「できる人」はどこがちがうのか
斎藤 孝
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「できる人」はどこがちがうのか
斎藤 孝
【目次】
プロローグ
第一章 子どもに伝える〈三つの力〉
上達の普遍的な論理を〈技化〉する/〈まねる(盗む)力〉/あるプロ野球選手の着想/技を盗むための前提/「技を盗む力」と模倣との違い/ビジネスにおける暗黙知と形式知の循環/文系と理系の対立を越えて/基礎力は共通する/「重みづけ」を意識する/〈要約力〉の基本/〈二/八方式〉/関心の磁石をつくる
第二章 スポーツが脳をきたえる
スポーツの深い世界/『ゲーテとの対話』から/〈技化〉のコツ/蓮實重彦はゴダールに何を質問したか?/指導者の〈コメント力〉/ベストを取り戻す/「型」とズレ/世阿弥の「離見の見」/技とイマジネーション
第三章“あこがれ”にあこがれる
自分流の変形/〈癖の技化〉/坂口安吾の場合/スタイルは「首尾一貫した変形」である/棟方志功の夢/スタイルの系譜を意識化する/『欲望の現象学』について/黒幕ジョゼフ・フーシェ/ボルグvsマッケンロー/ホンダを作ったクリエイティブな関係/城山三郎の判断
第四章『徒然草』は上達論の基本書である
「高名の木登り」/兆しを見る力/エネルギーの一点豪華主義/その道の達人/先達のレベルを体感する/上達論のテキストとして見る習慣/〈格言化〉の効用
第五章 身体感覚を〈技化〉する
脳をきたえる幼児教育/「意識のコマ割り」をふやす/脳を活性化する方法/「頭の作業員は何人起きているか」/「感動」は意味の充満である/ダンサーは「無心」か?/意識の密度と速度の関係/木の手触りを伝える技術/『デルスー・ウザーラ』の「技としての感覚」/合理的なアニミズム/天才アラーキーの「関係する力」/感性の振幅を大きくする勇気
第六章 村上春樹のスタイルづくり
スタイルが存在感を生む/自分のスタイルの器を大きくする/小説を書くのになぜ走るのか?/集中力と持続力はコインの裏表/集中に「入るシステム」をつくる/自分の得意技を仕上げる/すべてをクロスさせるということ/リズムを体に染み込ませる/東洋の伝統としての「呼吸法」
エピローグ
あとがき
プロローグ
学校は何をする場所か。親は子どもに何を伝えればいいのか。
こうした問いにスパッと答えられる人は、少ないのではないだろうか。社会全体が加速し、不安が渦巻いている状況で、様々な答えが浮かんでは消える。
今「生きる力」が求められているが、それが具体的にはどのようなものであるかについて、しっかりした共通認識は持つことができていない。不登校が増加し、「ゆとりの教育」に移行する中で学校の役割もあいまいになってきている。また親が子どもに何を伝えるべきなのかについても、迷いが多いのが現状である。
私の考えるところでは、学校の主な役割は、物事ができない状態からできるようになるまでの上達のプロセス・論理を普遍的な形で把握させることにある。たとえば、逆《さか》上《あ》がりができなくとも、日常生活には支障はない。逆上がりを学校カリキュラムに入れる積極的な理由は、上達の一般的な論理をシンプルな形で自覚化させるところにある。スポーツや芸事を、上達の基本論理を身につける場として考えるならば、そうした活動はいわゆる「勉強」の上達と共通性を持ち、相乗的な関係にある。
親が子どもに伝えるべきものは、「上達の普遍的な論理」だと思う。どこの社会に行っても、そこで上達の筋道を見通してやっていくことができる力。この力を子どもに身につけさせることができれば、不安は、かなりの程度軽減されるのではないだろうか。
上達のコツを掴んでいれば、初めてやる仕事に対しても自信を持って取り組むことができ、結果として成功する。上達への確信がないままだと、退屈な反復練習をする期間に耐えられず、中途で挫折しがちになる。諸活動をバラバラな意識で行うのではなく、それらを通して上達のコツを掴まえるという目的意識をもって行う。こうした上達の普遍的論理への意識を喚起し続けるのが、親や教師の主な役割なのである。
では、その「上達の普遍的な論理」というのは、どんなものなのか。これにも当然様々な答えが考えられる。私の考えは、基礎的な三つの力を技にして活用しながら、自分のスタイルを作り上げていくということである。基礎的な三つの力とは、〈まねる(盗む)力〉、〈段取り力〉、〈コメント力(要約力・質問力を含む)〉である(なお、〈 〉でくくった言葉は私の造語である)。こうした力をある程度つけ、それを活かしながら自分にあったスタイルを探し、自分の得意技を見定めて、そのスタイルへ統合していく。これが私の考える、上達の普遍的な論理である。
この本で言う「上達の秘訣」とは、特定のジャンルにおける上達ということではない。むしろある領域での上達の体験が核となって、他のジャンルの事柄にチャレンジしたときにも、その上達の体験を活かすことができるような力。それが上達の秘訣につながる。
たとえば、部活での上達の体験や受験勉強での向上の体験が、仕事に就いた後にまったく活かされなければ、その人は上達の秘訣を身につけているとは言い難い。対照的に、部活などではあまり上達をしなかったとしても、そこでの成功や失敗の体験を普遍的なものとして自分の中で認識し、他のジャンルの活動をする場合に上達の論理として活かすことができるならば、その人は上達の秘訣を身につけていると言うことができる。
一芸に秀でた人は、みな何か重要な共通の認識を持っている、としばしば言われる。ある道において、相当なレベルまで上達をした人は、上達一般についての認識を得ているように思われる。また、何をやらせても上達が早い人がいる。このような人は、たとえ運動神経がそれほどよくなくとも、様々なスポーツにおいてある程度のレベルまで上達するのが早い。一方には、何をしても先が見えずに途中で挫折してしまいがちな人がいる。
これを才能の違いだといってしまえば簡単なことだが、ここで問題にしたいのは、絶対的な才能の差ではない。その人ごとに才能の器があることは否めないだろう。しかし、上達の普遍的な論理を認識していないがために、その人の器を十分に満たすところまで至らないように思われるケースが少なくない。
現に私が大学において、「自分のつかんでいる上達の秘訣とは何か」という課題を出すと、多くの学生がそれまであまり自覚的に考えたことがなかったと言って戸惑う。どのようなジャンルのことを行っているにしても、常にそこから「上達の普遍的な論理」を引き出してくるように意識する習慣があまりないのである。
学校教育においても、逆上がりができるようになることと、算数ができるようになることと、部活ができるようになることなどは、バラバラなものとして分けられてしまっている。そこに共通の上達の論理を見出そうという意識の習慣が、そもそも希薄なのである。基礎的な三つの力は、教科やジャンルを問わずに、こうした上達の普遍的な論理への意識を習慣化するための概念である。
スポーツ/勉強、遊び/勉強、文系/理系、勉強/仕事、手仕事/頭脳労働などの二項対立的な思考は便利なものだが、固定的に捉えれば上達を妨げる有害な図式となる。本書では「生きる力に直接つながる上達の普遍的な論理を身につける」という視座を提起することによって、こうした不毛な二項対立的思考を乗り越える道を示したい。
上達を根底から支えるのは、「あこがれ」である。これがなければ、上達に勢いはつかないし、そもそも上達することの喜びが生まれてこない。藤子不二雄が手塚治虫にあこがれたように、あこがれが根底にあれば、上達の意欲は湧き続ける。「あこがれ」や「志」のスケールが器《うつわ》の大きさだとも言える。
「あこがれ」が喚起されるものと、どのようにして出会うか。驚きや感動や充実感のある出会いが、どのようにして起こるか。これが、教育の根本的な課題であるのは疑いない。私たちは、何かを完全に理解してからあこがれるのではない。その何かに強い力やベクトルを感じて、それに反応するのである。自分が何に驚き、何に引かれたのかがわかるのは、むしろ上達を続けていくプロセスにおいてである。
出会ったものが持っているベクトルの方向性と強さに、自分のあこがれのベクトルが沿ってしまう。ベクトルにベクトルが反応してしまうこの現象こそが、上達を根底において支えるものだ。たとえ実力があったとしても、すでにあこがれや志を失っている人に、私たちは魅力を感じにくい。
あこがれが喚起されるかどうかは、その相手のあこがれるベクトルの力に大きくかかっている。技量的に見れば、自分よりも劣る者であっても、その者のあこがれのベクトルが強ければ、そこから刺激を受け上達への意欲が生まれる。あこがれるベクトルの強さに自分のあこがれが喚起される。これが、〈あこがれにあこがれる関係性〉である。この関係性が、上達の母体となる。
しかし、「あこがれ」ているだけで夢見がちな状態に留まるのであれば、人生の大きな充実感は得られない。小さなことでもいい。それを通じて、三つの基礎力を鍛え、別のことをやる場合にそれを活かす練習をする。こうしたことの積み重ねを通じて、三つの基礎力自体が技として磨かれてくる。
こうなると、仕事と遊び、仕事と学校の勉強といった区別は、もはや意味をなさなくなってくる。ジャンルの違いよりも、そこに共通する普遍的な上達の論理が浮かび上がってくる。こうした意識を持ち続けることによって、初めての事柄に対しても、不必要な脅えを抱くことが少なくなる。およその上達のプロセスが見えてくるからである。
この本で主題としたいのは、あることがうまくなるということよりも、自分のスタイルを見つけていくということそのものだ。やっていることが様々なジャンルに分かれていても、そこにある一貫したスタイルというものが感じられることがある。自分のスタイルを持つことができるということは、非常な喜びである。
いろいろな領域である程度まで上手くなったとしても、そこに自分のスタイルを実感することがなければ、喜びは半減する。対照的に、自分のスタイルを実感することができれば、一流のレベルにたとえ達しなくても大きな喜びを得ることができ、その後の人生にそのスタイルを活かしていくこともできる。
自分の得意技を自分で認識し、それをトータルにコーディネイトしていく。その原理、工夫を支えるのがスタイルという概念である。自分のスタイルを練り上げていくこと。このことは、単に何かが上手くなること以上に、人生において重要な意味を持つ。上達の秘訣は、スタイルに対する意識を育てることである。
自分のスタイルを実感できると、自分の生を肯定できやすくなる。自分の得意技を磨き、自分のトータルなスタイルを表現できることによって、自分の存在感を十分に味わうことができる。「上達の秘訣」は、この生の充実感を味わうための、いわば梯子である。
まず、「基礎的な三つの力」を提起し、次に上達の普遍的な論理の内実を、「スタイル」をキーワードとして具体的に示したい。経済的な不況のために自信喪失ぎみになり、個性や創造性に過大な期待を寄せる傾向が現在見られるが、浮き足立つことなく基礎的な力を見極めてそれを技化することが経済の再活性化のためにも必要である。
第一章 子どもに伝える〈三つの力〉
上達の普遍的な論理を〈技化〉する
いつの時代も、親は子どもに成長してもらいたいと願っている。社会構造の変動が比較的少ない時代には、親が覚えている仕事のノウハウや心構えを、そのまま子どもに伝えれば子どもは親の跡を継ぐことができた。かつては、世代が変わっても次の世代がおよそ同じ事をすることができるようにするための「世代間の伝授」が行われてきた。
しかし、再生産(リプロダクション)を主目的として伝承を行い得た時代とは、現代は事情が異なる。情報革命を核とした世界的な社会構造変革の波の中で、親は子に、上の世代は下の世代に、「何を伝承したらよいのか」がわかりにくくなってきている。バブル期の社会的倫理規範の崩壊とその後のバブル崩壊による不況の長期化によって、大人たち自身が子どもたちに対して、「伝えるべきこと」や「鍛えるべきこと」に関して自信を失ってきている。
大人が確信を持って伝授・伝承すべきものを持たない社会は、当然不安定になる。たとえ子どもたちの世代が、それに反抗するにしても、そのような伝承する意志には意味がある。世によく言われる子どもの問題の多くは、「子どもたちに何を伝えるべきなのか」について大人たちが確信や共通認識を持てなくなったことに起因している。
では、この変化の激しい現代日本社会において、大人が子どもに伝えるべきものとは、何なのだろうか。
端的に言えば、それは、「およそどのような社会に放り出されても生き抜いていける力」であろう。とはいえ、現代は原始時代ではないのだから、「生きる力」は単純な生物学的な生命力だけを意味するわけではない。もちろんこの単純な生命力はあらゆる活動の基本となるものであるから、これを活性化させる意義は大きい。それを前提とした上で、現代社会における「生きる力」とは、具体的にはどのようなものなのだろうか。
私が考えるに、この「生きる力」とは、「上達の普遍的な論理」を経験を通じて〈技《わざ》化《か》〉しているということである。どのような社会にも仕事はある。たとえ自分が知らない仕事であっても、仕事の上達の筋道を自分で見出すことができる普遍的な力をもし持っていれば、勇気を持って新しい領域の仕事にチャレンジしていくことができる。
このように言うと一見抽象的なようだが、周りを見渡せばこれを技化している人間がいることに気づくのではないだろうか。私自身は、上達の論理の技化ができている人にこれまで何人も出会ってきた。その中で印象的であったのは、イラン人のピリさんという人である。
ピリさんとは、私の自宅の近くの駅で出会った。彼の友達が探している家への道を聞かれ、案内した。一緒に歩いているうちに意気投合して、彼のアパートへ招かれ、カレーをごちそうになった。彼とは日本語と英語を交えて、会話をした。日本に来て三ヶ月程度で、しかもそれ以前に日本語は習ったことがなかったにもかかわらず、コミュニケーションを日本語で充分とることができた。これは私にとっては、驚異的なことであった。ピリさんは英語もまた数ヶ月程度しか学んでいないのに、英語でのコミュニケーションもある程度できた。
彼の言語の学習の仕方は、徹底的に自学自習主義であった。テレビやラジオから言葉を聞き取り、それをノートにとって反復して覚えたり、積極的に日本人と話すことによって実践的に会話力を鍛えていた。向学心にあふれ、分からない日本語があるとどういう意味なのかとすぐに聞いてきた。彼は、当時流行っていたブレイクダンスをやって見せてくれた。「どこで習ったのか」と聞いたが、彼は少し驚いたように、「どこでも習っていない。うまい人がやっているのを見て、それを何度もまねて、自分で練習して覚えた」と答えた。
彼は渋谷のレストランで仕事をしていて、そこの給料でアパートを借りて暮らしていた。彼は仕事では、わりといい給料をもらっていた。どうして仕事がそんなにできるのかと尋ねたが、答えは同じく「よく見て、まねをすればいい」ということだった。たとえばサラダを作るのなどは簡単で、一回見れば覚えてしまう。それを他の人にはできないほど速くやるようにしたので、店で評判がよくなったと言っていた。
〈まねる(盗む)力〉
イラン人が皆、このような生き抜く力を持っているわけでは、必ずしもない。来日三ケ月のピリさんに頼っている同郷の友人も、かなりいたようだ。ピリさんは何をやるに際しても、自分は上達するという確信を持っているようであった。特定の事柄についてではなく、上達一般に自信をもっていた。うまい人のやることをよく見て「技をまねて盗む」ということが、上達の大原則にすえられていた。
うまい人のやることをよく見て、その技をまねて盗む。これが、上達の大原則である。こんなことは当然だと思う人が多いかもしれない。しかし、それを強い確信を持って自分の実践の中心に置くことができているかどうか。それが勝負の分かれ目なのである。学校教育をはじめ日本の教育の場の多くでは、この〈まねる(盗む)力〉は、上達の論理の大原則として明確に認知されてはいない。それどころか、日本の教育においては、上達の普遍的な論理の技化ということ自体が主題として認識されているとは言いがたい。
教育は、「学ぶ力」を育てることに本義がある。したがって、「教える」があっても「学ぶ」がなければ、それは教育とは呼べない。反対に、「教える」がなくとも「学ぶ」が起こっていればそれは立派な教育だと言える。「教える――教えられる」という関係が教育の中心的な関係だと皆が捉えてしまえば、〈まねる(盗む)力〉は当然育ちにくい。
言葉で丁寧に教えてもらえないからこそ、あるいは言葉で教えてもらえる以上のものを身につけたいからこそ、「技を盗もう」という意識が生まれる。技は、何となく見ているだけでは、到底身につけることはできない。「技を盗むんだ」という意識を強く持って、積極的な構えをもって場に臨むことによって、初めてヒントが得られるのである。これは、テレビのエンターテインメントのサービスを受け身的に享受している構えとは、対極にある構えである。
実験・実習的な授業を除けば、学校の授業の多くは、教科内容を効率よく伝達することに重きがおかれている。教師から生徒への一方向的な知識の伝達を、大量に効率よく行うためのシステムが、あの一斉授業方式である。この授業形式は、産業革命と国民国家の成立を背景にして、一定の知識内容を大量の子どもに与えるには適した方法であった。明治維新の学制発布と平行して欧米から導入され、現在まで存続している。
このところ、この一斉授業方式に対する批判が強く、これに替わるオルターナティブが探られている。しかしこの方式は、日本においてはかなりの程度の成功を収めた方式であり、一概に廃棄するのが生産的だとは言えない。問題は、つけるべき力とその教育方法との関係に敏感になることである。力の質と方法の質の相性の良さを、その都度考え選択し、さまざまな教育方法を駆使できる教師が、優れた教師と言える。
とはいえ、一斉授業方式は、〈まねる力(盗む)力〉を伸ばすという意識を見失わせやすい性質を持っている。生徒側がどうしても受け身の構えになるので、貪欲に技を盗もうという意識が育ちにくい。教師の側も、知識内容自体の伝達に気を取られるので、自分自身が上達してきたプロセスや自分が持っている技を上手に見せて盗ませるという問題意識が薄れがちになる。
〈まねる(盗む)力〉というベーシックな力がしっかり身についていれば、およそどこの社会に行っても何とか生きていける。また、この力が高ければ、当然上達も早い。こうした力が学校教育で強調されないのは、不可思議である。
この〈まねる(盗む)力〉を教育の基礎に位置づけていたのは、近代学校教育ではなく、近代以前の職人的な徒弟制であった。そこでは、明確に文字化されたマニュアルがないのが普通である。親方は、手取り足取り丁寧に教えてはくれない。親方や先輩がやっていることをまさに「見習い」、上達のポイントを盗み出していかなければ、技術が身につかない。職人仕事や技芸の世界は口先だけでは意味がなく、からだを使って実際にできねば意味がない世界である。
現代では、すべてのやり方が言語化されマニュアル化されつつある。多数の人間を短期間で一定レベルに上げるためには、このマニュアル方式は効率がいい。とはいえ一流のレベルに達するには、このマニュアルを超えて、言語化されていないものまで盗み取る必要がある。技を見て盗むことを基本とする徒弟制は、必ずしも一般的に効率のよいやり方ではない。しかし、伝統工芸の伝承に見られるように、一流の技をしっかりと次の世代が引き継いでいくためには合理的な形式でもあった。
ただし、徒弟制には裏の面もある。弟子があまりに早く上達してしまえば、狭い社会においては競争相手になってしまうので、そう簡単には仕事の秘密は教えられないといった事情がある。学校の教師の場合は、生徒が優秀に育ったとしても、直接自分の職が奪われるという関係にはない。そのあたりの事情が、根本的に違っている。
「奉公」という言葉が示すように、上達が遅ければ大した給金も払わずに労働力として使うことができる。「お礼奉公」というものさえあった。そこには、いじめや抑圧を生み出しやすい権力関係があった。落語などで「やぶ入り」として語られる、盆と正月にだけ家に帰ることができる幼い奉公人の家恋しさの気持ちはそれを物語る。
言葉で簡単に教えてしまえば、本当には技が身につかないのも、たしかに真実である。教えてしまえば自分の仕事が奪われるかもしれないという深刻な不安と、生活と仕事を共にすることによって湧く愛着とが複雑に絡み合っているのが、職人的な徒弟制である。
あるプロ野球選手の着想
かつての阪急ブレーブス(現オリックス・ブルーウェイブ)の大投手山田久志がシンカーという技を習得したプロセスは、〈まねる(盗む)力〉による上達を如実に教えてくれる。山田は、芸術的アンダースローと呼ばれるほどの美しいフォームを持ち、プロ通算二八四勝している。
アンダースローは普通、低めに変化球を散らすピッチングが主体である。しかし、山田は、アンダースローからの浮きあがる速いストレートで三振の山を築き、「下手投げの本格派」とうたわれた。インハイの速い球で三振を取るのが、山田の求めるピッチングであった。監督からコーナーのコントロールをつけなければダメだと忠告されても、自分のスタイルを変えずに、速球で勝負し実績を上げた。
しかし、そんな山田も、年齢とともにストレートだけでは勝てなくなり、変化球を研究する必要を感じだした。当時チームには、山田と同じアンダースロースタイルの名投手足立光宏がいた。足立は、山田とは対照的にスピードはないが、カーブとシンカーで相手を打ち取るピッチングをする投手であった。
シンカー(落ちる球)の投げ方を研究していた山田は、なかなか思うように投げられず、足立にシンカーの投げ方を教えてほしいと頼んだ。しかし足立は、「シンカーを投げるとストレートのスピードが落ちるから、まだ投げるな」と言って断った。必死な山田はあきらめなかった。足立がブルペンで投げるときには必ず後ろから見て、足立の技を盗もうとした。足立の本音は、こうであった。
「いつの日か、自分にとって代わる存在であることはすぐにわかった。教えたら、こっちはメシの食い上げになる。すぐには教えたくなかった。……(山田は)努力家といってもいいのかもしれません。だけど、すごい執念だったと思う。教えてくれないのならば盗んでやれというぐらいの気持ちだったのではないだろうか。秋期練習で投げる山田の姿とボールの切れを見て、自分の地位が危うくなると思った。チームにとって同じタイプは二人いりませんからね。」(ナンバー編『魔球伝説』文春文庫)
仲良し集団ではない、まさに技にしのぎを削るプロの姿がここにある。目を皿にして貪欲に盗もうとするときに初めて見えてくるものがある。見るだけでなく、自分自身で試行錯誤をしている素地がなければ、見えてきたものも身にはつかない。山田はこう言う。
「今の選手は何でも人に教えてもらっておぼえていくのですけれど、ボクらの時代は盗むことからスタートした。簡単に教えてくれないから、相手の特徴とかクセから入っていくので、身についた時は、すっかり自分のものになっているのです。」(同)
技を盗む山田の執念をずっと感じ続けていた足立は、ようやくアドバイスをした。「最初から教わっていたら、“ああ、こんなものか”と思っていただろうネ。だけど、自分なりに悩んで、やっとわかりかけてきた時だったから、余計に鮮明だった」と山田は言う。この言葉は、アドバイスの価値はアドバイスを受け止める側の「技を盗む意識」に大きくかかっていることを教えてくれる。
〈技を盗む力〉は、「技を盗もうとする意識」によって向上するものである。単なる「まねる」ことと「盗む」ことの違いは、ここにある。
技を盗むための前提
「技」という意識を持つことができるのはすでに一定レベル以上である。はじめは何となくまねをしてしまう。まねるのは、ファッションであったり、単なる癖であったり、フォームの大ざっぱな全体的なイメージであったりする。「盗む」ことができるためには、自分の身体で技を試行錯誤した体験の蓄積が必要である。
技を盗むためには、漠然と見るのでは不十分である。盗むべきポイントを絞り込んで、見つめる必要がある。そうしたポイントの「絞り込み」を、自分の身体を動かして行うプロセスが、技を盗むための素地となる。ポイントとは、ここがわかればパズルが完成するというキーである。そうしたパズルは与えられるものではなく、技を盗む側が自分でつくるものである。
〈技を盗む力〉自体は普遍的なものだが、時代の全体的傾向として親切に教える役割の人間が増えてきたこともあって、衰退する傾向にある。サービスされることに慣れすぎてしまうと、自分から貪欲に技を盗もうとする意識が育ちにくい。シンカーの握り方を足立から苦労してやっと教えてもらった山田の次の言葉は、時代の変化を示している。
「やっと、握り方を見せてくれた。握り方はおそらく同じだろうと思っていたのですが、事実その通りでした。ぼくもやっぱり握りくらい盗んでいますよ。毎日同じグループにいて投げてるんだから。ただ、不安だったから、確信もちたかったんです。今のシンカーは自分なりに工夫したもので、その頃のシンカーとは違いますけどね。足立さんのシンカーはまっすぐに見えてスッと沈む。ぼくはもうひとつ落としたいと思った。空振りのとれるシンカーを投げたいとずーっと追っていましたから。指をひらいて投げるシンカーでした。山田流のシンカーですね。これを今の若い人が誰か気に入ったら教えてあげようと思ってるんですけどね。若い人は全然聞きにこないですね。」(「ナンバー」167号)
もったいない話のようだが、質問をすること自体にさえ一定の水準が必要なのだ。質問する力、つまり〈質問力〉というものがあるのだ。
「技を盗む」と聞くと、未熟なものが熟達した者の技を盗むケースばかりイメージしがちである。しかし現実には、熟達している者が、トータルに見れば自分よりも未熟な者から盗む場合もある。というのは、一つ一つの技術を細かく見ていけば、全体的には劣る者でも、その中の一つは集団の中でナンバーワンだというケースは稀ではないからだ。
技を盗む意識は、熟達者ほど高い。その高い意識で自分の技術向上のヒントを後輩から盗むのも、十分可能である。当人が自分の優れた点について自覚していない場合もある。当人が気づいてもいないで行っているコツや工夫を、熟達者は意識化された目で捉える。自分より未熟な者からでも学ぶ力を持つ者は、その集団内でトップに立った後も伸びる。山田は、こう言っている。
「よく見ていれば、若い人たちはどこか自分にないいいものをもっているのが分かるんです。あっ、オレもこれをとり入れてみようかな、と思うことがしばしばあります。」
貪欲なまでの「技を盗む」姿勢である。貪欲に技を盗もうとする姿勢で他者を見続けてきた眼力は、コーチになったときにいっそう生きてくる。それぞれの選手のもっている技に目がいくので、自分のやり方だけを押しつける視野の狭さから逃れることができる。
「技を盗む力」と模倣との違い
技を盗む力は、単なる模倣とは全く異なる。上辺だけを模倣して、本質を盗み忘れるということはよくある。極端な例は、有名なスポーツ選手のファッションや仕草をまねして、その技を全く盗まない場合だ。そこまで極端ではなくても、表面に現れたパフォーマンスをそのまま真似して満足してしまうのも単なる模倣であり、技を盗むということではない。
技を盗む力の根本は、暗黙の内に行われている事柄を認識し、表面化させるという作業である。そして、その表面に浮上させた認識を、もう一度自分の身体に沈み込ませて技としていく。そうしたプロセスができあがってはじめて、技を盗むということが可能となる。
技を盗む力は、「暗黙知(身体知)をいかに明確に認識するか」にかかっている。これに関して、野中郁次郎・紺野登『知識経営のすすめ――ナレッジマネジメントとその時代』(ちくま新書)は、示唆にあふれている。この本によれば、「企業の知識の多くが暗黙知なのであり、それをどのように活性化し、形式知化し、活用するかのプロセスこそが重要だといえる」ということだ。暗黙知と形式知の循環するサイクルを作ることが、知識を創造していく上での最大のポイントだという。
「身体的で本能的なレベルで知識(暗黙知)を持っていなければ、迅速にかつ高度なパフォーマンスを発揮することはできません。ただし、こうした知識を得たり、伝えるには時間がかかります。そこでは、マニュアルなど(形式知)が意味を持ってくる」ということになる。
技を盗む力は、暗黙知を自分の認識力で自分にとっての形式知とし、暗黙知へと染み込ませるという作業である。暗黙知と形式知を循環させた企業のエピソードとして、野中郁次郎・竹内宏高『知識創造企業』(梅本勝博訳、東洋経済新報社)におもしろい話が載っている。
松下電器が自動パン焼き機(ホームベーカリー)の開発に取り組んだときのことである。「イージーリッチ」という事業部全体を広報化するコンセプトをめぐって、従来手作業で行われていた技術を機械化するための開発が進められた。しかし、開発を進めていく過程で、熟練パン職人の焼いたパンと、自動パン焼き機で焼いたパンとでは、どうしてもおいしさに差が出てしまうことが明らかになった。
そこで会社のソフトウェア担当の田中郁子さんという女性が、熟練したパン職人の練りの技能を学ぶために、大阪で一番おいしいパンを出すという評判の店のチーフ・ベーカーのところで訓練を積ませてもらうことになった。田中さんは、自分とチーフ・ベーカーの作るパンの違いの大きさに驚きながら、一体どこが違うのだろうかという意識をもって、チーフ・ベーカーの練りの技術を見抜く努力を続けた。
熟練したパン職人さんは、自らは大変高度な練りの技能を駆使しているが、必ずしもそれを言語化することは得意ではない。その職人さんの持つ高度な暗黙知をエンジニアに伝えていく媒介の役割を、田中さんは果たす。田中さんは、「ひねり伸ばし」という言葉で職人さんの技能の重要な部分を概念化した。
エンジニアたちは、彼女が出してきた「ひねり伸ばし」というコンセプトの意味をくみ取って、その動きを現実のものとするために、容器の内側に特殊なうねをつけた。このうねがつけられたことによって、パン生地を練るへらが回転するときに、パン生地が引っかかって伸びるのである。「ひねり伸ばし」という言葉によって、暗黙知が表面に浮上し、それを現実のものとする動きが生まれたのである。
それに加えて、田中さんがエンジニアに対して、「もっと強く回転させて」とか「もっと早く」といったような指示を適宜与えることによって、自分の暗黙知をエンジニアに伝え、エンジニアがそれに応じてハードの仕様を調整した。そのうえで、エンジニアたちもパン生地の感触を得るために、チーフ・ベーカーのところへ行き、経験を共有した。こうした試行錯誤のプロセスを数ヶ月間続けたのちに、ハイレベルの商品が誕生した。
ビジネスにおける暗黙知と形式知の循環
技を盗むコツは、この「暗黙知」と「形式知」の循環を技化することにある。この循環には、的確な〈要約力〉や職人さんたちに対する〈質問力〉、〈コメント力〉などが大きな力を発揮する。また、仕事自体が「段取り」によって組まれているので、技を盗むということは、段取りを盗むということでもある。自分自身で段取りが組めるようになるまで修練する。これは同時に、〈段取り力〉を鍛えることにもなる。
〈段取り力〉は、個人の作業である以上に、数人が関わる場をクリエイティブにする力である。段取りの組み方次第で、場はどんどんクリエイティブになっていく。暗黙知と形式知を個人の中で循環させるだけでは十分ではない。それをグループで共有し、やがてより大きな組織的な活動にまで広げていくことが理想である。
個人の中での暗黙知と形式知の循環がうまくいけば、その個人は一見上達するようであるが、場全体の向上には直接的にはつながらない。場をクリエイティブにする〈段取り力〉が、成果を倍増させるためには不可欠である。しかも、暗黙知を明確に表面化させるのは非常に難しい作業であるので、自分一人で考えたり悩んだりしていてもなかなかうまくはいかない。数人が課題意識を共有しながら集まって、ディスカッションをし、各人の暗黙知をやりとりしていく中で、徐々に暗黙知が捉えられていくことの方がむしろ多い。
自分でも気づいていなかったことに気づくためには、なんといっても他者の存在が必要である。相互に相手の暗黙知を刺激するようなディスカッションができるようになれば、場は必然的に活性化する。このような暗黙知を活性化しあう技は、企業のみならず学校の授業でも、本来は基本をなすものである。しかし実際の学校の授業は、形式知の膨大な量の伝達に終始している感がある。形式知を形式知として再生するだけの能力を問う試験では、もはや十分ではない。自分や他者の暗黙知を明確に把握するために、形式知化する力を鍛えるということが、将来の仕事をする力にもつながっていく。
暗黙知とは、言葉を換えれば身体知である。身体においては認識しているが、明確に言語化されていない事柄に多くの意味が含まれている。身体知を強調する人は、身体方面ばかりを重視するきらいがある。しかし本来は、身体知を形式知にする力が強調されるべきである。そのうえでは、言語は重要な武器となる。言語の力を否定するような身体偏重主義では、暗黙知と形式知の循環はなされない。
文系と理系の対立を越えて
二項対立をつくって世界を二分して理解する仕方は、便利なものだ。創世神話の多くは、天と地が分かれるところから始まり、カオスから秩序への移行が、まず語られる。善と悪を分けて世界を理解しようとするのも、メジャーな二分法だ。こうした二項対立は、いくつかをうまく組み合わせれば、リアリティを捉えやすくしてくれる。しかし、あまりにも単純に二項対立によって二分したままで思考をストップさせてしまうと、リアリティとずれたところで、単純に物事を整理しすぎる危険性がある。しばしば言われる文系/理系という二分法は、その最たるものではないだろうか。
