TITLE : パパのおくりもの
〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年七月二十五日刊
(C) Nada y Nada 2000
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A la coupable
目  次
パパのおくりもの
教育について
お前たちのママ
悪徳について
かずかずの偶然について
十年ぶりのパリ
ラ・マンブロールでの夢想
大学都市ふたたび
ケネディの暗殺
た め い き
平和と英雄との関係
裏 町 に て
日本人のこと
やぶけるという言葉
スペインとポルトガルへの旅
イギリスにて
ロンドンの六月
プラーハでの一ヵ月
コペンハーゲンから
フィンランドの自然と人間
パパのゆうれい
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パパのおくりもの
パパのおくりもの
パパは今朝、寝どこの中ですばらしいことを思いついた。それはお前たち子供におくりものをすることだ。すばらしいといっても、おくりものがすばらしいのではない。あわててはいけない。つまりヨットでもモーターボートでもスポーツカーなどでは更にない。そんなものは(もちろんそんなものがパパに買えたらの話であるが)お前たちにこのパパがやる筈がない。すばらしいというのは、このおくりものに、パパは一円もかけないですむということだ。こういうとパパは大変ケチンボのようにきこえるが、実はパパがケチなのではなく、日本政府がケチなのである。パパは国立の精神病院のお医者さんであるからだ。大学を出て医学博士であるパパの給料は、ロンドンの地下鉄の切符切りよりも低いのである。
パパの病院は久里浜にある。そして、そこにパパの官舎がある。小さな家だが、海のそばなのでお前たちもよくそこに連れて行く。そこの一部屋は雨もりがして、畳からいつも茸が生えている。ケチな日本政府はそれを修理してくれないのである。それで、お前たちは、パパの官舎に来ると、「パパ、又茸はえた」とまっ先にその部屋を見に行く。それだけならよいが、お前たちは東京の家に帰って来ると、「久里浜のパパの家には、茸が生えてるんだぞう。畳からだぞう」と近所の人たちにいばって歩くのである。どうしてパパが自分でこの屋根をなおさぬかと言えば、なおすと、その部屋がなおいっそう雨がもるばかりか、別の部屋まで雨もりがはじまるおそれがあるからで、賢明なるパパはそんなつまらぬことを試みないのである。
それでパパの考えというのは、お前たち子供に、これから折をみて、お前たちのパパやママやお前たちの子供時代の出来事、お前たち自身の言ったことやしでかしたことで、大きくなるまでに忘れてしまうだろうようなことがらを書きとめておいて、それをおくりものにしようと思うのである。おくりものというのもさまざまで、ママが三年前にパパの誕生日におくってくれたカミソリは、正直のところけしからぬものであった。今でもパパは毎日それでヒゲを剃っているが、このいまいましいおくりもののせいで、パパは毎日ヒゲを剃らねばならなくなったし、それどころかアゴや頬から何度大切な血をながさせられたことであろう。それにくらべれば、この一円もかからぬインクのしみのついた紙くずは、血を流させる心配もない、全く安全なものであることを保証できる。
お前たち、ユキにミト、それから間もなく生まれて来るチカ、チカお前はまだ生まれていないので女だか男だかわからぬが、それがパパの三人の子供である。チカ、お前はまだ生まれていない。それで浅はかな人間は名前をつけるのに困るだろうと、人のことに余計な心配をするかも知れぬが、パパは少しも困ったりなどしない。誓ってもいいが、お前はたぶん、そして間違いなく男か女かのどちらかであろう。それであるから、パパは、男であっても女であっても、どちらでもかまわぬような名前をもうきめてしまった。お前の名前は千夏ということにする。そしてお産の時に少々雷が鳴り(というのは、お前が初夏の頃に生まれることになっている)あるいは地震があっても(地震は季節をえらぶことはないから)この名前は変えない。男の名前としては、ちょっとばかり風変りのように聞え、パパもその点、とくに風変りでないと言える自信があるわけではないが、よく考えると千春という男の子も千秋という男の子もあるのだから、千夏が男の子の名前に悪い筈がない。それに春よりも秋よりもパパは夏が好きなのだ。千の夏、わるくはない。少し暑くるしそうだが。それにパパはあまり欲ばりではないから千で我慢した。十夏や百夏では名前にならぬし、万夏などとよくばってみても、せいぜいバカと読みちがえられるのが関の山であろうことをちゃんとおもんぱかったし、千一夏などというおつりのきそうな数字も嫌った。ともかく、ものぐさのパパにこれ以上の知恵は浮ばない。もし気に入らなければ、女は下に子をつけるという便利なてがあるし、男だったら、シだとかオだとか勝手に自分でくっつけるがよろしい。だが、ことわっておくが、パパのつける名前はチカまでである。お前の二人の姉がユキにミトであるから、詩人のパパにとって三番目の子供に二音節以外の名前など主義としてできない。
ともかくも、ユキにミトにチカ。お前たちが十五歳か二十歳ぐらいになったら、このパパの書いておく、お前たちの思い出や、お前たちを前にしてこぼしたパパの愚痴や、その他もろもろの覚えがきを読むことができるだろう。その頃になったら、お前たちが今よりも、もっと素直になって、からっぽのお菓子の箱を見ても、そこに空気がいっぱい入っていることに気付くことができるだろう。パパはそうなっていてもらいたいものだと思う。
ユ キ
お前の名前は由希と書く。ユキという名前は多くても、こんなふうに書くのは世の中にザラにはないらしい。といっても、それに特別の意味があるわけではない。パパは仮名論者でもあるいは依怙地な漢字論者でもサラサラない。「ゆき」と仮名で書くのも何かつまらぬし、月雪花の雪の字をあてたりすると、世の中には頼みもせぬのにそそっかしく生まれて来た人間がウヨウヨといて、雪という女は雪のように色白でないとおかしいと思ったりする。そもそも生まれてすぐ名前をつけるので、その頃はどんな赤ん坊でも真赤な顔をしていて、その一人一人が将来雪のように白くなるか、あるいは夏休みに海岸に行って日に焼けて、アフリカ人が縁の下から現われたような顔をして帰って来るかなどわかってしまう筈がないではないか。お前がそんなことでわずらわしい思いをしてもと思って、今のような名前にした。
お前は今、三歳と七ヵ月になる。体はどうも標準よりも大きい。この間もバスの車掌がなんとしても六歳以上だと言って、子供の料金をパパからまきあげた。はなはだけしからんことであるが、パパは決して弱くはないのだけれども、そこで争うようなことをしなかった。こういうのを金持ケンカせずというのだ。というのは、パパは子供の時体が小さかったので、中学にあがってもしばらくの間子供切符で乗っていて、計算すると、大分バスや電車にかりがあり、このくらいのことで、赤字になるおそれはあまりないからだ。しかしこれは、あまりおおっぴらに言うべきことではない。ともかく、お前が三つ半で六歳の料金を取られても、八歳でまだ金もはらわぬ子供もあることだから、世の中はうまく調和して行くのである。これはパパの世の中に生きて得た千に余る悟りの一つである。
それにどういうことか、自分の子供が年よりも大きく見られたりすると、親は不思議と満足な気持になる。三つぐらいの子供を見たら四つですか、と言うに限る。いいえ、うちの子供はまだ三つですよ、と相手が答えでもしたら、そしてもし風の強い日でなかったら、目玉をまるくして驚いてみせることだ。間違ってはいけない。まんまるだ。三角ではない。年ばかりではない、目方にしても同じである。ユキ、お前は生まれた時、ほぼ一貫目あった。だが生まれる前は小さい赤ん坊であると思われていたし、医者も絶対小さいと太鼓判を押していてくれたのである。そもそも人間の気持とは不思議とわからぬもので、生まれた時の目方など、どうでもいいようなものだが、やはり大きい方が親は誇らしい気持になるものらしい。食べる肉なら百匁でも多い方がいいことはわかるが、生まれる子供の場合は母親の苦しみをますくらいのものだ。それでも、パパの友人の小説家でも批評家でもあり、日頃は仲間のあいだで聡明をもってなる田畑麦彦は、パパが「おれの娘は生まれた時、一貫目あった」と言うと、「おれの娘は一貫三百あった」と答えた。そして一貫三百という、全くもう、どうでもいいような目方を口にする時、彼は何ともはや幸福きわまりないような顔をしたのである。
お前は四年前の九月の最後の日の午後、夕刻近くなって生まれた。少々難産であって時間がかかり、同時に産室に入って早く生まれた子供があったが、そちらの係りの医者が、「こっちの方が先に生まれるぞ」と得意気に叫ぶと、お前の係りの若い産婆は、「何言ってるの、ボートレースじゃあるまいし、頭ぐらい先に出たってなによ」と立派に、だが少しばかり口惜しそうにではあるが言い返したのであった。
お前がまだママのおなかに入っている頃、パパの友人の北杜夫という小説家と窪田般彌という詩人がパパに言った。もし女の子が生まれたら心配におよばぬ、嫁にもらってやると。二人は必要な場合は決闘して、どちらがお前を嫁にもらうかをきめると言っていた。二人はその頃、大分年をとりはじめていたが、まだ立派な独身であった。二人は将棋で賭けたこともあったが、その時の様子では詩人の方に分がありそうだった。お前が生まれた時、感心に小説家の方がすぐお前を見にやって来た。だが感心なのはそれまでであった。ともかく、お前は三十時間の悪戦苦闘の末に、やっとこの世に姿を見せたばかりであり、だからお見合いなどするには、どう考えてみても適当でなかったのだ。親のパパが見てもお前の頭は全くとてつもなく、そして妙な方向に細長かった。小説家は白いネルの産着を着て、にわとりのとさかのように赤いお前を、立ったままで、手を出すどころか後に組んで一べつした。そして何とも妙な顔をして「タハッ」とロボットでも出すまいというような声を出すと「これが、そのあれか」と小説家にあるまじき非常に不明確な言葉を吐き、けしからんことには将来妻となるかもしれぬお前を抱いてみようともしなかったのである。それでも帰る時に、「まあ、安心しとれ、二度目に結婚する時には必ずもらってやるから」とパパを慰めるような口調で言った。
詩人の方が、もっとけしからぬ態度を示した。お前の生まれたしらせを受けるやいなや、全く電撃的な速さで結婚してしまったのである。
さいわいなことには、お前はその時小説家の顔を見なかった。お前の眼はまだはれていて開くことができなかったからだ。それでお前は大きくなってその小説家に逢うことがあったら、私はあの時、あなたなどに目もくれてやらなかったのだわ、と言っても、決してうそにはならないだろう。
ミ ト
お前の名前もそれほどザラにあるものでないことは確かだ。だが、この世の中にお前と同じ名前の人間が一人はいる。というのはパパの知っている、ある可愛らしくなくもない女の子がやはりミトという名で、何をかくそうパパはその名前をそっくり盗んでしまったのである。ミト、かくして、パパはお前のために何とすでに盗みまで働いてしまったのである。だが、世の中で何一つ悪事を働いたことのない人間など、おそらく生きてはいないだろう。これは断言してもよいが、定期券を持って一度もキセルをしなかった者など、刑務所に行かなくとも精神病院に行くにきまっているし、コーヒー店で灰皿を失敬したことのない男などは、きっと子供を作ることもできぬような意気地ない男にちがいない。ともかく、小説の題など平気で盗んでしまう男がいる時代なのであるから、子供の名前ぐらい盗んでも、それはいたしかたのない時代なのである。
ことわっておくが、パパはそのくだんの女の子が好きだったのではなく、その女の子の名前が好きだっただけだ。しかし女はそうしたデリケートな男の気持などわかるほど近視眼でなくはないので、お前の名前がきまるまでパパとママの間にひと悶着なしにはすまされなかったのであった。お前の名前は美都と書く。
ミト。お前はあと一ヵ月でちょうど二回目の誕生日を迎えることになっている。お前は今、何でもユキのやることを忠実に真似ようと、ほんとうにけなげな努力をしている。しゃべることも、やることもである。ただ一つパパの観察したことで、お前の可愛らしい間違いを指摘しておいてあげる。それはお前が大ていの最初の音をはぶいてしまうことだ。同じはぶくのなら、一番最後の音をはぶけばよいのにと思う。ユキがテレビでおぼえこんで、水やジュースのコップをさしあげてカンパイという。するとミトはアンパーイと後をつける。日本語のいまだにそれほどうまくならないママは、お前がアンパンでもほしがっているのではないかと思うかも知れぬ。パパが少し腹の虫のいどころのかげんで、お前たちを睨みつけたりすると、ユキはコワーイと言うし、ミトはオワイと言うのである。
ついでだから、お前たちユキやミトがどんな言葉を最初におぼえたか書きとめておいてあげる。子供が最初におぼえる言葉は例外なくママであると、お前たちがまだ何一つ言葉を話せなかった頃、ママが言った。パパだってそうは思っていたのだが、それでも「もしかして」という考えが、その時ひらめいたのだった。この「もしか」は、バルザックも何かの小説の中で書いたが、全くもってつまらぬ時に急にヒラメき、このおかげで人間はどれだけ人生で損をするかはかりしれぬのである。そう、パパはその時、もしか、と考えたのである。もしかして、お前たちにママという言葉よりも先に、パパという言葉を一秒でもよいから早く言わせることができぬだろうか。それでパパはその日から、あらゆる努力をそのために傾けることになった。神にも祈った。しかし日本の神は戦争中、神風を祈ったのに、東海地方に大地震しか起さなかったので信用する気になれず、その頃パパはアメリカインディヤンの雨乞いの唄というのを訳していて、彼等の神さまが、よく人間の願いをかなえてくれるらしいのを知っていたから、その神様に頼むことにして詩を作って捧げた。
夕焼けの国に住むタヌキよ
昼ねの好きな耳の長いブタよ
スカンクよノミよボーフラよ
祈ってくれ
この無力な人間の為に
日照りの野山に、いつか祈って
お前たちが雨を降らしてくれたように
………………
キック ヘック キック ヘック
ガーギリリ ギーガララ
おしまいの変な文句はブタのしゃっくりなどではない。インディヤンの祈りの声なのである。
しかし祈りだけに頼るのも不安であったから、パパは現実にもそのために全力をつくしたのであった。何しろ、ある言葉を人間がしゃべるためには、それを何百回となく耳に入れることが必要で、これは外国語を習う上の原則である。それでパパはデパートの食品部でつくだ煮にして売れるくらいの数のパパをお前たちの耳の中につめこんでやった。おっぱいを飲ませている時もパパ、おしめを取替えている時もパパ、ママが抱いている時もパパ、うぶ湯をつかっている時もパパ、絶えずパパ、パパ、パパ、……とお前たちの耳にふきこんでやった。それだから、赤ん坊の時のお前たちの、色エンピツの芯程の耳の穴はパパでふさがってしまい、いかに錐のようにトンがった言葉をもってしてもそれを突きぬけることなど、よもやできまいと思われた。
何しろパパのこの努力にはママとの間に新しい自動車を買うことが賭けられていたのだ。もちろん、パパは負けても自動車は買うつもりであった。それでも勝てばちゃんとした口実ができるという意味ぐらいは、充分にあったのである。おぼえておくがいいが、世の中で意志にまさる理由などないのである。ただ意志は口実を必要とするだけなのである。ママはそのパパの努力をみると、お前たちが、いったい、おっぱいがパパなのか、おしめがパパなのか、だっこがパパなのかわからなくなってしまうだろうと当惑していた。
お前たちが親不孝なのは実にその頃からのことなのであるが、ユキは結局、恩知らずにも最初にママと言った。ミトも同じことだった。ミトはそれから間もなく、パパパパパパ……と言うようになったが、いくらパパが頑張ってみても、それがパパと関係のないことであることを認めねばならなかった。
人間は失敗によってしか学ぶことができぬと言ったギリシャの詩人はやはり正しい。こんなふうにしてパパは年中賭に負けることによって利巧になったし、いつも勝ってばかりいたママは、その反対にちっとも進歩したとは思われないのである。
パパはこのことがらから、いくつも得ることがあった。神に祈ることは、それがいかなる神であっても無駄なこと。人生には充分すぎる努力もありえないが、そうかと言って努力するだけですべてを可能にすることができない場合もあるということなどである。それに次のような法則めくものまで発見したのであった。子供が最初にママと言ったところで、それが母親を認識したなどと考えるのは、アサハカなことである。牛がモーモーとないたとて、桃が食べたいのだと思う人間があるだろうか。雀がチチと鳴くのは父親をよんでいるのか。子供が発音できるもっとも原始的なやさしい言葉がママであって、それが母親を意味するのは全くの偶然である。それを子供がママと言ったら、自分がよばれたなどと信じるのは、女でなければ所有できぬズーズーしさと言うべきであろう。人間が久しぶりに友と逢いマアマアという声が出ても、それが自然に出やすい声であるだけで、母親とは何も関係がないのである。
お前たちが、ママの次に何という言葉をおぼえたかは、パパの記憶に正確には残っていない。だが、ユキが何番目かにしゃべりだしたのは「トウトコチャッタア」というやつであった。それは不思議な響きを持っていた。どうも、その言葉をおぼえた時期とお前がよちよち歩きをしはじめた時期が重なり合っていることに、その響きの意味があるらしい。よちよち歩き、そして避けがたくころぶということが、お前のこの世に生まれて最初の挫折の経験だったのであろうと思う。その暗号めいた難解な語をはじめて聞くものには、それにほとんど感嘆詞にも比較できるくらいの感情の裏うちが感じられたであろう。その感情には秋や冬の日射しがあたえる、淡い色合いゆえのあの細やかでうつろいやすい陰影がなかったことは確かであるが、そのかわり単純であり色濃さのゆえに印象的であった。トウトコチャッタアは、トンとコロンジャッタという意味なのであった。トウトコチャッタアの方が先でチャッタの方が後からであったというのは、信じ難いようだがそうなのである。チャッタは行っちゃったのちぢまったものらしかった。だが、これは行っちゃった、という意味以上のものを含んでいた。お前たちの認識の中では、そこにあるものは、どこからかそこにやって来たものであるし、ないものは、どこかに行ってしまったことにほかならなかった。お前たちは物の存在と非存在をそのようにしか認めることができなかったのだ。人間はお前たちのその頃の年齢では例外なく汎神論者なのである。物みなには魂があり生命が宿っている。物がそこにあるのは、それが目の前にやって来たことで、はじめから存在のない「無」などというものは、サルトルに聞かなくともお前たちの頭にはなかったのだ。
ミトは二番目の子だけあって言葉も早くおぼえた。ユキよりは三ヵ月くらい早目だったろう。お前はもう、パパ、ブウブウ、チャッタ、という具合に、主語と述語の間に修飾語さえ、さしはさむことをする。
だが、いずれにしろ、その頃お前たちの話した言葉は、お前たちの認識同様に虹のように消え去ってしまう。それはお前たちの単純素朴な世界観が、まるでピカソのカンバスにえがかれた最初のエスキスのごとく、幾重もの絵の具の層の下に消え去ってしまうことなのだろう。
チ カ (1)
お前は何といってもまだ生まれておらぬのだから、あまり沢山のことはパパにわかっていない。しかし、お前はもう間もなく生まれることだろう。パパもママも忘れないだろうことは、チカ、お前がママのおなかにいる間、なんとしても頭を下にしてくれなかったことだ。これを医者や産婆は骨盤位と称してあまり好まない。それで毎回診察に行く度に、ママは寝台の上に横になり、何度医者がお前を逆立ちさせようとしたか、数えきれぬくらいだ。それからママは医者に命じられて毎晩奇妙な恰好の体操を繰返した。しかし、そのすべての努力は無駄であった。医者がお前の頭を下にすることに成功しても、ママが立って歩き始めると、数分もせぬうちにお前の頭は上になっていた。お前がかように起き上りこぼしのようであるのは何故だろうか、パパは心配になってきている。もしかして、お前の頭はカラッポで風船のように軽いのではないか、それともお前のおしりには鉛のおもしでも入っているのではないか。ばかばかしいようであるが、そしてそのことを百も承知であるが、パパはやはり心配になってくるのである。パパの心配は更に先に進む。お前がこの世に生まれた後、今度は逆立ちして歩くようにならなければよいと考え、そうならぬように祈りに似た気持をいだいているし、又、つまらぬ人間におもねる気持からお前がママのおなかの中で示した頭の高さを、この世で棄てさることがないようにと希望したりするのである。
チ カ (2)
この前、お前がまだ女であるか男であるかわからぬと書いた。しかし今は、ズバリ言うと事の次第で、もうお前が女であることは明白になった。古風な言い方をすれば、これでパパは三人の女の子をさずかったことになる。
お前もまた女の子であったと言うと、パパの友人たちの中には不届きにも笑い出すものがいた。パパが三人の子供を持ちその三人が三人とも女であっても、ちっとも笑う理由などはないのである。そんな人間に限ってユーモアをかいさぬ、本当の笑いどころでは何も感じない連中に違いないのだ。
チカ、考えてみると、お前ははじめから女であるにきまっていたし、女であるべきだったのである。どう考えてもチカというのは女によい名前であっても男には少し強引な名前であった。それに女二人に男一人という子持ちは、何事にも調和を重んじるパパの感覚にとっては、全く我慢のならぬことである。子供は女三人か男三人というのが理想である。パパはもはや、他の俗説・異説に迷わされることはないであろう。何故三人がよいか。これほど簡単な理由はない。子供一人はいけない。ケンカの相手がいないから、そしてケンカというものは人生に避けられぬものであるから、必然的に親子ゲンカが起る。二人もいけない。兄弟ゲンカをするととめどがないからである。三人になると仲裁役がいる。あるいは中立をやぶってどちらかに味方をしても均衡がやぶれるから、いずれにしろケンカは長びかないですむ。四人になると二派に分れてケンカをした時の破壊力は大へんなものになる。四人以上になると仲裁役など、あってもなきがごとしである。
われながら、これは立派な理論で、あまり立派すぎて恥ずかしいが、かくのごとくである。チカ、お前が三人目の子供で、しかも女の子であったということにも、ちゃんとそれなりの理由があることを忘れてはいけない。
教育について
(1)
ユキにミトにチカ、お前たち三人は、そろって赤ん坊の時には髪の毛が薄かった。中には一本も無かったものもいる。だが、おぼえておくがいいが、髪の毛とお金は、はじめにあって、後でなくなるよりは、はじめになくとも、あとであるようになった方がいい。
髪の毛のせいかどうか知らぬが、お前たちを男の子と間違えるオッチョコチョイが世の中にはたくさんいた。世の中には、こんなにもたくさんのオッチョコチョイがいるものかと、パパがあきれかえるほどであった。お前たちを連れて歩いていると「お宅の坊ちゃんは可愛いですね」などというものがあるので「いいえ、残念ながら、この子は男の子ではありません」と答えてやると、「いいえ、このお子さんのことでありません、そちらのお子さんですよ」などと、ごていねいに、あやまちのうわぬりを恥ずかし気もなくするものがあったが、相手がオッチョコチョイなのであるから仕方がない。パパは「それもこれも、みんな女です。なんならその証拠をお見せしましょうか」と言って目玉をギョロリとさせてやるのであった。何しろ外見がどう男に似ていようと、大切なところが女であることの確証をパパはちゃんとにぎっていたから、何の問題もある筈がなかったのである。
パパはお前たちを教育するにあたって、まず自分が精神科の医者であることを意識せずにはいられなかった。だが、正直なところ、こんな意識など邪魔くさい以外に何の役に立つものでもない。
物の本によると、パパはコワイものでなければならぬし、少しばかりはケンイ的な存在で、あらねばならぬのであった。それ故、パパはいやしくもママをコワがったり、ママにヘイコラするところなぞ、仮りにも子供の前で見せてはならぬのであった。そうしたパパのイメージは子供の精神には必要欠くべからざるものだ、とその本には書いてある。それでパパは、そこに書かれてあることを実行しようと、けなげな決心をしたのである。だが、そんな本を書く人間は、よく調べると独身であったり、ろくでもない子供を持っていたりする。
しかしパパは正直であったから、そんなことを疑ってみようとも思わなかった。それでお前たちが悪いいたずらなどをすると、パパはできるだけオソロシイ顔で「コラ、お前たち言うことをきかないか。きかないとパパはコワイんだぞ」とどなった。それは、そうしろと書いてあったからで、その時のパパの顔は全くオソロシイ顔で、誰が見ても、否定するものはあるまいと思われたのである。はじめのうちは、効果があり、お前たちはパパの顔を見るだけで泣き出し、パパの権威は非常に高まったように見えた。ちょっと困ったのはあまりにオソロシイ顔をしたので、お前たちが、オソロシサのあまり何かをもらすおそれがあったことで、不親切にもその本には、そんな具体的な注意など書いてなかった。
ともかくお前たちはかくの如く、ママの愛情とパパの権威というものを、お前たちの精神の中でなわのごとくより合わせることによって成長し、人格を作り上げることになっていた。だが、世の中はその通りに行ったらあまりに単純すぎる。
ある日、パパはユキに命令した。おとなしくベッドに行って寝ろと。するとユキは寝るからその前にボンボンを一つくれろと要求した。パパはそんなものはいらんから早く行って寝ろと繰返した。ユキが三歳くらいの時の話だ。ものの本によれば、日頃よりつちかわれたパパの権威をもってすれば、そのくらいでお前は言うことをきく計算になっていた。ところがである。ユキ、お前はその時、パパの顔を見つめると、実に奇妙な顔をした。それは実に寒けを感じさせるような顔であった。そしてお前は何かモゾモゾと繰返しはじめたのだ。はじめのうち、それはなかなか聞きとれなかった。お前の発音は何と言っても、まだ赤ん坊風に不明瞭であったからだ。しかし、四五回も繰返されると、パパはその言葉がわかり、ドキリとした。ユキはこんな風に繰返していたのだ。
「パパ、言うことをきかないか。コラ、言うことをきかないと、ユキちゃんコワイぞ」
実力なき脅迫は、原子爆弾のように、張子のトラと呼ばれるおそれが出て来た。パパの権威をまもるためには、いよいよ暴力をもってしなければならなくなったのを感じた。これは必要な悪で、やはりものの本にそう書いてある。パパはお前たちが、パパの言うことをきかぬ時、不本意ながらお前たちのおしりをピシャピシャとやることになったが、こうすることが、お前たちの精神を健全に発達させるために必要なこととあれば、いたしかたないことではないか。
しかしそれも長くは続かなかった。お前たちは一時、パパの物理的な力を怖れた。だがどうしたことか、すぐに今、現在、パパは叱っているのであり、お前たちは叱られているのであるという状況を理解しなくなった。お前たちは近所百メートルには聞えるという声で「パパがいじめるよ」と大声で叫んだので、パパもそれに負けないほどの大声で、「パパはいじめてるのでないぞ。叱っているのであるぞ」と怒鳴って近所の人間に聞いてもらわねばならなかったのである。ともかく、お前たちの目にはパパの権威など問題ではなく、パパはずばぬけて大きいいじめっ子としかうつらなかったらしい。
しかし、パパはなおもお前たちが、叱られているのだという状況をわからせよう、という努力を続けた。だが、ユキがやりミトが真似たから、チカもまたおそらくそうするだろうと思うが、パパが一つ叩くと、ユキは一つ叩き返した。二つ叩くと二つを返すのである。四つ五つになると、お前は計算ができないものだから、不公平にも数多く返した。煙草屋でおつりをよけいに貰ったりすると、たとえ十円でもうまいことをしたような気がするが、こんなところでおつりが多くかえってくるのは、便所のおつり同様、がまんのならぬことであった。しかし、かくまでしても、お前たちは叱られているということを理解しなかった。時には、最後にパパが手をひくと、「パパ、あすもやろうね」などとぬかす者がいた。こんな時にどうしたらよいかなど、不親切にも、ものの本に一行も書かれていない。だが、パパは利巧であったから、暴力を用いるのもやめにした。火焔びん闘争を指導した日本共産党も、このパパの高価な教訓を彼等のために考えてみるがいい。パパは人生三十以上をすぎて(正確なところはちょっと都合があって言えないが)世の中にはお前たちのように一つのことをわからせようとしても、どうしても分ろうとしない人間があることを見た。そして、お前たちを見て、それらの人間が「子供のごとくものわかりの悪い」といわれる理由をよく知ったのである。
(2)
人間は最小限度の教育を必要としている。それは確かだが、子供の教育は最小限にとどめるべきで、多ければ多くなるほど感心しないものとなる、とパパは思っている。その点ではパパは、子供を自然の手にかえせと主張したルッソーと同じだ。違っているのは、ルッソーが私生児を五人もうんで(歴史家は五人というが、もう一人よけいだったと言われてもパパはおどろかぬ)、それを全部社会福祉施設にほうりこんでしまったのに、パパは三人しか子供を作らず、しかも結婚なんどというものをして自分で子供を育てているところだけである。ともかくも有名な教育者の子供が不良であったり、子供を持ったことのないものが教育者になってしまったりする例が、この世に絶えぬのは、教育の過剰というものが、もろもろの過剰なるものがすべて無益か有害なように、無益か有害だからである。この点では文学の過剰も文学志望者過剰についても同じことである、とパパは信じる。
しかしである。だからと言って、パパは一本の菊の木から百本もの花をとり出し、しかもそれらを同時に花開かさせようとする、気ながな、せん細な、名人かたぎな、魔術めいた、あの菊作りたちの自然を自分の思うままの形に変えようとする努力に感嘆しないわからずやでもない。また、熊をオートバイにのせ、象にポルカを踊らせ、犬にフットボールの試合をさせたりする、あの動物たちにすら可能な教育の力というものを驚かぬ人間でもない。同じようなことは人間の子供たちを教育する上でも可能だろう。だが、人間の子供を前にした時、パパは自分の手のすくむのを感じるのだ。かくして、パパは、お前たち子供らに対していいパパであろうと、なみなみならぬ努力はした。しかし、よい教育者であったかどうかは、あまり自信をもって言うことができぬ。
こんな風に話すと、パパは大変強い信念の持ち主のように聞えるが、正直のことを言うと、パパはお前たちを教育しよう、もっと多くの教育的な努力をしようと試みなかったわけではないのである。ところが、お前たちは、てんで教育など問題にしてくれぬ自然児であったので、かくしてパパは遂にルッソー主義者になってしまったというわけなのだ。
ユキは二歳から四歳にかけてのころ、パパを非常に困惑させた。その年齢は精神分析の知識をかりると、いわゆる肛門期に当るのである。
ひとこと触れておくが、世の中には今もって精神分析嫌いという人種と、精神分析教の信者というような人種がいて、お互い、この世の中で最も冷たい空気を間にして向い合っているのである。時には掴み合いになるのではないかと思う時もあるが、そうならないのはどうしたことか分析学者達には弱々しい女性的な人間が多くて、柔道何段とかボクシングの選手であった人間など一人もおらぬからであろう。しかし、ともかく分析嫌いの人間は、肛門期だとか男根期だとか小児性欲だとかいう分析家の好んで使う言葉を耳にするだけで、その度にヒステリーを起し、トーテムの動物に出っくわしたインディヤンのように、ピョンピョン地上からとび上ったりせぬ方がいい。みっともないことだから。それから何でも精神分析をふりまわすと、自分がフロイトと同じくらい偉くなってしまったように思う人間、それはこの世の中で最も鼻もちならぬ人間であるが、分析嫌いの人間が彼等を好まないあまり、精神分析そのものまで嫌いになるというのは、馬鹿げたことではあるまいか。うまいお菓子には蟻がたかったりするものだ。ことさら美味な場合にはお菓子が見えぬくらいに真黒に蟻がたかる。その蟻を食べてはなはだまずかったり面白くなかったからといって、その菓子が有毒でろくでもないものと言うことは出来ぬのである。蟻を払い落し、おもむろにその菓子を一口食べてみることをすすめる。つまりフロイトの作品を読むことである。
分析教の信者たちは、あまり身勝手な解釈をやめた方がいいと思う。あるフロイトの弟子は言った。フロイトは巨人であった。われわれは小人にすぎぬ。だが、巨人の背に肩車した小人は、巨人よりも遠くを見ることができる筈だと。悪い比喩ではない。ちょっとばかりセンスもなくはない。だが、その男は現実を見たら、そうは言わなかったろう。彼はきっと、巨人の後からついて行く小人は、巨人の巨大な背中しか見ることができぬのを知って慨嘆したに違いない。大部分の分析家たちの前方にある視野をさえぎっているのは、皮肉にも、その巨人の後姿なのである。パパの友人の精神科医は、パパがそう言うと、変てこな声で、俺は小人の中でも一番小さい男だから、フロイトの股ぐらを通して前が見えると反論したが、いい比喩であるが少々品がないのが欠点である。
さて、一歩をゆずって小人が巨人の肩にのぼることができたとしても、小人は依然として小人である。小人は巨人と同じ物を見ることができるかもしれないが、巨人と同じように物を見ることはできぬし、同じように理解することもできぬことを忘れてはならぬ。
どうも、とんでもなく脱線してしまったようだ。ともかく、ユキはその頃、肛門期とよばれる時期にあった。その時代に人間は最初に教育らしい教育を受けはじめるのである。肛門期というのは、自分で自分の出さねばならぬものを出すことをおぼえる時期で、つまり思う時にやったり、やらなかったりすることができるようになるというわけである。それをまた、大人はほめたり、叱ったりする。こんな簡単なことで子供はほめられるのだから、ある種の人間がいつまでも子供でありたいとのぞみ、いっこう大人になりたがらぬ気持もわかろうというものだ。当然のことだが、パパやママは、帰って来ると、お前たちがその日に出すべきものを出したかを知ろうとした。そして規則正しい習慣をあたえるために、おどしやすかしを用いたのである。おどしはさまざまだ。おなかが痛くなってしまうぞとか、おいしいものが食べられなくなるぞ、などというものから、好きなものをあげないぞ、と言ったり、はては暴力沙汰までである。だが、すかしの方は大方一種類である。
家に帰って来ると、パパはお手伝いさんに言う。
「今日、ユキちゃんはやりましたか」
やりましたか、だけでちゃんと何をやったかわかるのは、僅かのことですべてを知るのが天才ばかりでない証明である。
「やりました」
「そうか、いい子だな」
こんな時、パパはいったいどんな顔をしているだろう。考えると何だか尻がむずがゆくなる。知らず知らず、この世でもっとも素晴らしい顔を作っているに違いない。パパが特に精神科医の父親として意識し演技していたわけではない。しかし、どこかに間違いがあったのである。何度も同じようなことが繰返されるうち、ユキはパパが帰って来ると、何もきかれないうちに、
「パパ、おかえりなさい。ユキ、今日、いい子だったよ」
と言うようになった。
もちろん、ある特殊な意味あいにおいていい子だったということである。正直にいうと、パパはすでにその頃から、ある種の危惧を持ち始めていた。しかし、すでに、おそかったことが、すぐに明らかになった。それは確かにいいことであるが、お前は、どんな悪事を働いても、その日、たった一度、やらなければならぬことをやってしまえば、免罪符を手にしたカトリック教徒のごとく、念仏を唱える親鸞の弟子のごとく、一瞬にしてその悪事は消え去り、何のとがめもうけることがなくなると理解したらしいのである。むしろ悟ったと言うべきであろう。何しろ悟ってしまったのだから、もう手をつけられぬ。それに古来、悟った人間は、悟ったとなると一人でだまってじっとしていられるものではないらしい。ユキもそうであった。家に顔を出す人間には、それが酒屋のでっちであれ、そば屋の出前であれ、NHKの集金人であれ、ポーラ化粧品のセールズであれ、誰にでも言い始めたのである。だれも、家の戸をあけるものは、そこに待ちかまえているユキの質問をのがれることはできなかった。
「おじちゃん、今日はいい子か。おばちゃん、今日はいい子か」
「ああ、いい子だよ」
「そう」
そこでユキはお前の、ただでさえママゆずりの大きい目を更に大きくして相手の顔を見つめて感心するのであった。そして溜息まじりに言うのであった。
「じゃ、おじちゃんは今日、もう×××やったんだね」
ことのすじみちを知らぬものは、お前を実に表現できぬような顔付きで見かえした。ある時はこうである。
「おじちゃん、いい子じゃないのかい。いい子じゃないと叱られるね」
「うん」
「ユキ、いいことを教えてやるよ。すぐ、×××すればいいよ。いい子にすぐなれるからね」
顔を赤くしてパパの家から帰って行く人間は、おそらく、この家の親たちは何と教育に意を用いぬのであろうと考えたに違いない。だが、それは深い考えというものを知らぬ、頭の単純な人間たちの考えである。教育に意を用いた結果こそが、そのようなものだったのである。
しかし、このままでは済まされるものでないから、パパは何とかしなければならぬと思った。ものごとのいい悪いは、たった一つのことがらに限らぬことを教えようと、少しばかり努力したのである。だが、お前は、あたりはばからぬ声で、
「ユキは、いい子だよう、×××やったんだよう」
とわめくようになり、それによってパパが顔をしかめると、更に声をはりあげて、繰返すのであった。時、すでにおそし、パパはそう判断せざるを得なかった。人生には、この、時すでに遅しという瞬間がどれほどあるか数えきれぬ。真のオプティミストはこの瞬間を持たない人間ではなくて、この瞬間を後悔することのない人間である。しかし、そこはパパもさるものである。パパはすぐに、この人生で五七九五番目の小さな悟りを開くことになったのであった。それは五七九四番目の、女は甘やかすべからず、という、それよりも少しばかり大きな悟りの次にあたるものであった。それは、ローソクの火は吹けばすぐ消えるが、火事を吹くことは危険であるということである。
それからしばらくの間、ユキはおシリの始末に関した大人の顔をしかめさせる言葉を大声で人の前で発するようになった。これを学問上ではコプロラリーというのである。パパが当惑した顔をすると、機を見ること敏なお前は、ますます大声になり、不幸にもパパを心理的に圧迫をするのであった。それで、お前たちの声が他人の耳に達するのを避けた方が賢明であるという判断に達すると、パパはユキや、それを何も知らずに真似をするミトを自動車に乗せ、やみくもに郊外の道をつっ走るのであった。その頃パパは郊外に住んでいたのである。それで、その時、パパの自動車にすれちがったことのある人達は、何やらわめいている子供を後にのせて、顔をしかめながらハンドルをにぎっている、男の奇妙な表情を見た筈である。
お前たちのママ
(1)
パパがこんな文字を書いたとたん、どこからかママが現われて、パパの背後に立っている。などと書くと、パパたちが素晴らしく広い家にでも住んでいるようだが、隣の部屋の外側はもう庭だから、実は人目につかぬようにこの家の中で姿をかくしている方が無理なくらいなのだ。ママはきっとこわい顔をしながらパパのペンの動きを見つめているのだろう。パパは振りかえって見たわけではないが、ちゃんとわかってしまうのである。それが、お前たちのママである。そんな風に、肩のあたりから、視線が紙の上にサーチライトのように落ちていても、何の圧迫をも感じない無神経さを、パパは幸福にも持ち合わせていないのである。ユキにミトにチカ、言っておくが、お前たちは大きくなったら、こんな言論の圧迫をしてはならない。ここまで書いて、パパは、いったい次のページをめくってよいものか悪いものか、迷っている。というのは、ママは字を読むのが非常にのろいので、今、はじめの三行を読みおわったぐらいのところだろう。この分だと、読みおわってママがパパの後からそっと立去って行くまで二三十分はがまんしなければならないだろう。その間にパパの首が痛くならなければ幸いである。
