に支配《しはい》されていた。
熟《じゅく》し過《す》ぎた果物のもつ臭《にお》いに良く似《に》た死臭《ししゅう》が、瘴気《しょうき》の塊《かたまり》となり近寄《ちかよ》る者をこばんでいた。
命の営《いとな》みがないのに漂《ただよ》う死臭という茶番に、誰も気がつかなかったのだ。茶番の主は、村を適度《てきど》に封鎖《ふうさ》する為《ため》にその池を造《つく》りあげていた。
だが、茶番の主が滅《ほろ》んだ後、池は本来の息吹《いぶき》を取り戻《もど》しはじめている。
雪に被《おお》われ、命の鳴動はいまだよくは見えない。が、湖は息を吹き返そうとしていた。
「なんだか拍子抜《ひょうしぬ》けするね。毒気の固まりみたいな湖だってきいていたのに」
言葉を発しながら、もとより鋭《するど》さとは縁遠《えんどお》い静嵐《せいらん》の眼光《がんこう》が、さらに鈍《にぶ》くなっている。
彼は周囲の気配を察知するのに集中していたのだ。一点への集中ではなく広|範囲《はんい》に対する極度の集中は、外見上は気の抜けた眼差《まなざ》しに似通っていた。
静嵐は風の流れの淀《よど》みに注意し、瘴気|溜《だ》まりに迷《まよ》いこむのを避《さ》けるつもりだったが、風は緩《ゆる》やかに流れ続け、瘴気を洗《あら》い流している。
湖の周囲に道らしい道はなかった。
だが、寒さのせいで水辺の草は枯《か》れていて、水際《みずぎわ》を歩くかぎり移動《いどう》に問題はなかった。
静嵐は喋《しゃべ》り続けた。
「地図によると湖の対岸から少し山頂《さんちょう》に向かった所に村があるから、そこに宝貝《ぱおぺい》があるんだと思うよ。安物の地図だから、廃村《はいそん》だったり村そのものがなかったりする可能性《かのうせい》もあるけどね。
寒さはともかくこの雪じゃ峠越《とうげご》えはきつそうだからね。いかに宝貝の保持者《ほじしゃ》といえ、砥石《といし》の宝貝じゃ峠越えの役にはたたないだろうし」
和穂《かずほ》たちが向かっている村は、ちょうど峠と湖に挟《はさ》まれるような位置にあった。
距離《きょり》的には豹絶《ひょうぜつ》たちの村とそれほどはなれてはいなかったが、瘴気の湖のせいで交流はなかった。
殷雷《いんらい》は棍《こん》を担《かつ》ぎ、先頭を黙々《もくもく》と歩いていた。時たま行手《ゆくて》を遮《さえぎ》る枯れ木を棍の一|撃《げき》でなぎ払《はら》い、道を作る。
静嵐はどうも居心地《いごこち》が悪かった。
「あのさ、もしかしてさっきから僕は独《ひと》り言をいってると思ってる? 遠慮《えんりょ》せずに相槌《あいづち》の一つぐらい打ってくれてもいいよ」
これこそが武器《ぶき》の宝貝の持つ眼光だとばかりに、殷雷は静嵐をにらみつけた。
半ば呆《あき》れつつも静嵐は口を開いた。
「殷雷、判《わか》ってるってば。無駄口《むだぐち》を叩《たた》かずに周囲の気配を探《さぐ》ってろ! って言いたいんだろ? ちゃんとやってるから。
渡海旗《とかいき》の事も忘《わす》れてないよ。湖に妙《みょう》な気配もなし。渡海旗が出現する時には、独特《どくとく》の前兆《ぜんちょう》があるのは百も承知《しょうち》してるしさ。ぶくぶくって凄《すさ》まじい泡《あわ》が出てくるんだよね?」
判っているなら黙《だま》って仕事をこなせ、の一言も言わずに殷雷は再《ふたた》び前を向く。
殷雷の考えは手に取るように判っているのに静嵐は無駄口をやめない。からかってやろうという悪意すらないだけに、余計《よけい》質《たち》が悪かった。
「でも、罠《わな》くさいよね。渡海旗を使ってくださいといわんばかりの湖に、待ってましたといわんばかりの砥石の宝貝だよ。そりゃ、今は周囲の気配を探ってるけど、とっくの昔に渡海旗を使われてる可能性もあるしさ。
だいたい、砥石の宝貝がある! って情報《じょうほう》は柴陽《さいよう》から聞いたんだよね? その柴陽は軒轅《けんえん》の首領《しゅりょう》に裏切《うらぎ》られたっていうじゃないか。和穂を誘《おび》き寄せる為《ため》の偽情報を掴《つか》まされてたのかもね。
あ、でも砥石の一|件《けん》は柴陽以外の幹部《かんぶ》の耳にも届《とど》いてたんだね。もし、砥石の宝貝がなかったら、首領が柴陽を騙《だま》していたのが、他の幹部にばれちゃうか」
微妙《びみょう》に奇妙な状況《じょうきょう》に静嵐の頭脳《ずのう》はこんがらがりそうになった。首領は他の幹部も騙そうとしているのだろうか? 柴陽を手始めとして、他の幹部の宝貝もふんだくってやろうというのなら、ありそうではある。
そういえば、和穂の宝貝を狙《ねら》う担当《たんとう》の軒轅幹部も居たなあと、静嵐は思い出した。名前は鏡閃《きょうせん》だったはずだ。
「もしかして、軒轅の鏡閃が全《すべ》て仕掛《しか》けた罠かもね」
ピタリと殷雷の足が止まり、再び静嵐をにらみつけたが、今度は口を開いた。
「なぜ、そう思う? 根拠《こんきょ》は何だ? どう状況を分析《ぶんせき》した?」
鏡閃の名前には殷雷もひっかかっていた。軒轅の鏡閃に、龍衣《りゅうい》の鏡閃。
同じ名前は単なる偶然《ぐうぜん》なのか? もしも罠を仕掛けるのならば、名前を知られるのを避《さ》けるのが普通《ふつう》だろう。偽名《ぎめい》の一つでも使えば済む話だ。
嫌《いや》な焦《あせ》りが殷雷にはあった。今のところ己《おのれ》の動作不良がどの程度かは承知しているつもりではあった。が、もしかして自覚しない間に、状況判断能力にまで翳《かげ》りが出てきているのではないかという恐怖《きょうふ》にも似《に》た焦りだ。
静嵐に予測《よそく》できたのに、自分に予測できなければ、それは能力の低下を意味している。
静嵐は何を根拠に推論《すいろん》を展開《てんかい》したのか? 自分が軽く見た根拠を静嵐が重く見ただけならとりたてて問題はない。それは見解《けんかい》の相違《そうい》に過ぎないからだ。
医者が患者《かんじゃ》の病を見立てるのにも似た感覚だ。
患者の症状《しょうじょう》から、患者の具合を推察する。幾《いく》つかの症状の内、どれが一番重要な症状かを判断《はんだん》するのは医者の感性《かんせい》でもある。
正体がよく判《わか》らない病ならば、医者によって判断が分かれても仕方がない。
だが、もし、症状を見落として判断を下していたらどうする?
殷雷は静嵐の返答を待った。
さすがに静嵐とて武器の宝貝、殷雷の眼光には全く怯《ひる》まず、胸《むね》を張って答えた。
「いや、なんとなく。根拠はないよ」
武器の宝貝にあるまじき発言をし、静嵐は不敵《ふてき》に笑った。冗談《じょうだん》としてなら一流だが、生憎《あいにく》本人は本気なのだから始末に負えない。
思わず殷雷も釣《つ》られて笑う。
笑いながら、静嵐をまともな武器の宝貝として扱《あつか》った己を呪《のろ》う。こんな静嵐にまがりなりとも気配|探知《たんち》の手伝いをしてもらっている状況を呪い、しかもこんな奴と同じような製法《せいほう》で造《つく》られ、あまつさえ四本刀と一括《ひとくく》りで呼《よ》ばれている事の不幸を呪う。
「いいんだ、いいんだ静嵐。お前はちっとも悪くない。ああ、ちっとも悪くないさ」
「あれ? 珍《めずら》しく優《やさ》しいじゃないか。体の調子でも悪いんじゃないか?」
普通は思いついても口に出す前に躊躇《ちゅうちょ》するような言葉を静嵐は気軽に吐《は》いた。
これもまた本人には悪気は全くないのだ。
悪意はないのは十分|承知《しょうち》していた殷雷であったが、よく考えれば、だからといって怒《いか》りを我慢《がまん》する筋合《すじあ》いもない。
「ああそうだ、悪いんだよ。これでもかってぐらいに悪いんだよ。お前なんぞの力を借りねばならないほどにな!」
左手で棍《こん》を握《にぎ》っている殷雷は、右手だけで静嵐の胸《むな》ぐらを掴み、ぶんまわす。
これが本当に武器の宝貝なのかと疑われんばかりの軽々しさで、静嵐は殷雷に振《ふ》り回された。
「うわぁ助けて和穂。殷雷がいじめるよう」
思い詰《つ》めた表情で、口を固く閉《と》ざしていた和穂は、突然《とつぜん》ひらめいたのか明るい顔で殷雷に言った。
余程《よほど》思い詰めていたのか、旗の宝貝ですら一目置くような軽《かろ》やかさで振り回されている静嵐の姿は、和穂の目には映《うつ》ってないようだった。
「ねえねえねえ殷雷」
何が、『ねえねえねえ』だ。今までに、そんな間抜けな口のききかたを俺に対してしたことがあったかと、殷雷は腹《はら》をたてたが怒りを堪《こら》える。和穂ができるだけ悲壮《ひそう》感を和《やわ》らげようと必死になって、当たり障《さわ》りのない話題を探そうとしていたのが殷雷には判っていたからだ。
「なんだ和穂」
「殷雷や静嵐は四本刀って呼ばれてたんだよね」
当たり障りはないのかもしれないが、神経《しんけい》を逆《さか》なでされる予感を殷雷は覚えた。
「そうだ」
和穂は親指と人差し指を折り曲げ、続いて中指を曲げた。
「殷雷に静嵐、それと恵潤《けいじゅん》で三本だよね」
「言いたいことは、だいたい判ったが、黙れ」
どうせあと一振りはどんな刀かを、和穂は知りたがっているのに違いあるまい。
厄介《やっかい》さで言えば静嵐とたいして変わらない刀の話など殷雷はしたくなかった。
いい加減《かげん》に振り回されるのに慣《な》れてきた静嵐は呑気《のんき》に言った。
「あとの一振りは深霜刀《しんそうとう》だよ」
和穂は頷《うなず》き、彼女の柔《やわ》らかな髪《かみ》が冬の風になびく。
「そうそう。名前だけは教えてもらってたけど、どんな宝貝なの?」
四本刀の三体を見る限《かぎ》り、共通の特徴《とくちょう》があるようなないような、微妙なところだった。
恵潤と殷雷にはどことなく似た様子が感じられないでもなかったが、静嵐はどちらにも似ていない。
三体の宝貝に共通しているのは色ちがいとはいえ、袖《そで》つきの外套《がいとう》を羽織《はお》っている事ぐらいだった。
「やっぱり静嵐だけが特別なの?」
特別という言葉の意味を、静嵐は何を根拠にしたのか誉《ほ》め言葉と受け取った。
「殷雷、和穂に誉められちゃったよ」
阿呆《あほ》らしくなったので、殷雷は静嵐の胸《むな》ぐらから手を離《はな》した。
あれだけ振り回されていたのに、微塵《みじん》もふらつくことなく静嵐は地面を踏《ふ》みしめた。
武器の宝貝としての片鱗《へんりん》を静嵐は全く無意味に披露《ひろう》していた。
殷雷は言った。
「この馬鹿と深霜は特別……いや、別勘定《かんじょう》だと思っておけ。まともなのは俺と恵潤だけだ」
相槌《あいづち》など求めてないのに静嵐が言葉を続けた。
「そんなこと言ってると、深霜に引っ掻《か》かれちゃうよ。深霜ってのは恵潤と同じように女の子の形態《けいたい》をとってね。なんていうの、長い髪をゆったりとした大きな一つの三つ編《あ》みにしててさ」
殷雷はプイと背中《せなか》を向け足を進めた。深霜の解説なんぞ、静嵐にやらせておけばいいと考えたのだ。
殷雷の背中を掴むように和穂は軽く手を上げた。そして、殷雷に声をかけようとした。だが、言葉はでない。
いつもと同じように殷雷と喋《しゃべ》りたかったがそれは叶《かな》わぬ願いなのだろうか。自分が心配している事が気に食わないから、殷雷があんな態度をとっていると和穂には判っていた。
しかし、自分の心のうちを隠《かく》す術《すべ》を和穂は持っていない。
「でね、和穂。殷雷と深霜は、それはそれは仲良しでさ」
「へえ、そうなんだ」
前を歩く殷雷の足が軽くよろめく。
そして、崩《くず》れた重心を立て直す動きと、上体を旋回《せんかい》させて後方に向き直る動き、そして静嵐と和穂に向かい一気に間を詰《つ》める動きが軽やかに融合《ゆうごう》された。
「さりげなく目茶苦茶な言葉を吐《は》くなよ! 俺と深霜の何が『仲良し』なんだ!」
静嵐は不服そうだった。
「えええ。殷雷と深霜っていつも一緒《いっしょ》に居たって感じがするけどね」
「頼《たの》むぞ、静嵐。お前の間抜《まぬ》けさには目をつむってやるからよ、せめて事実は事実として客観的に説明しろ。
あれは向こうが勝手に俺につきまとってただけだろうが! こっちはいい迷惑《めいわく》だったんだよ」
殷雷の剣幕《けんまく》はえらく強い。和穂は首を傾《かし》げた。
「そりゃ殷雷には迷惑なだけだったのかもしれないけど、そんなに酷《ひど》く言ってあげちゃ、その深霜が可哀想《かわいそう》じゃない」
静嵐とのやりとりのお蔭《かげ》で、殷雷は体調から来る目眩《めまい》と、あまりの馬鹿らしさから来る精神《せいしん》的な目眩の区別が出来るようになっていた。
今、感じている目眩は明らかに精神的なものだ。殷雷は和穂につっかかる。
「お前は深霜を知らないからそんな口をきけるんだよ!」
「知らないけど、殷雷の好みの女の子じゃないからって、そんなにけなさなくても」
和穂は話を根底から誤解《ごかい》している。こういう時に限って静嵐はボウッとした顔をして話に加わろうとしないのが殷雷は妙に腹《はら》がたった。
「いいか、和穂。深霜は武器の宝貝としちゃ、静嵐よりは遥《はる》かにましだ。
だが、奴《やつ》は妙に惚《ほ》れっぽい女で、片《かた》っ端《ぱし》から男に惚れちゃ、べたべたとつきまとって」
静嵐が異《い》を唱えた。
「そうかい? 僕は深霜につきまとわれた覚えなんてないよ」
「……静嵐先生には深霜が惚れ込むような『隙《すき》』が一切《いっさい》なかったんだろうよ」
実際、下らないまでに、ほんの些細《ささい》な魅力《みりょく》を見つけては、深霜は相手に惚れ込んでいた。
その深霜ですら、見事なまでに静嵐は相手にしなかったのだ。
和穂は一人|納得《なっとく》いかないようだった。
「だけどさ、やっぱり好意を持ってくれた女の子をそういうふうに言うのは良くないよ」
静嵐は言った。
「和穂の言うとおりだ。こんなふうだから、殷雷は深霜をよく泣かしていたよ」
「うわ、そりゃ酷い」
「酷いものか。奴は俺の髪の毛を、自分とお揃《そろ》いの三つ編みにしようとしやがったんだぞ。
怒鳴《どな》られて然《しか》るべしだろ。刀の宝貝の癖《くせ》に怒鳴られたぐらいで、大泣きしやがるし」
和穂は大きく首を縦《たて》に振り、納得したような表情を浮《う》かべる。
「そうか、判《わか》った」
「何を判ったか知らないが、壊滅《かいめつ》的に判っちゃいない気がするぞ」
殷雷の言葉はすぐに裏《うら》づけられた。
「殷雷は、自分がこんなに好かれてたんだって自慢《じまん》話がしたいんだ」
これでも和穂は一応《いちおう》、女だ。だから深霜に感情|移入《いにゅう》がしやすいんだろうかと、殷雷は頭を掻きむしった。
「違《ちが》う! お前のおつむの中で深霜は、健気《けなげ》で惚れた男にかまって欲《ほ》しくて仕方がない可愛《かわい》い女になってるんだろうがな、そうじゃない。
あいつは感情《かんじょう》の起伏《きふく》が激《はげ》しいというか、感情の起伏しかない奴なんだよ。百歩|譲《ゆず》って惚れっぽいところまでは良しとしてやる。だがな、惚れた相手と、そうじゃない相手でどれだけ態度が変わるか!」
問題の本質とずれた部分で和穂が頭をひねっているのが殷雷には手に取るように判った。
「相手によって態度が変わるってのは、ちょっと嫌《いや》かもしれないね」
「俺《おれ》に惚れてた時は、怒鳴られただけで大泣きしてたくせに、他の奴に鞍替《くらが》えした途端《とたん》、半笑いで俺を滅多打《めったう》ちだ。
いいか? 模擬戦《もぎせん》で捕虜《ほりょ》役の俺に不意打ちかまして滅多打ちだぞ!」
和穂はハッとして口に手を当てた。
「あ、ごめん殷雷。結局ふられたのね」
静嵐も驚《おどろ》く。
「え、そうだったの?」
「お前ら、頼むからいい加減にしてくれ」
からかわれてるなら殷雷にも打つ手はあったかもしれないが、生憎二人ともそんなつもりは微塵もない。かといって無視《むし》したら、先刻《せんこく》と同じようにとんでもない言いがかりをつけられてしまうだろう。
百万言費やして、事実を伝えようとしながら歩く道行きは、殷雷にとって、まるで膝《ひざ》まで浸《つ》かる泥沼《どろぬま》を進んでいくようなものだった。
だが、いつものように繰《く》り返されていく会話が、和穂の心から殷雷の体調に関する不安を徐々《じょじょ》に洗い流してくれていく。
殷雷はいつもの殷雷だった。
殷雷はもう自分に何も隠してはいないだろう。殷雷が自分の体はまだ大丈夫《だいじょうぶ》と言った言葉に嘘《うそ》はない、と和穂は信じた。
今まで一行の右手に佇《たたず》んでいた湖が、だんだんと背後《はいご》に位置するようになり、染《し》みる湖水によるぬかるみも消えていった。
代わりに薄《うす》く積もる雪に、三人の足跡《あしあと》が刻《きざ》まれていく。
深霜の話をしているうちに、和穂は素朴《そぼく》な興味《きょうみ》を覚えた。
「ねえ、殷雷は仙界《せんかい》でどんな生活をしてたの?」
「腐《くさ》れ忌々《いまいま》しい、つづらの封印《ふういん》の中に閉《と》じ込《こ》められていたのをお忘《わす》れですかな、和穂大仙人|殿《どの》」
「いや、そうじゃなくてさ。師匠《ししょう》に造《つく》られていきなり封印されたんじゃないでしょ?
封印されるまではどんな風に暮《く》らしてたの」
殷雷は露骨《ろこつ》に嫌《いや》そうな顔をした。
「お前の馬鹿師匠が巻《ま》き起こした、気の遠くなるような間抜けな、各種様々な騒動《そうどう》の後始末に投入されたに決まっていようが」
純粋《じゅんすい》な研究目的に造られた宝貝もあれば、実用目的の宝貝もある。
武器《ぶき》の宝貝ならば、当然実戦を想定して造られていても不思議ではない。
和穂は、ふと爆燎槍《ばくりょうそう》の顔を思い出した。爆燎は、龍華《りゅうか》と共に邪仙《じゃせん》と戦った時の話をしてくれていた。
「殷雷も、龍華師匠の邪仙|退治《たいじ》の手伝いをしたりとか?」
「まともな仕事をした覚えはないな。どうでもいいような、くだらない事件《じけん》ばっかりだ。それも本当に、些細《ささい》なのばっかりで……」
静嵐も同意して頷《うなず》きかけた。確《たし》かにあまりまともな騒動を解決《かいけつ》したという記憶《きおく》はない。
が、全《すべ》て些細な事件ばっかりだというのは少し違うような気がした。大きな事件も数回あったではないか、静嵐は異議《いぎ》を唱えた。
「そうだけど、重大な事件も……」
そこで、静嵐の言葉が途切《とぎ》れる。
静嵐の様子に合わせて、殷雷の足も止まる。静嵐の仕草は、さながら聞き耳を立てる様子ではあったが、聴力《ちょうりょく》に頼《たよ》っているのではなかった。
静嵐は尋常《じんじょう》ならざる気配を感じたのだ。
自分自身は気配を感じなくても、静嵐の所作で殷雷も何かが居《い》るのだと身構《みがま》える。
殷雷は小声で言った。
「何が来る? 何処《どこ》に居る?」
静嵐は真《ま》っ直《す》ぐ指を差す。目指している村の方角と同じだった。
村の姿《すがた》がまだ見えないのは、湖と村の間に小高い丘《おか》があるせいで、場所的には村にかなり近づいている。静嵐はその丘に指を向ける。
「丘の向こう側の斜面《しゃめん》をこっちに向かって走って来ている」
殷雷は舌打《したう》ちをする。
「えらく近いじゃねえか! 無駄口叩《むだぐちたた》いて気配感知を怠《おこた》っていやがったな!」
一応きっちりやっていたつもりだったが、殷雷の指摘《してき》はもっともだった。もし、これが遠距離攻撃《えんきょりこうげき》を得意とする宝貝の襲撃《しゅうげき》だったら、後れを取っていた可能性もある。
「ごめんよ、殷雷」
「いいから集中しろ。何が来る!」
「人が二人に化け物が一|匹《ぴき》……人は子供《こども》だ。化け物は動物じみてる。猟犬《りょうけん》ぐらいの大きさでそれほど大型じゃない。でもあの気配は普通《ふつう》の生き物じゃない」
殷雷は苛《いら》ついた。殷雷にも、間近に迫《せま》りくる気配が、徐々に読めてきた。
が、静嵐の言葉と自分が感知している気配が僅《わず》かに食い違っていたのだ。
「本当か? 化け物二匹に子供が一人じゃないのか? 子供が二匹の化け物に追いかけられてるんだろ?」
静嵐は首を大きく横に振った。
「そうじゃないよ殷雷。子供二人が化け物を追いかけてるんだよ!」
途端《とたん》、丘を見つめる、和穂たち三人の視線の先で影《かげ》が跳《は》ねた。
向こう側から丘の頂《いただき》に一気に三つの影が躍《おど》り上がったのだ。影たちは激流《げきりゅう》を流れる三枚の木の葉のような複雑《ふくざつ》な軌跡《きせき》を描《えが》きながら、高速で大地を駆《か》けている。
和穂は目を瞬《しばたた》かせたが、影の素早《すばや》い動きに焦点《しょうてん》を合わせることが出来ない。
殷雷が怒鳴《どな》る。
「和穂!」
声が消えるよりも先に殷雷の体は爆煙《ばくえん》に包まれ、刀の本性《ほんしょう》に姿を変える。
慌《あわ》てて和穂は、鞘《さや》に収《おさ》まったままの殷雷刀を手に取る。瞬時《しゅんじ》に和穂は殷雷の知覚能力を得た。
まず、三つの影が何であるかを把握《はあく》する前に、和穂は影たちの動きを理解《りかい》した。
二つの影は一つの影を追いかけている。逃《に》げようとする影と、追いかける影。それがあの複雑な動きの意味だった。
二つの影は進行方向に和穂たちの存在《そんざい》を確認《かくにん》し、進路をずらそうとしている。
が、その動きは逃亡《とうぼう》する影に逆手《さかて》にとられていた。結果として影たちは和穂めがけて突《つ》き進む形になっていた。
動きをなぞりながら、三体の影に同時に和穂の焦点が合う。
静嵐の言葉に間違いは無かった。
化け物は犬じみた中型の動物に似《に》ていた。
ほんの一瞬、その姿を見ただけなら毛並《けな》みは奇妙《きみょう》だが、それ以外は普通の犬に見えただろう。全身を覆《おお》う獣毛《じゅうもう》は赤茶けていた。泥《どろ》に塗《まみ》れたかのように獣毛は幾《いく》つかの塊《かたまり》になり体にへばりついている。
だが、化け物の体を覆うのは獣毛ではなく、枯《か》れた笹《ささ》の葉だったのだ。
枯れた笹の葉で造られた精密《せいみつ》な犬の細工、笹の葉の間からは蛍火《ほたるび》のような翠《みどり》を帯びた白い光が漏《も》れている。
本来なら闇《やみ》の中でしか存在《そんざい》できない蛍火が陽光の下《もと》、化け物の隙間《すきま》から零《こぼ》れ落ちているのだ。
眼球《がんきゅう》にあたる部分の隙間から零れる光が特に強い。
その化け物を追いかけているのは確《たし》かに子供だった。
十|歳《さい》になるかならないかぐらいの、男の子と女の子が二人だ。男の子供は槍《やり》を片手《かたて》に、女の子供は刀を手にしている。
二人の背丈《せたけ》はほぼ同じで、武道《ぶどう》の練習着のような服装《ふくそう》も同じだ。
髪《かみ》の長さも基本《きほん》的には似たようなもので、肩《かた》に届《とど》くか届かないかの長さだろう。
ただ、髪の毛の結び方が二人では違っていた。男の子供は後頭部の辺りで髪を縛《しば》っている。が、それほど長い髪でもないので、半ば無理矢理《むりやり》に結んでいる。
女の子供の方は前髪を後ろに流し、鉢巻《はちま》きにも似た髪|飾《かざ》りで髪を抑《おさ》えている。
『なんでまあ、こう次から次へと、ややこしいのが出てくるんだろうね』
半ば呆《あき》れながら殷雷はつぶやく。その言葉は化け物に向けられたものではなく、子供たちに向けられたものだった。
子供たちの姿に特別奇妙なものはない。
和穂にも事情が飲み込めない。
化け物は化け物でまあいい。尋常《じんじょう》な化け物と、そうでない化け物を分け隔《へだ》てる線を和穂は知らない。
別段《べつだん》奇妙でもない子供が化け物を追いかけている姿は、格別《かくべつ》に奇妙だった。
『殷雷、どうなってるの』
『知るか! でもこれだけは言っておく。あのガキたちが持っている武器は、宝貝《ぱおぺい》でもなんでもない』
殷雷の言葉がにわかに和穂には信じられなかった。子供たちの持つ武器は確《たし》かに宝貝の持つ刃《やいば》の鋭《するど》さとは、かけ離《はな》れている。
『でもあの動きは』
尋常ならざる素早い動きで二人は駆けている。宝貝の力を借りずにあんな動きが出来るとは和穂には考えられない。
『別に不可能な動作じゃない。普通に手練《てだ》れた腕前《うでまえ》なら、あの程度《ていど》の体さばきは不思議じゃない。それに宝貝の力でどうこうした腕前にしちゃ、少しばかり動きが泥|臭《くさ》い』
説得力のある説明ではないと、殷雷は承知《しょうち》していた。手練れの動きではあるが、子供の手練れなどそう居《い》るものではない。
なんであろうと、考えて答えの出る類《たぐい》の話ではない。
ぐにゃりと、和穂の肩から力が抜《ぬ》けていった。いまだ殷雷刀は鞘から抜かれていない。
肩の脱力《だつりょく》のせいで、鞘の先端《せんたん》が地面に触《ふ》れる。
軽く猫背《ねこぜ》になりつつ和穂の手が殷雷刀の柄《つか》に伸《の》びた。
刀の原形に戻《もど》る時に手放された、殷雷の棍《こん》が地面に到達《とうたつ》し、カンという澄《す》んだ音が広がる。
二人と一匹はもはや間近に迫《せま》っている。
静嵐は、さっき自分が何を話そうとしていたか、呑気《のんき》に思い出そうとしていた。
力。全《すべ》てをねじ伏《ふ》せる、圧倒《あっとう》的な力を白繚《びゃくりょう》は渇望《かつぼう》していた。
その力から当然として導《みちぴ》かれる絶大《ぜつだい》な戦闘《せんとう》力があれば、馬鹿な兄貴《あにき》の減《へ》らず口を黙《だま》らせることも可能《かのう》になるだろう。
「やはりお兄様の意見としては、それじゃおつむは守れんと思うんだがな」
「だれが、『お兄様』だ!」
「そうか、それじゃ気さくに『迅鳴《じんめい》兄ちゃん』と呼《よ》んでくれて構《かま》わんぞ」
その一言一言がいちいち癪《しゃく》に障《さわ》る。普通に喧嘩腰《けんかごし》でくるのならばその方が、いっそ清々する。
どう考えても自分の頭にあるのは、兜《かぶと》ではなく髪留めにしか見えないのは白繚も重々承知している。駄目《だめ》なら駄目だと、力ずくで外させればいいのに、この男はからかいのネタの為《ため》にわざと黙認《もくにん》していやがったのかと、白繚は今になって知ったのだ。
この男はとてつもなく嫌《いや》な性格《せいかく》をしている。特に一番嫌なのは、この嫌な性格を見せるのは自分に対してだけであるという部分だった。
どうにかして言い返してやろうと白繚は知恵《ちえ》を絞《しぼ》るがなかなかいいのが思いつかない。
仕方がなく任務《にんむ》に集中しようと決めた。願わくば、無駄口を叩《たた》いたせいで迅鳴がへマの一つでもしてくれる事だけを願い。
「またややこしいのが出てきたな。どうするよ白繚?」
疾走《しっそう》しながら迅鳴は妹に向かって声を飛ばすが、迅鳴の妹である白繚の耳には届いていなかった。
紐《ひも》にじゃれつく子猫《こねこ》より必死の形相で、白繚は化け物を追いかけている。
仕方なしに迅鳴は敢《あ》えて化け物との間合いを離《はな》し、疾走する経路《けいろ》を変えた。
自分が『ややこしそうな連中』に向けてわざと進路をとり、逆《ぎゃく》に化け物を連中から遠ざけようとする判断《はんだん》だった。
が、化け物は迅鳴に近寄《ちかよ》る進路を取り始めた。
迅鳴は槍で化け物を突《つ》いたが、微妙《びみょう》に死角に回り込《こ》まれ攻撃《こうげき》は届かない。
化け物は前方の連中との接触《せっしょく》により、逃げ切ろうと考えているのだ。
白繚は、やっと湖の方角から現《あらわ》れた、二人の男と一人の女の姿《すがた》に気がついた。
「なによあいつら!」
「知ったこっちゃねえな」
「あいつらは邪魔《じゃま》だ!」
速度的にはいい勝負をしているとはいえ、流石《さすが》に化け物の方が二人より小回りが利《き》く。
このまま前方の三人と正面からぶつかっても、化け物は怪《あや》しい三人組の足の隙間をすり抜けて走り続けられるだろう。が、迅鳴と白繚は速度を落とすしかない。
前方の三人の側面から回り込もうとすれば、化け物との距離《きょり》は決定的に開いてしまう。
化け物と自分たちの速度そのものはたいして変わらないのだ、開き過ぎた距離を詰《つ》めるのは無理だろう。
化け物は枯れた笹の葉を撒《ま》き散らし、白繚と迅鳴の口からは白い吐息《といき》が流れる。
「仕方あるまい。俺が槍を投げて仕留めてみる。まあ、確実に避《よ》けられるだろうから、その後はお前が刀で仕掛《しか》けろ。無理はするなよ。
仕掛けは一度でいい。二度仕掛けると前の連中を巻き込む可能性がある」
「あんな怪しい連中ほっときゃいいのよ!」
「駄目。命令」
不服そうに白繚は口を閉《と》ざす。
迅鳴は肝心《かんじん》な部分を黙っていた。もし前方の連中が敵《てき》だった場合、二度目の攻撃《こうげき》は白繚を危険《きけん》にさらす可能性があったのだ。
一回の仕掛けならともかく、二度も斬撃《ざんげき》を繰《く》り出せば白繚の体勢は大きく崩《くず》れ、連中の攻撃を防御《ぼうぎょ》できないだろう。
連中よりも白繚の安全を考えての判断だった。
が、それを正直に話せば妹は反発して何をやりだすか判《わか》ったもんではなかった。どんな無茶をしでかすか見たいのはやまやまだったが、今回は自重しようと決めた。
どのみち、今は分《ぶ》が悪過《わるす》ぎる。最善手で応《おう》じ続けても化け物には逃げられてしまう、と迅鳴は予測《よそく》した。
「?」
「……一人消えた? どうして?」
「だから俺にきくなってば」
視界の中から忽然《こつぜん》と目つきの悪い男が消えたのだ。突如《とつじょ》現れた煙《けむり》のせいで見えなくなっただけかと思ったが、煙が消えても男の姿は消えたままだった。
第一、あの煙はなんだったのか? 二人にはじっくり考える暇《ひま》もない。
「怪し過ぎる。化け物より、あいつらに槍を投げたほうがいいんじゃない? とろそうな眉毛《まゆげ》の女になら当たるでしょ」
「無茶を言うな、無茶を」
走りながら槍を逆手に構え、迅鳴は投擲《とうてき》の体勢に入る。槍投げには自信があった。投擲用の槍ではないが、この距離ならば問題にもならない。
しかし、実戦で通用する投櫛の腕前《うでまえ》があるが故《ゆえ》に、この化け物に槍は当たらないという確信《かくしん》もあった。
化け物を形作る枯《か》れた笹《ささ》の葉。その葉の隙間《すきま》から零《こぼ》れる青白い光に、迅鳴は視線《しせん》めいたものを感じていたのだ。化け物は恐《おそ》らく、あの光で周りをみているのだろう。ならば、投擲の瞬間を見逃《みのが》すはずもない。
前方の連中は敵なのか味方なのか? 槍を投げた瞬間に付け込まれないように、迅鳴は三人から二人に減《へ》った連中の動きを見た。
呑気な顔をした男の方は手ぶらだ。
女は片手に刀を持っているが、弓矢に類する武器《ぶき》はない。ならば、槍を投げた隙に攻撃を仕掛けられる恐れはない。
と、その時。なにげなく迅鳴は刀の女と目があった。
女の眼光の鋭さには尋常《じんじょう》ならざるものがあった。
迅鳴はニヤリと笑い、投擲の体勢を崩す。
唐突《とうとつ》な行動に妹は慌《あわ》てた。
「何やってる! 早く投げろ! 槍の牽制《けんせい》がないと私の斬撃は通用しないぞ」
妹の言葉には耳を貸《か》さず、兄は疾走する速度を徐々《じょじょ》に緩《ゆる》めていった。
兄の行動を理解しようとした迷《まよ》いが、白繚と化け物の距離の差となる。
「ふざけてんじゃないよ!」
悲鳴にも似た怒声《どせい》を浴びせつつ、白繚は化け物との間合いを詰めようと、無理な加速に入る。
化け物は光の尾《お》を引きながら、真《ま》っ直《す》ぐに走り続けた。
眉毛の女はゆっくりと猫背《ねこぜ》になり、刀の柄《つか》に手を伸《の》ばす。
野生の動物は独自《どくじ》の疾走方法を持つ。
どこを目指しているのかは予想できても、どの経路でやってくるかの予想は難《むずか》しい。故に手練《てだ》れの猟師《りょうし》は、経路を追わない。
ただ獲物《えもの》の到達《とうたつ》地点だけを予想し、仕留《しと》めようとする。
また、到達地点を冷静に予想されている事を獲物は敏感《びんかん》に感じ取る。
最後の足掻《あが》きとして、獲物は無理矢理到達地点を変更《へんこう》しようとして、変幻自在《へんげんじざい》だった経路に隙を作ってしまう。
その時点で獲物の敗北は確定する。
なぜなら、狙《ねら》われる『点』を回避《かいひ》しようとして、より大きな『線』の隙を作ってしまうからだ。
だから、利口な獲物は『点』での勝負を恐れない。
化け物も利口な獲物と同じ判断をした。
娘《むすめ》の足下《あしもと》を駆け抜けようとしているのは、既《すで》に読まれている。が、どの角度から来るのかは予想させない。
青白い光の糸をひきつつ、化け物は駆けた。
ザフザフと雪を撒き散らす化け物の足音が微《かす》かに近づく。
そして、次の瞬間。
殷雷刀は鞘《さや》から放たれ、刃は『点』を一刀両断にした。
刀が鞘に戻る音を聴《き》きつつ、化け物は己《おのれ》の敗北を知った。
かつて化け物だった、枯れた笹の葉を寒風が撒き散らした。
白繚は隙なく刀を構えているが、迅鳴は槍《やり》を適当《てきとう》に掴《つか》んだまま面白《おもしろ》そうに微笑《ほほえ》んでいた。
「やるじゃないのさ。犬斬《いぬぎ》りは難しいんだぜ」
ごく普通《ふつう》に静嵐は挨拶《あいさつ》したが、この状況《じょうきょう》で静嵐の挨拶に応《こた》える者はいなかった。
白繚が噛《か》みつく。
「迅鳴、無駄話をしている場合か! こいつらを捕獲《ほかく》するぞ」
和穂の口元に冷たい笑みが浮《う》かぶ。その笑みは殷雷刀の笑みだった。
全く同じ笑みが迅鳴の顔にも広がった。
「俺の名は迅鳴で、こいつは白繚。馬鹿な妹で申し訳《わけ》ない。
で、あんたたちは敵か? 味方か? 敵だったら尻尾《しっぽ》巻《ま》いて逃《に》げたいんだが」
兄の言葉が白繚には信じられない。
「正気か!」
「正気だよ。どう戦っても勝ち目がない。あの刃《やいば》は尋常《じんじょう》なものじゃない。鋼《はがね》ぐらい易々《やすやす》とぶった切ると見た。まあ、切れ味|鋭《するど》い刀ぐらいならどうにか出来るが、犬斬りの腕前《うでまえ》まで見せつけられたら逃げるしかない。
俺たち二人の命と引き換《か》えに捨《す》て身の攻撃でもすりゃ、せめて一太刀《ひとたち》ぐらいなら浴びせられるかもしれんが、それじゃ割《わり》に合うまい。こいつらの出現《しゅつげん》を村に知らせるほうが重要だ」
白繚に返す言葉はない。素直《すなお》に認《みと》めるのは嫌《いや》だったが、この女の腕前は尋常ではない。確かに、余程《よほど》の幸運に見舞《みま》われない限《かぎ》り、命がけでも手傷《てきず》を負わせるのが精一杯《せいいっぱい》だろう。
まして、幸運に頼《たよ》っている場合でもない。
和穂の声を使い殷雷の言葉が流れる。
「心配するな。今のところ、敵でも味方でもない。詳《くわ》しい事情を聞きたいのは、こっちもそっちと同じだ。手始めに、そのおっかない槍を収《おさ》めてくれよ。妹を逃がす為《ため》の捨て身の構えだってのは先刻承知《せんこくしょうち》だ」
迅鳴はなんの躊躇《ためら》いもなく槍を捨てた。
同時に和穂の手から殷雷刀と鞘が落ちる。
そして、爆煙《ばくえん》が広がり、爆煙の中から殷雷が姿を現す。
和穂が説明する。
「私の名前は和穂で、ここに居《い》るのが殷雷、後ろにいるのが静嵐です」
迅鳴は惚《とぼ》けて言った。
「その、爆発には驚《おどろ》いたほうがいいのかい? どうせ、宝貝《ぱおぺい》なんだろうが」
和穂の瞳《ひとみ》から鋭さが消滅《しょうめつ》した事にも迅鳴は驚いていなかった。突如現れた殷雷の眼光と先刻までの和穂の眼光の類似から、迅鳴はだいたいの仕掛けを理解していた。
鞘をひねり袖《そで》つきの外套《がいとう》に戻《もど》し、地面に転がる棍《こん》を拾いながら殷雷は言った。
「どうやら話は早いらしいな。俺たちは宝貝を回収《かいしゅう》している。素直に返すならば害は加えん。抵抗《ていこう》するなら、ちいとややこしい事になるだろうがな」
渋々《しぶしぶ》、白繚も刀の構えを解《と》いた。
「生憎《あいにく》、私や迅鳴は宝貝を持ってない。それらしい物を持ってる奴《やつ》には嫌と言うほど心当たりがあるけどね」
和穂は尋《たず》ねる。
「案内してもらえますか?」
意地悪く笑い白繚は応えた。
「喜んで。ともかく村まで来るんでしょ? 獅桜《しおう》という女が宝貝を持ってるから、そいつの家に連れてってやる」
意外と親切な行動が和穂には嬉《うれ》しかった。
「白繚さん、わざわざありがとうございます」
「気にしなくていいのよ和穂。獅桜の面倒事《めんどうごと》を増《ふ》やしてくれるんなら大|歓迎《かんげい》だわ」
和穂にはいまいち言葉の意味が理解できない。
「で、その獅桜さんて人が持っているのは」
獅桜の面倒事を増やしてくれるのならば大歓迎、という言葉に嘘《うそ》はないようだった。
和穂の質問《しつもん》が終わる前に、白繚は嬉しそうに答えた。
「砥石《といし》の宝貝らしいよ。実物を見たわけじゃないから本人に尋ねるんだね。
そうそう。奴に質問する時は出来るだけ高飛車に命令口調で質問しておくれよ。青筋《あおすじ》立てて怒《おこ》る姿を久《ひさ》しぶりに見てみたい」
