封仙娘娘追宝録4 夢をまどわす頑固者
ろくごまるに
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)程獲《ていかく》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十五|歳《さい》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#改ページ]
-------------------------------------------------------
目次
序 章『星たちの集《つど》う地へ』
第一章『程穫《ていかく》、和穂《かずほ》』
第二章『仙界《せんかい》から和穂を追って来たもの』
第三章『矛《ほこ》と楯《たて》』
終 章
あとがき
[#改ページ]
序 章『星たちの集《つど》う地へ』
漆黒《しっこく》の闇《やみ》の中、数十の星たちが光り輝《かがや》いていた。
まんべんなく、散らばっているのならば不思議でもなかったが、星たちは天の片隅《かたすみ》に寄り集まるようにして、光を放っていた。
ありえそうにない光景に、和穂《かずほ》は軽く首を傾《かし》げた。
そして、今まで閉じていたまぶたを、ゆっくりと開いた。
まぶたの裏の漆黒の闇は消え、まぶたの中で光っていた星たちは、彼女の細い指が耳飾《みみかざ》りから離《はな》れると、軽い残像を残して姿を消した。
星に代わって、和穂の目に映ったのは一人の青年だった。
和穂の向かい側に座《すわ》っている青年は、彼女の不可解な表情に気がつきもせず、夕食をとり続けていた。
「親父《おやじ》、酒の追加だ。あ? 透《す》き通ってても濁《にご》っててもどっちでもいい」
青年の名は殷雷《いんらい》という。
男にしては長い髪《かみ》を後頭部で束ねている。
体には、袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》を羽織っていたが、赤々と燃える蝋燭《ろうそく》の前では、少しばかり茶色めいて見えた。
彼の武器である棍《こん》はいざという時の為に卓に立て掛けられている。
十五|歳《さい》の和穂と比べても、身長は頭一つ高いぐらいで、歳《とし》もそれほどは離れていないように見えた。
だが、彼は、見た目どおりのものではなかった。
彼は人ではない。
「おう、来たぞ来たぞ、酒が来た。そっちの徳利《とっくり》は空だから持ってってくれ」
殷雷の正体は刀である。
人の姿をした刀は、徳利から自分の湯飲みに、とぷとぷと酒を注《つ》ぎ、目の前の魚の粗炊《あらだ》きに、再び挑《いど》みかかった。
いつもなら敵に向けられる、鷹《たか》を思わせる眼光は、今は魚の小骨に向けられている。
敵を追い詰《つ》め、刹那《せつな》の駆《か》け引きに光る目で小骨を見つめ、繊細《せんさい》な箸《はし》さばきで、薄《うす》めの醤油《しょうゆ》で煮《に》られた自身をこそぎ落とし口に運ぶ。
和穂は殷雷に言った。
「ねえ、私の事なんか気にしないで、一気に骨にむしゃぶりついたら?」
殷雷は魚に向けていた眼光を和穂に向け直す。
「魚を食うのに、なんでお前を気にしなければならん。
別に不作法だから、箸にこだわっているんじゃない。
これは、武人の意地だ」
「どういう意味よ?」
「箸も満足に使えんで、武器が扱《あつか》えるか!」
「そういうものなの?」
「……俺《おれ》が言ってるんだから、これ以上ない説得力だと思うが」
もっともだと、和穂は大きくうなずいた。彼女の柔《やわ》らかい前髪《まえがみ》が揺《ゆ》れた。
彼女の髪は殷雷ほど、長くなかった。殷雷と同じように後頭部でまとめてはいるが、ゆったりと飾《かざ》り布で結んでいる。
まだ、幼さが残る、優《やさ》しそうな黒い瞳《ひとみ》の上には、少しばかり太めの眉毛《まゆげ》がのっていた。
温和さと、意志の強さが和穂の顔の中には見てとれた。幼さが薄《うす》れるにつれ、温和さと意志の強さは、その輪郭《りんかく》をよりハッキリさせていくだろう。
和穂がまとっている、袖《そで》の大きな白い道服も、蝋燭《ろうそく》の明かりで少し赤茶けて見えた。
殷雷が、懇切丁寧《こんせつていねい》に時間をかけて、魚の粗炊《あらだ》きに挑《いど》みかかったおかげで、和穂の食事は先にすんでいた。
湯飲みの茶も飲み干し、少し手持ちぶさたになった和穂は、耳飾りに手を添《そ》えて、先刻の奇妙《きみょう》な星たちを見たのだ。
星。
星を思わせる光に違《ちが》いなかったが、あれは星ではなかった。
星は、この地上にばらまかれた宝貝《ぱおぺい》の在《あ》り処《か》を示している。
宝貝。仙人《せんにん》が己《おのれ》の技術の粋《すい》を集めて造り出した、神秘の道具を宝貝と呼ぶ。
豹《ひょう》を超《こ》える速度で大地を駆《か》けさせる靴《くつ》、天候を自在に操《あやつ》る筆、内部に莫大《ばくだい》なる空間を持つひょうたんなど、ありとあらゆる可能性を秘めた道具たちである。
無論、宝貝は人の世に存在する道具ではなかった。
本来は、その製造者たちと同じように、仙人の住む世界にしか、在ってはならない道具なのである。
だが、一人の仙人の失敗により、地上に七百二十六個の宝貝がばらまかれた。しかも、ばらまかれた宝貝には全《すべ》て、欠陥《けっかん》があった。
単純に普通《ふつう》の宝貝に比べて劣《おと》っているだけならばよかったのだが、製造者の意思に反して、危険な能力を持った宝貝が多数|含《ふく》まれていたのだ。
地上に未曾有《みぞう》の混乱が起きるのは、必至だった。しかし仙人による宝貝回収は、より大きな災厄《さいやく》を巻き起こす可能性があった。
宝貝対仙術の戦いになれば、混乱どころか人間の世界自体の、存亡に係《かか》わる恐《おそ》れがあったのだ。
この為《ため》、仙界の最高責任者たちは、人間界には一切《いっさい》干渉《かんしょう》しないと決定した。
この決定に、一人の仙人が異議を唱えた。
『仙人と宝貝の戦いで、混乱が起きるのならば、仙術を封《ふう》じ込めて人間界に降り、私が宝貝を回収します』
回収を志願したのは、宝貝をばらまいてしまった仙人だった。彼女の願いは聞き入れられた。
その仙人こそが和穂である。
仙術を封じ込められ、回収に必要な最低限の宝貝を与《あた》えられて、彼女は地上に降り立った。
和穂の左耳に着けられた耳飾りは、その必要最低限の宝貝の一つ、索具輪《さくぐりん》である。
見た目は、真珠《しんじゅ》を模した陶器《とうき》製の小さな珠《たま》にしか見えないが、地上にある全ての宝貝の在《あ》り処《か》を示す能力があった。
だが、この索具輪、時により作動不良が起きた。原因は未《いま》だ不明である。
和穂は空になった湯飲みに、土瓶《どびん》から茶を注《つ》いだ。
「ねぇ、殷雷。宝貝が何十個も一つの場所に集まってるみたいなんだけど」
精神の集中を邪魔《じゃま》され、不機嫌《ふきげん》になりながらも、殷雷は粗炊《あらだ》きから顔を上げた。
正体が刀の男。彼もまた宝貝であった。
「け。宝貞所持者が、皆《みな》仲良く集まって宴会《えんかい》でもしてるってのか?
どうせまた、索具輪がブッ壊《こわ》れてるんだろうが。しょうがねえ宝貝だな、壊れたり元に戻《もど》ったりで。
もしかしたら、倍率がイカレたか? 集まってるように見えて、反応と反応の間が何百里もあるんじゃねえか?」
殷雷の返事はのんびりとしたものだった。
何十もの宝貝が集まっているとは、普通《ふつう》には考えられない。
ならば、一番ありうるのは、いつものような索具輪の不調のはずだ。
「そうよね。正常に動いてるかどうか、少し確かめてみる」
和穂は再び、耳飾りに指を添《そ》え、意識をまぶたの裏の暗闇《くらやみ》に向ける。
途端《とたん》、和穂のまぶたの中心に、冷たい銀色をした、光の点が浮《う》かび上がった。
この中心の点は索具輪自身の反応だ。索具輪に重なるように、少し赤みを帯びた別の反応があった。
これは、和穂の腰《こし》に着けられたひょうたんの反応だ。無論、このひょうたんも宝貝である。
ひょうたんの名は断縁獄《だんえんごく》、索具輪と共に与《あた》えられた宝貝の一つだ。回収した宝貝を全《すべ》て断縁獄の中に収めた時、和穂は再び仙界《せんかい》に戻れる。
七百二十六個もの宝貝を収納出来るほど、断縁獄の内部には莫大《ばくだい》な空間が広がっていた。
断縁獄から、少し離《はな》れた場所で光っているのが殷雷刀であった。
「殷雷、ちょっと動いてみて」
湯飲みに口を付け、殷雷は怒鳴《どな》った。
「お前が動け! 俺は今、粗炊《あらだ》きを食うので忙《いそが》しいんだ!」
仕方なく和穂は、飴《あめ》色をした使い込まれた椅子《いす》から、立ち上がった。
目をつぶったままなので、転ばないように卓《たく》に手をつけたままだ。
和穂が動くと、殷雷刀の場所も微妙《びみょう》に動いた。
耳飾りに触《ふ》れる指に、少し力がこもるっ
どうやら、今の索具輪は正確に動いているようだ。
「索具輪はちゃんと動いているよ!」
殷雷は頭から疑ったままだった。
「倍率もちゃんと調べてみろ」
広い範囲《はんい》を調べたいという、和穂の意思に索具輪は反応した。
さながら、急上昇した鳥のように、闇《やみ》の中の視界は広がり、それにつれて索具輪、断縁獄、殷雷刀の反応は近寄り、一つの光の塊に変わった。
同時に、数十の光が和穂の視界の中に出現する。
新たな光に集中し、和穂の視界は急降下した。
だが、それほどの急降下は出来なかった。実際に光たちは近くに集まっているのだ。
「やっぱり、集まってる、小さな村ぐらいの広さに、二十個から三十個の宝貝が集まってる!」
ついに殷雷は、箸《はし》から手を離《はな》した。
「何だと!」
目を閉じたまま、和穂は首を縦に振《ふ》った。
「本当だよ、ここから八十里(約三百二十キロ)ばかり北西に行った場所で……あっ!」
突然《とつぜん》の出来事に、和穂は思わず大声を上げてしまった。
「どうした、和穂!」
完全な状態の索具輪は、多くの情報を与《あた》えてくれる。
普通《ふつう》の宝貝は、輝《かがや》くような銀色の光、断縁獄《だんえんごく》のように、内部に宝貝を収納している宝貝は赤みを帯びた光として、反応を示す。
和穂のまぶたの中で、銀色の光たちは次々と光沢《こうたく》を失い、生気を失った青白い光へと変わっていった。
「あ、集まっていた宝貝が……」
「宝貝がどうしたんだ、和穂!」
「壊《こわ》されていく……」
青白い光、それは破壊《はかい》された宝貝を示していた。
「本当か!」
「本当よ! あ、また一つ壊された!」
和穂の驚《おどろ》きを嘲笑《あざわら》うかのように、索具輪の映像は狂《くる》い始めた。
光の点は滲《にじ》み始め、その色も区別が出来なくなっていく。点は曖昧《あいまい》な光の雲となって広がり、大まかな場所しか示さなくなった。
「街道《かいどう》沿いに進んでも、行けぬわけではないが、平原を突《つ》っ切った方が早いな」
旅の支度《したく》を整えた和穂《かずほ》たちは、早速《さっそく》、宝貝《ぱおぺい》の反応があった場所を目指した。
見渡《みわた》す限りの草原を歩みつつも、殷雷《いんらい》の顔は釈然《しゃくぜん》としない。
「本当なのよ殷雷、全部が一度にではないけども、一つ一つ、私が索具輪《さくぐりん》で見ている前で壊れていったの」
面倒《めんどう》そうに、銀色の棍《こん》で肩《かた》を叩《たた》きつつ、殷雷は応《こた》えた。
「和穂が嘘《うそ》をついても仕方ないのは、判《わか》っている。
でもよ、あからさまに不自然な反応があった後に、狙《ねら》いすましたかのように索具輪の調子が悪くなったのが解《げ》せない」
殷雷の疑問が和穂にも理解出来た。
「そうよね。
索具輪は周期的に、調子のいい時、悪い時が来るんじゃなくて、いざこれからって時に調子が狂うもんね。
どうしてだろ?」
眉《まゆ》の間に皺《しわ》を寄せ、刀は怒鳴《どな》った。
「俺《おれ》が聞きたいわい!」
「私は、索具輪《さくぐりん》は壊れていないような気がする。
誰《だれ》かの宝貝で、索具輪の機能が邪魔《じゃま》されてるんじゃ?」
殷雷には、自信をもって返せる答えは無かった。
「確かにな。だが、一時的にならともかく、捜索《そうさく》系の宝貝を慢性《まんせい》的に狂《くる》わすのは、チト無理だぞ。
そういや、宝貝に近づけば近づく程《ほど》、調子が鈍《にぶ》くなってるよな。
そこに何か鍵《かぎ》があるのか?」
草原の中を歩きながら、和穂は今までの事を考えてみた。
何百里も離《はな》れている時には、正確な場所まで判るのに、実際に現場に着くと、かなり大まかにしか宝貝の在《あ》り処《か》を探しきれない。
道士たちの騒動《そうどう》の時も、泥《どろ》との戦いの時もそうだった。
他の時もそういう傾向《けいこう》は見られた。
それが何を意味するのか? 重要な事を見落としている気がしたが、どうしても理由が判《わか》らなかった。
手掛《てが》かりを求め、和穂は索具輪に指を伸《の》ばす。目は開けたままだ。
すると、風景を映す水面|越《ご》しに、池の中の魚を覗《のぞ》くように、和穂の視界に索具輪の情報が重なりあった。
昨日のようにハッキリとした星の姿は見えず、光の雲が見えるのみ。
だが、殷雷たちの反応と絡《から》み合う、別の雲が見えた。
嵐《あらし》の前の雲のように、近くの雲が和穂たちと混じり合おうとしている。
「殷雷、近くに宝貝が! 距離《きょり》は大体、一里以内だと思うけど」
殷雷はピタリと足を止め、三百六十度にわたる地平線の一点を見つめた。
「半里(二キロ)先だ。見える」
「嘘《うそ》、どこ、どこ?」
示された方角を和穂も見てみたが、全く人影《ひとかげ》は見えない。
刀の宝貝は、既《すで》に戦いに挑《いど》むべく、ゆっくりと走り始めた。
「見たところ、一人だ。女か?」
「待ってよ、殷雷」
軽く猫背《ねこぜ》にし、倒《たお》れこむかのように体勢を低くし大地を駆《か》ける殷雷。足は暴走した馬車馬の如《ごと》く荒々《あらあら》しく地面を蹴《け》るが、上体はほとんど揺《ゆ》れていない。
鷹《たか》のような目の中に標的をおさめ、ただそれを目指して走っていく。
左手に握《にぎ》る棍《こん》は、まるで体の一部のように疾走《しっそう》の邪魔《じゃま》をしない。
殷雷の洗練された走り方に比べれば、和穂の動きは無様なものだった。
速く走ろうとすればするほど、手と足の振《ふ》りが大きくなり、無駄《むだ》な動きが増えてしまうのだ。
それでも必死になりながら、殷雷についていこうとする。
殷雷は速度を緩《ゆる》め、和穂の走りに合わせた。
「……和穂よ、前に比べれば、ちょいとばかし足が速くなったか?」
声を掛《か》けつつも、視線は標的に向けられたままだ。
息を荒らげながらも、和穂は言葉を返す。
「あれだけしょっちゅう走り回ってれば、少しぐらいは鍛《きた》えられるよ。へへへ」
殷雷に褒《ほ》められたのが、和穂には少し嬉《うれ》しかった。
「だがよ、そんなちんたらした走りじゃ、使いものにならねえ。判《わか》ったか、のろま!」
褒められて、いい気になった途端《とたん》に、のろま扱《あつか》いされて和穂は腹がたった。
だが、殷雷より足が遅《おそ》いのは事実なのだ。
「だったら、これでどう!」
ジタバタ動いていた手足が、ドタバタになり、速度が上がった。と、少なくとも和穂は感じた。
「ふん、食い逃《に》げのやつの方が、もっとましな走りをするぜ」
「じ、じゃ、こ、れで」
ドタバタがガタガタになり、頭に血が昇《のぼ》りクラクラになる。足元はフラフラ。
「てんで、話にもなりゃしねえ。
仕方がない、走り方を教えてやるぜ」
言い終わると、殷雷は棍を大きく空中に放《ほう》り投げた。
同時に、殷雷の体から耳をつんざく雷鳴《らいめい》が轟《とどろ》いたかと思うと、軽い爆発が起き、殷留の体は爆煙の中に消えた。
風になびく煙の中から、やがて闇《やみ》のように滑《なめ》らかな、黒い鞘《さや》に包まれた一振《ひとふ》りの刀が現れ宙を舞《ま》う。
和穂は慌《あわ》てて、殷雷刀に手を伸《の》ばし、柄《つか》に手をかけ、一気に引き抜《ぬ》く。
雷光を思わせる青い光を放つ刀身が、日の下に現れた。
途端、今までの和穂の動きから無駄《むだ》が一切《いっさい》省かれた。
腰帯《こしおび》に鞘を差し込んだ手が戻《もど》る時には、同じく腰帯に結ばれていたひょうたんを外し、フタを口で外す。
「棍!」
叫《さけ》ぶなり和穂は、断縁獄《だんえんごく》を天にかざす。宙を舞っていた棍がスルリと吸い込まれた。
ひょうたんの腰に指を添《そ》え、くるりと回しながら、腰帯に左手一本で、器用に結び付ける。
今や和穂の肉体は、殷雷が操《あやつ》っていた。走る事だけでも必死になり、ジタバタしていた娘《むすめ》が達人の動きを手に入れたのだ。
殷雷と同じ走法で、和穂は駆《か》けた。
急激な動きに、和穂は自分の体がもつのかと少し怯《おび》えた。
『い、殷雷ってば。こんなに無茶して走ったら心臓が破裂《はれつ》しちゃうよ!』
『馬鹿《ばか》いえ。そう簡単に心臓が破裂してたまるか。ま、二、三日筋肉痛は残ると思うが。それは覚悟《かくご》しとけよ』
『へ、平気だよ。筋肉痛ぐらい』
『ほお、只《ただ》の筋肉痛とは訳が違《ちが》うぞ。
半里も走るんだ。足の関節という関節が、軋《きし》むぞ。自分の体にこんなにも関節があったのかと、思い知らされるぜ』
殷雷は、和穂の肉体を乗っ取っているのではない。和穂が望めば、肉体の主導権は戻ってくるのだ。
だが、和穂は駆けた。速度を全く緩《ゆる》めようとはしない。
土壇場《どたんば》での度胸が和穂にはあった。
それが、和穂が彼女の師匠《ししょう》である龍華《りゅうか》仙人《せんにん》と一番良く似ている所であった。
殷雷は心の中で舌打ちした。
和穂が、筋肉痛の脅《おど》しに、怯《ひる》まなかったので、ネタを割るきっかけを失ってしまったのだ。
『け、冗談《じょうだん》だ。筋肉痛なんざ残りはしない。仮にも武器の宝貝を使って、疲労《ひろう》なんか残る訳ないだろ』
『からかってたの?』
『悪いか? なんでお前は、可愛《かわい》い面《つら》してるくせに、妙《みょう》に胆《きも》が据《す》わってるんだろうね。
普通《ふつう》なら、ビビって足も遅《おそ》くなるぜ』
和穂とて、年頃《としごろ》の娘《むすめ》、可愛いと言われれば少しは気になる。
しかも普段はそんな事は口が裂《さ》けても言いそうにない殷雷の言葉だ。
『あ、今、可愛いって言ったね』
『そうだ。からかったんだよ』
厭味《いやみ》のない笑顔《えがお》で娘《むすめ》は笑っていた。
大きな目を糸のように細め、安眠《あんみん》の真っ直中《ただなか》の猫《ねこ》のような笑顔だ。
育ちが良いのか、背筋がシャンと伸《の》び姿勢が正しかった。
真っ直《す》ぐに伸びた背中には、柳《やなぎ》で組んだ四角い行李《こうり》が背負われている。
恐《おそ》らく行李の中には、旅の支度《したく》がしてあるのだろう。
きっちりと一本に編まれた髪《かみ》の毛が、行李と背中の間に垂れていた。護身用なのか、右手にはありふれた槍が握られている。
朱《しゅ》色をした唇《くちびる》が開かれ、おっとりとした声が響《ひび》く。
「まあ、どちら様でしたかしら?」
「はじめまして、和穂《かずほ》と申します」
娘の行く手に、立ちふさがる和穂。
和穂の手の中の殷雷刀《いんらいとう》が、ガチャリと音をたてた。
宝貝の反応と、娘の歩く速度はほぼ一致していた。間違いなく、この娘が宝貝を持っているはずだ。
「和穂さん? 良いお名前ですねぇ。私は綾春《りょうしゅん》と申します」
「綾春さん、お願いします。宝貝《ぱおぺい》を返して下さい」
おっとりとした口調だが、娘はとぼけるつもりはなかった。
「困りましたねぇ。承知したいのは、やまやまなんですが、こちらにも都合がございまして」
綾春は右手に持っていた槍《やり》を、ゆっくりと構えた。
身《み》の丈程《たけほど》の普通《ふつう》の槍だ。
柄《え》の部分は、漆《うるし》を幾重《いくえ》にも塗《ぬ》り込んだような独特の焦《こ》げ茶の光沢《こうたく》がある。
刃《は》には曇《くも》り一つなく、日の光を反射していた。
奇妙《きみょう》な光景が広がっていた。
白い道服を着た娘は、抜《ぬ》き身の刀を右手に持ち姿を現した。
片や行李を背負った娘は、刀を恐れるでもなく、挨拶《あいさつ》を交《か》わした後、手に持った槍を構えた。
相手の出方を見る為《ため》か、低く構えられた殷雷刀は微動《びどう》だにしない。
ふと、綾春の構えが解かれ、槍の穂先が下がった。
「行李《こうり》が邪魔《じゃま》だから、下ろさせていただきますね」
槍を草の上に置いた綾春は、大胆《だいたん》にも和穂に背中を向け、背中の行李を外す。
反射的に殷雷刀は飛び掛《か》かろうとしたが、必死に己《おのれ》を制した。
罠《わな》かもしれない。
隙《すき》を見せて、こちらの攻撃《こうげき》を誘《さそ》い、そこを返り討《う》ちにする可能性があった。
どっちだ?
罠か?
それとも、敵にぬけぬけと背中を見せる、ただの間抜《まぬ》けか?
判断しかねた殷雷は、イライラとしながらも様子を見続けた。
行李を下ろし、腰《こし》をトントンと叩《たた》いていた綾春は、ふと腕《うで》を組み、首を傾《かし》げる。
「……和穂さんでしたね? はじめてお会いしたのに、名前と顔に覚えがありますよ。
不思議ですねえ。
どうしてなんでしょう?
それともやっぱり、どこかでお会いしたんでしょうか?」
殷雷の葛藤《かっとう》は、和穂にまで届いていなかった。
「いえ、初対面です」
「そうですよねえ」
綾春の、柔《やわ》らかな物腰が余計に殷雷の神経を逆撫《さかな》でした。
さながら、飢《う》え死に寸前の虎《とら》の前に、羊を置いたも同然だ。
虎は利口で、羊の周囲に、虎|挟《ばさ》みがある可能性を思案していた。
露骨《ろこつ》に怪《あや》しく、羊は虎を目の前にしても怯えずに呑気《のんき》にメエメエ鳴いている。
今の殷雷には、歯ぎしりする歯がない。
綾春につられたのか、和穂の声からも緊張感《きんちょうかん》がうすれていった。
「そういう事って、たまにありますね。絶対知らないはずなのに、何故《なぜ》か知っている気がして」
臨戦態勢で、おし黙《だま》っていた殷雷だが、心を通して和穂に話しかけた。いや怒鳴《どな》りつけた。
『馬鹿野郎! 敵と世間話してどうしやがるんだ、このスットコドッコイ』
『いや、なんかさ、綾春さんの話し方って悪い人って感じじゃないから、つい』
『黙れ黙れ、黙れ! 宝貝を返さぬと言ってるからには、敵だろうが! ああやって、とぼけたふりして、罠を張ってるかも知れないんだぞ』
いらつきを和穂にぶつけようとした殷雷だが、綾春のボンと手を打つ音に反応し、再び戦闘《せんとう》態勢に入った。ただし、やはり待機状態だ。
「そうそう、思い出しました和穂さん。和穂さんに、その刀は殷雷さんでしたね。
あれは、確か夢で見たんです。
変な夢でした。
影絵《かげえ》のような真っ黒の男の人が現れて、私に和穂さんの話をするんです。
宝貝をばらまいてしまった顛末《てんまつ》や、それを回収しようとしておられる事を。
言葉で説明されてるのに、目の前に事件の現場がありありと映って、不思議な夢でございました。
和穂さんも大変ですね、七百からの宝貝を集めなければならないんですから。
お察し申し上げますわ」
「……そこまで判《わか》っていただいてるなら、宝貝を返して欲《ほ》しいんですが」
綾春は、首を右に傾《かし》げ、それから左に傾げて思案した。だが、きっぱりと答えた。
「やはりそれは出来ません。
どうしてもというのなら、力ずくで奪《うば》ってくださいな。
まあまあ、長々とお話してしまいました。
待ちくたびれたんじゃありませんか?」
草の上に転がる槍《やり》を、再び握《にぎ》りしめ言葉が続く。
「夢の人は、和穂さんたちが宝貝所持者に危害を加えてでも、回収を行っているみたいな話もしてましたが、あれは嘘《うそ》ですね。
だって、和穂さんたちは、槍を置いた無防備な私に攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けられなかったんですから。
殷雷さんは、正々堂々とした立派な刀なんですね」
舌打ちしながら、殷雷はつぶやく。
『読み違《ちが》えた。攻撃すべきだったんだ』
和穂は一つ、質問した。綾春が正直に答える義理などなかったのだが、和穂は綾春が嘘をつかないと信じた。
「綾春さん。その槍が宝貝なんですね?」
コクリと綾春はうなずいた。
「そうです。この槍が私の持つ、たった一つの宝貝です」
『……和穂、信用するのか?』
『私は信用したい。殷雷は?』
『俺《おれ》も信用しよう。綾春は、ただの呑気《のんき》なボオッとした娘《むすめ》だ。策略の類《たぐい》は使わん』
『槍に見覚えがある?』
『武器の宝貝は、大概《たいがい》見知っているがあれは知らん。宝貝にしちゃ、貧相《ひんそう》な槍だ』
ニコニコ笑いながら、綾春は槍を構えた。左手の掌《てのひら》に、刃《は》と柄《え》のつなぎ目をのせて、右手で柄を握る。
草の上を滑《すべ》るように、左足が大きく前に差し出され、綾春の体勢が必然的に中腰《ちゅうごし》になった。
まるで、切り株に縄《なわ》をかけ、それを腰を落として引っ張ろうとしているような姿勢だ。
止まった姿勢の中に力が凝縮《ぎょうしゅく》されていく。
穂先《ほさき》は和穂の心臓に向けられていた。
和穂は、殷雷刀を中段に構えつつ、ジリジリと歩み始めた。
綾春を中心とした円を描《えが》くような動きだ。
槍《やり》の直線的な突《つ》きを、避《さ》けようという狙《ねら》いだった。
だが、綾春も和穂と同じように摺《す》り足で円を描き始めた。
円は、その中心を綾春から、綾春と和穂の中間点に変えた。
槍の穂先は、いまだ和穂の心臓に狙いを定めていた。
硬《かた》く結ばれていた綾春の口が、突然《とつぜん》ふと緩《ゆる》んだ。
「ぐるぐるぐるぐる回って、目が回りそうですねえ」
思わず和穂は吹《ふ》き出す。
「そうですね」
殷雷は和穂の世間話を責めなかった。
一瞬《いっしゅん》でも気を抜《ぬ》けば、只《ただ》ではすまないと殷雷は判断した。
和穂と口をきいてる余裕《よゆう》はない。
綾春が、照れ臭《くさ》そうに舌を出した。
「あらあら、今は無駄口《むだぐち》を止《や》めるようにと、怒《おこ》られてしまいました」
向こうの槍は、使用者と喋《しゃべ》る余裕があるのだ。
『ふざけやがって!』
和穂は綾春に向かい走った。道服の袖《そで》が大きくはためく。
綾春は槍で突いた。
点のように見えた、槍の穂先《ほさき》がアッというまに本来の大きさを取り戻《もど》し、和穂の顔を掠《かす》める。
殷雷とて、そう簡単に和穂の心臓を突《つ》かせるわけにはいかないので、防御《ぼうぎょ》を兼《か》ねて体勢を低くしているのだ。
耳元で聞こえる、槍が空気を切り裂《さ》く音はとてつもない轟音《ごうおん》に聞こえた。
なかなかの鋭《するど》い突きだと殷雷は舌を巻いたが、それよりも突いた槍を再び手元に戻《もど》す為《ため》の、引き戻しの速さに驚《おどろ》く。
綾春とのわずかな間合いを詰《つ》める為に、後二回は突きをかわさなければなるまい。だが、それを堪《た》えれば、殷雷刀の間合いに綾春を捉《とら》えられる。
殷雷は、綾春を斬《き》り殺そうとまでは、思っていなかったが、少しばかり痛い目にはあってもらうつもりだった。
再び繰《く》り出された突きを、殷雷はまたしても避《さ》ける。
鋭い突きだが、かわせない程《ほど》ではない。
足の運びに合わせ、小刻みに揺《ゆ》れる視界の中の綾春は、いまだニコニコ笑ったままだった。
『ちっ。やりにくいな』
笑顔《えがお》に気勢を削《そ》がれないように、注意しながらさらに駆《か》ける。
綾春は三度目の突きを放った。
和穂は大きく体を沈《しず》め、この突きもかわした。
殷雷刀は己《おのれ》の間合いに、綾春を捉えた。あの突きよりも速く、一撃《いちげき》を繰り出す自信は充分《じゅうぶん》にあった。
綾春は、構えを解く。右手に握《にぎ》った槍は背中に回され、背骨と垂直に交わるように引かれた。
左手の掌《てのひら》は、殷雷の突撃《とつげき》を押《お》し止《とど》めるかのように、真っ直《す》ぐに立てられた。
『殷雷! 綾春さんは戦う気がない。もう止《や》めて!』
『やかましい、素人《しろうと》が口出しするな! 自分の間合いの時は戦って、俺の間合いになったら、ちょっと待てか?』
『でも』
『ちょいと、奴《やつ》の肩《かた》を打たせてもらうぞ。
話はそれからだ!』
和穂が、今無理に体の主導権を奪《うば》い取ったとしても、結果は綾春への壮絶《そうぜつ》な体当たりになるだろう。
仕方なく、和穂は殷雷が綾春を手酷《てひど》く傷つけない事を信じた。
殷雷刀の雷光《らいこう》の輝《かがや》きを持つ刃《やいば》が、綾春を目掛《めが》けて走った。
だが、殷雷刀が綾春に触《ふ》れる寸前に、彼女の差し出された左手の指が、複雑に幾《いく》つかの印を切る。
途端《とたん》、掌から青紫《あおむらさき》の炎《ほのお》がほとばしり、和穂に向けて飛び掛かる。
『炎だと! 仙術が使えるのか!』
綾春の掌《てのひら》から、濁流《だくりゅう》のように炎が噴出《ふんしゅつ》し続けていく。
地面を転がりどうにか炎を避《さ》けながら、殷雷は攻撃《こうげき》を仕掛けた。
左手を草の上でふんばり、力ずくで回転を止める。回転を続けようとする慣性の力を右手に流し、綾春の脛《すね》を狙《ねら》い、刃を走らせた。
綾春は軽く地面を踏《ふ》み、跳《は》ねた。
殷雷刀は宙を切り、草をなぎはらった。
和穂は力の限り地面を蹴り、綾春との間合いを詰めようとした。
術を使う相手ならば、術を使う前に仕留《しと》めるしか手はないと、殷雷は判断した。
そして、殷雷刀がなぎはらった草が地面に着く頃、己《おのれ》の間合いに綾春を捉《とら》えた。
必殺の間合いだ。殷雷刀は神速の素早《すばや》さで滅多《めった》やたらに切りつけた。
しなる鞭が空を切り裂くような音が、殷雷刀から響き渡った。
一瞬の間。
殷雷は愕然《がくぜん》とした。
手応えがあれば、その時点で手加減をするつもりだったが、刀は何にも触れなかった。
だが、綾春は幻《まぼろし》ではなく、今も目の前に居る。
攻撃は全《すべ》て避けられた。
間合いは全く変わっていない。
全ての攻撃は、間合いを外すことなく太刀筋《たちすじ》を見切る事で避けられたのだ。
後ろに引かれていた槍《やり》は、般雷には見えない速度で再び構えられた。
綾春は言った。
「本気で行くぞって。ばくさんはおっしゃってますよ」
和穂の言葉で殷雷は呻《うめ》いた。
「ば、ばくさんのばくって?」
「爆燎槍《ばくりょうそう》の、ばくさんです」
殷雷には影《かげ》としか見えない、無数の突《つ》きが和穂を襲《おそ》った。防御《ぼうぎょ》の構えをとる余裕《よゆう》すらない。
これだけの数の突きを食らえば、槍に刃があろうがなかろうが、つきたての餅《もち》のように体は潰《つぶ》れてしまうだろう。
しかし、爆燎槍の攻撃は、全て外されていた。
和穂はもちろん、殷雷刀も爆燎槍の素早い攻撃に度胆《どぎも》を抜《ぬ》かれ体を動かせなくなった。
金縛《かなしば》りにあった和穂の顔の前に、綾春の左手がピタリと向けられる。
あっ、というまもなく、掌からほとばしった炎が和穂を包み込んだ。
「わっ! 燃えちゃう燃えちゃう、大変だ大変だ! 熱い熱い熱い? あれ熱くないや」
大騒《おおさわ》ぎする和穂《かずほ》の隣《となり》で、殷雷《いんらい》は刀から人間の姿に変わった。
殷雷も和穂と同じように、全身を青紫《あおむらさき》の炎《ほのお》で包まれていた。
観念したのか、殷雷はあぐらをかいて座《すわ》っている。
「殷雷も燃えてる! 早く消さなきゃ!」
和穂に頭をパタパタはたかれ、虫の居所の悪い殷雷は怒鳴《どな》り散らした。
「やかましい! そいつは練炎《れんえん》だから焼けはしねえ!」
「練炎ってなあに?」
「うるせい!」
「なによ、教えてくれてもいいじゃない」
殷雷にかわり、綾春《りょうしゅん》が説明した。
「練炎というのは、仙術的《せんじゅつてき》な炎《ほのお》で、炎よりも水の属性に近いものらしくて、特に火傷《やけど》などの害はないんですよ」
「へえ、そうなんですか」
殷雷は鼻で笑った。
「そうだな。だがよ。お前がちょいと念じるだけで、練炎は本物の炎になって俺《おれ》たちは火ダルマだ! 俺は宝貝《ぱおぺい》だから焼けはしないが和穂よ、お前は助からんぜ」
慌《あわ》てて綾春は、首を横に振《ふ》った。
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、和穂さん。私はあなたを傷つけようなんて考えてません。ばくさんもそうですよね」
綾春は手に持った槍《やり》を宙に放《ほう》り投げた。
クルリと回転した槍は、今までの漆塗《うるしぬ》りの柄《え》を持つ細い槍から、瞬時《しゅんじ》に深海の深みを持つ紺《こん》色の柄に変わる。
穂先《ほさき》も今までの申し訳程度についていた刃《やいば》から、薙刀《なぎなた》と見まごうばかりの大きな物へと姿を変えた。ごく普通《ふつう》の槍が、身《み》の丈《たけ》の倍はある大槍へと転じたのだ。
正体を現した槍の姿に、殷雷は騒《さわ》ぐ。
「詐欺《さぎ》だ詐欺だ! 最初っからあの姿だったら俺はさっさと逃《に》げていたぞ!
