封仙娘娘追宝録 天を騒がす落とし物
ろくごまるに
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目次
序 章『龍をおさめる』
第一章『欠陥|宝貝《ぱおぺい》・殷雷刀《いんらいとう》』
第二章『戦術級重機動|宝貝《ぱおぺい》・大崑崙《だいこんろん》』
終 章
あとがき
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序 章『龍をおさめる』
一
四海獄《しかいごく》の声は、孫の健康を心配する、老人の声だった。
「どうか、どうか、どうか怪我《けが》にだけは、お気をつけくださいませ」
娘は、照れているのか、ちょっとくすぐったそうな顔をして、呆《あき》れた声をあげる。
「本当に、四海獄ったら心配症なんだから」
「しかし、私のような物がお供《とも》を言いつかるとは、まさに過ぎたる大役。万が一の事があったらと考えると、いてもたってもいられません」
「大丈夫《だいじょうぶ》よ。作戦にぬかりはない。……でも心配してくれて、ありがとう」
「何という、暖かいお言葉。この四海獄、全身全霊をもって、お供致します」
娘は腰から、小さな黒ひょうたんをぶら下げていた。
水筒のようだが、そうではなかった。
紫の紐《ひも》で娘の帯にくくりつけられているひょうたんは、そんじょそこらの物とは、わけが違う。
この、ひょうたんこそが、心配症の四海獄である。
尋常ではないひょうたんを持ち、娘は高い高い山の山頂に、一人で立っていた。
空はどこまでも青く、広かった。
太陽は天に輝き、その光は、命あるもの全《すべ》てを優しく包んだ。
娘の眼下《がんか》に広がる、緑の山々は、絹のような霧の中から、とがった頂《いただ》きをのぞかせていた。
目をこらすまでもなく、谷には水晶のような水の流れが見えた。
この水は、遥《はる》か彼方《かなた》にある西海に流れるまでに、濁ることはなかった。
耳を澄ますまでもなく、この山々に住む生き物たちの、息吹《いぶき》を感じることができた。
どんな春よりも暖かく、どんな秋よりも爽《さわ》やかな空気。
うつらうつらと、ひがな一日、居眠りでもしていたいような世界。
どこにでもありそうで、どこにも無い場所だった。
数多くの人間が夢に見て、たった一握りの人間だけがたどりつけた聖域。
ここは仙界である。
清浄な空気と、芳醇《ほうじゅん》な土の香りを感じながら、娘は深呼吸していた。
まだ、十五かそこらだろう、幼さの残るほっそりとした顔に、柔《やわ》らかいがしっかりとした眉毛が目立った。
眉毛に比《くら》べ、目は温和で優しい。
あどけなさと意思の強さという、相反《あいはん》する要素が小さな顔の上にあった。
だが、その顔は生命力にあふれる、可憐《かれん》な花のように美しかった。
娘が成長し、あどけなさが色気にとってかわろうとも、美しさに変わりはないだろう。
彼女の一番の魅力は、その強い精神力なのだから。
娘は、白い道服を着ていた。
道士や仙人がよく身につけている、懐《ふところ》と袖の大きい服だ。
厚手の布で作られてはいるが、ゆったりとしている。
道服は普通、普段着の上から羽織《はお》る。
娘も道服の下には、武道家が練習の時に身に着《つ》ける、動きやすそうな服を着ていた。
その上に道服を着け、腰の部分で赤く細い帯をくくっているのだ。
娘は素手《すで》だが、見る者が見れば道服の袖や懐に、道具が幾つか仕込まれているのが判《わか》っただろう。
質素といえば質素な姿だが、小さな鈴が飾《かざ》られた、赤い靴《くつ》が年頃の娘らしかった。
突然、場違いな湿った風が吹き、娘の長い黒髪がなびく。
娘は髪を後ろに流し、後頭部の辺《あた》りで、白い刺繍《ししゅう》の飾り布を使い、束《たば》ねていた。
それほど、きっちりとした結びではなく、前髪が柔らかく風に遊んでいる。
四海獄は、低い声で警告を発した。
「……来ましたね」
声を少し落として、娘は言葉を返す。
「うん。かなり大きいよ」
娘はゆっくりと風上を向き、黒く澄んだ目で東の空を見つめた。
瞳《ひとみ》には、何もうつらなかった。
だが、娘の白い額《ひたい》にうっすらと汗がにじみだした。
彼女は見えないものを見たのだ。
汗は恐怖のしるしというよりも、緊張のあかしだった。
「あまり、緊張なさらないほうが」
「判ってる。けど、やっぱり緊張するよ」
ひょうたんが言うように、娘の肩には、少し力みが見える。
「龍華《りゅうか》様はよく、『あいつの土壇場《どたんば》での度胸《どきょう》は私以上だ』とおっしゃってますよ」
「……度胸じゃ師匠《ししょう》には負けると思うけど」
「ともかく、普段どおりの力を出すことですな。試験に対する心構えで、これ以上の物はありますまいて」
「うん。精一杯《せいいっぱい》がんばるね」
娘は道士だ。龍華と呼ばれる女仙人の下で仙術を学び、今から仙人になる為《ため》の昇格試験を受ける。
風の向こうには龍がいる。
その龍を見事、ひょうたんの中に生け捕《ど》るのが試験問題だ。
娘の名前は和穂《かずほ》という。
四海獄は和穂の師匠である、龍華|自《みずか》らが造った。
四海獄こそ仙術の奥義《おうぎ》を使用して作成された、神秘の道具、いわゆる、宝貝《ぱおぺい》である。
二
和穂《かずほ》の立つ山より、遥《はる》か東に龍はいた。
龍は自分の意思で雷雲《らいうん》を呼べ、今も龍の周りには黒雲が立ち籠《こ》め、稲妻《いなずま》が光り輝く。
しかし、一つの稲妻だけでは、龍の巨体を一度には照らせなかった。
蛇《へび》のように細長い胴体は、ぬるぬるした鱗《うろこ》に覆《おお》われていて、鳥のような形の足が、四本もはえていた。
龍の体に翼《つばさ》はない。だが、龍はゆうゆうと雷雲の中を飛んでいた。いや、泳いでいた。
くねくねと雷雲と地上の間を、行ったり来たりしている。
縦長の瞳孔《どうこう》が金色に光る、丸々とした目の下に、真っ赤に裂けた口がある。
巨大な口には和穂の身長ほどの牙《きば》が生え、彼女ぐらいなら一口で食えそうだった。
龍は何でも食う。
自分の興味がそそられる物ならば、取りあえず食おうとした。
それが燕《つばめ》であろうが、兎《うさぎ》であろうが、猪《いのしし》であろうが、お構いなしである。
この龍が今まで自分の食欲を、途中で断念したことは無かった。
試験とはいえ、この危険な神獣《しんじゅう》を、和穂は生け捕ろうというのだ。
仙界に限らず、山の頂上というのは、どこも殺風景《さっぷうけい》なものである。
和穂の立つ山頂も、平らな部分には草が生えておらず、茶色の土がのぞいている。
赤い靴《くつ》は、柔《やわ》らかく土に触れていた。
娘は、自分で立てた『龍|捕獲《ほかく》』作戦に無理がないか、もう一度考えた。
「……やっぱり、雄《おす》龍と雌《めす》龍で、戦法を変えた方がいいのかな?」
「私が考えますに……」
慌《あわ》てて和穂は、四海獄《しかいごく》の言葉を遮《さえぎ》った。
「おっとっと。四海獄に相談しちゃ、試験にならないよ」
龍を捕獲するのは、不可能に近い無理難題ではなかった。
龍の習性を考え、綿密《めんみつ》に計画を練《ね》り、それを正確に実行すれば大丈夫《だいじょうぶ》である。
逆にいえば、龍の習性を見誤《みあやま》ったり、計画に無理があったり、術を一つでも間違《まちが》えれば龍を捕《つか》まえるのは不可能だ。
捕まえ損なえば、食われて死ぬ。
仙人なら、龍から逃げる術ぐらいは使えるし、時と場合によれば、倒すことも出来るだろう。だが、仙人見習いの道士では、それも叶《かな》わない。
彼女の師匠から借り受けた、四海獄はその中に莫大《ばくだい》な空間が広がっている。言葉どおりに海が四つ入る程の広さだ。
もちろん、試験に使う物なので、龍を捕獲する為《ため》の機能は、全く無い。
腰の小さなひょうたんは、龍を閉じ込める檻《おり》には違いなかった。問題はどうやって、龍を追い込むかだ。
ご丁寧《ていねい》に四海獄には、誤って中に吸い込まれない為の、安全装置が組み込まれていた。
自分の意思で、内部に入ろうと思わなければ、中には入れない。
龍を追い込む手段は、試験を受ける道士に一任されていた。
どんな手段を使おうが、追い込めば合格なのだ。
もっともその為には、師匠から学んだ仙術を、完全に使いこなさなければならない。
腕を組み、作戦を三度検討し、ついに和穂は覚悟を決めた。
「よし作戦には問題ない。後は術を間違えなければいい」
「ご健闘をお祈りします」
呼吸を整《ととの》え、仙人志願の娘は、正面を向いたまま、ゆっくりと右足を動かした。
地面をこするような動きで、右足を肩幅ほど後ろに引く。その動作と連動するように、左足の爪先《つまさき》は右斜め前を向いた。
同時に、全体重を右足にかける。
武術や舞踊ではお馴染《なじ》みだが、全体重がかかっている足を『実』、体重がかかっていない足を『虚《きょ》』と呼ぶ。
今、和穂の左足は虚となり、体重の束縛から放たれた。
道服の上からでも判る、和穂のしなやかな左足が、振り上げ持ち上げられる。
そして、右足と交差するように、再び地面に下り始めた。
トンと軽い音をたて、左足が大地に触れた途端《とたん》、虚実が入れ代わり、今度は右足が土をすりながら、大きく真後ろに引かれる。
動きにつられて、和穂の両手とひょうたんもはねていた。
激しい動きの中で、靴の鈴は全く音をたてない。静から動への動きが、あまりに自然なので、鈴は鳴れないのだ。
仙人なみの練り込まれた動きに、四海獄は驚きの声をあげそうになった。だが、精神集中の邪魔《じゃま》をしてはいけないと考え、声を飲み込んだ。
右足の上に体重をかけながら、和穂は腰を落とした。
どんな動きの時にも、和穂の背中は真っ直《す》ぐに張っている。
再び虚となった左足は、右足を軸に大きな円を描いた。
和穂は動き続けた。山頂には、彼女の靴が土と擦れる音だけが響いていた。
遠目には、山のてっぺんで酒を飲んでいた陽気な娘が、気持ちがよくなって踊り出しているように見えたかもしれないが、この踊りには深い意味があった。
舞踊の達人が見れば、和穂の動きに驚かずにはいられなかっただろう。
和穂の両足は時として、同じように実となり、信じられないことに、同時に虚になったりもした。
和穂は一心不乱に踊り続けた。足の動きにつられ腕や、ひょうたん、髪がしなやかに舞った。
踊りには、始まりと終わりがあった。踊りの終わりは、すぐに始まりへと転じ、再び舞《まい》が続けられる。
寸分の狂いもなく続けられる踊りは、土の上に足の軌跡《きせき》を刻んでいった。
だんだんと和穂の動きが速くなる。
全身から、うっすらと汗が流れ、半眼に開かれた瞳は、虚空《こくう》を見つめていた。
やがて、和穂の舞踏《ぶとう》から風が起きた。
陽《よう》の気をたっぷりと含んだ、暖かな風だ。
ゆったりとした優しい風だが、遠く遠くまで吹いた。
それが陰の気の神獣《しんじゅう》である、龍の注意を引かぬはずはなかった。
和穂から発した風は、龍のドジョウのようなひげにまとわりつき、くすぐった。
金色の眼《め》が、風の源《みなもと》である、西方を見つめた。
一瞬、龍の眼が光り、引き絞《しぼ》られ、遥か彼方《かなた》の山の上で踊る和穂の姿を捕らえた。
めまぐるしく動く和穂の動きに釣《つ》られ、龍の頭も上下左右に動く。
やがて龍は、この奇妙な娘に興味を引かれた。言葉を変えれば食欲を覚えたのだ。
だが、同時に娘の服装に、嫌《いや》な予感を覚える。あの服を着ているのなら、妙《みょう》な術を使うかもしれない。
仙人見習いの道士ならば、恐れるに足らないが、もしもこの娘が名のある仙人なら厄介《やっかい》だ。
伝説では、数十日も戦ったあげく、龍を力ずくで捕まえた仙人もいるという。
考えながらも、龍の眼は和穂を追い続けていた。なんと興味をそそる踊りであろう。
『待てよ』
龍は再び考えた。
『万が一、あの娘が仙人でも、何とかなるんではないだろうか。
俺は獣《けもの》の王である。
ちょっと面倒《めんどう》な相手でも、食ってしまえば勝ちだ。
どうしても危《あぶ》なかったら、炎《ほのお》の一つでも吐いて逃げればいいのだ。
そうだ、そうに違いない』
好奇心に負けた、自分に都合《つごう》のよい理屈だった。
龍はぐるりと輪を描くように一回転して、和穂を目掛《めが》けて宙を飛んだ。
龍にまとわりついて、黒雲も動き出す。
*
踊りの中の妙な陶酔状態にありながらも、和穂は、心が落ち着いていくのを感じた。
くるくると回る視界の中で、空の青と、山の緑と、雲の白が、溶けて流れ出していた。
単純な三色の流れの中に、やがて黒色が混《ま》じり出した。
どうやら龍の気を引いたようだ。
見るまに黒が青にとって代わっていった。青空は、今や黒い雷雲《らいうん》に代わろうとしている。
和穂はぴたりと踊りを止めて、自分の足下《あしもと》を見た。
足と土との摩擦《まさつ》で、まるで大きな印鑑で押したかのように、円で囲まれた奇妙な図形が出来上がっていた。
見ようによれば、地図のようでもある。
「間違《まちが》ってないよね。これが間違えてたら、シャレにもなんない」
図形を確認し、自分の足で描いた円から、和穂は飛び出した。
チリンと澄んだ音をたて、靴の鈴が初めて鳴る。
続いて和穂は、懐《ふところ》から複雑な文字が書かれた、一枚の黄色い呪符《じゅふ》を取り出し、土に描かれた円の中に放り投げた。
吸い込まれるように、呪符は円の中央に落ちる。
呪符と図形を確認し、和穂は雷雲に向かって、山の斜面を駆け下り始めた。
一口に駆け下りるといっても、そんなに緩《ゆる》やかな斜面でもなければ、短い距離でもない。
だが、和穂はまるで氷の上を滑《すべ》るように、急な坂を駆け下りた。
山頂から岩を転がしていれば、判《わか》っただろうが、和穂は転げる岩の速度で走っていた。
まだまだ遠い上空から、鋭《するど》い眼《め》で、龍は和穂の動作を全《すべ》て見ていた。
雲を蹴《け》って空を飛べないところを見ると、あれは仙人ではなく、まだ道士だな。
ならば、それほど恐れなくていい。龍の気を引いて、逃げるのは不可能だと思って、やけになっているのだろう。
龍は推理し、食事の期待に胸を躍らせた。
和穂は龍の気持ちを知ってか知らずか、斜面を走り続けた。杉の林を抜け、大きい岩が転がる谷を跳《と》び、ただひたすら平地を目指《めざ》して。
やがて和穂は平地に下り立った。山すその森を抜けたので、周りは広い草原だ。
和穂は立ち止まった。
さっきまでの穏《おだ》やかな天気が嘘《うそ》のように、空は鉛《なまり》色に染まっていた。
草原に吹き荒れる風は、嵐の匂《にお》いがした。
すしゃらすしゃらすしゃら。
笹に似た草原の草たちが、草どうしでこすれあい、小川のせせらぎのような音をたてている。
風は、一つの方向からしか吹いていない。
東だ。
和穂の髪が、ふぁさふぁさと、大きくたなびいた。
髪を風に任《まか》せて、和穂は微《かす》かに笑った。
不敵な笑いや、失望の笑いではなく、ごく普通の笑顔だった。
人はだれでも、嵐の直前の風を嗅《か》ぐと、なぜか意識が高揚する。
和穂も雨の匂いが混じった風を吸い、体の中が熱くなっていた。
出来ることしか、出来ない。出来ないと思ったことは、出来ない。出来ると信じたことしか、出来ない。
和穂はそう、考えた。なげやりになったのではなく、自分が全力を尽くしていることを思い出したのだ。この瞬間から、和穂の肩から無駄《むだ》な力が抜けた。
「四海獄。いよいよ正念場《しょうねんば》よ」
「思う存分、頑張って下さい。御用《ごよう》の時には何なりと、お申しつけを」
雷雲はぐんぐんと近づいて来る。
和穂は走った。土を削り、岩を砕くような力強く素早《すばや》い走り方なのだが、雑草の一つも傷つけていない。
腰の横で、景気よく四海獄が飛び跳《は》ねた。
透き通った水の中に、墨を流したかのように黒雲が広がっていく。
いまや、和穂の肉眼で見える空の七割方は雲に覆《おお》われていた。少しでも青い空を見たければ、後ろを振り向かなければならない。
風の中の、雨の匂いが強くなってきた。
遠くには稲光《いなびかり》が見える。
平静を取り戻した和穂は、見渡すかぎりの草原を走った。
やがて、彼女は雷雲の中央に到着した。
和穂は立ち止まり、首の動きだけでは少し足りないので、上体を反《そ》らせ雲を見上げた。
ゆらゆらとのたうちながら、巨大な龍が雲の中にいた。
金色の眼で、真っ直《す》ぐに和穂を見下ろしている。
どんなに腕のいい射手が、どんなに性能のいい射矢を使ってでも、和穂の位置から上空の龍に矢を当てるのは不可能だろう。
それほど、和穂と龍の距離は開いていた。
和穂は口に手を当て、頭上の龍に向かって叫《さけ》んだ。
「ねえ、おとなしく捕まってくれません? 命の保証はしますから」
恐るべきは獣の王。
龍は充分に人の言葉を理解する。
どうやら、偶然に俺と出会って、一か八《ばち》か挑《いど》みかかってきたようではないらしい。
ならば、龍を捕まえる為《ため》の手段を、用意しているかもしれなかった。
捕獲用|宝貝《ぱおぺい》を持っているのなら、ちょっと厄介《やっかい》だが、しょせんは道士だ。
宝貝を使用する前に、倒す自信はあった。
そう考えると道士|風情《ふぜい》が、自分を捕まえようと、大口を叩《たた》く態度に腹が立ち始める。
龍は、激怒《げきど》した。
和穂を見つめていた蛇のような眼が、ぎらりと光り、龍は吠《ほ》えた。
同時に千の弓矢が放たれる音がし、辺《あた》りは豪雨に包まれた。だが、さすがは道士、和穂の体には雨の雫《しずく》一滴すらかからない。
雨は、和穂を避けて地面に落ちた。
「……余計な口はきかない方が、よかったみたいね」
少し顔を青ざめさせて、和穂は後ろに飛びすさった。
龍の轟音《ごうおん》が響く。
「我は遠く雷龍《らいりゅう》の血を引く者! それを貴様《きさま》のような三流道士が、捕獲しようとは笑止千万《しょうしせんばん》!」
彼女が立っていた場所に、寸分の狂いもなく雷《かみなり》が落ちた。和穂は紙一重《かみひとえ》で避ける。
さらに多くの雷が和穂に向かって落ちる。
薄暗かった草原が、多くの稲光のせいで、青白い光に包まれた。
だが、彼女は軽々と稲妻を避け、右手だけで複雑な印を組み、呪文《じゅもん》を唱《とな》える。
印が一瞬、強く握られ、術が完成した。
途端《とたん》に、和穂の右手の人指し指と中指の間から、糸のように細長い炎《ほのお》がほとばしる。
炎の糸は、和穂からある程度離れると、二つに裂け、裂けた部分から糸の太さが二倍になった。
さらに離れると、二本に分裂した炎の糸のそれぞれが二つに分かれ、やはり太さが倍になる。
青白い光しかなかった草原に、溶岩のように力強い紅《くれない》が混《ま》じった。
龍もこれには驚いた。
炎は分裂に分裂を重ね、気がつけば人間の腕の太さぐらいある火炎が、五百十二本も自分を絡め取ろうと宙を飛び交《か》っている。しかも炎の糸の片端は、娘がつかんでいた。
黒い雲の下、天を覆いつくそうとしているかのように、炎の綱《つな》が放たれていた。
龍は必死になって動き、五百十二本の追手をかわし続けた。
やがて炎の綱は、複雑な編み物のように絡まりあい、巨大な炎の網《あみ》に姿を変えた。
網を作る一本一本の炎が、ばきばきと爆《は》ぜている。
和穂は、操《あやつ》り人形を動かすように、器用に右手を動かし、炎の網を操った。だが、龍の動きは炎の速度をわずかに超えた。
いつまでたっても、網は龍に届きそうになかった。
「いい加減にあきらめて捕まってよ」
和穂の言葉に、雷鳴《らいめい》が再び人語を奏《かな》でた。
「ふざけるな。少しでも気を抜き、炎に隙《すき》が出来た時が、ひよっこ道士の最期《さいご》と知れ。
お前の体力がいつまで続くか、楽しみだ」
龍を逃げ出させない為に、わざと和穂が怒りに触れる言葉を使っていると、龍には読めない。
和穂は右手にしっかりと網の片端を握ったまま、今度は左手で簡単な印を組み、呪文を唱えた。
彼女の掌《てのひら》に小さな小さな、雨粒の半分の大きさの雷玉が現れる。
静電気のように、パチパチと音をたて、手の上に浮かんでいた。
雷玉を落とさないよう、慎重に左手を口の前に動かし、和穂はふっと息をかけた。
蛍《ほたる》のような雷玉は飛び、雨粒の一つに当たった。
その雨粒は、小さな雷を発して、周りの十三粒の雨粒に当たる。
十三粒の一粒が、さらに別の十三粒に電撃を発した。
爆発的な連鎖が起きた。
雷雲の下、全《すべ》ての雨粒は小さな小さな雷玉になり、弾《はじ》けた。
瞬間に全ての雨粒は蒸発し、一つの巨大な青白い雷玉となる。
龍はその中心となり電撃を全身に受けた。
耳よりも、体全体で感じる巨大な音が響いた。
想像もつかない電流が、龍の体に流れた。だが、さすがは龍、瞬間的に気絶はしたが、鱗《うろこ》の一枚にも傷を負っていない。
しかし一瞬の隙を逃《のが》さず、炎の網は、煮えたぎった油をぶちまけたような音をたて、龍をからめ取った。
「やった」
「やりましたな、和穂様」
和穂と四海獄は、喜びの声をあげた。
和穂は、右手を思いっきり引っ張った。
天が落ちたような壮絶《そうぜつ》な音をたて、龍は地上に落とされた。
獣の王と言われるだけはあり、いかに炎の網とはいえ、通常の道士が作る炎では、龍の身を焼くことは出来ない。
命に危険はなかったが、龍は必死に網の中でもがいた。
自分の体積の数十倍はある龍を、和穂は軽々とたぐりよせた。
網を食い千切《ちぎ》ろうと、必死になって牙《きば》をむく、龍の顔に向かって和穂は頼んだ。
「龍さん。おとなしく、このひょうたんの中に入ってくれません?」
大きな大きな口を開いて、龍は答えた。
「その必要はない」
「……どうしてですか?」
「術が甘い。こんな網など、断ち切れるからだ!」
龍が、渾身《こんしん》の力を込めて気合を入れた。
龍の全身が閃光を放ち、あっというまに、炎の網は破れ飛び散り、まぼろしのように消え去った。
龍は叫ぶ。
「簡単な芝居にひっかかりおって!」
狡猾《こうかつ》な龍は、和穂の作った炎の網が自分の力で充分破壊出来ると見て取り、捕まった演技をしていたのだ。
慌《あわ》てて、和穂が袖に手を入れた瞬間、龍の口は、和穂を食らおうと牙をむく。
「きゃっ」
鷹《たか》が野鼠《のねずみ》を、仕留《しと》めるような素早い動きで龍は和穂を食った。
龍は賢《かしこ》かった。
和穂を丸飲みにはせず、口の中でよくかみ砕いてから飲み込んだ。
下手《へた》に術師を丸飲みにすると、腹の中で暴れられて、大変な目にあうと、龍の友人から聞いていたからだ。
そういえば、人間を食ったのはこれが初めてだと、龍は思い出し、眼をつぶって反芻《はんすう》して味わった。
やがて、和穂の味にも飽きたのか、龍はフラフラと天に昇り、再びあてどもなくさまよいだした。
「墨みたいな味がするのだな。人間の血というのは。あまり美味《うま》くはない」
自分が想像していたほど、和穂が美味くなかったので、龍の言葉は不満そうだった。
三
龍と共に雷雲《らいうん》が立ち去り、和穂《かずほ》が食われた平原に、太陽の光が戻ってきた。
ゆるやかな太陽は、何事もなかったかのように、草原を照らし出す。
嵐が去ったのを知り、巣穴から茶色の兎《うさぎ》が三匹出てきた。無邪気《むじゃき》そうに跳《は》ねていた野兎たちだが、草原に異常な物を見つけた。
和穂の影である。
いままさに龍に食われる瞬間の、袖に手を入れて術を仕掛けようとしている、黒い影だった。
まるで等身大の黒い切り絵だ。
兎たちは、せわしなく影の匂《にお》いを嗅《か》ごうとした。妙《みょう》な気配《けはい》はするが、匂いが全くしないのだ。
その影が突然、厚みを帯び、ゆっくりと立ち上がった。
同時にみるみる、黒い色が薄くなり、生気を帯びた肌の色に変わっていく。
そこにいたのは和穂だった。
きょとんとする兎の頭をなでて、和穂は道服についたホコリを払う。
「いよいよ詰めね」
「網が破れた時は、この四海獄《しかいごく》も一瞬ひやりとしましたよ。
いやはや、土壇場《どたんば》で影とすりかわるとは、なかなか度胸《どきょう》のある作戦でございますな。さすがは、龍華《りゅうか》様の弟子《でし》であらせられる」
「……しつこいなぁ」
龍に食われる寸前に、和穂は自分と影の位置を交換していたのだ。
和穂は色を失い、影となり、影は色を得て和穂となった。
龍は単純な幻術にかかり、影を食ったにすぎない。
「和穂様。龍に影を食わせる時、影と一緒《いっしょ》に、符を二枚食わせましたな」
「よく判《わか》ったね。そうよ」
「一つは、影と見破られない為《ため》に、龍の舌を惑《まど》わす符ですな。もう一つは何ですか?」
悪戯《いたずら》っぼく、和穂は笑った。
「釣りをするのに必要なのは、餌《えさ》だけじゃないでしょ?」
「はて? 影が餌なら、あの符は」
「釣針よ。四海獄、いよいよあなたの出番がきたよ」
「さすれば、私は魚を入れる、ビクでございますな」
和穂は西へ向かって走り出した。再び、山頂の図形にまで、戻る必要がある。
*
くねくねと、龍は空を飛んでいた。
女道士を食ってから、もう三日になる。
いや、本当に三日たったのだろうか?
自分の体は、三日たったとうったえるが、黒雲を包む夜は来ていたか?
龍は妙な予感に襲われていた。
女道士を食ってから、どうも、得体《えたい》のしれない不快感と混乱があった。
あれ以来、眼《め》にうつるものが白々しくて仕方がない。
今いる土地も、どうも禍々《まがまが》しかった。
巨大な粘土質のハゲ山が、山脈を作っている。
巨大な山脈で、左右から圧迫感を受けながらも、山脈ぞいに移動するしかなかった。
まるで巨大な谷底を進んでいるようだ。
こんなに不快な気分の時は、海に帰るのが一番だと、龍は考えた。
四日が過ぎ、五日が過ぎた気がする。
龍は粘土質の山脈で道に迷っていた。
低い山脈なら、一気に乗り越えて飛んでいくのだが、この高さではそうはいかない。
しょせん龍は、雷雲が到達出来る場所よりも、高くは飛べないのだ。
道士を食うと罰《ばち》が当たるのか?
龍が真剣に思い始めた時、かすかに潮《しお》の香りがした。
どうやら海が近いようだ。
龍は喜んで、潮の香りを求めて、動きだした。
どれだけの時間がたったのだろう、龍は巨大な洞窟《どうくつ》を発見した。
こんな巨大な洞窟は、今まで見たことがなかった。
入口の高さは、龍が到達できる高さよりもさらに高い。
しかも潮の香りは、この洞窟から漂《ただよ》っていた。
龍はこの洞窟を越えれば海だと考え、中に入っていった。
ずいずいと、薄暗く巨大な洞窟を進み、龍はやっと海に到達した。龍は心なしか、ほっとした。
だが、じきに奇妙な違和感《いわかん》に襲われた。
何かが違う。この海は妙だ。
あ! 龍は知った。海には波が立っていない。龍の視点から見れば、白い鱗《うろこ》のように見える、海の波が全くないのだ。
同時に、龍は浜辺に立て掛けられた看板を発見した。
そこには、
『四海獄・九遥洞《きゅうようどう》洞主、龍華』
と記されていた。
「しまった! あの女、仙陣を張っていたのか」
だが、遠くで何かが閉められる音を聞き、龍は逃げる気力を失った。
*
和穂は最初の山頂の上に戻っていた。
奇妙な踊りで地面に記した図形の上に、小さな小さな、髪の毛よりもさらに細く、小さな龍が浮かんでいた。
土で作った小さな起伏も、龍にとっては山脈に見えるだろう。
和穂は腰のひょうたんを手に持ち、ふたを開けた。
そして、四海獄を龍の進路に、そっと置いた。
ゆっくりとゆっくりと龍は動き、やがてひょうたんの中に消える。
四海獄が、ホッと息をつく。
「和穂様、お見事でございます」
「ありがとう、四海獄」
和穂は四海獄のふたを閉める。
途端《とたん》に、和穂の目の前で、光が二つ弾《はじ》けた。
光と共に現れたのは二人の男女だった。
一人は、外見の上では二十過ぎの女だ。
鮮やかな、真紅《しんく》の道服を身に着《つ》けていた。
長い髪を背中に垂《た》らしていて、髪に沢山《たくさん》の髪飾りを絡ませている。
漆黒《しっこく》の髪は、日の光を反射して光っていた。髪飾りたちも、銀色に輝いていた。彼女の髪の中で黒と銀が美しく混《ま》じり合う。
無数の、腕輪や首飾りも身に帯びている。
それは無造作《むぞうさ》に着けているのか、全《すべ》ての装飾品を綿密《めんみつ》なる計算の上で、一つの美しさを表現させようとしているのか。
だが、きりりとした顔立ちと、長身で均整のとれた体つきなので、派手《はで》な服装の、いやらしさが微塵《みじん》も感じられない。
女は無表情に和穂を見つめていた。
和穂とくらべれば、まさに子供と大人であった。
それもそのはず、この女性こそ、和穂の師匠《ししょう》にして育ての親である、九遥山に洞《ほら》を構える仙人、龍華だ。
彼女と同時に現れた男の姿は、いたって素朴《そぼく》だった。
服装は和穂とたいして変わっていない。
男物、女物の仕立ての違いはあるが、和穂と同じような道服を着ていた。
年の頃は龍華と同じぐらいで、どこにでもいそうな青年だ。
龍華とは対照的に、細い目をしてニコニコ笑っている。
髪の毛は長くなく、短くなく、端正だが温和そうな顔をしている。
彼もまた仙人であり、名前を護玄《ごげん》という。
仙人としての経歴は、龍華と同じようなもので、彼女の友人である。
慣例として、仙人昇格の試験は、二人以上の仙人の合格を貰《もら》わなければならない。
この二人が和穂の試験教官だった。
和穂はひざをつき、二人に礼をとった。
続いて四海獄を差し出した。
「龍をおさめてございます」
なぜか龍華は不機嫌そうな顔をしていた。師匠のそんな顔を見て、和穂は不安になってきた。
何か、まずいことでもしたのだろうか?