お前たちのママはフランス人である。そのことをユキもミトもよく知っている。パパが日本人であることも、お前たちは知っている。だが、その結果として、お前たちは自分がアイノコであるということはわからないらしい。それも当然である。それがわかるころには、お前たちもかなり大きくなっていることであろう。
パパが二十四歳でフランスに旅立った時、ある知人の老婦人がパパに向って言った。
「帰りに決して青い目のお嫁さんなど、連れて来るのではありませんよ」
だから、パパは青い目のお嫁さんなど貰わなかったのである。うそだと思ったらママの目をのぞいてみるがいい。ちゃんと緑色だから。
ママの名前はルネという。日本に来てから間もなくの頃、関西に住んでいるある女性から仕事のことで手紙をもらい、ママが日本語の手紙を書けないのでパパが代筆で返事を出した。その女性はママがフランス人であるとは思わなかったらしい。それで折返して書かれた返事には、あなたはどうして変な名前を持っているのだ、自分が前に飼っていた犬の名前はルネだったが、とあった。それを読んだママは実に奇妙な声を発した。喜んだのか悲しんだのかわからぬ。女性の気持は複雑極まりないものだからである。
パパの友人の一人が、あのユキを嫁にもらうと言った、けしからん小説家であるが、ある日パパに向って、「おい、お前のフラウは白痴とはちがうか」と言った。こんなことは一般に小声で言うべきものであるが、この友人はどんなことでも大声でしか話すことができないで、しばしば物議をかもすのである。彼の発声器官にはどうもどこかしらに異常があるもののように思える。彼は新聞か何かに、彼の笑いは白痴的である云々という批評を書かれた時で、自分の周囲に一人でもよけいに白痴的人物を見出して自分の名誉を救いたい気持になっていた。それはそうだが、彼に言われてみると、彼の言うことも口から出まかせの嘘ではないようにパパには思えた。それはパパがいちばんよくママのことを知っているからである。
そのことに気付いたのは、パパが東中野に住んでいた時のことだ。そこは古い木造の大きな家の二階で、ユキが生まれたのはそこだった。そこの家の前の通りは、屋敷に植木の多い家が並んでいて、夜となると、いずこからともなく大きな影がはい出して来て、通り全体をくろぐろと埋めるのであった。そのためマンホールの蓋が盗まれ、道の真中を歩けば電柱にぶつからんですむであろうと思った素直すぎる人間がマンホールに落ちてしまうことが起ったのである。ともかくそこは静かであり駅からも遠くなかったので、パパはここでなら仕事ができそうだと喜んでいた。
ところが数ヵ月したある夜、春の終り頃だったと思う。パパは深い眠りからママにゆり起された。
「聞えない、あんた」というママの声が、まだねぼけたパパの耳に入った。
「何を」
あたりはしんとしていた。
「猫よ。猫だわ」
「そうか、猫か」
どろぼうでも大したことはないのに、猫なら、なおさら大したことでない、と思って再び眠ろうとしたパパは、前よりもはげしくゆすぶられてしまった。
「あんた、猫なのよ」
確かに猫の声が聞えたが、それよりも強く軒を叩く雨の音がしていた。家の近所のくらやみのどこか一つの中に、すて猫が何匹かいて、まるでひよこのようなピヨピヨという泣き声を立てていた。
「猫がお産したのよ。雨の中で」
とママは言った。雨のびしょびしょ降る中でお産をするという考えが、ママの母性というものの傷口に触れ、それがヨーチンのようにしみたらしかった。
「バカ、雨の中でわざわざお産をする猫があるものか」
「じゃあ、どうしたの?」
「すて猫だ」
「すて猫? まあひどい」
フランスにはすて猫という風習がないらしい。
「ひどいかな。ぼくも子供の時に一度猫を捨てにやらされたことがある」
その時、パパは自分の家の縁の下に猫を捨てて叱られたものであった。
「雨の中で、このままではこ猫たちは死んでしまうじゃないの」
「死ぬかも知れないな」
「ここに連れて来て」
ママはパパが今まで寝ていた場所を指で差した。パパは渋い顔をした。だが、パジャマのまま、懐中電灯を持って外に出ると、暗闇の中で二匹の捨て猫をひろって来た。パパはおかげでずぶぬれになり、更には暖かい寝床をその晩、猫どもに奪われてしまったのである。猫など捨てる人間は、もう少し考えてやってほしいものだと思う。世の中のどこかにパパやママのような夫婦が住んでいて、どこでどんなひどい目に会う亭主がおらんとも限らぬものだからである。拾って来た猫は、白と黒のぶちと赤毛の、生まれて二週間ばかりたったと思われるものだった。パパは大家に気がねしながら、その二匹の猫を養うことになった。一ヵ月位は生きていたであろう。一匹は下痢して、パパがビオフェルミンをのませた甲斐もなく死に、もう一匹は大家の飼い猫である、ばけ猫のように大きな雄猫にかみ殺されて死んだ。その時、ママは三日ばかりその緑色の目を真赤にして泣いてばかりいたので、パパは紫色の涙が出て来るのではないかと思った。
ママは四日目の晩にはようやく泣きやんだが、それは又、新しいすて猫を見つけたからであった。
「あんた、すて猫よ」
パパは又夜半にママにゆり起された。そして黙ってすて猫を探しに行った。今度はまだ毛の生えそろわぬ、目を開かない猫で、五六匹もいたろうか。ちゃんとボール箱の中に入っていた。昔はこんな時、箱のすみにカツオ節が置いてあったものだが、戦後は捨て猫道も地に落ちて、そんなしきたりはいっこう守られなくなった。戦後の情操教育の欠如はこういうところに現われているのであって、パパは日本のために憂える。それらの猫は自分で皿のミルクを飲むことも知らない厄介なしろものであって、パパの商売道具の注射器が使われたりしたが、それもあまりうまく行かなかった。しかし、この注射器はもう人間に再び使うことはなかったから、人間は安心してよい。それでママはガーゼで小さい乳首を作ったが、それもだめであった。フランスのジョルジュ・ブラッサンスのシャンソンに、みなし子の小猫に若い女の子が自分のおっぱいをすわせ、それをろくでなしの男たちがよだれを出しながら眺めたというのがあるが、ママがそうしなかったのは、ユキがまだ生まれる前でおっぱいが出なかったからであろう。
五六匹の猫が可哀そうにみな死んでしまうと、ママは又幾日かの間、不幸な猫どものために涙を流した。それから三年間、パパとママが東中野に住んでいた間、春と夏に何匹の猫をひろったことだろう。あまり拾うと代々木にある動物愛護協会にとどけた。その度にタクシー代と、金五百円のカツオ節代の寄付が必要となった。三年間に四十と五六匹は拾ったであろう。人間がその愚行ゆえに地上の主の地位を失って、猫族の天下にでもなるようなことがあったら、お前たちはママの名前を呪文のごとくとなえればよいだろう。そうすれば少なくともお前たちを拾ってくれる猫が必ず現われるだろう。こんな話を読んでも、お前たちは決して、ネコヒロイのママなどとよんで、お前たちのママへの尊敬を失ってはならない。
こうしたママの行動は、友人に白痴的ではないかと言われると、なるほどと思わせるものを持っていた。それでパパが、「お前はどうもハクチ的であるぞ」と言うと、ママはハクチ的とはどういう意味であるかと答えた。これではケンカになどならぬではないか。パパとママがケンカをあまりしない理由は、どうもこの間のびした会話のせいであるらしい。ハクチとは大馬鹿のことであると説明してやると、文法の先生であるママは、「なるほど、ハクチか、ハクチの語源は、歯と口だけで脳みそのない人間のことだろうか」などと真面目に答える。ますます白痴的である。しかし、日本にやって来て間もなくパパが日本語を教えてやっていると、昔々、正直者がありました、という文章を、昔々、障子、着物がありましたと訳したママのことであるから、パパはその位のことで動じないのである。
東中野の家は水の出が悪くなったこともあり、武蔵境の公団住宅の方に引越したのであるが、実のところ春秋のネコの声にわずらわされることがなくなるのをパパは心の中でのぞんだからでもあった。
それに関連した話であるが、ある日、パパとママが連れだって外に出た時、目の前で猫が自動車にはねとばされた。野良猫らしく、首にリボンも巻かれておらなかった。
「あんた、デンワ、デンワ」
と青くなったママが叫んだ。青くなられる方が、パパとしては泣き出されるよりもましである。パパは公衆電話のボックスにかけこんだ。だが、どこに電話をかけてよいものやらわからぬ。ママが保健所と言ったのでそこに電話をかけた。
「もしもし、××通りに野良猫がいるんだがね」
大儀そうな日本国公務員の声が答えた。
「猫ですか、犬ですか」
「犬と猫と間違えたりするほど馬鹿ではないぞ。猫だ。野良猫は保健所の管轄ではないかね」
「はあ、ちょっとお待ち下さい」むこうで上役と相談するか、書類を調べているらしかった。
「猫もそうです」ややあって相手が答えた。
「そうだろう。その猫がたった今、自動車にひかれたんだ」
「自動車にですか」公務員とは、やたらに念を押す人種である。
「そうだ」
「死んでいませんか」
パパは電話ボックスのガラス越しに猫を眺めた。
「そういえば動かなくなったみたいだ」
「それなら、区の清掃課に言ってやって下さい」
パパは電話帳をくって清掃課を呼んだ。
「そうですか、野良猫ですか。それで確実に死んでいるんですね」ここも何度も念を押した。念を押されると、何だか又生きかえって動き出しそうな気もする。
「死にそう、いや死んだらしい」
「生きてはいませんね。息はありませんね」
「死んだらしいな。じっとしたままだ。眼もつぶっている」
「でも、まだあったかくはないですか」
「あったかいかも知れない」
そういったあとで、そんなに正直にいわんでもいいことかも知れぬと後悔した。
「ともかく参ります」
相手もとどめもなく長い電話にようやくけりをつけたいらしかった。パパとママは死んだ猫を見まもって、しばらく待っていた。勤勉にして嘘を言わぬ清掃課員は確かにやって来た。その時には、その猫は完全に冷たくなっていた。
こういうことがあるたびに、ママの顔を見つめるパパの頭の中には、例の白痴的、という言葉が知らず知らず浮んで来る。パパの何番目かの人生の悟りの中に、次のような一行があっても、お前たちは驚いてはならぬのである。
馬鹿の国では白痴は悪徳であるが、小賢しい人間の国では、白痴も魅力である。
(2)
お前たちのママは、ルネ堀内夫人と呼ばれている。またパパが「なだ・いなだ」などというペンネームを一時の気紛れから作ったために「いなだ夫人」などとよばれて目を白黒させていることもある。それもそうだろう、その名前を作ったパパ自身が、「いなだ」が姓か「なだ」が名であるかわからないのであるから。なにをかくそう、パパは非常なはずかしがりやであり、小説を書くなどということに本名を出すのは鉄面皮でなければできるものでないと思ったのである。それにたとえヤブではあろうとパパはお医者である。パパが小説などを書くナマケモノの医者であることがわかってしまったら、患者が一人も来なくなってしまうであろう。これは一大問題である。そこでパパは、一つの非常につつましい、つつましさの模範とすら言うべきペンネームを探した。そしてその頃、ロルカという(正式にはガルシャ・ロルカとよばねばならない。スペインでは母姓と父姓を子供は同時に名のるのである)スペインの詩人を尊敬するあまり、その国の言葉を習っていたパパは、「なだ」というのが「なんにもない」という意味であり、「い」というのが英語の「アンド」日本語の「と」にあたることを見つけたのであった。「なにもない・と・なにもない」それが「なだ・いなだ」なのである。だが、こんなひねくれたペンネームのおかげで被害を受けたのは、何もママ一人ではないのである。パパは、これはスペイン語だと言ったつもりだが、文芸首都というパパの属している文学グループの仲間のある者は、「『なだ・いなだ』ですか。ああ、あれはギリシャ語で『どうでもいい』って意味ですよ」などと説明しているらしい。「なんにもない」と「どうでもいい」とでは、ギリシャ語とスペイン語以上の違いがある。これは決して「どうでもいい」ことではない。
そこにもってきて、ある若い、有名な(そそっかしさで有名なのである)批評家が、「見知らぬ貴女にこんなぶしつけな手紙などさしあげては失礼かと思いますが……」という文句で始まる葉書をパパに書くという事件まで起った。そもそも失礼なのは手紙を書くことではなくて、パパのようにこの上なく男性的な男を女と間違えることである。パパはその批評家の全集が出版される時には、是非書簡集にいれてもらうつもりで、その葉書を大切に保存している。ただ、その葉書は女性にあてられたものらしく礼儀正しく、ものやわらかな調子で貫かれていたが、それがこの国の批評家が案外フェミニストであることを証明しているようにパパは思った。
話が横道にそれた。ママが日本に来たのはユキが生まれる二年前であった。それが逆でなかったのは幸福なことである。船でインド洋をまわって一月もかかって日本にやって来たので、フランス人は何時から黒人になったかと思うほど真黒であった。ちょうど洞爺丸を転覆させた台風が日本に来た時で、船は一週間も遅れたが、海の神ならぬ山の神は、悪運つよく、船酔いもせずケロリとしたもので、パパに前途けわしかるべき予感をあたえたのだった。
そのママが日本にやって来て最初にびっくりしたのが美容院であった。美容院には一見して特に変ったことはなかった。髪の毛も天井に顔を向ける西洋式の洗髪法で洗う。ところがその後がいけない。いい気持になっていたママは頭といわず肩といわずポカポカとなぐられた、と思ったのである。痛くはなかったが、頭のてっぺんなど叩くのは明白な悔辱だと感じたらしい。もしパパがそばについていてやらなかったら、ママは憤然と金も払わずに帰って来たかも知れぬ。ママにはそれが日本式床屋的マッサージという、百パーセント日本独特の、効果のほどは不明だが、形だけはというサービスであることがわからなかったのである。
ママは日本に来て、あちらこちらの大学でフランス文学やフランス語の会話を教えることになった。外国から来て、その国の風習に慣れるには、少なくとも一年はかけねばならない。自分だけは頭が非凡であるから三ヵ月で充分だなどと思いあがらぬがいい。
ママが最初に会話のクラスに出たのは、流感で東京のほとんどの人間が咳をしていた頃で、ママはその時も悪運の強さを発揮して元気であった。クラスに入ると、こともあろうに会話のクラスであるというのに、そこにすわっている生徒は、すべて口ばかりでなく顔半分はかくれてしまうようなマスクをかけている。いったいマスクをかけていて話などできる筈がないではないか。それを見るとママは、これは「貴女なんかと話はしたくない。会話の練習などまっぴら」という無言のデモンストレーションであると判断した。どうもひがみっぽい解釈をするようである。これはママがフランス人であるためか、女性という性がそうさせるものか、パパは知らぬ。ともかくもママはしばらくの間、そのマスクのお化けの一群と睨み合っていた。そこに不幸なめぐり合わせを持った男が現われた。こういう場所に出て来るのは、たいがい、どうしたことか男である。その男は遅刻したので、なるべく人目につかぬよう、ぬきあしさしあしで教室に入ろうとした。幸か不幸か彼はマスクをかけていなかった。ママの目がそれを見落す筈がない。ママはクラスの中で唯一人、自分に好意を示した(と思ったのである)男を見ると感激した。嬉しさのあまりキッスしてやりたいくらいだったとママは告白したが、パパはママが本当にキッスしなかったことを希望する。女は感情的になると我を忘れ、記憶喪失することがあるので、実際はどうであったか、パパには確信がない。ともかく、その男を見ると嬉しさのあまり、とびつかんばかりになって「あなただけは、私とフランス語の会話の勉強をするつもりですね」と言った。その男は、ママのフランス語の言葉を理解できたかどうかわからぬ。彼は真赤になったために、マスクがあればかくすこともできたであろう、とうがらしのようになった自分の鼻を人差指でさし、それから鼻の前で風を起すように手のひらをヒラヒラさせると、「ジュ(私)ゼンゼン(これは日本語)」という言葉を必死になって繰返したのであった。
ママはもう今では、このマスクというものが日本独特の感冒予防法であることを知っている。マスクというものは外国では医者が手術する時にするか、夫婦げんかをしたかあるいはいたずらが過ぎて唇をかみつかれた浮気な男がその傷をかくすためぐらいにしか、かけぬものなのである。日本人は茶の湯や、能が最も日本的なものだと思っているらしいが、このマスクなどは、それよりも何倍か日本的な習慣なのである。
馴れるということはおそろしいものだ。そのママが、今ではひとかどの日本通のような顔をして、最近日本に来た外国人たちにこの国の人間や風習について教えたりしている。そればかりではない。パパたちのようなフランス語をかじった日本人たちが作り出した新造語にタタミゼエというのがあるが、それは畳化したという意味で、いつの間にか、つけ物くさく外人がなることで、ママはまさにタタミゼしてきたのである。この間は、うなぎ屋でママのつけ物のたくあんをこんなものは食べまいと思って失敬したら、ドロボウとママに大きな声を出されて、たまげた。いつの間にか、はじめは鼻をつまんでも食べられなかったつけ物まで好きになっていた。
フランス人というのは、もともと血の気が多くて、すぐ怒る短気な人種であるのだが、そのママが最近はあまり怒らなくなった。たとえばつい最近の話だ。ママの主人(それがパパのことである)が日本人であることを知った者が、ママにたずねた。
「日本人の主人は、フランス人の主人にくらべてどうですか」
なんでもない質問のようだが、これをなんでもないと思う人間は、頭のめぐりがよほどにぶいのである。論理的に考えると非常に失礼な質問なのである。しかし、ママは別に怒りもせずに静かに答えた。
「残念ながら、私はまだ一度しか結婚していないので、まだくらべることができませんわ」
そのママが最近パパに向って言った。
「あなたも、ズイブン古くなったわね」
パパはギョッとしてママの顔を見つめたが、本人はごくあたり前の顔をしている。物わかりの良いパパはすぐそれが、あなたも年をとってきたわね、の意味だとわかって、そっと胸をなでおろしたのであった。
悪徳について
ヌ ス ミ
パパは昔、「盗め、殺せ、火をつけよ」という題の評論を書こうと思ったことがある。最近方向を変えて「愛される共産党」などというキャッチフレーズを考えはじめた共産党指導者など、恥ずかしくなるような物騒な題だが、それはごく真面目でじみな評論となる筈であった。
しかしパパは誰かのように「悪徳のすすめ」をお前たちにしようとは思わない。悪徳のすすめなどというのは、悪い意味で最もジャーナリスティックな、趣味の悪いアイロニーである。パパはお前たちに善行をすすめない。さりとて悪徳もすすめようと思わぬ。偽善者にしたくもなければ、偽悪者にしたくもないのである。それは、ことわっておくが、パパが偽善者でも偽悪者でもないことを意味しない。パパは偽善者であったこともある。偽悪者であったこともある。又偽悪者どころかほんものの悪人であったこともある。パパの短い半生をふりかえってみて、正直に告白すれば、そう言わざるを得ない。パパの現在持っている哲学によると、人間は一生善人であることも、悪人であることも、むずかしいというよりは不可能なのである。人間は時には善人であり、又状況のために悪人になり、偽悪者にも偽善者にもなる。それが生きている人間のさだめなのである。
パパは洋食を食べるのに無理してキーキーと音を立てて肉を切ることをすすめないし、ズルズルと音を立ててスープを飲めとも言わない。そんなことは何と言ってもしない方がいいし、しないでもすませられるものだ。ただ日本で習う洋食のマナーなどというものは、絶対的なものではないことを知っていてもよろしい。日本のレストランで、しばしば苦心してフォークの背中に飯粒をのせようと、空しい格闘をしている人物を見かけるが、彼等は欧米人はみなそうして食べていると信じているらしい。フランスの普通の家庭ではフォークを右手に持ちかえ、パンのはしの助けをかりて、フォークのくぼみに飯粒をのせて食べても特別不作法とは思われないし、中部ヨーロッパの国々では左手に持ったままで、フォークのくぼみを使って食べるのが正式のマナーである。その方が合理的であるし、食事は何も曲芸ではないから、好んで難しいことをするにおよばぬ。外国で日本人に逢い、食事の時にフォークとナイフを手にしてまるで親の仇とでも向いあっているような顔を見ると、日本人が外国に行く時消化剤を忘れぬ理由がおのずとわかる。
しかし盗みなどというのはもっと本質的な問題である。何でも盗め、とパパは言わぬ。しかし盗まねばならぬ時があったら、ためらうな、とパパは言う。盗むということは、ふだんはせいぜい避けるべきだが、一生を通じては避けられぬ行為なのである。パパだって小さい時、しばしば盗みを働いた。隣の家の柿を盗んだことも、国有財産の栗を無断で拾って(これも正確に言えば盗みと変りがない)食べたことも、神社のサイ銭箱の外に落ちた銅貨を拾ったことも、おいなり様に馬鹿どもが持って来た油揚げを横取りして、たきびであぶって食べてしまったこともある。こんなことはつつみかくさず話す。ともかく神様がお金を使うこともないし、おいなり様が本当に油揚げを食べることもない。でも持って来るものは、神様やおいなり様にあげるつもりで神主などにやるつもりでないから、神主どもは盗みではないまでも詐欺を働いているのも同然である。しかし、昔でもパパのしたようなことはいいことではなかった。それでそんなことをしながらも、パパは少しならず心に悩んだのである。
十五夜の月見だんごを盗んだこともある。現在、この風習が子供の間に残っているかどうか、パパは知らぬ。だが、パパの記憶を証人とする限りにおいて、十五夜の日の夕方ほど幸福だったことを見出すことはできない。十五夜の夜は待ちこがれるパパにはなかなかやってこなかったものだ。何しろ一年に一回しか来ないのだから。その頃には東京にもまだ沢山の原っぱがあって、パパは夕方になるまで素晴らしい赤や白のススキを切り、萩の美しいしげみなどのある秘密の場所から、それらの花を摘んで帰って来て、近所の家にまでくばってやった。それらは惜しげもなくくれてやったのである。近所の人間は、それが小さいドロボーどもの悪事の下見であることを見破るほど賢明ではなかった。それから一間ほどもある拇指ほどの太さの竹の先に、真新しい釘を植えこんだ。それから勉強部屋の窓の外にあらかじめ靴をそろえて置く。これで準備はすべてととのったわけであった。食事が済むと自分の部屋にとじこもると見せかけ、部屋の入口に内側からシンバリ棒をかけて、パパのママ(つまりお前らのお祖母さん)が部屋をのぞけないようにしておいて窓から抜け出したのであった。その頃は庭に植えこみのある家が多かった。又縁の下のある家も多かった。これらのものを新しい家から取り去った建築家たちは、地獄におちるがいい。ともかくパパたちが影をひそめることは困難でなかったのである。縁の下のカビくさい土のにおいをかぎながら、月見だんごの味を考えてはよだれを流す、そしてだんごや梨や栗などを盗むチャンスを辛抱づよく待ち続ける。それが、いかに幸福に満ちた瞬間であったか。この瞬間を知ったことのない人間など、政治家や裁判官などになる資格があるかを疑う。ともかく縁の下で、人間ははかり知れぬほど賢くなる。これもパパの悟りのひとつである。
ケチで盗まれることの嫌いな家は、お月様がよほどのヤブ睨みか、品の悪いのぞき趣味でも持っていなければ見ることのできぬ場所に、それらのおそなえ物を置いていた。しかし、それを片っぱしから盗んでやった。食べきれぬほど盗んだ時は、盗みの下手な連中にもわけてやった。そうやってパパたちが縁の下や植えこみの陰で盗みを働いていると、ヤブ蚊の方は又、パパたちの血液を公然と盗んだのであった。よその家の縁の下の地図がわからないで、知らずにセッチンの横でチャンスを待ち続けたために、においが二三日しみついて困ったこともある。犬にほえられてあわてたパパの仲間の一人は、その頃まだあちこちにあったコエダメというものに片足をおとし、そのままパパのあとをついて来たのでくさくて困ったこともある。その彼が今ではひげなんどはやして歯科医をしているが、彼の名誉のために名前は言わないことにしておく。そうやって、家に帰って来ると、自分の家の月見だんごが何時の間にかカキ消えていて、くやしさのあまりネコイラズでもいれておくべきではなかったかと考えたりしたのであった。
そのパパがお前たちに、何で「盗むな」と言うことができよう。チカ、お前は今日も台所にしのびこみ、パパがお客のために買って来たロースハムを口にくわえたままで逃げ出した。まさにドロボー猫のごとき姿であった。パパは一歳と三ヵ月のお前を叱ったが、お前のその道の才能を認めなかったわけではない。
さて、長い前置きであったが、実はパパの言いたかったのは次のようなことなのだ。
盗むこと、それは信じられまいが、もっとも人間的ないとなみの一つなのである。人間はプロメテをそそのかして神から火を盗むことから始めた。それにくらべれば十五夜の月見だんごを盗んだとて、何のとがめを受けることがあろう。おいなり様の油揚げを横取りしてタキビであぶって食べてしまっても何のタタリがありえよう。だが盗むことの楽しみは、盗まれる方がいかにして盗まれまいかと努力し、盗まれた時にいかに怒るかということにかかっている。番人のおらぬ国有林の栗林で拾った栗の味など忘れたが、釘で突いて盗んだ味のない月見だんごの味をパパがいつ忘れる日が来ようか。盗みはしかし悪いことである。悪いことでなかったら、良心の痛みがなかったら、誰が盗みに喜びを感じようか。
盗みの中で最も楽しかるべきものはヒョーセツである。こんなことをパパが口走ると、憤死する人間もあるかも知れぬが、そんな人間に限って世の中に役立たぬ人間であるから心配するに及ばぬ。あらゆる盗みのなかでヒョーセツこそは、何度繰返してもよいが、最も人間にふさわしい盗みである。モリエールは盗んだ。悪びれずに。シラノ・ド・ベルジュラックから盗んだのである。日本の近代小説などというものは、外国の近代の代表的な小説を盗むことで始め、盗みとおして来たと言ってもよい。藤村の「破戒」の原型は何であったか。ダフニスとクロエの物語が日本に移された時、どんな話になりうるか。お前たちが大きくなったら考えてみるがよろしい。盗むことよりも、盗作を見抜くことができずに賞などをやってあわてる審査員などの方が、この世では有害でなくとも無益である。
パパがこの方面でどの位盗んでいるか知る人ぞ知るである。しかし、それを知っている人間も、ちゃんと盗みを働いており、パパがしっかりとその尻尾をおさえているものだから、みみずほども静かなのであるにすぎない。ただ、この種の盗みも、少しぐらい尻尾を出すくらいがよろしい。完璧すぎるということに人間的魅力はない。チャップリンはライムライトの中で左手でバイオリンを弾いてみせたが、あまりうまく弾きすぎたので、観客は誰も気付いて笑わなかった。
パパはお前たちに「盗め」という。しかしこれは至極まじめな話なのである。死んだ人間からであろうと、生きた人間からであろうと、その胸から火を盗め。人間は他の人間の胸の中に燃えている鬼火のようなものを盗むことによって、はじめて生命を得るのである。ここで盗みははじめて素晴らしいものになる。しかし石炭や石油のようなものを他人から盗むかぎりにおいては、盗みはいとわしいものにすぎぬ。この地上に善人がいても、人類は滅びることをまぬがれぬであろうが、この種のぬすびとが絶えぬかぎり、精神は滅びぬであろう。
ウ ソ
ウソをつかずに人間は生きることができない。盗むことなしに生きることができぬのと同じようにである。しかし、その事情は異なる。
ああ、盗みを働かなくなってしばらくになる……
これは、ジョルジュ・ブラッサンスの歌う唄の文句の一つだ。もちろんパパの好きな唄の一つである。盗むことなしには生きられぬとパパは書いた。だが、盗みは人生に一回は必要だが、それで充分であることもある。しかし、ウソは一生の間、つき続けねばならぬものだ。ニーチェ的な言い方を真似すれば、人間は生命の意志によって盗むのであるが、ウソは常に心ならずもつくのである。
たとえば、パパはママと結婚する前に、パパがエゴイストであり、自分勝手でわがままで、それでいてろくでない人間であり、忠実なところの少ない人間であると、正直に一つもつつみかくすことなく話したのである。だが、ママは何度パパがそう話しても、それを信じようとしなかった。そんなことを口で言う人は決して実際にそうであることはできない人だなどと勝手にきめこんでしまっていた。それゆえ、パパも遂には真実を主張しきれずにウソをついた。パパは後のことを考えて自分をうんと悪く見せるような話をしたけれど、実はそれほども悪人ではないのだよ、とママに言わざるを得なかったのである。そんな時、女は欲ふかではあるが浅はかでもあって、「そら、私の言ったとおりじゃないの、私の目はね、これでも節穴じゃなくてよ。チャンと本当のことはわかってしまうんだから」とママは得意になって言った。いったい、なんという節穴だろう。人間はかくあるごとく物を見るよりも、かく見たいと思う気持に引きずられて真実を見あやまるのである。ユキにミトにチカ、お前たちも人にウソをつかれることも人生にはあるであろうが、決してうらんだり怒ったりしてはいけない。それは身から出た銹というべきものだ。
パパの友人の一人は、非常に率直に自分の心を言葉に現わす人間であったが、知事の娘をゴウカンしたいなどと正直に口走ったりしたために、ある妄想患者の女性が彼にゴウカンされたと訴えた時に、警察で調べられたりした。彼はある東京の近くの県の、県立病院の医者をしていた時、非常に腹の立ったことがあったので、彼の気持をそのような言葉でかくさずのべたのである。それ故、知事の娘が四十八歳のオールドミスであることを知った時には、彼は「私はもうそんな気はしなくなった」と正直にのべたのであるが、そんなことをもう誰もかまってくれなかった。彼はそのように、全く、真実しか、あるいは真実と信じていることしか言わない稀有の人物であったのだが、彼は世の中ではホラ吹きとしてしか考えてもらえないのである。
ウソというものは、ただ成行きにしたがってつくということに満足してはいけない。これはパパがお前たちに一番強調しておきたいことだ。世の中では、すくなくとも人間的な法則の支配するところでは、ひとかけらの真実よりも、真実らしい言葉の方に、より大きな価値がかかっているのだ。そしてウソは言うべきであるのなら立派にウソをつかねばならぬ。
ママが日本に着いて間もなくであった。その頃、神風タクシーというものがあって、タクシーに乗ったら最後、生命保険会社も申込みを受けつけてくれなかった。というのは本当かどうか知らんが、ともかく、生きて目的地に着くと反対の方角に歩きだしたりして、ママはよく道に迷ったのであった。それでタクシーにはよほどのことがなければ乗らなかったのだが、それでもある日、パパとママはどうしてもタクシーに乗らなければならぬことになった。するとママはパパに、この婦人は心筋梗塞の発作があってから間もないから、ユックリ走らせてくれと運ちゃんに言えと命じ、自分はさも苦しそうな顔をして座席にひっくりかえったのであった。パパは何時もママの言うことをよくきく。これはウソではない。その時もちゃんと言われたとおりに運ちゃんに言ったのであった。すると、タクシーは、まるでウソのように、葬式の車のようにユックリと走ったのであった。その運ちゃんは、この心筋梗塞の婦人が三人もの、そして三人ともが一貫目近くもある子供を生んだとは、夢にも考えなかったであろう。
次の言葉はお前たちの決して忘れてはならぬものである。
ウソはミをたすける。
かずかずの偶然について
パパがお前たちに、こんな雑文をぼつぼつと書き綴りはじめてから、いつの間にか二年近くにもなるのである。はじめの時に、チカはもう名前は人なみに持っていたが、まだママのおなかの中にいて、おなかの内側からママを蹴とばしたりしていたのであった。それが、今は自分で歩いて盗みぐいなどを働いたり、カタコトの話をしたりする。
チカ。お前にもパパは、しょうこりもなく、ママという言葉よりも先にパパという言葉を発音させたいと思い、ユキやミトの時にやって失敗した試みをもう一度繰返したのであった。パパは自分の顔を指さし、そしてパ・パとできるだけハッキリとした発音で五万遍と繰返したのである。そしておどろくなかれ、お前が最初に発音した言葉は、ママでなくてパパであったのだ。これにウソ・イツワリはない。もちろん子供の発音能力の不完全性によって、それはバパと聞えたが、それは大した問題ではあり得ないことではないか。パパは自分が先によばれたということぐらいで大喜びする小人ではない。それよりも、これは学会をゆさぶるような大事件ではないか。これは報告せねばならぬ。
だが、しかし、深い思慮を有するパパは、そこで理性を失うほど喜んでしまったりしなかったのである。そもそも物ごとの発見というものは全くの偶然によるのであって、幸運と呼ばれるものに支配されている。お前たちが科学者になろうと思うのなら、発見に重きをおいてはならない。発見そのものは決して科学ではなく、そのためだったらお前たちのママのように星占いに夢中になり、女性の週刊誌を読みあさるがいい。だが、科学は発見の直後から始まるのである。発見の前後に科学がある。これは人生では最も大切な真理であるから、お前たちが忘れることがないようにと希望する。
さて、科学者のパパは、その重大な発見のあとで、チカが何故に他の娘たちと違って、パパという言葉をママという言葉よりも先に発音するようになったかを調べた。
チカ、話がとぶようだが、お前は大変なカンシャク持ちである。これは、生まれた直後からそうで、オッパイの出がちょっと足りないだけで十日も絶食させられたような、怒りに震えた泣き方をするのであった。それから少したつと、お前は外でも家の中でも、地べたにゴロゴロ転がりまわって怒るのであった。全く、こんな子供は見たことがない。これは日本的な怒りかたではない、ゼッタイ、ママの血をひいているからであるに違いないと思う。
そのチカに悪い姉どもがいたのを、パパは失念していた。彼女らは、パパが五万遍もチカの耳に繰返したとすれば、お前に、怒った人間が相手に投げつける、バカという言葉をその倍の十万遍も繰返して教えこもうとしていたのである。そんなことを露しらぬパパは、チカが自分を見てバパと言うと、それがバカの訛りであるとは考えつかなかったのだ。おこりんぼのチカは、ウマウマなどよりも、バカの方が生存に必要欠くべからざるものであったらしい。最初のうちはいざ知らず、今となってはパパはもういたずらな幻想を抱かない。チカは自分の名はイカと呼ぶが、バパは遂に正真正銘のバカへと変化をたどってしまった。
ともかく、子供の最初に発音する言葉などというものは、人生のさまざまの偶然の中の一つと考えるべきである。人間が自由を持ちうるのは、この偶然の中を魚のように泳ぎまわる時だけだ。法師蝉はあの小さい体にしては非常に複雑な鳴き方であるが、そこには偶然も教育も自由もない。親と同じように鳴く。人間の言葉が最も単純なものであれ、単なる鳴き声と違うのは、そこに偶然と、そして大切なことだが、意味が入りこんでいることである。
偶然と言えば、人生のめぐりあいというものは、それなくしては人生の存在しえないような偶然の一つである。お前たちはパパとママが逢わなければ生まれて来なかった。正確を尊ぶパパが、結婚しなければと書かなかったのは、結婚しないでも子供の生まれることや、生まれかかったりすることがあるからである。お前たちも、こうした正確な言葉づかいをパパから真似るとよいだろう。パパがフランスに行くことがなかったら、ママに逢うことはなかった筈だ。そしてパパがフランス語を勉強することがなかったら、フランスに行くことはなかったから、ママと逢うことはなかったろう。こう考えると、パパがママを見つめて時々タメ息をもらす理由もわかるではないか。だが、ママは、パパのタメ息のおわりごろになってそれに気付くと、自分が又新調の洋服を作ったことか、それとも新しい首飾りに月給の半分を使ってしまったことに、パパがタメ息をついたのだと思っている。女性が生まれつき哲学者になれぬゆえんである。もちろん、女が哲学者などになったら、世の亭主どもの不幸、これにすぎるものはあるまい。
五十年ほど前のことだが、真理を追究するあまり、勇気を持ちすぎたドイツの精神病学者が、女性総白痴論という有名な論文を発表した。これはウソでもホラでもなくて、ドイツ医学中央雑誌を調べればちゃんと見つけることができるだろう。その論文は、女性はすべて白痴であって、それが証拠に古今、女の天才は世に現われなかったと主張する。特に作曲家には女の天才は一人もいない、と彼は言っている。バッハ、ベートーベン、モーツァルト、ブラームス、……なるほど見当らぬ。しかし、可哀そうに、この学者は世の中の女性から大変な攻撃を受けた。真理は常に受難をともなうものだ。
ショーペンハウェルの母親は詩人であったらしいが、ある日、夜会に社交界の人々を招いた。そこにやって来たゲーテは、若き日のショーペンハウェルと話すと、母親に向ってあなたの息子は間違いなく天才であると告げた。そのとたん、彼女はかたわらに立っていた息子を、二階の階段から下に突きおとした。彼女は一家に二人の天才が出ることはない、という当時の定説を知っていたからである。彼女は自分が天才だと思っていたから、ショーペンハウェル天才論は、彼女に対する明白な侮辱と考えたのであった。
どうも話がそれてきたようだ。ともかく、かずかずの偶然が重なってお前たちは生まれて来たのだ。それは考えるとよくよくのことである。だから、お前たちがどんなシロモノになるにせよ、考えてみるとパパは諦めねばならぬと思うのである。
パパがお前たちのママに求婚したのは、パパの二十五歳の誕生日であった。誕生日に求婚したりすることの是非は、深くは問題としない。しかし、女というものはつまらぬ習癖を本能的に有するもので、こんなことは女であるお前たちにあらためて教える必要もないことだが、人生のつまらぬ些細なことを、よくもまあ、とあきれる位覚えているものである。男が自分に求婚した日付や時間、その時男は何色の服で、穴のあいた靴下を穿いていたとか、自分は何の紋様の服を着ていたとか、男が自分をはじめにどんな風に呼んだとか、その時、少し吃ったとか、あるいは最初に一緒に食事をした時に味噌汁を三杯おかわりをしたなどということを、手帳にも書かずにおぼえている。それでいて自分の年齢など、最も大切なことであるにもかかわらず「あれ、わたし三十三だったかしら、三十五だったかしら」などと平気で忘れてしまうのである。そうして、男がそんなつまらぬことを覚えておらぬからといって腹を立てるのだから、つきあいにくい。そういう点で、日を忘れぬために、誕生日に求婚するなどというのは、賢明なことである。と言いたいのだが、悲しいことには、その時、パパはそのことに気付いていなかった。二つの日が同じだったのは、全くの偶然で、翌年になってはじめてパパは気付いたのであった。
その頃、パパとママはパリの大学都市に住んでいた。パパは日本館という日本の城をかたどった建物に、ママはアメリカ館という、内庭に柳の植わった建物に住んでいたのだ。ママの友人の一人に、その柳の葉を一枚むしって口に入れ、ラテン語の単語や慣用句を一つ覚えると、それを目を白黒させてのみこむ不可思議な人物が一人いて、その柳の木は危うく丸ぼうずにされるところであった。その男が私に、「ニヒル・フマニ・ア・メ・アリエヌム・プトー(すべて人間的なるものにして、わが心をひかざるものなし)」という、テレンチウスの、アデルフォスの中にある言葉を教えてくれた。もちろん、その時も彼は柳の葉っぱを一枚、あやまってのみくだしたのであった。そして、これはパパのためだと言い、パパはありがとうと感謝した。そこに偶然柳の木が立っていなかったら、パパがそんなラテン語の文句を知ることはなかったろう。そして、柳の木のかわりにとげとげの葉を持つ柊の木が立っていたら、彼の語い《ヽ》は非常に乏しいものとなったであろう。彼はパパにもう一つラテン語の文句、あまり深遠ではないが、しかし実用的でなくもないものを教えてくれた。それが、「カヴェ・カネム(犬に御用心)」であった。
