封仙娘娘追宝録5 黒い炎の挑戦者
ろくごまるに
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)栄秋《えいしゅう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一番|厄介《やっかい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目次
序 章『放たれた、矢』
第一章『あなたを、守りたい』
第二章『綜現《そうげん》の正体』
終 章
あとがき
[#改ページ]
序 章『放たれた、矢』
復讐《ふくしゅう》の時は来た。
ついに、あの憎《にく》き栄秋《えいしゅう》をこの手で葬《ほうむ》り去れるのだ。
満天の星たちに照らされ、弾勁《だんけい》は少しばかり痩《や》せこけた口許《くちもと》をほころばせた。
口許を歪《ゆが》めると、治《なお》りかけの切れた唇《くちびる》がキリキリと痛む。
痛みが弾勁の怒《いか》りを一層《いっそう》にかき立てた。
「栄秋! あの腐《くさ》れババァめ!」
弾勁が栄秋の命を狙《ねら》うのは、今夜が初めてではない。
この間の襲撃《しゅうげき》は、運悪く栄秋の護衛《ごえい》たちに感づかれ、捕《つか》まり、どつき倒された。
不思議《ふしぎ》と弾勁は、護衛に恨《うら》みを感じなかった。
護衛も仕事なのだ。俺《おれ》が抵抗《ていこう》するのをやめなかったのだから、殴《なぐ》り倒されても仕方がなかったと弾勁は考えた。
その証拠《しょうこ》に意識がぼやけ、反抗が出来ないと見ると、護衛たちは、さっさと縄《なわ》でふんじ
ばって、それ以上は腕力に訴《うった》えようとはしなかった。
が、栄秋は、縄でグルグル巻きにされ弾勁の身動きがとれないのを確めてから、彼の顔面を蹴《け》った。
蹴られた屈辱《くつじょく》などという、甘《あま》っちょろい話ではない。
とても八十を超えた老婆《ろうば》とは思えないような、完璧《かんぺき》な回し蹴りだった。
堂にいった、『きしゃあ!』という掛け声と共に、鞭《むち》のようにしなった足の甲が顔面を蹴り抜いた。
弾勁の目は確かに見た。栄秋の軸足は、全くふらついていなかったのだ。
足の甲と、犬歯《けんし》に挟《はさ》まれた彼の唇は、見事に切れたのだ。
襲撃のときを待ちながら、三針ほど縫《ぬ》った唇に手を添《そ》えると、痛みと憎しみが混《ま》ざり合い叫《さけ》びとなった。
「殺してくれるぞ栄秋め!」
弾勁は杉林の中に、たくみに体を隠《かく》している。
耳を澄《す》ませば、街中の喧騒《けんそう》が聞こえてきそうな程、杉林は街に近かった。
星と月と街の明かりが、杉林の中を照らしている。
林の中の一本道を、栄秋がやって来るはずだった。
もちろん護衛もついているだろう。
だが、今度は、前のように失敗はしない。今夜はこの間とは、わけが違うのだ。
そう。今夜、この手には宝貝《ぱおぺい》があるのだ。
仙人《せんにん》が己《おのれ》の仙術の限りを尽《つ》くして造り上げた道貝、宝貝。
この手に宝貝がある限り、暗殺が失敗するはずがないではないか。
牛車《ぎっしゃ》の中の栄秋は怒鳴《どな》った。
「どあほう!」
叫びと共に繰《く》り出された栄秋の拳《こぶし》は、少年の顔面にめり込んだ。
がたり、ごとりという、牛車の進む音が静かに響《ひび》いている。牛車を取り囲むように、五人の護衛が配置されているのだが、彼らの無駄話《むだばなし》は一切《いっさい》聞こえなかった。
天井《てんじょう》付きの牛車とはいえ、間違《まちが》っても豪華《ごうか》な代物《しろもの》ではない。
雨に濡《ぬ》れては困る品物を運ぶための、箱型の荷車と言った方が近かった。
窓らしい窓はどこにもなく、後ろには大きな扉《とびら》があるだけだ。分厚い木で作られた殺風景《さっぷうけい》な牛車の中には、栄秋以外に、少年と娘《むすめ》の姿があった。
それぞれが木箱を椅子《いす》代わりにしている。
四方の壁《かべ》に吊《つ》るされた燭台《しょくだい》の上で、蝋燭《ろうそく》が温かい光を放っていた。
栄秋は舌打ちしながら、拳についた血を、汚《きたな》そうに服の袖《そで》で拭《ふ》いた。
栄秋は既《すで》に八十を超えている。
老《お》いのせいで肉体という衣類はくたびれて見えたが、その中身は凄味《すごみ》を持った遣《や》り手の商人だ。
白髪《しらが》を編みも伸ばしもせずに、肩《かた》の上辺《あた》りで無造作《むぞうさ》に切っている。寄る年波は、栄秋の人格から全く角《かど》を取りはしなかった。
吐《は》き捨てるように、栄秋は少年に言った。
「で、幾《いく》ら寄付しやがった!」
相手を威圧《いあつ》し、磨《す》り潰《つぶ》すような強い眼光で老婆はにらむ。
切れた頬《ほお》をゴシゴシ擦《こす》りながら、少年は答えた。
「いただいていた、今週分の食費を全部」
敵の奇襲《きしゅう》で、自分の軍隊を壊滅《かいめつ》させられた将軍のような表情で、栄秋は言った。
「綜現! 貴様《きさま》は橋の補修工事に、そんなに大金を払ったのか!」
少年、綜現は必死に弁解した。怒られるのが嫌《いや》なのではなく、自分の行動は間違いではなかったと信じているのだ。
「でも、あの橋は商売に使うための橋で、他の商家の方たちもちゃんと寄付なされ……」
「やかましい!」
少年らしく、適当にジョキジョキ切った短めの髪《かみ》に、細くしっかりとした輪郭《りんかく》を、綜現は持っていた。男の骨格という土台はあったが、土台の上に乗っているのはまだ幼《おさな》く、しなやかな体だった。
顔の中で丸く大きな瞳《ひとみ》が、一際《ひときわ》目立っていた。
「寄付をしないと、栄秋様が橋を使えなくなると思って」
老婆は納得《なっとく》しない。
「そんなものは、適当に誤魔化《ごまか》して勝手に使えばいいんだよ。
橋の金を払わなかったからといって、この栄秋にたてつく奴《やつ》がいると思うのか? この大間抜けが!」
牛車の中の椅子に座《すわ》り、娘は、栄秋と綜現のやりとりを見詰《みつ》めていた。
娘はボソリと言った。
「……棺桶《かんおけ》」
再び綜現を殴ろうとしていた栄秋は、娘の言葉に気勢を削《そ》がれる。無視を決め込んでも良かったが、栄秋のお年頃では、少しばかり心引かれる言葉だ。
「何だと?」
娘は続ける。
「……護送車」
「何が言いたいんだ、流麗《りゅうれい》」
流麗と呼ばれたのは、スラリとした娘だった。椅子に座っていてもその長い足が充分《じゅうぶん》に見てとれる。
細いというよりも、しなやかな腕と足、そして指先を持った大人びた娘だった。
サラサラと漆黒《しっこく》の小川のような長い髪が、牛車の中の闇《やみ》に溶け込んでいる。
眠《ねむ》たいのか、やる気がないのか、重たそうな瞼《まぶた》をして栄秋に向き直った。
そして、囁《ささや》く。
「……この牛車の中にいると、棺桶や護送車の中にいる気分よ」
唇の右端を吊《つ》り上げて、栄秋は娘の胸《むな》ぐらを掴《つか》んだ。
「あんだと? 文句《もんく》があるなら、降りて歩くか? 反物《たんもの》の納入が終わって、疲《つか》れただろうからと思って、わざわざ空《あ》いた荷車に乗せてやっているんだ。
贅沢《ぜいたく》をほざくなよ」
胸ぐらを掴まれようが、怒鳴られようが流麗は全く動じなかった。
「……恩《おん》を着せられる理由はないわ。積み荷下ろしの人手を雇《やと》うのが勿体《もったい》なかったから、私や綜現を使ったんでしょ?
本当に何を考えているんだか。私や綜現に力仕事が向いているはずがないでしょ」
流麗が口を開く前には独自の間があった。その間が栄秋をイラつかせた。
「黙《だま》れ、化《ば》け物どもめ。化け物だから、力仕事くらい出来て当たり前だろうが!」
流麗の言葉は静かだったが、完全に栄秋の前に立ちふさがっている。我慢《がまん》の限界が来れば、栄秋が流麗に殴《なぐ》りかかるのは目に見えていた。
どうにかしなければと、綜現は流麗の袖を引っ張り、口を挟《はさ》んだ。
「やめなよ、流麗さん。栄秋様も勘弁してください」
老婆は怒鳴る。老婆はいつも怒鳴っていたのだ。
「綜現よ、何を一人前の口をきいてやがるんだ、荷下ろしのときに、反物をひっくり返してさんざん迷惑かけたくせに!」
再び栄秋の拳が、綜現の頭を殴った。
それを見た流麗の眼光が一瞬|鋭《するど》くなる。綜現の袖を引っ張り返し、自分の後ろに庇《かば》い老婆に反論する。
「……いい加減に、私や綜現を化け物扱いするのはやめて欲《ほ》しいわね。
私たちは宝貝《ぱおぺい》なのよ。
仙人が造り上げた神秘の道具なんだから」
流麗の言葉には、少し誇《ほこ》りが感じられた。だが、栄秋は鼻で笑う。
「はん。人でもないのに、人の姿をとるから化け物と呼んで何が悪いんだ?
宝貝、宝貝といっても、全然役に立ってないではないか!」
口調以外にも、流麗には癖《くせ》があった。相手に視線を送るときにも、決して眼球は動かさない。横を見るならば、首を横に曲げるのだ。
その仕種《しぐさ》と整い過ぎた顔が、流麗をときたま人形のように見せた。
流麗は言った。
「……だったら、さっさと手放せば? これでも宝貝なんだかち、いい値で売れると思うんだけどね」
流麗の言葉に衝撃《しょうげき》を受けたのは、綜現だった。
「な、なんてことを言うんだい流麗さん! 栄秋様は僕たちの、所有者なんだよ。全力を尽《つ》くしてお役に立たなきゃ」
舌打ちをしながらも、流麗は綜現の瞳の前に言葉が出なくなった。
宝貝とて、所詮《しょせん》は道具、人に使われたいという道具の業《ごう》がある。
文句があるなら、さっさと手放せとは、宝貝としては、言ってはいけない言葉なのだろう。
流麗には、それほど強い道具の業はない。役に立ち、素直《すなお》に喜んでもらえれば悪い気はしないだろうが、わざわざ頭を下げてまで使って欲しくはなかった。
必死に訴える綜現の、瞳の輝きに、流麗は首を軽く曲げ、視線を逸《そ》らす。
「……少し言い過ぎた」
ざまあみろと言わんばかりに、栄秋の鼻がなる。
「はん!」
間違っても、栄秋に謝《あやま》っているんじゃないのよ、と流麗は心の中でつぶやく。綜現とは争いたくなかったのだ。あの瞳が、自分に対する怒りや失望の色に染まれば、私の心はボロボロに引き裂かれてしまうだろう。
流麗は栄秋に言った。
「……栄秋。どうして、あんたが出掛けるときに、いっつも私たちを連れていくのよ。
一人でお出かけは、寂《さび》しいのかしら?」
「ふん。化け物は、いつ使えるか判《わか》らないからな。普段《ふだん》から連れて歩いてるんだよ」
「……化け物はよせと言ったでしょ。私は流麗絡《りゅうれいらく》、れっきとした織り機の宝貝なのよ」
意地悪く、絡《から》みつくような視線で栄秋は綜現を見た。
流麗とは違い、老婆は綜現に憎まれようが失望されようが、全く気にする気配《けはい》はなかった。
「流麗。確かにお前は宝貝として、認めてやってもいい。だが、綜現は役立たずの化け物だろ?」
栄秋の言葉が、綜現の心をグサリと抉《えぐ》った。無邪気《むじゃき》に懐《なつ》いていた子犬が、飼い主に突然殴られたような、やるせない表情が綜現の顔に浮かんだ。
流麗は、綜現の手を握《にぎ》った。どんな迷子でも心を落ち着かせるような、優しい握り方だった。
そして、栄秋に言った。
「……綜現も宝貝よ。化け物なんかじゃない」
綜現を握る手に、一瞬力がこもった。
牛車が道を進む音が、弾勁の耳に届いた。そして、間を置かずに牛車の姿そのものが弾勁の視界に入った。
牛車の周りには五人の護衛がいた。
この間と一緒《いっしょ》だ。
弾勁は思わず、生唾《なまつば》を飲み込んだ。
護衛たちは、関節と頭を除いて、革《かわ》をなめした鎧《よろい》をつけている。
見た目は兵士と変わらない。
以前、弾勁はこの護衛たちを、ただの軍人|崩《くず》れだとなめてかかり、酷《ひど》い目にあったのだった。街の衛士に突き出され、牢《ろう》に放り込まれるはめになった。
栄秋は金に執着《しゅうちゃく》する老人だが、自分の護衛を安物ですまそうとはしていなかった。
「そうだろうな。あれだけ敵が多いんだ。やわな護衛じゃ意味がなかろう」
先日の襲撃の後、牢に放り込まれた弾勁であったが、治療《ちりょう》のために牢から出された隙《すき》に、逃走《とうそう》したのだ。
街の中に潜伏《せんぷく》しながら、栄秋の護衛についても色々と調べた。
護衛は個人で見れば、さほど強くはない。だが、連携して動く訓練が徹底的になされていて、簡単には隙を見せない。
薄《うす》めの革鎧《かわよろい》や、肘《ひじ》や膝《ひざ》をくるんでいる、布のような物も全《すべ》ては矢に対する装甲《そうこう》だ。
特に関節や顔に巻かれているのは、布ではなく紙に近い物だ。布ならば、糸と糸の隙間から矢が命中する可能性がある。
だが、この紙は麻《あさ》のような、丈夫《じょうぶ》な植物で漉《す》かれていて、簡単には破れない。
「矢に対する防御《ぼうぎょ》は完璧《かんぺき》。と、思っているんだろうな。
だが、宝貝の弓を防ぐには、少しばかり力不足だ。ま、こっちも、宝貝のくせに鎧《よろい》をぶち抜く程の威力はないんだけどな」
弾勁は杉の木に立て掛けておいた、矢筒を背負い、弓を手に取った。そして、わずかに付いた砂《すな》ぼこりを、丁寧《ていねい》に袖で拭《ぬぐ》う。
弓は竹製ではなく、何かの金属で造られているが鉄弓に比べれば恐《おそ》ろしく軽い。弾勁の身長よりは、わずかに長かった。
弓全体には、絡みつく蔓《つる》の装飾《そうしょく》が施《ほどこ》されていた。
この弓こそ、宝貝、点破弓《てんぱきゅう》である。
弾勁は点破弓を強く握った。指先に伝わる冷たい蔓の感触が心地好《ここちよ》い。
矢が降った。
護衛たちに降りそそいだのは、無数の矢ではなく、数本の矢だ。
異常だった。
全ての矢は、外《はず》れることなく、全て五人の護衛の肘と膝に命中した。
弓の達人の攻撃だと、護衛は判断した。だが、妙《みょう》だった。矢は全て鎧に弾《はじ》かれたのだ。
矢は一本たりとて、関節に巻きつけられた強化紙を突破出来なかった。
矢が当たった部分に痛みはあったが、どこも破れてはいない。これなら、たとえ毒《どく》を塗られた矢でも効果はないはずだ。
護衛たちは牛を止め、牛車に背中を預けて様子を見る。
護衛たちは、低い声で状況を分析《ぶんせき》した。
「妙だ。威嚇《いかく》か? それとも、我《われ》らの分断を狙《ねら》っているのか?」
「判らん。歩いている人間の関節を狙える腕《うで》があって、何故《なぜ》に顔を狙わぬ」
「敵は何人だ?」
「複数か? 複数の達人だと? 矢に長《た》けた一族か?」
「馬鹿な。一族もろともに恨みをかっているとでも?」
「大きな声では言えぬが、あり得るぞ、あのオババなら」
護衛の言葉を聞きつけたのか、牛車の内側から壁を蹴る音がした。
壁を蹴りながら、栄秋は護衛たちを罵倒《ばとう》していた。流麗は言った。
「……悪口だけは、絶対に聞き逃《のが》さないってわけね」
綜現には何が起きているのか、よく判らなかった。
「流麗さん、どうしたの一体? 急に牛車が止まったようだけど」
「……心配ないわよ。どうせ、山賊《さんぞく》か何かでしょ」
「心配ないって! 大変じゃないか!」
「……私たちは宝貝よ。どうにでもなる」
栄秋は流麗の後頭部を殴った。
「お前らは助かるかもしれんが、私はどうなるんだ!」
後頭部を摩《さす》りながら流麗は冷たく笑った。
「……さようなら。あなたが行くあの世と、私が行くあの世が、違えばいいんだけどね」
草を踏む音がした。護衛たちは一斉《いっせい》に音の出所を見る。
草を踏みながら、弾勁は堂々と、杉林の道に出た。
手には弓を持ったままだが、矢はつがえていない。牛車とはまだ距離《きょり》があったが、弾勁の顔は護衛たちに見てとれた。
護衛は叫ぶ。
「貴様《きさま》はいつぞやの男! こりもせずに、また出たか。今度は加減《かげん》せぬぞ」
弾勁は答えた。
「あんたらに恨みはない。だから、顔や首は狙わなかった。今から栄秋を始末するから、おとなしく見物しててくれ」
「ふざけるな!」
護衛の内の二人が、弾勁に向かい走った。弾勁が囮《おとり》である可能性を考え、三人は牛車の側《そば》に残ったままだ。
が、弾勁に向かい走っていた二人は、そのまま地面に倒れた。
異様な出来事に、牛車の横の護衛は怒鳴った。
「どうした!」
返事の代わりに、地面に倒れた護衛のうめき声が、聞こえる。
答えはなくとも、すぐに他の護衛たちも何が起きたかを、自分の体をもって知った。
護衛たちの肘と膝は、突然|痺《しび》れを感じ、身動きがとれなくなったのだ。
護衛たちは、この感触が、点穴《ツボ》を突かれたのと同じだと知った。
「これは、まさか!」
弾勁はうなずく。
「そう。紙の上から、矢で点穴を突いた。信じられないだろうが、本当だ」
苦痛にのたうつ、護衛たちのうめき声がさらに強くなった。
弾勁は牛車に向かい、大声を張り上げた。
「さあ、栄秋。護衛には少しの間、休憩《きゅうけい》していてもらおう。
その薄汚い荷車の中から、出て来たらどうだ」
牛車の壁を間に挟《はさ》んでも、栄秋の声は周囲に充分《じゅうぶん》届いた。
「はん。誰《だれ》が、殺されるのを承知で、外に出るもんか!」
「言うと思った。
だがな、栄秋。まさか、ここまでお前を追い込んでおいて、火矢の準備を忘れているとでも思うか?
射られるのを承知で外に出るか、焼け死ぬのを承知で中に残るか、好きな方を選ぶがいい。
なんなら、半分焼けて、辛抱《しんぼう》たまらなくなったところを射ってやってもいいぞ」
答えの代わりに、しばしの沈黙が訪《おとず》れ、沈黙《ちんもく》は牛車の扉を内部から蹴破る音でかき消された。
牛車から飛び出したのは三つの影《かげ》だった。
栄秋が一人で乗っているものと、決め込んでいた弾勁は、少し怪訝《けげん》な顔をした。
二つの人影は、背後の一人を庇《かば》っているようだった。
だが、すぐに、栄秋が少年と娘を楯《たて》代わりにしているのだと判った。
娘の背中に身を隠し、小柄《こがら》な少年は襟首《えりくび》を掴《つか》まれ、文字どおりに楯にされていた。
少年はジタバタと足を振り、慌《あわ》てていた。
「ど、どうしよう流麗さん!」
流麗は、顔を動かし、弾勁を見つめた。
「……あの表情は、どうも山賊《さんぞく》じゃなさそうね。
恨みを晴らさずにおくものか! て感じよね。不思議な顔。怒っているのに笑っているわよ。
たぶん、どうやってなぶり殺しにしようかワクワクしているんだ。
……私の予想じゃ、あの弓を使って、何度も何度も何度も栄秋に矢を射って、じわじわじわじわじわじわいたぶるのかな。
……い、た、そ」
「やかましい!」
栄秋は力|任《まか》せに流麗の後頭部を殴った。
「……ポカポカポカポカ何回も、人の頭ばっかり殴って、痛いじゃないの」
流麗の髪《かみ》の毛を引っ張り、栄秋は、自分の目線にまで腰を曲げさせる。
「何が痛いだ! お前らも化け物だったら、あんなチンピラぐらいとっとと始末してしまえ!」
「……耳はいいけど、物覚えは悪いようね。あれだけ、化け物じゃないって、言ったでしょ」
ジタバタと手足を振り回し、泣きそうな目をして綜現は流麗に頼《たの》み込んだ。
「お願いだから流麗さん、栄秋様と喧嘩《けんか》なんかしないでよ!
今はどうやったら、栄秋様を助けられるか考えようよ」
泣きそうになりながらも、綜現の目は必死だった。綜現の力にはなってあげたい。だが栄秋に尽くすのは嫌《いや》だ。
流麗の心は複雑に絡んでいった。
ゴソゴソと懐《ふところ》に手を入れ、流麗は糸切り用の小さな小刀を取り出す。
「……相手が油断したところを、この隠し持った小刀でブスリってのはどう?」
弾勁は上品な声で、流麗に言った。
「これはお嬢様。思いっきり聞こえていますよ」
「……しまった!」
栄秋は、綜現を投げ捨て、両手で流麗の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ、わざと口に出して言いやがったな!」
うるさそうに、栄秋の手をほどく。
「……判ったわよ。出来るだけのことはやってみる」
小刀を懐《ふところ》に戻し、代わって今度は細い竹に巻き付けた絹糸《けんし》の束《たば》を取り出した。
星明かりの下でも、絹糸独特の真珠《しんじゅ》に似た光沢《こうたく》が見てとれた。
束ねた糸を持ち、流麗は弾勁のいる方角に体を向けた。
そして、ブツブツと愚痴《ぐち》をこぼすように、呪文《じゅもん》を唱《とな》え、一瞬の気迫と共に目を見開くと絹糸は流れるように、弾勁に向かい宙を走った。
熟練した釣り師の手により、釣り糸が操《あやつ》られるがごとく糸は伸び、瞬《またた》く間に弾勁の首に巻きついた。
突然の出来事に、栄秋と綜現の口はポカンと開く。
「す、凄《すご》いや流麗さん!」
老婆の感想は、綜現ほど素直ではない。
「そんな芸当が出来るなら、さっさとやれば良かったんだよ!」
さすがに弾勁も意表を突かれる。
「貴様ら、宝貝か!」
「……あなたの弓も、宝貝くさいわね」
弾勁は糸を引きちぎろうと、必死に右手を首に添えた。
栄秋はニヤリと笑った。
「やれ、流麗。奴の首を絞《し》め殺してしまえ」
が、糸は呆気《あっけ》なく弾勁の手で引きちぎられた。
一瞬の間。
ニヤリと笑っていた栄秋の顔は、途端《とたん》に凍《こお》り付いた。綜現が目を丸くしてたずねる。
「あの、流麗さん。これって」
珍しく、少し恥《は》ずかしそうな表情で言い訳がなされた。
「……だって仕方ないじゃない。幾《いく》ら操っても絹糸は絹糸なんだから、大の男の力じゃ簡単に引きちぎられるわよ。
……どうやら万策《ばんさく》つきたかな」
少し錯乱《さくらん》しながら、老婆はわめきたてた。
「ええええい。飛んでくる矢を、糸で叩《たた》き落とせ!」
「……絹糸は絹糸だと言ってるでしょ。いい加減に覚悟《かくご》を決めたら?
人間にしちゃ長生きなんでしょ」
話すだけ無駄《むだ》とばかりに、今度は綜現に顔を向ける。
「おい、綜現! お前も流麗みたいに隠し芸は出来ないのか!」
綜現は返答に困り、顔を伏《ふ》せた。
「僕は、僕は……」
「ちっ。お前は本当に役立たずだねえ。今までに一度でも、私の役に立った覚えがあるかい? あ? どうにか言ったらどうなんだ。この役立たずめ」
自分の不甲斐《ふがい》のなさが綜現には悔《くや》しく、手を白くなるまできつく握り締めた。
栄秋たちの会話が途切《とぎ》れたのを見てとり、弾勁は口を開いた。
「栄秋よ! 今ここに、母さんと姉さんの仇《かたき》をとってくれるぞ!」
流麗は栄秋に、軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざ》しを向けた。
「……あこぎな商人かと思ったけど、まさか人殺しまでやってたの?」
「馬鹿を言え! 直接、手を汚《けが》した覚えはないぞ!」
弾勁は言った。
「もはや打つ手はないようだな。
そろそろ処刑《しょけい》を始める。
栄秋よ。まずは内臓《ないぞう》から射抜いてやろう。生きながら臓物《ぞうもつ》を潰《つぶ》される恐怖を、とくと味わうがよい」
ゆっくりと、弾勁は背中の矢筒から一本の矢を抜き取る。
そして、今までの恨みを噛《か》み締めながら点破弓につがえた。
矢の先は栄秋に向けられている。
さすがの栄秋も、身動きが取れずに生唾《なまつば》を飲み込んだ。
自分の無力さに、綜現は悔しそうに地面を叩いた。
自分の所持者を守りきれなかった、哀《かな》しみに綜現の目から涙《なみだ》がこぼれる。
流麗は黙《だま》って、綜現の横顔をじっと見つめていた。
弾勁は言った。
「最初の苦痛だ」
弾勁はついに矢を放った。空気を切る音が杉林の中に響いた。
矢は外《はず》れた。
矢は、目標に当たる前に二つに折れ、地面に落ちた。
矢を折ったのは、銀色に輝《かがや》く一本の棍《こん》であった。
矢を叩き折り、そのまま地面に突き刺さっている。
どこからともなく声がした。
「ま、あの矢を防ぐのは至難《しなん》の業《わざ》としても、矢を壊《こわ》せば問題はないってことだな。
よっこらせっと」
杉の枝から、枝へと何かが走った。
人影《ひとかげ》が空を切る音と、しなった枝の音がまるで強風のように駆《か》けていく。
弾勁《だんけい》は素早《すばや》く視線を、一本の杉に、走らせた。目では判《わか》らなかったが、耳は木の枝から声がしていると教える。
声の主は杉の木の上から、牛車《ぎっしゃ》の側《そば》、地面に突き刺さった棍の横に降り立った。
かなりの高さから飛び降りたらしく、着地の瞬間に、砂ぼこりが舞《ま》う。
丁度《ちょうど》、栄秋《えいしゅう》たち三人を背に庇《かば》うように降り立ち、弾勁と向き合った。
それは大柄《おおがら》な男ではなかった。身長は流麗《りゅうれい》よりも少し低く、流麗と同じように長い黒髪《くろかみ》をしていたが、彼女に比《くら》べて腰《こし》の強そうな髪の毛だった。
髪は脂《あぶら》で固めたのか、後頭部の辺《あた》りで括《くく》られている。その体を包むのは、袖付きの黒い外套《がいとう》であった。
猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭い眼光は、隙《すき》なく弾勁に向けられている。
突然の助けに、綜現《そうげん》の顔が明るくなった。
「誰《だれ》かは知りませんが、助けてくださるんですね」
男は地面に刺さった棍を、片手で軽々と引き抜き、言った。
「今のところはな」
流麗は記憶《きおく》を探《さぐ》った。あの男には見覚えがあった。
「……あなた、殷雷《いんらい》ね?」
「そうだ」
「なんだ、流麗さんの知り合いだったのか」
今は、詳《くわ》しい説明をしている場合ではないと、流麗は口をつぐんだ。
栄秋は唾《つば》を吐きながら、毒づいた。
「助けるつもりなら、さっさと出て来たらどうなんだい。
くだらん恰好《かっこう》をつけるために、今まで高《たか》みの見物を決め込んでためか?」
肩をすくめ、殷雷は老婆に向き直った。
「命を救ってやるんだ。素直に感謝してりゃいいだろ」
ヒュンと、矢が飛んだ。
だが、殷雷は栄秋に向けた顔を動かしもせずに、牛が尻尾《しっぽ》で蝿《はえ》を追い払うように、棍で矢を叩き落とした。
「生憎《あいにく》だが、矢の類《たぐい》は効《き》かないぜ。
矢に対する見切りが凄《すご》いとか、達人の技《わざ》とかそういうんじゃなくてな、なんのヒネリもなく打たれた矢ぐらい、叩き落とせるようになっているんだよ、この体はな」
突如《とつじょ》の邪魔《じゃま》に怒り、弾勁の声は不自然なまでに低くなる。
「なぜだ。さっき気配《けはい》を探《さぐ》ったときには、何も感じなかったぞ。
どうして、木の上にいたのを見落としたんだ!」
殷雷は手に持った棍をクルクルともてあそびながら、弾勁の目を見た。
「気配なんてものは、先に消したもの勝ちだからな。
お前が気配を探るよりも前に、俺たちは気配を消していた。それだけさ」
俺たち? 殷雷以外に誰かいるのだろうかと、綜現は不思議に思った。
弾勁は腹の底から、重い殺気《さっき》を吐き出す。
「俺の邪魔《じゃま》をしようというのか」
「おとなしく宝貝《ぱおぺい》を置いていけば、別に痛めつけるつもりはないぞ」
「ほざけ! ここまで来て退《ひ》けるものか」
弾勁は矢筒をまさぐった。まだ幾《いく》つか矢はあったが、あの殷雷とかいう男に通用しそうもない。
やむなく、弾勁は最後の手段に出る覚悟《かくご》を決めた。
栄秋のあわてふためく姿は、この目で確かに見た。
願わくば、射抜かれる痛さにもがき苦しむ姿も見たかったが、あきらめるとしよう。
矢筒の中から、弾勁は奇妙《きみょう》な矢を取り出した。他の矢に比《くら》べてかなり短い、白い矢だ。
「殷雷とか言ったな。矢は通用しないそうだが、矢は矢でも宝貝の矢ならばどうかな」
今まで呑気《のんき》に構えていた殷雷だが、弾勁の言葉に、瞬間的に棍を中段に構えた。
「……矢の宝貝でも、矢は矢だ。滅多《めった》な矢では通用せんぞ」
「正直な男だな。ならば少なくとも、この矢を使うだけの価値はあるんだ」
白い矢は、途端《とたん》に弾勁の身長の半分よりも少し長いぐらいに伸び、通常の大きさになった。
使い手の身長に合わせ、もっとも適した長さに変わったのだ。
点破弓《てんぱきゅう》につがえられ、ギリギリと音を立てて弦《つる》が引き絞《しぼ》られる。
内に大きな力を蓄《たくわ》えたまま、弾勁の体はピタリと動かなくなった。
そして、弾勁の指が添えられた、矢羽の少し手前から矢はだんだんと黒みを帯びていった。
さながら、新品の筆を墨《すみ》に浸したようだ。
矢が黒くなるにつれ、弾勁の額《ひたい》からは脂汗《あぶらあせ》が流れ出した。
彼は一心不乱に、矢に己《おのれ》の思いをそそぎ込んでいるのだ。
弾勁の心が矢に囁《ささや》く。
『さあ、我《わ》が魂《たましい》、我が恨《うら》みを糧《かて》とするんだ、焦魂矢《しょうこんし》よ』
心に応じて、ドロリドロリと矢はさらに黒くなっていった。
どんな黒よりも黒く、彩《いろど》りが一切《いっさい》ない虚空《こくう》のような黒色が矢を染めていく。
魂と命を焦魂矢は吸い取っていった。
生白い蛭《ひる》が、生き血を吸い取りブクブクと膨《ふく》れるように、栄秋を殺したいという、どす黒い恨みの一念を吸い取り、滴《したた》るような黒色になっていく。
『もっとだ、もっと我が魂を喰《く》らうのだ』
貧血感と窒息感《ちっそくかん》で弾勁は倒れそうになったが、彼は踏ん張る。
焦魂矢は、込められた魂が多ければ多いほど破壊力《はかいりょく》を増す矢であった。
焦魂矢の力で、栄秋ごと、周囲を吹き飛ばす考えだった。自分が爆発《ばくはつ》に巻き込まれても悔《く》いはない。
『喰らえ、喰らえ、我が魂をくれてやる』
魂はついに、矢に蓄《たくわ》えられる限界を越えてしまった。
あふれ出した魂は、焦魂矢の周りに漂《ただよ》い黒い炎《ほのお》を形作った。
引き絞られた矢は、ちょうど弾勁の首と垂直に交《まじ》わっている。
『我が魂を喰らいし矢よ、我が望みを叶《かな》えてくれ、栄秋を葬《ほうむ》り去るのだ!』
まなじりが裂けんばかりに目を見開き、弾勁は矢を放った。
黒い炎を撒《ま》き散らしながら、矢は栄秋|目掛《めが》けて飛んでいく。魂のほとんどを失った弾勁は、血を吐き地面に倒れる。
殷雷は素早《すばや》く、矢の動きを読む。
矢は老婆を狙《ねら》っているようだ。
矢と老婆を結ぶ、無数の弾道《だんどう》を殷雷は計算した。
矢が進むにつれ、可能性のある弾道は減っていく。
無数の細い糸が、やがて太い一本の糸により合わされるように、弾道の可能性は一つに絞られた。
そして、殷雷は動いた。
たとえ、矢の宝貝であろうと、鏃《やじり》に触れなければその能力を発揮《はっき》しないはずだ。
殷雷が予想した一つの弾道に沿って、矢は老婆目掛けて飛んでくる。
殷雷は棍を構え、矢を二つにへし折ろうと考えた。
研《と》ぎ澄《す》まされた殷雷の感覚の中を、矢はゆっくりと飛ぶ。
飛ぶ。
が、棍の間合いに入る直前に、矢はピタリと宙に止まった。
一つだった弾道の可能性が、途端《とたん》に膨《ふく》れ上がり、無限に近い弾道の可能性が現れた。
矢を包む黒い炎《ほのお》が一層激しく燃え盛《さか》った。強い炎は矢を中心として火柱となる。
殷雷はことの成り行きが理解出来なかった。
水には水、風には風、炎には炎の気配《けはい》がある。
黒い火柱が撒《ま》き散《ち》らす炎の気配が、今、何か、より具体的な気配に変わったのだ。
等身大の黒い火柱から視線を感じ、殷雷のうなじが逆立《さかだ》った。
黒い火柱は倒れかけたが、倒れる寸前に炎で作られた、前足と後ろ足がささえた。
まるで、黒い炎で作られた四つ足の獣《けもの》だ。
黒い炎の獣は殷雷に背を向け逃《に》げ出した。
ハッと我に返り、殷雷は獣を追おうとしたが、尋常《じんじょう》ならざる速さでとても追いつけそうにない。
やむなく、殷雷は弾勁のもとに駆け寄り、棍の一振《ひとふ》りで点破弓を叩き折った。
弓が折られると同時に、獣は立ち止まる。
立ち止まった獣は、再び火柱に代わり、続いて火柱は炎の人形《ひとがた》をとる。
地面で血を吐く弾勁と、炎の人形は、同じ抑揚《よくよう》、同じ高さの声で叫んだ。
奇妙な響《ひび》きを持つ声が辺《あた》りを包む。
「馬馬鹿め。すでに矢すでに矢は放たれたれたのだよ。
弓を折った弓を折ったとて手遅れなのだれなのだ」
弾勁は一人で言った。
「あれは、我が魂の片割れ」
炎は一人で言った。
「我は七つの夜を燃え盛ろうよ。
我が燃え尽きるまでに、我が魂の片割れの望みは叶《かな》えてくれる。
怯《おび》えて待つがいい栄秋よ。貴様《きさま》の命はこの片割れが奪《うば》ってくれる」
魂の片割れたちは笑う。
「はっはっはっはっ!」
殷雷の棍がしなり、弾勁の首を打つ。
衝撃で弾勁は気絶したが、炎の笑い声は続く。そして炎は立ち去った。
消え去るのではなく、地面を踏《ふ》み締《し》め、足音を残して。
栄秋は、綜現と流麗を連れて、殷雷の側《そば》に歩み寄った。
老婆は眉《まゆ》をしかめた。
「誰かは知らぬが、うさんくさい奴だな」
殷雷は軽く口笛を吹く。
「えらい言われようだ」
「まさか、さっきの男とはぐるで、腕を売り込むための芝居《しばい》だったんじゃあるまいな?」
さすがの殷雷もムッとした。
「ちと手順を間違えたか? あの男がてめえを殺してから、あいつと戦うべきだったのかもな」
「あんだと!」
綜現は殷雷の腕前に感心し、無邪気な笑い声を上げた。
「栄秋様、考え過ぎですよ。凄《すご》いんですね、殷雷さん。危《あぶ》ないところを助けていただいてありがとうございます。本当にとっても強いや」
殷雷に近寄ろうとする綜現の肩を、流麗の白い指が掴んだ。
「? どうしたの流麗さん」
「……強くて当たり前だわ。だって、こいつは刀よ。
殷雷刀、私たちと同じ宝貝。
……こいつは追手よ。私たちを捕《つか》まえに来たのよ」
殷雷は口許《くちもと》を歪《ゆが》め、笑った。
「そういうこった。覚悟しろよ、てめえら。
さっきの男にも言ったが、抵抗しなけりゃ手荒《てあら》な真似《まね》はしねえからな……」
そういや、さっきから誰か一人いない気がするなと殷雷は考えた。
あいつは、まだ地上に降りてないのか?