素《そ》っ気ないまでに簡単《かんたん》に砥石の宝貝の在《あ》り処《か》が判《わか》り、和穂はホッとした。
が、流石《さすが》に殷雷は疑《うたが》ってかかっていた。
「さっきの化け物はなんだ?」
迅鳴は槍を拾う。
「勘弁《かんべん》してくれよ。腕前《うでまえ》じゃかなわないが、尋問《じんもん》される義理《ぎり》もないんだからな。だいたい、あんたらどうやって湖の向こうから来た? まあ、宝貝の能力《のうりょく》で瘴気溜《しょうきだ》まりは平気だったのかもしれんが、それ以前に湖の向こう側には何も無いはずだろうに」
殷雷は言った。
「お互《たが》い説明には手間がかかりそうだな。悪いが村へ向かいながら話させてくれ」
「湖の向こうに村がある? そんな話に覚えはあるか白繚《びゃくりょう》?」
「古地図に、隣村《となりむら》が載《の》ってるような話を聞いたような気がしないでもない」
奇妙《きみょう》といえば奇妙な話だった。いくら村と村の間に厄介《やっかい》な湖があるとはいえ、互いに村の存在《そんざい》を気にしていないのが、和穂《かずほ》には不思議だった。
「それじゃ村同士の交流とかもなかったの?」
「和穂姉ちゃんよ。悪いが昔の話にゃ詳《くわ》しくないんでね。そういう話は年寄りの方が詳しいだろう。少なくとも俺や白繚のような十二|歳《さい》の餓鬼《がき》にする質問じゃねえな」
白繚と迅鳴《じんめい》の背格好《せかっこう》はよく似《に》ていた。実際《じっさい》どちらが年上かは見た目で判断できない。
和穂は尋ねた。
「同い年って、もしかして二人は双子《ふたご》なの?」
背格好だけではなく、その顔の造りもどことなく似《に》ている。兄妹《きょうだい》かと思ったが、同じ年齢《ねんれい》ならば双子なのかもしれない。嫌そうに白繚は先手を打つ。
「腹違《はらちが》いの兄妹という可能性には、全く考えが及《およ》ばなかったか?」
へらへらと迅鳴は笑う。迅鳴はいつも笑っている。
「ややこしい話にするなよ。俺《おれ》と白繚は双子だ」
口を開きかけた和穂を白繚は制《せい》した。
「顔がそっくり! なんてほざいたら八つ裂《さ》きにして、渋柿《しぶがき》と一緒《いっしょ》に軒《のき》に吊《つ》るしてやるからな。
いいな、双子だからどうだこうだなんていう下らん話は以降《いこう》一切禁止《いっさいきんし》するぞ。こんな所で無駄《むだ》話もしていられん。村に戻ろう」
五人が歩く道のりは長閑《のどか》なものだったが、農村の雰囲気《ふんいき》ではなかった。
ぽつりぽつりと塀《へい》のない家が建ち、村の中心に向かっているせいか、だんだんと家の数が増《ふ》えてきている。
雪に被《おお》われる田畑が見えるが、自給用のものなのだろうか、それほど規模《きぼ》の大きい物は見えない。
庭先の切り株《かぶ》に座《すわ》った老人が、煙管《きせる》を吸《す》いながら声をかけた。
「よお、迅鳴よ迅鳴よ。鴨《かも》と鶉《うずら》の肉が余《あま》ってるんだがくれてやろうか?」
「いいや構わん。干し柿で結構《けっこう》だ、本当に干し柿だけで結構だ」
「ならば明日の朝一番で取りに来い。わしは今から山へ柴《しば》を刈《か》りに行こうと思う」
「ああそれもまたよかろう」
殷雷《いんらい》はジロリと老人を睨《にら》んだ。老人は大きく欠伸《あくび》をした。
道を歩きつつ静嵐《せいらん》は言った。
「で、白繚と迅鳴は何をしてたの?」
「村の見回りさ。化け物を見つけたんで追っかけてたらあんたたちに出会った」
「でも、あんな化け物がしょっちゅう現《あらわ》れてるわけかい。長閑そうな村なのに物騒《ぶっそう》といえば物騒だね」
たまに口ごもりかける白繚とは違い、迅鳴はペラペラと喋《しゃべ》る。
「というかね。あの枯《か》れた笹《ささ》の葉が問題でね。どういう仕掛けか、笹の葉で出来た化け物がうろちょろしてるんだ」
小さな井戸《いど》の側《そば》に一人の男が居た。
日に焼けた中年の男で、肩から先の左腕が無いのか、上着の袖《そで》が不自然に揺《ゆ》らいでいた。
男は井戸の脇《わき》の大石に座り器用に鎌《かま》を研《と》いでいる。シャキシャキと刃《は》を研ぎながら、人懐《ひとなつ》っこそうな笑顔で迅鳴に声をかけた。
「よお、迅鳴よ迅鳴よ。明日の天気は晴れるか雨か?」
「いいや知らぬ。そいつは雲に訊《き》いてくれ。夜明けの空の雲に訊いてくれ」
「ならば雲に訊いてみようか。朝一番のその時に朝日にかかる雲に訊こうか。さて、鎌の手入れも終わったし、川に仕掛けたタモでも見に行くか。小魚の一|匹《ぴき》でも捕《と》れればいいが」
「ああそれがいい。だけど魚は一匹も居るまいよ」
殷雷は片腕の男を老人の時と同じように睨みつける。男の笑顔は殷雷の眼光を前にしても一切|怯《ひる》まなかった。
村人と迅鳴のやりとりが和穂には不思議だった。どうといった会話でもなさそうだが、それにしては口調が妙に引っかかる。
「それって何?」
迅鳴が惚《とぼ》ける前に静嵐が先に惚けた。
「何って何が?」
あらためて聞き返されると具体的に指摘《してき》できない。天気の話や川の話に過《す》ぎないからだ。
説明しようと躍起《やっき》になる和穂だったが、いまいち言葉にまとまらない。
そんな和穂をあざ笑うかのように三人目の村人が姿《すがた》をあらわす。
背中の曲がった老婆《ろうば》が、箒《ほうき》を片手《かたて》に家の前の枯れ葉を掃除《そうじ》していた。
「よお、迅鳴よ迅鳴よ。今度の春が来たのなら、どちらの種を埋《う》めようか。朝顔と向日葵《ひまわり》のどちらの種を埋めようか」
和穂は静嵐の上着の細い袖を引っ張る。
「ほら、『よお、迅鳴よ迅鳴よ』って、さっきから皆《みな》言ってるでしょ?」
「そりゃまあそうだけど、それで?」
二人の会話をよそに迅鳴は老婆の質問に答えた。
「いいや、両方やめておけ。今度の春に植えるのは、瓢箪《ひょうたん》の種にしておけ」
途端《とたん》、老婆の皺《しわ》だらけの中に埋もれていた、細い目がうっすらと開かれた。老婆から漲《みなぎ》る狂暴《きょうぼう》な殺気は、和穂と静嵐にすら察知できた。
迅鳴が慌《あわ》てて言葉を言い直す。
「じゃなかった、ヘチマだヘチマ。植えるのはヘチマの種にしておけ」
辛《かろ》うじて老婆の殺気だけは消滅《しょうめつ》したが、軽い嘲《あざけ》りにも似《に》た怒《いか》りは、老婆の声からは消えなかった。
「一人前づらしても所詮《しょせん》はまだ餓鬼《がき》よのう、迅鳴よ。死ぬのは勝手だが、周りを巻《ま》き込《こ》むなよ」
静嵐では埒《らち》が明きそうにないので、和穂は殷雷に問いただしてみた。老婆の言葉は偉《えら》く物騒だったので、どうしても声は小さくなる。
「なんだか、凄《すご》い話になってるけど、殷雷には判《わか》る? 『よお、迅鳴よ迅鳴よ』ってどういう意味かな」
「あほらしくて答える気にもならん」
「そんな意地悪言わないで、教えてよ」
老婆の怒りをどうにか取り繕《つくろ》って、迅鳴が和穂の質問に答えた。
「和穂姉ちゃん。別になんでもないさ」
「でも、村の人がみんな『よお、迅鳴よ迅鳴よ』って」
「なあに簡単《かんたん》、俺は村一番の人気者でね。白繚に声をかけるよりは、俺に声をかけるほうが楽しいって寸法《すんぽう》さ」
白繚ではなく迅鳴にばかり声がかかるのは問題ではない。何故《なぜ》、妙に節のまわった口調で声がかかるのかが不思議だったのだ。
「そんな説明じゃ納得《なっとく》できないよ」
白繚が少しばかり先にある建物を顎《あご》で指《さ》し示《しめ》した。
「偉《えら》そうにしてるが、迅鳴と話したって、肝心《かんじん》な部分は何も教えちゃくれないよ。こいつも私も下っ端《ぱ》なんだから。
ほら、あれが獅桜《しおう》の家だ。
質問は獅桜にするんだ。獅桜が答えなきゃ、この村であんたたちの質問に答える奴《やつ》は一人もいない」
獅桜。先刻から迅鳴と白繚の口に出てくる名前だが、獅桜が何者であるかの話も出ていない。
「獅桜さんって、この村の村長さんか何かなの?」
「本人は、『宿屋の可愛《かわい》い看板娘《かんばんむすめ》』ぐらいほざきかねないが、そっちのひょろ長い男はともかく、そんな戯言《ざれごと》を信用する程《ほど》、和穂も馬鹿《ばか》じゃあるまい」
白繚が指し示した建物は、確かに宿屋のように見えた。
平屋でこれだけ広い建物で、民家であるはずがないと和穂は思う。確かに広いが屋敷《やしき》という造りでもない。
似たような造りの宿屋を和穂は過去《かこ》に何度か見た覚えもあるが、それは都のような大きな街だけだった。
観光地でもなさそうな、こんな片田舎《いなか》にある宿屋にしては不自然に大|規模《きぼ》だった。
万が一、この村が観光地で、しかも現在《げんざい》は季節はずれで閑散《かんさん》としていると説明されても和穂の違和《いわ》感は少しも薄《うす》れなかっただろう。
宿屋の周りにあるのはまばらな民家だけだ。
こんな観光地はありえない。
和穂の背中を叩《たた》いて、迅鳴は請《う》け合った。
「なあに、正直、適当《てきとう》な事を言って、和穂姉ちゃんたちを誤魔化《ごまか》してやろうとは考えたが、少なくとも罠《わな》にかけどうこうしようなんてたくらんじゃいないさ」
宝貝を巡《めぐ》って地上を駆《か》けずり回り、大概《たいがい》のボロ宿に泊《と》まった経験《けいけん》のある和穂だったが、ここまでやる気のない宿屋は初めてだった。
入り口は大きくとられ、食堂も兼業《けんぎょう》しているのか、土間ではあるが大きな広間が広がっている。
調理場と広間を遮《さえぎ》る壁《かべ》はなく、壁|際《ぎわ》には幾《いく》つかの竃《かまど》が据《す》えられていた。
が、まともな使用に耐《た》えられるのはどうみても一つしかない。それ以外は、煤《すす》なのか蜘蛛《くも》の巣なのか得体の知れない物に半ば埋もれるように包み込まれている。
いっそ屋根が無ければこんな埃《ほこり》も溜《た》まらずに済《す》んだのに、と思わず宿屋として本末|転倒《てんとう》な考えが和穂の頭の中をよぎる。だが、この埃と、雨や夜露《よつゆ》に濡《ぬ》れることのどちらかを選ぶとなれば、和穂は野宿を選択《せんたく》しただろう。
下手《へた》に近寄れば埃で大騒《おおさわ》ぎになると心得ているのか、まともな竃以外には人が近寄った気配が全くない。
その一つが普段《ふだん》使う竃なのであろうか、妙に奇麗《きれい》に手入れされていて、逆に他の竃の埃が目立つ。
土間の真ん中には、だだっ広い木の卓《たく》が置かれていた。もし、これが一本の木で造られていたら途轍《とてつ》もなく高価《こうか》な代物《しろもの》だったであろう。
が、よく見れば多数の材木を合わせて造られている、頑丈《がんじょう》さだけが売りの馬鹿でかいだけの卓でしかない。所々|継《つ》ぎが上手《うま》くいっておらず、表面がボコボコになっているのだ。
かなり無茶苦茶《むちゃくちゃ》な卓ではあるが、竃周辺の惨状《さんじょう》に比《くら》べれば埃が積もっていないだけ清潔《せいけつ》感が漂《ただよ》っていた。
卓の上には、ここが食堂であると主張《しゅちょう》する為《ため》だけに置かれているような箸立《はした》てが置かれていた。
太い竹を切り、節を底にして無数の箸が突きたてられているごく普通の箸立てだ。新品のまま、誰にも使われずに現在に至《いた》ったのだろうか、色あせしている割に造りはしっかりとしていた。
「獅桜、お客さんだ」
そう言って、迅鳴は、竈の隣《となり》の大きな水瓶《みずがめ》から水飲みに水を注ぎ、一気に飲み干《ほ》す。
ならば、やはりこの人が獅桜さんなのかと和穂は腹《はら》を括《くく》った。
大きな卓に突《つ》っ伏《ぷ》して一人の女が眠《ねむ》りこけていた。うたた寝《ね》などという可愛いものではなかった。箸立ての隣で、引っ繰《く》り返っている徳利《とっくり》から見て、やはり酔《よ》いつぶれているのだろう。寒さが苦手なのか、紅《べに》色の厚手《あつで》の上着を羽織《はお》っている。
女の隣には大きな火鉢《ひばち》が置かれていて、炭が煌々《こうこう》と赤い光を放っていた。
白繚は腕を組み、和穂に注意を与《あた》えた。
「酔っぱらってるだろうけど気にしないでいい。どうせ素面《しらふ》で居る時とたいして変わらないからね。酔っぱらいの戯言と思えば、こいつの口の利《き》き方にも腹は立ちにくいしな」
ガバ、と獅桜は上体を起こした。
酔っぱらっているせいか、奇麗な肌《はだ》はほんのりと桜《さくら》色をしている。突っ伏して寝ていたせいでぐしゃぐしゃになっていた黒髪《くろかみ》だが、獅桜の白く伸《の》びやかな指で掻《か》き上げられると途端に軽く流れた。背中に掛《か》かるか掛からないかの黒髪は、緩《ゆる》やかな波をうっている。
少しばかり薄い唇《くちびる》の周りを獅桜は指でこすったが、よだれはついていなかった。
きりと鼻筋《はなすじ》は通り、全体的に見て美人の手本のような顔であったが、その鋭《するど》いまでの目つきの悪さが全《すべ》ての美点を力の限り破壊《はかい》している。
それでも寝ぼけているうちはまだましだったが、正気に戻《もど》り目が開かれるにつけ、その鋭い眼光がさらに研《と》ぎ澄《す》まされていった。
ぼんやりとしていた視線は、今やはっきりとしていた。
獅桜は迅鳴に視線を投げかけ、大きく舌打《したう》ちをした。続いて、白繚に舌打ちし、殷雷、和穂、静嵐の五人を相手にわざわざ一人ずつ丁寧《ていねい》に舌打ちをしたのだ。
火鉢に手を伸ばし、炭火の暖かさを堪能《たんのう》しながら獅桜は言った。
「ようこそいらっしゃいませ。私がこの店の主《あるじ》で看板娘の獅桜です。もしかしてお客さんかい。
もしお客だというなら、あの竃を使って私が料理を作っておもてなしするという羽目になるが、それでもいいんだな? 帰るなら今のうちだよ」
天秤棒《てんびんぼう》のように棍《こん》を担《かつ》ぎ、礎《はりつけ》にされた罪人《ざいにん》のように殷雷は両手を絡《から》めていた。
そして、殷雷は言った。
「下らん芝居《しばい》はもういい。ここが武門《ぶもん》の村だってのは先刻承知《せんこくしょうち》だ」
武門という言葉を初めて和穂は聞いた。
「武門って何?」
和穂に説明するというよりは、自分がこの村の正体をどれだけ正確に把握《はあく》しているか、獅桜に思い知らせる為《ため》に、殷雷は武門について語った。
「米や野菜を作って売って、生計を立てる村は農村で、魚を釣《つ》って商売してればそいつは漁村だ。気の利《き》いた曲芸をして見物人相手の商売をすれば芸事の村で、武門の村とは、武人を作り上げて商売にしている」
「それでどうやって商売になるの?」
「どうやら今のところは、皇帝《こうてい》が上手い具合に平和な状況《じょうきょう》を保《たも》っているようだが、属国《ぞっこく》や県令の中には、不測《ふそく》の事態《じたい》に備《そな》えて軍を調《ととの》えている連中も居る。
兵士は訓練しだいでどうにかなるが、指揮官《しきかん》級の武人となると、そう簡単にいかないんだよ」
「県令の部下の人を預《あず》かって、武人になれるように訓練してるって事?」
「いや、違う。
家臣の中には忠誠心《ちゅうせいしん》が怪《あや》しい奴《やつ》もいる。反乱《はんらん》を企《くわだ》てられる可能性があるなら、優秀《ゆうしゅう》な指揮官を別に雇《やと》ったほうが安全だ。
武門の村じゃ、餓鬼《がき》の頃《ころ》から徹底《てってい》的に武人としての教育を施《ほどこ》して、一人前になったら武官として派遣《はけん》してるんだよ」
獅桜は大袈裟《おおげさ》に首を横に振《ふ》った。
「なんのことでございましょうか、きっと迅鳴と白繚の腕前《うでまえ》を見てそう勘違《かんちが》いなされたんでしょうな。いや、きっとそうだ。
この二人は武道家の家に生まれました故《ゆえ》に腕が立つだけの話で、武門の村とは誤解《ごかい》もいいところでございます」
それほど無茶な言い逃《のが》れとは和穂にも思えなかったが、殷雷は納得《なっとく》しない。
「餓鬼二人の腕前より、重要なのはあいつらの使っていた武器だ。
餓鬼向けにキッチリ長さや重さを考えて設計《せっけい》された武器なんざ、武門の村以外に何処《どこ》にある。あれは、実戦を想定した教練用の武器だ」
獅桜は流れるように説明した。まるで、予想された質問のように流暢《りゅうちょう》な解答《かいとう》だった。
「そりゃ、自分の子供《こども》は可愛《かわい》いんで、鍛冶屋《かじや》に頼《たの》みこんで造《つく》らせたんでしょうな。
いや、私はこの二人の親でも親族でもないんでよくは知りませんがね。おほほ」
「それにしちゃあ年季の入った武器だな。五年、十年なんて程度じゃない。造られてからかなり経過《けいか》してる。
可愛い子供のために、今の体格にピッタリな武器を数十年前から作るはずがなかろう。単純《たんじゅん》に、子供の鍛錬用武器がこの村には無数にあるんだろ? 武門なら当然じゃないか。迅鳴と白繚はその中から自分の体格にあった武器を選んでるんだ」
「武門から流れた中古の武器でも手に入れたんじゃござんせんか」
獅桜の言葉に僅《わず》かな動揺《どうよう》が見られた。
殷雷は動揺を突くなどという面倒《めんどう》な手段をとらず、単純に事実を積み上げていく。
「駄目押《だめお》しの駄目押しだ。
湖からこの、偽装《ぎそう》宿屋に来るまでの間に三人の村人に出会った。そして、三人が三人とも『よお、迅鳴よ迅鳴よ』と呼びかけた。あれは合図だ。
村の中に現れた俺や和穂を不審《ふしん》人物と見た村の連中は、あの問いかけで迅鳴に事態がどうなってるか説明させたのさ」
獅桜は六度目の舌打ちをした。
静嵐がパチパチと拍手《はくしゅ》をする。
「凄《すご》いじゃないか殷雷、名|推理《すいり》だよ!」
「ド阿呆《あほ》。推理でもなんでもない。武門の村ってのが存在《そんざい》するのを知ってたら、こんなのは馬鹿でも判《わか》る」
静嵐は異議《いぎ》を唱えた。
「えぇ、僕《ぼく》は判らなかったよ」
本人は、武門の存在を知る自分が気づかなかったので、いくらなんでも、馬鹿じゃ判らないのではないかという反論《はんろん》のつもりだった。
殷雷には自分が馬鹿以下だという自己申告《じこしんこく》にしか聞こえなかった。
素直《すなお》にこの村が武門の村であることを認《みと》めるのが悔《くや》しかったのか、代わりに今にでも斬《き》りかかってきそうな気迫《きはく》を獅桜が滲《にじ》ませる。
獅桜の周囲には刃物《はもの》らしい物は全くなかったが、それでも何かを切り裂《さ》く事ぐらい獅桜には訳なくできるような気迫があった。
獅桜は迅鳴に言った。もはや武門の村である事を隠《かく》す気はないらしい。
「よお、迅鳴よ。お前の任務《にんむ》はなんだった? 村の見回りと、部外者が現《あらわ》れたらさっさと追い払《はら》えと命令したはずだがな」
獅桜とのやりとりの間に、迅鳴は充分《じゅうぶん》に喉《のど》を潤《うるお》していた。飲みおえた水飲みをすすぎながら迅鳴は答えた。
「そうだよ。だけど俺《おれ》は士官|扱《あつか》いで、白繚のような兵卒扱いじゃないだろ。命令に違反《いはん》しようが、現場の判断で行動する権利《けんり》はあるはずだな」
「お前と白繚にどれだけの差があるというのだ。人手不足で格上扱いされた程度で一人前の口の利きようだな。お前の現場判断なんざ、どれだけ信用できるってんだか」
「いいじゃないか、獅桜。取り引き次第《しだい》で味方になるかもよ。人手不足で困《こま》ってるんだ、腕のある助《すけ》っ人《と》がいて邪魔《じゃま》になるまい」
「助っ人の振《ふ》りをした内通者だったらどうするんだよ。塹甲《ざんかん》なら手段を選ばんぞ」
塹甲とは誰なのか? 和穂が口を挟《はさ》めるような空気ではない。
半ば寛《くつろ》ぎながら、迅鳴は卓《たく》に腰《こし》を降《お》ろした。
「内通者の線はない。この殷雷と塹甲の腕前があれば、真っ正面から攻《せ》めても村を潰《つぶ》せるぜ」
ひよっこの言葉に聞く耳はないとばかりに獅桜は殷雷に言った。
「『余所者《よそもの》は信用できない』なんて了見の狭《せま》い女じゃないんだよ、私は。
だけどね、窮地《きゅうち》にたまたま現れた助っ人なんていう都合のいい幸運を信じるほどお人好しでもないんでね」
もっともな判断であるのは殷雷も承知していた。
「心配するな。俺も『困った人をほうっておけない』なんていう、おせっかいなお人好しじゃない。宝貝を返しさえすれば、おとなしく退散《たいさん》してやるぜ」
宝貝という言葉を耳にし、獅桜は不思議そうな顔をした。
「どうして、宝貝の話を知っている」
「知らいでか。俺も宝貝なんだよ」
軽く白繚が注釈《ちゅうしゃく》を入れる。
「ちなみに刀の宝貝。目つきの悪さも納得出来るでしょ」
「ちなみに僕は静嵐刀」
グダグダ説明するのも面倒だとばかりに、殷雷は本来の姿を現す。
殷雷刀を手にした途端《とたん》に、和穂の眼光《がんこう》が武人のものへと変わる。それを見逃す獅桜ではない。
「ほう。面白《おもしろ》い」
殷雷の口調が和穂の声にのり、奇妙《きみょう》な違和《いわ》感を周囲に撒《ま》き散らす。
「宝貝とは本来、人間界に存在してはならぬものだ。だが、ある時、仙人《せんにん》になりたての一人の間抜《まぬ》けな娘《むすめ》が、宝貝を人間の世界にばらまいてしまった」
意地悪な説明の仕方だが、解《わ》かり易《やす》い説明には違いない。体の制御《せいぎょ》が戻《もど》ってきたところをみると、殷雷は説明の続きを自分にさせようとしていると和穂は悟《さと》った。
「その仙人というのが私、和穂です。
私の師匠《ししょう》である龍華《りゅうか》師匠は、欠陥《けっかん》のある宝貝を封印《ふういん》していました。私の不注意で封印は破《やぶ》られてしまい、宝貝たちは逃走《とうそう》したんです。
それで宝貝を回収しようと人間の世界にやって来ました」
ころころと変わる和穂の眼光を獅桜は純粋《じゅんすい》に面白がった。
「宝貝の刀に仙人様ときたもんだ。仙人様だってのが本当なら、いちいち私にお伺《うかが》いなんかたてずに、勝手に宝貝を取り返せばいいじゃないか」
「生憎《あいにく》、仙骨《せんこつ》が封じられていて、私は仙術《せんじゅつ》が全く使えません」
「仙術の使えぬ仙人か。簡単に言えば、役たたずってわけだ」
ある程度の人徳があるが為《ため》に、罵倒《ばとう》されても不快《ふかい》でない人物というのがいる。
が、獅桜の場合、人徳の少なさのせいで罵倒があまり不快に聞こえなかった。なぜなら、もっと酷《ひど》い罵声が飛び交《か》うのではないかと、無意識《むいしき》に身構《みがま》えさせるからだ。
迅鳴は獅桜に目くばせし、獅桜は悪戯《いたずら》っぽく笑った。
相手の欲《ほ》しがる代物《しろもの》は、こっちの手にある。和穂の様子から見て、実力行使は最後の手段にしている類《たぐい》の人間だろう。迅鳴の判断に間違いはなかったのだ。内通者である可能性は低いし、殷雷の隙《すき》のない仕草から腕前は確《たし》かだ。それに和穂の事情を考えれば『安く』つく。
騙《だま》すつもりもないが、利用しても問題はないと、獅桜は考えた。
獅桜の口調が、再《ふたた》び妙に芝居がかった物になる。
「あぁ、和穂大仙様。我《わ》が村は現在大変な問題に直面しております。もし、よろしければ力を貸《か》してくれるとお約束願えませんか?」
気の利《き》き過《す》ぎた通訳のごとく、白繚は要約した。
「つまり、手を貸さなきゃ意地でも宝貝を返してやんないって事ね」
獅桜は続けた。
「お願いします、和穂大仙。今、宝貝をお返しすれば、この先に待っているのは村の破滅《はめつ》だけでございます。
それに、この災厄《さいやく》の中心人物、憎《にく》き塹甲も恐《おそ》らく宝貝の保持者《ほじしゃ》にございます」
獅桜の要約も続く。
「つまり、そっちにも手を貸す利益はあるって意味だな」
和穂は答えた。
「それじゃ、さっきの枯れた笹の葉のお化けは、塹甲という人が宝貝を使って仕掛《しか》けていたんですね」
「左様でございます。ああして、化け物を仕掛けては村を滅《ほろ》ぼそうと画策《かくさく》しているのでございますよ」
和穂の手から離《はな》れ、殷雷刀は再び人間の形をとった。
「それでその塹甲ってのは何者だ?」
迅鳴と白繚の顔が急に引き締《し》まり、獅桜の声が低くなった。
「塹甲。奴《やつ》は『掟《おきて》』を破った。奴はこの村の裏切《うらぎ》り者なんだよ、殷雷刀」
「掟ってなんだ、掟って」
「それは言えぬ。お前が信用出来る出来ないの話じゃない。この武門の村に生きる者以外に、掟の内容《ないよう》を漏《も》らすわけにはいかん」
「そういわれると気になるがな」
獅桜はゆっくりと諭《さと》すように殷雷に説明した。
「塹甲は錠を破った。そして、この村から逃《に》げだしたのさ。手の空いていた村の連中は奴を捕《つか》まえようと、各地に散らばった。
だが、奴とてこの村で育った者だ。こちらの手の内は十分承知しているが為か、容易《ようい》には捕まりゃしなかった。それどころか返り討《う》ちにあう奴まででる始末さ」
それが、村の規模の割に人の気配が少ない理由だったのだと和穂は知った。
「それで塹甲は手薄《てうす》になった村に逆に襲《おそ》いかかったと?」
「油断《ゆだん》して手薄にしてたんじゃない。
そりゃ村の守りよりは追っ手の方に、戦力は割《さ》いているさ。うまい具合に士官の任期が明けてた奴が何人も居たから、塹甲|追跡《ついせき》にはそいつらを派遣《はけん》してる。
でもな、奴とて化け物じゃないんだ。正面からぶつかれば塹甲ごときに大した戦力は必要ない。たとえ塹甲が数十人の兵隊を連れてやってきたところで、地の利はこっちにある。麓《ふもと》から村に辿《たど》りつく間に塹甲以外の兵士は簡単に潰《つぶ》せる。
当然、麓の村には監視《かんし》をちゃんと置いてるから、不審《ふしん》な連中がくればすぐに連絡《れんらく》が来るようになっている。
戦力配分に落ち度はない。奇襲《きしゅう》を仕掛けられた時の備えも万全だった。
だがな、和穂大仙人よ。宝貝なんて代物のお蔭《かげ》で計算は大きく狂《くる》ったのさ。
正直な話、奴の戦力とこの村の戦力が五分五分だから、今のような硬直《こうちょく》状態になっているのか、奴が我らを苦しめて殺す為に、わざと長期戦を仕掛けているのかさえ、判断が出来ない始末だ」
白繚は腕を組み眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、獅桜の言葉の要約ではなく自分の意見を言った。
「塹甲が互角《ごかく》の闘《たたか》いなんていう賭《か》けを仕掛けるもんか。奴には充分《じゅうぶん》勝算があって、その上でなぶり殺しを狙《ねら》ってるんだよ」
白繚の意見に、迅鳴も獅桜も特に異議《いぎ》を唱えなかった。確証《かくしょう》がないから断言しないだけであって、獅桜も塹甲が勝利を確信して仕掛けていると考えていた。
宝貝などという代物がなければ、こんな窮状《きゅうじょう》に陥《おちい》るはずはなかったのだ。軽く恨《うら》めしげな視線《しせん》を受け、殷雷は首を縦《たて》に振った。
「判《わか》った判った。手は貸してやる。その代わり、お前の持っている宝貝、砥石《といし》の宝貝を先に返してはくれぬか。ちと、事情があってそいつが性急に必要なんだ」
獅桜は露骨《ろこつ》に勿体《もったい》をつけた。
「本当に手を貸してくれるのかい?」
「疑《うたぐ》り深い女だな」
「本当に本当だな。『宝貝を返すから、お前の力を貸してくれる』と、約束してくれるんだな」
「くどい! さっさと宝貝を渡《わた》せ」
「どうしようかなあ。ちょこっと腕《うで》を貸してくれただけで宝貝を返すってのもな」
唐突《とうとつ》に男の声がした。
「獅桜、いい加減《かげん》にしてやれよ。ついぞ男をじらせるような状況《じょうきょう》に巡《めぐ》り合えなかった女が、ここぞとばかりに積年の憂《う》さ晴らしをしてるようで、みっともないぞ」
ひょろりと背《せ》が高く、ぎょろついた目をした男が、宿屋の入り口に佇《たたず》んでいた。年の頃《ころ》は獅桜とたいして変わりはない。精悍《せいかん》といえば精悍だが、少しばかり痩《や》せ過ぎているきらいがあった。
男の手には木製《もくせい》の棍《こん》が握《にぎ》られていた。
獅桜と殷雷と静嵐は男の出現に驚《おどろ》いた様子を見せない。とっくの昔に、宿屋に近寄《ちかよ》る男の存在《そんざい》に気がついていたせいだった。
最初から男の気配を知る由《よし》もない和穂は、別の意味で男の出現に驚いてはいなかった。
男の顔を見て驚いたのは迅鳴と白繚だけだった。迅鳴の驚きの顔はすぐに不平の表情へと姿《すがた》をかえた。
半ば怒《おこ》りつつ迅鳴は言った。
「実戦|任務《にんむ》だとはりきってたのに、殻然《かくぜん》さんが保護者《ほごしゃ》代わりに、俺たちの後をつけて見守ってたって事かい。そんなに俺たちの腕前は信用がないのか?」
気合いを入れて警戒《けいかい》任務をしてはいたが、なんの事はない、万が一の時に備えて、見張《みは》り役が付いていたのだ。子供扱《こどもあつか》いされて機嫌《きげん》を損《そこ》ねる兄の顔を見て、白繚は嬉《うれ》しそうに笑った。
「信用以前に、監視《かんし》に気がつかないんじゃ隊長|失格《しっかく》なんじゃない」
殻然は白繚の隣《となり》に立ち、白繚と同じように壁《かべ》にもたれかかる。
「気にするな。獅桜の命令じゃない。暇《ひま》だったんで見物がてらに、迅鳴隊長のお手並《てな》みを拝見《はいけん》してただけだ」
殷雷の眉間《みけん》に皺《しわ》が寄る。獅桜と殻然、迅鳴と白繚を一人分に勘定《かんじょう》しても、手練《てだ》れが三人も揃《そろ》っている。未熟《みじゅく》な子供二人と大雑把《おおざっぱ》な獅桜だけなら、何が起きようとも小手先の技《わざ》で対応《たいおう》出来るだろうが、殻然という男には通用しそうにもない。
迅鳴たちと遭遇《そうぐう》した時から殻然の気配を感知はしていた。
が、殷雷も静嵐も殻然の存在をたいして気にも止めてはいなかったのだ。無関係の第三者の動きを殻然は完璧《かんぺき》に演《えん》じていた。
自分たちに関係する存在だと、殷雷たちですら判断しなかったのだ。村の外れからこの宿屋に向かって歩いていただけの普通《ふつう》の村人の動きを殻然は完璧に演じていた。
靴《くつ》についた泥《どろ》を払《はら》う動き、道|沿《ぞ》いで寝転《ねころ》がる野良犬《のらいぬ》の頭を撫《な》ぜる動き、あり触《ふ》れた無駄《むだ》な動きで、迅鳴たちとの距離《きょり》を調整していたのだ。只者《ただもの》であるはずがなかった。
殷雷の表情《ひょうじょう》を見て、殻然は口元を少し歪《ゆが》めて笑い、手に持つ棍を地面に転がした。敵意《てきい》がない証明《しょうめい》のつもりだろうが、紙一重《かみひとえ》で余裕《よゆう》を表している姿にも見える。
「困《こま》っている人に付け込むのは感心しないぞ獅桜よ」
「あんたの指図は受けないね」
言葉のついでに忘《わす》れていたとばかりに、獅桜は殻然に舌打《したう》ちをした。
不意に迅鳴が笑う。
「和穂姉ちゃんが困った顔してるぜ。出てくる奴が皆《みな》、悪態三昧《あくたいざんまい》で武門の村ってより悪口村だもんな」
迅鳴が指摘《してき》したような事を和穂は感じていなかった。困った顔をしていたのは、純粋《じゅんすい》に獅桜が宝貝を返してくれるかどうかがはっきりしないせいだったからだ。
和穂は首を横に振った。
「いいえ、そんな事は思ってないよ。だって皆さん、悪い人には見えないし」
迅鳴、白繚、獅桜、殻然が揃《そろ》って二の句《く》が告げられず、独特《どくとく》の沈黙《ちんもく》が広がる。
何をとち狂《くる》ったのか、静嵐は正確に状況を分析《ぶんせき》し和穂に進言した。
「駄目だよ和穂。いい人に見られるのが照れ臭《くさ》いから、わざわざ当たり障《さわ》りのない悪態をついているのに。ほら、みんな恥《は》ずかしがってるじゃないか」
わずかにあった照れ混じりの空気は、静嵐の指摘により消し飛んだ。手練れ連中の殺気じみた視線を感じ、静嵐は竦《すく》み上がる。
「う、うわあ嘘《うそ》です。皆様とんでもないワルですってば」
殷雷が代表して静嵐の後頭部を軽く殴《なぐ》る。
「いいから、お前は黙《だま》ってろ。
でだ、獅桜。一応|義理《ぎり》を通して話し合いのまねごとみたいな手間をかけてはいるが、あまり図に乗ると実力で返してもらう事になるぞ。
正直、お前ら相手に争い事はしたくないんだがね。むざむざ鳩尾《みぞおち》を棍で突《つ》かれて気絶《きぜつ》なんて醜態|晒《さら》すような腕前じゃあるまい」
ピンと緊張《きんちょう》の糸が張られた。獅桜の判断一つで戦闘《せんとう》状態になるだろう。一度、戦闘が始まれば迅鳴や白繚も個人《こじん》の意思を本能的に捨《す》てて、獅桜の戦いに従《したが》うのが殷雷には判った。彼らは訓練された武門の人間なのだ。
棍を持つ殷雷の右手が軽く脱力《だつりょく》され、戦闘への準備を整える。
獅桜が顔の前で手を振った。
「よしとくれ。金にならん争いを好むのは、塹甲の馬鹿《ばか》ぐらいだ。誰《だれ》も足下《あしもと》を見て、ふっかけようとしてるんじゃないよ。殻然の早とちりだ」
「だったら砥石を返せ」
「人の話は最後まで聞くんだね。
私が宝貝を持っているのをお前らは知っていたな。つまり、お前らは宝貝の居場所が判るんだろ? だったら、塹甲の居場所も判るはずだ。奴も何かは知らないが宝貝を持っているんだから。
当然、塹甲の居場所を教えたうえで、奴の退治に手を貸してくれるんだな?」
獅桜は即答《そくとう》が返ると期待していた。
が、和穂は返答に詰《つ》まる。
「そうしたいのはやまやまなんですが、宝貝の居場所を探《さぐ》る宝貝、私が耳につけてるこの索具輪《さくぐりん》の調子が悪くて、今のところ具体的な宝貝の居場所は判らないんです」
獅桜の目つきが冷たく変わる。調子のいい不都合を見逃《みのが》すような女ではなかった。和穂の言葉によって、獅桜は和穂たちが塹甲の手先である可能性が増大《ぞうだい》したと考えた。
和穂は獅桜の疑惑《ぎわく》を払おうとしたが、あまり効果《こうか》はない。
「この村に宝貝があるというのは、別の筋《すじ》からの情報でして」
「塹甲退治に手を貸すが、塹甲に不利な情報《じょうほう》は提供《ていきょう》できないってのか? 矛盾《むじゅん》してるな」
「判りました、一応もう一度、反応を探ってみます」
和穂は索具輪に指を伸《の》ばした。周囲から見る限り、ずれた耳飾《みみかざ》りを留《と》めなおしている仕草にしか見えない。
軽く目を閉《と》じた和穂の瞳《ひとみ》には何も映《うつ》らない。
本当ならば、宝貝の反応が夜空の星のように見えるはずだった。
「やっぱり駄目です。何も見えません。ついこの間までは、大まかな反応は判ったんですが、今は何も見えません」
さて、いいところまでいったが、交渉《こうしょう》は決裂《けつれつ》のようだと殷雷は考えた。
常識《じょうしき》的に考えて、獅桜が自分たちを受け入れるはずはなかった。ともかくこの場は退散して獅桜を狙《ねら》うしか手はあるまい。殷雷がこの場を脱出《だっしゅつ》する為《ため》の段取《だんど》りを組み立てていると、静嵐が声をあげた。
「へ? 変なもやもやとかを含《ふく》めて何も見えないの? 僕たちの反応もかい? だったら、それは宝貝の機能障害《きのうしょうがい》というより『符《ふ》』による結界のせいじゃないの?」
自らの失言を静嵐は知った。万が一、符による妨害《ぼうがい》結界ならば殷雷がとっくに指摘していたはずだったからだ。自分を見る殷雷の視線に、静嵐は肩《かた》をすくめた。
「静嵐よ。どういう意味だ」
殷宵の口から出た意外な言葉に静嵐は拍子抜《ひょうしぬ》けした。
「だから、索敵妨害用の結界符じゃないか。僕たちの反応すら判らないってのは、僕たちもその結界に進入してるからだろ? 殷雷、符術の講義で習ったじゃないか」
「待て。索敵妨害用の結界符なんざ、数刻《すうこく》の間しか保《も》たないんじゃないのか?」
珍《めずら》しく静嵐は呆《あき》れた顔をした。普段は呆れた顔を見る機会のほうが多い。
「そりゃ一枚《まい》の符を使う、基本《きほん》符術の理論値《りろんち》だよ。多重符術で、固定結界を張れば数か月は結界を展開《てんかい》出来るじゃないか」
恐《おそ》ろしく肝心《かんじん》な話を静嵐がしているのは和穂にも判った。もしかして、今までの回収で索敵妨害を受けて見落としていた宝貝があるかもしれないのだ。
「静嵐、それじゃもしかして今までもそうやって逃《に》げられていた宝貝が居るかもしれないって事?」
「大丈夫《だいじょうぶ》でしょ。索具輪は人間界にある全《すべ》ての宝貝の反応が読めるんだよね。
だったら和穂が意識しようがしまいが、索具輪は常《つね》に、人間界にある全ての妨害結界を感知しようとしてるはずだよ」
「でも、妨害結界は索敵を受けつけないんだよね」
「そ。で、期限が切れた妨害結界の存在は決して見逃さない。紛《まが》りなりにも索敵用宝貝ならば、妨害結界が存在した跡《あと》を使用者には教えてくれるはずだよ。ついでに言うなら、『跡』を分析して一度知った妨害結界は二度と通用しなくなる。どう足掻《あが》いても、妨害結界は一時しのぎにしかならないんだよ」
