TITLE : クレージイ・ドクターの回想
〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年八月二十五日刊
(C) Nada y Nada 2001
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目  次
試験というもの
車というもの
逃げるということ
殺すということ
怒るということ
愛されるということ
苦笑いというもの
親子というもの
回想というもの
タイトルをクリックするとその文章が表示されます。
クレージイ・ドクターの回想
試験というもの
私は試験がきらいであった。試験と名のつくものは入学試験であろうと学年末の試験であろうと、心理テストなどとしゃれた風な名前のついたものであろうと、運転免許のための試験であろうと、あるいはお見合いのごとく、試験とは呼べぬが、しかしその精神においてはいささかも試験とかわらぬものであろうと、とにかくきらいであった。例外なくきらいであった。腹の底からきらいであった。
そもそも人間のやることに点をつけたり、順位をつけたり、人間を何かの尺度《しやくど》ではかったりすることが、何としても面白くないのであった。
ことさら、平均点をとって順位をつけることなどモッテノホカという気持が強かった。
余りきらいであったから、旧制中学の四年の時、校長室に一人で行き、学生全体の気持を代表すると称して、卒業試験を廃止するように校長に進言したほどである。
校長はHといい、高名な弁護士であり、弁護士会の会長などをつとめた、背の低い太った人物で、がまのような大きな口をしていた。私は彼を見て弁護士は口が大きくなければなれぬものだと信じるようになり、弁護士になることを断念したのである。校長は、私が学生の代表だと言ったので、ていねいに、創立者の肖像画の下におかれた大きなふかぶかとした安楽椅子に腰掛けさせた。
私は校長に、試験だとか、順位だとか、それをきめる平均点とか総得点などというものが、いかに無意味で滑稽《こつけい》きわまりないものであるかをのべたてた。
「そもそも、漢文が八十五点、数学が百点、国語が五十点、平均して七十八点などというが、その平均点とはいったい何を意味しているのであるか。国語が百点で、数学が五十点であっても、平均点には違いないが、これがどうして同じということになるのであろうか。これを同じというなら、先生の頭の構造はよほどおかしいと自分は考える。何故かというに、それは馬十匹と犬五匹と蚤《のみ》三匹、猫二匹にみみず五匹、その平均が五匹というにひとしいではないか。それが、みみずが十匹で馬が五匹であっても、平均はかわらぬ。それゆえ、二つのグループの平均をくらべるのは、全く意味のない遊びのようなものではないか。
いや、遊びであれば許せもしよう。しかし、それを以て卒業生の成績の順位をきめようなどと真面目に考えるのであれば、これは甚《はなは》だしくケシカランことであり、全くチンプンカンプンであり、わけのわからぬことである。又、そもそも一万ドルと五十ポンドと百円と一マルクと五十フランを持った人間がいるとして、その全部の数を足して五で割った数字を以て、その人間の平均財産指数などと敢《あ》えて申される勇気が、校長先生におありであろうか」私はそう、とうとうと申し立てたのである。私は続けた。
「そこで校長におすすめする。わが伝統ある中学の校長として、即刻、この馬鹿馬鹿しき試験など廃止され、内外に声明を発表されよ。されば校長は教育界において一大英断を下した大先覚者として名を永久にとどめるであろう」
私はそう校長に言ったのである。その時は、終戦直後の、日本の民主化がもっとも進んだ時であったから、中学生が校長のところに行き、かように深遠な議論をぶつことも出来たのである。思えば日本の民主化も後退したものである。だから、授業料値上げ反対の学園ストなどが起るのである。
すると、校長は私に、いったいお前は、ほんとうに試験をやめろと言うのか、それは正気でか、と言い、舌をベロンとだして、彼の厚い上唇を左から右へとなめまわした。それが彼の話をする時の癖だったのである。
戦時中、その校長は私たちに修身の講義をしたが、私たちは、毎時間、彼が一時間に舌をなんべん出すか数えた。一時間に、なんと百二十八回ということがあって、それが彼の持つ最高の記録であったが、彼はその時、私たちに悪癖について話しており、余りにも興にのりすぎたようであった。彼はかくして、終生忘れ得ぬほど強く悪癖の恐ろしさなるものの印象を、私たちの胸に残すことに成功したのである。ともかく、百回を超える数を数えることは、甚だしく困難であり、数えていると、横から「また出したぞ」とか「今度のは長かったぞ」とか、数に関係のないことを言い出すものがあり、そこでフッと、今が百三であったか百四であったか、わからなくなりかけたりしたのであった。
私はその時も、校長の舌の長さや厚みや、表面に苔《こけ》が生えているか否かなどを観察したが、相手が話しおわると、本当に試験を廃止しろと言っているのであると答えた。すると校長はますますひんぱんに舌を出し入れし、お前の考えは、なかなか立派に理屈に合っていることは認めるが、しかし世の中は実に理屈に合わぬことばかりが行われているのであると言い、いたしかたがないことだから、あきらめろ、と私に命令した。
そして、最近、停電で夜勉強出来ない地区があり、その結果、試験勉強に不公平があるといけないから、試験の前に三日間の休みをやる、皆にそう伝えろと私に言うと、私を創立者の肖像画の大きな額の下から、外にと追い出したのである。
私は試験の廃止をすすめに行ったのに、試験前、三日の休みのみやげを持ってクラスに帰って来た。そして、しばらくの間みんなから英雄視された。私は、校長の言うように、なるほど世の中には、理屈に合わぬことが行われるものであると、つくづく感じたのであった。
私の試験ぎらいは、しかし、それよりも、もっともっと昔にさかのぼるのである。だが、それをすべて語るわけにはいかぬ。
私は小学校から中学に行くのに一回入学試験に落ち、旧制中学から旧制の高校に行くのに又一度落ち、補欠で大学の予科に受かったのであった。そして、それからも、さまざまな試験を受けさせられて来た。
最近になって、ようやく試験など受けなくてもよいようになり、ほっとしていると、数編の小説など書いているうちに、勝手に、こちらが希望するもしないもヘチマもなく、三回も芥川賞候補にしておいて、その上三回とも落っことしたりする。これが遊びでなく、真面目なことであったら、全くケシカランことである。
ともかく、私はついにこの世から試験のごときものをなくさせることが出来なかった。これは私の人生における一大痛恨事《いちだいつうこんじ》と言わねばならない。
何の因果か、私は医者になったが、これは一次試験の高校の理科甲類に受からなかったからで、さもなければ、私は今頃、高名な数学者か(というのは、私は数学者にこそなりたかったのである)、あるいは高校の数学教師にでもなっていることであろう。それに、医学部に入っても、いくら読んでも試験されるおそれがないという、ただそれだけの理由で、私は暇さえあれば小説や詩の類を読みあさったのであった。
私がアテネフランセでフランス語を習いはじめたのも、それは大学の卒業試験とも国家試験とも関係のないことだったからである。そして、このフランス語が縁となって、フランス人の嫁さんなどもらうはめとなったのだが、世の中は、全くわけのわからぬものである。いったい、私は試験に対して恩を感ずるべきなのであろうか、なかろうか。
私がK大学の予科に入学したのは、終戦の翌年であった。私たちの学年は、終戦後、最初の募集であったので、軍隊や、軍の学校や外地の学校やらから帰って来た、ありとあらゆる種類の人間がまじっていた。海軍少佐なんどというのもいれば、別の大学をすでに卒業して、又医学部に入りなおしたなどという人間もいた。入学試験は四十何人に一人という、気の遠くなりそうな競争率であったので、受かった人間なんて、みんな天才ばかりであろうと、私には思われた。だが、クラスで現実にその天才たちを見ると、私と大した違いのない試験ぎらいや勉強ぎらいばかりで、そのためか学年末の試験に関する珍妙なる思い出にはことかかない。
それに終戦後間もなくで、私たちは誰も彼もがアルバイトをし、学費をかせぎ、あるいはイモや米の買い出しに精を出していたので勉強などかまっていられないのであった。ふだんの勉強などやっておれなかったから、試験になると、さすがの天才たちも、カンニングやら、やまかんやら、おいのりなど、ありとあらゆる手段をこうじなければならなかったのは、自然のおもむくところと言わねばならない。
一人の級友は米軍のオンリイのパンパンに、英語を教えていたが、授業料に現金がないから、現物で払おうかと言われ、どちらにしようかと考えていたし、別の一人はアルバイトに床屋をやり、それが余りにはやったので、他人の頭のことでいっぱいで、自分の頭、しかも、その中身のことなど問題ではないと言っていた。私たちすべてが、彼等と大同小異《だいどうしようい》であったから、フランス語やドイツ語の毎日の下調べなどあったものではなかったのである。
ある日、フランス語の時間であった。それも最初の一、二時間目であった。ボンジュール・ムッシュウ、つまり、直訳すれば「今日ハ紳士」というところであるが、それを「ボンジュールさん、今日ハ」と訳したものがあった。この時の私たちの先生は、長年、ブルジョワ女学校で教えていたというA先生であった。この先生はまことに礼儀正しく、言葉もていねいきわまりないもので、授業中、突然、
「あっ、失礼しました」
などと叫ぶので、どうしたのかと聞くと、机の間を歩きながら、すこしほこりをたててしまったからだ、などと答えて、ていねいに頭をさげるのであった。先生は、めったに腹を立てなかったし、私たちが、どんなにわからなくても、どんなにチンプンカンプンの答えをしても、
「けっこうでございます」
と必ず一言いっては、私たちを満足させ、それから、
「でも、これはこう訳した方が、よろしゅうございますね」
とおもむろに言って、結局は、私たちの答えを完全に修正してしまうのである。「ボンジュールさん、今日ハ」の時も同様で、
「けっこうでござ……」
までは言ったのである。だが、さすがに、おしまいまで言うことが出来ずに、まことにまことに申し訳なさそうな顔で、「ございませんね、ちょっと」と小さな声でつけ加えた。何が、ちょっとであるか。これは「大変けっこうでなかった」のである。
そこにいくと、ドイツ語のK先生の方が、大分きびしかった。謡曲できたえたような、聞いている者の腹にひびくような低音の持主で、グリム童話の名訳者でもある。
ただ余り腹にこたえるような声を出すので、当時のスイトン腹の私たちにはいちじるしくきつかった。教室で、「十一月の末、スレート屋根をパチンパチンと叩いてあられが降った」などと訳したりしたが、そのパチンパチンの音が、今でも私の印象から消え去らない。だが、私たちは、ドイツ語の時間も、例外なくなまけもので出来の悪い生徒であった。
或る日、シラーの詩の訳の時であった。K先生がエンマ帳を開いて一人の男をさした。たまたま、その男が下調べをして来なかった、というと、うそになる。私たちは、この前誰があたったから、この次ぐらいは自分の番であろうと複雑きわまりない計算をし、たまにしか下調べなどしなかったからである。しかし敵もさるもので、金属片を降らして帝国陸軍のレーダーをごまかしたB二十九編隊のごとく、私たちの計算はいつも突発的な先生の気まぐれによって混乱させられたのであった。たとえば、いつもは五、六行しか訳させないのに、一ページ以上を訳しても、もういいなどと言わずに、一人に私たちが予定した五人分ぐらいを訳させたりすることがあるのである。
そんな話はともかくとして、そのさされた男は、予定もしていなかったことなので、下調べなどしている道理がなかった。彼はそこでいさぎよく降参した。しかし、こわいことで名高いK先生は、騎士道精神などを知らなかったので、降参などというものを受付けてくれず、ちょっと考えたら訳せる筈《はず》だと主張した。
それは有名な「手袋」という詩で、その手袋というドイツ語、「ハントシューエ」からして、その男にはわからなかったのである。私にしても同じことだが、私は彼がさされたとたんに辞書をひいたので、何時でも答えられる準備は出来てしまった。
「でも、お前、ちょっと考えてみい。何と言ったってハントぐらいは知っとるじゃろう」
と先生は老眼鏡をずらして、その男の顔を見つめた。
「ええ、ハントは手です」
「それから、シューエは」
シューは靴のこと、シューエはその複数である。くだんの男の顔が急に輝き、彼が何かを発見したことがすぐに感じとれた。いかにささやかな発見であろうと、自分の力で発見することは嬉しいものである。
私にもその気持はわかる。アルキメデスが浮力の法則を発見して風呂から裸でとび出した時の顔、ニュートンが万有引力をリンゴが木から落ちるのを見て発見した時の顔、事の大小はちがっても、その時の喜びにあふれた表情は、この男のその時のそれと大した違いはあるまい。よほど嬉しかったのであろう、男はとてつもない大声で、
「わかったあ」
と叫んだくらいであった。私たちはホッとした。先生の顔も満足げに ゆるんだからである。ともかくも、彼の次に誰のところにおはちがまわらぬとも限らず、その前に先生の御機嫌が悪くなるか否かは、ただごとで済まされぬ重大問題であったからだ。
「わかったか。どうだ、少しは考えてみるものじゃろう」
先生はこんなにニコニコして体によいもんだろうかと思えるほどニコニコした。そこで又、男は教室中に響きわたるような大声で、意気たからかに叫んだのである。
「テグツ(手靴)」
と。
それから先のことは想像にまかせる。
先生は怒って、シラーの時代だって、人間は逆立ちして歩いたわけではないと叫んだのである。
十年ほどたって、この先生が喉《のど》を悪くして、大学病院の耳鼻科に診察を受けに来た。そして例の耳鼻科の、床屋の椅子にも似た椅子に腰かけ、アーンと口をあけて、ふと目の前を見ると、自分の喉に喉頭鏡をつっこもうとしている医者が、例の手靴の医者であることに気が付いたのである。
人間は危機の一瞬にありありと過ぎ去った日々のことを眼前に思い出すというが、先生もいざ喉にものをつっこまれる時まで、この医者は見たことがある、ぐらいにしか思い出さなかったのであろう。医者の方も当然、そんな時効になったようなことをわざわざおぼえている筈がない。しかし、先生が思い出した瞬間に、そこは以心伝心というもので、彼も必ずや思い出したにちがいない。目撃者の話では、先生はその時、椅子から十五センチほど、とび上ったそうである。あんなにドイツ語の出来なかった男が、藪医者以外になり得よう筈がないと思ったのであろう。
「お、おれは、お前にみてもらうのは嫌じゃあ」とわめいたが、何分、死刑の電気椅子のごときものにすわらせられており、それと気付いた医者は医者で、まわりの患者や、看護婦に聞かれてはことめんどうと喉頭鏡をやにわに口の中につっこんでしまったので、まわりの人間には何もききとることが出来なかった。先生はただ、だだっ子のように手足をばたつかせて、何やらモガモガとわめき続けたのである。
私はK先生の気持も理解出来るが、それにもまして、その男のその瞬間の幸福感はより充分に理解出来るのである。先生には気の毒であるが、これも亦、先生の自業自得《じごうじとく》というものであり、よもや先生も、三十年以上もドイツ語の試験ごとに学生を苦しませて来て、そのままで済まされようとたかをくくっていたとしたら、考えが甘いというものだ、くらいのことが、おわかりにならぬこともあるまい。
そもそも、そんなにドイツ語が出来なくては、藪医者にしかなれまいと思われるものがいたら、なまはんかに試験で苦しめることをせず、思いきって、医者を断念させるくらいまで繰り返して落第させればよかったのである。それを、私のようなものまで医者にさせ、藪医者をこの世に数限りなく作り出す仕事の片棒を担《かつ》いでおいて、その藪医者にかかるのはまさか自分ではあるまいなどと、無責任にも考えていたから、こんな羽目になったのである。
それはそれとして、その医者の、その時の、口をあけさせてからの手の速さといったら、これを藪医者などと言おうものなら天罰が下りそうな素晴らしさだったという話であり、そのことは、もう私たちの間では、神武天皇の金のトンビほども眩《まぶ》しい伝説にすらなっている。
なにしろ、こんな連中の集まりであったから、学年末の試験となると、ひと騒ぎなしですまなかった。ふだん一度も教室に姿を現したこともなくて、こんな人物が同じクラスにいたのかとあらためて驚くような男が、試験の前になると、当時は貴重品の部類に属した肉マンジュウなどを一包みかかえて、夜もふけた頃、訪問して来た。
「な、明日の試験の時は、お前の横にすわることになっているらしいんだ。机をかんじょうすると、そうなるんだ。だから、明日はお前の答案をのぞきみさせてくれよなあ」
そして、そんな風に頼みこむのであった。昔はかように義理がたい人間が多かったのである。これはどうみても戦前の修身教育の成果であろう。しかし、そう頼まれた方とて、落第せぬ自信など、靴下のヘソクリのかくし場所を裏返したところで、出て来るものでなかった。
軍隊がえりの連中は、軍隊で習ったモールス信号で、鉛筆をトツーと音をさせて連絡しようなどと、天才的な考えを持つものがいたが、余り天才的であって、私たち凡才に通用するしろものでなく、労のみ多くして効あがらずで、結局はささやき声で監督の遠ざかった時に互いに答えを知らせるという、平凡な常道《じようどう》が、私たちによって用いられたのである。
フランス語の試験の時、単語に、オー・ド・ピュイ、つまり「井戸の水」という問題があった。これが私たちにとっては、「井戸の水」どころか、煮え湯にもひとしいものであった。大部分の者には、オーというのが水であることがわかったが(もちろんこれくらいがわからなくては問題にならぬ)、さて、ド・ピュイというのがわからぬ。ド・ピュイは「井戸の」という意味である。
「なんだ、なんだ」
あちらこちらから、うめくようなささやき声があがった。
「なんだ、ド・ピュイってのは」
誰かが、素早く叫んだ。
「井戸か」
「ズバリ」
間髪《かんはつ》を入れず誰かが応じた。しかし、不幸はそこから始まった。井戸の方が余りに素早く言われたので、聞きとれたものがほとんどなかったのに、ズバリの方は言葉も言葉であったが、その五倍も明瞭《めいりよう》であった。
それで何人かが、答案に「ズバリの水」と書いたことを敢えて不思議ということは出来ぬ。ただ、これを採点した教師の方が、非常に熱心で良心的な人間であったから、同僚に、「おい、日本のどこかの方言で、井戸のことをズバリということがあるのか」などと尋ねたりしたのである。
しかし、先生たちが、これがすぐに、いかなる経路をたどって生まれたものか、たちどころに推理出来たとしたら、シャーロック・ホームズに充分対抗出来るであろう。
物理の試験といえば、私は終生二つのことを忘れ得ぬであろう。
その一つは検電器か何かの錫箔《すずはく》が、これこれの場合にトジルかヒラクかという問題が出た時であった。答えはトジルかヒラクかのどちらかにきまっている。いいかげんの確率で書いても、半分は当るにちがいない。しかし、その時は皆必死であるから、確率などとのんびりしたことを言い出すものもなかった。
一番の前列の端に、クラスの一番出来る男がすわらせられていた。これは全く運が悪いというもので、後《うしろ》からなど、立ち上らない限り彼の答案をのぞくことは、出来ないのである。
そこでその男の後にすわった男が、前の男の尻を鉛筆のとがった芯でつっついて言った。
「ヒラクか、トジルか教えろ。返事をせい」
男は返事のくるまで頑張り続けた。そして先頭の男がヒラクと答えると、今度は三番目の男が二番目の男の尻を、鉛筆でつっついた。
「ヒラクか、トジルか」
すると、
「ヒラク、ヒラク」
低いささやきが伝わった。どうも日本語は饒舌《じようぜつ》に出来ているものだと思う。ヒラク一言で立派に通じるものを、わざわざヒラク、ヒラクと二度繰り返さなければ、何となく物足りないのである。これは日本人が、言葉の正確な意味よりも、言葉の感じにこだわるからで、悪い習癖と言わねばならぬ。ともかく、前から後に、ヒラク、ヒラク、というささやき声が、まるで魔法の呪文《じゆもん》のように流れて来た。いや、前後ばかりではない。左右にも伝わった。それは全く、静かな水面に落された石のうんだ波紋のような拡がり方であった。
ところが、前から数番目のところに、ヘソまがりの利己主義者がおり、自分はヒラクと書きながら、こう皆がヒラクと答えては、折角の自分の答えが、価値がなくなると思ったのであろう、後の者にはトジル、トジルと伝えた。これも一度トジルと言えばすむものをトジル、トジル、と二度繰り返したのは、いくらヘソまがりであっても、彼が日本語の伝統には弱いという、日本的ヘソまがりにしか、すぎなかったことを示している。それに、このヘソまがりが何者であったか、今もって私たちにはわからぬのである。ともかくも、ケシカラヌ男がいたのである。
それから混乱が起った。彼のところから拡がった、トジル、トジルのささやきも、矢張り波紋のようにひろがったから、遠くにいるものは、どちらが正しいのかわかるものではない。試験場はヒラク、ヒラク、のささやきと、トジル、トジルの声で、寄せる波紋と返す波紋がぶつかり合い、中には、トジル、ヒラクなどと、全く感覚に頼って論理的でない言葉をささやくものまでが現れるに至った。それで、どちらを信用してよいものやら分らぬ連中は、消しゴムで書いたり消したりを、何回となく繰り返したのであった。もともと、当時の答案用紙は悪質のザラ紙のものであり、消したり書いたりするうちに穴があいた。何をかくそう、私も亦《また》、答案に穴をあけた一人なのである。
もう一つの方は、アヴォガドロとかなんとかの定理を証明せよ、という問題が出た時のことであった。
同じクラスにFという男がいたが、彼は万人に認められる天才の片鱗《へんりん》を有していた。しかし、彼が天才そのものでありえなかったのは、彼が持ち合わせたのは、片鱗のみにすぎなかったからである。この男は定理は知っていたが、その証明の仕方など覚えている筈がなかった。何しろ彼は片鱗だけ天才であったからである。
そこで、彼は定理の第一項を示す式を書き、それから七、八行下に次の項を書き、次に二つの間に残された空白の部分に、全くめったやたらの方程式を、あらかじめ準備しておいた4Bという、図画のデッサン以外には使うまいという鉛筆を使って書いた。それから、最初と最後のみを残し、それをゴシゴシと消した。もう、彼の意図はおわかりになったであろう。
その部分には、何かが書かれていることが、わからねばならず、さればと言って、何が書かれているのか、読めてしまっても困るのである。こんな時に、良質の消しゴムなどは役に立たない。人差指の腹につばをつけ、ゴシゴシとやらねばならない。かくして、その部分は、まるで木炭画の裸婦のある大切な部分が、いくら目をこらして見ても細部を想像させこそすれ、何ものも明確に見分けることが出来ぬごとく、薄ぼやけた黒色となり、その中に僅《わず》かに文字らしいものが浮ぶごとく見えたが、見えるだけで、表から光にあてても、太陽にかざしてすかしてみても、何者にも何が書いてあるかを読みとることは不可能になった。それが出来上ると、彼はそのすべての下に、これは又、いかなる重症の近視者にも、明日は手術を受けるという白内障患者にも絶対に見落すことが不可能であろうというくらいの明瞭さで、「かくして、アヴォガドロの定理は証明された」という文字を、まるで刻むがごとくに書いたのである。
この採点をした物理の教師は、どうしても中途のところを読もうと努力して、そのため老眼鏡をわざわざ新調したほどであった。だが、それは、無駄であった。そこで眼科医のところに行き、いくら治療を繰り返しても、眼鏡の度を合わせても、無駄なことは無駄であった。そこで医者は、最後に「あんたは、神経症である」と宣告したのであった。いや、私は正直に申すと、そう推測するのである。何しろ、Fは立派なことに落第せずに済んだのであったから。
私は、物理の先生が、Fが、先生の理解しかねる何等かの方法で、この定理を証明したにちがいないと信じるに至ったのであろうと思う。あるいは先生が、裁判官にもなかなか真似の出来ぬ、疑わしきは罰せず、という原則を貫いたのかも知らぬ。
ともかく、私は、そのような、奇妙な定理を証明した男のみならず、その証明にマルをくれた先生も、一生忘れることなど出来ぬであろう。
少し話は変る。結局のところは試験にまつわる話なのであるが、ここで、一人の、すでに故人となった先生について語らねばならない。
それは私たちの習った、学部の寄生虫学の教授のK先生の思い出である。有名な学者で、テレビの無い時代であったが、ラジオで回虫の話など時々していたこともあるので、知っている人も多いだろうと思う。会津生まれで、福島なまりまる出しで講義もし、ラジオで話していた。私など東京で生まれ、東京で育った人間には、時折り、先生の発音が不明瞭なので困らされた。それに、先生はひどく小柄で、そしておそろしく人が良いにもかかわらず、又、想像もつかぬほど短気でもあった。
或る日、先生が教壇に立つと、私たちを見廻した。
「ナンジダ」
と先生は言った。一番前列の日当りのよい所にすわっていた私は、時計を見ると答えた。
「九時です」
「ナンジダ」
ところが先生は又同じように繰り返した。
「九時です。だいたい」
私はもう一度、時計を見直した。
「バカ、ナンジダカッテ、チイテンダ」
先生の顔が赤くなり、機嫌が悪くなって行くのが目に見えた。
「だ、か、ら、九時、だと、答えて、いるん、で、す」
私も相手が余り頑固《がんこ》に分ってくれないので、ことさら言葉をゆっくりと区切って答えた。「バカヤロウ」とバカがバカヤロウになった。国会なら解散というところだが、講義が国会でないのが残念であった。「ワシハ、ナンジダカッテ、チイトルンダ。ナンボカ、オミエラガ、カジガ、ナンボケッテ、チイトルンダ」
怒ると先生の発音はますます不明瞭になったが、そこまで聞くと、さすがの私も、自分が何をたずねられているかがわかったのである。先生は、どうも私たちの出席が悪いのに気付き、いったい全員が出席するとしたら、何人がいなければならぬかを知りたかったらしいのである。
K先生はそれにケンカが好きであった。もちろん、先生は小柄で、それも大変なという形容詞を必要とする小柄で、体はちょっと大きめの子供くらいしかなかったから、ケンカが好きと言っても、もちろん自分でするのが好きなのではなく、もっぱら見物する方であった。自分がケンカしようものなら、いかにむこうっ気が強くても、どんな相手であっても、一、二発で地面の上に長くなってしまうことを充分知って、見物で満足したのであろう。先生は、危うきに近よるべからずということを知りすぎるほど知った、大君子であったからである。
先生は最近はケンカが少なくなったと、ことあるごとになげいていた。ある時、学会で地方に行くために、助教授や助手を連れて、上野駅まで行った。汽車の時間まで少しあったが、老体の先生は両手にボストンバッグをぶらさげて、ゆっくりホームを歩いていた。すると、ホームの端に何やら、騒ぎが起った。とたんに、先生の姿が見えなくなった。助教授の前にはほっぽり出された二つのバッグがころがっている。さてはと思って、それらを拾いかけ出して行ってみると、先生は黒山の人だかりの最前列で、二人の中年男のケンカを、背が低いので、じっと見上げるようにして眺めていたのであった。
ケンカはなかなか終らず、汽車の時間は迫るで、助教授たちは、はらはらした。というのは、ケンカが終らねば、先生は、必ず次の汽車にしようというにきまっているからで、それを無理に汽車にのせようものなら、あとの御機嫌に責任など持てなくなるからであった。
しかし、その先生も、私たちにとっては、ただ一つの点で、かけがえのない美点を持っているように思われた。それは、先生が試験の時に決して一人も落第させないということであった。学部に入ると、試験はいちだんときびしくなり、試験ごとに四十人のクラスで七、八人が落第して再試験を受けるのが普通のことであった。それを二十数年にわたって、一人も落第させなかったということである。ただの一人もである。これは大変なことであった。それで私たちは、先生の試験だけは、何のうれいも、くったくも無く、受けることが出来た。試験は不思議なもので、落ちるかも知れないと思うと、かえって緊張して出来なくなるのに、絶対落ちないと安心すると良く出来るものである。私たちは、余り上等なグループと申しかねたが、それでも、先生の伝統はやぶれなかった。
しかし、先生の伝統が一度だけ破られた。それは私たちの一年後輩の連中の時だった。連中は、私たちよりも、更に輪をかけたなまけもので、さすがの先生も腹を立てていた。なにしろ、百人以上出席しなければならない筈なのに、いつも出席は十人を欠けるのである。国会なら開会出来ないところだ。先生は、
「すようのねえ、やつらだ。試験の時は、ひでえ目に合わせてやるからな。ひでえ目にな」
と何度も繰り返した。そして、そのひでえ目に連中があう日が来たのである。はじめて、先生の試験で、開講以来、落第させられたものがいた。百人以上の中の五、六人が、その選ばれた人間だった。それがあの「ひでえ目」だったのである。解剖の試験の時、私たちは、いとも簡単に四十五、六人落第させられたことがあったから、K先生が「ひでえ目」と力んでいたのが、おかしい気がした。
ところが試験がすんで数日すると、先生は膵臓壊死《すいぞうえし》で苦しみながらなくなった。この病気は急に起り、病気の中でも最も苦痛の多いもので、腹の痛みはまさに地獄におとされるような感じだという。何のめぐり合わせか、先生はその苦しみを味わわねばならなかった。すぐ病院にかつぎこまれたが、手おくれで、苦しみながら、死んで行ったが、うわごとのように、
「M助教授は健在か、M助教授は健在か」
と繰り返していた。
「私は大丈夫です。ここにおります」
と助教授が、ベッドのかたわらに立つと、先生は苦痛でまともにしゃべることも出来なくなりながら、
「そんな筈はねえ、そんな筈は。おれ一人があの連中を落第させたんじゃねえ。M助教授だって、おれと同罪の筈だ。おれ一人が、こんな罰を受けることはねえ」
と先生は言い、又、
「M助教授は健在か」
を繰り返しながら死んでいったのである。
その話を私は忘れられないし、思い出すたびに、試験というものは人間にとって、受ける者にもきびしいが、する者にとってもきびしいものだと思うのである。
医学部を卒業するには何十回とない試験を受けねばならぬが、その大部分は口頭試問である。試験はいずれにしろ嫌いであるが、私はどちらかと言えば、口頭試問に対してはまだしもの気持を有している。
それは医学部の口頭試問が一人対一人で先生と向い合ってやるのではなく、生徒が十人ほどグループを作り、そのグループが先生の部屋に呼ばれる、という雰囲気《ふんいき》によるのかも知れない。自分の番が廻って来るのはいやであったが、それはともかく十分の一であり、その前後には、自分の仲間たちと先生とのわたり合いを、十分の九ばかり、一人の観客として眺めていることが出来た。そんな時、私は自分のことだけに夢中になっていなければならぬ筆記試験の時とちがって、仲間の一人一人の、真剣な顔、深刻な顔を見ることが出来たし、又、先生のそれぞれのムキ出しの性格などを知ることが出来たからである。
それに、そこには、相手のあることだし、一瞬一瞬に手ごたえのようなものが感じられた。虚々実々のとまでは行かず、虚々虚々ばかりではあったが、そこにはカケヒキもあったし、やりとりもあった。紙に向った筆記試験の方が、一方的で、やりっぱなしで、長い間、結果を待たねばならなかったのに、口頭試問の方は、泣いても笑っても、その場限りの勝負であるのがよかった。
