封仙娘娘追宝録6 憎みきれない好敵手
ろくごまるに
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目次
序 章『とても、とても大きな罠《わな》』
第一章『二つの再会』
第二章『歪《ゆが》む宝貝《ぱおぺい》』
第三章『恵潤刀《けいじゅんとう》。そして』
終 章
あとがき
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序章『とても、とても大きな罠《わな》』
剛始《ごうし》は、自分の顎《あご》を撫《な》でた。
あまり、毛深い方ではなかったが、ここ一週間ばかり髭《ひげ》を剃《そ》っていないので、かなり不精髭《ぶしょうひげ》が伸《の》びていた。
寝台《しんだい》から立ち上がり、剛始は鉄の柵《さく》に向かう。柵の向こうには一人の見張《みは》りがいた。
剛始と同じぐらいの、三十前の男だ。
みるからに、忠実な使用人づらした見張りに、剛始は言った。
「やあ。髭を剃りたいから、剃刀《かみそり》を貸してくれないか? 判《わか》るね? 剃刀がどんなものかは知っているね?」
見張りと剛始の共通点は年齢《ねんれい》ぐらいで、その人相を見れば、送ってきた人生の違《ちが》いは明らかだった。
剛始の顔には凶《きょう》があった。
己《おのれ》の人生に不運が付きまとう、凶相ではない。
他人を不運に巻き込み、自分も同じような修羅場《しゅらば》に落ちる運命を背負《せお》った顔だ。
問題は、本人にとっては平穏《へいおん》よりも修羅場の方に安息を感じる、その性格だった。
彼の運命とは、全《すべ》て、彼の性格が巻き起こした事件の連続でしかない。
鉄柵の前に立ち、自分を見つめる剛始の顔に、見張りはゾクリと、悪寒《おかん》と不快感を感じた。
訳《わけ》の判らぬ不快感ならば、気味《きみ》の悪さで片づけられただろう。
だが、この視線には見覚えがあった。
自分が、この視線を使うのはどんな時だろうと、考えつつ見張りは答えた。
「ふざけるな。どこの世界に、囚人《しゅうじん》に刃物を渡《わた》す見張りがいる」
つまらぬ答えだ。もう少し気の利《き》いた口はきけないのかと、軽蔑《けいべつ》にも似た溜《た》め息《いき》が剛始の口から洩《も》れた。
凶がその人相にあっても、凶暴《きょうぼう》さは剛始から滲《にじ》み出てはいなかった。それどころか剛始の視線には優《やさ》しさがあると気がつき、見張りはさらに混乱した。
軽蔑と優しさが混じった瞳《ひとみ》。
有り得なさそうだが、見覚えのある表情だと見張りは考えた。
自分の視線をにらみかえす見張りに、剛始は優しく罵倒《ばとう》を浴《あ》びせた。
「ほほう。囚人かい。お前なんかより、余程《よほど》丁寧《ていねい》な扱《あつか》いを受けていると思うがね?」
牢《ろう》の中には剛始が一人。
目の高さに大きな窓があり、湿気《しっけ》とは縁《えん》のない牢獄《ろうごく》だ。窓からは優しい朝日が差し込み
剛始を照らしていた。
痩《や》せこけた男だが、日に焼けた赤い肌《はだ》をしていて脆弱《ぜいじゃく》な感じはしない。
着飾《きかざ》って喜《よろこ》ぶような性格ではなさそうなのに、左手には銀の腕輪《うでわ》が光っていた。
腕輪といっても、指輪のような形とは少し違っていた。長さの違う、幾《いく》つもの小さく細い金属が繋《つな》がり、輪になっている物だ。
剛始の言うように、見張りよりも囚人の方の顔色がよい。着ている服も、小ざっぱりしていた。
「なあ、見張りさんよ。お前の主人はどうして、俺《おれ》をこんな牢の役目も果たせないようないい加減《かげん》な場所に閉《と》じ込《こ》めていると思う? 不思議《ふしぎ》だとは思わぬか?」
「……強がりはよすんだな。
逃《に》げられるのなら、さっさと逃げてみろってんだ」
見張りの一言一言に、剛始はうなずいた。
間違《まちが》えた答えではないが、きみは私の質問の趣旨《しゅし》を理解出来てないようだと諭《さと》す、教師の仕種《しぐさ》だった。
「では、毎日運ばれる食事は、囚人に与《あた》えるにしては上等だと思わないか?
服も洗うし、風呂《ふろ》にも入れる。この柵がなければ、客人をもてなしてるようじゃないか? どうしてだと思う?」
以前からの見張りの疑問を、剛始は言い当てた。
全《まった》くそのとおりだった。
だいたい、この屋敷《やしき》の中には牢など存在しないのだ。
剛始を閉じ込めているのは、本来|貴重品《きちょうひん》を保管する為《ため》の檻《おり》だった。その檻の中に寝台やらを運び込み、無理やりに牢としているに過ぎない。
強い朝日を受けて少し赤茶けた瞳と髪《かみ》に見えたが、剛始は本来は黒目黒髪《くろめくろかみ》の男だ。
剛始は軽く、牢を見回した。
「まるで、私がとんでもない貴重品のようだな」
「……旦那様《だんなさま》の考えを、詮索《せんさく》するつもりはない」
嘘《うそ》だ。と剛始は見抜《みぬ》いた。暇潰《ひまつぶ》しに剛始はさらに言葉を繋げた。
「不思議じゃないか。屋敷に忍《しの》び込《こ》んだ、この私を捕《つか》まえ、牢につないだ。
そこまではいい。捕まえたなら、さっさと役人に引き渡せばいいのにそうはしない。
かわりに、客人をもてなす態度《たいど》なんだぜ」
「黙《だま》れ」
「無理するなって。お前も、屋敷の主人に少し変わった所があると思ってるんだろ。
情報を交換《こうかん》しようじゃないか。
表向《おもてむ》きは、大きな油問屋《あぶらどんや》でも、裏《うら》じゃ何か秘密《ひみつ》がありそうだろ?」
剛始は好奇心《こうきしん》を巧《たく》みに攻《せ》めた。ついつい、使用人も疑問を洩らす。
見張りは、薄々《うすうす》剛始の視線の意味を理解してきた。
これは、もしかして出来の悪い生徒を指導《しどう》する、教師の視線ではないか。
本性が善《ぜん》であろうが、悪であろうが、聡明《そうめい》さは宿《やど》る。
剛始の瞳には、確かに聡明さがあった。
自分の疑問には答えられる知恵《ちえ》があるのではと、見張りは少しずつ口を開いた。
「……旦那様は、たまにだが、奇妙《きみょう》な行動をなされる。
いや、別に奇行《きこう》というほどの事じゃない。ふらりと二、三日姿をくらます事があるが、別に遊んでいるようでもないんだ。
幾《いく》らお忍びで遊んだとて、噂《うわさ》ぐらいは流れるだろ」
「ほお」
「それに、土蔵《どぞう》に閉《と》じ籠《こ》もられる事がある。本人はガラクタの整理だとおっしゃっているが、そうそうこまめに整理する必要はない」
剛始は見張りに向かい、小声で言った。
「じゃ、こっちも少し教えてあげよう。
『軒轅《けんえん》』という名は知っているか?」
いきなり何を言い出すのかと、見張りは驚《おどろ》いた。
「知ってるぞ。偉《えら》い仙人《せんにん》の名前であっちこっちに、祭った廟《びょう》がある」
先刻と同じ仕種を剛始は繰《く》り返《かえ》した。間違いではないが、質問の趣旨を勘違《かんちが》いしているという仕種だ。
「いや、その軒轅じゃない。俺が言ってるのは『軒轅』という名の組織だ。お前の主人は、その組織の構成員かもしれん」
「それって何の組織なんだ?」
剛始は鋭《するど》く、見張りの表情を読んだ。素朴《そぼく》な疑問の顔だ。やはり深い事情まで知っているのではない。
無難《ぶなん》な嘘を剛始はついた。
「別に犯罪《はんざい》組織じゃない。
商人連中が、裏で手を組んでる組織でな。色々《いろいろ》と表立《おもてだ》って出来ないような協力をしてるらしい。
俺もその仲間に入れて欲《ほ》しくて、屋敷を探《さぐ》ってたんだよ」
「そうか。それで旦那様は、お前をこうしている訳《わけ》だな。役所に突き出して、いらぬ事を言われても困《こま》るだろうし。
でも、口封《くちふう》じに殺されたりするんじゃないか?」
腕輪をさすりながら剛始は、心の中でせせら笑った。そう簡単《かんたん》に俺を殺せる訳がない。
「そこまでやばい組織じゃないよ。
せいぜい、組織があった証拠《しょうこ》を消す時間を稼《かせ》いでいるか、俺も軒轅に引き入れるかを相談《そうだん》してるんだろう。
俺としちゃ、仲間に入れてくれると信じてここにいるんだがな」
「なるほど」
「ま、判《わか》ったら、お前は『軒轅』の事は忘れてしまえ。下手《へた》に噂を立てて、この店の商売が上手《うま》くいかなくなりゃ、お前が困るだろ」
「それもそうだな」
剛始は寝台に戻《もど》り、ダラリと横になり、ジャラリと腕輪が鳴った。
嘘で固めた説明だが、このぐらいの嘘で充分《じゅうぶん》だ。
軒轅という組織は確かに存在《そんざい》する。
だが、それは間違っても、商人の寄り合い団体などではない。
軒轅とは何か? 剛始はそれを調べる為にあえて捕《つか》まったままでいるのだ。
寝台に横たわる剛始は朝日に背を向けた。
剛始は今までに幾人《いくにん》かの宝貝《ぱおぺい》の使い手を葬《ほうむ》り去《さ》っていた。
常人ならざる能力の持ち主の情報を、地道《じみち》に集め、宝貝の使い手であると突き止めて、そいつを打《う》ち砕《くだ》く。
だが、時には獲物《えもの》を横取りされた。
宝貝使いは、また宝貝使いを狙《ねら》うものだ。
宝貝を狙う、剛始という狩人《かりゅうど》は、いつしか自分以外にも狩人がいると考え始めた。
鍵《かぎ》は軒轅という名前だけ。
剛始は、弟、剛終《ごうしゅう》と共《とも》に軒轅の謎《なぞ》を探っていた。
幾つかの情報を元に、手分《てわ》けして軒轅を嗅《か》ぎ回《まわ》っているのだ。
軒轅に狙われた者は、確実に命を落としていた。
だが、自分が殺されはしないと剛始は自信を持っていた。
やつらと俺では、知性の輝《かがや》きが違う。我等《われら》兄弟《きょうだい》の知性にかなうものなど、いるはずがない。
剛始は銀の腕輪を強くさすった。
『俺の宝貝《ぱおぺい》を強くするには、もっと宝貝が必要なのだ。
重要なのは、軒轅が利用出来る組織かどうかだ。出来ないのならば、叩《たた》き潰《つぶ》せばいい』
ふと、見張りは変だと考えた。
「待ってくれ。今の話で、数日間の留守《るす》の説明はつくが、土蔵の理由にはならんぞ」
そこまで、知ったことではないと、剛始は眠《ねむ》ったふりをした。
見張りの間違いは一つ。
剛始の視線は、教師の視線ではない。
あれは、動物の生態《せいたい》を観察《かんさつ》する学者の視線だった。
剛始は他人を見下《みくだ》したりはしていない。元から眼中《がんちゅう》にはないのだ。
我等はお前等とは違う。違いは知性の輝きだ。
そこまで己《おのれ》の知性に自信のある剛始が、見張りを見下していないのは、猿《さる》に対して優越感《ゆうえつかん》を抱《いだ》く人間がいないのと同じ理由だった。
*
そして、その日の午後、剛始《ごうし》を捕《と》らえた屋敷の主人が、牢獄《ろうごく》に姿を現した。
白髪《はくはつ》を短く刈《か》り込《こ》んだ、初老の男だ。抜け目のない眼光は、一代でこれだけの財《ざい》を築《きず》いた自信のようにも見えた。
初老の男は、見張りに下がるように、命じた。
「こやつを牢から出したら、いつもの仕事に戻れ」
「しかし、旦那様《だんなさま》。警護《けいご》もつけずに賊《ぞく》と差し向かいでは危険過ぎます」
「構《かま》わぬ。この男も噛《か》みつきはしまい」
「……判《わか》りました」
見張りは、牢の鍵《かぎ》を開け、姿を消す。
屋敷の主人を目の前にして、剛始は不敵《ふてき》に笑った。
「どうだ、白状《はくじょう》する気になったか?」
主人も笑う。
「ふはは。それでは、どっちが囚人だか判らぬではないか、剛始先生」
「ほお。さすがに名前は調べたか。よく頑張《がんば》った」
相手が変わろうと、剛始の態度《たいど》は同じだった。
主人が見張りと違うのは、剛始の視線の意味を理解している事だった。
それでいて、怒《おこ》るでもなし、卑屈《ひくつ》になるでもなく、自分より遥《はる》かに若い剛始を『先生』と呼んだ。
「まあ、そんな話はどうでもよかろう。
白状というのは、気に食わぬが、軒轅《けんえん》の正体は教えてしんぜよう」
さほど窮屈《きゅうくつ》な牢ではなかったが、牢の外に出た途端《とたん》、剛始は大きく伸《の》びをした。
「仲間に入るかどうかの、お誘《さそ》いって訳《わけ》だ」
「左様《さよう》。でも勘違《かんちが》いするでないぞ。仲間に入るかどうかは、あくまでお主《ぬし》の考えしだいじゃからな」
「えらく、物分かりのいい秘密組織だな」
主人は静かに言った。
「宝貝《ぱおぺい》使いを手懐《てなず》けるのは、面倒《めんどう》じゃて。基本的に使い手の意思は尊重《そんちょう》する。
さらにお主は、脅威的《きょういてき》な知識《ちしき》を持つ技術者なんだそうだな。
お主から見れば、わしなど、うすら馬鹿なんだろう」
「とんでもない。馬鹿だなんて考えてはいない。恐《おそ》ろしく無知なだけだよ」
嘲笑《ちょうしょう》を正面から受け止めるだけの分別が、主人にはあった。
「ほっほ。宝貝の前では、多少の知識の差など意味があるのかね?」
倍以上年の離《はな》れている主人に、剛始は優《やさ》しく説明した。
「違う違う。『使う』のと、『使いこなす』では意味が違う。
所持する宝貝に振り回される奴《やつ》は論外として、所持する宝貝を完全に理解して活用するだけでも駄目《だめ》なんだよ」
「お主のいわんとするところが理解出来んの」
「理解する必要はない。理解出来ても、俺《おれ》の真似《まね》は出来んからな。
お前らは、宝貝以外に関しても、宝貝に関しても、あまりに無知だ」
老人は大きくうなずいた。剛始の言葉は嘘ではない。
だが、利口でも馬鹿でも失敗はする。失敗すれば、そいつは間抜《まぬ》けだと、老人は心の中で呟《つぶや》く。
「まあ、軒轅としちゃ、剛始先生の頭に期待しておるんじゃよ」
「ではきくぞ。軒轅とは?」
老人独特の狡猾《こうかつ》な笑《え》みが、主人の顔に浮《う》かんだ。
「言葉よりも、実際に見た方がよかろう。連れていってやるぞい。軒轅の集会に」
主人に連れられて、剛始は部屋を出た。
外に出るかと思われたが、そのまま庭に向かい、土蔵へと案内される。
*
土蔵の中には、湿《しめ》った空気があった。
明かり取りの窓は高い位置にあり、あちらこちらに、光の届《とど》かぬ闇《やみ》が散らばっていた。
棚《たな》と棚の間に、無造作《むぞうさ》に二つの椅子《いす》が置かれている。
「まあ、座《すわ》りたまえよ」
「椅子の宝貝《ぱおぺい》?」
「いいや。ただの椅子じゃ」
老人は壁《かべ》に向かって座り、剛始は老人の背中を見るように座った。
そして、屋敷の主人は懐《ふところ》から小さな鍵《かぎ》を取り出した。
「鍵の宝貝?」
「ふへへ。さすがに緊張《きんちょう》するか? でも心配はいらぬ」
鍵が光った。
途端《とたん》、土蔵の中から剛始たち以外の色が完全に消滅《しょうめつ》した。光と闇と、その境目《さかいめ》の線だけとなる。
が、その線も簡単《かんたん》に解《と》け、空白と線のかけらだけの世界となった。
意味をなくした線たちは、唐突《とうとつ》に再び結び合わさり、世界を形づくり世界に色が着く。
再び構成された世界は、土蔵の中ではなかった。
果ての無い世界に大きな卓《たく》があった。
果ての無い雪原に卓を置いたようである。ただし、空も大地と同じ白色だ。
卓には、既《すで》に何人かの人物が座っていた。
剛始は言った。
「卓の宝貝?」
老人は振り向いた。
「そう。じゃがあの鍵が宝貝というよりも、あの鍵を持つ者だけが卓につけるのだ」
「……空間を超越《ちょうえつ》してか?」
「そこまで凄《すご》くはない。
ここはあくまで土蔵の中じゃからな。
全《すべ》ては幻《まぼろし》じゃ。じゃが、幻は本物と同じ動きをする。相談やら会議をするにはこれで充分じゃよ」
剛始は素早《すばや》く、卓についている人間の顔を見た。
が、そこには尋常《じんじょう》な顔はなかった。
顔から目と鼻はスルリと消えていた。間《ま》の抜《ぬ》けた顔に、唇《くちびる》だけがあった。
「……そう簡単に素顔《すがお》は明かさないって訳《わけ》かい?」
「当然《とうぜん》。まだお主《ぬし》が仲間になるかどうか決まったわけじゃない。最低限の注意じゃよ」
「……で、唇だけが残してあるのは、誰《だれ》が話しているか判《わか》らせる為《ため》か」
「そう。さすがは剛始先生。いちいち説明しなくても、勝手《かって》に分析《ぶんせき》して下さる」
あちらこちらで、唇が動き、それに反応して別の唇が動く。会話が行われているのに間違いはない。が、剛始には会話が聞こえなかった。
「よってたかって、俺《おれ》の悪口でも言ってるのかね?」
「冗談《じょうだん》はよしておくれ。
判ってるんだろ? 雑談《ざつだん》の内容から、素性《すじょう》がばれるのを恐《おそ》れてるんじゃよ」
それでも、剛始は出席者の顔を見る。
特定の個人を断定《だんてい》するのは無理《むり》だが、性別と年齢ぐらいは見て取れた。
ありとあらゆるとまではいかなかったが、男も女も、若いのも年寄りもいる。自分を除《のぞ》いて、六人の軒轅《けんえん》の構成員がいた。
その中で、一際《ひときわ》ドッシリと構《かま》えた青年がいた。そいつが、首領《しゅりょう》だと剛始は推測《すいそく》した。
構成員同士の会話が、常にその青年を軸《じく》にして動いているからだった。
「軒轅の説明じゃないのか? 俺の顔見せだったのか? どうせ向こうには、俺の顔が見えてるんだろ」
「まあ、しばらく待て。お前と一緒《いっしょ》に説明を受ける奴《やつ》がいるんだ。あの馬鹿、また時間に遅《おく》れておるな」
老人の言った馬鹿の一言には、気安い友人を窘《たしな》めるような、柔《やわ》らかさは一切《いっさい》なかった。
代わりに心の底から嫌《きら》っている、嫌悪《けんお》の毒《どく》があった。
そして、またしても線が蠢《うごめ》き、三人の人間を形作った。
老人と剛始と同じように、一人の男が直接卓に着き、その後ろに控《ひか》えて二人の姿が見えた。
卓に着いたのは、首領と推測した男と同じような青年だった。
少なくとも、この場に青年と呼べるのは、この二人しかいない。
剛始は弟の剛終が調べているのが、若い男だと思い出した。どちらかの青年の付近に、剛終が迫《せま》っているかもしれない。
遅《おく》れてやって来た青年の、右後ろにいるのは、髪《かみ》の長い袖付《そでつ》きの外套《がいとう》を着た娘《むすめ》。
娘の隣《となり》には、ほんの九歳か十歳ぐらいの子供が座《すわ》っていた。
娘と子供の会話は、剛始にも聞こえた。どうやらこの二人も、俺と似たような立場なのだと剛始は考えた。
慌《あわ》てる子供を娘はなだめていた。
「け、恵潤《けいじゅん》。どうなってるんだよ!」
「宝貝《ぱおぺい》のせいでしょ」
「でも、ここにいる人たち、顔がないぞ!」
「だから、宝貝のせいだってば」
「第一、ここはどこなのさ!」
「知らないわよ」
「どうして、そんなに落ち着いていられるんだ!」
「慌てても仕方《しかた》ないじゃない」
「でも」
「ほらほら、一人前の武人《ぶじん》になりたきゃ、もっと落ち着いて、状況《じょうきょう》を分析しな」
「分析するも何も、判《わか》らない事ばかりじゃないか」
「うむ。私はそれを宝貝のせいだと分析したが、勇吾《ゆうご》はどう思う?」
「……そりゃ、宝貝のせいだと思う」
娘の名は恵潤。子供の名は勇吾だ。
恵潤と勇吾を連れてきた男が、二人に何かを言った。
その言葉は、少年のしゃくに障《さわ》ったようだった。
「うるさい! 別に怖《こわ》くなんかない。ここから逃《に》げ出す気なんかないぞ!」
恵潤は青年に殴《なぐ》りかかろうとする勇吾をおしとどめた。
「ま、そういう事。勇吾も私と一緒にお話をうかがいます」
そして、剛始が首領だと思った男が口を開いた。剛始の予測《よそく》は当たっていた。
「我等《われら》が軒轅《けんえん》の議《ぎ》にようこそ」
青年の声に何の特徴《とくちょう》もなかった。口調《くちょう》は確かに存在したが、声には特徴がない。
今更《いまさら》、声に細工がしてあるぐらいで剛始は驚かなかった。
言葉は続く。
「何らかの縁《えん》があり、こうして我らの議に新たな参加者が」
首領の言葉は、唐突《とうとつ》に遮《さえぎ》られた。一同《いちどう》が何事かと見守る中、勇吾たちを連れてきた青年が口を開いたのだ。
「首領。以前から申しております、和穂《かずほ》の件についてですが」
首領と青年の声は全く同じではあった。だが口調の違いは明白だった。
流れるような首領の喋《しゃべ》り方に比べ、青年の口調にはどこか間の抜けた物が感じられた。
「挨拶《あいさつ》ぐらい、先にやらせてくれぬか?」
「ああ、これは失礼」
「我らが軒轅に賛同《さんどう》するかどうかは、完全に貴方《あなた》たちの自由だという事を、最初にお断《ことわ》りしましょう。
本日は、我ら軒轅がいかなる組織かを簡単に説明させていただく」
再び、青年により言葉が中断された。
「はて、今日は説明だけですと? 和穂の件についての」
構成員たちの苛立《いらだ》ちが、青年を襲《おそ》う。
二度までも邪魔《じゃま》をされ、首領の声にも怒りが籠《こ》もった。
「和穂について、何の論議《ろんぎ》が必要だというのか? あれはもはや、我らの脅威《きょうい》たりえまいよ。
そう。かつては、あれの持つ索具輪《さくぐりん》は脅威と言えた。
索具輪の能力があれば、いつ寝首《ねくび》を掻《か》かれるか判《わか》ったものではなかったからな。
だが、今や我らには索具輪に匹敵《ひってき》する、九天象《きゅうてんしょう》があるのではなかったのかね?
和穂の居場所《いばしょ》は、常に判っているのだぞ」
「はあ、言われてみれば」
「……度々《たびたび》の中断、申し訳ない。
手短《てみじか》に説明しよう。我ら軒轅の手には、今も申した九天象がある。
この宝貝《ぱおぺい》は、地上にある全ての宝貝の在《あ》り処《か》を知る能力があるのだ。
我ら軒轅は、協力者に、一人で複数の宝貝を持つ、宝貝の使い手の居所を教える。
協力者は宝貝の使い手を倒《たお》し、手に入れた宝貝の中から、自分の好きな物を一つ選んでいただき、それ以外を軒轅に納《おさ》めてもらう。
そう、たったこれだけの話だ」
口を開いたのは、剛始だった。
「軒轅から、情報だけ仕入《しい》れて、宝貝を持ち逃げしたらどうなる? 死をもって償《つぐな》うのかい?」
いい質問だとばかりに、首領の口許《くちもと》が綻《ほころ》んだ。
「したければ、持ち逃げでもすればいい。
それに制裁《せいさい》を加えたりはしない。
だが、当然以降は軒轅からの情報|提供《ていきょう》はされなくなる。
長い目で見れば、どれだけの損失《そんしつ》か考えるまでもなかろう」
「利口《りこう》な連中だ。自分らは危《あぶ》ない橋を渡らずに、宝貝を手に入れるって訳だ」
「お褒《ほ》め頂《いただ》いて光栄《こうえい》だな。
具体的な説明は、貴方たちが接触《せっしょく》した軒轅の構成員にしてもらうがいい」
三たび、青年が口を挟《はさ》む。
「やはり、和穂たちを放置するのは、危険ではないでしょうか? 宝貝が飛び散った後、これだけの時間、命を落とさずに回収作業を進めている人物には、何らかの対策が必要なのではないでしょうか」
首領は聞こえるような、舌打《したう》ちをした。
そして、これは論議の場だと言いたげに、顔のない構成員たちに提案した。
「判《わか》った。きみが、何故《なぜ》和穂を気にかけるか理解に苦しむがな。
そんなに気になるのならば和穂の一件を彼に一任《いちにん》しようと思うが、どうかね?」
卓に座《すわ》る人物たちは、面倒《めんどう》そうに首領の意見に賛成《さんせい》した。
馬鹿は説得するより、好きなようにさせておくべきだという、賛成だった。
「うむ、全員賛成だな。和穂に関する情報は逐一《ちくいち》きみに与えよう」
恐《おそ》らく喜《よろこ》びの表情をたたえて、青年は後ろの二人に振り返った。
「それじゃ、さっそく勇吾君たちには、和穂の所に行ってもらいましょう。
あ、勿論《もちろん》、軒轅に協力してくれる意思《いし》があれば、なんですけど」
続いて勇吾が口を開く。
「別に僕たちは、宝貝を欲しいなんて思ってないよ」
少年の言葉に、首領は驚く。
「……宝貝に興味《きょうみ》がないと? それでは何に興味があるのだ?」
少年に代わり、恵潤が望みを言った。
「そうだね。理由あって、旅をしてるんだけど、旅費《りょひ》も馬鹿にならないんだ。
お金が貰《もら》えれば、それでいいよな勇吾」
「うん。最近、ろくな物を食べてないし、宝貝よりお金の方がいいや」
失笑にも似た、どよめきが起きた。
馬鹿が連れてきたのは、やはり馬鹿だったのか? 宝貝よりも金をありがたがるとは、なんという愚《おろ》かさだ。
「よかろう。きみをこの場に連れてきた、彼と相談したまえ。
きっと、納得《なっとく》のいく取引が出来ると思う」
さらに発言する人物はいなかった。
「では、そろそろ軒轅の議を終了する。
あなたたちが、我らの協力者になってくれる事を、心から祈《いの》るよ」
色が消え、線が躍《おど》り、また世界を造り直していく。
色が戻った世界は、土蔵の中だった。
老人は剛始の顔を見て、品定《しなさだ》めをした。
「これが、軒轅だ」
「ふん」
「興味ないか?」
「いや、どこにでも馬鹿はいるのだなと思ってな。
一々《いちいち》、話の腰《こし》を折っていたあの馬鹿は何者なんだ?」
「鋳州《ちゅうしゅう》の鏡閃《きょうせん》だよ」
老人はうっかり口を滑《すべ》らしたふりをした。口を滑らした事にすら、気付かないふりをしている。
「元々《もともと》、九天象は鏡閃の持ち物だった。それを首領に奪《うば》われそうになって、慌《あわ》てて進呈《しんてい》したという訳《わけ》さ。引換《ひきか》えに軒轅の幹部《かんぶ》の椅子《いす》を手に入れたんじゃよ。
馬鹿がのさばるには、それなりに理由があるという事じゃな」
これで、この男は鏡閃を襲《おそ》うだろう。地理的に遠いのですぐにとはいかないだろうが、宝貝の使い手を見逃《みのが》すような、甘《あま》い男ではあるまい。と、老人はほくそ笑む。
「では、剛始君よ。既《すで》に近くにいる宝貝使いの情報はあるんだが、引き受けてくれるのかね?」
「誰《だれ》が引き受けるか! 軒轅なんていう戯言《ざれごと》に構《かま》っている暇《ひま》はない。全力を尽《つ》くして、あの首領の持つ九天象とやらを奪ってくれる。
手始めに、貴様《きさま》を血祭りだ!」
剛始は左手の腕輪に、手を添《そ》え、ゆっくりと老人に迫《せま》った。だが老人は慌《あわ》てなかった。
「そいつは、残念じゃな。標的の名前は梨乱《りらん》といってな」
ピタリと剛始は止まった。
「梨乱だと?」
「興味があるか?」
「はん。死んだ昔の知り合いに、同じ名前の奴《やつ》がいたんでね」
老人は、剛始の魂《たましい》の奥底《おくそこ》まで見透《みす》かして囁《ささや》いた。
「いいや、死んではいないぞ。
標的の名前は、柳《りゅう》梨乱」
剛始の腕が僅《わず》かに震《ふる》えた。柳梨乱の名が剛始に今まで見せた事のない態度《たいど》をとらせたのだ。
それは、驚きと怯《おび》えだった。
「そ、そんなはずはない!」
「本当じゃよ。お前の知ってる、柳梨乱。お前の恐《おそ》れる柳梨乱だ。九天象を甘くみてはいかんぞ」
小刻《こきざ》みな震えを、剛始は振り払った。
「はん。あんな小娘、恐るるに足《た》らん」
「そうかのう?
剛始先生が自分たち以外の人間を無知と言い切れるのは、柳の一族がこの世から消えたからではないのかね?
剛始先生と梨乱の、技術者としての技《わざ》や知識の差は、私と剛始先生以上に離れておるのではないのかね?」
「黙《だま》れ! たとえそうだとしても、宝貝に関する技術は我等《われら》が優《すぐ》れているはずだ!」
「梨乱も、かなりの宝貝を持っているぞ。
天呼筆《てんこひつ》に、捜魂環《そうこんかん》、俊地鞜《しゅんちとう》に動禁錠《どうきんじょう》の四つの宝貝だ。しかも、この宝貝は夜主《やしゅ》という盗賊《とうぞく》を倒《たお》して手に入れたようじゃな。
夜主と戦った時には、梨乱は一つも宝貝を持っておらんかったんじゃぞ。
お前が脅《おび》えても仕方《しかた》あるまい」
「いいや、違う!
梨乱が、俺より技術者として優れているのは、受《う》け継《つ》いできた技術が、俺より多かっただけの事だ。
頭脳《ずのう》の作りは俺の方が上だ!
梨乱より、俺の方が遥《はる》かに宝貝を理解している!
……よかろう。軒轅の仕事を受けてやる。梨乱の居場所《いばしょ》を教えろ! 今度こそあの女を殺してくれる!」
老人は、剛始に梨乱の居場所を教え、彼女の持つ宝貝の能力を正確に説明した。
恐怖《きょうふ》と、狂喜《きょうき》の入り交《ま》じった奇妙な笑《え》みを浮《う》かべて、剛始は屋敷の外に出た。
そして、腕輪に手を添《そ》え心で喋《しゃべ》る。
『剛終《ごうしゅう》よ聞こえるか?』
心の問いに、答えが返った。
『おお、兄者《あにじゃ》。連絡《れんらく》もよこさずにどうした。何かあったかと思って心配したぞ』
『軒轅《けんえん》の正体《しょうたい》が判《わか》った』
『なんと! さすがは兄者、軒轅の正体を探《さぐ》り当てたか!』
剛始は手短に軒轅について弟に説明した。
『それより剛終よ。もっと凄《すご》い情報がある』
『なんだ?』
『梨乱が生きてる』
剛終は絶句《ぜっく》した。
『!』
『おそらく、奴等《やつら》は全員生きている。梨乱の居場所も判った。あの女を殺しに行く』
『待て、兄者! 俺《おれ》にもやらせてくれ』
『今の俺たちは、以前の俺たちではない。梨乱ごときに二人がかりで、必死《ひっし》になる必要もあるまい。
時に剛終、今はどこにいる?』
『鋳州だ』
剛始は舌打ちした。首領の可能性がある人物ではなく、はずれの鏡閃の側《そば》にいるのだ。
『そうか、追っているのは鏡閃か?』
『そうだ。奴もやはり軒轅の一味か?』
『うむ。鏡閃の側に、恵潤という女と勇吾という子供の二人連れがいるはずだ。
そいつらも宝貝使いで、和穂に対しての刺客《しかく》として放たれるはずだ。
剛終よ。お前は、そいつらをつけろ』
『……つけてどうする?』
『和穂ごと一網打尽《いちもうだじん》にするのだ。和穂の持つ索具輪は、まだ利用出来る。
和穂と刺客が遭遇《そうぐう》するまでは、手をだすなよ』
『待ってくれ兄者。もしかしたら、わしの事も、九天象で筒抜《つつぬ》けになっておるのではないのか? 一応《いちおう》、宝貝の反応は弱めておるんじゃが』
『ならば、大丈夫《だいじょうぶ》だろう。お前の宝貝は特性として、みつかりにくいはずだからな。もしも、ばれていたら、お前も俺のように捕まったはずだ』
『うむ。了解《りょうかい》した』
剛始は腕輪から、手を離した。
さっそく、梨乱を殺しにいかねばならなかった。
*
恵潤《けいじゅん》は、間《ま》の抜《ぬ》けた笑顔《えがお》がそれほど嫌《きら》いではなかった。だから、鏡閃《きょうせん》にそれほどいらつきはしなかった。
恵潤たちの前に突然《とつぜん》現れ、力を貸してくれと頼《たの》み込んだ、奇妙《きみょう》な男が鏡閃だった。
鏡閃の屋敷《やしき》は、立派《りっぱ》とは言いがたかったが広さだけはそれなりにあった。
一体《いったい》、何をして金儲《かねもう》けをしているのか、恵潤には全く見当《けんとう》がつかなかった。
ただ、この屋敷には生活臭《せいかつくさ》さという物が一切《いっさい》感じられない。
もしかしたら、売りに出ていた古い家を、最近買い直したばかりなのだろうか?
