[#表紙(表紙3.jpg)]
落語百選
麻生芳伸編
目 次
まえがき
道具屋
天災
つるつる
目黒のさんま
厩火事《うまやかじ》
寿限無《じゆげむ》
時そば
五人回し
ねずみ
やかん
山崎屋
三人無筆
真田小僧
返し馬
茶の湯
宿屋の仇討
一人酒盛
ぞろぞろ
猫怪談
野ざらし
碁どろ
干物箱
死神
粗忽の釘
子別れ
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まえがき
――「落語」とは何か?
という問いに、私は、
――それは「目黒のさんま」のようなものだ。
と答える。
昔から〈秋刀魚の味〉といえば、庶民の〈味〉の代名詞のように言われているくらい、旬《しゆん》の、もうもうと黒煙が上がり、プチップチッと脂肪《あぶら》のたぎるまる[#「まる」に傍点]焼きほど美味しいものはない。滋味のことはさておき、このばあい、食する側が、なんでもたらふく、むさぼりつく喜びを知っている……健康なものでなくては、この味覚を味わうことはできない。――ふだん、白身《しろみ》の魚や海鼠腸《このわた》を少量箸にしている……贅沢な、満ち足りた、いわゆる通人[#「通人」に傍点]たちは、論外だ。
殿様が、遠乗りの折り、口にした「秋刀魚」の〈味〉が、なににもまして旨かったのは、そのとき飢えと寒さを肌身に感じていたからで、つまり、人間が生きていくということは、こういうことなのではないか。
このような「秋刀魚」が、他方〈下司魚《げすうお》〉と蔑《さげす》まれているのも、「落語」に対するある種[#「ある種」に傍点]の評価とよく類似している。……しかし、人間が生身《なまみ》である以上、日常、いくら高尚ぶってみても、いくら格好よく振舞おうとしても、しょせん、目論見《もくろみ》どおりに運ばず、見当ちがいになったり、破綻をきたす。その基本的な諸行を、底辺のところで捉え、支えているのが、「落語」であり、「秋刀魚」であり、――庶民の〈味〉なのではないか。
その拠点《よりどころ》に立ってはじめて、そこから人生や身辺への感慨や想念がひろがって行き、そこに〈笑い〉も生まれてくる。それは、対等の位置《レベル》で、正面《まとも》に向かい合ってこそ味わえるものなのだ。……だから、「秋刀魚」に嬉々としてむさぼりついた殿様に共鳴し、ともに笑えることが、人類史上で輝かしい[#「輝かしい」に傍点]ことであることを、私は信じたい。
ついでに言えば、「落語」は庶民の娯楽であり、ほんらい〈高尚〉とか〈官学的《アカデミツク》〉な意味付けをしようとする――いわゆる「文化財」の対象とは、無縁なものである。こうしたものにあて嵌《は》めようとして無理に、「落語」を分析したり、嗜好をおしつけたりするのは、ちょうど「秋刀魚」が蒸器《むし》へかけられて脂肪《あぶら》を抜かれ、骨を抜かれ、お吸物にされるようなものではないか。殿様の〈感動〉に予備知識もなにもない、最初の、純粋な〈感動〉があったように――「落語」も、受け手はなにも考えることなく、強く感じることが大切なのだ。
考えてみれば、「落語」と「秋刀魚」はよく似ている。――型のすっきりしたところもあれば、脹《ふく》らんで脂肪《あぶら》っこいところもあり、長いのや短いのもあれば、細いのもあればまるいのもあり、愛らしいところもあれば、尖《とが》ったところもある、光ったのもあれば、とぼけたのもあり、こわいのもあれば、やわらかいのもある……というぐわいだ。――それを十人が聴けば、十人十色の聴き方、感じ方があり、老若男女のへだてなく、社会や時代の変移を超えて、つねに活々《いきいき》と、脂肪《あぶら》がのり、尽きせぬ生命を湛えている。
また、今日、他の「芸能」が舞台装置や照明を施《ほどこ》し、豪華で華やかになっている時代にあって、なお「落語」は、相も変わらず、噺家が座布団に一人坐り、扇子と手拭一本で、聴衆を対手《あいて》にしている。それは、大根おろし[#「大根おろし」に傍点]と醤油ひと垂らしで食する「秋刀魚」の安直さにも通ずる。
してみれば、「落語」と「秋刀魚」は、日本人の、庶民に滲みついた〈味〉かも知れない。殿様を気取るわけじゃないが、つい、
「落語と秋刀魚は、目黒にかぎる!」
ェェ、おあとがよろしいようで……。
[#地付き]編者
[#改ページ]
道具屋
「おっ、与太郎、来たな、さあ、こっちへ上がんな……。先刻《さつき》おふくろが来ていろいろ話をして帰《けえ》ったんだがな、おまえは、あいかわらず遊んでいるんだってなあ、いけねえな、おふくろを泣かして……」
「ははア、色男にはなりたくねえ」
「なにが色男だ」
「女を泣かせた」
「ばかなこと言ってちゃあしょうがねえな。おまえは、家でぶらぶらしているってえじゃないか?」
「いや、ぶらぶらしてない」
「そうかい」
「ここンとこ陽気がいいからね、ずゥっと昼寝をしてた」
「なにを言ってやがる。昼寝なんてものは、仕事のうちに入らねえ。なんか商売《あきない》でもする気にならなきゃあ、いけねえよ」
「おじさんの前だが、商売《あきない》なんてなあ、こりちゃった」
「生意気なことを言うな、なんかやったか?」
「商売《あきない》はずいぶんやったよ」
「えらいな」
「はァ、そばから飽きたよ」
「飽きちゃあいけねえ、なにをやった?」
「うん、こないだ盆の草市に出てね」
「おお、そいつは感心だ。あれは際物《きわもの》でいいものだ、儲《もう》かったろう?」
「ところがちっとも儲からねえ」
「どうして?」
「前の日は外へ売りに出たんで」
「なにを?」
「それあの……臭い匂いのする屁《へ》じゃない、お、おなら、おなら」
「あははは、おならじゃない、苧殻《おがら》だ」
「へえ、そのおならで……」
「まだ言ってる、苧殻なら売れるはずだが、なんと言って売ったんだ」
「ェェ、おならはいりませんか。おならおならって……。そうしたらおなら[#「おなら」に傍点]ならこっちに匂いのいいやつの持ちあわせがあるって」
「あっははは、どうも困ったものだ、それでもいくらか売れたかい?」
「ちっとも売れないで、殴られた」
「殴られた? どうして?」
「なんでも商売《あきない》は安くしなけりゃあいけねえってえから、呼ばれた家でほかの人は一束二分だけれども、あたしは二束二分で売ってあげますと言ったら、そこの人が今年は子供の新盆《あらぼん》で初めて焚《た》くんだから、そんなにいらないと言うから、そんなら来年また新盆があったときにお焚きなさい、と言ったらぽかりと殴られた」
「うふっ、そりゃあ殴られらァ、そんなこと言って買い手があるもんか、それからどうした?」
「しかたがないからお迎《むか》い屋になったんで」
「だいぶ集まったかい?」
「ちっとも集まらない」
「まるっきり集まらないわけはないだろう? 十六日に歩いたのかい?」
「いいえ、十四日に」
「十四日? 冗談じゃない。十四、十五日が肝心の日だ、だれが十四日に捨てるやつがあるもんか」
「それでもなんでも商売《あきない》はすばしっこくしなけりゃいけないってえから……」
「いくら早いがいいったって、あまり早過ぎる、しょうのない男だ。まあ、おめえは、器量以上のことをやろうとおもうからやりそくなうんだ。ま、呼んだのはほかじゃあねえけども、おじさんの商売をおまえに譲ってやろうとおもってなァ」
「おじさんの商売? おじさんは家主《おおや》じゃァねえか。じゃ、あの家作をあたいがみんなもらって、晦日晦日《みそかみそか》の店賃《たなちん》はあたいのものになる」
「おい、欲ばったことを言うな。それはおじさんの表看板だ、おじさんが世間に内緒でやってる商売があって、権利もなにもそっくり持ってる。それをおまえに譲ろうてんだ」
「世間に内緒で? あァ……あれ[#「あれ」に傍点]か」
「なんだ、あれ[#「あれ」に傍点]かってえなあ、知ってんのか?」
「ええへえ……知ってます」
「そうかなァ、近所の方もあんまり知らないだろうとおもってやってるが」
「それが大きな間違《まちげ》えだ、だれも知らねえなんとおもってると、ちゃんとあたしが知ってらァ……や、悪《わり》いことはできねえもんだ」
「おい、変なことを言うなよ、なんだかおじさんが悪いことでもしてるようじゃあねえか、ほんとに知ってんのか」
「ええ、おじさんの商売、頭にど[#「ど」に傍点]の字がつくだろう?」
「……うん、そりゃまァ、ど[#「ど」に傍点]の字もつくさ」
「ほォら、はは、どうも目つきがよくねえとおもった……泥棒だろう、泥棒ッ」
「……こんなばかァねえなァ、だれが泥棒なんぞやるんだい。おじさんの商売は道具屋だ」
「あ、道具屋かァ……やっぱりど[#「ど」に傍点]の字がつかい」
「ついたって、たいへんなちがいじゃあねえか、おめえまたばかだから世間へ行って、そんなことをしゃべらねえだろうなァ、うちのおじさん泥棒だなんて」
「ェェ少し」
「いや少しでもいけねえ、ばか、知らねえ人ァほんとうにすらあ」
「知ってる人ァまたかとおもわ」
「この野郎、大神楽《だいかぐら》の後見みてえなことを言ってんな。どうだ、その道具屋だが、やってみるか」
「儲かるかい?」
「いや、儲かるてえほどの仕事じゃあねえなァ、道具屋たって、ピンからキリまであるがなァ、おじさんのァまあ、がらくたもんでなァ、道具屋の符牒《ふちよう》で、ゴミなんてえことをいうが、ま、道具|市《いち》なんてのへ行って、ひと山いくら、山積みになってるものを買ってくる。まァそれをいろいろ選《よ》りわけるんだがな、なかなか目が利かねえといいものが買えねえが、どうだおめえ目が利くか」
「え?」
「目が利くかよ」
「ああ、目は利くよ」
「そうか」
「ああ、おじさんのうしろに猫があくびをしてるのなんぞよく見えら」
「これが見えなきゃ盲目《めくら》だ。そうじゃねえ、早え話が、ここにあるこの鉄瓶だ、これがおめえにふめるか」
「……踏めるよ」
「えれえな、ふめたらふんでみろ」
「踏んでもいいのか?」
「ふんでごらん」
「お湯がちんちん煮立ってっじゃねえか」
「煮立ってたっていいじゃねえか」
「ふんづけりゃ、火傷《やけど》すら」
「あんなこと言ってやがら……足で踏むんじゃねえ、目でふむんだ」
「あッ……? 目玉で?」
「わからねえ野郎だな、ちょいと値ぶみがわかるかと言ったんだ」
「なんだ、そうか。おじさんの家でも出るのかい?」
「なにが?」
「いえ、あたいの家でも天井裏でガタガタ騒ぐとすぐにわからあ」
「それは鼠だ、そうじゃねえ。この品物はいくらだか値がつけられるかてんだよ」
「なんだ、それならそうと、早く言うがいいじゃねえか」
「わかるか?」
「わかりゃしねえや」
「なんだ、威張ってやがら、ま、そのうちにおめえを市ィ連れてくよ、でまァ、だんだん目が利くようになる。目が利くようになったら、屑屋でもやってみろ、資本《もとで》はおじさんが出してやってもいいから……、おめえのうしろにその、行李《こうり》があンだろ、その行李をこっちィ持ってこい、そんなかに入《へえ》ってんのァ、いまいうゴミでなァ、品物ァ見たほうが早《はえ》えから開《あ》けてみろ、開けて」
「うん……あはは、なるほどこりゃゴミだ、ゴミゴミしてやがら、いろんなものが入《へえ》ってやんなあ、お雛《ひな》さま……あァ、こりゃ首が抜けちゃった」
「おいおい、首を持って引っぱっちゃあいけねえ、そりゃもう、膠《にかわ》がゆるんじゃってんだからなァ、下へ手を当てがって、やんわり出せ。そりゃ五人|囃子《ばやし》だ、一つッかねえんだけどもな、塗りが古いんでな、ああ、そんなものをまた集めてる人に売れらあ」