生理学のH教授は、推理小説家としてや、頭のよくなる本、などというものを書いて、有名な人であったが、人間の頭をよくしたのは本の中だけで、私たち生徒の出来そこなった頭をちょっとでもよくしようとは思っても見なかったようである。
先生の講義は、活気があっていつも面白かったが、それは全身エネルギーといった感じの、先生の脂ぎった、私たちの一人が、ブホ・ヴルガーリス(ひきがえる)・グロテスケスとよんだ顔が一時間の間に、さまざまな変化を見せたからである。先生は細部の少々のあやまりなど問題とせず、能弁にすらすらと、少しのあやまりくらい、全き真実に見せかけてしまう雄弁の方を重んじられているように思われた。だから、時々、使うラテン語の語尾など、あやふやなことがあっても、団十郎ばりの演技でごまかしておいて、バレたかなという思い入れで、私たちをぐるりと眺めまわした。その時の目のまるさは、今でも私の印象に残っている。
私が時々、今もって真実らしくホラを語り、それをカムフラージュする能弁の魅力にひかれるのは、どうみても彼の影響が一部あるのではないかと思う。
H先生の生理学の試験の話をする前に、忘れられぬもう一つの試験の話をしておこう。
解剖学の試験の時であった。私たちは解剖屍体をとりかこんで試験を受けた。
屍体解剖というのはいやなものであった。全体がフォルマリンの風呂の中につけられていたとはいえ、暖かいと腐敗するというので、真冬を選んで、解剖をしたし、その上、戦後で暖房をしようにも石炭がなく、水道は凍って水も出ない有様であったから、雪で手を洗ったこともあった。それでも、屍体の何とも言えぬにおいは、私たちの体にしみついたようで、帰りの電車の中で、周囲の人間がいつもクンクン鼻を鳴らしているような気がしたものである。
屍体は腐木のようなチョコレート色をしており、醜悪そのもので、そのため、日の光の下で動いている人間は、動いているというだけで、美しく見えた。それが女の子であり、ニッコリ笑ったりすれば、ことさら美しく見えた。女の子が美しくなるなんて、かくもいとやさしきものなのである。だからといって、世の中の女の子は、あんまりニッコリばかりしていてもいけない。私たちは先輩から、解剖している間は、決して女の子など好きになってはならぬと、かたい注意を受けた。こんな時には、どんなとんでもない女の子に夢中になるかも知れず、又、夢中になってしまったあげくに、夢中にならなければ決してしでかすことのないあやまちを、しでかしてしまうおそれがあったからである。
私たちが、その解剖を早くおわらせたいという気持を持っていたせいであろうか、屍体は試験の頃には、あるべき所に何もないという状態になっていた。
私たちが屍体をとりかこむと、先生がやって来た。
「ここにある穴には血管が通っていた筈だがそれは何だ。どこから来て、何という名だ」
と先生が言う。そして老眼鏡をずらせたりしてのぞきこむ。だが、今頃、老眼鏡を持ち出したって無駄というべきである。そんなものが、この世から姿を消してからずいぶんになるのであるから。
老眼鏡をひっぱり出して来るなら、そして何ものかを見ようとするなら、もう少し早目の方がよかったのである。最初に質問されたものが、又、未練がましくその穴の外側や裏側をひっくりかえして、のぞきこむ。のぞいたところで、相手は屍体だ。今さら、何も生えて来る心配はさらさらない。更に大切なのは、そこにも無かったが、私たちの頭の中には、それ以上に何ものも残っていなかったことである。
その時、私のグループで板間静脈についてきかれたものがあった。これは「めんちょう」などの時、顔のおできのバイ菌が、頭蓋骨の内側に静脈の流れにのって入りこみ、脳膜炎を起したりするので大切なのだ。
「ここに板間静脈があるね」
と先生は指差した。
「へい、あります」
その男は答えたが、そこには何も見当らなかった。
「ここの血液は外側から内側に流れるのかね」
「へい、外側から内側に流れるんです」
しかし、その答えには、何か自信に欠けるものがあった。敵もさるものである。先生もそれをすぐに見破った。そして、
「いや、内側から外側に流れるんじゃなかったのかね」
と問い返した。
「へい、そうです。内側から外側です」
「なにい」
先生は老眼鏡をかなぐりすてた。と言っても床の上へではない。ポケットの中へである。こうなったら、そんなものは必要ない。いや、そんなものは、もともと必要な時はなかったのである。
「いったいどうなんだ、内側から外側か」
「へい、その内側から外側です」
「そうか、それでいいんだな」
「いいえ、その、外側から内側です」
「そうか」
「いや、内から外です」
口頭試問というのは、消しゴムが使えないので困る。答案に穴があけば、そこであきらめがつこうというものだが、口頭試問となるときりがない。あきらめたのは先生の方であった。
「な、よくおぼえておけ。外から内へ流れるんだ、それで『めんちょう』などの時、バイ菌が頭の中に入りこむので、この静脈のことをおぼえておかなければならんのだ」
男はよく聞いていた。だが、口頭試問の時には、筆記試験の時にはありえぬような、もののはずみというものがある。男は先生の話につりこまれて、我知らずのうちに言ってしまった。
「そうです。その通りなんです」
それがただでさえ機嫌を悪くしていたところを、完全に先生を怒らせてしまうことになった。
「なにが、その通りだ。人を馬鹿にするのも、ほどほどにしろ」
先生はカンカンになってそう叫び出した。しかし、その男は、先生を馬鹿にしようなんぞという気持を毛頭持っていなかったのである。もののはずみにすぎなかったのだ。
私の番がまわって来た。それは鼠蹊管《そけいかん》の中に、何という神経が通っているかという質問であった。そこには二本神経が通っている筈であったが、私は一本の方の名前しか、残念ながら記憶していなかった。
しかし、ここはためらってなどいてはならない。敵中横断三百里みたいなものである。しゃにむに、つっぱしらねばならぬ。スピードこそが頼みの綱である。私はまるで潜水でもする前のように大きく息をすいこんだ。そして屍体の、あとかたもない鼠蹊管をゆびさすと、
「ここには、二本の神経が通っております。二本であります。一本ではありません。その名前は……」
私はおそろしい速さで、一本の神経の名前を、出来るだけ異った発音で二通り繰り返したのであった。口頭試問には、何度も繰り返すが、もののはずみというものがある。先生も、私の能弁につりこまれたか、ものすごく大きい声で、
「よろしいっ」
と叫んだ。そしてあとにも先にも、もらったことのない満点を、その時私はもらってしまったのである。卒業式のあとで、先生に思い出としてその話をしたら、じだんだ踏んで口惜しがり、ビール一杯で悪酔いをしてしまった。しかし、私としては、先生がそのため胃潰瘍《いかいよう》を起したとしてももはや責任は持てぬのである。
前に少し話しかけた生理学のH教授の試験の時であった。私たち十人ほどのグループが、教授室に入って行くと、私たちにドイツ語の単語のかかれたカードが一枚ずつ渡された。私のは「ニーセン(くしゃみ)」と書かれており、隣の男のには「フステン(咳)」と書かれていた。順番を待って、それらについて生理学的な説明を加えねばならないのである。隣の男は急にそわそわとしはじめた。彼にはフステンというドイツ語の意味がわからないのであった。彼は私の方にそっと体をよせて、フステンとは何だと聞いた。その時、H教授の鋭い視線が私たち二人の方をおそい、彼は私からとびはなれた。私は彼に何とか教えてやろうと思って、いっしょうけんめいに、咳をする真似をした。しかし、余り大げさに咳も出来ぬ。軽くゴホゴホと何回も繰り返した。彼もいっしょうけんめいであったから、私のその連絡を理解しようとした。彼の番はすぐだった。
「えーと」
と彼は思いきり長く、そのえーとをひきのばした。私は又、思いきり咳をした。事情を知っている人間はニヤニヤした。H教授も、いくらかはユーモアを解さぬわけではない。その場の状況をさっと見てとると、その男に助け舟を出そうとして、大声で、
「えーと、その咳バライはやめたまえ」
と私を制した。皆がクスリと笑った。その男は、そこでピーンと来たのである。しかし、ピーンときすぎてしまったのだ。
「えーと、フステンとは」
「フステンとは何だねえ」
さそうようにH教授が、おうむ返しに言った。
「フステンとは咳ばらい……」
そこまで言ったとたんに、H教授は言った。
「なにい、咳ばらいい?」
そこからは、やはりもののはずみというものである。男は、教授の顔付を見てとると、しまったと思いながら、とっさに言ってしまったのである。
「その咳ばらいのようなもので」
「なにい、その、ようなものとは何だね」
もういけなかった。こうなると泥沼のようで、きりがなかった。又、悪いことに、そこで私は急に鼻がむずむずとして、くしゃみをしてしまった。これは真似などではない。正真正銘のくしゃみである。ところが、精神の極度に動揺していたその男は、もう、真似も本当も区別せず、それも亦、私からの連絡だと思ったのである。考えられぬようなことだが、しかし必死の彼にしてみれば、何ごとであろうと考えられぬことではなかったらしい。そこで彼は続けた。
「フステンとはくしゃみ……」
彼はH教授の表情の動きを見て、絶望し、もうやぶれかぶれになって「のようなもの」と又してもつけ加えずにはいられなかった。
しかし、H教授は他の先生のように、すぐに「バカ」とか「バカヤロウ」とか、どなり出す短気な人ではなかった。それに見かけによらず気取りやであった。
「君、いいかね、フステンとは、咳のようなものではないよ。咳だよ。そのくらいがわからんと困るよ」
教授はやさしくそう言い、それから、
「まあ、君の今回の試験の点として、わしはねえ、君に今はやりの映画の題名と同じものをあげたいねえ」
と、その男に、意味がわかるかと言った顔をした。H教授は気取りやであったので、そっ気なく「落第」とか「出なおせ」などと叫ぶのは嫌いで、そんなわけのわからぬ言いまわしをしたのである。落第のことを、私たちは伝統的にヴィーコンと呼んでいた。それはドイツ語のヴィーダー・コンメンの略で、日本語で言えば「出なおせ」とか「もう一度来い」ということだった。
「有難うございます」
その男は答えた。
「で、君は、その映画の題名を知っとるかね」
「いいえ」
私であったら、間髪を入れずに「自由をわれらに」と答えていただろう。そうすればH教授のことだから、気取りやの常として、もののはずみというもので、無罪放免としてくれたであろう。だが、呆然《ぼうぜん》としたその男の前で、H教授は言った。
「いまひとたびの」
と。
もう一人のH教授は耳鼻科の教授であったが、試験は学生を勉強させるためには必要であるが学生の知識をはかるものではないという信念を持っていた。なにしろ、こちらは落第するのはいやであるから、まがりなりにも勉強して行く。すると耳鼻科の問題にまじって、M・J・BとかT・B・Sとかいう略字がある。こちらは試験の問題であるから、どこにそんなものがあったかと、頭の中をひっかきまわす。まさかコーヒーのマークや、放送局の略号だなどとは思わない。新聞社の入社試験などではない。れっきとした医学部の耳鼻科の試験なのであるから。だが実はその「まさか」などということを考える、近代的な懐疑精神がいけないのである。今川義元が桶狭間《おけはざま》で敗れたのも、その「まさか」がもとであったし、織田信長が本能寺で殺されたのも平家が義経のひよどり越えからの奇襲にやぶれたのも、この「まさか」がいけなかったのである。私たちが、このH教授のM・J・Bなどでさんざんに頭をかきまわされ、青くなって試験場を出て来た時、この教訓を何とよく身にしみて感じたことであろうか。だが、このH教授は血も情もある武将とみえて、私たちの命だけは、常に最後の瞬間で救ってくれた。誰一人、耳鼻科のH教授の試験で落第したものはなかった。
それらのことごとから、もう十四、五年にもなる。私の、試験などこの世からなくなってしまえ、という考えは今もって変らぬ。「しかし、お前は、それらのことごとを、さもなつかしそうに語るではないか」という者もあろう。さよう、すべて過ぎ去りしものは、何ごとによらず、恐怖すらも、人間の頭の中ではなつかしいものに変って行くのである。あの恐怖に満ちた戦争すらも、生き残った者の中には、口では戦争は不幸の最たるものなどと言いながら、二十年もすると、なつかしさを以てしか思い出せぬものがあるではないか。紀元節などを、なつかしむものがあるではないか。
この、追想というものに影のごとくつきまとう、なつかしさこそが、人間に過去のあやまちをもういちど繰り返させる元兇《げんきよう》なのである。
車というもの
私が自動車の運転免許をとったのは七年ほど前のことである。同僚の医者は、私が免許をとったと言うと、「お前がかあ」と意味のわからぬ感嘆の声を発し、更に「日本のかあ」と無用の質問をした。
彼は外国の免許が日本のよりやさしいか難しいかなど知っている筈がないのである。私が「もちろん日本のだ」と答えると、「本当かあ」とぬかした。
読者よ、そもそも、人生、人を信じることは最大の大事である。なんとかカア、などとカアカア繰り返しているうちに烏《からす》に間違えられて鉄砲で撃たれても、私は責任を持たない。信じるにしても、信じ難いことを信じることにはじめて意味があるのであり、当然のことを信じるならば、自分の判断力を信じているだけのことであって、大して価値あることではない。これは大切なことであるから読者もおぼえておかれるがよかろう。
人間は外観で判断してはいけない。左様、私は一見して運動神経の発達した人間のごとくには見えぬし、百メートルを走らせれば二十一秒フラットの記録を持っている。それは確かなことであるから、別に妻にだってかくしていない。自動車を運転している姿を想像してみても、余り恰好《かつこう》がよさそうではない。そのことも私は知っている。さればとて、人間は恰好で車を運転するわけでもなく、又、自動車は立派な機械であって、百メートル二十一秒の私の足が車を動かしているのでないから、心配する必要はないのである。
つい数年前、イギリスの天才的な競走自動車のドライバー、スターリング・モスが来日したが、新聞記者は誰も彼に気がつかなかった。旅行中の彼は、禿げ頭か、それに近い頭を持つ、まるで石けんのセールズマンぐらいにしか見えぬ男で、かりにも時速三百キロ以上でレース場をふっとばしている男に見えなかったのである。私の免許を疑った人間のごときは、スターリング・モスのことなど無学にして知らなかったのであろう。
とは言いながら、正直に言うと、私は正規の教程を超過すること十教程で試験に通ったのであった。しかしこれは、日本の免許制度が悪いのである。世界のどこに、あのクネクネと箱庭みたいな道を作って、わざわざ自動車の運転を練習させ、試験をする国があろうか。あんなものは子供の電気豆自動車の遊技場に即刻寄附させてしまった方が得策と言うものである。
練習させるなら鈴鹿サーキットみたいな所でやらせたらいい。ベルギーには運転免許みたいなものはないという話であるが、私は確かめていない。確かめないでも私は信じている。アメリカではニュージャージー州の免許が一番簡単であるそうで、ニューヨークあたりで下手な運転手を見ると、「このニュージャージー」とののしるのだそうだが、これも私は確かめていないが信じている。
さて、私は免許は手にしたが、自動車を手にすることは出来なかった。買いたいのは山々だが、大蔵大臣がウンと言わないのである。世の中で、細君が大蔵大臣をつとめるという悪習は、いったい誰が、いつの時代に考え出したのであろうか。ともかく、私の妻にウンと言わせるのは難事中の難事であったが、それは彼女がフランス人であって、ウンと言うことをフランス語ではウイとしか言わぬからであった。
そんなことはどうでもよいが、私としては仕方のないことなので、当分の間は雑誌で車の写真と説明と、それから自動車の運転法や故障の修理法などを見て満足していざるを得なかった。しかし、これは私に大いに役に立ち、故障の調べ方、修理のしかたなど、私はまるで手引のように何でもそらんじるようになったので、今でも私の同僚は自分の車が故障すると私のところにかけつけて教えをこい、あるいは電話までかけてくるくらいなのである。
しかし、こんな連中はえてして恩知らずなものであるから注意した方がいい。ついこの間のことである。同僚の一人のボロ車のルノーに乗った男が私に言った。
「おい、おれの車、ホーンが鳴らんぞ。どこを調べたらいい」
「先ず、バッテリーを調べよ」私はたちどころに、おごそかに答えた。「ものの本によると、バッテリーの充電が充分でない時は、ホーンは余りよく鳴らんものである」
その男は調べに行った。そして帰って来ると私に言った。
「余りよく鳴らんじゃないか。ウンともスーとも鳴らんのだ」
その男は少々おっちょこちょいであった。本当は車のホーンをなおすより、その男のおっちょこちょいを直すのが、物の順序というものだが、私の読んだ本にはそんな哲学めいた言葉はなかった。これは日本のこうした本の最大の欠点であると思う。
「全然鳴らんのなら、ホーンのフューズを調べろ。それから、電線の接触を調べろ」
彼は又調べに出て行った。そして帰って来ると、私を軽蔑《けいべつ》した目付で見つめた。
「お前は何も知っとらんな。もう一度よく勉強をしなおせ。いいか、ホーンが嗚らん時はだな、一番先に調べねばならぬことは、バッテリーでもフューズでもないぞ、ホーンがあるか無いかだ、おれの車にはホーンがなくなっているのだ」
その男は、でこぼこ道のどこかで、ブラブラになっていたホーンを落して来てしまったのであった。
その話を聞いて、私は少々ならず驚いたが、確かにホーンが無ければ鳴る筈がない。これは本に書いてはなかったが、真理は真理であって、科学者のはしくれの座であっても、それをけがしている私にとって、認めぬわけには行かぬことであった。それ故、以後、ホーンの鳴らぬ時は、まずホーンがついているか否かを調べねばならぬと考えるようになったのだが、この間はそう言ってやったら、別の男に「人を馬鹿にするなこの野郎」とどなられる憂き目を見た。
しかし、真理というものは常に受難を伴うものであることを私は悟っているので、このくらいのことは余り重要に考えない。
そうこうしているうちに、私が車を持つようになる機会が、ようやくおとずれたのであった。大蔵大臣が二番目の娘を生むことになったのである。もちろん、その時は未だ娘かどうかは分っていなかったのであるが、そんなことはどうでもいい。
私たちは当時中野近辺に住んでおり、妻は夜、飯田橋の学校でフランス語を教えていた。授業が終ってから飯田橋から中野まで混雑した電車で帰るのは、ただでさえ疲れるが、子供が腹の中にいる状態ではことさら疲れる。更に長女の妊娠中にプラットホームで転んで左腕を折り、ギブス姿でお産をしたという前歴もある。
そこで私は、大臣はお疲れだろうと思うが、ボロ車でもあれば、私が毎晩迎えに行くことも出来るのだが、と申し出たのであった。すると予算がたちどころに出た。一国の蔵相であろうと、一家の蔵相であろうと、予算を手品のごとくひねり出すことにかけては、はなはだ似ていると言わねばならない。
なにはともあれ、私が生涯で最初に車を持つようになったのは、それから間もなくのことであった。それが五十四年型のレンガ色のルノー4CVである。もちろん、かなりいたんだ車であった。さて、最初の晩、私は大蔵大臣との約束もあるので、飯田橋まで迎えに出かけた。ところが、最初の交番の巡査が私に停れと合図をした。
免許をとって最初に運転している時には、交番という交番がいやに目に入るものであり、お巡りというお巡りが皆敵のように思える。これは不思議なことだがそうなのである。そして、交番の前を通る時、こちらには何も悪いところがないのにきまっているのだが、何だか申し訳ないような気持がコツ然と湧いて来たりすることもある。ともかく停れと合図したので私は停った。
しかし、私は何故に停められたのだかわからなかった。わからないが現に停められたのだから、何か違反をしたのに違いない。違反したとあっては申し訳ない。申し訳ないなどと感じるのは、十年来のことで、はなはだいやーな気持のものであった。
お巡りはゆっくりと近寄って来た。私はその間考えた。何しろ一人で先生なしに運転するのははじめてである。私はのろのろ運転していた。するとスピート違反である筈がない。スピード違反ぐらいへ《ヽ》でもないが、免許とりたての私には違反するほどスピードが出せないのだから仕方がない。左折違反でも右折違反でもない。なにしろまっすぐに来たのだから。追越されはしたが間違っても追越しはしていない。すると追越し違反でもない。
そこまで考えて来ると、これはケシカランことであると思ったのである。違反もしていないのに、しかも今日、はじめて自分一人で車を運転して僅か数分にしかならんというのに、もうお巡りが出て来るとは少し早すぎるではないか。何事であるか。そこで私の機嫌はいちじるしく悪くなった。読者も経験がおありだろうが、機嫌が悪くなると見るもの聞くこと、それらがことごとくしゃくの種になる。
しかし、しゃくにさわるからと言って見ないわけにも行かぬ。そこで私は見たのである。お巡りの前のボタンが一つはずれていることを。世の中では不思議なことがまかり通る。背広の上衣にはボタンがちゃんとついているのに、これを全部はめてはならぬ。ところが、ズボンの方は沢山ボタンがあるのに、一つもはずしておいてはならぬ。これはどうも理に合わない。正常の時はそう考えるゆとりがあるのだが、その時は違う。これもしゃくの種だ。
とは言いながら、お巡りが近づいて来ると何か気になる。そのうち、自分は何か違反したに違いないような気さえして来た。違反したとなると、お巡りにはどんな風にしゃべったものであろうか。
その時、私はものの本に、お巡りにつかまった時、どうすべきか、書いてあったことを思い出したのであった。私のそらんじていた車に関する知識はかくも広きに及んでいたのである。それには書いてあった。お巡りとみたら、すぐに下手に出て「スミマセン」と言え。決してくってかかってはならぬと。これは理由のないことではない。本に書いてあるくらいのことだから真理であろう。真理とあらばいたしかたない。
お巡りに停れと合図されて、それから彼が私のそばまでやって来るまでの間に、何とそれだけのことが、私の頭の中で廻転したのであった。人間、危機にのぞむとかくのごとくすばやく頭が廻転するものだ。これが人間でなくて猫であったら目を廻すであろう。
私は窓をあけて首を出すと、不本意であったが、近づいて来たお巡りに「スミマセン」と言った。お巡りはそれを聞くとニヤリとした。私はその笑いを見て矢張り本に書かれてあることに間違いはないと思った。相手は免許証を見せろという。免許証ならチャンと持っているから問題ではない。私はいばってそれを見せた。お巡りはチラッと目を通すと返してよこしながら私に言った。
「ちょっと降りて見てごらんよ。後の車がパンクしているよ」
正直に申して、私はその瞬間ホッとしたのであった。しかし、ホッとしたとたんに、「スミマセン」などと悪いこともしていないのにあやまったことが、はなはだ面白くないことに思われはじめた。これは屈辱的ともよぶべき感情であって、これをこのままにしたら心身医学的な法則によって、私が胃潰瘍になることは間違いない。私はそこで言ったのである。
「お巡りさん、見てごらんなさい。あなたのズボンのボタンが外れていますよ」
私はそこで、彼がボタンをはめなおす間に車をおりて、タイヤの交換を始めたのである。しかし、お巡りは、その私を手伝ってはくれなかった。私はことの順序を少しばかり間違えたような気がしたが、これは枝葉末節《しようまつせつ》のことであった。
私はそのレンガ色のルノー4CVに二年ばかり乗ったのであった。ここで少しつけ加えておくが、私が十年前、フランスに旅立つ時、フランス語を教えてくれた先生があたえてくれたいくつかの注意の中に、こんな一つがあった。
「電車にでも乗って、前に立った人間の前ボタンが外れていたら、何と言って注意してあげるか知っているかね」
私は当然知らなかった。先生はていねいに説明した。
「その時はね。フランスでは天井を指差すんだ。そして『皇帝 万歳《ヴイーヴ・ランペルール》』と言うんだ」
ボタンなどと人に聞えるような大声をあげてはならないという注意だった。しかしこれはフランスでの話で、日本で「天皇万歳」などと言って通用しないのは残念である。皆が指差された天井を見ている間に、本人はボタンを悠々《ゆうゆう》とはめる。これは良い考えと言うべきであり、真似してしかるべきことではないかと思う。私が中学の時に習った教練の教官は同じような時に、「ウナギが逃げるぞ」と大声に叫ぶのであった。これも悪いとは言えぬが、品がよいとは言えぬ。
ともかく、私はそのルノーに二年ばかりの間乗っていた。私はこのルノーの後姿が好きであった。それにくらべると最近の車はどれもこれも箱型で面白みがない。ルノーの後は両側にふっくらともりあがった後輪のフェンダーがあり、それが女性の脂肪の豊かなある部分のなめらかな曲線を思い出させたし、何となくそっとなでまわしたい気持にすら誘われるので、ものぐさの私がよく車を磨くことにもなったわけなのである。
しかし、こうした衝動が私だけのものであれば問題はなかったのであるが、どうも、誰も彼もがそういう気持になるらしく、追突されることしばしばで、私としては対策を考えねばならなくなったのである。他の人間はどうしているだろうかと思って観察すると、赤い発光テープで何やら字を書いてある車がぼつぼつ見うけられる。ノー・キッスというのがあるが、そしてこれが一番多いようだが、どうも文法的に疑問がある。わざわざアメリカ風のブロークン・イングリッシュをこんなところで持ち出すこともあるまい。と思っていると、プリーズ・ドント・キッスという折目正しい英語が見つかった。私は何も英語の教師でもなく、日本人の話す英語の質の向上のために努力するなにがしかの協会のメンバーでもないが、矢張り正式の英語、折目正しい英語を、些細《ささい》な場所においてであっても使用することはのぞましいと考えている。
その点で、このプリーズ・ドント・キッスは私を満足させるに充分であった。しかしながら、私はそれを真似する気にならなかった。こんな文句はあちこちに書かれており、またかぐらいに思われるのがおちで、ぐっと人の注意をひきつけるものがない。人の注意をひきつけなかったら、何を書いても意味をなさないのである。そこで私はいろいろと考えた末に、
「ウシロカラハ、イヤヨ」
とフランス語で書いたのであった。何故フランス語にしたかというと、少々気がひけたからでもあったが、大方の人間は何かわからぬので字引でもひく、それだけの余裕があれば追突もしないだろうと考えたからであった。その意味が分った人間が、それでは前側には何が書いてあろうか、と興味を起すことも私は考え、それらの人間の好奇心を満足させなくては申しわけないので、
「ネツレツナノハ、イヤヨ」
と書いた。私はこの前後の文句に、はなはだ満足であったが、大蔵大臣は、私に余りにも下品であり、教育上もよろしくないからと伏せ字にすることを命じた。それ故、私はそれらの文字を数日の後には××××と書き改めねばならなかった。なにしろ、チャタレー裁判で言論側の負けた国では、このくらいの言論の自由も許されないことなのである。
私のこの落書きの効があったのか、私の運転技術が向上したのか、後からの被害がなくなったのは幸いであった。それで私がこの車を手ばなしたのは事故によって車がめちゃめちゃになったからではなく、新しい車を買うためであった。
私の車は同僚数人がひきとり、しばらく乗っていたが、後の座席の下に穴があき、風が下から吹きこむようになって、ある同僚の言では雨が下から降るようになったので売りはらわれた。誰に売りはらわれたかは私は知らない。
私も車は好きな方で、それも車のついた乗物は例外なく好きで、子供の時は電車か汽車の運転手になりたいと思っていた。だが、これは何も私の専売特許でなく、同僚にも同じような人間が何人かいた。
Mという同僚はある自動車をしばらく持っていたが、私がある自動車というのは、それは何の何年型と呼ぶことの出来るしろものではなく、ダットサンの車体にトヨペットのエンジンをのせたもので(あるいはその逆であったかも知れぬが)あり、彼はそれをトヨットサンと称して得意であった。彼はその車を自分の家の庭にデンとすえつけた。というのは彼のトヨットサンには未だ幾つかの部品が不足し、それを月々の給料で買い足して行かなければならなかったのである。私たちは彼の車が動き出す日を一日千秋の思いで待っていた。
「どうだ、動くようになったか」
私たちは時々がまん出来なくなって彼にさいそくした。
「いやいや、未だ不足である」
彼はアイマイによくそう答えたが、その男は大変な酒のみであり、部品の不足を補うより先に、給料の不足を補わねばならぬ羽目にしばしばおちいったからである。
そのうち、私たちが忘れかけた頃、彼はやって来て、
「動いたぞ」
と叫んだ。読者よ、文章というものは、かように、ある状況のもとでは、必要最小限の動詞一つで、立派に意味を伝えることが出来るのである。何も、何時、どこで、何が、いかにして、などと饒舌《じようぜつ》な部分を加えずとも、正確に、そして印象的に表現することは可能なのだ。その一言を聞いて、私たちはある種の感動さえ受けたのである。私たちは早速、彼の家までかけつけた。そこで私たちは、材木を積んで作られた台の上に乗せられた車輪のないトヨットサンの奇妙な姿を見たのであった。車全体が地上を動くのではなくて、彼の言うのはエンジンが動くようになったことであったのである。しかし、読者よ、これは彼の簡潔な表現が悪かったのではない。それをめぐる状況の方が悪かったにすぎない。
そのうち、それにはちゃんとした車輪がとりつけられ、自動車らしい姿になって、材木の台からおろされる日が来た。その日になって、彼は運転免許のないことに気付いたのである。これは一大痛恨事であった。彼はそれでも、しばらくの間、五メートル四方くらいの庭の中を、彼のトヨットサンを僅かに前後に動かして満足していた。
しかし、生きた人間にも不幸な偶然というものがあるように、機械にも亦、不幸はまぬがれぬものと見える。私の同僚は或る朝、非常にうかぬ顔で現れた。そして、彼のトヨットサンのバッテリーが、何者かの手によって、夜の間に盗まれたのであると言った。これはまことに痛恨きわまりないことで、私たちも大いに彼に同情した。
その頃は未だ現在のようにありあまる程車があるわけでもなく、バッテリーといえども、そうやすやすと手に入るものでもなかった。又、そうであるから、バッテリーを盗むものがあったのであろう。しかし、ともかくバッテリーなしでは、エンジンがかからず、エンジンが動かねば車が動く筈がない、という素朴な真理を、私たちはこの場合にもしみじみと確認しないわけには行かなかったのである。
さて、そのトヨットサンは、その後どのような運命をたどったであろうか。もちろんバッテリーを再び買うのがたやすいことのように思われるであろうが、それは素人考えである。私たちは、その前に考えた。というのはこのトヨットサンの所有者はあるべきところに毛が充分にない男で、その為しばしば各所で物議をかもしたのである。たとえば彼は床屋に行く。私であったら床屋などに行かなかったであろう。だが彼は行くのである。そして、
「だんなさん、お年は」
などという質問が、床屋の口から発せられるのを待つのである。
「二年生まれだよ」
と彼は答える。
「へえ、大正の」
床屋は常識家がそろっているので、ついそう言ってしまう。それが彼の床屋に行って味わう不思議な楽しみの唯一つのものであった。こんなことから類推できるように、外側に不足があれば、中の不足の現れであるのが当然というもので、私たちはしばしば彼自身のかわりに考えてやらねばならぬことがあったのである。考えると、彼のトヨットサンにはナンバーがなければ、バッテリーを買い、エンジンが動き、彼が免許を持とうとも、道路の上を走らせるわけには行かぬ。