龍華は黙って、四海獄を受け取った。
龍華に比《くら》べて、護玄はやはり機嫌がよさそうに笑いながら、和穂が足で描いた図形を見る。
「ま、急ごしらえにしては、よく出来た仙陣だな」
「恐れいります」
仙陣の中の符を拾い、護玄は和穂に問い掛けた。
「対符だね? この陽符を仙陣に置き、入口とし、龍に影を食わせた時に、一緒に片割れの陰符を食わせた。陰と陽は混じろうとして、龍は仙陣に迷い込み、海水を入れた四海獄を仕掛けるか」
護玄は笑った。
「ははは。結構、結構。よく考えた作戦だ。正統派の部類に入る答えだな。師匠とはえらい違いだ」
龍華が低い声で、護玄を制する。
「うるさい男だね。昔のことをいつまでもうだうだと」
龍華の怒る姿を楽しむかのように、護玄は和穂に説明した。
「和穂。おまえの師匠の龍華大先生は、仙人昇格試験の時に、どんな手段を使ったと思う?」
和穂には想像もつかなかった。
「判りません」
「龍華大先生は、真正面から、龍を力ずくで捕まえようとしたのさ。
龍にはちょっとやそっとの、炎《ほのお》や雷撃の仙術は効《き》かないだろ? 普通は、その時点で他の工夫をしようと考えるわな。道士が扱える仙術なんてたかがしれてる。
それでも龍華は、正面から龍と戦った。
分身の術やら、三日三晩、雷撃を発したりしたんだぜ。
激闘三十三日の末、とうとう龍は根負けして、龍華の言いなりになっちまった」
龍華は少し、顔を赤らめて、照れ臭《くさ》そうに怒鳴《どな》った。
「おしゃべりが過ぎるよ、護玄。あれは私の唯一《ゆいいつ》の汚点《おてん》だ」
護玄はいたずらっぼく笑った。
「唯一?」
「もういい。今は和穂の試験について考えるんだ。合格かい? 不合格かい?」
「おまえの意見はどうなんだ?」
「……正直言って、私は和穂が、かわいい。だから甘やかしたくないし、かといって余計に厳しくしたくもない。だから、あんたの意見に従うよ」
二人の注目を浴びて護玄は咳払《せきばら》いをした。
「ごほん。えぇ、ああ。
やることは、やったんだ。合格に決まっているだろ」
護玄の言葉を聞き、今まで冷たい無表情だった龍華の顔が、弾《はじ》けるように笑顔に変わった。
師匠は弟子に向かい、優しく声をかけた。
「よくやった和穂」
「師匠!」
和穂は龍華の胸に飛び込み、二人は飛び上がって喜んだ。
護玄は、そんな二人を見てボソッと言った。
「……和穂はともかく、いい年をこいた龍華まで」
聞き逃《のが》す龍華ではない。
抱き合って喜びながら、四海獄の腰にくくってある紫の紐《ひも》を指に絡め、手首の反動だけでヒョイと投げた。
すぱこん、と音をたてて、見事に護玄の後頭部にひょうたんは命中する。
護玄はニコこコ笑いながら、後頭部をさすり、微笑《ほほえ》みながら後ろにひっくり返り気絶した。
それはともかく、今ここに新しい仙人が誕生したのである。
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第一章『欠陥|宝貝《ぱおぺい》・殷雷刀《いんらいとう》』
一
「もう、勘弁《かんべん》してくださいよ」
背中の護玄《ごげん》に龍は頼んだ。
龍は護玄を乗せて、空を飛んでいた。
「そうだな。これにこりたら、無益《むえき》な殺生《せっしょう》はするんじゃないぞ。別に、生き物を食うなとは、言わん。だが腹が減った時以外には食うな」
「判《わか》ってますよ」
「よし。ならば、これが最後の仕事だ。九遥山《きゅうようさん》まで、飛んでくれ」
和穂《かずほ》が捕獲《ほかく》した龍を、護玄は乗騎《じょうき》代わりにもらった。
乗騎といっても、護玄は馬具のような道具を一切《いっさい》使わずに、ちょこんと龍の頭に乗っているだけだ。
自分で雲を蹴《け》って、飛んでいった方が速いんではないかと龍は思ったが、口に出すのはやめた。
こういうすっとぼけた男こそ、なめてかかると厄介《やっかい》だと、龍は思ったからだ。
「九遥山には何の御用《ごよう》で?」
「龍華《りゅうか》と碁《ご》を打つ」
「あぁ、あの赤い女仙人ですか。九遥山に屋敷でもあるんですか」
護玄はのんびりと、あくびをした。
「正確には、屋敷ではない。龍華は洞窟《どうくつ》に住んでいる」
「えらく、湿っぽい所に住んでおいでで」
龍の言葉を聞き、護玄は笑った。
「普通、一人前の仙人は洞窟に住む。仙人の呼び名で『洞主《どうしゅ》』と聞いたことはないか。洞窟といっても、自然のままではない。仙術で住居に改造してあるんだ。一つの山に仙人は一人だけ住むのだ」
「でも、護玄。あなたは、家を持たないではないですか」
龍は護玄を呼び捨てにした。今は龍の身を預かっているが、自分は龍の主人でもなんでもないと、護玄自身が言ったからだ。
この態度が、龍の気にいった。
これが、龍がたいして反発もせずに、護玄を頭に乗せている理由でもある。
「俺だって、仙人だから洞窟は持っている。だが、今は弟子《でし》がいるわけではないので、留守《るす》にしているんだ」
「そうですか。一つの山に仙人は一人というのなら、あの小娘、和穂とかいいましたな。彼女も、もう洞窟を構えているんですか」
「いや、仙人の資格を得てから、初めて伝授される、高級仙術というのがある。今はそれを仕込まれているから、九遥山にいるぞ」
「そうですか」
「どうした、和穂に復讐《ふくしゅう》でもするか?」
「御冗談を。私はそこまで執念《しゅうねん》深くありませんよ」
龍の言葉に嘘《うそ》はなかった。龍は誇り高い生き物なので、なかなか負けを認めないが、一度負けを認めた相手に復讐はしないのだ。
「護玄。碁と言いましたが、戦績の方はどうなのですか?」
「……おまえの鱗《うろこ》の数ぐらい対局したが、俺の全敗だ」
下手《へた》の横好きだ、と龍は思った。
こんな弱い打ち手につき合わされる、あの赤い仙人も大変だな、とも思った。
質素でありながらも、華やか。
龍華の住居を説明するのに、これ以外の説明は必要なかった。
九遥洞の入口は、苔《こけ》が生え、ひんやりとした空気が流れる、自然の洞窟と全く変わらない。
洞窟の中をしばらく進むと、進路をふさぐようにして、巨大な木の門が見える。
門をくぐれば、龍華の屋敷だ。
田舎造りのありふれた建物だ。人間の庄屋でも、(見かけだけは)この屋敷よりも大きい住まいを持つ者もいるだろう。
慣れない者は、洞窟と龍華の屋敷の微妙な食い違いに、たいていめまいを覚えた。
屋敷の収容人数は、洞窟の収容人数の百倍はあった。
五十人も入れば、ぎゅうぎゅうになる洞窟の中に、五千人の人間が収容できる住居があるのだ。
まあ、ひょうたんの中に、四つの海が入る四海獄《しかいごく》の例を見れば、さほど不自然でもないだろう。
門を真っ直《す》ぐに進めば、玄関につく。
柱には細かな彫り物がしてあるのだが、いっさい彩色はしておらず、よほど注意して見なければ、細工には気づかない。
龍華はこういう細工が好きなのである。玄関を上がれば、すぐに中|廊下《ろうか》に出る。
使い込まれ、琥珀《こはく》色になった廊下は、右に折れ左に折れ、どこまでも続いていた。
廊下に沿ってそれぞれフスマがあり、フスマの向こうにはもちろん、部屋があった。
どの部屋の中にも、微《かす》かに花の香りが立ち篭《こ》めている。
和穂は何度、広い屋敷の中で迷子《まいご》になったか。屋敷を造った龍華にしても、完全に屋敷の内部を把握《はあく》しているわけではなかった。
龍華も、屋敷の設計に手を抜いてしまい、この有り様《さま》であると認めていて、少なくとも方角の混乱は、早急に修正したがっていた。
もともと、五十人しか入れない洞窟に、五千人も住める屋敷を造るのが、矛盾《むじゅん》もいいところなのだ。
だがそこが仙術の恐ろしさ、そんな矛盾はいとも簡単に解決する。
ただ、どうしても歪《ゆが》みは出来てしまい、普通はその歪みを一点に集中する。
四海獄を例に取るのなら、絶対に進入不可能な特異点をわざと作り、あの巨大な空間を実現させている。
しかし、この屋敷には特異点はなく、屋敷全体に、空間的な矛盾が散らばっていた。
方位磁針を持って、ある部屋に入ったとしよう。
方位磁針の示す、北側の方角にあるフスマを開け、中に入った途端《とたん》、恐ろしいことに針は回転を始める。
部屋ごとに磁場が混乱しているのではなくて、部屋ごとに空間がねじれているのだ。
この空間のねじれが、あの仙界を揺るがす大事件を生み出す原因になろうとは、誰も予想だにしなかった。
護玄が呑気《のんき》に九遥山に向かっているころ、龍華と和穂は、中庭の工房にいた。
龍華が宝貝《ぱおぺい》の作成に使用している工房で、道士の間、和穂が中に入るのを禁じていた。
だが、和穂は仙人となったので、入室を許し、宝貝の作成方法を伝授しているのだ。
今も簡単な宝貝作成の理論を、叩《たた》き込まれている。
部屋の中には、金に銀、水晶などそれだけでも充分に宝としての価値がある、多くの財宝がばらまかれていた。
すべて宝貝の材料だ。
きらびやかな作業場である。
今日の龍華は、珍しく、和穂と同じような白い道服に身を包み、装飾品の類《たぐい》を一切《いっさい》身に着けていなかった。道服の所々《ところどころ》がほころんでいるので、作業服に近いのだろう。
作業の邪魔《じゃま》にならない為《ため》にか、髪の毛をきっちりと、後ろで一本にくくっている。
姉の姿の真似《まね》をして喜ぶ妹のように、和穂もまた龍華と同じような服装をしていた。
もっとも、和穂がきっちりと行儀《ぎょうぎ》よく椅子《いす》に座《すわ》っているのに対し、龍華は作業用の鉄机の上に、半分あぐらをかいて座っていた。
垂《た》れ下がった片足が、机の角でブラブラしている。
和穂は師匠の言葉を、一言《ひとこと》も聞き漏《も》らさないように身構えていた。
龍華は、宝貝製造の達人として、仙界に名を轟《とどろ》かせている。
そんな龍華|直々《じきじき》に宝貝作成法を伝授されるのだ、和穂は期待に胸をふくらませていた。
「和穂。風呂敷《ふろしき》っていいよな」
肩すかし気味の、師匠の問い掛けに、和穂はどう答えていいのか判《わか》らなかった。
「風呂敷って風呂敷の風呂敷ですか?」
「そう。風呂敷の風呂敷だ」
龍華は厳しい教師だ。師匠が風呂敷がいいと言ったからといって、和穂が何も考えずに『私もいいと思います』と答えれば、間違《まちが》いなく怒る。
龍華の授業はいつもそうであったから、和穂は素直に答えた。
「そうでしょうか? 私はただの布が凄《すご》いとは思いませんが」
和穂の答えに、龍華は満足そうに笑った。
「そうだ。ただの布きれが凄いとは、考えられないな。風呂敷の道具としての機能を言ってみろ」
「物を包む、です」
「では、物を包むという機能を、一番発揮しやすい形が何か判るな」
和穂は首を縦に振る。声に出して言うまでもなかった。ただの布が一番いい。
「私が何を言いたいかというとだ、複雑な道具ほど上等な道具だ、という考えを捨てちまえってわけだ。沢山《たくさん》の機能のある道具よりも、たった一つの機能しかない道具のほうが、応用が利《き》く時もある。宝貝だって同じだ」
「はい」
「それを忘れるなよ、下手《へた》に飾った宝貝ほど下品な物はないからな。要は宝貝製作者の発想が全《すべ》てなんだ」
和穂は龍華の言葉を肝に命じた。
真顔の和穂を見て、龍華は笑った。
「とかなんとか言ってても、宝貝を造り始めた最初の頃って、物騒《ぶっそう》な物を造るんだな。私も色々作ったぞ。仙人になって最初の二、三百年なんか武器の宝貝しか作らなかったわ」
豪快に笑う龍華につられて、和穂も冷汗を流しながら笑った。
沈着冷静、華やかかつ知的な美人で通っている龍華だが、ときたま物騒なことを言う。
「ま、いいわ。今日は『矛盾《むじゅん》環機能』の宝貝を作ってみよう。四海獄にも使っている機能だから、便利だぞ。そうだな、徳利《とっくり》三本分の酒が入る、お猪口《ちょこ》でも造ってみよう。試作用だから、加工しやすいように珊瑚《さんご》でいいか」
龍華はそう言い、壁ぞいの棚の中から珊瑚を探した。
だが、棚の中に珊瑚はなかった。
「師匠。私が海まで行って取ってきます」
和穂はすでに、龍華から飛行術を伝授されていた。なかなか爽快《そうかい》な術なので、試してみたくてうずうずしているのだ。
しかし龍華は止めた。
「いや、私が取りにいく。慣れないうちは飛行術であまり速度を出さない方がいい。力配分を間違えると、極度に消耗《しょうもう》するからな。私が西海まで行って取ってくる」
「判りました」
「和穂。お前は八卦炉《はっけろ》の用意をしておけ。この間教えたので、あまりくどくは言いたくないが、気をつけて扱えよ」
ここ数日で、一通り工房の中にある道具の使い方を、龍華は和穂に教えていた。
元気のいい返事をする弟子に、師匠はもう一つつけ加えた。
「それと和穂。あの壁際の棚の横にあるつづらには、触《さわ》るんじゃないよ」
龍華が指差す先には、一つの古ぼけたつづらがあった。厳重に、封印《ふういん》用の符がごてごてと貼《は》られている。
「あのつづらには、何が入っているんですか?」
「あれには、今までに造った宝貝の失敗作が封じ込めてある」
意外な言葉だった。宝貝造りの達人でも失敗するのだ。
「そりゃ、私でも失敗はするさ。今の和穂の腕じゃ、一日や二日頑張っても、つづらの封印は外《はず》せないだろうが、触らないに越した事はない」
下手に和穂の好奇心を刺激して、厄介《やっかい》な事件になるよりは、正直に説明した方がいいと龍華は考えていた。
賢明な考えだった。和穂もまた、師匠の禁を犯《おか》すほどの愚者《ぐしゃ》ではなかった。
「失敗宝貝が、幾つぐらい入っているんですか?」
「……嫌《いや》な質問だね。七百二十七個入っている」
とんでもない数である。
龍華が西海に飛び立つのを見送り、和穂は八卦炉の準備に取り掛かった。
八卦炉とは、真火《しんか》を内部に蓄《たくわ》える炉であった。
では真火とは何か?
言葉通りに、真の火である。真火の前には焼けぬ物も溶《と》かせぬ物もない。物質の根源に関《かか》わる炎《ほのお》だ。
真火の加減一つで、金や銀が燃え、水晶や金剛石(ダイヤ)や珊瑚も溶解する。
この厄介な炎を使わなければ、宝貝は作れないのだ。
真火を内部に封じ込めるのには、八卦炉を使うしかなかった。八卦炉の内部においてのみ、真火は均衡《きんこう》を保てる。
作動中の八卦炉を覗《のぞ》いてみると、太陽と同じ色をした真火が、真球の形で内部に浮かんでいるのが見られる。
だが、完全に均衝が保たれたままだと、作業に使いにくいので、真火の下に六十四卦盤と呼ばれる板を置く。
この板を仙術で動かして、間接的に真火を安全に使用する。
和穂は部屋の中央に位置する、彼女の身長より少し大きい、八卦炉に近寄った。
八卦炉とたいそうな名前がついているが、しょせんは、飯炊き用のかまどと、形に変わりはない。
細長い湯飲み茶碗をひっくり返し地面に置き、縁の所を放物線状にくりぬいた形だ。
違いといえば、表面と内部にびっしりと書かれた、呪文《じゅもん》が有るか無いかだ。
和穂は手際《てぎわ》よく呪文を唱《とな》え、八卦炉の中に真火を灯《とも》した。まん丸な真火が、八卦炉の中央に浮かぶ。
八卦炉の外で、真火を作るのは、大変に高度な仙術が必要なのだが、八卦炉の中で真火を作るのは簡単だった。
和穂は真火が浮いたのを確認し、今度は六十四卦盤の準備に取り掛かった。
「確か、六十四卦盤は、戸棚の中ね」
戸棚の中にしまわれていた六十四卦盤は、和穂の掌《てのひら》ぐらいの大きさで、薄っぺらい六角形の板だ。
表面には、中心から六十四方向に伸びる線と、同じく中心が一緒《いっしょ》の、六角形が無数に描かれていた。
鉛《なまり》色をした蜘蛛《くも》の巣のように見える。
「傷は無いよね。傷がついてたら大変だ」
いちいち口に出して確認するところが、和穂の凡帳面《きちょうめん》なところである。
和穂が一所懸命に鉛の板を眺《なが》めていると、遠くで雷《かみなり》の落ちる音がした。
「あら、護玄様かしら?」
和穂に龍を引き渡してもらってから、護玄が龍を足代わりに使っているのを、当然、和穂は知っている。
和穂は六十四卦盤を懐《ふところ》に入れて、護玄を迎えに出た。
工房から出て、中庭を抜けて、縁側に登ったのである。
そのまま、縁側を歩き、玄関にまで向かっていたのなら、あの惨劇《さんげき》は起こらなかった。
和穂の犯《おか》した間違《まちが》いとはそれほどに微妙なものだった。
彼女は、玄関に向かう近道の為に、部屋を三つ横切ったのだ。
その内の一つが空間的に歪《ゆが》んだ部屋だった。
六十四卦盤の六十四とは、方角を現していた。
東西南北で四方向。それを分割して北東、東南、南西、西北の八方向。さらに分割して……を繰り返し、六十四の方角が記されている。
この盤は方位磁針のごとく、正確に方角を指《さ》し示すことで、真火を誘導するのだ。
だが、和穂は空間の狂った部屋を通ってしまった。
方位磁針に強力な磁石を近づけたのと、同じ過《あやま》ちだ。
六十四卦盤は微妙に歪んでしまった。
彼女は全く気づいていない。
二
門の前で、和穂《かずほ》は護玄《ごげん》を出迎えた。
師匠《ししょう》のしつけか、本人の性格なのか、こういう事はちゃんとする和穂である。
「いらっしゃい、護玄様。あれ、今日は龍には乗っておられないのですか?」
「あぁ、あの龍なら、たった今逃がしてやった。南の空へ飛んでいったよ」
「そうですか」
和穂はにこやかに笑った。
やはり野生の龍だから、自由の身の方がいいと思ったのだ。
「龍さんには、悪いことをしましたね」
護玄も笑う。
「お互い様だな。妙《みょう》な気を起こさなければ、あの龍も捕《つか》まらずにすんだのだ。もっともそれでは試験にならないがね」
「それもそうですね」
和穂の笑顔を見ながら、護玄はこれほど笑顔の似合う仙人も、ちょっと珍しいなと考えた。
女仙人にはどちらかというと、龍華《りゅうか》のような、きりっとした美人が多い。
「どうだ、和穂。仙人になった気分は?」
年の離れた妹に語るような、護玄の言葉だった。
「まだ、五日しかたってないんで実感がわかないです。仙人になったといっても、まだ師匠に色々と仙術を教えていただいてますし」
「龍華のことだ、また手厳しくやってるんだろうな。もうちっと、優しく教えてやればいいものを」
和穂はもどかしそうな護玄の表情を見て、微笑《ほほえ》んだ。
「? なんだ和穂、何かおかしいか」
「だって護玄様、普段《ふだん》は弟子《でし》なんか面倒《めんどう》なだけだから、絶対取らないっておっしゃってるのに」
「……いざ弟子を取って、仕込み始めると面白《おもしろ》いんだが、なかなか見所のある奴がいないんだよ」
ふと、和穂は慌《あわ》てた。
「あ、いけない。こんな所で立ち話なんて。護玄様、今日はどのような御用《ごよう》で?」
「たいした用事でもないが、近くを通ったんで、龍華と碁《ご》でも打とうかと思ってね。いるか?」
「ちょうど今、西海まで、実験用の珊瑚《さんご》を取りにいかれましたが」
「ん? もしかして授業中だったのか」
「えぇ、まあ」
「それはすまなかったな、邪魔《じゃま》しちゃ悪いんで帰る」
このまま、護玄を帰したのでは、まるで門前払い食らわせたようである。和穂は気を使って、護玄を引き止めた。
「護玄様、せめてお茶の一杯でもお出ししますよ。このままお返ししたんじゃ、私が師匠に怒られます」
護玄は目の前で手を振った。
「怒らん、怒らん。あいつは俺に茶っ葉を使ったことを怒るぞ。今、龍華は何を教えているんだ?」
「宝貝《ぱおぺい》の作成です」
「宝貝ね。龍華大先生のことだから、物騒《ぶっそう》な宝貝の造り方を教えそうだな」
和穂は首を横に振った。
「いえ、師匠は単純な機能にこそ、製作者の工夫《くふう》が光るって」
護玄も首を振る。
「た、て、ま、え。能書き垂《た》れて、結局は好き勝手に宝貝を造ってやがるんだよ。
すると、今は工房を使っているのか?」
「そうです」
「のぞいていいか?」
問題はないだろうと、和穂は考えた。彼女がまだ道士であった頃も、よく護玄は龍華の工房に入り、一緒《いっしょ》に宝貝の研究をしていたのだから。
「どうぞ、案内します」
護玄は龍華の屋敷に上がった。
十字路になった廊下《ろうか》を右に曲がり、三叉路《さんさろ》になっている廊下を左に曲がる和穂の後をついて歩きながら、護玄はつぶやいた。
「和穂、よくこんな所に住んでいて、道に迷わないな」
情け無い話だが、護玄は龍華の屋敷に来て一人で、中庭にたどり着けたためしがない。
護玄ほどの仙人だから、仙術を使えば、どうにでも抜け出せるのだが、人の家に来て迷子になったから仙術を使うというのは、あまりにも間抜けだろう。
和穂は、答えた。
「……いい加減慣れましたよ」
さすがに客を連れて、近道は出来ない。和穂は中廊下から、縁側の廊下に入り、中庭に出た。
「こちらです。履物《はきもの》は適当にどうぞ」
中庭に下りて、内心護玄はホッとした。やっと見慣れた工房が視野に入ったからだ。
和穂の後について、護玄も工房の中に入った。
「相変わらず、誰の工房も一緒だな」
護玄は、散らかりまくった工房を見て、溜《た》め息をついた。
宝貝作成になると、大抵《たいてい》の仙人は夢中になり、部屋の片付けなど、眼中から消える。
軽くうなりをたてる八卦炉に、護玄は目をやった。
「お、八卦炉の準備をしていたのか。俺に構わずに続けてくれ」
「はい。師匠もじきに戻られますので」
和穂は八卦炉の前に立った。
久し振りに入った工房に、護玄は懐かしさに似た感情を覚え、あちらこちらを見回していた。
龍華が戻れば、すぐに実験を開始出来るようにと、和穂は八卦炉の準備を再開した。
すでに真火は浮かんでいるので、真火の真下に六十四卦盤を置くだけだ。
和穂は大体の方角を合わせて、盤を炉の中に置いた。
いつもなら、しゅっと軽い音をたてて、正確な方角に向く六十四卦盤なのだが、今日はピクリとも動かない。
盤は歪《ゆが》んでいた。ほんの少しの歪みだったが、六十四卦盤の機能にとっては、致命的な歪みだった。
盤は、和穂が今まで聞いたことのない振動を始めた。
るぅうん。
小さく素早《すばや》い振動が奏《かな》でる音だ。
「あれ?」
「どうした、和穂」
盤の振動に共鳴するかのように、真火の表面に、細かい波が起きた。
ぐううん。
護玄の顔色が変わった。
護玄は全《すべ》てを理解した。六十四卦盤に歪みがあったのだ。このままでは八卦炉が爆発してしまう。
真火の直撃を受ければ、いかに仙人とてただでは済まない。護玄一人だったら、この瞬間に逃げ出せば、充分に逃げきれただろう。
だが、和穂がいた。資格をとったばかりの仙人は、状況《じょうきょう》が把握《はあく》出来ていない。
和穂は呑気《のんき》に、八卦炉の中をのぞき込んでいた。
護玄は危険を叫《さけ》ぼうとした。だが、声が和穂に届く前に爆発が起きる、年季の入った仙人はそう判断した。
真火がグニャリと歪む。
護玄は音よりも速く、和穂に向かって動いた。移動の衝撃波で砂ぼこりが舞い、和穂も吹っ飛ばされそうになる。
護玄は和穂の襟首をつかみ、出来うる限り八卦炉から離れようとした。
真火の爆発直後の速度は、どんな移動仙術よりも速い。だから、爆発するまでに安全な距離に逃げなければならない。
爆発に巻き込まれれば、逃げようがないのだ。
和穂の襟をつかみ、音速の三十倍の速度で護玄は後ずさった。
三歩。
護玄に許された歩みは三歩だけだった。
八卦炉から三歩離れた場所で、爆発は起こった。
仙界全土を揺るがす衝撃波、爆発音にかき消される、護玄の絶叫《ぜっきょう》。
光と炎《ほのお》。
この世に存在出来る一番熱い温度よりも、さらに高い熟。
三
護玄《ごげん》の目は、かつてないほどに見開かれていた。
眉間《みけん》には深い皺《しわ》がより、口は大きく開かれて、巨大な水流が滝壷に叩《たた》きつけられるような叫《さけ》び声が響いた。
護玄の叫びは、常人の叫びではない。
一つの大きな叫び声のようだが、違った。
一つ一つの精密な機械が、無数により集まって、あげる音とでもいおうか。
護玄は仙術を唱《とな》えていた。
己《おのれ》の持てる最高の技術でだ。
それしか、自分と和穂《かずほ》を守る方法はなかった。
一つの呪文《じゅもん》が音となり完成する前に、次の呪文を唱える。最初の呪文がようやく、空気を震わせる時には、十、二十の呪文をすでに唱えていた。
それがうなり声となって、聞こえているのである。
声とともに、両手は空気を切り裂き、薄い影のようになりながら、次々と印を組む。
ありとあらゆる色をした、爆炎《ばくえん》の流れの中で、護玄と和穂は泡に包まれたかのように、防御《ぼうぎょ》仙術で守られていた。
和穂は護玄の背後にかばわれ、腰が抜けたように地面に座《すわ》っていた。
いつもはとぼけている護玄だが、和穂はこの仙人をあなどったことはない。
だが、ここまで凄《すさ》まじい術を使うとは思っていなかった。
光源が沢山《たくさん》あると、影もまた沢山出来る。
真火《しんか》の奔流《ほんりゅう》に照らされた護玄の影たちは、それぞれが別の印を組んでいる事に、和穂は気づいた。
自分一人では間に合わないので、分裂した影までを使って、護玄は術を唱えていた。
真火の前に八卦炉《はっけろ》以外の、いかなる防御仙術もたいした役には立たない。
まさに、火矢の前の紙だ。
護玄はあえて、紙で火矢を防ごうとし、防いでいた。
何枚も何枚も紙を出す。やがて火矢とはいえ勢いを無くす。
別の火矢が飛ぶ。それでも紙を出す。
護玄の防壁はいとも簡単に破られ、次の防御仙術にぶち当たる。
それの繰り返しだ。
暴発した真火の爆炎に、仙人は真正面から挑《いど》んでいた。
そう簡単に出来るものではない。
自分の術に対する絶対の自信と、度胸《どきょう》があってはじめて可能になる技《わざ》だ。
和穂は驚くばかりだった。
龍を捕《つか》まえた時に、彼女が張った仙陣に匹敵《ひってき》する複雑さの防御仙術を、護玄は空を翔《と》ぶ蜂が、羽を一回交差させる間に、五回は唱えていた。
驚きながらも、和穂は無意識の内に、名のある仙人の秘術を覚えようとしていた。
自分の術に不備があると、護玄はとっくの昔に勘《かん》づいていた。
摩擦《まさつ》だ。
印を組む前に、ほんの一瞬でも良かったが炎《ほのお》に対する術を使うべきだった。
何も真火用に使うのではない。
ごく普通の炎に耐える術だ。
印を組む、手の速度に空気との摩擦が起きるのは、時間の問題だった。
いかに普通の炎とはいえ、身動きの出来ない肉体を焼くのは簡単だった。
護玄は焦《あせ》り始めた。
もう少し、爆風が緩《ゆる》くなれば、術を使う余裕も出る。
だが、非情にも爆風の威力は変わらず、やがて、護玄の両手から炎が生じた。
真火に比《くら》べれば貧相《ひんそう》な炎だ。
だが確実に護玄の腕の肉を焦がしていく。
激痛が護玄を襲う。だが、一瞬たりとも気を抜くと、真火の爆発に飲み込まれる。
炎になめられ、皮膚が縮むのが判った。
時々、意識が途切《とぎ》れた。だが、自分の血肉《けつにく》となっている仙術は、無意識の内でも形をとっていた。
しかし、いつまでもつか。
意識の断絶がこれ以上長くなれば、やがて術は解《と》ける。
だんだん意識が遠のいていく。
護玄は一層声を大きくあげた。まるで眠ろうとする、自分自身を叩き起こそうとするかのようだ。
爆炎はまだやまない。
護玄は叫ぶ。あまりの叫びに、小さな破裂音をたてて、右の鼓膜が破れた。
真火の炎はまだやまない。
両手の指が消し炭と化していく。
印が意味を無くし、呪文の効力が乱れていく。
絶望的な死闘。
両手から黒い煙が上がり、影たちとの術の調和が崩《くず》れる。そして、ついに護玄は倒れた。
だが、真火は止まっていない。
*
青が見えた。
死んだか、と護玄は考えた。仰向《あおむ》けでぶっ倒れている。
冥界《めいかい》に落ちてしまったか。
何年、仙人をやってきたのだろう。
ざっと八百年か。それも無に帰した。
輪廻転生《りんねてんしょう》の輪に入り、記憶は全《すべ》て消され、苦痛に満ちた魂《たましい》の旅路にまた出るのか。
仕方があるまい。
だが、あきらめはしない。
いずれは永遠不滅の存在になり、輪廻の苦痛から逃《のが》れてやる。
