封仙娘娘追宝録2 嵐を招く道士たち
ろくごまるに
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目次
序 章『雨の主《あるじ》』
第一章『二人の道士』
第二章『少しだけ仙界』
第三章『道士の決闘《けっとう》』
終 章
あとがき
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序 章『雨の主《あるじ》』
一
和穂《かずほ》は嵐《あらし》の中を、駆《か》けていた。
雨が顔を打ち、目を開けているのが辛《つら》かったが、まさか目をつぶって走るわけにもいかなかった。
腰《こし》にまで届きそうな草が生える草原は、風を受けて海原のようにうねっていた。
嵐の中、辺《あた》りは暗く、和穂は前を走っている殷雷《いんらい》の背中と、彼の黒く長い髪《かみ》を確認するのがやっとだ。
心臓が高鳴り、肺が破裂《はれつ》しそうになるが、そんな事は言ってられなかった。
殷雷がちらりと、後ろを振り返り、鷹《たか》や鷲《わし》を思わせる、猛禽類《もうきんるい》のような目で和穂の姿を見た。
「和穂、遅《おく》れるな!」
「判《わか》っている!」
和穂は必死になって息を絞《しぼ》り声を出した。
遠くで雷《かみなり》が鳴った。
標的は近い、和穂は自分を励《はげ》ました。
嵐が一段と強くなっていく。それは標的に近づいている証拠《しょうこ》だ。
この嵐は宝貝《ぱおぺい》によって巻き起こされているはずだった。
ほんのしばらく前までは、今からは考えられないような快晴だったのだ。
それが、どんな夕立《ゆうだち》よりも素早《すばや》く、天気は変わっていった。
殷雷は面白《おもしろ》そうに叫《さけ》んだ。
「さすがは雨師《うし》だ。せいぜい悪《わる》あがきするんだな!」
雨乞《あまご》い専門の道士を『雨師』と呼ぶ。和穂と殷雷は、雨師を追跡《ついせき》していた。
何故《なぜ》なら、その雨師は宝貝の所持者だからである。
この嵐は雨師が巻き起こしたのだ。
*
その鋭《するど》い目付きと、男にしては長い髪を除けば、普通にたたずんでいる限り、殷雷は平凡《へいぼん》な青年に見えたであろう。
だが、一度動き出せば、その中肉|中背《ちゅうぜい》の姿からは信じられない力が引き出される。
草原を疾走《しっそう》する殷雷の足は、力強く大地を蹴《け》っていた。
戦いだけを目的に練《ね》り上げられた、戦士の肉体だ。
殷雷の体を覆《おお》う、袖付《そでつ》きの黒く長い外套《がいとう》と相まって、草原を駆《か》ける姿は、獲物を追い詰めていく黒豹を思わせた。
左手には彼の武器である、細い棍《こん》が握《にぎ》られていた。銀色に光る、金属性の棍だ。
殷雷の身長ぐらいはある棍だが、よほど手に慣れているらしく、走っていても全く邪魔《じゃま》になっていない。
殷雷は、再び後ろの和穂に声をかけた。
「和穂、もうちょっと速く走れ!」
『無茶を言わないで』と、和穂は叫びたかったが、弱音《よわね》を吐《は》くのは嫌《いや》だった。
走り、跳《は》ね、戦うのが天分の殷雷と違《ちが》い、和穂は見た目のままの、十五歳の娘だった。
歳相応《としそうおう》のあどけなさが残る顔に、多少|不釣《ふつ》り合いだが、意思の強さを表すような太い眉《まゆ》が乗っていた。
走り疲れ、真っ赤になっていた頬《ほお》は雨に濡《ぬ》れて元の肌色《はだいろ》を取り戻してゆく。
白い道服《どうふく》を身にまとい、腰のところには一つのひょうたんが括《くく》りつけられていた。
柔《やわ》らかく結ばれた黒髪と一緒《いっしょ》に、このひょうたんも走りに合わせて飛び跳ねていた。
そういえば、前にも一度、こんな激しい嵐の中を駆け巡《めぐ》ったな、と和穂は思い出した。
まだ、半年も経《た》っていないはずだが、ずいぶん昔のような感じがする。
そうだ、あの時は今の何倍、何十倍も速く走れたんだ。
破裂しそうな心臓の苦しみもなかった。
腰につけたひょうたんも、断縁獄《だんえんごく》ではなく四海獄《しかいごく》だった。
あの時は、単純なものだったが仙術を使えたのだ。
空は飛べなかったが、風のように地面を駆けられた。雨なんかに体を濡らさずに、嵐の中に入れた。
天を覆い尽くす炎《ほのお》の網《あみ》が張れた。龍《りゅう》すら気絶させる雷玉が撃《う》てた。
それに比《くら》べて、今は、濡れ鼠《ねずみ》のようになり死にものぐるいになっても、この程度の速度でしか走れない。
言いようのない、悔《くや》しさが和穂の心を覆っていった。自分はなんと無力なのだろうか。
殷雷が少し速度を落とし、和穂の横に並んで、彼女の顔を覗《のぞ》き込んだ。
和穂は慌《あわ》てて、足を速めた。過去を振り返っている暇《ひま》なんかないのだ。
今は一刻でも早く宝貝を回収しなければならない。
殷雷はひょいと、和穂の腰に手を回し、軽々と小脇《こわき》に抱《かか》え込んだ。
辛そうに走る、和穂の姿を見かねたのであろうか。
和穂は殷雷に言った。
「ありがとう、殷雷」
殷雷は、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ面倒臭《めんどうくさ》そうに言い返す。
「勘違《かんちが》いするなよ、そんなにゆっくり走られちゃ、奴《やつ》を逃がしちまうだろ」
雨でもつれた前髪をかきあげて、和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「うん。……でも、やっぱりありがとう」
「やかましい、礼を言われる筋合いはないと言ってるだろうが。和穂、お前に楽をさせるつもりはないぜ」
殷雷は和穂を背負うように、自分の背中に回した。
「和穂、両手を俺《おれ》の肩《かた》にかけて、しっかりとつかまれ。振り落とされても知らんからな」
「え?」
和穂が答えを返す間《ま》もなく、殷雷は全力で走り出した。
おぶさっているのでも何でもない、只、疾走《しっそう》する殷雷の首ねっこにかじりついているだけなのだ。
和穂は自分の全体重を、両手で支える形になった。暴れ馬に鞍《くら》を付けずに乗るよりも、たちが悪い。
「わ、わ、殷雷ちょっと!」
「喋《しゃべ》ると、舌を噛《か》むぞ」
殷雷は雷雨《らいう》の中を駆けていった。
その長い黒髪と外套と、ついでに和穂をなびかせて。
二
迫《せま》り来る追跡者《ついせきしゃ》に、雨師《うし》は恐怖《きょうふ》した。
雨師の顔を濡《ぬ》らすのは、雨だけではなく、恐怖の脂汗《あぶらあせ》でもあった。
わざわざ雨を降らせたのは、相手の位置を探《さぐ》る為《ため》であった。
彼の持つ宝貝《ぱおぺい》、天呼筆《てんこひつ》は、自在に天候を操《あやつ》った。
自然すら自由に操る道具、仙術の粋《すい》を集めて造られた、人間界にあってはならぬ秘宝、すなわち宝貝。そのうちの一つだ。
この雨は只《ただ》の雨ではない。宝貝を使ったとはいえ、雨師が自《みずか》ら命じて降らせた雨だ。
彼はこの雨の主であった。
雨を手足のように扱《あつか》うのは、不可能だったが、雨が触れたものは、彼自身の皮膚《ひふ》感覚として知覚出来た。
髪《かみ》の毛の中をはいずりまわる虫の位置を知るように、雨師は和穂《かずほ》と殷雷《いんらい》の動きを正確に察知《さつち》した。
雨師は駆《か》けながら苦々《にがにが》しくつぶやく。
「和穂に殷雷刀だと。本当に実在したのか。しかもよりによって何故《なぜ》、俺が狙《ねら》われなければならぬ!」
死の恐怖に歪《ゆが》む顔、心労の為《ため》に急に増《ふ》えた白髪混《しらがま》じりの髪を掻《か》きむしった。
疲れが彼の顔を十も老《ふ》けて見せていた。
だが、確実に追跡者は忍《しの》び寄ってくる。だんだんと速度を上げて、真っ直《す》ぐに真っ直ぐに。
走る途中で、ふと雨師の足が絡《から》まった。
雨の主たる雨師が雨に足を取られるはずがない。これは純粋な疲労の為であった。
草むらに転げ、両手をつく。
ぜいぜいと息を吐く。ざざざ、ざざざと規則正しい足音が、草を分けて走ってくる。
雨師の脳裏に、子供の頃の恐怖が蘇《よみがえ》ってきた。
彼は小さい頃、海でおぼれかけた。
砂浜で遊んでいた彼は、急に波が引くのを見た。海岸線を眺《なが》めると、大きな波が迫ってきた。
恐れた彼は逃げようとした。波はまだ遠く、逃げられるような気がした。
だが、違った。
砂浜で見てから、逃げられるような津波などない。
波は彼よりも遥《はる》かに速く移動する。
逃げるだけ無駄《むだ》。
絶望と共に、刻み込まれた記憶《きおく》だ。記憶は鮮明《せんめい》に浮かび上がった。
追っ手は自分より速く動きだした。疲労とはまた別の感覚、恐怖が彼の心臓を締《し》めつけた。
彼は硬直《こうちょく》したまま、動けない。
ぎざぎざざざ。殷雷の足音が、あの夏の日の波音と重なっていく。
ざ、ざ、ざ、ざ、ざ、ずぁ、ずぁ、ずぁぁぁ、ずぁぁぁぁん。ずぁぁぁん。
岩に当たり砕ける波頭《なみがしら》の幻《まぼろし》が見えた。途端《とたん》、波頭が紅《くれない》に染まった。波の中に彼はいた、波の中で彼は岩に叩《たた》きつけられた。
足音が止まった。
雨は彼の背後に立つ者を触《さわ》る。
振り向けばそこに恐怖があるのだ。
だが、振り向かずにはいられない。
雨師はゆっくりと振り返った。
殷雷が片手に棍《こん》を握《にぎ》り、その鋭《するど》い目で雨師を見下ろしていた。唾《つば》を飲む、雨師。
その時、どさりと何かが落ちる音がした。
「い、殷雷、ちょっとは加減《かげん》してよ。目、目が回った」
和穂が、殷雷の背中から滑《すべ》り落ちたのだ。
「弱音《よわね》を吐いてんじゃねえ」
腰《こし》を抜かしたように、地面に座《すわ》りこむ和穂は慌《あわ》てて口を押さえた。
「あ、いけない」
雨師は息を荒《あら》げ、恐怖を少しでも紛《まぎ》らわすためか、大声で叫《さけ》んだ。
「お前らが和穂と殷雷刀か!」
和穂たちは雨師の言葉に意表を突かれた。何故、この男は自分たちの名前を知っているのだろうか?
気の短い殷雷が先に叫ぶ。
「ほお、どうして俺たちの名を知っているんだ? 雨師さんよ」
恐怖の為に薄《うす》ら笑いを浮かべ、答えが返ってきた。
「知っている、知っているともさ。龍華《りゅうか》という仙人は、自分の造った欠陥《けっかん》宝貝を封印していた。その封印をうっかり破り、人間界に宝貝をばらまいた間抜けな弟子《でし》の、和穂。
それに自分も封印されていた欠陥宝貝のくせに、仲間を裏切り和穂に手を貸す殷雷刀だろうが?」
かったるそうに、殷雷は首を鳴らす。
「誰が裏切り者だ。確かに俺も封印されていた口だが、あいつらとは仲間でもなんでもないぜ。あいつらに同胞《どうほう》意識なんてものがあるのかね」
雨師に殷雷の声は届いていない。まるでうわごとのように、言葉を垂《た》れ流し続けた。
「知っている、知っている。和穂、お前は自分の不手際《ふてぎわ》でばらまいた宝貝、七百二十六個を回収する為に、仙術を封じられて仙界から人間界に落とされているんだ」
さすがに殷雷も眉をしかめた。
「おい、お前は知りすぎているぞ、どうしてそこまで知っている! 近づいただけで急に逃げ出したから怪《あや》しいと思っていたが、いったい誰にきいた?」
「へへへ。もっと知っているぞ。
殷雷刀以外にも、宝貝の居場所を調べる耳飾《みみかざ》りの宝貝、索具輪《さくぐりん》と、中に吸い込んだ物を紹興酒《しょうこうしゅ》にしてしまう、ひょうたんの宝貝、断縁獄《だんえんごく》を持っているんだ」
和穂が言葉をはさむ。
「あの、ちょっと違います。断縁獄は吸い込んだ物を紹興酒になんかしません」
殷雷は意地悪く笑い、言葉を続けた。
「そう、老酒《らおちゅう》にしちまうんだ」
雨師の顔が恐怖にひきつる。和穂が慌ててたしなめた。
「ちょっと殷雷!」
「さ、酒になどされてたまるか!」
死への恐怖からか、雨師は信じられないような跳躍《ちょうやく》を果たした。
殷雷との間合いを開け、飛びすさりながら道服独特の、ゆったりとした袖《そで》から古ぼけた筆を取り出す。
「このまま、むざむざ殺されはせんぞ、天呼筆《てんこひつ》の力を思い知れ!」
天呼筆が空中に文字を描きだす。
殷雷は素早《すばや》く状況を判断した。
この間合いで、棍を使い天呼筆だけを叩き落とすのは、勢いの都合《つごう》で不可能だ。
発動前の天呼筆を叩き落とすように、棍を滑らせれば、衝撃波が生じて雨師の体は崩《くず》れて弾《はじ》け、辺りは血の海になるだろう。
さて、ちょいと困った。
宝貝を持っている、という理由だけで、相手を問答無用《もんどうむよう》で叩き殺すというのも芸が無い。
が、綺麗事《きれいごと》を言って、倒されるわけにもいかない。
では天呼筆を使って、雨師は何をしようというのだろうか?
ま、恐らくあれだろう。天呼筆とか言うぐらいだから、雨を降らせるだけの宝貝とは考えにくい。
うむ。やっぱしあれだ。
殷雷は変化を解いた。
軽い爆発音と共に、殷雷の体が刀へと変容していく。体を包む外套《がいとう》はそのまま鞘《さや》へと変わっていく。
天呼筆はさらに文字を描く。殷雷も刀に変わりながら、和穂の手元に近寄った。
天呼筆が文字を書き上げた。
殷雷刀は和穂の手に自分の柄《つか》を握らせた。
文字が光りだす。
文字は瞬時《しゅんじ》に天へと駆《か》け昇った。
*
天からの稲妻《いなずま》が和穂を撃った。
雨師は狂ったように、何度も何度も、天呼筆を使い、稲妻を呼び、和穂を撃ち続けた。
いかに殺されるという恐怖があったとはいえ、人を殺した罪悪感に雨師は押しつぶされそうになった。
その罪悪感を打ち消す為に、雨師は何度も何度も稲妻を呼んだ。
何も考えたくなかった。
雨師は一撃で人間を黒こげに出来る稲妻を落とし続けた。まるで、死体さえ消せば、自分の罪が消えてなくなると信じているようであった。
稲妻が水を蒸発させ、独特の青い匂《にお》いが周囲にただよう。
熱い鉄板に水を滴《したた》らせれば、水蒸気となるように、霧《きり》のような煙《けむり》が立ち込めた。
どれだけの稲妻を落としたのだろうか、雨師はやっと天呼筆の動きを止め、宝貝をしまった。
ゆっくりと水蒸気の煙も消えていく。
これで全《すべ》てが終わったはずだ。
雨はまだ降っていた。
わざわざ雨を止める気力も無かった。
このままにしておいても、日没までには雨はやむ。
雨師が溜《た》め息《いき》をついた時、雨が何かに触った。
人の形をした何かに触る。
雨師は死体を粉砕《ふんさい》出来なかったと考えて、ぞくりとした。
悪夢の中の霧のように、なかなか水蒸気の煙は消え去らない。
代《か》わりに、雨が正確に煙の中のものの形を知らせた。
小柄《こがら》な人間だ。和穂の死体だろうか。
死体は直立したまま、煙の中にいた。
「い、殷雷はどこにいる!」
雨師は慌てて、周囲を見回すが、殷雷の姿はどこにも見当たらない。この嵐の中で、雨に触れない場所などあるはずがない。
雨は殷雷の姿を見失っていた。
「刀に姿を戻したか、何をたくらんでいる」
雨師の耳に話し声が聞こえた。
「あぁ、びっくりした」
「雷《かみなり》の直撃をくらいかけて気絶しないだけでも、えらい度胸《どきょう》だと俺は思うぞ」
声は両方、和穂の声だった。雨師には状況が判《わか》らない。
ただ、ひとつ確実なのは、和穂は死んではいない。
「ちょっと殷雷、いちいち声を出してしゃべらないでよ。独《ひと》り言《ごと》を言ってるみたいじゃない」
水蒸気の煙が完全に晴れた。
煙の中から和穂が現れた。その右手には刀が握られていた。左手には鞘を持つ。足元には殷雷の棍が転がっていた。
和穂は片手の刀をポイと空中に投げる。
刀は不自然な回転を行いながら、やがて弾けた。
途端に殷雷刀は人の形をとった。
和穂から鞘を受け取りながら、殷雷は雨師にすごむ。
「別に驚かんでもいい。殷雷刀の名は伊達《だて》ではないんでね。
自由自在に雷を操るってわけにはいかないが、自分に落ちてくる稲妻を逸《そ》らすぐらいは出来るのさ」
殷雷が鞘《さや》をねじると、まるで固まった布がほぐれるように黒の外套へと形が変わっていった。
殷雷は言葉を続けた。
「もっとも、雷じゃなくて、竜巻《たつまき》やかまいたちでも作られれば、困ったんだがね」
雨師はハッと我《われ》に返り、袖《そで》から天呼筆を取り出そうとした。
天呼筆を使えば、暴風雨の応用で、かまいたちを作れたはずだった。
口の端《はし》を歪《ゆが》めて、殷雷は言った。
「これを探しているのか?」
その手には天呼筆が握られていた。
「同じ切り札は二度、使えないぜ」
雨師の道服の袖はいつの間にか、小さく切り裂かれていた。
半《なか》ば顔を背《そむ》けながら、稲妻を撃った後、天呼筆は袖に戻したはずだ。
あの煙の中で殷雷刀は、ゆらりと跳《は》ね、天呼筆を奪い去っていたのだ。
殷雷は指をパチリと鳴らし、天呼筆を宙に放り投げた。
和穂は素早く、腰の断縁獄《だんえんごく》を抜き、フタを開け、呼ぶ。
「天呼筆!」
一陣《いちじん》の風が巻き起こり、天呼筆は断縁獄の中に消えた。
和穂はゆっくりとフタを閉めた。
殷雷は外套に袖を通した。
「さあ、雨師よ。さっきの質問に、まだ答えてもらってないな。誰がお前に俺たちの情報を教えた? 老酒になる前に、白状してもらおうかい」
「ちょっと、殷雷。ふざけるのもいい加減《かげん》にしないと」
断縁獄に吸い込まれたところで、人体に全く影響《えいきょう》はない。
それなのに調子に乗って、雨師を脅《おど》かす殷雷を和穂はたしなめようとした。
雨師は静かに口を閉ざしていた。
殷雷の笑い声もやがて止まった。
雨師は何かを決意したのだ。
殷雷の顔に緊張感が走る。この男は誰かに自分たちの情報を教えられた。
その時に、宝貝が回収されると、使用者は殺されるとでも吹き込まれたんだろう。
それでも、男の怯《おび》え方は尋常《じんじょう》ではない。
天呼筆が奪《うば》われて、万策《ばんさく》尽きたのなら、一か八《ばち》か、死に物狂いで逃げればいいではないか。
雨師はゆっくりと、懐に手を入れた。
真顔で殷雷は言った。
「妙《みょう》な動きをするな!」
雨師は答えた。
「この、切り札だけは使いたくなかった。だが仕方があるまい。
俺が持っている宝貝は天呼筆だけじゃないんだ。もう一つ持っている。
殷雷よ。
妙な動きをやめるのは貴様《きさま》の方だ。
少しでも動けば、これを解放するぞ」
解放という言葉に、殷雷は奇妙な胸騒ぎを感じた。
雨師は言葉を続けた。
「宝貝とは本当に便利な道具だ。
天呼筆にしても、手に持った瞬間に使い方が理解できた。
だから、この宝貝の意味も俺は知っているぞ。
宝貝の名前は爆疫封《ばくえきふう》。病《やまい》の精を封じる宝貝だ」
懐から雨師は手を出した。その手には小さな瓶《びん》が握られていた。
貴重な薬品を入れる瓶のように、とても小さい。掌《てのひら》に包み込める大きさだ。
動こうとする殷雷を、雨師は制す。
「動くな! この宝貝は封印能力が非常に弱い。それが欠陥だ。小さな符《ふ》で補強してあったがその符は千切《ちぎ》った」
殷雷は凍りついたような顔で、最悪の事態を考えた。
「まさか、中に入っているんじゃ」
「入っている。膿朱疫《のうしゅえき》が入っている」
「の、膿朱疫だと!」
慌てて殷雷は後ずさり、背中に和穂をかばった。
膿朱疫。仙界に存在する疫病《えきびょう》である。もっとも仙人は疫病になどかからないが、仙界に住む仙人以外の生き物や、修行《しゅぎょう》中の道士にとっては非常に危険な病であった。
空気によって広まり、呼吸によって体内に侵入。
血液の中で驚異的に繁殖し、やがて感染者の肉体に膿朱|菌《きん》が収まりきらなくなり、哀れ感染者は爆死する。
爆発の衝撃でさらに空中に飛び散って、次の獲物《えもの》を探すという病気だ。
和穂の師匠《ししょう》である、龍華の働きによってこの病気は、仙界全土から駆逐《くちく》され、わずかに爆疫封の中に封じこめられた物のみが存在していた。
そこまで出来るのなら、完全に根絶すればよさそうなものだが、仙術には万物《ばんぶつ》は変化流転《へんかるてん》するという考えがあった。
つまり、膿朱疫を完全に抹殺《まっさつ》すれば、また別の病気が生まれるという考えだ。
その為に、龍華は膿朱疫を爆疫封の中に封印し、さらに欠陥宝貝たちと共に封印した。
二重の封印である。
爆疫封自体、封印能力が予想よりも遥《はる》かに弱い、欠陥宝貝だったせいもあるが、宝貝を封じ込めた封印というのが、龍華にとっても最強の封印だったせいもあった。
雨師は、やけになっていた。
「も、もはやこれまで、一人では死なぬぞ。お前たちも巻き添えにしてやる」
「早まるな! すまん、ちょいとばかし、からかいすぎた。
別にお前を殺すつもりはない」
「やかましい、いまさら信用できるか!」
殷雷は必死になって、雨師を思いとどまらせようとした。
もともと本性が刀の宝貝である、殷雷は膿朱疫には感染しないであろう。
だが、和穂は確実に死んでしまう。
もろもろの事情で(そう、護玄《ごげん》とのあの取り引きのせいだ!)、和穂の同行人をつとめている殷雷にとって、自分の不注意で和穂を死なせるわけにはいかない。
「信用しやがれ、馬鹿野郎。そんな物ばらまいたらどうなるか判《わか》っているのか!」
「爆疫封が教えてくれたよ。確実にこの大陸中の人間は死ぬ。感染した鳥が別の大陸に渡れば、そこの連中も死ぬ。鳥だけは発病しないんだ。利口《りこう》な疫病じゃないか」
「判ってるなら、おとなしく、それを渡せ」
「俺が死んだあと、誰が死のうが知った事じゃない」
「て、てめえ」
頭に血が昇《のぼ》り始めた殷雷を、和穂が制した。
「やめて、殷雷」
そして、ゆっくりと雨師のもとへと歩き出した。
殷雷は髪の毛を逆立《さかだ》てた。
「馬鹿、そいつに近づくな」
和穂は殷雷の言葉には答えず、ゆっくりと雨師の目を見た。
殺される事への恐怖が、ありありと感じられた。
「ごめんなさい。雨師さん。殷雷が調子に乗って、脅《おど》かしてしまって」
「ち、近寄るな!」
雨師は今にも地面に叩きつけるかのように、爆疫封を振りかぶった。
狸汁《たぬきじる》に恐怖した、狸の尻尾《しっぽ》のごとく殷雷の髪の毛がさらに逆立つ。
だが、和穂は止まらなかった。さらに雨師に向かって歩く。
和穂は雨師の目に疲労の色を見た。長い長い苦悩の日々を重《かさ》ねた、疲労の色を。
「辛《つら》かったでしょうね」
雨師もまた、和穂の目を見た。黒く澄《す》んだ目だった。哀れみを帯びた目かと思ったが違った。
辛そうな目だった。和穂が辛さを見せる理由はない。雨師の辛さを自分の苦しみのように思っているのだ。
雨師の動きが止まった。
和穂は落ち着いた声で言った。
「自分の手の中に、何十万人もの人を殺せる宝貝があったなんて。誰に相談出来るでもない。万が一の不手際《ふてぎわ》を考えるだけでも、寒気《さむけ》がしたでしょうに」
雨師の目の前に和穂は立っていた。和穂はゆっくりと、雨師の胸に抱きついた。
雨師の心臓の辺《あた》りに耳を当て、彼の鼓動を聞いた。
可哀想《かわいそう》なまでに、激しく動いていた。和穂は、そのままの姿勢で言葉を続けた。
「宝貝は本来、人間界にあってはならない物なんです。
お願いです。返してください。決してあなたに危害は加えませんから」
三人の間に沈黙が訪れた。
殷雷は相変わらず、気が気ではなかった。
和穂は、やはり雨師の鼓動を聞き続けた。
荒れ狂う鼓動は、やがて静かだが規則正しいものへと変わっていく。
長い沈黙の後、雨師が口を開く。
「……判った。和穂、お前を信用する。爆疫封を返そう」
汗だくの雨師は微笑《ほほえ》んだ。峠《とうげ》を越えた病人が見せるような、頼りなげだが解放感に満ちた笑顔だった。
雨師は手に持つ爆疫封を和穂に手渡した。
和穂も子猫のような笑顔で、病を封じた宝貝を受け取った。
そして、腰につけた断縁獄に回収しようとした。
雨に濡れ、断縁獄の紐《ひも》が、さっきよりも固くなっていた。
和穂は力んだ。
途端、雨に濡れていた爆疫封は和穂の手から滑り、宙を舞った。
三人が声にならない叫《さけ》びをあげて、見つめる中、爆疫封は草むらの中に落ちる。
そして、パリンという炸裂音《さくれつおん》。
同時に咳《せ》き込む雨師と和穂。
狸汁にぶち込まれた狸のように、殷雷の顔が青ざめた。
膿朱疫は解放され、和穂はいきなり感染した。
殷雷の記憶に間違《まちが》いがなければ、発病までに四半《しはん》刻(約三十分)、死亡までは半刻(約一時間)のはずだ。
常に冷静、どんな不利な状況でも最善の手を探《さぐ》り出す、刀の宝貝殷雷刀は、この非常時にどう行動したか?
