封仙娘娘追宝録7 闇をあざむく龍の影
ろくごまるに
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目次
序 章『龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》』
第一章『まだらの豹絶《ひょうぜつ》』
第二章『混沌《こんとん》の大帝《たいてい》』
第三章『混沌《こんとん》の円の儀堂《ぎどう》』
終 章
あとがき
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序 章『龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》』
和穂《かずほ》が宝貝《ぱおぺい》をばらまいた事件から遡《さかのぼ》る事、七十六年前の話。
それは、とてつもなく分厚《ぶあつ》い雲が空を覆《おお》い尽《つ》くしていた、ある夜の事。
空には月も星も輝《かがや》かず、ただ暗黒だけが広がっていた。
明《あ》かりらしい明かりは、道を行く数人の男の手に握《にぎ》られた提灯《ちょうちん》だけであった。
提灯に照《て》らされた一同は、暗黒の空の下、田んぼの中の畦道《あぜみち》を進んでいった。
提灯を持つ男たちは、無表情だった。まるで感情を持つ事を恐《おそ》れているようですらあった。
光もなく、音も一つしかなかった。
若い母親の狂ったような叫《さけ》び声が、ただ一つの音だった。
畦道を進んでいるのは、提灯を持った男たちと、大声で泣きわめく一人の若い母親。
赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いた母親を、三人の老人たちが支えていた。
もしも、老人たちが誘《いざな》わなければ、母親は一歩たりとも動きはしなかっただろう。
一同の先頭に立つのは一人の道士だった。
袖《そで》の長い白い道服を着た、老人だった。
道服に溶《と》け込むような長い白髪《しらが》と、髯《ひげ》をたくわえている。
道士、老人、男たち、若い母親。そして、母親の手の中の一人の赤子《あかご》。そんな生気のない一同を嘲笑《あざわら》うかのように、水田の中の稲《いね》は青々と繁《しげ》っていた。
ユラリユラリと畦道を進んでいく一行は、小川に辿《たど》り着く。
小川には小さな丸太橋《まるたばし》が掛《か》けられており橋の向こうには竹林《ちくりん》が広がっていた。
暗闇《くらやみ》の中で、風に吹《ふ》かれた竹の葉がサラサラと音を立てていた。
先頭の道士は、懐《ふところ》から小さな鐘《かね》を取り出し振《ふ》った。
チリン。
響《ひび》くのは女の叫びと、竹の葉の音、それと道士の鐘の音。
道士は鐘を鳴らしながら、丸太橋を渡《わた》っていった。
一同は道士の後を続いていく。
鐘が鳴った。
チリン。
チリン。
竹林の中には、祠《ほこら》があった。
お供《そな》えも何もない祠だ。もし、これで床《ゆか》の位置が低ければ、只《ただ》の小屋にしかみえなかっただろう。
だが、それはあくまでも祠であった。高く持ち上げられた床へと続く、小さな木の階段があった。誰《だれ》も手入れをしていないのか、扉《とびら》が半分|外《はず》れかけている。
道士を先頭とした一同は、祠の前へと到着《とうちゃく》した。提灯《ちょうちん》の明かりが祠を闇の中から、浮《う》かび上がらせた。
チリン。
提灯が闇を払《はら》う為の物であるように、鐘の役目は静寂《せいじゃく》を払う為《ため》の物だった。
母親の嘆《なげ》き声では、静寂を破る事は出来ない。嘆きの声は、静寂をより深めるだけであった。
チリン。
祠の側《そば》には、消《け》し炭《ずみ》のような石柱が立っていた。石柱には、消えそうな文字で『軒轅《けんえん》』と書かれている。
母親は恐怖《きょうふ》を感じるどころではなく、老人は恐怖を感じても怯《おび》えはしなかった。
無表情な男たちの間にだけ、恐怖は存在した。
誰もが祠の中の閉じた扉の向こうに、何かの気配《けはい》を感じていたのだ。
恐怖を押《お》し殺しつつ、男たちは道士の行動に注目した。
この道士は一体、いかなる術を使って、村の苦境を救《すく》うというのか?
だが、道士の行動は実に素《そ》っ気《け》ないものであった。
道士は言った。
「龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》様。贄《にえ》を用意|致《いた》しました」
呪文《じゅもん》もなければ、符術《ふじゅつ》でもない。ただの報告だった。
贄。生《い》け贄《にえ》だ。道士は村の苦境を救うには赤ん坊《ぼう》の生け贄が必要だと言ったのだ。
祠《ほこら》の中の答えより先に、老人の一人が言った。
「龍衣の鏡閃|殿《どの》。どうか、赤子の代《か》わりに我《われ》ら年寄りを贄にしてくださいませ!」
キッ、と道士は殺気の混じった瞳《ひとみ》で老人をにらみつけた。
赤子以外に贄となる物はない。道士は何度も説明していた。が、年寄りにそれは耐《た》えられなかった。
道士の怒号《どごう》を予期した男たちだったが、言葉は祠の中から発せられた。
「ならぬ」
人の声には違《ちが》いなかったが、尋常《じんじょう》な声ではなかった。まるで、何十人もの人間が同時に一つの言葉を囁《ささや》くような奇妙《きみょう》な残響音《ざんきょうおん》があった。
祠の扉《とびら》が、音も立てずにゆっくりと開いていく。
提灯《ちょうちん》の明かりが、ぼんやりと一人の人影《ひとかげ》を浮《う》かび上がらせた。体格だけを見れば、ごく普通の人間の男だった。
詞の床《ゆか》に直接ペタリと腰《こし》を下ろし、片膝《かたひざ》を立て、酒を徳利《とっくり》から直《じか》にあおっていた。
薄闇《うすやみ》の中で、龍衣の鏡閃の目は、蛍《はたる》の光のような緑色に光り、呼吸を思わせる明滅《めいめつ》を繰《く》り返《かえ》していた。
緑色に光る目。黒目も白目もなく、眼球の代《か》わりにただ、緑色の光があった。光だけの目であったが、巧《たく》みに動く上下の瞼《まぶた》が、男の表情を形作《かたちづく》っていた。目を除《のぞ》けば、不自然《ふしぜん》なまでに普通の顔立ちをしている。
縒《よ》れてボサボサの長い髪《かみ》は、たった今、水を被《かぶ》って纏《まと》めたようにどうにか収《おさ》まりをつけてはいるが、幾筋《いくすじ》かの髪は顔の前に垂《た》れていた。
明滅していたのは、瞳だけではなかった。龍衣の名が示すように、彼の上着《うわぎ》には無数の龍の鱗《うろこ》が刺繍《しゅう》されていたが、その鱗の一つ一つの輪郭《りんかく》が瞳と呼応して、同じように緑色の点滅を繰り返していた。
鏡閃が現れると同時に、白髪《しらが》の道士は地面にこすりつけるように頭を下げる。
徳利を床に起き、鏡閃は言葉を続けた。
「年寄りの贄など何になる? 俺《おれ》が欲《ほ》しいのは赤子の贄だ。それ以外では『取り引き』には応じられんな」
取り引きという言葉に、己《おのれ》が何をしようとしているのかを、老人は再確認《さいかくにん》した。
そう、赤子と引換《ひきか》えに、村を助けようとしているのだ。
「せめて、他の物が贄の代わりには?」
「くどいな。牛や豚《ぶた》では駄目《だめ》だぜ。人間の、それも赤子だけしか駄目だ。別に強制はしない。取り引きは流れるだけだ」
緑色に光る鏡閃の瞳《ひとみ》が、笑《え》みを浮かべて細くなる。
断《ことわ》れるはずがないと知っているのだ。
「いいか、人間。俺はお前らの足元を見ているんじゃない。そっちにとって有利な取り引きなんだぜ。
お前らの村から疫病《えきびょう》を追い出してやる。その代償《だいしょう》は赤子が一人だ。
当然、今、疫病で苦しんでいる村人の命も助けてやる。まあ、未来永劫《みらいえいごう》とはいかんが、今後三十年は、この村から疫病は出ないようにしてやる」
「しかし」
老人の苦悩《くのう》を喜《よろこ》ぶように、鏡閃は言った。
「いいねえ、その苦しそうな顔。今ならちょっとしたオマケもつけてやるぞ。
一つの命を寄越《よこ》せば、多くの命が救われるんだ」
選択《せんたく》の余地《よち》はなかった。老人たちは、母親から子供を奪《うば》おうとしたが、母親は反狂乱になり我《わ》が子を守ろうとする。
「あああ! この子を殺させるぐらいなら、私のこの手で!」
やむなく老人たちは、男たちに指示《しじ》を出し力ずくで子供を引き離《はな》す。
風邪《かぜ》をひかぬように、たっぷりと綿《わた》の入った柔《やわ》らかな布でくるまれた赤子を抱《かか》え、老人の一人はゆっくりと祠《ほこら》に近寄り、そして階段を登《のぼ》った。
母親の叫《さけ》びは、鏡閃にとっては只《ただ》の心地好《ここちよ》い音楽にしか過ぎなかった。
「よろしい。
賢明《けんめい》な取り引きだな。
『この赤子と引換《ひきか》えに、我、鏡閃はこの村から疫病を最低三十年の間は追放する』
今のが絶対の契約《けいやく》だ。忘れるでないぞ。
それと、この祠の周《まわ》りに葉の尖《とが》った、植物を根づかせておく。お前らは見慣《みな》れてないだろうが、これは疫病によく効《き》く薬草《やくそう》だ。隣《となり》村に病人がでたら、わけてやるがよい」
老人の手からついに、赤子は鏡閃に手渡《てわた》された。
己《おのれ》の罪《つみ》を悔《く》いたのか、老人は床《ゆか》にへたりこみ、驚愕《きょうがく》の表情を浮《う》かべたまま、凝《こ》り固《かた》まった。
鏡閃は、別《わか》れの挨拶《あいさつ》をした。
「ではさらばだ、人間|共《ども》よ!」
途端《とたん》、一陣《いちじん》の風が巻き起こり、鏡閃の姿は消えた。風に煽《あお》られた祠の扉《とびら》が、パタンパタンと凝り固まる老人の前で動いた。
男たちは、急いで、道士を羽交《はが》い締《じ》めにした。
道士は面倒《めんどう》そうに言った。
「ふん。鏡閃様は本物だ。贋物《にせもの》じゃない。約束《やくそく》通り、疫病《えきびょう》の被害《ひがい》が消えなければ俺《おれ》を殺せばいい。
その代《か》わり、病人の病《やまい》が癒《い》えたら、さっさと解放してもらうからな」
完璧《かんぺき》な自信が道士にはあった。男たちも、この生《い》け贄《にえ》騒《さわ》ぎがインチキでないのを本能的に知っていた。彼らも鏡閃の姿を見ていたからだ。
男の一人が、未《いま》だ放心状態の老人の側《そば》に近寄り、声を掛《か》けた。
「さあ、村に戻《もど》りましょう」
「ああ、恐《おそ》ろしい。恐ろしい」
「……こんな事を言えた立場ではありませんが、仕方《しかた》がなかったのですよ。鏡閃は本物でしょう。村は救われます」
「ああ、ああ、ああ」
老人は己のしでかした行為《こうい》に、放心していたのではなかった。
鏡閃に赤子を渡《わた》す時、赤子をくるむ布が僅《わず》かにずれたのだ。
布の隙間《すきま》から老人は赤子の顔を見た。
力ずくで赤子を取り上げようとする男たちに対抗《たいこう》し、母親は赤子を強く抱《だ》き締めたのだろう。
それどころか、お気に入りの人形《にんぎょう》を手放《てばな》したくない子供のように、母親は赤子の顔に力任《ちからまか》せに爪《つめ》すら立てていた。
その為《ため》、赤子の頬《ほお》は切れ、赤い血が流れていた。
村を救う為に、赤子を生け贄に捧《ささ》げる為の一同の行進。この異様な行為の中で、老人は疑問《ぎもん》にすら思わなかったが、一つだけ不自然な所があったのだ。
赤子は全《まった》く泣いていなかった。母親があれだけ大声で叫《さけ》んでいたからには、寝《ね》ていたとは考えられない。
頬から血を流した赤子の目は、開かれていた。
その黒く小さな瞳《ひとみ》は確かに鏡閃をにらみつけていたのだ。
老人は薄くなった髪《かみ》の毛を掻《か》きむしった。
「ああ! 我等《われら》は間違《まちが》っていた! 鏡閃になど屈《くっ》するべきではなかった!
あんな赤子でさえ、あんな赤子でさえ!」
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第一章『まだらの豹絶《ひょうぜつ》』
強く握《にぎ》られた殷雷《いんらい》の左|拳《こぶし》は、小刻《こきざ》みに震《ふる》えていた。いつもの猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭《するど》い瞳《ひとみ》は閉《と》じられた瞼《まぶた》に隠《かく》され、眉間《みけん》には縦皺《たてじわ》が寄《よ》っている。
拳と一緒《いっしょ》に、彼の長い髪《かみ》もワナワナと揺《ゆ》れていた。
「ああ、我《わ》の魂《たましい》は造《つく》られし魂。この血と肉も人の形はしていても、所詮《しょせん》は造り物!」
和穂《かずほ》は背中《せなか》を丸めて、湯飲《ゆの》みの番茶《ばんちゃ》に息《いき》を吹《ふ》きかけた。
珍《めずら》しく年寄《としよ》りのような仕種《しぐさ》をしているが、和穂はまだ若い。年の頃《ころ》なら十五、六歳の娘《むすめ》だ。柔《やわ》らかそうな髪に、ほっそりした顎《あご》、意志《いし》の強そうな太めの眉毛《まゆげ》が澄《す》んだ瞳の上に乗っかっている。
娘にしては珍しく、袖《そで》の長い白い道服を身に纏《まと》っていた。
基本的に人を疑《うたが》わない、素直《すなお》な娘であったが、今の殷雷の態度《たいど》が、只《ただ》の芝居《しばい》なのは彼女にも明らかだった。
いくらなんでも、食堂《しょくどう》で鍋《なべ》をつつきながら本気で苦悩《くのう》しているはずはないだろう。
和穂は殷雷に、気のない言葉を返した。
「ふうん。それで?」
殷雷の左拳よりも、箸《はし》を握った右手の方がさらに震えていた。
「ああ、幾度《いくど》、我《わ》が生まれを悩《なや》んだ事か!」
卓《たく》の上では、グツグツと鍋が煮《に》えていた。
鍋を挟《はさ》んで、和穂の正面には恵潤《けいじゅん》が、殷雷の正面には塁摩《るいま》が座《すわ》っている。
恵潤。和穂より少し年上で、殷雷と同じぐらいの年齢《ねんれい》に見える女であった。
殷雷と同じように長い髪をしていたが、よりしなやかそうな艶《つや》をしていた。
眼光《がんこう》は鋭《するど》かったが、彼女の整《ととの》った顔立ちの中では、凄味《すごみ》というより純粋《じゅんすい》に美しさを際立《きわだ》たせていた。
彼女は細くしなやかな指で箸を握り、茄《ゆ》であげられた真《ま》っ赤《か》な蟹《かに》の足から身をほぐし、取《と》り鉢《ばち》の中へと入れていく。
そして、たっぷりと蟹の肉が溜《た》まった取り鉢を、恵潤は塁摩に渡《わた》した。
「はい、塁摩。生姜《しょうが》が欲《ほ》しけりゃ、勝手《かって》にどうぞ」
「ありがとう! カニ、カニ、カニィ」
指先についた蟹の汁《しる》をペロリと嘗《な》め、その後、手拭《てぬぐ》きで拭いて恵潤は言った。
「どういたしまして」
取り鉢を受け取り、塁摩は嬉《うれ》しそうに笑った。彼女が鍋を囲《かこ》む四人の中では一番若い。いや、一番若い姿をしていた。
見た目に関しては、まだ年端《としは》もいかない少女に過ぎない。
三つ編《あ》みにした髪《かみ》を丸めて、飾《かざ》り布の中へとしまっている。子供用の椅子《いす》がなかったので、ふかふかの座蒲団《ざぶとん》を四つ折りにして高さを調整していたが、塁摩はその柔《やわ》らかさが気にいっていた。
「カニ、カニ、カニィ」
殷雷はジロリと、塁摩と恵潤を見た。
「そこ。人が折角《せっかく》苦悩《くのう》してるんだから、ちゃんと見てろよ」
恵潤は軽く答えて、自分の取り鉢に手を伸《の》ばした。
「はいはい。勝手にやんなさいよ」
殷雷は言葉を続けた。
「ああ。だがしかし、宝貝《ぱおぺい》であるが故《ゆえ》の喜《よろこ》びもあるのだ!
ふっふっふ。宝貝であるが故に、俺《おれ》には普通《ふつう》の毒《どく》は通用しない!
それが何を意味するか、判《わか》るか和穂!」
皿の上の寒鰤《かんぶり》と大根《だいこん》の煮《に》しめを皿に取りつつ和穂は答えた。
「……判るわよ。フグでしょ?」
「いかにも! そう、宝貝であるが故に、フグの毒を恐《おそ》れずに済《す》むのだ! どうだ、うらやましいだろう。
どんな下手《へた》な料理人の捌《さば》いたフグでも当たらねえんだぜ」
店の隅《すみ》の店主が、露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をして殷雷に言った。
「……お客さん。人聞きの悪い話はよしてくださいよ。
うちは、たっぷり水を使いながら捌いてますんで、当たりはしませんよ」
殷雷は不敵《ふてき》に笑う。
「ふっふっふ。万が一はあるだろうが」
言うだけ無駄《むだ》だと店主は肩《かた》をすくめた。
さすがに和穂も不服《ふふく》だった。
「だから私はフグを食べちゃ駄目《だめ》なの? こうやって、皆《みな》で鍋を囲んでるのに、私だけ寒鰤大根なわけ?」
さも大袈裟《おおげさ》に殷雷は叫《さけ》ぶ。
「それは勿論《もちろん》、和穂様に万が一の事がありましたら、それこそ一大事。
和穂様にそんな危険な橋を渡《わた》らせるわけにはいきますまい」
「……お客さん。もしかして嫌《いや》がらせに来てる?」
慌《あわ》てて恵潤は引きつった愛想《あいそ》笑いを浮《う》かべ店主に頭を下げ、そして殷雷の脇腹《わきばら》を肘《ひじ》でつつく。
「ちょっと、いい加減《かげん》にしなさいよ。フグを食べられるのが嬉《うれ》しいなら、一人で喜んでなさい。フグ刺《さ》しにでもすりゃいいのに、わざわざ鍋《なべ》の中にフグ入れて、和穂には食べるなじゃ、ちょいと意地悪《いじわる》なんじゃないの?」
殷雷は真顔になる。
「何を言うか。護衛《ごえい》として和穂の安全を最優先にするのが当然であろう」
殷雷の芝居気《しばいぎ》に当てられたのか、和穂の言葉も多少大袈裟になる。
「いいのよ、恵潤さん。私はこうやって一生|寒鰤大根《かんぶりだいこん》を食べてればいいの」
「カニカニィ。私はフグよりカニが好きい」
「有難《ありがた》みの判らねえガキだな。黙《だま》って食ってろ!」
「カニ、カニィ」
和穂の安全を最優先するなら、フグを我慢《がまん》しなさいよ、と恵潤は考えたが、言うだけ無駄なのは判っていた。
「本当に、あんたは昔からちょっと気にいった相手には、そうやって意地悪するんだからね。そういうとこって、子供っぽい」
本当に子供ならば、『誰《だれ》が和穂なんか気にいっているか!』とでも言い返したのだろうが、生憎《あいにく》殷雷はそこまで素直《すなお》ではなかった。
「おや、恵潤も俺に意地悪されたいか?」
軽い頭痛を恵潤は覚えた。
「ほんとにもう、どうしてフグの一つや二つで、そこまで舞《ま》い上がれるのよ!」
「だって、フグだぜフグ。そう簡単に食えるもんじゃねえだろ。寒鰤大根となんか、比べ物にならねえな」
恵潤とて、その本性《ほんしょう》は武器の宝貝である。その心の奥底《おくそこ》には秘《ひ》めたる激情がある。
意地悪をされている当の和穂よりも、恵潤の方がムッとした。
恵潤の瞳が鋭《ひとみするど》く光った。
「そう。寒鰤よりフグの方がいいのね。その言葉、覚《おぼ》えてらっしゃいよ。混沌《こんとん》の名にかけて、殷雷が寒鰤を欲《ほ》しがった時には、和穂に謝《あやま》ってもらうからね」
和穂も少し慌《あわ》てる。
「あ、別にそんな真剣《しんけん》にならなくても。私が我慢《がまん》すればいいんです」
「駄目《だめ》よ。こういう時には、ちゃんと叩《たた》いておかないと。
ねえ、和穂。私に寒鰤を分けてくれる?」
キョトンとしながら、和穂は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「はい、どうぞ」
フグを飲み込みつつ、殷雷は笑う。
「へっ。どうせ、寒鰤を美味《うま》そうに食って、俺に欲しがらせようという魂胆《こんたん》だろ?」
答えずに恵潤は、店員に茶碗《ちゃわん》の六分目まで入れた御飯《ごはん》と熱い番茶を急須《きゅうす》ごと注文《ちゅうもん》した。
殷雷の目も真剣になった。
恵潤は茶碗の中の飯の上に寒鰤をチョコンとのせ、その上からタプタプと番茶を注《つ》ぎ込んだ。
熱い番茶からは途端《とたん》に湯気《ゆげ》がたちのぼり、それと同時に、煮《に》こまれた寒鰤の香《かお》りが周囲に広がった。
既《すで》に殷雷の仕種《しぐさ》は、まるで戦闘時《せんとうじ》のような鋭さを帯びている。我関せず、塁摩だけは一人で蟹《かに》を食べていた。
殷雷は言った。
「なるほど。確かに美味そうな茶漬《ちゃづ》けだな、恵潤よ。
狙《ねら》いは鋭いが、俺をなめてもらっちゃ困《こま》るな。
ああそうだ。確かにその茶漬けは美味そうだ。だがな、人が食っている茶漬けを横から欲《ほ》しがる程《ほど》、この殷雷|刀《とう》は浅《あさ》ましくはないぞ!」
やはり恵潤は答えず、殷雷にではなく和穂に話し掛《か》けた。
「ねえ、和穂。冬場はその恰好《かっこう》で寒くないの?」
「ええ。宝貝ほどじゃないですけど、この道服には仕掛《しか》けがあるみたいで、夏は涼《すず》しいし冬も温《あたた》かいんです」
「そうなんだ。でも、あんまり過信しないほうがいいわよ。宝貝の服じゃないんだったらさ、耐寒《たいかん》温度もそれほど凄《すご》くないはずだからね。一応《いちおう》、防寒具も買っておいたほうがいいわよ。ほら、毛皮付きのなら結構、可愛《かわい》いのも売ってるでしょ」
「そうですね。あ、そうそう……」
和穂と恵潤の話は続き、殷雷の顔は徐々《じょじょ》に引きつり始めていった。
独特《どくとく》の、芳《かぐわ》しい香りを撒《ま》き散《ち》らす茶漬けが、目の前にある。
恵潤はそれを食べる素振《そぶ》りを見せようとはしていない。
このまま放《ほう》っておくつもりか? 殷雷の額《ひたい》を一筋《ひとすじ》の汗《あせ》が流れた。どだい、茶漬けなんてものは熱いうちに食うから美味《うま》いのだ。
このまま、茶が冷めればとてもじゃないが食えた物ではなくなる。
こうしている間にも、香りの強さが弱くなっていくのが判《わか》る。
美味いから欲しいのとは少し違《ちが》うと、殷雷は考えた。
別に寒鰤《かんぶり》の茶漬《ちゃづ》けを我慢《がまん》するぐらいの忍耐《にんたい》力は、殷雷にも充分《じゅうぶん》ある。
どれだけ美味そうに恵潤がこの茶漬けを食ったところで、殷雷は鼻《はな》で笑っただろう。
だがそうはなっていない。このまま折角《せっかく》美味い茶漬けが無駄《むだ》になろうとしているのだ。
つまらぬ意地《いじ》を捨てて謝《あやま》れば、この茶漬けを救う事が出来るのだ!
恵潤と喋《しゃべ》りつつ、和穂は殷雷の真剣《しんけん》な顔を見た。
鍋《なべ》をつつきながら苦悩《くのう》する事なんてあり得ないと和穂は思っていたが、茶漬けを前に苦悩する事はあり得るんだと、和穂は知った。
髪《かみ》の毛を掻《か》きむしらんばかりの形相《ぎょうそう》で殷雷は苦悩していた。
殷雷《いんらい》は泣きながら、寒鰤の茶漬けを食べていた。
「恵潤《けいじゅん》よ。お前はなんて悪い女なんだ。食べ物を粗末《そまつ》にすると、いつかは罰《ばち》が当たるぞ」
恵潤は答えた。
「別に粗末にしてないでしょ。勝算は充分《じゅうぶん》過ぎる程《ほど》、あったのよ」
「お、おのれ。……和穂《かずほ》、すまなかった」
「いいってば。それに冗談抜《じょうだんぬ》きで、フグの毒《どく》に当たったら困《こま》るもんね」
塁摩《るいま》が殷雷の髪の毛を引っ張りながら、食いしん坊《ぼう》、食いしん坊とからかっていたが、殷雷にはそれを振《ふ》り払《はら》う気力すらない。
これは食い意地《いじ》とは違う次元の問題なのだと、力説するのも面倒《めんどう》であった。
恵潤もフグを食べる。
「大丈夫《だいじょうぶ》。毒の心配はないわよ。私が保証《ほしょう》する」
「? どうして、判《わか》るんですか? そりゃ、このお店は信用出来ると思いますが」
「……一応《いちおう》、人間にとって有毒な物が混《ま》じっているか、そうでないかを分析《ぶんせき》出来る能力はあるのよ」
殷雷に向き直り、恵潤は言葉を続けた。
「本来、私たちの舌はそういう目的の為《ため》にあるんだと思う。
毒が通用しないんだから、毒味としては最適よね。当然、味も判るんだから味見の役ぐらいは立つし」
なるほどと納得《なっとく》しながら、和穂も鍋《なべ》に箸《はし》をつけた。
「あ、美味《おい》しい、このフグ!」
「……それ、鱈《たら》よ」
「え!」
「ほら、こっちのもっと小さい奴《やつ》がフグ」
殷雷が小声で怒鳴《どな》る。
「だいたい、鱈とフグの違《ちが》いも判らん奴に食わせる道理があるもんか」
軽く咳払《せきばら》いして恵潤は、本題に入った。
「で、私と塁摩を呼び出したのは何か理由があるんじゃないの?」
いい加減《かげん》しゃくに触《さわ》ったのか、殷雷は塁摩の鼻をつまんだ。
「どうせ、鍋を食うんだから、二人じゃ俺《わび》しいだろ。それで呼んだ。
まあ、さすがにそれだけの理由じゃないがな。
何、大した用事じゃない。恵潤に少しばかり聞きたい事があるんだ。
塁摩はただのオマケだ」
殷雷の言葉を和穂は引き継《つ》いだ。
「ええ。恵潤さんに場所を教えてもらった、鏡閃《きょうせん》の屋敷《やしき》に殷雷と私で行ってみたんです」
恵潤は鋭《するど》く、言葉の先を察した。
「ところが、屋敷はもぬけの殻《から》。ってところかしら」
「はい」
「でしょうね。私が和穂たちについたのは、向こうの九天象《きゅうてんしょう》で筒抜《つつぬ》けだろうし」
「それで、軒轅や鏡閃について恵潤さんは他に何か知っていませんか?」
首を横に振《ふ》り、恵潤は言った。
「手掛《てが》かりらしいものはないね。ただ、向こうは和穂たちをそれほど、脅威《きょうい》とは考えていなかったようね。
鏡閃も、それほどの遣《や》り手《て》には見えなかった」
「鏡閃て、どんな人なんですか?」
「そうねえ。似顔絵《にがおえ》ぐらい描《か》いてあげるけども、それほど特徴《とくちょう》のない男だったよ。
どんな宝貝《ぱおぺい》を持っているか、結局聞かずじまいだったしね」
和穂は確認《かくにん》の為《ため》に訊《たず》ねた。
「本当に普通《ふつう》の人なんですね、鏡閃という人は。何か素性《すじょう》を隠《かく》してたような素振《そぶ》りは?」
「いや。それはない。これでも私だって武器の宝貝だからね。
力量を隠されたら、力量を推《お》し量《はか》る事は出来ないけど、力量を隠しているかどうかの見極《みきわ》めはつく。
本当に、普通の男。武道の心得《こころえ》もなさそうだった。ま、武器の宝貝でも持っていたら、そんなの関係なくなるけどね」
「……そうですか」
「考え方|次第《しだい》なんじゃない。
向こうには九天象という、こっちの手の内を探《さぐ》れる宝貝がある。つまり、絶対に向こうが先手なのよ。
それなら逆に、あんまり軒轅の事を考えないのも一つの手でしょ」
「それもそうですね。
それはそうと、恵潤さん。体の調子はどうなんですか?」
「……まだ、完全じゃない。
日常生活には問題ないけど、戦闘《せんとう》はまだ不可能ね」
心配そうな和穂の頭を恵潤は軽く撫《な》でた。
「別に体の調子が悪いわけじゃないのよ。
そうねえ、どう言えば判《わか》ってもらえるかしらね。
昨日《きのう》まで自分が鳥だと知らなかった鳥が、急に自分に羽《はね》があると気付いた感じかな。
羽の使い方を把握《はあく》するまで、いかに鳥だって断崖絶壁《だんがいぜっぺき》からは飛び下りられないでしょ。
私自身の感覚からいったら、まだ自分の体の大きさが把握出来ないのよ。
抽象的《ちゅうしょうてき》で悪いんだけどさ。
力加減もよく判らなくてね。だんだん判りかけてはいるんだけど」
殷雷が静かに言った。
「充分《じゅうぶん》承知《しょうち》してるだろうが、恵潤よ。
お前は普通《ふつう》の宝貝よりも強力な力を得ている。
が、それだけじゃ済むまい。強力な面があるなら、その反面として絶対に弱い部分も得ているはずだからな。
自分の弱点が把握出来るまでは絶対に無理をするな」
コクリと恵潤は頷《うなず》いた。
「忠告《ちゅうこく》、ありがたく受け取っておく。もう暫《しばら》くは、断縁獄《だんえんごく》の中で様子を見させてもらう」
「うむ。さてと、鍋《なべ》の中身も殆《ほとん》ど食ったか。ならば、そろそろ雑炊《ぞうすい》でもするか」
殷雷たちが、雑炊をあらかた片付けかけたころ、客の一人の男がソロリと殷雷たちの卓《たく》に近寄ってきた。
そのまま、卓を通り越《こ》して店の外に出るとでも、和穂は考えたが、恵潤と殷雷の箸《はし》の動きが同時にピタリと止まった。
そして、二人の鋭《するど》い視線は男の動きに注目しはじめた。
塁摩はたいして気にもせずに、雑炊を食べ続けていた。
二人の緊張感《きんちょうかん》に和穂は、少々|驚《おどろ》く。
「どうしたの? 二人とも」
殷雷は和穂にではなく、店主に言った。
「よお。親父《おやじ》!」
「なんすか? 漬物《つけもの》の追加?」
「違《ちが》うって。お前の所の食材はどこから仕入れていやがる?」
言いながらも、殷雷は男を見つめ続けた。これでも殷雷は武器の宝貝である。
その鋭い眼光でにらまれれば、普通は臆《おく》するか、逆につっかかってくるだろう。
だが、男はソロリソロリと歩き続けたままだった。
確《たし》かに、この男は少し異常かもしれない。
店主は言った。
「仕入れ? 市場ですよ」
「あんまり、怪《あや》しい所からは仕入れるな」
「またまた、人聞きの悪い事を」
「まあ、注意したところで、稀《まれ》にゃ変なのも仕入れちまうか」
「?」
「せいぜい、『虫』だろうな」
和穂に殷雷の言葉が理解出来ない。恵潤は事情を察しているようだ。
「『虫』よりはちょっとでかそうね。珍《めずら》しい偶然か、宝貝《ぱおぺい》のせいか?」
「宝貝にしちゃ、ちょいと回りくどいぜ、和穂よ。索具輪《さくぐりん》で店の中に宝貝所持者がいないか、もう一度|確認《かくにん》しろ」
言われるままに、和穂は左耳の耳飾《みみかざ》りに手を伸《の》ばす。
宝貝、索具輪。他の宝貝の所在を示す宝貝であったが、時々、作動しなくなる。
索具輪を作動させると、和穂の視界に近隣《きんりん》の宝貝の存在場所が重なっていく。
「この店の中には、殷雷たち以外に宝貝の反応はない。
ちょっとまってね、もっと広い範囲《はんい》を探《さが》してみる」
ソロリ。男の目は焦点《しょうてん》を失《うしな》い、虚《うつ》ろになっていた。
殷雷は言った。
「店の中にいないんだったら、それでいい。これはすごく珍しい偶然《ぐうぜん》の可能性が高いな。宝貝の使い手が仕掛《しか》けたんなら、かなり遠くからやってるはずだ」
恵潤が意見を述べる。
「私も偶然の方に賛成。ほら、塁摩。さっさと雑炊《ぞうすい》を食べちゃいなさい。あんまり、食事中に見たくない事が始まるから」
塁摩は気付いてないのではなく、気付いていながら興味《きょうみ》がなかっただけだった。
「滅多《めった》にいない妖怪《ようかい》がいて、その妖怪がわざわざ私たちの所に来たのは、ひつぜんせいを感じるわね。塁摩としちゃ」
妖怪? この男の人が妖怪だとでも言うのだろうか? と、和穂は不思議に感じた。だが、塁摩の言葉を恵潤も殷雷も否定はしない。
そして、突然《とつぜん》男は意味不明の叫《さけ》び声を上げて、殷雷に殴《なぐ》りかかった。
「ねをう!」
男の拳《こぶし》は、殷雷の後頭部《こうとうぶ》に命中していた。宝貝とはいえ、今は人の形をしている殷雷であった。
だが、彼は涼《すず》しい顔をしている。男の拳撃《けんげき》の間合いを悟《さと》っていた殷雷は、当然、拳が本来の攻撃《こうげき》力を持つ間合いも、見切っていたのだ。
拳が届かない位置に頭を動かせば、完全に男の攻撃は空を切るのだが、逆に拳が威力《いりょく》を持つ寸前の位置に、あえて自分の頭を動すのも、ひとつの戦法だった。威力の出ていない拳は、強く押《お》されたぐらいの衝撃《しょうげき》しか与《あた》えられない。
殷雷は言った。
「さて、親父《おやじ》よ。いきなりこいつが殴《なぐ》り掛《か》かってきた。俺《おれ》らに過失はあるまい。
俺としちゃ、自分の身を守る為《ため》に最低限の抵抗《ていこう》をさせてもらう。
ちょっと椅子《いす》や机《つくえ》が壊《こわ》れても、こいつの払《はら》いだぜ」
男が酔《よ》っぱらっていたりしたのなら、和穂も驚《おどろ》きはしなかっただろう。だが、男は酔った風もない。
男の行動があまりに唐突《とうとつ》だったのは、男と一緒《いっしょ》に鍋《なべ》を食いにきていた連れも同様だったようだ。
男の行動を止める事も思いつかず、ポカンとみつめるだけだった。
椅子から立ち上がりながら、殷雷は和穂に説明した。
「天と地の気の淀《よど》みに、妖怪《ようかい》は発生する。
だが、太古の昔ならいざしらず、人間の世界というのは堅牢《けんろう》で、そう簡単に妖怪なんざ出現しないのだ。
でも、たまにゃこういう『虫』が出てきたりする。それが、何かの魚に混じって、こいつの体の中に入ったんだろうな」
「『虫』?」
殷雷は軽く、目の前の男の腹を殴《なぐ》った。痛みに男の背中が曲がるが、奇妙《きみょう》な曲がり方であった。こんなに曲がれば背骨《せぼね》が折れてしまうのではないかと思えるように、グニャリと曲がったのだ。
殷雷は男の下がった顔に手をのばし、左手で顎《あご》をつかむ。
「妖怪に憑《つ》かれているから、体質がちょっと奇妙になってるんだ。見てな」
つかんだ顎を、ぐいと下に向けて引っぱると、簡単に顎が外《はず》れた。男の口はガバッと開き、妙に赤く長い舌が見えた。
口の開き方もまた尋常《じんじょう》ではない。グニャリと伸びるように開いていたのだ。しかも、西瓜《すいか》ぐらいならば、楽に丸飲み出来る位に大きく開いている。
左手で支えたまま、殷雷は開いた口に右手を差し込む。
店主、そして客たちは虚《きょ》をつかれながらも殷雷の動きから目が離《はな》せないでいた。
右手はゆっくりと、そして軽々《かるがる》と男の口の中に入っていった。
殷雷は袋《ふくろ》の中身を探《さぐ》るように、もぞもぞと右手を動かす。
「こういうのって、確か心臓の裏手にいるんだよな」
「そうね。心臓に食らいついてるはずよ。でも小さいと判《わか》りにくいから気をつけてね」
「えぇと、あっ、これに違《ちが》いない……!」
その時、殷雷の顔から血の気が引いていった。
和穂と恵潤は、いち早く殷雷の表情を読み取った。
「どうしたの?」
二人の叫《さけ》びに答えるよりも早く、殷雷は男の口の中から、それを引きずりだした。
和穂は驚《おどろ》いたが、恵潤の驚きはそれ以上だった。
和穂は化け物じみた物が現れると、覚悟《かくご》していたからそれほどでもなかったが、恵潤はせいぜい糸ミミズぐらいの大きさの物を予想していたのだ。
男の口からズルズルと引きずり出されたのは、塁摩の身長ぐらいある、細長いものだった。それの全身は長い金色の毛に覆《おお》われている。
果たしてこれは何か? どうしてこんなに長いのか? 殷雷と恵潤の疑問を見透《みす》かすように、塁摩は言った。
「偶然《ぐうぜん》の一言で片づける前に、それが必然である可能性を考えなくっちゃいけなかったのよ。必然なら、せいぜい『虫』ぐらいの大きさだろうって、甘《あま》く見ていた妖怪《ようかい》の正体が、そんなに大きくても不思議《ふしぎ》じゃないんじゃないのさ」
舌《した》ったらずの言葉であったが、正論には違いない。だが、簡単に殷雷の驚きは消えなかった。
海は広い。その広い海でたまたま発生した妖怪が、魚に混じり、この店に来た。妖怪といってもせいぜい、糸ミミズ程度の大きさでうっかりと客の口に入ったのだと殷雷は考えていた。
が、それは真実ではないのか?