そしてこのナンバーはバッテリーひとつふたつの値では買うことの出来そうもないしろものなのである。私たちの仲間の一人は馬を買って、それにこのトヨットサンを引かせることを提案した。いくら自動車らしき姿をしても、馬にひかせる限り馬車であり、自動車のナンバーは不必要であろうというのが、彼の論理であった。それは名案でもあるように見えたが、馬はいくら安くなったと言っても、現在はバッテリーの数倍以上の値はするし、それこそ馬に食わせるほどの、という形容詞が他ならぬ日本語にあるくらい、大量の食糧を毎日あてがわねばならぬ。これは持主には出来ぬことである。
そこで私たちは、より実現性のある、常識的結論に達したのである。それは精神病院の残飯で飼育されている豚を数頭借用して、それに車をひかせることで、飼料には一銭も必要とせず、又、狭い小屋の中で一日中寝ころんだり起きたりして歩くことをしない豚にとって、少々の散歩は必ずしも健康に悪いとは言えぬ。これは卓抜《たくばつ》した考えで、現在、小説家として高名である、私の同僚の一人が主として考えたものである。しかし、この結論は遂に実現しなかった。巷間《こうかん》で、このトヨットサンが、実際に豚三頭にひっぱられて道路を走ったと伝えられているが、これはあやまりである。実際には、これは計画のみで終った。理由は、某精神病院の豚が、豚コレラ流行でトン死し、計画が挫折したからである。
この話をすると、全く頭から信用しない人々があるが、不幸な人々である。信用する人々は、しばしば「精神科のお医者さんにはオカシナ人たちがいるものですね」と感嘆の声をもらすが、その人々は、余りにも自己中心の考えの持主でありすぎるのである。自分たちと変った人間を、すぐに異常と呼び、変人と呼ぶ性急さは改められねばならない。人間の精神の健康さというものは、そうした表面の風がわりな行動とは、無関係なものであり、もっと奥深いところにひそむものであるからである。
私がルノー4CVを手放して買ったのは、スバルである。むしろセールズマンの巧妙な言葉にうまくのせられてしまった、というべきであろう。しかし、セールズマンは私を説得したのであり、大蔵大臣の方は言葉の関係もあり省略してしまった。そればかりでなく、後になって、私がいかにして妻を説得したか、後々のセールズの為に非常に参考になるから、是非聞かせて欲しいとさえ言った。だが、残念ながら、これは秘密なことに属するので公にすることは出来ない。
スバルのことで、私が忘れられぬことが一つある。それは或る日、私が同僚の一人を乗せて走っていた時のことである。なんとしたことか、私のスバルは前を走っていた大型トラックが、急に方向を変えたために、衝突しそうになったのである。その時、私のかたわらにいたその男が、体を半分ちゅうに浮かせながら叫んだのであった。
「あっ、ひかれる」
何とそそっかしい男であるか、と私は思った。いかに小型の車であるとは言え、スバルも車は車である。車と車がぶつかれば、正しい日本語では衝突すると言うのである。三輪車であろうと、歩いている人間がぶつかる時に、はじめて、ひかれるという言葉が使われるのである。車に乗っていれば衝突する心配はあってもひかれる心配はないのだ。それを、このようにそそっかしい人間が、考えもせずに滅茶苦茶な日本語を使うから、日本語がみだれるのである。
それからしばらくして、今度は、小型トラックに、私のスバルがぶつけられた。そしてそのトラックは停りもせずに逃げた。私は直ぐに交番にとびこんで、お巡りに、そのむねを報告し、お巡りはそれを聞き終るやいなや電話をかけた。
「ええと、緊急手配お願いします。ひき逃げ事件」
私はそれを聞くとお巡りまでが人の車が小さいと思って馬鹿にするのかとカッとなって、
「ひき逃げではない。車と車がぶつかって、相手が逃げただけなんだ」
と叫んだ。
「間違えないでくれ」
「間違いじゃないよ」
私の真面目な顔を見て、お巡りは答えた。警察の言葉には、「当て逃げ」などというものはなく、すべて事故を起して逃げたものを「ひき逃げ」と呼ぶのだそうであった。それを聞くにおよんで、私は日本語の乱れの原因は警察にあると結論したのであった。
このようなことが重なるにつれ、私には次第にスバルが実際以上に小さく思えて来たのであった。本来はスバルと関係のないことであるのだが、このような経験をしたものにとっては、どうしても無意識に、その小ささを、それらの不愉快なる印象に結びつけざるを得ないのである。
そして、私の大蔵大臣が三番目の女の子をうみ、その娘が一貫目あったことが、スバルの小さいという印象を、何となく私に決定的なものにしてしまったのである。
私が三台目のパブリカに車をかえたのは、そのような事情からであり、そのいく分かの責任は日本の警察にある。
警察の話が出たついでであるから、少しばかり警察の悪口を言わせてもらうことにする。私の少なからぬ経験をもとにすると、こと交通に関する限り、警察の頭は戦前と変りないように思える。日本の警察は取締り第一主義で、交通のいかなるものかを考えておらぬと言いたい。
一番ケシカラヌのは、交通安全日などというものをもうけることである。安全は毎日考えるべきことで、一日だけ考えるべきことではない。昔「蝿取りデー」なるものがあり、その日、沢山蝿を取った者が表彰されるというので、私なども一日中、蝿叩きを持ってかけまわったものだが、それが日本からこの昆虫を少なくするのに役立ったとは言えないのである。
現在の交通安全日なるものは、この種の昔の××デーに等しいもので、全体主義警察時代の習慣の名残りであると言っては言い過ぎであろうか。
更に、道路によっては、私たちが危険なところと呼ぶ場所がある。そこは事故の多い場所ではなく、なんと、事故は起そうと思っても起きないが、警察の待ち伏せにあって、つかまりやすい場所のことなのである。私はここでも日本語が不正確になることを憂えるものだが、それ以上に、警察がこのような、追いはぎまがいの、こっそりつかまえることをやめるように祈るものだ。すでに私はある本の中に書いたが、ここでも同じ感想を繰り返すことを許してもらいたい。
「警察がコソコソとつかまえようとするから、この国では、泥棒が堂々と盗むようになるのである」
逃げるということ
読者諸君も、よく考えてみられると次のような事実に気がつかれることであろう。われわれ人間はよく夢を見るが、その中でよくわれわれは逃げているのである。誰が、何故に、どんな形相《ぎようそう》で追いかけて来るのか、知らないことが多い。にもかかわらず逃げているのである。振りかえって、相手を見ることもしない、だが、自分が何者かに追いかけられていることは確かなことであると思えるのだ。ともかく逃げるのだ。どんなところにかくれてもすぐに見つかる。又逃げ出さねばならぬ。そして、あぶら汗をかきながら、何者かにつかまる寸前に目がさめる。あるものはそれが蛇であるといい、あるものはライオンであるといい、あるものは泥棒であるという。しかし、実際は何であるかわからないことが多いのだ。しかも、ごていねいに、そんな夢を何度も繰り返して見るのだ。こんな夢を見た経験の無い人間は、ごく少ないことであろうと思われる。ところが、自分が何者かを追いかけている夢など、人間不思議と見ないのである。
日本ばかりではなく、世界のどこの国に行っても、子供の間で、鬼ごっこ、或いはかくれんぼうのごとき遊びのないところはない。しかも、これほどしばしば子供の間で遊ばれる遊びはないのである。しかも、この遊びの中で大切なことは逃げることだ。たいがいの子供は鬼になることをいやがる。中にはなったとたんに、やーめた、などと言いだす子供もいる。追いかけることは、本能的にこのまれないと見える。
さて、私がこの真理を発見したのは、精神科医となってからのことであった。
私が大学の精神科の医局に入ったのは十年前のことであった。医局員になると、すぐ当直をやらされた。しかし、私たちは新前であるので、もう一人先輩の医者がとまり、指導してくれることになっていたのである。だがそうなってはいたものの、夜になると、その先輩の中にはこつ然と姿を消し、近くの新宿の赤線あたりで当直するものがしばしばあった。やはり彼らも、本能的に逃げだしたのであろう。逃げることが本能であるので、そのついでに隣の本能までよびさまされてしまったものと見える。
私の最初の当直の時の先輩はFという医者で、ともかく彼のすることを見ていればいいと私に命じた。私はその通りにした。
彼は犬のようにピンと立った両耳を持ち、ついでに髪の毛も逆立っていた。笑うと上の両側の異常に長い犬歯がニュウっと現れ、彼が戌《いぬ》年ではなく卯年であるのが、まことに不思議なことと思われたのである。私が彼の面相をかくもよく覚えているのは、彼の注意に従って余りにもしみじみと、その時の彼を見つめたためであろう。
余談になるが、Fが結婚をすることになり、その前日のことであった。その頃、医局には教授秘書ということで、女子高校を卒業したばかりの可愛らしい女の子がいたが、何しろ教授秘書という名前が残念に思われていた。その女の子をFがちょっとちょっと、と呼び出すと、廊下の片隅で何かを話した。すると彼女は耳まで真赤になって、奇妙な声を発しながら逃げて来た。結婚の前の日であるというのに、これはただごとではない、と思って話を聞くと、Fが結婚する相手というのが秘書と同じ、十八歳の女の子で、
「ねえ、君、僕の嫁さんになる女の子ってのが、あんたと同い年なんだ。それで、俺、心配なんだがね、十八歳くらいだったらさ、その、結婚ってさ、どんなことをするんだか、もう知っているだろうかなあ。君はどうだ、もう知っているか」
そう彼は彼女に聞いたのだそうである。
そのFは結婚した最初の月の給料日、結婚の三日前に行った芸者屋のつけが廻って来て、月給袋に五百円くらいしか残らなくなり、嫁さんにどうしてそれを渡したものか困っていた。
さて当直の時のことだ。夜になると、彼はKという若い高校生の患者を医局に呼んで、将棋をさしはじめた。Kは放浪癖のある、どこかぬけたところのある患者で、綿一貫目と鉄一貫目とどちらが重いかとたずねると、たちどころに鉄と答え、西を向いて立ち、廻れ右をすると、どちらの方向を向くかと問えば、たちどころに、後向き、と答えるのであった。
ところが、世の中には不思議な現象があるもので、彼は将棋だけはおそろしく強かった。自称初段というFと、Kは飛車、角落ちでさすのだが、何時の間にかFの飛車と角は反対側を向いて、自分の玉をねらい出すのであった。
Fは時々、長考して、便所に行った痔の患者のように、ウームウームとうなり出した。私はFのやることを見とれと言われているので、Fばかり見ていたのだ。そして、ふと見ると、Kがおらんのである。
「やられた、そら、追いかけろ」
その時、Fも気付いたのか、私に大声で命じると、将棋盤をひっくり返して廊下をかけ出した。私も彼の後を追った。病院の玄関を出ると、神宮外苑の方にいちもくさんに逃げて行く、Kの後姿が見えた。
Fは、こと将棋に関しては、あたまのめぐりがのろいようであったが、世の中の調和というものであろうか、足の方はKよりも数等はやかった。Kはつかまると、罰として、もう一番、Fとの将棋の相手をさせられるのであった。更に逃げると、今度は注射で眠らされてしまい、勝負は常にFの判定勝ちということになった。
私が、精神科医たるもの、将棋は弱くてもよいが、足が強くなければならぬのを知ったのは、それ以来のことである。
それからしばらくして、私は私立のM精神病院につとめることになった。そして数多い患者とつき合うことになったのである。それらの患者の幾人かは逃げた。しかも逃げることにかけては、彼らは、しばしば天才的な能力を示した。
だが、逃げることに非凡であった連中も、つかまることでは、ごく平凡であったと言わねばならぬ。
たとえばTという無口な男である。彼は三十日近く、ほとんど食事をしなかった。私は彼に物を食べさせるようにするため、ありとあらゆる方法をとったのである。特別うまそうな食事を作って彼の前に出してみた。それがいつの間にか消えているので食べたのかと思っていると、同じ部屋の精薄の大食漢がたいらげているのであった。
それで腹のすく注射をうってみたが無駄であった。仕方なくゴム管を彼の口の中につっこむと、猛烈な下痢をすることを心得ており、腹の中につぎこんだ流動食を全部素通りさせてしまうのであった。かくして、三十日のすえ、痩せ細った彼は、急にコツ然と姿を消した。病棟のどこも、こわれた所はなかった。風呂場の廻転窓のすき間から逃げたものであることが推定されたが、彼はそのすき間を通過することが出来るように、痩せたのである。
このような非凡なTがつかまったのは、何と病室によごれたパンツと週刊誌をつつんだ風呂敷包みを残して行き、それを運び出すために、日通の大型トラックを盗んで病院に乗りつけたためであった。
てんかん持ちのK子は未だ水洗になっておらぬ便所の中に自ら落ち、汚物を頭からかぶり、私たちが彼女をつかむことが出来ぬのを利用して、入口のドアから堂々と逃げ出した。いや、この時は、私たちも逃げたのである。逃げて消火用のポンプを持ってかけつけた時には、彼女は病院の外に出ていた。
この非凡なるK子も、道路でてんかんを起し、消火ポンプで水をかけられて洗われた後、つれもどされたのであった。
キンケリのお富も亦、逃げた。キンケリのお富というのは、ミクロセファルスつまり小頭症の患者であり、体は大女というほどの堂々たるものを持っていたし、顔もまずくはあったが人並みの大きさであった。しかし、頭は普通の人間の半分ほどしかなく、たとえば、額などというものが無いにひとしく、顔から上が、すぐ頭の天辺《てつぺん》になっているのである。頭の外側が半分なら、中身が半分でない道理はない。私のいうことが信じられんのならニュートンにでも聞くがいいだろう。
お富は或る日、数人の刑事に連れられて、私の診察室に入って来た。
「名前は」
と私がたずねると、
「キンケリのお富だ、知らねえのかよ」
大変な威勢のよさで答えた。
キンケリとは何だかわからない。そこで私はキンケリとは何のことだ、と言いながら椅子をずらして彼女に近寄ろうとした。すると、「ダンナ、先生、あぶない」などと一緒に来た刑事の面面が、口々に叫んだ。「ケラレルゾー」
そこで私は本能的にあとすざりをした。刑事の言によると、私はそれによって奇蹟的に彼女のキンケリの一撃をまぬがれたのであった。何しろ路上であばれた彼女をとりおさえて、パトカーで連行する途中、手錠をかけられたお富に、車の中で三人もの巡査が遂にケられたというのであるから、何か特殊な技術があったらしい。
それを聞いた私が、それなら、女プロレスでもやらせたらいいのではないか、と私に似合わぬ名案を出して、刑事たちにすすめた。
「だめですよ、先生、相手が女じゃ、キンケリの偉力も通用しませんや」
刑事の一人が私にそう答えた。私も考えるともっともなことなので、それ以上、固執しなかった。ともかく、その事情を聞いて、たかが女一人、それも手錠をかけられた二十そこそこの小娘に、屈強な刑事が三人もつきそって病院にやって来た理由がのみこめたのである。お富は、何しろ、つま先、かかと、ひざと三カ所のどこを使っても、正確に急所をケることが出来るという話であった。
そしてそれで足りなければ(何が足りないことがあろう、もうそれで充分すぎるほど充分と思われたのであるが)彼女の馬のような見事な歯並みをもって噛みつくこともあるということだった。私はそれ以後、彼女の入院した病棟へ足を運ぶことをためらいがちになったのである。
そのお富が逃げた。私はその知らせを聞くと、実のところ、内心ほっとしたのであった。
「せんせ、患者が一人逃げました」
そう私に報告に来たのはオンタリという不思議なあだなを持った二十そこそこの看護婦であった。オンタリという名の由来を私は知らぬ。しかし彼女は少々オッチョコチョイであり、何かが不足しているように私には思われていたのである。それ故、私はオンタリどころか、オンタリンではないかと考えていた。
何しろ彼女はオッチョコチョイで、私の夢にまで現れたのであった。彼女は病院の看護婦の中で一番のグラマーであり、夢に現れるのに素っ裸であり、パンツすらしていなかった。そこで私が裸ではないかというと、「あっ忘れた」と言ったものである。彼女はかくも夢の中でまでオッチョコチョイであった。
ともかく彼女が、私の所に来て、患者が逃げたと報告したので、私は立ち上った。患者が逃げると、わがM病院の院長は機嫌を悪くした。彼は「逃げるものは追わず」などという高尚な哲学など解さず、すぐさま看護人らに後を追いかけさせ、うまくつかまえて帰る者には金一封を贈るのが常であったのである。私もこの院長の下で働く限り、彼の意を体しておらねばならぬ。誰かに追わせるように命じようと思いながら、誰が逃げたのかとオンタリにたずねた。彼女はかくもオッチョコチョイで、未だ誰が逃げたのかを私に報告していなかったのである。
「逃げたのは誰だ」
「お富です」
事もなげにオンタリ女史は答えた。
「なに、キンケリのお富がかあ?」
これは事もなげに話すようなことではないのである。断じてないのである。私の歩みは一瞬とまった。他の者が逃げたのと、キンケリのお富が逃げたのでは問題が異る。
「そうか」
私は内心ほっとしたのであった。ああ、これでやっと、女の病棟に安心して行ける。思えば長い間、まがりなりにも男性の一員として生まれて来たが故に、私はおちおちとキンケリのお富のいる病棟に行けなかったものだ。警察は何というしろものを病院にかつぎこんだものであったか。
しかし、そんなグチもこれでおしまいであった。おしまいで、これでもうお富の顔を見られないかも知れぬと思うと、あの額のない猿に似た彼女の顔がなつかしくさえ思われて来るのであった。
「お富か、あれはあれで、ちょっと可愛いところもあったなあ」
私はそんな感慨すら、オンタリにもらしたのである。ところが、オンタリ女史は、
「せんせ、そんなこと言ってないで早く早く」
と私をせかした。
「今更あわてても仕方ないさ、どうせ逃げたものは逃げたんだからなあ」
私はゆったりと、オンタリを制した。
「でも、お富は逃げたけれども、未だ病棟の屋根の上にいるんですよ」
グラマーの看護婦は、また、私にそう事もなげに言って、私を狼狽させたのである。何とオッチョコチョイの看護婦であるか、こんなのと一緒では、こちらまでがオッチョコチョイになってしまわざるを得ぬ。彼女はそこではじめて、お富が病棟と病棟との間にある小さな四角のとざされた中庭の中にある渋柿の木をのぼり、そこから屋根に移って逃げようとしたが、それに気付いた看護婦たちがまわりをとり囲んだので、屋根の上でうろうろしている所だ、という正確な報告をしたのだった。
「それで梯子《はしご》を持って来ますから、せんせ、屋根の上にあがって、何とかして下さい」
私はギョッとして、その場に立ちすくみそうであった。冗談ではない。ただですら、畳の上のような平らのところですら、そばに寄るのを避けているのが、君子危うきに近寄らず、の古人の教えに忠実な私であるというのに、今となって私にその教えを、しかも三十度の勾配《こうばい》はあろうという屋根の上で破らせようというのか。全く冗談ではない。
だが、読者よ、安心されるがよい。天佑《てんゆう》もあれば、奇蹟も世の中にはあるものであるから。私がこうしてピンピンしており、しかも現在、三人の娘まである父親であることが、そのことの立派な証拠ではないか。
事の次第を少しばかり説明すると、私が病棟まで行くと、梯子が準備され、かけつけた男の一人がするすると屋根にのぼった。それを見つめるものは期せずして沈黙した。
男は自分がつかまえようとしている人物がいかなるものかを忘れ果てたか、或いは未だ知らぬものかのようであった。知ったら或いは気付いたら、その瞬間、足をふみはずして落ちたであろう。ともかく、その時、奇蹟が起ったのである。お富は全く、彼女の天才的な術を用いようともせず、その男に手をとられ素直に下まで降りて来たのであった。ともかく不思議なことで、誰もが呆然とした。後になって、お富はたずねられると答えた。
「あれえ、あいつ、男だったのけえ、おら、あいつ、何も持ってねえのかと思ったよ」
私が、梯子をのぼって行った人物を、ある男とのみ書き、あえてその名を記すことのないのは、彼の名誉のためである。
もちろん、その人物が私であったか否か、など書く必要もないことであるし、読者たるもの、余計な推測は無益であることを知られたい。
逃げることについて書こうとする時、私はあんこ屋の名をぬかすことが出来ぬ。あんこ屋は私の患者でこそなかったが、M病院に働きながら、彼のことを知らなかったら、それは不名誉なことであろう。
あんこ屋は、彼の自ら用いた言葉によると「れっすでんつう」の、つまりわかりやすい発音で書けば立志伝中の人物であった。Y県はS市の近くの生まれで、幼くして東京に出て、今では資産のかなりある、あんこ屋の主人となっていた。そして、これも彼の言を信用することにすれば、彼はその頃のY県人会の会長か副会長であった。
彼の顔を一見した者は、おそらく彼の持って生まれた知能が、普通の人より少しばかり足りないことを簡単に見てとることが出来たであろう。そして、彼が県人会の会長になるまで出世をしたことは、どう考えても小さな奇蹟と言わねばなるまい。
彼はかみさんに連れられて病院にやって来た。かみさんというのも、口の大きい、鼻の小さい、ちんちくりんな、どう見ても美人といえない女であった。ではあったが、なかなかのしっかりもので、おそらく、あんこ屋の成功は彼女の主張するように七割か八割まで、彼女の内助の功によるものであろうと思われた。
もちろん、あんこ屋自身も若い時から、それこそ馬鹿まじめの言葉どおり、よく働いたことは働いたのである。しかし、彼が四十のなかばを過ぎたころ、彼の心境に重大な変化がやって来たのであった。彼は、このちんちくりんの、河馬《かば》のように大口の、色気といって何もない彼のかみさん以外の、もう少し女らしい女を一度だけでいい、抱いてみたくなったのである。それに、彼は今や、成功者の一人であり、県人会の会長か副会長であった。彼の地位から考えても、妾の一人や二人囲ってあったところで、決しておかしいことのあろう筈がない、と彼は思ったのである。
しかし、それが運命のわかれ目というものであった。それまでも、時たま、彼は深酔いして二、三の失敗をしでかしたことがあった。靴を片一方なくして来たり、背広を泥まみれにして来るようなことである。
かみさんは、そんな時も、しっかりものの女性のすべての美徳を示して、てきぱきと処置して、文句一つ言わなかった。それくらいのことは、つき合いというもののある、あんこ屋の主人としては、仕方がないというよりは、むしろ、あたりまえに近いことと考えたのであった。
しかし、自分以外の女性が問題の中に入ってくるとしたら、これは別であった。これは、どんな小さいことであっても許されるべきではなかったのである。
あんこ屋は近くの小料理屋のおかみに目をつけた。目をつけただけで、相手の考えを聞いたわけではないのだが、彼はもう、彼女を二号にするときめてしまった。そうきめると第一に必要なのは金である。金がなければ、彼を相手にしてくれるような女がいる筈がない。それくらいのことは、彼も知っている。何としても金を作らねばならぬ。
しかし、いくら作っても、しまり屋のかみさんのふところに入ってしまっては、彼女が二号のために財布の紐をゆるめてくれることなど考えられぬ。そうなると、彼は家業のあんこ屋以外に何か金を作ることを考えねばならない。彼は考えたのであった。一人だけで。そして、素晴らしいことを思いついたのであった。それは銀行から借金をし、その金で高利貸をすることである。年利、一割で借金しても、三割くらいで貸せば二割は自分のふところに入るではないか。
彼は嬉しくなった。嬉しくなったあまり、一日中そのことを考えてニヤニヤしはじめた。店の者は、それを見ると、かみさんのところに、
「どうも、だんなは最近様子がおかしい、一人でニヤニヤしている。頭でもおかしくなったのではないかしらん」
と言った。それが、かみさんの心に、いくばくかの疑惑をあたえた。
そうしているうちに、今まで馬鹿まじめだったあんこ屋は、時々、ふらりと日中行先も告げずに家を留守にするようになった。これは一大変化だった。もともと、家業のあんこ屋は、すっかり軌道に乗っていたし、古くからの信用のおける使用人も数多くいたことだから、ふだんも、彼が手をくだすところは何もなかったのだ。彼が時々自由に外に出たところで、何の不思議もないことだったのだ。だが、彼の急な変化は人々の注目をひくに充分だった。
「どうもおかしい」
人々は首をひねった。
あんこ屋は何のために出かけたのであろうか。読者はもうおわかりであろう。彼は高利で貸し付けた金を、とりもどしに行ったのだ。しかし、この秘密は、ある事件が起らなかったならば、そう早くも露顕することはなかっただろう。
或る日、彼はこっそりと家を出て、貸金のとりたてに行った。日本の秋の好天そのものの代表のような日であった。めざす家につくと、彼は玄関に行かず、裏庭の方へまわった。
貸金のとりたては、玄関から堂々と入ってするべきではない、必ず裏庭から行くもんである、というのが、彼の金貸し哲学の最初の一行に書かれていたからである。彼がそのような智慧を誰から得たか、私は知らぬ。しかし、誰かの智慧にちがいない。彼が一人で、そんな深遠な智慧を見つけ出す道理がない。
ともかく、彼は裏庭にまわった。そして彼はまぶしく、空全体の青から落ちてくるような秋の日射しの下で、水道端に持ち出したたらいに顔をつっこむようにし、お尻を風をはらんだ帆かけ舟の帆のようなぐあいに高々と持ちあげて、その家のかみさんが洗濯をしている姿を、真後《まうしろ》から見たのであった。それは女性のお尻を眺める角度として、これ以上ない完璧《かんぺき》な角度であったのである。
丸みは完全であった。まったく風をいっぱいにはらんだ帆のように、これ以上豊かなものは、この世にあるまいと思われるような線であった。
あんこ屋は、それにそっと触れてみたいと思ったのである。自分のたなごころで。何となく。ごく自然に。そしてそう思っただけならよかったのだ。ところが何とはなしに手の方も、ごく自然に動いてしまったのであった。
時ならぬ悲鳴が起る。あんこ屋は警察につれて行かれ、彼のかみさんが呼び出された。銀行からの借金も明らかになった。しばらく前からの、突然のあんこ屋の変化の一つ一つが、かみさんに「うちの亭主は狂ったのだ」という絶対的な確信をうえつけた。かくしてあんこ屋はM病院に連れてこられたというわけである。
あんこ屋を診察した私の同僚のカトリックの医者は、彼が四十を大分すぎるまで、大した問題を起さないで来られたということが、神の慈愛深いおめぐみというものだと言った。おめぐみがあったかどうかは私の関知するところではないが、確かなことは、あんこ屋がその日からM病院の一室に、ほかの患者と一緒に入院させられてしまったことだ。
それから、あんこ屋の脱走のこころみが繰り返されることになるのである。入院ときまると、彼はだだっ子のように、「おれはいやだよお」と叫んで診察室からとび出そうとした。しかし、数人の屈強な看護人が、すでに出口のところに待ちかまえていて、彼の手を取り足を取り、ありとあらゆる手がかりとなる出っぱりをつかんで、病棟にほうりこんでしまった。入口の重いびくともしない扉はギイッとしまって、ガチャリと鍵のかかる音が、彼の頭の中に強く残った。手足を離されて自由になると、あんこ屋は、その入口の扉めがけて突進した。天皇陛下万歳を叫べば、まるで二〇三高地への突撃である。無謀なることにおいて、どちらがましであるかは申しかねる。
しかし、そんなことでは分厚い木の扉はびくともするものでもなかった。かくして、第一回の単純な逃走のこころみは失敗に終った。
彼は仕方なしに病室に行った。八畳ぐらいの畳の部屋。窓には鉄格子ががっちりとはめられている。まわりを見まわすと、ぶつぶつと一人で何やら話しながら、時折り妙な声を出すものがいる。話しかけてみたが返事もしてくれぬ。もう一人の男は指を折って何やら数をかぞえているが、いくつまで数えれば終りにするのか見当がつかない。それを見ると彼は急に心細くなって来た。急に、小料理屋のおかみのことが思い出された。あの女を抱いたら、どんなによいことだろう。彼はどうしても、ここから逃げ出さねばならぬと思った。
それから、彼は鉄格子をよく見た。物はよく見るものである。これは確かに真理であって、私は読者にもこれをすすめてはばからぬ。よく見ると、鉄格子の一本をのこぎりでひいたあとがある。三分の二ほど切れこみがあり、のこりの三分の一で上下が僅かにくっついているに過ぎない。
彼は手で少しばかりゆすって見た。そのくらいではびくともしない。
よし、それなら体全体の重みをかけることだ。彼は部屋の片隅までもどると身がまえた。又、二〇三高地を繰り返すつもりだ。彼はそれから猛然とかけ出し、プロレスの足けりのようなかっこうで、かかとをその鉄格子にぶっつけようとした。
そこまではよかったのである。だが、かかとは格子に当らなかった。彼の両足は格子の間から外にとび出してしまい、したたか当ったのは彼の右足のすねの方だった。あんこ屋は思わず「アイテテテ」と大声を出し、次の瞬間には、どったんと畳の上に落ちたのであった。
看護人は物音に驚いて病室までやって来たが、彼のそのかっこうを見て、笑うばかりで、彼の足がどうなったかを調べようともしなかったのは、まことにけしからんことである。
更にけしからんのは、あんこ屋が、すりむいて血のにじみ出たすねを示して、どうにかしてくれと頼むと、医者のところに連れて行き、自分のすねでもないのに看護人は何が何でも、そこにヨーチンを塗ってやってくれと頼んだことだ。そして更に更にけしからんことは、医者が、よしよし、と本人の言うことに耳もかさず、横から口を出した看護人などの言うことを聞いてしまったことだ。彼はそこで、もう一度、とてつもない大声で悲鳴をあげたのである。
それから間もなく、彼は押入れの天井板を破って、天井から逃げようとした。しかし、残念なことには、どこにも出口が見つからず、その上、自分がどこから上って来たかもわからなくなってしまったのである。彼は何時間か天井裏をねずみと一緒に散歩していたが、そのうち困ったことが起きた。人間が時間がくると時々起る自然な欲求が起って来たのであった。
この天井も、日本の他の散歩道と同じく、その欲求をみたすべき場所がなかった。そのうち、看護人の一人が天井から水が漏って来るのを発見した。M病院は建物が大分古くなっており、雨の日に天井から雨が漏ることは、特別不思議と言えなかったが、しかし、晴天の日に雨が漏るということは、異常なことと言わねばならない。
騒ぎが持ち上り、看護人が天井裏にあがって、あんこ屋はようやく病室にもどることが出来たのである。これがもし雨天の日が続く梅雨の頃であったら、彼が天井裏で餓死することだってあり得たであろう。そのあと、あんこ屋は縁の下にもぐった。しかし、これもまた、失敗におわった。
私たちは病棟に行くと、彼を一言からかわずに帰ることは稀であった。あんこ屋は私たちに、必ずここから逃げてみせると胸を張り、それを疑っていなかったようだ。私たちは、考えが甘いな、それもその筈、あんこ屋だものな、と言った。
しかし、しばらくして、彼はほとんど逃げることに成功したのである。彼は数人の患者に、彼を逃げ出させることに成功したら、一人に五千円ずつやると言って請け負わせた。請け負った連中は、この道の専門家とも言うべき者たちで、面会人にのこぎりを差し入れさせ、夜の間だけこっそりと働いて、七日間をかけて鉄格子の一本を完全に切った。あんこ屋の得意思うべしである。
確かに、自分では失敗して来たが、他人に請け負わせたというのは、どう考えても、彼にしては出来すぎである。これも奇蹟に類することかも知れぬ。
脱走は次の日の早朝、まだ空に星の残っている頃、一番電車のやっと動き始めるころ決行された。脱走請負人たちが、音もなく、切られた格子の間からするすると外に出た。今度はあんこ屋の番であった。彼は嬉しくて夢中であった。