殷雷は、その長い黒髪に両手を添えた。
掌で強くこめかみを押す姿だ。続いて、眉間《みけん》に皺《しわ》をよせ、目を見開く。
そして、言った。
「も、もう駄目《だめ》だ」
刀の宝貝、殷雷刀はただ、うろたえた。
和穂と雨師の咳《せき》が、一層激しくなった。
三
断縁獄《だんえんごく》はたいていの物を瞬時に吸い込む。
一度、釣《つ》り舟の宝貝《ぱおぺい》を吸い込んだ時も、まばたき二つと時間はかからなかった。
今、断縁獄は延々《えんえん》と膿朱疫《のうしゅえき》を吸収し続けていた。
雨師《うし》と和穂《かずほ》の咳《せき》もだいぶ軽くなってきた。
殷雷《いんらい》は草むらに座《すわ》り込み、胸を押さえていた。
「か、和穂、勘弁《かんべん》してくれ。心臓が止まるかと思った」
「ごほ。私だって上手《うま》くいく自信はなかったよ」
膿朱疫の拡散《かくさん》する速度よりも、断縁獄の吸引速度が上回っていた。
和穂は泥《どろ》に汚れた顔を手で拭《ぬぐ》った。
「完全に発病して、膿朱疫が私の一部になっていたら吸収は無理だったと思う」
雨師の顔は驚きに満ちていた。
「それが、断縁獄なのか? こんな芸当が出来るのなら地上の疫病が一掃《いっそう》できるではないか」
殷雷が雨師の言葉を否定した。
「いや。無理だ。膿朱疫は、数が少ないから吸収できたんだ。例えば赤痢なんかは絶対数が多いから、吸収されるよりも早く増殖するはずだ」
雨師は食い下がった。
「いや、それでも感染したばかりの患者ならば」
「無理だって言っただろう。疫病に感染した瞬間《しゅんかん》なんて、どうやって知るんだ。断縁獄とて万能《ばんのう》じゃない」
断縁獄の吸引が終了した。まだ、何か言いたげな雨師に向かい、殷雷は断縁獄を向け、叫ぶ。
「雨師!」
雨師はギョッとしたが、断縁獄はピクリとも動かない。
「これで、判っただろ? 断縁獄は吸引に抵抗《ていこう》する者は吸い込めない」
和穂は殷雷から断縁獄を受け取り、腰に着けた。
「宝貝の回収だ。って騒いでるんですけど、今は、たいした宝貝は使えないんです。ね。殷雷」
「へいへい、あっしは膿朱疫を断縁獄で回収するって、気がつきませんでしたよ。
……和穂。これからは断縁獄も軽々と使えなくなったぞ」
「どうして?」
「今までは、危《あぶ》なくなったらお前を断縁獄の中に逃げさせていたが、断縁獄の中には膿朱疫が蔓延《まんえん》してしまっただろ?」
「あ! じゃ、中の宝貝も外には出せなくなったの?」
「いや、それは大丈夫《だいじょうぶ》だ。例えば、天呼筆《てんこひつ》を取り出せば、天呼筆しか出てこまい。指定されない物をこいつは絶対に吐き出さない」
居心地《いごこち》が悪そうに雨師は言った。
「その、迷惑をかけてしまったな」
殷雷は鼻で笑う。
「ま、武人《ぶじん》として、最後まで勝負を捨てなかった態度に免じて許してやろう」
好奇心に満ちた声で雨師は言った。
「宝貝回収を行っているのなら、他にも宝貝を持っているんだろ? 良かったら教えてくれないか」
「いいですよ、と言っても、大抵《たいてい》の宝貝は回収の時に壊《こわ》れて機能不全になっちゃったりして、そうじゃないのでも、使えば逆に危険になるような物ばかりでね。
今使えるのは、符方録《ふほうろく》という符術書に書いてある符ぐらいです」
「どんな符?」
「宿酔《ふつかよ》い封じと、疲労回復だったかしら」
殷雷が付け加えた。
「あと、植物に火をつける、焚《た》きつけ用の火炎符《かえんふ》だ」
雨師は虚《きょ》を突かれた。
「それだけ?」
和穂と殷雷は口を揃《そろ》えて言った。
「それだけ」
一人|合点《がてん》して、雨師はうなずいた。
「あ、殷雷刀は武器の宝貝だから、和穂の力を超人のように引き出せるのか」
機嫌《きげん》が悪そうに殷雷が答えた。
「悪かったな。確かに、刀の時の俺は使用者の体を操《あやつ》れるが、操っているのは俺自身なんだから、今の俺《おれ》の強さとたいして変わらん。
和穂の力が十、俺の力が千だとしても、千十にはならずに千のままだ。
雨師よ。お前が言うような宝貝もあるが、俺にはその機能がない」
「そんな戦力で七百からの宝貝を集めようというのか!」
「そうです。でも、天呼筆を取り戻せたから少しは楽になるね、殷雷」
「ま、焼け石に水だが、ないよりはましだ。それより、雨師よ。俺たちの情報を誰から聞いた?」
雨師は首を横に振った。
「夢で見た。夢のくせに妙《みょう》に整然としていたんで心に残ったんだ」
和穂は殷雷に相談した。
予想していなかった『夢』という返答に、和穂は驚いた。
「夢? それはいつの話ですか?」
「宝貝を手に入れてすぐだったから、三か月程前だ」
「どういう事かしら?」
「別にどうもしない。目の利《き》く宝貝が、俺たちを見ていたんだよ。そいつの側《そば》に運よく夢を紡《つむ》ぐ宝貝でもあったんだ」
「あ、それで他の宝貝に警告を発したんだ。力を合わせて私たちに立ち向かう為《ため》に」
「け。馬鹿言うな。大崑崙《だいこんろん》の時に判っただろうが。あいつらは自分の事しか考えちゃいねえんだよ。
警告を発しておけば、油断して俺たちに回収される宝貝も減るだろ。
自分の手を下さずとも、他の宝貝が俺たちを倒すかもしれん。それぐらいにしか考えてないのさ」
「また、何か状況が悪くなっちゃったね」
「だから、言ったろ。もともとこの宝貝回収なんて大仕事は無理なんだって」
「駄目《だめ》よ、殷雷。あきらめちゃ」
「へいへい」
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第一章『二人の道士』
一
夜主《やしゅ》は元女|盗賊《とうぞく》である。
今でもその仕事は、たいして変わっていなかったが、現在の彼女は金目の物は一切《いっさい》狙《ねら》わない。
和穂《かずほ》が誤《あやま》って封印《ふういん》を破り、人間界に宝貝《ぱおぺい》が降ったあの日、彼女も二つの宝貝を得た。
その圧倒的な宝貝の能力の前に、彼女は他の宝貝も、自分の手に握ると決心した。
その決心は、いずれ彼女と和穂がぶつかり合う運命を指し示していた。
だが、運命の糸は、今は二人を擦《す》れ違わすだけにとどめていた。
*
元盗賊というだけあり、夜主は大抵《たいてい》の暗闇《くらやみ》では目が見えた。
ほんの小さな蝋燭《ろうそく》の火、雲海の中からたまに姿を現す、わずかな星の光さえあれば充分であった。
だが、夜主は今、完全な闇の中にいた。
彼女の持つ宝貝は暗闇を照らす物ではなかった。
「本当にここなんだろうね?」
「はい、確かに間違《まちが》いありません。夜主様」
夜主が忍び込んだのは、田舎道士《いなかどうし》の蔵《くら》の中だった。
確かに、奇妙《きみょう》な蔵だ。普通はここまで光を遮断《しゃだん》するには特殊な建築技術がいる。
そこまでして光を封じるのは何故《なぜ》だ?
「まあいい。捜魂環《そうこんかん》よ。宝貝はどこだ?」
「えぇと。で、ございます。ちょっと待って下さいまし」
「早くしな!」
「そう言われても私は本来、一度見た人物を探す為《ため》の道具でございまして、純粋な器物を探すのは」
「能書きはいい。意思を持たぬ宝貝でも、探せるんだろ」
「……これでも宝貝のはしくれですから、龍華《りゅうか》の封印の中で一度でも見た宝貝なら、探《さぐ》り出せます。が、やはり意思のない宝貝ですから、正確な場所は……」
捜魂環は人物、すなわち魂《たましい》を音として判断していた。
捜魂環を造った龍華すら気がつかず、捜魂環自身も封印の中で発見した事がある。
宝貝はほんの僅《わず》かだが、創造者の魂を反響しているのだ。
龍華の溶岩の熱さと、夕焼けの壮大さを持つ魂の音を、彼女の造った宝貝は反響しているのだった。
宝貝によって、その反響の仕方が微妙に違う。捜魂環はその反響を区別して意思のない宝貝の居場所を探っていた。
夜主がしびれを切らす。
「だいたい、どうして一度会っていなければ相手を探れないんだい? 音として感じるなら会ってなくても判《わか》るだろうに?」
「辛《つら》いところをつつきなさいますな。それゆえに私は封印されたのですよ」
漆黒《しっこく》の闇から、男の声が響いた。
「ほお。やはり、宝貝の使い手か? そうでもなければ、この蔵には忍び込まぬわな」
瞬間的に夜主のうぶ毛が総毛立つ。彼女は蔵の中の気配《けはい》に全く気がついてなかった。また、声を聞いた今でも相手の所在場所が判っていない。
「だ、誰《だれ》だ」
男の声は愉快《ゆかい》そうに笑う。
「盗人《ぬすっと》に名を尋《たず》ねられるとは滑稽《こっけい》な。この屋敷の主、白雲《びゃくうん》だ」
夜主の全身の毛穴から、汗が吹き出た。だが、すぐに恐怖を克服《こくふく》した。
相手を挑発《ちょうはつ》するような、猫撫《ねこな》で声で夜主は言い返した。
「これは失礼、夜主と申します。こんな暗がりで、初対面の殿方《とのがた》と御一緒《いっしょ》するのは、ちょっと困りますわ。今度はもっと明るい場所でお会いしたいわ」
「次があるとでも?」
「ないでしょうね。ここから私が逃げ出してもうそれっきりね」
「えらくあきらめがいいな」
「狙《ねら》った獲物《えもの》は逃《のが》しはしない。なんて言っていたら、命がいくつあってもたりません。それに貴方《あなた》の、その自信に満ちた声、危険すぎます」
「そうかね?」
「お互いに、どんな宝貝を持っているのか判らない状況でそれだけの自信、恐らくとてつもない切り札があるんでしょ?」
「利口《りこう》なこそ泥《どろ》だ」
「……そうそう、お別れの前に一つお尋ねしてもいいかしら? 貴方が夢を送った? あの追っ手たちの夢を。大崑崙《だいこんろん》を倒した顛末《てんまつ》の夢を」
初めて、白雲の声の調子が変わった。
「夢だと? 何の話だ?」
「ふうん。やっぱし全員が全員、夢を見たわけじゃないのね。もしかしたら個人差もあるのかしら。
……夢の送り手を探していてね。早い時期に、送り手から宝貝を奪い取らなければ、仕事がやりにくくなるでしょ。
知らなければ忘れてちょうだい」
「待て、白状してもらうぞ」
「残念だけど、そろそろおいとまするわ」
「逃がすか!」
ひゅん。と、何かが空を切った。
それは夜主の体を捉《とら》えられずに、床《ゆか》に刺さった。
夜主は走った。
じきに蔵の入口に到達し、開けた。
扉《とびら》は二重になっている。夜主は蔵の中に光を導いたらどうなるかという好奇心を刺激されたが、あえて危険は冒《おか》さなかった。
後ろの扉を閉め、前の扉を開ける。
庭に出る。庭を走る。門に来る。門を抜ける。街道に出る。街道を走る。
夜主は疾風《しっぷう》の動きで駆けた。人の足が繰《く》り出せる速度ではない。
あまりの加速に、夜主の全身の血がゆっくりと背中に鬱血《うっけつ》していく。
眼球に流れる血が偏《かたよ》った為《ため》、夜主の視界がだんだんと暗くなった。
さらに街道を走る。すでに何十里走っただろうか。夜主はやっと加速を止めた。
それでもかなりの速度で、夜主は駆けた。
彼女が履《は》いている皮靴《かわぐつ》もまた、宝貝であった。
「ふん。捜魂環よ。お前よりも、この俊地鞜《しゅんちとう》の方がよっぽど役に立つよ」
「何をおっしゃいます。使用者の保護機能が不完全な移動用宝貝を、使いこなせるのは夜主様だからこそですよ。普通、加速に体がついてこられません。……それより、和穂が近くまで来ているようですが?」
「むう。簡単に倒せそうだが、和穂の回りには『夢の送り手』の目が光っていると考えた方がいいな。
『夢の送り手』に見つかると厄介《やっかい》だからほうっておく」
夜主はいつしか山道を走っていた。
加速についてこられなかった血が、再び体を巡《めぐ》り始めた。
心地好《ここちょ》い温さが彼女の全身を包んでいく。
そして夜主は山道を歩く、一人の青年とすれ違った。
青年は奇妙な風に驚いた。
風を見送り、青年は一度|溜《た》め息をつき、夜空を見上げて独《ひと》り言《ごと》を吐く。
「あぁ、奴《やつ》はどこにいるんだろう。本当に会えるんだろうか? 誰かが奴に苦しめられている。そいつが俺を呼んでいる」
青年は再び山道を歩き始めた。
二
雨師《うし》の雨の名残《なごり》が作り上げた虹《にじ》が、空にかかっていた。
殷雷《いんらい》は、じきに夕方だなと太陽の位置を見て確認した。
和穂《かずほ》は虹の美しさに心を奪われている。
「殷雷、虹って綺麗《きれい》よね」
「綺麗だからどうした? あんなのは飯の役にも立たない、七色の光だろうが」
「七色?」
「虹の色の数は七色と決まっているだろ」
「違うよ。虹の中には数え切れない程、色があるでしょ」
固定観念に囚《とら》われるのを嫌い、変幻自在を要とするのが、仙術の発想だ。と、どこかの爺《じい》さんが言っていたと、殷雷は思いだした。
仙骨を封じられ、全《すべ》ての仙術が使えなくなっているとはいえ、和穂は仙人なのだと殷雷は再確認した。
仙人の資格を剥奪《はくだつ》されている和穂にとって武器は、この自在な発想だけなのだ。
だが、それだけでどこまで出来るのか? 殷雷は深く溜《た》め息をつく。
そんな殷雷の心を知ってか知らずか、和穂は無邪気《むじゃき》に虹を見ていた。
やがて虹は消え、和穂はさっきの雨師を思い出した。
「殷雷。雨師さんが言ってたよね」
「何を?」
「雨師さんが、どこで天呼筆《てんこひつ》たちを見つけたかって話よ」
のどかな田園風景が広がる街道を歩きながら、殷雷は答えた。
「あぁ、どこぞの村で雨乞《あまご》いを頼まれて、依頼金を先払いでもらったはいいが、サイコロ賭博《とばく》でスッちまって、何が何でも雨を降らさなければならなくなった話だな。つくづく馬鹿な男だ」
雨師の雨乞いとはいえ、仙術が存在しない人間界では、只《ただ》の気休めのまじないにしか過ぎない。
大抵《たいてい》の場合、雨が降らなければ、依頼金の中から何割かだけ手間賃としてもらい、退散するのが関《せき》の山なのだ。
「そんな雨師さんの前に、天呼筆は現れたのよ。もしかして自分の機能をより求める人の所に宝貝《ぱおぺい》は落ちるんじゃないの?」
「待て待て、それでは爆疫封《ばくえきふう》の説明にはならないぞ。雨師は爆疫封も持っていた」
「うん。全部の宝貝がそうだとは言わないけど」
「……あり得るな。今までの宝貝の保有者はだいたい、その機能を望む状況にあった。
使われたいという道具の業《ごう》を満たすには、自分を求める者の前に姿を現すか。
そうすれば、宝貝を手に入れたはいいが、全く使わないという、宝の持ち腐れにはならない」
殷雷は感心げに首を縦《たて》に振り、言葉を続けた。
「この仕事の厄介《やっかい》さを再確認したって感じだな」
「そうね」
「悩んでいてもはじまるまい。宝貝のある場所はこっちの方角でいいんだな? 今度はしっかりと探《さぐ》れよ。雨師の宝貝が二つだと見落としてただろ」
言われてみたらそうだ。しかし、気をつけて見たはずなのに。
少し、疑問を覚えながら和穂は耳にぶら下がる、質素な耳飾りに細くスラリとした指を添えた。
このどう見ても安物の耳飾りこそ、人間界の宝貝の居場所を全《すべ》て探り当てる宝貝、索具輪《さくぐりん》だ。
いつものように和穂は目を閉じて精神を集中した。
途端《とたん》、まぶたの裏に中心を同じとする大小の六角形が、波紋《はもん》のように広がっていった。
中心で光るのは索具輪自身と、断縁獄《だんえんごく》である。そのかたわらで光るのは、殷雷刀であった。
索具輪と殷雷刀は、天空に輝《かがや》く北極星と同じような白銀色をしていた。
それに比《くら》べ断縁獄は、明星《みょうじょう》(金星)の如《ごと》く黄色がかっていた。恐らく、断縁獄の中にも複数の宝貝があるので、色彩が変わって見えるのだろう。
雨師の反応にもこんな色がついていただろうか。確か、白銀色だった。いや、もっと白っぽかったか。今思えば、少し変な色だったかもしれない。
和穂は息を詰《つ》め、さらに集中する。
六角形の数が増《ふ》え、捜索範囲《そうさくはんい》がさらに拡大した。やがて、殷雷たち以外の宝貝反応が、索具輪に現れた。
反応のすぐそばの六角形の一辺には三里(十二キロ)と記されていた。
目をつぶったまま体を動かし、反応がちょうど体の正面に来るようにして、和穂は指を許す。
「この方角に三里」
「ならば、街道沿いに歩いても、良さそうだな」
と、その時。
索具輪の六角形が崩《くず》れだした。砂で描いた線が風にゆっくりと飛ばされるようにぼやけていく。
ぼやけていくのは線だけではなかった。宝貝の居場所を示す光の点も墨書《ぼくしょ》が水に滲《にじ》むように広がっていく。
目を閉じたまま、硬直《こうちょく》する和穂に、殷雷も何かの異常を感じとった。
「どうした、和穂」
ゆっくりと、静かに和穂は答えた。
「さ、索具輪が壊《こわ》れちゃった!」
「壊れただと!」
仙界の統治者《とうちしゃ》である五仙の内の一人、神農《しんのう》自《みずか》らが作り上げた宝貝、断縁獄と索具輪。
宝貝を回収するにあたり、神農から授《さず》けられた宝貝だ。
断縁獄は土壇場《どたんば》での逃げ場所としての機能を、膿朱疫《のうしゅえき》の為《ため》に失った。
索具輪もまた、その機能に変調をきたしていた。
*
「馬鹿言ってんじゃねえぞ、爆疫封《ばくえきふう》みたいに強度に欠陥《けっかん》がある宝貝ならいざ知らず、宝貝がそう簡単に壊れてたまるか!」
街道沿いの岩に座《すわ》り込み、殷雷は大声で怒鳴《どな》った。
宝貝回収に命をかける和穂たちにとって、索具輪は最低限必要な宝貝であり、もっとも重大な宝貝であった。
和穂には説明する気力すらなかった。ただ黙《だま》って殷雷に索具輪を渡す。
いらつきながら殷雷は索具輪を耳につけ、和穂と同じように精神を集中した。
殷雷のまぶたの裏に広がるのは無数の、いびつな六角形と、ぼやけて巨大化した宝貝の光のみ。
ゆっくりと息を吐き、考えられる可能性を追及してみた。
「あきらめるのはまだ早い。他の宝貝の術中にはまっているだけかもしれん。
隠伏《いんぷく》の術に捕《つか》まっているから、こんな反応が起きてるのかもしれんぞ」
そうであってくれと、言わんばかりに切羽《せっぱ》詰まった声だった。
「だが、どんなに上等な隠伏の術でも、効果が持続するのは一刻(二時間)が限度だ。それだけ時間が経《た》てば元に戻るはずだ」
……無常に一刻が過ぎた。
殷雷は街道ぞいの草の上に大の字になって寝転《ねころ》がっていた。
その耳には小さな耳飾りがついたままだ。
心配になった和穂が声をかけた。
「どう、殷雷?」
《、》答える代わりに、索具輪をむしり取り和穂に投げつけた。
和穂は恐る恐る宝貝を耳につけた。
やはり、元には戻っていない。歪《ゆが》んだ六角形に輪郭《りんかく》が曖昧《あいまい》な光の輪が見えていた。
和穂はあえて、明るい笑顔を作った。
「でもさ、殷雷。一応宝貝の反応は出てるんだから、使えるんじゃないの?」
刀の宝貝はぶっきらぼうに答えた。
「誤差はざっと十|町《ちょう》(一・一キロ)だ。光の輪の中心が宝貝、というわけでもない。輪の中のどこかに宝貝があるんだぞ!」
「だったら何とかなるんじゃない?」
「……戦略的に考えて、俺たちがどれだけ有利な部分をなくしたか、説明しても、お前は『だってやるしかないんだもん』とか言うんだろうが」
和穂は首を縦に振る。
殷雷は足を振り上げ、反動で飛び起きる。
「文句を言っても仕方があるまい。そのうち索具輪も直《なお》るかもしれねえしな」
索具輪が直る根拠《こんきょ》は特になかったが、理由もなく調子が狂うのなら、理由もなく元に戻る可能性も無ではあるまい。殷雷はそう考えた。
*
日がだいぶかたむきかけていた。
田園風景が広がる街道なので人家は近い。
日が落ちようとも、たいして焦《あせ》る必要もなかった。
殷雷たちが道を歩み始めると、野良《のら》仕事を終えた帰りのような、年老いた農夫がやってきた。
色々な野菜の入った籠を背負っていた。
地理に不慣れな旅人を装《よそお》い、殷雷は老人に尋ねた。
「爺《じい》さん、すまぬがこの道を三里ばかり進めば、町に着くかね?」
老人の声はしわがれていた。
「おお、あるさ。たいして大きい町じゃないが市場がでるからな。ここいらに散らばってる農家の連中は、そこに買い出しに行ってるのさ」
殷雷の目が少し鋭《するど》くなる。
「へえ。その村で、最近変わった事はなかったかい? 奇妙な事件とか?」
「へな? 起きるわけないさ。
あの村には、凄腕《すごうで》の道士様が二人も住んでおいでだからな」
「ほお、俺らも道士には縁があるんで、訪ねてみようかな。ところで、その道士の名前はなんといわれる?」
「白雲《びゃくうん》様と、界元《かいげん》様さ。終《しゅう》白雲|真人《しんじん》と沙《しゃ》界元|真君《しんくん》さ」
真人、真君。共に仙人につけられる称号である。道士を名乗りながら、一緒《いっしょ》に仙人の称号を名乗る矛盾《むじゅん》に、殷雷は鼻で笑った。
「ほほぉ。爺さん、色々ありがとよ。話の礼というわけではないが、少し腹も減ったんで背中の野菜を分けてくれぬか?」
老人は嬉《うれ》しそうに寵を下ろした。
「はいさ。好きなのを選びな」
和穂が手を上げる。
「あたし、人参《にんじん》」
「俺は大根をもらう。さて、代金を支払おうか」
懐《ふところ》の財布《さいふ》から小さな銀貨を手渡す。
「おやまあ、いいのかね、こんなにもらっちまってさ。
野菜の泥《どろ》はそこの小川で洗うがいいさ。
そうそう、白雲様と界元様は昔から大変仲が悪くてな。少し気をつけておいた方がいいぞ」
ペコリと和穂が頭を下げる。
「お爺さん、色々《いろいろ》、ありがとうございました」
「なになに、どうってこたあないさ。
お前さんたちも道中《どうちゅう》気をつけてな」
老人は籠を背負い、立ち去った。
小川で泥を洗った和穂たちも歩きだした。
「ねえ、殷雷。やっぱりその道士のどちらかが宝貝を持っているのかしら?……あら、この人参|美味《おい》しい!」
「今のところは断定出来ないが、村に着けば判《わか》るだろ。宝貝を使って、何も妙《みょう》な事が起きないはずはないからな」
豪快《ごうかい》に殷雷は大根にかぶりついた。
途端、殷雷の髪の毛が臨戦態勢に入った猫の尻尾《しっぽ》のごとく逆立《さかだ》つ。
和穂はくすりと笑う。
「殷雷、そんなに大根が辛《から》かった?」
「う、美味《うめ》え大根じゃねえか。これぐらい辛くなきゃ、新鮮な大根とは言えねえな」
意地を張った殷雷は、何度も大根にかぶりつく。その度《たび》に彼の髪の毛は逆立った。
三
玲夢《れいむ》は最近、気持ち良く目が覚めた事がない。
窓から風と共に射し込む日射しで、眠《ねむ》りから覚める爽快《そうかい》な朝とは、だいぶ御無沙汰《ごぶさた》になっていた。
きょうも人の話し声で目が覚めた。がさがさがさがさと、気を遣って低い声を出しているのは判《わか》るのだが、余計に耳につく。
いったい、今何時だと思っているのか?
多少|機嫌《きげん》を損《そこ》ねながらも、玲夢は寝床《ねどこ》から離れた。
玲夢は、道士、終白雲の一人娘である。
幸いにも、母親に似たほっそりとした顔に黒メノウのような澄んだ瞳《ひとみ》が輝いていた。
不快な目覚めを振り払うかのように、玲夢は髪をかきあげた。クセ毛であったが、彼女は自分の髪を気にいっていた。
きついがゆったりとしたクセ毛は、美しい波を思わせた。
「玲夢様、お早《はよ》うございます」
彼女の立てる物音を敏感《びんかん》に察知《さっち》したのか、廊下《ろうか》の外から使用人の声がした。
「お早う。お父様はもう、起きておいでかしら?」
「はい。『蔵』から出ておいでで、庭を眺《なが》めていらっしゃいます」
「そう。顔を洗いがてら挨拶《あいさつ》をして来ます。今朝《けさ》も沢山《たくさん》の弟子《でし》志願の方がいらっしゃっているようですが」
「門の外に、ざっと三百人程おいでです」
呆《あき》れた溜《た》め息をついて、玲夢は寝巻きから普段着に着替え始めた。
薄い桜色の上着に袖を通し、帯をしっかりと結んだ頃には、眠気《ねむけ》は消えていた。
*
庭に面した縁側を歩きながら、玲夢は庭を見た。
丁寧《ていねい》に手入れされた植木たちが、季節の花を咲かせている。赤や青の花びらと、樹木の緑の中に蔵は立っていた。彼女はこの漆黒《しっこく》の蔵が嫌いだった。
この蔵のせいで庭全体の雰囲気が目茶苦茶《めちゃくちゃ》になっている。お父様はどうしてこんな蔵を建てたのだろうか? 玲夢には不思議で仕方がない。
蔵が建てられてもう三か月は経っている。
大金を使い大勢の大工《だいく》を雇《やと》い、急いで建てさせたのだ。
三か月前といえば、県の役人に招かれたお父様が、道術の腕比《うでくら》べをやらされたのと同じ時期だ。
だが、それと黒い蔵の関係までは判《わか》らない。
縁側は途中で直角に曲がり、北へと続いていた。
使用人の言うとおり、白雲が座《すわ》っている。
歳《とし》の割りには黒々とした髪、彫りの深い顔には狼《おおかみ》のような眼が光っていた。
顔は洗っているようだが、不精髭《ぶしょうひげ》が頬《ほお》から顎《あご》まで覆《おお》っていた。
とても五十過ぎには見えない白雲は、黒の道服をまとっていた。
道服も黒、蔵も黒、いつからお父様の趣味《しゅみ》は変わったのだろう? と、玲夢は考えずにはいられない。
白雲だから、白を着ろ。などと言うつもりはもうとうなかったが、父親の服の黒は、単純な黒とは思えなかった。
病的な黒だと玲夢は思った。上品な黒色が持つツヤが全くない。
「お父様、お早うございます」
白雲は声をかけられ、玲夢の姿をチラリと見た。
「……玲夢か。だんだん、あいつに似てきたな」
白雲は今は亡《な》き妻の面影《おもかげ》を玲夢の顔に見て取った。だが、玲夢には母の記憶がない。
「今日も大勢、弟子志願の方がいらっしゃっているようですね。おかげで、寝起きが悪くなります」
まるで咳《せ》き込むような音を立て、白雲は笑った。
「そうか、だったら全員吹き飛ばしてきてやろうか?」
冗談だ。冗談だと判《わか》っていたが、玲夢は背筋に戦慄《せんりつ》を感じた。
「やめて下さい、お父様」
「冗談に決まっているだろうが」
「……最近、お父様の冗談は冗談に聞こえません」
興味深そうに白雲は娘の顔を見つめた。
「どういう意味だ?」
「最近のお父様は、怖《こわ》いです」
「前から愛想が良かった覚えはないがな」
「それはそうですが……」
一時は白雲が贋者《にせもの》ではないのかと考えた事すら、玲夢にはあった。
だが、狼の眼光が時折見せる優しさ、野生の狼でも家族、特に子供に向けるのと同じ温《あたた》かみを持つ眼光が白雲の中にはあった。
肉親の勘《かん》以外の何物でもなかったが、白雲はやはり白雲のままだ。
「お父様。そろそろ、お弟子さんを取らないと家計の方も大変なのでは? 前にいたお弟子さんも全員破門にするなんて」
終家|程《ほど》の古くからある道士の家柄《いえがら》に、弟子を志願する人間も多い。
普通の道士があちらこちらを放浪して、縁起担《えんぎかつ》ぎ程度の術で金を稼ぐのに対し、道士志望の人間に術を教えて白雲は生計を立てていた。
もっとも、ときたま県の役人に呼ばれ、大規模な豊穣《ほうじょう》の術を使ったりもした。それがまた道士としての格を上げているのだ。
娘の指摘に、白雲は大きな欠伸《あくび》で答えた。
「生計か。今まで金なんてくだらぬ物で、大騒ぎしていたのが馬鹿《ばか》みたいだ」
「でも、お父様」
白雲は道服のゆったりとした袖に、左手を引っ込めた。そして銀貨を数枚取り出した。
「ほれ。小遣《こづか》いだ」
「今は良くてもこれから先を考えなければ」
「ふん。小言《こごと》まで似てきやがったな。お前は道士の娘のくせに、仙術やら道術を全く信用してないだろ」
「……それは」
「いいぜ、お前の頭が利口《りこう》な証拠だ。この世の中で、道士や仙人を名乗っている奴は皆インチキだ。あんな物は気休めにしか過ぎん。
だがな、俺は違う。
俺は本当に術が使えるんだ」
玲夢は何と言っていいやら、判らなくなった。仕方がなく、突き出されている白雲の手から銀貨を受け取った。
そして、いたずらっぼく、贋金《にせがね》を調べるように銀貨を歯で噛《か》んでみた。
ボキリ。銀貨は砕けた。
驚いて口の中から吐き出すが、既《すで》に銀貨は消えていた。
白雲はやはり咳き込むような笑い声を上げた。
「すまんすまん。お前をからかうつもりはなかったんだがな。
そら、これなら噛んでも大丈夫《だいじょうぶ》だ」
再び黒い道服から銀貨を取り出し、玲夢の手に握らせて、白雲は部屋の中に入っていった。
呆気《あっけ》にとられた玲夢は、じっと手の中の銀貨を見つめた。
「……臨時収入ね。あとで服でも買いにでかけましょう」
四
「これだけの人間が揃《そろ》って道服を着ていると壮観《そうかん》なものがあるな。しかもこんな朝っぱらから」
殷雷《いんらい》と和穂《かずほ》は終白雲《しゅうびゃくうん》の屋敷の外にいた。
大勢の弟子志願の道士たちと共に、門の前にいたが槍《やり》で作られた飴《あめ》色の大きな門は、閉められたままであった。
外から屋敷の中で見えるのは、大きな松の木ぐらいのものだった。
和穂は首をひねっていた。
「本当に、終白雲という道士が、宝貝《ぱおぺい》を持っているのかしら?」
「さて、どうだろうね」
殷雷の声は寝惚《ねぼ》けているように、張りがなかった。
「殷雷。ちょっと投げやりになってない?」
「そうか? け。どうせ人生はなるようにしかならないんだよ」
「……いつもの殷雷らしくない」
「ほお。普段の俺ならどうするのかね。聞きたいもんだ」
「今までの殷雷なら、色々と考えたじゃないの。相手はどう考えているか、どうすれば相手をだし抜けるか? どうすれば油断させられるかって」
「あれは、武器の宝貝の性《さが》なの。状況から判断して最善の手を尽くすのは、武器としての基本なんだよ」
「でも、今は違うじゃない」
大きく溜《た》め息をつき、殷雷は和穂の胸ぐらをつかんだ。
「索具輪《さくぐりん》がぶっ壊れて、せいぜいこの村の中に宝貝があるとしか判《わか》ってない。さあ、一所懸命に最善手を探そう。和穂、お前ならどうする?」
「……取り敢《あ》えず、怪しい人を探す」
「そう。大正解だ。村の中には凄腕《すごうで》の道士がいるのは判った。
雨師《うし》の例を見るまでもなく、宝貝を使っている可能性があるな。
索具輪がちゃんと動いてるなら、夜中にでも忍び込んで調べても良かろう。だがな、宝貝の正確な位置は判らないときている。
だから、忍び込むのはたいして得策ではない。
ならば白雲が術を使う現場を見てみようと三日もこうやって張り込んでいる。
だけど奴は出てこない。
和穂、お前にはやる気がないように見えるかもしれんが、今はこれが最善手なんだ。
宝貝の保持者が、雨師のように俺たちの存在を知っている可能性がある。
なのにあえて、俺たちは偽名を使ったり顔を隠したりしていない。
理由は判るな?」
和穂は利口《りこう》だった。
「うん。取り敢えず、宝貝保持者が襲いかかってくるにしろ、逃げ出すにしろ反応してもらわなくちゃ困るからでしょ」
「そうだ。ともかく宝貝保持者を決めなければ作戦もへったくれもないんだよ。一週間|経《た》っても、奴が動かなければ別の策を考えるつもりだがな」
三百人近くいる道士たちは、めいめいが好き勝手に喋《しゃべ》っていた。
だから和穂と殷雷の会話に注意を向けている者はいなかった。
ふと、急に辺《あた》りが静まりかえった。
何か起きたかと、殷雷は周囲を見回す。すると回りの道士たちの視線が一斉《いっせい》に門に向けられた。
ゆっくりと門が開く。ギリギリと木がすれる音を立てながら門が開いていく。
棍《こん》を握る殷雷の手に、こころなしか力が入った。
問題の道士が現れるのか?