和穂は塁摩に訊《たず》ねた。
「ねえ、塁摩。あれってなんて名前の妖怪なの?」
「……いや、和穂。妖怪ってそういう種類のもんじゃないんだよ。形のある『淀《よど》み』を妖怪って呼んでるだけで」
妖怪を口から引きずり出された男は、床《ゆか》に倒《たお》れこんだ。気絶《きぜつ》しているが、呑気《のんき》な寝顔《ねがお》のような表情が浮《う》かんでいるところからして、体に害はなかったのだろう。
殷雷は手の中の細長く、毛の生えたもの、まるで尻尾《しっぽ》のようなものを、床に捨てた。
「もう害はないから、心配いらん。壁《かべ》にでも飾《かざ》って、客寄せにするのは勧《すす》めないぜ。一週間もすれば、分解して跡形《あとかた》もなくなるはずだからな」
店の中は静かだった。あまりに異様な出来事に呆気《あっけ》にとられているにしても、静か過ぎる。
客たちや店主、店員たちは同じように殷雷たちを見つめ続けていた。
そして、その瞳《ひとみ》からはやがて焦点《しょうてん》が消えていった。
和穂の背筋《せすじ》を冷《ひ》や汗《あせ》がったう。
「まさか、店の中の人が全員」
殷雷は塁摩の頭を撫《な》でた。
「さすがは兵器の宝貝。俺や恵潤より、お前の読みの方が鋭《するど》かったな。
だがな、塁摩。瞬時《しゅんじ》の判断は武器の方が鋭いんだぜ」
「でしょうね」
ユラリと、客たちが立ち上がった。一斉《いっせい》に引かれた椅子《いす》が地響《じひび》きのような音を立てる。
殷雷は顎を撫でつつ言った。
「これは厄介《やっかい》だな。いちいち妖怪《ようかい》を引きずり出すのも、一人じゃ手間だ」
箸《はし》を振《ふ》り回して塁摩は言った。
「あ、私も手伝う!」
「やかましい。力ずくで済むなら、片《かた》っ端《ぱし》から切り捨てりゃいい。だが、そうもいくまいな。
ここは、さっさと逃《に》げちまおう」
和穂は首を横に振った。
「でも、塁摩の推測《すいそく》が本当ならば……」
虚《うつ》ろな人間たちは、同時に同じ言葉を発した。
「そうだ。簡単に逃がしはしないぞ。
殷雷|刀《とう》は貴様《きさま》か。悪いが貴様の命、貰《もら》い受けるぞ!」
鼻で笑い、殷雷は卓《たく》に立て掛《か》けた棍《こん》を手にした。
「おやおや、狙《ねら》いは和穂じゃなくて俺か? こいつは事情がありそうだな」
異様だが、勝負の形としては単純だ。
殷雷は人間たちの影《かげ》を見て、そう判断していた。
影は、店の中の明かりには従《したが》っていなかった。光源を無視した影が、店の一点に集中して伸《の》びているのだ。
答えは単純。客たちを操《あやつ》っている相手が、その集中した影の中にいるはずだ。
そして、敵も馬鹿ではない。食事を通じて客たちに妖怪を仕込《しこ》んだが、和穂には同じ手を使っていない。
もし、そうすれば和穂が妖怪を食う前に殷雷が勘《かん》づくと判断しているからだ。
集中する影の中に敵がいると、殷雷が気付いているのも先方は承知《しょうち》だ。簡単に影に近づけないように客を配置していやがる。と、殷雷は考えた。
今の所、手は二つ。
敵を倒《たお》すか、さっさと逃げるか。倒すのは厄介《やっかい》そうだが、逃げるのは簡単だ。逃走《とうそう》経路にいる客は、せいぜい二、三人しかいない。
和穂を抱《かか》えて逃げれば、簡単だ。
だが、問題は敵もそれを承知しているという事だ。
客たちは、ゆっくりと側《そば》にいる別の客の首に手を掛《か》けた。
他人の首を握《にぎ》り、他人に首を握られつつ、客たちは言った。
「逃亡《とうぼう》は許《ゆる》さん。人質がこれだけいるんだからな」
はい、よく出来ました。心の中で殷雷は舌打ちした。この場で、相手にとれる最善手《さいぜんしゅ》は人質だ。
殷雷は棍《こん》を床《ゆか》に捨て、両手を上げた。
「ほらよ。逃げはしないぜ」
次に敵がどうでるかが勝負だ。絞殺《こうさつ》で瞬時《しゅんじ》に人を殺すのは不可能だ。
速攻《そっこう》で、敵を倒せば、こちらの勝ち。
視線を交《か》わすまでもなく、恵潤が俺の狙《ねら》いを理解していると殷雷は確信していた。
このまま、俺が捨て身でとにかく、影《かげ》の中心に突《つ》っ込む。
恵潤は、同時に和穂を掴《つか》み、同じく影の中心へとブン投げる。和穂に俺を使わせ、影の中心に攻撃《こうげき》を仕掛ける。
それが殷雷の狙いだった。
手を上げた殷雷は言った。
「さあ、どうすりゃいい?」
「抵抗《ていこう》をやめるのは、いい心掛けだ。
まずはその命、静嵐大帝《せいらんたいてい》に捧《ささ》げてもらおうか」
殷雷と恵潤の髪《かみ》の毛がピクッと動く。
殷雷と恵潤は、静嵐の名を知っていた。
「静嵐だと!」
と、その時。何者かが店の中に現れた。あまりに静かな出現だった。店の壁を何事もないようにすり抜けながら現れたのだ。
客たちの布陣《ふじん》は、殷雷たちに向けられていたもので、唐突《とうとつ》に現れた襲撃者《しゅうげきしゃ》には全《まった》く対応出来ていなかった。立ちつくす客たちの肉体すら、襲撃者はすり抜けていく。幽鬼や幻《まぼろし》にしては、あまりにもハッキリとした姿をしている。
襲撃者は、事もなく影の中心に立っていた。
虚《うつ》ろな客たちに、僅《わず》かな驚《おどろ》きの表情が浮《う》かんだ。それは、客たちを操《あやつ》るものの驚きのせいであった。
影の中心に立っているのは、一人の青年だった。殷雷より一回りほど体格は大きく、片手には旗《はた》を持っていた。
一枚の布を竿《さお》に付けた旗ではない。
細長く、色々な文字の書かれた無数の布切れを竿につけた旗だ。
細い布切れはそれぞれ鮮《あざ》やかな色をしている。
和穂は本能的に索具輪《さくぐりん》を作動させた。男の旗からは、宝貝《ぱおぺい》の反応がした。
「あ、あの旗は宝貝!」
和穂の言葉に、初めて男は和穂たちの存在に気付いたようだった。
男はゆっくりと和穂たちに顔を向けた。
その顔には虎《とら》を思わせる、無数の黒い縞《しま》が浮かんでいた。
男は高らかに笑い、影に向かい叫《さけ》んだ。
「はっはっは。ついに追い詰《つ》めたぞ、狐《きつね》め。もはや逃《に》げられはせんぞ!」
言葉通り、影《かげ》の中から一|匹《ぴき》の狐が浮かび上がった。
ごく普通《ふつう》の狐に見えたが、無数の尻尾《しっぽ》が生えている。長くしなやかな尻尾がそれぞれの客たちの足元に伸《の》びている。無数の尻尾より、獣にしては豊か過ぎる狐の表情が異様だった。
影と見えたのは、尻尾だったのだ。
和穂は、最初の男の口から出たのも、この狐の尻尾だと知った。
狐と、客たちは同時に言った。
「ひ、豹絶《ひょうぜつ》! まだらの豹絶!」
豹絶と呼ばれた青年は、とてつもなく楽しそうに笑う。
「ふっははっ。逃がしゃしねえぜ、こう見えても鼻が利《き》くんでね。お前の臭《にお》いを手繰《たぐ》らせてもらった。
ま、悪さをする前に追い詰められて良かった。
では早速《さっそく》だが、消滅《しょうめつ》してもらうぞ」
それは、戦いにおいて全《まった》くの素人《しろうと》である和穂の目から見ても、しなやかな動きだった。
風が吹《ふ》き、水が流れるような滑《なめ》らかな動きで、豹絶は旗を振《ふ》りかぶった。
そして、迷《まよ》いもなく一瞬《いっしゅん》で旗の柄《え》を狐に突《つ》き刺《さ》した。
「お、おのれ! だが、最後に笑うのは静嵐大帝だ、貴様に勝利はない!」
旗に突き刺され、命を奪《うば》われたのとは少し様子が違《ちが》っていた。
まるで、旗のせいで存在する為《ため》の拠《よ》り所《どころ》を失ったような感じだった。
少しの墨汁《ぼくじゅう》に、大量の水を浴《あ》びせたかのように、つむじ風が己《おのれ》の中心を失い消滅するかのように、狐の姿はかき消えた。
途端《とたん》に、客たちはばったりと床《ゆか》に倒《たお》れこんだ。
殷雷の緊張《きんちょう》はまだ解けていない。
それどころか、狐《きつね》と相対した時よりも真剣《しんけん》さが漲《みなぎ》っていた。
豹絶は床に刺さった旗を、引き抜《ぬ》いた。
男の手にあるのは、宝貝。殷雷はそれを奪《うば》う必要があった。
だが、相手からは得体《えたい》の知れない強さが感じとれる。小細工を使う相手ならば、仕切り直しも有効だろう。
が、この相手に仕切り直しは何の意味もない。今勝てないのなら、後でも勝てるはずがないのだ。
殷雷の緊張を見ながら、豹絶は言った。
「どうやら、あんたが殷雷刀らしいな」
「そうだ」
「て、事は俺の制流旗《せいりゅうき》が欲《ほ》しいわけだ」
「そうだ」
「でも、俺は制流旗を渡《わた》したくない」
「なら、戦うまでだ」
「そう、焦《あせ》りなさんな。俺はあんたと、無理に戦うつもりはない。ちょっと面白《おもしろ》い事件が起きてるんだ。力を借りたい。
事件が解決したら、制流旗は返す。それどころか、俺以外にも多くの連中が返してくれると思うぜ」
しばし考え、殷雷は椅子《いす》に座《すわ》った。
「いいだろ。話を聞かせてくれ」
豹絶が卓《たく》に近寄った、その時、彼の服の懐《ふところ》から一|匹《ぴき》の猫《ねこ》が顔を出した。赤い毛と黒い毛が入り混じる、奇妙な猫であったが、色以外はごく普通の鯖虎縞《さばとらじま》の猫だ。先刻の狐のような、凶々《まがまが》しさはない。
凄味《すごみ》のある声で、豹絶は言った。
「おお、すまなかったねえ、彩朱《さいしゅ》。ちょっと暴れたから、痛かったかなあ?」
殷雷の顔が大きく引きつった。
豹絶という得体の知れぬ使い手は、猫好きときやがったか。肌身離さず懐に猫を忍《しの》ばせている感覚は理解しがたかった。
「あ、猫だ猫だ」
塁摩がはしゃいだ声を上げるのを見て、豹絶は懐から猫を取り出し、塁摩に預《あず》けた。
殷雷の露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔を見て、豹絶は少し慌《あわ》てながら説明した。
「勘違《かんちが》いするなよ、兄ちゃん。
俺にとって、彩朱は只《ただ》の猫とは訳《わけ》が違《ちが》うんだ!」
冗談抜《じょうだんぬ》きに、殷雷は頭痛《ずつう》を覚《おぼ》えた。
「うちの彩朱ちゃんは、この世の中で一番|可愛《かわい》い猫でちゅからねえ、とでもほざきたいかこのスットコドッコイ!」
ぶんぶんと豹絶は首を横に振《ふ》った。
「違う。俺は彩朱を愛しているのだ!」
「か、勘弁《かんべん》してくれ!」
黙《だま》って、状況《じょうきょう》を見守っていた恵潤であったが、半《なか》ば呆《あき》れて和穂に言った。
「よくもまあ、次から次へと訳《わけ》の判《わか》らないのが出てくるもんね。
和穂。あんたの苦労にゃ同情するよ」
頭をかきながら、和穂は笑い、軽く冗談を飛ばす。
「はっはっは。もっとややこしくなったりして」
恵潤は真顔になった。
「そういうのは、冗談でも言わない方がいいわよ」
と、その時。
窓枠《まどわく》を破《やぶ》って、一人の男が店の中に転げ込んだ。
片手に、緑色に点滅《てんめつ》する刃《やいば》の矛《ほこ》を持った男だ。
男は豹絶の姿を見て叫《さけ》ぶ。
「よし! ついに見つけたぞ豹絶。今度こそ貴様を仕留《しと》めてやるからな!」
和穂は親指を折り曲げた。
「まず、殷雷を狙《ねら》った狐《きつね》でしょ」
続いて人差し指も折る。
「次に狐を狙った豹絶さんでしょ」
当然、次は中指を折り曲げた。
「で、豹絶さんを狙う、あの人が来た」
豹絶は溜め息をついて、言った。
「あいつは、願月《がんげつ》。あいつの持ってる矛も一応、宝貝だぜ。
ところで、殷雷の兄ちゃんよ。俺は落ち着いて話をしたいんだ。
願月をしばき倒《たお》してくるから、ちょっと待っててくれ」
殷雷はジロリと願月を見て、立ち上がった。
「俺も手伝おう」
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第二章『混沌《こんとん》の大帝《たいてい》』
カラカラと小川の上の水車は回っていました。
川を流れる真《ま》っ赤《か》な紅葉《もみじ》が水車に巻き込まれていきました。
小川の側《そば》には、丘がありました。
旗《はた》を持った男は言いました。
「これで、全《すべ》ては終わる。貴様を倒《たお》して、この永《なが》き戦いに終止符《しゅうしふ》をうつ」
煙管《きせる》を持った男は言いました。
「これで、全ては終わる。貴様はもう逃《に》げられない。
その傷では、もう一歩も逃げられまい。ここから一歩でも動くことは叶《かな》わぬのだ」
横笛《よこぶえ》を持った男は言いました。
「これで全ては終わる。もはやその手傷では何も出来まい。
ここからは一歩も動けず、過去へも未来にも跳《と》べまい。
貴様の肉体は、この場所、この時代から逃げる事は出来ぬ」
煙管を持った男は言いました。
「貴様は善でも悪でもない。貴様を悪に祭り上げて打ち倒すつもりはない。
貴様は善でも悪でもない。我等《われら》、人とは相入れぬ『敵』であった。
故《ゆえ》に滅《ほろ》ぼす。我等|同胞《どうほう》の命を滅ぼしたのと同じように、我等は貴様を滅ぼす」
矛《ほこ》を持った男は言いました。
「これで、全ては終わる。我《わ》が血族は貴様を滅ぼす為《ため》にこの世に存在したのだ。
我が血族《けつぞく》こそが、貴様にとっての絶望《ぜつぼう》であったのだ。ついに一人となり果てた我が血族である。
血族は絶えても、我には仲間がいた。仲間の協力を得て、今貴様を滅ぼす」
鍬《くわ》を持った男は言いました。
「これで、全ては終わる。我等の命は、貴様の為にではなく、我等の為に栄《さか》えるのだ」
刀《かたな》を持った娘《むすめ》は言いました。
「これで全ては終わる。
我等の涙《なみだ》は、我等の業《ごう》によってのみ流される。貴様の為に流される涙は、もう一粒《ひとつぶ》たりともあってはならぬ」
旗《はた》を振《ふ》りながら男は言いました。
「ここは、混沌《こんとん》の過ぎ去りし、人の世界。貴様が存在してはならぬ世界」
バサバサ、バサバサと旗は鳴りました。
旗の音に合わせて、横笛《よこぶえ》が鳴りました。
煙管《きせる》からは、霞《かすみ》のように虚《うつ》ろな煙《けむり》が吐《は》き出されました。
大きく矛を構え、男は言いました。
「さあ、全ては終わる」
矛はズブリと、地面に横たわるものの、胸《むね》を刺《さ》し貫《つらぬ》きました。
地面に横たわるものに痛みはありませんでした。
ただ、矛が自分の命を吸い取っていくのを感じました。
鍬が、地面に横たわるものに振《ふ》り下ろされました。
「さあ、全ては終わる」
鍬は武器ではありませんでしたが、鍬の刃《やいば》は、地面に横たわるものの体を引《ひ》き裂《さ》きました。
幾《いく》つかの刃が、地面に横たわるものの体を傷つけました。武器の刃もあれば、武器以外の刃もありました。
しかし、地面に横たわるものにとって、恐《おそ》ろしかったのは矛と旗でした。矛だけが、確実に命を奪《うば》い、旗だけが彼を消滅《しょうめつ》させられるのです。彼の命が消え去るほどに弱くなった時に、旗は刺されるでしょう。
もはや、体は動きません。あまりにも大きな怪我《けが》を負っていたからです。
傷がある限り、もう一歩も動けないでしょう。傷がある限り、世界の外に出るのも不可能でしょう。傷がある限り、時間の流れを渡るのも無理でしょう。
もう、どこにも逃《に》げ場はないと、地面に横たわるものは、諦《あきら》めかけました。
「ぶぞげあ!」
地面に横たわるものは、大きな声で鳴きました。
次に娘《むすめ》が刀を突《つ》き刺しました。
地面に横たわるものは、叫《さけ》ぶのを止《や》めました。命が尽《つ》きたのではありません。
この傷が癒《い》えるまで、ここから一歩も動けません。そして、誰《だれ》が傷の癒えるのを待ってくれるでしょうか。
しかし、それでも打つ手はあったのです。
自分の体に刀の刃が沈《しず》むのを見て、それは優《やさ》しく微笑《ほほえ》みました。
ぽたぽたと生温《なまあたたか》い雨が天から滴《したた》ってきた。
小高い丘の側《そば》の小川から外《はず》された、水車の上に積《つ》もった雪が、生温かい雨のせいで解《と》けていった。
肌《はだ》を切るような冷たい風と、生温い雨にさらされる感触《かんしょく》は不快《ふかい》極《きわ》まりなかった。
ここは小高い丘の上、一人の男が雨の中、傘《かさ》もささずに佇《たたず》んでいた。
男の名は豹絶《ひょうぜつ》。年の頃《ころ》なら二十二、三の青年だった。だが、背中は力なく猫背《ねこぜ》になり、年相応《としそうおう》の覇気《はき》が全く感じられない。
病的な感じはなかったが、絶望が服を着ているような男だった。
「あああ。なんてこった。とうとう雨まで降ってきちゃったじゃないか。
あああ、もう駄目《だめ》だ。どうせこの雨も尋常《じんじょう》な雨じゃないんだろうな。
春の雨だってもっと冷たいよ。どうしてこんなに温かい雨が真冬に降るんだ?
そうだ、どうせ皆《みんな》死んでしまうんだ。いやだあ、そんなのいやだあ」
豹絶は寝不足《ねぶそく》の時のように腫《は》れた目で、丘の周囲を見回した。特に、眼下に広がる村に注目した。そこには、普段《ふだん》の生活があった。井戸《いど》から水をくむ者、洗濯物《せんたくもの》を干《ほ》す者までいる。
どうやら奇妙《きみょう》な雨は丘の上にだけ降っているらしい。
自分が丘に立っているのを、村の連中には気付かれていないと、豹絶は確信した。
もし、ばれたら、また厄介《やっかい》な羽目《はめ》になる。
雨は、くるぶしの高さぐらいにまで積もっていた純白の雪をドロリと解かす。
解けて水になった雪は、冷たい風を受け氷へと変わろうとする。
空に雲はなく、太陽が照り輝《かがや》いていた。
雨はどこから来たのか? 本当に雨なのだろうか? 雨について、疑問に思わないわけではなかったが、質問した所で何がどう変わるのだと、豹絶は考えた。
何がどう狂っているかは、たいした問題ではない。
何をどうすれば、元に戻《もど》ってくれるかが、大事なのだ。
思案《しあん》する豹絶の服の懐《ふところ》がゴソリと動き、猫《ねこ》の頭が顔を覗《のぞ》かせた。
極端《きょくたん》に熟《じゅく》した葡萄《ぶどう》のような、黒と赤が混じり合った奇妙な毛色をした猫だ。俗《ぞく》にいう鯖虎縞《さばとらじま》をしている。
外の空気を吸えて満足したのか、猫は大きな欠伸《あくび》をした。
豹絶が頭を撫《な》でてやると、猫は目を細めゴロゴロと喉《のど》を鳴らす。猫の機嫌《きげん》を確かめてから、豹絶は猫が雨に濡《ぬ》れないように、再び懐の中へ猫を戻す。
再び、思考は同じ所に戻っていく。
何をどうすれば、元に戻ってくれるかが、大事なのだ。どうすれば? どうすれば?
豹絶は一人で言った。
「さあ、彩朱《さいしゅ》。窮屈《きゅうくつ》だろうが、おとなしくしていてくれよ」
絶望という感情をまといながらも、豹絶の心の奥《おく》深くは冷静に状況《じょうきょう》を判断していた。
豹絶の前には巨大《きょだい》な岩があった。
闇《やみ》のような漆黒《しっこく》の、巨大な岩だ。球形ではないが、表面はすべすべしている。
色彩のない宝石《ほうせき》か、複雑な形に固まった黒い氷や結晶《けっしょう》を思わせた。
小器用《こぎよう》な人間ならば、この岩の形を折り紙で再現出来たかもしれない。
複雑ではあるが、組合わさる一つ一つの面は完全な平面であった。
平屋の民家ぐらいの大きさで、岩と地面の間に化け物が挟《はさ》まっている。
化け物は狐《きつね》に似ていた。
黄金色《こがねいろ》の毛皮に覆《おお》われた顔は、まさに狐そのもので、瞳《ひとみ》だけは人間だった。
黒目と白目の割合が人間と同じ。それだけの理由で、化け物は異様な雰囲気《ふんいき》を周囲にばらまいていた。
岩の下敷《したじ》きになり、狐の化け物は首から上しか見えていない。
天から滴《したた》る温かい雨が、仰向《あおむ》けの狐の顔にも落ちていた。
狐の化け物は、頭上に佇《たたず》む豹絶に言った。
「……お前は豹絶なのか?」
食当たりと宿酔《ふつかよ》いが同時に来たような顔をして豹絶は答えた。
「そうだよ。俺が豹絶だ。……どうせ期待外れだったとでも思ってるんだろ。
でも、俺が豹絶なんだよ。うるさいな、ほうっておいてくれよう」
豹絶。この巨岩の封印《ふういん》を施《ほどこ》した男。狐も彼の名前と顔の特徴《とくちょう》は知っていた。
確かにこの男は豹絶の特徴を持っている。だが、こんなに覇気《はき》のない男だったのか? 我等《われら》をこの忌《い》ま忌《い》ましい岩の下に封じ込めたのは、こんなに頼《たよ》りなさそうな男だったのか?
「なあ、豹絶。この岩を、どけてはくれまいか。こんな重い岩の下敷きになっている俺《おれ》の身にもなってくれよ。
そして我等を解放してくれよ。意地を張っても仕方がないだろうに。勘違《かんちが》いしないでくれよな、これは脅迫《きょうはく》なんかじゃない。
俺たちは仲間じゃないか。
なあ、まだらの豹絶よ」
化け物の口調は優《やさ》しく静かだった。が、化け物の言葉を耳にした途端《とたん》、豹絶はさらに暗く落ち込んだ。噛《か》み締《し》めた歯の隙間《すきま》から、辛《かろ》うじて言葉がこぼれる。
「俺はお前らの仲間なんかじゃないぞ。俺はれっきとした人間だ」
化け物は答えた。
「言葉は正しく使うもの。それが『混沌《こんとん》』に対する第一の礼儀《れいぎ》だ。
まだらの豹絶よ。お前は人間か? 正確には『かつては人間であった』か『今でも何割かは人間だ』ではないのか」
「俺は人間なんだってば」
「くっけっけっ。
一応、判《わか》ってはいるのだな、まだらの豹絶よ。
俺は人間だ。と言えても、俺は普通《ふつう》の人間だ。とは言ってないな。よいよい。不正確な事実は、少なくとも嘘《うそ》ではない。
混沌に対する礼儀に反してはおらぬ」
ぼたぼた、ぼたぼたと雨は降る。
豹絶は濡《ぬ》れた狐《きつね》の顔を見下ろした。
「人を迷《まよ》わすのはやめてくれよ、それでなくても落ち込んでいるのに。あんまり怒《おこ》らせるとその首を引っこ抜《ぬ》くぞ」
人の言葉を操《あやつ》るのは、狐の肉体では難《むずか》しいのか、狐の口は柔《やわ》らかいが容易に噛《か》みきれない肉をもてあましているように動いた。
「やりたければどうぞ。
それが意味のある行動ならばな。
豹絶よ。首を落としても意味がないのは承知《しょうち》しているだろ?
普通の人間ならば、俺の首を斬《き》れば退治《たいじ》出来ると考える。
だが、お前はそうは考えない。
この状態の俺から首を落としても、人間が髪《かみ》を切られたようなものだからな。
それが判るのは、お前が俺らに近い証拠《しょうこ》であろう。
なあ、まだらの豹絶よ」
狐は岩と大地の間にいる。
下敷《したじ》きであるのには違《ちが》いない。が、下敷きにされたのではない。
岩と大地の隙間《すきま》からゆっくりと染《し》みだし、結果として下敷きの恰好《かっこう》になっていたのだ。
狐は吠《ほ》えた。
「なんとも忌《い》ま忌《い》ましい封印《ふういん》だ。こんな急場|凌《しの》ぎの封印、時間をかければ簡単に解けるのだぞ」
「お、脅《おど》かさないでくれ。その封印だって、命がけでかけたのに。
簡単に解かれちゃ、ありがたみがなくなるじゃないか」
「……岩は何によって崩壊《ほうかい》するか判《わか》るか? 封印岩であろうがなかろうが、岩を崩壊《ほうかい》させるもっとも有力な手段は何だと思う?」
「火薬か、つるはしかな」
しっとりと、べっとりと、雨が狐《きつね》の毛皮を濡《ぬ》らしていく。犬によく似た平らな肉色の舌を、狐はテロチロと動かした。
「違う。もっとも有効なのは『水』さ。
水に耐《た》えられる岩は、陰陽《おんみょう》五行の法則の前に存在しないんだよ」
豹絶の目に雨が入った。体温に近いせいだろうか、豹絶は自分が涙《なみだ》を流しているような錯覚《さっかく》に陥《おちい》った。
「雨どいの下の石が、雨だれでへこんでいくと言いたいんだね。
それで雨を呼んだのかい? この奇妙《きみょう》な雨で、封印を解くつもりか。でも、悠長《ゆうちょう》な話だね、まあ封印を解くのに雨を使って数百年かかるってんなら、無責任なようだけど、俺には関係ないや。
どうせ寿命《じゅみょう》で死んじゃうんだから」
「それほど悠長な話でもない。ざっと三か月もあれば、この岩は割れる」
豹絶はゆっくりと岩を見た。
岩の表面を、それほど雨水が流れていない気がする。この雨は岩に吸い込まれているのか。
狐の勝《か》ち誇《ほこ》った笑《え》みに、豹絶も笑顔で答えた。
「ならば、雨を呼んでいる、きみの頭を潰《つぶ》す意味が出てきたな」
「生憎《あいにく》、呪文《じゅもん》で雨を呼んでるんじゃないんで頭は無関係だよ」
「?」
「ここからじゃ見えないだろうが、尻尾《しっぽ》も外に出ている。
尻尾の揺《ゆ》さぶりで雨を呼んでる。尻尾のうねりですら術を仕掛《しか》けられるとは、仙術《せんじゅつ》のなんと偉大《いだい》なる事か」
「仙術とはでかく出たねえ。ならば、尻尾を切ってやるよ」
「俺の尻尾を切るのは大仕事だぜ。尻尾は全部で三十二本ある。
岩の隙間《すきま》から出ている三十二本の尻尾をこまめに探すのは骨だぜ。
それに、一本切っても、すぐに別のが別の場所に生えてくる。
判《わか》っただろ。三か月後にこの封印《ふういん》は解かれる。それはもう決まった事だ。誰《だれ》にも覆《くつがえ》せやしないんだ」
この狐《きつね》の本当の姿を豹絶は想像してみた。
頭の側《そば》に体があり、妙《みょう》に長い三十二本の尻尾があちらこちらから、岩の外にはみ出しているのだろうか?
それとも、全く別の化け物なのだろうか?
たまたま、顔だけが狐に類似《るいじ》している化け物なのか?
豹絶はすぐに、狐の姿を知った。
こいつは、ほとんど狐と同じ形をしていて奇妙《きみょう》なのは瞳《ひとみ》と伸縮自在《しんしゅくじざい》の長い尻尾だけだ。
最初の想像でほぼあっているはずだ。
狐の姿を確信する自分自身に、豹絶は嫌悪感《けんおかん》を覚《おぼ》えた。
妖怪《ようかい》、化け物がどんな姿をしているか、本当ならば判るはずがないのだ。
狐に似ているのは顔だけで、胴体《どうたい》は馬《うま》、尻尾は蛇《へび》に似ていても、それは全く不思議ではない。
化け物の姿が予想出来るのは、化け物と同じ感覚を持っているからではないのか?
考えながら、豹絶の額《ひたい》を脂汗《あぶらあせ》が流れ、左|腕《うで》だけに鳥肌《とりはだ》が立った。
自分の想像が外れている事を豹絶は祈《いの》る。
「……岩の下のお前の姿を教えて欲《ほ》しいもんだね」
「けけけ。だったら、この岩をどかしてみればいいじゃないか。
ともあれ、時間は無駄《むだ》にするもんじゃないぞ。
なあ、まだらの豹絶よ」
まだら。まだら。まだら。
狐は自分を動揺《どうよう》させる為《ため》に『まだら』と呼び掛《か》けていると、充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していた豹絶であったが、ついつい言葉に力が漲《みなぎ》った。
「まだらと呼ばないでくれ、これでも気にしているんだ」
逃《のが》さず狐の言葉が食らいつく。
「だって、まだらじゃないか。
その無様《ぶざま》な影《かげ》は一体なんだ?
お前が化け物|扱《あつか》いする俺でも、日の光に晒《さら》されれば、至極《しごく》全《まっと》うな影が出来る。俺の姿にそっくりな完璧《かんぺき》な影だ。
それに比べて、豹絶よ。お前の影の何と無様な姿か!」
「うるさい!」
生温かい雨の中、太陽は輝《かがや》いていた。
当然、豹絶の影も伸《の》びていたが、狐《きつね》の化け物の言葉どおりにそれは、尋常《じんじょう》な影ではなかった。
豹絶の姿から、それほど掛《か》け離《はな》れているのではなかった。大体は豹絶の姿と同じだ。
だが、影はまだらだった。
木漏《こも》れ日のように、豹絶の影の所々《ところどころ》に光の塊《かたまり》が零《こぼ》れている。
もし、そんな影を作ろうと思うのならば、豹絶の全身には無数の風穴が開いている必要がある。
穴だらけの人間の、まだらな影ならば、異様であっても異常ではない。
豹絶の体に風穴は一つもない。
袖《そで》の上から左腕を撫《な》でつつ、豹絶は呼吸を深く吐《つ》く。
豹絶の心を充分|揺《ゆ》さぶったと判断した化け物は、声色《こわいろ》をさらに優《やさ》しい物に変えた。
「さあ、抗《あらが》うな豹絶。我等《われら》の大帝《たいてい》に従《したが》うのだよ。大帝の力を以《もっ》てすれば、お前も普通《ふつう》の人間に戻《もど》れる。
お前の女も元に戻れるんだ。さあ、あのお方に縋《すが》るんだ。そうすれば、苦しみから解放されるのだ」
豹絶は静かに言った。
「俺にも儀堂《ぎどう》のようになれと?」
儀堂。かつての友。そして裏切り者。
「そうだ。儀堂|殿《どの》は貴様より、遥《はる》かに聡明《そうめい》なお方だ。いち早く大帝の偉大《いだい》さを理解なされて、人間でありながら陰陽官《おんみょうかん》の役職につかれたのだ」
「陰陽官って何だよ?」
「大帝は、あまりにも全《すべ》てを超越《ちょうえつ》しておられるのだ。正直《しょうじき》な話、思考の形一つとっても、我等、弱小の鬼怪《きかい》の理解を超《こ》えておられる。
鬼怪と大帝の間に入り、互《たが》いの意志伝達《いしでんたつ》を引き受ける役職だ」
そうさ、儀堂は賢《かしこ》い男だ。そっちに付く方が遥かに得だからな。
だがな。
「するとなにか? お前ら化け物……鬼怪というのか。は、直接大帝の指示を受けているんじゃないのか。
ならば気をつけろよ。大帝の名を借りて、儀堂に利用されるかもしれんぞ?」
「馬鹿め。大帝がそのような行動を許《ゆる》されるはずがない。
豹絶よ。知っているぞ。貴様が我等と敵対して、人の為《ため》に尽《つ》くしているというのに、とうの人間たちは」
「言うな!」
「とうの人間たちは、貴様を我等の同類と考えているではないか。
宝貝《ぱおぺい》の力を借りて、我等を狩《か》ろうとしている村の連中は、貴様も標的にしているのではないか?」
「ああそうだ。そのとおりだ。だが、誤解はいつか解ける」
「甘《あま》いな。俺が狐《きつね》に似た鬼怪であるように、貴様は人に似た鬼怪と思われているのだぞ」
「……万が一、誤解が解けなかったとしてもだ、俺は貴様らの仲間にはならん。
誰《だれ》のせいで、俺がこんな姿になったと思ってる! 全ては静嵐《せいらん》のせいじゃないか!」
静嵐という言葉に、化け物の顔に初めて怒《いか》りが浮《う》かんだ。
「貴様、軽々と大帝の名を口にするな。
しかも呼び捨てにするとは、なんと恐《おそ》れ多い事か!」
「で、結局|偉大《いだい》なる静嵐の下衆野郎《げすやろう》は、一体何を望んでいる? この世の破滅《はめつ》かい?」
「お前は大帝の望みを知っているのではなかったか?」
「信用など出来るか。まあ、嘘《うそ》ではないのかもしれないが、その望みの先を知りたい。
恐れ多い静嵐のなまくら刀が、なんたら刀という刀の破壊《はかい》だけを望むというのか?」
狐はゆっくりと冷静さを取り戻《もど》していた。
「なんたら刀ではない。殷雷刀《いんらいとう》だ。
殷雷刀の破壊が、大帝の唯一《ゆいいつ》の望みと言ってもよい」
「そんな刀を壊《こわ》したところで何になる? 刀を壊せばこの世はどうなる?」
「その答えは大帝の心の中にのみある」
豹絶と狐の間に沈黙《ちんもく》が広がった。
雨の音だけが世界に響《ひび》く。
雨はさらに降り続いていた。狐の言葉が真実ならば、この雨は三か月は降り続けるのだろうか。
豹絶に見下ろされている狐は言った。
「何度もいうが、もはや抵抗《ていこう》は無意味なのだぞ、豹絶よ。
三か月の月日などすぐに過ぎる。今すぐにこの封印《ふういん》を解除してくれれば、お前に大帝は褒美《ほうび》を与《あた》えてくださるかもしれないぞ。
大帝は心の広いお方だ。
封印を施《ほどこ》したお前に対しては怒《いか》りをお持ちであろうが、大帝の強大さを認め、従《したが》うのならば大帝は許してくださるであろう」
「…………」
「くっけっけっ。それとも何か?