和穂と同じような熱心さで、殷雷も質問する。
「多重符術とやらで、数か月と言ったな? それ以上は不可能なのか?」
「習ったじゃないか殷雷! 数千枚の符で数か月の結界だけど、時間を延ばせば延ばすほど指数的に必要な符が増《ふ》えていく。二、三か月を境《さかい》にして、ほんの僅《わず》かの時間だけでも延ばそうとしたら数兆枚の符が必要になる。
で、作動中の符は、ある一定枚数以上が同一地点に密集《みっしゅう》しちゃうと相互干渉《そうごかんしょう》を引き起こして、符の機能に障害が出るから、どうしても限界時間は決まってくるんだ」
どうしてこんな判《わか》り切った話を、和穂はともかく殷雷にしなければならないのか。静嵐が文句の一つでも言ってやろうとした時、獅桜が怒鳴《どな》った。
「猿芝居《さるしばい》か? 塹甲の居場所を吐《は》きたくない言い訳のつもりらしいが、そんなものが通用するか!」
殷雷が戦闘態勢に入りかけるのを静嵐は押《お》し止《とど》めた。こんな基本《きほん》を忘《わす》れているようじゃ、結界|破壊《はかい》の方法も忘れているのは確実だった。
「落ち着いて、皆さん。妨害結界の存在が判ってるなら、その妨害結界を破るのは簡単なんですよ」
獅桜と殷雷は同じ言葉を吐く。
「本当か?」
「僕でも殷雷でも断縁獄《だんえんごく》でもなんでもいい、索具輪に目の前に居《い》るのが宝貝だと教えてやればいい。そうすれば、索敵《さくてき》宝貝は結界の解析を数日、長くても一週間もあれば終えられる。解析が済《す》めば結界を無力化出来るはずだよ。あ、でも当然、相手も自分たちの結界が解析されてるのは気がつくけど」
獅桜は判断を少し迷《まよ》う。塹甲の居場所を吐かずに、こちらの手の内に入り込もうとする嘘《うそ》に聞こえなくもない。一週間の期限というのも微妙《びみょう》な長さだ。
互角の勝負ならばさっさと、追い払《はら》っていたが、塹甲の戦力は全くの未知数だ。武器の宝貝の協力はどうしても欲《ほ》しいところだ。が、そこを突いた罠《わな》の可能性もありうる。
半ば癪《しゃく》に障《さわ》りながらも、獅桜は殻然の意見を求めた。
「どう思う。殻然さんよ」
ぎょろ目の男は何の迷いもなく答えた。
「悩《なや》む必要もあるまい。彼らは味方だよ。たとえ塹甲の居場所が判らなかったとしても、俺なら彼らの手を借りるし、お前にも手を借りるように勧《すす》めるつもりだった。獅桜。お前は罠の可能性を考えているようだが、それはあるまい。殷雷ならば、この場に居る俺たちを血祭りに上げるのは造作《ぞうさ》もない。わざわざ、罠を使う手もあるまいよ」
獅桜は言った。
「こういう線はないか? 手練れの殷雷が村の内部に入り込み、村の連中を一人ずつ血祭りに上げて私を精神《せいしん》的に追い詰めるってのは?」
「二つの理由でありえないな。
一人目が死んだ時点で、疑われるのは殷雷だ。
もう一つ、お前がそんな理由で追い詰められるか」
獅桜が村人の命を軽《かろ》んじているのではない。村人を信頼《しんらい》しているからだ。いかに殷雷が強かろうが、無様に犬死にを晒《さら》す者はいないと信じていたからだ。
「それに殷雷が信用出来る出来ないを別にして、要職《ようしょく》を任《まか》せたりはしないんだろ。せいぜい、迅鳴、白繚や俺みたいに遊撃《ゆうげき》や警戒任務《けいかいにんむ》で、要所の守りは任せまい」
ふと、獅桜の肩から力が抜けた。和穂にもその様子が判った。獅桜は自分たちを信頼することに決めてくれたのだ。
獅桜は不敵に笑った。
今まで防戦《ぼうせん》一方だった塹甲戦への勝機が、ここに初めて獅桜には見えた。
宝貝に対抗《たいこう》するにはこちらにも宝貝が必要だ。こんな砥石《といし》の宝貝なんかじゃなく、きっちりとした戦力としての宝貝が必要なのだ。
「いいだろう。取り引きといこうじゃないの。砥石の宝貝は返してやる。その替《か》わり、お前らも塹甲退治に協力してくれ」
殷雷が首を縦《たて》に振るのを見て、獅桜は懐《ふところ》から、碁石《ごいし》ほどの大きさの小さな石を取り出した。
特に宝貝だからといって、丁重《ていちょう》に扱《あつか》っているような気配は微塵《みじん》もない。
ただの石ころにしか、和穂には見えなかった。黒く光るさまは黒|瑪瑙《めのう》のように見えなくもなかったが、それでも安物の黒瑪瑙だ。
これが本当に宝貝なのだろうか、道具として加工されたような気配すら、その石からは感じられない。
獅桜の性格はかなりややこしそうではあるが、冗談《じょうだん》にしてはあまりにも面白《おもしろ》くもない。
和穂は言った。
「それが、宝貝なんですか?」
左手で石を握《にぎ》り、獅桜の右手は嬉《うれ》しそうに火鉢《ひばち》のヘリをペチペチと叩《たた》いた。
「ああ、そうともよ。早まって捨《す》てなくて本当に得した。
もう、約束はしたんだからな。これがどんなにつまらない宝貝でも、約束は守ってもらうぞ」
「つまらない宝貝?」
殷雷はただ、愕然《がくぜん》と砥石の宝貝を見つめていた。殷雷はこの宝貝を知っていたのだ。
「……無擦珠《むさつしゅ》。よくもまあ、こんな役立たずを餌《えさ》にふっかけてくれたもんだな獅桜」
仙界。時は『将軍《じょうぐん》の事件《じけん》』の末期。
機嫌《きげん》の悪そうな深霜《しんそう》の顔を殷雷《いんらい》は嫌《きら》いではない。深霜が天真|爛漫《らんまん》な笑顔《えがお》をふりまいている時は、周囲がややこしい状況《じょうきょう》になっているに決まっているからだ。
ここ最近、深霜の機嫌は大層《たいそう》悪かった。
あまりに黒くつややか過《す》ぎて、ほとんど鏡と変わらない卓《たく》の上に、深霜は肘《ひじ》を立て頬杖《ほおづえ》をついていた。
深霜の向かい側の卓に座《すわ》る殷雷の右手には、銀色に光る宝珠《ほうじゅ》が握《にぎ》られている。宝珠は不規則《ふきそく》に明滅《めいめつ》を繰《く》り返していた。
宝珠から殷雷の意識《いしき》の中に戦況の報告《ほうこく》が、事細かに流れ込んでいく。
「それにしても、轟武《ごうぶ》将軍もしぶといもんだな。まだ持ちこたえていやがるのか」
部屋の中には殷雷と深霜しかいない。だが、深霜は殷雷の言葉を無視《むし》した。殷雷にしても小気味良い返事が戻《もど》るとは期待していない。
「この間の戦いで九割九分けりがつくはずだったのに、轟武将軍を見事取り逃《に》がしたからなあ、深霜よ」
深霜はその言葉には聞き捨《ず》てがならなかった。
「勘違《かんちが》いしてるんじゃないわよ。私の失敗で轟武を逃がしたんじゃない。逃げ出した轟武を捕《つか》まえそこねたんだからな」
一緒《いっしょ》のようで一緒ではなかった。誰《だれ》かの失策《しっさく》を挽回《ばんかい》しようとして失敗したのだ。それを自分の失策|呼《よ》ばわりされるのは心外であった。
が、普段《ふだん》の深霜ならその程度《ていど》の事で機嫌を損《そこ》ねたりはしない。最初の間抜《まぬ》けが悪いだけの話で、自分が気に病《や》む必要もないからだと、深霜の性格《せいかく》ならば考えて当然だった。
「轟武め。今度あったらただじゃおかない」
尋《たず》ねるべきかやめておくべきか、殷雷は少しばかり躊躇《ちゅうちょ》したが、尋ねてみる事にした。
「で、護玄《ごげん》は死んでしまったのか?」
どんな怒鳴《どな》り声よりも響《ひび》き渡《わた》りそうな声で深霜は喚《わめ》いた。
「殷雷! 言っていい冗談《じょうだん》と悪い冗談があるぞ!」
冗談で済《す》むから、殷雷は冗談として言ったのだった。逃走《とうそう》中の轟武に返り討《う》ちにあったとしても、護玄はまともな仙人《せんにん》だ。龍華《りゅうか》とは違《ちが》い、退却《たいきゃく》する時はきっちりと退却するに違いない。轟武にしても敗走中の身で、とどめを刺《さ》す手間をかけるはずもない。
軽い怪我《けが》ではあるまいが、命にかかわるような傷《きず》を護玄が負っているとは考えられなかった。
「怒鳴るなよ。それでなくてもこの部屋は声が響くんだ」
「私のせいで護玄様は……」
深霜と敬称の相性は凄《すさ》まじく悪い。わざわざ深霜が『様』なんて敬称をつけるのは、天真爛漫な笑顔と同じで、誰かを気に入って惚《ほ》れ込《こ》んでいる証拠《しょうこ》でしかない。
殷雷とて、深霜の惚れっぽい性格は刀の宝貝《ぱおぺい》としてあるまじき話だ、と、うるさくいうつもりは毛頭ないが、深霜の場合、惚れている時と覚めた時の相手への対応《たいおう》の仕方の落差があまりにも酷《ひど》かったのだ。
かくいう殷雷も、少しばかり前に深霜に痛《いた》い目に遣《あ》わされたばかりだった。何が気に入ったのか、急に惚れ込まれ一日中べたべたされ続けたのだ。さながら、何の前ぶれもなく風邪《かぜ》をひいた時の理不尽《りふじん》さに通じるものがあった。
流石《さすが》に我慢《がまん》の限界《げんかい》が来た殷雷が怒鳴ると、あろうことか深霜は大泣きして暴《あば》れ回り、余計《よけい》に手がつけられなくなる始末だった。
悲惨《ひさん》な数週間の果て、どうにかこうにか殷雷は深霜のあしらい方を学びとった。適当《てきとう》に機嫌をとって、何か簡単《かんたん》なお使いを頼《たの》み込めば、少なくとも目の前から追っ払《ぱら》う事だけは出来たのだ。
が、その術《すべ》を学んだ頃《ころ》には、当の深霜の気持ちは奇麗《きれい》さっぱり覚めきっていた。そうとは知らず、いつものように深霜を追っ払う為《ため》に機嫌をとり、頼み事をした殷雷に深霜の鋭《するど》い拳撃《けんげき》が飛んだ。
正確《せいかく》に、右目と左目と鼻の付け根の中心、眉間《みけん》の中の眉間に深霜の拳《こぶし》が激突《げきとつ》した。下手に鼻に触《ふ》れて拳撃の勢《いきお》いを殺さぬ為、握りこんでいる中指の第二関節を巧妙《こうみょう》に突《つ》き出していたのだ。
完全に不意を突かれ、もんどりうつ殷雷に対し、深霜はただ一言「馴《な》れ馴れしいわよ」と吐《は》き捨てたのであった。
そんな深霜が今は、よりにもよって護玄に惚れ込んでいる。護玄の苦労を思い、殷雷は同情しないでもなかったが、そもそも、轟武|討伐《とうばつ》などという厄介《やっかい》事に、わざわざ首を突っ込むから深霜に目をつけられる羽目になったのだ。
下手に引き剥《は》がして、意味不明のやきもちを焼かれるのを防《ふせ》ぐ為か、それとも半分|面白《おもしろ》がっているのか定かではないが、龍華は護玄に深霜刀を貸《か》し与《あた》えていた。
が、深霜刀を手に轟武と戦った護玄は敗北して大|怪我《けが》を負ってしまった。だから深霜は機嫌が悪いのだ。
殷雷は銀色の宝珠を卓の上に置いた。途端《とたん》に宝珠は黒い卓の中に吸《す》い込まれていく。
「深霜よ。お前が、へまをしでかして後方に回されるのは勝手だが、どうして俺まで付き合わされるんだ? 俺は恵潤《けいじゅん》と組んで、西の戦線じゃちょっとした戦績《せんせき》を残してたのに」
「知ったこっちゃない。文句《もんく》は龍華に言うんだね。それに私の監視《かんし》役があんただっていうのも納得《なっとく》いかないね。まるで、あんたが私より格上みたいじゃないか」
深霜や殷雷が羽織《はお》る袖《そで》つきの外套《がいとう》の襟《えり》には襟章が付けられていた。のたうち回る荒々《あらあら》しい象形文字を象《かたど》った小さい襟章である。厳密《げんみつ》に言えば殷雷の方が深霜より階級は上だったが、それを誇《ほこ》らしげに語るような性格を殷雷はしていない。
「それこそ龍華に言ってくれ。もしかしたら、俺の代わりに静嵐《せいらん》でも寄越《よこ》してくれるかもしれないぜ」
静嵐の名をきき、深霜の不機嫌さにより一層|磨《みが》きがかかった。
「静嵐に監視役をやられるぐらいなら、欠陥《けっかん》宝貝として、つづらの中に封印《ふういん》されたほうがましだ!」
もっともな意見だと殷雷は思う。
「それにしても、どうして轟武相手の戦争がこれだけ長引く? いかに龍華が大雑把《おおざっぱ》な仙人だとはいえ、たかが剣《けん》の宝貝だぞ?」
「……こっちの戦略《せんりゃく》が轟武に筒抜《つつぬ》けになってるって噂《うわさ》がある。龍華の宝貝の中に裏切《うらぎ》り者の内通者がいるんじゃないか」
面白い冗談だった。龍華の性格からして、あの仙人を嫌う宝貝は多い。だが、それでも轟武より嫌われているとは殷雷には考えられなかった。轟武のやり方に嫌悪《けんお》を感じない宝貝はいないだろう。
「馬鹿《ばか》なことを。こいつも噂だが、轟武は反乱《はんらん》の前に幾《いく》つかの宝貝を持ち出したらしいぞ。その中に九天象《きゅうてんしょう》が含《ふく》まれてる可能性《かのうせい》があるらしい」
「可能性って何よ。九天象がなくなってるかどうか探《さが》して確認《かくにん》をとればいいでしょ」
「ところが生憎《あいにく》、九天象をどこに収納《しゅうのう》したか龍華は忘《わす》れてしまったらしい。だいたい、あの仙人に整理|整頓《せいとん》という概念《がいねん》はないからな」
深霜は殷雷の言葉を冗談だと捉《とら》えた。
「つまらない冗談ね。整理整頓はしないかもしれないが、いくらなんでも自分の造《つく》った宝貝の居所《いどころ》ぐらい調べられるでしょ」
「冗談なんかじゃない。あいつは宝貝を散らかして、必要な宝貝が見つからない時は九天象で探してたらしいぞ。で、肝心《かんじん》な九天象がなくなっちまった」
「よくもまあ、そんないい加減な仙人がいたもんだ」
「仕方がないんで、少しばかり手の内が筒抜けになっていても戦略が組めるように、大|規模《きぼ》な包囲作戦を展開《てんかい》してるってわけだ」
龍華は自ら指揮《しき》をとる軍、護玄が指揮をとる軍に加え、幾つかの大型|武器《ぶき》の宝貝にも戦力を与え轟武を包囲しようと画策《かくさく》していた。
たとえ全《すべ》てを見通す九天象が轟武の手の内にあったとしても、別々の指揮|系統《けいとう》を持つ多数の戦力に囲まれてはその実力を発揮しようがないはずだった。
だが、その一角である護玄の軍は破《やぶ》られてしまい、轟武の行方《ゆくえ》は現在《げんざい》も掴《つか》めてはいない。
今までも数度、轟武は追い詰《つ》められていた。轟武の戦力を壊滅《かいめつ》状態に追い込むこともしばしあったが、寸前《すんぜん》のところで轟武本人にはまんまと逃げられていたのだ。
深霜は自分の苛《いら》つきを隠《かく》そうともしない。
「だいたい、龍華が馬鹿なのよ。何を考えて導果《どうか》みたいな日用雑貨《にちようざっか》の宝貝に軍師《ぐんし》役なんぞを任《まか》してる!」
殷雷は首を横に振《ふ》った。確かに導果は用兵のなんたるかの理屈《りくつ》は知らないだろう。問題は理屈も理論《りろん》も知らないはずなのにきっちりと結果を出していることだった。
「いや、導果先生は凄《すご》いぞ。無茶苦茶といえば無茶苦茶で、戦線を引っ掻《か》き回してるだけのように見えるが、あいつが軍師になってから轟武軍はジリ貧《ひん》だ。落ちた城塞《じょうさい》は数知れずだぞ」
「だから龍華は馬鹿だと言ってる! なんで、武器の宝貝より日用雑貨の方が知略に長《た》けてる!」
妙に惚れっぽい刀の宝貝よりはましなような気がしたが、わざわざ殷雷は口にしない。それ以前に、龍華が、まともな宝貝を造《つく》るまともな仙人ならば、あまたの馬鹿げた騒動《そうどう》など起きなかっただろう。将軍《しょうぐん》の事件《じけん》は飛び抜《ぬ》けて厄介ではあったが、各種の騒動の一つにしか過《す》ぎない。
常々《つねづね》殷雷は龍華の師匠《ししょう》の顔をみたいと思っていた。一体、どういうふうに躾《しつけ》ればあんな仙人が出来上がるのか不思議でならなかったのだ。
怒《いか》りをもてあましている深霜は、とりあえず導果について悪態をついてみる事にした。
「大体、導果のニヤケ面《づら》が気に入らない。それに、たかが轟武をわざわざ将軍だなんて持ちあげる気が知れない! 最初に轟武を将軍呼ばわりしたのは導果なんだからね」
「そうか? 将軍|扱《あつか》いしたほうが、こっちも引き締《し》まるじゃねえか。
たかだか剣の宝貝相手に大騒《おおさわ》ぎじゃ、士気もへったくれもあるまい」
本当に嫌《いや》な男だと深霜は殷雷の事を思う。導果を誉《ほ》め称《たた》えているが、別に導果に心酔《しんすい》しているのでも何でもない。ただ、私が導果を嫌《きら》っているから、からかい半分にやっているだけなんだろうと、深霜は鋭く見抜く。
隙《すき》を見てぶん殴《なぐ》ってやろうかと考える深霜だったが、殷雷には隙がない。自分に対して隙をみせない態度が余計に腹《はら》が立つ。なんでこいつは私の攻撃《こうげき》を警戒《けいかい》してやがるのか?
喋《しゃべ》るだけ無駄《むだ》だと結論づけた深霜は腕《うで》を組みソッポを向いた。
幾度か殷雷は軽口を叩《たた》いたが、深霜は完全に無視した。この心のムシャクシャを解消《かいしょう》するのに殷雷は役に立たない。
「えらく、大人しくなったじゃないか深霜よ。
でもよ。護玄の件は、ありゃ事故《じこ》だぜ。龍華がお前の欠陥がどうこう言ってたらしいが、そんな致命《ちめい》的な欠陥があるとは俺は思わん」
別に深霜を慰《なぐさ》めてやろうという気があったわけではない。ただ、自分と同じ製法《せいほう》で造られた刀の宝貝に、つまらない欠陥があると殷雷は信じたくなかっただけの話であった。
その言葉に反応《はんのう》したのか深霜は振り向き、殷雷の目を見た。
そして、言った。
「……殷雷。ここにいるのは私たち二人っきりよね?」
俺は今、とてつもない大規模の失言をしてしまったのではないか。殷雷の顔に見る間に冷や汗《あせ》が浮《う》かんだ。
武器の宝貝はどんなわずかな隙でも見逃《みのが》したりはしない。同じ精度《せいど》で、深霜は相手の長所を見つけて惚れ込む。
もしかして、今の不用意な自分の一言を深霜は『優《やさ》しい言葉』と曲解したのではあるまいか。
ズイと身を乗り出す深霜の表情を見て、殷雷は冷や汗が凍《こお》りつきそうになった。
深霜は嬉《うれ》しそうに笑っていたのだ。
ぶんぶんと殷雷は首を振る。
「いや、全然二人っきりではないぞ。詰め所に居るのは俺たち二人だが、外にゃ警備《けいび》に回ってる連中がいるじゃないか!」
「そうね。九遥山《きゅうようざん》の周りには轟武の奇襲《きしゅう》を警戒した見回りが居る。でも、私と殷雷が九遥山の中の警備役だから、わざわざ中にまでは来ない。誰にも邪魔《じゃま》はされない」
「頼むから、ややこしい事を言い出すなよ」
満面の笑みで鼻で笑うという、簡単《かんたん》そうで難《むずか》しい表情を浮かべ、深霜は席を立つ。
「何、勘違いしてるのよ。いいから、ついて来なさい。結舞剣《ゆうぶけん》に会いに行くわよ」
どうやら惚れなおされたわけではないようだった。最悪の事態だけは回避《かいひ》でき、殷雷は安堵《あんど》の溜《た》め息を吐《つ》く。そして、つぶやく。
「轟武の片割《かたわ》れに会いに行くだと? ややこしい事に変わりはないじゃねえか」
果てしのない砂漠《さばく》に深霜と殷雷は居た。目の前に広がる広大な砂漠に二人は全く興味《きょうみ》を示《しめ》していない。
二人は奇妙な踊《おど》りを思わせる足|捌《さば》さで地面に複雑《ふくざつ》な図形を描《えが》いていた。正確な動きで二つの図形を作り上げた二人は、同時に大地を大きく踏《ふ》みつける。
砂を踏むことでは決して起こりえないような甲高《かんだか》い音が響《ひび》き渡《わた》り、砂漠は消滅した。
砂漠の次に現れた、黒曜石《こくようせき》で作られた洞窟《どうくつ》に深霜と殷雷は居た。
光はなく、ただ闇《やみ》だけが洞窟の中にあった。
闇を物ともせず、二人は洞窟の中を正確に三十八歩進み、殷雷は右手の壁《かべ》、深霜は左手の壁に手を伸《の》ばす。
滑《なめ》らかな岩肌《いわはだ》に二人は指で文字を書く。
指の動きに合わせ、闇の中の黒曜石に橙色《だいだいいろ》の波紋《はもん》が広がる。
「いけね、間違えた」
「なに、ぼさっとしてるのよ、しっかりしなさいよ!」
深霜の叱責《しっせき》が殷雷に向かって飛ぶ。
「深霜よ。やっぱりやめようぜ」
「なによ。偉大《いだい》なる龍華|仙人《せんにん》のいいつけに逆《さか》らうなんて、恐《おそ》れ多くて出来ない。なんて、四海獄《しかいごく》のくそじじいみたいな事をいいだすんじゃないでしょうね」
「お前の口から出るのは、悪態《あくたい》か絶賛《ぜっさん》のどっちかしかないのかよ」
あの温和な四海獄にまで悪態を吐《つ》く奴《やつ》を殷雷は初めて見た。
「へえぇ、恐《こわ》いんだ恐いんだ。龍華に叱《しか》られるのが恐いんだ!」
憎《にく》たらしい深霜の顔に、少々切れそうにはなったが、子供染《こどもじ》みた露骨《ろこつ》な挑発《ちょうはつ》にのる殷雷でない。が、ここは深霜の言いなりになることに決めた。
結舞剣が居るとされる部屋には、簡単には辿《たど》りつけない。無数の結界が仕掛《しか》けられていてそれをかいくぐれるのは、龍華自身か、九遥山の警備を任されている者だけであった。
しかも、龍華以外のものが、結界を抜けるには繁雑《はんざつ》な手順を踏む必要があった。
もし、自分が手を貸《か》さなければ、深霜の事だから力技《ちからわざ》で結界の破壊をたくらむだろう。
そんな大騒動を巻き起こされるぐらいなら大人しく深霜に従うほうが楽だと殷雷は考えていた。
それに万が一にも、結舞を取り逃《に》がす心配はない。結界は結舞を中心に展開《てんかい》されているはずだから、結界を外部から破壊しない限《かぎ》り結舞は身動きがとれない。
ぶつぶつと文句《もんく》を言いつつ、殷雷は正面を向きながら十四歩後方に後ずさり、深霜は正面に向かい八歩進む。そして、先刻《せんこく》と同じように壁に向かい文字を書く。
今度の文字には間違いが無かったのか、二人が足を鳴らし床《ゆか》を踏むと同時に、洞窟は消え去った。
これで十六の結界を抜けた。手順に間違いがなければ、同心円状に張《は》られた結界の一番内側に辿りついたことになる。
「あれね」
深霜は顎《あご》をしゃくりあげて一|軒《けん》の木組みの小屋を指し示した。
冗談《じょうだん》めいたほどに晴れ上がった草原に、小さな小屋が一|棟《とう》建っていた。びゅうと吹《ふ》きすさぶ風が深霜と殷雷の髪《かみ》の毛をなびかせる。
風に吹かれざわめく草の音は、どこか心地《ここち》よい波音を思わせた。
つかつかと深霜は歩き、小屋の入り口へと向かう。扉《とびら》の前で来訪を告げるような礼儀《れいぎ》を深霜は当然|払《はら》わない。
威勢《いせい》よく扉を蹴破《けやぶ》り、深霜は小屋の中に入り、殷雷も慌《あわ》てて後を追う。
小屋の中には卓《たく》が一つだけ置かれていて、家具らしい家具はそれっきりだった。この小屋に限らず、九遥洞《きゅうようどう》に存在《そんざい》する部屋はどれも似《に》たような造りであった。これは、とりあえず部屋の真ん中に卓を置けば住居《じゅうきょ》としての体裁《ていさい》が整うだろうという、龍華の大雑把《おおざっぱ》な趣味《しゅみ》に過ぎない。
おかげで九遥洞に存在する部屋は殺風景か散らかっているかのどちらかになっているのが常だった。
この状況《じょうきょう》は龍華が弟子《でし》をとりでもしない限りは変わらないだろうと殷雷は考えていた。
もっとも龍華にまともな弟子がつくとは殷雷には想像《そうぞう》できなかった。
が、この小屋の造りや内装《ないそう》も他とは変わらないはずなのに部屋の中はあまり殺風景な感じではなかった。
それはひとえに、小屋の中に居《い》る一人の娘《むすめ》のせいだった。一輪の花があるだけで場の空気が変わるのと一緒《いっしょ》だ。ただ、そこに居るだけで部屋の中の雰囲気《ふんいき》を娘は暖かいものに変えていた。
椅子《いす》に座《すわ》り、突然《とつぜん》の来訪者に呆気《あっけ》にとられてはいるものの、それぐらいで娘が醸《かも》し出す場の雰囲気が崩《くず》れはしていない。
深霜は娘をにらみ、言った。
「あんたが、結舞剣だな?」
「はい。そうですが」
殷雷が想像していた姿と、実際《じっさい》の結舞の姿はかけ離《はな》れていた。槍《やり》や剣の宝貝は分類上大型武器の宝貝になる。
大型武器の宝貝が人間の形態をとったときには、その体格も大きいものになるのが、一般《いっぱん》的であった。
だが、結舞は華奢《きゃしゃ》で小柄《こがら》な体つきをしている。刀の宝貝である深霜に比《くら》べても、肩幅《かたはば》が狭《せま》い。似たような例外を殷雷は知らないでもなかったが、体格はともかく、さすがに武器の宝貝でこれだけ温和な瞳《ひとみ》をした者を殷雷は初めて見た。
あの轟武の片割《かたわ》れなのだ、体格はどんなものであろうと殺気だけは相当なものを覚悟《かくご》していた殷雷は拍子抜《ひょうしぬ》けした。
絹糸よりも細そうな黒い髪《かみ》が軽く背中にかかり、不思議そうに瞳を深霜と殷雷に向け、結舞は軽く小首を傾《かし》げている。
普通《ふつう》の武器の宝貝なら、扉を蹴破って侵入者が躍り込んだ時点で戦闘《せんとう》に突入していただろう。
ともかくこちらも名乗らねば話にならないと、殷雷が口を開きかけた時、深霜が動いた。
刀の宝貝らしくしなやかで素早《すばや》い動きで、椅子に座る結舞の隣《となり》に立つ。
そして、ビュンと風を切りつつ結舞の頬《ほお》に向けて深霜は平手打ちを放つ。
平手打ちの乾《かわ》いた音に続き、結舞が椅子ごと転ぶ音が部屋の中に響《ひび》いた。
あまりに痛《いた》そうな音に、般雷は肩をすくめた。殴《なぐ》られた結舞自身よりも、痛みを想像した殷雷の方が、痛そうな顔をしている。
当の結舞は、痛みよりも自分の身に何が起きたのかを理解出来ず、床に転げ落ちながらポカンとしている。
腕《うで》を組みながら深霜は結舞を見下ろし、轟武剣の片割れがどういう動きに出るか待つ。
しばしの沈黙《ちんもく》があった。
深霜の指は腕を組んだ自分の肘《ひじ》をトントンと叩《たた》きつけていた。が、とりたてて深霜の望むような事は起きなかった。
イライラが頂点《ちょうてん》に達したのか、深霜は大声で吐《は》き捨てた。
「結舞。私はあんたが、大嫌《だいきら》い!」
そう言い残して、深霜は小屋から出ていった。蹴破った扉をご丁寧《ていねい》にもう一度蹴り上げ、扉は草原へと転がり出た。結界内部への進入には手間が掛《か》かったが、脱出《だっしゅつ》にはさほど手間が掛からないのか、深霜の気配は、彼女が足を鳴らすと同時に消え去った。
殷雷は深霜の無茶な行動に軽い頭痛《ずつう》を覚えた。が、いい迷惑《めいわく》なのは殷雷よりも結舞本人だろう。
いきなり扉を蹴破って現《あらわ》れた女に平手打ちを食らい、罵声《ばせい》を浴びせられた上、とうの女はさっさと帰ってしまったのだ。
「その、なんだ。今さら自己紹介《じこしょうかい》ってのも間抜けだが、あいつの名前は深霜刀、俺の名前は殷雷刀。立てるか?」
殷雷は結舞に手を貸し、起き上がるのを手伝う。幾《いく》ら華奢でも武器の宝貝には違いがない為《ため》か、怪我《けが》はおろか頬に平手打ちの跡《あと》すら残っていない。
殷雷にしても、深霜が本気で結舞に攻撃《こうげき》を仕掛けたのならば止めに入っていた。あの平手打ちが、挑発がわりの威嚇《いかく》攻撃であるのはみえみえだった。
理不尽《りふじん》な気分になりつつも、殷雷は結舞に謝《あやま》る。
「すまねえな。あいつはちょっとムシャクシャしてるんだ。同じ武器の宝貝相手に取っ組み合いの喧嘩《けんか》でもすりゃ、気晴らしになるぐらいのつもりだったんだろう。
だけど、あんたの態度に拍子抜けして、気まずくなって帰っていったんだ。全くしょうがない奴だ」
多くを語られなくとも結舞には思い当たるふしがある。
「……やはり深霜さんも轟武に迷惑をかけられて……」
「ま、複雑《ふくざつ》な事情もあるが、ありていに言えばそうだ。で、あんたに逆恨《さかうら》みの一つでもぶつけようと考えたんだろ。本当に迷惑な奴だ。おっと、別に俺はあんたにはなんの恨みもありゃしないから安心しろ」
倒《たお》れていた椅子を殷雷は元に戻す。結舞は埃《ほこり》を払いながら椅子へ腰《こし》を降ろした。
「優《やさ》しいんですね、殷雷さんは」
あまり武器の宝貝にとって、『優しい』は誉《ほ》め言葉ではなかった。嫌《いや》みで言っているわけではないので、余計《よけい》に殷雷は居心地が悪い。
「け。勘違《かんちが》いするなよ。俺は深霜みたいに、人の弱みに付け込んで、どうこうするのが嫌なだけだ。お前は確かに轟武の片割れには間違いないが、それについて文句を言っても始まるまいよ。お前も好きで轟武と双剣《そうけん》をやってるわけでなし」
ぶんと結舞は首を横に振った。しなやかな結舞の髪が動く。
「違いますよ、殷雷さん。深霜さんを庇《かば》ってあげているのがお優しいと。
もしかして轟武と私のように、殷雷さんと深霜さんも……」
「とんでもない。あいつとは間違っても双刀なんかじゃねえぞ。一応、似たような製法で造られたらしい四本刀の内の二振りに過ぎん」
何故《なぜ》か結舞の相手をしていると、殷雷はいつもの調子がでない。深霜ではないが、悪態の一つでもつきたい気分になる。
「それにしても、結舞よ。轟武の片割れだって話だから、もっと馬鹿でかい女かと思ったぞ。角の五、六本や尻尾《しっぽ》ぐらい生えてるんじゃないかと想像《そうぞう》してたのに」
本人は悪態のつもりだったが、結舞は冗談《じょうだん》と受け取り、面白《おもしろ》そうに微笑《ほほえ》んだ。
このままでは、ただの気さくな兄ちゃんではないかと殷雷は焦《あせ》るが、かといってどうする術《すべ》があるでもなかった。それに結舞の笑っている顔を見るのは不愉快《ふゆかい》ではなかった。
普段《ふだん》は、勝ち誇《ほこ》った笑みや、不敵《ふてき》な笑い、ほくそ笑み等しか巡《めぐ》り合う機会のない殷雷にとって、純真《じゅんしん》な笑い顔はそれだけで価値《かち》のある物のように見えた。
そんな結舞の微笑みに、ふと翳《かげ》が差した。
「やはり轟武はまだ……」
「ああ。まだあの調子でふんばってやがる。武器《ぶき》の宝貝連中が、いい加減《かげん》潮時《しおどき》だろうと分析《ぶんせき》してから随分《ずいぶん》と時間が経《た》ったが、それでも奴《やつ》は戦い続けている。
今は奴の居所すら皆目《かいもく》見当がつかない状況だ。仙人相手に神出|鬼没《きぼつ》ってのはさすがに尋常《じんじょう》じゃないぞ。そりゃ相手は大雑把《おおざっぱ》の権化《ごんげ》みたいな龍華だから、少しぐらいは隠《かく》れられるだろうが、一度見つかってから、さらに行方《ゆくえ》が知れなくなるなんて信じられん。
……結舞よ。お前なら轟武の居場所が判《わか》るんだろ? 俺ですら、ある程度《ていど》、深霜たちの居場所が判るんだ。双剣ならば、片割《かたわ》れの位置などお見通しじゃないのか?」
固く口を閉《と》ざし、結舞はうつむいた。途端《とたん》に、部屋の空気が九遥山の何処《どこ》にでもあるような殺風景な代物《しろもの》へと姿《すがた》を変える。
ゆっくりと結舞は声を絞《しぼ》り出した。
「ごめんなさい。轟武の居場所は言えません……」
「ほお。あれだけの大騒動を起こして逃《に》げ回っている、轟武の居場所を言いたくないときたか。姿形《しけい》は似《に》ても似つかぬが、身勝手な所はそっくりか。やはり双剣だな」
結舞は再《ふたた》び口を閉ざすが、今度は沈黙《ちんもく》を造る為ではなく唇《くちびる》を噛《か》む為だった。細いながらも指を力強く握《にぎ》り締《し》め、両の手は拳《こぶし》を作る。
純朴《じゅんぼく》な瞳にはうっすらと涙《なみだ》が浮《う》かぶが、結舞は必死に涙が落ちるのを堪《こら》える。
「ごめんなさい。本当にごめんなさい……」
全《すべ》てが悪い冗談だったと言わんばかりに殷雷は笑う。
「判ってるってばよ。お前は恐《こわ》いんだ。轟武が自分の居場所にどんな凶悪《きょうあく》な罠《わな》を張《は》っているかが、恐いんだ。自分が轟武の居場所を言えば、さらに轟武が罪《つみ》を重ねる事になるんじゃないかとな。俺もそれが懸命《けんめい》な判断《はんだん》だと思う。あいつには奥《おく》の手がある気がしてしょうがない」
怒《いか》りでも悲しみでもなく、結舞は無力感に包まれた。
「轟武は優《やさ》しい人なんです……」
「まさか、同意しろってんじゃあるまいな」
「轟武は……あの人は本当は優しい人。だから自分の力の大きさに堪え切れなくなって」
殷雷は腕を組む。
「正直、龍華が轟武相手にてこずっている姿を見て、喜んでいる宝貝連中は腐《くさ》るほど居《い》るな。だが勘違いするな。意思を持つ宝貝で、轟武のやり方に賛同《さんどう》してる奴は一体も居やしないぞ」
自分の声がうわ言めいていくのを結舞は自覚していた。
「最初、あの人は、純粋《じゅんすい》に自分の能力を磨《みが》きあげようとしていました。自分の中にある、どうしても越《こ》えられない壁《かべ》を超越《ちょうえつ》しようとして。
そして、ついに壁を越えることに成功しました。でも、壁の向こうには何もなかった。龍華|仙人《せんにん》は轟武の能力《のうりょく》を最初から限定《げんてい》していたのです。何故、わざわざ限定していたのかを考えて、そこで諦《あきら》めていれば……」
「ほお。初耳だな」
「壁の向こうにあった空虚《くうきょ》な闇《やみ》を轟武は埋《う》めようとしました。自分が持っていて当然なのに、与《あた》えられなかった力。轟武は龍華の書庫に忍《しの》び込《こ》み、自分に与えられなかった力を独自《どくじ》に学びとったのです。
でも、それは、踏《ふ》み込んではいけない領域《りょういき》に踏み込んだ事を意味していました」
「そして轟武は、その領域から帰ってこれなくなった、か。
俺にゃ、奴は自分の能力に酔《よ》いしれているようにしか見えないがね」
「……罪を罪として認《みと》める勇気がないから、あの人は罪を重ねつづけているのです。最初の罪の痛《いた》みを否定《ひてい》する為に十の罪を重ね、その罪の痛みを否定する為に百の罪を重ね、いずれその罪の痛みを感じなくなる時が来ることだけを信じて」
殷雷には理解《りかい》できない。罪悪《ざいあく》感から逃《のが》れられれば、それが罪でなくなるのか? それ以前に殷雷には轟武が罪の痛みを感じているようには到底《とうてい》思えない。
「痛み? 護玄戦の映像資料《えいぞうしりょう》を見たが、それはそれは楽しそうな面《つら》してやがったぞ。仙人相手に勝てたのが余程嬉《よほどうれ》しかったんだろうな。あの顔からは、やましさやら、痛みなんざ、微塵《みじん》も感じられん」
「あの人も気がつかない、あの人の心の底で、あの人は苦しんでいるんです。お願いです、轟武を信じてあげてください」
必死になり訴《うった》える結舞の瞳《ひとみ》を殷雷は見る。やはり堪《こら》える涙が美しい瞳をぼやかしていた。
殷雷は優《やさ》しく言い放った。
「信じられないね。奴は最低最悪の下衆野郎《げすやろう》だ」
その言葉がもたらす心の痛みを結舞は正面から受け止めようとした。いかに華奢《きゃしゃ》で繊細《せんさい》とはいえ、意思の強さだけは紛《まぎ》れもない武器の宝貝の特質であった。意地でも涙を零《こぼ》そうとしない結舞に向かい殷雷は笑いかけた。
「とうの轟武も俺なんかに理解して欲《ほ》しくはあるまいよ。龍華にも護玄にも深霜にも、他の仙人や宝貝にも理解して欲しくはあるまい。
そして、誰もあるかどうかも判らない、轟武の罪の痛みとやらを理解しまい。
でもよ、いいじゃないの。
お前が一人でも信じてやってるんならば。それで充分《じゅうぶん》じゃないか」
殷雷の最後の言葉を聞き、結舞の体は強《こわ》ばる。そして、細い肩《かた》が小刻《こきざ》みに震《ふる》えだし、結舞の瞳から涙が零れた。
とどめるものをなくした涙は際限《さいげん》なく流れ続けた。
殷雷は慌《あわ》てる。
結舞を泣かせるつもりは毛頭なかったし、自分のどの言葉が結舞を悲しませたのかが、よく判《わか》らないので謝《あやま》りようもない。確《たし》かに轟武の悪口は言ったが、その時には別に泣かなかったのだから、あの悪口は原因《げんいん》じゃあるまい。かといって、反省点も判らずに謝るのは癪《しゃく》だが、目の前で結舞が涙を流しているのをどうにかしなければならない。これが深霜だったら泣き喚《わめ》きながら攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けてくるところだから、五、六発|殴《なぐ》られてやれば落ち着くんだろうが、結舞は間違っても深霜ではない。そもそも深霜を基準《きじゅん》に物を考えてどうしようというのか。ここは一つ、自分の悪かった所を結舞に直接《ちょくせつ》尋《たず》ねるしかないのは判ってはいるが、それでは武器の宝貝として、自分の行動がいかなる影響《えいきょう》を巻《ま》き起こすか考えていなかったようで体裁《ていさい》が悪いが、果たして今は体裁を気にしている場合なのか、とにもかくにもなんとかしなくてはいけないのは確実で、
「えぇと、すまん。何か、調子に乗って言い過ぎちまったか?」