アメリカ館ではいろんなもよおしがあったが、パパはよくその会に出た。当然そこでママの姿を何回も見ることになった。ママを見るために、そのもよおしを見に行ったと書くと、ママを少しばかり喜ばせることになるが、ママは又、そのもよおしものを組織する役員であったのは、まことに不思議きわまる偶然というものであった。
そんなもよおしの中に、各国の学生が、自分の国の詩人の詩を、母国語で朗読する会があったのである。英語の学生は、T・S・エリオットの詩、「何とか何とかの愛の歌《ラブ・ソング》」という、“Let us go then, you and I…”の一行で始まる詩を、ドイツの学生はリルケの「ドイノ悲歌」の一節を、フランス人はアポリネールを、そしてスペイン人はガルシャ・ロルカの、「イグナシオ・サンチェス・メヒアスに捧ぐる弔歌」を朗読した。パパはスペイン語を知らなかったし、その時まで詩を書いたこともなかった。もちろん、ガルシャ・ロルカの名前も知らなかった。しかし、ロルカの詩を聞いた時、何かを我慢しているような状態にあったのではないが、突然不思議な身震いを感じたのである。正直に申して、パパはその詩をその時、何一つ理解できなかった。今でもわかってなどいない。それは非常に難解な詩なのである。しかし、それは最初の一行からパパを身震いさせ、そしてパパから理性というものを全くうばいとってしまったのであった。その時、パパは今もって考えることのできない、二つの馬鹿なとりかえしのつかぬことをしでかしてしまったのだから。パパはその日から詩人になってしまったのだし、ママに求婚などしてしまったのである。
十年ぶりのパリ
ここまで書いてきた時、パパはお前たちを日本におきざりにして一人でパリに来てしまった。実をいうと、パパがヨーロッパに来ることは、一年半も前からきまっていたことなのだ。お前たちは今年の夏、ママとフランスで夏休みをすごした。そのことがきまっていたから、パパも一緒にフランスでお前たちと一緒になろうというコンタンで、国連保健機構の留学生の試験を受けたのだ。さて、試験がすみ、留学がきまったので、パパは今年の二月に出発して、六ヵ月間フランスにいたいという希望を出し、おとなしく待っていた。半年ほどたってもその返事が来ない。しびれをきらして厚生省に問いあわせると、「私の方も、国連からの返事を待っているんですがね」とそこの役人は非常に親切そうな口調で言った。そのあと二三回、同じように確かめたが、返事には変りなかった。二月のはじめに出かければ、六ヵ月の勉強が終ると八月のはじめから一ヵ月くらい、お前たちと一緒にフランスで夏休みがすごせる勘定である。などと考えていたら又厚生省から呼出しがあった。書類が手違いで国連に送られていなかったから、三日以内に早く書き直して出せというのである。この時、今まで親切らしい態度だった役人の様子がガラリと変った。そもそも手紙を出さないでおいて、返事が来る筈がないではないか。それでいて、けしからん、と怒っている。何がけしからんのか、パパにはわからなかった。そんなことをしているうちに、ママとお前たちはフランスに行ってしまい、お前たちが日本に帰る日に、パパがフランスに出かけるようにと命令が来た。それで予定を少し変えなければ、お前たちと北極の上空ですれちがうところであった。信じられぬようなことであるが、本当のことなのである。
ともかく、パパはこうして、今、パリに来ている。夜の十時半に羽田を出て十七時間半でパリに着く。その間に二つ夜があって、真夜中に昼飯を出され、昼飯のあとがすぐ朝飯で、そして翌日の朝にはパリに着いているという、実にややこしくて、いかにもわけのわからないことが起った。前日の夜は東京にいたのに、翌朝の十時にはシャンゼリゼーのカフェのテラスで隣のアメリカの女の子のフランス語を聞き、凱旋門を見上げながらコーヒーを飲んでいた、というわけだ。ジェット機ですらこうなのだから、人間衛星などに乗せられたら、どうなることかと思う。人間衛星は洗脳に一番よい。これで一日地球を廻らせると、二十四時間の間に夜と昼が十何回もある。それで地上におりると人間はみな宇宙意識を持つようになり、共産主義者でも資本主義者でもなくなるだろう。とそう考えたものがいたらしいが、地上に帰った宇宙旅行者たちの第一声は「××主義の偉大なる指導者万歳」などという、すべての詩人の空想を裏切ること甚だしいものであった。しかし、パパは考える。世界の交通手段が発達すればするほど、地上の距離がちぢまればちぢまるほど、そして人間が宇宙をとびまわるようになればなるほど、地上のナショナリズムは、より強まるばかりであろうと。人間は無意識に国際化し、意識的には民族主義的になる傾向を持っているのである。
急にこんな真面目すぎる調子になったのは、どうもジェット機の影響であるらしい。
パパは十年前のちょうど同じ頃、パリにやって来たのだった。その時も朝だった。そして今よりもう少し暖かではあったが、船でスエズを通ってマルセイユに着いたパパは、その日の夜行で翌朝早くガール・ド・リヨン駅に着いたのだったが、パリの風は氷の鋭い破片のように首すじをなでた。それから十年目である。飛行場からアンヴァリッドまで、バスの車窓から外を眺め、そして今、エトワル広場近くでコーヒーを飲んでいるパパの、最初の溜息にまじって出る感情は、まるで昨日と今日のようにパリが変っていない、と自分に言う。全く、十年前に見た街角が、そっくりそのままパパの目の前にあるのだ。それは、パパが一月の間にすら街の表情の変ってしまうことの珍しくない東京に住んでいたから、なおさらそう感じるのだろう。
デカルトは、「われ考う。故にわれあり」と言った。こんなことは、今のお前たちには用のないことだが、パパは今、お前たちが大きくなった時のことを考えて書いているのだから、少し難しい話をしてもかまわぬであろう。話はそれるが、日本ではあまりにも今日のために物を書きすぎる。明日のために書く人間、来年のために書く人間がいたってよい。予言者が一人でて、日本文学は三千年後に消滅するだろう、などと言ってくれた方がいいのである。さて、ミグェル・デ・ウナムノは「われわれは、何物かに向い合う。故にわれあり」と言った。日本の実存主義者たちはサルトルを語って、ウナムノを語らない。これはけしからん。この言葉は非常に二十世紀的なものなのだ。パパはあまりにも変化の多い東京と向い合っていた。それ故、東京は変る、何と変るのか、としか考えなかった。そして今、変らない、何も変らなかったパリの街角と向い合う。その時にパパの感じるものは、それは何か鋭いものでえぐるように、驚きがパパの降りつもった記憶をえぐって行く、という印象だが、それがパパに、自分が何と変ったかと考えさせるのである。
十年前、パリに着き、日本館に入ると、一年前に来ていたHという数学者が、パパたちを連れてサン・ミッシェル通りまで案内してくれた。彼がパリにはじめて着いた時、別の古い住人にそうしてもらったのだからと言い、メトロの切符の買い方から、屋台のクレープの立食いのスマートな食べ方などを、リュクサンブール駅から、セーヌ河まで歩いて下って行きながら教えてくれたのである。坂の下までおりると、数学者は立ちどまった。そしてパパたちに河岸まで行き下をのぞくようにと言った。サン・ミッシェルの橋の歩道には一人の画家がイーゼルを立て、そこからノートル・ダム寺院にかけての風景をえがいており、彼のうしろには二十人ほどのアメリカ人の観光客とおぼしき一群が、そのかきかけの画をのぞきこんでいた。パパたちは、無言で大股にそこまで、儀式ばった調子で歩いて行き、それからセーヌ河を見下ろした。するとちょうど警視庁の下の所に二人の男女が抱き合っているのが見えた。女は真赤な服を着て、灰色の石が積みあげられた河岸と緑色の水にはさまって、目にしみるような赤い一点となっていた。パパは溜息をもらして、自分がとうとうパリに来たのだな、と思った。
十年たった今日、パパの大学の後輩が、パパより二三日おくれてやって来た。パパは昔数学者がしたように、メトロの切符の買い方などを教えながら、十年前と同じ通りを彼と一緒に下って行った。彼は小男であって、小男というものは非常に扱いにくい。すぐに人混みにまぎれて見えなくなってしまう。それでいてやたらに大声をあげる。クレープの立ちぐいを教えてやろうと思ったら、
「立ちぐいですか、そんな下品なことをすると、おふくろに怒られます」と叫んだ。日本語で叫んでくれたから、まだよかったが、ともかく人が振りかえって見る。すると彼は小さいので目立たず、そばにいるパパがジロジロ見られることになる。
ともかく坂の下まで行き、セーヌの河岸を見下ろして見るように言った。そこには、十年前と同じように、イーゼルを立てた画家がおり、そのうしろに二十人ばかりのアメリカ人の観光客もちゃんといた。そして、パパの連れも、儀式ばった足どりで歩いて行った。パパも見たが、そこには真赤な服を着た女とその恋人が、やはり警視庁の下で抱き合っていた。何故、又、えりもえって警視庁の下を選んで抱き合ったりするのだろうと、思うものもいるだろうが、パパのような心理学者は、警視庁の方が、そのような場所を選んだにちがいないと確信するのである。
そこで連れの男と別れ、パパはホテルに帰ったが、三十年あとのことを空想した。三十年たって、ある日本の青年がパリに来る。彼も亦、誰か別の日本人に連れられて、サン・ミッシェル通りを下るだろう。そして橋のたもとで画家と、それをとりかこむ野次馬を見るだろう。それから、河岸の恋人たちを見るだろう。だが日が暮れる。二人の恋人たちは立ちあがって階段をのぼって来る。街灯の光に照らされた二人を見ると、何と二人は六十ちかい老人である。二人はノートル・ダム寺院の前の広場で、くらがりに立っている一人の男、パリ観光協会の職員から日当をもらいながら言うのである。
「あたしたち、もう疲れてきたわ。だれか、そろそろ、わたしたちのあとがまを探さなければならないわね」
パパは空想しているのである。しかし、何か大きな溜息をつきたい気持がパパの胸にみちてきたのであった。
パリは変らないというものの、じっとみつめれば、変っていることに気付く。パリのように古い街を変えるためには、結局、独裁者が必要なのだ。パリはナポレオンの時代に姿をととのえ、ナポレオン三世の時に大きく変化した。そしてド・ゴールの時代に、東京とはくらぶべくもないにしても、やはり大きく変るだろう。パリの真中にも巨大なクレーンが立ち、ここでは摩天楼とよばれる十階以上の建物があちらこちらに姿を見せ始め、地下鉄のにおいは昔と変らぬにしても、ゴムタイヤの新しいメトロが走り出した。何でも肩をすくめたがるパリっ子は、肩をすくめて、横目でそれらのものを見るが、変化はこの国にも必要なようだ。
あまりまじめくさった話になった。まじめな話が決して悪いことと言うのではないが、あまり多すぎてもいけない。まじめな話は人生では四分の一ぐらいがいい。そんなことはどうでもよいが、どうでもよくないことがある。
パパはフランスに立つというその日の朝になって、またしても駐車違反でおまわりにつかまってしまった。そこは住民が自分の土地を寄付して道を作ったところで人通りも全くなく、車の通らない場所であったが、そしてパパの家の前であったのだが、おまわりはこっそりと印をつけ、時間をはかり、パパを駐車違反にしてしまった。人をつかまえるのに、何もこっそりとやる必要はないと思う。おまわりがこっそりとつかまえようとするから、この国ではどろぼうが堂々と盗むのである。しかし、何と言ってもおまわりは無罪放免とは行かぬと頑張る。一年して外国から帰って来たら必ず呼び出すから、と言っていたが、日本のおまわりにその記憶力があるかないかのテストのようだ。
そのすぐ前にも、パパはほんのつまらない違反でおまわりにつかまった。それは平気だったが、ユキとミトが近所に行って、
「うちのパパは、おまわりにつかまったんだぞう」
と言っていばってまわったのには困った。それでいてお前たちは、パパが何故におまわりにつかまったかを言うことは省略してしまった。そのためパパはしばらくの間、朝、とてつもなく早く起きて病院に行き、近所の人間に顔を見られぬようにしなければならなかった。その前、大家さんの犬が腸をこわした時、パパが薬をやってなおしてやると、お前たち二人は、
「うちのパパは犬のお医者さんだぞ」
と近所の人に言ってまわった。それでママが、パパは人をなおすこともあるのだ、とお前たちに教えてやると、
「うちのパパは犬のお医者だけど、人間もなおしてあげられるんだぞ」
と言うようになった。その時も大分こたえたが、おまわりにつかまったと言われたのは、それよりもこたえた。その頃、ある日、ユキとミトは、おまわりはパパをいじめたか、とパパにたずねた。パパが、いじめたと答えると、ユキとミト、お前たちは憤慨して、こんないいパパをいじめるなんて、おまわりはけしからん奴だと言った。お前たちは非常にいい線をいっているのだ。こんな、パパのような善良な市民が、ちょっと法に触れたといって、しかも、それが誰の迷惑にもなっていないのに、法律だ法律だと法律を弁慶のなぎなたのようにふり廻すものたちよりも、ユキにミト、お前たちの方がよっぽど正しい。法律には法の精神というものがある。法律はその法の精神に照らして運用すべきものなのだ。法の精神には反するが、法律の条文にかからぬものには知らぬ顔をし、善良な市民をとらえるおとし穴のように、法の精神を忘れて法の条文を使用するおまわりを、お前たちが不届きと感じるのは、決して間違ったことではない。法律は必要だが、公正(ジュスティース)の感覚はそれにかえがたいほど必要なのである。お前たちは、こんないいパパをいじめたおまわりは不届きだから、今度おまわりを見たら必ずかみついてやるぞと言った。
それで、パパがパリに着いて、宿で最初に見た夢は、ユキとミトが、パリのおまわりのふくらはぎに、がっぷりとかみついているところであった。
ラ・マンブロールでの夢想
北極の上を通ると磁石がくるくる舞いして、そのあと、しばらくの間用を足さなくなるという。とあるフランス人が、そう話していた。彼は科学者でもないし、たとえ科学者であったとしても磁石の専門家ではないから、その話は本当かウソかわからない。だが、パパの頭の中にある羅針盤のようなものは、北極を越えてから確かに狂ってしまったらしい。これは何しろ本人が言うのだから信用してよろしかろう。
パパはパリには一週間ばかりいるだけで、十月のはじめにはパリを離れ、中部フランスのトゥールという町から更に七キロばかり入った、ラ・マンブロールという小さな田舎町まで来た。ここまで来るとさすがに日本人は珍しい存在になる。だが、医者だというと大変な尊敬を受ける。何しろ博士なのだから。これは日本とは大きな違いである。町で、医者と坊さんは特別の扱いで、いやしくも日本のように巡査にこづき廻されることもなく、駐車違反などと文句を言わない。パリの警視庁の交通課には、医師会の出張所があり、間違えて罰金の紙を車にはられた医者が連絡すると、それを取消してくれるのである。
パパがこんな遠いところまで来たのは、アルコール中毒の治療を勉強する為だ。このことはユキもミトも知っている筈である。ただし、難しいことはわからないので、酔っぱらいの人をなおしに行くのだと、お前たちには話してきかせた。お前たちが、近所の人たちに「パパはよっぱらいを直しに行くんだぞ」と触れまわったのは言わずと知れたことだ。ミトも同じことを繰返したことであろう。ただミトは、言葉を省略したり、縮めたりすることの名人であって、たとえば晩の食事がグラタンであると「今日、ミトはグレンタイを食べるんだぞ」と言ったりしたので、正確には何と言ったか不明である。ただ若干の人が、パパが酔っぱらいであって、フランスの病院に入院したと思ったらしい。それはミトの責任らしいが、何しろ「千載に悔いを残す」という文章を読んで、棒クイを残すことだと思っているママの子供のことであるから、いたしかたのないことだ。それにママはパパのことを「私のシュウジン」と呼ぶ。しかし、これは案外、間違いなどでなく、故意にそう呼んでいるフシがないでもない。少し脱線をしはじめたようだ。
パパはともかくも、アルコール中毒の研究に来たのである。町で逢ったフランス人の一人がパパに言った。「というと、日本にもアル中がいるというわけですな。でも、どうしてアル中になるんだろう。ブドー酒もないのに」
このフランス人は特別馬鹿であるのではない。パパはもう何度も同じような質問を受けたのであった。一般のフランス人は、日本のことなど、ほとんど知らない。だから、その度にパパは、「日本にはサケといって、米から作ったアルコール飲料があって」と説明をはじめねばならなかった。ところが、アル中をつかまえて「お前は一日にアルコールをどの位飲むか」と質問すると、彼等は「自分はアルコールは絶対飲みませんよ」と答える。あわてて「このウソつきめ、さっさと正直のところを言ったらどうか」などと叫んではいけない。フランスは言葉の意味の正確さを自慢にする国で、アルコールと言うと、純粋なアルコールか、ブランデー、ウオツカ、ウイスキーなどの蒸溜酒のみを意味する。それに気付いて、ブ《ヴ》ドー《ア》酒《ン》はどのくらい飲むのか、と言いなおす。するとちゃんとトボけずに、「ブ《ヴ》ドー《ア》酒《ン》は、毎日、二リットル飲みます」と答える。ところが、ここで感心などしてはいけないのである。
「ビールはどの位飲むか」と忘れずに聞かねばならない。
「ビールは毎朝、一リットル半くらいです、ドクター」そこで目をまるくして、おしまいにしてはいけない。はじめた質問は最後までやらなければならないのである。まことに当然のことであるかのように、「シードル(リンゴ酒)は」と続けねばならぬのだから。シードルは飲まないという答えをもらう。そこでまだ感心などしてはならぬ。食事の時に飲むのを含めてか、別勘定としているか、ときく必要がある。すると大ていのアル中は、
「そうですな、食事の時には、別に二リットル位の赤ブドー酒を飲みますよ」とくる。そこまでくると、パパは大きな溜息をもらすのである。それが好きな人は腰をぬかしてもかまわぬ。
なにしろ統計によるとフランス人は、男も女も子供もまぜて、平均すると、年に二十リットル以上の純アルコールを飲んでいることになるのである。ということは、年に約二百リットル以上のブドー酒を飲んでいることになり、何しろ女・子供・老人をまぜた統計だから、大の男だけを問題にしたら、その倍か三倍の数字が出てくることになる。ここまで計算すると、パパは又大きな溜息を一つつく。パパの頭の中の羅針盤は、どうも狂ってしまったようだ。
こんなことをパパが書くと、日本の酒のみたちは、「われわれなど飲んでいるうちに入らぬ」と思って、もっと飲みだすのではないだろうか。
ラ・マンブロールの丘の上に、アル中治療センターが建っていて、黄葉した菩提樹の並木道を通って、パパは毎日そこまで上る。そこで、入院してきたアル中たちと話をするのである。
「おれがアル中だって、おれが? おれは普通に飲んでいるだけだよ。みなと同じくらいにね」
「アルコールは」
「アルコールは飲まないよ、あいつは体に悪いからね」
「じゃ、何を飲んでいる」
「赤白、あわせて七リットルくらいかな」
「仕事は」
「鉄道員」
全くのところ、パパは二百二十キロもフランスの国鉄に乗って、よくも無事に、この小さな町までたどりつけたものだ。そう考えると、ここで又、パパは溜息をつく。ユキはきっと、近所の者に、
「パパは溜息ばっかりついているんだぞ」
と大声で話し、ミトもこれはきっと、
「パパはタメイケだぞ」とかなんとか言うのであろうと思う。だが、パパはお前たちを怒らぬ。あまりにも遠くに離れてしまっておるし、そんなことは、考えるとどうでもよいことだからである。
パパはそれであるから、今年のゴンクール賞は何かなどと、高尚な話をしているわけに行かない。溜息などつきながら、何がゴンクール賞であるものか。
ただ、数日前、急にエディット・ピアフが死に、その死のしらせを受けた、ジャン・コクトーがショックを受けて、数時間後に死んだ。正直なところを話すと、パパはコクトーの死に何も感じなかった。だが、ピアフの死は痛みを感じさせた。それは一人パパだけの個人的な印象だけでなかったのは、パパが逢ったフランス人たち、大工とか左官とか、タクシーの運ちゃんとか、更には医者や教授や市の委員までであったが、みんな、ピアフの死を悲しそうに語ることで知れた。彼等はラジオやレコードでしか彼女の歌を聞いたことがなく、一度も舞台の上のピアフを知らない人たちだったが、パパに逢うと、
「ドクター、知っているかね、ピアフが死んじゃった」と、パパの昔の恋人の死でも告げるように言った。パパの泊っている、ラ・マンブロールに一つしかない安ホテルのおやじも、パパが夕食をしていると、
「ピアフが行っちゃったよ」と一言いうと、大きな体をまるめて帰って行った。そして戸口のところで立ちどまると、「それから、コクトーもね」とつけくわえた。
十年前、いやそんなになっていないかも、あるいはそれ以上になっているかも知れぬ、スターリンという名の男が死んだ時、パパは不思議なショックを受けた。人間が受ける感動的なショックというものは、前もって予測のできぬものだし、それぞれの人間の過去と、現在おかれている状況にもよるものだ。ユキ、ミト、チカ、お前たちが、パパがその死によって受けたようなショックを受ける死者たちの名前は誰であろうか。
パパは、今、前にも言ったように羅針盤がくるっているものだから、むつかしい、すじみちだった考えを、ここで書くわけに行かない。そんなことは次の機会にしよう。そして今日は、パパの現在の、お前たちから遠く離れた孤独な旅人の感情の上に、影をおとして過ぎさったことがらを、こうして簡単に書きのこすだけにとどめよう。
大学都市ふたたび
パパは一月ばかりの田舎の生活をおわりにしてふたたびパリにもどって来た。そして十年前に住みなれた、パパにはある理由があって、そのことは、お前たちにいずれこれから話すことにしているが、何か故郷のような気のする大学都市の日本館の住人になった。もちろん十日ばかりの間だけのことで、それからパパは又フランスの片田舎へと旅立たねばならないのである。ここにもどって、パパの幾分狂った羅針盤は少しその働きをとりもどしたようである。
それはここに来て間もなく、他の部屋の住人のところに行き、椅子に腰かけたところ、ちょっと手をのばして煙草をとろうとしたはずみなのであるが、その瞬間、その椅子の前脚と後脚がはなればなれとなり、その論理的な帰結として、パパのお尻は、じゅうたんも何もない堅い石の床にもろに落下したことによるかも知れない。どうもフランスに来るとフランス人たちの影響で話がひどく論理的になる。だからと言って、論理的に尻もちをついたわけではない。 実際にはあっという間にすべてが起り、パパがおぼえているのは、すべての論理をとびこした、脳天にまでもひびく、ちょっとしたショックという結果だけなのであった。一緒にいた男は、
「あっ、椅子っ」
と叫んだだけで、そのあと、
「仕方がないなあ、館長に、こんどは椅子をこわしたか、と言われますよ」
と続けて、パパのお尻にふれず飛躍した。これはけしからぬことで、論理的には、まずパパのお尻が痛んだかどうかを心配し、館長のことなど、その次でもよいのである。
ともかく、その時から、こわれかかった時計を床に落したら、かえって動きがよくなったようなもので、パパの頭の中はようやく自然の動きをとりもどしたのである。
パリがパパの目に変りなくうつったように、この大学都市や日本館は、十年前と全く変りなく見えた。これは十年間、この場所に生きつづけた人間には、感じることのできない不思議な感情を起させるものだ。それは一瞬のうちに、パパに十年間という時間を忘れ去らせ、昨日から今日に移るように、十年前と今とをつなげさせるような圧力を、この変らない静かな風景が持っているということなのである。パパが日本に帰り、ママと結婚し、お前たち三人の娘が茸のように地上に姿を現わし、パパが幾つかの小説と詩を書き、そしてその他にも、いくつかの個人的な事件、愛や憎しみや悲しみの織りまじっておらぬこともない事件のあったその間の生活というものが、今やパパには、まるでサンドイッチの中身のように押しつぶされた、ひらたく薄い重みのないものに感じられてくる。
パパは大学《シ》都市《テ》のはずれ近い日本館を出て、夕暮時の大学都市の並木道を、口笛を吹きながら国際館の食堂へと歩く。その途中の右手にアメリカ館があって、昔、お前たちのママはそこの住人であって、不思議なことにいつもパパとママはその前で出逢うのであった。本当は不思議でも何でもなく、どちらかが、どちらかの食堂に行く時間を知っていて、そこで出会うようにしたのであるが、パパがそのどちらであったかは、言うことをはばかる。
そのアメリカ館の道沿いの芝生のなかに柳がいまでもあるが、前にも書いたとおり、その下をママの友人の一人であった哲学の学生が、いつも本を片手にゆっくりと行ったり来たりしているのであった。もう一つの手はゆっくりと、そのたれさがった枝へとのび、葉っぱを一枚一枚むしりとって、それを彼の口に運んだ。彼がギリシャ語やラテン語の本を読んでいて、文章や単語を一つ暗記するごとに葉っぱを一枚のみこむことにしていたのは、前にも話した通りだ。
「アンネクー・カイアペクー」ごくりといったぐあいである。アンネクー・カイアペクーというのはストア派の格言である。避けよ、耐えよ、とでも訳すべきだろうか、人間は自分の力で避くべくもない運命的な苦痛は、勇気をもって耐えるべきであり、自ら招くような不幸は自分の意志によって避くべきであるという、エピクテートスの名言なのである。エピクテートスはドレイであった。ある日、彼の横暴なる主人は彼の脚をねじまげた。それを見てエピクテートスは、そんなことをするとこの脚は折れますよ、と静かに言った。それでも主人は続けたので、脚が折れてしまった。エピクテートスは主人に「そら折れたでしょう。私がそう言ったじゃありませんか」と静かな口調に少しの変化もなくのべたのであった。しかし、この深遠なる言葉も、その哲学の学生には、柳の葉一枚ぶんの価値しかなかったようであった。パパはそれを見てフィトベザールというものを知っているかとたずねた。フィトベザールというのは、葉っぱなどをのみこんでいると、それが腸の中で玉ころとなり、糞づまりになってしまう病気のことで、ギリシャ語からきたフランス語であるが、それを聞くと彼は、新しいギリシャ語を一つおぼえたと言い、又柳の葉っぱを一枚むしってそれをのみくだしたのである。その柳の木は十年前と全く大きさが変らなかったが、それは彼に葉をむしられ、弱ってしまったせいかも知れぬ。今日も、その下に学生がいたが、それは彼ではなかった。
お前たちの、ママは、そのアメリカ館から黄色の毛のカーディガンか、薄水色のスーツか、緑色のびろうどを襟と上着のポケットのかざりにつけたスーツを着て、パパの方を見ないようなふりをしながら出て来て、パパに逢うと、おや、又逢いましたねというような顔をしたものである。国際館の地下食堂で食事をするのであるが、それが又不思議なことに沢山あるテーブルの中で、同じテーブルにパパとママがすわることになったのである。その頃、又不思議とパパは幾つかの詩をフランス語で書くようにもなったのである。ママはまだ、その時、パパが精神科の医者であることなど知らなかった。
それからどうなったのか、などと先を急いだりしてはいけない。それはいろいろと沢山のことがあって、パパとママが最初にキッスをしたのは何時でどこだったか、などということよりも、もっと大切なことなのである。
パパは一ヵ月前にパリに着いたのだったが、その翌日、偶然、十年前の大学都市での仲間だったジョゼという男にあった。彼はパパの第一の友だちであったが、彼は毎日パパをつかまえては、彼の書こうとしている詩や小説のことを語ってきかせるのであった。彼は北アフリカ生まれのフランス人で、おそろしく早口であるので、パパには彼の話す小説や詩のイマージュなるものが、ほとんど半分もわからなかった。彼はそれに非常に浮気な男であって、半年の間に四五人の(四十五人ではない)女の子を誘惑した。お前たちも大きくなったら、小説や詩などを書く若者は危険であるので、あまり近づかぬようにすることが賢明である。ただ、パパもママもそうであったが、彼の大の仲良しであった。
パパが日本へ帰ってから、ジョゼの消息がすっかり失われてしまった。彼はデンマークの女の子を追いかけていたので、コペンハーゲンあたりにでも行ってしまったのだろうと思っていた。パパはその晩一人で芝居でも見ようと思って、ヴィウ・コロンビエ座まで行った。そこには、ガルシャ・ロルカの「血の婚礼」という芝居がかかっていた。ジェルメーヌ・モンテロという、歌をうたわせてもうまい女優が母親の役をやっており、プログラムにはアンドレ・ルッサンという喜劇作家が三十年近い昔、フランスでその芝居を初演した思い出を書いていた。
「昔、私はジェルメーヌ・モンテロとこの芝居を演じた。その時、モンテロは娘の役を演じ、私は彼女の婚約者だったが、今、モンテロは母親を演じ、自分は観客席で拍手を送る一人の客にすぎない……」
そんなことはどうでもよい。パパは切符を買ってから、二時間ほど幕あきまで時間があるので、近くのサンジェルマン・デ・プレのコーヒー店の前をブラブラと歩いていたのである。そこには用もなく、ただおしゃべりばかりしている暇な人間が、こんなにもいるのか、というほどテラスにあふれていた。パパはぼんやりと、ル・ロワイヤルという名前の、サンジェルマン通りと、レンヌ街の角にあるコーヒー店の前までやって来た。すると遠くからパパの方をじっと見つめている黒縁の眼鏡をかけた、もう決して若いとは言えない年頃の男に気付いた。その時、もう彼は立ち上って、椅子を二つ三つ転がしながら、パパの方に走って来た。そして彼の大きな手で、パパの肩を鷲づかみにすると強くゆすぶったので、パパの首はぬけてしまいそうだった。
「お前、いったい、こんなところで何をしているっていうんだ」
パパは前日、飛行機でパリに来たところだ、と言った。
「お前は、こともなげにそういうが、おれはあれから、アルジェリヤに帰り、引き揚げ、そして田舎を廻り、今日は三日間だけパリに出て来たところで、明日にはもう、パリから三百キロも離れた田舎町に帰っちまうところなんだ。おれは運命なんて信じないぞ。運命なんて。畜生、でも畜生」彼は昔と変らないテノールの、男としては甲高い声でそう言いながら、パパの肩をゆさぶり続けた。そして彼は言った。
「畜生、おれは思い出なんぞ嫌いなんだぞ。思い出なんぞ」
パパも思い出などというものも、運命などという言葉も嫌いなのである。それで彼は昔のように、彼の書こうとする小説のことを話しはじめたのであった。だが、十年の間に、彼はまだ何も書いていなかった。それから彼は女運に恵まれていないとなげいた。だが、それは彼の口癖で、三人もの女性を一度に追いかけている時ですら、彼はパパの顔を見るとそう言うのであった。だが、どうもこれから先のことは、お前たちとは関係のないことであるからやめにする。
パパは今、大学都市の日本館の図書室で、この、お前たちへのおくりものを書いている。どうせいつかは話さなければならぬことであるから、ここでその話をすることにするが、パパはお前たちのママに、この図書室で、最初のラブレターなるものを書いたのであった。それが六月八日であるのをおぼえているのは、何もパパの記憶力がよいのでなく、逆に物おぼえに不確かなところがあるので、自分の誕生日にそれを書くことにしただけのことである。それはすべてそうであって、ユキの生まれた日はママが日本にやって来て、横浜に船で着いた日と同じであるし、チカはパパの誕生日に生まれる筈であったのに、お前がのそのそしたために十日もずれてしまったのである。これはパパの責任ではない。
図書室の前には桜の木が何本かある。六月にはその緑が濃く、熟しすぎた桜んぼが、砂まじりの小路や庭石の上にぼとぼとと落ちて、その赤い血のような汁で、そこはしみだらけであった。六月のはじめは、日本では梅雨のはしりの雨でじめじめとした日が多いが、パリはカラリとした薄水色の空で、その空が濃い桜の葉かげをいっそう黒くし、風もないのにぼとぼとと音を立てて、桜んぼが落ちるのであった。今、パパの眼の前にあるのは、黄色い葉もまばらになり、下に落ちる影は少なくなったのに、黒々とした幹をいっそう黒く光らせている桜の木々である。
パパは書きあげたその手紙を、つい目と鼻の先にあるアメリカ館に持って行かず、郵便局に行って切手をはって出したのである。できることなら航空便にでもしたいくらいであった。そして、その翌日には、まるで落ちて来た木の葉のように、色のすきとおるような手紙が、やはり切手のついたやつであるが、パパの手に入ったのであった。何と書いてあったかは、ここに書くべきではない。著作権は尊重されねばならぬと、ママが主張するであろうからである。
ケネディの暗殺
パパは今、三十年さきのことを考えて、お前たちにこれらのことを書き残しているつもりである。だから、少々、しちむずかしいことをここで並べるのを許してもらいたい。実のところを言うと、日本人は難解なことを口にしたり書いたりすることを、嫌いすぎるのではないか、とパパは思う。近代日本の文学に格言を書き残した作家がいたであろうか。いない、と答えるのは淋しいことである。それと同じことだが、小説の中から格言を拾い出すことのできる読み方をする読者がおらぬことは、それ以上に淋しいことである。
「波を消すのは次の波、一つの愛を心からぬぐい去るのは、次の愛である」などという格言は、誰かの小説の中にたしかにあるのであるが、誰一人として覚えているものはあるまい。それから、「作家は思想を持つべきであるが、それを語るべきではない」などという格言めく言葉も、批評家としての誰かの口から出た言葉であるのだが、誰もそれをとらえようとしなかった。文学の貧困は、そうした読者の読み方の不足からくるものなのだが、そんなことをあまり書きすぎても、お前たちをいたずらに退屈させるばかりであろう。だが、パパにもう一言、たった一言だけ言わせてもらいたい。太宰治という、自殺未遂を何回もし、麻薬やヒロポン中毒の患者でもあり、おしまいには遂に本当に自殺をしてしまった、いわば世間の人間、社会の人間としては、一生他人に迷惑ばかりしかかけなかった小説家が、昔(といわなければならぬ時代にいつの間にかなったが)いたのであった。そしてこの小説家に、
「この男は、文学にこんなものを持ちこむよりも、冷水摩擦でもすればよかったのだ」
と言った男があった。この人物は、日本では格言に近い言葉を書くことができる、数少ない小説家の一人なのであって、(世間では彼を小説家とよんでいるらしいが、彼の数少ない批評は彼の小説よりも数段すぐれたものである)この言葉もその意味では決して悪くはない。しかし、パパの趣味とすればであるけれども、彼はフィロクテトスの故事をひいて、「フィロクテトスと弓と傷と」という題の評論でも書くべきではなかったかと思う。
フィロクテトスは弓の名人であったが、彼には一生どうしても治りきらぬ、スカンクも立ち往生するような悪臭を放つ傷を持っていた。その悪臭を隣人たちは耐えることができず、人々は彼を町から追い、彼は町からはるか離れた洞窟で暮さざるを得なかった。だが、彼は当時、彼と並ぶことのできるもののない弓の名人であったので、町は敵に攻められた時、フィロクテトスを呼ばねばならなかったのである。芸術家というものは、おうおうにして、フィロクテトスの傷のような悪臭をはなつ傷を持っているものなのだ。
だが、いったい、パパは何を書くつもりで、こんな話をはじめてしまったのだろう。そうだ、ケネディの暗殺事件のことについてお前たちに書くつもりであったのだ。それで三十年などということを持ち出したのだ。
今から三十年前、というと、もちろんお前たちはこの世にはいなかったし、パパも丁度ミトぐらいの年の子供であった。その頃、ライヒスタークの火事とよばれる事件があった。オランダ生まれのアナーキスト、ヴァン・デル・ルッベという男が、ライヒスターク、つまりドイツ共和国国会に放火したのであった。十ヵ月後に、裁判の後に、この男は死刑になった。お前たちはこの事件の意味のことを知るはずもないから、少し説明をしておこう。火事のあったのは一九三三年の二月二十七日のことであり、ドイツではナチズムの勢力はようやく伸びはじめた頃であった。と同時にドイツにおける国際共産主義運動の力も、まだ衰えていない時代でもあった。そして、ヴァン・デル・ルッベは、共産主義運動の中に身をおいたことのある、と同時に何か疑わしい前歴の持ち主であった。ケネディ暗殺事件のオズワルドという人物を考える時に、自動的にこのオランダ人のアナーキストのことを頭に浮べる人間の数が、もう数えるほどに少なくなってしまったことは、時の流れのせいであろうが悲しむべきことである。
この火事事件が起るやいなや、ヒットラーは共産主義の危険を国民に宣伝して、独裁の機会をつかんだのであった。裁判の結果は、ヴァン・デル・ルッベは最後まで単独の犯行であると主張したし、共犯として疑われた社会主義者たちは、無罪ということにはなった。しかし、歴史をながめると、ヒットラーは、この機会をのがさなかった。そして、この事件を百パーセント利用して、社会主義者を弾圧した。社会主義者は、ヴァン・デル・ルッベはナチの計画につかわれた一人のオトリであり、ライヒスタークの火事そのものも、ナチの計画された陰謀であったと主張した。しかし、三十年たった今でも、この真相は誰も知らないのである。そして、ヴァン・デル・ルッベ自身は、死刑になる前に、
「しかし、ともかく、おれは一人で火をつけたのだし、実際は、そんなに難しい仕事でもなかったのだが」
と言った。
それはそれとして、ライヒスタークの火事が近代の歴史をまったく変えてしまうような事件であったことは確かである。パパは一月前、トゥールの町で素人劇団の芝居を見たのだが、それが「プロヴォカシヨン(誘発)」という題の芝居で、このライヒスタークの火事を扱ったものだった。そのことが、この事件がヨーロッパの人間の胸に、まだどれだけなまなましく残っているかという証明にもなるだろう。
オズワルドの疑わしい前歴は、この事件が彼の単独の行動であったとしても、多くの疑惑を人々の胸になげかけずにはおかないだろう。それはルビーという、更にあいまいな人間が出現しなくても、そうであったろうが。しかし、問題はこの事件が、これからの三十年の歴史の中に、どのような波紋を残すかである。
ママからの手紙によると、ユキはテレビでこの事件のニュースを見ると、パパのガスピストルを鷲づかみにして家からとび出し、そのオズワルドという男をつかまえるのだ、と言ったそうだ。だが、家を出たもののテキサスに行く道がわからないのであきらめたらしい。ユキ、お前は六歳だが、パパはお前のこころの中にこの事件の思い出は、ほんのひとかけらほどにしても残るにちがいないと思う。お前は直ぐに、そのほとんどを忘れてしまうだろう。そして(ああ、忘れるということは、何と人間的な、不可思議な、しかし魅力的な現象だろう)三十年たって、パパの書いたものを見た時に、お前の記憶に、家からとび出して、パパのガスピストルを鷲づかみにしていた日のことが、再び浮びあがることがあるだろうか。
ミト、お前は何一つこの事件のことをおぼえておられる筈がないと思う。チカに及んでは何も言うにおよぶまい。だが、三十年たった時、お前たちは歴史家の書く、この事件の数行、あるいは数十行(それは歴史家の好みによることで、パパの関知するところでない)を読むことだろう。その時、お前たちは思い出して欲しい。この地上の真実というものには、その誕生の日から、アイマイの中にとり残される運命をもったものがあるのだということを。いくら真実を知りたいと熱望しても、個々の人間のいだく疑惑ゆえに、とうてい、あらゆるスペキュレーションをとりのぞかれた単純な真実にいたる道のふさがれてしまっている事件があるのだということを。しかし、これは、人間の歴史というもののアイマイ性を暗示する、象徴的な事件であるにすぎないのだ。人間はそのアイマイなものを生き、そのアイマイなものの作り出した流れ(あるいは迸りと言おうか)に、いやおうなく押しながされてしまうのである。
なんだか、今日はひどく説教じみたことばかり書いてしまったが、これはパパの性質としては、はなはだ珍しいことである。ケネディ暗殺のラジオは、フランスでは夜の八時の二三分前から入った。ホテルの部屋でロンドン放送でも聞こうと思ってダイヤルを廻すと、「ケネディが撃たれた」という言葉が耳に入った。いそいでフランスの放送にもどすと、臨時ニュースがはじまるところであった。それから夜半まで、すべての番組は取り消され、音楽放送にまじって、刻々と、ニュースや町の印象や、人々の意見などが流され続けた。事件の起ったのは、テキサスでは昼の十二時頃のことで、日本では、お前たちのまだ起きていない朝の四時頃であったろう。