文系人間と理系人間の二種類に人間を分ける考え方は、合理的な役割分担を目指しているかのようでいて、実は上達への意欲を阻害する要因になっていることが多い。文系は、積極的に自分を文系だと規定する以前に、理数系の成績が悪いことから消極的に決まっていくケースが多い。とりわけ、自分の数学の成績に対して、どこかあきらめの気持ちを抱いたときに、その人は文系となることが多い。
そして自らを一度文系と規定してしまうと、理数系の科目の上達には一切関心がなくなる傾向がある。つまり、切り捨ててしまうのである。切り捨てられるのは、理数系の科目に限定されたことではなく、学校のカリキュラムよりずっと幅の広い科学的知識全般に対して関心を失うことにもつながってしまう。
一方で、自らを理系と規定した場合には、哲学・思想や文学など、いわゆる文系的だと思われている知識に対して、そのような知識に関心がなくてもまったく構わないのだという安心感を持ちがちである。欧米では、物理学や数学といった理系的な分野の学位と、哲学や文学などの文系的な学位とを、両方にまたがって複数持っているケースが少なくない。アジアを含め諸外国の大学生と比べて、日本の大学生においては、文系/理系という二項対立が大きな枠として覆い被さっているように思われる。
しかし、実際に即して考えてみれば、この二項対立はさして説得力がない。文系学部だとされている経済学部では、数学が必要とされる。理系科目とされる生物学は、受験でいえば暗記科目であり、とりたてて数学的な能力を要求されない。国語や社会にも論理力は必要であり、論理的思考を区別の基準とすることも、説得力に欠ける。
数式を用いるかどうかはともかくとして、論理的思考を尊重しない態度は、文系の学問でも認められない。小説家や芸術家のような特殊な創造的作業においては、いわゆる論理を超えた直感力を求められるだろう。しかし直感力は、理数系の研究における発見にも求められるものである。また、経営など実社会における思考にも、論理と直観の双方が求められる。
全体を構造的に捉える力も同様である。細部にとらわれて全体の構造を捉える力がないことをもって、文系的と呼ぶことはできない。文系の学問においても、構造把握の力は常に求められる。論理的思考や全体を構造的に把握する力などは、文系/理系といった便宜的とも言える二項対立に対応するものではなく、知的活動を行うにあたって、より普遍的な力である。
とはいえ、数式を使う説明は、数学的な知識の着実な蓄積を要求するので、そこから落ちこぼれた人間にとっては、理解範囲外のことに映るのもまた確かなことだ。数式という数学的言語は、他に代えがたい合理性を持っているが、多くの人がそれを自在に使いこなせるわけではない。
しかし、理系的な知識の相当部分は、私たちが普段使っている言葉を通して、およその内容を掴むことのできる性質のものである。現在は科学的知識についての啓蒙書は、質量ともに充実している。また、最先端にいる研究者自身が、一般読者に向かってエッセンスを書き綴った本も少なくない。
理系的な志向性と文系的志向性が各人の資質においてばらつきがあるということは、経験的に理解できることではある。しかし問題は、自らを文系と規定してしまった人間が、科学的な知識全般に対して関心を閉じてしまったり、基本的な論理的思考や構造的思考を身につけようとしなかったりする傾向である。
文系の特質は、言ってみれば自然言語には強いことである。日本語の文章理解力が優れているとすれば、日本語で書かれた科学の啓蒙書を読む技術においては、文系の人間の方が優っていると言えるのではないだろうか。つまり、本を多量に読む技術が備わっていれば、科学的知識の多くを吸収することができるはずであるのに、自ら門を閉ざしてしまっていることが問題なのである。
大学において、文系の学生に理系の科目を教えている先生たちによれば、自分たちを文系と規定していることによって、知的好奇心が大きく限定され向学心が妨げられているということである。
基礎力は共通する
文系/理系という二項対立は、知的好奇心や向上心を持たなくてよい言い訳の道具になってしまっている。この不毛な二項対立的思考を克服する手だてとして、大きく分けて二つの道を提案したい。
一つは、〈まねる(盗む)力〉、〈段取り力〉、〈コメント力(要約力・質問力を含む)〉の三つの力を、文系/理系といった区分を超える普遍的な基礎力として設定することである。もう一つは、本を手早く大量に読み、要旨を掴《つか》む技術を、文系/理系を超えた必須の技として位置づけ訓練することである。
まず、三つの力が文/理を超えた基礎的な力であるとする妥当性から述べてみる。この三つの力は、そもそも仕事をする上において必要とされる普遍的な力という観点から私が設定したものである。したがって、学校の各教科内容にとらわれてはいない。この三つの力が、理系の研究者にとっても基礎的な力とされるべきであるという意見を、私は〈三つの力〉について講演した折に、東京大学工学部の堀江一之教授からいただいた。私の記憶によれば、その主旨はおよそ次のようなものであった。
「この三つの力は、理科系の研究者にとっても、非常に重要な基礎的な力です。工学部で言えば、まず学部時代や大学院の時代は、実験ができるようになることが必要となります。実験がうまくできるようになるためには、〈まねる(盗む)力〉が非常に大切です。先生や先輩のやっている実験のやり方をよく見て、そのコツを盗んでいくことで実験はうまくなっていきます。
実験の基本的な段取りをまねて覚えたら、その次の段階として、自分の研究のデザインを組む段階に入ります。この段階で一番必要となるのが、まさにこの〈段取り力〉です。実験を中心にした研究の段取りを自分で組めるようになることが、研究者としてはどうしても必要になります。
〈コメント力〉や〈質問力〉といったものは、一見理科系の研究者にはあまり必要でないもののように思われるかもしれませんが、実際には国際学会などで自分の研究を発表する力は、非常に重要なものです。自分の研究を要約して発表する力ももちろん大事ですが、他の人の発表に対して積極的に質問やコメントができる若手がその後伸びる傾向があります。
だから私は、学生たちには、積極的に学会に出て、自分の発表をするだけではなく、人の発表に対してもしっかりコメントや質問をしてくるように言います。そうしたコメントをする力が、あとになって自分の研究に生きてくるからです。」
およそ以上のような話を伺い、三つの力が理科系の研究者養成においても重要な基礎力であると再認識することができた。
また堀江教授からは、この力は企業など一般社会においても間違いなく重要な力であり、仕事を覚える段階ではとくに〈まねる(盗む)力〉が必要となり、数人の部下をまとめる中間管理職的立場になった時には、場を活性化させるような〈段取り力〉が求められるようになり、より上の管理職になった場合には、自分自身が何かをするというよりも、部下のした仕事に対して適切な質問やコメントをする力が重要になっていくのではないか、という指摘も受けた。
文系/理系、あるいは、学校での勉強/実社会での仕事といった、領域を分断しがちな二項対立的思考を補うものとして、この三つの力のコンセプトは機能を発揮しうる。
「重みづけ」を意識する
〈三つの力〉と本を読むことを結びつけているのが、〈要約力〉である。要約力は、文系/理系に共通して必要な力である。要約と聞くと、ある程度の長さの文章を二百字以内に要約するといった課題を思い出しがちだが、要約力はもっと広い観点から意味づけ直されるべきものである。たとえば映画を観て、そのあらすじや面白さを他の人に伝えられるのも要約力だ。
また、武道や芸道における「型」も、要約力の結晶である。様々な動きの中で、最も基本となる動きに動作を限定していくことで全体を押さえることができる。これが、型の機能であり、これは現実の多彩な動きをいわば要約したものである。
すでに文字に書かれていることを、短くすることだけが要約力ではない。映像やあるいは現実そのものを要約する力が、よりいっそう高度な要約力である。要約力を意識することによって、要約力は向上する。あらゆる場面において、的確な要約を自らに課すことによって、コミュニケーションは的外れになる危険が少なくなり、効率がよくなる。
要約力は、上達の基本である。上達するためには課題をはっきりさせる必要がある。そして、その課題の設定が的外れであれば、上達は遅れる。重要な課題を絞りこむのに〈要約力〉が必要となる。その上で、自分にとっての課題を、様々な課題の中で重みづけをして、重要性の高いものをピックアップして優先順位をつけ、それをトレーニングメニューとして時系列順に並べていく。これが、いわば〈カリキュラム構成力〉である。自分にとってのカリキュラムを構成していくためには、様々にヴァリエーションを持つ現実を要約する力が求められる。
要約の基本は、肝心なものを残し、そのほかは思い切って「捨てる」ことにある。捨てると言っても、まったく無意味にしてしまうわけではなく、切り捨てたものが、残されているものに何らかの形で含まれているような関係を保っているのがベストである。要約力とは、すなわち「重みづけ」を常に意識することである。会議などでよく見られることだが、些末な報告事項に会議の時間の多くを割いてしまい、肝心の審議事項を十分に議論する時間を失ってしまうということはよくあることだ。
こうしたことが起こるのは、「重みづけ」の意識が足りないからである。形式的な順序関係に沿って事を進めると、時間配分やエネルギー配分を誤る危険性が高い。重要度の低い問題に、エネルギーの八割を割いてしまうということがしばしば起こる。いつどこで時間やエネルギーが尽きてもいいように、全体の重要性の八割方を占める部分を押さえることを常に意識することによって、このような「重みづけの失敗」を防ぐことができる。
試験のペーパーテストの訓練は、詰め込み主義と混同され、あまりよく言われることがない。しかし、ペーパーテストにせよ、この重みづけの意識化には役に立つ。つまり、単純化すれば、時間とエネルギーの総量を一〇〇とする。そこで、一問一点で二十問が構成されている前半部と、大きな一問で配点が八〇点の後半部があったとする。数学の計算問題と大きな証明問題、英語の文法問題と長文読解問題などで、こうしたことは現実にあることである。
全体の配点の二割しか占めない部分に八〇パーセントのエネルギーを割き、全体の八割の配点を占める部分に二〇パーセントのエネルギーをかけたとする。一方、全体の配点が二〇点のところに全エネルギーの二〇パーセントをかけ、八〇点配点の部分に八〇パーセントのエネルギーをかけたとする。大雑把に言って、後者の方が適切なアプローチと言える。私自身、些末な問題に時間とエネルギーの八割をかけてしまい、大きな問題にほとんど迫ることができなかったという失敗を、試験勉強を通じて繰り返しているうちに、さすがにエネルギーの適正配分の重要性を認識するようになった。
〈要約力〉の基本
試験はあらかじめ配点を決める人間がいるので、現実社会の状況とは異なる。現実の会議などにおいては、こうした「重みづけ」があいまいな場合も多い。「最低限決めるべきことは何なのか」ということさえ、はっきりしていない場合もある。そうした場合には「会議のための会議」となり、お互いに不毛な時間を過ごさざるを得なくなる。
八割方の重要度を占めるテーマについて、一定レベルの決定に至ること。これにエネルギーの大半を注ぐように心がけることは、当然なことのように思われるが、現実にはできていないことも多い。形式的な運営で事たれりとする司会進行役が多いことも、その一因である。まず、どうしても決定しなければいけないことを最初に明確にし、その決定に必要となる範囲内で質疑応答が簡略に行われるという手順が基本である。
文書によるまとめは、当日の会議の時間を節約するためのものであるはずなのだが、その文書の説明に時間の多くを割いてしまうというのは、本末転倒である。文書にさっと目を通し、要旨を掴まえることは、各人が意思決定のために独力で平行的に行えば済むことである。
こうした平行作業ができないとすれば、それは〈要約力〉のトレーニングの足りなさが原因である。文書にすでに書かれているような報告や、要旨を掴まえていないだらだらとした話を皆が聞いているのは、時間の無駄でありエネルギーの消耗である。会議で失われているエネルギーを換算したら、莫大なものになるだろう。
要約力の一定の高さを前提にすれば、こうした消耗もある程度防ぐことができる。とくに権力的に上位にある者の、だらだらとした要点を掴まえない話は、それを打ち切る役割の人間がいないので、上に立つ者にはとりわけ要約力が求められる。要約力の基本は、八割方の重要度を持った部分を見つける習慣である。
スポーツにおいても、八割方の比重を占める技術に練習のエネルギーの大半を注ぎ込むことが、上達のポイントになる。たとえばサッカーにおいて、オーバーヘッドキックは試合ではほとんど使われない技術である。しかし見た目が派手なので、テレビでは繰り返し放送されるし、マンガなどでも得意技として紹介されやすい。子どもはこうした技術に熱を入れやすい。これに比べると、球をもらう前のポジショニングやボールのトラップの仕方などは、試合中の多くの機会に必要とされるものだ。これは、目立たないが基本となる技術である。
こうした試合中に使われる技術の基本部分に練習のエネルギーの大半を使うことが、上達の王道である。Jリーグ・鹿島アントラーズの基礎を築いたジーコのコーチングにおいても、基本を徹底的に繰り返すことが行われる。一流の選手は、技術の八割を占める基本を反復練習して完全に〈技化〉することの価値を、誰よりも分かっているからである。
型や技といった概念は、技術が要約されたものである。こうした概念のよさは、重要な技に全エネルギーを徹底的に注ぎ込ませる構えをつくることにある。ほどほどのエネルギー配分というやり方ではなく、最重要の技に全エネルギーを傾注する、そうした徹底した態度を、型や技は求める。知っているとか、わかっているとか、大体できるといった次元では、全く評価されない。「常に確実にできる」ということが、技ということである。こうして全エネルギーをかけて練り上げられた「得意技」を基盤にして、「スタイル」が作り上げられていくのである。
〈二/八方式〉
全体の八割の重要性をもつ部分を的確に捉える練習は、短時間に大量の本を要約するトレーニングによって高められる。本をたくさん読むことが苦手な人の特徴として、一冊の本を最後まで読み通そうとする癖があげられる。この癖にこだわると、大概どこかで行き詰まりが出る。「本は行き倒れるもの」という前提で取り組むことによって、多くの本を吸収することができるようになる。並行的に十冊、二十冊といった単位で読んでいくことも、慣れればそれほど難しいことではない。
小説を別にすれば、本には伝えたい主旨というものがあるのが普通だ。〈要約力〉をつけるために、「全体の二割の部分を読んで内容の八割方を押さえる」という課題をこなす練習をすることは、トレーニングメニューとして効果的である。本全体の頁数が二百頁だとすれば、その一、二割、つまり二十頁から四十頁程度を読んで、全体の主旨の八割方を押さえるという課題である。
現実には、必ずしも全体の二割部分に八割方の基本情報が含まれているとは限らない。しかし、本というものは、全体が均一な重要度で分散的に書かれていることは、むしろ少ない。「重みづけ」が自ずとなされているものだ。とにかくはじめの方の二割を読むという、固定したやり方で臨むと、後半に重要な話を持ってくる癖のある著者に出会えば、的を外してしまう。
目次と前書き、あとがきを手がかりにするのは、基本である。しかし、そのような部分にだけ意識を集中させると、要約が一般論的になりがちである。その本の意義は読みとれたにしても、一番具体的でおもしろいところが抜け落ちてしまう味気ない要約に留まる危険性がある。世に溢れる書評の中でも、一通りの要約と無責任な印象批評で済ませているために、その本が持つ一番大きな魅力が、リアリティをもって伝わってこないことも多い。
「そこの部分をしっかり読めば、本の八割方をつかむことができる」、そのような二割を選び取ろうとすること。そうした意識をもつこと自体が、要約力を高める。全体の二割を通して八割方を押さえる。このやり方を〈二/八《につぱち》方式〉と呼ぶことにする。この方式は、読書だけでなく、現実の様々な状況において応用できるものである。
「二/八方式」を読書を通じて鍛え〈技化〉するとすれば、瞬間的に複数の書物を要約しなければならないという状況に追い込まれるのが、最もよいトレーニング環境である。私が大学で行っているのは、〈瞬間多読術〉というトレーニングだ。
まず、十人程度のメンバーが円形になり、中央に積み上げられた新書系の本の中からそれぞれ自分が関心があるもの(ただし読んだことのないもの)を選び取る。そして、三分間でその本に目を通し、各人がその本の要約を言う、というトレーニングである。
三分で一冊の本を要約できるように読むというのは、無理な注文ではある。しかし、大学でこれを行うと、三分間の間に本の主旨を的確につかまえることのできる学生も出てくる。つまり、決して不可能な技術ではないのである。たしかにキツイが、「やってやれないことはない」技術である。
トレーニング効果も明確で、何度か繰り返すうちにコツがつかめてくる。はじめは焦るばかりで三分間を無駄に過ごしていた学生も、他の人のコツを聞いて学習を重ねていくと、三分間を上手に使いこなせるようになっていく。
〈瞬間多読術〉のコツは、いくつかある。たとえば、キーワードや問いの設定も重要なコツである。本をパラパラとめくりながら、その本の要旨をつかむことのできる人がいる。こうした人は、重要なことを読みとるというよりは、「重要な事柄が向こうから目に飛び込んでくる」という感覚を持っていることが多い。
これは何も神秘的なことではない。自分の関心事やテーマ、あるいはキーワードをはっきりと持つことによって、いわばそれが磁石となり、他の様々な言葉がそれにくっついてくるのである。この磁石は、樹木の形をしているのが望ましい。つまり、幹となる問いやキーワードをきちんと持つことによって、そこに多くの情報が張り付いてくるのである。
関心の磁石をつくる
この「関心の樹木形磁石」を自分の中につくるための練習を、それ自体として設定することもできる。本を初めて手にして、一、二分ほどの時間のうちに、「この本では何がわかればいいのか」を決めてもらうという練習も効果がある。
「およそこれこれのことが分かればこの本の八割方をつかむことになる」そのような問いを、読む前に具体的に自分の中に持つことによって、そのほかの情報が張り付いてくる磁石の幹が作り上げられる。「最低限何を決めればいいのか」という課題意識をもつことが、会議の上手な運営の必須要件であるとすれば、「自分はこの本で何が分かればいいのか」をおよその線にせよ、課題として持つことが、本を大量に読むコツである。
幹となる問いの設定に際しては、タイトルや目次やあとがきなどが、有力な参考資料となる。重要なのは、「幹となる問いを設定する習慣」をつけることである。そうした意識をもつことによって、要約力は自ずと上がってくる。
キーワードの設定も、効果的である。本を読む前に、あらかじめ三つほどのキーワードを設定することによって、パラパラとめくるだけでもそのワードが飛び込んできやすくなる。そのワードを中心にして前後関係を押さえることによって、バラバラな情報がくっつきやすくなる。二、三のキーワードを組み合わせて一つのまとまりのある見解にまとめる作業を、次に課題として行えば、本の要約が仕上がることになる。
「キーワード間の関係を明確にする」という意識をもって、本をめくっていくことを通して、漠然とした読みではない効果的な情報の張り付きが起こりやすくなる。キーワードは、太い枝のような磁石の働きをする。キーワードが、向こうから目に飛び込んでくるようになるための練習法としては、パラパラとめくりながらキーワードが出てきたら、さっとマルをつけるという練習が効果的である。
このトレーニングにおいては、キーワード以外には目もくれずに、そのキーワードが出てきた瞬間にマルをつけるというところから始めるのが、意識変革としては効果的である。ページを手早くめくっていく練習と、見開きにさっと視線をながすコツが徐々につかめてくる。キーワードにざっとマルをする癖をつけておくと、後で読み返すときにそれが手がかりとなって、理解を深めやすい。
効果的なキーワードの設定には、もちろん熟練が必要である。「キーワードの的確な設定」を一つの明確な技術として認識することによって、この技術も向上可能である。大量の書物を処理するという状況に追い込まれることがそもそも少ないので、こうした〈瞬間多読術〉をトレーニングする機会は、通常は少ない。こうした状況を意識的につくり出すことによって、短時間に大量の本の要約をする力がついてくる。
たとえば、本屋や古本屋に行ったときに、十分から二十分程度で十冊以上の本の内容を把握することができるようになる。本を買わなくとも本屋に入るだけで、十冊程度の本の要約ができるというのは、非常に経済的でもある。その中でじっくりと読みたい本を購入すればいいのである。こうした〈瞬間多読術〉をある程度身につけていると、神田の古書店街などで数軒古書店をはしごするだけで、非常に多くを得ることができるようになる。
この要約力もしくは〈瞬間多読術〉といったものは、学者のような職業的読書人だけでなく、一般の人々が有していてよい技である。短文を何時間もかけて細部まで吟味する練習も時には必要であるが、十分で何冊もこなすような訓練は、より重要である。自分にとって重要な本は何かを決めるためにも、網は広く張られる方がよい。短時間で数十冊をチェックできるようになれば、知識の質に対するエネルギー効率は格段に増す。
数冊の大意要約を短時間でこなせる技術は、それを基本技術だとまず認識しトレーニングすることで、相当程度身につく性質のものである。国語の入試問題でしばしば見られるような、非常に細かい微妙な選択肢を解く技術以上に、誰にでも妥当だと思われる大意要約を、本を単位としてこなす技術は実践的である。
長文の英文読解のテストでは、「次の十個のうち本文の主旨と合っているものを三つ選べ」といった問題がよく出される。これは母国語であれば、ほとんど時間をかけずに迷わずに解答できる種類の問題である。問題の選択肢には、本の論旨をつかまえていると思われる妥当なものを並べればよい。作者自身もわからないような微妙な「作者の気持ち(と出題者が考えるもの)」を無理矢理推測するような訓練よりは、八割方妥当な線を大量の文字情報の中から的確に短時間でつかまえる訓練の方が、実社会においても有益である。
第二章 スポーツが脳をきたえる
スポーツの深い世界
「スポーツばかりやっていると脳みそが筋肉になって使い物にならなくなる」。こんな冗談とも本気ともつかない言葉がときおり聞かれる。たしかに運動部に入ってまったく勉強をしなければ成績は悪くなる。中学以降の勉強はとくに蓄積が必要なので、頭の素材の良さだけでは勝負できない。運動部の雰囲気によっては、勉強や試験の話をすること自体がタブーで、塾へ通っていることも秘密にしなければ人間関係を維持していけないというところもある。
世に言われる「頭の良さ」は、主に記号操作能力や言語情報処理能力に関わっている。これを身につけていないと、せっかくスポーツで高度な感覚や認識を得ていても、それを的確に言語化して伝えることができない。しかし言語化ができないからといって、すぐに身体感覚や認識のレベルまでが低いと決めつけるのは誤っている。
たしかに長嶋茂雄のバッティング指導の場面を観ていると「腰をこうキュッとひねってブワーッとまわすとバットからヒュッという高い音が出るだろ。このヒュッという高い音がいいんだ」といった類の擬音語・擬態語だらけの指導に終始している。こうした場面をたびたび見せられると長嶋の認識能力自体を疑ってしまいがちになるが、言語による説明能力と感覚・認識能力はイコールではない。
ここで問題にしたい頭の良さとは、学校の教科のデキではなく、どのような場におかれても自分が上達する筋道が見える力のことだ。この力は、よくわからない世界に放り出されても、仕事のやり方をまねて盗み、自分の得意技を磨いて全体の中でのポジションをゲットしていく力である。こうした力は普遍的なものなので、どのようなフィールドでもこの普遍的な上達能力を身につけることは可能である。
しかし、こうした上達能力自体の向上にも上達のプロセスがあるのであって、はじめからあまりに複雑な状況(フィールド)での経験は整理しにくい。はじめのうちは、諸条件が限定された状況の方が、上達のプロセスを認識し定式化しやすい。その後の複雑な現実における自分の闘い方を見つけていくための、いわば「箱庭的」な世界における上達モデルの獲得が基礎段階としてまず必要なのである。
スポーツは、「上達のミニチュアモデル」を獲得するのには最適である。スポーツには明確なルールがあり、現実よりもはるかに条件が限定されている。たとえば、卓球を例にとれば、台の大きさやラケットの重さや形状、ワンバウンドしてから打ち返すといったルールなどはすべてゲームを面白くするための限定だ。こうした諸限定によって、必要な技が確立されやすくなる。求められる技がはっきりすれば、その技を身につけるための練習法が考案される。
優れたパフォーマンスを生むためには、しっかりした技(技術)が必要であり、その技の習得のための練習を試合とは別に行うのが効率的だ。こうした「技(技術)に対する意識」や練習法の自覚を実体験を通して身につけていくことは、そのスポーツの競技力以上にその後の人生にとって重要な意味を持っている。「上達の普遍的な論理」を獲得するという点からいえば、生来の運動能力やセンスが競技力の大半を決定してしまうスポーツよりは、練習による技術の習得が競技力を左右するスポーツの方が意義が大きい。
卓球は技術の占める割合が高いスポーツだ。サッカーも技術の必要なスポーツではあるが、ズブの素人の大人の男が小学校低学年のチームに混じれば圧倒的な競技力を発揮する。しかし卓球となると、しっかり技術を身につけた子どもに素人の大人が勝つのはむしろ難しい。卓球では体格や体力以上に技術が要求されるので、技術習得のための練習メニューに対する意識も発達している。一つ一つの技術が明確であり、その技術を持つものと持たないものとがはっきりしている。たとえばバックハンドの横回転のサーブを打つ技術があるかないかは、誰にとっても明らかな事実として共有できる。
『ゲーテとの対話』から
技術習得のレベルについての認識を共有できる場は、上達モデルの獲得の場として非常にレベルが高い。反対にレベルが低いのは、何のために何をやっているかが認識されていない状況だ。身につけるべき技術が何であるか、その技術を身につけるためにどのような意識で練習をすべきか。こうした課題意識が共有されていない練習の場は現実には意外に多い。しっかりした指導者がいない部活動などでは、慣習的に引き継がれている練習メニューを、技術への明確な課題意識なしにただ漫然と繰り返しているケースも多い。
技術を向上させ、レベルアップしていくためのコツは、小さいミニチュア版を練習することだとゲーテはエッカーマンに言っている。
「「一番よいのは、対象を十か十二くらいの小さな個々の詩にわけて描くことだろうね。韻はふませるのだが、しかし、さまざまな側面や見方の要求するのに応じて、多種多様な詩形や様式を採用するのだ。そうすれば、全体もうまく浮彫りできるし、照明もあてられることになる。」このアドバイスは私の目的にはもってこいのもので、有難く頂戴する。「そうだね、時には戯曲風に扱って、例えば園丁などと会話をさせてみても一向に差支えないよ。こんな風にこまぎれにわけていけば、仕事は楽になるし、対象のさまざまな面の特徴をずっとよく表現できるね。その逆に、大きな全体をまるごと包括的につかもうとすると、必ず厄介なことになって、完ぺきなものなんて、まず出来っこないさ」。」(エッカーマン著、山下肇訳『ゲーテとの会話(上)』岩波文庫)
卓球はテーブルテニスと言われるように、テニスの尺度を小さくしたものである。この二つのスポーツの関係について、印象的な経験がある。私が所属していた大学のテニスクラブに、卓球をずっとやってきたO君という学生が入ってきた。彼は卓球ではかなりの腕前だったらしいが、テニスは初心者であった。卓球とテニスはゲーム形式は似ているが、使われる実際の技術や筋肉は相当異なる。卓球をやっていたからといってテニスが初めからうまいということはない。彼の場合も、はじめは際立ってはいなかった。
しかし、彼の上達の速度は、尋常ではなかった。彼の諸技術の秩序づけの仕方は明確なものであった。彼のとったやり方は、自分のプレイスタイルをまずしっかり決め、そのプレイスタイルからして最も使用頻度の高い技術を徹底的に磨くというやり方であった。彼が選択したのはベースラインで打ち合うプレイスタイルで、とりわけ高い打点でフラット気味にボールを強くたたくフォアハンドを攻撃の中心にすえたスタイルであった。
彼は卓球で培ったフットワークの良さを生かして、ほとんどのボールをフォアハンドでしかも同じ高さの打点でたたきつけるように工夫した。それ以外の技術、たとえばローボレーなどといった技術を練習することは少なかった。得意技にすることに決めたフォアハンドの練習も、限定が徹底していた。テイクバックやフォロースルーの形にはとらわれずに、インパクトを中心にした三〇センチほどの素振りを何百何千と反復して安定化させた。彼は自ら選択し限定した技術を徹底的に磨くことによって、テニスを始めて半年ほどでトーナメントで準優勝するまでになった。
私がインパクトを受けたのは、彼が試合でも練習同様にハードヒットできるということであった。練習では強く打てても試合になるとそれほどの球を打てない者がほとんどである。私自身にもそうした経験があった。試合になるとどうしても手が縮こまりがちになる。十年テニスをやっていても試合ではなかなかハードヒットはできなかった。いろいろな技術を持っていても、マッチポイントを握られた時のように重要な場面では、信じて使うことのできる技は、せいぜい一つか二つである。練習と試合とのギャップの少なさを目の当たりにして、技を限定して磨くことの重要性をいっそう痛感した。
〈技化〉のコツ
ある動きをいつでも使えるような技にすることを〈技化〉と呼ぶことにすると、この技化は反復練習によってなされる。通常、技の会得には一万回から二万回の反復が必要だとされている。これだけの回数の反復練習を行うためには、基本となる技を限定する必要がある。その基本技の中でも、最も重要な個所をまた選び抜いて、そこを集中的に反復練習する。これが技化のコツである。
卓球のラリーとテニスのラリーを比較すれば一目瞭然だが、一定時間内に行われるラリーの回数は卓球の方が圧倒的に多い。リズムに乗って同じフォームで淡々と卓球選手はラリーを繰り返す。素振りとラリーとの間の差がテニスの場合よりも少ない。つまり型の練習と実際のパフォーマンスの差が少ないのである。その意味で卓球は、一定の型(基本技)の反復練習の重要性を認識しやすいスポーツだと言える。
基本技の練習は大抵のスポーツの練習には設定されているが、実際には惰性化しがちである。上達のコツは、自分自身で自分の基本技を設定し、その基本技を身につけるためのミクロな練習法を工夫し、反復練習することにある。いわば〈基本設定力〉と練習メニューの作成力がハイレベルの上達には不可欠である。
O君に関しては、もう一つ印象に残っていることがある。それは、彼の〈質問力〉の高さである。彼の主な関心はテニスの全技術をまんべんなく習得することにはなく、試合に勝つことにあった。そのためにはプレイスタイルの確立が必要であり、それの中心となる得意技を伸ばしてきた。しかし、実際のゲームの段階に入ると、中心の技術以外の若干の技術も要求されるようになった。
彼が私にアドバイスを求めたのは、スマッシュを安定させるコツとバックハンドでのストレートへのパッシングショット(ネットについている相手を抜き去るショット)のコツの二点だった。「試合で戦うためにはどうしてもこの二つを一定レベルに上げなければならない、そのためのヒントがほしい」という明確な課題意識が、そこにはあった。「クロスのパッシングショットは要らないのか」と聞くと、「ストレートの打ち方だけで結構です」と言い切る。ちょうど同じ時期に、別の学生が「何か短期間でテニスがうまくなるコツってないですかね」という漠然とした質問をしてきたことがあったので、余計に彼の課題意識の明確さが印象に残っている。
〈質問力〉の高さを測る一つの基準は、その質問の裏にある課題意識の強さである。「そんなことを聞いて一体何の役に立つのか」と思わせるあいまいな質問もあれば、ジグソーパズルの最後の一ピースを求めてくるような明確な質問もある。自分自身でジグソーパズルをある段階まで苦労して組み合わせてきたプロセスがあってはじめて、一言のアドバイスがパズル全体を完成させるキーとなる一ピースになりうる。
このような高い〈質問力〉に対しては、相応の高いレベルの〈コメント力〉が求められる。アドバイスする側に責任と緊張感が生まれる。間違ったピースを渡してしまえば、それまで積み重ねてきたパズルを混乱させてしまうことにもなる。技術がまだ高いレベルに達していない場合には、求められるピースの数もかなりある。注意すべきポイントを七つ八つも挙げてしまえば、それは消化しきれず有効なアドバイスとはならない。
いくつか直すべきポイントがある中で、「核となるポイント」を見つけだすことが、アドバイザーに求められる力量である。パズルでいえば、それを教えれば残りのピースは当人が組み立てることができるような鍵のピースを見つける作業だ。
先の質問に対する私のコメントは、スマッシュに関しては、右膝を外に張って軸をつくるということであり、両手打ちのパッシングショットに関しては、左肘で後ろにヒジ打ちをする要領でラケットを引いて構えるということだった。どちらも意図は、運動のその後の流れがスムーズになる構えをつくることにあった。彼のフォームの癖を把握した上でポイントを絞り込んだ。結果は、うまくいった。
蓮實重彦はゴダールに何を質問したか?