やい、ジジィ! やり方が汚《きたね》えぞ!」
宙に浮《う》かんでいた大槍は、突然《とつぜん》青紫の炎に包まれ弾《はじ》けた。
飛び散る火の粉の中から現れたのは、大柄《おおがら》な男だった。
短めの髪《かみ》の毛に、頬《ほお》から口許《くちもと》、顎《あご》に崇《ひげ》が生えている。
殷雷はジジィ呼ばわりしたが、それほど老人ではない。ただ、頭髪《とうはつ》の一部と鬚には白髪《しらが》が混じっていた。
無駄《むだ》な肉《にく》のない顔なので頬骨が少し目立っていた。眼光の鋭《するど》さは殷雷に負けるとも劣《おと》らない。
鬚にしても不精《ぶしょう》鬚ではなく、きちんと手入れしてあるようだ。
全身を包んでいるのは、巨大《きょだい》な鎧《よろい》だった。かなりの重さのようだが、爆燎《ばくりょう》はまるで普通の服と同じように着こなしていた。
まさに絵に描いたような武人だった。
鎧をガチヤリガチャリと鳴らしながら、槍から人の姿に変わった爆煙は、殷雷の前に進んだ。
そして、左手の甲《こう》でパシッと殷雷の鼻を打った。
「たわけ! 誰《だれ》がジジィだ、この若造め」
殴《なぐ》られる寸前に、自分の鼻の前に手を入れて殷雷は、辛《かろ》うじて防御《ぼうぎょ》した。
だが、籠手《こて》のついた左手で殴られたのだから堪《たま》らない。
殷雷は、痛みに手を振《ふ》りながら、飛び跳《は》ねた。
「やりやがったな、ジジィ!」
つっかかる殷雷の髪の毛を、造作無く爆燎はつかんだ。
「小僧《こぞう》! 口のきき方を教えてくれる!」
だが、意外な所から一喝《いっかつ》が飛んだ。
「ばくさん! 今はそんな事をしている時ではありますまい」
ピシャリとした綾春の声に、周囲はシンと静まりかえった。
爆燎は頭を深々と下げる。左手には殷雷の髪《かみ》の毛をつかみ、兎《うさぎ》のごとく持ち上げたままだ。
「これは綾春様。こんな小僧に大騒《おおさわ》ぎをしてしまった無礼お許し下さい」
「いいんですよ、ばくさん。そんなに堅苦《かたくる》しくしなくても」
つかまれた髪の毛を振りほどこうと殷雷は必死になっていた。思わず、和穂は笑ってしまった。
「強いんですね、爆燎さんは」
爆燎は和穂に視線を向けた。
「和穂|殿《どの》、封印《ふういん》からの逃亡《とうぼう》という、勝手な行動、どうぞお許し下さい。
しかし、私とて納得《なっとく》して封印されていたのではありません。
欠陥《けっかん》があるが故《ゆえ》に、封じられたと言われても、私は己《おのれ》の欠陥に納得がいきません」
殷雷は笑った。
「け。ジジィ、お前の欠陥は、頑固《がんこ》なところじゃねえか。頑固すぎて、さすがの龍華《りゅうか》の手にも負えなかったから封印されたんだろう」
「黙《だま》れ黙れ! 小僧、貴様こそ情に脆《もろ》いという武器として致命《ちめい》的な欠陥で、封印されておったくせに!」
「やかましい、頑固ジジィ!」
「和穂殿に、頑固者などと誤解されてはかなわんので、私が封印された経緯《けいい》をお話しておきましょう」
殷雷はジタバタと両手を振《ふ》り回す。
「年寄りの昔話なんざ、聞きたくねえ!」
「黙れ。
ゴホン。
あれは今から、六百年|程《ほど》昔の話でございます、和穂殿。
和穂殿の師匠《ししょう》であり、私の創造者である龍華|仙人《せんにん》は、とある邪仙《じゃせん》を討伐《とうばつ》する命を受けました。
邪仙は氷を操《あやつ》るという情報を得られた龍華仙人は、炎《ほのお》を操る槍《やり》、私め爆燎槍《ばくりょうそう》を伴《ともな》って旅に出たのでございます」
「ジジィ、ともかく髪《かみ》の毛を放《はな》せ!」
「ゴホン。
邪仙の住処《すみか》に近づいたところ、運悪く仕掛《しか》けられていた、氷の仙陣《せんじん》に捕《と》らわれてしまったのです。
龍華仙人は、仙陣の真ん中で氷を撒《ま》き散らし結界を構築している陣旗を、練炎《れんえん》で吹《ふ》き飛ばせと私に命じられました。
しかし、こんな所で術の浪費《ろうひ》をするのは得策ではないと考えた私は、龍華仙人にそう進言しました。
忘れもしません、私の進言に対し龍華仙人は、
『いいから、やっとくれ』
と、聞く耳すら持ちません。
ここで引き下がっては、使用者の事を第一に考える宝貝の名折れと、私はさらに説得しました。
龍華仙人は、
『私や寒いのが嫌《きら》いだから、とっととあの陣旗をへし折ってこの仙陣を破りたいんだ。
判《わか》ったら、早くやっとくれよ』
と、私の進言を意に介《かい》しておられぬ様子。
私はとくとくと、術を浪費する危険性を説明しました。
しかし、
『練炎なんか、パッと使えばいいんだよ。後の事はその時に考えりゃいいんだ。これでも私や仙人なんだから、潰《つぶ》しはきくんだ。
判ったら早くしとくれ。
へくしょい。あぁ、みっともない。鼻水が出てきたよ。なんで仙人資格とったのに、こんな使いっぱしりみたいな仕事を押《お》しつけられたんだろうね、全く』
事の重大さが全く判っておられないので、仕方なく私は説得を続けたのです。
和穂|殿《どの》も御存知のように、龍華|仙人《せんにん》は妙《みょう》に頑固《がんこ》なところがありまして、練炎を使うか使わないかで、まる四昼夜に渡《わた》って議論を続けました。
結局、最後は龍華仙人が己《おのれ》の術で陣旗《じんき》を折るという、残念な結果に終わりましたがな。
しかも、龍華仙人は陣旗を折る為《ため》に、わざわざ陰陽三天万化小火炎《おんようさんてんばんかしょうかえん》を使うという、非常に勿体《もったい》ない事をしておいででした。
理解しかねましたな、あの時は」
自分の造った宝貝が、命令をきかなかったのはまだいい。
龍華|師匠《ししょう》は自分の造った宝貝との、根比べに負けた腹いせに、派手な術をぶっ放したのだと和穂は理解した。
青紫《あおむらさき》の炎《ほのお》に包まれた和穂の額を、冷や汗《あせ》が流れた。
「で、爆燎さん。その邪仙《じゃせん》を退治するのにどれくらいの日にちがかかったんですか?」
槍《やり》の男は首を大きく縦に振《ふ》った。
「五日です。
九遥洞《きゅうようどう》に戻《もど》られた龍華仙人は、いきなり私を封印《ふういん》の中に放《ほう》り込まれたのです。
理不尽《りふじん》でござろう」
まだ髪を持たれている殷雷は、ブラブラ揺《ゆ》れながら力なく言った。
「よくもまあ、龍華にぶっ壊《こわ》されなかったもんだな。
和穂よ。面白《おもしろ》い冗談《じょうだん》を言うジジィだなんて勘違《かんちが》いするなよ。
こいつは本気で自分の頑固さに納得《なっとく》いってねえんだ」
「口を慎《つつし》め、小僧《こぞう》。今の私の話で推察されるのは、進言にどうしても耳を貸さない、頑固な龍華仙人。という事象だけであろうが!」
言い争うだけ無駄《むだ》と見た殷雷は、一人毒づいた。
「年寄りの昔話は長くていけねえ。あれだけ長話して結局何が言いたいのか、判《わか》りもしねえ」
「つまりだ、己の欠陥《けっかん》に納得がいっておれば私は、逃亡《とうぼう》していなかったと、説明したのだわい。
納得していただけたかな、和穂殿」
和穂はコクリと首を振った。
「判りました。でも、私は爆燎さんを回収しなければなりません」
自分の言葉がどれだけ虚《むな》しく響《ひび》いているのかと、和穂は考えた。
体を包む、練炎《れんえん》。和穂を生かすも殺すも爆燎たち次第《しだい》なのだ。
殷雷をつかんだまま、爆燎はズイと和穂の目線に顔を下げた。
「和穂|殿《どの》。自分の置かれている立場が判っておいでか?
頼《たの》みの殷雷刀は、私に手も足もでない。
その体を包む青紫《あおむらさき》の炎《ほのお》は、私が念じるだけで、紅蓮《ぐれん》の本物の炎へと、姿を変えるのですよ」
爆燎の瞳《ひとみ》に映る自分の姿には、炎がまとわりついていた。
「判っています。ならば教えて下さい。どうして私を焼かずに、色々とお話をなされたのですか?
なぶっているのでないのなら、何か相談があるとお見受けしますが」
鬚《ひげ》に覆《おお》われた爆燎の口がニヤリと笑った。
「優《やさ》しいだけの娘《むすめ》さんかと、思っていましたが、さすがは龍華|仙人《せんにん》の弟子《でし》であられる。
頭も回れば度胸もあらせられる」
左手に持つ殷雷を放し、爆燎は籠手《こて》に覆われた指を器用に鳴らした。
途端《とたん》に、和穂と殷雷の体から炎が消えてなくなる。
槍《やり》の宝貝は真顔で言った。
「我等《われら》の願いの為《ため》に協力していただきたい。
もしも我等の願いが叶《かな》った暁《あかつき》には、この爆燎槍、和穂殿に回収していただいても構いません」
抵抗《ていこう》は無駄《むだ》だと思い知らされた殷雷は、ポリポリと頭をかいた。
「我等って、ジジィとそこで居眠《いねむ》りしてる呑気《のんき》な娘の二人か?」
殷雷が指を差した先には綾春が草の上に座《すわ》り込み、スウスウと軽い寝息《ねいき》を立てていた。
爆燎は綾春に視線を向けながらうなずく。
「綾春様は、少し疲《つか》れておいでだな」
和穂は爆燎に訊《たず》ねた。
「爆燎さんと、綾春さんの願いとは?」
「うむ。宝貝、流核晶《りゅうかくしょう》を手に入れる為に、力を貸していただきたい」
「ジジィ、惚《ぼ》けたか? 俺と和穂は宝貝を回収する為に旅をしているのだ。
それを自分の欲《ほ》しい宝貝を手に入れる為に協力しろだと?」
行李《こうり》の中から毛布を取り出し、爆燎は気持ち良さそうに眠る綾春の肩《かた》にかけた。
「判《わか》っておる。流核晶《りゅうかくしょう》を一度使えばそれでいいのだ。
流核晶ごと、この爆燎槍もくれてやると言っておるのだ。
和穂殿、そんななまくら刀より、この爆燎槍の方がよっぽど役にたちますぞ」
和穂も疑問を口にした。
「流核晶って、どんな宝貝なんです? 何に使うんですか?」
鬚《ひげ》を撫《な》でつつ、爆燎は答えた。
「流核晶は確か宝珠《ほうじゅ》の宝貝であったから、何らかの装飾品《そうしょくひん》の姿だと思うが。
……何に使うかは聞かないで欲しい」
普段《ふだん》の殷雷ならば、こんな謎《なぞ》めいた依頼《いらい》など、相手にしなかっただろう。
だが、依頼という形をとりながらも話の主導権は、爆燎が握《にぎ》っている。
次の瞬間に、和穂を殺し、殷雷刀を叩《たた》き折るだけの腕《うで》を爆燎は持っていた。
「その流核晶がどこにあるのか判っているのか? 和穂の索具輪《さくぐりん》に期待してるんなら、無理だぜ。
あれは特定の宝貝を探すようには出来ちゃいねえんだ」
殷雷の頭を押《お》し退《の》け、爆燎は和穂に迫《せま》る。
「協力していただけるのですな!」
「はい。爆燎さんは嘘《うそ》をつくような方じゃないと、思います。
協力します。ね、殷雷もいいでしょ?」
「むう、このジジィは、嘘だけはつかんからな。
嘘をつくなら、流核晶を欲《ほ》しがる目的も適当にデッチあげりゃいいんだし。
そんでもって、流核晶の在《あ》り処《か》は判っているのかよ」
「うむ。流核晶は宝貝王の所持する宝貝だ」
また、ややこしいのが出たかと、殷雷の表情が曇《くも》る。
「ぱ、宝貝王だと? インチキ臭《くさ》い名前だなぁ」
「私も最初はそう思ったが、かなりの使い手だぞ」
殷雷を軽く手玉にとる爆燎が、その腕を認めているのだ。和穂の顔に緊張《きんちょう》がみなぎる。
「爆燎さん、宝貝王ってそんなにすごいんですか?」
「宝貝王こと、程穫《ていかく》は既《すで》に三十人近くの宝貝使いを倒《たお》しておる。
他の使い手を探して、倒しておるのではないぞ。
自分は山の中に陣《じん》取り、攻《せ》めてきた宝貝使いを返り討《う》ちにしておるのだ」
刀の宝貝は舌打ちした。
「厄介《やっかい》だな。宝貝の使い手の一番|面倒《めんどう》なのは強い奴《やつ》が、より強くなっちまう事だ。
宝貝を集めれば集める程《ほど》、他の宝貝も集めやすくなる。
それこそ雪だるま式に力をつけてしまう恐《おそ》れがあるからな」
「小僧《こぞう》、貴様の考えはもっともだが、宝貝王の場合はちょっと違《ちが》う」
「違うって、何がだ?」
「あれは、価値無しと判断した宝貝は、その場で破壊《はかい》しておるのだ」
爆燎の言葉に、殷雷より和穂が驚《おどろ》いた。
索具輪《さくぐりん》が映し出した、天の一角に集まっていきそのまま破壊された宝貝は、宝貝王に倒されたものたちの反応だったのだろう。
「そんな、価値がないなんて。
よほど致命《ちめい》的な欠陥《けっかん》ならいざしらず、宝貝王に挑《いど》みかかるだけの力はある宝貝なんでしょ?
第一、わざわざ壊《こわ》さなくても、もしもの時の為《ため》に取っておけば」
「和穂|殿《どの》。だから、この爆燎が油断ならぬと申し上げているのです。
圧倒《あっとう》的な力を持つ宝貝を持っている可能性が」
爆燎の言葉が終わる前に、殷雷は和穂と爆燎の間に割って入った。背中に和穂をかばうようにだ。
「ジジィ。お前の話がちょいと信じられなくなってきたぞ。
宝貝王だ? どうしてジジィがそいつを知っているんだ? 一度も会ってないような話し方にしちゃ、やけに詳《くわ》しいじゃねえか。
宝貝の使い手が倒されたって言ったが、まさか戦う現場を見たのか。
ジジィ程の武器の宝貝が、戦っている最中を見て、まだ相手の強さの理由が判《わか》らないとほざくのか?」
「人の話は最後まで聞け、小僧。
宝貝王は夢を操《あやつ》る宝貝を持っているのだ。
私が知りえた情報というのは、全《すべ》て夢を通じて手に入れたものなのだ」
「ほお。相手に夢を送りつける宝貝を持った奴が、いちいち自分が他の宝貝使いを倒すところを宣伝しているというのか?」
かなわぬと知りつつも、和穂をかばおうとする殷雷の態度に、爆燎の顔が少しばかりほころんだ。
「そうだ。宣伝しているのだ。
自分の強さと、自分を倒せばそれだけ強力な宝貝が手に入ると、夢を通じて宝貝の使い手に宣伝しているのだ。
奴は挑戦者《ちょうせんしゃ》を待っている。
あいつは、賞品の名を告げるように夢の中で言った。
夢を操る宝貝、劾想夢《がいそうむ》と、それに、流核晶《りゅうかくしょう》を持っているとな。
勿論《もちろん》、自分の切り札の宝貝の名前は隠《かく》しているだろう。
それでも、奴は自分の口で流核晶を持っていると言ったのだ!」
殷雷の目から疑惑《ぎわく》の色は、まだ消えていなかった。
「話の胆《きも》は流核晶だな。そいつは何の宝貝なんだ? それを聞かぬ限りは、やはり信用ならん」
「……流核晶は他人に化ける宝貝だ。動物にも姿を変えられる。
欠陥《けっかん》は、流核晶が破壊《はかい》されると変化が永久的に解けなくなる事だ」
「ほお、他人に化けられる宝貝を欲《ほ》しがるなんざ、人に言えぬ理由だろうな」
「頼《たの》む。きくな」
和穂は殷雷の肩《かた》を叩《たた》いた。
「殷雷、信用しようよ。綾春さんも爆燎さんも悪い人じゃないよ」
「け。信用してやるぜ。
どっちにしろ、夢の送り手は早いうちに始末する必要がある。
その宝貝王って奴《やつ》が、俺たちが回収に乗り出した顛末《てんまつ》を言いふらしてるんだな」
殷雷の信用を得て、心なしか爆燎の顔に安心感が浮《う》かんだ。
「そう。宝貝王が、宝貝回収の為《ため》に和穂|殿《どの》たちが人間界に降りたと、他の宝貝所持者に夢を使って警告を与《あた》えたのだ」
刀の宝貝は大きく伸《の》びをして、空を見上げた。
ぐるりと囲まれた地平線の上に広がる雲一つ無い青い空、太陽が傾《かたむ》きかけていた。
急いだところで、目的地までの間にたいした村はなかったはずだ。
「じゃ、今日はここで野宿をするか。どうせ、綾春も寝《ね》ちまってるしな」
和穂は何気なく、爆燎にたずねる。
「爆燎さん。宝貝王の居場所は、その夢の中で自分が伝えたんですね」
「そうです、和穂殿。奴は九遥山《きゅうようさん》に居を構えております」
九遥山。和穂にとっては、忘れられない名前だった。
「九遥山! それってもしかして」
「左様。龍華|仙人《せんにん》の住まわれる九遥山の、人間界側の面です。
九遥山は仙界と人間界にまたがって、そびえる山ですからな。
だが、老婆心《ろうばしん》ながら忠告しますぞ。
九遥山に行ったところで、仙界と接触《せっしょく》出来るなどとは考えないように。
異なる界と界を結ぶ天地の理は、仙骨の使えぬ者には理解出来ますまい」
「でも、偶然《ぐうぜん》にでも!」
「奇跡《きせき》に頼《たよ》るのはおよしなさい。
界と界とを結ぶ通路が偶然にでも開く確率は、今この瞬間に和穂殿の頭上に雷《かみなり》が落ちるよりも、遥《はる》かに低いのですぞ」
「そうかもしれない! だけど、仙界からなら、龍華|師匠《ししょう》からなら」
和穂の言葉が癪《しゃく》に触《さわ》ったか、殷雷は和穂の胸《むな》ぐらを強くつかんだ。
「何を寝言《ねごと》ほざいてやがる! まだ甘《あま》ったれた考えが残っていやがったか。
宝貝回収は、お前の手でやり遂《と》げるんだろうが!」
殷雷の言葉に、和穂は言い返せなかった。
「ごめん、殷雷。九遥山ってきいた途端《とたん》に、なんか懐《なつ》かしくなっちゃって。師匠に会えるような気がして」
「いらん考えは捨てろ。偶然同じ名前が付いた別の山だと考えろ。
……もしも龍華がお前に力を貸せるのならば、とっくの昔に人間界に来ているはずだろうが……どんな手段を使ってでも」
[#改ページ]
第一章『程穫《ていかく》、和穂《かずほ》』
ここは宝貝王《ぱおぺいおう》こと程穫《ていかく》の陣取《じんど》る、九遥山《きゅうようさん》。
和穂《かずほ》たちはまだ遥《はる》か遠く、九遥山に到着《とうちゃく》するには数日がかかるだろう。
そんなある夜の話。
宝貝を持つ者に、奇襲《きしゅう》がどれだけ意味があるかと考えつつも、彼らは夜中に九遥山に進入した。
薄《うす》く曇《くも》った夜空には、まん丸い月が昇っていた。
彼ら五人は、それぞれ一つずつ剣《けん》の宝貝を持っていた。
封木《ふうぼく》剣、封火《ふうか》剣、封土《ふうど》剣、封金《ふうごん》剣、封水《ふうすい》剣の名を持つ、五つの宝貝だ。
五人は山の斜面《しゃめん》に生える、林の中で歩みを止める。
封火剣を持つ男が、他の四人に指示を出した。
「俺《おれ》はここで、待つ。作戦通りに、宝貝王を包囲するのだ」
作戦は単純なものだった。
南と東西に、一人ずつ待機し、北側から二人で宝貝王を追い立てる手筈《てはず》だ。
宝貝王が逃《に》げたなら、逃げた方角で待機していた者が逃走《とうそう》を阻止《そし》する。他の四人もすぐに追いつき、五人がかりで始末する。
「この作戦は、我等《われら》の宝貝の切れ味以上に、互《たが》いの居場所を知らせあうという、封五剣の能力が重要なのだ。くれぐれも油断するな」
「承知」
封火剣の男を残して、四人は闇《やみ》の中へと散っていった。
林の中では、五人を嘲笑《あざわら》うかのように虫の音が鳴る。
半刻(一時間)が経《た》った。
封火剣の男は待ち続けたが、いつまでたっても、居場所の連絡《れんらく》が入らない。作戦では、北側の二人は、南下と共に居場所を知らせるはずだったのだ。
どう考えても異常が起きているのは、明白だった。
だが、封火剣の男は異常を楽しむかのように、薄笑《うすわら》いを浮《う》かべつつ待ち続けた。
ふと、草を踏《ふ》む音が封火剣の男の耳に入った。
視線を向けると、封水剣の男がヨロヨロと歩いていた。額と左手からは真っ赤な血を流し、右手には折れた封水剣が握《にぎ》られている。
封火剣の男のもとに歩みよりつつ、絶え絶えの息が吐《は》かれた。
「……ま、負けた。……や、奴《やつ》は強い、判《わか》らない……何が……助けてくれ」
伸《の》ばされた手を避《さ》け、封火剣の男は鞘《さや》から剣《けん》を抜《ぬ》き、一気に封水剣の男を斬《き》った。
「ふん、流核晶《りゅうかくしょう》とやらを使えば他人に化けられると言ったな」
途端《とたん》に、凄《すさ》まじく大きな拍手《はくしゅ》が林の中に響《ひび》き渡《わた》った。封火剣の男は、何事かと周囲を見回し、柿《かき》の巨木《きょぼく》の上に座《すわ》る一人の男の姿を発見した。
柿の木の男は言った。
「偉《えら》い偉い。それぐらい冷徹《れいてつ》でなきゃ、この世は渡っていけないよな。
でも、外れ。そいつは本物だ。俺が化けてるわけじゃない」
男を見上げつつ、封火剣を構える。
「貴様が程獲か!」
「そ。別に宝貝王と呼ばなくても、構いやしない。
にしても、あんた悪い人だねえ。最初から包囲作戦なんか通用しないって、判ってたんだろ? あんたは、俺が流核晶を使って仲間に化けて、油断させて宝貝使いを倒《たお》していると読んだんだ。まんざら、外れでもないさ。そうやって倒した奴もいたんだから。
でも、ほとんどは正面から倒したよ」
男は封火剣を鞘に収めた。
「おや、剣をしまうのかい? 逃《に》げるんだったら、その剣を置いてきな」
「ふん。貴様がなぜ、そうも簡単に宝貝の使い手を倒せたか、色々と考えさせてもらったぞ。
一つは、流核晶を使って相手を油断させる方法だ。だが、これはそれほど確実ではあるまい。
もう一つの可能性は、我等《われら》とは質の違《ちが》う宝貝を持っている事だ」
程穫は興味を覚えた。
「へえ。いいせん行ってるかもね。具体的にはどうだと思う」
封火剣の男は不敵に笑った。自分を仲間だと信じていた、封水剣の男を斬った時と同じ笑顔《えがお》だ。
「程穫よ。お前が持っているのは、対宝貝用の宝貝だ!」
口笛を吹《ふ》き、程獲は柿の実をもぎとる。
「こりゃ、たまげた」
「来るがいい、程穫よ! 貴様が普通《ふつう》の宝貝で挑《いど》みかかるのなら、その時には閃光《せんこう》の抜《ぬ》き打ちで、貴様を斬ってくれる」
程穫は手に持った柿を、ポイと地面に投げ捨てた。
「ぐ?」
血反吐《ちへど》を吐《は》いて、封火剣の男は地面に倒《たお》れた。それから、ほんの少し遅《おく》れて程穫の放《ほう》り投げた柿が地面に激突《げきとつ》した。
背後から拳《こぶし》で男の心臓を打った程穫は、ゆっくりと残心を解く。
「それも外れだ。対宝貝用の宝貝なんて、俺は持っていないよ。
お前はただの大馬鹿だ」
地面に横たわる男の両|肘《ひじ》を、程穫は踏《ふ》み潰《つぶ》す。バキバキという音と共に、男の口からくぐもったうめき声が漏《も》れる。
程穫は封火剣を拾い、鞘から抜いてみた。
「五行の動きを制する、封五剣の一つか。悪かないが、制してる間は自分も動けないなんて、下らん欠陥《けっかん》があるんじゃな」
手に持つ剣《けん》を、程穫は放り投げた。宙を舞《ま》った剣は地面に落ちる前に、真っ二つに折られる。
程穫は大きな欠伸《あくび》をしながら、自分の屋敷《やしき》へと帰っていった。
また、夢を見ているわ。と、和穂《かずほ》は自分の夢の中で、夢を見ていると気がついた。
何やら焦点《しょうてん》がぼやけた映像が、無数に飛び回り、まるで流れの急な川を覗《のぞ》いている気分だった。
上下左右に天と地が、ぐるぐると和穂を中心として流れる川だ。
石鹸《せっけん》が作る、大きな泡《あわ》の中にいるようでもあった。
石鹸の泡の表面に浮《う》かぶ、油膜《ゆまく》にも似た虹《にじ》色を内部から見る、ただし虹色の油膜は恐《おそ》ろしい速度で流転《るてん》しているめだ。
「私は夢を見ているの?」
和穂の問いに答えが戻《もど》った。
「そうだ、夢を見ているのだ」
和穂の隣《となり》に、一人の影法師《かげぼうし》がいた。
影とはいえ、平べったくなく、まるで自分を彩《いろど》る色を全《すべ》て否定した、漆黒《しっこく》の人間を思わせた。
少なくとも男性の影だとは判《わか》るのだが、誰《だれ》かまでは判らない。
しかし、夢の中の和穂は、影法師《かげぼうし》の正体が気にはならなかった。
「はじめまして? それとも、お久し振《ぶ》り? どっちかしら」
「お久し振りだ。時間なんて夢の中では無意味だけどね」
和穂はコクリとうなずいた。
「思い出した。あなたには、夢の中で何度も会っている。でも、起きるとすぐに忘れちゃうんだ。
この虹《にじ》はなあに?」
影法師は揺《ゆ》らめいた。
虹色の激流の焦点《しょうてん》が唐突《とうとつ》に結ばれ、和穂と影法師の姿が映し出される。
まるで、鏡のように、泡《あわ》の中の和穂と影法師は同じ形をしていた。
影法師は説明する替《か》わりに、映像を指差すと、映像の中の影法師が映像の中の和穂に説明を始めた。
『この、混じり合った虹は、和穂の記憶《きおく》なのだよ。
和穂が思い出すと、記憶の焦点があう。焦点を合わせると、記憶が浮《う》かび上がる』
夢の中のゆっくりとした思考で、和穂は理解した。
「前に見た夢で、同じ質問をし、その時に教えてもらった答えを思い出したのね?」
「そういう事」
映像が流れて消え、別の映像が浮かぶ。やはり影法師と和穂の姿がある。
映像の和穂は、映像の影に質問していた。
「あなたは、だあれ?」
「俺《おれ》は、るぃぇぁくゃだ」
「へえ。いい名前ね」
映像が乱れて消えた。
泡の中の和穂は、納得《なっとく》がいかなかった。
「何、今の? あなたの名前が理解出来なかった。なのに、記憶の中の私は理解していたなんて」
「夢の中では、ある種の情報は乱れてしまうのだよ」
「……どんな、情報?」
「目が覚めるような、刺激《しげき》の強い情報だ」
「あなたの名前が、私をビックリさせるの? どうして?」
影法師は、和穂の混乱を少しばかり楽しんだ。
「その答えは、夢の中では見つからない。かといって、起きれば俺の事は忘れてしまう」
和穂の不安を反映し、虹《にじ》の流れはさらに勢いをました。大袈裟《おおげさ》な仕種《しぐさ》で、影法師は天を仰《あお》ぐ。
「心配はいらん、和穂よ」
「あなたは、敵なの?」
「意味のない質問だ。ここは和穂の夢だ。誰であろうと、和穂を傷つけはしない。例え宝貝《ぱおぺい》の力をもってしてもだ。
夢は夢の中では無害なものだからね」
「あなたは、何をしに来たの?」
「和穂の夢を見たくてね」
「?」
「和穂の見る夢を見たいのだ」
「そんな事が出来るの?」
「出来るさ。劾想夢《がいそうむ》は人の見る夢を、使用者に見せられるんだ」
まどろみの中の和穂は、抑揚《よくよう》のない声で質問を続けた。
「私の夢なんか見てどうするの?」
「夢とは記憶《きおく》という花で作られた、香水《こうすい》さ。
正確には夢になる前の、記憶を見たい」
思考の焦点《しょうてん》を合わそうと、和穂は必死になろうとしたが、上手《うま》くいかない。
「私が見たものを、あなたも見るのね。
あなたが、夢の送り手なんだ。
夢を通じて、私の記憶を手に入れて、それをやっぱり夢を通じて、他の宝貝使いに教えていたのね?
劾想夢には、そんな力があるの」
影法師《かげぼうし》はグルグルと和穂の周りを歩いた。
「残念ながら、劾想夢は記憶だけで心までは読めないがね」
「人の記憶を覗《のぞ》き見る宝貝なんて、龍華《りゅうか》師匠《ししょう》が封印《ふういん》して当然だわ」
「覗き見とは心外だな。
見られるのが精神的に耐《た》えられない記憶の場合は、目が覚めてしまうんだぞ。
それに、和穂。お前の場合は人為《じんい》的に幾《いく》つかの記憶が防御《ぼうぎょ》されている」
影法師はゆっくりとグルグル回り続けた。
和穂には、防御されている記憶に心当たりがあった。
仙人《せんにん》から人間に戻《もど》る時、仙術に関する記憶《きおく》が封印されたはずだ。
試《ため》しに、和穂は一番簡単な仙術を思い出してみようとした。
虹《にじ》の流れは映像を結ぶどころか、より大きく乱れていった。
和穂は沈《しず》んだ声を上げた。
「劾想夢《がいそうむ》で私の記憶は、あなたに筒抜《つつぬ》け。私は自分で自分の首をしめているのね」
影法師は低い声で笑った。
「そうだよ。哀《あわ》れだねえ。そうだ、たまには情報提供のお礼をしようか。
俺は歯向かう奴《やつ》には、手加減しないが、お前みたいに無力な人間には、ついつい甘《あま》い顔を見せてしまうんだ」
パチリと、影法師の指が鳴る。
虹の映像が、宙を舞《ま》う二つのお手玉を映し出した。
赤い小さなお手玉が、上に行ったり下に行ったりを繰《く》り返す。キャッキャッと喜ぶ子供の声も流れる。
和穂は子供の声が、幼い日の自分の声だと気がついた。
「あ、あのお手玉! 思い出した、小さい頃《ころ》に気にいってたやつだ。無くして目茶苦茶悲しかったんだ。
うわ、今まで忘れていたけど、懐《なつ》かしい」
「劾想夢は、記憶の中に埋《う》もれた記憶すら滑《すべ》り起こせる」
男の声を耳にしながらも、和穂は嬉《うれ》しそうに映像を見た。映像に人の声が被《かぶ》さった。
『ほお、お手玉か。お前にしちゃ、えらく気の利《き》いたおもちゃを作ったもんだな』
声には聞き覚えがあった。護玄《ごげん》仙人《せんにん》だ。和穂の師匠《ししょう》である龍華仙人の友人の仙人であった。
続いて聞こえたのは、間違《まちが》いなく龍華の声だった。
『童子連中が遊びに来てくれるのは嬉しいんだが、あいつらも修行《しゅぎょう》があるだろ。
童子連中が居ない間の、暇潰《ひまつぶ》しにはいいだろうと思ってな』
『ふうん。お手玉の中って何が入ってるんだい?』
『呆《あき》れた。仙人の癖《くせ》にそんな事も知らないのかい?』
『男ばっかりの兄弟だったからな』
『お手玉ってのは、適当な布きれの中に小豆《あずき》を入れて縫《ぬ》うんだよ』
『ほお、そうなのか。俺は小石でも入れてるのかと思っていた』
『そんな物いれちゃ、布が破けるだろ』
『わざわざこの為《ため》に、小豆を調達したのか』
『いや、小豆の替《か》わりに仙丹《せんたん》を入れてある』
映像の中から、椅子《いす》がひっくり返る音が響《ひび》く。
『り、龍華! 一|粒《つぶ》飲めば二百年は命を永らえるという仙丹を……』
『説教はご免《めん》だよ』
映像はゆっくりと薄《うす》れていった。
和穂は今まで無くしていた宝物を見つけたような気分になり、にこやかな笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
影法師《かげぼうし》は鼻で笑い、幾分軽蔑《いくぶんけいべつ》が混じった声で和穂に話しかけた。
「はん。ただ純粋《じゅんすい》に美しく楽しかった記憶《きおく》って奴《やつ》か。下らん」
「あなたにだって、そんな思い出はあるでしょ? 劾想夢《がいそうむ》だったよね? 劾想夢なんて夢を操《あやつ》る宝貝を持っているんだったら、いつでも思い出せるじゃない」
今までの紳士《しんし》的な態度からは信じられない程《ほど》の気迫《きはく》が、影法師から漂《ただよ》った。
「過去に浸《ひた》って、今の痛みを忘れろとでも言うのか!」
「ど、どうしたのよ急に」
「お前に修羅《しゅら》の生きざまが理解出来るか! 修羅に浸れる過去などない!」
自分の夢なのだという安心感か、和穂は男の気迫に打ち勝つ。
「痛みが理解出来るなら、あなたは修羅なんかじゃないよ。
自分を自分で追い詰《つ》めちゃいけない」
影法師は低い声で言った。
「何を偉《えら》そうに!