だが、様子《ようす》が少し違った。
『玲夢《れいむ》様だ』
静寂《せいじゃく》を破って、小波《さざなみ》のように声が漏《も》れていく。
玲夢は三百人の道士たちに、さすがに圧倒されたようだが、門を出て歩き始めた。
玲夢が歩くと三百人の道士たちは慌《あわ》てて道を開ける。
さながら一国のお姫様を見るようだ。
興味を失ったのか、殷雷は視線を外す。だが、玲夢は道士たちの集団の中にいる珍しい二人組に目をやった。
この道士の中に、道服以外の服装をしているのは殷雷だけであったし、道服を着ているとはいえ若い娘は和穂だけしかいない。
玲夢はゆっくりと和穂たちに向かい、歩き始めた。
殷雷は敏感《びんかん》に玲夢の視線に気がついたが、和穂は自分を目指《めざ》して玲夢が歩いているとは考えてもいなかった。
玲夢がそばに寄ると、他の道士と同じように和穂も道を開けた。
だが、玲夢は和穂の前で足を止めた。
「お早《はよ》う。若い娘の道士とは珍しいわね。私は終玲夢。あなたは?」
驚いて、和穂は答えた。
「はい、和穂と申します。で、こっちのが殷雷です」
玲夢は、目付きの鋭《するど》い男に目を向けた。黒の袖付《そでつ》きの外套《がいとう》に片手には長い杖《つえ》、武器の一種を持っているからには、恐らく道士ではあるまい。
剣《けん》などの武器を持つ道士はいるが、それでも道服を着ていない様子からして、若い武人《ぶじん》なのだろう。
「殷雷君? あなたは道士じゃないようね」
大袈裟《おおげさ》におじぎをして、殷雷は子猫をつまむように和穂の襟首《えりくび》をつかんで持ち上げた。
「そ。こいつのお守りだ」
殷雷の手から逃《のが》れようとして和穂はジタバタするが、そう簡単に手は緩《ゆる》まない。
「ちょっと殷雷、離してよ。それにお守りってのは何よ」
「いけね。子守りだったか」
「また、言ったわね。せめて護衛ぐらいにならない」
二人のやりとりを見て、玲夢はクスリと笑った。
「あら、ごめんなさい。笑ったりして。どう、今から服でも買いにいくつもりだけど、一緒《いっしょ》にいかが?」
そこまで言って、玲夢はすまなそうに付け加えた。
「あ、でもお父様に弟子《でし》志願者として紹介してあげる事は出来ないの。ごめんなさいね。私が紹介したところでお父様は弟子にはとってくれないから」
慌《あわ》てて和穂は顔の前で手を振った。
「いえいえ、構いません。私は弟子志願で来てるわけじゃありませんから。白雲さんの噂《うわさ》を聞いて、ちょっと見物に来ただけなんで」
和穂は相手の目を見て、一所懸命に喋る。心の綺麗《きれい》な娘だと玲夢は感じとった。
「そう。じゃ一緒にでかけましょうよ。正直言って話し相手が欲しかったのよ。さあさあ殷雷君も一緒に」
思いっきり不機嫌《ふきげん》そうな顔をして殷雷は答える。
「この俺に、服を買いにいくのを付き合えというのか?」
「いいんじゃない。あなたは和穂ちゃんの、お守り、じゃなかった、付添いみたいなものなんでしょ」
「へいへい。行けばいいんでしょ。あと、君《くん》はやめてもらえぬか」
「……いいわ。いきましょう。和穂ちゃんに殷雷ちゃん」
この女、おとなしそうな顔して、結構《けっこう》口が立つな。
箱入りのお嬢《じょう》さん、というわけではあるまい。
殷雷は思いっきり力なく答えた。
「殷雷君でいい」
三百人の道士に見送られながら、三人は町へと出かけた。
五
薄暗《うすぐら》く、ひんやりしているが決して不快ではない食堂に三人はいた。
町に出かけた者が休息がてらに立ち寄る場所なので、茶店とでも呼んだ方が正確か。
床《ゆか》は、土が剥《む》き出しになっているのではなく、大きな石畳である。それでも埃《ほこり》が立たないように水をまいてあり、余計に涼しげであった。
温和な顔をした老夫婦が、店を切り盛りしていた。
一通り買物が終わった玲夢《れいむ》たちも、この店で一休みする事にしたのだ。
和穂《かずほ》が無邪気《むじゃき》に言った。
「どう、殷雷《いんらい》。似合う?」
そら来た。
殷雷は眉間《みけん》と鼻筋に皺《しわ》を寄せた。
玲夢と和穂が服屋に入り、大騒ぎしていたのは知っていた。
殷雷は、服屋でのやりとりを思い出した。
和穂と玲夢が服を見ている間、殷雷は仕方がなく店先にちょこんと座《すわ》っていた。すると服屋の主人が気を遣《つか》って茶を持ってきてくれた。
殷雷は茶をすすりながら主人に言った。
「……俺はこんなところで、こんな事をしている場合では絶対ないと思うんだが」
主人は感慨深げに首を縦《たて》に振る。
「そうでしょう。そうでしょう。
ここに座ってお連れさんが着物を選ぶのをお待ちになっている殿方《とのがた》は、みんなそう言いたそうなお顔をしています。
もっとも声に出して言う方はそういませんが」
そんな会話をしながら、殷雷は半刻も待たされた。その間に茶を十二杯飲んだ殷雷は、さすがにもう腹が一杯で、この食堂では何も頼《たの》んでいない。
「ねえ、殷雷ってば」
玲夢が服屋の親父《おやじ》と、買った服を家に届けてもらう算段をしていたのは覚えている。
だが、和穂が何を買ったというのだ? もう一度、念の為《ため》に道服を見てみたが、いつもと変わりがない。いや、腰で括《くく》る細い帯がちょっと違うのだろうか。
これ以上はないというほど、面倒《めんどう》な声で答えを返す。
「似合ってる似合ってる。結構な帯だな」
「……帯は括り方を変えただけで前のと一緒《いっしょ》だよ」
……帯の括りが変わっている? ならば、こいつは買いもしない服を試着で着ていたのか? 殷雷は呆《あき》れたが、それを指摘するとさらに話がややこしくなりそうだった。
玲夢が大袈裟《おおげさ》に言った。
「駄目《だめ》よ、和穂ちゃん。男の人って鈍感《どんかん》なんだから。そのクセ、ちょっと化粧に手を抜いたりしたらすぐに大騒ぎするんだから」
お嬢様は化粧が大変お上手《じょうず》ですな。と厭味《いやみ》を言おうかと考えたが、これもまた話がややこしくなりそうだから、黙っていようと決めた。
和穂は仕方なく自分の後頭部を指差した。
おつむでも取り替えたか、とも言おうとしたがやはり気力がついていかない。
戦う為《ため》に造られた武器の宝貝《ぱおぺい》は、服がどうだ、似合うかどうか、なんて話になると気迫が半減するのであった。
後頭部を見てみると、和穂の髪を結んでいた白い刺繍《ししゅう》の細い布が、赤い物に変わっている。
照れ臭《くさ》そうに和穂は言う。
「へへ。玲夢さんに買ってもらっちゃった」
ほお、と殷雷は心ならずも感心した。和穂の性格からして、あまりに高い物を贈られても受け取りはしないだろう。
玲夢はそこまで考えて、髪を結ぶ飾り布を買ってやったのだ。金の使い方をわきまえている金持ちはそうはいない。
「いいものを買ってもらったな。すまんな玲夢」
冷えた水を飲みながら、玲夢は笑った。
「おやおや、今まで厭味が言いたくて仕方がないって顔をしてたのに、案外素直な性格しているのね」
無論、言い返す気力がない殷雷は、和穂に向かって尋ねた。
「前の飾り布はどうした?」
「うん、ちゃんと持っているよ」
和穂は懐《ふところ》から、白い布を取り出した。
この布も、殷雷の外套《がいとう》と同じように只《ただ》の布ではない。
殷雷の外套は刀の鞘《さや》が転じた物であり、人間の形をした殷雷にとっては鎧《よろい》のような物である。もっとも耐久力はたいしたものではないが。
この布も特殊な素材で作られていて、軽さや柔《やわ》らかさからは、考えられない丈夫さを誇っていた。
三、四十枚重ねれば、並みの鋼《はがね》鎧よりは遥《はる》かに強い強度を持つ。
さすがに一枚では頑丈《がんじょう》な布の域をでないが、付け加えて、ちょっとぐらいの破損なら自動的に回復する性質も持つ。瞬間的に直るのではないが、ズタズタになってもいつのまにか、元の形に戻るのだ。
手に持つ白い布を和穂は殷雷に渡した。
意味が判《わか》らず、殷雷は布を手に取りジロジロと観察した。
「ん? 俺に持っていろというのか?」
「殷雷もその布で髪の毛を括《くく》ったら?」
「馬鹿《ばか》言ってんじゃねえ。そんなチヤラチヤラした真似《まね》が出来るか!」
玲夢が冷静な意見を述べた。
「髪をそこまで伸ばすのが、既《すで》にチヤラチャラした行為《こうい》であり、今更《いまさら》、飾り布を着けても大勢《たいせい》に変わりがないと思うけど」
「ふざけるな。この髪はな、それなりの意味があるんだよ」
「まあ、そう怒るな殷雷君。
いやあ、いいな、こんなに話したのは久し振りよ」
殷雷は不機嫌《ふきげん》そうな顔をしながらも、飾り布を大切に懐にしまった。
「そういう性格してるから、友達もいないんじゃないのか?」
「おっ。殷雷君、大分調子が出てきたみたいだね。
確かにこの村にゃ、友人ってのはいないわね。実はこの前まで医術の勉強をしに都《みやこ》の方にまで行っててね。八年ぶりに実家に戻ったのが六か月程前なのよ」
和穂は感心した。
「玲夢さんて、お医者さんなんですか?」
「いやいや。ちょいと漢方《かんぽう》を習っただけで、医者なんて偉いものじゃないよ。
漢方にしても自分の意志で習ったんじゃなくて、お父様に言われて勉強しただけだからさ」
今度は殷雷が冷静に指摘した。
「道士が自分の娘に医術を習わせる? 道士と医者は商売仇《がたき》みたいなもんじゃねえか。
片方は病人に符を飲ませて、片方は煎《せん》じ薬を飲ませて、客の取り合いだろ?」
漢方にしろ、仙術にしろ、創始者は神農《しんのう》という同一人物なのに妙《みょう》な話だ。
だが、殷雷の言うとおりであった。
道士の娘は答えた。
「お父様は、怪我《けが》や病気の祈祷《きとう》はしないの。昔のお父様はよく私にこっそりと教えてくれた。
『仙術、道術なんてのは、自分に気合を入れるものに過ぎん。それに頼っちゃいけない。
来年の豊作や大漁を祈ったりするが、切羽詰《せっぱつ》まった雨乞《あまご》いなんかはしたくない。
病気や怪我を治せるのは医術だけだ』
って。でもお父様は変わってしまった」
玲夢の顔に影がさす。和穂は玲夢の悲しみを感じとった。
「玲夢さん」
殷雷は素《そ》っ気《け》なく声を出す。それが殷雷にとっての玲夢に対する思いやりであった。
「へえ、どういう風に変わっちまった? 何か原因でもあるのか?」
玲夢は誰かに自分の思いを聞いて欲しかった。
「今から三か月程前に、農政を司《つかさど》る県の役人が代わったの。五穀豊穣《ごこくほうじょう》の祈祷も担当している人ね。
……こいつが馬鹿な役人で、道士の腕くらべを行うなんて言い出したのよ。
この県で有名な道士といえば、お父様と沙界元《しゃかいげん》の二人でね。
また間《ま》が悪い事にうちのお父様と、界元とは犬猿《けんえん》の仲だったの」
「界元さんって、確かこの村にいる人ですね?」
「そう。ちょっとややこしいけど……あ、和穂ちゃんは道士だから判るか。
お父様は一般的な道士なんだけど、界元ってのは武道系の道士で、剣を使って祈祷を行う剣舞奉納《けんぶほうのう》って奴で、まあ、武人としても名が通っているの。
雨を降らせるだか、明日の天気を占《うらな》えだか役人の出した課題が何かは知らないけど、どちらも上手《うま》くいかなかった。
で、界元が短気を起こして、お父様が筆で書いている最中の符を、見事三枚にぶった切っちゃってね。
『うぬが符術より、我が仙剣の方が遥《はる》かに勝《まさ》っておる!』
とかなんとか言って、高笑いをしてその場を収《おさ》めたのよ」
「……腕はいいかもしれんが、その界元ってのは大馬鹿野郎だ。
『紙より剣の方がよく切れる』って宣言したようなものではないか」
「界元とお父様は昔から仲が悪かったから、余計にそんな恥をかかせるような真似をしたんでしょ。
その場は収まったようだけど、お父様は余程、頭にきたらしく次の日の朝に、界元にもう一度戦いを申し込んだの」
「……てめえの親父も大馬鹿だ。お前のようなでかい娘がいるんだから、そろそろ歳《とし》だろうに、餓鬼《がき》の喧嘩《けんか》みたいではないか」
玲夢は否定しなかった。
「で、その戦いで」
殷雷と和穂は、玲夢の顔を見つめた。
道士の娘は語った。
「お父様が勝っちゃったのよ」
和穂が尋ねた。
「えぇと、その役人の出した課題を見事にこなしたという意味ですか?」
「ううん。物理的に界元をコテンパンにしちゃったのよ。仙術だか道術を使って」
間違《まちが》いない、宝貝《ぱおぺい》だ。と和穂たちは確信した。素人《しろうと》が、道士とはいえ、ひとかどの武人を倒すとは普通ではない。
時期的にも、和穂が宝貝を人間界にばらまいたのと同じ頃だ。
大崑崙《だいこんろん》との戦いから既に三か月は経過している。
大崑崙に襲撃される前に、和穂たちが目指《めざ》していた宝貝こそ、雨師《うし》が持っていた天呼筆《てんこひつ》であった。
雨師はその時、ちょうど港から船に乗って出航していたそうだ。
大崑崙との戦いの余波で、港が崩壊《ほうかい》してしまい、追いかける和穂たちは足止めを食らっていたのであった。
玲夢は二人の確信など露《つゆ》知らずに、話を続けていた。
「それから、お父様の道士としての腕前は前にも増して評判になって、金回りもよくなったんだけど。
おかげで私の幼なじみが、よそよそしくなっちゃってさ。
たぶん、私の機嫌を損ねたら、お父様が術を使って酷《ひど》い目にあわせるんじゃないかと恐れているのよ」
「玲夢さん、何だか可哀想《かわいそう》」
大きく首を振り、玲夢は否定した。
「よしてよ。そんなので態度を変えるような奴らは友人でもなんでもないさ。
おかげで少しせいせいしているのさ」
「玲夢。焦《あせ》ると、ここいらの方言がでるな。
なんとかさ。こうださ。どうださ。語尾に『さ』がついてるぞ」
「方言を嫌って、使わないようにしているんじゃないよ。
ただ、都の生活が長かったんで、方言の呼吸をちょいと忘れちゃっているのさ」
話したところで何も解決しないと、玲夢は思っていたが口に出すと少しすっきりした。
肩の荷が少し軽くなったのか、表情が柔らかくなっていた。
和穂は玲夢の明るさが戻って嬉《うれ》しかった。
「あの、玲夢さん。界元さんに白雲さんがどんな術を使って勝ったか、判ります?」
白雲の持つ宝貝の手掛かりを、探さなければならない。
しかし娘は首を横に振った。
「私も現場を見たわけじゃないけどね。でも、勝負の後に界元はお父様を卑怯者《ひきょうもの》よばわりしてたらしいよ」
「へえ、そうですか」
この話だけでは、宝貝の種類までは判らない。
「和穂ちゃんも道士だから、お父様の術が見たいんだね。
お父様の気分|次第《しだい》だけど、一応、私の友達だって紹介してあげようか?」
「本当ですか! お願いします」
疑《うたぐ》り深い顔をして殷雷は言った。
「玲夢よ。結構お人好しだな。素性《すじょう》も判らないような旅の人間を信用するなんて」
和穂の頭を玲夢は撫《な》でる。
「少なくとも和穂ちゃんは悪人じゃないよ。そんな和穂ちゃんと旅をしてるんだから、殷雷君もたいした悪人じゃないんでしょ」
「……その微妙にひっかかる言い方がお前らしいな」
「諸手《もろて》をあげて、殷雷君はいい人だ。とでも言って欲しい?」
「判った判った。お前にはかなわん」
「じゃ、そろそろ出ましょうか。
そうだ、ついでに界元の道場でも見物していく? 噂《うわさ》じゃお父様に負けてから、冗談みたいに落ちぶれたらしいしね」
宝貝所持者はほぼ間違《まちが》いなく、白雲だ。だがそうでない可能性もなくはない。
界元の道場に同行する意味はあった。殷雷は壁に立てかけていた棍《こん》を手に取った。
*
ちょうど町の真ん中を街道が通っていた。街道に面して色々な店が並んでいる。
白雲の屋敷は街道から離れた北の方にあった。
それに対して、界元の道場は街道を挟《はさ》んで南にあった。
玲夢に連れられた和穂たちは、街道を抜けて界元の屋敷に向かう。
街道を離れれば、すぐに水田が広がっていた。強い日射しに立ち向かうように稲が青々と生長していた。
界元の道場は町から少し距離があったが、水田ばかりで視線を遮《さえぎ》る物がなく、遠くからでも見て取れた。
日はまだ高かったが、水田を吹く風は、稲の清々《すがすが》しさを含み、心地好《ここちよ》い。
和穂が深呼吸しながら歩いていると、じきに道場に辿《たど》り着く。
殷雷は道場の門構えを見て感心した。
「ほお。確かにこれは、道場だな。仙術や道術を教えるというより、どう見ても武道の指南《しなん》をやっていそうだ」
「……さすがに、門だけは綺麗《きれい》にしてるけども、他はボロボロよ。弟子《でし》はみんないなくなっちゃったらしいからね。
裏の方じゃ、壊れた壁を直す金もないそうよ」
どうやら玲夢は、正面から訪問するつもりはないようで、裏の方に回り込んだ。
確かに、正面の白い壁に比《くら》べて、裏に回ると土壁がそのまま建っていた。
壁自体の高さも低く、殷雷や和穂でも、少し背伸びをすれば、中を覗《のぞ》く事が出来る。
玲夢たちが、壁沿いに歩いていると、何かが空を切る音がした。
ビュン、ビュンと規則正しく繰り返される音。殷雷は木刀を素振《すぶ》りしている音だと気がついた。
玲夢は立ち止まり、塀《へい》によりかかり中を覗いた。
和穂と殷雷も同じように、背伸びをして屋敷の中を見た。
ううむ、と殷雷はうなった。確かに寂《さび》れているようだ。
山中の荒れ寺とは言わないが、もともと大きい道場なので庭先にある雑草が目立って仕方がない。
玲夢たちに覗かれているのに気がついていないのか、一人の男が背中を向けて、木刀を振っていた。
その傍《かたわ》らには人間の形を摸した、等身大の木人形が置かれていた。
庭には男が一人しかいない。しばらく素振りを続けた後、男は木人形に向き直り、精神を集中させた。
ただの野次馬《やじうま》である玲夢たちも、男の気迫につられ黙って唾《つば》を飲み込む。
しばしの沈黙《ちんもく》の後、男は上段に振り被《かぶ》り、一気に切り下ろす。
一層|鋭《するど》い、空裂音が響く。玲夢は木刀と木人形がぶつかりあう、大きな音を想像し思わず首をすくめた。
が、木刀は木人形に当たらない。
素振りどころか、空《から》振りだと、玲夢は思わず吹き出してしまった。
途端《とたん》に男は背後の気配《けはい》に気がつき、和穂たちに向き直った。
玲夢とたいして歳《とし》は変わらない青年である。短い髪の毛と、裸《はだか》の上半身には屈強《くっきょう》な筋肉が見て取れた。が、それに反して顔は少し童顔であった。
額《ひたい》に流れる汗《あせ》を手で拭《ぬぐ》い男は玲夢に罵声《ばせい》を浴びせた。
「誰かと思えば、白雲のところの馬鹿娘じゃないか。お前なんかが、今日は何の用だ!」
玲夢は小声で説明した。
「あの男は、界元の息子で景障《けいじん》っていうの」
続いて景陣に向かい声をあげた。
「道場が落ちぶれたと聞いたから、わざわざ見物に来てあげたのよ。
弟子が皆逃げたってのは、本当のようね。仕方がないか、界元自慢の一人息子は人形相手に空振りしてるんだからね」
「何とでも言いやがれ。お、珍しいな。お前みたいな女が男を連れているなんて。見かけない面《つら》だが、どうやって引っ掛けたんだ?」
どうやら景陣は殷雷の事を言っているようだった。
玲夢は慌《あわ》てて否定した。
「ちょっと待ってよ、殷雷君はそんなんじゃないさ」
景陣は笑う。
「そうだろうさ。
お前みたいな口のへらない女に、言いよる男なんているものか」
「何よ、いちいちむかつく男だね。そんな軽口|叩《たた》いている暇があったら、もっと練習したらどうなのさ」
景陣は和穂に目をやった。
「お、そっちにいるのは、可愛《かわい》い道士さんだな。良かったら弟子入りでもするかい?」
「ちょっと、和穂ちゃんに変なちょっかいを出さないでちょうだい」
「何だ、お前のところの弟子か?」
「そうじゃないけど、私の友人よ」
「ふん。お前みたいな馬鹿女の側《そば》にいると、その子まで馬鹿になっちまうぞ」
「あんたに、馬鹿よばわりされる覚えはないね」
景陣と玲夢の罵倒合戦《ばとうがっせん》の間も、殷雷の目は鋭く光っていた。
和穂も殷雷の表情に少し疑問を覚えた。
だが、口を開いて尋ねる前に、殷雷は棍を和穂に持たせ、塀《へい》を一瞬にして飛び越えた。
景陣は殷雷の身のこなしに驚く。
「ほお。殷雷とかいったな。なかなかいい動きをするじゃないか」
殷雷はぼそりと言った。
「力を入れるのは、加速の時だけで、後は力を抜くのは判っているようだな」
つられて、景陣の目付きも鋭くなった。
殷雷は言葉を続けた。
「力を抜くのは、脱力とはまた違う動作だと理解しろ。両手の刀にかける力が均一で見た目の力は相殺《そうさい》され、力が抜けているように見えるだけだ」
「…………」
「切り上げようと力む右手を、同じだけの左手の力で押さえる。だが、最初の勢いを殺してはならぬ。脱力から、再び力を入れたのでは遅くなる」
「承知」
「やってみな」
景陣は再び、木人形に向き直った。
そして同じように精神を集中させて、木刀を振り下ろす。
そして、地面に着くギリギリのところで手首をひねり、下段から上段へ切り上げた。
木人形に逆袈裟《ぎゃくけさ》の亀裂《きれつ》が走った。
景陣は、面白《おもしろ》そうに笑い、殷雷に手を差し出した。殷雷はその手を取り、二人は握手をした。
景陣は小声で言った。
「棍ですか」
「うむ」
そして殷雷は再び塀《へい》の外に出た。
玲夢が疑問をぶつけた。
「景陣と何を話していた?」
「なあに、ちょっとした武器の使い方だ」
少し不満そうな顔をして玲夢は言った。
「景陣、あんたと話してても仕方がないから帰るわね」
そして髪をなびかせながら振り返り、殷雷たちに帰ろうと指示する。自《みずか》らが先頭に立って白雲の屋敷へと向かう。
途中の道すがら、和穂は殷雷に言った。
「珍しいわね。殷雷が握手するなんて」
「……景陣という男、かなりの使い手だな。恐らく、界元とかよりも凄腕《すごうで》だ」
殷雷の言葉を聞き、玲夢は大笑いした。
「殷雷君も人を見る目がないわね。景陣なんか只《ただ》の木偶《でく》の坊さ」
「あの握手はお互いに手の内を見せるという意味があった」
「どういう意味? 殷雷」
「景陣は、俺の手の皮の固まり具合から、棍使いだときっちり見抜いた。木偶の坊に出来る芸当か」
「いや、でも、それはさ。殷雷君が棍を持っていたのを見たのよ」
「疑り深いな。俺も奴の手を触《さわ》ったんだ。あの手は五年や六年の鍛練《たんれん》で作れる手じゃないぞ」
玲夢は頑固《がんこ》に認めようとしない。
「そりゃ、子供の頃から界元に仕込まれて素振りをしてたのよ。手の皮ぐらいいくらでも厚くなるさ」
「しつこい奴だな。掌《てのひら》全部を厚くするのは誰《だれ》でも出来る。剣を操《あやつ》るのに有用な部分だけ分厚《ぶあつ》くて、他の場所は普通の皮なんだよ。
剣に有効、棍に有効、槍《やり》に有効な場所は全部違うんだ。
俺にしても、棍を使い始めたのは最近だから、まだ手にはタコは出来てない。それでも微妙に感触が違うから、奴は見抜いたんだ。
間抜けな言い回しだが、奴は平均的な達人の域に到達してる。
界元てのも似たようなものだろ。ならば、若いだけ奴の方が凄腕となるな」
必死になり否定しようとする玲夢に比べて和穂は、純粋に景陣を褒《ほ》めた。
「へえ。景陣さんてすごいんだ。でも殷雷が武器の使い方を教えてるの、初めて見た」
「ま、奴の太刀筋《たちすじ》が素直で迷いがなかったんで、ちょいと気にいったから教えてやったんだがな。
けど、俺の言ったのは所詮《しょせん》は理屈だけだから、自分の物にするにはまた鍛練が必要だ。
奴ならものにすると思う。ものに出来ないような奴には俺は何も教えん」
顔を赤らめながら、玲夢は納得しようとしない。
「どうだかね。あいつにそんな才能があるなんて、信じられないよ」
「才能なんて言葉は俺は言ってない。日頃の鍛練とそれを貫《つらぬ》く鋼《はがね》の意思、常に考えて剣を振る知性が実を結んでるんだよ」
それを認めれば、自分の存在が否定されでもするかのように、玲夢は激しく喋《しゃべ》った。
「駄目《だめ》駄目駄目駄目、そんなの嘘《うそ》さ。私は子供の頃から、景陣を知っているけどさ、そんなにたいした奴じゃないさ」
玲夢の気迫に、殷雷は圧倒された。
「いや、別に信じたくないなら、信じないのは勝手だぞ玲夢」
道士の娘は息を切らす。
「そ、そうね。景陣の事で大騒ぎしても仕方がないわ。早く家に戻りましょう」
そう言い残し、玲夢はスタスタと水田の中の道を歩き始めた。
和穂は少し呆気《あっけ》に取られた。
「玲夢さんて、結構、激しい人だったのね。意外だわ」
まだ、玲夢の声が耳の中で反響しているかのように殷雷は耳の裏を掻《か》く。
「よっぽど、景陣てのが嫌いらしいな」
おいてけぼりを食らわないよう、殷雷は早足で玲夢の後ろを歩く。
和穂は腕を組み、首を大きく傾《かし》げた。
「本当にそうなのかな?」
六
屋敷に戻ると、まだ三百人の道士たちはたむろしていた。
玲夢《れいむ》は彼らを無視して、和穂《かずほ》たちを屋敷の中へ入れた。
ざわざわと和穂たちに向かい、『上手《うま》いことやりやがったな』という妬《ねた》みが混《ま》じったような声がかけられているのを聞き、玲夢は不快で堪《たま》らなかった。
弟子《でし》入りを願うなら門を叩《たた》けばいいのだ。
それなのにお父様が少し気難《きむずか》しいという情報を聞いただけで、状況の静観を決め込む道士たちの態度が気にいらない。
気を取り直していると、すぐに使用人が現れた。
玲夢は、脱《ぬ》いだ上着を渡しながら手早く説明した。
「私の友人の、和穂さんに殷雷《いんらい》さんです。お父様に紹介《しょうかい》したいのですが」
「ならば、大広間の方に」
「判《わか》りました」
使用人が殷雷に手を差し伸べた。
一瞬|躊躇《ちゅうちょ》したが、殷雷は袖付きの外套《がいとう》と棍《こん》を渡す。
外套の下からは武道の練習着のような、動きやすそうな白い服が現れた。
袖はたいして長くなく、発達した腕《うで》の筋肉が目立つ。
使用人は外套の妙《みょう》な手触《てざわ》りに不思議そうな顔をしたが、貴重品なのだと勝手に納得《なっとく》して丁寧《ていねい》に扱《あつか》い始めた。
玲夢は玄関を上がった。
「どうぞ、こっちよ」
殷雷と和穂も後に続く。
庭に面した廊下《ろうか》を玲夢が案内した。
「わ、綺麗《きれい》なお花ですね」
手入れの行き届いた庭を見て、和穂は声をあげた。揃《そろ》えられた花に、小さいながらも池があった。
「そうよね。でも、そこの角を曲がれば、ぶち壊しになっちゃうわよ」
どういう意味なのか、考えながら廊下を曲がった。途端《とたん》、視界に黒造りの蔵《くら》が見えた。
外套と棍を手放し、落ち着かない感じの殷雷も、蔵の異様さに妙な胸騒ぎを覚えた。
「何だ、あの蔵は?」
「界元《かいげん》に勝った後に、お父様が建てさせたのよ。大工さんがぼやいていた。
光を完全に遮断《しゃだん》させつつ空気が澱《よど》まないようにするのは、骨が折れたって。
見た目は不気味《ぶきみ》だけど、ただのお父様の寝室よ」
そんな説明では殷雷は納得しない。
「待て、露骨《ろこつ》に怪《あや》しいではないか。中に、とんでもない物があるんじゃないだろうな」
玲夢が小声で答えた。
「ここだけの話だけど、私も怪しいと思ってこっそり中に入ったのよ。けど、中にはお父様の寝台があっただけでさ。拍子抜けしちゃった。
講談師もびっくりするような、猟奇《りょうき》の宴《うたげ》でも繰り広げられてるかと思ったのにね」
真顔で冗談を言う玲夢に、愛想笑いを返しつつ、和穂も蔵について考えてみた。
あの中に、宝貝《ぱおぺい》を保管しているのか? 光を嫌う宝貝? しばし考えたが鞘らなかった。
「行くぞ、和穂」
殷雷に急《せ》かされ和穂は廊下を歩き始めた。
やがて、玲夢は立ち止まり、戸板越しに部屋の中へと声をかけた。