〈質問力〉ということについては、蓮實重彦がゴダールにはじめて会ったときの話が印象に残っている(蓮實重彦『映画に目が眩んで』中央公論社)。
蓮實重彦は、フランス文学者で映画評論家でもあり、批評の世界では影響力の大きい大物批評家だ。彼は、ヌーヴェル・ヴァーグを代表するフランスの映画監督ゴダール(デビュー作『勝手にしやがれ』は今見ても斬新で面白い)の大ファンで、ゴダールのインタビューを自分がする雑誌企画を立てた。
ところが、相手は大物なので、なかなか会う予約がとれない。紆余曲折を経てようやくのことで会えることになったが、「映画祭に出品するフィルムの編集の追いこみなので、その仕事をしながらでもよければ」という条件つきであった。もちろん構いませんというわけで、スイスのレマン湖まで出かけていった。そして、ゴダールの仕事部屋のドアを開けたまではよかった。しかし、その後自分でも思いもかけなかった危機に陥った。
脇目も振らずに仕事に没頭するゴダールを目の当たりにした瞬間、一体どういう質問から対話を切り出したらよいかわからなくなって頭が真っ白になってしまったのである。蓮實重彦は、もちろんゴダール映画に詳しいし、しかもインタビューしに出かけていくのだから、もちろん多くの質問事項を用意していった。しかし、あの偉大なゴダールが仕事を中断して話をする気になる質問かと言えば自信がない。ゴダールもどこか不機嫌そうだ。何か、何か引きつけることを言わなければ、というあせりにつつまれ、必死で瞬間的に頭をフル回転させた。
さて、このとき彼は、いったいどういう質問をしたのであろうか? ヒントは、この質問で、ゴダールは即座に仕事を止めて身を乗り出してきて、二人は一気に意気投合したということだ。
たとえば、「私は、あなたの映画のなかでは……が好きですが、ご自身では何が一番好きですか」とかがまず普通考えられるところだが、面白みはない。「もう、飯食いましたか。まだでしたら、一緒にいかがですか」、「おいしいお菓子もってきたんですが、どうですか」では、一気に意気投合とはいかない。
最悪なのは、「あなたにとって映画とは何ですか」という類の質問であろう。そんなことを一言で言えというのは、非常識きわまりない。「私にとって映画とは愛です」とでも相手に言わせて自己満足に浸るインタビュアーは、〈質問力〉を鍛える努力を怠っている。その典型がいわゆるヒーローインタビューである。「今のお気持ちをお聞かせください」「うれしいです」といったやりとりには、新しい意味が生まれる可能性がない。
イチローも、いつか、「今日はフォームがおかしかったんじゃないの」という質問には、「あなたにそう見えたんならそうでしょう」という、とりつくしまもない答えをしていた時期があった。これは、プロの領域であるフォームの問題にまで、しろうとが口を出すことに対する不快感の表明であろう。それを質問したのが、毎日見ていてくれる人ならばいい。二百本安打のときも、二百十本までの十本が実に自分にとってすごく大変だし大切だったのに、それを見にきていた人は少なかったし、それについて聞いてくれる人もなかったとイチローは言う。プロセスや実際のプレイを見ないで、数字や結果でだけものをいう人に、大切なことは話せないと考えるのは当然である。
ジャイアンツの松井秀喜は、シーズン中にときどき長嶋監督の部屋に呼ばれて素振りをしていたらしい。素振りを繰り返すあいだ、二人は言葉をかわさない。というよりも、素振りの音で対話をしている。松井によれば、ボワッと音が広がるのはだめで、ヒュと空気を斬るような高くて鋭い音がいいらしい。一言も言葉をかわさないで、スイングの音だけを聴くなんて、まさに真のプロ同士の対話の仕方だと思う。
さて、ゴダールと蓮實重彦の話にもどる。彼は、こう切り出したのであった。「あなたの映画は、だいたいどれも一時間半ですが、それは、あなたの職業的な倫理観からくるものでしょうか。」
これは、非常にすぐれた質問だと思う。相手が今一番関心をもって取り組んでいる作業(フィルムをカットしてつなぐ編集作業)に合わせているし、相手の過去についてちゃんと勉強をしてきていることがわかるし、長い映画が多くなってきているという今の映画界の問題点がわかっていることが伝わるし、その上、相手のプロ意識を刺激している。
せっかく撮ったすばらしいシーンのフィルムを切りすてなければならない痛みはプロのみが知る痛みである。普通の人は、見ている映像のことしか考えない。カットされた部分に想像力を働かせることはない。それだけに、ついに誰も見ることのない、数しれない愛すべきシーンの存在に想いをはせることのできる者は、面識がなくても同志である。
この質問は完全にゴダールのツボにはまって、「よくぞいってくれた、そうそう、まったくそうなんだ、今の監督たちは平気で三時間以上の長い映画をそのまんま出しているが、観客の立場からすれば、一時間半のいい映画を二本見られるほうがずっといいはずだ。プロとしての努力が足りない」という感じで盛り上がっていったということだ。
つまり、相手に「これは話すに足るやつだ」という感触をもってもらわなければ、いい話はできないということだ。熱く語り合うには、それだけの熱をお互いにもっている必要がある。冷めてる相手を自分の熱で熱くしてまで、語り合おうとするのは、真の教育者しかいない。そして情熱の質と実力は、なされる質問の質ではかられることが多い。
したがって、かるがるしく聞けない雰囲気というのも、悪いとばかりはかぎらない。うまい人のやることや言うことをじっくり見て、聴いて、自分で試しながら「技を盗む」という、徒弟制の時代の技術の身につけ方は、緊張感があって効果的である。いざ、聞くときには、ここぞというところを聞くようになる。
「何を聞きたいのかよくわからないで質問にくる人がいて困る」と言う教師がいるが、何が聞きたいのかはっきりしている人は一定レベルに達しているので、あまり心配ないとも言える。むしろ教師の腕の見せ所は、〈質問力〉を上げるところにある。
指導者の〈コメント力〉
指導者の〈コメント力〉は、選手を観る眼力にかかっている。ハンマー投げでアジアの鉄人といわれた室伏重信(アジア大会五連覇)が息子の室伏広治(ハンマー投げ日本記録保持者)の指導をしているときの意識は、研ぎ澄まされている。余計な言葉がはさまれる余地のない沈黙が、場を支配する。室伏重信は、ひたすら見つめる。そして、こう言う。
「言う、ことではなく、見る、ことこそ指導者の役目なのです。思ったことを未消化のまま言うことはあってはならない。技術は、日によって、時間によって、ハンマーにおいては一本一本変わるのかもしれない。それくらい繊細なものの中で安定を築くのです。しっかり見極めねばならないのです。」(「ナンバー」472号)
彼にとっては、指導とは「静観すること」だ。しかし「静観とは見るだけではない。見て、チャンスを待つという意味です。仮に選手が間違った動きをしていても、それが後にどういう形で技術に効いてくるのか、これは瞬時にダメだと判断できないからです。何を、いつ言うのか、そのタイミングを待つ」(同)のである。
そのタイミングとは、選手本人に潮が満ちるように課題が見えてきたときだ。それまで自分から話すことはない。「自分からハンマーの話をしたことは一度もない。一方、選手本人が何かを聞いてきた時には、すべてを答えてやらなくてはなりません。(そうしたアドバイスのチャンスが来るまでは)仮に1年かかったとしても待ちます。指導者として問われるべきは、私自身が、いかに適切な準備をし続けているかなのです」(同)と言う。
ここで言われている指導者の〈コメント力〉は、一般論の一方通行的な伝達の対極にあるものだ。選手を継続的に見つめていると、一般論的には誤りであるような動きも、その選手の動きのシステム全体(プレイスタイル)の中ではある種の合理性を持っていることに気づく場合もある。「癖《くせ》」が単なるマイナスの効果しかもたらさない悪癖であるのか、あるいはトータルにはプラスの効用をもたらす「技」となっているのかを見極める。こうした見方は、個別的・対話的な見方であり、一般論的な見方ではない。
癖を矯正するだけならば、個別的・対話的な指導者でなくともできる。しかし、その癖を直したときに長所までも消してしまうことがよくある。優れた指導者には、癖を技に替える、すなわち〈癖の技化〉という観点も必要である。
技術か人間性か。この二項対立図式もまた、リアリティを見失わせ易いものだ。技術を離れて人間性だけを説けば、発展性がない。一方、技術偏重主義に陥れば、不毛感が残る。室伏重信は、礼儀の重要性はもちろん認識しつつも、「礼儀あってこそ技術が育つ」という主張に対して、次のような批判的見解を述べている。
「その流儀ではストレスが溜まってしようがない。こうやったら伸びる、という技術のヒントを教えるのが指導者であり、自分の器以上のものになってもらうことが前提です。その厳しさと向き合ってこそ、人間が育つ。高い技術を追求する人間に、精神は後からついてきます。逆に、精神から入ったら、競技者としての壁は越えられませんね。」(同)
ただし技術の追求が、精神的な成長を完全に保証するわけではない。技術の追求をめぐって対話的な関係が成立していることが、精神的な成長をより促す。漠然とした人生論的指導を漫然と繰り返すのではなく、具体的な技術に対する認識を一つ一つ共有していく。このプロセスを通じて、人間性に厚みが増してくる。軽く方向性を示す一言でも、成長にとっては重要だ。室伏の指導は言葉少なだと先に言ったが、それでも時折「よくなっている」といった言葉はかける。この一言だけでも選手の力になる。
ベストを取り戻す
スキーの複合競技の荻原健司は、かつてワールドカップで連戦連勝し、外国勢から宇宙人とまで言われた強さを誇っていた。やがて外国勢が、荻原のV字ジャンプを分析し、追いついてきた。そのあたりから荻原健司の方は、ジャンプの調子を崩し、フォームを乱していった。このプロセスについて、荻原自身が振り返って、次のように分析していた。
好調時の自分のジャンプは、今思うと完璧だったのに、無理してもっとよくしようとしてフォームをいじってしまい、フォーム全体を崩してしまった。自分にはあのとき、「今のままのフォームで完璧だから変える必要はない」と言ってくれる人がいなかった。そうした人がいれば、あそこまでのスランプに陥ることはなかった。およそ以上のような分析であった。この話は印象的だった。「変える必要はない」と言うことができる力も、指導者の重要なコメント力なのである。
自分の好調時のベストのフォーム、パフォーマンスをはっきりと覚えていてくれる人の存在。この存在は何ものにも代え難い。こうした存在は、自分よりも力量が高い必要は、必ずしもない。指導者ではなく、友人でも構わない。「何をどう変えるべきか」を指示できるのもアドバイザーの重要な能力ではある。しかし一方で、変えなくてもいいもの、変えてはいけないものを教えてくれる存在も、大変に貴重だ。
バッティング投手は、こうした存在の象徴だ。バッティング投手は、練習時に選手のバッティングの調子を整えるために投げることを仕事としている。基本はど真ん中に直球を投げることだ。球は普通微妙に変化するので、真っ直ぐ真ん中に投げることは、意外に難しい。この基本的技能の上に、バッティング投手には、各打者の好調時を記憶しておいて、そこに持っていくために必要な球の揃え方を工夫することも求められる。
ある選手が調子を取り戻すためには、アウトコース高めのストレートが必要な場合もあるし、課題克服のためにインコース低めに投げ続けることもある。ただコントロールがいいだけでは務まらない仕事である。打者の癖を把握しベストへ持っていくための配慮を、投球に込める力が必要だ。一球一球配慮した球の揃え方で、相手の調子やレベルを上げていく関係は、クリエイティブだ。
とりわけプレイスタイルを確立するプロセスを共にしたパートナーとの関係は、かけがえのないものだ。読売ジャイアンツの桑田真澄投手は、その優れた野球センスと真摯で合理的な練習態度によって、高い評価を受けてきた選手である。桑田は右肘の靭帯断裂によって手術を受け、リハビリを経て復活を果たした経験をもっているが、その復活の陰にはクリエイティブな関係性が存在した。
桑田真澄の体格は、プロとしては小さい。その分を膨大な練習とフォームの工夫などによって補ってきた。全盛期の桑田のピッチングは、見る人々を惹きつけた。気迫と技術、頭脳と身体が一体化した心地よい緊張感が、桑田のピッチングから発散され、その緊張感を観客は味わうことができた。
しかし、桑田の右肘には、すでに「金属疲労」が溜まっていた。そしてついに、打球をダイビングキャッチした瞬間に、右肘を決定的に痛めてしまう。野球センスがありすぎたために起こった悲劇であった。右肘の手術を受けた桑田は、絶望と焦りに襲われながらも一年間のリハビリに取り組んだ。外野のフェンス沿いを毎日、桑田が走り続けたために、そのコースの芝生だけがはげ、桑田ロードと呼ばれるようになった。
桑田の生命線は、低めにピュッと伸びるキレのあるボールであった。しかし、そのボールが、どうにも戻ってこない。桑田は勝負を賭けた自主トレで、PL学園時代の旧友の今久留主捕手にパートナーを依頼する。桑田はなぜ旧友の捕手を選んだのか。
「あの僕独特のボールが、きっちり低めに出るか出ないかで、決まる。出なければ桑田真澄は並のピッチャーなんですよ。そのボールが出るから、一流でやっていけるんです。今久留主は僕のボールを3年間受けてくれてましたから、そのボールを知っている。オーストラリアにいる間に、一球でいいからそのボールが出れば、もう自信を持って宮崎に行けるんです。これは、最後の賭けなんですよ。」(「ナンバー」415号)
復活をかけるときにパートナーとして選んだのは、自分のベストのボールを身体でわかっていてくれているキャッチャーであった。自分のベストを知りぬいた相手とならば、求めているものがわかり合える。その理想からのズレをフィードバックすることもできやすい。うまく低めに行かなかったときには、桑田が今久留主捕手のところにまでボールを取りに行くことにしていたという。そしてついに、イメージ通りの低めに伸びるボールが決まるようになった。
「イメージ通りのボールが行った瞬間、これだと思いました。そしたら今久留主もわかっていて、捕った瞬間に、よし、やったなって顔をしてくれたんですよ。僕らの気持ちが一致したんです。その球が一球でも出れば、あとは増やしていくだけですからね。もしゼロなら、ダメかもしれないとも思ってました。」(同)
かつてのベストのボールを取り戻した瞬間を、何も言わなくてもわかり合える。この言葉を超えた感覚の共有は、人生最大の至福の瞬間ではないだろうか。
「型」とズレ
上達の秘訣は、自分の癖やスタイルをよくわかってくれていて、タイミング良くアドバイスをしてくれるパートナーや師匠を持つことだ。しかし、こうした存在が身近にいない場合もあるし、一人で練習しなければならないことも、実際には多い。こうした状況において、無類の価値を発揮するのが、「型」である。
「型」の特質は、変わらないと言うことにある。一方で私たちの心身は、大きなスパンでも小さなスパンでも、変化し続けている。この変化は、レベルアップへのきっかけを可能性として含み込んでいる場合もあるが、単なる崩れであることも多い。練習によって習得した型は、そうしたズレを修正する機能を持つ。「何がどのぐらいずれているのか」という情報を、一回一回フィードバックできるところに、型の良さがある。
現在はビデオが発達し、自分のベストのフォームを記録したビデオを繰り返し見ることによって、現在の自分のパフォーマンスをチェックするやり方が、広まってきている。大リーグで活躍する長谷川滋利投手は、大リーグに行ってからいっそう上達した選手だ。彼はもともといいコントロールをもっと磨くために、ビデオでフォームをすべてチェックし直している。仲間から「調子がいいのに、なんでビデオばっかり見ているんだ」と冷やかされるほどに、徹底して続けている。
こうしたビデオチェックは素人にもできそうに思われるが、実際には意外に難しい作業である。というのは、視覚的に得たビデオからの情報を身体感覚として把握するだけの身体感覚の積み重ねがなければ、本質的な成果は得られないからである。
ビデオは、本来は他人からしか見ることのできない自分の姿を、客観的に自分で見ることができるという点で、画期的な道具だ。普段は気づかないことに、気づく機会を得ることができる。しかし、ビデオというテキストから豊富な意味を取り出すことは難しい。ビデオ自体が情報が少ない不出来な場合ももちろんあるが、ビデオテキストから「意味」を取り出すための視点や感覚が未熟であるケースも少なくない。
たとえばプロのスポーツ選手が、自分のフォームをチェックする場合には、数センチのズレに気づくこともある。それは、その選手が常にそのポイントに関心をもっているからであり、その数センチのズレが身体感覚のズレとして実感できるからである。プロの選手でも、コーチからビデオに映るズレを指摘されて、初めてズレに気づくこともある。映像から「意味」を取り出すのも、一つの技なのである。
たとえ自分の映像であっても、そこから何かを「盗む」という意識で臨まなければ多くの成果は得られない。研究やチェックのためにビデオを大量に撮り続けてため込み、分析せずに結果として死蔵しているケースが少なくない。こうしたケースが頻繁に起こるのは、映像がリアリティそのものだという盲信と、映像から意味を取り出す技に対する認識の足りなさが原因だ。
写真から意味を取り出す場合も、同様である。私は、写真を身体論的な観点から分析する機会が多い。その際、多くを語りたくなる写真と、そうでないものとがある。私にとって意味が充実した写真というのは、細部(ディテール)にもしっかり意味が含まれているようなものだ。そうした分析の作業をしてみると、木村伊兵衛や土門拳といった巨匠と呼ばれる写真家の撮った写真には、細部について語りたくなるものが多いことに、改めて気づいた。
ある時「おんぶ」をテーマに写真を調べていたところ、木村伊兵衛の撮った昭和の市場の買い物風景の写真の中に、子どもを背負っている五、六人の女の人が一度に収まっているものがあった。いくら「おんぶ」が当たり前だった時代とはいえ、これほどの人数がファインダーの中に収まるほどに集まるのは、一瞬であっただろう。その偶然とも言える一瞬は、意図的な準備がなければ撮られなかったものである。
一見何気ない日常の写真のようでも、充実した意味が含まれているものと、そうでないものとがある。写真自体の充実度と同時に、それを見る側の視点も重要である。「意味」は積極的に読みとるべきものだ。この木村伊兵衛の写真のように、はっきりと「おんぶ」が主題となっていると思われる写真でも、「おんぶ」を主題とした民俗学的あるいは身体論的な観点を持たない場合には、ただの混雑した昭和の風景として処理されてしまうかもしれない。写真の意味は、見る者の観点と写真との対話関係において生まれるものである。
こうしたことから上達の秘訣の一つのヒントが得られる。それは、内的主観的に感じられるものと、外的客観的な視点から得られる情報との「すり合わせ」、「重ね合わせ」の技術である。かつての西鉄ライオンズのエース稲尾和久投手は、好調時には、自分のピッチングフォームを真上から見るイメージを持つことができたと言っている。
もちろんこれは、脳の中の作業である。ビデオではなく脳の中のイメージとして、自分の姿を客観的に捉えることができるというのは、達人の技である。こうした場合には、自分の内的な身体感覚や感情と、自己を外側から捉えた視覚的な映像との間の「すり合わせ」が、当然可能である。
内的感覚と視覚情報をまったく別々に処理するのではなく、一つのリアリティを多元的に構成するものとして活用できるのは、複眼的な技である。両眼で見ると奥行きが出る。そうして捉えられたリアリティは、意味が充実した厚みのあるものとなる。現象学的社会学者アルフレッド・シュッツは、現実を一元的なものとしてではなく、マルティプル・リアリティ(多元的現実)として捉える現象学的観点を提唱している。たとえば芥川龍之介の小説『藪の中』(黒澤明の映画『羅生門』の原作)は、一つの現実を共有しているはずの三人の証言がまったく食い違っていることから、現実の意味が多元的であることを教えてくれる。
世阿弥の「離見の見」
上達という点から見て重要なのは、主観的に感じられるものと外側から見られるものとの「すり合わせ」である。話をする場合にも、聞き手の立場になって自分の話を捉えなおすことのできる人は、話がうまい。私などは自分の生来の速いテンポで突っ走る傾向があり、ハイテンションで一時間半ぶっ通しでしゃべり倒してしまうこともしばしばある。聞く側の立場からの自分の捉え方がまだ足りないので、自分のテンポや間合いを変えたりしにくいのである。
笑わせるコツは、「間」だと言われる。話の内容は面白いのに笑いがとれない人と、内容はそれほどでもないのに「間」の取り方がうまいので大きなウケを得る人がいる。この「間」は、自分と他者の間の「間合い」であると同時に、「息の間」でもある。話す技術に焦点をあてるならば、話している主体としての自分と、それをできるだけ外側から客観的に捉えた自分との間のズレを、上手に修正する技術である。
すり合わせの技術を、中世の段階で、明確に概念化した人間がいる。
世阿弥である。世阿弥は、『徒然草』の吉田兼好と並んで日本中世の上達論の巨匠だ。世阿弥の「離見の見」という概念は観客から見られるという条件で初めて成り立つ、「演ずる」という行為の上達に関する、いわば奥義である。この「離見の見」は日本の上達論の白眉であると同時に、現代日本人の課題でもある。世阿弥の原文は次のようである。
「又、舞に、目《もく》前《ぜん》心《しん》後《ご》と云《いう》事《こと》あり。「目を前に見て心を後に置け」となり。是《これ》は、以前申《もうし》つる舞《ぶ》智《ち》風《ふう》体《たい》の用心也。見《けん》所《しよ》より見る所の風姿は、我が離《り》見《けん》也。しかれば、我が眼の見る所は、我見也。離見の見にはあらず。離見の見にて見る所は、《す》則《なわち》、見《けん》所《しよ》同《どう》心《しん》の見なり。」(『花鏡』)
この文章は一見禅問答のようで、わかりにくいかもしれない。しかし、ここで世阿弥が述べている事柄は、非常にハイレベルな事柄ではあるが、クリアな論理である。演出家堂本正樹の訳を借りれば次のようである。
「また舞の心得に、「目前心後」というのがある。これは「目では前を見て、心を後ろに置け」ということだ。これは先に触れた「舞智風体」の心得である。見物席から見られるわが舞台姿は、いわば自分にとっての「離見」である。それに反して自分の意識は「我見」である。「離見」に立った「見る」ではない。離見の見とはなにかというと、それは観客席から舞台上を見るのと同じに自分を見ることができるのだ。わが姿を見ることができてはじめて、左右前後も見ることが可能となろう。しかし、目の前方、左と右までは見るけれども、後ろ姿はまだ見てはいまい。最も危険の多い後ろ姿を自覚しなければ、姿の欠点も理解できまい。であるから、離見の見で客と役者の一本化をなしとげ、本来見ることのできない部分まで見取り、身体全体のバランスに立って、美しい姿をつくるのだ。これこそ、「心を後ろに置く」のではないか。もう一度いうが、「離見の見」の真理をしっかりと体得して、「目は眼自体を見ることはできない」のを自覚して、左右・前後を正しく、自然に見なくてはならぬ。ならば花の姿に玉を添えた美しい舞が舞えるだろうこと、当事者の体験となって現れよう。これこそ証拠である。」(堂本正樹『演劇人世阿弥』NHKブックス)
技とイマジネーション
「目を前に見て、心を後に置け」という表現は、身体感覚を含んでいる。自分本位の独りよがりで事を行っているときには、意識は前につんのめりがちになる。そんなときに一息「間」を入れて、大きく息を吸ってゆったりと息を吐き出す。すると、意識がすーっと醒めて、心が後ろに置かれる感覚を味わうことができる。これは、自分が現在はまりこんでいるライブの時空から自分の身を引き剥がして、冷静に状況を捉え直す技法である。
サッカーで絶妙なパスを出す選手に対して、「視野が広い」とか「観客のように上からフィールド全体を見る目を持っている」と表現することがある。こうした視野の広さは、神秘的な能力ではなく、常に広く周りに意識と視線を向けることを習慣化したところに生まれる技術である。習慣化によって、視野は広がる。
しかもスポーツの場合には、そこに見えるフィールドの風景は、単なる客観的なものではない。自分がそこに参加し自分の技で状況を変えることができるような性質の風景である。自分の持っている技の種類や熟達度によって、風景の秩序化は変わってくる。
たとえば、Jリーグ・横浜Fマリノスの中村俊輔のように、バナナのようなカーブを描くロングキックが正確にできる選手は、そういう技術を持たない選手には見出すことのできないボールの軌道を、思い描くことができる。次の未来の瞬間をつくり出す選択肢が、その分だけ増えるのである。スポーツにおいては、技とイマジネーションは強く連動している。
スポーツをやると、本来頭は良くなる。その理由の一つは、優れたパフォーマンスを生み出すためには、高度の情報処理能力が必要とされ、鍛えられるからである。松岡正剛は中田英寿のプレイを、情報処理の観点から見ている。松岡は中田のプレイの魅力を、「高速で矛盾を連続処理していく彼の身体」にあるとして、次のように言う。
「右肩は右に向けつつ、左から来るボールに対処する。一つの体が、いくつもの運動方向を共有する……加速的にかっとうや矛盾が増えては、中田に選択されることで減っていく、その繰り返し。多重な瞬間をコントロールしていく中田を見ていると、体の方が言葉より速いということか、と感じさせられる……プレー中の体のよじれ、捩《れい》率《りつ》が少ない。サッカー選手は体のバランスを保とうとして体内にかっとうが生じ、それがよじれとして外部化されるが、中田の場合、かっとうが内包されコントロールされる。だからクールに見える。」(「朝日新聞」一九九八年六月十日付夕刊)
「高速で矛盾を連続処理していく彼の身体」という表現は、現実のプレイのイメージに即していて、的確だ。頭脳労働/肉体労働、という二項対立図式を超えていくイメージが、ここにはある。この矛盾の高速処理能力は、それを課題としてトレーニングすることによって向上する。常に「見通し」と「バランス」をテーマとして意識し続けることによって、技化してくる能力である。これがイマジネーションの母胎となる。この次元までくると、上達のコツは領域を超えて通用するものとなる。
第三章 “あこがれ”にあこがれる
自分流の変形
「上達の秘訣」という観点から見たときに、先ほど引用した山田久志のコメントの中の「山田流のシンカー」という言葉は、重要なポイントを含んでいる。人間の身体が関わる技(技術)の場合、技は各人の身体の大きさや特性にしたがって、少しずつアレンジされて技化される。技術はもちろんある程度客観性をもったものであり、それについての共通認識を持つことができるものである。
しかし、そうした技術が技として取り入れられるプロセスにおいては、各人の持っている身体性に沿って微妙な変形を受ける。この微妙な変形の工夫がなければ、その技術が身体に馴染んでいくのは、むしろ難しい。シンカーという技術を盗もうとしたときにも、指の長さも違えば腕の振りのスピードや角度も人によって異なるので、まったく同じシンカーにはならない。
ここで重要なことは、同じものをまねしていると思って結果として違うものになっているというのではなく、違いを正確に認識しているということである。「自分の中で技術がどのような変形作用をこうむるのか」を的確に認識する力が、上達にとって重要である。というのは、そこに自分のプレイスタイルを作り上げていくカギがあるからだ。
基本や型を学んだときに、無意識に何となくズレて身につけてしまうとすれば、それは単なる「癖」である。癖の場合は、そうしたズレに気がつきにくい。したがって、そのズレを修正することも難しい。型を何度も反復練習するのは、そうした無意識に生じてしまうズレに対して敏感になり、ズレを修正する認識力を育てるためでもある。
「自分はいま何のためにやっているのか」ということについての、正確な認識力を育てることが上達の秘訣である。この認識力は、比喩的に言えば、倍率を変えることができる質の高い顕微鏡と望遠鏡のようなものだ。たとえば、球の握りや振り出すときの肘と手首の関係といったものは、ミクロな視点だ。一方、一つの技術が自分のプレイスタイル全体の中でどのような位置を占めるのかを認識するのは、マクロな視点である。ミクロからマクロまで自在に倍率を変えて、一つの技術を見つめる力が、技術を自分の技とするときには重要である。
技術は多くの場合、バラバラに独立したものとして取り入れられるのではなく、すでにある程度出来上がっている技のシステムの中に組み込まれる。一つの技術の意味は、それを取り囲む諸々の技術との関係によって変わってくる。シンカーの例でいうなら、ゴロを打たせるためのシンカーが必要なのか、空振りをさせるためのシンカーが必要なのかによって、シンカーに求められる意味は異なってくる。
何のためにその技術が必要であり、その技術が自分の全技術の中でどのような位置を占めるのか。こうした課題を認識するマクロな視点が、技の上達には大きな役割を果たしている。明確な目的意識が細かな工夫を生み出すからである。目的意識を持たないで技術をまねようとするときには、外側を「なぞる」だけに終わる。技術の基本は、洋服のデザインのようなものだ。実際に服を仕立てるときには、各人の体形に合わせてアレンジを施す必要がある。調整を施すことによって、最も高い効果が得られるのである。
〈癖の技化〉
癖は、パフォーマンスの本質に関係なく附随するものと考えられている。癖は、効果の面から見ると、ゼロあるいはマイナスの働きをなすものと評価されている。しかし、往々にして、短所と長所は表裏一体の場合が多い。癖を意識的に排除してしまった結果、長所も薄れてしまうというケースもある。一方には、パフォーマンスの質を落とす効果しか持たない直すべき癖も当然ある。
コレステロールに悪玉と善玉があるように、癖にも悪玉と善玉がある。つまり、悪癖といわば「善癖」がある。正確に言えば、癖の善悪は、技術全体や上達のプロセス全体という視野に立って評価されるべきものである。こうしたトータルな観点から、癖を悪癖と善癖に分けて捉える認識の仕方が、重要だということになる。
ここでクローズアップしたいのは、〈癖の技化〉という考え方である。自分の持っている癖を、すべて取り去って新しい技をつくるというのが、武道・芸道の厳格な「型」の考え方である。これはいわば、古い家屋をすべて取り壊して、一度更地にして新しい家を建てる、もしくは大震災などで一度既存のものが崩壊したところに人工的な都市計画で再興するといった作業に似ている。伝統芸能のように、枠組みがきっちりしていて歴史的な蓄積が多い領域においては、こうした考え方は、とりわけ有効である。
しかし、変化・発展のプロセスにある領域やオリジナリティ(独自性)が重視される領域においては、基本は押さえた上で、自分の癖を技にアレンジしていくやり方も、効果的である。
通常人間性と思われているものは、癖や習慣の膨大な集積である。こうした癖や習慣は、それぞれ複雑に組み合わさっている。江戸の長屋や、建て増しを重ねた家屋のように、その複雑な構造には、歴史的な事情がある。癖や習慣をすべて捨ててしまうのではなく、全体の中で効果的な技になりうる可能性のあるものを、アレンジして技として鍛え直す。これが、〈癖の技化〉というコンセプトである。
〈癖の技化〉というのは私の造語なので、奇妙な印象を与えるかもしれない。しかし、世の中の実際に即して「得意技」というものを見通してみると、各人の得意技の裏には、たいてい「癖の技化」があることが分かる。
たとえば、「こもる」という動詞がある。「こもる」こと自体は、プラスにもなりマイナスにもなるニュートラルな動きである。人生をかけた試験のために家にこもって勉強をしたり、大事な試合の前に「山ごもり」をして集中的に鍛えたりすることは、日常生活から切り離された時空での特別な集中を可能にする。
元来こもりがちであったり、こもるのが好きな人間が、ある目的のために意識的に「こもる」という動きを技として認識して鍛え、活用するならば、これは〈癖の技化〉である。「こもる」は、作家が通常得意とする技である。こもることがまったく苦手な人間は、作家の生活スタイルを続けるのは難しい。