ここが、お前の夢でなく現実の世界ならば殺しているところだ」
突然《とつぜん》、高笑いし影法師は言葉を続けた。
「はっはっは! 和穂よ。お前も捨て子だったらしいな。ならば、赤子の時の記憶を呼び戻《もど》し、親の面《つら》を見てみようじゃないか。
お前を捨てた親の顔を見ても、まだそんな綺麗事《きれいごと》を言えるか?」
和穂の顔から笑顔が解けて流れ、恐怖《きょうふ》が浮かびあがる。
「やめて!」
「もしかしたら、お前を捨てる現場の記憶が残っているかもな!」
「やめて! 私の親は龍華|師匠《ししょう》よ。私を捨てたのは、どうしようもない事情があったからだろうって龍華師匠は言ってたし!」
「馬鹿《ばか》め。だから見てみるのだ! さっきも言ったが、本人が抵抗《ていこう》する記憶は呼び出せない、本人が目覚めてしまうからな。
だが、和穂。お前はなぜ目覚めない。
お前の好奇心《こうきしん》は、お前の親の顔を見たがっているからだ。ならば、拝見《はいけん》させてもらおうじゃないか」
「お願い、やめて! 私は捨てられた事を許してるのよ」
「それは、本当にどうしようもない事情があったと、仮定しての話だろうが!
もしも、お前を捨てる時の親の顔が、邪魔者《じゃまもの》を始末してせいせいした表情だったら、どうする?」
「やめてやめてやめて!」
虹《にじ》の流れは非情にも映像を結び始めていった。
昇《のぼ》る朝日に向かい、大きく伸《の》びをして綾春《りょうしゅん》は焚《た》き火の上に大きな鉄鍋《てつなべ》を置いた。
行李《こうり》の蓋《ふた》を開け、中から干したアワビを四個ばかり取り出し、思案する。
殷雷《いんらい》は、水ならば和穂《かずほ》の持つひょうたんの中に山|程《ほど》あると言っていたが、肝心《かんじん》の和穂はまだ眠《ねむ》っていた。
起こすのも可哀《かわい》そうな気がするし、かといって、勝手にひょうたんを使うのも気が引けた。
ちらりと鉄鍋を見たら、だいぶ焼けているようだ。
仕方なく、アワビを持ったまま綾春は和穂の側《そば》によった。
「あの、和穂さん。和穂さん」
和穂を起こさないように、小さな声を出している矛盾《むじゅん》に綾春はしばらく気がつかなかった。
毛布にくるまった和穂は、これ以上の幸せはないという顔で眠っている。
「仕方ないですねえ。行李の中の水を使いましょうか」
行李に向かおうとすると、突然《とつぜん》和穂の眉間《みけん》にシワが寄った。とてつもない悪夢でもがいているようだ。
「まあ、たいへん。それにしても和穂さんの寝顔《ねがお》は色々と忙《いそが》しいこと。
これはやはり、起こして差し上げた方がよいんでしょうね。とっても怖《こわ》い夢を見ておられる御様子《ごようす》」
と、呑気《のんき》に言っているうちに、和穂の上体がガバと跳《は》ね起きた。
「きゃ!」
「あらまあ、和穂さん。おはようございま……」
ガタガタと震《ふる》えながら、和穂は綾春に抱《だ》きついた。抱きつき、軽い嗚咽《おえつ》を繰《く》り返していた。
右手のアワビを左手に持ち直し、綾春は優《やさ》しく和穂の背中を撫《な》でた。
まだ結ばれていない和穂の柔《やわ》らかい髪《かみ》が、綾春の細い指に絡《から》まる。
「こんなに、震えて。そんなに、恐《おそ》ろしい夢を見たんですか?」
綾春の手が柔らかく和穂の背中を叩《たた》いた。
だんだんと和穂も落ち着いていく。
「怖かった。怖かった」
「よければ、どんな夢だかお話してくれませんか。口に出してしまえば、なあんだ、って思う夢かもしれません」
綾春にしがみついていた手を放《はな》し、和穂は説明を始めようとした。
「怖かったんです、とてもとても怖くて、……あれ、何がそんなに怖かったんだろ。
あれ? 思い出せないや」
綾春はにこやかに笑った。
「じゃ、もう怖くありませんね。よかったよかった」
思い出せもしないような夢で、大騒《おおさわ》ぎしていたのだ。
和穂は急に気恥《きは》ずかしくなった。
いつもなら、怖《こわ》い夢を見たぐらいで大騒ぎしたら、絶対に意地悪くからかう、殷雷の姿が何処《どこ》にも見当たらない。爆燎《ばくりょう》もいない。
いるのは綾春だけだ。
「あの、殷雷に爆燎さんは?」
「はいはい。朝飯前に鍛《きた》えてやるとか言いまして、ばくさんが殷雷さんを蹴飛《けと》ばしながら鍛練《たんれん》に出掛《でか》けてしまいました。
じきに戻《もど》られますよ。
そうそう、殷雷さんが、和穂さんが水を持っているとか、おっしゃってましたが、よろしければ分けていただけませんでしょうか。朝御飯を作るのに使いたいのです」
「あ、私も手伝います」
起き上がろうとする和穂を綾春が制した。
「いいんですよ。どうせ保存食のたいした物じゃないんですし。
干したアワビを戻して、餅《もち》やワカメと一緒《いっしょ》に煮込《にこ》むだけですから。和穂さんもよろしければ、御一緒に召《め》し上がってくださいな」
恐怖《きょうふ》の余韻《よいん》はまだ、少し残っていた。和穂は綾春の好意を受け入れた。
「へへ。それじゃちょっと甘《あま》えさせてもらいますね。
はい、これが断縁獄《だんえんごく》です。必要な量を念じたら、そのぶんだけ水が出ます」
断縁獄を受け取り、綾春は料理を始めた。行李《こうり》の中には包丁や、まな板まで準備されていた。
器用にアワビを刻みながら、綾春は和穂の悪夢に思いをはせた。ただの悪夢にしては、少し怯《おび》えすぎのような気がしたのだ。
「……和穂さん、何か心配事でもあるんじゃありませんか?」
和穂は苦笑いした。
「そりゃ、心配だらけですよ。私がばらまいてしまった宝貝《ぱおぺい》で、どんな騒動《そうどう》が起きるのか判《わか》らないんですし」
「えぇ、それはそうでしょうけど、もっと具体的に今一番心配な事を教えて下さい」
袖《そで》の中から赤い飾《かざ》り布を取り出し、和穂は慣れた手つきで自分の髪《かみ》を束ねた。
「だいぶ前に、梨乱《りらん》と芳紅《ほうこう》という私と同じ年の女の子と、知り合いになったんです。
宝貝の使い手を倒《たお》す為《ため》に、梨乱に天呼筆《てんこひつ》という宝貝を貸しました」
「へえ」
「約束の日時と、場所を決めて天呼筆を返してもらうはずだったんですけど、梨乱は現れなくて」
「あら、どうしたのかしら?」
「約束の場所には、梨乱と芳紅が二人で向かっていたんですけど、現れたのは芳紅だけでした。芳紅の話だと、道中で天呼筆は奪《うば》われちゃったらしいんです」
「それは大変!」
「奪ったのは、夜主《やしゅ》さんという知りあいの盗賊《とうぞく》さんで、それほど悪い人じゃないんだけども、この人も宝貝を集めているんです。
梨乱は責任感が強いから、天呼筆を絶対取り戻《もど》すって、夜主さんを追い掛《か》ける旅に出ちゃったそうです。
今は、梨乱の事が一番心配です」
「ふうん」
「芳紅は、梨乱なら大丈夫《だいじょうぶ》だって言うんですが」
うなずきながらも、綾春はこれが悪夢の原因ではないと考えた。もし、その梨乱とかいう娘《むすめ》が事故に遭《あ》う夢でも見たのなら、その夢の記憶《きおく》は残っているだろう。
綾春は、程獲《ていかく》が夢に現れたのではないかと心配していた。だが、確証もないのに和穂にその話をして、不用意に怯えさせるのは可哀《かわい》そうだと考えた。
もう一度、悪夢にうなされてからでも遅《おそ》くはないだろう。
煮立《にた》った鍋《なべ》の中に、綾春は材料を放《ほう》り込んだ。
「和穂さん。私たちがどうして流核晶《りゅうかくしょう》を欲《ほ》しがっているか、知りたいですか?」
「え、でもそれはきかない約束ですから」
「本当をいうと、私も知らないんです」
「え?」
「ばくさんが、どうしても必要だと力説なされて。私にも必要な理由は教えてくれないんですよ」
爆燎はどうして、そこまで隠《かく》し通そうとしているのだろうかと、和穂は考えた。
色々と頭を巡《めぐ》らすうちに、悪夢の恐怖《きょうふ》は消えていった。
遠くに見えた人影《ひとかげ》が、徐々《じょじょ》に大きくなり、ついに爆燎と殷雷だと確認《かくにん》出来るまでになった。
「綾春様。只今《ただいま》戻りました」
鎧《よろい》をガチャガチャ鳴らしながら、爆燎は帰還《きかん》の報告をした。
問題なのは、捕《つか》まえられた泥棒猫《どろぼうねこ》のように首ねっこをつかまれた殷雷だ。だらんと垂れた手と足が地面を擦《こす》っている。
涼《すず》しい顔をしている爆燎に比べて、殷雷はズタボロの一言だった。
袖付《そでつ》きの黒い外套《がいとう》は、土埃《つちぼこり》にまみれる程度で、破れたりはしていないが、手や顔には無数の擦《す》り傷が出来ている。
慌《あわ》てて和穂は殷雷に駆《か》け寄った。
「ちょっと殷雷、大丈夫《だいじょうぶ》?」
今の殷雷には、意識があるのかどうかも定かではない。
だが、和穂の言葉に反応し、僅《わず》かに首をもたげた。
「よ、よお和穂か。大丈夫だと? 大丈夫に決まっているだろうが。
こんなジジィと軽い模擬戦《もぎせん》をやったぐらいで、俺《おれ》がまいるか!
でも、今は眠《ねむ》らせてくれ……」
爆燎は野太い声で笑い、殷雷の首から手を離《はな》した。
「はっはっは。それがいい。今日の道中は、刀に戻って、和穂|殿《どの》に運んでもらうが良かろう。
小僧《こぞう》よ、和穂殿に感謝するのを忘れるな」
苦痛に呻《うめ》きながら、刀の宝貝は何とか立ち上がった。
「ほざけ! まいっていないと言っただろ。
こいつの手を借りずに、自分の足で歩いてくれる!」
水で濡《ぬ》らした手拭《ふ》いを綾春は、殷雷に渡《わた》した。
「ばくさん! 弱いもの苛《いじ》めなど、ばくさんらしくもない。殷雷さんが可哀《かわい》そうです」
聞き捨てならぬと、殷雷の右手が綾春の胸《むな》ぐらをつかんだ。
締《し》め上げるつもりだったが、握力《あくりょく》はほとんど残っていなかった。
「面白《おもしろ》い事言ってくれるじゃねえか。
誰《だれ》が弱いだと? 腹ごなしの模擬戦で少しばかり、擦《かす》り傷がついただけだ!」
「小僧。綾春様から、その汚《きたな》い手を離せ」
「け。判《わか》ってるぜ。ほんのチョイと模擬戦でジジィに後《おく》れをとった腹いせに、八つ当たりしてるなんて思われると癪《しゃく》だからな」
殷雷は、手に持った手拭いで、顔をゴシゴシと拭《ふ》いた。綾春は爆燎をなだめるように、柔《やわ》らかな声で言った。
「さあ、朝御飯が出来てますから、召《め》し上がって下さいな。お口に合うとよろしいんですが」
爆燎はうなずき、焚《た》き火の側《そば》の石に腰《こし》を降ろす。
和穂は心配そうに殷雷を見た。本当に大丈夫《だいじょうぶ》なのだろうか、やせ我慢《がまん》でもしているのではないかと不安だった。
「殷雷、怒《おこ》んないでよ。体は大丈夫なの?」
手拭いの隙間《すきま》から、ジロリと和穂の目をにらむ殷雷。
だが、心の底から心配している和穂に向かって、強がりは言いたくなかった。
爆燎に聞こえないように、小声で答える。
「心配するなって。怪我《けが》は本当に擦り傷だけだ。あのジジィ、馬鹿《ばか》みたいに持久力がありやがるから、こっちの体力がついていけなかっただけだ。
消耗《しょうもう》はしたが、怪我は問題じゃない。
……明日こそは一矢報《いっしむく》いてやる」
「! 明日って、懲《こ》りてないの!」
「ふん。やられっぱなしで、すませる訳にはいかん。明日は棍《こん》を使わせてもらうぜ。
さて、飯だ飯だ」
フラフラとよろけながらも、朝食にありつこうとする殷雷の姿に、和穂は何故《なぜ》だか頼《たの》もしさを感じた。
「アワビに海草と来れば、味噌《みそ》は赤味噌に決まっておるだろうに」
殷雷は不服を唱えた。
「困りましたねえ。お口に合いませんか」
爆燎はうるさげに怒鳴《どな》った。
「見苦しいぞ小僧《こぞう》! 男が細かい事をウダウダと。文句があるなら食わんでよし!」
「別に不味《まず》いと言ってるんではない。こういうものには定石があるだろう」
焚《た》き火を中心として、長めの石に、綾春と和穂が並んで座《すわ》っている。
適当な石が無かったので、殷雷は爆燎の向かいの草の上に胡座《あぐら》をかいて座っていた。
和穂はモグモグとアワビを噛《か》みしめた。
「おいしいんだから、別にいいじゃない」
「そうであろう、和穂|殿《どの》。
この小僧はいつも、食事に難癖《なんくせ》をつけておるのか?」
言われてみれば、殷雷が料理に文句をつけるのは珍《めずら》しかった。
困った顔で、首を右へ左へと傾《かたむ》けながら綾春は言った。
「ばくさん、やっぱり赤味噌も買っておいた方が良かったんじゃ。私も海の物には、基本的に赤味噌が良いかと存じます」
「それは違《ちが》いますぞ、綾春殿。行李《こうり》には必要最低限の物を入れ、少しでも軽くする必要がござった。
保存食の要《かなめ》を、餅《もち》とした場合には、やはり味噌は白味噌であろう」
殷雷は空になった木の器《うつわ》を、綾春に差し出した。
「やっぱり、ジジィの趣味《しゅみ》か。歯が抜《ぬ》けて、煮込《にこ》んだ餅しか食えないのか? だったらアワビを食うのは一苦労だろうな。
綾春、おかわりだ」
「小僧! 綾春様に向かい、何だその態度は! 自分でよそって食え!」
「ほう。お前らの持っている食材で、綾春が作った料理だろ。俺は馳走《ちそう》になっているんだよな。
馳走になってる者が、勝手によそうのは無礼だと思うが」
「おのれ、なまくら刀の癖に、減らず口だけは一人前に叩《たた》きおって! 馳走になってる料理に難癖つける方がよっぽど、無礼だ」
「まあまあ、ばくさん。そうめくじらを立てずに。おかわりですね、はいどうぞ。
和穂さんも、おかわりいかがです? 残ってしまっても勿体《もったい》ないだけですから」
和穂も頭をかきながら、器を差し出す。本当に美味《うま》かったのだ。
目の前では、爆燎と殷雷が、今度は箸《はし》の持ち方について言い争っていた。
和穂は、おかわりを受け取りながら、綾春に話しかけた。
「最初、殷雷と爆燎さんが争っているのは、自分のやり遂《と》げたい目的が、ぶつかりあったからだと思っていました。
ああ見えても殷雷は、戦うのが最上の手段以外の時には争いを好みません。……口は悪いですけど」
「ばくさんも、そうです。武器の宝貝だから余計に戦いには、慎重《しんちょう》になるとおっしゃってました」
和穂は首を縦に振《ふ》った。
「でも、今じゃ味噌《みそ》がどうだ、箸がどうだなんて、どうでもいい事でも言い争って。
二人はどうして、こんなに仲が悪いんだろう?」
綾春はいつもの笑顔《えがお》で答えた。
「そうでしょうか? 私には、大きな虎《とら》が猫《ねこ》みたいにジャレあっているように、見えますよ。
案外、二人は気が合っているのかもしれませんよ」
朝日を浴びながら、殷雷《いんらい》と爆燎《ばくりょう》は対峙《たいじ》していた。
昨日と違《ちが》い、殷雷の手には銀色に光る棍《こん》が握《にぎ》られている。
殷雷の顔についた細かい傷も、ほとんどが夕べのうちに、かさぶたになり、はがれて落ちていた。
爆燎は殷雷の棍に目をやった。
「棍か。宝貝《ぱおぺい》の材料に使う、純度の高い真鋼《しんこう》と見たが」
「正解」
「そんな希有《けう》な物を何処《どこ》で手に入れた?」
「さすがにジジィの目は節穴じゃねえな。この棍の凄《すご》さが判《わか》るか?」
「……棍という武器を純粋《じゅんすい》に究《きわ》めたなら、その形になるだろうな。いや、ほんの少し指先程《ほど》短いか?
もっとも使い手がヘボだと意味がないだろうが。
それよりも、質問に答えぬか。
どこでその棍《こん》を手に入れた?」
小僧《こぞう》、小僧と爆燎は殷雷を呼ぶが、その実彼は殷雷をけっして軽《かろ》んじてはいなかった。
武器としての本能が、何人《なんぴと》であろうと、あなどり油断する危険を冒《おか》させないでいた。
だから、殷雷の持つ棍の輝《かがや》きに、いち早く気がついていた。小僧が持つような棍は、所詮《しょせん》は安物、などとは考えなかった。
「護玄《ごげん》は知っているか?」
「ああ。龍華《りゅうか》仙人《せんにん》の御友人《ごゆうじん》である仙人だったな」
「そうだ。あいつに、人間界に降りる和穂《かずほ》の護衛《ごえい》を頼《たの》まれてな。その報酬《ほうしゅう》だ」
「小僧のような、なまくら刀に払《はら》うにしては破格の報酬だな」
「ほざけ。それよりジジィ、お前も何か武器を使わなくていいのか? 武器を持って、素手《すで》の相手に勝っても仕方ないだろ」
コテンパンにしてやられ、なんとかやり返したいと考えているが、互角《ごかく》の勝負でなければ気がすまないのだ。
殷雷なりの誇《ほこ》りに、爆燎は満足した。誇りにこだわり、自滅《じめつ》するのは愚《おろ》かだが、誇りを失っては武器としては失格だ。
「馬鹿を言え。こうみえても槍《やり》の宝貝なのだぞ。棒状兵器の戦い方は熟知しておる。
言っておくが小僧よ。素手で来た方が、まだ勝算は高いぞ」
クルクルと殷雷は棍をもてあそんだ。
「いい加減に、その小僧はやめてくれんか。これでも、愚断剣《ぐだんけん》を倒《たお》したんだから」
殷雷の言葉を聞き、爆燎の顔に驚《おどろ》きが浮《う》かぶ。
「なに、あの愚断を倒しただと!」
「なんだ、知らなかったのか? 夢を通じて全部見てたんじゃ」
「夢の送り手とて、和穂|殿《どの》の行動を全《すべ》て把握《はあく》しているのではないようだな。
だが、小僧よ。愚断を打ち取ったぐらいでいい気になるようでは、それこそ未熟者の証明だ」
「自慢《じまん》する気はないが、実績は認めてくれてもいいだろ」
「ふん。愚断など、所詮は血に飢《う》えた野獣《やじゅう》。相手を倒すしか能のない大馬鹿者じゃ」
殷雷は今さらながら、爆燎に自分の意見を納得《なっとく》させる難しさを確認《かくにん》した。
「ジジィよ。お前は今までの俺《おれ》の意見に対して『うむ、そのとおりだ』と、賛成した事が一度もないじゃないか?
ならば、ジジィを倒して実績を認めてもらおうか」
「あぁ、それがいい。爆燎槍《ばくりょうそう》を倒したという自慢ならば、あまたの宝貝連中も腰《こし》を抜《ぬ》かして驚くだろうな。
いやまて、もしかしたら、誰《だれ》も信じないかもな。
ともかく、小僧に倒されるワシではない」
自分の事は棚《たな》に上げ、澱《よど》みなく次から次へと繰《く》り出される爆燎の憎まれ口に、殷雷は少しばかり笑ってしまった。
「へっ。ジジィよ。勝負がついたのに、負けてないと言い張るのだけはやめてくれよ」
何をもって、模擬戦《もぎせん》とするか?
例えば、殷雷自身は宝貝としての属性を持つ為《ため》、並みの炎《ほのお》で体が焼けたりはしない。
が、殷雷刀を持った使用者は炎を浴びれば燃えてしまう。爆燎の場合は、自分自身が炎を操《あやつ》るぐらいなので、使用者を通常の炎から完全に守る力があった。
殷雷たちは、防御《ぼうぎょ》に関しては互《たが》いに使用者を想定して、戦っていた。
つまり、殷雷は練炎《れんえん》を浴びた時点で負けなのだ。
殷雷にとって不利な規則だが、この規則は彼が言い出した。
爆燎のような、術を使える宝貝と戦うには和穂を背後にかばい戦うのは、不可能だったからだ。
練炎に狙《ねら》い打ちにされれば、和穂のような生身の人間は、避《さ》けきれない。
規則は決めたが、規則にのっとっての判定負けは、一度もなかった。たいがいは、練炎の一撃《いちげき》を避けようと、体勢を崩《くず》した殷雷を爆燎が、蹴《け》り、殴《なぐ》り、投げ飛ばした。
棍《こん》を使っても結果はほとんど一緒《いっしょ》だった。
逆に棍を持つだけ動きが鈍《にぶ》くなり、昨日は避けられた重い攻撃《こうげき》すら、くらう結果となった。それでも殷雷は、何度も何度も挑《いど》みかかった。
「思い知ったか小僧! 素手《すで》でも我《わ》が身に触《ふ》れられぬ癖《くせ》に、棍に頼《たよ》るとは本末転倒《ほんまつてんとう》だ!
判《わか》ったら、拳《こぶし》で来い! 小僧も刀ならば少しは素早《すばや》い拳撃《けんげき》が可能だろう。
己《おのれ》の間合いに、追い込んでみろ」
こめかみを殴られた殷雷は、慎重《しんちょう》に両足に力を入れた。なんとか転ばずにすんだ。
だが、そろそろ体力の限界が来ている。
「やだね。ジジィをジジィが得意な間合いで倒《たお》してやる」
爆燎が拳で殷雷を殴る時、勿論《もちろん》爆燎は刀の宝貝のもっとも得意とする間合いに、踏《ふ》み込んでいた。
だが、その前に殷雷の全《すべ》ての動きは、殺されているのだ。殷雷が自由に動ける状態で、自分の間合いに爆燎を追い込んだ事は一度もなかった。
「ふん。減らず口というよりは、死ぬ間際《まぎわ》の呻《うめ》き声に聞こえるぞ。
さて、そろそろ飯の時刻だな。綾春様《りょうしゅんさま》を待たせては悪いのでケリをつけるぞ!」
ユラリと殷雷は駆《か》け、棍《こん》を槍《やり》のように突《つ》いた。
素早い突きだったが爆燎とて槍の宝貝、突きという攻撃には目が慣れていた。
突かれた棍を軽々と握《にぎ》る。
「小僧《こぞう》、突きの速さは合格だが、ねじりながら突かねば、簡単に捕《つか》まえられるぞ!」
殷雷は必死になって、棍を引き戻《もど》そうとした。
「放《はな》せジジィ! 放しやがれ」
歯を食い縛《しば》り、ムキになって棍を引っ張る殷雷。
「少しは学べ。何のための模擬戦《もぎせん》と考えておるか!」
無様に腰《こし》を入れて、棍を引っ張る殷雷を見て爆燎は腹がたった。
爆燎が急に棍を放すと、思ったとおり殷雷は後ろに引っ繰《く》り返りそうになった。
爆燎は、まさに槍の突きを思わせる速度で駆け、平衡《へいこう》感覚を失った殷雷に追いつき、地面に倒れる殷雷よりも素早《すばや》い、拳撃《けんげき》を放つ。
「小僧! 昨日の方がまだ強かったぞ!」
重力についていけないように、殷雷の髪《かみ》が広がった。拳《こぶし》は髪など、ものともせずに殷雷の顔面を狙《ねら》う。
が、突如《とつじょ》殷雷の髪の毛は、まるで意思を持つ手のように、爆燎の拳に絡《から》みつく。
絡めた拳を手掛《てが》かりに、殷雷は立ち直り、そのまま拳を爆燎の顎《あご》に向けて打ち上げた。
爆燎の拳は、殷雷に当たらなかった。
殷雷の拳は、寸前で爆燎にかわされた。
髪は再び、ただの髪へとかわり、殷雷は地面に倒《たお》れた。
両手と両足を無防備に広げ、大の字になっていた。
「くそう! 外したか」
拳の衝撃《しょうげき》で、切れでもしてたら恰好《かっこう》がつかないので、爆燎は真剣《しんけん》に顎の傷を確認《かくにん》した。
大丈夫《だいじょうぶ》だった。
擦《かす》り傷一つ、ついていない。
「なんだ、今のは」
「へっへっ。笑っちまうだろ。あれが俺の奥《おく》の手だ。瞬間的《しゅんかんてき》に髪の毛を硬化《こうか》させて自在に操《あやつ》れる。本当の瞬間だ、心臓が一つ鼓動《こどう》するかしないかの時間だけだ。
ジジィ、笑えよ。まがりなりにも仙術《せんじゅつ》が使える宝貝から見れば、貧相《ひんそう》な特技だろ」
「うむ。確かに貧相な只《ただ》の奇手《きしゅ》だ。棍《こん》を使っていたのは、この一撃の為《ため》か?」
「それは教えてやらん。最初から練られた作戦か、土壇場《どたんば》でのヤケかせいぜい悩《なや》みな」
爆燎は自分の口の前に手をやり、激しく咳《せ》き込んだ。咳き込みながら膝《ひざ》をつく。
「ば、馬鹿な。今の一撃か?」
草原に寝転《ねころ》がる殷雷にも、意外だった。
「なに、俺の拳撃《けんげき》がどこかに当たっていたのか?」
ガチャリと鎧《よろい》を鳴らしながら爆燎は立ち上がり、殷雷の足元に寄る。
「馬鹿め。只の冗談《じょうだん》だ。そうそう上手《うま》く問屋が卸《おろ》すか。
それよりも何だ? 『俺の拳撃がどこかに当たっていたのか?』だと。
自分の攻撃《こうげき》が当たったかどうかも、判《わか》らんのか!」
「ジジィ! てめえは嘘《うそ》だけはつかんと思っていたのに!」
「だから、冗談だと言っておろう」
昨日と同じように爆燎は、殷雷の首ねっこをつかみ、綾春たちのもとへと、歩いていった。
髪の毛を瞬間的に操るなど、確かに奇手にしか過ぎない。
だが、もし今のが実戦で、殷雷を破壊《はかい》する為《ため》に、もっと体重をかけた拳《こぶし》を放っていたらどうだったかと、爆燎は考えた。
殷雷の拳は避《さ》けられただろうか。
「ちっ。こんな模擬戦《もぎせん》で奥《おく》の手まで見せちまったぜ」
「下らん奥の手だのう」
「黙《だま》れ!」
「だが、小僧《こぞう》。選択肢《せんたくし》は多い方がよい。己《おのれ》の持つどんな機能でも、卑下《ひげ》するのは止《や》めておけ」
グツグツ煮《に》える鉄鍋《てつなべ》を見ながら、和穂《かずほ》は判らない事だらけだと考えた。
綾春《りょうしゅん》たちと旅を始めて、もう一週間近く経《た》っていた。既《すで》に九遥山《きゅうようさん》は視界の中に入っている。
さほど高い山ではないが、その頂きには常に霧《きり》がかかり、水墨画《すいぼくが》のような幽玄《ゆうげん》さが漂《ただよ》っていた。
今日中には到着《とうちゃく》するだろう。
綾春は、自分の素性《すじょう》を隠《かく》したがっていると思っていたが、そうではなかった。
ペラペラと綾春自身の口から、世間話のついでに彼女の正体は語られたのだ。
彼女は両親とは早くに死に別れた。綾春の一族は商人で、彼女は歳《とし》の離《はな》れた祖母に育てられた。
そして、その祖母も老衰《ろうすい》で死んだ。
ここまでの話をきいた殷雷《いんらい》は、『その後、肉親同士の血で血を洗う、醜《みにく》い遺産争いが起きたのだな』と、一人で納得《なっとく》し、思いっきり爆燎《ばくりょう》に殴《なぐ》られた。
遺産の分配は公平に行われ、綾春もそこそこの金を受け取った。
『その金を意地の悪い叔父《おじ》か何かが狙《ねら》っているんだな』
と、殷雷はわざわざ口に出して言った為《ため》に爆燎に蹴《け》られた。
爆燎は、綾春と同じように、彼女の一族にも敬意を表していたのだ。
祖母には厳しく躾《しつ》けられはしたが、やはり可愛《かわい》い孫娘《まごむすめ》、綾春は少しばかり箱入り娘として育てられた。
綾春は、旅に出たいと考え、一族もそれもまた良かろうと同意する。
商人としての知識は、祖母から教えこまれていたが、実際に世間を見ておいたほうがいい。
問題は、旅の同行者だ。一人旅は危険だろうと、一族は旅の同行者を探したが、なかなかいい人物が見つからない。
早く旅に出たくてウズウズしている綾春の前に現れたのが、爆燎だった。
爆燎は宝貝《ぱおぺい》である。
考えようによっては、これほど怪《あや》しいものはないだろう。だが、一族は爆燎を宝貝としてよりも、一人の信頼《しんらい》出来る人格であると認めたのだ。
『いやはや、お目の高い方々でございますねぇ、こんちこれまた』
厭味《いやみ》が嫌《きら》いな爆燎は、殷雷を投げ飛ばした。
幾《いく》ら摩訶不思議《まかふしぎ》な能力を持つとはいえ、宝貝とて所詮《しょせん》は道具である。
道具の業《ごう》を背負っている。
道具の業、すなわち誰《だれ》かに使って欲《ほ》しいのだ。爆燎が綾春の前に現れたのも、とりたてて不思議はない。
綾春は、腕《うで》の立つ護衛《ごえい》を欲《ほっ》し、爆燎はその願いを叶《かな》えるだけの力量を持っていた。
旅の同行者を得た綾春は、気ままに温泉|巡《めぐ》りなど楽しんだ。程獲《ていかく》から、和穂の情報を夢で得たのもこの頃《ころ》だが、取り立てて気にはしなかった。
さて、ここまでは不思議でもなんでもないと和穂は再確認《さいかくにん》した。いっちゃ悪いが、宝貝を手に入れた経緯《けいい》としてはよくある話だ。
旅を続けていた綾春たちは、とある山の中で山賊《さんぞく》に襲《おそ》われた。
爆燎の前に、山賊がどれだけ束になってもかなうはずがなく、返り討《う》ちにあい役人の前に突《つ》き出された。
その事件の後、爆燎は急に流核晶《りゅうかくしょう》を欲《ほ》しがり、旅の目的地は急速《きゅうきょ》、九遥山《きゅうようさん》に変わったのである。
呑気《のんき》に鼻唄《はなうた》を歌う綾春に、和穂はたずねた。
「綾春さん。山賊に襲われた時ってどうでした?」
「はいはい、怖《こわ》かったですよ。ばくさんの腕《うで》を信用してはいましたが、十人近くの山賊さんで弓を撃《う》つ人までいたんです。
ばくさんは、弓に撃たれては危ないので、自分を使って下さいと、おっしゃいました。
爆燎槍《ばくりょうそう》って大きいでしょ? 私は自分に扱《あつか》えるかと不安でしたが、あら不思議。
槍《やり》を握《にぎ》ると、途端《とたん》に身が軽くなって、まるで槍のお師匠《ししょう》さんみたいに動けるじゃないですか。
あっという間に、山賊さんをコテンパンです」
和穂の考えはここで行き詰《つ》まる。
流核晶が綾春にとって、なぜ必要なのだろうか?
人相を自在に変え、特定の人物に変身するどころか動物にまで変われる宝貝だ。
程穫の夢を見た綾春の話では、体の大きさは変えられないらしい。もしも雀《すずめ》に化けたのならば、人間大の雀になる。
だから?
和穂の思考はグルグルと回った。綾春の素性《すじょう》が判《わか》る前には殷雷が、
『追手のかかっている犯罪者。
そうでなけりゃ、どこかの世継《よつ》ぎ争いにでも、巻き込まれてるんじゃないか?
人相を変える必要がある事情なんて、そんなもんだろう?』
と推測していた。
綾春の話では、そうではないようだ。
和穂は音を上げた。今の情報だけでは判らないと判断した。
「殷雷たちも、毎朝毎朝よく続きますね」
「ばくさんも、殷雷さんも戦うのがお仕事ですからねえ。鍛練《たんれん》出来る時には、鍛練したいんでしょう」
鍛練という言葉が当てはまるのか、和穂には疑問だった。
「それはそうと、和穂さん。和穂さんは仙人《せんにん》でいらっしゃったそうですね」
「はは。でも、前にお話したように、術の記憶《きおく》とかは全部|封《ふう》じられていて。
龍華《りゅうか》師匠《ししょう》とかの記憶はあるんですけど」
綾春との旅も長い。和穂も自分の事を色々と話していた。仙界での話、師匠の話。
「では、仙人になる前、人間の世界におられた時には、何をなされていたんですか?
仙人になる前でしたら、何百年も前のお話なんでしょ」
仙界での話は、今までに沢山《たくさん》していたが、和穂は綾春には自分の素性を話していないのを思い出した。爆燎が知っているので、綾春も知っていると判断していたのだ。
「いえ、私は見たまんまの年齢《ねんれい》ですよ」
「あら、それじゃ二十一|歳《さい》の私よりお若いのかしら?」
「えぇ。十五歳です」
「そんなにお若いのに、仙人になれたなんて才能がおありでしたのねえ」
「全然、そんな事はないですよ。私は赤《あか》ん坊《ぼう》の頃、九遥山《きゅうようさん》に捨てられていたんです。
たまたま、九遥山が仙界と入り交じった時に、龍華師匠に拾われて育てていただいたんです」
「九遥山? それじゃ、この辺りが和穂さんの故郷なんですね」
「だと思って、景色を見たんですが、判《わか》らないんですよ。
少しは懐《なつ》かしいかと思うんですけど、実感がわかなくて」
「あら、十五年ぐらい昔の話なら、探せば和穂さんの御両親《ごりょうしん》も見つかるかも」
言ってから、綾春は口をつぐんだ。
自分を捨てた親との対面を和穂が望むだろうか。
「ごめんなさい、和穂さん。調子にのって失礼な事を言ってしまって」
和穂は首を横に振《ふ》り髪《かみ》が揺《ゆ》れる。
「いいんですよ、気にしないで。捨てられたのは気にしてないんですから。
人より、ちょっとばかし親|離《ばな》れが早かったようなもんですから」
言いながらも、和穂は自分の胸が痛むのを感じ、不思議な気分になった。
今までなら、肉親の事を考えて、胸が苦しくなる事など、なかったのだ。
でも、今は肉親に思いを寄せると、どうしようもない不安感に包まれた。
和穂の表情を見て、綾春は泣きそうになりながら詫《わ》びる。
「本当にごめんなさい」
「はは、大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。本当に」
重い空気を吹《ふ》き飛ばしたのは、意外にも殷雷の笑い声だった。
例によって、全身ズタボロだが、今朝は自分の足で歩いている。肩《かた》に担《かつ》いだ棍《こん》も心なしか、いつもより軽そうだ。
「よお、和穂に綾春、今帰ったぜ」
ブツブツ文句を言いながら、爆燎が殷雷の後に続いた。
爆燎の頬《ほお》には、軽い内出血を起こしているのか、小さな青い痣《あざ》があった。
「あ、殷雷! もしかして爆燎さんに勝ったの?」
「和穂|殿《どの》。言葉に気を遣《つか》われなされ。この傷は不慮《ふりょ》の事故です」
「事故で怪我《けが》するとは、ジジィも未熟だな」
「小僧《こぞう》! いい気になるなよ。
今日の昼には、九遥山《きゅうようさん》に到着《とうちゃく》するであろうから、小僧を痛めつけすぎるのもイカンと考えてたんだ!