「お父様。少しお時間よろしいでしょうか。友人を紹介したいんですが」
気《け》だるそうな唸《うな》り声が、部屋の中から戻ってきた。どう見ても、心から歓迎するといった雰囲気ではない。
玲夢はゆっくりとふすまを開け始めた。
無意識の内に殷雷は和穂の半歩前に出た。いざという時に和穂を守る為《ため》だった。
ふすまが開けきり、和穂たちにも部屋の中が見て取れた。
大広間というだけあり、かなりの広さがある部屋だった。
天井《てんじょう》も見上げるばかりに高い。
板張りの床《ゆか》の上に一人の男が座《すわ》っていた。和穂たちにちょうど背中を向けるようにしているので、その顔までは見えない。
男はどうやら碁盤《ごばん》に向かっているようだ。一人でパチパチと碁石を打っていた。
玲夢は部屋の中に入り、父親のもとへと近寄った。和穂たちもいざなわれるまま、白雲《びゃくうん》に歩み寄った。
殷雷は白雲の背中越しに、碁盤を見た。
終盤戦なのか、碁盤全体を埋め尽くすように石が置かれていた。
鼻で笑って、殷雷が尋ねた。
「ほお、どっちが優勢なのかね?」
「黒だよ」
碁盤の上に置かれているのは、黒石だけだった。
死体の冷たさのような悪寒《おかん》が、和穂の背中を駆け抜けた。この男は何かが妙だ。何かが普通ではない。
「お父様、黒石ばかりで碁を打っても仕方がないじゃないですか。さあさあ、汚《きたな》いところですが座って下さいな」
白雲は和穂たちに向き直り、和穂もゆっくりと腰を下ろした。
「こちらが、殷雷さんと、和穂さんです。
で、この人が私の父親の白雲です」
玲夢の紹介など、意にかいせず、白雲は口を開く。
鷹《たか》の眼光《がんこう》を宿した殷雷の目を逆に、にらみつけた。
「お前は武人《ぶじん》だな。嫌《いや》な目をしてやがる。力だけが全《すべ》てだとでも思っているのか?」
続いて、和穂を見据える。
「娘の道士だと? 面白《おもしろ》い冗談だ。何か術でも使えるのかい?」
和穂は首を横に振った。
「いえ、私は術が使えません」
和穂の答えに白雲は大笑いした。
「ふはは。それはいいや。正直者の道士なんてのは初めて見たぜ。
道術や仙術は皆インチキだからな」
和穂は反射的に否定した。
「そんな、仙術はでたらめなんかじゃありません」
「……自分は未熟だから、術が使えないとでも思っているのかい?」
「お父様!」
「うるさい。この世で本当の術が使えるのは終《しゅう》白雲、この私ただ一人だ」
二人の名前を聞いただけでは、白雲は動揺していない。
雨師《うし》のように俺たちの存在を知っているのではないようだな、と殷雷は考えた。
ならば、揺さぶりをかけるには、単刀直入《たんとうちょくにゅう》に言うしかないだろう。
「一人かどうかは、判《わか》るまいよ。
あんたみたいな人間が他にもいるかもしれないじゃないか。
白雲さんよ。宝貝を返してくんないかね」
さてどうでる? 逃げるか、戦うか? どちらにしろ自分が宝貝保持者と認めてもらおうか。
殷雷の思惑《おもわく》を知ってか知らずか、白雲の顔が真っ赤になった。
そして驚くべき素早《すばや》さで、床を蹴《け》り、飛びすさった。
ほお、仕掛けるか。
殷雷は殷雷で、和穂の胸ぐらをつかみ、自分の背後に放り投げた。
軽く悲鳴《ひめい》をあげて、和穂は床を転がった。少なくとも和穂を戦いに巻き込むわけにはいかない。
血をたぎらせ、白雲が怒鳴《どな》った。
「さてはこの間の盗人《ぬすっと》の仲間か! 今日こそは逃がさずに血祭りに上げてやる」
「お父様、やめて下さい!」
すがるようにつかみかかる実の娘を、白雲は足で押し退《の》けた。
そして二度と邪魔《じゃま》が出来ないように、殷雷との間合いを外し、娘との距離を開けた。
望むところとばかりに、殷雷も間合いを詰めていく。
床を飛び跳《は》ねながら、白雲は黒の道服の裾をバサバサと鳴らす。
大鷲《おおわし》が羽ばたくような音が響く。
袖の中に左手を引っ込め、ぽっかりと開いた袖口を殷雷に向けた。
あの袖の中に宝貝があるな。
殷雷は確信した。いったい何があるのか見極《みきわ》めてくれる。
袖の中の暗闇《くらやみ》が、一瞬光った。
同時に、袖から三本の矢が殷雷に向かって放たれた。
「矢の宝貝か!」
叫《さけ》びながら瞬時に矢の軌道を計算した。
目標を追尾する可能性も考慮し、最善の行動を判断した。
恐るべき集中力と共に、殷雷の肩の力が素早く脱力されていく。
棍があるならば叩き落として終《しま》いだが、素手《すで》で矢に対抗するのは、いかに武器の宝貝とて簡単ではない。
大きくかわせば、矢に追尾能力があった場合、死角からの攻撃を食らう。
ぎりぎりまで引きつけて、手で払うしか方法はない。
一度地面に当たれば、その矢は恐れるに足りない。矢の宝貝である限り、目標であろうがなかろうが、何かに当たればそこで機能が停止するはずだ。
それが矢の宿命であった。
殷雷は極限にまで精神を集中し、飛んでくる矢に手を添えた。
矢に手が触れた瞬間、力を込めて矢を弾《はじ》き飛ばす。それを三度繰り返した。
矢は全《すべ》て床に刺さった。
さすがに殷雷も安堵《あんど》の溜《た》め息をつく。
仮にも武器の宝貝だ、発射の瞬間を見せられてむざむざ飛び道具をくらいはしない。
「ふん。どんな宝貝を持っているかと思えば矢の宝貝か。
相手が悪かったな。俺は矢を想定されて造られているから、普通に撃ったんでは飛び道具はくらわないぜ」
「何をわけの判らんはったりをかましている。
ではこれはどうだ?」
右手を左手の袖に突っ込み、白雲は血の色をした指輪を取り出す。
「この指輪は何か知っているか」
「鬼神環《きしんかん》か!」
「御名答《ごめいとう》」
「待て、その指輪を使えば、お前の命もただではすまんぞ」
鬼神環。名前のとおり、使用者の肉体を鬼神のごとく強靭《きょうじん》かつ素早いものにする宝貝である。
いくつかの武器の宝貝も使用者に超人的な力を与えるが、それは宝貝の力を与えているに過ぎない。
だが、鬼神環は人間の力を引き出しているのだ。使用者はやがて自分の肉体の急激な老化というつけを払わなければならない欠陥《けっかん》宝貝だ。
仙人が使えば、老化は起こらず、急激な疲労感ですむのだが、うっかり仙人になる前の弟子が使えば大変な事になるので、和穂の師匠が封印《ふういん》した宝貝なのだ。
「盗人を成敗《せいばい》するぐらいの時間なら、充分にもつさ」
白雲の肉体にとりたてて変化はない。
だが、今の白雲は先刻までとは比《くら》べ物にならない程の力を得た。
それでも物足りないのか指輪に続いて、袖《そで》から槍《やり》を取り出す。
自分の身長の倍近くある長い長い槍だ。
殷雷の頭は少し混乱した。
『宝貝は一つではなかったのか? 鬼神環と袖の中にある宝貝? どういう事だ』
ともかく槍は宝貝ではなさそうなのが、殷雷にとって唯一《ゆいいつ》安心できる点だった。
上等な武器と、宝貝の武器を一瞬で見分けるのは困難《こんなん》だが、刃に少しとはいえ錆《さび》が浮いている槍が宝貝であるはずがない。
だが、鬼神の動きで攻められれば、殷雷には少し分《ぶ》が悪い。
せめて武器があれば。
殷雷は棍がないことに歯ぎしりをした。何とかして棍を取り戻したい。
鞘《さや》と一緒《いっしょ》に置かれていてくれよ。
殷雷は祈りながら精神を集中した。鞘と刀はまさしく一心同体である。
少しぐらい離れていても、その在《あ》り処《か》は本能的に判るのだ。
右の背後に、体が引っ張られる感覚が殷雷に伝わった。
「こっちか!」
槍を構え、猛牛のごとく突っ込んでくる白雲をあしらい、殷雷は鞘が呼ぶ方角に方向を転換した。
一刻の猶予《ゆうよ》もありそうにない。長引けば白雲の肉体の老化も激しくなるはずだ。
それは和穂の望まない事だ。出来るだけ被害を最小限に抑《おさ》えて宝貝を回収するのが、和穂の何よりの願いなのだ。
それを無視するわけにはいかない。
殷雷はふすまを蹴《け》り破った。
遅れずに白雲も後を追う。
背後から繰り出される槍の攻撃を巧みに避《よ》けて、殷雷は廊下を走った。
出来るだけ体勢を低くし、単調な動きにならないように気をつけて。
白雲は、むやみやたらに槍を突き刺す。
床を踏み抜きそうな足さばきで、殷雷は廊下を走り続けた。
緊張で、殷雷の黒く長い髪が逆立《さかだ》ち、槍の狙《ねら》いを正確に殷雷に伝えた。
正にこの髪のおかげで、殷雷は後ろに目がついているも同じであった。
空気中に存在する微弱な雷気《らいき》の変動を、敏感《びんかん》に髪が察知《さっち》しているのだ。
武器の宝貝である殷雷には、よほど上手《うま》く虚《きょ》を突かない限り、隙《すき》は出来ない。
「ええい、ちょこまかと!」
白雲は次第《しだい》に焦《あせ》り始めていた。
そしてついに殷雷は玄関の横に立てかけられている棍を見つけた。玄関の横の部屋に鞘が転じた外套は吊《つ》るされているようだが、取り敢《あ》えず、今は着用している暇はない。
殷雷は攻撃を紙一重《かみひとえ》で避け、棍を手に取った。
槍が玄関|脇《わき》の柱に刺さるが、すぐに抜き戻された。柱のささくれが宙に舞い、殷雷の頬《ほお》を少し傷つけた。
棍を持った殷雷が、瞬間的に振り向いた。
慌《あわ》てて白雲も足を止めた。
大きく棍を振りかぶり、殷雷は左足を一歩前に踏み込んだ。
強い踏み込みは屋敷全体を震撼《しんかん》させた。
「さて、いよいよ反撃といくぜ」
頬のささくれを拭《ぬぐ》い殷雷はにやりと笑った。
笑いの残像を残しながら、殷雷は白雲に突っ込む。無数の棍の突きが白雲を襲う。
が、鬼神の力を持つ白雲は、それを必死になりながら打ち払う。
打ち払っているのだが、だんだんと殷雷の力に押され、後ずさっていく。
殷雷の頭からは、既に自分が敗北する可能性が全く消えていた。
今、殷雷が考えているのはどうやって白雲の武器を打ち払い、動きを封じ込めて宝貝を取り返すかだけだ。
そこに僅《わず》かな慢心があった。
いかに鬼神の力を得たといっても、もともと武道のたしなみがない白雲、動きに無駄《むだ》が非常に多い。
すでに殷雷は白雲の動きに、致命的《ちめいてき》な隙を何箇所も発見していた。
だが、致命的な隙だ。
白雲を打ち殺すつもりならば、その隙に渾身《こんしん》の一撃を見舞うだけでいい。だが、殺すわけにはいかない。
加減して打てるだけの隙はまだ見つからない。
しかし、しばらくの辛抱《しんぼう》だろう。動きに焦りが見えだしたのは、明らかに殷雷よりも白雲だったのだ。後は、致命的な老化が始まる前に、けりをつければいい。
じりじりと押され、やがて白雲は再び大広間に戻っていった。
疾風《しっぷう》のようにせわしなく動き回る上半身に比《くら》べ、足元はすり足のごとくゆっくりと慎重《しんちょう》に動く。
二人の激闘を見て、和穂が声をあげた。
「殷雷!」
殷雷には口をきく余裕すら出ていた。
「判っている。殺したりはせん。戦いの邪魔《じゃま》にならないように、玲夢と後ろに下がっていろ!」
玲夢には父親の動きが信じられなかった。まさに達人の動きとはこういうものを言うのだろうか? それに殷雷にしても、武人さながらだ。
言葉もなく、玲夢は二人を見守るだけであった。
後ずさる白雲の足が碁盤に触れた。そのせいか、槍を操《あやつ》る集中力に、むらが出来た。
見逃《のが》す殷雷ではない。
雷《かみなり》のごとく素早い一撃が、白雲の両手を打つ。
槍は手から離れ、地面に落ちようとした。殷雷はさらに鋭い一撃を白雲の道服の左袖に放った。袖の中の宝貝を見極《みきわ》めなければならない。
棍の衝撃で袖は裂け、ボロ布のようになる。裂け目からそれは滑《すべ》り落ちた。
掌に包み込めそうな程の小さな手鏡であった。柄《え》はない。
殷雷の髪が、不吉な予感に逆立《さかだ》った。この鏡は危険だ。理由は判らない、この宝貝とおぼしき鏡の名前も判らない。
だが、この気配《けはい》は危険すぎる。白雲に感じた禍々《まがまが》しさは、この鏡から放出されていたのかもしれぬ。
例《たと》えて言うなら、底の見えぬ古井戸《ふるいど》を覗《のぞ》き込む時の戦慄《せんりつ》、千尋《せんじん》の谷に身を乗り出す恐怖だろうか。
何か、普通の欠陥宝貝とは格が違う気すらした。
白雲は脇目も振らずに、鏡を拾おうとしていた。殷雷、鏡、白雲の位置関係からして、白雲に鏡を渡さない方法は二つしかない。
一つは鏡を拾おうとしている白雲の後頭部を打って殺す。
一つは棍の一撃で鏡を割るのだ。
殷雷は手鏡の鏡面に向けて、真鋼《しんこう》の一撃を繰り出す。
白雲相手に繰り出したような手加減は一切《いっさい》加えず、まさに渾身の一撃である。
ガキュィィン!
耳をつんざくばかりの音がした。だが、これは物体を破壊した音ではない。
棍は鏡を割れなかったのだ。
仮にも武器の宝貝が自分の力を全《すべ》て乗せて行った攻撃に耐えられる宝貝はそうはない。
仮に鎧《よろい》の宝貝だとしても、耐えきれるものではない。
それを鏡の宝貝が受け止めたのだ。殷雷の思考が一瞬、真っ白になる。
空白の間に、白雲の手が鏡に届く。
白雲は勝利を確信する。
鏡に触れたままの棍が、虹《にじ》色の光をあげ始めた。それと同時に、棍の一撃を受け止めた鏡面が、水銀のように揺らめいていく。
殷雷は、慌《あわ》てて棍を離す。
いくつもの光に分解しながら、棍は鏡の中に沈んだ。
白雲の唇《くちびる》の片方が、つり上がった。
残虐《ざんぎゃく》な笑みだ。途端《とたん》、何かが殷雷の眉間《みけん》を打った。
白雲からは全く目をそらしていない。鏡からの攻撃でもない。
今のは何だ! 驚きながらも、殷雷は一瞬目をつぶってしまった。
と、同時に殷雷は自分の体に鋭い衝撃を受けた。
あまりの衝撃に、一瞬、殷雷の体の輪郭がぶれた。しかし、ここで変化を解くわけにはいかない。必死になって堪《た》えた。
何事かと自分の体を見てみると、脇腹に三本の矢が刺さっていた。
白雲が新たに撃ち直したのではない、さっき床に叩き落とした、矢だ。
殷雷はひざをつく。床に殷雷の血が滴《したた》る。血溜《ちだ》まりの中には黒い碁石があった。この碁石が殷雷の眉間を撃ち、矢が刺さるような隙《すき》を作ったのだ。
「殷雷!」
和穂が突然走りより、自分の背中に殷雷をかばった。
殷雷の出血がさらに酷《ひど》くなり、顔が真っ青になっていく。
「ふむ。盗人には盗人らしい無残な死に方をしてもらおうか。
田楽《でんがく》刺しだ!」
白雲は地面に落ちた槍を拾う。
穂先をゆっくりと和穂に向けた。
尖《とが》った刃が和穂の喉笛《のどぶえ》に肉薄した。
和穂は恐怖に負けじと、白雲の目を見つめ続けた。
「お父様! これ以上、私の客人に乱暴を働けば許しません!」
玲夢の魂《たましい》からの叫《さけ》びだった。
「黙るんだ玲夢よ。盗人にそれなりの制裁を加えようとしているだけではないか」
「お父様は、人を見る目をなくしてしまったのですか! 和穂の目が盗人の目だとでもおっしゃるのですか」
とんだ水を差されたもんだと言いたげな表情をして、白雲は槍の構えを解く。同時に和穂の全身から冷汗《ひやあせ》が滝のように流れる。
白雲は言った。
「今回は、今回は玲夢に免じて許してやる。だが、次に妙な真似をしたら加減はせぬぞ。この方返鏡《ばんぺいきょう》の前に敵はいないのだ」
言い残して、白雲は部屋から出ていった。
玲夢のおかげで、なんとか危機を乗り越え和穂はホッとした。だが殷雷は大怪我《おおけが》を負ってしまったのだ。
「殷雷」
片手をつき、必死に意識を保とうと努力する殷雷は、うわごとのようにつぶやいていた。
「あの鏡は……それに……矢に後《おく》れを取るなど、矢に後れを取るとは、矢になんかに」
脇腹から流れている血は空気によって乾燥し、嫌《いや》な粘りけを増していた。
七
医者としての使命に燃えたのか、玲夢《れいむ》の指示は簡潔かつ適切だった。
すぐに使用人たちを呼び寄せ、殷雷《いんらい》を客間に運ばせた。自分は自室にある漢方薬《かんぽうやく》を取りに行った。
薬を抱《かか》えながら客間に行けば、殷雷は寝台に腰を掛けていた。苦痛を顔に浮かべながら微《かす》かに笑う殷雷より、和穂《かずほ》の表情の方がよっぽど深刻だった。
「殷雷君、寝ていなさい。
治療は私がします。お父様の無礼《ぶれい》はなんと言って謝《あやま》ればいいのか。どうか怪我《けが》が治《なお》るまでは滞在して下さい」
「へ、へ、へ、自分の体の世話ぐらい自分で出来るぜ。
そうだな、熱い湯とサラシ布でも持ってきてくれれば、それで充分だ」
「駄目《だめ》です。応急処置ぐらいで、怪我を放っておいてはいけません」
「ふん。いきなり医者みたいになっちまったな」
「いいから傷口を見せなさい。矢の先が内臓に達していたら大変でしょ」
武人《ぶじん》のやせ我慢《がまん》の恐ろしさを玲夢は知っていた。少しぐらい内臓が傷ついても平気で動き回る。その結果、傷口が腐り壊疽《えそ》を起こし死んでしまうのだ。
和穂はどうしていいのか、オロオロするばかりだった。
殷雷は呑気《のんき》に答えた。
「別に死にはしない。玲夢、そこまで言うのなら傷口を見せてやる。腰を抜かしても知らないぞ」
「……主《おも》に漢方を学んだけど、少しぐらいの縫合《ほうごう》なら出来るのよ。どんなに酷《ひど》い傷口でも驚いたりはしない」
薬を寝台の上に置き、殷雷の服を傷口に触れないようにそっと脱がせた。
思っていたより酷い怪我だ。三本の矢は近い場所に刺さったために、脇腹の一部が完全にえぐられた形になっていた。
しかも一本は肋骨《ろっこつ》と肋骨の間をかなり深く刺さったようだ。本当に内臓が傷ついているのかもしれない。
その時、使用人が気を利《き》かせて湯と沢山《たくさん》のサラシ布と糸と針を持ってきた。
玲夢は軽くうなずき、使用人に和穂を連れて席を外すように指示をだす。
だが、殷雷は首を横に振った。
「いや、和穂はここにいろ」
「殷雷君、こんなに酷い怪我を和穂ちゃんに見せるつもり? それとも一人じゃ心細いとでもいうの」
「怪我人に厭味《いやみ》を言うな。和穂はこれぐらいの怪我を見て卒倒《そっとう》するような娘じゃない」
和穂もうなずく。
「はい、大丈夫《だいじょうぶ》です玲夢さん」
必死になって大丈夫だと言ったのなら、玲夢はこの部屋から無理にでも追い出しただろう。
だが、和穂は辛《つら》そうな顔をして、今の言葉を言った。
この子、見掛けによらず壮絶《そうぜつ》な人生を歩んでいるんだと玲夢は気がつく。
人の死を目《ま》の当たりにした事もあるのだろう。それも酷い怪我で死んだ人間を見たのだろう。
「判《わか》った。そこにいて」
湯が冷めぬうちに、殷雷の傷口を洗おうとした。幸い、出血は止まっていた。
止まっている? この酷い怪我なのに?
だが、疑問を覚える暇はない。サラシに湯を含ませて血を拭《ぬぐ》う。殷雷の傷口がはっきり玲夢の目に見えた。
「げ」
「げ。はなかろう。人の傷を見て医者の言う言葉か?」
玲夢の体は硬直した。これは人の体ではない。いや少なくとも玲夢の知っている人体ではない。恐ろしい、こんな事があっていいのだろうか。
「そう驚くな。別に騙《だま》すつもりはなかったが俺は人間じゃないんだ。俺は刀なんだ。
刀の宝貝《ぱおぺい》。宝貝という言葉ぐらいは知っていよう」
「し、知っているけど、そんなので説明にはならないさ。あんなのはお伽話《とぎばなし》の迷信さ」
「お、動揺してやがるな。説明は面倒《めんどう》だ。よく見てろよ」
途端《とたん》、殷雷の体は軽い爆発音をたてた。そして次の瞬間には、一振りの抜き身の刀が寝台の上に横たわっていた。
度胆《どぎも》を抜かれながら、玲夢は恐る恐る刀を握った。同時に玲夢の心の中に直接声が響いた。
『どうだ、本当だろ?』
「わ!」
玲夢は刀を放り投げた。空中で刀は爆発して再び人間の姿に戻った。
「怪我人を投げるな! いてて」
「す、すまん。ちょ、ちょっと考えさせてちょうだい」
玲夢は胸を押さえ、荒い息を吐く。
殷雷は和穂を呼び寄せた。
「和穂。いい機会だから説明しておく」
「何? 殷雷」
サラシを手早く傷口に巻きつけながら、殷雷は説明を始めた。
「俺の体はそう頑丈《がんじょう》には出来ていない」
「でも、炎《ほのお》や疫病《えきびょう》には平気だったじゃない。それなのにどうして矢なんかに?」
「刀の宝貝としての属性と、人としての属性が俺の中にはある。
人の姿を取るというのは、人の弱点をも背負う意味があるんだ」
「……よく判らない」
「人と同じ動きをするには、人と同じ場所に関節が必要だ。関節があれば関節|技《わざ》の対象になるだろ。
人と同じように力を出すには、人と同じような筋肉が必要だ。文字どおり鋼《はがね》のように固い筋肉では、人の動きは再現出来ない。
人の形を取るとは、人の柔軟《じゅうなん》さまで再現しているという意味だ。刀の宝貝の頑丈さは失われる」
「でも、炎が大丈夫というのは」
「それは宝貝の属性だ。いくら柔《やわ》らかくなっても宝貝は宝貝だろ。
炎や寒さに耐え、病気にかからないという形質は残っている。
それと少しぐらいの怪我は平気だ。人間が自分の生命を維持する為《ため》の機能は俺にはないからな。簡単に言えば、俺には内臓はない。
なあ玲夢よ」
玲夢はまだ、頭を抱えて口をパクパクさせていた。
和穂は尋ねた。
「でも、内臓がなくても、殷雷は物を食べるじゃない?」
「俺の材質の同化作用に過ぎん。人の食い物は吸収出来るように作られているんだよ」
「全然判らないよ殷雷。生命を維持していないならどんな怪我でも死なないの?」
「宝貝すら破壊するだけの衝撃を食らえば、勿論《もちろん》俺は死ぬ。その時は血ではなく、鋼の残骸《ざんがい》を撒《ま》き散らすだろうな。
あと、大きい衝撃を受けると、変化が解けて刀の姿に戻ってしまう。少しでも自分の命を守ろうとする本能だ。俺に限った話じゃなく、人の姿を取れる宝貝は全部そうなんだがな」
「宝貝すら破壊する衝撃だと、宝貝に戻っても破壊されるから、宝貝としての残骸を撒き散らすの?」
以前、陽炎炉《ようえんろ》という人形《ひとがた》をとる宝貝の頭が吹き飛ばされた時の事を和穂は思い出した。
あの時は、陶器の破片が辺《あた》りに飛び散ったのだ。
「そうだ。宝貝に戻る途中で吹っ飛ばされる可能性もある」
和穂は殷雷の説明を聞き、ゾッとした。それなら殷雷の体は、和穂のような普通の人間とたいして変わらないのだ。
それなのに殷雷は自《みずか》らを戦いの中に置いているのか。自分の腕だけを信じて。
心の動揺を落ち着かせる為、和穂は別の疑問を殷雷にぶつけた。
「ねえ、殷雷。白雲さんの持っている宝貝を知っている?」
「……知らん。棍《こん》を吸収したから断縁獄《だんえんごく》のような宝貝だと思うんだが。それだけでは割り切れまい。
鬼神環《きしんかん》は人間の寿命《じゅみょう》を消費して、力を増大する宝貝なのだが。鬼神環の反応に気がつかなかったのは、あの方返鏡《ばんぺいきょう》の中に入っていたからだろう。ぶっ壊れた索具輪《さくぐりん》じゃそこまで判別出来まい」
和穂は白雲が、自分の意思で碁石《ごいし》を飛ばした現場を思い出した。
「あの碁石はどうして飛んだの?」
「正直言って、全然判らん。あの鏡が中に吸収した物を打ち出す宝貝だとしても、あの碁石の謎《なぞ》は解けぬ」
「矢と碁石は、同じ理屈で動かしたんじゃないかしら?」
和穂の意見に殷雷はうなずいた。一度|床《ゆか》に刺さった矢が再び宙を飛び、置かれた碁石が弾丸のように跳《は》ねる。同じような動きに見えなくはない。
「でも、どういう理屈だ?」
「判らないよ。でも何か相当危険な気がするんだけど」
「確かにな」
落ち着きを取り戻した玲夢がやっと口を開いた。
「いったい、お父様はどうしてしまったの? あの鏡は? それにあなたたちは何者なの?」
殷雷は苦笑しながら答えた。
「俺はどこにでもいる、ごく普通の刀の宝貝だよ」
和穂も答えた。
「私は道士なんかではなく、仙人なんです。もっとも今は資格を剥奪《はくだつ》されて、全く術が使えないんですが」
「……あんな刀を見せられて、否定しても仕方がないようね。でも、そんなあなたたちがどうしてここに? お父様に関係があるのね」
和穂は玲夢の目を見て説明を始めた。
「話せば長くなるんですが、簡単に言えば私たちは地上にばらまいてしまった、宝貝を集めているんです。白雲さんは、その宝貝を持っている可能性が強いんです」
どう反応するのか、楽しむように殷雷は玲夢の顔を見ていた。玲夢は少し困りながら返事を返す。
「信じる信じないの話じゃないようね。
判ってる、あんたたちを信用するさ。ともかく宝貝とかを回収すればいいんでしょ? そうすれば、お父様も以前のようになるんだね。宝貝の秘密を知った者は皆殺しだ。なんて言わないよね」
「当たり前だ馬鹿者。お前に協力してもらえると嬉《うれ》しいんだがな」
「協力する。でも、殷雷君。しばらくは休んでいた方がいい。いくら怪我に強いと言っても一日や二日で治るわけじゃないんでしょ」
「そうも言ってられるか。ともかく動くぐらいは出来る」
「駄目。無茶は絶対に禁物。その間に私がお父様の宝貝について調べる」
「その方が無茶だ!」
「大丈夫よ。お父様も私が相手なら酷い事もしないでしょ」
「しかしだな」
玲夢は、サラシの上から、殷雷の傷に触《さわ》った。
「はうわ!」
激痛に殷雷は寝台に引っ繰り返った。
玲夢は言う。
「そんなんじゃ無理でしょ。大丈夫、和穂ちゃんと私で何とかしてみる」
傷口を押さえ、悶絶《もんぜつ》しながら殷雷は怒鳴《どな》った。
「傷口をいじって言いなりにするなんて、医者のする事か!」
「文句があるなら怪我を治してからにして。これは私の問題でもあるのよ。
殷雷君、判ってちょうだい」
真面目《まじめ》な顔で言いながら、玲夢は両手を今にも怪我に触るぞという風にニギニギと動かしていた。
「そ、その手はやめろ!」
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第二章『少しだけ仙界』
一
巨大な鳳凰《ほうおう》(正確には雄《おす》なので鳳。ちなみに雌《めす》が凰だ)、の背中に寝転がりながら、龍華《りゅうか》は舌打ちをしていた。
どこまでも続く空、高い山々。天に輝く日の光、無数の人間が夢に見た理想郷、ここは仙界である。
仙界の空を鳳凰は龍華を乗せたまま、優雅に飛んでいた。
時代は、和穂《かずほ》が宝貝《ぱおぺい》をばらまいてしまった事件からざっと七百九十年程昔である。
和穂の師匠《ししょう》である、女仙人龍華も道士の身分から晴れて仙人になってまだ五年しか経《た》っていない。
それでも龍華の姿は、和穂の知る姿とたいして変わっていなかった。はっきりとした目鼻だちに、黒く長い髪。赤い道服に無数の装飾品。
これだけ装飾品をつけても下品にならないのは、装飾品を遥《はる》かに上回る、龍華の美貌《びぼう》があってこそだろう。
だが、まだ少し精神的には未熟なようであった。
気の強そうな眉毛《まゆげ》を吊《つ》り上げて、龍華は悪態《あくたい》をついていた。右手を袖《そで》の中にしまい、左手を枕《まくら》に鳳凰の背に寝転がりながら。
「くそう。なんてこった」
龍華の腰に括《くく》られている、ひょうたんが言葉を発した。
このひょうたんは宝貝であった。名は四海獄《しかいごく》。
「どうするんですか、龍華様。やはり師匠に報告された方が」
「うるせい。自分の始末ぐらいは自分でつける。
私のやるとおりにすれば、間違《まちが》いはないんだよ」
やるとおりにやって、あんな失態《しったい》を起こしたくせに、と四海獄は思ったが言葉にはしないでおいた。
鳳凰は飛び続け、山を抜け、やがて真っ青な海に出た。
心地好《ここちよ》い潮風《しおかぜ》に吹かれながら、海をしばらく進み、鳳凰は高度を落としていく。
そのままでは海面に墜落《ついらく》するほど低空飛行になり、あっさりとそのまま水の中に入っていった。