だが、出ようとして、前の連中が足から外に出たのか、頭から先に出たのか、よく見ておかなかったことに気付いたのである。はて、どうしようかと考えたが、彼の頭に、それを思い出す能力などあろう筈がない。彼はどっちにしろ二つに一つだと、頭から先に出ようとした。
ところが半身のり出して見ると、地面まで、かなりの高さがあり、どこにも手でつかまるところがない。あわてて出なおそうとした時、部屋に残っていた、いつも一人でぶつぶつと話しているだけの患者が、無言の好意を示して彼の尻を一押しした。それで、彼の重心が完全に狂った。悪いことは重なる。
切り残されて少しばかり出ばっていた格子の断端に、彼のズボンのバンドがひっかかって、彼は逆立ちの姿勢で宙吊りの形になってしまったのである。彼はついに悲鳴をあげ、又しても、駈けつけた看護人につかまってしまった。
それが、あんこ屋の何度目の脱走失敗であったか、私には確かな記憶がない。私がおぼえているのは、そのことを互いに話し合って笑ったことである。
彼はそのあとも幾度か脱走を試みた。そして一度は完全に成功した。しかし、その時も彼は生来の馬鹿まじめさを発揮して、病院から四粁《キロ》も離れた家まで、タクシーを拾うこともせず、歩いて帰ったので、彼の脱走に気付いて車で先廻りして、彼の家の前で待ちかまえていた看護人につかまり、家にあと一歩というところで再び病院につれもどされた。
それからしばらくして、彼の禁治産の裁判が行われ、判決が下って、彼が銀行からめったやたらに借金することが不可能となったところで、退院することになった。かみさんが迎えに来た。そして、私の同僚の医者が病棟に行き、あんこ屋に、帰ってもよろしいと宣言した。
ところがである。あれほど逃げ出そうとして、病院の外に出ることをのぞんだあんこ屋が、帰ろうとしなかったのである。
「せんせよお。おねがいだからよお。ここにしばらくおらせてくれろよお。おれは、鍵のあいた扉からなど、帰りたくねえだ。どうにかして逃げてみせっから、それまで、おねがいだから、ここにいらせてくれろよお」
彼は大声で叫んで、子供のようにだだをこねるのであった。
殺すということ
時には至極マジメな話をすることも、読者よ許していただきたい。私は現在、国立療養所の、ごく下っぱの何の肩書きもない勤務医であるが、人はしばしば私を「国家百年の大計コジ」とあだなする。少々長いあだなであるので、三度続けて私のあだなを口にするものは、時々舌をかむらしいが、これは私の責任ではない。私のあだなのよって来《きた》るところは、何も説明を要すまい。
現在、医師会と厚生省、健保組合の間で、ごたごたと争いが続いている。それに新聞やラジオやテレビでも、いろいろ解説者が現れ、ああでもない、こうでもない、と論じてやかましい。(しかも、その争いの、何とつまらぬ末梢的《まつしようてき》なものばかりであることか)。彼等はむしろ、国家百年の大計を論じ合うべきであって、偉い人間がそれを問題にせぬから、私のような下っぱ医者が、国家百年の大計を論じなければならなくなり、又それがもとで長たらしいアダナをつけられ、関係のない人間が舌をかむような不祥事がおきるのである。
現在、読者はイッテンタンカ(一点単価)がどうのこうのという言葉を、しばしば耳にしているにちがいない。これを耳にしないものがあるとすれば、つんぼであることは間違いないことであるので、耳鼻科で即刻診察を受けることをすすめる。
そしていつもいつも、その一点単価をいくらにするかで、えらい人間がわいわいと騒いでいる。まるでニコヨンの日当をいくらにきめるで騒ぐのと何等変りはないではないか。そんなことは、大臣や医師会長のように偉い人間がするべきでなく、兵隊の位でいったら大佐ぐらいの人間にまかせて、自分たちは、国家百年の大計から、医療問題を論じたらよいのだ。
たとえば一点単価をいくらにするかよりも、一点単価の制度が、日本の医療体系にどんな影響をあたえているかを論じることだ。
読者よ、ご存知のことであろうが、日本には未だ無医村が残っている。小さな離れ島では、医者がいない。そこで医者が開業するとしたら、どうだろう。患者の数も少なく、治療の点数も絶対少ない。一点単価が全国一律に同じであったら、医者は小さな僻地の村で開業しては、決して暮して行けないことになる。
これが国家公務員であったら、都会と僻地の職員の給料の差はなく、又、僻地手当のような奨励金を出すことも出来るであろう。都会では一町歩けば内科や外科の医者の看板が三つ四つあるのが不思議でないのに、無医村は増加することはあっても減少することはない。それが一点単価なる制度に結びついていることは明らかではないか。
ある時、私はフランス語が少しばかり出来ることから、フランスの健保点数制度を調べることを命じられた。誰から命じられたかは、言うことをはばかる。しかし、その時に感じたことは、日本の健保制度が、何と合理主義に欠けていることであろうか、ということであった。たとえば、日本では大学教授の診察を受けても、学校を出たばかりの医者の診察を受けても、同じ点数である。フランスでは平の医者を一とすると、国家の検定試験を受けた専門医の資格を持つものは二、大学教授は三の割合で、点数が増すのである。
又、眼科の診察、あの瞼をちょっと裏返して、ハイッそれまでの診察料と、長い時間をかけて患者と話をすることを必要とする精神科の診察の料金は、日本では全く同じである。これは考えられぬことだが、そうなのである。
これで、天下国家百年の大計という文句が口に出てこなかったら、こない方がおかしいと思うが、読者はどう考えられるであろうか。
私は精神科医であるが、一人の新患を初診するには、家族に事情を聞き、それから患者を診察し、そして再び家族に逢って病状を説明すると一時間余りかかる。これを五分にせよと言っても無理である。精神科にかぜひきのような患者が来ないのは残念なことだ。こうして、一日の診察時間に五人の新患が来たら、精神科医としては、一日がつぶれる。そして数年前までは、つまりニコヨンが四百五十円を日当としてもらっていた時代には、診察料が六十何円であった。その日一日の外来の仕事は、三百何円であり、大学を出て十年近い博士と看護婦一人の健保の報酬がそれであった。外来だけの精神科開業医が、どこにも見当らぬ理由は、これでおわかりであろう。
ここでも国家百年の大計コジは、大きなためいきをつき、ぼやくのである。健保は、国の医療の改善をもとめて出来たものであった。だが現在、日本では流感がはやると、医者はほっとする。神棚に燈明をあげるものがあるかどうかは知らぬ。だが、流感は日本の医者への天のおくりものであって、僅かの診察時間で山ほどの患者の数がこなせるので、国民の医療を考えるべき医師たちは、天を仰いで、神さま、今年も流感をはやらせて下さいと祈るのだ。困ったことではないか。
参考までにのべるが、フランスの健保では、精神科専門医の診察料は、一般医の診察料の三倍となっているのである。
私は本当は至極マジメな男なので、マジメな話をさせたら、おそらく四、五冊の本にまとめられるくらい喋り続けてしまうであろう。それでは体が持たず、長生きも出来ぬから、そろそろやめることにする。だが、それは私がこれから書くことがフマジメな話であることではない。誤解しないで欲しい。
私はなってしまうその時まで、医者になりたいと思ったことがなかった。しかし、読者よ、私が医者には決してなりたくないと思っていたと考えられても困るのである。そのどちらでもなく、私はいつの間にか医者になってしまったのであった。そして現在、医者となって十数年の月日が流れたが、私は自分の現在に満足もしておらぬが、さりとて、後悔にうちひしがれているわけでもない。
繰り返すようだが、私が医者になりたいとも、なりたくないとも思わなかったことは、私が医者というものがいかなるものか、或いはいかなるものであるべきか、を知らなかったことを意味している。つまり、医者がもうかる商売であると考えたことも、医者は決してもうけてはならず、私慾をすてて社会の不幸ととりくむ人間であるべきだ、と考えたこともなかった。
私は医者となり、医者として働くうちに、医者とはいかなるものかを知り、今では自分なりに、医者はこうあるべきだ、という考えすら持つようになった。
私は戦争が終る時まで軍隊の学校にいた。戦争が続いていたら、私は軍人として、何人かの人を殺し、或いは自分も亦、すでに殺されていたかも知れない。戦争が終ると、私は医科大学に入った。まるで正反対のことをやりだしたようだが、口の悪い連中は、なあに、どっちみち人を殺す商売だから同じようなものだと言った。
ディドロの小説の中にこんな話があった。ある男が人間の過去を見ることの出来る眼鏡を持っていた。彼は信用のおける医者にかかりたいと思い、評判の高い名医のところに行った。そして例の眼鏡をかけてみると驚いたのである。何だってその医者の背後には、医者がかつて殺した患者がウヨウヨと、復活祭の行列のように並んでいるのである。男はそれを見ると怖しくなった。世の中の者たちは、こんな医者を名医と呼ぶとは、何とうまくごまかされていたものだろう。しかし、自分はこんな医者に絶対かからんぞ、彼はそう思うと別の医者のところに行った。
そして例の眼鏡をかけてみると、又、死人の群だった。彼はそうして、その不思議な眼鏡を頼りに、過去に一人も患者を殺したことのない医者を探しもとめた。求めよ、さらば、という表現があるように、その男は遂に、過去に一人も患者を殺したことのない医者を見出したのである。その医者は近所の人間がそんな医者がいることを知らぬほど無名で、そして若かった。
男は、世の中の評判というものが、何と空しいものであるか、と慨嘆したし、又、こんなに若いのに、この医者はなかなかやるものだわい、と思いながら、診察を申し込んだのである。すると、その医者は、「やれやれ、やっとおれのところに第一号の患者が来たぞ」とつぶやいたのである。
正直に言ってしまうと、私もすでに何人かの患者を殺した。これで読者も、安心して私の患者となることが出来よう。医者が殺すと簡単に言うが、もしかしたら助かるものを、助けなかったというだけのことで、殺そうと思って殺すわけではないのだから安心してほしい。
ところが、殺すことも、生かすことより案外難しいものであることを、私は医者になって知ったのであった。
Kはてんかん持ちの精薄の患者であった。M精神病院に私が勤めていたころ、私はしばしば彼に悩まされたものである。発作的に不機嫌になると大あばれをして、なかなかおさえることが難しかった。なにしろ非常な大男で力士になっても恥ずかしくない体格の持主で、一人二人でかかっても、彼の腕にしがみつくのがやっとで、下手にふりまわされて柱にでもぶっつけられると脳震盪《のうしんとう》を起した。
彼は天皇にも敬語を用いなかったが、自分自身に対してはごていねい極まる敬語を使った。
「K、食慾はどうだね」
「何、食慾だと、食慾は非常におありになる。自分は何でもおあがりになる」
「K、ここに来てから、何年になる?」
「自分が、ここにいらっしゃってから? そう、自分はずいぶんと昔に、ここにおいでになられた」
彼はそんな風に話した。自分の喋るのを、自分がおっしゃるなどと言い、私はそれを聞くとイライラした。日本語の乱れは遂に精薄なみになったか、と考えたりしたからであった。それが、おかしいなどと思ってニヤッとでもしようものなら、Kは荒れくるった。
Kは昔の精神病院にはつきものの、薄暗い独房のような個室に鍵をかけられて、ぶちこまれていることが大部分だった。食事は床すれすれの小窓から差し入れられる。私たちが、小窓をあけて中の様子を見ようとすると、食べたあとの食器に小便をためていて、それを飲んでいた。水をやっても見向きもしない。そして、油断をしていると、口に小便をふくんでプーッと霧にして顔に吹きかけられる。これには私もまいった。あとで何べん顔を洗っても気持が悪かった。
その彼が或る日、重症の胸膜腹膜炎になったのである。昔の精神病院では結核が最大の敵であった。衛生観念のない患者の集まりでは結核はひろがりやすく、患者の死因の多くがこれによるものだった。
Kは全く元気がなくなり、胸にも腹にも水がたまり、溺死者のように腹がふくれ、その重さだけでも体の自由がきかなくなったようだ。胸にも水がたまり呼吸が困難で、顔にはチアノーゼが来ている。私はともかく胸から水をとらねばならぬと考えた。
しかし、このようになっても、彼は自分の枕もとから小便入りの食器を離さず、私と四、五人の看護人は、小便の霧の下をくぐりぬけて突撃し、彼をようよう押えつけて、針を射さねばならなかったのである。
私はKの両親を呼んで、今度だけはだめのようだから、諦めろと申しわたした。父親は小がらの実直そうな男で、百姓をしているということだったが、私が重い口をあけてそう言うと、目を輝かせた。
「先生様、それはホントでごぜえますか。それはホントのホントでごぜえますのか」
私は本当であると答えて大きく一呼吸した。父親は一緒にやって来た患者の母親と顔を見合わせた,
「それがホントなら、先生様、それは神様のおめぐみってものでございますよ。なあ、母ちゃん。わしどもは、あの子が生きてるおかげで、どれほど苦労しましたかのう。あの子には鍬《くわ》をふり廻されて追いかけられ、生きたここちのしないときが何度ありましたことか。病院にお世話になってからも、いつ、逃げ出して家まで帰って来やせんかと、そればかりが心配でしてな。よう、眠ることもなりませんでした」
二人はほっとしたという表情だった。私は苦い顔をした。
「一度、前の先生が、あの子の頭の手術をなさると言われました時にな」父親が続けた。
「先生にお頼み申しましただ。お情深え先生、手術の最中に、ちょっとばかり、手をおすべらせなすって、ええ、ちょっとばかりな、そしてひと思いに、やってくださらねえもんかと」
私は又ひとつ大きなためいきをつき、やれやれと首を振ったものだ。
「だが、先生は、お手をすべらせて下さりませんかった」
冗談ではない、そんなことが出来るものかと私は言いたかったが、実直で頑固なその父親に、何を言っても無駄に思えたので、そのまま帰ってもらうことにしたのだ。
Kの両親を帰すと私は考えざるを得なかった。私は看護人たちと、何度か小便くさくなって注射をしたり水をぬいたりしたが、そのたびに、針が折れぬか、或いはKに動かれて、肺や腸を針でつっついてしまって殺してしまいはせぬかと汗をかいた。父親にしてみれば、そうしてもらいたかったであろう。しかし、そんなことで感謝されるなど、考えても面白くない。
しかし、治療をしなければ結局は、Kは死ぬだろうと思った。どっちみち、殺さねばならぬものなら、こうなっては、小便くさい思いをしない方がましではないか。そう考えると、私はもうKに、好きなように小便を飲ませてやり、ほうっておくことにしたのだ。薬だけは食事の上にふりかけてやったが。こうして、私はKを見放し、死にたいものは死なせるがいいときめた。
読者よ。だが、殺すことが何と難しいことか。ほったらかしにしておくと、Kはぐんぐんと力をもりかえし、そして前よりもたくましく、頑健にすらなってしまったのだ。それは奇蹟とすら言いたいほどであった。
だが、私は、軽々しく奇蹟などと口走るような人間ではない。なにしろ医者であり、科学者である。ものごとを科学的に考えてみなければならぬ人間である。私はKが奇蹟的に生きかえった原因は、彼が小便を飲んだこと以外にはないと考えるに至ったのだ。一度飲んだ薬は小便に出る。それを又、飲む。こうして、一包の薬が永久に廻転して何十倍と効いてしまったのではないか。私はこれは偉大な発見のはじまりではないかと思うが、この発見の権利は無料で他人にゆずる。私は結核の小便療法を実施する気はない。私は自分が天才ではないことを知っているし、このような発見は天才にまかせるべきであろうと思うからである。
ともかく、医者の仕事の中で、命を助けるのが一番やさしいようだ。それ以外のことは、人が考えるようには、簡単なものではない。矢張り同じ頃だが、私の同僚の一人にNという女医がいた。未だ当時は独身であった。独身と書くと、読者の中には、私が彼女が美人であったかどうか、すぐに書くだろうと思うものがあるかも知れぬが、残念ながら、私は書かない。そんな無駄な説明を書くには、私は文章に簡潔を尊びすぎるのである。ただ私は、彼女が身長一メートル五十、体重十九貫五百であったとのみ書く。
その頃の私たちの院長は、非常に研究熱心な人物であった。鬼という言葉の好きな日本人は、好んで彼を研究の鬼とすらよんだ。しかし、彼は自分で研究はせず、私たちに研究せよと言うのであった。
病院で患者が死ぬと、院長は私たちに、家族を何としてでも説きふせ、研究のために死体を解剖する許可を得るように命じた。そればかりではない。私たち勤務医者に、ノルマを課して、お前はすでに五人も患者を殺したくせに、未だ一つも解剖のための死体を手に入れぬではないか、とグラフを見ながら小言を言った。
さて、同僚の女医Nは、そのことでひどく院長に文句を言われたことがあった後、自分の患者の一人が重態になったのを知った。そこで、今度こそ、院長に叱られまいと思った。そして、遂に生きているうちに、家族からの解剖の許可をもらってしまった。私たちはなにがなんでも、生きているうちから解剖の許可は少し手廻しがよすぎるのではないかと言ったが、N女史はともかくほっと重荷をおろしたようで、讃美歌を口ずさみながら院長に報告に行った。彼女は余程嬉しかったらしく、ふだんは口もきいたことのない研究所の病理学者にまで、わざわざ電話をかけて「今度、解剖、お願いするわよ」と言ったものである。
患者は誰がみても、もうのぞみはなかった。癌の末期で、食事も食べられなくなり、くわえて、数日前から意識もなかった。本来なら安楽死をさせてもよかっただろう。ただ、痩せ細った体の中で、時計ばかりはコチコチとというのは歌の文句だが、心臓ばかりがコトコトと動き続けていた。いや、それも、もう不規則だった。コトコトコトと三回打って止ってしまう。彼女が、やれやれ、止ったなと思うと、又コトコトコトと動き出した。
水曜日一日はもつまいと思われていたが、木曜日にも、その心臓は止らなかった。そして金曜も過ぎようとしていた。N女史の巨体は落着かなくなった。明日は土曜だ。土曜日は半日だ。その次は日曜日だ。そして日曜日の次は月曜日だ。そんなことはあたりまえではないかと読者は言われるかも知れぬ。しかしそこが医者の苦労を知らぬものの考えなのである。月曜日はトモビキ。
「トモビキ」
彼女の顔には、この不吉な響きを持った言葉がかすめたのであった。ああ、何ということであろう。トモビキの日は火葬場が休みである。すると土曜日に死なれでもしたら、区役所は半日だから、埋葬許可証をもらうには急がねばならぬ。解剖などしていたら、間に合わぬ。若し間に合わなければ火曜日まで火葬が出来ないことになる。これは大変なことだ。死体が腐りはじめるだろう。こんなことは困ると、家族がせっかく生前にくれた許可を、死んだ時に取消されるかも知れない。
「トモビキ」
二十世紀の世の中だというのに、火葬場は又なんて旧式な迷信を残しているのだろう。N女史は憤慨し、慨嘆し、十九貫五百の巨体の置場がなくなったようにイライラし、ヒステリーを起した。
死神というものは、世の中で、一番意地悪いものであるらしい。患者の心臓は金曜日が終りそうになると、ようやく力がなくなって来た。生前に解剖の許可を取ったものだから、安楽死は難しくなった。何故といって、解剖に間に合わせるように、いくらなんでも安楽死させるわけにはゆかぬ。N女史は進退きわまった。そして意識の無くなった患者のところに行き、じか談判におよんだのである。
「ねえ、あんた。その心臓さん。そう意地悪しないでさあ。死ぬなら死ぬで、解剖に間に合うように死んでくれたっていいじゃないの。ねえ。さもなければ、途中でなんて死なないで。何とかして月曜日まで生きててよ。お願いだから」
残念ながら、死者(いや、死者と呼んでいいものだろうか)は非情であり、忘恩であった。そして善良な一人の女医の心痛を見るのが、楽しみであるかのように振舞ったのであった。
読者よ、これから、医者が殺す殺すと、気軽に言わないでほしい。殺すことは、かくも難しいことなのであるから。
よくうつ《ヽヽヽヽ》病の患者Oが首を吊った時、私は医局にいた。看護婦の一人が青くなって私を呼びに来た。私が全速力で病棟まで駈けつけると、Oは病室の畳の上に寝かされていた。Oが便所に入ったまま出てこない。あまり長いので、不思議に思って行って見ると、パンツの紐で首を吊っていたのが見つかったのである。
私が見ると、呼吸もとまっていたし、心臓もとまっていた。体は未だあたたかかったが、もう死んでいると見做さなければならぬ。私は家族に至急来るように連絡をとれと看護婦に命じると、形式的に人工呼吸をしてみようと思った。全く形式的にである。何としても手遅れなのはハッキリしていたのだから。
私は一人の看護婦に命じて、私と二人で人工呼吸をすることにした。看護婦が患者の或いは死体の腕をつかむ。その腕をあげおろしさせると同時に、私は馬のりにまたがって、両手を胸郭の上に置き、全身の力で押し、肺の中の空気を追い出すのである。
「イチ、ニ、用意、イチ、ニ」
私はかけ声をかけると同時に、全力をふりしぼろうとした。その瞬間、ボリボリと不吉な音がして、私も看護婦もハッとして手をとめた。肋骨が、二、三本折れてしまった。Oは大分老齢であって、骨がもろかったのだろう。私はそれまで、自分の体力には自信がない方であったが、その時だけは、自分が怪力の持主であると思った。しかし、もうこうなった以上はいたし方ない。始めた以上は続けなくてはならぬ。
「イチ、ニ」ボリボリと、又二、三本折れたような音がした。しかし、もうかまうことなかった。私たちは続けたのである。
読者よ、医者は何と野蛮な、めちゃくちゃなことをやるものだろうと思うかも知れぬが、実をいうと、私自身も、自分を一瞬そう思ったのだが、それは間違いである。大学では先生が不幸にして教えてくれなかったが、最近、私は外国の雑誌を読んで、最新の救急法の中に、心臓が麻痺した場合、医者は何も道具を持っていなかったら、力いっぱい胸を押して肋骨を五、六本折れ、とあるのを見つけた。そうして心臓を外側から背中側に圧迫して、心臓のマッサージをするのである。
私は知らず知らず最新の方法を用いていたのであった。そして、驚いたことに、急にOの心臓は動き出したのであった。血圧が上り、注射をすると、ほとんど平常くらいにまで血圧がもどり、顔色もよくなった。私と看護婦はたまげた。
そこに院長や、救急器具を持った外科医などがとんで来た。心臓が動いたというと院長はほっとしたような顔をした。
何しろ、死にたがっている患者を何人も入院させるような病院なのだから、時折りこういう事故も起きる。申し訳ないことだが、いたしかたない時もある。
だが、ここで重大なことがあるのだ。患者が自殺して死んでしまえば、これは事故で、医者は死体を警察の手にまかせねばならぬ。検死が必要なのだ。ところが、心臓が少しでも動いたとなると違う。自殺未遂で、ある程度生きていた後で死ぬと、事故の届は必要だが、家族と話し合って面倒にならないように出来る場合もある。だから、これは大変なちがいなのだ。
それは別としても、止った心臓が動き出したことは、私たちには大変な感激であった。しかし、そのすぐあと、私たちは容易ならぬことを知ったのだ。心臓は確かに動いた。しかし、呼吸は回復しなかった。脳の呼吸中枢は死んでしまったのだろう。こうなると私たちが人工呼吸の手をとめると、やがて心臓の方も止ってしまう。すると完全な死だ。私たちはやめられなくなってしまった。汗は出る、手は痛くなる。だがやめられぬ。息の根をとめるというのは、まさにこのことである。
だが、いつまでこうしていたらよいのだろう。院長は二十四時間やれば、事故死でなくなると言ったが、とたんに私は目がくらみそうになった。
外科医が助けてくれた。のどにゴム管を入れ、その先に麻酔器の風船をつけてくれた。風船を押してやれば、人工呼吸が出来る。これで、イチ、ニ、からだけは解放されることが出来た。
それから、私たちは、かわるがわる風船を手で押すことになったが、これでも、二十四時間はとうてい続けられそうもない。それで家族の来る時まで頑張ることになった。六時間ほどして家族が来た時、私はその風船を押していた。外科医が重態ですというと、私は風船を押す力を弱めた。そして、かすかに、かすかに呼吸を小さくした。
外科医が儀式ばった調子で、家族に、「御臨終です」と言った時、私は風船を大きくひと押しして、最後の息をひきとらせたのであった。
私はその瞬間、まるで自分自身が息をひきとったかのような感じであった。家族は、ものものしい麻酔器のかげで動いていた私の手には、遂に気付かなかったようであった。私は今もって、Oが、どの瞬間に死んだのか見当がつかない。
死なせるということは、医者にとっては、かくも労多く、苦しみに満ちたものなのである。
医者はかくも苦労をして人を殺すのである。だから、今後は、そう、簡単に医者が人を殺すと口走らぬようにしてもらいたいと思うのである。それにくらべれば、国鉄など、どれほど、いとも簡単に人を殺してしまうものであろうか。私がこの文章を書いている時も、九州の炭鉱が爆発して二百人もの人間が殺されてしまった。
かくして日本の石炭生産高は、世界の石炭生産高の数%におよぶかぐらいであるのに、世界の年間の炭鉱事故の数と死者の数は、半数以上を日本のそれでしめられているわけだ。日本は、もう少し、殺すのを医者にまかせるようにするがいい。
だが、生かすことも、もう少し医者にまかせてもらいたいと思う、読者はおそらく次のような医者の悩みを御存知ないと思う。
はじめにのべたように、医者と健保組合は夫婦げんかのような、けんかとしては全く犬もくわぬような、最低のけんかをしているが、そのひとつに、こんなことがあるのだ。
健保は、医者が患者に薬や注射を無駄に使いすぎると言い、無駄に使った分は払わない。ふみ倒しなのである。
私の大学では、教授のやった手術に三十五万円かかった。健保は、これにも文句をつけて、余計な金をかけたから、十五万円しか払えないと払わなかった。残りを患者に現金で払えと要求することは出来ないのである。
大学というものは、最高学府であると、私は馬鹿であるから思っていたが、健保の役人は教授にこれこれの治療が適正治療だと教える。これからは、大学に行くより、健保で医学を習った方がいいと思う。こうしたことが、あの犬も食わぬケンカの原因の一つなのだ。
医者は本当は殺したくない。それには適正治療などというものでなく、どんなに金をかけても最高の治療がしたいのだ。しかし、患者を殺すと、どんなに沢山の薬を使っても、健保は金を全額払ってくれる。死んだのは、それでも治療が充分でなかったからだと考えるからだ。
ところが、あらゆる方法を使って、患者を助けると、健保は、生き返る患者に、何故、こんなにも無駄に薬を沢山使ったのかと文句を言い、料金の半分を踏み倒してしまう。医者はどうしても殺さなければならぬように出来ているらしい。
ある時、私は健保組合の理事の奥さんを治療したことがあった。その時、どうしても新しい、健保で認めていない薬を使いたかった。それで奥さんに言った。これから使うお薬は、古いお薬を使ったことにして、請求する。私はこんな不正を、他の患者のためにも行っているのだから、御主人に、そう言って告発させなさい、と。しかし、私は何とも言われなかった。
だが、本人が私の患者になったら、私は絶対に、そんな不正はしない。殺しても、そんな不正はやりたくない。私は頭のかたい医者だからである。
私は最近、アクセル・ムンテのサン・ミケーレ物語を読んだ。これは十九世紀末の神経科医の書いた自伝的な物語である。その中に「なにゆえ、国家は、治療する技術を教えるよりも、殺す技術を教えるために、数百倍の金をかけて来たのであろう」という一節がある。私はそれを読むと、今、医者となって、なるほどと考える。
そして国家百年の大計コジは、診察室で、自分の殺して来た人間たちの亡霊にかこまれながら、健保は、何故、注射や薬の値を考え、私たちが、患者を殺したこと、生かしたことの、金にはかれぬ値の方を、考えてくれぬのであるかと思うのである。
怒るということ
怒るということ、これが悪徳の一つであることに、異存をはさむ気持はない。そもそも怒れば胃液の分泌が悪くなり、本人にとって損失である。それにもかかわらず、世の中には理由なく怒っている人間があるが、たとえば「わたしはどうして女に生まれたんだろう」とか、「どうして、あいつは馬鹿なんだろう」とか言って怒っている連中のことだが、理由なく怒るなど、悪徳以外の何物でもなく、私はこれを弁護する気持など毛頭ないから、読者は心得ておられたい。しかし、世の中には、何とまあ、理由なく怒る連中が多いことであろうか。私は今まで、しばしば、その被害を受けた。何と言っても、私の周囲には、こうした理由なく怒る人物が、うようよといたからである。
「おい、こら」
朝、顔を合わせた時から、人を大声でどなるのは、Kであった。昔から、「おい、こら」は怒った時に人間の発するカケ声であり、「えんや、こら」はよいとまけのカケ声である。どちらにしても、余り品のいい声ではなく、発声者の品位を疑われてもいたしかたがない。
「はい。すみません」
こちらは、何か怒られているように思うから、そして、自動車の運転中にお巡りにとめられた時の準備に、「おい、こら」には反射的に、「すみません」と答える訓練をしていたものだから、すぐにそう答える。
「何で、タイガースはジャイアンツに負けたか」
Kはそのとたんに私をどなりつける。何で負けたか、そんなことは私の知ったことではない。
「おかげで、面白くないから、俺は飲みすぎてしまったぞオ」
そんなことは、私の知ったことではない。だが、知ったことではないで、すまされればいいのであった。
それから数日たつと、私の身辺に奇怪な事件が、ひんぴんと起るのであった。
その頃、私は大学病院の医局にいたが、だいたい教授室の隣にある、小さな図書室で本を読みながら、さぼっていた。
もちろん、れっきとした学問の本を読んでいたのである。上杉謙信はアル中であったか? 史書には卒中で倒れたことになっているが、実際にはアル中の禁断症状である振戦《しんせん》せんもうで死んだと考えられる。その重要なる証明として、彼の自筆の書を見ると、晩年になると、うんと手がふるえている。
そんな論文ばかりが目にとまるものだから、それを読んでいたのである。オナラの効用などという論文もあった。オナラは人間の腸の活動を高め、便秘を防ぐ。そのため、必要なものであって、恥じるべきものではない。礼を重んじるばかりに、ふんづまりになるのは、自然の理に反する、などと書かれており、わが意を得たりと思って、恥じるところなくすかしっぺを即座に放った。
その論文には「戦争中、オナラは可燃性ガスであるかないかの論争があり、尻から出るオナラに燐寸《マツチ》の火を近づけて実験しようとしたら、風圧で吹き消されて失敗したとか、余りに燐寸を近づけ過ぎて毛を焼き、さらには尻にやけどをした、今なら、ソフラ・チュルという、やけどにいい繃帯《ほうたい》材料があるが、昔は困ったろう。しかし、そんな実験は馬鹿のやることで、頭のいい人間は風呂にコップを持って入り、ブクブクと泡になって上って来るのを採取すればよい。オナラは、そうして燃やすと、焔を出しては燃えぬ。煙を出すくらいである。」などと書かれてあった。
ことわっておくが、これはちゃんとした医学雑誌に載っている論文であって、そのへんの読物記事とは違うのである。
ともかくも、理由なく怒っている連中にくらべれば、私のように、論文を読みあさっている方が、利口であると言わねばならない。
私が、そうやって図書室にいると、突然、怪しげな女性が目の前に現れたりしたのである。その女性は、私を見ると、
「あんたが、Kさんのお友達のNさん?」
と言った。私が左様、他ならぬ本人であると名乗ると、
「そお」と彼女はちょっとガッカリしたような顔をした。「矢張り、買物をするには、品物をよく見たうえでするものね」