封印が切れる三か月の間に、助けが来るとでも信じているのか?
あわや、あと数刻で、岩が消し飛ぶその時に助けが来るとでも?
そんな芝居《しばい》みたいな話があると信じているのか?」
「…………」
「答えろ、豹絶!」
「……そう、都合《つごう》よくはいかないだろうな。封印が解ける寸前に助けが来るなんて、ありえないだろうね」
狐《きつね》は少し疑惑《ぎわく》の表情を浮《う》かべた。
豹絶とまともに口をきいて、まだ一刻も過ぎてはいない。
その短時間の間で豹絶の気迫《きはく》の強さを、狐は感じとっていた。仙術的《せんじゅつてき》な感覚や、化け物独自の習性で気迫を知ったのではない。
狐は豹絶の声で、その魂《たましい》の気迫の強さを確信していたのだ。
男にしてはそれほど低い声ではない。ただとてつもなく深い声だった。巨大《きょだい》な楽器から繰《く》り出される音に似ている。音自体の大きさは普通《ふつう》でも、音の質が普通の物とは完全に違《ちが》う。
頼《たよ》りなさげな風貌《ふうぼう》と、声が全《まった》く一致《いっち》していないのだ。
狐の疑惑をよそに豹絶は、恐《おそ》ろしく深い声で弱音を吐《は》いた。
「判《わか》った。岩の封印《ふういん》を解いてやる。今まで重くて大変だっただろ」
豹絶は右手を軽く上げた。
ゆったりとした袖《そで》の着物が、肘《ひじ》まで軽くめくれ、日に焼けた右|腕《うで》が現れた。
そして、そのまま指を鳴らし、叫《さけ》ぶ。
「よし! もういい制流旗《せいりゅうき》。御苦労《ごくろう》だった。封印を解除してくれ!」
しばしの間。
続いて地響《じひび》きが起き、狐の上の巨大な岩がゆっくりと宙に浮《う》いた。途端《とたん》に今まで漆黒《しっこく》であった岩から色が消え、水晶《すいしょう》のような透明《とうめい》な岩になる。
いや、岩は元々透明であったのだ。
岩の下には岩と同じ大きさをした、黒い物があった。見ただけでは、それが巨大な穴なのか、黒く平らな物かが判断出来ない。
岩の下の狐《きつね》の姿は、豹絶の予想どおりの物だった。黒い円の上を三十二本の尻尾《しっぽ》が四方に広がっていた。その姿は植物の根を思わせる。
尻尾たちは、ひゅるひゅると、音を立てて元の長さに戻《もど》っていく。
透明な岩はさらに上昇《じょうしょう》を続けた。
狐の尻尾はあまりにも多すぎた。ちょこんと座《すわ》る狐と、その背後でのたうつ無数の尻尾が一つに繋《つな》がっているとは、にわかには理解出来ないだろう。
宙に浮かぶ巨大《きょだい》な岩。その下には無数の尻尾をもつ狐が静かに座っている。
狐が持つ人間の瞳《ひとみ》は、油断《ゆだん》なく豹絶を見つめていた。
ざわめきが、岩の下の黒色から響きはじめた。
うわん、うわん。と、奇妙《きみょう》な音だった。小さな小さな虫の羽音が無数に集まった音か、か細い囁《ささや》き声が、数多く集まり発生するざわめきに似ている。
余《あま》りにも岩の動きがゆったりとしていたので、豹絶は右手を下ろした。
「やはり、制流旗に封印《ふういん》の仕事は荷が重すぎたのかな? 動作が遅《おそ》くなってる。
宝貝《ぱおぺい》とはいえ、汎用性《はんようせい》によりかかっちゃいけないのだな」
豹絶が制流旗と呼んだ岩が、空中でゆっくりと分解していった。
岩を作り上げていた全《すべ》ての面が、他の面との接触《せっしょく》を解除したのであった。
がらんどうだった岩は、無数の透明な板に姿を変える。
透明な板を一瞬《いっしゅん》、七色の光が縁取《ふちど》り、続いて板は張りを失いグニャリとなり、代わりに色を得た。
狐の視線を楽しむように、豹絶は呑気《のんき》に言った。それは敗北を認めた男の声には思えなかった。
「ほお、制流旗はああやって変形していたのか。この前は一瞬で変わったからよく判《わか》らなかったんだ」
柔《やわ》らかな板の上に色が乗る。板によって赤やら黄色など色が違《ちが》っていた。
それはもはや、板ではなく布であった。大きな布は小さく裂《さ》け、それぞれが短冊《たんざく》のようになった途端《とたん》、全ての布は豹絶の足元|目掛《めが》けて落下した。
落下の砂ぼこりが消えた頃《ころ》、そこには一竿《ひとさお》の旗《はた》が転《ころ》がっていた。
通常の一枚布の旗ではなく、無数の細布をまとわりつかせた旗だ。
布のそれぞれは、朱色《しゅいろ》や青色などの派手《はで》な色彩《しきさい》であり、一枚ずつ複雑な文字が記《しる》されて
いる。
豹絶はチラリと制流旗を見た。
雨にさらされ、ほんの僅《わず》かだが布がほぐれかけている。宝貝たる制流旗が尋常《じんじょう》な水でほぐれるはずがない。
狐《きつね》の術はやはり有効だったのか。
狐の背後のざわめきがさらに大きくなっていった。
狐は言った。
「何をたくらんでいる?」
「意外と、妖怪《ようかい》というのは慎重《しんちょう》なんだね。いや鬼怪《きかい》だったか。
岩がなくなれば喜んであふれでると思ったのにな」
「何をたくらんでいる、まだらの豹絶!」
黒い円の中の無数の視線を豹絶は感じた。
「狐よ。『芝居《しばい》のように都合よくいかない』って意見には賛成してやるよ。
だからお前も、『芝居のようにそうそう都合の悪い危機が訪《おとず》れやしない』って意見に納得《なっとく》してくれ。
三か月も待つ必要などないんだ」
豹絶は左|袖《そで》を一気にまくった。
腕には虎模様《とらもよう》を思わせる、黒い縞《しま》が浮《う》き出ていた。
その模様が入《い》れ墨《ずみ》ではないのは一目瞭然《いちもくりょうぜん》であった。縞は皮膚《ひふ》をはいずるように刻一刻《こくいっこく》と動き続けていたのだ。
まだらに欠《か》けた影《かげ》を持つ男、豹絶。
欠けた影は豹絶の肉体にこびりついているのだ。
縞は嵐《あらし》の前の雲のように素早《すばや》く無秩序《むちつじょ》に動き、豹絶の掌《てのひら》や爪《つめ》にまで広がっていった。
狐が笑う。
「さあ、どうするつもりだ豹絶、まだらの豹絶、虎噛《とらが》みの豹絶、黒手の豹絶、いいや、化け物の豹絶よ!」
苦悩《くのう》と絶望を友にし、豹絶は笑う。
「とても、怖《こわ》い事をするんだよ」
「だいたい、あんたのせいで、豹絶《ひょうぜつ》を仕留《しと》めそこねたのよ!」
「目茶苦茶《めちゃくちゃ》な事を言うな! 俺《おれ》と豹絶が戦っている最中に、いきなり現れたのはお前じゃないか! そのせいで、俺は豹絶に負けたようなもんだ!」
男と女は言い争っていた。
小麦粉《こむぎこ》を詰《つ》め込んだ袋《ふくろ》が、山積みにされている倉庫の中に、男と女は閉じ込められていた。
そんなに頑丈《がんじょう》な倉庫ではない。鍵《かぎ》が掛《か》かっていたとしても、充分《じゅうぶん》に蹴破《けやぶ》るのは可能だっただろう。
だが、男と女は互《たが》いに背中を向けたまま、縄《なわ》で縛《しば》りつけられていたのだった。
足は自由に動くのだが、立ち上がる事すらままならなかった。
女は背後の男の、煙草《たばこ》の臭《にお》いが嫌《きら》いであり、男は背中の女の化粧《けしょう》の臭いにめまいがしていた。
もう少し、互いに協力《きょうりょく》すれば背中向けのままで立ち上がれたかもしれないが、二人は相手の素性《すじょう》を全《まった》く知らず、警戒心《けいかいしん》を解くわけにはいかなかった。
女は言った。
「何が、豹絶と戦っていた、よ。私が来た時にはどうみても劣勢《れっせい》だったわ」
女の言葉がぐさりと男の胸《むね》に刺《さ》さる。
「た、確かにそうかもしれなかったけど、勝負はついちゃいなかったんだ。それをお前が」
いい加減《かげん》怒鳴《どな》るのにも疲《つか》れたので、女は優《やさ》しい声で、男の後頭部《こうとうぶ》に自分の後頭部をぶつけながら言った。
「あんたに、お前呼ばわりされたくなんかないわよ!」
それをいうなら、俺《おれ》も、あんた呼ばわりされたくないと思いつつ、男は答えた。
「判《わか》った。俺の名前は願月《がんげつ》。そっちの名前は?」
「……柴陽《さいよう》」
ふてぶてしい態度《たいど》の割には、可愛《かわい》らしい名前じゃないかと、願月は考えた。
こうやって、豹絶にふん縛《じば》られて柴陽と数刻も一緒《いっしょ》にいるが、ろくに顔も見てない事に願月は気がついた。
化粧の臭いが鼻につき、それなりの年齢《ねんれい》の女だと思い込んでいたが、意外に若いのかもしれない。もしかしたら、二十歳《はたち》にもなっていないのか?
願月に悪態《あくたい》をつくのにも飽《あ》きたのか、柴陽の言葉はだんだんと愚痴《ぐち》になっていった。
「本当にもう、訳《わけ》が判《わか》らないんだから。第一どうして、九天象《きゅうてんしょう》の情報とこんなに食い違《ちが》っているのよ!
人を疑《うたが》う事も知らない、田舎者《いなかもの》の宝貝《ぱおぺい》所持者がうようよいるからって、喜《よろこ》んで仕事を引き受けたのに!
あんな豹絶みたいに変なのがいるなんて一言も聞いてなかったわよ!」
「……田舎者|扱《あつか》いとは酷《ひど》いな」
「一応、確認《かくにん》しておくけどさ、豹絶もあんた……願月もこの村の人なんでしょ?
まさか、この村にある宝貝を狙《ねら》って来た余所《よそ》の人間じゃないんでしょ?」
「まあ、そうだな。
豹絶はここの生まれだ。俺は生まれはここじゃないが、別に宝貝を求めてやって来たわけじゃない」
「じゃあ、どうしてこの村に?」
「……俺は元々《もともと》、武者修行《むしゃしゅぎょう》で放浪《ほうろう》の旅をしていたんだが、この村が気にいったんで、しばらく厄介《やっかい》になっているんだ」
生まれたのがどこであろうと、柴陽には関係がなかった。願月がどこの出身であろうとも、今は村の味方、すなわち柴陽にとって敵に近い存在なのだ。
「そんなに居心地《いごこち》のいい村なのかしらね。
どこにでもある特徴《とくちょう》も何もない村。貧乏《びんぼう》でもなければ、裕福《ゆうふく》でもない」
願月は疑問を覚《おぼ》えた。
「待ってくれよ。間違っても、ここはそんなに裕福な村じゃないぞ。土があんまり良くないんだ」
「知ってるわよ。赤土ばっかしじゃない。
でも、私はこの村の特徴を、そう教えられていたのよ。
場所だって間違いなくここなのに!」
「教えられたって、誰《だれ》に?」
「そりゃ、軒轅《けんえん》の……」
はずみで口を滑《すべ》らしそうになり、柴陽は慌《あわ》てて言葉を呑《の》み込んだ。今、素性《すじょう》がばれてしまえば厄介な事になるかもしれない。
頼《たの》みの綱《つな》である彼女の宝貝、恐波足《きょうはそく》は豹絶に奪《うば》われてしまっているのだ。
柴陽は会話を誤魔化《ごまか》す。
床《ゆか》には一本の矛《ほこ》が転がっていた。槍《やり》よりも平らな刃《やいば》を持った矛だ。朱塗《しゅぬ》りの長い柄《つか》のどこにでもありそうな矛であったが、ただ一つだけ刃の輝《かがや》きは尋常《じんじょう》ではなかった。
薄暗《うすぐら》い倉庫の中で、蛍《ほたる》のようなうっすらとした緑色が浮《う》かび上がっている。
その矛を顎《あご》で差し、柴陽は願月に問い掛《か》けた。
「それより、あれも宝貝なんでしょ?」
顎で差されても、柴陽の後ろの靡月には見えていなかったが、女が何を示しているのかは判《わか》った。
「あぁそうだ。俺の宝貝、怪吸矛《かいきゅうぼう》だ」
柴陽はつまらなさそうに言った。
「どうせ、たいした宝貝じゃないんでしょ」
「なんだと!」
「だって、そうじゃない。
豹絶は、私の宝貝、恐波足は持っていったのに、願月の怪吸矛は置いていったのよ。
名前はご大層《たいそう》だけど、どうせたいした宝貝じゃないからよ。豹絶にとっては役に立たないのよ」
「なんてことを言いやがる。そりゃまあ、怪吸矛は使用者の能力を引き上げたりはしないが、それでも」
「いいわよ。聞きたくもない」
「豹絶が怪吸矛を置いていったのは、あいつは既《すで》に武器として使える宝貝を持ってるからであって」
「だから、説明はいいって。
それより、一番|不思議《ふしぎ》なのは、どうして豹絶と願月が戦っていたのよ? 何か理由があるんでしょ。
仲間だ、どうだ、なんてどうでもいいけどさ。争《あらそ》う理由が知りたいの」
この質問に、珍《めずら》しく願月はすぐに返事をしなかった。
願月の背中が、わずかに緊張《きんちょう》したのを柴陽は感じとる。同じ村の人間が戦うのにはやはりどうしようもない理由があるのだろう。
豹絶、願月、そして自分の三つ巴《どもえ》の戦いを柴陽は思い出していた。願月に比《くら》べて、豹絶の強さは宝貝の強さというより、豹絶自体に尋常《じんじょう》ならざる能力があったように思えた。
そこらへんに理由があるのか。
願月が答えないので、柴陽は言葉を続けて言った。
「別に答えなくてもいいわよ」
「……さっきから、こっちの事を根掘《ねほ》り葉掘り聞いてるが、俺としちゃ、そっちの正体が気になってるんだぜ」
願月は基本的に善人《ぜんにん》だと、柴陽は嗅《か》ぎとっていた。
豹絶と願月は知り合いであり、その知り合いと戦うにはそれなりの理由がある。本人が戦いを望んでいないのは、今までの態度《たいど》で明らかだ。願月は豹絶と戦う事に悩《なや》みを持っている。
悪人ならば悩《なや》みはしない。悩まずに迷《まよ》うだけだ。
なぜなら、悪人は、自分が成さなければならない事と、自分の望《のぞ》む事が常に同一だからだ。
善人だけが、時に成さなければならない事と、自分の望む事に矛盾《むじゅん》を抱《かか》え込む。
これ以上相手を探《さぐ》るには、自分の素性《すじょう》も話さなければならなくなるだろう。
その危険を冒《おか》す訳《わけ》にはいかなかった。
「私の正体なんか、知ってもどうにもならないわよ」
「誤魔化《ごまか》すなよ」
「……いい? 今は、この倉庫から脱出《だっしゅつ》するのが、一番大事な事でしょ?」
深く深く、女は考えた。もし、この縄《なわ》が解《ほど》け、怪吸矛を自分の手に取り戻《もど》しても、願月は矛《ほこ》を突《つ》きつけて私の素性を白状《はくじょう》させはしないだろう。
善人であり、甘《あま》い男だ。それに、どことなくボヤッとした部分がある。
だが、それでも縄から抜《ぬ》け出して、なおかつ怪吸矛を奪《うば》うのはいくらなんでも不可能だろう。
もし、そんな素振《そぶ》りを見せれば、いかに甘い男でも私に矛を突きつけるはずだ。
今はこの倉庫から逃《に》げるだけで、満足しなくてはいけない。
「ねえ、願月。あの怪吸矛は動かせるの?」
「……命令すれば、飛んでくる」
「! そんな能力があるなら、さっさと縄を切りなさいよ!」
「……投擲《とうてき》用の槍《やり》じゃなくて、矛だからな。触《ふ》れずに飛ばすなんてのは、オマケの能力でしかない。
だから、狙《ねら》いがちょっと甘いんだ。さすがに使用者たる俺に刃《やいば》が当たる事はないだろうが、柴陽よ。縄を切るつもりが、あんたごとぶったぎる可能性が無い訳じゃない。
それでも良いというんなら」
「いいわけないでしょ!」
「判《わか》ってる。だから、こうしよう。
怪吸矛! 射出《しゃしゅつ》準備!」
途端《とたん》、地面に転がっていた怪吸矛はユラリと宙《ちゅう》に浮《う》かんだ。
地面に平行になり、人間の腰《こし》の位置ぐらいでピタリと止まる。呼吸をするように、刃の緑色の光が僅《わず》かに明滅《めいめつ》している。
「この準備の態勢のまま怪吸矛を固定させておいて、こっちから動いて縄を刃にこすりつけて、切ろう。それが一番確実だろ」
「判った。それじゃ、どうにかして立ち上がった方がいいね。
よし、私は膝《ひざ》を胸《むね》に付けて、丸くなるからさ、願月は私を背負《せお》って立ち上がって。
立ったら私は足を伸《の》ばす。これなら、どうにか立てるでしょ?」
「うむ」
早速《さっそく》、柴陽の指示通りに願月は動いた。手足をまるめた柴陽を、まるで薪《たきぎ》の束《たば》を背負いながら立ち上がるように、願月は動く。
「いいわよ、その調子!」
が、意外に体力がないのか、そのままフラフラとよろめいた。
「!」
叫《さけ》ぶ間もなく、願月は小麦粉の袋《ふくろ》の上に見事に転び、その弾《はず》みで袋は破れ、柴陽は粉まみれになった。
「……油断したわ。武者修行《むしゃしゅぎょう》やなんかだって言ってたから一応、武人だと思っていたのに何よその力のなさ!」
「す、すまん。どうも最近、体力が衰《おとろ》えてきてな」
「それじゃ、豹絶に負けて当然よね」
「なんだと!」
「だってそうでしょ!」
かくて幾度《いくど》となく繰《く》り返された、背後の相手への罵倒《ばとう》が始まった。
しばしの間。
「あまりにも不毛《ふもう》ね。ともかくもう一度、やってみて頂戴《ちょうだい》よ。
ともかく、あんたが立ち上がってくれればどうにかなるんだから!」
そして、数度の挑戦《ちょうせん》の後、ついに願月と柴陽は立ち上がる事に成功した。
一度立ち上がりさえすれば、縄《なわ》を切るのはそれほど難《むずか》しくなかった。
怪吸矛で切れ目を入れ、後は力任《ちからまか》せにもがくだけで、縄は呆気《あっけ》なく解《ほど》けた。
跡《あと》がついてるんじゃないかと、柴陽は腕《うで》をさすったが、軽く赤くなっているだけで内出血はしていないようだった。
怪吸矛を拾う願月を横目で見ながら、柴陽は言った。
「ねえ、これからまた、豹絶を追うんでしょ? 一緒《いっしょ》に行きましょうよ」
当然、願月も豹絶を追い掛《か》けると思っていた柴陽であったが、男は首を横に振《ふ》った。
「いや。とりあえずの目的は、倉庫の中に潜《ひそ》んでいる豹絶を倒《たお》すという、指令だった。
失敗したからには、さらに指示を仰《あお》がなければならない。
豹絶を仕留《しと》め損《そこ》なった報告をしに、俺は環樹老《かんじゅろう》の所に戻《もど》る」
環樹老。またしても、柴陽の知らない言葉が出てきた。その人物の指図《さしず》で、願月は豹絶を狙《ねら》っているのか?
ともかく、この倉庫で無駄《むだ》に過ごした時間が長すぎる。柴陽は、この村の素性《すじょう》を調べるよりも豹絶を追う方を優先したかった。
「なによ、豹絶を仕留めたら失敗の報告なんかしなくてすむんでしょ?
だったら、一緒に豹絶を追おうよ」
「いや、駄目だ。深追いは厳禁だと注意されている」
ふん。と柴陽は鼻を鳴らした。
環樹老だかなんだか知らないが、命令で動いているだけの男だったのか。命令で嫌々《いやいや》ながら豹絶と戦っていたのか。
善人だ悪人だという次元の話ではなかったのだ。その環樹老とかいう奴《やつ》が怖《こわ》くて、その指示に逆らえないだけの男だったのだ。
柴陽は、願月を見損《みそこ》なった。
納得《なっとく》出来ない指図に従うような人間は、柴陽は嫌《きら》いだった。
「そう。ならば好きにしたら。
私は豹絶を追って、恐波足を取り返すからね!」
倉庫の扉《とびら》を蹴破《けやぶ》りながら走り出す柴陽の背中に向けて、願月は叫《さけ》ぶ。
「待て、豹絶に関《かか》わるのは危険過ぎるぞ!」
こんな言葉で考えを変えるような女ではないのは、願月にも判《わか》っていた。
願月はしばし悩《なや》む。
柴陽と共に豹絶を追うか、このまま環樹老のもとに戻るか。
怪吸矛を大きく振《ふ》り回し、願月は迷《まよ》いを断《た》った。
今は環樹老への報告が、最優先されるべきだ。
豹絶に関わるのは危険過ぎる。
願月は柴陽に言った言葉を深く考えた。
言葉に嘘《うそ》はない。だが、豹絶が危険なのではなく豹絶の周辺が危険過ぎるのだ。
願月は豹絶の命を狙《ねら》っていながら、豹絶という人間を信頼《しんらい》してもいた。
豹絶ならば、柴陽を守ってくれるだろう。
矛《ほこ》を抱《かか》え、願月は環樹老のもとへと駆《か》け出していった。
やっと見つけた井戸《いど》で、小麦粉まみれの顔はなんとかしたが、髪《かみ》を洗う暇《ひま》まではない。なぜ、こんな目に合わねばならぬのだと、柴陽《さいよう》は怒《いか》りを新たにした。
「どこだ、あの縞々《しましま》男め!」
大声で悪態《あくたく》をついてみたが、怒りは全然|収《おさ》まらない。その怒りは、本当は豹絶《ひょうぜつ》ではなく願月《がんげつ》に向けられた怒りでもあった。
「待ってろよ! 宝貝《ぱおぺい》を取り返してくれちゃうからね」
そして、ボタボタと雨が天から滴《したた》り落ちて来た。
柴陽の頭を冷やせるような雨ではなく、人肌《ひとはだ》に近い温い雨だった。
「あぁ、もう本当についてないわね。小麦粉をはたき落としたと思ったら、今度は雨?
いい加減《かげん》にしてよ!」
旅の荷物《にもつ》は、村外れの林の中に隠《かく》してあった。わざわざ、化粧道具《けしょうどうぐ》や着替《きが》えを取りに林に戻《もど》る暇はなさそうだった。
「……なによ、この変な雨は!」
生温かい雨の中、柴陽は周囲を見回した。
願月を怒鳴《どな》りつけて倉庫を飛び出したのはよかったが、一体豹絶はどこにいるのか?
近くに豹絶の姿はない。だが、女はすぐに豹絶の居場所を思いつく。
『奴《やつ》はこの辺りで一番、怪《あや》しい場所にいるはずだ!』
それは、根拠《こんきょ》も何もない直感に過ぎなかった。願月と話す事により柴陽は、余計《よけい》に豹絶の素性《すじょう》を掴《つか》み兼《か》ねていたのだ。
もし、豹絶が他人に害を加える宝貝の使い手ならば、同じ村の願月が豹絶を狙《ねら》ったとしても理解出来る……いや、正確には豹絶を倒《たお》せと環樹《かんじゅ》とかいう爺《じい》さんが願月に命令を下したのも理解出来る。
が、願月は悩《なや》んでいた。ならば、環樹が悪人なのか? それも変だ。
願月は悪人に従うような男じゃない。
無意識の内に願月を弁護しようとする、自分の心に柴陽は余計に腹がたった。
ともかく願月は関係ない。豹絶について考えるのだ。
素性が判《わか》らぬ、怪《あや》しい豹絶。怪しい奴がいるのは、やはり怪しい場所ではないのか?
それは、こじつけでしかなかった。
女が知っている、この付近での怪しい場所は一つしかなかった。
村外れの丘にある、黒い巨岩《きょがん》だ。
これ以上考えても仕方がない。心当たりはそこしかないのだ。
柴陽の勘《かん》は鋭《するど》かったが、それはいささか中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な鋭さだった。
真に鋭い直感を持つのならば、その岩の周囲には近寄らなかったであろう。
柴陽は人影《ひとかげ》を見つけた。巨岩のある丘の上で一人|佇《たたず》んでいるようだ。雪を蹴散《けち》らし女は走る。
人影は間違《まちが》いなく豹絶だった。
最初に出会った時は、ちょいと寡黙《かもく》ないい男と、思っていたが、宝貝をふんだくられ倉庫に閉じ込められ、小麦粉|塗《まみ》れになり雨でずぶ濡《ぬ》れになった今では、無愛想《ぶあいそう》で嫌《いや》な男としか見えなかった。
女の頭の中では全《すべ》てが『豹絶のせい』になっていたのだ。雨が降るのも豹絶のせい、仕事を失敗したのも豹絶のせい。
豹絶の髪《かみ》はそれほど長くはなかった。雨に濡れた髪も、手櫛《てぐし》で椀《す》く程度でいつもの髪型に戻《もど》るだろう。
歯を食い縛《しば》りながら不敵に笑うのが、似合いそうな形のいい頬《ほお》と顎《あご》を持っている。
豹絶を見つけた喜びで、柴陽は肝心《かんじん》な物を見落としていた。丘を登るこの角度で豹絶の横顔を見てとれるのなら、当然巨岩も見えなければならないはずなのだ。
女の瞳《ひとみ》には、豹絶の姿しか映《うつ》っていなかった。巨岩の姿はない。
走りながら柴陽は叫《さけ》ぶ。
「見つけた! 私の宝貝を返しなさいよ!」
豹絶は慌《あわ》てて声がした方角を見る。えっちらおっちら一人の女が丘を登《のぼ》っている。
「あ、昨日《きのう》の女! どうやって抜《ぬ》け出したんだ!」
柴陽は奇妙《きみょう》な違和感《いわかん》を感じた。そう、目の前にいるのは確かに豹絶だ。顔形も昨日と全く一緒《いっしょ》だ。
だが、何かが完全に違う。昨日、豹絶の体からはほとばしるような気迫《きはく》があった。
願月を軽く圧倒《あっとう》していた、あの気迫が今は全く感じられない。
もしも、誰《だれ》かがこの男は豹絶にそっくりの別人だと、力説したなら納得《なっとく》したかもしれない。
昨日の豹絶は背筋《せすじ》のシャンとした、腰《こし》の据《す》わった男だった。
こんな行き倒《だお》れ寸前のような、フラフラの男ではない。
しかし、男は柴陽を見知っているようだ。やはり男は豹絶だ。この数刻に何かあったのだろうか? どちらにしろ、女にとってそれは問題ではなかった。
「うるさい! 宝貝を返せ、この泥棒《どろぼう》!」
「誰が泥棒だ。人の宝貝を狙《ねら》うお前こそが泥棒じゃないか。……いや、そんな事はどうでもいい! ここに来るな、危《あぶ》ないぞ!」
さらに丘を登る女。そうだ、昨日の豹絶と決定的に違《ちが》うのは、顔の入《い》れ墨《ずみ》だ。と柴陽は気づいた。
豹絶の頬《ほお》には、黒い線の入れ墨があった。奇妙な模様の入れ墨が、この男にはない。
が、柴陽は少し考え直した。入れ墨がないから別人というより、昨日の入れ墨が実は入れ墨ではなかったのではないか?
顔料で描《えが》かれた奇妙な模様が、この雨に当たって流れただけなのかもしれない。
「なによそれ、ともかく私の宝貝を返しなさいったら!
軒轅《けんえん》に逆らうとどうなるか、思い知らせてやるからね!」
「軒轅だか何だか知らないけど、ここに来ちゃ駄目《だめ》だ! 化け物に喰《く》われる」
「ほっほっほ。
いうにことかいて、お化けがいるから近寄るなですって? ふん! 逃《に》げようったって無駄《むだ》だからね。だいたい、何が危な……!」
女は丘を登り切った。
広がる視界には、豹絶の姿と黒い円の中の奇妙《きみょう》な狐《きつね》の姿が見えた。
「わ、化け物!」
左|袖《そで》をめくったまま、狐との視線を外さずに、豹絶は女の側《そば》に寄った。
「判《わか》ったら帰るんだ!」
口をパクパクさせて、慌《あわ》てていた柴陽だったがどうにか平静を取り戻《もど》す。
「ほ。ほ。ほ。
ふ、ふざけるんじゃないわよ。豹絶、あんたみたいな迷信《めいしん》に凝《こ》り固《かた》まったような田舎者《いなかもの》ならいざしらず、私は妖怪《ようかい》なんて信じないんだからね」
豹絶と狐は唐突《とうとつ》に現れた第三者の扱《あつか》いを決め兼《か》ねていた。
なぜ、ややこしい時に限って、さらにややこしい奴《やつ》が現れるのだろうかと、豹絶は歯をギッと噛《か》んだ。
「信じる信じないじゃない。そこに妖怪がいるだろ!
あ、本人いわく、鬼怪《きかい》だそうだが」
「お黙《だま》んなさい、田舎者! 私はこう見えても軒轅の幹部なのよ! あんたが知らない知識《ちしき》だっていっぱい持っているんだから!
本来、妖怪というのは天と地、陰《いん》と陽《よう》の淀《よど》みの中に生まれる存在なのよ。
地上に仙人《せんにん》がいた太古の昔なら、いざ知らず、この御時世《ごじせい》に妖怪が存在するわけがないじゃないの!
この世界は堅牢《けんろう》なの! 妖怪が存在出来るような不安定な世界じゃない!」
女のキンキン声に、少しうんざりした豹絶は、少し意地悪《いじわる》く尋《たず》ねた。
「じゃ、きくぞ。
妖怪がいないのなら、そこにいる狐もどきは一体何なんだ? 珍《めずら》しい狐で説明がつくような代物《しろもの》じゃない」
勝ち誇《ほこ》ったように、柴陽は言った。
「決まってるでしょ。
宝貝《ぱおぺい》が化けているのよ。田舎者は知らないかもしれないけど、ある種の宝貝は動物の形をとったりもするんだからね!」
次に口を開いたのは、豹絶でも女でもなかった。
狐は言った。
「とんでもないとんでもない。俺《おれ》は鬼怪なんだってば。
正真正銘《しょうしんしょうめい》の鬼怪だ。宝貝なんかじゃない」
女はかたくなに信用しなかった。
「じゃ、じゃあ宝貝で造られた、妖怪の贋物《にせもの》よ!」
狐は興味深そうに女の顔を見て、説明を始めた。
「妖怪じゃなくて、鬼怪だってば。
少し正解で大きく不正解だな、お嬢《じょう》さん。
知識はそれだけでは善でも悪でもない。知識を統《す》べる知性の輝《かがや》きが鈍《にぶ》いようだね、お嬢さん。
人の世界は堅牢で、妖怪や鬼怪がゴロゴロ存在出来るような脆弱《ぜいじゃく》な世界ではない。これは正解。
俺が妖怪や鬼怪ではない。これは不正解。
導き出される結論は何かな?」
知性の輝きが鈍いと言われた柴陽だが、狐の言葉の意味は正確に理解した。
簡単明瞭《かんたんめいりょう》答えは一つ。
だが、その答えを認めるのはとてつもない恐怖《きょうふ》であった。
ありえない事が、目の前で起きている。それは宝貝のせいだろう。ならば、その宝貝がしでかしたのは……
「そんな馬鹿な!」
狐《きつね》は笑う。
「くっけっけっ。
左様《さよう》。我等《われら》が静嵐大帝《せいらんたいてい》は、宝貝でありなおかつ、この堅牢《けんろう》な世界を破壊《はかい》出来る能力を持つお方。混沌《こんとん》の具現者《ぐげんしゃ》にして、混沌を支配なさるお方だ」
やや錯乱《さくらん》しながら、女は豹絶をポカポカ殴《なぐ》った。
「ちょっと、縞々《しましま》男! あんたもこの狐に何か言い返しなさいよ!」
邪魔者《じゃまもの》と遊ぶ時間はそろそろ終わりだと、豹絶は判断した。
豹絶は柴陽に言った。
「言い返しても仕方がない。
こいつの言ってるのは事実なんだ。
あの黒い円の奥深《おくふか》くには、静嵐がいる」
「あ、あの円? あれって穴か何かなの? 目がチカチカしてよく判《わか》らないわよ!」
「あれは『黒くて丸いもの』。穴といえば穴だし、門といえば門。僕《ぼく》は見た目と広さが釣《つ》り合わない、底無《そこな》し沼《ぬま》のようなものだと理解しているけどね。
あの円の中で静嵐は混沌を解放しているんだ。この鬼怪《きかい》はその先兵さ。
やがて世界は混沌に呑《の》み込まれる。
あああ、やっぱり皆《みんな》死んじゃうんだ」
女の登場に痺《しび》れを切らしたのか、黒い円の縁《ふち》がゆっくりとうねった。
そして漆黒《しっこく》の沼から浮《う》かび上がるように、無数の何かが円から這《は》いずりだした。
びたら、びたらと、それの歩《あゆ》む音がする。
それらは、全《すべ》て豹絶の挙動《きょどう》に注目を続けている。
それらを見て、柴陽の顔からは血の気が引いた。
ドロドログチャグチャの化け物が這《は》い寄《よ》る恐怖《きょうふ》ではない。
それらは醜《みにく》い化け物ではなく、純粋《じゅんすい》に彼女の知らない生き物だったのだ。
醜い鳥、醜い魚、醜い人間というチャチな言葉で表現は不可能だ。
いかなる空想《くうそう》上の化け物でも、所詮《しょせん》は実在のものを組み合わせたにすぎないと、柴陽は思い知った。
「あ。あ。あ」
この恐怖は光を知らぬ者が初めて見た光、闇《やみ》を知らぬ者が初めて見た闇、に覚《おぼ》える感情に匹敵《ひってき》するのか。
幾《いく》つかの単語が柴陽の頭を堂々巡《どうどうめぐ》りのように駆《か》けていった。
『魚』『獣《けもの》』『鳥』『龍《りゅう》』『花』『虫』
何故《なぜ》、そんな単語が頭を飛び交《か》うのか? 自分の考えを理解するのに、柴陽はしばし時間がかかったが、どうにか答えを見つけた。
その単語は彼女の知る生き物の形だった。
龍は、蛇《へび》やイモリやヤモリの類《たぐい》を示している。
黒い円から現れたそれらに、どれを当てはめるか決め兼《か》ねているので、頭の中を単語が巡っているのだ。
決められない、決められない、決められるはずがない。決めない限りは永久に単語が回り続ける。それが狂気以外の何というのか?