首を横に振る結舞の口元には、笑顔が戻《もど》りかけていた。涙で濡《ぬ》れ、くしゃくしゃになり、目が赤く充血してさえいたが、笑顔には間違いはない。
「いいえ、大丈夫《だいじょうぶ》です。殷雷さんは本当に、優しいんですね」
言っている意味も判らなければ、行動と言葉の関連も殷雷には皆目見当がつかない。
それ以前に、『優しい』なんて言葉はやはり武器の宝貝に対する誉《ほ》め言葉とは到底《とうてい》認《みと》められない。
が、殷雷は文句《もんく》を言うのを止《や》めにした。結舞の笑顔を見ていれば、やはりそんな事はどうでもいいような気がしてきたからだ。
「さてと。そろそろ俺も戻るとする。なんだかんだと騒《さわ》がせてしまって悪かったな。おっと、それから、『さん』はいらん。殷雷だけでいい。当然深霜も呼び捨てにしろ」
「はい。判りました」
「じゃあな」
かるく手を振り殷雷は小屋をあとにした。
「無擦珠《むさつしゅ》? 殷雷《いんらい》はこの宝貝《ぱおぺい》を知っているの?」
「知っているさ。ただの役立たずの砥石《といし》だ」
「それじゃ……」
殷雷の治療《ちりょう》の役には立たない。いや、殷雷がそう考えているだけだと和穂《かずほ》は自分に言い聞かす。
殷雷の隣《となり》で静嵐《せいらん》は困《こま》ったような顔をしていた。静嵐も無擦珠の能力を知っていたのだ。その上で殷雷にかける言葉を探《さが》していた。
「砥石は砥石でも大外れのほうの砥石だったね。その、なんだ。殷雷、がっかりするのは判るけど、仕方ないじゃないか」
静嵐に慰《なぐさ》められたのだ。普段の殷雷なら怒《いか》り狂《くる》っただろうが、意外にあっさりと答えを返す。
「そうだな。仕方あるまい」
殷雷の体の事情《じじょう》を知らない獅桜《しおう》は、嬉《うれ》しそうに無擦珠の説明を始めた。
自分がどれだけ安い買い物をしたか自慢《じまん》したかったのだ。
獅桜は箸立《はした》ての中から一本の箸を引きずり出す。
「よく見てなよ、和穂仙人様」
片手に持つ無擦珠で箸を軽く一度だけ擦《こす》り、獅桜は卓《たく》の上に箸を刺《さ》した。
ぶぅん。
鈍《にぶ》い音を立て、箸は卓の上に半分以上|埋《う》まり、箸の周囲には小麦粉のように細かいオガクズが舞《ま》った。
そして、獅桜は卓に突《つ》き刺さった割り箸を引き抜《ぬ》いた。
箸の姿《すがた》は先刻《せんこく》と変わりがない。卓には四角く小さい穴《あな》があいているので、あのオガクズは卓が削《けず》れて出来たものであることが判る。
右手の指先で器用に箸をくるりと回し、続いて獅桜は自分の胸元《むなもと》へと箸を突き刺す。
が、箸は既《すで》に通常《つうじょう》の箸に戻っていて、上着に傷一つ付けることも出来ない。
獅桜は呆《あき》れた声を出した。
「大体、あんたの師匠《ししょう》は、何が嬉しくてこんな宝貝を造《つく》ったんだい? せめて半刻《はんこく》でもこの切れ味が保《も》てば使い物になるのに、こいつは、せいぜい心臓《しんぞう》が三回打つぐらいの時間しか切れ味がもたない」
静嵐が説明した。
「無擦珠は本来、武器の所持が出来ない場所での護身《ごしん》用の物として造られたそうですよ……まあ制作者《せいさくしゃ》が制作者ですから、護身の範囲《はんい》は異常に広いと思うけど。無擦珠があれば、その場にある箸の一本でもちょっとした武器の代わりになるのです」
獅桜は武人としての意見を口にした。
「一撃必殺用に使えそうではあるが、それも苦しいね。刃《やいば》を維持《いじ》できないなら、研《と》ぎと攻撃《こうげき》を瞬時《しゅんじ》に両方やらなきゃ駄目《だめ》だし」
「まあ、そこがそれ、欠陥《けっかん》宝貝として封印《ふういん》されてた代物《しろもの》ですからね」
「でもよ、これでも重宝はしてたんだ。たまに、間の抜《ぬ》けた領主《りょうしゅ》様の所で腕前披露《うでまえひろう》ってのをやるんだが、その時、鞘《さや》を持つ手に無擦珠を隠《かく》すんだ。
鞘から刀を抜く時に無擦珠に当てながら刀を抜いてそのまま一閃《いっせん》すると、鉄製《てつせい》の兜《かぶと》でも真っ二つだからな。そりゃもう拍手喝采《はくしゅかっさい》で」
喜ぶ獅桜とその相手をする静嵐の声は和穂には聞こえていない。無造作《むぞうさ》に放《ほう》り出された無擦珠を和穂は手に持つ。
和穂が放つ真剣《しんけん》な空気に獅桜たちは怪訝《けげん》な顔をした。
静嵐は獅桜、迅鳴《じんめい》、白繚《びゃくりょう》、殻然《かくぜん》を手招《てまね》きして小声で説明を始めた。
「ここだけの話ですがね、聞くも涙、語るも涙の事情があるんですよ。聞きたい?」
一同は首を縦《たて》に振った。
和穂は言った。
「殷雷……」
殷雷はあっさりとしていた。間違《まちが》っても苦悩《くのう》や絶望《ぜつぼう》の表情などを浮《う》かべてたりはしていない。何かがふっ切れたような清々《すがすが》しさすら感じさせた。
「まあ、そういう事だ。無擦珠じゃなんの役にも立たない。約束じゃ断縁獄《だんえんごく》の中に入るって話だったが、塹甲退治《ざんかんたいじ》の協力も約束しちまったから、もうしばらく外に居《い》るぜ。塹甲退治も無擦珠|回収《かいしゅう》の一部だからな」
「でも、殷雷。もしかしたらこの無擦珠を使えば殷雷の体が少しは良くなるかも」
無駄だ。
殷雷が一番それを良く知っていた。無擦珠じゃ話にもならない。いつもの殷雷ならば、無駄な手間に付き合うような酔狂《すいきょう》を決してみせなかったはずだが、今の殷雷は少し違っていた。
「どうせ、俺が百万言使って、やるだけ無駄だと説明しても納得《なっとく》しないんだろ? いいぜ、試《ため》してみろよ」
軽い爆発《ばくはつ》音をたてて、殷雷は刀の姿《すがた》に変わる。和穂は殷雷刀を手に持ち、ゆっくりと鞘《さや》から引き抜く。
恐《おそ》ろしいまでに研ぎ澄《す》まされた刃には、一点の曇《くも》りもない。和穂は殷雷刀を左手に持ち替《か》え、右手に持つ無擦珠を刃の上に走らせる。
慎重《しんちょう》に慎重に、ゆっくりと半ば願いを込めながら無擦珠で殷雷刀を研ぎあげていった。無擦珠からは意思を感じ取れなかったが、それでも無擦珠を手にするだけで、ある種の熟練《じゅくれん》を要する研ぎ方を和穂は理解できた。
どれぐらいの時間が経《た》ったのだろう。本当ならばさっき獅桜がやったように軽く撫《な》ぜるだけで、充分《じゅうぶん》な効果《こうか》があったのだろう。それでも和穂は念入りに殷雷刀を研ぐ。
が、無擦珠が不意に軽くなるのを感じた時、和穂はこれ以上研ぐ意味のない事を知った。
覚悟《かくご》を決め、和穂は殷雷刀を鞘に収めて空中に放り投げる。いつもの聞き慣《な》れた爆音を立てて、殷雷は人間の形をとった。
そこに立つのはいつもと同じ殷雷だった。
「ま、そういうことだ。何が変わった訳《わけ》もない」
静嵐に小声で説明され獅桜は、だいたいの事情を知った。先刻《せんこく》、呑気《のんき》に無擦珠の役立たずぶりをはしゃぎながら説明したのを少しは気に病《や》んだのか、獅桜が言った。
「いや、さっきより髪《かみ》に艶《つや》が出てるような気がしないでもない!」
力の限り無視《むし》をして、殷雷は和穂の顔を見た。真剣ながらも、腹《はら》を括《くく》ったいい表情をしている。
「よし。それでいい。判ったら、さっさと無擦珠を断縁獄に入れてしまえ」
こくりと頷《うなず》き、和穂は砥石の宝貝を断縁獄の中にしまう。
獅桜は席から立ち上がった。
「さて、部屋に案内してやるよ。偽装《ぎそう》宿屋とはいえ兵舎《へいしゃ》代わりの代物《しろもの》だ。泊《と》まる部屋は幾《いく》らでもあるから遠慮《えんりょ》なく使ってくれ。でも部屋が殺風景なのは勘弁《かんべん》してくれよ」
「どこに居《い》るの?」
和穂《かずほ》の声は波紋《はもん》となり、彼女の足下《あしもと》から周囲へと広がっていく。
どこまでも遠く、地平のかなたにまで届《とど》く波紋を遮《さえぎ》るものは何もなかった。
「お願い、姿を見せて」
声に合わせ再《ふたた》び波紋は広がっていく。漆黒《しっこく》の世界の中で波紋は光の輪そのものであった。
「私の声が聞こえている?」
厳密《げんみつ》には声とは呼《よ》べない、和穂の問いかけだった。何もない世界ではあったが寂蓼《せきりょう》感は微塵《みじん》もない。それは確実《かくじつ》にここに居るはずだった。
居るからこそ、この世界があるのだ。
何もない世界だが、ぬくもりを和穂は感じていた。
「出てきて、無擦珠」
和穂の発する思考が波紋を形作っている。
無数の波紋が和穂を中心にして世界に広がっていった。
その波紋の一角が歪《ゆが》む。
歪みの下に何かが居ると和穂は知った。
が、そこに居るのが何か、和穂には判別できない。無擦珠以外には有り得ないのだが、その姿はよく見えない。
姿を見るには熟練した漁師が、細波《さざなみ》を打つ水面下の魚影《ぎょえい》を認識《にんしき》する技術《ぎじゅつ》に似《に》たものが必要だろう。
それはだんだんと和穂に近寄《ちかよ》ってきた。波紋の崩《くず》れから、どこに居るのかだけは判別できる。
「無擦珠なのね?」
歪みは和穂の目の前にまで近寄っていた。
「私の話をきいて」
ぶくぶくと泡《あわ》を立てて、何かが浮かび上がってきた。
「!」
和穂は驚《おどろ》く。姿を現したのは自分と同じ姿をしたものだったからだ。
「あなたが無擦珠?」
無意味な問いかけに近かった。無擦珠以外の誰が居るというのか。
無擦珠の世界で無擦珠はいかなる形をとる理由もなかった。
が、呼ばれた為《ため》に、自分と同じ形を無擦珠はとっているのだと和穂は考えた。
無擦珠は無邪気《むじゃき》に笑っていた。
和穂は言葉を続けた。
「良かった。意思があったのね」
笑う無擦珠は返事をしない。笑顔《えがお》はあまりにも無邪気過ぎた。
和穂は自分の誤《あやま》りを知った。
無擦珠に意思はない。あるのは宝貝《ぱおぺい》としての本能のみだ。この無邪気さは意思がないが故《ゆえ》のものだろう。人によく慣《な》れた動物のもつ屈託《くったく》のなさでしかない。自分が必要とされている事を感じとり、道具の本能として喜んでいる。が、純粋《じゅんすい》に喜んでいるだけだ。
無擦珠の足下《あしもと》から波紋が広がり、和穂に到達《とうたつ》した。途端《とたん》に、和穂の心に無擦珠の使用法が流れ込む。それは既《すで》に承知《しょうち》しているものに何一つつけ加えるものではなかった。
自分の能力と、その能力を発現《はつげん》させる為の方法だ。修復《しゅうふく》にまつわるような能力は微塵も感じ取れなかった。
徒労感が和穂の背中に忍《しの》び寄ろうとしたが、彼女はそれを拒絶《きょぜつ》した。最初からそう簡単に事が運ぶとは考えていなかったはずだと、和穂は自分を奮《ふる》い立たせる。
「無擦珠、あなたに殷雷を治してもらいたいの。殷雷はあなたにそんな力は無いと言ってる。たぶん、殷雷の判断に間違いはないと私も思う。でも、たとえ今は出来ないことでも出来るようになれる可能性があると思う」
殷雷は砥石《といし》の宝貝に自分の不具合を治す能力があると考えていた。つまり、本質的に砥石には刀の不調を正す能力があるはずだと、和穂は信じていた。
破壊《はかい》された宝貝を元に戻すのは、流石《さすが》に砥石の領分《りょうぶん》ではないだろうが、刃を持つ宝貝を調整しなおし、正常《せいじょう》の状態に戻すのは場違いな望みではないだろう。
ただ、無擦珠にはあっても不自然ではない飛び抜けた能力が備《そな》わっていないだけだ。
砥石の宝貝ならば、その能力を身につけられるのではないかと和穂は考えていた。
言葉に出さずとも、和穂の考えは細波《さざなみ》となって広がり無擦珠に届いていた。
無擦珠は答えない。やはり無邪気に笑うだけだった。和穂の言葉の意味は判《わか》らず、ただ、和穂に頼《たよ》られている事だけを、本能として嗅《か》ぎ取っているように見える。
和穂はゆっくりと息を吐《は》く。もとより、長期戦は覚悟《かくご》の上だった。
本能もある種の意思とはいえないのか? 本能があるのならば、それを意思と呼べるものにまで成長させられるのではないのか?
自分が幾つの奇跡《きせき》に頼っているかを考えたが、諦《あきら》めたのならば奇跡が起きる余地すらなくなってしまう。
今は無擦珠に語り続けるしかない。どこまでも独《ひと》り言めく言葉だったが、語りかけを止めればわずかな可能性も消え去ってしまう。
「……ちょっと龍華|師匠《ししょう》の話をするね。
私はずっと不思議だった。龍華師匠が、どうして欠陥《けっかん》宝貝を壊《こわ》さずに、つづらの中に封印《ふういん》しているのかが判らなかったの。
師匠の性格《せいかく》からしたら、自分の思い通りにならない宝貝なんか、すぐに壊してしまいそうなのにね。
でも、こうやって宝貝回収の旅をして、色々な宝貝を見ていると、なんとなく師匠の考えていたことが判るような気がしてきた。
師匠は自分の造った宝貝たちを信じていたんだと思う。たとえ、欠陥やら不具合があったとしてもそれを乗り越《こ》える可能性を信じて、破壊はせずに封印したと思うの。
だから、私は無擦珠の力を信じたい。殷雷を治せるようになれると信じたい」
無擦珠の口が開く。不慣れな呼吸《こきゅう》をするように無擦珠の口が言葉を綴《つづ》ろうとした。
「!」
和穂は期待に胸《むね》を躍《おど》らせるが、宝貝の口から言葉は出てこない。無擦珠はただ、口をパクパクと動かしただけだった。
和穂は知った。無擦珠はただ、私の動きを真似《まね》しているだけなんだ、と。
無擦珠の表情が寂《さび》しそうなものに変わった。これもまた自分の表情を真似しているのだろうか?
ゆっくりと無擦珠は和穂に抱《だ》きつき、和穂の背中《せなか》を慰《なぐさ》めるようにさすった。
「無擦珠?」
感情の起伏《きふく》を捉《とら》える能力は無擦珠には備《そな》わっている。それだけは確かだった。
「……殷雷は私にとって大切な人。殷雷が壊れかけているのを知った時、私は恐《こわ》かった。
殷雷を失うことが恐かった。
でもそれは私の甘《あま》えた考えだって、彩朱《さいしゅ》さんとの話で判ったの。
今は、純粋《じゅんすい》に殷雷を助けてあげたい。その為にはどうしても無擦珠の力が必要なの」
無擦珠は微笑《ほほえ》んだ。
が、無擦珠の瞳《ひとみ》の輝《かがや》きの中に、和穂の言葉を理解《りかい》した様子は微塵《みじん》もなかった。
「早く起きないと凍《こご》え死んじゃうよ」
白繚の恨《うら》めしげな声に、和穂はガバと簡易寝台《かんいしんだい》から身を乗り出した。
左手に握《にぎ》り締《し》め、胸《むね》の前で抱《だ》きかかえるように右手を被《かぶ》せた無擦珠から、ほんのりとした暖《あたた》かさが伝わってくる。
少しでも意思の疎通《そつう》を計ろうと、夕べ眠《ねむ》りにつく前に和穂は無擦珠を握り締めていたのだ。
夢《ゆめ》によく似《に》ていたが、夢よりはしっかりとした記憶《きおく》が和穂の頭に蘇《よみがえ》る。無擦珠に思いは通じなかった。
だが、それがどうしたというのだ。まだまだ、諦《あきら》めるには早過ぎる。また今夜も無擦珠に語りかければいいだけの話だった。無擦珠に自分の思いが通じるまで、続けるのだ。
和穂は懐《ふところ》の隠《かく》しに無擦珠を忍《しの》ばせた。隠しに入れるのには少しばかり無擦珠は大きく、鳩尾《みぞおち》の辺りがゴリゴリしたが、それでも常に肌身離《はだみはな》さず側《そば》に置いておきたかった。
無擦珠の事はすぐに思い出せたが、和穂は自分の置かれた状況《じょうきょう》を思い出すのにしばし時間がかかった。
部屋の数は幾《いく》らでもあるのだが、暖房《だんぼう》用の炭を節約する為に、結局和穂は白繚の部屋に泊《と》まることになったのだ。
白繚の性格《せいかく》からして、自分の部屋に和穂を泊めるのを嫌《いや》がりそうであったが、意外にも文句の一つも口からは出なかった。
その理由を和穂はすぐ知ることになった。
その部屋は私室と呼ぶにはあまりに殺風景だったのだ。個人《こじん》の私物《しぶつ》らしい物は寝台の横に置かれた長持が一つだけしかない。
寝惚《ねぼ》けた表情のまま、白繚は頭をポリポリと掻《か》いた。白繚も起き抜けなのだろう、いまだ思考の焦点《しょうてん》が定まりきっていない。
凍え死ぬと白繚が言うように、部屋の中は異常に寒かった。窓《まど》に被さる小さな雨戸のような鎧戸《よろいど》が、昨夜はあったはずだが、今は窓ごと消えてなくなりポッカリと壁《かべ》に穴《あな》が開いていた。
ウトウトするような仕草で、白繚は首を縦《たて》に振った。
「起きるのが遅《おそ》いと、獅桜の奴《やつ》が窓を窓枠《まどわく》ごと外しちゃうんだよ。冬場はいつもこうだ」
「なかなか厳《きび》しいんだねえ。あ、おはよう白繚」
寝惚けながら、微妙《びみょう》にずれた和穂の反応《はんのう》を聴《き》いていると、抑《おさ》え込もうとしている白繚の睡魔《すいま》が逆襲《ぎゃくしゅう》してきた。
これは厳しいんじゃなくて、叩《たた》き起こすのが面倒《めんどう》だから行われた、ものぐさな意地悪にしか過ぎない。
しかも、窓を外された怒《いか》りで、文句の一つでも言うかと思えば、おはよう白繚ときたもんだ。が、ここで呆《あき》れればまた睡魔につけいる隙《すき》を与《あた》えるだろう。
「よっこらせ」
寝惚けながらにしては見事な足さばきで、白繚は寝台の下に置かれた長持の蓋《ふた》を蹴《け》り上げる。
安物に見えても品は良いのか、蓋を開けた途端《とたん》にバフという音がした。
きっちりと気密《きみつ》が施《ほどこ》された長持でなければ、この音は出ない。
宙《ちゅう》に舞《ま》う長持の蓋を両手で掴《つか》み、白繚は窓に蓋をした。隙間風は入るが、何も遮《さえぎ》る物がないのに比《くら》べれば、遥《はる》かにましだった。
白繚は寝台に座《すわ》り、軽く目を閉《と》じていた。
寝起きが悪いと言えばそれまでだが、眠気が去るのを眠りながら待っているのだ。
起きているか確かめがてらに和穂は口を開いた。
「ここって白繚の部屋なんだよね?」
寝ているのなら返事は来ないと思っていたが、わりとしっかりした口調で返事が戻る。
「私室ってわけじゃないさ。たまたま現時点でこの部屋を割り当てられてるってだけ。この村で私室を持ってる奴なんて一人もいないけどね。
一軒家《いっけんや》に住んでるように見える連中もいるけど、あれだって布陣《ふじん》の一つさ。私室どころか所持が許《ゆる》されている私物は、この長持に入れられる物だけ」
「へえ、武門の村ってきびしいんだね」
どう考えても宝貝を求めて地上を歩き回る方がきびしいだろうと白繚は考えたが、あえて口にしなかった。
武門の村とはいえ、さっさと引退《いんたい》すれば普通《ふつう》の暮《く》らしも出来るのだが、そこまで親切に説明する白繚ではない。それに朝っぱらから苦労|自慢《じまん》をする趣味《しゅみ》は白繚にはない。
「命令が下れば、この長持一つを持ってどこにでも赴任《ふにん》するんだよ」
和穂はウンウンとうなずく。
「じゃ、その長持の中には色々と思い出の品物とかが一杯《いっぱい》入ってるんだ」
「見てみる?」
「いいの!」
どんな思い出の品が入っているのだろうか? 和穂は期待しながら長持の中を覗《のぞ》きこむ。
が、少しばかり予想していたのと中身の様子が違うようだった。
パッと見た限りではガラクタにしか見えないようなものがあり、それぞれについての説明を聞けば、それがガラクタなんかじゃないと判ると、和穂は期待していた。
だが、あまりガラクタらしき物はなく、紙切れの類《たぐい》が多く詰《つ》まっていた。
白繚が説明する。
「これが、報告書《ほうこくしょ》の下書きでしょ。これが借金の証文《しょうもん》で、こっちは領収書《りょうしゅうしょ》。夏場の暇《ひま》な時は結構《けっこう》、山の下に遊びに行くから金の勘定《かんじょう》が残ってるのさ。主に飲食代だけどね。あ、これは期限《きげん》が切れてるからいらないや」
どリビリと証文を破《やぶ》り、白繚は火鉢《ひばち》にくべた。もんわりと証文は黒く焦《こ》げ、少しばかりの煙《けむり》を上げた。
「あの、白繚。そういうんじゃなくて」
思い出の品とそれにまつわる話なんかを、和穂は聞きたいと思ったのだ。
それでも長持の片隅《かたすみ》に小さな木彫《きぼ》りの人形があるのを、和穂は見つけた。
粗削《あらけず》りだが、小鳥の形が見て取れる。ほどよいガラクタ具合が中々ちょうど良さそうな感じであった。
「白繚、これは?」
「何だっけ?」
当の本人が判《わか》らない代物《しろもの》が和穂に判るはずもない。
「言うのが照れ臭《くさ》かったら、別に構わないよ」
という和穂の言葉が終わる前に、白繚は木彫りの小鳥を火鉢の中に捨てた。
「どうせ軍学の授業《じゅぎょう》の時に、暇つぶしに彫ってた奴かなんかでしょ」
「もっとこう、なんて言えばいいのかな、思い出深い品物とかってないの?」
「何を期待してるんだか。武門の村でむかつく兄貴《あにき》と、日々|鍛錬《たんれん》の生活でどんな思い出が残るってのさ。
目の前の現実に悪戦|苦闘《くとう》してるのに、追憶《ついおく》に浸《ひた》る暇なんかあるわけないじゃない」
確かにそうだ。
「そりゃそうかも知れないけど、身も蓋もないじゃない」
「そうさ。武門の村なんて、結局身も蓋もない存在《そんざい》なんだから」
理屈《りくつ》では納得《なっとく》できるが、感情的に納得出来なさそうな和穂の表情をみて、白繚は言った。
「物になんか頼《たよ》らなくても、心の中に思い出は刻《きざ》みこまれていくのよ。
逆に、物を失うと思い出までが失われたような気がするから、あえて思い出につながる代物は置いてないのよ。判った?」
今の説明で感情的にも納得がいったのか和穂は大きくうなずいた。
「そうだね!」
うなずく和穂の笑顔を見て、白繚はなんてちょろいんだと考えた。口からでまかせの説明で、ここまで見事に納得されるとは白繚本人も予想していなかったのだ。
「いやあ、あんたたちは本当に運がいいよ、馬の世話なんてそうそう出来るもんじゃないからねえ」
馬小屋の柵《さく》に腰《こし》かけ、殷雷たちを顎《あご》で使う白繚に殷雷は言い返す。
「うるせえ、飼葉《かいば》を運ぶだけじゃ牛の世話も馬の世話も違いはないだろうがよ!」
偽装《ぎそう》宿屋の隣《となり》に建っていたのは馬小屋だった。さほど大きくはなく最大でも五頭ぐらいの馬を飼える程《ほど》の広さだ。
もっとも、現在居る馬は一頭だけで寒々とした感じがする。小屋の入り口ではついでに飼われているのか真っ黒い犬が猫《ねこ》のように丸くなって、藁《わら》の上で眠っていた。
三《み》ツ股鍬《またぐわ》を自在に操《あやつ》り飼葉を餌《えさ》受けに運ぶ殷雷の隣では、和穂が飼葉を運ぶつもりで撒《ま》き散らしている。
耕作《こうさく》に使う輓馬《ばんば》なのか、馬というより小柄《こがら》な牛に見えなくもない。
「軍馬は、塹甲|捜索《そうさく》で出払《ではら》ってるから飼葉やりも楽なもんでしょ」
早朝の馬小屋は冷え込み、白繚の息は白かった。
「塹甲|退治《たいじ》に手を貸《か》すと約束したが、馬の世話を手伝うなんて言った覚えはないぞ」
「獅桜が、あんたたちを食客待遇《しょっかくたいぐう》でもすると思ってた?」
「さすがにそこまで人を見る目がないなんて事はないがな」
適当《てきとう》にこき使われるであろう事は殷雷の予測《よそく》の範囲《はんい》だった。それに殷雷はまだ村の連中を完全に信用しているわけではなく、大人しく従《したが》うふりをしながらも、色々と探《さぐ》りを入れる。
「その犬、名前はなんて言う?」
「黒曜《こくよう》」
三ツ股鍬を使うより、手で飼葉を運んだ方が遥《はる》かに効率《こうりつ》がいいと気がつき軽く落ち込んでいた和穂は黒曜の頭を撫《な》ぜた。
「可愛《かわい》い犬だね」
「ぐうたらなだけだよ」
殷雷は質問《しつもん》を重ねた。犬が寝ているのは寝床《ねどこ》の真ん中ではなかった。この冬の寒い時期に壁《かべ》から離《はな》れた通路側に寄って眠っている。
「そいつだけか? もう一|匹《ぴき》いるんじゃないのか」
白繚は説明した。
「赤曜《せきよう》っていう、老いぼれ犬がこの前まで居たんだ」
寝藁を換《か》えてやろうと、和穂は黒曜の前足を掴《つか》んで抱《かか》えあげた。割《わり》と大きい犬なので、和穂が無理矢理犬を二本足で歩かせようとしている姿《すがた》に見える。
説明が続く。
「塹甲がこの村に帰って一番最初にしたのが赤曜の始末だった。刀か槍《やり》か知らないけど、一|撃《げき》で心臓《しんぞう》を刺《さ》し貫《つらぬ》いて殺したんだよ」
可哀想《かわいそう》にと言いかける和穂の言葉を白繚は遮《さえぎ》った。
「たぶんそうじゃない。可愛がってる犬を殺しての嫌《いや》がらせだと思ってるんだろうけど、そうじゃない気がする」
殷雷が言った。
「その老いぼれ犬は、塹甲とやらがこの村を裏切《うらぎ》る前から居たんだろ?」
「だろうね。私より少し年上だって昔、獅桜が言ってた」
「赤曜は塹甲の匂《にお》いを覚えていた。符術《ふじゅつ》で匂いを誤魔化《ごまか》しても本当の匂いを知っている犬なら見分けてしまう」
「そんな所だと思ってたけど、いまいち符術の理屈が判らない」
「状況《じょうきょう》から逆算するしかないな。符で香水《こうすい》の真似事《まねごと》ぐらいは出来るんだろ。その黒犬が匂いを追いかけても、途中《とちゅう》で香水の香《かお》りを換えて追跡《ついせき》を妨害《ぼうがい》するってとこか」
和穂は黒曜の喉《のど》を撫ぜたが、犬は迷惑《めいわく》そうな顔をしている。
「それじゃ、黒曜が塹甲の昔の持ち物とかで、臭いを覚えたら塹甲の居場所が判るんだ?」
呑気《のんき》な質問に二人は答えず、殷雷と白繚は馬小屋の掃除《そうじ》に取り掛《か》かった。
「あれ? どうしたの」
やれやれと白繚は首を振った。
「そんな可能性《かのうせい》が少しでもあるのなら、塹甲は黒曜も最初に始末するでしょうが」
「あ、そうか」
「塹甲は不安|要素《ようそ》を見逃《みのが》す程、間抜《まぬ》けじゃないし、脅威《きょうい》と見なさない存在を念の為に殺しておくような臆病《おくびょう》でもないってこと」
白繚の言葉の皮肉に殷雷は言い返す。
「塹甲が俺らの存在を脅威と感じていないから、みすみすこの村に人らせたと思うか? まあ、その可能性もないではないが、戦力的に俺らに敵《かな》わなくて手が出せなかったって方があり得るだろうな」
「だったらいいんだけどねえ」
「頭が痛《いた》いわ」
黄色と黒がうねりあい、雀蜂《すずめばち》の巣を思わせるような装飾《そうきょく》が施《ほどこ》された上着を塹甲《ざんかん》は羽織《はお》っていた。
塹甲の巨体《きょたい》を覆《おお》っていながらもその上着はゆったりと水の中でそよいでいる。長い黒髪《くろかみ》は上着の黒と絡《から》み合い溶《と》け込《こ》んでいた。
塹甲は池の中に居《い》た。
水面すれすれに仰向《あおむ》けになり、虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》は天を仰《あお》ぎながらも空を見つめているのではなかった。言葉を発しても、あぶくの一つすら浮《う》かび上がらない。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか塹甲様」
塹甲の言葉に応《こた》えたのは一匹の白貂《しろてん》だった。異様《いよう》に細く、毛の生えた蛇《へび》に手足が付いた風体であるが、塹甲の襟元《えりもと》から顔を出している限《かぎ》りにおいては普通《ふつう》の貂にしか見えない。
「これは風邪《かぜ》ね。喉も痛いし熱もある」
塹甲は軽く洟《はな》を啜《すす》った。
異形《いぎょう》と言えば塹甲は異形と言えたかも知れない。
が、塹甲の肉体は全《すべ》ての面で調和が取れていた。貂が鼬《いたち》と違うとしても、貂が醜《みにく》いという理屈《りくつ》にならないように、人としては少しばかり巨体であっても塹甲の姿は美しかった。
天然自然に存在するものの何かの化身《けしん》、精霊《せいれい》の類《たぐい》と説明されても納得《なっとく》出来そうだったが、塹甲は『紛《まぎ》れもない人間』であった。
「それは困《こま》りました。生憎《あいにく》、薬の用意はございませんよ」
塹甲の薄《うす》い唇《くちびる》が開き、彼女の歯が現れた。塹甲は楽しそうに笑っていた。
「風邪は好きよ」
「は?」
「頭痛《ずつう》に熱、喉の痛みに全身のだるさ、不快《ふかい》感のせいで、自分の体の中を血が流れていると確信《かくしん》出来るじゃない」
正直、貂には塹甲の言葉の主旨《しゅし》が理解出来ない。
「怪我《けが》でもすれば、確信するまでもなく血は流れますでしょうに」
ぶるんぶるんと塹甲は首を横に振り、襟首の君の毛が逆立《さかだ》った。
「怪我の血は嫌《いや》。つまらない些細《ささい》な傷《きず》でも大量に血が流れる時がある。大袈裟《おおげさ》で真実味に欠けるから」
「そんなものでございますかねえ」
「貂よ」
「はい?」
「頭が痛い時って本当は頭が痛いんじゃないのよね」
「へ?」
「頭痛なんて、この世に存在しないのよ」
「あぁ、痛みは所詮《しょせん》、心で感じるもの。みたいな話ですか」
興《きょう》を削《そ》がれて塹甲の笑顔《えがお》は消えた。
「そんな矮小《わいしょう》な話じゃない。頭痛だと錯覚《さっかく》しているだけで、本当に痛いのは首なのよ。正確には頭と首の境目《さかいめ》」
貂には理解出来ない。
こいつは本格的に、お薬の用意をした方が良いのではないかと貂は思案しはじめた。
塹甲は右手で首の付け根を揉《も》む。
「で、あの連中は何者なの?」
この村に現れた謎《なぞ》の一行。その素性《すじょう》は何であれ邪魔者《じゃまもの》に違いない。
「間違いありません。宝貝《ぱおぺい》の回収者《かいしゅうしゃ》、和穂《かずほ》一行ですな。以前、説明しましたね」
塹甲は貂の説明を思い出した。自分がばらまいてしまった宝貝を回収している元|仙人《せんにん》の小娘《こむすめ》。いつか遭遇《そうぐう》するとは考えていたが、この重大な時にわざわざやって来るとは間が悪いにも程《ほど》がある。
「貂よ。私の居場所が和穂たちには判るのか?」
塹甲は水の中を隠《かく》れ家《が》にしているのではなかった。獅桜《しおう》一派の捜索《そうさく》を逃《のが》れる為《ため》に、村の周囲をあちらこちらに移動《いどう》している。
「現在はまだ大丈夫でしょうが、早ければ七日後には宝貝の反応《はんのう》を読まれてしまうでしょうか」
「七日か。早いわね。……あいつらは戦力的にどうなの?」
「たかがしれてると言えなくもないですが、あれでも刀の宝貝を連れていますから、正面から戦えば確実《かくじつ》に負けます」
敗北を宣言《せんげん》されても塹甲の感情は微動《びどう》だにしなかった。
「今までの私たちの圧倒《あっとう》的有利から、不利に変わったって事?」
「ですね。作戦は根幹《こんかん》から破綻《はたん》したと考えてよろしいかと。和穂が所持している食糧《しょくりょう》の量は未知数ですが、それ以前に湖から瘴気《しょうき》が消えてしまいましたので、水や魚の補給《ほきゅう》が可能になりました。井戸《いど》の警備《けいび》にあてている村人も遊撃《ゆうげき》に参加するかと」
塹甲は首を横に振る。やはり襟首の貂はその動きに巻《ま》き込《こ》まれた。
「違う。井戸の警備はそのまま。湖の瘴気が消えたのは、井戸の警備を手薄にさせる為の罠《わな》だと獅桜は考える。水の供給《きょうきゅう》だけは絶対《ぜったい》に押《お》さえるよ、あの女」
「さようでございますか」
「兵糧《ひょうろう》の補給線を得て、使える戦力も倍増《ばいぞう》。七日後には情報戦でも向こうが有利」
「尻尾《しっぽ》巻いて逃《に》げますか?」
「逃げたところで和穂の追撃からは逃《のが》れられない。ま、逃げるつもりは全くないけどね」
「不利というより、圧倒的不利の方が正確ですかね?」
「ううん。不利のままでいいよ。こっちが圧倒的に不利だと向こうは分析《ぶんせき》出来てない。こちらの戦力が向こうには見えていない」
それに一方的に狩《か》られるほどの差があるならば、一日も経《た》たずに始末されているはずだとの読みもあった。
「身の振り方はいかがなさいますか」
「今までと一緒《いっしょ》。戦略《せんりゃく》はそのままで戦術《せんじゅつ》を少し変える。それだけで充分《じゅうぶん》でしょ」
塹甲は、ゆっくりと身を起こした。
塹甲の動きに合わせて水が盛《も》り上がり彼女の体にまとわりつく。水は粘度《ねんど》を持ち、簡単《かんたん》には塹甲の体から流れ落ちなかった。
それでも少しずつ塹甲の体から水は剥《は》がれ落ちていく。粘《ねば》りのある水は雫《しずく》の一つも形作らずに湖へと帰っていった。
水面に立ち、虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》を村に向け、塹甲は洟《はな》を啜《すす》った。
「さて皆《みな》さん、どうやらその塹甲とかいう人が符術《ふじゅつ》を使える事には間違いがないようです。というか、実際《じっさい》使ってましたよね、あの犬だかなんだか判らない枯《か》れた笹《ささ》の葉で出来た化け物は符怪《ふかい》、すなわち符によって造《つく》られた化け物なのですよ。枯れた笹に見えたのは符の一種という次第《しだい》で。獅桜さんと殻然《かくぜん》さんのとこにも報告《ほうこく》は上がってますよね。
私も少しばかり過去《かこ》の報告書を読ませてもらって、以前にも犬に似《に》た化け物以外にも鳥に似たのとも戦闘《せんとう》があったと確認《かくにん》させてもらいました。
あの、皆さんは朝ご飯を食べるのに忙《いそが》しくて私の話が聞こえてないんじゃないでしょうか?」
静嵐《せいらん》は大きな卓《たく》から少しばかり離《はな》れた場所に立てかけられた黒板の前に立っていた。
が、埃《ほこり》がたつから白墨《はくぼく》の使用は禁《きん》じられていた。
どかすかと一種の戦場のような物々しさのある食卓であった。各自が食べるのに必死で和穂以外静嵐の言葉に耳を傾《かたむ》けている者は居《い》ないように見えた。
口の中|一杯《いっぱい》にご飯を頬張《ほおば》りながらも、獅桜の声は奇麗《きれい》に響《ひび》いた。
「心配するな、聴《き》いてるよ。白繚《びゃくりょう》、おかわりだ」
自分の椀《わん》の中の飯を一気にかけ込み、白繚は獅桜から椀を受け取り、自分の椀と二つの椀を和穂に突《つ》き出す。
「和穂、ついでにおかわり」
何がついでだかよく判らないが、和穂は二人の茶碗にご飯をよそう。
静嵐は説明を進めた。
「相手は符術の使い手ということで、皆さんに符術の説明をしろって御要望なんですが、別に殷雷《いんらい》が説明しても構《かま》わないんじゃないんでしょうか? って殷雷、漬《つ》け物|噛《か》みながら睨《にら》むのはよしなさい。
睨みながら『お前の知識《ちしき》の方が正確だ』なんて誉《ほ》めても説得力ないよ。
はいはい判りました、無駄口《むだぐち》を叩《たた》く暇《ひま》があったらさっさと説明しろってんですね。
符術を使える宝貝ってんですから、恐《おそ》らく筆の宝貝あたりなんでしょうな。
はい、殻然さん、質問ですか。私はこの村で貴方《あなた》だけは常識をわきまえた方だと思ってたんですよ。なのにあれですか、魚の身をほぐしながらの質問ですか。いや、別に構いませんよ。そりゃその魚は美味《おい》しいでしょうよ、この私が夜明け前に湖の中に投げ込まれて採《と》ってきた魚なんですから。
あ、質問でしたね。符術が使えるんだったら、何だって出来るんじゃないか? えぇそりゃごもっともな意見ですな。とても魚の身をほぐしながらしている質問とは思えないような立派《りっぱ》な質問です。
結論《けつろん》から申しますと、たかがしれてます。間違ってもなんでも出来るような万能の代物《しろもの》じゃありません。
符術補助の宝貝だと仮定《かてい》した場合、特化符術か汎用《はんよう》符術の二種類の可能性があり、塹甲が使用してるのはこれはもう間違いなく汎用符術なのでございますよ。
はい、迅鳴《じんめい》君。
なに、汎用って言葉をまだ習ってない? 汎用……どう言えばいいかな、たとえば刀は斬《き》る事に特化した武器で、棍《こん》は叩《たた》いたり突いたり物干し竿《ざお》の代わりに使ったり、意地悪な宝貝が私をつついたりと色々な事に使えるでしょ。その色々な事に使えるのを汎用と言うんですよ。いや、わざわざつつかなくていいです。
符怪を出して気配を消してるんじゃ、これはもう汎用符術で決まりです。
そもそも符術ってものは、仙術《せんじゅつ》を符という紙切れに封《ふう》じ込める技術《ぎじゅつ》なんで、仙術的な力があって初めて真っ当な符に仕上がるんですよ。
この真っ当な符だと、美味しそうに三|匹《びき》めの魚を食べている殻然さんの言葉のように、なんでもあり、正直|対策《たいさく》の立てようがありません。速効《そっこう》で負けます。
はいはい、私の説明がさっきから微妙《びみょう》に矛盾《むじゅん》してると言いたいんでしょ。
塹甲には仙術的な力があるとも思えないのに、符術を使ってるじゃないか?