私は何のことであるか、わからんので、いぶかしげに相手の顔を見かえした。相手はバーか何かで働いている女性と見えた。
「まあ、いいわ。ともかく、買っちゃったんだから、あきらめるわ」
何を買ったのか、と私はたずねた。
「あんたをよ」
「俺が売られた?」
冗談ではない。
「Kさんが、三日ばかり前に来て、金がないから、一人、男を売るから買わんか、って言うのよ。それで、私が買ったのよ。図書室で本を読んで、鼻の下をのばしているNって男をね」
私は鼻の下を長くしているのではない、鼻毛を抜いているだけで、その時たまたま鼻の下がのびるにすぎないのであると答えた。しかし、答えながら、少しばかり驚いた。女を買ったことがあるか、どうかは事情があって言えぬが、自分が女に売られた、というのははじめてのことであった。
「ともかく、買いっぱなしにしておくのも、つまらないから、自分の持ちものを見に来たのよ」
彼女は、そこではじめて、エン然と笑ったのである。
それから先、どうなったかは、不必要なことなので、省略する。それから先なんて、本来どうでもいいことなのである。
次にKと逢うと、「ジャイアンツは、何故に勝ったか、ケシカラン」と未だ怒っていた。何がケシカランと言って、ジャイアンツが勝つよりも、男を見も知らぬ女に売りとばす方が、よっぽどケシカランことなのであるが、人間は怒ると、どうも思いがけぬことをしでかすものであるらしい。Kは、私の他にも、何人かの男を売りとばした。ともかくも、怒ると、何をするかわからぬのが人間であるから、読者も注意をした方がよい。
この間も、新聞に、人間がカーッとして犬に咬みついたという記事が出ていた。犬がカーッとして人間に咬みついたのなら、わからぬこともないが、人間が犬に咬みついたのだから、犬の方も驚いたであろう。犬も人間には注意した方がいい。
ともかくも、新聞を読むと、このカーッとして、という言葉が、何と多く目につくことであろうか。
Kは、かくして理由なく怒っては、奇怪な事件をまきおこした。そして、不思議なことに、怒ると、何故か、私の名前を思い出すのであった。
私が池袋の近くのM病院につとめていた時のことである。或る日、病院に電話がかかっで来た。外線の電話は事務室にかかる。事務室に女の事務員が十人ばかりいる。
「Nさんですか」
「Nは私です」
私は答えた。聞きおぼえのない女の声だ。
「私、Sです」
「どこのSさんですか?」
Sというのは、知った人間が一人いたが、声が似ていなかった。
「どこのSさんって、ほら、この間、池袋の深夜喫茶でお逢いしたでしょう、あのSよ」
「池袋の深夜喫茶で逢ったあ? 僕が、あんたに?」
私は思わず大きな声で、相手の言葉を、おうむ返しに繰り返した。すぐそばの女事務員がクスクスと笑った。気がつくと、事務員たちは、仕事をやめて、私の電話に聞き耳を立てている。部屋の隅で、日頃から、何も仕事のない事務長が、ニヤニヤ笑って私の方を見ている。
「もう、お忘れになったの。薄情ね、男って」電話の相手が言った。
「いや、男って、そんなに薄情なもんでない。男の名誉のために言うがね。僕は君に逢ったおぼえが本当にないんだ。そもそも、君の逢った男は、僕のような声をしていたかね」
「電話じゃわかるもんですか」
「君の逢った男はどんな男だったかね」
私は躍起になった。なにしろ、事務員全員が聞いている。身におぼえのない罪をかぶるのは、とんでもないことだ。それに私の、受話器をあてていない耳には、「先生、うまくごまかしているわ」などという近くの女の子のささやきが入って来る。
「眼鏡をかけていたかね」
「かけていなかったわ」
「僕もかけていない」
「頭はうすくなかったかね」と私は言った。
「うすくないわ」
「僕もうすくない」
「M病院のお医者だって言ってたわ」
「僕はM病院の医者だ。不思議だなあ、人ちがいでもないらしい」
私はつぶやいた。どうやら、この私に関係していそうであった。
「二週間前の日曜日、当直だったでしょう」
「まてよ、そうだったかな」なにしろ一月に一度は日曜の当直が廻って来る。二週間前でなければ三週間前には当直している。カレンダーでも見ないと、即座にハッキリと返事も出来ない。私はあやふやな返事をした。
「そうよ、当直だったのよ」
相手はいやに断定的にそう言った。
「そうかねえ。ともかく調べればわかるよ」
「それで、あんたは」
「この僕がかい」
「ええ。夜半の一時半頃ね、当直なんだけど、退屈したんで、ちょっと病院をぬけ出して来たって、私に言ったのよ」
「当直をぬけ出して、夜の一時半?」
私はびっくりした。全く記憶がない。
「ダメねえ、先生は。当直をぬけ出したりなどして」
女の事務員が、私を見上げて、ため息をついた。ため息をつきたいのは、こちらである。記憶がないことは確かだが、さりとて、それが証拠になるわけでもない。夢遊病状態というものが、ないこともないからである。しかし、精神科医の、この私が? しかし医者が病気にならんこともない。
私は次第に不安になり、深刻になった。
それで電話の主に、彼女の逢った人間が、本当にこの私であったか、病院まで来て、確かめてみるがいいと言い、彼女は来ると言った。正直に言うと、その女性が、どんな顔をしているのか、見てみたい、という気がしないでもなかった。えてして、女性は、声だけ聞いていると、未だ見ぬうちは、すべて、素晴らしい美人かも知れぬという気がして来てしまうものなのである。
私は、若《も》しその女性に「私が深夜喫茶で逢ったのはあなただった」とウソを言われたら、私としては、何とも否定しようがない危険のあることを忘れて、その女性が病院に姿を現すのを心待ちにしていた。
彼女が病院に現れた時は大変であった。女事務員は全員、院長の許可も得ず、まるで皇太子妃でも病院に来られたかのように、玄関に人垣を作って整列したのである。
ともかく、やって来た電話の女性は、人ちがいであったことを認めてくれた。人ちがいではあったが、不思議な縁であるから、これから仲良くしようと、彼女は申し出たが、仲良くなったかは、ここでは言えぬ。そんなことはどうでもよいことなのである。
こんな不可思議なことが起ったが、しばらくして、Kに逢うと、「何故に、ジャイアンツは勝ったのであるか」と怒っていた。そこで、私は、ハハンと思ったのであった。
ともかく、私としては、ジャイアンツに勝たれることは、かくも迷惑しごくのことだったのである。現在でも、私は、ジャイアンツをのぞく、どのチームにもひいきがあるわけでは無いが、しかし、何としてもジャイアンツには勝たしたくない。私の巨人嫌いは、このような理由があるからである。
電話と言えば、私のところに、もう一つ奇怪な電話がかかって来たことがある。私が東中野に住んでいた時のことである。家に帰って、家内と若いお手伝いの子と、食事をしようとすると、
「お留守に電話がかかりました」
とお手伝いの子が言った。
「うむ」私は、飯をほおばりながら、もごもごと答えた。「それで、だれから?」
「礼子さんからです」
お手伝いはニヤニヤと意味ありげに笑い、家内にちらっと目くばせした。
「礼子? 知らんな。どんな話だった?」
「『礼子って言えば、すぐにわかる』っておっしゃいました」
私は頭の中の、すべての秘密のひき出しをひっくりかえして見ても、礼子なる人物のことは思い出せなかった。
「人ちがいじゃないかな」
「絶対に人ちがいじゃ、ありませんよ。だんなさんの、姓じゃなくて名前の方を知っているんですもの。『しげるさん、いない?』って電話でしたもの」
私のペンネームは、「なだ いなだ」という変てこな名前だ。この間、或る雑誌の校正刷を見たら、「だな いだな」と間違って書かれていた。もう一つの方は「いやだ いやだ」になっていた。余り面白いので、そのままにしておこうかと思ったが、やめた。
変てこなペンネームなので、間違いが多い。それで間違われることには馴れて平気だ。それに、私の本名の方も、両親が秀と書いて、シゲルと読ませるような難しいものをつけたので、たいがいの人は、ヒデと読んだり、シュウと読んだり、中には秀と禿と間違えてか、ハゲルと読んだりするものがある。
ともかく、名前に関する限り、間違えられることが多いのだ。これが時たま、正しく呼ばれたりすると、私は腰をぬかさんばかりに驚くほどである。
「しげるさんだって」
私は、これはただならぬことであると思った。確かに私のことを知っている人物にちがいない。
それから数日たった。また留守の間に電話があった。留守の間ばかり電話をかけるのもケシカラヌことである。
「又、お電話がありましたよ。この間の女の人からです。でも、『礼子でわからないかな、それならケイ子といえば、きっとわかるわよ』って、おっしゃいましたよ」
お手伝いの子は、いよいよもって興味しんしんという表情で、私に言った。悲しいことに、ケイ子と言われても、私は「おわかり」になどならなかったのである。いったい全体、誰であろう。はじめ礼子と言い、今度はケイ子と言えばわかるという。シャーロック・ホームズ的に推理すると、これは本名である筈がない。本名でなければ、本名以外を勝手に名乗って働く人間だ。正直に申して、そんな女性に知り合いなどほとんどない。すくなくとも、余り沢山知っているので、誰のことだか見当がつかない、というわけではないのである。
しかるに、相手は私の名前、大学卒業者でも、ちょっとやそっとで正確に読めない、いわくつきの私の名前を知っている。しかも、私の電話番号まで知っている。電話帳に私の名前は出ていない。その頃、私はある家の二階を四間ばかり借りており、電話は階下の大家のものであった。
ここまで、推理によって電話の主でありうる人物の可能性をせばめることが出来れば、シャーロック・ホームズならずとも、吉展《よしのぶ》ちゃん誘拐犯人一人つかまえるのに二年以上かかった日本の警察でも、見当がつきそうなものである。ところが、不幸にして私に見当はつきかねた。これは全く奇怪なことである。
そのあと、もう一度留守の間に電話がかかり、『セイ子』と言えばわかる、と今度は主張したらしい。が、私にはいよいよわからなくなるだけであった。しかし、四度目の電話の時には、幸いにも私は在宅であった。電話だというので、私は階下まで降りた。受話器をとると私は驚いた。私のまわりには、家内、お手伝い、それに大家の娘までが、立って私を取りまいて、受話器に耳をくっつけんばかりにしているのである。
「もしもし」と私は言った。
「ああ、ようやくつかまったわね」
余り品のよくない、ガラガラ声の女の声が言った。ようやく、つかまえたのはこっちだ。それまでは、留守の間ばかり電話をかけて来て、どんな声の持主かもわからなかったのだから。
「そんなに逃げまわらなくてもいいのに。私の方じゃ、あんまり気にしてないんだからさ」
「逃げまわってなどおらんよ。そもそも、君はいったい誰だい」
私はまわりの人間を気にしながら言った。
「いったい、誰だとは、しどいわね」
「しどいも、へちまもない。僕は見当がつかんのだ」
「あんた本当に忘れちゃったの? 礼子よ」
「礼子?」
「礼子でわからない? ケイ子よ。ケイ子っていえばわかるでしょ」
「ケイ子?」
「あんたと逢った時、私、ケイ子じゃなかったかしら。そう、セイ子だったかも知れないな」
「セイ子? 知らんな」
「セイ子でわからないの。そんなら、ガチャ子っていえばわかるでしょ。ガチャ子でわからなかったら、あんたの頭、どうかしてるわよ。ガチャ子を忘れるなんてね。私、ガチャ子よ」
「ガチャ子?」
まわりにいた者たちが、クスッと笑った。
「おぼえがないねえ」
「知らんふりも、いいかげんにして。私、おこるわよ」
「そう言われても、困るなあ。全然、おぼえがないんだから」
「おぼえがないなんて、ズウズウしいわね。ね、あんたは、このあたしと、ゴカンケイのあった人間なのよ」
「ゴ?」と言いかけて、私はくちごもった。どうも、ただごとではない。家内はこわい顔をして「アンタ」と低く叫んだ。そもそも、最近の女性は、変なものにまで「御」の字をつけたがる。日本語を乱すのは、この女性である。ゴカンケイとは何事だ。
私は誰かが、私の名前を使ったのであろう、私には身におぼえのないことだと言い、うそだと思うのなら、行って顔をみせてもいいと断言した。
この時も、何となく、相手の顔を見たくなったが、相手の女性が礼子からガチャ子まで変化する、化物のような女性なので、今度は、何に変るかもわからぬ。気味がわるくなったので、場所を聞くだけで、行くのはやめにした。正直のところ告白すると、電話のまわりに、誰もいなかったら、もっと別のことになっていたかも知れぬ。
ともかく、私は、自分が、この女性とゴカンケイなどなく、ムカンケイであることを明らかにしたつもりであったが、家内はしばらくの間、なっとく出来ないらしかった。
大家の娘など、余計なことに口を出して、
「あんなに知らぬふりをしてたって、男なんて本当のところは、わかるもんですか」
と言った。
この奇怪な電話もKが関係していたようである。なぜなら、Kがアメリカに行くと同時に、このような事件がぴたりとなくなったからだ。いずれにせよ、その時も、ジャイアンツが勝つか、あるいは、それと同じくらいつまらぬ事件があったにちがいない。怒ると、人間は常識はずれの行動をとることが多い。そのことを読者はおわかりであろう。それにこの世の中で、腹の立つことが余り多すぎることも困りものである。
理由なく、たかがジャイアンツが勝ったくらいで、カーッとするのは明らかに悪徳だと私はのべた。アウトかセーフか、ストライクかボールかで、なぐりあいのケンカをするなど、或いはビールの空ビンをほうったりすることなど、悪徳以外の何ものでありえよう。
だからと言って、理由があるのに怒らぬのは、決して人間的とは言えぬ。ベルグソンは、善悪とは何かを哲学的に考え、一生をすごすよりは、不正に対して怒ることを知ることの方が人間的であると、のべた。
私も、この考えには賛成である。賛成のものは手をあげろと言われたら、すぐにあげるであろう。手が二本しかないのが残念なくらいだ。なんなら足まであげたいところだが、足をあげると手が下がるであろうから、無益であるのでやめにする。
この世で怒らない人間は、決して聖人などではない。しかし、読者よ、これからが肝腎のところなのだ。怒るということは、カーッとして、のぼせあがることではないのである。参議院選挙は終ったが、その頃のこと、公明選挙の運動だと称して、公明音頭などという下品な歌をつくり、しかも大の大人の男女をあつめて、スッキリ、シャンシャンなどと歌わせ、うちわを持っておどらせていた。何がスッキリ、シャンシャンであるものか。
酔って歌っておどるのなら、スッキリ、シャンシャンも敢えて悪いとは言わぬ。しかし、しらふの人間が、真面目に、これが公明選挙の運動だと考えているのだとしたら、これに腹の立たぬ人間の頭の方がおかしいのである。
しあわせは、明るく正しい選挙から、などという題目も、小学生の低学年にはよいかも知れぬ。しかし、大人がめあてだとしたら、馬鹿にするなと怒りたい。それで、選挙人名簿の登録もれを何百人と出しているのだから、ますます怒らないのがおかしい。だが、ここでカーッとして、犬などに咬みつかんでもらいたい。カーッとして、理性に合わぬことをすると、犬ならずとも迷惑のかかるものが多いことだから。
私は現在、国立の病院につとめていることは、前に話した。国立というものは、役人が相手だけに、怒ることも多い。私など怒りっぱなしである。国立の病院は、精神科はどこもここも赤字である。それも毎年、何千万円という赤字なのである。しかも、精神病のベッド数の八割までが、私立病院のもので、健康保険で国立病院が赤字を何千万も出しておきながら、民間の病院にそれでやれというのだから、厚生省も正常ではない。国立病院はその上、固定資産税も所得税も払っていないのである。
そんなことはどうでもいい、というのが私の口癖だが、ここでは、どうでもいい、とは言うことが出来ない。
Nという私の知っている男が、Kという国立の病院につとめた時だ。病棟は雨もりがする、鍵はさびついて、火事があったら、逃げ出そうにも開かぬ扉がある、という状態なので、院長に事務長をつれて回診せよ、と彼は言った。私立の精神病院には毎年消防署員が来て、命令でなおさせるところがある。ところが、院長は回診などしたことが一度もなかった。とっても忙しくて、廻るひまなどないのであった。
それでも、時たま一回ぐらいは廻ってみろと彼は言った。平の医者が、院長に命令するのだから、こんなにケシカランことはない。私なら怒るところであるのだが、院長は怒らなかった。そしてある日、とうとう、事務長をつれて、病棟を廻ることになった。Nは、看護人と看護婦を並ばせて、入口でおごそかに待っていたのであった。
精神病の治療に作業療法というものがある。せまい病棟の中にとじこめておくと、何もせずにぼんやりとした生活を続け、病気の進行が早くなる。その患者に仕事をあたえ、ひまな時間を少なくし、それによって日常生活を正しくして、病気をよくしよう、なおらぬまでも、準正常な社会生活をおくらせるようにしようというのが、その目的なのだ。
どこの国でも常識として行っているし、日本の大ていの病院でも常識になっている。しかし、健康保険だけは認めていない。いや厚生省も公には認めていない。すくなくとも、Nが病院でつとめはじめた時は、予算が一銭もなかった。
翌年には予算が来るかも知れぬということであったが、医者としては、だからといって次の年まで何もしないでいるわけには行かない。予算のない病院と知らずに入院したものは運が悪いのであきらめろ、というわけには行かないのである。
それで、病院の中にある、古い建物を解体した廃材を見つけると、それを使って、にわとり小屋を作ることにした。それを作る許可をもらうまで、チャペク氏の口まねではないが、三十三べん、Nは怒らねばならなかった。
たとえば、小屋を作ってもいいが、にわとりを買う金はない、というので、カーッとする。カーッとして、にわとりを只でくれる人を見つけて、もらって来ると、にわとりの餌を買う予算がないというのである。
卵をうませると、ただでもらったにわとりでも、個人への寄附でないから、病院の、つまり国の財産であり、国の財産が卵をうんだのなら、卵は当然国のものであるというのである。Nはそのたびに怒ってカーッとしたのであった。
ともかく、院長が回診に廻って来た時には、にわとり小屋が完成した時であった。ところが、小屋のための材料が僅かばかり余り、一匹五十円で牡の仔山羊をくれる人があったので、患者たちが、その小屋、小犬が一匹入るくらいのやつを造ったのだ。
実をいうと、患者が無断で造ったのだが、Nは医者として、患者がただ指導に従うだけでなく、自発的に何かを試みるようになったので、これは正しく作業療法の好結果であると喜んでいた。
院長は病棟の入口で、にわとり小屋を見てニコニコとした。
「出来たね」
「出来ました」
ここまではよかったのである。院長はそもそも山羊に似ていて、ことさら、笑う時には「エエエエエー」と山羊に似た声を出した。しかし、その次の瞬間、院長の顔がくもった。山羊小屋が目にとまったのである。
「あれは何だね」
「ああ、あれですか、ごらんのとおり山羊小屋のようですな。あれは患者が造った山羊小屋です」とNは機嫌よく答えた。
ところが院長は言ったのである。
「誰の許可であんなものを造った」
「誰の許可でもない、患者が自分で造ったんです。とり小屋の材料が少し余ったので」
「勝手に造られては困る」と院長は言った。
「廃材でも国有財産だし、それで造れば山羊小屋も国有財産てことになり、台帳に登録せねばならぬのだ」
院長としてはよほど国有財産という言葉が好きだったのであろう。それ以外に他意はなかったのだろう。官僚は、自分を国と思っているから、自分の自由になるものを国有財産と言いたがるのである。ここで、またしても、Nは怒ってしまったのだ。しかもカーッとしてしまったのだ。
「馬鹿もん」とNはどなってしまった。「くだくだとつまらんことを、ならべるな。あんな犬小屋みたいなものが、国有財産などと、ろくでもないことをぬかすな。つべこべ言うと、お前をあの小屋にぶちこむぞ」
何しろ、怒ってカーッとすると、人間は常識をふみはずす。院長が平の医者を叱るのならわかる。平の医者が院長をつかまえて、「馬鹿もん」というのだから驚きだ。院長が、とび上って十メートルぐらい逃げ出したが、逃げるのが当然であろう。
「病院てものは、病人の治療のためにあるもんだぞ。そのために必要なら、国有財産ぐらい、少しつくりかえたってかまわんもんだ」
Nの声が余りに大きかったものだから、院長は後を向いて、ブツブツと言い、回診を中止して帰ってしまった。
読者よ、Nが怒るのは当然と言わねばなるまい。だが、カーッとするのは、矢張りよくないのである。Nも考えると、怒るのは当然だが、カーッとするのはいけない、ともかく、自分の胃潰瘍によろしくないと悟ったのであった。
Nは何でも国有財産の台帳に登録するなどと、院長が口走ったのを思い出した。院長もカーッとして、こんな、つまらぬことを口走ったのであろう。ちょっと持ち上げればどこへでも持って行けるものを、台帳に登録もへちまも糞《くそ》もない。よし、これを台帳に登録してくれと言えば院長も困るであろう。彼はそう思った。
そこで、一日すると院長のところに行き、昨日はどなりつけたりして申し訳ないとあやまった。あやまられると、返事のしようがない。院長の言われることはもっともで、院長の立場としては、国有財産の管理者としてあのように言うほかはないだろう。考えてみると院長のいうことは正しいと思われる。どんな小さなものでも、国有財産の廃材を使って造ったものは国有財産であると思う、とNはしおらしくのべたのである。
「そうだ、君、君はがんこのようだが、案外と話がわかる」
院長はNにそう答え、エエエエーと山羊のように笑った。
「ともかく患者が勝手に造ったとはいえ、院長に報告を怠ったのは私が悪かった。あやまりましょう、男らしく」
「では、わしも許そう、男らしく」
ここまで読むと、読者はNが本当に怒りを鎮めてしまったように思われるかも知れぬ。しかしNは怒っていたのである。カーッとしていなかっただけなのであった。
「それで、ともかく、造ってしまった山羊小屋のことです。今更、患者にこわせとは言えません。事後ではありますが、一応院長の許可を得たことにしていただければ」
「よろしい」
と院長はわな《ヽヽ》とも知らず御機嫌で答えた。
それからNはおもむろに言った。
「それでは、早速、山羊小屋を国有財産の台帳にのせていただきましょう」
院長はうけあったが、困ったのは事務長であった。どこに古材で造った犬小屋もどきの山羊小屋を、本気で台帳にのせる者があろう。だが、ここでNは、男が頭をさげてあやまったのに、なんで台帳にのせないですまされよう、と事務長に言ったのである。
K病院に行けば、この山羊小屋は今でも保存されている。Nとしては、これが国有財産から国宝に指定されるまで保存し続けるつもりである、見たい人間があれば、K病院に行かれればよろしい、と言っている。
私としては、読者に、怒る理由があれば、怒らなくてはならぬが、しかし、それにはカーッと怒らずに、ゆっくりと皮肉に、怒るべきものであるとすすめたい。
その方が、相手を余計に困らせることも出来るし、自分も高血圧や、胃潰瘍にならずともすむからである。
愛されるということ
ジャン・ジャック・ルッソーが、彼の「ざんげ録」の中で言っているそうである。そうであると正直に書くのは、私の友人の一人が私にそう言い、私はそのあとで、彼の言った言葉を本の中に探したのだが、未だ見つけ出していないからである。
そもそも、私は「誰々は言えり、かくかくと」という話し方を好まない。そもそも、真理は真理であって、誰が言おうと、ほんとはかまわないのである。誰が、「××は言えり、二たす二は四なりと」などと言うであろうか。しかし、世の中には、他人の、自分より偉いと思われる人間の言葉をかりて来て、話をするのが好きな人がウヨウヨといる。
この間もペラペラと何の気なしに、ドイツ語の文法の本をめくっていたら、「芸術は長し、人生は短し。ゲーテ」などというのがあった。
この本を書いた先生はドイツ語の学者であるが、ドイツ語以外は何も知らんのであろう。この言葉は、ゲーテのものではない。ほんとは、ギリシャの医者、ヒッポクラテスのアフォリスムの中にある言葉であり、彼も亦《また》、彼より昔の誰かのものを盗んでいたのかも知れないのである。
どうも話がそれたようだが、ともかく、これから書くのが、ジャン・ジャック・ルッソーの言葉であろうか、なかろうかは、余り問題にしなくともよろしい。何しろ、彼は言ったそうだ。
「人間、愛されようと思っている時には、愛されぬものだが、愛されなくともよいとあきらめると、愛されるものだ」
はなはだ、ややっこしくて申し訳ないが、読者よ、お許しねがいたい。ルッソー氏にかわって私がおわびする。ただ、読者には、いっぱんに、真理は簡単で明瞭で単純なものであるのだが、時には少しややっこしいものもあることを、忘れないでもらいたいと思う。
私にとっても、どうやら、その言葉は正しかったようだ。若い時は、こんな風采のあがらぬ男を、世の中のいかなる女性も愛してはくれまいと悲観し、又、若ければ若いで、こんな若僧のピーピーより、世の女性は地位も富もあるどっしりとした中年以上の男性の方に心をひかれるにちがいないと考え、どうしても私が、一人の女性に愛されるようなことはあるまいと思えたのであった。
そこで、私は医者の中でも、もっとも風采のあがらぬものが、不思議となる精神科医をえらんだというわけなのである。
ここでことわっておくが、私は精神病院での生活をおくることになるのであるが、精神病院やそこの患者の生活というものは、人々の想像するところのものとは大分異なるのである。世の人は精神病者をキチガイと呼び、軽蔑する。
しかし、ギリシャ時代には、ある病者は神の言葉を伝えるものとして、うやまわれたこともあるし、西洋の中世においては、魔女としておそれられたのであった。現在病者はそれらの超自然的な力を、剥脱《はくだつ》され、理由なくさげすまれ、人間以下のもののごとく見做《みな》されている。
しかし、病院に来て、生活してみればわかるように、そこには人間が、病める人間が、そしていきいきとした感情があるのみなのだ。
前に一度のべたことのある、小頭症ミクロセファルスの女、キンケリのお富とよばれた人物についてもう一度ここで語ることにしよう。
彼女は窓に鉄格子のかかった、平屋の木造の病棟に入れられていた。彼女が入院してから間もなく、入院して十年、部屋の中にとじこもってニヤニヤと薄笑いばかりしているKという患者が、急に元気になって、毎朝、必ず散歩に出させてくれというようになった。Kはそれまで、ひきずって外にでも出さぬ限り、自分の部屋の同じ場所にすわって正座をしたきりであった。
私たちは、その変化に目をみはった。ショック療法や薬物や、ありとあらゆる方法を用いても、全く手がかりを得ることの出来なかった患者が、どうしたことか、
「散歩に出さしてください」
たったそれ一言であったが、口に出して言い、一時間ほどして帰って来ると、
「どうだったね、散歩は」
という問に、
「それは、散歩ってものはいいもんだね」
全くきまった文句であったが、そう答えるようになったのである。全く、枯木に花でも咲き出したような驚きであった。もともと、枯木に花が咲くといっても、一輪か二輪である。満開というわけには行かぬものだ。だが、慾ばってはならぬのだ。それはそれで、充分に驚きにあたいするものだ。
そのうちNという、昔は中学で英語を教えたことのある患者の一人も、散歩に出してくれというようになった。これも驚きの一つだった。Nは妙な癖があって、実を言えばそれが他ならぬ彼の病気そのものであったのだが、何をする前にもある数を数えないではすまされぬのである。はじめは百まででよかったのだが、そのうち千になり、万になった。それを指を折りながら数えるのである。
たとえば彼を診察室によぼうと思う。待っているがなかなか現れない。どうしたのかと思って彼を探しに出ると、病室でズボンをはきかえる前に数えているのである。それから、診察室の入口で立ちどまっては数えはじめる。数の少ないうちは、イチニイサンとちゃんと数えていたが、数が大きくなるにつれて、ダルマサンガコロンダですますようにしたと彼は言っていた。それにしたところで、万を数えるには大分時間がかかる。一番困ったのは、彼が手洗いに入った時だった。入ったら一時間は出て来ない。数えるのが用を足す前であったら大変だったが、そこはよくしたもので、後始末の前にやるのであった。
いずれにしろ、一人で満員になる場所を、こうして長時間にわたって占拠するものだから、私たちは大いに困った。彼の説明だと、そうして数を数えないと、何か不幸がおこりそうで、不安でたまらなくなってしまうのであった。
こう書くとNが特別おかしな人間のように見えるだろうが、しかし、ある日本の有名な数学者は大学で講義をする前に小石をひろって、庭の水盤の中に投入れ、三つ続けて入らないと講義をしないということだ。そのため、学生はその三つ目の石が入るまで、いつまでも教室で待ちぼうけをくわせられるのである。
彼は今でも、大学教授だが、その石の数が三つ以上にふえないから、そうしていられるので、二百になったら、病院に来るようになるだろう。Nとこの大学教授との差は、おわかりだろうが、大してないのである。だが、一人は天才的数学者とよばれ、一人は平凡な精神病院の患者であるにすぎない。
ともかく、そのNも亦、散歩に出してくれと言ったし、しかも驚いたことに、その散歩に出る前だけは、万や千はおろか、一つも数えることなく、すっと出て行ったのであった。そして散歩から帰って来ると、KもNも、ニコニコとあふれんばかりの微笑を頬に浮べ、笑いをこらえるために、結んだ口は耳のあたりまでのびているようだった。
それからしばらくして、私は看護婦から、報告を受けた。キンケリのお富と、この二人の散歩者との間にある関係についてである。報告に来たのは、養成所を出たばかりの十七、八そこそこの若い看護婦であったが、
「あのNさんとKさんが、……」
と言ったきりで、あとは黙ってもじもじするばかりだった。
「NさんとKさんが、どうしたね」
「あの、お富さんと」
「キンケリのお富がどうかしたのかね」
私は実をいうと、二人がやられたのか、と一瞬思った。何かのんびりとした二人だから、お富が近寄って、ガチンとやるのをまともにくらってしまったのかと心配したのである。
「やられたのか」
看護婦が黙ってもじもじしているので私はそう言った。
「それが、あの」
私は考えた。だが、待てよ、お富は閉鎖病棟にとじこめられている。彼女が逃げ出さない限り、病棟の外を散歩する二人に近づくことも、一撃をあたえることも出来ない筈だ。しかし、お富が逃げたという報告もないし、看護婦はそのことを少しも問題にしなかった。すると、どういうことか。
私はようやく、看護婦の重い口から、次のような事実を聞き出したのであった。NとKの二人は、彼らの散歩の時間の大部分を、お富の入っている病室の前に立ってすごした。
「タバコを一本くれんか」
お富が彼等に言う。
「そしたらよう、見せてやるからよう」
彼女は格子につかまって窓にのぼった。そして煙草を一本もらうと、スカートをパッとめくった。ほんの一瞬であったが、彼等はあっけにとられたように、そこに立ったまま、窓の上に立っている彼女の一部分を見つめたのである。
「もう少し寄って見な。おっとっと、のぞきは安いが、さわりは高いよ」
お富は小頭症の二十になるか、ならぬかの娘にしては、いやに知ったもののような口のきき方をした。
NもKも、今まで、そのかくれた秘密の楽しみのために、あれほどまで、散歩に執心したわけだったのだ。
それを知ると、私はお富を別の病棟、中庭はあるが、外から来る人間とは完全にさえぎられている病棟に移したのであった。それからのことなのである。
私はこの頭の少々不足気味な人間に、神様がいかなる意図によって作られたかわからぬ少女に、パンツは必ずはいているものであることをさとしたのであった。彼女と来たら、パンツを便所に行くたびに棄てて来るという、悪癖を持っていたからだ。それから、彼女がNやKに見せたような場所は誰にでも見せるような場所ではない、と言った。