「まあ、そんな訳《わけ》でして。今言った場所に和穂《かずほ》がいます。
殺すというのも、物騒《ぶっそう》な話なんで、彼女の持つ宝貝《ぱおぺい》を全《すべ》て奪《うば》ってくれたら、仕事は成功としますんでどうか宜《よろ》しくお願いします」
恵潤は財布《さいふ》をしまった。
「いいのかい? 前金でこんなにも貰《もら》って」
「それはもう、宝貝に値段なんてつけられませんからね」
「宝貝と引換《ひきか》えに、金を貰った方がいいと思うんだけどね」
「いえいえ、そのお金はまあ、仕事の為《ため》の支度金《したくきん》だと考えてください。
仕事に成功しようが、失敗しようが、差し上げます。
もしも、成功したあかつきには、この金額の八倍の報酬《ほうしゅう》を差し上げましょう」
「……宝貝ってのは、高く売れるんだねえ。どうだ、勇吾《ゆうご》。
その、鳳翼扇《ほうよくせん》も売ってしまおうか?」
勇吾は、腰《こし》に差した大きな鉄扇《てっせん》を握《にぎ》りしめた。
「そんな事、出来るわけないだろ!」
「怒《おこ》るな、怒るな。冗談《じょうだん》だよ」
勇吾はまだ、膨《ふく》れた面《つら》をしていた。
「ねえ、恵潤。
お金は欲《ほ》しいけど、こんな仕事はやめようよ。どう考えても、武人《ぶじん》らしくない」
「じゃあ、御飯代《ごはんだい》はどうするの? 飢《う》え死《じ》にしたくはないだろ」
「……判《わか》ったよ」
乗り気ではない勇吾の背中を押《お》して、建《た》て付《つ》けの悪い扉《とびら》を出た。
鏡閃は、そんな二人をニコニコと手を振《ふ》りながら見送った。
恵潤たちが、屋敷を離れてしばらくして、鏡閃の顔つきに変化が起きた。
今までの毒《どく》のないたるんだ顔に、一気に締《し》まりが出たのだ。
鏡閃は、懐《ふところ》から一冊の本を取り出す。赤黒い表紙の本だ。
鏡閃は本に向かい、話しかけた。
「さあ、これでいいのか? 予定通りに事は進んでいるぞ」
本の声は、女の声だった。鏡閃の態度《たいど》を面白《おもしろ》がるように、声には艶《つや》があった。
「馬鹿の真似《まね》は、お辛《つら》いですか鏡閃様」
「それは構《かま》わぬ。自分が利口だと思っている連中を、騙《だま》す事など造作《ぞうさ》はないからな。それよりも、本当にこんな事で計画が進められるのか?」
「疑問《ぎもん》に思われる気持ちは、お察《さっ》し致《いた》します。しかし、現段階ではあまり派手《はで》な動きは出来ません。
他の軒轅《けんえん》の幹部《かんぶ》に、計画がばれるのだけは避《さ》けねばなりません」
「その為《ため》の馬鹿の真似か」
「左様《さよう》でございます。今はまだ行動を焦《あせ》ってはなりませぬ」
鏡閃は溜《た》め息《いき》をついた。
己《おのれ》の行動の目的はちゃんと判っているが、目に見えた結果が現れなくて、落ち着かないのだ。
「判っている。軍師《ぐんし》たるお前の策《さく》に、疑問を挟《はさ》むつもりは毛頭《もうとう》ない。
今はただ時が満ちるまで、軒轅幹部の目をくらますのだな。
あの馬鹿どもめ。何が宝貝だ」
大きく鏡閃は息《いき》を吐《は》く。目の前にいるのに触《ふ》れてはいけない獲物《えもの》を見つけた豹《ひょう》のような吐息《といき》だ。
「全ての鍵《かぎ》は和穂だ。この計画の前に宝貝ごときに何の意味がある」
「素晴《すば》らしく、かつ、とてつもなく危険《きけん》な計画でございます。
それゆえ、軒轅幹部に知られれば、全力で阻止《そし》されるでしょう。
重大事ゆえに、全ては慎重《しんちょう》に為《な》さねばなりませぬ」
恐《おそ》らく、首領は鏡閃を含《ふく》めた幹部の行動は九天象でぬかりなく、見張《みは》っているはずだった。
だが、鏡閃は九天象を恐《おそ》れてはいなかったのだ。
九天象の本来の持ち主は、鏡閃だ。
鏡閃は、『貸す』という名目で九天象を首領に差し出している。
厳密《げんみつ》には、今でも九天象の持ち主は鏡閃に違いなかった。
鏡閃は九天象に簡単《かんたん》な命令を与えているだけにすぎない。
自分に不利な情報以外は、首領の望むままに情報を与えろ。
既《すで》に首領は、自分が九天象の持ち主であると、錯覚《さっかく》していた。
ゆっくりとではあるが、全ては鏡閃の予定通りに進んでいた。
だが、それでも計画が成功する確信は、まだ鏡閃にも持ててはいなかった。
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第一章『二つの再会』
一
勇吾《ゆうご》は街道《かいどう》の脇《わき》に腕《うで》を組んで立っていた。
彼は丈夫《じょうぶ》な布で作られた、作業衣《さぎょうい》のような物を着ていた。
だが、よく見ると、左肩《ひだりかわ》から腕にかけてはなめした革《かわ》が巻きつけられていて、鎧《よろい》のようにもみえる。
さながら、武人《ぶじん》の恰好《かっこう》を真似《まね》して喜《よろこ》んでいるようだ。
太めの帯《おび》には刀《かたな》の代わりなのだろうか、畳《たた》まれた大きな扇《おおぎ》が差し込まれていた。
少年の身長から見て、ちょうど大人《おとな》が刀を帯《お》びている比率《ひりつ》そのままだった。
木枯《こが》らし吹《ふ》きすさぶ街道には、人影《ひとかげ》もまばらだった。
寒さを誤魔化《ごまか》すためにか、一所懸命《いっしょけんめい》に勇吾は小声で呟《つぶや》いていた。
「眉毛《まゆげ》眉毛眉毛眉毛」
勇吾はこの仕事に乗り気ではなかった。
なぜ、よりにもよって初めての実戦が、強盗《ごうとう》の真似事なのだろうか。
相手を襲撃《しゅうげき》して強奪《ごうだつ》するなんて、間違っても武人として褒《ほ》められた行いではないと、勇吾は考えていた。
だが、これも修行《しゅぎょう》の一つだ。恵潤《けいじゅん》は腕試《うでだめ》しを兼《か》ねて、この仕事を引き受けてくれたのだろうと、勇吾は納得《なっとく》した。
街道を一人の老人が歩いてきた。
勇吾は素早《すばや》く、老人の顔を見る。変装《へんそう》ではないようだ。
「眉毛眉毛眉毛眉毛」
真昼だが、冬独自の鉛色《なまりいろ》をした雲が広がり冷え込んでいた。
勇吾はさらに考えた。
まあ、命は勘弁《かんべん》してやろう。仕掛《しか》ける前に無駄《むだ》な抵抗《ていこう》は止《や》めるようにと、警告《けいこく》もしてやろう。
これなら、それほど卑怯《ひきょう》でもない。
突風《とっぷう》が吹きすさび、勇吾は小さなくしゃみをした。
「くしゅん」
みっともないくしゃみを聞かれたのじゃないかと、勇吾はこっそり後ろを振《ふ》り向いた。
街道沿《ぞ》いの草原に一つの切《き》り株《かぶ》があり、そこには一人の女が座《すわ》っていた。
この女が恵潤だった。
薄《うす》く、くすんだ灰色《はいいろ》の空の下にあって、恵潤だけが色を持っているようである。
しっとりとした黒髪《くろかみ》を持つ、若い娘《むすめ》だ。年の頃《ころ》なら二十歳《はたち》ぐらいだろう。ほっそりとした顔だが、痩《や》せこけた風体《ふうたい》ではない。
骨格《こっかく》自体がしなやかなのだと、そのスラリとした指先が証明《しょうめい》していた。
指先はしっかりと、陶器《とうき》の酒徳利《さけどっくり》を握《にぎ》っており、恵潤は酒をあおった。
瑞々《みずみず》しい肌《はだ》に覆《おお》われた首が、酒を呑《の》み込《こ》みグビグビと鳴った。
よくそれだけ、息が続くものだと感心しそうな程《ほど》、一気に酒を呑み徳利から口を離《はな》す。
「ぶはあ」
口許《くちもと》に少ししたたった、朝露《あさつゆ》のような酒を恵潤はゴシゴシとこすった。
彼女の瞳《ひとみ》が少し潤《うる》んでいるのは、酒の酔《よ》いの為《ため》ではない。その証拠《しょうこ》に、柔《やわ》らかいながらもその眼光《がんこう》には鋭《するど》さが潜《ひそ》んでいた。
常《つね》に、湯から上がったばかりのような雰囲気《ふんいき》が恵潤にはあった。
清潔感《せいけつかん》と色気《いろけ》が、本人の意思とは関係なく混じり合っている。
「勇吾。指先は冷やすなよ」
「判《わか》ってる!」
勇吾はつくづく、恵潤は変わった女だと考えた。かなりの美人だが、別に化粧《けしょう》に凝《こ》ったりはしない。
そして、べらぼうに腕《うで》が立つ。
武人であるのは、間違いない。いつも武術《ぶじゅつ》の練習着のような服に、袖付《そでつ》きの緑色の外套《がいとう》を羽織《はお》っていた。
どんな糸で織《お》られたのかよく判らない外套だ。流れるような手触《てざわ》りが絹《きぬ》を思わせるが、絹とは違う。
外套には、飛び散る羽が刺繍《ししゅう》されているが、注意深く見れば外套全体で大鵬《たいほう》の姿を描《えが》いているのだと判る。
だが、やはり変わり者だ。
たまたま出会った、見ず知らずの自分に色々《いろいろ》と武芸《ぶげい》をしこんでくれているのは、何故《なぜ》なんだろうか?
恵潤が怒鳴《どな》った。
「こら、ちゃんと集中しなよ。
ボヤボヤしてると見逃《みのが》すよ。計算じゃ、昨日《きのう》は峠《とうげ》の宿《やど》に泊《と》まってるはずだから、今日の午後にはこの道を通る。もうしばらくの辛抱《しんぼう》だ」
「心配するな。判ってる。そっちこそ、のんだくれて酔い潰《つぶ》れるなよ」
どうにか減《へ》らず口《ぐち》を叩《たた》き、勇吾は指先に息を吹きかけた。
街道を往《い》く人影はまばらだった。
あんな目立つ特徴《とくちょう》なら、忘れるはずがないと思いつつも、勇吾は標的《ひょうてき》の特徴を思い出していた。
年の頃なら十五、六、道士《どうし》のような白い道服を身につけた娘が標的だ。そして、少し太めの眉毛を持つ。
名前は和穂《かずほ》。
そして、和穂に同行する黒髪《くろかみ》の青年。
名前は……なんだったっけ?
さっきまで、何度も何度も、恵潤は標的の特徴を理解しているかどうか、口うるさいぐらいに勇吾に問《と》い詰《つ》めていた。
今更《いまさら》、恵潤に尋《たず》ねたら、大笑いされそうなので勇吾は黙《だま》っていた。
別に名前を忘れていても、仕事は出来る。
*
街道を歩く和穂の手には、少し大きめのお守《まも》りのような袋《ふくろ》が、握《にぎ》られていた。
和穂は嬉《うれ》しそうに、まるで手を拭《ふ》くように袋を玩《もてあそ》んでいた。
「いやあ、懐炉《かいろ》って温《あ》ったかいね。
世の中には、こんなに凄《すご》い道具があるんだね、殷雷《いんらい》」
和穂の言葉を聞き殷雷は貧血《ひんけつ》でも起こしそうな、表情になった。
「ほお。あれだけ宝貝《ぱおぺい》と渡《わた》り合《あ》ってきて、懐炉ごときが凄い道具か?」
「そりゃま、そうだけどさ。こういう単純な道具だからこそ、逆にありがたみが湧《わ》くってのもあるでしょ?」
「うるせえな、懐炉なんかで大騒《おおさわ》ぎしやがって、年寄り臭《くさ》いやつめ」
和穂は懐炉に頼《ほお》ずりした。温《ぬく》もりが、少しかじかんだ頬をとかしていく。
「へへへ。何とでもいって。
殷雷も懐炉が欲しかったら、宿屋で買ったらよかったのに」
「懐炉をもった刀《かたな》の宝貝なんざ、しまらねえだろうが!」
「恰好《かっこう》なんかつけてもしょうがないのに」
「必要ねえんだよ。だいたい、火にも焼かれない宝貝が、寒さに弱くてどうする。
待てよ。お前の道服は寒さに対応出来たんじゃないのか? それなのに寒いのか」
「うん。ちゃんと温《あたた》かいよ」
「じゃあ、なんで懐炉がいる?」
「顔とか手は外に出てるから、寒いもん」
まったく、しょうがねえなと思いつつも、冷《ひ》え性《しょう》で大騒ぎされるよりは、懐炉一つで大喜《おおよろこ》びさせといたほうが良かろうと、殷雷は判断した。
「ところで、和穂。索具輪《さくぐりん》の調子《ちょうし》はどうだ」
「珍《めずら》しく、調子がいいよ。
一番近い宝貝でも、直線|距離《きょり》で二週間ぐらいかな」
二週間か。殷雷は、舌打ちをしそうになった。宝貝の使い手と遭遇《そうぐう》するまでの、この道中の時間が無駄《むだ》に思えて仕方なかったのだ。
「ねえ、殷雷。峠の宿屋のおばさんが言ってたけど、麓《ふもと》に温泉宿《おんせんやど》があるんだってさ。
街道沿いにあるらしいから、行ってみようよ」
「ほお。懐炉の次は呑気《のんき》に温泉|巡《めぐ》りか?」
「あ、やっぱりちょっと不謹慎《ふきんしん》だった? 宝貝の回収が最優先だったのに……」
「け。構《かま》いやしねえ。どうせ、長い旅だ。息を抜《ぬ》ける時には抜いておいた方がいい」
そして、街道を往《ゆ》く和穂と殷雷に声がかかった。
「待ちな。悪いが、お前らの持っている宝貝を渡してもらおう。
意味のない抵抗《ていこう》はするな。
宝貝さえ渡してもらえば、それでいい。怪我《けが》をさせるつもりはない」
一瞬《いっしゅん》、和穂はキョトンとした。右手に懐炉を持ったまま、行く手に立ちふさがる子供に近寄《ちかよ》った。
「どうしたの坊《ぼう》や?」
「だ、誰《だれ》が坊やだ! この眉毛《まゆげ》!」
しかし、目の前にいたのは子供でしかなかった。
少しばかり痩《や》せた頬《ほお》に活《い》きのよさそうな瞳《ひとみ》を少年は持っていた。
和穂に子供|扱《あつか》いされ、その瞳は機嫌悪《きげんわる》く元仙人《もとせんにん》をにらんでいた。
和穂は懐炉をしまおうとして、自分の服装に気がつく。
「あ、道服を着ているから、そう思ったのかな? 坊やは一人で遊んでいるの?」
腰《こし》の大扇《たいせん》を一気に引き抜きそうになった勇吾《ゆうご》だが、怒《いか》りをどうにか抑《おさ》えた。
「黙《だま》れ、眉毛! 人を子供扱いしやがって!
これでも一人前の武人《ぶじん》なんだぞ!
名前は勇吾だ。今度、坊やと呼んだら、承知《しょうち》しないぞ! 判《わか》ったか眉毛!」
少年の気迫《きはく》に、和穂は気がついていない。せいぜい、男の子はこれぐらい元気があったほうがいいや、ぐらいにしか感じていない。
微笑《ほほえ》み、和穂は勇吾の頭を撫《な》でた。
「はいはい。これからは、ちゃんと名前で呼んであげるよ。その代わり、お姉ちゃんの事も名前で呼んでね」
自分の名前を告げる前に、少年はこくりとうなずいた。
「判ればいいんだ、和穂」
和穂。
その一言が、次の瞬間《しゅんかん》に行われた幾《いく》つかのやりとりの、開始の合図《あいず》になった。
まず、殷雷が大地を駆《か》け、一気に和穂の横にまで回り込んだ。
静止状態から一気に駆け、和穂の隣《となり》で急激《きゅうげき》に停止《ていし》したのだ。
ざばあ、という殷雷の靴《くつ》が大地を擦《こす》り、土が吹《ふ》き飛《と》ぶ音が周囲《しゅうい》に轟《とどろ》く。
その音を貫《つらぬ》くように、殷雷の棍《こん》の一撃《いちげき》が空気を切《き》り裂《さ》いた。
和穂は右の耳に違和感《いわかん》を感じた。
大きな音を間近で聞いた痛《いた》みとは違っていた。
耳鳴《みみな》りにも似《に》た、キィィンという鼓膜《こまく》の引きつる感覚だ。
殷雷の急激な動きは、一瞬《いっしゅん》和穂の周囲の気圧すら変化させていたのだ。
殷雷の容赦《ようしゃ》ない攻撃は、勇吾の眉間《みけん》を狙《ねら》っていた。
だが、当の勇吾は殷雷の動きに全《まった》く反応出来ていない。棍の動きを眼で追うのが、精一杯《せいいっぱい》で、その棍が自分に当たればどうなるかまでも理解出来ていなかった。
殷雷に勇吾を殺すつもりがあれば、その一撃は顔面を貫いていただろう。
加減《かげん》をするつもりでも、確実に鼻の付け根の骨を折る。そして、その二つの攻撃の違いは、棍を操《あやつ》る殷雷の指先の微妙《びみょう》な力加減の差でしかないのだ。
銀色に光る棍が、勇吾の眉間に激突する寸前、一つの光が走った。
それは、勇吾の腰に差された扇《おおぎ》だった。
棍と眉間の間に入り込み、その攻撃を完全に受け止めていた。
和穂は、扇の動きに残像《ざんぞう》を見たと思った。
一瞬一瞬の時間の経過《けいか》と共《とも》に、閉じられた扇の軌跡《きせき》が、残像を残していると思ったのだ。
和穂はそれが自分の見間違《みまちが》いだと知った。閉じられた扇を、一本の棒として防御《ぼうぎょ》に使ったのではなかった。
扇は開かれていたのだ。
扇の羽の一枚一枚が、残像を思わせたのであった。
開かれた扇には、まるで生きているかのような鳳凰《ほうおう》の図柄《ずがら》が刻《きざ》まれていた。
いかな達人《たつじん》でも刻み込めないような、鋭《するど》く細《こま》かく、壮麗《そうれい》な鳳凰。
『この扇は宝貝! でも、近くには』
そして、和穂の耳に棍の一撃を受け止めた扇の壮絶《そうぜつ》な衝突音《しょうとつおん》が届《とど》いた。
付近に宝貝が存在《そんざい》するはずはなかった。
いかに、信頼性《しんらいせい》に問題がある索具輪《さくぐりん》とはいえ、作動《さどう》している限りは周囲の宝貝を見逃《みのが》すはずはなかった。
和穂と殷雷は、虚《きょ》を突かれたように茫然《ぼうぜん》となった。
勇吾は悔《くや》しそうに、自分の身を勝手《かって》に守り宙に浮《う》かんでいる扇を掴《つか》んだ。
「また、やってしまった。本当はこうなっちゃ駄目《だめ》なんだ。
鳳翼扇《ほうよくせん》は使用者の体を勝手に守ってくれるけど、本当の武人なら自分の意思で、ちゃんと武器を操《あやつ》って攻撃を受けなきゃいけないのに」
あんなに重い攻撃を受けたのだから、当然だと言いたげに、扇から細かい羽毛《うもう》が飛び散っていた。
まさに鳳凰の羽のように、小さいながらも七色にきらめく羽毛だった。
鳳翼扇をパチンと閉じ、勇吾は殷雷に言った。
「おい、そっちの髪の毛の長いの。
いきなり襲《おそ》ってくるなんて、卑怯《ひきょう》だぞ。不意打ちなんて、貴様《きさま》には武人の誇《ほこ》りがないのか!」
幾《いく》つかの謎《なぞ》が殷雷の頭の中を蠢《うごめ》いていたが、勇吾の言葉をきき、意地悪《いじわる》く、ニィと笑った。
「突かれる不意があるくせに、武人だ、誇りだ、とは片腹痛《かたはらいた》いわい。
綺麗言《きれいごと》は、一人前になってからいいな『坊《ぼう》や』よ。
お前には、色々《いろいろ》と聞きたい事がある。おとなしく宝貝を渡すのは、そっちだぜ」
殷雷の鋭い眼光が、勇吾を射抜《いぬ》く。その気迫《きはく》に、勇吾は思わず後ずさってしまった。
和穂も思わず、口を開く。
「ちょっと殷雷。こんな小さい子供に、そんな怖《こわ》い顔しなくても」
殷雷のせいで衰《おとろ》えかけていた、勇吾の気迫が蘇《よみがえ》った。
「あ、また子供扱いしたなこの眉毛!」
「あら、いけない」
闘志《とうし》が蘇ったとはいえ、勇吾は殷雷の腕前《うでまえ》に驚《おどろ》きを隠《かく》せなかった。
予想していたより遥《はる》かに強い。攻撃の素早さ重さから見て、恵潤|並《な》みの腕前なのではないだろうか。
もしかしたら、恵潤が助けてくれるのではないかと一瞬期待し、それが武人として相応《ふさわ》しくない考えだと慌《あわ》てて勇吾は首を振った。
殷雷の気迫はさらに鋭さを増した。もう、殺気と言い換《か》えてもいいぐらいだった。
かつてない殷雷の態度《たいど》に、和穂は少々とまどった。
が、当の殷雷は子供相手に戦うのも馬鹿らしいので、脅《おど》かしているだけだった。
「おらおら、さっさとその、鳳翼扇だとかを渡しやがれ。
さもなくば、この棍で滅多打《めったう》ちにしてくれるぞ! もう、肉も骨も皮も血も全部|一緒《いっしょ》にして、餃子《ぎょうざ》の中身みたいにしてくれる」
和穂が必死《ひっし》になって殷雷を止めようと、腕を押さえたり髪《かみ》の毛《け》を引《ひ》っ張《ぱ》ったりしたが、殷雷は微動《びどう》だにしない。
殷雷の脅《おど》しより、和穂の慌て具合《ぐあい》が勇吾の恐怖心を高めるが、どうにか少年は踏ん張った。
「そ、そんな脅しに武人が屈《くっ》すると思うか。
たとえ、自分よりも強い相手でも、常に背を向けずに、力の限りに戦うのが真の武人だ!」
脅かしても無駄《むだ》と判ったのか、殷雷の顔からは殺気が消えた。
「いや、それは少し違うぞ。自分よりも強い相手と戦う理由は、重大なのが一つあるだけだ」
勇吾は殷雷の言葉に興味《きょうみ》を持った。少々武人の誇《ほこ》りに欠《か》ける相手ではあるが、腕は確かだからだ。
「その理由とは?」
ヘラヘラと殷雷は笑った。真剣な勇吾の問い掛けをからかうようである。
「強い相手と戦うのは、どんな時か?
教えて欲しくば、教えてやろう。お前より遥かに強い、殷雷先生からのありがたい言葉だからな。
武人が自分より強い相手と戦う時とは、『相手から逃げられない時』だ。
判ったかガキ!」
「ええい。貴様《きさま》など、やはり武人の風上《かざかみ》にもおけぬ、卑怯者《ひきょうもの》だ!」
ヘラヘラ笑いながらも、殷雷は嘘《うそ》を言っているつもりはない。そして、もう一つの大事な事を教えた。
「それと、おまけで教えてやろう。真の武人は、相手が弱そうでも見下《みくだ》したり見くびったりしない!
覚悟《かくご》しろ!」
アッと驚く間もなく、殷雷は和穂の襟首《えりくび》を掴《つか》んだ。
「どうしたの、殷雷!」
「あの硬《かた》い鳳翼扇をブチ壊《こわ》すには、力がいりそうなんでな。
てなわけで、空を飛んで貰《もら》うぜ」
「空を飛べっていわれても」
そして、そのまま和穂を力任《ちからまか》せに空中に放り投げた。
続いて、銀色の棍も頭上に投げる。
勇吾は何事かと、閉じた鉄扇《てっせん》を刀《かたな》のごとく構えた。
殷雷も笑《え》みだけを残し、大地を蹴《け》る。跳躍《ちょうやく》しながら、殷雷の体は軽い爆発《ばくはつ》を起こし爆煙《ばくえん》が巻き起こった。
勇吾は何が何だか判らなくなり、惚《ほう》けた顔で頭上の煙を見上げた。
「ば、爆発? あの男はどうなったんだ!」
今までのやりとりを黙《だま》ってみていた恵潤は面白《おもしろ》そうに笑い、酒徳利《さけどっくり》を自分が座《すわ》る切り株《かぶ》に叩《たた》きつけた。
爆発した男と、徳利の割れる音。勇吾はどちらに神経を集中していいかが、咄嗟《とっさ》に判断出来ない。
そして、珍《めずら》しく年相応《としそうおう》の慌《あわ》てぶりを披露《ひろう》して恵潤に助けを求めた。
「恵潤! 助けて!」
恵潤は大声で怒鳴《どな》った。
「相手から眼を離すな!」
正気づき、再び頭上を見ると、爆煙は水蒸気《すいじょうき》のように簡単に消え、刀を振りかぶった和穂の、落下する姿が現れていた。
今までの温和《おんわ》な笑顔は、獲物《えもの》を追い込んだ狩人の笑《え》みに変わっていた。
刀を大上段に振りかぶり、笑いながら落下してくる和穂。
道服の大きな袖《そで》が、バタバタと風になびいていた。
その、渾身《こんしん》の一撃《いちげき》は自分を正確に狙《ねら》っていると、頭のどこかでは判った。が、それにどう反応していいかが勇吾の心には判らなかった。
体は避《よ》ける事も出来ずに、棒立《ぼうだ》ちになっている。そのくせ、鳳翼扇《ほうよくせん》で攻撃を受けたとしても、扇《おおぎ》ごと叩き切られる確信はあった。
あれだけの腕前の武人が、計算の上で仕掛けた攻撃だ。防《ふせ》げるはずがないんだ。
勇吾は死を覚悟《かくご》した。
だが、鳳翼扇は最期《さいご》まであきらめない。
茫然自失《ぼうぜんじしつ》した使用者を守る為《ため》に、羽が開く。
と、同時に殷雷刀の一撃は、鳳翼扇に命中した。
何がどうなったか判らない勇吾の耳に、ただ大きな音だけが響《ひび》いた。
*
鳳翼扇の羽には、目立たないが細くて長い傷が二つついた。
鳳凰の飾《かざ》りが精密《せいみつ》なだけに、そのわずかな傷が目立って仕方ない。
傷の一つは以前に付けられた物のようだ。
そして、もう一つはたった今、殷雷刀の刃《やいば》によって付けられた物だ。
殷雷|刀《とう》は鳳翼扇を、切《き》り裂《さ》けなかった。
自分が生きていると、勇吾が知るまでに少しの時間がかかった。が、それを知ってすぐに勇吾は扇を閉《と》じた。
「ほ、鳳翼扇を甘《あま》くみるなよ!」
黒髪《くろかみ》の男、殷雷に勇吾は言ったつもりだったが、男はいなかった。
目の前にいるのは、和穂が一人。片手に刀を持ち、眉間《みけん》に軽く手を添《そ》えている。
彼女の足元には、銀色に光る棍《こん》が転《ころ》がっていた。
添えられた手のせいで、勇吾には和穂の表情がよく見えない。
「判ったか、眉毛《まゆげ》!」
和穂の手がゆっくりと下がる。その下にはさっきからは想像も出来ない、気迫に満ちた顔があった。
勇吾は、和穂の豹変《ひょうへん》ぶりに心臓《しんぞう》が止まりそうになった。
「わ! 眉毛じゃなかった、和穂姉ちゃん」
和穂の気迫は、眉毛と呼ばれたからではないようだった。
眉間に添えられていた手には、何か小石のような物が握《にぎ》られていて、和穂はそれをお手玉のように放り投げては受け止めていた。
勇吾は、この妙な静寂《せいじゃく》に落ち着きを無くしてしまう。
「け、恵潤《けいじゅん》! これはどういう事なんだ! さっきの男は消えちゃうし!」
「驚く必要はないよ。
しっかりしなよ勇吾。一番最初に念を押しておいただろ。相手も宝貝《ぱおぺい》を持っているのを忘れるなって。
殷雷は宝貝なんだよ。人の姿もとれる殷雷刀という宝貝さ。
黙っていたのは、咄嗟《とっさ》の出来事にどれだけ対応出来るか、見てみたかったんだ。
あれだけ厳《きび》しくしこんだのに、精神的にはまだまだか。
まあ、最初の実戦なんてこんなものなのかもしれないね」
助けを求め、恵潤を見てみると、彼女は切り株から立ち上がり、右手を前に伸《の》ばしていた。
それは、徳利《とっくり》の破片《はへん》を投げた姿勢《しせい》だった。
投げられた破片は、今は和穂の手にある。
殷雷刀の攻撃が勇吾に当たる瞬間、恵潤はかけらを投げたのだ。
これだけの距離から当てるのだから、並《な》み大抵《たいてい》の力ではない。
とっさの攻撃に、殷雷の攻撃力は削《そ》がれていたのだ。
素直《すなお》に礼を言う気分に、勇吾はなれなかった。戦っている相手が、実は宝貝だったなんて予想出来るはずがない。
「でも、こんなの普通じゃない!」
「そう。普通じゃない。普通じゃないし、殷雷の最初の一撃を見れば、たとえ普通でも勝てる相手じゃないのは判るだろ。やばいと思ったら、さっさと私に助けを求めるのが正解だ。
今の勇吾の『助けて』は、只《ただ》の悲鳴じゃないか。援軍を呼ぶ『助けて』にゃ聞こえなかったね。
もしくは、逃《に》げられるかどうか、一応《いちおう》、一度逃げてみるってのも悪くないね」
「それじゃ、さっきの卑怯《ひきょう》な男と、言ってる事が一緒《いっしょ》じゃないか!」
「一緒だよ。だが、勘違《かんちが》いしちゃ駄目《だめ》。
結局、『無用の血は流すな』って言いたかったのよ」
「でも」
ききわけのない子供を言い含《ふく》めるように、優《やさ》しさと厳《きび》しさのある声で恵潤は言った。
「逃げられる時には、逃げろ。でも、逃げてはいけない時には逃げるな。
逃げる、逃げないを、自分の感情じゃなく状況で判断するのは、単純なようでも難《むずか》しいのよ。
勇吾みたいに、突っ走ってばかりじゃ落第《らくだい》だ。判った?」
うつむきながらも勇吾は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「はい」
お手玉していたかけらを地面に投げ捨て、和穂は言った。
「さあ、講釈《こうしゃく》は終わったかい?」
和穂の肉体は、現在殷雷刀が操《あやつ》っている。
和穂は心を通じて殷雷に話し掛《か》けた。
『あれ、あんな所に女の人がいたんだ。どうして気がつかなかったんだろう? 殷雷は気づいていたんでしょ?』
『いや、見落としていた。気配《けはい》を沈《しず》めてやがったんだ』
『沈める?』
殷雷は答えを返さない。
そして、真《ま》っ直《す》ぐに恵潤と呼ばれた女に向かっていく。
そんな和穂を見て勇吾も慌てて後を追う。
勇吾は恵潤の腕前を信用していた。だが、同じように殷雷の腕前も認めている。
「恵潤! 気を付けろ!」
恵潤は、穏《おだ》やかな笑顔《えがお》を浮かべた。和穂の速度は、最前程《さいぜんほど》速くはない。勇吾はそれを、恵潤の出方を探《さぐ》っているのだと考えた。
この速度なら充分《じゅうぶん》に追いつける。
「待て、お前……らの相手はこの勇吾だ!」
振り向きながら、ユラリと流れるようにゆっくりと和穂の左手がしなり、勇吾の襟《えり》に迫《せま》った。
「あれだけの速い攻撃に、自動的に反応する宝貝ってのは、こういう遅《おそ》い動きには対応出来ないんだぜ。あれは打撃用の防御で、投げとか締《し》め技《わぎ》には通用しない」
鳳翼扇どころか、勇吾すらもその遅い動きに逆に戸惑《とまど》ってしまった。
戸惑いを見越《みこ》したように、殷雷は勇吾の背中に懐炉《かいろ》を入れた。
懐炉。実際に中で火が燃《も》えている懐炉である。厚手《あつで》の袋でくるんで熱さを調節する代物《しろもの》を、袋から取り出して背中に滑《すべ》りこませたのだ。
勇吾は飛び上がって、背中の懐炉を取ろうとした。
そして、殷雷刀は和穂の手からするりと落ち、再び爆発を起こす。
爆煙の中から、先刻と同じように殷雷の姿が現れた。
ただ、少し違うのは鞘《さや》は依然《いぜん》として和穂の腰帯《こしおび》に差されているので、袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》は羽織《はお》っていない。
袖の無い武術着からは、がっしりとした腕の筋肉が見えていた。
殷雷は、ソロリソロリと恵潤との間合《まあ》いを詰めていく。
棍は置いたままなので、拳《こぶし》でけりをつけるのだと、和穂は考えた。
だが、拳撃《けんげき》の間合いに入っても殷雷は攻撃を仕掛《しか》けなかった。
恵潤も殷雷に自由に間合いを詰めさせ、笑顔も消えていない。
和穂は、
『あの、恵潤って人、どんな策《さく》があるのかしら? 殷雷も、あの人の余裕《よゆう》を警戒《けいかい》しているみたいだけど』
と、さらに考えた。
殷雷は足を止めず、拳撃すら不可能な程の間合いに入る。
そして、恵潤に抱《だ》きつく。
『あ、判った。女の人を殴《なぐ》るのは嫌《いや》だから、あのまま攻撃を封じて、関節《かんせつ》を締め上げるんだ!』
と、和穂は結論を出したが、手首を逆《さか》さにとったりの関節|技《わざ》を仕掛けるようすもない。
飛《と》び跳《は》ねていた勇吾は、どうにか懐炉を取り出した。
「何してやがる、この野郎! 卑怯な上に助平《すけべい》ときたか!」
何か、尋常《じんじょう》ならざる事が起きていると和穂にも感じられた。
「ちょっと、殷雷何やってるのよ!」
今まで長い間、殷雷と旅を続けていたが、こんな態度《たいど》を見たのは初めてだった。
こんな事したら、抱きつかれた女の人に引っぱたかれるのがオチじゃないの、と和穂は考え、勇吾も恵潤の反撃を期待していた。
が、恵潤も同じように殷雷に抱きついた。そして、どうみても再会を喜《よろこ》んでいるとしか判断しようのない涙《なみだ》を浮《う》かべ、殷雷の胸に顔を埋《うず》めた。
時には厳《きび》しく、時には優しく自分に武芸をしこんでくれた恵潤のこの姿を見て、勇吾は手に持つ懐炉の熱さを忘れる。なぜか、和穂が自分の襟首《えりくび》を揺《ゆ》さぶって叫《さけ》んでいた。
「ゆ、勇吾君! これは、何の宝貝の仕業《しわざ》なの!」
「知らないよ! 僕は鳳翼扇しか宝貝を持ってないし、鳳翼扇にこんな能力があるわけないだろ!」
大騒ぎする子供二人は全く眼中にない殷雷は優しく言った。
「恵潤。久し振りだな。会いたかったぞ」
「私もよ、殷雷。震霜《しんそう》や静嵐《せいらん》には会った?」
「け。あんな間抜《まぬ》け連中の話はよせよ」
なぜ、恵潤が刀の宝貝と知り合いなのか勇吾の想像《そうぞう》を超《こ》えていた。
「どうして、恵潤が殷雷|刀《とう》の知り合いなんだ!」
名残惜《なごりお》しそうな殷雷の腕から、するりと抜け、恵潤は涙を拭《ふ》い勇吾に言った。
「あら、だって私も刀の宝貝だもの。私は恵潤刀。教えてなかったかしら?」
「今初めて聞いた! どうして秘密にしてたのさ!」
「秘密なんかにしてたつもりはないけど。言う機会《きかい》がなかったのね、きっと」
とても納得《なっとく》出来ない説明を、恵潤はサラリとしてのけた。逆に、勇吾の中で恵潤に対する疑問が少し解《と》けた。
恵潤は、宝貝だから変わり者なのかもしれない。
恵潤は殷雷の肩を優しく叩いた。
「でも、殷雷に会えて本当に嬉《うれ》しいよ!」
「ああ、俺も嬉しいぞ」
和穂は人間界に降りてからの、記憶《きおく》を全て引《ひ》っ繰《く》り返した。そして、一つの事実を発見し、驚博《きょうがく》した。
「こんなに素直《すなお》な殷雷を見たのは、今が初めてだわ」
二
こんなにまでも、嬉しそうな恵潤《けいじゅん》の顔を見て勇吾《ゆうご》は嫉妬《しっと》にも似《に》た複雑《ふくざつ》な感情を覚えた。
「恵潤! 知り合いかもしれないけど、そいつは敵《てき》だ!