対照的に、「ひきこもり」状態に消極的に陥って抜け出せない生活をしているのは、単なる癖・習慣であって、到底「技」とは呼べない。「ひきこもり」は、自分自身でコントロールできないのが特徴だ。「ひきこもり」をやめたいときには自在にやめることができ、続けたいときには続けることができるという次元になれば、それはもはや「ひきこもり」とは言えない。「こもる」ことを自在に活用して、こもらないでいる状態よりもクリエイティブな活動をなすことができるとすれば、「こもる」ことが技化されていると言える。
坂口安吾の場合
作家の坂口安吾は、自分の癖を熟知し、そのさまざまな癖を技化して自分のスタイルを作り上げていた人物である。安吾は「こもる」ということを、他の作家以上に意識的に行う。創作活動期にはいると、ほとんど家にこもりきりになる。安吾の妻の坂口三千代は『クラクラ日記』(ちくま文庫)の中でこう書いている。
「彼は大変規則正しい人で朝は五時には目を覚まし、七時頃私が目を覚ますまで待っている。そして夜は十時にはもう眠っていた。仕事中はもっと早く、夕食がすむとすぐに眠り二、三時間で目を覚まして仕事をしていた。そうして朝、私が起きる頃お酒を飲んでねむり、お昼頃起きてまた仕事をするというふうだった。一つの仕事が終わるまでは幾日でも一歩もそとへ出ず、トイレへ行く以外は家の中をあるきもしない。ほんとうにだるまさんになってしまうのではないかと思うくらいだ。」
そして集中して書き上げると、今度は「放浪癖」に身を任せる。「こもる」と「放浪する」の両極端を行き来するのが安吾のスタイルであった。生来の気質と小説という仕事とをすり合わせたところにこうしたスタイルは練り上げられていった。
「彼が家を飛び出して行く場合は二種類しかない。私に腹を立てた場合と、一カ月余りも閉じこもりっきりで仕事をし、終わったとたんにお酒を飲んで飛び出していくのだった。
そして一たん家を出たが最後いつ帰って来るのやら、見当がつかず、どこに居るのか皆目わからなかった。」
坂口安吾は、自分の癖や弱点を的確に把握したうえで、むやみにそれを直すのではなくそれを技として活用しようとした。たとえば、作品を完成させるために、次のような工夫を安吾はしている。
「私は今まで、全部の完成を見ぬうちに発表した長篇は、すべてが中絶という運命にあった。これは作者の個性的な性癖の一つで、仕方がないものであろうと思う。その反面、全部の完成を見るまで発表を控えたものは、二年三年の難航はあっても、それぞれ完成しているのである。私はその運命を怖れた。そして、新潮の社員に、題名などは何でもいいが、全部の完成を見るまで発表を控えて欲しいという一事だけ、特別に言いつづけていたのであった。」(『坂口安吾全集 七』ちくま文庫)
「作者の個性的な性癖の一つで、仕方がないもの」という言い方は、自分の弱い点を平然と見つめる安吾らしいユーモラスな表現である。
坂口安吾は何事においても工夫をする人間であるが、根が「過剰」なタチなので、彼の身体はいわば実験室のように使われる。安吾は生来頑健で、スポーツ万能な肉体を持っていた。しかし、悟りを開くことや素晴らしい作品を書くことのために、異常なまでの修業を自らに課して、神経衰弱に陥ってしまう。
「私は二十一の時、神経衰弱になったことがあった。この時は、耳がきこえなくなり、筋肉まで弛緩して、野球のボールが十米と投げられず、一米のドブを飛びこすこともできなかった。この発病の原因がハッキリ記憶にない。たぶん、睡眠不足であったと思う。私は人間は四時間ねむればタクサンだという流説を信仰して、夜の十時にねむり、朝の二時に起きた。これを一年つづけているうちに、病気になったようである。」(同)
こうした神経衰弱は、少なからぬ人々が陥るものである。しかし、これに対する安吾が工夫した解決策は、まさに「安吾スタイル」としか呼びようのないものであった。
「神経衰弱になってからは、むやみに妄想が起って、どうすることも出来ない。妄想さえ起らなければよいのであるから、なんでもよいから、解決のできる課題に没入すれば良いと思った。私は第一に数学を選んでやってみたが、師匠がなくては、本だけ読んでも、手の施しようがない。簡単に師匠について出来るのは語学であるから、フランス語、ラテン語、サンスクリット等々、大いに手広くやりだした。要は興味の問題であり、興味の持続が病的に衰えているから、一つの対象のみに没入するということがムリである。飽いたら、別の語学をやる、というように、一日中、あれをやり、この辞書をひき、こっちの文法に没頭し、眠くなるまで、この戦争を持続する方法を用いるのである。この方法を用いて、私はついに病気を征服することに成功した。」(同)
坂口安吾という人の人生は、いわゆる「効率のよい生活」とは程遠い。普通の基準からいえば、的はずれや無駄だと思われるものも多い。坂口安吾というのは、すでに一個のスタイルであって、さまざまな行動は「安吾という身体」を一度通してしまうと、安吾流にすべて変形されてしまう。いわば、安吾のやることにはすべて、安吾印のハンコが押してあるのである。安吾は、小説家としての技巧を上達させたというよりもむしろ、安吾という一個の生《せい》のスタイルを確立するために上達を重ねたようにも見える。
「こもる」ことと「放浪」すること。身体技法として見れば両極にあるこの二つの動きを、安吾は技として駆使した。こうした両極を、自在に往き来できるようになるためには、相当な修練が必要とされる。極を目指すことなしに、ほどほどのところでいるのでは、「得意技」は生まれにくい。一方で、極に没入するしかないという状態は、不自由である。対照的な二つの極を往復できる「振り幅」の大きさが、自由の大きさであり、「器」の大きさでもある。
安吾はよく色紙に「アチラコチラ命がけ」と書いた。これは安吾のスタイルをうまく表現している。安吾は文筆活動においてだけでも、純文学から推理小説まで、あるいはエッセイや将棋の観戦記まで、「アチラコチラ」手がけている。安吾のこもり癖や放浪癖は、技として磨かれて、この「アチラコチラ命がけ」スタイルを充実させている。
スタイルは「首尾一貫した変形」である
上達の理想のプロセスは、ベーシックな力を身につけた上で、自分の癖を技化して得意技となし、自分のスタイルを確立することである。
上達の究極の目的は、自分のスタイルを作ることにある。ここで言う「スタイル」とは、もちろんファッションのスタイルではなく、自分の持つ諸技術を統合する原理である。フランスの哲学者メルロ=ポンティは、アンドレ・マルローの論を踏まえて、スタイルを「首尾一貫した変形(デフォルマシオン)」としている。これでは、いっそう何のことかよく分からないかもしれない。画家におけるスタイルを例にとって考えると、スタイル概念は理解しやすい。
少し西洋絵画を見たことのある人であれば、ゴッホとルノアールが描いた作品を名前を伏せて二つ出されたとしても、どちらがどちらを描いたのかを間違えることはまずあり得ない。そこにセザンヌとフェルメールが加わったとしても、正しく分けることができるであろう。こうしたことができるのは、この四人の画家が、それぞれ明確なスタイルを有しているからだ。りんごや裸婦といった同じモチーフを描いていたとしても、画家のスタイルが違うので、はっきりと区別がつく。むしろ同じモチーフを描いている方が、スタイルの違いがわかりやすい。
セザンヌは、「ただ一つのりんごで、パリ中を驚かしてやりたい」と言った。これは、自分のスタイルに対するセザンヌの強烈な自負が現れた言葉である。誰もが見て知っていると思っているりんごを、あたかもこの世にはじめて存在したもののように感じさせる絵画のスタイル。その驚きの瞬間においては、「りんご」という一般名詞は失われ、強烈な存在感をもったモノが目の前に現れ出る。そのモノ一つに、セザンヌの世界の見方・解釈の仕方が込められている。
セザンヌは「自然においては、全てのものは、球と円錐と円筒とに従って形作られている」と、自分の絵画的世界観を表現している。世界の描き方だけではなく、世界の見方そのものにも、セザンヌの一貫した変形作用が働いている。
スタイルは、物のように固定化したものではなく、活動において「生きて働く原理」である。スタイルを意識的に適用して絵を描くというわけではない。むしろ、絵を描くという行為の最中において、スタイルという一貫した変形作用の原理が働いているのである。スタイルを「首尾一貫した変形作用」と捉えると、まさにそれが画家としての生命だということに気づく。何を描いても同じ様なスタイルになってしまうというのは、画家の場合、短所ではなく、長所である。
スタイルは、言ってみれば、数学で言うところの「写像・関数」のようなものである。写像とは、 y = f (x) というものだ。xにいろいろな数を入れると、fという一定の変形作用を受けて、数が出てくる。それがyである。
xにどんな数を入れるのかはさして重要ではない。何を入れても「fという一貫した変形作用」を蒙るという点が、写像・関数のポイントである。画家の場合は、たとえばxにりんごや裸婦や山といったものが入る。fは、各画家のスタイルである。それが「画家のスタイルという関数」の作用を受けると、一貫して変形されたものとしてキャンバスに現れ出る。私たちはキャンバスに現れ出たこのスタイル=関数を味わい楽しむのである。
こうした観点でスタイルを捉えたときには、まねられやすいということは必ずしも画家の弱点とはならない。贋作が可能なためには、贋作される当の画家のスタイルが、首尾一貫したものである必要がある。一貫性がないときには、誰の贋作かがそもそも分からなくなってしまう。このことをメルロ=ポンティは次のように表現している。
「フェルメールが、歳をとったとき、行き当りばったりに、まとまりのない絵を一枚描いたとしても、それは「本当のフェルメール」ではないであろう。その反対に、贋作者が、筆蹟だけではなく、偉大なフェルメールたちのスタイルそのものを捉え直すことに成功したとすれば、彼はもはや正確には贋作者ではないであろう。」(滝浦静雄・木田元訳『世界の散文』みすず書房)
棟方志功の夢
青森県出身の日本を代表する版画家棟方志功の作品には、贋作が多い。棟方の『板散華』(講談社文芸文庫)の解説をしている小説家長部日出雄は次のように書いている。
「ムナカタはなによりもスタイルの強烈さによって、外国人に高く評価されたのである。
絵画におけるスタイルとは、その画家が初めて示した世界と人間の新しい見方だ。後期印象派で表現主義の先駆者といわれるゴッホしかり、フォーヴィスムのマティスしかり、キュビスムのピカソしかり……。かれらの作品は、素人でも一目見ただけでその画家のものとわかる。
ほかのだれにも、まったく似ていないからである。特徴がすこぶる鮮明なので、おそらくある程度の技倆をもつ画家なら、素人を騙すぐらいの贋作を描くことは、さほど難しくないだろう。
世界的な大画家になる条件は、こうした前人未踏の新しいスタイルの創出以外にはないといっていい。
棟方志功もまさにそうで、版画だけでなく、肉筆画も、書も、一目見ただけでかれのものとわかる。そして、文章もまた、数行読めば、もうほかの人の作と見まがうことはあり得ない。」
このように書くと、スタイルは、各個人がそれぞれ持つもののように思われるかもしれない、そうしたケースもたしかにあるが、元来スタイルは、一つの流派もしくは潮流のようなものである。フェルメールやセザンヌといった画家は、自分の「流儀」がいわば一つの「制度」や「構造」と呼べるまでに明確な変形作用たり得ている。
しかし、それほどまでに偉大ではない画家は、ある大きな流派や潮流の中で、自分のスタイルを作り上げていく。セザンヌが確立したスタイルの系譜に連なろうと志す者は、セザンヌのスタイルをベースとしてそれに小さなアレンジを加えて自分のスタイルを作り上げていくことになる。いわば、セザンヌを元祖として「のれん分け」をしてもらい、自分で多少のアレンジを加えるのである。セザンヌの系譜に連なるものは、セザンヌのスタイル(=関数)にマイナーチェンジを施した変換作用を行うと言ってもいい。
徒弟制的な師弟関係において、師から弟子へと伝承されるのは、個人の性格や思想というよりは、普遍性を持つスタイルである。流派の持つ「型」は、様式(スタイル)の凝縮である。型には、単なる自己流のレベルに留まることを許さない厳しい教育力が含まれている。個性はある意味で、生まれつきそれぞれが持っているものである。これに対して、スタイルは習熟によってのみ得られるものである。
スタイルを上達論の中心概念として位置づけたのは、個性を礼賛するためではなく、むしろ逆である。スタイルという概念は、自分がどのような系譜に連なろうとしているのかという問題意識を鮮明にさせるものである。自分をどの系譜の継承者として位置づけるかという問題意識。これを今、〈系譜意識〉と呼ぶことにすれば、この〈系譜意識〉こそ、スタイルをつくっていく上で、最も重要な役割を果たすものである。自分がスタイルを作っていくときに、スタイルの模範とする者が、「先行者」である。自分にとって誰が「先行者」であるのか。この問題意識を保ち続けることが、上達の秘訣である。
棟方志功は独自な作風で知られているが、彼自身明確なスタイルの系譜意識を持っている。それは彼の有名な言葉「わだばゴッホになる」に端的に現れている。棟方は少年時代にゴッホの絵と衝撃的な出会いをし、ゴッホのようになりたいと強く決意した。
「「ようし、日本のゴッホになる」、「ヨーシ、ゴッホになる」――そのころのわたくしは、油絵ということとゴッホということを、いっしょくたに考えていたようです。
わたくしは、何としてもゴッホになりたいと思いました。プルシャンブルーで描かれたゴッホのひまわり、グルグルして目の廻るような、輝きつづく、あんなひまわりの絵が描きたかったのです。わたくしは描きに描きました。指で描いたり筆で描いたり、チューブのまま絵の具を三本も四本もしぼり出しながら、蛇がのたうちまわるように描きました。何もかもわからず、やたら滅法に描いたのでした。ゴッホのような絵を――。そして青森では、「ゴッホのムナカタ」といわれるようになっていました。
一昨年、オランダに行ったとき、ゴッホのひまわりの絵のごく側《そば》に、わたくしの板画が陳列されていました。それを想いこれを想い、ただ泪《なみだ》が止まりませんでした。」(傍点原文、棟方志功『板極道』中公文庫)
この棟方のエピソードから取り上げておきたいポイントは、次の二つである。一つは〈あこがれにあこがれる〉という関係性を通じての、〈系譜意識の技化〉の重要性である。もう一つは、一貫した変形作用であるスタイルを、少し領域をずらして継承するというやり方の効果である。
スタイルの系譜を意識化する
〈系譜意識の技化〉とは、自分が引き継ごうとする系譜に対する意識自体を、日々反復練習して習慣化するということである。こうした系譜の意識を、出会いの瞬間に感じることは、一般の人にもよく起こることである。しかし、その意識自体を日々反復して自分の日常の意識の中に取り去りがたく定着させる習慣化は、こうした一時的な感覚とは次元を異にする。重要なことは、瞬間的にあこがれを感じることではなく、その「あこがれの意識」を系譜意識として定着させることである。
この〈系譜意識の技化〉ということに関しては、シドニーオリンピックのサッカー日本代表のエースフォワードとして活躍した高原直泰のエピソードが興味深い。高原は、中学時代、当時子どもたちのあこがれであったマラドーナではなく、オランダの大型ストライカーのファンバステンにあこがれていたという。その理由が面白い。
「ファンバステンを好きになったのも自分からというよりも中学のサッカー部の桜井監督の影響でした。当時、監督はサッカーに関しては素人で、そのため海外のビデオとか見て研究していたんですよ。その頃の海外のサッカーって個人技が目立っておもしろいんですが、もう全然日本人の感覚じゃなくて、外国人のすごいプレー、個人技ばかり「そんなのできねぇよ」って感じのプレーを「やれっ」って言ってくるんです。練習中も「おまえもファンバステンのようになれ」とか「リネカーのようにいつでもゴールを狙え、こぼれ球にすぐ反応しろ」とかガンガン言われました。それでボケッとしていると「なんでつめないんだ」ってビンタが飛んでくるんですよ。でも、監督にそういうふうに言われると「よし、意地でも自分は(ファンバステンに)なってやる」って思うようになりましたね。それでファンバステンのビデオをよく見てマネしたりしていました。」(「ナンバープラス」〈サッカー百年の記憶〉)
高原が出た静岡の東海第一中学校は、何度も全国優勝している強豪校で、小野伸二を輩出したことでも知られるが、監督が当初サッカーの素人だったというのは、興味深い事実だ。桜井監督は、高原に対してだけでなく、チームの各選手に目指すべきプレイスタイルの選手のビデオを見せてまねるように指示したという。それも単に一つの技術をまねるというのではなく、プレイスタイルをトータルに盗めということである。
「ファンバステンに惹かれたのは、そのオールラウンダーとしての能力の高さ。なんでも自分でやってしまう。自分で得点できるし、ラストパスも出せるし、攻撃の起点にもなることができる。FWの仕事はキチンとする。'88 年の欧州選手権の決勝戦(対ソ連戦)で見せたボレーシュートは、ほんと感動しましたね。左からのクロスで右からドカンって逆サイドに蹴り込んだんです。角度はあまりなかったんですが、そのボレーの美しさと迫力は、ほんとすごかった。当時、自分もあんなボレーを打ちたいって思ってボレーの練習ばっかりしたんですが、そのくらい衝撃的だったんです。(中略)ボクの今のプレイスタイルは、ファンバステンに影響されたこともあるけど、中学の時に身に付いたものを今披露しているという感じ。だから、僕にとってはファンバステンと同様に、監督がそういう選手になれと意識づけしてくれたことが大きいんです。」(同)
中学生に「海外の超一流選手のプレイスタイルを身につけろ」と言うのは、一見無茶な指示のようだが、子どもはこうしたやり方には意外にやる気を出す。というのは、超一流選手のプレイには、高原の言うように「感動」があるからだ。感動や強いあこがれがなければ、トータルにプレイスタイルを盗む意欲は生まれない。はじめからいきなり最高級のものに出会わせるというのは、その意味で教育の王道である。
プレイスタイルを盗むためには、漠然と見たり、あこがれていたりするだけでは、無論だめである。ビデオや連続写真を何度も繰り返し分析しながら見て、一つ一つの動きや技術を分節化して捉えることが必要となる。
『欲望の現象学』について
ここでもう一つ注目したいのは、高原の〈技を盗む力〉を支えていた関係性である。この関係性は、高原がファンバステンにあこがれるという単純な二者関係ではない。桜井監督自身が海外の超一流選手に対する強烈な「あこがれ」を持ち、そのあこがれに伝染するかのように選手も「あこがれ」を持つようになっていく。選手はいきなり海外選手にあこがれを感じたというよりは、監督のあこがれのベクトルの強さにあこがれたのだと言える。
私たちがあるものにあこがれたり手に入れたいと願うときには、自分とその対象との二者関係だけではなく、そうした欲望を媒介する媒介者が往々にして存在する。平たく言えば、自分が尊敬する人や好きな人が何かにあこがれを持っていれば、自分もそれに関心を持ってしまうということである。
精神分析学者のジャック・ラカンは、「欲望は他者の欲望の模倣である」と言い、『欲望の現象学』(法政大学出版局)においてルネ・ジラールもまた、欲望が二者関係にではなく、「三者関係」に基礎をおくことを主張した。私の言い方で言えば、これは〈あこがれにあこがれる関係性〉である。
桜井監督のケースに明らかなように、指導者は必ずしもプレイの達人である必要はない。何よりも必要なのは、目指すものに対する〈あこがれのベクトル〉を周りに発散していることである。そして、具体的な優れたテキストに子どもたちを直接出会わせる工夫をしている。プレイスタイルの模範となる、いわば〈テキスト・スタイル〉を豊富に取り揃えること。この「テキスト探し」が指導者の重要な仕事となる。
この桜井監督のケースと似たケースとして、私は東京都のある中学校長からこんな話を聞いた。その校長先生の専門教科は英語なのだが、その先生がはじめて英語を習った中学の英語の教師が変わっていた。元来国語の教師だったのだが、終戦直後のため英語教師が足りないので、英語がまったくできないのに科目を担当していたというのである。
英語ができないのに英語の授業を任されたその教師は、一体どのような教え方をしたのだろうか。彼がまずやったのは、進駐軍の居住地に行って、米軍関係者の夫人で大学卒の人を捜すことだった。そして、条件に合った夫人と交渉し、教室に来てもらい、英語で直接中学生に指導をしてもらったのである。
英語しか話せない人が英語をまったく知らない生徒に話をするというのは、原理的には不可能なようだが、現実の効果には絶大なものがあったという。クラス全体の英語に対する向学心は非常に高まり、そのクラスからは何人も英語の教師になる者が出たということであった。両者を媒介した先生自身も、これをきっかけとして後に英語学の著書を著すほどの学者になったということであった。
ここにも、上達への意欲を支える三者関係、〈あこがれにあこがれる関係性〉がある。すぐれたものを認め、素直にあこがれ、努力する指導者の姿と、すぐれたテキスト(この場合は、米軍人の夫人)との出会いが、向学心を育てたのである。
プレイスタイルということに話を戻す。プレイスタイルというのは、個々の技術のことではなく、諸技術を統合している戦略的な原理である。「プレイスタイル」は、上達のプロセスの集積・凝縮である。スタイルをつくりあげるまでには、様々な工夫のプロセスがある。これを見抜くことによって、上達のコツを盗むことができる。まったく違う領域で似たようなスタイルを生かすこともできる。
このプレイスタイルという概念を獲得し、そうした視点から他者のプレイを分析し自分のプレイをチェックすることによって、上達の秘訣に必然的に目が開かれていく。重要なのは、自分に合ったスタイルを「選択」するということだ。この選択の意志が、向上心を加速させる。
プレイスタイルの選択には、自分の身体性やそれまでに人生で培った習慣が素地となる。自分とまったく違うタイプの人のスタイルは、模倣する気にはならない。諸技術をどのように統合的に使いこなし、最も効果的に闘うかという戦略的思考が、スタイル概念にはある。「プレイスタイル」というものの見方を習慣化することの意義に注目すべきである。
プレイスタイルの系譜という意識を持つこと自体が、上達論の観点から見ると重要なステップである。先ほどの高原選手の、「僕にとってはファンバステンと同様に、監督がそういう選手になれと意識づけしてくれたことが大きいんです」というコメントの中の「意識づけ」が、スタイルの系譜意識を技化する上で大きな第一歩となっている。
スタイルという概念は、特定の領域に縛られるものではない。芸術の領域にもスポーツの領域にも、あるいは他の専門的な仕事の領域や日常生活においても、スタイルという視座は活用できる。ただし、誰もがスタイルを持っているというわけではない。自分の得意技を持ち、その世界において明確な関わり方、あるいは戦い方を為すレベルになって初めてスタイルという概念は意味を持つ。
この本で主題としたいのは、スポーツなどにおける特定の領域の上達論ではなく、領域を超えた上達の普遍的論理である。より正確に言えば、ある領域において経験した上達のプロセスを、別の領域にチャレンジするときに活かすことができる認識力が主題である。こうした「領域をまたぎ越す」、いわば「間領域的な認識力」が、この本で主題にしようとしている上達の力である。
黒幕ジョゼフ・フーシェ
スタイルという考え方をもっと理解しやすくするために、シュテファン・ツワイク『ジョゼフ・フーシェ ある政治的人間の肖像』(高橋禎二・秋山英夫訳、岩波文庫)を例に取りたい。
フーシェ(一七五九―一八二〇)は、フランス革命期からナポレオン時代、王政復古に至るまで、「風見鶏スタイル」で状況によって態度を変えながら、大変動期を巧みに泳ぎ切った政治家である。革命期には急進的共産主義者として教会を破壊し、陰謀をめぐらし、ロベスピエールとの政治的戦いにも勝利する。ナポレオン時代は皇帝の大臣として働き、ナポレオン没落後も生き延びる。王政復古の際は、キリスト教を信ずる反動的な警務大臣として振る舞う。
このように節操のないフーシェには、「生まれながらの裏切り者」、「営利的変説漢」などといった侮蔑的な評価が与えられることが多い。しかしツワイクは、フーシェを一個の傑出したスタイルとして解釈している。
フーシェは冷血動物のようだ。怒りを表に現さず、顔の筋一つ動かさないので、誰も彼の本当の意図を表情から読みとることはできない。ツワイクはフーシェの冷血スタイルについて、次のように描写している。
「この泰然自若たる冷血性はまたフーシェ特有の力なのだ。神経質に気にかかるというようなことは絶対になく、感覚の欲望にとらわれるということもない。情熱という情熱は、その額《ひたい》の厚い壁の背後に鬱積しては、散ってゆく。自分の実力は遊ばせておいて、その間じっと他人の過失をうかがっている。他人の情熱は燃えるだけ燃えあがらせておいて、自分はじっと待っている。そして相手の情熱がついに消耗しつくすか、あるいは抑制しきれずに欠点を暴露すると、その時はじめて彼は情容赦もなくつっかかってゆく。その無神経な忍耐力の強さは怖ろしいくらいである。
(中略)彼は一生涯職務に忠実な善良な属吏をよそおっていたが、この官吏の冷静な習癖ほど、紛糾をよろこび片々たる書類を愛する彼の奇怪な性質を隠蔽するのに、天才的ないい方法はなかった。部屋の中から糸を引いてあやつり、文書と記録を堡塁としてその背後にかくれ、突然に、しかも人目に触れないよう獰猛きわまる攻撃をする、これこそ彼の戦術なのだ。」
一言で言えば、フーシェのスタイルは、漁夫の利を得る黒幕的スタイルであり、これは生涯フーシェが貫いたスタイルである。「けっして表向きには権力の所有者にならぬが、しかも完全に権力をおさえていること、あらゆる糸を引きながらもけっして当の責任者にはならないこと」、「いつでも第一人者の背後にかくれて猫をかぶり、この人を矢面に立たせること、そしてこの人が敢然踊りでてゆき過ぎたときには、時を移さず決定的な瞬間にするりとこの人に背を向けてしまうこと」。これが彼の一貫したやり方であり、スタイルであった。
フーシェは自分自身の特性をよく知っていた。ナポレオンのようなカリスマ的魅力があるわけではないが、雰囲気を嗅ぎ分ける鋭敏な感覚は持っている。その特性を冷静に認識し、徹底的にスタイルに生かした。
「メダルや徽章をつけても全然似あわないし、飾り立てたり人気とりは全然向かないし、額のまわりに月桂冠をつけたところがいっこう凜々しくもならない自分のみにくい無愛想なご面相のことは、ご本人が一番よくご存知のことなのだ。彼の細い弱い声は、ささやいたり蔭口をきいたり悪口を言うにはいいが、火のような熱弁をもって大衆の心を魅了し去ることはとうていだめだということを、彼はよく知っていた。彼は書卓に向かっている自分、閉め切った部屋のなかにいる自分、蔭にかくれている自分が一番強いことを知っていた。ここならうまくうかがい、さぐり、観察し、説きつけることができるし、糸を引き糸をこぐらかしながら、自分自身は外から見られず、つかまえられないでいることができたのである。」
自分の変えようのない身体性や「癖」を冷静に認識した上で、世界に対する最も効果的な戦い方を練り上げたという意味では、フーシェはスタイル形成の天才である。フーシェのスタイル形成においては、生来の気質や性格もさることながら、二十歳から三十歳までの十年間を過ごした僧院生活が大きな役割を果たしている。その後の人生において得意技として活用される技術が、この間に鍛えられているのである。ツワイクはこう書いている。
「この僧院学校の十年間にジョゼフ・フーシェは、のちに外交家として活躍するにあたって非常に役立った多くのことを学んだ。わけても沈黙の技術、堂に入った韜《とう》晦《かい》術、心底を見抜き気持を読みとる心理学的堪《たん》能《のう》がそれである。この男が一生涯どんなに激したときでも顔の筋一つ動かさなかったこと、いわば壁のように押黙った動かぬ彼の顔面に、癇癪玉が破裂し、青筋を立てて激昂するといったふうな、はげしい昂奮が決してみられなかったこと、日常茶飯事に類することも、最も戦慄すべきことも、同じ抑揚のない調子で平然と語り、皇帝の居間にも騒然たる国民議会にも、同じ静かな足どりではいってゆくことができたこと――このような克己の無類のきびしい訓練は、十年にわたる僧院生活の《ぎ》行《よう》住《じゆ》坐《うざ》臥《が》のあいだに身につけられた。世界の檜舞台にあがるまでに、すでに彼の意志はロヨラの戒律によって仕込まれ、彼の演説は数世紀の伝統を持つ僧侶の討論の技術によって鍛錬された。」
この記述から、スタイルが単なる個性とは違って、技の習熟をもとにしているということがわかる。フーシェのスタイルを支えている「沈黙の技術」、「討論の技術」、「気持ちを読みとる心理学的堪能」などは、習練によって身につけられたものである。生来の気質に合った技が好環境の中で磨かれ、得意技に仕上げられていった。しかもこのフーシェの諸技術は、十年の歳月をかけて身体に染み込ませた、まさに身体技法である。
ボルグvsマッケンロー
スタイルは、攻撃的スタイルと守備的スタイルのように対照的なスタイルがぶつかり合うときに、より両者の輪郭がくっきりとする。学生ラグビーで言えば、「前へ」をモットーとする明治大学の縦型突進ラグビーとバックスから横へ球をまわして攻める早稲田大学の展開ラグビーという図式はわかりやすい。相撲の押し相撲と四つ相撲、開発力のソニーと販売力の松下、冷戦期の米ソの対照的な国家・社会スタイルなど、さまざまな領域や次元においてスタイルとスタイルのせめぎ合いや磨き合いが注目を引く。
私たちは単にラグビーや相撲を楽しむという以上に、スタイルとスタイルがぶつかり合い互いを際立たせるプロセスを味わっているのである。プレイの細部に現れる一貫した特徴や、戦い方の底を流れる一貫した哲学・信念といったものに感銘を受ける。
お互いの技を受け合って、互いに相手を上回るような技を繰り出そうとする関係は、ギブアンドテイクの関係以上のクリエイティブな関係だ。ここでは、お互いのスタイルがクリアになる。真剣勝負でこれができれば、最高だ。これで思い出すのは、ビヨン・ボルグとジョン・マッケンローとのウインブルドン決勝の試合だ。これは、堅いスタイルと柔らかいスタイルの間の壮絶なコミュニケーションであった。
スウェーデン出身のボルグは一分間の脈拍が三五回で、炎天下でも汗一つかかず、ラケットのガットをあまりに固く張っているので夜中にひとりでに切れる、というような伝説につつまれた王者であった。肩はばが広くがっちりして冷静で、トップスピンの強烈なグラウンドストロークを武器としていた。典型的なベースラインプレイヤーとして球を打ち返し続ける姿は、まさに「壁」であった。
だれもがはじき返されたこの壁に、「蝶のように舞い蜂のように刺すスタイル」(モハメッド・アリのスタイル)でマッケンローが挑んだのだった。いかにもニューヨークっ子という感じで、自由に感情を爆発させる。そのテニスセンス、スピード、集中力はすばらしく、豹のようにすばやく柔らかく動き、微妙なタッチのショットをいかにもたやすく決める。サーブ&ボレーのスタイルの典型であった。
筋トレはせず、腹なんかプヨプヨしている。このプヨプヨが、くせもの。あるトレーナーは、一流選手はみんなウサギのように柔らかいが、マッケンローのはまるでゼリーのように柔かく、機能的だったと言っている。
あらゆる意味で対照的なこの二人の戦いは、世界最高レベルの「スタイル間コミュニケーション」を見せてくれた。ボルグのウインブルドン五連覇をかけた壮絶な決勝戦と翌年の決勝の王者交替劇は、二つのスタイルが閃光を放ったドラマだ。
このとき、テニスというスポーツは、観客を釘付けにするプロスポーツとして頂点を迎えたと思う。あれ以降テニス界は、いま一つ盛り上がらなくて苦しんでいる。その一つの理由は、互いに相手を輝かすような強烈で対照的なスタイル(技術・戦術とキャラクターが一体になったもの)のしのぎ合いが欠けているからではないだろうか。
スタイルの選択の根本には、身体性と性格がある。機敏で攻撃的な性格のマッケンローがディフェンス中心のスタイルというのも何か合わない。どのスタイルがいい、というよりも、どのスタイルもレベルさえ高ければ、すばらしいスタイルのやりとりができるという方が面白い。
卓球でも、後ろのほうにさがって球を打ち返し続けるカットマンと、前陣速攻がやり合うのは楽しい。台から数メートルはなれたカットマンから放たれた球が、優雅にえがく軌跡は美しい。球は、静かな沈黙の時間をつくりだすが、一見静かなように見えても猛烈な回転をかけられていて、台に着地するとやっかいな曲せ球となる。
