封仙娘娘追宝録3 泥を操るいくじなし
ろくごまるに
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(例)夜主《やしゅ》
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目次
序 章『宝貝《ぱおぺい》を狙《ねら》う女』
第一章『泥《どろ》との戦い』
第二章『和穂《かずほ》の拳《けん》』
終 章
あとがき
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序 章『宝貝《ぱおぺい》を狙《ねら》う女』
一
女は夕日を背に受け、大地を駆《か》けていた。
たとえ疾走《しっそう》する豹《ひょう》でも、彼女に追いつくのは不可能だ。
地面を駆ける全《すべ》ての獣《けもの》より、彼女は速く走っていた。
天空の果てから獲物《えもの》を狙《ねら》う鷹《たか》でも、彼女の動きは捉《とら》えられない。
女の名は夜主《やしゅ》という。
尋常《じんじょう》ならざる速度で、夜主は大地を駆けていた。絶対に人の脚《あし》では繰《く》り出せない動きで夜主は走っていた。
彼女は口だけで呼吸をしていた。風に押しつけられて、鼻からは息を吸えない。
用心《ようじん》深い獣が水をすするように、わずかに開いた口許《くちもと》から空気を飲み込んでいた。
鼓膜《こまく》はただ、ゴウゴウと風を切る音を伝えるのみ。
風の圧力を受けながらも、夜主の目は真《ま》っ直《す》ぐに正面を見据《みす》えた。
少しでも風の抵抗を抑《おさ》える為《ため》に、彼女は顔に細い布を幾重《いくえ》にも巻いていた。
緩《ゆる》く巻かれた布の隙間《すきま》から、彼女のほっそりとした鼻と、恐ろしく鋭《するど》い眼光がのぞいている。
布の端と夜主の黒く長い髪は、混じり合って風になびいていた。
決して彼女は楽に走っているのではない。
全身がバラバラになりそうな衝撃《しょうげき》を、鍛《きた》えぬいた、しなやかな肉体で辛《かろ》うじて受け止めているのだ。
布の下で、夜主は笑った。
凶暴で乗り手の体を痛めつけるが、その代わり、滅法《めっぽう》脚の速い暴《あば》れ馬を乗りこなしているような充実《じゅうじつ》感と、それだけの速度で走っても果ての見えない大地の壮大さに、笑みがこぼれたのだ。
彼女が履《は》いている靴《くつ》は、通常の革靴とは違う。
名前は俊地鞜《しゅんちとう》、宝貝《ぱおぺい》の革靴だ。
*
夜主の心に言葉が触れた。
『夜主様。少し休憩《きゅうけい》なされたほうが』
『お前の指図《さしず》なんか、受けないよ。まだ走れる。宝貝の在《あ》り処《か》はこっちでいいのかい?』
『はい。このまま、進めば』
夜主に話しかけたのも宝貝であった。
彼女の指に光る、何の変哲もない指輪。だがこの指輪も俊地鞜と同じく、仙人の手によって造られた神秘の道具、宝貝だったのだ。
指輪の名は捜魂環《そうこんかん》。
俊地鞜に意思はなかったが、捜魂環には意思があった。
走りながら、夜主は捜魂環に問いかけた。呼吸すらままならないので、やはり心を通してだ。
『捜魂環よ。その皮杯面《ひばいめん》という宝貝は、本当にどんな相手にでも化《ば》けられるのか?』
『左様《さよう》です。ただ、使用者の体格より小さい者には無理ですが』
『それは、仕方がないとして、どんな欠陥《けっかん》がある』
『はっきりとは覚《おぼ》えていませんが、変化の為《ため》に、かなりの精神力が、必要だったと思います。あいつは、精神力を糧《かて》に化ける宝貝ですから。
なまじっかな精神力じゃ、特定の相手には全然似なかったはずです』
『ならば、問題はあるまい。根性《こんじょう》だとか、精神力には自信があるからね。それはそうと、和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》は今どこにいるんだ?』
『少々お待ちを』
捜魂環は沈黙《ちんもく》し、自分の本来の能力を発動した。
俊地鞜が、使用者に尋常ならざる移動力を提供するように、捜魂環にも特殊な機能があった。
この指輪は、一度会った人物の居場所を探《さぐ》り当てる事が出来るのだ。
無数に飛び交《か》う、魂《たましい》が奏《かな》でる音の中から、捜魂環は和穂と殷雷の魂の音を探り当てた。
『……判《わか》りました。
まだ、あの田舎道士《いなかどうし》の村から出るか出ないかです。
何か気にでもかかりますか? いっその事あいつらの持つ宝貝を奪《うば》ってはいかがです』
心の中で夜主は首を横に振る。否定の空気が捜魂環に伝わった。
『いや、まだやつらに会うのはやめておこうか。宝貝を人間の世界にばらまいた張本人の仙人と、それを護衛《ごえい》する刀《かたな》の宝貝か』
もともと、人の世界に宝貝など、存在していなかった。
だが、運命のあの日、地上に七百二十六の宝貝が飛び散ったのだ。
その時に、夜主も俊地鞜と捜魂環を手に入れた。
当時、ただの女|盗賊《とうぞく》であった夜主は狂喜乱舞《きょうきらんぶ》した。
金や銀を幾《いく》ら手に入れても、人を超える力は手に入らない。しかし、宝貝はいとも簡単に、恐るべき力を使用者に与えてくれる。
かくして夜主は、宝貝を専門に狙うようになった。もっとも、盗《ぬす》むべき相手も、宝貝の使用者なので、今までに一度も仕事は成功していない。
『以前にもお話ししましたが、あいつらは、恐れるに足りませんよ。
宝貝の回収をする為に、人間界に降りた時、和穂の仙術は全て封じられているはずですから』
『本当にそうなのか? あの田舎道士の村から出たのなら、道士の持つ宝貝を回収したのだろ?』
『仙術を使っているにしては、手際《てぎわ》が悪すぎます。どうせ、一か八《ばち》かの賭《かけ》を仕掛けて、たまたま策が上手《うま》い具合にはまっただけでしょ』
『そうか』
『そうですよ。あの殷雷という刀は、宝貝の武器としちゃ平凡《へいぼん》なもんですからね。
だいたい、情に脆《もろ》いなんて欠陥を背負ってる武器など、間抜けなだけです』
殷雷刀の欠陥を笑う捜魂環であったが、和穂が人間界にばらまいてしまった宝貝には、全て欠陥があった。無論、捜魂環や俊地鞜にも欠陥がある。
捜魂環は、本当なら、実際に会っていない人物の居場所も探れる宝貝であったし、俊地鞜も使用者に肉体的な負担をかけないはずであったのだ。
夜主はゆっくりと息を吐いた。
彼女の体内で温《あたた》まっていた空気は、外気の急激な流れに触れ、一瞬にして霧《きり》状になる。
『まあよい。和穂たちの動きは、お前の能力で手に取るように判る。
それよりも、今は宝貝を手に入れるのが先だ』
夜主は地面を駆けていった。
しばしの時が流れ、捜魂環は再び声を上げた。
『夜主様。この屋敷です。この屋敷のどこかに皮杯面があります』
夜主は少し小高い崖《がけ》の上に立ち止まった。眼下に広がるのは、巨大な屋敷だった。
既《すで》に日は落ちており、屋敷には無数の明かりが見て取れた。
「夜か。俊地鞜の力で、昼の世界から夜の世界に走り込んだような気分だ」
いまだ顔に絡《から》みつく布を、はがそうとした夜主だったが、考え直し、逆に布をきつく巻き、完全に覆面《ふくめん》とした。
「夜主様。何のつもりです?」
「昔の盗賊|稼業《かぎょう》を、思い出したんだよ。久し振りにこの恰好《かっこう》で忍び込んでやれ」
「……お好きにどうぞ」
捜魂環は、人を探すための宝貝である。欠陥は一度会った人物しか探り当てられない事だ。
だが、捜魂環は一度見た宝貝の居場所も察知《さっち》出来た。
製造者の意図《いと》を超える可能性を、宝貝は秘めていた。
*
馬車の轍《わだち》が刻《きざ》み込まれた街道《かいどう》を、一人の娘と青年が歩いていた。
太陽は沈んでいたが、視界に街《まち》が見えているので、二人の旅人はそれほど道を急いでいなかった。
娘が羽織《はお》る道服の大きな袖《そで》が、彼女の歩みに合わせてゆっくりと揺れていた。
靴と同じ赤い色をした細い帯には、ひょうたんが結ばれている。
夜風と呼ぶには、まだ日の温《ぬく》もりの残る風が、彼女の柔《やわ》らかい髪をなびかせた。
娘は、まだあどけなさの残る顔を青年に向け、声をかけた。
「ねえ、殷雷」
殷雷と呼ばれた青年は、鷹《たか》の鋭さを持つ目を持っていた。袖付の黒い外套《がいとう》に、右手には金属性の細い棍《こん》を握っている。
たいして大男ではなかったが、歩く動作一つにも、武人《ぶじん》独特の洗練さが感じられる。
男にしては長い黒髪が、やはり風になびいていた。
見た限りでは、全《まった》く人間と変わらないが、青年の正体は刀だった。
本当の名前は殷雷刀、刀の宝貝である。
素《そ》っ気《け》ない声で、殷雷は言葉を返す。
「なんだ?」
黒く澄《す》んだ目を細め、娘は微笑《ほほえ》んだ。
「うん。思っていたより、宝貝の回収が上手《うま》くいってるね」
顎《あご》を突き出し、殷雷は鼻で笑った。
「はん、和穂よ。何がどう、上手くいってるってんだ。
まだ七百十二個も宝貝が残ってるんだぞ!
本当なら、回収した宝貝を利用するつもりだったんだが、ほとんどの宝貝がブッ壊《こわ》れちまってるか、危《あぶ》なくて使えねえ物ばかりじゃねえか。
切り札として使えそうなのは、天呼筆《てんこひつ》ぐらいだ。それのどこが『上手くいってる』なんだよ」
殷雷は手に持った棍で、娘、和穂の頭を軽くトントンと叩《たた》く。
だが、和穂は子猫のような笑顔で言い返した。
「そう? もう、十四個も宝貝を回収出来たのよ。『人間界で、最初に出会った宝貝使いに、お前は殺されっちまう』って殷雷は言ってなかったっけ?」
殷雷のこめかみが、わずかにひくついた。
「術も使えねえ元仙人のくせして、減らず口叩きやがったな。
お前の馬鹿|師匠《ししょう》に、性格が似てきたんじゃあるまいな」
「あ、私の悪口はいいけど、龍華《りゅうか》師匠の悪口は言わないでよね」
「け。どうにか宝貝を回収出来てるのは、俺《おれ》の御陰《おかげ》じゃねえか」
和穂の笑顔はやはり変わらない。
「うん。殷雷には感謝してるよ」
自分がドツボを踏んだ事に、殷雷は気がついた。屈託《くったく》なく礼を言われ、殷雷は言葉に詰まった。
慌《あわ》てて殷雷は話題を変える。
「それはそうと、天呼筆はどの程度まで、自由に扱《あつか》える?」
「? 殷雷も天呼筆は、使った事があるでしょ」
刀の宝貝は説明した。
「宝貝が宝貝を扱うと、相性《あいしょう》の関係で、機能が完全に発揮《はっき》出来ない場合があるんだよ」
元仙人はうなずいた。
「自由に天候を操《あやつ》れる宝貝のはずなんだけど、加減《かげん》が難《むずか》しいよ。
雨は、大雨や小雨《こさめ》って違いはあるけど、雷《かみなり》は雷でしょ?
小雨は降らせられても、人を殺さない程度に弱い雷は出せないよ」
殷雷は溜《た》め息をついた。
「そうお手軽に使える武器にはならないか。まさに、最後の切り札ってわけだ」
「うん」
数人の子供たちが、楽しそうに叫《さけ》びながら和穂たちを追い抜いていく。
肩にはホウキを担《かつ》ぎ、手には木串《きぐし》で作られた虫籠《むしかご》を下げていた。
虫籠の中で蛍《ほたる》が淡い光を点滅させている。
家路《いえじ》を走る子供たちの背中を、和穂は見つめた。
素っ気ない声を作り、殷雷は和穂に言った。
「何やってんだ。とっとと行くぞ」
慌《あわ》てて和穂は殷雷の後を追った。
二
心を通しての会話を夜主は嫌《いや》がっていた。どことなく、こそこそ話のような気がして、性格に合わなかったのだ。
だが、他人の屋敷に侵入し宝貝を探している現状では、そんな事を言っていられなかったのだ。
『捜魂環《そうこんかん》よ、こっちか?』
『そうです。それにしても、大きい屋敷ですね。どこかの豪商の館《やかた》でしょうか?』
用心深く、飴《あめ》色の廊下《ろうか》を歩きながら、夜主は答えた。
『いや、違うな。これは豪商の倅《せがれ》の屋敷だ。長兄《ちょうけい》ではなく、三男坊ぐらいだろう』
『……どうしてそんなのが判《わか》るんですか?』
『お前の言うように、豪商が好みそうな造りになっているな。庭やら廊下に金をかけて、商売相手をもてなす為の屋敷に見える。
だが、いまいち人の気にこなれてない』
『は?』
『壷《つぼ》にしろ、絵にしろ後生大事《ごしょうだいじ》にしまいこまれている物と、飾られて人の目に触れている物の違いだよ。商売相手をもてなす為の贅《ぜい》じゃなく、自分の楽しみの為の飾りだ』
『根拠《こんきょ》がありませんよ』
『ならば、これで納得《なっとく》しろ。廊下や柱の色から見て、築十年といったところだ。それにしては、木の匂《にお》いが残り過ぎている。
屋敷の規模に比《くら》べて、人の出入りが少ない証拠《しょうこ》だ。つまり、豪商屋敷の造りだが、商売とはあまり縁のない奴《やつ》が住んでいる。
そこそこ歳《とし》をくってる奴が屋敷の主《あるじ》だったら、ただの趣味人《しゅみじん》なのかもしれんが、若い主ならばちいっと厄介《やっかい》だぞ』
『どうしてです?』
『一族から必要とされずに、世を恨《うら》んでいる馬鹿か、恨みなんて感情を知らずに、甘やかされて育った馬鹿だからだ』
『……夜主様。何か三男坊に恨みでもあるんですか?』
『別に。親の金で、こんなでかい屋敷に住むという根性が気にくわんのだ。そんな金があるなら、それを元手に自分で商売を始めやがれ』
『まあまあ、別に若い主と決まったわけじゃないんですから』
夜主は捜魂環の導《みちび》きにより、着実に皮杯面《ひばいめん》に近づいていった。
洞察力《どうさつりょく》に行動力、夜主の感覚も盗賊《とうぞく》時代に比べて劣《おと》ってはいなかった。だが、今の夜主には油断があった。
どんな状況になろうと、俊地鞜《しゅんちとう》の力さえあれば、確実に窮地《きゅうち》から逃げられるという安心感があったのだ。
時折《ときおり》聞こえる使用人の声に注意を払い、足音と気配《けはい》を消し去りながら、闇《やみ》と共に夜主は屋敷の奥深くへと侵入していった。
*
戸板をガラリと開け、夜主は部屋の中へ入っていった。
今までの慎重《しんちょう》さからは、考えられない大胆《だいたん》な行動だった。
夜主に踏まれて、部屋の中の木の床《ゆか》が軋《きし》んだ。
『夜主様。あれです』
『うむ』
部屋の中には机が置かれていた。机には一人の青年が座《すわ》っていて、手には面を持っていた。
突然の来訪者に、青年は驚《おどろ》いたが、すぐに気を取り直し、椅子《いす》に座り直した。
「何か用か? 盗賊なら蔵《くら》を狙《ねら》いなよ」
十五、六歳の風貌《ふうぼう》にしては、青年の声は低かった。夜主は本能的に、この青年を嫌悪《けんお》した。普通の身なりをしているが、目が気にくわなかった。
他人を見下すような目ならば、夜主はたいして嫌悪を覚えなかっただろう。
己《おのれ》に自信のある人間ならば、己の威信《いしん》を賭《か》けて他人を見下せばいい。
威信を崩《くず》された時の覚悟《かくご》があるならば、幾らでも他人を見下せ。
だが、青年の目は、それによく似ていたが違っていた。
他人を、自分にとって有益か無益かで判別するような目だったのだ。
他人を利用する事が、自分の有能さの証《あかし》だとでも考えている目だ。
顔の布を少し緩《ゆる》めて、夜主は言った。
「坊や。一つ聞きたいが、坊やは結構|遣《や》り手の商人の三男坊かい?」
「そうだけど、誘拐《ゆうかい》でもするの?」
『ほらみろ、捜魂環。大正解じゃないか』
『おみそれしました』
「誘拐なんかはしないよ、坊や。悪いが宝貝《ぱおぺい》を渡してもらおうか。ガキには過ぎた玩具《おもちゃ》だからね」
相手の知能を確かめるように、わざと惚《ほう》けた口調で返事があった。
「宝貝? 何の話だい」
「坊やが持っている、お面の事さ。それを寄越《よこ》しな」
「ほうお。どうして知っている? もしかして、お前も宝貝を持っているの」
「答える必要はないね。早く渡しな。抵抗は無駄《むだ》だよ。助けを呼んでも、使用人が来る前に、皮杯面は貰《もら》っていくから」
両手を上げ、大袈裟《おおげさ》に青年は驚いた。
「素晴《すば》らしい自信だね。
皮杯面の能力なんか、とっくにお見通しなのかな」
夜主は一歩進んだ。
「くどくど話している暇《ひま》はない。皮杯面は貰っていく」
「皮杯面、皮杯面って、やけに皮杯面にこだわるじゃないか。
もしかして、僕《ぼく》が皮杯面しか宝貝を持っていないとでも思っているのか?」
女盗賊の背中を、一瞬《いっしゅん》にして冷汗が流れ落ちた。捜魂環は、一度確認した宝貝の居場所を探《さぐ》り当てる。だが、確認していない宝貝には反応しないのだ。青年が、幾つかの宝貝を持っている可能性はあった。
もはや、問答無用だと夜主は判断した。皮杯面を奪《うば》って逃げるしかない。俊地鞜を使って走れば、皮杯面をつかみ、逃げるなど造作《ぞうさ》はなかった。
だが、緊張《きんちょう》の為、夜主は床の固さを見誤《みあやま》ってしまった。
「!」
両足が感じる軋みに、気がついた時には、全《すべ》てが手遅れだった。
俊地鞜は床板を踏み抜いてしまったのだ。
一瞬遅れて、床が爆《は》ぜる音が部屋中に広がっていく。
重心をかけていた右足は、完全に床を踏み抜いたが、左足はまだ床の上だった。
虎挟《とらばさ》みのように、床はがっしりと、夜主の脚に食らいついている。
夜主の失敗を笑いながら、青年は皮杯面を机の上に置き、立ち上がった。
「無様《ぶざま》だね。自分の宝貝ぐらい、きちんと扱えないのかい」
「黙《だま》れ、俊地鞜を使い損なったのは、今のが初めてだよ!」
青年はゆっくりと夜主に近寄っていく。
このままでは、捕《つか》まってしまう。夜主は覚悟を決めて、一気に右足を引き抜いた。
途端《とたん》、激痛が夜主の背骨を駆《か》け抜けた。
『大丈夫《だいじょうぶ》ですか、夜主様』
『心配ない、少しふくらはぎの皮が切れただけだ』
脚を引き抜く反動で、血が周囲に飛び散った。
飛び散る血が、青年の顔に当たった。
同時に、青年は跳《と》びすさり、恐怖《きょうふ》の表情を浮かべる。
「血、血ぃ!」
「なんだなんだ!」
青年の悲鳴《ひめい》に、逆に夜主が驚く。
必死になって、青年は額《ひたい》についた血をこそぎ落とそうとしていた。
「おやおや、血が怖《こわ》いのかい、坊や」
「こ、こ、こ、怖くはないぞ! きききき嫌いなだけだ!」
思いっきり、青年をいたぶってやりたいという欲求を覚えたが、今は手傷を負っているのだ。ゆっくりしている暇はない。夜主は、机の上に置かれた、皮杯面を目指《めざ》し、床の上を滑《すべ》るように走った。
そして、ついに面を手に取る。
『夜主様、早く逃げましょう』
『やかましい、指図《さしず》はするな』
夜主の心に欲が浮かんだ。青年の持っているもう一つの宝貝もいただこうとしたのだ。
いまだ床にへたり込み、腰を抜かしたようになっている青年に向かい、夜主は走った。
「坊や、もう一つの宝貝を渡しな」
迫《せま》り来る夜主。青年は慌《あわ》てて、床の上をまさぐった。
夜主は不敵に笑う。
「ふん、そう都合《つごう》よく武器が落ちてるとでも思ったのかい……?」
いきなりの激痛に、夜主は驚く。脚の痛みとはまったく別の痛みだ。
青年を見れば、まるで棍《こん》を突き出すような体勢をとっている。
痛みはみぞおちから、走ってくる。
もし、本当に青年が棍を持っていたのならば、棍に突かれたのかもしれない。
だが、青年の手には何も握られていない。何も握られていないはずだった。
夜主は必死に声を絞《しぼ》り出した。
「ま、まさか」
青年は荒い息をつき、タネを明かした。
「そう。これが宝貝、震影槍《しんえいそう》。
実に単純、ただの見えない槍《やり》さ。
心配ない、刃じゃなく柄《え》の方で突いた。
勝負あったようだから、教えてあげる。
僕はもう一つ宝貝を持っている。
全部で三つの宝貝を持っているんだ」
夜主の意識はゆっくりと暗闇《くらやみ》に落ちていった。
*
気がつけば、縄《なわ》でグルグル巻きにされていた。夜主は溜《た》め息をつく。とんだドジを踏んだもんだ。
目の前では青年が勝ち誇《ほこ》った笑みを浮かべていた。夜主の神経を逆撫《さかな》でするように、青年の声は丁重《ていちょう》であった。
「これは、盗賊さん。気がつかれましたか。よろしければ、お名前を教えていただけませんか? 盗賊さん、では話しにくいので。
そうそう僕の名はね、航昇《こうしょう》と申します」
夜主は、じっくりと航昇の顔を観察した。
馬鹿な親に育てられた、馬鹿な子供の典型のような顔だ。
人の好意を利用し自分だけが利益を得る。しかも、その行為が自分の優秀さの証《あかし》だと考える種類の人間だ。
自分の貧相《ひんそう》な価値観で、他人と自分を比べ優越《ゆうえつ》感に浸《ひた》り、満足を得る。他人との比較の中でしか、自分の安心を得られない、歪《ゆが》んだ魂《たましい》の持ち主だ。
他人に腹を割ってくれと言うくせに、自分は決して腹を割らない、腐《くさ》った性格。
こういうのは、大抵《たいてい》似たような腐れ具合の女と結婚し、生まれた子供もまた、馬鹿な親に育てられた馬鹿な子供になっちまうんだ。
馬鹿の系図を絶つには、出来るだけ早い時期に性格を叩《たた》き直す必要がある。二十歳《はたち》を越えてこんな性格だったら、もはや一生治るまい。
夜主は航昇に言った。
「坊やは『自分の欲しい物を欲しがる』んじゃなくて、『他人の欲しがりそうな物を欲しがる』性格だろ? 物を手に入れる充実感よりも、他人に見せびらかす優越感の方が嬉《うれ》しいんだろ」
言葉の意味が判らず、航昇は言い返した。
「何を訳《わけ》の判らない事を言っているんだ」
そうだろうともよ。意味が判るぐらいならそんな曲がった性格にゃなってないさ。
そう考えて、夜主はニヤリと笑った。
さて、この坊やは血が怖いのか。ちょいと嫌《いや》がらせしてやれ。
夜主は優しく語りだした。
「台所で、胡瓜《きゅうり》を切っていたら、うっかりと指を切った。切った瞬間には、何も出てこないが、あとからじんわりと、真っ赤な血がドクリドクリと流れ出す」
「……おい」
「これはいかん、切った指を口の中に入れて血を吸う。
だが、吸っても吸っても血が流れてくる。最初は微《かす》かだった、血の味が、だんだん、だんだんと強くなっていく。生臭《なまぐさ》く生臭く、まるで錆《さび》の浮きまくった鉄柱を、ベロンベロンと嘗《な》めまくるような味が、舌から鼻へと抜けていく」
状況を想像したのか、航昇の顔から血の気《け》がひいた。
「盗賊さん。悪いが僕は血が嫌いなので、そういう話は遠慮《えんりょ》願おうか。
盗賊さん。僕は別に、あなたを役人に引き渡そうとは思っていません。
僕は、行動力のある部下を探していてね。どうです、僕の下で働きませんか」
夜主は目をつぶり思案した。もちろん航昇の提案に対してではなかった。
考えをまとめ、夜主は目を開けた。
「……歩いていたらこけた。
こけて鼻を打って、鼻血が出た。鼻血が止まらない。鼻の穴は手で押さえたが、鼻の奥、喉《のど》の奥を通って血はドクリドクリと胃の袋へ溜《た》まっていく。
それでも鼻血は止まらない。胃の袋は血で一杯になり、それでも収《おさ》まらなかった血は、喉を逆流して口の中に溜まる。
生臭く生臭く、まるで錆の浮きまくった鉄柱をベロンベロンと嘗めまくるような味が舌から鼻へ抜けたいが、鼻の穴は手で押さえていた。困ったな。航昇ちゃんなら、どうする?」
吐き気と貧血で、航昇は床にうずくまりそうになっていた。
「い、いい加減にしろよ。脚の傷を使用人に言って治療させたり、刃ではなく石付きでみぞおちを突いてやった恩を忘れたか」
「自分が血を見るのが嫌なだけではないか。時に、航昇ちゃん。この世にある宝貝には全《すべ》て独自の欠陥《けっかん》があるって、知っているかい」
やっと会話らしい会話になり、航昇は息をついた。
「欠陥? 皮杯面《ひばいめん》には思い当たる節《ふし》があるけども、震影槍に欠陥などないよ」
「教えてやろう。震影槍は卑怯《ひきょう》過ぎるんだ。
ちょいとでも武術をかじれば判るが、見えない武器ほど卑怯な物はないんだよ。
航昇ちゃんには、お似合いの宝貝だね」
夜主の言葉のとおりであった。
これだけ大きい暗器(隠《かく》し武器)というのも面白《おもしろ》かろうと、龍華《りゅうか》仙人は、半分冗談で震影槍を造ったのだが、完成してみると、これが武器として非常に強力な代物《しろもの》であった。
しかし、どう考えても冗談ではすまない卑怯な武器なので、龍華はこの槍を封印《ふういん》したのだ。
航昇には、夜主の言葉が理解出来ない。
「隠し武器など珍《めずら》しくもないよ」
暗器には暗器の美学がある。
相手の一瞬の隙《すき》に全《すべ》てを賭《か》け、しのぎきられれば、もはや勝算はなくなるという、暗器のせつなさ。
震影槍には、その繊細《せんさい》さが欠けていた。
だが、いちいち航昇に説明するほど、夜主は親切な女ではなかった。
どうにか気を取り直し、再び航昇は不敵な態度をとった。
「もう一度聞きます。部下になっていただけますか。もし部下になってくれるのなら、皮杯面を貸してあげますよ」
間髪《かんぱつ》入れずに夜主は答えた。
「断るね。お前みたいな奴《やつ》の手先になるならば、崖《がけ》から飛び下りるよ。
飛び下りて、頭を打って、全身|血塗《ちまみ》れでドクリドクリのベロンベロン」
「黙《だま》れ!」
「航昇ちゃんは知ってるかな? 血って、こねると綿毛のような糸を引くんだよ」
まともに話すだけ無駄《むだ》だと、航昇は判断した。
「盗賊よ。お前がどう抵抗しようが、僕の部下になるんだ。
お前は忠実な部下になるんだよ」
夜主は航昇の目をにらみ返した。
そんな事があるわけがない。
夜主には航昇に屈しない自信があった。
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第一章『泥《どろ》との戦い』
一
蛇《へび》だ、蛙《かえる》だ、とキャアキャア叫《さけ》ばれるよりは、遥《はる》かにましだとは思いつつも、全《まった》く動じないのもどうしたものかと、殷雷《いんらい》は考えた。
見渡す限りの、大湿原、所々にちょっとした林が見えるが、基本的には地平線の彼方《かなた》まで湿原だった。
湿原を照らす朝日は、明るく澄《す》んでいたが、風はなく、空気は澱《よど》んでいた。
手に持つ銀色の棍《こん》を小脇《こわき》に挟《はさ》み、殷雷は狭《せま》い懐《ふところ》から、一枚の地図を取り出した。
丁寧《ていねい》に地図を広げ、鷹《たか》や鷲《わし》を思わせる猛禽《もうきん》類のような目で、地形と見比《みくら》べた。
林との位置関係から、現在の居場所を確認した。
目指《めざ》すは、この大湿原の奥深くに存在する開拓団《かいたくだん》の村だ。
殷雷の肩ごしに地図をながめ、和穂《かずほ》が心配そうに口を開いた。
「どう? 殷雷」
殷雷は、無愛想《ぶあいそう》な声で質問に答えた。
「大丈夫《だいじょうぶ》。予定通りに進んでいる。和穂よ、俺《おれ》が地図を見誤《みあやま》るとでも思うか?」
毎朝|繰《く》り返される会話だ。もう大湿原に入り、八日が経過していた。
殷雷たちが地図を見ていると、草むらから小さな物音が聞こえた。聞き逃《のが》す殷雷ではない。
「和穂、後ろに蛇がいるぞ」
和穂はゆっくりと振り向く。
「あ、ほんとだ。綺麗《きれい》な模様の蛇だね」
奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》が二人を包む。
「……どうしたのよ、殷雷?」
「そうじゃなくて、なんかあるだろ? ワッとかキャッとか」
草むらから顔を出した蛇は、別の草むらに消えていった。
「どうして。別に毒蛇じゃなかったよ」
普段の仕種《しぐさ》は、そこいらの小娘と変わらないが、さすがに和穂は元仙人だと、殷雷は思わずにはいられない。彼女は蛇や蛙では、動じないのだ。
宝貝《ぱおぺい》回収にあたり、和穂は全《すべ》ての仙術を封じ込められた。
そして、仙人の頂点に立つ五仙の一人、神農《しんのう》より二つの宝貝を与えられた。
一つは『断縁獄《だんえんごく》』。ひょうたんの宝貝で、その内部には莫大《ばくだい》な空間が広がっていた。
この断縁獄の中に、人間界の宝貝を全て回収した時、和穂は仙界に戻《もど》れる。
吸引に抵抗する物は吸い込めないが、とっさの逃げ場所として利用できた。が、現在は内部に疫病《えきびょう》が蔓延《まんえん》してしまい、生物が中に入るわけにはいかなくなった。
もう一つは『索具輪《さくぐりん》』。和穂の耳につけられている、小さな耳飾りである。
人間界に存在する、全ての宝貝の在《あ》り処《か》を探《さぐ》る機能を持つ。
だが、索具輪は原因不明の不調で、現在の精度はかなり低い。
地図をたたみ、二人は旅を続けた。