「そんならよう、先生、誰になら見せていいべ」
「まあ、お前の好きなたった一人の男にだけ、とっておくんだな」
「そおかよ、先生。おれはな、おめえは頭が足んねえだから、せいぜい、持って生まれたものは、何でもいいから、使わなきゃあ、いけねえって言われて来たんだよ」
お富は素直にそう答えた。読者よ、頭が足りないなどと、お富のごときものを馬鹿にしてはならぬ。なかなかいいことを言うものではないか。
しばらくして、私は、ほかならぬこの私が、お富に愛されていることを知ったのであった。私が、お富の移された病棟に入って行くと、彼女はそのとっておきのものを私に見せようとしたのであった。
私が真に女性に愛されることが出来ることを知ったのは、それがはじめてであったと言っても、いつわりであるまい。
数年後に私が、M精神病院を去ることになった時、私が病棟に別れを告げに行くと、その時も未だ同じ病棟にいたお富は、大声で泣いた。彼女の泣き声は、誰にもはばかることのないもので、他の院長や正常と称する人間のひかえめな、とりつくろった悲しみの表現とはちがって、全く腹の底からの号泣に近いものであった。
「おれは、先生だけを愛すてんだど」
私が、精神病院をわたり歩く医者としての人生で、このお富のことを忘れたら、それこそ、薄情と言われねばならぬだろう。
全く、ルッソーは時にはいいことを言うものである。人間は愛されることをあきらめたような時に、愛されるものだし、誰に愛されるにしろ、愛されることは悪くはないものだ。悪くないが、都合が悪いことがあるだけだ。
それからしばらくしてのことだったが、浅草の置屋の娘として生まれ、戦後、神楽《かぐら》坂《ざか》で芸者をしているという患者のKを私は受けもった。彼女は幾人ものダンナを持ったことがあるという話で、睡眠剤による自殺未遂で入院して来たのである。ながい間眠りつづけていた彼女が、目をさました時、最初に見た男性はこの私だった。
彼女は芸者をしているだけのことはあってタイヘンタイヘン美人であった。彼女の診察をして、心音を聞こうとすると、こちらの心臓の方がドキドキしてしまうくらいであった。彼女の白い胸の上には、一、二本、ヒョロヒョロと長い毛があったが、その毛は胸のまろみの上に生えていたのであって、心臓から生えたものではなかった。
世の中には品性の下劣な人間がいて、医者なんて、ちぇっ、うまくやってやがる、美人を裸にして、心音をきいたり、胸や腹をさすってみたり出来るなんて、などと考えたりするが、それはとんだ間違いである。私など、出来ればそんなものは見たくもなければ、さわりたくもない。出来れば目をつぶっていたいくらいだが、目をつぶって診察すれば、手がどこに間違ってすべりこむともわからぬので、診察の時には普通の二倍くらい目を大きくするにすぎない。
それはともかくとして、Kは非常に美しかった。こんな女に、一生の間に一度は愛されたいものだし、愛されたら、何としあわせであろうかと思った。それを、自殺させるような、ひどいめにあわせる男性がいるとは、なんとけしからぬ、恩知らずな、ろくでなしの、バチアタリのことであろうと思った。その時はそう思ったのであった。
彼女は間もなく元気になったが、退院してしばらくすると、或る日、突然、私の自宅にたずねて来た。
「アラ、センセ、しばらくね。ちょいと、オ元気なの?」
Kは大きな声でいうと、ズカズカと私の家にあがりこんでしまった。
「君も元気かね」
私は応接室に彼女を通すと、急に出なくなった声をふりしぼって、小声で言った。実は、隣の部屋に若いお手伝いと、家内とが声をひそめてしのんでいたのだった。
Kは私のわきにピタリとくっついてすわった。センセ、ちょいと、などと言われた時、私はギクリとしたが、横にすわられた時は、それ以上にギクリとした。
「センセ、アラ」
またか、と私は思った。この女は、何かというと、アラ、センセか、しからずんば、それをさかさまにして、センセ、アラである。アラ、というのは、いったい日本語であろうか。
「肩のとこに、ナンカついてるわ、とってあげましょうか、アラ、シラガ?」
シラガといわれて、私は、さらにさらにドキリとしてしまった。私の声は、もう蚊のなくほどにしか出なくなった。
「センセ、あたいのこと、忘れないでいてくれたあ」
彼女は甘い鼻にかかったような声を出した。私としては、隣の部屋の人物たちが気になってしかたがない。
「君は、うむ、病院にいた時よりも、久しぶりで見ると、ずいぶん元気になったようだね」
私はそう言った。だが、これは彼女に言ったのではなく、私としては、この突然に現れた女性が病院のもとの患者であり、それ以後どこで逢ったものでもないことを隣の部屋にいる人間たちに証明するつもりであったのである。だが、相手はそんなことを知るよしもない。
「えっへん」
隣の部屋でお手伝いの女の子がせきばらいをした。お手伝いの子は二十そこそこであったが、この時ばかりは非常に、コシャクに思えた。全くケシカランことだ、と私はつぶやいた。正直に申して、大声で叫びたいくらいだったのだが、声が出なかったのである。しかし、Kはいよいよ元気が出たらしかった。元気になったなどと言われて、暗示にかかったようだ。
「センセ、元気になったでしょう。センセのおかげよ。センセって、やさしい人ね。こんなやさしい人、あたいはじめてよ。あたい女でしょ」
「女らしいな」
と私は言った。
「女って子供ほしいって思うもんでしょ」
「僕は女ではないから、わからんけど」
「あたいもほしいなあ」
「そんなもんかね」
「そうよ。でも、誰の子でもってことじゃなくてよ」
そうだろうと私は言った。
「あたい、センセの子供、うんでみたいな」
「ああ」
と私はつぶやいた。
読者よ、日本語はむずかしい。ここで「ああ」と言ったのは感嘆詞の方であって、別の「ああ」では決してないのである。
「あたい、センセ、好き、愛してる」
ああ、全く人間は愛されなくてもよい時になって愛されるものだ。確かに、彼女を見た時、私は、こんな美人に愛されたら、と思った。思ったのは確かであるが、しかし、そして愛されるということは、決して悪くないものであるが、しかし、そして愛されるのなら何人の女性に愛されるのもかまわぬが、しかし、悪いことではなくとも、都合の悪いこともあるものである。
その時、私の家内が、飲みものなどを持って、入って来た。そして、意味ありげな笑いを浮べて、私の方をじっと見る。これほど都合の悪いことはない。
それから、ことが、いかようになったかは、書く必要を感じぬので、書かぬことにするが、それ以後も、私は、自分のような男性でも愛されることがあることを知ったし、人間決して、愛されぬことを悲観すべきではないと思うようになったのであった。
話は少しちがうが、五十年ほど昔、クレランボーという精神病学者が恋愛妄想《もうそう》に関して有名な論文を書いた。自分が誰それに愛されている、実際にはその誰それは何も特別の感情を有しているのではないのだが、そう信じてしまう一つの妄想なのである。ここで読者にひとつ言っておくが、この妄想は、愛されていると信じていることにあって、自分の方が好きであってもなくても問題ではないのである。しかし、これは単に一個人の問題だけではない。民主政治というものは、政治が民衆に愛されているか、おらぬかに、大きな問題があるのだが、政治家の中には、自分が民衆に愛されていると信じているものが、ウヨウヨといる。しかし、それは妄想にすぎないと思われることが、多くある。そこから、こっけいと思われるような行動がうまれて来るのである。
昔、共産党は、「愛される党」ということをキャッチフレーズにした。だが、彼等は、ジャン・ジャック・ルッソーのさきに引用した言葉を知っていただろうか。知っていたら考えてみたであろうか。愛されようと、努力している時は、それがいかなる努力であっても愛されることは困難であるし、そこに大衆運動のむずかしさがあるのである。
どうも、あまり真面目すぎる話になって来た。ここで話を愛の妄想にもどそう。
ある時、私の同僚のSがとびこんで来ると「助けてくれ」と叫んだ。どうしたのだというと、警察によび出されて調べられたのだという話だった。
「交通違反か?」
「いや、交通違反ならまだしもだ。このおれがだよ、婦女強姦の疑いってんだ。ええ、このおれがだぞ」
私も少々おどろいた。彼は酔って来ると、時々女の子に向って、「コラア、お前、強姦するぞ」などとわめくことがあったし、又、男の前では、「つべこべいうと、お前の娘を強姦するぞ」などと声高に言うのであった。だが、私はそれは酔った時のことだけだと思っていた。
「今日な、S警察から呼び出しがあったんで行ってみると、××という女の子を知っているかと言うんだな」
「それで」
「その××ってのは、一度、おれが外来で診察したことがあって、それっきりずっと病院の方には来なくなってた女の子なんだ」
「ふうむ」
と私は言った。
「その女が、警察に、おれを訴えたんだ」
警察に行って、くだんの女の子は、Sに自分は強姦された、つかまえてほしい、と言った。女の話を聞いたお巡りは、これはケシカランと思った。
「ええ、医者なんて、偉そうな顔したって、なんだね、君、こんなことをしていて恥ずかしいとは思わんかね」
Sは頭からそう言われて、ギョッとした。
「私としては、身におぼえのないことで」
「今更、白々しい嘘をつこうたって駄目さ。ちゃんと調べあげてあるんだから」
「いや、何を調べてもらっても、私は、何もそんなことは」
警察というのは内弁慶で、一度警察の中に入ると、想像もつかなくなるほど、いばっている。ところが家に帰れば、奥さんどもの尻にしかれているのだろう。
Sは、何と言われようと、自分は知らんことだと言った。
「だが、あんたは、酔うと、強姦してやるぞお、と日頃わめいているそうではないか」
警察もさるもので、少しは調べたものらしかった。
「警察って所は、冗談なんてゼンゼン通用しねえ、全く困ったもんだよ」
「日頃、あんなことをわめく罰だな、諦めることだ」と私はニヤニヤしながら言った。
「それで、いったいどうなったのだね」
Sは必死になって、巡査に説明しにかかった。どうも、その××という女の子は恋愛妄想の患者であるらしい。自分が、時々わめくのは、あれは冗談というもので、世の強姦犯人の中で、あらかじめ予告などするものがあるだろうか。それに、神、日本の神から、アラーの神から、ゼウスから、アイヌのコロポックルの神まで、この地上のすべての神にちかって、自分はその女の子と、診察室で十分ほど話をした以外に逢ったことはない。彼は数時間、警察で説明を続けた。
しかし、彼をすくったのは、ほかならぬ××という女の子であったのである。いったいいつどこで強姦されたのだと質問されて、彼女は、
「ええ、五千年前ですよ。私が今の私に生まれかわる前、エジプトの王女だった頃です」
などと答えて、取調べの警察官に、ようやく彼女の告訴が疑わしいものであることを示してくれたからであった。
それからしばらくして、東京の郊外にあるJ病院が火事で焼けた。その時、当直医であったのは、私の先輩のH医師であった。原因は放火のようで、警察で調査中であると新聞には書かれていた。Hは非常に円満な人物で、われわれの間でも、最も多くの信頼をあつめていた。しかし、警察はどうも、この円満きわまりない人物にも、疑いを抱いたらしい。
彼は、後になって、私たちに話したが、他人にうらみを持たれることはないか、とそうとう追及されたらしい。しかし、彼には身におぼえがなかった。彼にうらみを持つ者があるとすれば、新婚早々の同僚くらいであろう。円満な彼にも、僅かばかりの悪癖があり、新婚旅行に出かけた同僚の、最初の旅館に、ちょうど夜の十時頃にとどけられるようにウナ電を打つことであった。
初夜の床に入ったか入らぬかのところを、デンポウと起され、あわてて電報をひらくと「トツゲキセヨ」とか、「リョジュンコウハ、オチタルカ」などという、変な電文で、歯がみをしたものは、何人もいた筈である。この火事のおかげで、彼の悪癖まで明るみに出されてしまったが、さりとて、それをうらんで火をつけるものもあるまいと思われた。
更に彼の身辺があらわれた。そして、Mという女性が浮びあがって来たのである。
警察はHにだまされたと称する女性を見つけたのである。
「その女性は、僕としばしば、逢引きしたと主張したんだよ」
Hは、それが彼の癖であったが、五分刈りの頭を掻きながら、私たちに言った。
「彼女は日記帳を持っていてね、僕と逢引きした時の印象を書きつづったものと、その時の記念の品というのを、その日のところにはさんで持っていてね」
「どんな、ものですか」
私たちは彼をとりまいて、質問攻めにした。
「それがね、僕と一緒に公園のベンチにすわっていた時、拾った枯葉の押し葉だとか」
「ロマンチックですな」
「いやあ、ロマンチックなのもあったがね。そうでないのもあった」
私たちは勝手に「ほほう」とか「へへえ」とか言った。
「たとえばね、僕と一緒に寝ころがった草むらの、下にあった枯芝の葉っぱだとかね」
「うひゃあ」
などと下品な叫び声を出すものが、私たちの中にいたが、これは私でなかったことを強調しておく。読者よ、信じていただきたい。
「中にね、日記帳の中にはさまれて、大事にとっておかれた、毛が一本あった。僕の毛だと言うんだ」
「いったい、どこの毛だと」
そう品のない質問をするものがあったが、円満な彼は、ニヤニヤするだけで、答えなかった。
Mという女の子は後に自分から、Hのいる病院に来て入院したが、自分では、そこでHと結婚し、一緒に暮すつもりであったらしい。入院したあと、世帯道具がトラックで病院におくられて来て、皆をあわてさせたし、本人は、どこで、どうためたのか、数十万円の貯金通帳まで、持っていた。
皆はそれを聞くとためいきをついたものであった。
Hは、その後、クレランボーの論文にも比すべき、恋愛妄想に関する論文を書いたが、私は、全国の警官は、それを一読する必要があると考える。私のようなものまで、強姦罪の疑いをかけられることが、それによって、防げるであろうと思われるからである。
愛というものは、まことに不思議なものである。愛されるということは、たとえ、それが妄想によるものであっても、決して悪いものではない。少々、都合の悪いことがあったとしても、結局のところ、決して腹立たしいものではないのである。愛することは、ままならぬものであるが、愛されることは、更にままならぬ。
私はそれらのことを回想する度に、いく度も、繰り返して、そう考えるのである。
苦笑いというもの
苦味というものは、言うなればもっとも人生の深みに達する味である。味に甘い、からい、しょっぱい、更に複雑で言葉による表現が追いつかず、簡単にウマイ、マズイですまされてしまうものなどがあるが、それらすべての味の中で、苦味ほど、重みのある、そして深みを感じさせるものはない。
その証拠に苦味ほど、人生の出来事を形容する言葉として数多くの使われ方をするものはないのである。苦虫をかみつぶしたような顔と言えば、それが比喩的《ひゆてき》な表現であるにもかかわらず、実体感をともなって、ありありと目の前に浮ぶが、飴玉をしゃぶったような顔などと言ってもピンと来ぬ。梅干しを四つほおばったような顔、塩辛を丼に一杯のみこんだような顔などと言われても、表面的であって、われわれの心情に達するものを、何一つ見出すことは出来ないのである。
ガシンショウタンなどという言葉もある。苦々しいという表現もある。苦いおもいという形容のしかたもある。これらの苦味の味から出発した表現は、甘い、からいなどの味を示す言葉との比較の上で用いられるものではなくなっている。からいおもいとも言わぬし、甘々しいなどと言う人間もおらぬ。筆者をして言わしめれば、甘い、からい、すっぱい、などは同じ感覚であっても、生物的な感覚であり、それに反して苦味は哲学的な感覚だ。
ところが、人間には、十人に一人くらいの割合いで、ある種の苦味を感じることの出来ぬものがある。これを味盲と呼ぶのである。と言っても、苦味を全然感じないというのではなく、ある特殊な、もっとも微妙な苦味を感じないだけのことで、しかも、こんな人間であるにもかかわらず、世界食べ歩きのたぐいの著者であることもあるのだから、読者よ、本を読む時には、よくよく注意しなければならない。
さて、これから筆者の書こうとする、苦笑いについての話は、これら味盲のたぐいの人物には無縁のことであろう。
ものの本によれば、苦笑いとは、失敗した人間のていさいを繕《つくろ》う笑いであるようだが、これは正確ではない。だが、筆者はベルグソンが笑いについて論文を書いたように、ここで苦笑いについての大論文を書こうとは思わぬ。読者よ安心されたい。
私がM精神病院にいた時であった。古い患者の一人であったが、診察室によび入れると、私らが診察の前後に手洗いに使用する消毒用のクレゾール石けん液を、部屋に入るが早いか飲むのがいた。私らに、僅かの油断があると、さっと一口二口、飲まれてしまった。私たちが押しとどめないと、洗面器いっぱいを飲みほしてしまったであろう。そのくらいのことで死ぬおそれはないが、胃炎ぐらいは起して苦しむかも知れぬ。本人にこりてもらわねばならぬ理由もあって、私らはその度にバケツ一杯の微温湯で彼の胃を洗った。もちろん、親指ほどの太さのゴム管を無理矢理、口の中につっこんでである。
大騒ぎをしたあとで、私は彼にたずねた。
「君は何故に、クレゾールなんてものを飲んでしまうんだね」
彼、Kは五十五、六の男であったが、ケロリとした顔で答えた。
「消毒しようと思ったんでさあ。だって、あれは消毒薬でしょう」
「消毒薬は消毒薬だが、体の外側を消毒するにはいいが、飲むと毒だよ。死んでしまうじゃないか」
「死にますかなあ」
「死ぬ」
と私は断定的な口調で言った。本当は死ぬこともあるまいと思うのだが、しかしここで死なぬと言うのは正直というものではなく、馬鹿正直なのである。
「君は、あんなものを飲んで、死にたいと思っているのかね」
「いや、死にたいなんぞ、思ってやしませんや」
私はその返事を聞いてホッとした。まさか、こんなものを飲んで死のうなどと思うものもおらんだろうと思ったから、「こんなもの飲んで死にたいのか」と断定的に言ったが、彼、Kがもし、自殺したいという意志を持っていたとしたら、それを聞いて勇気百倍、何度繰り返されるかも知れぬのである。
「じゃ、君は何であんなものを飲もうとするんだね」
「いや、なにね、私の体には、シラミがいるんですよ」
「シラミ?」
私はシラミは嫌いである。しかし、シラミの方の気持は知らぬ。
「そうです。シラミでさ」
「どこにいる」
「ほら」
Kは自分の腕をまくって突き出した。
「どこだね」
「ここですよ」
Kは彼の腕の日焼けした肌を指さした。だが、シラミの姿は見えぬ。
「何もいないじゃないか」
「ウヨウヨいますよ」
私は目をこすって見直した。
「見えないな」
「見えないのは当り前です。わしのシラミは、肉ジラミと言いましてな、皮膚と肉との間に入っているんです。ホラ、動いている」
彼はボリボリと、そこらじゅうを引掻いた。
「だから、外側から洗っても、塗っても、何もきかないんです」
これは妄想というものである。実際には肉ジラミなどいる筈がない。しかし、本人はいると確信しているのである。確信しているのだから、肉ジラミなど、この地上に存在しない、人間の皮膚の下で、昆虫など生きられる道理がないと言ってみたところで本人を説得出来るものではない。およそ、世の中で馬鹿の人間に、お前は馬鹿だと言っても、何の得るところも無いものである。
それを知らずに「バカヤロウ」などと言って国会が解散になるのだから困る。
いや、相手が馬鹿でなかろうと、自分を信じている人間に何を言っても無駄なのである。アメリカに、汝は帝国主義者である、不法であるからベトナムから引揚げよと、面と向って言っても、百遍はおろか一万遍くりかえしてみても無駄であろう。中共は平和のために原爆を持っているからよい、アメリカの原爆は平和の敵であるから、なくしてしまえと、大会を百遍ひらき、千遍声明を繰り返したところで、決してなっとくさせることは出来ぬであろう。
相手が確信をもっている時は、それを事実と仮定した上で論じて行き、そこで本人に矛盾を感じさせねばならぬ。相手を敵視して相手から理性的譲歩を得られるなどと思うのは、思っている当人も相手と同じくらいおかしな人間と言わねばならぬ。相手から理性的譲歩を得ようと欲するものは、友人としての立場、仲介者としての立場を得ることが必要なのだ。
「君はクレゾールで肉ジラミを殺そうと思っているようだけど、シラミが死ぬ前に君の方が先に死んでしまうよ。君は死にたくないと言ったろ。それならあんなものを飲んじゃいけないね」
「そうですか、死にますか。死ぬのは嫌ですからね。じゃ、これから飲まんことにしましょう」
Kは、それから、ぴたりと彼の悪癖を改め、クレゾールには近寄りもしなくなったのであった。私たちは、彼の胃洗滌などをしなくてもよいようになり、大いにたすかったのである。
「どうだね。論理的であることは必要だろう。妄想の妄想たるところは、非論理にあるのではなくて、余りにも論理的であるところにあるのだ。余りにも論理的でありすぎる、そこが病気なんだ。だから、妄想患者には、論理的に間違いのない話をして、説得することは、思ったよりやさしいもんなんだ」
私は、自分の成功に気をよくして、看護婦たちを集めて説明したものだ。
「ね、君たち女性はだな、とかく感情的で、論理なんてものを無視しすぎる。『そんなこと言っても無駄よ。駄目だと言ったら、駄目よ』なんて、男性に対して問答無用できめつけすぎる。男性に自分の言うことをきかせようというなら、もう少し論理的になるんだな、論理的に」
私は胸をはった。それから、M病院の看護婦たちも、少しは論理的になったようで、好ましい傾向だと思われた。前に少しのべたことのあるオンタリとあだなされた看護婦なども、「私は少々頭がタリないので、オッチョコチョイなのね」と、論理的に原因と結果の二つの文章からなる話をするようになった。これはおどろくべきことと言わねばならぬ。
更に、もう一人、おキクとよばれる看護婦がいたが、彼女は北海道生まれで色が白く、少々そばかすなどが目立ったが、非常に魅力的な体の持主であった。女性の女性らしき部分は豊かで大きく、余り大きいので、私のように特別見たいと思わぬものの目にまで、いやおうなく入った。
それだけで充分だと思われたのであるが、彼女はそれだけで満足しなかったように思われる。彼女は結婚していたが、甚だしく気が多く、往診の途中、車の中で彼女に手を握られたと称する医者も何人かいた。中の一人は、心臓のぐあいがおかしいから診察してくれと裸になられ、聴診器を胸にあてると、
「そんなに、あたしのハートの呼びりんを押さないでえ」
と言われたのであった。彼はどこかを押したとみえるが、私が、そんなことをこまごまとよく知っている理由を、ここで言うことは出来ぬ。ともかく、そんなおキクまでが、
「論理的に考えると、私は多情なのね、それだから私は浮気なのよ」
と非常に論理に興味をしめしたのであった。
それはそれでよいとして、さてKのことである。前にのべたように、その後、Kはピタリとクレゾールを飲むことをやめた。もちろん、私たちが飲まれぬように注意を払ったせいもある。
それからしばらくの時が過ぎた。そして或る日のことである。
「先生、大変です」
看護婦の一人が、私をよびに来た。こんな時には、もう論理もヘチマもないようだった。
「先生、はやくはやく」
何しろ、はやくはやくと言っても、どこへ行くのかわからんではないか。それに、大変だと言われても、いったい何の準備をして行ったらよいかもわからぬ。
「大変というのは何がおこったんだ」
火事だという時は消火器を持って行かねばならぬ。聴診器を持ってかけつけても気がきかぬではないか。
「その、フマキラーを飲んだんです」
「なに、フマキラー」
彼、Kはハエを殺す、あの殺虫剤の油でとかした液を飲んだのであった。彼は飲んだばかりだったので、未だ何ともなかった。いそいで外来にひっぱって来て、又何カ月ぶりかに胃洗滌をした。K本人はというと、私たちのあわてぶりを見ながら、平然としていた。
「あんたは、又、何だって、フマキラーなんどを飲んじゃったんだね」
「どうしてって、先生、シラミを殺すためですよ。フマキラーは殺虫剤でしょ」
全く立派と言うほかはないほど、落着きはらったものだ。
「それは、殺虫剤かも知れんがな」私はおそろしい顔をした。「あんなものを飲んだら、あんたが死んじまうよ。あんたは、この間、死にたくないって言ったじゃないか」
死ぬぞと言われても、今度は、相手はぜんぜんさわがなかった。
「先生、落着いて、落着いて。そう心配せんでもよろしいですよ。あれには、チャンと人畜無害って書いてありますからな」
まったく、その言葉を聞いた時に、私たちが、どのような顔をすることが出来ようか。私は、死んでしまうぞ、と怖しい顔をしたところだった。本来ならば、怖しい顔をアイロンをかけてもくずしてはならぬところであるが、自然とニヤニヤして来ずにはいられなかった。
「人畜無害か、なるほどな。全く論理的だ」
読者よ、前置きや、説明が長くなりすぎたようだが、こんな時に自然に浮んで来る笑いこそ、苦笑いというものなのである。
ただゲラゲラと笑ったことは、時をへるにしたがって、あとかたもなく忘れ去る。思い出しても、二度三度と笑えるものではない。いつまでも残り、舌の上に残る苦味のごとく消え去らず、そして繰り返して笑いを呼びおこすものは、苦笑いである。
最近、私はタクシーに乗ったことがあった。車を持っているので、タクシーに乗るのは久々のことであった。昔はタクシーの運転手というと、東京のどんな小さな裏通りでもよく知っていたものだった。それがである、
「神田の先までやってくれないか」
飯田橋の駅の近くでタクシーを拾い、運転手に言うと、私は座席にゆっくりと背をもたせた。昔は、行先も聞かずに車を、扉が半開きの間に走らせ、その反動で扉をしめるような運転手がいたものだが、その運転手はていねいに扉をしめ、信号が青になっても車を出そうとしなかった。
「だんな」
「何だね。故障かね」
「実は、わし、昨日、東京に出て来たばかりなんですよ」
「昨日?」
「ええ。東京のタクシーは、給料がええってもんでね」
「道をよく知らないっていうんだね」私は言い、実直そうな運転手は、制帽をかぶった頭をコックリとうなずかせた。
「ええ、そういうことなんです」
「じゃ、道を教えるよ。後楽園まで、まず行ってくれ」私は言った。
「後楽園てのは」
青信号なのに、動き出さぬものだから、後の車がクラクションをワンワンと鳴らしはじめた。何だか、私の顔が赤くなりそうだった。
「真直ぐ行ってくれ」
私は叫んだ。車は動き出した。ごくゆっくりとである。野球場が見えて来た。
「だんな。あれは何です、あれは。あのでっかいのは」
「あれが、後楽園の野球場だ」
「へえ」と相手は素朴で単純なる驚きの声を発した。「あれですかい」
「そこ、そこ、そこを右にまがって。この先は右折禁止で右にまがれんから」
それから竹橋の近所にまでやって来た。
「だんな。あの上の所を走ってる、あれは何ですか」
「あれはだな、東京の高速道路だ」
「ほほう。すげえもんを作ったんですな」
相手が素朴で単純に感心するものだから、こちらは腹を立てることも出来ぬ。私は親切で、親切が売物みたいな男であるから、(読者よ、これは本当である。疑ったりしてはいけない)高速道路の向う側の森が宮城であり、左側に鉄塔の立っているのが、気象台だなどと、いらないことまで教えてやった。
「だが、おっと、僕は宮城の方に行かん。そこを左にまがり、すぐ右にまがり、それから真直ぐで」
私は大変いそがしかったが、車は葬式の車のごとく、ゆっくりと走った。おかげで、急ぐために、電車を利用せずにタクシーに乗ったのに、飯田橋から日本橋の室町三丁目まで行くのに一時間近くもかかった。
「だんな、二百二十円です。おつりがないもんですから、キッチリいただけませんか」
素朴、単純氏は、私が車から降りる時、ものおじもせず、そう言った。
「それから、だんな。会社は渋谷にあるんです。帰り道を教えてくださいませんか」
冗談ではない。馬鹿にするな、と言いたかったが、相手はこの私を馬鹿になど、毛頭していないのである。何しろ、単純、素朴なのである。論理的であることを主張する私としては、馬鹿にされてもおらぬのに、馬鹿にするなと言うことも出来ない。何となく相手の顔を見るとニヤリとしたものであった。
読者よ、こういう時の笑いが、苦笑いというものなのである。
しかし、矢張り、精神科の病院で生活をしていると、普通の人よりも、苦笑いをすることが多い。忘れがたい笑いが多いのである。よく、精神病院というと、暗い、陰うつな、くろぐろとした世界を想像しがちであるし、又、精神病は人間の悲惨の象徴のように考えられやすい。
だが、そこに、二十世紀の人間が忘れのこした、もっとも人間的な感情や、皮肉なことではあるが、もっとも健康な深く重味のある笑いが残されているのである。
どこの病院に行っても、精神科の病院で天皇を名乗る患者に出逢わぬことはないであろう。M病院にも二人ばかりいたし、現在の病院にも三人ばかりいる。三人もいれば、南北朝のような争いが起きそうなものだが、そこが平和な世界である。三人がニコニコとほほえみかわすだけで、さざ波ほども波風の立つ気配はない。一人は春日天皇と称し、春風タイトウ、彼の一年の仕事は、われわれ、医者や、看護人や看護婦に、ボーナスをくれることしかない。といっても本当の金などではない。便所で尻をふく時にしか使わないような、最低の浅草紙に、
「医師××。汝に、日頃の忠誠を賞し、ボーナスとして、百万円を与える」
と鉛筆でやっと読めるくらいに書かれたものをいただくのだ。不思議なもんで、毎年、年末になると、春日天皇のボーナスをもらわぬことには、年が暮れるような気がしない。そして、彼なりに、われわれの親切さに応じて、ボーナスを多くしたり少なくしたりする。
「おれは百万もらったぞ」
「あたしは百五十万よ」
役に立たんとは知りながら、全く奇妙なもんで、矢張り、人より少しでも多くもらったりすると嬉しいものである。そして、今年はちゃんと、病院にまで不景気が押寄せているらしく、春日天皇のボーナスが急に少なくなり、最高五十万円どまりであった。
「ちきしょう。今年はいやにケチになったな」私たちはぼやく。ぼやきながら、その十分の一ほどのホンモノのボーナスを日本政府からもらう時、私たちの顔に自然と苦笑いが浮ばぬわけにはいかぬのである。
もう一人は、真正天皇と称している。何しろ名前が真正天皇というのだから、インチキなどと言っては甚だ申し訳ないし、言っても無駄である。
「ね。わしは単なる荒もの屋にすぎなかった。それが、どうしたことかね、或る日、急に天皇にされてしまった」
彼はそう言って、不可解だという顔をした。全く不可思議なことであった。
「まったくケシカランことだ。このわしが真正天皇だと言うんだ」
「誰が、言うんですか」私たちは質問した。どうも、やぼったい質問である。
「誰がって、あんたたちがさ」
「へえ、私たちが」
「そうさ。わしも知らなかったのだが、わしはさる秘密の理由があって、赤んぼうの時にもらわれて来たんだな」
彼は、その出生の秘密をあかした。彼の話によると、戦争前の或る日、国民の態度から皆がその秘密を知って彼に天皇になってもらいたいと考えていることに気付いたのである。そこで、のこのこと二重橋まで一人で行き、中に入ろうとして皇宮警察につかまり、丸の内署に留置され、それから精神科にと送られて来た。
真正天皇はもう二十数年、病院で生活している。彼は現在では、自分から院内の清掃の役を買ってでている。リヤカーで病棟のゴミくずなどを集めてまわる。作業服を着て、誰からもらったか、拾って来たか知らぬ、あなのあいたホテルのボーイの制帽のようなものをかぶり、朝からゆっくりと病院の中をまわって歩くのだ。
「こんな恰好でも、皆はあんたが天皇だとわかるんですか」
「わかるぞ」彼はきっとして答えた。