そいつを倒《たお》さなきゃいけないんだ!」
ちょっとはしゃぎすぎたと反省《はんせい》しながら、恵潤は勇吾の側《そば》に歩《あゆ》み寄《よ》った。
「それもそうね。頭じゃ判《わか》ってたんだけど、実際に会ったら懐《なつ》かしくなっちゃってね」
自分で言っておきながら、勇吾は不安になってきた。もしも、昔の恋人とかなら、戦うのは可哀《かわい》そうな気がする。
「いいから恵潤は下《さ》がれ! 僕が戦うから黙《だま》って見てろ! 昔の恋人と、戦うのはつらいだろ。だから僕がやる!」
凧上《たこあ》げの凧糸を引くがごとく、和穂《かずほ》は殷雷《いんらい》の髪《かみ》の毛《け》をグイグイと引《ひ》っ張《ぱ》った。
「ちょっと、殷雷! あの人、殷雷の恋人なの!」
「そうさな。和穂よ。夫婦刀《めおととう》というのを知っておるかね」
驚《おどろ》きに、和穂の両手は虚空《こくう》をさまよう。
「じゃあ、あの恵潤てのは、殷雷の奥さんなの!」
和穂の驚きを楽しみ、殷雷は答えた。
「おや、珍《めずら》しいな和穂。初対面の相手を『恵潤』なんて呼び捨てにするなんて。
あ、もしかして、嫉妬《しっと》か?」
漁師《りょうし》が地引《じび》き網《あみ》を引きずるような力強さで和穂は殷雷の髪を、再びグイと引く。
「そんなんじゃないわよ! それより、恵潤……さんって、殷雷のなんなのよ」
「その言いぐさで、嫉妬じゃないって方が無理《むり》があるぞ。
いやあ、もてる男はつらいねえ」
「こ、た、え、な、さ、い、よ」
呆《あき》れているが、それほど不快でもなさそうな声で、恵潤は言った。
「殷雷。からかいかたがしつこい癖《くせ》は治《なお》ってないね。その癖は治した方がいいよ」
今の殷雷には、声にすら張《は》りがなかった。
「恵潤をからかった覚えはないよん」
なにが『よん』だ、真面目《まじめ》にやんなさいよと、和穂は殷雷の髪を掻《か》きむしった。
恵潤は、和穂に説明した。
「和穂。世界に、四本一組の夫婦刀があると思う?
別に私と殷雷は夫婦刀じゃない。
殷雷、恵潤、震霜《しんそう》、静嵐《せいらん》の四振《よふ》りの刀はほとんど、同時期に造られたの。
ま、簡単《かんたん》に言えば親戚《しんせき》ね」
殷雷は異議《いぎ》を唱《とな》えた。
「いや、親戚ではない。
製法が根本的に違《ちが》うのは、刃文《はもん》(刀身《とうしん》の腹と背の間にある、波《なみ》に似た模様《もよう》)を見りゃ判るだろ。
似たような性能の宝貝《ぱおぺい》を、いかに違う製法で造るかっていう研究だったんだろうな」
心配そうな勇吾の肩《かた》に、恵潤は手を置く。
「そうね。じゃ、ご近所同士ってぐらいの関係か」
悲しげな眼差《まなざ》しが殷雷に宿《やど》った。
「そんな、冷たいなあ」
素朴《そぼく》な感想が、和穂の口からこぼれた。
「で、四本|揃《そろ》って、欠陥《けっかん》宝貝だったんですか?」
瞬間《しゅんかん》、険悪《けんあく》な空気が流れた。
本気なのか冗談《じょうだん》なのか、恵潤は拳《こぶし》を握《にぎ》りしめた。
「龍華《りゅうか》の弟子《でし》だけあって、なかなか肝《きも》っ玉《たま》が据《す》わってるじゃない。
でも、後先の事を考えないで口をきいてると、長生き出来ないよ」
「あ、ごめんなさい。別に悪口とか、そういうつもりはないんです」
「悪気がないから、余計《よけい》にズシンとくるわ。
殷雷。そのお嬢《じょう》さんを、倒《たお》すのに力を貸してくれない?」
「おう、承知《しょうち》した。
と、言いたいところだが、そうもいかんのでな。
……さて。本気でやるつもりかい?」
「まあね。こっちにも、こっちの事情があるから」
途端《とたん》、恵潤と殷雷の間の空気に、緊張《きんちょう》が走った。
ある種の和《なご》やかさがあっただけに、余計に緊張の重みが際立《きわだ》つ。
殷雷は和穂を、恵潤は勇吾を後ろに下がらせ、互《たが》いに間合いを取り始めた。
相手に飛び掛《か》かる躍動感《やくどうかん》を秘《ひ》めたまま、殷雷の動きはピタリと止まる。
対して、恵潤はユラユラと水の流れになびくように、動いた。
和穂は、微妙《びみょう》な違和感に気がつく。
視界は良好なのに、まるで霧《きり》の中にいるようだった。まるで、透明《とうめい》な霧にくるまれているような雰囲気《ふんいき》がしていた。
霧に触《ふ》れたときの、ひんやりとした肌触《はだざわ》りを全身が感じているのだ。
そのくせ、湿気《しっけ》の不快さはない。
これだけ、冷《ひ》え込《こ》んでいて霧の感触《かんしょく》がしたなら、寒くて仕方《しかた》がなさそうだったが、冷たさは感じない。
和穂には理解出来なかったが、殷雷は何が起きているか、充分《じゅうぶん》理解していた。
殷雷は恵潤の手の内を知っている。恵潤も殷雷の手の内を知っている。
恵潤は、周囲《しゅうい》の気配《けはい》を全《すべ》て消しはじめているのだった。
自分の気配だけではない。全ての気配を消しているのだ。
全ての気配が消えていく。全ての気配がまるで水に沈《しず》むように消えていく。
何も感じられない感覚が、逆に霧の感覚となって全身を包んでいるのだ。
殷雷の髪が、湿気を帯《お》びたようにしなっていく。
殷雷には、周囲の雷気《らいき》の微妙な変動によって気配を探《さぐ》る能力がある。
だが、今やそれも役に立たない。
いかに武器《ぶき》の宝貝たる殷雷刀とはいえ、恵潤の『気配が沈められた世界』では、視界と音以外に相手を探る術《すべ》はなかった。
揺《ゆ》らめく恵潤の動きにあわせて、彼女の髪の毛もゆっくりとうねりを作った。
その姿は、水の中で舞《ま》う姿以外の何物でもない。
「いやあ、相変わらず綺麗《きれい》だねえ」
恵潤の動きには隙《すき》がある。それも殷雷は承知《しょうち》していた。
動作《どうさ》の一割は無駄《むだ》な隙だ。
見た目では動作の四割は隙に見えるのだ。残りの三割は狡猾《こうかつ》に仕掛《しか》けられた罠《わな》だった。
殷雷の雷の字も伊達《だて》ではない。いかに同じ刀の宝貝とはいえ、まさに雷光《らいこう》の一撃《いちげき》、恵潤よりも素早《すばや》い攻撃が可能だった。
だが、恵潤の仕組《しく》んだ、三割の罠に掛かれば、確実に反撃を食らう。罠を恐《おそ》れて、緩《ゆる》い攻撃をくわえても同様に反撃を食らう。
もし、相手が殷雷とは違う種類の武器ならば、攻撃にハッタリをかませるのも可能だが相手が同じ刀ならそれも無意味だった。
殷雷は有利ではなかった。
かといって、恵潤が有利でもない。罠に掛からなければ、一撃で恵潤は倒されるのだ。
ゆらりゆらり、水の中で遊ぶ黒髪の人形のような恵潤は、つい、本音《ほんね》を洩《も》らした。
「こんな事、言うべきじゃないのは判ってるんだけどさ。
私が死んだら、勇吾の事を頼《たの》むよ。
あいつの面倒《めんどう》をみるって決めて、途中《とちゅう》でほっぽりだすような真似《まね》はしたくなくてね」
殷雷の両方の拳《こぶし》が強く握られた。
「……恵潤。判った。
そろそろ、けりをつけよう」
殷雷の言葉をきき、和穂は弾《はじ》けるように恵潤と殷雷の間に立った。『気配が沈められた世界』で、背後の和穂の動きが殷雷にはつかめていなかった。
まるで、その手で互いの攻撃を受け止めようとするかのように、和穂の両手は恵潤と殷雷に向けられていた。
「待って! こんな事言える立場じゃないのは判ってるけど、やめて!
せめて、絶対に戦わなけりゃ駄目《だめ》なのか、話し合ってみましょうよ!」
殷雷は和穂の胸《むな》ぐらをつかんだ。
「でしゃばるな!」
「……殷雷だって、恵潤さんと戦いたいわけじゃないんでしょ?」
「黙《だま》れ! 恵潤には恵潤なりの、やむにやまれぬ事情があるに決まっておるだろう! そうでもなければ、この俺《おれ》に戦いを挑《いど》んだりするはずがない!
俺に戦いを挑む恵潤の気持ちを考えるなら、全力で相手をする以外にはないだろ!」
殷雷の気迫に、和穂も負けてはいない。
「何言ってるのよ! 恵潤さんと会った時の殷雷の嬉《うれ》しそうな顔。あんなの見せられて、戦わせるわけにはいかないよ!」
「何だと! てめえはよくも、そういう甘い事が言えたもんだな。
武器が戦うからにゃ、どうにもならない理由があるんだ!」
殷雷の瞳《ひとみ》に微《かす》かな涙《なみだ》が浮《う》かんだ。鼻声《はなごえ》になりながら、殷雷は一言一言、言葉を噛《か》み締《し》めた。
「これは、武器として生まれた宿命《しゅくめい》なのだ。……己《おのれ》の愛する者も、その手にかけねばならぬという」
「そんなの、悲しすぎるじゃないの! それが出来ないから、殷雷は情《じょう》に脆《もろ》い宝貝なんて言われてるんでしょ。
でも、それは悪い事じゃない!」
「ええい、黙《だま》れ黙れ、だまれ!」
和穂と殷雷の喧嘩《けんか》を見せられ、恵潤はバツの悪そうな表情で勇吾に言った。
「……なんか、向こうの方、盛《も》り上がってるね」
「そうだね」
「どうしようか、勇吾?」
「……やっぱり、この仕事はやめよう。
鏡閃《きょうせん》なら、話せば判《わか》ってくれると思うよ。そんなに悪そうな人じゃなかったし」
「そうね。そうしましょうか」
「お金を使う前で良かった。
お金を返して、謝《あやま》ったら勘弁《かんべん》してくれる、きっと」
和穂と、とっくみあいになりそうな喧嘩をしていた殷雷にも、恵潤と勇吾の会話は聞こえていた。
「ちょっと待て。
恵潤。お前らが俺らを狙《ねら》った事情ってのは……」
これだけの笑顔を作れば、殷雷は怒《おこ》らないだろうと少し計算して、恵潤は言った。
「いやあ、旅をするのにお金って結構《けっこう》かかるじゃない。
それで、ちょっとした小遣《こづか》い稼《かせ》ぎにいいかなあと思ってね」
計算通りに殷雷は怒らなかった。しかしこれでは怒らした方が良かったと、恵潤は軽く後悔《こうかい》した。
硬《かた》い陶器《とうき》が、少しの衝撃《しょうげき》で呆気《あっけ》なく砕《くだ》け散《ち》る様《さま》を、恵潤は殷雷の表情に見た。
「……金の為《ため》に俺に戦いを挑んだのか?
それも旅費《りょひ》を稼ぐ為に? お前にとって俺は、只《ただ》の小遣い稼ぎの相手でしかなかったのかい」
恵潤は、勇吾の肩を叩《たた》く。
「いやいや、もちろんそれだけじゃない。
勇吾が、どれぐらい武人としての力を付けてるか、腕試《うでだめ》しも兼《か》ねてね」
「……俺はガキの試験に使われてたのか?」
よほど、こたえたのか、一気に殷雷の顔から覇気《はき》が消えていく。
戦意を無くした殷雷は、只の脱《ぬ》け殻《がら》のように茫然《ぼうぜん》となっていた。彼の心に反応したのか天からはちらほらと雪が舞《ま》い降《お》りた。
さっきまで口喧嘩《くちげんか》をしていた和穂だが、殷雷の姿は見るに忍《しの》びなかった。
「殷雷、しっかりして。まあ、詳《くわ》しい事情はどこかの茶屋できかせてもらおうよ」
*
街道沿《かいどうぞ》いの茶屋《ちゃや》は質素《しっそ》なものだった。
だが、小さいが故《ゆえ》に、幾《いく》つかの火鉢《ひばち》だけで充分《じゅうぶん》に店の中は温《あたた》かかった。
和穂《かずほ》たちの卓の横にも、大きな火鉢があった。巨大《きょだい》な湯飲《ゆの》みを摸《も》した火鉢の中には、白い灰と、赤々《あかあか》と燃《も》える練炭《れんたん》があった。
卓の上につっぷし、眠《ねむ》る恰好《かっこう》をしていた殷雷《いんらい》だが、途中《とちゅう》で顔を火鉢に向け、黒い鉄で出来た火箸《ひばし》で練炭をつつき始めた。
殷雷の心の傷が痛々《いたいた》しいと和穂は思ったが、恵潤《けいじゅん》を責《せ》めるのも的外《まとはず》れのような気がした。
まずは、無難《ぶなん》な話から始めた。
「えぇと、そうだ、そうだ。
恵潤さんたちの居場所《いばしょ》が、索具輪《さくぐりん》じゃ探《さぐ》れなかったのはどうしてですか?」
番茶《ばんちゃ》をすすり、恵潤は答えた。
「捜索系《そうさくけい》の宝貝《ぱおぺい》から、気配を消す能力が私にはあるのよ」
「え! 索具輪の捜索から、完全に逃《のが》れられるんですか」
「だといいんだけど、捜索宝貝も馬鹿じゃないから、一度気配を消しても、それが通用するのは一週間が限度でね。
少し手段を変えて、もう一度気配を消しても、今度は三日ぐらいで勘《かん》づかれる。
三度目は一日って感じで、誤魔化《ごまか》しは利《き》きにくくなるの。結局は、逃《に》げきれなくなるんだけどね」
「へえ、そうなんですか。凄《すご》いねえ、殷雷」
火鉢の灰に、プスプスと火箸を突《つ》き刺《さ》し、殷雷は答えた。
「凄いねえ。知ってるけど」
あまりに落ち込む殷雷の姿に、恵潤は少しばかりの罪悪感《ざいあくかん》を覚《おぼ》えた。
「ねえ、殷雷。そんなに深刻《しんこく》にならないで。こっちも、最初っから、殺し合いをやる気なんてなかったんだから」
殷雷は火鉢を見つめ、恵潤とは視線を合わせなかった。
「どうせ、戦ったところで、俺《おれ》はお前にとどめを刺せやしないと思ってたんだろ。
俺は甘《あま》い宝貝だからなあ」
和穂と恵潤は、殷雷の肩《かた》を揺《ゆ》さぶり励《はげ》ました。
「ねえ、元気を出してよ」
「いいんだ、どうせ俺なんか、なまくらの刀《かたな》なんだし。
腹の中じゃ、恵潤は俺の事を馬鹿にしてやがるんだ」
勇吾《ゆうご》は、ふうふうと茶に息《いき》を吹《ふ》き掛《か》けていたが、全然《ぜんぜん》冷たくならなかった。
仕方《しかた》がないので、茶菓子《ちゃがし》代《が》わりに出てきた大根漬《だいこんづ》けをかじり、ぼそりと言った。
「……女って馬鹿だな」
唐突《とうとつ》な勇吾の言葉に、二人の女性は怒りよりも疑問を感じた。
「どうして?」
「もしも僕《ぼく》が、今の殷雷みたいな態度《たいど》をとってたら、どう思う?
せいぜい、子供がかまって欲《ほ》しくて、拗《す》ねているぐらいにしか考えないだろ。
そいつのやってる事も一緒《いっしょ》だよ。
本当は恵潤にかまって欲しくて、やってるだけだ」
慌《あわ》てて殷雷は勇吾に食ってかかった。
「てめえ、余計《よけい》な事を言うんじゃねえ!」
怒《おこ》り方にも、種類があった。
炎《ほのお》のような怒《いか》り、己《おのれ》の苦しみがほとばしるような重い怒りなどだ。
殷雷の怒り方は、今までの態度からして少々元気がありすぎた。
それは、勇吾の言葉の証明《しょうめい》でしかない。
殷雷が、あっと思った時には既《すで》に手遅《ておく》れだった。
呆《あき》れた顔をするのも面倒《めんどう》だと、和穂と恵潤は同時に茶をすすっていた。
殷雷が何を言おうが、取《と》り繕《つくろ》うのは不可能だった。
「いや、これはちょっと、待て!」
湯飲みを置いて、恵潤は言った。
「ふうん」
同じく和穂も、
「ふうん」
勇吾は言葉を続けた。
「そうやって、女の優《やさ》しさに付け込もうってのは、口説《くど》き方の中で一番、単純《たんじゅん》なやり方だって、父様《とうさま》は言っていた。
和穂姉ちゃんも大変だな。
そんな、軟弱《なんじゃく》な奴《やつ》と旅をするなんて」
「えぇとね。普段《ふだん》は、もうちょっとましなのよ」
慌てても、泥沼《どろぬま》に入り込むだけなのは判《わか》っていたが、殷雷は慌てるしかない。
「ち、違《ちが》うのだ。
恵潤の笑顔《えがお》が俺を狂わせるのだ!」
勇吾の言葉に容赦《ようしゃ》はない。
「間抜《まぬ》けな方に狂ってどうする」
殷雷は火箸をゆっくりと振《ふ》って、降参《こうさん》の旗振《はたふ》りの真似《まね》をした。
「判った、俺の負け」
恵潤と出会ってからの殷雷の行動は、ガタガタとしか言いようがなかった。
和穂は、勇吾たちの事情を知ろうと、口を開いた。
「索具輪に反応が出なかったのは、判りました。
でも、どうして私たちの居場所が判ったんですか? 勇吾君。他に宝貝は持ってないんでしょ?」
勇吾はこくりとうなずき、恵潤が事の成り行きを説明した。
「和穂。軒轅《けんえん》という組織《そしき》を知ってる?」
和穂は少し、首を横に振った。
「いいえ、知りません」
恵潤は軒轅についての説明をした。
だが、恵潤も勇吾も軒轅と、直接接触したのは一度だけだった。
鏡閃《きょうせん》という若い男と出会い、顔の見えない会合に一回出席しただけだった。
「私と勇吾の前に現れたのが、鏡閃という男だったのよ。
和穂の持つ宝貝を手に入れれば、お金をくれる約束だった」
殷雷の顔に、少し真面目《まじめ》さが戻《もど》った。
「軒轅とはよく言ったものだ。
千里眼《せんりがん》に順風耳《じゅんぷうじ》、九天象《きゅうてんしょう》の力で全てお見通しって訳《わけ》だ」
軒轅の名前自体は、和穂も知っている。仙界《せんかい》を統治する五仙《ごせん》の一人の名前だ。
「殷雷、九天象って、宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る宝貝なの?」
「いいや。そんな甘っちょろい宝貝じゃないぜ。あれは、今、この瞬間《しゅんかん》の全てを見通す宝貝だ」
「は?」
「有効範囲《ゆうこうはんい》は、界一つ。つまり人間界の隅《すみ》から隅までだ。
知ろうと思えば、全宝貝の現在位置も捜索出来る。
もし、今、九天象が俺らに焦点《しょうてん》を合わせていたなら、俺らの会話も筒抜《つつぬ》けだ」
今までの宝貝とは、規模《きぼ》が違う。それなのに殷雷がそれほど驚《おどろ》いていないのが、和穂には不思議《ふしぎ》だった。
「それって凄《すご》い宝貝じゃない。
私たちの居場所は完全に調べられて、どうやって戦うかの相談も、聞こえちゃうんだ。
そんな宝貝と、どうやって戦えばいいの」
灰の中に殷雷は火箸を差し込む。
「いやいや。あそこまで格が違うと、逆に恐ろしくはないぞ」
「どうして?」
「使用者は、人間だからだ。
ありとあらゆる情報を手に入れても、人間の手には余《あま》る」
「?」
「九天象に、全ての宝貝の現在の居場所を探らせたとしよう。
その数は七百に近いんだ。しかも、その宝貝たちは一つの場所に留《とど》まっている訳じゃない。
それこそ気ままに動いてるんだぞ。全てを追跡《ついせき》しきれるか? 九天象は追跡出来るが、人間はその膨大《ぼうだい》な情報を処理《しょり》出来ん。
もしも、俺たちを集中的に監視《かんし》してても、それ以外の宝貝使いが背後に立って、命を狙《ねら》っていたらどうする? 軒轅にとっても、俺たちだけが脅威《きょうい》ではないんだぞ」
「そうか」
「数百人を超えるであろう、宝貝使いの会話全てを同時に聞いても理解は出来ん。一つの会話に集中すれば、同じ瞬間の別の会話を聞きのがしてしまう」
勇吾は、一つの考えに辿《たど》り着いた。
「ねえ、恵潤。それなら、軒轅に頼《たの》めば、奴《やつ》の居場所《いばしょ》が判るかも。
お金の代わりに奴の居場所を教えて貰《もら》えばよかったんだ!」
恵潤は湯飲みに視線を落とした。
「無駄《むだ》よ。九天象が扱《あつか》うのは、現在だけ。未来は勿論《もちろん》、過去を調べる機能もない」
二人の会話に和穂が割り込む。
「あの、奴って誰なんですか? それに勇吾君と恵潤さんは、どうして旅をしているんですか? 武者修行《むしゃしゅぎょう》?」
てっきり恵潤が答えると勇吾は思っていたが、彼女は口を開かない。
勇吾は自分の口で言った。
「僕《ぼく》が旅をしているのは、武者修行の為だけじゃない。
父様の仇《かたき》を探しているんだ。鳳翼扇《ほうよくせん》は父様の形見《かたみ》なんだ。
僕は、父様みたいな立派《りっぱ》な武人になって仇を討つんだ! どんな奴か名前も判らないけど、絶対に捜《さが》し出してやる!」
殷雷が大きな溜《た》め息《いき》をついた。和穂には殷雷の溜め息の理由が、全然判らなかった。
殷雷は溜め息を吐ききる。
「ふう。仇討ちなんざ、くだらねえな。やめてしまえ」
「なんだと! そりゃ、今の僕はお前や恵潤より腕は未熟《みじゅく》だ。
でも、もっともっと強くなっていつかは仇を討つんだ! 恵潤はそんな僕に武芸を仕込んでくれてるんだぞ」
「名前も判らなくて、どうやって仇を捜すんだよ、このガキ!」
「少しは手掛《てが》かりだってある。鳳翼扇を持っていた父様に勝った相手だぞ。当然、そいつも宝貝を持っているはずだ」
「どうだかな。使い手が間抜けなら、誰《だれ》に倒されても不思議はないぜ」
「父様を馬鹿にするな! 父様はお前みたいにふぬけた武人じゃなくて、立派な武人だったんだ! 父様と僕は修行の旅に出ていて」
殷雷の言葉は、いつになく厳《きび》しかった。
「もし、お前が三十ぐらいになった時に、仇と巡《めぐ》り合ったとしようか。
相手が、ヨボヨボの爺様《じいさま》になっていてもそいつを倒すつもりか?」
「戦える相手なら戦う。そうじゃなければ、相手に罪《つみ》を悔《く》いてもらう!」
子供をからかっている口調には聞こえなかった。和穂は殷雷の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》る。
「どうしたのよ、殷雷」
和穂の言葉を殷雷は無視した。
「復讐《ふくしゅう》なんざ、不毛《ふもう》なだけだ」
勇吾は一瞬、口ごもった。
「言いたいことは判る。もし、仇に血縁《けつえん》がいたら、今度は僕が仇として狙われる。
その覚悟《かくご》は出来ている」
途端《とたん》、殷雷の顔から締《し》まりがなくなり、ヘラヘラとした笑顔《えがお》を恵潤に向けた。
「てな具合に、真剣にやってみたが、こういう方が恰好《かっこう》いいか?」
「さっきよりは、大分まし。でも、殷雷は殷雷らしくしてればいいのよ」
勇吾は、もはや殷雷に対して文句《もんく》をつけるつもりはなかった。やるだけ無駄《むだ》だと考えている。
和穂は、『真面目《まじめ》にやんなさいよ』と、ポカポカ殷雷を殴《なぐ》ったが、全く効《き》き目《め》はないようだった。
「だから、和穂。何で妬《や》くんだよ」
「妬いてなんかいないわよ。もっと、いつもの殷雷みたいに、ちゃんとやってよ」
恵潤は勇吾に、いつも『状況《じょうきょう》を冷静に判断しろ』と繰《く》り返《かえ》し教えていた。
勇吾は、しばし考え、いきなり和穂に頭を下げた。
「? どうしたのよ、勇吾君」
「和穂姉ちゃん、お願いだ。
僕も和穂姉ちゃんと一緒に、旅をさせて欲しいんだ。
宝貝使いを追い掛けてるなら、いつか父様の仇と巡《めぐ》り合えるだろ? 仇を倒したら、鳳翼扇は返すから。
旅費も、自分の分は絶対に稼《かせ》いで迷惑《めいわく》はかけない」
「私は別に構《かま》わないよ。お金も銀が沢山《たくさん》あるから気にしなくていいし。
ねえ、殷雷。殷雷も構わないでしょ?」
「ふざけるな。元々《もともと》は拾《ひろ》った宝貝だろうが。それを返してやるから、そっちの言うことをきけだと?