手からはなしても球を手中にあるかのように操る感覚は、見ていてもなんとも快感である。これも、カットマン同士よりは、台にくっついて攻める前陣速攻型との対比において、どちらも輝く。このスタイルの磨き合いは、松本大洋の芸術性の高い傑作マンガ『ピンポン』で雰囲気がつかめる。
対照的なスタイルとスタイルがぶつかり合い、磨き合ってクリエイティブな関係性を発展させていく。こうしたスタイルとスタイルの間のコミュニケーションが起こるのは、何もスポーツの世界だけではない。あらゆるジャンルで、このような関係性は成立しうる。
ボルグとマッケンローの場合も、二人は互いに競い合っているわけだが、見方を変えれば、二人は力を合わせて最高のスタイル間コミュニケーションの作品を、試合という形で作っていたと言える。テニス界全体を一つの大きな会社として見た場合、二人は競い合いながら、その発展に寄与したと言える。
ホンダを作ったクリエイティブな関係
実際に一つの会社が発展するケースにおいて、異なる二つのスタイルが、パートナーとして磨き合いながらパワーアップしていったというケースは少なくない。有名なものを一つ挙げれば、本田技研工業の創業者本田宗一郎とそのパートナー藤沢武夫の関係がそれだ。
本田宗一郎は、自らを「技術屋」と呼ぶ。新しい技術を開発する意欲に常に満ちている。気が短く行動が早い。即断即決主義で、チャレンジ精神に溢れている。新製品を次々に開発するので、失敗も多い。しかし、そうした失敗をものともせずに、次の新製品の開発に向かう。常にレースのような厳しい状況で、自分たちの技術を試していく。
本田は自分自身もレースに参加する。他社の製品を単にコピーするのではなく、レースという実験場において、技術を常に試しながら工夫開発していくチャレンジングな技術屋が、本田のスタイルである。
本田は、城山三郎『本田宗一郎との百時間』(講談社文庫)の中で、こう言っている。
「ただ勝てばいいのじゃない。勝ったら勝ったで、負けたら負けたで、何がよかったか、わるかったか、その原因を追究する。レースは興行じゃないし、われわれ技術屋ですからね。
マシンを見てると、いろんなことがわかります。あのカーブを切るには、ああやれば、こうすればと……。そして、次のマシンのことを考える。こう考えてやれば、もっととばしてくれる、などと。次の製作過程へ自然に入っているんです。それが技術屋なんですよ。
うちが急速に伸びたのは、そこの考え方がちがったんじゃありませんか。ちょっと道路を走らせてみて安全だ、などというのはおかしい。レースのおかげで、うちは物凄くいろいろ教わったのです。それも、二年三年じゃ、効果は上がりません。レースにレースを重ねて、段々と積算されて行ったのです。その効果が出てきたのは、かなり後になってからのことです。」
この言葉には、本田宗一郎の「技術屋」としての誇りが溢れている。こうした宗一郎の事業上のパートナーであった藤沢武夫は、会社の経営面を請け負った。本田が「素晴らしいものをつくるから売ってみろ」というふうに藤沢に向かえば、藤沢は本田に向かって「売ってやるからいいものをつくってみろ」という構えで補完しながら張り合った。
技術のことは得意だが、代金の回収や金作りといった金に関することを比較的苦手としていた本田に対して、藤沢は金のことは任せておける男であった。藤沢は本田にないものを持っており、考え方もかなり違う。しかし違うからこそ、パートナーとして組む価値があると、本田は考えた。
城山三郎の判断
城山三郎は、二人のスタイルの違いをこう描写している。
「本田宗一郎の事業上のパートナー藤沢武夫は、本田とかなり性格のちがう人物である。
たとえば、本田が七十半ばをすぎた今でも、車はおろか、大型オートバイさえ乗りこなすのに対し、藤沢は運転免許も持たない。いや、一時持ってはいたが、それを靴ベラ代わりに使っていた、との説もある。
体型は、本田が小柄で敏捷であるのに対し、藤沢は大男で動きは鈍い。
作業服をきちんと着て、せかせかあるく小男の社長と、作業服の前をはだけて、たらりたらりと歩く大男の副社長。その対照的な姿がいまも目に浮かぶ、という役員も居る。」
「(藤沢は)本田とは全く異質の教養人である。
二人の好みのちがいは、ホンダで生産する物についても及んでいて、本田は概してスピードのある大きな物を好み、藤沢は小さな物、数の出る物を好んだ、と藤沢は述べている。
「オヤジが現場、現物から破れかぶれで考えるのに対し、藤沢さんは何をするのかということをまずはっきりさせ、上から網をかぶせるようにして、一生懸命考える」
と、会長の杉浦。
二人はかなりちがう世界の住人だったといえる。(中略)
本田が開放的で、話し方も奔放、飛躍が多く、天衣無縫であったのに対し、藤沢の談話は緻密で論理的。念には念を入れ、要点をたしかめながら話す。」
二人は対照的なスタイルを持っていた。と同時に、共通の基盤も持っていた。城山は二人の共通点を次の五点にまとめている。第一に、私心私欲のなさ、第二に、お互いに相手を評価し尊敬しあったこと、第三に、お互いに知らぬことについては干渉せず、相手を信じて任せきったこと、第四に、それぞれの領域で、他を真似せず、自分の力だけで道をひらこうとしたこと、第五に、無類の率直さである。
二人とも経営の場に私的欲望を持ち込むことなく、息子を会社に入れ、同族化することもなかった。本田は藤沢に、組むと同時に実印を渡し、その使用をすべて任せたという。こうした共通の基盤があることによって、対照的なスタイルが、磨かれ合うことができた。
本田は、「藤沢と手を組んだことが決定的だった。あれはすばらしい人で、わたしの人生を変えた」と言い、藤沢もこう言う。「俺はあんなバケモノみたいにすごい人物には、いまだかつて会ったことがないよ。……技術の面については、私は本田さんを一〇〇パーセント信頼したね。本田さんは、その他の面では一〇〇パーセント私を信頼してくれたね。(中略)よく、私に経営哲学があるかのようにいわれますけれど、それは本田と組んだことにおいてできたことであって、あの人と組まなければできない。」
このようにして、徹底した技術屋スタイルの本田宗一郎を、経営的な面から藤沢武夫が支えるというクリエイティブなスタイル間コミュニケーションの関係が成立した。この基盤を共有しながら役割を上手に分担し、相互に活性化する関係を通じて、ホンダという会社のチャレンジングな企業スタイルが磨かれていった。
個人のスタイルだけでなく、会社のスタイルという視点に立ったときに、会社のスタイルの成熟の陰には、こうしたクリエイティブな〈スタイル間コミュニケーション〉を見出すことができるだろう。それはサッカーの一つのチームが、チームスタイルを持っているときに、そのチームの各人が共通の基盤を持ちつつも、それぞれのスタイルを持って全体に効果的な働きを成しているのと似ている。
第四章 『徒然草』は上達論の基本書である
「高名の木登り」
ある特定の事柄がうまくなる方法ではなく、異なる領域の間に共通する上達の論理を見出すのが、この本の主題である。上達の普遍的な論理に対して、鋭い眼力を持っていた人物として『徒然草』の吉田兼好がいる。兼好は法師であるが、広く俗世間にも通じている。徒然草の中には、上達の普遍的な論理についての文章が数多く見受けられる。
達人のみが共有しあえる認識を、兼好は重視している。たとえば有名なものに、「高《かう》 名 《みやう》の木登り」(第百九段)の話がある。木登りの名人と呼ばれる男が、人を指図して高い木に登らせて枝を切らせた。非常に危なく見えていたときには何も言わなかったのだが、降《お》りてきて軒ぐらいの高さになったときに、「あやまちすな。心して降りよ」と声をかけた。
非常に危ないところでは声をかけずに、飛び降りても大丈夫そうなところになって注意をしたのを不思議に思い、「なぜか」と聞いたところ、目が回りそうで枝がしなって危ないときには、自分自身が怖れるので敢えて言わなくても大丈夫だが、「あやまちは、安き所に成りて、必ず《つ》仕《かまつ》る事に候ふ(あやまちは、簡単な所になって必ず起こすものです)」と答えた。
この話に対して兼好は、卑しい下人だけれども聖人の戒めに一致していると言っている。そして、蹴《け》鞠《まり》でも、難しいところを蹴り出した後に、簡単だというふうに思えば必ず落としてしまうということだと書いている。自分自身の注意力が増している状況においては、ミスは起こりにくい。簡単だと油断したりホッとしたりしたときに、過ちは起こりやすい。こうしたことは、木登りでも蹴鞠でも他のことでも変わらない。兼好は、木登りや蹴鞠といった技術の上達が関わる事柄には敏感であった。
次の第百十段には、「双《すぐ》六《ろく》上《じや》手《うず》」の話が出てくる。双六の上手な人にコツを聞いたところ、「勝とうとして打ってはいけない。負けまいと打つべきである。どの手が負けないかと考え、その手を使わずに、一目であっても遅く負ける手を選んでいくべきだ」と答えた。この答えを受けて兼好は、これは道を知っている者の教えとも言うべきものだと言い、自分自身の身を修めたり、国を保っていく道も同様だと高く評価している。
注目すべきなのは、兼好がこのような「その道の達人」と言われる人にコツを聞く習慣を持っていたということだ。名人上手という人がつかんでいる上達のコツには、領域を越えて共通するものがあるはずだという確信が、兼好にはあったのだろう。
おもしろいのは、次の第百十一段では、「囲碁や双六を好んで毎日を過ごす人は、四重罪や五逆罪にも優った悪事だ」という聖人の言葉を立派な言葉だと記していることだ。双六にうつつを抜かして無意に過ごすことを、とんでもない悪行だと一方で断罪しながら、もう一方では、双六の名人の言葉に仏の道を見出している。このあたりの矛盾をいとも簡単に抱え込むところに、兼好法師の器の大きさが感じられる。
兼好の目から見ても、もちろん価値の高いジャンルの事柄と低い事柄とがある。しかし、そうしたジャンルの価値に単純にとらわれることなく、たとえ卑しいとされるジャンルにおいても、その道に上達した者の上達についての認識を、仏道の修行や国を治めることに通じる普遍的な論理として高く評価する。こうしたところに、上達の普遍的論理への関心の強さを見ることができる。
第百五十段も、おもしろい。芸能を身につけようとする時、「うまくできないうちは、なまじっか、人に知られまい。内々でよく習得してから人前に出るのが奥ゆかしい」と言っている人は、「一《いち》芸《げい》も習ひ得《う》ることなし」と厳しく言っている。反対に、未熟な頃から上手な人に交じって、誹《そし》られ笑われても恥ずかしがらずに平気で通して稽古する人は、生まれつきの素質がなくても、自分勝手なことをしないで長年稽古を積んでいけば、最終的には上手の境地に達して世間に並ぶ者なき名声を得ると言っている。
兼好がここで言っている二つの原則は、恥ずかしがらずに上手な人の中に交じって実践することと、その道の決まりを外さずにしっかりと持続させることの二つだ。「道の《お》掟《きて》正《たゞ》しく」勝手気ままに振る舞わなければ、「万《ばん》人《にん》の師となる事、諸《しよ》道《だう》変《かは》るべからず」と言っている。様々な芸道に共通する原理を、兼好は探求している。
兆しを見る力
兼好が見抜く達人の境地の一つとして、「達人ほどおそれを知る」ということがある。先ほどの木登りの名人も、普通の人が大丈夫だと思うところに危険をあらかじめ察知している。これが仕事を完璧にするコツだとされる。双六の名人も同様だ。勝とうとして打てば、欲が出て悪手を打つこともある。しかし、できるだけ負けまいとして打てば、うかつに悪手を打つ危険は少なくなる。常に最悪の状況も頭に入れておくことで、冷静に対処できる。
危険を未然に察知することを達人の証とするエピソードは、他にもある。百八十五段、百八十六段の馬乗りの達人の話がそれだ。城《じや》陸《うの》奥《むつ》守《のか》泰《みや》盛《すもり》は無双の馬乗りだが、彼は馬を引き出すときに、馬が足を揃えて敷居を越えるのを見て、「勇みすぎた馬だ」と言って鞍を変えさせた。また、敷居を越えるときに足を敷居にあててしまった馬には、「これは鈍くって過ちを起こしそうだ」と言って乗らなかったという。
この慎重さに対して兼好は、「道を知らざらん人、かばかり恐れなんや(道を知らない人が、これほど恐れるだろうか)」と言っている。素人であればこれほどは恐れないで乗ってしまうであろう。過ちの兆しを細かな点から察知する力。これが達人の力である、と兼好は見ている。
百二十六段には、博奕《ばくち》打ちの話も出てくる。博奕の上手がこう言った。「博奕をするときに、負けが込んで最後に捨て身になってすべてを注ぎ込もうとする相手に対しては、勝負しないのがよい。というのは、連続して勝ちうる時が、相手にやってきたと知るべきだからである。そうした「時を知る」ことを、よい博奕打ちと言うのだ」という話を書き記している。
博奕打ちにも上手下手がある。上手な極意を掴んだ博奕打ちには、学ぶべきものがあると兼好は考えている。波を的確に掴まえ、冷静に対処する、こうした判断力は経験によって養われる。一つのことに打ち込み、経験を積み重ねた者には、共通の認識が見られると兼好は考えていたのである。
上達のカギは、意識を明晰にして集中することにある。これに関して、兼好は二つの次元でアドバイスを残している。
一つは、今まさにしようとしていることへの明晰な認識の持続についてだ。第九十二段がそれだ。弓を習っている人が、ある時、一対二本の矢を手に挾み持って的に向かった。そのとき師匠はこう言った。「初《しよ》心《しん》の人、二つの矢を持つ事なかれ。後《のち》の矢を頼《たの》みて、はじめの矢に等《なほ》閑《ざり》の心あり。毎《まい》度《ど》、たゞ、得《とく》失《しつ》なく、この一《ひと》矢《や》に定むべしと思へ。」
ここで師が求めているのは、弟子当人が想定する意識の集中より高い次元の集中である。弟子は、自分では一本目の矢をなおざりにしているつもりはないかもしれない。しかし初心の人の場合は、ただ一本の矢しかないと思い定めたときに起こる意識の集中状態には、なかなか至りにくい。自分では気づかないうちに、なおざりの心が入り込んでしまうのである。
「懈《け》怠《だい》の心、みづから知らずといへども、師これを知る(なまける心は、自分では気づかなくても、師はわかる)」と兼好は言う。弟子が自分でも気づかぬうちに意識の集中を低めたり途切れさせたりするところをうまく指摘し、意識の高い集中を持続するのを助けるのが、師の仕事である。技術そのものを教えることももちろん師の仕事ではある。しかし、自分の行っていることに対して明晰な意識を強く持ち続けること自体を技として修練させることが、一層重要な仕事である。兼好はここでも「この戒《いまし》め、万《ばん》事《じ》にわたるべし」として、普遍化している。
私はこの文章を高校時代に読んで、強い印象を受けた。ちょうど夢中になっていたテニスでは、サービスを二本打つことができるルールであったので、まさにこの「等閑の心」が入り込む危険を痛感していた。そこで試合では、ファーストサーブの時に一球しか持たないように工夫してみた。劇的な効果はともかくとして、私にとって『徒然草』は、上達論のテキストであった。
エネルギーの一点豪華主義
意識の集中に関して、この弓矢の話がミクロな次元だとすれば、よりマクロな次元においての集中も兼好は説いている。第百八十八段には、こんな話が引かれている。
ある人が親から「説経を生活の手だてとせよ」と言われたので、教えられたとおり説経師になろうとして、まず第一に馬を乗ることを習った。人に説経師として招かれたときに、馬で迎えが来た場合に、落ちたりしたら情けないだろうと思ったからだ。次に、仏事の後の酒席において芸がないのはみっともないだろうと考えて、流行歌を習った。この二つのものを習っているうちに、だんだん会得できるようになってきたので、ますますうまくなりたくなり、せっせと稽古しているうちに、肝心の説経を習う暇がなくて年を取ってしまった、という話である。
若いうちは、諸々のことにつけて身を立てようと思いにかけているが、のんきに思って怠って、目の前のことにのみ気を紛らして月日を送ると、ものの上手にもならないうちに年を取ってしまう。「走りて坂を下《くだ》る輪《わ》の如くに衰《おとろ》へ行《ゆ》く」という表現は、強烈だ。
兼好の言っているのは、エネルギーの適当な配分や分散ではない。いわば「エネルギーの一点豪華主義」である。一生のうちで主に実現したいと望むようなことの中で、どれが勝っているのかよく思い比べて、第一のことを思い定めたならば「その外《ほか》は思ひ捨てて、一《いち》事《じ》を励《はげ》むべし」と言い切っている。
「一《いち》事《じ》を必ず成《な》さんと思はば、他《た》の事の破《やぶ》るゝをも傷《いた》むべからず、人の嘲《あざけ》りをも恥《は》づべからず。万《ばん》事《じ》に換《か》へずしては、一《いつ》の大《だい》事《じ》成《な》るべからず。」この言葉は、『正法眼蔵随聞記』にある道元の言葉「この心あながちに切なるもの、遂げずという事なきなり」という言葉とも呼応している。
私は、ちょうど受験期にこうした言葉に出会ったこともあって、影響を受け、勝手に「一面化する」というコンセプトとして受け取った。あちらこちらを適当に掘ってみるのではなくて、これと思い定めた一点に全精力を傾注して、深く岩盤を貫いて掘り込むことによって、尽きることのない泉を得る井戸掘りの感覚である。
これは、量が質的に変化するまでは続けるという技の考え方でもある。ミクロな集中も必要だが、より大事なのは、何に集中するかというマクロな見極めである。自分の生涯の意味を左右するような判断であるので、難しいことは確かだ。
これについて兼好が用いているエピソードは、碁である。碁では、小さな利を捨てて大きな利に向かうことが必要だ。その中でも、三つの石を捨て十の石を拾うことは易しい。しかし、十を捨てて十一を拾うことは難しい。十までになってしまうと惜しいと感じて捨てがたく、なかなか十一の方を取ることが難しくなる。このあたりのマクロな見極めが、その後を大きく左右する、と兼好は言う。
その道の達人
兼好は、「その道の達人」を高く評価する。たとえ事柄は高尚なものではなくとも、その道にかけて専門家としての見識や技術を有する者に対しては、敬意を払っている。木登りの名人や双六の名人がそうした例だ。
兼好自身が「道」への思いが強い人物であった。道を究めるということは、単にその領域の事柄ができるというだけではなく、ある種の境地をも獲得するということであった。兼好は、さまざまな領域の「その道の達人」について書いている。しかし、万能型の個人を推奨しているのではなく、それぞれがその道にかけて高い境地や水準に達しているということを評価するのである。
こうした認識は、次の一文に凝縮されている。
「万《よろず》に、その道を知れる者は、やんごとなきものなり。」
何事につけても、その専門の道をよくわかっている者は尊重すべきものだ。この言葉が引き出されたエピソードは、次のようなものだ。
亀山殿の池に大井川の水を引こうとして、付近の土地の百姓に言いつけて水車をつくらせた。多額の金と日数をかけて念入りに作り上げたが、いっこうに水車は廻らなかった。そこで、水車になれている宇治の里人につくらせたところ、何の苦もなく組み立てて、思い通りに廻って実にうまくいった。これ自体はそれほど特筆に価することではないとも思われるが、それだけに兼好がその道のプロのコツを高く評価していることがうかがわれる。
つまり兼好は、「その道の達人」好きである。つまらないことでもいいから、一つの道を究めた者は何かを掴んでいる。そうした確信が、兼好にはある。それは、兼好自身が狂おしいまでに「道」を求めたにもかかわらず、自分の専門の道と呼べるものに一身を捧げることがなかったことが背景としてはある。
兼好は牛田神社(京都)の神官の家柄に生まれた。幼い頃から頭脳明晰であったようだ。『徒然草』の最終段、第二四三段のエピソードは、それを伝える。兼好が八歳になった年、父親に「仏とはどんなものか」と尋ねた。父が「仏には人がなったのだ」と答えると、幼い兼好はまた、「人がどうやって仏になったのでしょうか」と尋ねる。父が仏の教えによってなるのだと答えるのに対して、その教えなさった仏をだれが教えたのかとまた尋ねる。やがて父は、答えられなくなって、笑ったという話だ。
ここにはすでに、頭脳明晰で探求心に富むが、朴訥に一つの道に精進し続けるには必ずしも向いていない少年の姿が見られる。頭脳明晰で器用に生まれ、幼い頃和歌の素養を修めた兼好は、職人の仕事における専門家になるにはコースが違っていた。かといって、兼好が「道」の代表だと考えた仏道の専門となるには、生まれが神道の家柄であり、また仏道修行に一身を捧げるということもなかったようである。
和歌の道には相当なエネルギーをかけたようだが、その和歌の道において、完全に卓越した水準には達することができなかった。本来は、具体的な技と結びついた専門の道を究めることを通じて、ある境地に達することが兼好の願いであった。
しかし当時の社会においては、専門性は生まれた家の職業によって規定される面が強かった。そうした事情もあって、はっきりと一つの道を究めることにはならなかった兼好が、「その道の達人」にあこがれを持ち続けたために、『徒然草』にはさまざまな領域の達人のエピソードが残されることになった。
一つの道を究めた者が、上達論を書くケースももちろんある。しかし、上達論が普遍的なものだとすれば、むしろ複数の道を進み、さまざまな領域の達人にあこがれてそのコツや極意を知りたいと思うような人が、上達論をなすのには向いている。表向きの現象としてはまったく異なる領域の活動に対して、共通する上達の論理を見出していく目が兼好にはある。
特定の価値の高い活動だけではなく、些末な事柄にも道を見出し「その道の達人」を求める気持ちは、必ずしも当たり前のことではない。しかし私たちにも、「その道の達人」に対するあこがれは強くある。こうしたいわば職人的な技への敬意の念は、かつての日本人には広く共有されていた。そうした意識が広く行き渡った一因として、『徒然草』があったのではないだろうか。
日本人が『徒然草』と出会うのは、ほとんどが国語の古典の授業を通してであろう。そこではさまざまな古典と並列されて、『徒然草』も登場する。とりわけ冒頭が、「つれづれなるままに」というものなので、仏教的な諦念を表すものだとくくられがちだ。しかし、兼好はその認識力において、現代の生活にそのまま通用するものである。その意味では、普通の「古文」とは性質が少々異なる。
日本の授業では、兼好を「上達論の大家」として教えることはない。したがって、性質の違う文章が並列されることにもなる。たわわに実った蜜柑の木の周りに囲いをつくってあった家に対して、「この木なからましかばとおぼえしか(この木がなかったらなあと思われたことであった)」と感じたエピソードと、高名の木登りや弓の話が並列される。こうした並列は確かに兼好の中の多彩な側面を示すことにはなるが、日本の文学や文化における吉田兼好という人の価値を際立たせることにはならない。兼好を上達論の達人として一度見てみることによって、『徒然草』を貫く一つの中心軸が見えてくるはずだ。
先達のレベルを体感する
『徒然草』には、よく仁和寺の坊さんが、からかいや教訓の対象として登場する。
ある坊さんが、年をとるまで石清水八幡宮を拝んだことがなかったので、ある時思い切ってお参りに行ったというエピソードがある(第五十二段)。石清水についてまったく知らなかったものだから、本来の道筋とは違う道を歩き、八幡宮付属の極楽寺などを拝んで、これだけかと思って帰ってきてしまった。帰ってきてから仲間に向かって、「長い間の念願を果たしました。聞いていたのにも増して尊くございました。それにしても、お参りの人が皆山へ登ったのは何かと思って行ってみたい気がしましたが、八幡様へのお参りが肝心だと思って山の上までは見ませんでした」と言った。石清水八幡宮は、この山の上にあったわけだが、この坊さんはそれに気づかなかったということだ。
このエピソードを締めくくる言葉が次の名文句だ。
「少《すこ》しのことにも、先《せん》達《だつ》はあらまほしき事なり。」
これは、非常に普遍性の高い格言的な名文句だと思う。日常に起こるさまざまな失敗に対して、この文句を用いることができる場面は少なくない。ソクラテスの「無知の知」を持ち出すまでもなく、私たちは自分の知らないことが何であるかを上手く知ることができない。
自分がものを知らないということに気づくためには、それなりの水準が必要だ。上達するためには、自分がまだ会得していないことに対する予感やヴィジョンを持つことが重要である。それを思い描いて、それを会得するための練習メニューを立てることができれば、上達は確実性を増す。自分がよくは知らないのだという認識もなく、また道へのヴィジョンを立てる習慣もなければ、やることにロスが多くなり上達はままならなくなる。
「先達」は、自分にとって道の方向を照らしてくれる存在である。そうした道案内がいるかどうかで、上達の速度は格段に変わってくる。よい先達を得る努力をせず、また自分自身の才覚で道へのヴィジョンを立てることもできなければ、この仁和寺の法師のように、ある水準まで行って「この程度のものか」と高をくくってしまい、上達をやめてしまうことにもなる。
先達は、こうした思い上がりを防いでくれるだけには留まらず、上達への不要な不安をも取り除いてくれる。スポーツの世界記録の更新において、一人が記録を破ると次々に多くの選手が、長年破れなかったその記録を破っていくということが頻繁にある。技術的な向上ももちろんあるが、より重要なのは、心理的な不安が除去されたということである。一人が突破することによって、突破が可能だという確信をもって事に臨むことができるようになる。その記録は、人間が破ることができるのだと知ることによって生まれる力は大きい。確信をもって臨むかどうかが、上達の大きな岐路となる。
捜し物をしている場合も同様だ。間違いなく特定の部屋に忘れたという確信をもって探す場合と、その部屋にあるのかないのかもわからないという心理状態で探すのとでは結果が異なってくる。確信をもって探すときには、見つかるのも早い。あいまいな不安を抱きながら探しているときは、何度も同じところを探してなおかつ見つけることが出来にくい。不安に基づいて動くのと、確信に基づいて動くのとでは、パフォーマンスが変わってくる。
シドニーオリンピックに出場した日本の競泳陣のトレーニングの一つに、ワイヤーでからだを引っぱるというものがある。これは、世界記録のタイムと同様のタイムを体感するために、ワイヤーで引っぱりながら世界記録と同タイムの泳ぎをさせるというトレーニングだ。このトレーニングのねらいは、世界記録を自分のからだで感じ取ることによって、そのレベルの感触をからだに得させ、上達の手がかりを与えるということにある。
と同時に、世界記録の泳ぎが、およそどの程度のものかということを具体的に知ることによって、闇雲な不安を除去する効果もある。雲の上のようなものだと感じていれば、それを乗り越えるのは非常に難しくなる。具体的な差を知れば、漠然とした不安ではなく、具体的な課題意識が生まれてくる。このワイヤーによるトレーニングは、先達のレベルを体感するという、上達の重要な秘訣を含んでいる。
仁和寺の坊さんが登らなかった「山」は、上達の道筋の一つの比喩だと見ることもできる。本来登るべき高みに対して、その山の高みの意味さえもわからずに、低いレベルのところで侮って満足してしまうあり方を、「山上の石清水」という比喩で言い表しているのではないか。単なる道案内というのではなく、「登る」という行為が上達論のイメージにうまく重なる。高みに登れば見える風景は広がる。どのような道筋にせよ、高い山に登り得た者が見える風景は似ている。このように兼好は感じていたのではないだろうか。
上達論のテキストとして見る習慣
『徒然草』を上達論のテキストとして捉えたのには、ねらいがある。『徒然草』はもちろん上達について述べた文章ばかりではない。もっとさまざまなヴァリエーションの文章が含み込まれている。しかし、上達論のテキストとして捉えたときには、それまでの『徒然草』のイメージとは違った顔が見えてくる。ここで強調したいのは、さまざまなものを上達論のテキストとしてみる習慣そのもののことである。
いかにも上達について書かれたもの以外にも、このような観点から見たときには、上達論のテキストとなるものがたくさんある。たとえば、伝記はその代表的なものだ。伝記は人の生涯を事実を中心として綴ったものである。しかし、それを読む読者は、純粋にその人物の生涯としてだけではなく、現在及び未来の自分を向上させていくためのヒントが含まれたテキストとして読むこともある。幼少時に読んだ偉人伝が、人生を生きるための基本的な上達論として、心の中に残って作用することがある。意識して上達論として読んではいなくとも、そのような向上のヒントを与え続けるものとして、伝記が作用することがある。
司馬遼太郎の小説がビジネスマンに人気があるのは、それが仕事をする上でのヒントを含んだものであったからではないか。純粋に歴史上の史実のみを書き連ねているのではなく、人の生き方に指針を与える要素をあらかじめ含み込んで書かれている。
読者は、たとえ置かれている状況は主人公と違っていても、自分の現在の状況に活かす何かがあると感じながら小説を読む。小説に描かれる主人公は、自分の人生を造形していくことにおいて卓越している。上達の普遍的な論理をつかまえていない者を伝記の主人公とするのは、むしろ難しい。そのうえで、基本的な上達の論理だけでなく、その人物固有のスタイルを提示できたときに、主人公としての魅力が生まれる。
映画を観るにせよスポーツを観るにせよ、何かを上達論のテキストとして見ることによって、見え方が変わってくる。そこで得られる一つ一つの上達のヒントも、確かに意味がある。しかし重要なことは、こうした上達論的な観点を日常のさまざまな活動の中で習慣化し、〈技化〉することである。
優れた何かを上達論のテキストとして捉えることは、いわゆる上達論の書物を読む以上の効果が期待される。それは自分が好きな映画やマンガであってもいい。あるいは、ドキュメンタリーやインタビューなどでもいい。およそあらゆるものを上達論のテキストとして捉えようとすることによって、上達のコツを盗む目が磨かれてくる。
〈格言化〉の効用
このほか『徒然草』には、上達論の格言にしたいような言葉がたくさんある。「己《おの》れが境《きや》界《うがい》にあらざるものをば、争《あらそ》ふべからず、是非すべからず」(第百九十三段)や「達《たつ》人《じん》の、人を見る眼《まなこ》は、少《すこ》しも誤《あやま》る所あるべからず」(第百九十四段)、「万《よろづ》の事は頼《たの》むべからず。愚《おろ》かなる人は、深く物を頼む故《ゆゑ》に、恨《うら》み、怒《いか》る事あり」(第二百十一段)、「若き人は、少《すこ》しの事も、よく見え、わろく見ゆるなり」(第二百三十二段)なども覚えていると、現実の現象を見るときに役に立つことがある。
言われてみれば当然のようなことでも、自分の格言として技化していると効力を発揮する。シンプルな言葉だが好きなものとして、「改《あらた》めて益《やく》なき事は、改めぬをよしとするなり」というものがある。第百二十七段は、この一文のみである。不調や不況に陥ると、どうしても変化を求める。その際に、すべてを変えようとすればそれまでのよいものまで失う危険性がある。また、エネルギーが改革のための改革に費やされることにもなる。「改めて益なき事は何か」ということを見極める作業が、まず必要である。
言葉を〈格言化〉することによって、日常の諸判断の技として機能させていく。こうした格言化の工夫が、技として見たときに重要である。古典の言葉は、認識の内容それ自体でその価値を測られるというよりは、暗誦し格言化することによって、技としての機能を発揮するというところに価値が見出されるべきものである。
最後に、「上達論の大家」としての吉田兼好を象徴しているのではないかと思われる文を引いておきたい。
「よき細《さい》工《く》は、少し鈍《にぶ》き刀《かたな》を使ふといふ。妙《めう》観《くわん》が刀はいたく立たず。」
指物師や彫刻師などのうち、よい細工をする者は、少し切れ味の悪い刀を使うという。名人と言われた妙観の刀は鈍かったという内容である。第二百二十九段はこの文章のみで、他にはヒントはない。