「じゃ、何故、天皇ともあろうものが、こんな仕事をして、満足していられるんですか。他に大切な仕事もあろうってものじゃないですか」
論理的に矛盾をつこうとして、私はそう言った。
「馬鹿なやつらじゃな」真正天皇は少しもさわがず、あわれむような目付きで私たちを見まわした。「わしが、戦争の時に天皇として軍を指揮しなかった。それで日本は負けたんじゃ。だから、わしは、こうやって国民にかけた不幸のかずかずをつぐなうために、この仕事をやっとるのじゃ」
彼はそう言うと、又、ぼろぼろのリヤカーをひっぱり、ゴミ箱の始末に出かけて行った。彼の後姿を見送りながら、私たちの顔にはやはり苦笑いが浮んで来るのであった。
苦笑いを回想するにあたって、私は上野地下男のことを忘れるわけにいかない。もちろん、その他にも、忘れがたいことが多々あることはある。前に書いたことだが、人間はたった一人になると、いろいろな変ちくりんな癖を出すもので、便所に入って(もちろん小さい用事の方ではない)時間をすごしている時など、いちばん明白である。退屈なのであろうが、フケを落すものがいたり、落書きするものがいたり、紙を使って、飛行機を折ったりするものもいる。私が小さい時は、どうしたことか、あそこに入ると、調子っぱずれの歌を歌ったものだ。それを私の母親などは今もって忘れないでいて、
「お前が小さかった時には……」
などと話すことがある。こんな場合に苦笑いせずに、何がしていられようか。だが、上野地下男の話ほど、私に苦い笑いを思い出させるものはない。
上野地下男とは、もちろん仮名である。だが、これは作者が小説の中でつける仮名ではなく、実際に私たちは彼をその名で呼んでいたのであった。
左程遠い昔でもないが、未だ東京のあちこちに浮浪者がいた時のことである。時々警察がかりこみをして、その中に精神病の患者を見つけると、病院におくりこんで来た。キンケリのお富なども、その一人であった。だが、中には名前を聞かれても、自分の名前を言わぬ者がいる。あるいは、天皇だと言って、本名を言わぬ。
そんな時、警察は勝手に、本人に相談もせずに、名前をつけては、私たちの所にまわして来た。
銀座ナミなどというのは、銀座の並木道の下で見つかった女の子で、なかなかロマンチックな名前で、警察にもセンスのあるものがおるわいと感心したものだ。板橋歌子というのは、板橋で歌を歌いながら歩いていた子だ。そうかと思うと、大井歌子などという患者もいる。これも歌を歌っていたのかと考えたら、チャンとした本名であった。名前というものはおそろしい。
ということで、読者もおわかりだろうが、上野地下男というのは、上野の地下道でかりこみにあった男だったのである。
病院に彼が来た時、私は彼がオシでつんぼであることを知った。
彼が紙とエンピツを要求し、そして自分は耳も聞えぬし、口をきくことも出来ぬと書いたからだ。だから、これから記す会話は、全く音の無い、静かなものだったのである。
「名前は?」
「上野地下男でいい」
「どうして? 本当の名前があれば、それを言え」
「事情があって言えぬ」
「そうか。それで、オシは、生まれつきか」
「いや、戦争からだ。空襲の時、すぐそばに爆弾がおちた。それから耳も聞えなくなったし、口もきけぬようになった」
「すると、その前は」
「その前はちゃんと話も出来た」
おかしい、と私は思った。耳を調べると、一方の鼓膜に穴があいていた。それは確かであった.が、一度、しゃべれた人間が、耳がつんぼになったと言って、オシになることはない。これは変だ。こういうオシは、爆弾の音などのショックでなったヒステリー性のものが多い。戦後十数年オシで通って来た人間だが、治療によっては、奇蹟のように再びしゃべらせることも不可能ではない。そう、ちらっと考えた時から、私は、この男に強い興味を持った。これが成功したら、立派なもんだぞ、学会へ報告するに足る、私はそう思った。
「ぜんぜん聞えぬか」
「蚊の音も聞えぬ」
「静かでいいな」
「うむ。静かだ」
鼓膜にたとえ穴があいても、骨伝導《こつでんどう》というものがある。少しはきこえる筈だ。ますますヒステリーくさい。
「それで、戦争が終ってから、何して来たか」
「苦労したな」
「そうだろう」
彼は私の顔を見つめ、私は同情にみちた表情で彼を見返した。
「最近は何をしていた」
「コックだ。中華料理の」
「上手か」
「上手だぞ」
「何が得意だ」
「ラーメンなんか、作れる」
「今度、ごちそうしてくれ」
「OK」
こんな風に彼と私は静かな会話を続けた。名前を言いたくないのは、つい最近、熱海で女と心中をしたが、彼だけが助かった。自分は、もう一度死にたいと思うが、そんな事情で、女の親に彼が助かったことを知られたくないからだということだった。二人は結婚したかったのだが、女の親に、彼がオシであるという理由で反対されたのだ。
話を聞くと、私は更に彼に興味を持った。
「お前は、本当にもう一度自殺したいか」
「したい」
「何故」
「女が死んだ。おれには、人生にもう意味がない」
「お前は神をどう思う」
「神などない。あんたは信じとるか」
「信じないが、あるかも知れぬ」
「ないな」
「お前は、オシがなおっても信じぬか」
「なおる筈がない」
「なおったら、もし、なおったら」
「その時はだな」上野地下男は、そこでしばらく考えこみ、そして、ためいきをついた。「お前が、おれのオシをなおそうと思ったら馬鹿だぞ」
「馬鹿でもよい」
私たちは幾日も続けた。それは私にとって忘れることの出来ぬ会話であった。そして、その間、私は彼に何とかして、話を、声のある話をさせてやろうと思った。
学問的なありとあらゆる治療法を用いてみたし、非学問的な方法、たとえば、ワッとおどかしてやるなどの方法も用いた。だが、彼はミミズほどの声もあげなかった。
私は或る日、ホールで患者とまじってテレビを見ていた。それは、昔の歌のリバイバルの番組だった。患者のなかには、一緒に、メロディーを口ずさむ者がいた。ところが、私がふとふりかえると、上野がいる。そして、私は、私の後で、歌を、低い声で歌っている声を聞いたような気がしたのだ。
私は何気なく、テレビを見続けるふりをした。だが、確かに上野の声にちがいない。低く、かすかな、聞きおぼえのない声が、昔の歌、テレビの中で歌われている歌を口ずさんでいる。すると、彼の耳は聞えている筈なのだ。その瞬間、私はパッとふり返ると、彼の両腕をつかんでゆさぶった。
「お前は声を出しているぞ。お前は歌っているぞ。オシなんかではないのだぞ」
上野は、だがぽかんとして私を見つめた。何を言われているのか、全くわからんという顔で。だが、その瞬間、もうすぐ、この男に声を出させてやれるぞと思った。
その次の日であった。私の所に電話だというので、受話器をとりあげた。
「モシモシ、どなたですか」
「おれだよ」
「おれではわからん。誰だね」
「おれさ。上野地下男ってよばれてた男さ」
「あんたか、しゃべれるようになったんだな」
私は変な不安に急におそわれながら答えた。外線の電話だ。すると彼は逃げたのだ。せっかくなおったのに。
「しゃべれるようになったかって。冗談じゃねえ。おれはもともと、オシなんかじゃねえよ」
「何だって」
「俺はオシじゃなかった。つんぼでもなかったんだ」
「そうか」
私はその時ほど長くためいきをついたことはない。
「長い間、世話になったが、あばよ」
「うむ。だが、自殺だけはするな」
私は彼が死にたい、と言っていたことを思いだして、そう続けた。
「あんなこと、信じていたのか。お前は、馬鹿だな。お前が入院した方がいいぞ。あんなことは、みんな嘘っぱちだ」
「こら、お前はどこにいる」
私はヤケになってどなった。
上野は、実は麻薬中毒の患者だったのだ。注射を少し強くやられすぎ、フラフラとしているところをつかまったのだ。それで、麻薬のことをごまかすために、一芝居をうち、私はそれにシテやられたのである。
私は、そのことを思い出すたびに、苦笑いする。何故って、怒るわけにもいくまいではないか。相手には逃げられた後なのだから。くやしいから、それ以後は麻薬中毒には絶対ごまかされぬことにしている。この間も、一人に泥をはかせたが、しかし、その時すら、私は矢張り上野地下男のことを思い出す。そして、苦々しい笑いが、私の表情に浮ぶ。
だが、泥を吐かされた男の方はそれを知らぬから、それを不敵な、うす気味悪い笑い顔と思うらしいのである。
親子というもの
私は、ごくあたりまえのことだが、生まれた時は子供であった。親子の子であった。これが、あたりまえのことはわかっているが、しかし、その子供が、いつか親になるということは、読者よ、決してあたりまえのことではないのである。十八にして母親になる女もあるし、四十になっても、父親になることのない男もいる。
私は決して、親になどなりたくないと思っていた。なぜかといえば正直に告白すると、私は余りよい息子と申せなかった。そして、親にかずかずの悩みをあたえて来た。それで、親というものが、どう考えてみても余り割のよくない商売であることを充分に知っていたからであった。
私は子供の時に、母親に決して「おばあさん」になどなってくれるなと頼んだ。母親は、そんな無理なことを言っても困る、お前たち子供の誰かが親になれば、自分はどうしても「おばあさん」にならなければならぬのだと答えた。母は無理を言うなと言ったが、私の方は、それがはなはだ不合理なことであると考えたのである。それもあって、私は家内に子供が出来たと告げられた時も、どうも自分が親になどなっては、何だか申し訳ないような気がしたし、又、なんとかして親にならずにすますことは出来ぬものであろうかと考えた。
そこで家内に、
「子供が出来たというが、この私が本当にその子供の親なのであろうか」
と私は言った。だが、別に特に他意はなかったのである。しかし、
「何よ、トボけたことぬかして、誰の子かって、あんたの子じゃなければ誰の子だっていうのよ。それとも、あんたがそのつもりなら、誰か別の人の子供をうんでもよくてよ」
家内に私はどなりつけられた。女には、私のような男の複雑な気持は、よく理解出来ぬものと思われた。私は、家内に何も無理をするには及ばぬと答えた。ともかく、子供が生まれるまで、私は生まれて来た子供が、私を「オヤジ」などと呼んでくれず、「アニキ」とでも言ってくれぬものであろうか、とつまらぬことを考えたりしていたのである。
私は、同僚にくらべると、若くして結婚した。そして、早く父親になった。なると言っても、なろうとしてなったわけでもなく、ある種の手違いから、無理に父親にならされてしまったのである。そもそも、家族計画などというものは、私のような医師たちが、一般に指導するものだが、指導する人間の方がしばしば失敗しても、決しておかしいことではないのである。教えた先生よりも、生徒の方がえらくなることが、ごく当然のことのようにである。
同僚にどうしたかと言われ、
「やっ、失敗した」
とか、
「うむ、失敗だ」
とか言っている間に、私はいつの間にか三人も子供を持つことになってしまった。その私の子供を見て、子供ってやかましいものだなとか、赤くって妙に動いて、頭が奇異に細長くて化物みたいではないかなどと、雑言をのべ、結婚をするのはいいが、子供ってのはな、などと言っていた連中が多かった。彼等は、教授室の、教授の大切にしまっているウイスキーを盗み出すことばかり考えたり、新宿の通りの真中でプロレスを演じたり、酔って自動車のライトを掴みたがったりすることに夢中で、そもそも、父親などという柄ではなかったのであった。それらの男がどういうわけか結婚して、一年もたたぬうちに、子供を持って、
「カワイイモンダゾー」
などと言うのを見ると、私はしばしば、ためいきをつきたくなるのである。
私の兄弟は三人だが、全部男である。両親は大分女の子が欲しかったらしい。しかし、ついに女の子は生まれなかった。その息子三人が結婚して、子供が出来たが、それが、どこもここも女であった。兄たちは一人で諦めたようだが、諦めの悪い私だけが、失敗した、又、失敗だ、などとわめきながら、三人まで続けて来た。しかし、それが、全部女だったのである。つまり、私の両親にしてみると、子供は全部男であったが、孫の代には、女しかおらぬことになる。私はよく皮肉な男であると言われたり、考えられたりしているが、考えてみると、神様というものは、私などより、ずっと皮肉である。私など、てんで問題にならぬのである。
私が育てられた頃、日本ではスパルタ式の教育というのが流行していた。私の両親も、私たちが子供の頃には、このスパルタ、スパルタを連発したものだ。
当時、日本は軍国主義の国であり、国粋主義が叫ばれていた。野球のセイフ、アウトまで、ヨシ、ダメなどという日本語を使わねばならぬことになっていた。それにもかかわらず、教育のみ、何故にスパルタがひっぱり出されて来たのか、私は理解に苦しむのである。しかし、流行というものは、そもそも非合理的なものだ。戦後、物が不足して、もちろん布地も不足していた時代に長袖やロングスカートが流行し、最近のように物がありあまり、布地がやすくいくらでも買えるようになった時、ビキニのように極端に布地を節約した水着が流行する。そして、女がヘソを出して恥じない時になって「お前、ヘソねえじゃねえか」などというコマーシャルの文句が流行する。読者よ、流行とは不合理なものであり、不可解なものではないか。奇々怪々である。私のような単純な頭の持主には、どういうことになっとるのか全くわからぬのである。
ともかく、その頃はスパルタ式が流行であって、私たちはおそろしく厳しく育てられたのであった。私たちは、家でも学校でも、ゲンコツやビンタなどをよくもらった。お灸をすえられたこともある。にもかかわらず、私の父などは、スパルタ、スパルタなどと口にしながら、スパルタがどのへんにあり、いかなる時代の国であったか、不思議と、全く知らなかった。
「おやじさん。スパルタ、スパルタ、というけれど、スパルタって、どこの、どの時代の国だか、知ってんですか」
私がそう言うと、
「馬鹿、知っとるものか。知らぬから、お前たちが、何でも知ることが出来るように、学校にやって勉強させておるんじゃないか」
父は答えて、ゴツンと私はやられた。知らない人間に、知ってる人間が、馬鹿などと言われてゴツンとやられる。どう考えても、理解しがたい。不合理である。
「知らなければ言いますが、スパルタはギリシャ語で本当はラケダイモンといい、ペロポネソス半島に、二千年前にあった都市国家なんです。そりゃ、確かに厳しい教育でも有名な国だったんですが、何しろ軍国主義の国で戦争ばかりしとったので、若者が少なくなり、ほろんでしまったんです」
父はそれに対して、なんだ、学校でそんなつまらんことを習っとるのか、もう少し、ましなことを覚えてこい、と言い、もう一つ、ゴツンとやった。
母も亦、立派なスパルタの母であった。彼女は子供は、頭をぶつと馬鹿になり、そのため、更にロクでないことをするようになると困るからと、女としては珍らしく論理的なところを示して、もっぱらお尻をぶった。そして、手が痛くなるとぼやいていた。私は、どうせ叩くなら、手で叩かず、まきざっぽうなどを探して来て打ったらどうか、と非常に親孝行なところを示したのである。しかし、母は、私の親孝行など理解しなかった。
「馬鹿お言いなさい。まきざっぽうなど探していた日には、すばしっこいお前たちだもの、その間に逃げっちまうじゃないか」
と言って、相変らす素手でピシャピシャとやった。読者よ、どうも日本語は饒舌《じようぜつ》である。ピシャで充分であるのに、ピシャピシャとぶつ。キーで充分なのにキーキー声をはりあげ、ブーでいいものを、ブーブー不平を言う。ニコッと笑えばすむものを、余計にニコニコしてしまい、怒ってカッカッしたり、プンプンしたりする。絶対に、これは饒舌というものである。なにしろ、スパルタの母までがピシャピシャぶつのだ。スパルタ式というのは、しつけだけの問題ではない。スパルタ地方の人間は、表現の簡潔なことでも有名であったのだ。スパルタのあったのはラコニヤ地方で、ラコニヤ式表現と言えば、簡潔きわまりない表現、或いは寡黙であることを意味するのである。スパルタ式だったら、ピシャッとひとつで充分なのである。何もピシャピシャなどと饒舌でなくともよいのである。だが、残念なことに、日本のスパルタ式は、そこまで徹底していてくれなかったのである。
私が、このギリシャ古代の小国に、今もってうらみを抱いているのは、このような理由によるのである。
私の両親は、親である時代にはスパルタ式でとおしたが、祖父母となると、一転して、スパルタ式を廃業してしまった。そして、私は親となると、少しは子供に対してきびしくしなければならぬと考えたのだが、その時になると、私の両親は、
「お前、子供に少しきびしすぎるのではないかねえ」
などと言い出すしまつであった。
私は正直に言って、大分いたずらな子供であったし、数々の手におえぬ悪事をはたらいて来た。
私が七、八歳の頃のことであった。或る日、私は近所の子供とどろんこ遊びなどをしていた。何のことはない、ドロンコで、だんごなどを作っていたのである。
だんごを作るには水がいる。私は近所のガキどもの間では大将であったから、そこにいた一人に水を汲んで来いと命令した。彼は表面、従順に、牛乳の空びんに水をいれて持って来た。その水には少々色がついていたが、池の水でも汲んで来たのであろうと気にもかけず、それで立派なまるい大きなドロのだんごを作ったのである。すると、その子は、牛乳びんの中の液体は、実は彼の膀胱《ぼうこう》から出たものであると言い、
「エンガチョオ、エンガチョオ」
と、この私を大声にはやしたてたのである。それを聞くと、私のまわりにいたガキどもは、一時に周囲にぱっととびちり、遠まきにして、同じように口々にエンガチョオと叫びだした。私は、このエンガチョオなる言葉が、正確に何を意味するものかわからぬ。日本の不完全な字引には、この言葉はのっておらない。字源の著者も、辞海の著者も知らぬと見える。この言葉は、子供の世界では、ある種のタブーをおかしたものに対する、のろいの言葉であるらしい。セックスに関するものから出発したらしいが、実際には犬の糞を踏んだものもエンガチョオであり、その人間に触れてもエンガチョオである。このしきたりは、現在の子供の間にまで続いているらしく、私の子供たちも、遊びながら同じようにはやしたてているのを耳にすることがある。すると、少なくとも三十年以上は、用いられて来た言葉だ。字引にのせぬのは、ケシカランことだと言わねばならぬ。
エンガチョオなどと言われ、皆に逃げられた私はフン然としたのであった。何たる恥辱であろう。このような反逆的行為は絶対に許さるべきことではなく、必らず復讐されねばならぬことだ。私はそう思った。
私はくだんの子供の家に行った。そして、何か、復讐のために役立つものはないものか、と探したのであった。ただの復讐ではだめである。立派な復讐でなけれはならぬのである。読者よ、決して希望は失ってはならない。私は、素晴らしい復讐の計画を見つけたのであった。
彼の家の裏にまわると井戸端があった。そして、そこに、タクアンでも漬けようと、洗って日にほしてある樽があった。
「これ、これ、これである」
私は大きくうなずいた。
「これ以外に、自分の受けた恥辱に適当な復讐はありえぬ」
私は樽の中に小便をし、それを知らずに彼の母親が樽にタクアンを漬ける。そして、くだんの仲間の子供がタクアンを食べたと聞いた時に、私は思いきり大声に言ってやろう。
「エンガチョオ、エンガチョオ」
私はそう考えたのであった。考えると、すぐに行動にうつった。しかし、その直後に、私の予期しないことが突発したのである。樽が、まるで太鼓でも叩いたような大きな音を、タンタラララタンと立てはじめたのだ。瞬間的に、これは少々マズイことであると気付いた私は、ただちに行動の一時的中止を考えたのであるが、中止がいかに困難であるかも知ったのであった。そして、すべてが終りきらぬうちに、私は背後から、敵の母親から首根っ子をぎゅうと押えつけられる羽目となったのである。そのとたんに、とまるべきものがピタリととまったのは、まことに驚くべきことと言わねばならぬ。
「まあ、いったい、この子供は、何てことをするんでしょう」
敵はヒステリー女のキャンキャンと上ずった声でそう叫んだ。
「少しは考えたらいい。ほかにやるところはいくらでもあるというのに、どうして、えりにえらんで、私の漬物の樽にやることがあるんでしょう」
ともかく、不名誉なことであり、余り恰好のいい図ではないことを承知していたが、つかまってしまったのだから仕方がない。叱られること、少々痛い目にあわねばならぬであろうことは覚悟していた。しかし「少し考えたらいい」と言われたのは、私としては不服であった。えりにえって、樽にやったのは充分考えたからやったので、考えなかったら当然、別のところにやっている。そんなことに思い当らぬ方が、考えに不足しているというものだ。そればかりではない。そこまで考えれば、私のやむにやまれぬ復讐の事情を知ろうとすることも出来たであろうし、そこで自分の息子の悪事も当然知ったであろう。にもかかわらず、私が、いかなる考えのもとに、このような行動におよんだか、説明しようと、
「実は……」
と言い出そうとしたとたんに、
「何て、図々しい子でしょう。今さら言いわけなどしようなんて」
またまた、キャンキャンと叫び出すのであった。私は、すでにその時から、人生の不条理について悟ったわけで、サルトルやカミュよりも、その点でははるかに先輩ということになる。ともかく、今さら逃げもかくれも、ごまかしも出来なかった。そして、どろぼう猫が現行犯でつかまって、飼主につき出されるような姿で、私がわがスパルタの母の前につき出されたのである。
「まあ、お前は、いったい、お前は」と母が言った。そう、何度も「お前」と繰り返されても、こちらとしては返事に困る。「何を考えてんのかね。そもそも、何をしたっていうの」
相手の母親から、いちぶしじゅうを聞いて知っているのに、何をしたか、などと質問するのは愚のコッチョウである。そう思ったが、口に出すのはやめにした。何を考えてんのか、などと言いながら、私が考えたことを説明しようと、口を開けば、母もまた、今さら言いわけなど聞きたくない、と主張したであろう。だから、私は何も言わなかった。いや、一言だけ言ったのである。
「いわく、言いがたし」
そのとたんに、ピシャリとやられた。これこそ簡潔であると思ったが、そのあとが、いけなかった。ピシャリ一回なら簡潔でスパルタ式の名にあたいすることも出来ようが、ピシャリピシャリと三十三べんも繰り返すのは、何度も言うが、饒舌というものであり、絶対スパルタ式ではないのである。読者よ、心にとめられるがいい。
ともかく、日本語は、近来、簡潔を尊ばず、語呂を大切にするようである。ピシャリひとつでは語呂が悪いから、ピシャリピシャリ叩くことになるらしいが、語呂で叩かれるのは、叩かれるものにとって、不幸であり迷惑であると言わねばならぬ。
私は母に充分ぶたれたのであった。父が帰って来たのは、私が風呂に入っていた時であった。母の報告を受けると、このもう一人のスパルタ主義者は自分も、このケシカラン息子を叱らねばならぬと思ったらしい。
「ちょうどいい。風呂に入っているなら、わざわざ尻を出させる必要もない」
父はそう言い、本人がもう充分だとわめいているのに、もう一度あらためて私を罰したのであった。
饒舌、あまりにも饒舌であった。読者よ、私は悪事を働いたが、そのため当然受けねばならぬ罰をごまかして逃れようなどという、いさぎよくない子供ではなかった。しかし、この時ばかりは、あまりと言えば、あまりであった。そこで、私としては、あとにもさきにも、それが一回だけであったが、家出をしたのである。とは言いながら、「来たるに来所なく、去るに去所を知らず、カーッ」などという、禅坊主的な悟りをひらいたわけでもないので、家出をしても、どこに行くあてもないので困惑した。あてがなければ、どこに行ったところで同じだ。ながく歩くだけ損であろう。そこで、私はすぐ物置の中にとびこんだ。私は実を言うと、物置の中に家出したのである。
私が家出すると、両親は大分心配したらしい。何しろ、こちらは物置の中にいるのだから、両親やら兄たちが、私の名をよんで、あちらこちらを探しまわっているのが、すっかりわかった。
そのことを思い出すと、私は、つくづく現代の子供たちは、甘やかされすぎていると考えざるを得ぬ。教育的環境は、今や、話し合いムードなるものによって、ぬりつぶされているかのごとくである。そして、スパルタなどという言葉は、どこに消え去ったか、見あたらなくなってしまった。
私が親にされてしまってから、八年以上になるが、はじめのうちは、親であることに居ごこち悪く感じていた私も、次第に、それらしい恰好がそなわって来たようである。そして、最近では、ものずきにも、この私に、父親はどうあるべきか、などと意見を求める人間もあるくらいで、私としては、実に感慨無量であり、自分で自分が信じられぬくらいである。
当人が、どうも自分で親であることに疑問をいだいている時、その私の親から見れば、なおさら信じがたいことであろうことは、私にも想像がつく。しかし、このことは、しばしば、混乱の原因となるようである。私は、親となり、子供を持つにおよんで、子供は少々きびしく育てねばならぬように思いはじめた。親になって、両親の苦労がよくわかるというが、なるほど、二人が二人ともスパルタ、スパルタなどとわめいていたあの気持、よくわかるわい、と思いはじめたのである。親となれば、子供に対して、威厳も貫禄も持たねばならぬし、尊敬も受けねばならぬ。そのためには、矢張り、時にはオシリをぶつことも余儀ないことである。大声も出さねばならぬ。ともかく、私は親として、それなりの努力をした甲斐があって、子供には威厳も貫禄もそなえた父親らしく見えるようになったらしかった。
一年ほど前のことである。私の娘どもは、ドロンコ遊びに情熱をもやしはじめた。ほかにオモチャもあるのに、水とドロンコという、ただのようなもので遊ぶ。私がドロンコ遊びをしたのは、物の無い時代のことで、買ってもらおうにも、あまりオモチャなどなかったから、ただのドロンコで遊んだのだ。ところが、オモチャが、箱いっぱいあるというのにドロンコで遊ぶ。これは、理解しがたいことであった。そして、私の姿を見ると、そのドロだらけの手をふりまわしながら、
「パパア」
と私にとびつこうと、かけよって来るのであった。
「コラッ、又、ドロだんごか。お前らもものずきすぎるぞ」
それを見た私は、父親の威厳にみちた声で言った。ところがである。長女は、私をジロッといちべつすると、
「パパ、小さい時、ドロンコ遊びしなかったっていうの。私と同じ年ぐらいの時に」
と言ったのであった。それを聞くと、私はギョッとし、不吉な感じにとらわれた。
「今日、おばあちゃんが来たのよ」
次女が悠然《ゆうぜん》と大きなだんごを手のひらでまるめながら、言った。
「さすが、親子だねって、おばあちゃん、感心してたよ。パパ、さすがって、どういうこと」
末の娘が、ませたことをぬかした。こういうのをコシャクなことというのである。
「くだらんこと、言っとらんで、ドロンコ遊びなど、品のない遊びはいいかげんでやめにしろ」
私は言って、家に入りかけた。その私を長女がよびとめた。
「パパ、ドロだんごが品がないのなら、タクアンの樽にオシッコするのは、どういうこと」
私は一瞬、返答に窮した。すると、娘どもは勝ちほこって、
「パパ、みんな聞いちゃったぞ、おばあちゃんから」と口々に叫び、「パパ、エンガチョオ」とはやしたてたのである。
「パパの話、近所の人に話してやろうかな、でも、パパ、可哀そうだね。やめといてやるよ」
図にのった長女は、私にさも恩きせがましく、そうぬかしたのであった。
読者よ、これでは、もうスパルタ式など、問題にならぬではないか。こうなると、威厳も貫禄もへちまもない。
私は大いに母をうらんだ。その記憶のよさをうらんだ。母がスパルタ式を、おばあさんになると同時に廃業したのは、全くどういうことであろう。そして、スパルタ式を忘れながら、饒舌なのが相変らずなのは、困ったことである。その反対であるのなら、これにこしたことはないのであるが。
読者よ、真のスパルタ人が、寡黙であった理由が、わかるような気がするではないか。
親というものは、実に辛い商売である。私はウソをつくのは嫌いであるが、子供や女を相手にすると、その嫌いなウソを、しばしばつかねばならなかった。前にも書いたことがあるが、ウソというものは、多くの場合心ならずもつくのである。しかし、何の後悔もなくついてしまうものなのである。
クリスマスに、サンタクロースがおくりものを持って来るなどという見えすいたウソ、大ウソを、親と名のつく人間でつかなかったものはあるまい。これにくらべれば、会社の用事だなどと、途中の寄り道の理由のウソをつくことは小さいことである。子供をそだてる間に、親はいったい、どれくらいのウソをつき続けなければならぬか。読者は想像されたことがあろうか。時たま、本当のことだからと、タクアンの樽の話など持ち出しては、本来、ならぬことなのである。こうして、ウソの上にウソを重ねている親たちが、子供にむかって、
「本当のことをお言いなさい。ウソを言うとエンマ様に舌をぬかれます」
と、お説教をしたところで、どれだけの効果があるものか。私は、むしろ、本当は時々いうものと、考えている次第だ。
歯にまつわるウソは、私と家内が子供についたウソの中では、かなり苦労したものに属する。そもそものはじまりは、長女が六歳の時、歯がぐらぐらになったことからだ。
ある朝、長女が心配そうに、上側の前歯の一本がぐらぐらだと言った。
「さあ、大変、歯が抜けると、おばあさんになっちゃうわよ」
お手伝いが、ちょっとばかりからかってやるつもりで、そう答えた。長女は大変オシャレである。カッコイイということには、想像出来ぬくらいの執着がある。歯がぬけると、おばあさんになる。おばあさんはカッコが悪い。それ故、絶対、おばあさんになりたくない。そのためには歯がぬけては困る。そう考えて、これは重大なことであると思ったらしい。私が、少しどの程度か様子を見てやろうと思い、
「アーン、と口をあけてみろ」
というと、パパは抜こうとするから駄目だと口をあけない。抜かないから、と約束したが、さわるとぐらぐらがひどくなるから、とさわらせない。じゃ、見せるだけでいいと答えると、家康のごとく疑い深い長女は、三メートルほど離れたところで、アーンと口をあいた。これでは、どうなっているか、さすがの私にも、わからなかった。
それから、長女の、その歯を失うまいという努力が続いた。前歯を物を食べるには絶対使わない。なにしろ、ウドンですら奥歯でかみきる用心深さである。タクアンやカマボコは問題なく、猫のように首をまげて奥歯でかむ。長女がトウモロコシが大の好物であるのを知っていた私は、家内と相談して、これで行こうということになった。
くわしく話すと、その歯がぐらぐらになりだすと、間もなく、私は十一カ月ほど外国に出かけた。それで、手紙で家内と連絡して相談したのが真相である。手紙でトウモロコシ作戦を提案した私は、どんなものだ、頭はこんな風に使うものだと、少なからず得意であった。次の手紙には、きっと、歯が落ちたと書かれているにちがいない、と私は確信していた。ところが、敵もさるものである。一番大きなトウモロコシをつかんでおきながら、奇蹟的に、前歯に触れさせることなしに、きれいに平らげた。そればかりではない。私が約一年ぶりに日本にもどって来た時にも、長女の歯は未だ口の中にあったのである。
あとから出て来る歯が、おかしな方向に生えて来ても困る。どうにかして、抜かさせなければならぬ。そこで、家内が思いついたのであった。私のところでは、それまで、子供にお金を一円も持たせたことがなかった。子供はほしがったが、だめだと言って来た。
家内はフランス人だが、フランスでは、子供の歯がぬけると、それを枕の下に入れておけば、眠っている間にネズミがひいて行き、かわりにお金をいくばくか持って来てくれるというのである。ものずきなネズミだ。長女も、お金がほしくてほしくてたまらぬ時だ。その話をしたら、お金ほしさに、歯をぬかせると言うかも知れぬ。それが家内の考えであった。私も、それを聞いて、まあ、やってみろ、という気になった。かくして、それから次々と、私も、そのネズミと歯のいざこざにまきこまれるような羽目になったのである。