お前を鳳翼扇ごと叩《たた》き潰《つぶ》せるのは、さっきの戦いで判っただろうが」
恵潤は静かに言った。
「勇吾と戦うなら、私も勇吾と一緒に殷雷と戦う。勿論《もちろん》、本気でね。
勇吾と旅をしてくれるなら私も勇吾と一緒に、着いていく。私と一緒の旅は嫌《いや》?」
このデレデレ顔は、今日の中で最高の出来だわ、と和穂は殷雷の表情を見て思った。
「とんでもない。皆《みんな》で一緒に旅をしようじゃありませんか。
なあ、和穂」
「なんだかなあ。でも、殷雷。ちゃんとシャキッとしてよ」
勇吾が鋭《するど》い意見を吐《は》く。
「和穂姉ちゃん。なんだったら、代《か》わりに恵潤に護衛《ごえい》をしてもらったらどうだ? そっちの方が役に立つと思うぞ」
「なんだと!」
電光《でんこう》の素早《すばや》さを持つ、殷雷の拳《こぶし》が勇吾を狙ったが、鳳翼扇に阻止《そし》され、壮絶な激突音が響《ひび》き渡った。
余程《よほど》痛かったのか、殷雷は拳を抱《かか》えて飛び跳《は》ねた。
勇吾はしみじみと言った。
「和穂姉ちゃん。よく、こんなの護衛にしてて、今まで生《い》き延《の》びられたな」
「ははは。普段はもっと、しっかりしてるのよ。
でも、これから一緒に旅をするんだから、仲良くしようね」
「うん」
*
剛終《ごうしゅう》は、細く長く呼吸《こきゅう》をしていた。
呼吸を荒らげれば、自分の居所《いどころ》がたちまちばれるからだ。
索具輪《さくぐりん》の目を誤魔化《ごまか》せる能力は、恵潤刀《けいじゅんとう》にだけ備《そな》わったものではない。
剛終も、己《おのれ》の気配《けはい》を細めていた。
細めた気配の中で、剛終はゆっくりと己の宝貝《ぱおぺい》を広げていった。
大地に触れた左手には兄と似ているが、別の腕輪《うでわ》が光っている。日の光を反射しているのではなく、腕輪自体が、僅《わず》かに光っていた。
剛終の宝貝は、小石が水の上に作る波紋《はもん》のように、素早く広がっていく。
剛終は乾《かわ》いた大地に座《すわ》り、ただ宝貝を広げていた。
恵潤と和穂の戦いの行く末は知らない。だが、勝者がどちらであれ逃《のが》すつもりはない。
獲物《えもの》が掛《か》かるまで、一切身じろぎしない蜘蛛《くも》のように、剛終は静かに呼吸し、宝貝を広げていった。
剛終の呼吸に合わせるように、細く長く腕輪の明暗は続いていく。獲物に気取《けど》られぬように、静かだが素早く、宝貝は広がっていった。
冷えた大地が、剛終の指先を凍《こご》えさせていく。
だが、剛終は身じろぎ一つせず、宝貝を広げていった。
獲物が必ず通る道に、罠《わな》を仕掛《しか》けていく。後はただひたすら待つだけだった。
焦《あせ》りはなかった。
兄者《あにじゃ》は必ず、あの梨乱《りらん》を捕《つか》まえるだろう。そして自分も獲物を逃しはしない。
そして我等《われら》が兄弟はさらに力を手に入れるのだ。
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第二章『歪《ゆが》む宝貝《ぱおぺい》』
一
しばし時は遡《さかの》り、夜主《やしゅ》がまだ宝貝《ぱおぺい》を失う前の話。
*
夜主は、腕《うで》を枕《まくら》に草原で寝転《ねころ》がっていた。
年の頃《ころ》なら、二十五、六であろうか。端正《たんせい》に整《ととの》った顔をしていたが、一種|独特《どくとく》の気迫《きはく》があった。
獲物《えもの》を食らい尽《つ》くし、安堵《あんど》の睡眠中《すいみんちゅう》であっても、豹《ひょう》からは常《つね》に緊張感《きんちょうかん》が漂《ただよ》う。
夜主の気迫も似《に》たようなものだった。
怒《いか》りの感情が宿《やど》っているのではないが、氷の冷たさと、溶岩《ようがん》の熱さを持つ眼には凄味《すごみ》があった。
「どうも、いまいちつまらねえ宝貝ばっかりだなあ、捜魂環《そうこんかん》よ」
夜主の耳元から答えが返った。夜主のゴツゴツした指に光る指輪《ゆびわ》が捜魂環であった。
捜魂環は、一度会った人間や宝貝の居場所を、探《さく》り当《あ》てる宝貝である。
捜魂環は主《あるじ》の不平に耐《た》えるしかない。
「そうですか? 結構《けっこう》、力のある宝貝も手に入ったじゃないですか。天呼筆《てんこひつ》とか」
草原に転がり、夜主は空を行く雲を見た。
組まれた足が、ブラブラと揺《ゆ》れている。夜主の履《は》く靴《くつ》も宝貝であった。
名前は俊地鞜《しゅんちとう》。これを履く者は驚異的《きょういてき》な速度で移動出来たが、移動の衝撃《しょうげき》からは一切《いっさい》使用者を守れない欠陥《けっかん》を持った宝貝だった。
夜主は、俊地鞜の欠陥を己《おのれ》の精神力《せいしんりょく》と体力だけで堪《こら》えている。本人は、暴《あば》れ馬《うま》を手懐《てなず》けているようだと、気にはしていない。
見た目には、くるぶしまでを覆《おお》う、ガッチリとした革靴《かわぐつ》にしか見えなかった。
「天呼筆か。天候を操《あやつ》る宝貝じゃなあ。こうやって、日向《ひなた》ぼっこにちょうどいい天気を作るのが、関《せき》の山じゃないか」
「他に使い道があるでしょ。敵《てき》に雷《かみなり》を落とすとか」
「飛び道具は嫌《きら》いな性分でね。殴《なぐ》る感触《かんしょく》がないと、つまらねえだろ」
「知ったこっちゃないですよ。
そろそろ、次の宝貝を狙《ねら》いますか? 天呼筆と動禁錠《どうきんじょう》しか手に入れてないですからね」
夜主は大きく欠伸《あくび》をした。
「今度の宝貝はどんなのだ?」
捜魂環は少し困《こま》った。自分で言うのも何だが、あまり面白《おもしろ》そうな宝貝ではない。
「……一番近いのは、湯飲《ゆの》みの宝貝なんですが……」
「湯飲みなんかいらん」
「でも、一応《いちおう》宝貝ですし」
「能力は?」
「そこまでは知りません」
夜主は軽く駄々《だだ》を捏《こ》ねたつもりだが、彼女の気迫では脅迫《きょうはく》にしか聞こえなかった。
「いいから、もっと面白そうな宝貝の在《あ》り処《か》を教えろ」
「遠くてもいいですよね」
「やだ。かったるい」
「……たるんでますね」
「うるさいね。
あたしゃ、元|盗賊《とうぞく》だけど、盗賊の時も片《かた》っ端《ぱし》から盗みをやってたわけじゃない。
自分で、価値を認めた物しか盗みやしなかったんだ。
だから、宝貝も面白そうなのから狙って何が悪い?」
勝手《かって》な注文《ちゅうもん》に、捜魂環は泣けるものなら、泣きたい気分になった。宝貝の業《ごう》として、使用者の願いは叶《かな》えたいが、無理難題《むりなんだい》というものもある。
捜魂環は、自分で探れる範囲《はんい》で必死《ひっし》になって捜索《そうさく》を続けた。そして、一つの奇妙《きみょう》な反応に気がついた。
「夜主様。変な反応があります」
「変?」
「宝貝のようなんですが、反応が異常《いじょう》に弱いですね。
反応を隠《かく》しているのとは違《ちが》って、純粋《じゅんすい》に微弱《びじゃく》な反応です」
夜主の眼光《がんこう》が、冷たく光った。
「とうとう壊《こわ》れちまったか、捜魂環よ。
一応、お前の能力は一度会ったものの居場所を探り当てる、だろ?
反応が出てるなら、そいつにも一度会ってるんじゃないのか? なら、判《わか》るだろうが」
「おっしゃるとおりなんですが、記憶《きおく》にないですよ」
「……宝貝の破片《はへん》かなんかだろ」
「生憎《あいにく》、私は機能《きのう》を停止《ていし》した宝貝の居所《いどころ》は判りません。壊れた宝貝や、破片じゃありません。
ついでに私は壊れてはいません」
夜主は上体を起こした。
「自分が正常だと言《い》い張《は》る奴《やつ》ってのもな」
「別に信じてくれなくてもいいですよ。
ちなみに、この反応は梨乱《りらん》のすぐ側《そば》から出ています」
「梨乱? ああ、あの天呼筆をふんだくってやった奴だな。
あの時は髪《かみ》の毛の長いのと、短いのがいたが、どっちだったっけ」
「短い方です。長い方は、芳紅《ほうこう》で……芳紅は村に帰っていますが、梨乱は村とは全然《ぜんぜん》関係ない場所にいますよ」
梨乱の顔を夜主は思い出した。同時に、天呼筆を梨乱の手から奪《うば》った時の状況《じょうきょう》も、思い出す。
髪の毛の長い方の娘《むすめ》は、さっさと抵抗《ていこう》をやめたが、梨乱の方は最期《さいご》まで抵抗していやがったな。
それどころか、あたしに向かって、
『絶対に天呼筆を取《と》り戻《もど》してやる!』
と、叫《さけ》んだ生意気《なまいき》な小娘だ。
世間《せけん》は物騒《ぶっそう》だから、これに懲《こ》りたら村へ帰んなという忠告《ちゅうこく》をくれてやったはずだが、無視《むし》しているのか?
夜主の口許《くちもと》がほころぶ。
「せっかく、さっさと家に帰れときとしてやったのに、あいつはまだウロウロしてるのかい」
「天呼筆の一件は、大分|怒《おこ》ってましたからねえ」
「よし、面白いから、からかいがてら、その変な反応の正体を突き止めにいくか。
梨乱が、また生意気な口をきいたら、ちょっといじめてやろうじゃないか」
「……普通、物を盗まれたら罵声《ばせい》の一つや二つ浴《あ》びせますよ」
「うるせえ。早速《さっそく》出発するぞ!」
夜主は勢《いきお》いよく立ち上がり、まるで一陣《いちじん》の風のように大地を駆《か》けていった。
夜主の立ち去った草原は、途端《とたん》にかきくもり嵐《あらし》となった。
二
「しかし、とんでもないド田舎《いなか》だねえ」
いかなる獣《けもの》、いかなる鳥よりも速く、夜主《やしゅ》は大地を駆《か》けた。天を巡《めぐ》る太陽すら、追《お》い越《こ》し兼《か》ねない速度ではあったが、夜の暗闇《くらやみ》は夜主に追いついた。
そして、到着《とうちゃく》したのは小さな村だった。
質素《しっそ》な家々からは、カラカラカラカラと音が響《ひび》き、窓からは湯気《ゆげ》が立ち昇《のぼ》っているのが星明《ほしあ》かりの下でも見てとれた。
「夜主様。なんでしょうね、あのカラカラいう音は?」
俊地鞜《しゅんちとう》で大地を駆けるのは、体力の消耗《しょうもう》との戦いであった。俊地鞜の速度の前では、僅《わず》かな風でも嵐《あらし》の中の激流《げきりゅう》のような抵抗力《ていこうりょく》を持つ。
それに夜主は、己《おのれ》の体力だけで対抗《たいこう》していたのだ。
夜主はぶんぶんと腕《うで》を振《ふ》り回《まわ》し、凝《こ》り固《かた》まった筋肉《きんにく》をほぐした。
「ありゃ、蚕糸《さんし》を紡《つむ》いでるんだよ。カラカラってのは、糸車の回る音、湯気は蚕《かいこ》の繭《まゆ》をブチこんでる湯のせいさ」
「なるほど」
「それより、梨乱《りらん》はどこにいる?
まさか、この村に嫁入《よめい》りに来ましたなんていうオチじゃないだろうな」
「こちらです」
奇妙《きみょう》な反応は、やはり梨乱と共にあった。捜魂環《そうこんかん》は、夜主を梨乱のもとへといざなっていった。
大地を掻《か》き削《けず》りながら、大地を駆けていた夜主は、一転してソロリソロリと暗闇《くらやみ》の中を歩いていく。
そして、到着《とうちゃく》したのは一軒の小屋《こや》だった。
「……あの小娘は、こんな小屋で何をやってるんだ?」
小屋には煙突《えんとつ》があり、煙突からはモウモウと煙が吐《は》き出されていた。
これは間違《まちが》っても湯気ではなかった。
*
小屋の中は、炉《ろ》を中心に作られた工房《こうぼう》だった。
壁際《かべぎわ》には窯《かま》のような炉が作りつけられ、燃料《ねんりょう》の薪《まき》が山積《やまづ》みにされている。
炉以外には、巨大《きょだい》な机《つくえ》があり、机の上には金槌《かなづち》やら鉄尺《てつじゃく》が散乱していた。
それ以外には、申《もう》し訳《わけ》程度《ていど》に寝台《しんだい》が置かれていたが、机よりも小さかった。
炉の前では一人の娘がしゃがみこみ、温度の調整をしていた。
この娘が梨乱だった。
和穂《かずほ》と出会った頃よりも、僅《わず》かに髪《かみ》の毛が伸《の》びていた。短めの髪に違《ちが》いはなかったが、今は肩《かた》に触《ふ》れている。
仕事に没頭《ぼっとう》する職人《しょくにん》のように、一心に梨乱は炉の炎《ほのお》を見つめていた。
黒く澄《す》んだ瞳《ひとみ》に映《うつ》り込《こ》む炎は、どんな宝石《ほうせき》よりも美しく輝《かがや》いていた。
年頃の娘らしく、耳飾《みみかざ》りが両方の耳に着けられていた。
涙《なみだ》の形をした銀色の耳飾りだ。梨乱が動く度《たび》に揺《ゆ》らめき、炉の光を反射していた。
夜主の忍《しの》び込《こ》み方が上手《うま》いのか、梨乱が炉に集中しすぎていたのか、彼女は侵入者《しんにゅうしゃ》には一切《いっさい》気がついていなかった。
だが、夜主とてこれ以上、こそこそするつもりは毛頭《もうとう》なかった。
「あんた、こんな所で何やってるのよ」
「わ!」
梨乱は慌《あわ》てて、振《ふ》り返った。
戸口には、一人の女が立っていた。
夜主だった。梨乱がその顔を忘れるはずがなかった。天呼筆《てんこひつ》を奪《うば》った女だ。
驚《おどろ》く梨乱の表情を喜《よろこ》び、夜主は一歩前に進み、後ろ手に扉《とびら》を閉《し》めた。
梨乱は後ずさり、キシキシと床《ゆか》が軋《きし》む。
炉の炎は梨乱の手から離《はな》れ、ゆっくりと小さくなっていく。
だが、消えはせずに部屋《へや》の中を照明《しょうめい》代わりに照《て》らしていた。
夜主は笑い、梨乱も何故《なぜ》か笑った。
「まあ、夜主さん。久《ひさ》し振《ぶ》りじゃないの」
梨乱の笑顔《えがお》が夜主の気に障《さわ》った。
「もっと、驚くと思ったんだけどね。
それより、こんな田舎で何をやってる? 私から天呼筆を奪うって、大見栄《おおみえ》切ってたけど、どうなってるの?」
夜主は懐《ふところ》から、筆《ふで》を取り出した。まさにこの筆こそが、天呼筆だった。
梨乱をからかうように、夜主は天呼筆を見せびらかす。
「その天呼筆は、返してもらうよ。
和穂に借《か》りている宝貝なんだからね。和穂に返さないと、面目《めんぼく》が立たないんだ」
「なら、どうしてこんな所にいる? 私を追い掛《か》けないの? 生身《なまみ》の足で、俊地鞜《しゅんちとう》に追いつくのは骨だと思うけどね」
梨乱は木を組んだだけの、質素《しっそ》な椅子《いす》を引き寄せ、それに座《すわ》った。
「旅をするのにも、お金がいる。
この村でお金を稼《かせ》いでるのよ。沢山《たくさん》お金を稼いで、馬を買うつもりなの。
知ってる? 馬って高いのよ。
生まれたばかりの子馬って、桜風邪《さくらかぜ》にすぐかかって死んじゃうからね。誰《だれ》か、桜風邪に効《き》く薬でも作ってくれない事には」
「黙《だま》れ」
馬の話などどうでもいい。どうでもいい話をするとは、梨乱は時間を稼いでいると夜主は判断した。
だが、時間を稼いで何とする?
「梨乱ちゃんよ。何をたくらんでいる?」
「……夜主さんが、私がこの村にいる理由をきいたんじゃないの」
たいした玉だ。この私を相手に駆け引きを楽しんでやがる。そんなものが通用するかと、夜主は微笑《ほほえ》む。
「考えがあっての時間稼ぎか? 悪《わる》足掻《あが》きの時間稼ぎなら、やめてくれよ」
時間を稼いで、誰かが来るのを待っているのだろう。だが、そんなものは通用しない。
あり得る可能性は、梨乱が誰かと約束をしていて、約束の時間を超《こ》えても梨乱が現れないとする。そうすれば様子《ようす》を見に誰かが来るぐらいだろう。
一人や二人の援軍《えんぐん》が来たところで、捕《つか》まったりはしない自信が夜主にはあった。
梨乱は椅子に座り直し、床がキイキイと鳴った。
「この村は、前はもっと貧乏《びんぼう》だったのよ。
夜主さんに天呼筆を取られた後、たまたまこの村に来たんだけど、そりゃ酷《ひど》かった。
桑《くわ》の林があるから、養蚕業《ようさんぎょう》で村の建《た》てなおしを計《はか》ってたんだけど、蚕《かいこ》の扱《あつか》いって難《むずか》しいのよね。桑の葉って、蚕の餌《えさ》になるんだけど」
「馬の次は蚕か? 蚕の飼い方に興味《きょうみ》はないぞ」
「だって、蚕の話をしないと私がこの村にいる理由が判《わか》らないよ。
ちょっと離れた隣村《となりむら》でも、養蚕をやってるんで蚕の飼い方を教えて貰《もら》おうとしたの。
ところが、この村ってのが意地悪《いじわる》でね。
全然《ぜんぜん》手助けしてくれないのよ」
己《おのれ》の浅知恵《あさぢえ》が通用しなかった悔《くや》しさを、梨乱の表情に見てみたいと夜主は思った。
故《ゆえ》に、あえて梨乱の時間稼ぎに夜主はつき合った。
「まさか、このまま夜明けまで、無駄話《むだばなし》をするつもりか?」
「いいから、ききなさいよ。
蚕の扱《あつか》いで一番難しいのは、温度の調整なの。それを間違えると、蚕は死んでしまうからね。
養蚕の達人《たつじん》は、肌《はだ》でその温度を覚《おぼ》えてるんだけど、素人《しろうと》にゃ難しすぎる。そこで、私は温度計を作ってあげたの」
「馬鹿か。温度計ぐらいどこにでもあるだろうが?」
「へへん。そこはそれ、伊達《だて》に柳《りゅう》家の一族じゃないからね。並《な》みの温度計とは、精度《せいど》が違うし、長年使っても狂いが出ない特製の温度計よ」
「蚕の話はもうあきた!」
「何言ってるのよ、ここからが面白いのに。
最初は、温度計で金儲《かねもう》けするつもりもなかったんだけど、村の人が感謝《かんしゃ》してくれてね。
村を救った大恩人《だいおんじん》だって、利益の幾《いく》らかを分けてくれた。村全体じゃたかが知れてるけど、私にとっちゃ大金よ。
もう少しで馬が買えるかもね」
「可哀《かわい》そうな梨乱ちゃん。助けは来なかったようだな」
「……ところがよ、さっきの意地悪な隣村が嫌《いや》がらせを始めてね。
温度計が欲しいんじゃなくて、商売仇《しょうばいがたき》になっちゃったこの村が気に食わないのよ。
こないだなんか、放火までされたのよ。
しかも、証拠《しょうこ》を残さないような周到《しゅうとう》な奴等《ら》でさ」
「梨乱ちゃん。もういい。私の質問にだけ答えろ。
捜魂環が、奇妙な反応を見つけたんだが、あれは何だ?」
「村の人たちは心配してくれたよ。
次は、私に嫌がらせがくるんじゃないかってね。
私のせいで、この村が養蚕で成功したんだから」
「質問に答えろ!」
「そこで、警報装置《けいほうそうち》を作ったの。
理屈《りくつ》は簡単《かんたん》。細い鉄の管《くだ》を作って、その中に糸を通してあるの。
鉄の管は、地面を通して、村の自警団の詰所《つめしょ》に繋《つな》がっていてね、私が管の中の糸を切れば、詰所の中の重りが落ちて、鐘《かね》が鳴るように仕組《しく》んだ」
夜主は途端《とたん》に、振り返り、扉越《とびらご》しに外を見た。
松明《たいまつ》を持った村人が、数十人、工房《こうぼう》の回りを取り囲《かこ》んでいる。
梨乱は、椅子の下の床板を指差した。
「ここの床板を踏《ふ》めば、糸は切れるの。切ったのは大分前よ」
修羅《しゅら》の形相《ぎょうそう》で、夜主は怒鳴《どな》った。
「これだけの人数の物音に、何故《なぜ》気がつかなかった!」
「結構《けっこう》、夜中にトンカチトンカチやるから、音が洩《も》れないように、壁に詰め物をしてるのよ。逆に言えば、外の音は聞こえにくい」
「て、てめえ!」
そして、扉はブチ破られ、村人たちは工房の中に雪崩込《なだれこ》んだ。
いかに、俊地鞜とはいえ、人の波を掻《か》き分《わ》けるだけの力はなかった。
三
誰《だれ》の目にも、無駄《むだ》な抵抗《ていこう》なのは明らかで、実際に無駄な抵抗だった。
だが、大混戦の中、夜主《やしゅ》はひたすら抵抗を続けた。
戦いが終わった時には、夜が明けていた。
*
夜主にブン殴《なぐ》られ、梨乱《りらん》の右目には軽い痣《あざ》が出来ていた。滞《ぬ》れ手拭《てぬぐ》いで、痣を冷やして梨乱は言った。
「ごめんなさい。この人は隣村《となりむら》の人じゃないんです」
夜主にブン殴られ、左頬《ひだりほお》が腫《は》れ上がった中年の男が答えた。この男こそが、この村の村長である。
「構《かま》いませんよ、梨乱|殿《どの》。これは元々《もともと》、梨乱殿の身の安全を考えて、作られたもの。
梨乱殿の身を守るという目的が達成出来て……ちょっと殴られちゃいましたか?」
「大丈夫《だいじょうぶ》。軽い怪我《けが》よ」
夜主にブン殴られ、足首を脱臼《だっきゅう》した青年が溜《た》め息《いき》を吐《つ》く。
「しかしまあ、体力のある賊《ぞく》ですな。手負《てお》いの虎《とら》でもこいつに比《くら》べりゃ、子猫《こねこ》ですよ」
夜主にブン殴られ、肋骨《ろっこつ》をへし折られた兄に代わって、妹が報告に来る。
「ほとんどは、打ち身の怪我人ばかりです。
骨まで折られてたのは、結局三人でした」
徹夜《てつや》の疲労《ひろう》が、一同を襲《おそ》う。
工房《こうぼう》の中は、無茶苦茶《むちゃくちゃ》になっていた。
何故《なぜ》か天井《てんじょう》にまで大きな穴が開いていて、柔《やわ》らかな朝日が差し込んでいた。
梨乱たちの前に、夜主ははいつくばっていた。恐《おそ》ろしい事に、怪我らしい怪我はしてない。
梨乱たちには、信じられなかったが、夜主はまだ抵抗を止《や》めたつもりは、ないようだった。
はいつくばりながらも、地響《じひび》きのような、うなり声を上げていた。
夜主の両|腕《うで》には、夕焼けの赤色をした腕輪《うでわ》が光っていた。
夜主は腕輪を持ち上げようと、先刻からうなり続けているのだが、ピクリとも動かなかった。
「づぇぇぇぇぇぇい!」
夜主にブン殴られたせいで、なかなか鼻血《はなぢ》が止まらなかった青年が、言った。
「なんなんですか? あの腕輪?」
梨乱は首を横に振った。
「さっきの大騒動で、無我夢中《むがむちゅう》で目の前にあったあの手錠《てじょう》を夜主さんにはめたんだけど、やっぱり宝貝《ぱおぺい》だったみたいね。
夜主さんが持ってたんでしょ」
青年は、半信半疑《はんしんはんぎ》だった。
「宝貝ですか? 梨乱は嘘《うそ》をつくような娘《むすめ》じゃないと信じてるけど、そんな物が本当にあるとはね」
梨乱は自分の素性《すじょう》、自分の旅の目的を全《すべ》て話していた。そして、それが簡単《かんたん》に信用出来ない話であると、充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》していた。
「あら、あるわよ。見てて」
梨乱が念じると、途端《とたん》に両方の腕輪がくっついた。
「ちょっと辛《つら》そうだから、軽くしてあげる」
今までピクリとも動かなかった腕輪が、持ち上がる。それでもかなりの重さのはずだ。
目の前に宝貝を見せられ、青年たちは信じるしかなかった。
梨乱は言った。
「そうね。ちょっと物騒《ぶっそう》だから、夜主さんの持つ宝貝は取り上げときましょう。
その靴《くつ》も宝貝よ。暴《あば》れそうだから、気をつけてね」
当然、夜主は暴れ、さらなる怪我人を出しながらも、どうにか俊地鞜《しゅんちとう》を脱《ぬ》がせる。
「それと、天呼筆《てんこひつ》でしょ。ちょっと夜主さんごめんなさいね」
梨乱が夜主の懐《ふところ》に手を伸《の》ばすと、電光《でんこう》の頭突《ずつ》きが梨乱の顔面《がんめん》に炸裂《さくれつ》した。
不意を打たれた攻撃に、梨乱の意識《いしき》は遠のいてゆき、途端に腕輪はその重さを増し、地面に釘付《くぎづ》けになった。
「ぐぎゃ!」
顔を押《お》さえて、梨乱はすぐに正気《しょうき》付く。
「私が気を失うと、途端に重くなるようね。
お願いだから、もう抵抗はしないでよ」
しぶしぶ、夜主は天呼筆を取るに任《まか》せた。
「あとは、指輪《ゆびわ》の捜魂環《そうこんかん》」
梨乱は捜魂環を、自分の指にはめた。
「これは、梨乱様。私の新しい主《あるじ》となられたのですね」
ぶっきらぼうに少し拗《す》ねて夜主は言った。
「裏切《うらぎ》ったな、捜魂環」
「いや、夜主様。そういう言い方は、勘弁《かんべん》して下さいませ。たとえ、私の主でなくなられても、この捜魂環、夜主様を尊敬《そんけい》する気持ちに変《か》わりありません」
言葉を操《あやつ》る指輪に、一同の間にどよめきが流れた。
梨乱は捜魂環に尋《たず》ねた。
「ねえ、捜魂環。夜主さんが持ってる宝貝はこれで全部?」
夜主の恨《うら》めしそうな視線を感じながらも、捜魂環は答えるしかない。
「さ、左様《さよう》で」
「裏切り者」
「それと、捜魂環。あの手錠は何なの?」
「はい。あれは動禁錠《どうきんじょう》と申《もう》しまして、おおせのように手錠の宝貝です。
使用者の意のままに重さを変える能力がございます。
あの手錠は、手錠をかけた者、この場合は梨乱様を使用者と認めています。
手錠をかけられた者、この場合は夜主様ですが、夜主様がもしも逃亡《とうぼう》を謀《はか》り、梨乱様と一里(四キロ)以上離れますと、自動的に今のように大地に固定されます。
睡眠《すいみん》などでは大丈夫《だいじょうぶ》でしょうが、もし不測《ふそく》の事態《じたい》で梨乱様が気絶《きぜつ》でもなされたら、同じように固定されます」
「なるほど。そう簡単に罪人を逃《に》がさない手錠なわけね」
抵抗が無駄《むだ》だと判《わか》れば、いかな獣《けもの》とて自分の身にくらいつく罠《わな》から逃《に》げるのをあきらめる。
だが、夜主は違った。
「ところで、捜魂環。もしも、私が梨乱をブチ殺したらどうなる? 使用者がいなくなるなら、手錠は解除《かいじょ》されると思うが?」
捜魂環は沈黙《ちんもく》した。
沈黙の意味が梨乱には、判らなかったが、すぐに自分が捜魂環の主であると思い出す。
「夜主さんの質問に答えて」
「恐《おそ》らく、大地に固定されます。使用者を殺して解除されるなら、手錠の意味があまりないでしょ?」
「いやいや、試《ため》してみる価値はあるぞ」
夜主の脅《おど》しに、梨乱は屈《くっ》しない。
「欠陥《けっかん》は判《わか》る?」
「……もしも、動禁錠を使う前に梨乱様が動禁錠そのものに、能力と欠陥をお尋《たず》ね頂《いただ》けたらと、捜魂環は思います。
……もう手遅《ておく》れですが。
……一度使うと、外《はず》せないんです。
ですから、夜主様。もしも梨乱様が亡《な》くなられたら、永久《えいきゅう》に大地に固定される可能性があります。
軽はずみな真似《まね》はなさらないように」
「け。今まで夜主様、夜主様と懐《なつ》いてたくせに、今じゃ『新しい主人の梨乱様に手をかけると、お前の為《ため》にならないぞ』ときたか?」
「そ、そんなつもりは。今のは夜主様の為を思いまして」
これは、夜主に少し悪い事をしたなと、梨乱は頭を掻《か》く。
「御免《ごめん》ね、夜主さん。知らなかったの」
当然、気にするな、などの言葉は夜主からは返らない。
「大丈夫《だいじょうぶ》。
その代わり、貴様を殺させろ! どうせ永久に捕《と》らわれの身になるなら、貴様《きさま》の死に顔だけを美しい思い出としてくれる!」
青年の一人が鋭《するど》く言った。
「自業自得《じごうじとく》だろ。盗賊が手錠をかけられるのは、理由があっての事なんだから。
言っておくけど、この地の法は厳しいぞ」
梨乱はひざまずき、大地へ固定された動禁錠を観察《かんさつ》した。
兄のあばらを折られた娘は、梨乱の肩に手を置いた。
「梨乱が気にやむ必要はないよ。
どうせ、この女も沢山《たくさん》悪い事をやってたんでしょ? 役人に引き渡したら、死罪になると思う」
梨乱は驚《おどろ》きの声を上げた。
「死罪? それはちょっと大袈裟《おおげさ》でしょ」
「貧しいところだからね。略奪行為《りゃくだっこうい》やら窃盗《せっとう》、強盗《ごうとう》は冗談抜《じょうだんぬ》きで死罪よ。
隣村の連中が、あれだけ嫌がらせをやってるのに、盗みだけはしてないでしょ?
その代わり、死罪になるには決定的な証拠《しょうこ》がいるんだけどね。
この場合、証拠や証人が山のようにいるからね」
夜主が吠《ほ》えた。
「死罪? 上等だね。梨乱よ、私の死体から動禁錠ごと腕を切り落として和穂《かずほ》の土産《みやげ》にしてやれ」
何かを諦《あきら》めた表情が梨乱の顔に浮《う》かび、娘はゆっくりと立ち上がった。
「村長。色々《いろいろ》御世話《おせわ》になって、こんな工房まで建《た》てて戴《いただ》いたんですけど私は旅に出ます」
梨乱は腕《うで》のある職人《しょくにん》だ。充分《じゅうぶん》な設備《せつび》のある工房なら、温度計も簡単に作れたのだろう。
だが、梨乱はこの貧しい村の中で、苦労を重ねて温度計を作ってくれた。その恩人《おんじん》が立ち去るというのだ。村長は引き止めた。
「その宝貝を、和穂さんに返しに行くのですね? しかし、もう少しこの村に留《とど》まり願えませんか? この村はこれからどんどん栄えるでしょう。梨乱殿に恩を返すのはこれからなのに」
「とんでもない。充分に謝礼《しゃれい》は頂きました」
「あれだけの金では、我等《われら》が受けた恩の万分の一も返していません。末永《すえなが》く逗留《とうりゅう》していただくのが、我等村人の願いなのです」
「お気持ちは嬉《うれ》しいんですが……」
梨乱には梨乱の目標がある。それを邪魔《じゃま》する権利は自分たちにはない。村長は名残惜《なごりお》し気《げ》に言った。
「判《わか》りました。
もう、お引き止めはしません。でも、もしも我等に出来る事があるなら、なんなりと言って下さい」
梨乱の顔がパッと明るくなった。
「それでしたら」
自棄《やけ》の夜主は言う。
「馬鹿。『普通《ふつう》はお気持ちだけで充分です』って答えるんだよ。相手の親切に図《ず》に乗ってるんじゃねえ」
梨乱は歯を食《く》い縛《しば》り、無理《むり》やり笑顔を作り夜主の頭を撫《な》でた。
「村長さん。ならば、この夜主さんを許《ゆる》してあげて下さい。私は夜主さんと旅をしようと思います」
村長は驚く。
「なんですと! あ、……その動禁錠も和穂さんに返したいんですね? それなら心配ありませんよ。刑が済《す》んだら、ちゃんとここに保管《はかん》しておきますから」
自分の刑が済んだ後の予定を聞かされ、夜主は気分が悪くなった。
いや、それよりも梨乱の言葉に腹《はら》が立つ。
夜主は怒《いか》りに任《まか》せて、梨乱の胸《むな》ぐらを掴《つか》み壁《かべ》へ押しつけた。あまりの怒りに、動禁錠が軽くなっている事にすら気がまわらない。
「梨乱! 私はお前の下僕《げぼく》になるつもりはないね! 私は夜主だ! 己《おのれ》の命ずるままに生きてきた。誰《だれ》の指図《さしず》も受けやしねえ。何処《どこ》で死のうが覚悟《かくご》は出来ているんだ!
命を助けてやったなんて恩《おん》を着せて、いいなりにしようってのか!」
あまりの気迫に、村人たちは全《まった》く動けなかった。
壁に押しつけられ、半《なか》ば持ち上げられ、梨乱の足が爪先立《つまさきだ》ちになる。
「く。自分の都合《つごう》で、宝貝を壊したりするのは嫌《いや》だけど、その動禁錠は壊せるよ」
「出任《でまか》せをほざくな!!」
「今まで幾《いく》つかの宝貝や、宝貝の材料である真鋼を見てきて判ったんだけど、宝貝の硬さにも色々《いろいろ》ある。
同じように見える石でも硬さが違うようにね。
刃《やいば》のある武器の宝貝か、削状槌《さくじょうつい》みたいな工具の宝貝があれば、その宝貝は破壊出来る。
だから、和穂と会えば夜主さんは自由になれる。殷雷《いんらい》の刃で壊せるのよ」
夜主の怒りは収《おさ》まらない。梨乱の鼻を噛《か》みきるような勢《いきお》いで、怒鳴《どな》り続けた。
「だから、どうした! 恩を着せて言うことをきかせようってのに変わりはないだろ!
