封仙娘娘追宝録8 刃を砕く復讐者(上)
ろくごまるに
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)轟武《ごうぶ》
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(例)痛みが、より一層|際立《きわだ》つ
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目次
序章『終極《しゅうきょく》へ到《いた》る為《ため》の幾《いく》つかの序曲《じょきょく》』
あとがき
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序章『終極《しゅうきょく》へ到《いた》る為《ため》の幾《いく》つかの序曲《じょきょく》』
封《ふう》じられた。
剣に戻《もど》る事すら不可能だ。
視覚《しかく》も聴《ちょう》覚も触《しょっ》覚も嗅《きゅう》覚も味《み》覚も機能しない。
両方の手首に食らいつく手伽《てかせ》のせいで、力が入らない。いかに踏《ふ》ん張ろうと、手伽から己《おのれ》の力が抜《ぬ》けていく。
自《みずか》らが置かれた状況《じょうきょう》を分析《ぶんせき》しつつ、封じられた轟武剣《どうぶけん》は吠《ほ》えた。
聴覚は作動《さどう》していない。
己の吠え声を、音ではなく肉を伝わる振動《しんどう》として轟武は感じとった。
『忌《い》ま忌ましい忌ま忌ましい』
触覚が消滅《しょうめつ》している今、手首に痛みはなく只《ただ》痺《しび》れがあった。
どんな激痛《げきつう》よりもたちの悪い痺れだ。
痛みは己の状態を教えてくれるが痺れはなにも語らない。
指が全《すべ》て切り落とされていても、今の自分には判《わか》りもしないのだ。
触覚はなくとも自分の態勢だけは判った。
膝立《ひざだ》ちになり、両手を高くかかげている。
恐《おそ》らく手伽から伸びる鎖が天井《てんじょう》にでも突《つ》き刺《さ》さっているのだろう。
中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な宙吊《ちゅうづ》り状態だ。
脱力《だつりょく》した首のせいで頭は前に垂《た》れ下がり、舌《した》もだらりと同じように垂れ下がっている。
ズキリズキリと轟武の胸の古傷《ふるきず》が痛んだ。
皮膚《ひふ》からではない筋肉の内側からの痛みは、触覚のない今でも感じ取れた。
剣の宝貝《ぱおぺい》の再生能力があれば、時間がかかったとしても古傷が残りはしない。
が、轟武は遠い昔《むかし》に受けたこの傷を、屈辱《くつじょく》の証《あかし》として再生しないでいた。
傷は盛《も》り上がり古傷となっていた。
五感《ごかん》を封じられた今、痺れた暗闇《くらやみ》の中で古傷の痛みが、より一層|際立《きわだ》つ。
激痛の脈動《みゃくどう》に合わせ、轟武の意識の中で一体の宝貝の姿が焦点《しょうてん》を結ぶ。
『殷雷刀《いんらいとう》!』
轟武の胸の傷は刀傷《かたなきず》であった。
彼と同じ武器の宝貝である殷雷刀。
胸の傷は殷雷刀によってつけられた傷痕《きずあと》であった。
どくりどくりと胸の鼓動《こどう》に合わせて、殷雷刀の姿が明滅《めいめつ》する。
『殷雷刀! 貴様《きさま》に受けたこの屈辱《くつじょく》、決して忘れはせぬぞ!
誓《ちか》う、誓ってやるぞ。貴様をへし折ってくれる!』
だが、轟武は封じられていた。
怒《いか》りで自分の口許《くちもと》が引きつるのを、どうにか轟武は感じとった。
己の筋肉の動きを、触覚を封じられた轟武は緩慢《かんまん》にしか判らない。
どこまでも引きつる口許は轟武の顔を恐《おそ》ろしく歪《ゆが》めていった。
五感を封じられた暗闇の中で、ゆるりと、轟武は殷雷への怒《いか》りに浸《ひた》っていった。
傷つき追い詰められていた。
あの時の俺には、逃げきれる理由もなければ、勝てる理由もなかった。
あの時の追手は、龍華《りゅうか》自身だったのだ。
己を造《つく》り上げた仙人をそうそう簡単に出し抜けるとは、轟武も考えていなかった。
だが、捕《つか》まるつもりもなかった。
『捕まるぐらいならば、破壊《はかい》された方がましだ』
片手に殷雷刀を構えた龍華が迫《せま》ってくる。
武器の宝貝として、常に状況《じょうきょう》を分析《ぶんせき》する事は既《すで》に本能のようになっていた。
だが、轟武は状況分析すら放棄《ほうき》していた。
勝てない。逃げられない。捕まりたくはない。
殷雷刀を持った龍華がなにかを言っている。
今と同じように五感は痺れぼやけていた。あの時は魂《たましい》が五感に意思《いし》を向ける気力すら失いかけていた。
龍華は、抵抗《ていこう》をやめ、捕まれとほざいているに決まっていた。
轟武は吠えた。
龍華の瞳《ひとみ》が鋭《するど》くなった。
龍華は俺《おれ》を破壊するつもりだ。
まだその方がましだった。
さあ、さっさと壊《こわ》してくれ。
もういい。もう終わりにしてくれ。
龍華はゆるりゆるりと歩みより、轟武は刀の持つ絶対の間合《まあ》いに入った。
いかに剣に比《くら》べ、なんの芸もない矮小《わいしょう》な刀の宝貝とて、絶対の間合いに捕《と》らえた獲物《えもの》を外《はず》しはしないと轟武は承知していた。
もう終わりだ。
やっと終わる。
額《ひたい》に汗《あせ》が流れた。自分が小さく笑っていると轟武は感じた。
その時、影《かげ》が動いた。
何かが龍華と轟武の間に踏《ふ》み込んだ。
轟武はその影の正体《しょうたい》に、興味《きょうみ》を持てなかった。
刀の絶対の間合いに入っているのだ。状況は何があろうと変わらない。
先刻の龍華の言葉は、最後の通告だったのだろう。
破壊か捕獲《ほかく》か。
俺は捕獲されるのを拒絶《きょぜつ》した。捕獲されてどうする。
俺は俺の罪《つみ》を償《つぐな》えない。
龍華は俺を許しはしない。許して欲しくもなかった。
龍華に対してはなんの憎《にく》しみも覚えなかった。
俺は破壊されても当然なんだ。だから早く俺を破壊してくれ。
轟武の瞳《ひとみ》が影の正体を伝えた。
肩幅《かたはば》の小さい小柄《こがら》な娘だ。それがだれか、後ろ姿だけでも充分《じゅうぶん》判《わか》った。
結舞《ゆうぶ》。結舞剣、我《わ》が片割れ。
俺と結舞は双剣《そうけん》として造《つく》られた。大剣の俺と小剣の結舞、双子《ふたご》よりもさらに近い己の片割れだ。
だが、俺と結舞はなにからなにまで違《ちが》っていた。
いかに小剣とはいえ結舞は小柄だった。女性形態をとる刀の宝貝と比《くら》べてさえ、肩幅は細かった。
そうだ、結舞はあまりにも細やかで儚《はかな》げだった。
俺と結舞はあまりにも違っていた。一つのものから造られた、大剣と小剣、俺にないものが結舞にはあり、結舞にないものが俺にはあった。
俺の心がもう少し結舞に近ければ、あの過《あやま》ちは起きなかったかもしれない。俺に俺の罪を諭《さと》してくれた結舞、もう少し早く気がつければ全《すべ》ては変わっていただろう。
結舞の声が虚《うつ》ろな俺の耳へ響《ひび》いていく。
俺の為《ため》に命乞《いのちご》いをしているのか。
それは無駄《むだ》な行為《こうい》だ。
龍華は俺を破壊したがっている。
いや、破壊されたがっている俺の望みを叶《かな》えようとしているのだ。
命乞いする結舞を庇《かば》う必要はなかった。
龍華は結舞に危害は加えない。
俺は今、刀の絶対の間合いにいる。結舞の力で、刀の攻撃を邪魔《じゃま》するのは不可能だ。
それが轟武にとって別の意味で安心感を与《あた》えた。
もし、『絶対の間合い』に捕らわれていなければ、結舞は己の身を盾《たて》にして殷雷の斬撃《ざんげき》を防げたかもしれない。轟武に届《とど》くはずの刃《やいば》を自分の身で受けるのだ。
が、この間合いでは、その心配もない。
全《すべ》ては終わる。
俺が破壊されて全てが終わる。
悲しむ結舞の姿が目に浮《う》かぶが、破壊されなければ別の悲しみがお前を襲《おそ》うだけなのだ。
だから、この悲しみを結舞にとっての最後の悲しみにしてくれ。
『さあ、龍華。俺を破壊しろ』
暗闇の中五感を封じられている轟武の鼓動《こどう》が激《はげ》しくなった。遠い過去の想《おも》い出《で》だが、それでも轟武の血は滾《たぎ》りはじめた。
それを思い出すだけで轟武の血は滾る。
刀の気迫《きはく》が消滅《しょうめつ》したのだ。
何が起きたのか轟武は咄嗟《とっさ》に判断は出来なかった。
龍華の気迫はそこにある。だが、刀の気迫が消えたのだ。
もはや、絶対の間合いもへったくれもなかった。
気迫の消滅した刀はただの鉄の棒《ぼう》に過ぎない。
封じられている轟武の怒《いか》りの形相《ぎょうそう》がさらに大きくなった。
足掻《あが》く理由が出来た。
ほんのわずかだが、可能性が生まれたのだった。
轟武は即座に最善手《さいぜんしゅ》を選んだ。目の前にいる結舞の背中を渾身《こんしん》の力を込め突き飛ばす。
自分の掌《てのひら》から結舞の背骨を叩《たた》き潰《つぶ》した衝撃《しょうげき》が伝わってくる。
結舞は龍華に向かい吹《ふ》き飛ぶ。
今の刀では自分に向かって宙《ちゅう》を舞う、結舞を斬《き》れないと判断した龍華は真横に飛びすさった。
無様《ぶざま》に舞う結舞の姿を見て取ったのか、刀の気迫が復活した。
飛びすさり、崩《くず》れた態勢を引き戻《もど》そうとする龍華に向かい轟武は駆《か》けた。
ゆっくりと引き延《の》ばされた、武器の宝貝たちの時間が始まった。
轟武の視界《しかい》の隅《すみ》に結舞の姿が写った。
不自然な態勢のまま、結舞は壁《かべ》に叩《たた》き付けられようとしていた。
人間の状態で背骨をへし折られたのだから結舞はただではすまない。
だが、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に粉砕《ふんさい》されたのではなかった。龍華ならば、結舞を打ち直してくれるだろう。轟武はそう判断していた。
人間の姿からすぐに剣の状態に戻れば、壁にぶつかろうと、これ以上の被害《ひがい》が結舞にいくはずはなかった。
だが結舞はなかなか剣の姿《すがた》には戻らない。
焦《あせ》る轟武の視界の中で結舞は人間の姿のまま、壁に叩きつけられたのだ。
轟武の意識の一部は混乱した。
だが、大部分の意識は目の前の敵、龍華をどう処理するかにかかりきりになっていた。
龍華は舌打《したう》ちをしながらも、刀の様子《ようす》を探《さぐ》っていたようだった。
轟武には殷雷刀と龍華の間になんの会話があったのか、知るよしもない。
龍華は鋭《するど》さを取り戻した殷雷刀を持ち、迎《むか》え打とうと構えを取り始めていた。
構える速度は尋常《じんじょう》ではなかった。
速度こそ、その身の特性としている刀の宝貝なだけはあると轟武は考えた。
轟武は敗北《はいぼく》を確信した。
刀は轟武の人間でいうところの心臓に狙《ねら》いを付けていた。人の姿をとっている以上、人の持つ弱点を轟武も持っている。
人の心臓が人間の体《からだ》に血を巡《めぐ》らせるように、轟武の胸にも仙術的《せんじゅつてき》な力を巡《めぐ》らせる機構が存在している。
勝負は一撃《いちげき》で終わる。
轟武の意識が、血みどろの結舞に向けられた。痛々《いたいた》しい姿の中、顔だけはその美しさを保《たも》っている。
そして、結舞は叫《さけ》んだ。
「殷雷! やめて」
だが、刀の切《き》っ先《さき》はすぐそこにまで迫《せま》っていた。本能的に放たれた轟武の剛拳が刃《やいば》を掠《かす》めた。が、刀の斬撃を止めるまでには至らなかった。
そして、刀の刃が轟武の体に刺《さ》し込まれていく。
胸から入った刃が、轟武の背中から突き出ていった。殷雷刀は根本《ねもと》まで轟武の体に突き刺さった。
一瞬《いっしゅん》の間。
龍華は轟武のみぞおちに足をかけ、殷雷刀を引き抜《ぬ》いた。
これでもう、考える事が終わる。
轟武は結舞の残像と共に暗闇《くらやみ》の中に落ちていくつもりだった。
轟武の見開かれた瞳《ひとみ》は、地面に横たわり動かなくなった結舞の姿を映していた。潰《つぶ》れた人の姿が今は剣の残骸《ざんがい》へと姿を変えていた。
だが、轟武は破壊されなかった。
龍華が加減《かげん》するはずがない。殷雷刀が独断《どくだん》で急所を外《はず》していたのだ。
激痛《げきつう》が轟武の体を襲《おそ》う。
轟武の瞳は結舞の残骸を映し続けた。
轟武の耳は龍華の大きな舌打ちを聞いた。
轟武の意識は舌打ちの意味を悟《さと》った。龍華は結舞に視線を向けていた。
結舞の再生は不可能なのだ。ここまで木っ端微塵になった宝貝が再生出来るはずがない。
肉体の痛みと心の痛みがないまぜになり、轟武は吠《ほ》えた。
『殷雷! お前は俺に結舞を殺させた!』
怒《いか》りに浸《ひた》り力を得た轟武は、感覚から遮断《しゃだん》された闇《やみ》の中、幾度《いくど》となく繰《く》り返した思考をもう一度繰り返した。
今の自分は五感《ごかん》を封《ふう》じられ、能力のほとんども機能出来ない。
だが意志《いし》は封じられていないので、考える事だけは出来る。
それともう一つ、気配《けはい》を読む能力は全《まった》く封じられていない。
ここに轟武の疑問があった。
人の姿をとる武器の宝貝は、尋常《じんじょう》ならざる索敵《さくてき》能力を持つ。
だが、それは気配を読む能力と、五感を組み合わせて発揮《はっき》される力だ。
宝貝により格差はあろうが、重要なのは気配|感知《かんち》の能力で、五感は補佐的《ほさてき》なものでしかない。
感覚を遮断《しゃだん》したいのなら、気配感知能力を封じなければ意味がない。
己《おのれ》の両腕《りょううで》に食いつく手伽《てかせ》は間違《まちが》いなく、宝貝だ。宝貝の能力を封じ込める為《ため》の宝貝に違《ちが》いない。
そんな宝貝に気配感知を邪魔《じゃま》する機能がないとは考えられない。
『何故《なぜ》だ?』
答えは出ない。気配を感知出来るおかげで、事実、轟武は己を封じ込めている者たちの正体《しょうたい》を知っていた。
ここに繋《つな》がれてからの長い長い時間、彼らの会話を音ではない形で知覚したのだ。
鏡閃《きょうせん》。それが主人だ。
鏡閃に従う軍師《ぐんし》は、理渦《りか》。
轟武は記憶《きおく》の糸を探《さぐ》り、理渦の情報を引き出す。
理渦。正式には理渦記《りかき》の名を持つ、本の宝貝だ。本来は龍華の助手として造《つく》られた宝貝のはずだ。
そう、流麗絡《りゅうれいらく》と理渦記の二体が龍華の助手の役目を務《つと》めていた。
今は、その知能をもって埋渦は鏡閃の軍師となっているようだ。
ドクリ。
古傷《ふるきず》が痛む。
殷雷の顔が浮《う》かぶ。
幾度《いくど》となく弾《はじ》き出された結論が、再び轟武の意識に浮《う》かび上がる。
『鏡閃は俺を封じ込めた。
目的は殷雷を守る為だ。
俺に奴《やつ》を破壊させない為に、鏡閃は俺を封じている』
それしか考えられなかった。
つづらの封印《ふういん》の中ですら、俺や愚断《ぐだん》や幾《いく》つかの宝貝は、今と同じような封印を施《ほどこ》されていた。二重の封印だ。
つづらの宝貝が和穂《かずほ》の過《あやま》ちで崩壊《ほうかい》した時でさえ、まだ己の能力を封じる伽《かせ》は外《はず》れてはいなかった。
だが、伽には時間をかけさえすれば力ずくで破壊出来そうな傷《きず》が付いていた。
本来ならば真っ先に殷雷への復讐《ふくしゅう》を果たしたかった轟武であったが、やむなく人間界へ逃亡《とうぼう》し伽の破壊に時間を割《さ》いたのだ。
轟武は捻《うな》る。
やっとの思いで、伽を破壊した俺の前に鏡閃と理渦は現《あらわ》れ、再び俺を呪縛《じゅばく》した。
呪縛の理由は殷雷を守る事しか考えられない。呪縛の後、鏡閃は俺をこの状態のままここへ閉《と》じ込めた。
理渦は俺が殷雷の命を狙《ねら》っているのを知っていたのだろう。
だが、何故《なぜ》だ?
どうして鏡閃は殷雷を守ろうとしている、理由はなんだ?
封印の中、轟武は唸《うな》り続けた。いつの日か己の復讐《ふくしゅう》が成就《じょうじゅ》される時を信じて。
さあ、どこで何をどう間違《まちが》えた?
柴陽《さいよう》は自問自答《じもんじとう》していた。
今、自分が置かれている惨《みじ》めな状況《じょうきょう》を納得《なっとく》するには、当然それなりの理由があるべきだった。
軒轅《けんえん》の幹部《かんぶ》たる私が、こんな寒い冬の夜に、必死になって山道を逃げ回らなければならない理由はいったいなんだ。
ぜいぜい息を吐《は》きながら道なき道を柴陽は駆《か》けていた。
もう少し走れば、体《からだ》も温《あたた》まるだろうが今はそこまでいっておらず、ただ息苦しいだけであった。
ザッザッとなかば凍《こお》りかけた地面を蹴《け》って、柴陽は駆けながら考えた。
そう一番の問題はあの村だ。
宝貝《ぱおぺい》の保持者《ほじしゃ》が掃《は》いて捨てるほどいた、あの村だ。
龍衣《りゅうい》だかなんだか知らないが、化《ば》け物《もの》絡《がら》みの厄介事《やっかいごと》で、村民たちは宝貝を持っていたのだ。
全速力で走りながら、考えを巡《めぐ》らせるのは思っていたより骨だった。それでも少しは息苦しさを紛《まぎ》らわせる役には立つ。柴陽は再び思考に集中した。
厄介事があり、それに対抗《たいこう》する為《ため》に宝貝の所持者たちがいた。
これは理《り》に叶《かな》っている。
どんなに奇妙《きみょう》な事件でも、奇妙になった理由がちゃんとあるなら、それは少なくとも理不尽《りふじん》ではない。
つるりとした石をふんづけ、柴陽は軽くつんのめった。
『たまたま、私がその村に居合《いあ》わせて厄介な事件に巻き込まれたのなら、それはそれでいい』
いや、よくないけど仕方がないと柴陽は考えた。
少しは体が温まり、寒さからは解放されかけたが、激《はげ》しい血の巡りに今度は頭がズキズキしてきた。
なんで、私はあんな村に居たんだ?
そうだ、そこが問題だと柴陽は唸《うな》った。
私は軒轅の幹部として、宝貝を手に入れる為にあの村に行った。
あの村に宝貝があるのは、全《すべ》てを見通す九天象《きゅうてんしょう》の能力で知ったのだ。
正確には九天象の能力で、軒轅の首領《しゅりょう》が宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》り、私が回収を担当《たんとう》する事になったんだ。
心臓に嫌《いや》な痛みを感じたので、柴陽は足を止めた。
そして、近くの木に手を当て、ゼイゼイと息を吐く。
九天象の能力は絶対だと、首領《しゅりょう》はいつも言っていた。
九天象の能力があれば、あの龍衣の何とかという化《ば》け物《もの》の存在も判《わか》ったんじゃないの?
そこまで考えて、柴陽は首を振《ふ》った。いかに九天象でも、そこまでは暴《あば》けなかったのかもしれない。
いや、首領がそこまで調べていなかったのだろう、調べていたなら判《わか》っていたはずだ。
首領は宝貝の使い手たちが住む村をみつけて、それを狙《ねら》った。
村の素性《すじょう》までも調べてはいなかったのだ。
だから、私はあの厄介事に巻き込まれたんだ。
全《すべ》ては不幸な偶然《ぐうぜん》が重なっただけだ。
答えは見つかったようだが、柴陽は釈然《しゃくぜん》としなかった。
そうだ、私はこの村をどこにでもある普通《ふつう》の村だと知らされていた。
が、実際に来てみればとてもじゃないが、そうは見えなかった。
生きるのが精一杯《せいいっぱい》の村にしか見えない。
あの村の痩《や》せた土は尋常《じんじょう》ではなかった。
今思えば、村全体を覆《おお》う悲壮感《ひそうかん》そのものも龍衣の何とかが仕掛《しか》けていたのかもしれない。
常に、村人を殺さぬ程度の不作に抑《おき》えこみ苦しみを慢性的《まんせいてき》に広めるような仕掛けだろうか。
たまに豊作《ほうさく》の年があっても、来年の収穫《しゅうかく》を考えれば、恐《おそ》ろしくて蓄《たくわ》えに励《はげ》むしかないような雰囲気《ふんいき》が村の中にあった。
柴陽はあの村にあった小麦粉の臭《にお》いを思い出した。
新鮮《しんせん》さとは程遠《ほどとお》い、命を永《なが》らえる為《ため》にだけ存在するような湿《しめ》った臭いだ。あの小麦《こむぎ》はいつからあの小屋の中に蓄《たくわ》えられていたのか。
あの村は少なくとも普通《ふつう》の村じゃない。
ならば、九天象の情報が間違《まちが》っていた。
そう、それしかない。全てを見通す九天象は間違いを犯《おか》したのだ。
そして自分の考えの恐ろしさに、柴陽は唖然《あぜん》とした。
それは軒轅の存在自体を揺《ゆ》るがしかねない意味を持っていたからだ。
女は大きく首を横に振《ふ》った。それはあってはならない話なのだ。
重要なのは、あの村に宝貝の所持者が沢山《たくさん》居た事であり、村の特徴《とくちょう》は関係ない。
普通の村。という説明は首領が何気《なにげ》なく言っただけなんだ、あれは九天象の情報じゃなかったのだ。
柴陽は少し腹を立てた。
九天象なんて格《かく》の違う宝貝をもっていながら、それをいい加減《かげん》に使っていた首領もどうかしている。
おかげで、私はこんな酷《ひど》い目にあっているんだから。
これは首領に少しばかり文句を言って、破壊された宝貝の代わりを弁償《べんしょう》してもらおう。
柴陽は結論を出して、再び走りだそうとした。
が、柴陽の足は止まった。
和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》があの村に来たのは何故《なぜ》だ。
これは妙《みょう》だ。和穂と殷雷については、同じ軒轅の幹部である、鏡閃がその動向をうかがう。
和穂の動きは九天象で監視《かんし》されてるんじゃなかったのか?
少なくとも、村を調べる時に和穂たちがそばにいるかどうかぐらいは、判《わか》っていなければおかしいじゃないか。
そばにいるのならば、私に一言《ひとこと》注意があってもよさそうなものなのに。
がさり。
草を踏《ふ》む音が柴陽の間近《まぢか》でした。柴陽の背中に冷汗が流れた。思っていたよりも早く、村から逃げ出したのがバレたのか?
草を踏み分けて現《あらわ》れたのは一人の青年であった。
「が、願月《がんげつ》!」
星の明かりが、願月を浮《う》かび上がらせていた。
大柄《おおがら》ではなかったが、引き締《し》まった肉体が服の上からも見て取れた。ゴツゴツと発達した筋肉があるわけではないが、無駄《むだ》な肉は全くない。
引き絞《しぼ》ればどこまでも鋭《するど》くなりそうな瞳《ひとみ》だったが、今は、面白《おもしろ》そうに柴陽を見つめていた。
「よ。柴陽、こんな夜更《よふ》けに一人でかけっこかい?」
全てを承知の上での願月の冗談《じょうだん》に柴陽はわざわざ相手をしなかった。
「な、なによ! あんたに追い掛けられる理由はないんだからね! 和穂や殷雷に追われるならまだしも!」
「かっかっ。どうも女に逃げられると追い掛けたくなる性分でね」
かつて柴陽の知っていた願月は、もっと間抜《まぬ》けな男だった。その時と今とで、顔も体つきも変わっているわけではなかった。
だが、以前の願月にこんな気迫《きはく》はありはしなかった。
この姿の願月が本当の願月なんだろう。
砕鱗槍術《さいりんそうじゅつ》を自在《じざい》に操《あやつ》る流浪《るろう》の武人《ぶじん》ならば、この姿の方が納得《なっとく》はいく。
今は槍《やり》や矛《ほこ》の代わりに何故《なぜ》か、竹の箒《ほうき》を構えている。
「その箒は何よ! まさか、宝貝?」
「違う、違う。ただの箒さ。
怪吸矛《かいきゅうぼう》を和穂に返したんで、手元が寂《さび》しくて仕方がない。これでも本職は槍使いなもんでね。
仕方がないんで、豹絶《ひょうぜつ》の家の庭先に転《ころ》がってた箒を借りてきたんだ」
己《おのれ》の動揺《どうよう》を隠《かく》そうと、柴陽は大きな声を出した。
「へえ。
そんな箒で私と戦おうっていうの?」
手慣れた仕種《しぐさ》で願月は箒をクルクルと回した。
くるり、くるり。
やがて箒が空気を切り裂《さ》く音が周囲に響《ひび》きだした。
ひゅん、ひゅん。
それは、研《と》ぎ澄《す》まされた刃《やいば》が風を斬《き》る音と全く同じだった。
「いい音だろ、お嬢《じょう》さん。この風切り音が出せるようになるのに十年かかった。
この音が出せるようになりゃ、槍であろうが箒であろうが、充分《じゅうぶん》武器の役に立つんだぜ」
はったりなんかじゃないのは、柴陽にも判っていた。
願月の瞳《ひとみ》が柴陽を射抜く。
「無粋《ぶすい》な真似《まね》はしたくはないがね。
箒を振《ふ》り回して捕《つか》まえるのは、蛍《ほたる》だけで充分《じゅうぶん》だ」
「こんな真冬に、蛍が取れるとでも?」
肩に箒を担《かつ》いで願月は言った。
「なあに、もう捕《つか》まえたよ。
下手《へた》に逃げると怪我《けが》するぜ、蛍さんよ」
「私にどうしろってのよ!」
「こんな山の中で立ち話もなんだな。
もう一度、村まで戻ってもらおうか」
抵抗《ていこう》は無駄《むだ》だ。この状況《じょうきょう》からは逃げられない。
それに捕《つか》まった所で、和穂のような娘が私を酷《ひど》い目にあわせるとは考えられなかった。
悪《わる》あがきをする理由もない。
「判ったわよ。
それはそうと、和穂と殷雷はどうしたの」
和穂たちから逃げていたのに、肝心《かんじん》の和穂の姿が見えないのだ。
普段《ふだん》の和穂なら、願月の足について行くのは無理だろうが、殷雷刀を持つ和穂が願月ごときの生身《なまみ》の人間に遅《おく》れをとるはずはなかった。
願月は顎《あご》を撫《な》でた。
「じきに来る。
俺《おれ》の足の方が速かったみたいだな」
少しは捨《す》て台詞《ぜりふ》の代わりになるかと、柴陽は噛《か》み付くように言った。
「私は、嘘《うそ》つきは嫌《きら》いなの。
あんたが刀の宝貝より足が速いなんて信じられないね」
願月はボソリと言った。
「……怪我人《けがにん》よりは速く走れるさ」
「?」
「おっと、今の言葉は忘れてくれ。
柴陽よ。お前の為《ため》に言ってるんだ。
下手《へた》に今の事を口に出したら、刀に斬《き》られちまうかもよ」
「は?」
殷雷の目を通して見る世界と、自分の目を通して見る世界はどうしてこんなにも違うのだろう? と、和穂は以前から不思議に感じていた。
今、私は殷雷刀《いんらいとう》を片手に、漆黒《しっこく》の闇《やみ》の中を駆《か》けている。いや、駆けているのだろう。
でも殷雷の目を通して見る世界は、漆黒ではなかった。
闇《やみ》の色が一つではないのだ。
薄《うす》い黒や濃《こ》い黒のような違《ちが》いではない。
光がなければ色も存在しないというのは、もしかしたら間違いなのかもしれなかった。
光の中で輝《かがや》く赤は、闇の中では別の赤色を放《はな》っている。
闇の中の赤色を表《あらわ》す言葉を和穂は知らない。
だがそれは本当に存在し、殷雷の目はそれを見ているのだ。
疾走《しっそう》する和穂の瞳の中を、名前の無い色たちが渦《うず》を引きながら流れていた。
『ねえ、殷雷。今見ている色たちには、名前が無《な》いの?』
和穂は闇の中の色には、名前が無いと思ったが、それはあくまで人間の感覚としてのはなしだった。
殷雷のような宝貝や仙人たちの間には、ちゃんとした名前があるのかもしれない。
殷雷はいつもの面倒《めんどう》そうな口調《くちょう》で答えた。
『ねえよ』
『ふうん。なんだか可哀《かわい》そうだね。こんなに綺麗《きれい》なのに』
『馬鹿《ばか》め。
名の無い色を悲しんでどうする。
この世にある音のどれだけに名がある?
色に比《くら》べたら冗談みたいに数が少ないのだぞ』
本当にそうだろうか。
『そう? でも、音には楽譜《がくふ》があるじゃないの。
名前とは違うけど、それを示す事は出来るじゃない』
『音階に従わぬ音はどうなる。
音階以外の音で作られた歌もあるじゃねえか。って、そういうのも仙術《せんじゅつ》的な知識になってしまうのか。
なんにしろ誰も知らない音は無数にあるぜ』
仙骨《せんこつ》を封じられている和穂は、仙術に関する知識も封じられている。
『そうか。殷雷もなかなかいいことを言うね』
誉《ほ》められて素直に喜ぶ殷雷ではない。
『け。だいたいお前はこの色のことはなにも判っちゃいねえんだよ。
この色の中の幾つかは、人間の聴覚《ちょうかく》じゃ理解できない音を、目に見える形に変換しているのも混《ま》ざってるんだ。
それに耳から入る音の一部は、人間には見えない色を音に変えてたりもするんだ』
和穂はどうしてそんな手間をかけるのか、殷雷にきいてみた。
答える代わりに殷雷刀は疾走しながら己の刃で前方の虚空《こくう》を斬った。
流れる太刀筋《たちすじ》の前に蛍のような朧《おぼろ》な光が僅《わず》かにきらめく。
『この光は空気が斬れる音だ。これがあると刃の動きが把握《はあく》しやすかろう。
あと、いろいろ理由があるが説明は面倒だ』
そして殷雷は言葉を止めた。和穂に悟られぬように平静を装う殷雷であったが、その心の奥には願月に後れをとっている焦りがあった。
和穂も口を閉《と》じ、流れる色と、さざめく音にぼんやりと神経を傾《かたむ》けた。
流れ行く名前の無い色、耳から聞こえる音のなかには光が混《ま》ざる。
恐《おそ》ろしく膨大《ぼうだい》な情報が和穂の意識の中を駆けぬけていった。
そして和穂の記憶《きおく》の糸が震《ふる》えた。
『?』
何かを思い出す感覚に近いが何かが違った。
頭に力を入れれば入れるほど逃げていくような微《かす》かな記憶の肌触《はだざわ》りがした。
でもそれとは少し違う。
夢《ゆめ》の中で新しい知識を得たような違和感《いわかん》に近い。夢の中からは何ひとつ、新しいものを持ち出すことは出来ない。
夢の中での発見とは、すでに記憶の中にあるものが組み合わさり別の角度から見えるようになったに過《す》ぎない。
これは違う。
私は知らないことを思い出そうとしている。でもそんなことはあり得ない、宝貝でも使わない限りは不可能だ。
宝貝による攻撃《こうげき》? 和穂は声を上げそうになったが押《お》しとどまった。
今は、殷雷刀をこの手に持っている。
殷雷に気付かれずに攻撃されるはずがない。
ならばこの感覚は?
まさか、封印《ふういん》された仙術《せんじゅつ》の知識が蘇《よみがえ》ろうとしているのだろうか?
だが、そうではないようだった。
この感覚は知識を思い出そうとするものではない。別のもの、想《おも》い出《で》の記憶に関係するものだ。
とまどう和穂をあざ笑うかのように、和穂の与《あずか》り知らない『想い出』が浮かび上がってきた。
それは奇妙《きみょう》な感覚だった。目の前にあるのに焦点《しょうてん》が合わせられない、
まるで瞼《まぶた》の裏を見ようとする努力に似《に》ていた。
瞼の裏には何があるか?