錯乱《さくらん》する意識の中で、柴陽は狂気から逃《のが》れる術《すべ》を発見した。
簡単だ、知らないのなら、新しく名前を付ければいいのだ。
狐《きつね》の真後ろで私を見ている、アレは『井《い》』と名付けよう、井の隣《となり》にいるのは『正』だ正の隣にいるのは……
ぶつくさと意味のない言葉を吐《は》き続ける柴陽の肩《かた》を、豹絶は右手一つで揺《ゆ》さぶった。
「しっかりしてくれ!」
「だから、あれは井でこっちが正、その上にいるのが月で……あぁ、違《ちが》う、あれは全然《ぜんぜん》月には似ていない!」
豹絶は怒鳴《どな》る。
「考えては駄目《だめ》だ! あれは思考の外にいる存在。どれも『化け物』の一言で片づけたらいいんだ!」
怒鳴り声で、柴陽は少し正気に戻《もど》る。
井や正、いや化け物たちの名前よりも、この化け物たちをどうすればいいのだろうか。
この混沌の円から無数の化け物が溢《あふ》れ出したらこの世界はどうなるのか。
「ちょっと、どうにかしなさいよ! あんたの縞々《しましま》でどうにか出来るんでしょ? 私から宝貝を奪《うば》った時みたいに、縞々を使いなさいよ!」
「人を仙人《せんにん》みたいにいわないでくれ。願月をしばき倒《たお》して、こそどろを捕《つか》まえるぐらいの役には立つが、こんな化け物は手に負《お》えないんだ」
化け物たちは、豹絶の動きから目を離《はな》そうとはしていない。それは高度な知性が導《みちび》く警戒《けいかい》なのか、純粋《じゅんすい》な野性が訴《うった》える警戒なのか、豹絶にも柴陽にも判《わか》りはしなかった。
狐が言った。
「さあ、どうするんだ豹絶?」
女は豹絶の背中にしがみつく。豹絶だけが頼《たよ》りというよりは、喰《く》うのならこの男から先に喰え、というしがみつき方だった。
無駄話《むだばなし》のせいで、黒い円からはかなりの化け物が這《は》いずり出ていた。
豹絶はもう一度、左|腕《うで》を自分の目の高さにまでかかげた。
しゅるり、しゅるりと左腕の縞と縞の隙間《すきま》が小さくなり、縞々の腕は、黒色の腕となった。
それは、闇《やみ》と同じく、色としての黒よりも光がないがゆえの黒色だった。
豹絶は己《おのれ》の左腕に自分の右手を差し込んでいく。
「どうだ? 底無し沼《ぬま》みたいだろ?」
右手は左腕の中に沈《しず》んでいく。手首から先は完全に左腕の中だが、左腕に変化はない。
右手の形をした、でっぱりもなければ、細かい変化も全くない。
しがみつく女は、豹絶の肩《かた》からこの異様な光景を覗《のぞ》き見ていた。
「あ、あ、あ、あんた、もしかしてこいつらと同類なんじゃないの!」
「あああ、気にしているのに! そんなこというな!」
豹絶の右腕が、緊張《きんちょう》に強張《こわば》った。
今さら何に緊張しているかと、柴陽は一瞬《いっしゅん》疑問《ぎもん》を覚《おぼ》えたが、その緊張は心理的なものではないと判断した。
右手の緊張は右手が何かを掴《つか》んだせいだ。
何かをしっかり掴み、右手が左腕の中からゆっくりと姿を現す。
狐はそれを見て、絶句《ぜっく》した。
絶句の後には大きな笑い声が、狐の口から弾《はじ》けた。
「そ、それで我等《われら》に対抗《たいこう》するつもりか? 我等を雀《すずめ》と勘違《かんちが》いしているのか?」
豹絶の出方に注意を向けていた化け物たちの動きも変わった。
奥《おく》の手がある間は、相手を警戒《けいかい》する必要はある。だが、その奥の手がつまらないものであれば、警戒する必要はない。
それどころか、つまらぬ脅《おど》しをかけていた相手を真先に標的にしようと考えるのが普通《ふつう》だろう。
豹絶が己《おのれ》の左|腕《うで》の中から取り出したのは、ひとつの案山子《かかし》だった。
豹絶の背丈《せたけ》と同じぐらいの竹の棒が、垂直に立ち、その棒の先端《せんたん》には藁《わら》を詰《つ》めた丸い布がついている。
布には落書きのような人の顔が描《えが》かれていて、大きさも人間の顔と同じぐらいだ。
横棒が縦棒と直角に交《まじ》わり腕を表現していて、横棒の先には煤《すす》けて黒ずんだ手袋《てぶくろ》が結び付けられていた。
竹も青々しいものではなく、枯《か》れたような黄褐色《おうかっしょく》で艶《つや》もない。
あまりにもなんの変哲《へんてつ》もない案山子だ。顔の布や手袋には所々穴があき、詰められている藁がのぞいている。
これだけの大きさの物である、豹絶の左腕から出現する時はグニャリと曲がり、少しは見応《みごた》えがあったが出現してしまえば、普通の案山子に過ぎない。
豹絶は薄汚《うすぎたな》い案山子の縦棒を、槍《やり》のように構えた。案山子の顔と手袋はだらしなく、うなだれる。
柴陽は、豹絶が縞々を使い、腕の中に案山子を隠《かく》していたのを知った。
それがどういう術なのか、彼女には理解出来なかったが、豹絶は縞を操《あやつ》る力があるのだ。
案山子を吐《は》き出した後、縞たちは再び流れだした。服の中で、縞が動き出しているんだ、男の入《い》れ墨《ずみ》もこの縞の一部だったのかと、柴陽が思い到《いた》ったとき、豹絶の背中が真《ま》っ直《す》ぐになった。
今までの猫背《ねこぜ》とは全く違《ちが》う。気のせいか、みしみしと豹絶の体から音がしている。筋肉が増大しているのか?
「あ、あんた、豹絶? さっきのへロヘロな豹絶はなによ?」
答える代わりに豹絶は高らかに笑った。
純粋《じゅんすい》な笑いだった。
やけになった笑いでも、勝利を確信した笑いでもない。
己《おのれ》の心がとてつもなく爽快《そうかい》だから、ほとばしる笑いだった。
柴陽は軽い恐怖《きょうふ》を感じた。
理由の理解出来ない笑いは、ある種の不気味《ぶきみ》さを持つ。
豹絶の眼光は、昨日《きのう》のものに戻《もど》っていた。顔の縞々も昨日のままだ。頬《ほお》の縞を撫《な》でつつ豹絶は言った。
「ああそうだ、俺は豹絶だ。
縞で気迫《きはく》を増大出来るのは、便利なんだがな。他の事に縞を使いながら気迫を上げるのは無理なんでねえ。
ああいうふうになっちまうんだ、判《わか》ったかいお嬢《じょう》ちゃん! そういや名前を聞いてなかったか!」
「さ、柴陽《さいよう》!」
つられて大声で叫《さけ》んだが、あまり自己紹介《じこしょうかい》をしている雰囲気《ふんいき》ではなかった。
じわじわと化け物たちは、豹絶と柴陽の下に近寄っていく。
柴陽の存在をコロリと忘れたのか、とてもとても低い声で豹絶は狐《きつね》に言った。
「狐よ。
三か月の期限ギリギリに、状況《じょうきょう》を逆転させるような幸運が起これば奇跡《きせき》だ。
あまりに劇的で涙《なみだ》が流れるだろうな。
でもそんな涙など無用。時間切れの三か月前で、緊張感《きんちょうかん》もへったくれもなくて申し訳ないが、勝たせてもらうぜ!
ざまあ見ろ!」
しがみつく女ごと、豹絶は宙に飛び上がった。あまりに急激な動きに柴陽の顔からは血の気が引く。
鷲《わし》のような巨体《きょたい》が飛び上がり、やがて落下を始めた。落下の衝撃《しょうげき》を利用し、豹絶は渾身《こんしん》の力で地面に案山子《かかし》を突《つ》き刺《さ》した。
肉の塊《かたまり》に鉄串《てつぐし》を突き立てたような奇妙《きみょう》な音をたてて、案山子は土の上に立った。
それはほんの少しの違《ちが》いでしかない。狐と他の化け物では、豹絶と接していた時間が少しばかり違っていたのだ。
わずかな時間に、豹絶は勝負を捨てない種類の人間だと狐は察していた。
狐は危機を感じたが、他の化け物はそうではなかった。
罵声《ばせい》を浴《あ》びせながらも、狐だけは油断をしていない。
「それがどうした?
その案山子も宝貝なのは判《わか》っているぞ。それどころか、宝貝の持つ力の規模《きぼ》すら我には感知出来る。
なんだ、その非力な宝貝は? 仙術的《せんじゅつてき》な力は、あの封印《ふういん》岩の数千分の一しかないではないか!」
豹絶の言葉の代わりに、地面から新たな案山子が七体出現した。
黒い円と化け物たちを取り囲むように、案山子が現れたのだ。最初の案山子と合わせて八体の案山子が黒い円と化け物を見つめる。
自信の根拠《こんきょ》が見えないのが、狐を苛立《いらだ》たせた。
「八体に分身させて、力も八分の一になったな。
それで、我等《われら》をどうするつもりだ?」
豹絶は答えた。
「案山子《かかし》に馬力は必要あるまい。さあ、怖《こわ》くしてやれ」
「?」
案山子の顔と手がブルブルと震《ふる》え始めた。
ブルブル、ブルブル、震えながら顔と手の形が変化を始める。
変化はすぐに終了《しゅうりょう》した。
案山子の頭は三つに増えていた。一つだった頭が三つになりそれぞれの頭が、蛙《かえる》の頭になっている。
蛙といっても、先刻の落書きのような代物《しろもの》とたいして変わってはいなかった。布と、詰《つ》め綿代わりに藁《わら》を使ったような、ぬいぐるみの蛙だ。造り物の人間の顔が、造り物の蛙になったのだ。
それに反して、手袋《てぶくろ》は中に本物の手が入っているような柔《やわ》らかさを持ち始めた。
言葉と精神に違和感《いわかん》を狐《きつね》は感じた。だが、指摘《してき》せずにはいられない。
「それでどうなる?」
豹絶はパチンと指を鳴らした。途端《とたん》に、うなだれていた案山子の蛙頭がスッと正面を向いた。
正面を向いた蛙の、焦点《しょうてん》の定《さだ》まらない落書きの瞳《ひとみ》は確かに化け物たちをにらんだ。
黒い円の北に位置する案山子、すなわち豹絶が最初に地面に刺《さ》した案山子は言った。
「だいにしてひとつなるものこれゆいいつのてんてんいがいにてんはなし」
言葉の途中《とちゅう》で、北の案山子は右手の指をパチリとならす。
音に反応し、南西に位置する案山子が同じ言葉を繰《く》り返す。
「だいにしてひとつなるものこれゆいいつのてんてんいがいにてんはなし」
南西の案山子の言葉に被《かぶ》せるように、北の案山子は最初の言葉の続きを唱《とな》える。
「ことわりすなわちことわりのなかのことわりことわりのそとのことわり」
次に指を鳴らしたのは、南西の案山子だった。反応して東の案山子が最初の言葉を唱え出す。
「だいにしてひとつなるもの……」
東の案山子の言葉に北の案山子の新たな言葉が重なった。
「てんはひとつにしててんはむすうありちはひとつにしてちはむすうあり」
同じ時、南西の案山子は、
「ことわりすなわち……」
を唱え始めている。東の案山子の指がなり南の案山子の言葉が響《ひび》く。
「だいにしてひとつなるもの……」
北の案山子は新たなる言葉を吐《は》き出す。
「ことわりすなわちこんとんをすべることわりこそせんじゅつのほんしつ」
それは、八つの部分に分けられた言葉だった。言葉は一つずつずらされ八体の案山子《かかし》が唱え続ける。
北の案山子はついに最後の言葉を唱え始めた。
「われはたいいつわれはたいいつわれはたいいつわれはたいいつわれは」
最後の言葉だけが他の七つに比べ音節がわずかに短かった。それゆえに、この言葉は単なる輪唱《りんしょう》には陥《おちい》らない。
そして、当然のごとく北の案山子は最初の言葉にもどっていく。
「だいにしてひとつなるもの……」
そして、恐怖《きょうふ》が巻き起こった。
案山子に囲まれた中にいる、化け物たちは同時に恐怖の叫《さけ》びを上げた。
人間が理解出来る限界を超《こ》えた化け物にも恐怖の感情はあるのか?
だが、豹絶は確信していた。化け物たちは先を争って、黒い円の中に逃《に》げ込もうとしているのだ。
この、怖《こわ》く恐《おそ》ろしい案山子から逃《のが》れるには円の中しかない。
バラバラだった米つぶが、勝手《かって》に握《にぎ》り飯《めし》になるような動きを見せ、化け物は脅《おぴ》える群衆となり円の中へと消えた。
案山子の詠唱《えいしょう》はそれでもやまない。案山子がいる限り化け物は外には出られない。
さすがの豹絶も冷《ひ》や汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「ふう。どうにか封《ふう》じたか」
ゴン、と柴陽が豹絶の頭を殴《なぐ》る。
「なによ偉《えら》そうに! 恐波足《きょうはそく》は私の宝貝《ぱおぺい》じゃないのよ!」
「け。こんなつまらない宝貝を有効に活用してやったんだ、ありがたく思え!」
「ベ、弁償《べんしょう》しなさいよ!」
豹絶は唇《くちびる》をニヤリと吊《つ》り上げた。それにつれて顔の入《い》れ墨《ずみ》も動く。
「ま、何だったら、案山子を引っこ抜《ぬ》きゃいいだろ。
それをやる根性《こんじょう》があるのならばな」
さっきの化け物の姿を思い出し、柴陽の顔からは血の気が引く。
豹絶は首の骨を鳴らした。
「これに懲《こ》りたらここに近づくな」
柴陽は案山子を見た。延々《えんえん》と呪文《じゅもん》の輪が回りつづけている。
黒い円の回りの八体の案山子。奇妙《きみょう》と言えば、奇妙な光景だった。
が、女は円の中に奇妙な物体を見つけた。
「ねえ、あれは何よ?」
豹絶は柴陽の指差す先を見た。
それは黄金色《こがねいろ》の毛を生やした、何か太くて長い物だった。
柴陽は笑って言った。
「あ、さっきの狐の尻尾《しっぽ》じゃないの。よっぽど慌《あわ》ててたのね、尻尾が一本切れちゃったのよ」
「違《ちが》う!」
「どうしたのよ、いきなり怒鳴《どな》って」
舌打ちしながら豹絶は答えた。
「奴《やつ》は逃げやがった。
奴だけは油断《ゆだん》してなかったんだ。
俺が案山子を出したとき、尻尾を残して逃げてたんだ」
「?」
「だから、尻尾に自分の姿を写して、本体は逃げ出してたんだよ」
どうして、そんな事が豹絶には判《わか》るのだろうか? 柴陽は不思議だった。
「……考え過ぎなんじゃないの?」
「違う、本当だ。ああいうふうに尻尾が残ってるなら、変わり身に決まってるだろうがよ!」
そうだ、豹絶とは一体何者なのかと、女は疑問を覚えた。なぜ、化け物の使った術の意味を確信し、己《おのれ》も縞々《しましま》を使う能力があるのだろうか? 昨日も、恐波足の呪縛《じゅばく》から簡単に逃《のが》れたのは何故《なぜ》だ?
「豹絶、あなた本当に人間なの?」
静かに豹絶は笑った。
「ああ。本当に人間だぜ。ただな、静嵐《せいらん》のお陰《かげ》で混沌《こんとん》を浴びてしまったんだ。この縞は俺の中の混沌なんだよ」
柴陽はあとずさった。
「じゃ、あんたも化け物じゃないの!」
地面に転がる制流旗《せいりゅうき》を拾い、豹絶は歩き始めた。
「どこにいくのよ!」
「あの狐を仕留《しと》めに行く」
「……あてはあるの?」
「あれは殷雷刀《いんらいとう》を狙《ねら》う」
「それだけじゃ、追跡《ついせき》出来ないでしょ?」
背中を向けて、豹絶は首を振《ふ》った。
「心配はいらん。……俺には判るんだ。あの狐の臭《にお》いが」
中年の男は大きく、鍬《くわ》を振りかぶり、地面へと振り下ろした。
ザクリと音を立てて、鍬の白銀の刃《やいば》は大地を耕《たがや》す。
赤い粘土《ねんど》のような土。耕作《こうさく》には適《てき》さぬ土が鍬の刃を差し込まれた瞬間《しゅんかん》、黒みを帯びた肥えた土に変わっていく。
中年の男は何度も、鍬を振るう。首もとには汗《あせ》を拭《ぬぐ》う為《ため》の布が巻かれていたが、彼の体からはたいして汗は流れていない。
いい加減、畑を耕すのにも飽《あ》きたのか、男は片手だけで鍬を振るった。
その時、若い男の声が飛んだ。
「こら。手え抜《ぬ》くんじゃないよ。誰《だれ》が見てるか判《わか》らないんだ。普通《ふつう》に耕してるふりをしやがれ」
声の主は、一人の子供だった。少年と青年の丁度《ちょうど》中間ぐらいの年頃《としごろ》だ。
畑《はたけ》の側《そば》の切り株に腰《こし》を下ろし、プカプカと煙管《きせる》を吸《す》っている。
年の割には、煙管を吸《あっか》う動作が堂《どう》にいっている。十年や二十年、煙管を吸い続けるぐらいでは、この風格《ふうかく》はでまい。
中年の男は少年に言った。
「環樹老《かんじゅろう》。面倒《めんどう》ですよ、一気に耕しちまいましょうよ。
宝貝《ぱおぺい》の鍬なんだ。やろうと思えば、岩だって耕せますぜ」
少年の名前は環樹。中年の男は、少年に老の字をつけて呼んでいた。
それが、冗談《じょうだん》ではないのは中年の男の敬語《けいご》から見て取れた。
環樹は口から煙《けむり》を吐《は》く。彼の声は、声変わり直前の独特の甲高《かんだか》さがあった。
「阿呆《あほう》か。耕せば耕す程《はど》、年貢《ねんぐ》が増えるだろうに。それにその宝貝が、永久にこの村にあるとも限るまい。
阿呆ほど耕したはいいが、鍬はどこかに消えてみろ。来年からの年貢はどうするんだ。
この馬鹿め」
「……そりゃそうですけどね。せっかくの宝貝じゃないですか。やろうと思えば、クルミの木の根本にだって花を咲《さ》かせますぜ」
「いいから、黙《だま》って俺《おれ》のいうように耕せ。一番割のいい、畑の広さは計算済みだ」
環樹老の言葉は中年の男にも充分《じゅうぶん》に理解出来た。だが、一気《いっき》に耕しきれるのに、どうしてこんな手間をかけなければならないのだ?
「環樹老。だから、この土地の分をザクっと一気にやっちまいましょうよ」
プカリと煙が環樹の口から流れて消えた。
「それを、村人以外の誰かに見られたらどうするんだよ。
妖怪《ようかい》だけでも面倒《めんどう》なのに、他の村の連中の相手まで出来るか。
収穫《しゅうかく》を確実なものにして、対妖怪に専念したいんだよ。明日は、日の出る前に、裏山へ隠《かく》し畑を造りにいけ」
他の村といっても、近隣《きんりん》に村なんてものはないではないかと、男は考えた。
が、万が一にも徒歩で数日かかる隣村の住人が、街道《かいどう》を歩いている可能性も、無ではあるまい。
「へいへい」
男は畑を耕し続けた。疲労《ひろう》は一切《いっさい》ない。まるで羽で出来たような、軽い鍬《くわ》だ。
どれほど耕したか、環樹は言った。
「よお。疲《つか》れただろう。ちょいと一服して茶でも飲めや」
もし、本当に畑を耕していたのなら、休憩《きゅうけい》をいれてもいい頃合《ころあい》ではあった。
口答えしてどやされるよりは、素直《すなお》に茶をすすっている方がよい。
男は、切り株の横に置かれた籐《とう》のつづらから、素焼《すや》きの土瓶《どびん》と、湯飲《ゆの》みを二つ取り出した。
うっすらと水が染《し》みだした土瓶の中には、冷たい水が入っていた。
二つの湯飲みに男は水を注《そそ》ぐ。
一つを環樹に渡《わた》しながら、草の上に大きな胡座《あぐら》をかく。
左手に煙管《きせる》、右手に湯飲みを持ち、環樹は大きく欠伸《あくび》をした。
そんな環樹の顔を男は、珍《めずら》しそうに見た。
環樹は、男をにらむ。
「なんだ? 男に顔を見つめられても、嬉《うれ》しくもなんともねえぞ、気色の悪い」
「これは失礼。失礼ついでに、環樹老。今年で幾《いく》つになられました?」
「さあな。六十|歳《さい》を超《こ》えてからは、面倒《めんどう》だから数えてない。たぶん、七十過ぎか?」
「その煙管、凝命管《ぎょうめいかん》の力でその若い姿になられておいでになるんですよね」
「そ」
「……それこそ、まさに仙人《せんにん》ではありませんか。七十を超えて、その若さならばまさに不老不死《ふろうふし》すら」
「……違《ちが》うわい。ド阿呆《あほう》。気血漲《けっきみなぎ》り、魂魄充実《こんぱくじゅうじつ》する、その結果としての若返りじゃねえんだよ。
宝貝の力で、無理やりにこの若さを保《たも》っているんだ」
男の理解を超えていた。それの何が問題なのだ。
「ですから」
「七十の体に負担《ふたん》をかけて、この十三の体になってる。いっとくが、老いぼれの体と、この体じゃ遥《はる》かに、老いぼれの体の方が俺にとっちゃ楽なんだ」
「?」
「そうさな。例えば、お前がきっつい力仕事をする可能性があったとする。お前はその仕事をこなす為《ため》には、日頃から特訓をやって体を常に調整《ちょうせい》しておく必要がある」
「はあ」
少しイライラしたのか、環樹は水を飲《の》む。
「それはそれは、きつい特訓だ。そんな毎日が楽しいか? 俺のこの若さはその特訓と同じなんだよ」
「?」
「妖怪《ようかい》との戦いの中で、常に的確な判断をする必要が俺にはあるんだ。七十の年寄りの知識は必要だが、その知識を柔軟《じゅうなん》に活用するには若い頭が必要なんだ。
だから、俺はこの恰好《かっこう》をしている。若返って爽快《そうかい》なんて次元の話じゃねえんだ、判ったか!」
「はあ」
生返事に環樹もいい加減|疲《つか》れてきた。
「凝命管は体力を消耗《しょうもう》させて、肉体を若返らせているんだ」
男はポンと手を打った。
「炎《ほのお》の小さい松明《たいまつ》に、油をぶっかけて炎を大きくしてるようなもんですね? 炎は大きくなるけど、松明の寿命は短くなる。とうの松明にとっちゃ、あんまり気持ちのいいもんじゃないですわな」
環樹以外の年寄りたちが、若返りたがらない理由が男にも理解出来た。
環樹は舌打ちした。
「その通りだよ。凝命管は気力だか生命力だかを思考力に転じる宝貝だ。
仙人《せんにん》様はどうかは知らんが、人間が使えば一番頭が冴える頃《ころ》の肉体に若返る。でも、それは二次的な結果に過ぎん」
本人にとってあまり気持ちのいい話題ではない。そんな環樹の気持ちを知っているのか男は、もう一つの疑問をぶつけた。
「それはそうと」
「なにがそれはそうとだ! こっちは命懸《いのちが》けなんだぞ」
「まあまあ。例の豹絶《ひょうぜつ》の件なんですが。彼は敵ではありませんよ」
「その話はするな」
「……しかし、私は豹絶を子供の頃より知っています。頼《たよ》りになるかどうかは別にして、裏切《うらぎ》るような奴《やつ》じゃありませんよ。
儀堂《ぎどう》は、確かに切れ者ですから、状況《じょうきょう》によって自分に有利なほうにつきます。しかし、豹絶はそんな奴では」
「うるせい。豹絶と彩朱《さいしゅ》は仕留《しと》めるんだ。それが一番の手だ」
「そうでしょうか? 豹絶はあんな、まだらになっちまいましたが、逆に力を得ている訳ですし」
人の上に立ち、指図《さしず》をするのは何と難《むずか》しい事か。当然、指図の責任は取らなければならないのだ。
いつもなら、強く突《つ》っぱねるだけの環樹であったが、珍《めずら》しく、己《おのれ》の考えを説明した。
「判《わか》ってる。豹絶を味方につけりゃ心強《こころづよ》い。現に、今あの静嵐《せいらん》や儀堂を封《ふう》じ込めているのは豹絶の働きだ。
だが、奴は混沌《こんとん》を浴《あ》びている」
「……そこまで信用出来ませんか?」
「違《ちが》う。もしもあいつを信用し、裏切られたら、俺たちは完全に敗北するんだよ。
あいつは切り札かも知れぬ」
「だったら」
「今、状況は拮抗《きっこう》している。互《たが》いに手を出せない状況は、俺《おれ》らにとって有利だ。
豹絶は、どちらにとっても状況を引っ繰《く》り返せるだけの切り札になりえる。
さあ、どうするのが得策《とくさく》か?」
「切り札の豹絶を我等《われら》の味方とし」
「違う。豹絶が実は相手の切り札である可能性が、わずかにでもあるのなら、豹絶の存在自体を始末《しまつ》するのが、最善手《さいぜんしゅ》だ」
「判りました」
環樹の言葉は非情だった。
が、環樹が背負う責任を考えると、男には何も言えなかった。
環樹と男の間に、沈黙《ちんもく》が漂《ただよ》い始めた時、一人の男が二人のもとへと走ってきた。
息急《いきせ》ぎ切りながら走ってきたのは、願月《がんげつ》であった。片手には矛《はこ》を持っている。
「か、環樹老!」
環樹老は溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。豹絶を仕留《しと》める命令を与《あた》えた願月が手ぶらで帰ってきたのだ。仕留めそこなったのだ。
「又、負けたかこのスットコドッコイ!」
「す、すいません」
「せめて、傷の一つも負わせて……ねえんだろうな、ちきしょうめ」
「申《もう》し訳《わけ》ありません」
水を飲みながら、男は環樹と願月の間に入ってとりなす。
「まあまあ」
願月はこの村の人間ではない。たまたま通りかかった武者修業《むしゃしゅぎょう》中の武人なのだ。その武人が、この村の実情を知り力を貸してくれているのだ。
正義感が強いのか、はたまたただのお人好《ひとよ》しなのか。善意で動く願月にたいしても、環樹老の言葉は容赦《ようしゃ》しない。善意の協力だろうが、失敗は失敗だ。
願月は大きく頭を下げた。
「この次こそは、我《わ》が流派《りゅうは》にかけて! 豹絶に一泡吹《ひとあわふ》かせてみせます」
男は言った。
「どのような流派なんです?」
「は。我が流派は、古来より龍《りゅう》を仕留める為《ため》の秘法の技、伝説の砕鱗槍術《さいりんそうじゅつ》と申します」
「ほお、何だか強そうですな」
願月は煙管《きせる》を吸った。
「で、豹絶はどうした?」
手短に、願月は豹絶と柴陽《さいよう》の話をした。
環樹はうなる。
「柴陽? まあいい。どうせ、妖怪《ようかい》に食われるか、利口《りこう》ならば逃《に》げるかだな。
で、願月ちゃんよ。まだやる気があるんなら豹絶を追い掛《か》けてくれ」
「はは。機会を与《あた》えて戴《いただ》き、恐悦至極《きょうえつしごく》」
「頑張《がんば》ってくれよ。豹絶の居場所《いばしょ》は判《わか》る?」
「はい。怪吸矛《かいきゅうぼう》が奴《やつ》の臭《にお》いを覚《おぼ》えておりまする」
「くどいが、深追いは禁物だぜ。豹絶は妖怪だ、何をするか判らん」
「承知《しょうち》」
叫《さけ》び、願月は豹絶を追い、大地を駆《か》けていった。
環樹は、肺《はい》が潰《つぶ》れる程《ほど》の溜《た》め息《いき》を吐く。
「はあ。願月ももうちょい利口なら、豹絶と互角《ごかく》に渡《わた》り合えるものを」
「? そうですか。願月殿は我等《われら》の為《ため》に力を尽《つ》くしておられるのでしょ?」
「知ってるか? 砕鱗槍術のいわれってやつを?」
「いえ。無学なもので」
「太古の昔。原因は忘れたが、ともかく困《こま》っている仙人《せんにん》を猟師《りょうし》が助けたんだ」
「はい」
「仙人は、お礼をしようとした。それで猟師に訊《たず》ねたんだ。お礼は何がいいかってな」
男はうなずき、願月は言葉を続けた。
「猟師は言った。熊《くま》や虎《とら》を仕留めるのにこれだけ苦労してるんだから、龍《りゅう》を仕留める術を教えてくださいとな。
仙人は、簡単な話だって砕鱗槍術の秘伝書《ひでんしょ》全三巻を猟師に与えた」
「へえ。
由緒《ゆいしょ》のある槍術《そうじゅつ》なんですね。そんな槍術を使われるのに、豹絶には敵《かな》わないとは不思議《ふしぎ》ですな」
「話は最後まできけよ。
砕鱗槍術を身につけた猟師は、喜《よろこ》び勇《いさ》んで虎と戦ったが、全然通用しない。熊にも通用しないし、兎《うさぎ》にすら通用しない。
対龍用の槍術が、龍以外に通用しないのは至極当然《しごくとうぜん》の事でした。ってオチだ」
「なんか、泣けてきました」
「知ってるか。豹絶もある拳法《けんぽう》の使い手なんだぜ」
「詳《くわ》しくは知りませんが、波握法《はあくほう》とかいう拳法ですね。
二十年ぐらい昔でしたっけ、どこかの旅人がこの村に居ついて、食事を恵《めぐ》んでもらう代わりに、村の子供たちに教えた拳法でしたよね」
「そうだ。三年間ぐらいこの村にいたな。結局まともに伝授されたのは豹絶だけで、他の子供は馬鹿らしくて、習うのをやめたんだ。
波握法。炎応三手《えんおうさんしゅ》、八掛剣《はっかけん》とならぶ三大|奇拳《きけん》の一つだ」
「奇拳ですか?」
「そう。波握法は水中での格闘《かくとう》を想定されて編《あ》まれた拳法だ。水の中で強盗《ごうとう》に襲《おそ》われた時にゃ、頼《たよ》りになるだろうよ、けけけ」
「砕鱗槍術と波握法ですか。
なんというか、色々な意味でいい勝負なんじゃないんですか?」
願月は首を横に振《ふ》った。
「いや。豹絶は波握法なんぞ使ってないだろうよ。
そこが、勝利の分かれ目だ。
どうせ使い物にならない技術なら、技術にこだわらないほうが勝つに決まっている。
そんな簡単な理屈《りくつ》が判《わか》らねえとは、願月の野郎《やろう》は大馬鹿だよな。
ま、そんな大馬鹿だから、この村に力を貸してるんだろうがよ」
そして、そんな大馬鹿を刺客《しかく》に使っている環樹老に、男は優《やさ》しさを感じた。
願月よりも頼りになる村人は、何人でもいる。もしも、豹絶の抹殺《まっさつ》を心から望んでいるのなら、もう少しましな手が打てるはずだ。
男の心の動きを見透《みす》かしたのか、環樹老は怒鳴《どな》った。
「くだらねえ考えだな! 最優先すべきは、封印《ふういん》から逃《に》げ出した妖怪《ようかい》を、村の外に出さない事だ。その為《ため》に全力を尽《つ》くさねばならん。豹絶の始末に、優秀《ゆうしゅう》な人材の派遣《はけん》は出来ねえんだ」
丘の上には混沌《こんとん》の円。混沌の円には豹絶の施《ほどこ》した封印岩がある。
その封印とて、完全ではない。どうしても雑魚《ざこ》の妖怪が逃げ出す時もあった。
村の要所には、交代で村人を配置してあった。環樹老と男も、その配置に従《したが》ってここにいるのだ。
男は言った。
「環樹老。守りについてですが、ちょっと隙《すき》があるんじゃないですか?」
環樹は首をふる。
「判《わか》っちゃいる。だが、宝貝の数には限りがあるんだ。完全な包囲など不可能なんだよ。
どうせ、てめえは宝貝の使い手を二人一組で配置するのは、勿体《もったい》ないとでも考えてるんだろ。
でもな、一人じゃ最悪の場合に何も出来ないだろ? 一人が犠牲《ぎせい》になっても、もう一人が生きられればまだ、どうにかなる」
「ですが」
「宝貝もってる奴《やつ》を、全員丘の上に置いて見張るか? 冗談《じょうだん》じゃねえ。もしも、とんでもなく凄《すげ》え妖怪が出たら、全員|倒《たお》される。
妖怪を始末するだの、見張ってるだの言ってるが、それは相手が手に負える範囲《はんい》の話だぜ。もしも、洒落《しゃれ》にならん奴《やつ》が出て来たら、宝貝の力を使ってこの村から必死になって脱出《だっしゅつ》するんだ」
男も充分《じゅうぶん》に承知していた。が、男の疑問はもっと素朴《そぼく》なものだった。
「おっしゃる事はよく判ります。ですが……」
と、その時、空を光の筋《すじ》が駆《か》けていった。さながら、ほうきのように沢山《たくさん》の尻尾《しっぽ》を持った光だった。光の尾《お》は三十一本。丘の方角から、環樹たちの頭上を超《こ》えて光の筋は飛んでいった。
「私が言いたかったのは、人の目に見えない奴とか、地に潜《もぐ》る奴をどうやって見張るのか? って事でしたが、ああいうのもありですな。
空を飛べる妖怪《ようかい》には、打つ手がないんじゃないですか?」
自分の頭を軽くポンポンと叩《たた》き、環樹は肩《かた》の凝《こ》りをほぐすかのように、首を曲げた。
それは環樹なりの気まずさの表現なのか、ゆっくりと煙管《きせる》を吸い、答えた。
「空を飛べない奴や、姿の消せない奴は見張れてるし、始末もしてる。
それでいいじゃないの。やれる事はやってんだし」
光の出現から、しばらく間を起き、一つの土煙《つちけむり》が環樹たちに向かい走ってきた。
豹絶だ。地面を滑《すべ》るように駆け、左手に持った制流旗《せいりゅうき》が、嵐《あらし》の中の旗のようにはためいている。
「制流旗で封印《ふういん》してたんじゃ!」
男は唖然《あぜん》としたが、環樹の鋭《するど》い視線は豹絶から外れない。
環樹と豹絶がすれ違《ちが》う瞬間《しゅんかん》、まだらの男はニヤリと笑う。
不敵な笑《え》みを残像として残しながら、豹絶は駆け抜《ぬ》けていった。
その後に巻き起こった、突風《とっぷう》が環樹の煙管の煙《けむり》を吹《ふ》き飛ばしていく。
環樹は静かに言った。
「慌《あわ》てるな。願月が言ってただろ。その柴陽とかいう女の持ってた宝貝を、新しい封印にしたんだろうよ。
もし、封印が消滅《しょうめつ》してたらもっと大変な事になるはずだ。
……それはそうと遅《おそ》いな」
環樹と同じように男も軽く、首を傾《かし》げて相槌《あいづち》を打つ。
「遅いですねえ」
しばし遅《おく》れて、願月が駆《か》けてくる。もはや絶対に声の届かない差をつけられながらも、繰《く》り出される叫《さけ》びは、ある意味|健気《けなげ》ですらあった。
「ま、待て豹絶。待ってくれ」
ドタドタと大きな足音を立てながらの追跡《ついせき》であった。が、見るまでもなく豹絶が立ち止まらぬ限りは、絶対に願月は彼に追いつけないだろう。
視界の中に環樹たちを見つけ、願月も不敵に笑う。
「必《かなら》ずや奴《やつ》を仕留めますよ!」
「……頑張《がんば》っておくれ」
豹絶を追い掛《か》ける願月の背中を見て、男はポツリと言った。
「不思議な気がします。常識《じょうしき》で考えたら、願月|殿《どの》は口だけが達者《たっしゃ》で、実力が付いていってない武人でしかありません。
礼儀の正しい方ですから、不快ではないのですが」
「何が言いたい?」
「ですが、私は願月殿を完全に信頼《しんらい》しているのです。
こう見えても私は疑《うたぐ》り深いんですよ。実績のない人間を手放しで認めるなんて、自分でも信じられません」
環樹も同感出来る部分があった。自分がなぜ、願月を豹絶の刺客《しかく》として使っているのか彼自身も納得《なっとく》がいかなかったのだ。
理由ぐらいは幾《いく》らでもついただろう。
だが、回りくどい説明ではなく、ビシリと納得出来る理由がない。
願月は弱いから、豹絶を仕留める刺客ぐらいにしか使い道がない。
本当にその理由で自分は願月を使っているのだろうか? 本当は願月を凄腕《すごうで》の武人として頼《たよ》っているが故《ゆえ》に、豹絶への刺客として使っているのか。
環樹は煙管《きせる》を口から離《はな》した。
「なんかこう、心の中に違和感《いわかん》があるな。
なぜだ? やはり、ゆっくりジワジワと俺も混沌《こんとん》に毒《どく》されてるのか」
男は首を横に振《ふ》った。
「全《すべ》ては儀堂と静嵐を倒《たお》した時にハッキリすると思います」
自分でも判《わか》るぐらいに虚《うつ》ろな言葉だった。環樹の言うように、混沌は確実に人の心を侵《おか》していくのか。
妖怪を封じ続けたとしても、やがて混沌に侵され、村の人間たちの心は空虚《くうきょ》な人形の心になってしまうのだろうか。
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第三章『混沌《こんとん》の円の儀堂《ぎどう》』
村の人達と、大地に横たわるもの、それぞれの喜《よろこ》びや楽しみは、まるで一つの天秤《てんびん》の右と左の受け皿に乗っているようでした。
片方の喜びは、片方にとって苦痛でしかなく、天秤は中々《なかなか》水平になりません。
しかも天秤が上手《うま》い具合《ぐあい》に水平になったとして、それでお互いが満足するという保証は一切《いっさい》ありません。
ほんのつい先刻まで、天秤は村の人達の喜びの為《ため》に傾《かたむ》いていました。天秤が村の人達の為に傾いたのは、今回が初めてでした。長い長い、村の歴史の中で初めての事だったのです。
今まで苦しめられてきた、大地に横たわるものをついに打ち倒《たお》そうとした、その時、天秤は再び大きく動きました。
「馬鹿な!」
村の人達の間に、戦慄《せんりつ》が駆《か》け抜《ぬ》けて行きました。
村の誰《だれ》もが、今、目の前で起きている事の本当の意味を知りませんでした。
ですが、良くない事が起きているのは、本能的に判《わか》りました。