ユキ、お前が、この事件のことを、必ず、ほんの少しであってもおぼえているに違いないと、パパの考えるのには、それなりの理由がある。その頃、ユキはママの手紙によると、前歯が二本ぐらぐらになり、抜けかわる寸前だったそうだ。しかし、お前は、そのぐらぐらの歯を大事にして、奥歯だけでものを噛み、その前歯と別れることを何としても避けようと空しい努力をしていた。その歯の抜けかわる経験というものは、パパにもおぼえがあるが、非常に重要なものだ。そして、他の幼年時代のことは忘れても、このことだけは容易に忘れることはできないものである。パパはお前たちのおばあさんに、木綿糸でぐらぐらの歯をゆわかれて、逃げ廻ったことをおぼえている。その糸が長くて、逃げ廻る時に自分の足で糸の先を踏みつけ、あっと思ったら歯が口の中になかった。そして、トム・ソーヤーの冒険の中で、彼の母親の用いた歯の抜き方を読んだ時には、ひどくショックを受け、そのために、歯が一本ぐらぐらになったほどだ。あの小説の中で忘れないのは、あの歯を抜かれるところと、その後、抜かれた歯をしばらくの間、宝物のように大事に持っていたところである。歯が抜ける。そして口の中が一時、空虚になり、それに馴れるまで、舌のやりどころに困る。あの歯の抜けたあとの、ヌラヌラとした穴ぼこに、自分の舌が行くたびに、最初に自分の体の愛すべき一部分を失った体験が、舌の先から頭の中にしみこんで来るのである。そこで、お前は、お前の幼年の一部を失うのだ。それからしばらくして、あのギザギザのひどく堅いものが、お前のあのヌラヌラとした穴の奥から、鋭く、お前の舌の先に触れるようになる。それが、お前の体の中に、いつの間にか育っている、大人というものとの最初の接触なのだ。
二ヵ月ばかり前、パパが飛行機で明日はパリに立つという晩、ユキは急に泣きだして、
「パパ、フランスに行かないでよう」
と言った。
実を言うと、ユキは最初は笑っていたので、別れるということの意味などまだわかるはずがなく、ただ、ダダをこねて、半分ふざけているのだと思っていた。ところが、中途から、ユキの眼に本当の、正真正銘の涙が溢れ出し、ユキにパパの体にしがみつかれてみると、パパとしては、お前の心の中には、ぼんやりとではあるが、別れるということの意味が、わかりはじめているのであることを、感じぬわけには行かなかった。お前が二枚の歯を失いかけていたのも、考えてみるとその頃からであったかも知れない。
た め い き
クリスマスが近づいて来ると、どこの国でも、サンタクロースの話で、子供の頭の中はいっぱいになる。じつのところを言うと、親の頭の方もそれ以上にいっぱいなのである。日本のサンタクロースとちがって、フランスにはサンタクロースが二人いる。日本のサンタクロースはミトの言によると、センタク・ズロースであって、クリスマスはクルイマスであるが、ママの障子着物よりも少しセンスがあるように思う。サンタクロースはカトリックの聖人、聖ニコラがなまって伝えられたものだという。この聖ニコラは、フランスでは十二月のはじめにやって来て、子供におくりものをする人物であるが、その他にもう一つ伝説がつたわっている。その伝説によると、昔、子供たちが、ある兇暴な肉屋につかまり、塩づけの肉にされてしまったところ、それを救って生きかえらせた人物になっている。日本にこの話が伝わっていないのは、どういう理由によるものかわからない。
十二月二十四日の夜遅くやって来るのは、フランスでは、ペール・ノエルで、日本語に直訳すればクリスマスおじさんということにでもなるだろうか。この人物が煙突から入ってくるのは日本と同じで、日本では靴下の中に(あるいは大きいおくりものだと、その外側においてあるが、これは単純な理由からで、中に入らないからである)おくりものが入っているが、フランスでは長靴の中に入っている。それで、子供は一年に一度は長靴の掃除を自分の手ですることになるのである。これは、フランスの両親の子供をしつける上での、乏しい知恵の一つであるとパパは思う。
こんな子供だましが、いつまでも続く筈がなく、賢い子供は、いつか、大人のこんな嘘に気付くものである。それが子供時代との悲しい別れの日になるのである。ユキ、お前は去年の暮、お前が五歳の時に、それに気付きそうになった。パパとママはクリスマスの前に買い物をして、お前たちの留守の間に、それを押入れの中にそっとかくしておいた。それを、お前がかくれんぼか何かで押入れに入ろうとして、見つけてしまったのである。そして、夕食の時に、ミトとチカの前で、サンタクロースというのは、実はパパとママであり、エントツから入って来るなどというのは、そもそも嘘のかわである。だって、そもそも、家には煙突がないではないかと言い出した。実際、その時まで気が付かなかったが、家には煙突がなかったのである。ミトは、まだ小さかったから、ユキの言うことを信じなかった。だが、煙突がないという厳然たる事実を知ったことはショックであったらしく、その夜になって、自分のベッドの横の壁に大家さんにも無断で穴をあけはじめたのであった。それを知ったパパは、大家さんに怒られると困るので、ミトにそんなことをしてはならぬと叱ったが、その時のミトの絶望した泣き声はあとにもさきにも聞いたことのないもので、それで風呂場の換気装置の穴をパパが見つけ出して、あれが煙突の代りになるからと言ったとたんに泣きやんだものだった。それから、ミトのかく家の画には、屋根も窓もなくても、エントツの忘れられていたためしがない。なにしろ家を画くのにエントツからはじめるのだから忘れようがないではないか。ユキはある時、非常にヘソに興味を持ち、画をかくのにヘソから始めたが、そのヘソは丸かったり三角であったり五角であったりした。あまり変なヘソであるので、そのヘソのモデルを探したが、それはどうも、お前のママのヘソのようである。何しろ、あるフランス人の話によると、彼の国では5の字型のヘソがあるということで、フランス人のママのヘソが三角であっても、パパは別段おどろかぬ。数年前、「文学のヘソ」という奇妙な、おそろしく文学的でない言葉を中心とした論争があって、この小説にはヘソがあるとか、いや無いとか、大騒ぎをしたが、パパは文学のヘソが出ベソであるか、三角形のヘソであるか知らない。ショウセツのヘソだからウの字型であるかも知れぬ。
さて、ユキにサンタクロースはパパでもママでもない、本当にエントツから入って来る、と再び信じさせることは、とても難しいことであった。ママは、今年はサンタクロースが子供が沢山になったので大変多忙であり、当日に来られぬからというのでパパとママが前もって受けとっておき押入れの中にいれてあずかっていたのだ、という嘘をついて、ユキを納得させた。それを聞きながら、女はよくもまあ簡単に嘘をつけるものだとパパは感心したものだ。ユキはその説明に納得したようだったが、おくりものが来たのでもう安心とばかりに、サンタクロースへのいい子である約束などへ《ヽ》とも思わなくなったのに閉口した。それで、来年にはサンタクロースが来ないぞ、とパパがおどしてみたが、パパの嘘にはママのように年季が入っていないので、すぐに見破られたらしく、もう無力であった。それから、一年たった今年のクリスマスに、パパはお前たちと一緒ではないが、ユキがサンタクロースに、おくりものとして今年はパパをくれと手紙に書いたという話をきいて、少しならずまゆをくもらせたものである。ユキはまだサンタクロースを信じているようなふりをするだろう。子供を演じつづけるだろう。まだしばらくのうちは。だが、パパはもうユキが本当に子供ではなくなったのを感じていて、何となくホッとためいきをつくのである。
クリスマスの話はそれでやめにしよう。日本から最近もらった便りによると、「ソクラテスの妻」なる言葉が、日本で流行しているらしい。パパのように娘を持つ父親には気になることである。しかし、いったい何者がこのような言葉を流行させたのであるか。これが、男の口から、つまりソクラテスの口から出たものであれば、まだなんとかしようもあるが、そもそもクサンチッペの口から出たものであったから、それはもうパパの悲嘆であり絶望である。日本も遂にヨーロッパを毒しつつあるアマゾーネ秘密結社の毒牙の手にかかる時が来てしまったのだろうか、と憂える。こんなことを書くと、パパがねごとでも言っていると思うものがあるかも知れぬが、これはごく真面目な嘆息なのである。
パパはパリに着いた最初の日、フランスの厚生省に行った。凱旋門のあるエトワル広場と、シャンゼリゼー通りに面した第二帝政時代の建物で、そこに厚生省の一部があるのである。敢て言うが、日本の厚生省は日本の省の中で一番うす汚れた、そして最も非衛生的な建物であるが(以前は労働省がそうであったが、今は新しい建物ができたので、そうなったのである)それは日本政府の真実を見せてはばからぬ勇気というものである。パリの厚生省をおとずれて最初に逢う人物が門番であるのは言うまでもない。彼は大の男というにふさわしく、背も高ければ肉づきもよかった。しかし、残念なことに頭の箱ばかりが、日本のヨーカンにしばしば見られるように立派で頑丈で、中身の重さの方は、肉屋の肉のめかたのように少しかけ値のありそうな男であった。
その男に案内されて逢ったのが、パパよりは十センチは高いと思われる大柄の婦人である。しかも、その婦人は流行の針かかとと称する、まことに細いそして高いかかとのハイヒールに、その七十キロは充分にあろうと思われる体重をのせて部屋の中を歩きまわるので、さしものマホガニーの立派な床も小さい穴だらけとなり、見るも無惨なありさまであった。その婦人に、四階の精神衛生課の課長とでもいうべき人物に逢えと命令され、又例の門番に案内されて上にのぼると、この男は部屋がわからぬので、片端からドアをあけてその人物がどこにいるか聞いてまわったので、パパはふだんは閉されている無数のドアの奥にいる人物たちを、おおかた見てしまったのであった。そして驚いたことに、この厚生省の大部分の部屋の奥に、大きな机を前に、両わきに二人の秘書を従えて足を組んで天井を睨みながらすわっている人物たちが、みな女性であることに気付いたのであった。それでパパはお前たちもよく知っている、パパのあの大きなためいきをつくと、例の男に、いったいここに男はいるのかと聞くと、ここは大臣と門番ぐらいが男だと答えた。パパはそれから何十人という公立病院の医者たちに逢ったが、その大部分は男であった。その男たちは、この厚生省の女どもの指示で働いている働き蜂のようなものなのである。そして、この国の人間は、その女どもの命令や指示に従って働くことが何と好きなことであろう。その中の一人の医者は、自分の細君のことを、自分では冗談のつもりで「私の政府(モン・グーヴェルヌマン)」と呼んでいたが、本当に冗談などでなく、自分たち男が、女に支配されてしまっていることに気付いていないようであった。
パリのソルボンヌの学生は六十パーセントが女である。おどろくなかれ、過半数が女で、卒業試験を男はへ《ヽ》とも思わないから、落第するものも多く、女がますます数を増す。これは共産圏でも同じことで、ソ連の精神科の医者は、現在、九十パーセントが女であるという。英国でも医療が国営になってから、医大生の半分以上が女子学生によってしめられているという話だ。このように、社会の重要な位置が、次第に女に占領されて行くと、人類は半世紀を待たずに破滅するかも知れぬのである。というのは、男は家でお手伝いか、子守の役を、男女同権の名目で押しつけられ、創造的天才は姿を消すにちがいないと思われるからだ。
パパが厚生省でその日に逢った女性は、日本流に名前の意を解すると「小さなオッパイ嬢」ということになる、まことに象徴的な名前を持っていた。老嬢で四十七八歳と見受けられたが、日本人のパパには雌牛ほどもあるかと思われる女性で、パパの好みによると、女の子はポケットに入りそうな小柄な可愛いものであるべきだが、この「小さなオッパイ嬢」は実際にもオッパイは小さいように見えたが、小さいのはそれくらいで、彼女の手をパパのポケットに入れただけでやぶけそうな位であった。彼女はフランスの県別の、色分けされた地図を、壁いっぱいにはりつけた部屋の奥に、小さな窓を背にして、書類を山のように積んだ机を前にしてすわっていたのであった。彼女はパパに煙草を一本すすめて、パパがそれをくわえて椅子に腰をおろしていると、ひきだしの中をごそごそとかき廻していたが、急にパパの目の前に旧式のピストルをつきつけた。それは十四五センチの銃身のある、金の飾りのついた、ピカピカに磨きあげられた、四・五ミリ口径とおぼしきピストルであり、銃口はパパの心臓あたりにピタリとねらいがつけられていた。こんなことでたじろぐようでは日本男児の恥であるから、パパはそのピストルを睨みつけてやった。すると彼女が、「小さなオッパイ嬢」がである、そのピストルの引き金をひいた。パッとにぶい音がすると銃身の中程から焔があがり、「オッパイ嬢」はそれで悠然と煙草に火をつけた。そして、にたりと笑った。
それが彼女の、後で知ったことだが、フランスの精神病医の中で知らぬものもない、有名なピストルであったのである。この老嬢が、男よりも二三倍も有能であるのもしゃくなことだが、彼女が男でも持たないようなピストルを持ち、いや、それを持つだけでなく見せびらかすというのは、精神分析の医者には全く象徴的な意味を持ったことである。だが、パパはここでその説明をくわしくすることはやめにする。これは、この程度で、知識の豊かな者には充分にわかることであり、余韻を重んずる文章の中では、このくらいが適当だと思うからである。
話によると、この「小さなオッパイ嬢」の上には、「大きな案山子夫人」という、もう一人偉い女性がいて、その上が大臣になるのだが、大臣もきっと「私の政府」に相談することなしには何もできぬのであろう。
ヨーロッパは、かくの如く、表面はどうあれ、内容はピストルを持ったアマゾーネ達の手によって、絶望的なほどに奪われかけている。こうしてある感慨にふけっていると、日本でソクラテスの妻騒ぎである。これは男性にとって苦々しいことであり、笑うべきことではない。
パパはお前たち三人の娘に対して、ピストルなど持ちたがらぬことを願うし、ピストルが永久に男の持ちものであることを願う。
ここでパパは、大きなためいきを、もう一つつくのである。
平和と英雄の関係
書いたものの写しを取っておくわけでもなく、遠くにいて印刷になったものをすぐ見るわけにも行かないので、同じようなことを二度書くようなことがあるかも知れない。それは我慢してもらうことにする。二度書くとすれば、それはパパの頭の中で、大切な問題として、いつまでも残っているようなことがらに違いないからだ。
戦争が終ってから、日本人も大分外国に出るようになった。なにしろ、小説まで訳されて外国に出る時代になったのだ。これはよいことだ。パリでは非常に沢山の日本人が見かけられるようになったし、本屋の店先には、日本のフランソワーズ・サガンという広告と一緒に、原田康子の「挽歌」の訳が売られている。日本人の画家の絵も、あちらこちらの画商の店先に見える。その中にキトウ氏の絵があった時に、パパは非常になつかしく思った。ところが、あとで聞くと、パリには現在二人のキトウ氏がいるというので、本当のところはパパの知っているキトウ氏の絵であるかどうかわからないのだが、そんなことはどうでもかまわない。ともかくも、その絵がキトウ氏のことを思い出させてくれただけでよい。パパの知っているキトウ氏は、パパが十年前、日本館の住人であった頃彼も住人で、スクーターに乗ってあちらこちらに出没していた。彼は戦争中、上野の美校の学生であって、その頃いた上野公園の鳩はほとんど彼の餌食となり、彼の胃袋の中に消え失せたのである。食糧が少なくなり、大豆などが配給になっていた頃であり、知恵の足りない人間は、大豆を米の飯にたきこんで、ごていねいに下痢をして、栄養失調をつのらせるようなことをしていたのだが、明敏にして天才的なるキトウ氏は、その豆を十粒ぐらいつかむと上野の山に行き、それを撒いて、マントの下にかくれて鳩が来るのを待っていた。十羽ぐらいの鳩がその豆をひろいに来たところを、パッとマントを上からかぶせて鳩をつかまえるのである。うまくつかまえられたかとパパが聞くと、彼はニヤニヤして、はじめのうちつかまえた鳩は片目だとか、片足の鳩だったなあ、と答えた。それはありうべきことだと思う。そのうち、彼の鳩がりの技術も向上したか、ふつうの鳩もつかまえられるようになったが、こんな具合で、一時は群をなしていた上野の山の鳩も、一羽も見あたらなくなったということだ。いったいどのくらいの鳩を食べたか、彼も正確には知らぬらしい。だが、彼は上野の鳩は全部彼が食べつくしたと信じているようだ。フランス料理ではどういうわけか知らぬが、鳩とグリンピースはつきものである。パパもそのいわれはよく知らない。しかし、皿の上に置かれた鳩と豆を見るたびに、パパは常にキトウ氏を、キトウ氏の絵を見るたびに、上野の片足や片目の鳩のことを思い出さざるを得ないのである。どうも表題から大分外れて来てしまったようだが、平和と鳩の間には、まだ許される連想の範囲があると言えるだろう。どうも、苦しい言いわけである。
さて、平和と英雄の関係の話にもどろう。外国に出ると、とたんに日本が遠く小さく見えだす。そして外国では、日本人は、日本という名のもとに、お前たちの住んでいる海と空、山と川を、それにお前たちの隣人を日本人の名前のもとに考え始める。だから、誰かをここでつかまえて、ヴェトナム人であるか朝鮮人であるかとたずねると、とてつもない大きな声で、ニッポンジン、と答えるのである。日本を離れると、日本人は急に代議士か大臣にでもなったかのように、日本とか民族とかいう言葉を、やたらと口に出しはじめるようになる。パパは時々、日本館に顔を出すが、そこに行くと、数学者や化学者や医者が、フランス人はとか日本人はとか、まるで、自分の学問などそっちのけで、日本人とヨーロッパ人の性格や文化の比較や、日本の文化の特質などについて論じ合っている。時たまそれに熱が入りすぎ、あわやつかみ合いのケンカ寸前まで発展しそうになる。この間も一人の日本人の医者が、別の数学者と話していた。医者の方は、フランス人は体を洗うのに、足の先から石ケンをつけて行き、おしまいに顔と頭の順序になるのに反して、日本人は頭から石ケンをつけて洗いだし、最後に足を洗う。これは日本人とフランス人の体の部分に関する関心の違いを非常によく示す一例であると、自分の偉大なる発見に少々得意そうな顔をして言った。ところが、数学者の方は、彼の論理的正確さをもってして、答えたのであった。そんなことは何の証明にもなりませんよ。フランス人は頭からシャワーをあびるのを好み、日本人は風呂に入るのに、必ず足から先にいれますよと。医者の方は返答に困ったらしく、カンカンに怒り出したのであった。という具合で、あまり役に立ちそうもない議論でにぎわっている。又、脱線しはじめたように見えるが、そうではない。安心してよろしい。こんな日本人たちの間で、池田首相がド・ゴールに逢った時のことが、話題にのぼったことがあった。この話は日本の新聞にも書かれて、少しさわがれたらしい。
ド・ゴールは池田さんに逢った後で、側近の誰かに、「私は一国の宰相に逢うことを期待していたのだが、私の逢ったのは、一人のトランジスターラジオのセールスマンにすぎなかった」ともらした、というのが、それだ。前にも歴史の中で、本当の真偽が決してわからないような運命を持った出来事について話したが、これもそうだ。本当の話としては、あまりにもうまくできていすぎるし、嘘と言うには、あまりにも本当らしい。しかし、これが事実であったか、どうかは、本当は問題ではないのだ。これが嘘であっても、そこにあまりにも真実をうがった何ものかがあるので、問題となるのである。この話を聞くと、ある日本人は国辱的であると言って憤慨したが、いったい何に憤慨したのか、彼自身もわからなかった。
ここでようやく、パパは本題にたどりついたようだ。ながながと前置きしたが、実は最初から、この話をしたかったのである。池田さんが、一人のトランジスター商人と評せられるのは、決して気にすることではないのである。ある人達は一国の宰相として英雄を持つことを誇らしげに思う。そして自分の国の宰相がトランジスターラジオの商人であることを残念に思う。首相の人物が、ひところにくらべると小さくなったことを嘆くものがいる。それは確かにそうだ。しかし、現代の繁栄している国々の首相は、日本だけでなく、どこの国でも一時代前の首相にくらべれば、ひとまわりも、ふたまわりも小さく、英雄的な要素なども見られなくなっている。スターリンの死んだあと、ソ連で個人崇拝を非難する動きがあったが、それは、その後に個人崇拝を受けるに足るような人間がいなくなったことも意味している。そのことは、ソ連に、彼と同じ位の能力を持った人間が、スターリンの後にいないことを意味しない。英雄というのは、全く一個の独立した人格のように思いがちだが、これは、歴史的危機という状況なしには生まれ得ないものなのである。何等かの政治的不安のないところに、英雄が生まれてくることはない。逆に英雄が存在することは、その国に何らかの不安定が存在することを意味しているのである。
英雄がふつうの人物とちがうのは、その能力のちがいではなく、彼が生きながらにして神話的なもの、伝説的なものを持っていることだし、神話とか伝説とかは、歴史的危機のこんとんとした状況の中にしか生まれ得ないものなのだ。
フランスにド・ゴールがいるのは、フランスに政治的こんとんが、つい最近まであったということだし、日本の首相がトランジスターラジオの商人と評されてぴったりであっても、それは日本に政治的な安定がまがりなりにも続いていることの象徴にすぎないのである。英雄崇拝は危機におかれた民衆の感情や意志の投射であり、幻影である。不安は投影されて希望となる。今の日本に必要なのは、世界に誇るべき英雄的政治家ではなくて、一人のトランジスターラジオの商人くらいのものだ。国会でも、このことは問題にされたというが、(問題にした方の頭のできもそうとうに悪いとパパは思う)そんな時、池田さんはいきりたったりしないで、静かに、こんな風に答えられていたら、よかったろうにとパパは考えている。それが少しばかり残念なことであった。
ユキにミトにチカ、こんなことは不必要なことであるにこしたことはないが、まあ、おぼえておくがいい。お前たちが英雄のいる国に住むことがあったら、すくなくとも、お前たちは平和の時代に生きているということはできないということを。
裏 町 に て
パパは、今、コメディ・フランセーズのリシリュウ劇場から三分ほど歩いたところにある、テレーズ街という古い狭い通りに面したホテルに住んでいる。一日十フランというから、日本円になおすと七百円ちょっとになる。パリでは一番安いホテルに属する。近くにモリエール記念の泉水というのがあるが、今は冬で水がなく、スモッグのためアフリカ人よりも黒くうすぎたないモリエールの像がある。
ホテルの入口には、トゥー・コンフォールと書いた札が下っており、日本語になおすと〈すべての安楽設備完備〉ということになるであろうか、そのホテルの、エレベーターもない五階にパパはいるのである。大変なことには、ホテル全体がかなり傾いていることだ。それで、パパの部屋をおとずれる友人たちは、誰も彼も「やあ、傾いていますな」という。床も天井も窓も、しかも、すべての方向に傾いているので、どうしようもない。寝台の脚は同じ長さに切ってあるので、もちろん床には平行であるのだが、地面には悲しいことに平行ではない。ここで垂直に立つということはいかに難しいことであろうか。それで夜の間、パパの平衡感覚が眠りによって失われるとパパが寝台から転げおちるか、掛けぶとんがずり落ちるかする。今、パパがそれに向って書いている机もかしいでいる。この中で精神だけが傾いていないとしたら、こんな偉大なことはない。それに、これは確かに安楽設備の一つということはできぬかも知れぬが、パパにとっては生命上欠くべからざる設備の一つであると思われるものが、このホテルでは時々欠けることがある。それは便所に紙がなくなっても、幾日もほっとかれることだ。あそこは、用のないものが入るところでなく、急用があってとびこむことの多い場所だ。用を足すのに必要がなくても、足しおわってホッとして見まわすと、大切なものが無い。「やられた」と思うと、それから、ポケットから財布の隅まで、不用にして有用な紙類を総動員させざるを得ない。こんな時、自分の知らぬ間に、ポケットにラブレターなどが入れられているのを発見して、それがムードのあるソフトな紙に書かれているのを見たら、誰だって、その暖かい心づかいを持った相手に感激して、すぐに情熱的な返事を書くに違いない。ところが不幸にして、パパのポケットにそっと手紙を入れてくれる者などないから、買物の受取りから手帳の紙までの助けを借りることになる。ただ、財布の中のナポレオンとヴィクトル・ユーゴーの助けをかりるには幸いにして至らなかった。しかし、ここで受難したのはパパだけではないらしい。その証拠に、便所の扉の内側に、おそらく外人であろう、「われ紙を欲す」というフランス語の落書きを残して行った旅行者があった。それが「ジュ・ヴゥー・ル・パピェ」と間違って書いてある。「紙」の上に定冠詞がついている。これでは便所の紙が欲しいことにならぬ。ある特定の紙、ラブレターの紙であるとか、誰かの写真のついている紙だとかであって、その紙が欲しいということになってしまう。それで、その落書きの文法的な誤りを、フランス人にしては良心的と思われる人間が、別の色の鉛筆で「ジュ・ヴゥー・デュ・パピェ」となおしてあった。定冠詞が部分冠詞になっていたわけだ。この落書きを見ると、もしまだ手遅れでない場合には、出かかったものをぐっとこらえて(これはわかるまいが、大変な精神統一を必要とするのである)自分の部屋に紙を物色しに帰ったのであったが、そうした危機的瞬間に「文法は便所で覚えるものである」という人生の一面の真理を悟ったことは不幸中の幸いというものであった。
もう一つ困ったことがある。いや、ほかに沢山いろいろなことがあって、たとえば風呂に入るとお湯しか出なくて、水を出そうとすると、破けた水道管の変な場所から(天井に近いところである)モリエールの泉水のように水がほとばしり出て、脱いでおいた服をびしょびしょにしてしまったことだとか、たった一つの蛇口から出るお湯が、とてつもなく熱かったり、ぬるかったりすることであるが、それはまだ重大なことではない。ただ一つ本当に困惑したことがある。
パパがこの安ホテルに泊るようになってから間もなく、番人夫婦がどこからか小さな雑種の犬を拾って来たことだ。この犬が、ホテルの入口や階段に小便や、更にもっとけったいなしろものを残して行くことである。そしてある日、パパが外から帰って来ると、その雑種犬が、パパの部屋に有難くないおくりものを置いて行ったのである。部屋に入ると、中が何だか妙にくさいので、パパは自分の靴をひっくりかえして調べた。パリの街は、用心しないと、無用なものをふんづけるのである。しかし、靴の裏を念を入れて三度まで調べたが、何もついておらぬ。それから、さかりのついた犬のように、部屋中をくんくんと探しまわると、ようやくそのおみやげを、部屋のすみに見つけた。幸いに(こういう時に幸いにという言葉を使えるようになるまでには、人生でかなりの数の悟りをひらいていなければならぬ)、それは、ほんの小さな拇指一本くらいのしろものであった。犬が小犬であったからであるが、これがシェパードの成犬のボロニヤ・ソーセージみたいなしろものであったら、それこそパパはどうしたことであろう。ともかくも、一大決心のすえ、そのしろものを何とか片付けはしたが、いじったら、その瞬間から何とも大変なにおいがしはじめ、そのあとで窓をあけ放したら二月のパリのことだ、もう暖房もくそ《ヽヽ》もない(全く文字通りである)。パパがかぜをひいたのはその直後であった。考えてみるに、「すべての安楽設備」というのは、部屋のかたすみに置いてある、ビデという女の大事な所を洗う瀬戸物のことであるらしい。パパにとっては、甚だ目ざわりなものであって、安楽などというものでは絶対にない。
少し下品なことを書いたようだが、これこそ最もフランス的なゴーロワズリイ(日本の辞書には卑猥がかった冗談と訳が出ているが、最も健康的な人間的な冗談と訳すべきで、日本の辞書編集者に警告を発したい)というもので、ラブレー以来のフランスの伝統なのである。
とは言ったものの、少しばかり気がひけてきたので、下品な話はこれくらいでやめる。
パパはこのホテルを出て、どこに行くかというと、パリのアル中患者の家を、一人のフランス人の医者とアシスタント・ソシヤルという仕事をするタレガニという名前の男と三人でおとずれるのである。タレガニといってもカニとは特別の関係はない。彼はパパより四五歳年下の男だが、立派な長いあごひげをはやした面白い人物である。通称タレ。彼は患者にもその家族にも、おれのことは、ただタレとだけ呼んでくれと言っていた。
アシスタント・ソシヤルというのは、フランスでは伝統釣な組織であるアシスタンス・ソシヤルという政府の生活保護局の役人のことで、生活脱落者たち、浮浪人だとか病人だとかと密接に接触して、援助したり、指導したり、国の保護を貰う手続きをしてやったり、病院に入る世話をしたりする仕事をする。パパたちは、パリの裏町から裏町を歩く。ある建物に入る。その時、タレがパパにささやく。「お前はタニザキの変な小説を読んだか。趣味の悪いじいさんが、のぞき見で興奮するやつだ」パパは、あいまいに答える。外側から見ると大した変りもない普通のアパルトマンだが、その一つの扉をノックする。十七八くらいの、ちょっとばかり可愛い顔をした、だが、頭の中身に少し不足があるようで陽気に笑う女の子が、そっと扉を細目にあける。「入っていいか」と猛烈な早口でタレが言うと、彼は返事を聞くひまもあらばこそ、その扉を押しあけ、パパも、もう一人の医者も、すでに内側に入っているのである。中がひどく暗い。台所の他に一部屋だけ。その部屋にダブルベッドが一つ。ほのかな明りは、テーブルの上に立てられ、半分ほどともったローソクの焔からくる。
「じいさん、どこへ行った」
とタレが質問する。
「じじいはね。二日前にね、ころんで脚を折っちゃってね、病院に連れてかれちゃったあ」と女が笑いながら答える。「病院に行きたくないってね、じいさん、さんざん駄々こねたけどね」
女はベッドの端に腰をちょいとのせた。彼女のかたわらに、十六七くらいのまだ子供じみた男が臆病そうにパパたちを見つめている。その女はパパになれなれしく、
「煙草もってない、あんた」
と言った。女は一見してわかるほど、腹が大きかった。女は「六ヵ月なのよ」と言った。そして口紅のはげかかった口を丸めて、煙の輪を作り、それがローソクの作る気流の中に巻きこまれると、急に形がくずれ、天井まで舞い上るのであった。すべての人影が大きく、天井までとどいてゆらいでいた。
タレの説明によると、脚を折ったという老人が、ここの部屋の持ち主で八十幾歳になるのである。僅かの年金で暮しているが、酒を飲むこととて、足りる筈がない。身よりもなく老齢でもあるので、ただでは生きて行かれぬ。そこで、じいさんにしては知恵を働かして(とタレは言ったが、老人は悲しいことに知恵がありすぎるものなのだ)、若い宿なしの淫売婦を探して来てただで住まわしてやり、そのかわりに女から、身のまわりの世話をしてもらうことを考えたのだった。部屋は一つ、寝台も一つ、そこに女と客と老人が一緒に一晩寝るのである。明敏なるパパは、それだけで、さきほどタレがパパに話しはじめた「タニザキの小説」の意味がわかったのである。若い男は、てんかん持ちの少年で、女の腹にいるのは自分の子であると言っていた。女は六ヵ月にもなるのに、まだ血液検査も診察も受けていなかった。ただ、子供は生むと言った。
「だって、子供って可愛いじゃない」
女は又煙の輪をいくつも作り、楽しそうにケラケラと笑った。
一日のうちに、こんな老人の家が二軒もあった。タレは女に病院を教えてやり、あまり乗り気でなさそうな女を見ると、男に、子供の父親なら責任もって女を病院に連れてこい、と説得とも命令ともつかない口調で言った。実際には、これはタレの仕事ではない。タレはアル中専門のアシスタント・ソシヤルだから、脚を折ったじいさんが受け持ちなのだ。しかし、彼には縄ばりなど問題でない。あとで彼の同僚で、女の方の受け持ちに連絡すると言っていた。この仕事で大切なのは、機会を捕えることなのだから、と彼はパパに説明した。パパたちは、その暗い家から、別の家を探しに出たのだが、廊下は別人の家のように明るく電気がともり、暗さに馴れた眼を一瞬めくらにしたのだった。そのじいさんの家は半年も電気代をはらわぬので、最近、電気会社から線を切られてしまい、ローソクを使っていたのである。ガス代も払っていないから、ガスも遠からずとめられるだろうという話だった。パパは外の明りに目をしばたたきながら、電線を切られ、ガスをとめられた、この十六七の男女が、これからどうして行くだろうかと考えた。
家を出て自動車にもどるまでの道でタレがパパに言った。
「アル中のじいさんは病院にとうとう入った。脚を折ったから入ったのだが、八十幾つ、家に帰れなくても、もう惜しくはない」
彼はそう言いながらもちょっと淋しそうな顔をし、それからまじめな顔付きにもどると続けた。
「社会主義の国には、こんなことがない。みんな収容所に連れて行かれちまうからな。たとえば、この老人は、おれが病院や養老院に行くようにすすめると、それを拒んだ。俺は自由だとね。その自由があるかぎり、俺にこれ以上何ができるかね。だが、逆に、自由があるかぎり、俺のような仕事をする人間は、いつまでも不必要にはならんだろう」
自由。そう、それは価値のあるものだ。パパが別の日に行った精神病院で、脳梅になった淫売婦が、自分を自由にしてくれと叫んでいた。
「そう、自由、自由ですよ。ドクター。私を自由にしてよ。そうしたら、あんたに、私の一番大切なものをあげるわ」
彼女の大切なものなど、パパは貰いたくない。彼女は脳梅のせいで言葉があいまいになり、自由を「ズユウ」と発音していた。
ユキにミトにチカ、今日、パパはどうも十八歳未満のお前たちには読ませられないようなことばかりを書く。でも、これは大切なことだ。パパも、その老人たちや、脳梅の淫売婦たちと同じに、自由が好きである。お前たちにはわからぬくらい、とても好きである。だがパパは、ここで、自由がどんなに高い代償を払っているかを、見つめながら、考えこむのである。
日本人のこと
パリの生活の間に、ある薬会社の社長とその下の医者と知り合いになった。二人とも非常に親切で、何回となく、パリの味自慢の料理屋にパパを案内してくれた。二人は平凡なフランス人であり、別に特に目立ったところはないのだが、二人の話をすると、日本では特別変った人物となってしまうだろう。このパパですらが、人によると変った男とよばれてしまうのだから。それは個性とよぶべきで、個性のない人間など、ここでは人間のうちに入らないのである。だから、本当のところは、フランスの国民性などということは、無意味に近いのである。たとえば、その社長でない方のFという人物である。彼はパパよりも少し小柄なくらいだから、フランスでは立派な小男だ。彼はユール・ブリンナーのように丸ぼうずであるが、毛がないのではない。彼の言によると、生まれた時から一度も毛をのばしたことがないのであり、彼がユール・ブリンナーを真似したわけでなく、反対に彼の方が本家なのであるが、軽薄にして誤った判断に満ちた社会は、彼をフランスのユール・ブリンナーと呼ぶが、彼は敢て抗議しない。彼は東洋の世すて人のごとく、社会など問題にせぬのだと言った。彼は五十歳に近いがまだ独身である。彼はチャコール・グレイの仕立のよい背広を着て、帽子もかぶらず、細身のこうもり傘を、いつも彼の腕にかけて歩く。テレビも見ず、ラジオも聞かず、新聞も絶対に見ない、というのが彼の誇りで、
「いったい新聞で毎日つまらん社会の変化を読んで、何の得るところがありまするかな」
とパパに言って、目を細めて、微笑ともつかぬ顔をした。
つい最近、パリでも自動車事故がひどく増加してきたので、横断歩道以外の所をわたる歩行者には、罰金を科することになり、新聞にでかでかとそのことが書かれていて、パパもそれを読んだ。それから数日してのことだった。パパはF氏に逢った。彼は、例の通り、ていちょうな物ごしで、大事そうにこうもり傘を腕にひっかけたままの姿勢でパパに言った。
「今日は、おまわりに罰金をとられましてな」
彼の話によると、いつもの通り、会社まで行くのに、サンジェルマン通りの激しい自動車の流れを縫って横切ると、向い側にマントを着、丸い帽子をかぶった男が立っていた。ははあ、これが話に聞いたおまわりというものだなあと思って横を通りぬけようとすると、
「ムシュウ」
とよびとめられた。今日はと相手が言うので、彼も今日は、と答えた。
「それで、あなたは数日前の新聞をお読みになりましたでしょうかな」
おまわりは、相手が見たところ立派な紳士であるので、ごくていねいにそう言った。F氏は、新聞の話になったので、わが意を得たりとばかりに答えたのである。
「数日前の新聞はおろか、新聞などというものは生まれてこの方、淫売同様、見たことも買ったこともござらぬな。これが主義でございましてな」
「あまり、よい主義とは申されませんな」
「いや」と彼は言った。「二十世紀では、これが長生きの秘けつでありましてな。新聞など毎日読んでは、ストレスが多くなるばかりでありまして……」
パリのおまわりも感心である。立派に人によって応対することを知っていると見える。日本のおまわりは、医者にあっても、ちんぴらにあっても、同じ言葉使いである。
「なにを言うか。なまいきなことを言うと、ようしゃせんぞ。医者だろうが、ももんが《ヽヽヽヽ》だろうが、違反は違反だあ」
それは悪しき民主主義と言うべきである。パリのおまわりはF氏に言った。
「ストレスはともかく、あまりよい主義でありませんな」
「いや、これほどよい主義は世の中で見つかりませんな」
「しかし、非常に高くつく主義であることには間違いありませんよ」
おまわりはそう言い、数日前の新聞に出ていたように、横断歩道以外のところを渡る歩行者の罰則として、日本の金で二千円ばかりを、非常にていねいにまきあげたのであった。
「よい主義は、つねに高価なものですな」
F氏は例の目を細める、笑うともつかぬ顔で言った。
お前たちに言うが、これは個性というもので、風変り、となど呼んではならない。そして個性のためならば、少々の罰金など、おそれてはならぬのである。このF氏と社長で、サンジェルマン・デ・プレの近くにある、小さな魚料理屋に行ったが、そこには映画の俳優たちがよく来て、その晩もジャン・マレーの姿が見えた。パパの隣のテーブルには、イタリヤ人の何とかいう女優がいて、その女性は、ヘソのあたりまで開いた黒いデコルテの服を着ていた。これも個性というものだ。しかし、この個性はどうも気になる。パパの隣にすわっていた社長も、ものすごい大きな音をたてて、生がきをのんでいたが、やおら、「失礼」とパパに言うと、「私はちょっと眼鏡を出して見なければならぬ」とパパに聞えるようにつぶやき、ポケットから老眼鏡を出して鼻の上にのせた。
「やや、これは深い。あの深みにあるかきは、皿のかきよりは、うまそうである」
社長は舌なめずりをした。彼は大分シャンペンが廻っているように見えた。もちろん、その晩は、男だけの食事で、何のくったくもないものだったのである。
日本人には、よいところも沢山ある。しかし、もっとよいところを多くしても悪いことではない。その一つが、この個性というものであり、芝居気というものだ、とパパは思う。
ママの手紙によると、パパの留守の間に、ママは結婚してから四度目の引越しをしたらしい。結婚してから八年であるが、その間に四回である。だが、これは、孟母三遷などという東洋的な意味のものではなく、本当は、ママが引越しが好きであるからであろう。ママは、東京のタクシーが値上げしたから、つとめ先に近いところに移るのであって、自己防衛上の手段であると理由をつけていたが、タクシーも変な時に値上げをしてくれたものだ。しかし、これもママのフランス的個性の一つだとすれば、パパは我慢するほかはない。ここでも、個性は非常に高くつくものだ、ということをしみじみと感ずるのである。
その同じ手紙の中に、ユキが最近、妙なことを言ったと書いてあった。それは、ユキがじっとママと、ミトとチカを眺めていて、
「ママはフランス人なのに、どうして日本人の子供を作ることができるの」と言ったことである。ユキは今、六歳半。子供がどうして生まれるか、ということに強い疑問を持ち出した証拠であり、このことをお前はよく覚えておくがいい。ママはどう説明したらよいか困ったらしい。それで、「ユキ、お前は日本人でもあるがフランス人でもあるのだよ」と答えたらしい。するとそれに対して、ユキはあの子供特有の、ありあまる好奇心からくる執拗さで、