大湿原とはいうものの、殷雷が予想していたより、酷《ひど》い旅にはならなかった。
「もっと厄介《やっかい》な地形かと思ったが、そうでもないな」
殷雷の言葉が和穂には信じられない。蚊《か》に食われた頬《ほお》を掻《か》きながら、和穂は言った。
「嘘《うそ》でしょ? これでも楽な方なの?」
「そうだぜ。湿地と湿地の間に、硬めの土地があるだろ? まっとうに歩いて進めるだけでも、運がいい」
宝貝回収にあたり、弱音《よわね》は吐かないでおこうと考えていた和穂だったが、湿原を飛び交《か》う蚊には難儀した。
「せめて、蚊がいなければね」
「ふん、蚊ぐらいでガタガタ言うな」
「そりゃ、殷雷は蚊に食われないから、いいわよ」
「これでも、温度が低いから、虫は少ない方だと思うぞ。珍《めずら》しいな、お前が弱音を吐くなんて」
巨大戦艦や、木火土金水の五行《ごぎょう》を操《あやつ》る道士と渡り合った時ですら、和穂は弱音を吐かなかったのだ。
「それを言われると辛《つら》いけど、やっぱり夜も満足に寝られないのは、こたえるよ」
「だったら、寝る前に露出してる肌に、泥《どろ》塗って乾かしときゃ、蚊には食われないがな」
「あ、そうか。なるほどね」
二人は歩き続けた。幾《いく》つもの沼を越え、林を抜け、今また視界に小さな林が見えた。
ちょうど日も傾きかけてきたので、今夜はその林で休む事にした。
*
翌朝。
殷雷は大爆笑し、和穂は激怒《げきど》していた。
棍を抱《かか》えて、殷雷は地面をのたうち回りながら笑う。
「信じてやがんの。ひひひ」
「うう。だまされたよう」
泥を塗った和穂の右頬に、蚊に食われた跡《あと》があった。両手とあわせれば、全部で五か所の食い跡があった。
「ひぇっひぇっ。まんざら嘘《うそ》でもないんだが、こんな粒の粗《あら》い、すぐに割れるような泥が、役に立つわけないだろ」
「うう。信じた私が馬鹿だった」
「それだけならまだいいが、蚊に食われないと信じきって、血を吸われてるのに気がつかず熟睡《じゅくすい》したってのは、間抜けだねえ」
「そういう意地悪《いじわる》な事をしてると、いつか自分がだまされるよ!」
和穂は怒《おこ》って、ひょうたんを片手に顔を洗いに行った。
大湿原に入る前に、断縁獄の中には、大量の水と食料を入れておいたのだ。たとえ、内部が疫病に汚染《おせん》されていても、断縁獄は指定された物以外は、絶対に外部に出さない。
食料や水から、疫病に感染する恐れはなかった。
顔を洗い終えて、和穂が戻ってくると、殷雷は真剣な眼差《まなざ》しで、地図を読んでいた。
まだ、腹が立つ和穂だったが、いつまでも怒っているわけにはいかない。
「殷雷、そろそろ村に着くんじゃないの」
索具輪は、湿原の中に、宝貝の反応があると知らせていた。
使われたいという、道具の業《ごう》を背負う宝貝は、普通、人の手に落ちている。
湿原の地図を手に入れ、よく調べてみた和穂たちは、開拓団の村を見つけた。
宝貝はその村にある可能性が高い。
地図から顔をあげ、刀の宝貝は答えた。
「見てみな。ここが、今|俺《おれ》たちのいる林だ。で、これが村のある丘だな。
正確には、二つの丘に挟《はさ》まれた、ちょっとした谷に、村はある。
谷とはいっても、湿原より高いし、丘の斜面に比べたら平坦《へいたん》だ。
丘に道でもついてりゃ、今日の昼過ぎにでも到着だ。そうでなくても夕方までには、到着するだろう。
ん? 和穂、まだ鼻の頭に泥がついているぞ」
「え、本当」
和穂はごしごしと、鼻の頭を擦《こす》る。
そんな和穂を見て、殷雷は冷静に言った。
「嘘だ」
「ちょっと! 殷雷!」
「遊んでる暇《ひま》はない、さっさと出発するぞ」
棍を担《かつ》いで、歩き出す殷雷。
和穂も、後を追う。
ゲコゲコゲコ。蛙《かえる》の鳴き声を聞きながら、二人は進んでいく。
殷雷の言葉通り、数刻歩き続けると丘が見えてきた。
村があるならば、道もあるはずだが、殷雷は直線的に丘を登ろうと考えた。
「でも、殷雷。結局道ってのは、村に続いてるんだから、道を探した方が確実に村に着けるんじゃない?」
「そ。だが、村に宝貝があるってんなら、のこのこ正面からは行きたくない。
せめて高い所から、村全体を一目見ておきたいんだよ。
こっちの斜面は長いが緩《ゆる》やかだ。こっちから行くぞ」
「判《わか》った」
そして二人は丘を登りはじめた。
無造作《むぞうさ》に、生《お》い茂る草をなぎはらい歩く殷雷に見えたが、その足は草を確実に踏み固めていた。
まだ腹を立てていた和穂だったが、殷雷の行動を見て、少し嬉《うれ》しくなった。
殷雷は自分の為《ため》に、わざわざ草を固めてくれているのだ。
和穂の顔に、いつもの自然な笑顔が戻ったのに気がつき、殷雷は鋭《するど》い目になる。
「別に、お前の為にやっているんじゃ、ないぞ。
敵の宝貝使いが襲《おそ》ってきた時に、戦いやすいようにと、考えているだけだからな」
殷雷の言葉に嘘はなかった。刀の宝貝は、実際にそこまで計算していたのだ。
が、その行動も結局は和穂を守るという、一点につながるのだ。
非情に徹《てっ》しきれずに、時おり優しさを見せる。
それが殷雷刀の欠陥だといわれていた。だが、和穂は殷雷の見せる優しさが、欠陥には思えなかった。
どれほど時間が流れたか、ついに殷雷は丘の頂《いただ》きに立つ。
殷雷の目に、足許に広がる光景が見えた。
一瞬《いっしゅん》の沈黙。逆立つ殷雷の髪。
「あの地図屋、だましやがったか!」
丘の上で殷雷は絶叫《ぜっきょう》した。
地図には丘と丘との間の、緩《ゆる》やかな谷に開拓者たちの村がある、と示していたが、殷雷の眼下に広がっていたのは、村ではなく大きな湖だった。
殷雷の叫《さけ》びをきき、和穂も慌《あわ》てて頂きに登った。
「待ってよ殷雷、地図を読みそこねているかもしれないじゃない?」
「いや、間違《まちが》いはない。途中にある、多くの湖や林は、ちゃんと地図どおりに存在したのに、肝心《かんじん》の村がないときた。
表記間違いではすまんぞ!」
殷雷の手から地図を受け取り、和穂も地形と見比べてみた。
が、よく判らない。確実に判ったのは、付近に間違えそうな丘はない事だった。
「くそう。こういう、需要《じゅよう》の少ない地図だから、間違いが何年もそのままになってやがったんだ」
古い火山の火口に水が溜《た》まり、そのまま湖になるときがある。
この湖もそれに似ていた。だが、湖面は丘の頂きより、かなり下に位置していた。
「仕方ねえ、帰るぞ和穂。あの地図屋、とっちめてやる」
「……まさか、宝貝の仕業《しわざ》じゃないでしょうね」
「既《すで》に宝貝で何か事件が起きて、その結果がこの湖だというのか?」
「ともかく、もう一度、索具輪で宝貝の場所を調べてみる。だいぶ精度は落ちてきてるけど、湖の中に宝貝があるかどうかぐらいは、判ると思う」
小さな耳飾りに指を添え、和穂は目をつぶった。まぶたの裏に、中心を同じとした六角形が浮かび上がる。
だが、六角形は大きくひしゃげていた。中心は同じなのだが、それぞれの六角形の大きさも、刻一刻と変動していた。
中心にある大きくぼやけた光の固まりが、殷雷たちの反応だ。それとは、辛《かろ》うじて別の集団と判る、光の反応がそばにあった。
和穂が体の向きを変えると、それに反応して六角形たちも、同じ角度だけ回転した。
そうやって和穂は、光の方角を把握《はあく》した。
「うん。間違いない。この湖の中、もしくは周囲に宝貝の反応がある」
「湖面にまで降りて、調べる必要があるな。この程度の湖なら、俺が手を貸せば、和穂でも潜《もぐ》れるぞ」
人の形をとっている殷雷は、そこそこの腕を持つ武人《ぶじん》であった。また刀の形態の時は、使用者の体を操《あやつ》って戦える。
もっとも操っているのは殷雷なので、強さにたいした差はでなかった。
同じ理屈で、殷雷刀を持った人間は、彼のように泳げるのだ。
彼が手を貸すと言ったのには、そういう意味があった。
二人は湖面へ向かい、斜面を降り出した。
*
どこに宝貝の使い手がいるのか判らないので、和穂たちは慎重《しんちょう》に移動した。
少なくとも、殷雷には人の気配《けはい》は全《まった》く感じられない。
周囲に誰《だれ》もいないと確信した刀の宝貝は、少しホッとした。
やはり宝貝は水の中なのだろうか。
日がかなり傾いていた。
湖面は、赤みを帯び始めた日の光を、あらゆる方向に反射している。
まぶしさに目を細め、和穂は湖に近づいていく。
和穂は妙《みょう》な胸騒《むなさわ》ぎを感じた。
「ね、殷雷。何か変じゃない?」
「何かって、何がだ?」
湖の中に誰かが潜《ひそ》んでいる可能性も、殷雷は考慮《こうりょ》していた。
だが、殷雷の鋭い感覚は、湖の中を含《ふく》めても、近くには不審な気配がないと判断していた。
水際《みずぎわ》に立ち、殷雷は湖をながめた。
「?」
和穂が訴えるように、何かが妙だ。
「言われてみれば……でもどこがだ? 確かに妙な湖だな。いや、俺もどこが、と言われれば困るんだが」
湖自体が、一つの幻覚《げんかく》なのだろうか? 殷雷はひざまずき、注意深く、少しだけ湖水に触れた。
ただの水だ。手に触れられるのだから、幻《まぼろし》ではない。
しばし考えた和穂は、腰にくくりつけた、ひょうたんを外《はず》した。
そして、ひょうたんに巻き付けてある、赤い紐《ひも》の片方を持ち、ひょうたんを離す。
紐一本で釣り下げられ、断縁獄はブランブランと揺れ動いた。
「どうしたんだ和穂。なにをやってる」
ひょうたんの揺れが止まり、和穂は垂直になった紐を、自分の目の前に持ってきた。
紐と同時に湖面をながめ、和穂は理解した。この湖の不自然さを。
「こ、湖面が傾いている!」
和穂の叫びを合図《あいず》に、全てが同時に始まった。
湖の表面の小波《さざなみ》が、凍《こお》ったかのように動かなくなった。
透明だった水が、途端《とたん》に薄茶色の不透明な物に変わった。
まるで、澄《す》んだ湖が瞬時にして、同じ大きさを持つ、巨大な泥沼《どろぬま》になったようだ。
湖の水であろうが、湯飲みの中の水であろうが、入れ物の角度に関係なく、水面は水平になる。
重りをつけ、垂《た》らした紐は、垂直になるのもまた道理。
ならばこの二つは、正確に十字に交《まじ》わるはずだ。だが、湖面には傾きがあった。
これは普通の液体ではない、これは湖ではないのだ。
和穂の叫びで、正体を隠す必要がなくなったのか、今『泥』は牙《きば》をむいた。
殷雷の驚《おどろ》きも尋常《じんじょう》ではなかった。彼は完全に意表を突かれた。
湖から『泥』への変容は、速《すみ》やかに行われた。『泥』全体が軋《きし》んでいるのか、和穂と殷雷の周囲の空気も振動している。
ごごご。ごごご。と腹の奥に響くような、低い地鳴りが二人に届く。
「和穂!」
殷雷に名を呼ばれ、放心状態だった和穂は我《われ》に返る。
ともかく今は、湖から離れるのが先だ。湖の正体など、考えている暇《ひま》はない。
「あ!」
和穂の叫びに、泥の飛び散る音が重なっていった。『泥』から何かが飛び出してきた。
いや、『泥』そのものが姿を変えたのか。
まばたきする間もなく、『泥』から現れた物に、和穂は足首をつかまれた。
それは手であった。
白く細い女の右手が『泥』から生《は》え、和穂の右足首を、がっしり握っている。
「殷雷!」
「大丈夫《だいじょうぶ》だ、怯《おび》えるな。俺の棍を断縁獄の中に入れておけ」
全然大丈夫ではなかった。しかし、和穂を少しでも落ち着かせる為、殷雷は冷静な態度をとった。
和穂は投げつけられた棍を受け取り、ひょうたんのふたを開けた。
途端《とたん》に、壷の風が起こり、棍の姿がぼやけ、ひょうたんの中に吸い込まれた。
同時に殷雷の姿が弾《はじ》けた。周囲にピリピリとした雷気《らいき》が走り、一人の青年は、さも当然のごとく、刀へと姿を変えた。
薄く目立たないが、繊細《せんさい》な装飾《そうしょく》が施《ほどこ》された黒い鞘《さや》。
その刀を、和穂は慌《あわ》てて引き抜いた。刀を抜く、もたついた動きから一変し、神速《しんそく》で足首の手へと切りつける。
今や、和穂の体は殷雷が操《あやつ》っていた。
殷雷刀は切りつけた感触《かんしょく》にぞくりとした。間違いなく肉の感触、それに骨の感触もあった。『泥』は形だけ化《ば》けているのではなく、完全な手になっていたのだ。
最初の手からしばらく遅れ、次の手が伸びてきた。同じように女の右手だ。
殷雷刀は、草をなぎはらうがごとく、手に切りつけた。
負けじと、湯気《ゆげ》が立ち昇るように、『泥』からは無数の手が生える。
全てが女の右手だった。
殷雷は戦慄《せんりつ》した。
どんな奇っ怪な化け物でも、ただのこけ脅《おど》しならば、刀の宝貝は、何の焦《あせ》りも感じなかっただろう。
泥の手には、武道家の手技のような、狡猾《こうかつ》な動きがあったのだ。
『さ、さばききれん!』
殷雷刀の恐怖《きょうふ》が、和穂にも感染した。
和穂は生まれて初めて、悲鳴《ひめい》を上げた。
悲鳴が消える前に、ついに右手が、殷雷刀を持つ、和穂の腕をつかんだ。
刀の動きが鈍《にぶ》り、無数の手が和穂を捕《と》らえた。
右手たちは、ゆっくりと和穂を『泥』の中に引きずり込んでいった。
和穂たちに抵抗する術《すべ》はなかった。
最初は和穂の左足が、『泥』に入る。
鈴《すず》の飾りの着いた和穂の赤い靴《くつ》。
靴と足との間にぬめりこむ『泥』の不快な感触。
力まかせの鷲《わし》づかみならば、殷雷も力で対抗出来た。
だが、無数の手は武術理論にのっとった、つかみを行っていた。
もがけば解けるような、甘いつかみ方ではない。
脱出が不可能だと知った殷雷に、出来るのはただ一つだった。
このまま、泥の中に埋没《まいぼつ》すれば、窒息《ちっそく》は確定だ。
ならば、窒息死を少しでも遅らせる為に、和穂に多くの空気を吸い込ませるのだ。
もう、首まで『泥』に沈んでいる。残された時間はわずかだ。
が、狡猾な右手は、そっと和穂の鼻と口をふさいだ。殷雷は最後の希望も絶たれたと、絶望した。
『……ここまでなのか!』
和穂は殷雷の絶望を、弾《はじ》き飛ばす。
『あきらめちゃ駄目《だめ》! 泥の中に、敵の本体がいるかもしれないじゃない!』
ついに和穂の頭も、『泥』の中に消えた。
『綺麗《きれい》なまま、静かに死ぬより、もがき苦しんでも、前に進んで死にたいんだな』
『死ぬ気なんかない! 出来るだけ息は耐えるから、殷雷は敵を倒して』
また始まったか、と殷雷が思わなかったと言えば嘘《うそ》になる。
圧倒的不利な土壇場《どたんば》になろうと、和穂は決してあきらめない。
それどころか、普段からは想像もつかない度胸《どきょう》を見せるのだ。
冷静な武器の宝貝が、根拠《こんきょ》のない度胸など認めるわけにはいかなかった。
殷雷が和穂の体に作用し、戦わせる事が出来るように、和穂もまた、殷雷の精神に作用していたのだ。
武器の宝貝は敗北が確定すれば、潔《いさぎよ》く機能を停止する。
かつて大崑崙《だいこんろん》との戦いの時、さっさと殷雷が負けを認めたのは、この性質の表れだったのだ。
『判《わか》った。やってみよう』
この二言を発する為に、殷雷が無視した判断は以下の三つである。
一つ。『泥』を操《あやつ》る者がわざわざ『泥』の中にいるという根拠はない。
一つ。もし『泥』の中に、操る者がいた場合、それは『泥』の中では、絶対自分が有利だからだ。
これは『泥』が、わざわざ和穂を引きずり込んだ事からも明らかだ。
一つ。『泥』のような粘着《ねんちゃく》性の物質に、完全に周囲を覆《おお》われれば、刀の切れ味は失われたも同様である。
*
手は和穂を『泥』の中に引きずり込むと、消えてしまった。
その代わり、和穂の全身を『泥』は完全に覆い、ゆるく圧迫する。
賢明《けんめい》な判断だと、殷雷は考えた。あまり強く圧迫すれば、上昇する足場に使われる可能性があった。
殷雷は、『泥』との摩擦《まさつ》で目が傷つくのを恐れ、和穂のまぶたを強く閉じた。
代わりに、刀身から、微妙《びみょう》な雷気《らいき》を放出した。この雷気は攻撃の為の物ではない。
微弱な雷気の伝わりにより、殷雷は周囲の気配《けはい》を読んでいるのだ。
ゆっくりと、和穂は沈んでいく。
雷気は予想より遠くまで、『泥』の中を行き渡った。『泥』の中にある水分の為か、と殷雷は考えた。
殷雷は一つの影を感じとった。
正面の斜《なな》め下だ。
何かが『泥』の中にある。しかし、それが『泥』を操る者である保証はない。人である保証もない。もしかしたら、ただの枯《か》れた木なのかもしれない。
影が何かを見極《みきわ》める必要があった。普段の殷雷ならば、そうしたであろう。
が、今は和穂の体が、いつまで耐えられるか判らないのだ。
『和穂よ。今から俺は武器の宝貝として、あるまじき発言をするぜ。よく聞いてな。
なんかよく判らないが、もしかしたら敵かもしれない物が、ありそうな気がせんでもない。それに対して、今から全兵力をもって突撃を開始する。この攻撃で、敵を倒せなければ、我が軍は完全敗北だ。
いいな、いくぞ』
ゆっくりとゆっくりと、和穂は突撃を開始した。
真《ま》っ直《す》ぐに沈んでいた和穂は、影に向かって、斜めに沈みだす。
絶望的な突撃であった。
運命という物は、時に残酷《ざんこく》さの重ね塗りを行う。
突撃を行う和穂の足に、何かが絡《から》みついたのだ。それは和穂をさらに『泥』の奥へと引きずり込んでいった。
勿論《もちろん》、残酷さの重ね塗りに屈するような、和穂ではない。
だが、和穂には殷雷を励《はげ》ます事は出来なかった。彼女の意識は、ゆっくりと失われていったからだ。
次に殷雷に話しかけるのは、和穂を倒した、『泥』の使い手だろう。
多分、俺はそいつを叩《たた》き殺してしまうと、殷雷は考えた。
以前の使用者の仇《かたき》を討《う》とう、と考えるような宝貝はいない。それが常識だった。
構うことはない。俺は欠陥《けっかん》宝貝なんだ。宝貝の常識に従う必要なんかない。
和穂を守りきれなかった俺は、確かに欠陥宝貝だ。
殷雷は思考を止めた。
二
梨乱《りらん》は大きく伸びをした。
一仕事終えた後の充実感は、何にもまして心地好《ここちよ》かった。
仕事とはいっても、生活の糧《かて》を得る為《ため》の仕事ではなかった。生きるか死ぬかの、大勢の命を背負った仕事だ。
肩に掛かるか掛からないかの、短めの髪の毛。額《ひたい》には汗どめの赤い布が巻かれていた。
彼女は、厚手の手袋を外《はず》し、続いて眼鏡《めがね》を外した。
視力を矯正《きょうせい》する為の眼鏡ではなく、黒色の水晶を加工し、はめこんだ代物《しろもの》だ。
これがあるだけで、どれほど鍛冶《かじ》仕事が楽になったかと、梨乱は考えた。
彼女の周りにあるのは、赤い光と熱だ。巨大な炉《ろ》の前では、数人の男たちが作業を続けていた。
炎《ほのお》が上げるうなり声に負けじと、梨乱は大声を出した。
「じゃ、悪いけど今日は帰らせてもらうね」
男たちは鍛冶の手を止め、梨乱に手を振った。
梨乱も手を振りながら、工房の端にある階段を登っていった。
そして、出入口の厚い扉《とびら》を開けた。
*
工房の出入口を出ると、そこは休憩《きゅうけい》室になっていた。質素だが大きな木の机の上には、水を湛《たた》えた土瓶《どびん》が幾《いく》つも置いてあった。
ごつごつした手と顔を持つ、年季の入った中年の鍛冶屋が一人、休息をとっている。
梨乱は自分の湯飲みを探《さが》し、男の隣《となり》に座《すわ》った。
机の上に置かれた梨乱の眼鏡を、鍛冶屋は珍《めずら》しそうにながめた。
「この眼鏡はどうやって作ったんだ?」
「簡単よ。薄く削《けず》っただけだって、おじいちゃんは言ってたよ」
「でもよ。普通の黒水晶や黒メノウでは、そうはいくまいよ」
「うん。おじいちゃんが、どこかの国の知事にもらった褒美《ほうび》の宝石から作ったんだって」
「親方らしいな。面白《おもしろ》そうな素材があれば、すぐに何かを作っちまう。
ま、形見《かたみ》だ。大事にしな」
大きな目を細め、梨乱は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
男は梨乱の顔を見た。目立たないが、所々に小さな火傷《やけど》の跡《あと》があった。
「鍛冶仕事なんて、十五の娘のやる事じゃないぜ。可愛《かわい》い顔が台無しだ」
「可愛いまではいいけど、台無しってのはどういう意味よ。
私はこの仕事が、好きだからやっているんだからね」
「鍛冶や組立てなんか俺《おれ》らに任《まか》せて、お前は設計図を引くだけでもいいじゃねえか」
「馬鹿いってんじゃないよ。どうして一番面白いところを人に任せなきゃなんないのよ」
「性格が親方に似ちまったのが、運のつきってわけだ」
笑って梨乱は自分の湯飲みに、土瓶から水を注《つ》ぐ。
「ね、本当に今日は上がっちゃっていいの? どうせ今夜も徹夜でやるんでしょ?」
「気にするな。お前の指示通りの仕事ぐらい俺らで充分だ。
梨乱は、あれに乗らねばならん。充分に休養をとっておけ。決行は明後日か?」
「うん。巻き上げも終わる予定だし。
……上手《うま》くいくといいね」
「上手くいくさ。努力している奴《やつ》の失敗は、大目に見るのが開拓《かいたく》団の掟《おきて》だ。恐れて動かないより、動いて失敗したほうがいい。
大丈夫《だいじょうぶ》だ。お前の設計は完璧《かんぺき》だ」
少し照れ臭《くさ》そうに、梨乱は笑った。
「それじゃ帰るね。その前に村長代理に会って、報告しなきゃ」
今までとはうってかわって、梨乱の声は甘く、嬉しそうだった。
「おやおや、梨乱も、ああいう優男《やさおとこ》がいいのかねえ」
「優男だからいいんじゃなくて、あの性格がいいのよ」
「ま、とぼけちゃいるが、骨のある奴なのは認めてやろう。村長代理に会うなら、水ぐらい浴びていけよ」
「当たり前よ。汗くさいまま、行くわけないじゃん」
人懐《ひとなつ》っこそうな笑顔を残して、梨乱は部屋から出ていった。そんな彼女を男は、実の娘を見守るような笑顔で送った。
「さてと、梨乱も行っちまったし。俺も仕事に戻《もど》るか」
男は立ち上がり、梨乱が出ていったのとは逆の扉へ向かった。
厚い扉を開けると、鉄の焼ける匂《にお》いと熱気が男に届く。
階段の上から、工房全体を見渡し、男は指示を出す。
「今日の日没までに仕上げるぞ。そして徹夜で基本動作の点検を行う」
その声を聞き、作業中だった七人の男たちは同意の大声を出した。
辛《つら》い仕事だが、この仕事をやり遂《と》げられるのは俺たちだけだという、誇《ほこ》りに満ちた声だった。
*
水浴びを終えた梨乱は、肩に手拭《てぬぐ》いをぶら下げて、ぶらぶらと村を歩き始めた。
工房は村の外《はず》れにあった。もっとも、狭《せま》い村なので、すぐに村の中心に到着する。
あまり空は見ないようにしていたが、ついつい目がいってしまう。
空は夕焼けだった。夕焼けのような空だった。太陽が見当たらないのは、別に地平の彼方《かなた》に沈んだからではなかった。
この村には、ちゃんと朝も夜もあるが、太陽は決して昇らない。
考えるだけ無駄《むだ》だと思いつつ、梨乱は不思議で仕方がない。
光はどこから来ているんだ? 光の元《もと》がないのにどうして影がある?
偽物《にせもの》の空にしちゃ上出来だとは思うけど、見つめ続けていると、目が疲れるのは困ったもんだ。
梨乱は考えながら、まだ微《かす》かに濡《ぬ》れている髪を、手拭いで乾かした。
何人かの村人が梨乱の横を通り過ぎ、彼女は村人と軽口《かるくち》を叩《たた》く。
その時、一陣の風が吹き、梨乱の髪をなびかせた。
「びえっくしゅん。おお。面倒《めんどう》がらずに湯を使えばよかったかな。今、風邪《かぜ》ひいちゃ申し訳《わけ》がたたないわ」
鼻水をすすり、再び考えた。
風はどこから来る? 空が偽物なのは判《わか》っている、だが風の偽物なんか作れるのか? 村人の息が詰まらないのは、やはりどこかに空気抜きの穴があるんだろうか。
水と食料は偽物ではないだろう。だが、計画に使っている、鋼《はがね》はどうも偽物くさい。
『ま、蚊《か》がいないってのは、嬉しいよな』
そうこうしていると、村長代理の家が見えた。
村の中央に位置し、木造でそれほど大きくない。
だが、建物から伸びる、天にそびえ村全体を見守るような、白い石製の柱の為《ため》、威厳《いげん》が感じられた。
手櫛《てぐし》で髪の毛を整えて、梨乱は柱を見上げた。
『天を支える柱か』
だが、見慣《みな》れているので、特に気にもとまらない。梨乱は袖《そで》から新しい、汗どめの布を取り出した。
別に今、これを巻く必要はなかったが、いつも巻いているので、巻いていないと落ち着かないのだ。
手拭いを袖にしまい、汗どめを結びながら梨乱は村長代理の家に入っていった。
*
玄関に入り、そのまま廊下《ろうか》を歩き、梨乱は執務《しつむ》室の看板が置かれた部屋の前に立った。
飴《あめ》色の扉《とびら》が、重々しい。
「村長代理、梨乱です」
「はい、どうぞ」
少し頼《たよ》りなげな、疲れた声が部屋の中から返ってきた。
梨乱は笑いを堪《こら》え、扉を開け、部屋の中に入っていった。
部屋の中には、白く大きな机が置いてあり、一人の男が座《すわ》っていた。
男の椅子《いす》の背後には、大きな白い石の柱があった。天を支える柱の根元《ねもと》だ。
柱には『殻化宿《かくかしゅく》』と彫《ほ》り込まれている。
机の上には無数の書類があった。
今まで書類と悪戦苦闘していた男は、梨乱の顔を見上げた。梨乱は報告を始める。
「村長代理。浮鉄《ふてつ》の製造は、予定通り進んでいます」
優男と呼ばれるだけはあり、村長代理の顔は温和だった。よくよく見れば、非常に整った顔をしているのだが、ただ一つ、少し垂《た》れた目が男の鋭《するど》さを隠《かく》していた。
まだ二十歳《はたち》かそこらだろう。
「おぉ、そうか。
さっき報告を受けたが、巻き上げが予定より早く、さっき終了したそうだよ」
「こういう場合は、良し悪《わる》しだね。一日早いぐらいならいいけど、あんまり早いと鉄が伸びちゃうよ」
「そう言うな。村の人たちも、それだけ一所《いっしょ》懸命《けんめい》なんだ。梨乱に期待しているんだよ」
「……でも、村長代理は期待してるって顔じゃないね」
「前にも言ったが、俺は反対だからね」
「どうして? 計画は完璧でしょ」
「完璧なもんか。敵の性質はだいぶ判ってきたけど、正体は不明なんだぞ。
しかも、今回の計画で、一番危険なのは梨乱じゃないか」
心配されていると知り、梨乱は嬉しかった。
少し怒《おこ》られてみたいな、と梨乱は考えた。
滅多《めった》に見せないが、必死になったり、怒った時の顔がまた、梨乱の好みだったのだ。
「そう? じゃ形見でも渡しておこうか?」
梨乱は汗どめを解こうとした。
だが、解き終わる前に、村長代理の怒号《どごう》が飛んだ。
「梨乱! 冗談にも程があるぞ!」
内に湛《たた》えた気迫《きはく》が、表面に一気にほとばしったとでも言おうか、先刻からは想像も出来ないような大声だった。
さすがの梨乱もビクリとした。
「ごめんなさい。少し調子に乗った」
気を呑《の》まれ、不覚にも梨乱は少し涙ぐんでしまった。
本気で心配してくれているのに、からかってしまった自分に腹が立った。
「判ればいい。大声を出したりして、すまなかった」
涙をこすり、照れくさそうに笑って、梨乱は話題を変えようとした。
「へへ。村長代理の仕事は慣《な》れた?」
「全然。俺はこういう仕事には、向いてないんだよ。村長の具合はどうなんだ?」
「お父さん? 元気なもんだけど、ちょっと体にガタが来てるね。
……そんなに村長代理の仕事は嫌《いや》?」
「向いてはいないが、この一件に結論が出るまでは、責任を持ってやらせてもらうよ。この災難は俺が持ち込んだんだから」
「そういうふうに、責任を一人で背負い込むのは、良くないよ。
もしかしたら、私を狙《ねら》っていたのかもしれないじゃん。
私だって、宝貝《ぱおぺい》を持っているんだから」
「そう言ってくれると、気が楽になる」
梨乱は髪をかきあげた。本人は艶《つや》っぽい仕種《しぐさ》のつもりだ。
「でしょ? 少しは惚《ほ》れた?」
「子供が、大人をからかうもんじゃない。俺も梨乱は好きだが、妹みたいなもんだ」
「村長代理のそういう言葉を聞くと、私の身も心も張り裂けそうになる」
村長代理は椅子《いす》から腰を浮かし、梨乱の頭を撫《な》でた。
「梨乱があと三つ歳《とし》をとれば、惚れるだろうな」
「恋する乙女《おとめ》は、三年も得てはしないよ。
今の内に好きだと言っとかないと、三年後に言い寄って来ても、鼻もひっかけないんだから。
『あら、村長代理、その節は御世話になりましたわね。じゃ、人を待たせているんで、御機嫌《ごきげん》よう。おほほ』
とか言っちゃったりして」
梨乱の笑顔につられて、笑う村長代理であったが、その笑顔もすぐに曇る。
果たして、三年先の未来など、あり得るのだろうか?