苦しみ悶《もだ》える、大地に横たわるものの顔には笑《え》みが浮《う》かんでいます。
例《たと》えるなら、それは小さな嵐《あらし》でした。もしも、とてつもなく大きな人間が天の果てから大地を見下ろした時、嵐という物はこういうふうに見えたでしょう。
風や雨が荒《あ》れ狂《くる》う代わりに、光と闇《やみ》が荒れ狂っています。
大地に横たわるものは、村の人達の驚《おどろ》く顔を心から楽しみました。
ですが、大地に横たわるものの傷が癒《い》えた訳ではありません。
彼がとてつもない深手《ふかで》を負っているのは、変わりありません。
いかに傷を負おうが、大地に横たわるものは、最後の仕上げをせねばなりません。
大地に横たわるものは、大きな声で歌をうたいました。
とてもとても大きな声でうたわれた、とても上手《じょうず》な歌でした。
歌はそれを聞いた者を、優《やさ》しく狂わせていきました。もしも、大地に横たわるものの力が以前のままならば、歌の力で相手を殺す事すら出来たでしょう。
ですが、大きな歌声ではあっても、歌の真の力は弱かったのです。
村人の一人が叫びました。
「しまった!」
全《すべ》ては手遅《ておく》れでした。上手な歌は、村の人達全員に届いたのです。
歌自体はすぐに終わりました。
傷つき弱っている彼ですら、この程度の『術』は造作《ぞうさ》もありませんでした。
それどころか、まだ少しばかり余分な力が残っています。
大地に横たわるものは、一瞬《いっしゅん》の隙《すき》をつき矛《ほこ》を引き抜《ぬ》きました。
矛を持つ青年は、まだ希望を捨てずに矛を持っています。
大地に横たわるものの視界の片隅《かたすみ》では、刀《かたな》を持つ娘《むすめ》に数人の村の人達が駆《か》け寄っていくのが見えました。
大地に横たわるものは、口を開き言葉を喋《しゃべ》りました。
「矛使いよ! 貴様は許《ゆる》さんぞ! その魂《たましい》引《ひ》き裂《さ》いてくれたいが、その力もないとは、なんと口惜《くちお》しい事か!」
矛を持つ青年の理解出来ない角度から、大地に横たわるものの手が、彼に向かい伸《の》びました。
正面で向き合ったまま、青年は死角をつかれたのです。
それは、本当にわずかな隙でした。細《こま》かな鱗《うろこ》がビッシリ生えた、大地に横たわるものの手は、グニャリと矛を持つ青年の頭に入っていきました。
本来の力があるなら、そのまま魂を握《にぎ》り潰《つぶ》していたのでしょうが、生憎《あいにく》彼にはその力がありませんでした。
弱々《よわよわ》しい、自分の握力《あくりょく》に悪態《あくたい》をつき、指と指の隙間に絡《から》めるようにして、矛の青年の魂の一部を引きずり出しました。
「うぬからは『知』を引き抜き、喰《く》らうてくれる!」
ゴクリと喉《のど》を鳴らし、大地に横たわるものは、青年の魂から抜き出したものを飲み込みました。
村の人達の戦慄《せんりつ》は、今は純粋《じゅんすい》な恐怖《きょうふ》に転じていました。
まだ、大地に横たわるものには余力がありました。身近にいる者に、出来るだけ害を成そうと、彼は考えました。
考えている間にも、荒れ狂う光と闇は、だんだんと空間を歪《ゆが》ませていきます。
歪んだ空間に、女と男が呑《の》み込まれそうになり、煙管《きせる》を持った男と横笛《よこぶえ》を持った男が、二人を助けようとしています。
再び、鱗だらけの手が、今度は煙管を持つ男の頭に伸びました。
「貴様からは『情』を!」
その手に、魂の一部を絡め、大地に横たわるものは、それを飲み干《ほ》していきます。
別の手は、横笛を持つ男の頭に。
「喰らうてばかりでは芸がないな。
貴様には『邪《じゃ》』をくれてやる」
「さあ、次は貴様か!」
大地に横たわるものは、次の獲物《えもの》を狙《ねら》おうとしました。
が、そろそろ使える力も時間も尽《つ》きてきました。
これ以上力を浪費《ろうひ》すれば、再生に影響《えいきょう》が出るかもしれません。
大地に横たわるものは、大きく笑い、そして何かが弾《はじ》けました。
どこかで猫《ねこ》が鳴きました。
海鮮鍋屋《かいせんなべや》の主人は、とてつもない不快感に襲《おそ》われていた。
宿酔《ふつかよ》いの翌日に漁《りょう》に出て、船酔いしたような気分であった。
店の中の客の大部分が同じような気分らしく、卓《たく》にへばりつきながら水や茶を啜《すす》っている。
元気なのは、一組の客だけだ。食材のフグに毒があるかも知れんと、無礼《ぶれい》な悪態《あくたい》をついてた髪《かみ》の長い男たち一行だけが、妙《みょう》に元気だ。
髪の長い男と女。小さな子供、なぜか道服を着けている娘《むすめ》の四人……いや、二人増えている。
若い男が二人増えている。いつ、やってきたのだ? 男の一人は、盗賊《とうぞく》をふんじばったかのように、グルグル巻きにされている。
不自然《ふしぜん》な事は山のようにあったが、ともかく一つ一つ片づけるしかないと、主人は考えた。
「えぇと、そのなんです? 私もお客様たちも息が詰《つ》まって倒《たお》れたと?」
殷雷《いんらい》は主人の疑問に答えた。
「そうだ。冬場で締《し》め切った店の中、暖房《だんぼう》も入ってりゃ、鍋を煮てもいるんだ。
空気が悪くなって、息が詰まっても仕方あるまい。なに、冬場にゃよくある話じゃないか」
「……換気《かんき》には気を遣《つか》ってるんですがね。それに、昨日《きのう》は平気だったのに、今日に限ってこの有り様とは。昨日の方がお客様は多かったんですよ」
塁摩《るいま》は露骨《ろこつ》に主人から視線を離《はな》し、口笛《くちぶえ》を吹《ふ》き始めた。和穂《かずほ》が慌《あわ》てて、それをやめさせた。
和穂の額《ひたい》にはひとすじの冷《ひ》や汗《あせ》が流れている。
誰《だれ》が見ても、嘘《うそ》をつくのが苦手《にがて》な人間が一所《いっしょ》懸命《けんめい》にこの場を取《と》り繕《つくろ》うとしている姿としか見えない。
しかも、塁摩は妙なイタズラ心を起こして、要《い》らぬ茶々をいれて喜んでいる。
主人の疑惑《ぎわく》がさらに広がる。
「それに、お客さんたちだけがたまたま、息の詰まりに気がついて、私や他のお客様を助けていただいたって?」
形は違《ちが》えど、これもまた駆《か》け引《ひ》きの一つではあった。武器の宝貝《ぱおぺい》でもある恵潤《けいじゅん》が、続けて答えた。
「ええ。急いで、空気の入替《いれか》えをしなくちゃいけないと思って、窓を叩《たた》き割《わ》ってしまってごめんなさい」
言葉の通り、窓枠《まどわく》が吹っ飛んでいる。
塁摩は冷や汗を拭《ぬぐ》う素振《そぶ》りをして、再び口笛を吹く。同じように、和穂が口笛を止めさせるが、その顔は引きつった笑顔《えがお》だった。
主人の疑惑は晴れない。
「失礼ですが、そちらのお二人は?」
豹絶《ひょうぜつ》が気の抜《ぬ》けた声で返事をする。彼の顔にまだらはなかった。まだらと共に、気迫《きはく》も消えている。
「ここで待ち合わせしてたんだよな。殷雷君よ」
塁摩は自分の頬《ほお》を指差《ゆびさ》す。
「ね、ね。待ち合わせしてたんなら、私の名前を知ってるんでしょ? この二人のお姉ちゃんたちの名前も、知ってなきゃおかしい……」
抑揚《よくよう》のない、不自然《ふしぜん》な笑顔で和穂は塁摩に提案《ていあん》した。必死《ひっし》になればなるほど、和穂の誤魔化《ごまか》しはぎこちなくなっていく。
「はっはっは。塁摩、後で、杏仁豆腐《あんにんどうふ》を食べようか? 恵潤さんも食べます? 和穂も食べるよ」
「和穂は自分の事をいつも、『私』って呼んでなかったっけ?」
疑惑《ぎわく》は膨《ふく》らむばかりだ。おぼろな記憶《きおく》だが誰かが口から大きな尻尾《しっぽ》を吐《は》き出してなかっただろうか。
主人の疑問に殷雷がとどめを刺《さ》す。
「いいじゃねえか、息《いき》の詰まりで。
それとも、集団で食当たりを出したとでも言いたいか?」
主人は慌《あわ》てて首を横に振《ふ》った。
「滅相《めっそう》もありません。それじゃ、息が詰まったという事で」
背を向けた主人に聞こえるように、塁摩は安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》を吐く。
「はあ、やれやれね。どうにか誤魔化せた」
聞こえぬ素振《そぶ》りをしながら、確かに息が詰まったかもしれないと、主人は考えた。
時間と共に意識が急速にハッキリとしてきたのだ。食当たりでは、こう簡単に楽にはならない。
軽い息の詰まりならば、新鮮《しんせん》な空気を吸えば比較的《ひかくてき》すぐに楽になる。
主人は壊《こわ》れた窓枠《まどわく》の掃除《そうじ》を始めようとし、一つの事に気がつく。
「は! これは!」
殷雷たちの背中が、一瞬《いっしゅん》、ビクついた。
主人は自分に言い聞かせるように、独《ひと》り言《ごと》を呟《つぶや》く。
「おかしい! もしも、店の中から窓枠を破ったのなら、枠の破片《はへん》は外に飛び散るはずだ! それなのに破片は店の中にある! これは」
殷雷が泣きそうな声で言った。
「やかましい。意味のない鋭《するど》い推理《すいり》なんざやめてくれ! 窓枠の弁償《べんしょう》をして欲《ほ》しいなら、こいつらに請求《せいきゅう》しろ!」
だらんと、卓《たく》の上に顎《あご》を乗せて豹絶は言った。
「俺は知らないよ。壊したのは願月だ」
「そ、そりゃそうだけど、あの場合は!」
もう、どうあがいても誤魔化《ごまか》し切れないと和穂は考えた。このまま、店を追い出されても仕方がないとすら考えたが、店主は何も言わなかった。
息《いき》の詰まりにしておいた方が得だと、焦点《しょうてん》の合い始めた店主の頭が判断したからだ。
「まあ、深い事情は聞きません。店の中じゃ暴《あば》れないでくださいよ。
それよりもですね、動物は勘弁《かんべん》してくださいな。
うちは食い物屋なんですから」
材質の選択《せんたく》を間違《まちが》えられた、とてつもなく重たい操《あやつ》り人形のような動きで、豹絶は背筋を伸《の》ばした。そして、店主に言った。
「ええい。違うぞ。彩朱《さいしゅ》を動物|扱《あつか》いするな! 彩朱は普通《ふつう》の猫《ねこ》じゃないんだぞ」
豹絶の言葉に、店主はやるせない表情をした。
窓枠を破ったのは誰か? 本当に息の詰まりだったのか? そういう論争ならばまだ実りがあったのかもしれない。
が、間違っても、卓の上で魚のアラをしゃぶっている猫が、動物であるか? 普通の猫であるか? という言い争いには、何の実りもあるはずがなかった。
派手《はで》な旗《はた》を持ったダラダラした男にとっては、あの猫は普通の猫どころか、動物ですらないのだろう。
しかし、それについて言い争うのは、勘弁願いたかった。
こういう食い物屋をやっていると、犬や猫を溺愛《できあい》して、一緒《いっしょ》に食事をしたがる客がたまにやってくる。
いつも店主は、一応《いちおう》注意し、そのまま放《ほう》っておく。
他の客が嫌《いや》がって文句《もんく》を言うのなら、客同士でやりあわせておく。
店主の葛藤《かっとう》を殷雷は充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していた。出来るならば、彼もこんな奴《やつ》の相手をしたくはないのだろう。
だが、よりにもよって宝貝《ぱおぺい》を持っていやがるのだ。店主のように適当《てきとう》に扱《あつか》うわけにはいかなかった。
「お前は宝貝を持っていて、俺たちが宝貝を回収しているのも知っている。
でも、回収に抵抗《ていこう》する気はサラサラないんだな?」
抵抗という言葉から全《まった》く掛《か》け離《はな》れた態度《たいど》を豹絶は取っていた。
卓《たく》の上に寄っ掛かり、グニャグニャとしている。泥酔《でいすい》した酔《よ》っぱらいでもこれだけグニャグニャにはなれないだろう。
殷雷ははなから疑《うたが》ってかかっていたが、和穂は豹絶のあまりに不自然な態度が、少し心配だった。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか、豹絶さん。
もしかして、宝貝のせいでそんな風になっちゃってるんですか?」
「そんな風って、どんな風なんだよ」
豹絶の態度に、和穂よりも殷雷の腹が据《す》え兼《か》ねた。
「ああ! 面倒《めんどう》だ。てめえら二人を倒《たお》して宝貝を回収して、それで終わりだ!」
殷雷の気迫《きはく》に、願月はビクリとした。が、豹絶は気にも留めずに、塁摩の前にいる彩朱の首ねっこを優《やさ》しく掴《つか》み、引き寄せる。
引き寄せる豹絶の動きに、ゆっくりとしなやかさが宿《やど》っていった。
猫を胸元《むなもと》に抱《だ》き寄せたとき、豹絶の顔には縞《しま》が戻《もど》っていた。
「はっはっは」
豹絶の高らかな笑い声をきいても、殷雷は表情を変えなかった。
豹絶の鋭《するど》い視線が殷雷を射た。
「すまんすまん。この縞を人目《ひとめ》にさらすと一騒《ひときわ》ぎになると思って、隠《かく》してたんだ。
まあ、店の親父《おやじ》も今更《いまさら》驚《おどろ》きはしないようだから、この姿に戻った。
こっちの方がいいだろ」
豹絶に敵意はない。願月には、豹絶に対する敵意はあるが、殺意という程《ほど》のものでもない。願月は殷雷たちにさほど興味がなさそうなのが、殷雷には理解しがたかった。
和穂がきいた。
「豹絶さん、この縞々は?」
塁摩と恵潤は、事の成り行きを黙《だま》って見ていた。必要な質問は、般雷か和穂が全《すべ》て行うだろう。
彼らの答えを分析《ぶんせき》する為にも、今は黙っているのが一つの手だ。
豹絶が答えた。
「混沌《こんとん》のかけらさ。しゃくな話だが、このかけらを使わなければ全く気合が出ない。さっきの俺みたいになっちまう。
この縞を魂《たましい》に引っ掛《か》けなけりゃ、ろくに会話も出来やしねえ」
卓《たく》の一同によく見えるように、豹絶は卓の上にまだらの影《かげ》を落とした。さすがの一同も驚く。
「混沌のかけらとは何か? と聞かれたら、『判《わか》らない』と答えるしかないがな」
恵潤と殷雷の沈黙《ちんもく》は、成り行きを見守ろうとするものだったが、豹絶の言葉をきいて、絶句《ぜっく》の沈黙に変わっていた。
殷雷は言葉を吐《は》き捨て、沈黙を破った。
「馬鹿な。そんな話があり得るはずがない!」
豹絶はニヤリと笑う。殷雷が豹絶を探《さぐ》るように、豹絶もまた殷雷に探りを入れていた。
混沌の大帝《たいてい》が恐《おそ》れる、宝貝。その実力やいかに? といったところだ。
殷雷はもう一度、否定した。
「あり得ないぞ、絶対だ!」
「何がどう有り得ないのか、俺にはそれすら判らない。
縞《しま》を使えば、色々と便利な事が出来るんだが、それだって完璧《かんぺき》に把握《はあく》しててやってるんじゃないしな」
反射的に殷雷は怒鳴《どな》った。
「当たり前だ! それが出来たら、お前は仙人《せんにん》だ! それはかけらかもしれんが、混沌であるならば、混沌を利用する術は、即《すなわ》ち仙術でしかない! いや、だからそれは混沌のかけらなんかじゃ」
意外と普通《ふつう》の武人じゃないかと、豹絶は値踏《ねぶ》みした。
「信じる信じないは勝手だよ。でも俺はこの縞をちょこっとは使えるし、この縞は、直接宝貝とは関係のない話だぜ」
混沌《こんとん》。それが全《すべ》ての源であった。
殷雷の言葉の通り、仙術とは混沌の無限の可能性を制御《せいぎょ》する術である。
宝貝も仙術を利用して、創造《そうぞう》されるのである。
直接、間接の違《ちが》いはあれど、混沌なくして宝貝の、仙術の、存在は有り得ない。
手を縛《しば》られ、窮屈《きゅうくつ》そうな願月であったが、素直《すなお》な感想を述べた。その感想が、豹絶の怒《いか》りに触《ふ》れる可能性までは考えていなかった。
「混沌か。いかにも悪って感じだな。
豹絶よ。そうは見えないが、やはりお前は悪人なのか? 全身が混沌まみれなんだし。環樹老《かんじゅろう》の言葉も、それほど疑り深いってわけじゃ」
殷雷が蟹足《かにあし》の殻《から》を、願月の目の前に突《つ》き出す。
「勘違《かんちが》いするな。
混沌自体は悪ではない。ま、善でもないんだがな。
善とは、その中に悪を含《ふく》めない。逆に言えば、悪を含めばそれは善ではない」
願月はうなずく。
「そりゃそうだ」
「善でないのなら、それは悪だ。と、いう単純な考えで済ます奴《やつ》もいるだろうが、現実はそうじゃない」
豹絶は彩朱の頭を撫《な》でながら、殷雷の言葉を聞いていた。その身に混沌を浴びている豹絶である。本能的に、混沌は善や悪を超越《ちょうえつ》したものであると勘づいてはいたが、実際の理屈《りくつ》を聞いてみたい気がしていた。
豹絶の心の、ほんの僅《わず》かな部分ではあったが、彼自身も自分が悪の化身ではないかと疑っている部分はあったのだ。
だが、願月にはピンとこない。
「善でもなけりゃ、悪でもない? 普通って事かな」
的外《まとはず》れの言葉に殷雷は答えを返さずに、言葉を続けた。
「混沌、すなわち何でもありだ。これは判《わか》るな?」
「うむ」
「何でもありだ。さあ自由に好き勝手やっていいぞとなった。
さあ、どうする」
「だから、好き勝手に自由にやるのが混沌《こんとん》ならば、やはり悪じゃないか。
好き勝手に悪い事をしてだね」
殷雷がピシャリと言った。
「そこに誤解がある。
自由に悪をやるのと、自由に善を行うのと混沌の視点から見たら同じに過ぎん」
和穂がポンと手を打った。
「そうか。善人であろうが、悪人であろうが炎《ほのお》にあぶられたら、区別なく火傷《やけど》をするようなもんだね。炎自体は善でも悪でもない。
混沌も同じようなもんだ」
感心気に願月は息をつく。
「ほお。なるほど。お嬢《じょう》さんは、中々頭が回るんだねえ」
殷雷は言った。
「お前が鈍《にぶ》いんだ。
それに和穂よ、お前は仙術《せんじゅつ》の知識を封《ふう》じられてるから、忘れてるだけで、今のは仙術の基本中の基本、大前提《だいぜんてい》なんだぜ」
微《かす》かに豹絶の声が曇《くも》る。彩朱を撫《な》でる指にも力がない。
「……大層なもんだな。混沌とは」
「当たり前だ。ありとあらゆる存在の元になってる物なんだぞ」
ありとあらゆる存在。妖怪《ようかい》、鬼怪《きかい》を含《ふく》めてなのかと豹絶は考えた。
「その混沌を自在に操《あやつ》るのは可能か?」
「け。仙術とて混沌を完璧《かんぺき》に操っているんじゃないんだぞ。
そうおいそれと、混沌が操れるか! お前だってそれほど凄《すご》い使い方が出来るんじゃないだろ? そうだな。炎やら水を出したり消したり出来たら、上等だ」
豹絶は首を横にふった。
「生憎《あいにく》、この混沌の中に、物をしまいこんだり、さっきやったみたいなすり抜けぐらいしか出来ない」
すり抜け。相手の攻撃を全て無効化出来そうだが、そこまでの技ではないと殷雷は見切っていた。
和穂が疑問を口に出した。
「ねえ、殷雷。仙術が混沌を利用する技術なんだったらさ、仙術で造られた殷雷みたいな宝貝も混沌に関係あるんだよね。
殷雷が敵の気配を察知したり、塁摩が重い物を動かしたりするのも混沌の力なわけ?」
「突《つ》き詰《つ》めていえばそうだ。
けどよ、宝貝は能力を本能的に使ってるんであって、自分がどういう風に混沌を制御《せいぎょ》してるかなんて意識はないぜ。混沌を利用しているが、どうやって利用しているかは知らねえな」
豹絶の手の中で彩朱は、にゃあと鳴いた。
「一つ聞きたいが。自在に妖怪を呼び出すってのは、術としては高等なのか?」
和穂の頭の中を狐《きつね》の姿がよぎった。
殷雷は答えた。
「……。混沌の制御ってのは、実際問題としては瞬間的《しゅんかんてき》なものなんだ。
気配を察する時も、察してる間中、混沌を制御してるんじゃない。
気配を察する状態に、瞬間的に混沌の力で切り換《か》えるんだ。
お前がその縞々《しましま》の中に物を隠《かく》す時も、隠している間中、混沌を制御してるんじゃないはずだぞ。
混沌の力で、瞬間的に隠してるんだ」
「質問の答えになってない」
「急《せ》かすな。
妖怪、鬼怪を呼び出すのは瞬間的な制御じゃ駄目《だめ》なんだ。混沌《こんとん》を開きっぱなしにする必要がある。
それだけ危険性も上がるわな。
混沌を開きっぱなしに出来るってのは、逆に言えば、それだけ混沌の制御に自信があるんだろ」
豹絶はやれやれとばかりに首の骨を鳴らした。
「ふん。混沌の大帝の名は、伊達《だて》じゃないわけだ。
困《こま》ったねえ、彩朱。
どうやら、誤解されてるようだが、この彩朱は本当は猫《ねこ》じゃない。
人間なんだよ。俺の妻だ。
混沌の直撃《ちょくげき》を浴びて、こいつは猫になっちまった。
そして俺は、まだらの豹絶になったって寸法だ。たいした夫婦だろ。元の体に戻《もど》るには、混沌の大帝を倒《たお》すしかないと考えたんだが、それで正解なのかい?」
今まで黙《だま》っていた恵潤が答える。
「なんともいえない」
「今までの俺の戦いは徒労《とろう》だったのか」
「諦《あきら》めないで。術を食らったんじゃなくて、混沌を浴びてそうなった。てのが気にかかるわね。
そこは混沌の事だから、混沌を浴びればどうなるか判《わか》ったもんじゃない。でも制御《せいぎょ》されてない混沌を浴びただけなら、変容は一時的なはずなのよ。混沌が閉じれば、変容は復元するかも、混沌の開閉は瞬間的なもんなんだから」
豹絶は不敵に笑う。
「そうか。ならば混沌の大帝を倒して、混沌を閉じれば、元の体に戻れるんだな!」
殷雷も恵潤と同じ意見だった。
「おそらくな。
相手は混沌を開きっ放しに出来る程《ほど》の腕前《うでまえ》の奴《やつ》だが。
さて、豹絶。そろそろそっちの詳《くわ》しい事情も話して貰《もら》おうか」
豹絶はコクリとうなずく。
「簡単な話だよ。
混沌《こんとん》の大帝とやらが、混沌を……あんたらの話じゃ、開いたんだろ。見た目は黒い円だから、混沌の円と皆《みな》は呼んでる。
その混沌の円からは、妖怪《ようかい》やら鬼怪《きかい》やらが這《は》いずりだしてきた。そこで、俺は混沌の円に封印《ふういん》を施《ほどこ》し、村の連中は妖怪が出てこないように宝貝を持って、見張っているんだ」
殷雷は願月を顎《あご》で差した。
「こいつは?」
「……村の連中は、俺が混沌を浴びたもんだから妖怪の味方だと思っていやがる。
そこで、俺に向けて村の連中が差し向けたのが、この願月って訳だ。
ま、村の連中は妖怪を相手にした生活に飽《あ》き飽きしてるから混沌の円を消し去ってしまえば、宝貝を喜んで返してくれるだろうよ。俺の制流旗《せいりゅうき》も返すよ。
な、単純な話だろ」
豹絶の言葉に、殷雷と恵潤は大きく首を横に振《ふ》った。不思議に感じながら豹絶は付け加えた。
「おっと。その混沌の大帝が、どういう訳だか殷雷|刀《とう》の命を狙《ねら》っている。
逆に言えば、殷雷よ。あんたが大帝を倒《たお》す鍵《かぎ》なんじゃないのか」
殷雷はこめかみを押《お》さえて言った。
「そのご大層《たいそう》な混沌の大帝の名前は?」
「静嵐《せいらん》。静嵐刀だ。そいつにつきしたがうのが儀堂《ぎどう》という裏切り者で……どうした?」
殷雷は腕《うで》を組み、首を傾《かし》げた。
殷雷と恵潤の態度が和穂には理解出来た。和穂も静嵐の名には覚えがあったのだ。
時を同じくして造られた四振りの刀、殷雷刀、恵潤刀、深霜《しんそう》刀、そしてもう一振りが静嵐刀のはずだった。
和穂は、殷雷が恵潤と戦った時の、彼の辛《つら》そうな表情を思い出した。
武器として生まれた宿命《しゅくめい》ゆえ、仕方がないのかもしれないが、見知った友人と戦うのは辛い事に違《ちが》いない。
自分の言葉で殷雷を力づけられるか和穂には自信がなかった。
だが、黙《だま》っている事は出来なかった。
和穂は殷雷の肩《かた》に手を置いた。
「殷雷。知ってるよ。その静嵐刀も殷雷の知り合いなんでしょ?」
豹絶から彩朱を取り戻《もど》した塁摩が、呑気《のんき》に言った。
「静嵐なら、塁摩も知ってるよ」
深く思案したが、答えを見つけられなかったらしく、殷雷は静かに言った。
「静嵐か。
なんでよりにもよって、あのスットコドッコイが混沌の大帝なんぞを名乗ってる?」
もう一度、和穂は殷雷が恵潤と戦った時の辛そうな表情を思い出した。が、今の殷雷の表情は辛いというより呆《あき》れ顔に近い。
「へ?」
「へ? は、こっちだ和穂。人の肩に手を置いてどうする? まさか、静嵐と戦うのに俺が気後《きおく》れしてるとでも思ったんじゃあるまいな。
あの馬鹿め。よりによって、俺の命を欲《ほ》しがるとはどういう了見《りょうけん》だ!」
恵潤はクスリと笑う。
「だから言ったでしょ。あんまり静嵐をいじめちゃ可哀《かわい》そうだって。
いつも殷雷は、静嵐をぶん殴《なぐ》ってたじゃない。あれじゃ、恨《うら》みもかうわよ」
「ふざけんなよ! あいつの間抜《まぬ》けさのせいで、俺は何度か死にかけたんだぞ!
『この死地をくぐりぬけたら、こいつを殴り倒《たお》してやる』
俺はいつもそうやって、あいつの巻き起こした厄介事《やっかいごと》を切り抜《ぬ》けたんだ!」
「昔の話じゃない。欠陥《けっかん》宝貝の封印《ふういん》に封じられる前の話でしょ」
考え方を変えたのか、殷雷の顔には笑顔《えがお》が戻った。
「面白《おもし》れえ。
俺に逆恨《さかうら》みしてるようじゃ、殴り方がちょいと足りなかったようだな。
二度とそんな考えが浮《う》かばないように、徹底的《てっていてき》にぶん殴ってやる!」
恵潤が心配そうに言った。
「駄目《だめ》よ。あんまり傷《いた》めつけたら、可哀そうじゃない」
「恵潤よ。お前は何かというと静嵐の肩《かた》を持ちやがるな」
「あら、妬《や》いてるの? なんかこう、静嵐を見てるとさ、私が守ってあげなくちゃって感じがするのよ」
殷雷が冷静に指摘《してき》した。
「静嵐が鍋《なべ》の蓋《ふた》の宝貝か、箸置《はしお》きの宝貝とかならまだいいが、とてもじゃねえが、刀の宝貝に対して言われる言葉とは思えねえな」
誤解があると豹絶は感じた。
「待ってくれ! 奴《やつ》は混沌《こんとん》の大帝なんだぞ」
殷雷は取り合わない。
「混沌の大帝でも、静嵐なんだろ? だったらたかが知れてる」
「俺のまだらや、彩朱を見てもそう言えるのか!」
「……それもそうだな。でも、本当に静嵐刀なんだろ?」
「そうだ」
「なら大丈夫《だいじょうぶ》だ」
彩朱の後頭部の柔《やわ》らかい毛に、塁摩は頬《ほお》ずりした。
「混沌の大帝ってより、路地裏のひまわりって感じよね。静嵐て」
珍《めずら》しく願月が鋭《するど》い意見を述べた。
「人と宝貝の間に、どれだけ違《ちが》いがあるのか知らないが、人は変わるもんだよ。
その静嵐が、昔の静嵐であると限った訳じゃないだろ」
殷雷の顔に真剣《しんけん》さが戻《もど》る。
「判《わか》っている。油断しているつもりはない。
俺の命を狙《ねら》ってるのなら、こっちもそれなりの覚悟《かくご》で戦ってやるぜ」
恵潤がぼそりと言った。
「静嵐には、昔の性格のままでいて欲《ほ》しいんだけどね」
殷雷は言った。
「いいじゃねえの。命を狙おうなんて、乱暴な事をほざくぐらいが、武器の宝貝としちゃちょうどいいのかもしれんぞ」
混沌《こんとん》の円の中にも時間は存在した。
だが、外の世界のように、厳格《げんかく》な流れは存在せず、断片的な過去が入り交じっていた。
その中にいる者は、それが過去に起きた事を思い出しているのか、現実にこの瞬間《しゅんかん》に起きているのかを簡単には判断出来ない。
混沌の円の中で、過去と現在がドロドロと融合《ゆうごう》している。
もっとも、遡《さかのぼ》れる一番遠い過去は、混沌が開いたその瞬間に限られていた。
混沌の円の中で、静嵐《せいらん》は困《こま》っていた。
彼は現在の事のように、過去を思い出していた。
さて、困ったなあ。どうしようか? と、静嵐は思い悩《なや》んでいた。
かなりまずい状況《じょうきょう》なのは、充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していたが、実際にこの窮地《きゅうち》から自力で逃《のが》れるのはかなり絶望的であった。
まず、体がグニャグニャになっている。曲がったり、歪《ゆが》んでいるという話ではない。
粘土《ねんど》で造《つく》られた人形が、水の中で溶《と》けているのに似《に》ているが、それよりも少しややこしい。体がどれくらい原型をとどめているか、体と一緒《いっしょ》に、自分を照《て》らしている光も溶けているので判断出来ない。
赤い光の中で、赤いものを見ているようなものだった。
奇妙《きみょう》ついでに体は溶けているが、分解はしていない。形が変わっただけの話で、意識はハッキリしていて苦痛もない。
意識はハッキリしているが、体はハッキリしていない。腕《うで》を上げようとしてもどれが腕だかハッキリしないし、実際にグニャグニャの固まりが大きく引きつるような動きをするだけだ。
恐《おそ》らく、それぞれが腕の色々な部分なのだろう。
意識《いしき》と共に、五感のうち聴覚《ちょうかく》は完全に正常だった。視覚《しかく》も機能していたが、体が溶けてしまったせいで視界が三百六十度に広がっている。その為《ため》、頭が中々広い視界を理解してくれない。
静嵐が苦労しながら、視覚を操《あやつ》ると一人の人間の姿と、無数の鬼怪《きかい》の姿が見えた。
たった一人の人間は若い男で、この空間の中では、場違《ばちが》いな程《ほど》にこざっぱりした身なりをしている。
髪《かみ》の毛もキッチリと脂《あぶら》で固められていて、一歩間違えば神経質に見えそうだが、その蛇《へび》にも似た眼光は執念深《しゅうねんぶか》さを現しているようだった。
静嵐は、男の視線に嫌《いや》なものを感じた。こちらを値踏《ねぶ》みするような視線でもなく、さげすんでいるような種類でもない。
こういう類《たぐい》の人間が滅多《めった》に見せないであろう視線、すなわち崇《あが》めるような視線だ。
こ、この男は僕を崇め奉《たてまつ》っているのか? と、静嵐はとてつもない誤解が生まれているのを感じとった。
ともかく話してみようと静嵐は努力した。
『あの、こんにちは。僕の名は静嵐|刀《とう》』
途端《とたん》に、静嵐の体は沸《わ》き立ち、男と鬼怪たちの間に恐怖《きょうふ》が巻き起こった。
自分でやっておきながら、静嵐は呑気《のんき》に考えた。
これだけ訳《わけ》の判《わか》らない肉体になってしまったんだ、下手《へた》に動くとそれは迫力《はくりょく》があるだろうな。
青年はそれが命綱《いのちづな》とばかりに懐《ふところ》から、横笛《よこぶえ》を取り出した。黒鉄《くろがね》を思わせる、重い光りを放つ鉄製の横笛。静嵐は、あの笛も宝貝《ぱおぺい》であると予想を立てた。
静嵐の考えを知ってか知らずか、男は大きく頭を下げた。
「おお、これは偉大《いだい》なる大帝《たいてい》。ついにお目覚《めざ》めになりましたか!」
いかに呑気に構えた静嵐刀とて、その大帝と呼ばれているのが自分だと、すぐに気がつく。
あまりの誤解に、静嵐はめまいを感じた。
その途端《とたん》、静嵐の体から轟音《ごうおん》と共に稲妻《いなずま》が迸《ほとばし》った。
多分、ゴチャゴチャになった体の中の目の部分がめまいを起こすと、どういう理屈《りくつ》だか稲妻が走る体質になったのだろう。これでは気楽にめまいも起こせはしなかった。
『いや、僕《ぼく》はそういうのじゃなくて静嵐刀という』
沸き立つ静嵐の体、巻き起こる嵐《あらし》に、壮絶《そうぜつ》なる地響《じひび》きが広がった。
「おお! どうか怒《いか》りをお静め下さいませ、静嵐大帝!」
どうやら名前は知ってくれているらしい。自己紹介《じこしょうかい》をするだけで、天変地異を引き起こすのはあまり楽しくない。
下手にしゃべると、大騒動《おおそうどう》になるのか。静嵐はどうしようかと考えた。幸《さいわ》いにも、考えるだけでは異常な事態にはならない。
静嵐の沈黙《ちんもく》を怒りが静まった証拠《しょうこ》と考え、男は再び口を開く。
「私めは、儀堂《ぎどう》と申します。静嵐大帝の超越《ちょうえつ》した力に、平伏《ひれふ》す者でございます!」
この儀堂という人は酷《ひど》い誤解《ごかい》をしている。
こういう人に限って、事情がハッキリした途端に、『よくも騙《だま》してくれたな!』とかいって突《つ》っかかってくるのだ。
ともかく出来るだけ早く誤解を解かなければならないと、静嵐は焦《あせ》った。
が、下手に口をきくと、大騒ぎになる。実験をかねて、静嵐は出来るだけ静かに、短めの言葉を、ゆっくりと吐《は》いた。
『わ、が、な、は、せ、い、ら、ん』
やはりゴロゴロと地響きがした。が、地響きの裏には音階が見え隠《かく》れし、どうにか言葉の体裁《ていさい》をとってくれた。我ながら迫力《はくりょく》のある言葉だなと静嵐は感心した。
ともかくゆっくりと喋《しゃべ》る短い言葉だけが、どうにか通用する。
静嵐のもどかしさに比べ、儀堂の言葉は澱《よど》みなくスラスラと流れている。
「我《わ》が手にあります横笛《よこぶえ》は、宝貝、律令笛《りつれいてき》と申します。
能力は、人とは形の違《ちが》う意思を、人に理解させその逆を行う為《ため》の力を持ちます。
出すぎた真似《まね》ではございますが、この笛の力で鬼怪《きかい》に指示を出しております。
静嵐大帝の威《い》を借《か》りるような真似事《まねごと》をしておりますが、全《すべ》ては大帝の為を思っての事、どうかご容赦《ようしゃ》下さい。
つきましては、僭越《せんえつ》ながら私め儀堂は大帝の陰陽官《おんみょうかん》として、お仕《つか》えしたく存じます」
陰陽官ってなんだったっけ? 静嵐は記憶《きおく》を探《さぐ》った。天の意思を知るという意味で、確か本来は天気の予報官か何かだったっけ? でも、まさか天気の占《うらな》い師になりたいと僕に言ってるんじゃないよな。
つまり僕を天と仰《あお》いで、その補佐官《ほさかん》になりたいという意味なんだろう。
なんてこった。
『だから、誤解してるんだってば!』
混沌の円の中に、紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》が迸《ほとばし》り、氷の激流が流れ出る。静嵐の激しい言葉は、それだけで破壊《はかい》力を持っていた。
先刻と同じように、鬼怪と儀堂の顔には驚愕《きょうがく》の表情が現れた。もっとも、鬼怪にとって何が恐怖《きょうふ》なのか静嵐は知らなかったが、少なくとも喜《よろこ》んでいないのは確かだ。
「お気に召《め》しませんか!」
さあ、これでも僕だって武器の宝貝だ。あんまり使ってないが、一応|状況《じょうきょう》の分析《ぶんせき》能力だってあったはずだと、静嵐は考えた。
まず、ここにいるものの中で、全《まっと》うに意思の疎通《そつう》が出来るのはこの儀堂という人間だけだろう。
鬼怪の中にも意思の疎通を果たせる種類がいるかもしれないが、共通した認識《にんしき》があるとは限らないから、やはり儀堂が一番|信頼《しんらい》出来るとなる。簡単な話、文章は通じても鬼怪では固有名詞が通じない可能性があった。例えば鯖《さば》の話をして、鬼怪が鯖を知っている可能性なんて無に近いはずだ。
陰陽官でも何でもいいから、側《そば》にいてもらいたい。誤解が解ければ、この厄介事《やっかいごと》から抜《ぬ》け出す手助けをしてくれるかもしれない。
静嵐は静かに言葉を吐《は》く。
「よ、か、ろ、う」
「おお、これはこの儀堂、光栄至極《こうえいしごく》にございます」
軽い矛盾《むじゅん》を静嵐は感じとった。律令笛《りつれいてき》があるんだったら、こんな苦労をしなくても意思の疎通は可能なのではないか?