今朝の模擬戦《もぎせん》はこれまでにしようと、手を上げた時に攻撃《こうげき》しおって」
「避《さ》けりゃいいじゃねえか。それより、一本とったんだから小僧はやめろよ」
「断じて、一本とられてなどおらん! 小僧を小僧と呼んで何が悪い!」
「ははは。殷雷に爆燎さんも、早く食事にしましょ」
和穂の明るい仕種《しぐさ》を見て、綾春はホッとした。
爆燎槍は、人の姿ともう一つ、普通《ふつう》の槍《やり》の姿をとる。
本来の爆燎槍の形はかなり人目を引く為《ため》の配慮であった。
今の爆燎も、普通の槍に姿を変え、綾春の肩に担がれていた。
綾春の行李《こうり》は、和穂の断縁獄《だんえんごく》の中にしまいこまれている。
槍を持った娘《むすめ》に、棍《こん》を持つ青年。もう一人の娘は道服を着ている。
和穂は言った。
「冷静に考えたら、この三人って凄《すご》い組合せよね」
「お前の服装が一番目立つと思うぞ」
「そうかなあ?」
「目立つけど、和穂さんには似合っていますよ」
「……道服が似合うってのも、どうかと思うけどな。
これで、鎧《よろい》を着込んだジジィがいれば、間違《まちが》いなく人は寄ってこないな。
ま、この三人なら腕《うで》の立つ用心棒《ようじんぼう》を雇《やと》ったインチキ道士でとおるだろ」
「インチキって何よ、インチキって」
「インチキ道士を捕《つか》まえた、密偵《みってい》二人でもかまわんが」
「だから、インチキってのは何よ」
軽口を叩《たた》きながらも三人は、山道を登っていった。既《すで》に九遥山《きゅうようさん》の中だ。
和穂たちを、奇妙《きみょう》な三人だと指摘《してき》するような、人影《ひとかげ》には全く遭遇《そうぐう》しなかった。
日はまだ高かったが、うっそうとした林の中を抜《ぬ》ける山道は、ヒンヤリとしていた。
だんだんと、道が険しくなるにつれ、和穂の足が遅《おく》れ出した。
舌打ちをしながら、殷雷は棍を断縁獄の中にしまい、刀へと姿を変えた。
腰帯《こしおび》に差す代わりに、左手に鞘《さや》を握《にぎ》った途端《とたん》、和穂の体には力がみなぎった。
「綾春さん。宝貝王はどこにいるんですか」
「夢の感触《かんしょく》だと、山頂に近い場所に、屋敷《やしき》があったんですが。
一度、山頂まで登れば探しやすいと存じます」
二人の娘《むすめ》は、垂直にそそり立つ岩壁《がんべき》を、片手に武器を持ったまま器用に登っていった。
和穂は、冷たい水で顔を洗ったように、自分の感覚が張り詰《つ》めていくのを感じた。
ほんの僅《わず》かな気配でも見落とさないように、殷雷が五感を研《と》ぎ澄《す》まさせているのだろう。
五感には、上空でヒュルヒュル鳴きながら飛ぶ、鷲《わし》の気配が禍々《まがまが》しく感じとれた。
宝貝王は、流核晶《りゅうかくしょう》を持っているのだ。あの鷲が宝貝王ではない保証がどこにあるのだろう。
岩壁を越《こ》え、林の中を歩いていた和穂は、自分の意思に反して、足を止めた。
心を通じて、殷雷に問う。
『どうしたの?』
『足元を見てみろ』
和穂はしゃがみ、土の上に半ば埋《う》もれた一振《ひとふ》りの剣《けん》を見つけた。
綾春も側《そば》に寄る。
殷雷は和穂の声を借りた。
「ジジィ。封火《ふうか》だ」
爆燎もまた、綾春の声を借りて口を開く。
「うむ。間違《まちが》いない。宝貝王の仕業《しわざ》だな」
「封火があるなら、他の封五もあるんじゃないのか?」
「可能性は高いな」
和穂は自分の声で問う。
「封火ってなんです?」
綾春の柔《やわ》らかい声が、爆燎の口調で喋《しゃべ》るのにはかなりの違和感《いわかん》があった。
「五行を封じる、封五剣の一つ、封火剣という宝貝です。
例えば、封水剣なら水の進入を防ぎますし封土ならば、土砂崩《どしゃくず》れを止めるのも可能ですな。
もっとも動きを封じている間は、己《おのれ》も動けない欠陥《けっかん》があります」
和穂の声を使い殷雷が説明を付け加えた。
「俺《おれ》やジジィみたいに、意思を持つ宝貝ではないんだが。
それでも鋼《はがね》の剣に比べりゃ、歯こぼれはしないし、切れ味は勝《まさ》る。
折ることはないだろう」
「まったくだ。封火ならば、ワシの術を封じるぐらいの力はあるのにな」
静かな言葉だったが、己の同類を無意味に破壊《はかい》された怒《いか》りが隠《かく》されていた。
「おやおや。遠い所から、わざわざ屑《くず》拾いにやって来たのかい」
見知らぬ声に、和穂と綾春は背後に飛びすさった。
綾春の手からは、渦《うず》を巻きながら青紫《あおむらさき》の炎《ほのお》が声がした場所へと飛ぶ。
和穂も炎の到達点《とうたつてん》へと向かい駆《か》ける。
今まで幾度《いくど》となく、殷雷刀を使っている和穂だが、殷雷の動きが普段《ふだん》より素早《すばや》いと感じた。
「待て、小僧《こぞう》! 炎は外れた。そこには誰もおらぬ!」
にわかには信じられなかったが、和穂の動きはピタリと止まり、耳をすました。
「おいおい。挨拶《あいさつ》もすんでいないのにそれはないだろう。
初対面でいきなり戦うとは、気が短い宝貝連中だな。
刀は殷雷刀だな。槍《やり》はなんだ?」
声の出所は、完全に把握《はあく》出来た。
だが、和穂と綾春はピクリとも動けなかった。最初の声の時も、声の場所は判《わか》っていたのだ。同じように、今の出所を攻撃《こうげき》しても無駄《むだ》に終わるだろう。
「炎を操《あやつ》る槍とは、素晴《すば》らしい。
まあ、どっちにしても今日は戦いたくないんだ。攻撃は無意味だと理解してくれ。
俺がやる気ならば、とっくに勝負はついてるんだぜ。
お前らの首をはねとばすぐらい、わけがないんだからよ」
爆燎は、負けじと怒鳴《どな》った。
「ほざけ! 宝貝王よ! 流核晶《りゅうかくしょう》を渡《わた》せば少しは加減してくれるぞ!」
「ほお、槍の望みは流核晶か」
「ジジィ焦《あせ》るな!」
「判《わか》っておる!」
「さてさて、そろそろ姿を見せてやろうか。願わくば、馬鹿《ばか》な宝貝連中が攻撃の無意味さを理解していて欲《ほ》しいもんだ」
和穂と綾春は、真正面を見据《みす》えながら、静かに息を吐《は》いた。
まるで己《おのれ》の呼吸音すら、敵の気配を探《さぐ》る邪魔《じゃま》になると、考えているようだ。
綾春は、手に持つ槍に心を通して、話しかけた。
『あの、ばくさん。おとりこみちゅう、お話してもよろしいでしょうか?』
『何です?』
『宝貝王さんは、強いんでしょうか?』
『はっはっは。心配めさるな。奴《やつ》の居場所が全然|把握《はあく》出来ないだけですよ』
『それは、もしかして、かなり、結構、大変な状況《じょうきょう》なのでは?』
『奴は、自分の居場所を我等《われら》が判断しかねておるのを楽しんでおるようです。
ならば、読めますぞ』
『はあ?』
『奴は、我等を脅《おど》かすつもりで真後ろから来ます!』
爆燎の言葉が終わるやいなや、綾春と和穂の背中が、ボンと叩《たた》かれる。
綾春は振《ふ》り向く途中《とちゅう》に、同じく振り向いている最中の和穂の顔に、ニヤリとした笑顔《えがお》が浮《う》かんでいるのを見た。和穂の笑顔というより、敵が策にはまった時に殷雷が見せる笑顔だ。
殷雷も同じ読みをしていたのだ。
視覚が伝える情報を、頭が理解するかしないかの僅《わず》かな時間で殷雷刀は刃《やいば》を走らせた。
宝貝王の顔を理解する前に、その顔が記憶《きおく》にあるかどうかだけを確認《かくにん》する。
記憶にあるならば、罠《わな》の可能性がある。
だが、記憶になければ斬《き》って構わない。
宝貝王は見知らぬ顔をしていた。当然だった。
殷雷の刃が首と肩《かた》の付け根を目指し、走った。爆燎はその鋭《するど》い刃を眉間《みけん》に目掛《めが》けて突《つ》いた。
殷雷も爆燎も宝貝王を殺すつもりまではなかった。だが、少しばかり痛い目に合わせようとは考えていた。
至近|距離《きょり》で、二つの宝貝に狙《ねら》われ、宝貝王の肩と眉間の骨は折られるはずだった。
はずだった。
刀と槍《やり》は空を切る。
宝貝王の姿は忽然《こつぜん》と消えた。いや、正確には殷雷と爆燎の視界から外れたのだ。
宝貝王の勝ち誇《ほこ》った声が轟《とどろ》く。
「ここまでやらなきゃ、納得《なっとく》しないか。
それぐらい骨のある方がいいけどよ。
けどもういいだろ。お前らの攻撃《こうげき》は通用しないんだ。通用しない理由が判《わか》るまで、攻撃するのは得策ではあるまい。
構えを解け。武器を捨てろとは言わんからさ」
綾春は槍の構えを解いた。和穂は殷雷刀を鞘《さや》に戻《もど》す。
鞘を握《にぎ》りしめながら、和穂たちは再び背後を向いた。
そこには宝貝王が立っていた。
涼《すず》しい顔をして立っていたなら、今までの宝貝王は全《すべ》て幻《まぼろし》で、何らかの幻術に振《げんじゅつふ》り回されていたと、考えられた。
だが、宝貝王の首からは、ほんの少し血が滲《にじ》み出ていた。
殷雷が切りつけた場所だ。
宝貝王、程獲はそれほど大きな男ではなかった。
身長は和穂とさほどかわらない。年齢《ねんれい》も和穂ぐらいであろう。
髪《かみ》は長くはない。
痩《や》せた頬《ほお》に、薄《うす》い唇《くちびる》。顔面を覆《おお》う、無数の小さな古傷。
顔の中で一番大きな古傷は、右の眉毛《まゆげ》から下瞼《したまぶた》まで続いてる。その傷が原因であろう、程獲には右目が無かった。
柔《やわ》らかいが少し太めの眉毛が、彼の顔の上にのっていた。
傷だらけの顔の中で、大きく澄《す》んだ左の瞳《ひとみ》が少し場違《ばちが》いだった。
夢と希望に満ちた目ではある、少なくとも気迫《きはく》のない死んだ目ではない。
彼の夢と希望は、他人の悪夢と絶望の上に成り立っているという、死臭《ししゅう》を帯びた凄味《すごみ》があった。
寒いのは少し苦手とばかりに、左手は袖《そで》の中に引っ込めている。
外に出ている右手は、赤い飾《かざ》り布をもてあそんでいた。
爆燎と殷雷は、程穫の手を見て、かなり腕《うで》が立つと判断した。何かの武器に習熟している証拠《しょうこ》に、小さいが不自然なタコが幾《いく》つかあった。
綾春と和穂は、程獲のどんな些細《ささい》な動きも見逃《のが》さぬとばかり、見つめ続けた。
飾り布を片手で結んだり、解いたりしながら程獲は口を開いた。
「よしよし。これでやっと話が出来るってもんだ。
暴力はいかんよな。暴力は」
綾春の声で叫《さけ》んでも、爆燎には普段《ふだん》の迫力《はくりょく》があった。
「何を企《たくら》んでいる! 暴力はいかんだと! 今まで何人もの宝貝使いを傷つけてきた!」
「お嬢《じょう》さん。いちいち怒鳴《どな》るなよ。可愛《かわい》い声なのにもったいない。
おっと、和穂よ。飾り布を返しておこう。結構、上物の布じゃないか。やっぱ女の子だよな」
殷雷はぞくりと悪寒《おかん》を感じ、慌《あわ》てて和穂の髪《かみ》の毛を触《さわ》った。
いつも括《くく》っている髪は解けていた。程獲の手にあるのは、確かに和穂の飾り布だった。
爆燎は痺《しび》れを切らし、再び構えを取った。防御《ぼうぎょ》の為《ため》か綾春の全身を炎《ほのお》が包む。
「本当にくどいな。平和的に話をしようとさっきから言ってるだろ。いい加減にしてくれよ」
和穂は舌打ちし、綾春を諭《さと》す。
「ジジィ、らしくもねえ、焦《あせ》るな!」
「黙《だま》れ! 宝貝王よ、平和的に話しあいだと!
貴様が我等《われら》を傷つけない保証がどこにあるというのだ!」
和穂の髪に飾り布を括りつけようとする程穫を、あえて殷雷はそのままにした。斬《き》りつけても先刻の二の舞《まい》だろう。
「悪いな。飾り布の結び方なんて知らないんで形が変になっちまった。
自分で直してくれ。
そっちのお嬢さん。俺が和穂と、その同行者を傷つけない保証か? 今までの行動から信じてくれてもいいだろ。
それでも足りないなら、俺が和穂と、和穂の知人を傷つけない理由を教えてやろう」
ジャキリと殷雷は、柄頭《つかがしら》を程穫の顎《あご》に突《つ》きつけた。
「和穂和穂と、なれなれしいぞ」
「妬《や》くのはお門違《かどちが》いだぜ、殷雷刀よ」
柄頭を押《お》さえ、程穫は和穂の空いている右手を握《にぎ》った。和穂の目を覗《のぞ》き込み、宝貝王は言った。
「和穂。俺はお前の兄だ。
十五年前のあの日、九遥山《きゅうようさん》に捨てられた双子《ふたご》の兄妹なのだ」
飛びすさりながら、殷雷は己《おのれ》を抜《ぬ》き放ち構えに入る。
「てめえ、宝貝王!
下らん心理戦は止《や》めろ! 根も葉もない出任せをかましやがって!」
「俺と和穂は同じ空を見ていた。
俺と和穂は同じ夢、同じ記憶《きおく》を持っていたのだ。
赤子の頃の、宝貝劾想夢《がいそうむ》を使って遡《さかのぼ》れる一番古い記憶が全く一緒《いっしょ》だったのだ。
赤い赤い、血よりも赤い夕焼けの空。全く同じ白い雲の形」
殷雷刀の鞘《さや》を持つ、和穂の手がダランと垂れ下がった。
殷雷は戦う時には、和穂の体を操《あやつ》る。それも和穂が望んだ時だけだ。和穂の意思を無視して、殷雷は和穂を動かす事は出来ない。
宝貝王の言葉に、和穂は衝撃《しょうげき》を受けた。封《ふう》じられていた悪夢が、今完全に思い出せたのだ。
茫然《ぼうぜん》とする和穂の心に殷雷は触《ふ》れた。
『おい、和穂! しっかりしろ。あんな奴《やつ》の口車に乗るな!』
『……思い出した。思い出したのよ』
『しっかりしろ!』
『夢、夢を見たの』
『奴の言葉は嘘《うそ》だ!』
『嘘じゃない。夕焼けの空を見たの』
『夕焼けがなんだ! 雲の形がなんだ!』
『父さんの顔も見た。程穫も同じ顔を見ていた』
殷雷も言葉に詰《つ》まる。
虚《うつ》ろな声で和穂は言った。
『出てって……』
『和穂!』
『出てってよ!』
和穂は放心状態になっている。爆燎は、次の一手を決め兼《か》ねた。
程獲は和穂が正気を取り戻《もど》すまでの間に、綾春に忠告を与《あた》えた。
「どうだい、お嬢《じょう》さん。これで和穂と、その知人であるあんたたちに害を加えないと納得《なっとく》しただろ。
もっとも、あんたらの場合は、調子に乗って俺にまとわりついたら、他の連中と同じように始末させてもらうぜ。
心配するな。普通《ふつう》にしてれば、危害は加えない。可愛《かわい》い妹の知り合いを屠《ほふ》るのは、気がひけるしな」
和穂が立ち上がった。
「和穂よ。我《わ》が只《ただ》一人の肉親よ。共に暮らそうではないか。
無論、強制はしない。俺の提案をゆっくりと考えてくれ。
宝貝回収にどれだけの意味があるかを考えてくれ。無駄《むだ》に命を落とすぐらいなら、兄と共に暮らそうではないか。
ゆっくりでいいから、考えてくれ。いい返事を待っているぞ」
宿屋を経営する老婆《ろうば》は、久し振《ぶ》りの客に狂喜《きょうき》していた。
「いやはや、お早いお着きでございます。
最近はどうも、柄《がら》の悪そうなお客さんばっかしでね。また、そのお客さんが揃《そろ》いも揃って、九遥山《きゅうようさん》に登っていくんでございますよ。
九遥山、そう、その山です。
いやはや昔は神山だとかでお参りに行く人も多かったんですけど、御利益《ごりやく》の方がいまいちでして。
今じゃ神様じゃなくて、鬼《おに》が住むって話ですよ。九遥山に登った人は、只じゃすまないような大怪我《おおけが》を負いますからね。
さっきも言った、柄の悪いお客さんもそれは酷《ひど》い仕打ちにあったんでございますよ。
どれぐらい酷いかと言うと、もう口に出すのも恐《おそ》ろしいぐらいで」
そう言う老婆は、怪我の状態を説明したくてウズウズしているように見えた。
殷雷《いんらい》は老婆を無視して用件を言う。
「部屋はあるか。出来れば二つ」
「へいへい、ありますよ。それで九遥山の話なんですけど、こないだ泊《と》まられた五人組のお客さんなんか」
爆燎《ばくりょう》は鎧《よろい》を消していた。ゴツゴツとした太い二の腕《うで》があらわになっている。
「女将《おかみ》。その話はちょっと」
「そうですか? ともかく九遥山には近寄られない事です。あの山には化け物が住んでいますからね」
四人は、部屋の中央で顔を突《つ》き合わせていた。ただ、和穂《かずほ》だけは力なくうつむいていた。
少しでも和穂の気持ちを落ち着かせようと綾春《りょうしゅん》は、和穂の手を握《にぎ》っていた。
しばしの沈黙《ちんもく》の後、殷雷が吠《ほ》えた。
「宝貝王《ぱおぺいおう》だか、程穫《ていかく》だか知らないが、あんなのは嘘《うそ》っぱちだ。何かの策を仕掛《しか》けているに違《ちが》いない! 和穂を動揺《どうよう》させるのが目的だ」
武器の宝貝は、与《あた》えられた情報を冷静に分析《ぶんせき》する本能を持つ。今の殷雷には、その本能すら機能していなかった。和穂以上に彼も動揺していたのだ。
爆燎は、静かに指摘《してき》した。
彼は彼の目的を遂行《すいこう》しなければならない。
「小僧《こぞう》。程獲が、和穂|殿《どの》を動揺させてどうする? 先刻の戦い、下手をしたら我等《われら》が皆殺《みなごろ》しになっていたかもしれん」
飾《かざ》り布をもてあそぶ、程穫の姿が殷雷の頭に蘇《よみがえ》った。
「そ、それはだな」
「いいか、小僧。心理戦や策など、程穫は全く必要としていない。心理戦と言うのなら、その根拠《こんきょ》を示せ」
「えぇと。肉親だと言い張るのだから、殺すわけにはいかない事情があって、和穂の協力が必要なわけだ。
そうだ、和穂の知ってる何らかの情報を得たいんだ!」
「かもしれんな。だが、程穫の性格からするなら、役立たずの槍《やり》と刀の宝貝を破壊《はかい》して、綾春様を人質に取る。
綾春様の命と引き換《か》えに、和穂殿に情報提供を持ち掛《か》け、情報を得たら綾春様と和穂殿を殺す。
こっちの方が、奴《やつ》の流儀《りゅうぎ》に近いと思うが」
殷雷は奥歯《おくば》をかみしめた。ギリギリと鳴る歯が刀の宝貝の混乱を示していた。
「情報じゃねえのなら、和穂自身が何かの鍵《かぎ》なんだ。和穂の信頼《しんらい》が必要な」
「失礼を承知で言わせてもらうなら、過去の実績はともあれ、今の和穂殿は術もまったく使えぬ普通《ふつう》の娘《むすめ》さんであろう。
考えを変えるなら、もし和穂殿に何らかの力があったとしても、神農《しんのう》様が全《すべ》て封《ふう》じ込めているのではないか?
仙人《せんにん》の頂点に立つ、五仙の一人が封じ込めたものを、宝貝|風情《ふぜい》がどうにか出来るか?」
淡々《たんたん》と理屈《りくつ》を詰《つ》めていく爆燎を、殷雷はにらんだ。だが、爆燎は勿論《もちろん》、臆《おく》さない。
「小僧が言った、和穂殿自身が何かの鍵であるというのは、事実であろう。
それは、程獲にとって、個人的な鍵だ。
例えば、生き別れの肉親とか。
つまり、程穫の行動と発言には、信憑性《しんぴょうせい》がある。違《ちが》うか小僧?」
綾春の手を離《はな》し、和穂は立ち上がった。その顔にはいつもの笑顔《えがお》が戻《もど》っていた。
だが、声が少しうわずっていた。うわずる声を戻そうと努力すればするほど、和穂の声は、か細く揺《ゆ》れた。
「はは、ちょっとビックリしちゃったけど、大丈夫《だいじょうぶ》です。程穫は恐《おそ》らく、本当に私の兄なんでしょう。
双子《ふたご》って言ってたけど、そんなに似てませんよね。
えぇと。でも、兄だからといって、別にどうもしません。いつものように、宝貝を回収するだけの話です。
程獲は手強《てごわ》そうだけど、綾春さんや爆燎さんが味方についてるから、安心です。それだけの事です」
殷雷はイライラしながら発言した。
「ふん。何を偉《えら》そうに、当たり前の事を言ってやがる。
間抜《まぬ》けな元仙人の妹と、凶悪《きょうあく》そうな面《つら》した兄貴か。やれやれ、兄妹|揃《そろ》って、手間かけさせてくれるぜ」
その時、コクリと綾春の体が揺れた。ふいの居眠《いねむ》りで体勢が崩《くず》れたようだ。
「あら、ごめんなさい」
綾春を見る、殷雷の目が戦闘時《せんとうじ》のように殺気立った。
一言一言、振《ふ》り絞《しぼ》るような和穂の言葉を聞きながら、ウトウトした綾春が許せなかったのだ。
「綾春、ふざけるなよ!」
爆燎は殷雷を制し、綾春に肩《かた》を貸した。
「綾春様。隣《となり》の部屋でお休み下さい」
肩を貸しながら、爆燎の姿は弾《はじ》け、本来の槍《やり》の姿に変わった。爆燎槍《ばくりょうそう》を持った綾春はスタスタと部屋の扉《とびら》に向かい、出ていく。
刀の宝貝は呆《あき》れた声をだす。
「呑気《のんき》にも程《ほど》があるぞ。爆燎も爆燎だ。怒《おこ》る時には、怒るのが綾春の為《ため》だろうに。
それがどうだ、隣の部屋に行くのに、いちいち槍の姿に戻《もど》るなんて」
爆燎と綾春の姿が消え、和穂はほんの少し心が緩《ゆる》んだ。
涙《なみだ》ぐむ目で殷雷に問う。
「殷雷、私、間違《まちが》ってないよね? これでいいんだよね」
程獲は強い。
普通《ふつう》に戦っても、生き残るのはどちらか片方だろう。和穂は、自分が兄を葬り去る決断を下した気分になっていた。
和穂に迫《せま》られ、返答に困った殷雷は、ついいつもの調子で減らず口を叩《たた》いてしまった。
「へん。どうだかな。いつ敵に倒《たお》されるか判《わか》らん宝貝回収なんかやってるより、兄貴と暮らした方が幸せかもしれんぞ。
程獲に歯が立たなかった刀の宝貝を護衛にするより、あいつの方がお前をちゃんと守ってくれるかもな。
あぁいう、ど腐《くさ》れ外道《げどう》に限って、妹を猫|可愛《かわい》がりしやがるんだぜ。やだやだ」
「……殷雷」
お前は間違っていない。の、一言を和穂は望んでいた。殷雷に適当にあしらわれ、必死に堪《こら》えていた涙が堰《せき》を切って流れた。
「馬鹿め。泣いてどうなるというのだ。間違えてるか、間違えてないか、俺《おれ》の知った事じゃねえ。
……俺は、和穂が決めた事に手を貸すだけだ。判《わか》ったか、このスットコドッコイ」
和穂は涙をゴシゴシと掌で拭《ふ》いた。
「ありがとう、殷雷!」
ガラリと扉《とびら》を開け、爆燎が戻ってきた。
「よお、ジジィ。間抜《まぬ》けなお嬢様《じょうさま》に子守歌でも歌ってやったか?」
殷雷の軽口には乗らず、爆燎は低い声でつぶやいた。
「……時間がない。二、三日の内に流核晶《りゅうかくしょう》を手にいれなければ、綾春様の命が危ない」
「綾春様の内臓は、病《やまい》に冒《おか》されておる。特に血液の中から邪気《じゃき》を取り除く機能が、致命《ちめい》的なまでに破壊《はかい》されておってな。
他の臓物にしても、ゆっくりとだが、機能が弱まっておるのだ」
いきなりの告白に、和穂は慌《あわ》てた。
あの元気な綾春が、病に冒されているとは信じられなかった。
「でも、綾春さんは、あんなに元気で」
「……殷雷刀を使う時、和穂|殿《どの》の筋肉は殷雷刀の支配下にありますな。
ならば、理解いただけると思うが、私が綾春様の弱まった内臓を支配し、力を貸しておるのです。
血の中の邪気さえ取り除けば、綾春様は普通《ふつう》に暮らせます。邪気が溜《た》まるたびに、私めが手を貸せばよいのですから。
だが、病は徐々《じょじょ》に酷《ひど》くなっております。
武器の宝貝に出来る事には、おのずと限界が」
思い当たる節が、和穂にはあった。
旅の最中の爆燎は、常に槍《やり》の形を取り綾春の手の中にあった。
綾春と初めて出会った時も、槍を持った綾春が行李《こうり》を背負っていたのだ。
人の姿をした爆燎が、行李を背負った方が綾春には負担《ふたん》が掛《か》からないはずだ。
「流核晶《りゅうかくしょう》があれば、綾春さんの病気は治るんですか?」
「左様。綾春様の内臓を、正常な物へと変化させれば、健康なお体へと」
殷雷が腹立たしく言った。
「だったら、最初っからそう言え! 変に勘繰《かんぐ》っちまっただろうが」
「怒《おこ》るな小僧《こぞう》。すまぬとは思っておる。
綾春様は、自分の命の為《ため》に他人に危険が及《およ》ぶのをよしとはすまい。だから、私のワガママという形にしたのだ」
「でもよ、ジジィ。お前が、自分のワガママとして流核晶を手に入れると決めて、俺らにも黙《だま》っておくと決めたのに、自分から口を割るなんて、頑固《がんこ》なジジィらしくもない」
「……程穫は強い。私に万が一の時があれば小僧よ、お前が綾春様の体を診《み》て、内臓の変化を調節してくれ。
流核晶は絶対に手に入れなければならぬ。少しでも確実さを増すために、和穂|殿《どの》と手を組んだのだ」
程穫との戦いに、死を覚悟《かくご》している爆燎の態度に、殷雷も少しばかり敬意を持った。
「ふん。万が一とは、えらく弱気だな。
程穫を恐《おそ》れるとは、ジジィらしくもないじゃねえか」
槍《やり》の宝貝は、状況《じょうきょう》を冷静に判断していた。己《おのれ》の不安の原因を単刀直入に言う。
「程獲が怖《こわ》いんではない。味方が恐《おそ》ろしいんだ」
「どういう意味だジジィ?」
「なまくらの小僧よ。ぬしに和穂殿の血族が斬《き》れるのか? 情に脆《もろ》い欠陥《けっかん》を持つ刀に、斬れるか?」
「なんだと、ジジィ! どういう意味だ!」
「今日、一度戦ってみて感じた。程穫は危険だ。己の命が燃え尽《つ》きる瞬間《しゅんかん》まで、我等《われら》の喉笛《のどぶえ》を狙《ねら》う目だ。
加減の出来る相手ではない。
俺は奴《やつ》を殺して、流核晶を手に入れるつもりだ。奴を殺せる隙《すき》があれば躊躇《ちゅうちょ》なく殺《や》る。
小僧。お前はどうだ? どうせ、倒《たお》して手に入れる、ぐらいにしか考えてないのではないか?」
和穂の視線を痛いぐらいに、背中に感じっつ殷雷は答えた。
「……ジジィの邪魔《じゃま》にはならん」
爆燎は舌打ちをしながら、床《ゆか》に座《すわ》った。
「まあよい。それよりも、今日の戦いで奴の手の内が判《わか》っただろ。作戦を練るぞ」
「ちょい待て奴の何が判ったというんだ?」
「……気がついてなかったのか? それでよく、綾春様を呑気者扱《のんきものあつか》いできたものだ」
「本当に、奴の手の内が判ったのか?」
大袈裟《おおげさ》に溜《た》め息をつき、槍は言った。
「奴の、あの動きから導かれる答えは一つだけだろうが。
程穫は、時間を止める宝貝を持っている。
それ以外には考えられぬ」
「ま、待ってくれ! それは本当か!」
「どうしようもない、なまくらだな。我等が攻撃《こうげき》を仕掛《しか》けた時、奴はどんな恰好《かっこう》をしていたか思い出せ」
「辛気臭《しんきくさ》い年寄りみたいに、袖《そで》の中に手を入れていたが……」
「そう。我等の攻撃が当たる寸前、袖の中で程穫の腕《うで》が動いた。何らかの宝貝、つまり時間を止める宝貝を使ったのだ」
「待て待て待て待て。もしも、時間を止める宝貝を使ったとして、それならば作戦の立てようがないだろ!」
「時間を止めるぐらいでガタガタ騒《さわ》ぐな。よくある話ではないか」
「あってたまるか! 待てよ、ジジィ。もしかしてお前も時間を止められるのか?」
「馬鹿を言え。余芸として、炎《ほのお》は操《あやつ》れるが、時間を止めるなど、余芸の範囲《はんい》を越《こ》えておる」
「爆燎さん、時間を止める程獲に勝ち目があるんですか?」
「まず、和穂|殿《どの》。あなたは程穫に傷つけられる恐《おそ》れはありません。
綾春様は、防御の為《ため》の炎の中に包み込みますから、これまた安全。
後は、小僧が棍《こん》を握《にぎ》って、程穫と戦ってもらいましょう」
「俺一人で戦うのか?」
「心配するな。時間を止める宝貝を破壊《はかい》してくれれば、すぐにワシも戦うから」
「無茶だ!」
「いつもの減らず口はどうした?」
「ん? 作戦を練ろうと、ジジィは言ってたな。もしかしてあてはあるのか?」
「うむ。それを小僧に伝授してやろうと思ったのだがな」
爆燎はそろりと窓際《まどぎわ》により、木枠《きわく》にはめられた小さな障子を開けた。
窓の外、庭先には一羽の烏《からす》がいた。
大きな大きな、身《み》の丈程《たけほど》の烏だ。真っ赤な目をしているが、片目しかない。
爆燎は大声で宣言した。
「烏に化けたか程穫。うっかり気配を見落としてしまったわい。
そんな経緯《けいい》で、明日が貴様の命日だ。
ここの小僧が、貴様の時間を止める宝貝を破壊してくれるそうだ」
九官鳥や、オウムのように、烏の発声器官もまた、人の声を真似《まね》できる構造になっていた。
烏は言った。
「娘の病気を治す為に流核晶が必要らしいな。結構切羽《せっぱ》詰まっているようじゃないか。
さっきの槍《やり》はお前か? 名前は爆燎、爆燎槍ってわけだ。
爆燎。見事な推察だな。確かに、俺は時間を止める宝貝、泥刻砂《でいこくさ》を持っている。
だが、それを予想して何とする? 止まった時間の中で抵抗《ていこう》など不可能だろうが!」
「今晩中考えて、この小僧が対抗策を練るだろうよ。
明日を楽しみにするがよい。
小僧の対抗策が怖《こわ》いなら、今夜の内に夜襲《やしゅう》をかけるのも良かろうが」
「それには及ぶまいよ。泥刻砂に弱点などない。
受けて立ってやろうではないか。和穂よ、お前の知人を傷つけるのは心苦しいが、歯向かう奴《やつ》を放《ほう》ってはおけんのでな。
明日が誰《だれ》の命日になるか、楽しみだな!」
烏はバサバサと砂煙《すなけむり》を上げて、薄暗闇《うすくらやみ》の空へと舞《ま》った。
爆燎は、安堵《あんど》の息をついた。
「見たか、小僧。心理戦とはこうやるのだ。これで、程穫は明日になるまで、我等《われら》を襲《おそ》うまい」
「威張《いば》るほどの策かよ。で、時間を止める相手と戦う方法は?」
「……教えてやりたいのは、やまやまだが、程穫の耳がどこに潜《ひそ》んでいるか判《わか》らない。
あやつはなかなかの腕《うで》を持っておる。気配を消すのも上手《うま》いものだ。
飛んでいったように見せ掛《か》け、床《ゆか》の下で大蛇《だいじゃ》に化けておるやもしれん。時を止められるのなら、その可能性もある。
悪いが、自分の知恵《ちえ》で思いついてくれ。
簡単な方法だ。よもや判らないはずはなかろうな」
殷雷は小刻みに、自分の頭をかいた。
「和穂、お前には判るか?」
「これ、自分で考えろ。程獲にバレたら勝てるものも勝てなくなる。
自分で考え、自分の中にしまっておくのだぞ」
「あ、判ったぞ。今日も、奴が懐《ふところ》で何かをやっていたのまでは見えていた。
つまり、時間を止める仕種《しぐさ》は見されていたんだ。
ならば、和穂を人質にすればいいんだ。
時間を止めたら、和穂の命はないぞって。可愛《かわい》い妹の為《ため》なら、泥刻砂《でいこくさ》とやらを渡《わた》すかもしれんぞ」
槍《やり》の宝貝は、顎髭《あごひげ》を撫《な》でた。
「ふん。下らん冗談《じょうだん》を飛ばして、余裕《よゆう》がある振《ふ》りなどしおって。
真面目《まじめ》に今夜中に、対抗策《たいこうさく》を思いつくのだぞ」
和穂は少し、心配だった。殷雷の眉間《みけん》に皺《しわ》がよっている。刀の宝貝は、必死に答えを探《さぐ》っているのだ。
「殷雷、大丈夫《だいじょうぶ》?」
「正直言って、全然判らん」
「小僧《こぞう》! しっかりしろ。小僧なんぞに、綾春様の命を賭《か》けさせる、わしの身にもなれ」
「追い詰《つ》めるな! 判るものも判らなくなっちまうだろうが」
殷雷は椅子《いす》に深く座《すわ》り直し、額に掌《てのひら》をあてた。
「うむ、和穂|殿《どの》。少々早いが、食堂にいって飯でも食ってまいろうか?」
「はい」
座ったばかりの殷雷が立ち上がった。
「俺も食いにいく」
「……今の冗談は少し面白《おもしろ》かったぞ。飯を食ってる暇《ひま》があるなら、とっとと考えろ!」
和穂の背中を押《お》して、爆燎は部屋の中から出ていった。
薄暗《うすぐら》い、キリキリと軋《きし》む廊下《ろうか》を爆燎にいざなわれ、和穂は歩いた。
「殷雷も御飯を食べなきゃ、可哀《かわい》そうです」
「心配めさるな。食事は、この爆燎がお相手しますぞ。
さて、綾春様は食事をどうなされるかな?