懐かしい空だ。仙界の空にそっくりだ。
朦朧《もうろう》とした意識の中、護玄の耳に音が届いた。これもまた懐かしいと、護玄は思う。
この音は仙術の呪文ではないか。
……護玄は飛び起きた。
和穂の後ろ姿が見える。さっきまでの護玄と同じように、なりたての仙人は、呪文を素早く唱えているのだ。
護玄は死んでいなかった。
彼が見たのは、間違《まちが》いなく仙界の空だったのだ。八卦炉の暴走《ぼうそう》で、九遥山《きゅうようさん》の中腹から上が吹っ飛んでいたのだ。
八卦炉が爆発すれば、山の一つや二つは消し飛ぶのが当然であった。八百年生きた仙人は、仙人になって五日目の仙人に驚いた。
和穂は、護玄の行動を見て、自分も同じ術を使っているのだ。
仙人の資格を持ち、高度な仙術を師匠《ししょう》からすでに教えてもらっている和穂が、護玄と同じ術を使えても何の不思議はない。
問題は、仙術を使う速度だ。
護玄は八百年も仙人をやっている。すでに多くの仙術は、体が覚え込んでいた。
仙術を有効に使うコツを完璧《かんぺき》に理解していたから、真火に対しての防護という離れ業《わざ》ができたのだ。
和穂は護玄の動きから、そのコツを学び取った。とんでもない勘《かん》のよさだ。
恐るべき仙術の才能といってもいい。
いや、度胸というべきか。
お手本を見せられたからといって、同じ技を使えるものではない。まして失敗は即、死につながるのだ。
依然として非常事態の最中なのだが、急に護玄は嬉《うれ》しくなった。
護玄はどんな技術であろうと、才能のある者を見るのが好きなのだ。
「そうしてると、やっぱり龍華の弟子《でし》だな。度胸も完璧だ。いい仙人になれるぜ」
和穂の背後にいるので、護玄は和穂が泣いているのが判《わか》らなかった。
和穂は泣いていた。自分のしでかした事故の大きさに、気がついたのだ。
爆発はだいぶおさまり、もはや印だけで呪文を使う必要もなくなっている。言葉をしゃべる余裕が出来た。
「ごめんなさい、私の不注意で」
「……涙を流すところは、龍華の弟子らしくないな」
軽口を叩く余裕の出来た護玄は、周囲を見回して、事故の酷《ひど》さを確認した。
どうやら、八卦炉完全|崩壊《ほうかい》による、真火大暴走ではなかったようだ。
ひびが入り壊れているが、八卦炉は原型をとどめている。
南を向いている、かまどでいう火をくべる場所と、頂上から真火が吐き出されたのだ。
護玄は、後ろにではなく、横に三歩動いたほうが良かったと反省した。
天井《てんじょう》が綺麗《きれい》に吹っ飛び、九遥洞より上の山も消滅しているのに、八卦炉の横や背後にあたる、北や東西の壁は原型を保っていた。
「私は、なんてことを、してしまったんだろう」
師匠の工房と、屋敷と、洞窟《どうくつ》と、山の上部三分の一を吹っ飛ばしたのだから、気にやむなと言っても仕方あるまいと護玄は考えた。
「俺や和穂の命が無事だっただけでも、喜ばねばなるまい。それより、和穂、爆発が完全にやんだのではないぞ、まだ気を抜くな。どんなに小さな真火でも、仙人の一人や二人なら、簡単にぶち抜くからな」
「……はい」
「悪いが、俺の指は骨まで炭化したみたいだから、術は使えん。……心配するな。仙丹《せんたん》を飲めば治る」
はたせるかな、護玄の言葉通りに、八卦炉に大きな亀裂《きれつ》が走り、最後の爆発が起きた。
和穂は必死に防御《ぼうぎょ》する。
呪文にも力を入れ、仙術に全神経を集中せた。
いかに真火といえども、爆発には限度があった。この爆発を耐《た》えれば、もう危険はないはずだ。
もう少しで、この危機を乗り越えられる。
その思いで一杯の和穂の目に、小さな火の粉が見えた。
小さな小さな火の粉だったが、和穂を動揺させるのには充分だった。
「あ!」
「馬鹿、呪文を途切《とぎ》れさせるな」
一瞬、二人を包む泡が小さくなる。
護玄は和穂の叫びの意味をすぐに知った。
炉の亀裂から、真火の火の粉が一つ飛び出し、東の壁へ向かって飛んだのだ。
東の壁には、欠陥|宝貝《ぱおぺい》を封じ込めた、つづらがある。
地獄の業火《ごうか》よりも赤い火の粉は、粉雪のようにゆっくりと、しかし強烈な残像を残して舞った。
護玄は、つづらの中身がどれだけ厄介《やっかい》なのかを、知っていた。
二人の仙人は祈った。
神にではなく、仏にでもない。幸運に祈った。
祈りは届いた、と和穂は喜んだ。
祈りは届かなかった、と護玄は絶望した。
つづらには、沢山《たくさん》の呪符《じゅふ》が一見、無造作《むぞうさ》に貼《は》られている。その中の一枚を、火の粉はかすったのだ。
火の粉に一部を焼かれ、呪符の意味を無くした紙切れが、青白い炎《ほのお》をあげて、燃えた。
たった一枚の符ですんで、良かったと和穂は思ったのだ。
護玄は和穂ほど楽観的ではなかった。
つづらの中身が、この好機を見逃《のが》すとは思えなかったからだ。
ぎしり。
つづらが、ねじれた。
ねじれを引き戻そうとするかのように、残りの符から、静電気のような放電が始まる。
真火の轟音《ごうおん》の中でも、パチパチという音が聞こえた。
ばぎり。
さらにねじれ、つづらの一部が壊れ、小さな破片が飛び散った。
今やつづらは、絞った雑巾《ぞうきん》のようにねじれていた。貼りつけられている符も、同じようにねじれる。
中の欠陥宝貝たちが、つづらをねじ切って封印《ふういん》を解《と》こうとしているのだと、護玄は確信した。
符がもう一度、大きな音を立てて放電すると、ふいにつづらは元の形に戻った。
護玄も、符が耐えたかと、期待を持ったがすぐに裏切られる。
やはり、全《すべ》ての符がそろって初めて、完全な封印仙術だ。
ねじりを戻すのが、不完全な符に出来る限界だったのだ。
力尽きた全ての符は、青白い炎を上げて、ハラハラと燃え落ちた。
同時に、つづらのふたが吹っ飛ぶ。
狂ったような笑い声と共に、つづらの中から、白い光の玉たちが解き放たれた。
その数、七百二十六個。
七百二十六の光は、身動きならない仙人たちをあざけるように、半壊の工房を飛び回った。
光の一つが言った。
「ついに、呪縛《じゅばく》より解き放たれたぞ」
笑い声を背後に、別の光たちも、次々に叫ぶ。
「なんと永《なが》い囚《とら》われの日々」
「くははくはは!」
「我らは自由だ」
「見ていたぞ、我らは全て見ていたぞ」
「へは! へほはは」
「あの娘が、八卦炉《はっけろ》の扱いを間違《まちが》えたおかげだ」
「そうだ、娘のおかげで、真火が呪符を焼いたのだ」
「馬鹿な仙人だ。龍華《りゅうか》の怒りの炎《ほのお》で、焼き尽くされろ」
「馬鹿め、馬鹿め」
「破壊、破壊」
「なぜ我が欠陥宝貝なのだ! 剣が血を求めて何が悪い!」
「わしの何が悪い」
「我の何が不満」
「もう、二度と牢獄《ろうごく》はごめんだ」
「二度と捕《つか》まらぬ」
「護玄だ! 護玄がいるぞ! 逃げろ」
「逃げきってやる」
「護玄や龍華の手の届かぬ場所へ」
「どこがある? どこがある?」
「仙人の手の届かぬ場所はどこだ!」
「人間界!」
「人間界、人間界だ!」
「そうだ」
「そうだ」
宝貝たちの意見は一致した。
自由気ままに工房内を飛び回っていた、宝貝たちは、一斉《いっせい》に北の空へ飛んだ。
その一角だけ、星空になったかのように、光たちは集《つど》った。
宝貝の一つが、いとも簡単に、仙界の空を切った。
小さな裂け目だったが、次から次へと宝貝が裂け目に消えていく。
かくて七百二十六の欠陥宝貝は人間界にばらまかれたのである。
*
それからしばらくして、真火は消えた。
和穂はひざまずき、黒く焼けた地面に爪《つめ》を立てていた。
護玄は天井が吹っ飛んだ工房の中で、寝っ転がり、空を見つめていた。
「どうしたんだ、いったい!」
二人の有り様《さま》を見て、龍華は一喝《いっかつ》した。
龍華の手には大きな珊瑚《さんご》が握られている。
龍華は動揺を隠しながらも、もう一度周囲を見た。
屋敷は瓦礫《がれき》の山となり、九遥山も三分の一は吹っ飛んでいる。
そのくせ、工房の半分は、原型を残しているのだ。
護玄は半身を起こした。その時になって、龍華は護玄の手が焼けただれているのに気づく。
「龍華。見てのとおりだ。八卦炉が吹っ飛んじまった」
龍華は壮大《そうだい》な溜《た》め息をついた。
「和穂! 仕方のない娘だね。あれだけ、炉の扱いには注意しろって言ったのに。護玄、すまなかった。あんたが、和穂を爆発から守ってくれたんだろ?」
懐《ふところ》の四海獄《しかいごく》から黒い丸薬を取り出して、護玄に投げる。
護玄は器用に、丸薬を口で受け取り、飲み込んだ。途端《とたん》に全身に力がみなぎる。
煤《すす》けたまんまだが、護玄の両手は癒《いや》されたのだ。
これこそが、仙丹《せんたん》である。薬ではあるが体の中で消滅し、物質が完全に消滅する時に発生する莫大《ばくだい》な力を治癒《ちゆ》に使うという代物《しろもの》だ。
治癒に必要な仙術的な力は、非常に強大な為《ため》、治癒の術は存在しない。どうしても、仙丹などに頼るしかなかった。
こりをほぐすように護玄は指を動かした。
続いて龍華は、今もまだ、放心状態の和穂に近寄り、彼女の頬《ほお》を軽くぶった。
「屋敷の一つや二つ、吹っ飛ばしたからってそんなに深刻になってどうする。家はまた建てればいいんだよ。お前に怪我《けが》はないね。
……でもだいぶ消耗してるな。和穂もこれを飲むんだ。そんなんじゃ飛行術も使えないよ」
和穂は、ふと我にかえった。やっと目の前にいる、師匠《ししょう》の姿に気づいたようだ。
「師匠、ごめんなさい!」
和穂は龍華の胸で泣いた。師匠は優しく弟子の背中を叩《たた》いた。
「護玄。和穂は、私と違って責任感が強いんだから『お嬢ちゃん、気にするな』ぐらい言ってやったらどうなの? どうしたのよ、真剣な顔をして」
護玄の顔からは、いつもの笑顔が消えていた。護玄の真剣な顔なんか、ついぞ見た覚えがないと龍華は思った。
護玄は答えた。
「……出かける」
「ちょっと、瓦礫のかたづけぐらい手伝ってよ」
「……仙主《せんしゅ》様に会ってくる。仙丹が無かったんで、身動きが取れなかった。
だから今までお前の帰りを待ってたんだ」
龍華は驚いた。仙主とは言葉の通り、仙人たちの長である。
仙界の最高責任者ではないが、龍華たちが直接会える仙人の中では一番、位が高い。
「護玄、一体何が」
「八卦炉の爆発に巻き込まれ、つづらが破れた。欠陥|宝貝《ぱおぺい》が人間界に落ちたんだ。報告せねばなるまい」
呑気《のんき》に和穂の背中を叩いていた、龍華が動きを止めた。
「一体、幾つ?」
「光は七百二十六個あった」
龍華の顔にも戦慄《せんりつ》が走る。
宝貝は危険な道具である。
使い方一つで、国の一つや二つの存亡《そんぼう》が関《かか》わってくる。
あの四海獄でさえ、使い方によれば、充分な兵器となる。
四海獄の中に、騎馬《きば》や兵卒《へいそつ》などの軍隊を入れ、敵国の真ん中で解放したとすればどうなるか。
しかも、ばらまかれたのは、欠陥宝貝である。
欠陥といっても、通常の宝貝よりも威力が落ちている物だけではなかった。
第一、そんな宝貝だけなら、厳重に封印《ふういん》する必要がない。
製作者である龍華の予定と食い違い、危険な機能を持った宝貝が、つづらの中には、幾つも封じ込められていたのだ。
人間界に未曾有《みぞう》の混乱が起きるのは、必至《ひっし》だった。
どれだけの血が流され、どれだけの命が失われるのか。
護玄は、ふわりと空に浮かび、東北東に飛んでいった。
赤く目を腫《は》らしながら、もう一度和穂は叫ぶ。
「師匠。ごめんなさい!」
*
日が落ちかけていた。
いまだ地面にへたりこみ、ぐしゅぐしゅと泣いている和穂に、龍華は『泣くな』と、言えなかった。
和穂も、自分のしでかした事が充分に判《わか》っているのだ。
紅《くれない》に染まる夕焼けの中、龍華は半壊状態の工房の中を歩いた。
別に目的があったわけでは無かったが、使い慣れた仕事場の変わり果てた姿に、心が痛んだ。
龍華は、木《こ》っ端微塵《ぱみじん》になったつづらを、かがんで覗《のぞ》き込む。
「?」
つづらのかけらに埋まるように、一振りの刀があった。
黒い鞘《さや》には、目立たないように、複雑な模様が彫り込んである。
注意深く見れば、それが龍、雷龍を象《かたど》っているのが判った。
「殷雷刀《いんらいとう》か。やっぱりこれだけは残ったか。馬鹿《ばか》な宝貝だ」
龍華は、刀を抜こうとして、やめた。
この宝貝も、自分を恨《うら》んでいるかもしれないと考えたのだ。
少し悲しくなったが、龍華は小さな呪符《じゅふ》で殷雷刀のツバと鞘に封印を施し、抜けないようにした。
それから大きさを縮め、懐《ふところ》の中にしまう。
弟子を見ると、まだ泣いていた。
「和穂。泣いても仕方ないよ」
「師匠……」
「近いうちに、仙主様から処分の沙汰《さた》が出るはずだ。今回の事件には、自分の屋敷の空間補正をやらなかった、私の責任もある。
和穂。
二人で処分を受けよう。それが責任を取るという事だからね」
「そんな、師匠に責任は……」
師匠は力無く笑っている。
和穂はもう、泣かなかった。泣いても責任を取った事にはならないと、師匠の言葉に教えられたからだ。
そうしているうちに日が落ち、辺《あた》りは闇《やみ》に包まれた。
四
三日がたった。
仙界に厄介《やっかい》な事件が起き、とても当事者だけで解決出来そうにない時に、仙主が動き出す。
和穂《かずほ》は八日、龍華《りゅうか》と護玄《ごげん》は、仙人になってざっと八百年たっている。
龍華程度の仙人は、仙人の中では中堅《ちゅうけん》に位置していた。
龍華よりさらに、格が上の仙人、俗にいう大仙で、だいたい三千年ほどの修行を積んでいた。
仙主と呼ばれる、柳剛天君《りゅうごうてんくん》の修行年数は、五千年だ。
和穂、龍華、護玄の三人は、柳剛の洞窟《どうくつ》、四象洞《ししょうどう》の中にいた。
柳剛の洞窟は、龍華の九遥山《きゅうようさん》とは違い、屋敷の形態をとっていない。
洞窟の黒い岩肌もそのままで、湿気もあり何やら、地下室めいていた。
壁に吊《つ》るされている、永遠に何の消費もせずに輝き続ける松明《たいまつ》がなければ、ここが仙人の住居だとは誰も考えまい。
護玄の報告を受けて、すぐに柳剛は動き出した。
柳剛は活動を開始する直前、護玄に、事件の責任者は、四象洞で待機《たいき》するように命じた。
護玄や龍華、ましてや和穂がちょこまか動いても、柳剛一人の力には叶《かな》わない。
柳剛が動き出して、龍華たちに出来る事はなかったのだ。
*
柳剛の弟子《でし》に、それぞれ部屋をあてがわれた三人だが、この三日間は、全く落ち着いた心地《ここち》がしなかった。
今日の朝になって、柳剛が洞窟に戻り、和穂たちを部屋に呼び寄せた。
湧《わ》き水のせいで、てらてら光る細長い通路は、蟻《あり》の巣のようであり、所々《ところどころ》まんまるい部屋があった。
弟子の案内で、三人は柳剛の部屋に通される。
岩肌が露出する殺風景《さっぷうけい》な部屋には、大きな長方形の机が置かれていて、北側と西側に一つ、南側に三つの籐《とう》の椅子《いす》が置かれていた。
柳剛の姿はまだ現れず、弟子は三人に南側の椅子に座《すわ》り、しばらく待つように指示を与えた。
椅子に座り、護玄が言った。
「龍華。目録《もくろく》は渡したのか?」
正面を見すえたまま、龍華は答えた。
質素な道服を着ると、龍華ほどの美貌《びぼう》では地味にならず、鋭《するど》さが強調された。
「ああ。七百二十七個とはいえ、全部覚えていたからな。弟子に頼んで柳剛に渡してもらった」
龍華は宝貝《ぱおぺい》の名前と、製造した当時の性能と、問題点を簡潔に記したのである。
基本的に宝貝の機能は変わらないが、長い期間|封印《ふういん》を行うと、性質が変わる可能性があったのだ。
開き直ったのでも、絶望したのでもなかったが、龍華と護玄は平静なものだった。
しかし和穂はそうもいかない。
「どうして、どうしてですか、責任は私一人にあるんですよ! それを二人とも自分が一番の責任者だなんて言い出して」
見てのとおり、龍華と護玄にはあまり性格の共通点はない。だがたった一つ、頑固《がんこ》さは二人ともたいしたものだった。護玄は滅多《めった》に意地を張らないが、一度決めると、ガンとして動かない。
「だって俺が悪いんだ」
「私の責任だからだ」
ほとんど同時に二人は答え、やはり同時に笑った。
護玄は優しく、和穂に言った。
「和穂。ともかく、仙主様の処分にしたがうんだ。それが一番いい」
護玄は柳剛を、完全に信頼していた。龍華にしてもそうだ。だが、龍華の性格上、護玄のように素直にはなれない。
龍華は、軽くからかった。
「どうかな。護玄、見てごらん。椅子が一つ多いよ。仙主様も、ぼけたんじゃないかね」
「龍華!」
たしなめるように護玄は怒鳴《どな》る。
龍華は友人との軽口を叩《たた》く口調から、弟子をしつける師匠《ししょう》の口調に戻る。
「……和穂。私たちはお前をかばう為《ため》に、自分たちに罪があると訴えたんでは……全くないわけではないが……ない。
お前に罪をなすりつければ、私たちはここに座る事も無かっただろうな。だが、そこまでして何になる?
罪を犯《おか》したと思ったのなら償《つぐな》う。自分をだまして、身を安全にしてまで、修行を積んでどうするんだ」
護玄も黙ってうなずく。和穂は思わず、声を出した。
「……師匠」
龍華の言葉に、和穂は胸が熱くなった。
そうこうしているうちに、北の扉《とびら》が開き一人の中年の男性が現れた。
髪を短く切り、赤銅色《しゃくどういろ》の肌をした、彫りの深い顔の男だ。壁に溶《と》け込むような岩色をし
た道服を着ていた。
和穂は初めて姿を見るが、彼こそが柳剛である。
さすがに護玄と龍華の顔にも、緊張の色がはしった。
だが、本来なら柳剛が座る北側の席に、彼は座らなかった。つかつかと歩き、西側の椅子に座る。
座りながら、龍華にだけ聞こえるように、つぶやいた。
「誰が、ぼけたって?」
ばつの悪そうな顔をして、龍華は苦笑いをした。
だが、すぐに疑問がわいた。ならば、誰が北の席に座るのだ? 柳剛の現れた扉から、もう一人の人物が現れた。
白髪白|髭《ひげ》の老人だ。
全身からみなぎる強力な気迫に、和穂はどこかの仙人が、老人に化《ば》けているのかと思った。
だが、違った。
アゴの周りのヒゲを、目立たないように小さな三つ編みにした老人は、横柄《おうへい》な態度で北の席に座り、だらしなくひじかけによりかかった。
シワだらけの顔の中、眼光《がんこう》の鋭さだけが妙《みょう》に目立つ。
和穂は師匠に尋ねた。
「師匠。あの御老人は、どなたなんです? 仙主様なんですか?」
いつもの龍華なら、和穂の質問にまめに答えてくれる。
だが、龍華の目は虚《きょ》を突かれたかのように老人の姿を見て、見開かれていた。
「護玄様?」
護玄も龍華と同じような状況《じょうきょう》だった。
だが、和穂に教える為というよりも、独《ひと》り言《ごと》に近い形で、護玄はつぶやく。
「あの御老人は、神農《しんのう》様だ」
和穂は声にならない叫《さけ》びをあげた。
神農とは仙界の創造者にして、統括者である五仙の一人である。
紛《まぎ》れもない、最高の仙人の一人がそこにいた。
龍華も吾玄も、他の仙人も自分の洞窟を構える時に、一度だけ神農を含む、五仙と対面したことがある。
自分の洞窟をいまだ持たない和穂は、神農どころか、柳剛さえ見たことがなかった。
神農|自《みずか》らが現れるとは、問題はそこまで重大だったのかと、龍華は自分の読みの浅さを呪《のろ》った。
和穂の師匠は龍華だ。もちろん龍華にも師匠がいた。龍華の師匠にも師匠がいる。
いかな大仙でも和穂と同じように、健在であるかどうかに拘《かか》わらず、師匠がいる。
だが、神農は違う。仙術の創始者のうちの一人だ。
この場にいる、柳剛であろうが和穂であろうが、神農の遠い弟子にあたった。
仙人は師匠には絶対服従する。
龍華のように、アクの強い性格の仙人は、決して少数派ではない。護玄が和穂の素直さに驚くぐらいだから、多数派といってもいいだろう。
そんな性格の仙人が、師匠には逆らわないのだ。
理由は簡単、服従するにあたいする仙人にしか、入門しないからだ。
椅子の上で、落ち着きなく、座り直したり髭をいじる神農であったが、確実に場の空気を荘厳《そうごん》な物に変えていった。
衣がすれる音すら、完璧《かんぺき》に消えた時、最高の仙人は口を開いた。
「あぁ」
小さな声だが、腹の奥に響くようだ。
神農は再び、皺《しわ》だらけの口を開く。
「……えぇと。何だっけ」
空気が鉛《なまり》よりも重くなった。
*
「冗談の判《わか》らない連中め」
神農は早口にまくしたてた。
「この場の重い空気をやわらげてやろうとワシは考えたんじゃぞ。それをこの唐変木《とうへんぼく》め」
怒りと照れで神農の顔が、少し赤くなっていた。
「変幻自在が要《かなめ》の仙術だ。それを仙人と名乗る者が、固定観念に囚《とら》われおって」
さすがは柳剛、席を立ち神農の背後に寄って声をかける。
「……神農様。今はそのような場合では」
神農はうるさげに、ハエでも追い払うように手を振る。
「判っている。面倒《めんどう》だから、とっとと、かたぁつけちまうぞ。
龍華、護玄。
お前らは罪に、あたいしない。
屋敷の整備が不完全だろうが、炉《ろ》に入れる六十四卦盤が、歪《ゆが》んでいるのを見抜けなかったなんてのが、罪にはならんな。
他人が持ってる六十四卦盤の歪みなんて、ワシでも判らんぜ。処分は無し。
でだ」
神農は息をついだ。
龍華と護玄、そして和穂も息を飲む。
護玄と龍華は、多少不注意だったが、致命的《ちめいてき》な間違《まちが》いは犯していない。もしも事故を起こしたのが道士ならば、師匠に厳しい処罰《しょばつ》があっただろうが、経験が浅いとはいえ、和穂は仙人なのだ。
問題は和穂だ。
八卦炉《はっけろ》を爆発させたことは、厳密には処罰に相当しない。だが、人間界に宝貝をばらまいたのは、あきらかに罪だ。
人間界に与えた影響が、多ければ多いほど和穂の処罰も重くなるだろうと、龍華は考えていた。
神農は言葉を続けた。
「でだ。
……和穂といったな。お前は八卦炉に入れる直前に、六十四卦盤を点検せねばならなかったが、それを怠《おこた》った。
それがあの大事故を招いた原因だ。
だが、まだ経験も浅く、情状酌量《じょうじょうしゃくりょう》の余地もあるだろうから、無罪だ。
おとがめなし。以後、火の元には気をつけるように」
龍華の顔から不安の色が消えた。
思っていたよりも、人間界に深刻な影響が出なかったのだ。
柳剛の手にすらあまったが、神農が何らかの秘術を使って手をうったのかもしれない。
だからとりたてて処罰されないのだ。
と、龍華も護玄も考えた。
龍華と護玄は神農を、完全に信頼しているのだから、そう思っても何の不思議もないだろう。
肩のこりをほぐすように、伸びをして神農は椅子から下りた。
ほっとする龍華と護玄を背に、神農は扉に向かい帰ろうとした。
「待って下さい、神農様」
声をあげたのは和穂だった。
神農は歩みを止め、振り返る。
「なんだ、ワシの裁《さば》きに文句でもあるか?」
護玄と龍華の顔が引きつった。
仙人となり修行を積み、仙術を究《きわ》めれば究めるほど、神農の偉大さが思い知らされる。
間違っても口応えの出来る相手ではなく、議論の余地がある判断を下す人物でもない。
修行の浅い和穂には、神農の恐ろしさが判っていないのだ。
龍華は慌《あわ》てて、和穂の口を閉じさせようとしたが、和穂はもう席を立って、机に手をついている。
「神農様、教えて下さい。人間界には、何の影響も無かったのですか?」
神農は面倒《めんどう》そうに、椅子に戻り、座った。
「……聞くのか? 和穂。ま、お前も椅子に座れ」
和穂を椅子に座らせ、神農は龍華の記した宝貝目録を虚空《こくう》から取り出した。
どんな技《わざ》が使われたのか、護玄の目をもってしても判らない。
目録をパラパラやりながら、神農は答え始めた。
「仙人は、人間界には不干渉の原則があるのは知っているな。人間が自力で仙界に来るのは構やしねぇ。仙界に来られるような人間は、人間界では幸せになるまい」
「はい」
仙界と人間界は、全くの異次元といってもいい。次元の壁を乗り越えるには、天と地の真理を知らなければならない。
それだけの知恵のある人間は、もはや人間界よりも、仙界の住人に近い。
「不干渉の原則が、今まで一度も破られてねえとは言わん。
原則は仙界の歴史上、二度だけ破られた。
だがな、あれは全《すべ》て計算の上で引き起こされた、予定された事件だ。
事件の後には、人間界には影響を残さないように、綿密《めんみつ》に計算されたんだ。
今回の事故は、そういうものとは、ちっとばかしわけが違う。純粋な事故だ。
龍華の目録を見て、ワシはひっくりかえっちまったぜ。マジで。
目録を元に計算した結果、人間界の予想死者数は……」
和穂は生唾《なまつば》を飲み込んだ。やはり被害者はいるのだ。
「人数は、二兆六百九十八億二千四百万とんで三人だ。
間違いないぜ。三度も計算しなおした」
予想死者数とは言ったが、これは厳密な数字だった。
神農ほどの仙人が計算したのだ、間違いはない。貧乏な牧場主が、自分の所持している牛の数を数えるよりも正確なのだ。
あまりの莫大《ばくだい》な数に、和穂の全身から血の気が引いた。
そして震える口で和穂は言った。
「……でも人間界には、そんなに人間がいないはずでは?」
アクビをして神農は答えた。
「そうだ。今の人口は、全部で二十三億ほどだな。
あの数字には、これから生まれる人間と、生まれるはずだった人間の数も含まれているぞ。どうだ? 聞かねえ方が良かっただろう」
呼吸困難にでも陥《おちい》ったように、和穂は大きくあえいだ。
「で、でも神農様は、私を処罰しないと、おっしゃったではありませんか」
鋭い目で、神農は和穂をにらんだ。
「思い上がるなよ。お前を死罪にして、罪の償いになるとでもいうのか? お前の命は二兆もの命と同等か?
和穂。お前のやった事は、人間界に迷惑をかけたなんて話じゃねえ。人間界の質を変えちまったんだ」
和穂はうわずった声で神農に訴えた。
「何か手は打てないんですか? 宝貝を回収出来ないんですか? 私が宝貝を回収に行きます」
神農はアゴを撫《な》でる。
「出来ねえな。仙人は、人間界には干渉してはならん」
必死に和穂は叫《さけ》ぶ。
「そんな事を言ってる場合ですか!」
「体裁《ていさい》で言ってるんじゃねえよ。
ワシがちょっくら人間界に行って、宝貝の回収を始めたとするな。
『やぁ、ワシは仙人なんじゃが、お主の持ってる宝貝を返してくんない?』
こういって、素直に返すような人間ばかりなら苦労しねぇ。
すぐにでも宝貝回収計画を組む。
『誰が、お前なんかに宝貝を返すか、死ね、クソじじい!』
こういう奴がほとんどだな。
『ぬぬぬ、人が下手《したて》にでてりゃ、つけあがりおって、くらえ爆裂真火《ばくれつしんか》!』
てこっちもなる。
どったんばったんで、宝貝を取り戻した時にゃ、辺《あた》りはペンペン草も生えねえ。しかも巻き添え食らった人間の屍《しかばね》の山だ。
今存在する二十三億の人間が滅《ほろ》んじまったら、人間が絶滅だ。
七百二十七の宝貝で、しっちゃかめっちゃかになってる人間界に、さらに仙人を派遣《はけん》したらもう収拾《しゅうしゅう》がつかん」
今まで黙っていた柳剛が、口を挟《はさ》んだ。
「神農様、その件についてですが、一時的に人間の幾つかを仙界に保護して、宝貝回収を行うというのはどうでしょうか? 大幅に人口は減るでしょうが絶滅だけは免《まぬが》れるかと」
目をつぶって神農は答える。
「確かに、いい考えだ。だがな、人間界、人間界とはいってるが、人間界にいるのは人間だけではあるめい。
一つの世界の命の、どれを助けて、どれを助けないなんて判断を、仙人がつけていいものか?」
「……愚策でございました」
「ワシだって、元は人間だ。人間界にゆかりが無いわけじゃない。
仙人になる前に、漢方《かんぽう》なんて物も調べて作り上げたな。あれは大変だったぜ、一日中野原を巡《めぐ》って、葉っぱを食らうんじゃからな。
他にも味覚を使った……何、余計な話は聞きたくない?