符術には等級がございまして、一番低位の八等符術ってのは仙術的な力がなくても使えるようになっております。八等符術というのは低級といえば低級なんですが、緊急《きんきゅう》用符術とお考えいただきたい。各種の事情で仙術的な力を使えない、使いたくない時に使うような代物ですからね。
すなわち八等符術で出来るのは気配の制御《せいぎょ》が関の山なんでございます。
はい、白繚君。どうでもいいですけど、質問してる人って、おかわりが返ってくるのを待ってる人だけのような気がするんですけど、気のせいですかね、えぇ、気のせいでいいですよ。
はいはい、あの化け物も符術で造ってるんじゃないのか? それって気配制御と関係ないじゃん?
あぁ、あれね。あれも気配制御の応用ですよ。
つまり気配制御で犬なり狼《おおかみ》なりの気配を持つ符を造って、それを核《かく》にして符で血肉を造ってるんです。しかしそこは八等符術の限界であんまりたいした血肉は付けられません。
血肉を付けられるってのは気配制御の範疇《はんちゅう》を越《こ》えてるじゃないか? 兄さんが汎用って言葉を知らないのに、妹さんは範疇なんて難《むずか》しい言葉を知ってますな。
血肉を付けるのと、気配制御じゃ遥《はる》かに気配制御の方が上等な技術でして符で形を造るなんて、おまけの能力みたいなもんです。上等符術じゃ事情が変わりますが、皆さんがご覧《らん》になったように、少しばかり異様《いよう》な風体をしてても貧相《ひんそう》な化け物だったでしょ。
大きさとしては中型犬ぐらいの化け物を造るのが限度でしょうな。武人の符怪を十数人使って一気に攻《せ》めるなんて事は無理です。
説明はこんなもんかな? 塹甲に出来るのは気配を消したり誤魔化《ごまか》したりする事と、ちょっとした犬程度の大きさが限度の符の化け物を造る事ぐらいです。
たかが知れてるでしょ? そりゃ厄介《やっかい》といえば厄介ですが強大な戦力というより、普通《ふつう》の武人がちょっと便利な小道具を手に入れたって感じですな。
では、これにて符の説明を、あ、いけね。補足がちょっとあります。
符怪が造れるんですから、当然、武器も造れますよ。剣の気配に符の血肉を付ければ、剣が造れます。
塹甲と直接《ちょくせつ》対決になった時、たとえ塹甲が丸腰《まるごし》でも油断《ゆだん》はしないで下さい。
とは言ってもね。気配の符に血肉を付けて物を造っても、それって本物より劣化《れつか》してるんですよ。犬か狼の気配じゃなくて、あの化け物は虎《とら》や獅子《しし》が劣化した物って可能性が結構あります。武器を造ったとしても多分三流の品質になると思います。ですが、油断はしないで下さいね。って油断するようなたまじゃないですね皆さん方は」
静嵐の説明が済《す》む頃《ころ》には和穂以外の全員が食後の茶をすすっていた。しゃもじの使い過《す》ぎで少々右手首に痛みを感じながらも和穂はもぐもぐと口を動かしている。
つまみ代わりに漬《つ》け物をポリポリ囓《かじ》りながら白繚は獅桜に疑問《ぎもん》をぶつけた。
「で、これからどうするのさ獅桜」
「どうするって何がだ?」
「今の話を聴いてただろ? こいつらがやってきたせいで塹甲の優位《ゆうい》は無くなった。向こうも自分たちが有利じゃなくなったって気がついてる可能性が高い。あと数日のうちに居場所まで暴《あば》かれるんだ」
そっぽを向きながら獅桜はガリガリと大根の漬け物を噛み砕《くだ》く。
「だからどうした」
「普通の神経なら、さっさとこの村から逃《に》げだすよ。一週間もあれば距離《きょり》が稼《かせ》げる。塹甲をこのまま逃がしてもいいのか」
やれやれと獅桜は首を振った。
「敬語《けいご》の使い方がなってないね。『このまま逃がしてもいいんですか?』だ。言葉づかいにゃ気をつけな」
迅鳴が笑う。
「それこそ、敬語の使い方なんか習っちゃいねえな」
白繚は食い下がる。
「答えてよ獅桜」
獅桜は後ろを向き、椅子《いす》の背後《はいご》にある火鉢《ひばち》に手を伸《の》ばした。無視《むし》されたと白繚が怒《おこ》る寸前《すんぜん》に獅桜は口を開く。背《せ》を向けたまま、火鉢から煙管《きせる》に火を移《うつ》す。
「逃げやしないね塹甲は。あいつはそういう女だ」
「論理的じゃないね」
「理論だけじゃ足下《あしもと》を掬《すく》われるよ。読みあいはある程度《ていど》行けば飽和状態《ほうわじょうたい》になる。読み切るなんて不可能さ。そりゃあいつにとっての最善手は撤退《てったい》だ」
「だったら」
口から出る紫煙《しえん》には、溜《た》め息も混《ま》じっていた。
「あいつは逃げない。お前さんは、習ったばかりの戦理を使いたくて仕方がない只《ただ》の馬鹿だ」
怒《いか》りを感じる前に、白繚は呆《あき》れてしまった。もう少しましな理由が返ってくると期待していたのだ。明かない埒《らち》に妹は兄に同意を求めた。
「迅鳴、こんな馬鹿な話があるか? あんたからも文句《もんく》を言ってよ」
兄は呑気《のんき》に茶を啜《すす》っていた。
「獅桜が逃げないって言ってるなら、塹甲は逃げやしないんだろうよ。いや、逃げないって事にしといてやろう。上官の判断《はんだん》だからな」
現場の判断だとか格好《かっこう》をつけて、見回りの任務《にんむ》を放《ほう》り出して符の化け物を追いかけていた男から、こんな優等生《ゆうとうせい》じみた答えが返ってくるのが白繚には信じられなかった。
意見を求められる前に殷雷は口を開いた。
「俺も迅鳴に同意だな」
「所詮《しょせん》、宝貝とはいえ道具ね。命令には喜んで絶対|服従《ふくじゅう》ってわけだ」
白繚の言葉をきき、和穂は咽《む》せる。和穂や静嵐の意見は当てにならないだろうから、残るは殻然の考えのみだった。
「殻然さん、貴方《あなた》なら獅桜の部下じゃないんだから意見出来るでしょ?」
「部下じゃないから余計《よけい》に意見出来る立場じゃなかったりするんだがな」
「じゃあさ、もしも殻然さんが獅桜の立場だったらどう判断する?」
少し困《こま》りながらも殻然は言った。
「私が獅桜の立場だったら、相手の出方を探《さぐ》るよりも逃亡《とうぼう》を阻止《そし》する為《ため》に作戦を変更《へんこう》するな」
やっと自分と同じ意見を見つけ、白繚の機嫌《きげん》が戻《もど》った。
「聞いた、獅桜? あんたと殻然さんの判断じゃどっちが優《すぐ》れてると思う?」
ぷかぷかと煙《けむり》を吐《は》きながら獅桜は答えた。
「ま、世間|一般《いっぱん》の考えじゃ、殻然の判断だろうね」
「だったら」
獅桜は最後まで言わせない。
「殻然、きっちり答えてやんな」
「判ったよ。俺が獅桜の立場なら白繚と同じ意見だ。俺が獅桜だったら、獅桜と同じ意見だ」
「は?」
理解できない白繚を尻目《しりめ》に、獅桜は火鉢の中に置かれた、鍋《なべ》や土瓶《どびん》を置く為の五徳《ごとく》に煙管の頭を叩《たた》きつける。
カンという澄《す》んだ音がして燃《も》えつきた刻《きざ》み煙草《たばこ》の葉が、火鉢の中に落ちた。
それが合図でもあったかのように迅鳴、殷雷、殻然は椅子から立ち上がり、和穂も慌《あわ》てて茶碗の中のご飯を平らげる。
白繚はやはり釈然《しゃくぜん》としない。
「ちょっと待ってよ!」
獅桜は最後の大根の漬《つ》け物《もの》をかじった。
「もしも、塹甲追撃の手を出さないのが愚策《ぐさく》だとしても、うだうだ論議《ろんぎ》を重ねて無駄《むだ》な時間を浪費《ろうひ》するよりは遥《はる》かに上策だろ。万が一塹甲を取り逃がしたら、陰《かげ》で笑うがいいさ」
「……出来れば、陰じゃなくてあんたの目の前で笑いたいんだけどね」
「やってもいいけど、そん時や懲罰房《ちょうばつぼう》行きだよ。なんだったら、今から入るかい? あと一人ぐらいなら空きがあるぞ」
もはや食堂には獅桜と白繚の姿《すがた》しかなかった。それぞれが割《わ》り当てられた仕事に向かっているのだった。
白繚も席を立ちながら言った。
「遠慮《えんりょ》しておく」
そもそも、なんでこんな女の為に必死になって進言をする必要があるのか? 最初の一歩から自分の考えが間違っていたと白繚は考えた。
塹甲の姿は知れず彼女の行方《ゆくえ》は、ようとして知れなかった。
もとより獅桜は自分の言葉のままに、塹甲|捜索《そうさく》に力を入れていなかった。殷雷、和穂、白繚で一つの班、静嵐、迅鳴でもう一つの班を造り、二班と殻然が重点的に村の中を見回るという形になっていた。
時間差で昼食をとり、昼からの見回りも何事もなく終了《しゅうりょう》する。和穂たちが、この村に到着《とうちゃく》してから丸一日と少しの時間が経《た》ち、冬の夜が訪《おとず》れていた。
夕食が済み辺りが真っ暗になった頃《ころ》、静嵐は宿屋の屋根に上げられた。
お前の感覚だけが頼《たよ》りなんだと、殷雷が楽しそうに語っていたが、どうせ風見鶏替《かざみどりが》わりぐらいにしか考えてないのだろうと静嵐は考えていた。
屋根の上に寝転《ねころ》がり、静嵐は夜空を見つめる。
「だいたい、相手は気配を消しているのに見張《みは》る意味があるんだろうか?」
雪は降《ふ》っていないが寒風は吹《ふ》きすさんでいる。だがさすがに武器の宝貝、その程度《ていど》の寒さではびくともしない。
上体を起こし、静嵐は周囲を見回す。しょぼくれた民家の明かりが、ぼちぼちと輝《かがや》いていた。
「……居《い》ることは居るよな」
塹甲が何処《どこ》に居るのかは皆目《かいもく》見当もつかない。が、何かが居るという気配を静嵐は感じ続けていた。
白繚の言うように、塹甲が逃げだしていないのは確実だろう。正確な気配は読めないが存在《そんざい》感だけがのしかかるように村の中に充満《じゅうまん》している。
隙《すき》を突《つ》かれ、背後からバッサリ斬《き》られるのは御免《ごめん》だとばかりに静嵐は大の字になって寝転んだ。
「こういう気配感知については恵潤《けいじゅん》の方が詳《くわ》しいんだけどな。そういや、まだ恵潤に会わせてもらってないじゃないか!」
何の因果《いんが》か静嵐は回収《かいしゅう》されてから、まだ一度も断縁獄《だんえんごく》の中に入っていない。
「おうい、殷雷。恵潤|呼《よ》び出してよ」
さも当然のごとく返事は戻らない。下の食堂ではチャンカチャンカと徳利《とっくり》を叩いて楽しそうにやってるが、自分の声が聞こえないはずはない。
少しばかり腹《はら》が立ったので『敵襲《てきしゅう》だ!』と叫《さけ》んで驚《おどろ》かせてやりたい衝動《しょうどう》に静嵐は駆《か》られたが、思いっきり怒られそうなのでやめにした。
静嵐はゴロリと寝返りをうち、うつ伏《ぶ》せになり弛《だ》れきった猫《ねこ》のごとく顎《あご》を出した。
鼻先には瓦の隙間《すきま》から生えた一本のペンペン草があった。
北風がビュウと吹き、枯《か》れかけのペンペン草を揺《ゆ》らす。
何の根拠《こんきょ》もなく静嵐は考えた。
「全部|罠《わな》だったりして」
よく判《わか》らないが誰《だれ》かが全《すべ》てを仕組んでいて全部が罠なんじゃないかと静嵐は考えた。
「と、なるとこのペンペン草も宝貝によって造《つく》られた擬態《ぎたい》かもしれないねえ」
ペンペン草を引き抜《ぬ》き静嵐は口に入れた。スルメでもしがむように、根っこ側半分は口の外に出たままだ。
モグモグとペンペン草を噛《か》み締《し》める。
潰《つぶ》れた草汁《くさじる》の苦みが口の中に広がるが、静嵐は気にも止めない。元より薺《なずな》の一種であり毒草でもなかった。しかも毒草であったとしても宝貝たる静嵐はそう簡単に毒にやられたりはしない。
飽《あ》きもせずにペンペン草を噛み続けていた静嵐だったが、やがてペッと吐《は》き出した。
「取り越《こ》し苦労か」
もしこれが宝貝によって造られた偽物《にせもの》のペンペン草なら、細かく噛み砕《くだ》かれる事によってペンペン草の形態《けいたい》を維持《いじ》出来なくなるはずだった。
ペンペン草が本物なのだから、ペンペン草が生えているこの建物も本物なのだろう。土台が偽物で装飾品《そうしょくひん》だけ本物だとは考えにくい。
この草は昨日今日生えたような物ではない。
元から根拠のない思いつきであり、思い過《す》ごしだったとしても仕方があるまいと静嵐は考えたが、何故《なぜ》か背中《せなか》がぞくりとした。
素早《すばや》く寝返りをうち、上体を引き上げる。
まだ屋根の上に座《すわ》った形であり立ち上がっては居ないが、静嵐は周囲を見回す。
宝貝である静嵐は悪夢を見ない。故《ゆえ》にこの感覚が悪夢で目覚めた時の感触《かんしょく》に似《に》ていると気がつかない。
寒気、汗《あせ》の冷たさ、足場を突如《とつじょ》失ったような不快感が静嵐を包む。
周囲には何も居ない。いや、何かが居ることを感じられないだけではないか。
瓦は黒く光り、視界《しかい》は良好だ。他にもペンペン草が生えている。
ペンペン草は六本、丁度《ちょうど》静嵐を囲むように生えていた。
「少し過敏《かびん》だったかな。ペンペン草が偽物だったのならともかく、ちゃんと本物だったんだし」
ホッと息を吐《つ》きたい気分だったが、何故か息は上がっていく。
「なんだなんだなんだなんなんだ。あ!」
見る気もないのに見てはいけないものを見てしまった気分だった。静嵐は根拠もなく答えにぶつかってしまったのだ。
「た、大変だ殷雷! いやもしかしたら見当はずれかもしれないけど、ちょっと気になる事があるんだ、殷雷!」
がさり。紙と紙が擦《こす》れあう乾《かわ》いた音がした。
「誰にも聞こえないよ」
「う、うわ!」
六本のペンペン草は揺らいでいた。だが、その揺らぎは風とは全く関係なかった。
自分が確認《かくにん》したペンペン草は確かに本物だった。が、あの六本のペンペン草の正体は符《ふ》であろう。
「ペンペン草に囓《かじ》りつかれた時には、一瞬《いっしゅん》だけど狼狽《うろた》えたよ」
ペンペン草に化けた符は、気配消しの結界を張《は》っていたのだ。
どうやら周囲にある七本のペンペン草の内、わざわざ符ではない物に噛りついていたようだった。
気配は消されている。故《ゆえ》に静嵐の声は殷雷には届《とど》いていない。
「静嵐君。やっぱりきみが一番の障壁《しょうへき》だったよ。その様子じゃ答えを理解《りかい》してしまったんだろ? 根拠もないのに流石《さすが》だ。
一応《いちおう》言っておくが、現状《げんじょう》を打破《だは》する三つの手段《しゅだん》はどれも無意味だからね」
走って結界の外に出るのが一つ、ペンペン草のどれかを破壊《はかい》するのが一つ。と、静嵐は二つの手段しか思いついていなかった。
「えぇと、逃亡《とうぼう》と結界破壊で二つでしょ。最後の一つってどんな手段? 『ここで戦って僕《ぼく》が勝つ』かな?」
「そいつは論外だ。残る一つは、瓦《かわら》を踏《ふ》み割《わ》り天井《てんじょう》をぶち抜《ぬ》く。だな」
「あぁ、なるほど」
その時、既《すで》に静嵐の体は襟首《えりくび》を掴《つか》まれ宙《ちゅう》に浮《う》いていた。
「でもさ、どうしてこんな事をしようと考えたの?」
「答えは見つけたけど、問題がなんなのか判らないのかい? 問題の前に答えを見つけるとは導果《どうか》先生が悔《くや》しがるのも無理はないね」
さてと。
殻然《かくぜん》は殷雷《いんらい》をどうすれば倒《たお》せるかと思案した。こちらの武器《ぶき》は大剣《たいけん》が一振《ひとふ》り、殷雷は両手に短剣を一本ずつ隠《かく》し持っている。
大剣の斬撃《ざんげき》を放つ直前に殷雷は間合いを離《はな》してくる。正面を向いて対峙《たいじ》しているのだ、斬撃を放つ為《ため》の背筋の動きに反応しているとは考えにくい。いや、相手は武器の宝貝なのだ、常識《じょうしき》的な判断が通用するのだろうかと殻然は考え直す。
止《や》むを得ず斬撃の軌道《きどう》は考えずに背筋に力だけを疾《はし》らせる事にした。足の踏んばりから背筋を力が駆《か》け登っていく。
殷雷は反応しない。反応できないのか罠なのかは殻然には判断のしようもなかったが、斬撃が放たれた。
その斬撃はまさに爆発《ばくはつ》と言っても良いような代物《しろもの》だった。
制止《せいし》状態から極度に短い時間に加速を終え殻然が操《あやつ》るのに最適《さいてき》な速度になった。
斬撃の前に殷雷は動いていない。
これで斬撃を避《よ》けられたのならば、答えは一つしかない。この武器を殷雷に当てるなど不可能《ふかのう》だ。
地面に平行に、真一文字になぎ払《はら》われた大剣の刃《やいば》に夕焼けの朱色《しゅいろ》が映《うつ》る。
殷雷は刃を見守るが動きは見せない。
このままいけば、般雷の胴体《どうたい》は真っ二つに切断されるはずだ。
殻然は勝利を確信《かくしん》したりはしていない。
だが、この一撃の次の一手も思いつかない。人が相手ならばこれで勝負はつく。
殷雷は半身《はんみ》に構《かま》え、丁度《ちょうど》刃に正面を向ける格好になった。そして刃を両手の掌《てのひら》で受けとめようと伸《の》ばす。
殷雷は左右両手の中指と人差し指の間に短剣の柄《つか》を挟《はさ》みこんでいる。下を向く短剣の刃は掌に添《そ》えられていた。
大剣の刃を短剣の刃で受けとめるつもりだと殻然は知った。
衝撃《しょうげき》で短剣の刃はへし折れ、殷雷の両手もただでは済むまい。
が、致命傷《ちめいしょう》に至《いた》らない可能性が高い。
躊躇無《ちゅうちょな》く高度な捨《す》て身に来たのかと、殻然は驚《おどろ》き、次の一手の判断に入った。
向こうは両手が使い物にならず、こちらも大剣のせいで両手はすぐに自由にはならない、至近距離《しきんきょり》での蹴《け》りあいになるだろう。
と、その時。殻然の大剣が重くなった。
殻然は異様さの判断を間違わなかった。
大剣が重くなったのが異様なのではない、殷雷と大剣がぶつかった衝撃がないのが異様なのであった。
伸ばされていた殷雷の腕《うで》は曲がっていた。それだけの事で衝撃を吸収《きゅうしゅう》したのだ。
殷雷の足は僅《わず》かに宙に浮いていた。
ただ、軽く飛び跳《は》ね腕を曲げて衝撃を吸収した後は、大剣に押《お》されるがままになっていたに過ぎない。
宙を舞《ま》う紙。殻《から》を割《わ》らないように卵《たまご》を巫山戯《ふざけ》て投げあったこと。重くはあるが時間をかけて力を加えれば動かせる氷の上の巨石《きょせき》。幾《いく》つかの言葉になる前の心象が殻然の頭の中を過《よぎ》っていった。
斬撃を完全に止められ殻然の体は一瞬|硬化《こうか》した。
その一瞬で殷雷は滑《すべ》るように駆《か》け、手刀を殻然に繰《く》り出した。
手刀の裏に隠された短剣が殷雷の指より先に殻然に当たり皮膚《ひふ》が裂《さ》けた。
「てなもんよ」
殷雷は短剣に付いた殻然の血をペロリと嘗《な》めた。
夕暮れの適当な時間があいた時には、今日のように迅鳴《じんめい》と白繚《びゃくりょう》の武術《ぶじゅつ》の鍛錬《たんれん》が行われていた。
場所は宿屋の真ん前だ。
実際《じっさい》には迅鳴が白繚に武器の使い方を教えるのだが、それとても迅鳴が本当に武器の扱《あつか》いを正確に習熟《しゅうじゅく》しているかを確かめる高度な鍛錬であった。
最初は、その鍛錬を見物するだけのつもりだった殷雷は、ふと軽い気まぐれで殻然と模擬戦闘《もぎせんとう》を行う事にした。
模擬戦とはいえ実際に武器の宝貝が戦うのだ、鍛錬どころではなくなった迅鳴と白繚も和穂《かずほ》たちと共に戦いを見物した。
さすがに興味《きょうみ》を引かれたのか、獅桜《しおう》も鍛錬をほったらかしにしている二人を怒《おこ》りもせずに見物に入る。
白繚も今回ばかりは素直《すなお》に賞賛《しょうさん》した。
「へぇ。流石《さすが》にやるじゃない。わざわざ最後に血をペロリなんて所までやるなんて完璧《かんぺき》なやられ役だね」
さらなる要望に答えようとでもしたのか、殷雷は両手の短剣をお手玉のように器用に宙を舞わせた。
そして言った。
「武器の宝貝と戦うならばこういう領域《りょういき》の戦いをこなさねばならん」
度肝《どぎも》を抜かれて愕然《がくぜん》としているのは殻然だけでなく、迅鳴も同様だった。
二人の表情《ひょうじょう》は驚きの段階《だんかい》を過ぎて、やがて苦悩《くのう》の表情になる。
殻然は呟《つぶや》く。
「参考になったと素直に言うべきなのか?」
殷雷は意地悪く笑う。
「宝貝だ宝貝だと大騒《おおさわ》ぎしている割《わり》にゃ、大した戦闘じゃなかっただろ?」
青ざめた顔をしながら迅鳴は言った。
「あぁ、全然大したことはない。殷雷が今やった程度の芸当なら人間にも可能だな」
「そういう事だ。これはまあ、人の形という物理的な限界で出来る最善の動きにしか過ぎない」
頭を抱《かか》えて殻然は言った。
「もっとこう、あれだな。なす術《すべ》もなくピカっと光ったら胴体が真っ二つとかいう、人間には及《およ》びも付かない世界の戦いを予想していたよ」
獅桜は勝負がついた途端《とたん》、不機嫌《ふきげん》な顔をしてさっさと屋敷《やしき》の中に消えていった。その理由は殻然と迅鳴の苦悩と同じだった。
和穂には殻然の言葉がよく理解出来なかった。
「その割には殻然さんも迅鳴君も深刻《しんこく》な顔をしているね。予想していたより、武器の宝貝は強くなかったんでしょ?」
白繚も同意した。
「本当だ」
白繚に向ける迅鳴の視線は厳《きび》しかった。
「おまいさんは気楽でいいねえ」
「……なによ?」
「なす術もなく倒《たお》されるような相手なら、深く考えずに捨て身の一撃を仕掛《しか》けりゃいいだけの話だろ。だがよ、あれなら万が一にも勝てる可能性がある」
「だったら良かったじゃない」
語るに足らんとばかりに迅鳴は首を横に振った。
「おまいさんの腕前じゃ勝てる可能性が絶無だからいいけど、俺や殻然さんじゃぎりぎり勝てるかも知れないんだよ。判るか? 己《おのれ》の技《わざ》の最善を尽《つ》くし、状況判断も完璧《かんぺき》にこなすんだぞ。さっきの殷雷がやった事と同じ事をやれるか? 薙《な》ぎ払《はら》われる真剣の軌道《きどう》をよく見て、衝撃を吸収して、体重を乗せて、敵の動きを固めてその隙《すき》に反撃だぞ」
「そりゃちょっと難しそうだけど、私だって練習したら出来るわよ」
迅鳴は素直に認《みと》めて否定《ひてい》した。
「そうだな何百回と練習したら出来るだろう。でもそれを練習無しでこなすんだよ」
殻然は腹《はら》をくくった。
「達人の神技《かみわざ》を縦横無尽《じゅうおうむじん》に繰り出せばいい。それだけの話だ。……戦いが終わった時には燃え尽きてしまいそうだがな」
迅鳴も首を縦《たて》に振る。
「最善を尽くすしかないのか。まあいい。白繚、刀の鍛錬を始めるぞ。ついでだ、和穂も一緒《いっしょ》にどうだい?」
偽装《ぎそう》宿屋の店先で白繚と和穂、そして何故《なぜ》か静嵐《せいらん》までが刀の指南を受けていた。
お前の実力は和穂とたいして変わらないという、迅鳴の遠まわしの嫌味《いやみ》に耐《た》えるとは、なんと私は我慢強《がまんづよ》いのかと、白繚は一人自分に感心している。
殻然と殷雷は宿屋の敷地《しきち》と道を隔《へだ》てる柵《さく》にもたれ掛かっていた。
皮一|枚程《まいほど》、殷雷の短剣に切り裂かれた殻然の頬《ほお》だったが、既《すで》に出血は止まっていた。夕日の中で傷口《きずぐち》は細く黒く、髪《かみ》が一本だけ張りついているように見える。
白繚たちの素振りを見ながら、無意識の内に殻然は傷口を摩《さす》っていた。
「とはいえ、塹甲《ざんかん》が武器の宝貝を持っている証拠《しょうこ》もなかったんだよな。よく考えてみれば」
殷雷は答えた。
「ならば割り切って、武器の宝貝と戦う線は捨てるか?」
殻然は頭を掻《か》きむしった。
「ううむ。そうもいかん」
この男は心配性だが臆病《おくびょう》でもないという、ある意味一番|損《そん》な性格をしていると殷雷は考えた。
「ところで殻然。お前は何者だ?」
殷雷の声に疑念《ぎねん》が潜《ひそ》む。が、殻然は平然と答えた。
「そういや説明してなかったね。俺はこの村の人間じゃない」
「部外者がこんな村で何をしてるんだよ」
「ううむ。やっぱり出て行くべきかな? 獅桜にも事件《じけん》が始まった頃《ころ》に出て行けと言われたんだよ」
優柔不断《ゆうじゅうふだん》な言葉に見えるが、獅桜に出て行けと言われて、のうのうと残っているのだ。
頑固《がんこ》に近いまでに意思が強いのだろう。
心配性で頑固で、臆病でない。ますます損な性格をしている奴《やつ》だと殷雷は考えた。
「もういっぺんきくぞ。あんたは何者だ?」
「別に怪《あや》しいもんじゃないよ。こことは別の武門の長をやっている。水軍|系《けい》の武門のね。ここの武門とは協力関係にあって、獅桜とは駆《か》け出しの頃からの知り合いさ」
殷雷は不運の匂《にお》いを感じ取った。
「で、この村に来た時に塹甲|襲撃《しゅうげき》に鉢合《はちあ》わせってわけか?」
「ま、そういう事」
心配性で頑固で臆病でなくて、不運。ご苦労な人間も居《い》たものだと殷雷は妙《みょう》に感心した。
「自分の武門はほったらかしかよ」
殻然は顔の前で手を振る。
「大丈夫《だいじょうぶ》、大丈夫。うちの武門はここの武門と違って、そうそう厄介事《やっかいごと》なんか起きないから。もしも緊急事態《きんきゅうじたい》が起されば、鳩《はと》でも使って連絡《れんらく》がくるしね」
「ま、物好きってのは何処《どこ》にでも居るからな。好きにしやがれ。さてと、あいつらの鍛錬が終わったら俺たちはちょいと作戦会議の真似《まね》事をさせてもらう。晩飯《ばんめし》の準備《じゅんび》は迅鳴と白繚にやらせてくれ」
「ああ、判った」
静嵐は言った。
「まあ、何も無いところだけどゆっくりしていってね」
悪意もなく嫌味が言えるのは果たして長所になるのだろうかと殷雷は考えた。
和穂と静嵐を引き連れての作戦会議は、静嵐がいつも待機している屋根の上で行うことにした。
和穂は屋根の上から楽しそうにあちこちの風景を眺《なが》めていたが、やがて口を開く。
「それで殷雷、話って何なの?」
「短刀直入に聞くぞ。この村をどう思う?」
どう思うときかれてどう答えればいいのか、和穂は軽く困《こま》った。
「そうだね。なんて言うんだろう。妙に落ち着くって感じがする」
「的外れな上に、とち狂《くる》った返答だな。的外れなのはいつもの話として、この殺風景な村のどこが落ち着くってんだよ」
屋根の上から見える景色は、のどかさを連想させるような牧歌的な代物《しろもの》ではなかった。
冬という季節のせいもあるだろうが、荒野《こうや》じみた寒々しさがある。
和穂は反論《はんろん》したかったが、反論の根拠《こんきょ》は見つからない。
「理由はないけど、落ち着くの」
静嵐は言った。
「でも獅桜に炊事洗濯《すいじせんたく》やらでこき使われて、落ち着く暇《ひま》もないんじゃないかい?」
「ううん。全然」
待て待てと、殷雷は首を横に振った。
「判《わか》った判った。和穂、お前の感覚はちょいとずれてるって事を忘《わす》れてた。あんな殺風景な九遥山《きゅうようざん》で龍華《りゅうか》と暮《く》らしてたんだ、獅桜みたいな性格破綻者《せいかくはたんしゃ》が側《そば》に居た方が落ち着くんだろうよ。
そんな事を聞いてるんじゃない。この村で何か違和《いわ》感を感じたりはしないか?」
「違和感って?」
「獅桜一|派《ぱ》が敵《てき》かどうかって話だ」
「殷雷は皆《みんな》を疑《うたが》ってるの?」
「判っているとは思うが、あいつらが俺《おれ》たちを騙《だま》そうとして演技《えんぎ》をしてるって線はまずないだろう。だがな、全《すべ》てが罠《わな》である可能性《かのうせい》はあるだろ? あいつらが記憶《きおく》を操《あやつ》られて、駒《こま》として使われているとか」
静嵐も首をひねる。
「もしくは、全部宝貝で造《つく》られた偽物《にせもの》とか?」
割とまともな質問だったが、殷雷は首を横に振った。
「いや、あいつらは人間だ。さっきの模擬《もぎ》戦の途中《とちゅう》でちょいと確かめてやった。短剣で殻然に斬《き》りつけて、刃に付いた奴《やつ》の血を嘗《な》めてみたが、ありゃ本物の血の味だ」
和穂は質問した。
「血の味で判るの?」
「判る。人間以外の何者かが化けている可能性もない」
静嵐は言った。
「じゃ、殻然さん以外が全員偽物とか?」
「割と鋭《するど》い意見じゃねえか。殻然の為に張られた罠に、たまたま俺らが遭遇《そうぐう》したって訳《わけ》か?」
「よせよ殷雷。本当は判ってるんだろ?」
殷雷は頷《うなず》く。
「三日も面《つら》をあわせてりや、そいつが本物の人間かどうかなんてのは判る。仕草《しぐさ》やらなんやらの微妙《びみょう》な個性《こせい》が宝貝によって造られた偽物の人間なら、似通《にかよ》ってしまうんだ」
なんだか意味のない話し合いに和穂は思えてきた。
「だったら何が問題なの?」
「俺の判断じゃ問題ないから、お前らの意見を聞いてるんじゃねえか」
「あ、そういう事か。静嵐はどう思う?」
「結局はさ。作為《さくい》的な物にはどうしても意味があるんだよね。僕たちを仕留《しと》める為に、作為的な罠を張ってるとしたら意味が掴《つか》めないよ。塹甲|退治《たいじ》に僕たちを付き合わせるという罠を張っても意味がない。獅桜たちを信用させて寝首《ねくび》を掻《か》こうとしても、僕や殷雷は隙《すき》を見せないよ。武器の宝貝にとっちゃ、相手を信用してようがしてまいが、隙を見せる理由になんかならないからね」
もっともな意見だった。
「でも殷雷。今までの回収の旅でも疑おうと思えば幾《いく》らでも疑えたのに、今回は特別に疑り深いね?」
居心地《いごこち》が悪そうに殷雷は首筋《くびすじ》を掻いた。
「何かが気になるんだよ」
「何かって?」
心は心に嘘《うそ》を吐《つ》く。
「たぶん、軒轅《けんえん》の宝貝使いの一件《いっけん》だ。先手を打たれているんじゃないかと気になっているんだろうと思う」
分析《ぶんせき》能力に長《た》けた武器の宝貝としてはありえないほど、あやふやな発言であると和穂は気がつかない。殷雷の言葉は分析などではなかった。
「それもそうだね。まだ仕掛《しか》けてなくても、塹甲と私たちの戦いを何処《どこ》かで監視《かんし》しているのかもしれないしね」
静嵐は二人を見つめたが、何も言わなかった。
和穂《かずほ》たちがこの村に到着《とうちゃく》してから四日が過《す》ぎた。
今日は殻然《かくぜん》と白繚《びゃくりょう》が組み、塹甲捜索《ざんかんそうさく》の為《ため》に村の外れを歩き回っている。
白繚は機嫌《きげん》が良さそうに言った。
「ねえ、殻然さん。こんな事言っちゃ何かも知れないけど、こうやって村の周りを塹甲|探《さが》しで歩き回って意味あるのかしら? そりゃ和穂たちが来るまでなら意味があったかも知れないけど、今じゃ静嵐《せいらん》が村中の気配を読んでるんでしょ。ま、あれが信頼《しんらい》できるかどうかは別問題として。……和穂たちを信用していないの?」
和穂たちが現《あらわ》れる前から、和穂たちが現れてからも村中どころか村の外れまでも警戒《けいかい》して歩き回る殻然の小まめさに白繚は尊敬《そんけい》に近い物を感じていた。獅桜《しおう》に指示《しじ》されているのでもなく、自主的に行動しているのだ。
普段《ふだん》は迅鳴《じんめい》と組み、村の中を見回っている白繚だったが、あれはあくまでも警戒であり、塹甲捜索という殻然の目的とは異《こと》なっている。
殻然は優《やさ》しく答えた。
「信頼しているよ。彼らは敵《てき》じゃない」
「だったら意味がない。武器の宝貝《ぱおぺい》に見つけられないものが見回りでどうにかなるかしら?」
少し困《こま》った顔をして殻然は言った。
「ありゃ、迅鳴と一緒《いっしょ》に村の中の警戒の方が良かったかな? こっちの仕事は薮《やぶ》の中やらを丸一日歩き回るだけでつまらないからね」
「そ、そんな事はないよ。馬鹿|兄貴《あにき》にネチネチ嫌味《いやみ》を言われながら顔を付き合わせてるより殻然さんと一緒に居た方がいいよ」
「そうかい、そいつは光栄だね」
「別に変な意味じゃないわよ」
慌《あわ》ててそう付け加えた事が逆《ぎゃく》に変だと気がついて白繚は不機嫌《ふきげん》そうな顔を急いで造りあげた。
殻然の言葉はどこか気がない様子であったが、それは周囲に意識《いしき》を集中しているからであった。口を開きながらでも寸分《すんぶん》の隙も見せるつもりは彼には無かったのだ。
「こうやって歩き回るのも無駄足《むだあし》って訳じゃないさ。そりゃ武器の宝貝は気配を読む能力には優《すぐ》れているだろうけど、相手が気配をほぼ完全に消せるのなら、この捜索にも意味があるんだ」
「?」
白繚には殻然の言葉の意味がよく判《わか》らない。
疑問《ぎもん》は当然だと、殻然は説明した。
「村の周りのあるべき姿《すがた》をこうやって覚えているんだ。そうすれば不自然な物が感じられるようになる」
「こんな所なら私や獅桜や迅鳴の方が昔から詳《くわ》しく知っているよ」
「そうじゃない。ここ最近の気配を記憶《きおく》しておくんだよ。塹甲の気配は読めなくても場所の気配の崩《くず》れは読める」
「先生、全然判りません」
「同じところに二つの物は同時に存在《そんざい》出来ないだろ。たとえば塹甲が完璧《かんぺき》に気配を消して佇《たたず》んでいても霧《きり》や煙《けむり》になっているんじゃないんだ、その場所を蟻《あり》が通る訳にはいかないだろ。ならば蟻の通り道に不自然さが出る。
そういう痕跡《こんせき》を感じるんだ。もっとも今のは判り易《やす》い話で、実際《じっさい》にこの時期に蟻は居ないんだけどね」
尊敬の眼差《まなざ》しで白繚は殻然を見た。
「凄《すご》い! でも今の所、塹甲の居た気配は読めてないんですよね?」
「読めているよ。この間は奴《やつ》は沼《ぬま》の中に居たはずだ。緑泥《りょくでい》の堆積《たいせき》が崩れていた」
「それじゃ塹甲を追い詰《つ》める事が」
殻然は首を振《ふ》る。
「常識的に考えて、気配消しの符《ふ》なんてとんでもない代物《しろもの》を手に入れたら油断《ゆだん》するんだけどね。あいつはさらに痕跡を残さないように注意している。簡単《かんたん》には追い詰められない。けど、こうやって村の周りを歩き回っていれば、あいつの行動に制限《せいげん》を加えられる」
殻然の足が唐突《とうとつ》に止まった。突然《とつぜん》の停止に声を上げようとする白繚を殻然は制した。
真の静寂《せいじゃく》時に訪《おとず》れる耳鳴りにも似た、不快《ふかい》なまでの緊張《きんちょう》感が周囲を支配《しはい》した。
そして、塹甲の声が静寂を破った。
「効果《こうか》的だけど、獅桜ならそんな七面倒臭《しちめんどうくさ》い事は絶対しないのに。お蔭《かげ》であっちこっちに移動《いどう》しなくちゃならない羽目になったわよ。
だから殻然、あんたは大嫌《だいきら》い」
髪《かみ》の毛を逆立《さかだ》てつつ白繚は後ろに飛びすさった。殻然は静かに佇み、目の前に現れた塹甲との間合いを見る。
黄色と黒が絡《から》み合った上着を纏《まと》う塹甲の腰《こし》には二本の刀が添《そ》えられていた。右と左の腰に挿された鞘《さや》はそれが双刀《そうとう》である証明《しょうめい》であった。
塹甲の長い髪《かみ》は冷たい風にゆっくりとなびいている。巨体《きょたい》から溢《あふ》れ出る殺気にも似た圧迫《あっぱく》感に流石《さすが》の白繚も一瞬《いっしゅん》、言葉を失った。
美しい化け物と相対しても殻然は怯《ひる》まずに言った。
「やっと会えたな。どうだ? 今からでも遅《おそ》くない獅桜の下に戻《もど》らないか? なんだったら俺が間に入ってやろう」
殻然の言葉に白繚は驚《おどろ》き、塹甲は笑った。
「あんたらしいね。今さら獅桜の下に帰れだと?」
真面目《まじめ》な顔で殻然は頷《うなず》く。
「そうだ。命の保証《ほしょう》はしてやろう」
「ふん。それで牢《ろう》に繋《つな》がれろとでもいうのか!