まあよい、夜中にお目覚めになられたら、夜食|替《が》わりに女将《おかみ》に粥《かゆ》でも作っていただきましょう」
「御飯|抜《ぬ》きじゃ殷雷が」
爆燎は、ふと歩みを止めた。
「和穂殿は、何か勘違《かんちが》いしておられませぬか? もともと宝貝たる我等《われら》に、食事など必要ありません」
「でも、爆燎さんは旅の途中《とちゅう》にちゃんと食事をなさってたんじゃ」
「ああ、あれは一人の食事は味気無いと思いまして、綾春様に付き合っていたのです。
それに自分だけが食事をして、人ではなくとも人の形をしたものが、何も食わなければ心理的に落ち着きますまい。
小僧《こぞう》も、どうやら和穂|殿《どの》の食事には、まめに付き合っている様子ですな。
この心遣《こころづか》いに関しては、奴《やつ》を褒《ほ》めてやってもよいと存じますぞ」
そうだったのかと、和穂は殷雷の表面に出さない優《やさ》しさに気がついた。
少しばかり嬉《うれ》しい気分になり、和穂は廊下を進んだ。
「でも、勿論《もちろん》味は判《わか》るんですよね」
「左様。もっとも、味にこだわるような道楽な武器など、見たことないですが」
蘇《よみがえ》る、粗炊《あらだ》きに食らいつく殷雷の記憶《きおく》。
あれはどうみても、私の食事に付き合ってるって態度じゃなかったわ。と、和穂は思い直した。
「……殷雷って結構道楽な武器なのかも」
「……まさか、小僧はわしに喧嘩《けんか》を売る為《ため》に味噌《みそ》の色にこだわったんじゃなく、本気で味にこだわっていたのですか?
食事がすんだら、少し説教をしてやらねばならんな」
力なく和穂は笑った。
「いいんですよ、それぐらい」
和穂の笑顔《えがお》から、爆燎は兄と戦うという精神的な圧力に、和穂は耐《た》えうるかもしれないと判断した。
それで充分《じゅうぶん》だと槍《やり》の宝貝は納得《なっとく》した。
戦う覚悟《かくご》さえあればいい。
この柔《やわ》らかな笑顔を持つ娘《むすめ》は、実際に兄の死を目前にしたら悲しみの淵《ふち》に落ち込み、戻《もど》って来られなくなるかもしれない。
兄の死を回避《かいひ》して、問題が全《すべ》て解決する可能性に賭《か》けて、戦うのでも構わない。
戦ってくれ。
爆燎は己《おのれ》の中にある、武器としての非情さに身震《みぶる》いした。
己の刃《やいば》が程穫を切り裂《さ》き、和穂がどうなろうとも、綾春の命だけは助けなければならない。
情に脆《もろ》く、非情に徹《てっ》しきれない欠陥《けっかん》を持つ宝貝、殷雷刀。自分にもその欠陥があれば、他の策に思い到《いた》る事が出来たのかもしれないのにと、爆燎は悔《く》やむ。
殷雷と程獲を戦わせるのだ。
そうすれば、自分が程穫に勝つ可能性が、それだけ上がる。
和穂たちは、捨《す》て駒《ごま》だ。
和穂が戦うと決めたなら、殷雷もそれに従う。殷雷との戦いで、程穫には全ての切り札を吐《は》き出してもらわねばならない。
非情に徹しきれる、槍の宝貝が導き出した最上の策だ。
最上の策がある以上、それに従わねばならない。
なぜか、疲労《ひろう》でグタグタになりながら減らず口を叩《たた》く、殷雷の顔が爆燎の脳裏《のうり》をよぎった。
「……どうしたんですか? 爆燎さん」
「おっと、いえいえ何でもありません」
晩飯を食いそびれ、殷雷は悔《くや》しそうに舌打ちをした。
だが、いつまでも飯に思いをはせているわけにはいかない。
泥刻砂《でいこくさ》という、時間を止める宝貝に対抗《たいこう》する方法を考えねばならない。
大体、時間を止めるってのは何なんだ?
刀の宝貝は、一番重要な部分が謎《なぞ》であると考えた。
全《すべ》てが止まった空間の中、泥刻砂の使用者だけが動けるのだろう。
素早《すばや》く動くのか? とてつもなく素早く動くのか? 他の者が止まって見えるぐらいに素早く動くのか?
殷雷は首を横に振《ふ》った。
もし、そうならば、とてつもない衝撃《しょうげき》が生まれるはずだ。
程獲の動きは静かなものだった。
瞬間と瞬間の間を、動くのか。
時間の止まった空間を殷雷は想像してみようとした。
だが、よく判《わか》らない。
止まった世界で、息が出来るのか? 空気も止まっているのではないか?
殷雷は大きな池を想像した。
もし、この池を瞬時に凍《こお》せたとする。魚も一緒《いっしょ》に凍り、ピクリとも動かない。これが止まった時間なのか? ならば、凍った池の中で動ける者などいないではないか。
凍った池とはわけが違《ちが》うのだ。
少しやけになり、殷雷は考えた。
程獲はあれだけ自信を持っているのだ。とてつもない優《すぐ》れ物の宝貝なんだろう。
止まった空間の中で、程穫は自由自在に動ける。落下中の岩が宙に止まった空間の中を動き回り、息を吸い、飯を食い、相手を殺すのも可能。
相手の持つ武器を奪《うば》い、相手の心臓を貫《つらぬ》けるのだ。
自分の想像に、殷雷はゲンナリした。無敵とはこういう事を言うんじゃないのか?
自分の棍《こん》を奪われる妄想《もうそう》が浮《う》かんだ。
身動きならぬ殷雷に程穫が近寄り、その手から棍を取り……棍を取る?
止まった空間の中で、呼吸が出来るのならば、棍を奪う為《ため》には、殷雷の握力《あくりょく》よりも強い力で手を広げさせる必要があるだろう。
止まった空間は、固まった空間ではないのだ、止まった空間の中でも、物の固さは変わらない、だから呼吸も可能で、和穂の飾《かざ》り布を解けたのだ。
止まった空間はどうにか理解した。
だからどうだ? しっかり棍を握《にぎ》る以外に何が出来る?
勝つ方法なんか、あるのか?
日は昇《のぼ》っていた。
程穫《ていかく》は、柿《かき》の木の枝に座《すわ》っていた。鍛《きた》えられた足がブラプラと揺《ゆ》れている。
「人は、自分の意思で決めたと思っていても本当はそうじゃない時もあるんだ。
周りに影響《えいきょう》されるんだよ。
判《わか》るな、和穂《かずほ》。
兄と暮らせないという、お前の結論はまだ本当の結論とは言えない。
本当にお前の意思とは限らないじゃないかよ」
柿の木を見上げ、和穂は言い返した。
「私の意思よ程穫! お願い、おとなしく宝貝《ぱおぺい》を返して」
「『お兄さんを傷つけたくないのよ!』
とでも言ってくれれば、少しは感動したかもな。
いいぜ、程穫と呼び捨てにしても。今のお前に、俺《おれ》は只《ただ》の敵にしか見えてない。
『おとなしく宝貝を返してください』
って敬語じゃない所に、肉親ゆえの親しさを感じるな」
和穂の横には、棍《こん》を構えた殷雷《いんらい》が立っていた。少し離《はな》れた場所に、全身に紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》をまとった綾春《りょうしゅん》が控《ひか》えていた。勿論《もちろん》、手には爆燎槍《ばくりょうそう》が握《にぎ》られている。
爆燎の話をきいたせいか、和穂は綾春の顔が、今日は少しばかり青白い気がした。
炎の中の綾春は言った。
「うだうだ、喋《しゃべ》りの長い奴《やつ》め。そこの小僧《こぞう》が即刻《そっこく》退治してくれるぞ」
殷雷は大慌《おおあわ》てで首を横に振《ふ》る。
「ま、待ってくれ! 時間を止める相手に勝つ方法なんて、判《わか》らなかったんだよ!」
意気地なしにかける言葉はない、とでも言いたげに程獲は綾春に声をかけた。
「炎の守りか。ま、悪くないな。だが、それでは俺に勝てないぜ。
和穂よ。宝貝の回収などして何とする?
全《すべ》ては徒労に終わるだけだ。いつか誰《だれ》かにお前は倒《たお》される。そうすれば、全ては無に帰すのだぞ」
「そんな事はない! 私は宝貝回収をやり遂《と》げる!」
「ならば、考え方をかえろ。和穂が思っている程《ほど》、深刻な状況《じょうきょう》ではないんだよ。
七百以上という数が逆に幸いしたな。宝貝同士で、力の均衡《きんこう》が生まれるとは思わぬか?
均衡が崩《くず》れたとしても、誰かが宝貝の使い手の頂点に立つとは考えられぬか。
圧倒《あっとう》的な支配者が生まれれば、少なくとも平和によく似た状況になる」
和穂は必死に声を上げる。他人を憎《にく》んで力を得る術を知らぬ和穂にとって、程穫と言い争うのは魂《たましい》をこそぎ落とされる気分だった。
「使い手の頂点が、あなただと言うの?」
「いい線まではいくと思うが、そこまで、思い上がってはおらん。
この宝貝王、程穫を軽くあしらえる存在ならば、かなり有力だろうが」
「……それまでに、どれだけの血が流れ、どれだけの人が傷つくのか。私のばらまいた宝貝のせいで」
「おやおや、我《わ》が妹君は本当に責任感の強い娘《むすめ》だな。
だが、兄は優《やさ》しく、只《ただ》二言だけお前の迷いに答えを出してやろう。
下らん。
宝貝があろうとなかろうと、血は幾《いく》らでも流れるぞ。俺が宝貝を手に入れる前と、手に入れた後で浴びた血の量が、どれだけ違《ちが》うと思う。ほとんど変わりはしない。
宝貝だけが、この地上の災厄《さいやく》だとでも思っているのか?」
「でも、でも、それでも私は」
「もういい、和穂。綺麗事《きれいごと》など聞きたくないし、己《おのれ》の正当性を主張する、悪の真似《まね》にもチト飽《あ》きてきた。
正義の影《かげ》としてしか存在出来ぬ、醜悪《しゅうあく》な悪など余計に反吐《へど》が出る。
俺は俺の好きなようにやるだけだ。歯向かう者は倒《たお》す、それだけの理屈《りくつ》だ」
和穂には兄の考えが理解出来なかった。
なぜ、同じ血を分けた人間なのに、その気持ちが判《わか》らないのだろう。
和穂は程穫の気持ちを理解したかった。
「どうして、わざわざ人を傷つけようとするの? そんなに宝貝が欲しいの?」
柿の木の上から、兄は妹を見下ろした。
一所《いっしょ》懸命《けんめい》に考えている和穂の表情を、程穫は、いとおしく思った。
今の和穂に、兄に対する肉親の情はないだろう。だが、この娘は肉親の情を持てるはずだと信じているのだ。
情をもって接すれば、俺《おれ》を説得できると考えているのだ。
「……和穂。俺もお前も、必要とされなかった人間だ。これは納得《なっとく》してくれるな」
「……くやしいけど、納得してあげる。
でもそれが何なの? 捨《す》てられた事にいつまでこだわっているのよ」
どう説明したものかと、程穫は考えた。自分の考えを述べても、和穂が理解してくれるとは思えない。
程穫という人間が、完成してしまった現実を説明してやろうか。
「捨てられた赤ん坊が、自力で生き延《の》びるなんて奇跡《きせき》だな。正直《しょうじき》な話、俺も拾《ひろ》われて育てられたんだ」
兄と自分にわずかな共通点を見つけ、和穂は安心した。
「育ててくれた人がいたのね」
「飼《か》われたと言ったほうが正確だろうがな。
劾想夢《がいそうむ》は、本人が忘れた記憶《きおく》も呼び戻してくれるが、本人が見ていないものは、もちろん思い出しようがない。さすがに、寝てばかりいる赤ん坊の頃の記憶は、途切《とぎ》れ途切れになっちまう。
暗く、湿《しめ》り、強烈《きょうれつ》な臭《にお》いの記憶が俺にはある。薄い闇の中で、俺と同じような赤ん坊の目が無数に光っていた。泣きわめく声は不思議《ふしぎ》と気にはならなかったがな。
和穂よ、赤ん坊の商品価値はいくらぐらいだと思う?」
和穂の顔が青ざめた。赤ん坊を商品として成立している商売が、とてつもなく恐《おそ》ろしく醜《みにく》く感じられた。
程穫は続ける。
「要するに奴隷にするんだよ。ある程度育てたら、大きな農地を持つ豪農に売りつける。
意外と高いが、小作人を雇《やと》うよりは長い目で見れば、遥《はる》かに安い。個人経営の鉱山《こうざん》に売られる場合もあるがな」
綾春は首を横に振る。
「そんな、馬鹿な。奴隷なんて今から何十年も前の話でしょ?」
「お嬢さん。全てには裏と表がある。禁止してなくなるぐらいなら、この世に犯罪など存在しまいよ。
九遥山《きゅうようさん》で誰《だれ》かに拾われ……たんだろうな、寝ていたから判らん。奴隷商人に売り飛ばされた。
さて、この程穫、今じゃ宝貝王と名乗っているが、家畜《かちく》より酷《ひど》い扱《あつか》いで飼われたのだ。
何せ、飛びきり違法な家畜だからな。
もっとも、俺は運良く奴隷として売られはしなかった。一人の医者の家に貰《もら》われて行ったのだ」
和穂には、程穫の身の上を聞き続けるしかなかった。
「貰われたのは赤ん坊の頃の話だ。
その医者には子供が一人居たが、生まれてすぐに死んでしまった。
医者の妻は子供の死から立ち直れずに、錯乱し続けた。小さな人形を、わが子と思い可愛《かわい》がってたんだ。
人形代わりにあてがわれたのが、俺だったのだよ。
誤解される前に言っとくか。医者は不憫《ふびん》な妻の為に、子供を貰って来た。なんて甘い話じゃないぞ。
世間体《せけんてい》の事しか考えてなかったんだ。自分の妻が人形を可愛がる姿が世間に広まるのを恐れたのさ。ただ、それだけの話だからな。
三、四年育てられたが、妻の様子は大《たい》してよくならなかった。
世間からは幸せな家族に見えたろうよ。
でも実際は、言葉を喋《しゃべ》れるまでに成長した俺をいつまでも赤ん坊扱いする母親と、妻を省《かえり》みない父親。
虚飾《きょしょく》もいいとこだ。
大体《だいたい》、奴隷商人と面識《めんしき》があるような医者だから、ろくな奴じゃない。
名門の医者の娘と深い仲になったあいつは、最初で最後の家族旅行の最中に、妻を自殺に見せ掛けて殺しやがった。
池に突き落としやがったんだ。
俺も溺《おぼ》れかけたが、何とか生き延びた。
見も知らぬ土地で、俺は泥《どろ》をすすりながら己《おのれ》の力で生きていったのさ、力だけが正義で強奪《ごうだつ》しなければ、飯《めし》も食えない楽しい世界でだ。メデタシメデタシだ」
和穂の目に涙が浮かんでいた。
「でも、でも、世間を恨《うら》んでどうなるの……辛かったかもしれないけど」
程穫は和穂の言葉を遮った。
「勘違《かんちが》いするな。俺は誰かに怒りをぶつけるつもりはない。
今までの人生で学んだのは、生きていくのに心は必要がないって事だ。
己の信条は必要さ。だがな、他人の為に頭を使うような事は全《すべ》て無意味だ。
己の思うままに、人は生きればいいんだ」
「でも」
「今までに、俺の人生に係《かか》わった奴は俺の事など少しも考えてはいなかったぞ。
商品として俺を見ていた奴隷商人。
人形代わりにしか考えてなかった医者。
死んでしまった自分の子供としか理解出来なかった、医者の妻。
それを恨みはするまい。どいつも俺より力があった。
力があるなら、己の好きにすればいいんだよ。
和穂よ。お前は兄とは暮《く》らせぬと言った。
もしもお前に価値を見いだすのが、この世に俺一人ならば、俺の言葉も少しは理解出来るかもな。
お前をお前として見てくれる、唯一の人間が俺一人ならば!」
「やめて!」
和穂はどうしようもない寒気《さむけ》に襲われた。程獲を動かす力は、熱い怒りではなかったのだ。
「忠告は既《すで》にしてある。死にたくなければ昨日のうちに逃《に》げ出せば良かったのだ。
だが、そいつらはやって来た。覚悟《かくご》は出来ているのだろうな。どいつから血祭りだ!」
綾春は、槍《やり》の穂先《ほさき》を離《はな》れた殷雷に向ける。
「昨日から何度も言っておるだろ。その小僧《こぞう》が相手だ」
殷雷はあとずさる。
「本当に本気なのか! 少しは手を貸してくれよ! 俺一人じゃ無理だ! どうやって戦えばいいんだ」
程穫は懐《ふところ》から小さな砂時計を出した。砂金に似た色を持つ砂が、全《すべ》て落ちきっている。
「これが泥刻砂《でいこくさ》だ。武器の宝貝の前で、こっそり使うのも無理だろうから、目の前で使ってやるぜ。
欠陥《けっかん》は、どうやら小さな穴が開いているらしくて、砂が外に漏《も》れるんだ。
俺が手に入れてからも大分砂が減った。せいぜい、残り五、六百回しか使えんだろうがな。
殷雷よ。和穂の記憶《きおく》の中にあったが、人の姿を取っている時の宝貝は、人の弱点を合わせ持つそうだな。
止まった時間の中で、俺が貴様の首をへし折れば、貴様は死んでしまう」
「ひぃぃ。助けてくれ!」
「……さっきから、何のつもりだ。
和穂の記憶が、ある程度は俺の手の内にあるんだぞ。お前は情に脆《もろ》く非情さに欠ける欠陥を持つが、臆病者《おくびょうもの》ではない。
そんな芝居《しばい》で、俺を油断させられると思ったか!」
後頭部で括《くく》られた、殷雷の髪《かみ》が途端《とたん》に解けた。
「髪を通じて、微弱《びじゃく》な雷気《らいき》を読み、気配を探《さぐ》るそうだな。
止まった時間の中では、悪《わる》足掻《あが》きにもならんぞ!」
程穫の手の中で、泥刻砂《でいこくさ》は逆さに向けられた。殷雷は背後に飛びすさりかけたが、程獲は瞬間《しゅんかん》と瞬間の隙間《すきま》、止まった時間の中へと滑《すべ》り込んだ。
連綿と続く時間の流れを一区画だけ切り取る宝貝、泥刻砂。
切り取られた時間の中で、使用者は自在に動ける。
砂時計の形を取る泥刻砂の、砂が尽《つ》きるまでは動き続けられるのだ。
切り取られた区画に、使用者は好きなように干渉《かんしょう》できる。
切り取られた区画は、やがて再び時間の大河の中に取り込まれる。
流れ出す時間は、その区画の続きからだ。
切り取られた区画で、破壊《はかい》された物はひき続く時間の中で、破片《はへん》を撒《ま》き散らす。傷つけられたものは血を吹《ふ》き出す。
程穫には、止まった時間の中は、真っ赤に見えた。血の色をした夕焼けに照らされているようである。
赤の濃淡《のうたん》しかない世界で、程穫だけは色彩《しきさい》をまとい、動いた。
軽々と木の上から飛び下り、綾春の側《そば》に歩む。綾春の周囲の炎《ほのお》は赤の世界の中で、より一層|濃《こ》い色に感じられた。
「炎か」
止まった時間の中で、炎は熱を伝えられない。
程穫は木切れを拾い炎に差し込んでみた。
炎に近づけば近づくほど、強力な酸に浸《ひた》されたように木は溶《と》け、炎と混ざり合った。
「止まった時間の中でも、炎は炎か。まあいい。殷雷を先に始末するか」
程獲は殷雷に向き直り、側による。
まるで倒《たお》れかけの彫刻《ちょうこく》のように、殷雷の体はピクリとも動かない。
後ろに飛びすさる寸前に時間を止められたため、尋常《じんじょう》の彫刻では考えられないような躍動感《やくどうかん》があった。
周囲に広がる、殷雷の髪《かみ》の毛一本まで彫刻でどうやって表現するのか。
じっと、殷雷の表情を程獲は眺《なが》めた。
「とても、切り札があるって面《つら》ではない。
どうやって殺すか? あいつの炎の中に投げ込んでくれるか」
程穫の頭の中に、殷雷に関する記憶《きおく》が蘇《よみがえ》った。
人の形をとる時には、人としての弱点を持つ。だが、本来は宝貝なので、宝貝の属性も残っている。
宝貝の属性の為《ため》、殷雷は確か、炎では焼けなかったはずだ。
舌打ちをした程獲の顔に、すぐに笑顔《えがお》が浮《う》かんだ。
「ならば、こいつを殺して、その死体であの炎の娘《むすめ》を叩《たた》き殺してくれよう」
左手に持つ泥刻砂《でいこくさ》が、残り時間が少ない事をしめしていた。
急ぐ必要がある。
右の拳《こぶし》を握《にぎ》り、程獲は殷雷の正面に立つ。
飛びすさろうとする相手を正面から打つので、体勢が少し窮屈《きゅうくつ》だった。
だが、顔の骨を砕《くだ》き、その破片《はへん》を脳髄《のうずい》に散らせるつもりなので、横から打つわけにはいかない。
どの角度で顔を打てば、目的を達せられるか、程穫は充分《じゅうぶん》承知していた。
「死ね」
赤の世界に拳が走った。軋《きし》む骨髄に、裂《さ》ける肉の感触《かんしょく》が程獲の腕《うで》を伝わる。
いつもの心地好《ここちよ》い感触だったが、いつもと違《ちが》う感覚も混じっていた。
激痛だ。相手を叩きのめした時に感じる、破壊《はかい》された肉と骨の感触も、いつもより近く感じられた。
激痛よりも、さらに信じられないものを程獲はその目で見た。
己《おのれ》の拳は殷雷に届いていなかった。顔面の寸前で拳は止まっている。
程穫は拳を止めた物の正体を見た。
髪《かみ》の毛だ。振《ふ》り乱し気味になった、殷雷の前髪が拳を止めていた。
いや、正確には程穫の拳は、殷雷の髪を打ち砕けなかったのだ。
ついに程獲は、激痛の正体を知った。
全《すべ》ては髪の毛なのだ。殷雷の髪はまるで、鋼《はがね》のように硬質化《こうしつか》していた。
自分の右|腕《うで》には数本の髪の毛が突《つ》き刺《さ》さっている。
止まった時間の中で、殷雷は身動き出来ない。程獲は、針の山に腕を突っ込むように、殷雷の尖《とが》った髪の中に拳を打ち込んだのだ。
トゲが刺さったという、生易しい話ではない。指の付け根から入った髪の幾《いく》つかは、肘《ひじ》を突き抜《ぬ》けていた。
「馬鹿な! 殷雷が髪の毛を自在に操《あやつ》るのはほんの瞬間では……これが、その瞬間なのだというのか! くそったれ!」
泥刻砂《でいこくさ》の砂が全て落ちきった。
赤だけの世界は、全ての色を取り戻《もど》した。
殷雷の右手の棍《こん》が、矢のごとく突かれ、泥刻砂を叩き割った。金色の砂が周囲に飛び散った。
程穫が傷ついた右腕を引き戻すと、まるで当然のように右手に刺さっていた髪は、プチプチと切れた。
右腕をかばいながら、程穫は膝《ひざ》をついた。
髪の細さを持つ、恐《おそ》ろしく深い傷からはまだ血が出ていない。
殷雷は銀色に輝《かがや》く棍を、程獲の喉仏《のどぼとけ》に押《お》し当てた。
「勝負あったな、程穫よ。おとなしく宝貝を渡《わた》しな。宝貝を返して、とっとと消えろ。そして、二度と和穂の前に姿を現すな」
綾春は脱兎《だっと》のごとく地面を駆《か》けながら、叫《さけ》ぶ。
「小僧《こぞう》! 何をしている! 早くそいつを打ち殺せ!」
殷雷は溜《た》め息をついた。
「その必要まではあるまい」
この状態から、程穫が何をしてもさばき切る自信が殷雷にはあった。
万が一、武器の宝貝を隠《かく》し持っていたとしても、あの体勢から繰《く》り出すような勢いのない攻撃《こうげき》なら、真鋼《しんこう》の棍で完全に受けきれる。
「小僧! 殺せ!」
火の玉になりながら、綾春は迫《せま》る。
右腕をさすり、荒《あら》い息をついていた程穫は唇《くちびる》の端《はし》を上げ、笑った。
反射的に、殷雷は棍《こん》で程穫の喉を突《つ》いた。
大きく咳《せ》き込みながら、程穫の懐《ふところ》から小さな棒が転がり落ちた。
ヨロヨロになりながら、程獲は棒を拾い、殷雷に向かい振《ふ》った。
スルリスルリと棒は伸《の》び、やがて一本の矛《ほこ》になった。
爆燎槍のような、鋭《するど》い穂先《ほさき》ではなく、平べったい両刃《りょうば》の穂先だ。
いかに宝貝といえど、これだけゆっくり振り下ろせば、兎《うさぎ》も殺せまい。
殷雷は棍で矛の攻撃を受けようとした。
「小僧!」
「何だ! うるさいぞ!」
綾春は突進《とっしん》し、殷雷に体当たりした。加減の無い攻撃に殷雷は地面を転がる。
矛の目標は綾春に変わり、綾春は爆燎槍の柄《え》で矛の刃を受けた。
『まずい!』
殷雷は心の中で叫《さけ》んだ。爆燎は矛の攻撃を跳《は》ね上げ、がら空きになった程獲を突き殺すつもりだ。
だが、殷雷の予想は大きく外れた。
ストン。
まるで紙を引き裂《さ》くように、爆燎槍の柄は切断された。
今まで盛《さか》んに燃えていた炎《ほのお》は消え去り、キョトンとした綾春の表情が殷雷の目にうつった。
程獲は矛を抱《かか》え、地面を転がり回りながら激しく咳き込み続けている。
殷雷は綾春のもとに走った。
爆燎の切断面に手を添《そ》え、殷雷は意思の疎通《そつう》をはかる。
『ばくさん、一体どうしたんですの?』
『不覚をとりました……』
『ジジィ!』
殷雷が綾春と爆燎の会話に割り込んだ。
霧《きり》がかかったような、白い世界に爆燎が横たわり、心配そうな綾春が爆燎の手を握《にぎ》っていた。
殷雷は慌《あわ》てて駆《か》け寄る。
『ジジィ、これはどうなってるんだ!』
『……来たかなまくら。小僧《こぞう》のせいで、このざまだ』
綾春と殷雷の姿はハッキリしているのに、爆燎だけは霧に沈《しず》みかけ、輪郭《りんかく》がぼやけていた。
『ばくさん、しっかりしてください。お体は大丈夫《だいじょうぶ》なんですか?』
『申し訳ありません。爆燎は、綾春様を守りきる事が叶《かな》いませんでした』
爆燎は死ぬ。いや、もはや死んでいる。今の爆燎は生の残り火を燃やしているに過ぎない。
殷雷は愕然《がくぜん》としながら、膝《ひざ》を折った。
『なぜだ?』
『小僧。程穫が持っていた矛《ほこ》は、斬像矛《ざんしょうぼう》だ』
『斬像矛! あれがか? この世に切れぬ物はないという、矛!』
棒が伸《の》び、矛になったのではなかったと殷雷は初めて気がつく。
斬像矛は空間を切り裂《さ》き、虚無《きょむ》の異世界を鞘《さや》代わりにしていたのだ。
『お願いですばくさん。気をしっかり持ってください。綾春のお願いです!』
刻一刻と、爆燎の姿が霧に沈む。本当は沈んでいるのではなく、爆燎は消えていっているのだ。
殷雷はうつむき、唇《くちびる》をかんだ。
『俺が程穫を殺していれば!』
『そうだ、みんな小僧のせいだ。この大馬鹿者が。
だが、すんだ話だ。気にするな。斬像矛だと気がつかなかった責任は、わしにもある。
その刃《やいば》を食らって、初めて敵の正体が判《わか》るなど、少し老いぼれたのかもな。
それより、小僧《こぞう》。謝《あやま》りたい事がある』
『なんだ、ジジィ……』
綾春は爆燎の胸に泣き崩《くず》れていた。
『わしは小僧を捨て駒《ごま》にしようとしていた。平原であった時から貴様に露払《つゆはら》いをさせ、少しでも程獲の手の内を暴《あば》こうと考えていたのだ。
最初に程穫と打ち合ったとき、小僧の刃だけが程穫に到達《とうたつ》しただろ。
わしはあえて突《つ》きを緩《ゆる》め、様子を見ていたのだ。はなから、共同作戦等《など》考えてなかったのじゃよ。
これが非情になれる、武器のやり方だ』
『ふん。反吐《へど》が出るな。
だが、そんな事はこの殷雷刀、とっくにお見通しだ。
捨て駒? 上等じゃねえか。使い捨てに出来るもんならやってみな。
もともとジジィを信用してねえんだから、裏切った事になんかなるか!』
『小僧……』
『判《わか》ってたんだよ。ジジィが綾春の為《ため》になら非情になれるってのは。
だから、謝る必要なんかない』
『すまぬ。小僧』
『け。やけにおとなしいじゃねえか。いつもの憎まれ口はどうした!』
『……小僧、最後の頼みだ。流核晶《りゅうかくしょう》を手に入れてくれ。綾春様を頼《たの》む。
小僧のようななまくらに、こんな重要な事を頼むこの爆燎の気持ちを察してくれよ』
『そう、それでこそジジィだ。判った。引き受けよう』
『そうか、感謝するぞ殷雷刀よ』
『……模擬戦《もぎせん》、いい勉強になった。
礼を言う。……さらばだ爆燎槍』
爆燎の姿は薄《うす》れ、そして消えた。
「綾春さん! 爆燎さんは?」
今までの会話は、ほんの瞬間になされていた。程穫はまだ地面を転がり、咳《せ》き込みながら嘔吐《おうと》している。
和穂もやっと殷雷たちの側《そば》に来た。
折れた槍《やり》を握《にぎ》りしめ、目の焦点《しょうてん》の定まらぬ綾春に代わり、殷雷が和穂に答えた。
「和穂。爆燎は死んだ」
殷雷は二人の娘《むすめ》を背中に構え、ユラリと棍《こん》を構えた。
程穫もゆっくりと立ち上がり、口許《くちもと》を拭《ぬぐ》った。片手には斬像矛《ざんしょうぼう》が握られている。
「殷雷よ。泥刻砂《でいこくさ》を破壊《はかい》したのは褒《ほ》めてやろう。
だが、あれは雑魚《ざこ》を蹴散《けち》らすのに、非常に便利だったが、最後の切り札というわけではない。
まさか、斬像矛を抜《ぬ》くはめになるとは思ってもいなかったぞ」
「斬像矛か。どうりで他の宝貝をゴミのように扱《あつか》うわけだ」
「斬像矛を実戦で使ったのは、今が初めてだぜ。
どうした殷雷? 怒《おこ》った顔をして。仇打《あだう》ちでもしたいのか? でも無理だな。それどころじゃないようだしな」
「何だと!」
「後ろを見てみな」
蒼白《そうはく》な顔をした綾春が、地面に横たわっていた。口許からは真っ赤な血が流れ続けている。
和穂が必死に綾春の名を呼ぶが、返事は戻《もど》らない。
ポツリと、雨が滴《したた》った。
あっという間もなく、天から無数の南が降り注ぐ。
「綾春さん! 綾春さん」
程穫は天を仰《あお》いだ。
「いい雨だ」
「程穫。急いでお前を倒《たお》して、流核晶《りゅうかくしょう》を手に入れてやる」
「それは無理だ」
「やってみなければ判《わか》るまい」
「いや、無理だ。俺は逃《に》げる」
「逃がすと思うか!」
「逃げられるさ。流核晶を使って、鳥にでもなって飛んでいく。変化には少し時間がかかるが、これだけ間合いが開いていれば充分《じゅうぶん》だ」
殷雷は舌打ちしながら、後ろに下がり、刀に姿を戻す。
和穂は殷雷刀を綾春の手に握《にぎ》らせた。
しばしの間。
綾春は動かない。微《かす》かな口の動きだけが、彼女の生命が尽《つ》きていないと物語る。
殷雷刀は再び、爆《は》ぜ、人の形を取った。
程穫は和穂によく似た笑顔《えがお》を浮《う》かべた。
「処置無しといったところか。哀《あわ》れだね。どうにかして、その娘《むすめ》さんの命を助けて上げたいものだ」
奥歯《おくば》が砕《くだ》けんばかりに、殷雷は口を引き締めた。
「程穫!」
程穫は服の襟元《えりもと》をまさぐり、首飾《くびかざ》りを外した。
単純な鉄の鎖《くさり》の首飾りだが、透明《とうめい》な宝珠《ほうじゅ》が結ばれている。
「これが、流核晶だ。これを使えば、その娘さんは助かるんだったな。
欲《ほ》しけりゃやるぜ」
全身ずぶぬれの殷雷は、まばたき一つせずに程獲をにらむ。
「どういうつもりだ」
「これは、兄から妹への贈《おく》り物として、和穂にくれてやろう。
そのかわり、和穂よ。兄と一緒《いっしょ》に暮らそうではないか」
綾春を揺《ゆ》さぶっていた和穂の動きが、ピタリと止まった。
「和穂、騙《だま》されるな!」
程穫は不愉快《ふゆかい》そうな声を上げた。
「頭の悪い刀だな。もし、和穂を騙したのならば、和穂が俺を恨《うら》んでしまうだろう。
俺は和穂に感謝してもらいたいのだ。だから、嘘《うそ》はつかん。和穂を無理にさらってすむ話なら、とっくにそうしているぞ。
和穂には納得《なっとく》ずくで、俺の所に来て欲しいのだよ」
和穂はゆっくりと立ち上がった。
「……判《わか》った。流核晶《りゅうかくしょう》をちょうだい。
あなたの勝ちよ、程穫」
「和穂!」
殷雷の呼吸が荒《あ》れていく。全身の筋肉がやり場のない怒《いか》りで、破裂《はれつ》しそうになった。
和穂は殷雷の目の前を、歩いていった。
そして、程獲の横に立つと、程獲は勝利の高笑いを上げた。