杉の木を見上げながら、大声で叫ぶ。
「何やってんだ和穂《かずほ》! とっとと降りて来やがれ」
小さな声で返事が戻る。本当に小さな声だったので殷雷には何を言っているか聞こえなかった。
いらついた殷雷はさらに怒鳴る。
「なんて言った! いいから降りて来い」
今度はハッキリとした声で言葉が返った。
「……高くて降りられないよう」
流麗は面倒《めんどう》そうに言った。
「……おっかない追手だこと」
栄秋は、まだ体に痺《しび》れが残る護衛たちを容赦《ようしゃ》なく蹴《け》った。
「高い金払ってるのに、なんだそのざまは? お前らは全員、クビだ。
判ってるとは思うが、今週分の給金は払わないからな。文句はないね!」
殷雷はふらりと栄秋の横に立ち、軽く足をかけて、すっ転ばす。
ヨタヨタと後ずさり老婆は尻餅《しりもち》をついた。
護衛の中の一人に近寄り、殷雷は関節の周りの強化紙を苦労してはぎとる。
そして、点穴の呪縛《じゅばく》を解くために、別の点穴を突く。
「ほらよ。じきに痺れは取れる。点穴の解法は知ってるな? 他の奴の痺れも取ってやるんだ。
痺れが取れたら、街まで行って、役人を手配してくれ」
血管を膨《ふく》らませ、栄秋は怒鳴る。
「何をするんだ、殷雷とやら」
「うるせい。怪我人《けがにん》をいたぶるな」
「あんな失態をさらす護衛など、蹴られて当然じゃわい」
「……仕方ねえだろ、相手は弓の宝貝なんだからよ。
普通の人間が、何も考えずに真っ正面から宝貝と戦って、勝てるわけがないだろ」
まだまだわめき、悪態《あくたい》をつく栄秋を殷雷は無視した。
流麗と綜現に殷雷は声をかけた。
「よお、しっかりとした紐《ひも》はないか?」
流麗は黙って牛を指差した。どうやら牛と牛車をつなぐ綱《つな》を示しているらしい。
「そこのガキ、あの綱を一本|外《はず》して持ってこい」
慌《あわ》てて綜現は馬車に近寄り、綱を外そうとした。だが、きつく引っ掛けられていてなかなか思うように綱が外せない。
しばらく待っていた殷雷だが、ついに待ちくたびれたのか牛車に近寄る。
「とろとろやってんじゃねえ、さっさと外しやがれ」
「うわ、ごめんなさい。今やりますから」
当然、あせればあせる程、上手《うま》くいくものも上手くいかなくなる。
殷雷の口許《くちもと》が、怒りで少し吊《つ》り上がった。
「どけ! 役立たずが!」
いとも簡単に殷雷は、綱についた金具を外した。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
一所懸命に頭を下げる綜現を見ていて、殷雷は何故《なぜ》か余計に腹が立った。
「いちいち謝《あやま》るな!」
怒鳴られ、反射的に綜現は飛び上がる。
「まあいい。この綱で、さっき襲《おそ》ってきた奴を縛《しば》り上げてこい、まだ気絶してるみたいだからな。……いや、いい。俺が自分でやる」
「大丈夫《だいじょうぶ》です、それぐらい出来ます」
「信用ならんな。もし、中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に緩《ゆる》く締めて、気がついたときに逃げられたら困るだろうが」
「でも」
「黙れ、役立たず!」
たいして悪気のない、殷雷の言葉だったが綜現の心を一気に暗くした。
殷雷は、地面に横たわる弾勁を綱で縛り上げ、馬車の側《そば》まで担《かつ》いで運び、どさりと地面に置く。
そして、ほこりを払うために手を叩いた。
「うむ。これで一段落ついたか」
流麗は黙って、杉の木の上の方を指差す。
ばつの悪そうな表情を残し、殷雷は杉の木をスルスルと登る。片手に棍を持ったままなのに、あっというまに流麗の視界から消え去った。
殷雷の姿が消えると、入れ代わるように木の上から一人の娘が舞い降りた。
殷雷と同じような、いや全く同じ身のこなしで、娘は地面に着地した。
片手には鞘《さや》に収まった刀、もう片方の手には殷雷が持っていた銀色の棍を握っている。
袖の長い、仙人が身に着けるような道服をまとった娘だ。
歳《とし》の頃なら、十五、六、帯と同じ色をした赤い布で柔《やわ》らかい髪を結んでいる。
腰帯には、一つのひょうたんが括《くく》られていた。
整《ととの》った顔立ちに、細い顎《あご》、鋭い目の上には少し太めの眉《まゆ》がのっかっていた。
娘は手に持った刀を宙に放り投げる。同時に不思議《ふしぎ》なことが二つばかり起きた。
一つは、娘の顔から鋭さが消えたこと。顔の作りには何の変わりもないはずなのに、鋭さが温和さにとって変わった。
もう一つは、宙に舞った刀が、軽い爆発を起こしたこと。爆発の白い煙《けむり》の中から、当然のごとく殷雷が現れた。
流麗は、いまだ殷雷の言葉にしょんぼりとしている綜現を招《まね》き寄せ、杉の上から現れた娘を指さした。
「……綜現。あの娘を覚えている?」
少年は首を横に振る。
「知らない。僕はあのお姉さんに会ったことがあるの?」
「……あれが私たち宝貝を地上にばら撒《ま》いてしまった仙人よ。
全《すべ》ての仙術を封じ込められ、殷雷刀と共に宝貝を回収しているの。名前は和穂」
人見知りをするように、綜現は流麗の背後から和穂を見つめた。
綜現の少し怯えた視線を感じ、安心させようと和穂はニッコリと微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫。傷つけたりしないよ。怖がらないで」
流麗は大きくうなずく。
「……そうよ綜現。
だいたい杉の木の上で『……高くて降りられないよう』なんて言ってるんじゃ、たいした相手じゃない」
流麗の言葉を聞いて、和穂の頬《ほお》が恥ずかしさに赤く染まった。
「いや、でも、あれはその」
殷雷も少し気恥ずかしそうに、言った。
「しまらねえったらありゃしない」
尻餅《しりもち》をつき、先刻からえんえんとわめき続けていた狡猾《こうかつ》な老婆は、一つの考えに辿《たど》り着き、口を閉じた。
あの黒い炎《ほのお》の化《ば》け物は、自分の命を狙《ねら》っているとほざきやがった。
殻雷が言うように、尋常ではない相手に普通の護衛は役に立ちそうもない。
栄秋は品定めするように和穂の顔を見た。
絵にかいたような、お人好《ひとよ》しの面《つら》だ。
腹が減ったと言われれば、自分の最後の食糧だって分け与えるような面だ。
つけいる隙《すき》は幾《いく》らでもある。
和穂をうまく言いくるめれば、あの化け物の護衛を、殷雷とかにやらせられるかもしれない。
殷雷は偉《えら》そうな態度をとっているが、どうせこの小娘に頼まれれば、嫌《いや》とは言えないんだろう。
化け物の始末は、あの刀の化け物にさせるのが一番確実なはずだ。
栄秋は砂《すな》ぼこりを払いながら立ち上がった。
「さっきは、すまなかったねえ」
栄秋の考えを見透《みす》かしたのか、流麗はつまらなさそうに欠伸《あくび》をした。
脇《わき》を通るときに、流麗に軽く蹴りを入れ、老婆は猫撫《ねこな》で声を上げた。
「いろいろと事情がありそうじゃないか、よかったら私の屋敷《やしき》まで来ないかい?」
[#改ページ]
第一章『あなたを、守りたい』
その後現れた、街の警護《けいご》を司《つかさど》る役人は襲撃《しゅうげき》の状況を詳《くわ》しく聞きたがった。
が、事情聴収に応じても、なんの利益もないと栄秋《えいしゅう》は判断した。
襲撃者は気絶しているが、捕《つか》まえられている。だのに、襲撃の可能性がまだ残っているとは、事情を知らぬ役人には理解出来まい。
理解したところで護衛の役にも立ちはしない。
だいたい、護衛の話じゃさっきの男は、以前にも襲撃を仕掛《しか》けた男らしいではないか。
そんな、一度捕まえた犯人に逃《に》げられるような役人が、役に立つはずがない。
今は、この和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》を仲間に引き入れるのが一番の問題だ。
栄秋に案内された屋敷《やしき》の豪勢《ごうせい》な門構《もんがま》えを見て、和穂は大きな屋敷だと驚《おどろ》いた。
門をくぐれば、無数の白い蔵が立っていたのだ。
しかし、すぐに和穂は奇妙《きみょう》だと考えた。
普通《ふつう》の豪勢な屋敷といえば、それこそ屋敷があって蔵があるはずだ。
この屋敷には蔵しか見当たらない。
夜も更《ふ》けて、暗闇《くらやみ》なので判《わか》らないのかとも考えたが、栄秋に案内されたのは一軒のボロボロの家だった。
広大な敷地《しきち》の中には、無数の蔵と一軒のボロ家があったのだ。
朽《く》ち果《は》てたボロ家というより、もとは普通の家だったのが使い過ぎ、擦《す》り切れてボロボロになったという風体《ふうてい》だ。
屋根の瓦《かわら》は所々割れ、隙間《すきま》から草が生《は》えているが、幾《いく》つかの場所にはちゃんと新しい瓦が敷《し》きつめてある。恐《おそ》らく、寝室《しんしつ》などの雨漏りがしては困る部屋だけには、瓦が置かれているのだろう。
先刻からずっと、殷雷はうさんくさそうに目を細めている。
肩に担《かつ》いだ棍《こん》に、手伽《てかせ》のように腕を絡《から》めて和穂にだけ聞こえるように、ぼそりと殷雷は言った。
「なんか、街の中に住んでる山《やま》ン婆《ば》の家って感じだな」
鋭く、流麗《りゅうれい》が殷雷の言葉を聞きつけた。
「……そうよ。あんたたちみたいな間抜けな旅人を泊《と》めては、夜中に包丁《ほうちょう》をジャリジャリ研《と》いでるの」
笑えない冗談《じょうだん》に和穂が顔をひきつらせていると、栄秋がくるりと振り向き、笑顔で言った。
「さあさあ、汚《きたな》い家だけど入っておくれ」
客人をもてなすための笑顔というより、相手の杯《さかずき》に毒《どく》を盛《も》ったのを気取《けど》られないための笑顔に近かった。
和穂のひきつる笑顔に、栄秋は自分の笑顔を近づけた。
燃え盛《さか》る炎《ほのお》のような笑顔だと、和穂は感じた。
「さあさあ、和穂さん。遠慮《えんりょ》はいりません。どうぞどうぞ客室に。なんの疑《うたが》いもなく無邪気《むじゃき》に中に入ってくださいな」
人を疑ってかかってはいけないと考え、和穂は首を縦に振った。
「はい、お邪魔《じゃま》します」
殷雷も黙《だま》って後に続く。栄秋がどこまで善良《ぜんりょう》な老婆《ろうば》の化《ば》けの皮を被《かぶ》れるか、興味《きょうみ》を持ったのだ。
殷雷は栄秋の下手《へた》な演技から、彼女が人を騙《だま》せる類《たぐい》の人間ではないと判断していた。
だが、わざわざ人を騙さなくても、ほとんどの犯罪は可能なのだ。
客間というわりには、部屋の片隅《かたすみ》には巻かれた反物《たんもの》が幾つも積まれていた。
かなりの数の同じ種類の反物だった。栄秋の持ち物には違いないのだろうが、どう見ても商品として扱《あつか》っている代物《しろもの》だ。
普段の客間を、倉庫代わりに使っているのだろう。
卓の上のちびた蝋燭《ろうそく》が刺さっている蝋燭立てに栄秋は火を灯《とも》す。間違っても、銀製の燭台《しょくだい》ではなく、焼けた鉄の蝋燭立てだ。
和穂と殷雷に席に座《すわ》るようにすすめ、老婆は流麗に指示を出した。
「流麗、お茶をお出ししなさい」
その言葉に綜現《そうげん》が動いた。
「あ、僕がいれてきます」
ドタドタと急いで部屋を出ようとした綜現だが、ふと足を止める。
いつもは焦《あせ》って失敗しているのだから、今回は慎重《しんちょう》にいこう。
少年は間違える前に確認しておこうと、椅子《いす》に座りかけた栄秋の側《そば》に寄った。
「栄秋様。お茶の葉は入れるんですか?」
老婆の手から、電光の裏拳《うらけん》が綜現の鼻に飛んだ。あまりの衝撃《しょうげき》に綜現の鼻と口から空気が洩《も》れ、妙《みょう》な音がなる。
「ぶべっ!」
「ほっほっほ。本当に、冗談の好きな子だねえ。いつもどおりに、極上の茶の葉を使うに決まっているでしょ」
鼻を押さえて、逃げるように綜現は部屋から出て行った。
和穂は驚いて栄秋に言った。
「あの、今、思いっきり鼻に拳《こぶし》が当たっていませんでしたか!」
まずいところを見られたと、舌打ちしながらも栄秋の顔からは笑顔が消えない。
舌打ちをしながらの笑顔は、既《すで》に笑顔じゃないのではと和穂は思う。
和穂の顔に浮かぶ疑惑を打ち消そうと、さらに栄秋は笑顔の強さを上げた。
「錯覚です。蝋燭の光の加減《かげん》でそう見えただけです」
「いえ、でもあの子、涙目《なみだめ》になってちょっと鼻血も出ていたようですけど」
「錯覚です。殴《なぐ》った本人が殴ってないと言ってるのですから、殴ってないのです。
いいですか?
いいですね」
「そんな無茶苦茶《むちゃくちゃ》な」
殷雷を護衛につけられるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》での栄秋は必死だった。
言葉の所々に無茶苦茶な部分があったが、踏《ふ》ん張ってまくしたてた。しかし、これ以上|惚《とぼ》けるのは無理だと感じ、栄秋は巧《たく》みに論理をすり替《か》えた。
「たとえ、ちょっとしたはずみで綜現の鼻に私の手が当たったところで、このか弱い老婆の力じゃ怪我《けが》なんてしませんよ」
か弱い老婆にしては、人差し指と中指の付け根にある硬《かた》く固まったタコが不自然だ。
「失礼ですけど、その指の付け根にあるのは殴りダコなんじゃ?」
慌《あわ》てて老婆は両手を後ろに隠《かく》す。
「ば、ば、馬鹿な誤解で、間違いで、違います。
これはですね……そう、機織《はたお》りのときに出来る機織りダコです。知りませんか? 反物の卸《おろ》しをやってるんで、たまには自分でも機織りをするんですよ」
「そうなんですか」
椅子に座って片肘《かたひじ》ついていた流麗は、目をまん丸くして殷雷に囁《ささや》いた。
「……あの子、馬鹿なの? 言いくるめられちゃったじゃない」
「馬鹿はよせ、馬鹿は。ちょいとお人好しなんだよ」
「……ものは言いようね」
「うるせい。世間《せけん》知らずなだけだ」
「……まあ、庇《かば》っちゃって。情に脆《もろ》いという欠陥《けっかん》を持つ刀。って噂《うわさ》もあながち間違いじゃないみたい。殷雷刀さん」
どうせ、この女に逃げ道はないのだ。ならば悪口ぐらい幾らでも言わせてやれと、殷雷は考えた。
「どうでもいいが、その喋《しゃべ》る前の妙《みょう》な間は何とかしろ。イラついて仕方がない」
「……失礼ね。イラつかせようとしてわざとやってるのに」
思わず、椅子に立て掛けた棍に手が伸びそうになったが、どうにかこらえる。
卓の向こう側では、納得《なっとく》のいかない表情をした和穂を栄秋が必死になって、言いくるめ続けていた。
少しは和穂にも、狡猾《こうかつ》な人間を相手にしたときの駆け引きが判《わか》るようになればと思い、殷雷はさっきから黙っていたが、このままでは埒《らち》が開《あ》かぬと口を挟《はさ》んだ。
「ところで、栄秋。なんで襲《おそ》われたんだ? 襲った奴《やつ》に見覚えは?」
「さあねえ。こんなに哀《あわ》れで非力《ひりき》な老婆が、コツコツコツコツと真面目《まじめ》に蓄《たくわ》えた、ほんの少し、ほんの少しの小銭をふんだくろうとするなんて本当に悪い奴だよ。
いやはや、正直なだけが取り柄《え》のババァにとってはなんともやるせないわい。あぁ悲しくなってしまいますです」
確かに言っている内容は、非力な老婆の悲しみを現していた。
だが、腹の底から響《ひび》く、しっかりした発声は戦記物の役者顔負けであった。
流麗は天井《てんじょう》を見詰《みつ》め、髪《かみ》を指で梳《す》きながら言った。
「……あれだけあこぎな商売をやってりゃ、恨《うら》みを買う相手なんていちいち覚えてられないでしょうね」
老婆の目が鋭く光り、椅子から上体が少し滑《すべ》った。
和穂と殷雷に気がつかれないように、巧みに卓の下で流麗の向こう脛《ずね》を蹴《け》り、何事もなかったかのように、椅子に座り直す。
「……痛いじゃないの」
栄秋はそっぽを向いて口笛を吹く。露骨《ろこつ》に不自然だった。
「どうかしたのかい、流麗?」
「……今、私の足を蹴《け》ったでしょう?」
「! 聞きましたか、和穂さん。あいつはこんな哀れな老婆に言いがかりをつけるような女なんですよ」
世間知らずでお人好しでも、目の前で何が起きたかぐらいは判る。
「今、栄秋さんが机の下で蹴ったんじゃ?」
「! 和穂さんまでこの哀れなババァをいじめるのですか」
卓につっぷし、泣き真似《まね》を始めた自称《じしょう》哀れなババァに和穂は慌《あわ》てる。
「いえ、別にそんなつもりじゃ」
「いいんですいいんです、和穂さんはこのババァを嘘《うそ》つきだと思っているのです」
「泣かないでお婆さん。別に嘘つきだなんて思っていませんから」
泣き真似をしながら栄秋はほくそえんだ。
『ふん。かかりおったな』
「あぁ、和穂さんはなんと優しいお方なんでしょうね」
涙の一滴もついていない顔を上げ、老婆は和穂の手を握《にぎ》り大喜びする。
そうこうしていると、綜現が盆の上に湯飲みを載《の》せて現れた。
「お待たせしました!」
元気な声を上げ、部屋の中に入ったまでは良かったが、勢い余って床《ゆか》につまずいた。
どうにか転ばないように、ヨタヨタと足を進めるが結果として、卓の上にぶちまけるように盆を引っ繰り返した。
宙を舞《ま》う、湯飲みと茶。
殷雷は素早《すばや》く立ち上がり、右手で湯飲みを掴《つか》み雷光《らいこう》の速度で、宙を舞う茶の塊《かたまり》から一杯《いっぱい》分《ぶん》の茶を汲《く》み取った。
彼の左手には、卓の上で炎をたたえていた蝋燭立てが、既に握られている。
「あ」
誰ともない言葉の後には、三人の女は茶でずぶ濡《ぬ》れになった。
殷雷は湯飲みから茶をすする。
「ぬるい茶だ」
「綜現! この役立たずめ、なんてことをしてくれたんだ!」
栄秋の野犬のように吠《ほ》えたてる剣幕《けんまく》に、綜現は何度も何度も頭を下げる。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
べとべとになった顔を、和穂は取り敢《あ》えず手で拭《ぬぐ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》よ綜現君」
懐《ふところ》から手拭《てぬぐ》いを出そうとする和穂よりも先に、流麗は自分の懐から柔《やわ》らかな布を取り出し、和穂の頭にフワリと投げつけた。
が、和穂の頭の上の布をブン取り、栄秋は自分の顔を拭《ふ》き始めたので、流麗はもう一枚の似たような布を和穂に投げた。
「……使いなさい。端布《はぎれ》だから遠慮はいらない」
「ありがとう流麗さん」
和穂の礼を無視するように、流麗は三枚目の布を取り出し顔を拭く。
栄秋の怒りはまだ収《おさ》まらない。
「茶も満足にいれられんのか、本当にお前は役立たずだよ!」
「いいんですよ栄秋さん。そんなに熱くもなかったし」
誰がお前のために怒っているか、自分の腹が立つから怒っているのだ、と言いかけたが栄秋は口をつぐむ。
綜現は自分がどうしようもなく、取り返しがつかないようなへまをしでかしたかのように、青ざめて頭を下げている。
「ごめんなさい、もう一度、お茶をいれてきます」
部屋の中にいた、綜現以外の四人は完全に同時に言った。
「もういいから、そこにいろ」「もういいから、そこにいて」「……もういい。ここにいなさい」「もういいから、そこにいやがれ」
へし折れたかのように肩を落とし、うつむき、心の支えはこれだけだと言いたげに盆を胸に抱《かか》え、綜現は壁《かべ》にもたれかかった。
あまりに落胆《らくたん》した姿に、和穂は綜現が可哀《かわい》そうになった。
「そんなに落ち込まなくてもいいよ。失敗ぐらい誰にだってあるんだから」
殷雷はニヤけた口調で言った。
「左様《さよう》でございますな。和穂お嬢様がそう言われると、言葉に重みがありますな」
ちょっと恨《うら》めしそうな表情をして、言い返す。
「殷雷ってば、またそういう意地悪《いじわる》な言い方をするんだから。
でも、確かに私の失敗に比べたら、綜現君の失敗なんて」
あまり深くは悩《なや》まない性格なのか、無邪気《むじゃき》な声で綜現は尋《たず》ねた。
「和穂さんでしたよね。和穂さんはどんな失敗をしたんですか?」
つい今まで自分が和穂を皮肉っていたくせに、殷雷の目がムッとした。
「おいガキ。せっかくお前に気を使って優しい態度を取っている相手に、なんだその態度は? 皮肉をほざくなど十年早いぞ」
綜現に代わり、流麗がボソリと言った。
「……仕方ないでしょ。綜現は記憶《きおく》を失っているの。
仙界《せんかい》の封印《ふういん》から、人間界に逃亡《とうぼう》する時に次元の狭間《はざま》に少しさらされ過ぎたみたいね。
綜現は仙界での記憶を失っている。
覚えているのは、せいぜい自分の名前の、綜現台だけ。
自分が何の宝貝《ぱおぺい》なのかも忘れているのよ」
半信半疑のまま殷雷は立ち上がり、綜現のアゴをつまんで顔を覗《のぞ》く。
「記憶喪失の宝貝だ? まあ、何かのはずみで記憶をなくすってのはあるかもしれんが、自分の正体も判らないだと?
宝貝の正体なんてものはな、気絶させれば一発で判るんだ。
気絶させれば、人の形をとり続けるわけにはいくまい。
綜現、ちょいと痛いが我慢《がまん》しな」
「わ、ちょっと殷雷さん!」
「…………」
殷雷の右膝が、綜現のみぞおちに叩き込まれる。
「ぐぼ!」
腹から息を吐き、綜現は床に崩れ落ちた。驚いた和穂は椅子から立ち上がり、急いで綜現の側《そば》に寄った。
「大丈夫! 殷雷! なんてことするのよ!
こんな無茶《むちゃ》して」
力任せにぶん殴った暴力ではなく、それなりの点穴《ツボ》を責めて痛みを出来るだけ少なくして気絶させたのだが、一々説明する気にはなれなかった。
「うるせい」
和穂は、綜現を膝に抱《かか》えて揺さぶったが、少年の周りにはまだ星が渦巻《うずま》いていた。
流麗は髪をかき上げてつぶやく。
「……やってみたわよ。一度、私も綜現をぶん殴って気絶させてみたけど、本性には戻らなかった」
「あの流麗さん。そうゆう肝心《かんじん》なことは、先に言ってくれないと」
綜現《そうげん》は腹を押さえながら、椅子《いす》に座《すわ》っていた。腹を蹴《け》られた後、背中の点穴《ツボ》を突かれ活を入れられたらしい。
痛みはなかったが、体中がピリピリと軽く痺《しび》れている。
時折、綜現の様子をうかがいながら和穂《かずほ》が自分の失敗を栄秋《えいしゅう》と、そして記憶を失っている綜現にも説明していた。
和穂の師匠《ししょう》の龍華《りゅうか》という仙人《せんにん》が、自分が造りはしたが、何らかの欠陥《けっかん》があった宝貝《ぱおぺい》を一つの封印《ふういん》の中に閉じ込めていたこと。
それを和穂が、自分の失敗で封印を破壊《はかい》してしまい、欠陥宝貝は仙界から人間界にばら撒《ま》かれてしまったこと。
和穂は自分の責任を感じ、全《すべ》ての仙術を封じ込め、人間の世界に宝貝の回収のために降り立ったこと。
綜現は一つの質問をした。
「あの、殷雷《いんらい》さんはどうして和穂さんと一緒《いっしょ》に旅をしているんですか?」
普段なら『やかましい』の一言で済ますのだろうが、膝蹴《ひざげ》りの詫《わ》びのためか殷雷は事情を説明した。
「俺《おれ》も欠陥宝貝の封印の中にいたんだがな、こんな和穂みたいな小娘《こむすめ》の失敗に付け込んで逃げるのも、みっともないと思って俺は一人だけ逃走しなかったんだ。
そうこうしてる間に、和穂は人間界に降りることになった。
宝貝回収のために、宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る宝貝『索具輪《さくぐりん》』と、見つけた宝貝を収容する宝貝『断縁獄《だんえんごく》』だけは持っていくことになったんだが、それだけじゃこんな小娘が生き抜けるはずがないと判断した護玄《ごげん》が……
護玄ってのは、あの腐れ女仙人、龍華とつるんでるにやけた顔の仙人だ。
その護玄が俺の腕《うで》を見込んで、和穂の護衛を頼《たの》みやがった。
この棍《こん》がその報酬《ほうしゅう》ってわけだ。真鋼《しんこう》製の棍なんだぜ……
真鋼ってのは宝貝の材料にもなる、特殊《とくしゅ》な物質だ」
そんな事情があったのかと、綜現は目を輝《かがや》かせて和穂と殷雷の話を聞いた。
流麗も、大方《おおかた》の事情は説明してくれていたが、あまり細かい説明はしてくれなかったのだ。
「それじゃ、殷雷さん。
殷雷さんも欠陥宝貝なんですね。
殷雷さんの欠陥って何なんです?」
「もう一度、気絶したいかクソガキ!」
綜現に食ってかかろうとする、殷雷の矛先《ほこさき》を流麗は自分に向けさせた。
「……刀の宝貝なのに、情に脆《もろ》いらしいね。武器としちゃ致命的《ちめいてき》だわ」
「何だと! やい流麗、そういうお前の欠陥は何なんだ?」
「……それこそ、身に覚えがないわ。私はいたって良く出来た、織り機の宝貝だもの」
殷雷は腕を組んで、鼻で笑った。
「いいか流麗。機能に特に問題がなくて、人の形をとれる宝貝が封印されるのは、大抵《たいてい》は性格に問題があるからなんだぞ」
長い髪《かみ》をなびかせ流麗は首を横に振った。殷雷の言葉を言いがかりだと証明するために、流麗は和穂に尋《たず》ねた。
「……ねえ、和穂。私の性格のどこが欠陥だっていうの? 教えて和穂? 杉の木から降りられなくてビィビィ泣いてた、術が使えない仙人じゃ、結局は無力な小娘と変わらない和穂さん、どうか教えて?」
少し和穂の頬《ほお》が赤くなる。
「泣きはしませんでした」
「そういう性格だから封印されたのだ」
険悪《けんあく》な空気を、綜現はどうにかしようと考えた。
「まあまあ皆さん。誰にでも欠点や欠陥はあるんですから」
「やかましい、自分の正体も判らんなんて、欠陥以前の問題を抱えている奴が、でかい口を叩くな!」
「僕は僕は僕は僕は……」
「殷雷! 綜現君だって好きで記憶をなくしてるんじゃないのに、可哀《かわい》そうでしょ!」
「和穂、さっきから聞いてりゃ、やけに綜現の肩を持つじゃねえか」
流麗は口の前で手を広げ、笑いを隠《かく》す仕種《しぐさ》でからかう。
「……あらまあ、刀がやき餅《もち》焼いてるわよ」
四人が騒《さわ》いでいる間、栄秋《えいしゅう》は人が変わったように静かに熟考していた。
和穂や殷雷の話を聞き、宝貝のなんたるかは理解出来た。
仙人が造った道具だ。これはかなり高い値段で売り飛ばせそうだ。今までは、流麗たちをよく判らない化《ば》け物の類《たぐい》だと栄秋は考えていた。
和穂と殷雷は、綜現と流麗を欲しがっている。ならば、餌《えさ》として使えよう。
自分の身を殷雷に守らせる代わりに、綜現と流麗を差し出すのだ。
勿論《もちろん》、あの黒い炎《ほのお》の化け物を倒させたら、その時にはどうにかして和穂たちを出し抜き流麗たちを取り戻せばいい。
いつのまにか部屋の中が静かになり、一同の視線は栄秋に集まっていた。
殷雷が代表するかのように、口を開いた。
「よお、栄秋。さっきから蛇《へび》が卵|狙《ねら》ってるような目をして、何をたくらんでやがる」
「め、滅相《めっそう》もない」
「まあいい、事情は判っただろ。綜現と流麗は引き渡してもらうぜ」
魚が餌をつついている。ここが正念場《しょうねんば》であった。
「おぉ、この孤独な老婆が孫のように可愛《かわい》がっている、この二人を連れていこうとなさるのか。
二人は私にこんなにも懐《なつ》いているのに」
当然、流麗は黙っていない。
「……誰《だれ》があんたみたいな強欲《ごうよく》な人間に懐いているのよ」
綜現が急いで、流麗をたしなめた。
「駄目《だめ》だよ、流麗さん。栄秋様をそんなに悪く言っちゃ」
殷雷を手懐《てなづ》けるためには、和穂を説得しなければならない、流麗を黙らせるには綜現を言いくるめる必要がありそうだ。
「ところで、話は変わりますが」
刀の宝貝も甘《あま》くない。
「変えるな」
「いえ、話を逸《そ》らそうとはしてません、ちゃんと宝貝の話ですよ。
さっきの襲撃してきた男も、やはり宝貝を使っていたんですかの」
ちょいと厄介《やっかい》なところを突つかれたのか、殷雷の表情が曇る。
「多分な。叩き折った弓は点破弓《てんぱきゅう》という、恐ろしく正確な射撃《しゃげき》が可能な宝貝だ。
問題は矢の方なんだが……」
殷雷の困惑《こんわく》の理由が和穂には判らない。
「矢がどうしたの? 殷雷は武器の宝貝なら大概《たいがい》は知っているんでしょ?」
「見たところは、焦魂矢《しょうこんし》だった」
「納得がいかないようね?」
「焦魂失ってのは、使用者の魂《たましい》を糧《かて》として爆発力を増大させる矢の宝貝なんだ。
だが、あの黒い炎の化け物は、どういう意味なのか判らん。焦魂矢が、あんな風に形を変えるとは思えんのだが……」
「何じゃ、そのいい加減な言いぐさは! あの化け物はワシの命を眠っているとほざいておったんだぞ!