ともかく、どうしようもない。
盛り上がらんばかりに水が張られた器の中に、宝貝という硬貨を投げこんじまったんだよ。
奇蹟的に水はあふれなかったが、器は硬貨を含めた存在になっちまった。
ワシら仙人が手を入れて硬貨を取ろうとすれば、水があふれちまう。
判ったな、和穂。
お前を死罪にするのは簡単さ。
だが、それでは何の解決にもならない。
ならば今回の事件は、人間界の質を変えただけだと割り切ったほうがいい。
お前が『とりあえず相手が怒っているみたいだから、上っ面《つら》だけでも謝《あやま》っておこう』なんて、腐った考えを持つ奴じゃないのは、判っている」
事件の規模を正確に把握《はあく》しているのは、神農だけだった。
個人の責任が通用する事故ではないし、謝罪するべき人間界も、かつての人間界ではないのだ。
だが、そんな理屈も、和穂を納得《なっとく》させられなかった。
和穂は一つの考えを思いついた。
「……仙人が駄目《だめ》だったら、人間だったらいいのでしょ?」
「何を言いたい?」
「私は仙人をやめて人間に戻ります。それで人間界に戻り、宝貝を回収します。それも駄目なんですか」
神農は和穂の言葉に、なぜか絶句した。
まるで自分が今まで隠していた事実を、指摘されたかのようだ。
「……出来ると思うか?」
「お願いです、私のせいで、そんなに人間が死ぬなんて耐えられません」
神農は黙った。そして考え、答えた。
「許可する。
和穂の仙人の資格を剥奪《はくだつ》する。
翌日の日の出と共に和穂の仙骨を封印し、全《すべ》ての仙術の使用を禁じたのち、人間界に下ろす。
その時に、回収作業に使用する、宝貝|検索《けんさく》用宝貝と、宝貝保管用宝貝を与える。
全ての宝貝を回収し終えた時点で、再び仙人の資格を与える。
柳剛、明日の朝まで和穂を牢《ろう》につないでおけ」
子供をかばう母親のように、龍華は動こうとした。だが身動きがとれない。
柳剛の術に、龍華と護玄の動きは封じ込められていた。
辛《つら》そうな顔をして柳剛が近づき、和穂の肩に手を置く。
柳剛に連れられて、和穂は北の扉から部屋を出た。
部屋を出る途中、神農の横を歩いた時、この最初の仙人の一言が、和穂の耳に残った。
「……親不幸者が」
和穂が神農の言葉の意味を悟《さと》ったのは、牢の中でであった。
五
「ここが牢《ろう》だ。別に妙《みょう》な仕掛けはしていないから、怯《おび》えなくてもいい」
和穂《かずほ》が案内されたのは、さっきの部屋より一回り小さな部屋だった。
湿って薄暗かったが、これはこの部屋に限った話ではない。
この部屋|唯一《ゆいいつ》の入口《いりぐち》も、木製の普通の扉《とびら》だった。
壁沿いに、粗末《そまつ》な椅子《いす》と寝台が置かれていた。牢らしくなく鉄柵の一つも無かった。
「この牢なら、すぐに逃げられますね」
意外な返事が、柳剛《りゅうごう》から返る。
「ああ。逃げたければ逃げなさい。
和穂や。お前は、神農《しんのう》様を冷酷な人だと思っているかもしれんな。
何兆もの人間を死に到らしめた責任を、詭弁《きべん》で誤魔化《ごまか》そうとしたのだからな。
だが、そうではない。人間に戻って、宝貝《ぱおぺい》を回収するという手段は、何も神農様が気づいていなかったわけではないんだ。
他の五仙ならば、そういう判決をお前に下されただろうな」
「え?」
「本当だ。神農様は私に相談されたよ。『それ以外の処分も可能ではないか』とね。
それが罪には問わない事だったんだ。
その処分を、お前は自《みずか》ら、望んでしまった。神農様でもどうにも出来ない」
「でも」
「お聞き。神農様は、誰よりも長く生きておいでだ。
あれほど長い人生とは、大事な物を失っていく歴史でもあるんだよ。
お前も仙人と名乗るからには、神農様の子供も同様だ。
人間界は神農様にとって故郷であり、何物にも代えがたい、古い友人といえる。
神農様は、人間界もお前も、次元は違うが同じように愛しておいでなのだよ。
だが、和穂。お前は自分の不注意で、人間界を殺してしまった。
今の人間界は、かつての人間界とは掛け離れた物に変容しようとしている。
殺したも同然だ」
面と向かって言われ、和穂の心が痛んだ。
深刻な顔になった和穂の頬を、柳剛は優しく撫《な》でた。そして言葉を続ける。
「神農様にとって、責任の所在なんてどうでもいいんだ。
友人を失っただけでも、辛《つら》いのに、さらに子供まで失わなければならない。
それだけは避けたかった。
だが、子供は罪の償《つぐな》いを選んだ。
神農様の気持ちも判《わか》ってあげてくれ」
柳剛の部屋を立ち去る間際《まぎわ》の、神農の言葉が和穂の耳に甦《よみがえ》った。
柳剛が去ってから、和穂は自分の選んだ道が、凄《すさ》まじく絶望的なものなのだと思い知った。
だが、後戻り出来ない。
いかに苦悩に満ちた道でも、不可能ではないはずだ。宝貝を全部回収出来れば、また仙人に戻れるではないか。
和穂は自分を勇気づけた。
神農や仙主が、死罪と同等と考える処罰に希望を持つ。
それは、和穂の未熟さの証明以外の何物でもなかった。
*
和穂は不安を胸にして、とても眠れなかった。
寝台に横たわりながら、黒い天井《てんじょう》をずっと見つめていた。
人間界ってどんな所なんだろうと、和穂は考えた。
和穂は、ある意味ではもっとも異質の仙人である。
他の仙人が幾多《いくた》の苦労を重ね、人間界を離れて仙界にたどり着き、道士となるのに、和穂は人間界での記憶がない。
和穂は九遥山《きゅうようさん》に赤ん坊の頃、捨てられていた。
九遥山は、人間界にもっとも近い場所でもある。人間界の側にも九遥山があり、仙界の九遥山と、ときたま混《ま》ざり合う。
仙人を目指《めざ》す人間は、その混ざり合う仕組みを解きあかせば、無事仙界に到達するという仕組みだ。
だが、和穂は違う。
仙界と混ざり合った時、空腹で泣いていたところを、龍華《りゅうか》に発見されて育てられた。
最初の頃、龍華は和穂の面倒《めんどう》をみるのをうっとうしがっていたが、情がうつると手放したくなくなった。
ある程度育てたら、人間界に戻そうとしながら、ずるずると五歳になるまで育ててしまった。
これ以上は仙界に置いておくのは、和穂の為《ため》にはならないだろう。だが、別れるのは辛い。
そこで龍華は和穂に選ばせた。
人間界に戻るか、ここで道士として修行を始めるかだ。
和穂は道士になる道を選んだ。
当然だった。見も知らない人間界に戻るのなら、知り合いもいる仙界に残って、道士となり、やがて仙人になる道を選ぶ。
当然の選択だったが、それは安易な道ではなかった。
仙界に渡ってくる人間には、それなりの素質、仙術に対する基礎が出来ている。
和穂にはそれが無い。
昨日までの優しかった親は、厳しい教師になった。
龍華は普通の仙人より、もっと激しく仙術を教えこんだ。和穂が甘えた口をきけば、すぐに殴《なぐ》った。
幼い和穂は何度、人間界に戻った方が幸せだと考えただろう。だが、和穂は耐えた。
いっぱしの仙術を覚え、道士としての腕を上げて来た頃には、龍華の手が飛ぶこともなくなっていた。
道士となるまで、龍華は親だった。道士となって龍華は師匠《ししょう》となり、仙人となって龍華は友人となるはずだったのだ。
そんなかけがえのない人物に、自分は別れの言葉の一つも言っていない。
和穂の心が痛む。
牢の中で夜が更《ふ》けていった。
必死に歯を食いしばって耐えたが、和穂の目から涙がこぼれた。
*
「あれだけ、大見得《おおみえ》切って、泣くんじゃないよ。お前の泣き虫だけは、ガキの頃から全然かわらないね」
聞きなれた声に、和穂は寝台から飛び起きた。
扉を開けると、龍華と護玄《ごげん》が立っていた。
護玄は何やら、鉄のような長い棒を肩に担《かつ》いでいた。
「師匠!」
龍華の顔は、このわずかな時間に信じられないほど、やつれていた。
痩《や》せこけたわけではない、目の下に隈《くま》が出来たのでもない。だが、顔に心労の影がくっきりと浮かんでいた。
和穂は龍華のこんな表情を、今まで見た記憶がなかった。
龍華は強がるように、いつもの口調でしゃべった。
「心配するな。柳剛には話をつけてある。お前がまだ道士だったら、かっさらって逃げてやるんだが、一人前の仙人が選んだ道を、とやかく言うまい」
不敵に龍華は笑った。和穂を安心させる為の笑顔だと、当の和穂にも判った。
「でだ、和穂。お前が人間界に下りるのならば餞別《せんべつ》をやろう。殷雷刀《いんらいとう》だ」
懐《ふところ》に手を入れ、龍華は縮小された殷雷刀を取り出し、一振りした。
筆のように小さかった殷雷刀が、見るまに元の大きさに戻る。
続いて封印《ふういん》の呪符《じゅふ》を無造作《むぞうさ》に破り、殷雷刀を宙に投げた。
刀はくるりと一回転し空中に止まった。
重力の存在を、慌《あわ》てて思い出したかのように鞘《さや》が地面に落ちた。
だが刀自身は宙に浮いたままだ。
和穂は、産毛《うぶげ》が逆立つ、静電気の嫌《いや》な感覚に襲われた。
突然、刀身からまばゆいばかりの光が溢《あふ》れだし、軽い爆発が起きる。
爆煙が消えた後には、一人の男がそこにいた。
片|膝《ひざ》を立てて地面に腰を下ろしている。
何かを考えているのか、目は軽く閉じられていた。
髪の毛は長くボサボサだった。男は髪の毛をかき上げて、後ろに流した。
その手に充分水がつけられていたかのように、髪は濡《ぬ》れ、頭の形に押しつけられた。
うなじの辺《あた》りで、髪の毛の束《たば》を左手で持つと、髪の毛は、くくられたわけでもないのに固定される。
さらに毛先に向かって髪は湿り気《け》を帯びてまとまっていく。
ざんばら頭を急ごしらえで、油で整えたように見えた。
男は簡単な服を着ていた。
武術の練習時に着用するような、質素ではあるが丈夫《じょうぶ》で動きやすい服装だ。上半身は袖無しだが、下は長く、くるぶしの辺りにすそがあった。
むきだしになった腕は、筋肉が発達しているのがよく判る。恐らく全身の肉体も、鍛《きた》え上げられているのだろう。
だが、大柄《おおがら》というわけではない。
身長は座《すわ》っているのでよく判らないが、和穂よりも頭一つ分だけ大きい程度か。
普通に服を着れば、中肉中背に見えるかもしれない。
男は面倒臭《めんどうくさ》そうに、首の骨をポキポキ鳴らした。
そして、目を開いた。
眼球の黒色の中に、わずかに金色が混じっている。
眼光《がんこう》が鋭《するど》い。
龍華の眼光の鋭さの裏には、知性の輝きが見て取れるのだが、男の眼光には獣《けもの》の鋭さしか感じられない。
ほっそりとした顔の中、猛禽《もうきん》類の鋭さを持つ目はまるで、男の顔を鷹《たか》のように見せる。
男は笑った。
笑うと同時に、男は地面を蹴《け》って跳躍《ちょうやく》し、龍華に襲い掛かった。
「ふざけるな、このクソ仙人!」
無駄《むだ》のない動きから繰り出される手刀《てがたな》は、しゅうんと空を切り裂き、寸分の狂いもなく龍華の眉間《みけん》を狙《ねら》った。
龍華ほどの仙人なら、避けるのも防御《ぼうぎょ》するのも可能だった。だが、龍華は男の目を見たまま、全く動かない。
和穂は声をあげた。龍華は男の攻撃を受けようとしていた。受ければ死ぬ。
「あ!」
手刀は龍華の眉間にある、産毛に触れた位置で止められていた。
男は言った。
「なぜ、避けぬ? 俺の攻撃ぐらい仙人ならばかわせよう。俺の破壊力を、製造者であるお前が知らぬはずは無かろう」
男は殷雷刀が、変化したものだった。
龍華は殷雷刀の質問に答えず、逆に問い返した。落ち着き払った声だ。
「殷雷。なぜ、八卦炉《はっけろ》爆発の時に逃げなかった?」
殷雷は鼻で笑い、手刀を下げた。
そして地面に転がったままの鞘を拾い、揺すった。途端に鞘は黒く長い上着になる。
奇妙な上着だった。
この世に存在するありとあらゆる、黒色で彩られているかのようだ。
注意して見れば、光の加減でしか判らない幾つもの黒色が、符術独特の複雑な象形文字を描いているのがわかった。
一つの小さな文字は、他の大きな文字の一部分となり、全体には闇夜《やみよ》に流れる川の水面のように統一されていた。
『無色透明』という言葉がある。
だが、『無色』と『透明』は別物だ。
澄んだ水は透明である。透明という色をしているのだ。殷雷刀の鞘が変化した上着は、黒色に見えるが無色である。色が無いのだ。
龍華は、己《おのれ》の技術で、色を使わずに鞘を作っていた。
殷雷刀は、色の無い黒い上着を羽織った。
道服は懐がゆったりとしているが、すそはそれほど長くなく、ふとももぐらいまでしか
ない。
鞘が変化した上着は、鞘としての仕事を殷雷刀が人の形をしても果たすのだ、と言いたげなほど長かった。
すそは、殷雷のふくらはぎに届くほどだった。
袖と懐も、さっぱりとしていて、袖はきっちりと手首にまで伸びている。厚手の布のはずなのだが、蜘蛛《くも》の糸のように柔軟で、殷雷の動きを妨《さまた》げない。
鞘を着込んだ殷雷は、耳をかいた。
「なぜ、俺が逃げなかったか、答える必要があるか?」
「教えてくれ」
殷雷は、寝台の横の椅子に座り、答えた。
「たいした意味があるわけじゃない」
寝台の上に座る和穂を、あごで指《さ》して刀は続けた。
「この娘が困るだろうと思ったから、逃げるのはやめた。
欠陥宝貝、七百二十七個のうち七百二十六個も逃がしちゃ、一つぐらい残っていても、状況《じょうきょう》は変わらんとは思うがな。
こんな新米仙人の失敗にかこつけて、逃げ出すのも馬鹿馬鹿しかろう。俺が残れば、少しは申し開きも出来るんではないか」
龍華は深く息をついた。やはりそうか。
何も変わっていない。
殷雷刀の欠点はこの、土壇場《どたんば》での甘さだった。
つまらない部分で、他人に情けをかける癖《くせ》があった。
他の宝貝ならいいのだが、武器の宝貝ではこの性格は致命的だった。
殷雷は言った。
「それにつけても、龍華! お前はそんな、思いやりたっぷりの俺に、封印を施《ほどこ》したんだぞ、どういうつもりだ。しかも馬鹿よばわりしやがって」
殷雷は開き直っていた。どうあがこうが、三人の仙人を相手に、逃げ出すのは不可能だったし、この期《ご》に及んで、逃げる気もなかった。ならばせめて好きな事を言ってやれと思ったのだ。
和穂は呆気《あっけ》に取られていた。口をきく宝貝は珍しくなかったが、人間の姿になれる宝貝を見たのは、初めてなのだ。
驚く和穂の鼻の頭を殷雷は軽くつつく。
「……どうした、お嬢ちゃん。俺が珍しいか? 神農相手に、でかい口を叩《たた》いたわりにゃ物を知らねえな。いや、知らねえから、あんな法螺《ほら》がふけたか? あ?」
殷雷の言葉に、和穂はムッとした。
「法螺じゃない! 私は宝貝を全部集めて仙人に戻るんだ!」
息が触れるほどに和穂の顔に近づき、殷雷も怒鳴《どな》る。殷雷の髪は、狐《きつね》や猫の尻尾《しっぽ》のようにパタパタ動いた。
「出来るわけねえだろ、馬鹿! 龍華の懐で聞いていたが、人間に戻されるんだろ? 仙人でも厄介《やっかい》な事が人間|風情《ふぜい》に出来るもんか」
和穂も負けずに怒鳴った。
「やってみなけりゃ、判んないでしょ!」
「判るわい! 人間界に下りて最初に出会った宝貝使いに、お前は殺されっちまう。
素手《すで》で宝貝と戦おうってんだぞ!
死んで輪廻《りんね》の輪に落とされて、全《すべ》ては無に帰すんだよ。
お前みたいな出来損ない仙人は、二度と仙人にゃなれねえな。お前は、二度と仙界に足を踏み入れる事は出来ねえ。
何度人生をやりなおしてもだ!
判ったか、このすっとこどっこい!」
和穂は言葉に詰まった。
この眼光の鋭い刀の言うとおりなのだ。言い返そうと言葉を探すが見つからない。くやしさと悲しさが混じり、和穂の目にうっすらと涙が浮かぶ。
和穂の涙を見て、殷雷は慌《あわ》てた。
「すまん、ちょっと言い過ぎた」
いきなり謝《あやま》る殷雷の態度に、護玄は頭がクラクラした。情緒《じょうちょ》不安定な宝貝など洒落《しゃれ》にもならない。
龍華が再び殷雷に声をかける。
「殷雷。和穂と共に、人間界に下りてはもらえぬか。和穂と共に、宝貝を回収してはくれないだろうか」
「ふん。馬鹿を言うな。なんで俺が、そんな面倒な仕事に手を貸さなければならん」
和穂が突っ込む。
「偉《えら》そうなことを言って、殷雷にも出来ないんでしょう」
殷雷は再び、和穂の前に顔を突き出す。
「『馬鹿にするな、俺様の手にかかれば、宝貝回収なんざチョイチョイのチョイだ』とでも言って欲しいか?
残念だが、和穂、お前の言うとおりだ。
俺はこう見えても、状況判断は得意でな。売り言葉に買い言葉で、出来もしねえ約束なんざしねえ。
少なくとも俺と互角《ごかく》の、あの宝貝連中相手に戦う気はせん」
龍華の声がした。
「頼む」
殷雷は、和穂から視線を外《はず》し、龍華の方に向き直りながら、声を出そうとした。
「くどいな。だいたい……」
さすがの殷雷も言葉に詰まった。龍華は土下座《どげざ》をしているのだ。
「よせやい。そんな事をされても、出来る話と出来ない話があってだな……」
和穂は土下座をする師匠に駆け寄り、引き起こそうとする。だが、龍華は土下座を止《や》めようとはしない、殷雷は、龍華の目に涙が光っているのを見た。
護玄は、静かに言った。
「和穂。もうじき夜明けだ。別れの挨拶《あいさつ》があるのならしてしまえ。俺と殷雷はしばらく席を外す」
不機嫌そうに、殷雷は黙った。
護玄は殷雷の肩に手を置き扉の外に出た。
扉のすぐそば、洞窟《どうくつ》の壁にもたれかかって護玄は口を開いた。
「……泣いていたな。龍華」
護玄と反対側の壁に、だらしなく腰を下ろして刀は答えた。
「だから?」
言葉を返しながらも、殷雷は居心地《いごこち》が悪そうだった。
「どうした護玄、いつものにやけた面《つら》は? 真顔のお前なんざ、さまにならんぜ」
殷雷は話をそらそうとした。だが護玄は乗らない。
「殷雷よ。和穂は何歳だと思う?」
工房の中、つづらの封印越しに、護玄はよく見知っていたが、和穂の姿を見たのは、ここ数日が初めてである。
「結構《けっこう》、若いだろ? 世間知らずだしな。山にこもりっきりで、天地の法則を究《きわ》めて、百五十歳で仙界に渡り、道士を五十年ほどやって、二百歳ってところか?」
「いや、十五歳だ。あいつの年は見たまんまだ」
「んな馬鹿な。仙人になるのに十五年やそこらの人生で」
「本当だ。和穂は他の仙人とは、ちょっと違った人生を送ったんだ」
「ほお」
「和穂は人間界側の九遥山に捨てられていてな。仙界の九遥山と混じった時に、龍華が見つけたんだ。龍華は和穂の育ての親なんだ」
殷雷は、うさんくさげな目で護玄を見た。
「護玄。俺を泣き落として、和穂のお守り役に押しつけようとしてるだろ。やるだけ無駄だぜ」
護玄の声はとつとつとしていた。
「そうか。ま、それもいいが黙って聞いてくれ。人間の赤子《あかご》というのは、仙人の対極に位置してるようなものでな。仙術に非常にかかりにくいんだ」
「で?」
「龍華は和穂を仙術を使って、適当に育てたんではないって事だ」
どうやら、殷雷の髪は、動物の尻尾のように自分の意思で動くようだ。ばつの悪そうに毛先で自分のうなじを掻《か》いている。
「そういう、くだらん苦労話で俺の気をひこうとは、なめられたもんだな」
「そうか。ならば仙人の繰《く》り言《ごと》だと思って無視してくれ」
「け」
殷雷は護玄に背を向け、不貞腐《ふてくさ》れたかのように横たわった。
護玄は、幼い和穂を試行錯誤《しこうさくご》の上で育てていった、龍華の話をした。
それは、ぎこちないが、確かに親子の情の物語だった。音よりも速く呪文《じゅもん》を唱《とな》える護玄は、今はゆっくりと情感たっぷりに言葉を重ねていった。
無視を決め込んでいる様子《ようす》の殷雷だが、ついつい護玄の話に引きずり込まれていった。
「……そうこうしているうちに、和穂は三歳になった。可愛《かわい》い盛りだ。だが、すくすくと育っていた和穂は病気を患《わずら》ってしまった」
背を向けたまま、殷雷は引き絞るような声で言った。
「ご、護玄。病気ネタは勘弁《かんべん》してくれぬか……」
「なぜだ? 繰り言で何を言おうが勝手だろうに。
……知っての通り、仙人は病気なんかにはかからない。だが、和穂は人間の子供だ。
困った事に、仙界には怪我《けが》に効《き》く仙薬はあっても、病気に劾く仙薬は少ない。
しかも和穂は、仙薬が効きにくいときていた。
熱を出して苦しむ和穂に、仙人である龍華は己の無力さを知った。
あぁ、どうすれば、和穂の熱が下がるんだろう、あぁどうすれば、この苦しみから救ってあげられるのだろう。
龍華は悩みに悩んだ。そう、ちょうど今の龍華のように」
護玄の話は、仙界には無く、人間界にしか存在しない薬草を取りにいく話になっていった。
和穂の命を助ける為に、仙界の掟《おきて》を破り人間界に下りた龍華。余計な混乱を防ぐ為に、己の仙術を封じていた龍華は、人間界で傷だらけになりながらも、やっと薬草を手に入れる。
と話は続く。
殷雷はこの手の話に弱かった。
たたみかけるように、護玄の話が続いていく。
龍華の姿が見当たらないので和穂は、熱で朦朧《もうろう》としながらも、龍華を探しに雨の中を歩いた。
傷だらけになった龍華が嵐の中で、ずぶ濡《ぬ》れの和穂を見つけたくだりで、ついに殷雷は低くくぐもった声で泣いたのだ。出来るだけ声を立てないように気をつけるのだが、どうしても、低い嗚咽《おえつ》が漏《も》れてしまう。
「ま、そんなところだ。殷雷よ」
頃合よしと見計らったのか、護玄は殷雷の側《そば》に寄ろうとした。
背中を向けたまま、慌てて手を振り、殷雷は護玄を追っ払う。泣き顔を見せるわけにはいかない。男の意地があった。
「こっちに来るな。くっ。用が、ひっく、あるなら、うっつ、そこで言え馬鹿野郎」
護玄の言葉は単刀直入だった。
「和穂を守ってくれないか。それが龍華や俺が和穂にたいして出来る、最後の思いやりなんだ」
「くっ。うっ。無茶を言うな。……七百二十六の宝貝で大騒ぎしてるのに、俺まで人間界に行ってどうする。神農の見積りが崩《くず》れてしまうぞ」
「大丈夫だ。龍華が神農様に渡した目録《もくろく》に、お前の名前も載《の》せてある。帳簿《ちょうぼ》の上では、お前も逃走したことになってるんだ」
「けっ。うっく。どうせ万が一、宝貝が回収出来たとしても、ひぃっく。俺なんざ用なしで、ぶっ潰《つぶ》されるのがオチなんだろ」
「……もしも、宝貝の回収に成功したのなら俺の仙術に懸《か》けて、お前が仙人になれるように取り計らってやる。それでは駄目か?」
情にもろい殷雷は、護玄が語った『龍華の子育て苦労話』を聞いて、和穂に同行するのを承諾《しょうだく》しても構わない気持ちになっていた。
だが、人情話にほだされて、同行したとなると、武器としての誇りが傷つくと、殷雷は思っていた。
「……本当に仙人になれるのか?」
「正確には俺の弟子として、道士に取り立ててやるところから始めるが……」
「誰がお前の弟子になどなるか!」
「ならば、これでどうだ?」
護玄はさっきから、ずっと手に持っている鉄の棒を殷雷に投げ渡した。
長さは殷雷の身長ぐらい、ちょうど握りやすい太さだ。物干し竿《ざお》のように、何の変哲《へんてつ》もない棒に見える。
もし、これが棍《こん》ならば、軽すぎると殷雷は感じた。
「なんだこれは? 棍のようだが」
「そう、棍だ。殷雷、武術は得意か?」
「愚問だな。武芸百般に通じるように、造られている。武器に武芸を仕込んだんだぞ、あの馬鹿仙人は」
「まあ、いい。ならば回してみろ」
殷雷はだまされたつもりで、振り回してみた。こんな軽い物が武器だとでもいうのか。
殷雷の手の中で棒は澄んだ音をたて、空を切った。
それだけで、この棒が只《ただ》の棒ではないと、殷雷は見抜く。
普通の棍は先端に重りを付け、破壊力を増す。だが、この棒はどこをとっても、均一の重さのようだ。
回してみても、全《まった》くしならず反《そ》りもしない。
そのせいで、体の力が棍を素直に伝わっていく。
まるで、自分の腕が伸びたかのような、使いやすさだ。
「それは、宝貝の材料にも使われる真鋼《しんこう》だ。固くて頑丈《がんじょう》で、使い勝手が良かろう」
この棒は宝貝でも何でもない、仕掛けなど何もない、ただの棒でしかない。だが、殷雷はこの武器が気にいった。
「その棒をくれてやる」
不平そうに、棒を持つ刀は言った。
「これだけで、宝貝回収に付き合えってのかい?」
「しばらくの間だけでもいい。
せめて和穂が、人間界でも生きていく知恵を身につけるまででも」
殷雷は考えた。どうあがこうが、状況は変わらない。断ったとしても、封印を施されるのが関の山だろう。刀は首を縦に振った。
「……仕方あるまい。そういう話なら、あの娘に同行してやっても構わない」
「約束してくれるか?」
気にいった玩具《がんぐ》をもてあそぶように、殷雷は棒を振り回した。
「あぁ、約束してやる。そのかわり、俺が仙界に戻っても束縛《そくばく》するのはやめてもらおうか。
仙人にしろとは言わん」
「判った。俺も約束しよう。では刀の姿に戻ってくれ。少し窮屈《きゅうくつ》かもしれんが、縮小の符を貼《は》らせてもらう」
文句を言いながらも、しぶしぶ殷雷は本来の形に戻った。殷雷刀は宙に浮かんでいたのだが、棍は地面に落ちた。
護玄は懐《ふところ》から赤い符を取り出し、鞘に巻き付ける。途端《とたん》に殷雷刀は、焼き栗が爆《は》ぜるような音をあげて、筆の大きさにまで縮んだ。
護玄は棍を拾い、再び牢《ろう》の中に戻った。
牢の中、和穂と龍華は寝台に腰をかけていた。
赤く目を腫《は》らした龍華に、護玄はどう声をかけるべきか悩む。
そんな護玄の気持ちを察したのか、龍華は明るく口を開いた。
「護玄。殷雷刀はどうした?」
「あ、あぁ。和穂との同行を承諾してくれたよ」
懐から縮んだ刀を取り出し、護玄は龍華に渡した。
龍華は和穂に語った。
「いいか、和穂。お前は一人前の仙人だ。
お前を半人前と見て、心配だからこれを渡すんじゃない。
同じ仙人として、苦行《くぎょう》に挑《いど》むお前にこれを贈るんだ。
見てのとおり、殷雷刀はたいした宝貝じゃない」
龍華の言葉に殷雷刀は、女仙人の手の中で暴れた。
「静かにおし。殷雷刀よ。お前も自分がこの世で一番|優《すぐ》れた宝貝だなんて、思い上がってるわけじゃないだろ?」
納得したのか、殷雷刀の動きはおさまる。
「でも使い方しだいでは、お前を助けてくれるはずだ。受け取ってくれるか?」
和穂はうなずき、殷雷刀を懐に納める。
護玄は真鋼の棍を和穂に渡した。
「和穂よ、殷雷刀に施してある縮小の符は、指で千切《ちぎ》れば、破れる。人間界に着いたら術を解いてやってくれ。
そうしたら、この棒を奴に返しておくれ。
それと、銀を少し持ってきた。人間界で貨幣と交換出来る」
「……ありがとうございます。護玄様にもいろいろ御世話になりました」
別れの言葉に、護玄は一言《ひとこと》だけ答えた。
「帰ってこい。絶対に帰ってこい」
護玄の言葉を聞き、和穂はいつものように笑った。
「どうした? 何かおかしいか?」
「だって護玄様も、師匠と同じ事をおっしゃるんですから」
護玄も一緒《いっしょ》に笑う。龍華だけは、恥ずかしいのか、少し不機嫌そうだった。
そして扉が鳴った。軽く響く、ありふれた扉を叩《たた》く音が、笑い声をかきけした。
扉を開け、真剣な顔をした柳剛が現れる。
感情を捨てなければ、こんな仕事が出来るかと言いたげなほどの無表情だった。
「和穂。今から神農様の手で仙骨の封印と、人間界への扉が開かれる」
龍華は柳剛に尋ねた。
「仙主様。私たちも、神農様のところに行って、よろしいでしょうか?」
目をつぶり、柳剛は首を横に振る。
「駄目だ。護玄、龍華。お前らも早々《そうそう》に立ち去るがよい」
未練《みれん》がつのるだけだ、と後に続けたかったが言えなかった。
柳剛は非情な獄卒《ごくそつ》に徹《てっ》した。
「来い。和穂」
和穂を連れて、柳剛は部屋を出た。
扉を閉めた余韻《よいん》の音が消え、牢の中の二人に、静寂《せいじゃく》が襲いかかった。
龍華は鋭い目で壁を見つめている。
遥《はる》かな昔まだ道士であった頃、三十三日の間、龍と戦い龍を服従させた時も、今と同じ目をしていた。
どんな化《ば》け物と渡りあっても、恐怖に屈しなかった目だ。
どんな困難な事件に出会っても、絶望の色を宿さなかった目だ。
だが、壁を射すくめていた目から涙があふれだした。
泣き顔ではない。
いつもの、きりとした目で、涙だけを流していた。
護玄はいたたまれなくなった。
「……龍華」
「……護玄。私は和穂について行きたい」
「! そんな事が出来るか」
「あぁ、出来ない。出来ないんだよ。
悲しい、悲しくてたまらない。
こんなに辛《つら》く、悲しいならなぜ、私は何の為《ため》に仙人になったのだろう?
私は人間としての業《ごう》を捨てて、仙人になったつもりでいた」
「龍華、何を言い出す」
龍華は一心不乱に頭を振った。己の苦悩を振り切ろうとするかのようだ。
だが、振り切れなかった。
「違う、違うんだ。
私は人間としての業を知らずに、仙人になっていたのかもしれない。
あの子が一人前になって、私のもとを去るのには耐えられる。
私はあの子を生んだのではない、だが育てたのだ。
あの子はこれから、死地に赴《おもむ》こうとしているんだ。
母親にそれが耐えられると思うか!」
六
柳剛《りゅうごう》の部屋に、和穂《かずほ》は連れていかれた。
昨晩まであった机は片づけられ、椅子《いす》も籐《とう》の椅子が一つしかない。
その一つの椅子に、神農《しんのう》は座《すわ》っていた。
今日は、大きなコブのついた、樫《かし》の杖《つえ》を持っている。
和穂の姿を見つけ、神農は近寄って来た。
「どうだ。和穂。別れはすんだか?」
似合わない棍を持ち、和穂はコクリとうなずく。
「ほぉ、真鋼か。ま、それぐらいなら、持って行っても良かろう」
神農は懐《ふところ》から、二つの宝貝《ぱおぺい》を取り出した。
一つは小さな耳飾り、一つは四海獄《しかいごく》より少し大きなひょうたんだ。
「ごほん。昨夜《ゆうべ》も言ったが、宝貝回収に使用する宝貝を二つ、与える。
この二つは純粋に機能しかない。己《おのれ》の意思や、人型をとることもできない。
まずこれが『索具輪《さくぐりん》』じゃ。左の耳に着けなさい」
棍を小脇に挟み、神農から渡された耳飾りを、和穂は指示どおりに、耳に着ける。
どこにでもある、安そうな耳飾りだ。鉄と小さな陶器の玉で出来ていた。
和穂のような娘が着けていれば、なおさらに価値が無く見える。
どんなに飢えた山賊《さんぞく》でも、見落としそうな代物《しろもの》だ。
神農は説明した。
「言葉のとおり、これが宝貝の在処《ありか》を調べる宝貝、『索具輪』だ。
目をつぶり、精神を集中すれば、頭の中に宝貝の在処が、白い点になって現れる。
精神を集中すればするほど、遠くの宝貝や正確な位置が判《わか》るようになっておる。
使い方によれば、危険な宝貝じゃから充分に気をつけるように」
何が危険なのか、和穂には判らなかった。
老人は、もう一つの宝貝を渡した。
「で、これが『断縁獄《だんえんごく》』だ。
龍華の作った、四海獄は知っていよう。基本的にはあれと同じ機能で、この中に一つの世界を持っている。
回収した宝貝は断縁獄にしまうと良い。
ただ、抵抗《ていこう》するものは吸引出来ないんで、武器にはならんぞ。
宝貝とはいえ、死んだり機能不全になったりもする。
そういう宝貝も、回収するようにな。
一度中に入れた物を出すのも可能だ。
この中に宝貝を七百二十七個入れれば、お前は仙界に戻れる。……のどが渇《かわ》いたな。柳剛よ茶を出せ」
虚空《こくう》から、柳剛は湯飲みを取り出した。熱い茶が中に入っている。
「うむ。さすがに仙主だけあって、いい熱さ加減じゃのう」
「恐れ入ります」
神農は、神妙な顔をしている和穂を、そばに呼び寄せた。
「ふうむ。和穂よ。わずかだが顔に、炎難《えんなん》の相が出ておる」
和穂の顔に浮かぶ、小さな不吉の影を神農は見逃《みのが》さなかった。
柳剛ですら、気がつかないほどの微妙な影を神農は言い当てる。
「炎難……」
「真火《しんか》によって、仙人資格を失っただろ。お前にとっちゃ、炎《ほのお》は不吉な物だな。
炎難が出て、十日は経過してるな。
三十六日は卦《け》は変わらんから、もしも、お前が二十六日以内に死ぬのならば、それは炎によってだ。
死相は出てないが、死相がなくても人は死ぬ。わしに読める、お前の未来はそんなものだ」
「判りました」
だが、どうしろというのか。
「では、始めるか」
片手に湯飲みを持ちながら、神農は地面に杖で正方形を描く。
さらに四十五度傾けた同じような正方形を描く。いびつな星形の図形が地面に描かれた。
神農は湯飲みを消し去り、和穂に言った。微妙に声の高さが上がっている。
「和穂。この図形の中央に立て。今より仙骨を封印《ふういん》する」
仙骨とは、仙術を行う為《ため》に絶対必要な、幻《まぼろし》の骨である。場所は尾てい骨と背骨の間にあるといわれるが、定かではなかった。
仙人には必ずこの仙骨があり、仙骨があって、仙術の使用が可能になる。
仙人の資格を剥奪《はくだつ》するとは、仙骨の使用を封じる事であった。
和穂は生唾《なまつば》を飲みこみ緊張した。
図形の中心に和穂を立たせ、神農はぐるぐると和穂の回りを歩く。
そして、ついに立ち止まり、和穂の腰に手を当て、さする。
「ううむ。まだまだ成熟途中だが、なかなかいい形をした尻《しり》じゃのう」
例によって、沈痛な空気が立ち籠める。
眉毛一つ動かさず、柳剛が言った。
「神農様」
「黙れ黙れ黙れ。何度も言うがワシはこの重苦しい雰囲気をだな……まあいい、このままじゃワシは只《ただ》の助平爺《すけべいじい》さんではないか」
何度も何度も咳払《せきばら》いをして、神農は再び和穂の腰に手を当てた。
和穂の腰にあてがわれた、神農の皺《しわ》だらけの手が、蜃気楼《しんきろう》のようにぼやけ、紫色の光を発した。こきり、と骨のきしむ音もした。
同時に和穂は、全身の骨がひきつる感覚に襲われる。
神農は低い声で説明した。
「……これで仙骨を封じた。
和穂、道炎を出してみな」
真火が炎を超える炎なら、道炎は炎にも劣る炎だ。沸騰した水よりも温度が低い。
和穂は言われるまま、仙術の基礎である炎の印《いん》を組もうとした。
だが、組めない。
最初は、棍が邪魔になっているのかと思ったが、違っていた。
組み方を忘れてしまったのだ。
「仙骨を封じるとは、仙術に関する記憶を封じる意味もある。
もう、お前は仙骨の無い人間と同じだ。
仙界での記憶を無くしたりはせぬが、仙術に使う、『意味のある形』や『意味のある言葉』は思い出せない。忘れたんではない。
仙骨の封印が解ければ、思い出せるようになる」
和穂は急に地面がぐらつく感覚を覚えた。
仙骨を使わずに、体の平衡《へいこう》を取るのに戸惑《とまど》いがあった。それほどまでに、和穂にとって仙術は、当たり前の物になっていたのだ。
神農は続けて言った。
「では、いよいよ最後だ。
これより、人間界への門を開く。
和穂よ、そのまま図形の中から動くんじゃないぞ」
緊張に小さく震え、和穂はうなずいた。
神農は杖を両手につかみ、地面に突き刺す為に大きく振りかぶる。
「いくぞ!」
巨大な気合と共に、神農は杖を振り下ろした。杖のとがった先が地面に刺さる。
同時に、亀裂が和穂の立っている図形に向かい走った。亀裂は図形にそってうねり、図形を『抜き落とした』。
仙骨が封じられた時にも感じた、墜落《ついらく》感を再び和穂は感じた。
だが、墜落感は心理的な物ではなくて、実際に地面が打ち抜かれたのだ。
墜落の恐怖に、和穂は目を閉じ、棍を握りしめた。
耳には風を切る音が聞こえる。
ぼうぼうと、だんだん加速を増して音は大きくなる。
轟音《ごうおん》で、何も考えられなくなった時、和穂は意識を失った。
意識を失う直前、次に目が覚めた時には人間界なのだと、覚悟は決めていた。
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第二章『戦術級重機動|宝貝《ぱおぺい》・大崑崙《だいこんろん》』
一
目をつぶって、階段を下りたとしよう。
残りの段数は五段と、頭では思っていたとする。だが、実際には階段は四段で終わっていた。
すでに地面に着地している足は、それでも存在しない、幻《まぼろし》の五段目を踏みしめようとする。
途端《とたん》に膝《ひざ》は今までの感覚を失い、フラフラとよろめいてしまう。
和穂《かずほ》も同じだった。
意識を取り戻すと同時に開けた視界に、和穂は落下の衝撃があるかと身構えたが、衝撃は無かった。
和穂は平衡感覚を失い、地面に尻餅《しりもち》をついた。
元仙人の目に、どんな黄金よりも強く輝く炎天下《えんてんか》の砂が映った。
見渡す限りの砂だ。
「……砂漠?」
空を見れば、どこまでも続く青空、すなわち雲がなく、日影などありそうにもない。
いきなり、砂漠の真ん中に放り出されて、和穂はどうしたらいいか判《わか》らなかった。
だが、このまま座《すわ》り続けていれば、そのうちに干物になってしまう。
右手に握られている真鋼《しんこう》を杖《つえ》代わりに、和穂は立ち上がる。
そして歩もうとして、つたない積木細工が崩《くず》れるように、再び地面に転んだ。
和穂は自分の肉体の重さに、愕然《がくぜん》とした。
自分の体が鉛《なまり》のように重く、仙骨に頼らずに歩くには、どうすればいいのか判らない。
灼熱《しゃくねつ》の砂の中で、和穂の顔から血の気《け》が引いた。
和穂はほとんど無意識に、道服の懐《ふところ》から縮小された殷雷刀《いんらいとう》を取り出し、封を切った。
軽い爆発音と共に、殷雷刀は本来の大きさを取り戻して宙に浮く。
刀はゆっくりと垂直に立ち、鞘《さや》がそろりと地面に落ちた。
途端に殷雷刀は弾《はじ》け、人間の姿になった。いつものように少しやせぎみだが、筋肉質の体を持つ青年の姿が現れた。
そして、これまたいつもと同じく、長い髪を押さえつけると、まるで水で濡《ぬ》らしたかのように、髪がまとまっていく。
殷雷が地面に落ちた鞘を、絡まった洗濯物を解くように、さすっていると、鞘は長めの外套《がいとう》になる。
地面に座《すわ》り込む和穂に、殷雷は言った。
「どうした、お嬢ちゃん。いきなり切羽《せっぱ》詰《つ》まった顔をして」
最初、口をパクパクするだけの和穂だったが、やっと言葉を発した。
「……砂漠の中で……歩けない」
外套を羽織《はお》って、殷雷は大袈裟《おおげさ》に驚いたふりをした。
「そいつぁ、大変だ。わっはっは」
『笑い事じゃないわ!』と怒る気力は和穂にはない。なぜなら笑い事じゃないからだ。
殷雷は上半身をかがめ、地面に座り込む和穂の顔に頭を近づけた。
「肩を貸してやるよ、和穂。立てるかい」
意外な殷雷の優しい言葉に、和穂は心が安らぐのを感じた。
「ありがとう、殷雷」
差し出される、和穂の手を、殷雷はニッコリ笑ってひっぱたいた。
「甘えてんじゃねえ」
さすがの和穂も、腹を立てた。
「どうしてそんな意地悪《いじわる》をするのよ」
手を叩《たた》かれたお返しとばかりに、殷雷の横っ面《つら》を引っぱたこうとするが、軽く避けられる。
空《くう》を切る手に和穂は余計に腹が立ち、意地でも一発ぶちかましてやるという決意の下、立ち上がり殷雷を追った。
だが、殷雷とて武器の宝貝、そう簡単に和穂の平手など食らわない。ニヤニヤ笑って、攻撃を楽々かわす。
やがて和穂は息を切らし、棍《こん》を放り出してへたりこむ。
肩で息する和穂に、殷雷は指摘した。
「何が歩けないだ。足の骨を折って二、三か月歩けなかった奴が、歩き方を忘れるのと一緒《いっしょ》だ。お前の場合は、筋肉が萎縮《いしゅく》してるわけでもないから、すぐに歩けただろう?」
ゼイゼイと息を吐き、和穂はうなずく。
自分一人の力で立ち上がり、顔を真っ赤に火照《ほて》らせた和穂は、棍を拾おうとした殷雷の、一瞬の隙《すき》を捕らえた。
余程疲れたのか、殷雷の頬《ほお》を叩く力は、蚊《か》の一匹も潰《つぶ》せそうになかった。だが、虚《きょ》を突いて見事に頬に当たった。
殷雷は怒鳴《どな》った。
「何しやがる!」
息も絶え絶えに、和穂は殷雷の胸ぐらをつかんだ。いや、正確には殷雷の胸ぐらにぶら下がった。
「はぁ、はぁ。だったら……そう、最初から言えば……いいでしょ。
この砂漠の中で、走り回ったり……したからノドが渇《かわ》いて……もう駄目《だめ》。
無念だわ。志《こころざし》半ばで、こんな間抜けな理由で、砂漠で渇き死ぬ……なんて、あぁ」
汗だくになりながら、和穂はまたしても砂の上に倒れた。無念の行き倒れのように、うつぶせで砂をつかみながら。
殷雷は今にも暑さで気絶しそうな、和穂に冷たく言った。
「どうでもいいが、和穂。
ここは砂漠じゃなくて、砂浜だぞ。かすかに波の音もするし、潮《しお》の香りもするだろ。それに、砂漠の空気がこんなに湿ってるか」
砂の上で焦点を失いかけた和穂の目に、一匹の小さな蟹《かに》が見えた。
*
「だいたい、何よ、その長い髪は! 似合っているとでも思っているの」
和穂は、砂浜に座り泣いていた。
流す涙は悔《くや》し涙だった。
宝貝回収という大試練の最初の一歩で、いきなり砂浜を砂漠と勘違《かんちが》いして、大騒ぎしたのだ。
自分の間抜けさに、ついつい涙がこぼれてしまう。
殷雷も力無く、棍《こん》を抱えて砂浜に座り込む。
何が悲しくて、武器の宝貝として生を受けたのに、小娘の子守なんざしなくてはならないのか。
小娘様は御機嫌《ごきげん》斜めで、八つ当たりの上に涙まで流していやがる。
「ちょっと、聞いてるの?」
「へいへい、聞いてますぜ。あっしのこの髪はですね、猫のヒゲみたいなもんで、周囲の微弱な雷気を感じて、相手の気配《けはい》を探《さぐ》る為《ため》にあるんでげすよ。こんちこれまた」
「……何よ、その言い方。私を馬鹿にしてるんでしょ」
殷雷は頭をかきむしった。
「だぁぁ! もういい。ともかく、とっとと宝貝を探しちまおう」
和穂も、こんな事をしている場合ではないと、気を取り直した。
おもむろに耳の索具輪に指を添えようとする。だが、ふと手を止めた。
「ちょっと待ってよ殷雷。もしも宝貝が、海の中とかに落ちていたら、どうしよう?」
狐の尻尾《しっぽ》のように髪の毛を横に振って、殷雷は答える。
「それは、大丈夫《だいじょうぶ》だろ。一応、宝貝とはいっても、道具の業《ごう》を背負っているからな」
「道具の業?」
「使われたいんだよ。誰かに使って欲しいという欲求がある。
意思を持たない宝貝でも、そういう本能がある。だから、宝貝は必ず人間の前に姿を現すはずだ」
「……師匠《ししょう》の作った宝貝って、みんな殷雷みたいに心があるの?」
「幾つかの宝貝は俺も封印《ふういん》の中で見たが、意思の無いのもある。
だがな、ずるがしこい宝貝は、使えそうな宝貝を持って、封印から飛び出したと思う」
「?」
「意思のある筆の宝貝が、意思を持たない硯《すずり》の宝貝を持って、逃走したってのもあり得るな。自分の力をより発揮《はっき》出来るだろ」
和穂は納得《なっとく》して、今度こそ索具輪に指をかけた。
ゆっくりと目を閉じ、細い指に力を入れる。
途端、まぶたの裏の暗闇《くらやみ》に光が見えた。暗闇の真ん中で光るのは、断縁獄《だんえんごく》だろう。断縁獄の横で光っているのは、殷雷刀だ。
和穂はさらに意識を集中した。
東の方に、微《かす》かな光が見える。
和穂はその光に精神を集中させながら、自分の体をゆっくりと回転させた。回転と共に光は自分の正面に移動する。
さらに、集中する。
まぶたの裏全体に、同心六角形の蜘蛛《くも》の巣が広がる。光の真上にかかる、蜘味の線には一里と記されていた。
和穂は目を開け、正面を指差す。
「こっちに一里」
和穂と殷雷が今いる砂浜は、なだらかなすり鉢形の底にあたり、視界が良くない。
だから慌《あわ》てた和穂が砂漠と間違《まちが》えたのだ。
殷雷と和穂は、真剣な面持《おもも》ちで砂の上を歩き始め、すり鉢の縁にあたる高みに来た。
視界が開け、和穂は息を飲んだ。眼下には空よりも碧《あお》い海が広がっていた。
海からの風が、和穂の道服をはためかす。
海のそば、和穂が指差した場所には、結構大きな港街があった。
「あの街か」
海の美しさに心奪われる和穂とは対照的に殷雷の声には、ある種の悲壮感《ひそうかん》があった。
悲壮感の裏には戦いの予感があった。
殷雷はゆっくりと、街へ向かって歩き始めた。慌《あわ》てて和穂も後を追う。
*
えい安いよがやざわ駄目《だめ》だざわまだかがや早くしろざわ気にするな釣り銭くずしてがやどこだがや魚ぁ魚ぁわいわいざわざわへいお待ちざわざわ昨日までだろざわざわわっはっはっ金ならがやがやいい物あるよわやわやどうだいざわざわ買わなきゃがや損だがやよさばいちまえがやがや焼き鳥なんか頼んでないぞざわざわうりゃあ焼き貝はどうだがやわいわい酒がや酒ざわこの宿六《やどろく》ざわ明日の晩飯お前も殺して俺も死ぬ馬鹿一人で死んじゃえざわざわざわがやがやがやがやぁぁぁ……
活気にあふれた港街だった。和穂にとっては、これだけ沢山《たくさん》の人間を見るのは初めてだったし、それにもまして生活の匂《にお》いに圧倒される。
木材で出来た家並《いえなみ》、忙《いそが》しく動く荷車、子供の泣き声。
仙人が仙人になる為《ため》に捨て去った、俗な物がこの街には全《すべ》てありそうだった。
だが、不思議と和穂にとって、不快感はなかった。
殷雷は封印の中で、暇つぶしに人間界をよくのぞいていたらしく、和穂よりはよっぽど人間に関する知識が多い。
ぽかんと人混みに見とれる和穂に、殷雷は次のような話をした。
人間ってのは泥水みたいなものだ。仙人ってのは泥水のうわずみの透き通った清水だ。
泥を汚《きたな》いと思うか?