「そう、これでいいんだ。殷雷よ。
流核晶をくれてやる。病《やまい》を治したら、さっさと流核晶を破壊《はかい》しろよ。
別の奴が流核晶を使ってしまうと、それまでの変化は解除《かいじょ》されるからな。
破壊すれば治療《ちりょう》は永久的なものになる。
どうせ、俺の言葉なんか信用できないんだろうが。
本当かどうか、和穂に見せておきたい。早く治療しろ」
程穫が投げた流核晶を、殷雷は綾春の首にかけた。そして、刀の姿に変わり綾春に柄《つか》を握《にぎ》らす。
流核晶は淡《あわ》い光を放ち、綾春の顔に赤みが差した。
「さあ、流核晶を破壊しろ」
静かな爆音《ばくおん》を立て、人に戻った殷雷は首飾《くびかざ》りを引き千切り、宝珠《ほうじゅ》を握り潰《つぶ》した。
途端《とたん》に綾春は、うたた寝《ね》から覚めたように周囲を見渡《みわた》す。
そして、折れた槍《やり》をみつけ、抱《だ》き締《し》めた。流れる雨が綾春の涙《なみだ》を洗い流していく。
「さて、これで尊い命も助かったと。良かったな和穂よ。では帰ろうか?」
背を向けた和穂に、殷雷は言った。
「和穂。これを受け取るわけには行かなくなった。返しておく」
殷雷は地面に転がっている棍《こん》を拾い、和穂の足元に投げた。
護玄《ごげん》仙人《せんにん》から、和穂の護衛《ごえい》の報酬《ほうしゅう》として貰《もら》った棍だ。
「殷雷……」
和穂と視線を合わさず、殷雷は背を向け、雨の中に消えていった。
綾春も殷雷の後を追い、姿を消した。
[#改ページ]
第二章『仙界《せんかい》から和穂を追って来たもの』
天の彼方《かなた》に鳳鳳《ほうおう》が遊び、海の底では龍王《りゅうおう》がのたうつ仙界《せんかい》。
人間界であまたの修行《しゅぎょう》を積み、天地の理を理解した者が辿《たど》り着く地。
仙界と仙術の創造者にして、仙界を統治する五人の仙人を通称《つうしょう》して五仙と呼んだ。
全《すべ》ての仙人は、師匠《ししょう》を探《さぐ》り師匠の師匠を探っていけば、やがては五仙に到《いた》る。
和穂《かずほ》とその師匠である龍華《りゅうか》は、五仙の中の神農《しんのう》の流れを汲《く》む仙人だ。
スラリとした背。長い髪《かみ》には、無数の髪|飾《かざ》りが混沌《こんとん》という名の秩序《ちつじょ》に則《のっと》って、溶《と》け込んでいた。
目を見張るような、赤い道服に身を包みながらも、装飾《そうしょく》や服装を凌駕《りょうが》する美貌《びぼう》を持った女仙人が長い廊下《ろうか》を歩いていた。
ドロドロとした暗闇《くらやみ》の廊下だ。女仙人の靴《くつ》音が床の存在を、ぼんやりと光る松明《たいまつ》が壁《かべ》の存在を証明していた。
女仙人の名は龍華。和穂の師匠であり、殷雷刀《いんらいとう》や爆燎槍《ばくりょうそう》の創造者でもある。
殷雷や爆燎の持つ眼光は、龍華の眼光と少し似ていた。
龍華はニコリともせずに、暗い廊下を歩き続けた。
カツンカツンと甲高《かんだか》い靴音が、廊下の中を反響《はんきょう》していく。
どれだけの速度で、どれだけの時間歩いたのか、龍華の感覚をもってしてもハッキリしなくなった時、行く手に扉《とびら》が現れた。
扉の隙間《すきま》からは、まばゆいばかりの光が溢《あふ》れている。
やっと部屋に到着《とうちゃく》し、少しばかり安心しながらも、龍華は一気に扉を押《お》し開いた。
部屋の中は、海だった。無秩序な波が四方八方から寄せあっている。
光と共に、潮風が龍華の髪をなびかせた。
今まで歩いてきた廊下は、一瞬《いっしゅん》黒い点になりそのまま消えた。
龍華は空を見上げた。
果ての見えない海の上に、一つの椅子《いす》が浮《う》かんでいた。桐《きり》で出来た、背もたれのある大きな椅子だった。
椅子の上には一人の老人が座《すわ》っていた。
白髪《はくはつ》で、長い顎鬚《あごひげ》を生やした痩《や》せこけた老人だが、凄《すさ》まじいまでの気迫《きはく》を内に秘《ひ》めている。この海の波は、もしかしたらこの老人の気迫の為《ため》に起きているのかもしれないと龍華は考えた。
彼こそが神農であった。
宙に浮かぶ椅子から、神農は龍華を見下ろした。
龍華もまた、海の上に平気で立っていた。
「神農様。御無沙汰《ごぶさた》しております。
私のような八百年かそこらの修行《しゅぎょう》しか積んでおらぬ仙人と、接見していただけるとは光栄|至極《しごく》でございます」
「け。よせよせ。
かたっ苦しい挨拶《あいさつ》なんざ、いらねえぜ」
「それにしても、あの廊下《ろうか》はなんなのですか? 途中《とちゅう》で行き倒《たお》れるかと思いました」
「あれは、唯一《ゆいいつ》絶対なる無の空洞《くうどう》、混沌《こんとん》の本質であり、混沌すら存在しない場所だ。
……なんつったりしてな。まあいい、五仙《ごせん》に会うなら、あれぐらいのハッタリは必要だろうよ。
ちょいと、山の中の洞窟《どうくつ》に入って『神農様はいますか?』じゃ、ありがたみがなかろうが」
「それはそうですが」
神農の声が少し低くなった。
「で、用件は何だ? 親愛なる神農様のご挨拶に馳《は》せ参じましたって面《つら》じゃねえな。
頑固《がんこ》ジジィの意地悪に腹を据《す》え兼《か》ねて、直談判《じかだんぱん》に来たってところか。相手がへソを曲げちゃ堪《たま》んないんで、不作法がないように気をつけているって面だな」
神農の言葉をきき、龍華の口調から緊張感《きんちょうかん》が消える。
「さすがに察しがよろしい。人間界と仙界との間の結界を解いていただきたい」
神農は、白い鬚《ひげ》を撫《な》でた。
「馬鹿《ばか》も休み休み言え。人間界に仙人が干渉《かんしょう》出来ないように、あの結界を張っているんだぜ」
「……和穂に力を貸してやりたいのです。あの結界のせいで、和穂の近況《きんきょう》すら全く判《わか》りません。和穂はまだ、生きているのですか?」
面倒《めんどう》そうに老人は言った。
「そうだな。冥府《めいふ》の鬼籍《きせき》にゃ、目を通してるが和穂の名前は見つけてない。
生きてるぜ」
「お願いします。力を貸すのは、和穂の命が危険にさらされた時だけと、自重しますから是非《ぜひ》とも」
「駄目《だめ》。駄目なもんは、駄目。和穂に手を貸したけりゃ、勝手にやんな。
もっとも、あの結界は簡単には解けんぞ」
龍華の言葉は完全に普段《ふだん》のものへと変わった。
「言われるまでもなく、あの結界をブチ破ってやろうと色々|試《ため》してみた。
でも、全然歯が立たない。万策尽《ばんさくつ》きたから頼《たの》みに来たんだ」
「俺の命令にゃ逆らっても罰則《ばっそく》はねえんだ。
結界を張って、人間界には干渉するなって命令を出したって事は、人間界に干渉したけりゃ、あの結界を破ってみろって言ってるんだぜ。
お前のようなガキに破れるような術は、この神農は使わねえがよ。ひっひっひ」
神農の笑い声にあわせ、龍華も笑う。
「そういうと思ったよ。おじいちゃん」
途端《とたん》に、龍華の姿が消え瞬時に神農の背後にまで飛び上がった。
一瞬の迷いもなく、龍華の拳《こぶし》が神農の後頭部をポカリと殴《なぐ》った。
海の波が全《すべ》て消えた。
波うっていた海面が、巨大《きょだい》な一つの鏡のようになった。
「……龍華。自分が何をしたか判《わか》っているのか?」
「偉大《いだい》なる神農様の頭をどついたんだ。これはもう、仙界《せんかい》から追放されても文句が言えないだろうね。
さぁ、さっさと人間界に追い出しておくれよ、おじいちゃん。それともその鬚《ひげ》を抜《ぬ》いてくれようか?」
下手な山より巨大《きょだい》な洞窟《どうくつ》に、男は細い目をしばたたかせた。
この洞窟に比べれば、自分の洞府《どうふ》なんかリスの巣だと男は考えた。
全体的に温和な表情も、今は心配と驚愕《きょうがく》の為《ため》にひきつっている。
さすがにオロオロしないだけの胆力《たんりょく》は持っていたが、やはり落ち着かない。
道服の大きな袖《そで》の中に手を引っ込めながらも、洞窟の入口をうろうろする。
男もまた仙人であった。名前は護玄《ごげん》。
護玄の側《そば》には一人の少女が立っていた。和穂と似たような道服を着ていたが、袖は大きくない。無造作な引っ詰《つ》め髪《がみ》のせいか、少し目が吊《つ》り上がって見えた。
落ち着きのない護玄に、少女は悪戯《いたずら》っぼく笑った。
「護玄様。そんなに心配ですか」
そんなにみっともなかったかと、慌《あわ》てて護玄は背筋を伸ばし、シャンとする。
「これは無様《ぶざま》な姿を。それと、様は勿体《もったい》ないですよ。童女とはいえ、私よりも修行《しゅぎょう》年数は長いのですから。
それをわざわざ道案内などしていただきまして。私と龍華だけでも、神農様の下《もと》へ参りましたのに」
「いえいえ。これでも、神農様に仕える身です、道案内も大事なお仕事。それに崑崙《こんろん》の本山は、広うございますから」
確かに、と護玄はうなずく。一つの大陸をひっぺがし、直立させても崑崙山には匹敵《ひってき》出来ないのではないだろうか。
「……せめて、護玄さんで、お願いします」
礼儀《れいぎ》正しい護玄の姿に、少女はまたしても微笑《ほほえ》む。
「判《わか》りました、護玄さん。こうみえても、私の正体は只《ただ》の大鵬《たいほう》ですのよ。
おかげで不器用で、他の童女みたいに上手《うま》く術も使えなくて。神農様なんか、私を名前じゃなくて雀《すずめ》とお呼びになりますのよ」
「ほお。大鵬であらせられるか。それを言うなら、この護玄も」
「あら、龍華様がお帰りのようです」
慌てて後ろを振《ふ》り向くと、まるで夜のように巨大《きょだい》な洞窟《どうくつ》の入口に、龍華がいた。
不機嫌《ふきげん》な顔をして、顎《あご》の付け根を押《お》さえている。
「龍華、待ったぞ!」
「……先に帰ってりゃ良かったのに」
「そういうな。で、どうだった? 神農様は結界を解いて下さったか?」
「やはり駄目《だめ》だ」
「……そうか。で、その顎はどうした?」
渋々《しぶしぶ》、龍華は白状した。
「素直《すなお》に結界を解くような爺《じい》様じゃないのは覚悟《かくご》の上だった」
少女の手前、護玄は龍華をたしなめた。
「龍華、言葉を慎《つつし》めよ」
説教を聞く耳はないと、龍華は続ける。
「仕方がないんで、仙界《せんかい》から人間界に私を追放させようと思って、後頭部をどついた」
言葉の意味が理解出来なかった護玄と少女は、同じ問いを発した。
「誰《だれ》の?」
自分の説明の何がいけなかったのか、判らない素振《そぶ》りで龍華は補足した。
「誰の? って神農様に決まってるだろ」
護玄と少女は、自分の心臓を抑《おさ》えながらしばしうずくまった。驚《おどろ》きにしばらく止まった心臓も、どうにか再び動き出した。
少女は思わず呻《うめ》く。
「む、無茶にも程《ほど》がありますわ」
鼻で笑って、女仙人は続けた。
「で、神農様は激怒《げきど》してどうしたと思う? なんと、殴《なぐ》り返してきやがったのよ。
どうして、仙人同士が拳《こぶし》で殴りあわなきゃいけないのよ。馬鹿馬鹿しいにも程があるとは思わないか、護玄よ」
「お、俺もついていくべきだった……」
「こうなったら、また、結界を破る研究をやりなおさねばならん」
少女はボソリと言った。
「無駄《むだ》ですよ、龍華様」
しなやかな指で龍華は、少女の襟《えり》をなぞった。抑揚《よくよう》のない低い声は、龍華の怒《いか》りを表していた。
「本当だったら、胸《むな》ぐらつかんで振り回してるところよ、お嬢《じょう》ちゃん。
でもね、確かに情け無いぐらいに、あの結界には歯が立たないのよ。
本当の事を言ってる奴《やつ》は、傷つけないよ」
龍華の瞳《ひとみ》の奥《おく》に、どうしようもない無力感と、それを僅《わず》かに越《こ》える不屈《ふくつ》の闘志《とうし》を見た少女は、龍華の態度に怒りを覚えなかった。
逆に哀《あわ》れみすら感じる。
「今までの仙術《せんじゅつ》にある結界術とは、全く違《ちが》う結界だとは思いませんか? もし、新たなる理屈に基《もと》づいた結界術なら、龍華様に打ち砕《くだ》けると思いますか」
「……私たちは、五仙の作った道を歩いているだけだと言うのか? 新しく作った道で、その道を秘密にされれば、手も足も出ないとでも? 新たな理屈? 面白《おもしろ》い、その理屈を私も思いついてやろうではないか!」
少女は迷った。次の言葉がこの女仙人の心を打ち砕くような気がしたのだ。だが、少女は言った。このまま苦しむぐらいなら、諦《あきら》めさせた方が良いのかもしれない。
「……新しい理屈どころか、五仙以外の仙人では思いつけない理屈ならば?
『五仙以外に、思いつけない理屈による結界術』
もし、神農様がそれを想定して、術を創造されたなら?」
「そ、そんなに都合よく術の体系が造れてたまるか!」
少女はとどめを刺《さ》した。
「可能ですよ、神農様なら。龍華様は炎《ほのお》を操《あやつ》れるかもしれない。でも、神農様は炎の存在しない世界に、炎という『概念《がいねん》』を創造出来る力をお持ちです。
あなたでは、歯が立ちません」
龍華は石のように、固まった。一言も言い返せなかったのだ。
護玄が軽く龍華の背中を叩《たた》くと、龍華は弾《はじ》けたように笑い出した。
「……龍華」
「はっはっは! 童女よ! お前の言うとおりだ。何で今まで気がつかなかったのかな」
龍華が立ち去った後も、神農は果ての無い海の上に浮《う》かんでいた。
神農は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、言った。
「隠《かく》れてないで出てきな」
ゆらりと神農の前の空間が歪《ゆが》み、人影《ひとかげ》が現れる。
男は神農と同じ高みに立っていた。
見た目は子供だった。まだ四、五|歳《さい》の頭の良さそうな子供だ。短い髪《かみ》に、利発そうな瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせていたがへ笑顔《えがお》の形に固まった口許《くちもと》が冷酷《れいこく》な印象を与《あた》えていた。
子供は言った。
「隠れていたんじゃない。五仙《ごせん》の内の二人と会えば、あの龍華とやらが恐縮《きょうしゅく》するんじゃないかと思ってね。彼女が帰るのを待たせてもらっていた」
「今日は客が多いな。龍華の次は有巣《ゆうそう》か、少しは思索《しさく》でもさせてくれよ」
有巣もまた、五仙の一人であった。子供らしい甲高《かんだか》い声にも、神農の低い声と同じぐらいの深みがあった。
「ふん。貴様が思索という柄《がら》か。例の人間界に宝貝《ぱおぺい》をばらまいてしまった一件だが」
「……けりはついただろ。和穂が責任を感じて、回収を始めた。術は全《すべ》て封《ふう》じてだ」
「確かにな。全ての宝貝の回収など、しょせんは不可能。宝貝の影響《えいきょう》を受けた人間界は、かつてとは違《ちが》った世界に変わっていくだろう。だが、やはりそれは心苦しい」
「すんだ問題をほじくり返すな!」
「心外だな。宝貝問題の解決法を持ってきてやったのだ」
懐《ふところ》から小瓶《こびん》を出し、有巣は続けた。
「これは、特殊《とくしゅ》な黴《かび》だ。宝貝の材料である、真鋼《しんこう》に反応し増殖《ぞうしょく》する。
これを人間界にばらまけば、真鋼を素材に使っている全ての宝貝は錆《さ》びて崩《くず》れるぞ。
いい策とは思わぬか?」
神農は退屈《たいくつ》そうに欠伸《あくび》をした。
「思わんね。真鋼が崩れれば、宝貝の機能は停止するな。だが、その黴自体が人間界の陰《いん》と陽《よう》の平衡《へいこう》を崩す可能性がある。
宝貝という道具でも大変なのに、黴なんて生物をばらまくなんざ、正気の沙汰《さた》じゃねえな」
食い下がると思った有巣だが、神農の予想に反して、素直《すなお》に納得《なっとく》した。手の中の小瓶を消滅《しょうめつ》させながら、首を縦にふった。
「そうか、確かに生き物はまずいな。突然変異《とつぜんへんい》が起きれば目もあてられん」
「ともかく、人間界には不干渉《ふかんしょう》でいく。文句はあるまい」
有巣の顔にこびりついた笑顔は、彼の本心を完全に覆《おお》い隠《かく》していた。
「人間界の存続が、最優先だからな」
言葉を残して、有巣は消えた。
神農は深く目を閉じ、思策《しさく》にふけった。
肉体を消滅《しょうめつ》させたまま、有巣は感覚を研《と》ぎ澄《す》まし、龍華の居場所を探《さぐ》った。まだ、崑崙山《こんろんさん》からは出ていない。
並みの仙人《せんにん》では、崑崙を抜《ぬ》けるのに七日はかかるだろう。
有巣はことも無げに、主のいない九遥山《きゅうようさん》に実体化した。
神農との会話を思い出したのか、有巣は声を荒らげた。
「何が不干渉だ! 災《わざわ》いの元凶を断てば、全ては解決する! 和穂、仙人の面汚《つらよご》しめ、失敗は死をもって償《つぐな》うのだ!」
緩《ゆる》やかな斜面《しゃめん》には、うっそうと木々が生えている。木々の隙間《すきま》からは、遥《はる》かに広がる大平原が見て取れる。
有巣は慎重《しんちょう》に、自分が九遥山のどこにいるかを確認《かくにん》した。彼の記憶《きおく》は、ここが目的の場所だと告げた。
ここが、龍華が和穂を拾った場所だ。
十五年前のあの日、人間界の九遥山はこの場所と交わったのだ。
五仙の一人は、懐《ふところ》から小さな人形を取り出し、宙に投げた。
ムクムクと人形は巨大化《きょだいか》し、等身大の大きさに変わる。
のっぺりとした卵型の頭部に、単純な筒《つつ》型をした手足がついていた。肘《ひじ》、膝《ひざ》、手首、足首の関節には蛇腹《じゃばら》の布が巻き付けてあった。
手首から先には、分厚い手袋《てぶくろ》をはめたようになっている。関節の布は白く、それ以外の部分は真っ黒だった。顔は完全に平面で、鼻を示すような脹《ふく》らみすらない。
ただの木人形に見えた。
大人の男性ぐらいの大きさになった人形に有巣は、たった一言、呪文《じゅもん》を唱えた。
呪文につき動かされ、人形は動き出す。
単純な人形であったが、関節の動きは完全に人間のものであった。
動き出した人形は、どうみても中に人が入っているとしか思えない滑《なめ》らかな動きで、膝をつき、有巣に頭を下げた。
「有巣様。お呼びでございますか」
満足そうに有巣はうなずく。
「急ごしらえにしては、上手《うま》く出来上がったな。
何、難しい使命ではない。赤《あか》ん坊《ぼう》を一人殺してくれ」
人形は、常にゆっくりとだが細かく動いていた。それこそ人間の呼吸のようにだ。
有巣の言葉に、人形は己《おのれ》の中の記憶《きおく》を呼び起こした。
「私の、記憶にある。この赤ん坊ですね?」
「そう。その赤ん坊を殺したら、速《すみ》やかに消滅《しょうめつ》しろ。お前の意思で、お前の体を溶解《ようかい》させる液体が内部から分泌《ぶんぴつ》される」
「御意《ぎょい》。して、その赤ん坊はいずこに?」
「ここにはいない。その赤ん坊は十五年前の人間界にいる。今から赤ん坊の近くに、送ってやるから問題はない」
人形はピタリと沈黙《ちんもく》し、それから言葉をつないだ。
「有巣様。質問しても、よろしいでしょうか?」
「なんだ?」
「歴史に介入《かいにゅう》すれば、逆説が起きませんか?
十五年前で、赤ん坊を殺せば、今の有巣様が私を送る事もなくなり、私が送られなければ、赤ん坊は死なずに……」
適当に造った割には、利口な奴《やつ》が出来たものだと、有巣は妙《みょう》に感心した。
「問題はない。時間の流れの中に、私がお前を過去に送るという事実は刻みこんである。
理由があろうがあるまいが、この時間に私は常にお前を過去に送る」
「判《わか》りません。そんなに都合よく歴史が変えられるのでしょうか?」
「お前が、赤ん坊を殺せば歴史にどう影響《えいきょう》が出るのかを知らぬ限りは、時間変革は可能なのだよ。
お前を送り込む私は、時間変革が成功したかを確認《かくにん》出来ないという、葛藤《かっとう》を持ち続けるんだ」
人形は考えた。自分にとっては、時間を遡《さかのぼ》るのも、遠い場所に行くのも同じ意味しかないのだ。赤《あか》ん坊《ぼう》を殺す影響を理解しないままに消滅する。
有巣様は、逆説を回避《かいひ》する為《ため》に、自分の目的が成功したか失敗したかが判らない。
結果が判らないので、時間の流れのある一点では、有巣様は常に私を過去に送るのだ。
人形は言った。
「……私の任務は、そんなに難しいんでしょうか?」
有巣は冷酷《れいこく》に答えた。
「いや、簡単だ。お前の体は、頑丈《がんじょう》に造ってある。人間界にあるような武器では全く歯が立つまい。
正直な話、宝貝の武器でもお前を傷つけるのは骨だろうよ」
「我《わ》が肉体は、そんなに素晴《すば》らしいのでございますか?」
有巣は首を横に振《ふ》った。
「一時的に強度を高めているだけだ。お前の肉体は何をしなくても、一日もすれば只《ただ》の土にかえる」
「判りました。有巣様の期待に添《そ》えるよう、全力を尽《つ》くします」
知恵《ちえ》はあるが、赤ん坊を殺す事に良心の珂責《かしゃく》は感じていないようだ。有巣は、人形の機能が完全であると確認した。
「では、そこに立て」
有巣が右手を上げると、どこから現れたのか、節《ふし》くれだった杖《つえ》が手の中へ出現した。
杖の先で人形の周囲の地面に、ガリガリと複雑な図形を描《えが》き込んでいく。
十五年の時を遡る為の図形、人間界への扉《とびら》を開く図形。
『神農よ。凄《すご》い結界だと思うが、私には無意味だよ』
神農の張った結界を、ほんの瞬間だけだが歪《ゆが》める図形。
全《すべ》ての図形を描き終わり、有巣は杖で地面を叩《たた》く。
杖の先から地割れのように光が走り、図形を抜《ぬ》き落とした。人形は水に沈《しず》むように、落ちていった。
人形は、赤《あか》ん坊《ぼう》の泣き声を聞いた。
有巣《ゆうそう》の言葉通りに、赤ん坊のすぐ側《そば》に到着《とうちゃく》したようだ。
人間界とは言ったものの、山の雰囲気《ふんいき》はさほど変わっていない。人形は自分の好奇心《こうきしん》よりも、自分の使命の方が大切だと思い直す。
むせかえるような林の臭《にお》いに、葉と葉の間をすりぬける強烈《きょうれつ》な光。
己《おのれ》の感覚を研《と》ぎ澄《す》ましながら、黒い人形は泣き声の方角に向かい歩いた。
そして、何の苦労もなく、赤ん坊を発見した。
這《は》って歩くには、まだかなり小さな赤ん坊だったが、自分の意思で動いたのだろう。
薄《うす》い布にくるまれた手と足が、泥《どろ》だらけになっていた。
空腹と不安が赤ん坊の声を、より大きくさせていた。
泣いても、誰《だれ》も来ない。だが泣くしかなかった。這ってどうなるのか、赤ん坊には判《わか》っていなかっただろう。
黒い人形は、赤ん坊の目の前に立った。
全力で泣いていた赤ん坊は、さらに喉《のど》が潰《つぶ》れんばかりの絶叫《ぜっきょう》で泣き始める。
何の躊躇《ちゅうちょ》も葛藤《かっとう》もなく、人形は赤ん坊を拾い顔を見た。
記憶《きおく》の中の和穂《かずほ》の顔と比べてみる。万が一の間違《まちが》いがあってはならない。
だが、記憶はこの赤ん坊が和穂ではないと判断した。
驚《おどろ》きもせずに人形は赤ん坊を投げ捨てた。記憶の条件に合う赤ん坊以外に、興味は無かった。
平坦《へいたん》な顔で、草の上を検索《けんさく》していた人形はついに、別の赤ん坊を発見し、近寄った。
大きなカゴの中で、スヤスヤ眠《ねむ》っている。シワくちゃになった毛布から見て、二人の赤ん坊が入っていたのだろう。さっきの赤ん坊は、ここから抜《ぬ》け出していたのか。
赤ん坊の泣き声は、いまだ蝉《せみ》のごとく周囲に響《ひび》いていた。だが、カゴの中の赤ん坊はお構いなしに眠っていた。
人形は顔のない目をカゴに近づけ、赤ん坊の顔を見た。
間違いない。和穂だ。
カゴの中に手を入れ、眠る和穂を持ち上げた。
後は、和穂を始末すれば使命は果たされるのだ。
狼《おおかみ》どころか、野良犬《のらいぬ》や野良|猫《ねこ》でさえも噛《か》み切れそうな、和穂の柔《やわ》らかい首に人形は手を
かけた。
首を絞《し》め、ついでに骨を折れば使命は終了《しゅうりょう》する。
人形の手にゆっくりと、強い力が掛《か》かっていった。
その時、和穂の目がパチリと開き、不安そうにむずかる声が上がった。
人形は全く心を揺《ゆ》さぶられずに、和穂の首を絞めようとした。
「和穂様に何をする!」
驚《おどろ》きで、人形は振《ふ》り向いた。
なぜ、赤《あか》ん坊《ぼう》の名前を知っているのだ?
なぜ、和穂を守ろうとする者がいる?
人形は必死に考えたが、解答は思いつかなかった。
声の主は女だった。頭の形が判《わか》る、濡《ぬ》れたような髪《かみ》を短く切っている。
赤ん坊を殺そうとする現場に遭遇《そうぐう》しながらも、慌《あわ》てるでもない。うすら笑いを浮《う》かべて女は言った。
「一応、その娘《むすめ》は恩人だから、殺させはしないよ」
女の言葉は理解不能だった。
和穂殺害を妨害《ぼうがい》する者があれば、その者も殺害する。
人形は、そう命令されていた。
だが、今は和穂の命を絶《た》つ方が簡単だ。
人形は、首を絞める手に力を入れようとした。
人形は次の瞬間《しゅんかん》に、己《おのれ》の体が縦に真っ二つに切断されているのを知った。
ありえない、馬鹿な。宝貝《ぱおぺい》でもそう簡単には、不可能だ。有巣様。
自分の体の中にあった、自分の体を滅《ほろ》ぼす液体が吹《ふ》き出、人形の体は土くれへと溶けていった。
女は大きく息を吐《は》き、手に持った矛《ほこ》を宙に放《ほう》り投げた。
矛は見るまに歪《ゆが》み、人の形を取った。
長身の女だ。金色の髪に、蛇《へび》のように割れた金色の瞳《ひとみ》。長い髪を流れるがままにしていた。
武道の練習着を思わせる、袖《そで》の短い単純な服装をしている。むきだしになった腕《うで》は、スラリと長く美しかったが、硬《かた》く引き締《し》まっていた。
手には髪や瞳と同じ金色をした、長い爪《つめ》が生えている。
この女こそが、斬像矛《ざんしょうぼう》だった。
斬像矛は長い爪で髪をかきあげ、面白《おもしろ》そうに笑った。
「和穂様だと? そうだな、劾想夢《がいそうむ》よ。確かにこの娘《むすめ》はやがて、我等《われら》を解放してくれるのだから、恩人であるな」
濡《ぬ》れた髪の劾想夢は、片手に持っていた泥刻砂《でいこくさ》を大事そうに、袖の中に入れた。
そして、いまだ泣き続ける和穂を胸に抱《だ》いた。
人肌《ひとはだ》の温かさに安心したのか、和穂は泣き止《や》み、再び静かな眠《ねむ》りにつく。
斬像矛は、もう一人の赤《あか》ん坊《ぼう》を無造作に拾い上げた。
「……どっちが、和穂だ?」
「こっちの子でしょ。人形が狙《ねら》っていたのはこっちだし、服の袂《たもと》に和穂って書いてある」
劾想に言われ、斬像も手の中の赤ん坊の袂を調べた。
程穫《ていかく》と書かれている。
「程穫だとよ。恐《おそ》らく双子《ふたご》だろうな」
劾想は、珍《めずら》しい動物の子供をあやすように眠る和穂の頭を撫《な》でた。
「やっぱし、斬像の言った通りだったね。来てみてよかったよ」
「十五年前の過去に戻り、仙界に渡る前の和穂を殺害する。
そうすれば、和穂が宝貝をばらまいたあの事件は起きないか。
ふん。そんな手は先刻|承知《しょうち》だ。一週間もこんな山の中に張り込んだ甲斐《かい》があったな」
「……時間ってよく判《わか》んないよお」
「……あんた馬鹿なんだから、考えなくてもいい」
「なによ、それ。でもさ、こうして赤ん坊の頃《ころ》の和穂を見てると、本当に斬像矛《ざんしょうぼう》のおかげで、二百年前の人間界に降りられたって理解出来た。もう、あの日から百八十五年も経《た》っているんだ。ね、もう一度、過去に戻《もど》ろうか?」
「馬鹿を言え! 次元は一つの玉で、時間はその玉の回転だ。
玉から玉へ移る時、この斬像矛の力で同調回転球面を切り裂《さ》き、人間界の過去へ滑《すべ》りこんだんだ」
「同調回転球面って、なあに?」
「仙界《せんかい》の時刻と、人間界の時刻が同調して……やめだ! 馬鹿には理解出来ん」
「ええっ。少しは判るよお。仙界が正月ならば、人間界も正月なんでしょ」
ついでにお前の頭も正月だと、斬像矛はいらついた。
腕《うで》の中では泣き止《や》んだ程穫が、ダアダア言いつつ、斬像矛の袖《そで》を引っ張り遊んでいた。
「ねえ。一度、仙界に戻って、もう一度人間界に来たら、また過去に戻れるんじゃないのかしら?」
「駄目《だめ》。一度、一つの次元の時間|軸《じく》に干渉《かんしょう》したら、過去には戻れない。
私たちは人間界に初めて来たから、過去へ行けたのだ。この人形にしてもそうだ。
判ったか?」
底抜《そこぬ》けに明るい声で、劾想夢《がいそうむ》は答えた。
「わっかんない」
「……いい子だから、もう私に時間の質問はするなよ」
和穂が宝貝をばらまいてしまった、あの運命の日。斬像矛は仙界の空を切り裂き、人間界への道を作った。
ほとんどの宝貝は、仙界と同じ時刻の人間界に逃《に》げ込んだのだが、斬像矛は過去へ向かって逃走《とうそう》した。
少しは使えると思い、泥刻砂《でいこくさ》、流核晶《りゅうかくしょう》、劾想夢の三宝貝と殻化宿《かくかしゅく》を伴《ともな》い、二百年前の過去へと到着《とうちゃく》した。かくて流れた百八十五年の年月。
宝貝の中で、斬像矛以外にただ一体、劾想夢は人の形は取れたが、思慮《しりょ》深い性格とは言いがたかった。
「思い出すよねえ、この二百年」
「人間の馬鹿さ加減に付き合った、二百年だったな」
「でもさ、最初に私たちを使った人たちは結構、良かったじゃない」
「どこがだ。圧政に苦しむ、農民を救おうとした三馬鹿の兄弟ではないか。
皇帝《こうてい》の遠縁《とおえん》を気取った、馬鹿な田舎《いなか》武将とその義兄弟を倒《たお》したまでは良かったさ。
でも、自分らに力がある事に気がついた途端《とたん》に、今まで自分らを苦しめていた連中と変わらなくなった。
武将の中では珍《めずら》しく政治の判《わか》る奴《やつ》がいただろ? あいつを殺した時点で、命運は尽《つ》きていたんだ」
「あ、けど。兄弟の末っ子はまともだったじゃない」
「そうだな。まともすぎて、兄のやり方に耐《た》えられなくなって逃げちまった。
殻化宿をもってトンズラだ」
「どこに行ったんだろうね、殻化ちゃん。とっくに末っ子は死んだんだろうに」
「どうかな? 殻化宿の中で眠《ねむ》れば、老いる事もなく、時の果てまで眠れるさ。
あの末っ子は、この世に嫌気《いやけ》がさしていたんだろ。だったら自殺でもするかと思ったがそうではなく、殻化宿を持って逃げた」
「劾想、よくわかんない」
「己《おのれ》たちの愚行《ぐこう》が、歴史になるのを待つつもりじゃないのか?