馬鹿にしてもらっちゃ困るね」
本気で説得していたのか殻然の顔に曇《くも》りが差す。
「殻然さん、何を言ってるんですか! この化け物相手に説得なんて」
ギロリと塹甲は白繚を睨《にら》みつけた。
「大きくなったな白繚よ。その腰につけた刀は何の飾《かざ》りだ?」
殻然は白繚を背にした。
「塹甲。状況《じょうきょう》は判っているだろ? このままいけば、やがてお前は捕《つか》まる運命なんだ。無駄な抵抗《ていこう》をしているのは自分でも判っているんだろ?」
「状況? ああ、よく判っているさ。何の油断か戦力の配置をお前らは間違《まちが》えた。殻然と白繚を組ませるなんて致命《ちめい》的な間違いだね。殻然よ。お前が一人だったら私は姿を現さなかっただろうに」
塹甲の言葉から判断して、やはり武器の宝貝は無しだったのか。少しばかり殻然は安心した。
「その餓鬼《がき》がお前の足を引っ張《ぱ》ってくれるお蔭で五分以上の戦いが出来るからね」
怒《いか》りで歯を噛《か》み締《し》める音を殻然は聞いた。
「そうかな? 白繚は強いよ」
「お前は利口だが愚《おろ》かだ殻然」
白繚は怒りに燃《も》えていたが、塹甲の強さを見誤《みあやま》るつもりは毛頭なかった。
この化け物は強い。もしかしたら殻然さんより強くても不思議はない。だが、こちらが有利だ。
「馬鹿なのは貴方《あなた》よ、塹甲。殻然さんの足を引っ張るほど私は弱くはない」
歴戦の猛者《もさ》が新参者の意気込みをせせら笑うのと同じ笑《え》みが塹甲の顔に浮《う》かぶ。
「へえ。最善|策《さく》はこの場は殻然に任《まか》せてお前はさっさと逃《に》げる事だと思うけどね」
露骨《ろこつ》な挑発《ちょうはつ》には白繚も乗らなかった。
「塹甲。それにあんたには時間が残されていないのよ」
言うなり、白繚は懐《ふところ》から小さな鉄の笛を取り出し、吹《ふ》く。どんな鳥にでも出せないような甲高《かんだか》い音が周囲に響《ひび》く。
「この合図を目印にして殷雷たちはこの場所にやってくる。あいつらが到着《とうちゃく》してもそんなにでかい口が叩《たた》けるかしら」
笛を吹く動作に合わせていたのか、塹甲の両手には抜刀《ばっとう》を済《す》ませた刀が握《にぎ》られていた。
「到着前にけりをつける自信があるから姿を現したのが判らない? 逃げる時間を考慮《こうりょ》しても充分《じゅうぶん》だわ」
いくら必死になって殺気を放っても、塹甲の上着に際限《さいげん》無く吸い込まれていく感覚を白繚は味わった。黄色と黒がうねり渦巻《うずま》く禍々《まがまが》しい上着はそれ自体が宝貝じみて見える。
逆に塹甲からは殺気の類《たぐ》いが一切《いっさい》流れ出ていなかった。白繚を挑発しているとはいえ、それはからかいに似《に》たものだった。
蛇《へび》が鳴らす舌《した》の音のような微《かす》かな音を立てて白繚と殻然も抜刀した。
やはりそれでも塹甲からは殺気は出てこない。
白繚が言った。
「やる気がないの?」
「あんたの首をはねとばすのに、どんな意気込みが要《い》るっていうのよ」
挑発や、からかいではなく塹甲は真実を語っているだけだった。さすがの白繚も背筋に冷たいものを感じる。
と、その時。白繚は塹甲の首にまとわりつく白貂《しろてん》と目が合った。
「! 襟巻《えりま》きじゃなかったの、それ」
塹甲は軽く咳《せ》き込《こ》む。
「襟巻きよ。ちょっと風邪《かぜ》をひいてるから巻いてるの」
刀である殷雷が人の形を取るように、塹甲の持つ宝貝が白貂の形をとっているのだと白繚は判断《はんだん》した。静嵐の言葉を信じるならば符術《ふじゅつ》を使うのはあの白貂の姿をした宝貝としか考えられない。
「両手が塞《ふさ》がってても、姑息《こそく》な符術って使えるの?」
「無用の心配ね。戦いの最中に符を使ったりはしない。第一」
突風《とっぷう》にも似た瞬間的な気合いが殻然から放たれ、その斬撃《ざんげき》は気合いが周囲に到達するよりも速く塹甲目がけて走る。
幾《いく》つかの手の内の読みあいが絡《から》んでいた。
塹甲にとって時間が長引く程《ほど》不利であり、殻然にとっては無駄話でもなんでも時間が経《た》てば殷雷の増援《ぞうえん》が期待出来た。
故《ゆえ》に殻然は守りを固め、塹甲が仕掛ける隙《すき》を待つのが最上の策であった。
塹甲も、白繚と罵《ののし》り合いながら増援を待つ殻然の隙に付け込もうと考えていた。
殻然から急いで戦いを仕掛ける利点はない。故に殻然は自ら仕掛けた。白繚も唐突な展開《てんかい》が理解出来ていないようだった。
油断の文字は塹甲にはない。最上の策が明白であるから敵《てき》はその手を使うと決めつけるのは油断でしかない。
目の前に居る敵が塹甲でなければ、今の一撃で勝敗は決していたかもしれない。
だが、自分が攻《せ》め手であると自覚していたからこそ、塹甲は殻然の攻撃《こうげき》に備《そな》えていた。
斬撃は易々《やすやす》とかわされたが外した攻撃による隙は殻然にはない。
「こっちから斬《き》りかかっておいてなんだが、さっきの話がなくなったわけじゃないからな」
斬撃をかわし、背後《はいご》に飛びすさる塹甲の髪がゆっくりと躍《おど》る。巨体が繰《く》り広げる軽快な体さばきは必然的に周囲に風の流れを創《つく》り出した。
「私は獅桜が嫌いなの。だから和解なんて有り得ない。ただそれだけの単純《たんじゅん》な話よ」
塹甲の動きが緩慢《かんまん》になった。
この期《ご》に及《およ》んで、まだ嘲《あざけ》り挑発《ちょうはつ》しているのかと白繚は呆《あき》れかけたが事実は違《ちが》っていた。
素早《すばや》い動きで間合いを外し、今までの動きが嘘《うそ》のようにゆっくりと塹甲の体幹《たいかん》がひねられていく。
殻然は白繚に言った。
「しばらくは様子を見て、間合いを外すことだけに専念《せんねん》しておいてくれ」
「私には手を出すなと?」
「違うよ。初見で見切れるような素直な体術じゃないからね。少なくとも攻撃開始の前にあいつには隙はない」
殻然の言葉が白繚には信じられなかった。
「あの姿《すがた》じゃ隙だらけじゃない。今|仕掛《しか》ければ、せいぜい勢《いきお》いのない手打ち刀術で、こっちの斬撃を凌《しの》げるかどうかでしょ」
「その勢いのない手打ち刀術で両断されるよ。あの巨体から繰り出される力は伊達《だて》じゃない」
塹甲の居る場所から風が流れてきた。
最初は、あるかないかも判らないような微風《びふう》が徐々《じょじょ》に強くなる。緩慢《かんまん》ではあるが、滑《なめ》らかな塹甲の動きは徐々に加速していった。
加速にあわせて風の流れが強くなっていたのだ。
塹甲の動きのあまりの滑らかさに白繚は錯覚《さっかく》を覚えた。滑らか過ぎて加速していく動きが把握《はあく》出来にくい為《ため》、塹甲が加速しているのではなく、自分が属《ぞく》する時間の流れが遅《おそ》くなっていく奇妙《きみょう》な感覚だった。
風音が、時間の境界《きょうかい》で時が擦《こす》れ合う音にすら思われる。
塹甲の羽織《はお》る黄色と黒の禍々《まがまが》しい上着が風に吹かれたと見た、白繚の認識《にんしき》も錯覚だった。塹甲は地面を蹴《け》り斬撃を放ったのだ。
動きに澱《よど》みが全くない塹甲の体術を素直な体術ではないと殻然は言った。その言葉の意味を白繚は理解した。
あれは人に出来る動きではない。鍛錬《たんれん》の果てに手に入れた超越《ちょうえつ》的な技術《ぎじゅつ》であるとも思えない。塹甲の体躯《たいく》でしか起こりえない動きなのだろう。巨体の重さとその体積、骨《ほね》の密度《みつど》に筋力《きんりょく》の強さが絡《から》まりあった動きだ。
自重により体のぶれを極限《きょくげん》までに抑《おさ》え込《こ》むなど、塹甲の体躯でしかなしえない技術といってもよい。
恐怖《きょうふ》や迷《まよ》い、驚《おどろ》き等の幾多《いくた》の感情を白繚は一つの言葉で引っくくりそれ以上考えないようにした。あれは『化け物』だと。
濃密《のうみつ》に引き伸《の》ばされた時間の中で、戦う者同士の思惑《おもわく》が絡みつづける。
真っ先に白繚は時間の感覚を喪失《そうしつ》したが、それは彼女の未熟《みじゅく》さの現《あらわ》れでしかなかった。戦いに集中するのがやっとで、心の中の何処《どこ》かに置くべき時間感覚にまで手が回らなかったのだ。
塹甲と戦い始めてどれだけの時間が流れたのか白繚にはハッキリとしなかった。肉体の疲労《ひろう》と息の上がり具合から、通常ならば経過《けいか》時間の想像《そうぞう》が出来るのだが今は無理であった。
疲労から言えば半刻《はんとき》も走り回ったような疲《つか》れがあるが、息そのものは上がっていない。殷雷《いんらい》たちの到着《とうちゃく》がまだだから、それほど長い時間は過ぎてないと判断するしかなかった。
迅鳴を相手にした時には常に強がっているが、白繚は自分の力を過信《かしん》する程《ほど》、愚《おろ》かではなかった。塹甲を相手に戦って渡《わた》り合える自信など皆無《かいむ》だったのだ。彼女の戦意を支《ささ》えているのは殻然の判断でしかなかった。
塹甲との戦いにおいて、充分《じゅうぶん》に戦力になるという殻然の判断で彼女は迷《まよ》いを吹っ切ったのだ。
殻然は迷っていた。
明らかに塹甲は状況判断を誤《あやま》っている。白繚がいかに未熟とはいえ、自分の足を引っ張る程の弱さではない。その証拠《しょうこ》に細かい指示《しじ》を出すまでもなく無謀《むぼう》な攻撃は避《さ》け、こちらの攻撃の援護《えんご》に繋《つな》がる立ち回りしかしていない。
塹甲は読み違えたのか?
その表情に間違っても焦《あせ》りの色などは浮《う》かんでいないが、攻撃そのものに僅《わず》かな揺《ゆ》れが起きはじめている。一刻を争う殺し合いで、立ち回りの巡《めぐ》りが悪ければという条件《じょうけん》つきで、致命傷《ちめいしょう》になりうる僅かな隙だった。
こちらが防戦《ぼうせん》主体で来ると読んでいるからだとしても、それは稚拙《ちせつ》で苦しい立ち回りだった。
斬撃に賭《か》けの要素が含《ふく》まれてきて、その要素は明らかに増大《ぞうだい》している。こちらがその賭けに乗ると判断したのならば、それこそ状況判断の間違いだ。時間さえ稼《かせ》げればこちらが勝つのだ。
切り札かと思われた宝貝らしき生き物は、塹甲の首に必死にまとわりつくので精一杯《せいいっぱい》の様子だった。
ざんがらがんと打ち合った後、半拍《はんぱく》の間が開いた。
塹甲を中心に殻然と白繚が挟《はさ》み込むように対峙《たいじ》している。塹甲の顔は殻然に向けられているが、背後《はいご》の白繚は死角になってはいない。
この期《ご》に及《およ》んで、初めて塹甲の瞳《ひとみ》に殺気が浮かんだ。
「とどめだよ、殻然」
みえみえの仕掛けに殻然は驚《おどろ》く。渾身《こんしん》の一撃を塹甲は殻然に向かい仕掛けた。変転のしようのない一本の太刀筋《たちすじ》だ。こんな強い太刀筋を、途中《とちゅう》で変化させられる技量があるのならば最初からこちらを圧倒《あっとう》出来ただろう。
言葉を返せばこんな太刀筋など最少の動作でかわせるはずであった。
しかも胴体《どうたい》ではなく首を狙《ねら》った突《つ》きである。
殻然は攻撃をかわした。
間合いを外す必要すらなく、僅かな横|移動《いどう》で切っ先は殻然の耳の横、肩《かた》の上を疾《はし》った。
渾身《こんしん》ではあるが浅い突きだった。
塹甲の体勢《たいせい》は崩《くず》れない。跳《は》ねも振り下ろしも出来ずに塹甲の刀は到達《とうたつ》した軌道《きどう》を逆《ぎゃく》に戻《もど》っていく。
当たりもしない渾身の突きを浅く放つ理由が殻然には全く理解できなかった。
刀を引き戻した勢いで塹甲は、体を半身に回し白繚に標的を定める。
これとても意味があるとは殻然には思えなかった。自分が狙われると悟《さと》った時、白繚はすぐさま大きく間合いを外していたからだ。
構える前に間合いを外されたなら、いかに塹甲とて攻撃のしようがない。
「!」
白繚は居着いていた。体が硬直《こうちょく》している。まるで咄嗟《とっさ》の出来事に驚き反応《はんのう》が出来ていない様子だった。
白繚が驚くような何が起きた?
殻然は自問したが答えは見つからない。いや何も起きていないという確信すらある。
塹甲の体幹《たいかん》がひねられていく。硬直から白繚は我《われ》に返ったが、既《すで》に塹甲の間合いに囚《とら》われていた。
斬撃が放たれる前に動くことは出来るだろう。だが、どこに動こうと斬撃からは逃《のが》れられない。
殻然の体を冷たい絶望《ぜつぼう》が包みかけた。殷雷が到達するにはまだ間がある。
殻然は地面を蹴《け》り塹甲に向かい斬撃を仕掛ける。
「殻然さん! 殻然さん!」
白繚に揺《ゆ》り動かされ、地面に横たわる殻然は口を開いたが言葉の代わりに血が出るだけであった。
心の底から塹甲は楽しそうだった。
「だから最初から言ったでしょ? 白繚は足手まといにしかならないって」
歯を食い縛《しば》る殻然の目からはまだ活気は消えてはいなかったが、塹甲の小手先の斬撃を食らってただで済《す》むはずもなかった。
ひゅんと音をたて、両手の刀から血を払《はら》い、塹甲は刀を鞘《さや》に収《おさ》めた。
「そりゃあ殻然。掛け合いの当事者である、私やあんたから見れば、活《い》きた斬撃、死んだ斬撃なんてのは明白だったわよ。白繚だって、ちょっと離《はな》れた場所から観戦してたのならば理解出来たでしょ。でもね、白繚の立ち位置からは私の体で死角になっていたの。
突き殺されたように見えても仕方がない」
それでも納得《なっとく》しかねる殻然の表情《ひょうじょう》に塹甲は呆《あき》れた。
「やれやれね。迅鳴|坊《ぼう》やだったらきっちりと状況判断《じょうきょうはんだん》をこなしていたでしょ。まず、そう簡単《かんたん》にあんたが攻撃をくらいはしないからきっちりと様子を見る、万が一攻撃をくらって殺されたのならば、全力を尽《つ》くして逃《に》げ出す覚悟《かくご》もあったはず。愕然《がくぜん》と棒立《ぼうだ》ちなんて無様な姿を晒《さら》したりはしないだろうね。だけど」
白繚に怪我《けが》はない。だが白繚の刀は捨《す》てられ、今は手ぬぐいで必死になって殻然の出血を押《お》さえている。
塹甲の言葉をきき、白繚の瞳《ひとみ》に殺気が宿る。塹甲はその殺気を物ともしない。それどころか心地好《ここちよ》さそうに白繚の殺気を受け止めた。
「だけど、淡《あわ》い恋心《こいごころ》を抱《いだ》く相手が死んだかもしれないなんて状況で、白繚お嬢《じょう》ちゃんは平然となんかしてられないの。物心ついた頃《ころ》から仕込まれた武門《ぶもん》の教育すら頭の中から飛んじゃったのね。可愛《かわい》いもんじゃない。とてつもなく無様だけど」
「……白繚」
怒《いか》りや羞恥《しゅうち》が混《ま》じり合い正体不明の情念が白繚を包み込む。
「塹甲。あんたを必ず仕留《しと》めてやる……」
「本当はこういう言い方は嫌《きら》いなの。まるで相手の強さが理解出来てない間抜《まぬ》けみたいだからね。だけどあえて言うよ。白繚、身の程《ほど》知らずにも限度《げんど》がある。
勘違《かんちが》いしないでよ。私だけが白繚お嬢ちゃんをみくびってるんじゃないからね。獅桜もあなたを足手まといに思って軽《かろ》んじて居る。その証拠《しょうこ》に私がこの村に戻ってきた本当の理由を教えてもらってないでしょ。そりゃ復讐《ふくしゅう》も兼《か》ねてるけど、それは大した意味じゃない。
私の本当の目的は隻歌《せきか》を取り戻す事。隻歌さえ取り戻せば、後はどうでもいい」
「……塹甲、あんたは逃がさない」
「よしましょうよ白繚お嬢ちゃん。殻然とお嬢ちゃんの命は見逃してあげる。その代わりに私の願いを叶《かな》えて欲《ほ》しい」
怒りのせいで頭に血が上り、白繚には自分の声が届いていないのではないかと塹甲は不安に思った。
「そうね。私の言葉が聞こえていても、はいそうします。とは言わないか。とりあえず今は見逃してあげるから、後でじっくりと考えればいい」
塹甲はくるりと背を向けて無防備《むぼうび》な背後《はいご》をさらした。だが、白繚にはその背中に隙は見て取れなかった。
咳《せ》き込《こ》みながら塹甲は歩き始めた。距離《きょり》感が狂《くる》ったように塹甲の位置が定まらなくなっていく。
歩きながら塹甲は言った。
「二つ付け加えておく。符《ふ》の効果《こうか》が切れて私の居場所が丸判りになるのを待っても無駄《むだ》よ。足を引っ張る手駒《てごま》なら、宝貝でもさっさと捨《す》てるから。あと一つは、二人の命は見逃すって言ったけど、急所をわざわざ外してるわけでもないから、怪我《けが》の処置《しょち》が後《おく》れたら殻然は死ぬよ」
小さな、波頭が崩れるような音が風に乗り塹甲の耳に届《とど》いてきた。それはぬかるみを疾走《しっそう》する殷雷の足音だった。
白繚が見つめる塹甲の背中は、徐々に距離感が薄《うす》れ、やがて輪郭《りんかく》と色までが虚空《こくう》に溶《と》け込み、そして、消えた。
無駄《むだ》な言葉は一つもなかった。
「どんな手がある?」
殷雷《いんらい》に担《かつ》ぎ込まれた殻然《かくぜん》の姿を横目で見るなり、獅桜《しおう》は戸棚《とだな》から各種の薬品を取り出し始めた。
殷雷は応《こた》えて言った。
「治療《ちりょう》に使える宝貝《ぱおぺい》はない。だが、武器の宝貝には使用者の肉体を安定させる能力が少しはある」
「武器の宝貝がか? それは筋肉を制御《せいぎょ》して出血や血圧《けつあつ》を間接的に操《あやつ》るって事だな」
「そうだ」
獅桜の顔には表情らしい表情すら浮《う》かんでいない。表情を含《ふく》めた全《すべ》ての無駄な動きを捨て去っている。
「殷雷。人間形態の時の縫合《ほうごう》能力は?」
「並《な》みの医者よりは、切るのも縫うのも正確だぜ」
「判った。そのまま医務室《いむしつ》の石台まで運んでおくれ。このまま手術に入る。執刀《しっとう》は私だ。殷雷は刀の形態で殻然の出血を抑《おさ》えろ。迅鳴《じんめい》、湯を沸《わ》かし続けて。追加の必要が出るかもしれないから、適当《てきとう》に薬草を煮出《にだ》しておくように」
殷雷は既《すで》に殻然を背負って医務室に消えていた。薬瓶《やくびん》を抱《かか》えながら獅桜も足早に医務室に向かいかけていた。
静嵐《せいらん》は言った。
「僕《ぼく》も手伝うよ。僕が刀に戻って殻然さんの容態《ようたい》を安定させて、殷雷が執刀するのが一番安全|確実《かくじつ》でしょ?」
振り向かず足早に動きながら獅桜は答えた。
「そこまで全力を尽《つ》くす義理《ぎり》はないね」
「獅桜!」
獅桜の冷酷《れいこく》な一言に、白繚《びゃくりょう》の体が獅桜目がけて跳《は》ねた。
「命にかかわってるんだよ! 静嵐の力を借りないってどういうことだ!」
白繚の手は獅桜には届《とど》かなかった。飛び掛《か》かろうとする白繚を迅鳴が羽交《はが》い締《じ》めにして取り押《お》さえたからだ。
「落ち着け白繚!」
獅桜は医務室の中に消えた。医務室の扉《とびら》がバタンと音を立てて閉《し》まった。のど元まで出かかる罵声《ばせい》が白繚の血をたぎらす。
歯噛《はが》みしながら白繚は医務室の扉を睨《にら》み続けた。
迅鳴は言い聞かせた。
「聞け。殷雷と静嵐の二人を手術に使ったら、塹甲《ざんかん》の襲撃《しゅうげき》にどう対処《たいしょ》する? 塹甲の攻撃《こうげき》に応対出来なければ手術どころじゃないだろ」
獅桜が殻然の命を助ける為《ため》に、全力でなくとも最善を尽くしているのは白繚にも理解は出来ていた。
戦略《せんりゃく》的には殻然の治療を全く行わずに、そのまま死なせる手段すら有り得ない選択《せんたく》ではなかった。戦略の要《かなめ》である刀の宝貝を治療に使って瀕死《ひんし》の兵士を助けた所で、その兵士はもはやこの戦いでは戦力足りえない。ならば最初から兵士の命を見捨てるのも手段の一つであろう。
だが、獅桜は刀の宝貝を治療に使った。しかも信頼《しんらい》性に勝《まさ》る殷雷を守りでなく治療に使ったのだ。それが指揮《しき》官である獅桜に出来るギリギリの選択である。
理解出来たところで怒《いか》りの鼓動《こどう》は収まりはしなかった。その怒りを向けるべき相手は塹甲であり獅桜ではないと言い聞かせても、激情《げきじょう》は引かない。
数度ばかり追加の薬品を取りに、獅桜は医務室から姿を現した。獅桜の表情からは殻然の容態を読み取ることは出来なかった。絶望も楽観も執刀する者には許《ゆる》されるものではなかったからだ。
「夜も更《ふ》けたから、餓鬼《がき》共はさっさと眠《ねむ》んなよ。お前らが起きてた所で役には立たないんだから」
蹴破《けやぶ》るような勢《いきお》いで医務室の扉が中から開かれた。手術が始まって、丸一日が経過《けいか》している。医務室の中から現れた獅桜の表情には流石《さすが》に疲労《ひろう》の色が浮《う》かんでいた。
「やっと終わったぞ」
卓《たく》に座《すわ》り手術が終わるのを待っていた一同に向かい獅桜は言った。
「悪いが眠らせてもらう」
白繚は言った。
「殻然さんは!」
「たぶん大丈夫《だいじょうぶ》だろ。詳《くわ》しい話は殷雷にしてもらいな。それと白繚。お前はもう村の見回りにでなくていい」
白繚は言葉がでない。それは殻然の足を引っ張った事に対する処分《しょぶん》なのだろう。
獅桜の言葉は続く。
「ついでに迅鳴、お前も見回りには出るな。これからは白繚と一緒《いっしょ》にこの家の守りについてもらう。和穂《かずほ》。村の警戒《けいかい》は和穂と殷雷に任せる」
「待ってくれ、なんで俺《おれ》まで屋敷《やしき》の警護《けいご》なんだよ!」
獅桜は説明しなかった。疲労|困憊《こんぱい》して説明する気力すら消え去っている様子に、迅鳴はそれ以上の追及《ついきゅう》はしなかった。
「私が起きるまで村の見回りはしなくていいからな」
よたよたと獅桜は一同の視線《しせん》を背《せ》に受けて屋敷の奥《おく》に消えていった。
大きな欠伸《あくび》をしながら殷雷も医務室から姿を現した。
白繚は言った。
「殷雷、殻然さんは大丈夫なの?」
どう答えたものかという殷雷の微《かす》かな迷《まよ》いが一同の不安をあおった。
「命に別状はないぜ。とはいえ重傷《じゅうしょう》には違いない」
惨状《さんじょう》をその目で見ている白繚は言葉を素直《すなお》に信じられない。
「本当? 殻然さんは大丈夫なの? 後遺症《こういしょう》が出たりはしない?」
水瓶《みずがめ》から湯のみに水を汲《く》み、殷雷も卓についた。
「回復《かいふく》には時間がかかるが、なんとかなるだろうよ」
「くだらない気休めなんかいらない、本当の話をして」
「じゃ、正直に言ってやろう。右の肋骨《ろっこつ》が五本折れて、腎臓《じんぞう》が一|個《こ》完全にぶっ潰《つぶ》れて肝臓《かんぞう》も一部がすり潰れてた」
それぐらいの傷は覚悟《かくご》していた白繚だったが言葉を失う。
和穂が心配そうに尋《たず》ねた。
「殷雷、そんな大怪我で安心していいの?」
「あんまり詳しく説明しても仕方がないが、潰れた腎臓は取っ払《ぱら》った。あれは二つの内一個あればどうにかなるからな。肝臓の方もちゃんと処置しといたから、そのうち再生《さいせい》してくるようにな。
一撃であれだけの傷を食らった割《わり》には背骨《せぼね》の神経《しんけい》に異状《いじょう》は出てないから、いずれ回復するぜ」
どうにか納得《なっとく》がいったのか、白繚の顔から不安そうな表情は消えた。代わりに不機嫌《ふきげん》さが浮かんできた。
迅鳴は言った。
「それにしても塹甲も腕《うで》を上げたもんだな。宝貝らしい宝貝を使わずに殻然さんを仕留《しと》めたんだろ? 元から化け物じみてはいたが無傷で殻然さんを仕留めるとはね」
「殻然さんが塹甲に負けたのは私のせいだ。私が足を引っ張ったからだ」
「白繚、あんまり自分を責《せ》めない方が」
言葉に出してから、自分の発言が少しばかり的外れな事に和穂は気がついた。
自分のせいで殻然が死に掛けたという事実を淡々《たんたん》と認《みと》めているだけで、自分の責任《せきにん》を思い詰《つ》めている様子は白繚にはない。
呑気《のんき》に静嵐は言った。
「でもどうして塹甲は殻然さんにとどめを刺《さ》さなかったんだろうね。殻然さんを倒《たお》して白繚も倒すぐらい出来ただろうに」
殷雷は端的《たんてき》に分析《ぶんせき》してみた。
「簡単《かんたん》さ。こっちを精神《せいしん》的に追い詰める為《ため》だろうよ。殺されたなら殺した塹甲が責めの全《すべ》てを負う。その怒《いか》りを胸《むね》に獅桜一同は結束をさらに固めて、半人前の餓鬼どもも一人前の動きをしだすかもしれない。
だがな、半殺しにして治療の余地を与《あた》えて放置して、もしも助けそこねてみろ。
施術《せじゅつ》がまずかったんじゃないか?
応急手当が中途《ちゅうと》半端《はんぱ》じゃなかったのか?
てな感じで殻然が死んだ責任をそれぞれが負うはめになる。精神的にはボロボロになるぞ」
それもあるだろう。だが、白繚は殻然の強さに信頼《しんらい》を置いていた。
「違うよ。塹甲は殻然さんにとどめを刺す危険《きけん》を避《さ》けたんだ」
死を覚悟した武人の最後の一撃。それを塹甲が嫌《きら》った可能性も当然あった。殷雷もそれには異議を唱えなかった。
迅鳴は不服そうに言った。
「白繚よ。お前が自業自得《じごうじとく》で村の見回りから外されるのは当然だが、どうして俺まで外されるんだよ。お前の子守り役はたくさんだぞ。さっさと一人前になってくれよ」
「あんたみたいなのに子守りされる身にもなって欲《ほ》しいわ!」
「怒鳴《どな》るなよ! 声が響《ひび》くんだから」
白繚の様子がいつもと違っていると和穂は感じていた。それが殻然に怪我を負わせたせいなのかどうかは和穂には判らない。
白繚は静かに怒っている。そして何かを考えている。
思い詰めている表情なのだろうか?