和穂は首を横に振った。
命は泥、つまり土から生まれるのだ。
殷雷は和穂の答えに、満足した。
索具輪は宝貝の位置を直線的にしか、教えてくれない。
慣れぬ港街を一刻近くうろついて、二人はやっと、それらしい場所を見つけた。
それはひなびた、乾物屋だった。
掌ぐらいの大きさの、紅魚《べにうお》の干物《ひもの》がのれん代わりに、入口ではためいている。
索具輪をいじる和穂に、殷雷は確認を取った。
「この中か?」
「うん、間違いない」
緊張感を紛《まぎ》らわすために、和穂は殷雷に問い掛ける。
「でも、宝貝を手に入れた人が、みんな悪い人とは限らないでしょ? きっと理由を説明したら返してくれるよ」
殷雷は思った。確かにそのとおり、宝貝が悪人以外の手に渡っている可能性はある。
だが宝貝は、どんな善人も悪人におとしめるだけの魅力を持つ。
和穂にもそんな道理は判っているだろう。自分を勇気づけている言葉を、否定しても仕方あるまい。
「……そうだな。でも油断するなよ」
「……判ってる」
二人は紅魚ののれんをくぐり抜け、店の中に入っていった。真鋼《しんこう》の棍《こん》を握る殷雷の右手が、戦闘を予感して微妙に脱力していく。
店の中は薄暗く、狭かった。干し魚の臭《にお》いと混《ま》じって、古い建物独特の、埃《ほこり》の臭いもしていた。
短い通路の両脇の棚には、海産物が干物にされておいてある。それ以外にも、食器や薬なども並んでいた。
突き当たりには小さな机が置いてあり、一人の老婆《ろうば》がちょこんと座《すわ》っていた。
表からの光が射し込まないので、老婆の表情がよくわからない。
皺《しわ》のような目は、本当に開かれているのだろうか。
『すげえ、人間の干物までおいてやがるぜ』と、殷雷は老婆に対して軽口を叩きたかったが油断は出来ない。
二人は老婆の挙動に全神経を集中して、店の奥へ進んでいく。
二人の靴の裏で、石づくりの床《ゆか》が砂利《じゃり》とこすれ、静かな音をあげた。
殷雷は自分の髪の毛に意識を集中した。もし老婆が妙《みょう》な動きをすれば、瞬時に動くつもりだ。
和穂の目が、だんだんと薄暗さに慣れていった。
老婆は網のように白い髪を、頭のてっぺんでダンゴ状にして、一本のかんざしを刺している。
皺だらけの口を歪《ゆが》め、老婆は言った。
「いらっしゃいませ」
和穂たちは、老婆の言葉で一瞬歩みを止めた。だが、意を決して歩き続け、老婆の前に立った。
机の上には、売り上げの小銭を入れるのか、小さな引き出しが五つついた、小間物《こまもの》入れがあった。
老婆のひざの上では、白い猫が呑気《のんき》に昼寝をしている。
静かだった。
鼓膜のそばを流れる、血の流れが聞こえそうなまでの沈黙があった。
和穂が口火を切った。
「お婆さん、宝貝を返して下さい」
老婆の目がゆっくりと開く。
年老いてなお、活力の衰えていない眼光《がんこう》が光る。
「……ほお。宝貝とな……ところでお前さんたちゃ、何者じゃ? おや? その格好は道士様かい? お嬢ちゃんの道士様とは珍しいね。生憎《あいにく》、雨乞いも厄除けも間に合ってるよ」
和穂の背後に立っていた殷雷が、前に進んで出た。
「とぼけるな。宝貝を出せと言ってるんだ」
慌《あわ》てて和穂が、殷雷の横に立った。
「殷雷、乱暴はよして。お婆さん、お願いです。あの宝貝は師匠《ししょう》が造った物で、私が過って失くしてしまったんです」
老婆は白猫の背中をさする。
「宝貝ってなんじゃ?」
老婆の余裕に不安を感じながらも、殷雷は真鋼の棍を構えた。
「ババァ、ふざけるな!」
槍《やり》のごとく繰り出される棍は、老婆の眉間の上でぴたりと止まる。殷雷の気迫に、猫が慌てて逃げていく。
「殷雷!」
老婆は笑った。
「年寄りに暴力をふるっちゃ、いけないね。可愛《かわい》そうに、猫が怯えて逃げちゃったじゃないか」
真鋼の棍を下ろさせようと、必死に殷雷の腕にしがみつく和穂。だが、棍は全く動かない。
「ババァ。俺の攻撃を見切ったのは、龍華《りゅうか》とあんただけだぜ。仙人並みの度胸《どきょう》だな」
「ふぉっふぉっ。見切ってなんざいるかい。今さら死は恐れていないだけじゃよ。余生《よせい》をのんびり暮らせて、孫に少しでも財産を残す事だけが望みの婆に、命ごいでもして欲しいかえ?」
和穂は棍と悪戦苦闘していた。
「殷雷、なんて事するのよ、お婆さん、ごめんなさい!」
ばつが悪そうに悪態《あくたい》をつき、殷雷は棍をおさめる。
老婆は優しく微笑《ほほえ》んだ。
「優しいお嬢ちゃんじゃな。道士様がお探しって事は……これかな?」
小間物入れの引き出しの一つから、老婆は古ぼけた本を取り出した。
本の表紙には荒々しい筆文字で、
『符方録《ふほうろく》』
と書かれている。明らかに龍華の筆跡《ひっせき》だった。和穂は確認の為《ため》に索具輪を使ったが、間違いはなかった。
「お婆さん、これをどこで手に入れたんですか?」
「十日ほど前かな、庭の掃除《そうじ》をしてたら、空から降ってきたんじゃよ。欲しけりゃ持っていくがいい」
和穂の顔がぱっと明るくなる。
「いいんですか?」
「いいも何も、お嬢ちゃんの師匠の持ち物なんじゃろ。おっと、そういやその中の符を一枚だけ使ったんじゃが、その符はくれないかね? 商売|繁盛《はんじょう》の符なんだが」
老婆は柱の上に貼《は》られた、一枚の符を指差した。
どうしたものかと、和穂は考えた。索具輪には何の反応もないが、あの符も宝貝の一部のような気がする。
困る和穂を横目に、殷雷も符を見た。殷雷は符術を扱えるわけではなかったが、単純な呪符《じゅふ》ならその意味を『読め』た。
「いいんじゃないか、和穂。確かに商売繁盛の呪文《じゅもん》が書かれているだけだし、使われた符はすでに宝貝じゃないぜ」
驚きの声が老婆からあがる。
「ほう、見かけによらず、気前のいい兄さんだね。私があと五十若けりゃほっとかないよ」
「そいつぁ、どうも」
老人にとって、自分の話を退屈がらずに聞いてくれる者ほど、ありがたい話相手はいない。
人間界の知識がほとんどない和穂は、老婆の話を目を輝かせて聞いた。
仕方無く殷雷は符方録を片手に、店の中を見物していた。
それにも飽きた殷雷は、符方録を見つめてふと独《ひと》り言《ごと》を吐いた。
「いきなり、捕《つか》まって、お前も運の悪い宝貝だな」
憎まれ口を叩きながらも、心の中では取りあえず順調に宝貝が回収できて、ほっとしていた。
もちろん、温厚な老婆以外の手にも宝貝は落ちている。
血に飢えた男の手にも、宝貝は落ちていたのだ。
殷雷の想像を、遥《はる》かに絶する敵はもうすぐそばにまで来ていた。
二
老婆が符方録《ふほうろく》を拾った、今から十日前。老婆の街から遥《はる》かに離れた大地で、核天《かくてん》は死にかけていた。
老衰なんかではない。核天は二十になったばかりの青年だ。
病気でもない。核天は今までに、病気らしい病気を患《わずら》った事がない。
核天は潰《つぶ》れていた。
踏まれた蛙《かえる》のようにではない。核天のはらわたは、かろうじてまだ腹の中にあった。幾つかの内臓は無残に破裂していたが、外には出ていない。
左腕の肘《ひじ》の関節は木《こ》っ端微塵《ぱみじん》で、腕全体が蛤《たこ》のようにグニャグニヤになっていた。
右腕は千切《ちぎ》れてどこかに行ってしまった。
目茶苦茶《めちゃくちゃ》な上半身に比《くら》べ、下半身はまだましだ。
ふくらはぎが弾《はじ》け、右のふとももの骨が、骨盤を破り、右脇腹から露出していたが、足の形をしている。
核天は、大の字ならぬ『丈』の字になりながら、泥の中にうつ伏せに倒れていた。
核天の顔は……大丈夫《だいじょうぶ》、核天の顔はまだ三分の二はある。
頭蓋骨《ずがいこつ》が軍馬に踏まれたせいで豪快にひしゃげているが、右目と鼻と口は確認出来る。
左目は潰れて肉のひだになってしまった。
さっきまでは、呼吸に鼻も使えた。
だが、泥を鼻からすすってしまい、今は鼻の穴が泥で詰まってしまった。
泥をすすったせいでノドの奥が熱かった。
核天は、戦場で潰れていた。とっくの昔に戦闘は終わっていたが、誰も助けには来なかった。
核天と似たような姿形をした雑兵《ぞうひょう》が、辺《あた》り一面に倒れている。『大』や『丈』や『土』や『市』の形はまだましだった。
酷《ひど》いのになると、車輪に切断された『言』や腸が飛び出し、腐敗のせいで膨《ふくら》み、『鸞《らん》』の形をした首無し死体もある。
潰れながらも生きているのは、核天だけだった。
核天の腹の底から憎悪《ぞうお》がわいてでた。最初は自分の頭を踏んで疾走《しっそう》していった軍馬と、その乗り手。次には右手につまずき、腹いせに右腕を切り落とし、蹴《け》り飛ばした敵の雑兵だ。
怒りは自分の体を傷つけた全《すべ》ての者に向けられ、やがて全ての命ある者へと憎悪は広がっていく。
熱病のようにうなされ、核天は呪《のろ》った。
核天の意識が、ゆっくりと暗くなる。このまま死ぬのだ、と核天は覚悟を決めた。
だが、核天は甘かった。
全身の毛穴が、蚊《か》の毒液を受けたかのように、痒《かゆ》みを訴える。核天の失われかけていた意識が、急にハッキリとした。痒みは強くなり、痛みとなる。
蛆虫《うじむし》だ。
潰れた核天の肉は、蛆虫にとって最高の繁殖場だった。
無数の蛆虫による、無数の痛み。神経をじかに食われる痛み。
痛い。痛い。痛い。
ほんの少し、ほんの少しでも痛みを和《やわ》らげてくれるのは、憎悪だけだった。
恨《うら》み。恨み。恨み。
核天の眼球は濁って、目の前が真っ暗になる。耳が音を伝えなくなったが、蛆虫が肉を食う音だけは、体をとおして聞こえる。
そして、空の一角が弾け、七百二十六の星々が地上に降った。
いまだ死に至らぬ核天の下にも、星は降った。しかも一つや二つではない。全部で八個の星が降った。
「姉さん、どうするんだよ。こんな所に降りて! 一度降りたら、そう簡単には移動できないじゃないか」
青白い青年が怒《おこ》った。狐《きつね》を思わせる目をした、甲高《かんだか》い声の男だ。
和穂《かずほ》と同じように、道服を身につけているが微妙な装飾は全く違う。
道服の胸と背中が、炎《ほのお》を意識した図柄になっている。人の姿をしているが、この青年も宝貝《ぱおぺい》が人間に変化したものだ。名は陽炎炉《ようえんろ》。
青年の肩には、一羽のオウムがとまっていた。鮮やかな緑色のオウムは、毛繕《けづくろ》いに余念がない。同じく、オウムの姿をしているが、これも宝貝である。名は命運盤《めいうんばん》。
青年は、薄汚《うすぎたな》い死体が散乱する戦場へ降りた姉に、怒りをぶつけていた。
「うるさいね陽炎炉。がたがた言うんじゃないよ」
姉さんと呼ばれた女は、弟の叱責《しっせき》など気にもしていなかった。姉弟なのだろうか、やはり狐を思わせる瞳《ひとみ》を持っている。
同じような道服を着用していた。無地だが柔《やわ》らかい乳白色をしている。
女の正体は、宝貝、陽功玉《ようこうぎょく》。
女の横には一隻の釣り舟が置いてあった。奇妙な話だ。死臭|漂《ただよ》う戦場に、釣り舟は似合わない。釣り舟の中には、鎧《よろい》やら剣やらが乗せられていた。
女は、うつぶせに横たわる、核天の腹に爪先《つまさき》を差し込み、蹴り上げた。
ぐにゃとした核天は仰向《あおむ》けになった。
「……姉さん、こんな汚い死体が、何だっていうんだい!」
「死体じゃないわよ」
「馬鹿《ばか》な、蛆虫が涌《わ》いてるし脳髄もこぼれているじゃないか。顔なんか、熟《う》れすぎて地面に落ちて潰れた柿みたいだ」
「……けど死んでない。苦しんでいるのが私には判《わか》る。苦痛にあえぎ、生きている者全てに憎悪を振りまいているよ。こういうのを『主人』にしたら退屈《たいくつ》しないぞ」
「姉さん。その男を治《なお》すのかい?」
「まさか。こんな半分以上死んでる人間を無傷にまで治したら、私が衰弱死してしまう。でも手段はある。その前に一応、本人に主人になる気があるか聞いてみよう。断《ことわ》りっこないけど」
女は病的に青白い指を、核天の脳に差し込んだ。途端《とたん》に、脳の中を這《は》い回っていた蛆虫が、ポトリボトリと死んでいく。
脳を触《さわ》られた刺激で核天の口が、腹話術の人形のように、パクパクと動く。
女はニコリと笑った。
「今、面白《おもしろ》い記憶に触《さわ》った。この男、名前は核天といって、妻がいた。新婚早々戦争で死んだみたいだけど、こんな顔をしていた」
途端に女の輪郭《りんかく》が歪《ゆが》み、顔が変わった。今までの病的な雰囲気は一掃《いっそう》され、素朴《そぼく》ではあるが、美しく暖かい娘の顔が作られる。
短めに、えりあしの所で切り揃《そろ》えられた髪が、より純朴さを引き立てていた。
「しばらくはこの顔でいく。肉体の痛みを忘れても、この顔を始終見ていたら、心の痛みは忘れないだろうからね。痛みがある限り、憎悪は消えないから」
弟は、姉の残虐《ざんぎゃく》な考えに肩をひそめるふりをした。だが名案だと思っている。
女は核天の脳にこびりついていた、泥やら頭蓋骨の破片を取り除く。
次に細い指を脳の襞《ひだ》に添えて、ゆるやかな声でささやいた。
「我らは、仙界の秘宝たる宝貝。核天よ、もし我らの主人になると誓えば、想像を絶する力をお主に与えよう。
さあ、報復を始めよう。お前の腕が千切れた時に、笑っていた奴を殺そう。
お前の妻が、無残に殺された時に幸せだった者を屠《ほふ》りにいこう。
お前が腐って死にかけていた時、生きていた人間を滅ぼしにいこう。
我らの主人になるのだ、うなずけ、うなずくだけでいいのだ。さあ、さあ」
赤黒く変色した、核天の舌が痙攣《けいれん》を始める。
口の中に唾液《だえき》が溜《た》まっていき、蛆虫の死体と共にアゴに流れる。
核天は言った。
「……なろう」
狐目の青年は口笛を吹いた。
「すげえ、喋《しゃべ》りやがったぞ。とんでもない精神力だ。ところで姉さん、この男を治さないならどうするのさ?」
「六身鎧《ろくしんがい》を持ってきたでしょ、あの宝貝を使う。この男に着せて」
弟は黙って、釣り舟の中から鎧を取り出した。両手、両足、胴と兜《かぶと》。全部で六つの部分から成り立つこの鎧こそが『六身鎧』である。
六つの部分には分かれているが、手の鎧は腕全体を、足の鎧も、足のつけねから爪先まで覆《おお》うようになっている。
胴体に至っては首まで覆うように作られていた。
ただ、頭部だけは兜というよりは仮面に近かった。頬《ほお》と目を覆うだけで、頭は守っていない。
それぞれが、暗い銀色を主体に彩られている。奇妙なのはその表面だ。
鎧にはそれぞれうっすらと筋肉の形が浮き上がっているので、どことなく彫刻を思わせた。だが、人の筋肉ではない。
人の筋肉の付き方とは全く違っていた。
人間にはない骨を想定して造られた、腱《けん》や筋肉が施《ほどこ》されているのだ。
鎧の中に骨があり、その骨を動かそうとする筋肉である。外見からはあまり目立たないが、異形《いぎょう》の鎧である。
弟、つまり陽炎炉は手早く核天に六身鎧を着けた。核天の破損が酷い部分は、無理やりに肉の残骸《ざんがい》を詰める。
姉は注意した。
「だいたいでいいから、早くして」
「これからどうするの?」
「私はあんたたちみたいに、封印《ふういん》の中で惰眠《だみん》を貪《むさぼ》ってたわけじゃない。自分自身の巨大な力を、何とか治療以外に使えないかと考えていた」
陽功玉は本来、怪我《けが》の治療用に作られた宝貝である。怪我の治療に使われる仙術的な力は、非常に大きい。
破壊する力とそれを再生する力、どちらにより多くの力がいるか、考えるまでもないだろう。
陽功玉は続けた。
「そして、ちょっとした力配分でこんな事が出来ると判ったのよ。私はそれを『融合』と名付けた。見てなさい」
陽功玉は、六身鎧に身を包んだ核天の体にそっと手をかざす。
掌から、焼けた鉄のように赤い光がほとばしる。
光を浴びた途端、六身鎧がグニャリと歪んだ。
そう簡単に宝貝は破壊できないと知っている、陽炎炉は驚いた。
しかし、すぐに六身鎧は本来の形を取り戻した、だが以前より一回り小さい。
陽功玉が説明した。
「核天と六身鎧は融合した。これで核天の失われた肉体は、六身鎧が文字どおり手足になって再生した」
「す、凄《すご》いじゃないか姉さん! 宝貝をこんなに簡単に変形させるなんて。どんな武器の宝貝よりも、姉さんの方が強いよ」
陽功玉は、頭を横に振った。
「確かに変形はさせたけども、これは攻撃には使えない。宝貝自身が抵抗すれば、融合は不可能なのよ。それに融合といっても、私や融合した宝貝が望めばすぐに外《はず》れる」
弟はずるがしこく笑った。
「つまり、姉さん。もしこの男に飽きたら、融合を解いてしまうわけだ」
「そうよ」
核天は異形の戦士になった。六身鎧がひとまわり小さくなったせいで、鎧なのか、そういう色をした肉体なのかも、判別しにくくなっていた。
特に顔が凄い。欠損した頭蓋骨に代わり、仮面の一部が溶けて新しい頭蓋骨になっていた。ご丁寧《ていねい》に銀色の頭髪まで生えている。
核天の弱々しい息が、だんだんと確実に強くなっていく。
陽功玉は満足そうに微笑《ほほえ》む。
「じきに起き上がるわ。そうだ、ついでだから『愚断剣《ぐだんけん》』をこの男……核天様に差し上げようかしら」
「……それがいいや、なんせ、この男は僕たちの主人なんだからね」
陽炎炉は釣り舟の中から、大ぶりの剣を取り出した。大きさこそ違うが、その剣は殷雷刀に酷似《こくじ》していた。
*
核天は手刀を、ゆっくりと戦場の赤茶けた土に差し込んだ。
微《かす》かな抵抗を感じたが、腕は肘まで土の中に入る。
次に、地面に転がっている石をつかみ、握り潰す。
「凄い力だ」
地面にあぐらをかく核天に対し、陽功と陽炎は礼儀正しく、立っている。陽功が核天に説明した。
「核天様が着用しているは『六身鎧』でございます。鎧の宝貝であり、使用者の肉体機能を高めます。そして、横にあるのが、剣の宝貝『愚断剣』です。
鉄の剣など、比べ物にならないほど、よく切れます」
「これを、俺にくれるってのか? 話がうますぎる。お前ら、何を考えている」
陽功は首を横に振った。
「誤解がありますね。私たちも宝貝です。あなたに私たちを使っていただきたいのですよ」
病み上がりの虚《うつ》ろさが残る、核天の表情に疑いの気配が感じられた。仮面の下にうすぼんやりと光る、緑色の目の大きさが、せわしなく変わる。
陽炎炉が痺《しび》れを切らした。
「ならば、この陽炎炉、本性をお見せしましょう」
言葉が終わると同時に、陽炎炉は、小型の炉の姿になる。さすがに驚き、息を飲む核天に向かい炉はしゃべった。
「私はご覧のように、炉の宝貝です。炎《ほのお》を操《あやつ》る術を得意とします」
陽炎炉の姿が、再び人間になると、今度は陽功が眼球大の大きな真珠に姿を変える。
「宝玉の宝貝、陽功玉でございます。人間や宝貝の怪我を治す能力を持ちます。私が造られた時、余った真火で陽炎炉が造られましたので、陽炎炉とは姉弟の契《ちぎ》りを結んでおります」
核天が言葉をさえぎった。
「待て、宝貝とやらは、全てお前らのように人間に化《ば》けたり、口をきいたりするのか?」
陽功が人間に姿を変え、首を横に振る。
「いえ。核天様の持つ、八つの宝貝の内、人間の姿を取れるのは、私たち二人です。
愚断剣は、滅多《めった》に口を開きませんが、一応自分の意思を持っています。
少し特殊なのは、この命運盤ですね」
空をパタパタと飛ぶ、オウムを捕まえて、陽功は頭を撫《な》でる。途端にオウムは小さな算盤《そろばん》に姿を変えた。
「この命運盤は、オウムに姿を変えます。口はきけますが、自分の意思はありません」
「どういう意味だ?」
「命運盤は、未来を五割の確率で予測する宝貝です。質問すれば、オウムの声で答えが返るようになっています」
「さっきから、気になっているのだが、その小舟も宝貝なのか?」
核天は、あまりに場違いな船を指差した。
「さようです。釣り舟の宝貝、万漁船《ばんりょうせん》にございます」
「釣り舟の宝貝?」
「魚を追う能力を持つ船です」
「くだらぬ宝貝だな」
「とんでもありません。仙界に住む魚を追えるのですよ。陸海空は勿論《もちろん》、虚無《きょむ》の異世界を巡《めぐ》る力を持ちます」
「あとの二つは何だ?」
陽功は、釣り舟の中から、二つの土色をした巻物を出した。
一つはごくありふれた巻物だったが、もう一つは異様に細長く、巻いた掛け図のような代物《しろもの》だった。
「この小さな巻物は、砂兵巻《さへいかん》です」
砂兵巻を手に持つと、まるで砂時計の砂が落ちるように、砂がこぼれだした。
こぼれだした砂は、やがて一人の砂人形を造り出す。
等身大のそれは、まるで顔のない操り人形を思わせる。
「砂兵巻は、名前のとおり、砂の兵隊を造る宝貝です。ただ、兵隊といっても衝撃に弱いという、致命的な欠陥があります」
核天は砂の人形を殴《なぐ》った。途端に、ただの砂に返る。
「こんなにもろい物が何の役に立つ?」
「戦闘には向きませんが、従順な下僕《げぼく》には違いありません。それに砂兵巻一つで、三人の砂人間を造れます」
「……続けろ」
「そして、最後は球観図《きゅうかんず》です」
陽功は球観図を広げた。やはり巻物というより、六畳程の広さがある、無地の掛け図だった。
「この球観図、半径二里半(十キロ)にわたり、指定した物体を探し出し、掛け図に写し出します。
以上、八つの宝貝、全て核天様の物でございます」
核天は、疑わしそうに言った。
「それで、俺にどうしろというのだ」
陽功は、うやうやしく頭を下げる。
「核天様の、お望みのままに」
「俺の願いは、自分の破滅のみだ」
予想外の答えに、陽功と陽炎は顔を見合わせた。
核天は言葉を続ける。
「だが、俺が破滅するまでに、出来る限りの人間を滅ぼしてやる。出来る限りの、絶望に泣き叫ぶ面《つら》を見てやる」
陽功はホッと一息をつく。
「ならば、私たちがお役にたてるでしょう」
「この鎧と剣は貰《もら》っておく。他の物は役に立たない」
陽炎炉は、狐目をさらに吊《つ》り上げて、反論しようとした。
「核天様とはいえ、役立たずよばわりは許せませんな……」
核天は一喝《いっかつ》した。
「消え失せろ!」
あまりの気迫に、陽炎炉は尻餅《しりもち》をつく。
愚断剣を右手に下げ、核天は戦場を去ろうとした。
核天の彫刻めいた背中を見て、陽功は静かにつぶやいた。
「それで、野盗《やとう》にでもなるおつもりか。
六身鎧を身に着けていれば、老衰まで二百年は生きられる。
二百年の時間で、一人の野盗|風情《ふぜい》が何人の人間を滅ぼせるというのか。
所詮《しょせん》、死に損ないには、薄汚い野盗がお似合いか」
土を蹴《け》り、核天は陽功に襲いかかる。
陽功の髪を、力強く鷲掴《わしづか》みにして、軽々と持ち上げた。
蛍光の緑色をした、核天の目が陽功の顔に迫る。
二度ばかり、核天は強い息を吐いた。溜《た》め息にも似た、重い息だ。
無表情な陽功は、核天の心理を分析した。
『この男、混乱している。
そうでしょうよ。
私は、あなたの妻と同じ顔をしているが、あんな馬鹿みたいなお人好《ひとよ》しとは違う。
他人の空似《そらに》と言い聞かせながらも、私の中に、妻を見出したいのね。
あなたは、私の側《そば》に居たくて仕方がないくせに、私から離れたくて仕方がないのよ。
逃がしはしない、
苦悩しなさい。苦悩を他人にぶつけなさい、そして私たちを使うのよ。
使って、使って、使いまくるのよ。
私たちを使う為《ため》だけに、あなたの命はあるのよ。
ああ、何度でも、私はあなたと言葉を交わして上げる。
あなたは私の言葉の中に、妻の面影《おもかげ》を探そうとするでしょうよ。
そんな物は微塵《みじん》もありはしない。
苦悩しなさい。
使いなさい』
「野盗だと! がらくたのクセに」
宙吊りになりながら、陽功は説明した。
「先ほどは、申し上げませんでしたが、私の持つ仙術的な力は、莫大《ばくだい》なものがあります。
怪我を治す能力は、すなわち他の者に、力を与える能力なのです」
核天はやっと、陽功を解放した。
髪を整えて、陽功は説明を続ける。
「つまり、私が力を与えれば、球観図の捜索《そうさく》範囲は半径二百五十里(千キロ)に延び、砂兵巻で造られる砂兵の数は、三千百六十になります」
「役立たずの集団では意味が無い」
「……確かにおっしゃるとおりです。私にはもう一つ能力があります。破損箇所を縫い合わせる能力を磨《みが》き上げ、宝貝どうしを融合させる術を会得《えとく》しました」
「融合?」
「そうです。六身鎧と愚断剣、命運盤以外の五つの宝貝は、融合して初めて、真価を発揮出来るのです」
陽炎炉にとっても、初耳だった。
「どういう事だい、姉さん」
「あなたもよく聴《き》いて。
核天様。今から複合宝貝、大崑崙について説明致します」
三
「ねえ、見てよ殷雷《いんらい》、街があんなに小さくなったよ」
老婆と話して緊張感がほぐれたのか、和穂《かずほ》の顔には再び笑顔が戻っていた。
符方録《ふほうろく》を貰《もら》い受けた後、半刻ほど、和穂は老婆の店で世間話《せけんばなし》をしていた。旅の途中だと知った老婆は、符のお礼だといって魚の干物や、旅の装備を集めてくれた。
次の宝貝《ぱおぺい》はだいぶ遠くにあった。直線距離にしても徒歩では二、三日はかかるだろう。
老婆の話では、海岸線に沿って歩けば日が暮れるまでに、次の街にたどりつけるというので、殷雷たちは街を出たのである。
陽気な和穂と対照的に、殷雷はおし黙り、不機嫌そうな顔をしていた。
不機嫌そうにしながらも、歩きながら紅魚《ベにうお》の干物を、頭からバリバリと食べている。
和穂も殷雷の態度に少し、気分を害した。
「どうしたのよ、殷雷。さっきから機嫌が悪いけど」
くわえていた干物を指にはさんで、殷雷は答えた。
「どうも話が上手《うま》すぎる。なんでこんなに簡単に宝貝が回収できたんだ?」
和穂が怒る。
「ちょっと、あのお婆さんが、私たちを罠《わな》にはめたとでもいうの?」
「……かもな」
「……殷雷って結構、悪い方へ悪い方へと考える性格でしょ。あのお婆さんには、欲が無いのよ」
「和穂、符方録を貸してみな」
和穂が小さく符方録の名を呼ぶと、ポンと音をたて、断縁獄《だんえんごく》から符方録が現れる。
和穂から符方録を受け取り、そこに何か理由があるのではと、殷雷はめくり始めた。
疑り深い殷雷を和穂は呆《あき》れて見ている。
符方録とは、使い捨ての符術書だ。一枚の紙の表に普通の文字で効能が書いてあり、その裏には実際の呪文《じゅもん》が書かれた符がある。
使いたい符を符方録からはがせば、すぐに符として適用できるのだ。
厳密には符方録とは、符を綴《と》じる、紐《ひも》の宝貝である。
書かれた符の保管は、本来非常に難《むずか》しい。
かつて、和穂が龍を捕獲《ほかく》した時に使った符も、和穂の道術で発動を抑《おさ》えられていた。
符方録という紐の宝貝は、危険な火薬を保管する安全装置といえる。
符方録に目をとおしていた殷雷が、軽く声を上げた。
「……もしかして」
和穂も心配になってきた。どうして老婆はあんなに気前よく、宝貝を渡してくれたのか気になってはいるのだ。
「どうしたの?」
「符方録を読んでみな」
「私は符が読めない」
「効能の方だけでいい」
和穂は殷雷の手から符方録を受け取り、中を見た。そこには『無病|息災《そくさい》の符』と効能が書かれている。裏を見れば、複雑な筆文字で書かれた符の本体があった。
さらにめくる。『安産の符』と書かれていた。
なんとなく嫌《いや》な予感が、和穂の頭の中を駆け巡った。
めくる。『育毛の符』めくる、めくる。
『髪染の符』『滋養強壮の符』『山賊避《さんぞくよ》けの符』『焚《た》きつけ用、火炎符』『火災防止の符』
『野兎《のうさぎ》捕獲の符』『宿酔《ふつかよ》い覚《ざ》ましの符』『疲労回復の符』全部で符は十一枚あった。元々はあと一枚『商売繁盛の符』を含めた十二枚の符があったのだ。