てめえの都合のいいように使われるつもりはないね! 自由を奪《うば》われるぐらいなら、死んだ方がましだ!」
首を締《し》め上げられ、梨乱の顔が真《ま》っ赤《か》になっていく。だが、梨乱は夜主の気迫には屈《くっ》しなかった。
「う。この間、私たちの村は宝貝のせいで泥《どろ》の中に閉じ込められた。
ぐう。思い出すだけでも、息が詰《つ》まりそうになる。
あの、う。自由を奪われた日々。
あ。だから、判《わか》る、のよ。夜主さんの気持ちが。
動禁錠を使ったのは、私。私の、せいで、人の自由、が、奪われる、の、は耐《た》えられ、な、い」
ズドン。
動禁錠は再び大地に固定され、夜主ははいつくばる。窒息《ちっそく》し、意識《いしき》を無《な》くした梨乱を村人たちが急いで介抱《かいほう》しはじめた。
夜主は口を閉《と》ざした。
村長は夜主に言った。
「……少しは、梨乱殿の優《やさ》しさが判ったようだの。
自分のせいで自由を奪われ、そのまま死ぬ人間がいるのが、梨乱殿は嫌なんですよ。
梨乱殿は、人の痛《いた》みが判る方のようですな。あんたの痛みが判るから、あんたを自由にしてあげたい、それだけの話でしょ。
梨乱殿と旅をして下さい。私からもお願いします」
梨乱の住む村を襲《おそ》った泥。夜主がその泥を操っていた事を梨乱は知らないのだ。
その時の夜主も自由を奪われていた。肉体的な自由だけではなく、魂《たましい》の自由までも奪われていたあの日々。
夜主は両腕の腕輪を見つめた。自由を奪われて、自分がどれだけ自由を愛していたかを確認《かくにん》する。
あの娘も、自由を奪われる怒りを知っている。
泥の中から脱出しようと、必死《ひっし》だった梨乱の姿と、それを阻止《そし》した魂の自由をなくしていた自分の姿が、強烈に夜主の脳裏《のうり》に蘇《よみがえ》った。
今の自分には魂の自由だけはある。肉体の自由を奪い取る為に、暴《あば》れ狂う自由はあるのだ。
「……判った。そいつと和穂の所に行ってやろう」
死んだ方がましだと、夜主はさっき梨乱に言った。死もまた、自由の一つの形。
だが、それはちょいと簡単すぎるなと夜主は思い直した。
死に物狂いで自由を手に入れ、再び大地を駆《か》けてやる。
四
爽《さわ》やかな朝日が森の中を照《て》らしていた。
朝日を浴《あ》びながら、梨乱《りらん》の左手に嵌《は》められている捜魂環《そうこんかん》は、憂鬱《ゆううつ》な気分になっていた。
梨乱と夜主《やしゅ》が共《とも》に旅を始めて、数週間が経《た》っていた。
諸侯《しょこう》同士の紛争《ふんそう》で、南の方は物騒《ぶっそう》ではあったが、それ以外の地域では街道《かいどう》も整備《せいび》されており、旅はそれほど大仕事ではない。
だが、旅を急ぐ梨乱は、街道から別の街道へ抜《ぬ》ける為《ため》に森の中を横切る計画をたてた。
それとて、一、二日ぐらいの野宿で済《す》む話だった。
爽やかな朝日を浴びながら、捜魂環は自分に胃袋《いぶくろ》がない事を、己《おのれ》の創造者である龍華《りゅうか》仙人《せんにん》に感謝していた。
もしも、胃袋があったらとっくにブチ破《やぶ》れて血を吐《は》いていただろう。
*
そろそろ冬だった。朝日の中でも、強く燃《も》え盛《さか》る焚《た》き火《び》の炎が心地好《ほのおここちょ》かった。
焚き火の側《そば》に、小さな背負《せお》い袋《ぶくろ》が置かれていて、中から塩漬《しおづ》けの干《ほ》し肉《にく》が顔を出していた。
夜主と梨乱は朝食をとっている。
「さあ、梨乱ちゃん。朝御飯はタップリ食べないとね。安っぽくて、腐《くさ》れ不味《まず》い干し肉しかないけど、遠慮《えんりょ》なく食べてね」
「あら、ありがとう夜主さん。
自分のお金で買った食料ですもの、遠慮なんかしないよ。
それより、夜主さん。この干し肉は美味《おい》しくない? おかしいな、ただ飯《めし》は美味《うま》いっていうのに」
キリキリと捜魂環の心が痛む。
「あの、お二人とも……」
夜主の左拳《ひだりこぶし》は、梨乱のみぞおちの少し左にめり込んでいた。
梨乱の右手刀《みぎしゅとう》は、夜主の鎖骨《さこつ》の少し上にブチ当たっていた。
お前の攻撃《こうげき》なんざ、蚊《か》に噛《か》まれた程《ほど》も効《き》きやしないわよ、という笑顔《えがお》で二人は言った。
「どうしたの、捜魂環?」
「……喧嘩《けんか》をするなら、口喧嘩か殴《なぐ》り合いかどちらかにしたらどうです?」
拳を戻《もど》し、夜主は両方の掌《てのひら》を顔の前に向けた。既《すで》に立ち上がり、体勢《たいせい》は軽い猫背《ねこぜ》になっていた。
「やあねえ、捜魂環。何を誤解《ごかい》してるんだ」
梨乱は左手を額《ひたい》の高さに上げ、大きな珠《たま》を掴《つか》むように掌を曲げていた。
人指し指と親指が作る曲線の隙間《すきま》から、夜主の姿を見ている。
右手は腰骨《こしぼね》の横で拳を握《にぎ》っていた。
やはり立ち上がり、夜主と同じように右足に重心をかけていたが、猫背ではない。
「そうだよ、捜魂環。喧嘩だなんて」
呑気《のんき》な雀《すずめ》が、干し肉のかけらを食べようとして、地面に降《お》り立った。
それを合図《あいず》に、二人は動く。
夜主の拳が梨乱の左頬《ひだりほお》に炸裂《さくれつ》し、梨乱の左手は夜主の心臓《しんぞう》の真上を叩《たた》く。
互《たが》いに浅い。
それでも一歩|間違《まちが》えば、致命傷《ちめいしょう》になる攻撃に二人は地面にうずくまった。とっくに雀は逃《に》げ出している。
頬を撫《な》でつつ梨乱は言った。
「え、炎応三手《えんおうさんしゅ》なんてド田舎拳法《いなかけんぽう》の使い手が本当にいるなんて、今でも信じられない」
金魚《きんぎょ》のように口をパクパクさせていた夜主も、言葉を振《ふ》り絞《しぼ》る。
「垂歩拳《すいほけん》に田舎拳法よばわりされる筋合《すじあ》いはないね。
どうせ、刀鍛冶《かたなかじ》をやるには、武器《ぶき》の良《よ》し悪《あ》しが判《わか》らないと話にならないから、習ってたんだろ。
垂歩|単刀《たんとう》を覚《おぼ》えるにゃ、垂歩拳も覚えてるわな」
ふらふらと二人は立ち上がり、互いに構《かま》えを取った。
夜主は血の混《ま》じった唾《つば》を吐《は》いた。
「梨乱ちゃんよ。てっきりあんたの事を、頭だけの技術者だと思っていた。
割とやるじゃないか。それだけ力があるとは正直《しょうじき》意外だった」
「へへへ。設計だけじゃなくて、製造までやってたからね。力ぐらいつくよ」
「頭も切れて、腕《うで》もそこそこか。
凄《すご》いねえ、梨乱ちゃん。そんなに何でも一人でこなせると、可愛《かわい》げがなくて男にもてないぜ」
「夜主さんが言うと、説得力があるね」
無駄《むだ》な努力だとは知りながら、捜魂環は仲裁《ちゅうさい》するしかなかった。
「お願いですから、お二人とも仲良くして下さいませ」
手刀《しゅとう》を放《はな》ち、不服そうに梨乱は言った。
「あら、誤解よ捜魂環。夜主さんを、実の姉さんのように思ってるのに」
梨乱の手刀を軽く掴み、夜主の拳が梨乱に向かって走った。
「そうだぞ、捜魂環。私も梨乱を妹のように可愛がってるんだ」
夜主の拳を梨乱の掌が受け止め、互いに両手を持って組み合う形になった。
聞き分けのない二人に、さすがの捜魂環も少し呆《あき》れ始めた。
「そりゃそうでしょうよ。
普通は、赤の他人同士で、そんなに喧嘩は続きませんよ。
いやはや、二人は実の姉妹のように仲が悪いですな」
両手は互いに塞《ふさ》がっている。
蹴りを繰《く》り出すには間合《まあ》いが近い。
夜主は、梨乱に頭突《ずつ》きを放つ。
「づぇい!
判ってるじゃないか、捜魂環。
ところで、梨乱よ。捜魂環が言っていた、例の奇妙《きみょう》な反応の正体はなんだったんだ?」
頭突きをもろに食らい、梨乱は倒《たお》れそうになったが、どうにか堪《こら》え、お返しに自分も頭突きを放つ。
「せい!
あぁ、あれね。
殷雷《いんらい》は知っているでしょ。惚《とぼ》けても無駄《むだ》だからね。あんたが泥《どろ》を操《あやつ》っていたのは知っているんだから」
夜主の目にうっすらと涙《なみだ》が溜《た》まっていた。以外と梨乱の頭突きが効いたからだ。
だが、ここで怯《ひる》む夜主ではない。
再度頭突きが梨乱に炸裂した。
「いりゃ! いつ知った!」
梨乱が反撃の頭突き。
「じぇい!
捜魂環に聞いたのよ。操り人形代わりにされてたんだってね。
結構《けっこう》、だらしないじゃない」
夜主の反撃の頭突き。
「ぐりゃ! やかましい」
「つぉう!
まあいいや。済《す》んだ話だし、夜主さんも被害者《ひがいしゃ》みたいなもんだからね。
で、殷雷は棍《こん》を持っていたでしょ? 銀色に輝《かがや》く棍。
あれって、宝貝《ぱおぺい》の材料に使われてる真鋼《しんこう》で出来てるのよ」
「げりゃ! 話を続けな」
「ぶぇい!
はあ……はあ……あの棍を少しだけ切り取って、貰《もら》ったの。
色々《いろいろ》、調べていくうちにあの真鋼を溶《と》かす事に成功したんだ」
「ぐべい! へえ」
「……くっ……ぐ。
ま、負けないぞ。せえの、ずぇい!
溶かした真鋼をね、この耳飾《みみかざ》りにしてみたの。宝貝というにはおこがましいけど、一応真鋼で作られた物だから、反応が出たんでしょうよ。
捜魂環は、私にも殷雷の棍にも出会っていたんだし」
「おらおら。ぜいや!
ほお。真鋼を溶かせるとは、凄《すご》い事じゃないのか?」
「……う。……ぐう。
こ、ここまで来て!
どりゃ! 別に凄くはないよ。あの真鋼は加工しやすいように、なっていた。
普通の真鋼は、とんでもない高温じゃないと溶けないと思うけど、あれは違った。
特定の温度に、特定の時間さらして、一気に冷やす。これを何十回も繰り返すと、ボロボロになるかわりに、液体状になってね。
それを耳飾りの型《かた》に注《そそ》いだんだ」
どちらともなく、二人の固く結ばれていた手は解《と》かれた。
意地《いじ》の張《は》り合いの頭突き合戦で、命を危険にさらすのも馬鹿らしくなったのだろう。
ヘナヘナと地面に座《すわ》り、梨乱は干し肉を囓《かじ》り始めた。
「ねえ、捜魂環。和穂《かずほ》との距離《きょり》はまだ違いの?」
「向こうも徒歩《とほ》ですが、こっちも徒歩ですからね。喧嘩している暇《ひま》にドンドン進めばもう少しましなんでしょうが」
夜主は不意のそよ風に、前髪《まえがみ》が乱れたかのような仕種《しぐさ》で髪をかきあげた。
「俊地鞜《しゅんちとう》を使えば、いいじゃないか」
「下手《へた》すりゃ、死んじゃうよ! あんなの暴走《ぼうそう》する馬の上に、直立しているようなものじゃない。
俊地鞜を一瞬《いっしゅん》でも扱《あつか》いそこねたら、地面を引きずられて体はボロボロよ」
「馬鹿め。その緊張感《きんちょうかん》がいいんではないか」
「……夜主さんを基準に物を考えないでよ」
梨乱は大きく欠伸《あくび》をした。
「うっ。朝から馬鹿な事したんで、疲《つか》れちゃったじゃないの。
悪いけど、昼頃まで眠《ねむ》る。捜魂環、時間が来たら起こしてね」
言うが早いか、梨乱は寝息《ねいき》を立て始めた。
「朝寝が趣味《しゅみ》とは、呆れた女だな」
だが、夜主の言葉に梨乱は反応せず、安らかな寝顔をこちらに向けた。
捜魂環が小さな声で喋《しゃべ》り出す。
「夜主様、あれだけ夜主様とやりあったのです。眠くもなりますよ」
「け。だったら、歯向かうなよ。無抵抗《むていこう》の人間相手にやりあう趣味はないぜ」
「……夜主様。梨乱様を気に入ってるでしょう?」
「どうして、そう思う?」
「夜主様は、意地を張ってる人が好きですからね。
それも意地は意地でも、自分の損得《そんとく》とは関係ない意地がお好みのようで。
夜主様を自由にするなんていう意地は、梨乱様にとっては何の利益もないですからね」
夜主が素直《すなお》に捜魂環の言葉に納得《なっとく》するはずがなかった。
「少し違うぞ。意地を張ってる奴《やつ》が、どこまでその意地を張れるか、試《ため》してやるのが楽しいんだよ」
「ならば、梨乱様は夜主様のちょっかいを耐《た》えきりますよ。
今まで、あれだけとっくみあいの喧嘩をなされているのに、一度も動禁錠を作動させてはおられませんからね。
梨乱様と夜主様は、冗談抜《じょうだんぬ》きで姉妹のように似《に》ていますよ」
これ以上ないというぐらい不快そうな表情を、夜主は浮《う》かべた。
「こんなのと、どこが似てるってんだ」
「頑固《がんこ》なところです」
「……捜魂環。私が主《あるじ》じゃなくなったからって、いい気になってるんじゃないよ」
「滅相《めっそう》もない。そんなつもりは」
ふと、夜主の顔に今まで見せた事のない優《やさ》しい笑顔が浮かんだ。
「ま、かまう分には、面白《おもしろ》い玩具《おもちゃ》だな」
五
自分が何を見ているのか。
自分が何を聞いているのか。
自分の心がどうなっているのか。
剛始《ごうし》の顔を見た途端《とたん》、梨乱《りらん》には判《わか》らなくなった。
朝食の時に意地《いじ》になって夜主《やしゅ》とやりあい、その疲《つか》れを取る為《ため》にしばらく休み、ついさっき出発したのだと、記憶《きおく》は梨乱に教えてくれた。
だが、その記憶は、まるで古い古い歴史のように実感がなかった。
『私はどうしたんだろう?』
人に感じられる熱さには限りがある。
限界を越《こ》えた熱さは、痛みとして感じるのだ。
それに似たことが剛始の顔を見たせいで、梨乱の心に起きているのだ。
『剛始。剛始。生きている剛始の顔』
梨乱はゆっくりと自分の感情を理解《りかい》した。
私は激怒《げきど》しているのだ。
あまりに強い怒《いか》りに、それが怒りだと判《わか》らなかったのだ。
夜主の声が音として聞こえている。自分の耳の中を流れる血管が脈打《みゃくう》つ音が聞こえている。
夜主の肘《ひじ》が自分の顔を小突《こづ》いている。
全《すべ》てをこことは違《ちが》う場所から覗《のぞ》いている気分に、梨乱はなった。
太陽の光が充分《じゅうぶん》に差し込む、緑色が溢《あふ》れる森の中、剛始だけが赤く黒く見えた。
剛始は赤くも黒くもない。
だが、梨乱の心は剛始を赤く、ドス黒く映し出していた。
夜主の手が、自分を揺《ゆ》さぶっているのが判った。
最初の突《つ》き飛ばすような強い揺さぶりが、だんだんと緩《ゆる》くなっていく。
それが、夜主が自分を心配している心の現れだと知って、梨乱は妙《みょう》に可笑《おか》しかった。
可笑しがる自分を、見つめる自分。
バラバラになりかけた心が、一つに戻《もど》っていく。心が戻ると共《とも》に、音は声となり意味を持ち始めた。
「おい! どうした梨乱! しっかりしろ」
「おやおや、挨拶《あいさつ》も返してくれませんか、梨乱お嬢様《じょうさま》。
それとも、再会の嬉《うれ》しさに声も出ないのかな」
口の中がカラカラだった。かすれた声で梨乱は言った。
「剛始|叔父《おじ》さん」
優《やさ》しく微笑《ほほえ》み剛始は言った。
「死んだと思っていた姪《めい》と再会出来て、これほど嬉《うれ》しい事はないよ」
夜主は素早《すばや》く、剛始の表情を分析《ぶんせき》した。
剛始の微笑みの中にあるのは、安っぽい自信だと夜主はみた。
小悪党《こあくとう》が、刃物《はもの》を片手に腕利《うでき》きと戦う時の目だ。腕利きは、絶対に武器《ぶき》を持っていないと確信しているが故《ゆえ》の余裕《よゆう》か。
だが、もし腕利きが武器をもっていたらという恐《おそ》れもある視線だ。
親戚《しんせき》同士の、感動の対面って空気では絶対ない。
血の気の引いた、梨乱の顔に血が戻っていった。さっきよりも多い血が、梨乱の中を駆《か》け巡《めぐ》っていく。
「殺したと思っていた相手が生《い》き延《の》びていたんで、不快極《ふかいきわ》まりないんでしょ?」
どんな紙細工よりも脆《もろ》く、剛始の表情は崩《くず》れ、怒りが露《あらわ》になった。
「偉《えら》そうな口をきくなよ、梨乱。村の連中の居場所《いばしょ》を吐《は》いてもらうからな」
梨乱は剛始を挑発《ちょうはつ》するかのように、周囲《しゅうい》をグルリと見渡《みわた》した。
「叔父様が、正々堂々《せいせいどうどう》真正面から現れるなんて意外です。
てっきり、周囲に誰《だれ》かを配置してるかと思ったのに。
そういえば、剛終《ごうしゅう》叔父様は? 悪事を働くのにも一人きりじゃ出来ない、仲のよい御兄弟《ごきょうだい》でしたのに」
さすがの夜主も、梨乱の気迫《きはく》に少々おされてしまった。珍《めずら》しく遠慮《えんりょ》がちな声で夜主は尋《たず》ねた。
「あの、梨乱ちゃん。良かったら、事情をお姉さんにも話して欲《ほ》しいなあ」
夜主に事情を説明するには、あの事件をもう一度、正確に思い出さなければならなかった。記憶から蘇《よみがえ》る、あの事件に梨乱の怒りはさらに激しくなった。
「たいして面白《おもしろ》い話でもないよ、夜主さん。私たちの一族は、ちょっとした技術者集団なのは、知ってるでしょ。
でも、中には危《あぶ》ない技術ってのもあるのよね。火薬を使った武器なんかは特に。
その火薬と、爆弾《ばくだん》の製法を盗んでこの剛始は、どこかの武将に売り込んだのよ。
元々《もともと》、私たちは南の方にいたの。知ってるでしょ? あそこらへんは、まだまだ統治がしっかりしてないから物騒《ぶっそう》なの。
火薬が盗まれたと知って、村の人達は激怒《げきど》してこいつら兄弟を追放した。
逆恨《さかうら》みしたこいつは、武将に進言したんでしょうよ。
『あの村人たちが生きていると、他の武将に技巧《ぎこう》が流れます』
とか、なんとかね。軍が派遣《はけん》されて、私たちの村は焼き討ちにあった。その指揮もこいつら兄弟が取っていたのよ。
襲撃《しゅうげき》の時、立派《りっぱ》な鎧《よろい》を着ていたから、配下として雇《やと》われてるんだと思ったけど、こんな所で出くわすとはね」
夜主は軽く口笛《くちぶえ》を吹《ふ》くにとどめた。今、梨乱をつっ突くと爆発《ばくはつ》しそうだったからだ。
剛始は、腕輪《うでわ》をさすった。
「まさか、あの炎《ほのお》の包囲網《ほういもう》から脱出《だっしゅつ》出来たとは、夢にも思わなかったぞ」
梨乱は唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「……全員が脱出出来た訳《わけ》じゃない」
逃《に》げ遅《おく》れたのは子供。
焼け死んだのは子供とその親。
悲しむのは生き残った者。
低く沈《しず》んだ梨乱の声を、剛始は心地好《ここちよ》く感じた。
「そりゃそうだ。訓練《くんれん》された兵士が、そこまで間抜《まぬ》けでどうする?」
怒りは、たやすく笑《え》みにかわる。それは残酷《ざんこく》な笑みである。
梨乱は自分が今、とても嫌な笑顔を浮かべていると判っていた。心が刃《やいば》になっていく。
「剛始叔父様。こんな所をほっつき歩いているんじゃ、あの火薬の合成が出来なくて軍から追い出されたんでしょ」
「黙《だま》れ、小娘《こむすめ》!」
「叔父様。あんたの卑屈《ひくつ》な心が手に取るように、判る。
どこで知ったかしらないけど、私たちが生きていると知って、怖《こわ》くて仕方《しかた》がないんでしょ? いつ報復《ほうふく》されるか、気が気じゃないんだ。
でも、安心して。復讐《ふくしゅう》に時間を費《つい》やす程《ほど》、私たちは暇《ひま》じゃない。そんな薄汚《うすぎたな》い命なんか誰《だれ》も必要としてないのよ」
夜主は面白そうに、えっちらおっちらと体をほぐしはじめた。
「梨乱。判ってるんだろうけど、こういう面《つら》をしてる奴《やつ》に、言葉で説明しても納得《なっとく》なんかしないよ。
心配の種《たね》は根絶やしにしなければ、眠《ねむ》れもしない程、肝《きも》が小さいんだよ。
さあ、梨乱。悪いが俊地鞜《しゅんちとう》を返してもらおうか。この手の小心者が姿を現す時には、絶対に勝算があるに決まってる。
数を頼《たよ》りにしてないところを見ると、こいつも持ってるんだろ。
なんの宝貝《ぱおぺい》だと思う?」
「……夜主さんは、ひっこんでいて」
「おい、それはないだろ。
何が楽しいかって、こういう面をした奴を殴《なぐ》る程、楽しい事はないんだぞ。
拳《こぶし》がうずいて、しょうがない」
剛始は夜主に、冷たい視線を送った。
「誰だ、その女は? 梨乱お嬢様。遠慮《えんりょ》なんかせずに、二人がかりで攻撃しなさい。
正直《しょうじき》、旅の同行者がいて運が良かった。
梨乱お嬢様は、村の場所を吐くぐらいなら自害しかねませんからな。
そのでかい女を、取り敢《あ》えずの人質にでもさせてもらいましょうか?」
凄《すご》い冗談《じょうだん》だとばかりに、夜主は爆笑《ばくしょう》した。
「きいたか、梨乱? お前が『お願い、村の場所は白状するから、夜主さんを助けて』なんて言うと思ってやがるぜ、この剛始叔父さんは」
沈黙《ちんもく》する梨乱の胸ぐらを夜主は掴んだ。
「いい加減にしろ。お前じゃこの叔父さんにゃ勝てないぞ」
「黙って!」
「黙らんよ。
へへへ。お前にゃ俊地鞜は使えない。
勝つならば、天呼筆で雷撃《らいげき》をお見舞《みま》いすればいい。だが、お前は迷《まよ》っている。
この叔父様を痛い目に遭《あ》わせてやりたいけども、殺す度胸《どきょう》はないんだ。
それで勝てるか?」
剛始は嬉《うれ》しそうに、ゆっくりと梨乱に迫《せま》った。
「おぉ。やはり優しいな梨乱お嬢様。
だが、遠慮はいらん。天呼筆の攻撃なんか私には通用しない」
一気に、剛始は指先に気合いをこめ、腕輪を撫でる。
光に包《つつ》まれた剛始は、そのまま駆け、渾身《こんしん》の拳を梨乱に放った。
光は剛始の体の上に収束《しゅうそく》し、油膜《ゆまく》の虹色《にじいろ》に弾《はじ》け鎧《よろい》を形作った。
焼《や》け焦《こ》げ、油《あぶら》に塗《まみ》れた鎧に見えた。
これが本当に宝貝なのかと、夜主は疑問に思った。
宝貝としての統一が、どこかで歪《ゆが》んでいるとしかみえない。
夜主の真横で剛始の拳が風を切っていた。
梨乱は夜主に胸ぐらを掴《つか》まれ、軽く持ち上げられたせいで、剛始の拳が避《よ》けられた。
「……それは、本当に宝貝の鎧なのか?」
「そうだ。お前などには、想像もつかんだろうがな」
拳を戻す、剛始の体からは、キシキシと金属の擦《こす》れる嫌《いや》な音がした。
夜主も一度、宝貝の鎧を着用した事があったが、こんな無様《ぶざま》な音は立たなかったと思い出した。
ある意味|心地好《ここちよ》い、カチンカチンと金属が触《ふ》れ合う音はしたが、こんな錆《さ》びたような音は絶対にしなかった。
梨乱は夜主の腕を振りほどき、地面へと降りた。
「叔父さん。……その宝貝の名前は何?」
梨乱の一言が、剛始に安心感を与えた。こんな質問をするようでは、梨乱は自分程、宝貝に精通《せいつう》していない。
「くっくっく。宝貝の名前だと? よくもまあ、そんな間《ま》の抜《ぬ》けた質問が出来たものだ。
俺は宝貝を完全に理解した。
完全に自由に扱《あつか》えるのだ」
鎧の上に、腕輪が浮き上がっていた。剛始はさらに腕輪をなぞる。
腕の部分の鎧が、ギチギチと金属を無理やり割《さ》く音を立てる。
ひび割れのような隙間《すきま》が出来、そこから一本の刀《かたな》が姿を現した。
梨乱と夜主は、事態《じたい》の異常《いじょう》さに生唾《なまつば》を飲《の》み込《こ》んだ。
剛始の宝貝は、彼女たちが今までに見た宝貝と、何かが違っていた。
剛始の手にあるのは、ギザギザの刃を持った刀だった。不自然に引き延《の》ばされた柄《つか》は、まるで手拭《てぬぐ》いを巻き付けるように、剛始の掌《てのひら》に巻きついている。
どこまでが鎧で、どこからが刀か二人には判断出来なかった。
勝利を確信し、剛始はさらに梨乱の恐怖《きょうふ》を煽《あお》ってやろうと、腕輪に添《そ》えた手に意を込めた。
ギチギチと鎧の両|肩《かた》が裂《さ》け、裂け目から別の腕が生えていく。ギチギチギチギチと剛始の変容はさらに続いた。
夜主はハッと気がつく。
これに似た物を一度、見た事がある。夢《ゆめ》で見た事があった。
夢の送り手からの夢。鎧の男、核天《かくてん》の夢。
「ゆ、融合《ゆうごう》宝貝! やばいぞ梨乱! ここは逃《に》げよう」
梨乱は首を横に振った。
梨乱もまた、核天の夢を送られた一人だった。
「確《たし》か、陽功玉《ようこうぎょく》とかいう宝貝の力で、宝貝同士が一つの宝貝に融合したやつよね。
ただの夢だと思ったけど、あれって本当の話だったんだ」
「判ったなら、逃げるぞ! 奴《やつ》には何が出来るか見当もつかん! 宝貝を融合出来るって事は、本当に奴は宝貝の仕組《しく》みを解《と》きあかしたんだぞ!」
夜主の顔には恐怖があった。だが、反対に梨乱の顔からは恐怖が消えていく。
剛始の肩から生えた腕は、それも鎧の宝貝の一部だった。
まるで、背後からおぶさるように肩の裂け目から生えた腕は前に回され、ビクビクと蠢《うごめ》いていた。
梨乱の言葉は落ち着き払っていた。
「鎧の宝貝を二つも持ってるなんて、さすがに叔父様らしい臆病《おくびょう》さね」
「強がるな、梨乱。俺《おれ》の知識《ちしき》はお前を越《こ》えている。並《な》みの宝貝では、俺を倒す事など不可能だろうよ」
夜主は梨乱に怒鳴《どな》った。
「犬死にはやめろよ梨乱! 少なくとも、あいつは鎧の宝貝を持っている! 武器の宝貝がないと話にならんだろ!」
梨乱は楽しそうに笑った。剛始の脇腹《わきばら》から、また別の鎧の腕が生えたからだ。
「あらまあ、二つどころか三つも鎧?」
剛始の宝貝は無様《ぶざま》に膨《ふく》れ上がっていた。
多数の腕や足は、まるで奇怪《きかい》な昆虫《こんちゅう》を思わせた。夜主は怒鳴り続けた。
「梨乱! お前が逃げないと、私だけ逃げるって訳《わけ》にゃいかないんだ!」
梨乱は煩《うるさ》そうに耳を掻《か》き、背中の袋から俊地鞜を取り出した。
夜主が安堵《あんど》の息を吐《つ》く。
「よし、全速力って訳にゃいかんがお前を背負《せお》って走ってやるぞ」
「勘違《かんちが》いしないでよ。見て」
梨乱が手早く、俊地鞜の幾《いく》つかの場所を同時に押すと、踵《かかと》の部分がパックリと開く。
剛始が静かに言った。
「宝貝に制御索《せいぎょさく》があるのは知っておったか」
夜主が踵の隙間を覗《のぞ》くと、そこには昆虫の繭《まゆ》にも似た、複雑な糸のような固まりがあった。
「これはね、完成した後で、宝貝を微調整《びちょうせい》する為《ため》の物だと思う。
でも、こんなのおっかなくて触れないでしょ? 完全に調整された楽器《がっき》を勝手《かって》にいじるようなものじゃない。もし、音が狂ったら元には戻せない」
剛始は言った。
「そこが、俺とお前の勝負の分かれ目だ。
俺はその制御索を研究し、宝貝の状態を変化させる方法を発見した。
同時に、宝貝同士の融合も可能にしたのだ!」
ギチギチと剛始の宝貝は、さらに膨れ上がった。無数の腕には、無数の武器。
隙間を覆《おお》うように張りつく鉄の布は、かつては楯《たて》であったのだろう。
梨乱の顔からは、恐怖どころか怒りまでもが消え始めていた。
「叔父様。叔父様がそこまで馬鹿だったとは親類として恥《は》ずかしい思いです。
叔父様はよく、他の村の人達を馬鹿扱いしてましたね。
でも、私はそうは思わなかった。たまたま技術を伝える村に生まれたから、私は凄い技術者になれただけ。
他の人とはたいして違いはないと思っていた。
それは、北の方で生まれた人が、馬の扱いに長《た》けているのと、たいして違いはないでしょう?
でも、叔父様は掛《か》け値《ね》無しの馬鹿だ」
この状況で相手を挑発《ちょうはつ》するのは、ちょいと無謀だと夜主は身構えた。
「り、梨乱。根拠《こんきょ》のある罵倒《ばとう》なんだろうね」
「当然よ。叔父様がもし、あの姿で宝貝使いを倒してきたのなら、皆ハッタリに引っ掛かっていたんでしょうよ。
夜主さん。
叔父様を殴りたがっていたわね? どうぞ好きなようにして。私は馬鹿馬鹿しくてやってらんないわ」
梨乱は夜主の耳を掴み、ひそひそと話をした。
夜主は半信半疑で、梨乱を見つめた。
「おい、本当か? 本当にそんなので勝てるのか? あいつはそこまで馬鹿なのか?」
「本当よ。それじゃ、捜魂環《そうこんかん》も渡すね」
夜主は高らかに笑い、素早く俊地鞜に履《は》き変え、右手中指に捜魂環を嵌《は》めた。
梨乱は背負い袋の中から、干し肉を取り出し囓《かじ》り出す。
「叔父様。制御索をいじって、宝貝を加工出来る『柔《やわ》らかい』状態にしたんでしょ。
それから融合させたのよね?
融合させた後、本来の『硬《かた》い』宝貝にちゃんと直せたと思う?
沢山《たくさん》の楽器をバラバラにして、一つの楽器にした。形は楽器でも、それが楽器として機能するかしらね?