海水の中でも、鳳凰は全く空と同じように羽ばたき続けた。龍華も海の中に入った事を全く意識していない。
たまたま、そこは空気の代わりに海水があるだけだといった感じだ。
草の代わりに海草があり、鳥の代わりに魚が泳いでいるのだ。
鳳凰は海中を飛び続け、やがて海底にそびえる山に着く。
龍華は鳳凰から飛び降りると、山の中にある洞窟《どうくつ》へと向かった。
海水の中で、龍華の髪がゆっくりとたなびいた。
取り敢《あ》えずの仕事を果たした鳳凰は毛繕《けづくろ》いを始めながら、愛《いと》しい妻の事を考え始めた。
*
洞窟の入口には細い石の柱が建ててあり、柱には虎壮洞《こそうどう》との文字が書かれていた。
だが、龍華は気にもせずに、洞窟の中へと進んでいく。右手を袖の中にいれたままであった。
洞窟の中は見た目よりも広く、巨大な空間が広がっていた。そして洞窟の中には立派《りっぱ》な門構えの屋敷があった。
龍華は門を叩《たた》き、大声をあげた。
「護玄《ごげん》、いるか! 私だ、龍華だ」
声が響くと同時に、門がきしんだ。海水を震わせる音をあげ、門が開かれていく。
門の向こうには一人の男が立っていた。
たいして飾り気《け》のない普通の白い道服を着た、目の細い男だ。龍華の姿を見て取ると、少し眉間《みけん》に皺《しわ》がよった。
護玄の表情が見えているのか、龍華は妙《みょう》に明るく振る舞う。
「やあ、護玄。遊びに来たよ」
護玄は冷静に言った。
「……龍華、何をしでかした」
「ちょいとそれはどういう意味よ」
「お前が明るく振る舞って、俺の屋敷に来る時は絶対に無理難題を吹っかけるではないか? 今日は何の頼みだ」
「うむ。毎度|鋭《するど》い男だね。少し困った事件が起きたんだ。手を貸してくれ」
護玄は大きく溜《た》め息をつく。
「何だ、心の準備はお前の顔を見た時から出来ている。言ってみな」
「うん。宝貝を盗《ぬす》まれちゃった」
細い目を極限にまで見開き護玄は叫《さけ》ぶ。
「な、何!」
「まあまあ、落ち着いて。
盗まれたのはたったの二つで、盗んだのは性悪《しょうわる》な狐《きつね》だってのも判《わか》っているんだ。盗まれる現場を四海獄が見てたからね。見てるぐらいなら、何とかすれば良かったのに」
龍華の腰から言い訳が返った。
「もし、私が声を出していたら、私も盗まれてましたよ」
護玄はうなずく。
「もっともだ。そういう事なら、師匠に連絡した方がいい」
「まあ、待ちなさい護玄。今度の不祥事《ふしょうじ》を私は本当に反省しているんだ。
出来れば責任は自分で取りたい。だから師匠には黙っててちょうだい。護玄はちょっとだけ手を貸してくれるだけでいい」
「理屈を言っても無駄《むだ》だ。お前は師匠が怖《こわ》いだけなんだろ」
「いや、まあそれもあるし、あんなかったるい弟子《でし》生活をやっと終えたばかりなのに、また弟子に戻されたらたまらないじゃない。さ、四海獄からも護玄先生にお願いして」
「真《まこと》に申しわけありませんが、護玄様、龍華様を御友人だとお考えなら、手を貸してやって下さいませんか」
「なんで、お前が造ったのに、四海獄はお前よりもしっかりしているんだ? 俺はそれが知りたくてたまらないぞ」
「……最近感じるんだが、私には宝貝を造るのに、天才的な才能があるんではないか?」
護玄は黙って門を閉めようとした。
「冗談だ護玄、手を貸してくれ」
呆《あき》れた顔をして護玄は言った。
「判った。盗まれた宝貝の性能と、狐の居場所を教えろ。取り返してきてやるから」
龍華の顔が真顔になった。
「駄目《だめ》だ。それでは自分の責任を果たした事にはなるまい、宝貝は私が取り戻す」
「だったら、こんなところで油を売ってないで早く行ってこい」
「だから、護玄の手を貸してくれ」
「いったい俺にどうしろというのだ」
龍華は右手を袖の中から出した。護玄はその手を見て驚いた。龍華の手首から先が鋭利な刃物で切られたかのように、スッパリと切断されなくなっていたのだ。
「! どうしたその怪我《けが》は? 待ってろ、仙丹《せんたん》を持ってくる」
「いや、いいんだ」
「いいわけあるまい」
「ちょいと事情があるんだよ」
「……詳《くわ》しく話してみな」
*
護玄の屋敷の中は質素だが、頑丈《がんじょう》そうな作りの家具ばかりだった。ただの椅子《いす》でも、一種の機能美というものが感じられた。
護玄は龍華を屋敷の中に入れ、そして椅子に座《すわ》らせ事情を説明させた。
腹立たしそうに、龍華は説明を始めた。
「武器の宝貝をどこまで鋭く出来るかという研究を兼ねて、一振りの剣を造った。
名を愚断剣《ぐだんけん》といって予想を遥《はる》かに超える切れ味を持たせられたよ。が、あれは切れすぎた。まず、この愚断剣が盗まれた宝貝の一つだ。
もう一つは万返鏡《ばんぺいきょう》という宝精《ほうせい》の宝貝だ」
護玄はうなずく。
「ああ、あの金や銀を入れれば、幾らでも取り出す事が出来るという宝精系のやつだな。剣はともかく、お前にしちゃ結構、普通の宝貝じゃないか。地味な割りには造るのが難《むずか》しいだろ」
「いや、それでは面白《おもしろ》くないので、ちょっと工夫をしてみた」
「宝精の宝貝の何を工夫するのだ」
「鏡の中に吸収したら、いくらでも取り出せるってのはそのままで、取り出した物は使用者の意思のままに動かせるという機能を付けてみた」
こめかみをひくつかせ、護玄は指摘した。
「いきなり、宝精の宝貝の域を超えているではないか。人はそういう厄介《やっかい》な道具を何というか知っているか? 武器というのだ」
「まあ、そう言うな。完全な複製はやはり難しかったから、取り出せるのは仙気の精華で造った精巧な複製なんだ」
「まて、つまり一度鏡の中に吸収した物を、鏡の中から取り出しても、それは本物ではなくて複製なのだな?」
「そう。仙気を使ってるから物質、非物質の両方の複製が可能でね。
この二つの宝貝が人間にやっと化《ば》けられる程度の妖狐《ようこ》に盗まれた。
四海獄からそれを聞いた私はすぐに取り返しに行ったんだ。
だが、あの愚断剣の馬鹿野郎は、狐に使われて製造者である私に切りかかってきた」
「それで、右腕を落とされたのか?」
「そうだ。しかも落とされた右手は万返鏡に吸収された」
「……よく判らんが、すごくやばいのではないか?」
「そのとおり。大正解。片手で印《いん》を組む仙術は使いたい放題になる」
「何!」
「だが、右手を再生しない限りは、あの手は私と繋《つな》がっているような物だ。いかに万返鏡といえど、生きている仙人の手を複製するわけにはいかん」
「そうか。それで新しい腕を生やさないのだな」
「で、悪い事に、狐との戦いでいくつかの術を使ったのだが、これも万返鏡に吸収されてしまってな。
万返鏡はこの術、まあ簡単な火炎術なんだが、を自在に操《あやつ》るようになってしまった」
「……厄介だな。術を吸収出来るのなら、簡単には戦えないな」
「そこが問題なんだ。あの鏡は危険すぎると今更ながら気がついたのだ」
「でも、策は考えたのだろ?」
「うむ。あの鏡にとって天敵となる宝貝を造ろうと思う。設計はすましたのだが、この手では造れない」
「……俺に造れというのか? まさか、それで『手』を貸せと言っていたのか」
「ま、そうだ。それほど複雑じゃないので三日も徹夜すれば完成する」
仙人は基本的に睡眠などとらない。だが、極度に精神を集中した場合、疲労が溜《た》まり休息の意味を込めて寝る場合もあった。
龍華は、睡眠が必要な程の精神集中を睡眠もとらずに、三日間連続で行えと言っているのだ。
「三日の徹夜ぐらいしてやるが、設計図に間違いがないかの確認に、十日はかかるだろ?」
「何を言うか、私の設計に間違いはない」
「説得力のかけらもないぞ。愚断剣にしろ万返鏡にしろ欠陥宝貝じゃないか」
「今度は大丈夫《だいじょうぶ》。もし万が一欠陥があったとしても、責任は私が取る。設計は私なんだから、あくまで私が造った宝貝なんだよ。護玄先生の輝かしい経歴に、傷はつきませんぜ」
「つまり、俺はお前の助手扱いなのか?」
「……そこまでは言わないが、似たようなものだ」
「それはいいとしてもだな」
「護玄。結構、状況は切迫していると思うんだがね。狐が事件を起こしてからでは、遅いんだよ」
しぶしぶ、護玄は首を縦に振った。
「判った。すぐに宝貝の製造に取り掛かろう」
「すまんな護玄。恩にきるぞ。四海獄、設計図を出して」
しゅぽんと音をたて、ひょうたんの中から分厚《ぶあつ》い紙の束《たば》が現れた。
護玄は手早く宝貝の設計図に目を通す。
荒々しい墨文字《すみもじ》が、紙の上をのたくっていた。
「相変わらず豪快な字を書く奴だな」
「字なんて読めればいいんだよ」
護玄は椅子から立ち上がり、工房へと向かった。龍華も後につづく。
工房の中ではありとあらゆる工具が整然と並んでいた。
龍華は、巨大な工具入れの引き出しを幾つか開けた。
「これだけ整頓《せいとん》しても、どうせ宝貝を造るとなれば散らかるのに。お、いい槌《つち》じゃないか、真鋼《しんこう》製か」
護玄は部屋の隅にそびえる、大きな八卦炉《はっけろ》に真火《しんか》を灯《とも》し始めた。
「では、始めるぞ。お前も少しは手伝うんだろうな」
「道具の受け渡しぐらいならね」
護玄は設計図の最初の項に目を通した。
真火の炎《ほのお》が、水の中の工房を明るく照らし始めていた。
*
三日後。
目の下に隈《くま》を作りながら、護玄は完成したばかりの宝貝を龍華に渡した。
「ほれ、出来た。悪いが、俺は仙丹でもかじって寝る。上手《うま》くいったら教えろよ」
「ああ」
それは小さな鐘だった。新しい鋼だけが持つ、黄金よりも強いきらめきを持つ鐘であった。
鐘の上部には握る為《ため》の棒があり、それも鋼製だ。普通に使うなら、そこを持ち、振れば音が出るはずだった。
龍華は護玄の洞窟から出ていった。鳳凰はおとなしく主人の帰りを待ち続けていた。
龍華は鳳凰の頭を撫《な》でる。
そして手に持つ鐘を空中に放り投げた。微《かす》かな爆発音をたてて一人の青年が姿を現す。
青年は龍華に膝《ひざ》を折り、礼をとった。
「万波鐘《ばんぱしょう》よ。最初、私はお前に人の形や意思を与えないつもりでいた。
お前の機能というのは万返鏡という宝貝を封じ込める為のものだ。それ以外ではない。
だが、万一私があの鏡を封じ損ねた時の為に、お前に人の形と意思を与えた。
お前は人形《ひとがた》をとっている時は、鐘の機能が使えない。いざという時には、万返鏡と戦う人物に使ってもらえ。
万返鏡と、万波鐘、その運命の糸を私は絡むように造った。判るか?」
「……理解できません」
「たとえお前が見事|封印《ふういん》を鏡に施《ほどこ》しても、それだけでお前の役割が終わったのではない。
永遠の時間の中で、万返鏡はお前の封印から逃《のが》れるかもしれぬ。だが、そうなっても、運命は必ず、お前たちを引き合わせるようにした。
あのまま、幾つかの仙術を吸収すれば、あの鏡の保持者は、仙人すら超える者になってしまう。とてつもなく危険だ。
万波鐘は万返鏡の天敵なのだ。この使命に耐えられるか?」
「元より、私はその為に造られた物。使命を全《まっと》うするのに迷いはありませぬ」
「そうか。お前の心はその本質である鋼の心でもある。鉱物の持つ、永遠に耐えうる力強さを見せておくれ。では行こう、あの鏡を封印しに」
再び爆発し、万波鐘は元の姿に戻った。龍華は鐘を袖《そで》の中に入れ、鳳凰にまたがった。
鳳凰は大きく羽ばたく。
*
海よりも広い湖のほとりに狐はいた。
鳳凰にまたがった龍華が現れても、全く驚いてはいない。
「また、来たか。今度こそ討ち倒してくれるぞ」
龍華は狐の言葉を無視して鳳凰に言った。
「先に帰ってて。もうじき奥さんに子供が生まれるのに、無理言ってごめんなさいね。
産後の肥立《ひだ》ちに良さそうな果物持って行ってあげるからね」
鳳凰は羽ばたき、仙界の空に消えた。
「ほお、俺を無視しようというのか!」
龍華は冷たい目で狐を見据えた。
「狐よ。中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な変化は見苦しいだけだ」
人の形を取っているが、顔は狐のままだった。服の裾《すそ》からは尻尾《しっぽ》が見えていた。
背中に背負っている愚断剣が、禍々《まがまが》しく黒光りしていた。
「黙れ、俺はこの宝貝を使いこなせるようになったぞ!」
狐は鏡を構えて、気合を入れた。途端《とたん》に鏡から無数の矢が飛び出す。イナゴの大群のように数限りない矢が仙人を襲う。
「さあ、どうした。術を使って避《よ》けてみろ。その術を取り込んでやるぞ」
龍華は懐から鐘を取り出し、一回だけ鳴らす。
恐ろしく薄い陶器を弾《はじ》いたような、澄んだ音が周囲に広がった。
音の直撃を受けた矢は、ぐにゃりと歪《ゆが》み、光の束となって消えてしまった。
「な、何だ今のは! ではこれでどうだ」
続いて鏡から練炎が真紅《しんく》の蛇《へび》のように飛び出す。龍華に絡みつき、焼き殺そうとぐるぐると回りだす。
が、再び鐘を鳴らすと、炎はやはり熱のない光になって周囲に飛び散る。
狐の顔が恐怖に引きつった。
「こ、この鏡に対抗出来たとしても、愚断剣には通用しまい!」
狐は万返鏡を投げ捨て、剣を抜き、大上段にふりかぶり龍華に襲いかかった。
それでも龍華は鐘を鳴らした。
空気を震わせない音が、広がる。
音に触れても、愚断剣はびくともしない。
が、音は狐の首を震わせた。
小さな小さな音の波が狐の首にぶつかっていく。
愚断剣は使用者の危機に敏感に気づき、態勢を立て直そうとしたが間に合わない。
狐の首が落ちた。首の毛が周囲に飛び散った。
続いて愚断剣を握っていた両手も落ちた。
そのまま歩いて、龍華は万返鏡の前に立った。
やはり鐘を鳴らす。すると鏡面に小波《さざなみ》が立ち、ぽっかりとした穴が開く。龍華は鐘を地面に置き左手を鏡に突っ込み、鏡の中から右手と矢を取り出す。
が、その時、少し油断していたのか、鏡の中から天へと昇る練炎に前髪を焦がされてしまった。
舌打ちをしながら、右手を本来ある場所に近づけた。
「四海獄、仙丹を出して」
ポンという音をたてて、腰のひょうたんから黒い丸薬が飛び出す。龍華はそれを器用に口で受け取った。
すると、切り落とされた右手が元のようにくっついてしまった。
何度も右手を握りしめて、完治《かんち》したのを確認する。
続いて四海獄を手に取り愚断剣に向けた。
「愚断剣!」
強烈な風が舞い上がり、剣はひょうたんの中に吸い込まれていく。
地面に転がる鐘を拾い、龍華は指示を出す。
「万波鐘よ、万返鏡を封印しろ!」
鐘の輪郭が歪む。
万波鐘は丸い鐘、俗に言う小さなドラの形に変わった。
ドラの円周は万返鏡の円周と、寸分も違わない。
鐘はぴたりと鏡に合わさった。
続いて鷹《たか》を思わせるような鉄製の爪《つめ》が、無数に伸び、万返鏡に食らいつく。
その状態でも微《かす》かにドラは音を立て、鏡面に細かい小波《さざなみ》を起こし続けた。
この波があるかぎり、万返鏡は鏡としては機能できない。
さすがの龍華も息を吐く。
「ふう。なんとかけりがついたな」
ふと地面を見ると、グゲグゲ言いながら狐の首が転がっていた。
龍華は狐の首と両手を持って胴体の側《そば》に来た。
そのまま、頭と手を本来ある場所に置く。
「もう、悪さをするんじゃないよ」
四海獄から再び仙丹を取り出すと、狐の口にねじ込む。
首と手が繋《つな》がった狐は飛び跳《は》ねて、逃げ出す。
逃げながら龍華に叫《さけ》んだ。
「覚えてろよ!」
龍華は笑いながら叫び返す。
「今度は狐|鍋《なべ》にして食っちまうぞ!」
絡まりあった万返鏡と万波鐘を懐に入れながら龍華は考えた。
『欠陥宝貝用の封印を作った方がいいな』
両手で複雑な印を組むと、龍華の体はふわりと空に浮かんだ。
そして光の残像を残しながら、彼女の住居《すまい》がある九遥山《きゅうようさん》へと飛んでいく。
『さて、仙桃《せんとう》の残りがあれば鳳凰にくれてやるんだがな』
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第三章『道士の決闘《けっとう》』
一
「父上、程々《ほどほど》になされた方が」
「黙れ!」
薄暗い洞窟《どうくつ》の中に二人はいた。昼間だというのに、凍《こご》えるような寒さだ。洞窟の中には無数の鍾乳石《しょうにゅうせき》が垂《た》れ下がっていた。
微《かす》かに漂《ただよ》う、獣《けもの》の匂《にお》い。
もう少し先に進めば間違《まちが》いなくコウモリがいると、沙景陣《しゃけいじん》は確信していた。
こんな洞窟の中で、狂ったように素振《すぶ》りを繰り返しているのが沙|界元《かいげん》であった。
もともと歳《とし》の割りには精悍《せいかん》な体つきなのだが、最近の無理な鍛練《たんれん》が重なり、筋肉が不自然なまでに膨《ふく》らんでいた。それに汗が蒸発し湯気《ゆげ》を立てていた。
白雲《びゃくうん》とは対照的に、髪の毛は見事に真っ白だ。
景陣は指がかじかんではたまらんと、袖の中に両手を引っ込めていた。
ときたま手を出しても、それは吐息で手を温《あたた》める為《ため》だ。
『父上も老いたな』
景陣は親の素振りを見ながら、妙《みょう》に物悲しくなった。
力まかせの振りだ。恐らく頭の中には怒りと執念《しゅうねん》がうずまいているのだろう。
しかもこれだけ過酷な鍛練を支えているのは、只《ただ》の復讐《ふくしゅう》の甘い香りだけなのか。
景陣は肩をすくめた。
これではまるで、ダダをこねる子供ではないか。白雲に喧嘩《けんか》を吹っ掛け、勝ったまでは良かったが、もう一度戦って今度は負けた。腹が立つので、また戦いを仕掛けようとしていた。
その為の鍛練だ。
「父上。具体的にどうやって白雲殿に負けたか聞いていませんでしたな」
ぴたりと界元の動きが止まる。そして憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》で息子に語った。
「あの卑怯者《ひきょうもの》は、怪しげな術で俺を惑《まど》わし、袖の中に隠した武器で、この界元の眉間《みけん》を打ったのだ!」
怪しげな術。仮にも道士の使う言葉ではないなと息子は考えた。
それに、戦いの場で、隠し武器の攻撃を食らうのは、食らう方に油断があった証拠ではないのか。
息子は洞窟にもたれかかり、玲夢《れいむ》の顔を思い出していた。
親の仲が悪いので、必然的に玲夢との仲も悪かった。
しかし、しばらく見ない間に、あんな女でも、少しは女らしくなっているようだ。
そのうち、玲夢と話し合う必要があるな。親同士は頭に血が昇って、相手を叩《たた》きのめす事しか考えていない。
仲直りさせるとまでは考えていないが、まわりに迷惑を掛けるのだけは止《や》めさせなければなるまい。
……でもこちらから出向くのも、嫌《いや》だな。話を聞いてくれればいいが、白雲と一緒《いっしょ》になって罵倒《ばとう》でもされたらやってられん。
「父上。私は家の方に戻りますが。程々《ほどほど》にされて父上も戻られよ」
「お前の指図《さしず》は受けぬ。また四日後に食料を持ってこい」
言うだけ無駄《むだ》だと景陣は考え、洞窟を後にした。
洞窟の入口には、葦《あし》のような背の高い雑草が生えていた。
景陣は、ふとあの技《わざ》を試《ため》してみたくなる。殷雷《いんらい》とかいう男に教授された理屈を、自分なりに消化してみたものだ。
腰にさした大振りの剣を抜き、構えた。
狙《ねら》いは雑草だ。
景陣は軽い気合と共に、剣を真横一文字になぎはらう。
雑草の中の一本の草だけが切断された。まわりの草は揺れるだけで、傷一つついていない。
くるりと剣を回し、鞘《さや》の中にカチリと収《おさ》めた。
単純だが、まさに達人の技だ。目標以外の草には刃を当てるだけで、意を込めない。狙った草に触れた途端《とたん》に意を込め、草を切断。その後はやはり刃に草を当てるだけで、目標以外の草は揺れるのみ。
その間の剣の動きには全くムラがないのであった。
この境地に達すれば、たとえ相手に間合いを外され、剣を空振りしても隙《すき》は一切《いっさい》出来なくなる。
いわゆる、剣が『死』ぬ事はなくなり、常に攻撃が可能な『活』の状態になるのだ。
景陣は地面に落ちた草を拾う。
「コツをつかめばそれほど難《むずか》しくはない。剣にも少し飽《あ》きたな、次は槍《やり》の鍛練でも始めるか」
草笛を吹きながら、景陣は山道を下っていった。
空を見れば日が落ちかかっていた。こんな夕方では山道を歩く者もいないなと、景陣が考えた時、一人の男が擦《す》れ違うように山道を登ってきた。
どこにでもいそうな、普通の青年だが、何かを思い詰めている様子《ようす》にも見えた。
景陣は声をかけた。
「もし」
「なんですか?」
「この道をもう少し進んで、脇《わき》に入ると洞窟があるんですが、そこで気が立った武人が修行《しゅぎょう》しております。余計《よけい》な世話かもしれませんが、洞窟には近寄らない方が賢明《けんめい》かと存じます」
男は会釈《えしゃく》を返した。
「それは御親切にどうも」
景陣は山道をさらに下りていく。男は去りゆく景陣の背中をしばらく見ていた。
「あの方ではないようだ。だが、近くにいるはずだ。聞こえる。誰かが私を必要としているんだ。強く、強く、私の力を必要としている人がいる。
万返鏡にとてつもなく恨《うら》みをいだく人がいる。その人こそ私の主人だ」
青年、すなわち万波鐘は山道を進み、少し考えたのち脇道に入っていった。
*
日が落ちてきたので、玲夢は部屋の蝋燭《ろうそく》に火をつけた。
うすぼんやりとした、温かいともしびが部屋の中に広がった。
部屋の中には玲夢と和穂《かずほ》がいた。
玲夢は和穂の話を必死に理解しようとしていた。
「つまり、和穂ちゃん。あなたが仙人だった時に、ばらまいてしまった宝貝《ぱおぺい》ってのは全部|欠陥《けっかん》宝貝だったの?」
こくりと和穂がうなずく。
「はい。でも、欠陥というよりは、危険な宝貝と言った方が正確かもしれません」
「なるほどね。それで殷雷君も封印《ふういん》されていた宝貝なんでしょ。あの人も危険な宝貝なわけ?」
和穂は少し困った顔をした。
「なに? そんなに言いにくいの? そういう顔されると余計に聞きたくなっちゃう」
「殷雷は……ああ見えても、情が深くて、武器として致命的《ちめいてき》な甘さがあると言われています」
「……非情に徹しきれない刀か。確かにそれは欠点だね」
「でも、でも殷雷は」
「判《わか》ってるよ。和穂ちゃんは、殷雷君のそういう性格を、欠点でもあり長所だとも思っているんでしょ。
殷雷君も、自分の欠点が判っているから、ちょっと悪ぶってるんだね。結構|可愛《かわい》いじゃないか」
遠くから殷雷のくしゃみが聞こえた。
「それで、もういくつかの宝貝は回収したんでしょ? だったらそれを使えばだいぶ楽になるんじゃない。
今の話だと、愚断剣《ぐだんけん》とかいう剣は無傷で回収できたんでしょ。
使えると思うんだけど」
慌《あわ》てて、和穂は否定した。
「絶対|駄目《だめ》です。愚断剣は殷雷とは逆に、非情過ぎる為に封印されていたんです。
愚断剣を使って、解決出来る事件は何もない、あの剣は結局自分の所持者以外は全《すべ》て滅《ほろ》ぼすだけだ。って殷雷が言ってました」
「ちょっと負け惜しみが入ってそうだけど、魔剣の類《たぐい》は使わない方が賢明よね」
感心したような顔をして和穂は言った。
「けど、玲夢さん、よくこの状況に順応《じゅんのう》出来ますね」
「どうだかね。事実として認めるより前に、もしもこういう状況ならどうしたらいいかってのを考えてるだけよ。
それよりも、使えそうな宝貝ってのは全くないの?」
「たいていの宝貝は回収の時に壊れてしまうんで、使えるのはこれぐらいですね」
和穂は腰のひょうたんから、天呼筆《てんこひつ》を取り出した。
「あと、符方録《ふほうろく》という使い捨ての符が詰まった本があるんですが、毒消し以外には使えそうなものはないです」
玲夢は天呼筆を受け取った。すると、指先から何かが流れ込むような妙《みょう》な感覚に襲われた。
が、その不快感が消えると同時に、玲夢は天呼筆の使い方が理解できた。
筆自身が自分の使い方を教えたのだ。
「……ありとあらゆる天候を再現出来る道具か。欠陥はなに?」
「どうやら、気温を長時間一定に保《たも》てないようなんです。
仙術の実験の補助宝貝として造られたんだと思いますが、それでは使いものにはならないでしょ?」
「ふうん」
ふと会話の間に沈黙があった。沈黙の中で庭の鈴虫の鳴き声だけが響く。
「白雲さんの持っている万返鏡という宝貝なんですけど」
玲夢はうなずく。和穂は続けた。
「やはり鏡というのが、引っ掛かります。中に物をいれる宝貝は普通、ひょうたんの形を取るんです」
「鏡なら、鏡である理由があるっていうの」
「はい。天呼筆みたいに、道具と機能の関係がよく判らないのもありますが」
「鏡、鏡か。やっぱし物を映すのが鏡の特徴よね。
鏡に映るのは、色のある影。実体ではないもの。まぼろし」
和穂は軽く声をあげた。
「もしかしたら、鏡の中に取り込んだ物の複製を造る宝貝じゃないですか?」
玲夢は軽く笑う。
「私にきくなよ。和穂ちゃんの方が詳《くわ》しいんだから」
「……殷雷に刺さった矢は、どこにありますか?」
「知らないよ。殷雷君が抜いて捨てたんじゃないの」
「いえ、私は殷雷のそばにいましたが、そんな素振《そぶ》りは見せていません。
殷雷はそういう部分はしっかりしていて、手掛かりになりそうな物は捨てないと思います」
「矢は消えたと?」
「恐らく、鏡の中に本当の矢があって、あの矢は複製だと思うんです」
「その複製ってのは、普通の物で出来てるんじゃないね」
「はい、仙術的な物だと」
「ならば、謎《なぞ》は解けたんじゃない」
「万返鏡は、内部に取り入れた物を複製する宝貝。しかも、複製に使った材料は仙術的な物で、使用者の意思のとおりに動く」
玲夢は白雲にもらった銀貨を思い出した。
「! 思い当たる事があるよ、和穂ちゃん。お父様にもらった銀貨を、贋金《にせがね》かどうか確かめる真似《まね》したら消えちゃったって事が」
「強い力を加えると、複製は消滅しちゃうのか」
「……お父様が懐《ふところ》からだした槍は、殷雷君の棍《こん》と打ち合っていたでしょ。
複製は本物と似たような強度があると思うよ」
和穂の顔がパッと明るくなった。
「そうですよ、それがあの宝貝の正体なんですよ!」
だが、玲夢は冷静だった。
「凄く使える宝貝だね。それに比《くら》べてこっちには天気を操《あやつ》る宝貝が一つ。
……脇腹にサラシを巻いてる刀もいたっけかな」
「でも、少しでも相手の素性《すじょう》が判れば」
「いいよね。和穂ちゃんは、あきらめという言葉を知らなくて。
お父様が、和穂ちゃんや殷雷君にとどめをささない理由が判ったような気がする。
眼中にないのよ。どうがんばっても、自分を脅《おびや》かすような存在にはならないって、判っているんでしょ」
「でも、さっきは殷雷も結構いいところまで頑張ったし」
玲夢は首を横に振った。
「娘の私が言うのもなんだけど、お父様は利口《りこう》な人よ。
あの人は切り札もないのに、勝負をするような人じゃない」
「でも、切り札というのは、碁石《ごいし》や矢を自在に飛ばしたという事じゃ」
「……それだけが切り札だったら、さっき殷雷君は倒されていた。
最後の切り札を見せておいて、相手を逃がすような甘い人じゃない。
あれも切り札だろうけど、あれだけじゃない。
私には判る。お父様は、まだ切り札を持っているはずよ。
鏡の中にとんでもない物を隠しているような気がする」
「でも、でも」
玲夢は和穂の頭を撫《な》でた。
「判っている。あきらめてるんじゃないよ。私も以前のお父様に戻って欲しいしね」
ちょいと思い詰める癖《くせ》があるかな、と玲夢は和穂の顔を見て考えた。