何も無いのならそれでもいい。だが何かがあるのだ。
それは瞼ごしに光に透《す》かされた、瞼の影《かげ》かもしれない。
あるけど焦点《しょうてん》が合わず、焦《あせ》れば焦るほど余計に見えなくなる。
和穂はそこにあるものが気になって仕方がなかったが、それを見るのを諦《あきら》めかけた。
そこにある何かに意味がない可能性もあったからだ。
だが、皮肉なことに和穂の中から焦りが消え始めると、逆の焦点が合い始めたのだ。
驚《おどろ》く和穂が集中すると焦点がぼける。
諦めると焦点が合う。
しばらく悪戦苦闘《あくせんくとう》して、和穂はどうにかぼんやりとしながら焦点を合わせるコツを身につけた。
浮かび上がったのは、彼女の師匠《ししょう》であり和穂が地上にばらまいた宝貝の製作者である龍華《りゅうか》の姿だった。
浮かび上がる記憶の映像は、あまりにも意外な人物だ。和穂が驚くと途端《とたん》に映像は乱れた。急いで力を抜《ぬ》くと再び龍華の映像が焦点を結ぶ。
龍華は無表情だった。
感情が読み取れない師匠《ししょう》の姿など、和穂の記憶にはなかった。
だが和穂は本能的に師匠が怒《おこ》っているのを感じ取った。
度を超《こ》えた怒《いか》りが師匠の顔から表情を消しているのだ。
「お前は自分が何をしでかしたのか判《わか》っているのか?」
和穂はドキリとした。自《みずか》らの過《あやま》ちで人間の世界に宝貝をばらまいた自分の罪《つみ》を責められている気がしたからだ。
しかしそれは和穂の勘違《かんちが》いだった。
実際に龍華が和穂が宝貝をばらまいた事件を知った時には、彼女はこの表情を作ってはいない。
これは、この記憶の持ち主が師匠と会話をした時のものだと和穂は考えた。
記憶の中の師匠は言葉を続けた。
「時に甘さは致命傷《ちめいしょう》となる」
龍華を見ていた視点《してん》が動いた。
そして龍華の背後、地面に横たわる銀色の残骸《ざんがい》に視線は釘付《くぎづ》けになった。
これは何の残骸なのだろう? 和穂には砕《くだ》けた鉄のように見えた。
鉄を思わせる銀色はもしかして、本当の銀かもしれない。無数の破片はキラキラと輝《かがや》いていた。
その残骸の中に和穂は柄《つか》を見つけた。刀や剣の柄だ。
ならば、あれは刀の残骸なのか?
視線が奇妙な動きをした。
残骸から視線を外《はず》しかけると、無理やり力ずくのように視線は戻《もど》る。そんな動きが幾《いく》たびか繰り返された。
龍華とは違う声が漏《も》れた。
「……結舞《ゆうぶ》」
その声は何処《どこ》かで聞いた覚えがあった。そう、殷雷の声に似ていた。だが殷雷の声とは少し違うようではある。
謎《なぞ》の声から考えて、あの残骸は結舞刀か、結舞剣という名前なのだろうか。
今まで冷静に映像を見ていた和穂の心がふいに揺《ゆ》れ動いた。
本人にもその理由はすぐに判らなかった。だが、和穂の心は痛んだ。
結舞。
謎の声はそう呼んだ。
そして和穂は知った。宝貝の名は通常三文字からなる。最後の一文字はその宝貝の形態《けいたい》や性質を表《あらわ》している。
例《たと》えば瓢箪《ひょうたん》の宝貝なら、四海獄《しかいごく》や断縁獄《だんえんごく》のように最後の一文字に『獄』の字がつく。
人の形態を取る宝貝は通常、頭の二文字を呼ぶ。
殷雷刀を和穂は殷雷刀とは呼ばずに、殷雷と呼ぶ。
ならば結舞と呼ばれた宝貝も人の形を取れる宝貝だったのだろう。
そして、そこにはその残骸があるのだ。
この記憶が始まる前にいったい何が起こったのか和穂には判らなかった。
龍華の声が響《ひび》いた。
「私は轟武《ごうぶ》を破壊《はかい》しようと考えた。
お前の刃《やいば》で轟武を破壊しようと考えた。
だが、お前は私に逆《さか》らったのだ」
結舞の残骸に縫《ぬ》い付けられた視線は再び動き、床《ゆか》にうずくまる一人の男に向けられた。
苦悶《くもん》と悲しみの表情を浮かべた顔が見える。
胸のあたりから水銀のようなものが、まるで血のように滴《したた》っていた。
男の体には無数の符《ふ》が貼《は》り付けられていて、そのせいか男は凍《こお》りついたように動けない。
殷雷に似た声は言った。
「俺には轟武を殺せない。
そうだ、結舞を殺してしまったのは俺のせいなんだ。
だが、俺には轟武を殺せない。
結舞の願いを踏みにじる真似は俺には出来ない」
そこで記憶の映像が大きく傾《かたむ》いた。
記憶の持ち主が倒《たお》れたのだろうか。恐《おそ》ろしく低い視線で見上げるように再び龍華の姿が浮かぶ。
無表情な龍華の顔に僅《わず》かな悲しみが浮かんでいた。
声は続いた。
「龍華。俺には轟武を殺せない。だが結舞を殺した轟武は許せない。
轟武はお前が殺せ」
龍華の顔に途端《とたん》に怒《いか》りが浮かんだ。
「それが甘《あま》いというんだ!
いいか? なぜお前らにわざわざ魂《たましい》をくれてやったか考えてみろ。
斬《き》れるだけでいいなら、誰《だれ》がそんな面倒《めんどう》な仕掛《しか》けを施《ほどこ》すか?」
「判《わか》らねえな。判らねえし、考える時間もなさそうだ。
奴《やつ》を刺《さ》した時、轟武の剛拳《ごうけん》が掠《かす》っちまったらしい。情けないが当たり所が悪かったようだ」
龍華は軽く舌打《したう》ちをし、記憶の持ち主に手を伸《の》ばした。
「いかんな、もろにこめかみか。衝撃《しょうげき》の浸透《しんとう》が尋常《じんじょう》ではないな。修繕《しゅうぜん》しても記憶の整合性《せいごうせい》が失われるかもしれん。
記憶の断片化は洒落《しゃれ》にならんぞ。まあ、打ちたての刀だからそれほど記憶の蓄《たくわ》えもないか」
「修繕なんぞやめてくれ。俺は結舞を守りきれなかった。
このまま壊《こわ》れさせてくれ」
映像が乱れていった。和穂の感情の為ではなく、記憶そのものが薄《うす》れていた。
龍華の声もかすれていく。
「もう少し利口《りこう》に造《つく》ってや……良かったか。お前は欠陥《けっかん》宝貝だ。
そんなんじゃ、……私が欠陥宝貝を破壊せずに……わざ封印しているかも……
魂《たましい》をくれてやったんだ、己の欠陥を乗り越えてみせろ殷雷……」
記憶は消えた。
和穂の耳には師匠の最後の言葉がこびりついていた。
師匠は最後に殷雷と言っていた。
あれは殷雷の記憶なのか? だが殷雷の声とは少し違う。
! 私が知っている殷雷の声は、師匠が修繕《しゅうぜん》した後の殷雷の声なのか?
恐《おそ》る恐る和穂は殷雷に問い掛けた。
『殷雷』
『なんだ?』
『結舞って知ってる?』
『……何処《どこ》かで聞いた覚えが……いや判らん。
誰だっけ?』
泥《どろ》の中での戦いが終わって、もうどれくらいの時が過ぎたのだろうかと、執務室《しつむしつ》の椅子《いす》にもたれかかりながら村長代理は考えた。
宝貝《ぱおぺい》の使い手の襲撃《しゅうげき》によって、この村は泥《どろ》の中に沈《しず》められたのだ。
敵は宝貝を使い、こちら側にも宝貝はあった。
それは幸運だったのか不運だったのか。こちらの手の内に宝貝がなければ、泥の中で村人は全滅《ぜんめつ》しただろう。が、こちらに宝貝がなければ、そもそも泥の襲撃《しゅうげき》を受けたりしなかっただろう。
村長代理は大きく息を吐いた。
宝貝は村全体を泡《あわ》のように包み泥の侵入《しんにゅう》を防いではくれた。
そして始まったのは持久戦《じきゅうせん》だ。持久戦、しかもこちらが防衛側で助けが来る見込みはなかったのだ。
こんな状況《じょうきょう》で士気《しき》を維持《いじ》するのは不可能であると村長代理は経験で知っていた。
たとえ一年はもつほどの兵糧《ひょうりょう》があったとしても、人は一年と一か月先の未来を憂《うれ》いてしまうのだ。そして、狂《くる》う。
本当の飢《う》えを知る者は、飢餓《きが》の恐怖《きょうふ》には耐《た》えられないのだ。
泥の中の戦いも同じことだ。
数週間が過ぎれば誰《だれ》かが泥の中に飛び込み溺死《できし》するだろう。
一人がそれをやればもう歯止めは利《き》かない。村は狂気《きょうき》に沈んでいくだけだ。
が、村長代理の予測は完全に外《はず》れた。士気は常に保《たも》たれていたのだ。
言葉にすれば、あまりに簡単な理由だった。
不屈《ふくつ》の闘志《とうし》と鋼《はがね》のように強固な意志、全《すべ》ての村人がそれを持っていたのだ。
だが、なぜそんなことがありうる?
村長代理は強く瞼《まぶた》を閉《と》じた。
彼らの闘志と意志の裏には、己《おのれ》の持つ技術への自信があったのだ。
泥を突破《とっぱ》できると心の奥《おく》から信じきれるだけの自信だ。
村長代理は目を開いたが、瞼が粘《ねば》つくような嫌《いや》な感触《かんしょく》があった。
『この村の中で、己を信じられないのは私だけなんだ』
あの頃《ころ》はまだ暑《あつ》かった。
だが、今はたまに雪が降る日もあった。
ざっと半年ばかりの時が流れたのだと村長代理は知った。
自分が時の流れを気にしている事に、村長代理は妙《みょう》なおかしさを感じた。
部屋《へや》の窓は大きく開かれ冷たい風が流れ込んでいた。
強めの暖房《だんぼう》で少しぼんやりした頭には、その冷たさが心地《ここち》よかった。和穂《かずほ》たちは今|何処《どこ》にいるんだろうか。そして梨乱《りらん》は。
村長の代行をまかされているが、男の見た目はまだ若かった。
普通《ふつう》の青年に違《ちが》いはなかったが、よく観察すれば、居住《いず》まいの繊細《せんさい》さが滲《にじ》みでて、さりげない所作《しょさ》に落ち着きが満ちてはいた。
指導者の風格《ふうかく》にとても良く似《に》ている別の風格を、村長代理はもっていた。
『……えらく遠くに来てしまった』
彼が生まれたのは、この村から遥《はる》かに遠い世界だった。
いかな鳥でも、いかな魚でも、いや光さえもたどり着けない遠い世界だ。
望郷《ぼうきょう》の念は全《まった》くない。
残してきたものへの未練《みれん》もない。
だが、だからといってあの戦乱《せんらん》に明《あ》け暮《く》れた世界を離《はな》れてよかったのだろうか? と、村長代理は考えた。
「考えごとですか? 村長代理?」
部屋《へや》の扉《とびら》を開け、彼に声をかけたのは一人の娘だった。
名前は芳紅《ほうこう》。目の前に持った盆《ぼん》の上には湯呑《ゆの》みが載《の》せられていた。
「おっと」
芳紅は年頃《としごろ》の娘らしく、慌《あわ》てる村長代理の姿を見て楽しそうにケラケラと笑う。
村長代理もつられて笑った。
「居眠《いねむ》りしているところを見つからなかっただけでもましかな? 眠気覚《ねむけざ》ましに窓を開けたところなんだ。
寒ければ閉《し》めるよ」
湯呑みを村長代理に渡《わた》しつつ芳紅は言った。
「いえいえ構《かま》いません。
ま、これだけ暇《ひま》じゃ眠くもなりますよね」
芳紅は村長代理の机の上に広がる書類に目を通した。
「開墾《かいこん》、治水《ちすい》、共に問題なし。
開拓《かいたく》作業計画に一切《いっさい》の遅《おく》れは認められず。
全《すべ》て良好。村長代理の出る幕《まく》なし」
居心地《いごこち》が悪そうに村長代理は、茶をすすった。
「仕事がない」
「伝言をあずかってますよ。
村長が、仕事の時間が空《あ》いているなら面会にきてほしいとのことです」
「ん。判《わか》った。
……それはそうと梨乱は無事なんだろうかな。
その夜主《やしゅ》とかいう盗賊《とうぞく》を追いかけているんだろ? 危険な気がするんだが」
芳紅は大きく口を開け笑った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。
梨乱が天呼筆《てんこひつ》を盗《ぬす》まれたのは、不意を突《つ》かれたからです。
それにあの娘は昔《むかし》から、借りた物は返す性分《しょうぶん》ですからね」
芳紅は机の隣《となり》にある陶製《とうせい》の火鉢《ひばち》に炭《すみ》を足《た》した。
芳紅と梨乱は幼馴染《おさななじみ》だった。
そんな古い友達が彼女の身の安全を保証しているのだが、やはり不安な気分に変わりはなかった。
そんな村長代理の気持ちを察したのか、芳紅は彼の背中をドンと叩《たた》いた。
「心配ご無用。
あと一か月過ぎても帰らないなら、手の空いてる村の皆で探《さが》しにいきますよ」
まあいい、それも含《ふく》めて村長と相談してみよう。村長代理は席を立った。
ぶらりぶらりと村長代理は村の中を歩いた。
いつもと同じように活気に溢《あふ》れている。
次から次へと過酷《かこく》な辺境《へんきょう》に出向きその土地を開拓《かいたく》している村人たちだ。
開拓が済《す》んだならその土地に留《とど》まれば良いのに、村人は次の土地へと向かう。
初めのころは村人の行動を理解出来なかった村長代理だったが、最近はその理由が少し判《わか》りかけてきた。
梨乱は特にズバ抜《ぬ》けているが、それ以外の村人たちも、普通《ふつう》の常識からみればかなり高度な技《わざ》を持つ技術者たちだ。
もし同じ土地に居れば、その技術が妬《ねた》まれ、恐《おそ》れられ、迫害《はくがい》を受けるだろう。
それゆえに村人たちはこうして開拓の旅を続けているのだ。
流浪《るろう》の旅に疲《つか》れた者は、村を去っていく。
だから逆にこの村に疲れている者の姿は少ないのだ。
己《おのれ》たちの持つ技術を他《ほか》に広げない理由を、村長代理は知らなかった。
村長に尋《たず》ねれば理由を教えてくれるだろうが、それを聞くのが村長代理は恐ろしかった。
『人は愚《おろ》かだからだよ』
答えはそうに決まっていた。
この村の技術を手に入れた者は、必ず己の欲望で何かを滅《ほろ》ぼす。
かつて、村長代理の兄弟たちが宝貝の力で、己を見失ったのと同じようにだ。
村長代理の息が荒《あら》くなった。
子供たちが村長代理の前を駆《か》けぬけていく。
子供たちの手にはとてつもなく精巧《せいこう》な風車《かざぐるま》が回っていた。
『俺《おれ》は、俺のやった事は、俺の兄弟《きょうだい》たちとやった事は、正しかったのか?』
そして村長代理の前に村長の家の門が現《あらわ》れた。ごく質素《しっそ》な造《つく》りの門構《もんがま》えだった。
「いよう、村長代理! どうした? 顔色が悪いぞ、水にでも当たったか」
「いえ、ちょっと考え事をしていまして」
通された部屋《へや》の中には、既《すで》に村長が居た。
村長代理が椅子《いす》に着くより早く、彼に声をかけてきた。
「ほお考え事とな。
よし、何を考えていたか当ててやろう。
ううん、梨乱の心配だな」
村長代理は苦笑した。
「ええ、まあそうです」
村長は大柄《おおがら》な男だった。髪《かみ》の毛には白いものが混《ま》ざっていたが、あまり老《ふ》けたようには見えない。
梨乱の実の父親だが、年からすれば若い頃《ころ》に出来た娘なのだろうと村長代理は考えていた。
聡明《そうめい》そうには見えなかったが、独特の早口が彼の場合は、頭の回転《かいてん》の速さを思わせた。
「それと、過去への後悔《こうかい》だな」
鋭《するど》い指摘《してき》に、村長代理の体《からだ》が強張《こわば》る。
村長は目の前で手を振《ふ》った。
「よいよい。
俺も気にしてないんだから、あんたも気にするな。
あ、あんたの過去って意味な。
じゃ本題に入るぞ。
そろそろ俺の腰《こし》も癒《い》えてきたから、村長代理の役目をはずしてやろうか?
今まで厄介《やっかい》な仕事を引き受けてくれて感謝しとるよ。
でも、あんたは旅人だったよな。
引き止めるのが礼儀《れいぎ》か、引き止めないのが礼儀なのか決めかねてるんだ。
どっちがいい?」
単刀直入《たんとうちょくにゅう》な質問に、村長代理は咄嗟《とっさ》に答えが出なかった。
しばらくの沈黙《ちんもく》を村長代理が破った。
「いずれはこの村を去ろうとは考えていました」
小刻《こきざ》みに村長はウンウンとうなずく。
「あの馬鹿《ばか》娘のことを考えてくれているんだな。
梨乱は今、旅に出てこの村に居ない。
その間に自分が姿を消すのが心苦しいんだ。
なに、気にする必要はない。年頃の娘の恋愛《れんあい》ごっこに付き合う義理はあるまいて」
梨乱は自分を慕《した》ってくれている。それは事実だ。だが自分はそれほどの人間なのだろうか。
「梨乱を悲しませたくはないのです」
「駄目《だめ》駄目。
あんたは優《やさ》しすぎるから苦しむんだよ。
あんたはあんたがやりたいことやるべきなの。
あの馬鹿《ばか》が帰ってきてあんたが居なけりゃちょいと親子|喧嘩《げんか》にゃなるだろうけど、それで気が済《す》まなきゃ、あんたを追いかけて旅にでるだろうよ。
だからあんたは、あんたの好きにしな」
村長の言葉には説得力があった。
自分の姿が見えないからといって、来る日も来る日も泣いている梨乱の姿は想像出来なかった。
「判りました。
それでは私は旅に戻ります」
「うむ。
送別会《そうべつかい》ぐらい開くから、それに付き合ってから旅にでなさい。
誰にも内緒《ないしょ》で村をでるなんて格好を付けたのはなしだからな。
本当にあんたには、感謝してるんだよ」
村長代理は、大きく息を吐《は》いた。
あまり自覚をしているつもりはなかったがやはり重圧からの解放感が広がっていく。
「何か、ほっとしました。
たいした仕事も出来ませんでしたが。
それはそうとどうして私を村長代理に任命されたのですか?
『泥』の一件は私の責任もありましたから、引き受けはしたんですが、私以上に代理職に適任の方は居《お》られたでしょうに」
そのとおりだった。
村人たちをまとめるのが目的ならば、梨乱のほうがまだ適任だろう。
村長は懐《ふところ》から煙管《きせる》を出し、火打ち石で器用《きよう》に火を灯《とも》した。
あの火打ち石も尋常《じんじょう》な代物《しろもの》じゃないなと村長代理は判断した。
今までの早口からは想像できないほど、ゆっくりと村長は言った。
「あんたが一番適任だった」
「そうですか私なんか」
「非常事態の統率者《とうそつしゃ》には、兵士の指揮官《しきかん》が最適《さいてき》だわな」
「!」
「隠《かく》すつもりはなかったんだろうけど、判《わか》っていたよ。ちょっとした仕草《しぐさ》で判るもんなんだ。
あんたは、昔《むかし》かなりの数の兵士を指揮してたでしょ。
ちょっとした将軍ぐらいの地位にいたでしょ」
背筋に寒気《さむけ》が走る。村長代理の口の中が乾《かわ》いていった。
村長の言葉のように、隠すつもりはなかった。
「すいません」
「謝《あやま》る理由はないよ。
あんたが旅をする理由とも関係してるんでしょ。
あんたには感謝しているから、なにも聞かない。
あんたは優《やさ》しい人だから、戦いをなくす為《ため》に戦っていたんだろうね。いや戦いをなくす為の戦いだと信じて戦っていたんだろうね」
村長代理はうつむきながら首を横に振《ふ》った。
「私は逃げたんですよ。
戦いの意味が判らなくなって、私は私の戦いの結果を知りたくなったのです。
殻化宿《かくかしゅく》の力で私は長い眠りにつきました。戦いの結果の出ているはずのこの世界へ。
でもそれは言い訳《わけ》に過ぎなかった、私は戦いの日々に嫌気《いやけ》がさしただけだったんです。
全《すべ》てを捨てて私は逃げたんです。
私はただの卑怯者《ひきょうもの》なんです。
梨乱に慕《した》われる資格なんて私にはないんです」
村長は父親の目をして言った。
「あんたのそんな内に秘《ひ》めた苦しみが、梨乱の心を惹《ひ》いたんだろうね」
「……私は後悔《こうかい》しかない人生を送る男です」
「後悔だけとはもったいない。
人生は楽しむべきだよ」
「私にそんな資格は」
「人は愚《おろ》かだ。
あんたもそう思うだろ。あんた自身を含《ふく》めて全ての人間がね。
私もそう思う。この村の技術を必要以上に外へ出さないのは、それが理由だ。
でもな。
愚かな人間でも、いずれは悟《さと》る時がくる。いつまでも愚かなままじゃないんだ。
でも悟《さと》るきっかけというのは、大概《たいがい》は致命的《ちめいてき》な間違《まちが》いをしでかした時なんだ。
誰かがこの村の技術を得て、致命的な失敗をして、そいつ一人が悟っても、あまりに多くの人間を不幸にしてしまえば、それこそ後の祭《まつ》りだな。
取り返しのつかない不幸を防ぐために、技術を守っているんだ」
村長の頭の中に二人の男の顔が浮《う》かんだ。
致命的な間違いをしでかし、なおかつ悟れなかった自分の兄弟たちの顔だった。
「私はその取り返しのつかない致命的な間違いをしでかしたんですよ。
私は私を信じてくれた人の為にも、逃げるべきじゃなかった」
苦しむだけ、あんたは正気《しょうき》なんだよ。だがこの言葉ではこの青年の慰《なぐさ》めにはならないと村長は知っていた。
「あんたはもう愚かじゃない。
もう、どんな状況《じょうきょう》になろうと逃げやしないだろうからね」
「でもそれは、私を信じてくれた人への償《つぐな》いではない。
償おうにも私を信じてくれた人々はもう誰もいない。私は何百年も昔の人間なんです。
私は逃げて、そして一人になったんだ!」
「だろうな。
でも後悔だけでも仕方が無い。
どんな人生にだって諦《あきら》めない限り、必ず光は射《さ》すんだよ、いつかはあんたの言う償いも出来るかもしれん。
それを信じるんだよ村長代理。
って、もう村長代理じゃなかったんだな、張良《ちょうりょう》さん」
街外《まちはず》れの大木に夜主《やしゅ》は登り、そして酒をかっくらっていた。
いくら太い枝とはいえ、その上に寝転《ねころ》がるのには少しばかり技術がいる。
だが夜主は楽々と酒徳利《さかどっくり》を片手に片肘《かたひじ》ついて、枝の上に横たわっていた。
街外れとはいえ、夕闇迫《ゆうやみせま》るこの時刻、家路《いえじ》を急ぐ人通りはまだ絶《た》えていない。
だが、まさかそんな木の上に酔《よ》っ払《ぱら》いがいるとは誰も気が付いてはいなかった。
徳利に結ばれた荒縄《あらなわ》を手の甲に巻きつけ、夜主は酒をあおった。
「け。不味《まず》い酒だ」
心配そうな声が夜主の指から響《ひび》く。声の主は捜魂環《そうこんかん》だった。夜主の指にはめられている宝貝《ぱおぺい》である。
「夜主様。
宿に戻りましょう。梨乱《りらん》様もそろそろお戻《もど》りになられるころです」
「はん。知ったこっちゃないね」
夕闇《ゆうやみ》の中にそびえる街を夜主はぼんやり眺《なが》めていた。
「しかしですね、夜主様の姿が見えないと、心配なされます」
夜主は忌々《いまいま》しそうに手首にはめられた腕輪《うでわ》を見た。この腕輪もまた宝貝であった。
「心配なんざするもんか。
この腕輪のせいで私の居場所はあの小娘に筒抜《つつぬ》けだ」
「そうなんですか」
「はっきり判《わか》るわけじゃないだろうが、ちょうど磁石《じしゃく》みたいな感覚が私と梨乱の間にあるんだよ」
この腕輪のせいで夜主は梨乱に捕《と》らわれていた。
梨乱が命ずればこの腕輪は山のように重くなった。しかも、梨乱の意思《いし》ではこの腕輪は外《はず》せないときていた。
夜主は憂《う》さを晴らすかのように、酒をぐびぐびと飲んだ。
夜主のそんな姿を目の前にして、捜塊環の心が痛んだ。夜主の性格からして捕らわれの身ほど、彼女の神経を逆《さか》なでする状況《じょうきょう》はないと捜魂環は長い付き合いで知っていたのだ。
少しでも夜主の気を紛《まぎ》らわせようと、捜魂環は言葉を繋《つな》いだ。
「梨乱様は今、なにをしておいででしたか?」
「橋の図面を引いてるらしいな」
旅をするにも金がいる。和穂《かずほ》の足取りを追う旅だが、最初に用意していた旅費が底を着いたのだ。
そこで、梨乱は旅費を稼《かせ》ぐために橋の図面を引く仕事を引き受けたのだ。
「大体《だいたい》、あんな小娘に図面を引かせるとは、街の連中もなにを考えてやがる。橋だぜ、橋の図面だぜ」
「最初は門前払《もんぜんばら》いだったのが、あの焼印《やきいん》用の鉄の印を見せられてから態度が一変しましたそうで」
眉間《みけん》に皺《しわ》をよせて夜主は吼《ほ》えた。
「あの印こそは、柳《りゅう》家の一族の証《あかし》だとよ。
態度をころころ変える連中は好かん」
「半《なか》ば伝説と化してるそうですからね、柳家の技術者てのは。
あの焼印がついた道具は値段が通常の物の数百倍から数千倍はするそうですよ」
夜主はむっくりと上半身を起こし、あぐらを組んだ。そしてニヤリと笑う。
「だからよ、図面なんて面倒《めんどう》な仕事はよしてだな、そこらへんのボロい皿《さら》やら壷《つぼ》やらにあの焼印を押《お》せば丸儲《まるもう》けできるじゃねえか」
「……あのですね。
柳家は窯元《かまもと》じゃないんですから、皿や壷に焼印を押してどうするんです。
せめて機織《はたお》り道具や鋤鍬《すきくわ》とかの道具ならまだしも」
楽しそうに夜主は笑った。
「けけけ。世の中には名前に踊《おど》らせられる底抜けな馬鹿《ばか》もいるもんだぜ」
ゆるりと陽《ひ》は落ちていった。
あぐらをかく夜主は自分の足元を覆《おお》う靴《くつ》に手をやる。
「瞬地踏《しゅんちとう》も少し汚《よご》れたな」
「一応宝貝ですからね。わざわざ洗わなくても汚れは自然にとれますよ」
宝貝、瞬地踏。その着用者は尋常《じんじょう》ならざる速度で走ることが出来る宝貝である。
夜主には、瞬地踏が良く似合《にあ》ってると捜魂環は常々《つねづね》感じていた。
瞬地踏は強大な力を持つが、使用者の体を一切防御《いっさいぼうぎょ》しない。
夜主はその力をねじ伏《ふ》せて瞬地踏を操《あやつ》るのだ。豪胆《ごうたん》な将《しょう》が荒馬《あらうま》を乗りこなす姿が重なって見えた。
腕に伽《かせ》をはめられる前は、夜主は他《ほか》の宝貝を求めて、文字通り大地を駆《か》け巡《めぐ》っていた。
だが、瞬地踏以上に夜主を満足させる宝貝はありはしないだろうと捜魂環は考えていた。
瞬地踏と夜主を見るたびに、捜魂環はいつもそう感じ、そしていつも不安を感じていたのだ。
自分が思い悩んだところでこの不安は拭《ぬぐ》えはしない、答えを知るには直接夜主にきくしかないと判《わか》っていた。
だが、その答えを知るのが捜魂環は恐《おそ》ろしかった。
陽が沈《しず》む。
全《すべ》てを覆《おお》う深紅《しんく》の光はゆるりと夜の闇《やみ》へと変わり果てていく。
夜主の姿が精密《せいみつ》な影絵《かげえ》のようになっていく。
そして、捜魂環は覚悟《かくご》を決め、夜主に積年《せきねん》の疑問をぶつけた。いずれは知らなければならない。
「夜主様」
「なんだ? えらく真剣《しんけん》な声をだしやがって」
「宝貝には道具の業《ごう》があるのをご存知《ぞんじ》ですよね」
夜主はぼりぼりと頭を掻《か》いた。
「あぁ聞いた覚《おぼ》えはあるけど、何だったっけ」
「宝貝は己《おのれ》の能力を必要とする者の前に現れる。というやつです。
和穂が地上に宝貝をばらまいて多くの人間が宝貝を手にすることになりました。
でも宝貝保持者は偶然《ぐうぜん》に宝貝を拾ったというわけではないのです。
そりゃまあ例外はあるでしょうが、普通《ふつう》名刀《めいとう》を渇望《かつぼう》している者の前に、湯呑《ゆの》みの宝貝が現《あらわ》れたりはしません」
いい加減《かげん》夜主は会話に飽《あ》きてきたのか、口調《くちょう》が乱雑になってきた。
「だからなんだ?」
「……夜主様の性格からして、瞬地踏が姿を現したのは判ります」
「脚力《きゃくりょく》を増加させたいという願いはあったろうな。
ちょいとでも拳法《けんぽう》をかじれば脚力の重大さが身にしみるしよ。
あと馬みたいに速く走れたら気持ちいいだろうなとも思った。馬そのものは大嫌《だいきら》いなんだけどな。馬の目みたいな純真《じゅんしん》なもので見つめられたら尻《しり》の落ち着きが悪くなる。
捜魂環。だからどうしたんだ。
なにが言いたい」
「夜主様はどうして私を『呼んだ』のですか? 私は人の居場所を探《さぐ》る為《ため》に造《つく》られた宝貝です。
夜主様は誰《だれ》かを探《さが》したいのではないんですか?」
夜主の表情は暗闇《くらやみ》に隠《かく》れていった。
雪はないが冷たい風が吹《ふ》く。
「さあね」
「さあね、とは何です?
確かに私は人間以外の宝貝の居場所もある程度は探《さぐ》れます。でもそれが理由ではないですよね」
「…………」
「夜主様!」
夜主は軽く舌打《したう》ちをした。
「判らないんだよ。誰かを探したいがそれが誰だか、どうして探したいかが判らない」
「? それは……どういうことです」
「そのままの意味さ。
記憶《きおく》が曖昧《あいまい》なんだ。昔《むかし》の事はよく覚えていない」
簡単《かんたん》な答えだが尋常《じんじょう》な話ではない。
「なんですと! そんな重大な話、今まで一度も聞いた覚えがないですよ。
自分の過去がはっきりしないなんて」
夜主は慌《あわ》てる捜魂環の声に、思わず吹き出してしまう。
「別に重大な話じゃない。
私は夜主だ、それに違いはない。
ガキの頃《ころ》の記憶がなくて普段《ふだん》の生活に何の支障《ししょう》がある」
「そりゃまあそうでしょうが、自分の歩《あゆ》んできた人生がはっきりしないんですよ。
どのあたりまで記憶が辿《たど》れるんですか?」
夜主は答えた。答えるのは面倒《めんどう》だったが、捜魂環の心配を少しぐらいは軽くしてやろうと彼女は考えた。
「……記憶がないんじゃない。
記憶が曖昧《あいまい》なんだ。今に近い部分の記憶ははっきりしているが、過去に遡《さかのぼ》れば遡るほど記憶に白い霧《きり》がかかるんだ。
どう言やいいかな。
そうそう、一週間前の昼飯《ひるめし》に食ったものを思い出してるようなもんだ。
肉か魚かはっきりしないが、何かを食ったのは間違《まちが》い無い。
もしかしたら忙《いそが》しくて昼飯を抜《ぬ》いたかもしれないが、かといってとんでもない物を食ったわけじゃない」
だが、問題は記憶している内容だ。一週間前の食事が曖昧なのと、今に至る自分の人生が判らないのでは話が違う。
「しかしですね、それは尋常な話ではないですよ。
! もしかしたら宝貝の使い手の攻撃《こうげき》を受けているのでは!」
徳利の酒を夜主はあおった。
「まあ、可能性がないわけじゃないな。
私が探したい誰かは、私に会いたがってないとかな」
捜塊環は単純な事実に気づく。
「いえ、やはり、攻撃の線はないかもしれません。
私は龍華《りゅうか》の封印《ふういん》から逃亡《とうぼう》して、瞬地踏と共にすぐに夜主様のところに参《まい》りました。
これでも私は人間の魂《たましい》に関《かか》わりを持つ宝貝でございます。
記憶をいじろうなんて攻撃を夜主様が受けたならすぐに気がつくはずです」
口元からこぼれた酒を拭《ふ》い夜主は言う。
「封印から逃亡して、お前らはすぐに私の前に現れた。
もし攻撃を受けたのなら、敵は私より早く宝貝を手に入れて、お前らが来る前に攻撃を終了《しゅうりょう》せねばならんのだな。
確かにあり得ないな」
ではどういう理由なのだろうか。
捜塊環は真剣《しんけん》にあらゆる可能性に考えを巡《めぐ》らせてみた。
だが当の夜主は自分記憶の曖昧さには、たいして興味《きょうみ》が無いようで、ぐびりぐびりと酒を飲み続けていた。
捜塊環は、一つの答えにぶち当たった。
「や、夜主様。
可能性の高そうな答えを見つけました」
酒が空《から》になり、夜主は徳利の中を覗《のぞ》いていた。
「言ってみな」
「……酒の呑《の》み過ぎですよ」
徳利の中を覗く夜主の動きが強張《こわば》る。
「しゃ、洒落《しゃれ》になってないぞ捜魂環」
「酒の量は減《へ》らすべきかと」
珍《めずら》しく夜主は素直に答えた。
「判ったよ。酒は控《ひか》える」
夜主は上体を起こし、木の幹《みき》へとよりかかった。
私は誰を探したいのか? 捜魂環の言葉どおり記憶がさだかでないのは異常な話なのだろう。
が、捜魂環に語った自分の気持ちに偽《いつわ》りはなかった。
気ままな現在の生活は悪くはない。
これで両腕《りょううで》の呪縛《じゅばく》から解放されればなんの文句もない。
夜主が大きく欠伸《あくび》をすると、彼女の視界《しかい》の角《すみ》で何かが動いた。
それは一つの影《かげ》だった。
厚みのある影が夜主の隣《となり》に座《すわ》っている。
尋常ならざる影を見ても、夜主は驚《おどろ》きはしなかった。捜魂環が慌《あわ》てないところを見るとこの宝貝には影が知覚できてないのだろう。
この影を見たのは今が初めてではない。
今までにも何度か会った覚えがある。だが、初めて会った時でさえ何の違和感《いわかん》も感じなかった。
影はただ側《そば》にいるだけで、口をきいたりもしない。
捜魂環との会話の後だったので、もしかしたら私はこの影の正体《しょうたい》に会いたいのではないかと夜主は思った。
自分の口から流れ出る言葉は夜主にも意味が判らなかった。
「あなたに会いたい。でもあなたはいない。
あなたはいなくなってしまった。
あなたに会いたかったかもしれない。
でもあなたのいない世界も悪くはない。
また会えるのかしらね。
会えないのならあなたの影ですら見えないと思う。
会いたいけど、会えないならそれはそれでいいのよ。怒《おこ》った?」
夜主の隣《となり》で影が静かに笑った。
影につられて夜主も笑った。
捜塊環には笑い事ではない。
「どうしたんです夜主様! いきなり訳《わけ》のわからない事を」
「おやおや。私が感傷的《かんしょうてき》な気分になっちゃいけないのかい」
「ああああ、やっぱり酒が変な所に回ってしまったんだ!」
「お前もしつこいね」
そこへ若い娘の声がかかった。
「夜主さん! どこに居るの?」
夜主が木の下を見てみると、年の頃《ころ》なら一五、六の髪《かみ》の短い娘が居た。梨乱である。
顔を出した夜主に気付いたのか、木の上に向かって手を振った。
「お土産《みやげ》にお酒もらってきてあげたよ。
酒のあてに焼き貝も買ったから一緒《いっしょ》に宿屋に戻《もど》って食べよう」
夜主は小声で捜魂環に言った。
「なんともまあ、間《ま》の悪い娘だな」
「……禁酒はどうなされます?