判ってるわよ。そりゃ、そこそこ動いているんでしょ。でも、手を加えていない本当の宝貝の攻撃に耐《た》えられるかしら。
叔父様は大馬鹿よ。
それだけの宝貝をわざわざ、ただのガラクタにしたんだからね。
真鋼で耳飾りを作ったとき、真鋼は叔父様の鎧のような色になった。あれは真鋼が固まる、少し前の時だった」
捜魂環は武器でもなんでもない、指輪の宝貝であった。
だが、その素材は真鋼に違いはない。
いびつな昆虫のような剛始の宝貝から、武器の一撃が夜主へと走った。
夜主は右手の捜魂環でそれを受け止めた。
受け止め、一気に拳を走らせると捜魂環は易々《やすやす》と剛始の宝貝を切り裂いた。
夜主は優しく微笑んだ。
「炎応三手《えんおうさんしゅ》を使うまでもないわね」
*
これは断じて梨乱への怒りではなく、うかつな手段を取った自分への怒りだと、剛始は納得《なっとく》し精神の均衡《きんこう》を保《たも》った。
これだけの宝貝をもってして、梨乱に敗《やぶ》れたと認める訳《わけ》にはいかない。
深く深く、何層もの鎧に身を固めていた剛始だったが、視界は普段と変わりはなかった。
いや、普段以上、前後左右、全てに対して視界が広がっている。
夜主が自分の鎧を攻撃する感覚は、長い長い髪の先を虫が這《は》いずりまわる感覚に似ていた。
虫はだんだんと自分に近寄っている。
剛始はあまたの腕を操《あやつ》り、夜主を殺そうとした。
だが、夜主は素早く動き回り決して隙を見せない。
背中の夜主を見つめながら、正面の梨乱の姿を見る。
宝貝が送る二つの映像《えいぞう》を、剛始の脳《のう》は同時に受け止めた。
かくなる上は、梨乱だけでも倒《たお》してくれると、剛始は鎧を動かした。
あまたの足が動き、地面を移動する感覚は、何故《なぜ》か腹這《はらば》いに似ていた。
*
夜主はドカスカと、楽しそうに剛始の宝貝を破壊《はかい》している。
「づぇい! 我等《われら》村人の怒りを思い知るがいい!」
捜魂環は武器の代わりをやらされるのが、あまり気にくわなかった。
「何が村人の怒りですか。夜主様は完全な部外者でしょうに」
「うるさいね。たまにゃ、こういう大義名分《たいぎめいぶん》のある暴力も気持ちいいじゃないか」
「また、そういう身《み》も蓋《ふた》もない言い方を」
ズリズリと剛始の宝貝が、梨乱に向かい動き始めた。
「へっへ。梨乱に辿《たど》り着くまで、もつかな」
夜主の言葉に反応したのか、宝貝の動きが一瞬《いっしゅん》静止《せいし》した。
今まで、夜主を攻撃し虚《むな》しく空を切っていた腕の動きが、痙攣《けいれん》にも似た不規則な動きに変わった。
「? なんじゃこりゃ」
捜魂環が静かに言った。捜魂環は、魂《たましい》を見つめる能力のある宝貝だ。この異常の意味をいち早く理解した。
「夜主様。剛始の宝貝が狂い始めました」
*
最初は、映像の乱《みだ》れが剛始を襲《おそ》った。真正面を向いたまま、背後の映像だけしか届《とど》かなくなったのだ。
「どうした!」
疑問の言葉に答える者もなく、剛始の視界は完全な暗闇《くらやみ》になった。
途端《とたん》、宝貝の圧迫感《あっぱくかん》が剛始を襲う。
鎧の宝貝は剛始に密着しながらも、剛始の動きを一切《いっさい》阻害《そがい》しない。
気を抜けば、自分が鎧を着ているのを忘れるぐらいだった。
が、今は鉄の冷たさが剛始の全身を覆《おお》っていた。
鉄の圧迫感。
自分の体と全く同じ形をした、鉄の枢《ひつぎ》。
体の自由が一瞬にして、消失したのだ。
身動きがとれない。
剛始は唾《つば》を飲《の》み込《こ》む。
そのわずかな喉《のど》の動きさえ、喉と鉄との摩擦《まさつ》を生み出す。
鼻から吐き出す空気が逃げ場をなくし、そのまま鼻に戻ってくる。その為《ため》に、耳がキンと嫌な耳なりを起こす。
耳なりを誤魔化《ごまか》す為に唾を飲み、それが喉と鉄との接触を生む。
鉄は動かず、喉が動いているのだ。だが、鉄に喉を締《し》められている錯覚《さっかく》が起きた。
恐怖に、剛始は目をつむろうとした。
辛《かろ》うじて瞼《まぶた》は閉じられたが、睫毛《まつげ》が鉄と引っ掛かり激痛を生む。
本能的に叫《さけ》びをあげようとしたが、肺《はい》の動きは完全に固定されていた。
次に来たのは吐《は》き気《け》だった。
えずく為の体の痙攣《けいれん》を、鎧だった鉄の固まりは許さない。
『閉じ込められた!』
いまだかつて予想していなかった事態《じたい》に、剛始の恐怖は極限に達した。
暗黒の沈黙《ちんもく》は実際には僅《わず》かな時間だった。せいぜい、心臓《しんぞう》が数十回|鼓動《こどう》する間だっただろう。
ギチギチ。
ギチギチ。
再び宝貝が動き出した音がした。
剛始は安心などしない。
剛始と同じ形をした鉄の枢《ひつぎ》の内側に、無数の刺《とげ》が現れたのだ。
もはや、かつての主など、眼中にない宝貝の動きだった。
瞼を通して明かりが見えた。
意を決して、剛始は除を開ける。
前後左右に広がるのは、間延《まの》びした無数の文字だった。
欄津肺決血泥貝凶微軸毒死愛罪直得……
文字は暴《あば》れ狂い、視界の中を飛び跳《は》ねた。
瞼を閉じるより速く、幾つかの刺が剛始の眼球を傷付けた。
それでも、瞼を閉じた途端、剛始の耳に大音量が響いた。
「理財奥。禁発命。得全天。止己意」
「否否否。笑笑笑。我我我」
本来は人間には理解出来ない、宝貝たちの言葉だった。
しかし発音は同じでも、この言葉は正気の宝貝には理解出来なかっただろう。
剛始は叫んだ。
それが、本当の叫びなのか、自分の心の中だけでの叫びなのか、宝貝の叫びなのか、剛始にはよく判らなかった。
*
剛始はブルブルと震《ふる》えていた。
自分が助け出された事に気がついてるのだろうかと、夜主は考えたが、すぐにやめた。
剛始は草の上に横たわり、震え続ける。
夜主と梨乱の前には、完全に残骸《ざんがい》となった剛始の宝貝が横たわっていた。
それは醜《みにく》い残骸だった。それゆえ、死骸に酷似《こくじ》している。
夜主は言った。
「私のせいじゃないからね。
普通、宝貝は壊《こわ》れるもんであって、狂うもんじゃないだろ」
梨乱は宝貝の残骸を見つめ、捜魂環に尋《たず》ねた。
「何が起きたか判る? 捜魂環」
捜魂環は答えなかった。現在の使用者は、夜主だと判断したからだ。
が、夜主も梨乱と同じ疑問を持っていた。
「梨乱の質問には答えてやりな」
「承知《しょうち》致しました」
捜魂環の声を聞いた途端、剛始の震えが激しくなった。口籠《くちご》もる捜魂環に梨乱は指示を出した。
「気にせず、教えて」
「……本来、宝貝の融合なんて出来るものじゃないんです。
恐らく、かつて成功した融合宝貝は、宝貝の性質を完全に把握《はあく》していた者、宝貝すら治療《ちりょう》できる能力を持つ宝貝、によって引き起こされたと推測《すいそく》されます。
重要なのは、その融合ですら宝貝の意思を無視して行われたものではないという事ですよ。
私の視点から見れば、宝貝の反応、まあ魂《たましい》といっても差《さ》し支《つか》えないですが、個別の魂を一つの大きな力の中に入れていただけです。
でも、剛始のやった事。……あえて、しでかした事と言いますが、あれはそうではなかったんです。
剛始は、無理やり宝貝の魂を一つにまとめたんです」
夜主は少し頭を掻《か》いた。
「よく判らんな。それでどうして宝貝が狂ってしまうんだ。
別に捜魂環みたいに、意思を持つ宝貝でもなかったんだろ」
「夜主様は、自分が夜主様だから、夜主様の魂を存続出来るのです。
でも、哀《あわ》れな宝貝たちは自分の存在意義《そんざいいぎ》を失ったのです。
意思はなくとも、彼らにだって、自分が何かという存在意義はあります。
彼らは鎧でも、武器でも、何でもない物になってしまったんですよ。
それでは、魂を保《たも》てはしません。
腕輪の形態《けいたい》のままで作動していなかったなら、まだ良かったんでしょうが、長時間、あの化け物になった為、塊が崩壊《ほうかい》したんです」
梨乱は宝貝の残骸を撫ぜた。
「……可哀《かわい》そうに」
夜主は答えた。
「馬鹿かお前は? 宝貝とはいえ所詮《しょせん》は道具だろうが」
「でも、可哀そうじゃない! 剛始のせいでこんなにも歪《ゆが》まされて!」
「道具に、可哀そうもへったくれもあるか! なあ、捜魂環よ」
「正直《しょうじき》言って、夜主様のおっしゃるとおりです。
ですが、それゆえに梨乱様の優しさが、私には大切に感じられるのです」
捜魂環の声が余程《よほど》恐ろしく感じたのか、剛始は耳を押さえてうずくまっていた。
夜主は剛始を顎《あご》で指した。
「で、こいつはどうする」
捜魂環が答えた。
「精神に打撃を受けて、魂がだいぶ弱っているようですが、二、三日もすれば元に戻るでしょ。
もっとも、これから二度と宝貝に触れようとは思わないでしょうがね」
梨乱は背負い袋を掴《つか》み、ありったけの干し肉を剛始の前に置いた。
「悪いけど、介抱《かいほう》する気にはなれない。食料は置いておくから、好きにして。
夜主さん。
今日は徹夜《てつや》で、街道《かいどう》まで抜けましょう」
梨乱の声は、暗く沈んでいた。
辛気臭《しんきくさ》いのが嫌いな夜主は、梨乱の背中をおもいきりはたく。
「おら、済《す》んだ事をクヨクヨするな。
まあ、この宝貝は哀れかもしれんが、もうどうしようもないだろ? 剛始の叔父さんも、もう宝貝にちょっかいは出さないだろうからな」
梨乱はうなずいた。
「うん。でも、剛終《ごうしゅう》叔父さんがまだいるのよ。恐《おそ》らく剛始と同じ事が出来るはず」
「……そんときゃ、そんときで考えろ!」
*
宝貝の残骸は、あまりにも大きすぎた。
やむなく梨乱と夜主は、残骸を森の中で見つけた池に沈《しず》める事にした。
殷雷ならば、水の中でも自由に動けるという捜魂環の意見だった。
残骸を運びながら、夜主は言った。
「待てよ。梨乱は嫌がるだろうが、敵の持つ宝貝の制御《せいぎょ》なんとかを、無理やりいじったら凄《すご》いんじゃないか?」
残骸を背負い、梨乱は答えた。
「自分の所持してる宝貝以外に、出来る訳がないじゃない。制御索の事は忘れて。あんなのいじったら、ろくな事にならないから」
「でもよ、動禁錠をいじれば外《はず》せるんじゃないか?」
「何、間抜《まぬ》けな事を言ってるのよ。それで外せるなら、動禁錠には欠陥《けっかん》がないって事になるじゃない」
「そうか」
「それと、夜主さん。捜魂環と俊地鞜は夜主さんが持っていて。
夜主さんが持ってる方が、似合うから。
勿論《もちろん》、和穂に再会するまでだけどね」
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第三章『恵潤刀《けいじゅんとう》。そして』
一
さらりとした、白い湯だった。
もうもうと立ち込める湯気《ゆげ》と、白い湯の境目《さかいめ》がはっきりしない。
和穂《かずほ》は温泉の中で、大きく伸《の》びをした。
湯船《ゆぶね》は石造りであったが、見上げるばかりの高い天井《てんじょう》と壁《かべ》は、檜《ひのき》で作られた新しいものだった。
大きく息を吸い込むと、檜独特の香《かお》りが和穂の鼻をくすぐった。
「いやあ、やっぱり温泉はいいですよね、恵潤《けいじゅん》さん。
私は、こういう白いお湯の方が好きです。
たまに、ピリピリする温泉があるでしょ?
疲《つか》れを取るには、ああいうお湯がいいんですけど、長湯《ながゆ》が出来なくて」
和穂の隣《となり》では、恵潤が湯船にもたれかかりぼんやりと天井を見つめていた。
恵潤の長い髪《かみ》は、湯船の中をユラユラとたゆたっている。
髪を巻き上げている和穂は恵潤に尋《たず》ねた。
「あの、髪の毛はいいんですか?」
「いいのよ。別に抜《ぬ》けるでなし、汚《よご》れてる訳《わけ》でもないからね。
宝貝《ぱおぺい》回収の旅だ! って騒《さわ》いでる割に、温泉とかにも呑気《のんき》に浸《つ》かってたんだ?」
少し恥《は》ずかしそうに和穂は笑った。
「へへ。殷雷《いんらい》にもきいたんですけど、やっぱりちょっと不謹慎《ふきんしん》ですよね。
でも、旅の途中《とちゅう》で立ち寄る宿屋《やどや》って、結構《けっこう》温泉が自慢《じまん》の所が多いんです。
宿屋に泊《と》まる時は、温泉があるかどうか一応《いちおう》、宿の人にきいてみるんです。
そうそう、いつも殷雷には長湯を怒《おこ》られちゃって」
恵潤は可笑《おか》しそうに、笑った。
何だかんだ言って、護衛《ごえい》の仕事をこなす殷雷の働《はたら》きっぷりが目に浮《う》かぶようだった。
和穂の長湯にいい顔をしないのは、それが護衛にとっての隙《すき》になるからだろう。
だが、殷雷は、
『女の長湯は鬱陶《うっとう》しくていけねえ』
ぐらいの、悪態《あくたい》で誤魔化《ごまか》しているんだろうか。
あれだけ、熾烈《しれつ》な宝貝回収を続けていて、和穂には、まだこれだけの無邪気《むじゃき》さが残っているのだ。
和穂の天性の性格もあるのだろうが、殷雷の支《ささ》えが和穂にとって、どれだけ重要なのだろうかと恵潤は考えた。
「和穂。でもまあ、良かった。
殷雷の態度《たいど》に嫉妬《しっと》して、私を悪者扱《わるものあつか》いにしてるんじゃないかと、ちょっと心配していたんだよ」
殷雷は和穂の心の支えになってはいる。
だが、べったり甘《あま》えているのではない。
もし、私に嫉妬するようならば、殷雷に全《すべ》てを任《まか》せているだけの女なのだろう。
少なくとも、和穂にその素振《そぶ》りが見えないのが、恵潤には嬉《うれ》しかった。
「嫉妬なんかしませんよ。そりゃ、最初はちょっとビックリしたけど、結局殷雷が一人で騒《さわ》いでるだけじゃないですか」
少し試《ため》してやれ。
「あら、私も殷雷が好きよ」
和穂も、その手には乗らなかった。
「勇吾《ゆうご》君と同じように、他の宝貝の友達と同じように、好き。なんでしょ?」
「御名答《ごめいとう》」
和穂も恵潤と同じように、石の湯船にもたれかかり、湯の温《あたた》かみを噛《か》み締《し》めるように軽く目を閉《と》じた。
「でも、殷雷のあんな姿を見て驚《おどろ》きました。
恵潤さんと一緒《いっしょ》の時の殷雷って、いつもあんな風なんですか?」
「まさか。もっと普通《ふつう》よ」
「あ、じゃあ、恵潤さんとまた会えてよっぽど嬉《うれ》しかったから、ああなったんですね?」
恵潤は言葉に詰《つ》まった。
「殷雷が、あんな風なのはね。
私の姿を見つける前に、勇吾の鳳翼扇《ほうよくせん》の傷《きず》を見ていたから」
和穂には恵潤の言葉の意味が理解出来なかった。
確かに、勇吾と戦ったとき、既《すで》に鳳翼扇には傷が入っていた。
それがどうしたというのだろうか。
「傷? ですか」
「間抜《まぬ》けな振りをしたのは、して当然の疑問をぶつけずに済《す》ます為《ため》。
疑問をぶつける前に、勇吾の言葉から殷雷は答えを知ったのよ」
「あの、全然|判《わか》らないんですけど」
「勇吾が思い詰めて、肩《かた》に力が入りすぎてるから、殷雷はあんな風な真似《まね》をしているの。
優《やさ》しすぎて、少し泣けるぐらいよ」
目を開け、和穂は手拭《てぬぐ》いで顔の汗《あせ》を拭った。
「どういう意味です」
恵潤の頬《ほお》を伝っているのは、汗じゃなく絶対に涙《なみだ》だと和穂は知った。
恵潤は涙を拭う。
「今はまだ言えない。
勇吾が和穂のように、強くなれたら教えてあげる」
「ははは。今でも私なんかより、勇吾君の方が強いじゃないですか」
「……もしも、さっき殷雷が私たちの味方《みかた》になって、和穂を倒《たお》そうとしていたらどうしていた?」
「そういう例《たと》え話は嫌《きら》いです。
そんな事、考えもしなかったから」
「私の予想じゃ、和穂は裏切《うらぎ》った殷雷を許《ゆる》した上で、私たちと戦ったでしょうよ。
でも、逆に私が勇吾を裏切って和穂の味方になったら、そうはいかない。
勇吾は何も出来なくなる。
あの子は、まだ私に頼《たよ》っているからね」
厳《きび》しい言葉だが、勇吾君はまだ幼いのだから仕方《しかた》がないと和穂は思う。
「でも、勇吾君の年齢じゃ、それは酷《こく》な話でしょ?」
「そうね。でも、そこが重要なの。少しばかり腕《うで》が立っても、勇吾の心はまだ弱いのよ」
和穂は色々《いろいろ》考えたが、恵潤のいわんとする事が理解出来なかった。
「心の強さがあって、はじめて武人《ぶじん》なんでしょうか?」
「そう。心の強さとしなやかさが必要。
成長すれば、心の強さはどうにかなる。
今、殷雷は勇吾に心のしなやかさを教えてくれているのよ」
考え込む和穂の側《そば》に、恵潤は近寄った。白色の小さな波が立った。
和穂のうなじに光る首飾《くびかざ》りが、恵潤の気を引いた。
「……首飾り? それも宝貝?」
和穂は首飾りを外《はず》し、恵潤に渡《わた》した。
恵潤は、首飾りの鎖《くさり》に括《くく》られた、白い珠《たま》を見つめた。
「真珠《しんじゅ》にしちゃ、大きいね。
何かの鉱石《こうせき》かしら?」
「何かは判らないんですけど、兄さんの形見《かたみ》です」
*
何でこいつと同じ部屋《へや》なのか、勇吾は文句《もんく》がいいたかったが、我慢《がまん》した。
鏡閃《きょうせん》にお金を返す為《ため》には、無駄遣《むだづか》いは出来ない。
そこで、勇吾は殷雷の存在《そんざい》を無視し、もくもくと鳳翼扇を刀に見立てて、部屋の中で素振《すぶ》りを続けていた。
あれだけ腕《うで》があるのだから、少しぐらい素振りに注意を与えてくれるかとも思ったが、別段その様子もない。
椅子《いす》に座《すわ》り、只《ただ》、ポカンとしてる。
ビュンビュンと、鳳翼扇が風を斬《き》る。
殷雷がぼそりと言った。
「……恵潤《けいじゅん》」
何を惚《ぼ》けていやがると、鳳翼扇を掴《つか》む手が力み、素振りが無茶苦茶《むちゃくちゃ》になった。
咳払《せきばら》いをして勇吾は素振りをやり直した。
そんな勇吾を見て、殷雷は言った。
今までから考えれば、かなり真面目《まじめ》な声だった。
「勇吾」
「判《わか》ってる。素振りの時に、集中力を欠《か》いたのはよくないよ」
「そうではない。少し、真面目な相談があるんだ」
殷雷は手招《てまね》きしている。
一体何事かと、勇吾は殷雷の側によった。
「どうしたんだ? 間抜けな事言ったら、ブッ叩《たた》くぞ」
殷雷は首を横に振り、言った。
「温泉を覗《のぞ》きにいくか?」
途端《とたん》、勇吾は鳳翼扇を、殷雷の眉間《みけん》目指《めざ》して振り抜《ぬ》いた。
が、殷雷は椅子に座ったまま、易々《やすやす》と勇吾の攻撃《こうげき》を躱《かわ》していた。
それどころか、鳳翼扇を握《にぎ》る勇吾の手をつかみ、ギリギリと締《し》め上《あ》げている。
悲鳴代わりに、勇吾は怒鳴《どな》った!
「いい加減《かげん》に、ふざけるのを止《や》めろ! お前には恥《はじ》というものがないのか?」
「おやおや、俺《おれ》を恥知らず扱《あつか》いか。
恥知らずにいいようにやられて、それでもお前は武人だとでもいいたいか」
あまりの痛さに勇吾は、鳳翼扇から手を離《はな》してしまった。
殷雷は鳳翼扇を奪《うば》い取り、大きく広げて自分を扇《あお》ぐ。
暖房が入っているとはいえ、冬の最中《さなか》だ。
涼《りょう》を取るためではなく、勇吾を挑発《ちょうはつ》しているのだった。
こんな軟弱《なんじゃく》な奴《やつ》にやられっぱなしで、勇吾は顔を真《ま》っ赤《か》にして扇を取り戻そうとした。
だが、殷雷もそう簡単に扇《おうぎ》を返しはしなかった。
「か、返せ!」
「さあ、勇吾よ。今までのやりとりで、お前が犯《おか》した間違《まちが》いは幾《いく》つある」
「うるさい、返せ!」
パチリと扇を閉め、殷雷は勇吾の眉間《みけん》を軽く叩《たた》いた。
「おや、泣いてるのか?」
「泣いてるもんか!」
眉間を叩かれたのだ。
感情に関係なく、涙《なみだ》ぐらい流れるが、それを否定しようと目に力を入れたため、余計《よけい》に涙が流れる。
「鳳翼扇を返せ!」
殷雷は意地悪《いじわる》く、再び開いた鳳翼扇を勇吾の前でヒラヒラさせたが、少年にはどうしても掴めない。
「勇吾よ。俺の腕が、お前より勝《まさ》っているのは既《すで》に知っているはずだ。
俺の言葉に腹が立ったからといって、鳳翼扇の攻撃が当たるとでも思ったか?」
「うるさい、お前が間抜けな事を言ったからだ!」
「挑発に乗って、振っても意味のない鳳翼扇を振った。
その間違いの御陰《おかげ》で、鳳翼扇を奪われた。
さあ、次にお前のとった行動は、隙《すき》を丸だしにして、鳳翼扇を取り戻そうと必死《ひっし》になった。
鳳翼扇しか見えちゃいねえ。
『鳳翼扇を取り戻す』という目的を達成する為には、直接俺に攻撃を仕掛《しか》けるべきだったな。
お前の攻撃は俺には通用しないのは、判《わか》っているだろ。だが、お前の攻撃を捌《さば》いている内に、鳳翼扇に対する俺の注意が薄《うす》れるかもしれん。
そこで、始めて鳳翼扇を取り返す為に仕掛けるんだ。
一番重要なのは、俺をふぬけの間抜けと決めつけて、自分の行動をしっかり考えなかった事だ。
いやいや、俺はふぬけの間抜けかもしれんが、お前よりは強いんだぞ。
それと、問題が起きると、そればかりに目が行き、全体が見えなくなるってのも間違いだな」
勇吾は言葉に詰《つ》まった。
いつも恵潤に注意されているのと、同じ事を言われたのだ。
黙《だま》る勇吾の前に、殷雷は鳳翼扇を投げつけた。
勇吾は鳳翼扇を受け取り、コクリと殷雷に頭を下げた。
「参考になりました殷雷さん。
そんな態度《たいど》をとって、人をみくびる危険性を教えてくれていたんですね。
まだまだ未熟《みじゅく》でした」
「うむ。判ってくれればよろしい。
では、覗《のぞ》きに行こうか」
繰り出された鳳翼扇は、今までの勇吾の攻撃の中で一番|素早《すばや》かった。
予想しなかった素早い攻撃は、見事《みごと》殷雷の鼻の頭にぶち当たった。
「ぐげえ!」
「……一瞬《いっしゅん》でも、お前を信用した俺《おれ》が馬鹿だった」
「う、うむう。今の攻撃は中々《なかなか》よかったぞ。実戦では、そのぐらい瞬発力のある攻撃が出来ねば、話にならぬからな。
今のは怒《いか》りに身を任《まか》せたのではなく、冷静な判断の上での攻撃だったのであろう。
冷静な判断から繰り出される攻撃は、そう易々《やすやす》防御《ぼうぎょ》出来るものでなく……」
「やかましい」
部屋の扉《とびら》がゆっくりと開き、恵潤と和穂が顔を見せた。
「えらく賑《にぎ》やかそうだけどどうしたの? 殷雷たちも温泉に入ったら」
殷雷は鼻の頭を押さえ、どうにか取《と》り繕《つくろ》った。
「いや、何でもない」
だが、勇吾は言った。
「殷雷が、温泉を覗きに行こうなんて騒いでただけだよ」
恵潤が殷雷に向かい、微笑《ほほえ》みを投げ掛け、笑顔《えがお》はすぐに鋭《するど》い視線へと変わった。
「殷雷。いい加減《かげん》にしなさいよ。
いくよ、和穂!」
扉がピシャリと閉《し》められて、殷雷は、扉《とびら》に向かい手を伸ばしたまま凍《こお》り付いたように動かなくなる。
勇吾は腕を組み、今の自分の行動を評価してみた。
「鳳翼扇がたとえ殷雷に当たったところで、僕の実力じゃたいした打撃にはならない。
ならば、直接攻撃にこだわらず、殷雷に精神的《せいしんてき》な打撃を与えようと僕は考えた。
そこへ、ちょうど恵潤が姿を現したんで、殷雷が温泉を覗こうとしていた事を教えてみる。
予想通り、恵潤がムッとして、殷雷は嫌われて精神に打撃を受けた。
そうか、こうやるのか!」
まだ手を伸ばしたまま、殷雷は言った。
「そうだ。その柔軟性《じゅうなんせい》が武人としての実力につながるんだ」
「でも、こういうのはやっぱり卑怯《ひきょう》だ。武人らしくないや」
ボロボロの笑顔で殷雷は答えた。
「頼《たの》むから勇吾、武人に幻想《げんそう》を抱《いだ》くのをさっさとやめてくれ!」
二
朝日の下《もと》、鳳翼扇《ほうよくせん》は光の塊《かたまり》のように日の光を反射していた。
勇吾《ゆうご》の攻撃は恵潤《けいじゅん》に迫《せま》るが、そう簡単《かんたん》に刀《かたな》の宝貝《ぱおぺい》に打ち勝つ訳《わけ》にはいかなかった。
素早《すばや》く動く勇吾と、それを軽くあしらう恵潤。
街道《かいどう》わきの草原で繰《く》り広げられる二人のやりとりは、街道を行く者にとってちょっとした見せ物であった。
だが、誰《だれ》の目にもそれは稽古《けいこ》であると明らかであった。恵潤の口からは、次々と勇吾の動きの間違《まちが》いが指摘《してき》されたからだ。
道を行く者は、二人に目を止めはしたが、わざわざ野次馬《やじうま》として邪魔《じゃま》はしなかった。
和穂《かずほ》は一人、街道の石に腰《こし》を下ろして二人の鍛練《たんれん》を見物している。
牛のように大きな石の上で、和穂は足をブラブラさせていた。話相手はいない。
どれ程《ほど》時が経《た》ったのか、和穂に声がかかった。声の主《ぬし》は殷雷《いんらい》だった。棍《こん》と断縁獄《だんえんごく》を片手に、街道を歩いてきたのだ。
「よお、待たせたな」
殷雷は断縁獄を和穂に渡《わた》す。
「どこに行ってたの、殷雷?」
「どうせ、朝の鍛練はすぐには終わるまいと思って、ちょっと街《まち》まで戻《もど》っていたんだ」
断縁獄の紐《ひも》を和穂は腰帯《こしおび》にくくりつけた。
「街に何の用?」
「刀《かたな》を買ってきた」
和穂は、石からずり落ちそうになった。
「か、刀って何に使うのよ?」
殷雷は面倒《めんどう》そうに、鍛練を続ける勇吾を顎《あご》で指した。
「あいつは、まだ、身長が足りないから、鳳翼扇を刀代わりに使ってるが、その内本物が必要になる。
良さそうなのがあるか、探《さが》してたらいいのがあってな」
殷雷も和穂の横に座《すわ》り、恵潤と勇吾の鍛練を見物し始めた。
「まあ、稽古の時の腕《うで》は一人前だな。あの年であそこまでやりゃ、上等だ。
それよりも、見ろよ和穂。恵潤のあの優雅《ゆうが》な動き、流石《さすが》だねえ」
また、へろへろな殷雷になりかけている。和穂は殷雷の袖《そで》を引《ひ》っ張《ぱ》った。
「ねえ、どうして恵潤さんは勇吾君に武芸《ぶげい》を教えているの?
自分を使わせれば、勇吾君は達人《たつじん》の力を手に入れるのに」
殷雷は顎《あご》を掻《か》いた。
この奇妙《きみょう》な間は恵潤も見せた事があると、和穂は思い出した。
私には、本当の事が言えないんだ。
だが、不思議《ふしぎ》と不快感はない。
恵潤にしろ、殷雷にしろ、余計《よけい》な心配をかけさせたくないという気遣《きづか》いが見えたからだった。
「……ほれ、もし勇吾が親の仇《かたき》を取ったら、あいつは俺《おれ》らと違う道を歩《あゆ》むだろ。
その時の為《ため》だぜ」
「嘘《うそ》。
私たちと会う前から、恵潤さんは自分が刀であるって隠《かく》して、勇吾君を鍛《きた》えてたらしいじゃない。
それに鳳翼扇の傷《きず》」
「気付《きづ》いたか!」
和穂の一言が殷雷を驚《おどろ》かせた。和穂は首を横に振った。
「ううん。鳳翼扇の傷を見て、殷雷は気が付いたって恵潤さんは言っていた。
でも、何に気が付いたかは教えてくれなかったの。
ねえ、あの傷に意味があるの?」
「お、見てみろ恵潤のあの背中から腰へかけての、色っぽい線を。
それに比《くら》べて和穂よ。お前は全然|色気《いろけ》ってもんがないねえ」
クイックイッと殷雷の髪《かみ》の毛を和穂は引っ張った。
「『何よ、殷雷の馬鹿!』とでも言って欲しい?
残念でした、私には、殷雷のお惚《とぼ》けは通用しないからね。
あの傷って、勇吾君の仇に関係あるんでしょ?
仇が持っているのは、殷雷や恵潤さんが知っている宝貝なんじゃない……」
殷雷は和穂の口を塞《ふさ》ぎ、そのままグリングリンと揺《ゆ》さぶった。
「むぐう!」
「はっはっは。和穂先生よ。それ以上は、考えるな」
頭を揺さぶられ、ふらふらになりつつも和穂は問い掛け続けた。
「でも」
「やかましい。
少なくとも興味《きょうみ》本位で首を突っ込む事じゃねえぞ。
……時がくれば、お前にも教えてやるから今は黙《だま》ってろ」
殷雷の言葉で、和穂は問い掛けを止める。だが、頭の中では考え続けた。
恵潤さんは、勇吾君を武人として仕込《しこ》んでいる。
殷雷も惚《とぼ》けたふりをしているが、それも勇吾君に武人としての、柔軟《じゅうなん》さを教える為《ため》なのだろう。
それに、殷雷は勇吾君に刀まで用意してあげている。
二人とも、勇吾君に武人として力を貸しているのに、宝貝として協力するつもりはないのだろうか?
どうしてだろう。
相手が宝貝を持っていないのならば、話は判《わか》らなくもない。
宝貝を使わずに、正々堂々《せいせいどうどう》とけりをつけさせたいのならば、理解は出来る。
だが、勇吾君の話では、仇も宝貝を持っているに違いなかった。
なぜ勇吾君は、自分の力だけで仇と戦わなければならないのだろうか。
殷雷や恵潤さんの力を借りずに、一人で戦う必要が……
「ごめんね、朝っぱらから待《ま》たせちゃって。朝の鍛練だけは、抜きにする訳《わけ》にはいかなくてね」
恵潤の声に、和穂は我《われ》に返った。
涼しい顔の恵潤の隣《となり》では、勇吾が息を切らせていた。
そういえば、飴《あめ》があったと和穂は思い出した。
和穂は断縁獄《だんえんごく》を外《はず》し、飴を一つ取り出し、自分の口に入れた。
「どう? 勇吾君も飴を食べる?」
勇吾は、嬉《うれ》しそうに首を縦《たて》に振った。
和穂は勇吾の年相応の振る舞いに、なぜかホッとした。
飴を貰《もら》って喜《よろこ》んでいる分には、普通の子供と変わりはしない。
「ありがとう、和穂姉ちゃん。
じゃあ、早速《さっそく》出発しようよ。宝貝《ぱおぺい》の使い手は何処《どこ》にいるの?」
殷雷が口をはさんだ。
「勇吾たちが出会った、軒轅《けんえん》の構成員が一番近いんだろう」
勇吾の顔に少し戸惑《とまど》いの色が浮《う》かぶ。
「鏡閃《きょうせん》さんだね。
でも、悪い気がするな。どう考えても裏切《うらぎ》った事に変わりはないから」
「け。心配するな。
気が乗らねえなら俺《おれ》が一人で倒してやるからよ。それでいいだろうが」
「そんなもんかな?」
四人が街道に戻り、和穂が耳の索具輪《さくぐりん》に指を伸ばした時、天に無数の亀裂《きれつ》が走った。
恵潤と殷雷の長い髪が同時に逆立《さかだ》ち、二人の刀は敵の気配《けはい》を探《さぐ》った。
和穂は慌《あわ》てて周囲《しゅうい》を見渡した。
一人の娘が街道を足早《あしばや》に進んできた。
恵潤と殷雷は娘を無視《むし》している。
娘は歩き続け、和穂は娘の進路から慌《あわ》てて飛びのいた。
それでも娘は歩き続け、殷雷と衝突《しょうとつ》しそうになったが、娘の体は殷雷をすりぬけた。
殷雷は面白《おもしろ》そうに言った。
「罠《わな》の宝貝だと? 俺と恵潤を同時に相手にするとは、大馬鹿がいたもんだ」
殷雷も恵潤も武器の宝貝である。
戦いに関係しそうな宝貝についての知識は少しばかり持っていた。
天に広がる亀裂は、やがて蜘蛛《くも》の巣《す》状になると殷雷は知っていた。
それは『天網《てんもう》』と呼ばれる珍《めずら》しい結界の姿だ。
さながら、巨大なカゴを引《ひ》っ繰《く》り返《かえ》し、被《かぶ》せられたようなものだが、手で触《さわ》れる壁《かべ》があるのではない。
天網の中の世界は、ほんの少しだけ外の世界からずらされている。外の世界からは、先刻の娘のようにまず結界の存在には気がつけない。
天網を張れるのは、央地界《おうちかい》と呼ばれる罠の宝貝だけだった。
殷雷は驚きはしたが、天網を恐れはしなかった。この結界の性質と破《やぶ》り方は充分《じゅうぶん》に知っていたからだ。
恵潤は殷雷程、楽しくはないようだった。
「相手には、それだけ自信があるのよ」
三
剛終《ごうしゅう》は確《たし》かな手応《てごた》えを感じた。
大地に広がっていた宝貝《ぱおぺい》は、同類に触《ふ》れた感触《かんしょく》を使い手に伝えた。
それは、あくまでも触覚《しょっかく》でしかなかったが宝貝ごしに伝わる触覚は、色すらを剛終に伝えていた。
どうやら、鏡閃《きょうせん》の刺客《しかく》と和穂《かずほ》たちは手を組んだらしく、戦う様子《ようす》は微塵《みじん》も感じられなかった。
だが、それは些細《ささい》な事でしかない。
剛終は腕輪《うでわ》を撫《な》でた。
大地に広げた罠が、ついに獲物《えもの》に届いたのである。後《あと》は罠を閉じなければならない。
腕輪に触れる指先を軽く動かす。
途端《とたん》に、大地に広がる罠は天へと駆《か》け巡《めぐ》り網《あみ》となった。
天に現れた無数の亀裂《きれつ》は、網の目だったのだ。
獲物を内に捕《と》らえて、閉じられた罠の姿だった。
罠の内と外では、同じ場所に存在する別の世界とも言えた。
罠の中に獲物はいる。
後《あと》は獲物の息の根を止めるだけだ。
*
和穂《かずほ》は空を見上げた。
天に現れた亀裂は数を増していった。
細い亀裂が規則《きそく》正しくならぶさまは、まさに蜘蛛《くも》の巣《す》を思いおこさせた。
和穂には状況《じょうきょう》を観察《かんさつ》するだけの余裕《よゆう》があったが、勇吾《ゆうご》にはその余裕すらない。
「どうなったんだい恵潤《けいじゅん》!」
「どうにかしてくれ、恵潤!」
勇吾と同じように、殷雷《いんらい》も恵潤にすがりついた。
あしらうのも面倒《めんどう》な恵潤は、状況の説明を始めた。
「罠よ。
相手の術中《じゅっちゅう》にはまって、罠に落ちたのよ」
和穂には納得《なっとく》がいかない。
腰に着けた断縁獄《だんえんごく》は、相手をその中に吸い込む能力がある。
だが、その能力は吸引に抵抗《ていこう》する者には全く作用しないのだ。
こんなにも簡単《かんたん》に相手を閉じ込められる宝貝《ぱおぺい》があるとは、和穂には信じられなかった。
和穂は疑問をぶつけ、恵潤は答えた。
「その通りよ、和穂。
ひょうたんの宝貝の内部からの脱出は、不可能といってもいい。その代わり、抵抗すれば吸引は出来ない。
この罠の世界は、それとは逆になってる。
抵抗しても世界に閉じ込められるけど、脱出は難《むずか》しくない」
「どうすればいいんですか?」
恵潤はすらりとした指先で、天を指した。
「見てみなさい。
蜘蛛の巣のように、放射線状になっているでしょ?