歴史の中で、どれだけの意味を持ったか知りたいんだ。
もっとも、他の宝貝が現れたら、そんな呑気《のんき》に、使用者を眠らせる訳にはいかん。
後、十五年も経《た》てば、殻化も動くだろう」
「殻化ちゃんて、結構母性本能が強いから、末っ子みたいな優男《やさおとこ》を放《ほう》っておけないのよ」
「ふん。下らん」
「あ、いけなあい。お喋《しゃべ》りしてる場合じゃなかった。和穂はこの籠《かご》の中に入れておけばいいんだよね」
「そうだな」
劾想は和穂を元の籠の中に入れた。
しばらくすると、籠の周囲に風が吹《ふ》き出した。少しばかりひんやりとした、風だ。
風に流れる金色の髪《かみ》を押《お》さえもせずに、斬像矛《ざんしょうぼう》は風上に顔を向けた。
そこには光で出来た小さな竜巻《たつまき》があった。
「劾想、下がれ。巻き込まれるとどうなるか判らんぞ」
「はあい」
竜巻は大きくなり、天まで届きそうな巨大《きょだい》な柱となる。
そして唐突《とうとつ》に光の柱は暗黒の柱となった。
普通《ふつう》の人間ならば、目を開けているのも困難な強い風が吹きすさぶ。
程穫は目をつぶり、斬像矛の胸元《むなもと》にしがみついたが宝貝たちは、全く動ぜずにいた。
「どうなってるの斬像ちゃん?」
「ちゃんはやめろ。これが仙界《せんかい》へと続く扉《とびら》であり、道だ。あの暗闇《くらやみ》の中は仙界の九遥山《きゅうようさん》へ引きずりこまれているんだ」
暗黒の柱は再び光の柱となり、光の柱は小さな竜巻になり、竜巻は消え、風はやんだ。
和穂の眠《ねむ》る籠は消えてなくなっている。
「無事、龍華《りゅうか》に拾われたようだな。これであの馬鹿な小娘《こむすめ》が十五年後には、私たちを封印《ふういん》から解いてくれるわけだ」
「やったあ。じゃ、目的も達成したし何処《どこ》に行く? 今度こそはいい使用者を見つけなきゃね」
「…………」
「ね、それよりその赤《あか》ん坊《ぼう》をいつまで抱《だ》いているの。そこらへんに置いておけば、狼《おおかみ》の晩御飯《ばんごはん》ぐらいの役にはたつよ。早くいきましょう」
程穫は、軽い寝息《ねいき》をたてて眠っていた。
「劾想よ。人間の生まれながらの属性は善だとは思わぬか? 疑う事も知らずに、この斬像矛の胸の中で眠っている」
「なによお。その赤ん坊が人見知りしないだけの話じゃない。それとも、情が移ったのかしら? よしてよ、らしくもない。
殻化ちゃんでもないのに、母性本能がくすぐられたっての?」
「そうではない。人の本性《ほんしょう》は善であれ、その育つ環境《かんきょう》で悪にもなれる。
人の優《やさ》しさを一度も知らずに、育った人間はどんな風になるか興味がないか?」
「本当にらしくないよ、斬像。何が言いたいの」
「私は斬《き》れぬ物はない。最強の宝貝だ。だが私を使いこなせる使い手は、そうはいない。
誰もが全《すべ》てを切り裂《さ》く私に、必ず恐怖《きょうふ》を覚えるのだ。ならば、この手で使い手を造ってみようではないか。
私を使う事に全く躊躇《ちゅうちょ》しない。純粋《じゅんすい》な悪を見てみたい」
「……その赤ん坊を、優しさや温《ぬく》もりに一度も触れる事なく、純粋な悪にするって? そんなの空論よ。
どんなに愚劣《ぐれつ》な強盗団《ごうとうだん》だって、その中には規律があって、規律を守れば褒《ほ》められる。褒められたなら、それも一つの温もりでしょうが。腐《くさ》った価値観の中にも、恩義や礼を感じる事は出来るよ」
「劾想よ。お前は記憶《きおく》を操作出来たな?」
「うん。本当は絶対にやっちゃいけないんだけども、そんなのに従う私じゃない。
でも、あんまり変な記憶だと、本人が疑う恐《おそ》れはあるよ」
「ならば、こいつが接した優しさの記憶を、逐一《ちくいち》消し去るのも可能だな」
「簡単だよ」
「手を貸してはくれぬか?」
「いいよ。どうせ暇《ひま》だし。こいつが、どんな人間に育つのか、ちょっと興味をもっちゃった」
「よし、ならば話は決まった。
心の拠《よ》り所にされると困るから、意思を持つ宝貝である事も隠《かく》そう。そうなると、人の形を取るのもまずいな」
「そうだね」
「ふっふっふ。どんな人間になるか楽しみだな。
非情な使い手になってくれよ」
金色に光る蛇《へび》の目で、斬像矛《ざんしょうぼう》は程穫の寝顔《ねがお》を見つめた。
劾想夢は、少し不安を覚えた。
「ねえ、自分の使い手をつくるって、もしかして、まだあの事にこだわっているの?」
矛《ほこ》の宝貝は、明るく笑った。
「気にしているはずがないだろ。もしそうだったら、二百年も時を隔《へだ》てた世界に逃走《とうそう》はしていない」
それもそうだと、劾想夢は安心した。
斬像矛は心の中でつぶやく。
『納得《なっとく》していたさ。だが、二百年の時を経《へ》ると、自分が納得しているふりをしていただけだと気がついたのだ。
決着は付けてやるぜ剛羅楯《ごうらじゅん》よ』
[#改ページ]
第三章『矛《ほこ》と楯《たて》』
山の中にあるにしては、程穫《ていかく》の屋敷《やしき》は豪勢《ごうせい》なものだった。
程獲が大金を払《はら》い、建築させたのか、最初からあった建物を奪《うば》ったのか和穂《かずほ》には判《わか》らなかった。
竹林の中の庵《いおり》のように、屋敷は林の中に溶《と》け込んでいた。どちらにしろかなりの手間をかけて建てられたのだろう。
和穂は屋敷の中の広間にいた。断縁獄《だんえんごく》から取り出した、柔《やわ》らかい布で道服と髪《かみ》についていた雨をぬぐっている。
まめに装飾品《そうしょくひん》の手入れをするようには見えない程獲だったが、屋敷の中にある机や椅子《いす》などの調度品は、陶製《とうせい》の物で統一され趣味《しゅみ》の良さを示していた。
和穂の前に座《すわ》った程穫は、傷ついた右|腕《うで》をさすっていた。
傷を負った程穫の姿に、和穂は先刻のやりとりが夢ではなかったと思い知らされた。
爆燎《ばくりょう》は破壊《はかい》されたのだ。
「……どうして、爆燎さんを破壊したの? あんなに綾春《りょうしゅん》さんを、大切にしていたのに……」
机の上に置かれた斬像矛《ざんしょうぼう》は、その本体のほとんどを切り裂《さ》いた空間の中に沈《しず》めていた。
今は只《ただ》の棒の切れ端《はし》にしか見えない。
「爆燎をどうして壊《こわ》したかだと? 簡単だ。あいつが俺《おれ》を殺そうとしたからだ。
自分を殺そうとしたものに危害を加えて何が悪い」
「嘘《うそ》よ。最初、程穫は殷雷《いんらい》を破壊しようとしていたじゃないの!」
上着を脱《ぬ》ぎ、程獲は傷口を確認《かくにん》しようとした。
「全《すべ》ては戦いだ。生きるか死ぬかの戦いで、相手を殺そうとして何が悪い」
程穫の腕には無数の古傷があった。
殷雷に受けた傷は、いまだ少しずつ血を吐《は》き出している。
だが、奇妙《きみょう》な傷だった。何か細い物が刺《さ》さったというより、火傷《やけど》を思わせる独特の爛《ただ》れがあった。
「……大丈夫《だいじょうぶ》? その傷、殷雷につけられたの? よく見えてなかったけど、殷雷は火傷を負わせるような攻撃《こうげき》をしていたの?」
程獲は傷の爛れを指で擦《こす》った。
「憎《にく》んだり心配したり、忙《いそが》しい話だな和穂。これは火傷ではない」
指に押《お》され、爛れは伸《の》びた。そして、傷口を埋《う》めようとした。
「それは!」
「流核晶《りゅうかくしょう》は、肉体を別の物に変える宝貝《ぱおぺい》だった。一度、この肉体をドロドロに溶かして、粘土《ねんど》のようにし、その粘土で別の物を造っていたんだ」
「でも、流核晶はもう無いじゃない! まさかさっきのは」
「心配はいらん。偽物《にせもの》なんかじゃない。流核晶を使い続けるうちに、宝貝の力を借りずとも、自分の肉体をある程度動かせるようになったんだ。
傷口を埋めるぐらいの芸当は造作無い」
和穂の胸を嫌《いや》な予感が駆《か》け巡《めぐ》った。宝貝の力を借りずに、人間|離《ばな》れした行為《こうい》が出来るのは危険な事ではないのだろうか。
ゆっくりと、右の掌《てのひら》を閉じたり開けたりしていた程穫だが、だんだんと動きが滑《なめ》らかになっていく。
しばしの沈黙《ちんもく》の後、程獲は席を立った。
「どこに行くの、程穫!」
面白《おもしろ》そうに程穫は笑った。
「茶の一|杯《ぱい》でも入れてやろう」
だが、まだ戦いの余韻《よいん》が残っているようで足元がおぼつかない。幾《いく》ら自分の傷を治せるとはいえ、殷雷の棍《こん》に喉《のど》を思いっきり突《つ》かれて只《ただ》ですむはずがない。
言葉の端々《はしばし》には、まだ息苦しさがうかがえられた。
和穂は思わず席を立つ。
「お茶ぐらい、私が入れるよ。炊事場《すいじば》はどこなの? 程獲は休んでいて」
「前の廊下《ろうか》を右に突き当たれば、そこが炊事場だ。服が濡《ぬ》れたんで着替《きが》えてくる」
「うん」
「俺の居ない間に、家捜《やさが》しするのは勝手だがな、逃《に》げたら連れ戻《もど》すぜ」
自分は一体、何をしているんだろうと和穂は思った。
目の前に居るのは、爆燎を破壊《はかい》した男だ。今までに宝貝を使い、何人も傷つけてきた男だ。
だが、傷ついた姿を目《ま》の当たりにして、程穫を憎《にく》むことは出来なかった。
程獲の姿が消え和穂は静かにつぶやいた。
「殷雷、今頃《いまごろ》どうしてるのかな」
程穫は湯飲みの中の茶をすすった。傷の為《ため》か袖《そで》のゆるやかな服を着ている。
「どうだ、家捜しで面白い物は見つかったかよ」
和穂は首を横に振《ふ》った。
「家捜しなんかしてないよ」
「行儀《ぎょうぎ》のいい娘《むすめ》だな。そうだ、俺の手の内を見せておこうか。
俺が持っている宝貝を全《すべ》て見せてやろう。
とは言っても、壊《こわ》れてしまってもう二つしかないんだがな」
意外な言葉だった。和穂はもっと多くの宝貝を持っていると予想していたのだ。
程穫はゴソゴソと左袖をまさぐり、一つの腕輪《うでわ》を外した。
流核晶《りゅうかくしょう》と良く似た宝珠《ほうじゅ》が飾《かざ》られた腕輪だ。
腕輪を机の上の矛《ほこ》の隣《となり》に置く。
「この腕輪が、夢を操《あやつ》る劾想夢《がいそうむ》。そして、この矛が、切り裂《さ》けぬ物はない最強の矛、斬像矛《ざんしょうぼう》だ。
以前は、これに時間を止める泥刻砂《でいこくさ》と、姿を変える流核晶があったんだ。
泥刻砂と流核晶で、今までの敵は倒《たお》して来たんだが、これからは斬像矛を使って戦うしかあるまいな」
歯向かう敵は、斬像矛でブッタ斬《ぎ》ると程獲は言っているのだ。
「どうして、人を傷つけようとするの?」
「強い者が弱い者を倒し生きていく。そこに理由など必要あるまい。
お前のように、甘《あま》やかされて育った人間には、修羅《しゅら》の生きざまは理解出来ぬ。
自分以外の人間は全て敵だ」
「だったら、私も敵なんでしょ?」
程獲は嬉《うれ》しそうに目を細めた。
「そうだ。だが、お前に殺されるのならば、それほど腹は立たん。
兄のやり方に怒《いか》りを感じるのならば、そこの矛で俺を斬り殺すがいい。
力だけが秩序《ちつじょ》なのだ。この古傷の数だけ、俺は傷つけられ金やら食い物を奪《うば》われた。
俺は泥《どろ》をすすって生きていったさ。
生き延びて、ゆっくりと力をつけていき、奪われる者から奪う者へと成長できた。
俺は俺の望むまま、俺の力でこれからも生きていく。俺の行く手をふさぐものがあるならば、斬像矛で斬る」
和穂は必死になり、言い返した。
「そんな理屈《りくつ》、それじゃ獣《けもの》と一緒《いっしょ》よ。いや獣以下だわ。獣は自分が生きる為以外には、戦わないでしょう」
怒る和穂の表情に満足し、程獲は言った。
「少しは理解出来たようだな。
人間は獣以下なんだよ」
「そんな事はない!」
「和穂よ。俺とお前にどれだけの違《ちが》いがあるというのだ?
捨てられた籠《かご》の中で眠《ねむ》っていたお前は、仙界《せんかい》に行き、そこそこ幸せに育てられた。
もしも、俺とお前の立場が逆ならば、お前も俺のような人間になっていたと思うがな。
違うと言い切れるか?」
和穂は答えられなかった。
「和穂よ。お前の為に俺は油断をしてやろう。斬像矛と劾想夢は、いつでもこの机の上に置いたままにしておく。
俺を完全に憎めたなら、斬像矛でこの兄を殺してみろ。
さて、夜もふけた。部屋は沢山《たくさん》あるから適当な場所で寝《ね》な」
相手を恨《うら》み、最初から相手の言葉を否定する事が出来ない和穂は、頭を押《お》さえながら、程獲の言葉を一つ一つ噛《か》み締《し》めていた。
宿屋の寝台《しんだい》の上に殷雷《いんらい》は横になっていた。
もう、何日も殷雷はそうして、何も喋《しゃべ》ろうとはしなかった。
何度も何度も問い掛《か》ける綾春《りょうしゅん》に、背中を向けて答えようとはしない。
それでも綾春は叫《さけ》び続けた。その胸に二つに折れた爆燎槍《ばくりょうそう》を抱《だ》き締めながら。
「殷雷さん! 殷雷さん! どういう事だか説明して下さい! ばくさんは、一体何を望んでいたのですか? 私の体がどうしたというのですか!」
あまりにしつこい綾春に、殷雷はついに音を上げた。どのみち、隠《かく》し通せる話ではないだろう。
背中を向けたまま、殷雷は口を開いた。普段《ふだん》からは考えられないような、静かな声だった。
「綾春。お前の体は病魔《びょうま》に冒《おか》されていたのだよ」
殷雷は、爆燎がどうして流核晶《りゅうかくしょう》を欲《ほ》しがっていたかを説明した。
説明をきくにつれ、綾春の唇《くちびる》は小刻みに震《ふる》えていった。
「ばくさんは、私の為《ため》に……」
「その考え方はやめろ。誰《だれ》かの為に自分を犠牲《ぎせい》にするのは、弱者の理論だ」
「ばくさんを愚弄《ぐろう》するのですか!」
「逆だ!……馬鹿者。爆燎はお前の為に戦ったが、お前を助け、自分も助かる為に全力を尽《つ》くしていた。
だが、負けて……破壊《はかい》された」
爆燎は破壊された。理屈《りくつ》の上では修復も可能だろう。だが、殷雷はそう説明し、綾春を安心させる事は出来なかった。
修理は可能だ。
仙界《せんかい》に戻《もど》り、爆燎槍の創造者たる龍華《りゅうか》の術でならば復活も叶《かな》う。
例え復活しても、綾春が仙界に行くわけにはいかない。
どう足掻《あが》こうが、綾春が爆燎と再会する可能性はない。
背中|越《ご》しに聞こえる、綾春のすすり泣きの声に、殷雷は首を絞《し》められる思いだった。
大声では泣かず、爆燎の死を乗り越えようとしていた。
爆燎は、自分の為に綾春が涙《なみだ》を流すのを喜びはしないだろう。綾春はそう考え、必死に涙を堪《こら》えていた。
殷雷はイライラとした。自分には何も出来ないのだ。
綾春を慰《なぐさ》める言葉すら思いつかない。
「……ともかく、爆燎の願い、綾春の命を助けられたのだ。
綾春よ。お前の故郷はどこだったっけ。
どうせ俺《おれ》も暇《ひま》な身だ、爆燎との約束もあるし送っていってやるぞ」
流れる涙を押《お》さえて、綾春は怒鳴《どな》った。殷雷すらすくむような、大きな声だった。
「何を言っているのです! 殷雷さん、和穂《かずほ》さんを助けに行かなくてどうするのです!」
痛い所を突《つ》かれ、殷雷の背中がピクリと跳《は》ねた。
殷雷は背を向けたまま、答えた。
「助ける? 誰を誰からだ? 兄と暮らす妹を引き離《はな》すのを助けるとは言うまい」
「殷雷さん!」
「! いちいち怒鳴るな。馬鹿みたいに声だけはでかい奴《やつ》だな。
耳が痛くなっちまうぜ」
「和穂さんが、喜んで程穫《ていかく》のもとへ行ったとでも思っておられるのですか!
和穂さんは、私の命を救う為《ため》に程獲に屈《くっ》したのですよ。
殷雷さん、和穂さんを助けに行くのです」
ゆっくりと転がり、殷雷は綾春と顔をあわせた。鋭《するど》い目付きは、綾春の目をにらみつけていた。
「綾春よ。いい気になるなよ。お前が俺に命令出来る筋合いではないのだぞ! 龍華も護玄《ごげん》も俺には、命令していない。
和穂とて、俺には頼《たの》み事をしても命令なんざ、された覚えはない! 俺は誰の命令にも従ったりはしない!」
殷雷の脳裏《のうり》をよぎる、泥《どろ》の思い出。自由を無くして、命令に服従し、和穂と戦った記憶《きおく》が彼を過敏《かびん》に反応させた。
真っ直《す》ぐ伸《の》びた背筋、膝《ひざ》の上には折れた槍《やり》を乗せ、綾春は言った。殷雷の視線を正面から受け止めている。
「ならば、好きになさい! 私が和穂さんを程穫の手から救い出します!」
「馬鹿を言え! あいつは斬像矛《ざんしょうぼう》を何のためらいもなく振《ふ》り切れる男だぞ!
その刃《やいば》の下に何があろうが、お構いなしに叩《たた》き切れる男だ! お前が行っても一撃《いちげき》で両断にされるのが落ちだ!」
「だからといって、このまま和穂さんを見捨てるおつもりですか!
綾春には、耐《た》えられません」
殷雷は舌打ちした。爆燎並みの頑固《がんこ》さではないか。
「……お前が程獲に殺されたら、爆燎の死が無駄《むだ》になるだろう! あいつの死を犬死ににしたいのか!」
手の中の槍を綾春は力強く握《にぎ》った。細い指が小さく震《ふる》える。
「ばくさんは、殷雷さんに捨《す》て駒《ごま》と考えていた事を謝《あやま》っていましたね。
私も誰かを犠牲《ぎせい》にして生き延びるのは、嫌《いや》です。
だから、和穂さんを助けに行くのです」
綾春は立ち上がり、扉《とびら》へ向かおうとした。
殷雷の手はいかせてはなるかと、綾春の編まれた髪《かみ》をつかんだ。
「放《はな》しなさい、殷雷さん」
「待て。爆燎にお前の事を頼《たの》まれている。
そうむざむざと無駄死にさせては、爆燎に合わせる顔がない」
話すだけ無駄とばかりに、綾春は折れた爆燎槍を逆手に持ち、自分の髪を切り落とそうとした。
間髪《かんぱつ》入れずに、殷雷が刃《やいば》を握る。爆燎槍の刃は、すでに何も切れなくなっていた。
「判《わか》った、判った。綾春、手を貸してやる。俺が力を貸してやる」
そんな説明では、綾春は納得《なっとく》しなかった。
「手を貸す? それは違《ちが》います。私と殷雷さんで、和穂さんを助けに行くのでしょ?」
「どっちでも、一緒《いっしょ》だろうが!」
髪の毛を殷雷の手から振《ふ》りほどき、綾春は首を横に振った。
「いいえ、違います。命令されるのが嫌だとおっしゃいましたね? ならば、命令などしません。
ついでに、お願いもしません。
殷雷さんも和穂さんを助けようと、考えておられるのなら、御《ご》一緒しましょう」
なんで、俺の人生にはこう鼻っ柱の強い奴《やつ》しか現れないのかと、殷雷は溜《た》め息をつきながら首を縦に振った。
「判った。俺も和穂を助けたい。だから、一緒に行動しよう。これでいいな?」
「はい!」
綾春の顔にいつもの笑顔《えがお》が戻《もど》った。殷雷は何故《なぜ》かホッとした。
宿屋の女将《おかみ》に分けてもらった、絹の布に殷雷は爆燎を包み込んだ。
そして、寝台《しんだい》の上に置く。
振り返り、椅子《いす》に座《すわ》り、口を開いた。
殷雷の前には綾春が座っている。
お互《たが》いに少しは落ち着いていた。
「程穫は油断がならぬ。少し考えてから、攻《せ》めた方がいい」
「……和穂さんが、抜《ぬ》け出して来る可能性はないでしょうか?」
殷雷は目の前で大きく手を振った。
「あいつは妙《みょう》に律儀《りちぎ》でな。自分が程穫の所に行くのと引き換《か》えで、流核晶《りゅうかくしょう》を手に入れているだろ? 約束を破って逃《に》げ出すような真似《まね》が出来ない性分《しょうぶん》だ」
「和穂さんらしいと言えば、和穂さんらしい話ですねえ」
「……どちらにしろ、和穂を奪《うば》い返せばすむ問題ではない」
「程穫と戦って、宝貝《ぱおぺい》を奪わなければならないのですね?」
「ま、そうするしかない」
出来るのか? 自分の言葉に、殷雷は疑問を覚えた。程獲を殺さずに宝貝を奪おうとして、この前の失態が起きたのではないか。
自分の甘《あま》さが、ここまで致命《ちめい》的に感じられた事は今までになかった。
「難しいですねえ。程穫が持っている斬像矛《ざんしょうぼう》は、この世に斬《き》れぬものは無い、最強の宝貝なんですから」
最強という単語を耳にし、殷雷は馬鹿馬鹿しそうに首を振《ふ》った。
「最強? はん。少しでも仙術《せんじゅつ》にゆかりのある者なら、最強なんて言葉は使わぬぞ。
仙術は、その基本を混沌《こんとん》の無限の可能性においているのだ。
最強とは、発展の行き止まりを意味しておるのだぞ!
最強の宝貝が存在するなら、それ以外の宝貝の存在価値が無くなるだろうよ。
何の為《ため》に我等《われら》が宝貝が、ひょうたんやら、耳飾《みみかざ》りや、槍《やり》に刀に砂時計の形をしていると思う? 平均点において、勝《まさ》る宝貝があったとしても、一芸に秀《ひい》でる宝貝の前ではガラクタ同然、一芸に秀でた宝貝は、その宝貝対策を施《ほどこ》した宝貝の前には、これまたガラクタ同然だろうが。
仙術の創始者にして、仙人の頂点を極《きわ》めている五仙にしても完全無欠ではない」
綾春は首を傾《かし》げた。
「頂点を極めるのと最強では、意味が同じなのではないですか?」
「話はちゃんと聞け。
頂点を極めた仙人が五人もいる時点で、頂点という言葉を便宜《べんぎ》的に使っているだけなのが判《わか》るだろ。
絶対に辿《たど》り着けない頂点があり、その頂点に己《おのれ》の力の限りを尽《つ》くして近寄ろうとするのが、仙人の考えだ。
五仙は他の仙人と比べて、圧倒《あっとう》的なまでに頂点に近づいているに過ぎん。
陰《いん》極まれば陽《よう》となり、陽極まれば陰となる、だ。
だが、陰と陽は違《ちが》う。
仙術《せんじゅつ》の発想をもって、最強の物を造ろうなどとは、仙術の根本も判ってない大馬鹿者の戯言《ざれごと》だ」
殷雷の口調にいつもの調子が戻《もど》り、綾春は嬉《うれ》しくなった。
「やっと、私の知っている殷雷さんらしくなりましたね」
「うるせい」
「はいはい、失礼いたしました。
私には仙術の理屈《りくつ》はよく判りませんが、斬《き》れない物は無いとくれば、やはり最強の武器ではないのでしょうか?」
「そうでもない。当たらなければ、斬られはしない。
斬られる前に破壊《はかい》すれば、いいだけの話だぜ」
「そうでしょうか? 理屈ではそうでも、殷雷さんは相手の攻撃《こうげき》を受ければ、負けてしまうのでしょ。
簡単な話ではないのでは?」
「簡単な話ではない。だが、絶対に不可能という程《ほど》のものでもない。
古代の剣術《けんじゅつ》体系には、受けを一切《いっさい》考えずに編まれたものもある。当時の剣はもろくて、剣を受ければ折れてしまったのだ。
その剣術で戦えば、どうにかなる。
己《おのれ》が宝貝だから、ついつい大抵《たいてい》の攻撃は受け止められると油断しがちになるのが、武器の宝貝の隙《すき》だからな」
「殷雷さんは刀なのに、剣術がお得意なのですか?」
「一応、普通《ふつう》の武器ならなんでも使えるだけだ」
綾春は光明が見え、ホッとした。殷雷の言葉から、程穫が勝てない相手ではないと少しは安心出来た。
「凄《すご》いですね。斬れない物はない宝貝でも、どうにか戦う術はあるんですから」
この世に斬れない物はない、斬像矛《ざんしょうぼう》。
殷雷は、目の前の斬像矛にとらわれ、恐《おそ》ろしい見落としをしていたと気がつく。
生唾《なまつば》を飲み込む殷雷に綾春は声をかけた。
「……どうしたんです? 急に深刻な表情をなされて。
何か問題でもあるんですか?」
殷雷は、己《おのれ》の間抜《まぬ》けさを呪《のろ》った。
和穂の兄と、斬像矛という厄介事《やっかいごと》に注意力のほとんどを使っていたのだ。
殷雷の頭の中で、今までの謎《なぞ》が音を立てて崩《くず》れさっていった。
どうして、程穫は宝貝王を名乗り、こんな騒動《そうどう》を仕掛《しか》けたのか。
奴《やつ》は自分の存在を示す必要があったのだ、噂《うわさ》という形でこの地上の隅々《すみずみ》にまでも。
夢を操《あやつ》る力を持つ人間が、どうして噂に頼《たよ》らなければならないのか。夢を送りつければそんな手間はいらぬはずだ。
夢が届かない相手がいるのだ。
程穫は、斬像矛に利用されている。
和穂との遭遇《そうぐう》は、斬像矛の目的の前に起こった、ささやかな事件に過ぎない。
「そうか、そうだったのか」
斬像矛に操られ、程穫が悪人になっているのではない。
斬像矛がいようがいまいが、程穫は程穫に変わりがない。
宝貝王を名乗り、他の宝貝使いと戦わせるという余興を思いついたのは奴《やつ》だ。
斬像矛は余興の影に自分の目的を潜《ひそ》ませているのだ。程穫は踊らされている。
斬像矛。
金色に輝《かがや》く、斬像矛の蛇《へび》の目を殷雷は思い出した。
「やばいぞ、綾春!」
「はい? どうしました」
この世に斬《き》れぬ物はない矛《ほこ》、斬像矛。
斬像矛の不倶戴天《ふぐたいてん》の敵。互《たが》いに己の存在を賭《か》けて、相手の存在を否定しなければならない相手。
今、この瞬間《しゅんかん》だけ、最強という言葉を殷雷は斬像矛に使った。
「この世に斬れぬ物はない最強の矛、斬像矛。
その硬《かた》さに防げぬ物はない無敵の楯、剛羅楯《ごうらじゅん》。
斬像矛は剛羅楯を呼び寄せようとしているんだ!」
「はて、よく判《わか》りませんが。もしお呼びになりたいのでしたら、夢を送ればいいのではないでしょうか」
「剛羅楯は一切《いっさい》の攻撃《こうげき》を無効化する。
それが夢でも、外部から送られた夢ならば遮断《しゃだん》してしまうんだ。
剛羅楯を呼び寄せるには、噂《うわさ》をばらまくしかなかった。
それが宝貝王の騒《さわ》ぎだ。単純に斬像矛が九遥山《きゅうようさん》にいるというだけでは、情報にはなっても噂にはなりにくい。
宝貝王という胡散《うさん》臭《くさ》さを、付け加えて噂の伝播力《でんぱりょく》を上げてやがったんだ」
綾春には、殷雷がどうしてそんなに驚《おどろ》いているのか、判らなかった。
「あのぉ、殷雷さん。
それがどうして大変なのでしょうか?
綾春には、理解出来ないのですが」
口の中が渇《かわ》いていくのを感じつつ、刀の宝貝は言った。
「矛《ほこ》と楯《たて》がぶつかればどうなる?」
「あら、それこそ矛盾《むじゅん》しています」
「もともと、矛と楯の基本設計は龍華が考えたものではないのだ。
名前は知らぬが、他の仙人《せんにん》が自分の理論を証明する為《ため》に、矛と楯の設計を行った。あくまで設計だけで、実際には造っていない。
それをあの馬鹿仙人の龍華が、ちょいとした好奇心《こうきしん》の為に、設計図を元に造ってしまったのだ」
「それで、ぶつかると……」
「仙人が証明したかったのは、無の創造についての理屈《りくつ》だ。『何も無い』を造るにはどうしたらいいかという理論でな」
「ごめんなさい。結論だけでよろしいですから、教えて下さい」
殷雷とて、武器の宝貝である。
斬《き》れぬものはない武器や、防げぬものはない楯に興味はあった。
他の武器の宝貝も同じように、興味を持っていた。
封印《ふういん》の中で、彼らは色々と調べ上げ、矛と楯の素性《すじょう》と、互《たが》いにぶつかった時にどうなるかを調べ上げていたのだ。
「判《わか》った。
斬像矛《ざんしょうぼう》と剛羅楯《ごうらじゅん》がぶつかれば、お互いの存在がぶつかり合い、巨大《きょだい》な爆発《ばくはつ》が起きる」
「爆発?」
「互いの存在を打ち消しながらの爆発だ。その爆発の後には、『大消滅《しょうめつ》』が起きる。
斬像矛も剛羅楯も、有限の大きさしかないから、全《すべ》てが消滅するとは言わぬ。
大体、山が一つぶんぐらいは消し飛ぶぞ」
綾春も慌《あわ》てる。
「まあ大変。それじゃ山が吹《ふ》き飛んだ跡《あと》には大きな湖ができますね」
「いや、そうではない。爆発が起き、続いて大消滅が起きて、山と同じ大きさの『無』が出来るんだ。
無なんてものは、普通《ふつう》には存在出来ないから、周囲の物が無をなくそうと、無に吸い込まれていく。
無を中心として、大地が吸い込まれ巨大な窪地《くぼち》になる。ま、でっかい蟻地獄《ありじごく》だな。
それで、大陸が充分《じゅうぶん》でかければいいが、もしも大陸の大きさが足りなけりゃ、大陸の端《はし》が海よりも低くなってしまう。
そうなれば海水が流入し、大陸は海の底になっちまう」
「すごく大変なのではないでしょうか?」
殷雷は、ゆっくりとした綾春の驚《おどろ》きに、自分の髪《かみ》の毛を掻《か》きむしった。
「すっごく大変なんだよ! 急がねば、やばいぞ」
「でもですね、斬像矛と剛羅楯は、互いにぶつかれば自分の身が危ないのを知らないのですか?」
そこが、問題の厄介《やっかい》な所だと殷雷は考えていた。
「知っている」
「それならば、大丈夫《だいじょうぶ》なのでは?」
「知ってはいるが、納得《なっとく》はしていない。
心の底では、自分の方が優《すぐ》れていると考えていやがるんだ。大消滅が起きても、自分だけは生き延びると考えてやがる。
あいつらにとっても、危険な賭《か》けには違《ちが》いない。
だがな、己《おのれ》の存在意義を賭けて戦わない訳にはいかないんだ」
綾春はコクリとうなずいた。
「ゆっくりしている場合ではないですね」
「そうだ。判《わか》ったなら、さっさと行くぞ和穂!」
一瞬の間。
「私は和穂さんじゃありませんよ」
「うるせい、ともかく行くぞ!」
熱熱熱。己《おのれ》の毛穴から吹《ふ》き出すのは、汗《あせ》ではなく水蒸気か? いや、ほんの僅《わず》かでも水に縁《えん》のあるものではない。
体の内部に熱は籠《こ》もり、熱は炎《ほのお》となって迸《ほとばし》るのか。それとも、既《すで》に肉体はなく、純粋《じゅんすい》な炎の塊《かたまり》になっているのか。
男は考え続けた。
考える事しか出来ず、考えるのを止《や》めれば自分は只《ただ》の炎になるような気がした。
本当に炎なのかと男は考えた。
炎には全《すべ》てを焼き尽《つ》くす激しさがある。己の身には激しさはない。
純粋な熱か、たちの悪い熱病にうなされている気がする。
熱病に冒《おか》され、見ている悪夢なのか。
男はそんな気がした。
だが、悪夢にしては純粋すぎる。目も見えず音も聞こえず、臭《にお》いもない。ただ、とてつもなく熱い皮膚《ひふ》の感覚だけがあった。
熱さ以外に何もない悪夢などあるのか。
焼かれる熱さの激しさはなく、蒸《む》されるしつこい熱さがあった。
男は、自分の体が歩いているのを知っていた。
自分の意思で歩いているのではなく、誰《だれ》かに操《あやつ》られているのだ。
誰が操っている?
男は考え続けた。
熱で脳髄《のうずい》が溶《と》けるのではないかと、不安になった途端《とたん》、男は地面に倒《たお》れた。
触覚《しょっかく》以外、ふさがれていた五感が全て元に戻《もど》り、男は草の臭いをかいだ。
虫の音を聞いた。明るい陽の光を見た。乾《かわ》いた肌《はだ》に風を感じた。
汗を流していない不自然さに、男は己の体を触《さわ》ろうとした。
右手は自由に動く、だが左手は何か重い物をしっかり握《にぎ》っている。
必死に顔を動かし、左手を見た。
そこにあったのは楯《たて》だった。
太陽の光を浴び、金色に輝《かがや》く大きな楯だ。
細長い四角の楯に、左手は下敷《したじ》きになっている。
かなり重そうだが、左手は圧迫感《あっぱくかん》を感じていない。
男は楯の表面を見た。
楯の表面には無数の彫《ほ》り込みがあった。鷹《たか》や鷲《わし》、豹《ひょう》に虎《とら》、龍《りゅう》、狼《おおかみ》、蛇《へび》、鯱《しゃち》、人、熊《くま》……無数の生き物で埋《う》め尽《つ》くされていた。
男は目をしばたたかせた。ありとあらゆる生き物の姿がそこにある。ゴチャゴチヤと互《たが》いの隙間《すきま》を埋めようとひしめきあう図柄《ずがら》だ。
「これは一体、何だ!」
男の心に答えが返る。
『少しは正気に戻ったか。ならば、もう休憩《きゅうけい》は終わりだ』
「お、お前は誰だ!」
『何度その質問をしたのか、覚えていないのか。我《わ》が名は剛羅楯《ごうらじゅん》、楯の宝貝《ぱおぺい》だ』
「た、助けてくれ!」
『生憎《あいにく》、そうはいかん。もうしばらく付き合ってもらうぞ』
「は、放《はな》してくれ」
『無駄《むだ》な抵抗《ていこう》はよせ』
楯が直立し、それに引きずられるように男は立ち上がった。
男の身長ほどの高さを持つ剛羅楯は、作勤しはじめた。
外部から見れば、男の身には何も起こっていないように見える。
だが、剛羅楯は男を外部から完全に遮断《しゃだん》しているのだ。
光を閉ざし、音を遮《さえぎ》り、空気の流れすら止める。
「だ、出してくれ!」
男の叫《さけ》びは無視され、両足が勝手に動き出した。剛羅楯は男の体を操《あやつ》っていた。
汗《あせ》を流せば、水分の補給が必要になるので最小限に止《とど》める。お陰《かげ》で男の体温は、致命《ちめい》的な体温の寸前にまで上昇《じょうしょう》していく。
空気に代わり、己《おのれ》の力を分け与《あた》え、肉体を動かし続ける。
重要なのは肉体であった。
男の神経が、今の状況《じょうきょう》をどう感じようが問題ではない。
九遥山《きゅうようさん》はすぐそこだ。
決着の時は来た。
その瞬間《しゅんかん》まで、男が生きて正気でいてくれれば良いのだ。
やせ衰《おとろ》え、髪《かみ》を振《ふ》り乱し、亡者《もうじゃ》を思わせる男を従わせ、剛羅楯は進んでいった。
和穂《かずほ》と程獲《ていかく》が立ち去った広間。机の上には劾想夢《がいそうむ》と斬像矛《ざんしょうぼう》が置かれたままだった。
程穫の気配が完全に消えたと考え、劾想夢は僅《わず》かに人の形を取った。
うすぼんやりとした、影《かげ》のような形で腕輪《うでわ》に重なっている。
「ちょっと、斬像。どうしよう。和穂と程穫を一緒《いっしょ》にするのは、まずいんじゃないの。
このまま程穫の性格が丸くなったら、今までの努力が水の泡《あわ》じゃない。
せっかくここまで、ろくでもない奴《やつ》になったんだから、あいつには、もっと非道になって欲《ほ》しいじゃない。
斬像もそう思うでしょ。
どうする。また記憶《きおく》をいじっちゃう? 和穂を殺してしまうような、記憶をでっち上げようよ。
ねえ、聞いているの斬像?」
斬像も同じように、半透明《はんとうめい》のまま姿を現した。
「その必要はない。間抜《まぬ》けの劾想よ」
「私の何が間抜けなのよ! それに、その必要はないって何よ」
「……決戦の時は来た。
奴が近くまで来ている」
「や、奴って誰《だれ》よ? まさか!」
「今頃《いまごろ》気がついたのかい、劾想」
「剛羅楯《ごうらじゅん》!」
「その通りだ」
「私を編《だま》してたのね!」
「一々|確認《かくにん》を取らなければ、自分が利用されていたのも判《わか》らないのかい? そうだ、お前は利用されていたんだよ。我等《われら》が戦いの為《ため》にな。
生憎《あいにく》私の機能は、全《すべ》てを斬《き》るという一点だけに絞《しぼ》られているんだ。爆燎《ばくりょう》みたいに、使用者の体を操《あやつ》るって訳にはいかない。
ところが、剛羅は使用者の体を操れるんだ。理不尽《りふじん》だとは思わないか?