「ユキがフランス人でもあるのはわかるが、それじゃ、ミトやチカをどうして作ったの」とママに迫った。ユキの目には、ミトとチカは日本人としかうつらないらしい。その手紙を読むと、ママが一人で悪戦苦闘しているのがわかる。ユキにミトにチカ、同時に日本人でありフランス人であり、そして日本人でもフランス人でもないのがお前たちなのだ。それはとても難しくてわかりにくいことだし、ユキが六歳半でその疑問を抱いても、二十歳になった時にすら、その疑問がすっかり解けているかどうか、パパにはわからぬ。このあいまいな存在というのが、お前たちの生まれた時からの運命なのだ。これは、パパもママもどうすることもできないことである。
パパがフランスの片田舎に行った時、一人の労務者がパパに話しかけてきた。お前は日本人かと。そうだ、と答えると、「俺は日本人の名前を一人だけ知っているよ」と言った。パパはそのたった一人の日本人とは何者であろうかと思った。
「ヒロヒトか」と言うと、それは知らない、と彼は言った。外国人がヒロヒトと天皇を呼びつけにするのは不思議にひびくようだが、けしからんなどと怒ってはいけない。それは彼等の習慣ではごく自然なことなのだから。英国の女王を彼等はエリザベスと呼びつけにして、更には香水の名前にまで使ってしまうのだから。それでパパは、トイレの中であらゆるポケットの中身をさぐったごとく、あらゆる記憶のポケットやヘソクリのかくしばしょまであらためて、いろいろの日本人の名前をひっぱり出して見たが、その誰でもなかった。おしまいに誰だと言うと、オギノだよ、オギノ式産児制限のオギノだよ、というのが彼の答えであった。フランスではまだカトリックの反対が強く、産児制限用の器具は一切売ることが禁止になっているので、労働者の間で唯一つの産児制限法になっているのがオギノ式なのである。
「オギノに逢ったら礼を言ってくれよ」
と彼は赤ブドー酒のグラスを持ち上げた。それで、あんたは、何人子供がいるかね、とパパが尋ねると、六人だが三人はよけいだった、でもオギノが悪いんじゃない、自分がちょっとばかり悪かったのだ、と答え、赤い鼻を上向けて笑った。
お前たちは、そのオギノを生んだ日本人を、フランスに行ったら、半分誇りにしてもよいし、半分感謝してもいい。でも、パパは日本人として持っている、お前たちの半分の要素に、一言だけ忠告をしておきたい。それは日本人の日本人に対する責任感である。
今、ドイツで、戦争が終って十八年になるというのに、アウシュヴィッツで働いたドイツ人の裁判が行われ、毎日のように新聞にのっている。ドイツ人がドイツ人を裁いているのである。だが、日本ではどうであったろう。戦争の残りは原水爆反対運動以外に何が見当るだろうか。戦争の罪の問題や意識はどこに行ってしまっただろうか。
今、パリでは、「法皇」という題の芝居をやっている。これは戦争中、ピオ十二世が、ユダヤ人のナチによる虐殺の際に、それを知りながら、何故無言のままであったか、を問題にしている。無名の神父たちが、死を賭《と》して、それに反抗していた事実もあるのに、法皇は最後まで、ドイツ国民のカトリック教徒に対し、警告も発しなかった。ある者は、ピオ十二世が知らなかったと主張するし、沈黙には別の大きな理由があったのだとも言う。しかし、パパは思う。ある地位にあっては、知らなかったこと、知ろうとしなかったことに責任を持たねばならぬだろう。ある地位がロボットを意味していることも確かにある。しかし、人間が自分の人間としての威厳に責任を持つ限り、ロボットとなることを拒絶しなかった人間は、その責任を感じなければなるまい。日本では戦後十数年して、戦争犯罪人として何年か巣鴨にいた人間が首相になった。ドイツでは、最近も一人の大臣が、過去にナチに関係していた前歴があるという理由だけで、それが新聞にあばかれると、大臣をやめた。それから、日本には、戦争の責任を知ろうとさえしない人間もいる。ここで戦争の責任というのは、外国に対する責任でない、自分自身、日本人自身に対する責任のことであるのだ。そして原子爆弾の責任をのみ問題にする。原子爆弾も重大な問題ではある。しかし、自分自身の責任に厳しくなかった人間が、他人の責任のおく深くまでどうして入ることができようか。戦争が終っても、占領者が日本を裁くことがあっても、日本人はついに自分を裁こうとしなかった。他人の裁きが、どうして本人の良心に達しえようか。罰は人間の肉体をくるしめても、心には達し得ない。かくして、日本人は、被害者意識から抜け出し得ないのである。原水爆禁止運動が、この被害者意識の上に成り立ち、ある特定の国を非難するだけのものに終り、人類の罪の意識の上に成り立たないのならば、それが世界的なもの、全人類的なものとなることはないだろう。
日本人は戦争が終ると、一億総ざんげと言った。実を言うと、その時はもう、日本人は一億はいなかったのだけれども。そして、ざんげのあと、罪の意識はどこかに行ってしまったようだ。ざんげ、と罪の意識、その間に日本人の精神のすべての弱点がよこたわっていると言うのは、言いすぎであろうか。パパは、お前たちに希望する。お前たち、半分が日本人であり、半分がフランス人であるもの、が、その間を埋めてくれることができたらと。そうすることができたら、パパは満足であるだろう。
やぶけるという言葉
今日、パリはゼネストの影響で、電気もつかなければ、地下鉄もバスも動かない。軍隊の自動車が出て人をはこんでいるらしいが、自分の目で見たのではないから確かではない。それで、ひさしぶりに、一日中ホテルに頑張ってすごしたというわけである。こんな日は、さすがに一人でいるというのは少しばかり退屈である。外に出もしないのに、メトロもバスもない、どこにも行かれない、と思うだけで退屈になってしまうのだ。おまけに朝からみぞれまじりの雨が降り、時々、晴れ間から日の射すことはあるが、降ったりやんだりの天気である。日本であったら秋雨模様の天気というところだが、ここではこれが春雨なのだろう。
今、パリでパパのよく逢う二人の日本人がいるが、一人はパパと同じ精神科の医者であり、もう一人は芝居を勉強に来ている、口の非常に達者な男である。二人ともそろって、日本でも一流の小男であり、ヨーロッパのように大男ばかりの国に来ると、好むと好まざるとにかかわらず、上を向いて歩かねばならぬ。それでパパの鼻の穴などに自然と目が行くらしく、人中で、大分鼻毛がのびましたな、みっともないから少しきりなさい、などと人の世話をやくがごとく、わめくのである。ともかく、小男は上を向いて歩きなれているせいか、どうもいつもいばっているようで、気も強くなっていけない。
二人とも小男にありがちな、おっちょこちょいのところがあるが、おっちょこちょいの人間に限って悪人はいないものだが、この二人も例外でない。芝居をやる男は、フランスに来る途中いろいろなところをよりみちして来たが、ギリシャかエジプトでパンツを盗まれたと、逢う人間に誰でも話している。パンツを盗まれるのは、それを脱いでいる時に限る。これは理の当然というもので、はいているままのパンツを盗まれたという例は、パパは今までただの一つしかしらぬ。それに、「いやあ、弱りましたよ、あの時は」などと言えば、彼がパンツを一枚しか持っていないことになるではないか。パンツを盗まれたと言うなら、その中身が盗まれていないなどという保証人にパパはなることができない。だから、こんなことは、おっちょこちょいでなければ口軽く話すことではないのである。
もう一人の精神科医の方は、パパとよく西洋将棋をさした。パパがあまり強くては勝負にならんから、時々勝って、その半分くらいは負けてやった。ところが、彼はパパの王様がよく動いて、なかなか詰まないというので、西洋将棋連盟に連絡もせずに、王様がこんなに動くのは変ですよ、これでは勝負がつきませんからと言って、王様を縦横以外に動かぬことにきめてしまった。その上、そうです、これが本当ですよ、などと抜かす。幸福な男だ。しかし、この規則改正のおかげで、ちょっとばかり負けが多くなった。こんな勝手なことを平気でできるとは、何と幸福な男だろうと思うが、本人はちっとも幸福とは感じておらぬ。そして何かと言うとカンシャクばかり起しているが、これは欲求不満の現われというものであろうと思う。雨が降ると、「何ですか、こんなに雨ばかり降って、どうにかして下さい。先生の奥さんフランス人でしょう。フランスはけしからん」と怒る。いくらフランス人の嫁さんを貰っても、雨などどうしようもないではないか。怒ると人間は非論理的になるものだ。それで彼はデパートに行き、ばかでかいこうもり傘を買いこみ、天気が良くても、彼の腕にぶらさげて歩いている。体が小さいのにばかでかいこうもりなど買うのだから、それをひきずって歩くかっこうは、ひいき目に見てもあまり立派とは言えぬ。それに、傘を買ったのに雨が降らんのはけしからんと怒っている。それで、雀の小便ぐらいの雨が降ると得意になってその傘を開く。小さな人間の方が大きな人間よりも雨にぬれる面積は小さな筈だが、それを幸福などと思うセンスは持っておらぬとみえた。お前たちに言っておくが、雨の降る日など出歩くのは、失恋でもした時に限っておいて、そうでもなかったら、ホテルの部屋か、コーヒー店のテラスから、ガラス戸越しに、ぬれた舗道や屋根を、煙草をふかしながら眺めてでもいればよいので、傘を買ったばかりに、無理して外を歩くには及ばないのである。
ところでホテルのことだが、一週間ばかり前、ちょっとばかりの用があって(このことは後で書くが)地方を旅行して帰ってみると、支配人が夜逃げしていた。支配人というと立派に聞えるが、パパのホテルでは門番に毛の生えたぐらいのものである。十八歳くらいのアルジェリヤ生まれのボーイが一人置きざりにされ、ぽつねんと入口の番をしていた。ホテルの客が夜逃げをするのならわかるが、支配人が夜逃げをしたというのには、日頃は冷静で有名なパパも少々驚いた。それに夜逃げというものには、パパもしばらく出逢わなかったので、全く久しぶりに耳にする言葉であり、ちょっとなつかしくさえあった。
もちろん夜逃げという意味のフランス語をきかされたわけである。昔、パパがユキの年ぐらいであった頃、近所にばくちうちの家族があって、そこの娘とパパはよく遊んだものだった。その一家が一夜あけると姿を消していた。パパはあわただしく荷作りされた跡の残っている、がらんとしたからっぽの家をぼんやりと眺めたものだった。それがパパの「夜逃げ」という言葉を最初に知った時であった。それからしばらくして、親しかった小学校の遊び友達が、前の日の午後、何時もと変りなく、さようなら、と言って別れたのに、次の日から突然姿を見せなくなった。彼の家族が夜逃げをしたのだということだった。その言葉には、すぐそれらのことをパパに思い出させる余韻がある。日本語の「夜逃げ」という言葉は非常にわかりやすく、しかも明確な表現で、同じことをフランス語では「木製の鐘のごとき引越し」というが、長たらしくばかりあって明確を欠いている。木の鐘だからあまり音がせず、それで「こっそりと」という意味になるのであろうが、論理的であっても、冗漫で説明的に流れすぎている、とパパは思う。
パパの好きな詩人、ブレーズ・サンドラスが、昔、自分と友人のやった夜逃げのことを書いた小説があるが、それを読んだ時、パパも一生に一度は夜逃げでもしてみたいと思ったが、今ここで、そのことを思い出した。他人はいざ知らず、パパには、この夜逃げという言葉は、何十年という歳月をとび越えて、直接少年期の思い出にトゲのようにささりこむ、鋭い響きを持った言葉なのだ。パパのともだちであった、そのばくちうちの娘たちは、二十年ほどたって逢ったが、二人とも美しい芸者になっていた。
夜逃げした支配人の奥さんに、パパはフランス語で書いた論文をタイプでうってもらうように頼んで渡しておいたのだが、その論文も彼等と一緒に夜逃げしてしまった。警察が来て家探ししたが、その時も見つからなかった。二十年はおろか、百年たっても、パパがその原稿と再会することはあるまい。しかし、パパは怒ったりなどしていない。彼等は非常に良い人間だった。その支配人夫妻の飼っていた雑種の犬については、前に書いたと思うが、その犬が間もなくホテルの前を通る自動車にひかれて、後脚二本が骨折し、ギプスを巻かれてしまったことはまだ書かなかったと思う。そのため、犬はパパの五階の部屋まで階段をのぼって侵入することはできなくなったが、ホテルの入口のところで一日中車を見ては吠えつづけるようになり、自由がきかないのでたれ流しをするようになった。その犬も夜逃げをして姿を消した。おそらく、夜逃げには足手まといの厄介なしろものであったろうに。そのことが、彼等の人間のよさを証明しているではないか。
このことがあってから、パパはこのホテルを何となく去る決心をした。だが夜逃げはしない。夜逃げは別の機会にすることにする。
二週間ほど前、パリの生活にもちょっと飽きた頃でもあるので、ある製薬会社の出した新しい精神病の薬のシンポジウムがあるというので、それに便乗して一週間ばかり、リヨン、アヴィニョン、アルル、トゥールーズとフランスの田舎をひとまわりして来た。田舎などと書くと、リヨンやトゥールーズの人間は怒るかも知れない。リヨンの人間は、この町がフランスの本当の中心であると思っているし、トゥールーズの人間は百年もすると、ここがフランスの中心になると思っているのだから。しかし、パパにとっては、どこがフランスの中心であろうと、中心になろうと、知ったことではない。確かなことは、パリはパリで、フランスというものではないということだ。
ともかく、フランスの田舎に行く者があったら、強力な消化剤を忘れて行かぬように注意する。さもないと大変なことになりかねないであろう。何しろ、彼等のよく食い、よく飲み、かつしゃべることときたら、見ているだけで腰をぬかしたくなるほどである。病院に行く。午後の一時に昼食の食卓につき、昼食が終り最後のコーヒーを飲み終って腰を上げるのが三時半か四時で、それから午後の仕事というわけで、病院を見学してホテルに帰ると六時半か七時。七時半には夕食のレストランに行くための集合の号令がかかり、夕食が終って最後のコーヒーとコニャックの出るのが十二時半から一時。それだから、ホテルに帰って眠るのが朝の二時ということになる。そして次の日の朝の出発が八時などと言われると、そしてそんな毎日が四日も続くと、パパは「助けてくれ」と叫びたくなった。
それに誰の陰謀によるものか、五日間の食事にいくら御馳走とは言え、パンタドという、日本語の字引には「ホロホロ鳥」と訳ののっている鳥のむしやきが、三回も現われたことはショックであった。リヨン地方の格言に「仕事はしてもしなくても勝手だが、食卓では無理にでも食わす」というのがあるそうである。何しろ招待した人間が、食卓の前で、お客に向って言うのだから本当であろう。そんな格言など甚だ迷惑である。しかし、そんな前置きがあっての食事だから、どんなことが起るか想像にまかせると言いたいところだが、想像を絶しているから、説明をしなければなるまい。ボーイがうしろに立っていて、皿が空になりそうだと見ると、ドサリと皿をいっぱいにする。ビフテキがうまいなどとほめたら、牛いっ匹、食わせようというコンタンである。パパが腹八分目の哲学などを説いても、慢性胃拡張のフランス人たちは、笑ってゲップを出すくらいのものだ。腹いっぱい食べたというのを、胃袋がふくらんだというかわりに「のどもとまで食べた」という連中だから、相手にせぬ方が無難である。十二分に食べた連中を、頭の上まで手をやって、「ここまで食べた」という。こうして一回ならともかく、毎日、一日七八時間も食卓にしばりつけておくのだから、街など見物する時間があったものではない。それなのに夜の食卓で、どうだ、この街は気に入ったか、などと招待した人間が聞くのだから、話にならぬ。パンタドの景色は、場所によって、ちょっとばかり色がちがうようだ、と言いたいところだったが、相手がこちらの皮肉を解しそうもないのでやめた。夜二時半過ぎて見物する景色などは、どこに行っても同じである。
二日ばかりこんな日が続くと、ドイツ人とスウェーデン人の医者は、急用があると逃げ出してしまった。後で話を聞くと、最初の日に腹をこわして、このままでは生きて帰れぬものと思ったらしい。同行した日本人の一人はブドー酒が好きで、最初の日は、本場のブドー酒が飲めて幸福だなどと言っていたが、三日もすると、青い顔をして、「もう、大和魂ですな。大和魂で飲むんですな」などとこわれたレコードのように、同じことを繰返すようになったのである。
しかし、上には上があるもので、フランスより、もっとすさまじいところがあるらしい。この旅行で一緒になったアルゼンチンの医者は、彼の国はフランスよりも更にひどいと言ってパパをどきりとさせた。何しろ夕食が遅くて(それも腹をすかせて、つめこむコンタンであるが)、夕食に招待された時、八時半頃その家に顔を出したら、この上なく無作法な人間に思われ、遅く行けば行くほど、礼儀正しくなり、夕食は早くて十時半、普通は夜の十一時半頃始まるのだという。それで最後のコーヒーが終るのが、朝の四時か五時であるという話だ。これには嘘いつわりはないらしいのである。それでは昼飯から夕食までの間はどうしているのか、とたずねたら、一時間ごとにコーヒーを飲んでいると、まじめで絶対にうそなどつくことのできない顔付きで答えた。お前たちは、大きくなっても、よほど胃腸と徹夜の自信がなかったなら、アルゼンチンなどには行かぬことが賢明というものである。でも、彼等は昼食のあと、二時間ほど昼寝をするというから、それでもまあ体がもつのだろうが、さもなければ、天国で昼寝をするようになることを保証する。
ともかく、こんな日が五日も続いた最後の日に、その元気のいいアルゼンチンの医者までが、最後のコーヒーが終ると、
「やれやれ、これで眠れるってわけだが、眠っている間だけは、おおっぴらに食べないでいられるな」
と言ってためいきをついた。パパはというと、前の手紙ではしきりとためいきをついたものだったが、今度という今度は、ためいきもつけなかった。ためいきなどついたら、同時に何がとび出してくるやらわかったものではなかったからである。
フランス語にやぶけるという言葉がある。この「やぶける」という言葉は、自動車のタイヤのパンクの時にも使う言葉だから、文字通りやぶけることなのだ。この言葉は死ぬという意味にも使うことがある。死ぬほど笑うことを、「笑って腹がやぶける」というが、不思議なことに、食べすぎて腹がやぶれるという表現はない。それなのに「空腹でやぶける」などという。正確で明晰で論理的なこと、世界一だなどと、フランス人はフランス語を自慢するが、何が論理的なものか。ともかく、けしからぬことであるから、日本に帰ったらママに抗議するつもりである。
そういう次第であって、パパはこの旅では、すんでのところで殺されるところであった。つまらぬ話になったが、この旅で、パパはヴァン・ゴッホの入院していたという、サン・レミの近くの精神病院を通った。ゴッホはこの地方に住んでいた時、アルルの浮浪者の収容所と、精神病院に時々入院したらしい。それで、正確なところ、何年の何月に、この病院にいたか、どの部屋にいたか、などはわからない。何しろ、彼はその頃、まだ無名だったから。その病院は、レ・ボーという、石灰岩の荒々しい山肌の山のふもとにあり、ローマ時代の発掘中の遺跡のそばにあった。病院の庭先に一群のあやめの花があり、そこに、ゴッホの絵を思い出させるものが、わずかに残っていた。ゴッホはこの病院を退院して間もなくパリにもどり、パパの記憶が確かなら、パリ近郊の麦畑の中で自殺するのである。彼のような死こそ、フランス語の「やぶける」という言葉がぴったりするであろう。パパの見た病院の風景は、ゴッホの入院していた頃とほとんど変っていないようだった。ただ、パパのおとずれたのは、彼の愛していた季節とは違っていて、早春の空には、ゴッホのえがいた日の光がなかった。糸杉だけが黒々と、荒れ果てた世界の中で、ねじれたクリスマスのローソクのような姿を、鋭くそばだてているのであった。
スペインとポルトガルへの旅
三月の終り、パパは他の日本人の留学生三人と自動車を借り、イベリヤ半島に旅をした。マドリッドに着いたのは、九時過ぎで、もう、あたりは暗かった。
ある交差点で、赤信号になったので車を右に寄せてとまっていると、何だか様子がおかしい。胸さわぎがするのである。しかし、パパは迷信深くないので青信号になると、ゆうゆうと車を動かした。その時、パパは違反したことに気がついた。パパの停っていたところにあった車は必ず右にまがらねばならなかったのである。と思った時には、車の前にオートバイの尻に乗ったおまわりが、パパの車に合図しているのが見えた。
「ウハッ、とうとうつかまった」
うしろに乗っている数学者と精神科の医者は、自分が免許を持っていないので、パパに運転をさせておきながら、いざ問題が起きそうになると、他人事のような顔して喜んでいる。おまわりにつかまるのは、なにも見せ物ではない。それに、「ウハッ」という声も気にいらないが、「とうとう」という言葉はもっと気にいらぬ。「ウハッ」というのは少々下品であるだけだが、「とうとう」というところをみると、彼等は、パリを出た時から、パパがおまわりに早くつかまらないかと、待ちに待っていたことを意味している。しかし、つかまるにことをかいて、フランコの国でつかまるとは、パパもどうしたことか、と思ったが、ともかく物ごとには諦めが肝心だから、そのオートバイについて行った。おまわりは、パパに右に曲れと命じ、それから、ごみごみした細い道をどんどん入って行く。どこまで行くかと思っていると、こともあろうに駐車禁止のしるしのある通りで、ここにとまれと合図した。敵はパパに違反の上塗りをさせるつもりかも知れぬ、その手にはのらぬぞとパパはハンドルを掴んだまま待っていた。おまわりは、オートバイからおりて来た。だが相手はニコニコと気味の悪いほど愛想がよい。ともかくも、連れていくならどこへでも勝手にしろと思っているとホテルはきまっているのか、と言った。そのおまわりはフランス語を話した。泊るところが無いと答えたら、ブタ箱にでも泊めてやろう、と言うコンタンではないか、と思って警戒していると、宿がきまっておらぬのなら、この近所に自分の知っている安いホテルがあるから来い、と命令する。何しろ違反を見つかっていると思うから、あまりおまわりを怒らせてもいけないという気がして、彼の言うとおりになった。馬鹿に高いホテルにでも押しこまれると困るという心配があったが、彼の案内してくれたのは、高くも安くもなく、それでいて、別にひどくきたなくもない、まあまあ、というホテルであった。そして話がきまると、そのおまわりは違反のことは何も言わず姿を消してしまった。
これは親切というものである。ちょうど復活祭の時で、マドリッドの旅館はどこもいっぱいであったから、あの制服のおまわりが一緒に来なかったら、パパたちは宿を見つけるのに大分苦労をしたことであろう。ともかくも、パパの知っているところでは、つまらぬことで、善良な市民に面倒なことを言うのは、日本のおまわりだけであるという感じだ。しかし、パパがつかまった、と喜んでいた男たちは不服そうであった。
「なんですか、あれは。おまわりですか、客引きですか」
彼等は失望の色をかくせないで、ぶつぶつとそう言った。
「あれは、親切というものだ」
とパパは答えた。
パリを出てロワール河沿いの城を見物し、それからボルドーへ。ボルドーからビヤリッツ、アンデを通ってイルン。そこがフランスとの国境である。スペインに入るとたんに、坊さんと軍人の数の多さが目にとまる。軍独裁とカトリック教会、これがスペインに入ってから、スペインを出るまで、パパの目に入ったほとんどであった。
サンセバスチャンからパンプロナ、サラゴサ(サラゴサをザラゴザと発音したものがパパの連れにいたが、論外である)、途中シグェンサとサンペドロの僧院に寄ってマドリッドまで。自動車で走り続けるのだが、長い旅である。更にトレードとセゴビヤをたずね、サラマンカから、ポルトガルに入る。コインブラ、リスボン、そこから引きかえしてパリまで、二週間かかるが、その間、自動車で走りっぱなしであった。
スペインとポルトガルは、何となく日本人のパパに親しみにくいようで、それでいて又何となく日本に近いものを感じさせた。それは、この二国が日本人の祖先たちの知った最初の西洋であったという歴史的なことがらと関係があるのかも知れない。同じ、カトリック教会にしても、フランスがカトリックという言葉しか感じさせないのに、スペインは、パパにキリシタン・バテレンを思い出させるのだ。しかし服装や踊りは、古いまま残っているものを見ても、悪い気はしないが、精神が古いままであるのは圧迫感をおぼえさせるものである。
マドリッドに着いた翌日、復活祭の行列があるというので見物しに行った。街には、パパのように観光客の外人もいたし、マドリッドの休日で仕事がない労働者たちもあふれていた。行列の最初は騎馬兵であり、その次はヒットラー・ユーゲント的な少年団の鼓笛隊である。次にマリヤの旗を持ち、白い長衣を着た子供たちが通る。観光客は珍しさにひかれて、パチパチと写真を撮っていた。すると遠くから、ジャラジャラと金属のふれ合う音が近づいて来た。人波で遠くは見えない。何ごとだろうと思っていると、カグールという目と口の所だけ丸い穴のあいた、アメリカのK・K・Kが好んでかぶる、日本では漫画の秘密ギャング団の用いる頭巾をかぶり、長衣を着た男が、四寸角の柱を二本組合わせた二間ぐらいの木の十字架を重そうにかついでいる。足を見ると裸足である。そして、それに結びつけられた銹びた長くて太い鎖が男が歩くごとにガチャガチャと、マドリッドの街の細かな切石をしきつめられ、ところどころにロバの糞の落ちている舗道に触れて鳴るのであった。それは異様であり、まさにキリシタン・バテレンそのものの姿のようであった。行列はそれだけでは終らない。その後に復活した姿のキリストの像が、無数の生花によって作られた台座の上にたてられている、一種のみこしのようなものが、信者にかつがれて静かに進む。日本のみこしのようなワッショイワッショイの馬鹿騒ぎはない。そしてその後から、ともしたローソクを手に手に持った教区の信者たちが、無言で、数百人も続くのであった。その信者たちも靴を脱いでそれを手に持ち、裸足で冷たく光った切石の舗道を音もなく進むのである。中にはストッキングをはいた若い十八九の女性も多い。それを見ると、パパはだんだん気が重くなった。同じ姿を、エル・グレコの絵の中に見た時の感動は、現実のその行列、数百年前とすっかりそのままの行列を見た時に、深酔いした時の悪寒に変って行った。パパは軍閥時代の日本の神道の儀式のことを思いうかべた。
すると、隣にいた労働者風の男がパパに向って話しかけてきた。日本から来たのかと言う。パパはそうだと答えた。男は自分の子供は日本製のゴム長靴をはき、家では、「まるは」の魚のかんづめを時々食べると言い、微笑し、親しそうにパパの肩を叩いた。彼は年の頃、五十くらいの、日焼けした、そしてきざみの深い顔をしていた。パパはスペインに入る時まで、この国のさまざまなイメージを持っていたのである。ドン・キホーテとサンチョパンサ、ロバと風車、ヘミングウェイが数多い短篇小説の中でえがいた風景、ガルシャ・ロルカの詩や劇の中に出る人々、マルローの「希望」の中に出る川や橋や。しかし、パパはスペインの中で、まるで別の国の世界のような印象しか持たなかった。内戦の時、マドリッドにたてこもって、フランコとイタリヤとドイツの空軍による爆撃の中で最後に抵抗した人間も精神も、見当らなかった。僅かに自分のイメージの中にあったものを見出したのは、半砂漠の中を流れる、エブロ河の濁流の黄色と、ところどころで見かける風車と痩せたロバぐらいのものだった。パパは隣の男を見つめながら、この男は、どちらの側に立って、内戦を闘ったのだろう、と思った。その男がパパに言った。
「ヒロシマはどうだったんだ」
実はパパもどうだったのだか知らないのだ、何しろ、本当のことを教えてくれそうな人間は、誰も生き残らなかったんだから、と答えると、彼は頭を振った。
「おそろしいことだ。おそろしいことだ」
彼は何度もそうつぶやいた。それから、彼はパパにスペインをどう思うか、と尋ねた。パパは日本人だ。そして日本的礼節というものは、あまリズバリ真実を言って、相手の気持を悪くさせまいとする心やりだ。この日本的な習慣がパパに言わせた。
「そうだな、スペインは、風景が美しくて、興味ぶかい……」
パパが言葉を終らないうちに、その男はパパの肩を両手でつかみ、はげしく、おそろしくはげしく首を振った。
「そんなことは、そんなことは」彼は首を振るために声をとぎらせた。「言わなくてもいい。あいつを見たか、あいつを」彼は遠ざかって行く、復活したキリストの像の後姿を指さした。「生き返りゃがったんだ」男の目が光っていた。そして彼は逃げるようにパパから離れて行った。涙をかくしたかったのだろう。それが、パパの逢った、マルローの「希望」や、ヘミングウェイの中をかすめて行った人物のただ一人のようであった。
前にも言ったように、スペインとポルトガルの中には、何世紀も前に日本に入り、消化しつくされ、日本の一部になってしまった西洋がある。言葉の上でも、食物の上でもそうである。パンがそうだし、カステラがそうだ。その中にはカステラのように、あるいはてんぷらのように、意味をとりちがえて日本語になったものがある。カステラはカスチリヤという地方のことであるし、テンプラは教会《テンペロ》のことである。日本人のあまり言葉の上手でなかった連中が、料理の名や菓子の名前を聞いたら、相手が場所をきいているものと思って、カスチリヤと教会《テンペロ》と答えたので混乱が起ったのだという。ともかく、カステラをスペインの菓子屋に見つけたりすると、何となく嬉しくなってしまうのは、どういうことであろう。
パパが中学の時、英語の教師が、昔は外国語であって、それが日本語になったものを数えあげてみろと言った。ラジオ、パン、パンツ、テンプラ、カステラ、ワイシャツ、レコード、数えあげると、なかなかきりがないものであった。ズボンというのはいったい何語からきたのかと思うと、フランス語のジュポンからきたので、本当はスカートの下にはくペチコートのことで、女の下着である。日本では男が女の下着を着て歩いていることになる。誰がこんなけしからん、恥ずかしい間違いをしたものであろう。トタン、マッチ、ブリキ、限りがなかった。トタンはポルトガル語からきており、マッチは英語である。それらは、あまりにも日本語になってしまったから、たとえばマッチは英語ではなんというのだろうと考えこむ日本人がいるくらいである。この日本語の中の外国語さがしは、大成功で、クラスは大変な活気に満ちたものになった。すると一人の男が、あっ、もう一つあった。と叫んだ。そして、なるべく外国語らしい発音をしようとして、
「チークォーンキー(蓄音器)」と言ったものである。
スペインに行った仲間の一人で、英語にたんのうであると称する男が、カステラの話に関係してパパに言った。
「カステラがカスチリヤであるというのは、まだ本当のところは、あやしいんですよ。そのかわりこれは本当の取りちがえからきているんですが、日本語のブリキというの、あれは英語のブリックつまり煉瓦からきているんですよ」彼はパパがへえーと驚いた顔をしていると、得意な顔をした。「へえー、物知りのあなたともあろうものが、この話を知らんのですか」得意になると人間はおしゃべりになり、おしゃべりになると、人間はよけいなことを言いだす。わざわざ、パパが知らん、などと大声に言う必要はない。「昔、英国から煉瓦がとどいた。それがブリキの箱に入っていた。それを日本人が箱をゆびさしてこれは何だときくと、英国人が、箱の中身のことだと思ってブリキと答えたんです」
くだんの男はパパの顔を見て、どうですか、よく知っているだろうという表情をした。しかし、お前たちは、こんな話をふーんだなどと聞いてはいけない。日本人はおっちょこちょいであり、しばしば、そのおっちょこちょいぶりを発揮してきたのだが、ブリキだけはそうでなかったのである。ブリキはオランダ語のブリクからきたのであった。
なにしろ数人で旅行していると、そんなつまらんことをワイワイと話すことばかりが多い。食事ひとつをきめるにも、わいわいと騒ぐ。リスボンで、生いかの輪切りをメリケン粉をつけて揚げた料理を食べたものがいた。食べるのにも、必ず註釈入りである。
「これはなかなか、いけますよ、ふむ、モグモグ、ふむ、わが国のてんぷらに似て非なるもので、ふむ、江戸前の、てんぷらのタレと大根おろし、などを彼等が真似たら少しはいい。パリには天ぷら屋ができたし、モグモグ、わが国の料理も、ようやく世界的になりましたな。ふむ。昨日、田舎の食堂で食べたホタルいかのまる煮、あれはどうも日本製のカン詰をあけたものらしい。モグモグ」
パパはと言うと、その時はあさりと豚肉のごった煮という、まことに奇妙なとり合わせの料理に目を白黒させ、
「ウム、これは変っておる。いかにも変っておる。珍妙に変った味である」
と、八十すぎのモウロクした老人のように同じことを繰返すばかりであった。そして日本に帰ったら、友人を呼んで、ウナギと西瓜のごった煮とか、いやウナギと梅干であったかな、それにたにしソバだとか、珍にして奇なる料理を食べさせてやろう、そしてママに毒味をさせてやろうなどと、一人で考えながら、無意識にそれをのみくだすことを考えていた。すると、いかの輪切りの揚げものを食べていた男が、「ウハッ」と、また例の下品な叫び声を発した。パパはいかの揚げものが化けたのかと思って相手の方を見た。彼はフォークの先にさした、揚げものの輪切りのいかを振りまわして、
「こ、これが、てんぷらの祖先というわけですな」
と叫んだのであった。
イギリスにて
パパは昨日パリをたってイギリスに来た。イギリスと言っても、ここはロンドンから西南西六十マイルくらいのところにある、人口二万か三万くらいの小さな田舎町、ベージングストークというところである。なにしろ、こんなところにやられてしまうとは、イギリスに来るまでは夢にも考えぬことであった。なにしろ、そんな町の名前を知らなかったのだから、夢に見る筈は、間違ってもない。ともかくも、小さくて、何一つ見るものもない田舎町である。ソールズベリイ行きの特急が第一に停る駅という以外、全く何とも他に説明しようがないのは困る。それも、日本のように、特急を野原のまん中に停めるような偉大な政治家がいて、この町に特急を停めたという話でもあれば、喜んでそれを語りたいが、このつまらぬ町にはそれもない。そこにかなり大きな精神病院があり、もちろんパパはそこにやって来たのであった。
イギリスとフランスは距離にしては僅かで、パリとロンドンと言っても東京と大阪ぐらい、つまり五百キロぐらいしか離れておらず、ジェット機で一時間足らずで着いてしまう。横道にそれるが、日本語で、と言っても実は元来が日本語ではないのだが、キロと言うとキログラムの略か、キロメートルの略である。ところが、けしからんことには、フランスでは、キロと言えば必ずキログラムの略のことで、貴女は御主人と六十キロぐらい離れているなどと言えば、女は亭主より大分太っていると言われたことになり、そんなことを言った日本人が無事に日本に帰ることができるとは保証し難い。しかし、日本のフランス語の教科書に、このような注意書のついているものが一冊もないというのは、全くもってけしからぬというものである。
そもそも日本の外国語の先生なるものは、役に立つことを教えることは、恥と思っているらしい。パパは中学と高校とで七年間も英語を習ったのだが、ロンドンに来て、その七年間の努力が全く阿呆らしい無駄な努力にしかすぎないと知った時は、おどろくというよりも悲しくなった。先生たちは、彼等の教えるのは英国の英語であって、米国の英語でも、カナダの英語でもオーストラリヤの英語でもないと言った。パパは素直であったから、それを信じた。それで戦後テキサス生まれのアメリカ兵が来て、彼等の話す言葉があまりよくわからなかった時、なるほど、パパは自分が英国の英語を習っているのだなと思った。ところがロンドンに来てみると、パパはもうすべての幻想を失わざるを得なかった。ロンドンのエア・ターミナルに着いてタクシーを拾うと、その運転手の言うことがさっぱり分らないのである。なにしろ紙のことはペイパアと言うと教わったのであるが、ロンドンのタクシーの運転手はペイパアなどとは言わぬ。絶対にパイパアと言うのである。教育という言葉もエデュカイションと発音する。シェイクスピアの英語など分らなくてもよいから、せめてロンドンの運転手の英語ぐらい分るように、あの先生たちが英語を教えておいてくれたらと、パパの口から嘆息がもれずにはいない。パパはパリにいる時、英国の領事館に呼ばれたので行ってみると、パパの英語の能力をテストするということであった。そして、そのテストの結果、パパの英語の理解力は満足すべきものである、という証明書をもらった。何が満足すべき、であるものか。ロンドンに着いた時、外交官というものは、何と白々しい嘘をつくことのできる人間だろうと思った。しかし、外交官が、満足すべき、と言ったら、落第一歩手前という意味だし、素晴らしいと言ったら、どうやらやっとのことだし、最高級と言ったら百人中十四五番のことだと思えという話だから、ともかく諦めねばならない。ただ、本当の最高級のことを表現する必要があったら、彼等はどうするつもりなのであろう。それに、世の中で、この証明書ほど沢山あってあてにならぬものはない。これはパパが医者としてしばしば患者のために証明書を書かされているので、その信用ならぬことはよく知っている。世の中でこのことを知らぬものは余程馬鹿であろう。しかし、世の中は、それを知りながら、何かと言うとこの紙きれを要求するのだから、理解に苦しむ。ともかくも、パパの英語は、自慢ではないが、決して満足すべきものではなかった。パパは今怒っているのであって冗談を言っているのではないから間違えてはならぬ。
横道にそれるがなどとわざわざことわってみたが、怒ったせいか何が本道であったか忘れてしまった。それで、どうせ怒ったついでだから、怒りっぱなしにしておくことにする。ともかく、イギリスというのは、何ともはやためいきの出る国である。何しろ、お金の単位の複雑怪奇なことと言ったら、全く頭が痛くなる。一ポンドが二十シリングで、一シリングが十二ペンスであるだけなら、まだ我慢もするが、その下に半ペニイと四分の一ペニイなどという銅貨がある。しかも三ペンスと言いながら、一ペニイと言わなければならぬし、半分はハーフである筈なのに、ことお金のこととなると半ペニイはヘイペニイと呼ばねばならず、二十一シルは、一ポンド一シルと呼ばずに、ギニーなどとぬかして平然としている。五シル銀貨はクラウンと呼ぶし、十シルを、クラウン銀貨二つなどとほざく。それにクラウンの半分はハーフクラウンというが、こんな半端な銀貨があるからいけない。更に三ペンス真鍮貨があり、これはでこぼこの形をしており、公衆電話には、この八角のしろものを使うので、穴には特別な仕掛けがないのだろうかと、つまらぬ無用なことを考えてしまった。それにまだある。有名な六ペンス銀貨などというものがある。更に外国人であるパパは一ポンドが何円だから、一シル十ペンスはいくらであろうか、などと考えねばならぬ付録がついている。これで頭の痛くならないと主張する人間があったら、パパの遺言であるから、そんな手合いと絶対結婚などしてはならぬ。頭の痛くならないのは、頭のない人間に違いないから。ともかく両替屋で金を替えても、全く相手に頼りっきりで、自分で確かめようなどという気を起さぬがいい。それに、この国の人間は算盤《そろばん》などという便利なものを知らず、計算は万事、指が頼りなのだが、指が両手で十本しかないのが残念である。足の指も使わせてやりたいが、彼等が靴の下に更に靴下などを穿いて平気でおるのだから、全くもって問題にならぬ。
毎年、議会で、この貨幣を改革しようという案が出るそうで、私がある英国人に何とかならぬのかと抗議をしたら、そういう返事であった。どうだ、やはりそうだろうと思って、何時から、その案があるのだと尋ねたら、ヴィクトリヤ女王時代から毎年だ、へへへと笑った。どうも、この案は、金銭登録機の会社の反対があるために成立しないらしい、というのがパパの推理である。しかし本当のところはよく知らぬ。