和穂は急に、庭へと顔を向けた。
「どうしたの、和穂ちゃん」
「……虫の声が急に消えませんでした?」
「ん? 言われてみたらそうかな」
床《とこ》にふせていた殷雷の髪が、もそりと動いた。
髪は何か不自然な振動と、近寄ってくる者の存在を教えた。
殷雷は寝床から飛び起きた。が、その衝撃がもろに脇腹に来た。
しばし床を転げ回った後、急いで外套《がいとう》を羽織《はお》り、続いて棍を手に取ろうとする。
だが、いつも身近に置いてる手慣れた武器の姿が見えない。
ハッと殷雷は思い出す。
白雲の宝貝に吸い込まれているのだ。くやしげに歯ぎしりをする殷雷。
「和穂は玲夢の部屋か」
戸板を開け、暗い廊下《ろうか》をひた走る。
白雲は一人で将棋盤《しょうぎばん》をにらんでいた。
広間の中は、白雲のまわりを照らすだけの明かりしかない。
最近、考え出された小将棋というのがすこぶる面白《おもしろ》かった。
その小将棋を使って、詰め将棋という適度に頭を使える遊びがあった。特に、白雲はこの詰め将棋が気に入っていた。
今もちょいと面白い詰め将棋を思いついたので、盤面に駒《こま》を並べていた。
六枚の金で作られた、四方舟囲《しほうふながこ》いを、八枚の桂馬《けいま》で詰めるという十五手詰めの問題だ。
ところが、どこかに思い違いがあったのか詰められない。
仕方がないので、懐から九枚目の桂馬を出してみた。
「これで詰むな」
白雲が駒を打つ音が闇《やみ》の中に響く。
その時、風もないのに蝋燭《ろうそく》の炎《ほのお》が揺れた。
同じように、将棋盤の上の駒も揺らめく。
無表情のまま白雲は右の唇《くちびる》を吊《つ》り上げた。
「……来たか」
左腕を黒い道服の袖《そで》の中にいれ、白雲は臨戦態勢を取った。
「界元を倒したいと、気も狂わんばかりだった、あの夜、お前は俺の前に現れた。
ならば、万波鐘は俺を倒したいと、一心に思っている奴の手に渡ったのだろうな」
白雲は袖の中で、万返鏡を撫でた。その鏡面にはわずかな小波《さざなみ》が立っていた。
「来るがいい。界元よ」
二
殷雷《いんらい》は力まかせに玲夢《れいむ》の部屋の戸を開け放った。ピシャンという音をたてる戸板。
玲夢は寝台に座《すわ》り、和穂《かずほ》は椅子《いす》に座っていた。和穂は驚いた顔をしていた。
「どうしたの殷雷?」
玲夢の顔はムッとしていた。
「人の部屋に入る時は、声の一つぐらいかけるもんだよ。失礼な奴だね」
痛みを堪《た》えているのか、殷雷の額《ひたい》には汗が流れていた。その形相《ぎょうそう》が、緊急事態の発生を物語っていた。
「殷雷、何か起きたの?」
殷雷が答える前に、玲夢が怒りの声をあげた。
「殷雷君、いい加減にしなさいよ。医者の言う事をきかないなんて、ただの自殺行為なんだからね」
やっと殷雷が口を開く。
「火事場の怪我人《けがにん》に、絶対安静にしろとでも言うのか?」
「どういう意味なの殷雷?」
殷雷は玲夢に尋ねた。
「白雲はどこにいる?」
「さあ、蔵《くら》の中かしら。まだ夜もふけていないから、広間かも」
殷雷は簡潔に説明した。
「家の中にいるのか。
あれが白雲の仕業《しわざ》じゃないんなら、別の宝貝使いが近寄っているぞ」
和穂は大急ぎで耳の索具輪《さくぐりん》に手を添えるが、まぶたの裏に浮かぶのは、砂の嵐のような乱れた情報だけだった。
玲夢はしびれを切らす。
「何で、殷雷君にそんなのが判《わか》るのよ?」
同じように苛立《いらだ》ってくる殷雷であった。
「この奇妙な気配《けはい》が判らんのか!」
叫《さけ》ぶなり、殷雷は庭に面した壁に向かい身構えた。
二人が質問の声をあげる前に、壁が何者かの手によって、外部から破られた。
剣で壁に切り込みを入れ、一気に足で蹴《け》り破ったのだ。
壁の向こうから現れたのは景陣《けいじん》であった。
玲夢の怒りが、軽く理性の限界を超えた。
「け、景陣! 何をするのさ! 殴《なぐ》り込みにでも来たのかい!」
景陣は荒く息をしていた。剣を収《おさ》めようともしない。いつでも相手に飛び掛かれるように極端に下段《げだん》に構えたまま、じりじりと玲夢に近寄っていく。
「わ、私を殺そうというのか!」
「殷雷、止めて!」
が、とうの殷雷は、景陣がぶち破った壁の穴から外をうかがっていた。
「おお、いい月が出てやがる」
達人が剣を構えて、必死の形相でジリジリと近寄って来ているのだ。
さすがの玲夢と和穂も、気を呑《の》まれて身動きがとれない。
時間が止まった世界で、景陣だけがゆっくりと動いているようだ。
景陣は玲夢の目を見つめたまま、さらに近寄った。剣の間合いどころか、首を閉めてでも殺される間合いだ。
空気を絞《しぼ》り出して、景陣はやっと声を出した。
「……に、逃げろ玲夢。殺されるぞ」
意外な言葉に、和穂と玲夢の凍《こお》った時間が動き出す。
途端《とたん》、鼻に肉の焼ける匂《にお》いが広がった。
よく見てみれば、景陣の左腕が焼け爛《ただ》れている。たった今焼かれたのか、目の前で皮膚がめくれていく。
だが、焼け焦げは全くない。妙《みょうな》な火傷《やけど》だと玲夢は不思議に思う。
火傷の具合を見ると、さらに妙だった。火傷がいつのまにか、軽い凍傷《とうしょう》に変わっているのだ。
指先に近寄れば近寄る程《ほど》、凍傷の程度が酷《ひど》くなっているようだ。
剣の刃には霜が下りていた。
景陣の剣を持つ手の上から、玲夢は自分の手を被《かぶ》せる。少しでも血の巡《めぐ》りを良くしなければならない。
「ちょっと、景陣。説明しなさい。いったい何がどうなってるのさ!」
「いいから、逃げろ。白雲から離れていれば父上も、お前まで殺そうとはしまい」
殷雷はやはり外を見たままだ。
「景陣だったな。やってくるのは、お前の親の界元《かいげん》か?」
和穂は機転を利《き》かせ、蝋燭《ろうそく》の炎で景陣の手を遠くからあぶっている。
やっと、景陣は剣から手を離した。柄《つか》に手の皮が少し張りついていた。
玲夢は傷口に触れないように気をつけ、指をこすり続けていた。
「殷雷さんも、和穂ちゃんも早く逃げるんだ! 巻き添えを食らってしまうぞ」
和穂も景陣の異様な傷に気がついた。
「景陣さん、その傷は?」
「父上をいさめようとして、逆にやられたんだ。
これでも手加減はしていると思う。白雲に会って逆上したら、周囲の事などお構いなしになるぞ! だから逃げるんだ!」
殷雷は落ち着いていた。武人《ぶじん》が一番|焦《あせ》るのは、状況が正確に把握《はあく》出来ない時だ。
そう考えれば、今の状況は非常に判りやすい。
白雲に恨《うら》みを持つ界元が復讐《ふくしゅう》に来る。しかも宝貝を持って。
「和穂よ。どうする? 逃げちゃうか?」
「何言ってるのよ、二人を止めなくちゃ」
「げ。言うと思った」
自分の伝えたい事が全く伝わっていないと思い、景陣は焦り始めた。
「違うんだ、ただの殴り込みとはわけが違うんだ! 父上は妙な鐘を持っていてその鐘の力で俺は怪我をしたんだ」
殷雷は玲夢を指差す。
「ほお。こいつの親父《おやじ》は妙な鏡を持っていやがるぜ。
景陣よ、お前も巻き込まれちまったから、覚えておきな。
そういう道具を専門用語で宝貝《ぱおぺい》という。
和穂、白雲の宝貝なんだが、内部に取り入れた物を複製する宝貝で、その複製は自由自在に操《あやつ》られる。て感じではないかな」
首を縦に振って和穂は答えた。
「うん、玲夢さんとも話してたんだけど、多分そうよ」
景陣は玲夢の指を握り返し、和穂たちに目を向けた。
「あんたたちはいったい何者なんだ?」
力強い景陣の指先に、玲夢は安堵感《あんどかん》を覚えたが、すぐに騒ぎだす。
「ちょっと、景陣、なに人の手を握ってるのよ」
真っ赤な顔をして景陣の顔を、軽く引っぱたく。
殷雷の声は冷静だった。
「玲夢。お前は怪我人を乱暴に扱いすぎる」
三
「いよいよ白雲《びゃくうん》に引導《いんどう》を渡してくれる」
キイイン、キイイインと鐘が鳴り響く。
界元《かいげん》は肩の凝《こ》りでもほぐすように、万波鐘で肩を叩《たた》いた。その度《たび》に鐘は甲高《かんだか》い音を立てた。
水田の中を通る道を、界元は歩いていた。鐘が鳴ると、水田には奇妙な波紋が広がっていった。
道はやがて街道と交差した。
夜とはいえ、まだ人の通りが多い。界元はかまうことなく道を進む。
キイイン。キイイン。
界元の横を通り過ぎようとした男は、目に見えない何かに押された。
最初は気のせいかと思ったが、界元に近寄ると、界元の鳴らす鐘の音が自分の骨からも鳴っているような不快感に襲われた。
このまま無理をして進めば、体中の骨が外れそうだ。
男はやむなく、界元を迂回《うかい》するように道を進んだ。
界元はさらに人通りの多い、街道の中心に向かう。
ひとごみの中で、界元の周囲だけは縄で進入を禁止したかのように空白があった。
界元は、やはり鐘をゆっくり鳴らし続けている。
気の短い奴が、鐘の音が癪《しゃく》に触《さわ》ったのか、大声で怒鳴《どな》りながら、小さな石を界元に向かって投げた。
だが、石は界元に当たる直前に、塵《ちり》となって消えてしまった。
界元はじろりと、投石《とうせき》の主をにらむ。
尋常《じんじょう》でない空気を感じとり、そいつは人の流れに消えようとした。
ゆっくりと、界元は鐘を鳴らす。
そいつと界元の間にいた人は、自分の体の中を何かが駆け抜けていったような、妙な感覚に襲われた。
鐘の振動は人々の間を抜け、石を投げたそいつの皮膚の上で音となった。
この世の物ではない音。氷のように冷たい音は、そいつの皮膚を指先へと向かい走る。
そして綺麗《きれい》に片手の爪《つめ》をすべて剥《は》いだ。
界元は、またしても無言で鐘を鳴らす。
人を通り抜ける振動は、今度はそいつの鼓膜で音となる。
「今度、そんな真似《まね》をしたら骨だけ砕くぞ。
骨だけだ。
筋肉や血管は全く傷つけず、骨だけを砂のようにしてやる」
あまりの恐怖に、そいつは地面にうずくまった。
界元は興味を失ったのか、さげすんだ笑いだけを残して、先を急ぐ。
街道を過ぎれば、じきに白雲の屋敷だ。
一歩足を踏み出すごとになる鐘の音。
*
「なんだ、界元じゃないか。白雲様に何か用でもあるのか。その趣味の悪い鐘は何の飾りだ?」
白雲の屋敷の前には、数人の道士が夜中であるのにもかかわらず、たむろしていた。
その中の一人が、界元の姿を見つけ、からかいがてらに声をかけた。
まだたいして歳《とし》もとっていない、若造《わかぞう》の道士だ。
無礼《ぶれい》な奴め。だが、こんなところで小出しに怒りを出してはいけない。
怒りは全《すべ》て白雲にぶつけるのだ。
鐘が鳴った。
道士の一人は、歯の中に通《かよ》う神経だけを急激に振動させられ、吹っ飛んだ。
吹っ飛んだのは、宝貝《ぱおぺい》の力ではない。
歯の神経がじかに動いた激痛で、自分の筋肉で吹っ飛んだのだ。
道士たちは界元の異様さを、敏感《びんかん》にかぎわけた。そして逃げた。
界元はそのまま白雲の屋敷へと向かった。
だんだんと大きな門と、白い壁が近寄ってきた。
少し考えた後、界元は白い壁へと向かう。
界元が近づくと、壁には巨大な鉄球を押しつけたような、へこみが現れた。
近づけば近づく程、へこみも大きくなっていく。
壁にはひびが入り、土煙が飛び散った。
さらに近づく。界元に押されて壁はきしんでいるようであるが、界元は全く抵抗を感じていない。
ついに壁に穴が開く。
壁の上の瓦《かわら》が吹き飛んでいく。穴越しには花壇が見えた。手入れされた花も、踏み荒らされたようにひしゃげていく。池の水も細かいしぶきを上げ飛び散っていく。
界元の体が今、ゆっくりと壁を抜けて白雲の庭に入った。
庭をのぞむ廊下《ろうか》には一人の道士がたたずんでいた。黒一色の道服だ。
白雲は宿敵《しゅくてき》に向かい言葉をかけた。
「おやおや、わざわざ後ろに回らずとも、正面『玄関』から入れば良かったのに。
いくら負け犬とはいえ、知らぬ仲でもないのにそんなに気を使うなよ。
今日は何の用事だ? 借金の相談だったら玲夢《れいむ》の小遣《こづか》い程度なら、恵んでやるぞ」
単調な音が、長時間続くと、その昔は意識の中に溶け込んでしまう。界元は既《すで》に自分が立てている鐘の音を意識していない。
「相変わらず、口の悪い男だ。生憎《あいにく》、今日は借金を頼みに来たんではなくてな。ちょっとした見物に来ただけなんだ」
「ほお。見物とな?」
「そうだ。お前が命乞《いのちご》いする姿のな」
「面白《おもしろ》い冗談だ。何度|敗北《はいぼく》すれば、お前が私よりも劣《おと》っていると、納得《なっとく》してくれるんだろうね」
「何を偉《えら》そうに。宝貝を使っての勝利にどれだけの意味がある。もっとも、相手も宝貝を所持していたら話は別だと思うが」
月にかかっていた雲が完全に晴れた。
青白い光が二人を照らす。
壁に体を隠しながら、二人の戦いを見つめる八つの目。
和穂《かずほ》、殷雷《いんらい》、玲夢、景陣《けいじん》。
「あの鐘の音を聞くと、火傷《やけど》や凍傷《とうしょう》が起きるんです」
景陣が小声で説明した。怪我《けが》をした手には和穂に包帯を巻いてもらっていた。
殷雷が景陣の説明を補足する。
「正確には、あの鐘の音に触れると、体が火傷を起こす振動、凍傷を起こす振動に共振するんだ」
和穂と景陣にはよく判《わか》らなかった。だが、玲夢はうなずく。
小声で、景陣は和穂に言った。
「……和穂ちゃん、判るかい?」
「えぇと、よく判りません」
頭の上の景陣の顔をにらんで、玲夢は言った。
「そんな事も判らないの?」
「なんだと!」
口げんかを始めようとする二人の頭を、殷雷は軽く殴《なぐ》った。
「遊んでるんじゃない。あの鐘から目に見えない振動が空気を伝わるんだ。
それにやられると火傷なり凍傷なり、下手《へた》したら分解現象が起きるんだよ」
景陣は言った。
「見えない飛び道具と、考えればよろしいか?」
「お前が音を見えないというのなら、そうだな」
「それでは父上には全く隙《すき》がないのですか」
殷雷は自分の髪の毛に手を添えた。
「まて、少し見てみる」
途端《とたん》、殷雷の長い髪の毛が、ばさりと広がる。髪は界元に神経を集中した。
空気中に存在する、雷気の微妙な変化を髪は視覚情報として殷雷に伝えた。音の波を殷雷は見た。
界元の体を包むように、二層の音の膜があった。
完全な球形ではなく、ちゃんと人の体をしていた。
ざっと握り拳《こぶし》一つ分の場所に最初の膜、その上にやはり握り拳一つを置き、二つ目の膜があるようだ。
厳重な鎧《よろい》だ。下手に物質的な鎧よりもたちが悪い。
あの膜に触れた物はたちどころに分解されるのだろう。
「景陣。うかつに界元には打ち込むな」
「判っています。父上が白雲殿に恨《うら》みを晴らしに行くと聞いた時、私は剣でみぞおちを突いて止めようとしました。
だが、鞘《さや》は父上に触れる事もできず、中空に止まりました」
「運が良かったな。そのまま砂細工のように体がボロボロになっていたかもしれんぞ」
「……おかげでこんな怪我を負いましたよ」
腕の包帯を景陣は指差した。
景陣は鐘を持ったままで、腕を組む。鐘は振られなくとも音を出し続けていた。
「白雲よ。お前の持つ宝貝、名は万返鏡というのだろう」
すでに両手を白雲は袖《そで》の中に入れていた。
「ほお。どうして知っている」
「簡単な話だ。わしの持つ宝貝、万波鐘は万返鏡の天敵として造られた宝貝なのだ」
「馬鹿を言え。我が宝貝に敵など……」
鐘が妙な音を立てた。途端、白雲の足元の床《ゆか》が弾《はじ》けた。
「お父様!」
飛び出そうとする玲夢を、景陣が押さえつけた。
もがく玲夢の口をふさいで、景陣は殷雷に疑問をぶつけた。
「飛び道具ならば、楯《たて》か何かで防げるのではありませんか?」
今の攻撃は殷雷の目にはこう映っていた。
界元を中心に、三つの違う音が出た。殷雷には三つの波紋に見える。
波紋が交差した、たった一つの場所が弾けた。
単純に、破壊の振動が出ているのなら、界元を中心にして破壊が起きる。
それならば、楯で防げただろう。だが、界元の攻撃は見事に『点』で行われている。
完全に音を遮断《しゃだん》する物ならともかく、楯では防ぎようがない。
また、体を包む音の鎧から考えれば、破壊の振動だけを送るのも可能であろう。
彼の鎧は規模が小さい、破壊の振動であるのだ。
「無理だ。楯では無理だ」
「……やはり父上には死角がない。父上には勝てないのか?」
殷雷は不機嫌そうに笑う。
「勝つ、負ける、なんてのは相手が正々堂々と戦っている時に使う言葉だ。
今の界元は仕返ししか頭にない。
使うのならば『倒す』だ」
和穂が必死に訴えた。
「殷雷、早く二人を止めないと」
「駄目《だめ》だね。悪いが二人には少し戦ってもらおう。二人ともある程度手の内を見せて、片方が殺されかけたら、出る。
上手《うま》い具合に両方消耗してくれれば、一石二鳥《いっせきにちょう》だ」
「そんな」
「今、俺たちがのこのこ顔を出してみろ。玲夢は界元に殺され、景陣は白雲に殺されて、和穂、お前は両方に殺されるぞ。
判ったな。
俺が見たところ、白雲の方が不利だ。だが、白雪と界元を比《くら》べた場合、俺たちの戦いやすいのは界元なんだよ。
倒される寸前の白雲から鏡を奪い取って、そのまま界元と戦う。
これが作戦だ。
これよりいい策があるってんなら言ってみな?」
和穂には答えられない。
玲夢は必死にムゴムゴ言っているが、さすがに一流の武人《ぶじん》に羽交《はが》い締めにされると動きがとれない。
「景陣、玲夢を離してやれ。玲夢、大声をだすなよ。
今から具体的な作戦を言う。全員の力が必要だ」
ちらりと白雲と界元を見れば、まだお互いの悪口を言い合っているようだ。
互いに自分に自信を持っているので、威嚇《いかく》に威嚇を重《かさ》ねているのだ。
殷雷は簡潔に説明した。
「まず、和穂。玲夢に天呼筆《てんこひつ》を渡すんだ。
玲夢、天呼筆の使い方は判るな?」
和穂から天呼筆を受け取りながら、玲夢は首を縦《たて》に振った。
「それと和穂、俺は刀に姿を戻すから俺を使え」
普段の殷雷は、人の形をとったまま、棍《こん》を使って戦うのを好む。
「どうして? 殷雷」
「棍がない。素手《すで》ではちょいと不安だ。
それと、むかつく話だが、傷の痛みで、隙が出来そうなんだよ。
生身《なまみ》で攻撃を食らったらやばいから、宝貝に姿を戻しておきたい」
なんだかんだと、格好《かっこう》をつけているような殷雷だが、さすがは武器の宝貝、自分の調子が本調子ではないことを素直に認めた。
「二人の戦いに決着がつきそうになったら、和穂と景陣が二人の間に入る。
ま、界元が勝つだろうから、万波鐘がどこを狙《ねら》っているか、俺が見て景陣に教えよう」
自分の役目が判らない玲夢は声をだす。
「私は?」
「お前は、俺が……和穂が合図《あいず》を出したら天呼筆を使って、霧を出せ」
「霧? どうして」
「万波鐘の音の軌道《きどう》を、景陣にも見えるようにするんだ」
「だったら今からでも」
「いや、今出すと白雲にも軌跡《きせき》が判るだろ。あいつが戦闘不能になってからだ。
ともかく、白雲に戦線離脱してもらわなければ、俺たちに勝ち目はない。
くたばった真似でもしそうなたまだから、指示は俺が出す。
肉親の情に負けるなよ」
真顔で玲夢はうなずいた。
殷雷もうなずき返す。
そして殷雷は刀へと姿を変えた。袖付きの外套《がいとう》は鞘《さや》へと転じ、軽い爆発音を立てたかと思うと、和穂の目の高さに殷雷刀が浮かんでいた。
気合をこめるかのように、うなずき、刀を手に取った。
右手に柄《つか》を握り、左手で鞘を握る。薄く目立たないが、鞘に彫り込まれた繊細な装飾を指先が感じた。
ゆっくりと和穂は刀を抜く。
そろり、と刀身《とうしん》が姿を現す。
「!」
和穂は言葉をなくした。
殷雷刀の刀身には大小|様々《さまざま》な刃こぼれが出来ていた。
刃こぼれは月の光を反射し、妙に青白く見えた。
和穂は刀に話しかけた。
『殷雷、大丈夫《だいじょうぶ》なの?』
『宝貝ではない武器と渡り合うのには、特に問題はない』
『だったらいいけど折れたりしちゃ嫌《いや》だよ。絶対に死なないで』
『判っている』
景陣がどう切り出していいのか、困った顔をしながら口を開いた。
「あの、……和穂ちゃん?」
「はい、なんでしょう?」
いつもの和穂の声だった。景陣にはどうも殷雷の説明が、幽霊が乗り移るような現象に思えていたのだ。
「和穂ちゃんなんだよね? 使用者の体を操《あやつ》るって話だから、殷雷さんが喋《しゃべ》っているのかと思ったよ」
和穂はクスリと笑う。
「そんな、たいした事じゃないんですよ。戦っている時に体が勝手に動くぐらいで、普段は自分の力で動いているとしか考えられないんですよ」
和穂の笑顔につられて、景陣も微笑《ほほえ》みかけた時、神速《しんそく》で殷雷刀が景陣の眉間《みけん》に突きつけられた。
「心配無用だ、景陣よ。俺を持っている限り和穂は足手まといにはならん。
殷雷、人の声を勝手に使わないでよ。それにどうして、いつもいつも人の眉間に武器を突きつけるのよ。危《あぶ》ないでしょ」
事情を知らなければ、ただの独《ひと》り言《ごと》に聞こえただろう。
景陣は、和穂の動きを見て安心した。少なくとも殷雷の動きと全く同じキレがある。
和穂は油断してはならぬと、注意深く白雲たちを眺《なが》めた。
「……呆《あき》れた。まだ口げんかしている。
本当は二人とも、殺そうなんて考えてないんじゃ」
息子と娘は同時に首を横に振る。
「確実に殺気《さっき》がありますよ」
和穂に警戒を任せて、景陣は玲夢を呼び寄せた。
「何よ。あんたなんかに話なんかないよ」
「まあ、そう言わずにきいてくれ。お前は俺を嫌っているかもしれんが、俺は別にお前を嫌ってはいない。
ともかく、腕の傷の手当ての礼が言いたいんだ」
「ば、馬鹿な事言ってるんじゃないさ。あんたの傷に包帯を巻いたのは和穂ちゃんで、私じゃないさ」
「凍傷の指を温《あたた》めてくれただろ。今、剣が握れるのは玲夢、お前のおかげだ」
「医術を学んだ者として、当然の行いさ」
「でも、立派《りっぱ》だ。憎んでいる者の治療を行うなんて、そう出来るもんじゃない」
「別に、別に、私もあんたの事を憎んでなんかいないさ。
お父様が界元と仲が悪いから、私もあんたの悪口を言ってただけで、あんたに直接|恨《うら》みがあったんじゃないさ」
景陣はホッとした。
「そうか。話しておいて良かったよ」
玲夢は心臓を落ち着かせながらきいた。
「でも、どうして急にそんな話をする?」
力なく景陣は笑った。
「思い残す事がないようにと思ってね」
本気で玲夢は怒りそうになった。
「何を縁起《えんぎ》でもない。そんなに怖《こわ》いのなら、逃げてしまえばいい!」
「だったら、一緒《いっしょ》に逃げてくれるか?」
「そ、そんなわけには」
「そうか。だったら、俺も残って戦ってみよう」
しばらくの沈黙の後、玲夢は言った。
「景陣。死んだら承知しないよ」
「判っているさ」
界元は頭に血が昇って来ていた。
白雲の周りの床は、もう見るも無残に破壊されていた。
「界元よ、お前の宝貝というのは床を壊す為《ため》だけにあるのかい?」
「! やはり貴様《きさま》を黙らすには死んでもらうしかなさそうだな」
「ほお、死ぬのはどちらかね?」
もはや隠す必要がないのか、白雲は懐から鏡を取り出し、大きく構えた。
望むところとばかりに界元は、鐘を鳴らし始めた。
まず、白雲の鏡から矢が飛び出た。
次から次へと、白いやじりを持つ矢が一直線に界元を狙《ねら》う。
鐘が一際《ひときわ》大きく鳴った。
途端に、矢はねじ曲がり地面へ落ちようとした。
だが、地面に到達する前に、虹《にじ》色の光となって消滅してしまう。
獲物《えもの》を追い詰めるべく、界元は一歩、一歩と白雲に迫っていった。
さすがの白雲もゆっくりと後ずさりを始めた。
四
「怖《こわ》いか、恐ろしいか白雲《びゃくうん》よ。ぶざまにこの鐘で焼き殺してくれようか。氷のように固めてやろうか。その身を粉にしてしまおうか」
白雲の指には、既《すで》に鬼神環《きしんかん》が装着されていた。
土足《どそく》で屋敷に上がった界元《かいげん》の靴が、床《ゆか》との間でジャリジャリと音を立てていた。
「靴ぐらい脱げよ」
「まだ、減らず口を叩《たた》くか!」
右手に握った鐘を大きく鳴らす。途端《とたん》、界元を中心にして不自然な爆発が起きた。
壁や天井《てんじょう》が、鋭利な刃物で削《そ》ぎ落としたように破壊された。
破壊された物は、瓦礫《がれき》にはならず瞬時にして粉状になった。
ただ、万返鏡で作られていたのか、将棋盤《しょうぎばん》だけは、角《かど》の一部が破壊されただけにもかかわらず、光の束《たば》となって消失していく。
もうもうと舞い昇るチリが、界元の体を覆《おお》う、音の鎧《よろい》を浮かび上がらせた。
だが、白雲の姿が見当たらない。
界元は軽く歯ぎしりをした。
「逃げたか白雲!」
「そんな大雑把《おおざっぱ》な攻撃で私を捕《とら》えられるとでも思っていたのか」
広間の闇《やみ》の中から、白雲の声が響いた。
庭沿いの部屋の端に立ち、月明かりを背中にしている界元からは、白雲の姿は完全に見えない。
白雲の声と同時に、今度は槍《やり》の雨が界元に向かって降り注ぐ。
無数の槍は界元の体に当たる寸前に、やはり光の束に分解した。
それ以外の槍は床に刺さり、ちょうど界元を檻《おり》の中に閉じ込めた形になる。
「白雲よ。まだ我が鐘に抵抗は無駄《むだ》だというのが判らぬのか。
わしはお前の天敵も同然なのだよ。
もしかしたら、この槍で閉じ込めたつもりになっているんではあるまいな」
槍は界元の動きを邪魔《じゃま》するどころか、彼の鎧に触れた時点でやはり光へと返った。
闇の中から声がした。
「ほほお。さすがに天敵を名乗るだけあって素晴《すば》らしい宝貝《ぱおぺい》だ。
賞賛に値する宝貝と言っても、いいかもしれぬな。
使用者がお前のような間抜けでなければ、いかに私でも歯が立たなかっただろうな」
「闇の中に隠れ、通用もしない飛び道具を打ち続ける臆病者《おくびょうもの》が何を言う」
強がりを言いながらも、気配《けはい》を見せぬ白雲に、不気味《ぶきみ》さを感じる界元。
それを見越したのか、闇の中の道士は挑発《ちょうはつ》を始めた。
「ほお。臆病者とな。ならば我のいる闇にお前も入ればいいではないか。
怯《おび》えているのは貴様《きさま》の方だ」
頭に血が昇りそうな界元であったが、一応|武人《ぶじん》を名乗るだけはあり、相手の口車に乗り窮地《きゅうち》に陥《おちい》る愚《ぐ》は避《さ》けた。
破壊の音を、自分を中心に球形に放出し、屋敷ごと白雲を殺そうかと考えた。
だが、それでは白雪の死体も残らず粉に変わってしまい、面白《おもしろ》くない。
だが、闇の中に入るのも不吉だ。
主人の悩みを、即座に万波鐘も感じとった。
『界元様。六種類の音をたて、その内二つの音が交《まじ》わる場所に破壊を起こしてみましょうか?』
『どういう意味だ』
『計算ではだいたい、この部屋全体に対し、一寸(十五センチ)間隔の点状破壊が可能です。
敵は全身に穴が開き、死に到ると考えられます』
『お前の目的である鏡も、破壊してしまうのか?』
『残念ながら、私の音で宝貝の破壊は不可能です。しかし、使用者がいなければ封印《ふういん》もたやすく行えるでしょう』
『判った。それをやれ』
『……くどいようですが、万返鏡の使用者を殺したのならば、すみやかに封印を行いますよ。
欲を出して、あの鏡を使おうなどとは考えられないように』
『当然だ。金や財産などどうでもいい、あの白雲を殺せるのなら、それだけで満足だ』
『信用いたしましょう』
界元はにんまりと笑い、鐘を構えた。
そして鐘は六つの音を奏《かな》で始めた。
小さな小さな、針先のような無数の爆発が起きた。
小さな爆発ではあるが、その威力は人間の肉体に穴を開けるなど造作《ぞうさ》もない。