「やァあ、このお雛さま梅毒だな、こりゃ、鼻が落ッこっちゃった」
「なにを言ってんだ、そりゃ鼠がかじったんだよ」
「ああ、鼠がかじった? なにかい、おじさん、鼠はお雛さまが好きなのかなァ」
「変なことを聞くない、ま、なんでもかじってしょうがねえや」
「じゃおじさん、あの、そんなに鼠がいんなら、鼠の取り方教えてやろうか?」
「うゥん? ま、ともかくな鼠が多くてな、国に盗賊、家に鼠のたとえでなァ、……どうしようってんだ、猫いらずでも用いようってえのか」
「いや、あたしのァ、猫いらずなんか使わない、猫いらずいらず」
「ややっこしいことを言うなあ、どうするんだ」
「ああ、あんまり大きな声じゃあ教えられない」
「どうして?」
「鼠が聞いてるから」
「なにを言ってやがる」
「家に山葵《わさび》おろしがあるだろう」
「ああ」
「あの山葵おろしのあたり金のとこへ、めし粒をねりつけてね、でこう、鼠の出そうな穴に立てかけておけばそれでおしまい」
「なんだ、まじないか?」
「まじないじゃァねえやい。夜中になると鼠が餌ァ捜しに出てくるよ、すると、おやおや、今夜は台所のお鉢まで行かなくても、ここにめし粒がある。こいつはありがたいと、かじるでしょう、土台が山葵おろしだから、かじってるうちに鼠がだんだんおろされちゃって、あしたの朝、尻《し》っぽしか残っていねえっていうことにならあ。これすなわち猫いらずいらず」
「この野郎は長生きをすンなァ、おまえの考えは、それくらいのもんだ。そんなばかなまねができるか」
「あれっ、おじさん、真っ赤になった鋸《のこぎり》があるぜ」
「ああ、そりゃおれが火事場で拾ったんだ」
「ひでえものを売るんだな、こりゃ火事|鋸《のこ》だな……これは歯が欠けてんねえ、虫歯だ」
「くだらないことを言ってねえで、そんなものはいくらでもいいから、売れたら売っちまえ」
「あれっ、ここに股引《ももひき》があるよ」
「ああ、そりゃひょろびり[#「ひょろびり」に傍点]だ」
「なんだい、ひょろびり[#「ひょろびり」に傍点]ってのァ」
「穿《は》いてひょろっ[#「ひょろっ」に傍点]とよろけると、びりっ[#「びりっ」に傍点]と破けちまうから、ひょろびり[#「ひょろびり」に傍点]だ」
「はっは、おもしろい仕掛けになってやンなァ」
「そんなものはどうでもいいから、もとどおり片づけておきな」
「へえー、この長い巻|煎餅《せんべい》の親分みたいなものはなんで?」
「それは掛物だ」
「……化物?」
「化物じゃない、掛物といって絵や字がなかに書いてあるんだ」
「へえ、じゃあ辻占《つじうら》で」
「辻占じゃない」
「へえー、どれ見てみようかなァ、ええ?……やァあ、おもしれえ絵だなァこらァ、鯔《ぼら》が素麺《そうめん》食ってるところの絵だな」
「そんな絵があるかい。……そりゃ鯉の滝のぼりだ」
「鯉の滝のぼりか、なんだ、大きな魚が口ィあいて上ェ見て、上から細い白いものがすーっとぶらさがって、へッ、鯔が素麺食ってンのかとおもっちゃったなァ。鯉の滝のぼり……おじさん、鯉なんてえと滝ィ登ンのかねえ」
「ああ、出世魚つって威勢のいい魚だなァ、落ちてくる滝を登ってくわあ」
「それじゃ、おじさん、大きな桶に水いっぱい汲んで、橋の上からすーっとあけて、滝だ滝だってどなると、鯉がだまされて、すゥっと上がってきて、そこンとこを頭を押えちまやァ、鯉が取れるなァ」
「ふざけちゃいけねえ。いいか、ここに元帳があるからなァ、これにはみんな細《こま》かく書いてあるからな、で、仮に、元値が五文としてあるものがあったら、倍の十文ぐらいのことを言いな。向こうで言い値で買いっこねえんだから、いくらかまけろという。二文、三文引いても、そこへ二、三文の儲けは出る、儲けはおまえにやるんだから、元はこっちへ入れとくれよ、でまァ、儲かったらなァ、腹がへったら儲けでなにを買って食っても構わねえ」
「ああそうか……これが元帳か。へえェ、ここに十文としてあるものが、一両に売れりゃあ……」
「そんなに高く売れるもんか」
「でも、売れればさァ、十文だけおじさんにやって、あとはみんなあたいがもらえるんだ」
「まァそいった勘定だなァ」
「あは、ありがてえなァ、じゃ、うんと儲けよう」
「うんと儲けようなんとおもうと、やりそくなうから、ものには程度があるんだぞ」
「ああァ、じゃァこの道具はそっくり……」
「みんな貸してやるよ」
「夜、行くんだな」
「夜店じゃあない、昼店だ、天道《てんと》干し、まァ日なたぼっこしてるうちに売れるてえやつだ。店を出す場所はなァ、蔵前通りの相模屋という質屋のわきが、ずーっと練塀になっている、その前へいろんな店が出ているからな、おじさんのところから代わりに来たてえば、だれでも知ってらあ、すぐに店の出し方ぐらい教えてくれるから、いまから出かけろ、え? おふくろにゃあ、おれからよゥく話をしとくからなァ、いいか、しっかりやってこいよ」
「へい、じゃあ行ってきます」
「あっ、ここだ、ここだ。大勢出てやがんな。おゥい、道具屋」
「へい、いらっしゃい。なにか差しあげますか?」
「差しあげる? そんなに力があるのか? じゃそのわきにある石を差しあげてみろい」
「からかっちゃいけねえ。なにか買ってくれるのかい?」
「えェえ、欲ばんじゃねえ、おれだって道具屋だ」
「ああ、間仲《まなか》か」
「まんなかじゃねえ、はじめてだから端《はし》の方を歩いてきたんだ」
「なにを言ってんだ、仲間かてんだ、どっから来たんだ?」
「あの、鳥越《とりこえ》のね、佐兵衛ンとこから来たんだ、あたいは甥《おい》なんだ、名前は与太郎さん」
「なんだ、てめえのほうへさんをつけて……ああ、家主ンところから。話ァ聞いてたよ、あたしも年齢《とし》だからもうこんな商売《あきない》はながくはできねえから、うちの甥におめでたい甥……あッ……甥がいるからやらせるってねェ」
「へえ、それなんですよ」
「なんだい?」
「そのおめでたい甥ってのァあたしだ」
「あれ、知ってんのかい? 出場所はこの隣だがねェ」
「うん、なんだここァ濡れてて汚《きたね》えや」
「あ、そこに箒《ほうき》があるだろ? その箒でそっちィ掃いときなよ、一服しているうちにゃあ乾いちまうから」
「あ、そうか、はン、この箒で掃きゃァいい……ほォらきたい、ほォら……」
「おいおいおい、なにをしてやがる。そっちィ掃くんだ、そっちへ、見ろ、こっちへ掃いて泥水が跳ねかるじゃあねえか」
「でも一服してるうちにゃあ乾くよ」
「ひどいことを言うな、こっちのへならって薄べりを敷きなよ。大きいものは前通りに置いて、細かいもの、それから金目のものは、身のまわりの手元へ置くようにしろ。本なんぞ前へ出すな、読んで行っちまうやつがあるからな、立てかかるものァこの塀のとこィ立てかけな、ああ。ここに忍び返しが出ているから、ぶるさがるものはぶるさげておきゃあ店が広く見える。叩《はた》きを持ってきたか? ああ、それで叩いてなァ、しょっちゅう小ぎれいにしておかなくちゃいけねえ。あんまりいいものは持って来ねえな、みんなゴミだな」
「えェえ、そうです。ゴミです、ゴミゴミ……おまえさんのほうもがらくただねえ」
「大きな声すンねえ、聞こえるじゃあねえか」
「あはは、そうですか、へえ。これで商売ンなんのかなァ、こんなこッてなァ。おじさんは儲けはこっちィくれるってえから、儲かったらなんかうまいもんでも食おうかなァ。前へ屋台が出てら、あァてんぷらだ、へえェ、あの野郎てんぷらで一杯《いつぺえ》飲んでやンな、おれもあそこへ行ってなんだなァ、てんぷら食いてえなァ、あァ、またはさんだ、よくはさむな、大きいのよってやン、ばかだなあいつァ、衣《ころも》の大きいの知らねえな、ほんとうに……衣だいッ、それァッ。あッ、落としやがった、あれっ、犬が来て食ってやがる、犬になりてえなァ、こっちゃァなァ、早く行ってあそこィ行ってなんか食べよう、だれか買わなきゃァだめだもんなァ、ええ? あんまり人も通らねえようだがなァ。おうッ、おうい、ちょいとちょいと、あァたあァた、なんかお買いなさーい」
「呼んじゃいけねえ、みっともねえ……なんだ、あの人は馬に乗ってンじゃあねえか」
「……馬じゃだめだなァ。やっぱり歩いてなきゃァ具合《ぐえ》えが悪いやなァ、店開きだから景気をつけようかなァ、これ景気が肝心だからなァ、さァいらっしゃいさァいらっしゃい、ただいま出し立ての道具屋でござい、ェェ道具屋のあったかいの、寄ってらっしゃい道具屋、召しあがってらっしゃい道具屋」
「なんだ変な道具屋が出やがったなァ、道具屋ァ」
「へい、いらっしゃいまし、お二階へご案内」
「つまらねえ世辞言うねえ、どこへ上がるんだい」
「うしろの屋根へお上がんなさい」
「烏《からす》じゃあねえやな」
「そこへお掛けなさいまし」
「お掛けなさい? 掛けるとこもねえようだなァ」
「じゃまァ、そこへおしゃがみなさい」
「なにを言ってやがる。……その閻魔《えんま》見せろ」
「へえ?」
「閻魔」
「お閻魔さまですか? じゃ新宿の太宗寺《たいそうじ》へいらっしゃい」
「なにを言ってやがる。その釘《くぎ》抜きだよ」
「あッはは、これか……えへへ、これなんだって閻魔てんです?」
「よく絵空事にあんだろ、よくお閻魔さまがこれで舌ァ抜いてるとこの絵があるだろう」
「あァあァ、それであァた舌ァ抜くんですか?」
「抜きゃあしねえ、ばか……これ、がたがただこれ、使いみちにならねえ……その鋸《のこ》見せろ」
「へ?」
「鋸《のこ》」
「数の子?」
「鋸だよ」
「竹の子?」
「しっかりしろよ、道具屋へそんなものを買いにくるけえ、そこにある鋸《のこ》だ」
「へえへえ(と見まわし)、ェェのこ[#「のこ」に傍点]にある?」
「つまらねえ洒落を言うない、のこぎり[#「のこぎり」に傍点]だよ」
「なーんだ、のこぎりか。それならそうと言えばいいのに、のこ[#「のこ」に傍点]だなんて、あなた、ぎり[#「ぎり」に傍点](義理)を欠いちゃいけねえ」
「なにを言ってやがる。こっちィ貸してみろい……なんだ、こりゃどうも……甘そうだなァ」
「いえ、甘いか辛いか、まだなめてみませんが、なんなら少しなめてごらんなさい」
「鋸《のこぎり》をなめるやつがあるもんか。こりゃ腰が抜けてやがら」
「中気になったかな」
「おめえは言うことァおかしいなァ、こいつは焼きがなまくら[#「なまくら」に傍点]だな」
「鎌倉ですか?」
「焼きがなま[#「なま」に傍点]だよ」
「焼きがなま? そんなことはありません。なにしろおじさんが火事場で拾ってきたんだから、こんがり焼けてまさァ」
「ひでえものを売るねえ、ばかっ」
「あっはっは、あの客怒って行っちゃった」
「おいおい与太郎さん、だめだよ、なんだってそんなばかなことを言うんだよ。火事場で拾ったなんて言うやつがあるかい。隣にいるおれの品物まで安っぽく見えるじゃねえか。あれは大工さんだから、棟梁《とうりよう》とかなんとか言っておだてといて、こんな赤ですが、柄《え》をすげかえりゃあ結構竹ぐらいは切れますてなことを言って売りつけちまうんだ。うまく向こうの懐中《ふところ》へ飛びこまなくちゃいけねえ」
「懐中へ? 蚤《のみ》みたいなもんだ」
「うまく向こう脛《ずね》へくらいつくんだよ」
「向こう脛? 歯が悪《わり》んですけども」
「ほんとうに食いつくんじゃあねえやな。いまのァつまらねえ小便《しようべん》されたじゃねえか」
「え?」
「小便」