最優先で、あの矢を回収せんか!」
ここまで怒鳴《どな》って、演技を忘れていたと栄秋は慌《あわ》てた。
「ぐほ、げぼ。
こんなに非力《ひりき》な老婆の身に危険が迫《せま》っているとはのう。
どこかに私を助けてくれるような、優しいお方はおられんかのう」
栄秋の演技がそろそろ鼻についてきた殷雷は、老婆の胸《むな》ぐらを掴《つか》んだ。
「いい加減にしろよ。お前に言われなくとも矢は回収するさ。
矢の宝貝ってのは、標的に命中したら機能を停止するんだよ。
お前の体に焦魂矢が命中し、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になった後で矢を拾えばいいんだよ」
「おおおぅ、何と酷《ひど》い言いぐさじゃ。和穂さんもそう考えておられるのか?」
「殷雷、ちょっと言い過ぎよ」
「うるせい。こんな強欲な面《つら》で、命を狙われてるようじゃ、こいつはどうせろくな奴じゃない。
和穂よ、お前にはこいつが本当に哀れな老婆に見えるのか?」
「えぇと、まあそれはそうだけども」
まずい。ここで和穂の心を揺《ゆ》さぶらなければならない。
「和穂さん。命の危機にある老婆を見捨てなさるのか?
見殺しにしようというのですかい?」
「そうよ、殷雷。やっぱり命が危険にさらされているんだから、手を貸してあげましょうよ」
「そうじゃそうじゃ。それとも何か、殷雷刀さんよ。あの矢には歯が立たないのかい?」
「そういう言い方がむかつくのだ。
矢は矢だ。そう厄介《やっかい》な相手ではない」
「へえ。嘘《うそ》じゃ嘘じゃ。あの化け物が怖いから、逃げようとしてるんじゃ」
そんな挑発《ちょうはつ》など、とっくに予想出来てるとばかりに殷雷は言い返す。
「そうさな。うむ。おっかないから手を貸したくても貸せねえな」
もはや和穂に泣きつくしかない。栄秋は和穂の道服の長い裾《すそ》で涙を拭《ふ》く真似《まね》をした。
「和穂さぁぁぁん」
「殷雷。私が宝貝を回収しようとしたのは、宝貝のせいで人に迷惑《めいわく》がかかるのが辛《つら》かったからなの。
だから、人を見殺しにしてまで、宝貝を回収したんじゃ意味ないのよ。
殷雷が嫌《いや》だと言うんなら、無理|強《じ》いはしないよ。でも、私は栄秋さんに力を貸す」
涙を拭く栄秋の手がピタリと止まる。
話が妙《みょう》な方向に行きかけてる。
「は? でも和穂さん。あなたは全《すべ》ての仙術を封じ込めてるんでしたな」
「はい」
それでは何の役にも立たないではないか。
「術の代わりに何か特技でも?」
「いえ」
栄秋は道服の袖《そで》を放し、やけになる。
「ええい、それでは役に立たんではないか。もういい、つべこべ言わずに私を守ればいいんだよ。
そうさ、私を守れば流麗と綜現をくれてやる。
お前らにとっても、いい取り引きじゃないか」
和穂は、子犬のように栄秋を慕《した》う綜現の態度を思い出した。だが、とうの栄秋は自分の命を守るためには、悩みもせずに綜現たちを差し出すと言っているのだ。
「栄秋さん。それじゃあまりに綜現君が可哀いそうじゃないですか」
「黙れ。お前の間抜けな失敗のために、私の命が危険にさらされてるんだよ。
私の命をお前らが守って当然じゃないか。さらに宝貝もくれてやると言ってるんだ。文句を言われる筋合いはないね。
自分の宝貝をどう扱おうが、私の勝手だろう」
和穂は腹が立った。だが言い返すことは出来なかった。ある意味、栄秋の言うとおりなのだ。
腹が立つから、栄秋を見捨てようと考えられる立場ではないのだ。
キュッと唇《くちびる》を噛《か》み締める和穂の横顔を見詰めて、殷雷は言った。
「しょうがねえな。栄秋よ。気はすすまんがあの化け物からお前を守ってやる。
それで文句はないんだな」
「ああ」
唇を噛み締める和穂の横で、綜現は悔《くや》しさに拳《こぶし》を握り締めていた。今までに一体、何度こうして悔しさに拳を握ったことだろう。
一度でいいから栄秋様の役に立とうと頑張ってきたのだが、一度も役に立てなかった。
役に立てないまま、回収されるのが綜現には悔しかった。
今まで何度、お茶をこぼし、壷《つぼ》を割り、商品の反物《たんもの》を泥水《どろみず》の上にぶちまけ台無しにしたのだろう。
井戸の中にうっかり灯油《とうゆ》を落とし、灯油といえば蔵の中でボヤを起こしたこともあった。あの時は全身火ダルマになったけど、火傷《やけど》には全くならずに、自分が宝貝であると実感したものだ。
失敗するたびに、栄秋様に殴《なぐ》られ蹴《け》られ、本気で殺されかけたときもあった。ボヤを起こして包丁で切り掛かられたときには、さすがに流麗さんが割って入ってくれた。
火に焼けず、窒息《ちっそく》すらしない宝貝でもメッタ刺しにされれば死ぬ可能性もあるそうだ。
だが、全ては手遅れなのだ。
一度も、そう、たった一度も使用者の役に立たずに回収されてしまうのか。
せめて、もう一度でいいから機会はないのだろうか?
綜現は知らず知らずのうちに、口を開いていた。
そして、開いた口からは自分でも信じられない言葉が飛び出していた。
「和穂さん、殷雷さん。
僕と流麗さんで、栄秋様を守らせてください。あの化け物から栄秋様を守りきれたら、喜んで回収されます」
綜現の言葉に一番驚いたのは栄秋だった。
「そ、綜現、何を言い出す! 何を血迷ったことを! お前のような役立たずに私の命を任せられるか!」
「お願いします。僕はドジで、今まで一度も栄秋様の役に立ったことがないんです。
回収されるまでに、一度でいいから栄秋様の役に立ちたいんです。
流麗さんも同じ気持ちだと思います」
「……いい考えね。これ以上ないってくらい栄秋にとっては、いい嫌《いや》がらせだわ。
だから大賛成」
流麗の髪《かみ》を掴《つか》み、言葉にならない罵声《ばせい》を栄秋は浴びせた。
殷雷は慌《あわ》てふためく栄秋の姿を見て、ニヤリと笑った。
「泣かせる話じゃねえか。いやあ、お前は宝貝の鑑《かがみ》だねえ」
殷雷よりも和穂を責める方が得策だと、栄秋は瞬時《しゅんじ》に判断した。
「和穂! こんなことを許すんじゃないだろうね! もしも、綜現の失敗で私が死んでしまったら、全ての責任はお前にあるんだよ。
さあ、今すぐ殷雷刀に私を守るように命令するんだよ!」
老婆に首を絞《し》められていた和穂は、どうにか声を出す。
「命令ですか? ゴホン。殷雷、栄秋さんを守りなさい」
和穂の予想どおりの反応が殷雷から返った。
「うるせい。お前に命令される筋合いはねえんだよ」
「てなわけで、殷雷は別に私の部下でも子分でもないんですから、命令なんて出来ませんし、したくもありません」
「黙れ黙れ、この間抜けめ。皆お前の責任なんだよ、この人殺し!」
化け物に殺される前に、このままでは血管が切れて栄秋は死んでしまいそうだった。
殷雷は真面目《まじめ》な表情で言った。
「静かにしろ、栄秋。お前が生きるか死ぬかの問題だってのは判っている。
綜現よ。最後の機会をやろうじゃないか」
暴れる栄秋を制して、言葉が続く。
「その代わり、綜現。お前の手に余り、栄秋を守りそこねると判断した場合は、俺が割って入る。
そうなれば、もうお前はただの役立たずだ。一度も使用者の役に立たずに封印されてしまう。
覚悟《かくご》はいいな」
生唾《なまつば》を飲み込み、綜現は首を縦に大きく振った。
「はい、殷雷さん」
老婆は納得しない。
「そんないい加減な!」
「やかましい。この条件が飲めないなら、お前の護衛は断るぞ」
栄秋は深く歯ぎしりをした。ここでゴネたら本当に、殷雷は手を引くかもしれない。
歯を食い縛《しば》る栄秋に向かい、綜現は無邪気《むじゃき》に言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》です、僕に任せてください!」
答える代わりに、栄秋の手慣れた拳撃が綜現の顔面に炸裂《さくれつ》する。
「ふご!」
悪ぶってはみても、殷雷には同じ宝貝として、綜現の気持ちが判《わか》っているのだと和穂は考えた。
こういう殷雷の行動は、武器の宝貝としての非情さに欠ける行為《こうい》なのかもしれない。だけれども、殷雷のそういう部分が和穂は好きだった。
和穂は微笑《ほほえ》みながら、殷雷に言った。
「それじゃ殷雷。綜現君や流麗さんを鍛《きた》えてあげなくちゃね。
大丈夫よ、綜現君。
殷雷に鍛えてもらえば、きっと強くなれるよ」
鼻で笑い、殷雷は意地悪く言った。
「俺に頼ってどうするんだよ。
お前らが役に立ちたいんだろ?
だったら、お前らでどうにかしろ。
俺は一切《いっさい》、手を貸さない。見てるだけだ。無理だと思えば、俺が焦魂矢を倒す。
綜現は役立たずとして、回収されるってことだな」
唖然《あぜん》として、和穂は言った。
「うそ……」
「そこがそれ、武器の宝貝の非情な部分ってやつじゃねえか」
「そういうのって、ただの意地悪って言わない?」
「いや、厳しさだ」
「意地悪よ」
流麗は眠たそうな瞳《ひとみ》を栄秋に向けた。
「……蜘蛛《くも》の糸が命綱《いのちづな》って感じね。
でもね、蜘蛛の糸って細さのわりにはとっても丈夫なのよ」
ついぞこの女の口から、他人に対する慰《なぐさ》めなど聞いた覚《おぼ》えのない栄秋は、少し驚いた。
「流麗」
「……もちろん、人の体重を掛けたら、呆気《あっけ》なくプチって切れちゃうけどね。
プチッよ。プチッ」
「黙れ、流麗。綜現がへましたら、殷雷が私を守るんだぞ」
「……この中で一番ましなだけで、殷雷だって完全な宝貝じゃないわ。
兎《うさぎ》と鼠《ねずみ》と雀《すずめ》と蛙《かえる》と猫がいたら、猫が一番強いでしょうよ。
だからといって、猫が熊に勝てる理由にはならない。
殷雷の余裕は、あくまでも敵が焦魂矢と仮定しているから。
でも、正確には焦魂矢らしき化け物なのよね。
お・わ・か・り?」
怒鳴《どな》り返す気力が見るまに萎《な》えていった。流麗の言葉に間違いはない。
冷汗を流しながら、栄秋は考えた。
生き延びることは出来るのか?
栄秋の椅子の横では、綜現が気持ち良さそうに気絶していた。
こんな奴に命を預けろというのか?
水車小屋の中で、一人の少女が大きな欠伸《あくび》をした。
綜現よりも、さらに幼《おさな》い少女だ。
少女は、さっきまでは自分の髪の毛を、色々と編んで遊んでいたのだが、我《われ》ながら会心《かいしん》の三つ編みが出来てしまった。
解《ほど》くのは少し勿体《もったい》ない。
そこで少女は、三つ編みをクルクルと後頭部でまとめて団子《だんご》にし、団子を桜色の飾《かざ》り布でくるんでみた。
水瓶《みずがめ》の中の水に映してみたが、なかなかいい感じだ。
それはそれで良、暇《ひま》を潰《つぶ》す方法がなくなってしまった。
小屋の中を見回しても、無数の木箱と使われていない大きな臼《うす》があるだけだ。
本来ならば、水車の軸に連動させて、臼を使うのだろうが、今は軸から外《はず》され、小屋の中にはギシギシと水車の回る音と、せせらぎの音が聞こえるのみ。
窓らしい窓もなかったが、隙間《すきま》だらけの水車小屋には充分《じゅうぶん》に日《ひ》の光が射し込んでいる。
少女の名は塁摩《るいま》といった。
塁摩は水車を外から見てみたかったが、それは弾勁《だんけい》に禁じられていた。
自分が帰ってくるまで、おとなしく待てと弾勁にきつく言われていたのだ。
「退屈《たいくつ》う」
何度も何度も、塁摩は退屈という言葉を繰《く》り返した。繰り返すうちに、たいくつという音が何を意味するのか判《わか》らなくなっていく。
小屋の中にあった、小麦の匂《にお》いが残る木箱に座《すわ》り、塁摩は足をブラブラと揺《ゆ》らす。
「遅いなあ」
今度は遅いという言葉を連発したが、すぐに飽《あ》きた。
とうとう痺《しび》れを切らし塁摩は話しかけた。
「ねえねえ、豪角《ごうかく》。
少し弾勁の帰りが遅いとは思わない? 昨日の夜中には帰るはずだったじゃない」
返答は戻らない。
小屋の中には塁摩の気配《けはい》だけしかない。
「豪角ってば。ねえねえ。ねえねえ。
豪角さん、豪角様、豪角|殿《どの》、ねえねえ、ねえねえ。豪角刃《ごうかくじん》ってば答えてよ」
塁摩のしつこさに音《ね》を上げたのか、積まれた木箱の上にあった、平らで小さな箱が突然地面に落ちた。
落下の衝撃で箱は開き、中に入っていたハサミが外に転がり出る。
一本の鋼《はがね》を曲げて作った、いわゆる裁《た》ちバサミとは形が違った。
片刃を持つ、二つの鋼を交差させ鉄鋲《てつびょう》を打ちつけ、親指とそれ以外の指を入れる、輪状になった握りを持つハサミだ。
握りの部分は、使いやすそうに、指の形に抉《えぐ》れていた。
しかしあまりに指の形を考慮《こうりょ》したせいで、抉れた握りはどことなく生き物じみた雰囲気があった。
特に色を塗られるでなく、鋼独特の月光を思わせる銀色のハサミだ。
閉じられた刃は、安全のために革《かわ》の鞘《さや》に差し込まれている。
「勘違いしないでよね豪角。退屈過ぎてお喋《しゃべ》りの相手が欲しい、なんて子供っぽい理由じゃなくて、弾勁が心配だから、相談したいのよ」
ハサミは、地面の上でくるりと回転し、そのまま速度を上げた。瞬間、竜巻《たつまき》のようになったかと思うと、ハサミは消え、そこには一人の青年が立っていた。
「少しは我慢《がまん》を覚えなくっちゃあ、いけないぜえ。塁摩のお嬢ちゃんよう」
痩《や》せた青年だった。
短めの銀髪《ぎんぱつ》に貧相《ひんそう》な唇《くちびる》。抉れた頬《ほお》に鋭利《えいり》な刃物で刺されたような、鋭《するど》く細い目。
両手には、肘《ひじ》の上から指先まで包帯のように細い革が巻かれている。
一本一本の指先まで革が巻きついていた。
「相変わらず変な喋り方ね、豪角」
唇と共に、頬《ほお》の骨格まで動かして豪角は喋った。
「別に普通にも喋れるんだあが、それじゃ俺《おれ》らしくないだろうよおう」
「まあいいや。弾勁の帰りが遅いと思わない? 大丈夫《だいじょうぶ》かな」
小鳥のようにせわしなく首を傾《かし》げ、豪角は答えた。
「んなものあ。心配いるまいよ。
点破弓《てんぱきゅう》とお、焦魂矢《しょうこんし》の二つの宝貝《ぱおぺい》を使ってえだな。老婦人を殺しにいったんだろお。
護衛がいようがいまいがあ、へまをするはずはないだろおよ」
「そりゃまあ、そうだろうけどお、やだ喋り方がうつっちゃった」
「塁摩よ、お前も宝貝なあら、ジッと待つぐらいの辛抱《しんぼう》は必要だあな」
「だって、豪角は本性のハサミに姿を変えているからいいわよ。
私みたいに人の形をとっていると、時間の感覚まで人と一緒《いっしょ》なんだから」
「ならば、お前も本性に戻れえよお」
「冗談《じょうだん》。そんなことしたら水車小屋がぶっ壊《こわ》れるもん」
「さらに、ならば。ならば、黙《だま》って待つんだなあ。十年も百年も待つんじゃあないんだからよお」
塁摩にも事情は充分に判《わか》っていた。だが、この退屈さはどうしようもない。
「だいたい、弾勁も弾勁よ。
私たちも連れていってくれたらいいのに。
色々と役には立つと思うよ」
「俺は、剣や刀みたいな武器の宝貝のように切れるハサミだあが、武器じゃあない。
塁摩先生の強烈《きょうれつ》な能力じゃ、暗殺ってえわけにはいかないだろうよお。
幾ら使えそうな物があってえも、必要にしてえ最小限の物しか持っていかないのは、賢明《けんめい》な判断かもしれえないよお。
そこが弾勁殿の冷静なところ、暗殺に心を焦《こ》がされ幾ら頭に血が昇《のぼ》っていても冷静なのは、利口《りこう》な証拠」
「じゃ、どうして帰りが遅いと思う?」
革の巻かれた指先で、塁摩の鼻を押して豪角は言った。
「俺があ、思うに。迷子《まいご》になってんじゃあねえか。
じゃあな。俺はまたハサミに戻るぜ」
せっかくの話し相手を、逃がしてなるかと塁摩は食い下がる。
「待って待って、しりとりでもしようよ」
「よし。俺が先攻。ズビャラ。はい次は塁摩だよお」
ズビャラなんて叫び声でしりとりをやっても絶対に面白《おもしろ》くはない。塁摩は頬を膨《ふく》らませる。
「……もういい」
「聞き分けのいい子だねえ。じゃな」
その時、水車小屋の扉《とびら》が小さくガタリと動いた。
塁摩と豪角は、木箱の裏に隠れ、扉に視線を送る。
時期|外《はず》れで、誰《だれ》も使っていない水車小屋だが農家の人間がやって来ても不思議《ふしぎ》ではないだろう。
豪角刃はハサミに戻れば、少しの隙間《すきま》に隠れられるし、塁摩は見つかっても、ただの子供にしか見えまい。
立て付けが悪い扉をどうにか開き、一人の青年が小屋の中に入った。
「あ、弾勁だ」
見覚えのある顔、服装の弾勁がそこにはいた。
塁摩と共に、豪角も姿を現した。
「これは弾勁殿。お帰りをお待ちしていましたあよ」
「遅かったじゃない、弾勁」
弾勁は微笑《ほほえ》む。
「ああ、少しあってな」
豪角の鼻がヒクと動き、ハサミの宝貝は塁摩の襟首を掴《つか》んだ。
「何すんのよ、豪角」
「心の底からお願い。じっとしてろ」
弾勁は笑みを絶やさず、豪角を見た。
「宝貝を騙《だま》そうとは、いい心掛けだあな。お前は、弾勁殿じゃあないね」
塁摩は言い返した。
「豪角! 私をからかうのはいいけど、弾勁にそんな口をきいちゃいけないよ」
「思い出せ、塁摩。弾勁は点破弓《てんぱきゅう》を持って、背中には矢筒《やづつ》を背負っていただろお」
豪角の言葉のとおり、目の前の弾勁は素手《すで》で背中には矢筒を背負っていない。
弾勁は言った。
「なかなかの観察力だ」
「あんた、誰?」
言葉が終わると同時に、豪角の右手に巻かれていた革がスルリと解けた。
革の下にあったのは、スラリと伸びた痩せた腕だった。
だが、腕は瞬時に月光を思わせる輝《かがや》きを帯びて、豪角は己《おのれ》の手刀《しゅとう》を弾勁の首に向かって走らせる。
一閃《いっせん》
弾勁の首ははね飛ばされ、水車小屋の床《ゆか》にゴロゴロと転がった。
切り口からは血が一滴も流れず、それどころか切り口には、闇《やみ》のような黒色があるばかりだった。
落とされた首は、ゆっくりとドロドロに溶け、溶けながら黒く変色していった。
溶けた氷が水の染《し》みを作るように、溶けた首は黒い染みを床につけ、染みもすぐに蒸発した。
さすがの宝貝たちも固唾《かたず》を飲んで、首の無い男を見守る。
黒い切断面が盛り上がり、膨張し、黒い顔が出来た。
黒い顔はすぐに肌《はだ》色になる。
弾勁は言った。
「そんな顔するなよ」
豪角は叫ぶ。
「る、塁摩! どうにかしてくれえ! お前なら倒せる、多分倒せる、きっと倒せる」
「お、お化《ば》けの類《たぐい》は嫌《いや》あ!」
弾勁はしゃがみ、当然の如《ごと》く、自分の影《かげ》の中に右手を差し込む。
闇夜の池に手をつけるように、右手は影の中に沈む。
そして影の中から一つの鞭《むち》を取り出した。
影と同じ黒色の鞭は、革《かわ》の鞭にも見えた。
弾勁が手の中の鞭をしならせると、鞭の先端は豪角の首に巻きついた。
「爆《は》ぜろ!」
弾勁の言葉に反応し鞭の先端は爆発した。先端を失った鞭はヒュルヒュルと空《くう》を切り、弾勁の手に戻った。
塁摩は叫ぶ。
「豪角!」
爆煙の中から、豪角の咳《せ》き込む声が聞こえた。煙が消えると、少し煤《すす》けた豪角の顔が現れる。
「豪角よ。今のはただの脅《おど》しだ。本気になれば宝貝でも吹き飛ばせるぞ」
「弾勁殿はどうしたんだよお」
「俺が弾勁だ。そして、焦魂矢でもある」
「嘘《うそ》よ! 焦魂矢は人の形をとれないし、意志を持つ宝貝じゃないもん」
説明するより早いだろうと、弾勁は服の胸元を、自分の胸の肉ごと開いた。
力|任《まか》せに肉を骨からはぎ取るような、バリバリという音がした。
肉体の内部には脈打つ心臓はなく、泥炭《でいたん》を思わせる黒い肉の中に一本の矢が埋まっている。
嫌な物を見ちまったと、青い顔をする宝貝たちをよそに弾勁は言った。
「俺は俺の魂《たましい》なのだ。焦魂矢を軸にして、形をとっている」
「判んない、判んない」
「点破弓も、魂を糧《かて》とする宝貝だったみたいだな。
魂を糧として、正確に標的に矢を当てる宝貝だ。
どうやら、俺は魂を桁《けた》違いに注ぎ込んでしまったらしい。
ところが、矢の前には厄介《やっかい》な邪魔者《じゃまもの》が現れてしまったんだ。
殷雷《いんらい》さ」
塁摩は大きく手を上げた。
「殷雷ちゃん? それじゃ和穂《かずほ》と一緒に回収に来てたの? 焦魂矢や点破弓じゃ、かなうはずがないよ。だから、私も連れていってくれたら良かったのに」
優しくうなずき、弾勁は塁摩の頭を撫《な》で、言葉を続けた。
「殷雷の前じゃ、矢は通用しない。だが弓は矢を標的にまで導く義務がある。
しかも、焦魂矢にはこれまた莫大《ばくだい》な魂が充填《じゅうてん》されているときた。
点破弓は、焦魂矢を栄秋《えいしゅう》に命中させるために一つの賭《か》けに出たんだ。
焦魂矢を軸にして、もう一人の弾勁を造ったんだ。それほど凄《すご》い話じゃない、俺の魂のほとんどは焦魂矢の中にあったんだからな。
殷雷がいるから、この場では標的には、命中出来ない。ならば、次の機会を狙《ねら》おう。そのためにはもう一人の弾勁を造ればいい」
塁摩は頭の回転が早かった。彼女は武器の宝貝ではなかったが、状況判断能力に秀《ひい》でていた。
「じゃ、あんたは、点破弓の力で、弾勁と焦魂矢が一緒になった人なの?」
「いや、厳密《げんみつ》には意志も何もない焦魂矢さ。
だけどな。火矢が、矢に炎《ほのお》をまとうように弾勁の魂をまとっているのさ。
だから、まとわれている俺は弾勁だ。判るな?」
首に巻きついていた鞭の跡を摩《さす》りながら豪角は言った。
「お前はあ、ただの化け物さ。俺たちは弾勁殿に仕《つか》えているがあ、焦魂矢や化け物に仕える義理はないぜ」
「ああ、そうだ。だが、俺は弾勁の意志を代理していると考えてくれ。
一度は殷雷のせいで失敗した、栄秋の殺害を果たすんだ。
そのために豪角と塁摩の力を貸してくれ」
ハサミの宝貝は、地面に落ちていた革の紐《ひも》を拾い、自分の腕に巻き付けた。
「よおし、それなら納得出来る」
「うん。私も判った。でも、面倒《めんどう》だからあなたのことは弾勁って呼ぶよ。顔も一緒なんだから。
ありゃ、そういえば本物の弾勁は? もしかして、死んじゃった?」
「いや、役人に捕《つか》まっている。
おっと、助けにいく必要はない。殷雷たちが見張っている可能性がある。弾勁の身の安全よりも、栄秋への復讐《ふくしゅう》を優先するからな」
今の弾勁の判断は、まさに弾勁の思考そのものだった。豪角も、目の前の化け物と弾勁の魂が一緒のものだと理解した。
「判った。弾勁殿。
でもよ、これで点破と焦魂の欠陥が判ったような気がするな。幾《いく》ら目的|遂行《すいこう》のためとはいえよお、自分の複製が出来るとは普通じゃあないぜ。
食い合わせの欠陥か」
好奇心をくすぐられ、塁摩の目が光る。
少女は、弾勁の袖を引っ張った。
「でも、さっきの豪角への攻撃、もう矢の攻撃って感じじゃなかったね」
弾勁は笑った。
「そうさ。俺はもう、矢の限界を超越《ちょうえつ》している」
「あの鞭は?」
「魂の余りで造ったのさ。
焦魂矢が爆薬として使う、俺の魂を粘土のように使ったのだ」
「もっと早く帰ってくればよかったのに」
「黒い炎を操《あやつ》って、この肉体を構成するのに時間がかかったんだ。
魂を実際の物に転ずるのは、意外とコツがいるんだ」
一番|肝心《かんじん》なことを聞かねばと塁摩は思った。
「今度は私たちを、ちゃんと使ってくれるのね?」
弾勁の笑みが炎のような気迫《きはく》に包まれる。
「あぁ。栄秋の周りにいる、人間やら宝貝を順次に狩って、奴の恐怖を煽《あお》ってやるんだ」
「あ、それって刺客《しかく》ってやつでしょ? 恰好《かっこう》いい!」
ちゃんと革が巻かれたか確認するために、ニギニギと手を動かし、豪角は言った。
「塁摩のお嬢さんよお。刺客だぜ、刺客。
老婦人の周囲の連中を、一人ずつソッと仕留《しと》める刺客。
お前にそんなに細《こま》かい仕事が出来るかい?
弾勁殿の恨みを晴らすにゃあ、ジワジワが必要。
一気に全員を屠《ほふ》っちゃあ、駄目《だめ》なんだよ」
少女は腕を組んで、首を傾《かし》げた。
「うぅん。多分大丈夫」
「ごめんなさい和穂《かずほ》さん。たいした朝食も用意出来なくて」
「いいのよ、綜現《そうげん》君」
「栄秋《えいしゅう》様は、あまり食事にお金をかけられる方じゃなくて」
「そんな感じね」
和穂と綜現は、朝食代わりの桃をかじりながら、蔵と蔵の間を歩いていた。
整然と並んだ蔵は、慣れない者にとっては見分けがつかなかったが、綜現は手慣れた様子《ようす》で、和穂を流麗《りゅうれい》がいる蔵へと案内した。
「栄秋さんてどんなお仕事をしているの?」
「反物《たんもの》の商《あきな》いなんです。安く仕入れて高く売って、問屋のような仕事もしますし、珍《めずら》しい反物を見つけて、高く売りつけたりもしますよ」
「どっちにしろ高く売るのね」
「ははは。流麗さんは布を織るのがとても上手《じょうず》なんで、栄秋様は機織《はたお》りを命令されているんです。もしも、流麗さんの織物が完成したら、とんでもない高値で売れそうなんですけども、いつまでたっても完成しなくて」
流麗が栄秋に命令され、それに従っているのだ。そうなるまでの経緯を想像し、和穂は大きくうなずく。
「大変だったでしょ?」
「大変でした。
空《あ》いている蔵に織り機を入れて、そこで流麗さんは織っているんですが、栄秋様に絶対に中に入るなって、交換《こうかん》条件を出したんですよ」
「? 何か秘密でもあるの?」
少年は首を横に振る。
「いえ、早く織れって催促《さいそく》されるのがうっとうしいんだそうで」
テクテクと和穂と綜現は、朝日の下を歩き続けた。
化《ば》け物と戦う相談をしたいので、流麗の姿を探しているのだ。
やがて綜現は、一つの蔵の前に立つ。
「ここです。……あれ? 機織りの音がしないな?」
首を傾《かし》げて、綜現は引き戸を開く。
「あ!」
そこにはギッシリと詰め込まれた、反物の山があった。
綜現の驚《おどろ》きに和穂は身構えた。
綜現は困った顔で言った。
「いけね。蔵を間違えました」
和穂は思わず考える。
一度も役に立ったことがない。とは、今までに一度も大手柄《おおてがら》を立てたことがない、という次元の話なのかなと、和穂は思っていた。
桁《けた》違いの能力を持つ道具、宝貝《ぱおぺい》なのだ。一度も手柄を立てたことがないのが、心残りなのかと考えても不思議《ふしぎ》はあるまい。
しかし、これはどうも言葉のとおりに、謙遜《けんそん》も虚飾《きょしょく》もなく、『お茶を飲むのに、湯飲みが役に立った』ぐらいの意味で、役に立ったことがないんじゃないのかと和穂は考え直した。
和穂の疑惑をよそに、綜現は別の蔵の扉を開けるが、そこにも反物の山。
「あれ? 日が昇ってるからこっちが、西でしょ」
「ひ、東だと思うよ」
「そうか、うっかりしてました」
綜現は向かい合う、別の蔵に和穂を案内し扉を開く。
だが、三たび反物の山。
不思議そうに首を傾げた綜現の顔が、急に険《けわ》しくなる。
「ま、まさかこれは敵の化《ば》け物の仕業《しわざ》では」
出来るだけ傷つけないように、和穂は言葉に気をつけた。
「あのね、綜現君。
私の勘《かん》なんだけど、そう、勘なんだけど、あそこの蔵だけ扉が少し開いているでしょ?