「駄目《だめ》よ、そんな暗い顔してちゃ」
「さっきの話に戻るが、この計画は中止しないか?」
「駄目です。村長代理。浮鉄計画は、予定通り、明後日に実行します」
村長代理は、梨乱の頬《ほお》に手を添えた。
「やめたら、好きだと言ってやるぜ」
「御冗談を。公私混同は出来ません。これでも、この村の最高技術責任者なんだから」
溜《た》め息をつき、村長代理は肩を落とす。
「判った。もう止めない。安全にだけは注意して、全力を尽《つ》くしてくれ」
「うん。それじゃ、もう家に帰るね」
「あぁ」
笑顔だけを残し梨乱は扉《とびら》から出ていった。
三
殻化宿《かくかしゅく》は、この状況が非常に不満だった。だが彼女には、打つ手がなかったのだ。
彼女はただ、自分の本能の赴《おもむ》くままに、村人を守るしかなかった。
確かに『泥《どろ》』は、彼女に危害を加える意思はないようだった。
彼女に傷をつけず、彼女の内部の村人だけを、始末しようと考えているのだ。
彼女の身の安全は保証されていたが、村人の安全は保証されていない。
不満であり不快だった。
自分の身が、少しぐらい危険な目に会おうと、村人の安全を確保したかった。
彼女は、彼女の中の村人たちに、伝えたい事があったが、意思の疎通《そつう》が全《まった》く上手《うま》くいかない。
これは欠陥《けっかん》じゃない。
殻化宿は、そう考えていた。本来、意思の疎通なんか、私には必要がなかったのだ。
ただの個人用の宿の宝貝《ぱおぺい》として、使用者にとって快適な、寝床《ねどこ》のある家を提供するだけで、使命は果たしているはずだったのだ。
百四十三人もの人間を収容したのは、彼女にとって初めての経験だった。
しかも、寝床だけというわけにはいかなかった。
使用者を守るという、強い本能を殻化宿は持っていた。
彼女にとっても正体不明の敵、『泥』から村人を守る為、殻化宿は村を作った。
最善手を、ちゃんと選択《せんたく》していたが、彼女に出来るのは、そこまでであった。
彼女には最後の切り札があった。
だが、切り札は彼女一人の力では、使えなかった。
非常に不快だが、彼女は、それが自分の欠陥なのだと認めていた。
*
殻化宿は、半球形の結界《けっかい》で村を覆《おお》い、さらに細長い管状の結界を『泥』の中に差し込んでいた。管状結界の先は地上に出ている。
まさに、空気穴だ。
半球形から伸びる、無数の触手《しょくしゅ》のような管状結界は、彼女にとっての感覚器だった。
ある気《け》だるい午後。『泥』は急激に活発な活動を開始した。
彼女は興味《きょうみ》を覚えた。
もしかして地上から、救援が来たかと考えたが、それはありそうにない。
彼女が静かに『泥』の行動を見守っていると、何かが『泥』の中に引きずり込まれた。
管状結界から、微弱《びじゃく》な雷気《らいき》を放出すると、雷気は『泥』の中を駆《か》け抜け、和穂《かずほ》の形を読み取った。
殻化宿は動揺した。ついに追手《おって》がやって来たのだ。
しかも『泥』の術中にはまっている。
和穂の手にあるのは、殷雷刀《いんらいとう》ではないか。
彼女は少し考えた。
このままでは、『泥』は和穂を殺してしまうだろう。
追手がいなくなるのは、殻化宿にとって好都合《こうつごう》だ。
だが、和穂たちならば、村人を助ける方法を持っているかもしれない。
彼女は悩んだ。
和穂を捨ておき、村人が滅《ほろ》んだとしても、殻化宿は次の使用者を得られるだろう。
『泥』の兵糧《ひょうろう》攻めまがいの攻撃は、『泥』を操《あやつ》っている何者かが、殻化宿を無傷で欲しがっているとしか、考えられない。
彼女は和穂を見殺しにする事にした。
しばらくの時間が流れ、和穂の表情に苦痛の色が見て取れた。
窒息《ちっそく》の苦しみか。
感覚を遮断《しゃだん》すれば、和穂の顔など見ずにすむ。
だが、彼女は和穂の表情から、目が離せなかった。
和穂の苦悶《くもん》の表情が、村人の苦悶の表情へと重なっていく。
本能は時として、どんな決断も覆《くつがえ》す。
彼女は管状結界を操り、和穂の足に絡《から》ませた。
そして思いっきり引っ張る。
少し『泥』の抵抗を感じたが、和穂は着実に深く深く沈んでいく。
和穂が完全に気を失ってすぐに、管状結界は和穂を半球形結界の中に引きずり込んだ。
もはや、彼女に出来る事はなかった。
あとは和穂に頼るだけだ。
四
「やぁ、梨乱《りらん》。西瓜《すいか》を切ったんだけど、一緒《いっしょ》にどうだい?」
村長代理の家から、自宅に戻《もど》ろうとした梨乱に声が掛かった。
見てみれば、太った中年の主婦が、自分の三人の子供に西瓜を食べさせていた。
「悪いね、一切れもらうよ」
家の前に出された、質素な木の机に、梨乱も腰をかける。
そして、黄色い果肉の西瓜を手に取り、バクリと食う。
再び口を開け、さらにバクリ。
子供の一人が不思議そうに声を出す。
「梨乱姉ちゃん、種ぐらい出しなよ」
「男が何をみみっちいこと言ってんだい。西瓜は種ごと食べるの。
葡萄《ぶどう》は房にかぶりついて食うのが、一番|美味《うま》いんだから」
感心げに子供はうなずき、言われたように種も一緒に噛《か》み砕《くだ》いた。
「ね、姉ちゃん苦《にが》いよ」
「この苦みの美味さが、判《わか》らないうちゃまだまだガキだね」
バクリ。バクリ。バクリ。残り三口で西瓜を平らげ、梨乱は礼を言った。
「おばさん、美味《おい》しい西瓜だったよ」
「さすがに皮までは、食べなかったね」
「人をカブトムシみたいに」
子供たちの母親は豪快に笑い、梨乱の背中を叩《たた》いた。
梨乱が軒先《のきさき》で、無駄話《むだばなし》をしていると、血相《けっそう》を変えた一人の長い髪の女が走ってきた。梨乱と年頃は同じぐらいの、若い娘だ。
何事かと梨乱は女を呼び止めた。
「どしたの、芳紅《ほうこう》? 慌《あわ》てて」
「梨乱! ちょうど良かった。
今、村長代理の所まで行こうと思ってたんだけど、大変なのよ! 呑気《のんき》に、西瓜を食べてる場合じゃない」
「だから、何があった?」
「人が倒れてる!」
「しょうがないね、また誰《だれ》かが酒を飲んで暴れたんだな」
「違うよ!」
「違うの? で、誰が倒れてるんだい」
「知らない人」
「知らないって何よ。村の連中の顔ぐらい覚えているでしょ」
「だから、違うのよ。今まで、会ったことのない人が倒れているの。
歳恰好《としかっこう》は私や梨乱と同じぐらいで、なぜだか知らないけど、道士みたいな服を着てて、泥まみれで、片手に刀持ってる女の子」
「外部から入ってきたの? この村に? 大変じゃない!」
「だからさっきから、大変だって言ってるでしょ!」
「どこに倒れてる?」
「東の果て」
「判った、芳紅は村長代理に報告して。私は先に行ってるから」
芳紅と呼ばれた娘は走りだし、慌てて梨乱も現場に急ぐ。
東の果てとは、村の一番東端だ。
無論、このような情報を仕入れた、中年女性も黙《だま》っているはずがない。
子供たちに、西瓜の皮をちゃんと捨てておくように言いつけ、隣《となり》の家に駆け込んだ。
連鎖《れんさ》的に情報が広がる。
*
東の果ては村の果て、そこで、村は切断されたように終わり、空が壁《かべ》のように直立している。
これを見れば、村人は嫌《いや》でも、自分が囚《とら》われの身だと思い知らされるので、普段あまり人はこない。
梨乱が駆けつけると、すでに一人の医者と数人の野次馬《やじうま》が到着していた。
髪を油で固めた、年|老《お》いた白髪の医師が和穂を抱きかかえていた。
「先生、どうなっているの?」
「判らんよ。わしに判るのは、この娘は幸いにも『泥《どろ》』を飲んでいないって事だ。
怪我《けが》はない。恐らく、怪我をする前に、殻化宿《かくかしゅく》が引きずり込んだんだろうな」
「やっぱり、外から来たの?」
「そうとしか考えられん。さっきまで、息が止まっていたんだが、揺さぶったら息を吹き返した。じきに意識を取り戻すだろ」
梨乱も娘に近寄り、しまっていた手拭《てぬぐ》いで顔の泥をぬぐってやった。
「……やはり知らない顔だね」
地面に転がる刀に、梨乱の注意が行った。
「これが、この娘の持っていた刀?」
「そうだよ。どうも道士らしいが、娘の道士なんて初めて見た」
抜き身の刀を置いておくのも物騒《ぶっそう》だと、娘の腰についている鞘《さや》に、刀身を収《おさ》めようと梨乱は刀を拾《ひろ》った。
『結構《けっこう》、高価そうな刀だな』
梨乱の考えに、答えが返った。
『貴様《きさま》、よくも和穂を殺してくれたな!』
途端《とたん》、梨乱は刀を逆手《さかて》に構えて一気に、自分の首へ刃を走らせた。
さすがの梨乱も、勝手に動きだす刀に恐怖《きょうふ》を覚えた。
が、刀は梨乱の首に触れる寸前にピタリと止まった。わずかに和穂の気配《けはい》がする。
死んでいれば、気配も消えるはずだ。
刀は無理矢理、梨乱の手から抜け出し空中に浮かぶ。そして、軽い爆発音を立てて弾《はじ》けた。
産毛《うぶげ》が逆立《さかだ》つような、微《かす》かな雷気が周囲に充満《じゅうまん》した。
呆気《あっけ》に取られる梨乱と野次馬たちの前で、刀は一人の青年に姿を変えた。
たいして大柄でもないが、鷹《たか》の眼光を持つ長髪の青年。
青年は、ちらりと横たわる娘に目をやる。
彼の鋭《するど》い観察力は、和穂の呼吸をしっかりと確認した。
大きい、とても大きい安堵《あんど》の溜《た》め息が、青年の口から吐かれた。
腰を抜かして、地面にへたりこむ梨乱が言った。
「この娘は和穂っていうの? 私は柳《りゅう》梨乱。あなたは誰?」
「我が名は殷雷刀《いんらいとう》。刀の宝貝《ぱおぺい》だ」
「そう、ようこそこの村へ。
殻化宿が招いたんだから、敵ではないね。歓迎《かんげい》するよ。
事情を話さねば、ぶった切るぞ。って顔をしてるね。
話してあげるよ。あんたらの事情も話してもらうけど」
今まで、ぐったりとしていた和穂の肩が、ビクッと動く。
そしてゆっくりと、まぶたが開かれた。
「?」
梨乱は土ぼこりを払いながら立ち上がり、和穂に手を貸す。
立ち上がる和穂を見ながら梨乱は言った。
「けど、その前に私の家にいらっしゃい、風呂《ふろ》ぐらい貸してあげるよ。着替えも用意出来るしね」
*
殻化宿は限りある空間の中に、家を作っている。
その為に、一軒一軒の家はそれほど大きくない。
梨乱の家、すなわち柳家も例外ではなく、四つの部屋と炊事場《すいじば》で構成されていた。
三人家族の柳家の場合、余《あま》った一部屋は食堂代わりに使っていた。
殷雷は、食堂の椅子《いす》に座《すわ》っていた。
真鋼《しんこう》の棍《こん》は、すぐに手が届くように壁《かべ》に立て掛けておいた。
珍《めずら》しく、殷雷は出された茶にも手をつけずに、静かに目をつぶっている。
彼は素直に『泥』との戦いに負けたと、認めていた。
最善手を尽《つ》くしていたつもりが、この始末だ。あらためて、殷雷は宝貝と戦う事の難《むずか》しさを思い知った。
まず間違《まちが》いなく『泥』は宝貝の使い手によって操《あやつ》られている。しかし、宝貝の正体は判《わか》らない。
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せる殷雷に、梨乱が声をかける。
「あれ、お茶は飲まないの? 遠慮《えんりょ》なんかいらないけど、宝貝ってのは飲み食いしないとか?」
説明が面倒《めんどう》な殷雷は、湯飲みを手に取り茶を飲んだ。
「名は梨乱だったな? さっきは刃を向けてすまなかった」
梨乱は壁に立て掛けられた、棍に気がついた。興味《きょうみ》を覚えたのか、棍を見ながら話を続ける。
「あれには、びっくりしたけど、別に構わないよ。あの時は、敵か味方か判らなかったんだし」
自分を味方だ、という人物は疑ってかかる事にしている殷雷だが、さすがに梨乱は、敵ではないと考えていた。
わざわざ芝居《しばい》をうって、味方だと信じ込ませて、梨乱にどんな利益があるというのか。
と、その時、玄関から大声が聞こえた。
「梨乱! 外部から侵入者が来たってのは本当か?」
梨乱は笑って、殷雷に説明した。
「村長代理よ」
部屋の扉《とびら》を開けて、一人の青年が転がりこんだ。
「あ、あんたが侵入者か!」
珍しくしとやかな声で、梨乱は答えた。
「侵入者はないでしょ。『お客さん』ぐらいは言ってあげなきゃ。
それより、村長代理、来るのが遅かったじゃない」
「晩飯を食いに行ってて、芳紅と入れ違いになったんだ。
それより、どうやって村に入れたんだい?
それが判れば脱出も」
梨乱は首を横に振った。
「待って、村長代理。もう一人、和穂ってのがいるのよ。その娘が来てから話をしよう」
「和穂? 今どこにいる」
「風呂に入ってる」
「呑気《のんき》な!」
「慌《あわ》てないの。私たちは持久戦を戦っているのよ。呑気ぐらいで丁度《ちょうど》いい」
話をしながらも、梨乱はチラチラと壁の棍に目をやっている。
殷雷は言った。
「どうした? 見てみるか」
珍しく、殷雷は自分の武器を他人に渡したのだ。
他人を信じる事は難しい、ましてかなり状況は緊迫《きんぱく》しているようだ。
不審な人物として、和穂たちを捕らえる方が、梨乱にとって楽なのは、殷雷にも判っている。
だが、梨乱は和穂たちを信じていた。
誰かを疑ったまま敗北するより、全《すべ》てを信じて敗北するほうが、ましだという気迫《きはく》すら感じられた。
彼女の気迫に応《こた》える為、殷雷は敵意のなさを示したかった。
その為には言葉よりも、行動が大事だ。
目を輝《かがや》かせて、梨乱は棍を手に取った。
殷雷は、ぶっきらぼうに言った。
「その棍に興味を持つとは、少しは武芸の心得《こころえ》でもあるのか」
棍を撫《な》で、表面を嘗《な》めるように見つめて、答えが返った。
「武芸なんて全然知らない。
それよりこんな金属初めて見た」
真鋼製の棍。宝貝の材料にすら使われるこの金属は、人間界にある物質ではない。
宝貝回収にあたり、護玄《ごげん》仙人から贈られた物なのだ。恐ろしく頑丈《がんじょう》で、しかもそれほど重くはない。
棍として考えた場合、破壊《はかい》力には劣《おと》る。
だが全く、しならない為に、加えられた力を正確に伝えるのだ。
達人の手に掛かれば、手の延長のように感じられる武器であった。
梨乱はとてつもなく面白《おもしろ》い玩具《おもちゃ》を与えられた子供のように、棍に見入った。
「ねえ、殷雷。悪いんだけど、ちょっとだけこの金属を分けてくんない? ほんのちょっと、爪《つめ》の先ほどでいいからさあ」
殷雷は意地悪く笑った。真鋼を切り取るというのか?
「おぉ。構わんぜ。切れるんだったらな」
飛び上がらんばかりに、梨乱は喜んだ。
「ちょっと、ノミを取ってくるから」
部屋に戻る、梨乱の姿を見ながら、村長代理は言った。
「見かけじゃ、判らないと思いますが、梨乱は職人でして。
珍しい鉱石や、仕掛けの類《たぐい》が大好きなんです。すいませんねえ。ご迷惑《めいわく》では?」
「構やしねえよ」
「お待たせ!」
いくつも引き出しがついた、赤い工具箱から、梨乱は鋼《はがね》のノミを取り出した。
殷雷はノミを見る。
焼きを数回入れ、かなり固めた、鋼のノミだ。日頃の手入れが行き届いてるらしく、刃が青白く光っていた。
が、真鋼と比《くら》べれば金剛石《こんごうせき》と杏仁豆腐《あんにんどうふ》だ。
大切《たいせつ》に、使い込んでいるノミが割れると考えると、殷雷の心は少し痛んだが、物の硬さも判らないようでは、職人失格だ。
「じゃ、いくよ」
ノミを棍の端の方にあて、懐《ふところ》から取り出した槌《つち》で一気に叩く。
カン。
棍の形に、ノミの歯が欠けたと殷雷は思った。見かけは、ノミが棍に食い込んでいるようだが、全くの逆だ。
殷雷がニヤリと笑うと、棍の切れ端がコトリと倒れた。
「ぶぁ、馬鹿な!」
絶叫《ぜっきょう》と共に、殷雷の髪の毛が逆立《さかだ》つ。
慌てて棍を手に持ち、切り口を見てみる。
見事に切断されていた。
梨乱は口笛を吹きながら、切り取った真鋼の切れ端を拾《ひろ》う。
殷雷は棍の切り口を見て、目を見開いて固まった。
弾《はじ》けるような笑顔で梨乱は言った。
「殷雷には、まだ見せてなかったよね。
この槌は私が持ってる宝貝で、『削状槌《さくじょうつい》』っていうんだよ。
これで叩けば竹箸《たけばし》でも、石に食い込むんだから、技術屋にとっちゃ夢のような宝貝ね」
殷雷の耳には届いていない。彼は固まったままだったからだ。
そうこうしていると、和穂が風呂から出てきた。髪の毛をワシャワシャと拭《ふ》きながら、食堂に現れた。
「梨乱さん、お風呂どうもありがとうございました。
それと殷雷、あんまり人の家で大声を出さないでよ。風呂場まで聞こえたわよ。
? どうしたの殷雷?」
殷雷は棍を持ったまま固まり続けていた。
梨乱は上機嫌《じょうきげん》だった。
「和穂の道服は、お母さんが洗っておいてくれるから、明日には乾くよ。雨は絶対に降らないし。
それと『さん』はいらない。
梨乱でいいよ。その代わりってのも変だけど、私も『和穂』って呼び捨てにさせてもらうから。
いいよね?」
「はい。けど、本当にお世話になっちゃって、服まで貸してもらって」
今、和穂が着ているのは、いかにも年頃の娘が喜びそうな服だった。
道服とは違い、袖《そで》はほっそりとしていて、帯も太めだ。全体的に明るい色彩の中で、赤と紺色で彩《いろど》られた襟元《えりもと》が際立《きわだ》っている。
袖や帯に、小さい飾りがあった。
「おやおや、私がそういうの着ないから、和穂に着させたのか」
「梨乱は、こういうの嫌いなの? 可愛《かわい》いのに」
「悪かないけど、服の汚れを気にして、鍛冶《かじ》は出来ないよ。
おっと、着たいのに我慢《がまん》してるって意味じゃないからね」
いつも結んでいる髪をほどき、服装もいつもの道服とは違う。
かなり雰囲気《ふんいき》が変わっているんじゃないかと、和穂は思ったが、それを指摘《してき》出来る殷雷はなぜか、棍を見つめたまま固まっていた。
どんな感じに変わって見えるか、聞きたかった和穂は少し不満だった。
梨乱は思い出したように、和穂に村長代理を紹介した。
「このいい男が村長代理。この村の最高責任者よ。村長代理、彼女が和穂。
……ね、ね、村長代理、和穂と私どっちが可愛い?」
かなり、梨乱の扱《あつか》いには慣《な》れているらしく、村長代理は即答した。
「和穂君の方が可愛いが、梨乱の方が俺《おれ》の好みだ」
上手《うま》い受け答えだと和穂は、感心した。
村長代理の答えは、さらに梨乱の機嫌を良くしたようだ。
村長代理は梨乱に指示を出す。
「ともかく事情は、執務《しつむ》室で説明してもらいましょう」
五
執務室に、蝋燭《ろうそく》や松明《たいまつ》はなかった。
だが、白い机はそれ自体が、光を放っていた。月明かりにも似た、淡く、わずかに冷たい光。
机を囲む、二人の娘と、一人の男、そして一振《ひとふり》の刀たちの顔を光は浮かび上がらせた。
今、和穂は立ち上がって、自分たちの素性《すじょう》を説明していた。
宝貝《ぱおぺい》をばらまいてしまった経緯《けいい》、人間界に降りてからの騒動《そうどう》、『泥《どろ》』との遭遇《そうぐう》の話。
村長代理と梨乱《りらん》は、和穂の話を興味《きょうみ》深げに聞いた。
ただ、殷雷だけは不機嫌な顔をして、棍《こん》をさすっている。
いくばくかの時は流れ、和穂は説明を終えた。
梨乱は驚《おどろ》きを隠《かく》しきれない。
「へえ、地上にばらまいた宝貝を、一つ一つ集めてるの?
待てよ。和穂は元仙人なんだったら、もしかして百歳や二百歳なの? 仙人って、年寄りって感じがするんだけど」
和穂は首を横に振った。
「いえ、私は十五歳です」
ちょいとばかし、くやしそうな顔をして梨乱は答えた。
「だったら私と全《まった》く、同い年じゃん。
十五歳の、うら若き乙女《おとめ》の鍛冶《かじ》職人ってのは結構|珍《めずら》しいと思ってたけど、和穂の方が珍しいな。
十五歳の元仙人か。だいいち『元仙人』ってのも凄《すご》い肩書よね」
言われてみたらそうだった。和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「そうだね。でも、結局『元仙人』ってのは普通の人と全く変わらないわけだから」
村長代理が口をはさんだ。
「和穂君の探《さが》している宝貝には、心当たりがあります。
私の持っている殻化宿《かくかしゅく》と、梨乱の持っている」
袖から梨乱は、槌《つち》を取り出した。見た目は普通の木槌だが、昆虫の甲羅《こうら》を思わせる独特のつやがあった。
「削状槌よ。この村の中にあるのは、この二つの宝貝だけだよ」
この緊急《きんきゅう》時に、自分が宝貝を持っているのを黙《だま》っている村人は、一人もいないと梨乱は信じていた。
棍をさすっていた殷雷が、やっと口を開いた。
「俺たちの事情は判《わか》ってるだろ。宝貝を返してもらおうか。
断るってのなら、こっちもちょいと乱暴な手に出るかもしれないぜ」
和穂は慌《あわ》てて殷雷を制した。
「殷雷! もうちょっと口のききかたがあるでしょ」
机の上に手を組み、村長代理は答えた。
「判りました。お返ししましょう」
梨乱は少し不服そうな表情を浮かべた。
「ううん。この槌は、おじいちゃんの形見《かたみ》なんだけどねぇ。
ま、仕方がないか。もともとの持ち主が判ったんだから。
返してあげてもいいよ」
棍を手にしていた殷雷は、逆に拍子《ひょうし》抜けした。たいがいの宝貝所持者は、素直に宝貝を返したりしないのだ。
殷雷は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。
「えらく、素直じゃねえか。何かたくらんでいやがるな」
和穂は殷雷の袖を引っ張る。
「ちょっと、殷雷! 失礼でしょ。折角《せっかく》返してくれるのに」
村長代理は静かに語った。
「殷雷さん。欲というのは、生活に余裕《よゆう》が出来て初めて生まれる物です」
「どうだかね。人の欲はなめてかかると、痛い目にあうからな」
二人の男が話している間、梨乱はつまらなさそうに、槌と一緒《いっしょ》に取り出した、黒眼鏡《くろめがね》をもてあそんだ。
眼鏡をかけて、和穂に手を振る。
奇妙《きみょう》な眼鏡に和穂が不思議そうな顔をしたので、梨乱は机の上に乗っかり、対面に座《すわ》る和穂に眼鏡を貸してやった。
「ね、梨乱。この眼鏡はなあに?」
「ふふふ。これは宝貝じゃないよ。水晶の眼鏡は知ってるよね。紫水晶か黒水晶を加工してあるんだと思うけど」
「へえ、財宝か何かなの?」
「いんや。鍛冶の時に使うんだ。炎《ほのお》を見続けると目が疲れるでしょ。
和穂もいっぺん、かけてみたら」
興味を覚えた和穂は、眼鏡をかけてみた。
完全な暗闇《くらやみ》になると思ったが、意外にも透《す》き通った感じだった。色は完全に抜け落ちて見える。
梨乱は和穂の姿を見て、笑っていた。
「和穂、全然似合わないな」
恥《は》ずかしそうに和穂は眼鏡を外《はず》す。
「そう?」
和穂から眼鏡を受け取り、梨乱は自分の顔に眼鏡をかけた。
「やっぱ、こういうのは実際に使う人間じゃないと、しっくりこないのよ」
村長代理は殷雷に説明した。
「正直《しょうじき》言って、私たちは宝貝どころの話じゃないんですよ。この窮地《きゅうち》を逃《のが》れる事が可能ならば、幾《いく》らでも宝貝を手放します」
「つまり、なんだ。宝貝は返してやるから力を貸せっていうんだな? それだったら納得《なっとく》出来るぜ」
「そう思っていただいて構いません」
和穂が口を開いた。
「村長代理。やっぱりこの村は……」
「……そうです『泥』の中にあります。宝貝をお返しするのは、『泥』から村人が全員脱出した後で構いませんね?」
刀の宝貝は首を縦に振った。
「ま、いいんじゃないの。
梨乱が持っている削状槌は判ったが、殻化宿ってのはどこにある?」
村長代理は自分の背後にそびえる、白い柱を指差した。
柱の根元《ねもと》には、大きな文字で『殻化宿』と彫《ほ》り込まれていた。
愕然《がくぜん》としながら、和穂はつぶやいた。
「この家が、殻化宿なんですか?」
梨乱は思いっきり手を広げ、説明した。
「惜《お》しい。この村全部が殻化宿。あの柱はこの村を支えている大黒柱みたいなもんね」
村長代理が後を続けた。
「もともとは、穀化宿は宿の宝貝なんです。普段は、船の櫓《ろ》ぐらいの大きさの石の棒で、休みたい時に地面に突き刺せば、宿に変わります」
殷雷は腕を組んだ。
「事情がいまいち見えねえな。最初から説明してくれ」
村長代理は深くうなずく。
「私はあてのない旅人でした。
和穂君が宝貝をばらまいた時、私は殻化宿を拾《ひろ》いました。殻化宿があれば、宿の心配はないですから、とても重宝《ちょうほう》しました。
それに殻化宿があれば、いちいち街道沿《かいどうぞ》いに旅をする必要もありません」
眼鏡をいじり梨乱は指摘《してき》した。
「だろうね。普通の人は、この大湿原地帯に入りこんだりしないもん。村長代理の姿を初めて見た時には、びっくりしたよ。村の連中以外の人間を見たのは、本当に久し振りだったから」
「えぇ。おかげで村の人たちは、私を温《あたた》かく迎《むか》えてくれました」
刀の宝貝は、つまらなさそうに言った。
「こいつが、悪人だったらどうするつもりなんだよ」
眼鏡越しに、梨乱は殷雷を見つめた。
「人を見る目ぐらいあるわよ。それにこんな開拓《かいたく》団の村に、わざわざ強盗《ごうとう》に来るわけないじゃんか」
「ともかく、私は歓待《かんたい》を受け、梨乱の父親、つまり村長の家に泊《と》めていただくことになりました。
しかし、その晩、『泥』は私の宝貝を狙《ねら》って襲《おそ》いかかってきたのです。うかつでした。私はつけられていたのです」
すかさず、梨乱が口をはさむ。
「狙いが何かは、判らないでしょ。私の削状槌を狙っていたかもしれない」
梨乱を落ち着かせ、話は続く。
「ともかく『泥』が村を襲ったのです」
和穂もまた、口をはさむ。
「すいません、お話の途中なんですけど、『泥』が襲ってきたんですか? 『泥』を操《あやつ》る者が襲ってきたんですか?」
「えぇ『泥』が来たのです。最初は、どこかの川か、池の水があふれて泥水が流れ出したかと、考えたんですが『泥』はあまりにも不自然でした。
低い場所から高い場所に流れ、まるで意思を持った生き物のように動いたのです。
気がつけば、洪水《こうずい》のように、村中に『泥』があふれかえっていました。
殻化宿を持っていなければ、想像もつかなかったでしょうが、私はその時、『泥』は誰《だれ》かに操られていると直感しました。
殻化宿のような、不思議な道具が他にもあると思えて、しかたがなかったんです」
棍を撫《な》でつつ、殷雷は言った。
「大正解だ」
村長代理はうなずく。
「もはや『泥』は激流のようになり、村中の家屋をなぎ倒していきます。
私は一か八《ばち》か、殻化宿を使ってみました。村の人が全員入れる、頑丈《がんじょう》な家でも造れれば、少なくとも死人は出ないでしょう。
激流さえ防ぎきれば、どうにかなると考えたのです。
私の願いに応《こた》え、殻化宿は村の人たち、全員を含《ふく》んで作動《さどう》しました。
想像とは少し違いましたが、殻化宿は『泥』を押し退《の》けて、今の村を造り上げました。
最初の内は、見えない堤防なようなものが村を囲んでいる感じでした」
村長代理の言葉が止まり、梨乱が後を続けた。
「殻化宿は『泥』の侵入を阻止《そし》した。でも、激流は終わらなかった。
どこからやって来るのか、泥は流れ続け、村全体を飲み込んでしまった。