「小便? どこへ?……」
「捜すやつがあるかい、道具屋の符牒だよ、買わずに行っちまうやつを小便てんだ」
「買ってくのが大便」
「汚《きたね》えことを言うんじゃあねえ、だめだ、お客さまを逃がしちゃ、腕が悪いよ」
「そうですか? じゃ今度はお客さまが来たら、逃げないようにふン縛ろうか」
「ふン縛るやつがあるかい」
「はいごめんよ」
「いらっしゃい」
「なにか珍なものはないかなァ」
「ええ?」
「珍なものはないか」
「うえ、ちん[#「ちん」に傍点]ねえ……狆《ちん》はいないんですけども、向こうの屋根ェ猫が歩いてます」
「なにを言ってんだい、なんかこの珍物はないかなァ」
「あ、見物においでになったんで」
「わからねえ男だ、めずらしいものがないか、おまえのわきにあるその唐詩選を見せろ」
「十四銭《とうよんせん》、そんな安いものはありません」
「そうじゃない、唐詩選、詩の本があるだろう、おまえのわきにある本だ」
「え? あ、この本か、こりゃあァた読めません」
「失礼なことを言うな、そのぐらいの本は読むよ」
「いえ、読めません」
「読むよ」
「読めません、表紙ばかりだから」
「なんだ、そりゃ表紙ばかりか、そりゃ読めねえや、それを、早く言いなよ、……うしろに真鍮《しんちゆう》の燭台があるなァ、三本足の、それこっちィ取って見せろ」
「ええ、これ一本欠けちゃったから、二本足です」
「二本じゃ立たねえだろ」
「立たねんですよ。しょうがねえから、うしろの塀へ寄りかかって立ってるン」
「買ってっても役をしないな」
「そんなことァありませんよ。お買いになるんならこの家と相談してねェ、その練塀といっしょに買って行きなさい」
「ばかなこと言うな、そんなものが座敷へ持ちこめるかい、なんだおめえは碌なものは持ってこねえ、ええ? ゴミをはたきに来たってえやつだな」
「符牒を知ってんですね、はたきに来たんじゃァねえ、売りに来たんだい」
「おまえ素人《とうしろう》だな」
「いえ、与太郎だい」
「名前を聞いちゃいねえ、その、なんだ、うぶげや[#「うぶげや」に傍点]見せろ」
「え?」
「うぶげや」
「なんです?」
「その毛抜きだよ」
「あァあァ……これ……」
「そりゃ釘抜きだ、おめえ。こっちの小さいの」
「あァあァ、この孫のほう、へえ、へえ、……」
「……なんだ、赤ッちゃびになって、少しはこうな、手入れをしとかなきゃしょうがねえ、見ろ、赤くなっちゃって、これァ食うかなァ」
「え?」
「食うか?」
「まだ食わねんですよ、おじさんは儲かったら食べてもいいってんですがね」
「いや、おまえじゃあねんだ、毛抜きが食うかてんだ」
「あァ、毛抜きがお腹へってますかなァ」
「言うことァおかしいなァ、うん? (顎《あご》の髭《ひげ》を抜いてみて)うんうん、……よく食うよこりゃ、おい、その鏡があンなァ、鏡をおめえ膝ンとこへこう立てかけて、こっちの顔の映るように立てかけてみろ、……ああそれでいいそれでいい、うん……なんだ、汚《きたね》え鏡だなァ」
「いえ、鏡はきれいなんですよ。おまえさんの顔が映るから汚く……」
「ばかなことを言うない、ええ? この鼻の下はな、痛《いて》んだけどもな、この顎《あご》のわきンところはまたなァ、鬼ッ毛なんてこう探りながら抜くのァなァ、たのしみなもんだぜ、雨の降った日なんぞ、家の縁側でこやって髭ェ抜くなんてたのしみだ……(と、顎をなで毛抜きで髭を抜く)」
「へえへえ、雨の降った日に、家の縁側で髭ェ抜いてるようじゃァもう銭ァありませんやねェ」
「なにを言ってやんで、余計なことを言うな……うん、こりゃいいや(ふッと毛を吹いて、毛抜きの先を払い)こりゃ、よく食うぜ、はあァん?……おめえは、あんまり見かけねえ顔だな」
「ええ、今日がはじめてなんです。おじさんの代わりに来たんです」
「そうか、道理で見かけねえとおもった(ふッと吹く)よくこの、薬湯の帰りにここを通るんでなァ、ここらァ道具屋でもなんでもみんな顔|馴染《なじ》みだ、そうかい見かけねえとおもったら今日がはじめてか、ふうん? どッから出てくる」
「鳥越なんです」
「ほう、出端《では》がいいやなァ、そうかい鳥越か、ふうん? 年齢《とし》はいくつなんだい」
「三十六なんです」
「三十六? 見たところ若《わけ》えなァ、二十代《はたちだい》にしか(ふッと吹く)見えねえやなァ、そうかい、女房ッ子はあンのかい?」
「いえ、まだ独《ひと》り者《もん》なんです」
「そりゃいけねえなァ、その年齢《とし》で独りじゃァなァ、おれァまた世話好きだからなァ、いいのがあったら、なんだぜ、世話してやるぜ」
「ええ、ひとつお願いします」
「姑《しゆうと》、小姑《こじゆうと》の折りあいの悪《わり》いなんてのは困るがなァ、それでなにかい、両親は達者かい?」
「いえ、おやじはずっと以前に死んじゃったんです」
「おう、そりゃ気の毒だ、寺はどこだ?」
「田圃《たんぼ》の興立寺《こうりゆうじ》だったんです」
「ああそうかい、あそこは土ァ柔けえからなァ、穴掘りゃあ楽だぜ、ほうかい、お菓子の切手なんぞいくらぐらいのを出した……(と、今度は顎の左へ移る)」
「お菓子の切手出さなかった、お煎餅《せんべい》の袋で間にあわしちゃった」
「おう、そりゃまた安直《あんちよく》だったなァ、そうかお煎餅の袋……いや(ふッと吹く)お菓子の切手もなァ、もらってもどうも困るときがあらァ、遠いとこまでわざわざ買いに行くなんてえのァなァ、そうかい……おめえあんまり見かけねえじゃあねえか」
「へえへえ、ですから今日がはじめてなんです」
「おう、道理で見かけねえとおもった、ふうん? どっから出てくるんだ(今度は右のそっぽ)」
「ですから鳥越です」
「そりゃ出端がいいやなァ、そうかい、年齢《とし》はいくつなんだ?」
「ですからねェ、三十六なんです」
「ほう、見たところ若《わけ》え、二十代だなァ、あんまり若く見られるようじゃあ利口じゃあねえてえがなァ、そうかい、女房子はあンのかい?」
「ですからまだ独り者なんです」
「そりゃいけねえや、おれァまた世話好きだからなァ、いいのがあったら世話ァしてやろうじゃあねえかなァ」
「へえへえ、ひとつお願いします」
「あァあァ、のり出しちゃいけねえ、鏡が倒れちゃう、え? よろこんで動いちゃあいけねえ、そうかい、姑小姑の折りあいの悪いなんてのァ困るが、なにかい、両親は達者かい?」
「おやじはずっと以前に死んじゃったんです」
「そうかい、そりゃ気の毒だ、寺ァどこだい?」
「ですからねェ、田圃の興立寺だったんです」
「おうおう、あそこは土ァ柔けえからなァ、穴掘りゃあ楽だぜ、そうかい」
「あァた穴掘りだったんですか?」
「そうじゃあねえ……うゥン、そうか、なァ、お菓子の切手なんぞ、どのくれえのを出した?」
「ですからねェ、お煎餅の袋で間にあわしたんで……」
「そりゃ安直だった、お煎餅の袋か、ふうん?……おめえ、あんまり見かけねえじゃあねえか」
「もの覚えの悪《わり》い人だなァこの人ァ、……ですからねェ、今日がはじめてなんです」
「おォう、道理で見かけねえとおもった、どっから出てくる?」
「鳥越ェー」
「おう、そりゃ出端がいいや、年齢《とし》はいくつだ?」
「うるせえなァどうも……三十六なんで」
「(しゃあしゃあと、髭を抜きながら)あァ見たところ若え、二十代だ、なァ、ほうかい、女房子はあるかい」
「ですからまだないんです」
「あァそりゃいけねえなァ、おれァ世話好きだからなァ、いいのがあったらひとつ世話ァして……」
「へえ、ですからお願いします」
「姑、小姑の折りあいの悪いなんてのァ困るがなァ、両親は達者か?」
「ですからねェ、おやじはもうずゥッと以前に死にました。ええ、寺は田圃の興立寺、あそこは土が柔かいから穴掘りは楽です、お菓子の切手出さなかったの。お煎餅の袋で間にあわせました」
「おうそうかい、そりゃあ安直だった……どうだ? きれいになったろ」
「まだここンとこィ白いのが二本残ってます」
「そうか、じゃ目のいいとこで、ちょいと抜いてくれ」
「へえへえ……動くと挟みますからねェ(ちょい、ちょいと抜く)へい、抜きました」
「あァは、そうか、じゃ鏡は片づけてな、あァ、さっぱりしたな、じゃまた、伸びたじぶんに来《き》よう、はい、ごめん……」
「……畜生、なんだいありゃあ、なげえ小便《しようべん》をして行きやがったなァどうも、毛抜き小便だよありゃあ、こりゃおどろいた、毛だらけにして行きやがる。冗談じゃァねえやほんとうに、あんなものに小便されて……、こんだ頭から断わろう」
「おい、道具屋」
「へい」
「そこにあるその股引《たこ》見せねえか」
「へ?」
「たこ」
「茹《ゆで》だこ?」
「なにを言ってやンでえ、股引《ももひき》だよ」
「あァあァ、これですか、これねェ(と、広げてぶらさげる)」
「ちょいとこっちィ見せ……」
「あァちょっと待ってください。あァたねェ、断わっときますがねェ、小便はだめですからねェ」
「なに?」
「小便はできませんよ」
「小便はできねえ? だっておめえ割れてるじゃァねえか」
「いえ、割れてたってなんだって、小便だめですから」
「そうかい、おれァ俥《くるま》屋だが、いちいち小便するのになァ、股引を取ってたんじゃあしゃァねえやな、じゃ、ま、よかったよ」
「おうい、おうい……ちがうちがう、小便がちがう……まずいとこで断わっちゃったなァこりゃ、うっかり断われねえやこりゃ、冗談じゃあねえやほんとうになァ」
「おい、道具屋」
「へい」
「そこにあるところのその短刀《たんと》を見せんか?」
「え?」
「短刀」
「いえ、たんとにもなにも、これだけしかありません」
「そうでない、その白鞘《しらざや》の短《みじけ》え刀があるだろう、なァ? おまえのそっちの膝の前《みえ》に」
「……あッははは、はい……」
「これはなにかえ、在銘《ざいめい》か?」
「へ?」
「銘があるか?」
「姪《めい》はありません、神田に伯母さんがいます」
「おまえの親類を聞いておらん、刀に銘があるか、ええ? こういうとこにはまた、よく掘出物《ほりだしもん》のあるもんだけどもなァ、(抜こうとして)なんだ、銹《さ》びッついてて抜けんなァこれァ」
「そりゃちょいとぐらい引っぱったってだめですよ」
「そうか、じゃァ手伝ってそっちを引っぱってみろ」
「そうですか? 引っぱったってしょうがねえんだがなァこりゃ(と、刀を握って)そうらッ……」
「おいおい、おまえだけではいかん、いっしょに、いいか? ひのふゥのみッ(と、力を入れて引く)と、そうれ、よほど銹びたと見えて(とまた力を入れて)抜けんなァ」
「(強く引っぱりながら)抜けないわけですよ」
「(力を入れて)どうしてだッ?」
「(あるったけの力で引っぱり)木刀ですから」
「……おいおい、……なんだこりゃ木刀か、木刀を承知で、引っぱらせるやつがあるか」
「おまえさんが引っぱれてえから、一応顔を立てて」
「顔なんぞ立てることはねえ、え? 木刀を引っぱってどこが抜けるんだ」
「木刀が抜けたらなにが出るかとおもって」
「なにをばかなことを言っとるか、もっとすぐ抜けるのはないか?」
「あります」
「さ、それェ出せ」
「お雛さまの首の抜けるのが……」
「冗談言うな、こりゃどうも、ばかにしておる、……そこにあるところの、その鉄砲を見せえ」
「へ?」
「鉄砲」
「……あァ、へい……」
「この鉄砲、これはなんぼか?」
「へ?」
「なんぼか」
「一本です」
「そうではない、この鉄砲のなァ、代《だい》じゃ」
「台はそれ樫《かし》です」