もしかしたら、流麗さんはあの中にいて、風通しをよくするために扉を開けている、って気がしない?」
アッと驚き、綜現は手を打った。
「そうか! さすがは和穂さん」
殷雷のように厭味《いやみ》で褒《ほ》めるのではなく、無邪気《むじゃき》な笑顔で心の底から褒められて、和穂は悪い気はしなかったが、どうしようもない不安にかられる。
綜現君は、素直でいい子だ。今まで見てきた欠陥宝貝の中では一、二を争う性格の良さだ。実直さや誠実さ、使用者に対する態度や思いやりは、四海獄《しかいごく》を思わせる程だ。
けど、いくら性格が長くても龍華《りゅうか》師匠《ししょう》の前で今みたいなことをやっていたら、怒鳴《どな》り倒されてるだろう。
綜現が護衛になると言い出したときの、栄秋の狂乱の理由がなんとなく和穂には判《わか》ってきた。
だが、同時にこんな綜現の願いを叶《かな》えてあげたい気持ちが、さらに強くなるのを感じた。
蔵の中には流麗がいた。
広いが、薄暗い蔵だ。上を見上げれば、天井《てんじょう》を支える無数の横木が見えるが、天井板はない。柱が支える、屋根の形がそのまま見える。
横木の上ではカサカサと小さな物音がし、鼠《ねずみ》が走り回っていた。
小屋の真ん中には、大きな織り機が置かれている。
巨大で、かつ繊細《せんさい》な糸が巡《めぐ》らされたそれは、美しい弦楽器のようだった。
弦楽器の前に座《すわ》るのは、これまた美しい女であったが、流麗は面倒《めんどう》そうに舌打ちしながら、ドカスカギッタンバッタンと手荒に布を織っていた。
織り手の態度とは裏腹に、織られていくのは美しい布であった。
図柄《ずがら》はまだ完成していないが、羽ばたく無数の鶴《つる》をかたどっている。
流麗が嫌々《いやいや》働いていると、蔵の扉が音を立てて開かれた。
射し込む朝日に、流麗は目を細め、そこに和穂と綜現の姿を見る。
娘と少年は同時に言った。
「流麗さん、お早うございます」
「……寝てもいないのに、お早うもへったくれもないもんだ。ま、宝貝だから寝なくても平気だけど」
和穂たちは蔵の中に入る。流麗は機織りを続けた。
和穂は珍しそうに、織り機を見た。
「わ、凄《すご》い。難《むずか》しそうな機械ですね。
あ、綺麗《きれい》な鶴!」
流麗が織り機の踏《ふ》み板に乗せた足に力を入れると、繊細な縦糸が、角度を変える。
一つ一つ互い違いになった、縦糸の間に横糸を巻き付けた木を走らせる。
「……これでも私は織り機の宝貝、流麗絡《りゅうれいらく》なのよ。
織り機の宝貝が織り機を使ってるのよ。馬鹿らしいったらありゃしない。
しかも、こんな玩具《おもちゃ》みたいな代物《しろもの》で」
だが、和穂には玩具どころか、記憶の中にある機械の中で、浮鉄《ふてつ》に次いで二番目に複雑な物に見えた。
梨乱《りらん》は、浮鉄には機織り道具の技術を使っていると言っていたが、この織り機の複雑さを見ていると、納得出来るものがある。
織り機を玩具という、流麗の言葉に驚いたのは綜現も一緒だった。
「玩具だなんて、流麗さん。この柳《やなぎ》の印がある織り機は滅多《めった》になくて、織り機の中では一番高価なやつ、らしいじゃないですか。
流麗さんは、この織り機でなければ、絶対に織らないって、栄秋様を困らせたでしょ」
「……他のは、玩具以下よ。私が本気を出せば、今の何百倍も速く、もっと細かい仕事が出来るけど、そこまでしてあの栄秋を喜ばせるつもりはない」
綜現は溜《た》め息をついた。流麗は栄秋を嫌《きら》っている。
織り機から立ち上がり、背伸びをして流麗は言った。
「……能無しの仙人さん」
流麗は言葉を途中で区切った。今の一言が和穂の胸にグサリと刺さったのを確認して、言葉を続ける。
「……朝の挨拶《あいさつ》にわざわざ来たの? それとも機織りの見学? 用事を言いなさいよ」
落ち込んでいる場合ではない、和穂は目的を告げる。
「はい。化け物から栄秋さんを守るための相談をしようと思いまして」
「……相談してどうなるの? 相談して、化け物に勝てるとでも考えているの?
でも、まあいいわ。相談して頭を使っているフリをすれば機織りがさぼれるもの。
機織りが辛《つら》いんじゃないよ。機織りをさぼれば、栄秋の利益が減るのが楽しいの」
流麗の態度が、綜現に辛く感じられた。
「流麗さん、よしなよ。栄秋様を悪く言うのは。
そりゃ栄秋様は、強欲《ごうよく》で自分勝手で、あまり善人じゃないかもしれないけど、僕たちの使用者じゃないか」
流麗は、澄んだ黒い目で綜現を見る。だが喋《しゃべ》らない。綜現は言葉を続けた。
「ね、流麗さんもなんだかんだ言って、栄秋様のところから出ていかないじゃない。
流麗さんだって、栄秋様の役に立ちたいからここにいるんでしょ?
だったらもっと」
綜現の言葉を流麗は遮《さえぎ》った。
「……違うわよ。私がここにいる理由は」
流麗の言葉は優しかった。いつもとは声の感じが違う。不思議がる綜現に向かい、流麗は歩き、そのまま少年の背後に回り込む。
「流麗さん?」
流麗は慈《いつく》しみ、覆《おお》い被《かぶ》さるように、綜現の背中に抱きついた。
短いが柔《やわ》らかい綜現の髪に、流麗はゆっくりと頼《ほお》ずりをした。
「……私がここにいるのは、あなたがここにいるから。どうして気づいてくれないの?
愛しているわよ綜現」
意表を完全につかれた和穂は、手に持った桃を落としかけながら、慌《あわ》てふためく。
なぜか、綜現と同じように、和穂の顔も真っ赤になっている。
「そ、そ、そ、そ、そうだったんですか! いや、あのその、なんですか、えぇと、そうそう、お邪魔《じゃま》だったら出ていきます。
じゃ、さいなら」
驚き過ぎて、もう少しで懐《ふところ》の中に桃を入れるところであった和穂に、綜現が叫ぶ。
声は完全に裏返っている。
「わ、わ、わ、和穂さん。待ってください!
りゅ、流麗さん! そんな冗談はやめてくださいよ!」
右手には桃を持っていたので、左手で和穂は胸を押さえた。人のことながら、胸がドキドキしていた。
しかし、あの流麗だ。これくらいの冗談はやりかねない。
扉の前で立ち止まり、和穂は桃をバクバク食べた。喉《のど》がとても乾《かわ》いている。
肩掛けのように、綜現の胸の前で長い指を組み合わせ、流麗は言った。
「……冗談なんかじゃない。本気よ。
私が一度でも、綜現を傷つけるようなことをした? あなたを、嘲笑《ちょうしょう》するような言葉を吐いた?」
確かに、流麗の言葉のとおりだった。あの流麗が自分には、一度も酷《ひど》いことを言っていないのだ。だが、綜現は否定した。
「そりゃそうだけど、ほら、和穂さんにも酷いことは言ってないじゃ……」
和穂は首を横に振った。
「さっき『能無しの仙人』って呼ばれたよ」
「……綜現。私の虚《うつ》ろな心を満たしてくれるのは、あなたの瞳《ひとみ》の輝きだけなのよ。
どうしてなのかは、判らない、でもあなたの瞳の光に、私はひかれるの」
栄秋は、自分の屋敷に庭を作るような人間ではない。そんな土地があるなら、蔵の一つでも建てる方が絶対にいい。
が、どうしても利用出来ない、中途半端な広さの土地があり、それは丁度《ちょうど》、ボロボロの母家《おもや》の裏にあたった。
栄秋にとっては、どうしようもない余り物の土地だったが、綜現はそこを庭と呼んだ。
庭には木で出来た、背もたれも何もない質素な長い椅子《いす》があり、そこには殷雷《いんらい》と栄秋が座《すわ》っていた。
殷雷は酒を呑《の》み、皿に盛った刺身《さしみ》をつついている。
「いやあ、美味《うま》いねえ。この世で一番美味いのは、ただ酒だねえ。
その次に美味いのは、ただ飯なんだがな」
心の底から悔《くや》しそうに歯ぎしりし、老婆は言い返す。
「殷雷! いつの間に、そんなもんを用意した!」
「さっき、屋敷の前を魚屋の小僧が歩いてたから、買ったんだよ。ついでに小遣いをやって、酒も買って来てもらった。
もちろん、勘定《かんじょう》は栄秋、お前に付けてあるぜ」
「き、貴様《きさま》!」
「うるせい。人が酒を呑んでるんだから、静かにしろい。
お前みたいな婆《ばあ》様と、差し向かいで呑んでもぜんぜん嬉《うれ》しくないぞ」
「私も、お前みたいな奴の相手などしたくはないわい。だが、護衛から離れるわけにはいくまいよ」
「栄秋の護衛は、綜現。俺は綜現がしくじりそうになるまで出番はないの。
まあいい。さっきから、周囲の気配《けはい》はちゃんと探《さぐ》ってるから、この屋敷の中だったら、どこにいても大丈夫《だいじょうぶ》だぜ。
何かあったら、すぐ行ってやらあ」
疑わしそうな表情で、栄秋は立ち上がり、着物についたほこりを叩いた。
「本当だろうな。私も色々と仕事の手配があるから、その方がありがたい。
本当に、屋敷の中なら大丈夫なんだな」
「大丈夫だ」
栄秋が姿を消したので、殷雷は心おきなく刺身を堪能《たんのう》した。
呑気《のんき》に酒をかっくらっているように見え、殷雷は本当に周囲の気配は探っていた。
殷雷は髪の毛に伝わる雷気《らいき》から、屋敷の周辺に近寄るものは全《すべ》て探知《たんち》していた。
不自然な素振《そぶ》りを見せるものは、たとえ空を飛ぶ鳥ですら見落とさない自信がある。
極度に集中力を消耗《しょうもう》するので、歩きながら出来る芸当ではないが、ドッカリと陣取っているならそれほど苦痛はない。
そうこうしていると、綜現、流麗、和穂の三人がやって来た。
なぜだか、綜現と和穂は行進のように手足をギクシャクしながら歩いている。
しかも二人とも顔が真っ赤だ。
「何やってんだ、流麗を呼びにいくのにどれだけかかってやがる!」
和穂は椅子に座る殷雷のもとに駆け寄る。
「呑気にお魚食べてる場合じゃないよ殷雷。殷雷が知らない間に、意外な事実が明らかになって、状況はとんでもなく複雑になったのよ」
「は? どうしたってんだ。そんな大事な話なら説明してくれよ」
説明しようと和穂は口を開いたが、いざ口に出そうとすると妙《みょう》に気恥ずかしくなった。
「いや、やっぱりいいや」
「言え。気になるだろうが」
和穂の顔がまたしても赤くなる。
「だから、流麗さんて、実は……もう、殷雷ったら鈍感《どんかん》なんだから」
和穂はそう言ったが、これはどう見ても刀の宝貝の与《あず》かり知らぬ話である。
「へ? 全然判らんぞ。
? おいおい、綜現どこへ行く。そのまま歩くと壁にぶつかるぞ! ちゃんと前を見て歩かねえか!」
警告を理解する前に、綜現は壁にぶつかった。
しゃがみながら、打ちつけた額《ひたい》を一心に撫《な》でている。
疑問が渦巻く殷雷の前に、流麗が立ちふさがった。
「……あら、美味しそうなお刺身ね」
「ふん。朝飯ぐらいちゃんと食わせてもらうぞ。桃なんかで腹が膨《ふく》れるか」
「……刺身なんて、この家にあったかしら」
「さっき、魚売りのガキが来たから、ハマチを一匹買ったんだよ。
それを台所で、ちょちょいと捌《さば》いたんだ。醤油《しょうゆ》も山葵《わさび》もないが、結構いけるぞ」
「……まあ、これは殷雷が捌いたの? お上手《じょうず》ね」
「け。これでも刀の宝貝だ。刃物の扱いぐらいお手のものだ」
流麗の言葉には、いつものトゲが感じられなかった。
「……見事な切り口ね」
殷雷も褒められて悪い気はしなかった。
「よせやい。どうだ、お前も食うかい?」
殷雷がいい気分になったのを見計らって、流麗はドスンと刃よりも鋭い言葉を吐く。
「……刀の宝貝っていうより、包丁の宝貝だわ」
いつもなら怒鳴《どな》り返す殷雷だが、今の言葉はグサリと来た。
珍しく殷雷はブツブツと独《ひと》り言《ごと》を呟《つぶや》いた。
「ほ、包丁。……確かに最近、飯がどうとかばっかり言っていたような……ちょっと武器の自覚が欠けていたか……いやいやそんなことはないぞ、いつも武器の誇りは持っていた……」
しゃがみ込んで、額をさする綜現、顔を赤くしてどう説明しようかシドロモドロになっている和穂、ブツブツと自己反省に陥《おちい》る殷雷を見て、流麗は言った。
「……何か、私の一人勝ちって感じね」
三日が過ぎた。
事態は悪くはならなかったが、もちろん良くもなっていない。
無駄《むだ》に流れていく時間が、和穂《かずほ》にはもどかしかった。
さらに最近の殷雷《いんらい》に少し腹が立っていた。
同じ宝貝《ぱおぺい》として、綜現《そうげん》の気持ちを理解し、それを見守るつもりなんだと和穂は考えていたが、そうではないようだ。この三日の殷雷は、とてもだらけていた。
今までの和穂が知る殷雷の中でも、一番だらしがない。
一日中、庭の椅子《いす》に座《すわ》って酒を呑《の》んでいるか、縁側で居眠りをしているかで、いつもの鋭さが全然感じられない。
相手の化《ば》け物について相談していても、肝心《かんじん》な部分になると、
『てめえらで考えろ』
と、言ったきり、背中を向けて酒をグビグビ呑んでいる。
四日目の朝日が、庭を照らした。
綜現と流麗《りゅうれい》を前にして、和穂は言った。
「そんなわけで、こうして時間を無駄にするのも勿体《もったい》ないので、訓練をしましょう」
和穂は横目で殷雷を見たが、椅子の上に寝転がって高鼾《たかいびき》で眠っている。
和穂は言った。
「殷雷が意地悪《いじわる》して、戦い方を教えてくれないから、私が炎応三手《えんおうさんしゅ》という拳法《けんぽう》を教えようと思います」
綜現の目が輝く。
「え、和穂さんは拳法が使えるんですか!」
「……とてもそうは見えないけど。どれぐらいやってるの」
和穂はゆっくりと指を五本立てた。
「……五年てわけはないよね。地上に降りてそんなに経《た》っていないし、仙界での仙術や技法は、記憶の中に封じられてるらしいじゃないの。
つまり、たった五か月しか習ってない拳法を教えようというの? 冗談じゃないわよ全く」
和穂は首を横に振る。
「五か月じゃありません。五日です」
流麗は口許《くちもと》を歪《ゆが》めた。
「……悔《くや》しいわ。この流麗が、他人の言葉でめまいを覚えるなんて」
寝ていたと思った殷雷が大声で笑う。
「よう、和穂先生。よりによって、炎応三手でございますか」
「あ、そういえば、前に炎応三手は使わないって約束したわね……」
「構わないぜ、和穂先生。教えられるものなら、どうぞその連中に教えてくださいな」
殷雷の口調に少しムッとしたが、和穂は綜現たちに向き直る。
「これでも、記憶力はいいんだからね。
えぇと、まずは基本の構えです。
左足を一歩前にして、体重を右足に七、左足に三ぐらいかけます。
少し猫背ぎみにして、両手を顔の前にまで上げてください。
掌《てのひら》を顔の方に向けて、両手の隙間《すきま》から相手を見るようにします。肢《わき》は締めますが、力まないでくださいね」
綜現は素直に言われるまま、構えをとり、流麗もいやいやながら従う。
「そうです。その構えです」
椅子に横たわったまま、殷雷はニヤニヤと笑った。
「おや、和穂先生、質問してもよろしいか。
前足の角度は、完全に正面でいいのかな?
前足は爪先《つまさき》に力を入れるか、踵《かかと》に力を入れるのかどっちですかな?
腰の角度、判りやすく言えば、臍《へそ》の向きは相手に向いていたか? それとも右四十五度ぐらい傾いていたか、どっちだ?
猫背とおっしゃいましたが、胸の後ろで曲げるのか、腹の後ろで曲げるのか?」
アッと和穂は返答に困った。
答えられない和穂を見て、流麗はグリグリと拳《こぶし》を和穂の頭に押しつける。
「……おらおら、和穂先生、早く教えなさいよ」
「あれ、忘れてる。っていうか構えを教えてもらったとき、間違えていた部分は言葉で教えてもらったけど、最初から合っていた部分は注意されないわけだ。
注意されなかった部分が、逆に記憶の中で曖昧《あいまい》になるのか、なるほど」
殷雷は大きく伸びをした。
「たいした大先生だ」
「なによ、間違ってるのを指摘《してき》出来るんだったら正確な構えを教えてよ」
「致命的なことを教えてやろう。こいつらは鍛《きた》えても強くならないの」
和穂は虚《きょ》を突《つ》かれた。
「へ?」
「鍛えて強くなるのは、武器の宝貝だけなんだよ。
常識で考えろ。
宝貝が鍛えられるのは、その能力だけなんだからな。
例《たと》えば、織り機の宝貝である流麗なら、幾《いく》ら拳法を仕込んでも強くはならん。
その代わりに布を織る特訓を積めば、織り機としての能力は上がる。
判ったか?
こいつらは鍛えても強くならん」
まだ、拳をグリグリしながら、流麗は言った。
「……そうよ。そんなの当たり前じゃない」
「痛い、痛い。流麗さん、知ってたなら早く言ってくださいよ」
綜現は驚き、すがるような目で殷雷を見つめた。
「それじゃ、僕はどんなに頑張っても、強くはなれないんですか?」
そのとおりだった。だが、殷雷は必死に強くなろうとしている綜現の希望を、完全に否定出来なかった。それはあまりに残酷《ざんこく》だろう。
「まあ、そりゃ、その、なんだ。ちょっとは体力がつくかもしれないがよ……」
心の底から安心して、綜現は微笑《ほほえ》んだ。
「良かった。じゃ僕、虎伏《こふく》(腕立《うでた》て伏《ふ》せ)をやって腕力を鍛えます」
えっちらおっちら、虎伏を始めた綜現の姿に、殷雷は少しばかり同情した。
綜現の素性《すじょう》は判らないが、殷雷には一つだけ断言出来た。
綜現は何であれ、絶対に武器の類《たぐい》の宝貝ではない。
万が一記憶を失おうと、武器の宝貝にはどうしても消えない、鋭さがあるはずだ。
綜現には、それが全くない。恐らく普通の日用雑貨の宝貝なのだろう。それも、湯飲みとか、屏風《びょうぶ》とか、鍋敷《なべしき》とか、そんな種類の物だろう。
「綜現よ。本当に自分が何か判らないのか? こう、心の奥に燃え盛《さか》る、炎《ほのお》のようなものはないか?」
「ないです」
ちょいとこいつは不憫《ふびん》過ぎるぞと、殷雷は目頭《めがしら》が熱くなるのを感じた。
殷雷は後ろを向いて、酒をあおった。
「……それ、ぐりぐりぐりぐり」
「痛い、痛い、流麗さん。ねぇ、殷雷。鍛えても無駄ならどうすれば」
後ろを向いたまま、殷雷は答えた。
「策を考えろ。と言いたいが、相手の正体も判らないじゃな」
「……ぐりぐりぐり」
「そうだ、一度、捕《つか》まっている弾勁《だんけい》のところに面会に行こうよ。
何か判るかも」
「……弾勁が情報を洩《も》らすと思うの? 間抜けなことを言ったから、もっと、ぐりぐりぐりぐり」
「でも、弾勁は栄秋さんをただ殺すんじゃなくて、出来るだけ苦しめようとしていたでしょ? 栄秋さんの恐怖を高めるために、あえて何かを洩らすかも」
「……一理あるわ。でも、それは私が、ぐりぐりと頭の点穴《ツボ》を刺激して、血の巡《めぐ》りを良くしてあげたから、思いついたのよ」
殷雷も振り向く。
「ま、それぐらいしか手はあるまい」
殷雷は酒を入れた湯飲みを置き、手を叩いた。
「栄秋!」
ドタドタと大きな音を立て、栄秋が姿を現した。
「なんじゃい! 人を使用人みたいに呼びつけやがって」
殷雷は立ち上がり、椅子に立て掛けていた銀色の棍《こん》を握《にぎ》る。
「今から、弾勁の様子を見に行くぞ。意識を戻していたら、話を聞きたい」
「はん。あんな奴《やつ》の顔なんざ、見たくもないわい」
「だったら、ここにいな。その代わり、お前の警護の保証はしないぞ」
「ちっ」
虎伏を続ける綜現に殷雷は言った。
「綜現、お前も行くんだ。護衛なんだろ」
「はい!」
「……面倒《めんどう》ったらありゃしない」
栄秋は鋭い目で、流麗を見詰めた。
「流麗。最近、布の織りが遅いじゃないか」
「……誰《だれ》のために、時間が割《さ》かれていると思っているのよ」
「うるさい。お前は、留守番《るすばん》だ。
私たちが帰ってくるまでせいぜい、気合を入れて織りな」
「……ふん。あんたと顔を突き合わせて罪人見物するぐらいなら、喜んで留守番をさせてもらうわよ」
そして、和穂たちは流麗を一人残して、弾勁が囚《とらわ》れている役所に向かった。
街の治安《ちあん》を守る衛士にしては、男は頼りなさそうな背中をしていた。
顔に到れば、さらに頼りなさそうで、眉毛《まゆげ》が八の字型になっていた。
「一応まだ、裁きがついてないので地下牢《ちかろう》につないであります」
衛士は和穂たちを、弾勁の牢へと案内していった。地下牢とはいえ、洞窟《どうくつ》などとは違い人工的に造られたものだ。意外と湿気は少なかった。壁も漆喰《しっくい》で固められ、地下だと言われなければ、気がつかないかもしれない。
廊下《ろうか》を歩きながら和穂は尋《たず》ねた。
「弾勁は、意識を取り戻したんですか?」
「えぇ。二日程、気を失っていて正気に戻っても衰弱が激しかったんですが、今は大分元気になりました」
栄秋はドスの利《き》いた声で尋ねた。
「いつ、処刑するんだ?」
「まさか。死罪にはなりませんよ。
殺人を企《くわだ》てても、一応|未遂《みすい》でしたからね。
二度の殺人未遂に、脱獄が一度ですから軽い罪には勿論《もちろん》ならないでしょうが」
未遂どころか、現在も命が危ないのだ。栄秋は顔を歪《ゆが》め、衛士に言った。
「おい、衛士。どれだけ、賄賂《わいろ》を贈《おく》ったら奴を死罪にしてくれる」
「ご冗談を。最近はその手の贈賄《ぞうわい》は通用しませんよ」
命を狙《ねら》われているか弱い老婆は、舌打ちをした。
「チッ。住みにくい世の中に、なったもんだぜ」
殷雷はゲンナリしながら言った。
「栄秋よ。お前の、そういう態度を見るたびに守ってやろうという気が萎《な》えるんだがな」
「お黙り」
衛士は立ち止まり、扉《とびら》を開けた。
扉の中は普通の部屋だった。
ただ、部屋の中央には頑丈《がんじょう》な鉄の柵《さく》が下ろされている。
柵の前には弾勁が一人|椅子《いす》に座《すわ》っている。
衛士の言葉どおりに、弾勁の顔には衰弱が見られたが、回復に向かう病人のようにも見えた。
栄秋の姿を見ても、弾勁は落ち着き暴れたりはしなかった。
怯《おび》える必要はなかったが、綜現は思わず和穂の袖《そで》にしがみついた。
弾勁はしわがれた声で言った。
「久し振りだな。せっかく面会に来てくれたのに、ちょっと喉《のど》を傷めていてね。
この声で勘弁《かんべん》してくれ」
和穂が口を開く前に、弾勁は警告した。殷雷は、弾勁に飛び掛かろうとする栄秋を羽交《はが》い締めにしていた。
「時間を浪費するのはやめよう。
俺に説得は無意味だ。栄秋の殺害を諦《あきら》めるつもりはない」
「あの黒い炎《ほのお》の化《ば》け物は一体、何なのですか?」
穏《おだ》やかに弾勁は答えた。
「焦魂矢《しょうこんし》だよ。込めた魂《たましい》が強かったから、私の分身となった。
我《わ》が分身は栄秋の殺害を目指《めざ》し、頑張《がんば》っている。
あの夜、焦魂矢は私の魂をほとんど持っていった。だが、知らなかったが、魂というのは再生するんだね。幾ら泉の水を汲《く》み取ったところで、源泉さえ枯れていなければ泉は枯れないのだ」
殷雷も静かに言った。
「期限を切っていたが、あれはなぜだ?」
「焦魂矢は、もともと人の分身を宿せる宝貝じゃないからね。
無理が利《き》くのも、せいぜい一週間だ。
限界が来れば、焦魂矢は折れてしまうだろう」
「すると、後二、三日も栄秋を守りきれば、俺たちの勝ちなわけだ」
「そうだよ」
栄秋は牙《きば》をむき、笑う。
「ならば、楽勝だ。こっちには刀の宝貝がついているからな」
弾勁の目に、静かな殺意が浮かぶ。
「『知る』ことによって、不安が解消されたって面《つら》だな栄秋。
では『知る』ことによって、恐怖を煽《あお》ってあげようじゃないか。
俺はあと、二つ宝貝を持っている」
途端《とたん》に殷雷の顔が険《けわ》しくなった。
「ハッタリだな。お前は捕まった時に、点破弓《てんぱきゅう》しか持っていなかったではないか」
「栄秋暗殺には、点破弓で充分《じゅうぶん》だった。焦魂矢まで持っていけば、確実だったんだよ。
それで、万が一のときのために、宝貝を別の場所に隠《かく》しておいたのさ。
その二つも人の形をとれる。
お前たちは焦魂矢を含めた、三人の刺客《しかく》と戦わなければならないのさ」
弾勁は、口許《くちもと》をグニャグニャに曲げて笑った。
「それと、少し戦法を変えたよ。以前の栄秋の周りには、友人やらその手の人間はいなかったんだが、最近はそうでもない。
よくある手段で申し訳ないんだが、栄秋を始末する前に、お前たちを狩《か》らせてもらうよ」
殷雷は吠《ほ》えた。
「なんだと!」
そして、弾勁はとても遠くを見詰めながら言った。
「流麗とかいう、髪の長い女がいたな。
あいつは今、屋敷の中に一人だな。
俺の片割れが教えてくれているんだよ。魂の奥底でつながる我が分身。
俺の片割れは、刺客を一人放った。
標的はその女だ。もう、急いで戻っても間に合うまいよ」
そして弾勁は、小さく咳《せ》き込んだ。
豪角《ごうかく》は屋敷の白壁を軽く乗り越えた。
無数の蔵に少し困った表情をしたが、慌《あわ》てずに耳を澄《す》ましてみた。
物音らしい物音もなく静かだったが、わずかに機織《はたお》りの規則正しい音が聞こえる。
ハサミの宝貝《ぱおぺい》、豪角は音に向かってユラユラと歩き出す。
獲物《えもの》は、織り機の宝貝。ならば、標的は音の出所にいるんだろう。
豪角は、一つの蔵に辿《たど》り着いた。
蔵の中から聞こえるのは、ドカスカギッタンバッタンという機織りの音。
蔵の扉《とびら》が開かれたので、標的は織り機を操《あやつ》る手と足を止めた。
「……誰《だれ》? 栄秋《えいしゅう》と取り引きの約束でもしているんなら、出掛けているわ」
美しい娘だと豪角は感動した。特にあの細く流れるような黒髪がたまらない。
あれを切る感触とは、どんなものであろうか?
豪角は、唇《くちびる》を吊《つ》り上げた。本人は愛想笑いのつもりだった。
「そうじゃ、ないんだよお、お嬢さん。あなたが流麗《りゅうれい》さんなんだよねえ」
「……だとしたらどうなの。私はあなたを知らないわよ」
豪角は扉を後ろ手に閉めた。
そしてゆっくりと、流麗に近寄っていく。
豪角の足と床《ゆか》が擦《こす》れる音が、蔵の中に響《ひび》いた。
「流麗のお、お嬢さん。おいらは豪角っていう、ちんけな宝貝なんですがね。
今日は、使用者の言いつけで参《まい》ったというしだいでございます」
胡散《うさん》臭《くさ》そうに流麗は言った。
「……使用者って誰よ?」
「弾勁《だんけい》殿《どの》にございます」
「……だったら帰りなさい。
さっきも言ったでしょ。栄秋はここにいないって。栄秋を始末に来たのなら、無駄足《むだあし》だったわね」
革に巻かれた手を、豪角はゆっくりと開いたり閉じたりした。
「弾勁殿の話では、あの老婦人の周りにゃ、友人やら家族の類《たぐい》がいなかったらしいじゃないですか。
口をきく相手は商売の相手ぐらいのもんだったそうでえ」
「……あんな強欲《ごうよく》な性格じゃ、当然よ」
「ところがあ、最近は色々と親しげな人が周りにいるじゃないですかい。
そこで弾勁殿は、親しげな人を、じんわりじわじわと始末して、老婦人を苦しめようと考えました」
流麗はつまらなそうに言った。
「……復讐《ふくしゅう》の手段としちゃ、いい方法ね。
もし、私が弾勁の立場ならそうしたでしょうね。でもあの栄秋が苦しむかどうか」
「でも、やってみるだけの価値はあるでしょうが」
「……まさか、私を始末しに来たの?」
豪角の両手に巻かれた革が、スルスルと解《ほど》けた。
豪角の足元に、蛇《へび》の脱け殻のように革が落ちていく。
「流麗のお嬢さん、哀《あわ》れだとは思いますがあこっちも使用者の命令なもんでねえ」
答える代わりに、流麗は織り機に挟《はさ》まったままの、未完成の布に手を当てる。
途端《とたん》に、布は無数の糸に解け、それぞれの糸は光線のように、豪角に走った。
そして、瞬時に豪角を絡《から》め捕《と》り、巨大な繭《まゆ》とした。
が、繭は一瞬にして粉砕《ふんさい》され、糸は塵《ちり》になって飛び散る。
流麗は愕然《がくぜん》となった。
「……教えて。あなたは何の宝貝なの?」
わずかに光る指先、人指《ひとさ》し指と中指をくっつけ、離し、豪角はハサミの仕種《しぐさ》を真似《まね》る。
真似ではあるが、指が重なるたびに、本当のハサミのようなシャキシャキという音がした。
「組合せの妙《みょう》、ってやつだねえ。
織り機の宝貝だから、糸を自在に操るんだろお? それぐらい読めていたのよお。弾勁が襲撃したとき、チラッとその芸当を見せたらしいじゃないの。
だから、俺《おれ》が来た。ハサミの宝貝たる俺が来たのさ」
己《おのれ》の天敵を目の前にした恐怖が、流麗の顔を強張《こわば》らせる。
「……ハ、ハサミが何を偉《えら》そうに。こっちには、本当の武器の宝貝がついているのよ」
「殷雷《いんらい》かい。でも、今はいないんだろお。
いいよなあ、武器の宝貝は。俺も憧《あこが》れているんだよお。俺も武器の宝貝になりたかったんだよお。
殷雷は、屋敷の周りの気配《けはい》を常に探《さぐ》っていた。我等《われら》が弾勁|焦魂矢《しょうこんし》は、殷雷の索敵範囲《さくてきはんい》を把握《はあく》していた。
凄《すご》い芸当だねえ。武器が羨《うらや》ましい。
でも、この豪角刃《ごうかくじん》だって、刃の切れ味じゃ武器には負けない。それはもう、切れる切れる」
「……ちょっと頭の中も切れてるみたいだけど」
「よく言われるから、怒らないよお。
さて、お喋《しゃべ》りしている暇はない。とっとと仕事を片づけようか。
流麗お嬢さん、切ってやるよ、ジョキジョキと」
反射的に流麗は首を横に振る。
「……いや!」
「哀れ、同情したいぐらい」
普段からは考えられないような、激しい表情で流麗はハサミに訴えた。
「……破壊されるのは怖《こわ》くない。
でも、壊れた醜《みにく》い姿を綜現《そうげん》に見られたくないの」
豪角は両手を大きく広げた。
「なんという、乙女心《おとめごころ》。この豪角、感動したので、あなたに一つ選択の余地を差し上げましょう」
「……選択の余地?」
「そう。あなたの髪を切り刻みたいという、欲望を押し殺しての私の提案。
一。切り殺される。
二。刺し殺される。
議論の余地はなし、今すぐ選べ」
豪角はだんだんと近寄っていく。
人の姿をとれる宝貝は、人としての弱点もあわせ持つ。
もしも、普通の人間が死ぬような怪我《けが》をすれば、たとえ宝貝の状態が頑丈《がんじょう》なものであっても破壊されるのだ。
流麗の唇《くちびる》は細《こま》かく震え、声にならない声で答えた。
「……判《わか》った。刺し殺して。でも出来るだけ形は壊さないで」
「承知。ならば、胸と頭にこの手を刺し込んであげましょう。切れ味鋭いから崩れはしないよ。
良かったね」
豪角は目の前にいた。
流麗はゆっくりと、瞼《まぶた》を閉じた。
「では、さようならお嬢さん」
「……綜現」
豪角の両手が、一際《ひときわ》鋭く光り、左手がズブリと流麗の胸を貫《つらぬ》いた。
そして間を空《あ》けずに、右手が額《ひたい》に沈《しず》んでいく。
「さようなら、髪の毛の美しいお嬢さん。さようなら、ただひたすらにさようなら」
流麗を刺し貫《つらぬ》く感覚を、豪角はしばし楽しんだ。
が、額に手を刺し込まれたまま、流麗は大きく笑った。
「……負けたのはあなたよ」
何かの落下音が、豪角の耳に届く。
振り向く前に、硬い物が硬い物にぶつかる音も聞こえた。ついでに陶器《とうき》が割れる音。
豪角の嗅覚《きゅうかく》に、土《つち》ぼこりや鉄|錆《さび》を思わせる、血の匂《にお》いが絡みつく。
そして、途切れる意識。
意識を失ったハサミの宝貝は、その本性を現し、床に落ちた。
織り機に座《すわ》る流麗。蔵の中には、床に立ちハサミを見下ろすもう一人の流麗がいた。
たった今、天井《てんじょう》の柱から飛び降り、豪角の後頭部を硬い壷《つぼ》で殴《なぐ》り付けたのだ。
織り機の前の流麗はぐったりとしていた。
陶器のかけらを投げ捨て、もう一人の流麗はハサミに言った。
「……よく出来ているでしょ。この人形。
こんな精密な人形を蚕糸《さんし》で作ったのよ。まさに織り機の宝貝の本領発揮よね。
結構、難《むずか》しかったのよ。操り人形でマバタキをさせるのって。
さっきも言ったでしょ? 『もし私が弾勁の立場だったらそうする』と。
敵の考えなんて先刻|承知《しょうち》よ。
集団から一人離れたら、そいつから始末するなんて、この流麗が思いつかないとでも考えたのかしら?