恐らく、谷全体を覆《おお》ったと思う」
村長代理は机に両|肘《ひじ》を突き、両手で頬《ほお》を覆う。
「私は、殻化宿の事や、その為に『泥』に襲われたと、村の人に全《すべ》て話しました。
私刑は覚悟《かくご》の上でしたよ。でも、村の人は私を許してくれました」
「そりゃそうよ。悪いのは『泥』であって、村長代理じゃない。
さっきも言ったけど、もしかしたら『泥』は、私の削状槌を狙っていたのかもしれないし。
それで、この村は殻化宿で、殻化宿は村長代理の持ち物だから、村長代理に村長をやってもらう事にしたの。
でも、村長代理は遠慮《えんりょ》して、村人が脱出するまでの間だけの村長代理なら、やってもいいって言ったの」
殷雷は耳の後ろを掻《か》いて言った。
「は? 梨乱、最後の言葉の意味が、よくわからんぞ」
「村長代理が、どうして村長代理なのか、の説明よ。
お父さんは『泥』に襲われた時に体を打っちゃってね、大事をとって休養中なの」
伸びをしながら、殷雷は言った。
「で、脱出もままならぬまま、『泥』の底でじっとしているのが現状なわけだ」
その言葉を待ってましたとばかりに、梨乱は不敵に笑う。
「ご、じょ、う、だん、でしょ。
目の前の厄介事《やっかいごと》から逃げる、私たちじゃないよ。
もともと開拓団ってのは、この手の逆境に燃える性格じゃなきゃ、つとまらないんだから」
和穂は梨乱の言葉に興味を覚える。
「梨乱、何か対抗策でもあるの?」
「いい質問よ。
実はね、『泥』には致命的《ちめいてき》な弱点があったりするのよ」
この言葉には、殷雷も飛びつく。
「本当か! どんな弱点だ!」
「ふっふっふっ。『泥』はね、意外にも熱に弱いのよ。
火であぶると、粘土《ねんど》のように粘《ねば》り気《け》が強くなって、さらにあぶると砂のようになっちゃうの。
ま、『泥』なんだから当たり前と言えば、当たり前なんだけど。
それと、一度『泥』でなくなった物は、水を加えても『泥』には戻《もど》らない。『泥』には『泥』が乾いた、砂や土は混ざらないってのも、実験で確認済み」
身を乗り出していた殷雷は、鼻で笑いながら椅子《いす》に座《すわ》り直した。
「くだらん。『泥』は下手《へた》な湖の、水の量より多いんだぞ。この村に、それだけの『泥』を乾かす火力があるってのか?」
「ない。でも、村の外、東の丘の外側の斜面には倉庫があって、開拓に使う火薬と油があるんだけどね。
うまいぐあいに『泥』の中で爆発させれば、爆風の範囲《はんい》の『泥』は、無害な砂に変わるはずよ」
「それをどうやって取りに行く」
「その為に、今作っているのが対『泥』用の道具、浮鉄《ふてつ》なのだ」
歯をひんむいて殷雷は笑った。
「馬鹿も休み休み言え、『泥』ってのは結局は宝貝が作用しているもんだろうよ。仙術の結晶たる宝貝に、人間|風情《ふぜい》が作った道具で対抗しようってのか?」
和穂と梨乱は、同じ言葉で言い返した。
「そんなの、やってみなきゃ、判んないでしょ」
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿が二人もいるぞ、と心の中で叫び、殷雷は二人の小娘をにらみ返した。
そしてまさかと思いつつ村長代理を見た。
男は困った表情で、首を横に振っていた。
私も無理だと思います、しかし梨乱に言っても聞く耳は持ちません、と表情には浮かんでいた。
村長代理は場を収《おさ》める。
「ともかく、和穂君たちも、村人の脱出に手を貸していただけますね? いえ、まあ手段はともかく。
和穂君たちも脱出出来なければ、宝貝回収どころではないのだし」
和穂は真剣にうなずき、殷雷は嫌《いや》そうな顔をして、それでも首を縦に振る。
村長代理は、ホッとした。
「だいぶ、夜も更《ふ》けてきました。和穂君たちは、この家で泊《と》まっていって下さい。
私は今日の夜警当番なんで、詰所に行きます、部屋は好きなように使って下さい」
殷雷は棍《こん》を手に取った。
「夜警か。良かったら俺もつきあう。寝る必要はないから、役に立つと思うが」
「そうですか、助かります」
慌《あわ》てて和穂も立ち上がった。
「あ、私も」
刀の宝貝は、首を横に振った。
「お前は寝てろ。長旅で疲れが出てるだろ」
「和穂。こんな所に一人で泊まっても寂《さび》しいでしょ、家《うち》においで。どうせ明日になったら乾いた服を取りにこなきゃいけないし」
「はい」
殷雷は意地悪く笑う。
「それがいい。ガキはガキどうし遊んでな、子守りの手間が省《はぶ》けていいぜ」
子供|扱《あつか》いされ、怒《おこ》ろうとする和穂を梨乱がなだめる。
「駄目《だめ》よ和穂、相手にしちゃ。和穂が怒るのを見て、喜ぼうって魂胆《こんたん》なんだから。
年上の男の考える、からかいかたなんて、こんなのばっかしなんだから」
「なるほど」
拍子《ひょうし》抜けした殷雷を置いて、二人の娘は部屋から出ていった。
*
月も星もない空。
だが、空は月明かりと星明かりを撒《ま》き散らしていた。
光を放つ黒色の空。
梨乱は鼻唄を歌いながら、夜道を歩いている。
梨乱の背中を見つめ、和穂は不思議な娘だと思った。
見ているだけで、自分まで元気になってしまう、不思議な雰囲気《ふんいき》を持った娘だ。
「ねえ、梨乱。浮鉄って、どんな道具なの」
薄い影を無数に引きずり、梨乱は答えた。
「うぅん。一言《ひとこと》じゃ説明しにくいよ。
そうだ、明日、工房に連れていってあげよう」
「本当?」
「うん。でも腰を抜かさないように、気をつけてよね」
考えてみれば、和穂は自分と同じ年齢の娘と話すのは初めてだったのだ。
「……梨乱。怖《こわ》くない? 浮鉄の計画に村の人の運命がかかっていると考えたら、震えがこない?」
黒く澄《す》んだ瞳《ひとみ》で、梨乱は和穂の目を見た。
「和穂はどう思う? 私が怯《おび》えているように見える」
和穂は力強く首を横に振った。
「全然。自信たっぷりに見える」
「そう。でもはずれ。怖いわよ。怯えているわよ。
冷静に考えたら、『泥』からの脱出なんて殷雷の言うように『出来る訳《わけ》がない』よ。
出来るはずがない事を、自分一人が出来ると言い張って、他人に迷惑《めいわく》をかけてるんじゃないかと思ったら、震えが止まらない。
私の気持ちは和穂には判るでしょ。
和穂も似たような気持ちなんでしょ。
宝貝回収に恐怖《きょうふ》を感じている……いや宝貝の前に、術の使えない自分の無力さに、うちひしがれてるんだ」
この言葉を殷雷が言ったなら、和穂は激しく否定しただろう。梨乱以外の人間が言ったのなら、和穂は否定したはずだ。
だが、和穂はうつむきながら小さくうなずいた。梨乱になら、私の気持ちが判ってもらえる。
「うん。宝貝と戦っている時は必死だから、そんな事は思わないんだけど。宝貝の居場所を探して旅をしている時には、そう考える時がある。
今まで勝てたのは、ただ運が良かっただけなんじゃないかって」
うつむく和穂の背中を、梨乱は優しく叩《たた》いた。
「和穂。悪いけど、私は人に慰《なぐさ》めの言葉をかけられるほど偉《えら》くはないよ。
でも、私がどう考えているか、教えてあげる。
問題に立ち向かっている限り、そいつは決して無力じゃないんだ。
今まで、和穂が勝てたのは幸運だったかもしれない。けど、立ち向かっていなければ、幸運も起きなかったのよ。
幸運だから勝てたんじゃなく、立ち向かったから勝てたの。
困難に打ち勝つには、困難から絶対に目をそらさない事。それしかないのよ。
困難に立ち向かっているんなら、他に何も心配しなくていいの。
浮鉄が失敗した時の事を考えると、怖くて震える。
でも私は『泥』に浮鉄で立ち向かうと決めて、それを実行しているのよ。
立ち向かっている最中に、失敗の事を考えてどうする」
常に抱《いだ》いていた心の中の緊張が、和穂の中で、ふと緩《ゆる》んだ。
まぶたに涙が溜《た》まるのが和穂には判った。泣いてやれ、無様《ぶざま》に泣いてやれ、と和穂は思った。
龍華《りゅうか》師匠《ししょう》に会えないのが、悲しい。仙界に戻《もど》れないのが悲しい。宝貝で迷惑している人がいるのが、辛《つら》い。
和穂は泣いた。
悲しくて、辛いから泣いた。
無様に泣いてやるんだから、涙を拭《ぬぐ》ったりしてやるもんか。
和穂は大口を開けて泣いた。
殷雷に馬鹿にされるのは、辛くない。
そう、宝貝に立ち向かうのも辛くはない。
以前、泣かないと決めたけど、あれは取り止《や》めだ。
これからは、泣きたい時に、無様に泣いてやる。
でも、立ち向かってやる。
泣き始めた和穂を見て、梨乱は満足そうにうなずいた。
道服を着ず、髪も括《くく》っていない。
普段の和穂らしからぬ姿の和穂は、泣き続けた。
それは、ただの十五歳の娘であった。
でも、それが和穂であった。
和穂は大きく背伸びをした。
「泣いたら、さっぱりした。酷《ひど》い肩凝《かたこ》りが、治ったみたい。
ありがとね梨乱」
「別に私は、何もしてない。ともかく人は、自分をグルグル巻きにするもんだからね」
「でも、梨乱って結構、苦労人なんじゃないの? 普通の十五歳で、そこまで達観した事は言えないよ」
「達観なんかしてないよ。本当のこと言ったら、今の言葉は、村長代理の受け売りなんだよ。
私が落ち込んでいた時に、村長代理が話してくれたの。もっとも、私が浮鉄の設計で悩んでいたなんて、あの人は思ってもみなかっただろうけど」
「ふうん」
「へへ。村長代理に励《はげ》まされたのよ。どう、うらやましい?」
「別に」
さすがの梨乱もムッとした。
「あのね、そういう時は『いいなあ、梨乱には村長代理みたいな素敵《すてき》な彼氏がいて』ぐらい言うもんだよ」
腕を組み、和穂は真剣に悩む。
「……素敵?」
この女、ケンカを売ってるのか、と思ったが和穂は元仙人なのだ。
色恋沙汰《いろこいざた》には疎《うと》いのだろうと、梨乱は自分に言い聞かせる。
「ま、いいや。だいぶ遅くなったから早く家に帰ろう」
二人の娘は家路《いえじ》を急ぐ。
六
夜が終わった。
太陽もないのに、広がる日の光。
朝食を終えた、和穂と梨乱は工房へと向かう。
和穂は、夜のうちに乾いた道服を身につけ、髪型もいつもと同じだ。梨乱は太い繊維《せんい》で編まれた、作業衣を着ていた。
作業の邪魔《じゃま》にならないように、袖《そで》は細かったが、服のあちこちに小物を入れる、小さな隠《かく》しがある。
寝ぼけまなこで、梨乱が汗どめを結んでいると、道の向こうからやって来た、殷雷《いんらい》と出くわす。
「なんだ、和穂。どこに行くんだ」
「梨乱に、工房を見せてもらうの。殷雷も一緒《いっしょ》に行こう」
梨乱は大きな欠伸《あくび》をしながら、うなずく。
「どうせ、殷雷も暇《ひま》なんだからおいで。夜警は御苦労さんだった」
「別にあんなのは手間ではない。睡眠なんかとってもとらなくても、俺には関係ないからな」
欠伸とともに、眠気を振り払い、梨乱は好奇心に燃える目で、殷雷を見つめた。
「あんたって、どういう仕組みで動いているの?」
「梨乱。お前は、自分の体がどういう仕組みで動いているか把握《はあく》してるのか?」
ごそごそと、袖から削状槌《さくじょうつい》を取り出して梨乱は言った。
「あんたの体に興味《きょうみ》があるよ。ちょいと分解させてもらおうか」
「! 駄目《だめ》だよ梨乱!」
朝っぱらから重い冗談を言う娘だ。
もう一人の娘は、それが冗談だとすら判《わか》っていない。
殷雷は、棍《こん》で自分の肩を叩《たた》きながら、言い返した。
「馬鹿を言え。いかに工具の宝貝《ぱおぺい》とはいえ、武器の宝貝に、傷をつけられるものか」
慌《あわ》てていた和穂は納得《なっとく》した。
「なるほど。それもそうよね」
そんな話をしながら、一行《いっこう》は工房へと向かった。
いつになく、和穂の笑顔が柔《やわ》らかいと殷雷は思う。
久し振りに寝台の上で眠れて、本当に熟睡《じゅくすい》出来たからだろうと、刀の宝貝は納得した。
和穂が、その小さな胸に抱《かか》えた苦悩を、無様《ぶざま》に泣きながら乗り越えたからだと、殷雷に判る術《すべ》もなかった。
*
工房には、もう職人たちが、集まっていた。
仕事前の一時、休憩《きゅうけい》所で茶を飲み雑談をしているところに、梨乱たちは現れた。
壁《かべ》の引き出しから、自分の手袋を取り出しつつ、梨乱は二人を紹介する。
「おはよ。昨夜《ゆうべ》は御苦労さんだったね。
今日は見学人がいるのよ、こっちが和穂にこの人が、殷雷。
で、実はこの人たちってのは……」
梨乱は説明を途中で止めた。
不服そうに腰に手をやり、言葉が続いた。
「て、どうせ皆、知ってるんでしょ。
おばさん連中が、言いふらしたに決まってるもんね。そうでしょ?」
鉄が焼けたような、赤い顔をした中年の男が答えた。
「ま、そういうこった。そっちの兄ちゃんは夜警の途中に、工房に顔を出したな。
あん時は、さ、いや『茶』の差し入れ助かったぜ」
梨乱は怖《こわ》い顔をして、職人たちをにらみつけた。
あれだけ、工房では酒を飲むなと言っているのに、また飲んだな。
もっとも、彼らも職人としての誇《ほこ》りがあるから、仕事中には飲まないだろう。
一仕事終え、仮眠がてらに家に戻る前に飲んだんだ、と梨乱は考えた。
別にそこまでとやかく言う気はないが、どうして工房で飲むのだ。
怒《おこ》る梨乱の頭を撫《な》で、職人の一人は和穂を見る。
「お嬢ちゃんが、元仙人なのかい」
和穂は技術屋たちの、低い声に負けないように大声で答えた。
「はい、和穂といいます」
「ふうん。宝貝を集めているんだってな」
にっこりと笑い、和穂は返事をした。
「はい」
ん? 殷雷はいつもの和穂と、少し違うと気がついた。
いつもなら、こんな事を聞かれたら、ちょいと思い詰めた顔で返事をしていたはずだ。
いい意味で気負《きお》いが取れている。
技術屋も笑い、和穂の頬《ほお》をつつく。
「いい返事だ。
こんな仕事をしてると、お嬢ちゃんみたいな、可愛《かわい》い娘と話す機会なんてなくてな」
異議を唱《とな》えようとする梨乱の頭を、職人は左|腹《わき》に挟《はさ》み、身動きが取れないよう締《し》めつける。
職人は笑いながら言った。
「和穂嬢ちゃん。幾《いく》つか宝貝を持っているらしいが、何か使えそうな物はないか?」
和穂は腕を組んで考えた。
「はい、天呼筆《てんこひつ》という天候を操《あやつ》る宝貝がありますが」
職人たちの間に、どよめきにも似た歓声が上がった。
腰の断縁獄《だんえんごく》を外《はず》し、天呼筆を取り出すと一気に人だかりが出来た。
「『ほお、これが天呼筆?』『どうやって天候を操る』『仕組みはどうだ』『それより、あのひょうたんが不思議だ』『ただの筆じゃないか?』『いや柄《え》の質感が、削状槌の柄に似てるぞ』『同じ材質か?』『いや、だからひょうたんが』『なんで筆の形状をしているんだ』『間違《まちが》いない、削状槌の製造者と同一人物による仕事だ。ほら、ここの飾り彫《ほ》りが』」
とてつもなく面白《おもしろ》い玩具《おもちゃ》を与えられた子供のように、職人たちは騒《さわ》ぐ。
黒眼鏡《くろめがね》をかけて、梨乱は言った。
「笑っちまうな。いい歳《とし》こいて、そこいらの子供とかわらないよ」
殷雷は疲れた溜《た》め息を吐いた。
「昨夜も、俺の上着で大騒ぎしやがったからな」
来客用の湯飲みに、水を注《つ》ぎ、梨乱は和穂と殷雷に差し出す。
「そのくせ、殷雷刀自体に興味をしめした奴《やつ》はいなかったでしょ。
殷雷みたいに自分の意思を持っている道具は、職人心をくすぐらないんだよ」
しばらく騒いでいた職人たちだが、そのうち和穂の顔を見つめ、口を開いた。
「和穂嬢ちゃん。……悪いけど、これを使ってみてもいいかな?」
「えぇ、どうぞ」
殷雷は水を飲みつつ忠告した。
「構わないが、たぶん使えないと思うぜ。基本的に屋外《おくがい》じゃないと作動しないからな」
やるだけやってみようと、口々に話しながら職人たちは工房の外へ出た。
梨乱は慌てる。
「ちょっと、あんたら、浮鉄はどうするのよ」
「なあに、じきに戻《もど》る」
「っとに、しょうがないね」
殷雷は棍を右手に持ちながら、梨乱に言った。
「とかなんとか言いつつも、お前も外に出ようとしてるじゃねえか」
少し照れて言葉が返る。
「だって、仕方がないじゃん。好奇心がなくちゃ、職人なんてお終《しま》いよ」
出入口から和穂が、ひょっこりと顔をのぞかせた。
「早くおいでよ、梨乱」
天呼筆を手に持ち、職人の一人が声をあげた。
「じゃ、せんえつながら、代表して俺が使わせてもらうぜ」
他の連中は職人を取り囲むように円を描いていた。
一同の注目を浴びながら、職人は一気に筆を走らせた。
雷《かみなり》を落とそうという、職人の意思に反応して、天呼筆は複雑な文字を空中に描く。
一瞬、留《とど》まった文字は光に変わり、瞬時に天へと向かい駆《か》け上がろうとした。
一同の視線は空へと釘付《くぎづ》けになる。
だが、文字は偽物《にせもの》の空、殻化宿《かくかしゅく》の空を突き破る事が出来ない。
しばらくの間、放電にも似た炸裂音《さくれつおん》を撒《ま》き散らし、文字は消えた。
職人たちは溜め息をついた。
残念そうに和穂が説明した。
「本当なら、あの文字が天へと駆け昇って、天候が変わるんです。
やっぱし障害物があると、駄目《だめ》みたいですね」
職人の一人が手を上げた。
「その、ひょうたん、断縁獄? には幾らでも物が吸い込めるんだろ。だったら『泥』を全部吸い込めるんじゃ」
和穂は首を横に振った。
「無理だと思います。『泥』が誰かに操《あやつ》られているのなら、断縁獄は機能しません」
刀の宝貝が補足した。
「例《たと》えばよ、槍《やり》を持った奴が襲《おそ》ってきたとしよう。その場合は、断縁獄は槍を吸い込む事は出来ないんだ。
吸引に抵抗する意思を感じたら、槍自体に意思がなくても作動《さどう》しないってわけだ」
申し訳《わけ》なさそうに和穂の言葉が続く。
「他にはたいした宝貝はないんです。
お役にたてなくてごめんなさい」
年|老《お》いた職人が首を横に振った。
「気にする必要はない。殻化宿が、お嬢ちゃんを招き入れたのには、何か意味があるんじゃろうて。
それが何かは判らないが、お嬢ちゃんは役立たずなんかじゃないぞ」
老人の言葉は、そのまま殷雷の疑問であった。
殻化宿はなぜ、自分たちを招き入れたのだろうか。殻化宿は、俺か和穂に何かを望んでいるのか。
それとも、『泥』に対する悪《わる》足掻《あが》きに過ぎないのだろうか。
宿の宝貝なのだから、使用者を守りたいという業《ごう》を背負っているはずだ。だが、『泥』に倒されかけた自分たちに、何を期待しているのだ?
それほど気の長くない梨乱は、痺《しび》れを切らした。
「これで、気がすんだでしょ。とっとと工房に戻って、浮鉄《ふてつ》の最終検査にかかってよ」
低い声で、返事を返し、職人たちは工房へと消えた。
そして、和穂たちも工房に入った。
熱気と鉄の焼ける匂《にお》いが和穂を包む。
工房全体を見下ろせる、階段の上から和穂は浮鉄を見た。
和穂は、それを見て驚《おどろ》きに口を開ける。
梨乱は驚く和穂の表情を楽しみ、誇《ほこ》り高く説明した。
「そう、これが浮鉄よ。
見学に来た人には全員、聞いてるんだけど、何に見える」
手すりから身を乗り出しながら、和穂は言った。
「えぇと。大きな大きな、筆立て。
筆立てには筆の代わりに、大きな槍が差してあるって感じ? 殷雷はどう思う」
「そうだな。あまりに絶望的な状況で、全部の手が『お手上げ』になってる鉄のイカ」
梨乱は腕を組み、うなずく。
「思いっきり性格がでるね。
大自然の中で、自由|奔放《ほんぽう》に育った剣山。
怒髪《どはつ》天をつく、鉄の筆。
とか、色々言われたよ」
巨大な浮鉄の胴回りは、大人が八人がかりで手をつないだぐらいある。
決して滑《なめ》らかな円柱などではない。
ごつごつと、鉄の部品を無造作《むぞうさ》に張りつけたようになっている。
円柱自体の高さは、殷雷の身長の五倍程度だった。
さらに円柱の頂上から、無数の巨大な鉄のモリが天に向かい生《は》えていた。全《すべ》てのモリが同じ長さではなく、不揃《ふぞろ》いであった。
和穂の見ている前で、鉄のモリが一瞬伸び、再び元の長さに戻った。
梨乱は説明した。
「あのモリには仕掛けがしてあって、刺す時にはすんなり入るけど、刃の部分に返しがあって抜けにくいように作った。
つまり、あのモリを刺して、食い込んだ所で引っ張ると、浮鉄自体が持ち上がるって寸法よ。私があれに乗るんだ」
「凄《すご》いよ、梨乱!」
無論、殷雷は納得《なっとく》しない。
「梨乱よ。動力は何だ? まさか人力じゃあるまいな」
梨乱は浮鉄の側《そば》に転がる、丸い鉄柱を指差した。人間一人がまるごとすっぽり入るような、鉄柱だ。
頭の所に四角いデッパリがある。
「あれが浮鉄の動力。
あの中には、ギュウギュウに巻いた、細長い鋼《はがね》が入っていてね……」
再び、和穂は驚く。
「それってまさか……」
「そう、ゼンマイだ」
殷雷は事もあろうに、棍《こん》を落としそうになりながら大声で笑った。
「ゼ、ゼンマイだ! ひっひっひ。冗談はよせ! ゼンマイで、あんなでかいガラクタを動かそうってのか!」
和穂は殷雷の袖《そで》を引っ張った。
「殷雷、笑っちゃ悪いよ」
しかし、梨乱は怒るでもなし、不敵な笑顔で殷雷に言った。
「ゼンマイだからって、捨てたもんじゃないよ。鯨《くじら》のヒゲを切って、使ってるような物とは、わけが違うんだから。
あのゼンマイの鋼は、おじいちゃん秘伝の合成金属なのよ。
軽量かつ弾性に富んでいるんだから。
その鋼を何十人もの村のみんなが、数日かけて巻き上げたのよ。
あの鉄柱の中に、どれだけの力が蓄《たくわ》えられていると思う? しかも、あれと同じ鉄柱ゼンマイを全部で十二個使うのよ」
殷雷の笑いが凍《こお》った。
梨乱を始めとした職人連中は、机上《きじょう》の空論で仕事を進めるようには思えなかった。
だが、所詮《しょせん》はゼンマイ。しかし、特殊なゼンマイ。
殷雷は判断しかねた。
「梨乱よ。だいたい職人職人って言ってるが、お前たちは、何の職人なんだ?」
「決まってるじゃん。本来は開拓《かいたく》に使う為《ため》の土木用の櫓《ろ》を組んだり、井戸を掘《ほ》ったりする職人よ。全員専門職じゃなくて、総合職だけどね」
「お前は鍛冶《かじ》屋じゃないのか?」
「一応はね。鍛冶もこなせば、櫓も組めるし、望みとあれば、機《はた》織り道具の調整もこなしちゃうわよ。
でもね、別に自分が偉《えら》いなんて言うつもりはないよ。本当の専門職には負けちゃうもんね」
浮鉄に興味を覚えた和穂は、さらに詳《くわ》しい説明を頼む。
「ねえ、梨乱。もっと説明して」
「いいわよ。いくらでも説明してあげる」
殷雷も浮鉄がどれだけ、精密に作られているのかに興味を覚えた。
*
浮鉄の側面に、浮鉄の設計図を張りつけ、梨乱は熱心に説明を続けていた。
「……っていうのが、基本的な所ね。判ったかな?」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せながら、薄笑いを浮かべたのは、殷雷にとって初めての経験であった。
梨乱の言葉は理解出来るが、言葉が紡《つむ》ぐ文章が理解出来ないといった感じか。
単純な言葉で語られる、恐ろしく複雑な理論の嵐。
和穂の袖《そで》を引っ張り、殷雷は小声でささやいた。自分だけ理解してないのかと思い、不安だったのだ。
『か、和穂。判ったか?』
『……どうしよう。折角《せっかく》一所懸命《いっしょけんめい》に説明してくれたのに判らなかった』
『よし、ここは適当に判ったふりをして切り抜けよう』
『駄目《だめ》だよ。判らない時にはちゃんと、判らないって言わなきゃ』
「ごめん、梨乱。全然判らなかった」
梨乱は大笑いした。
「そう簡単に理解されちゃ、職人なんか用なしだからね。
ようするに、浮鉄は船を造る技術と、機織り道具の技術を応用して造られてるの。後はちょっとばかり、寒暖計の理屈と馬車の仕組みも使ってるけど。
簡単でしょ」
殷雷が顔を引きつらせた。
「どこをどうやったら、船と機織りが結びつくんだよ」
和穂は手を叩《たた》いた。
「あ、判った。
もしも、ゼンマイを使いきったら浮鉄の外に捨てるようになっているんだ」
一所懸命、浮鉄の理屈を考えていた和穂の言葉は、殷雷と梨乱の会話には全《まった》く関係がなかった。
「そ。主《おも》に、モリの押し出しと、引き戻しに使うだけだから、伸びたら排出するの。
どうだ、殷雷。これでもまだ、ガラクタだと呼ぶか?」
渋々《しぶしぶ》殷雷は自分の非礼を詫《わ》びる。
「判った。もう浮鉄をガラクタとは呼ばん。
でもよ、万が一……ともかく『泥』の外に出ても、『泥』の手に捕《つか》まったらどうするんだ」
「浮鉄の中には、小さい炉があって、表面を熱するようになってるの。だから、『泥』は浮鉄をつかめない」
和穂は浮鉄の横に積まれた木箱に目をやった。
「梨乱、あれはなに? 浮鉄の材料かなにか?」
「ああ、あれは浮鉄に積む食料だよ。保存食の干《ほ》し肉だ。いざという時には、大湿原を抜けて、街《まち》まで救援を呼びに行くから」
山のように積まれた木箱を見つめ、和穂は一つの決意をした。
*
色々と見学していた、和穂と殷雷であったが、昼前には工房を離れた。
着々と進む、浮鉄の作動検査。
日が傾く頃には、全《すべ》ての検査は終了し、ゼンマイの組み込みも終了した。
既《すで》に、浮鉄を工房の外へ運び出す為の、軌道《きどう》も敷《し》かれていた。
大きな船を、造船場から海へ滑《すべ》り落とす軌道に似ていたが、浮鉄を移動させるには、人力で動かす必要があった。
だが、工房の中で行われる、全ての工程は予定通りに完了したのだ。
明日の午後には、計画が実行される。
全ての工程を終え、歓声にわく技術者たちに、背中を叩かれまくり、梨乱も腹が立ってきたが、完成した浮鉄の姿を見ると、自然に笑顔がこぼれた。
酒が嫌いな梨乱であったが、今だけは話が別だ。
用意された酒で、皆と乾杯し、一杯だけ飲み干す。
「とうとう完成したんだ。この浮鉄で、村の皆を『泥』から救い出してみせる」
決意を新たに、梨乱は、浮鉄を見つめ直した。
さあ、これで後は村長代理に完成を報告すれば、製造責任者としての仕事は終わる。
梨乱は歓声を背中に残しながら、工房を去り、村長代理の家に向かった。
執務《しつむ》室には、村長代理の他に、和穂と殷雷もいた。
喜びの抱擁《ほうよう》ぐらい期待していた梨乱は、少し不満だった。
「村長代理、予定通り浮鉄は完成しました」
跳《と》び上がって、喜ぶとは思っていなかったが、村長代理の深刻な表情に、梨乱は気分を害した。
「まさか、まだ計画を止《や》めろなんて言うんじゃないだろうね。そうだったら、本当に怒るよ」
村長代理は答えずに、ゆっくりと、元仙人が梨乱に言った。
「梨乱、私を浮鉄に乗せて」
驚《おどろ》く梨乱。
「おいおい、それは無理だ。
あれには、余分な空間はないんだよ。操縦《そうじゅう》者が一人入るぐらいの余裕《よゆう》しかないんだ。
狭《せま》すぎて、操縦室の背中にまで食料を積んでいるほど、余裕がないんだ。
それに、浮鉄の操縦は、あれの製造に係《かか》わった人間にしかできない。
動かせる人間の中で、一番私が小柄だったから、私が操縦者になっているんだよ。
体格は問題ないけど、私の代わりに、和穂が浮鉄を動かすのは不可能だ」
静かに村長代理は言った。
「梨乱。浮鉄の製造責任者として、お前に質問する。
食料を全《すべ》て下ろした場合、和穂君を乗せるだけの空間は空《あ》くか?」
村長代理が何を言いたいのか、梨乱には理解しかねた。