だから、程穫のような人間が必要だったのだよ」
「判らない、なぜ程穫が」
「並みの使い手なら、我等の戦いには臆《おく》してしまうだろう。程穫のような、生きる気迫《きはく》を無くした人間が必要なのだ」
「何言ってるのよ! 程獲のどこが生きる気迫の無い人間よ。自分だけは、何があっても生き延びようとする奴じゃない」
「馬鹿には判らないよ」
「あんた、自分が自殺しようとしてるのが判《わか》っていないの?」
「……剛羅は使用者の肉体を操れる。私には出来ないのにだ。
ここに、何かを感じないか?
私は斬る機能の為に、使用者を操れないのだ。逆に言えば、操れる剛羅楯は、防御《ぼうぎょ》能力に限界があるやもしれぬ」
「正気じゃない! そんなの龍華《りゅうか》の気まぐれでしょ」
「勝算はある!」
「程穫に言いつけてやる! 大消滅《しょうめつ》が起きるのが判ってて、あんたを剛羅と戦わせる奴なんかいないんだから」
斬像矛《ざんしょうぼう》は笑った。
「そうかい。ならば行くがいい。お前が人の形を取れたと知ったら驚《おどろ》くだろうね」
「飯を食いたくないなどというのは、最低のワガママだぞ」
「……判ってる。でも、本当に食べたくないの」
和穂は小さな部屋にいた。
部屋の端《はし》には寝台《しんだい》があり、窓際《まどぎわ》には机が置かれている、ただそれだけの部屋だ。
装飾品《そうしょくひん》の類《たぐい》もなく、みようによれば監獄《かんごく》のようでもある。
部屋の片隅《かたすみ》には、殷雷《いんらい》の棍《こん》が立て掛《か》けられていた。和穂はゆっくりと席を立ち、棍を手に取る。そして、首を横に振《ふ》り、断縁獄《だんえんごく》の中に棍を収納した。
程穫の怒《いか》りは、妹の身を案じてのものか、自分の命令に従わない事へのものなのか。
和穂は程穫の顔を流れる汗《あせ》に気がついた。とてもじゃないが、暑くはない。少しばかり肌冷《はだび》えがするぐらいだ。
「どうしたの、その汗? どこか具合でも悪いんじゃ」
慌《あわ》てて程穫は汗を拭《ぬぐ》った。
「気にするな。たまに汗が止まらなくなる時があってな。
別に苦しくはないから大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「原因をはっきりさせないと。病気かも知れないよ」
「は。俺《おれ》はこの間まで、流核晶《りゅうかくしょう》を使っていたのだぞ。
自分の体の不調は、すぐに治していた。それにそんな大騒《おおさわ》ぎするような不調など、一度もなかった。
この古傷は、己《おのれ》の弱さを忘れぬ為《ため》に、わざと残しているのだ」
強がってしゃべりながらも、程穫の額からは汗が流れていた。それを拭う手にも汗が流れている。
体が上気しているのでもないのに、流れ続ける汗は病的だった。
しかし和穂には汗の理由は判らなかった。
「食いたくなければ、好きにしろ。どうせ保存食と大して変わらぬ物だから、食いたくなったら勝手に食え。
俺と顔を突《つ》き合わせて、飯が食いたくないのならば、そう言え」
「そうじゃない。本当に、何も喉《のど》を通らない気分なの」
背を向け、扉《とびら》に向かおうとする程穫を和穂は呼び止めた。
何かと思い、程穫は振《ふ》り向く。呼び止めた事を後悔《こうかい》した表情で、和穂は言った。
「て、程穫。
あなたなら知っているんでしょ? お父さんと、お母さんはどうしているの?」
程穫は優《やさ》しく笑った。
「何、心配するな」
「生きているの!」
「心配するなと、言っただろ。お前の手は煩《わずら》わせぬ」
「?」
「既《すで》に始末してある。当然の報《むく》いだろう」
悲しみではなく、和穂は全身の力が抜《ぬ》けるのを感じた。怒《いか》りではなく、無表情になる和穂の顔を程穫は見た。
「お前が来ると判《わか》っていたなら、記念碑《きねんひ》代わりに墓でも立てておけば良かったな」
涙《なみだ》が流れないのが、和穂にはとても不思議だった。只《ただ》、頭の中でガンガンと音が鳴るだけだ。
死とは、会えなくなる事だ。
生きていれば、どんなに可能性が低くても会えるかもしれない。
和穂はそう考えていた。生きている者から見た、他の人間の死をそう理解していた。
会った事もない人間に、会えなくなる。
それが悲しみを呼べるのだろうか。
「涙の一つも流さぬか。もとより、お前は親には会いたがっていなかったからな」
頭の中の音はさらに大きくなった。
悲しいのだ。だが、悲しみを実感出来ないのだ。誰に会えなくなったのか、判らないのだ。
つまらなさそうに、程穫は言った。
「嘘《うそ》だ。俺が始末しに行った時には、既《すで》に事故で死んでいた」
「本当?」
「本当だ」
程穫の言葉に、和穂はなぜかホッとした。
少なくとも、実の兄が親を殺してはいなかったのだ。
その時、窓が破られた。
窓|枠《わく》を叩《たた》き切りながら、一つの影《かげ》が部屋の中に飛び込んできた。
「やっぱし、お前とはケリをつける必要があるな、程穫よ」
スラリと背筋を伸《の》ばした綾春《りょうしゅん》が、腰帯《こしおび》に黒い鞘《さや》を付けていた。右手にはギラリと刃《やいば》を光らせる殷雷刀を持っている。
「綾春さん! 殷雷も!」
綾春はいつもの声で答えた。
「あらまあ、和穂さん。
助けに参りましたよ」
目に入ろうとする汗《あせ》を拭《ぬぐ》い程穫は低い声で言った。
「やはり来たか。今度は殺してくれる」
殷雷との間合いを取りながら、程穫は袖《そで》の中に手を入れ、扉《とびら》を背後に背負う。
今、斬像矛《ざんしょうぼう》が手の中に無いのを勘《かん》づかれてはまずい。
さすがに殷雷も、程穫の一撃《いちげき》に細心の注意を払《はら》い、うかつには打ち込まない。
そこに程穫の逃亡《とうぼう》を許す隙《すき》があった。
程穫は、踏《ふ》み込むと見せ掛《か》け、地面を足で叩《たた》き、一気に扉から逃《に》げた。
驚《おどろ》きながらも殷雷は後を追おうとするが、綾春はそれを良しとしない。
刀を持った綾春は和穂の前に立った。
「和穂さん。つらいとは思いますが、やはりあなたが程穫と戦わなければなりません。
己《おのれ》が己である為《ため》に、戦わなければならない時はあるのです。
さぁ、頑張《がんば》って、程獲の手から宝貝《ぱおぺい》を取り戻《もど》して下さい」
右手の刀を、そっと和穂に渡《わた》す。
「綾春さん、ありがとうございます」
跳《は》ねるように、和穂は程獲の後を追い、廊下《ろうか》を走った。程穫の姿は見えなかったが、足音からどこを逃げているのか、判別出来た。
『殷雷、やっぱり来てくれたんだね』
『け。別にお前の為だけじゃねえ。ちょいと厄介《やっかい》な事になったんだ』
『え?』
『剛羅楯《ごうらじゅん》という宝貝がある、これは……』
程穫を追いながら、殷雷は和穂に矛《ほこ》と楯《たて》の説明をした。
『それじゃ、程穫は斬像矛《ざんしょうぼう》に操《あやつ》られて、あんな事を?』
『恐《おそ》らくな』
程獲の足音が止まった。程穫の姿を捉《とら》えると、そこには一人の女がいた。
濡《ぬ》れた短い髪《かみ》の女だ。広間の入口で程穫を押《お》し止めようとしたが、突き飛ばされた。
和穂は女のそばに寄った。
「あの、あなたは?」
「私は、劾想夢《がいそうむ》。程穫を止めて! 剛羅楯が近くまで来ているの!」
「何だと!」
和穂の声で、殷雷は叫《さけ》び、部屋の中に飛び込むと、程穫は既《すで》に斬像矛を構えていた。
「さて、切り刻んでくれようか」
和穂は程穫に訴《うった》えた、殷雷は隙《すき》なく構えている。
「待って、あなたは斬像矛に利用されているのよ!」
「ふん。何を言い出すかと思えば。斬像矛が俺を利用しているだと? こんな意思もない宝貝が」
劾想夢も急いで、部屋の中に入って来る。
「本当よ! 剛羅楯という、全《すべ》ての攻撃《こうげき》を防ぐ楯がいて、斬像矛はそれと戦いたがっているの。
でも、二人がぶつかれば、大|消滅《しょうめつ》という凄《すさ》まじい破壊《はかい》が起きる!」
「女よ。もしそれが本当ならば、この程獲がむざむざ楯と戦うと思うか。
それに、今まで俺が斬像矛に利用されていたとは聞き捨てならぬな」
「信じなさいよ! 斬像矛にはちゃんと意思があって、人の形まで取れるのよ。
あんたを利用する為《ため》に、なんの意思もないふりをしていたの。……私もだけど」
「俺は今までに、誰の指図も受けた覚えはないと言っているのだ」
劾想は頭をかきむしった。
「ええ、そうでしょうよ。あんたは気がついてなかったでしょうけど、私はあんたの記憶《きおく》を今までに何度も修正しているのよ。
判《わか》る? あんたを出来るだけ非道の矛使いにしようと思って、都合のいいように記憶をいじっていたのよ。
あんたの人生は、あんたが知っている人生より、遥《はる》かにましなのよ」
程獲に僅《わず》かでも隙が出来ないかと、殷雷は和穂を身構えさせたが、隙は全く現れなかった。
だが、程穫は確かに動揺《どうよう》し始めていた。汗《あせ》の量がだんだんと増えていく。
「記憶を操《あやつ》るだと? どういう意味だ!」
「あんたの人生は、そりゃまあ平凡《へいぼん》な人生とは言えないし、血で血を洗うような部分もあった。
けどね、たまには人の優《やさ》しさに触《ふ》れた時もあったのよ。
何とか手に入れた食料を、半殺しに殴《なぐ》られて奪《うば》われた事もあった。
その後に、あんたの傷を手当てして食事を与《あた》えてくれた、名も知らぬ人だっていたの。
そんな記憶は、私が片《かた》っ端《ぱし》から消させてもらったけどね」
今まで歩んだ、人生を簡単に否定されたのだ。程獲は、自分の足元がぐらつくのを感じた。
「俺の人生は全《すべ》て嘘《うそ》だというのか!」
劾想夢《がいそうむ》は言った。
「いいえ。あんたが他人を傷つけたのは全て本当よ。あんたの苦しみは全て本物。
だけど苦しみを癒《いや》してくれるような事も充分《じゅうぶん》にあったの」
刀を手にした和穂は言った。
「嘘をつけ。お前らはそんな昔から地上にいたのではないだろ。程穫の人生にかかわれる程《ほど》昔から」
「斬像矛《ざんしょうぼう》の力で地上に降りたのは、今から二百年以上前なのよ。
和穂。あんたは人間界に影響《えいきょう》がでないようにと、地上に降りたらしいけど、どれだけ無意味か判《わか》る?
あんたが来る二百年の間に、どれだけ歴史が変わったんだろうね。知る術《すべ》はないけど。
これで、判ったでしょ程獲。
あんたは斬像矛を使う、非道のろくでなしになる為《ため》に育てられたのよ。
嘘じゃないよ、斬像矛がどう言い逃《のが》れするか楽しみだね」
和穂は小さくつぶやいた。
「そんな、酷《ひど》い」
斬像矛が揺《ゆ》らぎ、影《かげ》のような女の姿が現れた。矛の形はそのままで幻《まぼろし》のように程獲にまとわりつく。
今こそ攻《せ》める時かと殷雷は考えたが、程穫の構えにやはり隙《すき》はない。
それどころか、真実を知る邪魔《じゃま》をする奴《やつ》は許さないという、気迫《きはく》があった。
金色の髪《かみ》の女は、程獲の耳に囁《ささや》くような仕種《しぐさ》をした。だが、その場にいたものの耳には全《すべ》て届くような、よく通る声だ。
「言い逃れはしないよ、劾想。
程穫。劾想の言ったのは全て真実さ。お前は孤独《こどく》にうち震《ふる》えるガキの時代を送ったと考えているかもしれないが、そうではなかったのさ。
私と劾想が、色々とお前の世話をした。
死なないように、どれだけ気を使ったか。
生き延びて、お前を殺そうとした人間に復讐《ふくしゅう》をしてもらわねばならんしな。
お前の感じた孤独は、そうだな……人間の存在も判らない、馬鹿な金魚のようなものだな。
金魚|鉢《ばち》の中の一|匹《ぴき》の金魚だ。己《おのれ》は孤独だと思っていたかもしれないが、ちゃんと世話をされていたんだよ。死なない程度にはな。
間抜《まぬ》けな金魚は、牙《きば》の剥《む》き方を覚えてくれた。相手がどんな弱者であろうが、お前の邪魔をする者は容赦《ようしゃ》なく叩《たた》き潰《つぶ》す人間にだ。
まさに狙《ねら》いどおりだ」
「……貴様!」
程穫の怒《いか》りに屈《くっ》せず、蛇《へび》の目をした女は喋《しゃべ》り続けた。
「さあ、どうする程穫よ。全ては劾想と私の仕業《しわざ》だったんだ。
本当に奴隷商人は存在したのかな? 医者は本当に世間体を考えていただけなのか? 医者の妻は、死んだわが子ではなく、本当に程穫を愛してくれていたのではないか?
判《わか》らないよねえ。
判断の基準になる記憶《きおく》が、信用出来ないんだから」
「そうと、判れば貴様の指図など」
「それで、これからは心を入れ換《か》えて、真面目《まじめ》に生きるかい?
これからの人生を、償《つぐな》いの人生として生きるかい?
それもいいかもな、可愛《かわい》い妹もいるし。
安心しろ、和穂はお前の妹だ。この記憶には関与《かんよ》していない。
だがな、誰もお前の償いなど望んでいないのだよ。
お前に痛めつけられ、殺された人間が、お前が全《まっと》うな人間になるのを望んでいると、少しでも考えるか?
お前を哀《あわ》れに思い、情けをかけたのに、お前はそいつにどれだけ酷《ひど》い仕打ちをしたか。
お前の償いを求める者など、この世にはいやしない。
思い出せ、お前はあの医者に復讐《ふくしゅう》したな。お前の姿を見た時、医者は喜《よろこ》ぼうとしていたのではないか。
行方不明《ゆくえふめい》になった、我が子との再会。それを喜ぼうとする表情がなかったか?
医者が声を上げる前に、お前は刀を奴の心臓に突き刺したな?」
程穫の全身の汗《あせ》は、水を頭から被《かぶ》ったような量になっていた。
「黙《だま》れ!」
「黙らないよ。今まで手塩にかけて育てた程穫が悩《なや》んでいるんじゃないか。
お前に代わって、私が考えてやるよ。
お前を救えるのは無だけだ。死でも物足りない。
魂《たましい》すら消滅《しょうめつ》させる程《ほど》の完全な無だけが、お前を救えるのさ。
私はお前に無を贈《おく》ってやれるぞ。
剛羅楯《ごうらじゅん》と私の戦いは、使用者すら消滅させてしまうだろう。
全《すべ》ての後に残るのは、力を殆《ほとんど》ど消耗《しょうもう》しつくした、私の残骸《ざんがい》ぐらいだろう。
でも、それでいいのだ。
剛羅楯は完全に消滅したのに、私だけが残る。それを証明出来さえすればいいのだ!」
斬像矛《ざんしょうぼう》の構えがふいに下がる。
間髪《かんぱつ》いれずに、殷雷刀の刃《やいば》が走り、程穫の右|腕《うで》を深く斬《き》る。
だが、次の攻撃《こうげき》の前に、程獲は再び構えを取り直した。
程穫は、自分の腕に痛みがないと気がついた。
程穫の疑問に斬像矛が答える。
「さあ、悩んでいる暇《ひま》はないぞ程穫。お前の体は崩壊《ほうかい》しようとしている」
「なんだと!」
「流核晶《りゅうかくしょう》の副作用さ。あまりに何度も何度も流核晶を使い続けると、肉体が緩《ゆる》んでくるんだ。粘土《ねんど》に水を含《ふく》ませたようなもんだ。
そのうち粘土は泥《どろ》になる。まあ、悪い事ばかりではない。崩壊の初期段階では自分の肉体を自在に操《あやつ》るのも可能だからな。
傷口ぐらいはすぐにふさげられる。
今の傷も大して痛くはなかろう。
しかし、ゆっくりしている暇はないぞ。もはや、お前の崩壊は加速度的に進む。
早くしなければ、死んでしまうぞ。
死ではお前は救われない、完全なる無だけがお前を救えるのだ」
汗《あせ》に色が付いていた。肉の色だ。粘土人形の形を変えるように、程獲の傷口はすぐに埋《う》まった。
「……無か」
「そうだ、無だ。お前の嘘《うそ》で固めた人生の終末には相応《ふさわ》しいと思うがな。
さあ、楽になるぞ。考える魂《たましい》すらない平穏《へいおん》な世界だ」
和穂は叫《さけ》ぶ。
「程穫!」
程穫の目が虚《うつ》ろになっていた。だが、体に染《し》み込んだ、戦う本能は隙《すき》を見せない。
程穫の声からは生気が完全に消えていた。
「剛羅楯《ごうらじゅん》は近いのか」
「判《わか》ってくれたか。では行こう、剛羅楯との決着を付けるため」
程穫はユラリと動き、机を粉砕《ふんさい》した。矛《ほこ》の動きに迷いがない。
止《や》むなく殷雷は一歩引いた。
扉《とびら》に向かうかと思われた程穫は、壁《かべ》に向かい、壁を破壊《はかい》した。
同時に、壁のそばの劾想夢《がいそうむ》を叩《たた》き斬る。
胴体《どうたい》をなぎはらわれ劾想夢は破壊された。
壁を切りながら、駆《か》ける程穫を和穂は追った。
[#改ページ]
終 章
林の中を樫穫《ていかく》は駆《か》けた。殷雷刀《いんらいとう》を持った和穂《かずほ》は後を追う。
程穫は和穂と互角《ごかく》の速度で、駆け続けた。
少し沈《しず》みかけた陽《ひ》の光が、二人の長い影《かげ》を照らしていた。
殷雷は、間合いが詰《つ》められない焦《あせ》りを感じる。
『すばしっこい奴《やつ》め!』
『……程穫は可哀《かわい》そうだよ』
『やかましい!』
『自分の記憶《きおく》が、操《あやつ》られて、そいつの都合のいいように変えられていたのよ』
『黙《だま》れ。だからどうした? 奴を止めるしか俺《おれ》たちには手はない』
二|匹《ひき》の豹《ひょう》のように、和穂と程穫は林を駆け抜《ぬ》け、平地にでた。
彼方《かなた》に人影が見える。
陽を背中にしているが、その手には大きな楯《たて》を持っているのが判《わか》る。
『あれが、剛羅楯《ごうらじゅん》だ!』
剛羅楯までにはまだかなりの距離《きょり》がある。
殷雷はゆっくりだが、程穫に追いつきつつあると確認《かくにん》した。
程穫の速度が落ちた理由も、殷雷には判《わか》った。
だんだんと崩壊《ほうかい》が酷《ひど》くなっているのだ。規則正しく動いていた手足が、だんだんと調和を失い始めていた。
どこで追いつくか? 殷雷は必死に計算した。
どうにか、剛羅楯の手前で程穫には追いつく。
だが一度しか、攻撃《こうげき》は出来ない。
一度の攻撃で程穫を止める必要があった。
だんだん、程穫の背中が近寄ってきた。
がら空きの背中だ。殷雷に斬《き》りつけられようとも、剛羅楯に刃《やいば》を叩《たた》きこむつもりだ。
どうやって、程穫を止める? 殷雷は悩んだ。
標的が近寄り、和穂は静かに言った。
『……殷雷。兄さんを斬って……』
確実に程穫を止めるには、斬り殺すしかない。殷雷には判っていた。
判っていたが、他に手はないか考えていたのだ。
『……だが、だが』
『これ以上、兄さんに誰《だれ》かを傷つけさせるわけにはいかない。
今までは斬像矛たちに、操られていたようなものだけど、今度は兄さんの意志で周《まわ》りを巻き込もうとしている。
せめて、それだけは止めないと!』
程穫を兄さんと呼ぶ和穂に、殷雷は苦痛を感じた。妹は兄を殺すしか手はないと知っているのだ。
殷雷は怒った。和穂にこんな辛《つら》い決断を下させた程穫に、凄《すさ》まじいまでの怒りを感じていく。
『和穂……』
和穂は自分の気持ちをぶちまけた。
『……斬像矛に操られなかったら、本当の兄さんはどんな風になっていたんだろう。本当の兄さんと色々な話をしたかった。
でも、でも。兄さんを止めなければいけないの。
私のこの手で。……兄さんは悪くない。でも止めなければ』
『本当にいいのか!』
『いいわけないじゃない! だけど、もうどうしようもないのよ!』
和穂の心の痛みが、殷雷にも伝わっていった。
和穂は跳《は》ねた。
程穫の背中に肉薄《にくはく》した。
そして殷雷刀は己《おのれ》を程穫の心臓|目掛《めが》けて突《つ》き刺《さ》した。
背中から、心臓を目掛けて肉の中に埋《う》まる刃。
重い感触《かんしょく》だった。刃《やいば》はゆっくりと突き進んだ。
刃は完全に埋まり、柄《つか》が程穫の背中に触《ふ》れた。
腕《うで》を曲げ、しっかりと殷雷刀を固定していた和穂の頬《ほお》にも、程穫の背中が触れる。
程穫の背中の温《ぬく》もりを感じ、和穂の目から涙《なみだ》が一気に溢《あふ》れた。
殷雷は刃を引き抜《ぬ》き、地面に倒《たお》れようとする程獲の前に回った。
そして、程穫の手に握《にぎ》られる矛《ほこ》に狙《ねら》いを定めた。
刀の間合いに殷雷はいる。
斬像矛《ざんしょうぼう》がどう足掻《あが》こうが、勝ち目は無い。
殷雷刀は、斬像矛の柄を一刀両断にした。
同時に、目前に迫《せま》っていた剛羅楯《ごうらじゅん》も真っ二つに割れる。
折れて宙を舞《ま》った斬像矛の刃が、割れた剛羅楯に当たったが、何も起きなかった。
二つの宝貝《ぱおぺい》は、片方が機能を停止すれば自分も存在出来なかったのだ。
楯《たて》を持った男は大の字になり、後ろに倒れた。
そして呟《つぶや》く。
「や、やっと助かった」
「兄さんは馬鹿よ! 自分の間違《まちが》いを認めるのが嫌《いや》だから、斬像矛の言いなりになっていただけじゃないの!」
地面に横たわる程穫を、和穂は強く揺《ゆ》さぶった。
程穫の崩壊《はうかい》はさらに進んでいた。体の末端《まったん》が蜜《みつ》に漬《つ》けたようにドロリとなっている。
殷雷刀に刺《さ》し衰《つらぬ》かれた傷からは、血が滲《にじ》み出していた。心臓を刺されたのに、血は勢いよく噴出《ふんしゅつ》しなかった。
程獲は口を開く。
「やっと、兄と呼びやがったか」
腕《うで》を組んだ殷雷は、程獲を見下ろした。
「心臓を刺して殺したつもりなんだがな」
程穫は笑った。
「ふん。お前のようななまくらに刺されたぐらいで、死んでたまるか。
俺はじきに死ぬが、お前の刃の前に死ぬんじゃないぞ、なまくら。
体の崩壊が止まらないから死ぬんだ」
強がる素振《そぶ》りの裏には、和穂に見殺しの罪を背負わせたくない心遣《こころづか》いがあった。
兄の気持ちを知ってか知らずか、和穂は程穫の体を揺さぶり続けた。
「兄さんは只《ただ》の弱虫よ。償《つぐな》おうとしても、許してくれない人はいるかもしれない。
でも許してくれる人もいたかもしれないじゃない。
許されなくて、罵倒《ばとう》されてもそれを堪《こら》えるのが償いでしょう!」
「死にかけてるのに、容赦《ようしゃ》なしだな和穂。
あんまり揺さぶるな。首が取れっちまう。
お前に俺の気持ちが判《わか》るか。と、言いたい所だが、お前には俺の気持ちが判っているのかもな。
お前と俺の立場が逆だったら、和穂も俺のようになっていたと思ったが、そうでもないようだな。
双子《ふたご》とはいえ、お前はお前、俺は俺。弱い兄と強い妹だったのか」
ゆっくりとゆっくりと、程穫は溶《と》けていった。肉と骨と血が一つに混じり、流れ出していく。
和穂は殷雷を見上げる。
「殷雷! 殷雷なら兄さんの崩壊《ほうかい》を止められるんじゃ」
殷雷は程穫が嫌《きら》いだった。こいつの為《ため》に和穂がどれだけ苦しんだか。
「こんな外道《げどう》に貸す力などあるか」
「殷雷!」
「助けられねえんだよ。綾春《りょうしゅん》みたいに内臓に手を貸す事は出来ても、こいつはもう細胞《さいぼう》自体が崩壊してやがる。武器の出る幕じゃねえよ」
必死に頭の崩壊を食い止めながら、程穫は言い返す。
「ふん。こんななまくらの力で生き延びれば程穫の名折れだ。
だがよ、なまくら。お前しかいねえから嫌々|頼《いやいやたの》むぜ。
和穂を守ってくれ。体が自由に動くなら頭だって下げてもいい」
殷雷は冷酷《れいこく》に言った。
「いい加減にしろ。和穂を守りたければ、生き延びて自分の力でやれ」
「……情に脆《もろ》いなまくらにしては、酷《ひど》い言いぐさだな」
「俺はお前が大嫌いだ。爆燎《ばくりょう》を破壊《はかい》したし、和穂を苦しめた。
お前にかける情などない。文句があるなら、立ち上がって俺を殴《なぐ》ってみろ」
「殷雷……」
「いいんだ和穂。こいつは俺を憎《にく》んでいる。和穂の事を心配していたから、俺を憎んでいるんだ。
安心したぜ。お前なら和穂を守れるだろうよ」
「ほざけ。お前に言われずとも、和穂は絶対に守る」
殷雷はそう言い、口をつぐんだ。
「だったら最初っから、判《わか》った、俺に任せろぐらい言えよ。
まあいい。和穂よ。俺はお前のばらまいた宝貝《ぱおぺい》のせいで死んだ。
これに間違《まちが》いはない。
和穂、お前は俺を弱虫だと言った。ならばお前は弱虫になるな。
自分の責任で兄を死なせた事実を、乗り越《こ》えろ。
ま、俺としちゃ誰《だれ》を恨《うら》むでもないがな。
俺は大消滅《だいしょうめつ》に逃《に》げようとした。だが、和穂よ、お前は逃げるな。何があっても宝貝の回収をやり遂《と》げろ。いいな」
「兄さん」
「さてと。そろそろ時間だ。和穂、形見を分けてやろう」
程穫はドロドロに溶《と》けた腕《うで》を器用に操《あやつ》り、腰《こし》の隠《かく》しに手を入れた。
服にも肉体は染《し》み出していて、どこまでが体でどこからが服なのかは判別出来ない。
多少苦労し、程獲は一つの純白の珠《たま》を取り出した。
飴玉《あめだま》程度の大きさの珠だ。
「これをやる。言っておくが、宝貝じゃないからな。そんなに高価な物でもない。
指輪にするには大きかろうから、鎖にからめるか袋にでも入れて、首からかけてな」
程穫の指先から和穂は珠を受け取る。
「これは?」
「時が来れば判るさ。判らなければ、それに越《こ》したことはないがな。
……もう、限界だ。すまなかったな和穂、兄らしい事を一つもしてやれなかった」
程穫はドサリと音を立て、崩壊《ほうかい》した。
数日が過ぎた。
宝貝王程穫が破壊した宝貝の残骸《ざんがい》を、どうにか全《すべ》て和穂は回収した。
その数は二十六個。
テキパキと回収を進める和穂を見て、綾春は殷雷に言った。
「もっと落ち込むかと思いましたが、和穂さんは強いんですねえ」
「あいつは進むしかねえんだよ。
それに爆燎を失ったお前が、気丈《きじょう》に振《ふ》る舞《ま》っているんだ。
和穂も泣いてはいられまい」
「……泣くのはばくさんが喜びません」
「ふん。あの腐《くさ》れ外道《げどう》の兄貴も喜ばねえだろうからな」
殷雷と綾春のもとへ、和穂はテクテクと歩いてきた。
「いやぁ、索具輪《さくぐりん》の調子が悪いから手間どっちゃったけど、どうにか九遥山中《きゅうようさんちゅう》の宝貝を回収出来ました。
綾春さん、ご免《めん》なさい。時間をとらせてしまって」
「いえいえ、お構いなく」
殷雷が綾春にたずねる。
「故郷まで送らなくていいのか?」
「大丈夫《だいじょうぶ》ですよ。街道《かいどう》まで一緒《いっしょ》に来ていただければ、そこから先は一人で行けます」
和穂はいつもの笑顔《えがお》で言った。
「それじゃ、行きましょうか。あ、ちょっと待って下さいね」
和穂は程穫を埋《う》めた土の前に立った。
そこに程穫が居るかのように、和穂は言った。
「それじゃ、行ってくるね。兄さん。ここにはちょくちょく寄る訳にはいかないけど、宝貝を回収し終わったら、一度は寄るよ。
じゃあ、またね」
殷雷は綾春と和穂から目を逸《そ》らし、あさっての方向を見た。
綾春はクスリと笑い、小声で言った。
「殷雷さん、泣いているんですか。
ああいうさりげない、仕種《しぐさ》は結構、ジィィンときますよね」
「うるせい、馬鹿野郎。誰《だれ》が泣くか!」
言いつつも殷雷は顔を合わせようとしなかった。
程獲と話し終えた和穂は、二人のそばに近づいた。
腰《こし》の断縁獄《だんえんごく》を外し、真鋼《しんこう》の棍《こん》を取り出す。
そして、そっと殷雷に差し出した。
殷雷はやはり顔を合わせないようにして、ふんだくるように和穂の手から棍を取る。
「どうしたのよ、殷雷?」
「別に」
綾春は、和穂の耳に手を当て、囁《ささや》いた。
「殷雷さんはね」
「綾春! 下らん事を言うな!」
「はいはい」
三人は九遥山《きゅうようさん》を降りていった。
和穂が再び九遥山を訪《おとず》れる事が叶《かな》うのはいつの日であろうか。
[#改ページ]
あとがき
『我《わ》が生涯《しょうがい》に悔《く》いなし!』
死ぬまでに一度はやってみたい事ってあるでしょ? いやいや、生涯を通じての目標とか、そういう大袈裟《おおげさ》なものではなくて、他人から見れば馬鹿馬鹿しいようなやつで。
私にもそれが一つあるのだが、ここでやってみても良いだろうか? 駄目《だめ》だと言われてもやってしまうぞ。
では、
※[#底本では麻雀牌の一索の図]
あぁ、とうとうやってしまった。一度でいいから、この麻雀牌《マージャンぱい》写植を使ってみたかったのだ。※[#底本では麻雀牌の一索の図]だ! ※[#底本では麻雀牌の一筒の図]だ! おぉ、素晴《すば》らしい、※[#底本では麻雀牌の發の図]! ううむ、限りなくひたすらに素晴らしい。
『豆知識』
私は関西在住なのだが、他の地域に比べるとテレビで漫才《まんざい》をやっている回数が非常に多いらしい。
そこで、少しマニアックなネタを一つ。
赤いハンカチでお馴染《なじ》みの漫才師、横山たかし・ひろしの話である。
先代の横山たかしを名乗《なの》っていたのは、なんとレッツゴー三匹のリーダーなのだ。
しかも相方《あいかた》は誰《だれ》あろう、あの横山やすしであったのだ。
現在、横山一門における、横山ホットブラザーズの位置づけを調査中であるが、近日中に、トリオ・ザ・ミミックとミスターオクレの関係、チャンバラトリオは、トリオなのになぜ四人組なのかという問題とあわせ発表をする機会《きかい》があるだろう……あるとうれしい。
『トムとジェリー』
謀略《ぼうりゃく》にはまり、処刑《しょけい》寸前のあなたを魔王が救ってくれました。
そこであなたは魔王の下僕《しもべ》となり、主《あるじ》の完全復活を目指《めざ》し暗躍《あんやく》する事になります。
具体的《ぐたいてき》には館《やかた》を一つ与えられ、そこへ侵入した冒険者たちを罠《わな》にはめて血祭りにあげ、生《い》け贄《にえ》に捧《ささ》げるのです。
と、いう設定のゲームが実際にある。
これがまた、面白《おもしろ》いのなんの。
話をきいているだけでは、かなり悪趣味《あくしゅみ》なゲームのようだけど、館に侵入する人間の七割は悪人で、二割は偽善者《ぎぜんしゃ》なのでそれほど不快ではない。
しかも、仕掛けた罠は全《すべ》て手動で、主人公は直接攻撃が一切《いっさい》出来ないのがポイントだ。
つまり、
館に敵が侵入、
罠を仕掛けて、主人公|自《みずか》らが敵の前に姿を見せる、当然、敵は追っ掛けてくる、
逃げながら、敵を罠の前にまで誘導、
敵が死にさらせとばかりに、剣を振り上げたところでスイッチオン、罠が作動し突然|床《ゆか》が消える、
敵はアレ? とばかりに硬直し、床がない事に気がつき落下。
この床がない事に気がついてから落下するのが、妙《みょう》におかしくてね。
最近の家庭用ゲームの中では、一番のお気に入りなのだ。機会があれば、一度お試《ため》しいただきたい。
『大極拳、その後』
「なぜだなぜだなぜだ、なぜワシの拳からは光線が出ぬのだ」
「喝《かつ》! 貴様《きさま》の拳には邪念《じゃねん》が満ちておる! その拳、師である我が封印してくれる!」
「おのれ、老師め!」
てな冗談《じょうだん》はさておき、大極拳の話である。おかげさまでチョイと仕事も忙《いそが》しくなり、結局三か月しか習えなかったのだが、色々《いろいろ》と学ぶ事も多かった。
教えていただいたのは、中国人のオバちゃんなのだが、この人がまた凄《すご》い人でね、見た目は、そこいらにいる小太りのオバちゃんと全《まった》く変わらないのだが、蹴《け》りが凄い。
身長百七十五センチのワシの後頭部《こうとうぶ》を、充分《じゅうぶん》蹴れるぐらいにまで足があがるのだ。
外見と動きのギャップが、とても面白かった。
また機会があれば、御教授願いたいものである。
『うわ、次で五巻か。早いなあ』
さて、そろそろ紙数も尽《つ》きてきた。最近は月刊ドラゴンマガジンの方で、封仙娘娘追宝録の短編を書いていたりもするので、よろしければ御一読を。
ではまた。※[#底本では麻雀牌の一索の図]
[#地付き]ろくごまるに
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》4 夢《ゆめ》をまどわす頑固者《がんこもの》
平成9年1月25日 初版発行
平成9年9月30日 四版発行
著者――ろくごまるに