「弘法筆を選ばず」ということわざがある。しかし、実際の達人名人は、道具を選ぶことにこそ慎重であり、自分の手に馴染んだ、自分の腕と一体化した良い道具を用いている。名人は筆を選ぶのである。したがって、単純な意味で、名人は悪い道具を使ってもうまくいくといった話ではないだろう。この文を見て以来二十年以上、この言葉はいつも私の心の中に生き続けている。折に触れてこの言葉が現れ、影響を与える。
どのようなときにこの言葉が技として働くかと言えば、たとえば概念(コンセプト)をつくるときである。概念は現実を切り取る刀のようなものだ。刀としての概念にも刃の鋭利なものと鈍いものとがある。あまりに鈍ければ、もちろん役には立たない。一方あまりに鋭いコンセプトも普及に向いていないこともある。使い方がうまい場合には、少し鈍めのコンセプトの方が効力を発揮することがある。
〈腰《こし》肚《はら》文化〉、〈積極的受動性〉、〈段取り力〉、〈質問力〉といった概念をつくる際に心がけたのは、新奇な鋭さを売り物にした概念ではなく、少々鈍くても使いこなすことが容易な概念にすることであった。この本でキーコンセプトとしている「スタイル」も、日常的に使われている言葉であり、鋭さで言えばさほどのものではない。しかし、研究者の意識の鋭さがそのまま反映された概念が、必ずしもよい概念とは言えない。
細工にしても、その細工をつくる工匠の意図が鋭く現れた、いかにも「上手だろう」という意識が前面に出た細工は、味わいが薄いように思う。腕のよさがあからさまに強調されるものは、本当のよき細工ではない。
モーツァルトの曲は、奇をてらったものというよりは、自然に耳に馴染むものである。ピアノソナタなどはシンプルすぎて、プロが弾くのにはかえって難しいと言われる。聴き手には自然なものとして馴染んでくるが、味わいが深いもの。こうした作品に込められている工夫には、おそらく常人のうかがい知れぬものがある。作曲家の意識の鋭さが前面に出るのではなく、曲そのものが自然に流れ込んでくる。それが名曲だ。モーツァルトは自分自身の溢れ出るアイディアを、露骨な鋭い形でそのまま出すのではなく、むしろ少し鈍き刀を用いて曲作りをしていたと感じる。
腕を自慢するように感じられるものは、存在感が薄くなる。腕が鋭いものは、あえて少し鈍き刀を用いることを通じて、作品に存在感やリアリティを出していくのが、重要なコツなのではないか。良き細工になる以前から、少し鈍き刀を使うことばかりを意識していたというのは妙な話だが、私にとってこの言葉は、格言として機能し技化している。
以上、『徒然草』を上達論のテキストとして捉えてみた。吉田兼好は、領域・ジャンルを超えて、達人のつかんだ普遍的なコツを明らかにした。兼好の「上達の秘訣」への強い関心の裏には、生きる意味の追求がある。ただ何かが上手になればいいというものではない。しかし、一生懸命やっているという気持ちだけでも充分ではない。「上達の秘訣」をつかむことが、生きる意味をつかむことにつながっている。
第五章 身体感覚を〈技化〉する
脳をきたえる幼児教育
上達は、技の習得である。技を習得するためには繰り返し練習し、量が質に転化する瞬間を逃さないことが重要である。漫然とただ機械的に反復するというのでは、十分ではない。自分のやっていることを意識化する意識の鮮明さが、上達の速度を速める。
物事をうまくやるコツを掴まえる瞬間がある。こうした瞬間は、一定程度の時間、集中力が持続したときに訪れる。その世界に没入しつつ自分のやっていることを鮮明に意識できている時間が、ある程度続いたときに、コツが見出される。せっかく良い練習をしていても、集中力の持続が一定時間続かないと、コツを身につける瞬間が訪れにくい。
つまり、上達の秘訣は、集中力の持続にある。集中力を持続させることは、大人でも意外に難しい。人の話を聞いているときでも、他のさまざまなことに気が散ることがよくある。集中力を持続させること自体が、一つの技なのである。練習によって、集中の持続時間を伸ばすことができる。
幼い子どもは大人に比べて集中力が続かないものだと思われている。私自身もそのように思ったこともあるが、先日ある幼稚園での実践を見て衝撃を受けた。大阪にある浄土宗系のパドマ幼稚園に招かれ、そこでの実践を見学する機会を得た。その幼稚園では全脳教育を目標に掲げており、脳のすべてを活性化させることを目標にしている。
年少・年中・年長のそれぞれが、漢詩を朗誦している。李白の「静夜思」や孟浩然の「春暁」、杜甫の「春望」など私たちに比較的馴染みのあるものから、杜甫の「登岳陽楼」という長いものまでさまざまである。幼児がこうした漢詩をすらすらと朗誦する様は、壮観であった。
朗読のテンポは非常に速い。ゆったりと朗誦するというよりは、歯切れ良く速いテンポで進んでいく。できない子どもは、周りのリズムに合わせて口を合わせている。そして自分の得意なところになると、大きな声で朗誦する。テンポが速くリズムがいいので、子どもたちは楽しそうに大きな声を出している。
年少の子どもが私自身も知らない漢詩を朗誦しているのを聴いたときには、ショックを受けた。朗誦・暗誦されているのは漢詩ばかりではない。ことわざ、百人一首、一茶や蕪村の名句、宮沢賢治・高村光太郎・島崎藤村・北原白秋・室生犀星・サトウハチローらの詩、外国の詩、石川木の短歌、あるいは福沢諭吉の教訓的な文などさまざまである。
どれもが速いテンポで大きな声で朗誦されるので、一つの詩を詠み上げるのに一分とはかからない。短い漢詩などは、一つ五秒から十秒でこなされる。それを次々にやっていくので、一分間で数個の漢詩を朗誦することになる。たった五分か十分の間に、漢詩や詩が次々と朗誦されていく。これは、驚きの時間感覚であった。その教室にいると、一分あるいは十秒という時間が、非常に長い時間なのだということに気づかされた。漢詩が五秒か十秒で朗誦されうるという事実を目の当たりにして、意識の鮮明さが幼児においても十分達成可能なものだと感じた。
「意識のコマ割り」をふやす
集中力というのは、私の考えるところ「意識のコマ割り」の多さである。
映画のフィルムは一秒間に二十四個のコマで成り立っている。こうしたコマ割りが脳の中で行われていると考えてみる。集中力の高まった野球のバッターは、ピッチャーの手からボールが放れて自分のところにやってくるまでの一秒足らずの間に、非常に多くの判断をする。どういった球種でどのコースに来るのか、ストライクなのかボールなのか、自分の持っている技術の何を活用すればどの方向に打球が飛ぶのか、といったさまざまなことを、言語化しないまでも判断している。このときの「意識のコマ割り」は、同じ一秒でも通常時よりもはるかに多い。
かつてのバイクの世界チャンピオン片山敬済は、超能力とは集中力のことであると言っている。レーサーにとっては、一秒は短い時間ではない。時速三百キロで走っているときでも、集中力が高まっていると周りの風景が鮮明に見えるという。一秒間あたりの意識のコマ割りが多くなれば、流れる時間は遅く感じられる。片山は、時速三百キロで走る感覚を、次のように表現している。
「五〇〇ccのGPマシンは、たとえようもなく速い。だが、スピードが速くなればなるほど、僕の目に映る風景はゆっくりとして目に入ってくる。まるでスローモーションのように。
しかし、その風景が最もスローになり、もう少しスロットルを開けられると思った瞬間が極限だ。こらえきれずに開ければ次に起こる事態は転倒しかない。そして、その瞬間の判断が、一流と二流を区別する。
……こまかなところまですべて見えるね。路面のしみひとつから、突起ひとつまで見ようと思えばすべて見れるわけよ。自分のすぐ前の、前輪のちかくを横切るちいさな石のつぶまで、見えるのね。だから、素晴らしいよね。」(坪内隆直『二輪戦士』飛鳥新社)
脳のコマ割りを増やすためには、速いテンポの集中した環境に身を置くのが早道である。周りのテンポが速ければ、自然にそのテンポに自分の意識を合わせることになる。自分ひとりで速いテンポを持続させることは、はじめのうちは難しい。
先のパドマ幼稚園では、二分ほどでどんどんメニューが変わっていく。たとえば、「百玉そろばん」というのがある。そろばんの巨大なもので、一列に十個ずつ球がついている。先生が数を言いながら、右から左へと球を移動させていく。一、二、三と順に数えることから始まり、二とび五とび十とびといった応用も、非常に速いテンポでなされる。球がカチンカチンとリズム良く鳴るので、教室は活気づいてくる。教室全体がハイテンポで満たされるので、子ども一人ひとりの「意識のコマ割り」は自然に多くなる。
緊張した活気のある雰囲気は、リズム感覚に支えられて持続する。子どもたちの声は、非常に大きくはっきりしている。大きな声をはっきりと出すことに慣れているので、歌を歌うときも、息がしっかりと出る。体が息の柱のようになっている。強い水流が流れ出すホースのように、体は強い息の力で、真っ直ぐに幹のようになっている。あたかも「人間ホース」のような勢いに満ちた身体となっている。
速いテンポで声を大きく響かせるので、お腹がよく動く。腹式呼吸ができている。息の入れ換えが速いテンポで、大量に行われる習慣がついている。このことは意識のコマ割りを増やす上において、有効に働いている。脳は酸素によって活性化するからである。
「癒《いや》し」が叫ばれている現代においては、緊張するということは、あまりいいことのように思われていない。しかし、子どもは緊張した空間は、必ずしも嫌いではない。この幼稚園では、フラッシュカード方式を取り入れている。フラッシュカード方式というのは、漢字や言葉が書かれたカードを瞬間的に子どもに見せて、声に出させていくやり方である。短い時間にカードを見ていくので、緊張感が高まる。
リズムとテンポが失われずに行われると、先生と子どもとの間に「心のキャッチボール」が気持ちよく進んでいく。難しい言葉を早期に覚えることが主たるねらいではなく、脳を活性化させることに本義がある。「いやし」は基本的に疲れた大人が求めているのであって、子どもたちはむしろテンションの高い活性化した場を求めている。
脳を活性化する方法
ハイテンポで脳を刺激する状態を、長時間持続させる。こうした練習を日課として行うことによって、普通の幼児が「高い集中を持続させる力」をたしかに養うことができる。この実践は、鍛錬することや練習することをむやみに恐れる、いわば「鍛錬恐怖シンドローム」に陥った大人たちの目を開かせるものである。
鍛錬というと、脳の働きを鈍磨させるイメージを持つ人もいるかもしれないが、本来の鍛錬は意識を鮮明にさせ続けることを求めるものである。「リズム」と「テンポ」と「繰り返し」を何事においても基本とすることによって、緊張感を持続させることができる。
この幼稚園では、上半身裸や裸足が励行されている。これは生命力や抵抗力を高める目的でなされている。脳でいえば、脳幹部を鍛えることになる。また、音楽に合わせていろいろな活動がなされる。「ことばと動きとリズム」が三つの柱になって反復練習される。脳の中の知的な活動を主に担う新皮質だけでなく、情緒を主に担う古皮質や、生命の基本的活動を維持するための脳幹部を、すべて連動させてバランスよく活性化させるのが、全脳教育である。このために、リズムとテンポを持った反復練習は有効である。
テンポのいいリズミカルな運動をしていると、集中状態に入りやすい。貧乏ゆすりをしたり、ガムを噛んだり、歩き回ったりすることで、意識が集中しやすくなる。こうした経験は、誰にでもあるだろう。哲学の道や思索の道と呼ばれるものがあるように、リズミカルな運動の典型である歩行は、意識の活性化を助ける。
歩行などの規則正しいリズミカルな運動は、セロトニン神経系を刺激し、リラックスした集中状態をつくりやすくする。たとえば、大量の封筒詰めなどの単純作業は退屈なものだ。しかし、そうした単純作業でもリズムに乗ってくると、ある種の快感が得られるようになる。とくに数人で作業を一緒にしているときに、リズミカルなテンポが共有されてスムーズに仕事が流れていくと、退屈な単純作業も遊びへと変化する。それほど知的な活動ではもちろんないわけだが、脳の古い部分が活性化し何らかの快感物質が出ているように感じる。
相当高級な知的活動と思われているものにも、多くの単純な作業が含まれていることが多い。単純な作業にテンポとリズムを与え、古い脳を活性化させることによって、単純作業も比較的苦にならなくなる。
脳のどの部分が活性化しているかを感じ取ることは難しくとも、自分の脳が今どの程度の活性状態にあるのかを感じ取ることは比較的容易である。自分の意識の活性度についての意識をまず持つことが先決である。
私が大学の授業で行っているのは、自分の意識の活性レベルを十段階で把握する軸をつくることである。たとえば、友人と喫茶店で話をしている意識の活性化の水準を5としたとする。これを基準としてプラスマイナスいくつかで、その他の活動をおよそ位置づけていくのである。
調査によれば、大学の講義でも5を下回るものもある。教師の話している内容は高級でも、学生の意識の活性化の度合いは低いということは、よくあることである。一時間半の授業を通して脳の訓練がまったくなされていない、ということも十分あり得る。先ほどの幼稚園のケースと比較すると、幼稚園児の方が大学生よりも脳の活性度が高い時間を過ごしているということも十分に起こりうる。
重要なことは、脳の活性状態を最高度に上げるということ以上に、こうした脳の活性化を測る軸を自分の中につくることである。自分の意識のコマ割りの速度が現在どの程度であるかを知ることによって、自分が今やっている作業の質と脳の活性化との関係が適切かどうかを判断することができる。仕事の性質に応じて、脳の働く主な部位や活性度は異なってくる。
「頭の作業員は何人起きているか」
十段階の評価軸を持つことは、一見高度なことに見えるかもしれない。しかし、工夫次第で子どもにも簡単にできることである。私が子どもに対して、この軸をつくる作業を行うときには、「今頭の中の作業員十人のうち何人が起きて作業をしているか」という聞き方をする。
眠っているときは、頭の中の作業員も全員寝ている。最高に活性化したときは、十人全員が働いている状態だ。勉強の進み具合が悪いときにこの質問をすると、二、三人という答えが返ってくる。調子が出てきたときにまた聞くと、人数が増えてくる。疲れてきたなと思うときに聞くと、人数が減っている。
こうした質問を何回か繰り返すうちに、自分の脳の活性状態を感じ取ることに慣れてくる。自分の意識の活性状態に対する評価軸を持つ習慣を作ることによって、脳の活性化の度合いは自然と高まる傾向がある。自分の頭の中の作業員が何人起きているかを感じ取る作業は、それ自体が意識の活性化を促すのである。
脳は特別な器具を用いない限り、活性化の程度を視覚的に捉えることはできない。それだけに自分の脳の状態を把握するのには、アナロジーを使っての理解が有効だ。「頭の中の作業員」というのも一つのアナロジーだが、車の運転の際の「ギアチェンジ」も有効な比喩となる。
脳を一速から五速までのマニュアルの車だと想定してみる。いきなりトップギアに入ることは少ない。一速から徐々に上げていくように、意識の活性化も徐々に回転数を上げて、その回転数に見合ったギアを用いるのが、「脳の燃費」をよくするコツである。あまり無理をするとオーバーヒート(知恵熱)をひきおこしてしまう。
混雑した市街地の道路状況なのか高速道路なのかによって、ギアの使い方は変わってくる。自分のエンジン(脳)の排気量を把握した上で、エンジンの回転数に合わせてギアチェンジを上手にしていくことが、燃費のよい無理のない脳の使い方を促す。
ガス欠があるように、酸欠もある。呼吸法を身につけるだけで、脳はずいぶんパワーアップする。この場合も重要なことは、「脳のギアチェンジという感覚」を持つことである。頭の状態は一定ではなく切り替え可能なものだ、ということが把握されるだけでも、脳はアクティブに働くようになる。
自分の頭が他人と比べていいか悪いかということを気にする風潮がある。しかし、それよりも自分の意識の状態がどの程度の活性度にあるかを、こうした比喩によって把握する習慣をつける方が、より有効である。自分の意識の状態に対しての意識を、正確に持つ習慣をつけること。このことが、状態を自然とよい方へ変えていく原動力となる。
「感動」は意味の充満である
「感動」は上達の根源的なパワーである。感動とあこがれが根底に出発点としてあれば、自分にとって苦手なことでも耐えることができる。逆に感動やあこがれがなければ、上達の普遍的な論理を追求する意欲は湧かない。しかし、この「感動」という言葉は、漠然としすぎていて、今ひとつリアリティが明らかではない言葉だ。
たとえば、感動すると言葉を失うと言われる。こう言われると、感動したときには頭が止まって空っぽの状態のように思える。しかし、感動している瞬間は、ボーっとしているのではなく、むしろ意識は高速回転しているのではないだろうか。感動にも様々な種類がある。大自然を目の前にして安らかな感動に包まれるときには、たしかに意識が高速回転しているというわけでは必ずしもないかもしれない。しかし、心情的にも知的にも全身が揺さぶられるような衝撃を受けるような感動もある。こうした感動の場合は、脳のシナプスを電流が駆けめぐっている感じがする。
こうしたインパクトのある感動体験を言葉にできないとすれば、自分の言語化能力が現実の意味の大きさに対応しきれないということなのではないだろうか。一瞬に凝縮されている意味があまりにも豊富なので、その場では処理しきれない。そうした一種の脳の飽和状態が、ある種の感動体験にはある。
たとえば、棟方志功がゴッホの絵に出会ったときの感動は衝撃的なものであった。この場合の感動は、意味が大きすぎてその場では処理しきれず、一生をかけてその意味を追究するような性質のものであった。自分の仕事をゴッホに導かれて追究していく過程において、その感動の意味が徐々に明らかになってくるという性質の感動体験である。
知的に分析しようとする態度だけで臨めば、感動は逃げていく。しかし、脳が知的な活動をしていること自体は、感動を妨げるものではない。そこにエモーショナルな興奮が結びついているときに、感動は深くなる。つまり脳の一部だけではなく、右脳も左脳も、あるいは古い古皮質や脳幹部までもが全体として興奮する。集中した感動は、全脳的な体験ではないか。
ダンサーは「無心」か?
感動という言葉とともに、「無心」という言葉も誤解を招きやすいものだ。集中した状態=無心、と私たちは考えがちである。しかし、夢中になって何かに没入して集中しきっている状態は、傍《はた》で考えるほど無心では必ずしもない。
一心不乱に何かに集中し没入している姿は、他の人を引きつける。ましてそれが情熱的で開放的なものであれば、そのパフォーマンスをしている当人の心は無心であるかのように思いがちである。しかし、意識の高速回転が一心不乱に見える状態をつくり出していることがある。
フラメンコ・フュージョンの世界的スターのホアキン・コルテスのダンスは、情熱が爆発する激しいダンスで、無心で踊っているように見える。コルテスはスペインの南部アンダルシア地方の出身で、ジプシーの流れを引いている。彼のスタイルの本質には、ジプシー・パッションとでも言うべきものがある。ジプシーの歴史が自分のアイデンティティであり、スタイルでもある。コルテスは、こう言う。
「我々の祖先は北インドを出て、ユーラシア大陸を彷徨《さまよ》いながら、さまざまな国と文化を通りすぎ、長い年月を経てイベリア半島まで辿り着いた。二〇世紀の今でも基本的には我々は未だに自分たちの大地は持たないし、精神は常に流浪のなかにある。だからこそ今でも我々ジプシーが踊るとき、身体の奥から原始的なものが噴き出してくるんだと思う。僕はジプシーであることを非常に誇りに思うし、音楽と踊りという世界のなかで、自分の感じるままに行動し、誰にも束縛されることなくそれらを表現できることに、このうえない喜びを感じる。」(「ナンバー」439号)
踊っているときのコルテスは、血に流れる情熱(パッション)に身をまかせ、無心で体の中のエネルギーを放出しているかのようだ。しかし踊っている最中の彼の意識は、高速で回転している。
「家族のこと、愛する人のこと、やり遂げてきたこと、未だやり遂げていないこと、楽しかった日々、苦しかった日々……、舞台の上で踊っている間、様々な想いや光景が頭のなかをよぎってゆく。これまでの人生の様々な瞬間が自分のなかに反射してゆくんだ。無心で踊ってるわけじゃない。いろんなことを考えてる。いったい自分は何処から来たのか? なぜ今自分は此処にいるのか? そして、これからいったい何処へ行こうとしているのか? そういった自分への問いかけの全てが自分の肉体に反射して、観衆への表現になるんだ。」(同)
彼は決して、いわゆる「無心」で踊っているのではない。生の根源的な問いが、奔流のように意識の中で渦巻いている。その意識の速度と密度の高さが、コルテスの肉体の動きに緊張感を与える。その張りつめた意識と肉体が、ステージと観客席全体の空気を支配する。
実際に彼がダンスをする空間に身を置いてみると、緊張と開放の両極を激しく往復する感覚を味わうことができる。意識の内側の密度の濃さ、凝縮が、外の空間への強烈な放射力を支えている。意識の高速回転が、時間と空間を緊密なものにしていくのである。ダンサーの意識の凝縮度が、身体と身体の間を流れる想像力を通じて、観客の意識の密度をも高める。
意識の密度と速度の関係
私たちの身体は、他の身体や場の雰囲気の影響を受けやすい。場のテンポが速ければ、自分の身体のテンポも自然と速くなる。密度と速度が高い意識が場全体の雰囲気を支配しているときには、その場に臨んでいる者の意識もまた、密度と速度を自然と増していく。
こうした意識の密度と速度の影響関係は、ステージから観客席へという一方的なものでは必ずしもない。観客側の意識からダンサーもまた、影響を受ける。意識の密度のやりとりが、場の緊密感を生みだしている。このやりとりは、いわばセクシュアルなやりとりだと言ってもいいだろう。
コルテスはセクシーあるいは官能的と形容されるダンサーだ。そのセクシーさや官能性は、単に彼の容姿やファッションからくるものばかりではなく、観客との間の微妙かつ密度の高いやりとりにも起因している。コルテスは、これを自覚している。
「僕と観客の間には常に『誘惑のゲーム』といった駆け引きが存在するんだ。僕と観客の一人一人が約二時間のあいだ、一対一で対峙し続けることになる。どちらがより相手を魅了できるかを競うわけさ。
僕のステージでは観客と踊り手の間にすごく直接的なコンタクトがある。通常芸術家というのは大衆とのあいだにある種の壁を築きながら自己を表現してゆくんだろうけど、僕の場合はその壁を完全に取り払って、観衆のなかに飛び込んでゆくんだ。観客の視線や意識を遠ざけることはできないよ。もちろんステージと観客席という実際的な距離はあるにしても。」(同)
空間を隔てながらも触れ合い、押し引きがなされているような感覚。こうした緊密な感覚は、意識と身体が高度に活性化していることによって可能となっている。意識の密度が身体の活性化と関わり、それがセクシュアルな雰囲気を生み出すことにも関わっている。このことは、脳の知的、情動的、動物的な様々な部分をトータルに活性化させることとつながっている。
意識が高速回転に入ったときには、相手がたとえ機械であっても、一種セクシュアルとも言える関係が成立する。先のオートバイレーサー片山敬済は、レース中の集中状態におけるオートバイの感覚をこう言っている。
「集中しきってるときってね、ほんとにものすごく見えるんだよね、なんでも。後ろがどっちから抜いてくるとか、あ、やめようとしてるとかね、どこでくるとか、エンジンのどこが調子悪いとか……そういうこと見えるわけ。見える、っていうのは、ぼくは、わかるっていうことなんだけどね。ワカルっていうことよりも、もっと確かな意味で、ぼくは見えるって言ってるわけよ――あ、いま、コンロッドが焼きついた、とか、クランクベアリングの左はしのやつがいかれてる、とか、ピストンに亀裂《クラツク》がいってる、とかね。」(坪内隆直『二輪戦士』飛鳥新社)
片山敬済のこうした繊細な感覚は、単に主観的なものではない。レースはオートバイという機械を通して行われるものである。的確なマシン・セッティングが必要となる。そのためには、ライダーの正確な感覚が情報としてフィードバックされることが求められる。片山と七年間、メカニックとして共に仕事をしてきた杉原真一は、こう言っている。
「速く走るためには何がいちばん重要かを素早く見抜き、限られた時間の中で、適切なセッティングを施す必要があります。
彼は、この辺の判断が実に的確で、一種職人芸といった感じがあります。また、エンジン特性の微《かす》かな差、サスペンションの微妙な動き、タイヤの挙動などといったことを具体的にとらえ、メカニックやエンジニアにフィードバックすることも彼の得意とするところです。二万回転を誇る NR500 に乗っていたころ、百〜二百回転の差を指摘する彼に、面食らっていたエンジニアの顔を思い出します。」(同)
素人から見れば、一台のバイクにしか見えないものの内部を細かく「腑分け」していく。この「腑分け」の精密さが一流と二流を分けていく。腑分けができなければ、体は一つの漠然とした全体である。腑分けのレベルをミクロにしていくにしたがって、その内側が一つの複雑な世界として立ち現れてくる。F1の世界でも、アイルトン・セナやミハエル・シューマッハのようにトップに立つレーサーは、他のレーサー以上にマシンの細かな部分にまで感覚を研ぎ澄まし、メカニックに情報をフィードバックしている。
木の手触りを伝える技術
ミクロなレベルにまで「腑分けする力」と「身体感覚によるフィードバック回路」。この二つが一流の技術者には共通してみられる。腑分けする力は、いわば内側へ入り込み差異を細かく見出していく力だ。それはミクロになって行けば行くほど、言葉による分節化では追いつかなくなる。しかし、差異はたしかに感じられる。そうしたときに頼りになるのは、身体感覚である。
この身体感覚は、単に主観的なものでは意味がない。それが現実的な差異と対応しているときに、こうした身体感覚が技術としての重要性をもってくる。身体感覚と現実との間にフィードバック回路ができるようになれば、その場合の身体感覚は、一つの技と呼ぶことができる。
法隆寺や薬師寺などの再建で有名な宮大工、西岡常一は、『木のいのち 木のこころ(天)』(草思社)の中でこう言っている。
「同じ檜《ひのき》でも産地によって色も香りも触り心地も違いまっせ。また、百年、二百年の木と千年の木とでは、同じ檜でも匂いが違いますのや。匂いというたら鼻でかぐもんですけど、触った感じも匂いと同じように違いますのや。
それと生きて立っているときも、年相応に木にも風格がありますのや。檜はだいたいが茶色な皮をしていますが、年を取った木は銀色に輝いて、苔《こけ》が生えてましてな。すごい木やなというのが見上げただけでも感じられます。
年を取っている木で大きなものでも、中が空洞やウロができているもんは一見若々しいですな。こういう木は周囲だけが生きていますのや。栄養が全体に達しんと、葉のところだけが若々しいんやけど、年を取って中がしっかり詰まっとるのは栄養が回りきらんから黄ばんだような、くすんだ感じがしますんですな。これも弱って黄ばんどるのとは違いまっせ。こういう木は材にしても風格がありますな。(中略)
こういう木の感触は言葉では伝えようがありませんな。実際に見て、触って、感じて覚えていかななりません。技術というもんは腕だけやなくて培《つちか》われた勘や感覚に支えられているんですやろな。」
重要なことは、勘や感覚をいたずらに神聖視して、客観的な認識と対立させることではない。現実と感覚との間にフィードバック回路を作り上げ、感覚を現実と繊細に呼応するものに磨きあげていくことである。
西岡常一の木への触れ方、関係の仕方は非常に繊細なものだが、客観性をも同時に持っている。自分ひとりの感覚や幻想に閉じこもることなく、絶えず客観的な合理性にさらされる健全さを維持している。勝手に勘でよいと思った木材でも使用に耐えないということが明らかになれば、感覚の方を修正せざるを得ない。現実のパフォーマンス(結果)と感覚との間にフィードバックの回路が形成されることによって、技術や感覚は確かなものとなっていく。
『デルスー・ウザーラ』の「技としての感覚」
通常ならば見過ごしやすい微妙な違いに気づくこと。こうした気づきを支える身体感覚を、具体的な現実の体験を積み重ねることによって研ぎ澄ましていくこと。これが、上達の秘訣である。ウラジーミル・アルセーニエフ『デルスー・ウザーラ』に記録されているシベリアの猟師デルスー・ウザーラの「身体感覚の技化」は、衝撃的である。
二十世紀初頭、軍務でシベリア・ウスリー地方の探検調査にあたったアルセーニエフは、密林の中で原住民ゴリド人の猟師デルスー・ウザーラと出会い、行動を共にすることになる。アルセーニエフ一行とデルスーは、峡谷や密林を一緒にかき分け進んで行く。しかし、彼らは同じ世界を見ているわけではない。デルスーの世界の見方は注意深く、小さな差異も見逃さない。
「「わしら、すぐ、小屋、みつける」彼は川のはぎとられた木をさし示して言った。
私はすぐさま彼の言うことがわかった。というのは、この樹皮を使用しているものが近くにいるにちがいなかったからである。われわれは歩度をはやめ、十分後、猟師かニンジン採取者によって作られた、片流れの屋根の小屋を見つけた。この小屋をしらべてみて、われわれの新しい知合いはまたもや、一人の中国人が二、三日前にここをいき、この小屋で一夜をあかしたと、断言した。雨にたたかれた灰、草でつくられた一つこっきりの寝床、そこに捨てられた青い粗い綿布でつくった古い腰掛け――これらがそのことを証拠だてていた。私はこのとき、デルスーが単純な人間でないということがわかった。私の眼前にいるのは、足跡を追う猟師だった。(中略)
ある個所に、斧できりたおされた木がよこたわっていた。デルスーはそのそばへいき、しらべてみてこう言った。
「春、切った。二人のひと、はたらいた。一人、背、たかい――この人の斧、にぶい。べつの人、背、ひくい――この人の斧、よくきれる」
このおどろくべき人物には秘密というものが存在しなかった。千里眼のように、彼はここでおきたすべてのことを知っていた。」(ウラジーミル・アルセーニエフ、長谷川四郎訳『デルスー・ウザーラ』河出文庫)
人々には何の変哲もない風景でも、デルスーにとっては重要な手がかり(サイン)になる。このデルスーの「技としての感覚」によって、アルセーニエフ一行は何度も助けられる。デルスーと世界との関係は、一方向的なものではない。微妙な無数のサインによって密接につながっている。
シベリアの自然世界の中にデルスーは、いわば糸として織り込まれ一つの織物を為しているのである。これは、アルセーニエフたちの「調査」という関係の仕方とは異なる、「世界へ住み込む」関係の仕方が、デルスーにはある。デルスーの自然との関わり方もまた、広い意味でセクシュアルな関係の仕方だと言えるのではないだろうか。
合理的なアニミズム
デルスーは、自然に触れながら微妙な差異に気づき、関係をより密接なものにしていく。デルスーの「技としての身体感覚」を支えている信仰は、どんなものにも生命があると信じるアニミズムである。デルスーにとっては、シベリアの大自然の獣も水も火も、すべて等しく「ヒト(人)」である。ある時デルスーは、イノシシを撃った。デルスーの射殺したイノシシは、みたところ二歳の雌だったので、アルセーニエフは「どうして雄をうたなかったのか」と彼にきいた。
「「あれ、としよりの人」彼は牙をむきだしたイノシシのことをこう言った。「あれ、たべる、うまくない。肉、少し、くさい」デルスーがイノシシを「人」とよぶので、私はおどろいた。私はそれについて、彼にきいてみた。「あれは人と同じ」彼は断言した。「シャツがちがうだけ。だますこと、知ってる。怒ること、知ってる。なんでも、知ってる。あれは人と同じ!」私にははっきりしてきた。この原始的人間の自然観はアニミズムだったのだ。だから彼は周囲のすべてを人格化していたのだ。」(同)
デルスーが人と見なすのは、イノシシのような動物ばかりではない。焚き火の時にパチパチはじける薪を「わるいひと」と呼び、「いつも、こいつ、このように、燃える、叫んでると同じ」と人間扱いする。火は長い、また短い舌を出して燃えている。水もまた生きている人と同じである。洪水の時には、水は「吠え立てる声」を発する。
こうしたアニミズム的世界観は一見非合理的なようだが、厳しいシベリアの自然の中を現実に生き抜いていくには、合理的な力を発揮する。すべてを人と同じものとして捉え、無生物までも生きているものと感じる世界観は、世界を馴染みやすいものにしている。これによって自分の世界への住み込み方と、他のものが世界へ住み込む仕方との間に、共通の基盤を信じることができる。この確信は、周りのものを理解しようとする意欲を勇気づける。