予感は確信となった。
殷雷は言った。
「お前の師匠は、たいそうな宝貝の中に、ハゲ防止の符やらなんやら、愚にもつかん符だけを入れてやがったんだ」
和穂には、龍華《りゅうか》の考えが読めた。師匠は符を封じこめる宝貝を造りたかったのだ。
当然、符自体には、力を入れてなかったのだろう。
『陰陽三天万化大火炎符《おんようさんてんばんかだいかえんふ》』でも『宿酔い覚ましの符』でも符には変わりない。
なんとなく、師匠らしい考えに、和穂は嬉《うれ》しくなった。
毒づく殷雷を和穂は笑顔でなぐさめた。
「ま、いいじゃない。この符のおかげで、すんなりと宝貝が回収出来たんだから」
殷雷はまだ不機嫌だった。
「……何か嫌な予感がする」
「殷雷もしつこいね。お婆さんが、宝貝をすんなり返してくれた理由は判《わか》ったじゃない」
イライラとして殷雷は自分の髪を撫《な》でた。
「何というか、既《すで》に俺たちは何かの仙術に囚《とら》われている気がして仕方がない」
「考えすぎよ」
「……ならいいが」
しつこい殷雷に、和穂は話題を変える事にした。
「そういや、あのお婆《ばあ》さん、今度から本格的に薬屋も始めるそうよ」
「ほお。薬屋なら、食いっぱぐれもなくていいな」
「うん、けどお婆さん、問屋から薬を仕入れる時に、間違《まちが》って火傷《やけど》や怪我《けが》の薬ばっかり注文しちゃってね。けど訂正するのが面倒《めんどう》だから、そのままにしてるんだって」
「ほお、ずぼらだな」
どうでもいい話だと殷雷は思った。だが、二人で黙って歩くよりは、世間話でもしていたほうが、退屈も少しは紛《まぎ》れよう。
無邪気《むじゃき》に喋《しゃべ》る、和穂の姿を見るのは悪い気はしない。
「あとね、お婆さんの孫の旦那《だんな》さんが、今度役所をやめて商売を始めるんだって。それでお婆さんに、どんな商売がいいか相談に来たんだよ」
「自分の商売ぐらい自分で決めないのか」
「でね、お婆さんはその日の朝に、森の夢を見たから、材木屋でも始めたらって答えたんだって」
「……ババァも結構、思いつきで生きてやがるな」
「そうよね。それで、お婆さん、今はその材木屋の後見人もやってるんだって」
「……結構|儲《もう》けてそうだな」
「そりゃ、師匠の『商売繁盛の符』が効《き》いてるんじゃない」
「かも……!」
唐突《とうとつ》に殷雷は足を止めた。
今、たった今、この瞬間、殷雷は足元の砂浜に異様な気配《けはい》を感じた。
恐ろしく、禍々《まがまが》しい気配だった。
殷雷はその気配を知っていた。
いずれ戦う宿命にあるとは、覚悟していたが、実際にその宝貝が接近していると思うと殷雷の体に緊張が走る。
和穂は、殷雷の顔を不安そうにのぞいた。
「どうしたの? 殷雷、何をそんなに怯《おび》えているの?」
怯えという言葉に殷雷は過敏に反応した。
「怯えているだと? 俺は恐れなどを知らぬ武器の宝貝なんだぞ!」
殷雷は無意識のうちに、和穂の胸ぐらを締め上げていた。
いきなり取り乱した殷雷に、和穂は胸の苦しみよりも驚きの方が強かった。
「い、いんらい」
ハッと正気に戻り殷雷は手の力を抜いた。
「す、すまん和穂。近くに愚断《ぐだん》がいる」
言いながら、漁師が、海面下にいる鮫《さめ》の影を探《さぐ》るように、砂の中の気配に集中する。
「ぐだん?」
「愚断剣、剣の宝貝だ。実際に戦ったわけではないが、かなり凶悪な宝貝だ。……だが、勘違《かんちが》いするなよ、俺は怯えてなどいない」
「でも……」
殷雷は本気の目で、和穂をにらむ。
「でも、何だ!」
「殷雷、あなた、震えているよ」
刀の宝貝は自分の手を見てみた。
確かに小刻みに震えている。
一番驚いたのは本人だった。
どんなに強大な敵に向かおうが、恐怖など覚えた事などなかったのだ。
恐怖という感情にとまどう殷雷を嘲笑《あざわら》うかのように、遠くの砂が弾《はじ》けた。
和穂は反射的に目を閉じる。再び恐る恐る目を開ければ、そこには異形《いぎょう》の男が立っていた。
鎧《よろい》なのだろうか、そういう筋肉なのだろうか、判断に困る、薄暗い銀色をした鬼神の肢体《したい》。
頬《ほお》と目を覆《おお》う仮面、仮面の奥で同心円状に広がる、カビの花を思わせる緑色の目。
バサバサで、少し短めの銀髪が潮風《しおかぜ》にはためいている。
六身鎧《ろくしんがい》を身につけた核天《かくてん》だ。
殷雷が真鋼《しんこう》の棍《こん》を持つように、核天は長い剣を持っていた。
棍を杖《つえ》のように持つ殷雷と同じく、核天も剣を手に下げている。この剣こそ愚断剣だった。
画家には画風がある。
ある程度雰囲気を変える事は出来るが、注意深く見れば、同じ人間の手による絵だと判る。
核天の姿、すなわち六身鎧。
愚断剣。
それと殷雷が自分の鞘《さや》を変形させている、袖付きの外套《がいとう》。
地味な飾《かざ》りが無数に集まり、全体の中で大きなうねりと転じる、龍華独特の装飾だ。
六身鎧でさえ、部分としては奇妙でも、全体として見れば異形なりの美しさがある。
全《すべ》ての形は違っている。だが、並べてみれば同一人物によって造り上げられた事に、疑問の余地は無かった。
核天が呑気《のんき》な声で、殷雷にきく。
「長い剣だ。腰にさしたらひきずっちまう。よお、どうすりゃいいんだ?」
隙《すき》なく殷雷が答える。
「……背負うんだよ」
ポンと手を打ち核天が笑う。
「なるほど。雑兵《ぞうひょう》の時にゃ、錆《さ》びた銅の小太刀《こだち》しか、支給されなかったんでね」
核天は愚断剣を背負おうと悪戦苦闘する。やがて、六身鎧の背中の突起に上手《うま》い具合にはまった。
殷雷は『刀』愚断は『剣』である。刀と剣は違う武器だ。簡単に説明すれば、長さが違い片刃と両刃の違いもある。
愚断剣は、両刃で長さは短めの槍《やり》ぐらいあった。
無論、刀の方が短い。
殷雷は愚断剣の間合《まあ》いに、細心の注意を払った。今のところ、愚断剣の刀身の八倍は距離がある、まだ安全だった。
和穂が心配そうに殷雷を見つめる。殷雷は冷汗を流していた。武器の宝貝の本質で、殷雷は自分が愚断に劣《おと》っているのを知っている。
殷雷は武器にあるまじき、情の深さで封印《ふういん》された。
愚断は武器だとはいっても、あまりに残虐《ざんぎゃく》な性格の為《ため》に、封印されたのだ。
核天がぶしつけに言った。
「お嬢さん、宝貝を持っているんだろ? 渡しな」
和穂は、殷雷の恐怖が伝染するのを、必死に耐《た》えて答えた。
「嫌です。あなたは誰なの?」
「これは失礼、核天と申す。和穂仙人ですな……いや、元仙人だろうね。
どうせ、宝貝紛失の責任で、仙人の資格を剥奪《はくだつ》されて、死罪にも等しい、宝貝回収の罰《ばつ》を受けているんだろ?
殷雷刀を護衛につけているようじゃ、たいした宝貝も持ってないか」
核天は殷雷の顔を見ていやらしく笑った。
殷雷は挑発《ちょうはつ》には乗らなかった。核天と自分と和穂の位置関係、それと核天の移動速度を必死になって分析している。
……逃げられる。
殷雷は結論を出した。俺は核天よりも速く走れるという自信があった。
剣は長く、刀は速い。
核天は殷雷の考えを知ってか知らずか、ゆっくりと、人指し指を遠くに立つ和穂に向ける。
「お嬢さん、死にたくなかったら宝貝を渡すんだ。
逆らえば、ズドンだぜ」
はったりだと殷雷は見抜く。愚断剣には、確かに光弾《こうだん》を飛ばす機能がある。だがその為には、狙《ねら》いをつける必要があった。
核天の指先には射出系宝貝の持つ、独特の気の集中が見当たらない。あの指先からは絶対に何も出ない。
ニコリとひきつりながら笑い、殷雷は和穂の肩に手を置いて、核天に叫《さけ》ぶ。
「悪いが状況《じょうきょう》が不利なんで、退却《たいきゃく》させてもらう。あばよ」
疾風《しっぷう》の速さで殷雷は和穂を小脇に抱《かか》え、一目散《いちもくさん》に逃げ出した。
速い。
砂煙を上げて逃げ出す殷雷を見て、核天はほくそえんだ。人指し指を和穂たちの背中に向ける。
「逆らったな。じゃ、ズ・ドーン」
核天の声に反応し、核天の側の砂から、ぼふぼふと音をたて十五本の鉄の柱が伸びた。
一番小さな柱でも、等身大はある。大きいのでは、ざっと人間の身長の五倍はあるだろう。天に向かって直立した柱たちは、ガシャンガシャンと音をたて、指のように器用に曲がった。
辺《あた》りに油の嫌《いや》な臭《にお》いが立ち籠《こ》めた。
人間でいう指先にあたる柱のてっぺんは、殷雷のあげる砂煙に向けられている。
てっぺんには穴が開いていた。
そして柱のてっぺんが、火を吹いた。
柱は砲身だったのだ。
冗談のように壮絶《そうぜつ》な爆発音。猟犬のごとく狙いに向かって走る炎《ほのお》の塊《かたまり》。
*
和穂の心臓が、一度鼓動した。
殷雷は、背後に迫る炎に度胆《どぎも》を抜かれた。
「あんな宝貝、知らんぞ!」
歯を食いしばり、必死の形相で、炎から逃げながらも、しばし恐怖を忘れ状況を分析し始めた。
まず、炎の温度が人間には致命的な高温であるが、宝貝には無害な温度である事。
次に、速度と距離の関係から見て、炎から逃げきるのは不可能な事。
詰め将棋《しょうぎ》だ。
炎に追いつかれるまでに、殷雷はまとまった行動が、五度は出来そうだ。つまり手数は五回ある。もしも、自分の命を省みずに、全ての力を出し切れば、七回は動ける。
殷雷の思考速度に合わせて、周囲の時間が間延《まの》びしていく。
武器の宝貝は、いとも簡単に最善手を弾《はじ》きだした。
砂浜に穴を掘り、その中に潜む。
単純明快だが、限られた手数の中で、選択の幅はほとんどない。
殷雷は、髪を振り乱して行動を開始した。
まずは和穂と、真鋼の棍を地面に置き、全身の力を込め、砂浜に両手を突き刺した。
衝撃で砂は吹き飛び、一瞬にして和穂の身長の倍はある穴が開いた。
砂はまだ、霧のように空中を漂《ただよ》っている。
棍を掴《つか》んで殷雷は重力に導かれるよりも速く、穴の中に和穂を連れて下りる。
ここまでで、殷雷は一手を使った。
しかし、この深さではまだ浅い。
もう一度、穴を掘れば充分だ。
殷雷は顔に出さずに不敵に笑った。
余裕の笑みだ。
穴の底で再び、殷雷の拳《こぶし》は砂を撃ち、穴を掘った。
が、両手に鈍《にぶ》い衝撃を受け、殷雷の笑顔は消し飛んでしまった。
埋蔵金《まいぞうきん》探しのように、慌《あわ》てて殷雷は砂を払うと、砂の中には、鉄板があった。
何故《なぜ》? という疑問を覚えるひますらなかった。
鉄板の鈍い反響から考えて、相当な厚さがあるようだ。この深さでは、和穂は焼け死んでしまう。
これで二手めだ。
殷雷は大慌てで、和穂の襟首《えりくび》をつかみ、穴を駆け登り、地上に出る。
すなわち三手めである。
和穂の心臓が再び、一度鼓動した。
無駄《むだ》に使われた三手を、後悔する余裕もありはしない。
殷雷は今度は掌《てのひら》を使って、砂浜を押さえるように叩《たた》いた。
衝撃を受けた砂の粒子は、薄い波紋となって広がった。
殷雷は波紋の形から、砂の中に埋まる鉄板の大きさを調べようとしたのだ。
波紋が広がりきり、四手めが終了。
鉄板は、視界の限り続いていた。
頭を掻《か》きむしりたいと殷雷は思った。
東、西、南に鉄板の途切れは見えない。ただ、よく見れば北の地面には、地平線と平行に鉄板の途切れが関知出来た。
走るしかない。
殷雷は棍と和穂を抱《かか》えて、北に走った。
五手めが無情に過ぎる。
殷雷はまだ、鉄板が埋まっている地上を走っていた。
むきになった刀の宝貝は、自分の力を全て使うと決めた。
命を賭《か》けた、六手めの始まりである。
殷雷が走る。
禁じられた六手めである。
恐ろしい速さで、消耗《しょうもう》が始まる。
六手めを得る為《ため》に、殷雷の命が直接燃えていくのだ。
走りながら、殷雷の髪の色が薄くなっていった。汚れを洗い落とすかのように、白髪に変わっていく。
皮膚からは張りが消え、目が落ちくぼんでいく。
鉄板の端が近寄る。
渾身《こんしん》の力を込めて、殷雷は走り抜いた。
間延びした時間の中で、殷雷に蹴《け》られた砂浜には、粘土を踏んだような足跡がついていった。
六手めが終了した時には、殷雷は鉄板の無い砂浜に立っていた。
鉄板からは逃《のが》れた。だが、炎はさらに近寄っている。
白髪を逆立てて、殷雷は怒った。
命を賭けても、残りは一手、しかし穴を掘り切る時間は無い。
和穂を守りそこねた事に、殷雷は腹を立てていた。自分の命ぐらいくれてやるから、和穂を守りたかった。
紅蓮《ぐれん》の津波のような炎が迫る。
『何か、手はないのか!』
殷雷はいさぎがよくない。
殷雷は無様《ぶざま》であっても、最後の悪あがきを行う事にした。
七手めが始まる。
すでに老人の手となった殷雷の手が、和穂に伸びる。
炎が迫る。
殷雷は和穂の持つ、符方録を奪い去り、二つの符を破る。
一枚の符は『山賊避け』だ。途端に、和穂と殷雷を薄い赤色の結界《けっかい》が包む。
炎が迫る。
もう一枚の符は『火災防止』だった。
殷雷は符を炎に投げつけた。
七手め、殷雷の最後の手番は終わった。
炎の前で擦《す》り切れる符を見つめながら、殷雷の意識は遠のいた。
四
「殷雷《いんらい》、死んじゃいやだ!」
和穂《かずほ》は叫《さけ》んだ。必死になって殷雷を揺さぶるが、地面の上に倒れた殷雷は、ピクリとも動かない。
気がついた時、和穂は半球形の結界《けっかい》の中にいた。結界の中心では、一枚の符がクルクルと回りながら、ゆっくりと燃えていた。
大崑崙《だいこんろん》の砲撃を受け、殷雷は必死になって逃げた。宝貝《ぱおぺい》にはそれぞれ自分の役割と、それに使う為《ため》の力がある。
殷雷は武器の宝貝であり、乗り物の宝貝ではない。
当然、無理が生じる。
人間でいうならば心臓|麻痺《まひ》や、血管が破裂してもおかしくはない状況だ。
宝貝なので、肉体に怪我《けが》はないのだが仙術的な力、人間でいう生命力を消耗した。
今の殷雷の姿は、見るに忍びない。
髪は白髪と化し、目は落ちくぼみ、生気というものが全く感じられなかった。
「殷雷!」
和穂は叫ぶ。
無意識に殷雷の目がかすかに開いた。白く濁った目には、かつての面影《おもかげ》は無い。
和穂は殷雷の胸に顔を埋め、声にならない声を上げて泣いた。
一体《いったい》何が起きたのか? 和穂には理解出来なかった。
だが、泣いている最中にも、確実に殷雷は弱っていた。
使い古した布を水の中にさらしたように、殷雷の肉体がほつれていく。
全身を包む、微弱な放電は、殷雷の生命力の残りカスなのだろうか。
『泣いている場合じゃない、殷雷はまだ生きているんだ!』
和穂は心の中で叫び、殷雷を助ける方法を考えた。
『殷雷はどうしたの? こんなに大怪我《おおけが》をして。どうすれば、こんな怪我を治《なお》せるの』
みるみる死の坂を転がっていく、殷雷を見て和穂は焦《あせ》る。
『どうすれば、どうすれば、どうすれば。本当に治せるの? 治すんだ。治すんだ。怪我を治せなければ、殷雷は死んでしまう。……本当に怪我なの? 凄《すさ》まじく衰弱しているんじゃ? でも、どう違うっていうの? どっちにしても助けなければ』
豪雨に打たれたように、和穂の体からは冷汗が流れ出す。
『早く。早く。怪我。怪我。衰弱。怪我。薬。衰弱。死。殷雷。殷雷。衰弱。死。衰弱死。殷雷。殷雷。衰弱死。薬? 薬? 薬じゃ駄目だ。だったら。だったら。……強壮剤!』
記憶の引き出しが、大きな音を立てて弾け飛んだ。
和穂の目に、結界の中で回り続ける符が目に入る。
符には、山賊避《さんぞくよ》けと書かれていた。
「符方録《ふほうろく》だ!」
和穂は地面に転がる符方録を慌《あわ》てて拾い上げ、急いでめくり始めた。
そして一枚の符を破る。
符には、滋養強壮と記されている。
震える指先で符をくしゃくしゃに丸め、殷雷の口の中に入れる。
必死の思いが天に通じたか、殷雷は符を飲み込んだ。
一瞬、殷雷の体が全く動かなくなった。
「殷雷、お願い!」
次の瞬間、微弱な放電が強烈な雷気へと転じ、結界の中は目もくらむ光に包まれた。
*
殷雷は左手で、ひょっと泣き続ける和穂の首ねっこをつかんだ。まるで猫や兎《うさぎ》を捕《つか》まえたようだ。
続いて上体を軽々と起こす。
「よお、お嬢ちゃん。元気にしてたかい」
からかった口調だったが、それは和穂に命を助けられた気恥ずかしさの裏返しだった。
殷雷の髪は黒に戻り、その顔も例によってどことなく猛禽類《もうきんるい》を思わせる、生気に満ちた顔に戻っている。
滋養強壮の符は、殷雷の力を完全に回復させていた。
「殷雷、一体何が起きたの?」
殷雷は、遠くに見える老婆の住む街を指差した。
殷雷たちが受けた攻撃の余波は、街にまで被害を与え、黒い煙がたち上っている。
「俺たちゃ、砲撃を受けた。やけくそで使った、火災防止の符で何とか命は助かったが、攻撃の威力はババァの街まで届いたんだぜ」
「大変! お婆さんに怪我はないかしら」
鼻で笑って殷雷は答える。
「ない。
断言してもいい、婆さんは無傷だ。怪我人多数、死傷者なし。
すべて商売繁盛の符の威力だ。
婆さんは怪我人相手に傷薬を売って、大儲《おおもう》けだ。燃えた家は建て直すから、材木屋も大儲けだな。
死ねば金が使えないから、街の人間は死んではいまい」
「それじゃ、もしかして」
「そう。もしも符方録を俺たちに渡していなけりゃ、ババァの所にも、大崑崙がやって来て、商売どころじゃなくなっただろう。
だから、見も知らない旅人の俺たちに、符方録をくれたんだ」
「まさか! お婆さんはそれを知っていて、わざと符方録を渡したの?」
「いや、商売繁盛の符の効果だろう。何となくそうしたい気分になって、そのとおりにやっていたら、上手《うま》くいくってわけだ。
滋養強壮の符は、衰弱死寸前の俺を元に戻して、苦し紛《まぎ》れに使った火災防止の符は、一度だけとはいえ、砲撃に耐えた。
予想どおり、今使っている山賊避けの符は完全な気配消しの結界符ときたもんだ。
ふざけた名前をつけておいて、その効果はやっぱり強力無比、あの馬鹿《ばか》仙人のやりそうな話だ」
龍華《りゅうか》を馬鹿よばわりされて和穂は腹が立ったが、師匠《ししょう》がやりそうな、凝《こ》った冗談なので和穂は何も言えなかった。
それよりも、炎に耐えられた時の為に、気配消しの符を使っていた、殷雷の芸の細かさに驚く。
殷雷は言った。
「しかし、核天《かくてん》とかいう男の持つ、砲身の宝貝が不気味《ぶきみ》だな。もう一度攻撃されたら、助からんぞ。あんな宝貝見たことないし」
「見当もつかない?」
「弓矢の宝貝ではあるまい。もしかしたら炉の宝貝が絡んでいるか?」
と、その時、砂浜が揺れだした。
地震にしては、小刻みな振動だった。
振動につられ、砂浜の一部が光り始める。
殷雷の胸を嫌《いや》な予感が走った。
予感は的中した。光っているのは、砂の下に鉄板がある場所だった。
大海原《おおうなばら》の中から、巨大な鯨《くじら》が顔を出すように、それはゆっくりと静かに、砂の中から姿を現した。
細長く巨大なヒマワリの種を思わせる、鉄の塊《かたまり》が砂の中から浮上したのだ。
平らな部分を地面に平行にして、ぐんぐんと空を浮かび上がっていき、止まる。
和穂が大崑崙の全体を見ようと思えば、少し首を横に動かさなければならなかった。
全長はざっと半里(二キロ)はある。鉄の塊には、巨大な文字で『大崑崙』と記されていた。
そんな巨大な物に拘《かか》わらず、砂はほとんど動いていない。まるで霧の中を通り抜けて、現れたような静けさだ。
大崑崙の表面には、動物の体毛のようにびっしりと砲身が生えていた。だが、遠目にはカワウソの体が滑《なめ》らかな一枚の皮に見えるのと同じ理屈で、それが砲身とは思えない。
それだけ大崑崙は巨大なのだ。
大崑崙を説明できる言葉は、この世にたった一つしかない。
先見の明がある、軍師の脳髄《のうずい》の中にしか存在しない、その兵器。
すなわち、大崑崙は戦艦である。
大崑崙から、天をも切り裂く声がした。まぎれもなく核天の声だ。
「和穂、元仙人。先程は失礼した。
半刻の猶予《ゆうよ》を与えるから、素直に宝貝を提供していただきたい。そうすれば、命だけは助けて差し上げましょう。
もしも、半刻を過ぎても、宝貝を差し出さないようなら、一斉《いっせい》砲撃をおみまいする。賢明《けんめい》な判断を期待する。以上」
絶句したまま、空中に浮かぶ大崑崙を見つめる和穂に殷雷は言った。
「まさかとは思うが和穂。どうやればアレに勝てるかと、考えてるんじゃあるまいな」
和穂は答えなかった。度胆《どぎも》を抜かれ、半《なか》ば放心状態である彼女の耳に、殷雷の言葉など届いていなかったのだ。
*
正気に戻った和穂は必死だった。
「でも殷雷、あの船に対抗できる符が、符方録にあるかも知れないじゃない? 焚《た》きつけの符で真火《しんか》が出るとか」
符方録を丸めて持ち、殷雷は大口を開けて怒鳴《どな》る。
「そんな物騒《ぶっそう》な符があってたまるか!」
今まで、効能だけを流し読みしていた殷雷は、じっくりと符を読んでみた。
殷雷は首を横に振る。
「あとはたいした物は無いな。一番使えそうなのは野兎|捕獲《ほかく》の符か。
こいつも気配消しの符だが、結界符ではないんで、背中に貼《は》って動ける。確かに野兎でも捕まえられる」
二人の頭上であまりにも大きく、まるで雲のように大崑崙は浮いていた。
殷雷が笑う。
「……大崑崙だとよ。
気のきいた名前だな。和穂、野兎捕獲の符で、あの化《ば》け物宝貝に勝てると思うか?」
殷雷の言葉は挑発《ちょうはつ》的だった、和穂はむきになった。
「絶対に手はあるよ、師匠も言っていた。
機能だけゴテゴテある宝貝が、強い宝貝じゃないって」
「きれいごとだ。必要な機能は幾つあっても無駄にはならん。
とっとと、宝貝を渡す準備でもしたらどうだ。命だけは助けてくれるんだってよ。
大崑崙を倒そうなんて考えるだけ無駄だ」
「あきらめるのは最後でもいい、ギリギリまで考えるのよ」
「……考える? よし手伝ってやろう。
相手の戦力は、一撃でお前の肉体を滅ぼす砲撃が可能な砲身、数万本と、愚断剣《ぐだんけん》。
こっちは、芸なしの元仙人と、野兎捕獲の符と、愚断剣より劣る刀の宝貝。
うむ。
結論は、『勝てない』だ。
どうやれば生き残れるか考えろ。命は粗末にするもんじゃない」
「私だって、無駄死にはしたくない。自己満足だけの自殺も真っ平よ。
でも最後まで全力を尽くしたいのよ、判《わか》って、殷雷」
いくら口で説明しても、和穂は納得《なっとく》しそうになかった。
殷雷は少し、腹がたった。
「勝手にしろ!」
怒鳴って殷雷は、地面に横たわる。和穂に背中を向けて、腕を枕に寝たふりをした。殷雷にとって宝貝回収など、別にどうでもいい話だった。和穂の命を守る方がよほど重大だ。
そういえば前にもこうやって、ふて寝をしたなと殷雷は考える。
護玄《ごげん》を相手に、無理やり和穂との同行を認めさせられた時だ、と思い出す。
確かに俺は和穂の護衛は約束したが、一度は和穂の命を助けた。大崑崙の砲撃から身を守れたのは、俺の機転があったからだ。
もう護玄との約束は果たしたと、考えてもいいのではないか。
殷雷は横目でチラリと和穂を見た。まだ真っ赤に腫《は》れた目をして、一所懸命に考えている。
俺が死にかけた時、和穂は必死になって泣いた。馬鹿な話だ。宝貝がひとつ壊れるかどうかだけなのに、涙を流したのだ。
だが、少しは嬉《うれ》しくないでもなかった。
殷雷は溜《た》め息をついた。どうせ手詰まりなのだ、和穂の好きなようにさせてやろう。大崑崙から和穂を守る手段がない自分に腹を立てつつ、殷雷は決心を固めた。
「和穂、大崑崙を沈めるいいトンチを思いついたら、俺に教えな。ちょっとぐらいなら手伝《てつだ》ってやらんでもないからな」
殷雷は素直な宝貝ではなかった。
和穂は笑って殷雷にあっかんべぇをした。
*
話は少し、遡《さかのぼ》る。
殷雷と和穂に対峙した核天は、炎《ほのお》が巻き起こした爆発音と閃光《せんこう》、さらに天をも覆《おお》う黒煙を確認した。
満足そうに核天は高笑いする。
そして指を鳴らすと、核天の足元が崩《くず》れ出し、ポッカリと穴が開く。
穴に飛び込み、核天は大崑崙の内部に戻った。
その時の核天は、まさか、殷雷と和穂が無事に攻撃を切り抜けたとは、夢にも思わなかった。
耳をつんざくような、機械と機械がぶつかり合う音。胸が焼けるような油の匂《にお》い。狭い通路のあちらこちらでは、顔の無い砂人形がアクセクと、雑多《ざった》な機械を制御《せいぎょ》している。
狭く真っ暗な通路を抜け、核天は艦橋の扉《とびら》を開けた。
通路に比《くら》べ、部屋の中は光にみちあふれていた。どこからでも一望出来るような巨大な掛け図が、正面の壁に引っ掛けられていた。掛け図とはいえ、墨で描かれている図形は、刻一刻と変化している。
巨大な掛け図は幾つかの枡目《ますめ》に区切られていて、中央の巨大な枡目には、外部の様子《ようす》が瞬間的に変化する水墨画で描かれている。
掛け図に一番近い席には、操舵輪《そうだりん》と各種の制御|桿《かん》、足元には多数の踏み板があった。
その席には青年の姿をした陽炎炉《ようえんろ》が座《すわ》っている。これが大崑崙の操縦席だった。
操縦席より、一段高い場所には、背もたれが大きく湾曲《わんきょく》した座席がある。
艦長席、すなわち核天の席だ。核天の席の横には、操縦者を補佐する為《ため》の席があり、陽功玉《ようこうぎょく》が腰を下ろしていた。
陽功玉の細い肩に、緑色のオウムが止まっている。
やはり部屋の中でも幾つかの砂人形が、忙しく働いている。
大崑崙。
陽功玉の持つ、融合能力で作られた複合宝貝が、その正体である。
万漁船《ばんりょうせん》と、幾つかの鉱山を融合させ、巨大な船体を作り、砂兵巻《さへいかん》の砂兵を乗組員として万漁船の手に余る機能を補佐させていた。
自らは大崑崙の動力源となり、球観図を索敵《さくてき》及び検索装置にすえる。
陽炎炉は大崑崙の隅々《すみずみ》まで、自分の動力を伝達させる血管の役目と、砲身として使用した。
融合してはいるのだが、船内では陽功玉も陽炎炉も人の形を取れる。
あまりにも、大崑崙は上手《うま》く造られている。
これは陽功玉が、融合という能力を手に入れた時から、大崑崙という化《ば》け物の設計をおこなっていたからであろう。
核天はまさしく最強の戦艦を手に入れた。
手当たり次第、殺戮《さつりく》を開始することも出来たが、陽功玉が一つの忠告を与えた。
この世には、まだ七百以上もの宝貝が存在する、と。
鼻で笑って核天は答えた。
ならば、宝貝を回収しながら、破壊を繰り広げればいい、と。
球観図は、一番近い宝貝として、符方録を選びだした。
大崑崙は、虚無《きょむ》の異世界に潜行《せんこう》し、移動を開始したのだ。
*
核天は艦長席に座《すわ》り、緑色の目を輝かせて指示を出した。
「和穂とかいう人間は爆死《ばくし》した。
大崑崙を浮上させて、宝貝を至急に回収しろ。しかし、とんだ拾い物だな。
通常空間に出た途端《とたん》、もともと一つしか無かった宝貝反応が、いきなり四つに増《ふ》えたんだからな」
艦橋《かんきょう》の中を奇妙な沈黙が包む。
核天は、ちらりと陽功の横顔を見た。
「どうした……」
重い口調で陽功は答えた。
「宝貝の反応が消えました」
座席を殴《なぐ》って、核天が立ち上がる。
「なんだと! 陽炎炉、宝貝は傷つかない程度の火力で撃てと、指示しておいただろうが! 加減を間違《まちが》えて、宝貝ごと吹き飛ばしたのか!」
不平そうな顔をして陽炎は弁解した。
「そんな事は有り得ない。あんな低温の炎では人間は消し炭になっても、宝貝は傷つかないはずです」
陽炎の反論に、核天はさらに声を張り上げた。
驚いてオウムが艦橋中を飛び回る。
「では、なぜ宝貝が消えたんだ? まさか、とり逃がしたんではあるまいな。
お前らは、あいつらの姿が見えた時、恐れるに足らぬと言ったではないか!