鬼怪《きかい》と意思の交換《こうかん》が出来るぐらいならば、簡単な話ではないか。
もしかして、儀堂は僕に対しては宝貝を使ってないのだろうか? そう考えて静嵐は一つ探《さぐ》りを入れてみた。
「ぎ、ご、ご」
「?」
わざと意味の無い言葉を呟《つぶや》き、理解に困《こま》った儀堂が宝貝を使うように仕向けたのだ。
我ながら鋭《するど》い考えに、静嵐は満足した。
首を傾《かし》げた儀堂は横笛《よこぶえ》に口を付け、軽やかに曲を奏《かな》でる。
言葉を使わない、音としての意思が静嵐の頭に響《ひび》く。
『いかがなされましたか、静嵐大帝』
よし、成功だ。今度はこちらの考えを読み取ってもらおう。
『いいかい。きみは誤解をしているんだ』
だが、静嵐がどれだけ考えても、儀堂は首を傾げたままだ。
儀堂はこちらの意思を理解出来ていない。
混沌《こんとん》の円の薄闇《うすやみ》を吹《ふ》き飛ばすような、強い光が弾《はじ》けた。静嵐が冷《ひ》や汗《あせ》を流したからだ。
冷や汗の理由はただ一つ、静嵐は、律令笛の欠陥《けっかん》を薄々と感じとったのだ。
人間と意思の形の違《ちが》うもの、それが例《たと》え鬼怪であれ、律令笛は疎通《そつう》をはかる。
が、意思の形が同じもの同士の疎通に関しては機能しないのだ。
牛に対して律令笛を使えば、牛の意思、例えば『草が食べたい』を報《しら》せ、『草なら向こうだ』という意思を伝えられる。
が、黙《だま》っている人間の意思は読み取れないのだ。
意思の疎通が可能ならば、宝貝を使う必要はなし。ゆえに、元からその機能はない。
かとも考えたが、儀堂の笛の音を意思として静嵐は理解した。やはり、機能はあるが作動していない、すなわち欠陥だ!
「静嵐|殿《どの》! 怒《いか》りをお静め下さい! 光に弱い鬼怪《きかい》も大勢《おおぜい》居《お》りまするゆえに!」
判《わか》っちゃいるが、中々、自分の意思で冷や汗を止めるのは難《むずか》しかった。
ゆっくりとまばゆい光は消滅《しょうめつ》していく。
大体、体の自由が利《き》かないだけならともかく、冷や汗やめまいを起こしただけで、こんな騒《さわ》ぎが巻き起こるのか? 静嵐はその部分をもう一度考えようとした。
問題が判らなければ解決のしようもない。
まず原因不明の何かが起きた。
その為《ため》に僕の体はグニャグニャの目茶苦茶《めちゃくちゃ》になってしまった。その癖《くせ》、意識《いしき》はしっかりしているし、基本的には苦痛もない。破壊《はかい》はしておらず、ともかく何かが歪《ゆが》んでいるのだろう。
では一体、どうしたんだ? と、静嵐の思考はそこでピタリと止まった。
そういや、さっきから何でこんなに鬼怪がウヨウヨしているんだ? 仙界《せんかい》の魔窟《まくつ》や伏魔殿《ふくまでん》ならともかく、ここは人間の世界のはずじゃないか。
静嵐の止まった思考は、坂道を転げ落ちようとする牛車《ぎっしゃ》のように、ゆっくりと確実に動き出していった。
どこかで混沌《こんとん》へ通じる穴が開きっ放しになっているんだ。
……どこで開いているのかな?
考えるまでもない。自分の体が混沌へ通じる穴と一体化しているのだ。その影響《えいきょう》で体はグチャグチャになっている。混沌へと通じる穴のド真ん中に僕はいるんだ!
混沌は変化を生み出すが、それがすぐに破壊に繋《つな》がる訳ではないと、静嵐は本能的に知っていた。
『大変だ!』
静嵐の声で闇《やみ》は弾《はじ》け、虹色《にじいろ》の風が吹《ふ》く。
「ははあ! 静嵐大帝。
お怒《いか》りはごもっとも。我等《われら》を封《ふう》じ込める、にっくき封印は、必ずや破ってみせましょう!」
良かった。混沌の穴が広がらないように、外部から封印をしてくれているのか。
ホッ、という安堵《あんど》の溜《た》め息《いき》を静嵐は吐いたのだが、溜め息のせいで巻き起こる地響《じひび》きは
怒りの表現にしか見えない。
「どうか、お静まり下さい!」
刀の宝貝としての機能が、どこかで僅《わず》かに食い違《ちが》ったのだ。静嵐は自分の身に起きた事をゆっくりと理解していった。
糸巻き車の上で麻糸《あさいと》が絡《から》まるように、車軸《しゃじく》の歪みが車を崩壊《ほうかい》へ導《みちび》くように、わずかな食い違いのせいで、混沌の穴が開きっぱなしになったのだ。
混沌、すなわち仙術《せんじゅつ》の源である力と、自分の肉体がこんがらがっているのだ。下手に体を動かせば、仙術もどきが意思とは関係なく勝手に発動する。
それがさっきからの光や地響きの正体だ。
そうか。
静嵐は一つの事実に辿《たど》り着き、生唾《なまつば》を飲み込みそうになったが、すんでの所でどうにか我慢《がまん》した。
大体、宝貝《ぱおぺい》が作動に失敗したからといってこんな危険《きけん》な状態になるなんて、静嵐は聞いた覚《おぼ》えはなかった。宝貝は混沌《こんとん》に対して、神経質なまでに安全なように設計されている。
その証拠《しょうこ》に、こんな混沌の穴の中でも儀堂は律令笛《りつれいてき》の力で、平気な顔をしている。
律令笛が混沌の影響《えいきょう》を及《およ》ぼさないように、儀堂を守っているのだ。
静嵐は必死に考え始めた。
つまり、混沌に対する安全装置の不確実さが、自分の欠陥《けっかん》なのだ。混沌から身を守るどころか、自分のせいで混沌を暴走《ぼうそう》させてしまったのだろう。恐《おそ》らく、刀から人間、もしくは人間から刀の形態への変化の最中に、ちょっとした間違《まちが》いが起きて、この姿になってしまったのだ。
殷雷《いんらい》は、僕の欠陥を『全《すべ》て』だと言い張っていたが、ちゃんと別に致命的《ちめいてき》な欠陥はあったんだ。今度会ったら、そこらへんをハッキリさせてやろう。
それはさておき、一体どうしたらこの状況《じょうきょう》を打破出来るのだろうか?
混沌の暴走の原因は、宝貝としての機能のほんのちょっとした、食い違いが理由ではないか? もしも、本格的な動作不良なら、こうやってグニャグニャになりながらも、体を保ったり、思考を続けるのも不可能だろう。
状況は厄介《やっかい》だが、元に戻《もど》すのは、比較的《ひかくてき》に簡単なはずだと、静嵐は半《なか》ば祈《いの》るような気持ちになった。
宝貝を本来の姿に戻すには、やはり例のアレしかない。
ぶん殴《なぐ》って気絶させるんだ。
が、困った。目の前でひざまずいている儀堂は、間違っても僕を殴りはしないだろう。
同様に、鬼怪《きかい》も僕に害を与《あた》えはしないはずだ。
誰《だれ》か、僕の置かれている状況を正確に察してくれて、手を打ってくれる宝貝が必要だ。
静嵐の頭の中を数体の宝貝の名が流れていった。
この状況を、外部から見て冷静に分析《ぶんせき》するのは無理だろう。ならば、直感なり本能で察してもらう必要がある。
自分に近い宝貝ならば、この状態を理解してくれるかもしれない。いや、してくれるだろう。してくれなければ困る!
自分を落ち着かせながら、静嵐は考えをまとめた。
恵潤刀《けいじゅんとう》、深霜《しんそう》刀、殷雷刀。可能性が高いのはこの三体だ。この三体ならば、現在の窮地《きゅうち》を理解してくれよう。
恵潤の名を思い、静嵐は複雑な気持ちになった。恵潤には、色々と優《やさ》しくしてもらっている。何かと失敗するにつけ、僕を庇《かば》ってくれた。
この中では一番信頼《しんらい》出来るが、これ以上|迷惑《めいわく》をかけたくない気持ちもあった。
単純に混沌《こんとん》を暴走させただけなら、まだしも、儀堂という少しややこしそうな人間も絡《から》んでいる。やはり、恵潤には頼《たよ》ってはいけない気がした。
静嵐は次の名を思い浮《う》かべた。
深霜刀。……全然|駄目《だめ》だ。論外だ。僕がこんなへまをしたと知ったら、大笑いするだろうし、助けを求めたら、面倒《めんどう》な事に巻き込むなと怒《いか》り、手を貸してくれそうもない。
そして、殷雷刀。
深霜刀と、反応は似たようなものかもしれない。
だが、奴《やつ》は笑おうが、激怒《げきど》しようが協力はしてくれるだろう。
どうせ協力してくれるのなら、喜んで協力してくれればいいのに、悪態《あくたい》を尽《つ》きつつ、力は貸すような性格をしている。
やはり、殷雷刀に助けを求めた方が良さそうだ。
静嵐はゆっくりと、言葉を吐《は》いた。
「いん、らい、とう」
「いんらいとう?」
儀堂には、静嵐の言葉の意味が理解出来ない。
大帝のお言葉《ことば》である。
さぞや重要な意味があるはずだ、が知らない名では意味が判《わか》らない。
儀堂は強く、律令笛《りつれいてき》を握《にぎ》った。
『律令笛、殷雷刀とは?』
途端《とたん》、律令笛から殷雷刀に関する簡単な情報が頭の中に流れてきた。
人とは思考の形が違《ちが》うものとの意思の疎通《そつう》を図《はか》る宝貝、律令笛である。
律令笛の中に保存される情報に、該当《がいとう》する物があれば、それを補足的に使用者に伝える機能があった。
海を知らぬものには海を、桜を知らぬものには桜の姿を教えられた。
が、莫大《ばくだい》な種類の情報を持つ律令笛であったが、一つの情報の量はたかが知れていた。
儀堂が知り得たのは、殷雷刀が刀の宝貝である事、そして刀の姿と人間の形態時の姿、そして殷雷刀と静嵐刀の基本設計が、近いというだけであった。
しばし考えた儀堂は大きく、首を縦に振《ふ》った。
「ははあ。判りました、静嵐大帝。
この殷雷刀めの命をお望《のぞ》みであらせられるか! 大帝と基本設計が近いとは、それだけ脅威《きょうい》になる可能性がありますからな」
『ち、違《ちが》う!』
ドンガラガッシャンと、壮絶《そうぜつ》な稲光《いなびかり》が巻き起こった。
「おお! そこまで大帝の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れる宝貝とは、何としてでも、その命を奪《うば》ってみせましょう!」
『そうじゃない! 儀堂さん! 殷雷を連れてきてくれるだけでいい! 破壊《はかい》しちゃ本末転倒《ほんまつてんとう》なんだってば! 出来るだけ機嫌《きげん》を損《そこ》ねないように連れて来て欲《ほ》しいんだ! そりゃまあ怒《おこ》っていても力は貸してくれる奴《やつ》だけどさ、あんまり迷惑《めいわく》かけないように。
頼《たの》むよ、勘違《かんちが》いしないでくれ!』
とてつもない誤解に、静嵐は必死になって否定を繰《く》り返したが、それは正に仙術《せんじゅつ》の奔流《ほんりゅう》とでもいうべき、凄《すさ》まじい破壊《はかい》を巻き起こしただけであった。
いかに鬼怪《きかい》といえども、小物はその衝撃《しょうげき》を受けて混沌《こんとん》の彼方《かなた》へと消し飛んでいく。
「お、お静まりを静嵐大帝。必ずや、必ずや殷雷刀を!」
否定の言葉は逆効果だ。
もしもここで『ち、が、う』と喋《しゃべ》った所で、「では、他の誰《だれ》の命をお望みで?」となるに決まっていた。
僕を混沌の大帝と勘違いしているんだ。誰かを大人しく連れて来て欲しがってるなんて、儀堂は考えてもいないだろう。
やむなく、静嵐は沈黙《ちんもく》した。
「……しかしこの広い世界、殷雷刀を探すのも骨でありますな。
大帝と基本設計が近いのならば、もしかして気配も近いのかもしれませんね。
感覚の鋭《するど》い鬼怪を派遣《はけん》し、捜《さが》し出してみせましょう。
出来るだけ早急に、殷雷刀の屍《しかばね》を静嵐大帝に捧《ささ》げてみせます」
儀堂の言葉が静嵐の聴覚を虚《むな》しく、通り過ぎていった。
が、ともかく殷雷をこの厄介事《やっかいごと》に巻き込むのには成功したようだ。
願わくば、儀堂が操《あやつ》る鬼怪の群れを乗り越《こ》え、殷雷がここに来て欲しい。
もはや、それしか手はなく、自分に打てる手はたったのこれだけしかない。
混沌の円の中で、過去と現在はドロドロと融合《ゆうごう》していた。
静嵐はそれが過去を思い出しているだけなのか、現在起きている事なのか判断出来なかった。
混沌の円の中には、過去と現在がある。だが、未来は現在になるまで存在しなかった。
ユラユラと虚《うつ》ろな気分で静嵐は、殷雷の到着《とうちゃく》を待っていた。
夜が明けるか明けないかの内に、宿を出た和穂《かずほ》たちであったが、豹絶《ひょうぜつ》の姿は人通りの少ない早朝であっても、かなり目立《めだ》っていた。
顔には縞《しま》があり、その片手には派手《はで》な旗《はた》が握《にぎ》られているのだ。
だが、とうの豹絶は気にしていなかった。体中の縞を動かさない限り、異様《いよう》で目立ちはしたが、化け物だと騒《さわ》がれる心配はなかったのだ。
「夕べの、娘《むすめ》と子供はどうしたんだ?」
恵潤《けいじゅん》と塁摩《るいま》の行き先を尋《たず》ねる豹絶に、殷雷《いんらい》は説明した。
「恵潤は、ちょいと体が本調子じゃねえし、塁摩はアテにするには、危なっかしい」
「……他には戦力はないのか?」
「静嵐《せいらん》ごときにどうして、大騒《おおさわ》させねばならんのだ」
歩きながら豹絶は、袂《たもと》の中の彩朱《さいしゅ》をボンボンと叩《たた》いた。
「まあ、口で言っても信じられないなら、自分の目で確かめてもらうしかないな」
ゴキゴキと首の骨を鳴らし、願月《がんげつ》は和穂に礼を言った。
「いやあ、助かりましたよ。あのまま縛《しば》られてたら、只《ただ》の泥棒《どろぼう》にしか見えませんでしたからね」
「肩は痛くないですか?」
「大丈夫《だいじょうぶ》です。これでも鍛《きた》えてますからね」
殷雷は横目で願月をにらむ。
「言っておくが、本当にお前らを信じてる訳じゃねえんだからな」
けけけと豹絶は笑う。
「ま、そりゃそうだろ。怪《あや》しいったらありゃしないもんな」
「ふん。怪しすぎて、疑《うたが》うのも馬鹿らしい。昨夜の化け物にしろ、お前の縞々にしろ、俺《おれ》らを信用させる為《ため》に使う芝居《しばい》の種にしちゃ、常軌《じょうき》を逸《いっ》してる」
ぶっきらぼうな殷雷の言葉に、和穂は反論した。
「殷雷、失礼でしょ。
二人とも悪い人じゃないよ」
「……お前にどれだけ人を見る目があるってんだかね」
言葉とは裏腹に、殷雷は豹絶を疑ってはいなかった。
豹絶が混沌《こんとん》を浴びる事によって、身に着けた、『すり抜《ぬ》け』の能力。すり抜けるまでの隙《すき》をつけば、恐《おそ》れるに足りないが、万が一すり抜ける事が可能であると知らなければ、確実に致命的《ちめいてき》な隙が出来たであろう。
豹絶が殷雷を倒《たお》したければ、自分の能力を隠《かく》したまま、行く手に立ちふさがるだけで良かったのだ。
だが、豹絶はそうしなかった。
全《すべ》てが信頼《しんらい》させる為の芝居である可能性も考えないではなかったが、そんな事をして一体どうするというのだ。
俺を利用するつもりならば、面白《おもしろ》い、やってみろという気分だった。餌《えさ》として静嵐をぶら下げるのも面白いではないか。
それよりも、殷雷は願月の正体を探《さぐ》り兼《か》ねていた。
強いのか弱いのか、さっぱり判《わか》らない。豹絶を狙《ねら》っているのは本当のようだが、つかみどころがなさすぎる。
和穂も願月が悪人でないと、感じても、だからどういう人かと質問されれば答えに困《こま》ったであろう。
「願月さん。どうして豹絶さんの命を狙ったりしたんです?」
「環樹老《かんじゅろう》の命令です。豹絶は化け物です。災《わざわ》いをなさないうちに、倒すのが環樹老の意思なのです」
豹絶は刺客《しかく》を見てニヤリとする。
「そうさ。俺は化け物で、彩朱は猫《ねこ》だ。でもな、村の連中に敵対する気は毛頭ない。
信用なんてものは、『信用しろ』という言葉で得られるもんじゃない。
願月よ。環樹を裏切れ」
「なんだって?」
「驚《おどろ》くな。別に俺の側について環樹を殺せなんて言いやしねえ。ただ、俺や殷雷さんたちと一緒《いっしょ》に行動して、協力してくれないか。真実は自分の目で見極《みきわ》めるもんだ。
環樹も悪人じゃねえが、個人の意思を無視しやがるからな。それだけ自分の判断に自信があるんだろうが」
願月は返答に困った。だが、和穂はその願月の顔を見ても悩《なや》んでいるようには見えなかった。
豹絶は言った。
「図々《ずうずう》しいとは思うが、願月に怪吸矛《かいきゅうぼう》を返してやってくれんか。
あんな妙《みょう》な技だが、一応、矛術には違《ちが》いない。少しは戦力になるさ」
殷雷は少し考えた。
「和穂。怪吸矛を渡《わた》してやんな」
「! そりゃ、全部の結末がついた時に返してくれるんだったら構《かま》わないけど」
願月は嬉《うれ》しそうに首を振《ふ》った。
「ええ、そりゃ静嵐を倒《たお》した暁《あかつき》には、喜んでお返ししますよ」
和穂は腰《こし》の断縁獄《だんえんごく》を外し、中から怪吸矛を取り出し、願月に渡した。
ボンヤリとした願月であったが、さすがに矛《ほこ》を持つ姿はしっくりとしていた。
豹絶はあらたまった声で、和穂と殷雷に言った。
「俺らの事を信用してくれてありがとうよ。
本当に恩に着る」
「ふん。お前らをちょいと泳がせて、状況《じょうきょう》を把握《はあく》するだけだ。
それに裏切るなら、どうやって裏切るか興味《きょうみ》があるな」
「ま、殷雷さんならそういうと思った」
殷雷の声に真剣《しんけん》さが宿る。
「信用しているというなら、俺は静嵐を信用しているのさ。
こんな怪《あや》しく無茶苦茶《むちゃくちゃ》な話なんか、普段《ふだん》の俺なら信用しない。だが、静嵐の大馬鹿が絡《から》んでるとなると、無茶苦茶加減が大きければ大きいほど信用出来るんだよ」
「一体、私は何をしているのよ!」
ここ数日、柴陽《さいよう》はイライラとしっぱなしだった。
この村の、他の宝貝《ぱおぺい》所持者を狙《ねら》おうとしても常に組で行動し、なかなかつけいる隙《すき》がありはしなかった。
それだけならまだ良かったが、柴陽は一日に一度は恐波足《きょうはそく》を、確認《かくにん》に来なければ気が済まなくなっていたのだ。
恐波足という名の案山子《かかし》の宝貝。その案山子たちが、混沌《こんとん》の円を囲み、呪文《じゅもん》のような言葉を吐《は》き続ける限り、この封印《ふういん》は決して破れはしない。
封印の無事を確認しなければ、一日中落ち着かないのだ。
何度も村から立ち去ろうと考えたが、封印の確認が出来なくなるのは、耐《た》えられなかった。
柴陽の心の奥底《おくそこ》では、しっかりと理解はしていたが、彼女が認めたくない真実がたった一つあった。
もしも、封印を確認し破れていた場合、自分にはわるあがきするだけの力もない。
封印が消滅《しょうめつ》すれば、この世は鬼怪《きかい》に包まれるかもしれないのだ。
村の連中の宝貝だけで押《お》さえきれる保証がどこにあるのか。
それでも、確認せずにはいられない。
それは無意識の内に、彼女を苛立《いらだ》たせる結果となった。
今日もまた、柴陽は面倒《めんどう》そうに髪《かみ》の毛をかきあげながらも、丘の上にやってきた。
今日もまた、案山子たちは混沌の円の中に恐怖《きょうふ》を撒《ま》き散《ち》らし、鬼怪たちを追い払《はら》っていた。
「ああ、もう。だからどうしたっていうのよ! こんな事を日課にしてちゃ、どこにも行けないじゃないのよ!」
愚痴《ぐち》を零《こぼ》しながらも、その心の奥では無事な結界に安心感を覚える柴陽であった。
長いは無用とばかりに、女は結界に背を向けた。
『うぬらの苦痛が我の糧《かて》なり』
声と呼ぶにはあまりに虚《うつ》ろな物だ。誰《だれ》の囁《ささや》きかと柴陽はゆっくりと振《ふ》り向いた。
案山子《かかし》たちは一向に気にも留めず、己《おのれ》の使命を全うしていた。
『なぜ、牛や豚《ぶた》ではなく人の子であるか? その意味は』
得体の知れない寒気が柴陽を襲《おそ》う。混沌《こんとん》の円から何かが這《は》いずり出すのかと身構えたがやはり、変化はない。
たぶん、案山子の歌のような奇妙《きみょう》な呪文《じゅもん》だろうと、柴陽は無理やりに納得《なっとく》した。
が、断片的だった言葉はよりか細く、その代わりに抑揚《よくよう》の幅《はば》を大きくし歌の形を取り始めた。
案山子は案山子たちの呪文を歌い続けている。案山子の歌ではない。
歌からは歌詞が聞き取れなく美しい旋律《せんりつ》だけが柴陽の耳を通る。
柴陽の背骨が、一瞬《いっしゅん》ビクリと跳《は》ねた。
そして、丘の上の案山子に向かい、一歩また一歩と進んでいく。
途切《とぎ》れなく軽《かろ》やかで、そして小さな歌は柴陽を貫《つらぬ》き続けた。
歩む柴陽の足がガクガクと震《ふる》えだしたが、それでも歩みは止まらない。
死人のように柴陽の顔から血の気が引いていった。
青ざめた時には、自分の体からは本当に血が消えたのかもしれない。そして、その消えた血を啜《すす》る化け物の幻《まぼろし》を、柴陽は一瞬見たと感じた。
また一歩、案山子へと近寄る。
柴陽の恐怖《きょうふ》と無関係に、案山子は案山子で円の中に恐怖を送り続けていた。
自分が何をしようとしているか、柴陽はとっくの昔に理解していた。歌を聞いた時から結末は判《わか》っていたのだ。
青ざめた細い指が、一体の案山子に触《ふ》れ、そして握《にぎ》りしめる。
恐波足《きょうはそく》は誰《だれ》の宝貝か? かつては、柴陽、続いては豹絶《ひょうぜつ》。そして再び柴陽の物へと返った。
柴陽は一気に、恐波足を引き抜《ぬ》いた。
一瞬|遅《おく》れ、分身の案山子たちの姿は消滅《しょうめつ》した。
恐波足は、柴陽の命令により機能を停止した。
このままでは、混沌《こんとん》の円から鬼怪《きかい》が溢《あふ》れ出す! 柴陽の恐怖は別の意味で裏切られた。
真っ黒な円の中から、一人の青年が浮《う》かび上がった。
儀堂《ぎどう》であった。
儀堂は柴陽の頭の先から爪先《つまさき》まで、不思議そうに見つめた。
「恐波足はいい宝貝だ。
使い方によれば、こんなに便利なものはないかもしれん。
だが、恐波足は事実、我等《われら》の脅威《きょうい》であったし、再び脅威になる可能性もある。
ならば、破壊《はかい》するのが得策なのだ。理解出来るな、女よ」
儀堂の懐《ふところ》から、まるで短刀を繰《く》り出すように律令笛《りつれいてき》が取り出され、そのまま恐波足の軸《じく》をへし折った。
ガチガチと柴陽の歯が恐怖《きょうふ》に鳴った。
少し困った顔をしながら、儀堂は言った。
「恐《おそ》れる必要はない。我等と共に行こうではないか、娘《むすめ》よ。
この封印《ふういん》を解いてくれた礼ははずんでやろう。
静嵐大帝《せいらんたいてい》ある限り、貴様にも永遠の命を与《あた》えるというのはどうかね?
どうせ、その手の見返りを期待して、結界を解いたのだろう?」
柴陽は混乱した。この男の術で、自分が結界を解いたのではないのか? ならばどういう意味だ。
儀堂は柴陽の出方を窺《うかが》っていた。
「正直《しょうじき》、無数の鬼怪を解放しても、それほど効率はよくないんだ。
村の連中たちは宝貝を持っているからな。
宝貝は鬼怪に簡単に打ち勝つ力があるんだよ。
では、我等と共に行くぞ!
悪いが、きみには人間ではなくなってもらうが、それぐらいの覚悟《かくご》は当然あるんだろうね?」
答えを待つ儀堂ではなかった。
恐怖に凍《こお》り付く柴陽の前で、儀堂は軽く横笛《よこぶえ》を吹《ふ》いた。
恐《おそ》ろしく短い曲が終わった途端《とたん》、儀堂の足元から一羽の小さな鳥が羽ばたいた。
雀《すずめ》ぐらいの大きさの小さな鳥で、その羽はどこか蝶《ちょう》を思わせた。
深い海の色をした鳥は、柴陽の肩《かた》に突撃《とつげき》しそのまま体内にもぐり込んだ。
たまらず、柴陽は恐波足を手放したが、悲鳴は出なかった。
悲鳴の代わりに柴陽の背中から二|対《つい》の翼《つばさ》が生えた。
「美しさで言えば、鳳凰《ほうおう》が一番なんだろうが君も中々《なかなか》美しい姿になるぞ。
本質は全然|違《ちが》うが、お前には大鵬《たいほう》になってもらう。本物は完全に生き物だが、きみの場合は三割ぐらいしか生き物ではないからね。後は鉱物やらなんやらだ」
二対の翼は派手《はで》な色ではなかった。どこにでもいる鳶《とび》や梟《ふくろう》のような茶色を基調にした色だった。
が、儀堂の言葉に嘘《うそ》はなく複数の茶色が絡《から》み合った、独自の艶《つや》が存在した。
美しい翼はズルズルと伸《の》びていく。
柴陽の恐怖《きょうふ》は臨界《りんかい》を越《こ》えた。自分の身長の数倍の長さがある翼が視界の中に入った。
変容がそれだけですむはずがないと、柴陽は妙《みょう》に冷静に感じた。
予測通り、自分のうなじからワサワサと羽が生えていくのを柴陽は感じた。
「か、環樹老《かんじゅろう》! 大変です!」
自宅の寝台《しんだい》で寝《ね》ていた環樹老は、青年の大声で叩《たた》き起こされた。
「どうした?」
全《すべ》ては覚悟《かくご》の上の話。いつかは封印《ふういん》が破れる時が来ると環樹は確信していた。
後は全力を尽《つ》くすしかない。鬼怪《きかい》に食い殺されるもまた人生か。
「混沌《こんとん》の円の封印が破られたようです!」
「……判《わか》った。宝貝《ぱおぺい》を持っている連中は、ともかく鬼怪の退治を優先させろ。
強いのに構うな。数を優先させろ。弱い奴《やつ》でも村から出られたらお手上げだ。
それで、鬼怪は何百|匹《ぴき》ぐらい出た?」
「一匹です!」
「なんだと!」
「一匹ですってば。とてつもなくでかい鳥みたいな奴が一匹だけで、丘を食ってます!」
「なんじゃ、そりゃ!」
青年の言葉の意味が、環樹には理解出来なかった。
いかにでかくとも、一匹の鬼怪で何が出来るというのか? 鬼怪、妖怪《ようかい》が恐《おそ》ろしいといってもそれは対抗《たいこう》する手段がない時の話だ。
宝貝がある限りはある程度、宝貝を武器として対抗が可能だ。
もしも、宝貝を鬼怪の立場から打ち崩《くず》すには、数を頼《たの》みにするしか手はあるまい。
報告を聞いている余裕《よゆう》が、環樹にはなかった。この目で見て確かめるのが一番正確に違《ちが》いない。
凝命管《ぎょうめいかん》を片手に、環樹は家を飛び出した。
静嵐は、儀堂は何を企《たくら》んでいやがる?
環樹が丘に到着《とうちゃく》した時、村の宝貝所持者は既《すで》に殆《ほとん》どが集まっていた。
そして、目の前にいる異形《いぎょう》の鳥を攻《せ》めあぐねていた。
それは確かに鳥であったが、どの鳥に似ているか、環樹老とて判《わか》らなかった。
背中からは巨大《きょだい》な二|対《つい》の翼《つばさ》が生えている。一対が主であるのか、もう片方よりもガッシリと大きかった。
翼の骨格はコウモリを思わせるものがあったが、優雅《ゆうが》な羽《はね》に包まれている。
あれでは空を翔《と》ぶ役には立つまいと、環樹が結論を出しかけた時、優雅な羽の奇妙《きみょう》な動きに気がついた。
羽は羽そのものが、羽毛というより精密な器官であった。骨格の動きに合わせて羽が動くのではなく、羽は羽との組合せにより自由な翼の形をとる事が出来るようだ。
鬼怪《きかい》を相手に常識を当てはめる無意味さを環樹も知っていた。
その翼と羽に圧倒《あっとう》されたが、よく見れば、この鬼怪と鳥との共通点は翼だけなのかも知れない。今の姿は丁度《ちょうど》、犬が座《すわ》っている恰好《かっこう》に似ていた。踵《かかと》が異様に長い、犬類独特の足を持っている。
形以上に環樹たちを圧倒するのは、その大きさだった。
鬼怪は丘をついばんでいたのだ。
今まで長い間、監視《かんし》を続けていた混沌《こんとん》の円は既《すで》に抉《えぐ》られ、消えていた。
混沌の円はあの鬼怪の中にあるのだ。
儀堂の企《たくら》みの一部を環樹は理解した。儀堂は混沌の円を移動出来るようにしたのだ。
環樹の到着を知った武器を持った十数人の宝貝所持者が指示を仰《あお》ぐ。
「環樹老。一体あれは!」
我に返り、環樹は怒鳴《どな》る。
「かまうか! ちょいとでかいが、的に当てやすくていいだろ! 宝貝を使えば、鬼怪と戦うのは造作もない事だ!」
十数人の宝貝所持者は、手の中の宝貝を強く握《にぎ》りしめる。
環樹の到着を待ち兼《か》ねていたのか、鬼怪は顔をこちらに向けた。
「やっと来たか、環樹め。今までは色々と我等《われら》の邪魔《じゃま》をしてくれたな」
鬼怪から響《ひび》く儀堂の声に、環樹は言い返した。
「鬼怪に食われたのか?」
「食われるという表現は当たっているが、こいつはそれほど生きている者ではない。者であり物でもある。
すなわち、生きた乗り物だ。体内にいるが消化される訳でもない。こいつの体内はある種の洞窟《どうくつ》みたいなもんだ」
環樹は煙管《きせる》から煙草《たばこ》を吸った。
「ほう。やっぱりお前は利口な男だ。
その鳥で飛んで逃《に》げようという寸法なのかい? これだけの宝貝に包囲されてるんだ。
死にものぐるいで逃げてくれよ。それだけでかい鳥なんだ、そう簡単には飛べまいて」
余裕《よゆう》を見せながらも、環樹は考えていた。もし空を飛ばれたら、どう手を打つべきか?
飛び立つまでの隙《すき》に、なんとか取りつければ大丈夫《だいじょうぶ》であろうが果たして可能だろうか。
が、儀堂の狙《ねら》いはそこにはなかった。
「いいや。逃げはしない。今までの借りはきちんと返させてもらう」
「面白《おもしろ》い。
よし、あの鬼怪《きかい》に一斉《いっせい》に仕掛《しか》けるぞ」
儀堂は言った。
「鬼怪、鬼怪とほざいているが、この大鵬《たいほう》は確かに鬼怪だが、元は人間だ。
覚えはないか?」
宝貝の使い手たちの間に、軽いざわめきが走った。
この鬼怪と戦うのを躊躇《ためら》わさせたのは、その巨大《きょだい》さだけではなかったのだ。
彼らを押《お》し止《とど》めたのは、この鬼怪の持つ雰囲気《ふんいき》が妙《みょう》に人間じみていたからだった。
姿形は全く人とは違《ちが》う。だがそれでいて、妙に人間|臭《くさ》い仕種《しぐさ》が見られた。
舌打ちをしながら、宝貝の所持者たちは吐《は》き捨てるように言った。
「ちっ、人質か!」
ここが肝心《かんじん》だとばかりに儀堂は説明を始めた。
「そうだ。あまり見ない顔だったのでよそものだろう。一人の女に鬼怪を取りつかせ、この大鵬の形にしている。
意識は完全に鬼怪のものであり、その鬼怪は私の命令に従う。
さあ、お前らの宝貝でこの鬼怪を殺すのは手間ではあるが可能かもしれん。
が、鬼怪を殺すのは、すなわち人間を殺す事になるのだぞ。
それでも構わないのか!」
宝貝の所持者たちの動きがピタリと止まった。
鬼怪の虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》の奥《おく》では、儀堂が勝ち誇《ほこ》った笑《え》みを浮《う》かべているのか。
無表情だった環樹は、唐突《とうとつ》に笑い出した。
「ほう、面白い。人質だと?」
「そうだ。こっちの方が、無駄《むだ》に鬼怪を操《あやつ》るよりも余程《よほど》、効果的だろう。
人に見えぬから人ではないと、自分に嘘《うそ》はつくなよ。
鬼怪の中にある、人間としての同じ生き物の要素は、本能的に感じるはずだからな。人ではないと見《み》え透《す》いた言い逃《のが》れもよせよ。万が一、静嵐大帝《せいらんたいてい》が倒《たお》れる事があれば、この女は元に戻《もど》れる。
絶望的だが、絶対に手遅《ておく》れでもないんだ。助かる見込みも皆無《かいむ》ではない」
環樹の笑いは止まらない。
「ああ、そうだろうよ。人間であるどころか人間であると言われれば、一体、どこのどいつであるかも、なんとなく判《わか》る。
この数日、村の中をうろついていた柴陽《さいよう》とかいう女なのだろうな。
鬼怪と化しても、雰囲気が残っていやがる。
それより、儀堂。
俺《おれ》はお前を見損《みそこ》なったぞ。
この俺に人質が通用すると思われたとは、心外でもある。
そうか、その鬼怪《きかい》は人なのか? だが、だからどうしたというんだ。鬼怪をこの世にばら蒔《ま》かぬ為《ため》の犠牲《ぎせい》となり死んでもらおうではないか」
今までの中で一番大きなざわめきが、宝貝所持者の間に巻き起こる。
ざわめきを吹《ふ》き飛ばすような声で環樹は叫《さけ》んだ。
「うろたえるな! 我等《われら》の使命を何と心得ているか!」
「し、しかし環樹老!」
「何を今更《いまさら》驚《おどろ》く!