「そりゃ空くよ。紹興都《しょうこうと》まで行くだけの、食料なんだから。
でも、食料は絶対必要だ。いくら私でも、狩りの経験はない。食料を自分で調達するには」
「判った。梨乱。和穂君も、浮鉄に乗ってもらう。
食料は、和穂君の持つ、断縁獄《だんえんごく》に入れてもらうんだ。
殷雷さんは、刀に姿を戻して同行していただく」
机を叩き、梨乱は抗議した。
「ちょっと、ちょっと、ちょっと。私がいない間に、何を決めてたのよ!」
悪戯《いたずら》っぽく和穂は笑った。
「梨乱。『危険だから連れていかない』なんて言い訳《わけ》は承知しないよ」
梨乱には返す言葉がない。
「見学の時、食料にこだわっていたと思ったら、そんな事を考えてたのか。
……私の負けだ。和穂も浮鉄に乗ってちょうだい。
待てよ。だったら、断縁獄に村人を全員入れたら」
すまなさそうに、和穂は説明した。
「駄目。断縁獄に、生き物を入れるわけにはいかないの。断縁獄には、疫病《えきびょう》を封じ込めてあるから」
「宝貝でも、そう都合《つごう》よくいかないのね。
食料を下ろすのは、明日の朝のうちに取り掛かるよ」
七
そして、ついに計画を実行する朝がやってきた。
昨夜も、和穂は梨乱の家に泊《と》めてもらっていた。殷雷は夜警を引き受けていた。
村人たちの、希望と、梨乱たちに対する心配が入り交《ま》じった空気は、いやでも梨乱たちに気合《きあい》を入れさせた。
「……梨乱」
和穂の言葉は途中で止まった。
「どうしたの和穂」
「ううん。何でもない」
上手《うま》くいくといいね。きっと大丈夫《だいじょうぶ》。やるだけの事はやったよ。幸運も私たちに味方してくれる。頑張《がんば》ろう。梨乱も緊張《きんちょう》してる? なるようになるさ。
どの言葉も、少し違うと和穂は考えた。
同行を申し出たが、これは梨乱と『泥《どろ》』との戦いなのだ。
自分はそれを、横で見守るだけの存在なのだ。
ちょっと悔《くや》しいでもなかったが、今は梨乱に賭《か》けてみる気になっていた。
もし、危機に陥《おちい》った時、少しでも手助けをする為に私は同行するんだ。
帯を結びおえた梨乱は立ち上がり、部屋を出た。和穂も後に続く。
ゆっくりと梨乱は玄関に向かい、歩いていった。
和穂が立ち止まる。
「ねぇ、おじさんと、おばさんに挨拶《あいさつ》はしていかないの」
「私の顔を見たら、泣くに決まってる。泣くって事は浮鉄《ふてつ》を信用してないって事。それは私を信用していない事だ」
「でも、それは梨乱を心配してるんだよ」
「判《わか》ってる。和穂。あんたはいい娘だけど、言いたくない事まで説明させる、悪い癖《くせ》があるね。
お父さんたちには、別れの挨拶はしない。
村長代理と会っても、口をきくつもりはない。
思い残す事を山程置いて、私は行くんだ。
このまま死んだら、顔向けできないってぐらい、思い残す事を置いていく。
だから、私は戻ってくるんだ」
強気な梨乱の言葉の裏に、和穂は怯《おび》えを感じとった。
同じだ。
仙界から人間界に降りる時に感じた、和穂の不安。それと同じ物を梨乱は感じているんだ。
梨乱の背中を、優しく和穂は叩《たた》く。
「行こう。梨乱。判ってるね。全《すべ》てが終わったら、削状槌《さくじょうつい》は返してもらうんだから」
梨乱は不敵に笑う。
「しょうがないね。おじいちゃんの形見《かたみ》とも、もうすぐお別れか」
二人の娘は扉《とびら》を開けた。
「よお、遅かったじゃねえか」
扉の外で、殷雷は棍《こん》の素振《すぶ》りをしていた。
単純かつ豪快な、突きや振り、槍《やり》のようにしごいたかと思えば、剣のように一気になぎ払う。
とてつもなく、殷雷が無神経に見え、和穂は怒鳴《どな》った。
「なにやってるのよ殷雷!」
「鍛練《たんれん》に決まっているだろ。いかに達人とはいえ、日々の精進《しょうじん》が必要だ」
「いつもは、そんな事してないじゃない」
全てを見透かした目で、梨乱は殷雷の顔を見た。
「そうやって、昨夜の酒を抜いてるんだろ」
「げ! ばれていたのか!」
梨乱の心の不安を知る和穂は、夜警のついでに酒を飲んでいた殷雷が許せなかった。
「殷雷! ふざけるのもいい加減《かげん》にしなさいよ!」
和穂の剣幕に、殷雷は気をのまれた。
「和穂、朝から妙《みょう》に威勢《いせい》がいいな」
殷雷の胸ぐらをつかみ、和穂は叫ぶ。殷雷は鼻に噛《か》みつかれるのではないかと、本気で心配した。
「あんたって人は!」
人じゃねえぞ。とでも言えば、間違《まちが》いなく引っぱたかれると殷雷は確信した。
殷雷は別のからかいかたでいくと決めた。
まず、目に涙を溜《た》める。
「うぅ。
和穂が梨乱とばかり遊んで、俺《おれ》にかまってくれないから、寂《さび》しかったんだよう。
だから酒に逃げたんだよう」
怒《いか》りで、和穂の奥歯がきしむ。
「こんな大事な日に、何よその態度!」
梨乱が二人の間に割って入った。
「いいんだよ、和穂。工房の連中が打ち上げをやるのは、目に見えていた。
殷雷もそれに参加したんだろ。
武器の宝貝《ぱおぺい》が、翌日に酔いが残るような飲み方はしてない。な?」
「ふん。当たり前だ。そこいらの酒で、俺が宿酔《ふつかよい》してたまるか」
歩き始め、梨乱は言った。
「そうか。だったらいい。打ち上げにまで、とやかく言うつもりはないから」
和穂も梨乱の後に続き、殷雷に捨てゼリフを吐く。
「殷雷の事、見損なったからね!」
立ち去る二人の後ろ姿を、しばし見つめる殷雷。
だが、和穂につかまれた襟《えり》を整え始めた殷雷の目は、いつもの鋭《するど》さを取り戻していた。
いや、いつもよりもさらに鋭い目で、梨乱の背中を見てつぶやく。
「梨乱よ。お手並み拝見といこうか。お前が失敗したら、殻化宿《かくかしゅく》がぶっ壊《こわ》れてしまうんだからな」
殷雷は、昨夜の殻化宿との会話を思い出した。
宝貝同士でなければ、成立しなかったあの会話を。
*
昼を少し回った頃、浮鉄は東の果てにまで運びこまれた。
乗り込む直前に、殷雷は浮鉄から伸びている銅線を、地面の杭《くい》に打ちつけている職人を見つけた。
「何やってんだ?」
男は簡単に説明した。
「これの片端は、浮鉄の中にありまして、糸巻き状に銅線を巻いてあります」
「ふむ」
「糸巻きには、歯車が付いていて、どれだけ回ったか、操縦《そうじゅう》室で確認出来るようにしてあって」
「なるほど、距離《きょり》計か。それはそうと、どうやって『泥』の中に浮鉄を突っ込むんだ?」
「浮鉄のモリが動き始めたら、村長代理が浮鉄上空の、空を一部だけ破ります。殻化宿の持ち主にしか、出来ない芸当なんですよ」
殷雷は浮鉄の周囲を見回した。
さぞ盛大な壮行騒ぎをやると思ってたのだが、浮鉄を見守るのは若い男たちばかりだった。
あちらこちらで火が焚《た》かれていて、炎《ほのお》の中心には幾つもの槍が刺してある。
槍の刃を熱しているのだ。
すぐに殷雷は意味を悟《さと》った。
一部分とはいえ、空を破れば『泥』が滝のように流れ込む。浮鉄が作動《さどう》し、ある程度浮かび上がったら、再び空を戻すのだ。
だが、それまでの間、『泥』の襲撃《しゅうげき》を受ける羽目になる。
その『泥』を押さえ込む為に、槍の刃を熱しているのだ。
さて、そろそろ俺も操縦室に向かおうと、殷雷も浮鉄の中に入った。
煙突の中を進むように、細い梯子《はしご》を登り最上部へと登りつめた。
もう、梨乱と和穂が操縦室の中にいた。
操縦席と言わない理由が、殷雷にはすぐ判った。
席がないのだ。空間的|余裕《よゆう》のなさで、椅子《いす》になど座《すわ》ってられないのだ。
それどころか、操縦用の鉄の管《くだ》の前には二人の人間が横に並んで立つ空間すらない。
仕方がなく、和穂は梨乱の後ろに立っているぐらいだ。
二人で作る、理論的に最小の行列だと殷雷は考えた。
和穂が、梯子につかまったままの、殷雷の姿を見て取った。
「殷雷。もうふざけたりしないでよ」
「判っている。刀に戻るから腰に差せ。棍《こん》は断縁獄《だんえんごく》の中に入れたな。
索具輪《さくぐりん》も、今は断縁獄の中にしまっておけよ。
断縁獄の紐《ひも》は、俺の鞘《さや》にしっかりと結んでおけ」
いつもの殷雷らしい、テキパキとした指示に和穂はやっと、安心した。
爆発音をたて刀に戻った殷雷を、和穂は素早《すばや》くつかみ、指示通りに断縁獄の紐を結び付ける。
そして、服の帯に差す。
梨乱は大きく深呼吸した。和穂も息を飲んだ。
「ま、ともかく和穂は黙って見てて。『泥』の外に出たら、和穂や殷雷の力を借りる必要も出てくると思う。
和穂、外に向かって発進可能と伝えて」
和穂は細長い梯子から、顔を出し叫《さけ》ぶ。
「浮鉄、発進可能」
言葉に反応し、幾《いく》つかの鉄が打ちつけられる音がした。入口を完全にふさいだのだ。
外部との連絡手段はもはやない。
梨乱は目の前に生《は》える、無数の鉄棒の中から一つを選び、引く。
ガキン。
鉄の戒《いまし》めが外《はず》れる大きな音がし、微《かす》かな振動音が和穂たちを包む。
「行くよ、和穂。浮鉄の発進だ!」
目の前の鉄棒から、五本を一気に引き下ろした。
鉄を無理矢理引きちぎった轟音《ごうおん》に、和穂はゼンマイが裂けたかと思ったが、梨乱は全《まった》く焦《あせ》っていない。
静かだった浮鉄が、突然暴れ狂う。自分自身を破壊《はかい》しかねないほどの振動が、巻き起こった。
一応、蝋燭《ろうそく》の明かりはあるが、浮鉄の中は薄暗かった。
小さな赤い光は、動き出した距離計を照らし出した。
ゆっくりと、距離計の、数字が、一から、二に、変わった。
*
空の隙間《すきま》から流れ落ちる『泥』の滝。
槍《やり》を持った浮鉄の周囲の人間は、『泥』に攻撃を加えた。
だが『泥』も負けじと、手の形を取り襲《おそ》いかかる。
村長代理は、浮鉄の動きを生唾《なまつば》を飲んで見守った。
確実に泥の流れを逆流していく。
村の端の低い空を浮鉄は越えた。
村長代理は、地面に手を付き、空に開いた穴を閉じるように命じた。
途端《とたん》に『泥』の侵入は終わった。侵入が終わると、今まで暴れていた『泥』たちもピタリと動きを止める。
「……梨乱」
あまりの振動の激しさに、和穂は操縦室の狭《せま》さに感謝したぐらいだ。
これならば、ふんばりやすい。もし、もう少し操縦室が広ければ、絶対に立っていられなかっただろう。
梨乱が後ろを振り向き、和穂を見た。そして口に手を添え、大声で叫ぶ。
「和穂! この距離計の数字が、四十五になれば、この管を引く。
そうすれば、浮鉄の右側面にある羽が開いて、横倒しになるから気をつけて」
「…………」
和穂は答えた。だが、爆音にかき消されてしまった。仕方なしにもう一度大声で叫ぶ。
「どうして、横倒しに?」
「『泥』の表面に近づくから、今度は岸を目指《めざ》す」
「ねえ、それでもし岸に着いたとして、どうやってそれを知るの? それも距離計?」
「距離計は、横倒しになった時点で切る。着いたかどうかは、微妙《びみょう》な音の違いで判《わか》る」
こんな機械の操縦は、絶対に無理だと和穂は思った。理屈ではなく、感覚で操縦する機械は、さすがの和穂でもお手上げだ。
梨乱が、別の鉄棒を二本押し下げた。
「今、ゼンマイを一つ切り離し、別のゼンマイを動かした」
「ねえ、順調にいってるんだよね?」
「ああ。自分でも怖《こわ》いくらいだ」
距離計の数字が十一から十二に変わった。
たったこれだけ喋《しゃべ》っただけで、和穂は喉《のど》が痛くなった。
振動はさらに続いていった。
和穂の腰で、殷雷刀が跳《は》ねていた。
最初は、振動の影響で跳ねていると思った和穂だったが、よく見ると今にも鞘《さや》から抜けそうな跳ね方だ。
殷雷が自分を抜け、と訴《うった》えているのかもしれないと思い、和穂は殷雷刀に手をかけた。
ゆっくりと、ソロリと姿を現す殷雷刀の刀身。
『どうしたの殷雷?』
『俺の刃をどこにでもいいから、鉄の部分に当てろ』
『どうして?』
『鉄は雷気《らいき》を通す。鉄ごしに周囲の状況が把握《はあく》出来る』
和穂はうなずいた。
「梨乱、殷雷が外の様子を見られるって言ってるんだけど」
梨乱は不服そうな顔で言った。
「こんな鉄の固まりを、職人の勘《かん》で完全に操《あやつ》るのが面白《おもしろ》いのに。
……でもいいよ。そんな事言ってる場合じゃないから」
和穂は刀をそっと、壁《かべ》に押し当てた。途端《とたん》に、軽いめまいが和穂を襲《おそ》う。
殷雷の知覚を和穂も共有しているのだ。
耳で物を見ているような、奇妙な感覚が和穂の神経を駆《か》け巡《めぐ》った。
だが、すぐに違和感は消えた。
色もなく、全く遠近感のない映像を和穂は見た。足元に見える、黒い円が村なのだろうかと考えた。轟音《ごうおん》はさらに続いていた。
だが、和穂の耳も轟音に馴《な》れてきた。
距離計が、十八から十九に変わった時、和穂は動く影を感じた。
『殷雷!』
『来るぞ!』
血の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけた鮫《さめ》のように、影は『泥』の中を突き進んでくる。
和穂には影の正体が判らなかった。
「梨乱、何かが近寄ってる!」
「きっと『泥』を操っている奴《やつ》よ! でも大丈夫《だいじょうぶ》、『泥』は浮鉄に何も出来ないし、人の力じゃ、浮鉄はビクともしない」
くるくると立体的に回転する、影絵のように、それは『泥』の中を泳いできた。
近づくにつれ、和穂は影の正体が人間だと確信した。
腕と足と頭の形を確認した。だが、しょせんは影なので、正確な服装や表情は判らない。
影は浮鉄に肉薄《にくはく》したが打つ手がないのか、そのまま浮鉄と同じ速度で、上昇を続ける。
距離計が、二十三から二十四になった。
和穂が少し、安心した。
「敵は何もやってこない」
「よし、浮鉄にはかなわないのよ」
殷雷が口を開く。和穂の声を使ってしゃべったので、梨乱は一瞬、キョトンとした。
「そうでもないぜ、梨乱よ」
「は?」
慌《あわ》てて和穂が説明した。
「今のは殷雷がしゃべったのよ」
「ややこしいな。で、どういう意味」
「敵は、モリの横にまで上昇を始めた」
二十七から二十八へ。
影はモリに手をのばし、つかむ。
だが、その動きの激しさに驚いたのか、慌てて手を離した。
続いて、流れるような美しい動きで、回し蹴《け》りをモリに放つ。
蹴りの衝撃《しょうげき》が浮鉄全体に響いた。
梨乱は振り向いて、和穂を見た。
「何、今の!」
「敵がモリを蹴ったの!」
三十から三十一へ。
何度も何度も、衝撃が響いた。
和穂は冷汗を流しながら、影の行動を見守った。
「あ、モリが一本折れた!」
舌打ちをしながら、梨乱は叫ぶ。
「構うか! モリは全部で三十六本ある! 一本折るのに、あれだけ手間取るんじゃ、問題はない!」
梨乱の言葉のとおりである。
影も同じ結論に達したようだ。影はゆっくりと、浮鉄の下面に舞い降りた。
「今度は下! 閉じた出入口の少し右!」
一か八《ばち》かの賭《か》けに出た梨乱。
「沈め!」
梨乱が鉄の棒を引き下ろした途端《とたん》、ゼンマイの一つが切り離された。影をかすめ、落ちていく鉄柱ゼンマイ。
「駄目《だめ》! かわされた! 今は梨乱の真下にいる!」
「逃がすか!」
再び梨乱は鉄棒を引く、今度の鉄柱は影に命中した。
影はゼンマイを抱《かか》えるようにしながら、『泥』の奥へと沈んでいく。
「やった、命中した! 敵は沈んでいく」
三十五、三十六、三十七。
「まずいな。一本は、伸びかけのゼンマイだったけど、もう一つは、たった一つの予備ゼンマイだった」
「でも、もう敵は……!」
和穂は戦慄《せんりつ》を覚えた。今までとは比《くら》べ物にならない速度で、影は上昇してきた。
三十七変わらず。
影は再び、浮鉄の側面に追いつく。
「追いつかれた!」
三十七変わらず。
背後の壁《かべ》を見つめながら、和穂はゾクリとした。敵は今、和穂の目と同じ高さにいる。
分厚《ぶあつ》い浮鉄の装甲ごしとはいえ、自分が見つめられているような気分になった。
三十八、三十九。
影は、再び蹴りを放った。
その蹴りは、浮鉄の装甲の一番外側を、呆気《あっけ》なく貫《つらぬ》く。
「装甲が破られる!」
「堪《た》えろ浮鉄!」
四十。
続く蹴り。
内部の装甲に亀裂《きれつ》が走った。
操縦室背後の壁が、今や浮鉄と『泥』を分ける、たった一枚の装甲だ。
四十一、四十二。
影は再び近寄り、最後の一撃を食らわそうとゆっくりと、構えに入った。
梨乱の獣《けもの》じみた、うなり。
「く、く、く、あと三耐えれば!」
殷雷が低い声で言った。
「梨乱。悪いが少し、浮鉄に傷をつけさせてもらうぜ」
「!」
和穂は滑《なめ》らかな動きで、殷雷刀を構えた。
壁から刃を離したので、外部の状況は判らなくなった。
いまだ鳴りひびく轟音《ごうおん》、揺れ続ける浮鉄だ。
刀の宝貝《ぱおぺい》は、それでも外部の敵の気配《けはい》を悟《さと》ろうとした。
蹴りが当たる寸前に、殷雷刀を差し込み、敵を倒すつもりなのだ。
四十三。
刹那《せつな》。殷雷刀は我が身を打ち放つ。
紙を破るように、浮鉄の装甲を刃が突き抜けた。
蹴りは、今まさに放たれた直後であった。
蹴りが狙《ねら》った場所から、突然刃が顔を出したのだ。
殷雷は和穂の声で叫ぶ。
「くらっちまえ!」
放たれた蹴りは、真《ま》っ直《す》ぐに刃に向かっていった。
が、刃に触れる寸前、ピタリと止まった。
「ち。油断はしてないか!」
四十四。
そして四十五。
梨乱は浮鉄の上げる轟音より、巨大な声を上げた。
「開け!」
途端、浮鉄の側面の装甲が、弾《はじ》かれたように開いた。『泥』との抵抗で、浮鉄は一気に横倒しになった。
『泥』の中にも凄《すさ》まじい衝撃《しょうげき》が走り、影は大渦《おおうず》に巻き込まれた小船のように、『泥』の中を、回転しながら落ちていく。
梨乱は少し脇腹《わきばら》を打ったが、幸いにも和穂は殷雷刀にぶら下がる形になった。
刃は空気を感じた。もう、岸はすぐそこである。
殷雷刀は、複稚な軌跡《きせき》を描き、浮鉄の装甲を一部切り裂く。
装甲が弾け飛び、一気に風と光が梨乱と和穂を包んだ。
脇腹を押さえながら、ゆっくりと梨乱は立ち上がった。
横倒しになった為、今まで壁だった場所が床《ゆか》になった。
殷雷刀は、ちょうど今の天井《てんじょう》に当たる部分を切り裂いたのだ。
自分の目で、梨乱は外を見た。
浮鉄は、モリに引かれる巨大な馬車だと、梨乱は思った。
じわじわと喜びが込み上げてくる。
「本当の空だ! 私はやったんだ!」
和穂は、油断なく殷雷刀を片手に持ち、残った方で梨乱に抱きつく。
「梨乱、やったね!」
「和穂! あんたたちがいてくれた御陰《おかげ》だよ!」
大騒ぎしたあと梨乱と和穂は大笑いした。
岸はすぐそこだ。
岸はすぐそこだった。
だが、浮鉄の移動速度が、だんだんと遅くなった。
いまだモリの勢いは落ちていない。
と、その時。和穂が飛び跳《は》ねるように、背後に向き直った。
むくりと、『泥』の表面が持ち上がり、そこに口が一つ、浮かび上がった。
人間大の大きさの口だが、形からは女性の物だと判る。
口は言った。
「僕からは逃げられないよ。
よくも、そんなガラクタを作るだけの、余裕《よゆう》があったものだ。
別にお前たちを見逃《みのが》しても、大勢《たいせい》に変わりはないんだが、完全じゃないのは、不愉快《ふゆかい》なんでね」
和穂のうなじが逆立《さかだ》った、まだ敵は仕掛けるつもりなのだ。
身構えようとする殷雷刀に逆らい、和穂は刃を口にくわえ、両手をあげた。
『何をする! まさか飛び込むつもりじゃあるまいな!』
『大丈夫《だいじょうぶ》。邪魔《じゃま》はしないで』
自由になった両手を使い、和穂は腰に着けた断縁獄《だんえんごく》を外《はず》す。
ゆっくりと『泥』が動き出した。
和穂は素早《すばや》く、断縁獄の中から天呼筆《てんこひつ》を取り出し、一気に筆を走らせた。
宙に書かれた文字が、光を放ち、天へ向かい駆《か》け上がろうとする。
泥の口は、いつの間にか、目に変わっていた。
和穂の行動を見て、『泥』は素早く行動を開始した。
『泥』は大波になり、和穂たちに覆《おお》い被《かぶ》さった。だが、文字はそれよりも速く、天へと到着した。
文字を受け取った天は、途端《とたん》に黒雲をわきおこし稲妻《いなずま》を『泥』に落とした。
壮大な落雷《らくらい》で『泥』は瞬時《しゅんじ》に渇《かわ》き、砂ぽこりに変わった。
が、『泥』全《すべ》てが砂に変わったのではなかった。
全体の六分の一が乾いたに過ぎない。
浮鉄は足場を失い、一気に降下した。
もはや、『泥』全体を天呼筆で破壊《はかい》するしか手段はない。
必死に踏ん張り、再び和穂が天呼筆を使う前に、新たな『泥』の波が襲いかかった。
梨乱《りらん》と和穂は浮鉄から投げ出され、『泥』の中へと沈んでいく。
殷雷刀《いんらいとう》は、刀身から微弱《びじゃく》な雷気を発した。
殻化宿《かくかしゅく》の管状|結界《けっかい》が、殷雷の雷気に反応し、二人の娘を保護しようと動き出す。
八
何度も、何度も、何度も何度も、梨乱は地面を叩《たた》いた。
まだ体は『泥』にまみれたままである。
梨乱は地面を叩いた。
和穂は手に持った天呼筆を、断縁獄の中にしまった。
沢山《たくさん》の村人が集まっていた。二人を見つめる村人の目の中に、失敗を責めるものは一つもなかった。
地面を叩きながら、梨乱は、涙を流していた。泣き叫《さけ》んでいるのではない。
怒《いか》りの顔に、涙がとめどなく流れ続けていたのだ。
口にくわえた殷雷刀《いんらいとう》を、和穂は地面に置いた。
静かな爆発音をたて、殷雷は人の形をとった。
だが、殷雷は何も言わず、少しばかり悲しそうな表情で、村を支える柱を見た。
村人の中から、ゆっくりと村長代理が歩み寄ってきた。
そして優しく、梨乱の背中を叩く。
梨乱は、村長代理の手を力まかせに、振り払った。
「さわるな!」
叫び、梨乱は力なく立ち上がる。
誰《だれ》も梨乱に声をかけられなかった。どんな言葉で梨乱の、悔《くや》しさをまぎらわせる事が出来るのか。
和穂にも、どう声をかけていいのか判らなかった。だが、このまま梨乱を一人にするのは忍びなかった。
梨乱の後を追おうとする和穂を、殷雷は呼び止めた。
「待て、和穂」
「梨乱を一人に出来ないよ」
「いいから待て。悪気《わるぎ》があったわけではないが、お前に隠《かく》していた事がある。
村人を脱出させる方法は、判《わか》ってたんだ」
「! どんな策があるの?」
「策じゃない。最低の、最後の手段だ。殻化宿《かくかしゅく》を破壊《はかい》する」
「え!」
「詳《くわ》しい話は、村長代理の家でする。村長代理にはもう話してあるんだ」
*
昨夜。
浮鉄《ふてつ》完成の打ち上げには、殷雷だけではなく、村長代理も参加していた。
深夜の夜警をすませ、別の当番と交代した二人は、工房へ出向き酒を飲む。
ちょいとばかし騒《さわ》ぎ、村長代理の家に戻ったのは、夜明けのしばらく前であった。
酒が回った村長代理は、家に帰るなり熟睡《じゅくすい》した。
さて、一人残された殷雷はどうしたものかと、考えた。
再び警備の手伝いをしても良かったが、酒の匂《にお》いを振りまきながらというのもまずそうだ。
梨乱の家に和穂を迎えに行くには、早すぎる。
仕方なく、殷雷も眠る事にした。
刀の宝貝《ぱおぺい》である殷雷だが、彼は眠る事ができた。
必要ではないが、睡眠や食事を、とれるのだ。
睡眠は、殷雷にとって隙《すき》ではない。
一流の武人《ぶじん》のように、不自然な物音や殺気《さっき》がすれば、すぐに活動状態になれた。
そして、殷雷は夢を見た。
「機殷雷、機殷雷。理殻化、思殷雷」
聞きなれない、柔《やわ》らかい声が殷雷の耳に届いた。
「なんだ? 誰かいるのかよ」
深い深い霧《きり》の中に、殷雷は一人たたずんでいた。霧の中に気配《けはい》があった。
「どこだ、ここ? 和穂? おい?」
「請殷雷、理殻化、思不気、宝貝語」
声には聞き覚えがないのに、懐《なつ》かしい言葉だと、殷雷は感じた。
アッと殷雷は驚いた。懐かしいはずだ。これは宝貝言語ではないか。
言葉が続いた。
『殷雷さん、私の言葉に合わせて下さい。
人の意思は判りますが、人の言葉は理解出来ない』
意思を持つ宝貝でも、人間と意思の疎通が出来ないものもあった。単純に宝貝言語しか話せないのだ。
殷雷は、人の言葉も、宝貝の言葉も理解した。
『では、宝貝言語で話させてもらう。お前は誰だ』
『殻化宿です』
『ほお。お前が殻化宿か』
『良かった。あなたのような宝貝がいてくれて。今までのもどかしさが、やっと解決出来ます』
殻化宿の口調には、独特の柔《やわ》らかさがあった。
『? その言葉、お前は女なのか? 人の形をとらぬ宝貝は、全《すべ》て無性かと思っていたが』
『一応、性別はあるんですが、意味はないですよ。
それより、殷雷さんに、重大なお知らせがあります』
『何だ?』
『泥から村の人を脱出させる方法を、知っていただきたいのです』
『! あの泥を倒せるのか?』
『いえ。私の力では、泥に何も出来ません』
『でも、和穂を救ったのはお前だろ』
『私の中へ引きずり込むのは簡単ですが、押し出す力は弱いのです』
『まあいい。脱出させる方法ってのを、先に聞いておこうか』
『はい。私を破壊《はかい》して下さい』
『なんだと?』
『私を破壊すれば、内部の人間を遠い場所へ瞬間的に移動させる機能があります』
『待て、破壊しなければ、その機能は使えないのか』
『……それが私の欠陥《けっかん》です。緊急《きんきゅう》時の脱出機能が、自分の判断では使えないのですよ。
致命的《ちめいてき》な欠陥でしょう。一歩|間違《まちが》えば、私だけが無事《ぶじ》で中の使用者が死ぬ事もありえます』
白い霧の中で、殷雷には返す言葉がなかった。殷雷には、機能を全《まっと》うする為に、自分の破壊を望む殻化宿が哀《あわ》れだった。
殷雷には殻化宿の気持ちが理解出来た。だから哀れだった。
沈黙《ちんもく》の後、やっと殷雷は口を開いた。
『へ。そんな事は出来ねえな。俺ならお前なんざ、一刀両断にしてやれるが、俺まで移動させられちゃ、泥を操《あやつ》ってる奴《やつ》を倒せねえじゃないか』
『お望みとあれば、殷雷さんは移動させない事も可能ですが。それをやると、泥の下敷きに……』
殷雷の声は、少しうわずっていた。
『け。使えねえ宝貝め。もっと気の利《き》いた対抗策はないのかよ』
『殷雷さんは武器の宝貝なのに、お優しい方なのですね。私の身を案じてくれているのですか』
『ば、馬鹿言ってんじゃねえ。お前みたいな宝貝があると、道中が楽になるんだよ。この間も、和穂が蚊《か》に難儀してたしな。蚊ぐらい防げるだろ』
『当たり前です』
『それに、何かを犠牲《ぎせい》にして助かるってのが性《しょう》に合わないんだよ』
『ならば、このまま泥の中で朽《く》ち果てても構わないのですか? 私が提供出来る食料にも限りがあります』
『しかしなぁ』
『あなたには、私の気持ちが理解出来ると思います。
殷雷さんも、もし自分が犠牲になれば和穂を助けられるとしたら』
『黙《だま》れ黙れ黙れ黙れ黙れ、黙れ!』
自分の怒鳴《どな》り声に殺気が混じった事に、殷雷自身が驚く。
だが、殻化宿は怯《ひる》まなかった。
『黙りません。あなたには、私の気持ちが理解出来ています』
力なく殷雷は霧の中に座《すわ》り込んだ。霧が殷雷の表情を隠す。
『……これでも武器の宝貝なんだ。少しは強がらせてくれ……』
『殷雷さん』
うってかわって、吠《ほ》えるような殷雷の声が轟《とどろ》く。
『あぁそうだ、殻化よ! お前の気持ちは痛いほど判る、だからお前が哀れでたまらん!