あ、いいんですお答えになられなくても、
『せっかく梨乱が私の為《ため》に酒をもらってくれたんだ。
そんな酒に口つけないわけにはいくまい』
てな感じで心にもない事を言ってあの酒を呑《の》もうとお考えなんでしょ」
「あのな、捜塊環」
「違《ちが》いますか?」
「違わないけど」
軽い身のこなしで夜主は枝の上から地面に降り立った。
「どうだ梨乱。仕事はどれくらいで終わる」
焼《や》き貝《がい》を一つつまみ食いしながら梨乱は答えた。
「明日には終わるよ」
捜魂環が説明を始めた。
「地図と照らし合わせた、現在の和穂の進路です。
まず和穂は切り立った山と海岸に挟《はさ》まれた街道《かいどう》を進んでいましたが、途中《とちゅう》で海岸線を離《はな》れ山道に向かいました。
地図を見る限り、山奥《やまおく》ではありますが村も点在《てんざい》していますので、そこの宝貝を回収しに向かったんでしょうね」
夜主も焼き貝をパクついた。
「それでいつになったら追いつく?」
「この山岳《さんがく》地帯は行き止まりになっています。つまり山に向かった和穂は、再び海沿いの街道に戻るかと。
そのまま高山地帯、しかも冬山を越えるとは考えにくいですからね」
熱い貝に、はふはふ言いながら梨乱はうなずいた。
「そうか、それじゃ和穂が山道から戻ってくる間に距離《きょり》を詰《つ》められるんだ」
「左様《さよう》でございます。山道は丁度《ちょうど》葉脈状《ようみゃくじょう》に広がっておりますので行き違いにもならないでしょう。
そうですね。宿酔《ふつかよい》で頭が痛いから今日《きょう》は一歩も動かん! なんて夜主様がダダをこねなければ、十日もあれば」
夜主は大きく首をひねる。
「さあ、後はいかにして間抜《まぬ》けな和穂や梨乱、なまくらの殷雷《いんらい》をだまして、この腕の動禁綱《どうきんこう》を破壊《はかい》させて、瞬地踏を奪《うば》われずに逃げるかだな」
梨乱は呆《あき》れていった。
「夜主さんのそういう素直なところって好きだわ」
そして二人は宿屋への道を歩き始めた。
既《すで》に陽は落ちたが、街《まち》の明かりが道を照らしていた。
行き交《か》う人々の姿もなく、梨乱の耳に聞こえるのは夜主と捜魂環の話し声だけだった。
丸一日図面を引きっぱなしだったので、梨乱の目は少ししょぼくれていた。
疲《つか》れた目を幾度《いくど》か擦《こす》り、目を開《あ》けたとき、そこに影《かげ》はいた。
厚みを持った不自然な影。あり得ないほどの立体感を持つ影が道の向こうからこちらへ歩いてくる。
「!」
梨乱は驚くが夜主は驚いていない、いや影の存在にすら全く気がついていない。
夜主はこれでも、炎応三手《えんおうさんしゅ》とかいう拳法《けんぽう》の使い手のはずだった。その夜主が真正面にいる不自然な影に気がつかないことなどあり得るのだろうか?
たとえ夜主には見えなくとも、捜魂環が影に反応しないのは何故《なぜ》だ?
梨乱は呆気《あっけ》に取られるが、そんな彼女にお構《かま》いなしに影はこちらに向かい歩《あゆ》み続けた。
驚く梨乱であったが、何故《なぜ》か恐怖《きょうふ》は感じない。
まるでその影に見覚えがあるかのようだった。
知性では受け入れられないのに、感性は簡単《かんたん》に納得《なっとく》してしまう奇妙《きみょう》な感覚だった。
梨乱は目を見開き、影を見た。
真夏の強い光が造《つく》りあげるような繊細《せんさい》な影だ。恐《おそ》らく男の影で、自分と年齢《ねんれい》は変わらないと梨乱は考えた。
髪《かみ》は短く服装《ふくそう》も普通《ふつう》、あくまで普通の服が作るような影だ。肩《かた》には一本の槍《やり》を担《かつ》いでいる。
影はそのまま歩き続け、梨乱の横を通り過ぎた。
そして、その瞬間《しゅんかん》に消滅《しょうめつ》した。
「!」
再び梨乱は両方の目を擦った。
捜魂環が何事かと声をかける。
「どうなされました梨乱様。
一日中|細《こま》かい仕事をなされて、目がお疲《つか》れのようですが」
ゴシゴシと梨乱は目を擦り続けた。
「そ、そうよね。ちょっと疲れたみたい」
そうだ、あれは幻《まぼろし》なのだ。もしかして、宝貝の使い手の罠《わな》かとも考えたが、それはありそうになかった。
宝貝所持者の襲撃《しゅうげき》ではないという知性的な理由が幾つも浮かんだが、梨乱が一番|納得《なっとく》したのは感性の訴《うった》えたたった一つの単純な理由だった。
奴《やつ》が梨乱に危害を加えるはずはない。
あの影に対するどうしようもない信頼感《しんらいかん》が梨乱の心の中にはあった。
青年は廃嘘《はいきょ》の中でどうしたものかと思案《しあん》していた。
男が身にまとっているのは、袖《そで》の長い俗《ぞく》にいう道服《どうふく》であった。白い道服が廃嘘の黒や赤茶けた色の中で異彩《いさい》を放《はな》っていた。
男の名は護玄《ごげん》。仙人《せんにん》である。
いつもなら温和《おんわ》な笑顔を思わせる細い目には当惑《とうわく》の感情が浮《う》かんでいた。
「龍華《りゅうか》!」
護玄は叫《さけ》んだが、廃嘘からは何の返答も無かった。
さて、どうしたものかと護玄は腕《うで》を組み、細い目をさらに細めた。
ここは和穂《かずほ》の師匠《ししょう》である龍華仙人の住む仙界の九遥山《きゅうようざん》であるが、かつての面影《おもかげ》はない。今の九遥山は、山は山でも火山の姿に近い荒《あ》れようだった。
和穂が欠陥宝貝《けっかんぱおぺい》の封印《ふういん》を破り、地上に宝貝をばらまいたあの事件のとき、九遥山の大部分が吹《ふ》き飛んでしまったのだ。
護玄が今いる場所は以前は仙人の住処《すみか》、いわゆる洞府《どうふ》と呼ばれる、洞窟《どうくつ》を利用した建物であった。
本来なら、今立っているこの場所も九遥山の山頂ではなかった。
ここから上の山が吹き飛んでしまったので新たな山頂となったのである。
封印破壊の衝撃は凄《すさ》まじかったが、上部への衝撃に比《くら》べ横方向へ流れた力はそれほどでもなく、廃嘘という形で洞府の残骸《ざんがい》が残っていた。
わざわざ九遥山を訪《たず》ねた護玄であったが、肝心《かんじん》の龍華の姿が見当たらないのだ。
「護玄様!」
老人を思わせる低い声が、護玄の耳に届《とど》いた。
護玄はその声に聞き覚えがあった。
「四海獄《しかいごく》か? どこだ?」
「こちらでございます」
振《ふ》り向くと廃嘘の残骸の中、以前は柱だった材木に一つの瓢箪《ひょうたん》が掛《か》けられているのが見えた。
護玄は急いで瓢箪の側《そば》に進む。
「四海獄、龍華はどこにいる」
瓢箪の名は四海獄、彼もまた宝貝であった。
「それが、しばらく前からお出かけになられて、いまだお戻《もど》りではありません」
「まったくあいつらしいな」
温厚《おんこう》な護玄であったが、その顔が少し引きつった。
仙人の世界、すなわち仙界《せんかい》は人間の世界に干渉《かんしょう》してはならないという原則があった。
以前はその原則も緩《ゆる》やかな取り決めでしかなかったが、和穂が宝貝をばらまいて以降、人間界と仙界の間には強力な結界《けっかい》が張られているのだ。
護玄と龍華は人間界にいる和穂に少しでも手助けをしようと、その結界を破る方法を模索《もさく》していた。
護玄は自分の洞府で幾《いく》つかの仙術的な実験を行い、その結果を龍華に知らせにきたのである。
結果が出たらすぐに知らせろと念を押《お》していた龍華が不在ときているのだ。
そのあたりの事情を察したのか、四海獄はすまなさそうに言った。
「申し訳《わけ》ありません。
例の結界に関して何か判明《はんめい》したのでしょうか?」
護玄は気まずそうに眉間《みけん》を掻《か》いた。
「実験の結果が出たんだが、あまり好《よ》い知らせではない」
もし好い知らせなら、護玄も本気で龍華の居場所を探《さぐ》りにかかっただろう。
四海獄の声に和穂を心配する悲しみが混《ま》ざった。
「やはり、神農《しんのう》様が自《みずか》ら張られた結界ですから簡単にはまいりませんか」
神農。仙界を統治《とうち》する五仙の一人であり、仙術そのものの創設者《そうせつしゃ》ともいえる、仙人である。
結界は、その神農自身が作り上げているのだ。
護玄の声からも力が抜《ぬ》けた。
「厄介極《やっかいきわ》まりない。
さすがに神農様が『破れるもんなら破ってみやがれ』とおっしゃるだけのことはある」
「私のような宝貝ごときに理解出来るとは思いませんがそれほど凄《すご》い結界なのですか」
「結界を解《と》く術《じゅつ》の、理屈《りくつ》そのものは単純なんだ。
結界を構成する仙術的|因子《いんし》を無力化する為《ため》に恒点観測《こうてんかんそく》を行って……ま、つまり鍵《かぎ》と錠前《じょうまえ》みたいなもんだ。錠前の仕組みが判《わか》れば、後は鍵を作ればいい」
四海獄は少し困った口調《くちょう》で言葉を挟《はさ》んだ。
「すいません。以前|似《に》たような説明を龍華様からしていただいたのですが、少しばかり内容が違うのですが」
「違う? 反結界術とはこういうもんだよ」
「龍華様は『ここに神農の腐《くさ》れ仙人が作った錠前がある。さあ、どうやってこの錠前を破壊しようか?』と、おっしゃってましたが」
護玄は力なく笑う。
「錠前その物を破壊するのは反結界術とは言わないよ。
……でもまあ一理《いちり》あるな。
神農様の仕掛けた錠前の鍵が、私や龍華程度の仙人に作れはしないか」
かつて万策尽《ばんさくつ》きた龍華が直接神農にかけ合った事があった。あの時点で龍華は鍵を作るのが不可能だと知ったのだろうと、護玄は考えた。
そこで考えを変えたのだ。
「そうか。結界を力で破壊するのなら、莫大《ばくだい》な仙術的な力さえ用意すればいいんだ」
「しかし、不可能の種類が変わっただけのような気がします。
神農様の結界に対抗《たいこう》する為《ため》の力なんて、失礼ですが護玄様や龍華様のお力では」
「全《まった》くそのとおりだ」
ふと、四海獄と護玄の間に奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》が流れた。
四海獄が先に口を開いた。
「その、莫大な仙術的な力というのを少しばかり非合法な手段で用意しようなんて罰当《ばちあ》たりな考えは、いくら龍華様でも」
護玄の思考は、四海獄の少し先を進んでいた。
龍華の倫理観《りんりかん》ではなく、龍華がどこから仙術的な力を非合法に調達《ちょうたつ》……かっぱらってこようとするかだ。
「待て待て待て待ってくれ、龍華はどう考える?
! 神農様が自《みずか》ら作った宝貝を盗《ぬす》んでそれを解体するつもりか。
超重機系《ちょうじゅうきけい》の宝貝ならば、数がそろえば可能だな。
問題はどこから盗もうとする? 瓢箪の宝貝に入るような大きさじゃないぞ!」
肝心《かんじん》の龍華の姿が見えないのだ。四海獄の不安も広がっていく。
「あのう護玄様。
龍華様が個人的に行った実験の結果書類をお見せするわけにはいかないのですが、確か結界に関する書類は護玄様に閲覧《えつらん》許可を出されてましたね」
護玄は懐《ふところ》から書類を出し、ペシペシと叩《たた》く。
「そうだ。今日は本当はこの書類を渡《わた》しに来たんだ。
互《たが》いに情報は共有しようと決めている」
「龍華様がこの間行っていた実験結果がここにあるんですが、ご覧《らん》になられますか?」
護玄は髪を掻きむしる。
「み、見たかないけど見るしかないな。
ともかく龍華の狙《ねら》いを先に見つけて、止めなければな」
そして四海獄の蓋《ふた》が軽い音をたて弾《はじ》けた、続いて一陣《いちじん》の風が巻き起こり乱雑に綴《と》じられた一束《ひとたば》の書類が現れた。
護玄は急いで表紙に目をやる。捜魂環[#四海獄の間違い?]は堪《たま》らず訊《たず》ねた。
「どうでございますか?」
「……結界に真火《しんか》をぶつける実験だ」
「それはつまり」
パラパラと頁《こう》を捲《めく》る護玄の表情が強張《こわば》る。
「真火をぶつけるぐらいじゃ、結界はびくともしない。
だがその時の結界の反応で、結界そのものの強度を弾《はじ》き出すつもりなんだろ」
護玄の瞳《ひとみ》が忙《いそが》しく紙の上を走った。強度の程度が判《わか》れば、必要な仙術的な力の量も判るはずだった。それが判れば龍華がどこに狙いをつけ仙術的な力を調達するかも予想できると護玄は考えた。
書類の上には龍華の手荒な文字で数字だけが記《しる》されていた。
護玄は必死にその数字の意味を読み取ろうとした。
「?」
護玄の手がぴたりと止まった。
「何か判りましたか?」
「真火……二乗《じじょう》真火……三乗真火まで結界にぶつけただと?
まてよ、あまりに結界の強度が強いと真火が完全に弾かれるからか?
完全に弾かれれば強度は判らないか。
でもこの数字は……」
護玄の頭の中で幾《いく》つかの仮説が浮かび消えていく。
自分の考えをまとめるかのように護玄はゆっくりと四海獄に説明を始めた。
「乱暴な説明で正確さに欠けるから、一つのたとえとして聞いてくれ」
「はい」
「十の力を結界に加えて、十の力が返ってきたなら、それでは強度は判らない。
千の力を加えて、九百九十九の力が返ってきたなら、その差から計算が立てられる」
「なるほど。すると龍華様は次から次へと強力な力を結界にぶつけられたのですね」
「ただ変なんだ。
真火をぶつけて真火が丸ごと返ってきてはいないな、この数字を見る限りは」
「それなら強度が判るのでは?」
「いや逆だ。
真火は全く反響《はんきょう》していない。素通《すどお》りだ。この実験結果を見る限り結界に強度は無い。
でもそれなら、何故《なぜ》真火の威力《いりょく》を上げているんだ?」
鋭《するど》く四海獄が指摘《してき》した。
「龍華様の性格からして、思った数値が出なかったので腹《はら》いせにやってみたものかと」
護玄は大きく息を吐《は》く。
「うむ。恐《おそ》らくそうだろうな。
でも真火が素通りとはどういう意味だ?
まあ、素通りといったところで、途中《とちゅう》に虚無《きょむ》の異世界があるから真火が人間界に影響《えいきょう》を与《あた》えた危険はないだろうが」
「……強度がないのなら結界は存在しないのでは?」
汗《あせ》のように脱力感《だつりょくかん》が護玄の体《からだ》から吹《ふ》き出した。実験の結果の意味が護玄には全く見当もつかない。
「駄目《だめ》だ、やはり神農様の結界は破れない。
我《われ》らの発想の外におられる。私や龍華の考えなど先刻《せんこく》ご承知なのだ」
「なんと申しましょうか、それでは龍華様は別に何かを非合法に調達する為にお出かけなのではないのですね」
「ああ。
でもそれじゃあいつは何処《どこ》に行ってるんだろうな。
出かけるときに何か言ってなかったか?」
「行き先はおっしゃられていませんでしたが笑っておられました。
どお申しましょうか絶望の笑いとでも申しましょうか」
龍華の同じような笑顔を、護玄も見た覚えがあった。
あれは確か神農様に謁見《えっけん》に行ったおり、童女《どうじょ》に五仙以外の仙人に結界を解《と》くのは不可能だと諭《さと》された時だった。
あの時、龍華は笑い、そして何かに気がついた素振《そぶ》りをしていた。
だが、あのあと龍華が行ったのは結界の強度を調べる実験にすぎない。
その程度のことで、あんな笑顔をするのかと護玄は考えた。
あれはもっと深刻《しんこく》な最終手段を思いついた表情だったはずだ。
「……力技《ちからわざ》でも結界は壊《こわ》せないと龍華はうすうす勘付《かんづ》いていただろうな。
でも、最後の手段に頼《たよ》る前に、万が一の可能性に賭《か》けて強度実験をしたのか」
神農の宝貝を奪《うば》い、その力を借りて結界を破壊するなど許される罪《つみ》ではない。
だが、それすら龍華にとっては最終手段ではなかったのだ。
心配そうに四海獄は言った。
「和穂様が、宝貝を回収する旅に出られてから龍華様はかなりおやつれになられておりましたが、大丈夫《だいじょうぶ》でございましょうか」
四海獄を勇気付ける言葉を護玄は口に出来なかった。
「すまんな四海獄。
龍華には出来るだけの力を貸してやるつもりだが、こればかりはな。
龍華の最終手段か……!」
しばし沈黙した護玄の表情が突如崩《とつじょくず》れた。
護玄の驚《おどろ》きを四海獄は鋭《するど》く読み取る。
「護玄様!」
「わ、判ったぞ!
は、ははは。そうか、そりゃ最後の手段だろな。
どうだ四海獄、別に留守番《るすばん》を言いつけられてるんじゃないんだ、ここにいても暇《ひま》だろ。
私と一緒《いっしょ》に龍華に会いにいくか?」
「はあ。龍華様が何をなされているかお判りなのですか」
護玄は高らかに笑った。
「ああ判った。
龍華は自分の師匠《ししょう》の所へ相談に行ったんだよ。
あの龍華がか! 四海獄よ、龍華の師匠に会った事はあるか?」
「いえ一度もお会いしたことはないですが、そのう。龍華様がかなりお嫌《きら》いになっているのは存じ上げております。
龍華様が苦手《にがて》になされるぐらいなのですから、やはり、龍華様より凄《すご》い方なんでしょうね」
弟子《でし》より凄くない師匠じゃ仕方がないだろうと護玄は思ったが、四海獄の言いたいのはそういう意味ではないだろう。
「なに、大丈夫だ。
まあ、いろいろややこしい方ではあるが、『龍華の師匠』という言葉から想像できるような、無茶《むちゃ》な方ではない」
「では何故《なぜ》、龍華様は師匠をお嫌いになっておられるので?」
「行ってみれば判る。
そんなに恐《おそ》れなくても大丈夫だ。
龍華以外にとっちゃ気さくな人だからな。
四海獄よ、一度ぐらい頭が上がらない龍華の姿を見てみるのもいいだろう」
ゆるりゆるりと、護玄《ごげん》は歩《あゆ》みを進めた。
彼の靴《くつ》から響《ひび》くのは地面を踏《ふ》みしめる音ではなかった。
霜《しも》を踏む音が静かな洞窟《どうくつ》の中で反響《はんきょう》する音、それに嵐《あらし》が奏《かな》でる低いうなりが混《ま》ざっていた。
護玄は空間そのものを踏みしめていたのである。
彼の足は、彼の目の前の空間を圧縮し踏みしめる。彼の背後《はいご》では圧縮から解放された空間が泡《あわ》のように弾《はじ》けていた。
護玄の腰帯《こしおび》にくくりつけられた瓢箪《ひょうたん》、四海獄《しかいごく》は言った。
「護玄様。これが縮地《しゅくち》の法でございますか」
護玄は森の中を歩いていた。森の緑は護玄の目の前で歪《ゆが》んでいく。護玄の頭上《ずじょう》で歪みは頂点に達し彼の背後で、その反動で緑は伸《の》び上がっている。
歪む背景は歪んで見えるだけで実際には全《まった》く影響《えいきょう》を受けてないと、四海獄は知ってはいたが異様《いよう》な景色《けしき》に圧倒《あっとう》されていた。
護玄は答えた。
「そうだ。でも別に珍《めずら》しい技《わざ》じゃあるまい」
縮地の法で護玄は凄《すさ》まじい速度で移動している事になる。
「いえ。私は初めて拝見させていただきました。龍華《りゅうか》様はもっぱら飛行術が専門で」
「? 目的地が決まってるなら、この方が消耗《しょうもう》も少ないし速度も飛行術と大差ないんだが」
ゆるりと雪道を進むように護玄の足が動く。
「なんでも急いでる感じがしないのがお嫌《きら》いなのだそうで」
「ふむ」
護玄の視界の中で弾《はじ》けていた緑が途端《とたん》に消滅《しょうめつ》し薄《うす》い青色が広がった。
「よし西の森を抜《ぬ》けたぞ」
森に入ってからまだ三十歩も歩いてはいなかった。
確かに飛行術と速度的には変わらないかもしれないが、森の上を飛ぶのではなく、森の木々を抜けているのだ。
四海獄は感心した。
「それはそうと護玄様、失礼な質問でございますが、龍華様の師匠殿《ししょうどの》でも問題の解決に協力できるとは思えないのですが」
相手は神農《しんのう》が作った結界《けっかい》なのだ。神農からみれば龍華と龍華の師匠にどれだけの違いがあるのか四海獄には納得《なっとく》できなかった。
四海獄の疑問はもっともだと護玄は考えた。
「うむ。
私も一度、結界に関し私の師匠に意見を訊《き》きに行ったんだが、お手上げだった。
幾《いく》つかの古い文献《ぶんけん》を調べても頂《いただ》いたんだが無意味だった」
「そうでございましょう。
龍華様も護玄様も、神農様の流れを汲《く》む仙術《せんじゅつ》の使い手なのでございます。
ならば、お二人の御師匠もやはり神農様の流れを汲《く》んでいるわけでして。
自分の仙術の源流《げんりゅう》であられる神農様が、自信を持《も》っておられる結界が破れるとは」
護玄は微笑《ほほえ》む。
「違《ちが》うな、四海獄」
「何がでございますか?」
「龍華の師匠殿は訳《わけ》ありでな。
神農様の流れを汲む仙人じゃないんだ。
龍華の師匠殿は、五仙の一人、混沌氏《こんとんし》の直系なんだ。
私の師匠の話では、神農系でいう仙首《せんしゅ》の地位に居《お》られた方らしい。
今は神農様が後見人《こうけんにん》になられておいでで、だから龍華の師匠殿は神農様の仙術を龍華に仕込んだんだ。
訳ありとはいえ、混沌氏の流れから離《はな》れた仙人が混沌氏系の仙術は伝授《でんじゅ》できんだろ。道義的に」
混沌氏。それが状態を現《あらわ》す混沌ではなく、人名だと四海獄はすぐに理解出来なかった。
ともあれ龍華の師匠が、なぜ混沌氏の流れから離れたのか四海獄は考え、なんとなく事情を察した。
「その訳ありというのは、やはり混沌氏をぶん殴《なぐ》って破門《はもん》を食らったとか、そういう理由なんでしょうか」
護玄は大きく笑った。
「違う違う。理解しにくいと思うが、混沌氏は存在するのをやめたんだ。
だから混沌氏は、過去にも未来にも存在しない。混沌氏は『存在しない存在』になられたんだ」
「……すいません、よく判《わか》りません」
「かまわん、かまわん。これはかなり高度な仙術論が絡《から》むからね。
ま、混沌氏は居なくなったんだ」
めまぐるしく景色は流れていった。
空の青と森の緑、雲の白と荒地《こうち》の赤。そして歪《ゆが》む景色の色を黒色が支配したとき、護玄は歩《あゆ》みを止めた。
「着いたよ四海獄。ここが龍華の師匠殿の洞府《どうふ》、一色洞《いっしきどう》だ」
それは山には違いなかったが、緑|溢《あふ》れる山とは少しばかり毛色《けいろ》が変わっていた。
「……まるで水墨《すいぼく》のようでございますな」
それは巨大な岩山だった。黒曜石《こくようせき》に近い材質なのか岩山全体が光を吸い込むように聳《そび》えたっている。
遠い山肌《やまはだ》には滝《たき》の姿も見えたが、滴《したた》る水は水晶《すいしょう》のように輝《かがや》いている。
護玄は今度は普通《ふつう》に足をすすめた。
じきに洞窟《どうくつ》の入り口が見当たり、その横には石柱《せきちゅう》が立てられていた。
石柱には一色洞と記されていたが、それは四海獄の知らない文字で記されている。
護玄は洞窟の中に入っていった。
天井《てんじょう》までの高さがかなりある洞窟を進むと、すぐに門に着いた。
巨大な門ではあったが、門そのものはごく平凡《へいぼん》な造《つく》りであった。
門の両脇《りょうわき》ではかがり火がバキバキと音を上げて燃え上がっている。
門の前に立った護玄は、大きく息を吸い込み、そして叫《さけ》ぶ。
「ご無沙汰《ぶさた》しております!