悪人ぶってる、お人好しの包丁《ほうちょう》の宝貝さんは襲撃の可能性を見過ごしたけど、私は流靂なのよ。
もう少し、声の位置に注意すれば操り人形だと判ったはず、でも所詮《しょせん》はハサミ。武器に憧れるなんて三流もいいところ。
てっきりあの化《ば》け物が来ると思っていたけど、こんな手下がいたとはね」
流麗は床に転がるハサミを拾った。
そして、ハサミの握りの部分を糸でグルグル巻きにした。
宝貝の状態で自由を奪われたら、そう簡単に人の形になれないことを、流麗は当然知っている。
流麗は自分と同じ顔をした人形に手を触れた。
途端に人形は解け、反物《たんもの》へと姿を変える。
「……作るのは大変だったけど、戻るのは一瞬ね」
流麗はたった今気がついたように、大袈裟《おおげさ》に独《ひと》り言を吐いた。
「……まあ、大変。栄秋様が欲の皮を突っ張らかせて手に入れて、大事に納屋《なや》にしまっていた、大切《たいせつ》な壷が割れているわ!
でもまあ、敵を一人倒したんだから安いものね」
ドタドタと大きな足音が外から聞こえた。
ハサミをもてあそびながら、流麗が振り向くと、そこには和穂《かずほ》がいた。
ゼイゼイと息を切らし、右手には殷雷刀を持ち、左の脇《わき》に栄秋を抱え、背中には綜現を背負っている。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですか流麗さん!」
「……当たり前じゃない。返り討《う》ちにしてやった」
和穂は右手の殷雷刀を宙に放り投げ、安心して気が抜けたのか、ヘタヘタと座り込む。
綜現と栄秋は流麗のもとへ走った。
綜現は安堵《あんど》の涙を流し、流麗に抱きつき、栄秋は、地面に転がる壷のかけらを拾い集めた。
泣きながら綜現は、何度も何度も流麗の名を叫ぶ。
「……大丈夫よ。心配してくれてありがとう」
渾身《こんしん》の力で、栄秋は床を殴る。
「や、やっぱりあの壷じゃないか! 流麗、これはどういうことだ!」
泣きじゃくる綜現の背中を撫《な》でて、流麗は答えた。
「……仕方がないでしょ。敵を倒すにはどうしてもその壷が必要だったの」
壷でなくても、鉄鍋《てつなべ》でも充分に役が果たせたと知る者はいない。
刀から人の形に戻り、殷雷は汗《あせ》を拭《ぬぐ》った。
「ちっ。ちょっと読みが甘かったな。予想出来てしかるべきだった」
流麗は恩着《おんき》せがましく言った。
「……そうよ、包丁さん。敵の気配を探《さぐ》るので、神経を擦《す》り減らしていたかもしれないけど、こんな簡単なことを見逃《のが》すなんてね」
「ふん」
流麗の言葉で、初めて和穂は最近の殷雷の態度の意味を理解した。
だらけたように見えたのは、それだけ気配を探るために集中している姿だったのだ。
「ごめん、殷雷。最近の殷雷は、てっきり、いい加減な気持ちで、だらけていると思っていた」
バツが悪そうに殷雷は答えた。
「うるせい。大きな御世話だ。お前にどう思われようが知った話じゃねえ。
それより流麗、襲《おそ》ってきた敵は、どこにいる?」
流麗は右手で綜現の背中を叩きつつ、左手のハサミを渡す。
「……こいつよ。気絶させて原形に戻したけど、そろそろ、お目覚めじゃないかしら?」
殷雷は握り手に彫られた、豪角刃の文字を見つけた。
「豪角刃? 大層な名前だな」
床にハサミを置き、殷雷は叫ぶ。
「豪角刃、姿を現せ!」
ハサミから何かが立ち昇《のぼ》った。和穂は目を凝《こ》らしたが、それがうすぼんやりとした、人の姿であるとすぐには判らなかった。
半透明の幻《まぼろし》は、とてつもなく遠い所からつぶやくように声を出した。
「俺は悲しい、僕は驚き、私は悔《くや》しい。
流麗に負けるとは、そんな馬鹿な、でも負けたから俺は馬鹿」
和穂は驚いた。以前にも、これと似たような幻になった宝貝を見たことがあったが、誰にでも出来る芸当だとは知らなかったのだ。
「わ、殷雷。これはどうなってるの?」
「どうもせん。人の形をとれる宝貝は、その姿を幻影《げんえい》として投影《とうえい》出来る」
「じゃ、殷雷にも出来るの?」
「出来るが、こんな情けない姿をわざわざとるか」
殷雷の言葉のとおり、もしもここが薄暗い蔵の中でなければ、豪角の姿は見て取れなかっただろう。
声にしても注意しなければ聞き取れない。
殷雷は言った。
「豪角よ、白状してもらうぞ。もう一体の宝貝は、どんな宝貝だ?」
おぼろな豪角は囁《ささや》く。
「あんたが殷雷だな。あいつは、殷雷を知っている、殷雷はあいつを知っている。
だけど、俺はあいつの正体を話さない」
「言わねば、破壊するぞ!」
「既《すで》に私は負けたのよん。破壊される覚悟《かくご》は出来ている」
豪角の口調が殷雷をイラつかせた。
「ふざけた野郎にしちゃ、いい覚悟だ」
「でも、少しだけ手掛かりをあげよう。万が一、捕《つか》まったときには、手掛かりをやってもいいと、弾勁殿はおっしゃっていた。
では、手掛かり。
あいつは、殷雷より強い。誰の目から見ても強い。
あいつを見たら、殷雷は引っ繰り返るだろうよ。あいつと戦うことを思えば、殷雷の顔は恐怖にひきつるだろう。
あいつは、とてもとても強い。強いという言葉が馬鹿らしくなるほど強い。
なぜなら、あいつの正体は……
以上」
和穂が疑問をはさむ。
「本当なの? でもおかしいよね。そんなに強いんだったら、点破弓《てんぱきゅう》じゃなくて、その宝貝を使って栄秋さんを襲えばよかったんじゃないの?」
豪角はゆっくりとうなずく。
「そのとおり。でも間違い。
和穂さん。あなたは、幾《いく》らよく切れるからといって魚をおろすのに、刀を使いますか?
使いますまいよお」
流麗は嬉《うれ》しそうに、包丁包丁と繰り返し、殷雷の顔がムッとした。
床の上で、どうにか壷を元の形に戻そうと悪戦苦闘していた栄秋は、ついにあきらめて立ち上がる。
「くそ。流麗、覚えていろよ!
殷雷よ。お前が、お前より強い相手と戦って死ぬのは勝手だが、絶対に相打ちにまでは持ち込めよ。
私は仕事に戻るからね!」
老婆は、大きな足音を立てて、蔵から出ていく。
豪角は、ケラケラと笑ったが、風車が回る音よりも小さな声だった。
殷雷は綜現に言った。
「綜現よ。正直言って、俺より強い宝貝なんざ、ざらにある。お前はそんな宝貝と戦うつもりか」
不安を吹き飛ばすように、綜現は言った。
「大丈夫ですよ、殷雷さん。
刺客《しかく》を倒したんだから、流麗さんも結構強いみたいじゃないですか。流麗さんと僕で、どうにか戦ってみせます」
流麗は髪をかき上げた。
「……生憎《あいにく》だけど、私はもう手を貸さないわよ」
「ど、どうして流麗さん!」
「……綜現。私はもう、栄秋の役に立ってしまった。
今まで、機織りをわざとちんたらやったりして、出来るだけ栄秋の役には立たないように頑張《がんば》ったんだけどね。
役に立っていない宝貝が二つ、力を合わせて役に立つのならいいでしょう。
でも私は役に立った。綜現。あなたは一人で戦うの」
あまりに唐突《とうとつ》で、冷たい宣言だった。
突き放した流麗の態度に、綜現はすがりつく。
「そんな、一緒に栄秋様を守ろうよ」
いつもの綜現と違うと、流麗は考えた。いつもと同じようだが、今までの綜現はこんなに情けない瞳《ひとみ》をしたことはない。
今のこの目は、一緒に頑張ろうと言っているんじゃない。ただ、私に頼《たよ》ろうとしているんだ。
殷雷すら油断がならない敵の影に、怯えているだけなんだ。
「……だから、私はもう、一度栄秋を守ったのよ」
綜現は必死に流麗の手を借りようとする。
「どうしてそんな意地悪をするの? ぼ、僕のことを、あ、愛していると言ってくれたじゃないか」
流麗の目が、哀《かな》しく、そして鋭く光り、平手が綜現の左|頬《ほお》に叩きつけられた。こんな綜現など見たくはない。
力強い平手に、綜現は床を転がる。
流麗は、頬を押さえうずくまる綜現を見下ろして言った。
「……今のあなたは大嫌いよ」
そして、背を向けて流麗は蔵から出ていった。
殷雷は驚いて、軽く口笛を吹く。
「ほお。お前らはそういう仲だったのかい」
頬の痛みよりも、綜現は流麗の言葉に苦しんだ。
「ぼ、僕は流麗さんを怒らせてしまった。
流麗さんに嫌われてしまったんだ……」
和穂は綜現に手を貸し、服についたほこりを払ってあげた。
「大丈夫よ綜現君。流麗さんの機嫌《きげん》は、すぐに直るよ」
殷雷は腕を組み、言った。
「どうだかな」
「殷雷!」
「流麗のあの目はよ、怒っているというよりも、裏切られたって感じだったぜ。
和穂、さっさと豪角刃を断縁獄《だんえんごく》の中にしまっておけよ」
言い残して、殷雷も蔵を出た。
綜現はうつむき、手をきつく握った。僕にはこうやって、何も出来ずに、いつものように、ただ手を握っていることしか出来ないのだろうか?
「僕は、僕はどうしてこんなに駄目なんだろう。
今まで一度も役に立ててないし、自分の正体も判らない。
栄秋様を守ろうと頑張っても、強くなれるわけじゃない。
それに、僕には優しかった流麗さんを怒らせてしまった。
僕は、僕は」
「綜現君。元気を出して」
肩を優しく揺さぶる和穂の手を、綜現は払いのけた。
「無理なんだ。僕が栄秋様を守るなんて出来っこないんだ。
口だけじゃ偉そうに言って、今も流麗さんに頼ろうとして、愛想をつかされたんだ」
「綜現君。だったら栄秋さんを、自分の力だけで守ってあげれば、流麗さんも見直してくれるよ」
「もう、いいんです和穂さん。僕を回収してください。栄秋様は殷雷さんが守ってくれればいいんだ」
「あきらめちゃ駄目よ」
綜現の声が荒くなる。
「じゃあ、どうしろっていうんですか! どんなに鍛《きた》えても、それは無駄にしかならないんですよ。少しぐらい腕の力がついたところで」
和穂は首を横に振った。
「違うよ。殷雷が言っていたでしょ? 宝貝としての能力なら、鍛えることも強くすることも出来るって」
綜現は消え入りそうな声で言った。
「その、自分の正体が全然、判らないんですよ……」
和穂は綜現を元気づけてあげたかった。そのために一番いいのは、綜現の正体を調べることだろう。
自分が何か判れば、自分に出来ることも判るはずだ。
和穂は、陽炎《かげろう》のように揺らめく、豪角に向き直った。
「豪角さんでしたね」
「そう。俺が豪角」
うつむく綜現の肩に和穂は手を置いた。綜現にはそれを振りほどく気力もなくなっていた。
「この子、綜現|台《だい》っていうんですが、見覚えがありませんか?」
「間違いだ和穂さん。俺は敵で、実際にあんたらの身内を殺そうとした。
殺そうとする相手に、頼るのは危険。
俺は危険なハサミだから、さらに危険」
「確かにそうですけど、それは豪角さんの使用者、弾勁が望んだからでしょ? ハサミで人を殺せるかもしれないけど、それはハサミが悪いんじゃない」
自分を弁護しようとする、和穂の言葉に、常に絶やさなかった、豪角の狂気の笑みが消えた。
「違うのです。和穂さん。私は武器になりたかったハサミなのです。
ハサミであるより、武器でありたかったハサミなのです。龍華《りゅうか》はそれを認めず、私を欠陥宝貝の封印《ふういん》へ閉じ込めました。
当然の行為だと思います。
織り機の宝貝に倒され、私は自分がミジメでなりません」
和穂は態度を一変させた豪角に戸惑《とまど》う。
「豪角さん」
「勘違いしないでください。私はあなたに、どれだけ優しい言葉をかけられようが、弾勁殿への忠誠は捨てません。
でも、少しぐらいならお話ししましょう。
私は、綜現さんの顔も、綜現台という名前も知りません。
なぜ、そんな質問をするのですか?」
「綜現君は、自分が何の宝貝であるかの記憶をなくしちゃっているんです」
「厄介《やっかい》ですね。それならば、意識を失っても本性に戻れないでしょう?」
和穂は疑問をはさむ。
「どうして、それを?」
「私も一時期、似たような状態になったことがあります。
ハサミであるのが嫌《いや》で、ハサミであることを否定し、自分がハサミであることを忘れたのです。
その間は、ハサミに戻れず、素手《すで》で物を切り刻む能力も失いました」
綜現は、豪角の言葉にどうにかして手掛かりを見出《みいだ》そうとした。
「豪角さん! どうやって思い出したんですか?」
豪角は沈黙《ちんもく》した。
綜現は膝《ひざ》をつき、豪角に頭を下げた。
「お願いです。教えてください!」
豪角はゆっくりと言った。
「本当は、教えるべきではないと思います。なぜなら、綜現さんが自分の正体を知れば、弾勁殿の不利益になる可能性が、とても高いからです。
今のままなら綜現さんは、火に焼かれず、呼吸も必要としない、ちょっと凄《すご》い人間に過ぎませんからね。宝貝としての特殊《とくしゅ》能力が使えるようになれば、戦力になるでしょう」
綜現は立ち上がった。
「豪角さん。ごめんなさい。無茶なお願いをして。
僕が栄秋様の役に立ちたいように、豪角さんも弾勁のことを考えているんですね」
豪角は、綜現の瞳《ひとみ》の輝きを見た。
「教えてあげますよ、綜現さん。
さっき織り機の宝貝と戦っていたとき、流麗さんは、ずっとあなたのことをおっしゃっていました。
あの織り機が、なぜ綜現さんにひかれるのか、私には判るような気がします。
あなたの瞳は、私や流麗さんのような、暗闇《くらやみ》に沈む、すさんだ魂《たましい》を癒《いや》してくれます。
あなたの瞳の秘密は、本性に係わっているのでしょう。私も綜現さんの本性に興味を持ちました」
和穂は息を飲む。
「で、その方法とは?」
「簡単な話です。殷雷さんや流麗さんでも気がつく内容だから、教えてあげましょう。
その方法とは……
己《おのれ》の内なる衝動を解放するのです。
そうすれば、自分が何であるかを、思い出せるはずです。
私は、物を切り刻みたいという衝動を解放し、ハサミであることを思い出しました。
宝貝は、その本性に応じて、衝動があるはずです」
答えが見つかり、和穂は喜ぶ。
「どう? 綜現君、心当たりは?」
綜現は首を横に振った。
「その方法なら、前に殷雷さんに教えてもらいました。
でも、判らないんです」
豪角は言った。
「些細《ささい》なことでいいのです。他の人は感じないのに、自分だけがどうしても気になることなんかでも」
和穂の期待する視線に、綜現は少し後ずさった。全く心当たりがないと答えれば、和穂はどれだけ気落ちするだろうか。
綜現は仕方がなく、口を開いた。
「本当は、ほんの少しだけなんですけど、蔵の中にいると、落ち着かないんです」
気落ちはしなかったが、和穂の顔に疑問の表情が浮かぶ。
「蔵が嫌いなの?」
「そういうんじゃなくて、ただ、落ち着かないんです」
豪角は指摘する。
「可能性としては、蔵の中で使う道具の宝貝でしょう。
それと、綜現台の『台』の字が気になりますね。
蔵と関係のある台といえば……」
和穂は言った。
「踏み台」
「なるほど、蔵の中の高い棚を使うときに、踏み台は必要ですからね」
綜現は、軽いめまいを覚えた。
「ぼ、僕って踏み台の宝貝なんですか?」
綜現は納得《なっとく》がいかなかった。
もしも、自分の正体を言い当てられたら、衝撃が走るだろうと、綜現は勝手に予測していた。
しかし、衝撃は全く走らない。
綜現は泣きそうな顔になり、和穂にすがった。
「も、もしもですよ。僕が本当に踏み台の宝貝だとして……、そんなことはないと思いますけど……もしも、踏み台の宝貝だとして、頑張って能力を伸ばして何が出来るというんですか!」
焦《あせ》った和穂は、ともかく頭に浮かんだ言葉を言った。
「もっと高い所に手が届く。かな?」
それで、どうやって弾勁と戦えというのだろうか?
綜現は、自分が踏み台でないことを祈《いの》った。
[#改ページ]
第二章『綜現《そうげん》の正体』
弾勁《だんけい》は塁摩《るいま》を肩車しながら、杉林を歩いていた。
七日という短期間しか、自分は存在出来ない。栄秋《えいしゅう》にとっては、七日の間、逃げて逃げて逃げまくるという戦術もあっただろう。
だが、殷雷《いんらい》はあえて腰《こし》をすえ、不意を打たれるのを防ぐ戦術できた。
そろそろケリをつけなければならない。
豪角《ごうかく》は倒されてしまった。
豪角には、髪《かみ》の毛のように細めた自分の体の一部をくくりつけておいた。
それを通して、豪角が敗北した一部始終を弾勁は知っていた。
豪角を助けようとは少しも考えなかった。
時間はないが、勝負はじっくりとするものだ。一つの駒《こま》のために慌《あわ》てふためくものではない。重要なのは、豪角よりも塁摩だ。
少なくとも、豪角との戦いで、流麗《りゅうれい》の実力は判《わか》った。もしも同じ手を使われても、大丈夫《だいじょうぶ》だ。
肩車がよほど嬉《うれ》しいのか、キャッキャと塁摩は笑っている。
二人の姿は、仲の良い父娘に見えたかもしれない。
塁摩は弾勁の頭にしがみついて言った。
「やっと私の出番だね! 第二の刺客《しかく》よ! 恰好《かっこう》いい! 豪角ったら、ヘマしちゃうんだから」
塁摩の無邪気《むじゃき》な言葉に、弾勁は微笑《ほほえ》む。
弾勁の復讐心《ふくしゅうしん》の塊《かたまり》である自分が、微笑みを持つ。
その意味を弾勁は考えた。
「なあ、塁摩。俺《おれ》が怖《こわ》いか?」
「どうして?」
「いや、俺は復讐心と焦魂矢《しょうこんし》だけで出来ているだろ。鬼神《きしん》のような雰囲気なのか?」
ケラケラという笑い声が、頭の上から聞こえた。
「まさか。普通の人だよ。それも、前の弾勁より、ずっと普通の人だよ。
前の弾勁は、死にもの狂いって感じだったからね」
「今でも、死にもの狂いには、違いないんだがな」
一所懸命に考えたのか、塁摩の言葉は少しつたなかった。
「あのね、あのね。もしかしたら、人ってずっと怒ることが出来ないんじゃないの?
もしかして、弾勁はもう栄秋をどうでもいいって思い始めたんじゃない?
あ! それじゃ、私の仕事がなくなっちゃう」
弾勁は、微笑む自分の意味が判《わか》りかけてきた。塁摩の言葉は間違っている。
「違うよ塁摩。復讐心が消えたなら、俺自身が消えてしまう。
全《すべ》ては復讐のためだ。笑うことも、心に余裕《よゆう》を持つことも、全ては確実に、復讐を果たすためなんだ。
恐《おそ》ろしいな、人の心は」
「?」
「怒りは燃え盛《さか》る炎《ほのお》じゃない。
少なくとも、本当に心の底からの復讐心ってやつは、静かな、波一つ立たない沼のようなものなんだ。
復讐心は、目的を果たすために、自分の心の全てを配下に置けるんだ」
塁摩には理解出来ないだろうと、弾勁は考えた。
「弾勁は、塁摩が好き?」
「ああ、好きさ。子供というのは可愛《かわい》いもんだ」
「それも、復讐を確実に果たすため? 塁摩を嫌《きら》いでいるより、好きでいた方が、復讐をしやすいから?」
塁摩は子供。子供でも宝貝《ぱおぺい》だった。しかも分析《ぶんせき》能力は武器の比ではない。
「そうだよ。だから、人の心は恐ろしいんだよ。
もう一度、聞くよ。
塁摩。俺が怖いか」
塁摩は黙《だま》った。子供を相手に酷《こく》な話をしたかと、弾勁の心が痛む。弾勁は人を思いやる心まで持っていた。
その裏には、栄秋以外の人間に辛《つら》くあたれば、復讐の障害物になる可能性を考えているのだ。
しばらく黙り、塁摩は答えた。
「怖いけど、怖くない。
栄秋への復讐心がなくても、弾勁は塁摩を好きでいてくれるでしょ?」
「ああ」
「良かった」
安心し、塁摩は少し悪戯心《いたずらごころ》を起こした。
弾勁の髪の毛を二、三本むしり取る。弾勁には意味が判《わか》らなかった。
「どうした、塁摩」
「ごめん、痛かった?」
「痛くはないさ」
「魂《たましい》の塊ってどんなものか、よく見てみたかったの……あれ?」
塁摩の手の中で、髪の毛は蒸発して消えてしまった。
「髪の毛が消えたかい? それはそうだよ。
焦魂矢とつながっているから、魂は形をとれるんだ。
焦魂矢から離れれば、魂は消えてなくなるのさ」
塁摩は考えた。
「この間、豪角を少し爆発させたでしょ? あれはどういう仕組みなの?」
「俺は魂であり、爆薬みたいなものだ。
相手を爆破出来るが、それは自分の消耗《しょうもう》も意味している」
「もしかして、髪の毛を千切《ちぎ》ったりして、勿体《もったい》ないことしちゃった?」
「大丈夫《だいじょうぶ》。魂は焦魂矢の中に沢山《たくさん》染《し》み込んでいるからね」
塁摩の子供らしい好奇心も、その裏には正確な状況判断を求める、宝貝としての本能があった。
「それじゃ、花火みたいに、魂を遠くから投げて爆発させられる?」
「出来るといいんだが、そうもいかない。
魂が爆薬なら、焦魂矢は火種だよ。
いいかい、よく見てごらん」
弾勁は造作《ぞうさ》もなく、自分の左手を引きちぎり、地面に捨てた。
地面の左手は、見るまに黒ずみ、消えてしまった。
左手首の切り口は、真っ黒で、その黒いものが盛り上がり、再び左手を作る。
続いて弾勁は、杉の木に新しく出来た左手を添《そ》え、気合をこめた。
「くあ!」
轟音《ごうおん》を立て、杉は爆発し、ゆっくりと倒れていった。
杉が地面とぶつかる大きな音に、塁摩は耳を塞《ふさ》ぐ。
やはり、弾勁の左手は消滅していた。だが再び、再生が始まる。
「ま、こんなところだ。
爆破のたびに、体を吹っ飛ばすのもなんだから、魂で武器を作るんだがな。
判ってくれたか塁摩よ」
少女は幾つかのことを考えた。
「凄《すご》いね。でも、その能力じゃ殷雷ちゃんに勝てるかどうか、五分《ごぶ》だね。
殷雷ちゃんを爆破するのが先か、殷雷ちゃんが焦魂矢を魂から切り離すのが先かになっちゃう」
的確な指摘に、弾勁はうなずく。
「五分ではなく、七分は俺の方が有利だと思うがね。でも、確かに武器の宝貝は脅威《きょうい》だ。
だから、塁摩には殷雷を始末してもらいたいんだ」
少し困った顔で、塁摩は言った。
「殷雷ちゃんを倒すの?」
「そう。他の連中は無視して構わない。最優先で、殷雷を始末し余裕があれば、他の連中も適当に始末してくれ。
栄秋は俺のためにとっておけよ。
……殷雷と戦うのは嫌《いや》かい?」
塁摩は正直だった。
「嫌だけど、嫌じゃない。
殷雷ちゃんは武器の宝貝だもん。知り合いでも、敵と味方に別れたら、本気で戦わなければ、失礼だからね」
少し元気のなくなった塁摩を、喜ばせてやろうと、弾勁は己《おのれ》の肉体を変化させた。
肩車をしたまま、四つん這《は》いになり、その体は服ごと黄色と黒の縞模様《しまもよう》に変わり、弾勁は巨大な虎《とら》となった。
塁摩は、虎の背に乗っかり、驚《おどろ》き、そして喜んだ。
「凄い! 虎だ虎だ。流核晶《りゅうかくしょう》や皮杯面《ひばいめん》みたい!」
虎は杉林を走る。
「流核晶と皮杯面?」
「どっちも、変身する宝貝なんだけど、出来はよくなかったの。
龍華《りゅうか》は、変化《へんげ》の術の類《たぐい》は下手《へた》だったんだよ! 弾勁の方が凄い!」
風を切り、虎は飛ぶように林の中を駆け抜けた。
力強く大地を踏み締め、しなやかに、巨大な肉体を伸ばし、地面を蹴《け》る。
見るまに、虎と塁摩は林の外《はず》れに来た。道は街へと続いている。
塁摩は虎から飛び降り、虎は弾勁の姿に戻った。
塁摩は手を振り、街へと歩いていく。
「じゃ、行ってきます!」
「頼《たの》んだぞ塁摩。お前だけが頼《たよ》りだからな」
林の中で、弾勁は塁摩の背中を見送る。
塁摩の背中にも、弾勁と同じように、黒く細い、自分の一部を取りつけていた。塁摩は失敗しないだろう。そして、いよいよ願いが叶《かな》うのだ。
栄秋への復讐はじきに果たせるのだ。
栄秋の母家《おもや》の庭先で綜現《そうげん》は和穂《かずほ》を背負っていた。もともと、体格的に、和穂を背負うのに無理があるのか、ヨタヨタと綜現の足元は覚束《おぼつか》ない。
庭先の椅子《いす》に座《すわ》り、殷雷は二人の様子を見ていたが、大きく溜《た》め息をつく。
「はあ。もういい、綜現。
お前は踏み台ではない。踏み台にしちゃ、力がなさ過ぎる」
母家の壁にもたれかかり、流麗は言った。
「……和穂の体重が、重過ぎるんじゃない」
流麗の言葉が、和穂の心を軽く抉《えぐ》る。殷雷は呆《あき》れて言った。
「よくもまあ、それだけ次から次へと、憎《にく》まれ口が叩けるもんだな。
たとえだ。たとえどれだけ、和穂の体重が重かろうが、人一人の体重を支えられずに何が踏み台だ」
殷雷の髪の毛を、和穂はギュッと引っ張った。少しばかり涙《なみだ》ぐんだ目で、恨《うら》めしそうに殷雷を見詰《みつ》めた。
「人の体重をネタにして、よくもそんなに意地悪《いじわる》なことが言えるね」
「待て待て、今のは別にお前をからかっているんじゃない。一般論としてだな……和穂の体重も支えられないようじゃ、踏み台のわけがないだろ、って意味だ」
「途中で、上手《うま》い具合に取り繕《つくろ》ってやろうと考えなかった?」
「やかましい!」
殷雷と和穂を横目にし綜現は、流麗に声をかけようと色々、思案した。
「あの、流麗さん……」
流麗はプイと顔を背《そむ》け、あてつけがましく優しい声で和穂に言った。
「……ごめんなさい、和穂。今まで色々と嫌なことばかり言って。
信じてもらえるかどうか判らないけど、和穂が嫌いだとか、そういう悪意はないのよ」
あれだけ、ことある毎《ごと》にボロクソに言われていたのだ。和穂も少し警戒した。
「どうしたんですか、流麗さん?」
「……やっぱし、私のことを怒っているのね。私が嫌いなんだ」
どうも、何か罠《わな》を張っている様子はない。和穂は安心して笑顔で答えた。
「怒ってなんかいませんよ」
「……良かった。そうだ、仲直りの印として、あやとりでもやりましょうよ」
殷雷は武器の宝貝である。基本的に物事は疑ってかかるようにしている。流麗の優しい言葉に絶対に、ウラがあると考え、胡散《うさん》臭《くさ》そうに目を細めている。
和穂は、流麗の打ち解けた態度が嬉《うれ》しいようだった。
「そうですね、私もあやとりは得意なんですよ」
流麗は懐《ふところ》から、長い長い糸を取り出した。輪を作っても、和穂の身長ぐらいの長さはある。両手で挟《はさ》んでも、糸は地面に垂《た》れ下がっている。
「……じゃ、私からね。和穂に、取れるかな?」
スパパと、目に見えない速さで、流麗の指は動き、手の中のあやとりが完成した。
それは、雲海の中を漂う、壮大《そうだい》な龍《りゅう》の姿だった。鱗《うろこ》の一枚一枚まで再現された、まさに精密な一枚の絵だった。
「……はい、次は和穂の番よ。さあ、さあ」
「さあ、って言われても……」
どこに指を入れる隙間《すきま》があるのか。
「……あら、意外と不器用《ぶきよう》なのね」
殷雷は溜《た》め息をついた。
「あんまり、苛《いじ》めてやるなよ。俺やお前と違って基本的に素直《すなお》な奴なんだから」
流麗は言い返す。
「……苛めてなんかいないわよ。これは鳳翼旋昇《ほうよくせんしょう》の形で取れるんだから」
流麗相手に、口で言っても判りはしないだろう。殷雷は逆に和穂をたしなめた。
「和穂も和穂だ。
織り機相手に、あやとりやって勝てる道理がないだろう。少しは考えろ」
手の中の龍を、和穂は見詰めていた。まだ完全に諦《あきら》めたのではないようだ。
「ちょっと待ってよ。えぇと、ここをこうして……」
流麗の指と糸とのわずかな隙間を見つけ、和穂は指を差し込み、ひっくり返してみた。
撤密《ちみつ》な龍の姿は、途端に絡《から》まった糸の塊《かたまり》に変わる。
流麗は皮肉っぼく笑った。だが、その皮肉な笑いは、普段の冷たい笑いよりはよっぽど温かい。
「……はい、和穂の負け。どう、殷雷もやってみる?」
面倒《めんどう》そうに、殷雷は顔の前で手を振った。
気配《けはい》を探《さぐ》るのに、神経を擦り減らしたとはいえ、流麗が襲《おそ》われる可能性を見落とした。表情には出さなかったが、殷雷は少しばかり反省していたのだ。
呑気《のんき》にあやとりをやる気分ではない。
「遠慮《えんりょ》しておく。なんで刀の宝貝が、あやとりをやらねばならんのだ」
和穂は微笑《ほほえ》んで言った。
「殷雷にも、取れないんでしょう」
「ふざけるな。こちとら攻撃の正確さと素早《すばや》さには自信があるんだ。
それぐらいのあやとりが、取れなくてどうする!」
「……よし、じゃ少し難しいのを作るわよ。今度のは平面じゃなくて立体的なのね」
「ちょい待て、立体ってのはなんだ、立体ってのは」
楽しそうだった。
綜現は所々に罵倒《ばとう》を交《まじ》えながらも、わいわいと喋《しゃべ》る三人の輪の中に入りたかった。
だが、もしもここで口を開いたら、流麗はまたしてもプイと横を向いて黙ってしまうだろう。
邪魔しては悪いと、綜現は小石を蹴《け》りながら玄関《げんかん》に向かって歩き始めた。
掃除でもしていれば時間も潰《つぶ》れるだろう。
殷雷はだまりこくり、流麗の手の中のひょうたんとにらみ合っていた。
四角とか、三角|錐《すい》ならともかく、あやとりで、ひょうたんの曲面すら再現しているのである。
和穂は流麗に言った。
「でも、師匠《ししょう》が織り機の宝貝を造ったなんて意外です。
服なんか仙術《せんじゅつ》で、パッと作れそうなのに、わざわざ手間をかけて織り機を使おうだなんて」
流麗は指を少し動かした。
手掛かりを得ようと、あやとりの目を真剣になって数えていた殷雷は、悲鳴《ひめい》を上げた。
また、最初から数え直さなければならない。
「流麗、もう一度動かしたら、ただではおかんぞ!」
無視して、流麗は和穂に答えた。
「……あの龍華《りゅうか》が、しおらしく機織りにせいを出すと思う?