宝貝を逃がした張本人の仙人に、間抜けな刀の宝貝、絶対、仙人は資格を剥奪《はくだつ》されて、ただの人間になっていると」
陽功は鋭《するど》かった。自分たちを回収に来る仙人はいない、と完全に読んでいた。
もし、現れたとしても仙骨は封じられ、人間になっていると考えた。事実そのとおりなのだ。
「落ち着いてください、核天様。常に不測《ふそく》の事態は起こりえます。
核天様、命運盤に聞いてみたらどうでしょう?」
「……あぁ」
核天は力なく、艦長席に座《すわ》り、陽功は飛び回るオウムを呼び寄せた。
「おいで、命運盤。質問するわよ。殷雷と和穂がどうやって私たちの目をくらませたか、教えてちょうだい」
質問の言葉を確認するかのように、首を傾《かし》げて、オウムは答えた。
「ギー。殷雷は渾身《こんしん》の力で、砲撃から逃げ、すんでのところで符方録の中の『火災防止の符』を使って、爆炎から和穂を保護。
同時に『山賊避けの符』で捜索の目をごまかしている。けど、山賊避けの符は結界符だから全く動けない。という確率が半分。海の水が甘いという確率が半分。ギー。どちらが正解かはシラヌ。シラヌ」
実際に命運盤を使ったのは、今が初めてだったので、核天には言葉の意味が良く判《わか》らない。
「……どういう意味だ? 海が甘いとは?」
陽功が説明する。
「命運盤は常に二つの答えを出します。その内の一つが当たり、一つが外《はず》れます。海の水が甘いわけがないので、どうやら殷雷は符方録を使って、目をくらましているだけのようですね」
「球観図《きゅうかんず》でも探せないのか!」
「無理です。しかし心配は御無用。隠伏《いんぷく》の符はどんなに上等な物でも、一刻しか効《き》きません」
「火炎封じの符があるのは厄介《やっかい》だ」
「確かに。命運盤。和穂と殷雷は、防御の符を何枚使える?」
オウムはパタパタ飛んだ。
「ギッギ。さっきの炎で『火災防止の符』が擦り切れて使えなくなって、もう一枚もない確率が半分。太陽が二つある確率が半分」
残酷な笑みで陽功は結論を出す。
「丸裸で隠れているだけです。辺《あた》り一帯を砲撃すれば殺せます」
陽炎が注意した。
「姉さん、殷雷は一度、砂の中に逃げようとしたみたいだから、今度から砲撃の温度を上げるよ。勿論《もちろん》宝貝は大丈夫《だいじょうぶ》だけど」
「そうね。核天様、早速《さっそく》攻撃命令を」
意外にも、核天は陽功の指図《さしず》に従わなかった。
「陽功よ。今、和穂とかいう元仙人は必死になって考えているんだろうな」
「は?」
「どうやったら、この窮地を脱出出来るか、死に物狂いで考えていると言ったんだ。陽炎、大崑崙を上空に上げ、俺の言葉を外に流せ」
核天は艦長席の横にある、鉄の拡声装置に向かって声をあげた。
半刻の猶予《ゆうよ》を与え、その間に宝貝を差し出すのなら、命だけは助けるという、例の宣告である。
残酷に目を吊《つ》り上げ、陽功は質問した。
「核天様、どういう意味です。和穂の命を助けるつもりなのですか」
大きく伸びをし、核天は答えた。
「……体が潰《つぶ》れ、もう死ぬしかないのに、死ねなかった。ただ、痛みだけがあった。
辛《つら》かった。死んだ方がましとは、ああいう状況《じょうきょう》を言ったんだろうな。
なんせ脳が飛び出て、体は腐り始めていたんだ。そこをお前たちに助けられた」
「?」
「あの状況も辛かった。だが、ああなる前の状況も辛かった。
右足が砕けただけの時、俺は必死になって戦場をはいつくばった。味方の陣地にまで戻れば、何とか命は助かると信じていた。
土の中に指を突っ込み、爪《つめ》なんかとっくの昔に全部はがれていた。この丘を越えれば、と思って丘を越えたら、陣地はとっくに後退してやがった。
希望と絶望の争いの中で、パタリと絶望が勝つ、あの瞬間の辛さ」
「よく判りませんが」
「和穂にも、それを味わわせてやろう。今から半刻、和穂は必死になって考えるだろう、どうすればこの状況を好転出来るか、どれだけ知恵を絞《しぼ》るだろうか。どうすれば生き残れるか、必死になって結論を出したところを、
殺す。
いい考えだろ。大崑崙の砲撃が見えた時、和穂は俺と同じ絶望を味わうだろうよ」
陽功は、雪解けの中に、緑の新芽を見つけたような笑顔で答えた。
「判りました。結構な策でございます」
五
妻の事など忘れていた。忘れようと努力して、結果的に忘れた。
戦いの意味や、生きる意味は考えない事にしていた。
核天《かくてん》はそうやって生きてきた。
平凡だが幸せに林業を営《いとな》み、本気で愛した女を妻にし、徴兵されて雑兵《ぞうひょう》になり戦場で妻の妊娠を知り、次の週には妻の死を知った。そんな事は全部忘れようと努力し、忘れていた。
だが、核天の前に妻によく似た女がいた。核天は妻を思い出した。だが、目の前にいるのは妻ではない。
なぜ妻は死んだのに、妻以外の人間はのうのうと生きているのだ。
怒らずにはいられない、六身鎧《ろくしんがい》の力で肉体の痛みが消えると、今度は心の痛みに悩まされた。
滅ぼすしかあるまい。
*
艦長席に座る核天が、ビクリと痙攣《けいれん》した。
うたた寝をしていたのだ。艦橋《かんきょう》の中には血管の中を流れる体液を思わせる、小さな雑音が常に流れていた。
雑音ではあるが、睡魔を誘う音だ。
六身鎧を着けた今、睡眠の必要は無かったが、以前の習慣で眠ってしまったのだ。
核天は目を開け、陽功の姿を追った。
忙《いそが》しそうに艦橋を歩き回り、砂人形たちに細かい指示を与えている。
見れば見るほど妻の姿に似ている。
思い出の中の妻だ。身籠《みごも》って、いまだ生まれぬ子供と共に死んだ妻だ。核天の帰宅だけを待ち続けた妻だ。
核天は発作《ほっさ》的に、陽功の側に歩み寄り、彼女の髪を触《さわ》った。
「どうかしましたか? 核天様」
「いや、何でもない」
「もうじき、和穂に与えた猶予《ゆうよ》の時間が終わります。……意味がないのなら、髪から手を放して下さい」
妻と同じ声だ。だが声には全く暖かみがない。
核天は、陽功の髪から手を離す。
四十八本。
核天は妻の髪の感触を思い出したくて、陽功に触った。だが、細く冷たい指先は感触ではなく、機械的に、触った髪の毛の本数を核天に告げた。
四十八本。
六身鎧の力で、核天は睡眠や疲労とは無縁の世界にいる。だが、六身鎧は精神の苦痛までは癒《いや》してくれない。
悪夢だ。
悪夢のなかで、どれだけ殺さねばならないのだろうか、だが殺さずにはいられない。虚《うつ》ろな気持ちを満たすのは、憎悪《ぞうお》だけだ。それ以外では駄目《だめ》だ。妻の代わりに陽功を愛しては駄目なのだ。
*
陽功が嬉《うれ》しそうに声をあげた。
「宝貝の反応が現れました。球観図に付近の状況を出します」
そろそろ半刻がたった。球観図には精密な水墨画で一人の男が立っているのが見える。
両手にひょうたんやら本を持っていた。
男は叫《さけ》んだ。男の叫びは艦橋に流された。
「殷雷だ。望みどおりに宝貝《ぱおぺい》を渡す。このひょうたんと、耳飾り、本にこの俺で四つの宝貝だ。文句はあるまい。この棍《こん》は、俺のだからやらないぞ」
核天は拡声装置に話し掛けた。
「うむ。こちらの反応では、宝貝は四個だから、それで全部だな」
「判ったか。判ったなら、和穂を助けてやってくれ。こちらは約束を守っている」
装置を伏せて、核天は陽炎に尋ねた。
「和穂の生命反応は?」
「ありません。まだ結界《けっかい》の中にいると思われます」
陽功が疑問を覚える。
「核天様。本当に素直に宝貝を渡すつもりでしょうか? 何か策をめぐらしているのでは?」
どんな策でも、自分が負けるはずはないと核天はたかをくくっていた。だが、念の為《ため》にオウムを呼び寄せた。
「命運盤よ。和穂たちはどんな策を使っているのか教えろ」
緑のオウムは甲高《かんだか》い声で答えた。
「ギィ。和穂は今、移動可能な気配消しの符である『野兎捕獲《のうさぎほかく》の符』を使って、殷雷の後ろに立っている。大崑崙に宝貝を回収した隙《すき》に、和穂も大崑崙に進入して、内部から大崑崙を破壊しようと考えている確率が五割。
核天の眉間《みけん》が割れる確率が五割。どちらかが正解」
奇妙な卦《け》だ。核天は多少不安になった。
「陽功、どういう意味だ」
「恐れるには値しません。海の水が甘い、太陽が二つある、と同じで不可能の意味です。あのなまくらが核天様に傷を負わせるとは、考えられません」
大崑崙の外で殷雷が怒鳴《どな》り続ける。
「約束だぞ、俺を回収してどこへでも消えちまえ。そのかわり和穂には手を出すな」
核天は再び、拡声装置に叫ぶ。
「そうだな、和穂の命を助けるという約束であった。……信用してくれて、感謝する。
だが貴様《きさま》は間抜けだ。
大崑崙、全火力をもって砲撃を開始、辺り一面を焼き尽くせ。無論、宝貝には傷一つつけてはならん」
「お、おい話が違うぞ!」
殷雷の声など届かない。
動物の毛が逆立つように、大崑崙の表面をびっしり覆う砲身が立ち上がり、殷雷に狙《ねら》いを定めた。
「さらばだ元仙人。発射!」
ぼきゃらどぅぅん。
異様な音を立て、大崑崙は炎《ほのお》を吐いた。
鼓膜で受け止めきれないほどの爆音、眼《め》では理解出来ないほどの閃光《せんこう》。
一瞬で炎になる空気、蒸発する海水。
炎の中で、眉を吊《つ》り上げ怒る殷雷。罵倒《ばとう》の声は、爆音にかき消される。球観図は、大口を開ける殷雷を写し続けた。
核天は大きく溜《た》め息をついた。楽な死だ。生きながら、肉体を腐らせる宝貝でもあれば面白《おもしろ》いのに。
水の代わりに、炎で出来た海の中にいるようだと、叫び疲れた殷雷は思った。
辺り一面は炎だらけ。天を仰《あお》いでも、赤一色だった。
ふと心配になって符方録《ふほうろく》を見てみたが、宝貝のはしくれ、燃えてはいない。
「ひでえ話だ」
殷雷は力なく肩を落とした。
長い長い時間、炎は荒れ狂った。いい加減に燃える物が無くなったのか、やっと炎は消えた。
砂浜は黒く焦げ、蒸発して消え去った海水の代わりに新たな海水が流れ込んでいる。
だが、砂はまだ熱を持っていて、懸命に水を蒸発させていた。
渦のような強風が、殷雷の髪をなびかせていた。
砲撃の影響なのか、それともそういう時刻なのか、空は一面の夕焼け空になっていた。
夕焼け空の中、大崑崙だけが何事も無かったかのように浮いている。
太陽の加減で大崑崙は真っ黒に見えた。まるでそこだけ一足早い、夜空になったようだった。幾つかの砲身の残り火が、赤い星を思わせる。
殷雷は落とした肩を持ち上げて、もう一度落とした。
「やっぱり、ひでえ話だ」
「砲撃終了しました。宝貝反応は相変わらず残っています。殷雷の周囲に生命反応はありません」
核天はうなずく。
「陽炎、大崑崙を地上に下ろせ、殷雷とその他の宝貝を回収する」
陽炎は指示に従い大崑崙を動かした。より一層、砂人形たちが忙しそうに動く。
闇夜《やみよ》が落ちるように、大崑崙は高度を下げた。
ゆっくりと砂にめり込みながら、大崑崙は殷雷の目前に着地した。搭乗口が開き、数体の砂人形が殷雷の前に立ちはだかる。
殷雷はぶっきらぼうに言った。
「やれやれ、どこにでも案内しやがれ」
砂人形は、くるりと背を向け大崑崙に向かって、歩き始めた。おとなしく、殷雷も後に続く。
その様子《ようす》は、全《すべ》て球観図により、艦橋に映されていた。
陽功が弟に指示を与えた。
「陽炎、殷雷を案内して。まさかとは思うけど、殷雷が妙《みょう》な考えを持っていないか、確かめてちょうだい」
了解し陽炎は操縦席をたった。
殷雷は大崑崙の暗い通路を歩いていた。砂人形たちは、殷雷を内部に案内すると、自分の持ち場に戻った。
やむなく殷雷は、一人で歩き、複雑な通路で迷いかけていた。
「出てこい砂人形! ちゃんと最後まで案内しやがれ!」
悪態《あくたい》に答えるように、薄暗い通路の影から陽炎炉が姿を現す。
「やぁ、殷雷、久し振り」
殷雷は声の主をにらんだ。
「あ、てめえは陽炎炉、すると陽功玉の性悪女《しょうわるおんな》も一緒《いっしょ》か!」
封印の中で、殷雷は幾つかの宝貝を見知っている。愚断剣もそうであり、陽炎炉と陽功玉も知っていた。
「あまりでかい口は、叩《たた》かない方がいい」
「何だと、俺はちょいとばかり、核天のやり方が、頭にきてるんだ」
挑《いど》みかかろうとする殷雷を、陽炎は言葉でとどめた。
「動くな。下手《へた》に動くと殺すよ」
殷雷はアゴを突き出し、呆《あき》れた顔をした。
「ほう。炉《ろ》の宝貝が、武器の宝貝を脅《おど》すつもりか」
「大崑崙の表面の砲を見ただろ、あれは僕の分身だ。大崑崙の内部にも、細いがあれと同じ威力を持つ砲身が張りめぐらせてある」
「お前の炎じゃ、人は焼けても宝貝は」
殷雷の言葉を最後まで聞かずに、陽炎は指をならした。途端《とたん》に一条の光線が走り、殷雷の髪を焦がした。
「宝貝でも破壊出来るさ。お前も姉さんの力を、知らないわけじゃないだろ?」
殷雷は凍《こお》りついたように動かなくなった。
「大崑崙ってのはもしかして」
「そうだよ。姉さんが作った複合宝貝だ。球観図や万漁船、僕が融合して出来ている」
「そういや、陽功玉がつづらの中で、そんな法螺《ほら》話していたな。本当に可能だったのか。
するとまさか、俺も大崑崙に融合させるつもりか!」
「お前なんかが融合しても、何の役にもたたないだろ。それに融合は宝貝が望めばすぐに外《はず》れるんだ、信頼できない宝貝とは、融合などしないよ。お前はせいぜい、核天様の予備の武器が関の山だ」
「俺なんか、愚断の補欠ってわけか。悲しいねえ。まあいい、核天の所に連れてい!?」
「言われなくても。でも、お前は少し信用が出来ないんで、質問をさせてもらう。嘘《うそ》をついても無駄《むだ》だよ。大崑崙の中で嘘をついても球観図は見逃《のが》さない、球観図と俺は融合しているから球観図が発見した物は、すぐに僕にも判るんだ」
「疑り深いこって」
「質問するぞ。殷雷、和穂の仇《かたき》を取ろうと考えているか?」
「くだらない質問だ」
「確かにくだらない質問だ。死んだ使用者に義理立てする宝貝なんかいない。だが、情にもろい殷雷刀なら考えそうな話じゃないか。核天様の前で、暴れられたら厄介《やっかい》だろ」
「和穂の仇討ちなんか考えていない」
球観図は殷雷を鬼た。いかなる動揺も発見出来ない。
「……嘘はついてないようだな。ならばそれでいい。今から、核天様がおられる艦橋に案内してやる。ついてきな」
陽炎は、殷雷に背中を向けて歩きだした。
慌《あわ》てて後を追う殷雷。
「よぉ、ちょっと待ってくれよ陽炎」
「何をグズグズしてるんだ!」
陽炎が立ち止まり、殷雷に怒鳴《どな》る。殷雷はフラリと床《ゆか》を蹴《け》り、陽炎の背後に立ち、門のカンヌキを締めるように、棍《こん》を陽炎のノドに回し、締めた。
宝貝は窒息などしない、殷雷は陽炎の首を引っこ抜こうとしている。
殷雷は冷たく言った。
「核天を殺せ」
脅迫どころではなかった。陽炎の返事を待たずに、殷雷は腕に力を籠《こ》めた。
メキメキと首が潰《つぶ》れていく音がする。
駆け引きなど、通用しそうになかった。
殷雷は切り札を最後までとっておく性格ではない、と陽炎炉は考え、恐怖した。
自分の命を最優先に考えている陽炎は、恐怖に怯えながらも、艦橋内にある指先ほどの砲身を核天に向ける。
人間なんかより、自分の命の方が大切《たいせつ》だった。
陽炎炉は核天を撃った。
糸のように細い砲撃は、核天の眉間《みけん》を正確に射抜いた。
核天は血飛沫《ちしぶき》をあげてのけ反《ぞ》り、床に崩れ落ちる。
「こ、殺した。本当だ」
「次は姉ちゃん以外の宝貝を破壊しろ」
艦橋の中を、再び幾つもの白い熱線が駆け巡った。
陽炎は自分の首が千切《ちぎ》れるのを少しでも先にのばす為に、球観図を裂き、命運盤の胸を撃ち抜き、砂兵巻を焼いた。
「やったぞ、い、痛い」
「ご苦労、次は大崑崙を破壊して、陽功玉を撃て」
「大崑崙を破壊したら、俺も死んで……」
「黙れ、自由に融合が解けると言ったのはお前だ。上手《うま》くやれるだろ。俺は核天と違って嘘はつかん。お前だけは生かして封印してやる」
陽炎に逃《のが》れる術《すべ》はなかった。
大崑崙は今、砂浜の上に着地している。地面に接していない砲身も、砂の中に埋もれている砲身も一斉に奇妙に湾曲《わんきょく》し、自分自身に狙いを定めた。
砂中の急激な動きに、大崑崙を中心として巨大な砂の波紋が広がった。
波紋と同時に起きた、砂の轟音《ごうおん》は、大崑崙の悲鳴《ひめい》を思わせる。
「早くしろ。首が取れっちまうぞ」
陽炎は自分を傷つけないように、細心の注意を払って砲撃を開始した。
茜《あかね》の空を切り裂く、紅蓮《ぐれん》の炎。ゆっくりと確実に崩壊していく巨大戦艦。
どんな地震よりも大きな振動、弟の裏切りに激怒《げきど》する陽功。絶叫《ぜっきょう》する陽炎。
陽功の心臓を撃ち抜く、細い砲撃。
のけ反る陽功。
芯を失い、瓦礫《がれき》と化していく大崑崙。
笑う殷雷。
無数の小さな爆発。一つの巨大な爆発。
かくて大崑崙は破壊された。
六
全長一里にわたる、鉄の残骸《ざんがい》。
海の中に沈もうとする、真っ赤な太陽が、汚《きたな》くすすけた鉄を照らし出す。
残骸の前で、誇らしげに笑う殷雷《いんらい》。全身傷だらけになり、力なく座《すわ》り込む陽炎《ようえん》。
「ま、どれだけ力を誇ろうが、滅びる時なんてこんなもんだ。なぁ、陽炎」
「なぜ……お前は嘘《うそ》をついてなかった。お前が、俺たちに逆らうはずはなかった」
気の抜けた顔で太陽を見つめる陽炎に向かい、殷雷は言った。
「そうだ。俺は嘘なんかついてない。和穂《かずほ》の仇《かたき》なんてとるつもりはないぜ。第一和穂は死んでないんだから、仇のとりようがあるまい」
「……馬鹿《ばか》な。あれだけの砲撃に、宝貝《ぱおぺい》以外の物が耐えられるはずが……」
「じゃ、種明かしだ」
殷雷はことも無げに、断縁獄《だんえんごく》のふたを取って、叫《さけ》ぶ。
「和穂出てこい!」
ひょうたんから、風が吹き、何か透明な物が出てきた。
バリッという音と共に符が破れ、和穂の姿が現れた。
和穂の手の中で、野兎捕獲《のうさぎほかく》の符は灰となって消えた。
陽炎はアッと驚き地面を叩《たた》く。
「野兎捕獲の符を断って、ひょうたんの中に隠れていたのか! でも、命運盤《めいうんばん》は……」
命運盤の予測を思い出し陽炎は絶句した。核天《かくてん》の眉間《みけん》は確かに割れている。自分自身の砲撃で割ってしまったのだ。
陽炎は自分たちの敗北《はいぼく》を知った。
和穂は巨大な鉄の残骸を見つけ、口をあんぐりとして驚いた。
「わ、これってもしかして大崑崙《だいこんろん》! まさか殷雷が壊しちゃったの!」
真鋼《しんこう》の棍をクルクル回して殷雷は笑う。
「そう。俺が一人でやったんだぜ」
「……嘘でしょ」
「可愛《かわい》くねえな。素直に信じな」
「ねぇ、どうやって壊したのか教えてよ」
「話せば長くなるから、この残骸の中から宝貝を探しながら教えてやる。早く、索具輪《さくぐりん》を着けな」
「うん。あれ、殷雷、こっちの人は?」
和穂は傷だらけの体で地面に座《すわ》る、陽炎に気がついた。
「大崑崙の大砲だった陽炎炉という宝貝だ。そうだな、そいつから回収しよう」
ゆっくりと陽炎が立ち上がった。足元が幽霊のようにフラフラしている。
「回収でもなんでも好きにしろ」
状況《じょうきょう》が、いまいちよく判《わか》っていない和穂だが、とりあえず断縁獄の中に吸引しようと、陽炎の前に立つ。
「……陽炎炉さんですね。では回収させていただきます。陽炎……」
和穂が名前を最後まで呼ぼうとした、その時、何かが空を切る音がした。
途端《とたん》、陽炎の頭が弾《はじ》けた。
血漿《けっしょう》が飛び散る代わりに、まるで陶器が砕けたかのように、陽炎の頭から土色の粉が舞った。
殷雷は反射的に跳《は》ね、和穂を背中に庇《かば》い、狙撃者《そげきしゃ》に備える。
陽炎はゆっくりと地面に倒れた。
陽炎の遥《はる》か背後に、狙撃者はいた。陽炎の後頭部を、何かで噴き飛ばしたのだ。
核天だった。
夕焼けを反射して、銀色の体は溶岩のような赤色に見えた。
カビのような緑色をした目が、異様な光を放っている。
愚断剣《ぐだんけん》の先端を真っ直《す》ぐに、殷雷たちに向けていた。核天の足元には、少しやつれた顔をした陽功《ようこう》が座っている。
愚断剣が光る。槍《やり》ほどの大きさのある大剣は、先端から光の塊《かたまり》を飛ばした。
きゅいん。
殷雷は無駄《むだ》の無い動きで、真鋼の棍《こん》を旋回させ、光の弾丸を弾く。
やはり武器の宝貝に、単純な飛び道具は通用しないと考えたのか、核天は愚断剣の構えを解き、叫ぶ。
「裏切り者には死をって奴だ。陽炎は万死《ばんし》に値する」
殷雷は奥歯を噛《か》み締めた。
陽炎炉の力は、陽功玉から来ている。
やはりその力では、陽功玉は破壊出来なかったようだ。
しかも、核天を倒して油断したのか、陽炎は、愚断剣と六身鎧《ろくしんがい》に、攻撃を仕掛けるのを忘れたらしい。
破壊されなかった陽功玉は、眉間を撃ち抜かれた核天を治《なお》したのだ。
和穂が心配そうに、舌うちする殷雷を見つめる。
「殷雷、大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「全然。核天の持ってる武器は、愚断剣といって、相手が悪すぎる」
「そんなに強いの?」
「『殷雷、そんな弱気でどうするの! 戦ってみなくちゃ、判らないよ』
なんてぶったるんだ事を言ったら、殴《なぐ》り倒すぞ。
和穂、お前はもう一度、断縁獄の中に入っていた方がいい」
「嫌《いや》だ」
「何だと!」
「殷雷にばかり頼るわけにはいかないよ」
もし、ここで敗北するのなら一緒《いっしょ》に戦いたい、戦いの手伝いをしたいと和穂は思った。
出来るかぎりの平静を装い、殷雷は和穂に指示を出す。
「だったら符方録《ふほうろく》を手元に置いて、いつでも使えるようにしな。少なくとも宿酔《ふつかよ》い覚ましの符は、強力な解毒《げどく》符だ」
「愚断剣は毒も使うの?」
「いいや」
和穂は、状況の不利さに、頭がクラクラした。
「ねえ、殷雷。この焚《た》きつけの符って」
「ふん。どんなに湿った薪《たきぎ》でも火をつける符だぜ。もし人間に使おうものなら」
「どうなるの?」
「火傷《やけど》どころか水ぶくれ一つ起きない。純粋に、植物にしか通用しない優《すぐ》れ物だ」
策はない。もはや、なりゆきに任《まか》せるしかないと和穂は思った。
核天が大きく吠《ほ》えた。
「どうやら、肚をくくったようだな。では、戦いを始めよう。殷雷よ。てめえは、あの偉大なる複合宝貝、大崑崙と同じように破壊してしんぜよう」
力なく笑う、殷雷が応じる。
「勿体《もったい》ない。これでも宝貝なんだぜ」
「武器は一つあれば、充分だ。陽功玉、原形を現し、六身鎧と融合しろ」
肩で息をしていた陽功の体が、文字通り太陽のように輝き出す。光が強まると共に、溶けるように人間の形が歪《ゆが》み、小さな球形になっていく。
海亀の卵ほどの大きさになると、宙を舞い、六身鎧とぶつかった。
核天の胸に収《おさ》まり、まるで心臓のように光の脈動を繰り返す。
殷雷は、和穂を見つめて高らかに言った。
「お前の為《ため》に、こんな窮地に立たされようとは。だが、悔《く》いはない。
共に戦おうではないか、我が相棒よ」
和穂は、殷雷に相棒と呼ばれたのが、何となく嬉しかった。
「うん、殷雷」
意地悪そうに、殷雷は唇《くちびる》を上げた。
「お前じゃない、この真鋼の棍に言ったんだよ。お嬢ちゃんはそこで見物してな」
トン、と音を立て、殷雷は黒く煤《すす》けた砂を蹴《け》る。
殷雷は、水面を走るさざなみのように、砂の上を駆けた。
彼方《かなた》、朱色の核天も同じく駆けた。移動の衝撃で砂と瓦礫《がれき》が爆発する。
髪の毛をなびかせ、疾走《しっそう》しながら殷雷は考えた。
『宝貝の鎧《よろい》を着けて、愚断剣を使い、陽功玉の力を持った敵にどうやれってんだ』
殷雷の耳に響くのは、ビュウビュウと鳴る風の音のみ。
ふと、思い出したかのように、殷雷は恐怖を覚えた。
濡《ぬ》れた髪のように、殷雷の心にまとわりついて離れようとしない。
『……恐怖。一体どうしたというんだ。この恐怖の正体、絶対に突き止めてみせるぞ』
そして、殷雷と核天は戦いを開始した。
殷雷が砂の上を軽やかに滑《すべ》っているのに対し、核天は足を膝《ひざ》まで砂の中に埋めて、走った。深雪の中を、無理やり駆け抜けている姿に酷似《こくじ》している。
核天の強力な踏み込みのせいだ。核天の足の裏で、砂が小さな爆発を起こして、辺《あた》りに飛び散った。
それでいて、殷雷の速度に全くひけをとらない。理不尽なまでの力強さは、陽功玉の力のたまものであろう。
常人なら、息が詰まる速度で走りながら、一撃で殷雷を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》にできる力を持つ斬撃《ざんげき》が繰り出される。
正面から受ければ、真鋼の棍ごと粉砕される。殷雷は必死になって、愚断剣を受け流していた。
力強い愚断剣の攻撃に逆らわず、ほんの少しだけ力を加えて、刃をそらす。
刃をそらしても、核天はすぐに愚断剣の握りを返し、隙《すき》を全く作らない。
ぐるりぐるりと、真っ赤な空と、黒い砂浜が視野の中を流れていく。
このまま、地平線の彼方まで逃げてやろうかと考えても、陽功玉と融合して力と同様に速度もあがっている核天から、逃げきる自信は殷雷には無い。
殷雷は核天と戦っている気がしなかった。今、自分は愚断剣と戦っているとしか、感じられなかった。
最初のうちは殷雷刀も愚断剣も、相手の力量を推《お》し量りながら、戦った。
愚断剣の力量が、おぼろげながら理解出来たとき、殷雷は自分の危機感が、臆病《おくびょう》でもなんでもなかったと知る。
一流の武器の宝貝なら、持っていて当然の機能が愚断剣にはあった。
使用者の実力を高める機能だ。
核天は愚断剣に操《あやつ》られているに過ぎない。本人に自覚はないだろうが、経験がものをいう攻撃の組立ては全《すべ》て愚断剣が管理していた。
愚断剣は核天の力を引き出し、自分を何倍にも強くしている。
殷雷が愚断剣の恐ろしさを知ると同様に、愚断剣も殷雷の強さの程度を知った。
髪の毛を使い、気配《けはい》を読み、上手《うま》く立ち回っているが、恐れるには足りない。しかし、油断してはいけない。
愚断剣には慢心が全くない。自分より力が劣る相手に対しても、油断はしない。
これだけ力の差があっても、殷雷の失敗を待っていた。
陽功玉の力を得た核天に使われているのだから、多少無理な攻撃を仕掛ければ、すぐに殷雷を粉砕出来ただろう。
だが愚断剣は、どこまでも沈着冷静に、殷雷を追い詰めていく。
殷雷は豪雨のような斬撃の前に、だんだんと虚《うつ》ろな気分になってきた。
愚断剣は絶対に隙を見せない。殷雷に出来るのは、延々《えんえん》と防御《ぼうぎょ》に専念するだけなのだ。
棍が愚断剣と触れた時、殷雷は自分の思考を愚断に送った。
『根性の悪い剣だ。とっとととどめを刺しちまえよ。それだけ、優位なら俺なんか一撃だろうが。あ?』
棍を通じ、愚断剣の思考が返る。
『戦いの最中に無駄口を叩《たた》くな、若造《わかぞう》。貴様《きさま》の猿知恵に乗って隙を見せるとでも思うか』
『……思わねえな』
『ほぉ。殷雷よ。お前、恐怖しているな。脆弱《ぜいじゃく》な人間のように、俺を恐れているな』
『だ、黙れ』
『怖いのか? 恐ろしいのか? 俺の一撃でお前の体が木っ端微塵になるのが?