白繚は言った。
「隻歌《せきか》に会いに行こう。塹甲についての情報をきっちりと集めよう。この戦いの手がかりが掴《つか》めるかもしれない」
迅鳴は真顔になった。軽く思案しているのには間違いはない。
「勝手な行動は慎《つつし》むべきだと思うぞ」
「ちょっとした暇《ひま》つぶしだよ。屋敷から出るわけじゃなし、命令に背《そむ》くわけでもない」
和穂は言った。
「隻歌?」
椅子《いす》から立ち上がりながら白繚は言った。
「隻歌は塹甲の息子《むすこ》だ。今は地下牢《ちかろう》に繋《つな》がれている」
暗く細く冷たい地下通路を四人は歩いていた。静嵐だけは地上に待機し塹甲の襲撃《しゅうげき》に備《そな》えている。
「なんだか洞窟《どうくつ》みたいだね。こんな地下通路があったなんて気がつかなかった」
殷雷は言った。
「地下水脈が走り回ってるな。これじゃ俺や静嵐も見落とすわけだ」
偽装《ぎそう》宿屋の正体は簡易《かんい》的な城塞《じょうさい》である。当然地下に何らかの施設《しせつ》があると殷雷は考えていたが、せいぜい倉庫か逃亡《とうぼう》用の抜《ぬ》け道ぐらいとしか考えてなかった。
血管を流れる血の脈動を思わせる地下水の流れは、人間の気配に酷似《こくじ》している。
故《ゆえ》に牢に繋がれる人の気配を簡単に消し去っていた。
洞窟みたいだと言った和穂の言葉は当然のものであった。石で組まれてはいるが、その組み方はかなり雑《ざつ》である。そして光が散り風の流れもあった。
全ては計算の上で組まれたものである。
陽《ひ》の位置から考えて、有り得ない角度から射《さ》し込む光はどこかに仕込まれた鏡のせいであろう。風の流れに乱雑《らんざつ》さがないのは、水脈を利用して水車を回し、その力で換気《かんき》用の風車を動かしているからか。
しばし進むと通路は行き止まりになっていた。隠《かく》し扉《とびら》にする気があるのかないのか、行き止まりの壁《かべ》には握《にぎ》り拳程《こぶしほど》の大きさの円形の窪《くぼ》みがあった。そこに指をかけ引き戸の要領《ようりょう》で扉を開く為の物としか考えられなかった。
迅鳴は言った。
「やっぱりやめようぜ。会ったところで何になるってんだよ」
「ここまで来て、がたがた言わないでよ」
やれやれと兄は首を振り、右の壁に寄《よ》った。
同じように白繚は左の壁に寄る。
二人は互《たが》いに壁を探《さぐ》り、一つの石を壁から引き抜いた。
ぽっかりと開いた穴《あな》は大人の腕が肘《ひじ》まで入る程の奥行きがあった。
迅鳴は右手、白繚は左手を穴の中に差し込んだ。大人の肘ぐらいの奥行きとはいえ、幼《おさな》い二人は肩《かた》に嵌《は》まる程、腕を入れなければならない。
「五三の天で開ける」
渋々《しぶしぶ》と兄はうなずく。
「迅鳴、合図は私が出す」
「一|段《だん》、開始」
「一段、完了《かんりょう》」
「二段、戻《もど》し」
「三段、反転」
二人の間で暗号めいた会話が続く。壁の奥にはなんらかの仕掛《しか》けがあり、お互いに動作を合わせて扉を開ける為の手順を踏《ふ》んでいるのだった。
言葉に反応《はんのう》するかのように、カチリカチリと歯車が噛《か》み合う音が行き止まり付近の壁から響く。
二人のやりとりを見ていた殷雷の背中《せなか》がふいにゾクリとした。
「? どうしたの殷雷」
「いや、何でもない」
「顔色が悪いように見えるけど、明かりのせいかな?」
「そうか? 別に体の調子はいつもと変わらんぞ」
和穂は間違《まちが》っていた。殷雷の顔色はいつもと変わりはしない。だが、殷雷の顔から表情が消えていたのだ。いつもならば戦闘《せんとう》の最中に垣間見《かいまみ》せる無表情であった。戦闘の最中、周囲の気配に万全の注意を払《はら》っている時に、たまに現《あらわ》れる殷雷の様子だ。周囲に拡散《かくさん》されながらも鋭《するど》さを失わない集中力を発揮《はっき》している姿《すがた》に他《ほか》ならない。
だが、殷雷は戦闘状態に入っているのではなかった。広域《こういき》な集中力は、周囲ではなく殷雷の心そのものに向けられている。
それはまぎれもなく、無意識《むいしき》の内に自分の記憶《きおく》を探る姿であった。
「五段、天」
「三段、天」
ガタリと何かが外れる音がして、流れる風の勢《いきお》いが増《ま》した。
鋭い太刀で切断されたかのように、行き止まりの壁に縦《たて》一文字の隙間《すきま》が開く。
迅鳴は壁の窪みに両手をかけ、一気に左右に押《お》し開けた。
扉の向こうは倉庫を兼《か》ねているような大きな部屋だった。
空気の清々《すがすが》しさは、そんじょそこらの建て付けの悪い家でも太刀打《たちう》ちできない程のものがある。天井《てんじょう》付近に開いた無数の穴《あな》からは光が零《こぼ》れ部屋の中を照らしていた。
石造《いしづく》りの壁からは地下水が染《し》み出していたが、そのまま石畳《いしだたみ》の隙間に流れこんでいる。
牢獄《ろうごく》という話だったが、和穂にはとても牢獄には見えなかった。
物珍《ものめずら》しげに和穂が部屋の中を見回すと、部屋の奥に鉄格子《てつごうし》が見えた。
この大きな部屋の片隅《かたすみ》を区切るように鉄格子が巡《めぐ》らされている。
この部屋は牢獄ではなく、牢獄を監視《かんし》する為の役割《やくわり》を持っているのだと和穂は考えた。
別の壁の側には、すのこ状の板が置かれその上に穀物《こくもつ》が入っていそうな袋《ふくろ》が積み上げられている。
部屋の中央には大きな卓《たく》が置かれていた。地上の部屋にあるのと同じような卓だ。
違いは卓の周りの椅子《いす》にキッチリとした背もたれがついていて、司令室の様相もある。
白繚は怒鳴《どな》った。
「隻歌!」
白繚の声に合わせて、椅子の一つが動いた。
入り口に背を向けていた椅子に隻歌は座《すわ》っていたのだ。
子供ならばあの背もたれに完全に姿が隠れてしまう。
椅子から立ち上がったのは一人の少年だった。
迅鳴や白繚には、どうしても年|相応《そうおう》に見えない擦《す》れた部分がある。武人としての修行《しゅぎょう》のせいと言えなくもない。
だが、立ち上がった少年は迅鳴たちと同じような年ごろに見えてはいるが、二人と違ってあどけなさが残っていた。
髪《かみ》は迅鳴より少し長く、服装《ふくそう》は迅鳴とほとんど同じだった。似《に》たような格好をしているだけに、迅鳴との差が引き立つ。迅鳴に比《くら》べて少年の黒目がちな瞳《ひとみ》はあまりにも柔和《にゅうわ》だった。
自分の名前を怒鳴りつけられてさえも、身構《みがま》える気配は全くない。
「やあ、白繚に迅鳴じゃないか。そっちの二人は誰《だれ》だい?」
迅鳴が殷雷と和穂の紹介《しょうかい》をしようとしても、白繚の歩みは止まらない。
殷雷は息を飲んだ。その僅《わず》かな仕草に気がつく者はこの場にはいなかった。
殷雷の手が幻《まぼろし》を掴《つか》むようにゆっくり伸《の》びる。
と、その時。
白繚の平手打ちが隻歌の頬《ほお》に飛んだ。
迅鳴、和穂、隻歌は呆気《あっけ》に取られた。
「いきなり何をしやがる!」
叫《さけ》んだのは隻歌ではなく迅鳴であった。隻歌は、まだ自分が叩《たた》かれた事が理解《りかい》できていない様子である。
殷雷の伸びた手が虚空《こくう》を掴む。
白繚が何をしようとしているか寸前《すんぜん》に気がつき、殷雷は止めようとしたが間に合わなかったとしか見えない。
『はははっは。いつか巡り来るその時の為に軍師《ぐんし》様たるこの私が殷雷君に忠告《ちゅうこく》してやろうじゃないか。どうだい、ありがたいだろ。だったらお礼ぐらい言ったらどうなんだい? 全く非常識《ひじょうしき》な奴《やつ》だね、きみは』
『くだらん馬鹿話の相手をしなくて済《す》むんなら幾《いく》らでも礼をしてやるぞ、自称《じしょう》軍師様』
『逆説で来るとは流石《さすが》だな殷雷君。褒美《ほうび》として軍師様たるこの私が殷雷君に忠告してやろうじゃないか。こらこら逃《に》げるな、どうせこのツヅラの中じゃ暇《ひま》を持て余《あま》してるんだろ』
『たわごとに付き合って暇が潰《つぶ》れるとは思えんがな』
『きみは誇《ほこ》り高き武器の宝貝だ。あれは純粋《じゅんすい》な物理的|破損《はそん》であって現実から逃避《とうひ》したってわけじゃない。その証拠《しょうこ》にいつかは治るさ』
『何の話だ?』
『はははっは。どだい忠告なんぞがその使命を果たすなんて希有《けう》な話だという忠告さ』
白日夢《はくじつむ》は夢《ゆめ》である。殷雷の記憶の中の雑音が夢となり、現実とかさなった。軍師との会話と目の前の現実が同時に展開《てんかい》した。
隻歌を平手打ちにした白繚が、さっさと部屋を出ていった姿を殷雷はきっちりと見た。同時に殷雷は軍師が自分に警告を与《あた》える姿も見た。
夢は記憶の深層《しんそう》に融《と》けて消え去り、現実は目の前に残った。
「まったくしょうがねえ奴だな。悪気はないといっても信用できねえだろうが、あいつも、ちょっとむしゃくしゃしてたんだ。察してやってくれ」
なぜ自分が謝《あやま》らなければならないのか、迅鳴は納得《なっとく》がいかなかった。
いきなり殴《なぐ》られた隻歌だったが、怒《いか》りよりも驚《おどろ》きの方が強く、迅鳴の言葉を聞くまでポカンとしていた。
「……やっぱり塹甲|絡《がら》みの話だね?」
「ま、そういう事だ」
迅鳴と和穂は、隻歌の正面の椅子に座った。
殷雷は微動《びどう》だにせず、入り口に立ったままだった。
溜《た》め息よりも長く重い息を隻歌が吐《つ》いた。
「状況《じょうきょう》はどうなっているんだい?」
「相変わらず塹甲の居場所は判《わか》らない。で殻然さんが塹甲に半殺しにされた」
「すまない」
謝る理由もないのに白繚の代わりに謝った迅鳴は、隻歌の気持ちがなんとなく判った。
「別にお前を責《せ》めに来たわけじゃない。というか、お前に会いに来ようと大騒《おおさわ》ぎしてた馬鹿はお前を一発殴って帰っちまったんで、特に会いに来た理由もないんだよな。気まずいといえば気まずいが、どうせ暇だから世間話でもしていくか」
「迅鳴、そちらの方は?」
迅鳴は殷雷と和穂を隻歌に紹介した。和穂は挨拶《あいさつ》を返したが殷雷は黙《だま》ったままだった。
「刀の宝貝|殿《どの》も御機嫌斜《ごきげんなな》めかよ」
和穂は言った。
「隻歌君はどうして牢《ろう》に繋《つな》がれているの?」
なんらかの事情があるに決まっていたが、隻歌の柔《やわ》らかい物腰《ものごし》を見ているうちに、和穂は彼が罪《つみ》を犯《おか》したとは思えなくなっていた。
「僕は塹甲の息子《むすこ》だから」
ちょいとばかり異議のある顔で迅鳴は言った。
「攻《せ》めてきたのが塹甲だと判った時に、獅桜の命令でこいつは牢に繋がれたのさ。ま、正確にはご覧《らん》の通りに牢じゃないけど。監禁《かんきん》状態には違いない。
塹甲の身内だから、獅桜はいつか寝返《ねがえ》るとでも考えやがったんだ。だいたいあいつは、大雑把《おおざっぱ》な癖《くせ》にこんな神経質《しんけいしつ》な仕打ちをしやがるんだからな」
隻歌は首を横に振った。
「違うよ迅鳴。獅桜は僕の事を考えてくれたんだ。この戦いに僕を巻き込まない為《ため》に、閉《と》じ込めたんだ」
「どう考えりゃそんな風に解釈《かいしゃく》出来るんだよ。
だいたい、この部屋ってのは獅桜の上からの操作《そうさ》一つで天井《てんじょう》まで水浸《みずびた》しになって、中の奴を溺《おぼ》れ死にさせる事も出来るんだぜ」
武門の村の長《おさ》である獅桜しか、その為の操作方法は知らない。現在は入り口の扉が開いている為に水が溜《た》まる事もなかった。
「……塹甲が僕を力ずくで手に入れようとした時に、僕を殺すつもりなんだよ」
「お前を餌《えさ》にして塹甲と一緒《いっしょ》に始末するってのか」
「違う。塹甲が来る前に僕を始末する覚悟《かくご》だと思う」
「それのどこが『僕の為を考えてくれて』なんだよ」
隻歌は答えない。獅桜は隻歌を塹甲の手から守ろうとしている。隻歌を守る為に隻歌の命を人質にとっているのだ。
迅鳴はフンと息を吐いた。
「まあ、あの化け物と一緒に生きるぐらいなら、その前に殺してやるのも慈悲《じひ》かもしれんがな」
和穂には二人の会話が理解出来ない。
「どうなんだろ? 二人は親子なんだから一緒に暮《く》らしてもいいんじゃない」
「それは和穂姉ちゃんが、塹甲を知らないから言えるんだよ。一度でもあいつに出会えばそんなまともな考えなんか吹《ふ》き飛ぶぜ。
あいつは化け物だ。いっそ人間じゃありませんでしたって事になってくれたほうがさっぱりするぞ。始末の悪い事にこの隻歌はこの村じゃ珍しいほどのまともな性格をしてるときたもんだ。だけど塹甲は実の子供に諭《さと》されたからって改心するような奴じゃないぜ」
もしそれが本当ならば、二人が一緒になる事は少なくとも隻歌の為にはならないかもしれないと和穂は考えた。塹甲は悪行を止《や》めないだろうし、悪行を目《ま》の当たりにして普通《ふつう》の神経をしている隻歌が平穏《へいおん》に暮らせる道理もない。
だが、塹甲は本当にそこまで悪逆な人物なのだろうか。
和穂の顔色を見て迅鳴は念を押す。
「塹甲だけは別格なんだよ。そりゃここは武門の村さ。血の気の多い奴や下衆《げす》な野郎《やろう》は一人も居《い》ませんでしたとは言わない。悪人の類《たぐい》も居た。だけど、そこは武門の村さ。その手の連中はきっちりと始末した。村から逃げだした奴には追っ手を放ち捕《つか》まえる。
だけど、塹甲だけは捕まえられなかった」
迅鳴が何を言おうと隻歌は否定《ひてい》をしなかった。ただ辛《つら》そうに顔を歪《ゆが》めるだけだった。
和穂は明るく隻歌をはげました。
「そんなに落ち込《こ》まないで。きっと上手《うま》くいくから」
両手を広げて迅鳴は天を仰《あお》ぐ。
「いきなり塹甲が改心して、宝貝も和穂に返す。村には平和が戻《もど》り、それなりの贖罪《しょくざい》を果たした塹甲は息子と共に幸せに暮らしましたとさ、か。楽天|主義《しゅぎ》もそこまでいくと反論《はんろん》する気にもならねえや。
さてと、あんまり無駄話《むだばなし》ばかりしてる訳にもいかねえから、そろそろ戻るか。おっと、隻歌、土産《みやげ》を持ってきてやったぞ。どうせ、保存食《ほぞんしょく》しか食ってないんだろ」
迅鳴は懐《ふところ》から取り出した林檎《りんご》を隻歌に投げつけた。放《ほう》り投げるというよりは、石つぶてを投げるような鋭さがある。
だが、危《あぶ》なげなく隻歌は林檎を受けとった。おっとりとはしているが、その所作には武人としての教育を受けている俊敏《しゅんびん》さが見て取れた。
「迅鳴。ありがとう」
照れ臭《くさ》さを隠《かく》す為に迅鳴は和穂に言った。
「どうだい和穂姉ちゃん。この村の住人から『ありがとう』なんて奇特《きとく》な台詞《せりふ》を聞いたのは今が初めてだろ?」
扉《とびら》を閉《し》め、地下道を戻り和穂たちは食堂に戻った。地下で見たのと同じ形式の卓《たく》には、静嵐と白繚が座《すわ》っている。
「よう、白繚。隻歌をぶん殴《なぐ》って少しはすっきりしたって顔をしてやがるな」
白繚は珍しく無表情《むひょうじょう》だった。殷雷のような完全な無表情ではなく、微《かす》かな笑《え》みが見て取れる。
『てめえそれが狙《ねら》いだったのか! 何てことしやがるんだ深霜《しんそう》!』
『あんたにとやかく言われる筋合《すじあ》いはないね。殷雷、これで奴《やつ》の居場所《いばしょ》が判《わか》るかもしれない』
殷雷の脳裏《のうり》に再《ふたた》び記憶《きおく》の影《かげ》がよぎり、消滅《しょうめつ》した。
殷雷が一人部屋の隅《すみ》に立ち、和穂たちは既《すで》に卓に着いていた。
白繚は言った。
「殻然さんがあんな目に遣《あ》わされた時、塹甲は言っていた。この村に戻ってきた理由を言っていたよ」
和穂は言った。
「隻歌君を取り戻しに来たのね?」
怪訝《けげん》な顔をする迅鳴の表情を楽しみ、白繚は続ける。
「見事な推察《すいさつ》だね。なんて言わない。普通の神経ならばそう考えるのが自然だもんね。一度も塹甲に会ってないならなおさらだ。
和穂の言ったように、塹甲がこの村に戻ってきたのは隻歌を取り戻す為。隻歌を取り返したならば、この村から立ち去るって言っていた」
迅鳴は言った。
「だったらどうなんだ? 隻歌を差し出して村には平和が戻りました、めでたしめでたし。にでもしろっていうのか」
白繚は答えず、和穂に説明を始めた。
「この屋敷《やしき》には色々|仕掛《しか》けがしてある。さっき見た地下牢なんてその典型だ。もともとこの屋敷は城塞替《じょうさいが》わりに使えるようになってるんだけどね」
静嵐が手を上げた。
「あの、ちょっといいですか? 気になることが」
「よろしくない。で、色々な事態を想定して仕掛けがしてあるの。万が一、敵に攻《せ》めきられて捕虜《ほりょ》になった時、村人自身があの牢屋に閉じ込められる可能性《かのうせい》があるでしょ」
和穂は言った。
「あの牢屋には抜《ぬ》け道があるの?」
「そう簡単《かんたん》に抜け道があれば、あの牢屋に村人を繋《つな》ぐ事が出来ないじゃん」
「あ、そうか。じゃ、獅桜さんだけが知ってる抜け道があるのかな?」
「獅桜がそう都合よく、捕虜になる可能性なんかに期待しても始まらないでしょ。あくまで緊急時《きんきゅうじ》にだけ使える抜け道でなきゃ」
白繚が何を話したいのかが和穂には判らない。
「?」
「さあ、敵に攻め込まれて負けてしまった。生き残りは捕虜にされて地下牢に放りこまれたぞ。そんな時にだけ作動する抜け道にするにはどうしたらいい?」
迅鳴の顔から血の気が引いていく。白繚の言葉の意味を迅鳴は理解している。
白繚は言った。
「あの牢屋の前の扉って、適当《てきとう》に操作《そうさ》しただけでも開くのよ。でも正確な開け方をしないと、再《ふたた》び扉を閉めた後に、部屋の中に抜け道が開くんだ」
飛び跳《は》ねるように迅鳴が立ち上がった。
「てめえ! 開錠《かいじょう》の手順をわざと間違えやがったな。静嵐! 気配に動きはないか!」
「えぇとですね。さっき私が手を上げた時に少しばかり妙《みょう》な気配がありました。何やら人の気配らしき物が地下に突然《とつぜん》現れ、いや、雑音《ざつおん》に混《ま》じっていた音の中に意味のある音を見つけたような感じで、地下にある人の気配がはっきりしたんですよ。
その気配は地下の中を移動《いどう》して地上に出て、しばらくして消えました。はっきり言うと見うしなっちゃいました」
地下牢の抜け道から追いかけるか、それともこのまま門から出て追いかけるか迅鳴は迷《まよ》い、軽くジタバタした後、力なく椅子《いす》に座った。
そして卓を叩《たた》きつけ、妹を怒鳴《どな》る。
「白繚! 殻然さんをあんな目に遣わされて臆《おく》したか? これ以上、殻然さんの身を危険に晒《さら》すぐらいなら隻歌を引き渡《わた》して、この戦いを終わらせる事を選んだのか!
隻歌|云々《うんぬん》って、お前は最初からそれが狙いだったのか、何てことしやがるんだ白繚!」
今にも殴りかかろうとする迅鳴を和穂は必死に押《お》し止《とど》めた。
「落ち着いて迅鳴君!」
兄の気迫《きはく》を意に介《かい》さず、妹の表情は落ち着き払《はら》っていた。覚悟《かくご》の上で罪《つみ》を犯《おか》した者の冷たさを思わせる。
「こんな戦いはさっさと終わらせればいいのよ」
「それでむざむざ負けようってのか!」
「あんたにとやかく言われる筋合《すじあ》いはないね」
「ふざけんな!」
「迅鳴。これで塹甲の居場所が判るかもしれない」
「なんだと?」
白繚は少し椅子をずらし、卓の下を覗《のぞ》きこんだ。
「この戦いを終わらせてやるのよ。塹甲は殻然さんを傷《きず》つけた。黙《だま》って見逃《みのが》せるわけないじゃない。どんな手を使おうと、誰の手を借りようとも、きっちり始末してやる」
白繚が何をしているのか和穂は不思議に思い、卓の下を覗きこんだ。
卓の下にはどんよりとした、影《かげ》の塊《かたまり》が居た。
耳まで裂《さ》けた口からは赤く長い舌《した》が伸《の》び、呼吸《こきゅう》に合わせて動いているようであった。だが、呼吸音はしない。
良く出来た犬の置物と錯覚《さっかく》しそうだったが、それはこの犬が気配を消していたからであった。
卓の下から白繚は黒犬を引きずり出した。
「行くわよ黒曜《こくよう》。あんたたちが隻歌と話してる間に、小屋から連れてきておいた。黒曜の鼻で塹甲を追い詰《つ》める」
「でも、犬の鼻じゃ塹甲は追跡《ついせき》できないんじゃなかったっけ?」
「塹甲の追跡は無理よ。でも隻歌の匂《にお》いならば黒曜で追跡出来る」
迅鳴は舌打《したう》ちした。
「いい策略《さくりゃく》だなんて思ってんじゃねえだろうな白繚。お前のやったのは一番、下衆《げす》なやり方なんだぞ」
「親子をご対面させてあげたんじゃない。感謝《かんしゃ》して欲《ほ》しいぐらいだね」
迅鳴は白繚の頬《ほお》を平手で張《は》った。
激情に任《まか》せてなら拳《こぶし》で殴《なぐ》っていただろう。だが、迅鳴は平手を使った。
「お前は自分のやったことが判っちゃいねえんだよ。
仕方ない。もはや状況は動きだした。塹甲を追い詰めて仕留めよう」
十一
たんたんたんたんたん。
黒曜の足が規則《きそく》正しく地面を踏《ふ》む。猟犬独自《りょうけんどくじ》の獲物《えもの》を追い詰める時の高揚《こうよう》感は微塵《みじん》もない。
狩猟本能《しゅりょうほんのう》とは懸《か》け離《はな》れた、冷静さの宿る瞳《ひとみ》で黒曜は匂いを追跡していく。
黒曜に導《みちび》かれ、和穂《かずほ》たちは確実《かくじつ》に塹甲《ざんかん》に迫《せま》っていった。
和穂、殷雷《いんらい》、静嵐《せいらん》、迅鳴《じんめい》に白繚《びゃくりょう》。
迅鳴の顔には焦《あせ》りと苛立《いらだ》ちが浮《う》かび、白繚の顔には笑顔《えがお》が浮かんでいた。
殷雷の表情はやはり無表情だった。普通《ふつう》ならば、それは真剣《しんけん》さの現《あらわ》れとしか見えなかったが和穂は僅《わず》かな違和《いわ》感を感じた。
和穂は小声で静嵐に言った。
「殷雷の様子が変じゃない?」
「そうかい? いつもの不機嫌《ふきげん》そうな顔よりましだと思うよ。塹甲|対策《たいさく》の戦略でも考えてるんじゃない」
二人の会話は殷雷には届《とど》いていないようだった。
殷雷はうわ言めいた小声で静嵐に言った。
「静嵐、何かがおかしくないか?」
「何かって何が? 塹甲が何か既《すで》に仕掛けているとでも」
「……これは、一体なんなんだ」
「これってどれさ?」
「…………」
静嵐に問い掛けていながらも、静嵐の返事に焦点《しょうてん》が合わせられない様子だった。
「むむむ。確かにちょっと様子がおかしいね。でも大丈夫《だいじょうぶ》だよ。動きはしっかりしてるし、いざとなったら僕《ぼく》が動くから」
「あ!」
「どうしたの和穂?」
「私は静嵐がまともに戦っている姿《すがた》を見たことがないよ!」
「大丈夫さ、心配しなくてもあっと驚《おどろ》くような隠《かく》された性能なんてないから」
一同はかなりの距離《きょり》を走った。もはや村の外れだ。荒《あ》れた大地とはいえそれほど起伏《きふく》はなかったが、移動距離が長い為《ため》に村の姿は見えない。
ゆっくりと黒曜の走りが遅《おそ》くなってきた。獲物が近い為に警戒《けいかい》を始めているのだ。
薄《うす》くつもった雪の上に足跡《あしあと》はない。だが、匂いが示《しめ》すのは塹甲たちが、この雪の上を移動していた事だった。
「止まって!」
静嵐が声を上げた。静嵐の言葉が判るかのように黒曜までもが足を止めた。
黒曜は静嵐の言葉に従《したが》ったつもりはなかった。ただ、静嵐が感じたのと同じものに気がついたのだ。
何かが居《い》る。
ピンと空気が張り詰めた。
少しばかり離れてはいるが、雪の上に一つの足跡らしき物が見えた。
周囲に木はない。
ありふれていながらも異様な光景だった。雪原に一つの足跡だけがあった。
本能に近い動きで白繚と迅鳴は間合いを外した。
機械的に殷雷も棍《こん》を構《かま》える。
足跡が音もなくこちらに向かい動いた。
戦いの間合いにはまだかなりの距離があるが、どんよりとした気迫が伝わってくる。
水面を行く船のように、足跡は雪の上を滑《すべ》り出した。船が作る細波《さざなみ》のように、足跡を作
っていた黒色が周囲に散り消える。
消えた後には最前と変わらぬ雪の姿があった。
風が吹《ふ》いた。
雪が混《ま》じる風が足跡の上で奇妙な流れを造《つく》りあげた。
ぐるぐると、ぐるぐると。
流れはうねり、うねりに黒と黄色の色が付き塹甲は姿を現した。
「読み損《そこ》ねた。犬がもう一匹居たんだった」
雪の大地に立つ、黄色と黒の衣《ころも》をまとった、一匹の化け物の姿でしかなかった。長い黒髪《くろかみ》が水死体に絡《から》まる藻《も》のように風にまとわりつく。
純白の大地に立つ異形《いぎょう》は、気高さが混ざり合った殺気を放っていた。
白繚はニヤリと笑う。
「復讐《ふくしゅう》は覚悟《かくご》してたんでしょ?」
「復讐にしては軽|過《す》ぎる」
「えらい自信じゃない。この窮地《きゅうち》から逃《に》げられるとでも?」
塹甲の視線《しせん》が和穂に向けられた。
「和穂。取り引きしない? 宝貝を返すから私の戦いから手を引きなさい」
和穂の前にゆらりと殷雷が立ちふさがった。
戦闘《せんとう》前の緊迫《きんぱく》感からか、殷雷の思考の焦点が結ばれていく。
先刻《せんこく》までの無表情は消えてなくなり、いつもの表情に戻っていた。
「悪くない取り引きだな」
腰《こし》に差した二本の刀を塹甲は引き抜いた。
「だったら下がってて」
「残念だが、先に獅桜《しおう》と取り引きしちまってるもんでな」
周囲の空気が濃密《のうみつ》になっていく。
白繚は刀を抜き、言った。
「黒曜。屋敷《やしき》に戻れ」
黒曜をこの場から外し、安全を確保《かくほ》する事で白繚は最悪の事態《じたい》を避《さ》けた。
なんらかの手を使い、この場から塹甲に逃げられたとしても、黒曜が無事な限りそれは一時しのぎにしかならない。命令を受け、犬は尻尾《しっぽ》も振《ふ》らず今来た道を戻っていった。
殷雷は言った。
「ま、この状況で逃がすようなへマはしないがな。どうだ、塹甲。正々堂々と一対一で戦うか? それともこの餓鬼《がき》どもと一緒《いっしょ》に戦った方がいいか?」
「一緒の方が嬉《うれ》しいわね。いざって時に足を引っ張《ぱ》ってくれるかもしれないでしょ」
瞬時《しゅんじ》に白繚の殺気が燃《も》え上がる。純然《じゅんぜん》たる殺気だった。真の殺気は精神《せいしん》をどこまでも冷静にしていく。
殷雷は片手《かたて》を上げ、静嵐と和穂を下がらせた。
「いいな。これは楽な戦いだ。だが、相手は宝貝《ぱおぺい》の使い手だ。不測《ふそく》の事態は起こりうる。後ろで様子を見て、いざって時は静嵐を使って戦え」
「うん」
迅鳴だけが乗り気ではなかった。
「塹甲よ。いいから降参《こうさん》しちまえ。やるだけ無駄《むだ》だろ」
「いい子だね、迅鳴。勝たない限り、私は全《すべ》てを失う。だから戦うんだよ」
抜く手も見せずに迅鳴は刀を構えた。
「判ったよ」
激《はげ》しい斬撃《ざんげき》が続いた。
刀と棍《こん》のぶつかりあう音が五月雨《さみだれ》の雨音《あまおと》のように広がる。
だが、和穂はこの戦いにゆったりとしたものを感じた。
戦いそのものは激しくとも、ゆっくりと一つの結末に向けて収束《しゅうそく》していく姿が、和穂にそう感じさせたのだ。
塹甲は最善手を尽《つ》くしながら追い詰《つ》められていった。
殷雷を主として、迅鳴と白繚の動きは完全に従《じゅう》の範囲《はんい》に収《おさ》まっていた。白繚は殺気を友としていた。故《ゆえ》に、頭に血を上らせて殷雷の邪魔《じゃま》をしてまで塹甲に攻撃《こうげき》を仕掛けるような素振《そぶ》りは一切《いっさい》なかった。
致命傷《ちめいしょう》とは程遠《ほどとお》い、棍の攻撃が確実《かくじつ》に塹甲の体に刻《きざ》まれていく。
滑《なめ》らかなヤスリで削《けず》り取られる木のように、塹甲の勢《いきお》いは消耗《しょうもう》していった。
化け物じみた女は、追い詰められるほどに人間じみてきた。
呼吸《こきゅう》は荒《あ》れ、体の所々には打撲《だぼく》の痣《あざ》が出来、異様《いよう》な衣《ころも》は破《やぶ》れていく。疲労《ひろう》がついに塹甲を跪《ひざまず》かせた。
跪きながらも戦いの気迫は失《う》せてはいない。顔を上げ闘志《とうし》を漲《みなぎ》らせているが、体力は限界を超《こ》えていた。膝《ひざ》を付きながらも一撃を放てる構えをしているが、一撃を放つ体力は既《すで》にない。符《ふ》を発動させる僅《わず》かな動作すら無理であった。
殷雷は棍をクルリと回して、案山子《かかし》を思わせるように肩《かた》に担《かつ》いだ。
「終わりだ。お前は負けた。抵抗《ていこう》はやめて捕《つか》まれ。もう動く事すら不可能《ふかのう》だろ」
「殺せ。殺して全てを終わらせてくれ」
攻撃を全く食らっていない迅鳴と白繚ですら息はだいぶあがっていた。だが、殷雷の呼吸は乱《みだ》れていない。
覚悟を決めた塹甲の前に白繚が立ちふさがった。少しばかり離れた位置から刀の切っ先を塹甲に向けた。
「命乞《いのちご》いなんてするわけないよね」
自分の役目は終わったとばかりに殷雷は和穂と静嵐の側に向かい歩きはじめた。
と、その時。
「待って、白繚! 塹甲を許《ゆる》して上げてくれ」
隻歌《せきか》だった。
殷雷が振り向くと、塹甲と白繚の間に隻歌が立っていた。
さら。
何かが解《と》けていく。隻歌の戦闘能力の有無《うむ》、隻歌が塹甲の宝貝を使ってこの状況《じょうきょう》にいかなる影響《えいきょう》を与《あた》えられるか、その影響を与えるという行動に出る可能性の有無。殷雷の一部は武器の宝貝として当然の状況|判断《はんだん》に走るが、その思考の糸はほつれ消えていく。
隻歌は反抗《はんこう》を企《くわだ》てない。隻歌は塹甲の宝貝を使わない。隻歌は逃《に》げ出さない。
可能性の推察《すいさつ》は消えてなくなり全ては確定|事項《じこう》として殷雷は把握《はあく》する。
一本の強靭《きょうじん》な綱《つな》である殷雷の意思が、幾《いく》つかの糸となり、糸はさらに細い糸へと解けていく。
隻歌の顔に浮《う》かぶ、涙《なみだ》を流さんばかりの悲しみの表情、彼の口から紡《つむ》がれる塹甲の為の命乞いの言葉。
融《と》けていく。
意思の綱はまだ綱として残っている。だが、綱の末端《まったん》は糸となっている。
解けた意思の糸の最少単位が融け、徐々《じょじょ》に千切《ちぎ》れていく。千切れた糸は殷雷の心の中を舞《ま》う。
『あ』
散り散りになる意識《いしき》の最小単位は、元に戻《もど》ろうと足掻《あが》きはじめた。
攻《ほこり》と見紛《みまが》うばかりの細く千切れた糸が殷雷の心の中を舞っている。
それは今、融けた意識のみではなかった。
以前から、そこにある糸の欠片《かけら》だ。その糸は記憶《きおく》の欠片だった。
塹甲の瞳《ひとみ》に力が戻り始めていた。
隻歌は反抗を企てない、隻歌は塹甲の宝貝を使わない。企てなかったから、使わなかったから、使う宝貝など、あの時にはなかったから。
塹甲の力が回復《かいふく》を始めていた。白繚を倒《たお》す役にすら立たない力だ。
融けた意識の糸は元に戻ろうとした。正確に、元の姿に、以前からそこにあった糸の欠片を取り込み、本来の姿へと。
塹甲の気迫が爆発《ばくはつ》した。
隻歌を突《つ》き刺《さ》し楯《たて》にしながら戦うという、最後の選択肢《せんたくし》を塹甲は選ぶ。
千切れた糸はそこに漂《ただよ》う、別の糸と縒《よ》り戻され繋《つな》がっていく。
塹甲の左の刀が隻歌を貫《つらぬ》き刺さった。
「轟武《ごうぶ》!」
糸は綱となった。
殷雷の心の中に、もはや糸の欠片は一つもなくなっていた。
殷雷の記憶は元に戻った。
十二
迅鳴《じんめい》は己《おのれ》の甘《あま》さを悔《く》いた。
塹甲《ざんかん》が自分の子供《こども》である隻歌《せきか》を楯にする可能性に全く意識が向かなかったからだ。
飛び出しそうになる己の体をどう動かしていいのか迅鳴には判《わか》らない。塹甲を仕留《しと》めるしか手はあるまい。
塹甲の動きと同時に殷雷《いんらい》の叫《さけ》びが迅鳴の耳に入った。
「轟武!」
初めて聞く名前だった。この非常時《ひじょうじ》に何の意味があるというのか。
白繚《びゃくりょう》の立ち位置が悪い。あのままでは塹甲の一撃を食らってしまう。自分の取るべき行動を決めかねていたその時、迅鳴の目の前が弾《はじ》けた。
塹甲、白繚、隻歌の居《い》た位置に土煙《つちけむり》が上がっていた。そこには人の形をした砂《すな》の像《ぞう》があり土煙を上げて、氷のように蒸発《じょうはつ》している最中であった。
三人の砂の像。
何かは判らない。だが絶望《ぜつぼう》的な事実が起きていると迅鳴の本能は騒《さわ》ぐ。
塹甲の像には一振《ひとふ》りの剣《けん》が刺さっていた。
いや、像の中には最初から一振りの剣が入っていたのだ。
精神《せいしん》は煮《に》えたぎり、肉体は凍《こお》りつく感触《かんしょく》を迅鳴は味わう。
像の蒸発は続き、そこには一振りの剣だけが残った。
「轟武!」
殷雷の怒声《どせい》が響《ひび》く。今にも食らいつきそうな荒々《あらあら》しい声であった。
やがて剣は爆煙《ばくえん》に包まれる。
その爆煙と同じ物を迅鳴は見たことがある。殷雷が刀の姿に戻《もど》る時と同じような爆煙だった。
爆煙が消え去った後には、一人の男が立っていた。大柄《おおがら》で鎧《よろい》を纏《まと》った男だった。
男は静かな表情をしている。
「久《ひさ》しぶりだな殷雷。やっと思い出したか」
迅鳴の息が荒くなる。答えは一つだ。だが、その答えは納得《なっとく》出来るものではない。
迅鳴は殷雷が轟武と呼んだ男に吠《ほ》えかかった。
「てめえ、白繚はどうした!」
「ここまでやって思い出さなかったらどうしようかと、内心はハラハラしてたんだぞ。まあ理渦《りか》の診立《みた》てで、ある程度《ていど》の精神的|刺激《しげき》で、失われた記憶は戻るって話だったから、記憶の追体験をしてもらった」
どくどくと迅鳴の頭に血が上っていく。答えは一つ、白繚は死んだ。塹甲も隻歌も死んだ。殺したのは轟武だ。
弾けるように飛び掛《か》かろうとする迅鳴の足を殷雷は、棍《こん》で打った。
「いいから黙《だま》ってろ!」
轟武は静かに言った。
「再現劇《さいげんげき》だったんだよ、和穂《かずほ》。獅桜《しおう》は龍華《りゅうか》、殻然《かくぜん》は護玄《ごげん》、白繚は深霜《しんそう》、隻歌は結舞《ゆうぶ》で、塹甲は俺。迅鳴は殷雷さ」
言っている意味が迅鳴には判らない。
「なにを言ってやがる!」
轟武は言った。
「和穂。昔、仙界《せんかい》で色々あってな。俺は殷雷に復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》ってたんだ。で、いざ復讐を決行しようと思ったら、当の仇《かたき》の殷雷は、その事件《じけん》の記憶を無くしているときたもんだ」
和穂は答えた。
「殷雷を持った師匠《ししょう》と拳《こぶし》で戦ったあの事件?」
「話が早いな。殷雷すら忘《わす》れていた記憶を使用者は見ていたって事か。そう。その事件だ結舞の件も知っているな」
和穂はうなずく。
轟武は続けた。
「鏡閃《きょうせん》が色々と準備《じゅんび》立てをしてくれていた。俺は渡海旗《とかいき》を使って、無擦珠《むさつしゅ》と共にここに来て待ち伏《ぶ》せしたって訳《わけ》さ」
「でたらめ言うな!」
迅鳴を見る轟武の目は冷たい。
「仙界じゃ将軍《しょうぐん》なんておだてあげられていたが、俺の能力ってのは、単純《たんじゅん》かつありふれた能力でね。土から色々な物を造《つく》り上げるって代物《しろもの》さ。何も無い荒野《こうや》に村を造りあげたってわけだ」
「嘘《うそ》を吐《つ》け!」
「嘘なんて言うもんか。人間だって造れるんだよ」
迅鳴は息を呑《の》む。迅鳴の仕草に轟武は興味《きょうみ》を示《しめ》さない。
「俺はこう見えても勉強家でね。己の能力の研鑽《けんさん》にゃ努力を惜《お》しまなかった。そしてついに、己の能力の限界《げんかい》を突破《とっぱ》したんだ。
もったいぶっても仕方ないな。魂《たましい》の創造《そうぞう》、魂の設計《せっけい》能力を得た。創造の方はまだいいとして、設計の方はかなりの禁忌《きんき》だったようだがな。
龍華は勿論《もちろん》、他の宝貝《ぱおぺい》連中もこの能力は気に食わなかったようだな。
あぁ、俺の心は自由|意志《いし》なのか誰かに設計された物なんだろうか?
かくて龍華に反乱《はんらん》を企《くわだ》てた俺に対して、龍華の方が俺よりはまだましだという、麗《うるわ》しき忠誠心《ちゅうせいしん》で宝貝たちは俺を倒《たお》そうと必死になった。立ち向かうは俺に全幅《ぜんぷく》の忠誠心をおく俺が造った兵隊たちさ。
これがいわゆる『将軍の事件』で、俺が轟武将軍その人なわけだ」
「俺がお前に造られただと?」
「憎《に》っくき殷雷は記憶喪失《きおくそうしつ》、どうせ復讐するならば全《すべ》てを思い出した相手に復讐をしたい。俺の能力を考えて、かくなる上は『将軍の事件』の再現劇しかあるまい。細部が微妙《びみょう》に違うのはご愛敬《あいきょう》だな。最後の戦いの時に深霜は居なかったし、それを言うならば俺は女じゃないし結舞は俺の子供じゃない。あんまり馬鹿正直に造って、さっさと静嵐君に気付かれちゃ仕方なかったんでね。
第一、俺は剣の宝貝で筋書《すじが》き作りは本職《ほんしょく》じゃないんだ。導果《どうか》先生みたいにゃいかなかったよ」
「俺は俺の意志で動いた。お前の指図なんか受けてはいない!」
「ああ、そうだよ。お前はお前の自由意志で動いていた。
俺が造れる生物ってのは幾《いく》つかの種類があるんだ。俺の思惑《おもわく》通りに動く操《あやつ》り人形と、完全|自律《じりつ》の魂|制御《せいぎょ》の人形さ。お前は魂制御、つまり自由意志で動いている。
とはいえ、魂の設計は俺がしている。その魂に記憶を与《あた》え、状況を操ればお前は俺の思うままに動く。ま、それだからこそ殷雷役がつとまったんだが。本物はもうちょっと優《やさ》しいかな」
殷雷の様子が少しおかしかった。瞳《ひとみ》に焦《あせ》りの色が浮《う》かんでいる。
「轟武よ。これはお前と俺の戦いだ。迅鳴は関係ない。迅鳴は助けてやってくれ」
「ここでちょいと自慢話《じまんばなし》でもするか。ききたいか和穂?
俺が造った物は本物なんだ。そりゃ魂に植えつけた記憶は真っ赤な偽物《にせもの》の嘘っぱちさ。世の中には偽の記憶で人生振り回されて大|消滅《しょうめつ》に手を貸《か》す馬鹿も居《い》たそうだがな。
今までの人生は嘘でした、過去《かこ》の記憶も全て嘘です。自分の存在《そんざい》理由は、きっちりあってその目的の為に造られました。
迅鳴よ。だからどうだと言うんだ? お前は殷雷たちがあの沼《ぬま》を越《こ》えてこの村に入る直前に造られた。
静嵐君が余計な話をしそうになったから大慌てで造った。
だが、それは大した意味はないんだよ。お前は人間として俺が造った。普通《ふつう》の人間は人間から生まれるが、そこの部分が違うだけだ。お前は俺が死んでも何の影響《えいきょう》も受けない。そのまま成長するし、大人になれば子供《こども》を作る事も出来る。俺から十里|程度《ていど》離《はな》れれば、俺の意志で消し去る事すら不可能だ」
殷雷はゆっくりと棍《こん》を構《かま》えた。
「轟武よ……」
「さながら都合のいい人質《ひとじち》ってわけだ。お前や村の連中もな。お前らの命を保証《ほしょう》してやる替《か》わりに、殷雷の命を差し出せという取り引きも可能だ。優しい殷雷君はその取り引きに乗ってくれるだろうね」
殷雷は歯噛《はが》みした。次の展開《てんかい》が読めたのだ。そして、次の展開に打つ手が無いことまでも読めた。轟武は人質等に頼《たよ》らない。
「この轟武、腐《くさ》っても剣の宝貝、人質などとらぬ!」
ゆっくりと左手を上げ、轟武は指を鳴らした。
人が消え、村が消える音が響く。
迅鳴は動かなくなった。突如《とつじょ》暗闇《くらやみ》に投げ込まれたかのように彼を彩《いろど》る色は消え去り、己《おのれ》の重さで迅鳴であった土人形は崩壊《ほうかい》した。
理解《りかい》できない恐怖《きょうふ》に和穂の膝《ひざ》が崩《くず》れる。
全ては消えてなくなったのだ。
轟武は言った。
「気にするな和穂。元から何もなかったんだよ」
ヒュンと音を立てて棍が旋回《せんかい》する。
「あの時、お前を破壊しなかったツケだ。全ては俺の罪《つみ》だ」
「全てだと? お前の罪は俺に結舞を殺させた事だけだよ」
ヒュンヒュンと棍が回る。
「えらく口が軽くなったな。さっきからグダグダとよく喋《しゃべ》りやがって」
「心外だな。俺は優しいんだよ。訳も判らずに殺されるのは和穂が可哀想《かわいそう》じゃないか」
「和穂も関係あるまい。お前の標的は俺だけのはずだ」
「そうだな。和穂には何の恨《うら》みもない。だが、鏡閃と取り引きをしたんだ。お膳立《ぜんだ》てをしてやる替わりに和穂を殺せとな。
己の罪を恥《は》じて、無抵抗《むていこう》で俺に殺されるという線は消えたってわけだ」
「元よりお前を許《ゆる》す気はない。お前を破壊して俺の償《つぐな》いとさせてもらう」
「出来るかな?」
「勝ち目は読めてるんだろ」
「七対三で俺の勝ちだ」
「いいとこ突《つ》きやがるな。だがこの棍があるから六対四だな」
「刀には戻らないのか?」
「それで相打ちにでもされた日にゃ、俺だけが生き残っちまうだろ」
和穂が殷雷の記憶《きおく》で見たように、轟武は拳《こぶし》で殷雷に立ち向かった。武器《ぶき》を持つ者に対して、無手である軽快《けいかい》さを生かす立ち回りなどではない。
拳を操《あやつ》りながらも、その拳は大剣《たいけん》を振り回すような迫力《はくりょく》がある。轟武の両拳《りょうけん》はそれぞれが大型武器の貫禄《かんろく》を持っていた。
まともに食らえば粉砕《ふんさい》される。棍で受けても同じ事であった。下手に食らえば棍ごと粉砕されるであろう。
一進一退の攻防《こうぼう》が続く。
舞《ま》いのような美しい戦いではない。互《たが》いに致命傷《ちめいしょう》にならない攻撃《こうげき》を受けている。
互角《ごかく》の闘《たたか》いに見えたが、徐々《じょじょ》に殷雷は押《お》されていく。
ついに轟武の拳が殷雷を捉《とら》え、撃《う》ち抜《ぬ》かれた。
殷雷はふっ飛ぶ。粉砕を免《まぬが》れたのは殷雷の体捌《たいさば》きの巧《たく》みさであったが、体捌きだけでは凌《しの》ぎ切れない程《ほど》、轟武の拳は重い。
殷雷の口元から血が吐《は》き出され、血は空中で殷雷を構成《こうせい》する物質の破片《はへん》に変わる。
殷雷の息が上がる。じりじりと差を開けられ、挽回《ばんかい》不能の状態にゆっくりと近づいていく。
和穂が叫《さけ》ぶ。
「静嵐《せいらん》! 殷雷に力を貸してあげて!」
静嵐は答えない。
轟武も無傷《むきず》ではない。鎧《よろい》の所々が破壊されこめかみからは流血もしている。だが、そんな轟武に比《くら》べてさえ、殷雷の衰弱《すいじゃく》は大きかった。
「殷雷!」
和穂は腰《こし》の断縁獄《だんえんごく》を外し、宝貝を取り出そうとした。誰でもいい、この状況から殷雷を助けてくれる宝貝を呼び出そうと、断縁獄を構える。
「駄目《だめ》だ、和穂」
静嵐が和穂の腕《うで》を掴《つか》み、断縁獄を取り上げた。
「静嵐、このままじゃ殷雷が破壊されちゃう!」
静嵐は和穂の瞳《ひとみ》を見、そして首を横に振った。
「これは殷雷と轟武の戦いなんだ。誰も邪魔《じゃま》をしてはいけないんだ」
地面に這《は》いつくばるように体勢を構え、轟武の動きに注視《ちゅうし》しながら殷雷は言った。
「静嵐よ。たまには、いいこと言うじゃねえか。手出しは無用だ」
ついでながら、万が一自分が倒《たお》された時には和穂を連れて逃《に》げてもらいたかった。それを可能にする為《ため》には轟武にもっと傷を負わせなければならない。
殷雷はその考えを振り切る。
追跡《ついせき》が困難《こんなん》になるほどの傷を負わせられるのならば、そのまま倒しきってやる。
轟武の動きは基本《きほん》的に遅《おそ》い。手数で押し切る種類の攻撃をしないからだ。
速く動けないから遅いなどという次元の話ではない。素早《すばや》く放たれる殷雷の突《つ》きを、轟武はきっちりと避《よ》けている。避けきれない攻撃も幾《いく》つかあったが、それはさらなる攻撃を食らわない為の、必然的な被弾《ひだん》に過ぎない。
ぜいぜいと息を吐き、殷雷は考える。
轟武はゆっくりとこちらに向かってくる。
小型武器の宝貝ならば、一気に踏《ふ》み込《こ》む所であるが、轟武はそうはしない。かといって、殷雷が間合いを外そうとすれば、巨体《きょたい》を躍《おど》らせ踏み込んでくるだろう。
状況はよく出来た歯車のように噛《か》み合っていた。轟武が巨体を躍らせ踏み込めば、隙《すき》が出来る。その際を突くのはそれほど難《むずか》しくない。しかし、自分も神速の踏み込みで移動《いどう》しているならば話は別だ。自分が動けば相手も動く。相手に隙は出来るが、動いている自分には敵の隙をつく事は出来ない。
無数の突きを放てばその内の幾つかを轟武は被弾する。被弾と引き換《か》えに轟武の攻撃が自分に命中する。
歯車は噛み合っている。だが歯車の大きさが致命的に違っている。
このままでは負ける。和穂が直感的に感じたのは間違いではない。
しかし、負ける訳にはいかない。
かくなる上は一か八かの勝負しかない。
追い込まれて勝負を仕掛《しか》けた方が、勝負に勝ち抜くなど希有《けう》の話だった。戦いはそこまで甘《あま》くない。
それは殷雷が一番よく知っている道理であった。
静かに歩み来る轟武を観察するしかない。轟武の鎧は所々破壊されている。それは今の戦いで殷雷が挙げた得点表ともいえるものだった。棍の打撃を食らい鎧は砕《くだ》け、轟武の肉体が露呈《ろてい》している部分は多い。
だが、その部分で致命傷に繋《つな》がる部分はあまりにも少なかった。
轟武の鎧の構造上、首と鎧の襟《えり》にあたる部分の隙が一番の弱点になっていた。当然、その場所は轟武が一番|防御《ぼうぎょ》に注意を払《はら》っている場所だ。
破壊した部分の中では鳩尾《みぞおち》の部分が一番|狙《ねら》い目だと殷雷は判断した。あの部分に棍の一撃を叩《たた》き込み、そのまま貫通させられれば確実に勝てる。
問題はその方法であった。首と鳩尾に弱点が現れているのは轟武も先刻承知《せんこくしょうち》であろう。易々《やすやす》と仕掛けられるはずもない。
轟武がさらに近寄る。殷雷の棍の間合いにもうすぐ入る。
捨《す》て身で鳩尾への一撃に賭《か》けるしかないのだろうか? そんなみえみえの攻撃を轟武が食らうだろうか?