こちとら、武器のくせに情に脆《もろ》いという欠陥で封印《ふういん》されてた宝貝だ! 文句あるか!』
『あなたは和穂を救いたい、私は村人を救いたい。
私たちの願いを叶《かな》えるには、私を破壊するしか手はないのです』
『……判った。
でも、一日だけ待て。梨乱が浮鉄《ふてつ》を使って泥の中から脱出する計画をたてている。
明日実行だから、それが失敗してからでも構わんだろ。もしかしたら成功するかもしれんし』
『梨乱ですか。あの娘はいい娘です。利口《りこう》で優しいし、それに不屈の闘志まで持っています。
殷雷さん、梨乱には、私を破壊する計画を話さないで下さい。
あの娘は、繊細《せんさい》な心の中に、多くの物を背負っています。
自分の計画に、私の存亡《そんぼう》がかかっていると知ったら、さらに苦しみます』
『判った。和穂にも言えないな。村長代理には言っておこう』
『助かります。くれぐれも、梨乱には勘《かん》づかれないように、気をつけて下さい』
『自信ねえな』
『武器の宝貝なら、策をろうするのは得意でしょうに』
『敵をはめるのは好きなんだが、味方を欺《あざむ》くのはな』
『良い人ですね、殷雷さんは』
『人ではない』
『私のような物から見れば、殷雷さんは人間とかわりませんよ』
『いや、俺は宝貝だ。お前と同じだ』
『ならば、殷雷さんと同じ宝貝である事を誇《ほこ》りに思います』
『やかましい』
殷雷の周囲の霧が黒くなっていった。殷雷は、完全な闇《やみ》に包まれた次の瞬間、目が覚めた。
もう朝になっている。
横を見れば、村長代理が熟睡《じゅくすい》していた。
理不尽《りふじん》な怒《いか》りを覚え、殷雷は村長代理を蹴《け》り起こした。
「な、な、な、なんだ!」
「村長代理。重大な話がある。聞け」
*
村長代理の執務《しつむ》室で、和穂は殷雷の話を聞いた。
そして、村長代理の背後にそびえる、石の柱を見た。
「……殷雷、どうして私に話してくれなかったの!」
「話す利益がなかったからだ。話す不利益があったからだ。
お前は意思を持つ宝貝が、破壊される事に対し、平静を装《よそお》えない。特に味方の宝貝だとな」
「……認める」
「村の人に事情を説明し、なるべく速《すみ》やかに計画は実行する。遅くても四日以内だ」
執務室の中を重苦しい空気が支配した。
沈黙《ちんもく》を破ったのは、扉《とびら》を叩《たた》く乾いた音だった。
扉の外から声がかかる。
「村長代理。梨乱です。入ります」
髪を洗い、服を着替えた梨乱が、部屋の中に入った。
赤くはれた目で、報告を始めた。
「浮鉄計画は失敗しました。
搭乗員《とうじょういん》は無事《ぶじ》でしたが、浮鉄は中破し『泥』の中に沈みました。回収は不能。
細かな報告は、後日、書類で行います」
村長代理は静かに言った。
「梨乱。そこに座《すわ》って、殷雷さんの話を、聞きなさい」
部屋の中に響くのは殷雷の声だけだった。
ただ、一度、梨乱が机を叩く音がした。
「……むしがよすぎる。殻化宿を破壊すれば脱出可能だから、さっさと破壊するだって。
今まで、殻化宿は、村の皆を守る為に頑張《がんば》ってくれたじゃないのよ」
村長代理は無表情に、梨乱に言い放つ。
「村人の安全が全《すべ》てに優先する。状況が悪くなる可能性がある」
梨乱は席を立ち上がった。
「殻化宿を破壊する相談なら、私は帰らせてもらうよ」
冷酷《れいこく》なまでに、村長代理の言葉は厳《きび》しかった。
「梨乱。お前はこの場所にいて、殻化宿破壊の相談に参加するんだ。
お前はこの村の、最高技術責任者だ。
村人の安全の為に、力を貸す義務がある。
勝手な真似《まね》は許さん」
「嫌《いや》だ! そんな事を言う村長代理は、大嫌いだ!」
腕組みしながら、席に座《すわ》っていた殷雷が口を開く。
「梨乱。破壊された宝貝ならば、いつかは修理されるかもしれん」
「直るかもしれないから、ブッ壊《こわ》しても構わないって言うの? あんたも同じ宝貝なんでしょ? 可哀《かわい》そうだとは思わないの」
「思う。殻化宿は欠陥《けっかん》宝貝でありながら、自分の機能を全《まっと》うする為に、破壊を望んでいるんだ。哀《あわ》れだ」
「だったら」
「殻化宿の機能は、内部の人間を守るという一点に集約出来る。
快適な食事や、寝具を提供するというのは副次的な機能だ。
だがな、殻化宿はもともと、個人での使用を前提に造られている。多くて四、五人だ」
「嘘《うそ》だ。だったらこの村は何よ」
「……殻化宿は無理をしている。
殻化宿は、ゆっくりとだが、衰弱《すいじゃく》していってるんだよ。
破壊されたのなら、修復の可能性がある。だがな、己《おのれ》の力を使い果たした宝貝は、絶対に元には戻《もど》らない。
絶対にだ」
和穂は以前、殷雷を衰弱死寸前にまで追い込んだ事を思い出し、ゾクリとした。
梨乱は椅子に座りなおした。そして、グシャグシャと髪の毛を掻《か》きむしった。
「私が『泥』に負けたのが、一番悪かったんだ」
和穂が口を開いた。いつになく、低めの声は彼女の怒りを表していた。
「梨乱は『泥』には負けていない。
あの敵の蹴《け》りは、普通じゃなかった。
敵は『泥』を操《あやつ》る宝貝以外にも、宝貝を持っているんだ。
酷《ひど》すぎるよ。
あいつは、楽しんでいる。あんな攻撃が出来るのなら、殻化宿に全《まった》く歯が立たないって事はない。
あいつは殻化宿を、手に入れたがっているから、攻撃しないんだ。
そのくせ、こっちに取り引きの機会さえあたえずに、なぶり殺しにしようとしている。
偶然《ぐうぜん》拾《ひろ》った宝貝の力で、必死に努力している梨乱たちを、せせら笑っているんだ。
許せないよ。
あいつからは、絶対に宝貝を取り返してやる。
殻化宿は、私が殷雷刀を使って破壊する。
殷雷が真鋼《しんこう》の棍《こん》を使って、破壊するんじゃなくて。
それが宝貝をばらまいてしまった者の、責任のような気がする。
殷雷、力を貸して」
殷雷は和穂の目を見つめた。
「いっぱしの口がきけるようになったじゃねえか、和穂よ。
今回は、俺もちょっとばかり、腹に据《す》えかねている。喜んで、力を貸すぜ」
殷雷は、問題点を指摘《してき》した。
「脱出したら『泥』の使い手と、距離《きょり》があくってのが厄介《やっかい》だな。仕切り直しは性《しょう》にあわんぞ」
正確な数字を知るために、刀の宝貝は立ち上がり、殻化宿に手を添えた。心を通して情報が伝達される。
「移動距離は、百里(四百キロ)だとよ。せいぜい、方角程度で具体的な移動場所は指定出来ないが、水の中や断崖絶壁《だんがいぜっぺき》などの危険な場所には、出ないらしい。
人間以外も送れるらしいから、食料も飛ばしてもらえ。
最低で百里だ。望むなら六百里までは飛ばせるそうだ。
殻化宿は、望むのなら移動させない事も出来ると言ったが」
村長代理が言葉を受けた。
「『泥』の中に取り残されたら、ひとたまりもないでしょ」
和穂と殷雷は口をつぐんでしまった。
梨乱は、ちょっとした疑問を覚えた。
「天呼筆《てんこひつ》は普通、どういう時に使うの? 天候を変えるぐらいなら、仙術で簡単に出来そうなんだけど?」
和穂には答えられなかった。
梨乱の質問は、封じられた仙術に係《かか》わるものだったからだ。
和穂の記憶の中に、術とともに封印《ふういん》されている知識なのだ。
代わりに殷雷が答えた。
「本来は、仙術の実験の為に天候を変える、補助宝貝のはずだ」
「仙術の実験て、どれぐらいの規模なの?」
「実験の規模か。莫大《ばくだい》としか言いようがないぞ。
弓矢の宝貝が、雨の中でどれぐらい飛ぶかの実験を行ったらしい。
その時、弓矢は千五百里(六千キロ)飛んで、的《まと》を外《はず》したそうだ。
けど、そんな事をきいてどうする?」
梨乱の頭の中で、答えの影が見えてきた。
次の質問は和穂にも、答えられた。
「天呼筆の欠陥は?」
「天候はいいんだけど、気温を一定に保てないの」
「それだけ?」
「それだけ。けど、この為に雪は操《あやつ》れないのよ」
梨乱は答えを導《みちび》き出す。
「判った。本当は和穂を危険な目にあわせるような提案はしたくないんだけど」
和穂には梨乱の言葉の意味が判らない。
「なんの話?」
「『泥』を操っている奴《やつ》と戦う方法よ」
「え! 教えて梨乱」
「……天呼筆を私に貸して。『泥』から脱出したら、私が『泥』に向かって雷《かみなり》を落とす。
さっきの見てたら、『泥』は雷にも弱かったしね。
五、六発落とせば、『泥』は消えてなくなるでしょ。
大規模な仙術実験に使う為の宝貝だったら、距離は関係なく作動《さどう》させられると思う。
村がなくなっても、村の中の空気は、一つの大きな泡《あわ》になると思うから、『泥』に飲み込まれるまでは、ほんの少し時間はあるはず。その間に、雷を落とす」
説明を聞き、殷雷と和穂は絶句した。
天呼筆はそこまで強力な宝貝だったのだ。
使いようによれば、広大な地域に、致命的《ちめいてき》な天災《てんさい》を起こせる。
殷雷は溜《た》め息をついた。
敵に回せば凶悪だが、自分で使うには威力《いりょく》が強力すぎて使えない。
使えない道具はやはり、欠陥宝貝だ。
和穂たちから、否定の言葉が聞かれないので、梨乱は自分の考えが正しいと知る。
「ま、一度回収した宝貝を、もう一度手放すんだから和穂も心情的に抵抗はあると思う。
かなり遠いけど、殻化宿も村人を地の果てにまで、飛ばそうとはしていない。
日時を決めて、紹興都《しょうこうと》で落ち合う事にしましょう。あの都《みやこ》が、ここらへんじゃ一番大きいし、真南に飛ばしてもらえば、丁度《ちょうど》村との間になるから。
私たちも、『泥』から脱出しても、もう一度この場所に戻《もど》って、開拓《かいたく》を再開するつもりだしね」
和穂は、断縁獄から天呼筆を取り出し、握りしめた。
意思を持たぬ、天呼筆のような宝貝でも、道具の業《ごう》を背負っている。
つまり、誰かに使われたいという、本能に近いものを持つ。
触《さわ》るだけで、天呼筆は自分の使い方を、使用者に教えた。
もし、天呼筆に不可能な事を使用者が望めば、心理的な抵抗となって返ってくる。
遠く離れた場所に雷を落としたいという、和穂の考えは、なんの抵抗も生み出さなかった。
「梨乱。あなたに天呼筆を貸す」
「実行するまでは、和穂が持っていて」
うなずき、和穂は天呼筆をながめた。
「天呼筆か。凄《すご》い宝貝よね」
殷雷が口の端を歪《ゆが》めて笑った。
「凄すぎて、使える状況が限られすぎだ」
梨乱は言った。
「やきもちは、みっともないよ」
くってかかろうとする殷雷を、村長代理は押し止《とど》めた。
椅子《いす》を引き、梨乱は立ち上がり部屋から出ていった。
梨乱の事が気になった和穂が、工房に行ってみると、職人たちは呑気《のんき》に、茶を飲んでいた。
全《すべ》てが終われば、ぶっ壊《こわ》れた浮鉄を村の記念|碑《ひ》として、どこかに飾ろうと、職人たちは相談している。
梨乱は東の果てに行ったと教えてもらい、和穂はさらに梨乱の後を追う。
そこで、道は終わり、垂直にそびえる偽物《にせもの》の空が、ゆくてを阻《はば》む、東の果て。
梨乱は壁《かべ》のような空を、一人で見つめていた。
「梨乱」
ゆっくりと梨乱は振り返った。
「和穂か」
静かな梨乱を見るのは、初めてだと和穂は思った。
それだけ、梨乱の傷は大きいのだと、和穂は自分の事のように、悲しんだ。
和穂の表情を見て、ふいに梨乱は笑った。
「いつか、私は和穂に言ったよね。
問題に立ち向かっている限り、そいつは無力じゃない。
そんな偉《えら》そうな事を言った奴《やつ》が、この有り様よ。可笑《おか》しいよね。
私だったら、指差して大笑いする」
和穂は力の限り、首を横に振った。
「そんな。梨乱は頑張《がんば》ったよ」
「頑張って、負けて、殻化宿を壊す羽目《はめ》になった」
「そんな事言うの、梨乱らしくない。相手は宝貝なんだから、負けても仕方がなかったんだよ」
梨乱はやはり、笑っていた。
「負けた言い訳《わけ》をするなんて、和穂らしくもない。
鍛冶《かじ》だ、冶金《やきん》だ、泥炭《でいたん》だ、客土《かくど》だなんて技術屋をやめて、普通の十五の娘になってやろうかな」
「……梨乱」
うつむく和穂の顔を上げ、梨乱は言った。やはり笑っている。
「なんて事を、言うと思った?
まだまだ、私も修行《しゅぎょう》が足りなかったってわけよ。
知らず知らずのうちに、削状槌《さくじょうつい》に頼《たよ》る癖《くせ》がついていたのかもしれない。
殻化宿の事は頼んだよ」
柔らかな笑顔が、和穂の顔に戻った。
「うん、師匠《ししょう》に頼んで、絶対に元に戻してもらう。
もし、龍華《りゅうか》師匠が面倒《めんどう》がったら、私が直してあげるよ」
「あんたの師匠って、ずぼらなの?」
「というか、自分の気が乗らないと、結構《けっこう》いい加減《かげん》なの。
でも、ちょっとでも興味《きょうみ》を覚えたら、絶対に止まらない人でね」
「そう。早く仙界に帰れるといいね。じゃ、削状槌を返そう」
梨乱から削状槌を受け取り、和穂はこの宝貝の欠陥を理解した。
削状槌は、とてつもなく重かった。それ自体の重さよりも、重く感じられた。
槌《つち》の宝貝なので、重さが必要なのだろう。だが、宝貝ならば、重さを使用者には感じさせないようにする、仕掛けがあるはずだった。削状槌には、それがない。もしくは重さが漏《も》れている。
便利とはいえ、この宝貝を使いこなすにはかなりの熟練《じゅくれん》を要するだろう。
「驚《おどろ》いたでしょ。懐《ふところ》に入れたりしてれば、それほど重くないのに、いざ使おうと柄《え》を握ったら、めちゃくちゃ重くなるのよ」
少しばかり神妙《しんみょう》な表情が、和穂の顔に浮かんだ。
「ごめんね。おじいさんの形見《かたみ》なのに」
和穂が人間界に降りてから、まだ一年も経《た》っていない。ならば、梨乱の祖父も亡《な》くなってから、一年は過ぎていないのだろう。
「気にしないで。おじいちゃんにこだわって、おじいちゃんを目指《めざ》しているうちは、おじいちゃんは越えられないって気がしてきた。
私は私のやり方で、立ち向かっていくよ」
「立ち向かうって、何に? 『泥』にはやっぱり、まだこだわりがあるの?」
大きく背伸びをし、梨乱は最高の笑顔で和穂に答えた。
「違うよ。
これから、私が引き起こすだろう、数限りない失敗に立ち向かっていくんだ。
あんな『泥』に負けたのは、失敗の一つに過ぎない」
「梨乱は強いね」
「しぶといだけだよ。和穂も似たようなもんじゃないの?」
*
そして、別れの朝が来た。
村の外《はず》れに巨大な円が描かれていた。
殻化宿が判断しやすいように、村人たちは必要な物を持ち、円の中に入っていた。
予定の時刻がそろそろ近づいてきた。
今、殻化宿の柱の前にいるのは和穂、殷雷、梨乱と村長代理だけであった。和穂たちが下敷きにならないように、村長代理の家は、取り壊された。
梨乱は和穂の手を握った。
「短い間だったけど、色々と面白《おもしろ》かったよ。和穂。もっと色々な話をしたかったけど、今度、紹興都で会うまでの、楽しみにしておくよ」
「梨乱。ありがとう」
手を振り、梨乱は和穂たちから離れていった。村長代理も深々と頭を下げて、梨乱とともに村の外れへと歩いていく。
和穂は大きく息をついた。
殷雷は何も言わずに、刀へと姿を変えた。軽い爆発音とともに殷雷は殷雷刀へと変わり、和穂の手に握られた。
静かな和穂の呼吸音だけが、辺《あた》りに響く。
と、突然、空の一部が空《あ》き、すぐに閉じられた。
村長代理からの合図《あいず》だ。向こうの準備は完了したのだ。
和穂は黒い鞘《さや》から殷雷刀を抜いた。
今までに感じた事のないような、ズシリとした重量感が和穂の肩にかかった。
和穂は必死になり、殷雷刀を振りかぶり、そして振り降ろした。
偽物《にせもの》の空の青い色を反射しながら、走っていく刃。
『殻化宿よ! いずれまた会おう!』
殷雷は叫び、刃を殻化宿に叩《たた》きつけた。
腹に響く重い音をたて、まるで、折れたかのように、石の柱は斜《なな》めに切断された。
一瞬《いっしゅん》、結界が青白く光った。
そして、空が消えた。倒壊《とうかい》する建物が巻き起こす地響きが広がっている。
予想しなかった状況に『泥』は戸惑《とまど》いながらも、村があった空間に流れこんでくる。
時を同じくして、ドオン、ドオンという遠くの花火のような音が、和穂の耳に届いた。
和穂は落雷《らくらい》の音だと確信した。
梨乱は無事《ぶじ》に脱出出来たのだ。
『泥』の激流はさらに強くなっていたが、和穂に恐怖《きょうふ》感はなかった。
次々と落ちる雷《かみなり》。
激流は和穂の膝《ひざ》までやってきたが、ついに本当の空が『泥』の天井の隙間《すきま》から顔を出した。
ついに雷は、殷雷に向かってさえも轟《とどろ》く。
だが、さすがに殷雷刀の名は、伊達《だて》ではなかった。
自分に落ちようとする雷は、たくみにそらし、足元の『泥』が消し飛んだ。
蒸発《じょうはつ》した『泥』は霧《きり》のようになり、風に吹かれて消えていった。
『殷雷、やったね』
『……そうでもないようだ』
和穂は腰の断縁獄《だんえんごく》を引き抜き、棍《こん》を呼び出した。
そして、殷雷は刀から人へと姿を変えた。
棍を拾《ひろ》い、刀の宝貝は吠《ほ》えた。
「奴《やつ》が来る」
残像のような、ぼやけとともに、それは姿を現した。
一目で、武道家と判る、俊敏《しゅんびん》そうな肉体。
細くくびれた腰に、豊かな胸。長い黒髪。
それは女だった。
女は仮面を着けていた。
少し縦長であるが、魚介類《ぎょかいるい》を思わせる虚《うつ》ろな目が描かれている。
鼻と顎《あご》のふくらみの間には、口のつもりなのか一本の線が引かれていた。
横に並《なら》んだ二つの円と、その下の一本の線。顔を連想させる最少の要素だが、仮面が連想させたのは死人の顔であった。
剥《む》かれた皮膚が、肉やら筋をさらけ出すように、仮面の所々は割れ、仙術的な模様を露出させている。
殷雷は棍を下段に構えた。
「こいつが、『泥』の正体だったのか」
「どういう事、殷雷?」
「あの仮面は、皮杯面《ひばいめん》といって、他人に化《ば》ける為の宝貝だ」
「それが、『泥』とどう関係あるの?」
「特殊な粘土《ねんど》で、顔を作るんだよ。
正確に化けるには、化けたい相手をどれだけ強く記憶しているかに左右される。
つまり、精神力で、使える『泥』の量が変わるんだ。
欠陥《けっかん》は、出せる粘土の量が精神力に左右されすぎる」
「心当たりがあるんだったら、どうして正体を、思いつかなかったの?」
「馬鹿をいえ。自分の身長よりでかい黒猫《くろねこ》を見せられて、それが豹《ひょう》でなくて黒猫だと判断できるか。
あえて言うぞ。こいつは化け物だ。
あれだけ膨大《ぼうだい》な量の『泥』を出せるなんて、仙人並みの精神力だ」
「宝貝で精神力を?」
「精神力を増大させる宝貝なんか、存在してたまるか。これは、ある種の才能だ。
生まれついて、強大な精神力を持っている化け物だ。
雷も『泥』で堪《た》えやがったな。あれだけ雷に弱い『泥』でだ。
ま、少しは仮面が傷ついたみたいだが、そうでもなければやってられん」
今まで黙《だま》っていた女が、言葉を発した。
相手を挑発《ちょうはつ》するように、鼻と顎の間にある口がのたうつ。
「よくもやったな。僕《ぼく》を怒《おこ》らせると、どうなるか思い知るがいい。
お前は人に化けられる宝貝か。面白《おもしろ》い。絶対に手に入れてやる」
女は、右足で地面を踏み締《し》め、左足は爪先《つまさき》だけで地面に触れた。
最初に『泥』へと引きずりこまれた時から敵は武術家だと、殷雷は考えていた。
今の下半身の構えからも、それが裏付けられた。
どうも『泥』を使わないのは、仮面の損傷《そんしょう》が激しすぎたせいのようだ。
女は、腋《わき》を締めつつ両方の掌《てのひら》を、顔の前にまで持ち上げた。
手の甲を相手に向け、少し猫背になりつつも、右手と左手の間から、仮面の目を覗《のぞ》かせた。
殷雷は、女の構えを見て驚く。
「その構えは、炎応三手《えんおうさんしゅ》ではないか。そんな田舎拳法《いなかけんぽう》で、俺と戦おうというのか」
女の輪郭《りんかく》がぼやけ、流れるように滑《なめ》らかな動きで、殷雷に襲《おそ》いかかった。
手首を返しながらの左|拳《こぶし》は、殷雷の右手につかまれた。
さらに、右手が殷雷に襲いかかる。
殷雷の左手は、棍《こん》を握っていて、このままでは攻撃を食らってしまう。
殷雷は、女の左拳を握ったまま、右手の攻撃の防御《ぼうぎょ》の為に動かす。
女の両手が交差する形になったが、右手は殷雷の右手に覆《おお》い被《かぶ》さった。
女は両手を使い、殷雷の片手を押さえている形になった。
刀の宝貝は笑う。
「で、蹴《け》り」
女の膝《ひざ》が、殷雷の腹を目指《めざ》して蹴り上げられた。
が、その足も殷雷の右手で押さえられた。
殷雷はからかいながら言った。
「おやおや、困ったね。お前の攻撃は全部止められたぞ。
両手を片手で防いだ時に、俺が今だとばかりに攻撃を仕掛ける、それに併《あわ》せて、両手の為に死角になっている膝蹴りか。
読めるぞ」
ムクリと、仮面から『泥』が滴《したた》り、あっと言うまに手になり、殷雷の顔を殴《なぐ》った。
予期していなかった殷雷は、もんどり打って吹っ飛んだ。
仮面から生《は》えた手は、すぐに張りをなくしただの『泥』に戻り、地面に滴り落ちた。
殷雷は、少し切れた口許《くちもと》から、流れる血をぬぐいつつ立ち上がる。
「厄介《やっかい》なのは、その仮面じゃない。お前の履《は》いている靴《くつ》のほうだ。
人に出来る踏み込みじゃない。
靴の宝貝か。浮鉄《ふてつ》も蹴り潰《つぶ》されるわけだ」
地面には幾《いく》つかの丸い焼け焦《こ》げがあった。
それは、女の踏み込みの摩擦《まさつ》で、できたものだ。
ゆっくりと、殷雷は中段に棍を構える。
目つきが、人から鷹《たか》の物へと変わった。
女も、両方の掌《てのひら》を、再び顔の前に持ち上げた。
女の輪郭がまたしてもぼやけた。
うつろな影が、滑《すべ》るように走り、殷雷に襲いかかる。
殷雷は両方の拳を、一発ずつ食らったが、今回は体勢を崩《くず》さない。
「素晴《すば》らしい攻撃じゃないか。見えないなんて、小手先の技術じゃなく、見えるけども避けられない攻撃か。でも、ちと軽いぞ」
言葉に反応し、女の体が旋回《せんかい》し、しなやかなムチのように振り回された手が、殷雷に襲いかかる。
が、殷雷はその攻撃を棍で受けた。
旋回という隙《すき》を見せたので、殷雷も蹴りを打とうとするが、女の攻撃の重さで、重心が狂い、蹴れない。
女の攻撃には、素早《すばや》さと重さが両方あったのだ。
靴の宝貝を完全に自分の物として、操《あやつ》っているのだ。
だが、素早さと重さが、同時に来る事はない。
殷雷は仕掛けた。
一気に背後に飛びすさり、極限にまで重心を落とし、駆《か》ける。
女は移動先を悟《さと》られない為に、重心を全《まった》く動かさず、靴の宝貝の力で移動した。
微動だにしない構えで、女は殷雷の攻撃を避《よ》けようとする。
が、殷雷とて刀の宝貝、速さには自信があった。
女の移動先を読み、棍の突きを放った。
ピシと、空気が裂ける音をたてて、棍が走る。
読みは当たり、棍は女のみぞおちに向かう。
棍の一撃は、生身《なまみ》では防御できない。
腕を折られるのを覚悟《かくご》で、肘《ひじ》を落として、みぞおちを守るしかなかった。
相手の焦《あせ》りを楽しみたかった殷雷だが、仮面からは何も読み取れない。
棍がみぞおちに当たる寸前、女は真後ろに下がった。
棍の突きと、全く同じ速度である。
女は棍を完全にかわしたのだ。
ギリリと音がした。
殷雷の奥歯が噛《か》み締められた音だ。
和穂は、殷雷と女の動きに、思わず驚《おどろ》いてしまった。
例《たと》えて言うなら、小川の中で遊ぶ、川魚のような動きだ。
己《おのれ》の知恵を総動員し、静と動を積み重ねていく。
動いている時よりも大きい、静止した時の緊張《きんちょう》感。
いくら棍を使っているとはいえ、殷雷は刀なのだと和穂は実感した。
殷雷の戦い方には、刀の美しさがあった。滑らかさと鋭《するど》さが入り交《ま》じり、高密度の緊張感が刃を光らせる。
和穂は殷雷の強さを、思い知らされた。
一方、女の仮面と顔の間から、透明な液体が流れ出している。
涙のはずがなかった。汗だ。
女は疲労していた。
疲労による一瞬の隙《すき》を、刀は見逃《のが》さない。
大きな動きで、棍は女の足を払う。女が倒れる前に、みぞおちを突く。
今度は完全に入った。
女は、みぞおちを押さえつつ、膝立ちになる。
殷雷は、とどめとばかり、棍を大上段に振りかぶった。
頭蓋《ずがい》を打ち砕《くだ》く一撃の構えだ。
だが、和穂は殷雷がそうしないことを知っていた。
棍が振り降ろされた。
何かが、割れる音。
勝利した殷雷は、不敵な声で言った。
「さあ、どんな面《つら》をした奴《やつ》か、見せてもらおうか。ま、どうせ底意地の悪そうな面に決まっているんだがな」
言葉が終わると同時に、皮杯面《ひばいめん》は二つに割れて、地面に落ちた。
少し離れていたが、和穂の場所からも、女の顔がよく見えた。
女がまだ、奥の手を持っている可能性に備えて、殷雷は構えを解いていない。
そして、今、女の顔が光の中に現れた。
顔を見た途端《とたん》、思考の空白が、殷雷と和穂を襲《おそ》った。
女の顔は、龍華《りゅうか》の顔だった。
和穂の師匠《ししょう》である、女仙人龍華の顔だ。
殷雷は絶叫《ぜっきょう》する。
「皮杯面は、破壊《はかい》した。そんな事は絶対に不可能だ!」
「師匠!」
だが、次の一手は無情にも放たれた。
女の右肩と、首との間の皮が裂けた。
裂け目から、蛇《へび》のようなものが、殷雷に向かって襲いかかる。
虚を突かれていた殷雷は不覚にも、蛇の攻撃を食らってしまった。
殷雷の首の皮に食らいつき、一気に彼の体内にもぐり込む。
女の裂けた皮膚は、何ごともなかったかのように、元に戻《もど》った。
殷雷は自分の中に入ったものを、引きずり出そうと、首に触《さわ》った。
だが、もう傷は消えていた。
次の瞬間《しゅんかん》、殷雷は棒立ちになり、自分の身に何が起きようとしているかを悟《さと》る。
彼の手から、力なく棍が地面に落ちた。
首を押さえ、殷雷は和穂に叫《さけ》ぶ。
「に、逃げろ、和穂。そして俺《おれ》の前に二度と姿を現すな。頼む」
殷雷の髪の毛が、全《すべ》て逆立《さかだ》ち、苦痛の表情が浮かぶ。
よろよろと、殷雷は走りはじめた。
止めようとする和穂だったが、必死の形相《ぎょうそう》の殷雷に突き飛ばされ、地面を転がる。
殷雷は速度を増し、やがて和穂の視界から消えた。だが、そのあとに、殷雷の絶叫《ぜっきょう》が、周囲に響き渡った。
女は消え入りそうな声で言った。
「くそがきめ」
言葉を残し、女は地面に崩《くず》れるように倒れた。
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第二章『和穂《かずほ》の拳《けん》』
一
断縁獄《だんえんごく》から流れる水を、女は飲み続けた。
やがて、今度は断縁獄を頭の上に持ってきて、水をかぶる。
女は都会の人間のようで、水の使い方に遠慮《えんりょ》が全《まった》くなかった。
滴《したた》り落ちる水に構いもせずに、女は断縁獄のふたを閉め、ひょうたんを和穂《かずほ》に投げ返した。
「ひとまず礼を言う。体の頑丈《がんじょう》さには自信があったが、最近は無茶が続いてな。
ろくに水も飲んでなかった」
和穂は目の前の女の、顔と仕種《しぐさ》に、心を奪《うば》われた。
極限にまで研《と》ぎ澄《す》まされた、顔の美しさ。その顔の中でも特に異彩を放つ、氷の鋭《するど》さと溶岩の熱さを秘めた瞳《ひとみ》。
特徴《とくちょう》があるわけでもないのに、なぜか腹に響く声。全《すべ》てが和穂の知る龍華《りゅうか》のままであった。
違いといえば、龍華が好みそうな派手《はで》な飾りは一切《いっさい》身につけていない事、髪の長さが龍華に比《くら》べれば短い程度だった。
服装や髪型が違うからといって、別人とは考えられなかった。
やはり、どこをどう見ても龍華だ。
「師匠《ししょう》、どうしてここに!」
女は豹《ひょう》の眼光で、和穂を見た。
「どうも、さっきから誰《だれ》かに間違《まちが》われているようだな。私は龍華ではない、夜主《やしゅ》だ」
師匠であり、自分の育ての親でもある龍華を見間違えるはずがなかった。
「そんな、嘘《うそ》です。いくら誤魔化《ごまか》しても私には判《わか》ります!」
夜主は、きっぱりと否定した。
「くどい」
だが、その否定の仕方にも、龍華らしさがにじんでいた。
和穂は混乱した。もしも人間界に極秘《ごくひ》に潜入している為《ため》に、素性《すじょう》を明かせないのなら、顔を変えればいいのだ。
わざわざ龍華と判る顔でいる必要は全くない。
それに殷雷《いんらい》はどうしたのだ?