「わからんやつじゃなァ、鉄砲の金《かね》じゃ」
「鉄です」
「そうではない、鉄砲の値《ね》を聞いておる」
「音《ね》は、ずどォ……ん」
「じつにどうも呆れ果てたやつじゃ」
「ああ、また行っちゃった……」
「これこれ、道具屋」
「へい、いらっしゃい」
「そこに笛があるじゃろう」
「ああ、笛ですか、どうぞ……」
「うん……これはむさいのう、売り物なら、もう少しほこりを払ってきれいにしておけ、棒の先へ紙でも巻いて……」
「へえ」
「しかし道具屋、……あッ痛《いた》たたた、これはとんだことをしてしまった」
「どうしました?」
「ちょいと指の先に唾《つば》をつけて、笛のなかを掃除しようとおもったら、うまく入ったのだが、抜けなくなってしまった。あ、痛たたッ、(抜こうとして)指がすっぽり入ったままどうしても抜けない。……道具屋、この笛はなにほどするか?」
「へい、ちょっと待ってください。いま元帳を調べますから……ェェ二十六文……いや、二十六文は元値ですから、掛値をします……ェェ一両」
「一両? これ、こんなむさい笛を一両で売ろうなんて、もそっと負けとけ」
「負かりません。抜けないてえと、だんだん高くなりますよ、そろそろ一両二分、へえ、やがて、二両になります」
「たわけたことを申すな。こりゃ一両でもしかたがないから求めてやる」
「へえ、ありがとうございます。ようやくてんぷらにありつけた」
「なに?」
「いえ、こっちのことで……」
「買ってはやるが、拙者持ちあわせがないので、屋敷の小屋まで取りに参れ」
「へえ、かしこまりました……旦那のお屋敷はどちらです?」
「この先の三筋町の、ここなご門のうちの、おう、そこに見えておるであろう。そこが身どものお小屋だ。拙者について来てくれ」
「へえ、少しお待ちください……ちょいと、お隣の旦那、店頼みますよ、いまあたしァねェ、この笛のお代を頂戴に行ってきますから……じゃ、ごいっしょにまいりましょう」
「それじゃあすまんが来てくれ……余人は門から入れんで、この窓から代は遣わす。しばらく控えておれ」
「へえへえ、どうかお早く願います。……ああ、ありがてえ、ありがてえ、おもいがけなく儲かっちまった。あんな汚《きたね》え笛が一両に売れるなんて、もう今日は商売《あきない》休みだ……それにしてもずいぶん手間がとれるねェ。なにしてんのかなァ、この格子から覗《のぞ》いてやれ……あい痛たたた、こりゃいけねえ、格子のなかへ首がすっぽり入っちまった。あい痛たた、旦那、旦那ァー」
「やあ道具屋、どうした?」
「へえ、首が格子のなかへ入っちまって、旦那、抜けませんから、首を抜いてください」
「ははァ、窓から首を出して抜けんようになったか? 身どものこの指も抜けん。それでは道具屋、かようにいたせ。そちの首とな、身どもの指と差ッ引きにしよう」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 与太郎を主人公とした落語の代表噺。笑いも豊富、人物の出入りもにぎやかで飽きさせない。〈紙上座談会〉の速記式表記なら、会話のひと言ひと言に(笑)と記入しなくてはなるまい。切れ場もたくさんあって、時間も伸縮自由、また時代の設定も融通|無礙《むげ》なので、年じゅう頻繁に上演され、上演回数では最上位に格付《ランク》される。噺家も前座から真打《しんうち》まで手がけない芸人はほとんどいないくらい。おそらく日本人で聴いたことのない人はいないほどよく知られている。毛抜きをひやかす隠居の訊問で、期せずしてシテ役の与太郎の横顔《プロフイール》の一面が明かされるが、所演の五代目柳家小さんは、年齢を三十六歳としている。ほんらいは年齢不詳なのであろうが、三遊亭円朝はこの道具屋の与太郎を演じるとき、四十二、三歳と、前置きして噺した、という。これは与太郎という主人公の、汚れのない、ほのぼのとした味を醸し出すために、演者の無欲恬淡の境地をそれとなく示唆した、秘密のように思えるが……。「大工調べ」「猫怪談」「牛ほめ」[#「「大工調べ」「猫怪談」「牛ほめ」」はゴシック体]参照。
[#地付き](*ゴシックは本「百選」「特選」シリーズに収録)
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天災
「おゥ、まっぴらごめんなすって」
「どなただえ?」
「どなたでもいい、いるけえ。べらぼうに、不精《ぶしよう》な野郎だァ、やいっ出て来いっ」
「乱暴な人だねえ、……はいはい、なんでございますな」
「べらぼうに怠ける先生ってえのは、おめえか?」
「あっははは、おもしろいことをおっしゃる。いや、べらぼうに怠けてはおりません、行住坐臥《ぎようじゆうざが》とも職は全うしております」
「なにを言やァがる。長谷川町新道の、紅屋《べにや》の隠居というなァこっちかてんだ」
「さよう、紅羅坊名丸《べにらぼうなまる》は手前でございます、ご用なら開《あ》けてお入りください」
「あたりめえのことを言うな、開けずに入《へえ》れるか、ごめんよ」
「ご器用な方だ、足で格子をお開けになったな、いらっしゃいまし、なにかご用で?」
「用があるから来たんだ、用がなくってこんな小汚《こぎたね》え家へ来るか、さァちょっとすまねえが、こいつ見てくれ」
「ははァ、お手紙でございますか、拝見をいたしましょう……いや、これは取得《しゆとく》老人からのお手紙、ご返事がいるかもしれません、どうぞお待ちを願います。……手前も一度はうかがわなければならぬのでございますが、ついついご無沙汰をいたしまして、なんともはや……あはははは、申しわけが、あはははは、うふ……ふふン」
「おや、いやな笑い方をしゃァがるなこの野郎、手紙とおれの面《つら》と七分三分に見やァがって、ふふンと変な笑い方をするな」
「どうもとんだ失礼をいたしました。お使いとおもいましたらご本人だそうで、どうぞこちらへお上がりくださいまし。お手紙に預かりました紅羅坊名丸はわたくしで、以後お見知り置かれましてご別懇を願いとう存じます」
「へえ、なに、まァ、はじめてご無沙汰を……」
「どうも言うことがおもしろい、はじめてご無沙汰はおどろきましたな。お手紙のご様子では、取得老人のご隣家の八五郎さんとおっしゃるのは、あなたさまで?」
「あなたさまっていうほどの代物《しろもの》でないよ。けど、八五郎ってのァあっしだい。そんなことはどうでもいいから、早く形《かた》ァつけてくンねえよ」
「形ァってえのァおもしろいことをおっしゃいますな。いや、かねておまえさんのことはうかがっていましたが、あなたはたいそう恚乱《いらん》だそうでな」
「よせよ、ほんとうに。つきあったこともねえくせに、おめえ変なこと言うねェ。おれァ女は嫌《きれ》えな性分《たち》だ。なんだ、淫乱《いんらん》たァ」
「淫乱ではない、恚乱と申し上げた」
「要《い》らねえのかい」
「要らなくァありません。あなたは短気と見えるな」
「なにをッ、狸だ。色が黒くって髭《ひげ》ァはえてるからまちがっちまったな、こん畜生、こう見《み》えたって人間だぞ」
「いや、異立《いだち》と見えるな」
「なにを鼬《いたち》だとッ」
「これは困ったな。短気というのは、お気が短い」
「それだァ。ほめてもらいてえなァ、他人《ひと》よりか、ぐっと寸法はつまってるよ」
「そんなことは自慢になりません。それがために、たった一人のおっかさんを打ち打擲《ちようちやく》をなさるというが、これはよくございませんな」
「おや? こいつァおどろいたねェ。おまえさんとあっしァはじめて会ったんだよ。ねえ、家ァしかもこんなにはなれてる。家でばばあ蹴《け》っとばしたって、のし[#「のし」に傍点]たって、踏んづけたって、ここまで知れるってえはずはねえじゃねえか。どうして知ってんだ、それを……わかった。いまあっしが持って来た手紙ンなかに書いてあるんだね。隣の家主《おおや》の摺粉木《すりこぎ》がそんなこと書きゃがったんだ。もうあのじじい助けちゃおかれねえ」
「あなた、そんな手荒な、腕まくりしたって、おやめなさい。ェェそれにつきまして、少々お話がございます。けしてお手間は取らせません。どうぞこちらへ、お上がりを願いたいもんで……どうぞこちらへ」
「そうすか。それじゃ、まァ……ね、ごめんこうむって上がって座るがね、いつまでもこうやっておくってえと、ためにならねえよ」
「これァどうも物騒なお客さんで……どうぞお平らに、あなたさまをこちらへお上げ申して、別段に、おもしろいおかしいという話を申し上げるのではございませんが、あなたは好んで喧嘩《けんか》口論をなさるそうで」
「喧嘩かい? ああやるねえ、めしのあとの腹ごなしに、日に三度ぐらいやらなけりゃァめしがうまく食えねえ」
「それじゃまるで腹薬だ。しかし、短気は損気ということがある。喧嘩というものは得がいくわけのものでなかろうとおもわれますが、いかがかな?」
「冗談言っちゃァいけねえや。損得を考《かん》げえて、算盤をはじきながら喧嘩するやつがあるもんか、その場ィいってはじまっちまうんだ……癪《しやく》にさわるから、我慢ができねえから、ねえッ、命も要《い》らねえとおもえばッ……」
「あ、あなた、あまり大きな声をなすっちゃ困ります。この近所はいたって静かな土地柄で、あなたがそんな大きな声をなさると、ほんとうの喧嘩とまちがえて、人がとめにくると外聞が悪い。わたしの言うことを、しかと腹に入れて聞きなさい」
「腹で聞くてえと、臍《へそ》の穴ですかい?」
「ばかなことを言いなさるな。あなたが腹を立て、親を打ち打擲するというのは、人の守るべき道に欠けている話だ。『梁《はり》を行く鼠の道も道なれや、同じ道なら人の行く道』道の外《ほか》に人なし、人の外《ほか》に道なし、道は片時もはなれるものはない、はなれるものはこれ道に非《あら》ず、烏《からす》に反哺《はんぽ》の考あり、鳩に三枝《さんし》の礼儀あり、羊は跪《ひざまず》いて親の乳を吸う。雀は忠《ちゆう》と鳴き、烏は孝と鳴く、鳥類でさえ忠孝忠孝と鳴く、ましてや万物の霊長たる人間は、忠孝忠孝と鳴いてもらいたいな」
「なにを言やがるんだ。牛はモウモウと啼《な》いてもらいてえや、おめえにいい唄を聞かしてやらァ、狐コンコン雉子《きじ》ケンケン、犬ワンワン猫がニャゴニャゴ狸がポンポコ腹鼓、お馬が三匹いっしょになったとさーってんだ。コンコンケンケンワンワンニャゴニャゴオッポコポンのヒンヒンヒンと言うんだ」
「これはにぎやかなお方だな。では、すでに古人の句に『気にいらぬ風もあろうに柳かな』『むっとして帰れば門《かど》の柳かな』と、いうのがあるが、おわかりか?」
「……ンなことァ、うゥ、わからねえ」
「わからないのに胸ェ叩《たた》いちゃいけません。柳という木は素直な枝ぶりで、南から風をうけると北ィそよぐ、北から風が吹けば南へなびく。ものに逆らわぬのを柳に風、風に柳。人間もそのとおり、心を素直に持てば、喧嘩口論もできない道理、そのような心持ちにならぬかと申しておる」
「なれっこねえと申し上げちゃう。そうじゃねえか。おまえさんねェ、人間が紙風船みてえにねェ、風のとおりになってふわふわしてりゃあ、たいへんごきげんがいいんだろうが、そうはいかねえよ、ねえ。川っぷち歩いてたって、風のとおりになって川ン中へ落ッこったら、泳ぎを知らなかろうもんなら、そこでもってふやけっちまうよ、おいっ」