デルスーの身体は、世界の中の一つの物ではない。あらゆる周波数の電波をキャッチできる優れたアンテナである。いわば非常に優れたチューニング力を持つラジオのようなものだ。小さなサインをかき集めて増幅していく。サインをつなぎ合わせ増幅していく技が、「生きる力」そのものである。
この場合、身体感覚と世界との間には無数の線が張られている。そうした無数の線の結び目になっている身体は、性的とも言える濃い関係の中で生きている。周囲の世界は馴《な》染《じ》み深い、しかも表情の豊かなものとして、トータルに身体とつながっている。
デルスーは虎(アンバ)とさえも対話できる。
「よし、よし、アンバ! おこるな、おこるな! ここはおまえの場所。わしら、それ、知らなかった。わしら、いま、別の場所、ゆく。タイガ(密林)に、場所、たくさんある。おこるな!」
幅広い周波数帯を受け止めるチューニング能力を持つこと。これが世界を広げ世界を彩り豊かにするカギである。受け止められる周波数帯が狭ければ、出会うものも少なくなる。質的にも限界が出てくる。感受できる周波数帯が広く、また感度がよければ、出会いの質も高く自分の世界が豊かになる。また、そこで相互の間に新しい意味が生まれるような関係が築かれやすくなる。
天才アラーキーの「関係する力」
こうした周波数帯の広さと感度の良さを併せ持つ必要のある職業として、カメラマンがある。モデルは様々である。人間の場合もあれば無生物の場合もある。そうした様々なものに対して、そのものの持つ良さを最大限引き出すような写真を撮るのが、カメラマンの仕事である。
カメラマンには、それぞれのスタイルがある。そのスタイルごとに、対象との関係との仕方も当然変わってくる。というより、関係の仕方自体がすでにスタイルである。どのようなものに対しても、あるセクシュアルな、あるいはエロチックな関係を持つことをスタイルとするカメラマンとして有名なのが、天才アラーキーこと荒木経惟だ。
荒木経惟は、被写体と「関係」を持ち、その関係を写真に映し出す。荒木にとっては、写真を撮ることは被写体とセクシュアルな関係を持つことに他ならない。それは被写体が風景の場合でもまったく変わらない。
荒木の著書『男と女の間には写真機がある』(白夜書房)には「ストリップ・ショーは写真論である」という文章が載っている。浅草駒太夫のステージを撮るにあたって熟考した上、アサヒペンタックス6×7にストロボをつけて撮ることにしたという。このカメラは他の小型カメラに比べて比較的重い。そうした重いカメラを選ぶのにも荒木の関係の作り方への構えが出ている。
「手持ちの撮影には重すぎる、そして疲れる、そういうカメラでなくては、重い聖なるストリッパーを撮るには、失礼なのである。連写なんてとんでもない、疲れて撮らなくてはいけないのである。」
カメラマンである自分が、被写体に対してどういう関係を持っているのか、あるいは持とうとしているのかを、写真の中に写し込まなくてはならない。これが荒木の信条だ。次の言葉は、自分と相手との関係の間で新しい意味が生まれることを信じている、そんな宣言だ。
「それにアサヒペンタックス6×7というカメラは、シャッター音がデカすぎる。これがいいのだ。いつシャッターを押したかが、ストリッパーに、そして観客に、判る。ストリッパーがいよいよ特出しになって、グイーッとせまってきた、ガチャーンとシャッターがおちる。さらけだした女陰という恥部を撮ったということを、ハッキリと、ストリッパーに、そして観客に判らせなければいけないのである。そのデカイシャッター音に同調してストロボが発光する。これで、ストリッパーの恥部と、自分自身の恥部とを、ハッキリと粒子のアレもなくブレもなく、そのストリッパーに、観客に、そしてシャッターを押した自分自身にさらけだすことができるのだ。こそこそ小型カメラで盗み撮りはいけない。」
アラーキーは、被写体との間にクリエイティブな関係性が成立することを信じている。そしてそのための関係作りに全力を挙げる。写真はカメラマンと被写体との関係までを写すものだと彼は言う。
「私は街中の顔を撮る時も、盗み撮りはほとんどしない。相手が撮られると気づいた時、撮られていると気づいている時でなくては、シャッターを押す気になれないのだ。撮るということは、被写体とのゲームなのである。
写真には、被写体との関係までをも写さなくてはいけないのだ。それを具体的に、説明、しなくてはいけないのだ。」
関係作りは単純に仲良くなるということではない。相手の生のスタイルの本質を見極めつつ、波長を合わせていくのである。たまたま波長があった、というのではプロとは言えない。相手のスタイルの本質をはずさずに、自分のスタイルとシンクロさせていくのは、明確なプロの技である。
こうしたアラーキーの関係の技を、ミュージシャンのビョークが証言している。アイスランド出身のビョークは、圧倒的なエナジーを感じさせるミュージシャンである。先頃は映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の主演でも話題になった。
アラーキーは初対面の状況で、ビョークをこう感じた。「この子はさ、あれだろ? ガキのエロスだろ? 赤ん坊とオンナが全部詰まってるんだな。(中略)この顔は変な時間に汚されていない。文明に犯されてない」(「ロッキング・オン」一九九六年四月号)。ビョークの生のスタイルを、瞬間的に感じとっているのである。
濃密な撮影の時間が過ぎた後、インタビュアーから「アラーキーの写真が持っている被写体との関係性や全体が絡み合うエロティックな匂い」について質問を受けたビョークは、それは体感した自分にとっては自明なことだったと言う。
「例えば、誰かと波長が合って、一緒に何かをやっていこうとしたら、それがないと何も始まらないでしょ。特に、これまで作られたことのないものを一緒に作り出そうってことになったら、なおさらそれが必要なの。で、人生ってこういうことだらけなのよ。しかも、そういうことを抜きにして人生を生きるんじゃ死んだも同然ってことにしかならないんだから。(中略)目を見張って何も見逃さないようにして、アンテナをビンビンに突き出して、気持ちを張ってないとだめなのよ。」
コンタクト(接触)が充実するためには、双方がアンテナをビンビンに突きだしていることが重要なのだ。クリエイティブな関係性が成り立つためには、個人個人が魅力的であるのはもちろん好ましい。しかし、関係によって個人の輝きは変化する。アンテナが双方から出ていれば、そこにはユニーク(唯一無二)な関係性が生まれる。
感性の振幅を大きくする勇気
ビョークのような人間でも、アンテナが引っ込んでしまっている時がある。そうしたときに、目を覚ますように気をつけているという。
「例えば、時には、自分の目を覚ましてくれるのが友達からの電話だったりすることもあるかもしれない。でもその次の日に覚醒としてやるべきことは泳ぐことかもしれない。で、そのまた次の日は徹夜で仕事をすることかもしれない。要するに、何になるのかはわからないけど、私はそういう判断は直感に任せるべきだと思ってるの。っていうのは、直感は何が自分の目を覚ましてくれるのか、よくわかってるからなのよ。それに、自分の目の覚まし方がわかれば、他人を覚醒することもできる。」
自分を目覚めさせるきっかけを、自分の直観や身体感覚を手がかりにして探し続けること。これがインスピレーションを生むコツだと言っている。「アンテナが引っ込んでて眠ってる状態だと、何をやっても全部しっちゃかめっちゃかで収拾つかないまま終わっちゃう。だから例えば一時間泳いでアンテナが突き出てくるようにする。気をつけてるのよ。」じっと待つばかりではなく、自分からきっかけを掴むのである。
何かの運動をして自分の体に刺激を与えることによって、インスピレーションを得たり、あるいは自分の調子を調えたりする。こうした工夫は、仕事をするときには多くの人が何とはなく行っていることだ。しかし、仕事に自分のスタイルを持つレベルに達するためには、ある程度自分を刺激する運動を自分なりに方法化していることも大切である。
感覚を鋭敏にし脳が覚醒するような運動は、その人の身体性や仕事の質によって異なる。次章で見るように、作家の村上春樹は、ランニングを自分の方法として技化している。ランニングという運動性は、村上春樹のスタイルにフィットしている。同じ小説を書くという作業でも、スタイルが違えば運動性も変わってくる。太宰治がランニングをしてから作品を書く習慣を持っているという場面は、想像しがたい。
かつては、硯をゆっくりと磨るという運動が、書くという作業全般にとって基本的な運動であった。それぞれの作業の質にフィットした基本的な運動というものはあるだろう。しかし最終的には、各人が選び取るスタイルに合わせて、自分の身体感覚を手がかりにして、フィットする運動を見つけ技にしていく。そうした技化のプロセスが、スタイル形成には必要となる。
何かと自分との間に、その場で新しい意味が生まれるようなクリエイティブな関係性を築くこと。上達にとっては、こうしたクリエイティブな関係性を作る技の方が、内的な資質以上に意味を持つ。というのは、内的な資質は致し方ないものだが、関係性の技は徐々に向上させていくことができるものだからだ。相手と「波長が合う」という感覚は、通常は偶然的な出来事だと思われている。しかし、この感覚もまた技化できる。
もう一度ビョークとアラーキーのシューティングセッションに話を戻せば、このクリエイティブな関係性の基礎には、スタイルを見抜く洞察力と、狭い価値観で排除しない〈積極的受動性〉の構えがある。自分の価値観の振り幅が狭ければ、自分と波長が合うものも少なくなる。極端から極端まで振り幅が非常に大きければ、多様な質のものと関係を結ぶことができる。ビョークはアラーキーの振幅の大きさをこう語っている。
「私は荒木さんとはコンタクトが取れたという手応えを感じたし、荒木さんの作品もすごく好き。そりゃあ、荒木さんの作品には裸の女の人がたくさん出てくるかもしれないけど、でも、その他のものだって全部、詰まってるんだから。でね、やるからには人生のすべてを撮るようじゃなきゃやっぱりだめよ。喜びだとか、悲しさ、愚かさ、知性などを撮るんだったら、全部いっぺんに撮らなきゃだめだし、それを荒木さんはやってるし、私はそこが好きなの。(中略)荒木さんはエモーションの振れが極端から極端まで全部入っている。だから、すごく冷酷だし、無邪気だし、幸福だし、悲しいし、死の匂いもすれば、あらゆる色を持ってるし、でも、やっぱり白黒の世界も持ってるし、全部の振幅を持ってるのよ。で、その全部をいっぺんに相手しちゃうっていうその勇気が、これがすごい!」
ビョークが言っている振幅の大きさと勇気の関係は、アラーキーの言う「自分をさらけ出す」という構えと呼応している。〈消極的受動性〉に留まるならば、自分の気に入ったものとしか関係を持つことができない。多少の痛みがあっても、それが「効く」ものならば、その刺激が深く入るように体を開いていくのが、〈積極的受動性〉の構えだ。
この構えは勇気を必要としている。しかし、これも構えである以上、一種の習慣である。反復することによって、この構え自体が「技」として身についてくる。そうなってくれば、その都度大きな勇気を必要とされるというわけではなくなる。勇気と思われているものもまた、身体論的に見れば、一つの習慣であり技である。
それほど適切でない状況においても、むやみな勇気を出すことが癖になってしまっている場合もある。あるいは、勇気を出さないことが習慣になってしまっている場合もある。「勇気を技化する」という考え方をすることによって、勇気があるかないか、もしくは勇気を出すか出さないかといった、リアリティに則さない漠然とした二極対立的思考から抜け出すことができる。
第六章 村上春樹のスタイルづくり
スタイルが存在感を生む
一流と呼ばれるレベルの人は、誰でもが自分自身を上達させるコツを持っている。また、一流の人間の仕事の仕方には、その人独自のスタイルがあることが多い。
上達向上していくことと、自分のスタイルを作り上げていくこと。この二つの課題は、レベルが高くなればなるほど絡まり合ってくる。はじめのうちは、基礎的な技術をマスターする必要がある。その上で、他に抜きんでた仕事を為すためには、自分の得意技を持ち自分らしさが発揮できる、そうしたスタイルを確立していくことが、大きな課題となる。
作家の村上春樹は、小説家として上達していくことと自分自身のスタイルを作り上げていくことを、密接に連関する課題として明確に意識している。作家にとっては文体がすなわちスタイルであるので、上達することとスタイルを作ることは、不可分の関係にあることはある意味で当然である。
村上春樹はすでに二十年以上第一線の小説家として広い支持を受けている。彼は『そうだ、村上さんに聞いてみよう』(朝日新聞社)において、こう言っている。
「文章を書くのにまったく向かないという人を別にすれば、小説を書くこと自体はむしろ簡単です。それなりの筋があって、間違ったことさえやらなければ、かなり良い小説を書くことも、けっしてむずかしくはない。いちばんむずかしいのは、ずっと小説家でありつづけることですね。最近になって、つくづくそう思います。」
二十年以上トップを走り続けるというのは、上達についての認識がなければなかなかできないことである。彼の言葉は、上達とスタイルの関係を考える上で、非常に参考になる。
村上春樹は、「二十代をずっと何も考えずに必死に働いて過ごして、なんとか生き延びてきて、二十九になって、そこでひとつの階段の踊り場みたいなところに出た」という。
「「そうだ、小説を書こう」と思って、万年筆と原稿用紙を買ってきて、仕事が終わってから、台所で毎日一時間なり二時間コツコツ書いて、それがすごくうれしいことだったのです。自分がうまく説明できないことを小説という形にするということはすごく大変で、自分の文体をつくるまでは何度も何度も書き直しましたけれど、書き終えたことで、なにかフッと肩の荷が下りるということがありました。それが結果的に、文章としてはアフォリズムというか、デタッチメントというか、それまで日本の小説で、ぼくが読んでいたものとまったく違った形のものになったということですね。
それまでの日本の小説の文体では、自分が表現したいことが表現できなかったんです。」(『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』新潮文庫)
デビュー作『風の歌を聴け』や『一九七三年のピンボール』などの初期の作品を特徴づけていたのは、乾いたドライな文体であった。日本的なべたべたした人間関係にかかずり合わない、そうしたドライな、しかし社会から逸脱しているわけでもない関係のあり方が描かれていた。ここで村上が言うデタッチメントということは、社会や他者にべたべたと関わり合わないで、離れているというスタンスを表現したものだ。これは、このころの村上のスタイルそのものでもある。
村上は、自分のスタイルを作っていく上で、周りの先行する小説家のスタイルに飽きたらずに、自分の独自のスタイルを作り上げていこうとした。まず考えたのは、これまでのいわゆる作家のスタイルとはまったく逆のことをしてみようということであった。
「まず、朝早く起きて、夜早く寝て、運動をして体力もつくる。文壇に関わらない。注文を受けて小説を書かない。そういう細かいことを自分のなかで決めて、やってきたのです」。「ほとんど何もないところに、自分の手でなんとか道を拓いて、僕なりの文学スタイル、生活スタイルを築き上げていかなくてはならなかったのだから」、必死な状況であったと言っている。
村上にとってのスタイルとは、単に小説の文体を意味するのではなく、生活のスタイルを含み込んだものである。スタイルを作っていくために、自分自身にいくつかの細かいルールを決めていく。スタイルは抽象的なものではなく、こうした具体的な細かな決めごとによって成り立っている。食べる、寝る、運動するなどの基本的な生活習慣から他人とのつきあい方や仕事の進め方、小説家としての自分にとってベストな環境を作っていくことなどが、小説家としてのスタイルの形成に関わって捉えられている。
自分のスタイルの器を大きくする
アフォリズムとデタッチメントというスタイルは、世の中に受け入れられた。村上は、一つのスタイルを作り上げ評価された。この時点でスタイル形成をやめてしまう者も多い。しかし、彼は自分のスタイルの器をより大きくしていく課題意識をもって、その後の作品に向かっていった。小説家としてやっていくためには、それだけでは足りないと感じていたのである。
具体的には、デタッチメント、アフォリズムという部分をだんだん「物語」に置き換えていった。その最初の作品が、長編『羊をめぐる冒険』であった。長編を書くということが、すでにスタイルの器を大きくすることであった。村上春樹の場合は、作品がだんだん長くなってきている。長編というスタイルにもっていかなければ、「物語」が成立しないということである。
村上がめざしたのは、スポンテイニアス(自発的、自動的)な物語であった。
「これがこうなって、こうなって、と計画的につくるというのは、ぼくにとってなんの意味もない。だからスポンテイニアスに次何が来る、次何が来る、とつくっていって、最後に結末が来る。なぜかというと、結末が来なければ小説にならないのです。
書きはじめのときに全体の見取り図があるわけではぜんぜんなくて、とにかく書くという行為の中に入り込んで行って、それで最後に結末がよく来ますね、と言われますが、ぼくはいちおうプロのもの書きだから結末は必ず来るのです。そしてある種のカタルシスがそこにあるわけです。」
こういうふうに物語をつくっていき、本がどんどんどんどん長くなってきた。そして、ファンの間でも最も人気の高い『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』まで来た。しかし、このレベルまできてもまだ村上は満足せず、技術とスタイルに磨きをかける。「それから自分がもう一段大きくなるためには、リアリズムの文体をこのあたりでしっかりと身につけなくてはならないと思って、『ノルウェイの森』を書いたんです」。
作家の分類として、短編作家と長編作家という分類がある。これもスタイルの問題である。村上春樹は「スポンテイニアスな物語」にすることを課題として持ち続けることによって、長編の物語を書くことのできる作家へと自分のスタイルを成熟させていった。
『羊をめぐる冒険』『ダンス・ダンス・ダンス』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』などを読んでいると、村上春樹ワールドとも言うべき物語世界に没入していく感覚を味わうことができる。物語が長いということが、この村上春樹への没入を助けている。一度ワールドに入ってしまえば長く楽しみたいというのが、人情というものである。そうした人々の期待に応えるべく、プロ意識のある村上は長編を書き続ける。
『ノルウェイの森』を書くにあたっての「リアリズムの文体をこのあたりでしっかりと身につけなくてはならない」という課題意識も、よりスタイルのスケールを大きくしていこうという意志の現れに他ならない。新しい技術を身につけることによって、スタイルが崩れるということもある。ここでは「リアリズムの文体」を身につけることで、スタイルをスケールアップしていく戦略的判断をしていることになる。
こうした大きく分けて二段階のスタイル形成を達成した後も、村上は何か足りないという意識を自分で持つようになる。次のスタイル形成上の課題は、コミットメントということであった。『ねじまき鳥クロニクル』は、このスタイル形成の第三段階の転換期にあたる作品となった。初期のテーマでありスタイルであった、デタッチメントとは一見対照的なコミットメントが、ここでは関わっている。
「「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹《ひ》かれた」と村上は言う。このコミットメントのあり方は、関係の様式全体の問題であり、文体の問題でもある。村上にとっては、長編の作品を書くことが自分の小説家としてのスタイルをスケールアップさせ、成熟させていくステップになっている。これは結果としてなっているということではなく、スタイル形成が意識的に目標とされているからこそ為せる技である。
小説を書くのになぜ走るのか?
今見てきたように、村上春樹は自分自身の上達向上を、スタイル形成の問題として自覚的に取り組んできた作家である。しかし、通常の作家でも自分のスタイルや文体ということについては、当然ある程度意識的である。彼の場合とりわけ興味深いのは、自分のスタイルを身体の問題と結びつけて考えている点だ。この場合の身体性とは、非常に具体的なものだ。
村上春樹は雑誌「ブルータス」(433号、一九九九年六月刊)のインタビューの中で「僕の今の文体は、走ることによって出来たと思う」と言っている。『羊をめぐる冒険』を書き終えた頃から村上春樹は、本格的にランニングを始めた。それまでは一日に六十本というヘビースモーカーであったが、それをやめると同時に走り始めた。ランニングを本格的に始めた動機は、体力の問題である。村上は、こう言っている。
「例えば一〇〇〇枚の書き下ろしの小説を一年かけて書いて、書き上げてからまた一年かけて、一〇回も一五回もがらっと頭から書き直す。でもね、一〇回も一五回も書き直すっていうのは、ほんとにすごい力がいるんだよ。途中でとことんいやになってくる。頭の中が、もう真っ白になっちゃう。それでも投げ出したらおしまいだから、なんとかやりとげる。体力と忍耐力がなかったら、とてもそんなことできないよね。」
単に小説を書くということではなく、小説を一生プロとして書き続ける。そうしたライフスタイルをつくるために、体力が必要だと言うのだ。この強い覚悟は、彼の二十代の経験と結びついている。
「とにかく僕は、小説家になったからには死ぬまで小説書いてやろうと思ってるから。もし僕が、二〇歳ちょっとですっと小説家になってたら、そこまでは考えなかったと思うな。二〇代はけっこういろいろ大変な目に遭ってきたからね。借金抱えて、肉体労働して、自分の手で飯食ってきたから、偉そうに言えば「人生がどれくらいタフなものか」というのがだいたい分かっていた。だから「せっかくこうして曲がりなりにも小説家になれたんだから、とことんやるしかないよな」と思った。(中略)
だから根性を据えて、とにかく体をびしびし鍛えてやろうと、そう決心したんだ。」
「小説を書くという知的な仕事」も長時間、長期間持続させようとすれば、体力が重要な条件になってくる。気力と体力を分けて考えることができなくなる。それが、長編という仕事のスタイルである。何をするにも体力が基礎になる。こう言ってしまえば、事は単純だ。しかし、作家の場合はそう単純には言えない。ランニングをして体を鍛えて小説を書くというスタイル自体が、小説家のスタイルの一般的イメージとはあまりにもかけ離れていた。小説を書く上において、健康的で体力があるということは、必ずしもプラスに働くとは考えられていなかったのだ。
実際、村上春樹もいろいろな人から、「ランニングなどをしていたら小説など書けなくなる」と言われたそうである。
「小説というのは、不健康なところからでてくるもんだって、耳だこになっちゃうくらい聞かされた。でもそんなの冗談じゃないと僕は思う。それとはまったく逆に、体を健康にすればするほど、自分自身の中にある不健康なものが、うまく出てくるんだと、僕は信じている。あるいは不健康な精神を抽出するためには、体は健康じゃなくちゃいけない、と。
小説というのは不健康なものじゃないかと言われれば、確かにそのとおりだと思う。不健康なものを出してこないと、つまり毒がないと小説にはならないわけじゃない? でもね、それを取り出してくるためには、体そのものは健康じゃなくちゃいけないんだよ。そうじゃないと、「毒なるもの」を支え切れないんだ。あるいは自分の中にある獣《けもの》をおびき出す、と言ってもいいかもしれない。それにはもちろん体力が必要だ。そうじゃないと、自分が獣に食べられちゃう。」
不健康なものや毒を取り出してくるためには、体そのものは健康でなくてはいけない。この考え方は極めてまっとうだ。バルザックやトルストイなどは、大量の良質の作品を残している。彼等は線の細いタイプの作家ではなく、極めて頑健で豪快な身体を基盤にして作品を書き続けていた。文豪ゲーテもまたそうである。
ゲーテは、近代のロマンティシズムの作家たちが、病的なものに過大な評価を与えることの対して、極めて批判的であった。古代の作品が素晴らしいのは、それが健康的で力強いからだと言っている。健康的で力強いからこそ、スケールの大きな悲しみも受け入れ描くことができる。もちろん、太宰治や芥川龍之介のような生き方も、一つの文学的な生のスタイルである。生のスタイルの美しさという点では、こちらの方が優っているかもしれない。しかし村上春樹は、正反対のスタイルを選択し、勝負を賭けた。
小説家のスタイルも、当然一つに限定されない。それぞれの作家が、自分の身体性と相談しながら、自分の課題との関係においてスタイルを選択し、練り上げていくことになる。結核に冒されがちな青白き文学者イメージだけに縛られたりすれば、自分のスタイル形成の幅を狭めてしまうことにもなりかねない。そうした既成の文学者イメージにとらわれず、自分の生活スタイルと文学スタイルを確立して行くところにオリジナリティが生まれる。
集中力と持続力はコインの裏表
村上春樹の場合は、具体的にランニングを生活の習慣として組み込むことによって、非常に意識的に運動を文学的営為の中に組み込んでいる。厚い本を書くには、集中力の持続が必要であり、その基礎は身体にある。
「もちろんランボーとか太宰とか芥川とか、ああいう人たちはそういう毒みたいなものを日常として全面的に抱えて生きていた。それはひとつの生き方だ。僕はそれを否定しないよ。でもね、そういうのって、長くは続かないんだ。どこかで必ず飽和点に達してしまう。それはそれで文学的にはまことに美しい生き方というべきなんだろうけど、僕は別に早死にする気も、自殺するつもりもないし、そういうタイプでもない。善くも悪くも長距離ランナーなんだからさ。」
身体は、物理的な側面を持っている。持続力、集中力といったものも、この身体の物理的側面を抜きにしては考えられない。しかし村上春樹の仕事における身体の役割は、そうした一般的な次元に留まらない。単に同じことを毎日繰り返すというだけでなく、創造的な時間を生み出すための技に関わっている。技においては、同じことの繰り返しが量的に積み重なると、ある時に質的な変化が起こる。この量質転化の現象と似たことが、小説を書くという営為の中でも起こる。
村上は、集中力と持続力というのは、コインの裏と表だと言う。どちらも鍛えれば互いを強め合う。例えば『ねじまき鳥クロニクル』は四年かけて書かれた。しかし、のべつまくなしに書かれたわけではない。
「三か月集中して書いては、ふっと抜くのね。抜いて少し時間をあけて別のことをやったりなんかして、また三か月こもる。そうじゃないととても身がもたないから。でも三か月集中するといっても、キモの部分はほんの二週間なんだ。大事なことはほとんどその二週間の中で決まっちゃう。その二週間に行き着くために、その前の二か月半をやるわけ。これって、長距離ランニングと同じなんだよね。要するに持久力。持久力が集中力を支えて、その結果キモの部分の集中が来る。」
では、この肝心カナメの「キモの部分」に入って行くためには、どんな工夫が必要なのか。そこに持続力が関わっている。
「最初の二か月半というのは、毎日毎日机の前に座って、とにかくなんでもいいから書く。乗らなくても、つらくても、楽しくても、とにかくどんどん書いていく。朝四時に起きて、だいたい昼過ぎまでずっと書く。それを続けるわけ、次の日も次の日も。そうすると、だんだん、走る時もそうだけど、ここがつぼだと思うところに来る。そうすると入っていっちゃう。でも、そこに入るためには体力がないとだめなんだ。その前の二か月半ぐらいの我慢が続かないんだよ。」(ブルータス)
二週間のキモの部分の集中にはいるために、その前の二ヶ月半ぐらいの我慢が必要であり、そのためには体力が重要なのだということである。仕事をしていて、集中に入るのが分かるときがある。それまでの時間が、そのいわば「ゴールデンタイム」に入るための助走期間であるような、そうした高い集中状態が訪れることがある。一日の中でそうしたリズムの変化が起こることもあれば、この場合のように数ヶ月単位のリズムでサイクルが起こることもある。
集中に「入るシステム」をつくる
肝心なことは、高い集中のツボが来ることを確信できているということだ。その確信によって、そこまでの仕込みの期間を耐えることができる。この集中状態へ「入る」感覚は、運動をやっている時には非常に掴みやすい感覚である。ランナーズハイと言われるものも、一定時間走り続けると苦しい状態をぬけて心地よいハイな状態に入るということである。これは他のスポーツや武道・芸道を行っていても起こる。単なる構造的なアナロジーや比喩ではなく、身体の活動が持っている、ある種普遍的な性質なのである。
こうした集中状態は、レベルの差はともかく、多くの人が経験するところである。とりわけ若いときには、こうした集中状態に入りやすい。それだけの気力・体力の支えがあるからだ。しかし一方では、こうした集中に入ること自体が、一種の技なので、そこには経験がプラスに作用する。したがって、気力・体力と経験のバランスがとれた年代が、いわゆる脂の乗り切った盛りの時期ということになる。
一生こうした高い集中状態を得ようとすれば、特別な工夫が必要となる。あるいは、自分の生来の才能に比して自分が望むものが大きければ大きいほど、こうした集中に入ることを偶然的な出来事ではなく〈技化《わざか》〉する必要性が生まれる。村上春樹は、このあたりの事情を集中に「入るシステム」として意識化している。ツボに入る感覚とそのシステムについて、村上春樹はこう表現している。
「それはちょっと言葉では説明できないな。でもね、それがないと小説ってつまらないんだよ、ほんとに。すっとあっちへ「行っちゃう」という感じなんだけど。よく賭け事をやる人で、次にどんな札が出てくるのかすっと分かっちゃう人がいるね、それに似ているかなあ。
そういうのって、プロのもの書きなら、誰だってできるんだ。例えば締め切りすぎて、もうどうしようもなくせかされて、罐詰になって、わーっと書く。そうすると「入っちゃう」んだよね。ただし、それは非常事態なわけ。そういうのは、ある程度年になるとできなくなる、と思う。」
二十代、三十代ではガムシャラにできたことが、四十代以降できにくくなる。このパワーの衰えはスポーツ選手だけの問題ではない。少数の天才は別にすれば、年をとればパワーは落ちてくる。ではどうすれば、そのパワーダウンをくい止めることができるのか。
「それで僕は天才じゃないから、そういうパワーみたいなのを、ひとつのシステムにしようと思ったわけ。二か月半なら二か月半、一生懸命こつこつこつこつやっていれば自動的に、すっと二週間のキモが来る――あるいは、すっと「入っちゃう」というシステムを自分の中に作ったわけ。そしてそういうシステムを維持するためには、フィジカルな力をつける必要がある。だから僕は、走ったりするのがそんなに苦痛にならなかったんだろうな。だって、自分にとって必要不可欠なものなんだから。」
クリエイティブ集中状態にやがては突入するという確信があれば、つらい作業もなんとか持続させることができる。この突入も自然現象ではない。突入までのプロセスを習慣化させ、技にしていくことによって、確信が生まれてくる。村上は、水汲みの比喩でこう言う。
「つまりね、自分のうちに深い深い竪《たて》穴《あな》があって、その底に大事な水の湧き出す泉があると仮定するわけ。小説を書くためには、その水を汲んでこなくちゃいけない。それで僕は深い深い竪穴を苦労して下りていって、また上がって、……延々とシジフォス的にその労働が続く。でもそれはやらなくちゃいけないことなんだ。
で、さっき言った最後の二週間のキモ、「入っちゃう」というのは、それはね、もう階段を上り下りしないでもいいっていうことなんだ。いちいち下りていかなくても、すっと体がテレポートしちゃう。浮遊状態になるというか。行こうと思えばすっと行っちゃう。でもそういうスーパーナチュラルな状態になるためには、毎日毎日せっせせっせと上り下りしないといけないんだけどね。それが条件なんだ。」