しかし、面倒なのは、お金ばかりではない。重さはオンス、ポンドなどと言い当然のごとく十進法でないし、長さもヤードにマイルだし、マイルときたら一七六〇ヤードなどという半端なものである。ガソリンにしても、単位はガロンにパイントでもちろん十進法である筈がない。半端が出た時、十進法でないシルにペンスのお金で払うことを考えると気が遠くなる。温度は華氏である。それに注意しておくが、アメリカのガロンと英国のガロンでは、量目に違いがある。なにしろ、ことがすべてこのように複雑怪奇にできているのだから、この国にお化けが今もって出没したところで、パパは絶対に腰をぬかしたりしない。日本の西洋崇拝者はよく、西欧合理主義などと言うが、こんな合理主義があってたまるものでない。そのイギリス人どもが、日本のイロハと漢字のシステムは複雑怪奇で非合理的であるから、単純化したらどうだなどと真面目な顔で言い、大変だろうなどとパパに同情するのだから、それを又ごもっともなどと本気で思う日本人の役人がいるのだから、人間の気持というものほど不可解なものはない。こんな手合いの口車にのって、漢字制限などを考える日本の文部省の役人に、イギリスを是非見せてやりたい。
パパがイギリスに行くと言ったら、あるフランス人の友達は、あそこは料理がまずいぞう、と仁王様が舌を噛んだような顔をして、自分のことのようにパパに同情した。そこでパパが、そうか、そんなにひどいか、それであんたは何時頃英国に行ったのだ、と聞くと、馬鹿、あんな食事のまずい国に今までだって行かぬが、一生行くつもりはないというのが返事だった。そもそもフランス人はフランス料理がこの世の中で一番うまいものと思っている。外国の料理など一度も食べたことのない連中までが、そう信じて疑わないのである。食べないで料理のうまいまずいが分ってたまるものではない。それに、フランス人は食事に関する限り想像力に乏しい。日本の刺身の話をして、日本では魚を生で食うというと、ウヘッと変な顔をする。何故かと言うと、それは彼等が皿の上に一匹まるのままの魚をのせて、生のままそれにがっぷり噛みつくところをしか想像できないからで、そして、もうそんなものはろくな食べものではないときめこみ、食べる気も起さないのである。そこへ行くと日本人は食事に関する限り何でも食べ、うまいものはまるで自分の国古来の料理と区別しないが、これは大変よいことなのである。横道にそれたが、ともかくフランス人たちは、パパにイギリスの料理がいかに不味いものであるかをのべたて、そこに行くパパに心から同情したのであった。「あそこは、何でも水でゆでて食うからなあ」と彼等はほとんど嘆息せんばかりに言った。
なるほど、イギリスに来て見ると、その意味がよく分った。全く何でも水で煮てある。人参、いも、キャベツ、何でも塩さえ加えずに水で煮て、あとで食卓の上にのせられたビン入りのウースターソース、トマトケチャップ、それにホース・ラディッシュという直訳すれば馬大根ということになり、何とも聞いただけで気絶しそうな名前のソースなどをかけて食べる。わずか四五十キロの海でフランスからへだてられているだけというのに、フランスでは食事の終りに出す、フルーツサラダのようなものを、オルドゥーブルのように食事の一番はじめに出したりする。正直のところパパは少なからずびっくりしているが、フランス人のいうように不幸だなどと考えない。世の中には異った習慣があるだけで、必ずしもどちらがいいとは言えないものだからである。
話があともどりするが、イギリスの銀貨や銅貨は馬鹿でかくていけない。ハーフクラウンの銀貨など日本の百円銀貨の倍も直径があると言いたいところだが、これは錯覚というもので、実際は一倍半くらいである。しかし重さは充分に倍はある。ところが通用価値は日本の百円くらいのものだから、ポケットが重くなるのは道理で、ゴリゴリとポケットなどに入れておいたら洋服の型はたちまちにしてくずれてしまう。ためいきどころで済まされぬ。それにポンドの略が£でペニイの略がdであるのだから、全くもってわからん国である。ともかく大変なところに来てしまったものだ。前にも言ったが、イギリスに化けものが出たって不思議はない。実際に、あちこちに、幽霊屋敷というのがある。そして、夜な夜な出るのである。パパは幽霊に逢う機会はなかったが、その存在を疑ったりしない。何しろ、パパはベージングストークの病院にいて、幾人かの医者に逢ったが、その一人はスコットランド生まれの女医で、体はパパより小さい位であるが、それに針金のように痩せているのだが、どういうわけか、象を思わせるような歩き方をする。のっそのっそと歩き顔を出して「ヨーウォ」などと言われると、象以外の何ものもパパの頭に浮ばない。それにスコットランド人の英語というものもパパにはわからぬ。もう一人の五十近いアイルランド生まれの女医は、これは象ほども太っているのだが、ぼうぼうとした白髪を獅子のように振りたて、そして又、どこからそんな声が出るのかと彼女の後頭部あたりに穴があいていないか確かめてみたくなるような、何とも人間の声とは思えない声を出す。更に非常に太った老人の医者で、歩くのに絶対ひざをまげないと、生まれた時に誓いをたてたらしく、こわれたロボットのように体をゆすってドタドタと歩く男が、ジャガーのEタイプのスポーツカーを乗りまわしている。ともかくここにはグロテスクな人間がうようよしている。昔、パパは、英国の小説、嵐が丘やディキンズの作品などを読んだ時、それは作者のグロテスク趣味だと思ったが、趣味なんどという生やさしいものでなく、写実主義というものであることが、ここに来てはじめてわかった。
このグロテスクなところは、化けものほどではないにしても、フランス人も例外ではない。ただ化け物や幽霊の話は、英国の文学にはことかかぬが、フランス文学の中ではパパの知っている限りでは、モリエールのドン・ジュアンの石像の話ぐらいのものだ。だが、グロテスクな人間や社会的現象はフランスにもなくはない。
フランスには、アルコール蒸溜権という不可思議なものがある。この権利を持つとブランデーを製造することができるのである。ところが、かなりの精神病院が、ブドー園を持ち、このアルコール蒸溜権を持っていて、アル中を治療している病院が、コニャックを製造しレッテルをはって売り出しているのだから、わけがわからぬ。ボルドーの近くの一番有名な銘がらのコニャックは、カディヤックの精神病院の製造するところのものである。これは本当の話であって、というのは、パパは時々本当でない話もある単純な理由からすることもあり、一部の友人から信用のならない人物ということになっているからだが、この話は全くのところ本当で、ちゃんとフランスの厚生省から話してもよいという許可をもらってあるのである。こう書くと、なおさら信用しなくなる者もいるかも知れぬが、かくのごとき人間は人間の中でもおろかな人間である。というのは、お前たちも人生に必要な知恵というものだから覚えておくがいいが、嘘というものは全く本当らしい話で、それだからこそ人をだますこともできるので、その逆に、まことに本当のことは、まことにうそうそしいものである。パパが去年の夏、久里浜の岩の上で、大きなフライパンに入れても頭と尻尾がどうしてもはみ出すような魚を釣った時も、誰もそれを信用しなかった。ママは今もって、それはパパが魚屋から買って来たものであろうと疑っている。他でもない自分の夫のいうことですら信用しないのだから、困ったものだ。話が少し横道にそれた。
ところで、パパがアルザス地方のとある精神病院をおとずれた時だが、そこで病院の酒ぐらの自慢のシェリー酒を、患者の作った酒をのまぬとは礼儀に反するとか言って飲まされ、そこの医者とアル中の話を長いことして、いざ帰ろうとした時だった。ちょっとと言って、そのフランス人の医者は自分の家の穴倉にかけこんだ。何ごとかと思っていると一本の白ブドー酒のびんを持って来て、これはアルザス地方の一番上等のブドー酒だ、持って行けと言った。それは飲むと頭の中に蜘蛛の巣がはったような感じになるところから、蜘蛛頭とかいう名のついたブドー酒で、アルザスに来てこれを持たずに帰るとはケシカラヌと言った。何がケシカラヌかパパにはわからぬ。これも亦、百パーセント本当の話なのである。
アル中の治療を受けた人間は、一生、ほんの僅かでもアルコールを飲んではいけない。においほどでも再発の原因になる。これはよく知られた事実だ。ラム酒やコニャックやコァントロ酒で香をつけたお菓子を食べて再発した話はざらにある。ところでフランスで一番あたりまえな料理は、何とブドー酒で味をつけたソースの料理なのである。この料理が精神病院でも毎日のように出るのだから、再発する患者は数えきれぬ。これは、何とまあグロテスクなことであろう。この国でアル中の治療をするなどということは、全くもって無駄なことではなかろうかと、思ったことが幾度あったろうか。
もう、アル中の話はやめにしよう。ともかく、ヨーローパは想像に余るグロテスクなところである。
話があとまわしになったが、パパはイギリスに来る直前、フランスの半分ほどを、ぐるぐると精神病院をたずねながら旅行した。そしてマルセイユには三日ほど滞在した。十年前、パパはこの港に船でついた。ここが、最初にパパの踏んだヨーロッパの土であった。そして一年後、この港からヨーロッパを離れた。マルセイユは決して美しい街とは言えない。しかし、ここの街の人間は人なつこく、見ず知らずの人間にもすぐ話しかけ、どこどこのレストランは安くてうまいぞなどと教えてくれる。マルセイユの人間は、フランスではホラ吹きで有名で、最も大きなホラを吹く人間が、ここでは英雄である。あそこのレストランの牛の舌はうまいぞ、この間、イギリス人にその店をおしえてやったら、あまりうまいので自分の舌まで噛んだ、とか何とか言って、さよならと別れて行く。ここはパパには何となくなつかしく、街路を何度となく歩き廻った。昔、船員のあぶれた連中がたむろしていた通りは今でもある。ゴーガンはタヒチに立つ前、その連中にまじって暮していた。しかし、それはもう半世紀も昔の話だ。
十年前と違うことは、アルジェリヤが独立したあと、押しよせたアルジェリヤ人の失業者の群がこの街をうめていることだ。マルセイユの裏街にはカラスの群のようにアルジェリヤ人が、昼間から道にあふれている。そして売春婦が昼間から安ホテルの入口にすわりこんで客をひいている。マルセイユの郊外にはアルジェリヤ人の掘立小屋の部落があちこちにできている。それと対照的に二十階くらいのビルが無数に建てられ、ノートルダム・ド・ラ・ガルドの上にのぼって下を見おろすと、街に昔の面影はない。パパは夕暮の光に照らされたマルセイユの市街を眺めながら、十年前、この町を離れた時のことを思いふけった。パパはママをフランスに残したまま去り、一年して、ママも亦、この港から日本に向けて船に乗ったのだった。今はママの両親たちもママと仲直りをしているが、その時はママが日本に行くことは反対で、船賃を出してくれなかったから、二人でその旅費を貯金しなければならなかったのだ。しかし、結婚などというものは、少し苦労があった方がいい。アルジェリヤ人たちも、独立というものが苦労の多いことを知るのは、決して悪くはないだろう。そんなことを考えていると、パパの背を照らしている夕暮の光が、ノートルダム・ド・ラ・ガルドの巨大な影を街の上に落し、その影が見る間にのびて、マルセイユをかこむ、荒れはてた岩の山までひろがって行った時、寺院の夕暮の鐘が耳もとで鳴り出した。
ロンドンの六月
パパがお前たちと別れて、ヨーロッパに来てから八ヵ月になる。日本をたつ時、お前たちは六歳と四歳と二歳だったが、もうじきお前たちの誕生日がやってきて、一つずつよけいに年をとることだろう。その間にお前たちがどんなことをしたか、どんなになったか、パパは自分の目で見とどけることはできなかった。それは残念なことであるが、仕方のないことで、仕方のないことは諦めなければいけない。しかし、ママは、感心なことにと、事情を知らぬものは思うだろうが、一週に一度、必ず手紙をよこしたので、お前たちのことは、大体のところは知っているのである。なにしろ、お前たちのママはおしゃべり好きで、一週間手紙を書くことを禁じたら、精神病院に入院しなければならなくなるであろう。そのママから、最近、チカがいかに生意気になったかを知らせてきた。何でもその手紙によると、ユキとミトが学校と幼稚園に行くとチカは家で一人になってしまう。それがチカには退屈であるし、学校に行っている姉どもが羨しくって仕方がない、そういうことから、どうしても幼稚園に行きたがるようになったのだという。しかし、チカはもうじきというところだが、まだ三歳にも、なっていない。でも、どうしても行くと頑張るので行かせることにしたというのである。どうもちと早すぎるような気がするが、パパがそんな意見を言うにはあまりにも遠いところにいるので、いたしかたない。最初の日、勇ましく出かけて行ったチカは、ママの姿が見えなくなると、とたんに元気がなくなってワアワアと泣き出した。これはユキもミトもやったことだから、大して特別なできごとでない。ママの姿が見えなくなると元気がとたんに出るのは、パパぐらいのものである。数回幼稚園に行くと、チカは、自分が幼稚園に行きたいなどと言い出したことを後悔したに違いない。
「ママ、チカ幼稚園に行くには、小さすぎると思うよ」と言った。
ママは小癪なことを言う子供だと思ったに違いない。しかし、相手が小癪であればママもさるものである。何しろ三日で三月分の月謝を払わせられても困るから、何とかして続けて行くようにさせたいと思った。そこでチカが幼稚園で習ってきたiの字が、ノートにいっぱい書いてあるのを見て、感心したような顔をした。「ふーん。チカは幼稚園に行って、沢山のことを習っているね」沢山というのは、ローマ字のIの小文字のことなのである。ママは本当はもう少し知恵がある筈なのだが、たかが三歳にならぬ子供が相手のことだからと思って、ちょっとばかり油断して、いい加減におだてておくという手段を考えたのだろう。
「うん、そうだろう、ママ。チカ沢山習ったろ」とチカ、お前は得意になって、ママゆずりの大きな鼻を、少しばかり天井に向けて答えた。とは、ママは書いてこなかったが、そうであろうとパパは思う。だが、チカはすぐ続けた。「こんなに沢山習えばもう充分だから、明日はお休みにしようよ」と。
ママが一人でお前たち相手に悪戦苦闘している様子が、その手紙で想像できる。だが、お前たちも忘れぬがいい。お前も大きくなると、何時かはママになることだろう。どんなに大きくなってもパパになれないことを、お前たちはまだ知らぬだろうが、それは問題ではない。しかし、ママになったら、子供には絶対に油断せぬことである。
さて、パパはベージングストークという田舎町から、ロンドンにもどって来た。ロンドンにはあまり可愛い女の子がいないことを知っているママは、安心しているようだが、油断は禁物である。とは言っても、正直のところ、あまり可愛い女の子のいないのは事実であって、残念ではあるが、どうすることもできない。しかし、そのおかげで、イギリスの男たちは、好んで海外に他国の女性を眺めるために出て行き、一時代の繁栄を築いたのであるから、イギリスにとって、この化けものの如き女性は一種の国家功労者として勲章を貰ってもよい。ともかく、美人はおらぬが、面白いことがないでもない。
ロンドンの地下鉄の地下道や階段では、思わぬ時に急に物すごい風が、しかも下から上に向って吹きあがる。ロンドンの地下鉄のトンネルの穴は、細くて、そこにすれすれに丸いかっこうの、ぴったり穴にはまりこんだような電車が走るので、そのためトンネルの空気はトコロテンのように押し出される猛烈な風となるのである。そこで淑女はスカートに御用心ということになる。
どうも廻りくどい言いまわしのようであるが、非常に論理的であるので、このくらいでわからなければいけない。これはパパの日本的なひかえめな美的感覚が、この程度の節度をまもるように要求するからで、そんな感覚の持ち合わせのないここの人間は、もっと下品に、へそが見えることがあるなどと、直接的な表現をする。へそが見えれば当然へそまでの部分も見えるわけであるが(どこからへそまでだかは、想像にまかせる)、それを見物するためにパパは地下鉄に乗るのではない。ただ、へそが見えたか見えぬかの瞬間に、目をつぶらなければならない。それは、何かまぶしいものを見て、目がつぶれるという怖れがあるからでも、あるいは、それが紳士の国の掟であるからでもなく、目玉をハーフクラウン銀貨ほども大きく丸くなどしていたら、埃が入ってしまうからである。
ロンドンの地下鉄は非常に深いところを走っているので、エスカレーターかエレベーターの厄介にならなければならないが、エスカレーターに乗る時は右に並ぶとじっとしていなければならず、左側は落着かない連中が駈けあがれるように、あけておかねばならぬのである。機械がちゃんともちあげてくれるというのに、いらぬエネルギーを使う人間であると思う。パリのメトロ族は、もう少しのんびりしていたようだ。しかも、ロンドンのメトロのエスカレーターの長いこと、一番長いのに乗ると、降りる時には目がくらみそうである。なにしろビルの六階分くらいを直接一本のエスカレーターで降りてしまうのだから。そして、そのあとで、又上る階段があったりするのだからけしからぬ。
地下鉄の話はそれくらいにしよう。パパがベージングストークに三週間ほどいたことは前にも書いた。そして、そこで逢った化けもののごとき人物たちのことについても、少しばかり書いたので、北アイルランド生まれの女医のことを少し覚えていることだろうと思う。あの白髪の太ったオールドミスのお医者さんである。彼女の話すことが、パパには皆目わからないのも困ったことだったが、それは、彼女の出す、何とも不可思議な、妙な声のためなのである。頭のうしろに穴でもあいていて、そこから声が出るのではないかと疑ったが、残念ながら彼女のぼうぼうとした白髪にかくされて確かめることができなかった。彼女が話をすると、そのぼうぼうとした白髪は一時に逆立つような気がしたが、それは錯覚かも知れぬ。しかし、その声が聞えると、パパの全身の毛は、これはありとあらゆる部分の毛である。逆立つのであったが、これは気のせいなどではない。太りすぎるといけないからと、さも女性らしいことを口にしては、コーヒーも紅茶も砂糖を入れずに飲んでおきながら、食事の時に馬鈴薯を一皿も二皿も、モリモリと食べる。馬鈴薯をへらして、コーヒーに砂糖を入れた方が賢いとパパは思うのだが、そんな知恵などは不要らしく持合わせていない。それに、太りたくないなど、しおらしいことを言っているが、実物を見たら腰を抜かすものがいるほど、これ以上はどうしたって太りそうもないくらいに太っているのである。確かなのは、太りたくないという意志で、決して痩せようと思ってはおらぬのであろう。その老女医がパパを皆に紹介してくれたのだが、最初パパはホリウチときちんと発音して教えてやったというのに、二人目はホリィッチになり、それからリィッチになり更にリウシになり、とうとうパパは、しまいにはウシにされてしまった。何てまあ勝手に他人の名前をこねくりまわし、品のない発音に変えてしまう人間だろうと思ったが、そこは温厚な紳士のパパは我慢して微笑していた。ウシなどと人を何人にも紹介しておいて、二十人目ぐらいの、それがパパを紹介すべき最後の人間のところに来て、彼女はまたもやパパをウシ博士、ドクター・ウシなどと言ってから、振返ると、パパに、何だか、あなたの名前はもう少し長いようだったが、本当はどういう名前だったかなどとぬかしたのである。何がもっと長い名前であるか。このごに及んで気がつくなら、もっと早くから気がつけばよいのである。こちらが、十二支でもあるまいし、まさかウシからトラに変ることもないだろうからと我慢していてやったのに、今さら本当の名前もあるものかと思ったが、ホリウチというのだと教えてやった。すると彼女は、あのぼうぼうとした白髪の中に指をさしこんでかきむしるようにすると、「オー・アイ・アム・ソリー」と例の窒息ガスもどきの声で叫んだのであった。「可哀そうに、私は何とあなたの名前を虐殺してしまったことか」
虐殺されたのが名前だけで幸運だったと、パパはその時、つくづくと思ったのであった。
三日前、天気がよかったので、パパはロンドン塔に出かけた。ロンドンは天気の良い日がないものだから、ちょっと薄日のさす天気が三日も続くと、どこでも天気の話ばかりである。人の顔を見て「おおステキ」などと言うから、パパのどこがそんなに素敵なのだろうかと思うと、「な天気でしょう」と後が続くのである。天気が悪ければ悪いで、「まあ、何て悪い、いやな天気でしょう」などと話している。どうころんでも天気の話はやめないらしい。それで天気の方は勝手に話をさせておくことにして、ロンドン塔というのは夏目漱石の短篇小説の中に書かれていて、行ってみるまではもっと幻想的なものを頭にえがいていたのだが、実際には、もうこれはただの名所であり、幻想などは思いもよらない。バスで何千人もの観光客が押し寄せ、浅草の仲見世通りのような人ごみである。血の塔などと名前こそものものしいものがついてはいるが、人が行列で次から次と入って来て、トコロテンのように押し出されてしまう。何があるのか見るひまもない。日本の名所と同じである。ただ違うのは、日本のように名所の名物、何とか餅とか、何とかまんじゅうが無いだけのことで、あるのは、押しくらまんじゅうくらいのものだ。これは悪いしゃれである。
ここで、パパは一週間そこそこのロンドンの旅行者として、観光的印象を続けて書くことにする。ハイドパークの片隅に、スピーカーズ・コーナーというのがある。ここに人が集って(見も知らぬ人間がである)議論をしている。今日も夕方そのそばを通ったら四つぐらいの人の塊りができていた。一つのグループは大英帝国をいかに復活させるべきかを論じていたし、もう一つのグループは人種差別は害悪であると論じ、もう一つは人種は差別されるべきであり、これが人類が平和な毎日を送ることのできる唯一の条件であると論じていた。不思議なことに、二つのグループは別々に論じていて、互いに相手のグループの議論に口をはさもうとしなかった。もう一つのグループの中心では、アイルランドの自由と独立が叫ばれていた。これは七十くらいの老人で、「アイルランドに独立を」と叫んだが、別の男が、アイルランドは三十年前にすでに独立しているのではないかと言うと、「なに、独立した。何時だ。俺の知らぬ間に独立するとは怪しからんぞ。そんな独立をわしは認めん、反対だ」と顔を真赤にしてどなった。彼は五十年来、この片隅でアイルランドの自由と独立を叫んできたらしい。かくの如く、その日その日の議論もあれば、何年も同じ主張を繰返しているものもある。正直のところを言うと、連中の大部分は精神病院に行った方がいいくらいなのであるが、そのままにされており、一般の人間はニヤニヤ笑いながらそのかたわらをすぎて行くのであった。そのそばの、公園の中央の池のほとりまで行く道を、いそぎあしの恋人たちが、その人だかりが目に入らぬかのように接吻しながら通った。彼等は池のほとりの恋人たちの散歩道に行く。そこでキッスをしたり、それ以上のこともするらしいが、どんなことをするかは言う必要を感じない。とにかく、逆立ちのようなとっぴなことをするわけでなく、ごく自然な、左様、自然のおもむくところのことをするのである。
パパはその散歩道も通ったが、残念ながらのぞき見をするぐらいで帰って来た。
それから他の旅行者のするように、ナショナルガラリイに絵を見に行ったのである。有名なトラファルガルスクェアに面していて、入口から見下ろすと正面に、高い円柱の上にネルソンの銅像が立っている。その銅像の下で、平和主義の団体がイェーイェーを演奏していた。イェーイェーと平和とは一見不調和な奇妙な組合わせのように思われるが、何故であるかパパは知らぬ。そのまわりに何百という鳩がいて、観光客が鳩にえさをやって写真にとってもらっている。パパがそれを見ていたら、男が近付いて来て、お前もこうやって写真をとってやろうかと言ったので、「いや、鳩料理をこの間食べたが、それがうまかったのを思い出しながら、鳩を眺めていたのだ。グリンピースと一緒に食うと特別うまいのだが知っているか」と言ってやったら、すぐに逃げて行った。
ナショナルガラリイには、良い絵がかなりある。その中でも、やはり数点のターナーの絵は、パパにあるショックをあたえた。ターナーは大体ゴヤと同年代、ドラクロワとも同年代の画家だが、不思議な画家だ。日本でその亜流の画を見ることがないせいもあって、はじめて見るとドキリとする。イギリスの霧がうみ出した幻影とでも言おうか。霧をとおした光の中に、彼は美を見出したらしい。人によっては、何だあんな絵などと言うものもあるが、言いたいものには言わしておくがいい。彼は天才の一人である。彼のことで霧を思い出した。霧などというものは、冬か、せいぜい春先のものと思っていたら、イギリスは五月の終りになっても濃い霧があるのでおどろいた。これではまるで霧の中で暮しているようなものだ。霧などというものは、あまりいいものでない。日の光と青空の方がどのくらい良いかわからぬ。ところが、人間はどんないやなものにも馴れてしまうと、不思議にそれに愛着を感じるようになるらしい。
パパのパリで逢った友人の中に、一人のロンドン生まれの医者がいた。その彼がパパに言った。一年に一度か二度、あの霧の中にとじこめられてみないと、彼はどうも妙な感じになって困るというのである。濃い霧の日、何もかもが白くて明るくて、それでいて何も見えない。自分の目の前にさし出した自分の手の五本の指が見えない。人の気配がするし、自動車の音、警笛の音がするが、何も見えない。自動車に乗っても、車内に霧が入り、自分の車のワイパーさえ見えない。まるで、トンネルの中で、汽車の煙にまかれたようなものだ。
「それでも僕は、不思議と、あの霧の中につかってみたい」と彼は言った。水の中で人間の体が軽くなるように、彼の精神は霧の中で軽くなり、自由をとりもどし、そこで彼は、はじめて自分自身の世界を見出すことができるような気がするのだ、と、そう言った。
プラーハでの一ヵ月
共産主義と無関係なことごと
(1)
パパはロンドンを六月八日にたって、プラーハに向った。飛行機の中で、パパは、その日が自分の三十何回目かの誕生日であることに気付いた。パパは何ごとによらず気のつくのがおそいのである。結婚して数年たってから、ユキが生まれたあとだったが、自分がかつて独身であったことに気付いたし、今、お前たちから一万キロ以上も離れたところで一年近く暮して、自分が他ならぬお前たちの父親であり、お前たちを愛していることに気が付いたのである。同じように自分が日本人であることに気付いたのは、生まれて二十六年もたち、フランス人であるお前たちのママと結婚することになった時であった。
ともかくそんな具合で、気が付いた時は飛行機の中であり、出されたお茶を啜りビスケットをかじりながら、一人淋しく誕生日を祝ったわけであった。だが、ここの人間たちはパパの誕生日など問題でなく、彼等はもっぱら第二次世界大戦の連合軍のノルマンディー上陸記念日の方に夢中であったようだ。いろいろと、地上ではそのもよおしがあるらしいが、飛行機の窓から見ると、英仏海峡は波もない静かな一色の水色で、その上を二隻の船が長い航跡をひいて走っていた。それが彗星を思わせた。二十年前、この海峡は無数の船と飛行機でおおわれていたのだ。どうも、このプラーハまでの飛行機の旅は、窓から下を眺めていると、同じ六月八日でも、パパの誕生日よりは、ノルマンディー上陸の記念日の方にふさわしいようであった。
その日の夕方、パパはプラーハの町に着いたのであった。
飛行機の中は、知人もおらず、パパは一人であった。一人であると人間はつまらぬことを思い出したり考えたりするものである。たとえば、パパは自分の誕生日を思い出すと、その次には、それとは何も関係のない(関係ないと信じたい)英国人の鏡の趣味とトイレットのことを思い出したのである。国家が変ると趣味も非常に変るものだ。これはあたりまえのことであるのだが、いざ実際にぶつかってみると、やはりおどろくことがある。日本人は現代では鏡を実用品としか考えないが、たまたまそれ以上に考えたとしても、アクセサリーとして、鏡に種々の飾りつけをするくらいだ。ところがヨーロッパに来ると、ここの人間は鏡で室内を飾るのである。レストランやコーヒー店の壁全体に大きな鏡がはめこまれていることが非常に多い。パリにはこんな種類の店が沢山あった。鏡のおかげで狭い店がおそろしく広く見え、客が一人しかいなくても前後左右の鏡に互いにうつって無数の客がいるように見えるのも、景気よく見えて悪くはない。これは決してよい趣味のものとは思えぬが、習慣や趣味の違いだから我慢してもいい。古い城をたずねると、時おり額ぶちに入った色のよい鏡を見つける。これに自分の姿を映して肖像画のような気持になる人間がいても、パパは文句は言わない。だが、イギリス人の鏡の趣味は度を越していて、風呂場兼便所の四方の壁を、入口のドアの内側まで全体を鏡ではりつめたりする。これは絶対いけない。ベージングストークにいた時、パパはそこの医者の一人に招かれて彼の家に行き一泊した。ところが彼の家のトイレがこれなのである。風呂に入ろうとして裸になり、ふと見ると前後左右自分の全裸の姿がうつし出されている。見ているのも見られているのも自分自身なのだからいいようなものだが、何だか奇妙な感じがしてくる。右にも左にも前にも後にも、裸の自分がいて、それが一拳一動、みな同じように動く。遊園地のミラーメイズの中に素裸で投込まれたような感じである。背中の見えないところに石ケンがついていてもわかるから好都合だろう、などという日本人がいたら、それは西洋の風呂を知らないからで、どっちみち風呂の中で石けんを洗いおとすのだから、そんなことは考えなくともよいのである。風呂場の壁も絶対いけないと言わないが、便所の場合は絶対いけない。そもそも、これから一仕事という時になって前を見ると、自分の姿がこれ以上のものはないというリアリズムそのもので、そこに映っている。クソリアリズムという言葉は、ここから出た言葉かも知れぬ。これでは趣味の違いなどと言っていられない。第一仕事にならないではないか。
話が下品になるようだが、人間は便所の中でさまざまな癖を示すものだ。鼻くそをほじるものもいるし、紙を無駄に使って折紙をするものもある。これは後から来るものの必要物を不必要に減じ、不足にするけしからぬ癖である。便所で学問をするものもいる。パパの友人の一人は、何か考えごとをする時に必ずこの場所をえらぶ。そして入ったら最後一時間半は出て来ないので、みなを困らせた。パパ自身も子供の時には妙な癖で、あの場所に入ると大きな声で歌を歌いだしたものだ。自分は今、人目につかぬところにいるが、その存在を忘れないでくれという無意識の意思表示で、それがパパの虚勢的性格を現わしていると、ある精神分析家の友人が、そう分析したが、そんなことはどうでもいい。パパの歌の下手であるのはこのためで、だからぬかみそのくさるような声しか出ないのだ、と言うものもあるが、それはへ《ヽ》理屈というものである。どうも妙な話になってきた。
そんなつまらぬことを考えながら、プラーハの飛行場に着いた。
ロンドン空港から直接プラーハに着いたパパのような旅行者の印象には、プラーハ空港は、とんでもない田舎の、うらさびれた空港としか映らないであろう。そもそもロンドン空港が、パリのオルリイ空港や東京の羽田空港、コペンハーゲンのカストルップ空港などにくらべて、すでに田舎くさい感じがするのである。そのロンドンにくらべてすら、プラーハの空港は全く片田舎の空港でしかない。人影も少なければ建物も小さく貧相である。二十世紀後半の時代では、空港は国の表玄関などと言われるが、プラーハについたパパは、他人の家に台所から上りこんだような気になった。
それに、ここはパパにとって生まれてはじめて見る共産圏の国であった。好奇心と、どんなことが起るかも知れないぞ、という少々事大的な警戒心がパパの頭の中にあった。それがすべての印象を共産主義と結びつけて考えてしまう危険をパパに与えていた。税関吏と出入国管理官の無愛想とスローモーさが、何ということなしに、ここは共産主義の国だなとパパにすぐに思わせた。しかし、これは旅行者の性急な印象にすぎぬ。無愛想とスローモーが、本来、共産主義と関係のあろう筈のものでもない。
パパはチェコのお金を一銭も持たないので、税関の手続きが終ると、その隣にある銀行に入って、三十ドルばかり換えようと思った。その銀行にはガラス箱みたいなものに入った禿頭の男がいた。フルシチョフも禿頭ではあるが、禿頭も本来は共産主義と何の関係もない。しかし、パパは何となく関係がありそうな気がした。これは予感というものだろう。男はパパのトラベラーズチェックをガラス箱の中から眺め、それから眼鏡をずらして上目づかいにパパを見上げると、「何故、金を換えるか」と下手なフランス語で言った。
何故って、金を換えたいからにきまっているではないか。こんな質問を銀行で受けるのは、長い旅行をして来たが、ここがはじめてである。何しろ銀行というのは一種の商売で、こちらはお客さまだ、という優越感がパパの無意識にある。客が金を換えたいというなら、つべこべ言わずに換えればいいと思いながら、「金を換えるのはチェコの金が必要だからだ」とあたりまえのことを言った。あたりまえのことではないか、このオタンコナスと口に出かかったが、オタンコナスをフランス語でどう言うか知らぬのでやめた。
「チェコの金を持っていないか」
「持っていないにきまっている」
何しろ、大使館に行ってビザを貰う時、チェコの国外で、チェコの金を手に入れる者は厳重に罰する、などと書かれた緑色の紙をよこしておきながら、なにをふざけたことをぬかすかである。パパは禿頭をにらみつけた。ますます、オタンコナスという言葉がフランス語に見当らないのが残念に思われてきた。
「何に金を使う」
「たとえば、ここから町までタクシーに乗る」
「何故、タクシーに乗る」相手は怒ったような顔をする。
「何故って、タクシーに乗っては悪いのか」
「バスに乗れ。その方が安い」
いくら議論をしてもらちがあかぬと思って、パパは銀行の外に出た。パパの後で順番を待っていた男も、そのいちぶしじゅうをうしろで聞いていて、あきらめて外に出た。だが、バスに乗るといっても、タダというわけにはいかない。無賃乗車をやるわけにも行かぬから、もう一度、今度は何としても金を換えさせるぞと思って、パパはもう一度銀行にもどった。するとくだんの男は、あっさりと十ドル換えてくれた。あとから、友人の話を聞くと、ドルをチェコの金に一時に換えると、あとでドルに換えることが難しい。それで三十ドルも換えずに十ドルだけにしておけ、というつもりであったのだろうということだった。すると、この禿頭は親切な男だったことになる。だが、この男と話していて、彼の親切がわかるには、翌日までかかったろう。親切もスローモーなのはあまりよくない。
かくして、パパは夜といっても、八時にはまだ明るい日の光ののこっているプラーハの町に、ようやく辿りついたのであった。
(2)
ホテルにつくと、夕食をとる必要もあったし、夜の市内でも見物しようと思って外に出た。プラーハは小さな町である。と言っても日本人のパパの感じであるだけで、他の国では大都会の部類に属する。しかし、夜のプラーハはおそろしく暗い。東京で言ったら銀座通りにあたる、ヴァクラヴスケ・ナメスチ(広場)に行くと、人通りは多いのだが、何も見えぬ。繁った菩提樹の並木の影になって、いっそう暗く見える歩道の上を黒い羊の群のような影がもくもくと動いているという感じだ。この暗さは、単に電気の光が少ないというだけのものなのだが、旅行者の連想の中では、どうしても共産主義の社会の暗さなどという言葉に何か結びつきがちである。ここには電気広告などという無駄がないだけのことで、共産主義が電気の光を嫌っているわけではないのである。
腹がへっていたので、パパはとあるレストランに入った。テーブルにすわってみたが、ボーイがなかなか来ない。合図するとうなずくが、いっこうに来ないのである。ようやくやって来たのでメニュをくれと言うと、それを持って来るまで、又時間がかかる。そしてメニュを置くと又帰ってしまってなかなか来ない。やっとのことで注文すると、それを持って来るのは比較的早い。まあまあである。食事をおえてコーヒーをたのもうとすると、又、前のごとく、なかなかボーイがつかまらない。何しろ五分もあれば充分食べおわることのできる食事に、一時間以上もかかるのである。さて、それから金を払おうと思ってボーイを呼ぶと、これが来ない。今度はしゃくであるので時計を見ながら待つことにした。すると、なんと五十分、パパは待ったのである。これは本当で、神に誓ってと言いたいところだが、パパが神を信じておらず、そう言ったところで大した意味がないのは残念である。かくして、パパは、レストランに入った時よりも出て来た時の方が更に空腹なほどであった。チェコ料理は、あぶらが多くて不消化だと、よく言われるが、そんなことはものの数でない。怒ると消化に悪いなどという学者があるが、それはいわゆる学者の言うたわごとで信用するに足りない。しかし、パパが怒らないのは、消化器のためではなく、血圧のためである。
パパのような経験をした旅行者は、「だから、共産主義は……」などとすぐに考えるかも知れないが、レストランのスローモーは、これも本来共産主義と関係のないことなのである。マルクスもレーニンも、こんなことは、どこにも書いていない。チェコ人に、このレストランのスローモーさを話すと、彼等は、それは革命の前からそうで、更にロシヤに行けば、もっとひどいからと答える。これは皮肉ではなくて本当のことらしい。お前たちも、ロシヤに行くのは、やめた方がよいだろう。
しかし、チェコでも、性急な人間はいるし、そんな人間は、こんなレストランなどに入らない。彼等のためには、セルフサービスの食堂がある。これはオートマットという名前で、オートマットなどというから、日本人のパパはカメラの広告かしらんと思ったが、それがセルフサービスの立食いの食堂であった。パリにもロンドンにも、セルフサービスの食堂はあるが、立食いというのは、ここがはじめてであった。この立食いの食堂の中は、入って見ると、まさにオートマットという名前がぴったりで、なるほどと感心する。お行儀よく、カウンターの前に並び、押し出されるように前に進む。皿を受けとって、それを食べるまで、まるでコンベアーベルトの流れに乗っているようだ。立っていると、人間はすわっている時よりも倍も早くものを食べてしまう。胃が垂直に立っているので、物が通過する速度が早いのであろう。三分もたたぬうちに、食べおわって外に出されてしまう。何しろ椅子がないから、食べおわったあと、ゆっくりと一服、などという気持は絶対におこらない。こうしていると、人間が自動消化機械にでもなったような錯覚を感じる。ただ出口に便所のついていないことが、何となくオートマットの名に反するような気がした。スローモーな椅子とテーブルのあるレストランはがらがらだというのに、こちらのオートマットの中は日本の省線電車を思わせるような混雑で、片方から人が流れこみ、黙々と口を動かす人があり、別の口から流れ出す。ここでは、人間は口の別の機能をすっかり忘れ去ってしまっているようである。しかし、これも、本来共産主義とは関係のないことである。
立食いといえば、プラーハにはソーセージの立食いの屋台がある。一坪ほどの四角いガラス箱の中に人が入っていて、その箱のまわりに一尺ほどの幅のカウンターのようなものが突き出ている。ここでも行列で、何ごとによらず、この国の人間が行列が好きなのは、メーデーの行列の影響であろうか。行列して窓から金を払うと、四角い厚紙の上に黒パンを一切れのせ、その上に油でいためた太い豚肉とにんにくのソーセージをのせ、厚紙のはしに、からしをのせてくれる。それにソーセージを指でつかむために油紙を折りたたんだものをちゃんとくれるのは、親切というものだ。ヴァクラヴスケ広場には、この屋台が何軒もあり、二クローネいくばくというから、日本のお金にしたら五十円そこそこで、このソーセージが食べられる。パパはこっそり白状するが、この太い、どう見ても恰好の良いとはいえぬ、ソーセージが好きなのである。花が咲き、花粉が雪のように落ちて来る菩提樹の並木の下で、熱いソーセージを口のなかで、運動会の玉ころがしのように、あちらこちらにころがしているのは、何とも言えない気分である。紙で巻いて持っても、慣れない者は指先を火傷するほど、そのソーセージは熱いのである。口の中で転がして、フーッと溜息をつくと、その息までが熱い。ともかく、プラーハで一番うまいものはこれである。そう思っていたら、パパの知っている医者が、あの立食いのソーセージを食べてみたかと言った。そして食べたと答えると、一度食べるとしばらくやめられないぞ、と言った。全くそのとおりで、パパはもう、その時にはやめられなくなっていたのだ。ここでは、博士などという肩書を持った人間が立食いしていても全く問題にしない。そのことで、パパは十八年前、日本で起ったある事件のことを思い出した。戦争が終って間もなくのことだ。その頃は食べものに不自由していたので、誰も彼もがおなかをすかしていた。ところが、ある女子医大の若い助教授が都電の停留所で電車を待ちながら、焼芋を買って立食いした。それをたまたま見かけた女の学長が、教職者であり医者でもあるものの品位をけがす行為である、私の学校の教師にふさわしくないと言って、クビにしてしまった。それを知った女の学生たちが、学長が反動的であると、クビになった助教授に同情してストライキをするという騒ぎになったから、新聞にまで書かれることになった。この助教授は学問上にも数々の業績があり、後には原爆病の病理学的研究で世界的に有名になった人だが、彼はひとまず、焼芋のために世の中に知られることになった。世の中の名声というものは、空虚なもので、彼は今もって、ああ、あの焼芋事件のKかなどと呼ばれる。彼は医学会では同名の人間の多い名の人であったから、正確を期する必要がある時、人は彼を焼芋のとか、焼芋事件の、とかの形容詞をつけて呼ぶのである。