『?』
殷雷は違和《いわ》感を感じた。
轟武の歩みが少しおかしい。攻防の中の激《はげ》しい動きでは気がつかなかったが、こうやってじっくりと轟武の動きを見ていると、歩き方に歪《ゆが》みがある。
右足首の動きが硬《かた》い。
隙だ。
今まで、やるだけ無駄な動きを当然、殷雷は避《さ》けている。だが、あの隙を突いて立ち回れば相打ちに持ち込む事が可能かもしれない。それどころか、勝てるやもしれない。
殷雷の集中力がさらに研《と》ぎ澄《す》まされる。
『罠《わな》か?』
餌《えさ》といえば餌に見える。存在しない隙を突く行動など、逆にこちらの致命傷になるに決まっている。
轟武がその手を使うだろうか? 自分の記憶《きおく》を戻し正面からぶつかる事を望んだ轟武が、罠に頼《たよ》るのだろうか?
このままでは、殷雷に追い詰《つ》められた塹甲と同じように倒されてしまう。
あれが罠ならば、罠を突いた隙に拳を食らい粉砕される。
もしも罠でなくても五分五分の賭け……いや、轟武が右足首の弱点を軽《かろ》んじているならば、共倒れにはならずに自分だけが助かる可能性が二割はある。
……共倒れでも和穂は助かる。
どん。
殷雷は地面を蹴《け》り、仕掛けた。
その拳が全《すべ》てを粉砕《ふんさい》するはずであった。確実に殷雷を捉《とら》え彼の身を砕く一|撃《げき》だ。
だが確実な一撃が外れた時には致命的な隙が口を開ける。
振り下ろされる轟武の右拳が殷雷に向かい走る。殷雷はその拳に飛び込むかのように踏み込んだ。殷雷を粉砕するのに充分《じゅうぶん》な破壊力を秘《ひ》めたままでも、その拳は軌道《きどう》を変える余裕《よゆう》があった。
急速の踏み込みで殷雷の髪《かみ》が風になびく。さらに轟武の拳圧が風を強める。
『さて』
振り下ろし、巻き込むように拳は殷雷の脇腹《わきばら》に命中した。バキバキと何かが折れる音が殷雷の体から発した。拳の触《ふ》れた部分の外套《がいとう》は瞬時《しゅんじ》に損《ね》じ切られていた。音は殷雷の体からしている。拳はゆっくりと殷雷を薙《な》ぎ払《はら》っていく。
拳の軌道は確定した。体捌《たいさぼ》さではもうどうにもならない。軌道を計算し殷雷は棍《こん》を構《かま》える。拳は殷雷の脇腹にめり込んでいく。
『罠じゃなかったか』
殷雷の棍が轟武の鳩尾に向かい走る。
拳はさらに殷雷の体にめり込んでいく。
鏡の割れるような音がした。それは宝貝が破壊された時の音だった。
「殷雷!」
巨木《きょぼく》の倒《たお》れる音と鏡の割《わ》れる音が混《ま》じり合い、周囲には爆煙《ばくえん》が広がった。
和穂が振《ふ》りほどくにまかせ静嵐は手を離《はな》した。
和穂は爆煙の中に駆《か》けていった。
殷雷と轟武が居《い》た場所で、和穂は手探《てさぐ》りで殷雷の姿を探す。
手に触《ふ》れるのは宝貝の残骸《ざんがい》だった。
それでも和穂は殷雷を探す。
「殷雷! 殷雷!」
そして、和穂の手が髪の毛に触れ、爆煙は消え去った。
周囲に飛び散る轟武の残骸の中、殷雷は地面に横たわっていた。
「殷雷、しっかりして」
殷雷の頭を膝《ひざ》に抱《かか》え、和穂は殷雷の名を呼《よ》び続けた。
血と鉱物《こうぶつ》が混じりあったような傷《きず》が殷雷の横腹《よこはら》に広がっている。血は流れ、人間の血ならば乾燥《かんそう》するような状態《じょうたい》になって殷雷の血は鉱物の結晶化《けっしょうか》を始めている。
殷雷の虚《うつ》ろな瞳に生気はない。
和穂の瞳から止めどなく涙《なみだ》が流れる。
「お願い、殷雷、殷雷!」
殷雷の口が開く。
「やかましい。人の形のままなんだから無事に決まってるだろうが」
唇《くちびる》の端《はし》に血の泡《あわ》が付いていたが殷雷の声は確《たし》かなものだった。
「殷雷!」
「流石《さすが》に無傷で勝つって訳《わけ》にゃいかなかった。幸運|頼《だの》みの無様《ぶざま》な勝利だぜ」
「殷雷、喋《しゃべ》らないで」
「ど阿呆《あほ》。瀕死《ひんし》の人間じゃないんだから話ぐらいしても平気だ」
殷雷の体は半壊《はんかい》状態だと言っても良かった。だが当の本人はあまり気にしていないようだった。
「すまなかったな、和穂。今回の事件《じけん》は全《すべ》て俺の責任《せきにん》で起こった事だ」
「殷雷、体は大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「大丈夫なわけねえだろ! 動くのがやっとって所だな。泣いていいんだか安心していいんだか迷《まよ》って泣いてると、もの凄《すご》く不細工に見えるぞ」
殷雷は手を横に振った。
「判《わか》った、判った。真面目《まじめ》に言ってやる。この間も話したが次に大|怪我《けが》を負ったら、終わりだ。で、ご覧《らん》の有り様だからもう長くは保《も》たない。ボロボロだから、あと三日もすりゃ機能停止ってとこか。仕方あるまい、断縁獄の中でおとなしくさせてもらう」
和穂の涙は止まらない。それは自分に対する涙ではないと殷雷は知っていた。
和穂は言う。
「轟武はなんでこんな酷《ひど》い事を」
勝利の感覚は微塵《みじん》もない。村一つ、丸ごとの命が失われたのだ。
殷雷は言った。
「俺の責任だ。轟武の側に結舞が居た頃《ころ》、あいつが唯一《ゆいいつ》まともだった時に、俺が始末をつけてればこんな惨劇《さんげき》は起きなかった。結舞が死んであいつの良心は消えた。だが、あいつは良心が消えた事に苦しんでいた。倒してやる事が奴《やつ》にとっての唯一の救いだったのさ」
十三
「殷雷《いんらい》、立てる?」
和穂《かずほ》の手を借り、殷雷は立ち上がった。腹の傷は深く、流れ出た血は徐々《じょじょ》に銀色の筋《すじ》となり殷雷の足に絡《から》みつき、銀色の蔦《つた》に絡みつかれた木を思わせる。
勝利とはいえない。ただ、けりがついただけだ。しかも僥倖《ぎょうこう》以外のなんだったというのか。自分の記憶《きおく》を思い出させる、たったそれだけの為《ため》に、どれだけの命が失われたか。
轟武《ごうぶ》の暴走《ぼうそう》を止め、これ以上の被害《ひがい》を食い止める事は出来たが、それでも犠牲《ぎせい》があまりにも多い。
「……みんな、もういないんだね」
誰《だれ》一人助けることが出来なかった。轟武の能力《のうりょく》の前になす術《すべ》がなかった。
「それでも前に進むんだろ?」
和穂はこくりと首を縦《たて》にふった。
「それでいい。それだけがあいつらへの手向《たむ》けだ。ま、あいつらは今ごろ冥府《めいふ》で悪態をつきまくってるんだろうな」
棍《こん》を杖替《つえが》わりにして、殷雷は歩きはじめようとした。
「ふむ。やはり気がつかないもんだ」
呟《つぶや》くような言葉に、和穂と殷雷は静嵐《せいらん》を見た。
静嵐は顔の前で手を振《ふ》った。
「僕《ぼく》じゃないよ」
しゅうしゅう。しゅうしゅうしゅう。
酸《さん》が物を溶《と》かすような音が微《かす》かにする。
周囲に広がる轟武の破片《はへん》から、陽炎《かげろう》のように薄《うす》い煙《けむり》が上がる。
しゅうしゅう。
だが煙と音があっていない。
殷雷の呼吸《こきゅう》が止まり、彼の額《ひたい》から汗《あせ》が流れた。
轟武の破片が土くれへと変わっていく。
「轟武!」
殷雷の二度目の怒声《どせい》だった。
白と黒が混ざり合う、奇妙《きみょう》な蓑《みの》を被《かぶ》った男が、ゆっくりと姿を現す。
蓑の一部が、しゅうしゅうと音を立てながら剥《は》がれ、そして融《と》けていった。
それは蓑ではなかった。細く長いが紛《まぎ》れもなく符《ふ》だった。気配消しの符だ。
男は言った。
「付け加える説明はほとんどないがね。
まあ、あれだ。幾《いく》ら強いと言ったって本気の仙人《せんにん》相手に、長きに亘《わた》り戦うなんて尋常《じんじょう》じゃないさ。神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の轟武|将軍《しょうぐん》にはそれなりの秘密《ひみつ》があったんだよ。
追い詰《つ》められても常《つね》に逃《に》げ切る轟武将軍の絶大《ぜつだい》かつ、下らない秘密さ」
蓑の姿をした符の塊《かたまり》を男は投げ棄《す》てた。
符の下には鎧《よろい》をまとった轟武が居《い》た。
「仙界でもやっていたように、先刻《せんこく》の轟武は、俺の魂《たましい》に似《に》せて造《つく》った魂を乗せた、偽物《にせもの》ってわけだ。仙界でも追い詰められてもはやこれまでとなれば土くれに返してた。これが神出鬼没の仕掛けって寸法《すんぼう》だ」
殷雷は和穂を静嵐の居る場所に向かい突き飛ばした。轟武の位置は少し離《はな》れている。
「静嵐! 和穂を連れて逃げろ! 俺が少しでも時間を稼《かせ》ぐ!」
静嵐は断縁獄を投げた。
投げた先には轟武が居て、軽々と断縁獄を受け取る。
静嵐は言った。
「悪いが殷雷、それは無理」
どう。と音を立てて静嵐は崩《くず》れていった。土くれの塊となり土煙を上げて静嵐は崩れていく。
土くれの中には一本の刀があった。それは鍔《つば》の部分に封印《ふういん》を施《ほどこ》された静嵐刀であった。
轟武は首の骨《ほね》を鳴らしながら言った。
「正直、ハラハラしたぞ殷雷。あのまま偽の轟武にとどめを刺《さ》されちゃ目もあてられないからな。
お前が辛《かろ》うじて勝てるように調整しといたんだ。右足首の動きが硬《かた》かっただろ?」
冷たい鼓動《こどう》が殷雷の体を駆ける。
状況《じょうきょう》があまりにも不利だ。完全な状態でさえ簡単《かんたん》に勝てる相手ではない。なのに今の自分は半壊状態だった。
「てめえまで偽物じゃあるまいな」
「格下《かくした》の刀相手の戦いで、いくら分がよくても、万が一負けるような危険《きけん》を冒《おか》したくなかった。とはいえ、殷雷よ。お前の息の根は己《おのれ》で止めたいからな。俺は本物だよ」
「静嵐も偽物だったか。『これは殷雷と轟武の戦いだから邪魔《じゃま》するな』なんてまともな事を言ったのもそのせいか」
「静嵐君は糸付きだ。彼の魂はちょっと模倣《もほう》出来ないからな。いいこと教えてやろう。俺の秘密を仙界で最初に気がついたのは、静嵐君だった。その次が導果《どうか》先生だ」
「てめえの秘密を俺が知らなかったのは何故《なぜ》だ? そこの記憶はまだ戻《もど》ってないのか」
「違《ちが》う。最初から知らないんだよ。末端《まったん》の兵卒にまで流しても仕方ない情報《じょうほう》だろ?」
「なるほど」
「さて、そろそろ無意味な時間稼ぎのネタも尽《つ》きたか?」
殷雷は息を吐《つ》く。和穂は動けない。和穂の足には鎖《くさり》が絡《から》みついていた。轟武が咄嗟《とっさ》に造ったのだ。封印された静嵐刀にも和穂は手が届きそうにない。
もはや打つ手はない。
轟武は手に持つ断縁獄を腰《こし》にくくりつけた。
殷雷は言った。
「本当に万に一つも勝ち目はないと思うか?」
「この期《ご》に及《およ》んで、お前に隠《かく》された能力があるなんて凄《すご》いオチでもなければな」
「さて、そいつはどうかな?」
「神速七手は止《や》めてくれよ。あれをやられるとこっちは防戦《ぼうせん》一方になる。で、防《ふせ》ぎきったらお前の命は燃《も》えつきてました。なんて冗談《じょうだん》じゃない」
「あれは一度使うと神気|補充《ほじゅう》しなきゃ使えないんだ。だから、人間界に居る間はもう使えないだろうよ。しょうがない。渾身《こんしん》の一|撃《げき》でお前を粉砕《ふんさい》させられる事に賭《か》けるよ」
「剣相手に刀|風情《ふぜい》が力勝負か。面白《おもしろ》い、受けて立ってやろう」
殷雷は棍を構えた。正面から突《つ》っ込んでくるつもりだ。轟武はほくそ笑《え》む。
何が渾身の一撃での勝負だ。奴《やつ》の狙《ねら》いは腰の断縁獄《だんえんごく》だ。寸前《すんぜん》で身を翻《ひるがえ》し断縁獄を奪《うば》う作戦に違いない。己が敗北しても次の一手に賭けるしか手は存在《そんざい》しない。だが、その手は食らわない。
どん。
殷雷が駆《か》けた。流石《さすが》は刀の宝貝《ぱおぺい》、半壊《はんかい》状態とはいえ踏《ふ》み込みの速度には目を瞠《みは》るものがあると轟武は考えた。
だが、所詮《しょせん》は無意味だった。移動《いどう》速度がいかに剣の宝貝を凌駕《りょうが》していようが、こちらの体捌《たいさば》きが追いつかない程《ほど》の速さではない。
爆発《ばくはつ》的な速度はやがて急激に落ちるしかない。
体感速度がゆっくりと間延《まの》びしていく。
踏み込みながら殷雷の棍がゆっくりと構えられる。
頭を薙《な》ぎ払《はら》うつもりだろう。いや、そう見せかけている。防御の為《ため》に腕《うで》を挙げさせ、がら空きになった腰に食らいつき断縁獄を奪う手にしか見えない。
棍が走る。
見せ技《わざ》に付き合う義理《ぎり》もなかった。当たったところでたかが知れている打撃にしかならない。あとは殷雷の体を拳で撃《う》ち抜《ぬ》くだけで全《すべ》てが決する。
視界の中の殷雷が笑った。
棍は見せ技などではなかったのだ。渾身の一撃が轟武の側頭部に命中した。
轟武は油断《ゆだん》したのか。轟武が読み切れなかった、すなわち無意味な行動だったのか? 殷雷には判《わか》らない。
断縁獄を狙うしか手はない。だが、不意打ちでは奪えない。轟武に読まれているからだ。ならば、裏《うら》の裏をかくしかない。その一撃で轟武を破壊など出来ないのは殷雷も承知《しょうち》していた。
破壊出来なくとも、一瞬《いっしゅん》だけでも轟武の意識《いしき》を失わせ、奴を本来の姿に戻す。その間に断縁獄を奪うという賭けだった。
手応《てごた》えはあった。力は完全に浸透《しんとう》した。
轟武の瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》が外れ、ゆらりと体がよろめいていく。
爆発音にも似《に》た棍の激突音《げきとつおん》が響《ひび》く。
ゆっくりと確実《かくじつ》に巨木《きょぼく》が倒《たお》れるように、轟武の体が倒れかけ轟武の膝《ひざ》も緊張《きんちょう》感を失い崩れかけた。
力は既《すで》に浸透している。殷雷は棍を握《にぎ》る手を弱めた。反動で棍は飛び、殷雷の両手は自由になった。
後は轟武が轟武剣に戻る瞬間を待つだけであった。
轟武は倒れかける。倒れかけていく。だが、宝貝が変化を起こす時の爆発が起きない。
殷雷は焦《あせ》る。
轟武は跪《ひざまず》いた。鼻からわずかな血が流れ、轟武の瞳に焦点が戻った。
「惜《お》しかったな」
轟武の拳が走る。膝立《ひざだ》ちから立ち上がる勢《いきお》いすら拳に乗せ轟武の剛拳《ごうけん》が殷雷に向かい走った。
ずどん。
殷雷の腹《はら》に轟武の拳は命中した。極度に密度の高い物に触《ふ》れたような感覚が殷雷の体に走った。衝撃《しょうげき》はあった。命中した部分に痛《いた》みはない。衝撃は殷雷の体を流れる。
そして、衝撃の行き止まりから、殷雷の肉体は粉砕されていった。
『和穂!』
ここで倒される訳にはいかない。勝ち目は全くない。だが倒される訳にはいかない。殷雷の手がゆっくりと断縁獄に伸《の》びる。
轟武はその手を振り払おうとすらしない。
勝負はついていた。もはや倒されたのだ。
殷雷はそれでも手を伸ばす。倒されても和穂を守らなければならない。
今、この一時を凌《しの》ぐ、全く存在しない生き残りの可能性、和穂を生き残らせる可能性への突破口《とっぱこう》を開く。
足掻《あが》く。足掻く。
視界《しかい》の中には断縁獄と己《おのれ》の右手が見えた。銀色にきらめく光は己の破片《はへん》だった。
ゆっくりとゆっくりと右手が断縁獄に近づいていく。崩壊《ほうかい》が進み光の粒《つぶ》が徐々《じょじょ》に大きくなっていく。
ついに殷雷の指先が断縁獄に触れた。
『!』
だが触れた感触《かんしょく》が殿雪には伝わらない。掌《てのひら》に走る亀裂《きれつ》が感覚の伝達を遮断《しゃだん》していた。
そして指先は光の破片へと姿を換《か》えていく。
轟武の拳からではなく、轟武の拳に向かって殷雷の体は砕《くだ》けていった。
『和穂!』
そこにあるのは絶望のはずだった。
自分に出来ることの全ての可能性は絶たれたのだ。
絶望。怒《いか》り。嘆《なげ》き。
どの感情もそこにはなく。安らぎがあった。
諦《あきら》めた事による安らぎではない。
道半ばに倒れる己を自覚しての安らぎ。
そこにあったのは信頼《しんらい》だった。殷雷にも理解《りかい》しがたかったが。確かにそこには和穂への信頼があった。
まだどうにか口を利《き》けることに殷雷は気がついた。
「和穂。あとは任《まか》せたぞ」
砕けていく指先で殷雷は自分の首を指し示す。
爆発音を立て、殷雷は殷雷刀の残骸《ざんがい》へと姿を換えた。
「殷雷!」
和穂は殷雷刀に向けて走った。轟武は鎖《くさり》を解《と》いていた。静嵐に向かい和穂が走ったのならば、戦闘《せんとう》続行だったがどうやらそこまで頭が回る程《ほど》の冷静さは和穂にはないようだった。
ぐしゅぐしゅと轟武は鼻血をすすった。
「言うに事欠いて、『あとは任せた』か。俺か和穂の名前でも絶叫《ぜっきょう》すれば盛《も》り上がったのによ。何がどう、こんな小娘《こむすめ》に任せられるというんだ」
偽《にせ》轟武の破片は既に消滅《しょうめつ》している。だからこの場にあるのは全《すべ》て殷雷の破片であった。
和穂の血の気が引いていく。あまりに短い時間に、あまりに多くのものが和穂の前から消えていた。
飛び散る破片の中から、和穂は殷雷刀の柄《つか》を見つけた。柄は原形を留《とど》めている。丁度《ちょうど》、殷雷刀は二つに折れ、その上半分が木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になっている。
和穂は殷雷刀の柄を握《にぎ》り締《し》める。
その柄からは何も感じない。意識の流れはおろか、生気すら感じない。
「殷雷!」
和穂は呼びかける。柄からは何も答えはない。ゆっくりと、じんわりと殷雷の死が和穂の中に忍《しの》び寄っていく。
殷雷刀を片手に和穂はゆらりと立ち上がった。
轟武はそんな和穂を静かな瞳で見る。
和穂は言った。
「返して……」
「…………」
「殷雷を返して!」
「お望みとあらば、似たような奴なら造れるぞ」
慈《いつく》しみたくなるような純粋《じゅんすい》な殺気を轟武は和穂から感じた。
和穂の耳には自分の鼓動《こどう》の音しか聞こえなかった。どくん、どくん。殷雷は破壊《はかい》された。迅鳴たち村人たちも消された。
全て轟武がやったのだ。どうしようもない悲しみがそこにあった。
和穂の息が荒《あら》くなる。
轟武には和穂の心が手に取るように理解出来た。
「ちなみに村人は十七人。馬が一頭、犬は一|匹《ぴき》。それだけを造って消した。砂兵巻《さへいかん》が手に入るんだったら国|規模《きぼ》で人は造れる」
済《す》んだ悲劇《ひげき》だけではない。これからも巻き起こる惨劇《さんげき》の姿が和穂には見えた。
潰《つぶ》れる。堪《た》えられない。余《あま》りにも悲しみが大き過《す》ぎる。殷雷は居ない。頼《たよ》れるものはもう何もない。
凍《こご》えるようなひんやりとした冷たさを和穂は感じた。外部からもたらされる、恐怖《きょうふ》などではなかった。和穂の内部から迸《ほとばし》る冷たさだった。
和穂は悲しみから目を背《そむ》け、怒りに頼ったのだ。
和穂の眼光《がんこう》が轟武を射貫《いぬ》く。
「ほお。流石《さすが》、龍華の弟子《でし》だな。そこまで凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》えは中々出来ないぞ。氷みたいな眼光だ」
血が滾《たぎ》るが心には心地《ここち》よい冷たさがあった。
「殷雷と同じ目に遭《あ》わせてやる」
大げさな手振りで轟武を天を仰《あお》ぐ。
「そうさ。復讐《ふくしゅう》だけが心の救いさ。
だが哀《かな》しいかな、怒りに溺《おぼ》れ殺気に溺れたはいいが、その手はあまりに無力だ。勝ち目がないから理性《りせい》を捨《す》てたに過ぎん」
和穂の心が研《と》ぎ澄《す》まされていく。轟武の言葉に間違いはない。
折れた殷雷刀を手に挑《いど》みかかる和穂の攻撃《こうげき》を轟武は避《よ》けようとすらしない。
「無駄《むだ》だ。破壊された武器《ぶき》の宝貝なんざ、折れた刃物《はもの》にすら劣《おと》る。折れた包丁なら、破片でも斬《き》れるが宝貝の刃はそれすら無理だ」
かち、かち。
轟武の鎧《よろい》に折れた殷雷刀が当たる乾《かわ》いた音が静かな荒野《こうや》に響《ひび》く。
和穂の腰帯《こしおび》を掴《つか》み、轟武は彼女を持ちあげた。
長身の轟武からは死角になっていた和穂の表情が見える。
轟武はゾクリとした。その手にあるのが折れた刀などでなく、まともな宝貝であったのならば確実になぶり殺しにされていただろう。そんな殺気が和穂の瞳にはあった。
「どことなく結舞《ゆうぶ》に似《に》ているような気もしたが、俺の勘違《かんちが》いだったな」
糸のように小さく細い砂嵐《すなあらし》が巻き起こり、轟武の空いた右手にまとわりついた。砂嵐は瞬時に吹《ふ》き飛び、そこには一本の短刀が握られていた。
「ちょいと気に食わない面構えだが、お前には恨《うら》みがない。楽に殺してやるよ。苦痛《くつう》はない」
すとん。
左手で和穂を持ち上げたまま、轟武の右手の短剣は和穂の脇腹《わきばら》に刺さった。
あまりにも正確な一撃だった。轟武の言葉に嘘《うそ》はなく、和穂はただ傷口からわずかな熱を感じただけだった。
「さあ、終わりだ。お前はもう死んだも同然だ。いま一度、息を吐《は》き、肺《はい》の中の空気を出せば、意識は消えそのまま死ぬ」
轟武は和穂を持ち上げたままだった。そのまま死に顔を看取《みと》ってやるつもりだったのだ。
わずかだが、少しばかり不自然な時間が流れる。和穂はまだ死んでいない。
「さすがに元|仙人《せんにん》。常人からは想像《そうぞう》できんほどの異常に強い精神力《せいしんりょく》だな。
抵抗《ていこう》はやめろ。苦痛がないと言ったのは、すぐに息を吐いた時の話だ。そのまま堪《こら》えれば苦痛に襲《おそ》われるだけだぞ。堪えたところでもう助からない」
既《すで》に苦痛が忍《しの》び寄っていた。
和穂は折れた殷雷刀を振るい、轟武の顔に斬りつけた。
「そんな攻撃じゃ、目を潰すのも無理だ。下らん。やめろ」
和穂の攻撃は止まらない。
轟武は興《きょう》が冷めたのか、少しばかり呆《あき》れた。
「ただの餓鬼《がき》相手に二の太刀《たち》まで使わせるなよ。いいか。そんな折れた宝貝ではいかなる攻撃も不可能だ」
和穂の手を掴み、轟武は折れた殷雷刀を自分の首筋《くびすじ》に導《みちび》いた。
「ここが俺の、唯一《ゆいいつ》弱点らしい弱点だ」
そして、自分の弱点に無理矢理《むりやり》殷雷刀を押《お》しつけた。
「判ったな。弱点にそんな折れた刀が当たっても、俺はびくともしない。
ふん。それにしても殷雷も適当《てきとう》な事を言ったもんだな。人ごとながら、その無責任《むせきにん》さに呆れてしまう。自分はさっさとくたばって、非力《ひりき》な小娘《こむすめ》相手に『後は任《まか》せた』だと? 和穂よ。お前に何が託《たく》せられるというのか」
轟武の言葉で、和穂の心に痛みが走る。今の和穂には、その痛みを感じなくする事も出来た。
もう殷雷は居ない。殷雷に関する事を全て拒絶《きょぜつ》すれば悲しみも消える。だが、殷雷の思い出も全て拒絶する事が和穂には出来なかった。殷雷を失いたくない。それが思い出でしかなかったとしても、和穂は殷雷を失いたくはなかった。
殷雷は後は任せたといった。私を信頼してくれたのだ。私の力で生きぬき自分に出来なかった事を果たしてくれと言ったのだ。
殷雷が自分の首を指し示したのは、轟武の弱点を伝えようとしていたのだと和穂は知った。
本気で私に後を託《たく》してくれていたのだ。だが自分にそれをやりとげる力はない。
和穂の腕《うで》から力が抜《ぬ》けた。だが殷雷刀は握られたままだ。
和穂から殺気が消えた。
「観念したか和穂」
弱い。
自らが殺意に我《われ》を忘《わす》れたことにより、轟武の凶悪さ、残虐性《ざんぎゃくせい》の土台にあるものを和穂は垣間見《かいまみ》た。紛《まが》い物の優《やさ》しさである弱さ、繊細《せんさい》すぎて己を維持《いじ》出来ない脆《もろ》さ。
自分の能力に堪え切れなかったのだ。自分がしでかした事を理解したくない為、当然の行為《こうい》として罪《つみ》を繰《く》り返しているだけの弱さ。
それに比《くら》べて殷雷はどれだけ強かったか。全てに立ち向かい、己の能力を極限までふり絞《しぼ》り戦い続けていた。
そんな殷雷が私を頼ってくれたのだ。
無様に倒れるわけにはいかない。
和穂は祈《いの》るように殷雷刀を胸《むね》に抱《いだ》いた。石の違和《いわ》感が胸と殷雷刀の間にあった。
無擦珠《むさつしゅ》だった。和穂の頬《ほお》を涙がったう。もう少し時間があれば、殷雷刀を元に戻す能力を獲得《かくとく》出来たのかもしれない。だが、殷雷刀は既に折れている。いかなる砥石《といし》でも殷雷刀を元に戻すことは出来ない。
ぞわ。
轟武の全身を寒気《さむけ》が襲う。
何かを読み違《ちが》えている。何か致命《ちめい》的な間違いを犯《おか》している。本能的な警告《けいこく》だった。
轟武は入念に気配を探《さぐ》った。
隣村《となりむら》までに人の気配はない。宝貝の気配も感じられない。腰にある断縁獄は無事で、静嵐に施《ほどこ》した封印《ふういん》も無事なままだ。単純《たんじゅん》な封印なので外部から簡単に外せるが、外せるような者はこの場に居ない。
何を見落としている?
轟武は和穂を見た。目を瞑《つむ》っているがまだ生きている。両手で胸に殷雷刀を抱いている。とうとう死を覚悟《かくご》したのか。
「殷雷刀を胸に死ぬか。それもいいだろう」
苦痛はそろそろ相当なものになっているだろう。純粋《じゅんすい》な死の苦痛だ。死を受け入れれば感覚器がその仕事を放棄《ほうき》し、苦痛を受けつけなくなる。だが、和穂はそれを拒絶している。
うっすらと和穂の瞼《まぶた》が開いた。
「殷雷はあなたの為《ため》に、あなたを倒すって言ってたの」
口が聞けたことの驚《おどろ》きの方が轟武には大きかった。
「殷雷の意思を私が継《つ》ぐ」
破壊の恐怖《きょうふ》、死の恐怖。
和穂の手の殷雷刀が閃《ひらめ》いた。
「!」
折れた殷雷刀は深々と轟武の首に刺さった。殷雷が示した場所だ。
「馬鹿な! 生きていたのか!」
有り得ない。首から伝わる脈動は自分の物だけだった。殷雷の意思の残骸《ざんがい》すら感じられなかった。
轟武は和穂から手を離《はな》した。どさりと和穂は地面に落ちた。
崩《くず》れる。致命的な一点の崩れが全体に効果《こうか》を及《およ》ぼしていく。轟武は首の殷雷刀を引き抜いたが既に手遅《ておく》れだった。
「無擦珠、無擦珠を隠《かく》し持っていたのか! ただ一撃だけの斬撃《ざんげき》……砥《と》ぎやがったか、和穂!」
断末魔《だんまつま》と共に轟武の体は崩壊《ほうかい》し、そこには轟武の破片が舞《ま》った。
よろりと和穂は立ち上がり、轟武の残骸の中に転がる殷雷刀を拾う。
ゆっくりと、一歩ずつ和穂は歩む。
まだ死ぬわけにはいかない。
この地上にはまだまだ多くの宝貝がばらまかれたままなのだ。
回収《かいしゅう》しなければならない。
よろめき、和穂はひざを突《つ》く。そして、再《ふたた》び立ち上がる。
まだ倒れるわけにはいかない。
宝貝を全て回収しなければ、殷雷を元に戻せる宝貝を探さなければ。
力の限り歩み、そして和穂は純白《じゅんぱく》の荒野《こうや》に倒れ動かなくなった。
最後の息で和穂は言った。
「殷雷……」
息は途絶《とだ》え鼓動《こどう》は止まる。
[#改ページ]
あとがき
上巻が出たあの頃《ころ》は、めっきり街《まち》も冬景色《ふゆげしき》でしたが、下巻をお届《とど》けする今では秋も深まってまいりました。いやあ本当に一年が経《た》つのは早いですね。こんにちは、ろくごまるにです。
よし、誤魔化《ごまか》せた。これでアリバイ工作は成立だ!
なにやら久《ひさ》しぶりなので、あとがきの書き方が心もとないですよ。そうだ、こんな時にこそ、あとがき用のネタ帖《ちょう》からネタを拾《ひろ》ってみよう。
『通天閣《つうてんかく》』
通天閣の下に、ちょっとした電光掲示板《でんこうけいじばん》がある。で、そこの掲示板ってのはいつもカウントダウンをやってるんだが、二十一世紀になったら次は何のカウントダウンをやるんだろうか? 今から楽しみだ。
……こうやって五年前のネタで押し進めれば、原稿《げんこう》そのものはとっくの昔に出来ていたという偽装《ぎそう》工作は完成だ。
が、根が生真面目《きまじめ》なもんだから良心の呵責《かしゃく》に襲《おそ》われてきた。生真面目な人間が上巻と下巻の間を五年も空《あ》けるかという問題はさておき、みなさん永《なが》らくのご無沙汰《ぶさた》、失礼しました。
諸般《しょはん》の事情で出版が遅《おく》れていました、封仙娘娘追宝録の新刊をお届けします。
諸般の事情とは何か? 憶測《おくそく》が憶測を呼び、何やら面白《おもしろ》そうだが、笑っちゃいけませんよ、掛《か》け値《ね》なしに書くのに五年かかってるんですぜ。毎日毎日、一日五十文字ずつ書き続けた集大成が今ここに完成したのです! という冗談《じょうだん》を書くのも躊躇《ためら》われる程《ほど》に五年という時間は長いのですよ。書くのに五年かかってるってのは本当だけどね。
でも五年の停滞《ていたい》から学《まな》びとった事もちょいとばかりあるのです。
『あとがきのネタ』
前出のあとがきのネタ帖を捲《めく》ってみる。
……通天閣カウントダウン
……y2k
……恐怖《きょうふ》の大王
……isdn
と世紀末を髣髴《ほうふつ》させるネタがてんこ盛りでユーはショックな風味がして腰《こし》が抜《ぬ》けそうになった。
一番最近だと思われるネタが、
……お魚《さかな》天国|地獄《じごく》
である。万が一、時期が合っていても確実にボツにしていたと推定《すいてい》される。
……歯|磨《みが》き三昧《ざんまい》
……自販機限界
この辺《あた》りは意味が不明だ。あとがきのネタ帖とはいえタイトルだけが殴《なぐ》り書きで、メモの役に立ってないじゃないか。
しかも手帳の表紙には燦然《さんぜん》と「1996年度」と書かれていた。たぶんミレニアム辺りから時間感覚が消滅《しょうめつ》してた模様《もよう》。
『アイデア帖』
小説家たるもの常にメモ帖を携帯《けいたい》し思いついたアイデアを即座《そくざ》に記《しる》しておきましょう。とかなんとかという文章をどこかで見た記憶《きおく》があり、その通りにやってみたりしている。
かくて、大は巨大《きょだい》システム手帳から、小はコンビニで売ってる数百円の代物《しろもの》、古くは1996年の年代もの、新しくは新聞の景品である2005年度メモ用紙までが家の中に散乱する事となった。
さあ、あまたの手帳に記された無数のアイデアの数々を見よ! 原稿用紙に清書したら恐《おそ》らく一枚(ペラ一枚。すなわち20X10文字用紙)に収《おさ》まるであろう圧倒《あっとう》的アイデアの群れに震撼《しんかん》しきりである。
そんじょそこらのノートパソコンよりもかさばる、巨大システム手帳に至《いた》っては全《まった》く一文字も書かれておりません。このシステム手帳はかなり高かったので、もったいなくて使ってないとみた。
だいたいメモしなきゃ忘れるようなアイデアなんか使い物にならないんだよう。と、逆切れしておこう。
『新担当』
前巻で颯爽《さっそう》と登場した担当K氏だが、この度《たび》担当を離《はな》れる事になった。短いんだか長いんだかよく判《わか》らない間、お世話《せわ》になりました。で、新担当のY氏なんだが初めて会った気がしない。よく見たら旧担当のY氏にそっくりだ。と思ったらY氏本人だった。
『打ち合わせ』
新担当の旧担当Y氏と打ち合わせに入る。
あれを何週間以内に、これを数週間以内に仕上げましょうという感じで、打ち合わせがすすむ。
前にもちょこっと書いたが、どうも時間感覚が無茶苦茶《むちゃくちゃ》になっているので、念《ねん》の為《ため》にY氏に確認《かくにん》を取ってみた。
「一週間って九日間ですよね?」
「何言ってるんですか、五日間で一週間ですよ」
聞いといて良かった。たぶん、間を取って八日間ぐらいが一週間の長さとして正解なんだろう。
てなところで時間が尽《つ》きた。
ではまた。
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》9 刃《やいば》を砕《くだ》く復讐者《ふくしゅうしゃ》(下)
平成17年11月25日 初版発行
著者――ろくごまるに