つまり、ここからは離れているけど中心があるのよ。
その中心の真下《ました》には宝貝の本体がある。そいつを倒せば、外に出られる。
典型的《てんけいてき》な罠の宝貝だね」
幾《いく》らかホッとしながらも、和穂は不安な気分に襲《おそ》われた。
「それじゃ、この罠を使う時って?」
和穂の不安に恵潤は答えた。
「そう。
この罠は、獲物を勝手《かって》に倒してくれる類《たぐい》の罠じゃない。
これは、獲物の逃げ道を塞《ふさ》ぐだけの罠。
当然、罠の使い手もこの中にいるはず。
私たちを倒せるという勝算が充分《じゅうぶん》にあって、私たちを逃がしたくないから、罠の中に閉じ込めたのよ」
殷雷の声に緊張感はない。
「戦力の分析《ぶんせき》もろくに出来ん、自信過剰《じしんかじょう》な馬鹿野郎なだけかもしれんぞ。
これだけの宝貝を相手にしようってんだからな」
勇吾は殷雷の足を踏《ふ》んづけた。
「油断《ゆだん》するなよ!」
「痛えな。俺と恵潤がいるんだ。そうそう後《おく》れはとらんぜ」
*
触覚を通じ、音すら剛終には伝わっていたのだ。
恵潤たちの会話を聞き、剛終は笑わずにはいられなかった。
確かに恵潤という女は、状況をよく分析してはいる。
しかし、融合宝貝《ゆうごうぱおぺい》についての予想は一切《いっさい》立ててはいない。
これが罠の宝貝なのは正解だ。だが、ただの罠ではない。
罠は俺《おれ》の宝貝の屋台骨《やたいぼね》でしかない。罠の中心に辿《たど》り着ける事など、出来るものか。
*
勇吾には、宝貝という物が理解出来ていなかった。
凄《すご》い刀《かたな》や、凄い鉄扇《てっせん》なら理解出来たが、罠が作り上げた世界などとは、想像の範囲を遥《はる》かに越《こ》えていた。
「ねえ、恵潤。閉じ込められたんなら、壁《かべ》があるんだろ? それを壊《こわ》せば外に出られるじゃないか」
恵潤より先に殷雷が口を開いた。
「おやおや。敵と戦うのが怖《こわ》いか」
「そんなんじゃない! わざわざ敵の好きなようにやらせるのが、嫌《いや》なんだ」
「だから、ここは『閉じられた世界』なんだよ。
外に出る為の方法は全部、罠の中心に持っていかれてるんだ」
「…………」
やはり理解出来ない。
恵潤は勇吾の頭を撫《な》でた。いつもなら、子供扱いするなと怒るところだったが、今はそれどころではない。
恵潤の温《ぬく》もりに途端《とたん》に安心感が増した。
和穂は索具輪《さくぐりん》を外《はず》し、見つめる。白色の陶器《とうき》を思わせる耳飾《みみかざ》りは、心なしいつもより彩《いろど》りが薄《うす》れているようだ。
「罠の宝貝だから、恵潤さんみたいに気配を消す能力があったんでしょうね。
それで、索具輪じゃ判《わか》らなかったんだ」
勇吾の肩に手を置き、恵潤は和穂に警告《けいこく》した。
「索具輪だけが、悪いんじゃない。
索具輪に頼りっぱなしで、油断があったんじゃないの?」
恵潤の言うとおりだった。宝貝の力は絶大であるがゆえに、油断が生まれる時がある。
「はい。もっと慎重《しんちょう》に行くべきでした」
殷雷は恵潤の言葉に納得《なっとく》出来なかった。
「どうしたんだ恵潤?
お前に責められる程、和穂が油断した訳じゃあるまい。
だいたい、相手に勘《かん》づかれなくてなんぼの罠の宝貝だろ。普通は、はまっちまうぜ」
「和穂を責める気なんかないよ。只《ただ》の一般論だ」
勇吾の肩を掴《つか》む恵潤の手に、瞬間《しゅんかん》力がこもった。
和穂は空を見上げた。
「それじゃ、罠の中心に行ってみましょう。三日もあればつくでしょ」
殷雷の瞳《ひとみ》にも、鋭さが光った。
「そうさな。
俺と恵潤と、ついでに鳳翼扇《ほうよくせん》に同時に喧嘩《けんか》を売った、大馬鹿野郎の面《つら》を早く見てみたいもんだ」
勇吾は、ハッと気付き恵潤に話し掛《か》けた。
「そうか、もしかしたら父様《とうさま》の仇《かたき》かもしれないんだね恵潤!」
「……そううまくいけばいいんだけどね」
四
兄の考えは充分《じゅうぶん》に理解出来た。
だが、剛終《ごうしゅう》には剛終の考えがあった。
ありとあらゆる宝貝《ぱおぺい》を融合《ゆうごう》させ、足《た》す事による強力さを剛始は求めた。
主《おも》に無数の鎧《よろい》と武器《ぶき》を持つ事を基本に融合を行い、物理的な強さを追い求めたのだ。
それも一つの結論だと剛終は考えていたが、彼の場合は、融合させる宝貝の数を絞《しぼ》っていた。
いや、正確には融合させる事により、宝貝たちの欠陥《けっかん》を減《へ》らし、さらには組合《くみあわ》せの妙《みょう》により力を追い求めていたのだ。
足すのではなく、掛《か》ける事による力。
何と何を組み合わせるかが、鍵《かぎ》だった。
だから、剛終は五つの宝貝しか融合させてはいない。
その内の二つは、万が一の時に身を守る為《ため》の、鎧《よろい》と斧《おの》であった。
そして、相手を逃《のが》さない為《ため》の罠《わな》。
だが、一番|肝心《かんじん》なのは、残り二つの宝貝だった。
一つは動禁綱《どうきんこう》。
本来は、相手を生《い》け捕《ど》りにする為の細い綱《つな》であった。
欠陥は相手を生け捕りに出来ない事。
生かして捕《と》らえる能力が、動禁綱には欠《か》けていた。
動禁綱に捕らえられるのは、強大な蛇《へび》に巻きつかれるのと同じだった。
本来、相手の動きを封じる為の束縛《そくばく》は、相手を絞《し》め殺す程《ほど》の力を持ち、動禁綱には自分の力を加減《かげん》する能力がなかったのだ。
もしも動禁綱が武器ならば、それは些細《ささい》な欠陥と言えたかもしれない。
が、動禁綱はあくまでも、人の命を奪《うば》ってはならない宝貝だったのだ。
存在する意味がない宝貝だと、剛終は考えた。
もし、自分がこの宝貝を造《つく》ったのなら、さっさと破棄《はき》していただろう。
しかし、製作者はそう考えはしなかったようだ。
動禁綱には、後から、一つの制約がつけられていたのだ。
『束縛《そくばく》に抵抗する者には一切作動《いっさいさどう》出来ない』
何と手間《てま》をかけた話か。
手足を使って抵抗するどころか、心が身構《みがま》えただけでも動禁綱は機能しないのだ。
心の抵抗にすら打ち勝てない宝貝が動禁綱だった。
そして、剛終の手には心の抵抗を打ち消す宝貝があった。
名は深意鏡《しんいきょう》。
深意鏡は、己《おのれ》でも気が付かない己の心の傷を映《うつ》し出す。
過去にあった、苦痛や後悔《こうかい》を映し出す鏡《かがみ》である。本来は、己の精神鍛練《せいしんたんれん》の為《ため》の宝貝だったのであろう。
だが、人の心は弱い。
鏡が映し出す、現実と見間違《みまちご》うばかりの夢は、辛《つら》い過去を時として捩《ね》じ曲《ま》げてしまうのであった。
己の不注意で、人を殺してしまった心の傷を持つ者がいたとする。
深意鏡の映し出す過去の夢は、時として相手の命が失われなかったという、己が望む過去にすりかわるのであった。
深く背負っていたはずの傷が否定される。
その瞬間、心は安堵《あんど》で無防備《むぼうび》になる。
そして、その隙《すき》に動禁綱はうねくるのだ。
剛終は、この組合せに満足していた。
今まで罠に捕らえた、ありとあらゆる猛者《もさ》どもでさえ、抵抗に成功した者はいなかった。
いかに強大な宝貝を持っていようと、使用者は心を持った人間なのだ。
剛終には絶対の勝利の自信があった。
剛終は、罠の中の獲物の動向に注意を払った。
そろそろ、太陽も沈《しず》んでいる。
このまま、今日は睡眠《すいみん》をとるのだろう。宝貝がある限り、寝込《ねこ》みは襲《おそ》われないと考えているのだ。
だが、夢の中までは警護《けいご》出来まい。
動禁綱は罠の中、いたる所にある。
*
パチパチと焚《た》き木《ぎ》の爆《は》ぜる音。
強くはないが、温かい炎《ほのお》が殷雷と恵潤の頬《ほお》を染《そ》めていた。
勇吾と和穂は毛布《もうふ》にくるまり、軽い寝息を立てていた。
殷雷は真顔《まがお》で炎を見つめていた。
「辛《つら》い話だな」
恵潤も炎を見つめた。
「判《わか》っている。もう少し、もう少し勇吾が強くなってくれれば」
長い沈黙《ちんもく》。
今度は恵潤が口を開いた。
「……殷雷。
最近、人を斬《き》った事がある?」
薪《まき》を炎にくべ、殷雷は答えた。
「……程穫《ていかく》という男の心臓《しんぞう》を刺《さ》し貫《つらぬ》いた」
「程穫? 誰《だれ》? 悪人だったの?」
「……和穂の兄貴《あにき》だよ」
息《いき》を飲《の》みつつも、恵潤はたずねた。
「それを、和穂は知ってるの?」
「……和穂が俺を使って、程獲と戦った」
恵潤は言葉を失《うしな》った。
殷雷は言葉を続けた。
「こんな間抜《まぬ》け面《づら》して寝ていやがるが、こいつは強い女だ。
こいつは俺《おれ》を頼《たよ》りにしてくれるが、期待《きたい》に応《こた》えられるのはいつまでだろうな」
「どうしたのよ、殷雷」
「恵潤。お前に会えた時は、本当に嬉《うれ》しかった」
*
ボロボロの体の中で、瞳《ひとみ》だけが輝《かがや》きを失っていなかった。
ボロボロの笑顔《えがお》で、程穫は笑っている。
和穂は声を上げた。
「兄さん!」
血を分けた双子《ふたご》の兄妹《きょうだい》。意思の強さは似ていたが、それを向ける方向は全く違っていたのだ。
殷雷刀《いんらいとう》に心臓を刺し貫かれたが、それは程獲の死因《しいん》ではなかった。
「か、和穂」
横たわる程獲の側《そば》には、柄《え》が切られた矛《ほこ》の残骸《ざんがい》があった。
ゆっくりとゆっくりと、だが確実に崩壊《ほうかい》していく程穫の体。
水をかけられた乾《かわ》いた粘土《ねんど》が、ひび割れを無くすように、程獲の体からは古傷が消えていった。それすらも、崩壊の証《あかし》だった。
「兄さん、死なないで!」
程穫の息遣《いきづか》いは、強く深い。
「あぁ、お前を残して死ねるもんか」
崩れ落ちた粘土が、再び意味のある形に戻っていく。
止められないはずの崩壊が止まり、戻らないはずの死の歩みが、生へ向けて進んでいった。
程獲は蘇《よみがえ》ろうとしていた。
死に瀕《ひん》した肉親が、奇跡《きせき》を呼び起こし復活しようとしているのだ。
理由など、和穂には判《わか》らなかった。
だが、兄の体は見る間に元に戻っていく。
地面に横たわっていた程獲は、ゆっくりと体を起こした。
そして、古傷だらけだが赤みをました顔に笑顔《えがお》を浮かべた。
和穂は、嬉《うれ》しさのあまり兄の胸に飛び込もうとした。
「兄さん!」
両手を広げた和穂の動きが、ピタリと止まった。
「どうしたんだ、和穂?」
和穂はうなだれ、その手は顔を覆《おお》った。
「違う」
「何を言う! 俺《おれ》は程獲、お前の兄だ」
「違う」
手では押さえきれない程の、沢山《たくさん》の涙《なみだ》が和穂の目から零《こぼ》れた。
「違うわ。兄さんは死んだの。死んだのよ」
「俺が生きているのが、気にくわんのか」
「生きていて欲しい。でも兄さんは死んだのよ」
剛終は舌打ちした。動禁綱《どうきんこう》は作動《さどう》出来なかったのだ。
*
ガバと和穂は起き上がった。
今までスヤスヤと寝ていた和穂の慌《あわ》て振りに恵潤と殷雷は驚《おどろ》いた。
「どうした?」
和穂にも理解は出来ていない。だが、何かが何かを仕掛《しか》けている感触だけはあった。
「勇吾《ゆうご》君を起こした方がいい!」
*
勇吾は走っていた。
父様《とうさま》が何故《なぜ》自分を宿屋に置き去りにしたのか、理解出来なかった。
宿屋の夫婦《ふうふ》は優《やさ》しかった。一緒《いっしょ》に暮《く》らそうと、僕《ぼく》を一所懸命《いっしょけんめい》に説得していた。
だが、僕は父様の子供だ。父様と一緒に旅をするんだ。
父様がいつ、宿屋を出たのかは判らない。
けど、何としてでも追いつかなければならない。
勇吾は必死《ひっし》に駆《か》けていった。
道はやがて林道となり、林道は緩《ゆる》やかな峠道《とうげみち》となった。
心臓《しんぞう》が破裂《はれつ》しそうな程《ほど》激しく動いていた。
体の苦しみより、勇吾は道を間違《まちが》えたのではないかという恐怖に手を焼いた。
しかし、後戻《あともど》りは出来ない。
寂《さび》れた峠道には、行《い》き交《か》う者の姿すら見えなかった。道は狭《せま》く、谷側は絶壁《ぜっぺき》と呼んでいい程の高さがある。
勇吾は走る。
狭くなる一方だった道がふと広くなった。
峠を越える旅人に休息の場所を与える為《ため》なのだろうか、椅子《いす》代わりの大きな切《き》り株《かぶ》があった。
切り株は血に塗《まみ》れ、開いた鳳翼扇《ほうよくせん》が突《つ》き刺《さ》さっていた。
父様の持っていた宝貝《ぱおぺい》だ。
切り株の向こうに、足だけが見えている。
勇吾は生唾《なまつば》を呑《の》み込《こ》み、切り株の向こうを覗《のぞ》いた。
「父様!」
真っ赤な血が勇吾の父親の、腹《はら》から滴《したた》っていた。
切り株の向こうの父親にすがり、勇吾は何度も何度も叫んだ。
「父様! 父様!」
ピクリと、父親の体が動いた。
「父様、生きているんですね!」
父親の頬《ほお》に赤みが差していた。
静かだが深みのある声で、息子に話し掛ける。
「心配をかけてすまぬ、勇吾よ」
「どうして、どうして僕を置いて出掛けたりしたんです!」
「聞くな。
武人として、果たさねばならぬ事があったのだ。
死を覚悟《かくご》していたが、そう簡単には死ねぬものと見える」
置いて行かれた怒りは、みるまに消えていった。
今はただ、父親が無事であった事だけが嬉《うれ》しかった。
一人の女が、自分を見つめているのを勇吾は知っていたが、それは無視した。
父様は生きていた。
嬉《うれ》しさに、勇吾は父親にしがみついた。そして、只々《ただただ》喜《よろこ》んだ。
父親が生きていた喜びに、他の全てを忘れた時、剛終《ごうしゅう》は笑《わら》った。
この子供の心は完全に無防備《むぼうび》だ。
動禁綱《どうきんこう》はすぐさま、子供に巻きつき全身の骨をへし折るはずだ。まず命は助かるまい。
和穂《かずほ》を仕留《しと》めそこねはしたが、この子供の死が新たな心の傷になるはずだ。
子供の死を知り、奇跡《きせき》を祈った瞬間にもう一度仕掛けてやる。
和穂の心の中で、奇跡は起きるだろう。喜びの涙の中で、和穂の心も無防備となるはずだ。
程獲《ていかく》の死とは違い、それを乗り越えるだけの時間はない。
和穂も朽《く》ち果《よ》てた案山子《かかし》のように、全身の骨をへし折られるのだ。
*
「勇吾君を起こした方がいい!」
和穂の叫《さけ》びと同時に動禁綱は、いや剛終の宝貝《ぱおぺい》の中で動禁綱である部分は、地面を突き破《やぶ》り勇吾に襲《おそ》いかかった。
もとより、殷雷や恵潤に予測《よそく》出来る攻撃ではなかった。
動禁綱は、この罠《わな》の中|全《すべ》てに広がっていたのだ。
しかも動禁綱の使い手の気配《けはい》など、存在していない。
狡猾《こうかつ》な蛇《へび》が、一気に勝負を仕掛けるような素早さで、動禁綱は勇吾を捕《と》らえた。
が、そのまま、締《し》め上《あ》げる事は出来なかった。
恵潤や殷雷よりも、速く、鳳翼扇だけは勇吾を守る事に成功していた。
動禁綱はギシギシと勇吾を締め上げるつもりだったが、既《すで》に勇吾は鳳翼扇に包《つつ》まれている。
幾《いく》ら締め上げても、そう簡単に宝貝を破壊は出来ない。
だが、全く無駄《むだ》な攻撃でないのは、鳳翼扇から飛び散る、鳳凰《ほうおう》の七色の羽《はね》が物語っていた。
まるで、おが屑《くず》のように羽が飛び散っていく。
「和穂!」
殷雷と恵潤、どちらが叫んだのだろうか。
動禁綱の動きには後《おく》れをとった殷雷たちだが、それに続く動きは最善のものだった。
まず、殷雷が和穂に向かい飛《と》び跳《は》ね、爆煙《ばくえん》と共《とも》に刀《かたな》の姿に戻る。
和穂が殷雷刀を手にした時、恵潤は殷雷の持っていた真鋼《しんこう》の棍《こん》を掴《つか》んでいた。
そして、同時に恵潤と和穂は動禁綱に攻撃を仕掛《しか》けた。
焚《た》き火《び》の炎《ほのお》を写し込み、赤い残像を残した二つの攻撃は、正確に狙《ねら》いを定《さだ》めていた。
鋼《はがね》と鋼がぶつかる音。
鋼が割れる音。
棍と刀の軌道には、別の動禁綱が絡《から》まっていた。
棍と刀は、動禁綱を破壊したが、それは勇吾を捕まえた動禁綱ではない。
「同じ宝貝が複数あるだと!」
それは有り得ない話であった。
だが、動禁綱は罠の宝貝と融合しているのであった。
己《おのれ》を広げる能力を持つ、罠の宝貝。
その能力と同化して、動禁綱も己を広げる事を可能としていた。
殷雷はすぐさま、融合宝貝である可能性に気がついた。
動禁綱は、勇吾を巻いたまま土の中へと消えていく。
恵潤の髪《かみ》の毛が全て逆立《さかだ》つ。
「勇吾を返せ!」
土の中を進む勇吾の気配を、恵潤は読み取った。
罠の中心へと進んでいく。
我を失いかける恵潤を、殷雷は怒鳴《どな》った。
和穂の口から、殷雷の怒号《どごう》が飛ぶ。
「落ち着け! 鳳翼扇はまだ生きている!」
鳳凰の羽は、まだ宙を舞《ま》っていた。
もし、鳳翼扇が破壊されたのなら、この羽の輝《かがや》きも消えてしまうだろう。
恵潤の顔には冷静さは微塵《みじん》も残っていなかった。
「勇吾!」
叫ぶなり、棍を放り投げ、恵潤は駆《か》け出した。
大地を駆ける、しなやかな豹《ひょう》のように体勢を低くし、只《ただ》、勇吾の姿を追い求めて。
「恵潤、待て! 早まるな!」
もはや、恵潤の耳には何も聞こえていなかった。
取り敢《あ》えず棍を拾《ひろ》い、殷雷刀を持った和穂も恵潤の後を追った。
五
状況《じょうきょう》は圧倒的《あっとうてき》に不利《ふり》だと、剛終《ごうしゅう》の額《ひたい》を冷汗《ひやあせ》が流れた。
いかに術を封《ふう》じられたとはいえ、元|仙人《せんにん》、和穂《かずほ》の精神力は予想より遥《はる》かに、強靭《きょうじん》だったのか。
さらに、もう一人の子供すら仕留《しと》め損《そこ》ねたのだ。
今までにも、動禁綱《どうきんこう》の攻撃《こうげき》を防《ふせ》いだ鎧《よろい》の宝貝《ぱおぺい》はあった。
だが、それも時間と共に使用者の体力が保《も》たなくなっていた。
今は、長期戦が出来る状態ではない。
子供を助けようと必死《ひっし》になっている宝貝がいる。
呑気《のんき》に子供の体力が尽《つ》きるのを待《ま》つ訳《わけ》にいかない。
さあ、どうする。
深意鏡《しんいきょう》を宝貝に使って、どれだけの効果《こうか》があるだろうか。
人間に比《くら》べれば、精神力は強靭だと予想出来るし、動禁綱で破壊《はかい》出来る保証《ほしょう》すらない。
剛終は焦《あせ》った。
逃《に》げるに逃げられない。
それでも一《いち》か八《ばち》か、深意鏡に頼《たよ》るしか手はなかった。
*
恵潤《けいじゅん》に負けじと、和穂《かずほ》の体勢も低くなり、風のような速度で恵潤に追いつこうと大地を駆けていた。
めったやたら、足が動く割《わり》には、頭は全く揺《ゆ》れてはいない。
和穂の走方は全《すべ》て、殷雷《いんらい》が操《あやつ》っていた。
必死になる殷雷の心を、瞬間《しゅんかん》、白日夢《はくじつむ》のような幻《まぼろ》が襲《おそ》う。
同じように、和穂の体を操り大地を駆《か》けている。
目の前を走っているのは、恵潤ではなく程穫《ていかく》だ。
不意に速度が落ちた程獲の背中に向けて、殷雷は己《おのれ》の刀身《とうしん》をはしらせ、背後から程獲の心臓《しんぞう》を貫《つらぬ》く。
刃を伝わる、肉を割《さ》く感触《かんしょく》。
殷雷はすぐに我《われ》に返った。
*
やはり、さすがは宝貝《ぱおぺい》。心にやむ事はあっても、それを自分の都合《つごう》のいいように捩《ね》じ曲《ま》げたりはしないようだ。
捩じ曲げられないのなら、動禁綱《どうきんこう》の出る幕《まく》は一切《いっさい》ない。
ならば直接戦うまでか?
いかに鎧《よろい》があるとはいえ、二本の刀《かたな》と同時に戦うのは不利だ。
かといって、逃げる訳《わけ》にはいかない。
ならば、動禁綱で捕《つか》まえた子供を人質にとるか?
使えそうだが、果たして武器《ぶき》の宝貝に人質が通用するかが不安になった。
状況の分析《ぶんせき》に長《た》けた、武器の宝貝だ。
人質の安全を保証《ほしょう》するものなど、何もないとすぐに気がつくだろう。
さあ、どうする。
恵潤に対しては、まだ深意鏡《しんいきょう》を使ってはいない。
殷雷の様子《ようす》から推測《すいそく》すれば、恵潤に使っても似《に》たような反応が返るだけだろう。
だが、万が一の可能性に賭《か》け、剛終は恵潤に深意鏡を作動させた。
*
二人の男が、峠道《とうげみち》を歩いていた。
どれほどの道を歩いたのだろうか。行《ゆ》き交《か》う人の姿が消えて、だいぶたつ。
ここならば良かろうと、どちらともなく足が止まった。
少し開けた峠道には、椅子《いす》代わりの大きな切《き》り株《かぶ》があった。
一人の男は、緑色の鞘《さや》を腰《こし》に差していた。
恵潤刀《けいじゅんとう》である。
もう一人の男は腰に鳳翼扇《ほうよくせん》を差していた。
恵潤刀を持つ男は言った。
「仇討《かたきう》ちなど下《くだ》らん。
主《ぬし》も判《わか》っておるんじゃろうが」
鳳翼扇の男が答えた。
「左様《さよう》。充分《じゅうぶん》に承知《しょうち》しておる。
だが、それでもやめる訳《わけ》にはいかぬ事も、そなたには判っておられよう」
「わしのつまらぬ命がどうなろうが、わしの勝手《かって》じゃが、あまりに果てない話ではのう。
仇討ちは、さらなる仇討ちを呼ぶだけじゃからな」
「いや。もうこれで終わりに致《いた》す。
勇吾《ゆうご》は宿屋の夫婦に預《あず》けてきた。息子《むすこ》には平凡《へいぼん》な幸せを手に入れて欲しい」
恵潤刀の男は、顎髭《あごひげ》を撫でた。
「主と一緒にいた子供、やはり息子だったか。
鼻の形が似ておったわい。
まさか、こんな田舎《いなか》で主と会おうとはのう。
わざわざ追ってくるとは」
「それほど、真剣に探《さが》した訳ではござらぬが、その姿を見たからには、戦わぬ訳には参《まい》りませぬ。
……手加減《てかげん》は無用でお願いしますぞ」
「一度、刀を抜けば、加減など出来ぬよ」
腰帯《こしおび》から恵潤刀を鞘ごと外し、男は刃の輝《かがや》きを確かめるように、目の前で恵潤刀を抜いた。
そして、鞘を放り捨てる。
勇吾の父も鳳翼扇を抜く。
恵潤刀の男は、一気に踏《ふ》み込《こ》み刀をなぎ払った。
鋼《はがね》と鋼が削れる音が響《ひび》いた。
「おっと、無粋《ぶすい》な真似《まね》をしちまったな」
受けの為《ため》に開かれた鳳翼扇に、恵潤刀の刀傷が一本の線となってついた。
「見事《みごと》な太刀筋《たちすじ》」
それは、達人《たつじん》と達人の戦いだった。
あまりに拮抗《きっこう》した腕前《うでまえ》の戦いは、あまりにせつなく、単純な戦いだった。
続いて二人の男は同時に踏み込み、互《たが》いの攻撃を同時に食らった。
それは互いに致命傷《ちめいしょう》になった。
鳳翼扇の一撃は、男の内臓《ないぞう》をことごとく破裂《はれつ》させた。
恵潤刀がポトリと地面に落ちた。
男はそのまま、谷底へと転《ころ》げ落ちる。
恵潤刀の男の一撃は、刀とは信じられないような重さを持っていた。
切られはしたが、同時に背骨《せぼね》までもがへし折られている。
衝撃《しょうげき》で鳳翼扇は宙を舞《ま》い、トスンと切り株へと突き刺さった。
血を撒《ま》き散《ち》らし、勇吾の父親は切り株の向こうへ倒れ、じきに息絶《いきた》えた。
虫の音だけが、響《ひび》く。
そして、息急切《いきせきき》った勇吾が峠道に現れる。
周囲の血に茫然《ぼうぜん》としながらも、切り株の向こうに父親の躯《むくろ》を見つける。
「父様《とうさま》!」
何度も何度も、父親を揺《ゆ》すぶる子供。
地面を転《ころ》がっていた刀は、音もなく人の姿に変わった。
同じように地面に転がる鞘《さや》を拾い、ねじるように広げると、途端にそれは袖付《そでつ》きの外套《がいとう》になった。
泣き叫《さけ》ぶ勇吾の背後に立ち、恵潤は静かに言った。
「どうしたの、坊《ぼう》や?」
「坊やじゃない! 勇吾だ!」
「泣くのはおよしなさい。その人は、もう死んでいるのよ」
勇吾は涙を拭《ふ》きながら、立ち上がった。
そして、一所《いっしょ》懸命《けんめい》に鳳翼扇を切り株から取り外した。
「お姉さん」
「恵潤でいいわ」
「恵潤。嫌《いや》ならいいけど、父様の躯を運ぶのを手伝ってくれないか」
「構《かま》わないわよ」
恵潤は、死ぬ前の父親の願いを思い出していた。
果たしてこの少年は、父親の願いを叶《かな》えるのだろうか。
「勇吾。これからどうするの?」
「……父様の仇《かたき》を討つ」
この時、全《すべ》てを話すべきだったのだと、恵潤は後悔《こうかい》していた。
仇はすでになく、父親を殺したのは私の刃《やいば》だと。
だが、父親の仇を討つ為《ため》に、生きる気力を振り絞ろうとする勇吾の姿に、恵潤は真実を語れなかった。
「仇を取るのも楽じゃないでしょ」
「……大丈夫《だいじょうぶ》さ。
一所懸命に修行《しゅぎょう》して、凄腕《すごうで》の武人《ぶじん》になってやる」
「……良かったら、私が鍛《きた》えて上げようか?
そこらへんの使い手よりは、腕《うで》は立つと思うけどね」
*
駆《か》ければ駆けるほど、和穂と恵潤の距離は開いていった。
もはや、恵潤の姿は和穂には見えない。
心を通じて、和穂は殷雷に頼《たの》む。
『殷雷、私はいいから恵潤さんを追い掛けてちょうだい』
いかに肉体を操るとはいえ、和穂の体は生身《なまみ》の体だった。
疲労《ひろう》もすれば、あまり無茶《むちゃ》な動きも出来ない。
『だが、敵はどうやら宝貝《ぱおぺい》を融合《ゆうごう》させているようなんだぞ!
何をしでかすか判らないのに、お前を置いて行けるか!』
『きっと、大丈夫よ! さっきだって、夢で動揺《どうよう》させなければ何も出来ないみたいだったし』
殷雷は悩《なや》む。
恐らく問題はないだろう。普通に攻撃出来るのならば、もっとましな攻撃を仕掛けるはずだ。
『いいから、はやく。
今は勇吾君や恵潤さんを助けるのが先でしょ!』
『すまん、和穂』
途端、和穂は手に持った殷雷刀を思いっきり投げ飛ばし、そのせいで地面を転がった。
殷雷刀は空中で爆《は》ぜ、そのまま走り続けた。
じわじわと速度を上げ、恵潤の後を追い掛けていく。
*
恵潤は死にもの狂いで、地面を駆けていった。
このままでは勇吾の命がどうなるか、判《わか》ったもんではない。
恵潤の心に誰《だれ》かが呼び掛けた。
「少しは落ち着いたらどうだ」
誰が喋《しゃべ》っているか考えるまでもなかった。この巨大な罠《わな》を張った敵《てき》だ。
勇吾を奪《うば》った敵だ。
恵潤は吠《ほ》えた。
「勇吾を返せ!」
視界の中を景色は線となって流れていく。もうすぐだ。もうすぐで罠の中心にたどりつくはずだ。
「慌《あわ》てるな。取り引きをしようじゃないか」
ゴオゴオ、ゴオゴオと風が耳の横を飛び去っていく。
風圧で押しつけられながらも、恵潤は残酷《ざんこく》な笑顔を浮かべた。
「取り引き? まさか勇吾を人質にするんじゃないだろうね。
生憎《あいにく》、その手には乗らないよ。
お前は信用出来ない。いいように扱《あつか》われて勇吾を殺されたんじゃたまらないからねえ。
どうしても取り引きしたいってんなら、すぐに勇吾を離せ!!