「どうも、あなたのは理屈だ……そう話がわからなくては困りますなァ。『むっとして帰れば門の柳かな』……まァ、柳のように心をやわらかく持てというのだ。……どうもおまえさんには、なかなかおわかり願えないようだから、なにか例をあげて、わかりやすいようにお話ししましょう。……たとえば、おまえさんが往来を歩いているとする。どこかの店の小僧さんが水を撒《ま》いていて、その水がぱっとおまえさんの着物の裾《すそ》にかかったとしたら、おまえさん、いったいどうなさる?」
「きまってらァ、その小僧をとっ捕《つかま》えて張り倒さァ」
「張り倒すったって、相手は十《とお》か十一になる頑是《がんぜ》ない子供だ。まさかその子供をとらえて、喧嘩口論はなさるまい。あなたは強い江戸ッ子、片方《かたかた》は頑是ない子供だ、どうなさる?」
「どうなさるも唐茄子を食う[#「唐茄子を食う」に傍点]もないよ。さっきから黙って聞いてりゃ、強い江戸ッ子、強い江戸ッ子って、いやにおだてやがンな、ン畜生め。強いか弱《よえ》えか、やってみねえうちはわからねえ……ここでひとつ、かみあうかい?」
「いや、もう、それには及びません……どうなさる?」
「どうなさるったって、考えてごらんないよ。ねェ、十や十一ンなる餓鬼《がき》がね、おもてに所帯を持ってるってえはずァねえでしょう。いずれそれにァ飼い主があるでしょう」
「飼い主?」
「ええ。その小僧を店へ引っぱってって……やいっ、こン畜生めッ、なんだっててめえンとこじゃあ、こんな間抜けな小僧を飼っておきゃァがンだ。少しぐれえ作法知ンねくてもいいからな、もっとはっきりしたもん[#「もん」に傍点]と取《と》っ替《け》えろって言うね、あっしァ」
「たっはァ……うゥん。は、さようですか。それでは、風の強い日に、狭い路地などを通りあわした折に、屋根の瓦《かわら》が割れておりましてな、それが落ちてきて、身をかわす暇《いとま》もなく、お頭《つむり》ィでも当たって血でも出たらば、痛かろうな」
「そりゃァ生きてるから痛いにきまってらァ」
「しかし、腹をお立てンなったところで、瓦のかけらを相手に喧嘩はできん道理だが、……」
「なァにを言ってやン。できん[#「できん」に傍点]だってやがら……この陽気に、できん[#「できん」に傍点](頭巾)も襟巻《えりまき》もいるもんかい。ほんとうに、なァ、瓦のかけらとね、大の男と取っ組みあいをしてるなんてのァ戯画《え》にもねえや。そうだろ? 瓦のかけらなんぞ、こっちの手ン握っちゃうよ。こっちの手が空いてるから着物の裾つかんで、くるッとまくるッてえと、その家《うち》ィ見当つけッちまう。やまかがし[#「やまかがし」に傍点]ィ穴ァ見《み》っけたんじゃねえが、すうッとあっしァのたくり[#「のたくり」に傍点]こんじまうよ……やいン、ン畜生めッ、てめえンとこじゃ高慢な面《つら》ァしやがってな、屋根へ瓦なんぞのっけやがったって、職人の手間ァ惜しみゃがるからこういう粗相ができあがるんだ。値切りゃがったろ。ざまあ見やがれ。すっとこどっこい[#「すっとこどっこい」に傍点]めッ。職人だって儲《もう》からねえから、仕事の手ェ抜くのァあたりめえだってんだ。ろくすっぽ土ィ置かねえ上へ、瓦ァのっけっ放しで、止《と》めェ打たねえから、ずって[#「ずって」に傍点]きたんだ。さァ、どうしてくれるんだァッ」
「あァた、あァた、またはじまりましたがね、その、はずみがついてはいけません。……もう少したとえを申し上げるが、一里四方もあろうとおもわれるような広い原なかへ、あなたさまが用足しの戻《もど》りに通りあわしたとおぼしめせ」
「ああ」
「夏のことでございまして、夏の雨は馬の背を分けると申します。馬の背の片方《かたかた》が濡《ぬ》れて片方が濡れんというのは、間々ございますな」
「ええ? そうそ。そンなことァあるねェ。本所の方がざんざ[#「ざんざ」に傍点]降りでもって、浅草へ来てみるッてえと、かんかん[#「かんかん」に傍点]天気だってえやつがね」
「それでございます。いままで晴ればれとしておった空が、一天にわかにかき曇ると見る間に、盥《たらい》の水をあけたような大降りになる……お困りでしょう……どうなさる?」
「どうするったって、雨降ったら傘《かさ》ァ……」
「いや、あいにくと、傘の持ちあわせのないときは、どうなさる?」
「か、傘がねえんですかい、傘がなけりゃァあっしァどっかの家《うち》ィ転がりこんじまうね」
「その原なかに、雨を凌《しの》ぐ家がなかったら、どうなさる?」
「家がねえ? 家がねえのかい? 家がねえてえのは困るね……おまえさん、いまどしゃ降りの最中に建前をしたって、なかなか出来あがらねえから、家がねえてえのァ……いや、いいことを考えたよ。こんもりした木の下ィいってね、腕組みをして、あっしァ雨がやむのを待ってるよ。葉ァ繁《こ》んでるってえと、下まで透さねえ」
「雨を凌ぐような立木がなかった、どうなさる?」
「おまえさん、いまなんてった? おい、一里四方の原だって……そんな広い原があるなら、木が、おっ立ってたって邪魔にゃァなるめえ」
「邪魔にはなりますまい。しかしお話の順序として、この原には木を植えることはできません」
「だからさ、木がいけなけりゃァ、家を一軒……」
「それはだめだ」
「だめ? だめってえと、許可にならねえのか……じゃあ、しょうがねえから傘を一本……」
「いかん」
「なんでえ、なんでえッ、そのいかんてえのァ。おまえさんに傘を買ってくれってんじゃないよ。いいかい? おい。傘をッたら、いかんてやがる。さっきから聞いてりゃね、家を建てちゃいけねえ、木を立てちゃいけねえ。おまえさんてえものは、この原の持主かい? おいッ、言いたくなろうじゃねえか、ふざけやがって。……てえげえにしやがれってんで、着物の裾ひんまくって駆け出してやらあ」
「駆け出しても濡れましょう」
「ええいッ、それァいい心持ちに濡れるね」
「あなたいまなんとおっしゃった? たったいま、頑是ない子供に着物の裾に水をかけられても、腹が立つとおっしゃったのはあなたですぞ。全身濡れ鼠《ねずみ》のごとくになれば、それだけ余計、腹も立つ道理だが、天から降った雨に濡れたのは、誰《たれ》を相手に喧嘩をなさる?……黙っておっちゃわかりませんな。誰《たれ》を相手に喧嘩をしますか、もし……おいッ」
「な、なんだい、おい。気合いをかけちゃいけないよ。いまァ考《かん》げえてンだい、その相手をね……相手てえのァ……ぴか[#「ぴか」に傍点]だからね」
「ぴか[#「ぴか」に傍点]?」
「あァ、あっしァ黙ってねえや……やい、このすっとこ[#「すっとこ」に傍点]天道《てんとう》ゥ」
「すっとこ[#「すっとこ」に傍点]天道はおもしろい」
「おもしろがってちゃいけねえ、これからだよ、むずかしくなるのァ。喧嘩ってえものァ、こっちでなんか言って、向こうでなんか言い返すからはずみ[#「はずみ」に傍点]がつくんだろ。一人じゃくたぶれちまうよ、ええ? 喧嘩だの大掃除なんてのァ一人でやれないもんだよ、ありゃねェ。飽きちまうよ。こんちはッたって黙ってやがる。降りて来いッたって来やしねえ。この野郎って、なんか投げたって届かねえしねェ。……しょうがねえ」
「しょうがない、いたしかたがないと、あきらめがつきますか?」
「つかしっちゃいます」
「さ、そこだッ」
「え? どこだい?」
「捜しちゃァいけない……これがすなわち堪忍《かんにん》という心持ち。『堪忍のなる堪忍は誰もする、ならぬ堪忍するが堪忍』『堪忍の袋をつねに胸にかけ、破れたら縫え破れたら縫え』東照神君家康公の申されたことだそうだ。『手折《たお》らるる人に薫るや梅の花』『気に入らぬ風もあろうに柳かな』『憎むとも憎み返すな憎まれて、憎み憎まれ果てしなければ』『負けて退《の》く人を弱きと侮《あなど》るな、知恵の力の強き故なりーィ』」
「チーン」
「お経とまちがえちゃあしょうがないな。いいか、すべてがその道理だ。すべてのことは、人間がやったとおもわずに、天がやったとおもったらよかろう。たとえば、小僧に水をかけられたら、原なかで雨に濡れたとおもってあきらめる。屋根から瓦のかけらが落ちてきたら、憎い家だとおもわずに、これは通りあわしたこの身の災難、これは天から降ってきたものとおもってあきらめる。なにごとも天からわが身へふりかかった災難と、かようにあきらめをつけます。仏説で申しまする因縁《いんねん》、われわれのこの未熟なる心学では、天のなす災《わざわい》と書いて天災《てんさい》と読ませますが、おわかりでございますかなァ」
「なァるほどねェ、おどろいたねェ……おまえさん、隣の家主《おおや》と年齢《とし》ァおっつかっつ[#「おっつかっつ」に傍点]だが、言うことァこんなにちがうねェ。てえしたもんだねェ。これを天災と読ませますがおわかりンなりましたか、と、きたときにゃァ、あっしァ腹ン中でほめたよ。……音羽屋ッてんで」
「変なほめかた……」
「家の近所にゃァぽかぽか[#「ぽかぽか」に傍点]があるんだよ。天災なんぞ広めたやつァねえン。あっしァ天災の広め係りンなるからねェ……じゃ、これでもってお暇《いとま》を……」
「あッ、もうお帰りでございますか。今日《こんにち》は宅《たく》の者がみんな出ておりまして、わたくしが留守居で、それがために長話をして、お茶も差しあげませんで、とんだご無礼を……」
「おっとと……心配しなくたっていいよ。おまえさんが茶を出さねえとおもうと腹が立つがね、天道さまが茶をくれねえんだとおもやァ腹ァ立たねえ。つまりここィ来たのァあっしの災難だ」
「これァどうも恐れ入りました」
「おい、おっかァ、いま帰《けえ》ったよ」
「いま帰ったじゃないよ。おっかさんを蹴とばしといて、どこへ行ってたんだい?」
「なに言ってやンだい。冗談言うな、天道が蹴とばしたんだ、この天のなす災、天災ってんだ……腹が空《へ》った、ちょいとすまねえが膳《ぜん》を出してくれ」
「ああ、あいにくなことをしてしまったよ、おまえさんが腹を立って出かけたろう、晩まで帰らないだろうとおもって、おっかさんと二人でいまご飯を食べてしまって、少しもないんだよ」
「おやおやしかたがねえ、おめえたちが食ってしまったとおもやァ腹が立つが、天道が食った、天災だとおもやァ……こんな天災は流行《はや》らねえ、腹が空《へ》ったなァ……なんだか知らねえが長屋がゴタゴタしているじゃねえか」
「おまえさんがいなくってよかったっていまも話をしていたんだよ、熊さんのとこなんだよ」
「どうしたんだ?」
「先《せん》のおかみさんが出て行ってしまったものだから、その留守に熊さんが外《ほか》の女を引っぱって来て、お取膳でご飯を食べているところへ、くやしいから先のおかみさんが暴れこんできて、大立回りがはじまったんだよ。長屋中総がかりで止めに入って、いま源兵衛さんがやっと納めたとこなんだよ。今日に限っておまえさんがいないだろ? みんなよろこんでたよ。あいつがいようもんなら、最初のうちァ喧嘩止めてやがって、そのうちに発起人でもってはじめるからってさ、まァ、いい按配《あんばい》だ……」
「なにを言やァがる。天災なんぞ広めたやつァねえだろうな」
「この長屋に天水桶はないよ」
「天水桶だってやがら、この素人めッ……これから熊ンとこへ行ってくらァ」
「いけないよ。せっかく喧嘩がしずまったとこなんだから」
「なにを言ってやがるんだ。こっちは天災を心得ているんだ。こうさっそく役に立つとはおもわなかったなァ……あの野郎にひとつ天災をくらわしてやろう……おーい、熊ッ」
「おゥ、帰って来たかい。や、どうもくだらねえこッてごたごたして……まあ、上がってくんねえ」