護玄でございます。突然《とつぜん》、訪問《ほうもん》する無礼《ぶれい》をお許しください!」
普段《ふだん》はあまり判らないが、腹《はら》に響《ひび》くような深みのある護玄の声が周囲に轟《とどろ》く。
だが、しばらく待ってもなんの返答も戻《もど》らない。
「もしかしてお留守《るす》でしょうか、護玄様」
「そうかもしれんな」
と、その時、門が大きな軋《きし》みを上げて開いていった。が、門は僅《わず》かしか開かなかった。
そして門の隙間《すきま》から一人の少女が顔を出した。
年の頃《ころ》は和穂《かずほ》と同じか少しばかり年上のように見えた。袖《そで》の細い種類の道服《どうふく》を身につけている。
仙人《せんにん》の弟子《でし》が身に着けるような、質素《しっそ》な道服だった。おさげというには少しばかり長い髪《かみ》の毛をしている。
すらりとした体格でその引き締《し》まった顔の中でも特に眼光《がんこう》の鋭《するど》さが目立つ。
仙人は見掛《みか》けで判断できないと、四海獄は充分《じゅうぶん》承知していた。
この娘が龍華の師匠であるかと四海獄は考えた。
どことなく龍華に似た眼力《がんりき》はただ者《もの》ではない、この人なら龍華と対等に渡《わた》り合える気がしたのだ。
が、四海獄は娘の手に雑巾《ぞうきん》が握《にぎ》られているのを見た。
ならば修行《しゅぎょう》中の道士《どうし》なのだろう、龍華の妹弟子《いもうとでし》にでもあたるのかもしれない。
「これはこれは、修行の邪魔《じゃま》をして申し訳ございません。
誠《まこと》にお手数ですが、師匠殿にお取次《とりつ》ぎをお願いします」
護玄はなぜか、口許《くちもと》に手を当てて喋《しゃべ》ろうとはしない。
そんな護玄と四海獄を娘はにらみつけた。
「なにしに来やがった。
ここはお前らの来るような所じゃないんだよ。
さっさと帰りな。こっちは忙《いそが》しいんだ!」
と、娘の罵声《ばせい》が護玄たちに浴びせられた瞬間《しゅんかん》、何か小さな塊《かたまり》が虚空《こくう》より飛び出、娘の眉間《みけん》に命中した。
眉間に当たった塊は跳《は》ね返った。塊の正体《しょうたい》は湯呑《ゆの》みだった。
跳ね返った湯呑みはそのまま地面に落ちる前に一人の人物の手に受け止められた。
四海獄は、二つの事のうち、どちらに驚《おどろ》こうか迷う。
唐突《とうとつ》に現《あらわ》れた人物に驚くか、娘の声が龍華にそっくりだった事にか。いや、あの声は似ているどころではない、間違《まちが》いなく龍華の声だった。
疑問を口にする前に湯呑みを持った人物は娘を怒鳴《どな》りつけた。
「この、ど阿呆《あほう》。それが客人に対しての口のききかたか」
娘も黙《だま》ってはいない。
「客といっても、護玄じゃないか! ようこそいらっしゃいました。とでも言えというのか!」
湯呑みの人物の手の中の湯呑みが瞬時に杖《つえ》に姿を変えた。
そしてその杖の先端《せんたん》は、娘の鼻の付け根に向かい振《ふ》り払《はら》われた。
鈍《にぶ》い音を立て杖が娘の顔に炸裂《さくれつ》する。
「お前の知り合いであろうが、護玄君は私の客人《きゃくじん》だ。
師匠の客人に無礼《ぶれい》を働いてどうする!」
よほど杖の一撃《いちげき》が痛かったのか娘の目は涙目《なみだめ》になり、両手で鼻を押《お》さえている。
杖を持つ人物は護玄に向き直った。
「すまんのう護玄君。
まあ、龍華の事だから普段《ふだん》から無礼《ぶれい》な口ききをしてるんだろうな」
「いえいえ。一向《いっこう》に構《かま》いません」
四海獄がやっと言葉を発した。
「そちらの方は、やはり龍華様なのですか!」
どうにか娘は鼻の痛みを押さえ込む。
「そうだよ悪かったな四海獄。
あ? 私が雑巾持っちゃ悪いのか?」
「いえそのようなつもりは」
杖の人物の杖が瞬時に刀に変わった。
刀の鞘《さや》は龍華ののど元に突きつけられ、そのまま顎《あご》を持ち上げる。
「自分の造《つく》った宝貝《ぱおぺい》に絡《から》んでどうする。自分より弱い立場の相手をいじめるんじゃないよ」
「その言葉、そのまま師匠に返してやりたいね」
すかさず護玄が割って入る。
「まあまあお二人とも」
刀の人物は慌《あわ》てて言った。
「おお、悪いな護玄君、こんな所で立ちっぱなしにさせて。
龍華! 護玄君を案内してさし上げろ」
「はあい、護玄様。今から洞府の中へご案内いたします。
足元にご注意して、私についてきてくださいませ」
その言葉を語った時の龍華の眼光は、恐《おそ》らく楽に蛇《へび》の一匹や二匹は殺せるような鋭《するど》いものだった。
娘の正体が龍華だと判明し、四海獄が驚くべき事は一つだけになった。
虚空《こくう》から現れた龍華の師匠である。あの人物の姿が四海獄には理解出来なかった。
湯呑みを持っていたときは、若い娘であったが、杖を手にしたときには青年の姿になっていた。
そのまま子供の姿になり、龍華に刀を付きつけたときは中年の男性の姿だったのだ。
四海獄の長年の経験から見ても、あれは変化《へんげ》の術ではなかった。
だが龍華の師匠は刻々と姿を変えていた。
四海獄はもう一度、自分がなぜあれが変化の術でないと判断したのか考えてみた。
答えはすぐに見つかる。
己《おのれ》の姿を全く別の姿に変えるのが、変化の術だ。
龍華も得意ではないが、たまに変化の術を使っているのを四海獄は見た事があった。
龍華の場合は、変化した物に独特の歪みがありそれがとてつもない違和感《いわかん》を生み出してしまうのだ。
が、そんな龍華の変化の術でさえ、誰かが化けているとすぐにばれても、龍華が化けているとはすぐには判らない。龍華を思わせる要素は完璧《かんぺき》に変化しているからだ。
そこが違うんだと四海獄は納得《なっとく》した。
あの人物は、どの姿になっても、その瞳《ひとみ》だけは常に同じなのだ。
客間へ進む護玄に訊《たず》ねる。
「護玄様。龍華の師匠殿の姿はやはり」
「そう。あの姿は全《すべ》て本当の姿なんだよ」
四海獄は今まで護玄が一度も『龍華の師匠』の名を呼んでいないと気がつく。
「龍華様の師匠殿のお名前は」
「名はないよ。
混沌氏の流れを汲む仙人はありとあらゆる姿をとる。だから名前は存在しない」
一色洞は、その洞主の特性に比べればごく平凡な造りになっていた。
護玄が龍華に案内されたのは、飴色《あめいろ》をした大きな卓が置かれた部屋であった。
護玄を椅子《いす》に座《すわ》らせてから、龍華の師匠も椅子につく。
「しかし久しぶりだな護玄君。
なかなか尻尾《しっぽ》の隠し方も巧《うま》くなったもんだ」
護玄は苦笑した。
「恐《おそ》れ入ります」
護玄を案内したあと、龍華はすぐに部屋《へや》を出ていった。
が、すぐに盆《ぼん》の上に茶を載《の》せて部屋に戻《もど》ってきた。
これ以上ないというぐらい腹立たしそうな表情で護玄と師匠の前に茶を置き、自分も卓《たく》につく。
「護玄君。たいしたもてなしも出来ないが、珍《めずら》しい茶を用意させてもらったよ。
仙界広しといえど、この茶はなかなか飲めないはずだ」
言われて護玄は茶の香《かお》りをかいでみた。
悪い茶ではなさそうだが、とりたてて変哲《へんてつ》も無さそうだった。
「すいません。そんなお茶をご馳走《ちそう》していただくのは、勿体《もったい》ないです。
無学なもので茶の味の違いも判《わか》りません」
師匠は大きくうなずく。
「相変わらず護玄君は素直でよろしい。
なに、この茶は味や香りが珍しいんじゃなくて、『龍華が淹《い》れた』というのが珍しいんだよ。
なあ、わはは!」
笑うに笑えない護玄をよそに師匠は言葉を続ける。
「なんだったら、湯呑みごと持って帰るかね、飾っておけば客人が来たときの話の種にでもなるだろうよ」
怒《いか》りの感情を貯《た》め過ぎたのか、龍華の瞳《ひとみ》がすわってきはじめた。
「よくもまあ、次から次へとくだらない話が出来たもんだ」
とてつもない美女の姿の師匠も、当然引かない。
「師匠と客人の席に、なんでお前が座《すわ》ってるんだ? 話の邪魔《じゃま》にならないように盆を持って壁《かべ》の側《そば》に立ってろ」
護玄はすばやく袖《そで》に手を入れ、防御《ぼうぎょ》の符《ふ》が何枚あるかを確認した。
ここで仙術が乱れ飛べば、とばっちりを食らう可能性がある。仲裁《ちゅうさい》はもう無駄《むだ》だろう。
だが龍華は椅子《いす》から立ちあがり、そのまま壁際に進んで行った。
老婆《ろうば》の姿の師匠は軽く舌打《したう》ちをした。
「ちっ。
どうだ護玄君、ついでにあの馬鹿《ばか》に琴《こと》でもひかせるか」
「どうかどうかどうか、お願いですからお構いなく」
護玄はどうにもやりにくかった。龍華の師匠は龍華がいなければ、温厚な性格をした人物なのだが、この状態では話を切り出しにくくて仕方が無い。
「……そういえば、龍華はまたなんであんな姿をしてるんですか」
「考えても見たまえ。
この一色洞を、あんな派手《はで》な紅色《べにいろ》の道服でうろつかれたら、景観《けいかん》がそこなわれるではないか。
それにだ、用事を言いつけるにゃ、ああいう、いかにも私は半人前の道士です、って格好《かっこう》のほうが使いやすいだろう。
少し若返らせれば、可愛《かわい》げがでるかと思ったが、それは当て外《はず》れだったな」
いろいろと食ってかかってはいるが、今の様子《ようす》を見る限り、龍華は師匠の言葉には従っていた。
本来の龍華なら、こんな事はあり得ないのを護玄は知っていた。
師匠であろうがなかろうが、自分の気に入らない命令に従う性格ではない。
その龍華が師匠の言いつけに従っているのは、彼女なりに師匠の機嫌《きげん》をとろうとしているからだった。
師匠の知識こそが、あの結界を破壊する唯一《ゆいいつ》の手掛かりなのであった。
しかしこれでは本題に入れないと護玄は焦《あせ》りを感じた。
「龍華の師匠殿。龍華の素行《そこう》は確かに誉《ほ》められたものではないかもしれません。
自分の弟子の無作法《ぶさほう》を治《なお》そうと、龍華に辛《つら》くあたるのもまた一つの愛情だとは思いますが、ここのところは」
机の上の顔を出すのがやっとという幼《おさな》い男の子の姿に変わった師匠は首を横に振った。
「とんでもない。私はこんな馬鹿《ばか》は大嫌《だいきら》いなんだよ」
「しかしそうは言われても、どこか龍華を気に入られたから弟子に取り立てたのでは、ございませんか?」
「それは違うな護玄君。
混沌様が真の消滅を完成されて、私は仙術の流れの中で宙《ちゅう》ぶらりんの状態になった。
混沌様の流れを汲んでいるのに、混沌様は過去にも未来にも存在されない存在になったからな。
そんな行き場を無くした私に、神農様は自分の流派に身を寄せるように勧《すす》めてくれたんだ。
それで私は、護玄君の師匠の兄弟子にあたるお方の弟子ということにしてもらって、新たに神農様の流れを汲む仙人資格をとらせていただいたのだ」
「存じております」
「だから、私は神農様を始めとして、その神農様の流派の皆様方には、とてつもなく恩義《おんぎ》を感じておるんだよ。
かといって、本来は混沌様の流派の私が、表に立ってでしゃばるのも心苦しい。
そこでどうしたら、皆様方に恩返しが出来るか考えたんだ。
その答えが龍華だよ」
「それはどういう意味でしょうか」
「うむ。仙人になる素質のある人間が、仙界まで渡《わた》り誰《だれ》かの弟子《でし》になるな」
「はい」
「護玄君のような見所《みどころ》のある人物なら、師匠にとって術《じゅつ》を仕込むのは楽しみでもあるんだ。
だから私は、一番見所がなくて、人格的にも誉《ほ》められた場所が微塵《みじん》もない、あの馬鹿《ばか》を弟子にしようと決めたんだ。
馬鹿を仙人に仕込むという手間を私が背負い込めば、他《ほか》の皆様の手間《てま》が減《へ》るって理屈《りくつ》だね」
壁際《かべぎわ》の、外見だけは娘の姿をした弟子は笑った。
「いいかげん慣れたから、そんなひねりの無い悪口じゃ全然腹がたたないね」
師匠の手のつり竿《ざお》が途端《とたん》に槍《やり》となり、刃《やいば》の反対側、石突《いしづき》が龍華の眉間《みけん》を打つ。
護玄は師匠を押《お》さえる。
「手荒《てあら》な真似《まね》は勘弁《かんべん》してやってください」
「護玄君。私は暴力は嫌いなんだ」
「しかし、こうぽんぽん殴《なぐ》っては」
「力で他人を言いなりにするのが、暴力だ。こいつは殴られた程度で、己の信念は曲げないから、これは暴力じゃないんだよ」
龍華はさらに笑う。
「ああそうだ。
お前なんかに殴られても、こたえはしないさ。
いくら殴られても、答えを聞くまでは絶対帰らないからな。私を追い払いたいなら、さっさと結界の秘密を教えてくれよ」
すかさず護玄も言葉を続ける。
「私からもお願いします」
「ふむ。まあ、護玄君の頼《たの》みとあらば仕方があるまい」
弟子は言った。
「そうくると思った。師匠殿、少し耄碌《もうろく》したか? 昔はもっと言葉にひねりがあったぞ」
「お互い様だな。お前も和穂《かずほ》を弟子にする前の方がもっと威勢《いせい》がよかったぞ。
まあよい。許してやるから席につきな」
龍華は盆《ぼん》を消し去りながら椅子《いす》に腰《こし》をおろした。
師匠は軽く目をつぶり、結界の秘密を語りはじめた。
「あの結界は破れないよ」
龍華の目に殺気《さっき》があふれた。
「ほう。私があれだけ下手《したて》に出てたのに、答えは『判《わか》らない』だと?」
「言葉の意味を取り違《ちが》えて、よく仙人|稼業《かぎょう》がつとまるもんだ。
私は破れないと言ったんだ。判らないとは言ってない。
護玄君。理論的に突破《とっぱ》できない結界には、どんな物がある」
「……簡単なものでは、天網《てんもう》結界などがありますね。
天網は内部からは破壊《はかい》出来るが、外部からは破壊出来ません。
……もっとも、天網にしろ絶対破壊不能の結界には有効期間が存在します。
その有効期間に関与《かんよ》する術を用意すれば、破壊不能の結界でも解除は可能です」
「そうだ。が、神農様の結界はそういう類《たぐい》の結界ではない。有効期間はない」
気の短い弟子が欲しいのは、答えだけであった。
「結界術の授業なんざやめてくれ。
あの結界は期間限定型の完全結界やらなんやらの小細工《こざいく》を仕掛《しか》けた代物《しろもの》じゃない。
そんなのは判りきってる」
「人が理屈を解説してやろうとしてるのに、その言いぐさはなんだ。
まあいい。馬鹿に説教しても始まらんだろうから結論だけ教えてやろう。
あの結界は『網《あみ》』なんだ。
おまえや護玄君、まあ神農系の結界術では『面』の結界しか扱《あつか》わんからピンとこないだろうな」
護玄の頭の中で幾《いく》つかの謎《なぞ》が『網』の一言《ひとこと》で解《と》けていった。
「『網』の結界? だから真火《しんか》が素通《すどお》りしたのか」
「網も面も結界は結界だ。なぜ破れない!」
師匠は答えた。
「ざるで水がすくえるか?」
「やかましい。網なら網を組み上げている、糸を切ればいい」
「だからおまえは単純なんだ。
これで護玄君には道理が判っただろう。
護玄君が今、仮説《かせつ》だと思ってる奴《やつ》で多分正解だよ。
悪いが、この馬鹿の為《ため》に説明してやってくれないか」
護玄は息を飲んだ。
「……龍華。糸に狙《ねら》いを定めれば、恐《おそ》らく糸は切れるだろう。
でも網の目が恐ろしく細《こま》かかったらどうなる? 糸の一本や二本切れたところで、結界を突破できる穴《あな》は開《あ》かない」
「そんなものはまとめて切ればいい」
「切れるもんか。恐らく、その糸が我《われ》らでいう『面』結界の一つに相当するんだ。しかも網目からほとんどの力は抜《ぬ》けていくんだぞ! 仙人が通れるだけの穴が開くとは考えられない」
「ええい黙《だま》れ。莫大《ばくだい》な力を使うんだよ。無数の莫大な力を膨大《ぼうだい》な数の糸へ向けて正確にあてるんだ!」
師匠は笑った。
「おお凄《すご》いな。馬鹿にしちゃ上出来《じょうでき》な答えだ。
でも理論値じゃ仙人一人がすり抜ける穴を開くために糸を破壊するには、全仙界中の力を使っても足りないんだよ。
五仙が総がかりでも力が不足だ」
今は素直に龍華は師匠の言葉を信じた。
「あの結界は五仙でも突破できないのか?」
「五仙なら突破はできる。破壊は無理。
その網目を拡大《かくだい》する術を使えば、通りぬけられる。
網目を拡大する為の仙術なんて、五仙以外の誰も考えつけやしない」
巡《めぐ》り巡って辿《たど》りついた答えがこれだった。龍華が奥歯《おくば》を噛《か》み締《し》める音が護玄にはきこえた。
龍華のそんな表情を楽しんでいるのか、師匠は楽しそうに言った。
「ま、同じ不可能に挑戦するならば、結界破壊より、神農様の暗殺でも考えた方がまだましだな。
神農様を倒《たお》せば、あの結界も消滅《しょうめつ》するやもしれん」
護玄が慌《あわ》ててたしなめた。
「龍華の師匠殿!」
「冗談《じょうだん》だよ護玄君。いくらこいつが馬鹿でもそこまではやらんよ」
龍華は静かに髪《かみ》をかきあげた。その瞳《ひとみ》に絶望の色が浮《う》かんでいないのが護玄には不思議だった。
今度こそ万策尽《ばんさくつ》きたのではないのか?
龍華は言った。
「さあ師匠殿。そろそろ本音《ほんね》でいこうじゃないの。
わざわざ私が神農系仙術の授業を受けに来たと思うのかい?
私は混沌《こんとん》系仙術に興味《きょうみ》があってね。
混沌系仙術を教えてはもらえないか」
師匠は見下《みくだ》した瞳で弟子を見つめた。
「何を言い出すかと思えば。貴様《きさま》に混沌系仙術の意義が判っているのか」
「見所のない馬鹿な弟子で申し訳ないけど、鼻はきくんでね。
仙術なんて、どの五仙の流れであろうと似《に》たようなもんだろうけども、それじゃおかしいよな。
五の流派があるならば流派ごとの特徴《とくちょう》があるのが当然だろ。
そうは思わないか護玄?」
「そ、それはまあ。しかしそれこそ仙術の極意《ごくい》の部分の差異ではないのか」
「まあそうだ。
混沌系の仙術は他の流派に比《くら》べて、ある術に特化してると私は考えた」
師匠は笑う。
「ほお。どんな術だと?」
弟子も笑う。
「『時間』だ。
なにせ混沌氏は、過去にも未来にも存在しない存在になったんだ。
過去にもだぞ。過去に関与できるなんざ時間を操《あやつ》る術に優《すぐ》れているに決まってるではないか。
それに師匠殿よ。他の混沌氏系の仙人を見たことないから比《くら》べようもないが、あんたのその姿も尋常《じんじょう》じゃないぞ」
「よくぞ見破った! とでも言って欲しいのか? 確かにお前の言葉のとおりだ」
「時間に関する術は、簡単なものなら私にも使える。
だがどうしても過去に関与しようとすると矛盾《むじゅん》の壁にぶち当たるんだ。
なあ師匠。教えてくれ、どうすれば過去を変えられる? 結界は破壊出来なくても、和穂が宝貝をばらまいた過去を変えるのは可能じゃないのか?
わざわざあんたに会いに来た、もう一つの理由は、その為なんだよ」
師匠は握《にぎ》った煙管《きせる》を強く吸った。
そして紫煙《しえん》を吐《は》く。
「意味がない。過去を変更《へんこう》すれば、観察者は絶対にその結果を知る事が出来ない。
結果が判らなければ、今のお前の状況《じょうきょう》は変わりはしないだろう」
「師匠殿。あんたなら出来るんだろ。
あんたは普通《ふつう》の仙人とその存在形態が、全く違うんだ。
たぶん混沌氏や師匠殿は、過去にも未来にも等しく存在しているんだ。
私たちが空間を見るように時間を見られるんだろ? 時間に関与出来るんじゃないのか」
「馬鹿のくせに少しは勉強したようだな。
確かに過去も未来も私は見渡せる。だが関与は出来ない」
龍華は静かに言った。
「……私の首をやろう。和穂の姿を一目見るだけでもいい。
和穂を助けてやってくれ」
「お前の首なんかいらないね。
それに過去に関与出来ないのは、道義的に問題があるとかの話じゃない。
それこそが混沌系仙術の奥義《おうぎ》、それが可能なのは混沌様だけだ。
その奥義を使って混沌様は消滅したんだ。
過去を変えられる存在なんて、もう、どこにもいないよ。
過去を変えられる存在だから、混沌様は自《みずか》らを消滅されたんだ。判るな」
龍華はうつむいた。そして強く握った拳《こぶし》で卓《たく》を叩《たた》く。
「……やはり駄目《だめ》なのか」
今ここに万策尽きたと護玄も悟《さと》った。
「龍華……」
龍華の師匠はつまらなさそうに呟《つぶや》いた。
「け。和穂は自分の罪《つみ》を償《つぐな》ってるんだ。
いうなら自業自得《じごうじとく》だ」
怒《おこ》る気力すら龍華にはない。
「それは判っている。
だが私の罪はどうなる? あの地上にばらまかれた宝貝は私が造《つく》りあげたんだ。
和穂以上に私には責任がある。私は責任をとらなくていいのか、師匠殿」
「……心配するな。
お前はお前の責任をとることになる。
和穂よりもっと過酷《かこく》な責任をな」
卓の上で握り締められた龍華の手が瞬時《しゅんじ》に開き、師匠の胸倉《むなぐら》を掴《つか》んだ。
「どういう意味だ? 何を知っている?
未来が見えるなら、これから先に何が起こるか判るんだろ!」
「ど阿呆《あほう》。未来の話は秘密と相場《そうば》は決まっておろう。
そうだな。今から思いっきり思わせぶりな事を言ってやるから、その悪い頭で意味を考えてみな。
まず一つ。
過去は変えられない、過去はだ。次に、お前は和穂と再会する」
師匠の意外な言葉に龍華はつかんだ胸倉を大きく揺《ゆ》さぶった。
「本当か! 和穂に会えるのか! まさか冥府《めいふ》で再会なんてふざけた話じゃないだろうな」
「当たり前だ。お前は和穂と会えるし、言葉も交《か》わせる。もちろん冥府でじゃない」
「そうか! そうなのか!」
飛び跳《は》ねんばかりに喜ぶ龍華の姿を、師匠は冷静に見つめた。
「話はまだ最後まで終わっておらんぞ。
過去は変えられん。
和穂と再会する。
そして最後の一つだ」
いまさら何を聞こうがどうだというんだ? 和穂に再会できるのなら全《すべ》てがうまくいくのではないか。
龍華は師匠の残りの言葉に興味はなかった。
が、師匠の最後の言葉は、あまりにも意外だった。
「よく聞け龍華。
鏡閃《きょうせん》。鏡閃という名に覚えはあるな」
龍華の喜びの表情に、疑問の影《かげ》がさす。
「鏡閃だと? 奴《やつ》がどうしたというんだ?」
護玄は鏡閃の名前に心当たりがない。
「鏡閃? 龍華、それは誰《だれ》なんだ」
師匠の仕掛《しか》けた謎《なぞ》に挑《いど》むように、龍華の眉間《みけん》に皺《しわ》がよった。
「鏡閃か。奴は仙人だよ」
「ほう。どこで洞府《どうふ》を構えておられる? 訪問《ほうもん》してみよう」
「無駄《むだ》だよ。鏡閃に会うのは無理だな。
勅命《ちょくめい》で、あいつは私が始末した」
普段《ふだん》は呑気《のんき》に仙術の研究|三昧《ざんまい》の生活を送っているように見える仙人だが、時として使命を帯びて動く時がある。
他に害をなす邪仙《じゃせん》なり、仙獣《せんじゅう》の類《たぐい》を始末する命令はそれほど珍《めずら》しくもない。
「その仙人がいったいお前とどう関係があるんだ?」
「私に聞くなよ。自分でも判《わか》らん」
髪の短い娘に姿が変わった師匠は言った。
「さあ、これで話は終わりだ。
龍華、お前の凶悪《きょうあく》な面構《つらがま》えを見てるのも、いい加減《かげん》飽《あ》きたから、出て行きな。
これ以上は何も教えてやらん」
「目的は適《かな》わなかったが、和穂に会えると判っただけでも、よしとするか。
ご希望どおりにさっさと帰ってやるよ。
で、和穂とはいつ会える?」
「もうすぐだ。
だが龍華、浮《う》かれてばかりじゃなくて、ちゃんと術も磨《みが》けよ」
「用事は済《す》んだんだ。もうあんたの説教を聞く義理はないね」
機嫌《きげん》よさそうに捨て台詞《せりふ》を吐《は》き、龍華は席を立った。
扉《とびら》に向かい歩きはじめた姿が、見る間に普段《ふだん》の龍華の姿へと変化していく。
護玄も慌《あわ》てて席を立つ。
「あ、待ってくれ龍華」
老婆《ろうば》の姿になった師匠は、軽く呆《あき》れて言った。
「護玄君。あんな馬鹿に関《かか》わってると、貧乏《びんぼう》くじを引くはめになるぞ」
「ははは。もう貧乏くじなら、何度も引いてますよ」
機嫌《きげん》のいい龍華はすでに部屋《へや》から姿を消していた。護玄は急に真顔《まがお》になった。
「龍華の師匠殿。龍華は上機嫌ですが、本当に全《すべ》ては丸く収《おさ》まるのでしょうか。
心配性なのかも知れませんが、そう都合《つごう》よく運命が回るとは」
「心配性なんかじゃないよ、分析力《ぶんせきりょく》が長《た》けているんだな、護玄君。
これから先、あの馬鹿を待ってるのは、あいつにとって一番|過酷《かこく》な運命さ」
龍華にとって、一番過酷な運命。
護玄はその言葉がさす意味を考えた。直接的に龍華を苦しめるような災厄《さいやく》を護玄は思いつけない。
ならば、精神的に龍華を追い詰める何かなのか。
「……和穂の身になにか? 冥府での再会はないとおっしゃられましたが、まさか死の間際《まぎわ》に合間見《あいまみ》えるとか」
「そうじゃない。
もっと過酷だよ」
「……判りました。私も覚悟《かくご》しておきます。
それでは、長々とお邪魔《じゃま》をいたしました。
私はこれにて失礼いたします」
「うむ」
洞府の外に既《すで》に龍華の姿はなかった。
浮《う》かれた龍華はさっさと九遥山《きゅうようざん》に戻ったのだろう。
黒い山並みを見つめながら護玄は腕《うで》を組んだ。
護玄の思案《しあん》が四海獄にも伝わっていく。
「護玄様。龍華の師匠殿の言葉はどういう意味でしょう?」
「判らんよ。
あの言葉も問題だが、もう一つ解《げ》せないところがある」
「何でございましょうか」
龍華の師匠は全《すべ》てを見通す。
それはそれで構《かま》わない。仙術の一つの完成形としての『全知』はありうる話だろう。だが、護玄は疑問に思った。
「おかしいんだよ。
未来を見通す仙人が、自分の見た未来について語ること、未来に関与するのは禁忌《きんき》のはずだ」
龍華の師匠も同じ事を言っていた。
「ですから、思わせぶりな言葉を使うと、師匠殿はおっしゃっていましたが」
護玄はさらに大きく息をつく。
「そこが問題なんだ。
いいかい四海獄。未来に関する禁忌は絶対のはずなんだ。
思わせぶりな言葉だから許される、なんて甘《あま》いものじゃない。
言っておくが、龍華の師匠殿は龍華と違って、そういう仙術の取り決め事には厳しい方なんだが」
護玄に判らぬ謎《なぞ》を四海獄に解《と》けはしなかった。
「どうしてなんでしょう?」
「判らない。
だが、それがこれから起こる事の答えに直結してるのかも」
龍華の師匠が語った、不吉《ふきつ》な言葉が四海獄の意識に蘇《よみがえ》る。
「龍華様にとって一番過酷な運命ですか」
「そうだ。
これから何かが起こる。そしてその結末はどうなるというのだ」
護玄は考えたが、答えは判らない。
だが、その答えが目《ま》の当たりになるのは、そう違い日ではないのだ。
「だ、大丈夫《だいじょうぶ》なのかい塁摩《るいま》! 僕たち二人で恵潤《けいじゅん》さんを倒《たお》せるの?」
少年はできる限り小さな声で、隣《となり》にいる少女、塁摩に訴《うった》えた。
二人は今、草原の中に居《い》た。
ゆらゆらと風に吹《ふ》かれて、草たちはうねっていた。
一本一本の草は、ちょうど少年の身長と同じぐらいの高さがあった。
相手から身を隠《かく》すために少年は軽く中腰《ちゅうごし》になっている。
「倒さなきゃ、こっちがやられるの。
いい加減《かげん》覚悟《かくご》を決めなさいよ」
少年の落ち着きのない声に比《くら》べて、塁摩の口調《くちょう》は冷静なものだった。
塁摩は見た目には五歳ぐらいの子供にしか見えなかった。
自分の髪《かみ》を小さく団子《だんご》のようにくくり、飾《かざ》り布《ぬの》をかぶせている。
あどけない瞳《ひとみ》は、姿の見えない蚊《か》を探《さぐ》るように、めまぐるしく動いていた。
その瞳の動きが、ふと止まり、中腰のせいでちょうど同じ高さになっている少年の目をみつめた。
「いい、綜現《そうげん》。
恵潤の動きは私より速いはず。でも綜現の一撃《いちげき》は恵潤の動きより速いの」
「そりゃまあそうだろうけど」
「そう。でも最初の一撃を見きられたら、次の攻撃《こうげき》は、もう通用しない。
多分次の攻撃を仕掛ける前には、こっちが倒される」
少年の名前は綜現といった。
塁摩よりは年上だが、それでも十歳かそこらにしか見えない。
平凡《へいぼん》な顔かたちの中で、その澄《す》んだ瞳だけが異彩《いさい》を放っていた。どんな美しい湖《みずうみ》でも彼の瞳ほど澄んではいないだろう。
その瞳を覆《おお》う瞼《まぶた》と眉間《みけん》の皺《しわ》が、綜現の緊張《きんちょう》を現していた。
「でも、僕には恵潤さんがこの草原の何処《どこ》に居るかぜんぜん判《わか》らないんだよ」
「だからさっきから言ってるでしょ。
恵潤の居場所は私が探るから、綜現はそこを攻撃するの。
指示したらすぐに撃《う》ってね。移動しつづけるだろうから少しでも遅《おく》れたら、負けよ。
恵潤は最初に綜現を仕留《しと》めるはずだから」
少しばかり舌足らずな塁摩の言葉だったが、内容は恐《おそ》ろしい。
「ど、どうして僕が先に狙《ねら》われるのき!」
「それはね、私と戦ってる隙《すき》に綜現の攻撃を食らわない為《ため》なの」
塁摩の言葉に間違《まちが》いは無さそうだ。
恵潤さんとて塁摩を一撃では倒せまい。ならば恵潤さんを一撃で倒す可能性を持つ僕を最初に始末するのは綜現にも当然に思えた。
「他に手はないの?」
塁摩の瞳が再びせわしなく動き始めた。
「綜現。もう作戦を練《ね》ってる暇《ひま》なんかないのよ。
恵潤は大分《だいぶ》近づいている。
気が散るから黙《だま》っててね」
途端《とたん》に綜現は口をつぐみ、額《ひたい》からは汗が流れる。
沈黙《ちんもく》の中で草と草が擦《こす》れ合う音だけが、広がっていく。
だがこの音の中には、確実に恵潤さんが草を掻《か》き分けて移動する音も混《ま》ざっているんだ、と綜現は緊張した。
しゃらしゃらさらしゃらさららしゃらさらしゃ。
綜現は塁摩の肩《かた》に軽く手を置く。
微動《びどう》だにしてないように見える塁摩だったが、瞳の動きに合わせ僅《わず》かに首が動いていた。
塁摩には遠く及ばないと承知しながらも、綜現は恵潤の居場所を探ろうとした。
軽く目を閉じ、音に集中する。
ささらしゃらさささざらざさ。
長い長い時間が流れたような気分だけども、実際には少しの時間しか流れていないような気もする。綜現の中で緊張と焦《あせ》りが溶《と》け合っていった。
しゃらさらさらがさ。
がさ。今までとは異質な音が綜現の耳に飛び込んだ。
塁摩の肩もビクと反応した。
綜現は塁摩の肩から手を離《はな》し、異質な音の方角に掌《てのひら》を向けた。
振《ふ》りかえる塁摩の姿が綜現の瞳の端《はし》に映りこむ。
「そこだ!」
綜現の叫《さけ》びと共に、彼の腕が白い光に包まれていった。
光は収束《しゅうそく》しながら綜現の掌にまとわりついていく。
塁摩の悲鳴《ひめい》のような叫びが響《ひび》いた。
「綜現! それは罠《わな》よ!」
「へ?」
言葉の意味を理解した時には、綜現の掌からは既《すで》に光柱《こうちゅう》は放《はな》たれていた。
文字通り光の速さで、光柱は一直線に草を吹き飛ばしていく。
だが、綜現はその光の奔流《ほんりゅう》の中に確かに人影《ひとかげ》を見た。
罠じゃない、異質な音の中には恵潤がいたんだ。
影は光の中で動きをとめている。
「塁摩! やったんだ。勝ったんだよ」
塁摩は答えずに、悔《くや》しそうに頭を抱《かか》えている。
「塁摩ってば」
光は薄れていき、影の姿がはっきりとしていった。
人の形をしていたもの。だがそれは人の形をしているだけで、恵潤ではなかった。
「なんだって?」
それは蔓《つる》で作られた人形のようだった。
何か紐《ひも》を巻きつけて組み上げられた、恵潤と同じぐらいの身長の人形だ。
「?」
ばさり。
頭上《ずじょう》で何かが羽ばたくような音がした。
綜現は頭上を見上げた。
そこに恵潤はいた。
すらりとした体《からだ》に、くすんだ緑色の鎧《よろい》をまとっている。
そして両手は巨大な斧《おの》の柄《え》をしっかりと握《にぎ》りしめ、大きく振《ふ》りかぶっていた。
恵潤の長い髪はばさばさとはためいていた。
落ちてくる。
自分の頭をめがけて鎧姿の恵潤が斧を振りかぶりながら飛びかっているのだ。
呆然《ぼうぜん》としながら綜現は立ち尽くした。
優《やさ》しく笑い、恵潤は斧を振り下ろす。
激突音《げきとつおん》を確認して、恵潤は柄を握り替《か》えそのまま塁摩に向かい斧を振った。
巨大な斧は宙《ちゅう》を舞う燕《つばめ》のような滑《なめ》らかさで、塁摩の首を狙《ねら》う。
再び激突音。
だが、恵潤の斧は塁摩に触《ふ》れてはいなかった。
塁摩と斧の隙間《すきま》で淡《あわ》く青白い炎が弾《はじ》けていた。
恵潤の一撃を塁摩は恐《おそ》れてはいない。
「もう。負けちゃったじゃないの。
綜現のせいだからね」
全身から冷や汗を流し、綜現は尻餅《しりもち》をついていた。彼の体にも怪我《けが》はなかった。
「ご、ごめんよ塁摩」
「本当に怖《こわ》がりなんだから。断縁獄《だんえんごく》の中では宝貝《ぱおぺい》が他《ほか》の宝貝に傷《きず》つけられはしない、って説明したでしょ」
回収した宝貝を保管する断縁獄。
それはある意味では牢獄《ろうごく》と言えた。牢獄の中で囚人《しゅうじん》どうしが傷つけ合わない為の仕掛《しか》けが、幾《いく》つか存在していた。
だが、いくら説明されても実際に自分の頭上に斧が振りかぶられて綜現は平気ではいられなかった。
恵潤は斧の刃《は》とは逆の端《はし》、石突《いしづき》の部分を地面に突《つ》き刺《さ》し、綜現に手を貸してやった。
塁摩はまだ悔《くや》しそうに綜現に噛《か》みついていた。
「ああ悔しい。あんな見え見えの罠《わな》にかかっちゃって。
その上頭上からの落下攻撃なんて、刀の宝貝の常套《じょうとう》手段でしょ。
定石《じょうせき》に引っかかってちゃ模擬戦《もぎせん》の意味がないじゃん」
「そんなこと言われても、僕は燭台《しょくだい》の宝貝だから」
「本当に悔しい。
でもこれはやっぱり、組分けに問題があったのよ」
綜現の服の埃《ほこり》を恵潤は払《はら》ってやった。断縁獄の保護機構は強力な衝撃《しょうげき》にしか作用しないようであった。
恵潤は言った。
「そう。それじゃ私と綜現が組んでもう一度、戦ってみる?」
腕を組んだ塁摩は大きく首を右に傾《かたむ》けた。そして今度は左に傾ける。
そして、どうやらいい考えに辿《たど》りついたのか、塁摩は両手をポンと叩《たた》いた。
「そうだ、私と恵潤が組んで綜現と戦おう。それなら絶対負けないよ」
綜現はブンブンと首を横に振った。
「勘弁《かんべん》してよ!」
二人の会話を見ながら恵潤は微笑《ほほえ》む。
「ま、今日はこのぐらいにしましょ。
いい暇《ひま》つぶしにはなったでしょ?」
悩みながらも綜現は首を縦《たて》に振った。
「そうだね。怖かったけど気分|転換《てんかん》になったよ」
軽くうなずき、恵潤は指をパチンと鳴らした。
途端《とたん》に草原は消滅《しょうめつ》し、白い世界が周囲に広がった。
空も白、地面も白。
空と大地の色合いが僅《わず》かに違《ちが》うおかげで、辛《かろ》うじて平衡感覚《へいこうかんかく》を保てるような世界だった。
その白い世界の片隅《かたすみ》に人影が揺《ゆ》らめいていた。
綜現は人影に向かい手を振った。
「流麗《りゅうれい》さん!」
二人の女の共通項はしなやかさだった。
が、同じしなやかさでもその質は全《まった》く異なっていた。
恵潤のもつしなやかさが、豹《ひょう》や虎《とら》の持つしなやかさだとすれば、流麗のそれは絹《きぬ》のしなやかさだった。
表情のない流麗の顔の中で、重そうな瞼《まぶた》がその瞳《ひとみ》を覆《おお》っている。
だが流麗は美しかった。流麗が持つのは躍動《やくどう》する美のように移《うつ》ろいやすい類《たぐい》のものではなかった。
静《せい》の中に現《あらわ》れる美。
短く襟《えり》で切り揃《そろ》えられた髪が、僅《わず》かな風の中で揺れていた。
眠たそうにも見える瞳は、巨大な碁盤《ごばん》を見つめている。
一辺が流麗の身長ぐらいの長さがある碁盤だ。だが厚みはほとんどない。
その奇妙《きみょう》な碁盤は直立する流麗の、丁度《ちょうど》腰《こし》の高さに浮《う》かんでいた。
巨大な碁盤だが、盤上に引かれている線の間隔《かんかく》は通常の物と大差はなかった。
めまいを覚えそうな無数の線の交点の上には、白と黒の碁石が置かれている。
流麗の細くしなやかな指が動くと、途端《とたん》に彼女の手の中に今まで存在しなかった碁石が一つ現れ、彼女はそれを盤上に打った。
無造作《むぞうさ》なのか、熟考《じゅっこう》を重ねたのかは流麗の表情からはみてとれなかった。
彼女の耳に、流麗や綜現たちの楽しそうな話し声が聞こえた。声は近づいてきたがたいして興味《きょうみ》は覚えなかった。
「ただいま流麗さん」
声の主は綜現だった。少しばかり高い、少年独特の声だ。
流麗の視線《しせん》は盤上を離《はな》れ、綜現に向けられた。
綜現の澄《す》んだ瞳を見た瞬間《しゅんかん》、流麗の頬《ほお》が軽く和《やわ》らいだ。
だがその小さな笑顔は、たとえ武器の宝貝であろうと見ぬく事は出来ないであろう。
流麗は綜現の隣《となり》に立つ、鎧姿の恵潤に話しかけた。
「……子供のご機嫌《きげん》とりも大変ね」
少しばかり困った笑顔が、恵潤の顔に浮かんだ。
「あらら。別にご機嫌とりのつもりじゃないんだけどね」
塁摩は顎《あご》が胸につきそうなほど大きく首を縦に振った。
「そうよ。ご機嫌とりなら、もうちょっと加減してくれてもいいのに、よりによって頭上からの落下|攻撃《こうげき》よ」
流麗の瞳が僅《わず》かに鋭《するど》さを増《ま》す。
「……恵潤。そうやって二人を手なずけて、和穂《かずほ》たちに協力させようとしてるのは、判っているのよ」
恵潤は、誤魔化《ごまか》しの為《ため》だけに偽《いつわ》りの笑顔を作る女ではない。
「手なずける? 私がこの二人を騙《だま》して、自分のいいなりにしようとしてるとでも?」
恵潤とて武器の宝貝。温和《おんわ》な性格をしていても引かぬときは一歩もひかなかった。
流麗と恵潤の会話の語気がだんだん強くなるのを綜現は感じ取った。
「あの、二人とも」
肝心《かんじん》の二人には綜現の言葉は聞こえていないようだった。
代わりに塁摩が綜現の袖《そで》を掴《つか》んだ。
「よしなよ綜現。女の戦いに口をだすと噛《か》み付かれちゃうよ」
「塁摩、二人を止めようよ」
「嫌《いや》よ。面白《おもしろ》そうだから座《すわ》って見物しよう」
塁摩がパンと手を叩《たた》くと、長椅子《ながいす》が出現した。綜現の袖を引っ張り塁摩は椅子に飛び乗る。
二人の言い争いを見物《けんぶつ》するには絶好の位置だった。
「ううん。もうちょい演出があったほうが良いよね」
再び手を叩くと黒雲が空に現れ、稲光《いなびかり》が炸裂《さくれつ》した。
「よし、これで死闘《しとう》の舞台《ぶたい》の出来あがり」
「し、知らないよ」
綜現の言葉が終わるよりも速く、恵潤と流麗の視線が塁摩を睨《にら》みつけた。
どんなに大きい怒鳴《どな》り声でも塁摩をすくみ上がらせる事は不可能だろう。
だが、二人の鋭《するど》い視線は塁摩を震《ふる》え上がらせた。
「わ、わ、ごめんなさい」
塁摩は慌《あわ》てて黒雲を消し去り、隣《となり》では一緒《いっしょ》になって綜現も顔を引きつらせていた。
「おっかないよう」
流麗は視線を恵潤に戻《もど》した。
「……あなたが何をしようが勝手よ。塁摩と一緒《いっしょ》に和穂に力を貸そうが、知ったことではないわ。
でも、私や綜現には関《かか》わらないで。
私たちはこの断縁獄の中で、平穏《へいおん》に暮《く》らしたいのよ。綜現を危険な目にあわせたくはない。
和穂もそれで納得《なっとく》しているのよ。それを今更《いまさら》どうしようって?」
恵潤の視線から険《けわ》しさが消えた。
「殷雷《いんらい》が完全な状態なら、それでも良かったでしょうけどね。
……殷雷はもう長くはもたない。
流麗、あなたなら殷雷の体がどうなってるか判《わか》るでしょ?」
「……私はただの織《お》り機《き》の宝貝よ。
武器の宝貝の体調なんか判るはずないでしょ」
一瞬《いっしゅん》、流麗の視線が自分から離《はな》れたのを恵潤は見逃《みのが》さなかった。
流麗は嘘《うそ》をついている。
「そうね。あなたは織り機の宝貝。
でも、私は知っているのよ。あなたは龍華《りゅうか》の宝貝製作の補佐《ほさ》をしてたんでしょ。
宝貝の具合や、簡単な仙術《せんじゅつ》に関する知識を持っている」
憶測《おくそく》ならば否定を押《お》し通せば良かった。
だが恵潤は私の素性《すじょう》を知っている。流麗は素直に認めた。
「……よく知ってたわね」
「流麗絡《りゅうれいらく》と理渦記《りかき》。この二体の宝貝は本来、龍華の宝貝製作の補佐をするために造《つく》られたと聞いている。
理渦記は設計の補佐、あなたは製造の補佐をしてたんでしょ? 理渦記は本の宝貝だから納得がいくけど、織り機のあなたがどうして製造に関わってたの?」
「……立体も織れるのよ。
宝貝の試作品を造るぐらいの能力はある」
恵潤の顔がばっと明るくなる。
「凄《すご》いじゃない、そんな能力があるなら」
素早《すばや》く流麗が言葉を制す。
「……役には立たないの。この人間の世界じゃ宝貝の材料が手に入らない。
あるのは知識だけ」
「でも、もしも理渦記を回収して二人で協力したなら」
つまらなさそうに恵潤は鼻で笑った。
「……お生憎《あいにく》様。私は理渦が大嫌《だいきら》いなの。
あんな馬鹿《ばか》な奴《やつ》とは口をきくのも嫌《いや》」
「あれ、私も嫌われてると思ってたけど、口をきいてはくれるのね」
「……なんなら黙《だま》りましょうか。
理渦は自分を利口《りこう》だと考えている類《たぐい》の馬鹿なのよ。
あの女の顔を思い出すだけで虫唾《むしず》が走る。
あの馬鹿《ばか》は龍華に対してどんな卑屈《ひくつ》な態度をとっていたか。
忠誠と媚《こ》びの違《ちが》いも判《わか》らない奴《やつ》だった」
恵潤は理渦記を知らない。
だが流麗の言葉からにじみ出る嫌悪感《けんおかん》は感じ取った。
「まあいいわ、流麗。能力は使えなくても、あなたの知識は充分《じゅうぶん》役に立つと思う。
だから、あなたの力を貸して欲しいの」
流麗は押《お》し黙《だま》った。
恵潤はその沈黙《ちんもく》を否定の沈黙ではなく、思案《しあん》の沈黙と信じたかった。
重い空気のなか、間《ま》を繋《つな》ぐ為に恵潤は己《おのれ》の体を包む鎧《よろい》に手を触《ふ》れた。
途端《とたん》に鎧が解《と》ける。
中心をなくした精密な機械が崩壊《ほうかい》するかのように、鎧は細かな部位に分裂《ぶんれつ》し、分裂しきれない肩当《かたあ》てのような大きな部位は不自然に歪《ゆが》み、体積を減《へ》らした。
バラバラになった鎧は地面には落ちず、そのまま恵潤の左腕に吸い込まれるように巻き取られていった。
ありえない縮小変形により、鎧は瞬《またた》く間《ま》に腕輪《うでわ》に姿を変えた。
鎧を脱《ぬ》いだ恵潤は、緑色の袖付《そでつ》きの外套《がいとう》を身に纏《まと》っていた。外套の背中には大鵬《たいほう》の刺繍《ししゅう》がほどこされている。
袖から覗《のぞ》く左腕には先刻まで鎧であった腕輪が光っていた。
続いて恵潤は地面に突《つ》き刺《さ》していた斧《おの》を引きぬいた。
斧も鎧と同じように部位ごとに崩《くず》れ、歪《ゆが》み縮小しながら一本の細かな鎖《くさり》へと姿を変えた。
恵潤はその鎖を二重にして首飾《くびかざ》り代わりに首へと掛《か》ける。
そんな恵潤の姿を見て、流麗はボソリと呟《つぶや》いた。
「……醜《みにく》いわね」
恵潤は流麗の言葉に怒《いか》りはしなかった。
「そう? この体はこの体で気に入ってるんだけどね」
「無様《ぶざま》よ。あなたは一体、何の宝貝なの? 今はもう恵潤刀《けいじゅんとう》じゃない。
幾《いく》つかの宝貝が無様により集まってる、ただの化《ば》け物《もの》よ」
「手厳《てきび》しいね」
流麗の言葉に静かに力が込《こ》められていった。
「……殷雷はじきに折れる。
でも殷雷が折れても、あなたに代わりはつとまらない。
判《わか》っているんでしょ」
今度は恵潤が沈黙した。だがその顔は緩《ゆる》やかに笑っていた。
「……恵潤。あなたと殷雷の体調にどれだけ違いがあるっていうの?