しかも、その爆発は空気自体の質を変えてしまい、音が止《や》んだいまでも空間に止まっていた。鐘の音は、無数の点を高速で振動させているのであった。
「さらばだ、白雲。願わくば、悲鳴《ひめい》の一つでもあげて欲しいんだがな」
声は和穂《かずほ》の声。だが、口調は殷雷《いんらい》のものであった。
「まずい、白雲が殺される! 玲夢《れいむ》、霧だ。景陣《けいじん》、続け」
和穂は殷雷刀を構えて、庭を転がった。景陣も脱兎《だっと》のごとく駆けた。
だが、和穂は景陣を抑《おさ》えた。
「待て、音の余波が後ろにも来ている。俺の真後ろについてこい」
殷雷刀は空気の振動を、己《おのれ》の刃で叩《たた》き潰《つぶ》しながら進む。
刀の宝貝だから出来る芸当だ。
そのうちに周囲に霧が充満した。
不思議な霧だった。一寸ごとに無数の穴が開いていた。
「その穴に触れると、同じような穴が体に開くぞ! 景陣、剣が破壊されるから剣でも触れるな!」
めったやたらに刀を振り回しているようであり、その実、全く無駄がない。
刃は次々と危険な振動を破壊して、道を作っていった。
だが、殷雷刀は焦《あせ》っていた。
まずい。もう一度、同じように鐘を使われれば、和穂はともかく景陣を守るまでは手がまわらない。
界元に、多少の理性が残っていると祈るしかない。
界元の脇を通り、白雲の命を確かめる為《ため》にさらに道が作られた。
だが、景陣は殷雷の後ろを、最後までついて歩きはしない。
界元の横に立ち、父親に訴えかけた。
「父上、いい加減になさいませ」
「景陣か。邪魔《じゃま》をするな。あんな虫ケラ一匹倒すのに何の遠慮がいる。
ついでに、奴の娘も殺してくれる」
父親の言葉を聞き、一瞬、修羅《しゅら》の形相《ぎょうそう》が景陣の顔に浮かんだが、すぐに消えた。
やはり説得するだけ無駄なようだ。
景陣はそろりと剣を構える、ここで止めなければ玲夢も殺されるのだ。
不服そうに界元が呟《つぶや》く。
「実の父親に刃を向けるのか? しかもこれで二度目ではないか。
先刻のはみぞおち狙《ねら》いだったが、今度は俺の首でも取るか? どう隠そうが、殺気は消えぬ。
だが、あがいても無駄だな。この霧の中に浮かぶ点があるだろ。これに触れれば、剣なんざ折れてしまう」
剣を握る手に自然と力が入った。
「……父上。一つ賭《かけ》をなさいませんか」
「何だ?」
「この点の隙間《すきま》を縫い、父上に攻撃を仕掛けます。見事、父上の鎧に当たったならば、黙ってこの場は引いて、宝貝とやらを返していただけませぬか?」
点は整然と並んでいるのではない。
完全な無秩序ではないが、より複雑な自然法則にのっとって空間に存在していた。
その点に触れずに、刃を振るというのだ。
「そんな芸当が出来てたまるか」
「だから、賭なのですよ父上」
息子の提案に、界元は少し興味を覚えた。
死体を確認していないので、まだ安心は出来ないがすでに白雲は仕留《しと》めただろう。
息子の余興に乗ってやるのも一興。
自分の袖をめくり、腕を突き出す。
「面白《おもしろ》い。受けて立ってやろう。鎧に触れるなんて、せせこましい事ではつまらないな。
今、鎧を解いた。
この手に傷を付けてみろ。ハエが止まるような斬撃《ざんげき》ならば、避けてしまうぞ」
「承知」
景陣は剣を上段に構えた。そして精神を集中した。長い集中ではない。ほんの一呼吸の集中だった。
『殷雷、白雲さんはどこにいるの?』
『わ、判らん』
白雲と界元の会話の音から、白雲がいそうなだいたいの位置を殷雷は判っていた。
だが、そこには誰もいない。
床が爆発の影響なのか、無残に破壊されていた。
床の破片の中に体がうずまっているのならば、見落としている可能性があった。
殷雷刀を握り、和穂は白雲の姿を探した。
霧が深いので、見逃《みのが》している可能性も、あった。
『逃げられるわけはなかったんだ。天井に飛んだ形跡はないし、床を割って逃げた形跡もありはしない。
だから、奴は絶対にこの辺《あた》りにいたのだ。
どこにいる、白雲!』
「父上、覚悟」
景陣の剣がうなる。点と点の隙間を縫い、剣先は複雑な軌跡《きせき》を描く。
複雑な軌跡、つまり剣の動く距離がそれだけ長くなった。
景陣の攻撃は、長い距離を動くとそれだけ加速を増していった。点の間を縫う為《ため》に減速など一切《いっさい》ない。
危険を感じた界元は、腕を引こうとした。だが、景陣の刃はその動きを超えた。
痛みを感じる前に、界元は息子の神業《かみわざ》に舌をまく。
「見事だ景陣」
言葉から少し遅れて、界元の腕にうっすらと血が滲《にじ》む。
荒い息を吐き、景陣はうなずいた。
「では約束です。父上」
「まて、その前に鏡とやらを封印……」
風を切る音。
まだ、空中には無数の点が漂《ただよ》っていた。それなのに、そんな攻撃が出来るはずがなかった。
言葉を言い終わる前に界元は、吹っ飛び床を転がり、そのまま庭へ転げ落ちた。
投げつけられた棍が、界元を強く打っていた。五本の棍が界元の体の側面に、少しめり込んでいた。
「界元よ。呑気《のんき》に馬鹿息子と遊んでいる暇はないだろ。俺の相手をしてくれよ」
「……俺の相手をしてくれよ」
和穂は背後で聞こえる声に、背筋がぞっとした。
白雲の声に間違《まちが》いない。でも、そこは今探したはずだ。
飛びのきながら、和穂は振り向いた。
やはり白雲はいた。
右手には殷雷の棍を持っていた。殷雷の棍は宝貝の材料にも使われる真鋼《しんこう》で出来ている。
あの棍ならば、万波鐘の攻撃をさばけるかもしれなかった。
鬼神《きしん》の動きで、音を打ち払い、気配《けはい》を消し去って闇の中に潜《ひそ》んでいたのか。
もう片方の左手には、しっかりと万返鏡が握られたままだ。
隙なく刀を構える和穂を無視して、白雲は歩き始めた。霧のおかげで、白雲の足元は見えないが、まるで滑《すべ》るような動きに見えた。
景陣にもまるで興味がないように、横を通り過ぎるだけだった。
そしてボロボロになった縁側に立ち、地面に横たわる界元を見つめた。
「力まかせに撃ってやったが、くたばりやがったか」
地面に転がったまま、界元は不敵に笑っていた。
「ふはは。まさか真鋼の棍を持っているとはな。今の攻撃で、俺を殺せなかったのが運のつきだ」
ゆっくり界元は立ち上がる。鐘を持つ右手とは逆に、左手で地面に転がる棍の一本を持ち上げた。
鐘の鳴る音がして、棍は光の粒子となり消え去る。
「いかに宝貝の材料になる物質でも、複製ならばこのとおりだ。
もっとも本物でももう、恐れるには足りんな。
鎧をもう一層作った。真鋼は分解出来なくても、真鋼の打撃には耐えられる」
霧がうっすらと、三重になった鎧の影を浮かび上がらせた。
額から流れる血をぬぐい、界元は漆黒《しっこく》の蔵に向かって、鐘を振った。
途端、蔵は大黒柱を切断され、見事に内部へと向かい崩壊《ほうかい》した。
白雲も庭に降り、破壊された蔵の前に走りよる。
「なんて事を。高かったのに」
「そんな悪趣味な蔵など建てて、どういうつもりなんだ」
白雲は界元に向き直った。
界元はゆっくりと白雲に向かい歩いた。
界元の足運びを、白雲は真剣な眼差《まなざ》しで見つめた。
界元が、その場所に到達した途端、白雲は声をあげた。
「界元よ。お前のその自慢の宝貝には、ちょっとした欠陥があるな。
いや、お前が間抜けなせいか」
「なんだと!」
「その鎧には死角があると言っているんだ。大抵《たいてい》の物質を分解し、宝貝の刃すら受け止める鎧か。
だがな、足元が隙だらけだ」
界元の足は地面に接していた。さすがに鐘の宝貝には飛行機能がないので、当然と言えば当然であった。
もしも足の下にも鎧を作れば常に地面が分解される。
完全無敵の鎧の唯一《ゆいいつ》の隙だ。
ふと、地面の感触が違う事に界元は気付いた。
「地下からの攻撃か!」
大急ぎで、界元は思わず、足元に鎧を作ってしまった。
これが一つ目の間違《まちが》いだった。
足元で庭の土がさらに細かい粒子になっていく。
ガリ。
何か土以外の物を削ったか? と思った瞬間に地面が抜けた。一種の落とし穴になっていたのだ。
落とし穴のフタを、自《みずか》らが破壊してしまったのだ。
界元は真っ逆さまに穴の中に落ちていく。穴の側面は規則的に積まれた石だ。
俗にいう古井戸《ふるいど》に間違いはない。
「馬鹿め。
この蔵を建てた場所には、水が枯《か》れた古井戸があったのだ。
蔵を建てるにあたって、邪魔《じゃま》になったので鏡に吸収した。
それは複製の井戸だ。つまり私の自由に動くのだぞ」
言葉が終わる前に、井戸が軋《きし》む。
界元もさすがに恐怖に襲われた。まるで巨大な蛇《へび》の腹の中にいるようだ。
危機感に襲われ、界元は二つ目の間違いを犯してしまった。
「こんな井戸など!」
鐘が鳴り、井戸に光の亀裂《きれつ》が走った。分解する井戸。
同時に、周囲の土砂《どしゃ》が、界元目指して崩れはじめた。
「蔵を作った大工に命じて、井戸の周りには砂を巡らしておいた」
土砂は崩れ落ち、界元の鎧に触れた。触れた砂は、より細かく砕けるが、これは複製ではないので消滅はしない。
砂は粉塵《ふんじん》となり、界元の上につもりはじめていった。
界元の体には全く、圧力が掛かっていないのだが、たとえ粉塵といえども、生き埋めには変わりはない。
ついに白雲は勝利の高笑いを始めた。
「龍華《りゅうか》の封印の中で、鏡と鐘は常に一緒《いっしょ》にあったのだよ。
長い封印の中で、鏡は歪《ゆが》んだ鏡面《きょうめん》で、鐘だけを映し続けていたのだ。
お前の鐘が持つ、『意思』という形のないものを鏡はわずかだが、映し取ったのだ。
我が鏡は、すでに自分の意思で考えられるようになっている」
和穂は駆けた。これですむはずがない。界元の命が危ない。
景陣も、井戸の跡《あと》へと走った。
ただ一人、白雲だけが喋《しゃべ》り続けた。
「鏡は考えた。鐘が来たらどうするか。それで一つの結論を出したのだ。
鐘は対処出来ないが、使用者は所詮《しょせん》生身の人間に過ぎない。
それでこの井戸を仕掛けたのさ。
界元、お前が来るとは思っていなかったが、いずれ鐘の使い手が来るのは確実だったからだ」
人は窮地に立たされると、冷静な判断が出来なくなる。特に目の前に問題があると、それを解決する為だけに、間違った選択を行うのであった。
三度目の間違いを界元は行ってしまった。
音の鎧があるから、砂の中に閉じ込められてしまうと考えた景陣は、鎧を解いた。
途端に、きめの細かい土が界元を包む。
池の底から水面に上昇するように界元は両手を動かす。彼の考えに間違いはなかった。
ここまで細かい砂ならば、水のように中で泳げた。だが、水とは比《くら》べ物にならない抵抗にすぐに息が切れた。
「景陣! 何とかして白雲を食い止めろ! その間に界元を助ける。奴の飛び道具には気をつけろ。後ろから戻ってくるぞ!」
自分でなければ白雲を止められないと、殷雷刀には判っていた。
自分でも時間稼ぎが限界で、勝てる自信はまったくない。特に真鋼の棍を持たれた今、気勢が乗れば宝貝すら破壊出来るのだ。
だが、界元を助けられるのも自分だけなのだ。
殷雷刀は、だいぶ頭に血が昇ってきた。あっちを助け、こっちを助けようとしているのに、当の本人同士は戦いを止《や》めようとしないのだ。
和穂は空気を吸い込んだ。殷雷刀も手を貸し、常識では信じられない程《ほど》の空気を肺に溜《た》め込んでいく。
そして、一気に砂の中へと飛び込んだ。
白雲の歩みを遮《さえぎ》るように、景陣は剣を構えていた。
「界元のところの馬鹿息子か。さっきからうろちょろしているが、何のつもりだ。
そこをどけ」
「……引けませぬな」
「ほお。父親を守ろうというのか?
感心な孝行息子だが、親子そろって特大の馬鹿だな。私の行く手を邪魔出来るとでも思っているのか?」
「父上を守ろうと、考えているのは確かですが、白雲殿、あなたの命も心配しているのですよ」
「ふん。何をくだらんことを。私のどこに命に係《かか》わる問題があるのだ?」
「……私がこの屋敷に来てから、随分《ずいぶん》と老化なされているようですが」
白雲は笑った。
「何を言いだすかと思えば。
この身が朽ち果てようが関係あるまい。それは実に些細《ささい》な話だ。
寿命《じゅみょう》などいくらでも宝貝にくれてやる」
「……そこまで父上が憎うございますか」
白雲の声の調子が少し低くなった。
「あぁ、憎いね」
父上も白雲もただの駄々《だだ》っ子だと、景陣は再確認した。
喧嘩《けんか》ならいくらでもやればいいが、宝貝を使って暴れられたんではかなわない。
ゆっくりと白雲は真鋼の棍を構えた。
五
棍《こん》が剣を払う。払われた剣は勢いがなくなりかけるが、すぐに再び白雲《びゃくうん》に襲いかかる。
が、また払われた。
「馬鹿息子。お前が何年、こんな下らん剣術に時間を費やしたか知らぬが、虚《むな》しいとは思わぬか?
私は武術には一刻たりとも、時間は使っていない。それが、宝貝《ぱおぺい》の力で、お前と互角《ごかく》、いやお前以上の腕を持つに到ったのだよ」
「人と比較する為《ため》の剣術ではありませぬ」
「自己鍛練《じこたんれん》だとでも言うのか? 下らん。実に下らん」
振り下ろされる棍を受け流す。その勢いで少し刃こぼれが出来た。
「白雲殿。戦いの最中に口を開くと、舌を噛《か》みますよ」
「別にお前と戦っているつもりはない、ちょっとした暇潰《ひまつぶ》しだ」
「どういう意味ですか?」
いきなり棍を捨て、白雲は景陣《けいじん》の顎《あご》を持ち上げるように殴《なぐ》った。
ゆっくりと宙を吹っ飛ぶ、景陣。
だが、膝《ひざ》をついたままだが、すぐに体勢を立て直す。
捨てられた棍は消え去り、新しい棍が鏡の中から現れた。
口の中から折れた歯を吐き出し、景陣は白雲を見た。
白雲は何かを面白《おもしろ》そうに見ていた。
地面を蹴《け》り、景陣は白雲との間合いを離した。
そして、白雲の注意を引く物を見た。
砂の中からゆっくりと和穂《かずほ》の姿が現れていた。彼女の肩に回されているのは、間違《まちが》いなく界元《かいげん》の手だ。
殷雷刀《いんらいとう》の力か、和穂は信じられないような跳躍《ちょうやく》を果たした。
自分の身長の二倍|程《ほど》の高さに、気絶した界元と刀を持ち、一気に砂の中から躍《おど》り出た。
爆煙のごとく周囲に砂が飛び散った。
ぐったりとした界元だが、その手にはいまだ鐘が握られていた。
「やっと出たか!」
白雲は鏡を構えた。
景陣が動くよりも先に、鏡からは三本の棍が打ち出された。
最初の一本は殷雷刀が叩《たた》き落とした。そのまま、殷雷刀が和穂と界元を守ろうと構えに入るのを見越していたのか、二本目の棍は見事に万波鐘を打つ。
耳障《みみざわ》りな音を立て、鐘は割れた。
虚《きょ》を突かれた和穂に、三本目の棍が命中した。
とっさにかわそうとして、致命傷《ちめいしょう》にはならなかったが、みぞおちに棍が当たる。
地面に落ちる、和穂と界元。
和穂には意識があったが、全身が痺《しび》れ思うように動けない。
「さあ、今度こそ殺してくれる」
白雲はついに復讐《ふくしゅう》の時が来たと、界元のもとに歩み寄ろうとした。
だが、それでも景陣は立ちふさがる。
「行かせませぬぞ。白雲殿」
「……馬鹿息子、お前はもしかして今まで私と界元が、互角の勝負をしていたとでも思っているんではあるまいな。
私の方が圧倒的に有利なのだ。今まではあいつをいたぶっていただけなのだぞ。
私の本気の力を見せてやる」
棍をさっと、上段に構える白雲。景陣の背筋がぞっとした。
殷雷の言葉で、景陣は表面にださずに力を操《あやつ》る方法、効率よく力を伝える技《わざ》を会得《えとく》していた。
同時に、相手が同じような技を使えば、そうと判《わか》る。
今の白雲の動きにはそれがあった。白雲は凄《すさ》まじい力を秘めている。
景陣の怯《おび》えを見てとる白雲であった。
「怯えているな。上等だ。
お前は今から私の一撃で死ぬ。
剣では防げない。
間合いを外しても、絶対に串前の体を棍が掠《かす》める。
そうすればお前の体は衝撃で弾《はじ》けて、血餅《けっぺい》のような肉の固まりだ」
大きな声での死の宣告であった。
和穂は立ち上がろうとするが、すぐによろめいてしまう。
和穂の体にはまだ、棍の衝撃が残っていたのだ。ドラを叩けばしばらく音が響き続けるように。
もし、今、この時点で殷雷刀を投げつけて殷雷を助けに走らせれば、和穂の内臓は体の中に残る衝撃に耐えられず、内臓が全《すべ》て破壊されるだろう。
彼女が死なずにすんでいるは、殷雷刀の力のおかげであった。
『殷雷、助けに行って!』
『駄目《だめ》だ! お前が死んでしまう!』
殷雷は頑《がん》として、和穂の頼みをきかなかった。
周囲にあるのは、壊れた万波鐘、気絶している界元。そして白い霧。
霧。
棍が今まさに振られようとした瞬間、霧が消え去った。
何かが起きようとしていた。
殷雷刀は和穂の髪を通じて、周囲の動きを察知《さっち》した。
「!」
空気をつんざく爆音が轟《とどろ》いた。
音と共に広がる閃光《せんこう》、しばらく遅れて広がる青の匂《にお》い。
白雲の棍に雷《かみなり》が落ちたのだ。
ぶすぶすと、全身の皮膚が爛《ただ》れ、黒い煙を上げながら、ゆっくり白雲は倒れていった。
べき。
肉を投げた時の、妙《みょう》にべったりとした音がした。水が蒸発する匂いの後には、肉と髪が焼ける匂いが広がった。
やっと和穂の中から、衝撃が消え去った。
殷雷刀は人形《ひとがた》へと姿を戻す。
殷雷と和穂は、玲夢《れいむ》の顔を見た。
凍り付いたような無表情に、涙が流れていた。
その手には天呼筆《てんこひつ》が握られていた。
玲夢が白雲に雷を落としたのだ。
*
「私はお父様を殺してしまった。なんでこんな事をしてしまったのだろう」
正気と狂気の合間《あいま》を漂《ただよ》うような、虚《うつ》ろな声だった。
景陣は玲夢に近づき力強く、玲夢を自分の胸に抱き締めた。
「仕方がなかったのだ。お前は俺を助ける為《ため》にやむなくああしてしまったのだ。
お前がああしていなければ、俺が死んでいたんだ」
殷雷は後味の悪さに頭を抱《かか》えていた。
使用者に、自分の力を与える宝貝ならともかく、鬼神環《きしんかん》に防御《ぼうぎょ》機能などありはしない。
攻撃などなら防ぐだろうが、炎《ほのお》や雷を防ぐのは不可能だった。
横目で白雲の死体を見れば、まだブスブスと燃えていた。
和穂も辛《つら》そうな顔をしてうつむいていた。
元仙人とはいえ、死の絶対さは知っているのだ。
自分が何をどう言おうとも、死は覆《くつがえ》らないと判っているのだ。
景陣の腕の温《ぬく》もりで、玲夢は少し落ち着きを取り戻した。
落ち着いたところで、罪の意識は変わらなかったが。
「私は親殺しの罪人だ。つぐないきれない罪を犯《おか》してしまったのよ」
必死に景陣は玲夢を庇《かば》う。
「いや違う」
「……景陣。違いはしないよ。頼みがある。私を切り殺してくれ」
「馬鹿を言うな!」
「私は殺されて当然の罪人なんだ」
「ならば、俺も同じ罪人だ。お前に雷を使わせたのは俺のせいなのだから」
「景陣」
「そうだ玲夢。お前の罪は俺の罪だ。つぐないきれない罪かもしれんが、俺も一緒《いっしょ》に罪を背負って生きてやる。
だから死ぬ事など考えるな」
地獄で見た一筋の光明《こうみょう》だと殷雷は思った。
この二人ならば、やっていけるかもしれない。
和穂が心配そうに声をかけた。
「殷雷」
「あぁ、大丈夫《だいじょうぶ》だ。あの二人なら生きてゆくさ」
そう信じるしかない殷雷であった。
小声で壊れた鐘が声を出す。
「あの、殷雷さんでしたか。
私は万波鐘という宝貝なんですが、おとりこみ中申し訳《わけ》ないんですが」
和穂と殷雷は鐘に目をやった。
「何だ、お前は、破壊されたんではないのか?」
「破壊はされましたが、私は万返鏡を封印する為に造られた宝貝なもんで、龍華《りゅうか》様の言う『運命』であの鏡と結ばれているんです。
つまり、鏡が健在な限り、私もそう簡単に機能停止はしないんで。
封印の中であいつをさらに封印していたんですよ」
これはいい。和穂の身を守るのにちょうどいい鎧《よろい》になるかもしれないと、殷雷は考えた。
「そうか。まだ動けたのか」
「ま、もっともたいした事は出来ませんよ。破壊とか鎧は無茶ですが」
露骨に溜《た》め息を殷雷はつく。
「使えない奴め」
「何を言いますか。私は本来、あの鏡を封印する為に造られたのですよ。
封印の中にいたとはいえ、あなたのような欠陥《けっかん》宝貝とはわけが違うんですぜ」
和穂は少し驚いた。
「師匠《ししょう》の封印の中には、欠陥宝貝以外の宝貝も入ってたんだ!」
少し自慢気《じまんげ》に鐘は答えた。
「ま、私ぐらいの物でしょうがね」
殷雷はちょっとムッとした。だが、冷静に指摘した。
「いや、万波鐘よ。お前も欠陥宝貝だ。
万返鏡を封印する目的で造られたのに、今この時点で鏡は封印されていない。
つまりお前は機能を全《まっと》うしていないではないか」
思わず絶句する鐘。
「……いや、しかし。再び封印すれば機能を全うした事になるでしょ。龍華様の封印が解けたときの爆発は知っているでしょ。あんな爆発が起きれば、私の封印が解けたのも仕方がない話ではありませんか」
髪の毛をかきながら殷雷は言った。
「ほんじゃなにか? 使用者が望んでもいない状況で、勝手に外れてもいいってのか? 封印宝貝が? しかもお前は鏡の所持者に倒されたではないか。
玲夢がいなければ、お前は白雪の手に落ちていたのだぞ」
和穂が間に入った。
「まあまあ殷雷。そんなのどうでもいいじゃない。
万波鐘、鏡を封印してくれますね」
「……判りました。欠陥だとかそうではないとかは、どれだけ役に立つかの度合いで決まると思います」
口論しても仕方がないと考えたのか、殷雷もあっさりとひいた。
「ま、それでよかろう」
聞こえるはずのない、声がした。
「……柔軟《じゅうなん》な発想を心掛けるべきであった。
私なりにそう心掛けていたつもりだったのだが、いつの間にか一つの考えにこだわってしまっていた。
その報《むく》いが起きたのだ。
私の敗北《はいぼく》はそれが原因だったのだ。
だが、私にはまだ学ぶ事が出来た。
敗北を超えて、私は新しい発想を得るに至ったのだ。
矢、槍、棍。
それに少しひねったつもりで古井戸《ふるいど》だ。
なんと狭く貧困な発想だろうか。この大地にはありとあらゆる物があったのに。
矢、槍、棍、古井戸、鬼神環。そして終白雲《しゅうびゃくうん》私自身だ」
殷雷の髪の毛が逆立った。声は白雲の物であった。死体に目をやろうとしたが、それは出来なかった。
死体はゆっくりと光の束《たば》になって消えていった。
何が起きているのか理解出来ない玲夢は、景陣にしがみついた。
どこから声が聞こえるのか。殷雷は必死になり探した。そしてついに音の出所を発見した。
白雲の死体があった場所に鏡が転がっている。
その鏡から声がしているのだ。
殷雷が気付くと同時に、鏡面が揺れた。水死体が浮かび上がるように、ゆっくりと人間の手が現れてくる。
手に続いて腕が出てきた。
腕には黒い袖が見えた。道服独特の大きい袖だ。
うめき声のような、和穂の声がした。
「あの白雲は複製だったの!」
誰も答えない。答えよりも先にそれが真実であると証明された。
掌《てのひら》に収《おさ》まる程《ほど》の手鏡の中から、一人の人間が浮かび出てきた。
終白雲だ。
先刻までの顔と全く変わっていない。
和穂の中で幾つかの疑問が解決した。
鬼神環を何の迷いもなく使えたのは、この為だったのだ。
自分の複製が老いても、自分には全く影響がない。それどころか、鬼神環が主に消耗《しょうもう》しているのは、万返鏡の力なのかもしれない。
さらに、鏡によって作られた複製は、使用者の意思のままに操《あやつ》れるのであった。
白雲は両手を天にかざした。
「私はついに神へと到る道を手に入れたのだ!」
呆《あき》れた顔をして、殷雷は言った。
「何が神だ。大層《たいそう》な。そこいらの土地神に比《くら》べたら、仙人の方がよっぽど強いんだぜ。いい加減、年寄りのケンカに付き合うのもあきたぜ。宝貝を返しな」
殷雷の顔を白雲はにらんだ。
そしてそのまま、地面の砂を手づかみにして鏡の中へ入れた。
途端《とたん》、殷雷の顔が真っ青になった。
「殷雷とやら。少しは私のことばの道理が判ったようだな。
もう一度言うぞ。
私はこの世界を構成する木火土金水の五行《ごぎょう》を操り、神へとなる!
それはそうと、景陣」
白雲は抱き合う、玲夢と景陣を見た。
「よくも娘をたぶらかしてくれたな!」
殷雷が呑気《のんき》に減らず口を叩《たた》く。
「神様。俗な事言ってるんじゃないよ」
白雲の鏡が砂を吐く。
途端に、人間の腰ぐらいある砂の山が出来上がった。
砂の山がうねりとなり殷雷に向かって走った。咄嗟《とっさ》に殷雷は避ける。
砂のうねりは、庭の土壁にぶつかった。
万波鐘の攻撃でがたが来ていた壁は、一瞬持ち堪《こた》えるかと思えたが、ゆっくりと外へ向けて倒れていった。
もうもうと立ち上がる、土煙。
殷雷は景陣に気絶した界元を担《かつ》がせた。
白雲は庭の池へと歩を進めた。
止める余裕などないままに、黒い道士は鏡を水の中に入れた。次の瞬間には、池の水は完全に干上がってしまった。
「殷雷、なんとかしなくちゃ!」
「どうやって? うかつには近寄れんぞ」
池の脇にある花壇から、幾つかの種を鏡に吸収させた。
こうなってくると、地面に転がる鐘の宝貝だけが頼りだ。
和穂は鐘を拾いあげた。
「万波鐘。あの鏡の中から吸収された物を引っ張りだすにはどうしたらいいの?」
私は欠陥宝貝とは違いますよ、という感じに鐘の言葉|遣《づか》いは丁寧《ていねい》だった。
「簡単な事でございます、和穂様。
本来、破壊された状態でなければ、私を一振りするだけで、奴の鏡面から収容物を引きずりだせます」
短気に殷雷が怒鳴《どな》った。
「だったら早くしろ!」
「他人の言葉はちゃんと聞きなさい。無傷ならば、と注意したはずだよ。生憎《あいにく》今の私の状態では、至近距離で一刻も鳴らせていただければ」
怒っても仕方がない。殷雷は自分の手を頭に当てた。まるで頭痛を堪《こら》えているかのようだ。
「この役立たずめ。和穂、とっととそいつを断縁獄《だんえんごく》の中にしまっちまえ」
界元を抱きかかえたまま、景陣は殷雷の肩を叩いた。
「殷雷さん、あれ」
景陣が指差した先には、朝顔のような蔓《つる》が地面をのたうっていた。
一本の蔓ではなく何本もの蔓がからまりあい、太い綱のようになっていた。
蔓の先は屋敷に伸びていく。
蔓は器用に燭台《しょくだい》の上に乗った蝋燭《ろうそく》を運んで来た。勿論《もちろん》、蝋燭には明々《あかあか》と燃える炎《ほのお》が。
白雲は殷雷たちに見せつけるように、蝋燭の上に鏡を向けた。
器用に炎だけが吸い込まれ消えていった。
冷汗《ひやあせ》を流して殷雷は笑う。
「へへへ。これで後は『金』だけだな」
四人の注目を浴びて、黒い道士はゆっくりと懐《ふところ》に手を入れた。
しばらくごそごそしたかと思うと、財布《さいふ》を取り出し小さな金粒を鏡の中へと落とす。
妙《みょう》だと、和穂は思った。
「ねえ、白雲の懐にあったって事は、あの金も複製じゃないの? それをどうしてああやって鏡の中に入れたのかしら?」
沈痛な面持《おもも》ちで玲夢が説明した。
「多分あれは、お父様の冗談だと思う」
修羅《しゅら》の形相《ぎょうそう》で血管をひくつかせ、殷雷は笑った。
「気の利《き》いた冗談だな。面白《おもしろ》すぎて髪の毛が逆立ってしまうぜ」
明かり代わりに、白雲は炎を出し、自分の周囲を巡《めぐ》らせた。
「さあ、玲夢。間違《まちが》いは誰にでもある。今ならお前を許してやろう。
私のもとに戻って来るのだ」
これは駆け引きのまたとない機会だ。殷雷の頭が回転を始めた。
玲夢に白雲のもとに戻るふりをさせて、鏡を取り上げる隙《すき》を作らせられまいか?