「ようし、上がらしてもらおう。さて、お手紙のご様子では……と、くるよ」
「なんだい?」
「ェェさてあなたはたいそう淫乱だ」
「おい、よせよ。くだらないことを言うんじゃないよ。仮にも女のこってごたごたしてて、隣近所ィこれから礼に行こうとおもってるとこだ。大きな声で笑うわけにもいかねえ」
「お、おい、怒っちゃいけねえ。このいんらん[#「いんらん」に傍点]てえのァ気の短《みじけ》えってえ符牒《ふちよう》だよ。言われてみると、てめえもおもい当たる淫乱だな。ああ、大淫乱、町内名代の淫乱ッ……」
「わかったよ。帰ってくれよ」
「帰るもんけえ。それがためにとくるよ。たった一人のおっかさんを打《ぶ》ち打擲《ちようちやく》をなさる、これァよくねえ」
「よくねえったって、おめえも知ってのとおり、おれにァ親なんかありゃァしねえ」
「あ、そうか。おいらの家にゃァいるんだよ。あれェ貸そうか」
「ふざけちゃァいけねえ。借りたってしょうがねえ」
「やりにくいなァ、それじゃあ……けしてお手間は取らせません、これから道の話をいたしましょう」
「なんだい、変なことを言うな、おめえから道の話を聞こうとはおもわなかった」
「うるせえやい。黙って聞け、いいか、おれの言うことを耳で聞かねえで、臍の穴で聞くんだぞ」
「ばかなことを言うなよ。耳の穴を洗ってよく聞けってえのァあるが、臍の穴で聞くってえのはねえやい」
「おれも最初《はな》はまちがえた……どうでもいいからよく聞けてんだ。はり、はり、梁を行く道に鼬《いたち》の道、猫の道、犬の道、血の道……てんだ」
「なんだかよくわからねえ」
「おれにもよくわからねえ……黙ってろいてんだ。烏はカアカア雀はチュウチュウ、障子が明るくなってきた、狐コンコン雉子ケンケン、犬ワンワン猫ニャゴニャゴ」
「なんだい?」
「こりゃ、おれがべらぼうの野郎に教えてやったんだ。これからがいいとこなんだぞ……いいか……気にいらぬ風もあろうに蛙《かわず》かなよ。蛙は柳で、柳はやわらけえや。南風《みなみ》はなまあったけえし、北風は寒いし、東風は雨が降らァ」
「なにを言ってんだ」
「むっとして帰れば門の瓦かな……」
「なんのことだ?」
「一里四方の原ってえのァわかるかい?」
「一里四方の原?」
「このへんからおれもわかりはじめたがねェ。一里四方の原は広い。いくら広くてもおまえには貸さない」
「なにを言ってやン」
「ェェ折から、うウん、そのなァ、一天にわかにかき曇って、ばりばり、ばりばりッ……」
「なんか破いてる?」
「破いてンじゃない。な? 盥《たらい》が水をあけたような大降りになる。とたんに小僧が水を撒《ま》く……」
「どこの小僧だい?」
「間抜け小僧だ。なァ、この小僧が屋根から転がり落っこったてんだ」
「危ねえなァ、でもなんだかおめえの言うことはちっともわからねえ」
「さあ、これからもっともらしい声を出すぜ」
「なんだい、もっともらしい声てえのァ?」
「堪忍の……堪忍の……」
「かんかんのう[#「かんかんのう」に傍点]でも踊るかい?」
「黙ってろい……堪忍の……奈良の神主と駿河の神主が首へ頭陀袋《ずだぶくろ》をぶらさげたんだ」
「なんだい、そりゃ」
「なかに天神寝てござる」
「なんの話だ?」
「いいから黙ってろいッ、これが肝心なとこだ。一里四方の原っぱでてんだ、夏の雨は馬が降らァ」
「うそつけ」
「よく聞けよ、いいか。手折らるる人にかおるや象の鼻よ。破れたら縫え、破れたら縫え。だからなにごともその、天だとおもえ……おめえだってそうじゃねえか、先《せん》のかかあが暴れこんだとおもやァ腹が立つが、天道が暴れこんだとおもえば、腹ァ立つめえ。なァ、これすなわち天災だ」
「ええい、家《うち》のァ先妻のまちがい」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 導入部は鰺《あじ》の干ものを猫に盗られたことから主人公が腹を立て、女房、母親に乱暴し、家主に離縁状を二本書いてくれと談じこむ……そのまま家主が、例の「天の感ずるところ」を説くのが「二十四孝」[#「「二十四孝」」はゴシック体]であり、家主の手紙を預かって心学者、紅羅坊名丸のところへ来るのが本篇である。さてはこの八五郎、家主の手に負えないだけ乱暴の度合いがはげしいとの解釈もできる。定本《テキスト》は三代目柳家小さん直伝の八代目林家正蔵のもの、〈トンガリ〉と渾名《ニツクネーム》のあった演者の一本気な片鱗がうかがえる。今日から見れば、心学の論理《ロジツク》は幼稚で、ご都合主義的で明らかに説得力に欠けるが、それに敢然と反駁《はんばく》する八五郎の生《いき》は面目躍如として生きている。こうした、いわゆる付け焼き刃の鸚鵡《おうむ》返し――「落語」の典型的な形式《パターン》について、加藤秀俊氏は『落語の思想』と題して、次のように論評している。
「ありがたそうなハナシをきくと、わけもわからず感激し、そのハナシを丸暗記しさえすれば自分にネウチがあるという錯覚は、たしかに八っつぁん熊さんのなかにある。床屋政談というのはおおむねそうしたもので、八っつぁん熊さん、しきりと国事を憂うるのであるが、もとのお手本は新聞記事で、それを得々として暗記してしゃべっているにすぎないことが、しばしばである。そして、暗記法によって自分がエラくなったという錯覚におちいったがさいご、かれは、半可通の若旦那と同一の人物になり下がるのだ。わたしは、落語、『相変らず』の人物たちをますます滑稽にえがき出すことによって、日本における俗物根性を容赦なく突き、われわれ自身の弱い部分をもっともっと締上げてくれることを希望する。キレイごとの世界、知ったかぶりの世界、深刻主義、そういった一連の悪霊をおとすためのおハライとして、落語は有効な哲学と倫理学の方法を示唆する」
さすがワカッテらっしゃる、「落語」にとって耳のイタイ話である。しかし、「落語」を種《ねた》に「有効な哲学と倫理学の方法」を立てようとすること自体、そもそも「落語的」なのではないか。つまり「落語」とは、最初から「俗物根性」を有し、「相変らず」「なり下がって」いて、けっしてその範囲から逸脱することはない、「喜劇性」と「悲劇性」を表裏一体、合わせ持っているものなのではないだろうか。人間が、この噺の八五郎同様、おっちょこちょい[#「おっちょこちょい」に傍点]で、いつもどうどう[#「どうどう」に傍点]巡りをしているかぎり(これも紅羅坊名丸ではないが、「天災」と言いたくなる)「落語」はどこまでも「落語」なのではないか、と思う。
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つるつる
「お清《きよ》さん、ちょいと手拭《てぬぐい》そっちィ掛けとくんな、あァ、あの師匠は出かけた? ああそう。お梅ちゃんまだお湯から帰りませんか? あァようがす、あッはァどうもね、昨夜《ゆんべ》のお客さまにァおどろいた。いえ『今晩ありがと存じます』って座敷へ入るとたんだよ、柔道に凝ってるんだってさ、お客さまがさ。いきなり、だァんって投げられちゃった。尻《けつ》っぺたこんな大きな痣《あざ》ッ、昨夜《ゆんべ》っからいままで飲み続けってんだ、どうもおどろいた、なんぼ商売とはいいながら身体《からだ》が続きません。これから一杯飲んで寝ますゥ、ああ。ああちょっとォ……三河屋の小僧さんちょっとすまない、いつもの五合ね、えッへッ、内証で台所の方へ忍ばしといてくんないか。そいからあのね、すまないが、魚金へことづけしてくんないか、刺身を持ってくるように、ああ、とろ[#「とろ」に傍点]のところをぶつ[#「ぶつ」に傍点]に切ってね、山葵《わさび》を余計利かして、ああそう? お頼申します、ご苦労さん。……おやッ、お梅ちゃん、お帰んなさい。へへッ、あァたがねェお湯から上がんのをね、あたしァ男湯の方で待ってたン、いっしょに帰ってこようとおもって……それがあたしが待ちきれないてえやつ、先ィ帰ってきちゃったン。たいへんなんですねェ、今日《こんち》はこの鬢《びん》の具合いがねェ、な……なんだい、お言葉なしときたね。すうゥっと向こうの部屋ィ入っちゃった。けどいい女だなァ、あのくらいな芸者てなァいないねェ、おれァ四年半|岡惚《おかぼ》れしてるんだがなァ。『岡惚れも三年すれば色のうち』てえことがある。一年半超過してるんだからね。師匠はいないしと、ひとつご機嫌《きげん》をうかがって見るかな、あは。……お梅ちゃん、えッへッへッ、あァたァ、鏡台の前で、諸肌《もろはだ》脱いで、えへェ、お化粧《けえけえ》ですか? いい肌ですねェ……あァたの肌てえものは。餅肌、羽二重肌ァ」
「そっちィ行ってらっしゃいよォ。男の入って来るとこじゃあないのよ」
「うッふッふゥなんですよォ、いいお乳房《ちち》ですなァあァたのお乳房《ちち》てえものは。え? 麦|饅頭《まんじゆう》へこの隠元豆をのせたようですな、えッへッへ、ちょいと……」
「お師匠さんに言いつけてよッ」
「なんですよう、あァた大きな声で。あたくしはねェ、ほんとうのことを申し上げるとねェ、あァたに四年半岡惚れしてン。え? ままになるなら三日《みつか》でもいいからどっか静かなところへ行って、あたくしとあなたと差し[#「差し」に傍点]でもってご飯をいただきたいとおもってる。……ただの三日《みつか》。で、三日《みつか》がいけなければ二日《ふつか》でもよござんす。二日があァたいやだとおっしゃれば一日《いちんち》でもいいんだ。だから半日にしようじゃございませんか。どうです? 三時間……二時間にしましょう。一時間……三十分……十五分……十分……五分……三分……二分……一分……なし……」
「なにを言ってんの一八ッつァん、おまえさんほんとうにそんなことォ言ってんの?」
「真剣……まったく、ほんとうに」
「そおォ? そうならうれしいけど、あたしゃおまえさんみたいにね、色だの恋だのなんて、そんな浮気っぽい話ならごめんこうむるのよ、曲がりなりにもあたしみたいなものでも、女房にしてくれるッていう話なら、ほんとにあたしうれしいとおもってんのよ」
「へえ?! あたくしはねェ、あァたが女房ンなってくれればねェ……あたくしはもうそのばかなよろこび……」
「一八ッつァんおまえさん自惚《うぬぼ》れちゃあ嫌《いや》ァよ。吉原《なか》にはねェ、大勢|幇間衆《たゆうしゆ》はいる。けれどもおまえさんあんまりいい男じゃァない、けれどもおまえさんは親切だ。あたしゃあ忘れないことがあった。いつだったか、この前|大患《おおわずら》いしたことがあった。おまえさん寝ずに看病してくれてうれしいとおもって忘れないの。どうせ亭主を持たなくちゃァならないんだから、邪慳《じやけん》な亭主を持って、おッかさんに苦労させんの嫌だと思《も》ってそいであたしァおまえさんに話をすんのよ」
「へえッ! あたくしァねェ、あァたが女房ンなってくれればねェ、そりゃァもう親切にしますよ。もう親切株式会社の頭取ンなろうとおもって……いえほんとうに。あァたがねェ、朝、目が醒めるでしょ、とたんにあたくしァねェ、あァたに煙草をつけて出すってえやつだ。ねえッ、あァたが『もう起きたいわァ』ッとくりゃすぐあたくしァもう床をたたんで、へえ、あァたが厠《はばかり》へ行く、あたくしィあとから紙を揉《も》んで……」
「汚いね、この人ァ」
「いえほんとうに、まったく……」
「そおォ? うッふゥ、うれしいわねェ、だけども一八ッつァんあたしァおまえさんのことについて、少ォし気に入らないことがあんのよ」