パパは子供の時、母親がきびしかったものだから屋台の立食いなどを許してもらえなかった。それで大きくなって、自分のお金が入るようになると、自由にこの立食いの店で物が買えることが、何とも幸福なことに思えるようになった。だから、どこに旅行しても、これだけは見落すことがない。パリには、クレープの立食いがあったし、ゴーフルの立食いもあった。だが、プラーハの立食いのソーセージの味にまさるものはない。
しかし、これも、本来、共産主義とは何の関係もないことなのである。
プラーハに着いた翌日、チェコの厚生省に行くと、
「明日から、あんたはドブロニーツェのキャンプに行く。そこで一週間テントで生活する。あんたのテントは準備してある」と言われた。
パパはこの国にアル中の治療の研究に来たので、まさかキャンプに送られてしまうとは思わなかった。何しろ藪から棒に、テントに行って寝ろなどと説明もなしに言われれば、
「ハハア、共産主義の国とは大変なところだ。酔っぱらいは、全部強制収容所のキャンプに集められてしまうのだな。これは、おそろしいところだ」と考えるのも無理はない。翌日の朝は四時に起され、小型のボロ貨物自動車に荷物ごとつめこまれて、プラーハから百十キロ離れた、ボヘミヤの森の真中の谷間まで連れて行かれた。迎えに来たのはグレゴールという、まるでカフカの小説に出て来そうな名前の男であったので、なおさらただならぬ気持になった。着いた場所は、ボヘミヤ地方の美しい樅の森林に囲まれた、いくばくかの草原のある谷間で、ヴルタヴァ河の上流の一つであるルドニツェ河が、ゆるやかに流れる河辺である。河岸の丘の上から眺めると、きれいに並んだ、色とりどりのテントが、谷の底に見えた。強制収容所かと思ったら、何のことはない、夏のキャンプなのである。
パパが車から降りてキャンプに入って行くと、そこに高名なスカラ博士が、真っ黒に日に焼け、半ズボンに上半身裸という恰好で、同じようないでたちの五十人ほどの患者を整列させていた。そして博士がなんとか、とチェコ語で言い、急に「ズダ」と珍妙な声を出すと、五十人の患者が声を揃えて「ズダー・ズダー・ズダー」と三回、その妙なインディヤンの戦闘の前のときの声のようなものを繰返したのである。それが挨拶だったのだ。
アル中の患者はふつうの治療センターに入院しているのだが、夏休みの前後、二週間ずつ、二組にわかれてこの夏のキャンプでトレーニングを受ける。何のことはない。ここの生活は大人のボーイスカウトのそれだと思えばよい。患者は二人で一組になり、同じテントで寝起きする。一人は長い間禁酒を続けている男、他は現在治療中の、これから禁酒をしようとする人間である。パパのテントもちゃんと用意してあった。しかし、日本からはるばるチェコまでやって来てテントで生活するなどとは考えてもみなかったから、何の準備もしていない。するとスカラ博士が、彼のショートパンツとゴムのぞうりを貸してくれた。それから、毎日、患者と同じ生活である。朝起きてから、体操と作業、日光浴、行軍、食事は飯盒という生活が一週間続いた。何しろ大変なハードトレーニングで、一日平均十五キロぐらい歩かされ、キャンプの間に全体で二百キロ歩かすのが目標だという。ともかく、この分で行けば、生きて日本に帰られぬのではないかと思った。足にまめはできるし、皮膚は日光光線で赤くやけただれ、皮は鼻の頭からむけ出し、何とも見られた姿でないような憐れな状態になった。パパはこの上なく不幸であったが、患者たちはというと、いとも幸福そうであった。何しろ、昔から暇さえあれば酒を飲み、人生の半ば以上を酒場で暮してきたような連中だから、世の中にこんな健康な時間の過ごし方を、四五十歳の年になるまでも知らなかったのである。彼等は十歳くらいの子供のように、コーラスやキャンプファイヤーやスポーツや森の木こりの手伝いの仕事に、はしゃぎまわっているように見えた。
一つパパの困惑したことがある。スカラ博士が川でおよげとすすめるのである。ところがその川というのが茶色に濁り、底に泥が一メートルも積っているような泥川なのである。パパは透きとおるような水の中で、自分の手足の動きが見える状態で泳ぐのは好きだが、何ともこの濁った泥水の中で泳ぐのは困る。こんなところで泳いだら、なまずかどじょうになったような気がするだろう。海水パンツがないから泳げないと、やっとのことで断った。
ともかく、このキャンプを見て、さてこそ共産主義の国だ。共産主義の国でなかったらこんなことはやれそうもない、と思ったが、これも実は共産主義とは本来関係のないことである。スカラ博士がアル中対策の原則を考え出したのは、チェコの共産主義革命の数年前のことだったのだから。
(3)
キャンプのあと一週間して、チェコの精神病学会が開かれたので、南モラビヤのレドニツェという城のある小さな町まで出かけた。日本では学会というと薬屋の援助があって、夜になると大の医者たちがエロショーを見たり、田舎のキャバレーで大暴れをしたりする。パパもそのつもりでいると、医者たちは湖のほとりのバンガローに泊った。学会のプログラムがすむと湖で泳ぐ。夕方にはキャンプファイヤーもあり、湖の浜辺で火をかこみ、ソーセージがくばられ、一本ずつ渡された木の枝の先にそれをさし、たき火であぶって、ジュージューいっているのを食べるのである。何とも珍妙な学会である。それを見ると、パパは、この国の人間は、なんとキャンプの好きな人間たちであろうと思った。何しろ五十歳くらいの学界の長老連が、水泳パンツ一つの姿で、木の枝につきさしたソーセージを振り廻して、ヤァホォなどと、アメリカインディヤンのお祭のような騒ぎをしているのだから、グロテスクきわまりない感じであった。だが考えてみると、日本の学会の夜の騒ぎもグロテスクである。こちらの方が健康であると言えば言える。
アル中のキャンプを見た時、これは大人のボーイスカウトと思ったが、こうしてみると、チェコというのは国全体が一種の大ボーイスカウトなのではないか、と思った。しかし、これも共産主義とは本来関係のないことなのである。でも話を聞くと今年はこれでも良い方で、去年は学会の後でラグビーをしたというから、おそるべき学会である。
それからプラーハの町にもどって来て、ゆっくりと町を歩いてみると、こうした旅行者の性急な印象は次第にうすれて行く。
風のある日、プラーハの町はうすもやの下にうずもれる。ヴルタヴァ河の谷間が南北に走り、風が東西の方向から吹いて来るためなのである。このうすもやの中から、何百年の年月のために黒ずみ、その黒々した灰色ゆえに浮びあがる尖塔の屋根を数えていると、プラーハの町は、やはり美しいと思う。そして町のどこからも、少し高く登ってみると、丘の上の巨大な城が見える。ハラッチャニの城である。城の中央に大寺院(カテドラル)があって、城の巨大な建物の下の部分が囲まれながら、その二本の尖塔をそびえさせている姿は、落着いた旅行者の印象からはなかなか消えさらないだろう。
パパは暇があるとプラーハの町を歩き廻った。モーツァルトの思い出を見つけ、ファウスト博士の住んでいたという伝説のある家も見た。
プラーハの旧市街、スタレー・メストーの大部分は、昔ゲットウであった。ゲットウは二十世紀の初頭に都市計画のために大部分がこわされ姿を消したが、その面影の一部分が今でもあちらこちらに残っている。旧市街の迷路のような路地を案内図もなく歩き廻っていると、シナゴーグと呼ばれるユダヤ教会やユダヤ人墓地にめぐりあう。今、その街にユダヤ人はいないのである。
ゲットウのこの狭い空間の中にとじこめられ、同時に自らをそこにとじこめ、ユダヤ人は一千年の間、彼等の伝統と風習と血と文化の純粋性を守り続けてきたのであった。純粋性をすべての点でまもるということは、それが千年という年月と、祖国を失った状態という条件がなくてすら奇跡に近い。純粋のラテン民族もラテン文化も消滅した。純粋のギリシャ人もギリシャ文化もなくなった。一粒の麦のようにそれは死に、いくつかの民族の文化に火をあたえ、生命をともした。近代のヨーロッパの無数の精神の中には、それらの精神がうけつがれた。ところが、ユダヤ人の文化と伝統は死ななかった。巨大な老木のごとく、その一個だけの巨大な生命を千年にわたって、このプラーハで守りぬいたのである。そして今度の大戦で、プラーハのユダヤ人は一時にこの町から根こそぎにされてしまった。アウシュヴィッツのことは、ユダヤ人について語られる時に、忘れられることはない。アウシュヴィッツだけが、まるでユダヤ人の唯一つの悲劇のように切り離されて語られることもある。しかし、これは長い受難物語の中の一つの挿話にしかすぎないのである。
いま、菩提樹に空をおおいかくされ、日のあたらない墓地に、無数の石の竹の子のように空に向って生えている、ユダヤ人たちの五角形の先の鋭くとがった墓石を前にしていると、それらの大部分はもう字も風雨にけずられ読みがたくなり傾いているのだが、その先端から鬼気が立ちのぼるのをおぼえ、不思議な戦慄を感じないではいられない。
カフカはそのゲットウのユダヤ人の一人なのであった。そのユダヤ人は、チェコ人に囲まれた一握りの少数民族なのであった。そして、プラーハにはドイツ語を話す少数派がおり、その少数派は実際にはチェコの主権者であったハプスブルグ家の庇護をうけていたので、政治的には逆に主流派であり、文化的な指導者だったのである。カフカは、そのドイツ語を話す少数派だった。そして彼は、恋人にはチェコ語で手紙を書きながら、一生、ドイツ語以外では作品を書くことはなかったのである。彼にはチェコ人としての国家意識も民族意識もなく、又、持つこともできなかった。ゲットウは多数民族の中にとりのこされた少数民族がきずいた城である。彼等はとじこめられたものであるが、自らをとじこめたのでもある。それは無意識の被害観念に対して自ら築き上げた城壁であったと言える。カフカの中には、まさにこの精神的なゲットウというものがあったようだ。彼の作品の中にただよう妄想的なふんい気は、単なる文学的な創造ではなかったようだ。
ゲットウという言葉を一つの象徴的な意味あいにおいて使うと、カフカは二重のゲットウを生きていたということになる。そして更に、カフカは肺を病んだ。この病気は、その時代には、病人を社会の外に押し出してしまうような種類の病気であった。ここで、カフカは三重目のゲットウを生きることになる。
お前たちが大きくなって、カフカの作品を読む日があったら、パパの話した、これらのことを思い出すがいい。
パパは通り雨にぬれ、緑色に光る石畳の堅さを靴の下に感じ、高い厚い壁に囲まれたユダヤ人墓地の中でぼんやりとたたずみ、しかも十字架ではない、五角形の墓石の群を見つめながら、しばしばカフカのことを考えた。プラーハの町をたずねなくとも、カフカの文学を知ることはできるだろう。しかし、カフカそのものは、プラーハの雨の日に青く光る小さな切石の石畳から、離れることはないだろう。
プラーハの現在の人間は、しかし、ごく一部の知識人を除いてはカフカのことを知らない。パパは一日、プラーハ郊外ストラスニーツェの新ユダヤ人墓地にカフカの墓をたずねた。入口に最近たてられた、英語とフランス語の案内板があるが、チェコ語のものはない。カフカの墓は案内板のおかげで、それを見つけるのはむつかしくなかった。と言っても、実は、パパはユダヤ人墓地に行く前、近くのキリスト教の墓地に間違えてとびこんだのであった。その墓地には訪問者が沢山あったが、ユダヤ人墓地の方に行ったのはパパ一人だけだった。番人が一人、ゆっくりと大鎌をふるって、長くのびた雑草を刈っていたが、広い墓地なので、その片はしからのびて行く草が、ほとんど他の墓石をおおいかくしそうであった。これらの墓の下の人々の家族は、ナチに殺されたか、外国に逃げてもどって来ないのである。カフカの墓だけは、まわりがきれいに片付けられ、誰の手になるものか、赤い小さな草花が植えられていた。墓地全体はここも菩提樹の葉が繁り、空も見えぬ位であった。パパは何も語らぬ灰色の五角の墓石の前に立ち、ぼんやりと三十分くらいの間、立っていた。
チェコには、戦後いまだカフカの本が出されていないのである。
プラーハにもどってきてから、パパはサヴォイというホテルにインド人の技術留学生と一緒に泊った。普通の旅行者は本当は国際ホテルという、一流のホテルにしか泊ることができないのだが、パパは生まれつき安宿に泊るのが好きであるので、ごまかして、そこに泊ったのである。サヴォイという名の示すように、昔は良いホテルであったのだろうが、今は手入れが悪く、その面影が僅かに残っているだけで、ここに、アフリカやアジヤから来た留学生たちが、一室に二人ずつ泊らされている。
同室のインド人の技術者は、エレクトロニクスの勉強に来たという三十くらいの、非常に人のよい親切な男であるが、妙な癖があった。朝起きると、コップ一杯の水を持って何処ともなく部屋を出て行く。はじめは不思議なことをする、ヒンズー教のしきたりで、お祈りでもしてくるのかと思ったが、行く場所もないし、それにコップ一杯の水の意味がわからない。彼が部屋にもどって来る時は、そのコップはからである。あとになって、彼が便所に行くのであることがわかった。彼はひと仕事のあとか先に、水を飲む癖があるのかしらと思ったが、そうでもないらしい。ようやく分ったのだが、用を済ませると、彼はおもむろに、そのあとに、そのコップ一杯の水を流すのであった。すべてを水に流すという表現があるが、そのあとには、コップ一杯の水では足りない、という悟りをパパはその時ひらいたのであるが、彼は、そのような悟りに達していなかったのである。コップに水を持って行かなくとも、彼の目の前にぶらさがった一本の紐を、ちょっとひっぱるだけのことで、その何十杯分の水が流れることを、このエレクトロニクスの技術者は知らなかったとみえる。それとも、それは知っていたのだが、あのものすごい水の音が怖ろしかったのかもしれない。
彼はパパが医者であることを知ると診察してくれと言った。彼は奥さんをインドにのこしてチェコに来てから、半年になる。それで性欲のはけ口がなくて困るが、そうかと言って奥さんに貞節でもありたい。だから、性欲を一時的におさえる薬をくれというのである。
「困るからあ。ドクター。何か薬をくださいな」
パパとしても他人ごとでないような訴えである。それに近頃、珍しい立派な心がけでもある。煙草を沢山のみなさい、と言ったら、ここの煙草をか、と言う。なるほどチェコの煙草はまずいなどというものではない。禁煙の薬みたいなものだ。パパも無理なことだと思ったから、あきらめろ、と言った。もちろん貞節であることを諦めろと言ったのではないから、ママにはそう言ってほしい。それから、体がだるくて、めまいがすると言うので診たら、血圧がおそろしく低い。何しろ、牛肉はヒンズー教の掟で食べられない、などとつまらぬことを言って、肉を食べないのである。それで毎朝、卵を二コずつ食べろと言った。あとで考えると、これでは彼の貞節には反する事態が起きるかもしれぬが、それはパパの関知するところでない。それで、彼は毎朝、卵を二コずつ食べることになった。
「半熟がいいか、かたゆでがいいか、ドクター」
と言うので、半熟がいいだろうとパパは教えてやった。
ところが次の日、パパが朝、目を覚ますと、エレクトロニクス氏はもう起きていた。コップ一杯の水の儀式は終ったが、手洗いのお湯の栓を出しっぱなしにしたまま、いっこうにとめる気配がない。三十分ほどそのままにしているので、パパたちの部屋には風呂場のように湯気が充満して何も見えなくなった。パパはベッドから、湯の蛇口の栓がこわれたのかと、彼にたずねた。こわれてなぞいないと彼は平然としている。湯気の中でよく見えぬので平然としているらしい声だけが聞える。かくして風呂桶三ばい分くらいのお湯を流したあと、できたらしいと事もなげに言い、黒い手のひらに、白い光るような卵を二つのせてパパに見せた。ゆで卵を手洗いの湯で作ってしまったのだ。その卵はちょうどよいくらいの半熟になっていた。パパは半熟をすすめてさいわいだったと思った。かたゆでなどと言っておいたら、どうなったかわからぬ。パパは物に動じぬことを誇りとしている方だが、その時だけはいささか驚いた。
「ドクター、あんたは半熟がいいと言ったね。どうも、このゆで方ではかたゆでは少し無理のようだな」
彼は、インド人特有の何か物悲しげに聞える声で、あたり前のことのようにそう言った。彼は、そうして、パパと一緒にすごした一週間、毎朝、半熟の卵を作って食べた。
パパは彼に飛行機の中で買ったイギリス煙草をただでやり、彼もまたただでパパに南京虫をくれた。南京虫といっても時計ではない。ほんものの、生きて血を吸う奴である。それも一匹ならず数匹もくれた。お前たちも、こういうものを持つ時があったら、ケチケチせずに、さっさと人にくれてやるべきである。彼はパパと別れる時、何か記念になるものをあげたい、と言ったが、パパはその親切を心からていちょうに断り、これで充分に記念になると心の中で言った。充分すぎるほどだ。かゆいのが続く間、パパは彼を忘れぬであろう。
チェコで忘れてならないのは、チャペク兄弟のことである。カレルとヨゼフのどちらが兄で、どちらが弟であるか、パパは不勉強であるので知らない。知っているのは、カレルが博物学者であり同時に小説家であったこと、ヨゼフが画家であったこと、そして二人で挿画入りの美しい本をいくつか作ったことである。
彼等もこの国の少数派のユダヤ人であった。リルケもフロイトもチェコで生まれたユダヤ人であるが、彼等はもはや外国人としか感じられていないのに、チャペク兄弟のみが、チェコ人に親しまれているのは、彼等の人がらによるのだろう。カレルの墓はヴィシェラドの丘の上にある。この国の有名な作曲家スメタナとドボルイャークの墓、それに有名な医者であるプルキニェの墓などのある小さな墓地に、それはある。彼の墓の前には、小さな石盃が、赤い草花に埋もれかかりながら水をたたえているが、それは彼の遺言で、小鳥が、そこに水を飲みに来ることができるように作られたのである。そして、そこには、誰かの手で、いつも新しい、きれいな水が、少したまっている。
ヨゼフの方はナチに捕えられ、強制収容所の中で淋しく死んだ。パパは彼の墓を探したが、遂に見つけることはできなかった。
話が少しとぶようだが、チェコで日本人がギョッとするのは、パンスケという看板である。しかし、これは売春婦の家などではない。男子用品の店なのである。とんだ男子用品だな、しかし男子用品には間違いないとニヤニヤ笑っているのは、日本人くらいのものだろう。だが、パンスケというのは、どうも気になっていけない。これは言葉の違いからくる偶然というもので、決して悪意からくるのではないが、何ともはや、日本人の耳には、おかしな感じをあたえるのも確かである。しかし、日本人の名前の、コン氏とか、コーノ氏とかいう名前の人も注意した方がいい。フランスに行く時は改名した方がいいだろう。私はコンですとか、コーノですとか、自己紹介すると、相手のフランス人は、わけもなく苦笑いとも当惑笑いともつかぬ、変な顔で笑うだろう。こういう言葉は、フランスでは最も下品な言葉であり、女のある部分をさししめす名前なのである。相手をののしる時も、このコンと言ったり何てコンだと言ったりするが、これは日本語のコン畜生などというのとは全く無関係である。発音が似ているだけのことだ。日本語に訳すと、言論の自由と節度の関係から、「この××××野郎」ということになるが、困ったことに、ユキは×の読み方を知らないでヘソという字だと思っている。それでお前は、このヘソヘソヘソヘソ野郎などと読まないようにしてもらいたい。ヘソが四つ並ぶと、その近くのものを意味したりするのだ。
ユキにミトにチカ、パパがこんなことを書いているのを読んで、パパがユーモアに富んでいるなどと思ったらいけない。人を笑わせるのは、本当はやさしいようで非常にむつかしい。笑いは人生には必要だろうが、笑わせることは、人生に必要なことではない。しかし、笑わせることは、考えると、もっともっと必要以上のもので、ごく真剣にならなければならないことなのである。
たしか、カレル・チャペクの英国便りの中にある話だと思う。
チャペクはイギリスをたずね、その国の庭園の芝生が、どれもみな美しい緑なのに感嘆した。あまり感嘆したので、彼は一人の園丁をつかまえて言った。
「こんな美しい芝生は、チェコでは見たことがない。いったい、あんたたちは、どうやって、こんな美しい芝生を作ることができるのだい。何か特別な秘密があるに違いないね」
「えっ、秘密ですって」園丁は、けげんな顔で彼に答えた。「冗談じゃない。これほど簡単なことがあるものですか。毎日、水を撒くんです」
「ほう、それで」
「それから、毎日、芝刈り機で刈るんです」
「ほほう」
「それだけです」
「それだけ?」チャペクは相手の顔を見つめた。「それだけだって?」
「ええ、簡単でしょう。それだけなんですよ」園丁は静かに続けた。「そうやって、三百年もたつと、あんただって、こんな芝生が必ず作れますよ」
お前たちにわかるであろうか。これが本当のユーモアというものなのだ。ユーモアは、ここで一つの哲学をふくむことになる。いろいろの国には、それぞれの違った伝統、これほども違うものかと驚くほどの、そして素晴らしく見える伝統がある。しかしその秘密は非常に単純なのだ。イギリスの園丁の秘密のように単純なのである。ただ、長い時間、その単純な原理をたゆまず繰返したことによって、奇跡とも見えるようなものが生まれたのである。カレルの笑いは、こうしたことを、パパにもお前たちにも、しみじみと教える。
パパは一生の間に、こんな笑いを一つ見つけだすことができるだろうか。そう思いながら、パパはカレルの墓の前で脱帽しようとした。しかし、パパの頭には、気がついてみると、はじめから帽子などなかったのである。
コペンハーゲンから 人魚の表情
プラーハを立ってコペンハーゲンに着くと、パパは正直のところほっとしたのであった。二つの空港をくらべて見ると、何という違いだろうと、つくづく思う。正直に話すと(こう何度も正直正直と繰返すと、何だか別のところでは嘘ばかり話しているようで、ちょっと気がひけるが、絶対嘘ばかり書いているのではない。パパは普通には、大部分の真実に、ほんのちょっぴり、味の素ぐらいの嘘を入れて書いているだけのことなのである。これはたとえていえば、女の子がインチキのオッパイで線をととのえるようなもので、触り狂の変質者でなければ、詐欺よばわりする必要のないことである)プラーハの空港では甚だ困ったのであった。何しろ親切ていねいな外国語の案内板や、何々の順で手続きをするようになどの説明もないから、誰かの真似をするぐらいのことしかない。ところが、一緒の客はボーイスカウトの団体くらいで、一般客は数えるほどで、その連中も誰かの真似をしてやろうと思っているらしいから、あてにならない。変な人間のあとについて行ったら女便所にとびこみそうになる。それであっちこっちをウロウロ、行ったり帰ったりの仕儀となった。出国管理の役人は英語もフランス語もできないときているから、何を言われているかもわからない。大分往生したあげくに、ようやく飛行機に乗ることができた。ところが、コペンの空港は非常によくできていて、まるで流れるようである。一言も口をきかないで、矢印の通りに歩けば、何時の間にかエアターミナルまで来てしまうという具合である。そして汽車の駅の案内所に行って紙に○×をつけると、ここも口をきかないでもわかるように、ちゃんと希望の値の安いホテルでも高いホテルでもとってくれて、地図にその場所をハッキリ書きこんでくれる。サンキューという言葉を知っておれば、あとは何も知らなくてもよいのである。ただし案内所では百五十円ばかりさしあげねばならぬが、サービスに、若い女の子がニッコリして、やさしい言葉さえ二三かけてくれるので、決して損だなどと思わない。ことさらチェコから来たパパはポケットにお金があれば、もっと出してやりたいくらいだったが、ポケットに手を入れたらママの写真にさわったから、やめにした。どこから、こんな違いが生まれたのだろうと思わずにはいられない。チャペクなら「伝統というものさ。イギリスの芝生みたいにね」と言うところだろう。コペンで逢った人達にくらべると、チェコでパパの逢った人達は、個人個人は誰にもおとらぬ親切な人達であったが。これは、サービス業などというものを、生産と考えずに、消費と考える経済学のせいではないか、などと考えたパパの頭に、チラリと社会主義なる言葉がちらついたが、デンマークにはサラリーマンみたいな王様がいるけれど、チェコと同じような社会主義の政府の国なのである。
もうコペンハーゲンに着いたので白状するが、チェコにいた時、国営農場(コルホーズ)の庭にある桜んぼを無断で失敬して食べてしまった。プラーハから三十キロばかりのところに、アル中の治療センターの分院があり、そこで三日ばかり過ごした時のことである。昔の小貴族の館と農場が、共産主義になってから、館の方はアル中の患者の治療に利用され、農場の方は国営農場になっている。パパが散歩すると、その沿道に沿って桜と、梨の木が無数にあり、梨の方はまだあおくて小さかったが、桜んぼの方は素晴らしい色に、よくうれていた。プラーハの町にも、道路に車をとめて桜んぼを売っている店がある。そして、みなは行列を作って買っているが、あまりいい色ではないし、量も不足がちである。それにくらべれば、一つ枝からもいで試食をしたが、こちらの方が味といい、色といい、数段まさる。それで、一袋ばかり、お金は払うからいただきたいと頼んだ。すると駄目だという。解せない話だと思ったから、何故であるのか尋ねた。すると、これは国有財産であるから、勝手に処分はできないとの答えだった。
「ははあ、すると、これを取って集めておくと、国のトラックが来て、あちこちの国営農場のそれと一緒にプラーハまで運んで、そこで売るわけですな」
パパはそう言った。ややこしい組織があるのだな、と思いながらである。
「いいえ、そんなこと」
相手は首を振った。そんなことはできないことになっている、という話だった。
「じゃ、どうするんですか、この村の人にくばるんですか」
「いやそんなこと」
「ああ、ここで働く労働者にわけてやるんですか」
「めっそうもない」
何がめっそうもないだ。すると、こやつ、自分一人の役得で、ここの桜んぼ、全部食べつくす気かな、どこの国でも役人は、役得根性と汚職根性はまぬがれぬものであると思って、ははあ、それならこちらも考えがある、ものは相談だが、とその線で話をしようとしたら、相手は、誤解しては困る、私は非常に真面目で、正直な役人であるという。彼の話によると、法律を忠実にまもれば、これらの桜んぼは、地上に落ちて、くさってしまわなければならぬものなのであった。そして、彼はその法律に忠実であり、頑固なほど正直であるにすぎなかったことがわかったのである。
しかし、わかったと言っても、果物屋などのない田舎の村である。何か食べたい。食べたいと思うと、すぐ目の前に桜んぼがある。それも、素晴らしくうまいことが試食でわかっている。ロシヤの生理学者パブロフの実験によると、犬はあまり長い間、おあずけをさせると、はじめは、よだれをたらし、それから眠ってしまうそうだ。パパは、朝っぱらから眠ることなど許されぬから、そうなると、無断で失敬する以外になかった。パパは一人で散歩すると称して、桜んぼを幾度か食べに出かけた。それを知った患者の一人が、紙袋いっぱい桜んぼを失敬してパパの部屋まで持って来てくれたが、礼を言って一緒に食べぬかと言ったら、私は桜んぼは好きであるが、チェコ人であるので、食べてはならないが、あんたは日本人だからかまわぬだろう。共産国は著作権料も払わずに外国の本を出しているから、あんたがたは、少しぐらい、無断で木の実などを失敬してもかまわぬであろうと言った。もっともなことであると思ったから、それからは、もう遠慮しないで失敬することにしたし、ついでに国有林の野苺も無断で食べたが、これも非常にうまかった。
プラーハに行く国道のほとりで、自家用車の客に桜んぼを売る農民が時折いたが、話を聞くと違法であり、けしからんことであるということだったが、何がけしからんことであるか、わからぬと、パパはすくなからず憤慨したのである。しかし、これも共産主義とは本来関係のないことである。共産主義であろうとなかろうと、こんな馬鹿馬鹿しいことは行われうるものだし、行わせたくなかったら、役人にひとにぎりの知恵があれば簡単に解決のつくことなのだ。
そこにゆくと、デンマークは非常に良い国である。小さいがまとまっていて、住みよくて、人は皆誰も彼も親切で、国中、清潔で美しくて豊かで、この上なく便利で、若い女の子は綺麗で、健康で、年寄りの女は肥えていて、まるで、すべての良い形容詞を持ってきても足りないぐらいである。
この国につくと、パパは厚生省に行き、ギャングスター氏に逢えと言われた。ギャングスター氏とは又おそろしい名前なので、さぞかし、いかつい、こわい人物かと思っていたら、これは非常にやさしいスマートな人であった。しかし、考えてみると、もともとギャングにはやさ男が多いのかもしれない。パパが彼のオフィスに行くと、彼は最初に、あなたはレインコートを着て来たか、あるいは傘を持参したか、と言った。七月のはじめで、空には青空が見えていたことだから、当然パパはそのいずれも持って来なかった。するとギャングスター氏は、非常にやさしく、この次からは必ず忘れないようにと、注意した。なるほど、帰り道に、パパは雨に降られ、少しばかり軒下で雨やどりしなければならなかった。その彼が、これを読みなさい、と言ってくれたパンフレットを、ホテルに帰りベッドに横になって読んでみると、おどろいた。旅行者にさまざまな注意が書いてある。こんなパンフレットはどこの国でもくれるが、パパがしみじみと身にしみたのは、非常に安くて、けっこうおいしい食物と、レストランというパンフレットであった。安いレストランに入っても、高い食べものを注文したら何もならぬ。小食の人にはこれを、大食漢にはこんな料理がある、値段はいくらくらいだから、レストランに入ってからメニュを見てから、自分のさいふの中をあらためて見るなどということもしないでよろしい、などと、まことに、ことこまかく書いてある。ホテルにしても同様のことが書いてあるし、電車のキップも何枚以上使うなら回数券がおとくでしょうなどと書いてある。たいがいの国のパンフレットには、安くておいしい、などと書いてあるから行ってみると、百万長者には安くておいしい店であったりする。もちろん、このパンフレットには、お金をいくらつかっても、おいしいものを食べたいという人には、これこれの一流レストランをすすめるなどとも書いてある。こんな親切なパンフレットを見たのは、ここがはじめてであった。旅人に親切は身にしみるものだが、このパンフレットは、デンマークの親切の代表のようなものである。そして、デンマークのどこに行っても、ごみくずのないかわりに、この親切がころがっているのである。
デンマークの民謡に、「この国に、大金持は少ないが、貧乏人の数はそれよりも少ない」というのがある。歌の文句には嘘や誇張が多くて、五回も離婚したりした女の歌手が、永遠に変らぬ愛、などと歌ったりして平気な顔をしているものだが、この歌の文句は本当である。この国の人間は、誰も彼も貧乏人ではないが、金持でもない。何しろ、王様すらが、アメリカのちょっとしたサラリーマンみたいな感じで、群衆の間に見わけがつかないように歩いていたりするし、行列もなにもない。イギリスに行って、汽車のかまたきと握手して、王様の子供たちは宮殿の前の広場で、近所の鼻たれ小僧たちと遊んでいて、御学友もへちまもない。全くためいきが出る。英国の女王も、最近、御主人と二人だけでウィンザーの城を出て、おしのびでドライブをしようとしたら、御主人が人の自動車にぶつけてしまい、相手が、この馬鹿、どこに目をつけて運転してるんだ、免許持ってるのかと、どなろうとしたら(口まで出たのだろうが、声にしなかったのは英国の紳士だからで、フランス人だったら、何てコンだ、などとすでに口走っていたろう)女王が蒼い顔をしていたそうである。パパの自動車も古くなったから、このあたりで皇太子さんの車にぶつけてもらって、新しい車にしたいところだが、日本では無理だろう。それでも英国の新聞は、女王がデンマークの王様くらいに自由になられた方がいいと言っている。日本も急には無理かも知れないが、今の天皇のお孫さんの時代ぐらいには、そのくらいになっているのではないかと思う。
このコペンハーゲンで、パパは有名なヤコプセン教授に逢った。彼は酒の嫌いになる薬として名高いアンタブースの発見者である。彼も有名であるだけで、金持でも貧乏人でもないデンマーク市民で、彼は、パパに、あんたはわざわざ出て来ることはない、私が自動車でホテルまで行ってあげるからと、気軽に言い、パパの宿まで来てくれた。そして自分で、私はあまり教えてあげるようなものもないから、コペンの町のガイドでもしてあげることにしようかと言って、町をあちこち案内してくれた上に、コダンという港沿いの大きなホテルで生にしんの燻製の料理を御馳走してくれた。これが日本だと、大学の教授ですらデンマークの王様よりも偉くて、パパのような平の医者など、口をきくのもたまにしか許されない。もっともパパの方が逃げて歩いていることもあるが。それが自分で自動車を運転してガイドをしてくれ、パパがフランス語の方が英語よりも話しやすいがというと、自分は英語の方が話しやすいが、あんたに無理をさせても悪いからね、と自分の方で無理して最後までフランス語で話してくれた。そして、この教授の、にわか仕立てのガイドは、奥さんあたりに注意されて書いたらしいメモを持っていて、時々パパにかくれては後向きになってこっそり読みながら、ええと今度はあそこだな、とひとりごとをつぶやくのであった。でも、このガイドは観光ガイドでなくそれは観光バスに乗れば充分なことだからと、コペンのスラム街などを案内してくれたのである。
「ええと、ここがコペンハーゲン一のスラム街」ヤコプセン教授が車をとめて、歩きながら指差されたところを見ると、どこも立派な、六階建の建物ばかりである。パパがパリで泊っていた、〈すべての安楽設備完備〉のホテルよりも外見は立派である。パパはキョトンとして、「どこですか」と間の抜けた声を出してしまった。
「ここなんだ」
「へえ、ここですか、そんな風には見えませんがねえ」
とパパは言った。
「そう、私にもそうは見えんねえ」
教授もそう言った。そこでパパが、いったい、幾部屋が一家族につきあるんですか、と尋ねた。すると、まあ、三部屋に風呂と台所というところかねえ、という返事であった。パパは、前に住んでいた公団住宅のことを思い出した。そこが三部屋に台所風呂だった。このアパートは、最初の社会党内閣時代に建てた労働者住宅で、はじめは日本の公団住宅のような、サラリーマンの住宅であったのだ。それが十年もたたぬうちにスラムとなったのだという。教授は若い時、ここで夜間アルバイトをしたことがあるから知っていると、まるで自分の家のようにどんどん入って行った。中に入ると、なるほど、決して貧乏くさくはないが、何となく乱脈で、やたらと目につく所に干し物などをチラチラさせたスラム街の裏街特有の光景がひろがった。パパは、それを見ると、スラムというのは、決して絶対的な貧乏と関係のあるものでなく、そこの人間のメンタリティと伝統によるものだな、と思った。
それから又、車でぐるぐる廻って、どこだかわからない、古い二階だての貧相な家の並んでいる街に来た。教授はいったん出したメモを、ポケットに大事にしまいこみながら、
「ええと、ここが、コペンで、最も金持の住んでいるところだそうだ」
と説明した。パパはまたまた、「へえ」と間の抜けた声を出してしまった。
「そうですか、そんな風に見えませんねえ」
とパパが言うと、教授も、
「私にも、そうは見えないがねえ、でもここに首相も大会社の社長も住んでいるのだよ」と続けた。パパは、ここで又、「大金持は少ないが、貧乏人はもっと少ない」という歌の文句を考えたのである。とは言いながら、パパはこの歌の文句の前も後も知らないのである。しかし、そんなことはどうでもいい。
このヤコプセン教授が、有名な酒の嫌いになる薬、アンタブースを発見した人であることは前に話したが、この薬の発見には他の発見の話にもあるような偶然があったのである。彼は寄生虫の駆虫剤の研究をしていて、たまたまこの薬を作り、自分ともう一人の共同研究者とそれをのんでみたのである。そして夜、いつものようにちょっとばかり、夕食の時に酒を飲むと、とたんに苦しんでしまった。翌日、同僚にこっそりとその失敗を告白すると、相手も、実は友人の所で昨日は大失敗をしてしまったのだという。そこで一緒に飲んでいた薬が怪しいということになった。それがヒントなのであった。ユキ・ミト・チカ、お前たちも、これからは、たかが偶然などと、決して偶然を馬鹿にしてはいけない。
ヤコプセン教授に御馳走になった、にしんの生燻製の料理はおいしかった。十種類くらいあったが、たまねぎと一緒に食べたり、生クリームをかけて食べたり、トマトソースで食べたり、オリーブ油で食べたり、それからもっといろいろあったが、覚えているのはどれも、生にしんであったことだ。教授は、わがデンマークには、生の燻製にしんの食べ方は、何と百種類もあるぞ、と言って、どうだという顔をした。パパも、もちろん愛国心のある日本人だから、わが国には刺身という料理があって、いつもしょう油と、わさびで食べるが、この方法で食べる魚は百種できかないぞ、と答えた。そこで二人はしみじみと、日本とデンマークは距離も遠いが、考え方も遠いのだなと考えたのであった。
教授は五年前に日本に行ったと話をされたが、パパはそれを聞くと、その時、日本の医者の誰かが、この教授がパパにしてくれたような親切をしてあげてくれたものだろうか、と心配になった。
ギャングスター氏の話で気になることがあった。彼はデンマークの歴史から社会制度までの話をしてくれたのだが、その中で一言、デンマークは貧乏な国だからと、言った。パパは、デンマークが貧乏であるというなら、日本はいったい、どういうことになるのだろうと思った。冗談を言ってはいけない、世界を見廻したら、デンマークなどは大変な金持の国であるのに、貧乏とは何事であるか、というのが、パパの気持であった。パパがそう彼にのべると、彼は、笑って、もう一度説明をしなおしてくれた。
彼の言うには、デンマークは、国民の個人個人は貧乏でなくとも、国としては貧乏なのである。何しろ、アメリカのような大金持はいないのだから。そこで国が社会保障をしようとすると、誰のふところをねらうわけにも行かないから、国民全体のふところに頼る他はなくなる。そこで、酒や煙草に税金をかけなければならないことになる。それで、デンマークでは、酒と煙草が世界一高いのであるということだった。たしかに煙草などは高い。日本の三倍か四倍はしている。しかし、その酒、煙草税の三割が、社会政策に使われる約束になっていて、煙草を喫いながら、この一本は病院のため、この一本は老人のため、などと考えざるを得ないから、国民もあまり文句は言えないのだろう。間接税の使い方は、こういう風に目的をきめるのは、非常に賢いやり方で、この煙草一本が、今年の議員の歳費の値上げ分に使われるのかしら、などと考えていると、やりきれぬ気持になったりするのである。