夕食の時に、家内が、その話をすると、長女はフーンと言ったが、余り反応を示さなかった。これも、失敗か、と、私は思った。ところが、意外な反応が、別のところで現れたのである。次女は、たいへんな慾ばりである。無口な方で、日頃、あまリ目立たぬ。この次女が、「ネズミ、お金」という話をきいて、じっとしていられなくなった。彼女はひそかに、自分が未だ丈夫で立派な前歯を、指でおしたりひいたりして、ぐらぐらにさせようとしはじめたのであった。これには、いささか私もあわてて、そんなことをしてはならぬと叱ったが、この時、次女はいとも悲しそうに、大声をあげて泣いた。ああ、親が子とつき合うことの、何とめんどうなことであるか。
長女はというと、彼女はなおも頑張り続けていたが、それでも遂に歯医者に行くことを納得するにいたった。歯医者が、その問題の歯をピンセットでつまむと、その歯は、まるで大根の芽を抜くよりも簡単にとれたそうである。そればかりではない。そのならびの歯も、歯医者が試みに引いてみると、それも亦ずるずるとぬけてしまった。歯医者は何も知らぬので、その歯をポイポイと、汚物箱の中に、すててしまった。
その時になって、長女は、ネズミとお金の話を思い出したのである。彼女は、以前から、歯医者が金持であるのを知っていたが、今となって、何故かわかったと主張した。私と家内は、その長女をなだめるために、枕の下に、歯のあり場所までの地図を書いて入れておけば、ネズミが自分で探しに行くであろう、と言った。そして不思議なことに、そうしておくと、ネズミは字が読めるらしく、地図がなくなり、お金が翌朝、ちゃんと枕の下におかれていたのである。
それを見ると、次女の執念は、いよいよ激しいものになった。執念とは、まことにおそろしいものであって、彼女の歯も、ついにぐらぐらになった。
「パパ、あたしの歯、ぐらぐらになったわよ」
ある朝、五時頃、次女にそうゆり起された私は、目の前に、何とも嬉しそうな彼女の顔を見たのであった。更に、彼女は、歯医者代を私に節約させるため、私が糸をゆわえつけて引っぱるのを許すという、勇気のあるところすら示したのである。私は木綿糸をつけ、思いきりひっぱってやった。
「ヤーッ」
これは、私のかけごえである。コツッ、という、僅かな手応えがあったが、糸の先には丸い輪があるだけで、歯は、ちゃんともとの場所にのこっていた。その瞬間、少しは痛かったらしい。だが、次女が泣いたのは、痛みのためではなかった。歯がとれなかったことを知ったからであったのである。彼女は私が歯一本まともに抜くことが出来ないで、それでも医者かと、ため息をもらした。
それでも、しばらくすると次女の歯は落ちた。よその子と衝突して、泣虫の次女は大声をあげてないたのだが、歯がとれたのを知ると、とたんに泣きやんだ。そして、その歯を持って、一日中御機嫌であった。長女の歯のような虫くいの歯とちがって、自分のは、未だ余りいたんでいない立派な歯だから、三本分ばかりネズミもふんぱつしてくれるにちがいない、そんなことを、ネズミのいそうな場所にむかって、つぶやいていた。
彼女は、その歯を持って、バレエのおけいこに行ったのだが、踊りの間、それをちょっと椅子の上に置いておくと、何しろ小さいものであるから、帰って来ても見当らなかった。さあ、大変で、彼女は大声で泣く。泣きながら、歯がなくなり、ネズミがお金を持って来てくれぬ、というのだが、まわりの人間には「ネズミ、ネズミ」という言葉しか聞きとれぬ。それで、みなはネズミが出て、次女がびっくりして泣き出したのかと思ったので、床の上に四つ這いになり、椅子の下にネズミがおらぬか探しまわった。そんな大騒ぎをさせたが、無事に歯は見つかり、次女の手もとにもどったのである。
読者よ、この歯の話は未だ続くのである。そもそも、未だ終っていないのだから。それからしばらくして、長女は学校の理科の時間で、歯の勉強をすることになった。そして、先生が、誰か、最近抜けた歯があったら、それを教室に持って来いと言った。その頃、長女もぐらぐらの歯があったが、それを早目に抜くのは、彼女としては困る。しかし、先生に言われたとなると、歯を持って行きたい、そこで要領のよい彼女は考えたのである。彼女は次女にむかって、来週の理科の時間までに、次女の歯がぬけたら、自分は、自分の歯のためにネズミからもらったお金の半分にあたる百円をやる。理科の時間が終ったら、その歯をちゃんとかえすから、そのあとで、ネズミからもお金をもらえばいい。そうすれば次女は、一本の歯で、労せずして一本半分のお金をもうけることが出来るであろう。
次女の方は、何と言っても、慾ばりである。そして慾ばりは単純である。それを聞くと、次女は、すぐに、又、自分の歯を押したりひいたりしはじめたのだ。長女は、しめしめという面持でそれを見ていた。実のところ、次女の歯は、確かに抜けそうになりかかってはいたが、何もそう急ぐことはない状態にあったのだ。ともかくも、慾の執念はおそろしい。次女の歯は思ったより早くぬけてしまった。だが、長女の理科の時間には間に合わず、その次の日にぬけたのだ。その歯を見つめている長女と次女の顔には、残念という表情がありありと見られた。
末の娘は、上の二人の歯の話を聞いていると、くやしくてならぬ。自分の歯の抜ける見込みがないからで、それ故、お金をもらう見込みが全然ないからである。そればかりではない。彼女は、自分の歯の数が上の姉たちよりも少ないことを知った時は仰天した。そんな馬鹿なことがあろうか、と思ったらしいが、彼女には未だ生えていない歯があったのである。
人間、子供であっても、窮すれば智慧は働かせるもので、末の娘はよその家に行き、誰かお金を貸してくれるものはないかと、聞えよがしにつぶやく。自分にはこんなに歯があるから、ネズミのおかげで、充分お金持になれる。だから、貸しておいても絶対安全だと。ずいぶんませた子供だと、親の私すら思うが、末の子供に智慧がつくのが早いのは、こうした状況におかれ、窮すればなんとかで、いろいろなことを考えざるをえぬからであろう。
その後、友人の家から猫の子を貰う話があった。娘たちは、前から猫を飼わせてくれと、私たちに要求していたのである。だが、お手伝いが猫が嫌いで、そのために、飼わないで来たのである。ところが、猫を貰って来るという時になって、急に次女が泣きだしたのであった。猫が来ると、ネズミが出てこられなくなる。すると、歯のお金を持って来てもらえなくなる。そう言うのであった。私たち親としては、お金を持って来るネズミは、ばけネズミであって、そこらにいるネズミなどのように猫がこわくなどないのだ、などと、苦しい説明をさせられた。
ウソを一時だけ言うのは簡単だが、そのあと、アフターサービスなどをして、ウソの上にウソを重ねて行く、あちこち破れかけたウソを繕《つくろ》って行く。そして、つじつまを合わせる。こんなことをしている間に、私はウソがうまくなってしまったのではなかろうか。
読者よ、私は昔、子供であることも辛いことだと思ったが、親であることも辛いことだ。結局、スパルタ式であろうが、日本式であろうが、フランス式であろうが、親子というものには、この辛さがつきまとう。しかし、親子が好んでなった関係でないので、不満も余り目立たないのではなかろうかと思うのである。
回想というもの
私は三十代の後半の人間である。自分自身では、未だ充分に若いと思っている。表現が正確でないのなら、未だ、それほど年寄りだと思っていないと書き改めよう。このような人間が、回 想《メモワール》などという題で物を書くのは、われながら滑稽なことだ。しかし、読者よ、人間の記憶は短い。おそろしくなるほど短い。
「ああ、フランス国民よ、君らの記憶の、何と短いことか」
第二次大戦中、フランスがナチス・ドイツに敗れ、ヴィシー政府が出来た時、その主席となり、戦後は戦犯として裁かれたペタン元帥が言った。彼は、第一次大戦ではヴェルダンの戦いの勝者であり、フランスを救った英雄でもあったのである。
全く、彼の言葉は、今の私にとって、身にしみる言葉だ。戦争、平和、勝利、敗北、それらの事件が一生の間に繰り返され、毀誉褒貶《きよほうへん》を一身に集めた人間が、「君らの記憶の、何と短いことか」などと言ってみたくなるのは、充分に理解出来ることだ。
人生は短いが、人間の記憶は更に短い。昨日の晩に何を食べたかは、誰でも思い出せるが、十日前の晩に何を食べたかを思い出せるものは、おらぬ。おったら、それは人間ではなく化物である。私は化物ではない。化物でないから、ペタンに言われずとも、記憶は短い。それは充分承知している。
そして、そもそも回想などというものは、昔から現役を引退した老人の書くものだ。それも、私は知らぬわけではない。だが、それにもかかわらず、四十にもならずに、この私が回想を書いたりするのは、他ならぬ、私の記憶が短いからで、別に、特別の理由があるわけではない。それに、フランスの歴史家、ジャック・バンヴィルは、にがにがしい顔をして言った。
「歴史に、最もあやまった色あいや解釈をあたえるものは、世の回想録なるものである」
にがにがしい顔をして、と言ったが、私はその時の彼の顔を見たわけではないことを、正直にことわっておく。私は、かく正直なのであるが、残念なことに、ある特定の女性は私を嘘つきであるという。わかっちゃ、おらんのである。ともかく、バンヴィルなどに、こんなことを言われるのは、回想録を書く人間が、前にも言った通り少々もうろくしたものが多かったからで、回想というものの歴史的な価値をおとさぬため、私のごときものが回想を書くことに、読者は文句をつけてはならぬ。
前おきが長くなったが、一時、戦前派、戦中派、戦後派などの人間の区別がはやったことがある。私より、四、五年、年長の人間は、戦中派とよばれていた。私より四、五歳年下の連中は、戦後派とよばれていた。
いったい、私などは、そのどちらに属するのであろうか。自分ではわからぬ。どちらにも入れてもらえぬのかも知れぬ。是非とも、どちらかに入れてくれとは言わぬが、今問題の竹島の帰属のようなもので、どちらかにきまらぬと困ったことがおこる。
ついこの間のことであった。ある女の子が私にナンコウブタって何ですか、と言う。
ナンコウブタとは変なブタであると思って、いったいどんな字を書くのか見せろと言うと、それは「軟口蓋」であった。
それで、私が、ナンタルコトカ、これはナンコウブタではなく、ナンコウガイと読むのであると教えてやると、彼女はフフーンと答えた。フフーンだけならば、それでよいのである。ところが、そのあとから、
「イヤになっちゃうな、これだから。戦中派は変な字を知っていて」
とつけ加えたのである。
なにも彼女がいやになることはない。いやになるのは、この私の方だ。軟口蓋がよめるくらいで戦中派と言われるのは心外である。
「なんだ、あんたなどは、大きな顔しているが、戦争の頃には、おしめがあたっていたんだろう」
なんのことはない、人間、一度はおしめのあたっている時はあるものだし、かくいう私だってその時期はあったのだが、おしめをしていた時のことを思い出させてやると、案外、いばっている者も一瞬はシュンとするものである。ところが、この相手は全然であった。
「なにをもうろくしてるのよ。おしめだって、冗談言っちゃいけないわ。戦争の頃なんて、私、生まれちゃいなかったわ」
彼女は私を睨みつけた。
私はガックリして全身の力がなくなってしまったように感じた。現在、ちょっと見たところ大人のような恰好をした十九や二十の人間が、考えてみると、戦争の時には生まれてすらおらなかったのである。こんな手合に、戦争など持ち出しても、全く意味がないのである。
ところが、フランスの病院に行った時だった。長いひげをはやした老人の患者が、私をつかまえて、
「どうも、アプレゲール(戦後派)の連中は、戦争のことを知らんので困る」
と言う。戦後とよばれると、私としても何だか、若僧の医者のように思われるので面白くない。
「いや、東洋人は西洋人にくらべると、非常に若く見えるものだ。おどろくだろうが、私は戦後派などでは絶対にない。年を知ったら、きっとあんたは驚くさ。私は戦後派ではないからね」
そう答えたら、相手は腰を抜かした。
「本当かね、あんたがね、もう六十にもなるっていうのかね」
彼は第一次大戦の戦後派の話をしていたのであった。アプレゲールというのは、フランスでは第一次大戦の戦後のことなのであった。
どうも脱線をしはじめたようである。しかし、これは鉄道と関係のないことであるから大目に見てほしい。
ともかく、人間の記憶は短い。戦争が終ってから、すでに二十年になるのである。その間に、立派な大人のような顔をした人間が生まれ、そして育ったのであるから、その間のことを全部間違いなくおぼえていろというのが、難題であるのかも知れぬ。それ故、私の記憶に、すでにあやまりがあることも考えられるし、他の同じ事件に立ちあった人間の記憶に間違いのあることもある。
本人すらが、自信が持てないというのであるから、読者よ、私の書いたものを、何もかも信用するのは愚と言わねばならぬ。中には、もっとひどい者がある。
「何故に巨人が勝ったか」
そう言っては怒ってばかりいたKという人物については、前に書いた。この人物は米国に行った、ともちゃんと書いた。だが、別のKという人物が、私に抗議を申し込んで来た。
「おい、ガチャ子などというのは、あれはゼッタイ、おれの知らんことだぞ」
すねに傷を持つということは、おそろしいものである。彼は、これに類するいたずらを、私に対してしていたものと見える。それで他人のKという男の回想が書かれたものを読んで、てっきり自分のことだと思ってしまったらしい。そして、行きもせぬ米国にまで自分が行ったものと思いこんでしまったらしい。いや、それとも、私がてっきり、米国に行ったKのやったいたずらだと思っていた事件のいくつかは、私の思い違いであり、半分は、このKのやったことであったのかも知れぬ。本人が白状せねば、永久にわからぬことであり、又白状せぬことであろうと思うが、たとえ白状したとしても、自分が行ったこともない米国に行ったKという人物が、Kは自分であると思い込むほどであれば、その告白をどうして信用することができよう。
「ああ、フランス国民よ、君らの記憶の、何と短いことか」
ここで私はペタンの言葉を思い出さざるを得ぬのである。
すべて、回想と名付けるものすらが、このように怪しげなものであるとすれば、小説などというものは、モデルらしき人物がある場合であっても、信用ならぬものだ。そもそも、小説を書く人物などというものは、人間の中で、もっとも信用ならぬ人物であることを、読者よ、決して忘れてはならぬ。そうは言うが、世の中には、現実の人物と創作の人物をとりちがえる人間がウヨウヨいて、私も困惑するのだ。
小生をモデルにした、テレビドラマがあったが、あれは、ドラマであって、私と関係ないことだ。この間も一人の患者がやって来た。私は現在、アル中の治療をしているのである。ところが、その男は、もうグデングデンに酔っていた。
「だめじゃないか、又、飲んじゃって」
私が言うと、彼はニヤニヤした。
「飲むな、飲むなって、他人様には言ってね、だけど、先生はどうですかってんだ。自分は飲んでないなんて言ってられますけどね、かげじゃ、ちゃんと飲んでんだからね、この先生」
「冗談いっちゃいけない。おれは、かげでもひなたでも飲んでおらんよ」
私はたしなめた。
「おや、どこまでもごまかそうって気ですか。でも駄目ですよ。ちゃんと、わっしは見ちゃったんですからね、現場を」
「現場を見ただって」
「ええ、この目でね。テレビドラマの中で、ちゃーんと飲んでましたからね、先生が」
私は顔をしかめざるを得ないのである。どうして、目の前のこの私と、俳優の演じている一人の創作された人物と同じものと信じるのであろうか。信じるだけなら未だ勝手だが、信じて自分の行動まで、その作られた世界の中に投げいれてしまうのであるか。こうした馬鹿げたことは、ないようにしてほしいのである。
十四年ほど前、私が医学部の四年の頃であった。ポリクリと呼ばれる実地修練で、私たちは、あちらこちらを廻り、患者の予診をとらされていた。
病院に患者が来る。すると若い医者が問診して記録し、それを見ながら教授が診察するわけなのである。ともかく、それまでは、患者と直接に接触することなどはなく、机の上で本を読むか、講義を教室で聞いていただけである。それに、私たちは、ごく真面目な学生ばかりであった。
若い女性と話をするだけでも、恥ずかしくて、耳まで赤くなったりする者が、多かったのである。
私もそうであったが、同じグループのFも亦、そのような一人であった。ことに相手が女性であると、問診の時に、「結婚してますか」「子供は何人ですか」などと質問するのにためらいを感じた。
Fのことを話す前に、思い出したのでNのことを少し書いておくことにする。私たちが、外科で予診をとっていた時だった。彼の前に非常に若くて美しい女性がすわった。彼は少々嬉しかったと見えて、話をはじめる前から赤くなっていた。私はというと、どういうわけか、廻されて来る患者が、七十歳のおばあさんで、少々耳が遠いなどというのが多くて、半分は隣のNたちの会話に気を取られていた。これだから、老人になるのは損である。読者も出来ることなら気を付けた方がよろしい。
Nは言った。
「お名前は、そうそう、ここに書いてある。お幾つですか、お年は」
今ならばNも、「お名前は、そうそう、ここに書いてある。××子さん。おや、いい名前ですね。私も娘が出来たら、こんな名前、いただいちゃおうかな」などと調子のいいことをのべて、相手の気持をほぐすことも知っていることであろう。だが、その時は、彼も緊張していた,
彼が緊張すれば相手も緊張するのは理の当然である。
「十九歳です」
相手は小さい声で言った。さて、予診の用紙には既婚、未婚などの欄があって書き込まねばならない。十九歳、この女性、美しいこの女性、いったい結婚しているかどうか、何しろ未だ十九歳だ、Nは考えたらしかった。
「十九歳、ええと、未だ結婚なさってませんね」
Nは言った。まさかと思ったのであろう。当然結婚しているだろうという調子できくわけにも行かぬ。それもわかる。
「ええ」
相手は小声で答えた。
彼女は乳がはって痛いのだと訴えた。未婚で、乳がはって痛い、これはなかなかある病気ではない。奇病である。彼の問診が脱線し、最後に、予診をとった学生が一応つけておかねばならぬ診断も、非常に難しいものになった。
教授の前に患者が出て診察のために裸になる。
「誰だ、この予診をとったのは」
教授が叫んだ。見ると、一目みればわかる、産後の乳腺炎なのであった。
「お産は何時でした」
「三週間前です」
「ウソツキ」
Nは小声で私に向って叫んだ。何も私がウソツキなのではない。彼女がウソツキなのだ。しかし、教授の診察している患者を目の前にして、抗議するわけにも行かぬ。
「あの女は、俺には未婚だとチャンと言ったぞ」Nは続けた。
「未婚だって、子供をうまぬとも限らぬぞ」
私は知ったような顔をして答えた。しかし、彼女はチャンと結婚もしていたのである。何も不思議なことはないのであった。
患者が帰ったあと、Nは教授にさんざんしぼられた。
「問診ひとつ満足に出来んようで、君は医者になろうと思っとるのかね」
Nは小さい声で「はあ」と弱々しく答えた。
「女を見たら妊娠と思えって、わしが常日頃言っとることが、未だわからんかね」
そう教授に言われて、それからというもの、彼は十歳の女の子をつかまえても、未婚か既婚かを確かめずにはおかなかった。それで、時々、つき添って来た母親たちの顔をしかめさせた。
「全く、女を見たら妊娠と思えですからなあ」
彼は、つぶやきながら、おかっぱの女の子たちを見つめるのであった。
Fも、そのNの体験を私と一緒に見た一人である。だから、私とFは久しぶりに逢うと、Nには気の毒であるが、そのことを思い出してはニヤニヤするのである。Nはそれ以後、「おれは、以後、ぜったい女などというものは信用せんぞ」と言っていたが、クラスの中で一番早く結婚してしまった。全く世の中には理解しがたいことが起るものである。
FはNのその話はおぼえておるであろうが、彼自身の話は忘れてしまっているようだ。
私たちが、産婦人科のポリクリで予診をとらされていた時のことだ。産婦人科では既婚か未婚かを聞くよりも、もっとつっこんだ話をしなければならぬ。たとえば月経が規則的にあるかないかを、書きこまねばならぬのである。馴れれば何でもなく聞くことが出来るのだが、はじめてだと、何と言って話をきり出してよいものか、わからぬのである。
「あのう、あのう」
などと繰り返して、耳まで赤くなっていた自分を思い出す。読者よ、疑ってはならない。本当のことなのである。ああ、その頃の純粋さが、なつかしい。
「あのう、あのう」
Fも亦、そうやって、はじめての患者を前にためらっていた。そして思い切って言った。
「あのう、おメンスは」
月経などと、ぶざまな言葉を、直接的に言うことをはばかり、少しはハイカラに、スマートに、そして遠廻しにきこうとしたのであろう。女性も、メンス、メンスなどと、外国語を勝手にちぢめて、話しているようだが、月経はメンストラチオーンで、ただメンスと言えば、月のことを意味するだけだ。Fはメンスと言うことも甚だ直接的でぶしつけであると思って、ていねいにおの字をつけたのであろう。たかが、おの字ひとつでも、勝手に取ったり、つけたりしてはいけない。
「おメンス」
相手は、彼の気持を理解出来よう筈がなかった。
「おメンスというと」
「あのう、あのう、その、つまり、お月のものは」
Fはよくよく「お」の字が好きだったと見える。だが、これが、いよいよ混乱のもとであった。相手はますますわからなくなり、おつきのもの、を、お好きなものと聞き違えたのである。
「ああ、好きなものでしたら、お魚は白身のところに、トロロ芋……」などと、言ったにちがいない。だが、私たちのクラスの仲間の間では、患者が、
「好きなものでしたら、バナナに牛乳でございます」
と答えたことになっている。正直に言うと私は、その最後のところは、余り正確におぼえておらぬ。Fもすでに忘れてしまっていることであろうと思う。最後のバナナに牛乳の部分は、誰かが面白半分につけくわえたものであろう。
しかし、私としては、それが不正確であろうとも、省略するわけには行かぬのである。回想というものは、本来そうしたものなのである。
今の若い人間は、などと書きはじめると、私がいかにも老人くさい感じがして来るが、前にも言ったとおり、私は左程年寄りではない。私を青年ドクターだなどと呼んでくれる人も、世の中にはいるのである。しかし、このような私にとっても、戦後の二十年の変化の中には、思い出すと信じ難いと思われることもある。たとえばキッスなどと言う風習がそうだ。私が青年期をおくったのは、戦争直後であった。私は前にも言ったように、終戦の翌年、大学の予科、つまり旧制の高校一年になった。今の学制では、高校の三年になる。その年齢になると恋愛や性に興味を持つのは、今もその当時も変わりはない。しかし、愛情の表現として、接吻するなどということは、当時の私や私の仲間にとっては、大問題であったのであった。
何しろ、それまで、日本映画の中で、男女が接吻するシーンなどはひとつもなかった時代のことなのだ。ところが大学二年生の時、はじめて日本映画で、日本人の男と女がやって見せることを売物にした映画がつくられた。題名も、たしか「接吻」という、そのものズバリのものであったような気がするが、まちがっているかもしれない。
もちろん、私も仲間と一緒に見に行った。ともかく、接吻を見せることが、作ったものの意図であるなら、見に行く方の目的も同じことである。話のすじなども、いいかげんなものであったし、私たちとしても、どうでもいいことなのであった。題名も忘れ、話のすじも忘れたなどという回想など、いいかげんなものだと怒ってはならぬ。読者よ、これこそが真実というものなのであるから。
さて、いよいよ、接吻のシーンとなったが、それまでも、しそうでしないハラハラとした場面のあと、二人の男女が、何ともアッケなく接吻してしまった。それでも私たちは、
「ヤッタゾ」
とか、
「ヤッタナ」
とか口々に叫んで、わめいて、大きな溜息をついたものであった。今考えてみると、何が「ヤッタナ」であるものかと思う。そして、はなはだ申し訳ないことなのであるが、誰と誰がヤッタのか、全然記憶すら残っていないのである。日本の男と女の俳優として、映画ではじめて接吻を演じたという、記念すべき人々であった筈なのだが。
ここで、私は再び、Fのことを思い出さざるを得ない。
私たちが、その時代に、接吻を大変素晴らしいものであるに違いないと考えたのは、当然のことであった。それに、私たちは医学生である気取りもあり、接吻などという日本語も使わず、キッスなどという日本語化した英語も用いなかった。ドイツ語のキュッセンという言葉で、
「キュッセンとはいいもんらしいな」
などと話し合ったものである。
読者よ、ハイカラな趣味を持った諸君の中には、フランス語のベーゼなる言葉を使いたいものもあろう。だが、ここで注意をせねばならぬ。確かに、日本のフランス語の大先生の作った字引には、ベーゼは接吻と訳されておる。アンブラッセは抱擁と書いてある。しかし、日常のフランス語では、抱擁というのはキッスすることであり、キッスする、つまりベーゼをするということは、それ以上のことをすることで、恋人に、「君に接吻したい」と言えば、「何もかもちょうだいいたしたい」ということになるのである。むやみやたらに会話の中に外国語の単語を用いることが、困ったことであることが、おわかりになるであろう。
さて、私たちは、キュッセンはいいもんらしいと話し合いながら、実際にはその機会もなく、機会があってもやる勇気もなく、ただ無為に日をすごすのみであったのだ。ところが、或る日、
「おれは、実にキュッセンをしたのであるぞ」
例のおメンスのFが、私たちにそう言ってショックをあたえた。彼には一つ年長の恋人があることを、私たちは知っていた。そしてそれは、彼が予科に入学する前からのことであったから、数年にわたっている筈であった。夏休みが終って、お互いが、日にやけた顔を見せあったあと、彼は、私たちと、帰り道を歩いて行きながら、爆弾を投げかけるがごとく、
「おれは、キュッセンをしたぞ」
と告白したのである。一緒にいたものは、その瞬間、大きな音をたてて、ツバをごくりとのんだ。のみたくなかったが、おどろいて、ツバの方が喉に入ってしまったのである。
「どんなもんだったかね」
大陸育ちで、のんびりしていたが、至極マジメであり、感激家でもあった、と書くと複雑きわまりない人間のように思われるが、実際はごく単純なTが言った。
「ヤッタカ、とうとう、おっさんは」
あの、十九歳の女を未婚と信じたNが、少々軽はずみな調子で言った。彼は、私たち仲間をつかまえては、「オッサン」と余り品のない呼び方を、時と所とをえらばず、しかも大声で口にする悪癖を有した。
「それはな、想像している以上のもんだぞ」Fがおごそかな調子で言い、私たちはその調子にうたれて、又、声もなく、ツバをゴクリと喉をならしてのみこんだ。又もや、ツバの方が、私たちの意志を無視して喉にとびこんだのである。ケシカランことだ。
「キュッセンするとな、その瞬間、太陽が目に入ったみたいにな、クラクラッとしちまうんだ。後頭部、このオクチピタールのあたりがだな、ジーンとしびれ、そこが熱くなって来てな」
又、私たちはツバをのんだ。全く、それはショックであった。正直に言って、私は今もって、そのショックから回復しておらんのである。
接吻というものが、いかなるものであるか、私たちには非常に現実的なものとなった。それ以後、十数年も時が流れるうち、私とてもキュッセンや、それ以上のこともした。
それが嘘だなどとは言わぬ。子供が三人もいるのだから、想像もつこう。何時、何処で、いかにして最初に接吻したか、などということは、大したことでないので書かぬ。だが、そのいかなる時にも「目に太陽がとびこんだり、後頭部がジーンとしびれる」ことを経験しなかった。
しびれるところが、なかったわけではないが、全然、別のところであった。又、太陽が目の中にとびこむような気がしたこともなくはないが、それは別の折りであった。星がとびこんだり、山がとびこんだり、雲がとびこんだり、更には、砂ぼこりが目に入ったこともあったが、何故であるかは書かぬ。目ではなく、背中に枯しばがとびこまずに、はりついたこともあるか、ないか、そんなことは問題ではない。問題なのはFの言であって、その言を今もって記憶しているが、そのおかげで、「おれはキュッセンしても、彼と同じように感じぬ。異常に、鈍感な人間であって、人なみではないのではないか」と心配し続けたのであった。
全くもって、Fは罪なことを言ってくれたものであった。こんな重大な発言をした人間が、そのことをすっかり忘れており、単に、それを耳にしてツバをごくりとのんだ人間が、二十年も時が流れて、未だ忘れ去ることがなく、こうして回想する。
読者よ、回想というものは、このようなものだ。回想をつづり合わせて、歴史が作られるものでないことは、おわかりであろう。回想は歴史とは全く別ものなのである。
さて、私はこのクレージイ・ドクターの回想を終ろうとしているが、読者の中には、何故に私がクレージイ・ドクターを名乗るか、知りたい人もおられるかも知れぬ。
最近、このような細かなことに興味をいだく読者が少なくなったが、これは日本人が言葉の意味やいわれを考えずに言葉を用いる悪癖を戦後身につけたからであって、これは困ったことであり、ケシカラヌことなのである。
たとえば、外国語にイズムという語尾がある。イズムといえば、すぐにわかったような顔をする日本人がウヨウヨいて、イズムのついた言葉をつかうが、次のようなことを考えたものがおるであろうか。
モルヒネ中毒をモルヒニズムと言い、キリスト教をクリスチャニズムと言い、マルクス主義をマルキシズムと言うのだが、その語尾は皆同じイズムであるのに、日本語では別々に訳される。マルキシズムをマルクス中毒と訳すものはない。訳してみれば面白かろうと私は思う。
ともかく、それらの言葉は、同じ語尾を持っているのである。つまり作られた言葉は別々の意味あいをそれらの語尾に与えてはいるが、それらすべてには共通な余韻のごときものがあるのである。そのようなことを考えた上で、言葉を使っているものが、どれだけあることであろうか。
話がそれた。Nという同僚は、彼も亦、精神科医であったが、米国に留学するというので英会話を習いはじめた。
彼があるアメリカ人を連れて来て、私を紹介した。精神科医サイカイアタアであると言ったが発音が悪いのでいっこうに通じぬ。これで米国に行こうというのは、少々無理であろうと思われた。
彼は同じ言葉を、あっちこっちにアクセントを移しかえて、繰り返してみた。だが、このアメリカ人は、つんぼのごとく反応を示さなかった。私も一言助太刀をしようと思ったが、正直のところ、自信がないのでやめた。君子は無駄なことはせぬのである。
そこで、Nが苦しまぎれに、やにわに言ったのであった。
「彼、クレージイ・ドクター」
相手は立ちどころにすべてを理解した。
「やあ、ドクター、あんたが狂ってるんじゃない、世の中がちょっと狂ってるだけなのさ」
彼は、慰め顔に、だが、充分に警戒しながら、私の差し出した手を握ったのであった。
〈了〉
初出誌
「オール讀物」昭和四十年五月号〜十二月号
(「親子というもの」は単行本のために書き足された。)
文春ウェブ文庫版
クレージイ・ドクターの回想
二〇〇一年九月二十日 第一版
著 者 なだいなだ
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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郵便番号 一〇二─八〇〇八
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