鎧に斧に鏡に綱、それに罠の宝貝と融合してるからといって、それは間違《まちが》っても有利な属性《ぞくせい》じゃない。
普通《ふつう》の武器の宝貝ならば耐《た》えられるような衝撃《しょうげき》でも、あんたの体じゃ耐えられないでしょうね」
「そうかしら。鎧とも融合してるのに」
「……硬《かた》くても脆《もろ》ければ無意味よ。
このまま静かに暮《く》らしていれば、死にはしないでしょうけど、戦闘《せんとう》にどれだけ耐えられるか。
あなたはもう刀じゃない」
全《すべ》ては承知していた。
恵潤はかつての戦いの中で、他《ほか》の五つの宝貝と融合していたのだ。
一人の少年を救う為に無理を承知で他の宝貝と融合したのだ。本来ならば、一気に崩壊《ほうかい》してもおかしくはない状態だったが、他の五つの宝貝とどうにか意識の統一を果たし、今の姿を保《たも》っているのだ。
その時点で恵潤はもう刀の宝貝とは言えないだろう。何故《なぜ》なら、彼女は己《おのれ》の真の姿に戻《もど》るのが不可能になっていたからだ。
彼女は流麗の言葉のように自分が化《ば》け物《もの》であると承知していた。
六体の宝貝の能力を持つ一つの化け物。
その化け物の中で一番|欠《か》けているのは柔軟性《じゅうなんせい》だと恵潤は知っていた。
さすがにかすり傷《きず》程度ならば問題ないだろうが、ちょっとした怪我《けが》、人間で言うところの骨折程度の怪我を負えば、それが致命傷《ちめいしょう》になるだろうと、彼女の本能は察知《さっち》していた。
鎧を着ていても、その鎧自体が己《おのれ》の一部なのだ。
鎧が破壊されるのと肉体の破壊は同じ意味を持つ。
恵潤は何故か嬉《うれ》しくなった。
自分の問題をこんなに簡単に指摘《してき》できるのなら、流麗の宝貝に関する知識は信頼《しんらい》できそうだったからだ。
「流麗。殷雷が壊《こわ》れ、私が壊れたら後はどうなる? 和穂が敗北《はいぼく》したら?」
「……興味《きょうみ》ない。
私たちにはもう関《かか》わらないで、塁摩を連れてどこかに消えて」
恵潤は大きく溜息《ためいき》をついた。
流麗の気持ちが恵潤にはよく理解できた。
流麗は綜現に好意を寄せている。その綜現を危険にさらしたくない気分は当然だろう。
そして流麗は自分の身が危険にさらされるのも恐《おそ》れている。
自分の身が可愛《かわい》いのではなく、綜現が死ぬ以外でも、自分が死んでも綜現と会えなくなると判っているからだ。
でも流麗の考えは間違《まちが》っている。
流麗自身も判っているだろうが、それを認めるが恐《おそ》ろしいのだろう。
だが、恵潤は口を開いた。
「駄目《だめ》よ流麗。
あなたも綜現も、和穂に力を貸す必要があるの。
それも私や塁摩以上に力を貸す理由があるでしょ」
流麗は軽く下唇《したくちびる》を噛《か》んだ。
「…………」
「流麗。あなたがこうやって、断縁獄《だんえんごく》の中で綜現と静かに暮らせるのも、和穂が断縁獄の所持者だからでしょ?
もし他の宝貝使いが断縁獄を手に入れたらどうなると思う。
断縁獄の外で綜現の名を呼ぶだけで、あなたたちは引き裂《さ》かれるのよ。
断縁獄が和穂の手から離《はな》れるのは、彼女が敗北した時だと思う。
今の生活を続けたいのなら、和穂に力を貸してあげなければいけないでしょ。
流麗、判っているでしょ」
人形のような流麗の顔に翳《かげ》が差す。
「……判っている。判ってはいる」
恵潤は大きくうなずいた。
「大丈夫《だいじょうぶ》。心配はいらない。
綜現やあなたに力を借りるのは、どうにもならない危機の時だけにするから。
だからお願い、力を貸すと約束《やくそく》して」
絶望に脱力《だつりょく》するかのように流麗の首がガクリと動いた。
それは承諾《しょうだく》の首を縦に振《ふ》る姿だった。
「……いいわよ。力を貸す。
でも、くだらない用事でいちいち呼び出さないでよ」
「ありがとう、流麗」
二人のやりとりを見物していた塁摩は、椅子《いす》に座《すわ》りながら大きく伸《の》びをした。
「うぅぅん。
凄《すご》いね恵潤。あの流麗を丸め込んじゃったよ。
ところで綜現」
「なんだい、塁摩?」
「恵潤と流麗のどっちが好き?」
「い、いきなりなんて恐ろしいことを訊《き》くんだい!」
「いいじゃない。私は恵潤の方が好き。だって性格がさっぱりしてるもん」
「僕は、僕は……」
珍《めずら》しくにこやかに笑い流麗が言った。
「……両方好きだよ。なんて言わないでしょうねえ綜現」
綜現の笑顔がひきつる。
「僕は流麗さんの方が好きだよ。これでいいんでしょ」
ハラリと流麗の瞳《ひとみ》から涙《なみだ》が流れた。
「……綜現、あなたはそんな軽はずみに『好き』なんて言葉の言える人だったの」
綜現の隣《となり》では、何故か塁摩も「軽はずみだ、軽はずみだ」と騒《さわ》いでいる。
綜現は慌《あわ》てふためきながら、この場を取り繕《つくろ》うとするがそう簡単《かんたん》には言葉が出ない。
恵潤は半《なか》ば呆《あき》れて流麗に言った。
「笑ったり、嘘泣《うそな》きまで出来るんなら、もうちょっとその無愛想《ぷあいそう》を直したら」
「……大きなお世話よ」
恵潤は碁盤《ごばん》を見つめた。
「それはそうと、この碁盤は何? 普通《ふつう》のより路《みち》がやたらと多いけど」
「……たいして意味はない。外の世界の状況分析《じょうきょうぶんせき》よ」
この碁盤で何をどう分析しているかは、恵潤には理解出来なかった。
恐《おそ》らく、碁石の一つが人物やら事件やらの因子《いんし》を表しているのだろう。
流麗はそれぞれの因子の絡《から》み方を考察しているのか。
だが、やはり恵潤には意味が判《わか》らない。一応碁の規則やら定石《じょうせき》は知ってはいたがこんなに複雑な状況では役に立ちそうにない。
「ともかく複雑そうね。あ、でもこの白石は取れるね」
恵潤の手の中に突如《とつじょ》として黒石が現れ、彼女のしなやかな指は石を盤上に打った。
代わりに恵潤は、息の根を止められた二つの白石を盤上から取り除《のぞ》いた。
「……その石を取ったわね」
流麗の冷たい口調《くちょう》が、恵潤の背筋をぞくりとさせた。
「あれ、変な手だった? 取れる石でも取ると不利になるのかな? 碁は素人《しろうと》だからよくわからないのよ」
「……いいえ。その石は簡単に取れる石。でも誰《だれ》も取らなかった石」
恵潤は手の中の碁石が氷のように冷たく感じられた。この石は何を表しているのか。
ささやくように流麗は語った。
「……そう。その白石は和穂と殷雷よ」
「冗談《じょうだん》て訳じゃ無さそうね」
流麗の表情からは何も読み取れない。
「……取れるのに、誰も取らなかった石。
それはあまりにも不自然よ。
その石を取らせなかった、何らかの因子《いんし》があるはず。でもそれが何かは情報不足」
不吉《ふきつ》な悪寒《おかん》に襲《おそ》われた恵潤だが、流麗の言葉が意味するのはそんなに悪いことではなさそうだった。
「それって、誰かが和穂や殷雷の身を守ってるってことじゃない?
そんな協力者がいるなんて知らなかった」
「……甘《あま》い。
誰かが何かを仕掛《しか》けている。誰かが大きな罠《わな》を張っている」
忠誠心《ちゅうせいしん》なんてものは、信頼《しんらい》があって初めて成り立つんじゃないの。
裏切る裏切らないなんて話とは、次元が違《ちが》うのよ次元が。
柴陽《さいよう》はぶつくさと文句を言っていた。どう転《ころ》んでも逃げられはしないだろう。
今、目の前に居るのは凄腕《すごうで》の矛使《ほこつか》い、そして息急切《いきせきき》りながら姿を現した、宝貝《ぱおぺい》の回収者の二人だ。
願月《がんげつ》と殷雷刀《いんらいとう》を持った和穂《かずほ》から逃げ切る術《じゅつ》を柴陽は持っていない。第一、宝貝の一つも彼女は持っていないのだ。
打つ手がないのなら彼女は、開き直るしかない。
「さあ、どうしろっていうのよ。好きにしなさいよ! 逃げも隠れもしないから」
願月が微笑《ほほえ》む。
「逃げも隠れも、出来ないだろ」
キッと睨《にら》むが願月は全く相手にしなかった。
和穂が右手に持つ刀を放《ほお》り投げると、途端《とたん》に刀は爆煙《ばくえん》を上げ、煙《けむり》の中から殷雷が姿を現した。いつもどおりの袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》を羽織《はお》っている。
殷雷は言った。
「なに、たいした用事じゃない。
軒轅《けんえん》について教えてもらおうか。隠すと為《ため》にならんぞ。
ぐだぐだ無駄口《むだぐち》を叩《たた》くなよ。お前の面《つら》をみりゃ、お前自身が軒轅に疑惑《ぎわく》を覚えてるのは見え見えなんだからよ」
自棄《じき》の笑顔が柴陽の顔に浮《う》かんだ。
「へえ。
よく判《わか》ってるじゃない。正直言って、こんな酷《ひど》い目にあわされるとは、夢《ゆめ》にも思ってなかったからね。
最初の情報じゃ、呑気《のんき》な村人から宝貝を巻き上げるだけの簡単《かんたん》な仕事だったのよ。
おかげで案山子《かかし》の宝貝一つで乗り込んできたら、このありさま」
和穂が白い息を吐《は》いた。
「それじゃ、何か情報を教えてもらえるんですか?」
柴陽はそっぽを向きながらも答えた。
「悪いけど、たいした話は出来ないね。
間抜《まぬ》けな鏡閃《きょうせん》が放《はな》った刺客《しかく》、恵潤から大体の事情は聞いてるんだろ。
それに付け足す情報なんてないね」
軒轅《けんえん》。謎《なぞ》といえば謎《なぞ》の組織。だが組織の目的は単純明快だった。
目的は地上に散らばる宝貝を集め、尋常《じんじょう》ならざる力を手に入れること。
柴陽はかじかんだ手に息を吹《ふ》き付ける。
「組織といっても、そんなに厳《きび》しい規律があるんじゃない。
首領《しゅりょう》の九天象《きゅうてんしょう》の力で宝貝の在《あ》り処《か》を調べ、組織の人間が回収する。
複数の宝貝を回収したら、その宝貝は組織の幹部《かんぶ》で配分するだけ。
万が一、手に入れた宝貝を持ち逃げしたとて、たいした制裁《せいさい》もないのよ。
もっとも、一度の持ち逃げでそれ以降の情報提供をふいにする馬鹿《ばか》はいなかったけど」
和穂には一つの疑問があった。
「その、柴陽さん。
九天象の情報に間違《まちが》いがあったんですか」
「さあね。情報を正確に判断し損《そこ》ねたのかもしれない」
殷雷は鋭《するど》く指摘した。
「お前ははめられたんだ、軒轅に騙《だま》されたんだよ」
「……黙《だま》れ。
もう用はないでしょ。今となっては、他《ほか》の幹部の名前も偽名《ぎめい》だったかもしれない」
柴陽自身も自分が騙されたのか、そうではないのか判断しかねていた。
絶対に騙されていないと言い切る気力は既《すで》になかった。
殷雷は言った。
「柴陽。軒轅の幹部なら、『軒轅の議《ぎ》』に出席する為の鍵《かぎ》を持ってるんだろ?」
柴陽は反射的に懐《ふところ》に手を当てた。
「これを渡せというの?」
「いや、少し違う。俺や和穂も軒轅の議に出席してみたい。
恵潤から聞いているぞ。出席者の姿は顔を隠《かく》したりとか、制御《せいぎょ》できるんだろ。
俺《おれ》たちの姿を見えない状態にして軒轅の議に連れていって欲しい。少しは手掛《てが》かりが得られると思うんでな」
軒轅の議。軒轅の幹部どうしで開かれる会合であった。
実際に同じ場所に集合するのではないが、一同はまるで同じ空間に存在するように言葉を交《か》わす事が可能である。柴陽は卓《たく》の宝貝の力でその会議が開かれると聞いていた。
幹部にはそれぞれ鍵が渡されていた。
柴陽はしばし考えた。
和穂たちを軒轅の議に連れていくのは、明らかな裏切り行為《こうい》だ。
だが柴陽は自分が軒轅に騙されたのか確かめずにはいられなかった。
もし殷雷の申し出を断《ことわ》ったのなら鍵を奪《うば》われるだろう。
そうすれば事実は永久に判《わか》らない。
「判った」
柴陽は、懐《ふところ》から取り出した小さな鍵を軽く撫《な》ぜた。金属製の鍵は軽く振動音《しんどうおん》を立てる。
「これで、軒轅の議の緊急《きんきゅう》開催を要請《ようせい》した。
一刻《いっこく》以内に軒轅の議が開かれる」
殷雷は満足そうにうなずいた。
「それまで、こんな所でうだうだしていても始まらないな。
一度村に戻《もど》ろう」
だが願月は首を横に振《ふ》った。
「悪いが、俺は村には戻らない。そろそろ修行《しゅぎょう》の旅に戻らねば」
「そいつはご苦労なこったな。夜を徹《てっ》して道を行くのも槍術《ぼうじゅつ》修行の一つってわけだ。
ま、好きにするがいい」
和穂がぺこりと願月に頭を下げた。
「いろいろお世話になりました」
「礼を言われるほど、働いてもいないけどな。
そうだ、和穂。参考になるかもしれないからこれだけは教えておこう。
俺は怪吸矛《かいきゅうぼう》を授《さず》けられたんだ。他の連中みたいに目の前に宝貝が降ってきたのとは違うんだ」
「それはどういうことですか?」
「誰だか知らない女、赤い服を着た女にあの矛をもらったんだ。
女はついでに、この村に龍《りゅう》がいると俺に教えてくれたんだ」
殷雷の顔に疑問の表情が浮かぶ。
「なんだと?」
「謎《なぞ》は謎でも、答えは見つかりそうにないだろ。俺にも判らない。
ただ、俺は修行の旅の途中《とちゅう》だったんだ。女の言葉が信用できなくても、この村に来る価値はあると判断した」
何かが腑《ふ》に落ちない。和穂も不思議に感じた。
「でも、確実に願月さんがこの村に来る保証はなかったんじゃ?」
「そう。そこが不自然なんだ。
誰かが、裏で糸を引いている気がしてならない。
どう言えばいいんだろうな。
小さな部分ではなく、全体の大きな流れを仕切《しき》ろうとしている奴《やつ》がいる。
そいつの狙《ねら》いは判らない。
だが誰かがいるのは確実だ。気をつけろ」
殷雷は口許《くちもと》を歪《ゆが》めた。
「たいした助言だ。生憎《あいにく》、はなから油断が出来るようなご身分じゃないんで、年がら年中気をつけてはいるんだがな。
そいつが何を狙おうが正体《しょうたい》を現した時に倒《たお》すだけだ」
「そうか。余計な忠告だったかもな。
殷雷、この箒《ほうき》を豹絶《ひょうぜつ》の家に返しといてくれ」
放り投げられた箒を殷雷は軽々と受け止めた。
そして最後に願月は言った。
「じゃあな。せいぜい健康には気をつけてくれよ」
和穂が答えた。
「はい」
殷雷の瞳《ひとみ》が瞬時《しゅんじ》に殺気《さっき》立ち、願月を射抜《いぬ》く。
今の言葉は和穂に言ったのではない、俺《おれ》に言ったのだ。
殷雷の視線《しせん》に笑顔で答え、願月は闇《やみ》に消えていった。
「あら、帰ってきたのね」
「夜分|遅《おそ》くごめんなさい」
真夜中の訪問者《ほうもんしゃ》に、彩朱《さいしゅ》は嫌《いや》な顔一つ見せなかった。
「いいのよ。どうせ、あの人もまだ戻《もど》ってないんだから。
祝いの酒宴《しゅえん》はしばらく続くと思う」
龍衣《りゅうい》の鏡閃の長年の呪縛《じゅばく》から解《と》き放《はな》たれた村人たちは、祝福の宴《うたげ》を開いていた。
和穂たちも宴に参加していたのだが、柴陽の姿が見えない事に気がつき、宴を抜《ぬ》け出していたのだ。
彩朱には軽く事情を話し柴陽の捕獲《ほかく》に向かっていった。
彩朱が酒宴に参加していないのは、龍衣の鏡閃との戦いの中で、少しばかり体調を崩《くず》してしまったからだった。
和穂は彩朱の具合を気遣《きづか》う。
「あの、お体《からだ》の方は?」
「平気平気。『混沌《こんとん》の大帝《たいてい》』が消えたんだから、後は回復する一方よ」
彩朱は人懐《ひとなつ》っこく笑った。
年の頃《ころ》なら二十を少し過ぎたところだろうか、豹絶《ひょうぜつ》という男と結婚《けっこん》をしていたが所帯臭《しょたいくさ》さは微塵《みじん》も感じられなかった。
襟《えり》で切り揃《そろ》えられた髪《かみ》の間からは、白い首が見て取れた。
顔立ちは整《ととの》っているが、明るく弾《はず》むような声が柔《やわ》らかな雰囲気《ふんいき》を作り上げていた。
「で、柴陽さんは捕《つか》まったの?」
気まずそうな表情で、戸口から柴陽が顔を出した。
「悪かったわね。捕まったわよ。だいたい逃げ切れるはずがないのよ。
文句がある? 本当に忌々《いまいま》しい」
柴陽に続いて殷雷が部屋《へや》の中に入った。
力なく握《にぎ》られている銀色の棍《こん》だったが、もし柴陽が逃げようという素振《そぶ》りを見せたのなら、確実に彼女の動きを押《お》さえ込むであろう。
「箒は庭に置いといたぜ」
「願月さんは?」
「修行《しゅぎょう》の旅に出ちまった」
「あらまあ、乾物《かんぶつ》の一つや二つお土産《みやげ》に分けてあげようと思ったのに。
和穂たちには断縁獄《だんえんごく》があるから、乾物は無用だったよね?
それじゃ柴陽、あなたが持って行く?」
「悪いけど、今乾物の事を考える気分じゃないの」
殷雷が口を開いた。
「彩朱、すまんが部屋を用意してくれ。別に物置小屋でも構わんが」
「寝床《ねどこ》の心配だったら大丈夫《だいじょうぶ》よ。
村の恩人を物置小屋になんか放《ほこ》り込めますか。風邪《かぜ》ひいちゃうわよ」
「寝床の話をしてるんじゃないんだ。
説明は難《むずか》しいが、ともかく部屋を貸してくれ。危険はないと思うが、万が一の時があるから母屋《おもや》より物置の方がいい」
「? いいわよ」
「……大きなお世話だろうけど、殺風景《さっぷうけい》な物置ね。物が無いのに物置なの?」
柴陽の言葉にさすがの彩朱もムッとした。
「いいの。私にはあの人が居てくれるんですもの」
きつい山葵《わさび》を噛《か》み締《し》めたように柴陽の顔が歪《ゆが》んだ。
「本気? あんな男のどこがいいんだか」
「あんまり私を怒《おこ》らすと、えんえんと惚気《のろけ》ちゃうわよ。それでもいいの」
「降参《こうさん》」
和穂は既《すで》に殷雷刀を抜いていた。
和穂の口を通して殷雷は言った。
「若奥《わかおく》さんよ。お前は母屋に戻ってくれてもいいんだぜ」
物置のすみから、埃《ほこり》にまみれた椅子《いす》を引っ張り出しながら彩朱は言った。
「邪魔《じゃま》なら席を外《はず》すけど、留守《るす》を預《あず》かる者としちゃ、なりゆきを見守らないとね」
言葉とは裏腹《うらはら》に彩朱の瞳《ひとみ》は好奇心《こうきしん》に輝《かがや》いていた。物置を借りている手前、殷雷も強くは言えなかった。
彩朱の出した椅子を何度も叩《たた》き、柴陽はゆっくりと腰《こし》を下ろした。
「簡単に説明するわよ。
会合へ出席したい人間の幻影《げんえい》を送り届《とど》ける宝貝があると思って。
幻影を送り届けるんだから、離《はな》れた距離《きょり》にいる人間も顔を合わせられるわけ。
私はその宝貝を持ってないけど、宝貝の使用を許可させる『鍵《かぎ》』を持ってる。
この鍵を持っていると会合の召集《しょうしゅう》をかける事も可能なの。
勿論《もちろん》欠席は可能だけど、どんな重大な情報が出るか判らないから、普通《ふつう》幹部は全員出席する。
面白《おもしろ》いのは、送り届ける情報をある程度|隠《かく》せるのよね。
例《たと》えば、軒轅が完全に信頼《しんらい》していない人物を会合に呼ぶ時には自分の顔を消したり出来る。
私の情報だけ送れば、たとえ隣《となり》に和穂が立っていても他の幹部には何も見えない。
ただし、これだけは注意して。
彩朱や和穂の声も勿論送らないけど、喋《しゃべ》らないで欲しい。
あなたたちの姿が見えなくても、私の動きでばれる可能性がある。
だから変なことをほざかないでよ。表情の動きでばれるかもしれないから」
殷雷はとっくに承知しているらしく、首を振《ふ》るのも面倒《めんどう》そうだった。
彩朱は言った。
「覚えとく」
柴陽は懐《ふところ》から取り出した鍵を見つめた。
微妙《びみょう》に不自然な角度で光を反射している。
柴陽にはその光の意味が理解出来るようであった。
「幹部は揃《そろ》った。それじゃ、軒轅の議に入る」
軽く柴陽が鍵をかざすと、鍵からこぼれる不自然な光が途端《とたん》に強く大きくなった。
光に飲みこまれるように、物置の中から柴陽たち以外の色が消滅していく。
色を失い、物置の中は線だけで構成された。
その線もバラバラに解《と》けていった。
崩壊《ほうかい》した線だけが、かつて物置だった世界を漂《ただよ》う。
だが、線は再び結合を開始した。
線は物置と全く違う世界を構成し、最後に色がその世界に宿《やど》りだした。
それは白色の支配する、果てのない世界だった。
三百六十度、地平線が広がり周囲には何もない。
あるのは大きな卓《たく》と、その卓に着く五人の人影《ひとかげ》だった。
白い大地に白い空。
圧倒的《あっとうてき》に広い空間のようでもあり、手を伸《の》ばせば届《とど》くぐらいの近い場所に白い壁《かべ》があるようにも見えた。
心を通じて和穂は殷雷に語りかけた。
『これが軒轅の人たち?』
『そうだろうな』
和穂は柴陽をのぞく五人の人物の顔を見た。
どこにでもいる普通の人に見えた。
だが、どの瞳《ひとみ》にもとてつもない自信が見て取れた。
殷雷にはその態度が気に入らない。
『自信満々か。宝貝の力に頼《たよ》ってるだけのくせに』
『殷雷、あの人を見て』
五人の中に一人だけ少しばかり様子《ようす》の違《ちが》う人物がいた。
その青年の瞳《ひとみ》だけは自信が見て取れない。
落ち着きのない性格なのか、瞳がウロウロしている。
殷雷は恵潤の言葉を思い出した。軒轅の中には一人だけ他の幹部と様子の違う人物がいる、その名は鏡閃。
『あれが鏡閃か。確かに胡散《うさん》臭《くさ》いな』
だが見た目だけでの判断には限界があった。
殷雷は五人の姿を正確に記憶《きおく》した。
和穂が何気なく語る。
『殷雷。この世界って、何処《どこ》かで見た覚えが無い?』
世界一面、自ばかり。雪の白さとは違い、目を刺激《しげき》するでもない。
元々が異様《いよう》な世界なのだ。そんな異様なものを分析《ぶんせき》しようとは、殷雷ははなから考えていなかった。
だが、和穂の一言《ひとこと》が殷雷の記憶を呼び起こした。
『……確かにある。……この風景は断縁獄の中と似《に》ているな。
でもそれに意味があるのか? まあいい、今は軒轅の議に集中しろ』
鏡閃とは対照的に覇気《はき》に溢《あふ》れた青年が、黙《だま》って柴陽を見つめていた。
重苦しい沈黙《ちんもく》が、卓の上に漂《ただよ》っている。
柴陽が今まさに口を開こうとした瞬間《しゅんかん》に青年は言葉を発した。
「きみには失望したよ柴陽。
こんな簡単な回収作業も出来ないとは」
「だって」
青年の言葉は低く威厳《いげん》に満ちていた。柴陽が口を挟《はさ》もうと努力しても軽く跳《は》ね除《の》ける。
「本来なら軒轅の協力者を使って回収するのが我《われ》らの流儀《りゅうぎ》なのだが、今回に関してはあまりに宝貝の数が多かった。
二つや三つの宝貝ならば持ち逃げされてもそれほどの損害じゃない。
だが数十個の宝貝となると話は別だ。
そこで信頼《しんらい》できる幹部の派遣《はけん》となったのにそのざまだ」
「だって、最初の情報から間違《まちが》えていたのよ! その責任はどうなるの!」
「なにを言い出すかと思えば、九天象《きゅうてんしょう》にケチをつけるとはな。
九天象の情報に間違いはない」
「間違えてたのよ! それとも調査が甘かったのかも!