「気に入らないことおっしゃってくださいな、うかがおうじゃござんせんか、直そうじゃありませんか、なにが気に入らない?」
「おまえさんはお酒を飲むとずぼら[#「ずぼら」に傍点]だからね、どっちがお客さまだかわからなくなっちまって、時間のことはめっちゃくちゃだし、もう芸人はいまいちばんそのずぼら[#「ずぼら」に傍点]がだめよ」
「へッ、大丈夫。一所懸命|真面目《まじめ》ンなって、あたくしァ稼ぎます」
「そう、じゃあわかった。じゃあこうして? 今夜二時を打ったらねェ、あたしの部屋へ来て、いろいろな話があるから。そのかわり、二時が五分遅れても、『あァッ、おまえさんいつものずぼら[#「ずぼら」に傍点]がはじまったんだなァ』ッとおもってあたしもあきらめちまうから、おまえさんもない縁とあきらめてくださいよ」
「へッ、二時が五分? あ、ようがす。二時ンなってねェ、そのかわりねェ、おたく……」
「あっちィ行ってらっしゃい、だれかに見《め》っかるといけないわよ」
「へいッ……へッへッェどうも、ええ? こうとんとォんと運ぼうたァおもわなかったな。『案ずるより生むが易《やす》い』てえのァこのこったな、なんでも男てえ者は度胸がなくっちゃいけませんね、えッ? ものは当たって砕けろてえやつだ……『チンチン……』ッてえとおれが行くてえやつだ。『お梅ッ、二時を打ったから来たよう』ッと、こう言うと怒るかしら?『なんだお梅だなんて。まだおまえさんの女房ンなったわけじゃあないじゃあないか。嫌なやつだよォ』ッてんで、どおォん(と、肘鉄砲)と蹴《け》られちゃっちゃァいけねえからなァ。ここんとこァ丁寧にいこう丁寧に。『お梅さま、一八でございます。二時を打ったからまいりました』『嫌なやつだよ、キザなやつだよ』ッてんで、どおォん(と、肘鉄砲)、こりゃいけねえなァ……軽くいこう軽く、『お梅ちゃん、二時を打ったから来たよう』ッてン、えへェ、『まァよく来てくれたわね。その意気ようッ、忘れちゃあいやァようッ』ってえんで……おや、いらっしゃいまし」
「なァんだ……ばかだなァこいつァ踊ってやァがら」
「あッははは、どうも、大将、おめずらしい、どうなさいましたァ? いいえあんまりお出《い》でがないからねェ、どうなすったかとおもってお案じを申して……」
「なにを言ってやがんだ。吉原ァもう飽きたよ。今日はな、河岸《かし》を替えてな、こいから[#「こいから」に傍点]柳橋で遊ぼうてえんだ」
「柳橋? 柳橋は乙《おつ》ですな、ェェどういうことになるんですゥ?」
「夜っぴて騒ごうてえんだ、いっしょに来いよ」
「あ、さいですか……へえへえ……なるほどォ、ェェ結構ですなッ。えッへッへェ、では、ェェ、今晩ひとつ、手前は助けていただきましょう」
「よせよ。そんなこと言うない、いっしょに来いよ」
「えへッ、それが今晩ちょいと具合いが悪いン、今晩だけ、大将ねェ? 他《ほか》の者《もん》で間に合わしてください」
「よせよ、そんなこと言うな、おもしろくねえじゃねえか、おまえ、お約束でもあんのか?」
「約束てえわけじゃァないんですがな、今、夜は、ちょいと……、へえ。今夜だけ大将ね? 他の者で間に合わしてください」
「そうかい、よォしッ、一八ッ」
「え?」
「おまえいい芸人だなァ、いい幇間《たいこもち》ンなったなァ、おめえァ? そうじゃあねえか言いたくなるじゃあねえか。てめえがこの土地ィ、はじめて出たときなんてッた?『木から落ちたなんとかと同様でござんす。身寄り頼りもございません、どうか一人前の、芸人にしていただきたい』おれァずいぶんおめえを贔屓《ひいき》にしてるつもりだぜ、なあ、ずいぶんおめえをかわい……」
「な、なんですよう……怒っちゃァいけませんよ。あァたにお世話ンなってることはねェ、この土地でだれ一人知らない者《もん》はありません。あたくしはねェ、あなたのためなら真剣に勤めようとおもってますよ」
「じゃ、いっしょに来ねえなァ」
「えへッ……それがね、へッへッ、行かれないわけがあるんですよ」
「わけを言いなよ、な? おれが聞いて『なるほどもっともだ』ってえことがわかりゃあ、おまえにきれいに暇ァやろうじゃねえか」
「さいですか、えへッ、ェェそれでは、お話を申し上げますがね、大将、これは大秘密ですよ……(周囲《まわり》を気にし小声で)当家にねェ、当家に小梅てえ芸者がおりましょ?」
「なにを言ってやんだ、ばかッ。そんなことおまえに聞かなくったってわかってらァ。あのくらいの芸者はないな。どうだ三味線は達者だし、咽喉《のど》は光ってて、とことん[#「とことん」に傍点]がいけて、親孝行で客扱いがよくって、女っぷりがいいし、淑《しと》やかで、あれがほんとうの一流の芸者てえんだ」
「うゥッ、それがだァッ」
「な、な、なんだい、大きな声を出しやァがって」
「それですよ、その小梅なる者がね、あたくしの女房ンなるン。いいえほんとッ、あたくしはねェ、お恥ずかしいお話ですがね、四年半岡惚れしてン……ここの家ィ弟子に来るとたんにあたくしは惚れてるんだ。で、いつか一度はとおもったんだ。今日ァだァれもいないからひとつ当たってみたン、言うことがうれしいやな。『色だの恋だのなんてそんな浮気っぽい話ならごめんこうむる、曲がりなりにもあたしみたいな者《もん》でも、女房にしてくれる話ならば……』どうです、言うことが本筋でしょ? えッへッそいで『今夜ねェ、二時を打ったら来い』って。あたしゃァ行くんだ。『おまえさんはお酒を飲むとずぼら[#「ずぼら」に傍点]だから、二時が五分遅れても、おまえさんのいつものずぼら[#「ずぼら」に傍点]がはじまったんだなァとおもってあたしもあきらめちまうから、おまえさんもない縁とあきらめてくださいよ』と、……あれが、あは、くれぐれも、おほほ、ほほ、申すんですよ。えへ、で、手前が行くてえやつなんだ。チンチンッ……てえと、手前がこのつうッ……、へッへッ、チンチン、つうゥッ……、てえん、きゅうッ……」
「ばかだなこいつァ泣いてやがら」
「へえ、そのような次第でござんすから、今日《こんち》ンところは手前にお暇をいただき……」
「よォしッ、わかった、いいよ。おめえのめでてえことを邪魔したってしょうがねえや、あァいいともいいとも、じゃあこうしな、十二時までつきあえ、な? 十二時ンなったらきれいに暇ァやろうじゃねえか」
「あッ、なるほどッ、いろいろ手があるもんですねェ。十二……それがねェ、えッへッへェ、いまあなたそうおっしゃるんだ。さて十二時ンなって『大将時間がまいりましたから、暇をいただきます』とこう申し上げるでしょ、てえと、あなたがねェ、素面《しらふ》のときならいいんですよ。一杯召しあがってるとそうはいかねえんだあなたってえものァ。『そうァいかねえッ、なんだ、とんでもねえやつだァ』なァんてんであァた怒る性分だよ。あたしゃァ永年ついてんだよわかってんだよ。あッははは、拝むよあなた……堪忍してください。そのかわりねェ、もうほかのことについてはね……もう一心不乱ッ……」
「わかったよ、こん畜生、拝みやがって嫌《いや》なやつだな畜生め、一八ッ」
「へえ?」
「おめえいい芸人だなァ。いい幇間だなおめえは……てめえはなにか、客を断わって、小梅ンとこィ今夜……」
「くわッ、なんッ……なんてえいうことを言うんですよ、あァた、言っていいことと悪いこと……」
「(さらに大きな声で)てめえはなァッ……」
「あなたはねェ、なんてえ方なんですゥ。あたしゃあなたが憎いよあなたが。腫物《おでき》の上を針で突っつくようなことをするねあァたァ……(やけになって)だからまいりますよ、お供をしますよゥ、大将、断わっときますよ、時間がきて、お暇《ひま》をいただくときに、嫌な顔ォしたり怒ったりなんかしちゃァいけませんよ」
「大丈夫だよ、早くしたくしろいッ」
「へいッ、ただいまッ」
「へいどうも……先夜はどうも、へい、一八でございます、樋《ひ》ィさんをお連れ申しました」
「いらっしゃいまし」
「いらっしゃいまし、……どうぞお上がりくださいまし」
「ェェお座敷は? あァ竹の間? あ、さいですか。ェェ大将、竹の間の方で、ただいまご案内をいたします。へえッ、手前ちょっと階下《した》ィご挨拶に……すぐお二階へうかがいますから、へえッ。ェェ、おやッ、どうも女将《おかみ》ィ、ご機嫌《きげん》よろしゅう、お変わりもござんせんで……あいかわらず太ってらっしゃいますな、あッはッはッはァ、お暑いでしょ? へえ、あなたがねェ、このお帳場にいらっしゃらないと形がつかない、妙なもんですねェ。大将は? レキ[#「レキ」に傍点]は? へッ、競馬ですか? お好きですね、この間ね、大きな穴を取ったってッてうかがいました。あッはァどうも、お宅の馬が出たって? おめでとうございます。やりますねェ大将は、じっとしてない、まめ[#「まめ」に傍点]だねェ、へ? 撞球《たま》は突く麻雀《マージヤン》はするゴルフをやる釣りをやる。あたくしもねェ、釣りぐらいはやるんですよ、どうでもかまいませんが、あれ、色が黒くなるんでねどうも……おや? 嬢《じよう》ちゃァん、えへへェ、お湯ゥから上がって、お化粧《けえけえ》ができてェ、えへェお髪《ぐし》がいいからお可愛いなどうも。……坊っちゃァん、なにか持ってますねェ、大きな刀を差して。どなたに買っていただいたン? へ? おとうさんに? へ? 一八を斬《き》るゥ? あッはァッはァッこわいねこりゃどうも。……おやッ、お花|姐《ねえ》さん、先夜はどうも。樋ィさんをお連れ申しました。ェェ、なにをなすってらっしゃるんで? え? 布団の綿《わた》を取り替えてるんですか? あァたが? ははァ恐れ入ったなどうも、じつにあァたには敬服をするなァ。あァたがそんなことォなさらなくてもいいんだ、お針《はり》さんてえものがいるんだから。それを先立《さきだ》ちンなってあァたがその布団の綿を取り替える、そこですよあァたのお偉いところァ、いいえほんとうに。たいへんに銀行の方へ貯金のほうが、へッへッへェ、なんでも人の噂《うわさ》では……なんでも通い帳のほうが、ェェこの、七《なな》、零《れえ》々々々……やなんかんなってると。……おやァ、金ちゃァん、こんにちはァ、樋ィさんをお連れ申しました。いつものお腕前を見せてねェ、おいしいものを、食べさしてあげてくださいよ。お客がほめてますよォ、大きい声では言えませんがね、あァたがいるんでここの家は繁昌するんだって。ほんとにまったく、いい腕。……おやッ……かわいい猫ですなどうも……いいお毛並で……」
「ちょいとォ、一八ッつァん、樋ィさんお呼びだわよ」
「へえい、……ェェどうも、大将、遅くなりました」
「どうしたい? たいへん手間がとれたなァ」
「へッ、ちょっと階下《した》へご挨拶……ええ、へッへッ、ぱらぱらッと……えッへッへェ、申しつけました。えッへェ、繰りこんできますよ、へッ、いつもの連中が、へッ、きれいどこが……いえほんとうに、まったくゥ、えッへッへッへッ、え、ただいま何時でござんしょう?」
「いま来たばかりじゃねえかッ」
「ェェ手前気ンなる」
「気ンなるっておまえ、時計持ってんじゃねえか、時計」
「これ……大将ね、えへッ、時計と見せてね、時計じゃないんですよ。先ィ天保銭《てんぽうせん》が付いてるやつ、えッへッ『一八ッつァんいま何時?』ッてやしょ?『いま八厘《はちりん》』」
「ばかだね、こいつァどうも」
「先夜はどうも……」
「樋ィさん先夜はどうも」
「樋ィさん先夜はどうも」