「師匠、殷雷はいったい?」
気の短い夜主は、和穂の胸ぐらをつかみ、軽々と持ち上げた。
「しつこいぞ! 私は夜主だ、龍華などではない!」
「信じられません!」
やれやれという感じで、誰かの声が聞こえた。和穂には聞き覚えのない声だ。
「和穂、この人は龍華ではない。見た目は似ているが、魂《たましい》の音が全く違う」
恐ろしく近くから、声は聞こえた。
持ち上げられたまま、和穂は必死に声の主《ぬし》を探《さが》すが、見当たらない。
声は続けた。
「ここだ」
和穂は、夜主の指輪から声がしていると気がついた。
「私の名前は捜魂環《そうこんかん》、一度会った人間の魂を探す宝貝《ぱおぺい》だ。
捜魂環の名にかけて、誓《ちか》う。夜主様と龍華の魂の音は全く違う」
夜主が手を離し、和穂は地面に落ちた。
信じられないが、他人の空似《そらに》なのか。和穂は仕方なく、認めた。だが、今はもっと重大な問題があるのだ。
「では、夜主さん。殷雷がどうなったのか、教えて下さい!」
しばらくの沈黙《ちんもく》があり、女は答えた。
「……殷雷? あの刀の宝貝か? ……奴《やつ》の事は忘れろ」
「どういう意味です!」
夜主は細く長い指で眉間《みけん》を押さえた。これから起きる事態を想像したのだ。
「私が、お前たちを襲《おそ》ったように、今度は、あの刀がお前を襲う。
死にたくなければ逃げろ」
「全然、意味が判りません。ちゃんと説明して下さい!」
和穂の気迫《きはく》が、夜主を動かす。
夜主は地面に座《すわ》り込んだ。
「長い話だ。本当に長い話だ。
こんな長話している間に、刀の兄ちゃんが戻《もど》ってきたらどうする?」
捜魂環が冷静に分析《ぶんせき》した。
「あと、五日は堪《た》えるでしょう。他の宝貝ならいざ知らず、武器の宝貝ならそれぐらいは抵抗できます。もう、だいぶ遠くまで行ってしまいましたし」
「結構《けっこう》、軟弱《なんじゃく》じゃないか。私は十日堪えたのに」
「夜主様は別格です。破格です。普通の人間の精神力なら、瞬《またた》き三回の時間も堪えられません」
「人を化《ば》け物扱《あつか》いするな」
和穂は焦《じ》れた。
「説明して下さい!」
夜主はたいぎそうに、座りなおした。
「判った、判った。航昇《こうしょう》に捕《つか》まるまでの経緯《けいい》は、捜魂環が説明してやれ」
*
「私は今言ったように、一度会った人間の居場所を、どんなに離れていても探《さぐ》り当てる宝貝です」
夜主が意地悪く、突っ込む。
「機能をすりかえるなよ。本当は、一度も会ってなくても、探せるはずなんだろ」
捜魂環は、不快そうに咳《せき》払いをした。
「ともかく、そこらへんの所で、欠陥《けっかん》宝貝として判断されたんでしょう。
しかし、私は欠陥宝貝を封じ込めた、封印《ふういん》の中で、新たな力に気がつきました。
意思を持つ宝貝は、本来の機能でも充分に探せますが、意思のない宝貝も探せるのですよ。
実は、宝貝という物は、製造者の魂《たましい》を微《かす》かに反響しているのです。
宝貝によって、反響の仕方が微妙《びみょう》に違うので、区別がつきます」
「ともかく、こいつは一度会った、人間と宝貝を探せるんだよ」
和穂は驚《おどろ》いた。
「だったら、全《すべ》ての宝貝の居場所が判るんですか? 封印から逃げた時は、全ての宝貝が一緒《いっしょ》だったはずだから」
ニヤニヤしながら、夜主は指輪をからかった。
「ところが、この捜魂環、逃げるのに必死で、他の宝貝を認識するのを、忘れてやがった」
指輪は慌《あわ》てて否定した。
「違います、一応、五、六個は認識しましたよ。だいたい七百からの宝貝を、瞬時に覚《おぼ》えられません。
封印の中で、出会った宝貝も、勿論《もちろん》認識してますが」
いつの間にか、夜主が説明の主導権を握っていった。
「で、この捜魂環は、俊地鞜《しゅんちとう》と共に私の前に現れたのだ」
女は自分の履《は》いている革靴《かわぐつ》を指差した。かなり頑丈《がんじょう》そうな作りの靴だ。
「この俊地鞜は、簡単に言えば、速く走れる宝貝だね。
武術の間合い調整や、踏み込みに使えるかと思えば、長時間にわたり、高速で走るのも可能、捜魂環よりよっぽど使える」
指輪は異議を唱《とな》えた。
「認められません。俊地鞜はあんな急激な動きから、使用者を全く守っていないんですよ。
こんな暴れ馬を操《あやつ》れるのは、夜主様の体力があっての話です」
指輪の意見は、簡単に無視された。
「ともかく、この二つの宝貝を手に入れた私は、他の宝貝もいただくと決めた。
宝貝は財宝なんかと比べ物にならない程、素晴《すば》らしい物だ。
銀を幾《いく》ら集めたところで、人を超える力は手に入らない。
で、捜魂環が探せる宝貝をいただこうとして、あっちこっちに忍び込んだんだが、相手も宝貝を持っているから、簡単には盗《ぬす》めなくてな」
「いまだに、私と俊地鞜しか、夜主様は持っていません」
「黙《だま》れ。で、航昇というガキが持っている、皮杯面《ひばいめん》をいただこうとしたんだが、不幸な失敗のせいで奴《やつ》に捕《つか》まった」
床《ゆか》を踏み抜き、欲の皮をつっぱらかせたせいだという具体的な失敗は、説明しない。
「それで、獣騎綱《じゅうきこう》という宝貝で体の自由を奪《うば》われて、夜主様は航昇の操り人形になったのです」
状況が和穂にも理解出来てきた。
「それじゃ殷雷は、その獣騎綱を使われているんですか?」
夜主は少し溜《た》め息を吐《つ》き、説明した。
「そうだ。操られていた私が説明してやる。
獣騎綱というのは、本来は獣《けもの》に着ける手綱《たづな》のような物だと思う。
本当は、一本の綱なんだろうけど、見た目は二つに切れている。
片方が相手の体内に入り、もう片方を持つ者の思い通りに操れるんだ。
私の知識も能力も、視覚も聴覚も全てあいつが好きなように使えた」
獣騎綱の意味を和穂は理解した。仙界に存在する、巨大な動物を操る為の手綱だ。
例《たと》えば、山ぐらいの大きさの、大鵬《たいほう》を乗りこなすには、動物の知覚を自分のものにする必要がある。
背中に乗って周囲を見ても、大鵬の背中しか見えない。頭に乗れば、背後は全く見えない。
一番の解決方法は、その動物の知覚を自分の知覚として、理解するのだ。
和穂は考え、龍華がなぜ獣騎綱を封印したかの理由も、勘《かん》づく。
これは動物を完全に自分の支配下に置く、つまり自由を完璧《かんぺき》に奪う宝貝なのだ。
束縛《そくばく》を嫌い、自由|奔放《ほんぽう》をよしとする、龍華の性格が、この宝貝を許すはずがない。
殷雷は、そんな宝貝に捕まったのだ。
愕然《がくぜん》とする和穂に、夜主が言った。
「獣騎綱で、私の自由を奪ってから、航昇は私に皮杯面を渡した。
捜魂環が、殻化宿《かくかしゅく》の居場所と機能を知っていたんで、私はここへやって来たんだ。
それからの事は、お前も知ってるだろ。
で、操っている航昇というガキなんだが、さっきまで『僕』と言っていた奴だ。
人の痛みの判らん、クソガキだ」
和穂の頭の中で、思考が空《から》回りを始めた。殷雷が敵として襲ってくるという事が理解出来ないのだ。
地面に手をつき、顔面を蒼白《そうはく》にする和穂に向かい、夜主は歩み寄った。
「てなわけで、私は宝貝収集が趣味《しゅみ》なわけだよ。砕《くだ》けた言い方をすれば、宝貝を盗んでいる。和穂。
お前の持っている宝貝を渡しな」
ずいずいと、夜主は和穂に近づく。
和穂は座《すわ》ったまま、後ずさりした。
殷雷の身を案じるどころか、自分の安全すら確保出来ない。
後ずさって、どうなるのか? 和穂は止まった。さらに近寄る夜主。
夜主はゆっくりと、和穂の顔に自分の顔を近づけ、苦悶《くもん》する表情を見つめた。
そして、ふいに笑いだす。
「と、言いたいところだが、私は他人に借りを作るのは嫌いでね。
あの刀には、本当だったら頭蓋《ずがい》を割られて殺されていた。
手加減《てかげん》されたと考えたら、むかつくが、まあいい。命を助けられた礼として、今、お前の宝貝を奪うのはやめておいてやる」
安堵《あんど》の息は、和穂の口からは出なかった。
殷雷が攻《せ》めてくる、私を殺しにやって来るのだ。
ちょいとばかり、哀《あわ》れんだ顔をして、夜主は和穂に言った。
「和穂。お前にも、水を貰《もら》った恩がある。
刀の兄ちゃんが来る前に、一緒《いっしょ》に逃げてやろう。俊地鞜の力があれば、地の果てにまで逃げられるぞ」
殷雷が攻めてくる、逃げて時間を稼《かせ》ぐ。
その間に他の宝貝を集めて……駄目《だめ》だ。
索具輪《さくぐりん》の精度が、落ちている。そう簡単に宝貝は集められない。
それに殷雷は紹興都《しょうこうと》で、梨乱《りらん》と合流《ごうりゅう》する事を知っている。
殷雷、いや航昇は梨乱を狙《ねら》う。
駄目だ。時間の余裕《よゆう》なんてない。
梨乱に危機を知らせるのは、可能かもしれないが、梨乱を危機から救っても、殷雷は他の人に危害を加えるだけだ。
殷雷を、なんとかして止めるしかない。
和穂は地面に転がる、真鋼《しんこう》の棍《こん》を見た。
殷雷の記憶を共有出来るなら、航昇もこの棍を欲しがるはずだ。
紹興都に行く途中、この場所に寄って、棍があるか調べるはずだ。
その時に、殷雷を止めるんだ。
だが、どうやって?
真剣に悩む和穂を尻目《しりめ》に、夜主は散らばっていた殻化宿の破片を拾《ひろ》い集めた。
「あぁ、もったいないね。私だったら、村人を助けるという交換条件でも出して、無傷で手に入れたのに。
私が思いついたって事は、航昇も判っていたはずなのにね。
奴は取り引きの時に、罠《わな》を仕掛けられるんじゃないかって、怯《おび》えたんだろうか」
和穂は夜主に言った。
「夜主さん、私に恩があると感じているのなら、殷雷を助ける為に力を貸して下さい」
「獣騎綱の呪縛《じゅばく》をどうやって解くんだ?」
和穂は答えに詰まった。だが、捜魂環は意見を述べる。
「殷雷刀は宝貝だから、方法はありますよ」
意外な言葉に、和穂は飛び上がって、夜主の手を握った。
「本当!」
「ええい、手を離せ」
捜魂環は説明を始めた。
「あくまでも、獣騎綱は生きているものを操る宝貝です。
本当は、宝貝を操れません。
殷雷刀は、人の形を取ることによって、人としての弱点も背負っているんですよ」
かつて殷雷が、似たような話をしたのを、和穂は思い出した。
「どういう意味なの?」
「簡単ですよ。宝貝の形に戻《もど》してやればいいんです。獣騎綱は、肉には食い込めますが、宝貝を構成する物質には、歯が立ちません」
夜主がパチリと指を鳴らした。
「で、刀の兄ちゃんが、元に戻ったら、今度は、和穂が獣騎綱に操られるってのはどうだい?」
捜魂環は冷静に言い返す。
「そんな安っぽい展開に、なるわけないでしょ。
武器の宝貝をなめてはいけません、獣騎綱が離れれば、すぐに人の形に戻って破壊《はかい》しますよ」
「じょ、冗談に決まっているだろ。
けどよ。宝貝って、そう簡単に形を外から変えられるのか?」
「気絶するだけの威力《いりょく》を与えれば、原形に戻ります。頭を殴《なぐ》るなり、心臓に衝撃《しょうげき》を与えるなり、みぞおちをつくなり。別に特殊な方法でなくても」
手段は見つかった。後はそれを実行するだけだ。
和穂は夜主に再び、頼む。
「夜主さん、力を貸して下さい!」
夜主は、口許《くちもと》を歪《ゆが》めた。
「嫌《いや》だね。お前には恩義を感じてはいるが、そこまでする程は感じていない。
自分の宝貝の始末ぐらい、自分でつけな。
それと、正直《しょうじき》に言えば、私の腕はあの刀の宝貝より劣《おと》っている。
私には気絶させるなんて芸当は無理だよ」
自分一人で、殷雷と戦うしかない。
和穂は決心したかった。だが、どうすれば殷雷に勝てるのか?
どうしようもない迷いが、和穂の中をのたうちまわった。
絶望的な思考は、ついに一つの呪《のろ》われた結論に到達した。
断縁獄《だんえんごく》の中には、殷雷を倒せる宝貝があった。
それを使うしかない。
和穂は震える指先で、断縁獄のふたを外《はず》した。
和穂の思い詰めた表情を、夜主は呑気《のんき》に見つめている。
ゆっくりと、和穂は叫ぶ。
「六身鎧《ろくしんがい》、愚断剣《ぐだんけん》」
一陣の風が巻き起こり、ひょうたんの中から黒い大剣と、異形《いぎょう》の鎧《よろい》が姿を現した。
黒く、とてつもなく大きく見える剣。遠近感を失うような、複雑な装飾が鞘《さや》にほどこされていた。
剣自体が呼吸をしているような、妙《みょう》な威圧《いあつ》感がある。
暗い銀色の鎧は、全部で六つの部分に分かれていた。
すなわち、両手、両足、胴と頭。
全《すべ》てを装着すれば、体全体を覆《おお》う事になるだろう。だが、頭だけは兜《かぶと》というよりは、仮面に近い。せいぜい、額《ひたい》と頬《ほお》の一部を隠《かく》す程度か。
どことなく、生身《なまみ》を思わせるような、滑《なめ》らかさが鎧にはあった。
生身は生身でも、人間とは全《まった》く異質の筋肉に覆われた、冥府《めいふ》の鬼神《きしん》のものだ。
二つの宝貝を見て、和穂は生唾《なまつば》を飲み込んだ。
かつて、この二つの宝貝を所持していた男は死んだ。
百万の苦痛と、一つの喜びを胸に。
和穂の肩ごしに、夜主が覗《のぞ》きこむ。
「へえ、これが、噂《うわさ》の六身鎧と愚断剣か?」
夜主がなぜ、宝貝の名前を知っているか、和穂には判らなかったが、捜魂環が知っていたのだろうと考えた。
「でも、和穂。この鎧はあんたの体には大きすぎるんじゃない?」
「着られるはずです。宝貝ですから」
「どれ、ちょっと貸してみな」
和穂の隙《すき》を突き、夜主は楽々と六身鎧の右腕を拾《ひろ》う。
慌《あわ》てて和穂は取り返そうとするが、夜主とて武術の心得《こころえ》がある。
そう簡単には返さない。
妹の菓子を取り上げて、からかう姉のように、夜主は立ち回り、ついには鎧を右腕に装着した。
和穂の言葉どおり、絡《から》みつくように、腕の大きさに合わされる。
「鎧を脱いで下さい!」
夜主は右腕を和穂の前に差し出す。
和穂は必死になり、鎧を外《はず》そうとした。
その隙に、今度は胴を拾い、これを着用しようとする。
だが、右腕をつかまれたまま、胴を着用するのは無理かと思った途端《とたん》、胴はグニャリと溶けだし、夜主の体の上で再び形を取り戻す。
「ほお、こりゃ便利だ」
「夜主さん、冗談はやめて!」
和穂の抵抗も虚《むな》しく、次から次へと鎧は奪《うば》われ、残すは頭部のみとなった。
その頭の鎧も、すでに夜主の手にあり、装着されるのを今か今かと待ち受けていた。
「駄目《だめ》です!」
夜主はゆっくりと、最後の鎧を装着した。
銀色の鎧は、準備完了とばかりに、一瞬《いっしゅん》光を放つ。
ピタリと夜主の動きが止まった。
和穂の体も、これから起きる事を予感して微動だにしない。
突然、爆発のような笑い声が、夜主の口から発せられた。
笑い声の気迫《きはく》だけでも、和穂は吹き飛びそうになる。
夜主は叫《さけ》ぶ。
「なんと強大な、この力!」
つかつかと愚断剣に近寄る夜主を、和穂は止めようとしたが、簡単に投げ飛ばされた。
軽々と大剣を持ち上げ、一気に抜き放つ。
「くうはっはっは。素晴《すば》らしい、何と素晴らしい力だ。
この鎧と剣がある限り、私は誰にも負けぬのだ!
私の行く手を阻《はば》むものは、もはやこの世には存在するまい!
我《われ》の邪魔《じゃま》をする者は、全てこの愚断剣が葬《ほうむ》りさってくれる!」
地面を転がっていた和穂は、体勢を立て直し、夜主の前に走った。
「夜主さん、やめて下さい」
夜主は片手で愚断剣を持ち、刃を和穂の首に当てた。
「どけい、私に指図《さしず》するとどうなるか、身をもって知れい!」
だが、冷たい刃を感じたが、和穂は動かない。
熱くたぎる破壊《はかい》の衝動《しょうどう》に取りつかれた夜主の目が、暗く光っていた。
和穂は全く、動じない。
首に刃を当てられたまま、沈黙《ちんもく》が周囲を支配した。
ふと、夜主は、歯をむいて笑った。
「と、普通の奴《やつ》はなっちゃうんだろうね」
その言葉を聞きつけた愚断剣は、途端《とたん》に刃を振動させた。
和穂の首から、愚断剣を離して、夜主は言った。
「愚断剣よ。お前の力の誘惑《ゆうわく》に、屈する私だとでも思ったか」
くるりと剣を回転させ、地面に突き刺す。
夜主は鎧《よろい》を外し始めた。
和穂は夜主に尋ねた。
「夜主さん、どうしてです?」
「悪かないが、こいつらは強力すぎる。こんなの持っていたら、人生に緊張《きんちょう》感がなくなってしまう」
ホッと息を吐く和穂の顔に、夜主の平手が飛んだ。
「お前は、これに頼《たよ》ろうとした。判っているのか?
お前はこの宝貝の恐ろしさを知っていて、頼ろうとした。
これを使えば、殷雷を倒せただろう。
そうだ、破壊出来ただろうよ。
そして、お前は力だけを頼りに、宝貝の回収を始めるようになる。
宝貝所持者を、片っ端から殺しながらだ。
それが悪いと、私は言わぬ。
だったら、最初っから、そうしたらいいんだよ。
お前が今まで、それをやらなかったのは、意地があったからじゃないのか?
善だ悪だなんて片腹痛いが、自分の意地を通せない奴は、嫌いだね」
夜主の言葉で和穂は目が覚めた気がした。
私は仙界に戻《もど》る為に、宝貝を集めているんではなかったのだ。
人に理不尽《りふじん》な不幸をもたらす可能性のある宝貝を、出来るだけ速《すみ》やかに回収するのが、自分の使命なのだ。
殷雷刀が、人を傷つけるのを防がなければならない。殷雷の為にも、自分の意思に反して人を傷つけさせる訳《わけ》にはいかない。
だが、自分のなんと無力な事か。
おし黙《だま》り、地面に爪《つめ》をたてる元仙人に、元女|盗賊《とうぞく》は声をかけた。
「和穂。お前は動揺してるんだよ。愚断剣に頼ったかと思えば、刃を向けられても、一向に怯《ひる》まなかったり。
私もちょっと言い過ぎたよ。
さあ、一緒《いっしょ》に逃げよう」
問題に立ち向かっている限り、そいつは無力ではない。
問題は、殷雷を止める事。止めるには、殷雷を原形に戻す必要がある。
原形に戻すには、殷雷を気絶させるほどの衝撃《しょうげき》を与えればいい。
それが出来る宝貝はない。
私は無力だ。
和穂の肩に、夜主が手を添えた。
和穂は考えた。
私は本当に、無力なのだろうか?
和穂は立ち上がった。
「夜主さん。
……私に炎応三手《えんおうさんしゅ》を教えて下さい」
二
夜主は髪の毛をかきあげた。
綺麗事《きれいごと》を言う奴《やつ》は大嫌いだ。世間知らずの裏返しで純真な奴も嫌いだ。馬鹿みたいに希望に燃えている奴も嫌いだ。
夜主は和穂の目を見た。こいつの事情はよく判《わか》っていた。
馬鹿みたいに希望に燃えているんじゃないだろう、目の前の絶望に立ち向かおうとする目か。
世間知らずの裏返しで純真なのか? そうかもしれないが、そういう奴は、ちょいと世間の厳《きび》しさにぶち当たれば、ひねくれてしまうだろう。
ならば、それとも違う。今まで宝貝《ぱおぺい》の回収はそんなに甘くはなかったはずだ。
綺麗事を言っているのか? 綺麗事で自分を鍛《きた》えろなんて言う奴はいない。
夜主は和穂の目を気にいった。
「和穂君。きみはもしかして、こう言いたいのかね?
殷雷を止めるには、正面からぶつかるしか手はない。
だが、自分には、それだけの力がない。
ふと横を見れば、美貌《びぼう》の炎応三手使いがいるじゃないか。
よし、では殷雷と渡り合えるように、鍛えていただこうかしら?
しかも五日で」
和穂はうなずいた。
「細かい部分は少し違いますが、そのとおりです。五日で教えて下さい」
「炎応三手をなめるな。五日程度で極《きわ》められるもんか!
だけど、五日でどこまで極められるかは、和穂次第だな」
捜魂環《そうこんかん》は、自分の耳を疑った。夜主は、五日で和穂を殷雷と戦えるように、仕込むつもりなのか。
「夜主様、無理ですよ」
「うるさいな。私は和穂と話しているんだ。
炎応三手ぐらい、幾《いく》らでも教えてやる。だが、忘れるな。
五日で学んだ技術で、殷雷と戦えるかは和穂次第なんだからな」
和穂の目には決意の光が灯《とも》っていた。
「覚悟《かくご》の上です」
「……時間がないから、しごくよ。
けど私は優しいから、勘弁《かんべん》してくれって言ったら、すぐに勘弁しちゃうからね」
つまり、甘えれば、適当にしか教えないのだと夜主はさとす。
捜魂環は言った。
「夜主様は、武器の宝貝を過小評価しているか、和穂を過大評価しています。
……もしかして、これを面白《おもしろ》い余興《よきょう》ぐらいにしか、考えてないんじゃないでしょうね」
「ズブの素人《しろうと》を、たった五日で、戦う為に生まれた宝貝とやり合えるように仕込むのよ。
最高の余興じゃないの」
夜主の言葉にも、和穂は怒《いか》りを覚えなかった。余興で終わらせるかどうかは、自分次第なのだから。
殻化宿《かくかしゅく》、皮杯面《ひばいめん》、愚断剣《ぐだんけん》、六身鎧《ろくしんがい》を断縁獄《だんえんごく》に収容し、和穂は動き易《やす》いように、上着を脱ぐ。
真鋼《しんこう》の棍《こん》は、夜主が持つ。和穂が、炎応三手の型を間違《まちが》えれば、それで叩《たた》くつもりなのだ。
*
「ではまず、炎応三手の基本形から教えようか。右足に体重をかけて、左足にはあまり体重をかけない。だいたい、七対三ぐらいだと考えな。
この下半身の形は、他の拳法《けんぽう》でも見られるんだ、炎応三手と言えば、上半身の構えに特徴《とくちょう》がある。
掌《てのひら》を顔に向け、腕は垂直に立てる。
掌の隙間《すきま》から、相手を見るってわけだ。
背中は少し猫背《ねこぜ》気味が良い。
この猫背が、炎応三手で一番重要な所なんだよ。
猫背は背中と腕の肉が、一番|緩《ゆる》んでいる状態と考えな。
攻撃の時は緩んだ状態から、最大限に力を入れるんだ。
構えてみな」
和穂は言われたように、構えてみた。細かな部分を、夜主は棍で押さえて修正した。
「それでいい。
その構えのまま二刻(四時間)ばかり動かずにいろ。
脱力したまま、その構えを崩《くず》すな」
疑問が浮かび、和穂は質問した。
「脱力すれば、構えは崩れます。矛盾《むじゅん》しています」
口答えにも取れる言葉だったが、夜主は怒《おこ》らなかった。
教えられるのではなく、学びとろうとする和穂の気迫《きはく》が、理解出来たからだ。
「そうだ、矛盾している。矛盾の意味を悟《さと》りな」
構えを構成する為には、絶対に必要な力の入れ場所がある。
そこにだけ、力を入れ、他の部分は脱力するんだと和穂は理解した。
彫像《ちょうぞう》から、無駄《むだ》な部分を省《はぶ》き、より洗練するように、和穂は自分の体から、脱力出来る部分を探していった。
夜主は大きく欠伸《あくび》をし、周囲を見回した。
ちょうど、寝転がれるぐらいの、大きな石が見える。
石に近寄り、棍を立て掛けて夜主は横になった。
和穂には聞こえないと思い、捜魂環に話しかける。
「随分《ずいぶん》、飲み込みがいいじゃないか。武術の心得《こころえ》があるんじゃないのか?」
「ないと思いますよ。ただ、師匠《ししょう》に、ものを学ぶ態度をたたき込まれてますからね」
「師匠? あの龍華とかいう奴《やつ》か」
「炎応三手を教えたりして、夜主様は、もしかして和穂の事が気にいったのですか? ああいう、素直な娘が困っているのを捨て置けない性格だったとか?」
「馬鹿をいえ。私はああいうふうに、必死にもがいている人間を見るのが好きなんだよ。
汗水|垂《た》らして御苦労じゃないか」
悪ぶった言い方だが、結局『一所《いっしょ》懸命《けんめい》な人間が好きだ』と言ってるのと同じじゃないかと、捜魂環は思ったが、口には出さなかった。
「捜魂環。私はしばらく眠るから、時間が来たら起こしてくれ」
「判りました」
*
時が流れ、夜主は起こされた。
棍を担《かつ》いで、和穂の前にまで行く。和穂の全身から汗が流れていたが、構えはだいぶ柔《やわ》らかくなっていた。
「よし、構えを解け」
途端《とたん》に、和穂は構えを解き、肺が裂けるような荒い息をつく。
和穂は凝《こ》り固まった、筋肉をほぐそうと、体を伸ばそうとした。
「伸ばすな。時間があれば、ゆっくりと体に構えを覚えさせるが、時間はない。
凝りとして、構えを覚えろ。
一番、体が痛む姿勢が、基本の構えだ。
それはそうと、食料の準備はあるのか?」
「……は、はい。断縁獄の中に」
「そうか。だったら、私は薪《たきぎ》でも拾《ひろ》ってきてやる。
さて、休憩《きゅうけい》は終わりだ。
今から、日没まで、さっきのように構えを続けろ」
体中が悲鳴《ひめい》を上げたが、和穂はひるまずに構えに入った。
夜主の輪郭《りんかく》がぶれ、俊地鞜《しゅんちとう》は彼女を湿原の中に点在する、森へと運んだ。
*
同じ頃、離れた湿原で殷雷《いんらい》はもがき苦しんでいた。
宝貝の狙《ねら》いは、すぐに判った。
自分の意思と、肉体の間に、食い込もうとしているのだ。
そして、操《あやつ》り人形のように、自分を操るつもりだ。
殷雷は必死になり、獣騎綱《じゅうきこう》を阻止《そし》しようとした。
純粋《じゅんすい》に精神力で、宝貝の侵攻を食い止めようとする。
押し返す事は出来なかったが、獣騎綱の動きを、止めているように見えた。
だが、見えない程、ゆっくりではあったが、獣騎綱は、忍び込んでいく。
耐えきれないと、殷雷には判っていたが、それでも抵抗を止《や》めるわけにはいかない。
殷雷の意思という領地が、着実に獣騎綱に奪《うば》われていく。
原形を現すための機能は、獣騎綱に真っ先に奪われた。
今、獣騎綱は、平衡《へいこう》感覚に狙いをつけていた。ゆっくりと、じわじわと獣騎綱は殷雷の自由を奪っていく。
長い、長い時が流れ、太陽が沈む頃、殷雷は地面に倒れた。
平衡感覚も、獣騎綱の支配下に置かれたからだ。
殷雷の長い髪が、地面に広がった。
土の匂《にお》いが、殷雷の鼻をくすぐる。
だが、ゆっくりと、その匂いも薄れていった。
獣騎綱は今度は嗅覚《きゅうかく》に狙いをつけていた。
長い、長い夜がやって来た。
さらに繰《く》り返される、昼と夜。
病《やまい》に伏せる虎《とら》のように、殷雷は低いうなり声を上げ続けた。
*
三日目の朝。
朝食の片付けを終わらせた和穂は、焚《た》き火から土瓶《どびん》を外《はず》し、湯飲みに茶を注《つ》ぐ。
いつもの自然な笑顔で湯飲みを差し出す。
「夜主さん、お茶をどうぞ」
地面に座《すわ》り込み、思いっきり不機嫌《ふきげん》な顔をして、夜主は湯飲みをふんだくる。
「あぁ、全然つまらねえな。
和穂、少しは弱音《よわね》を吐け。教えがいがないじゃないか」
「なに言ってるんですか。弱音を吐いてる暇《ひま》なんてありません。
そろそろ、基本の構え以外を教えてもらえませんか?」
「ああぁ。指図《さしず》をするな。今日から、ご期待通りに攻撃法を教えてやる。
そのうち、泣かせてやるからな。このままじゃ、私は親切なお姉さんになってしまうではないか」
夜主は、しごいているつもりだった。だが和穂は弱音を吐かない。
さすがの夜主も、体が壊《こわ》れるまで、しごくわけにはいかないので、不満が溜《た》まっているのだ。
茶を飲み干《ほ》し、夜主は一気に立ち上がり、上着を脱ぐ。
「炎応三手は、その名の通り、三種類の技《わざ》しかない。
攻撃の為の拳撃《けんげき》と、防御《ぼうぎょ》の為の払い、攻撃と防御の補助に使う、つかみ、だけ。
全部、手技だ。
この三つしかないんだよ。笑っちまうだろう。けど、笑ったら、ブッ殺す。
和穂が、万が一つに殷雷に勝つには、一撃必殺しかあるまい。
だから、拳撃しか教えない。
見てろよ、これが炎応三手、唯一《ゆいいつ》の打撃技だ!」
いざ、構えに入ろうとする夜主に、和穂は質問を投げ掛けた。
「夜主さん、殷雷と戦った時に、足技を使っていませんでしたか?」
「あれは、炎応三手の技じゃない。炎応三手の隙《すき》を補《おぎな》う為に、斬腿《ざんたい》という拳法の、足技も混《ま》ぜているんだ」
大きく、和穂はうなずく。
「そうですか」
はっきりさせておくべきだ、と考えた夜主は、石に腰掛けながら話した。
「炎応三手は馬鹿みたいに単純だ。
だがな、複雑な技ほど上等な技、なんて考えは捨てろ。
多くの技法が絡《から》み合った技より、単純明快な技の方が、応用が利《き》く……どうした?」
夜主の言葉をきき、和穂の口許《くちもと》がわずかに震えた。
和穂の顔から、笑顔が流れ落ちるように消えていき、目から、涙がこぼれた。
かつて仙人だった頃、龍華が今の夜主と同じような事を、語っていたのを思い出したのだ。
夜主と龍華の姿が、和穂の中で重なり、どうしようもない懐《なつ》かしさが込み上げた。
泣かす、泣かす、と騒《さわ》いでいた夜主だったが、いきなり和穂に泣かれて面食らう。
「なんだなんだ? 別に今は、泣く所じゃないだろう?」
涙をふきながら、和穂は照れ臭《くさ》そうに笑った。
「ごめんなさい。師匠《ししょう》も似たような事を、おっしゃってたのを思い出して」
喉《のど》を掻《か》きむしる仕種《しぐさ》で夜主は切り返す。
「おっしゃって、だとよ。捜魂環よ、笑っちまうな」
「別に。普通の敬語ですよ」
「本当にごめんなさい、夜主さん。何度も何度も、師匠みたいだなんて言ったりして」
鼻の頭をかき、夜主はボソリと言った。
「別に、炎応三手に関しては、私は和穂の師匠みたいなもんだから、師匠と呼んでも構わないが」
「いえ、師匠は師匠、夜主さんは夜主さんですから」
身に着けている宝貝との会話は、わざわざ声を出さなくても成立する。
夜主は、それがこそこそ話のような気がして、普通は声を使って、捜魂環と会話する。
だが、今は珍《めずら》しく、捜魂環に心で語りかけた。
『なんか、一所《いっしょ》懸命《けんめい》前妻の子供と仲良くなろうと必死になってるんだが、子供の悪気《わるぎ》のない一言《ひとこと》で、自分は本当の母親ではないのね、とうちひしがれる後妻の気分だ』
『何を訳《わけ》の判《わか》らない事を、おっしゃっているんですか。
夜主様のどこが、和穂と仲良くなろうと必死になっているんです』
『ん? お前まで、おっしゃってる、なんて言葉を使うのか』
『いいじゃないですか。私は夜主様を尊敬してるんですから』
『宝貝に好かれても、全然|嬉《うれ》しくない』
軽く咳《せき》払いをして夜主は構えに入った。
「無駄《むだ》話をしている暇《ひま》はなかったね。
拳撃の説明をする。
まず、基本の構えから、左足を半歩前に出して、体重を乗せる。
右手は、肘《ひじ》を脇腹《わきばら》をかすめるようにして、真後ろまで持ってくる。
真後ろに来た時には、肘関節が天を向くようにし、腕は真《ま》っ直《す》ぐにする。
左手は、拳《こぶし》を握りながら、伸ばせ。手の甲は垂直にしろ。甲が天を向く形は、炎応三手では使わない。
左手の肘関節は地面を向く。
胴体を少し回転させ、伸びきった両腕が一本の棒になる感じだ。
今言った動作を、同時に行う」
夜主は、説明のように拳撃を行った。
地面を踏み締める音が、ダダンと二重に響く。
「今の音は?」
「気にしなくていい。本当は、踏み込んだ足をねじるんだよ。
爪先《つまさき》で着地した時の音と、それから、足の指の付け根を、ねじりこみながら、踵《かかと》を着ける。この二つの音だ。
これは、ちょっとやそっとでは自分の物には出来ないから、無視していい。
これが出来て、初めて完全な拳撃だが、出来なくても七割程度の威力《いりょく》は出る。
やってみな」
和穂は見よう見まねでやってみた。
夜主は首を振る。
「動きがバラバラだ。もう一度」
大地を踏む、和穂の足音。
「駄目だ。小さな複数の動作を、正確に同時に行うんだ。もう一度」
繰《く》り返される、和穂の足音。
「駄目。考えすぎて、動きに勢いがないぞ。
動きを完全に覚えろ。だが覚えるのが、最終目的じゃないからな。
覚えたら威力の上げ方を、教えてやる。
拳撃の威力が弱けりゃ、殷雷に当たっても気絶はさせられんぞ」
何度も何度も、繰り返される和穂の拳撃。
そのつど、間違《まちが》いを指摘する夜主。
*
『殷雷刀よ。いい加減《かげん》にしてくれないか。僕《ぼく》は天呼筆《てんこひつ》に興味《きょうみ》を覚えたんだ。
殻化宿《かくかしゅく》の一件は済んだ話だから、許してあげる。
和穂は梨乱《りらん》に危機を伝えると思う。だが、そうなると厄介《やっかい》だから、和穂より先に梨乱を見つけるんだ』
『黙《だま》れ、黙れ、黙れ、黙れ』
『語彙《ごい》が、だいぶ貧相《ひんそう》になってきたね。
湿原なんて、金持ちの行く所じゃないが、他人の視覚を通じて見物するには、いい場所だ。
抵抗はやめなよ、殷雷刀。抵抗して、どうなるというんだい? 抵抗したから、助かる可能性が出るとは思っていまい。
そう、抵抗しても仕方がないと、きみはもう考えているんだよ。
なのに抵抗している。理不尽《りふじん》だ』
『黙れ、黙れ、ダマレ、ダマレ』
『ほお、だいぶ感情が薄れてきたようだな。夜主の時がそうだったが、感情が薄れたらすぐに獣騎綱《じゅうきこう》の手に落ちるよ。
明日の昼までには、お前は僕の宝貝になるんだ。
槍《やり》の宝貝は持っているんだが、刀の宝貝の切れ味ってのには興味があるね。
血は嫌いだけど、他人の視覚でだったら、少しは耐えられるからね。
さて、そろそろ太陽が沈むようだから、僕は失礼するよ』
『ダマレ、ダマレ、だまレ、だまれ』
*
五日目の日の出。
和穂が立ち上がる音で、夜主の目も、覚めた。和穂は黙って、服装を整えていた。
夜主は大きく欠伸《あくび》をし、脇《わき》に置いていた真鋼《しんこう》の棍《こん》を和穂に渡す。
「返しておくよ。捜魂環、殷雷はいつごろやって来る?」
「殷雷の現在位置から、ここに来るのには半刻もかかりますまい。
平均的な、武器の宝貝の精神力から考えても、あと一刻半か、遅くても昼過ぎには、この場所に到着します」
「おっかねえな。早く退散しよう」
和穂は夜主に礼を言った。
「夜主さん。いろいろと、ありがとうございました」
「礼には及ばん。借りを返しただけだ。
……本当に、私と一緒《いっしょ》に逃げなくてもいいんだな? 殷雷を止めようとするのも、あいつに対する思いやりなら、あいつに殺されないように逃げるのも、思いやりなんだぞ」
「判っています。でも、私が殷雷を止めなければ。
夜主さん、もう一つお願いがあるんです。
梨乱の居場所は、捜魂環で探《さが》せますね? 彼女に会って、紹興都《しょうこうと》や、この谷には戻《もど》らないように、伝えていただけませんか?」
夜主は低い声で答えた。
「嫌《いや》だね。面倒《めんどう》だ」
「……判りました」
「じゃあな」
くるりと、和穂に背を向け、夜主は走り出した。加速についてこられなかった血液が、体の背後に溜《た》まるが、時間が経《た》つとともに再び体の中を駆《か》け巡《めぐ》っていく。
目まぐるしく変わる、夜主の視界。
血液が順調に循環《じゅんかん》しはじめた頃には、視界から湿原らしさは消えていた。
捜魂環は、少し不安を覚えた。
「夜主様。少し湿原から離れすぎでは?」
「は?」
「とぼけても駄目ですよ。殷雷が和穂と戦って、隙《すき》を見せた所を割って入り、殷雷を倒すつもりなんでしょ? 判っていますよ。夜主様はそういう人です」
「馬鹿を言うな。あの刀とは戦わない。あんなのと戦ったら、命がいくつあっても助からないよ」
「では、和穂を見殺しに」
「和穂は、お前にとっての追手《おって》なんだろ? どうしてあいつの身を案じる」
「しかし、しかしですね。そうなると、和穂が殷雷に勝つ、と信じるしかないのですか」
「寝惚《ねぼ》けているのか? 和穂が殷雷に勝てるわけがないだろ。
確かに、和穂は飲み込みがいい。
あのまま、十年も修行《しゅぎょう》を積めば、私ぐらいの腕は身につけるだろ。
だが、だからどうした? たった五日、実質四日の鍛練《たんれん》で、一流の武術家でもある、刀の宝貝に勝てるはずがなかろう。
和穂が、殷雷に勝てたら、武術家は全員|廃業《はいぎょう》だ」
「いや、和穂を前にして、殷雷の動きが鈍《にぶ》るかも」
「獣騎綱に操《あやつ》られていた、私が断言しよう。そんな事は起こらない。
情だか、愛だか、しらないが、人はそれに頼りすぎる。
情は情、愛は愛。それに期待するな、それに頼るな。期待するから、裏切られる、頼るから裏切られる。
裏切られれば、それを否定してしまう。
何を自分勝手な。
情や愛は、自分から出すものだ。他人に出してもらおうなどと期待するな。
獣騎綱は、愛や情では止められない。止められるのなら、最初から自由を奪《うば》われはしないんだよ」
「夜主様の、ひねくれた人生観には興味ありません。
つまり、夜主様は、和穂を暇《ひま》つぶしに、もてあそんでいただけなのですね?