豹絶の命を狙《ねら》った時から、俺はこの使命を人命より優先させるべきだと、覚悟《かくご》を決めたのだ。
いいか、命令だ。あの鬼怪を殺せ!」
起こるのはざわめきだけで、鬼怪に挑《いど》み掛《か》かるものはいなかった。
「環樹老! その命令には従《したが》い兼《か》ねます。我等の使命は人の為。その為に人の命を犠牲にしては」
「かっ! ほざくな! これが最善の手段なのだぞ!」
「やれやれ、敵も味方もろくな奴《やつ》じゃねえって訳だ。救われない話だねえ」
道服の娘《むすめ》は、心の底から溜《た》め息《いき》を吐《つ》き、言葉を続けた。
「豹絶よ。
お前の苦労がちょいとは判《わか》ったぜ」
道服の娘の片手には、殷雷刀《いんらいとう》が握《にぎ》られていた。娘の言葉は、娘の口を借り、殷雷刀がしゃべった言葉だった。
和穂《かずほ》の隣《となり》の豹絶が答えた。
「前はもう少し、ましな爺様《じいさま》だったが、精神的に参《まい》ってきたのかもな。なんせ激務なのは本当なんだから」
珍《めずら》しく願月《がんげつ》は慌《あわ》てていた。
「あれが柴陽だって! 柴陽も豹絶や彩朱《さいしゅ》みたいに、厄介《やっかい》な体になったのかい?」
鳥の鬼怪《きかい》は、絞《しぼ》るような声を出した。
「その刀は殷雷刀! 村の連中を血祭りに上げた後に捜索《そうさく》するつもりだったが、その手間が省《はぶ》けたようだな!
静嵐大帝に貴様の残骸《ざんがい》を捧《ささ》げてくれる!」
環樹は沈黙《ちんもく》し豹絶たちの動きを見ていた。
殷雷刀は、宝貝の所持者たちに向かい、言った。
「まあ、そんな訳で、お前たちには、あの柴陽とかいう人間を救う術はない。
かといって、そこの物騒《ぶっそう》な奴みたいに、殺そうというのにも納得《なっとく》出来ない。
それ以前に、全《すべ》ての元凶《げんきょう》である静嵐大帝をどうにかしたいんだよな。
全て引き受けてやってもいいぜ。
ただし、全てが上手《うま》くおさまった時には、お前らの持っている宝貝を回収させて戴《いただ》きたい。
どうだ?」
鍬《くわ》の宝貝を持った男が答えた。男の答えは他の宝貝所持者の意見を、代表したものだった。
「もとより、我等《われら》に宝貝が必要なのは鬼怪を退治する為《ため》です。
もしも、混沌《こんとん》の円を消滅《しょうめつ》させていただけるのならば、宝貝はもはや無用の長物。
喜んで返させていただきます」
鍬の男に同意するように、一同は大きく頷《うなず》いた。
和穂は素朴《そぼく》な喜びの声を上げた。
「わ、凄《すご》い。こんな、二十個近くの宝貝が一気に回収出来るなんて」
途端《とたん》に和穂の声が凄味《すごみ》を帯び、殷雷刀の切っ先が環樹の鼻へと向けられた。
和穂の声を使い、殷雷刀は言った。
「さあ、お前も納得して貰《もら》えるか」
しばし黙《だま》った環樹は疑《うたが》わしそうに言った。
「出来るとは思えんが、やるだけならやってみろ。お前らが死んでも、俺らに損失はないからな。
それと願月。よくも裏切ったな!」
「いや、その、結局は混沌の円を閉じられればいいわけでして」
「黙れ」
説明に苦しむ願月に豹絶は言った。
「どうする、願月。お前はそっちで見物してるか?」
「いや、柴陽なら知らない相手でもない。力を貸すよ」
「いいだろ。だが、一つ注意しておくぞ。俺がいいと言うまで絶対に矛《ほこ》は使うな。判《わか》ったな?」
「承知《しょうち》」
鳥の鬼怪《きかい》は静かに言った。
「それで打合せは終わったのかね?
無駄《むだ》な約束に終わらないと、いいんだがな!」
言葉と同時に、豹絶たちを叩《たた》き潰《つぶ》すように翼《つばさ》が打ちつけられた。
強大な翼の力で、壮絶《そうぜつ》な砂煙《すなけむり》が巻き起こった。
ようやく砂煙が収まった時、豹絶たちがいた場所には何もいなかった。
環樹に少なからず、不信の念を持っていた村の宝貝所持者たちだったが、いざとなるとつい環樹の意見を求めてしまった。
「環樹老! 豹絶たちは一体!」
「……攻撃《こうげき》を『すり抜《ぬ》け』たんだろうよ」
「それじゃ、あの鬼怪の内部への進入に成功したんですね!」
「進入に成功というより、進入を許《ゆる》されたんだろう。儀堂にしても、勝負は中で付けるつもりと見た。
直接、殷雷を始末する気か?」
鳥の鬼怪は環樹たちの視線を浴びながら、小さくグルルと呻《うめ》き続けるだけであった。
もし、次に鬼怪が儀堂の声で喋《しゃべ》ったのならば、それは殷雷たちへの勝利の宣言であろうと、環樹は考えた。
まるで見えない外套《がいとう》で抱《だ》きかかえるように豹絶《ひょうぜつ》は、和穂《かずほ》と願月《がんげつ》の背中に、手を回していた。
二人が気付いた時には、そこはもう鬼怪《きかい》の内部であった。
和穂が言った。
「ここって、あの大きな鬼怪の中なんですよね?」
豹絶が答えた。
「そうだよ」
「なんか生き物の中なんだから、もっとドロドロした感じかと思ったんですが、普通《ふつう》の洞窟《どうくつ》より乾《かわ》いてますよね」
和穂は天井《てんじょう》を見上げた。そこは正に石作りの通路であった。生物どころか、人工的なようにすら見える。
豹絶は壁《かべ》を手で押《お》さえた。
「鬼怪ばかしは常識《じょうしき》が通用しないからねえ」
願月も驚《おどろ》きながら周囲を見回していたが、豹絶の仕種《しぐさ》に疑問を覚《おぼ》えた。
「何をやってるんだい、豹絶?」
「いや、入るのは簡単だったが、出るのはちょっと無理のようだ」
殷雷刀《いんらいとう》は分析《ぶんせき》した。
「たとえ、進入をこばもうとしても、豹絶は隙《すき》を見て、いつかは内部に入り込む。
もしそうなって、外と中からの同時|攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けられると厄介《やっかい》だ。
それぐらいならば、最初に三人共、内部に進入させたほうが処置しやすいと考えたんだろうよ。
ただし、一度内部に入れたら、ケリがつくまで逃《に》がしはしないぞって所か。
豹絶の能力がお見通しならば、無難な作戦だな」
殷雷刀は、通路のどちらへ歩くべきか思案した。
ほんのわずかに、自分の感性にひっかかる気配を感じとる。
静嵐《せいらん》は気配を隠《かく》そうとはしていない。
殷雷は少し安心した。
もしも、今回の事件が静嵐の名を語る、別の宝貝《ぱおぺい》が引き起こしているのであれば、油断は全く出来ない。
が、この中には確かに静嵐の気配があったのだ。
それを隠そうとも、何ともしていない気配だ。
「こっちだ」
和穂が先頭にたち、三人は通路を進んでいった。
豹絶は歩きながら願月に再度念を押《お》した。
「いいか、願月。俺《おれ》の制流旗《せいりゅうき》は、武器の宝貝じゃない。だからちょっとぐらいはやまった使い方をしても、相手に怪我《けが》をさせたりはしない。
が、お前の怪吸矛《かいきゅうぼう》は一応、武器だ。刃《やいば》に触《ふ》れるものは問答無用で引き裂《さ》くかもしれん。
特に、ここで下手に暴《あば》れると柴陽《さいよう》の身に危険が及《およ》ぶ。
だからだ。俺が倒《たお》されるまでは、矛《はこ》は使うな。いいな?」
「それは構わないけど」
和穂は殷雷の笑い方をした。
「ふん。
大丈夫《だいじょうぶ》だって。本物の静嵐がいるのは確実だ。そんな深刻な話にならないのは、保証してやってもいいぜ」
豹絶は納得《なっとく》出来ない。
「でも、儀堂《ぎどう》は手強《てごわ》いですよ。
柴陽をこんな目に合わせるような奴《やつ》なんですから」
コクリと和穂はうなずき、和穂は和穂の声で喋《しゃべ》った。
「そうよ。やっぱり、殷雷は油断してるような気がする」
同じ人間が問いに対する答えを喋る。
「そうじゃない。
だいたい、俺にはカラクリが見えてきた。その儀堂という奴は哀《あわ》れにも勘違《かんちが》いをしているな。
静嵐を崇《あが》めたのがそもそもの間違いだ。直にその事を死ぬほど後悔《こうかい》するだろうよ。
深刻になるよりも、拍子抜《ひょうしぬ》けしないように気をつけるんだな」
だんだんと通路に尋常《じんじょう》ならざる空気が交じり出してきた。
空気とよく似た空気でない空気。混沌《こんとん》の円から吐《は》き出される、異界の空気か仙術《せんじゅつ》の源流に晒《さら》された空気なのであろうか。
さすがの豹絶の顔にも、緊張《きんちょう》が浮《う》かんでいく。豹絶には、混沌を浴び全身に縞《しま》が出来た瞬間《しゅんかん》の記憶《きおく》はハッキリとはなかった。
だが、今いるこの場所によく似た場所、おそらく同じ場所でこの体になってしまったと確信していた。
彩朱《さいしゅ》も豹絶の懐《ふところ》の中で、緊張に身を固めていた。
背中を撫《な》でてやろうかとも考えたが、今ふいに体に触れたら、驚《おどろ》きのあまり心臓が破裂《はれつ》するかもしれない。
豹絶は彩朱にふれない事にした。
どれだけの距離《きょり》を歩いたのだろうか。
実際の鬼怪《きかい》と化した柴陽の体と、この内部の空間の広《ひろ》さには食い違《ちが》いがあったのかもしれない。
だが、和穂たちはついに混沌の中心へと辿《たど》り着いた。
火の消えかけた夕日のような、赤く丸い球体が部屋の奥《おく》に浮《う》かんでいる。
そしてその球体の前には一人の青年が佇《たたず》んでいた。
「ようこそ」
青年の声は儀堂の物であった。
豹絶と願月は、儀堂の顔を見知っていた。見間違えるはずもない。
「あの人が儀堂?」
「そうだ、和穂」
奇妙《きみょう》な事に球体は光と共に、闇《やみ》も撒《ま》き散《ち》らしていた。その闇の中に豹絶は気配を感じとっていた。
闇の中には鬼怪がいる。
儀堂の打つ手を豹絶は警戒《けいかい》した。
「願月。さっきの話は忘れるなよ」
「ああ」
和穂はおくせず、抜《ぬ》き身の殷雷刀を片手に持ったまま、儀堂を見ていた。
『哀《あわ》れな話だ。なかなか利口そうな奴《やつ》じゃないか。完璧《かんぺき》な思考を繰《く》り広げられる癖《くせ》に、最初の第一歩で間違いを犯《おか》していたと、気がつかないとはな』
殷雷の心を通じての会話に、和穂は疑問をぶつけた。
『殷雷、何が起きたか判《わか》ったの? あの赤い球体が……』
『そう。あれが偉大《いだい》なる混沌《こんとん》の大帝《たいてい》、静嵐刀だ。
なんとまあ、無様な姿だろうね』
儀堂は和穂を見た。
「それが殷雷刀かね、お嬢《じょう》ちゃん。
ごく普通《ふつう》の宝貝の刀にしか見えないが、静嵐大帝と時を同じくして造られた刀ならば、大帝に匹敵《ひってき》する力があるのだろうな」
心で殷雷はつぶやく。
『失礼な』
「だが、それでも刀の宝貝には違《ちが》いない。鬼怪《きかい》を派遣《はけん》して命を狙《ねら》っても、やはり効率が悪い。そこでだ。
私は直接、静嵐大帝に貴様を血祭りにあげてもらおうと考えている。
貴様とて、真の仙術《せんじゅつ》の奔流《ほんりゅう》の前には打つ手があるまい。それとも、貴様も大帝のように仙術が使えるのかね?」
和穂が首を横に振《ふ》った。
「いいえ、私も殷雷も仙術は使えません」
「そうか。なら、ここで死んでもらおう。
それはそうと豹絶。くどいようだが、我等《われら》の仲間にならんか? 封印《ふういん》のない今、我等の前に立ちふさがるものはないんだぞ」
地面を軽くトンと踏《ふ》んだ。
「人質をとる奴《やつ》は嫌《きら》いでね」
「ふむ。柴陽とかいう女の事か?
馬鹿には馬鹿なりの仕打ちをしただけなのだがな」
「……柴陽が封印を解いたのか?」
「そうだ」
「なぜ?」
「知った事か」
ゴゴゴと軽い地響《じひび》きが起きた。
和穂は殷雷刀を構え、殷雷刀は言った。
「ほらほら、儀堂よ。静嵐大帝が俺《おれ》の命が欲《ほ》しくて痺《しび》れを切らしてるぜ」
和穂の、殷雷の落ち着きに多少不安を感じた儀堂だったが、静嵐の仙術の前にどれだけ抵抗《ていこう》出来るものかと、考えた。
「では、静嵐大帝。贄《にえ》として殷雷刀を捧《ささ》げます」
ジリジリと殷雷は、静嵐との間合いを詰《つ》めていった。
和穂の額からは冷《ひ》や汗《あせ》が流れ出していく。
儀堂は、和穂と殷雷が静嵐の術を警戒《けいかい》してうかつに動けないと読んだ。
どれだけの時間、見合ったのだろうか。
和穂は唐突《とうとつ》に殷雷刀を宙《ちゅう》に投げた。
殷雷刀は空中で爆発《ばくはつ》し、爆煙《ばくえん》の中から一人の青年が現れた。
そして面白《おもしろ》そうに言った。
「さ、あんまり芝居《しばい》をしてても飽《あ》きてくるからな。
静嵐よ。さっさと元に戻《もど》してやるぜ」
殷雷は大きく拳《こぶし》を振《ふ》りかぶり、静嵐に向かい放った。
拳に対応し、とてつもなく激しい稲妻《いなずま》が宙を飛ぶ。
殷雷の拳に思わず目を瞑《つぶ》ったがゆえの、落雷《らくらい》であった。
殷雷は雷《かみなり》を地面に逸《そ》らし、そのまま拳を赤い球体にぶちこんだ。
ガシン。
鋼《はがね》と鋼がぶつかる音が周囲に響《ひび》く。
そして、少々|歪《いびつ》な爆発が起きた。
「!」
儀堂と豹絶、廟月は何が起きたのか、一切《いっさい》判《わか》らなかった。
爆発の煙《けむり》の向こうには、一振《ひとふ》りの刀が転《ころ》がっていた。
儀堂に判ったのは、鬼怪《きかい》の気配が消えている事だけだった。
「一体、どうなった! まさか大帝が!」
殷雷は静嵐刀を拾い、怒鳴《どな》る。
「説明は後だ。
豹絶よ。さっさとここから逃《に》げるぜ。逃げたら、懐《ふところ》からすぐに彩朱を出せ」
わめく儀堂のみぞおちに、殷雷は軽く拳を走らせた。くぐもった声を吐《は》き出し、倒《たお》れかかる儀堂を、殷雷は肩《かた》に担《かつ》いだ。
「ほら、豹絶早くしろ。お前の縞々《しましま》も大分|薄《うす》くなってるぞ!」
豹絶が腕《うで》に目をやると、確かに縞が薄くなっていた。それに懐の中で彩朱がもぞもぞとしている。
さらに地面がグラグラと動き始めて来た。
「閉じたのか!」
「そうだ。だから早くしろ!」
混沌《こんとん》の円が閉じた今、豹絶の能力も消えかけていた。
渾身《こんしん》の力を込《こ》めて、豹絶はすり抜《ぬ》けた。
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終 章
恵潤《けいじゅん》の身長と、殷雷《いんらい》の身長は殆《ほとん》ど同じだったので、静嵐《せいらん》もまた同じような体格かと和穂《かずほ》は思っていたが、それは違《ちが》っていた。
静嵐は殷雷より頭一つ分、背が高かった。殷雷と同じような袖《そで》付きの外套《がいとう》を羽織《はお》っているが、殷雷の物とは違い、藍色《あいいろ》をしていた。
外套の背中には、目立《めだ》たないが雄牛《おうし》の刺繍《ししゅう》がしてあるが、迫力《はくりょく》のある雄牛と静嵐は、全《まった》くかけ離れていた。
屈託《くったく》のない笑顔《えがお》は、彼が武器の宝貝《ぱおぺい》であるといわれても、すぐには信じられなかったであろう。
愕然《がくぜん》とする村人の表情は、尋常《じんじょう》ではなかった。それだけこの村の人にとって、今までの戦いは辛《つら》かったのだと和穂は感じた。
少し困《こま》った表情になりながらも、静嵐は事の次第《しだい》を説明した。
「つまり、うっかりと混沌《こんとん》を開きっぱなしにしちゃったんです。
自分の力じゃ、どうしても元に戻《もど》せないんで殷雷の助けを呼んでたんです」
殷雷は静嵐の腹《はら》に軽く拳《こぶし》をたたき込む。これが本当に武器の宝貝なのかというぐらい、簡単に静嵐の腹に拳は当たった。
下がった静嵐の頭を殷雷は小脇《こわき》に抱《かか》え、村人たちに言った。
「そうだ。全《すべ》てはこの間抜《まぬ》けの間抜けな欠陥《けっかん》による、事故だった。
殺しても殺し足りないかもしれん。どうしても許《ゆる》しちゃおけんというのなら、今からこいつを八《や》つ裂《ざ》きにしよう!」
「い、殷雷! 庇《かば》ってくれるんじゃないのかよ!」
「うるせい」
今さら静嵐に当たって何になるかと、村の人間は考えた。原因はともかく、問題は解決したのだ。薪《たきぎ》で火事が起きても、薪には罪はないのと同じだ。
殷雷は続けた。
「でもよ。儀堂《ぎどう》は許せないだろうな。
静嵐ならともかく、そいつを怒《いか》りに任《まか》せて殺すのもあんまり後味がよくなかろう。
罪人《ざいにん》としてどこかに閉じ込めておくのが無難《ぶなん》だと思うが」
一番、放心状態だったのは儀堂なのかもしれなかった。
ときたま、狂ったように静嵐に悪態をついていた。
「馬鹿な馬鹿な。あれだけ仙術《せんじゅつ》を使っていながら、本人の意思ではなかっただと! ええいこの裏切り者め!」
予想された罵倒《ばとう》なので、静嵐はあまりこたえなかった。
和穂が早めに問題を切り出した。
「それでは約束通りに宝貝を返していただきたいんですが」
文句が出る前に、殷雷が口を刺《さ》す。
「欲を出すなよ。
今回の一連の騒動《そうどう》は、宝貝が巻き起こした事件なんだぜ。下手《へた》に宝貝を持っていたら、また厄介《やっかい》な事になるかもしれん」
殷雷の脅《おど》しは予想以上に効果的であった。村の人間は二度とあんな騒動に巻き込まれたくはなかったのだ。
願月《がんげつ》の怪吸矛《かいきゅうぼう》を含《ふく》め、全《すべ》てで十五個の宝貝が回収された。
和穂には少し心配ごとがあった。
「あの、柴陽《さいよう》さんと彩朱《さいしゅ》さんの具合はどうなんでしょうか?」
村の医師が答えた。
「判《わか》らないが、少し衰弱《すいじゃく》してるな。でも大丈夫《だいじょうぶ》じゃろ。
豹絶《ひょうぜつ》みたいに体格はそのままで混沌《こんとん》の影響《えいきょう》を受けたんじゃなく、二人とも体格自体が変容したじゃろ。さすがに肉体に無理が出たんだわな。
でも心配はいらん。回復に向かってはいるからな」
「そうですか」
殷雷は静嵐の頭を小脇《こわき》に抱《かか》えたまま振《ふ》り回し続けていた。
「なんか今回は、騒動のでかさの割には、つまらねえ原因だったな」
静嵐の悲鳴を殷雷は無視し続けていた。
和穂は村人たちにペコリと頭を下げた。
「それでは、私は他の宝貝を探《さが》しに、また旅に出ようと思います」
まだ、衝撃《しょうげき》から抜《ぬ》けきれない村人たちは、気の抜けた声で頑張《がんば》れよと、声援《せいえん》を送った。
別の気の抜けた声も和穂に掛《か》かった。
願月であった。
「どうですか、私も旅の身です。街道《かいどう》までご一緒《いっしょ》しませんか」
「そうですね」
「かまいやしねえぞ」
そういえば、こいつの惚《とぼ》けた理由も判《わか》らずじまいだなと、殷雷は考えた。やはりこいつは元からこういう奴《やつ》なのだろう。
和穂はもう一度、頭を下げ、村から出ていった。
豹絶はニコリと笑い、和穂たちに手を振っていた。
環樹老《かんじゅろう》は、今は見た目の通りの老人になった。
環樹老は、解散しようとする村人たちに言った。
「判ってるだろうが、今年の畑は」
軽蔑《けいべつ》の混ざった視線が環樹に飛ぶ。
「環樹老。確かにあなたは、今までは素晴《すば》らしい指導者でした。
ですが、もうあなたを信用する気にはなれません」
「……好きにしろ」
環樹は背を向け、家に戻《もど》った。
トボトボと和穂たちは畦道《あぜみち》を歩いていた。
「い、殷雷。いい加減に放せ! それより早く俺《おれ》を回収しろよ。
恵潤が中にいるんだろ!」
「なんか回収されたがってる奴ってのも腹がたつな、なんとなく」
願月はどこを見るともなく、ボウとしたいつもの表情だった。
が、和穂は何かを考え込んでいた。
いい加減|飽《あ》きたのか、静嵐をすっ転ばして殷雷は和穂に言った。
「どうしたんだ和穂」
和穂は首を上げた。
「ねえ。何か変じゃない?」
「何がって何が? 静嵐がか? あんな武器の宝貝がいるはずない。て気持ちは判るがあいつは本当に刀《かたな》だぜ」
「そうじゃなくて。あの村よ」
「……そうか? 儀堂は悪人だし、環樹は褒《ほ》められたような人間じゃないかもしれん。
でも、善人だけの村って方が現実には少ないぜ」
「そうじゃないってば」
「じゃあ、なんだ?」
「何か納得《なっとく》がいかないのよ。だって絶対におかしい。
村の人達はどうして宝貝を持っていたのかしら?」
「だから、静嵐の馬鹿のせいで開いた混沌《こんとん》の円に対抗《たいこう》する為《ため》だろ」
「本当にそう? 混沌の円が開く前に、村の人は宝貝を持っていたような気がする」
願月は惚《とぼ》けた声を出した。
「そうですよ。豹絶は、混沌の直撃《ちょくげき》を浴びる時にどうにか制流旗《せいりゅうき》で防《ふせ》いだんですから。
制流旗、知ってるでしょ? 沢山《たくさん》の旗がある代わりに、旗と旗との間に隙間《すきま》があってあんな姿になったんだから」
殷雷は面倒《めんどう》そうに言った。
「たまたま一つの村に宝貝が固まって落ちたんだろうぜ。
その中に静嵐もいたのが運のつきってやつさ」
和穂は立ち止まった。
「やっぱりおかしい!」
殷雷は反論する。
「おかしかったらどうなんだ? この事件の大裏には、全《すべ》てを操《あやつ》る黒幕の宝貝使いがいるとでもいうのか?
この近所の宝貝は全部回収したんだろ? つまり宝貝所持者はいない。
気配を隠《かく》し続けるのも無理だ。今は索具輪《さくぐりん》は機能してるんだろ」
「そうだけど……」
「いいか、和穂。気にはなるだろうが、俺《おれ》たちは他の宝貝の回収を優先しなければならないんだ」
寝台《しんだい》の上で彩朱《さいしゅ》は上体を起こしていた。その隣《となり》では豹絶《ひょうぜつ》が林檎《りんご》の皮をむいている。
彩朱の顔色は悪く、豹絶も少し不機嫌《ふきげん》であった。
「だから、まだ歩き回るのは無理だったんだよ。そんなに疲《つか》れてどうするんだ」
彩朱は首を横に振《ふ》った。切りそろえられた、短めの髪《かみ》が揺《ゆ》れる。
「儀堂《ぎどう》さんに面会してきたの」
「け。あんな奴《やつ》に何のようだ?」
「豹絶だって儀堂さんを知ってるでしょ? そりゃ冷たい人かも判《わか》らないけど、あんな事をしでかす人じゃなかった」
「人なんてなんの拍子《ひょうし》で豹変《ひょうへん》するか知れたもんじゃない」
「……そうかもしれない。
でも判らないの。儀堂さんが悪い事をしたのは判ってるけど、どうして悪い事をしたのか判らないの。理由が無いでしょ?」
豹絶は皿の上に林檎を置いた。
「静嵐《せいらん》なんていう間抜《まぬ》けのお陰《かげ》で、権力が手に入ると勘違《かんちが》いしたんだ。
それであんな事をしでかしたんだよ」
「……本当にそんな理由で人間が変わるかな? 変わるかもしれない。
でもそれは普段《ふだん》から権力を渇望《かつぼう》していた人が、その機会に巡《めぐ》り合ったからじゃない。
儀堂さんはそういう人じゃなかった」
豹絶は儀堂を弁護する彩朱の気持ちが理解出来なかった。
豹絶はもう一つの寝台の上で呻《うめ》き続ける柴陽《さいよう》を顎《あご》で差した。
「見てみろ、あの女を。可哀《かわい》そうに。ある程度まで回復した途端《とたん》、うなされっぱなしだ。儀堂のせいで余程|恐《おそ》ろしい気持ちになったんだろう。
それだけの理由でもあいつを許さない理由には充分《じゅうぶん》だぜ」
彩朱は答えられなかった。
柴陽は耳を押《お》さえ、小さくうずくまっていたのだ。
「あ。あ。う、歌が」
彩朱はほんの少し、話題を変えた。
「環樹老《かんじゅろう》にも会ってきたの」
「お前の悪趣味《あくしゅみ》にもほとほと参るな。この村の中でろくでなしの一番と二番争ってるような奴と面会かい」
「環樹老も、何か様子が変だった。昔から厳《きび》しい人だったけど、人を見殺しにするような人じゃなかった」
「冗談《じょうだん》にしちゃつまらねえな。
環樹は俺を殺そうとしていた。最初は願月《がんげつ》なんぞを刺客《しかく》に使ってるから、形式だけだと思ってたが、そこの女が人質に取られた時の態度を思い出せよ。猫《ねこ》の姿でも記憶《きおく》はあるだろ? それに俺と一緒《いっしょ》に、お前の命も狙《ねら》わせてたんだぜ」
「でも」
「判ってる。状況的《じょうきょうてき》にそうするしかないのかもしれん。
俺や彩朱が儀堂の手先でない保証はなかったし、あの体じゃそう思われても仕方ない。
だが、せめて葛藤《かっとう》してくれよ。あの爺様《じいさま》は即決《そっけつ》で見殺しにしやがるんだぞ。
そうさ、昔はああじゃなかった。でもだからどうした?」
彩朱にも自分が何をいいたいのか、理解出来ていなかった。
「願月さんをどう思う?」
「どうしたんだ彩朱!
願月か? 間抜《まぬ》けな武人。それが酷《ひど》いというのなら、お人好《ひとよ》しの武人だ。でも弱い武人なんて」
「願月さんて、弱かった?」
「弱いも何も、俺は刺客としての奴《やつ》と戦って生き延びてるんだぞ」
「弱い武人て、変じゃない? ある程度の腕《うで》があって初めて武人なんじゃ。
豹絶を殺そうとしていた環樹老は、どうして願月さんを刺客に選んだの」
豹絶は大きく溜《た》め息《いき》を吐く。
「まったく、彩朱よ。いいたい事があるなら結論をいいなさいな」
そういわれると、彩朱も返答に困った。豹絶も彩朱の困った顔を見るのが好きではない。
「じゃ、彩朱よ。俺は変わったか?」
「ううん。全然変わってない」
「なら、いいじゃないか」
「今のはちょっと気の利《き》いた台詞《せりふ》だけど、生憎《あいにく》甘《あま》えたいなんて思ってないのよ」
「せっかく見舞《みま》いに来てるんだから、ちったあ甘えろ!」
剥《む》いた林檎《りんご》を豹絶は一人でバクバクと食らいついた。
そして夜がやってきました。
冷え込んだ冬の空に浮《う》かぶ星は、他の季節よりも、一層|輪郭《りんかく》を際立《きわだ》たせているようでした。
抉《えぐ》られた丘はしばらくほうっておく事になりました。冬の間の土は、凍《こお》ると作業しにくいからです。
数日前まで混沌《こんとん》の円があった丘の中腹が僅《わず》かに崩《くず》れました。
崩れた穴から、ゆっくりと這《は》いずり出してくる物がいます。
星の明かりだけでは、輪郭を照らし出すのがやっとでした。
それは、かつて大地に横たわるものと呼ばれたものでした。
そして、それはかつて龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》と呼ばれたものでした。
這いずり出したものは、もう地面に横たわってはいません。
忌《い》ま忌《い》ましい矛《ほこ》の傷もだいぶ癒《い》えてきました。
もう、彼は龍衣の鏡閃としての力を取り戻《もど》しかけていました。
龍衣の鏡閃は、天に向かって吠《ほ》えました。
雄叫《おたけ》びと共に、彼の龍の衣《ころも》は緑色の輪郭を帯びていきます。
彼は怒《おこ》っていました。
とてもとても怒っていました。
彼に捧《ささ》げられた子供たちは、彼の物であるべきだと考えていました。そして、その考えが覆《くつがえ》される事は長い間、ありませんでした。
彼は人の苦しみを糧《かて》として生きています。苦しみが深ければ深い程《ほど》、彼は満たされていきます。
もしも、頭からバリバリと食べるだけならば、牛や豚《ぶた》の方が美味《おい》しかったでしょう。
しかし、彼は、苦しみを糧としているのです。
人|程《ほど》、苦しむ動物は他にはいません。
彼は彼に捧げられた贄《にえ》を、普通《ふつう》の人間として普通の村の中で育てました。贄たちだけの村です。
その村では、希望は絶望の為《ため》への前奏曲《ぜんそうきょく》でしかなく、苦痛は綿密に計算されたものでした。
それは苦痛を彼に提供する為の牧場《ぼくじょう》ともいえました。飼われている贄は、そんな事も露《つゆ》知らずに生きていました。
ですが、宝貝《ぱおぺい》がこの世の中にばらまかれてしまったのです。
巧《たく》みに隠《かく》された、彼の存在を暴《あば》きたてる能力を持った宝貝たち。彼の存在を消滅《しょうめつ》させるだけの力を持った宝貝たち。
村人たちは、寸前の所まで鏡閃を追い詰《つ》めました。
しかしたった一本の刀《かたな》の為に、鏡閃には逃《に》げられてしまいました。
村人たちは、自分が戦うべき相手を鏡閃の術によってすり替《か》えられてしまったのです。
全《すべ》ては混沌《こんとん》の円を封《ふう》じる為、と、嘘《うそ》を塗《ぬ》りこまれたのです。
そして龍衣の鏡閃の傷は大分|癒《い》えてきました。
彼はとても怒っていました。贄たちの反乱だけは許せません。
ですので、もう鏡閃は今の贄たちの村を止める事にしました。また、最初から新しい村を作るつもりです。
今の贄たちはもう、必要ありません。絞《しぼ》れるだけの恐怖《きょうふ》、苦痛、絶望を絞りとって捨てるつもりです。
龍衣の鏡閃は大きな声で歌い始めました。とても美しい声です。
その歌をきいた村人は、ゆっくりゆっくりと丘へ向かって歩いていきました。
それは彼の贄にだけ通じる、不思議《ふしぎ》な歌でした。
歌は柴陽の頭の中で反響《はんきょう》を続けていった。朝も昼も夜も。
脳の中にこびりつくような歌は、いつまでも消えなかった。
が、ある晩、柴陽は瞬間的《しゅんかんてき》に正気づいた。
似ているが、別の歌が実際に耳を通して聞こえてきたのだ。
実際に聞こえる歌が、頭の中の歌を打ち消していった。
診療所《しんりょうじょ》の寝台《しんだい》の上で、柴陽は汗塗《あせまみ》れになって目が覚《さ》めた。冷気が忍《しの》び寄る。まだ夜中のようだ。
隣《となり》の寝台には、見知らぬ女が寝《ね》ていた。
柴陽が枕元に置かれた濡《ぬ》れた手拭《てぬぐ》いで汗を拭《ふ》こうとした時、隣の女、彩朱がムクリと起き上がった。
柴陽は、もしかして酷《ひど》くうなされて、睡眠《すいみん》の邪魔《じゃま》をしたのかもしれないと声を掛《か》けた。
「ごめんなさい。起こしちゃいました?」
彩朱は答えずに、寝台から下り、立ち上がった。
その歩み方に柴陽は覚えがあった。
歌に操《あやつ》られていた時の自分の動きと同じであった。
「ちょっと、あんた!」
声には反応しない。聞こえているかどうかも判《わか》らない。
彩朱はゆっくりと部屋から出ていった。
何かが起きる。
柴陽はどうするか悩《なや》んだ。だが、自分のあの恐怖《きょうふ》を思い出し、女を無理やりにでも連れ戻《もど》す事に決め、後を追う。
診療所から外へ出て、柴陽は唖然《あぜん》とした。歩いているのは隣の寝台の女だけではなかった。村の人間が恐《おそ》らくは、ほとんど、あの歩き方であるいていたのだ。
村の人間は真《ま》っ直《す》ぐに、丘を目指しているようであった。
あの丘、自分が恐波足《きょうはそく》を引き抜《ぬ》いたあの丘だ。どうしたものかと思案していると、柴陽の背中を誰《だれ》かが叩《たた》いた。悲鳴を飲み込み、柴陽は後ろを振《ふ》り向いた。
丘の斜面《しゃめん》にある石の上に、龍衣の鏡閃は座《すわ》っていた。彼の前には村人たちが直立して整列していた。
龍衣の鏡閃は村人の顔を全員見回した。忘れるはずもない、俺《おれ》の贄《にえ》たちだ。
「さて、心をいじるのはあまり好きではないのだ。造りものの恐怖や苦痛は、たいして美味《うま》くないんでな。
が、好きでもないが、やらなければならない事もある。
今、お前たちの記憶《きおく》は操作《そうさ》されている。それを解除してやる」
龍衣の鏡閃は一声、唸《うな》った。
唐突《とうとつ》に眠《ねむ》りから覚《さ》めたような表情が村人たちに浮《う》かんだ。
「さあ、術は解いたが、瞬間的《しゅんかんてき》に記憶が戻《もど》る訳でもない。
今までの長い話をしてやろう。聞けば思い出せるはずだぜ。
それに儀堂と環樹。お前らに与《あた》えたものは返してもらい、奪《うば》ったものは戻してやろう。
憎《にく》き願月も、やっと正気に戻ったろうが、今さらどうにもなるまい。
怪吸矛《かいきゅうぼう》のない願月など片腹痛いだけだ」
龍衣の鏡閃は、今までの話をした。自分たちが贄だとも知らず、用意された苦痛に呻《うめ》きながら生きてきた日々。
そして、宝貝を手にいれ、呪縛《じゅばく》から逃《のが》れる手段を得た事。
「そう。お前たちは俺を仕留《しと》めそこなった。
俺を狙《ねら》うべき心の衝動《しょうどう》を、あの静嵐刀《せいらんとう》という宝貝にぶつけてしまった。
静嵐の問題を処理し、お前たちは安心感を得て、宝貝を和穂《かずほ》たちに手渡《てわた》してしまったのだ。
俺を仕留める可能性を術の使えぬ元|仙人《せんにん》に渡してしまったんだ」
村人たちの間に、後悔《こうかい》の表情が浮かんでいった。
龍衣の鏡閃は絶望を楽しんだ。
「実に情《お》しかったな。この俺は一つや二つの宝貝では、倒《たお》せやしない。
俺が潜《ひそ》む場所を知るには、土や植物から知識を得る必要がある。
律令笛《りつれいてき》がなければ、俺の存在を信じられはしなかっただろうな。
勘《かん》づかれずに俺を探《さが》しだすのに、間違《まちが》いは許されない。確実に次の一手を探す為《ため》には、凝命管《ぎょうめいかん》が必要であった。
怪吸矛の使い手が、この村に来たのは正に宿命といった所だな。
俺に真の傷を負わせられるのは、あの矛《ほこ》ぐらいのものだ。
後は純粋《じゅんすい》な戦力となる宝貝が多数いる。そして、豹絶よ。
俺を本当の意味で倒せるのは、制流旗《せいりゅうき》だけだったんだ。
全《すべ》ての物を本来の状態に戻《もど》す宝貝、この世ならざる不自然な物を払《はら》い退《の》ける能力。
あれだけが、俺を消し去れる。実に惜しかった。
お前たちは俺を倒せたんだよ。
和穂たちは、次の宝貝を目指《めざ》しているだろうよ。
さて、お別れの前に俺の名前を教えておいてやろう。
宝貝共とて、俺の存在は暴けても、名前までは知らなかっただろうからな。
俺は龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》だ」
儀堂の記憶がゆっくりと蘇《よみがえ》っていった。
喜びに比べて、あまりにも苦しみの多かった村の生活。
神仙を祭《まつ》るような性格ではなく、どちらかというと極端《きょくたん》なまでの現実主義者《げんじつしゅぎしゃ》であった儀堂でさえ、この苦しみが人間以外のものによってもたらされているのではないかと、心の片隅《かたすみ》に思い浮《う》かべた時もあった。
そんなのは甘えた考えだと、いつもはすぐに消し去るのだが、あの日だけは少し様子が違った。
苦しみから逃《のが》れたいという願望《がんぽう》は、苦しみの原因を知りたいという願望に変化し、呆気《あっけ》なくそれは叶《かな》えられた。
宝貝、律令笛。森羅万象《しんらばんしょう》の中で人が知覚《ちかく》出来るのはなんとわずかな部分なのか。彼は律令笛の力を借《か》り、空気に大地に川に真実を問《と》い掛《か》けた。
そして、儀堂は村の本当の主《あるじ》の存在を知った。主は龍衣を身にまとう化け物だった。
さすがの儀堂も、慌《あわ》てふためき環樹の所に報告に向かい、そこで他の村人たちの手にも宝貝が渡っていた事を知る。
儀堂は気付いた。宝貝は、その能力を望《のぞ》む者の前に、姿を現《あらわ》すのだと。
自分をはじめとして、村人たちは、自分たちが知覚出来ない敵を倒す事を望んでいたのだ。
村人たちは自分たちの望みを知らなかったが、宝貝たちは村人の望みを知っていた。
仙術により、村人たちの知覚の外に陣取《じんど》り苦しみをすする村の主。
相手に痛《いた》みを全《まった》く与《あた》えずに、血を吸《す》える巨大な蛭《ひる》が背中に張りついている。意識《いしき》は蛭の存在を知らなくとも、魂《たましい》の一部は鋭く、自分の体にとりつくものの存在を漠然《ばくぜん》と感知していたのだ。
複数の宝貝は、複数の人間の一つの望みを叶えるべく、好機《こうき》の到来《とうらい》を待っていたのだろう。
儀堂は村の主の存在を教え、その化け物が今夜、数か月に一度、闇《やみ》より深く眠る晩《ばん》を迎《むか》えていると伝えた。村の主は、なんの危機も感じず、今宵大地に横たわっているのだ。
さらに、宝貝と共に現れた一人の武人、願月。
彼もまた己《おのれ》が持つ、龍殺《りゅうごろ》しの技《わざ》を試《ため》す望みを叶えるべく、あの夜、この村へと宝貝に導《みちび》かれたのだ。
環樹は好機《こうき》を逃さぬ為《ため》に綿密《めんみつ》な策を練《ね》り、あの夜、大地に横たわる村の主、龍衣の鏡閃を追《お》い詰《つ》めたのだ。
儀堂は苦悶《くもん》した。
そして、龍衣の鏡閃を倒《たお》し損《そこ》ねたのだ。
そして、龍衣の鏡閃は今、目の前で勝利を確信している。
儀堂や他の村人と同じように、豹絶の全身にも脂汗《あぶらあせ》が流れた。記憶は完全に蘇った。
記憶は蘇り、絶望が豹絶を襲《おそ》う。既《すで》に宝貝はない。
目の前では龍衣の鏡閃が、自分の絶望を啜《すす》っているのだ。絶望を断ち切ろうと、豹絶は怒りに身を任《まか》せようとした。
龍衣の鏡閃は豹絶に笑顔を振りまく。緑色の光だけの瞳《ひとみ》が作る笑顔にしては、とてつもなく心地《ここち》よさそうに見えた。
「豹絶。
絶望や苦しみを喰《く》らうこの俺だ。やり場のない怒りも中々《なかなか》口に合うんだぜ!