私は織り機は織り機でも、本当は仙術を織り込んだ、布を作るための宝貝なのよ。
旗の宝貝を造ったこともあったね。
呪符《じゅふ》は知っているでしょ?」
「はい。見たことはあります」
「……あれも旗に似ているけど、平面的な物だから、出来ることには限度がある。
でも、機織りは立体的に、仙術を再現出来るでしょ。
仙術的な、あり得ざる糸の絡みで、呪符とは比較にならない複雑な仕事が出来る」
和穂は首を横に振る。かつては知っていた知識なのだろうが、今では封印《ふういん》されている記憶なのだ。
「私にはよく判りません」
流麗はあやとりを外《はず》し、殷雷の頭の上に載《の》せた。
「ああ! やっと手掛かりが見えたのによ」
「……時間切れよ」
流麗は、和穂の道服の袖《そで》をなぞる。
「……そうね、この道服にしても、簡単な仙術が織り込んである。
ゆっくりとした復元能力と、少しぐらいの汚れならばものともしない、自浄作用があるね。
それと内から加わる力には、抵抗《ていこう》がないけども、外から加わる力を弾《はじ》き返す鎧《よろい》の能力もある。もっとも、せいぜい皮の鎧ぐらいの強度ね」
和穂は流麗の言葉を聞くうちに、一つのことに気がついた。
「それじゃ、流麗さんはもしかして仙術が使えるんですか? 仙術を込めた布を作れるんですよね?」
流麗はうなずいた。
「……私自身は使えないけど、使いたい仙術を織り込むのは簡単よ。
簡単だけど、不可能だけどね」
「どうしてです?」
「……糸がないのよ。地上にあるような糸じゃ仙術を織り込むための、特殊《とくしゅ》な織り方に耐えられないの。千切《ちぎ》れて糸屑《いとくず》になってしまう」
殷雷は言った。
「結局はただの役立たずじゃねえか」
「……あんたの服も、和穂と同じように鎧の役目をしているんでしょ。
しかも、復元能力はない。
私だったら、破壊《はかい》されても繕《つくろ》ってあげられるのに、そんな口をきいてもいいの?」
「け。よほどのことでもなければ、この服が破れてたまるかよ」
そういえば、さっきまでそこにいた綜現の姿が見当たらない。
和穂は綜現の姿を探したが、見つからなかった。
「あれ、綜現君、どこに行ったのかしら」
殷雷が答える。
「さっき、玄関の方に行ったぞ」
どう切り出そうか、考えて、和穂は流麗に言った。
「あの、流露さん。綜現君のことをまだ怒っていますか?
許してあげたら?」
流麗はうつむき、黒い髪が表情を隠《かく》した。
「……別に怒ってなんかいないわよ。
あの子は、他の人が見て、どんなに情けなく思えても、自分だけは一所懸命な子だったのよ。
悔《くや》しがっても、絶望したりはしない子だったの。
それが、私にあんな情けない顔を見せて。それが許せなかったのよ」
和穂の頭に、元気のない綜現の姿が浮かんだ。
おっちょこちょいで、栄秋に怒られて、しょぼんとしても、すぐにいつもの元気を取り戻す綜現が、流麗の一言からはなかなか立ち直れないようだったのだ。
「でも、いつ刺客が攻めてくるか判らない状況で、綜現君も不安だったと思うんです。
それで、流麗さんに、ついつい甘えたんだと。
やっぱり綜現君は、流麗さんを一番信頼しているから」
流麗は言った。
「……私は綜現に憎まれようが、嫌われようが構わないわ。
でも、あの子に頼られるのだけは耐えられないの。
判る? この女心?」
和穂は少しばかり、冷汗を流した。理解出来るようだが、やはり少し理解出来ない。
「えぇと、その、まあなんとなく、判るような判らないような」
殷雷は大きな欠伸《あくび》をした。
「判りたくもねえな」
ふと、殷雷の目付きが鋭くなった。
殷雷は、門から屋敷の中に入る気配を感じとったのだ。
棍《こん》を構えようとしたが、気配は、玄関で掃除をする、もう一つの気配、綜現と何か話を
している。
綜現が驚いたり、慌《あわ》てたりしている様子もない。
ならば栄秋との取り引きの相手だろうと、殷雷の顔から緊張感が消えた。
やはり客らしく、綜現は気配を屋敷の中に案内しはじめた。
殷雷は、欠伸をしたときに流れた涙を拭《ぬぐ》う。
綜現は玄関で竹ボウキを使い掃除をしていた。外から舞い込んだのか、何枚かの枯れ葉が散らばっている。
枯れ葉をまとめ、納屋《なや》に塵取《ちりと》りを探しに行き、塵取りを持って戻ってくると、集めた枯れ葉は再び、風に飛び散っていた。
仕方がなく、最初から掃除をやり直そうとしたとき、綜現に声がかけられた。
「こんにちは」
綜現は振り向く。昼間の間は開け放たれている門の外に、一人の少女がいた。
自分より、少し幼《おさな》げで、可愛《かわい》い女の子だ。
ニコニコと笑顔を振り撒《ま》く少女に、落ち込み気味だった綜現も、つられて微笑む。
この子は誰《だれ》だろう? 綜現の記憶に心当たりはない。
「何か用? 君は誰?」
「私は、塁摩。ねえ、殷雷って人はいる?」
殷雷さんに用事があるのなら、酒屋か何かの使いの人だろうか? 集金なら、殷雷さんには用はないはずだ。
綜現は首を縦に振った。
「うん。殷雷さんなら庭にいるよ。呼んで来ようか?」
塁摩は少し考え、首を横に振った。
「いい。私が出向く。お兄ちゃん、案内してくれる?」
「いいよ。ついておいで」
綜現は塁摩の先に立ち、肩に竹ボウキを担《かつ》いでテクテクと庭に向かって歩き始めた。
「ねえ、君は酒屋で働いているの? それとも酒屋の娘さんなのかな?」
「酒屋じゃないよ。まあ、働いていることに間違いはないけどね」
「へえ、偉《えら》いんだ。歳《とし》は幾《いく》つ?」
少し惚《とぼ》けた声が返る。
「あら、女性に歳を聞くもんじゃないわ」
「女性ったって、まだ十歳にもなってないでしょ?」
「さあ、どうかな」
宝貝として設定されている年齢は八歳だ。だが、製造されてから二百年は経《た》っている。
塁摩は説明するのが面倒《めんどう》だった。
綜現は人懐《ひとなつ》っこい性格を露《あらわ》にし、塁摩に色々と話しかける。
「こんなこと聞いて、変だと思わないでね。もしも君が、誰かに腹を立てたとして、その誰かがどうしたら、許してあげる?」
「うんとね。えとね。そうだ。甘い物をくれたら許してあげる」
そうか、と一瞬綜現は納得《なっとく》した。
頭の中で流麗に、甘い物を贈《おく》った場面を想像してみた。
『……まあ、ありがとう。嬉《うれ》しいわ、綜現』
……こんなに上手《うま》くいくかな、と綜現は考え直した。
『……まあ、とっても美味《おい》しそうな、お菓子ね。
綜現は甘い物が好き?
そう、好きなの。
……私は大嫌い』
怒っている流麗ならば、こっちの方があり得そうだった。
綜現は溜《た》め息をつく。どっちにしろ、物でつられるような性格じゃない。
考えていても仕方がない。それよりも誰かと話していると、気分が晴れた。
「君の頭の飾《かざ》り布って綺麗《きれい》だね」
「えへ。ありがとう。でも、最近はもう一人で簡単に髪を結《ゆ》えるようになったから、つまらないの。前はいい暇潰《ひまつぶ》しになったのに。ねえねえ、お兄ちゃん」
「綜現でいいよ」
「じゃ、綜現。このお屋敷って蔵が一杯あるね」
「蔵は蔵でも倉庫みたいなもんだけどね」
「へえ」
戦闘の邪魔《じゃま》になるかどうか、塁摩は蔵の群れを見回していたのだが、綜現には蔵が珍しくて仕方がないように見えた。
塁摩を見る綜現の視線と、蔵を見回していた塁摩の視線がぶつかった。
塁摩はじっと、綜現の目を見た。
そして、ゆっくりと手招《てまね》きをする。
どうしたのかと、綜現は近寄り、塁摩の視線に合わせるために、少し膝《ひざ》を曲げた。
塁摩は綜現の顔を、頬《ほお》の辺《あた》りで両手で挟《はさ》んだ。
綜現の顎《あご》の付け根の骨をしっかりと持っている。
綜現は、塁摩の力強さに、ピクリとも体が動かせない。
塁摩はしばし、綜現の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。明るく強い虹彩《こうさい》を持った瞳だ。
強い眼光なのに、きつい眼光ではない。不思議《ふしぎ》な眼光だ。
首が痛くなった、綜現はどうにか口を開いた。
「ど、どうしたの?」
塁摩は静かに言った。今までの無邪気《むじゃき》さとは少し違い、大人びた口調であった。
「あなたの瞳は、とても綺麗ね」
「あ、ありがとう。よく言われるんだ。
自分じゃよく判らないんだけど……」
「でも、気をつけて。
綺麗な物に、ひかれる人ばかりじゃないからね。
綺麗な物を壊したがる人もいる。
その綺麗な物が、自分には眩《まぶ》し過ぎる場合は特にね」
女の子は、時々不思議なことを言うなと、綜現は考えた。
「そう? じゃ、気をつけるよ」
復讐に燃える弾勁は、綜現の瞳に何を感じるのだろうかと塁摩は思った。
塁摩の心はまだまだ、未熟だった。宝貝としての冷静さと、少女としての無邪気さが噛《か》み合わないときがあった。
宝貝としての自分が分析した事実を、理解出来ないときがあったのだ。
塁摩の少女の心は、綜現に一つの贈り物をした。
「綜現、これをあげる」
塁摩が綜現に与えたのは、ごく普通の、紺色をした手拭《てぬぐ》いだった。
「いいの? 貰《もら》っちゃって」
「うん。いいの。その色、嫌いだから」
「は、ははは」
綜現はまあ、貰っておこうと懐《ふところ》にしまう。もしも、後で返してくれと言われたら、返してあげればいいだけだ。
そうこうしていると、殷雷たちの話し声が聞こえてきた。
綜現は、ホウキを肩に担いだまま、走り出した。
「殷雷さん、お客さんですよ」
綜現の背中を見ながら、塁摩は両方の拳《こぶし》を顔の前で、激突させた。重く鈍《にぶ》い音が静かに響いた。
ぜいぜい、息を切らし、綜現は椅子に座る殷雷の前に立つ。
「お客さんです」
「はて? 俺に客だと。さては、魚屋に頼んでおいた、ウツボの干物が手に入ったのか」
和穂はウツボを知らなかった。
「殷雷、ウツボって何?」
「蛇《へび》の口に丸太を突っ込んで、そのまま口が伸びたような形をした魚だ」
流麗は鋭く、口を挟《はさ》んだ。
「……ウツボって魚なの?」
殷雷がさて、どうだったかと頭をひねっていると、塁摩の姿が現れた。
「やあ、殷雷ちゃん久し振りね」
頭をひねりながら、殷雷の顔がたちどころに青ざめる。
「る、塁摩!」
一同の注目を浴びて、塁摩はペコリと頭を下げた。
「塁摩でえす。第二の刺客だよ」
殷雷は、飛びすさりながら、椅子から立ち上がった。
流麗も塁摩との間合いをとる。
綜現も口を開けて驚く。
「き、君は宝貝だったのか!」
綜現は驚きながらも、少しホッとする。こんな小さな女の子が相手ならば、自分でも勝てそうな気がした。
それと同時に、こんな幼い女の子と戦うのに少し気がひけた。
綜現は、和穂を背後に庇《かば》う殷雷の前に立った。
そして、塁摩に言った。
「どうしても、僕たちと争おうっていうの?
本当は君みたいな、ちっちゃい子を叩いたりするのは嫌《いや》なんだけど、どうしてもっていうのなら僕は戦うよ」
殷雷はドスの利《き》いた太い声で、綜現に言った。
「どけ」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。この子となら、僕だって戦えます。
泣かれたりしちゃ、困るけど、栄秋様の命がかかっているんだし」
和穂は既に気がついていた。殷雷の緊張は只事《ただごと》ではない。
殷雷の目付きは、完全に臨戦態勢に入っている。
口を開こうとした綜現の顔を、殷雷は軽くはたいた。
「どけ、綜現。
俺との約束を忘れたか?
お前の手に余ると、俺が判断したら、どうすると言った?」
「でも、塁摩は……」
殷雷は綜現の胸《むな》ぐらを掴《つか》み、そのまま軽々と後ろへ投げ飛ばした。
その間も塁摩から全く視線を外さない。
「悪いな、綜現。
出来ればお前の願いを叶《かな》えてやりたかったが、こいつが出てきたら、そういうわけにもいかねえんだ。
綜現よ。お前じゃこいつに、歯が立たん。
へっへ。別に威張《いば》っているんじゃないぜ。俺だって、ほとんど勝ち目はないんだ」
殷雷のこの笑顔を見るのは、何度目だろうかと和穂は思った。
状況があまりにも絶望的なときに見せる、不敵な笑みだ。
「殷雷、その子も武器の宝貝なの?」
殷雷の笑みが一層、大きく鋭くなる。
「こいつの名は、塁摩杵《るいましょ》。
武器の宝貝なんかじゃない」
殷雷は、悪ぶったりしても、決して自分の強さを過大に評価したりはしない。
殷雷よりも強い武器とは、今までに何度も戦ってきた。
和穂は殷雷の緊張の意味が判らない。
塁摩が武器でないのなら、殷雷はどうして緊張しているのだろう?
正面からぶつかるのなら、武器の宝貝以外にはそうそう後れをとらないはずだ。
「殷雷……」
「へっへっへ。
そうだよな、塁摩。お前は武器なんかじゃないんだよな。豪角の脅《おど》しの意味がやっと判ったぞ。豪角の言うとおりだ。
和穂よ。
こいつは武器じゃない。
兵器の宝貝だ」
「? 武器と兵器って違うの?」
殷雷《いんらい》はゆっくりと構え、手に持った棍《こん》を和穂《かずほ》に渡した。
塁摩《るいま》を相手に棍を使ってどうなるのだろうか? 攻撃には使えるだろう。だが、もしも受けられれば、真鋼《しんこう》の棍であろうと、飴《あめ》のように曲げられてしまう。
「武器と兵器の違いか? こいつは攻城《こうじょう》兵器だ。ようするに、城や砦《とりや》の壁を破壊するための杵《しょ》だ」
殷雷は、塁摩杵の原形をどう説明したものかと、考える。
「そうだな。扉《とびら》を力ずくで開けたいとき、何人かで、一本の丸太を抱《かか》えて、丸太を扉にぶつけるだろ?
原理はあれだ。
ただ、宝貝《ぱおぺい》だから人力には頼らずに、丸太を台車の上に置いて、台車の上の丸太を滑《すべ》らせて、壁を打ち砕《くだ》くんだ。
全長は半里(約二キロ)もあるんだぜ。
厄介《やっかい》なのは、こいつはその破壊力を人間の形をしていても自在に操《あやつ》りやがるんだ。
単純な力だけでみれば、七百二十七の宝貝の内で、一、二を争う腕っぷしだ」
塁摩は、殷雷の説明が少し不満だった。
「殷雷ちゃん、それじゃ私がただの、お馬鹿の力持ちみたいじゃないの。
なんか力持ちって、体がでかくってむさ苦しい男の人って感じがして嫌《いや》だな。
そうだ、殷雷ちゃん。これでも、少しは武術を覚えたのよ」
殷雷は武器だ。故《ゆえ》に、武術をその体の中に刻み込ませている。
塁摩は兵器だ。兵器はわざわざ武術を仕込む必要がなかった。
技芸に頼らずとも、充分《じゅうぶん》な破壊力があるからだった。
だが、塁摩は武術を知らない自分が嫌だった。力だけで、技《わざ》がないのは恰好《かっこう》が悪いと思っていた。
「見て、見て。震脚《しんきゃく》だよ」
言うなり、塁摩は右足を一歩前に踏み出して、踏み出した足で、地面を踏む。
塁摩に踏まれた小石は、砂よりも細《こま》かな粒子になり弾《はじ》け飛ぶ。
弾け飛んだ粒子は、空気との摩擦で静電気を起こし、パチパチと爆《は》ぜた。
「どう、殷雷ちゃん、上手《うま》いでしょ?」
殷雷はゆっくりと半身に構え、猫背気味になった。塁摩の一撃は確実に、致命傷になるはずだ。
「し、震脚って塁摩よ。意味が判《わか》ってやってるのか?」
「そういやそうね。ねえ、足を鳴らして何が面白《おもしろ》いの?」
拳撃の威力《いりょく》を上げる方法は単純明快で、踏み込んだ足が地面に到着し、一番体重がかかった瞬間に、拳《こぶし》を相手に当てればいいのだ。
単純明快だが、簡単ではない。
足を鳴らし、体重がかかった瞬間を、より判りやすくするのだ。
力を自在に操る塁摩に、その必要は全くなかった。
殷雷は、ズリズリと擦り足で、塁摩との間合いをとる。
「で、塁摩よ。栄秋《えいしゅう》を始末するつもりかい」
「ううん。弾勁《だんけい》はね、ともかく殷雷ちゃんを始末しろだって。
他のは殷雷ちゃんを始末してからでいいって」
「塁摩。ものは相談だが、甘い物を買ってやるから、見逃《みのが》してくれないか?」
塁摩は殷雷の提案に、わずかばかり心を揺るがしたが、キッパリと断った。
「駄目《だめ》駄目。弾勁を裏切ることなんか出来ないよ」
「そうだろうな」
武器の宝貝は、冷静に状況を判断する能力を持つ。
殷雷は、このまま塁摩と戦うのは得策ではないと考えた。
ともかく、一度退却するのが得策だろう。
しかし、兵器の宝貝にも状況を判断する能力があった。それも、少しばかり武器の分析能力よりも鋭い。
「あ、殷雷ちゃん、逃げようとしているでしょ?」
「へ、へ、へ。よく判ったな。
俺の方が、お前より足は速かったよな?」
「うん。けど、どうかな? 私も結構|素早《すばや》さと器用さは鍛《きた》えたよ」
塁摩は兵器の宝貝だ。流麗《りゅうれい》や綜現《そうげん》とは違い鍛えれば、戦闘のための能力は伸びる。
塁摩は言った。
「でも、殷雷ちゃんは逃げられないよ。
殷雷ちゃんが、壁を越えたりして邪魔《じゃま》な物を避《よ》けても、私は、真っ直《す》ぐに突っ切るからね。壁なんか、ぶち破るんだから」
「どうかな。それでもまだ、俺の方が速いんじゃないか」
殷雷の動きに合わせて、塁摩も間合いをとりつつ動く。
殷雷は塁摩を、出来るだけ和穂たちから離そうとした。
和穂は殷雷に言った。
「駄目よ、殷雷。逃げられないよ」
気配《けはい》を読む能力は、塁摩よりも殷雷が勝《まさ》っている。それを利用し、視界が悪い場所に誘《おび》き寄せれば、殷雷は有利になる。
山や林の中ならば、塁摩が自分の力で自滅する可能性もなくはない。
「やかましい。お前に戦い方の指図《さしず》をされてたまるか。
……それとも、逃げたらまずい理由でもあるのか?」
「殷雷がここからいなくなったら、弾勁が攻めて来る」
殷雷は舌打ちした。
和穂の言うとおりだ。俺は栄秋から離れるわけにはいかないのだ。
綜現には任《まか》せられない。
使用者を守りたいという、綜現の気持ちが殷雷には判った。
だが、だからこそ、綜現の不始末で使用者を死なせるわけにはいかない。
せめて、綜現の宝貝としての能力が判れば別の手も考えられるのだが。
「綜現よ。まだ、自分が何か判らないか? 正直言って、猫の手でも借りたいくらい、やばいんだ」
竹ボウキをきつく握《にぎ》り締《し》め、綜現はゆっくりと答えた。
「ごめんなさい。判らないんです!」
ズリズリと後ずさり、殷雷は言った。
「ま、仕方があるまい。思い出せないのはお前のせいじゃない」
殷雷の優しい言葉が、逆に状況の悪さを和穂たちに思い知らせた。
殷雷の思考は、もはや、最良の状況を目指《めざ》すものではなく、最悪の状況だけを回避《かいひ》しようとしている。
塁摩は、しゃがみ、石ころを拾う。
「ねえねえ、面白《おもしろ》いことをやってあげようか? 石つぶての練習をやってたら、出来たんだけどさ」
おはじきを飛ばすかのように、塁摩は指に小石を引っ掛けた。
そして、殷雷に狙《ねら》いを定める。
殷雷の額《ひたい》に、脂汗《あぶらあせ》が滝《たき》のように流れた。
もし、あの石を打たれたらどうなるか? 手で受ければ、手が吹き飛ぶだろう。
塁摩は明るく言った。
「打つよ。はい!」
小石の代わりに、火の線が走った。
小石は空気の摩擦で蒸発し、熱風が殷雷の髪《かみ》をなびかせる。
殷雷の不敵な笑みにだんだんと締まりがなくなってきた。
塁摩は殷雷の笑顔を、今の芸当が気に入ってもらえたからだと、喜んだ。
「凄《すご》いでしょ? 夜だとね、もっと綺麗《きれい》なんだよ」
勝ち目があるかと、殷雷は考える。実行可能、不可能は別にして、自分の攻撃が当たれば塁摩に損傷《そんしょう》を与えられるのだろうか。
主に、武器以外の宝貝は、人の形をとっているときも、自分の能力を使えるという特徴を持つ。
流麗を襲《おそ》った豪角《ごうかく》も、その手で切り刻むことが出来たし、塁摩も力を自在に操《あやつ》る。
あれだけの力で動かせば、体が潰《つぶ》れそうなものなのに、塁摩の体はピンピンしている。
塁摩の体は頑丈《がんじょう》なのだろうか?
もしもそうなら、殷雷には万に一つも、いや理論的に勝ち目がない。
殷雷は、塁摩よりも強い力を出せないからだ。
いつまでも後ずさるわけにもいかない。殷雷は足を止めた。
勝てるのか?
殷雷は、塁摩の無邪気さに賭《か》けてみた。
相手について判らないことを、相手に尋《たず》ねるのだ。
「塁摩よ。力任せに殴《なぐ》ったとき、手は痛くならないのかよ?」
塁摩は、無邪気に笑った。
「痛くないよ。私の力は本当はね、私の体のちょっと外から出ているの。反動はないから痛くないの」
無邪気で助かったと、殷雷が胸を撫《な》で下ろすと、塁摩は付け加えた。
「そうよ。だから、殷雷ちゃんの攻撃は私には通用するよ。
私の体が、特別に頑丈ってわけはないからね」
理論的に、勝ち目はある。
理論的には、だ。
そして、ついに塁摩は仕掛けた。
鬼ゴッコで遊ぶ子供のように、手を振り回しながら殷雷に向かい走る。
もしも、あの振り回す手にブチ当たれば、豆腐《とうふ》を殴《なぐ》ったように、この身はグチャグチャになるのだ。
殷雷は塁摩の攻撃をかわす。
無茶苦茶《むちゃくちゃ》に振り回しているだけに、塁摩の動きが予想しにくい。
さらに標的の小ささは、こちらからの攻撃の難しさを意味している。
殷雷は攻撃をかわし続けた。
最初は大きくかわしていたが、それでは負けなくても、勝てもしない。
徐々に小さくかわし、塁摩との間合いが近くなる。
「あぁ、もう。全然、当たらないよお」
塁摩は怒るが、殷雷とて命懸《いのちが》けだ。
塁摩の動きがさらに力任せになる。
このまま、疲《つか》れてくれればと殷雷は祈《いの》るがその前に、塁摩の策にはまった。
一瞬、塁摩は力任せに腕を振るふりをしてピタリと止め、そのまま殷雷の胸元を掴《つか》んだ。
「!」
「投げ技も練習したんだよ」
本当ならば、殷雷の体勢を崩《くず》し、重心を揺さぶってから投げるべきなのだが、塁摩はそういう手順が面倒《めんどう》だったので省略した。
片手で、ゴミをゴミ箱に投げるかのように殷雷を投げ飛ばす。
空を切った殷雷は、そのまま蔵の壁に激突した。
壁を撃破し、蔵の屋根が傾《かたむ》く。
「殷雷!」
和穂は壁が崩れ、もうもうと土煙が立ち込める蔵に駆けた。
瓦礫《がれき》を払いのけ、和穂は必死に殷雷の姿を探す。
瓦礫の中から、殷雷の声がした。
「へっへっ。流麗よ聞こえるかい」
「……聞こえている」
「さっきのことは謝《あやま》るから、後で縫い物を頼まれてくれ」
和穂は叫ぶ。
「殷雷!」
瓦礫を蹴《け》り飛ばし、殷雷はヨロヨロと立ち上がった。
殷雷の上着の胸元、ちょうど塁摩に掴まれていた部分が裂けている。
「大丈夫《だいじょうぶ》! 殷雷!」
頭を打ったのか、殷雷は何度も自分の後頭部を叩いた。
「死んでねえから、大丈夫だな。
塁摩よ、ちょっと力み過ぎたな」
壁の向こうの塁摩が答えた。
「うぅん。力加減て結構難しいのよ」
「投げずに、地面に叩きつけていたら、たぶん俺は破壊されていたぜ」
「だから、そういう力持ちっぽいの私|嫌《きら》いなのよ」
蔵が崩壊する轟音《ごうおん》に驚き、栄秋が母家から顔を出した。
「どうした!」
目に入ったのは、瓦礫の中でフラフラとしている殷雷の姿だ。
「くあ、殷雷! 何だそのざまは! さてはそのガキが第二の刺客《しかく》か。
殷雷よ、負けたらただではすまさんからな!」
「うるせい!」
綜現は、必死に流麗の袖《そで》を引っ張った。
「ねえ、流麗さん」
「……何よ。私に頼ろうっての?」
「違うよ、僕に出来ることは何かないの! 殷雷さんの手助けになるようなことは!」
綜現の瞳《ひとみ》を見詰め、流麗は言った。
「……綜現が自分の正体を思い出すこと」
「でも、判らないんだよ!」
「……そう。じゃ、応援でもしておく? 殷雷。頑張《がんば》れ」
頭についたほこりのせいで、殷雷の髪は白髪《しらが》に見えた。
「そっちも、うるせい」
流麗は不服だった。
「……応援だけですむんだったち、幾《いく》らでもしてあげるのに」
周囲は敵ばかりかと殷雷は気が滅入《めい》った。
和穂は見た目より、殷雷の怪我《けが》が酷《ひど》いことに気がついた。呼吸がかなり、不規則になっている。
「殷雷、刀に戻って。私も戦う」
「お前も、うるせい。
あいつは俺を狙ってる。和穂まで危険にさらす必要はない」
「でも」
「刀に戻らんと言ったら、戻らん」
塁摩は少し退屈《たいくつ》になった。
「ねえ、殷雷ちゃん早くおいでよ」
「待ってろよ。けりをつけてやる」
頭を打ったせいか、目の焦点が定まりにくくなっている。だが、そうも言ってはいられなかった。
殷雷は駆けた。
負けるわけにはいかない。少なくとも相打ちには持ち込んでやる。
殷雷の気迫《きはく》に押されてか、塁摩の動きが少し鈍《にぶ》くなる。
鈍くなった代わりに、塁摩は上手《うま》い防御《ぼうぎょ》の方法を思いついた。
ゆっくりと体の前で、小さく腕を動かすのだ。
こうすれば、殷雷を打ち砕くことは出来なくても、殷雷の攻撃を防げるのだ。
殷雷の拳《こぶし》が腕に当たった。
動いている腕に拳が当たったのだ。
ゆっくりとだが、力強く回る水車は簡単には止められない。
同じ理屈で、殷雷の攻撃は無力化される。
殷雷の拳は弾《はじ》かれた。
塁摩は勝負を仕掛けた。
小さく、ゆっくりと動かしている手を瞬間だけ大きく動かす。
隙《すき》は出来るが、殷雷に拳をぶち込めるだろう。
塁摩の拳が、殷雷の腹を目掛けて走った。
空《あ》いた隙間《すきま》を狙い、殷雷の拳も駆ける。
殷雷は塁摩より、腕が長い。自分の攻撃を当てて、寸前で塁摩の拳を真後ろに跳《は》ねて避《よ》けるつもりだった。
だが、激突の影響か、視界がぼやけてしまった。
殷雷の拳は、塁摩に命中した。
塁摩の拳も殷雷に命中した。殷雷の上着が塁摩の拳を中心に、渦巻きのようによじれていく。上着と共に、殷雷の肉体もよじれていた。
塁摩の頭に当たった殷雷の拳は、彼女の額に大きなコブを作った。
コブを押さえ、泣きながら塁摩は飛び跳《は》ねた。
「痛い、痛い! 痛いけど、ちょっと待ってよ。コブってのは何よ? 頭を打ち砕くぐらいの攻撃は出来たでしょ?
あ、もしかして手加減したの!
本当に、殷雷ちゃんて甘いんだから」
殷雷の怪我は、塁摩程軽くはない。
血が口から飛び出ようと、体の中を駆け巡《めぐ》っているのを感じながら殷雷は言った。
「そう言うな塁摩。
これで相打ちってことにしてくれ」
そして、血が炸裂《さくれつ》した。
塁摩《るいま》の拳《こぶし》を殷雷は腹に食らった。
反射的に殷雷は自分の背中を触《さわ》った。
幸いにも、拳は体を貫通《かんつう》していない。
少しホッとした。
殷雷の体は、くの字になっていた。塁摩の拳を食らい、腹を押さえている。
塁摩に一言言った後、本来、流れるべきではない場所を、血液が駆け巡り、その内の幾《いく》つかは、口から吐き出された。
殷雷は手で口を押さえた。
行き場をなくした血は、鼻からダラダラと流れる。
殷雷は大きくえずき、口に当てていた手を離した。
咳《せ》き込むように、殷雷は口から大量の血を吐いた。
舌がジャリジャリする。
殷雷は自分の吐いた血の中に、キラキラと輝く塊《かたまり》を見つけた。
砂利《じゃり》のように、細《こま》かく砕けた、真鋼《しんこう》の塊だった。
真鋼。
殷雷刀を構成する物質だ。
恐る恐る、腹に手を当てた。
意外な感触に殷雷は驚《おどろ》いた。柔《やわ》らかい、毛皮のような感触がする。
それが、塁摩の拳で破壊され、磨《す》り潰《つぶ》された上着の感触だった。
またしても咳き込む。
だんだんと血に混《ま》じる真鋼の塊が大きくなっていく。
バチバチと自分の体が爆《は》ぜる音がする。意識も遠くなっていく。
『破壊されたか……』
肉体の輪郭《りんかく》がぼやけていく。
殷雷は最後に一言、大きく叫んだ。
「和穂《かずほ》!」
言葉の後に吐き出されたのは、大きな真鋼の塊だった。
殷雷の意識が途絶《とだ》え、彼の体は爆煙に包まれる。
煙が消え、地面には殷雷刀が横たわっていた。
鞘《さや》は砕け、刀身がくの字に曲がっている。
「殷雷!」
自分の目から涙が流れているのも知らずに和穂は殷雷刀に駆け寄った。
地面に転がっているのは、古釘《ふるくぎ》のように曲がった刀だ。
和穂は恐る恐る、ゆっくりと手を伸ばし殷雷刀に触れる。
冷たく無機質な感触に、和穂は思わず手を離した。
恐れていてはいけないと、和穂は柄《つか》に触れた。
普段ならば感じられる、殷雷の意識が全く感じられない。
「殷雷!」
何度、名を呼んでも、答えは戻って来ない。
ユラリと流麗が和穂の側《そば》に立った。
「……死んだか?」
歯を食い縛《しば》り、和穂は言い返そうとしたが言葉が出ない。
綜現も、殷雷刀の姿に肩を落とす。
遠くで栄秋が叫んでいる。
「ま、負けやがったか? わ、私はどうなるんだ!」
怒りを覚えるよりも、和穂の体からは力が抜けた。
なんて呆気《あっけ》ないんだ。ついさっきまで、いつもの殷雷だったのに。
綜現も、地面に座《すわ》り込む。
「僕が、自分の正体に気がついていればこんなことにはならなかったかも!」
流麗は言った。
「……で、この状況でも思い出せないの?