いい? あの村にどんな化《ば》け物《もの》が眠《ねむ》っていたか。それを知らなかったのにまともな回収が可能なはずないでしょ!
いくら九天象の力が絶大でも、村の影に化け物がいるかは調べてなかったんでしょ」
軽蔑《けいべつ》じみた笑いが鏡閃を除く四人の口から漏《も》れた。
「ある程度の言い逃《のが》れは予測していたが、化け物だと?」
柴陽と会話をしている青年こそが軒轅の首領《しゅりょう》に違いないと殷雷は判断した。
『奴《やつ》が頭《かしら》だな。どうだ軒轅の大将の顔を見た感想は』
『……拍子抜《ひょうしぬ》けした』
殷雷は心の中で笑う。
『けけけ。確かにな。もう少し裏がありそうな面構《つらがま》えを期待するわな』
油断は大敵《たいてき》であると和穂は充分《じゅうぶん》承知していた。
だが、それでもこの首領からは凄味《すごみ》を感じる事が和穂には出来ない。
和穂は今までの戦いの中で、宝貝の使い手には二種類いると考えていた。
一つは己《おのれ》の目的の為《ため》に宝貝ですら只《ただ》の駒《こま》と考える、いや自分の命すら駒と考える種類の悲壮《ひそう》な人。
もう一つは宝貝の持つ尋常《じんじょう》ならざる能力に振《ふ》りまわされる種類の人だ。
首領は宝貝を手に入れ浮《う》き足《あし》だっているようには見えない。
だが、宝貝こそが己の宿願《しゅくがん》を果たすための切《き》り札《ふだ》であると考えているようにも見えない。
『この人になら勝てる。この人がどれだけ沢山《たくさん》の宝貝を持っていても怖《こわ》くない。
……私は思いあがっているのかな?』
『いいや。少しは相手を見る目が出来たようだな。
己の実力も判らん未熟者《みじゅくもの》が真剣《しんけん》を持っていても、鉄串《てつぐし》しか持たぬ捨《す》て身《み》で気迫《きはく》のこもった人間には勝てまい。
ま、こっちとしちゃ間抜《まぬ》けな敵は大歓迎《だいかんげい》だがな。
そうだな、こいつとの戦いで注意せねばならんのは、宝貝の物量《ぶつりょう》勝負ぐらいか。
覚えておけよ和穂。物量作戦の力押《ちからお》しでは、相手の素質なんか無意味になる可能性があるからな』
和穂は心の中でうなずく。
『珍《めずら》しいね、殷雷が戦い方の心構えを私に教えてくれるなんて』
殷雷の心に瞬間|空虚《くうきょ》な闇《やみ》がうごめく。
俺は俺が破壊されることを認めようとしているのか。
『黙れ。敵の言葉に集中しろ』
首領の言葉は続いていた。
「実際問題として、私は間違っても全能ではない。
九天象の運用を誤《あやま》る可能性も無くはない。
だからだ柴陽。私たちはお前の行動を監視《かんし》させてもらっていた。
村に到着《とうちゃく》してから、この軒轅の議が開かれる直前までな」
和穂はごくりと生唾《なまつば》を飲んだ。
もしそうなら姿を隠《かく》して軒轅の議に紛《まぎ》れ込んでいるのは、とんだ茶番でしかない。
柴陽を挟《はさ》んだ隣《となり》では、事の重大さに気付いていない彩朱が呑気《のんき》に軒轅の幹部を眺《なが》めている。
だが、殷雷は落ち着いていた。
『おやおや。と、なれば首領|直々《じきじき》に俺たちに挨拶《あいさつ》でもしてくれるのか?』
首領の言葉は続く。
「行動を監視《かんし》した無礼《ぶれい》は謝罪《しゃざい》するよ柴陽。
しかしだ、この監視はお前の為《ため》に行っていたのだ。
万が一、不測《ふそく》の事件が起きたならすぐに援軍《えんぐん》を派遣《はけん》するつもりだった」
不測の事件は起きたのだ。それもそんじょそこらの事件ではない。
先刻《せんこく》から、いいようのない違和感《いわかん》が柴陽にまとわりついていた。
まるで同じ名前の別物《べつもの》について議論しているようだ。
首領は『橋』について語り、自分は『箸《はし》』について語っている。
話はほんの僅《わず》かの食い違いを見せてはいるが、破綻《はたん》はしていない。
舌《した》が痺《しび》れるような錯覚《さっかく》に襲《おそ》われている柴陽を尻目《しりめ》に首領は言った。
「あのような力技《ちからわざ》の回収が上手《うま》くいく道理はなかろう。
自棄《やけ》になった村人たちとの乱戦で、宝貝のほとんどが破壊されたんだぞ。
九天象によればまともに作動《さどう》している宝貝は一つもない」
首領は何の話をしているのだ?
首領は何を見ているのだ?
柴陽の疑惑が和穂たちにも広がる。
柴陽は喘《あえ》ぎながら言った。
「和穂と殷雷」
首領の目が細くなる。
「あの二人がどうした? 奴《やつ》らは今頃《いまごろ》、大河下《たいがくだ》りの船の中だ」
もはや柴陽に考えられる理由は二つだけだった。
九天象が正常に機能していないのか。
もはや手段を選んでいる余裕《よゆう》はない。殷雷刀の動きに気を配《くば》りながら、柴陽は『鍵』を握《にぎ》る。
「九天象は間違っている! 和穂たちはここにいる!」
殷雷は柴陽の動きに気がついていた。だが、あえて彼女の動きを遮《さえぎ》らなかった。
殷雷とてこの状況《じょうきょう》の不自然さが腑《ふ》に落ちていなかったからだ。
柴陽はこの場の全《すべ》ての情報を軒轅の議に送りつけた。
一瞬《いっしゅん》の間《ま》。
首領が呟《つぶや》く。
「どこに和穂がいるというのだ?」
軒轅の幹部に和穂や彩朱の姿が届いていないのは明らかだった。
「ここにいるじゃない! 見えないの!」
「見えないな。正気か柴陽? 我らを謀《はか》るのならまだしも、お前の発言は常軌《じょうき》を逸しているぞ。
化《ば》け物《もの》も和穂もそこにはいまい。
全《すべ》ては九天象で見とおしているのだ。
残念だが柴陽、お前には幹部としての資格がないようだ」
柴陽が考えた理由は二つ。一つは九天象の不具合《ふぐあい》だった。
もしそうなら、和穂たちの姿を送ることにより九天象の情報の間違いを証明できるはずだった。
だが、和穂たちの姿は送れなかった。
卓《たく》の宝貝まで同時に不具合になる可能性は、幾《いく》らなんでも考えられない。
残る最後の理由が一番単純で、なおかつ柴陽には認めがたいものであった。
「私を騙《だま》したわね! 私の宝貝が目的なんでしょ!」
首領の顔は無表情だった。
「柴陽。お前に幹部たる資格はない。
村人の宝貝回収に際して、恐波足《きょうはそく》以外の宝貝は自宅に保管していたようだな。
お前の宝貝は既《すで》に回収した。この宝貝は我らの取り決めにより分配させてもらう」
全《すべ》ては罠《わな》だったのか? 柴陽はそれでもまだ信じられなかった。
「お願いだから信じてちょうだい! あの村には化け物がいて、そのいざこざでほとんどの宝貝は壊《こわ》れてしまった。
ちょうど和穂たちもその村にいて、私は殷雷に脅《おど》かされてこの軒轅の議を開いたのよ」
「まだ言うのか?」
無理だ。首領ははなから私の言葉を信じてはいない。
いや、首領がこの罠《わな》を張ったのだろう。
私は無様《ぶざま》な道化《どうけ》に過ぎないのだ。
柴陽は言葉をなくした。
首領は結論を出した。
「さらばだ柴陽。
己《おのれ》の身が可愛《かわい》いのなら、我らとはもう関《かか》わりを持たないことだ。
もはやお前の手には一つも宝貝はない。せいぜい普通《ふつう》の人間として慎《つつ》ましやかに人生を送るのだな。
もう必要はないだろうから、鍵《かぎ》は返してもらうぞ」
柴陽の手の中の鍵がゆっくりとぼやけていった。
ぼやけに呼応《こおう》するかのように柴陽が見る世界も薄《うす》れていった。
やがて鍵は完全に消滅《しょうめつ》し、柴陽たちは物置の中に居た。
今まで鍵を握《にぎ》り締《し》めていた指は鍵を無くしそのまま拳《こぶし》となっていた。
水面に映る影《かげ》が波紋《はもん》で揺《ゆ》らぐように柴陽の姿は消えていった。
消え行く柴陽の姿を最後まで見送り、首領《しゅりょう》は幹部《かんぶ》たちに話しかけた。
「まあそういう事だ。
何か疑問のある者はいるか?」
年寄りの幹部が手を上げた。
「柴陽は騙されたと言っておったが? 我らも九天象は見ておったが、あの映像が偽物《にせもの》であった可能性はあるのか」
首領はうなずく。
「隠《かく》し事は嫌《きら》いなので正直に話すが、九天象の映像は偽造《ぎぞう》できる。
だが、私は九天象の映像に手を加えてはいない。
柴陽は騙されたとほざいていたが、それはあり得ない。
考えてもみてくれ。もし本気であの女を騙すつもりならもっとマシな方法があるはずだ」
年寄りの幹部は顎《あご》をさすった。
「愚問《ぐもん》であったな。相手を陥《おとしい》れるより協力した方が、長期的に大きい利益が得られるというのが軒轅の基本思想であったな」
「まあ、理屈《りくつ》はそうでも私に疑惑《ぎわく》を持っている者もいるかもしれない。
今回の柴陽の宝貝分配に関しては、私は権利を放棄《ほうき》しよう。
私としては、宝貝の一つや二つより疑惑を晴らすほうが重要なんでね」
「懸命《けんめい》な判断じゃな」
二人のやりとりを黙《だま》って聞いていた鏡閃が、ふと手を上げた。
「あのですね」
面倒《めんどう》そうに年寄りがあしらう。
「なんだ。今回の配分は籤《くじ》でやる。文句はあるまい」
「いえ、そうじゃないんですよ」
首領は鏡閃の言葉に何の興味《きょうみ》も持てなかった。
「なんでもいい。手短《てみじか》に話してくれ」
鏡閃はゆっくりと席から立ちあがった。
「皆さんはご存知《ぞんじ》ないと思うんですが、結界《けっかい》の宝貝にはちょっとした原則があるんです。
いえ簡単な原則です。
和穂の持つ断縁獄なんかは、一度中に入ればそう簡単《かんたん》には、いえ事実上、中から本人の意思で外にでるのは不可能なんです。
言いかえれば断緑獄は強固な結界宝貝なんですよね」
「和穂の話ならいちいち報告する必要はない。全《すべ》てお前に一任《いちにん》だ」
鏡閃は言葉を続ける。
「ところがこの断縁獄は、吸収に抵抗《ていこう》するものは飲みこめないという特性があります。
逆に結界として作用しないような宝貝には、強い吸引能力があったりするんです。
相手を有無《うむ》を言わさず飲み込んで、しかも逃亡《とうぼう》が不可能な宝貝は、あれば便利なんですが仙術的《せんじゅつてき》には存在しません」
「ほほう。鏡閃殿が仙術の講義か。
そのありがたい講義をここでやる理由があるのかね?」
「仙術的には存在しないんですが、心理的には存在するんです。
いかに仙術とて工夫《くふう》は大事《だいじ》なんですね。
いいですか? 強力な結界宝貝で、しかも敵が喜んでその中に入るような心理的な仕掛《しか》けがある宝貝なわけです」
首領は疑わしげに鏡閃を見る。
「どうしたんだ鏡閃。柴陽に続いて、お前まで理不尽《りふじん》な行動にでるのか? 確かにお前は切れる男ではないが、我らの指令はまめにこなしてくれるではないか。
柴陽のいない今、お前のような男でも軒轅に不要な人材ではないんだ。
しっかりしてくれよ」
「……その柴陽についてですが、彼女の主張にどれくらい注意しました?」
「注意する必要もあるまい。化《ば》け物《もの》がどうこうぬかしていただけだ」
「あの村の陰《かげ》に巣食《すく》う化け物は、村人の苦痛を糧《かて》にして生きる化け物でした。
その素性《すじょう》が判《わか》れば、たいした化け物じゃないんですが、奴《やつ》は巧《たく》みに正体を隠《かく》していたんです。
和穂たちがあの村に寄らなければ、もっと悲惨《ひさん》な事になってたでしょうね」
「なんだ鏡閃、お前の持つ宝貝の中に他人の妄想《もうそう》を知る能力なんてあったのか?
柴陽の妄想を詳《くわ》しく知ってどうする」
「あの村の化け物の正体は、器物《きぶつ》の精《せい》です。
龍《りゅう》の鱗《うろこ》で作った衣服、いわゆる龍衣《りゅうい》で、その龍衣が仙骨《せんこつ》の力を受け化け物に転《てん》じました。
奴は自《みずか》らを『龍衣の鏡閃』と名乗っていました」
鏡閃は饒舌《じょうぜつ》に喋《しゃべ》り続けた。
鏡閃の動きからいつもの愚鈍《ぐどん》さが消えている事にまだ誰《だれ》も気が付いていなかった。
「おやおや。お前と同じ名前かい。
もしかして親戚《しんせき》か何かか?」
鏡閃は首を横に振《ふ》った。
「肉親どころか、我《わ》が半身《はんしん》と言ってもよいでしょう。
龍衣に包まれた仙骨《せんこつ》は私の仙骨ですからね。
ま、私と奴は別の心を持っていましたが」
首領は笑う。
「おお。鏡閃殿は仙人であらせられたか。今まで全く気がつきませんでしたな」
鏡閃も笑う。
「いいえ。今の私は元仙人です」
「戯言《ざれごと》はそれぐらいにしろよ鏡閃」
鏡閃は首領の言葉に従わなかった。その自信に満ちた声は誰の指図《さしず》にも従いそうにはなかった。
「そうです。
柴陽は正気です。嘘《うそ》をついているのでも妄想にとりつかれているのでもありません」
「馬鹿《ばか》な。九天象の映像では」
「首領。九天象は私の宝貝です。あなたにはお貸ししているに過ぎません。
私が九天象の保持者なんです。あれの映像は私の思うがままです」
鏡閃から漂《ただよ》う気迫《きはく》にだんだんと妖気《ようき》じみたものが混《ま》ざりはじめていた。
鏡閃は卓《たく》の周りを歩きはじめた。
幹部たちの間に軽い恐怖《きょうふ》が走る。
宝貝の力で送りつけられている映像だ、だから卓の周りを歩く映像を送るなど容易《たやす》いはずだ。
これは映像に過ぎない、何が起きても己《おのれ》の身には危険はないはずだ。
幹部たちは考えた。
鏡閃は恐怖と焦《あせ》りに満ちた空気を楽しみながら首領の椅子《いす》の背後に立つ。
「今までありがとうございました」
鏡閃は首領の肩《かた》を叩《たた》いた。
手と肩が触《ふ》れる僅《わず》かな音が首領を除く幹部たちの恐怖をさらに煽《あお》った。
これは映像なんかじゃない。
幹部たちはそれぞれ、自分の持つ鍵《かぎ》に手を伸《の》ばした。
ある者は袖《そで》、ある者は懐《ふところ》の中に仕舞《しま》い込んだ鍵を探《さぐ》る。
だがそこにあるはずの鍵は無かった。
幾《いく》つかの怒号《どごう》が巻き起こり、椅子は倒《たお》され数人の幹部が鏡閃に襲《おそ》いかかった。
振《ふ》り上げられた拳《こぶし》が鏡閃に触《ふ》れる瞬間《しゅんかん》、青白い閃光《せんこう》が巻き起こった。
どの拳も鏡閃には触れられない。
「簡単《かんたん》な防御機構《ぼうぎょきこう》です。この中では誰も傷つけられない」
言葉に意味はない。重要なのは自分たちが鏡閃に対して完全な無力であることだった。
首領以外の幹部は卓から逃げ出し、白い地平へ向かい駆《か》け出した。
鏡閃は彼らの後ろ姿を見つめながら、首領の向かい側の椅子に座《すわ》った。
「どこへ逃げるというんです。この卓からどれだけ離《はな》れても私の声は届《とど》くのに。
私の姿を見たくないなら、目を閉《と》じればいいだけなのに」
顔面を蒼白《そうはく》にしながら首領は言った。
「一体なにが」
「これは卓の宝貝なんかじゃなく、罠《わな》の宝貝なのです。
遠く離れた場所から映像を送れるという能力は、嘘ではありませんが、本当の目的でもない。
映像どころか鍵を持つ者の実体をも、この罠の中に送り届《とど》けます。
もっとも、この宝貝に少しでも疑問を持てば実体を吸い込むわけにはいきません。
柴陽の側《そば》には和穂も居ましたが、さすがに彼女は初めてみる宝貝を警戒《けいかい》していて吸い込めませんでした。
そこらへんの理屈は、さっき説明したとおりです。
疑問も持たずに、この卓に着きたいと考えれば作動する罠なのです」
「我らを利用していたのか」
「そうです。
私には沢山《たくさん》の宝貝が必要なのです。一人の力では集められる数に限りがあります。限られた時間の中で必要な数を揃《そろ》える必要があったのです」
騙《だま》されていた。媚《こ》びへつらうしか能の無い男だと鏡閃を見くびっていたが、それは演技《えんぎ》に過ぎなかったのだ。
その報《むく》いがこの様《ざま》か?
他の幹部は逃げ惑《まど》っている。首領の視界《しかい》にも他の幹部の姿が映る。
逃げられる訳がない。大海のど真ん中に放《ほう》り投げられた貝が陸地に辿《たど》りつけるのか。
それ以前にこの世界に端《はし》があるかどうかもさだかではない。
いや、たとえ端に到達《とうたつ》出来たとしてどうなるんだ。
ここからは逃げられない。
「ふん。上手《うま》くしてやったつもりか。
我ら幹部の持つ宝貝を全《すべ》て横取りすれば、この世の栄華《えいが》は思いのままか」
鏡閃は首領の表情を見た。
これもまた一つの自棄《やけ》になった態度にしか過ぎないのだ。
鏡閃は逃げ惑う幹部の姿が、まだ人間としては潔《いさぎよ》いように見えた。
無駄《むだ》なあがきをするか、落ち着いた姿をとり格好《かっこう》だけを取り繕《つくろ》うか。
「この世の栄華《えいが》になんか興味《きょうみ》はありません」
自分で言いながら、首領には言葉の意味が理解できないだろうと鏡閃は考えていた。
「宝貝を手に入れて、私は復讐《ふくしゅう》を果たしたいのです」
「……その為《ため》に我らを騙したのか? 事情を話せば協力ぐらいしたものを」
「復讐《ふくしゅう》の相手は和穂」
首領は虚《きょ》を突《つ》かれた。
和穂ごときを仕留《しと》めるのにどれだけの宝貝がいるというのか。
首領は鏡閃に申し入れた。
「どうだ。和穂の始末に手を貸してやる。
だからここから出してくれ」
復讐の神聖《しんせい》さは、この男には絶対に理解できまい。鏡閃は首を横に振った。
「和穂だけではありません。
もう一人居るのです。
その名は龍華《りゅうか》」
龍華。その名を首領は何処《どこ》かで聞いた覚えがあった。
「そいつは」
「そう。和穂の師匠《ししょう》にして地上にばらまかれた宝貝の創造者《そうぞうしゃ》です」
「待て、そいつは仙人ではないか」
「そうです。だから宝貝が必要なんです」
これで説明は終わった。鏡閃は服の襟元《えりもと》を正した。
鏡閃の姿がだんだんと薄《うす》れるにつれて、首領の不安は増大していった。
囚《とら》われる事の恐怖《きょうふ》が彼を覆《おお》っていく。
「鏡閃! 待ってくれ! 宝貝を手に入れるのだけが目的ならば、我らをここから出してくれてもいいじゃないか! 宝貝は全《すべ》てくれてやる、だからここから出してくれ」
消え行く鏡閃から答えが戻《もど》る。
「あなたたちには感謝しています。今まで騙していた事が心苦しくもあります」
首領は鏡閃の袖《そで》を引っ張った。儚《はかな》いながらも布《ぬの》の感触《かんしょく》が指に伝わった。
だがその感触も薄雪《うすゆき》が融《と》けるように薄れて行く。
「頼《たの》む鏡閃。我らに恩を少しでも感じているのなら、ここから出してくれ」
消滅《しょうめつ》する寸前に鏡閃は首を横に振った。
「僅《わず》かばかりの恩義を感じるから、あなたたちをここに封《ふう》じるのです」
そして鏡閃の姿は掻《か》き消えた。鏡閃の最後の言葉の意味を考える前に首領は絶叫《ぜっきょう》した。
じゅうじゅうと蝋《ろう》の爆《は》ぜる音が首領の叫《さけ》びにとって代わった。
鏡閃は今、書斎《しょさい》に佇《たたず》んでいる。檜《ひのき》で作られた巨大な机と、全《すべ》てを威圧《いあつ》し、のしかかってくるような書架《しょか》が机の背後にあった。
書斎の中央にある太い蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》が書斎の闇《やみ》を照らしていた。
鏡閃の手には、拳《こぶし》程度の大きさの水晶玉《すいしょうだま》が握《にぎ》られている。彼は水晶玉を見つめながら椅子《いす》に腰掛《こしか》けた。
この水晶玉こそが軒轅《けんえん》の幹部《かんぶ》と首領《しゅりょう》を飲みこんだ罠《わな》の宝貝、螺沼界《らしょうかい》である。
水晶玉の球面には、間延《まの》びし歪《ゆが》んだ幹部たちの悲壮《ひそう》な表情が映りこんでいた。
歪《いびつ》な恐怖《きょうふ》を浮《う》かべながら、幹部の一人が何かを叫んだ。
途端《とたん》、螺沼界の表面に波紋《はもん》が広がった。一人の叫びに呼び起こされるように他の幹部や首領も叫びを上げた。
鏡閃は叫びと波紋の意味を知っていた。
幹部たちは自分の持つ宝貝を呼んでいるのだ。
宝貝に助けを呼ぶ叫び、本来はかなわぬはずの希望の声だった。罠の宝貝に囚《とら》われた今、自分たちの切《き》り札《ふだ》に叫びが届《とど》くとは考えられなかった。
だが、鏡閃は『鍵《かぎ》』を消しはしたが、螺沼界に至る道そのものはまだ閉《と》じてはいない。
叫びに答えて宝貝は螺沼界に進入したのだ、波紋はその衝撃《しょうげき》によって生まれたのだった。
来るはずのない助けに狂喜《きょうき》し幹部たちは、己《おのれ》の持つ宝貝を次から次へと呼び出した。
鏡閃は水晶玉の鏡面に浮《う》かぶ喜びの感情を無表情に見つめていた。
無論、鏡閃はむざむざ幹部たちを逃がすつもりはなかった。
幹部たちはいまだ鏡閃の術中にはまっていることに気がついていない。
螺沼界は強力な結界能力を持つ。
和穂の断縁獄の中で宝貝の能力がある程度無力化するように、螺沼界の中に飛び込んだ宝貝の力では脱出《だっしゅつ》の助けにはなりはしないのだった。
鏡閃の狙《ねら》いは螺沼界の中に宝貝を招《まね》き入れる事だった。
螺沼界はその性質上、断縁獄に似《に》た能力を持つ。
つまり螺沼界の中の宝貝は、鏡閃の意のままに外部へ取り出せるのだ。
水晶玉の表面へ浮《う》かんでいた無数の波紋がやがて消えていった。
螺沼界を持つ手に意識を集中すると、鏡閃の脳裏《のうり》に内部に吸いこまれた宝貝の名前が浮かび上がった。
もとより鏡閃は、幹部たちの持つ宝貝を全《すべ》て手に入れられるとは考えていない。
宝貝のうち意思を持つ物の幾《いく》つかは、使用者の助けに応じなかった。
全体の二割程は使用者を見捨てた。
それもまた計算の内であり問題はなかった。
使用者を助ける為《ため》に外部から直接、鏡閃や螺沼界に戦いを挑《いど》むような宝貝の姿も無《な》いのであり、特に問題はない。
鏡閃にとって必要不可欠な宝貝は全て、その八割の中に含まれていた。
鏡閃は大きく安堵《あんど》の溜息《ためいき》をついた。常に不測《ふそく》の事態は起こりうるが、今回に限ればその心配はなさそうだったのだ。
螺沼界から意識を離《はな》すと、途端《とたん》に今まで映り続けていた内部の映像が消え、ごく普通《ふつう》の水晶玉のように赤々と燃える蝋燭の炎《ほのお》が映りこんだ。
炎が揺《ゆ》れる。
炎と共に影《かげ》が踊《おど》った。
軽やかな影だった。この世の尋常《じんじょう》なる影は全て何かに『縫《ぬ》』われている。
大地に伸《の》びる影、家屋の壁《かべ》に映る影。
人の形をうつしとる影たちだが、そこには絶対の呪縛《じゅばく》があった。
尋常なる影は、何かに寄りかからねば存在できないのだ。
書斎の中に現れた影には、その呪縛はなかった。厚みすらある影だった。
それは小さな影だった。小柄《こがら》な体格に柔《やわ》らかそうな髪《かみ》の影、子供の影だろう。
螺沼界を袖《そで》の中に仕舞《しま》いつつ、鏡閃の瞳《ひとみ》は影に釘付《くぎづ》けになる。
影は後ろを振《ふ》り向き、別の新たな影が出現する。
今度の影は大人《おとな》の影だった。
肩《かた》の細さから女の影だと見て取れた。女の影は軽くしゃがみこみ、子供の影の視線《しせん》に自分の視線を合わせた。
二人は何かを喋《しゃべ》っているようだが、鏡閃の耳には聞こえてこない。
二人の会話が小声で繰《く》り広げられているのとは違《ちが》うようだった。
音を立てないように気を遣《つか》っているようには見えないのに、影の動きには音がついて回っていない。
耳を澄《す》ましても聞こえてくるのは蝋燭《ろうそく》の燃える音だけだった。
女の影は椅子《いす》に座《すわ》る鏡閃に近づく。
どだい影の表情を読み取る手立てなどない。
だが、女の影は自分をみつめ優《やさ》しく微笑《ほほえ》んでいると鏡閃は確信した。
「お前は、お前は」
自分の声がうわ言のようにかすれ、遥《はる》か遠くから聞こえてくるような錯覚《さっかく》に鏡閃は襲《おそ》われた。
私はこの影を知っている。知っているが、この影が誰《だれ》だか判《わか》らない。
また一つの影が蝋燭の炎の隙間《すきま》から生まれた。
今度の影は腰《こし》の曲がった老婆《ろうぽ》だ。
続いて、別の娘、少年、年齢《ねんれい》の判断のつきかねる女、ごつごつした腕《うで》を持つ中年の男、影、また影たちが現れていった。
影たちは、影たちで何かを話していた。
しかし、鏡閃の耳に聞こえるのは蝋燭の燃える音だけだった。
鏡閃は影に対して、微塵《みじん》の恐怖《きょうふ》も感じなかった。
感じるのは焦《あせ》りと絶望だけだった。
今、この部屋《へや》の中で作動《さどう》している宝貝は一つもない。
影は宝貝の能力で造《つく》られているのではなかった。
無数の影が鏡閃の周囲でうごめいていた。
最初は蝋燭が作る、光の中に影があったが今や影と影の隙間《すきま》に僅《わず》かな光の隙間があるだけだった。
影と影は重なり合い、一つの大きな闇《やみ》を作り上げていた。
「誰だ、どれが誰なんだ」
鏡閃の瞳《ひとみ》からは涙《なみだ》が流れていた。
やり場の無い怒《いか》りに燃える瞳から、涙が滴《したた》り落ちていた。
私は全てを失った。だが何を失ったかが判《わか》らない。
あの女の影は、私の娘なのか、それとも妻なのか。
いや私に娘はいたのか、妻はいたのか。
判らない。
確実なのは、私はこの影たちを知っていたことだ。
しかし、あまりにも綺麗《きれい》に記憶《きおく》は欠落《けつらく》していた。
あまりに完璧《かんぺき》な欠落は、欠落した部分を影となした。
あれは本来存在するはずだった者の影だ。
闇はとてつもなく深かった。沈黙《ちんもく》の空間の中、鏡閃の荒《あら》い息だけがこだまする。
『償《つぐな》いはしてもらう。己《おのれ》の罪《つみ》はあがなってもらうぞ』
闇の中で鏡閃は牙《きば》をむいた。
彼の怒《いか》りはやがて僅かにおさまっていった。
復讐《ふくしゅう》の時は近い。
全ての条件は揃《そろ》おうとしている。
怒《いか》りの瞳のまま、鏡閃は笑った。笑いだけが心の傷《きず》を癒《いや》す。
復讐に狂喜する笑いであっても、疲弊《ひへい》した心には安らぎを与えてくれる。
そして、唐突《とうとつ》に闇は切り裂《さ》かれた。
光は開かれた扉《とびら》の向こうから降り注《そそ》いだ。
「お待たせしました、鏡閃様。
柴陽の保管していた宝貝の回収作業から、ただいま帰還《きかん》しました」
声の主は、消えていた蝋燭に再び炎を灯《とも》した。
暗闇の書斎に再び光と蝋燭の燃える音が蘇《よみがえ》った。
汗《あせ》みどろで笑いの余韻《よいん》に浸《ひた》る鏡閃に向かい部屋《へや》に現れた女は言葉を続けた。
「他の軒轅幹部の所持宝貝は?」
「……お前の立てた作戦どおり、必要な物は全て回収した。
柴陽の宝貝と、この宝貝で、私の望みはついにかなうのだな?」
女はこくりと首を縦に振《ふ》る。
女の切れ長の瞳の上には、長い睫毛《まつげ》が生えていた。細面《ほそおもて》の顔の中に理知的な輝《かがや》きが潜《ひそ》んでいる。
ぬらりと白い肌《はだ》は彼女の首を必要以上に長く見せ、彼女の体《からだ》を包む着物の色は赤黒く、乾《かわ》きかけの血を思わせる。
細くしなやかな黒髪《くろかみ》は、風がなくてもゆらりゆらりと彼女の動きに合わせて揺《ゆ》れていた。
女の細い唇《くちびる》が開き、赤い舌《した》が姿を見せた。
「鏡閃様。ついに全《すべ》ての駒《こま》が揃《そろ》いました。
これで、鏡閃様の復讐を果たす事が可能となりました」
「今更《いまさら》疑うつもりはない。
だが最後に一度だけきかせてくれ。
本当に可能なのだな?」
女はうなずき、髪が揺《ゆ》れた。
「可能です。
宝貝の製作に必要な素材は、宝貝でまかないます。
私には宝貝が造《つく》れます」
鏡閃は大きく息を吐《は》いた。
「そうか理渦記《りかき》。お前を軍師《ぐんし》とたてた時から、幾《いく》つの月が流れたか。
ついに時は満ちたのだな」
理渦の声には独特の甘い艶《つや》があった。
「左様《さよう》で。
続きましては、轟武《ごうぶ》の解放が次の一手でございます」
「ついに……ついに、和穂と龍華への復讐の時が来るのだな!」
茫然自失《ぼうぜんじしつ》する柴陽に和穂はどんな言葉をかけていいか判《わか》らなかった。
だが、そのまま放《ほう》っておくわけにもいかなかった。
「あの、柴陽さん。お気持ちは判りますが気を確かに持ってくださいね」
今彼らは豹絶《ひょうぜつ》の家の客間に居た。
怒《いか》りを周囲にぶちまけていた柴陽をどうにか家の中に連れこんだまではよかったが、彼女は今度は気の抜《ぬ》けたようになってしまった。
椅子《いす》に座《すわ》った殷雷は言った。
「和穂。そいつに気をつかう義理はないぞ」
宝貝を回収しようとする組織、軒轅。確かにその目的は和穂の目的と真《ま》っ向《こう》から対立するものではあった。
いうなれば敵だ。
「そりゃそうだけど。裏切られたんだよ、柴陽さんは。可哀相《かわいそう》じゃない」
いつもは温厚な彩朱であったが、意外と鋭《するど》い言葉を吐《は》いた。
「裏切られてジタバタするようじゃ、信頼《しんらい》とは言わないと思うけどね」
殷雷は軽く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》く。
「驚いた。若奥《わかおく》さんもきついねえ」
「裏切られても許せる覚悟《かくご》があって、それで初めて信頼じゃないの」
意地悪《いじわる》く殷雷は笑う。
「こりゃいい奥さんだ。旦那《だんな》が浮気《うわき》しても怒《おこ》らないってのか」
彩朱は笑い返す。
「それはまた別の話だよ」
なんだか和穂には二人の会話がよく判らない。
さらに声を掛けようとした和穂を柴陽は睨《にら》み返す。
「いいわよ。慰《なぐさ》めなんかいらない。
そうよ、元々私たちに信頼なんかなかったのよ。
互《たが》いに互いを利用していただけ。
それなのに油断した私が馬鹿《ばか》だったのよ」
「……柴陽さん」
怒るだけの気力と、暴《あば》れないだけの冷静さを取り戻した柴陽は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「どうにかして連中に仕返ししてやりたいけど、私には宝貝がない。これが一番腹が立つね」
殷雷の視線《しせん》が僅《わず》かに鋭《するど》くなる。
「結構。いつまでも未練《みれん》を持たないのが正解だろうな。
あと、割に合わん復讐《ふくしゅう》も止《や》めておけ。
なあに、心配はいらん。柴陽よ、お前に代わって俺らが軒轅を追い詰めてやる。
だからだ柴陽。軒轅についての情報を教えてくれ。
奴らはそれぞれどこに住んで、どんな宝貝を持っている?」
柴陽は溜息《ためいき》をつく。
「住んでる場所はよく判らない。
卓《たく》の宝貝のおかげで幹部同士が直接会う必要もないし、わざわざ自分の居所を言う理由もないでしょ。
そういや、一度鏡閃が鋳州《いしゅう》に住んでいるとかって本人が口を滑《すべ》らせてたけど。
正確な居場所は首領以外は知らないんじゃない」
和穂の頭に疑問が浮かんだ。
「でも、手に入れた宝貝はどうやって山分けしていたんですか? 宝貝の受け渡しは、さっきの、卓の宝貝じゃ無理なんですよね?」
「宝貝の受け渡しには渡海旗《とかいき》という宝貝を使ってた」
殷雷は軽く首を傾《かし》げながら記憶《きおく》を探る。
「渡海旗? 伝令の役目を請《う》け負《お》う宝貝だよな?」
「そう。本当は海戦用の伝令で、水の有る場所なら何処《どこ》でも瞬時《しゅんじ》に現れる。
もっとも桶《おけ》の中の水ぐらいじゃ無理で、池や沼《ぬま》ぐらいの量の水が必要らしいね。
大量の水がないと移動出来ないってのが欠陥《けっかん》だったはず。それに川にも移動出来ないらしいね」
「待て、柴陽。奴は言葉しか運べないんじゃなかったか?」
柴陽は殷雷の言葉を否定した。
「いいえ。普通《ふつう》の人間が携帯《けいたい》できる大きさの宝貝ぐらい運べるよ。
無理なのは生き物の運搬《うんぱん》だけ」
記憶の奥底《おくそこ》に眠《ねむ》る渡海旗の姿を殷雷は思い起こした。
伝令の役目を果たす宝貝。人の形をとるが意思はなく、単純な命令に従う程度の能力しかなかったはずだ。
殷雷の記憶の中では渡海旗に対する印象は非常に薄《うす》かった。だが、宝貝を運べるとなると、少しばかり厄介《やっかい》な敵になりそうだった。
「いいぜ柴陽、その調子で奴らの持つ宝貝の特徴《とくちょう》を教えてくれ」
柴陽は口を開いたが、しばらく声が出なかった。
「…………」
「どうした」
「悪いけど、他の幹部の持っている宝貝に関しては、私は知らない」
和穂が疑問を挟《はさ》む。
「? どうしてですか? 分配する時にその能力は判るんでしょ? 全て覚えてなくても、少しは覚えてるんじゃ」
「……和穂。
ここに酒の入った徳利《とっくり》があって、湯呑《ゆの》みが二つあったとしよう。
二人の酒呑みが徳利の中の酒を平等に分ける事になった。
酒の量は全部でも大体、湯呑みに一杯《いっぱい》ぐらいしかない。
だから、それぞれの湯呑みに半分ずつ分ければいい。
でも困った事に計量器具は一切《いっさい》ない。
さあ、酒呑みたちから文句を出さずに、酒を分配するにはどうしたらいい?」
柴陽の語った謎掛《なぞか》けだけで、殷雷は事情を察してしまったようだった。
だが和穂には、この謎掛けに何の意味があるかは判らなかった。
彩朱がふざけて言った。
「ちょうどきっかり湯呑み二杯分になるまで水でも付け足せば」
しばし考えた和穂がポンと手を打つ。
「あ、酒呑みの一人が湯呑みにお酒を分ければいいんだ。