そうすれば、八《や》つ裂《ざ》きだけは勘弁《かんべん》してやろうじゃない」
足と地面が触れるたび、地面を通して声は心に届《とど》いていた。
だが、これだけの速度で地面を駆けていれば、ずっと地面に足がついているようなものだった。
「勇吾の命は保証しよう。と、いっても信用はできまいな。
では、これでどうだ。
私の願いを聞いてくれるのなら、勇吾にあの秘密はばらさないでおいてやろう」
「……秘密だと?」
「お前が勇吾の父親を殺した事だよ」
恵潤の心に動揺《どうよう》が走った。
「何の話だ!」
剛終《ごうしゅう》は、あえて話をじらす。
「勇吾のようなガキが、生きていようが死んでいようが、俺《おれ》にはたいした違いはない。
いや、あえて命は助けてやる。
その代わり、勇吾に恵潤刀が父親を切り殺したという事実を教える。それでいいのか?」
「き、貴様《きさま》!」
「良かったな。どちらにしろ、勇吾の命は助けてやる。
事実を知って生き延びるか、事実を知らずに生き延びるか。
好きな方を選べ」
怒りにはらわたが煮《に》え滾《たぎ》る。だが、恵潤には逆らう術《すべ》は無かった。
「……どうしろというんだ? 私に殷雷を倒せとでも言いたいか!」
「さすがは、武器の宝貝。状況の判断能力は素晴《すば》らしいものがあるな。
だが、少し違う。
殷雷を倒してもらうが、その前に私の宝貝たちと融合してもらおう。
生憎、土壇場《どたんば》で裏切《うらぎ》られるのは不愉快《ふゆかい》なもんでね」
もう少し、もう少しで罠の中心だ。
恵潤は考えながらも駆けた。
「そろそろ、俺の姿も見える頃だろ。
そのまま一気に俺を倒してもよかろう。
まあ、その前に真実を語る余裕《よゆう》はあるだろうがな」
恵潤の視界に、鎧《よろい》を着た男の姿が映った。男の隣には、鉄の繭《まゆ》のような塊《かたまり》がある。
あの中に勇吾はいるのだ。
恵潤の走る速度は徐々《じょじょ》に落ちた。
血を吐《は》き出すような声で、恵潤は剛終に言った。
「判った」
「よろしい。では融合してもらおう」
六
「謝《あやま》ってすむ問題じゃないのは、判《わか》っているの。
だから謝りはしない。その代わり、私を憎《にく》んで頂戴《ちょうだい》、殷雷《いんらい》」
罠《わな》の中心には、鎧《よろい》を着け斧《おの》を持った男が一人|佇《たたず》んでいた。
その横には動禁綱《どうきんこう》に巻きつかれた勇吾《ゆうご》。そして、殷雷の前には恵潤《けいじゅん》が立ちふさがっていた。
恵潤の髪《かみ》は、いつもよりさらに長く伸《の》びていた。
だがいつもの艶《つや》やかな黒色ではなかった。錆《さび》を思わせるくすんだ赤色の髪は、地面の中へと溶《と》け込んでいる。
恵潤の顔には、血管《けっかん》のような不自然《ふしぜん》な脹《ふく》らみが幾《いく》つか見て取れた。
殷雷の声は、只々《ただただ》静かだった。
「恵潤。お前の選んだ事だ。
俺《おれ》はとやかく文句《もんく》は言わないよ」
「いっそ憎んでくれたほうが、私は幸せなのに。
こんなにもつまらない理由で、殷雷を裏切るなんて、自分でも泣けてくる。
勇吾に事実を知られたくない、それだけの理由で私は殷雷を倒そうとしている《′》」
「お前をそこまで追い詰めた、外道《げどう》の名前を教えておくれ」
鎧の男は笑って答えた。
「剛終《ごうしゅう》だ。
さあ、感動の対面なんぞに時間を割《さ》いてる暇《ひま》はない。
さっさとそいつを片づけてしまえ。
恵潤は、俺の操《あやつ》り人形なんだからな」
静かに殷雷は言った。
「融合宝貝《ゆうごうぱおぺい》か」
「そうだ」
恵潤がゆらりと、殷雷の前に立ちふさがった。
そして、軽く踏《ふ》み込《こ》み様子見の一撃が殷雷に放《はな》たれた。
ガスン。
殷雷は攻撃を避《よ》けも防御《ぼうぎょ》もしなかった。
恵潤の頬《ほお》を涙《なみだ》が流れる。
「殷雷、戦って。そして私ごと宝貝を破壊《はかい》して剛終を倒してちょうだい」
涙を流しながらも、重い蹴《け》りが殷雷の腹《はら》にめり込む。
ヨタヨタとしながら、殷雷は笑った。
「お前に倒されるなら、本望《ほんもう》だ」
だんだんと、心と体の隙間《すきま》が大きくなっていると恵潤は感じた。
心とは裏腹に、殷雷への攻撃は続いていった。
言葉だけが、心を伝えた。
「何を言ってるの! あんたは和穂《かずほ》を護《まも》らなきゃいけないんでしょ!
こんな所で、こんな無様《ぷざま》な倒れ方をしてもいいっていうの!」
沈《しず》む拳《こぶし》に、しなる蹴り。
ふらふらと殷雷は地面に倒れた。
恵潤は殷雷に馬乗りになり、彼の首の骨を折ろうとした。
「お願い、殷雷。戦って!」
口許《くちもと》からは血を流し、目に痣《あざ》を作りながら殷雷は呟《つぶや》いた。
「よくきけ恵潤。
お前は剛終の宝貝《ぱおぺい》と融合してしまった。
だが、逆に言えば、勇吾を捕《つか》まえている宝貝もお前の一部なんだ。
恵潤。
剛終を倒せ」
剛終は首を横に振った。
「小声で話して、俺《おれ》に聞こえないとでも思ったか? そんな事が出来ると思うか?
俺が今の恵潤刀の使用者なんだぞ? それを裏切る真似《まね》が出来るとでも」
恵潤の指が、殷雷の骨を軋《きし》ませる。
「殷雷! 戦って。裏切る裏切らないじゃなくて、私の体は自由が効《き》かないのよ! これ以上あなたを傷《きず》つけたくない」
「へっへっへ。俺だってお前を傷《いた》めつけたくないんだよ。
恵潤。俺の事は心配するな。それよりものっとるんだ。
お前になら、きっと出来るはずだ!
頑張《がんば》るんだ! 勇吾を助けろ!
剛終の宝貝を剛終ではなく、お前の意思で動かしてやれ!」
鎧の奥で剛終の目が光る。
「不可能だな」
「殷雷! 見損《みそこ》なったよ! あんたはもっと命懸《いのちが》けで和穂の護衛《ごえい》をやっていると思った。
それがなによ、この様《ざま》は!」
殷雷は言った。
「いいんだ。どっちにしろそろそろ俺の体にゃガタが来てる。
幾《いく》ら頑丈《がんじょう》で再生能力に優《すぐ》れる武器の宝貝でも、戦いっぱなしじゃいつか折れる。
お前に会えた時は、本当に嬉《うれ》しかった。
お前になら和穂を託《たく》せる。俺が死んだら、和穂をよろしく頼《たの》んだぜ」
恵潤の動きがピタリと止まった。
そして、ゆっくりと立ち上がる。
動禁綱《どうきんこう》に捕《と》らわれていた勇吾も、吐き出されるように地面に放り出された。
剛終は驚《おどろ》く。
「そ、そんな馬鹿な!」
「よし、それでいいぞ恵潤!」
だが、殷雷は事態《じたい》の深刻《しんこく》さに全《まった》く気がついていなかった。
「どうした恵潤!」
恵潤は言った。
「私は恵潤ではない。
私は恵潤ではないもの。私は誰《だれ》だ。私は何の宝貝なのだ?」
罠《わな》、綱《つな》、鏡《かがみ》、鎧《よろい》、斧《おの》。
全《すべ》てがまとまったが故《ゆえ》に、どれでもないもの。
自分が何であるかの意味を失《うしな》った宝貝は、あまりに脆《もろ》い。
バキリバキリと恵潤の体に亀裂《きれつ》が走っていった。
動禁綱の戒《いまし》めから放たれた勇吾は、急いで恵潤のもとへと走った。
「恵潤! どうしたんだ、しっかりしてくれ!」
同時に鎧を着た剛終が悲鳴を上げ、天を覆《おお》っていた罠は再び開かれた。
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終 章
和穂《かずほ》が勇吾《ゆうご》たちの所に到着《とうちゃく》した時、全《すべ》ては終わっていた。
一人の男が全身に切り傷を作り、恐怖《きょうふ》にうちふるえている。
勇吾は何かを殷雷《いんらい》から庇《かば》うように、両手を広げていた。
息急切《いきせきき》って駆《か》けつけた和穂は、勇吾が庇っているのが宝貝《ぱおぺい》の残骸《ざんがい》だと知った。
発作的《ほっさてき》に蠢《うごめ》く残骸。
殷雷は言った。
「ひとおもいに殺してやれ」
勇吾は強く首を振《ふ》った。
「駄目《だめ》だ! 恵潤《けいじゅん》はまだ生きているんだろ」
「それはもう恵潤じゃない」
*
心は同時には一つの事しか考えられない。
楽しみながら悲しむ事は出来ない。悲しみと楽しさの中間の気持ちはあっても、二つの感情を同時に感じるのは不可能《ふかのう》だ。
だがその時、恵潤の心は同時に六つの感情を持ち合わせていた。
それは既《すで》に心ではないのかもしれない。
六つは全《すべ》て悲しみの感情だったが、それぞれの悲しみは違《ちが》う悲しみだった。
悲しみの一つは叫《さけ》んだ。
『勇吾《ゆうご》! 私はまだ死ねない! 勇吾はまだ未熟《みじゅく》なんだ。
私がついていてやらないと!
頼《たの》む、私の心から離《はな》れてくれ!』
心たちは悲しみの色を変えた。
叫んだ心は事実に気がつく。
自分以外の心は、意思を持たない宝貝《ぱおぺい》のものだ。
会話は成立しないのか?
だが、私は勇吾にもう一度会いたい。
どうすればいい?
融合《ゆうごう》している。融合しているのなら、私の意思を相手も使えるはずだ。
『私の意思を六つに分けた。さあ、自由に使ってちょうだい。
早く、崩壊《ほうかい》が終わるまでに!』
途端《とたん》、世界は開けた。どこまでも果てがない、うすぼんやりとした白い世界。
心は互《たが》いに心を見た。
それは六人の恵潤だった。
『意思など煩《わずら》わしいだけだ。道具に意思など必要ではあるまいよ』
五人の恵潤はうなずいた。五人に向かうのは一人の恵潤だった。
『迷惑《めいわく》なのは承知《しょうち》です。
でも、お願いします。私は勇吾の所に戻《もど》らねばならないんです!』
かつて動禁綱《どうきんこう》だった恵潤は言った。
『願いは虚《むな》し。全ての願いはついえている』
『お願いします』
鎧《よろい》だった恵潤が笑う。
『綱《つな》の言う通りだ。お前の願いは叶《かな》えられぬよ。気《き》の毒《どく》だが刀《かたな》よ、これはお前だけの体ではない。
我等《われら》は一つ、離れられぬ。叶う願いは安らかな死のみだ。
何でもないという苦しみから、逃《のが》れられるだけ幸せだ』
刀は言った。
『ですが、勇吾は、私を必要としているのです』
斧《おの》が笑う。
『その私がもういない。お前は恵潤|刀《とう》ではないのだよ』
ゾクリ。悪寒《おかん》が走った。
罠《わな》が言った。
『なぜ、勇吾に会いたいのかね?』
『勇吾が私を必要としているからです』
鏡《かがみ》は首を横に振った。
『殷雷《いんらい》がいるではないか』
刀は返答に困《こま》ったが、鏡は続けた。
『勇吾が、恵潤刀を必要としているのではなく、恵潤刀が勇吾を必要としているのだ』
『否定はしません。ですが、私は勇吾を一人前にするまでは』
刀以外の宝貝たちが一斉《いっせい》に笑った。
『面白《おもしろ》い、面白い。われらは一つの心であるくせに、刀だけが気付いていないとはな』
五人の恵潤の声は、完全に揃《そろ》っていた。
だが、刀の恵潤には笑いの意味が判らなかった。
『何が可笑《おか》しい!』
罠が笑う。
『答えは一つ』
刀は怒《いか》りに打ち震《ふる》えた。秘《ひ》められているとはいえ、武器の宝貝には強い感情がある。
『もともと、意思があるのは私一人だ! お前ら五体の宝貝を従《したが》えてやる!』
斧が優《やさ》しく首を振った。
『笑った事は謝《あやま》ろう。だが、我等《われら》を従えるのは無意味だ。我等は我等なんだからな』
罠は笑い続けた。
『刀よ。我等は一つになってしまったのだ。
それを受け入れろ。
もしも、それが受け入れられなければ、一つの心は砕《くだ》け散《ち》り、宝貝は崩壊《ほうかい》する』
刀は虚《うつ》ろな気分になりつつも、しっかりと考えた。
無理やり一つにされた心。だが、私が判らない事を他の五体の宝貝は知っている。
私が一つの心になるのに、抵抗《ていこう》しているからだろう。
私はまだ、ちゃんとした恵潤刀の魂《たましい》を持つ恵潤刀なのだ。
恵潤刀は考えた。そして、二通りの手があり、その結論が一緒《いっしょ》であると知った。
一つの心になるのに抵抗すれば、宝貝の中に複数の心がある事になる。
心は裂けて、宝貝もやがては砕け散るだろう。これが今の状況だ。
もし、一つの心になったとすれば?
『もし、私があなたたちと同じ、一つのものだと納得《なっとく》したら?』
鏡が答えた。
『なんでもない物として、己《おのれ》の存在意義《そんざいいぎ》を失ってしまう。
崩壊だ』
『ならば、どう足掻《あが》いても!』
斧が道を示す。
『いや、そうでもない。なんでもない物が崩壊する前に、お前の心が強ければ一時的に形を取り戻すかもしれんぞ』
刀は唾《つば》を飲《の》む。
『でも、それは私ではない』
『そう。だが、一部はお前だ。勇吾と口をきく願いは、ほんの少しだけ叶う』
『そのまま、勇吾と一緒に』
五人は言った。
『それは叶うまいよ。我等六体はあくまでも対等。少なくとも、五体は勇吾と旅をするつもりは毛頭《もうとう》ない。
口をきくぐらいなら、かまわんがな』
恵潤は悩んだ。勇吾には会いたい。だが、勇吾に会うのは私とは違うものだ。
たとえ、それの中に自分が含まれていても違うものだ。
だが、それしか会う道はない。
恵潤刀は答えた。
『判った。全てを受け入れる』
*
不規則な動きが意味を持ち出した。
残骸《ざんがい》でしかなかったものが、ゆっくりと形を取り始めたのだ。
それは、幾《いく》らか奇妙《きみょう》な鎧をつけた風体《ふうてい》ではあったが、間違いなく恵潤であった。
軽く咳《せ》き込みながら、上体を起こした恵潤に勇吾《ゆうご》は飛びつこうとした。
が、殷雷《いんらい》に首根っこを捕《つか》まえられた。
文句《もんく》を言おうと勇吾は殷雷の顔を見たが、その表情はあまりにせつなかった。
和穂《かずほ》は少し脅《おび》えた声で、恵潤に言った。
「恵潤さんじゃないよ。あなたは誰《だれ》?」
酷《こく》な質問に、何でもない物は心の動揺《どうよう》を隠《かく》しきれなかった。
「その質問だけはやめてくれ」
勇吾はただ喜《よろこ》んでいた。
「恵潤。生き返ったんだね!」
彼女は一々《いちいち》勇吾の言葉を否定しなかった。
それは宝貝自身の心を揺《ゆ》さぶりかねなかったからだ。
悲しみと悔《くや》しさの籠《こ》もる声で、殷雷は言った。
「融合《ゆうごう》宝貝なんだろ? どうして分離しない!」
宝貝たちは事情を簡単に説明した。
殷雷の歯が岩石を砕《くだ》いたかのように、噛《か》み合わされ、剛終《ごうしゅう》に殺気《さっき》じみた視線を送った。
「あの野郎! なんて事を」
宝貝たちは勇吾を呼び寄せた。
殷雷が宝貝たちを見る目は、警戒心《けいかいしん》に溢《あふ》れたものだった。間違《まちが》っても恵潤にはこんな視線を一度も浴びせてはいない。
しばし思案の後、殷雷は勇吾から手を離して、棍《こん》を構《かま》えた。
妙《みょう》な素振《そぶ》りを見せたら破壊《はかい》するつもりだ。
恵潤と同じ形をした物を、いつでも破壊出来るように構える殷雷の姿を見て、和穂の目から、少しずつ涙《なみだ》が零《こぼ》れた。
勇吾には、融合宝貝の話が理解出来ていなかった。
少し妙だが、目の前にいるのは確かに恵潤だと思った。
「良かった、恵潤」
恵潤の姿をした者の心が痛む。それはかつて刀だった心の痛みだった。
「勇吾よ。お前に大切な話があるのだ」
「どうしたの? 喋《しゃべ》り方がいつもと違うじゃないか」
彼女は首を横に振った。
何を否定しているのか、彼女にも判《わか》らなかった。
「勇吾。お前の父親を殺した仇《かたき》は死んでいるんだ」
途端、殷雷の棍が走り宝貝たちの眉間《みけん》の寸前で止まった。
「何を言う気だ!」
当たってはいないが、目の前に棍を突きつけられ恵潤の姿をした者は軽く頭痛《ずつう》にも似た、不快感を感じた。
「破壊したければ、止めはしない」
勇吾は一所《いっしょ》懸命《けんめい》に殷雷の棍を動かそうとしたが、ピクリとも動かなかった。
「やめろ、殷雷! それに恵潤、父様《とうさま》の仇が死んでるってどういう意味なの?」
「相打《あいう》ちだったのだよ。相手の死体は崖《がけ》から落ちたのだ」
まだ短い人生とはいえ、短いが故《ゆえ》に勇吾にとって、大きい人生の目標が、否定されたのだ。
「そんなの嘘《うそ》だ。だいたい、どうして恵潤にそんなのが判るんだよ」
ここで棍を打ち抜けば、恵潤が必死に隠《かく》していた事実を勇吾が知る事はなくなる。
棍を握る手に、ゆっくりと力が集まっていく。
「……言うな。黙《だま》って崩壊《ほうかい》しろ」
顔も同じで当然目も同じ。だが、眼光はいつもの恵潤ではない。武器の鋭さはない。
「恵潤刀が斬《き》ったんだ。お前の親父《おやじ》をな」
殷雷は棍を動かさなかった。
和穂には判った。これは恵潤と同じ形をした物を壊せなかった甘さではなく、勇吾に対する厳《きび》しさなんだと。
鳳翼扇《ほうよくせん》の傷。あれは恵潤刀の傷なんだと和穂は知った。殷雷は一目でそれを見抜いていたのだ。
*
いくら同じ顔をしていても、こいつは恵潤ではない。だからこんな口から出任《でまか》せを言っているに違いない。
勇吾はそう考え、口を開こうとした。だが、前歯の裏《うら》に舌がべっとり張り付き言葉が出ない。口の中がからからになっているのだ。
そうだ、殷雷なら恵潤を侮辱《ぶじょく》するようなこんな言葉を許《ゆる》すはずがない。たとえ軟弱《なんじゃく》な奴《やつ》でも恵潤の為《ため》なら本気で怒《おこ》るはずだ。
口の中から一滴《いってき》の唾《つば》もなくした勇吾は、殷雷の顔を覗《のぞ》く。
殷雷は黙《だま》っていた。
『どうした、どうして怒らないんだ!!』
殷雷は歯を食いしばり、その横では和穂が咳込《せきこ》むように口の前に手を当てていた。それは、あまりに残酷《ざんこく》な現実に言葉を失《うしな》った顔だった。
『和穂姉ちゃん、どうしてこいつの言葉を疑《うたが》わない!!』
血の気が引くのと同じ速度で、勇吾は理解した。
本当の話なのだ。殷雷はとっくに知っていて、和穂も薄々《うすうす》気がついていたのだ。
勇吾の舌が自由を取り戻した。唾の代わりに血が巡《めぐ》りはじめたようだった。
「そうか、そうだったのか。よってたかって僕《ぼく》を騙《だま》していたんだな!!」
和穂が言った。
「違う、騙すつもりは殷雷にも恵潤さんにもなかったはずよ」
恵潤の姿をした者は笑う。
「そうだ。騙すなんて一人前の扱《あつか》いはしていない。只《ただ》、憐《あわ》れんでいたんだよ。情けを押し付けていい気になっていたんだ」
剛終《ごうしゅう》の攻撃でかなり傷《いた》んではいたが、鳳翼扇《ほうよくせん》は生きていた。勇吾は、すがるように扇《おうぎ》を構《かま》えた。真の殺気をその目に宿《やど》し、勇吾は言った。
「今こそ父様《とうさま》の仇を討《かたきう》つ……」
殷雷は言った。
「やめろ、勇吾」
「黙《だま》れ。邪魔《じゃま》をするなら、貴様《きさま》とも戦うだけだ」
恵潤の姿をした者は言った。
「長くは保《も》たぬこの体だが、他人にむざむざ破壊はさせぬぞ」
恵潤の姿をした者は構えをとった。いびつな構えだったが、隙《すき》のある構えではなかった。
*
なんと辛《つら》い戦いだと、和穂の心は擦《す》り潰《つぶ》されそうだった。恵潤の姿をした者の行動が読めない為《ため》、殷雷は和穂を庇《かば》いながら立っていた。目の前では、彼女と勇吾が切り結んでいる。彼女の片手は鋼《はがね》の輝《かがや》きを持つ無様《ぶぎま》な刀に変わっていた。勇吾を抑《おさ》えようとすれば、その際を突き、彼女が勇吾を狙う。だが、彼女を攻撃しては、戦いを止めさせる意味がない。勇吾の代わりに彼女を倒すだけになる。
殷雷が悩む間にも、恵潤の姿をした者の動きから滑《なめ》らかさが消えていった。勇吾と彼女の強さはやがて拮抗《きっこう》し、ついに勇吾は彼女の致命的《ちめいてき》な隙を見つけた。
*
地面に恵潤の姿をした者ははいつくばり、勇吾は大扇を上段に構えた。このまま振り下ろせば、彼女は破壊されるだろう。殷雷に勇吾の邪魔は出来ない。その際に彼女は最後の一撃を仕掛けるだろう。
勇吾の目に涙が流れた。
恵潤の姿をした者は言った。
「そうだ、これが正常だ。辛い事から目を逸《そ》らせてやっても、それは優《やさ》しさでもなんでもない。辛い事にぶち当たって歪《ゆが》むような心ならそれまでだ。辛さを越えるのに必要なのは、自分の心の力だけなのだ。判《わか》ったか殷雷刀よ。こんな簡単な事に気が付かぬとは、恵潤もお前も同じ欠陥を持つ宝貝だったようだな。
どうだ、勇吾。苦しいか? 辛いか?」
勇吾は噛《か》みしめるように言った。
「ああ、苦しいよ。辛いよ」
「け。興味《きょうみ》はないがな。さあ、さっさと殺せ!」
勇吾はぐしゅぐしゅと鼻水をすすりながら言った。
「苦しい、苦しいよ。……でも、ありがとう恵潤」
「まだ、そんな事をほざくか!」
「お前の言うとおりだ。恵潤も殷雷も間違えていた。でも、間違えていても、僕にこんな苦しい思いをさせたくなかった、恵潤の気持ちが今は嬉《うれ》しくて仕方がない。その事に気づかせてくれた他の宝貝にも感謝しなくちゃ」
勇吾はゆっくりと大扇の構えを解いた。そして、恵潤の姿をした者にもう一度礼を言った。
彼女は黙《だま》っていた。
勇吾は和穂に顔を向けた。
「和穂姉ちゃん。短い間だったけど、御世話《おせわ》になりました」
「勇吾君。一緒に旅をしようよ」
勇吾は首を横に振った。
「いや、一人で武者修行を始めます。
僕が一人前になるのを、恵潤は望《のぞ》んでいた。恵潤の願いを早く叶《かな》えたいんです」
和穂が口をはさんだ。
「でも、勇吾君はまだ」
殷雷は和穂の頭を小突《こづ》いた。
「子供扱いはするな。自分の考えで行動出来たら、それで一人前なんだよ。
よお勇吾。餞別代《せんべつが》わりにいいものをやろうか」
和穂の断縁獄《だんえんごく》の中から、殷雷は一振《ひとふ》りの刀を取り出した。
「ありがとう、殷雷」
「何、安物だが頑丈《がんじょう》そうなやつだ」
殷雷と和穂、そして恵潤に勇吾はペコリと頭を下げた。
「それじゃ、僕は行きます」
和穂が止めた。
「ね、もう少し一緒に行こうよ」
「いやあ、あんまり一緒だと別れるのが余計《よけい》に辛《つら》くなりますから」
言い残し、和穂に鳳翼扇《ほうよくせん》を返し、勇吾は街道《かいどう》を走っていった。
恵潤の姿をした者は自虐的《じぎゃくてき》に笑った。
和穂は笑いの中に悲しさを見た。
「どうしたの」
「笑うではないか。普通の宝貝の時はろくに役に立たなかったくせに、こんな化け物になってから、感謝の礼をいわれるとはな」
彼女は笑った。笑いの中で、以前|斧《おの》だった意思が、全体の意思から離れた。それを追うように鎧《よろい》の意思も離れた。
鎧は斧に言った。
「どうした。また別の心に戻るか」
「…………」
「隠《かく》しても無駄《むだ》なのは、判っているだろ。俺《おれ》もお前と同じ気持ちだ」
斧と鎧が離れ、恵潤の姿をした者の笑い声はさらに悲しくなった。
続いて、鏡《かがみ》と綱《つな》、そして罠《わな》の心が離れた時には、彼女は只《ただ》泣いているだけだった。
いや、その瞳《ひとみ》は、恵潤の瞳だった。
流れる涙を拭《ぬぐ》う仕種《しぐさ》に殷雷は恵潤を見た。
「……恵潤なのか?」
恵潤はこくりとうなずく。
恵潤の心の中に、宝貝たちの心が響《ひび》いていた。五つの心は一つの声で言った。
『恵潤よ。
お前は愚《おろ》かな間違いを起こしていたが、勇吾にとってはかけがえのないものだった。
必要とされる喜び、それがお前の間違いを引き起こしたが、それ無くしてなんの宝貝か。
我等《われら》も、再び誰かに使われたいと考えた。そこで、新たな存在意義《そんざいいぎ》を見つけた』
声がばらばらになった。
『我は刀《かたな》の中にある、斧の属性』
『我は刀の中にある、鎧の属性』
『我は刀の中にある、罠の属性』
『我は刀の中にある、鏡の属性』
『我は刀の中にある、綱の属性』
そして、また一つにまとまる。
『共《とも》にやっていこうではないか。意思《いし》は全《すべ》て恵潤刀に任せる。我等は刀の中の一機能としてでも、存在価値を見出《みいだ》そうと思う。
我等の力が必要ならば存分に使ってくれ。
勿論《もちろん》、嫌《いや》であれば仕方《しかた》がないが』
涙の中に笑顔が混じった。
『嫌な訳《わけ》ないでしょ』
心の中の会話も知らず、殷雷は飛び上がって喜《よろこ》んだ。
和穂も慌《あわ》てて、勇吾を呼び戻そうとした。
だが、恵潤は和穂の肩《かた》に手を当て、首を横に振った。
「勇吾は一人でやっていけるよ。私が鍛《きた》えたんだからね」
和穂は弾《はじ》けるような笑顔《えがお》で返事をする。
「はい、そうですね」
心の問題はけりがついたが、恵潤の体の方も少し厄介《やっかい》だった。
人の形にまとまってはいるが、所々《ところどころ》、違和感が拭《ぬぐ》えない。
嬉《うれ》しそうな殷雷の顔に、恵潤は少し申《もう》し訳《わけ》なさそうな顔をした。
「殷雷。ちょっと今の体に慣《な》れるまでは時間が掛かりそうだから、しばらくは断縁獄《だんえんごく》の中で休ませてもらうよ」
「ああ。ゆっくり養生《ようじょう》してくれ」
かくて、恵潤刀は旅の同行者となった。
殷雷は大喜《おおよろこ》びしたが、殷雷の喜びの本当の意味を和穂はまだ知らなかった。
*
少年と少女は仲良く、石蹴《いしけ》りをして遊んでいた。
少年の名は綜現《そうげん》、少女の名は塁摩《るいま》。
ここは、どこまでも普通の世界に似ていたが、造られた世界、断縁獄《だんえんごく》の中だった。
どこまでも外の世界に似ている為《ため》、あるものにとっては牢獄《ろうごく》を思い出させた。
綜現と塁摩は、そんな事は考えもせずに石蹴りに熱中していた。
そんな二人を見つめる、一人の娘がいた。
髪《かみ》の毛を襟足《えりあし》で切りそろえた、すらりとした美人。名は流麗《りゅうれい》。
仲良く遊ぶ二人を、悔《くや》しそうに手拭《てぬぐ》いを噛《か》み締《し》めながら見つめている。
唐突《とうとつ》に、恵潤《けいじゅん》が現れたが、取り立てて誰《だれ》も驚《おどろ》きはしなかった。
恵潤は流麗に話し掛けた。
「はっはっは。あんたたちがここでは先輩な訳《わけ》ね」
「…………」
沈黙《ちんもく》が苦手《にがて》な恵潤は、二人の子供の側《そば》に歩み寄った。
恵潤は子供の視線にしゃがみ、自己紹介《じこしょうかい》を始めた。
「こんにちは、私は恵潤。よろしくね」
「わたし、塁摩」
「僕《ぼく》は綜現です」
二人の頭を撫《な》でながら、恵潤は綜現の顔を見つめた。
「どうしたんです、恵潤さん?」
「ううん。あなたと同じ年頃《としごろ》の友達が、外の世界にいたのよ」
恵潤と綜現の話を聞き、流麗はさらに手拭いを噛み締めた。
「……どうして、どいつもこいつも私の綜現にちょっかいを出すの!」
断縁獄の中は、それなりに平和であった。
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あとがき
てなわけで、あとがきである。
さて今回のあとがきには、どの様な趣向《しゅこう》を凝《こ》らしておるか、いかに賢明《けんめい》なる読者諸君でもそう簡単には判《わか》らないであろう。
もしも、ここまで読んだだけで、
「ははあん。
さては奴《やつ》め、ネタによほど詰まったと見えて、とうとうアレをやらかしたな。
いやはや、墓穴《ぼけつ》を掘るとは、まさにこの事じゃないか」
と、推理《すいり》出来たなら、あなたは立派《りっぱ》な探偵《たんてい》である。
明日からは、さりげない一言だけをヒントに、ドンドン連続殺人事件の犯人をとっ捕《つか》まえてくれ。
「やかましい。
なにを勿体《もったい》つけてほざいていやがる」
てな意見も出て来そうなので、さっさとネタを明かそう。
今回のあとがきは、原稿用紙に手書きでやらかしているのだ。
しかも、富士見書房特製の原稿用紙を使用するという念の入れようだ。
だからどうした? と、問うなかれ。
原稿用紙の升目《ますめ》を埋《う》めるのなんざ、学生の時以来だろう。
まあ、印刷すれば皆同じ、見分けはつかないわな。
それにしても、原稿用紙に向かう時に感じるこのプレッシャーはなんであろうか……。
いや嘘だ[#「いや嘘だ」に傍点]。
俺はこのプレッシャーの原因を知っている[#「俺はこのプレッシャーの原因を知っている」に傍点]。とてもよく知っている[#「とてもよく知っている」に傍点]。
*
しょわしょわと蝉《せみ》の鳴き声が聞こえる教室に俺《おれ》は居《い》た。
なんで昼間の教室は[#「なんで昼間の教室は」に傍点]、こんなに暗いんだ[#「こんなに暗いんだ」に傍点]。
なんで電気をつけても昼間の教室は[#「なんで電気をつけても昼間の教室は」に傍点]、薄暗いんだろう[#「薄暗いんだろう」に傍点]?
俺以外にも、数人の子供[#「子供」に傍点]が椅子に座っている。
外では別の子供の、はしゃぐ声がしている。
ドッヂボールでもやっているのだ。
外に比《くら》べて教室の中のなんと静かな事か。
俺はドッヂボールに参加する資格がない[#「俺はドッヂボールに参加する資格がない」に傍点]。
教室に居るのは、参加する資格がない子供たちだ。
恨《うら》めし気《げ》に俺は黒板を見た。
何度見ても同じ言葉が書かれている。
『作文
テーマ「遠足」
原稿用紙三枚以上
・終われば自由時間』
俺は視線を机の上の原稿用紙に落とした。
そこには、名前とテーマ、そして有無《うむ》を言わさぬ完璧《かんぺき》な本文が書かれていた。
きのう、遠足に行きました。
この完璧な文章に、何を付《つ》け足《た》して三枚もの原稿用紙を満たせというんだよう。
俺の前に座《すわ》っていた奴《やつ》が、やっとの事で作文を仕上げ、教師に作文を持って行った。
だが、そいつの作文は却下《きゃっか》された。
三枚目の原稿用紙に、二文字しか書かれていなかったからだ。
「二枚と半分以上書かなきゃダメだからね」
なんてこったい。
*
思わず違い目の嫌《いや》な思い出が蘇《よみがえ》ったが、作文にあれだけ苦しんでいた俺でも小説家が務《つと》まっているのである(いや、たぶん)。ワープロの何と素晴《すば》らしい事か。
それにしても、もし俺が教師ならば、「きのう、遠足に行きました」という作文に百点をやるぞ。「きのう、遠足に行きました。猫《ねこ》がいました」でも百点だ。が、「きのう、遠足に行きました。楽しかったです」は零《れい》点。
なぜだか、判《わか》るね?
とかなんとか書いてると、原稿用紙にも結構《けっこう》慣《な》れてきたかもしれない。
もう、作文も怖《こわ》くないやい。
それに汚《きたな》い字ではあるが、いかにも生原稿という感じが(生原稿に違いないけど)してなかなかよろしい。
机の周りに散乱する丸まった原稿用紙が、いかにも原稿を仕上げましたよという感じである。
さて、そろそろ紙数も尽《つ》きてきた。
後《あと》の事は担当のY氏に任《まか》せて、俺はドッヂボールをしにゆく。
ではまた。
[#地付き]ろくごまるに
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》6 憎《にく》みきれない好敵手《こうてきしゅ》
平成10年3月25日 初版発行
著者――ろくごまるに