心にこれだけの衝撃を受けても? 記憶喪失《きおくそうしつ》の類《たぐい》は、強い衝撃を受けたら治《なお》るって聞くけど」
「お、思い出せないんです。僕は、僕は」
和穂はポカンと口を開けて、放心状態になっている。
流麗は和穂を見た。
「……あんた、ちょっと甘《あま》いんじゃない? 刀の一本や二本、ブッ壊れたぐらいで。
そんなんで、私たちを回収しようだなんて笑わせてくれるよ」
「殷雷は、殷雷は」
虚《うつ》ろな和穂に代わり、綜現が怒った。
「酷《ひど》いよ、流麗さん! そんな言い方はないでしょ!」
「……何よ。文句があるなら、そっちの子供に言いなさいよ。
殷雷刀をブッ壊したのは、そいつなんだからさ」
塁摩《るいま》は慌《あわ》てた。
「ベ、別に私は悪くないよ。言いつけどおりに働いただけなんですからね。
私は真剣《しんけん》勝負のつもりだったのよ。それなのに殷雷ちゃんたら、手加減してさ。
失礼よね、全く」
「……それじゃ、相打ちだって認めているのね」
塁摩の言うように、宝貝《ぱおぺい》としての使命を果たしただけで、他人から責められる筋合いはない。
だが、以前からの知り合いで、しかも手加減をして戦ってくれた殷雷を、ボロ雑巾《ぞうきん》のようにしてしまったのだ。
塁摩のわずかな罪悪感を流麗は、巧《たく》みに責めている。
勝負として見れば、確かに相打ちかもしれない。殷雷が本気でやっていれば、塁摩も破壊されていたかもしれないのだ。
茫然《ぼうぜん》とする和穂の姿を見るのが、塁摩には辛《つら》かった。出来れば、逃げ出したい気分だ。
「判《わか》ったわよ。相打ちでいいよ。回収されてあげるよ。
弾勁《だんけい》に言われたことをちゃんとやったんだから、悔《く》いはない。弾勁だって判ってくれるもん」
流麗は、和穂の腰《こし》から断縁獄《だんえんごく》を外《はず》した。和穂には抵抗する気力もない。
ひょうたんの蓋《ふた》を外し、流麗は言った。
「……じゃ、回収する。塁摩杵《るいましょ》!」
特に抵抗もなく、塁摩杵は一陣《いちじん》の風となりひょうたんに吸い込まれた。
塁摩の姿が消えると、流露の口調が少し変わった。
「……なんか、空気がどうしようもなく辛気臭《しんきくさ》いわね。葬式やってるみたい」
綜現は流麗をたしなめる。
「流麗さん。言葉を慎《つつし》みなよ。和穂さんの気持ちも考えてあげないと」
流麗はいとおしそうに、自分の黒髪《くろかみ》を撫《な》でた。
「……っとに、しょうがないね。
殷雷刀は折れてない。破壊はされていないよ。ひん曲がって、いつ折れるか判らない状態だけどね」
和穂は顔を上げた。
「でも、流麗さんは、殷雷は死んで、壊れたって」
「……塁摩を捕《つか》まえるハッタリだよ。
もっとも、今は死んでいなくても、いつ死んでも不思議《ふしぎ》じゃない」
殷雷刀の柄《つか》を握り締める和穂の手を、流麗はゆっくりと聞かせた。
「……気安く触《さわ》らない方がいい。和穂のちょっとした不注意ででも、折れるよ」
慎重《しんちょう》に殷雷刀を受け取り、代わりに流麗は和穂に断縁獄を返した。
瀕死《ひんし》の患者《かんじゃ》を扱《あつか》う医者のような流麗の態度に釣《つ》られ、和穂は息を押し殺す。
「このままで、殷雷は治《なお》るんですか?」
「……このままでは治らないよ。
何か治療用の道具か、宝貝はないの?」
和穂は首を横に振った。そんなに便利な宝貝はない。
流麗は懐《ふところ》から、小さな裁《た》ちバサミを取り出した。
「流麗さん?」
殷雷刀をそっと地面に置き、裁ちバサミで、流麗は自分の黒髪を、襟足《えりあし》のところでバッサリと切った。
「……あんまり期待しないでよ。自信があるわけじゃないんだから」
手に握られた髪の毛が、海の中でたゆとう海草のようになびく。
たゆたいながらも、髪の毛は絡まり、細い帯のように織られていく。
「……地上にある繊維《せんい》じゃ、使い物にならないけども、私の髪の毛ならば、簡単な仙術には耐えられる」
髪の帯は、殷雷の刀の砕けた部分に絡まっていく。そして、しっかりと殷雷刀に巻きついた。
流麗は曲がった殷雷刀を拾い、無造作《むぞうさ》に地面に叩きつけた。
「!」
「……大丈夫《だいじょうぶ》。補強はしてあるから折れはしない。曲がったままじゃ、治るものも治らないからね」
何度も叩きつけられる内に、どうにか殷雷刀は真っ直《す》ぐになった。
だが、その真ん中には、黒い瘤《コブ》のように流麗の髪の毛が絡まったままだ。
自分の髪の毛を一本抜き、流麗は言った。
「……くどいようだけど、安心はしないでよね。
薬も使わずに、取り敢《あ》えず、添え木と包帯を使ったようなもの。
鞘《さや》から抜いたり、無理をしたら、確実に折れるわよ」
手に持った一本の髪で、流麗は柄と鞘を結び付け、殷雷刀が、鞘から抜けないようにした。
「……これで、この髪の毛を解《ほど》かない限りは殷雷刀の意思では、人の形はとれないようにしたから」
和穂は殷雷刀を抱き締めた。
「流麗さん、ありがとうございます!」
「……本当に、刀のくせに甘いったらありゃしないわ」
綜現は飛び跳《は》ねながら、喜んだ。
「本当に凄《すご》いや、流麗さん」
流麗はしなやかな指を伸ばし、綜現の髪の毛を撫《な》でた。
いつもの綜現の瞳《ひとみ》に戻っている。流麗の言葉が余程《よほど》堪《こた》えたのか、甘えた考えはどこかに消し飛んでいるようだ。
「……喜んでいる場合じゃない。
これは、私の最後の策なのよ。本当は、綜現が死にかけたときに使うつもりだった」
「でも、僕の髪の毛を使えば、もう一度ぐらいは」
「……駄目。あなたの髪は短い。
使えないわよ。悪いけど、私に出来るようなことはもうないでしょう」
栄秋は愕然《がくぜん》としている。
「い、殷雷は負けちまったのか? それじゃ誰《だれ》がこの私を守るっていうんだい?」
流麗は微笑《ほほえ》み、綜現に言った。
「……良かったわね。また機会が回ってきたわよ、綜現。
弾勁は、あなたが倒すの」
「流麗! 何を言っておる。殷雷が使えないのなら、お前が私を守れ!」
鋭く流麗は言った。
本気の声だ。
「……お断りよ」
和穂は殷雷刀を、そっと腰帯に差し、気合を入れるために、ピシャリピシャリと顔を叩いた。
「綜現君。私も力を貸すよ。
いつも殷雷に頼ってばっかしだったから、こんなときこそ頑張《がんば》らなくちゃ」
綜現は和穂の顔を見上げた。
「はい、和穂さん。僕たちで、栄秋様を守りましょう」
栄秋は、怒鳴《どな》る。
「勝手に決めるな! 半人前が二人|揃《そろ》っても決して、一人前にはならんのだぞ!」
決意を胸に秘めた綜現には、栄秋の罵倒《ばとう》は届かなかった。
「和穂さん。敵は、弾勁一人です。きっと勝てますよ」
「うん」
歯ぎしりしながら、栄秋は叫ぶ。
「こ、根拠のないことを言ってんじゃねえ」
日は高く高く昇っていた。
頭の真上から、光を浴び、全《すべ》ての物の影が短くなるこの時、長い長い影を引きずった一人の男が、ゆっくりと道を歩いていた。
豪角と同じように、塁摩の背中にもつけていた、黒く細長い魂《たましい》の糸は切れている。
魂の糸を通じて、事情は弾勁の耳に入っていた。
殷雷刀は使えない。
襲撃するなら、今だ。
弾勁は道を歩む。
ついに、栄秋への復讐《ふくしゅう》を果たすときが来たのだ。
復讐心を、ネチネチと反芻《はんすう》しながら、弾勁は歩いた。
だんだんと、弾勁と擦《す》れ違う人間が増《ふ》えていった。
街へ入ったのだ。
ガヤガヤと道を行く人々は、弾勁の巨大な影には気がつかなかった。
弾勁は歩む。
やがて目の前に栄秋の屋敷の壁が見えた。
白い白い壁だ。
弾勁は、そっと壁に手を添えた。
弾勁の手は爆発し、壁は轟音《ごうおん》を立てて崩《くず》れた。
長い長い影を引きずり、弾勁は壁の瓦礫《がれき》を乗り越えた。
壁の向こうには、栄秋とそれ以外の四人がいた。
一同の視線は弾勁に集中した。
弾勁は安らかな気分だった。
自分の顔に微笑《ほほえ》みが浮かんでいることも知っている。
弾勁の笑顔につられて、微笑む者はいなかった。
流麗の視線には、恐怖も覚悟も何もない。
無関心な視線だ。
和穂の視線には、戦いへの覚悟が見て取れる。
栄秋の視線には、怒り、そして弾勁が一番望んでいた、恐怖が隠れている。恐怖の裏には絶望までが潜《ひそ》んでいそうだ。
弾勁の笑いは激しくなる。
笑いの激しさと共に、静かだった復讐心が激しく燃え上がった。
水のように静かだった油に、火が落とされ炎《ほのお》が暴れ狂う。
弾勁の心の中を、とてつもなく暗く強大な喜びが駆け抜けた。
我《わ》が願いがついに叶《かな》う。
この口では、小さな笑顔しか作れない。
弾勁の口が少し裂け、大きな笑顔が彼の顔に浮かぶ。
だが、弾勁は自分の喜びに水を差された気分になった。
綜現の視線だ。
弾勁の暗い喜びを打ち払う、光に満ちた目だ。
弾勁の顔から大きな笑顔が消え去り、裂けた口許《くちもと》がだらしなくたるむ。
口を元に戻そうかと弾勁は考えたが、やめた。
この綜現とかいうガキを少し怯《おび》えさせてやりたい。
裂けた口に合わせ、鼻先と歯がグニャリと伸び、狼《おおかみ》を思わせる化《ば》け物じみた顔になる。
「坊や。喰《く》い殺してくれようか?」
綜現の視線が、弾勁から離れた。怯《ひる》んだかと弾勁は思ったが、恐怖の表情は浮かんでいない。
綜現は、弾勁の巨大な影に目を落としていた。
「脅《おど》しても無駄です。
なぜだろう。あなたの影は、僕の心を強く揺さぶります。
あなたの、その黒く暗く果ての見えない影が、僕の心を揺さぶるのです」
和穂は綜現に言った。
「綜現君! もしかして記憶が?」
「何かが、どうしようもなく、心に引っ掛かるんですが、思い出せない」
弾勁は、伸びた鼻面《はなづら》を手で押さえ、元の顔に戻した。
綜現の言う、黒く果ての見えない影の中から背もたれのついた椅子《いす》が浮かび上がり、弾勁は腰を下ろした。
胸の前で手を組み、弾勁は落ち着いた口調で言った。
不自然なまでに丁寧《ていねい》な言葉だった。
「確か君は、記憶を失った宝貝だな。
ところで、綜現君。
君は芝居《しばい》はよく見るか?」
綜現は首を横に振った。
「そうか。芝居|鑑賞《かんしょう》は趣味《しゅみ》ではないか。
私はよく見るよ。君のような、記憶を失った人物というのは、芝居ではよくある話なんだ」
いたぶるような弾勁の視線が、和穂の神経を逆撫でする。
「何が言いたいの?」
「和穂、元仙人。人の話は最後まで聞きなさい」
弾勁は、深く椅子に座り直した。
「そして、その芝居の筋書きはいつもこうなのだ。
窮地《きゅうち》に追い込まれた記憶喪失君の前で、記憶喪失君のかけがえのない人物が、死にかける……ま、三割ぐらいは本当に死んでしまうんだが」
栄秋は、弾勁が隙《すき》を見せていると判断し、逃げ出した。
弾勁は、逃《のが》すかとばかりに、手をしならせた。
指は黒く色を変えながら、細長く伸び、栄秋の足首に絡みつく。
変形した指はいつの間にか鞭《むち》になり、弾勁の手に握られていた。
「簡単に逃がすと思うか?」
鞭の先端は爆発した。
綜現は叫ぶ。
「栄秋様!」
楽しそうに鞭をもてあそび、弾勁は言った。
「大丈夫《だいじょうぶ》。ただの威嚇《いかく》だ。くだらんことを考えたら、次は足を吹き飛ばすぞ。
……さて、どこまで話したか?
そうそう、記憶喪失君の前で、人が死にかけたり、死んだりするところまでだな。
すると、どうだい。
記憶喪失君が絶叫《ぜっきょう》すると共に、失われていた記憶が戻ってしまうではないか」
殷雷が闘《たたか》えない今、弾勁は己《おのれ》の勝利を確信しているのだと、和穂は考えた。弾勁がさっきから話しているのは、ただの世間話《せけんばなし》のはずがなかった。
弾勁の笑顔の裏にある、黒い炎《ほのお》を和穂は感じた。弾勁は私たちをなぶり殺しにしようとしているのだ。
和穂は言った。
「その芝居《しばい》の真似《まね》を、ここでもやろうというのね?
でも、無駄よ。
殷雷があんな目にあわされたのに、綜現君の記憶は戻らなかった。
いたぶろうなんて、くだらない考えはよしなさい」
弾勁は大きく驚く。
「和穂元仙人。温和なお嬢さんだと思っていたが、やけに威勢《いせい》がいいじゃないか。
殷雷刀を倒されたのが、腹に据《す》えかねたのかな?
面白《おもしろ》い。
栄秋に復讐《ふくしゅう》をしようとしている私に、あなたは殷雷の復讐を果たそうとするのかい?
楽しいだろ?
復讐に心を奪《うば》われるのは、いかなる快楽よりも心地好《ここちよ》いからね」
「そんなんじゃない!」
「怖い怖い。
どうも、話が横道にそれるな。
殷雷が倒されても、綜現の記憶が戻らなかったと?
それはそうだろう。綜現にとって、殷雷やあなたは追手なのだ。
一時的に手を組んだとて、最終的には敵対するんでしょ?」
綜現は首を横に振った。
「違う! 殷雷さんは、あんな人だけど、栄秋様を守りたいという僕の気持ちを判《わか》ってくれていたんです。
そんな殷雷さんが、大怪我《おおけが》を負って、僕が苦しまなかったとでも思うんですか!」
鞭を握る弾勁の指が、少しきつく絡まる。
「遠慮《えんりょ》はいらん。
試《ため》してみようじゃないか。
私も君の正体に興味を覚えた」
先端の千切《ちぎ》れた鞭は途端に弾勁の手元に戻り、今度は流麗の首に絡まった。反射的に流麗は鞭を外《はず》そうと手をやるが、全く緩《ゆる》まなかった。
弾勁は言う。
「正直言って、私にはたいした能力はない。
己《おのれ》の身を擦《す》り減らして、爆発を起こすか、肉体を変形出来るだけだ。
だが、必要最低限のことは出来る。
人間を吹き飛ばしたり、宝貝を破壊するぐらいの芸当は出来るんだ。今の私には充分過ぎる能力だよ」
弾勁は、流麗を破壊するつもりだ。
綜現は喉《のど》が裂けんばかりに叫ぶ。
「やめてください! 流麗さんを傷つけないで! 代わりに僕がどうなってもいいから!
お願いです!」
綜現の瞳が、無様《ぶざま》な哀願の瞳だったならば、弾勁の深く暗い復讐心は満足したかもしれない。
だが、綜現の目には、いまだ光があった。どこまでも澄《す》んだ瞳の光だ。復讐の喜びに浸《ひた》っている弾勁の魂《たましい》すら、強く揺すぶる不思議《ふしぎ》な瞳だ。
揺すぶられた弾勁の魂は、綜現の瞳を憎《にく》んだ。闇《やみ》の安らぎに生きるコウモリが、陽の光を憎むのと同じだった。
弾勁は怒り、静かに言った。
「そうか。自分の身がどうなってもいいのか?
ならば、貴様《きさま》の瞳、潰《つぶ》させてもらおう」
流麗の首に巻きついていた鞭が外れ、蛇《へび》のようにしなり綜現の顔に巻きつく。
鞭はギリギリと、目隠《めかく》しのように少年の顔にまとわりつく。
「綜現!」
流麗の叫びは、弾勁を止められなかった。
鞭は爆発した。
綜現はのけ反《ぞ》り、瞳から血が吹き出した。柔《やわ》らかな風に、赤い血の臭《にお》いが混ざった。
「どうして、こんな、酷《ひど》いことを……」
和穂《かずほ》の耳には、流麗《りゅうれい》の泣き声が聞こえていた。
流麗は綜現《そうげん》を膝《ひざ》に抱《かか》え、必死に揺さぶっている。
和穂の体の中をやり場のない怒りが駆け巡る。
弾勁《だんけい》は言った。
「綜現君は死んではいない」
「苦痛の悲鳴を上げさせたいのね」
「だいぶ、判《わか》ってきたようだな」
流麗の泣き声に混《ま》じり、綜現の声が聞こえた。痛みよりも、何も見えないことへの驚《おどろ》きの声だった。
和穂は、自分の息が深く、大きくなるのを感じた。
心が張り裂けそうだった。
「悔《くや》しそうだな、和穂さん」
「悔しいわよ。
どうせ、その体は見せ掛けだけで、肝心《かんじん》な焦魂矢《しょうこんし》は、大きな影の中に潜《ひそ》ませているんでしょ?」
「ほお。さすがに、回収作業を続けていると、読みが鋭くなるようだな」
殷雷《いんらい》や綜現をボロボロにされ、それでもなす術《すべ》がないのだ。
相手の正体や、能力も判明している。
それなのに打つ手がないのだ。
「悔しいよ。判っているけど、どうしようもない」
「じきに楽になる。
今までに色々と強大な宝貝《ぱおぺい》をどうにかしのいで、回収を続けてきて、私程度の宝貝に屈《くっ》するとはな。
あなたの苦しむ姿を見ると、私の心も痛むよ。
だから、すぐに殺してやろう。
あなたには恨《うら》みはない。
痛みを感じる前に、死んでくれ」
弾勁の鞭《むち》が、和穂の首に絡《から》みついた。
鞭から逃《のが》れようと、もがく和穂に弾勁は言った。
「まだ、あきらめないか?」
「あきらめて倒されたら、殷雷に合わせる顔がない」
和穂の力では、鞭は外《はず》れなかった。
目の底に焼けつくような痛みがあった。
光のない暗闇《くらやみ》で、痛みだけが綜現の神経を襲った。
痛みはじきに、熱っぽさに変わったが、光は途絶《とだ》えたままだった。
「み、見えない! 何も見えない! 闇だ、暗闇だ」
綜現の叫びに、流麗は涙を流すばかりだった。
「……こんなことになるのなら、殷雷なんか助けるんじゃなかった! 髪《かみ》さえあれば」
「く、暗い。流麗さん、どこにいるの?」
流麗は綜現の手を握る。
「どうして、どうしてこんなに暗いの?
どうして? どうして?」
流麗は、少しでも綜現を安心させてやりたかった。痛々しく、焼けて爛《ただ》れた瞳を癒《いや》す術《すべ》は、今の自分にはない。
「……大丈夫《だいじょうぶ》よ。私はここにいる。
どんな暗闇でも、私がついていてあげる。だから安心して、怖くはないのよ」
綜現は、流麗の手を離した。
「怖くはない。全然怖くはないんだ、流麗さん。
怖くはないけど、暗闇に腹が立つんだ」
奇妙《きみょう》な言葉だった。
綜現の声は確かに驚いていた。驚きが恐怖に変わるかと思われたが、意外にも綜現の言葉は、逆にしっかりとしていった。
「暗闇が僕の心を揺さぶるんだ。
……判るような気がする。
だんだん、判ってきた」
「……綜現?」
綜現は立ち上がり自分の顔に手を添《そ》えた。
「わ、酷いな。火傷《やけど》になってるし、血も出てるじゃないか」
ボンと手を叩き、綜現は懐《ふところ》に手を入れて、塁摩《るいま》にもらった手拭《てぬぐ》いを取り出す。
そして、血を拭い、目隠しのように頭に巻き付けた。少し長めの手拭いだったので、子馬の尻尾《しっぽ》のように背中に垂《た》れる。
「これでよし。
やっぱり塁摩は凄《すご》いや。
こうなることを予測して、この手拭いをくれたんだ。さすがに兵器の宝貝だな。
僕なんかとは格が違うや」
流麗は虚《きょ》を突かれ、ポカンと口を開けたまま綜現を見上げた。
綜現は、流麗の顔の涙を指で拭った。
「ごめんね、流麗さん。
心配かけちゃって」
「……見えているの?」
綜現の全身が、ほのかに光を放っている。
温かく柔らかいが、太陽とは別の光だ。
「僕の光が届いてる場所は、見えるよ」
「……思い出したの?」
綜現はニッコリと微笑《ほほえ》む。
和穂と弾勁も、綜現の異変に気がついた。
弾勁を指差し、綜現は言った。
「和穂さんから手を離した方がいいと思う。鞭だか手だかよく、判らないけどね。
椅子《いす》に座《すわ》っている余裕《よゆう》なんか、ないはずだよ。
おっと、和穂さんを爆破しようとしても、無駄だからね」
しばし思案し、弾勁は和穂に巻きつく鞭を解いた。
黒い椅子は弾勁が立ち上がると、途端に影の中に沈《しず》んでいった。
綜現は、ゆっくりと和穂の側《そば》まで歩く。
弾勁は、手の中の鞭を、黒く巨大な剣に変えた。
「目を潰《つぶ》してやったつもりだが、少し爆発量が少なかったか。
殺しては面白《おもしろ》くないんで、加減をしたのが失敗したか?」
「酷いことをするね。
目は潰れたよ。もしも、治るとしても長い時間がかかると思う。
でも、僕から光を奪うことは出来ないよ」
綜現の言葉に、いつもの明るさがあった。だが、今までとは違い、明るさの裏には根拠があるように和穂には思えた。
綜現は言った。
「もう、やめようよ弾勁。
弾勁がそんなに恨《うら》んでいるんだから、栄秋様にもそれだけの落ち度はあると思う。
栄秋様も反省してる……はずだから、もうやめよう。
その力があれば、牢《ろう》の中の弾勁を救えるでしょう?
それで、もう、復讐《ふくしゅう》だとかそういうのはやめようよ」
弾勁は剣を構えた。
綜現の正体は何だ? 鞭では防御《ぼうぎょ》が心許《こころもと》ないので、剣を握っているが、もしかしたら鎧《よろい》を作った方がいいのだろうか。
「綜現君。いや、綜現よ。えらい自信じゃないか。
まるで、見逃《みのが》してやるから、さっさと逃げろと、言ってるように聞こえるが?」
目を隠していても、綜現の表情はとても豊かだった。綜現は、弾勁の言葉を謙虚《けんきょ》に否定した。
「そうじゃない。お互いに傷つけ合うのは、やめようよ」
「まさか、貴様《きさま》も武器や兵器の類《たぐい》の宝貝なのか?」
「違うよ。ただの日用品さ」
「ならば、なめられたものだ」
「そっちが甘くみているのさ」
「結局、お前は何の宝貝なのだ!」
手拭いが少しずれたので、綜現はしっかりと結び直しつつ言った。
「じゃ、教えてあげよう。
僕の正体は、燭台《しょくだい》の宝貝だよ。
和穂さん、台は台でもやっぱり踏み台じゃなかったよ」
無邪気《むじゃき》に綜現は笑ったが、和穂は笑うどころではなかった。
綜現の正体が判ったのは嬉《うれ》しいが、燭台の宝貝に何が出来るのだろう?
燭台。蝋燭《ろうそく》立てだ。
宝貝なのだから、蝋燭を含めた照明器具といったところだろう。
和穂は言った。
「しょ、燭台? あ、もしかして炎《ほのお》を操《あやつ》る能力があるの?」
綜現は、ニコニコしていた。
「まさか。宝貝の燭台ですよ。炎なんか使わなくても、明かりはつきます。
僕は純粋に明かりの宝貝なんです」
弾勁は怒る。
「ほう。燭台か? 妙《みょう》に自信のある素振《そぶ》りだったので警戒したが、開き直りのハッタリのようだな。
たかが、蝋燭立てに何が出来る!」
弾勁の怒りも、もっともだと、綜現は考えた。
「はい。普通はそう思うでしょうね。普通はそのとおりでしょう。
でも、あの龍華《りゅうか》仙人が造ったんですよ」
綜現を叩き斬《き》ろうと、弾勁は剣を頭上高く掲《かか》げた。
綜現は、深く溜《た》め息をつく。
「話し合いじゃ判ってもらえませんか。
では、行きますよ」
「燭台に何が出来る!」
瞬間、綜現の体を包む光が、不自然に瞬《またた》いた。
次の瞬間には、弾勁を囲むように無数の綜現が出現した。
戦いを始めようと、恐る恐る構える綜現。
和穂に教えてもらった、炎応三手《えんおうさんしゅ》の構えを使おうとするが、構えを忘れてしまい困った表情の綜現。
塁摩の手拭いがまたしてもずれ、慌《あわ》てて結び直す綜現。
綜現と綜現に押されて、もがく綜現。綜現綜現。綜現。綜現。
弾勁の影から反射的に、無数の長い棘《とげ》が生えた。
突き出た無数の棘は、無数の綜現を刺し貫《つらぬ》き、爆発した。
今までの中で一番規模の大きい爆発に、幾つかの蔵は、横木を崩すように簡単に倒壊した。
爆発の煙が消え去った時、弾勁の影は一回りばかり小さくなっていた。
爆風に吹っ飛びそうになりながら、和穂は綜現が無事かどうか心配する。
「綜現君!」
答えは、すぐ側《そば》から返った。
綜現が立っている場所は、さっきと全然変わっていない。
「僕は、大丈夫です。それよりも和穂さんに怪我《けが》は?」
砂煙で、少しばかりむせながらも、和穂は無事を告げる。
「私は大丈夫! 今の沢山《たくさん》の綜現君は?」
「あれは、ただのまやかしです。
幻術ですよ」
爆発の主は、己《おのれ》の小さくなった影を見詰めて、怒り狂っていた。幻影に引っ掛かり、己の肉体を無駄に使ってしまったのだ。
弾勁の屈強《くっきょう》なる復讐心は、逆上しかけた精神をすぐに落ち着かせた。
「ほお、燭台の宝貝、明かりの宝貝、つまり光を操《あやつ》る能力があるのか?」
和穂の肩に手を置き、綜現は説明した。
「そう。僕は光を操れる」
和穂の理解を少し超えていた。
「光? 幻術?」
「人は、光の跳《は》ね返りを利用して物を見ているんですよ。
鏡に姿が映るのは、鏡が綺麗《きれい》に光を反射しているからです。
僕は光を操れる。
弾勁が見る光を操れば、幻影以外にもこんなことが」
和穂の姿が、弾勁の視界から消えた。
綜現は続けた。
「和穂さんの姿の代わりに、背後の景色を直接弾勁に送れば、もう和穂さんの姿は奴には見えない」
綜現は弾勁に向き直った。
目隠しをした燭台の宝貝は、周囲を雲海に変える。
「仙界から、人間界に逃げたときにこの雲海を見たんだ。とても綺麗《きれい》だった」
弾勁は雲の上を歩き、綜現に迫る。
「素晴《すば》らしいな。
さすがは龍華《りゅうか》だ。ただの燭台にこれだけの能力を与えるとは、利口《りこう》なのか馬鹿なのか判断に苦しむ。
だが、綜現。
こんな幻術でいい気になっているのか?
この弾勁、核は焦魂矢《しょうこんし》なのだ。
武器の宝貝に気配《けはい》を探《さぐ》る能力が無いとでも考えたか!
そこにあるのが、ただの光なのか、実際に存在する物なのか、判らないとでも考えたのか?
幻術ごときが、二度と通用するか!」
影の中から二匹の黒い龍が浮かび上がり、雲海の中を弾勁にまとわりつくように泳いでいく。
綜現は、雲海を消し、和穂の姿も再び現れた。
同時に、弾勁が作り上げた龍も、影の中に沈んでいった。
「お前に出来るのはただのまやかし、俺は贋物《にせもの》とはいえ実体のある物を作れる」
剣を片手に、近づく弾勁から、綜現は一歩も引かなかった。
それどころか、和穂を庇《かば》うように彼女の前に歩み出た。
「弾勁。奇妙な縁を感じるよ。
僕とあなたは、色々な部分が対照的だと思います。
あなたは、影を操り、僕は光を操る。あなたの作る物には実体があり、僕のは幻術に過ぎない。
でも、僕には、焦魂矢の気持ちが判るんです。
焦魂矢がしていることも、僕がしていることも使用者のためを思ってのことでしょ。
そんな、焦魂矢とは戦いたくない」
弾勁は、間合いに入った綜現に、ためらいなく剣を振り落とした。
「!」
とっさに、和穂は綜現に体当たりし、二人は地面を転がる。
外《はず》れた剣は、地面を叩き、再び爆発が起きる。
剣は酷《ひど》い刃こぼれを起こしボロボロになったが、傷口から血が染《し》み出るように、すぐに元の形を取った。
綜現は、和穂に注意した。
「和穂さん。余計なことはしないでください」
「でも、今のままじゃ綜現君が!」
「大丈夫。少しは僕を信じてください」
「でも、幻術だけじゃ!」
和穂は、今までの無力な綜現しか知らないのだ。心配して当たり前だろう。
「和穂さん。幻術だけだなんて、僕は言いましたか?
僕は光を操るんですよ」
「光を操るくらいじゃ、目くらましぐらいしか無理でしょ!」
「そうか、目くらましも出来るね。でも、もっと凄いことが出来るんですよ。
いかにも龍華仙人らしい芸当が」
「師匠らしい?」
「多分、僕を造るとき、龍華仙人はこの芸当を使えるようにして、大笑いしたと思います。
今、この芸当に感謝していますよ」
弾勁は、再び綜現に向き直った。
綜現の体を包む光が、ゆっくりと左手に集中していく。
集中した光はさらに大きくなり、目もくらむばかりに明るさをました。
綜現は、左手を弾勁に向けた。
「和穂さん。光は束《たば》ねられるんですよ」
「あ、虫眼鏡《むしめがね》ね?」
「えぇと、ちょっと理屈《りくつ》は違うんですけど、似たようなものです。
光を束ねて、撃《う》つと……」
綜現の左手の光が炸裂《さくれつ》した。
恐ろしく静かに、光の柱は綜現の手から打ち出される。
光の激流が、この世のどんな物よりも速く弾勁を捉《とら》えた。
「ば、馬鹿な! 光だけで、光だけでこれだけの……」
真っ白な激流に巻き込まれ、光の中に存在した弾勁や蔵は爆発しながら吹き飛んだ。
爆発が起きて初めて、爆音がまき起こったのだ。
光によって破壊された物の、崩壊《ほうかい》していく悲鳴のような爆音。
光の中の蔵は崩れさり、もう少しで屋敷の向こう側の外壁まで吹き飛ばすところだった。
光が消えた跡には、抉《えぐ》られた大地がプスプスと煙を上げている。
綜現の視界には弾勁の姿は見えなかった。
弾勁を、いや、同じ宝貝である焦魂矢を葬《ほうむ》り去ったことで、心が痛む。
だが、栄秋を守ったのだ。
綜現は大喜びで、腰を抜かさんばかりに驚いている栄秋の側《そば》に駆け寄る。
「栄秋様、やりましたよ!
栄秋様の命を守りました。
この僕がですよ」
諸手《もろて》を上げて、栄秋が綜現を褒《ほ》めるとは、当の本人も考えていない。
それでも、一言ぐらい『よくやった』と褒めて欲しかった。
栄秋の拳《こぶし》が、自信に満ち溢《あふ》れた綜現の顔面に炸裂した。
「馬鹿野郎! 蔵を壊しやがったな! この役立たずが!」
ここまでやっても、褒められなかったのだ。綜現は腰が砕けそうになった。
涙が乾いたのを確かめて、流麗は言った。
「……認めてあげなよ。綜現はあんたを守った。蔵は無事で、あんただけが死んでしまう確率の方が高かったんだよ」
「け。あれだけへまして、一回ぐらい役に立ったからって褒めてどうする!」
栄秋らしい言い方だったが、ともかく役に立ったと認めて貰えたのだ。
もしも、目に怪我をしていなければ、綜現は涙を流して喜んだだろう。
流麗は、和穂に歩み寄り、言った。
弾勁を始末した今、一番|厄介《やっかい》なのはこの老婆だった。
「……さっさと私たちを回収した方がいい。
栄秋が、妙《みょう》な気を起こす前にね」
その時、子供の声がした。
塁摩の声ではない。
綜現の声でもない。
だが、どこかで、聞いた覚えのある声だった。
「まだ、終わりではない」
子供は宙に浮かんでいた。
綜現と同じぐらいの年頃で、背丈もたいして変わっていない。
髪型と服装で、その場にいた全員が子供の正体を知った。
弾勁だ。幼《おさな》い弾勁が宙に浮かんでいる。
「驚く程のことか。右でも左でも、土の下でもない。
必死になって上に逃げたんだよ。
核は矢なんだから、空ぐらい飛べるさ。
魂《たましい》のほとんどを吹き飛ばしてくれたが、全《すべ》てを吹き飛ばしたわけではない」
綜現の両手が素早《すばや》く光った。
「しつこいな」
先刻程、太くはないが、幾つもの光柱が弾勁に向かい放たれる。
弾勁は、軽々と光の攻撃をかわす。
綜現の息が荒くなり、その顔に疲労が浮かんでいく。
弾勁は言った。
「綜現。お前を甘く見ていたのは謝《あやま》ろう。お前の破壊力を完全に読み誤《あやま》った。
だが、幾ら燭台としては馬鹿馬鹿しい程の破壊力を持とうが、お前は武器の宝貝とは違う。
戦い方が、甘過ぎる。
幻術と同じように、もう光柱も通用しないぞ。
光の集中や、撃ち出す瞬間の体の予備動作は全て、分析した。
お前は俺に勝てる、唯一《ゆいいつ》の機会を見逃《みのが》したんだよ」
綜現の顔が青ざめ、少し遠くにいる流麗に向かい叫ぶ。
「ど、どうしよう流麗さん!」
「……良かった。
やっぱし、少しぐらい頼りない方が、綜現らしくていいわ」
流麗の横の和穂は言った。
「あの、頼られるのは嫌《いや》だって、言ってませんでしたか?」
「……そうよ。頼られるのは嫌だけど、頼りない方がいいの。お判り?」
「えぇと、ちょっと判らないです」
羽毛が落ちるように、ユラリと弾勁は地面に降り立つ。
綜現は、数を撃てば、少しは当たるだろうと、再び光の乱射を始めるが、いたずらに蔵や壁を破壊するだけだった。
栄秋は、力任せに綜現の後頭部を殴《なぐ》った。
「やめんか! 私を破産させるつもりか!」
「でも、このままじゃ、弾勁が!」
脅威《きょうい》ではなくなったと判断し、弾勁は綜現を無視して、栄秋に言った。
「では、そろそろ死んでもらうぞ、栄秋」
「そ、綜現、どうにかしろ!」
綜現の背中を脂汗《あぶらあせ》が流れた。光の乱射で自分の体力がだいぶ落ちている。
もはや、簡単には弾勁には攻撃が当たらないだろう。
では、どうすればいいのか。
綜現は、和穂が言った、目くらましについて考えた。
目くらましとはいえ、ただの光ではなく軽い爆発も同時に起こせる。
爆風というには少し小さいが、風も起こせるはずだ。
この風のおかげで、いかに武器の宝貝とはいえ短時間の間は、気配が探《さぐ》れなくなるだろう。
でも、本当に短い時間だ。
目くらましが終わった後には、すぐに気配を察知《さっち》される。
その短い間に、弾勁の側《そば》に近寄り、攻撃を仕掛けようか?