もてあそんで、最後に力を貸すなら、それも良いでしょう。
あなたは、和穂を見殺しにしようとしているんだ。
……見損ないましたよ」
答えずに、夜主は走り続けた。
三
航昇《こうしょう》は上機嫌《じょうきげん》だった。ついに殷雷刀《いんらいとう》を屈服させる事が出来たのだ。
今や、殷雷刀を自分の好きなように操《あやつ》れる。
殷雷の五感に、割り込み、ゆっくりと立ち上がらせた。
航昇は、特に殷雷の視覚を、気にいっていた。殷雷に比《くら》べたら、人間は泥水《どろみず》を通して世界を見ているようなものだ。
五感にとどまらず、知識や勘《かん》も自分の物として扱《あつか》えた。
しかも、痛みに通じるような強烈《きょうれつ》な感覚は、航昇までは届かない。
夜主《やしゅ》を操り、殷雷と戦った時も、夜主が痛がっているのは知ったが、航昇自身は、何の苦痛も感じていない。
簡単に言えば、殷雷という完全な鎧《よろい》に身を包んでいるようなものだ。
鎧が破壊《はかい》されても、自分には被害が及ばない。
早速《さっそく》、航昇は、かつて村があった場所に行ってみる事にした。
もしかしたら、真鋼《しんこう》の棍《こん》が残っているかもしれないのだ。
*
目をつぶり、五感を澄《す》まし、和穂は大の字になり、地面に横になっていた。
すぐに、殷雷がやって来る。
変な欲が出たら嫌《いや》なので、棍は断縁獄《だんえんごく》の中にしまった。
妙《みょう》に心は落ち着いていた。全力を尽《つ》くした充実《じゅうじつ》感を感じていたのだ。
なぜか、『泥《どろ》』には勝ったが、夜主の手で浮鉄《ふてつ》を沈められた、梨乱《りらん》の気持ちが和穂には判《わか》った。
充実感と敗北感が、梨乱の中にはあったのだろう。
努力したから、負けても仕方がない、とは梨乱は考えていないだろうし、私もそんな考え方は嫌だ。
充実感の後に、味わった敗北感。そこで立ち向かうのをやめれば、敗北感が残って全《すべ》ては終わる。
だが、立ち向かえば、再び充実感を得られるのだ。
これからも、失敗に立ち向かってやると、梨乱は言った。
立ち向かい、充実感を得ようと、動き続けていれば、その人は無力ではないんだ。
和穂は少し笑う。
充実感のあとに、勝利を得ても、やっぱり梨乱は、他に立ち向かう物を、探すんだろうな。
心地好《ここちよ》い、土の匂《にお》い。
心地好い、風の感覚。
そして大地を踏む、靴《くつ》の音。
和穂は立ち上がった。
殷雷がそこにいた。
「どうやら、僕《ぼく》にも運は残っていたようだ。棍どころか、和穂に会えたんだから。
色々と役立たずの宝貝《ぱおぺい》を、持っているらしいね。でも、その断縁獄と索具輪《さくぐりん》は便利そうだ。
渡してもらうよ」
これが殷雷なのかと、和穂は目を疑った。
外見は、髪型以外は変わっていない。いつも後頭部|辺《あた》りで括ったように束ねられてる髪が、ざんばらになっていた。
目には、普段からは信じられないような殺気《さっき》が漂《ただよ》っている。
だが、和穂は少し安心したような、複雑な気分になった。
これが、いつもと同じ雰囲気《ふんいき》の殷雷だったら、動揺して何も出来なかったかもしれない。
だが、この殷雷となら、戦える。
「殷雷。助けてあげるからね」
和穂は右足で大地を踏み締め、両方の掌《てのひら》を顔の前に持ち上げた。
炎応三手《えんおうさんしゅ》の構えを見て、殷雷は驚《おどろ》き、飛びすさった。
「なぜ、お前が炎応三手の構えをとる? お前には、武術の心得《こころえ》がないのではないか?」
「答える必要はないと思う」
殷雷の知識は、和穂の構えが見よう見まねの物ではないと、判断した。
しかし、自分にとって脅威《きょうい》となる可能性はほとんどない。
「また、下らん策を練《ね》っているんじゃ、あるまいな?」
「怖《こわ》いんだったら、殷雷を自由にしたら? そうしたら勘弁《かんべん》してあげるよ」
体は疲れ切っていた、だが心の中には高揚感《こうようかん》がある。
威圧《いあつ》するでもなく、あざけるのでもなく、柔《やわ》らかいが、とてつもなく強い気迫《きはく》が和穂の中に満ち溢《あふ》れていた。
弟子《でし》の気迫は、師匠の気迫に、酷似《こくじ》していた。龍華《りゅうか》の鋭《するど》く熱い眼光が、和穂の目にも宿っていた。
と、その時。殷雷が駆《か》けた。黒豹《ひょう》を思わせる、素早《すばや》い動きで和穂の間合いに入り、易々《やすやす》と腹を打つ。
様子《ようす》を見る為の攻撃だ。
そうでなければ、今の一撃で殺されていたと、和穂は理解した。ゆっくりと、だが抗《あらが》えない大きな力で、和穂の体は吹っ飛んでいった。
*
暗い部屋の中で、獣騎綱《じゅうきこう》の片割れを握りしめた航昇は、怒《いか》り狂った。
自分に対して、ハッタリをかました、和穂が許せなかったのだ。
たいして強くもないくせに、自分に歯向かう態度が気にくわない。
地面を転がった和穂は、ゆっくりと立ち上がり、再び両方の掌を顔の前に上げた。
航昇は残虐《ざんぎゃく》な笑みを浮かべ、殷雷の顔にも非道の笑みが浮かぶ。
いつまで、その構えがとれるかな?
*
何度も繰《く》り返される、殷雷の攻撃。
本気の殷雷の攻撃を、防御《ぼうぎょ》できるはずがなかった。
だが、和穂は殷雷の攻撃の幾《いく》らかは、腕で受け止めた。その度《たび》に、全身に強烈な衝撃《しょうげき》が走った。
なぶり殺しにするつもりか。
いかにも、そういう手段を取りそうだ。村に対する攻撃と本質は一緒《いっしょ》だ。
和穂の体に、傷はほとんどついていない。
ゆっくりと、骨をねじ折るような、重い攻撃を防御するには、全身の力でこちらも対抗しなければならない。
殷雷の極端に遅い拳は、炎応三手の防御法を知らない和穂でも、両手で、受け止められた。しかし、重い攻撃で痛むのは、手ではなく、重心を掛けている足のふくらはぎだ。
繊細《せんさい》なまでの注意深さで、体には傷をつけない。
かわりに、こそぎおとすように、体力を消耗《しょうもう》させていく。
自分の呼吸音だけが、頭の中に響き、意識が途切《とぎ》れだした。
体力がもたない。何とかして拳撃を殷雷の心臓に当てなければ。
*
和穂の視線を、殷雷は攻撃の前触れだと判断した。
予想される狙《ねら》いは、刀の宝貝に形を戻《もど》し、獣騎綱の呪縛《じゅばく》を解くこと。
今までの動きから判断して、和穂の力では宝貝に戻るような衝撃は生み出せない。
この状況で、攻撃の為に、力を使い果たせば、和穂は体力の消耗で倒れるだろう。
航昇は、殷雷の腕をダラリと垂《た》らせた。
「どうした? 和穂、打ってみな」
*
絶好の機会だ。
和穂の息が、さらに荒くなった。
だが、わざわざ、私に打てと言っているのは、攻撃が通用しないと思っているからなのだ。
通用しないという判断を下したのは、殷雷だ。
和穂は、絶望感に押しつぶされそうになった。息を吐き、和穂は考えた。
朦朧《もうろう》とした意識の中で、夜主《やしゅ》の言葉が蘇《よみがえ》った。
夜主は、自分には絶対出来ないと、あの踏み込みを説明していた。
爪先《つまさき》で着地し、さらに踵《かかと》で踏ん張り、勢いを増す。
出来るだろうか?
今の拳撃では通用しないのだ。
やるしかない。最後の一撃だ。
和穂は、残った力を全《すべ》て振り絞った。
左足を踏み込み、爪先が着地した。複雑な機械のように、体の各部分が、一つの拳撃という動きを作り上げる。
踵で踏ん張り、全身の血液が拳《こぶし》に凝縮《ぎょうしゅく》されたような、圧迫《あっぱく》感が生まれる。
和穂の拳が、殷雷の心臓を捉《とら》えた。
*
拳を放った和穂は、地面へと崩《くず》れ落ちていった。
航昇は言った。
「効《き》かないよ。無駄《むだ》な努力、御苦労様だったね。もう、力を使い果たして動けないんだろう?」
*
和穂の心をよぎる、虚脱感《きょだっかん》。
充実感の後の敗北感。
*
「色々と、手間をかけさせてくれたじゃないか。まず、その索具輪を渡してもらう」
殷雷はひざまずき、和穂の耳飾りに手を伸ばした。その時、声がした。
「航昇。和穂から離れな」
航昇は驚《おどろ》き、殷雷の髪の毛も逆立《さかだ》った。
声には聞き覚えがあった、夜主の声だ。
「や、夜主! お前も和穂の宝貝を狙《ねら》っていたのか? どこにいる!」
殷雷の五感と髪は、周囲の気配《けはい》に神経を集中した。だが、夜主の存在は感じられない。
「私の姿が見えないのかい?」
「隠伏《おんぷく》の術か? いや違う、隠伏の術を使いながら、しゃべるなど。
ぱ、宝貝の力か? 俊地鞜《しゅんちとう》と捜魂環《そうこんかん》以外にも宝貝を持っていたのか? そんな馬鹿な。お前の記憶には、そんなもの」
「だいぶ、和穂を、可愛《かわい》がってくれたようだね」
「こ、殺してはいないぞ。姿を現せ、卑怯《ひきょう》だぞ!」
「卑怯? なかなか、面白《おもしろ》い冗談を言ってくれるじゃないの」
うなじに、手の感触《かんしょく》を覚え、殷雷は振り向きながら飛びすさった。
しかし、誰《だれ》もいない。
「後ろよ。う、し、ろ」
背後から抱きつかれる感触。
耳元で、小さな呼吸音がしているのも感じられた。
殷雷は地面を転がる。
やはり、夜主の姿は見えない。
ふと、航昇は、怯《おび》える必要はないと、思い直した。
殷雷を倒されたところで、自分に被害はないのだ。
「コ、コソ泥め。脅《おど》かしやがって。お前が何をしようと、僕を傷つける事は不可能なんだよ」
「それはどうかしら?」
「無理だと言ってるだろ、お前は俺に指一本触れる事は出来ないんだ!
くそう、どこにいやがる!」
「殷雷、いくら探しても、私の姿は見えないよ。
航昇。自分の目で探したらどうだい?」
ゴクリと、航昇は生唾《なまつば》を飲み込んだ。
獣騎綱《じゅうきこう》を手に持ちながら、ゆっくりと殷雷の五感から離れる。
「航昇。う、し、ろ」
自分の聴覚を通し、夜主の声が聞こえた。
航昇は、振り返り、そこに恐怖《きょうふ》を見た。
夜主が立っていた。優しく微笑《ほほえ》む夜主。
航昇も、笑うしかない。
「な、殴《なぐ》ったりしないよね」
「航昇。私がお前に抱《いだ》く感情は、怒《いか》りというより哀《あわ》れみだよ。
馬鹿な親に育てられた、可哀《かわい》そうな子供にしか見えない」
「な、殴ったりしないよね。血を流さしたりしないよね」
「こう見えても、私は暴力が嫌いなんだよ」
「だ、だったら殴らないよね」
「航昇。あなたには、まっとうな大人《おとな》になって欲しいと、お姉さんは思う」
「なる、心を入れ換える。だから、殴ったりしないよね」
「性根《しょうね》を入れ換えるには、今しか機会はないだろうね。大人になっちゃ、手遅れだ」
「うん、反省する」
「嬉《うれ》しいな。お姉さんのお説教を、おとなしく聞いてくれるかな?」
「うん、聞くよ」
夜主は、指の骨をボキボキと鳴らした。
「お姉さん、結構《けっこう》口ベタでね。感情が昂《たかぶ》ったら、思わず手が出ちゃうかもしれない」
「すでに、昂ってたりして?」
両方の掌《てのひら》を、夜主は顔の前に持ち上げた。
「勘《かん》のいい子供だね。食らえ、怒りの拳! まずは、和穂の分」
拳撃が繰《く》り出されるが、航昇の寸前で止められた。
恐怖で、航昇は尻餅《しりもち》をつく。
「ひ、ひぃぃ」
「だが、和穂は仕返しを望むような娘じゃない。本当に反省しているな」
「ほ、本当です」
「そうか。ならば、これからは、人の痛みの判《わか》る人間になるんだよ」
夜主はクルリと背を向け、一陣の風とともに部屋から出ていった。夜主の巻き起こした風で、扉《とびら》がパタパタと揺れる。
恐怖で顔を引きつらせていた航昇であったが、夜主の姿が消えて、息をつく。
「あのババァ、間抜けにも獣騎綱を持っていくのを、忘れやがった。殷雷刀《いんらいとう》を使って、仕返ししてやる……?」
夜主がニッコリ笑って、姿を現した。
「実は、扉の陰《かげ》で様子を見てたりして」
「はっ!」
「誤解するなよ。ババァと言われて、怒り狂うほど、歳《とし》はくってない。
嘘《うそ》をついた航昇ちゃんが、ちょっぴり許せないのよ」
夜主は、最高の笑顔で航昇に歩み寄った。
屋敷に響き渡る、航昇の悲鳴《ひめい》。
破壊《はかい》された、震影槍《しんえいそう》と獣騎綱を持ち、夜主は大地を駆《か》けていた。
「夜主様。なかなか、えげつない事をなさりますな」
「構うか。一応、手加減《てかげん》はしてある。気絶したのは拳の衝撃《しょうげき》じゃなくて、自分の鼻血を見たからだ」
「そりゃ、そうかもしれませんけど、もともと、血を怖《こわ》がっていましたし」
「適切なお仕置きだ。ドクリドクリのベロンベロンだ。ざまあみやがれ」
「しかし、何だかんだ言って、夜主様は和穂を、気にいってたようですな」
「誤解するな。航昇にしてやられたままでいるわけにはいかなかったんだよ」
「そうですか? それにしては、この屋敷に到着する時間を気にしていたようですが」
「誤解だ。一刻も早く、航昇をぶんなぐってやりたかっただけなのだ。他に一切《いっさい》意味はないぞ」
「夜主様は、図星をさされると、すぐに固い口調になられますな」
「……うるさい宝貝だ。お前なんか、ひっぺがして海に捨ててやろうか?」
「そ、それだけは御|勘弁《かんべん》を。
それはそうと、そんな壊《こわ》れた宝貝をどうなさいます?」
「和穂たちに渡す」
「おやおや、お優しい事で」
夜主は、捜魂環を外《はず》そうと指輪に爪をかけた。
「この残骸《ざんがい》を渡して、あの殷雷とかいう、宝貝に恩を売っておくんだよ。
ついでに、お前もあいつらに返してやろうか?」
「お、お戯《たわむ》れを、夜主様、夜主様……」
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終 章
パキパキと、薪《たきぎ》のはぜる音が和穂の耳に響いた。空気はひんやりしていたが、心地好《ここちよ》い冷たさだ。
とてつもなく、長い時間、眠っていた気がする。
頭の芯《しん》が、少し痛かった。
横たわる和穂の体に、柔《やわ》らかく大きな布がかけてある。
和穂はゆっくりと、上体を起こした。
背中に強烈《きょうれつ》な筋肉痛を感じ、体をビクリとさせた。
左手には、湿布《しっぷ》と包帯がきつくまいてあった。
焚《た》き火の前では殷雷《いんらい》が、薪をくべていた。
既《すで》に日は落ち、焚き火の炎《ほのお》が殷雷の顔を赤く照らし出した。
殷雷は、今までに見た中で一番、不機嫌《ふきげん》そうな顔をしている。
和穂は、ゆっくりと口を開いた。
「私の拳が、奇跡《きせき》を生んだのね」
殷雷は和穂に振り向き、頬《ほお》を思いっきり引っ張った。
「ほお、お前はいつから、そんな冗談を飛ばせる身分になったんだ? あ? 夜主《やしゅ》に仕込まれて、性格も歪《ゆが》んだか?」
「痛い、痛いってば。? 殷雷がどうして、夜主さんの事を知っているの?」
「さっきまで、ここにいた。事情は全《すべ》て奴《やつ》から聞いた。
和穂、お前は囮《おとり》にされていたんだ。俺とお前が戦っている隙《すき》に、夜主が航昇《こうしょう》のクソガキをしばき倒したらしい」
「囮だなんて、夜主さんは、それほど悪い人じゃないよ。殷雷、その足元のは何?」
殷雷は、足元に転がる、二つの残骸《ざんがい》を和穂の前に差し出す。
「震影槍《しんえいそう》という、槍《やり》の宝貝《ぱおぺい》と、これが、にっくき獣騎綱《じゅうきこう》だ。航昇の持っていた宝貝らしいが、夜主が破壊《はかい》して、ここに持ってきた」
「ほら、やっぱり親切な人じゃない」
「お前は、グウスカ寝てたから、知らないんだ。奴が、どれだけ恩着せがましい態度をしてたか。
俺に頭を下げて礼を言えと、ほざきやがったんだぞ」
殷雷の、この不機嫌さから考えると、頭を下げて礼を言ったのだろう。
「でも、まあ良かったじゃない。殷雷も元に戻《もど》ったんだし」
「やかましい。お前は、自分が判断を間違《まちが》えたのに気がついているのか?
一番の策は、俺が獣騎綱に抵抗している間に、夜主の航昇に対する復讐《ふくしゅう》心をあおって、二人を対決させる、だ。
それが、どこをどうやったら、和穂が俺と戦うなんて作戦になる?」
「殷雷は私の手で、助けてあげたかった。間違った作戦だったかもしれないけど、私にはそうするしか」
「お前が力に頼《たよ》ってどうする? お前にあるのは、その貧相《ひんそう》なおつむだけだろ。力なんか貧相以下だ」
「貧相以下で悪かったね。
ね、殷雷も炎応三手《えんおうさんしゅ》は使えるの?」
「やろうと思えばな。だが、あんな応用の少ない田舎拳法《いなかけんぽう》なんざ、使ってたまるか」
「ね、ね、だったら、私に炎応三手を教えてちょうだい。基本は夜主さんに教えてもらったから」
殷雷は薪《たきぎ》を折り、炎の中に投げる。
「炎応三手は忘れろ」
「どうしてよ、せっかく覚えたのに」
「ふん。あれは、しょせん付け焼き刃だ。一か月もすれば、いやでも忘れる」
「そんなわけ、ないでしょ。あれだけ必死にやったんだから」
「いや、忘れる。構えを自分の血肉にするには、長い時間かかるんだ。
それまでの間、師が事細かに、構えの間違いを指摘《してき》するという、根気のいる作業が必要なのだ、普通はな。俺は宝貝だから、生まれつき体に染《し》み込んでいるが」
「忘れないよ。後ろ足が七に、前足が三でしょ」
「言葉で理解していた部分は、覚えていてもだ、感覚で覚えていた部分は、ちょっとした拍子《ひょうし》に忘れてしまう。一つでも忘れれば、全ては無意味になる」
「どうして、そんな意地悪するの? 教えてくれてもいいじゃない」
「中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な武術は、逆に自分を窮地《きゅうち》に追い込むんだよ」
殷雷の言うとおりだ。かじった程度の武術では、何の役にも立たない。
「判《わか》った。もう、炎応三手は使わない。
そうよね、危《あぶ》なくなったら、殷雷が守ってくれるし」
腕の太さはある薪を、殷雷は一気に二つに折った。もう一度二つにへし折り、薪は四つになる。
信じられない事に、殷雷はその束も二つにへし折った。
和穂の言葉に、どういう表情をするか悩んだ殷雷は、いつものように、怒《おこ》る事にした。
「やかましい! 他人に頼るんじゃねえ。くだらん話をしている暇《ひま》があるなら、寝てしまえ!」
かなりの時間、眠っていたはずだが、再び睡魔《すいま》が和穂を襲《おそ》っていた。
殷雷が元に戻った安心感で、今までの疲れが一気に出たのだ。
和穂は横たわり、布にくるまった。
「そうね。じゃ、おやすみ殷雷。……そういや、最近、蚊《か》が出ないね?」
「いい加減《かげん》、秋も深まってきたからな。じきに冬が来る。
梨乱《りらん》たちと会ったら、紹興都《しょうこうと》で冬の準備を整えねばなるまい。
断縁獄《だんえんごく》があるから、少しぐらいかさばっても問題はないが……」
殷雷の言葉が終わる頃には、和穂は深い眠りに落ちていった。
殷雷はまだ、薪をくべつつ一人でイライラとしていた。
夜主に対しても腹を立てていたが、それよりも大きな問題があった。
航昇に操《あやつ》られていたとはいえ、和穂を殴《なぐ》った事を謝《あやま》りたかったのだが、なかなか言い出す機会がなかったのだ。
夜が更《ふ》けるまで、殷雷はバキバキ、バキバキと薪を折り続けた。
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あとがき
「おぉ! 見たまえ、聡明《そうめい》なる我《わ》が姪《めい》、ジュベッタよ。これこそが、封仙娘娘追宝録三巻に他ならぬのだ!」
「まあ! なんという事でしょう、親愛なるサバラン叔父《おじ》様。
私はもう、あまりのショックに気を失ってしまいそうですわ」
「気を失うのなら、この叔父|自《みずか》らが受け止めてあげよう。
だが、お前の黒メノウのような瞳《ひとみ》が、まぶたの裏に姿を隠《かく》している間にも、貴重《きちょう》な時は流れていく、さながら砂金を詰め込まれた砂時計のように、かけがえのない時は無情にも過ぎ行くのだ!」
「あぁ! セーヌの流れを誰《だれ》に止められましょう! 空に輝く月でさえも、刻一刻《こくいっこく》と天を歩んでいくのですね!」
「そう、まさしくそのとおりなのだ! ジュベッタよ。(中断)」
……予定しておりました『妙に大袈裟《おおげさ》な、中世貴族風あとがき』は、企画倒れの可能性が強い為《ため》、中止します。
そんな理由で、今回のあとがきは、雑録風にやってみます。
『盆《ぼん》と正月』
おかげさまで、封仙娘娘追宝録が一周年を迎《むか》えた。めでたい、めでたい。
だいたい、盆と正月に発売するというペースになっていて、これまた、めでたい感じがする。(盆は別に、めでたくないか)
『仙台xX』
友人たちとガメラ2を観《み》に行く。これがまた、面白《おもしろ》いのなんの。
あまりの面白さに二度ばかり、椅子《いす》から転げ落ちそうになる。
まだ観てない人の為に詳《くわ》しい説明はしないが、友人の「か、亀《かめ》じゃねえ!」という言葉が、全《すべ》てを物語っているであろう。
たぶん制作されるだろう、ガメラ3が今から楽しみである。
ガメラ3か。渋《しぶ》い役で、大村崑が復活しても面白そうだな。うむ、アキオとトムが復活しても良い。だが平和星人だけは勘弁《かんべん》な。(注。平和星人とは、平和星からやって来た、平和の使者だ。それはそれで結構《けっこう》な話なのだが、純白《じゅんぱく》の全身タイツに紅蓮《ぐれん》の手袋、首にマフラー、背中にマントという恰好《かっこう》では、人類の共感は得られないと思うぞ。昔のガメラに出ていた)
『S女史ふたたび』
S女史の話である。前巻のあとがきで、あんな事を書いてしまったので、周囲から「やーい、六十年代生まれ」と、いぢめられているそうだ。
あぁ、なんてこったい。私のせいで、罪《つみ》のないS女史に迷惑《めいわく》がかかってしまうなんて。
自分のしでかした過《あやま》ちに、心を傷めていると、S女史からインタビューの申し込みがあった。
S女史は、あんな失礼をぶちかました私に仕事を持ってきてくれたのだ。まさに天使のような女性である。
インタビューの内容は、お勧《すす》めのマンガを教えて下さい、というものだった。
私は『マックスウェルの悪代官』を勧めたのだが、古いマンガなので手に入りにくいそうだ。やむなく、他のマンガを推薦《すいせん》した。
後日、インタビューの原稿が到着した。
ふむふむ、マックスウェルの悪代官を勧めた所から始まってるな……? 何か妙だぞ……! あ! マックスウェルの悪大[#「大」に傍点]官になっているぞ! (ここで声の調子が、いぢわるバアさん口調になると思いねえ)ちょっと奥さん聞きました? 悪大[#「大」に傍点]官ですぜ、悪大[#「大」に傍点]官。
悪大[#「大」に傍点]官か。何か、大魔神とでも互角《ごかく》に戦えそうですな。いやあ、強そう強そう。
『拳《こぶし》』
唐突《とうとつ》だが、太極拳《たいきょくけん》を習い始めた。
練習前のストレッチでへロヘロになり、自分の体の鈍《にぶ》り具合に愕然《がくぜん》とする。
そういや、担当のY氏は合気道をやってるそうだが、いずれは拳を交《まじ》える事になるかもしれない。交えてどうするんだ、という気もするが。
四巻が出る頃には、手から怪光線が出るようになってるだろう。乞《こ》うご期待。
『八甲田山、死の彷徨《ほうこう》』
私は冷房に弱い。冷房の利《き》いた部屋にいると、体がダルくなる、という話はよく聞くがそういうのとは、ちょいと違う。
不快感はなく、強烈《きょうれつ》に眠くなるのだ。
このままでは、原稿が手につかない、仕方がない、三十分程仮眠を取ろう! と仮眠を取って目が覚めたら、五時間経過していたりする。
あまりのショックに気絶して、気がついたら六時間経過、爽《さわ》やかな朝になっていた。
これは、世界征服を企《たくら》む悪の組織が、家のクーラーに睡眠薬を仕掛けたからに違いない! と馬鹿な事を考えても、失われた十一時間は返ってこない。
ひいぃ、今夜は冷房を切って徹夜だ。
『ではまた』
そんなこんなで、紙数も尽《つ》きた。四巻のあとがきで、またお会いしましょう。
……ふう。悪大[#「大」に傍点]官。
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》3 泥《どろ》を操《あやつ》るいくじなし
平成8年9月25日 初版発行
著者――ろくごまるに