白雲も多少は警戒しているだろうから、単純にはいくまい。だが、万が一でも機会があるに越した事はない。
殷雷は玲夢の袖を引っ張る。だが、玲夢は殷雷には目もくれずに言った。
「嫌《いや》です。お父様。
私は景陣のそばにいたいのです」
火に油を注ぐとはこの事か。
白雲の周りの炎が、紅蓮《ぐれん》から青白い色へと姿を変えた。
炎の温度が増大しているのだ。
六
椅子《いす》を机の上にあげ、ホウキで掃除《そうじ》をすませた茶店の爺《じい》さんは息をついた。
「今日も忙《いそが》しかったのう。婆《ばあ》さんや」
洗い場から返事が返った。
「そうですねえ。お爺さん。それよりもさっきから、遠くで物音がしませんか」
「そうか?」
「えぇ、ちょうど白雲《びゃくうん》様の屋敷の方からですよ」
「ほお。まあ偉い道士様じゃから、わしらには想像も出来ん事でもやっておいでじゃないのかのう」
「そうですねぇ」
「そうじゃろう」
爺さんは大きく伸びをした。
若い頃からコツコツ金を溜《た》めてやっと手に入れた店だった。
働くのが好きであったし、年老いたとはいえ、のんびり過ごすのは性《しょう》にあっていなかった。
「ん?」
店の中の明かりが大きく揺れた。爺さんも空気の衝撃を肌で感じとった。
「なんじゃ?」
途端《とたん》、窓の戸板をぶちやぶり、殷雷《いんらい》、和穂《かずほ》に玲夢《れいむ》、界元《かいげん》を抱《かか》えた景陣《けいじん》が転がり込む。
殷雷は足を滑《すべ》らせ、木の円卓に体をぶち当てた。
卓の足は吹っ飛び、円卓はただの木切れの集まりになった。
木屑《きくず》の中に殷雷はねっころがる。
「へい、爺さん。命が惜《お》しけりゃ逃げな」
器用に、足の反動で起き上がったかと思うと殷雷が今までいた場所に、つららのような氷の固まりが窓の外から飛んできた。
殷雷たちは、店の入口から急いで外へ飛び出す。
茫然《ぼうぜん》とする爺さんの前に、今度は窓から砂の激流が流れ込む。
砂はすぐさま巨大な手に形を整えていく。
手は手探《てさぐ》りで、何かを探すかのように、店の中の床《ゆか》をのたうちまわった。
砂の手は手に触れた物を片っ端から、握り潰《つぶ》していく。
机に椅子、食器棚が壮大な音を立てて破壊されていった。
やがて砂は、爺さんにむかいズリズリと近寄ってきた。
爺さんが、握り殺されると覚悟した時、外から声がした。
「そっちに逃げたか!」
声と同時に、砂の手と氷は光の束《たば》となって消滅した。
いきなりの物音に婆さんがやってくると、店の中は台風が暴れたかのような惨状《さんじょう》だ。
「どうしたんだい爺さん」
今まで二人して何十年も苦労して築き上げた店が目茶苦茶《めちゃくちゃ》になってしまったのだ。婆さんは腰を抜かしそうになった。
だが、爺さんは不敵に笑った。
「婆さん。心配はいらんさ。白雲様のところの玲夢さんがいたから、いくらでも弁償しそ下さるさ。
それより、ちょいと面白《おもしろ》そうな事件が起こってるみたいなんで、見物してくる」
爺さんは瓦礫《がれき》を蹴《け》っ飛ばしながら、入口だった場所へ向かい、外へ出た。
ご期待どおりに、普通ではちょっと見られない光景が広がっていた。
*
歩く必要すらなかった。白雲の足元の砂は主人を望みのままに運んだ。サラサラと流砂《りゅうさ》のように動き、白雲の体を移動させた。
白雲が近寄った家屋は破壊されていく。
殷雷たちを探す為《ため》の破壊だとは、町の人間には判《わか》らない。
白雲に勘繰《かんぐ》られた建物は、インチキ大工に解体を頼んだかのように、見事に無様《ぶざま》な半壊状態にされた。
頭のネジが多少吹っ飛んだ美術家ならば、絶賛しそうな壊れ方であった。
しかも、ところどころでは炎《ほのお》がくすぶっている。だが、この炎は消えもしなければ燃え広がりもしない。
ただ、白雲の前に立ちふさがる障害物は、ことごとく焼き尽くされていく。
その姿は黒い道服の上に、更《さら》に紅蓮《ぐれん》の炎で作られた膜を羽織《はお》っていた。
まるで元々《もともと》黒と朱《しゅ》で作られた道服のように見えなくもない。
左手にはしっかり鏡を持ち、右手には真鋼《しんこう》の棍《こん》を持つ。
いや、銀色の棍の先には、槍《やり》の穂先のように、青白い氷の固まりが付いていた。もはやこれは氷の槍であった。
白雲はふと、道|脇《わき》のどぶ板に目をやり、一気に氷の槍を突き刺す。
一瞬、板に霜が走り、すぐに木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に破裂した。
「奴らめ、どこに逃げおった!」
そんな白雲を遠巻きにして、野次馬《やじうま》たちが集まっていた。
一歩|間違《まちが》えば死ぬかもしれないが、仙術なんて一生の内に、一度見られるかどうかの珍しい物だ。
いらだってきた白雲は、視界を広げようと足元の砂に指示をだす。
砂は白雲を持ち上げるように盛り上がっていった。
とてつもなく高い竹馬のように、砂は細長い棒状になり、白雲を持ち上げていく。
ついには町全体が見渡せる程《ほど》の高みにまで持ち上がった。
白雲の耳には、ゴウゴウという風の音が響いていく。
夜の町を真上から見物するのは、これほどまでに爽快《そうかい》かと、白雲は溜《た》め息をつく。
鳥にしか許されていない展望だ。だが感心している暇はない。
白雲は、槍を振るう。
途端、無数の穂先が地上めがけて降り注いでいく。
野次馬たちは頭をかかえ、大騒ぎで逃げまどう。
だが、氷の雨が終わったと知った途端、土産《みやげ》代わりにと、氷の破片を奪いあった。
「……元気な連中だ」
薄暗い馬小屋の中、殷雷は界元の口に猿ぐつわを噛《か》ませ、ついでに両手両足を縛り上げた。
「みんなてめえが悪いんだぞ!」
「むがむが」
ともかくこれ以上事態をひっかきまわして欲しくない、一同は界元を縛り上げる事に全員一致で決定した。
「殷雷君、あまり界元さんを強く縛らないでちょうだい」
「界元さんだとよ。
いっそのこと『お義父様《とうさま》』とでも呼んでやればどうだ」
反撃を期待していた殷雷だが、玲夢が顔を赤くしたので拍子《ひょうし》抜けした。
馬に水をやる桶《おけ》をひっくり返し、椅子代わりにして殷雷が声を出す。
「さて、作戦を練《ね》るための時間稼ぎに逃げ出したわけだが、やっぱ町に逃げたのはまずかったかもしれんな。
ま、それはすんだ事と考えるとして、あのそこいらの神様より強くなった白雲をどう倒す?」
玲夢は自分の手を強く握った。
「私が説得するよ。もう、さっきみたいなのは御免《ごめん》だから」
景陣が首を振った。
「説得ですむとは考えられない。私と父上が行こう。そうすれば白雲殿の怒りも収まるはずです」
和穂が必死に止めた。
「駄目《だめ》です。絶対に殺されてしまいます。私がどうにかします」
兎《うさぎ》の耳を持ち上げるように、和穂の髪の毛を殷雷はつかんだ。髪の赤い飾り布が少し緩《ゆる》んだ。
「おい、和穂。仙人とは言わずとも、ちょっとした神様程度に強い男に、術も使えない、資格を剥奪《はくだつ》された仙人がどうやって立ち向かうってんだ?」
「…………」
「どうだ、答えられまい」
「……殷雷には言いたくない」
「どういう意味だ?」
「この策をきいたら、殷雷は自分がやるって言い出すに決まっているよ」
「ほお、俺が気にいるような、いい考えがあるっていうのか? だったらそれを言え。俺がやってやるから」
「駄目よ。危険すぎる」
殷雷はこれ以上ないという程、高らかに笑う。
「ほお。前から思っていたが、お前はちょいと勘違《かんちが》いしているんじゃないのか?
俺の身の危険なんか考える必要はないんだよ。俺はただの『刀』、道具だ。道具の身を案じて使用者が危機におちいるってのか?」
「でも、殷雷はただの道具なんかじゃ」
「……ただの道具だ。下《くだ》らん感傷《かんしょう》なんか捨ててしまえ。
『あぁ、大切《たいせつ》な大切な和穂ちゃんを、危険な目にあわせるぐらいなら、不肖《ふしょう》、この殷雷刀めが死地に赴《おもむ》きます』
なんて言ってるんじゃないぞ」
声の調子を少し落とし、言い聞かせるように殷雷は言葉を続けた。
「お前が死ねば、宝貝《ぱおぺい》回収はそこで終了だ。だが、俺が死んでも、お前は宝貝の回収を続けなければならん。
お前はどんな手を使ってでも生き延びなければならんのだろ?
それぐらいの覚悟はあるんだろうが?」
殷雷に図星《ずぼし》をさされ、和穂の背中がゾクリとした。
「でも殷雷」
ヒュンと空気を裂き、殷雷の平手が和穂の頬《ほお》に当たる。
「いいから、策を言え!」
和穂は頬を押さえ、目に涙を溜めつつ、説明を始めた。
「……大崑崙《だいこんろん》を倒した時と、同じ戦法を使うのよ。
外に出ている白雲は、倒しようがない。だったら鏡の中に入り、白雲の本体を倒すしかない」
渋い面《つら》をして、殷雷が反論した。
「待て。それは俺も考えないではなかったが問題が多い。第一、鏡の中にそう簡単に入れるのか? 第二に鏡の中に入れば奴の自由に扱われるんではないか?」
和穂は理論だてて説明した。
「白雲は絶対に、天呼筆《てんこひつ》を欲しがる。
あれさえ手に入れれば、自然すら自由に操《あやつ》れるから。天呼筆を使って誘《おび》き寄せれば、上手《うま》く鏡の中に入れる。
それに、あの漆黒《しっこく》の蔵《くら》は間違《まちが》って鏡の中に人が入らない為《ため》の物だったと思う」
「何?」
「鏡というぐらいだから、光がないと何も映せない、映せなければ、何も吸収出来ないはずでしょ。
今まで白雲が操っているのは、せいぜい植物止まりで、強い意思を持つ動物の類《たぐい》はまったくない。
あの鏡の中に、意思を持つ者が複数入ってくるのを恐れているんだと思う。
逆に言えば、鏡の中の意思のあるものを、白雲は操れないんじゃない?」
殷雷は納得《なっとく》した。
「上等。やるだけの価値はあるな。玲夢、天呼筆を貸してくれ」
少し悩んだ玲夢だが、懐《ふところ》にしまった筆を殷雷に投げつけた。
殷雷は筆を受け取り馬小屋の扉《とびら》を開けた。
「……じゃ、行ってくるぜ和穂」
後を追おうとする和穂を、玲夢が止めた。
「和穂ちゃん。今は殷雷君に任せましょう。あんな言い方をしたけど、殷官署は和穂ちゃんを危険な目にあわせたくないのよ。
それだけは本当でしょ?」
七
落雷《らくらい》は、水の膜で受け、そのまま大地に流せば問題はなかった。
ついに見つけた殷雷《いんらい》とかいう男は、天候を操《あやつ》る宝貝《ぱおぺい》を持っているようだ。
白雲《びゃくうん》は男を追った。
すでに何回か落雷や雹《ひょう》を受けたが、水を使い全くの無害にできた。
だが、なんとかしてあの雷《かみなり》を吸収できないものか。
その為《ため》にはやはり、男が持つ宝貝が必要だろう。
黒い髪をなびかせ、男は挑《いど》んで来た。素早《すばや》い動きになかなか白雲の攻撃も当たりはしなかった。だが、向こうも無手だ。
どうせ私を誘《おび》き寄せる囮《おとり》だろうと、白雲は考えた。
囮に引っ掛かるのは癪《しゃく》であったが、男の宝貝は非常に魅力的だ。
白雲は地上を滑《すべ》るように移動した。
黒髪の男を捕《つか》まえるのは時間の問題だ。すでに町の到るところに、砂や水、木が仕掛けてあるのだ。
男は罠《わな》の中でもがいているに過ぎない。
逃げる一方の男だったが、急に戦いの意志を見せたようだ。
白雲は受けて立つ気になった。どうせ今の自分を倒せる者など、この世にはいない。
*
『さあ、掛かってくれよ白雲』
殷雷《いんらい》は瓦礫《がれき》の中を疾走《しっそう》した。いつもの棍《こん》の代わりに筆を握っていたので、少し頼りないがそんな事は言ってられなかった。
攻撃を仕掛けられる方向から、白雲のいる位置は判《わか》っていた。
今はただ白雲に接触しなければ話にならない。
殷雷はドブを飛び越え、砂煙をあげて角を回った。
そして、そこには白雲がいた。
一気に畳み掛けるしかないのだ。
まるで、武器の代わりにもなるのだと言いたげに、殷雷は筆を上段に振り被った。
白雲は待っていたとばかりに、鏡を頭上に構えた。
殷雷が筆を振り下ろすと、鏡は筆に触れ、鏡面の中に沈んでいく。
殷雷は一気に筆を鏡の中へ押し込み、自分の腕も入れた。
「な、なんのつもりだ!」
白雲の声を遠くに聞きながら、殷雷は鏡の中へと入っていった。
水銀で出来た池の中にいるかと、殷雷は思った。全《すべ》てが銀色に光っていて、それなのに視界が恐ろしくいい。
泡のような物に包まれた、水や炎《ほのお》がプカブカと浮かんでいた。
少し離れた場所には、白雲がたたずんでいる。やはり、透明な泡に体を囲まれていた。
「さあ、白雲、覚悟してもらおうか。いろいろと好き勝手やってくれたな!」
殷雷は飛び掛かろうとするが、悪夢の中の逃亡者《とうぼうしゃ》のようなゆったりとした足取りでしか移動出来ない。
それでも近寄り、手刀《てがたな》の一撃を白雲の首筋に放った。
だが、白雲の泡を突き破れなかった。
「……無駄《むだ》だ。この宝貝の中では何も傷つける事は出来ない。お前は鏡の牢獄《ろうごく》へと入ってしまったのだ。あきらめろ。お前たちがどうあがこうが勝ちはない」
作戦の失敗に、愕然《がくぜん》とした殷雷だが、すぐさま臨機応変《りんきおうへん》に次の手を考えた。
「白雲よ。それは違うな。今、俺とお前は全くの互角《ごかく》になったんではないか!」
意を込め、精神を集中すると、万返鏡の中から殷雷の複製が外へ飛び出した。
しかし白雲は冷静だった。
「互角ではない」
「黙れ、次は炎を出してやる」
同じように、自由に操れる炎を出そうとするが、今度は上手《うま》くいかなかった。
白雲は語った。
「この鏡の中にある物は、入れた者の意思にしか従わない。
お前がこの炎を中に入れたか? そうではあるまい。この炎を中に入れたのは、私の意思だ。お前の複製に、鏡の中へと何かを入れさせるとでも思うのかね?」
鏡の中と外で、同じ会話が同時に行われていた。
「……ならば人海戦術だ」
鏡の中から無数の殷雷が飛び出し、鏡を奪いさろうとした。
だが、白雲は冷静に五行を操り殷雷たちを叩《たた》きのめしていく。
次々に光の束となり消えゆく殷雷たち。
白雲は面白《おもしろ》そうに尋ねた。
「さあ、どうする?」
「ならば、これでどうだ!」
殷雷は自分の傷口を覆《おお》っているサラシ布を少し千切《ちぎ》った。
そして鏡の中から無数の布を放りだした。
この布ならば、殷雷が持ち込んだ物なので使えるだろう。
強風に舞うように、白雲を中心にして布は回っていく。
「それで私の動きを封じるつもりかね?」
氷の刃が閃《ひらめ》き、布をずたずたに裂く。途端《とたん》に布も光の束となり消えていく。
「いい加減にしろ、何をやっても無駄《むだ》だ。その服を出しても、我が棍は打ち砕く。目障《めざわ》りなだけだから、そこでじっとしておれ」
殷雷は白雲をにらみつけ言葉を返す。
「何、まだ判らないさ」
鏡の中から殷雷は布を出す。
さっきと同じように、白雲を中心にして回り続ける布。
「一度|利《き》かなかった物が、通用するとでも考えているのか!」
氷が布を裂く。
細切《こまぎ》れになった布は地面へと落ちていく。
殷雷はさらに懐《ふところ》から布を出す。
もはや、鏡から出た瞬間に、氷が布を切り裂いていった。
地面へと散っていく布。
「殷雷だったな。もう、お前と遊んでいる暇はない。幾らでも悪あがきするがいい。鏡から出た瞬間に、お前が出現させた物|全《すべ》てを破壊してやる」
しつこく殷雷が布を出し続ける隙をつき天呼筆を外へと取り出す。
そして、一気に筆を走らせた。
瞬間的に雷雲《らいうん》がたなびき、一気に落雷が起きた。
雷は、正確に鏡だけに落ちた。
鏡の中の殷雷の前に、プクリと新しい泡が出来上がった。
まるで黄金を溶かしたような色をした、雷の固まりだ。
黒い道士は嬉《うれ》しそうに泡を掌《てのひら》の上で転がした。
「どうだ、なんと美しいじゃないか。この雷が私の意のままに動くんだよ」
白雲の言葉を無視し、殷雷は布を出し続けた。
殷雷の態度に、怒りを覚える白雲であったが彼もまた殷雷を傷つけられない。
「なんとか言ったらどうなんだ、それとも悔《くや》しくて口もきけないのか?」
「……炎というものは、どれだけ小さく分断しても炎だ。水や雷や砂も同じだな。つまり複製とはいえ、どれだけ破壊しても光の束には分解しない。お前が自分の意思で消し去った時と万波鐘の力以外はな。
それに対して、矢などは二つに折られた時点で矢ではなくなり、光の束へと戻ってしまうのだな。
折れた矢は『折れた矢』であり『矢』ではない。
千切れた布は『千切れた布』であり『布』ではない」
殷雷の不敵な口調に、白雲は少し不安を覚えた。
「貴様《きさま》、何が言いたい!」
「さて、ここで問題。
千切れてはいるが、時間が経《た》てば元に復元する布は、果たして光の束に返るかな?
炎が形を変えても、炎なのと同じで、その布は形が変わっても布なのだ。
普通の布とは違い、元の状態に戻れる布は光の束へとは返らない。
別に確信があったわけじゃない。必死の悪あがきだったんだよ。
だが、上手くいった。
本来なら復元には数週間かかるんだが、その時間を上手く操り、短く出来た」
ハッ、と白雲は殷雷の出した布を思い出した。
最初の布は光へと戻ったが、次に出した布からは切り裂かれ、そのまま地面に落ちていたのだ。
何故《なぜ》、あの布は光に戻らなかったのだ!
殷雷は静かに言った。
「終わりだ白雲。あの布は和穂の飾り布。わずかだが復元能力がある。
お前はもう逃げられない……」
足にまとわりつく抵抗を感じた時には、布が膝《ひざ》まで絡みついていた。
慌《あわ》てて槍を振るい、こそぎ落とそうとするが、全く間に合わない。
それどころか、いつのまにか宙に舞っていた糸屑《いとくず》が大きさを増していく。
ペタリペタリと次々に、小さな布が白雲の体に張りついていった。
「ほ、炎で焼き尽くしてくれる!」
だが、すでに鏡面を覆うように布がくっついていた。
わずかに炎が布を焼いたが、次々と形を元に戻した布たちは、鏡面をさらに押さえつけていった。
白雲の肩にのしかかる重みで、肺を押さえつけられて呼吸も苦しくなっていく。
溺《おぼ》れた人間が水面をつかもうともがくように、白雲の手も天を仰《あお》いだ。
天をつかもうとする白雲の手に、さらに布がまとわりついた。
石膏《せっこう》で作られた等身大の人形のようになっていく。
しかも、時間がたてば、だんだんと布が厚くなり、顔や体のメリハリが薄れていく。
どれだけ時間が経ったのか、やがて白い人形は内側に向けて崩《くず》れていった。
窒息《ちっそく》した白雲はすでに白雲ではなくなったからだ。
布の隙間《すきま》から微《かす》かに、光が零《こぼ》れた。
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終 章
「万返鏡《ばんぺいきょう》! 万波鐘《ばんぱしょう》!」
和穂《かずは》が二つの宝貝《ぱおぺい》の名前を呼ぶ。途端《とたん》に、鏡と鏡に絡みついた鐘が断縁獄《だんえんごく》の中に姿を消した。
「鬼神環《きしんかん》!」
続いて指輪もひょうたんの中に消えていった。
殷雷《いんらい》は嬉《うれ》しそうに棍《こん》を振り回している。
廃墟《はいきょ》の回りには、矢といくつかの金貨と銀貨、将棋盤《しょうぎばん》と碁盤《ごばん》、その駒《こま》、槍《やり》、さらに巨大な古井戸《ふるいど》が散らばっていた。横倒しになった井戸は崩壊《ほうかい》した煙突を思わせた。
そして地面には後ろ手に括《くく》られた白雲《びゃくうん》と界元《かいげん》が、今にも噛《か》みつきそうな形相《ぎょうそう》でにらみあっていた。
呆《あき》れた顔をして息子と娘もその脇に立っていた。
「やっと終わったね。殷雷」
「あれだけ苦労して回収できたのは、たったの三つか? やってられんぜ。なあ」
殷雷は白雲の頭をビタビタと叩《たた》く。
「何をする、この若造《わかぞう》が!」
「……歳《とし》だけみりゃ、お前の何倍も生きてるんだがな」
「お父様、いい加減になさいまし」
「黙れ黙れ黙れ。俺は界元を殺すまでは死んでも死にきれんのだ」
横に座《すわ》る界元も吠《ほ》えた。
「それは俺のセリフだ。貴様《きさま》を葬《ほうむ》り去るまではわが心に安息の日はない!」
これでは散歩に連れられた犬どうしが、喧嘩《けんか》をしているのとたいして変わりはない。
殷雷は二人の間に棍を突き立て、割って入った。
「だいたい、そもそもどうしてお前たちはそんなに仲が悪いんだ? 自分の仙術の流派《りゅうは》と相いれないとか、そういうのだったら下らない話だろ?
宝貝を使ってみたら、そんな些細《ささい》な違いには全く意味がないと判《わか》っただろうに」
二人は声をそろえて怒鳴《どな》った。
「そんな理由ではない!」
和穂が小首を傾《かし》げた。
「じゃ、何なのですか?」
界元が歯ぎしりしながら説明を始めた。
「忘れもしない、今から二十三年前、わしは白雲を自宅に誘い、将棋をさしていた」
殷雷が少し驚く。
「ほお、その頃はそんなにいがみ合ってなかったのか」
「そうだ。だが、こいつは端の酔象《すいぞう》(駒の名前)をついて王手をかけやがったのだ。
これでは堪《たま》らんと、わしは『待った』をかけた。
白雲はならぬと言ったのだ!」
和穂、殷雷、玲夢《れいむ》、景陣《けいじん》の眉間《みけん》に同時に皺《しわ》が寄った。
白雲が叫《さけ》ぶ。
「当たり前だ。将棋に『待った』などない。そのような甘い考えだから、いつまでたってもお前は下手《へた》なのだ」
「何を言うか! その前の将棋の勝負の時にはわしはお前の『待った』を認めてやったではないか」
「ふん。それはそれ、これはこれだ。『待った』を許せる状況と、許せない状況があるだろうが」
「何だと!」
「黙れ、この下手くそめが」
強烈な脱力感に、和穂ら四人は地面に転がる古井戸にもたれかかった。
殷雷がか細い声で言った。
「玲夢。景陣。二人のわだかまりをなくすいい方法を教えてやろう」
「……そんなのがあるんですか?」
「あぁ、まず二人に包丁《ほうちょう》を一本ずつ渡してどこぞの洞窟《どうくつ》の中に放り込め。
そうして入口を閉めて半年程待つ。
そうすりゃ、二人はそろってお陀仏《だぶつ》だから綺麗《きれい》さっぱりだ」
玲夢と景陣は辛《つら》そうに同じ言葉を発した。
「親でなければ、そうしてるさ」
場の空気を和《なご》まそうと、和穂は笑う。それに宝貝の回収はもう終わったのだ。
「まあまあ、玲夢さんも景陣さんも、これから大変でしょうけど、二人で力をあわせて頑張《がんば》ってくださいね。色々と御世話になりました」
今にも出掛けようとする和穂の手を、玲夢が握った。
「和穂ちゃん、もう出発するの? もうしばらくここにいたら。
そうだ、殷雷君の怪我《けが》が治《なお》るまでは休んでいってよ」
殷雷が服の下でごそごそとやっている。
「生憎《あいにく》だが玲夢。俺の傷はもう治った」
引き止めたかったが、和穂には和穂の使命があるのだと、玲夢は我慢《がまん》した。
「そう。ま、呑気《のんき》な旅じゃなさそうだけど、近くに来たら寄ってちょうだいよね」
和穂は嬉《うれ》しそうにうなずいた。
「はい」
殷雷は少し斜《しゃ》に構えたままだ。
「俺たちが来るって事は、また宝貝での厄介事《やっかいごと》が起きるって事だぜ。
まあいい。その時はまた、手を借りるかもしれん」
和穂と殷雷は立ち去ろうとした。景陣も声をかけた。
「また、いつか御教授願います」
「もう、教える事もないさ」
和穂は手を振り、二人の旅はさらに続くのであった。
*
現在、回収された宝貝は十四個。
残りの宝貝はあと、七百十二個。
旅路の果てはまだ遠く、見えない。
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あとがき
某月某日
担当のY氏より電話があった。封仙娘娘追宝録の評判が良いから、次の話を書いておくれ、という電話だ。
おお!! 初版が出てから、まだ三か月しか経《た》っていないではないか。ともかく二つ返事で引き受けた。で、出来たのがこの話である。気にいって頂けただろうか?
某月某日
再び担当Y氏より電話。久し振りに度肝《どぎも》を抜かれる内容であった。
なんと『食前絶後《くうぜんぜつご》!!』の再版が出るそうだ。ひゃっほう。初版からもう二年が経っているではないか。腰が抜けた。
某月某日
フグを食った事が無いのだよ。と、友人のJが言った。なんとも貧之臭《びんぼうくさ》い話だ。
が、ワシも最近食べていなかったので、同じく友人のOを誘《さそ》い、フグを食いに行く計画を立てた。
「フグか。どうせフグを食うのなら、本場で食おう」と、ワシ。
「ほお、ならば下関《しものせき》とかか?」と、J。
「いや。づぼら屋だ。新世界のづぼら屋に行こう」と、ワシ。
某月某日
で、づぼら屋に行った。Jにフグの味はどうだったかと尋《たず》ねてみた。
「ちょいと酸《す》っぱくて、柚子《ゆず》の香りがしたな」との答え。
「……それはタレの味だ馬鹿者。てめえは茹《ゆ》でた鳥肉に、タレをかけて食ってやがれ!」
すっとこどっこいな会話をしつつ、新世界の夜は更《ふ》ける。
某月某日
今日は富士見書房の謝恩会だ。一年ぶりに東京に来た。謝恩会が始まる前に、Y氏に会って『嵐を招く道士たち』についての打ち合わせをした。
「やっぱり封仙娘娘追宝録のラストは、宝貝《ぱおぺい》を全部集めた和穂が仙界に戻って、メデタシメデタ、ンですよね」と、Y氏。
うむ、そうだといいけど、このペースだと、宝貝|全《すべ》て回収するには百四巻ぐらいになってしまう。水滸伝《すいこでん》に引っ掛けて百八巻てのもいいな。
話の都合《つごう》上、脇役《わきやく》になる宝貝(今回の鬼神環《きしんかん》とか)ってのはしかたないとしても、一気に二百や三百の名前も無い宝貝が集まるってのも嫌《いや》でしょ?
某月某日
今日は初詣《はつもうで》に行った。こないだフグを食った連中と行ったので、あまり代《か》わり映《ば》えしないが、まあいい。
毎年初詣の後には呑《の》みに行くのだが、居酒屋が開くまでの数時間は、これまたゲーセンで時間を潰すのが慣習となっているのだ。しかも毎年、対戦物である。
去年は確かVF2であったが、今年は『対戦ばずるだま』。まさに漢《おとこ》勝負に相応《ふさわ》しい逸品《いっぴん》のゲームだ。
ワシは羅利《らせつ》・清川《きよかわ》、Jは修羅《しゅら》・朝比奈《あさひな》を使用した。結果はワシの清川の圧勝に終わったのだ。強いなあ、ワシの清川は。Jの悔しがりようが尋常《じんじょう》ではない。
だが、油断してはいけない。Jのメインキャラは剣聖《けんせい》・虹野《にじの》なのだ。しかし奴は人前では恥ずかしがって虹野を使わない。困《こま》った野郎だ。まあ、ワシも人前ではデビル×X(照れ臭いので伏字《ふせじ》)を使わないからお互い様か。
ふと後ろを見ると、Oが冷めた目をしてワシらを見ていた。
それはともかくコ○ミよ、次は『じゃりん子チエ 対戦ばずるだま』を作るように。もちろんキャラには『ガタロの梅若《うめわか》』を入れなさい。いいですね?
某月某日
また東京に来た。謝恩会からまだ三週間ぐらいしか経っていないが、今日はドラゴンマガジンに掲載《けいさい》するインタビューを受けに来たのだ。
ワシとY氏、インタビューコーナーの担当のS女史と話しをした。このS女史というのが、また綺麗《きれい》な人なのだよ。いや本当に、お世辞《せじ》とかじゃなくて。タレントに例えると、なんて下世話な表現では追いつかない程の美人編集者だ。でも、ワシより年上。諸行無常である。
と、このように褒《ほ》めるだけ褒めといて、最後にオチをつける手法を専門用語で『上沼《かみぬま》崩し』と言う。上沼|恵美子《えみこ》がよく使う手法だから、こう呼ばれる。Sさん、ネタにしてスンマセン。でも、本当に美しい方なんだよ。ワシとは生まれた年代が違うけど。(ワシは七十年代生まれなのだ)
相手を褒めっぱなしに出来ない、関西人のシャイな一面が現れる手法だな。
インタビューの後、新宿で学生時代の友人と呑む。MもKも、あんまり変わっていなかった。呑んでからカラオケに行ったが、そこで『みちのく一人旅 テクノバージョン』という怪しい歌を見つけた。それを、ついつい歌ってしまう自分が情けない。
某月某日
知人のY嬢と、パチンコの下手《へた》さ自慢《じまん》をした。
「私なんか、今まで一箱しかパチンコで勝った事ないねんよ」と、Y嬢。
「あむぁい! ワシなんか一箱も勝った事ないで」と、ワシ。
「わぁ、私より下手な人がおってんや、むっちゃ嬉しいわ」
ちょっと悔《くや》しい。
某月某日
悔しいのでパチンコに行った。五百円以上、使うつもりはなかったのだが、これがまた冗談《じょうだん》のように出た。五百円が二万三千五百円相当の出玉になったのだ。ふっふっふ、これからは銀玉ろくやんとでも呼んでもらおうか。
正月早々、縁起《えんぎ》が良い。が、これに味をしめると、泥沼にはまりそうなのでパチンコはもうやめよう。
パチンコから帰り、食事をして、今あとがきを書いているのだ。今回は日記風のあとがきにしようと考え、ここ二、三か月の出来事を思い出してみた。
ろくごまるにの赤裸々な私生活が暴《あば》かれたところで、紙数も尽《つ》きた。ではまた。
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底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》2 嵐《あらし》を招《まね》く道士《どうし》たち
平成8年2月25日 初版発行
平成9年9月30日 七版発行
著者――ろくごまるに