駄目だ。
離れているから、どうにか気配を消せるのだ。近寄れば、確実に感づかれる。
どうする!
栄秋と綜現がいる場所と、流麗と和穂がいる場所はざっと四十|肘《ちゅう》(約二十四メートル)は離れている。
弾勁が着地したのは、綜現たちのすぐ側だ、十肘(約六メートル)も離れてはいなかった。
和穂はどうにかしようと流麗に相談した。
「流麗さん、どうしましょう!」
「……いいのよ。ほうっておきましょう」
「でも!」
「……弾勁もあんなに小さくなって、せいぜい栄秋を吹き飛ばすのが、限度でしょ。
爆発に巻き込まれても、綜現は助かるでしょうよ。宝貝の原形に戻れば、かなり頑丈《がんじょう》だからね」
「そんなこと言ってる場合じゃ!」
綜現は、遠くの和穂に言った。
「和穂さん。色々とありがとう。さっきのやつをやってみます」
「さっきの、って!」
問い掛けに答える前に、綜現の光が炸裂した。標的を定めず、自分を中心とした光の爆発だった。少し強めの木枯らし程度の風が周囲に吹いた。
強烈な光に、目が少し痛んだが、じきに視力は回復した。
そして和穂は見た。
目くらましの間に逃げようとしたのか、栄秋と綜現はさらに遠くへ逃げていた。
蔵の残骸《ざんがい》を乗り越え、栄秋はかなりの距離を逃げていたが、綜現はそれほど距離を稼げなかったようだ。
弾勁は冷静に言った。
「幻術だと、たまらんのでな」
弾勁は意識を集中した。視覚には頼らずに完全に気配を読む。
目が見た場所に、確かに気配はある。
ちゃんと息をしているし、生物独特の温度も感じ取れた。
豪角《ごうかく》のときのように、流麗が糸で操《あやつ》り、生きているように見せ掛けているのではない。
流麗と綜現、栄秋の間に糸はない。
さらに、崩れた蔵で半《なか》ば廃嘘《はいきょ》と化した、庭の気配を探る。
亀裂《きれつ》の一部を幻術で誤魔化《ごまか》し、落とし込もうとしている様子もない。
「所詮《しょせん》は悪《わる》足掻《あが》きか」
弾勁は、栄秋を目掛けて駆けた。
速度が上がるにつれ、逆に弾勁の足の動きは遅くなる。
地面を滑《すべ》る姿を思わせながら、弾勁の体は宙に浮かんでいく。
宙を走る、少年弾勁の輪郭がだんだんとぼやけ、黒い炎《ほのお》に変わっていく。
紙の人形が焼かれ炎に変わるように、もはや、それが人であった名残《なごり》は、完全に消えていた。
黒い、黒い炎をまとった矢は、一直線に栄秋を目掛け、飛んだ。
和穂は、腰の殷雷刀に目をやる。
駄目だ。鞘《さや》から抜けば、殷雷刀は折れるかもしれない。それ以前に、この状況ではいかに殷雷とて、あの矢は落とせない。矢に追い着く前に、栄秋に命中するだろう。
矢は飛んだ。
弾勁の思いの全《すべ》てを乗せ、矢は飛んだ。
和穂と流麗には何も出来ない。綜現は光柱を撃ち出そうとしているが、躊躇《ちゅうちょ》している。
栄秋を巻き込むのが怖いのだろう。
黒い炎をまとった、恨みの矢はついに栄秋に命中しようとした。
点破弓《てんぱきゅう》から放たれて、幾日が過ぎたのだろうか。矢は、ついに標的に命中しようとしていた。
黒い炎がさらに強くなる。
間近に迫る矢に、栄秋は咄嗟《とっさ》に両手で顔を防いだ。
眩《まぶ》しい光から目を庇《かば》う姿に似ている。
焦魂矢が栄秋に到達しようとしたそのとき、
栄秋の掌《てのひら》が光った。
老婆の手は、綜現と同じ光を発した。
「?」
何が起きた? 何が起きたのだ?
武器の宝貝、焦魂矢はもう一度あり得る可能性を、刹那《せつな》の瞬間に全て分析し直した。
流麗の仕業《しわざ》か? 違う!
栄秋の仕業か? 違う!
和穂か? 殷雷か? 違う! 違う!
奴か? 奴だ!
矢は全てを理解した。
だが、もう、突撃を止められない。
栄秋の輪郭が、湯気《ゆげ》のように揺らめき、綜現の顔になる。
栄秋に綜現を、綜現に栄秋の幻《まぼろし》を被《かぶ》せていたのだ。
避けられない!
光柱が放たれた。
綜現の光が、黒い炎を全て吹き飛ばした。
光は、殷雷がいつも酒をかっくらって眠っていた椅子を吹き飛ばし、壁を吹き飛ばしていった。
壁の外側を歩いていた、ウツボの干物を配達に来た魚屋の子供も吹き飛ばしたが、子供には怪我《けが》はなかった。
ゴウゴウと音を立てる爆発の後には、全てが終わった静寂《せいじゃく》が訪《おとず》れた。
地面には焦魂矢が落ちていた。
綜現は、地面に落ちた焦魂矢を見た。
矢の先端は真っ二つに割れていた。
綜現は、腹の中の空気を全て吐き出し、安堵《あんど》の溜《た》め息をついた。
「終わった……」
[#改ページ]
終 章
「泣いてんじゃねえや、和穂《かずほ》」
壊《こわ》れた蔵の壁《かべ》が作る影《かげ》の中に、殷雷《いんらい》は半透明の姿を現した。
殷雷の言いぐさに、和穂は怒った。
「なによ! どれだけ心配したと思うの!」
「怒られる筋合いもないぞ。とっくに意識は戻ってたが、日の下じゃ見えもしなけりゃ、ドカンドカンと爆発ばかりしてやがったから声も届きゃしない」
流麗《りゅうれい》は自分の耳に手を当て、鈴虫の音を聞くように殷雷に耳を向けた。
「……殷雷。命の恩人《おんじん》に向かってお礼がまだよ」
「黙《だま》れ! 塁摩《るいま》を止めた俺《おれ》こそが、お前らにとっての恩人だろうが」
「……ふん。子供だからって、塁摩に手加減したんでしょ? 本当に甘《あま》い宝貝《ぱおぺい》だこと」
栄秋《えいしゅう》は、廃櫨《はいきょ》と化した屋敷を見ながら茫然《ぼうぜん》としていた。屋敷の周りには、大勢の野次馬《やじうま》がいたが、栄秋の屋敷に勝手に踏《ふ》み入る度胸《どきょう》のある者はいなかった。
殷雷は、綜現《そうげん》を手招《てまね》きした。
「綜現。よくやった。戦術としては、何度か間違いを犯《おか》したが、ともかく焦魂矢《しょうこんし》を倒したから、よしとしてやろう。
燭台《しょくだい》にしちゃ上出来だ。
燭台か。どうでもいいが、龍華《りゅうか》は発想の豊富さと、発想の無茶苦茶《むちゃくちゃ》さを取り違えてないか?」
和穂が言い返す。
「師匠《ししょう》の悪口は言わないでよ」
「和穂よ。良識あるまっとうな仙人《せんにん》が、燭台の宝貝にこれだけの破壊能力をつけるか?」
周囲の廃嘘を見回して、和穂は答えに詰まった。
「まあ、ちょっとはそう思う」
栄秋が怒鳴《どな》った。
「お前ら! この屋敷をどうしてくれる!
出荷前の反物《たんもの》も計算したら、莫大《ばくだい》な損失だぞ!」
流麗は冷たく言い返す。
「……自分の命の値段だと割り切るのね。知ってるわよ。これぐらいの被害《ひがい》じゃ、あんたの資産は、ビクともしないはずよ。
これでやっと、あんたとおさらば出来るのね、せいせいする」
屋敷以上に、栄秋は、流麗と綜現を連れていかれるのを恐れていた。これだけの芸当が出来るのだ、使い道は幾《いく》らでもある。
流麗に言っても仕方ない、綜現に食らいつく。
「なあ、綜現や。この私を置いて、行ってしまうのか?」
「はい。色々と御世話になりました。お体に気をつけて、御自愛ください」
栄秋はよく聞こえるように、舌打ちした。
殷雷は静かに、言った。
「綜現よ。今のお前ならば和穂を殺して逃走することなんか、造作《ぞうさ》ない。
おとなしく捕《つか》まる道理はないぜ」
綜現は、首を横に振った。つられて目を隠す手拭《てぬぐ》いも揺れる。
「いえ。約束でしたから。
栄秋様の役に立てて、悔《く》いはありません。
僕はいいですけど、流麗さんは……」
「……前にも言ったでしょ。私は綜現の行くところについて行く」
和穂は綜現の目を心配した。
「綜現君。目の怪我《けが》は大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
心配させまいと、元気な声が戻る。
「変な話ですけど、僕にとっては目は重要な場所じゃないんです。目を使わなくても物が見えますからね。でも、治《なお》ります」
流麗が言った。
「……武器の宝貝と違って、私たちは繊細《せんさい》なんだからね。殷雷の怪我の方が、早く治るはずよ」
言いにくそうに、綜現は口を開く。
「あの、殷雷さん。よかったら、殷雷さんの怪我が治るまで、僕たちも和穂さんと旅をしていいですか?
護衛なんて務《つと》まるかどうか判《わか》らないけど、和穂さんの役に立ちたいんです。
和穂さんは僕を、色々と心配してくれたから」
殷雷は唇《くちびる》の端を少し吊《つ》り上げた。
「ほおう。お前が和穂の護衛を、だと?」
間髪《かんぱつ》入れずに、流麗は言った。
「……あら、殷雷ったら、また妬《や》いてるの?
自分より綜現の方が護衛に向いていたら、あなた用なしだものね」
「うるせい。ならば護衛が務まるかどうか、やってみな!」
「……とかいう私も、綜現の和穂に対する態度に、殷雷のように嫉妬《しっと》を覚えるわ」
「誰《だれ》が嫉妬だ、馬鹿者」
綜現は言った。
「やめてよ、流麗さん、そういう言い方は。ね、和穂さんも構わないでしょ?」
「うん。話し相手はいた方が楽しいからね。殷雷もこんなんじゃ、話し相手どころじゃないと思うし」
「こんなんじゃ、ってなんだ。こんなんじゃって」
「治療に集中して、早く元気になって欲しいのよ」
「け。言われずとも、さっさと治してやるわい」
そして、そろそろ別れのときが来た。
綜現は栄秋に向き直り、ペコリと頭を下げた。
「栄秋様。それでは」
野良犬を追っ払うように、栄秋は手を振った。
「とっとと、消えちまいな。お前らはただの疫病神《やくびょうがみ》だったよ。
いなくなった方が、せいせいするわい」
そして、和穂たちは野次馬《やじうま》を押し退《の》け、栄秋の屋敷を後にした。
何度も何度も、綜現は振り返ったが、栄秋は綜現たちを見送るつもりは、ないようだった。
街を歩きながら、綜現は言った。
「栄秋様、さみしくならないかな?」
流麗は笑った。
「……面白《おもしろ》い冗談《じょうだん》だわ」
和穂たちが立ち去り、栄秋は一人で屋敷の中にたたずんでいた。
もとより、周囲の野次馬など、眼中にない。
役人がやって来て、事情を聞こうとしたが自分の屋敷で何をやろうが勝手だと、追い返す。
しばし、思案した後、栄秋は出掛ける用意をした。
栄秋が近寄ると、野次馬たちは逃げるように道を開ける。
屋敷の中には、まだ幾らかの反物《たんもの》が無傷で残っているだろう。
だが、その反物を盗《ぬす》もうという、命知らずはいなかった。
「ああ、これは栄秋さん。また、面会ですか?」
八の字の眉毛《まゆげ》をした衛士の言葉に、栄秋は黙《だま》ってうなずく。
役人が面会の手続きをしている間、栄秋はたった三回ばかり、早くしろと怒鳴《どな》った。
手続きが済み、栄秋は再び弾勁《だんけい》と面会した。
ほんの数刻前にあったばかりなのだが、弾勁の態度は一変していた。
栄秋の姿を見ると、飛び掛からんばかりに鉄格子《てつごうし》に体当たりをする。
それが無駄《むだ》だと判《わか》り、弾勁は鉄格子を力の限りに握った。強い力に、爪《つめ》が割れている。
「栄秋! 貴様《きさま》を殺しそこねた! おのれ、おのれ!」
鼻で笑い、栄秋は懐《ふところ》から煙管《キセル》を取り出し、煙草《たばこ》の葉を詰める。
部屋の中にあった燭台から、煙管に火を点《とも》した。
そして、弾勁と向かい合い椅子《いす》に座《すわ》り、ゆっくりと煙管から煙をすった。
そして、話し始めた。
栄秋は、弾勁の正体を思い出したのだ。
「お前の母親が生まれたとき、私は嬉《うれ》しかったよ。
旦那《だんな》の忘れ形見《がたみ》ってやつだ。
生きるあてもなかったから、堕《お》ろしてやろうかと考えたが、どんな面《つら》か見てやりたかった。
今堕ろしても、生まれてから私と一緒に野垂《のた》れ死んでも、それほど変わりはないと思ったんだ。
で、あいつが生まれた。
馬鹿な話だよ全く。あいつが生まれて、あいつが私の全《すべ》てになった。
なんてことはない、この栄秋も他の母親と変わりはしなかったんだ。
あいつのために一心不乱だ。あいつのためにはどんな危《あぶ》ない橋も渡ったし、商売|仇《がたき》を潰《つぶ》すことに加減もしなかった。
あいつは、私の全てだったんだよ。
だから、あいつが私を裏切ったとき、許せなかった。
どこのどいつだか判《わか》らん男と、金を盗んで駆け落ちだ。
お前なら判るだろ?
赤の他人を恨《うら》むより、肉親を恨む方が、遥《はる》かにたやすいんだよ。
他人ならば、その存在を無視出来ても、肉親ではそうもいかん。
恨みを糧《かて》にして、私はさらに商売に励んだね。
そして、何年かたったあの日、あいつが戻ってきた。
痩《や》せこけた面《つら》をして、痩せこけた娘《むすめ》と息子《むすこ》を連れてだ。
あのときのガキの一人がお前だったとは、さっきまで気がつかなんだ。
綜現に吹っ飛ばされ、ガキの姿になっただろ? あれを見るまで、コロリと忘れていたんだ。
で、あいつたちを、私は追っ払ったんだがその後どうなった?」
弾勁は怒りで歯を食い縛《しば》り、歯の付け根から血が滴《したた》った。
「死んだ。母さんも姉さんも死んだ。全てはお前のせいだ! あのとき、どうして母さんを許してやらなかった!」
ベラベラ喋《しゃべ》ってしまい、ほとんど吸わない内に、煙草の葉は灰になっていた。
椅子の角で、煙管を叩き、灰を捨て、栄秋は言った。
「そうか、死んだか。正直言って、ざまあみろって気分だな」
「殺す、殺す、貴様《きさま》を殺す!」
「ふん。
あいつは、私の全てだと言っただろ。
あいつは私の魂《たましい》を全て持っていってしまったんだよ。情だとか、そういう物も全部だ。
それにしても、だらしない話だ。
私の娘ともあろう者が、子供をあんなに痩せさせるとはな。
それに比《くら》べて、弾勁よ。
お前は何と私に似ていることか。性格が似すぎていて、ムカつくぐらいだ」
「殺してやるぞ、必ずだ!」
「だったら、早くするんだな。
もう、大分|歳《とし》を食った。十年も二十年も生きられるとは思えん。
もっとも、お前ごときに殺されるつもりはない。お前の目の前で天寿を全《まっと》うしてやるからな」
栄秋は立ち上がり、部屋を出ようとした。怒り狂う弾勁はうってかわって大笑いした。
「はっはっは! 知っているか栄秋! 宝貝《ぱおぺい》はそれを望む者のところに姿を現す。
必要とされる者に出会いたいという、道具の業《ごう》を奴らは背負っている!
お前を殺したいという、俺《おれ》の思いが、塁摩《るいま》や豪角《ごうかく》、焦魂矢《しょうこんし》と点破弓《てんぱきゅう》を呼び寄せたのだ。
では聞くぞ。
お前のところにどうして、流麗と綜現が姿を現した?
お前はあいつらに俺や、姉さんの姿を求めていたのだ!」
「馬鹿を言え。この栄秋が寂《さび》しがっていたとでも?」
「そうだとも、幾《いく》ら宝貝とはいえ、土壇場《どたんば》まであの綜現は役立たずだった。
普段のお前ならば、さっさと売り飛ばしていたのではないか! なぜ、ずっと手元に置いていたのだ!」
答えずに栄秋は扉《とびら》を閉めた。
廊下《ろうか》を歩きながら、栄秋は自分の肩をトントンと叩いた。
知らぬ間に歳を食ったものだ。
不思議《ふしぎ》と金儲《かねもう》けに対する情熱が、冷めていくのを感じる。
それも良かろうと、栄秋は考えた。
屋敷に戻る前に、護衛の手配をしておこうか。
金は幾らでもある。
栄秋は、弾勁がどう攻めるか予測しながら廊下を歩く。
弾勁の言葉は当たっていたのかもしれなかった。自分は特別な人間じゃないのだ。
今は、孤独を感じる暇《ひま》はなかった。
残った余生《よせい》を、孫の相手をしながら暮らすのも悪くはないだろう。
そして、数週間の時が流れた。
和穂と、綜現、流麗は街道を歩いている。
綜現の目にはまだ手拭《てぬぐ》いが巻かれていた。
身長差がかなりあるのに、流麗に腕を組まれて綜現は歩きにくくてしかたがない。
「ねえ、流麗さん。あんまりくっつかないでよ」
流麗は、微笑《ほほえ》んで答えた。
「……まあ、失礼ね。
それじゃ私が、ついぞ男にもてたことがなかったのに、やっとのことで男を見つけたもんだから、嬉《うれ》しくって嬉しくって人前だろうがなんだろうが、いちゃいちゃひっつく馬鹿な女みたいじゃない」
「誰もそこまでは言ってないよ」
「……私があなたにくっついて、いちゃいちゃしてるのはね、こうすると、和穂が顔を真っ赤にして恥《は》ずかしがるのが面白《おもしろ》いからなのよ」
和穂は、心底《しんそこ》参《まい》った声で言った。
「流麗さん、そんなに私のことが嫌《きら》いなんですか?」
慌《あわ》てて流麗は首を横に振る。
「……とんでもない。嫌いか好きかと言われれば、好きな方に入るわよ。
勘違いしてはいけない。嫌いだから、からかっているわけじゃないの。
和穂も綜現も、この気持ち判るでしょ?」
和穂と綜現は同時に首を傾《かし》げ、同じ感想を言った。
「ちょっと判りません」
和穂と綜現の息の合った態度に、流麗は少し嫉妬《しっと》を覚えた。
「……なによ、二人で声を合わせたりして、悔《くや》しいわね。ああ、メラメラと嫉妬の炎が燃え上がる!」
流麗は、ポカポカと和穂たちを殴《なぐ》った。
この数週間、いつもこの調子だった。流麗が本気でないのは、殴る仕種《しぐさ》だけで全然痛くないことから判《わか》ったが、流麗に合わせるのはなかなか神経が疲れた。
と、そのとき。
和穂の腰に差された殷雷刀が、ひとりでに抜け落ちた。
流麗の髪《かみ》による殷雷刀の封印《ふういん》は、既《すで》に外《はず》されていたが、殷雷はおとなしく治療に専念していたのだ。
抜け落ちた刀は、地面に届く前に軽い爆発を起こし、煙を巻き起こす。
晴れた煙の中から、殷雷が姿を現した。
和穂は嬉しそうに、殷雷の名を呼んだ。殷雷は面倒《めんどう》そうに、そっぽを向いた。
「うるせい。怪我が治ったぐらいで、泣いたら承知しないぞ」
「うん」
じろりと、殷雷は和穂の顔を見た。
「しばらく見ない間に、少しやつれたか? まあ、こんな女と一緒に旅をしてりゃ、疲れて当然だろうな」
流麗は心外そうに、頬《ほお》を膨《ふく》らませる。
「……御冗談でしょ。三人で和気あいあいと楽しくやってたのに。
ね?
……返事はどうしたの、二人とも」
流麗を黙らせ、殷雷は綜現を招き寄せる。
目の上には、まだ手拭いが結ばれていた。
「綜現。色々御苦労だった。まあ、封印の中でゆっくりと養生《ようじょう》してくれ」
綜現は大きな声で返事をした。
殷雷は満足そうにうなずく。和穂は、少し寂しそうな表情で、腰の断縁獄《だんえんごく》を外した。
「色々と楽しかったです。では、封印します……」
和穂の言葉を流麗がさえぎった。最近の明るい表情ではなく、和穂が初めて会ったときの少し冷たげで真面目《まじめ》な表情だった。
「……待って」
殷雷の眼光が途端に鋭くなる。
「抵抗はよせ。お前らを破壊したくはない」
綜現も流麗の言葉に驚いていた。
「どうしたんだよ、流麗さん。僕と一緒に断縁獄の中に行こうよ。別に断縁獄の中は、牢獄《ろうごく》みたいな場所じゃないんでしょ。塁摩に手拭いのお礼も言いたいし」
「……黙って。
和穂。少し私の話を聞いて。封印はそれからにしてちょうだい」
「はい」
「……私たちは仙界からの逃亡者《とうぼうしゃ》、あなたたちは仙界からの追跡者。
いつか捕《つか》まるという覚悟は出来ていた。
でもね、私には逃亡者としての誇りがあるのよ。己《おのれ》の自由を求めて逃亡して、そして捕まった。
それで終わりにしたいの」
和穂には、流麗の言葉の意味がよく判らなかった。
「どういう意味です?」
「断縁獄に封印したら、もう私たちを呼び出さないで。一所懸命に逃げたけど、捕まったら、今度は追跡者の言いなりだなんて耐えられない。
他の宝貝は知らないけど、すくなくとも私はそう。困ったからといって、私や綜現を断縁獄の中から出したりしないで」
綜現には納得《なっとく》がいかなかった。
「どうして? 流麗さん。和穂さんが困ったなら、いつでも手を貸してあげようよ。和穂さんは嫌いじゃないって、言ったじゃない」
「……和穂は嫌いじゃない。でもそれは関係ない」
「だったら、流麗さんはそうしなよ。僕は和穂さんの役に立てるなら」
「……綜現もよ」
「そんなの、勝手過ぎる」
「……お願い。たった一度でいいから、私の頼《たの》みを聞いて」
「流麗さん」
殷雷は鼻で笑い、言い放った。
「はん。お前らの力が必要になることなんか、あるもんか。
あったところでお前らの力は借りん」
何が逃亡者の誇りだ、と殷雷は思った。殷雷は流麗の気持ちを見通していた。
弾勁との戦いで、綜現が傷ついたのが余程|恐《おそ》ろしかったのだろう。もう、綜現を危険な目に遣《あ》わせたくないのだ。
宝貝との戦いに、また巻き込まれたら、今度は目の怪我だけでは、すまないかもしれない。
綜現は、少し不服だったが、でしゃばるのもよくないと考えた。殷雷がいるのなら、自分の出番はないかもしれない。
和穂も、流麗の願いを聞き入れた。和穂もまた、流麗が綜現を失うことを恐れているのだと感づいていた。
「判りました」
「……ありがとう、和穂」
そして、流麗と綜現は回収された。
今までの賑《にぎ》やかさが嘘《うそ》のように消えてしまった。
「なんだか、寂しくなっちゃった」
殷雷は口許《くちもと》を歪《ゆが》め、言った。
「……俺がいるから、寂しくはないだろ」
殷雷らしくない言いぐさに、腰を抜かさんばかりに、和穂は驚いた。
「どうしたのよ、殷雷!」
「てのが、流麗風のからかい方だな。あんまり似てなかったか?」
和穂は口に手を当て、小さく微笑《ほほえ》んだ。
[#改ページ]
あとがき
『火の鳥』
あとがきに何を書こうかと考えていると、友人Mが言ったのだ。
「奈良《なら》の天河《てんかわ》神社にゃ、鳳凰《ほうおう》が出没《しゅつぼつ》するそうな。あとがきの取材に、行ってみたらどないだ」
「……ほ、鳳凰? M先生。ノイローゼでございますか?」
「そういう噂《うわさ》があるって話だ」
「鳳凰か。ぬう」
うむ。取材旅行に行きたいと、担当のY氏に相談したとしよう。恐《おそ》らく、こういう会話になるはずだ。
「Yさん、Yさん。取材旅行に行きたいからお金ください」
「ほお。どこに、どんな取材ですか?」
「天河神社まで、鳳凰を探《さが》しに」
「……ほ、鳳凰ですか? (げ、とうとうキちまいやがったか。まあ、意外と長持ちしたな)」
「鳳凰だよ、鳳凰。とってもとっても綺麗《きれい》なんだよう。ピヨピヨ」
い、言えぬ。今までコツコツ積み上げて来た信頼が音を立てて崩《くず》れるどころか、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に粉砕《ふんさい》されちまう。
まあ、Y氏ならば冗談《じょうだん》ですませてくれるだろう。
が、万が一、何かの間違いで美しいS女史の耳にでも入れば、顔を合わせるたびに、
「あら、鳳鳳は見つかりまして? おほほほほ」
と、大笑いされるのは必至《ひっし》だ。
美しいS女史に弱みを握《にぎ》られるのだけは、避《さ》けねばならぬ。
何? 美しい美しいと書いているが、S女史のどこが一番美しいのか? とな。
今まで、あとがきで再三に亘《わた》って無礼《ぶれい》なことを書きまくっておいて、今更《いまさら》褒《ほ》めるのもちょっぴり照《て》れ臭《くさ》いが、教えてあげよう。
個人的な好みはあるだろうが、わしが、一番綺麗だと思うのは、やはり彼女の角《つの》だな。
そう、角だ。
今時、あんなに鋭《するど》い角は、赤鬼でも生《は》やしていませんぜ。
そんな理由で、鳳凰|捜索《そうさく》は中止とした。天河神社は、なかなか神秘的な場所らしいが、霊場|巡《めぐ》りは、荒俣宏|御大《おんたい》にお任《まか》せしよう。
『ビルったら、もう』
先刻の会話の続き。
「だ、駄目《だめ》だ。私にも立場がある。鳳凰の捜索は駄目なんだよう」
再びMからの、ありがたい言葉が返る。
「そうか。そういや、そろそろ退職金が払い込まれて俺《おれ》は金持ちになるのだが」
「……相変わらずアナーキーでございますなあM先生。
そういうのは、金持ちとは言わないと思います。次の職《しょく》が見つかるまでの、大切な生活費なのでは」
「やかましい。で、金持ちになったらパソコンを買おうと考えているが、貴様《きさま》も一つどうかね?」
「うおう。マルチメディアで、インターネットってやつですかい。面白《おもしろ》い。乗った」
そんな理由で、パソコンの購入が決定したのであった。
早速《さっそく》、N無線の三階でハッピを着ながらテレビを売っている、友人Oを襲撃《しゅうげき》。
泣きわめくOの首ねっこを掴《つか》みながら、五階のパソコン売り場に突撃し、友人割引きでパソコンを購入するにいたった。
で、ここでちょっといい話。普通、この手のパソコンは、量販店で買った方が安いというのが常識《じょうしき》である。ところが家電ショップの処分品(不良品に非《あら》ず。在庫の整理が絡《から》んでいるようだ)の方が安い時が結構《けっこう》ある。
暇《ひま》は有《あ》るけど金が無《な》いって時には、家電ショップを巡るのも一つの手なのだ。
さあ、いよいよパソコンが到着です。パソコン初心者の、ろくごさんは、苦労の末に起動に成功しました。
「はて? ダブルクリックとは、なんじゃらほい?」
おやおや、ろくごさん。いきなり頭を抱えて悩《なや》んでいるようです。うんぬん。
てな、具合《ぐあい》になったら、面白かったかもしれないが、生憎《あいにく》私は第二種情報処理技術資格所持者なのだ。国家資格だぞ、国家資格。(大|自慢《じまん》。でも、実生活の役に立った覚《おぼ》えがあまりない)
「あ? これだけバンドルがあって、ディスアセンブルがなし?
おいおい、ワープロをつける前に機械《マシン》語モニタぐらい入れておかぬか。ん? ニーモニック表もないぞ。アドレスマップは? レジスタ構成は? オペランドはどないするねん! きええい! 音響カブラはどこじゃ!」
おやおや、ろくごさん。このGUIの御時世に、ハンドアセンブルでもするつもりなのでしょうか?
ちと、話題がマニアックになりすぎて、興味《きょうみ》がない人にゃ面白くなくなってきたな。
結論。パソコンの一番の使用方法は、暇潰《ひまつぶ》しだと思うのだがどうか?
『弾勁《だんけい》』
折角《せっかく》、パソコンを買ったのだからインターネットでも始めようかと考えた。結構、ミーハーである。
インターネットは、まあどうでもいいとして、以前から友人にパソコン通信を勧《すす》められているので、こっちの方はぜひやってみたいのだ。
で、最近は電話回線を通じて、簡単に入会手続きやらが出来るようになっていて、驚《おどろ》いた。
しかし、そのためにはどうしてもクレジットカードが必要なのであった。
さて、困《こま》った。私はクレジットカードを持っていないのだ。作家という自由業でカードが作れるかどうか不安だったので、カード会社に問い合わせてみると、大丈夫《だいじょうぶ》という返事だ。
喜び勇《よろこいさ》んで難波《なんば》のパチンコ屋の上にある某《ぼう》カード会社で手続きをした。
数日後、カード会社から電話があった。
「まことに申《もう》し訳《わけ》ありませんが、今回の契約《けいやく》は見送りということでご了承《りょうしょう》ください」
どうやら、審査で落とされたようである。
お、お、おのれい! 作家でも構《かま》わないと言ったではないか! 駄目なら駄目と問い合わせのときに断ってくれたなら、わざわざスキップしながら、難波まで出掛《でか》けなかったぞ!
くはあ。
どうやら、私の逆鱗《げきりん》に触れてしまったようだな。かくなるうえは、然《しか》るべき報復《ほうふく》を受けてもらうしかあるまい!
壮絶《そうぜつ》なる報復案。
その一。
世界的に有名な高級ブランドを設立する。どれぐらい高級かというと、現金でその店の商品を購入しようとするなら、札束運搬《さつたばうんばん》用に軽トラが必要なぐらいだ。(ちと、横山たかし風。すまんのう、札束祭りじゃ)
当然、カードでの取り引きが基本になるのだが、くだんの某カード会社とは、契約してやんない。
その二。
芥川《あくたがわ》賞を受賞する。別に直木《なおき》賞でも、ノーベル文学賞でも構わないが。
受賞記者会見で、くだんの某カード会社の審査に落とされたことを、爆弾発言。
あぁ、我《われ》ながらなんと恐ろしい復讐《ふくしゅう》案であろうか。
へ? カードレス会員制度? 別にカードがなくても時間がかかるだけの話で、パソコン通信もインターネットも可能なのか? ならば別に復讐しなくてもいいや。命拾いしたなカード会社。
『本屋』
凄《すご》い本屋を見つけた。
ともかくでかい。でかい本屋なのだ。
広い本屋なら結構あるが、四メートル近い本棚《ほんだな》がそびえ立つ本屋はまずない。
天井《てんじょう》が異常《いじょう》に高く、どう考えても本屋向けじゃないビルの、一階から三階までを占《し》める本屋なのである。
さらに、お客様用の読書コーナーがあったりする。椅子《いす》と机《つくえ》が置いてあり、立ち読みに使っていいのだ。この椅子と机のセットが十五セットちかくある。
信じてもらえないかもしれないが、本屋の上には落語《らくご》の寄席《よせ》があり、地下にはFMの放送局があったりする。
本屋の一角には、喫茶店《きっさてん》があり文房具屋もあった。
この本屋でこのあとがきを、椅子に座《すわ》って立ち読みしている人がいたら、かなり驚くだろうな。
ではまた。
[#地付き]ろくごまるに
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》5 黒《くろ》い炎《ほのお》の挑戦者《ちょうせんしゃ》
平成9年6月25日 初版発行
平成9年9月30日 再販発行
著者――ろくごまるに