自分で丁度《ちょうど》平等に分けたと納得《なっとく》できたら、もう一人の酒呑みに好きな方を選ばせれば、文句は出ない」
「そう。軒轅の宝貝分配も似《に》たようなもの。
回収に直接|関《かか》わった者が、自分の好きな宝貝を一つ自分の物にする。
あとは籤《くじ》で決めた順番に幹部が好きな宝貝を選んでいく。
でも、その時に幹部は宝貝の能力は知らされていないの。
九天象《きゅうてんしょう》の力で宝貝の能力を知っている首領は、一番最後に宝貝を取る。
判るでしょ。これが一番文句の出ない分配方法なのよ」
静かに茶をすすり、彩朱は呟《つぶや》く。
「嫌味《いやみ》を言うつもりはないから、勘弁《かんべん》してね柴陽。
軒轅の首領ってのは、あなたを裏切っても自分たちに一切不利がないと思ったから、あなたを裏切ったのかもね。
幹部とはいえ、あなたは重要な情報もなければ打つ手もない。
その首領って利口《りこう》と言えば利口だけど」
殷雷は吐《は》き捨てるように言った。
「小悪党《こあくとう》の利口さだな」
「……そんな事にも気がつかずに、幹部という立場に私は浮《う》かれてた。
裏切られたのも自業自得《じごうじとく》かもね。
せめて私が持っていた宝貝の情報は教えてあげる」
柴陽は軒轅に奪《うば》われた自分の宝貝について語った。
情報を蓄《たくわ》えながらも殷雷は苛立《いらだ》ちを感じずにはいられなかった。
宝貝の能力、欠陥を伝えられながらも、これはあくまでも参考程度の情報にしかならないのだ。
何処《どこ》かにいる誰《だれ》かが持っている宝貝の正確な情報だ。一見有意義そうに見えて、実際はそれほどでもない。
一歩|間違《まちが》えば、予断《よだん》を生み敵への対応を間違える可能性がある。
これが逆に場所と所持者が判《わか》っているが、宝貝の能力が判らないという情報ならば活用のしがいもあったのだ。
「なあ柴陽、他《ほか》に情報はないのか?」
少しばかり疲《つか》れのこもる瞳《ひとみ》で柴陽は首を横に振《ふ》りかけ、そして止めた。
「あ、そういえば、この村の宝貝を回収した後、その足でもう一つ別の場所にある宝貝を回収する予定だった。
その場所を教えてあげる」
殷雷は目を細めた。
「その情報って、罠《わな》じゃないだろうな。
お前からその話を聞いた俺らが、そこへ向かうように仕向けてるとか?」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。
この村と、その宝貝の場所ってのは、他の幹部もいる軒轅の議で教えられたのよ」
和穂も納得《なっとく》する。
「そうか。柴陽さんが軒轅から外《はず》されたんだから、当然他の人がその場所に行く手筈《てはず》になるよね。
もし、その情報まで嘘《うそ》だったら、首領は本当に柴陽さんを裏切ったのじゃないかって、他の幹部に疑われる」
殷雷が面白《おもしろ》そうに笑った。
「で、のこのこ回収に来た軒轅の一人を返り討《う》ちにしてやれる。
まあ九天象が向こうにあるからそこまでは無理でも、軒轅の狙《ねら》う宝貝を横取りってのも面白そうだな」
柴陽は説明を続けた。
「場所はこの村から東へ出た街道《かいどう》を進んだ場所。和穂には索具輪《さくぐりん》があるから大体《だいたい》の場所でも判るでしょ」
「それで柴陽さん、そこにはどんな宝貝があるんですか」
「そこもここよりはましだけど普通《ふつう》の村で、そこには砥石《といし》の宝貝があるはず」
殷雷の顔色が途端《とたん》に変わった。
「と、砥石だと!」
殷雷の大声に和穂は驚《おどろ》く。
「どうしたのよ殷雷、そんなに大声出して」
引きつりながらの笑顔を浮《う》かべ殷雷は答えた。
「なに。別に」
だが、殷雷は心の中で飛び跳《は》ねんばかりに喜んでいた。
『砥石の宝貝だと! 宝貝の刃《やいば》すら砥ぎ上げる宝貝なら、もしかしたらこの俺の体を叩《たた》き治《なお》せるかもしれん!』
「いよう、彩朱《さいしゅ》。今、帰っらぜ」
門を開く音と共に威勢《いせい》は良いが、少しばかりろれつの回らない声が家の中に響《ひび》いた。
彩朱は反射的に立ち上がった。
「あら、旦那《だんな》が帰ってきた」
彩朱の夫《おっと》、豹絶《ひょうぜつ》は一人の青年と肩《かた》を組み合いながら、和穂《かずほ》や殷雷《いんらい》たちのいる部屋《へや》の中に入ってきた。
酒が回っているのか、肩を抱《だ》きかかえられながらも足元がフラフラしている。
豹絶に肩を貸しているのは、豹絶と同じぐらいの、二十歳《はたち》前後の青年だった。
体中がぐでんぐでんになっている豹絶とは、比《くら》べにくかったが、それでも青年の身長は豹絶よりも少し高かった。
青年の名は静嵐《せいらん》。正確には静嵐刀、殷雷と同じく刀の宝貝《ぱおぺい》である。
だが、殷雷と静嵐で似《に》ているのは服装ぐらいのものだった。
お互《たが》いに袖付《そでつ》きの長い外套《がいとう》を羽織《はお》っていた。
殷雷が黒い外套に対し、静嵐の外套は藍色《あいいろ》をしていた。
藍色の外套にはあまり目立たないが、迫力《はくりょく》のある雄牛《おうし》の姿が刺繍《ししゅう》されている。
当の静嵐はそんな雄牛の気迫からは全くかけ離れた呑気《のんき》そうな風貌《ふうぼう》であった。
静嵐と顔馴染《かおなじみ》になってしばらくの間、殷雷は静嵐の呑気な風貌の裏には刺繍の雄牛を思わせるような、秘めたる気迫が隠《かく》されているのではないかと考えていたが、それは単なる考えすぎであった。
「駄目《だめ》ですよ豹絶さん。呑み方が無茶なんだから」
「やかましいぞ静嵐、間抜《まぬ》けな面《つら》してお前はどうしてあんなに酒に強いんら」
「そりゃ宝貝だからね」
「そんなの理由になるか!」
充分《じゅうぶん》理由になった。
静嵐にしろ殷雷にしろ、酒に酔う事は可能であるが、それは酩酊《めいてい》状態に似た状態になるのを己《おのれ》の肉体に許可しているだけに過ぎない。
本来、宝貝が人間の姿をとるのには幾《いく》つかの理由があった。
武器の宝貝の場合、状況《じょうきょう》によっては己が宝貝だと相手に悟《さと》られたくない時もある。
その為《ため》に、酒を呑《の》んだときには自然に酔う事も出来るのだ。
殷雷が軽い怪我《けが》を負った時、血が流れるのも似たような理由からであった。
軽い破損の状態が、人間の怪我に似るように設計されているのであるが、流石《さすが》に大きな破損だと宝貝としての残骸《ざんがい》が飛び散るはめになる。
崩《くず》れるように豹絶は椅子《いす》に座《すわ》り、卓《たく》に突《つ》っ伏《ぷ》した。
そして、ふいに体を起こす。
豹絶の椅子の正面には柴陽《さいよう》がいた。
「なんら、柴陽、その顔は! まるで男に騙されたような面《つら》らねえか」
笑顔を引きつらせながら彩朱は、豹絶に肩を貸し立ち上がらせた。
「うちの旦那《だんな》は見る目があるね。
でも、酔いすぎよ。さっさと寝台《しんだい》に行ったら」
「おうよ」
柴陽は鼻で笑った。
「ふん。そんな酔《よ》っ払《ぱら》いの世話をしなくちゃならないなんて、結婚《けっこん》なんかするもんじゃないわね」
肩に寄りかかる豹絶は、既《すで》に軽い寝息《ねいき》を立てていた。
彩朱は柴陽に振り向いた。
「あら、私には、宝貝なんかよりこの人の方が大切《たいせつ》なのよ」
微笑《びしょう》を残して彩朱は部屋を出た。
殷雷は卓に顎《あご》を乗せた。
「今の彩朱の言葉、本気で言ってるならただの馬鹿《ばか》だが、冗談《じょうだん》だとしたらおっかねえな」
和穂にはよく判《わか》らない。
「どうして?」
殷雷は面倒《めんどう》そうに手を振《ふ》った。
「お前にゃ判らんでよろしい。
でだ、静嵐|大帝《たいてい》」
「な、なんだよ。その呼び方はやめろよ」
「うるせい。お前を断縁獄《だんえんごく》の中に封《ふう》じてないのはなんの為《ため》だ? 村の連中と酒盛《さかも》りをする為か?」
静嵐はおおらかに笑った。
「はっはっは、殷雷じゃあるまいし」
殷雷の腕《うで》がしなやかに動き、卓《たく》に掛《か》けられていた棍《こん》を掴《つか》む。
そして、棍の一撃《いちげき》が静嵐の鼻を打った。
「はばぁ!」
軽く悪口を言っただけで棍の一撃とは、あまりにも乱暴過ぎた。
和穂が怒《おこ》る。
「殷雷、何てことをするのよ! やり過ぎじゃない!」
殷雷は今の攻撃《こうげき》を、本当ならば当たらないように放《はな》っていた。
「知るか。この馬鹿《ばか》、わざわざ外《はず》した方に避《よ》けやがった」
柴陽は興味《きょうみ》がないようにそっぽを向いている。
和穂は心配そうに静嵐の怪我《けが》を見た。
「大丈夫《だいじょうぶ》?
それで、お願いしていた事は何か判《わか》った?」
鼻の頭をさすり、静嵐は答えた。
「一応はね」
いちいち殷雷には静嵐の仕草《しぐさ》がしゃくに障《さわ》るようだった。
「なにが一応だ。情報の収集《しゅうしゅう》ぐらいちゃんとやれよ。
なんの為に、お前を断縁獄の中に入れず、この村の中に置いていたと思ってる」
この村に災厄《さいやく》を撒《ま》き散らした、あの化《ば》け物《もの》。
偶然《ぐうぜん》にしては、あまりに不自然なあの化け物の正体《しょうたい》を和穂は気になって仕方がなかった。
殷雷はいかにあり得なさそうでも、僅《わず》かに可能性があるならそれは起こり得ると、和穂とは反対の意見を主張していた。
また和穂にも、あまり宝貝とは関係のない事件に首を突っ込む余裕《よゆう》はなかった。
それを充分《じゅうぶん》承知しながらも、やはり和穂は納得《なっとく》出来なかった。
あの化け物の正体は、本人が語ったように龍衣《りゅうい》の化け物だった。
龍の鱗《うろこ》で造《つく》られた衣服が、長年の時《へ》を経て、妖怪《ようかい》や鬼怪《きかい》のような力を得て、あの事件を引き起こした。
まず最初に、龍の鱗で造られた衣服が存在していたのが不思議だった。
殷雷の言葉では、龍衣を身に着《つ》ける仙人もいるのだから、遠い昔《むかし》に仙界から紛《まぎ》れ込んだ可能性も指摘《してき》していた。
仙術的《せんじゅつてき》に特殊《とくしゅ》な素材だから、年を経てあんな化け物になる確率も、普通《ふつう》の道具よりは遥《はる》かに高いとも殷雷は説明した。
和穂はそこまでは納得《なっとく》した。
些細《ささい》な発端《はったん》から、とてつもなく大きな事件が起きてしまったのだ。
龍衣という、滅多《めった》にないものが存在したが故《ゆえ》の事件ならば、それはそれでいい。
でも、それ以外の事実を偶然で片付ける事を和穂には出来ない。
龍衣。言葉のまま龍に縁《えん》があり、対龍用の砕鱗槍術《さいりんそうじゅつ》の使い手の願月《がんげつ》が現れた。
しかも、さっきの願月の話では謎《なぞ》の女の導《みちび》きによって、宝貝まで授《さず》けられてだ。
村人ですらその存在を知らなかった化け物を、その女は知っていた。
これは偶然では説明出来ない。
さらに、化け物は自分を龍衣の鏡閃《きょうせん》と名乗っていた。
鏡閃。軒轅《けんえん》の幹部の中にも同じ名前の人物がいる。
偶然と言って良いのか?
そして、和穂にとって一番心に引っかかるのは、龍衣の残骸《ざんがい》の中にあった白い珠《たま》だった。
小さな珠だが独特の色合いを持つ珠。
和穂はそれと同じ珠を持っていた。
今は亡《な》き、和穂の双子《ふたご》の兄、程獲《ていかく》が死の間際《まぎわ》に和穂に渡した珠だ。
己《おのれ》の体が溶解《ようかい》し、崩壊《ほうかい》する寸前に和穂に渡した珠と、なぜ龍衣の中に同じ珠があったのか。
龍衣の中の珠は龍衣と共に割れた。
あの白い珠を見るたびに和穂は兄の顔を思い出した。
時が来れば判《わか》る。だが、判らないに越した事はない。
兄は白い珠をそう説明していた。
和穂は胸に手を当てた。
白い珠は細い鎖《くさり》に絡《から》み付け、首から掛《か》けていた。
和穂は、もう少し龍衣の鏡閃の謎《なぞ》を探《さぐ》りたかった。
やむなく殷雷は、柴陽を追い掛ける間だけだと期間を決め、静嵐に村の中で龍衣の鏡閃に関《かか》わる情報を集めさせていたのだ。
道服《どうふく》の上から、白い珠を握《にぎ》り締《し》めて和穂は静嵐に訊《たず》ねた。
「それで、龍衣の鏡閃とは、一体なんだったんですか?」
ふむふむと静嵐の首が動く。
「判らなかった」
乾《かわ》いた笑いが殷雷の口から漏《も》れた。
「ほほう。静嵐、今度はわざと外《はず》したりしないから避《よ》けるなよ!」
椅子《いす》に座《すわ》ったまま、再び棍《こん》を構えようとする殷雷を静嵐は押《お》しとどめた。
「まあ、ききなよ殷雷に和穂。
これでも宴会《えんかい》の興《きょう》を削《そ》がないように、細心《さいしん》の注意を払《はら》いながら、村の人たちから情報を集めたんだ」
刀の宝貝が細心の注意を払って、なんの気を遣《つか》ってやがるという、殷雷の呟《つぶや》きが響《ひび》く。
静嵐は無視して報告を続けた。
「でも、事件の性質上、誰《だれ》も龍衣の鏡閃の正確な正体なんか知りはしなかった。
宝貝の力を借りて、龍衣の鏡閃が村の何処《どこ》にいるかは付きとめたけど、龍衣の鏡閃という存在の正体《しょうたい》を調べるまではやってなかったんだ」
「……それでお前は、村の連中とどんちゃん騒《さわ》ぎか」
「そりゃまあ、少しは呑《の》んだけど勧《すす》められた酒を断《ことわ》ると、宴《うたげ》の興《きょう》が覚《さ》めるじゃないか。
もしかして、殷雷は自分が宴会に出られなかったのをすねてるのかい?」
答える代わりに、殷雷は棍で自分の肩《かた》を叩《たた》いた。
それが無駄口《むだぐち》を叩くなという無言の圧力であると静嵐は瞬時《しゅんじ》に判断した。
「ええと。
そこで僕は情報の集め方を変えてみたんだ。
龍衣の鏡閃は自分の居所を隠《かく》してたんだ。
村の人たちの心に作用《さよう》して、村外れの丘《おか》に誰の注意も向かないようにしてた。
同じように、今までどうしてこの場所に誰も興味を持たなかったか不思議な場所を教えてもらったんだ。
最初は僕の言葉の意味が伝わらなかったけど、やがて理解してもらった。
いろいろな場所があったけど、村外れの丘以外にそんな場所はなかった。
でも一か所だけ、村の人が気味悪がって誰も近づかない洞窟《どうくつ》ってのがあったんだ」
和穂が首を傾《かし》げた。
「洞窟ですか?」
「そう、洞窟。こんな山奥の村じゃ、そんな不気味《ぶきみ》な洞窟の一つや二つあっても不思議じゃないよね。
でも、その洞窟には本当に誰も近寄らないんだ」
静嵐の言わんとする事が和穂には理解できない。
「それって?」
「誰も近寄らない不気味な洞窟に、誰も近寄っていないんだよ。
不気味なだけで、その洞窟だけが特別に危険て訳もない」
あ。和穂にも静嵐の言葉が理解できた。
「そうか、普通《ふつう》はやんちゃな子供が、面白《おもしろ》がって探検《たんけん》に行ったりするよね。
大人《おとな》だって、夏場に肝試《きもだめ》しがてらに見物に行ったり」
「そういうこと。
どう、怪《あや》しいでしょ。龍衣の鏡閃に関係するものがある可能性はあるよ」
和穂の顔に明かりがさす。
「そうだね、龍衣の鏡閃が村人の興味を逸《そ》らそうとしたなら、それなりのものが」
殷雷がピシャリと言った。今までの話の中で一番|語気《ごき》が荒《あら》い。
「そんな無駄足《むだあし》を運んでいる暇《ひま》はない。次の宝貝の居場所が判《わか》っているんだ。
一刻《いっこく》も速く砥石《といし》の宝貝を回収しにいくぞ」
和穂はやはりこの事件を無視は出来ない。もしかしたら兄の形見《かたみ》の正体が判るかもしれないのだ。
「でも殷雷」
「そうだよ殷雷。別に二、三日も時間がかかるわけでなし、村のすぐ側《そば》だ。
危険といえば危険かもしれないが、龍衣の鏡閃自体は滅《ほろ》んでるんだ、それほど警戒《けいかい》する必要なんか」
「黙《だま》れ。
その洞窟に重要な物はない。砥石が優先される」
今は一刻も速く、己の肉体を治療《ちりょう》できるかもしれない宝貝が必要だった。
が、和穂も静嵐も殷雷の危機を知らない。
殷雷のあまりの断定|口調《くちょう》に、和穂も静嵐もキョトンとした。
不確定な要素があり、それを予測する。つまり推察する時に断定ほどそぐわないものはない。
いわんや、殷雷は武器の宝貝だ。状況判断には冷静さがあってしかるべしなのだ。
殷雷は己《おのれ》の焦《あせ》りを隠《かく》そうとした。
「だ、だからだ。
もし、龍衣の鏡閃が本気で隠そうとしているなら、もっと完璧《かんぺき》に出来たはずだ。
村人が不気味にすら思わない程度に」
静嵐とて武器の宝貝、ゆっくりならば牛でも出来る。の、たとえどおり、落ち着いてならそれなりの分析《ぶんせき》が出来る。
「そこなんだよ殷雷。龍衣の鏡閃は強すぎないか? 異界《いかい》の鬼怪《きかい》ならともかく、この人間の世界に自然に出現した妖怪《ようかい》にしちゃ、余りに術《じゅつ》の扱《あつか》いが巧《たく》みだ」
「何が言いたい! それが洞窟に行く理由になるのか!」
「違《ちが》うって。龍衣の鏡閃の本当の正体を見極《みきわ》めるべきだと言ってるの。
だから僕は和穂の意見に賛成するよ。
本当にどうしたんだ殷雷? しばらく見ない間に短気になったのか?
僕は龍衣の鏡閃の正体が判《わか》るまで、この村から出るなとは言ってないんだ。
手掛《てが》かりがあるなら、それを調べるだけの価値はあると思う」
「黙《だま》れ、黙れ、間抜《まぬ》けの静嵐め。
お前に説教されるほど俺は落ちぶれてはいないんだ。
無駄足《むだあし》は無用と言ってるんだ!」
見なれない殷雷の態度に和穂は尋常《じんじょう》ならざるものを感じた。
「どうしたの殷雷? いつもの殷雷じゃないよ? さっきまでは普通《ふつう》だったのに、急に変わって。
もしかして砥石の宝貝に何かあるの?」
静嵐は困った顔をした。
「どうせこの砥石で磨《みが》けばお前もましになるって、僕をいじめるつもりなんだろ」
殷雷の反撃《はんげき》を予想していた静嵐だが、殷雷は押《お》し黙《だま》っているだけだった。
和穂の心配はさらに膨《ふく》らむ。
「それじゃ、先に砥石の宝貝を回収に行こうか? 殷雷がどうしてもというのなら」
言うべきか。
己《おのれ》の体にガタがきていて、近いうちにぶっ壊《こわ》れるかもしれない。だから砥石の宝貝が早急《そうきゅう》に必要なのだ。
もし、砥石の宝貝で確実に体が癒《い》えるのならば、殷雷は素直に白状したかもしれなかった。
だが、砥石の宝貝にそこまでの力はない可能性もある、いやその可能性の方が高いだろう。
己の限界を語り、そしてそれを覆《くつがえ》す方法が間違《まちが》っていたら。
ゆっくりと殷雷は口を開いた。
「……判った。洞窟に行ってみよう」
たちまち心配そうだった和穂の顔に安心の笑みが浮《う》かんだ。
殷雷は誰《だれ》にも悟《さと》られず、心の中で舌打《したう》ちをした。
『俺は、一体なにをやってるんだ……』
浮《う》かれながら静嵐は立ち上がった。
「じゃ、これで僕の仕事は終わりだ。
殷雷、さっさと回収してくれよ。
断縁獄《だんえんごく》の中には恵潤《けいじゅん》がいるんだろ、早く会いたいな」
自分の心情に比《くら》べ、なんてこいつは幸せなんだ。
いいようのない怒《いか》りが殷雷の中を駆《か》け巡《めぐ》った。
「静嵐。乗りかかった船だ。お前も洞窟探検《どうくつたんけん》に付き合えよ」
「ええええええええええええ。いいじゃないか、さっさと回収してくれよ」
殷雷は軽く笑う。
「俺はひねくれものでね。
そこまで回収されたがると、回収したくなくなるんだ」
「変わってないな、その性格」
部屋《へや》の扉《とびら》から彩朱がひょっこりと顔を出した。
「板間《いたま》に雑魚寝《ざこね》になるけど、寝床《ねどこ》の準備は出来てるよ。柴陽も泊《とま》っていきなよ」
が、柴陽も素直な性格ではなかった。
「ふん。もうすぐ夜明けじゃないの。
私はこの村から出て行く」
彩朱は止めなかった。
本人は平気な素振《そぶ》りをしていても、やはり裏切られた心の傷《きず》はあるのだろう。
一人にさせてあげたかったのだ。
翌日の昼前《ひるまえ》、和穂は豹絶の家を後にした。
彩朱は和穂を気に入ったのか、洞窟を調べた後、また家に寄るようにと勧《すす》められ、遠慮《えんりょ》しながらも和穂は首を最後には縦《たて》に振《ふ》った。
どちらにしろ、洞窟の向こうには険《けわ》しい山が連《つら》なっており、一度は村に戻《もど》らねばならない。
洞窟へと向かう山道の中、殷雷は不機嫌《ふきげん》そうに押《お》し黙《だま》り、静嵐は痛そうに頭を抱《かか》えていた。
豹絶家の遅《おそ》い朝食の時、酷《ひど》い宿酔《ふつかよ》いに苦しんだ豹絶が、お前のせいだとばかり、静嵐の頭をつるべ打ちに殴《なぐ》りつけたのだ。
「ああ痛い。冗談《じょうだん》みたいにペチペチやってるかと思ったのに、結構手首のしなりが効《き》いてるし」
「大丈夫《だいじょうぶ》、静嵐?」
「あのね、一応これでも刀の宝貝なんだから宿酔いの兄ちゃんに殴られたぐらい平気なの」
やはり殷雷は黙《だま》っている。
もしかして殷雷は静嵐を嫌《きら》っているのかとも和穂は考えたが、それならばさっさと断縁獄に回収するはずだった。
「殷雷はどうして機嫌《きげん》が悪いのかな?」
「僕とこうやって和穂が喋《しゃべ》ってるから、やきもちでもやいてるんじゃないか?」
普段《ふだん》なら食ってかかりそうな冗談にも、殷雷は沈黙《ちんもく》を通した。
しばし歩き続け、殷雷は沈黙を破った。
「あの洞窟《どうくつ》だな」
洞窟の側《そば》には、村人から聞いた目印代《めじるしが》わりの小さな滝《たき》があった。
不気味《ぶきみ》な洞窟だと村人たちが噂《うわさ》する理由が外観からは見て取れない、小さな洞窟だった。
奥行《おくゆ》きまでは判《わか》らないが、天井《てんじょう》までの高さは和穂の身長の二倍ぐらいしかない。
殷雷と静嵐が洞窟の中身を覗《のぞ》きこんだ。
さりげなく眺《なが》めているようでも、武器の宝貝たちは正確に索敵《さくてき》している。
静嵐が息を吐《は》いた。
「殷雷の言うように無駄足《むだあし》だったかな? 奥も深くなさそうだし、何の気配《けはい》もない」
「だからお前は間抜《まぬ》けなんだ。
何の気配もないんだぞ? 蝙蝠《こうもり》ぐらい居てもいいはずだろうが」
二人の背中の隙間《すきま》から和穂が前をうかがう。
「ともかく中に入りましょう」
和穂は腰《こし》の断縁獄を外《はず》し、軽くつぶやく。
「松明《たいまつ》!」
一陣《いちじん》の風が巻き起こり、瓢箪《ひょうたん》の口から炎《ほのお》に燃えた松明が転《ころ》がり出た。
地面の湿《しめ》り気《け》で炎が弱まる前に和穂は松明を拾った。
炎が燃える松明を断縁獄に吸収した場合、断縁獄の保護機能の為《ため》、炎は凝固《ぎょうこ》し松明を燃やし尽くさない。
殷雷が棍《こん》で肩《かた》を叩《たた》く。
「こんな時にこそ、綜現《そうげん》でも呼び出しゃいいのに」
「だって駄目《だめ》じゃない。
綜現君や流麗《りゅうれい》さんは外に呼び出さないって約束《やくそく》したんだし」
が、実際のところ松明が必要なのは和穂一人だけだった。
殷雷も静嵐の、洞窟の入り口から射《さ》しこむわずかな光で充分《じゅうぶん》洞窟の中を見渡《みわた》せた。
三人は洞窟の中へと進んで行った。
「和穂、床《ゆか》が凍《こお》っているから静嵐におぶってもらえ」
静嵐が首を横に振《ふ》った。
「嫌《いや》だよ。つきあいでこんな洞窟に来たけど、和穂の護衛は殷雷の仕事じゃないか」
危険が潜《ひそ》む可能性のある場所で口論《こうろん》をしている暇《ひま》はない。
左手に棍を持つ殷雷は和穂に右手を差し出す。
「ほらよ、つかまりな」
「うん」
殷雷の手の温《ぬく》もりが和穂に伝わった。
武器を操《あやつ》る時にはしなやかに動く殷雷の手であったが、柔《やわ》らかい手ではなかった。
見た目よりは骨太《ほねぶと》な殷雷の手はゴツゴツしていたが、和穂は安心感を感じた。
凍《こお》る床の洞窟を進む三人であったが、ふと殷雷と静嵐の足が止まった。
「これはなんだ?」
「やっぱり、何かあったんだろうね」
「どうしたの?」
静嵐が静かに天井を指差す。
歩くうちに天井の高さは増《ま》していたようだ。
和穂は思いきり松明を掲《かか》げた。
「これは!」
天井には無数の傷《きず》が付いていた。
所々《ところどころ》岩がはがれ、地面の上でガレキになっている。
この天井の高い場所が洞窟の行き止まりだった。
仙人の住む洞府《どうふ》にたとえるなら、大きな広間ほどの広さがある。
一本の松明の明かりだけでは、角《すみ》から角まで照らし上げるのは不可能だった。
三人は進み、ガレキの幾《いく》つかを引っくり返してみた。
殷雷が分析《ぶんせき》した。
「ここで龍衣の鏡閃が暴《あば》れたのかもしれん。理由は判《わか》らん。
普通《ふつう》の人間でもこの洞窟を見れば、何か尋常《じんじょう》ならざるものの存在に勘付《かんづ》くかもしれん。
龍衣の鏡閃はそれを恐《おそ》れたのではないか。
それで村人の注意を逸《そ》らした」
拍子抜《ひょうしぬ》けする結末だった。
だが和穂には異論を唱《とな》える事も出来ない。
「でも、何と戦ったのかな? まだここに居たりして」
「それはあるまい。宝貝があるのなら索具輪《さくぐりん》で判るし、妖怪《ようかい》の類《たぐい》の気配《けはい》もない。
何もない」
ガレキを足で突《つ》ついていた静嵐は、小さな紙の切《き》れ端《はし》を見つけた。
「なんだこれ?」
爪《つめ》の先ほどの小さな紙で、僅《わず》かに墨《すみ》の跡《あと》が見て取れた。
と、その時。
ガレキの山の一つが弾《はじ》けた。
途端《とたん》に殷雷の髪《かみ》の毛が逆立つ。
「嘘《うそ》だ!」
たった今まで無かった気配が突然《とつぜん》に存在した。
ガレキが煙《けむり》に包まれるのとほぼ同時に殷雷も爆煙《ばくえん》に包まれる。
煙の中からは殷雷刀を構えた和穂が現れ、それに続いて松明と棍が地面に落ちる音が響《ひび》く。
「へ?」
呑気《のんき》にやっと異変に気が付く静嵐を尻目《しりめ》に殷雷は和穂を跳《と》びすさらせた。
「ちょっと待てよ、殷雷! 気配はなかったのに!」
ガレキの中から奇妙《きみょう》な人影《ひとかげ》が姿を現した。
それは人の姿に良く似《に》ていた。足の回りの下半身は完全に人間のものだった。
が上半身は少しばかり異質だった。
殷雷たちが着る袖付《そでつ》き外套《がいとう》とは違《ちが》う種類の外套、すっぽり頭からかぶり腕《うで》を出さない外套を羽織《はお》っているようだった。
外套に阻《はば》まれ腕は見えない。
すだれのように切り刻《きざ》まれた外套は、綴《と》じられた鳥の羽を思わせた。
そして首から上に人間の面影《おもかげ》はない。
首の上には頭はなく鰐《わに》のような顎《あご》が、顎だけがあった。
首から上は引き伸《の》ばされた虎《とら》バサミのようにすら見えた。
天井に向かい直立した顎がばかりと開く。
顎の中には無数の牙《きば》が生えていた。
そしてその異形《いぎょう》の化《ば》け物《もの》の全身は、文字で覆《おお》われていた。大小無数の文字が化け物の上で、孵化《ふか》寸前の魚の卵のようにのた打ち回っていた。
まるで空気の代わりに水があるかのように化け物の体は浮《う》き上がり、態勢が横向きになる。
静嵐は飛び紺《は》ねた。
「い、殷雷! そいつは『符《ふ》』だ! しかも普通の符じゃない!」
殷雷は和穂の声で答えた。
「だろうな。普通の人間が宝貝の力で即興《そっきょう》で書いた符とは様子《ようす》が違うな」
自分たちに反応して、符は動き出したのだ。動き出す前はただの紙切れで、紙切れに気配などない。
殷雷刀は自《みずか》らを上段に構《かま》えた。
「どうしてこう、宝貝じゃない厄介事《やっかいごと》が次々起こるんだ?」
符の化け物は鮫《さめ》が泳ぐように宙《ちゅう》をうねっていた。
恐《おそ》らくあの顎が武器なのだろう。
あれで食らいつくことに全《すべ》てをかけているのだろうか。
「静嵐! 一度刀に戻《もど》って、あいつに噛《か》まれてくれ。その隙《すき》に俺が始末する」
「無茶いうな!」
確かに無茶だった。たとえ鎧《よろい》の宝貝ですらまともに噛みつかれたらただではすまないだろう。
符の化け物の牙には殷雷刀と同じようなきらめきが見えた。
宝貝の破壊も考慮《こうりょ》して書かれた符に間違《まちが》いはない。
それにあの姿と態勢といい、鰐か鮫を思って書かれた符なのだろう。
ならば、その攻撃《こうげき》方法も察しがつく。
異様《いよう》な化け物に対し、だんだんと落ち着きを取り戻した殷雷だったが、静嵐はそうはいかなかった。
「どうする殷雷!」
「知れた話だ。符ならば斬《き》ればいい。刀の宝貝が紙を恐れてどうする」
「そりゃ殷雷は原型に戻っているけど、僕は人間の形のままじゃないか」
「判った。お前は下がってろ」
ゆるやかに宙をくねり泳いでいる符の化け物だったが、和穂に狙《ねら》いをつけていると殷雷は読んだ。
静嵐を先に狙えば、その隙に自分が倒《たお》されるぐらいの判断は出来るだろう。
そして符の化け物は和穂に向かい突進《とっしん》した。
奇妙な外套の奏《かな》でる、奇妙な風斬《かぜき》り音《おん》、普通《ふつう》の武器の宝貝ならば避《よ》けるので精一杯《せいいっぱい》だろうが、そこは瞬間《しゅんかん》の斬撃《ざんげき》が己《おのれ》の誇《ほこ》りである刀の宝貝、化け物の動きを軽くかわす。
すれ違い、遥《はる》か後方で獲物《えもの》を獲《と》り損《そこ》ねて空《むな》しくぶつかる上顎と下顎のぶつかる音が響《ひび》いた。
殷雷は間合《まあ》いを外《はず》して、和穂と化け物の距離《きょり》を取った。
心を通じて、殷雷は和穂に言った。
『これで相手の手の内は見えたな。
隠《かく》しがあるなら最初の一撃《いちげき》で使うはずだ』
『あの符はいったい誰が書いたんだと思う?』
『け。倒してから調べるだけさ』
符は再びうねった。
もう一度同じ攻撃を仕掛《しか》けるのだろう。
もし攻撃方法を工夫《くふう》したとしても、せいぜい急停止が関《せき》の山《やま》だ。
殷雷刀が正中線《せいちゅうせん》を守るために中段に引き下げられた。
洞窟の陰から殷雷の戦いを見守っていた静嵐だったが、殷雷の構えが中段になったのを見て、殷雷の勝利を感じ取った。
恐らく殷雷は、わざと噛みつかせ、上顎と下顎が交差する前に相手を真っ二つに斬ってしまうだろう。
「でもなんであんな符が」
と、その時、殷雷刀の構えが解《と》かれた。
殷雷刀を握《にぎ》る和穂の腕《うで》はだらんと垂《た》れ下がった。
「え!」
殷雷の絡《から》め手かと静嵐は思ったが、問題は和穂の顔から殷雷の気迫《きはく》が消えた事だ。
殷雷は今、和穂の体を操《あやつ》っていない。
符の化け物が矢のように和穂に放《はな》たれる。
『!』
何が起きたのか? 和穂は自分が一人で洞窟の中に立っていると知った。
殷雷は何処《どこ》に消えたのか? もしかして殷雷刀を弾《はじ》き飛ばされたかと思い、右手を見つめるとそこにはちゃんと殷雷刀が握《にぎ》られている。
『殷雷!』
それはとてつもない孤独感《こどくかん》だった。船の上からいきなり海の中に叩《たた》き落されたような衝撃《しょうげき》があった。
何処《どこ》か遠くで妙《みょう》な風斬り音が聞こえる。
和穂の視界《しかい》の角《すみ》にうすぼんやりしたものが見えた。
『あれは符』
殷雷の力を借りて見ていた符の動きは素早《すばや》かったがなめらかな動きを完全に目で追えた。
が、今は残像でしか符の化け物を捕《と》らえられない。
静嵐は絶望しながら、駆《か》け出した。
もし符の動きに追いつければ、化け物の足を掴《つか》むことぐらいは出来るかもしれない。
どちらにしろ、このままでは和穂の命はない。
静嵐は心で叫《さけ》ぶ。
『で、僕が足を掴んで、あの化け物が僕に狙《ねら》いをつけたらどうやって凌《しの》げばいいんだ』
符の化け物は和穂を捕らえた。後は顎《あご》を交差するだけであった。
和穂の両肩に化け物の牙《きば》が触《ふ》れた。
そして次の瞬間《しゅんかん》、殷雷刀は神速《しんそく》の斬撃《ざんげき》で化け物を真っ二つに切断した。
静嵐の手は虚《むな》しく空を握っていた。
「そ、そりゃそうさ。そう簡単《かんたん》に危機一髪《ききいっぱつ》が救えるもんか。
脅《おど》かすなよ殷雷! 大丈夫《だいじょうぶ》かい和穂。牙が肩に食い込んだように見えたけど」
和穂の肩に傷《きず》がないのが静嵐は不思議だった。確かに牙は当たっていたのに。
静嵐は地面に転《ころ》がる化け物を見た。
いまだ本来の符に戻らず引き裂《さ》かれた姿をさらしている。
静嵐は化け物の牙に触《ふ》れた。
「なんだこれ? 異常に脆《もろ》いぞ。こんなのじゃ食いつかれても平気だ。
あの輝《かがや》きに騙《だま》されたのか」
静嵐が化け物の残骸《ざんがい》をしばらくつついていると、化け物はやっと元の符に姿を変えた。
真っ二つになったボロボロの符だ。
「そうか、殷雷に和穂。こいつが龍衣の鏡閃と戦ったんだ、この洞窟で。
古い破れが一杯《いっぱい》あるから、戦いのせいでこいつに力は残ってなかったんだね」
破れた符を静嵐はしげしげと見つめた。
静嵐は符を使えないが、符に書かれている意味は読みとれた。
「へえ。面白《おもしろ》い。あの化け物は封印《ふういん》の符だ。
封印から逃《のが》れようとしたらあの姿で襲《おそ》いかかって再び封印する仕様《しよう》だね。
と、なると龍衣はこの符で封印されてたのかも。龍衣は封印から逃げようとして、戦ったのか」
静嵐はさらに符を読み進み、驚《おどろ》くべき内容を見た。
「! これは仙骨《せんこつ》を封印する為《ため》の符だ! 龍衣の中には仙骨があったんだ!