ともかく、デンマークは旅行者を感心させる国だ。何でも、見ると、こうでなくてはならないと思う。社会保障の点では、世界の中で一番よく出来上った国だろうと思う。こんな国で暮すことのできる国民は何と幸福だろうと思う。それはそうなのだが、信じられないようなことには、世界で最も幸福な国である筈のデンマークとスウェーデンが、世界の自殺の数でトップを争っている国なのである。世の中には、どうして、こうもわけのわからぬことが多いのであろう。数年前までは、日本は自殺の多い点では、世界一の国であり、これで競争したら、金メダルは確実であった。ところが、今では残念なことには六位入賞が危ぶまれる位になってしまった。実際、数年前までは、新聞の三面記事は、三日に一度くらい、一家心中の記事か、自殺の記事を見ないことはなかったのだが、気が付いてみると、なるほど最近、そんなものは見かけなくなった。ある日本の学者は、三原山行きの、片道切符を売らなくなり、往復切符しか売らなくなったら、自殺が減ったと報告したらしいが、嘘ではないらしい。
デンマークは、人間の平均年齢がのびて老人が多くなり、老人の自殺が多いのだろう、などと考えたくなるが、実は若い人間に多いということである。コペンハーゲンの市立病院の精神科には、自殺未遂の専門の病院があり、そこは満員であった。パパもそこに行ってみたが、一見してハイティーンの少女の多いことにおどろいた。こんなに、表面、幸福が公平そのものに国民に与えられているように見える国にあって、不幸には不公平がなくならぬものだろうかと、パパはそのおびただしい数の自殺未遂を見た時に、考えざるを得なかったのである。
自殺のような社会現象の原因は、そんなに簡単にわかるものではない。ただ気になるのは、それとこれと関係があるか、あるいは偶然の一致か知るよしもないが、社会保障の完備に比例して、自殺の数も上ってきているのである。
パパはデンマークには三週間いた。三週間というのは短いようで長い。お前たちやママと別れて、もう十ヵ月近くになり、そろそろ皆の顔が見たいと思い出す、旅飽きた一人の旅行者のパパには、三週間という時間は長かった。コペンの町は北欧一の都会であると言っても小さい。三日もあれば何もかも見てしまうことができる。ランゲリーンの人魚の銅像も、シティ・ホールも、クリスチャンボルクの城も、さまざまの教会や博物館も見てしまったパパには、仕事の他には何もすることが、なくなってしまった。さりとて、一日ホテルの部屋で壁とにらめっこするのも退屈であり、コペンで坐禅をくむのも間の抜けた話だ。では一体、何をしようか。こうなると、デンマークは退屈な国だと思った。コペンハーゲンのあるゼーランド島の、行ける所は全部見たが、特に変ったところはない。何しろ山がひとつもない。それに、何だかおかしい、おかしい、と思っていたら、気がついたら、この国には河がないのである。神様が作るのを忘れたのだとしたら、大変な忘れものをしたものだ。河のある国の人間の精神には河があるし、山国の人間の心の中には、山があり、起伏があるものだ。しかし、ここにはそれがないのである。
パパはいったい、何をして時間を過ごしただろうか。お前たちに想像ができるだろうか。はじめのうち、パパは動物園に行ったり、植物園に行ったりした。日本にいると、十年に二三度行けば多いところだが、そこで象やペンギンを見たが、どうも退屈である。そうかと言って、映画でも見ようと思っても、映画館は夜にならなければ開かないし、それも日本のように、二本だて、三本だての映画館があるわけはなし、席は指定で同じものを二回見るという手もなく、二時間もたつと追い出される。夏休みがはじまったからで、逢う医者は留守がちで、三日ばかり、まる一日、何の予定もない日があったが、それは大変苦痛な日であった。パパは、仕方ないので、アンデルセンの銅像のある公園に行き、そこのベンチに腰をおろして、じっとしていた。そして時々、通りに行き、アイスクリームを買ったり、立ちぐいのソーセージ(ここにもあるのである)を食べ、そして又、ちょっとばかり離れたベンチにすわった。公園の池には、白鳥と野鴨とが、時々パンくずをやりに来る、年寄子供を気ながに待っている。そして芝生には、この町の名物のかもめと雀とが、やはりパンくずを待っている。パパがあたりを見廻すと、ベンチには離れ離れに、老人や仕事のない若い奥さん風の女が腰をおろしている。お互い同士は声もかけようとしない。静かに自分の前を見ているだけである。芝生の上で、ビキニスタイルで日光浴をしている女性もあって、パパは一時、はっとしたのだが、よく見ると四十から五十のおばあさんであることが多かったから、はっとしたのも数秒にしかすぎなかった。ここにいる人達は働くことの不要な人で、社会保障で生活は心配ないし、夏休みもながい。だが、何と退屈だろうと思った。幸福であるというのは、何とおそろしく退屈なことであろうか。パパは次第に、自殺者の気持が、およそわかってくるのを感じた。
しばらくして前を見ると、向いのベンチに一人の女の浮浪者が腰をかけていた。ブルージンズの横がやぶけ、靴もやぶけ、ブラウスの胸のあたりもやぶけ、あちらからもこちらからも、垢じみた、だが立派な人間の皮膚がのぞいていた。紳士は目をそむけねばならないことになっているので、パパは横目で見たのであった。それが、デンマークの、たった一人の浮浪者なのであった。彼女はポケットから、世界一高い、デンマークの煙草を出してくゆらせ、サンドイッチを出してかじった。それを見ると、パパは何となく立派であると思ったが、考えてみると、何が立派であったのか、わからぬ。
そして、次の日も午後からひまだったので王立公園の庭のベンチに行き腰をおろした。そして、前を見ると、デンマーク唯一の浮浪者が、ちゃんと、パパの向い側のベンチに腰をおろしていたのである。パパが煙草をふかすと、彼女もふかした。パパが、ためいきをつくと、彼女の方もしばらくすると、ためいきをついた。彼女も退屈していたようであるし、パパもその気持がよくわかるような気がした。退屈している人間は、浮浪者も、医者も、同じようなことしか考えぬものだな、と、あたりを見廻しながら、パパはつくづくとそう思ったのである。彼女はこうして明日を待つのであろう。パパが幾つかの明日を待つように。そしてパパには、幾つか寝ると、お前たちに逢える日が来るが、彼女には、その日も来ない。
パパは、「幸福な家庭というものは、互いに似通っているものだが、不幸はひとつひとつ違ったすがたをしているものだ」という、アンナ・カレーニナの最初の一節を思い出した。パパはその時、決して不幸であったのではない。その浮浪者も、不幸ではなかった筈である。デンマークのように、すべてが幸福な国で、どうして人間が一人だけ不幸になることができようか。そして、不幸になることができないから、こうして、美しい公園のベンチで退屈せざるを得ないのである。しかし、もっと簡単にズバリ言うと、パパは浮浪者のごとく退屈したということになるのである。それを、トルストイ流の美しい、しかし、わけのわかったような、わからないような言いまわしを真似ると、幸福な人間は、退屈しているという点で、王様も浮浪者も似通っている、ということになる。
パパはこの文章を書きながら、いつもよりしずんだ、単調な調子になってしまっていることに気付く。これは風土の影響というものだろう。しかし、あまり単調なまま長く書くのは、お前たちの精神のためによくないから、このあたりで区切りをつけなければならないと思う。ただ一言だけつけ加える。
コペンハーゲンに着くと間もなく、港のはずれ、ランゲリーンにある、リトル・マーメイド、つまり人魚の銅像を、ここに来るすべての観光客がするように見に行ったのであった。人魚の銅像というのは、考えてみると、何だか変てこなしろものである。四国の松山に、坊ちゃんと赤シャツの銅像を立てたりするようなものだし、熱海のお宮の松とも似通った存在でもある。ともかく、それを見た時、思ったよりも小さいものだなと思った。そのまわりには何十という観光客が、その写真をとり、その背景を借りて写真をとっていた。パパも、例外ではなかった。だが、その銅像の人魚の顔をじっと見つめた時、それが、コペンの若い女の子の表情に、時折浮ぶ、あの何とも表現のしようのない退屈のそれであることを、パパは発見したのであった。観光客たちの、旅に我を忘れたはしゃいだ顔の前で、人魚はそれらの人々の頭上を、非常に遠く眺めやっているようだった。何故と言えば、彼女は何も見ていないように見えたからである。
フィンランドの自然と人間
パパはコペンハーゲンから飛行機でヘルシンキまでやって来た。ここが、長かったパパの旅行の最後の二週間をすごすべき国なのであった。しかし、時間にすると、日本に一番近くになったこの国が、距離にすると、日本から一番離れたところになるのであった。それをしみじみと感じたのは、フィンランドに着いてから三日目のことだった。
ヘルシンキに着くと、パパの勉強のプログラムを作ってくれた、セルヤラ女史から、「あなたは、明日から一週間、百五十キロ離れたタムペレの町まで行きなさい」と言われてしまった。そもそも、この国の町の名前で知っているのは、オリンピックのあった、ヘルシンキの町ぐらいのものであるパパには、タムペレがどこにあるものやら、見当もつかない。汽車に乗っても、南に走っているのか、北に走っているのかもわからない。ただ汽車はタムペレ行きであったから、終点で降りればよいというので安心だった。それでもなければ、どこに連れて行かれたかわからない。何しろ席は指定で、列車の一番先の方にあったから、駅にとまっても、駅名を書いた札を読むのに一分も歩かねばならぬ。隣の人にきこうにも、同じ車に誰も乗っていない。着くには着いたが、何とも不安であった。あとで地図を見たら、ヘルシンキから西北のところにタムペレはあり、南に汽車が走っていたら、今頃は海底にいるだろうことが分った。
タムペレというのは、フィンランド第二の都会で人口十四万ほどの工業都市である。しかし、工業都市という感じはなく、まるで避暑地のように静かで清潔であった。町が二つの大きな湖にはさまれたせまい細長い陸地の上に、松と白樺の林に埋もれて横たわっていたからであった。パパはその町の精神病院の女医さんの家のお客となり、そこで五日ほどすごした。着いたその日の夕方、新聞記者が来て、パパの写真をとって行った。
次の日、街を歩くと、皆がパパをジロジロと見ているような気がする。若い女の子が、パパを見てニッコリする。これは何も気のせいではない。ほんとうにニッコリしたのである。ママが、こんな時一緒にいたりしたら大変なことであったろう。何しろママは、街を歩く時、パパが若い女の子を見るとキョロキョロする悪い癖があると信じている。それでパパがウィンクでもしたから、女の子がニッコリしたのであろうと考える。ママは女の子がニッコリするのを見てパパの顔を振りかえって見るのである。そこでパパの表情の上に微笑を見つけることがあっても、それは結果であって原因ではないのだが、ママはいつもパパを責める。世界で一番論理的な精神を誇るフランスで生まれたママが、原因と結果をとり違えることは、はなはだ不思議なことであると言わねばならぬ。なにしろ糊づけの顔でないから、そう長い間ニッコリしつづけていたら、顔がくたびれてしまう。
話が横道にそれ始めたようだが、ともかく、街で、パパは皆の注視のまととなっているようだった。金髪で青い目の美しい女の子にニッコリされて、満足でない男はどこにもいない。もし、いたら、パパはその男に、男である証拠を見せてもらいたいと思う。しかし、ここで、うぬぼれる男と、そうでない男とわかれる。ここが賢い男であるか否かのわかれめなのであるが、パパが、そのどちらであろうかは言うことをはばかる。ともかくも、パパはその時からタムペレというのはよい町であると思ったし、逢う人に、この町をどう思うかと尋ねられると、非常によい町であると答えたのであった。
その日の夕方、女医さんに見せられた新聞をのぞいてたまげた。何しろ新聞の一面に、フルシチョフとエヤハルトの写真がのっていて、そのすぐ下に、二人の写真の四倍くらいもあるパパの写真が出ているではないか。その隣に同じくらいの、動物園の新しい動物、コビトカバの写真があったが、何しろ、フルシチョフがパパの四倍ではない、パパの方が四倍なのである。これを見たとたんに、パパは落着かなくなった。こんな大きな写真を出されては、皆にジロジロ見られなかったら不思議というものである。パパが落着いたのはヘルシンキにもどり、人ごみに埋もれるような生活が始まってからで、パパはつくづくと遠い国まで来たのだなと感じたのであった。ただ気になったのは、コビトカバの写真で、これがパパの写真と同じ大きさであるとすると、結局、パパは、ここの市民の間で、珍しい動物としての興味しかひかなかったのではないか。パパの後輩に、コビトカバというあだなのついた医者がいて、その感じがピッタリなのであるが、彼でなくてパパの写真であったのが、不幸中の幸いであったような気がする。
そもそも、この国の名前はフィンランドであると思っていた。日本の郵便局でスオミ国行きなどという手紙を出したら、どこに持って行かれるかわからない。だが、この国の正式の名前はスオミなのであり、フィンランドというのは、隣国のスウェーデン人が、この国を呼ぶ時に用いる名前なのである。しかし、さてスオミなどと書くと、どうも気どっているような風に見えるから、パパはフィンランドと書きつづけることにする。ともかく名前のことすら知らないのだから、フィンランドのことは、日本人にはあまり知られていないのは当然である。
ここに来て、最初に逢った、社会福祉省の役人に、あなたが、どのくらい、この国のことを知らないかテストをすると言われた。
最初の質問は、フィンランドは世界で一番北の国か、それとも何番目の国か、というのであった。これは、その国の北端が問題ではなく南端が問題なのである。フィンランドは世界で二番目に北の国で、一番はアイスランドである。それから、スカンジナビヤ諸国と言う時、フィンランドが入るか入らぬか、というのが第二の質問であった。お前たちは正しく答えられるだろうか。正しい答えは入るのである。スカンジナビヤ諸国というのは、フィンランド、スウェーデン、ノルウェー、デンマーク、アイスランドの五ヵ国のことです、とそのお役人はもの静かな調子で答えられないでいるパパに教えてくれた。彼は続けた。フィンランドの海岸に、どの位島があると思いますか。これも答えられない。いいかげんに、あてずっぽうに言うこともできるが、あたらないと困るから、パパはわからないと答えた。相手は島が三万ありますと、ていねいに言った。それでは、この国の湖の数は。これもわからぬ。よくよく、わかりそうもない問題ばかりを出してくるものだ。何と六万あるのです、と相手は言った。日本に、何とゴマンとあるというのが、沢山ある時の誇張した表現で、これはパパの友人の自らホラ吹きを自認する小説家がひろめた言いまわしなのだが、六万というのは、ホラではないのである。
質問はまだあったが、パパはどの一つにも答えられなかった。正直に言うとパパはおしゃべりではないが、そうかと言って自慢ではないが口数の少ない方でもない。だが、この時ほど人前で静かに神妙に黙っていたことは、この旅を通じてなかった。質問が終ると、相手の役人は微笑して、貴方は立派であると言ったが、何が立派であるかわからぬ。相手は続けて、日本のような遠いところから来て、この答えを全部知っていたら、貴方は化け物であり、よい医者などである筈がない。それにそれだけ知っていたら、わざわざ飛行機で来る必要もないであろうと言った。パパはなるほどそうであると思った。パパは日本人が化け物でないこと、普通の人間であることを証明して日本の名誉を救ったようなものであるから、政府は勲章ぐらいくれてもよい。ともかく、日本人は知らなくてもよいようなことを知っていて、クイズのレギュラーメンバーのごとき人物が学者であるように思われ尊敬を受け、そして医療審議会などというものに口を出したりする。困った風潮である。本当の学者は、パパのように、馬鹿のように何も知らぬものなのである。
どういうわけであるかわからぬが、フィンランドに来て街を歩いていると、パパはよく酔っぱらいに話しかけられた。ヘルシンキに着いた最初の日、夕方まだ明るい街をぶらぶら歩いていると、向うから紳士らしき人物が歩いて来るが、どうも、足がしっかりしていないようだ。飛行機から降りて間もないので、パパの方が、すべてが動いているように錯覚しているのではないかと思ったが、そうではない。彼はパパの前で立止った。
「やあ、日本人か、東京から来たか」と彼はパパの肩を押えて言った。日本といえば、東京しか町がないと思っているらしい。彼は日本の酔っぱらいのようにホラ吹きになり、
「ええおい、おれさまはな、ええ、十ヵ国語の外国語を話せるんだぞ」といばった。それで何語が話せるかと尋ねたら、エスキモー語と蒙古語とホッテントット語とスワヒリ語と、アメリカインディヤン語と何とか語と何とか語、それに少しばかりの英語だと言ってカラカラと笑った。
その男と三十メートルばかり行くと、次の労働者風の男の酔っぱらいに話しかけられた。この男はもっと悪くて、日本人、東京やあやあ、と十遍も繰返す。それなのにパパの肩を放そうとしない。日本人、ことにヘルシンキの裏街をとぼとぼと歩いている日本人は、動物園のコビトカバよりも珍しいものであるらしい。
それから一日たって月曜日の夕方、ヘルシンキの湖のほとりにあるこぎれいなカフェのテラスにすわっていると、二つばかり向うのテーブルにすわった五十くらいの男が、ニコニコしながら手まねきしている。物ごしと言い、顔色といい、どうもまた酔っぱらいくさい。下手につかまってはこと面倒と、気付かぬふりをしていると、大将、パパのテーブルまで来てすわってしまった。これでは逃げるわけにも行かぬ。
「日本人だろう」またかと思った。昨日の酔っぱらいは、パパに話しかけてきたのはいいが、パパはフィンランド語など、今日は、さよならしか知らぬし、相手も英語を話せないときているから、ニッポン、トウキョウー、ヒロシマ、ようよう、と言うだけで、あとは何も話にならぬ。そう言っては何度も何度もでっかい手で握手をするので、手が変になってしまった。それだから、日本人だろうと言われた時は、うんざりした。見れば日本人だかイギリス人だか、わかるだろう。
「東京か」まただ。そうだ江戸っ子だ、と言ってやりたかったが、相手はすしを食いねえなどというせりふも知るまい。めんどうな男につかまった。
「何が商売だか、あててやろうか。車を売りに来たのだろう。ちゃんとおれさまにはわかるぞ」
ヘルシンキにはブルーバードが沢山走っている。敵はパパを日産のセールスマンと見たらしい。
「ちがう、医者だ」とパパは言ってやった。
「そうか、何しに来たか」
「アル中の研究だ」とニヤニヤ笑ってやったら、敵はちょっと虚をつかれたらしく、だまった。だが、彼は、パパの顔をじっと見つめているうちに、また元気が出て、
「あんたは、面白い人だ、いっしょに、いっぱい飲もう」と言う。冗談ではない。彼はフィンランド人ではなくて、アメリカはアラバマの生まれだと言った。しかし、酔っぱらいというのは、どこでも似たようなものであるらしく、気安く、陽気である。
ともかくも、その男から、ようやく逃れてホテルまで戻ろうとすると、今度は二人連れの肩を組んだ酔っぱらいに掴まった。いったいどうしてこうパパを酔っぱらいが好くのであろう。どうせ話しかけられるなら、若い女の子に話しかけられるのならいいのにと思ったが、何ともならぬ。
その話をアル中の治療の専門家として名高い心理学者にしたら、笑って、あんたは、フィンランドに来て住んだら、いいアル中の医者になれるだろう、と言った。
フィンランドは飛行機から見下ろしてもそうだったが、自動車で走っても汽車で行っても、つくづくと森と湖と岩の国であると思う。フィンランド人は森と湖の国であるというが、彼等はこの岩のことを忘れている。何しろヘルシンキの町のいたるところに大きな花崗岩の千畳じきもあろうという岩頭が露出していて、そこが公園になっている。氷河でけずられた滑らかな表面を持った岩だが、遠い国から来た人間の目には異様である。それにヘルシンキの町全体がこの岩の上に立っているようなもので、どこを掘っても一メートルか二メートルすれば、この岩にぶつかる。新しい建築のための現場をのぞいてみたが、どこでもみなそうであった。日本のように、掘れども掘れども、土か粘土か砂かである土地を彼等は知らないのである。地盤がそれほど堅固であるから、建物が重々しく、馬鹿でかいのはもちろんのことである。なにしろ、この国は何もかも大きい。銅像の大きいのにギョッとする。なんのことはない、鎌倉の大仏より、ひとまわり小さいくらいの、政治家や役者や芸術家の銅像が、公園のあちらにもこちらにもあると思えばいい。しかし、大きいのはそれだけではない。そもそも、この国の人間が巨大なのである。
パパはタムペレで市立病院を見学したが、小児科病棟も案内された。そこには赤ん坊もいたが、中にはパパより十五センチも大きいくらいの女の子が、ベッドからはみ出しそうになって寝ていた。案内の医者に、ここは小児科の筈だが、と問うと、十五歳までは小児科で扱うのだと答えた。それであの女の子も十五かとパパが横目でくだんの女の子を見ながら問い返すと、ああ、あれか、あれは十三歳だとこともなげにその医者が答えた。戦後、日本の女の子も体が大きくなってきているが、ここまで来ると気味が悪い。こんなに大きいと、可愛い、などという気が起らない。女の子は、小さくてポケットに入りそうな感じの可愛らしいのがやはりいい。ともかく、こんな女の子などポケットに入れようと思ったら大変なことになる。これは困ったことで、甚だしく困ったことで、考えただけでも途方にくれそうである。
パパがお客になった女医さんには、十五と十六の息子があったが、彼等も巨大で、すでに二人とも一メートル九十あり、彼等は、この国の航空兵になりたい夢があったのだが、航空兵は一メートル八十以上の青年を合格させないで、兵役の時には地上部隊以外に行くところはないと困った顔をしていた。しかし、その制限があると、五年後には航空兵は三分の一に減ってしまうであろうから、規則が変るかもしれず、まだ希望がないわけではないと言っていた。何ともはや大変な国だ。
この国に来て、パパはとうとう湖で泳がせられてしまった。チェコでは、水が茶色で泳いでいても、自分の手足が見えない。こんな水の中で泳ぐのは嫌だと思ったが、水泳パンツがないことを口実にして、とうとう泳がずにすんだ。
ところが、この国に来てプログラムを貰って読んでみると、サウナ風呂に入り、湖で泳ぐと書いてある。こんなプログラムははじめてであった。何しろ、風呂に入れなどと命令されるとは、想像もしなかった。プログラムを作った四十歳ぐらいの女史にそう言うと、フィンランドに来て、サウナに入れず、湖で泳がさずに帰したら、申し訳がない、と答えた。何が申し訳ないのか、誰に申し訳ないのかパパには理解できぬ。しかし、ヨーロッパもフィンランドまで来ると、フランス的な論理など問題でないらしい。それでとうとうサウナに入れられ、湖で泳がせられそうになった。サウナというのは、四畳くらいの密室で、そこに地獄のかまのようなものがあって、その火で部屋の空気を熱くするのである。パパはある医者の家に午後自動車で連れて行かれ、そこの十四歳の息子と一緒に、そこに入れられてしまった。それから湖で泳げという。湖の水はとても冷たい。日本の春先の海の水のように冷たい。チェコの泥水で泳ぎたくなかったパパは、こんな冷たい水で泳ぐのも気が進まなかった。そこで、水泳パンツが無い、とおそるおそる言ってみた。貸してやるなどと言われなければいいが、と思ったのである。ところが、この国は泳ぐのに、何も着ないのである。男も女も、生まれて来たままの姿で、何一つ身につけずに泳ぐのである。トップレスもヘチマもない。こうなっては水泳パンツがないなど口実にはならないではないか。そう言うわけで、パパは遂に泳がせられてしまったのである。
サウナと湖での水泳とは切っても切れない関係にある。まず、サウナに入る。大変に熱い。そこで素裸で十分くらい横になる。白木の台の上に横になるのだが、木が触るとやけどをするほど熱いから、大きなタオルを持って行き、その上にのって横になる。寒暖計があって八十度を示している。それから外に出て、湯で体を洗い石けんをつける。何しろどうしてよいかわからぬので、一緒に入ったフィンランドの少年のやる通りを真似しなければならぬ。それにこの少年、英語がかたことしかできないときているから、パパは難しい注文をつけるわけに行かない。少年は石ケンをぬりたくると、湖の方にかけて行き、船をつける桟橋からドボンととびこんだ。パパも仕方なしに、湖まで行く。心臓麻痺を起したらお前たちにもママにもこれで逢えなくなる、などと悲しい考えが頭の中をうろついた。こうして湖で泳ぎながら石ケンを洗いおとす。又、サウナに入る。水が冷たかったが、大変な熱気で、一時に体が乾いてしまう。息が苦しい。それが終ると、又湖にとびこんで泳ぐのである。それを三度繰返すと、さすがのパパも、目がまわりそうであった。最後のサウナの時は、湖の水の中に漬けてあった白樺の枝の束ねたものを持って来て、それで自分の体をペタペタと叩くのである。そして、自分の顔の上に、その白樺の枝をかぶせる。野苺みたいな良い香がする。寒暖計を見たら百三十度だ。華氏かと少年にきいたら、摂氏だと言う。冗談ではない。これでは鳥の蒸焼きの天火の中にいるようなものではないか。これは風呂などというものではない。人殺しである。最後に湖にとびこみ、体を拭いて次の部屋の暖炉のそばで裸でひっくりかえることが許された時は、正直のところほっとしたのであった。ここで本当はよくひえたビールを飲むところであるが、ブドージュースでがまんをした。相手が十四の少年であるから仕方がない。しかし、酒を飲まないパパも、ビールがさぞかしうまいであろうと思い、アル中に深く同情した。
こんな話をすると、フィンランドでは水着なしで湖で泳ぐなんて、いい所だなどと思う日本人もいるかもしれぬが、湖は広いし、人は少ないし、誰にも見られる心配はないのである。パパを招待してくれた女史は、あなたは冬に来ればよかった。冬は湖の氷を割って泳ぐんだけど、と言った。それを聞いたパパは身震いした。そうすると長生きするわよ、と女史は続けたが、パパは、長生きするのは、パパの趣味に合わないと答えた。フィンランドに、冬など行かぬようにお前たちに忠告する。
ともかく、最後の最後になって、大変なところにやって来たものだ。
フィンランドの北にラップランドという地方がある。この地方には、ジンギスカン時代に移って来た蒙古人が住んでいるのだが、そこに行くと、今頃は夜が無い。日が沈まないので、何日も何日も太陽が頭の上を、いや頭の上は正確でない、頭のまわりを鉢巻のようにぐるぐると廻っているのである。これは北極圏ということを考えれば、何も不思議なことではないのだが、考えると気が遠くなる。パパを泊めてくれた女医さんは、そこで二年ほど働いていたというが、着任したのは冬で、その時は毎日夜ばかりであったそうである。それも考えると特別不思議なことではない。それで母親からラップランドの景色はどうかという手紙を二ヵ月してもらったが、その時は、まだ景色を見たことがない、何しろ夜ばかり続いているからと返事を出した、と彼女は笑った。だが、これはパパには笑いごとではない。何ともはや大変な国である。
何ともはや、とパパは思う。しかし、そう思いながら、パパはふと、お前たちや、お前たちのママからもらった手紙のことを思い出す。
ユキの手紙には新潟の地震のことが書いてあり、ユキはちっともこわくなかったといばっていた。新潟の地震を東京でこわがっても困るが、それからユキは東京に台風が来ないと困る、東京は水がなくなり、オリンピックまでに台風が来ないと大変であると心配していた。これは誰か大人の考えであろう。しかし、たしかにそのとおりであろうとパパは思った。
ママの手紙の方には、最近フランス語を勉強している生徒に、地震という題の作文を作らせた話が書いてあった。もちろん、今の日本人の頭の中にあるのはオリンピックだけで、作文の中にもオリンピックの話の入っていないものはない。ただママが驚いて報告してきたのは、いくつもの作文に、同じように、オリンピックまでに大地震が東京に来ないようにという、祈りのような文句を見つけたことだった。それは論理的なフランス人のママには、これらの作文を書いた人間は、無意識のうちに、いずれそのうちに東京に大地震がやって来ることをあたりまえのように考えていると結論せざるを得なかった。ママは手紙の最後を、日本は何という国であろうか、日本人というのは何という人間であろうか、と書いて結んでいた。
そう、全く、日本人というのは、何という人間だろう、とパパも思う。こんなに遠くに来て、さまざまな国をめぐったあとでは、ことさらそう思う。パパが何ともはや大変な国であると思ったこの国の人々は、パパの国のことを知る時、地震と台風、大火事の話を聞くと、日本は何ともはや大変な国だと思うだろう。
しかし、日本人の考えは、良いにせよ悪いにせよ、それらの何千年の間繰返されてきた自然の暴力の下で形づくられ、育ってきたのだな、とつくづく考える。そして、日本人はこの何ともはや大変な国が好きなのである。パパもそうである。しかし、日本をいためつけている自然の暴力を数えたててみると、何で又、こんな国が好きになったものだろうと不思議になることがある。しかし、人生というものはそうしたもので、何で又、こんな悪女にと思う女の子を、いやそんな女の子であればあるほど人間は夢中になり好きになるものだが、このことはママには内緒である。
パパのゆうれい
パパは、ようやく東京にもどって来た。そしてお前たちの前に姿を現わした。家に帰って食事をすると、ミトは、パパは今日は家で泊るのと言った。それは、お前がパパなるものが、家の中でいかなる存在のものか忘れてしまった証拠である。悲しい困ったことであるが、公用で、国のために大臣から命令を貰って旅行に出かけたパパとしては、仕方のないことである。
しかし、帰って来たそうそう、パパは、ゆうれいにされてしまった。日本に帰って来て翌日厚生省に挨拶に行くと、パパの世話の係をしている人が、
「先生、帰って来たんですか」
と言う。実は大臣から出た辞令だと、パパはあと二週間、外国にいる予定なのである。しかし、国連の方で、夏休みのため、逢うべき医者の都合もあるからと、予定を二週間短縮したために早く帰るようになったのである。
「困りますねえ」
係は途方にくれた顔をした。何で困っているのだ、パパが勝手に帰って来たのでなく国連の方で早く帰し、パパはその日までの旅費を国連から受取っているだけなので、外国にいようがないではないか。
「いや、それはいいのですがね、人事課で辞令を訂正しなければならんのですよ、それが難しい、困ったな」
彼はまだ困り続けた。そんなに困りたいのなら困っているがよろしい、とパパは思った。すると、彼は言うのである。
「先生、あと二週間ですから、そのままにしときましょう。先生はまだ外国にいることにしておいて下さい。そして二週間の間、しずかにして、人目につかないようにしておいてください」
彼はことさら、病院で院長とケンカなどをしないで欲しい、すぐに存在がバレてしまうから、とつけ加えた。パパは小心にして忠実な日本的お役人を困らせることは不本意であるので、遂に幽霊となる覚悟をしたのである。だが、その話を聞いた時、パパはしみじみと、ああ、自分はとうとう日本に帰って来たのだな、と思った。すべてが、一枚の紙きれのために動き、そのために、生きて足のある人間が幽霊とならねばならぬ。しかし、これが日本というものなのだから、大変な国だ、と思うがいたしかたない。
それからパパは小金井の自動車運転免許試験場に行った。実は、パパの免許は六月できれてしまった。きれる一ヵ月前に更新の手続きをしなければならぬのだが、その時はイギリスにいたわけだから、手紙でそのことをことわっておいた。何しろ公用の旅行中に免許が切れたのだから、めんどうくさいことは言うまいと思った。係の巡査に話をすると、恩着せがましく、無試験で免許証を出してやるから始末書を書けというのである。
公用で外国に出張中であったから、法定の免許更新の手続きを取ることができなかったことは、甚だ申し訳ない。今後このようなことはせぬから、この度は、特に配慮をたまわり、無試験で特別に免許を出すようお願いいたします。
そう書きなさい、と命令するのである。パパは大臣の命令で行ったのに、申し訳ないとは何事だ、それに今後、このようなことをせぬからと保証することは到底できぬと怒ったが、その時、ふと自分が幽霊であり、ケンカなど決してしないようにしてくれという、あの役人の願いを思い出したので、ぐっと我慢をした。その書類を代書屋に書かせると、すらすらと書いた。こんなことはしょっちゅうあって、馴れていると見える。すると今度は住民票を持って来いと、例の係が言った。パパは、また、小金井と東京の往復をしなければならない。こんな時、外国ではどうするかというと、その係が、机の上にある電話をとる。そして、パパの住んでいる区役所に電話をかけ、パパが住人であると確認すると、相手の名と自分の名前を書きサインをする。相手も向うのノートに同じものを書く。それでOKなのである。パパにまる二日を無駄にさせることもない。免許ができれば自宅まで郵送してくれるが、日本は、それを取りに行かねばならぬ。税金を役人のために払い、その役人のために、時間を無駄に使うのだから世話はない、と思って怒り出したかったが、何しろ幽霊であるのでやめた。
ともかく、幽霊であっても、パパが家に帰って来たので、お前たちは大喜びであった。十ヵ月半の間、お前たちと別れていたから、その間に、お前たちも一つずつ年をとったし、大分変った。当然のことだが、一番小さいチカが、一番変った。何しろパパが出かけた時、お前はまだあまりしゃべれなくて、自分の名前のチカが正しく言えず、イカちゃんと言っていたくらいである。それが大変生意気になり、おしゃべりになり、こちらが顔まけするような返事をするようになっていた。それに困ったことに、チカはパパの留守の間に泣き虫になっていた。パパは帰って来る早々にお前を叱るわけに行かぬので、そこは精神科医であるから、そっとお前に自分の欠点を気付かせるように言ったのである。
「チカ、お前は泣き虫になったね」
「うん、そうだろ、パパ」
「年中、ミンミン泣いてセミみたいだな」
「うん、セミみたいだろ。泣くばかりじゃないぞ、時々、おしっこも、もらすぞ」
こんな返答を誰に教わったのであろうか。その返事を聞いた時、これは油断ならぬことになったとパパは思ったのである。
ミトは昔から重かったが、十ヵ月の間に又目方が増したようだ。ミトはどうもオッチョコチョイであり、その点では、パパに一番似ているようだ。最近はそれがことさらひどくなったようだ。表通りに出て、自動車が危いからと思って、内側を歩かせると、電柱にぶつかったり、洋食屋の立て看板にぶつかる。オッチョコチョイは昔から、小さくて痩せているのが普通だが、お前は大きくて一番太っている。これは時代が変ったせいであるかも知れぬ。お前は、自分のオッチョコチョイのために、不幸を招き寄せるのに天才的であって、広い道路に小さい穴があっても、必ずそこに落ちたし、ユキもチカも一緒なのに、落ちるのは必ずミトであった。パパが高いところにある本をとっている。それを、お前たち三人が、眺めている。そして何かのはずみでその本が落ちると、それが落ちた場所にいるのは、不思議なことにミトなのであった。三人にバナナを分けてやる。すると黒く傷んだところのあるバナナが、たった一つあると、それは不思議なことにミトのところに行き、ビフテキを買うと、ミトのところに、一番堅い、かみきれぬような肉が不思議と行くのであった。これは、十ヵ月の間には、変っていないようだった。しかし、ミト、最近になって、パパはミトが、その人生の不思議な不幸に打ち勝つ気力を持ち出したのではないかと思い出した。このアパートに来てから、お前たちは、アパートの共同浴場に行くようになった。家の小さい風呂よりも、お前たちは広々とした浴場が好きで、お手伝いさんのおばさんに連れて行ってもらう。そこで一週間前に、あるお婆さんと一緒になった。そのお婆さんがうしろも見ずにザッと湯をかぶった。その湯がお前たちにかかったのだが、もちろん、例外なく被害を受けたのは、ミトお前であった。ところが、そのお婆さんは、ゴメンナサイと言うどころか、お前に向って、あっちへ行け、こんな近くに来ると、邪魔っけだと怒鳴ったのであった。これはどうも理解しがたいことであるが、ミト、お前は人生というものを知りかけているらしく、一緒に行ったお手伝いさんほど憤慨しなかった。それから四五日して、お前たちが又風呂に行った時、そのくだんの婆さんが、そこに、他の人にまじっていたのである。ミトはそれを見ると、ユキとチカに、
「あっ、今日は、いじわる婆さんが来ているぞ、ほら、あそこだ」
と指でさした。他の人たちも、皆、そのお婆さんを見つめたから、婆さんは、風呂で赤くなったよりも、もっと赤くなって逃げ出したのであった。これはお前の人生における最初の勝利であったようである。パパの不在というものが、お前にこのような自衛の方法を見つけ出させたものではなかろうかと思うが、もしかしたら偶然の勝利であったかも知れない。
ユキはと言うと、あまり変ったところはなかった。髪の毛が短くなったくらいのもので、一番変ってもらいたかったところ、つまり大変なおしゃべりで、大声であるところは、変るどころか、ひどくなったようである。これで最近被害を受けたのはママである。
ママは昔から星占いというのが好きで、パパの星座はふたご星座で、気が変りやすく、浮気で、何にでも手を出し、すぐに飽きる性質であると占い、困っちゃったな、私、などと首をかしげていた。ところが水瓶《みずがめ》座が自分の星座であると気が付くと、あれ、大変なことをしちゃった。私は結婚するような人間ではなくて、自由な愛を求めて、男から男へと渡りあるく女である筈なのよ、あなた困らない、などと言いだすのである。男から男へ移るのは仕方ないが、星占いに夢中になる方が、パパには始末が悪い。十ヵ月、パパが留守の間、ママのこの熱病は更に重くなったらしい。パパが帰る頃、赤毛の女と危険な関係が生まれるかも知れぬという占いが出ると、自分の髪を赤毛に染めてしまったし、又、その頃、パパが、太った女の子の親切に非常に敏感であるという占いが出てくると、太らなければならないと考えたし、又、立派に太ってきたのであった。女の執念とはまことに怖ろしいものだ。だが、太るには太ったが、世の中はままならぬもので、本当は体の上の前の方が太るべきであったのに、こと志とちがって、下の後の方の部分だけが太ってしまったのである。これが真中の前の方が太ったのなら、パパとしては更に困ったであろう。しかし、これは困ったことで、その次の占いには下のうしろの部分は絶対にすんなりしていなければならぬと出たから、ママは途方にくれたのであった。それでデパートに行くとよけいなあぶらをとるという美容のための、近代的な道具を買いこんできては、その部分を痩せさせるためにありとあらゆる努力を試みたのであった。その効果がどの程度であったか、その器具の製作者の営業妨害をしたくないから、パパはくわしくは語ることができぬ。ともかくも、ママはそれに満足しなかったことは確かで、外に出る時、近所の人にその部分が目につかないですむように、下の線の見えやすいズボンは絶対にはかず落下傘式のペチコートをはいて見る者の視覚をごまかすとか、何でもできる努力はしたらしいのである。だが、ママは一つだけ手ぬかりをしたのである。それはユキ、お前の前で、
「ああ、困っちゃったな、上の方が太らずに、お尻ばかり太っちゃって」
とこっそり個人的な悩みをつぶやいたことである。ユキが、さっそく外に出ると、
「ママは上の方がちっとも太らずに、お尻だけ太っちゃったのだぞう」
と近所の奥さん連中の前で大声に叫んだのであった。それは、ママが、自分は痩せるまで外の人に見られるのが恥ずかしいと、家の中になるべくとじこもって、外に顔を出さなかった時であるが、もう手遅れで、ママのお尻の太ったことを知らぬものは、近所に誰一人いなくなっていたのである。
そこでママは、パパが以前に教えてやった日本語の、「頭かくして尻かくさず」という言葉の意味を、ようやっと知るようになったのであった。
パパはまだまだ沢山の変化を家に帰って見出したのである。そして、それらのことを、もっと書きたいのであるが、前にも言ったように、パパは現在、幽霊であり、幽霊の身であるから、思うことを、意のままにするわけには行かぬ。それで、それらのことは、パパが幽霊でなくなった時に、日を改めて書くことにしたい。
〈了〉
文春ウェブ文庫版
パパのおくりもの
二〇〇〇年七月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第三版
著 者 なだいなだ
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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