さて、お前らは鶏《にわとり》と一緒《いっしょ》だ。今までは苦痛という卵《たまご》を喰《く》わせてもらったが、俺に逆《さか》らったからには、潰《つぶ》して鶏肉《とりにく》として喰ってやる。
今から脳髄《のうずい》が破裂《はれつ》する程《ほど》の純粋《じゅんすい》な痛みをくれてやるから、せいぜい苦しめ」
鏡閃は大きく口を開け、ゆっくりと歌いだした。歌に合わせ、鏡閃のボサボサの髪《かみ》が蠢《うごめ》いていく。
広がる音の波は村人たちを包みこんでいった。
苦悶の叫《さけ》びすら許《ゆる》さぬ、絶対の激痛が村人たちを襲う。
神経を引《ひ》き裂《さ》くような痛みではなかった。
神経を引き裂いたのなら、切れた神経は痛みを伝えられなくなるからだ。
あくまでも繊細《せんさい》に、神経を傷《きず》つけないよう細心《さいしん》の注意を鏡閃は払《はら》っていた。神経こそが苦痛を伝える道である。無数の神経の隅々《すみずみ》にまで溶岩《ようがん》よりも熱い痛みを鏡閃は送り続けていた。
激痛《げきつう》の奔流《ほんりゅう》の中で環樹は目を見開いた。瞼《まぶた》を持ち上げる事ですら、壮絶《そうぜつ》な痛みに逆らう必要があった。
だが、環樹は目を閉じなかった。
環樹は目を開け、小刻《こきざ》みに振動《しんどう》する視界の中で龍衣の鏡閃を睨《にら》み続けていた。
睨む。
このまま死のうが、絶対に目を逸《そ》らすつもりはなかった。
睨む。
どこか遠い所、遠い昔、今と同じように鏡閃を睨みつけた記憶が、環樹の頭の中に蘇った。
バサッ。
村人たちは風が吹いたと錯覚《さっかく》した。一陣《いちじん》の涼風《りょうふう》が、火照《ほて》った体を冷《ひ》やすように、一瞬《いっしゅん》、全身の痛みを打ち消したからだ。
バサッ。
さらに痛みが消える。
バサッバサッバサッ。
音が鏡閃の歌を打ち消す。痛みは消滅《しょうめつ》し体の身動きも自由になった。
バサバサバサバサッ。
豹絶には、この羽ばたくような音に覚《おぼ》えがあった。
制流旗の旗と旗が当たる音だ。制流旗の能力、この世ならざる不自然《ふしぜん》な物を払いのける音だ。
娘の声がした。
「……なんて酷《ひど》い事を。そうやって何十年もの間、村の人を苦しめていたなんて」
バサッバサッバサッ。
声の主は和穂だった。和穂は片手に持った制流旗を、一所《いっしょ》懸命《けんめい》に振っていた。
村人たちと鏡閃の視線が、丘《おか》を登《のぼ》る和穂に注《そそ》がれた。
和穂の横には、柴陽と殷雷《いんらい》がいた。
片手に断縁獄《だんえんごく》を持った、殷雷は言った。
「仙術は仙術だが、たいした術じゃねえな」
殷雷の背中に隠《かく》れるようにしながら、柴陽は問いただす。
「ちょ、ちょっと大丈夫《だいじょうぶ》なの! あの旗《はた》の力で術は消せるかもしれないけど、あの旗が奪《うば》われでもしたら!」
「心配するな。制流旗がなくても、俺《おれ》が『歌』を叩《たた》き斬《き》ってやる。
村の連中に奴《やつ》の歌がてきめんに効《き》くのは、生《い》け贄《にえ》としてぶん取ってきた時に、赤子《あかご》の頃《ころ》の髪の毛やら爪《つめ》を手に入れてるからだ。
そんな小道具《こどうぐ》を使うとは、低級な術じゃねえか」
「何よ! だって、私もあいつの術にかかって恐波足《きょうはそく》を外《はず》したのに」
「宝貝も持たずに、あいつの側《そば》に寄《よ》りすぎたからだ。宝貝があれば、あれぐらいの術は簡単《かんたん》に防《ふせ》いでくれるぞ。
ま、もっとも、宝貝が対混沌防御《たいこんとんぼうぎょ》に力を裂いてりゃ、あんな安物の術でも効くだろうがな。
そういう事だな、龍衣の鏡閃よ」
突如《とつじょ》現れた邪魔者《じゃまもの》に、龍衣の鏡閃は鋭い視線を投《な》げ掛《か》けた。
「なぜ、貴様《きさま》らがこの村に!」
片手でお手玉をするように、殷雷は断縁獄を軽く宙に放《ほう》り投げ、そして受け取る。
「残念《ざんねん》だったな。恨《うら》むんなら、和穂の頑固《がんこ》な性格を恨みな。
宝貝を手に入れて、この村にゃ用はなくなったが、和穂がどうしても納得《なっとく》しやがらねえんだ。仕方がないんで途中で引き返して、しばらく潜伏《せんぷく》してたんだ。
結局《けっきょく》、頑固者の勘《かん》は大当たりだったな」
言葉を切り、殷雷の瞳《ひとみ》が鋭《するど》くなり、声がわずかに低くなった。
「さあ、龍衣の鏡閃。お前は軒轅《けんえん》の鏡閃なのか?」
「我《われ》は龍衣の鏡閃!」
「ほお。同じ名前の別人だとでも? 俺《おれ》たちの聞いてる情報と、お前とじゃ姿形《すがたかたち》が掛《か》け離《はな》れすぎてるから、別人なのかもな。
まあいい。お前がこの村でやってきた事ってのは、ちょいとばかし気にくわんのでな。
こんな事は特別だが、ほんの少しの間だけ村の連中に宝貝を貸《か》してやる。
それでお前を倒してやるよ。
豹絶! 制流旗で時間を稼《かせ》げ!」
途端《とたん》、豹絶は和穂のもとに駆け寄り、制流旗を受け取る。
そして、疾風《しっぷう》のごとく龍衣の鏡閃の前に走り込む。
「龍衣の鏡閃! 今こそ貴様を無に帰してやるぞ!」
「出来るかな?」
幾多の旗をなびかせ、制流旗の竿《さお》は龍衣の鏡閃の腹《はら》を打った。緑色に点滅する龍の鱗《うろこ》の刺繍《ししゅう》が引《ひ》き裂《さ》かれる。
「!」
が、制流旗の真の能力、この世ならざる不自然な物を払いのけ、全《すべ》てを本来の状態《じょうたい》に戻《もど》す能力は作動しなかった。そして、引き裂かれた刺繍はすぐさま再生を始めた。
殷雷は取《と》り敢《あ》えず、断縁獄の中身からこの村で回収した宝貝を全てばらまく。
「いいか! 正直《しょうじき》いって、あの鏡閃の『底《そこ》』が判らん。
だがな、宝貝がお前らの前に降《お》りたって事は勝ち目があるって事だ。
同じ相手と二度目の戦いだ。この前と全《まった》く同じ手は通用しないと考えろ」
村人たちは、大急ぎで、かつて自分たちが所持《しょじ》していた宝貝に手を伸《の》ばす。
和穂に近寄りながら、殷雷は豹絶に忠告《ちゅうこく》を与えようとした。
「豹絶! そいつが他人にかける仙術は、宝貝である程度防げる!
だが、そいつがそいつ自身にかける仙術は防げない! 油断《ゆだん》はするな、簡単に制流旗の能力はくらわんぞ!」
「判《わか》ってる! そうだ、この前もそうだったんだ」
最初の戦いは怪吸矛《かいきゅうぼう》と幾《いく》つかの宝貝で龍衣の鏡閃を弱らせてから、制流旗でとどめを刺す作戦だったのだ。
いきなりの制流旗では通用はしない。
だが、それとて龍衣の鏡閃が必死《ひっし》に制流旗を防御しているからこその話だ。
今、戦う事が無意味《むいみ》ではない。
必死になり、希望に燃《も》える村人の気迫《きはく》を龍衣の鏡閃は嘲笑《あざわら》った。
「無駄《むだ》だ無駄だ。
思い出せ、思い出すんだ。
お前らは、眠っていた俺を襲って仕留《しと》めようとしたんだぞ」
制流旗の攻撃をかいくぐり、言葉が続けられた。
「ならば、正面から戦って俺に勝てる道理《どうり》はなかろう!」
豹絶は鏡閃の横《よこ》っ面《つら》を、制流旗でブン殴《なぐ》った。顔の輪郭《りんかく》を歪《ゆが》めながら吹き飛ぶ鏡閃であったが、その歪む輪郭には笑顔《えがお》が浮かんだ。
「けけけ。あまり効かぬぞ。誰《だれ》かが、敗北《はいぼく》を恐《おそ》れている、その恐れが俺を支《ささ》える」
体勢《たいせい》を立て直そうとする鏡閃の背中に、和穂の足刀《そくとう》が飛んだ。手には殷雷刀が握《にぎ》られている。
今の和穂は殷雷刀の能力により、達人《たつじん》の能力を得ていた。
和穂の足刀は龍衣の背中に命中し、そして弾《はじ》かれた。刺繍を縁取《ふちど》る緑光が一瞬強く明滅《めいめつ》した。
「やはり硬《かた》いな。龍衣の名は伊達《だて》ではないようだな」
豹絶と入れ代《か》わるように、戦いの主導権は和穂に移《うつ》った。
「鏡閃、どうして村の人たちを苦しめたんですか!」
和穂の中には強い怒りがあった。
いかに和穂とて、この村の一件に関しては部外者《ぶがいしゃ》でしかない。宝貝が巻き起こした事件とは、少しばかり性質が違うからだ。
だが、和穂は怒っていた。和穂の怒りは、村人たちの怒りと変わらないものだった。
和穂は強く怒っていた。
彼女も知らない心の奥底で、和穂は村人たちに自分の兄の姿を重《かさ》ねていたのだ。
人生を玩《もてあそ》ばれていた兄と、苦しみを搾《しぼ》り取るために、鏡閃に飼《か》われていた村人たちが、心の中で重なりあっていたのだ。
戦いながら、龍衣の鏡閃は和穂の強い感情を感じとっていた。
あまり張り切られては、少し面倒《めんどう》だと龍衣の鏡閃は口を開いた。
「黙《だま》れ。貴様に何が判る? 俺は苦しみを糧《かて》としなければ、生きていけぬのだぞ? 他に何が出来るというのか!」
龍衣の鏡閃の言葉を聞いた途端《とたん》、和穂の怒りがゴッソリと、こそげ落ちた。
そして、和穂が笑った。殷雷刀が笑ったのだ。
「冗談《じょうだん》はよせよ。龍衣の鏡閃よ。感情を喰らうしか存在する手段《しゅだん》のない幽鬼《ゆうき》が、こんなに頑丈《がんじょう》な体をしているか!
お前は何だって食えるんだよ。感情であろうが、物質であろうが。気の宿《やど》る物ならなんだっていいんだろ。
苦しみや絶望にこだわるのは、それが貴様の嗜好《しこう》にあっているだけの話だ!」
垂《た》れた髪の隙間《すきま》から鏡閃の瞳が光った。
「け。知っていやがったか」
「鏡閃!」
それは殷雷も初めて見る、和穂の怒りの迸《ほとばし》りだった。
「何を怒るか、この術も使えぬ仙人よ!
これは正当な報酬《ほうしゅう》だ。
贄《にえ》と引換《ひきか》えに、俺がどれだけの人間を救《すく》ってやったか。無理やりに人間をさらった覚《おぼ》えは一度たりともないんだがな!」
「それでも!」
「俺は仙術が使える。仙術を人の為《ため》に使い、報酬として人を受け取った。
それとも、この偉大《いだい》なる仙術で魚を釣《つ》ったり、猪《いのしし》を捕《つか》まえて食いつなげとでも言うのかよ?
贄を差し出したのは人間だ!」
和穂の怒りが再び弱まろうとした。
そしてまた、和穂の声の調子が変わった。殷雷が喋《しゃべ》っているのだ。
「そういうのを弱みに付け込むというのだ。
それと和穂。
間違《まちが》ってもお前にこんな忠告をするとは思わなかったが、怒りに身を任《まか》すな」
戦いから少し離れ、荒《あら》く息を吐《つ》きつつ、豹絶は村人に向かい叫ぶ。
「勝利を信じるんだ。我等《われら》の宝貝が揃《そろ》えば奴を倒せる!」
一陣《いちじん》の黒風が鏡閃から巻き起こり、殷雷刀は和穂に間合いを空《あ》けさせた。
鏡閃はその際に一人の村人に近づき、その手の中にある鎌《かま》の宝貝を拳《こぶし》で叩《たた》き割《わ》った。
まさに、瞬間《しゅんかん》の出来事《できごと》であった。
鎌の破片《はへん》が村人の頬《ほお》を掠《かす》め、そして僅《わず》かに切った。
さらに村人を襲おうとする鏡閃の脇腹《わきばら》を、再び間合《まあ》いを詰めた殷雷刀がなぎはらう。
鏡閃は吹き飛ぶが、傷は負《お》っていない。吹き飛び、転《ころ》げる鏡閃に他の村人が銛《もり》の宝貝を突き刺すが、銛は鏡閃の体に触《ふ》れると同時にへし折れた。
『!』
驚く和穂に殷雷は心を通して説明する。
『奴の龍衣は、言葉の通《とお》り、龍の衣《ころも》だ。そう簡単に破《やぶ》れんぞ。武器の宝貝はともかく、普通の宝貝で攻撃すれば逆に折れる。それほど硬いんだ』
『じゃ、勝てないの?』
『やかましい。こちとら、武器の宝貝だ。気勢《きせい》がのれば、あれぐらいの装甲《そうこう》はどうにでもなる。が、簡単じゃねえんだよ』
『あ、塁摩《るいま》の力じゃ?』
『笑わすな和穂。釘《くぎ》を金槌《かなづち》で殴《なぐ》るようなもんだ。それも曲がるような甘い釘じゃない』
地面を転がる鏡閃は、歓喜《かんき》の笑い声を上げ続けた。
「くっはっは。豹絶よ! 我等《われら》の宝貝が揃えば奴を倒せる! だと? 既《すで》に二つの宝貝は破壊《はかい》されたぞ? 我を倒すのに必要な宝貝はもう足《た》りないのじゃないか?」
苦痛、絶望が鏡閃に力を与える。豹絶は必死に村人から絶望を取り払おうとした。
「大丈夫《だいじょうぶ》だ。力を合わせれば、奴を倒せる。諦《あきら》めるな!」
二つの宝貝が破壊された事により、村人の間に勝利に対する疑惑《ぎわく》が広がっていった。
全ての宝貝があるから、鏡閃を倒せるのではないのか?
煙管《きせる》を口にし、再び若返った環樹老が、ツカツカと豹絶の側に歩み寄った。
「か、環樹老」
「どあほ」
環樹老の言葉の意味が判らない。
「は?」
「どあほ。と言ったんじゃ、この馬鹿め!」
環樹老は力任《ちからまか》せに凝命管で、豹絶の頭を殴《なぐ》る。
「な、何をするんですか!」
環樹は豹絶に向かい、怒鳴《どな》った。が、実際には村人に言い聞かせる為《ため》であった。
「何が皆で力を合わせれば勝てる、だ。根拠《こんきょ》のない、甘い話をしてるんじゃねえ。
いいか。他人の力なんざ、あてにするな。
信じられるのは自分だけだ。
今、目の前に敵がいる。そして、自分の手の中には宝貝があるんだ。
ならば、宝貝で敵を攻撃せんでどうする。協力《きょうりょく》や信頼《しんらい》なんざいらん。
ともかく、自分の宝貝で奴をぶちのめせばいいんだよ。判ったか青二才《あおにさい》!」
半《なか》ば自棄《やけ》な話であった。だが、環樹は自棄になるほうが、敗北に恐怖し結果として鏡閃に力を与えるよりはましだと判断したのだ。
環樹の言葉に反応し、村人の間からすくなくとも恐怖や絶望は消えていった。
ただ、手にある宝貝で今まで苦しめてくれた鏡閃に一度でもいいから攻撃《こうげき》を加えたいという願いだけが膨《ふく》らんでいく。
鏡閃と戦いながら、和穂の体を借《か》りて殷雷は笑った。全く、環樹の言うとおりだと思ったのだ。
戦いは長引いていった。殷雷刀は龍衣を突き破る好機に恵《めぐ》まれず、鏡閃は確実に武器以外の宝貝を破壊していった。
和穂や豹絶をはじめとした、数人の武器、の宝貝を持った者たちが鏡閃との戦いを続けていた。柴陽は、少し離れた場所で怪吸矛《かいきゅうぼう》を抱えて佇《たたず》んでいた。
一度、戦いに加わり鏡閃に怪吸矛の一撃を見舞《みま》うのに成功したが、矛《ほこ》は鏡閃の龍衣を貫《つらぬ》けなかったのだ。
怪吸矛があれば、鏡閃を大地に永遠に釘付けに出来るかもしれない。万が一、制流旗が破壊された時の為に、柴陽はここで怪吸矛を持っている事にしたのだ。自分の腕前《うでまえ》では怪吸矛を使っても鏡閃を倒せないと、柴陽は悟《さと》っていた。
その柴陽の肩《かた》を一人の男が叩いた。
「手こずってるようだな」
「あ、願月? 願月なの?」
顔を隠している訳《わけ》ではなかったが、それは柴陽の知る願月とは掛《か》け離《はな》れていた。スラリと伸びた背に、鋭い眼差《まなざ》し。軽く吹く風に髪《かみ》がなびいている。
「……体の方は大丈夫《だいじょうぶ》か?」
自分の体の事だとはすぐに気がつかない柴陽であった。
「あ、まあね。それより力を貸してよ、怪吸矛はあるから鏡閃をなんとかして」
「判《わか》った」
願月は左足を大きく前に踏《ふ》み出し、どっしりと腰を落とした。
そして、弓《ゆみ》を構《かま》えるように矛を両手に持った。左手の親指と人指し指の間に、矛を乗せ右手で矛の反対側を掴《つか》む。そして、矛の先端《せんたん》を戦い続ける鏡閃に向けた。
柴陽が呆《あき》れて言った。
「何考えてるのよ。こんな所から攻撃出来る訳ないじゃないの。怪吸矛は私もちょっと使ったから知ってるわよ。
投げて相手に当たるような宝貝じゃないじゃないの。
まさか、その矛を投げようっての? それで鏡閃を倒そうなんて……」
「相手が龍に緑《えん》のある者なら、砕鱗槍術《さいりんそうじゅつ》で砕《くだ》けぬ事はない!」
そして、壮絶《そうぜつ》なる気合《きあい》と共《とも》に、願月は矛を投げた。
その掛《か》け声《ごえ》を聞いた途端《とたん》、鏡閃の、いや龍衣の動きが瞬間的に止まった。
次の瞬間、怪吸矛は龍衣を貫き、そのまま鏡閃を地面に串刺《くしざ》しにした。
呆気《あっけ》にとられる鏡閃の顔から視線を外し、殷雷は和穂の声で言った。
「砕鱗槍術か。よくもまあこんな応用しようのない術を伝えてきたものだ」
喋《しゃべ》りながら和穂の手から殷雷刀は離れ、軽い爆発と共に殷雷が現れる。
鏡閃は呻《うめ》いていた。
「う、うぐぐ。ま、まさか」
ゆっくりとゆっくりと、怪吸矛は鏡閃の命を吸い取っていった。村人たちもだんだんと鏡閃の周《まわ》りに集まってくる。
もはや、抵抗《ていこう》する力がないと見て、豹絶は制流旗を鏡閃に突き刺した。
「これで、全《すべ》ては終わる。貴様を倒して、この永《なが》き戦いに終止符《しゅうしふ》をうつ」
豹絶の隣《となり》で、彩朱は涙《なみだ》を零《こぼ》していた。
「これで、全ては終わる。我等の涙は我等の業《ごう》によってのみ流される。貴様の為《ため》に流される涙は、もう一粒《ひとつぶ》たりともあってはならぬ」
そして、龍衣の鏡閃は緑色の炎《ほのお》を巻き散らし燃《も》え上がった。
夜。もう一人の鏡閃《きょうせん》の屋敷《やしき》。
鏡閃は血を吐《は》いた。
寝台《しんだい》の上に真《ま》っ赤《か》な血がドクドクと流れていった。
血を流しながら鏡閃は笑った。
「滅《ほろ》びたか我《わ》が半身。これで俺も正真正銘《しょうしんしょうめい》の人になったという訳だな」
無傷のままで静嵐《せいらん》の騒動《そうどう》は終了《しゅうりょう》した。しかしその時の喜びは小さなものだった。
だが、今回の勝利は流された血が多かったが喜びも大きかった。
ついに長年の呪縛《じゅばく》は解けたのだ。
環樹老《かんじゅろう》は言った。
「腐《くさ》れ忌《い》ま忌《い》ましい化け物め。俺《おれ》にろくでなしの真似事《まねごと》をさせおって、なあ儀堂《ぎどう》」
「左様《さよう》で」
彩朱《さいしゅ》も飛び跳《は》ねて、喜んでいた。
「だから言ったじゃない、環樹老も儀堂さんもおかしいって」
「へいへいそうですね」
村人たちは勝利に沸《わ》き立っていた。
喜《よろこ》びの喧騒《けんそう》の中で、和穂《かずほ》は龍衣《りゅうい》の鏡閃《きょうせん》であったものを見つめていた。今、和穂の目の前にあるのは、黒く焼《や》け焦《こ》げた上着《うわぎ》だけであった。
「どうした、和穂」
「うん。ねえ、龍衣の鏡閃て一体、何だったのかしら?」
殷雷《いんらい》は龍衣の残骸《ざんがい》を見つめた。
「滅多《めった》にない希有《けう》な話だ。やはりあいつも妖怪《ようかい》や鬼怪《きかい》の類《たぐい》だったんだろうよ。恐《おそ》らく、龍の鱗《うろこ》か何かが時を経《へ》て、あんな化け物になったんだ」
まず、龍の鱗がそうそう存在《そんざい》はしない。さらにその鱗が化け物と化す確率がどれだけ低いか、殷雷も承知《しょうち》していた。その為《ため》、彼も説明しながら居心地《いごごち》が悪そうだった。
「あり得ないが、それが起きちまった。原因が宝貝じゃなかったのは驚《おどろ》きだが、まあ実際《じっさい》にあったんだから仕方があるまい。
さてと、ほとんど壊《こわ》れちまったが村の連中に貸した宝貝《ぱおぺい》を取り戻してくる」
殷雷は断縁獄《だんえんごく》を片手に、村人の中へと走っていった。
和穂は、龍衣であったものに手を触れた。
龍衣の残骸はまるで蛇《へび》の脱《ぬ》け殻《がら》のようにボロボロになっている。本当に、あれは龍の衣《ころも》だったのだろうか。鏡閃という同じ名を持つ、軒轅《けんえん》の幹部との関係はなんだったんだろう?
和穂はもう一度、龍衣を掴《つか》もうとした。
だが、強い風が吹《ふ》き、一気に吹き飛ばしてしまった。
龍衣の塵《ちり》の中に、和穂は一つの小さな珠《たま》を見つけた。
「!」
それは和穂の兄、程獲《ていかく》から彼女に託《たく》された白い珠と酷似《こくじ》していた。
ただ、違《ちが》うのは龍衣の中の珠には真珠《しんじゅ》を思わせる輝《かがや》きがなかった。
だが、これは同じ物だ。
和穂がもっと観察しようと、指に力をいれると、龍衣の白い珠は割れて粉になり、消し飛んだ。
「一体あれは?」
和穂の疑問を余所《よそ》に、陽気な村人たちは和穂を引っ張り出してきた。
豹絶は和穂の肩に手を起き、村人たちに言った。
「まあ、結局《けっきょく》の所《ところ》、我等《われら》が鏡閃の呪縛《じゅばく》から逃《のが》れられたのも、和穂が宝貝を持って帰って来てくれたお陰《かげ》です」
彩朱がパチパチと拍手《はくしゅ》をする。
興味《きょうみ》なさそうな願月《がんげつ》の顔を見て、柴陽《さいよう》は混乱《こんらん》した。
「本当にあんた、願月なの?」
「俺《おれ》の贋物《にせもの》がいて、どうなる?」
豹絶は言葉を続けた。
「てなわけで、感謝の気持ちを込めて、胴上《どうあ》げでもしちまいましょう」
「わ、あのちょっと!」
景気づけに和穂は胴上《どうあ》げされ、軽々と宙を舞《ま》う。
殷雷は舌打《したう》ちしながら回収を続けた。
「なにを遊んでいやがる、和穂の奴《やつ》め」
殷雷は僅《わず》かに残った龍衣の塵と白い珠の粉を蹴《け》り飛ばしたが、全く気にはしていなかった。
村人たちの騒乱《そうらん》は朝まで続いた。
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あとがき
『封印石』
ワシが生まれてこのかた住んでいるのは、一つの同じ市なのである。
引《ひ》っ越《こ》しても、同じ市の別の場所という訳《わけ》だ。
だから、同じ市に、もう二十数年住んでおり、家からの最寄《もよ》り駅《えき》というのも一緒なのであった。
ここで盲点《もうてん》が生まれる。
物心《ものごころ》つくかつかないかの内から、日常的に目にしている物は、それが少しばかり奇妙《きみょう》な物でも不思議《ふしぎ》には感じなくなるのであった。
実は駅前の通りに、石が祭《まつ》ってある。
なんだ、御神体《ごしんたい》が石なんてのは、それほど珍《めずら》しい話じゃないぞ。と思われるかもしれない。
実際ワシも最近までは、気にも留《と》めてなかったのだ。
が、これはどうも御神体を祭っているのではないようなのだ。
その石……罰《ぽち》が当たるとおっかないので御石様《おいしさま》と呼ぶ。御石様のすぐ側《そば》には、神社がある。
これが妙ではないか? すぐそばには立派《りっぱ》な神社があり、片方には御石様だ。別に境内《けいだい》でもなんでもない。
御石様の祭り方も少し変わっていて、まずお墓を想像して欲しい。
あんな感じで砂利《じゃり》を綺麗《きれい》に敷《し》き詰《つ》めた二メートル平方ぐらいの場所に、墓石《ぼせき》のように苔《こけ》の生《は》えた御石様が立っている。
墓地のお墓のように、御石様の近くには寄れないようになっていて(結界?)砂利の側には、お参り出来るような屋根《やね》付きの場所がある。
さあ、これは何でしょう?
故人《こじん》の偉業《いぎょう》を讃《たた》えた、記念碑《きねんひ》の小さい奴《やつ》に見えなくもないが、その割にいわれの書かれた看板《かんばん》はなく、いつも綺麗に掃除《そうじ》されているが、掃除をしている現場は一度も見た覚《おぼ》えはなし。
何が一番|凄《すご》いかといって、二十数年間生きていて、この石が意識の上にあがったのがつい最近というのが凄い。
果たして、御石様の正体は?
『花子。といっても山田に非《あら》ず』
さらに妙といえば、ここらへんの小学校、中学校では、不自然なまでにお化けの噂話《うわさばなし》がないのである。
学校に限らず、近所でも幽霊《ゆうれい》騒ぎなんてとんと聞いた覚えがない。
やはりこの地域の有名人が(出身地という意味じゃなく、逸話《いつわ》がある人という意味だ)聖徳太子や、ヤマトタケルノミコトだと、お化けも出にくいのかも知れない。
そして、御石様との関連は?
八月刊行なのに、小説中の季節は思いっきり冬。それで無理やり怪談話をして、季節感を出そうとしてやがるな。という鋭い読みはしてはいけない。
でも、前の話は作り話ではないぞ。
『彩朱《さいしゅ》』
二十代|半《なか》ばの、知り合い同士の男が二人、駅に向かっているとしよう。
一人がふと立ち止まり、駅の側《そば》の駐輪所を指差しながらこう言った。
「おい、見てみろ。可愛《かわい》い子猫《こねこ》ちゃんがいるじゃないか」
もう一人の男は露骨《ろこつ》に嫌《いや》な顔をする。
それは、可愛い子猫ちゃんというのが、綺麗《きれい》な娘《むすめ》さんとかではなくて、本当に可愛い子猫、小さな猫であったからだろう。
かくも、男の猫好きというのは、かなり怪《あや》しげな目で見られるものである。
ああ悪かったな。今まで黙《だま》っていたけどワシは猫好きなんだよ。
さあ、今から始まる猫|讃歌《さんか》、書いているのが徹夜《てつや》で頭がフラフラで、不精髭《ぶしょうひげ》が伸びすぎて、既《すで》に不精髭じゃなくなりかけている、三十前の男が書いていると想像して読むと、かなりスリリングな気分になる事、請《う》け合いである。
『猫道《ねこどう》』
猫道。獣《けもの》が通る、獣道という意味ではなくて、書道や柔道、剣道などと同じ意味での猫道である。
さて、ついさっき書いておいてなんであるが、小猫が可愛いというのは、猫道の本質からは少し離れておる。
本来、人類は哺乳類《ほにゅうるい》であるが故か、他の哺乳類の子供も可愛く感じるように、オツムの中身が出来ておるのだね。
簡単《かんたん》な話、子猫が可愛いという感覚は、子犬が可愛い、という感覚と基本的に同列なのである。
待ちな、ヒヨコだって可愛いじゃねえか! との意見もあるかもしれないが、別に否定はしない。
種族の範囲《はんい》的には〔哺乳類、鳥類〕はまだ近い方だからのう。
てな理由で、猫道では基本的に子猫の可愛さには言及《げんきゅう》しないのであった。
犬好きの猫嫌いにいわせると、
「猫は何の役にも立たないし、忠誠心《ちゅうせいしん》のかけらもないから好きではない」
との意見をよく聞く。全《まった》くもってその通りで、主人の帰りを何年も待ち続けた、忠犬《ちゅうけん》ハチ公みたいな話はまず聞かない。というか絶対《ぜったい》にないわな。
(全然関係ないけど、ワシは長年|西郷《さいごう》隆盛《たかもり》の銅像が連れている犬の名前を、ハチ公だと勘違《かんちが》いしていたのは内緒《ないしょ》である。
本当の名前を知った訳じゃないので、偶然《ぐうぜん》にもハチ公で正解の可能性もあるが、時間の都合《つごう》で調査出来ず残念。個人的には破軍丸《はぐんまる》とか、屠英号《とえいごう》がいいと思うがどうか?)
本当は、猫の忠誠心を描《えが》いた物語もあるにはある。
そう、化け猫話なのだ。
化け猫の物語は、基本的に時代劇で、猫を苛《いじ》めたから祟《たた》られたというのではなく、猫を可愛がっていたお姫様《ひめさま》が非業《ひごう》の死をとげて、その仇《かたき》を取る為《ため》に猫が化けて出ると、なっている。
でも、猫にゃ忠誠心なんかございません。只《ただ》の気まぐれで、人間に恩義《おんぎ》を感じたりはしませんぜ。
当然の事ながら、そこがいいのである。
犬をかまっていると時々《ときどき》、
「む、もしやこいつは本当はワシの事を鬱陶《うっとう》しく感じているが、忠誠心を発揮《はっき》して我慢《がまん》してやがるんじゃないか?」
と思うときが、皆さんにもあるだろう。
これが猫なら、何年|飼《か》っていても、引《ひ》っ掻《か》かれる。
忠誠心はないが、ともかく正直《しょうじき》な動物なのだ、猫は。
とかなんとか、ハッタリをかましてみたりしたが、猫が可愛いのは理屈《りくつ》ではないのである。
フニャフニャしてて毛も柔《やわ》らかく、ヒゲが生えててニャアと鳴く動物が可愛くないはずがないであろう。
これが猫道の真理であり、問答無用《もんどうむよう》。
『珍しく私信』
よくファンレターをいただくのであるが、最近、返事が書けておらず、本当に申《もう》し訳《わけ》ない。
絶対に読んではいるので、返事は期待しないで待っててちょうだいな。
手が空《あ》いたら、一気に書こうと予定はしております。
後《あと》、切手や封筒は同封してくれなくていいから、住所はハッキリと書いておいてくださいな。結構《けっこう》、住所がよく判らないから返事が出せないというのがあるのです。
あぁ、いかにも、あとがきらしい事を書いてしまったところで紙数も尽《つ》きた。
ではまた。
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》7 闇《やみ》をあざむく龍《りゅう》の影《かげ》
平成10年8月25日 初版発行
著者――ろくごまるに