武器のくせに戦いの中で、己《おのれ》が宿命を全《まっと》うするのが怖いというのか? 見損なったな。そこまで、やわな宝貝だったのか!』
『うるせえ!』
剣と棍が離れる。人の目には見えない、閃光の下に行われた会話だった。
すり鉢の中の、二つの独楽《こま》がぶつかり合うような、打ち合いの音がさらに響く。
棍が愚断剣を弾《はじ》く音なのか、自分の頭痛の音なのか、殷雷の意識が朦朧《もうろう》としだす。
その際を見逃《みのが》す、愚断ではない。
『馬鹿め!』
愚断の一喝《いっかつ》が、殷雷に届く。
あっと驚く間も無く、愚断剣の突きから変化した螺旋《らせん》運動に、棍が巻き取られた。
殷雷の中で恐怖が膨《ふく》らむ。
手を離れ、宙に浮かんだ棍を反射的につかもうとし、殷雷は脇腹にわずかな隙を作ってしまった。
やられたか!
殷雷は、自分の体が横一文字に切断されると覚悟した。核天は愚断剣を腰脇に溜めたままで、殷雷の横を走り抜ける。
だが、核天は殷雷に愚断剣を使わずに、走り続けた。
しまった!
殷雷は核天の背中と、核天の狙《ねら》いを同時に見た。
核天は和穂を目掛けて走っている。
その時、殷雷の中で疑問が解けた。
まとわりつく恐怖の正体が判ったのだ。
愚断剣が言うような、破壊される恐怖ではなかった。
和穂目掛けて走る、核天を見て理解した。
俺は和穂を守りそこなう事が怖いのだ!
殷雷も砂を蹴り、走る。
核天と殷雷の速度の差は、非常に小さかった。
ほんの少し、ほんの少しだけ、核天の速度は殷雷を上回っている。
地虫が這《は》うがごとき、ゆっくりとした速度だが、核天と殷雷との距離は、開いていく。
必死の殷雷を見て、核天は楽しそうに口許《くちもと》を歪めた。
「殷雷、お前は出来損ないだ」
「か、和穂だけは殺させないぞ!」
二つの疾風は和穂に向かい走った。
ふと、核天の速度が落ちた。
殷雷はしめたとばかりに、核天を追い抜いて和穂に覆《おお》い被《かぶ》さる。
核天は愚断剣を上段に構えた。
罠《わな》だったのだ。核天は、いや愚断はわざと和穂を狙うふりをしたのだ。
当然、殷雷はこの体勢からでは、いかなる反撃も不可能だ。
「そうそう、この方が切りやすいよな。一丁上がりだ。三流宝貝め」
殷雷の恐怖が最大限に、広がる。
愚断剣の間合《まあ》いに無防備に、背をさらしているのだ。一撃で背中を砕かれるだろう。
ここまでは、恐怖ではない。武器の宝貝として覚悟は出来ている。恐怖はその後だ。
俺が倒れれば、和穂は殺される。
武器の宝貝が、他の武器の宝貝に屈し、目的を達成出来ないのだ。
『俺は和穂を守ると約束した!』
核天は笑い、愚断剣を振るった。
和穂を守る為《ため》に、殷雷の背中はがら空《あ》きだった。
剣の閃光が走る。
岩に鏡を叩きつけたような、炸裂音。
砕ける鏡が撒《ま》き散らすような、光の屑《くず》。
愚断剣の一撃を受けた衝撃で、殷雷は背中から自分の破片を撒き散らし、和穂を抱きかかえて吹っ飛んだ。
二人は砂浜を転がり、やがて大崑崙の残骸である、鉄の瓦礫に突っ込んでいった。
核天は立ち止まり、地面に転がる殷雷の残骸を拾った。
確かに、宝貝を構成する鋼《はがね》だった。
核天はくるりと背後を見た。殷雷が使っていた棍は、砂浜に落ちたままだった。
棍を砕いて、自分が破壊されたように見せ掛けたのではない。
殷雷の背中に風穴を開けたと確信した核天は、いまだに砂煙を上げる、和穂の消えた瓦礫《がれき》の山を指差した。
「殷雷の処分はすんだ。お次は和穂、貴様を殺す。ゴミ溜《た》めから出てこい。それとも、荷車に轢《ひ》かれた蛙《かえる》のように潰《つぶ》れてしまったか?」
静かに時が流れた。
砂煙も落ち着き、辺りに静寂《せいじゃく》が訪れた。
「……やっぱり、あおりをくらって死んでしまったのか。つまらねえな」
死体を確認し、宝貝を回収しようと核天が歩を進めると、瓦礫の一部が崩《くず》れた。
用心深く核天は愚断剣を構え、瓦礫に注意を注ぎ続けた。
瓦礫がさらに崩れる。
瓦礫の中から誰かが現れようとしていた。
そして異形《いぎょう》の女が、瓦礫の中から姿を現したのである。
姿形は普通の娘だが、髪の毛が尋常ではない。
流れるように滑らかな長い髪は、ゆったりと一本に結《ゆ》われている。だが、川の流れに紅《べに》の染料を流したかのように、女の髪は赤かった。
赤はいつまでも赤ではなかった。光の加減かと思わせて、実際に髪の色が青みを帯びていく。青紫の色がやはり、黄色を帯びて新緑のような色へと、流転《るてん》し変化していく。
女の髪が風になびく。風の強さを嘲笑《あざわら》うかのようにゆったりと、ゆったりと。
それは、髪というよりも鳳凰《ほうおう》の尾を思わせた。一瞬とて同じ色をとらず、風に遊ぶかのように、流れる。
女の手には一本の刀が握られていた。小柄な女なので、冷たい刃を輝かせる刀が、まるで大剣を思わせる。
核天は、瓦礫の中から現れた女の目をにらんだ。細く、繊細だが強固な意思の光を持つ目。
「誰かと思えば、和穂ではないか。その髪はなんのまじないだ? それにその刀はもしかして殷雷刀か? 破壊されなかったのか」
和穂は足元に転がる、殷雷刀の鞘《さや》を拾う。
折れ、砕け、原形をとどめてはいないが、それは殷雷刀の鞘だった。
「鞘は殷雷にとって、鎧《よろい》でもある。
龍華《りゅうか》師匠《ししょう》は気を利《き》かして、鞘を強化しておいてくれたみたいね。
それでも、こんなたズタズタにされてしまったけど。
核天。元々宝貝は仙界の道具。おとなしく私に返しなさい」
「逆らえば、命はないぞ。とでも言いたいのか? ふざけるな。その髪ごとずたずたに引き裂いてくれる」
核天はさっきのように、愚断剣を構えた。
だが、何か愚断剣が重くなったように感じる。さらに、構えから攻撃に入ろうとしたが体がピクリとも動かない。
驚く核天の心に、愚断剣がささやく。
『……核天よ。油断はならぬ』
初めて聞く愚断剣の言葉に、核天は驚きながらも言葉を返す。
『お前が口をきくとは珍しいな。だが、黙っていろ。あの女を殺す。邪魔《じゃま》をするな』
愚断剣の言葉は、眠気《ねむけ》を思わせるような声で語られる。だが、その声の裏には、恐ろしいまでの狡猾《こうかつ》さが感じられた。
『和穂の手にあるのは、殷雷刀だ』
『だからどうした! あんななまくらなど、敵ではあるまい』
『かりにも、刀の宝貝だ。気勢が乗れば、六身鎧とて貫く。
それに殷雷刀も、使い手の力を引き出すかも知れぬぞ。
あの妙《みょう》な髪、どうも解《げ》せぬ。
油断は出来ぬ』
『油断、油断と、何を恐れている、お前の指図など受けぬ、俺はあの女を斬《き》る!』
核天と愚断剣の意見が食い違っている時、和穂と殷雷もまた言い争っていた。
『どうするのよ、殷雷! 髪の毛をこんなにしちゃって』
『うるせい。お前はだまって、ハッタリをかましていればいいんだよ。髪の毛をこんなに派手《はで》にすりゃ、愚断だって判断に困るだろうよ』
和穂の髪の毛は、実は符方録《ふほうろく》によって変化させたものであった。育毛の符により伸ばし、数色あった毛染めの符を同時に使い、刻一刻と変わるようにしているだけである。
殷雷は和穂に語る。
『いいか、もう一度、作戦を言うぞ。和穂、お前は出来るだけハッタリをかまして、愚断剣の判断を鈍《にぶ》らせる。
俺は奴の隙を見つけて攻撃を仕掛ける。攻撃はお前の体を操《あやつ》って俺が行うから、心配はいらん。
ただ、俺は愚断剣のように、使用者の力を何倍にも引き出す事は出来ない』
『え!』
『お前の体を使っても、俺の力は普段と変わりはしない。まあ、持久力《じきゅうりょく》は落ちるが。
だから、出来るだけ、ハッタリがいるんだよ。俺にも愚断剣と同じように、使用者の能力を倍増させる機能があると思わせるんだ。
どうだ、完璧《かんぺき》かつ綿密な作戦だろ』
自分の恐怖の正体を知った殷雷は、ある意味で開き直った。
和穂の命を第一に考え、守りながら戦うのは性《しょう》に合わない。
ならば、和穂にも戦わせようとした。
危険は危険だが、武器の宝貝らしい考え方である。自分が全力を尽くして戦う事が、直接和穂を守る事になるのだ。
『……瓦礫の中で思いついたくせに。殷雷って結局、思いつきだけで動いてない?』
『ば、馬鹿を言え。俺は常に先の先まで読んでいる。……まぁ、最近は状況が不測過ぎるんで、ちょっと行き当たりばったりかもしれん……いや、そんな事はない! ともかく出来るだけ、大胆不敵《だいたんふてき》を装って、愚断剣と核天の間に混乱を引き起こせ』
『そんな事言われても、どうやれば不敵な態度を取れるの?』
殷雷は少し考え、そして言った。
『……何、実に簡単だ。龍華みたいに振る舞えばいい』
ピクリとも動かない核天を見て、和穂は微笑《ほほえ》んだ。
「もしかして、私が怖いの?」
「黙れ!」
和穂は面倒《めんどう》そうに、瓦礫に腰を下ろした。
片方の膝《ひざ》を立て、かったるそうに、アゴを乗せている。
しかし右手にはしっかりと、殷雷刀を握りしめていた。
「だったらかかってきなさいよ。出来るだけ手短に倒してあげるよ。
これ以上、服が汚れちゃ、たまったもんじゃないしね」
笑いを堪《こら》え、殷雷は和穂にささやいた。
『い、いいぞ和穂。そっくりだ』
『ごめんなさい、ごめんなさい、真似《まね》なんかして師匠、ごめんなさい。どうか怒らないでください』
和穂はゆっくりと、殷雷刀の切っ先を核天に向けた。
「大層《たいそう》な鎧の宝貝を着こんでいるくせに、こんな刀一本しか持たない私が怖いんじゃ、とんでもない臆病者ね」
核天は愚断剣を構えたまま、身じろぎもしない。
愚断剣がハッタリに掛かるかどうかが、全てだった。
動かない核天に、殷雷は少し焦《あせ》り始める。
殷雷は、和穂を立ち上がらせ、演舞のように自分自身をクルクルと回し挑発《ちょうはつ》した。
ついに我慢《がまん》の限界が来たのか、核天はゆっくりと動き出した。
殷雷は勝負を一瞬で決める覚悟をした、勝つのも一瞬、負けるのも一瞬だ。
『愚断剣! これ以上|邪魔《じゃま》をするなら、お前を捨てて、素手《すで》で奴をくびり殺すぞ』
核天の強大な破壊願望に、さすがの愚断剣も一瞬たじろいだ。
『わかった。もう止めはしない』
万が一、殷雷刀が使用者の能力を引き上げたとしても、今の核天を上回りはしない、と愚断剣は推測した。
あくまでも、推理でしかないのが、狡猾《こうかつ》な剣にとっては不満だった。
和穂と核天はじりじりとにじり寄る。
そして、二人は動いた。
核天は大上段に構えて、振り下ろす。
大剣が空気を裂く音は、鷲《わし》の羽ばたきのように、豪快だった。
殷雷もまた核天の首を狙い、自身をなぎはらうように動かす。
刀が空気を裂く音は、燕《つばめ》の羽ばたきのように、静かだった。
両者の太刀筋《たちすじ》を完璧《かんぺき》に読み切り、愚断剣が笑う。剣と刀の致命的な差がここにでた。
長さゆえ、愚断剣は殷雷刀よりも先に、和穂の体に到着する。
相打ち覚悟の攻撃と、とれなくもなかったが、愚断剣の攻撃を食らってから放たれる斬撃が、六身鎧《ろくしんがい》を貫くのは不可能だった。
しかし、ここに愚断剣の焦りがあった。刀が剣よりも短い事を、殷雷は百も承知だ。
それなのに、真正面からの勝負に応じたのには理由があった。
普段の愚断剣なら冷静に考えただろう。
だが、核天の破壊衝動に引っ張られ、愚断剣は判断を誤《あやま》ったのだ。
和穂を一刀両断にする愚断剣の太刀筋に、鳳凰色をした髪がまとわりついた。
さっきの戦いで、殷雷は髪を自由自在に、さながら尻尾《しっぽ》のように動かして、核天の動きを予測していた。
ならば殷雷は使用する者の髪も、自由に擦《あやつ》れるのではないか? と考えて当然だった。
愚断剣の笑いが凍りつく。
愚断剣は髪にまとわりつかれ、微妙に太刀筋が狂った。狂いに乗じて殷雷は、和穂の体をかわさせて、核天の首に刃をたたき込む。
勝負は確定的だった。和穂の心にも、蹟躇《ちゅうちょ》はなかった。核天は、あまりにも人の命を軽んじるからだ。
殷雷刀が核天の肉を切り裂き、首の骨に達した。
『殷雷刀め、この愚断剣をたばかるとは!』
愚断剣は勝利の為《ため》には、手段を選ばない。
愚断剣は最後の手に出た。
愚断剣は殷雷刀の致命的な弱点をついた。
愚断剣は核天の過去を、絡みつく髪を通じて、和穂と殷雷の心に送った。
圧縮され、濃縮された言葉。壊疽《えそ》をおこした傷口色の核天の記憶が、二人の魂《たましい》の中で広がった。
殷雷と和穂は核天の悲しみを知る。
あまりにも悲しい生きざまだ。和穂の動きが強張《こわば》り、殷雷は刀を止めた。
首に怪我《けが》を負いつつ核天は、後ろに転がっていく。手放された愚断剣は、くるくると宙を舞い、ザックリと砂浜に刺さった。
和穂は力なく膝をつく。地面に美しい髪が広がる。核天はのたうちまわった。
「よ、陽功! この傷を治せ!」
和穂は自分の敗北を知った。私や殷雷は核天を殺せない。だが、核天や愚断剣は私を殺せる。
私たちは負けたんだ。
七
自分の甘さに反吐《へど》が出る。
心の中で叫《さけ》び、地面に横たわる殷雷刀《いんらいとう》は、ゆっくりと人間の姿を現した。
完全に人間の姿になった殷雷は、あぐらをかいて焼けた地面に座《すわ》った。殷雷の横には和穂《かずほ》も座り、転がる核天《かくてん》を見うめている。
殷雷は怒った。
「和穂。お前は大馬鹿野郎だ。自分の力で俺を振り切って、奴の首を落とせただろうに」
とんでもない話だ。とどめを刺す瞬間に、動きを止めたのは、殷雷に他ならない。
「……私にはできない」
「結局、愚断《ぐだん》の旦那《だんな》の作戦勝ちか」
和穂も殷雷も、核天に無抵抗に殺される気は全くない。だが、たった一度の機会を見逃《みのが》した二人には、死が待つだけだった。
核天は首からどす黒い血をしたたらせながら、叫ぶ。
「さあ、陽功玉《ようこうぎょく》、早く俺の怪我《けが》を治《なお》すのだ」
核天の胸で白く輝く陽功玉が、コロリと外《はず》れ、地面を転がった。
転がりながら光を弱め、人間の姿を取る。和穂と同じような背格好に、道服を着た陽功だが、髪はほつれ顔が疲労に青ざめている。
陽功は冷たい視線を核天に送り、鎧《よろい》に命じた。
「解けろ、六身鎧《ろくしんがい》」
途端《とたん》、周囲に腐った肉の臭《にお》いが、立ち籠《こ》めた。陽功の言葉と共に、六身鎧は核天の体から外れた。ずり落ちた兜《かぶと》の下には、むきだしの脳が見える。
精巧な義手に見えた籠手《こて》も、今やただの鉄の手袋に過ぎない。核天の肉体は戦場で死を待っていた時と、全く変わっていない。
陽功は、死の宣告を核天に与えた。
「核天。もう私の力をやれないね。陽炎みたいに破壊されたのならば、いつかは修繕されるかもしれない。だが、力を使い果たした宝貝《ぱおぺい》は二度と元には戻れないんだよ。お前の命を助ける為《ため》に、私の命を危険にさらすとでも思うのか」
驚く和穂に向かって、陽功は足を進めた。
「和穂。仕方がない。捕《つか》まってやるよ」
惚《ほう》けたような顔をして、和穂は陽功を見つめた。核天の記憶を見た和穂は、陽功の行動の意味を知った。
核天の心を踏みにじり、利用し、最後には自分の命を助ける為に裏切ったのだ。
和穂は言いようのない悲しみに襲われた。
師匠《ししょう》の作った宝貝が、ここまで非道に徹《てっ》しきれるとは、信じられなかった。
殷雷もまた怒る。愚断剣の非情さは武器として理解出来た。だが、陽功玉の自分勝手さは、殷雷には許せなかった。
「てめえ、ぶっ壊してやる」
殷雷は陽功の胸ぐらを強くつかんだ。だが陽功は薄ら笑いを浮かべた。
「私を殺すと、損だよ。その娘がこれから怪我をした時、私ならすぐに治せる。こんなに重宝する宝貝を壊すのかい?」
言葉につまり、殷雷は手を離した。
「そう、それでいいのよ。御褒美《ごほうび》に鞘《さや》を治してあげる」
陽功が触れた途端《とたん》、破壊された殷雷刀の鞘が元に戻った。
かすかな声を風が運んだ。核天が残りの命を振り絞り、うめき声のようにか細い声で口を開いていた。
「……よ、陽功」
顔色一つ変えず、陽功は核天に向かって歩き、頭の横に立った。和穂と殷雷も核天の側《そば》に座る。
陽功は頭上から、核天を見下ろした。
「何か用かしら? 正直言ってあんたには失望した。八個の宝貝を持っていたのに、こんな小娘と、三流宝貝に負けるとはね。
負け犬の負け惜しみぐらい、聞いてあげるわよ。それとも私に文句でも言いたいの」
核天をさげすむような、嫌《いや》な声だった。殷雷は拳《こぶし》を強く握る。核天は言った。
「陽功。ありがとうよ」
意外な言葉に陽功の顔に影がさす。
たどたどしく言葉が続く。
「俺はあの戦場で、死んでたんだ。……ちょっと死ぬ前に道草をくったみたいなもんだ。
ありがとう、俺に夢を見させてくれて。
辛《つら》かったが、お前のおかげで、心の奥にしまいこんでた、妻の顔も思い出せた。
……すまなかった。俺はお前の顔に、妻の姿を見ていた……お前をお前として見てやりたかった……許してくれ。
ふははは。
夢だ。夢だったんだ。
ありがとうよ。この十日ばかりの悪夢、なかなか楽しかった。
多分、妻が俺の前に姿を現していなかったら、お前に惚《ほ》れていた」
核天は顔の下半分で満足そうな笑みを浮かべ、動かなくなった。
核天の笑顔を見た陽功の顔に、驚きと動揺が入り混じった表情が浮かぶ。
確かに、陽功は核天を苦悩させる事に成功していた。核天は妻への愛と、陽功への愛とで苦悩していたのだ。
陽功は、いまだ感じた事のない気持ちの高鳴りを覚え、核天の隣《となり》にひざまずき、血まみれの頭を抱《かか》えた。途端、陽功の両腕が柔《やわ》らかい日光のような光に包まれた。
陽功の手に触れられた場所が、急激に生気を帯びて、傷口をふさぎ出す。失われた頭蓋骨《ずがいこつ》は見るまに再生され、殷雷刀が切りつけた傷も消えていく。
目も腕も再生を始めた。
和穂は自分の立場も忘れて、核天の復活を祈った。
だが、核天の体が元に戻るに従って、陽功の体からは生気が消えていく。黒髪には白髪が混じり始め、体もやせ衰えていく。
長い時間がたった。日は落ち、辺《あた》りには星があふれる、美しい夜が広がっていた。
核天は、もはや健康な人間が健《すこ》やかに眠っているとしか思えないほどに、復元された。
突然、殷雷が陽功の手をつかんだ。殷雷の目は、悲しいまでに鋭《するど》かった。
「やめろ。核天は死んでいる。どうあがこうが、生き返りはしない」
陽功は手を振りほどいた。
「黙れ、三流宝貝が! 一流の宝貝の力を思い知るがいい!」
高々と上げられた両の手に、今までで一番強い光が集結した。
闇《やみ》を切り裂く閃光は、渾身《こんしん》の気合と共に核天の胸にたたき込まれた。
光の激流の中、和穂と殷雷は目を閉じた。
光が収《おさ》まり、ゆっくりと目を開けた和穂が見たのは、二つに割れた宝玉《ほうぎょく》の姿だった。
かくして、陽功玉は死んだ。
だが、核天は蘇《よみがえ》らなかった。
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終 章
夜空一面に、星たちがまたたく。
闇夜の中、砂浜に打ち寄せる波は、墨のように黒く見えた。
だが、規則ただしく繰り返される、小波《さざなみ》の音は和穂《かずほ》の耳に、優しく響いていた。
和穂は、大崑崙《だいこんろん》の砲撃で焼け焦げた、砂浜の上に座《すわ》っている。
両膝を抱きかかえ、和穂は泣いていた。
殷雷《いんらい》の姿はどこにも見えない。
和穂はよく泣く。
自分の無力さを、思い知らされた時、感情が昂《たかぶ》り涙が流れる。
だが、今は違う。
和穂は、ただ悲しかった。核天《かくてん》も陽功玉《ようこうぎょく》も自分の好きなように生き、死んだ。
そうせずにはいられない、という強い感情につき動かされ、結果として滅んだ。
残された和穂には泣く事しか出来ない。今の和穂には核天の気持ちも、陽功玉の気持ちも判《わか》るような気がした。
理解出来てなければ、泣きはしない。
核天は妻への強い愛情を紛《まぎ》らわす為《ため》に、人間への憎悪《ぞうお》に燃えた。失われた愛情を、憎悪で埋めつくそうとしたのだ。
妻と同じ顔をした陽功に心を奪われて、核天の狂気に、歯止めが利《き》かなくなった。
妻への愛情を、陽功への愛情で埋めるわけにはいかなかった。核天に出来たのは、一心不乱に人を憎むだけだった。
陽功玉には心が無かった。人の形をとり、意思を持っていても、心は無かったのだ。
だが、死ぬ間際《まぎわ》の核天の言葉で、陽功玉は心を持った。
自分が何をしようと、笑って見守ってくれる核天。核天は、自分を裏切り見殺しにしようとする陽功に、微笑《ほほえ》んだのだ。
陽功は、核天を愛してなどいなかったかもしれない。だが、陽功は本能で、自分を愛している核天を失う事を恐れた。
結果として、陽功玉は自分の力を使い果たし、死んでしまった。
和穂には二人の気持ちが判った。だから、泣いた。
だが、泣いてばかりもいられない。和穂は空を見上げた。星の動きから見て、殷雷との約束の時間はたっているだろう。
ゴシゴシと涙をふき、和穂はもう泣かないと心に誓った。涙が充分に乾いたのを確かめて、和穂は断縁獄《だんえんごく》を手に取る。
「殷雷刀!」
途端《とたん》、軽い爆発音を立て、断縁獄の中から殷雷が吐き出される。殷雷は感情を消して、報告を始めた。
「核天は、陽功玉と一緒《いっしょ》に断縁獄の中に埋めた。ちゃんと墓石まで立ててきた」
和穂はうなずく。陽功玉は核天と共に埋葬《まいそう》してやりたかった。だが、それが叶《かな》うのは断縁獄の中だけだ。
殷雷はばつが悪そうに、髪の毛をバタバタと動かす。
「ほぉ。まだビィビィ泣いてると思ったが、そうでもなかったな」
和穂の目がまだ兎《うさぎ》みたいに真っ赤で、さっきまで泣いていた事は殷雷には判っている。
だが、殷雷は、見て見ぬふりを決め込んだ。
そして言葉を続ける。
「ま、そのなんだ。これからも色々|辛《つら》い事はあると思うがな、あまり気にするな。変に悲壮な使命感なんかに、とりつかれるなよ。
うむ……そうそう。こう考えろ。
和穂、お前は武器屋で店番をしてて、うっかり居眠りをしたんだ。その隙《すき》に泥棒《どろぼう》がごっそりと武器を盗《ぬす》んでいった。
盗んだ武器で誰が怪我《けが》しようが、お前のせいじゃないぞ。な?」
和穂は微笑んだ。殷雷の優しさにまた、涙が流れそうになるが、耐えた。
「へぇ、殷雷って結構優しいんじゃない」
「やかましい。調子に乗るなよ」
「……ありがとう、殷雷」
殷雷は強烈なワサビでも食べたかのように鼻と眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて、そっぽを向く。
「くだらねえ話をしてる場合じゃねえな。今日は徹夜で歩くぞ」
「うん」
殷雷と和穂は砂浜を歩き始めた。
二人はもくもくと歩く。
ふと、和穂は立ち止まった。
「ねぇ、殷雷」
「なんだ?」
和穂は、星明かりを浴びて、三色にきらめく自分の髪を、なでた。
「この髪どうしてくれるのよ!」
殷雷は意地悪く笑う。
「いいじゃねえか、似合っているぜ」
「殷雷!」
「冗談だ。髪染めの符の『黒』があっただろうが。その派手な色が固定してから、符を飲めばいい。……あれ?」
殷雷は、狭い懐《ふところ》に手を突っ込むが、髪染めの符が見当たらない。
ちらりと見ると和穂が怒りに燃える目で、殷雷をにらんでいた。
「まさか、無くしたんじゃないでしょうね」
「わ、判った、探せばいいんだろうが、探し出せば」
*
かくて、殷雷は砂浜を駆けずり回り、符を探す。
殷雷が大崑崙の瓦礫《がれき》の中から、符を発見した時にはゆっくりと朝日が昇り始めていた。
輝く太陽に向かい、殷雷は棍《こん》を振り回して叫《さけ》んだ。
「……護玄《ごげん》! 棍一本で子守とは、やはり割に合わんぞ!」
瓦礫にもたれかかり、ウトウトしていた和穂も怒鳴《どな》る。
「子守ってどういう意味よ。人を子供扱いして!」
「子供扱い。なんて言葉を使うのが、ガキだと言ってるんだ」
「何よ」
「何だ」
二人は朝日の下で口ゲンカを始めた。
*
現在、回収された宝貝《ぱおぺい》は九個。
残りの宝貝はあと、七百十七個。
和穂と殷雷の旅はまだまだ終わらない。
[#改ページ]
あとがき
一 宋の仁宗の時代、洪信大尉という人が、ちょいと公用で竜虎山という、道教の総本山に登った。その山にあったのが、魔王たちを封印しているという伏魔殿、よせばいいのにこの洪信、道士が止めるのもきかず、伏魔殿の扉を開けたからさあ大変、百八の魔星が地上に降り立った。
……てのは、お馴染《なじ》み水滸伝の、冒頭《ぼうとう》も冒頭の一部分である。
小学生の頃のわしは、この説明を聞いて、何の疑問もなく、『なるほど、水滸伝とは洪信が百八の魔星を捕まえる話なのか』と考えた。
ご存知のように、全然違う。ドカベンが柔道マンガだと思うぐらいに違う。
だが、あえて書く。こっちの方が絶対に面白《おもしろ》そうだ。
もう、お判《わか》りのように、封仙娘娘追宝録はこの水滸伝ではない水滸伝を、わしなりに書いたものである。
水滸伝より美味《うま》そうな素材を使って、水滸伝より面白くなきゃ、なんの事はない、料理人の腕が悪いだけになる。ぬぬぬ。墓穴を掘ったか?
二 ながらくの、ご無沙汰《ぶさた》であった。ろくごまるにだ。前作が出たとき、お屠蘇《とそ》を飲んで騒いでいたような気がする。今はビールを飲んで、暴《あば》れている。
するってえと、半年ぶりか? いや違う、一年と半年ぶりだ。ひゃっほう。
三 今回のあとがきは、箇条《かじょう》書き形式でお送りしています。
四 A君の隣《となり》に座《すわ》っていたのはD君で、C君はB君の五分前に到着していた。
五 箇条書きだから、今のような冗談も可能だ。公務員試験を受けようとしている読者には、洒落《しゃれ》になってなかったか。すまぬ。すまぬ。
六 辞書によれば、宝貝とは宝の中の宝、貴重な刀剣、非常に可愛《かわい》がっている子女の意味があるそうです。ちなみに『殷』は(雷の)とどろくさまという意味で使っています。
ついでに和穂という名は、仙人らしくない語感にしようと考え、つけました。
七 名前といえば、わしは片仮名の名前が苦手なんじゃ。非常に覚《おぼ》えが悪い。セバスチャンとかトムとか、エリザベスとかの英語名なら、何とかなるんだがのう。
しかも語感のセンスが暴走しているようでなぁ。魔の本を探すエージェントの名が『ユゲ・ビブルオックス』、ちょいとひねった魔法使いの名で『カシアラ・ラボラス』確かにアクが強いのお。
むむむ。これではファンタジーが書けぬではないか。デニーとか、ハリーとかアルフレドが出てくるファンタジー、お主は買ってくれるかのう?
八 おぉ。箇条書き形式だと、語尾が変えられて面白い。けど、読みにくいか?
九 今回も、ボツタイトルがある。その名も、大始末記。なかなか味もそっけもないタイトルだが、かなりの土壇場《どたんば》までこれだった。
が、よく判らないという意見があって、今のタイトルになった。このタイトルは、編集部につけていただいたのだ。
封仙娘娘追宝録。何か、『すちゃらか、もくれん、たますだれ』という感じがして非常にゴロがいいと思うのだが、いかがであろうか。
十 あとがきを書いている時点では、わしは挿絵を見ていないのだ。
だから、どんな絵がつくのか、文庫本を見るまでのお楽しみなのである。そういや、冗談で、横山光輝御大に挿絵を頼もうかという話もあったな。
十一 長年の疑問を、この間、知人に尋《たず》ねてみた。知人の答えは『知るか。あとがきにでも書きやがれ馬鹿野郎』と、すさんだ返事だった。
よし。こんな奴はほおっておいて、読者諸君に尋ねよう。
ガムテープは、ガムテープの背中(粘着物質がついてない方)にはくっつかない。ではどうやって、ガムテープのロールはロールの形をとれるのか?
十二 既刊広告。こ、これは吉本新喜劇が演じる、ファウストだ! と、一部で大反響を呼び起こした、南河内パンク小説の最高峰。『食前絶後!!』
日本語文法にケンカを売っている、戦闘シーン。常軌《じょうき》を逸《いっ》した魔導理論。ギャグか、シリアスか、バイオレンスか、本格派しゃべくり漫才か!
さあ、本屋で見つけたら、さっそく購入だ。決して後悔《こうかい》はさせない……いや、とりあえずプロローグだけ立ち読みして、気にいったら買っておくれよ、お客さん。
十三 あっと驚く間もなく、キミの頭上から熱く煮えたぎった油が降り注《そそ》いだ。あいにく、魔人を倒すのにフライドチキンじゃ役不足だ。
キミの冒険は終わった。
てな感じの、ゲームブックは最近どうなったのだ? バタ臭いジョークがふんだんに盛り込まれた、翻訳物のコッテリしたやつをもう一度やってみたいぞ。
そう、青いレバーを引っ張っただけで、死んでしまうようなやつ。
む。リバイバルとして書けば、結構売れるかもしれんな。よし、わしが書くか。
これなら、ジョナサンやハリーやアルフレドを出しても良かろう。うむ、次回作は決定だ。
『魔界の追撃隊 サムライ・ハリーの大冒険』(仮題)
……冗談だ。
もう一度言う。冗談だ。若きサムライの修行者、ハリー。美貌《びぼう》の禅使い(?)キャロルが出てくる話で、いや駄目だ。冗談だ。
十四 思いつくばかりに、色々と書いたが、そろそろ紙数も尽きた。ではまた。
十五
十六 終わりだってば。(小声で)……で、そのハリーの仇《かたき》ってのが黒《くろ》空手の使い手、トードー・キョーキって奴でね……
[#地付き]ろくごまるに
[#改ページ]
底本
富士見ファンタジア文庫
封仙娘娘《ふうせんにゃんにゃん》追宝録《ついほうろく》 天《てん》を騒《さわ》がす落《お》とし物《もの》
平成7年8月25日 初版発行
著者――ろくごまるに