あまりにも合理的で効率性を考えた考え方だと味気なく思う人もいるかもしれない。しかし、上達し続け自分のスタイルを作り上げ、長期間仕事をしていくとなれば、こうした工夫は不可欠である。たとえシステムという言葉を使わずに、魂や志という言葉を使っていたとしても、こうした工夫をするということにおいては違いはない。しかも、こうしたシステム的な工夫をした結果生み出されてくるものは、味気ないどころかワクワクしたものになっている。
こうした集中状態は、天才的なゴルフプレイヤーのタイガー・ウッズが「ゾーン」と呼ぶものと同質であろう。村上春樹がこれを「キモ」と言うのは、おもしろい。物語の肝心カナメという意味での「肝(キモ)」の意味であろうが、そうした核心部分を書いているときの身体の実際の感覚ともつながった表現なのではないだろうか。
「肝を据える」「肝っ玉」「肝に銘ずる」などと言うときの肝の感覚は、日本人の伝統的な身体意識の中では非常に重要なものであった。腰や肚の感覚と同様に、肝という身体感覚は、集中力と持続力を双方重ね合わせた感覚であり、技であった。
「肝が据わっている」や「肝を据える」という表現を相互に用いることによって、集中力と持続力を鍛え合う言語身体文化が、伝統的に日本にはあった。村上春樹のスタイルは、もちろん伝統的な日本のスタイルとは異なるものである。しかし偶然的にせよ、こうしたキモという〈腰肚文化〉的な表現がキーワードとして用いられているのは、私にとっては興味深いことだ。ちなみに、「腹の底から思う」「肝に銘じる」「腹にしみ通る」などの表現も、村上春樹の発言の中には時折見受けられる。
自分の得意技を仕上げる
さて、上達の秘訣として自分のスタイルを形成していくことをここまで強調してきた。その最も大きな理由は、人は習慣の集積であり、そうした習慣の集積やあるいは癖といったものから逃れることはできないので、それを基盤にしてそこから自分の得意技を仕上げていくことが、最も現実的で効率がよいからである。スタイルは、身体性を基盤においた概念である。自分のやることには、自分の身体性が関わっている。したがって、やっていることは様々であっても、そこには似たような身体性がクロスして現れてくる。
自分にとって必要な課題を明確にし、その課題に対して自分の生活全体をクロスしている身体性の次元からアプローチする。これが、最も根本的なスタイル形成のやり方であり、本格的な上達の仕方である。身体性を抜きにしたところで、その領域に固有の技術だけを身につけてみても、領域が変わったり状況が変わればその技術は直接的には役に立たない。しかし、自分の身体性にまで遡って、物事のやり方を「一貫した変形(スタイル)」として捉え直し練り上げていったとすれば、その変化はクロスして他の領域のことにもよい影響を与えることになる。
自分の生来の気質や身体性は、なかなか根本的には変わるものではないが、上手に変形していくことはできる。食べ物の好みも身体性が関わる事柄だ。これも、成長するにしたがって、幅が広くなってくる。工夫次第で、感覚的に受け入れることの出来る幅を、広げていくことができる。たとえば、しめ鯖が感覚的に苦手だとすれば、最高級のしめ鯖を食べてみるところから始めるというのも、身体性の器を大きくする一つの工夫だ。
自分の生理的感覚に合わないものをすぐに拒絶してしまう態度は、一九六〇年代のカウンターカルチャーから八〇年代九〇年代のムカツク隆盛まで流行し続けている態度である。「瞬間的に沸き上がる生理的な嫌悪感」が、ムカツクの本質だと私は考えるが、こうした生理的嫌悪感を中心にした価値観の作り方は、受け入れるものの幅を狭くする。振り幅が狭いのは、「自由」とは言い難い。
生理的感覚やリズムやテンポといったものは、身体に直接響くものなので、生涯変え難いもののように思われがちである。しかし実際には、そうしたものも変形可能であり、幅を広げることのできるものだ。
耳慣れないリズムやテンポの曲を初めて聴いたときには、違和感がある。しかし、何度も繰り返し聴いているうちに、そのリズムやテンポを自分の体が受け入れるようになってくることがある。そしてそれを積極的に味わえるようになってくると、自分の体の中にそのリズムやテンポが技化して入り込んでくることになる。もちろん根本的な志向は、変化しないかもしれない。しかし、様々なものを受け入れることができ、自分の中に多様なものを住まわせることができるようになることは、より「自由」になるということである。
本を読むという行為は、幅を広げるのに適した訓練である。本は元来その著者の思考の流れにより沿い、そこに身を任せて従うことを、基本的な構えとして要求している。つまり、〈積極的受動性〉の構えが、読書の基本である。自分にとって都合の良いところだけをピックアップする読み方も、もちろん許容されるべきである。しかし読書の醍醐味は、その著者の思考の世界に入り込み、それを自分の脳で楽しむことにある。
実は、読書を通して得られるのは、思考を脳で楽しむことだけではない。文章から伝わる著者の身体感覚や文体から伝わる生のリズムやテンポといった身体性に関わる次元のことが、読者である自分の身体にも響いてくる。それは、はじめから心地よいものとして現れることもあれば、違和感を持って現れることもある。
いずれにしても、時間をかけて一冊の本につきあっているうちに、身体次元もまた影響を受ける。もちろん単なる情報を摂取するものとして、身体性を関わらせることなく読む技法も必要である。しかし本を読むという行為は、自分の身体性やスタイルの幅や器を広げていくための有益なトレーニングの一つとして見るときに、侮りがたい価値が見出される。
私は先頃、翻訳の仕事を少しやってみた。翻訳という作業は、通常の読書以上に否応なく原著者に従うことになる。そうすると、内容だけではなく、その思考のスタイルをも、一度は受け入れるということになる。それだけにあまり思い入れができない場合には、翻訳は辛い作業となる。
村上春樹は、レイモンド・カーヴァーの翻訳などで有名な翻訳家でもある。彼にとっては、翻訳をするという作業も、自分を成長させる一つの訓練になっている。「横のものを縦にすることによって、自分が変わっていくという感じがすごくあった」と言い、翻訳において自分が作家として何かを学び取るというダイナミズムがあったということである。これは日本の小説のじめじめ、べたべたした風土から自分を解き放つ一つの工夫でもあった。
村上春樹の文体は、翻訳的文体だと初期の頃とくに言われた。英語の本を読むことや翻訳をすることが、一つの文体(スタイル)形成の具体的なトレーニングになっていた。「ぼくは、生理もリズムも感覚もぜんぜん違う英語の文章を日本語に置き換えていくことで、何かを自分のなかでつくってきたような気がするのです」。この言葉には、生理やリズムや感覚といった身体が関わる変わりにくいと思われている次元に対して、積極的なアプローチを仕掛けていくやり方が、よく現れている。
すべてをクロスさせるということ
身体の次元から、自分のスタイルを練り上げていく。これは本格的なスタイル形成のやり方だ。村上春樹は、このいわば戦略を自覚化している。「走りつづけて一六回もフルマラソンを走ると文体も変わってきますか」という質問に対して、次のように答えている。
「それは変わる。体つきも違ってくるし、フォームも、そして文体も変わってくる。もちろん食生活も。何もかもが変わってくるんだ。当然だよね。
例えば呼吸法。走っていると呼吸のパターンとリズムが自然に変わってくる。息が長くなる。そうすれば文章の息も長くなる。
だいたいね、ひとりの人間が一〇年以上やっていることというのはみんな同じようなことなんだよ、走るにしても、飯食うにしても、もの書くにしても。そういうのって、全部クロスしているんだ。走る時に無駄な力を使うと息が切れるわけじゃない? それが分かれば書く時にも無駄なエネルギーは使わないようにするよね。『風の歌を聴け』の文体と『ねじまき鳥クロニクル』の文体を比べてもらえばはっきりすると思う。息が長くなっているよね。それから、伸び縮みがすごく大きくなっている。昔はパッパッパッパッと切っていた。今はもっと粘りがある。それは僕の呼吸法そのものと同じで、二〇年前と今とは全然違うんだよね。」
走ることと食べることと文章を書くこと。これらがみな「クロス」しているという考え方は、事実としてクロスしているということ以上に、そのように考えることによって上達が促されるという長所を持っている。
走ることは走ることで独立していて健康維持のみに目的が限定されれば、文章を書く際のスタイルの上達にはつながらない。走れば必ず文章の息も長くなる、という保証はない。走ることが書くことに大きな影響を与えるとすれば、その人が走ることと書くこととの間に共通の課題意識をもって臨んでいるからではないだろうか。
少なくとも走るときの課題意識や実際の変化を、書く際にも応用して感じるように習慣づけていれば、影響関係は大きくなる。ストレッチングや筋肉をきたえるときに、当該の筋肉に意識の焦点を合わせるかどうかで効果は極端に変わってくる。それと同様なことがここでも言える。「走ること」と「食べること」と「文章を書くこと」の間に、一貫した変形作用(スタイル)を感じとる。そうしたスタイルを追究する態度そのものが、こうしたクロスした影響関係を増幅させる。
もちろん、こうした影響関係は、思いこみだけの次元ではない。実際に呼吸のパターンとリズムが変わることによって、他の行動様式にその影響が現れることは、よくあることだ。呼吸はすべての行動の基底をなしている。呼吸のテンポが、行動のテンポを規定する。呼吸が浅くなれば、粘り強い思考は難しくなってくる。息が強く長くできるように鍛えられていると、思考も粘り強くなる。文章を短くすることも長くすることも自在に行いやすくなる。伸び縮みが自在にできるしなやかさが、自由ということだ。呼吸のしなやかさ・強さが、自由の基盤となっている。
呼吸が文体のリズムやテンポの基盤になっているということを、自分自身の呼吸法の鍛錬と文体の変化との関係で、ここまで明確に言っている例は珍しい。単に呼吸と文体(スタイル)が対応しているというだけでなく、運動を通じて呼吸法を体得し、それによって自分の仕事のスタイルを磨いている。こうした明確な方法論を実践している点で、村上春樹のやり方は小説を書くという行為に留まらず、広い領域に応用できるやり方である。そこには領域を越えてスタイルをつくっていくという強い意志が、上達の方法として機能しているからだ。
リズムを体に染み込ませる
走ることを習慣とする以前に書かれた『風の歌を聴け』の文体は、粘りはなくドライで短い。現在の文体が、走ることによってできた文体だとすれば、この短い文体はどこから来たのかという質問に対して、こう答えている。
「あれはきっとジャズだよね。音楽で間に合わせていたんだ。
その頃ジャズ喫茶やってたから、朝から晩まで大音量でジャズを聞いていた。4ビート、8ビート、16ビート、もうリズムが全部、体にしみついていたんだよね。それを流用して文章を書いたんだと思う。それは今でも僕の中にしみついて使ってるけどね。音楽のリズムが体の中にしみ込んでいる。(中略)
書いていて、「おお、この文体はエルヴィンだ」「これはトニー・ウィリアムズだ」とかね。これもまあフィジカルと言えば、フィジカルなんだけど。」(ブルータス)
音楽を「流用」して文章を書く。この「流用」という表現はおもしろい。音楽を聴くことと文章を書くことの間には、直接的なつながりはない。そこをつないでいるものがあるとすれば、リズムである。通常は違うカテゴリーに区別されている諸活動を、身体に染み込んだリズムがつないでいる。
ジャズを大音量で朝から晩まで聴くことによって、そのリズムが体に染み込み、いわば技化する。体のなかに染み込んだそのリズムが、文章を書くときにも自然に湧いて出るということももちろんあるだろうが、自然に出てきたリズムを増幅させていくところに、技としてのリズムの「流用」がある。
村上春樹は『ノルウェイの森』の「あとがき」で、ビートルズの『サージャント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』というアルバムを百二十回くらい繰り返して聴きながら書き続けた、と言っている。音楽を聴いて気晴らしをするというレベルではなく、その音楽のリズムをからだに染み込ませ、その染み込んだリズムを動力にして文章のスタイルをつくる。
ポイントは、一度しっかりとリズムを体に染み込ませるというところだ。仕事をやっていて乗ってくるというときがある。仕事がうまくいくときや何かのコツを掴むときは、自分の体のリズムやテンポと、その仕事に最適なリズムやテンポが合ったときである。自分の身体のリズムと仕事のリズムを重ね合わせていくところに、上達の秘訣がある。
仕事の質によって求められるリズムやテンポは異なってくる。同じ一人の小説家でも、これから書こうとする小説がどのような質のものであるか、どのようなスタイルの小説であるのかによって、体に染み込ませるのにふさわしい音楽のリズムも変わってくるだろう。ジャンルを超えた上達の普遍的な論理があるとすれば、その重要なものの一つが、この身体のリズムである。より正確に言えば、身体のリズムと仕事のリズムを合わせる技である。
東洋の伝統としての「呼吸法」
音楽にせよ走ることにせよ、反復して身体にリズムを染み込ませ、それを書くことに活かしているという点では、共通している。しかし、音楽を聴くことと走ることの間に、質的な差、レベルの違いを村上春樹は見ている。
「ただね、音楽を流用して文章を書くというのは、やっぱり限度があるよね。まず第一に、長いものを書き切るにはちょっと無理がある。『風の歌を聴け』みたいなものだったら、もうリズム一発でいけるけれども、もっと長くなると、なにか腹にしみるものが必要になってくる、自分の中から湧き出てくるものが。」
先のコメントにあったように、走ることで大きく変わったものとして、「呼吸法」を挙げている。呼吸は、自分の身体のテンポと周りの世界や仕事のテンポを、「すり合わせる」有力な方法だ。走っていると、息が強くしなやかになってくる。そして肚からの深い息が身についてくる。
普段の呼吸が変わっていくということは、身体にとっての根本的な変化、向上である。音楽を聴いてリズムを身にしみ込ませるのとは次元の違う根底的変化が、呼吸法の変化においては起こっている。「流用」では行き着けない深度にまで、呼吸法とともに掘り進んでいくのである。
リズムと呼吸法は、それぞれの生活のなかで深く結びついていて、様々な活動の基調をなしている。村上春樹は、こう言っている。
「音楽をやる人の文章って、みんなリズムがいいよね。それから、画家が書く文章って、情景がすごくきれいでしょう?(中略)
それぞれのリズムと呼吸法を持っている。だから、、文体というのはそれぞれの生活から自然に出来てくるものなんだよね。自分の生活から離れて、他人の真似をしようと思っても、真似なんかできない。(中略)
大事なのは文体の鼓動なんじゃないかと思う。英語で言うとthrob。どっきんどっきんという心臓のリズム。そこにある魔術的な律動から、読者は小説に引き寄せられていく。」
小説を読むという言語的知的な行為においても、呼吸や鼓動といった身体の基本的リズム・テンポが作用している。読み手の身体が、書き手の身体に同調したり呼応したりするのだ。身体と身体の間に起こる、こうしたリズムやテンポをめぐるコミュニケーションは、世界を共有していくにあたっての有力な道筋になる。身体が持つリズムや呼吸法は、その人のスタイルを基本的に性格づけている。私たちは自分の身体を通して、他者の身体やスタイルを味わうことができるのである。
まったく異なる性質の活動であっても、自分の身体だけは共通している。身体の基本的な特性や呼吸の仕方は、どのような諸活動にも現れてくる。単なる「呼吸」ではなく、「呼吸法」というように、呼吸を方法として捉える視座は、東洋の伝統的な方法的観点である。
身体性を共通基盤として、自分の諸活動をクロスさせて、上達の論理を生活全般で連動させる。これが技となれば、すべての活動が相乗的に作用し合い、しかも快適に過ごすことができる。もちろん仕事によっては、そう都合よく連動させることは難しいかもしれない。それでも、呼吸を軸とした身体のリズムとテンポを仕事に活かす工夫は無駄ではない。「息の長さ・強さ」は、およそどんな仕事でも必要である。呼吸法こそ諸活動を束ねる核であり、上達の秘訣中の秘訣である。
エピローグ
まず、なぜ私がこれほど上達の普遍的な論理にこだわるのかについて述べたい。それは主に、エネルギーにまつわっての課題意識である。
上達のコツを意識化して捉えられないために、上達がうまくいかずに悶々とすることがある。ムカツクやキレるといった現象も、エネルギーが余って悶々としている状態から生まれる。いわゆるエネルギー問題は、エネルギー源をどのように調達するかが主たるテーマだ。
しかし、ここで言う人間のエネルギーは、いかにそれを燃焼させるかが主な問題である。私たちは、自分たちが思っている以上にエネルギーを持っている。よほど疲れていると感じるときでさえも、好きなことならば別のエネルギー源が開かれて動けるようになる。心身がバランスよく使われるにはどうしたらよいか。これが生きていく上での最重要課題の一つだと、私は考えている。
というのは、上手に疲れることができれば、上手に眠ることができる。上手に眠ることができれば、上手く起きることができる。起きている間に上手に心身のエネルギーを燃焼させることができれば、循環はうまくいく。それが脳の一部だけが疲れ切っていたり、身体の一部だけが疲れ切るようなアンバランスな疲労の状態では、心身のエネルギーバランスが悪くなる。中途半端に残されたエネルギーは、気持ちを不安定にさせる。
「礼記」の言葉に「小人閑居して不善をなす」という言葉がある。器の小さな凡人は、暇ができるとおとなしくしているのではなく、むしろよくないことをするということだ。私はなぜか昔からこの言葉が気に入っている。自分自身を振り返っても、確かにその通りと思うことが少なくない。「君子危うきに近寄らず」という言葉以上に含蓄が深い。しかも、ユーモアのある言葉だと思う。
なぜ小人は閑居すると不善をなしてしまうのか。それは何よりも、暇になって余ったエネルギーの使い方がわからないからだ。忙しい間は、自分のエネルギーについて格別の意識を持たなくとも、エネルギーは上手く燃焼されている。それが急に暇になると、エネルギーが燃焼されずに蓄積されてくる。自分でも気がつかないうちにエネルギーがたまり、イライラしてくる。そのイライラ、悶々した心身の状態感をどのようにしたらよいかという自覚的な意識は育っていない。
そのうえ急に暇になったときは、ふと気がゆるんでしまう。暇であればおとなしくしている手もあるが、そこは小人の悲しさ、泰然自若としていることができずに動いてしまう。はっきりした目的意識があって動くわけではないので、ふとした気の弾みから動いて、結果として不善をなしてしまうことが多くなる。
何が善で何が不善かはともかくとして、この言葉の面白味は、エネルギーの燃焼は大問題であり、その燃焼の仕方には知恵がいるということだ。シンプルな話、余ったエネルギーをウォーキングによって燃焼するだけでも、心身がバランスよくすっきりと疲れることができる。現代の日本人を取り巻く身体のエネルギー環境問題は、過剰なエネルギーを活動によって燃焼させる方策にかかっている。
高齢者を主なメンバーとしたゼミを担当した私の経験から言えば、高齢者の多くはエネルギー不足に悩む以上に、エネルギー発散の機会の少なさに困っている。つまり、高齢者であっても、課題は過剰なエネルギーの燃焼なのだ。人と話すこともエネルギーの燃焼になる。
心地よい疲れの感覚。この感覚は、私たちに生きている充実感とともに安らぎを与えてくれる。妙な言い方かも知れないが、死ぬのなら、この「心地よい疲れの感覚」のうちに死にたい。エネルギーが有り余った状態で死に向かうのは、苦痛だ。かといって、虚無感のうちに死ぬのもいい気分ではない。自分の生のエネルギーを上手く出し切って、心身にじわーっとした心地よい疲労感が広がっているときならば、死に対してさえ素直な気持ちになれる気がする。
死というのはいかにもオーバーかも知れないが、死を眠りに置き換えてもいい。エネルギーを余らせたままで眠るのは苦しい。上手に疲れていれば、眠りに落ちて意識を失っていくことも自然に受け入れることができる。眠りに落ちるときに、このまま二度と目が覚めないかも知れないと思えば、入眠は恐い。死へ向かう儀式の一つともなりうる。
心安らかに眠りに落ちていく一番の好条件は、心身の心地よい疲労感だ。この疲労感を習慣化し、技化することができれば、生きる上での基本技となる。もちろん本当の死と眠りとでは相当違うものではあるが、眠るように死にたいという願望は自然なものだろう。
では、この人間の生のエネルギー問題を解決する方策はどのようなものだろうか。私は「上達」がその最善の方策の一つだと考える。単純に言って、上達は非常にエネルギーを消費させるものだ。スポーツにせよ、芸事にせよ、勉強にせよ、一定の水準へ上達していくためには、相当なエネルギーを費やす必要がある。上達がないただの繰り返しにエネルギーを費やしても疲労は得られるが、そこには十分な充実感はない。過剰なエネルギーを燃やし、充実感のある疲労に至るには、上達しようとする意識は王道となる。
私自身スポーツは好きだが、その上達にかけた時間とエネルギーは大きなものであった。最もエネルギーが過剰な高校時代には、学校が始まる前に練習し、休み時間に弁当を食い、昼食時間に練習し、放課後日が暮れるまで全体練習をし、夜中に素振りをする。そのようにして費やされたエネルギーが溜まっていたらどのようになっていたか、と考えるだけでも怖ろしくなるくらい、スポーツの上達はエネルギーを莫大に燃焼させ続けてくれた。実際、運動をばったりとやめたときには、測ったようにノイローゼ気味になった。
上達することのおもしろさは、「自分の技」を身につけることができることにある。はじめは自分とは縁のなかった技術が、練習によって、徐々に自分に馴染んできて、やがて自分自身と切り離すことができないものとなっていく。このプロセスは、自分という人間を充実させてくれる。最近は「ありのままの自分」を重んじる傾向があるが、ありのままの自分よりも、技を身につけた自分の方が重んじられてよいのではないだろうか。
どんなことにせよ、莫大なエネルギーをかけて上達を目指した体験は、自分にとって「拠り所となる体験」となる。そこで得た技術そのものをその後の生活において応用することはできないかもしれない。
テニスのバックハンドボレーの上達で得たコツを、日常の仕事に直接応用するのは想像できない。しかし、上達の論理ならば応用が可能だ。その論理を応用するコツがつかめたならば、エネルギーをかけた上達体験は、「拠り所となる上達体験」になる。他の活動をするときの勇気と自信の源になり、具体的な戦略や練習メニューを立てる際の指針となる。未知の領域に対して不必要な恐れを抱くことが少なくなる。そして、反復練習する努力を厭わなくなる。
私たちは通常でも無意識のうちに、自分がもっとも上達した体験に基づいて他の活動を類推的に把握しようとする。しかし一般的には、類推していることさえもなかなか意識化されない。ましてや明確なコンセプトで両者をつないでいくことは意外に難しい。「根性」「努力」「練習」「希望」「信念」といった言葉は、心理的にはもちろん無意味なものではないが、あまりにも漠然としていて論理の応用という次元には至らない。
この本で提示した三つの力の概念とスタイルの概念は、大きなエネルギーがつぎ込まれた活動を単なる思い出や自慢話にしておくのではなく、「拠り所となる上達体験」に変えていくものだ。提示したコンセプトの中には造語も多いが、言わんとしている内実は奇を衒ったものではない。あまりにも具体的でもなく、あまりにも抽象的でもない、ちょうど体験の論理の応用にフィットした次元の概念を意識した。
段取り力や盗む力、あるいはスタイルといった言葉を用いるだけでも、自分の中に埋蔵されている上達の体験が鉱脈として掘り起こされてくる。それが生の充実感を支えていく。これが、この本を貫き流れる願いである。
あとがき
本書のタイトルは、担当編集者の湯原さんと喫茶店で話している間に思いついたものだ。当初の仮タイトルは「上達の秘訣」だった。この仮タイトルには、これでは何の上達法かわからないという意見が数多く出された。たしかにその通りだが、まさにそれがねらいでもあった。特定の領域の上達方法ではなく、領域と領域の間を「またぎ越す」普遍性のある上達の秘訣をテーマにしようとしていた。
日本語の「できる人」や「アイツはできる」というときの「できる」は、狭い領域での能力を指すものではない。特定の事柄だけができるというのではなく、もっと広い範囲で応用の利く力を指している。
地方から出てきて大学に入ったときにインパクトを受けたのは、「どんなことにせよ自分はできるようになる」という強い確信を持った連中が多いことだった。未知の領域に対して、自分は確実にできるようになると確信して臨むのと不安を持って臨むのとでは、大きな開きが出てくる。これはやみくもな自信とばかりは言えないものであった。上達の普遍的な論理をつかまえているからこそ、新しい領域に対しても勇気を持ってチャレンジすることができる。そうしたバックボーンを「できる人」はもっていると感じた。
些細なことでもいい。そこでの上達の経験を、普遍化しつつ他の領域の上達法へと応用していけることが、「できる人」とそうでない人との違いであると考えた。ゼロの地点からハイレベルまでのビジョンが見えているといないとでは、消費されるエネルギーが全く違ってくる。
長距離を走るのでも、一度走ったことのある距離をもう一度走る場合は、精神のエネルギーの消耗がはじめて走るときよりは少なくてすむ。たとえはじめて走る道でも、目的地までの距離が算定されていれば、一〇キロをだいたいこのぐらいの感じで走ればいいという目算がたつので、精神の疲労は少ない。
「できる人」とは、こうしたキロ換算の走り方という普遍的なレベルで、さまざまな道をまたぎ越して捉えることのできる力を持っているようなものだ。ここでいう個々の道がさまざまな領域にあたり、普遍的なキロ換算が、本書では〈三つの力〉にあたる。
私はスポーツが好きだが、私にとってスポーツをすることと勉強することと仕事をすることは、基本的に同じ論理で捉えられるものであった。スポーツでの上達の経験をすべての他の活動のモデルにするというやり方でここまでやってきた。勉強の段取りを考えるのも仕事の段取りを考えるのも、スポーツをやっていたときの試合に向けての練習メニューをつくる作業と同一視してきた。たとえばテニスや空手におけるランニングや素《す》振《ぶ》りや四《し》股《こ》といったものは、学問研究では何にあたるのかと考えて当てはめる習慣が自然についていた。
成功の体験からだけではなく失敗の体験からの学びも、領域を超えて活かすようにした。スポーツにせよ勉強にせよ、ずいぶんと的外れな練習をしてきてしまった経験から、目指すべき自分のスタイルの中でその練習がどのような意味を持つのかを考えるようになっていった。
領域をまたぎ越して上達を捉えるという習慣は、プラスアルファを生み出す。それは、新しいアイディアが生まれやすいということだ。私が思うところでは、新しいように見えるアイディアの多くは、まったく別の領域のコンセプトや記述の転用・アレンジから生まれている。
自分の関わっている領域内での思考だけではどうしても行き詰まりが出る。そんなときに、別のより進んだ領域の工夫を盗み、自分の領域の文脈に持ってくるのである。もちろん別領域のものなので、移植にはある程度のアレンジが必要となる。結果としてできたものには、自分なりのアレンジも加わりオリジナリティのあるものとなる。
こうした「領域またぎ越し」ということ自体が、一つの技である。習慣化することによってうまくなっていく。とりわけ効果的だったのは、別領域であっても、自分と似た「スタイル」でやっている人たちの工夫を転用することであった。この本の中には、スポーツ選手や経営者、小説家やカメラマンといったさまざまな職業の一流の人々の工夫が出てくる。私は自分の仕事を始める前に、こうした多領域のトップランナーのエピソードを読むようにしている。そこから具体的なヒントと向上するエネルギーを自然と得ることができる。
「領域またぎ越し」ということでは、最近おもしろい出来事があった。本書でも引用させていただいた経営学の野中郁次郎先生から、大企業の部長クラスを対象としたエグゼクティブマネジメントコースの講師を依頼されたことである。野中先生とは面識はなかったが、私が別の著書で書いた「型」についての理論が、日本型経営を捉え直す際の有効な概念となるというお話であった。
型は、上達の論理を具現化したものである。型を行うことによって、自分の中に自分をチェックする基準が生まれ、自己との対話が可能となる。型は、身体知であり、暗黙知の結晶である。しかもそれが、みなに共有される財産として形になっている。こうした型をめぐって、それに関わる人たちが共通の基盤を持ち、向上する意識を共有しやすくなる。こうした型の性格が、これまで日本型経営を支えてきた長所と重なるということであった。
私は経済や経営の専門家ではもちろんないが、日本の経済の行く末には非常な関心をもっている。大きなお世話かも知れないが、この本も実は、日本あるいはアジアの経済の将来を明るくしたいという思いで書いた。
「本当に必要な力とは何か」という根本的な疑問に真正面から向かうべき時が来ている。それは仕事の領域でも学校でも同じだ。この問いを私なりに煮詰めた結果、出てきたのが、まねる(盗む)力・段取り力・コメント力という〈三つの力〉と「スタイル」というコンセプトであった。
ちくま新書での私の前著は『子どもたちはなぜキレるのか』というタイトルだ。タイトルだけ見れば本書とはまったく繋がりがないようだが、私の中ではわりとすっきりと繋がっている。というのは、人は一般的に何かに上達しているという充実感を持っているときには、むかついたりキレたりしにくい、と考えるからだ。上達へのあこがれと確信をもって生活しているときには、エネルギーはうまく循環している。鬱屈したエネルギーが爆発してしまうのが、ムカツク、キレるだとすれば、上達の普遍的な論理を技にし得た人はそこから抜け出しやすい。
人は、意味のないことを強制されるのには耐えられない。穴を掘ってまた埋めるという作業や山をスコップで移動させてそれをまた元に戻すという作業をやらされると気がおかしくなるといったことをドストエフスキーも書いている。学校での勉強があれほど嫌われるのは、そこに「意味」が足りないからではないか。その領域のみに閉じるのではなく、他の領域や仕事にどのようにつながっているかを説得できるコンセプトが必要なのではないか。領域をまたぎ越すヴィジョンを持つとき、同じ事柄でもまったく意味が変わってくる。そうしたヴィジョンにつながるコンセプトを提言したいという思いで、この本を書いた。
領域をまたぎ越すイメージを持っていただくために、過剰なほどにさまざまな領域からエピソードを拾った。『徒然草』や村上春樹などを上達論の文脈に持ってくるのは荒技かもしれないが、楽しんでいただければ幸いです。
この本を書くにあたっては、『子どもたちはなぜキレるのか』に続いて、筑摩書房の湯原法史さんに大変お世話になりました。この本は湯原さんと私の問題意識がシンクロした地点に生まれたものです。また、執筆に関わるさまざまな作業において嶋田恭子さんにお手伝いして頂きました。お二人に感謝したいと思います。ありがとうございました。
二〇〇一年六月二十日
斎藤孝(さいとう・たかし)
一九六〇年静岡生まれ。東京大学法学部卒。同大学院教育学研究科学校教育学専攻博士過程、慶応大学および立教大学講師を経て、現在、明治大学文学部助教授。教職課程で中高教員を養成。専攻は教育学、身体論。構え、技化、スタイルをキーワードに、教育・社会・文芸を対象として、身体関係論・スタイル間コミュニケーション論・授業デザイン論を展開中。著書に『宮沢賢治という身体』(宮沢賢治賞奨励賞)『教師=身体という技術』『「ムカツク」構造』(いずれも世織書房)『身体感覚を取り戻す』(NHKブックス、新潮学芸賞)『子どもたちはなぜキレるのか』(ちくま新書)などがある。
本作品は二〇〇一年七月、ちくま新書として刊行された。
「できる人」はどこがちがうか
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2002年2月22日 初版発行
著者 斎藤孝(さいとう・たかし)
発行者 菊池明郎
発行所 株式会社 筑摩書房
〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3
(C) SAITO Takashi 2002