それじゃ和穂の白い珠《たま》ってのは仙骨なのかい!」
それは衝撃《しょうげき》の事実であったが、静嵐の言葉は和穂を動かす事は出来なかった。
和穂は立ちすくみ、殷雷の姿を見つめていた。
殷雷は気まずそうに視線を離《はな》している。
殷雷を見る和穂の目からは止《と》め処《どころ》も無く涙《なみだ》がこぼれ続けていた。
静嵐は静嵐で何が起きているのか判らず、言葉を濁《にご》した。
「何か、お取り込み中のようだね。
ああ、もう一つ驚くべき発見をしたけど、驚いてくれないよね。
この符を書いたのは龍華《りゅうか》だよ。ここに署名がある」
静嵐の言葉どおり、和穂は驚きはしなかった。
今はそれどころではないのだ。
絞《しぼ》り出すように和穂はいった。
「……殷雷。一体どうしたの……今のは……」
「け。ちょっとお前を驚かせてやろうと思っただけだ」
嘘《うそ》だ。殷雷はそんな類《たぐい》の冗談《じょうだん》をする男ではないし、殷雷の態度からは疲《つか》れが感じられた。
「お願い! 本当のことを教えて!」
殷雷は目をつぶり、そして大きく目を開いた。
鷹《たか》を思わせる鋭《するど》い瞳《ひとみ》が和穂を射抜く。
「教えてやろう。
俺の体はもう長くは持たない。さっきのはその前兆《ぜんちょう》だ!」
奴《やつ》が近づいてくる。
轟武《ごうぶ》は喜びに震《ふる》えた。ついにこの戒《いまし》めを破る機会が巡《めぐ》り来るのか。
五感《ごかん》を封《ふう》じられた轟武に判《わか》るのは気配《けはい》のみだった。
戒《いまし》めの暗闇《くらやみ》の中、常に神経を張り巡らせていた轟武は些細《ささい》な気配《けはい》の変化を敏感《びんかん》に感じとった。
『来い理渦!』
近づいて来るのは理渦記《りかき》だ。
一歩一歩この部屋《へや》に向かっている。
部屋に現《あらわ》れた理渦記は、己《おのれ》を破壊《はかい》するかもしれなかった。
今、この状況《じょうきょう》ならいかに理渦記のような本の宝貝《ぱおぺい》でも轟武を破壊出来ただろう。
だが、だがしかし。
と、轟武は望みを繋《つな》いだ。
今までわざわざ五感を封じ、この部屋に閉じ込めていたのだ。
破壊されるにしても簡単には破壊されまい。
轟武は笑う。
もし、なぶり殺しにするならば望むところだった。
なぶり殺すには、封じられた五感の内の幾《いく》つかを解放する必要がある。
五感を解放されれば勝機《しょうき》はあるはずだ。
そして、ふいに聴覚《ちょうかく》が復活した。
「轟武。聞こえていますね」
間違いなく理渦記の声だった。
轟武は大きく唸《うな》り声を上げた。
狭《せま》い部屋の中を地響《じひび》きに似《に》た振動《しんどう》が包みこむ。
「これから感覚を全部戻してあげます」
言葉が終わるか終わらないかの内に、轟武の五感は復活した。
宝貝に真《しん》の眠《ねむ》りはなかったが、轟武はもがき苦しみながらも延々《えんえん》と覚めなかった眠りからふいに解放されたような気分だった。
轟武は咄嗟《とっさ》に周囲を見渡《みわた》す。
予想通りの狭《せま》い部屋《へや》だ。
自分の両手首に絡《から》み付く鎖《くさり》は、そのまま天井《てんじょう》に打ちこまれている。
半《なか》ば天井から吊《つ》り下げられるようにひざ立ちになっている。
ひざ立ちになり、丁度《ちょうど》理渦と同じ高さに視線《しせん》がきていた。
轟武は出来るだけ悟《さと》られないように、両手の鎖の強度を確かめる為《ため》に力を入れてみた。
予想通り、鎖は外見からは考えられない強度を見せた。
この鎖は間違《まちが》い無く宝貝だ。
五感は解放されても、轟武はまだ本来の力を取り戻してはいなかった。
怒《いか》りの炎《ほのお》は燃え上がるが、轟武は努《つと》めて冷静を装《よそお》った。
「何故《なぜ》だ?」
轟武の口から最初に出たのはその言葉だった。
「説明するには長くなります。
でもこれだけは言っておきましょう。全《すべ》ては鏡閃《きょうせん》様の願いを叶《かな》える為《ため》」
轟武は鏡閃に従う気は微塵《みじん》もなかった。しかし無駄口《むだぐち》を叩《たた》いて逃亡《とうぼう》の機会を逃がすつもりはなかった。
「…………」
理渦は腕《うで》を組みながら轟武の瞳《ひとみ》を見つめた。
沈黙《ちんもく》の中にある静かな怒《いか》りを見逃《みのが》す理渦ではなかった。
その怒りは殷雷に向けられたものであり、そのうち幾つかは鏡閃に向けられたものでもあった。
「封印まがいの仕打ちは許してください。
今から鏡閃様に会ってもらいます。
でも封印から解いても暴《あば》れないで欲しいの。あなたのような武器の宝貝に脅《おど》しをかけても仕方がないでしょうから、事実として受け止めてください。
あなたの五感を封じこめていた、その宝貝は封気綱《ふうきこう》といって、私の命令で瞬時《しゅんじ》にあなたにくらいつきます。
抵抗《ていこう》すれば、また今までのように全《すべ》てを封じられます」
轟武は力なくこくりとうなずいた。
さすがに剣の宝貝と差し向かいになり、緊張《きんちょう》していたのか理渦の口から安堵《あんど》の息が漏《も》れた。
「よかった。万が一の可能性にかけて暴れられたら面倒《めんどう》でしたから」
理渦の白い指が轟武を捕らえる鎖を指《さ》した。
「封気綱、解除」
途端《とたん》に轟武の手首に食らいついていた手伽《てかせ》は外《はず》れ、天井に打ちこまれていた鎖もどさりと地面に落ちた。
両手をあげひざ立ちになっていた轟武は、そのまま前につんのめり地面に両手をついた。
「長らくの封印、苦しかったでしょう」
うつむく轟武は地面につかれた両手を見ていた。
だが彼の心は己の手に向けられてはいなかった。
理渦に気取《けど》られぬよう、轟武は視界《しかい》の角《すみ》で封気綱の動きを見ていた。
手伽とそれに連なる鎖、それが封気綱の形態だ。同じ形をした左右の対《つい》になっているが、二つで一つの宝貝なのか。
今はただの鎖にしか見えないが、理渦が命じれば、途端《とたん》に蛇《へび》のように動きだすはずだ。
手伽の部分がちょうど蛇の口にあたる。
「轟武。どうしました?」
動かぬ轟武に理渦は不安を感じた。
理渦の心に反応したのか、封気綱がじゃらりと蠢《うごめ》く。
「さあ、付いてきてください。鏡閃様はこちらにおいでです」
むくりと、轟武の巨体が持ち上がった。
普通《ふつう》に立っていてものしかかられるような圧迫感《あっぱくかん》を理渦は感じた。
「ご、轟武」
理渦の足元で封気綱が鎌首《かまくび》を持ち上げた。
轟武は優《やさ》しく微笑《ほほえ》んで、ささやく。
「殷雷《いんらい》の前にまず貴様《きさま》らを血祭《ちまつ》りだ!」
「封気綱!」
封気綱は武器の宝貝ではない。
が、武器の宝貝に対抗《たいこう》出来るように造《つく》られていた。
瞬間的な速度は轟武を遥《はる》かに上回る。
一対《いっつい》の封気綱は互《たが》いに互いの獲物《えもの》に向かい跳《と》びかかろうとした。
轟武の右手首と左手首、逃《のが》すはずはなかった。
轟武もそれを知っていた。
既《すで》に一度戦った宝貝だ。
速度では勝てぬと彼は承知していた。
だが、彼は武器の宝貝、同じ手には掛《か》かりはしない。理渦の誤算《ごさん》はそこにあった。
轟武は左腕を封気綱から一瞬でもそらす為《ため》に大きく後ろへ引く。
彼の手首を追い封気綱の一本は大きく跳躍《ちょうやく》した。
そして轟武は右腕を、右手首を狙《ねら》う封気綱に向かい素早《すばや》く差し出した。
理渦に轟武の考えはまだ判らなかった。悪あがきなのか、理論的な行動なのかわからない。
しかし、封気綱の片割れが、轟武の右手首に食らいつくのを見て、軽く息を付いた。これで再び轟武を封じられる。
だが、右手首に食らいつく鎖を轟武は満足そうに見た。
以前の戦いで、轟武はこの宝貝の欠陥《けっかん》を見ぬいていた。
封気綱は両方の手首に取りついて初めて、封印機能を発揮《はっき》する。片方だけでは駄目《だめ》なのだ。
それはほんの少しの時間差だった。だが武器の宝貝には充分《じゅうぶん》な時間であった。
轟武は右手を力任《ちからまか》せに振《ふ》った。
右手の封気綱は、まるで鞭《むち》のようにしなり己の片割れに向かい打ちつけられた。
鏡の割れる音がした。
それは封気綱どうしが激突《げきとつ》した音だった。
轟武の右手首には手伽《てかせ》と短く折れた鎖《くさり》が垂《た》れ下がっていた。
しかし、もはや封気綱は破壊《はかい》されてしまったのだ。
雄叫《おたけ》びと怒号《どごう》が入り混《ま》じった叫《さけ》びを上げて轟武はわずか一度の跳躍《ちょうやく》で理渦の前にその身を躍《おど》らせた。
「理渦よ。よくも俺の邪魔《じゃま》をしてくれたな。
何故《なぜ》、殷雷に力を貸すような真似《まね》をした?」
「そ、それは」
理渦の顔面に轟武の大きな手が迫《せま》った。
「どうせ下らぬ理由なのだろう。
人間の望みを叶《かな》える為に俺を利用しようと考えたか? 俺が殷雷の命を狙《ねら》っているのを知っているのなら、俺に関《かか》わる危険も知っていよう」
がしっと、轟武の右手が理渦のこめかみを鷲掴《わしづか》みにした。
激痛《げきつう》にもがく理渦を轟武は軽く持ち上げた。
「俺の邪魔《じゃま》をするな。
俺の邪魔をする奴《やつ》はただではすまさんぞ!」
再び轟武は跳躍《ちょうやく》した。
片手に理渦を持ち上げたまま、壁《かべ》に向かい跳《と》ぶ。
そしてなんの躊躇《ちゅうちょ》も見せず、黒く光る岩壁《がんべき》に理渦の後頭部を叩《たた》きつけた。
悲鳴《ひめい》と爆音《ばくおん》が入り混じり、轟武の姿は爆煙《ばくえん》に巻き込まれた。
煙《けむり》の中から現れた轟武の手には、一冊の本が握《にぎ》られていた。
赤黒い表紙の本には『理渦記』と記《しる》されていた。
轟武は舌打《したう》ちをした。
封気綱のように硬《かた》い宝貝ならば、今の一撃で粉砕《ふんさい》できただろうが、理渦記そのものにはたいした硬度《こうど》はない。
本を壁に叩きつけて木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になるはずはない。
引き裂《さ》いてくれようかとも考えたが、どうせなら理渦を軍師《ぐんし》として信頼《しんらい》している鏡閃の前で引き裂いてやろうと思いとどまる。
表紙がぼろぼろになった理渦記に向かい轟武は言った。
「理渦記よ。
お前の使用者、鏡閃とかいったな。そいつと一緒《いっしょ》に引き裂いてくれる。
俺を利用しようと考えたお前の過《あやま》ちを思い知らせてくれよう」
轟武は部屋の扉《とびら》に向かい走る。
五感は完全に回復し、彼の機能は通常どおりに働きはじめている。
彼は感覚を巡《めぐ》らし気配《けはい》を探《さぐ》った。
この屋敷《やしき》は洞窟《どうくつ》を改造して建てられたものに違いない。単純な蟻《あり》の巣《す》のように通路が入り組んでいた。
が、五感を取り戻した轟武は易々《やすやす》と鏡閃の居場所を探り当てた。
屋敷の中には人間の気配はその一つだけであり、捕獲《ほかく》の時に記憶《きおく》した鏡閃の呼吸の僅《わず》かな癖《くせ》が感じ取られた。
一刻《いっこく》も速く殷雷を倒《たお》したい轟武であったが、今は鏡閃を先に片付けるべきだと判断した。
この先、殷雷の居場所に辿《たど》りつくまでに、再び妨害《ぼうがい》を受けるつもりはなかった。
轟武は駆《か》けた。
彼の足が石の床《ゆか》を蹴《け》り大きな音を立てたが、轟武は一切構《いっさいかま》わなかった。
音に驚《おどろ》き逃げようとしても逃がす気はない。
何らかの宝貝を使って挑《いど》みかかるかもしれないが、返り討《う》ちにしてやるつもりだった。
同じ相手に二度も遅《おく》れをとる轟武ではない。
扉《とびら》を蹴破《けやぶ》り轟武は部屋《へや》の中に転《ころ》がり込んだ。
部屋の中に幾《いく》つか宝貝らしき気配はあった。
だが宝貝の小細工《こざいく》にかかるつもりはない。
宝貝の動きに注意しながら、轟武は部屋の中をうかがった。
部屋の中で大きな蝋燭《ろうそく》が燃えている。壁の側《そば》に大きな書庫が並《なら》び、書庫の前には机があった。
その机に鏡閃が座《すわ》っていた。
轟武は鏡閃を睨《にら》む。
慌《あわ》てふためき逃げ出さなかったのは、己《おのれ》に自信があるからか、理渦が俺というものの怒《いか》りを伝えそこなったからか。
「鏡閃!」
今、目《ま》の当たりに轟武の姿を見ても、鏡閃は一向《いっこう》に驚かなかった。
そのあまりに静かな態度に逆に轟武の気がそがれた。
己の手の中に最強の切《き》り札《ふだ》を持つ者の余裕《よゆう》かと轟武は一瞬たじろいだが、そうではない。
この余裕は死を覚悟《かくご》した者の余裕ではないのか?
鏡閃の瞳《ひとみ》には優《やさ》しさにも似《に》た柔《やわ》らかさがあった。
「轟武。理渦や私の無礼《ぶれい》、さぞや腹が立っていることだろう。
悪いが、理渦を離《はな》してやってくれないか」
轟武はとてつもない違和感《いわかん》を感じた。
一撃でこの男を殺すのは可能だろう。が、殺してしまえば違和感の正体は永久に謎《なぞ》のままだ。
轟武の中に抑《おさ》え込まれた好奇心《こうきしん》がゆっくりと頭をもたげた。
鏡閃は俺の行動を邪魔《じゃま》して殷雷を助けた。
それは何故《なぜ》だ?
殷雷を助けるつもりなら、俺を封印《ふういん》してそのまま破壊《はかい》すればいいはずだ。
だが何故そうしなかった?
轟武は自分の優位さを確信していた。
その確信は思い上がりや油断によるものではなく、轟武の持つ冷静な武器としての状況判断能力が叩《たた》きだしたものだ。
轟武は右手に握《にぎ》り締《し》めた理渦記を鏡閃に向かい放《ほう》り投げた。
裏を知ってから始末してもそれほど時間はかからないだろう。
宙《ちゅう》を舞《ま》う理渦記はやがて爆煙《ばくえん》に包まれ、爆煙の中から一人の女が姿を現した。
鏡閃は理渦の姿を見た。
「だいぶやられたな」
理渦の服は所々破れ、理渦自身の体にも幾《いく》つか傷《きず》がついていた。
己の体の怪我《けが》を確かめる為《ため》に体中を理渦はさすった。
大きく吐《は》かれた息は、本来なら轟武に対する悪態《あくたい》だった。
「行動に支障《ししょう》はありません」
轟武は理渦に対して興味《きょうみ》はなかった。
彼は鏡閃の顔を見た。
あの忌《い》まわしい呪縛《じゅばく》を受けた時と何かが違う。
そう、以前にはほんの僅《わず》かだが鏡閃から尋常《じんじょう》ならざる気配《けはい》を感じていたのだ。
並《なみ》の宝貝ならば見落としてしまうような、ほんのささいな気配だ。
だが、その気配は消滅していた。
轟武はそれが違和感の正体だと判断した。
気配の出現や隠蔽《いんぺい》などは珍《めずら》しい話ではなかった。
鏡閃の場合は通常のものとは明らかに違う。
何かを隠《かく》している素振《そぶ》りが全くないのだ。
以前と違うというのなら、鏡閃の中から尋常ならざる物が消滅したのか?
「……鏡閃。お前は何者だ? 今は只《ただ》の人間にしか見えぬが、最初に会った時は人間ではなかったな?」
鏡閃はうなずく。
「さすがは大型武器の宝貝、気配|察知《さっち》能力も通常の武器とは段違《だんちが》いだな。
そうだ。あの時、私は人間ではなかった。
あの時はまだ私の仙骨《せんこつ》がこの世に存在していた。
私の体の外にだが存在していたんだ。
今はその仙骨も完全に消滅した」
さすがの轟武もこれには驚いた。
「お前はかつては仙人だったのか?」
「そう。お前に会ったときは術の使えぬ仙人で、いまは普通の人間さ」
そんなことが有りうるのか?
「まあいい。お前が嘘《うそ》をついても詮索《せんさく》するつもりはない」
どうにか理渦は呼吸を整《ととの》えた。
「本当です。鏡閃様は元仙人なのです」
「事実であろうが嘘であろうが俺には関係無い。
だが次の質問には正直に答えてもらう。
答え次第ではその首叩き落す。
鏡閃、どうして俺の邪魔をした? 殷雷に力を貸したのは何故《なぜ》だ?」
「邪魔をして悪いとは思っている。
だが殷雷を倒されては困る理由があったのだ」
「何故だ!」
「和穂《かずほ》を死なすわけにはいかなかった」
轟武の中で思考が少し噛《か》み合った。
元仙人が同じ元仙人である和穂の命を気遣っているのか。
「馬鹿《ばか》め。ならば最初からそう言え。俺は殷雷を血祭《ちまつ》りに上げればそれでいい。
わざわざ和穂を殺す手間《てま》などかけぬ」
鏡閃の口許《くちもと》が歪《ゆが》んだ。
「結論を急ぐな」
「封印で呆《ほう》けたのかもしれんな。
これは命乞《いのちご》いの時間|稼《かせ》ぎなのか」
「命乞いをする気はないが、殺されるつもりもない。
轟武。お前は冷静な武器の宝貝だ。利用できるものならば利用するだろ?」
轟武は鏡閃を値踏《ねぶ》みした。
「お前に利用価値があるだと?」
「あるさ。まさか手掛《てが》かりも無しにこの地上の隅《すみ》から隅まで殷雷を探《さが》すつもりか」
「殷雷の居場所を知っているのか!」
「知っているし、奴《やつ》の動向を隙《すき》なく調べられる。
私は九天象《きゅうてんしょう》を持っている」
「九天象だと!」
「そう、それ以外にも幾つもの宝貝を持っている。
殷雷を一撃で倒して復讐《ふくしゅう》を終えて、それでいいのか? 奴をなぶり殺しにする為に使える宝貝もあるぞ」
理渦は懐《ふところ》から折りたたまれた紙を取り出した。紙の上には細《こま》かな字で宝貝の名前が記されている。
轟武はその紙を受け取った。
「ほう。面白《おもしろ》そうな宝貝が幾つかあるな」
「殷雷の破壊の為に私は出来るだけの協力をしたい」
宝貝の名を読みながら轟武は言った。
「今までは殷雷を助けたくせに今度は殷雷の破壊に力を貸すだと?」
「時が満ちたのだ。
時が満ちるまでに殷雷を失うわけにはいかなかった」
鏡閃は殷雷ではなく、和穂の命を気遣《きづか》っている。殷雷がいなくとも和穂の安全を確保できるようになったのか?
ぼんやりとだが轟武には事情が呑《の》みこめた。
「生憎上手《あいにくうま》い話にすぐ跳《と》びつくほどの馬鹿《ばか》ではないんでね。
話はそれだけではあるまい」
鏡閃はうなずく。
「察しがいいな。殷雷の破壊に協力する代わりに一つの条件がある」
今まで鏡閃に封印されていた怒《いか》りはまだ轟武の中にはあった。が、その遅《おく》れを取り戻す宝貝がここにあるのも事実だ。
鏡閃は既《すで》に死を覚悟《かくご》している。鏡閃を殺せば九天象の在《あ》り処《か》は判《わか》らなくなるかもしれない。それだけは避《さ》けなければならない。
それにこれらの宝貝があれば、すぐにでも殷雷に追いつける。
轟武は悪くない取引《とりひき》だと考えた。
「良かろう。条件を言ってみるがいい」
鏡閃の口許《くちもと》がさらに大きく歪《ゆが》んだ。
「ついでに和穂も殺してくれ。それが条件だ」
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あとがき
『ぐばぁ!』
やあ、こんにちは。地獄《じごく》から生還《せいかん》した、ろくごまるにだ。ちょいと地獄|巡《めぐ》りに手間取《てまど》って、新刊の刊行がべらぼうに遅れてしまって申し訳ない。
奮闘編のあとがきに、ちょこっと書いてたので勘づいてた読者もいたかもしれないが、思いっきり体を壊していた。
しかも、かなりマニアックな臓器《ぞうき》をやられてしまったのだ。
どれくらいマニアックかというと、あの漢方やら鍼灸《はりきゅう》の神髄《しんずい》を極《きわ》めた古代中国人ですらその臓器の存在に気づけなかったらしいというから凄《すご》いではないか。
本来なら小粋《こいき》なジョークを交《まじ》えながら闘病記でもぶちかましたいところではあるが、洒落《しゃれ》にならん部分も多々あるのでやめておく。
ま、治《なお》ってはいるんで心配なきよう。
『ワープロ大往生《だいおうじょう》』
地獄巡りから戻り、そろそろ八巻を書こうかと思った矢先ワープロが壊《こわ》れた。
体調の不良にワープロの崩壊! 怪しい、これは明らかに何らかの呪術的攻撃《じゅじゅつてきこうげき》に違いない! てなわけで早速《さっそく》呪詛返《じゅそかえ》しを行う。
が、よく考えてみればこのワープロはもう十年近く使っている代物であった。
思えばこの十年間、たいした故障《こしょう》もなく(一度、落雷による停電でデータがふっとんだことはあった)よく働いてくれたものである。
仕方がないのでノートパソコンでこの八巻は書き上げたのだが、慣《な》れていないせいか肩のこりが尋常《じんじょう》じゃない。
やはり、ワープロ専用機がいいやと思って、いろいろ探してみたが最近は専用機の需要《じゅよう》が少ないらしく、なかなかいいのが見当たらなくてちょっと困っている。
あれ? そういや、わしの呪詛返しで飛んでいった式神はどこに行ったんだ?
『新担当』
担当編集者がこの度、代わった。
以前の担当Y氏が富士見書房を退社して、新たにK君が、わしの担当になった。
担当していきなり、わしの地獄巡りに付き合う羽目《はめ》になった可哀想な男である。
しかも、このK君というのは、わしより年下なので気分は思いっきり中堅作家《ちゅうけんさっか》だ。
「はっはっは。K君そもそも編集というものはだねえ、ちみい」
なんて感じで威張《いば》ってやろうかとも考えたが、地獄巡りの余波《よは》で尋常ならざる回数の締《し》め切《き》りを破ってしまい、いきなり頭が上がらなくなる。
『編集心得』
てなわけで、担当の引《ひ》き継《つ》ぎに際《さい》しY氏とK君が二人で挨拶《あいさつ》に来た時の話である。
いろいろと会話を重ねていて、ふと年齢の話になった。その時はK君の年齢を知らなかったが、わしより若そうだったので尋《たず》ねてみたのだ。
K君が年齢を教えてくれ、今度はわしが自分の年齢を教えてあげた。
「S女史の一つ下だから二十九歳だよ(千九百九十九年現在)」
ここでK君は大爆笑《だいばくしょう》。おかしいなあ? わしの年齢が二十九歳というのは、そんなに可笑《おか》しくないはずなのになあ。童顔《どうがん》でも老《ふ》け顔《がお》でもないしな。
となると『S女史より年下』の部分が面白かったんだろうか。
ともかくK君は椅子から引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》るぐらいに喜んでいた。
K君、ここで業務連絡です。一応、名前を出したのでS女史に、このあとがきを見ていただいて内容の承諾《しょうだく》を得ておいてください。
K君の運命やいかに! 個人的には肋骨三本ばかりへし折られると予想する。Y氏は合気道《あいきどう》の心得があったから今までどうにか凌げたらしいけどね。
『続・猫道』
さあ、ここに猫がいる。猫の気持ちになり、猫の言葉を人間の言葉に直して代弁《だいべん》してみたまえ。
もし、その言葉の語尾が「にゃあ」であれば、あなたは猫道を踏《ふ》み外《はず》そうとしておられる。
ここら辺りの感覚が判らないと、「うちのニャン吉君はとっても食いしん坊で、あたしがサンマを食べてると『僕も食べたいにゃ』と言って甘えてきます」てな感じの誤《あやま》った闇猫道に迷いこむ事になる。
真の猫道においては人間の価値観《かちかん》を猫に押しつけるのを最も嫌《きら》う。
それは、猫の猫たる部分の否定《ひてい》に他ならないからだ。
陥《おちい》りやすい罠ではあるが、日頃から注意したいものだワン。(この項、少々意味不明)
『佳境《かきょう》』
そんなこんなで、そろそろ封仙娘娘追宝録も佳境である。
どうなる殷雷《いんらい》、どうする和穂《かずほ》、K君は肋骨をへし折られるだけですむのか、わしは再び地獄|巡《めぐ》りにでるのか、三十路《みそじ》[#「三十路」はゴシック体]だS女史、風雲急を告げる下巻に乞うご期待。
では、また。
[#地付き]ろくごまるに
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》8 刃《やいば》を砕《くだ》くの復讐者《ふくしゅうしゃ》(上)
平成11年11月25日 初版発行
著者――ろくごまるに