「さッ、ずっと前へいらっしゃい、ずうゥと前ィいらっしゃい。大将、繰りこんで来ましたよ。どうですおきれいですねェあいかわらずみなさんが……みなさん、大将はねェ、たいへん今日《こんち》はご機嫌がいいんですよ。ねえ大将、あァたご機嫌がいいんでしょ?」
「一八、おまえ働くなよ。いばってろ、てめえ今日、客にしてやるから」
「ありがと存じます。みなさんお聞きのとおり、手前|今日《こんち》はお客。いばってます、働きませんよ。えッへッへェ、みんなに用事《よう》ォ言いつけたりなんかしていばって、えッへッへッへッへへ、ェェどういうことになります?」
「なにかして遊《あそ》びてえなァ」
「そうですなァ、えッへッへッへッへェ、ェェただいま何時で?」
「うるせえなァこいつは、いま来たばかりだい」
「どういうことに……?」
「こうしよう。さァかまわずなァ、おれがここへ紙入れを出そう」
「……どうです、え? 大将はこういうお偉い方ですよ。中座《ちゆうざ》をする幇間《たいこもち》の前へ、『おまえは今夜身祝いがあるから』ってずばりっとこのご祝儀を、くださる……」
「お、おいおい、おめえにやったんじゃあねえや、ただなんの気なしに、ここへ出してみたんだ」
「あ、そうですか。ははァ? くだすったんじゃない? 出してみたン、あなたがなんの気なしに? おやおや、そうかァ……なんでえ……ううん……なんでえ」
「なんだ放り出しやがってばかッ。……これでもってなんかおめえのものを買おう」
「売りますッ、なんでも売るよ、あたしのものァ、え? 羽織、着物、帯、みんなあァたからいただいたもの」
「そんなもの買うんじゃねえ、おめえの頭ァ半分買おう」
「へえッ?」
「半分坊主ンなんねえ、二十円やるから」
「あッはッはァ、半分坊主ゥ? ェェ嫌てえわけじゃァないんですよ、今日《きよう》は、あッはァ……いつもなら飛びつくんだよあたしァ。今夜ァいけませんよ。先方ィ行くんでしょ。で、『一八ッつァん頭半分どうしたの?』ッて、えッへッへッ、『二十円で売ってきた』ってなァ……」
「色っぽい野郎だねこいつァ……、さがって十円、どうだいひとつ、おまえの目の玉へ親指つっこもうじゃねえか」
「む、眼潰《がんつぶ》し? ごめんこうむりましょう」
「さがって五円だ。ひとつ生爪ェはがそう」
「痛いねッ、あなた痛い芸が好きだね? なんかほかに芸はないんですか?」
「さがって一円ッ。てめえひとつ、ぽかァッと殴ろう」
「(ポーンと手を打って)請けあいましょう……請けあうよ、ぽかぽかァッとくると二円でしょ?」
「そうだ」
「ぽかぽかぽかァッとくりゃ三円?」
「そうだ」
「こうなるとあたくしゃァ商法ですからね、一個でもまちがえちゃァたいへんです。あたくしゃァ算盤《そろばん》を持つよあたしゃァ。へえッ、あなたがね、ぽかぽかぽかぽかぽかぽかァッてくるでしょ? あたくしゃァぱちぱちぱちぱちぱちぱちッ(と算盤をはじく手つき)ぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかぽかァッ、ぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちぱちッてんで、ぶたれ通しで、死んでいくら?」
「死んじゃっちゃしょうがねえじゃねえか、ばかだね、こんな欲ばったやつァねえな、どうも」
「へッ? はァ……はァはァ、ああさよですか、へえ、ありがとう存じます。ェェ仲間はありがたいですね、軽子《かるこ》姐さんのご忠告です。大将は力自慢だから、ぶちどこをうかがいやしょ、どこをおぶちンなりますゥ?」
「そうさァ、仮におれァ一円でぶつんだからなァ、最初、目と鼻の間いこうじゃねえか」
「あは、……じゃァあなた一個でまいっちまわ、いけませんよ。五十銭でようがすがね、この肩は?」
「按摩《あんま》じゃねえや、ばかッ」
「このねェ、踵《かかと》が二十五銭」
「そんなのいけませんッ」
「拳骨《げんこ》を見たばかりが、ただの五銭」
「ふざけるな、こん畜生。じゃあこうしろ、そのコップで一杯飲めッ、一円やるから」
「はァはァ、一杯飲みの一円いただき? へッ? 息をつかずにぐい飲み[#「ぐい飲み」に傍点]の一円いただき……あッはッはッは、あァたやるねェあァたァ。現金取引でしょうなァ? いけませんよこの前こんな大きな祝儀袋ォいただいて、あたくしァありがたいとおもって、家ィ帰って開けてみたら絵葉書が出たよあァた……あれェいけませんよ。へえ、さいですか、なにも、営業ですからねェ……ェェどうぞ軽子姐さんお酌を願います。ええ、お聞きでしょうけども今日《こんち》は営業でいただくんでござんすから、いっぱいでなくていいんですよ。ここんとこ、ものの八分目ということに願いましてね……ああッと(と、こぼれそうになる)……ううォッと、こりゃおどろいたねェ……こりゃ山盛りンなっちゃった……これァひどいなァ、ですからいまあたくしゃァ申し上げたでしょ? いえ、えへッへ、たいして別に、苦情言ってるわけじゃァない、ただいっぱいだってえ話を、あたくしが、いま……いえ、いいんですよ、いただきゃァいいんですから(と、軽く芸者をにらみ、口をコップに持っていき、きゅうッと一気に飲み)ふうゥッ、へい、いただきました」
「偉いなッ、見事だな、やるぞッ」
「へえいッ、ありがとう存じます。右まさに頂戴つかまつりました。へッ、受取りは差しあげませんよ、へえ。ェェこんだ、照ちゃァん、照奴さん、あァたお酌ゥ願います……えッへッへッへェ、姐さんはだめ、玉ちゃァん、えへへッ近所にいきますよ。お座敷ィ出たら、お互いに助けたり助けられたり、よござんすか? そこんとこをいろいろ按問をいたしまして、ああッ(またいっぱいに酌されて)あ、あァたあァた……押すね? いいえ大将苦情言ってるんじゃないんですよ、嫌だよあァたァにらめちゃァ……照ちゃんおぼえ[#「おぼえ」に傍点]といで。どうしてそういうことをするの? どうしてこうなんだろうなァどうも、こっちが頼んでんのに……みんないじめっ子なんだねェ、そういうあァたの心持ちならいいですよッ……(と、ひと息に飲み)ふうゥッ、はァ……いただきました」
「おい、大丈夫かい? いやならよせよ。やるぞッ」
「へいッ……ありがとう存じます、右まさに頂戴つかまつりました。ェェ受取りゃあ差しあげません。へえ、こんだふうちゃん、あァた、お酌ゥ。いえェェ、もう姐さんと照ちゃんはだめ。もう敵のスパイてえことォちゃァんと心得てるン。ふうちゃん、えッへッへッ、あなた、こないだ歌舞伎《かぶき》でおさらい[#「おさらい」に傍点]しましたねェ、巧《うま》かったねェじつに、おどろいた、え? あの薙刀《なぎなた》ァ持って、揚幕からねェ、とんとんとんとんとんとんとんとんッと出て来たでしょ? あの七三のとこでね、とおォんと極《きま》って見得ンなったときにね、お客さまがねェ、『うわァァ』ッとほめたらね、おッかさんねェ、涙ァこぼして、いえ、あたしの隣で見物してたン。うふゥうまかったねェ、いい形、ほんとうに、お世ェ辞でなく、まったく、えッへェそい[#「そい」に傍点]ですからねェ、そこんとこォねェいろいろねェ……おおッ、痛いッ、あッ、ああそう(と、またいっぱい注がれて)、敵は大勢味方一人、たんと、あなたそういうことをしなさい……ねえ、他人《ひと》の困るのをよろこんで……、あァよござんすよ、そういうあなた方が薄情な了見なら、こっちにも、いろいろ考えがある、いいんです、ねえ? じつに情けない(と、そろそろ酔いがまわって)あたくしゃァ、別に苦情を言うんじゃァ……(と、また飲み)ふうゥッ……い、いただきました」
「おうい、大丈夫かい? やるぞッ」
「へい、ありがとう存じ……へい、右まさに頂戴をつかまつり……さッ、こうなりゃァ破れかぶれだッ、さッ、いっぱいいらっしゃい、もうねェ、あたし卑怯《ひきよう》なことを言いませんよ、山盛りいらしてくださいッ、ええいいですよ、こうなれァもう、冗談言っちゃァいけない(と、なみなみと注がせて)よしよしッ、へへ、いい商売だな、へッへェ、お酒をいただいて、ご祝儀をいただいて、へッへッ、こいで家ィ帰りゃァお梅ちゃんが待ってるッてン。こういう間《ま》のいいときにゃァ帰りになんかあたしゃァ拾うよあたしゃァ……ェェあたしの運勢なんてものァ……(ふた口飲んで息をつき)ただならない[#「ただならない」に傍点]運勢ですからねェ……大将ッ、いいえ、これァねェ、ほんとうのことを申し上げ……長いことォご贔屓《ひいき》をいただいてますねェ、あたしゃァねェ、酔って言うわけじゃァないけれども、え? 十三年。長いね大将、しくじったこともあるけど、え? 朝起きるでしょ、帝釈《たいしやく》さまィ、拝むんだよ、あァたのことを(手を合わせて)『どうか、ェェ大将に、ェェなにごともございませんように。あたくしゃァ大将のために、生きていられます』やなんか……へ? なんですゥ? べらべらおしゃべりして、半分飲んで息をついている? あッはッはァ、あァたねェ、そんなことォ言うんじゃないのあァたァ。息をつくくらい……あァたのことォ芸者衆がほめてますよ、ほんとうに。服装《なり》のこしらい[#「こしらい」に傍点]がうまいッて。またあァたァねェ、お背ェがお高いから、なんでもお似合いだ。ねえ、洋服はもちろんのこと、結城紬《ゆうきつむぎ》が似合って、お召をめしてもにやけ[#「にやけ」に傍点]なくって、紋付羽織袴が立派で、赤い着物で鎖《くさり》を……(気がついて、自分の頬をつねる)いえ、いえ、ですからね、なんでもお似合い。それァもうね……(コップを見て)大将、これァあきれたねェ、あたくし半分いただいたン。これいつのまにかいっぱいンなっちゃったン。これァ五十銭いただきやしょう、へえ? てめえが間抜けだから注がれたんだァ? だれ? これ注いだなァ? どうして、こういうことすんの? お金が賭《かか》ってんだよこれ、さッ、大将これ、あっしァ、警察へ訴えるよ、ええ。営業妨害でしょ? よォし、くすくす笑ってやァらおぼえてやがれ、畜生め。ようしッ、そういうことをするならするで、いえ、こっちのほうにもね、考え……(と、三口ばかり飲み)どいつが注いだかねェ、こんだ犯人を捕縛《ほばく》しますから、ええ、かれらごときにねェ、あたしゃァこの土地の草分けですよ。あ、あッと、大将、ひどいね、どうも、油断も隙《すき》もならないね。……ふう公ッ、ふう的ッ、ふうちゃん、こっちィいらっしゃいッ、こっちィおいでなさいッ、おまえさんそういうことありかい? ありならありでいいよ。そういうこと、すんなら、こないだのこと、大将にばらすよ、あたしゃ。ええ? ひとが知らねえとおもってやがんな? 知ってるぞ、大将ッ、珍談。大珍談。このねェ、ふうちゃんなる者ァ、ふだんねェ、お座敷へ出て、『あたしゃあ男は嫌《きら》いだ』ッてなァことを言ってやしょう? それが大ちがいッ、あなたこないだ鳴尾《なるお》の競馬へいらした、あたくし東京駅へお送り申した、『大将、ご機嫌《きげん》よく行ってらっしゃいよォ』ッてんで汽車がすうゥッと出た。プラットホーム[#「プラットホーム」に傍点]から下ィ降りるとねェ、かのふうちゃんが向こうから来るじゃありませんか。あッ、ふうちゃんが来たなァッとおもうから、『ふうちゃん』ってあっしゃァ呼ぼうとおもったン。するとあたくしの顔を見てねェ、すうゥゥッと逸《そ》れたァ。はて、おかしなことをするなとおもうとねェ、大将、ふッふッふッふッ、逸れるわけ、へッへッへッ、逸れるわけあり。へッへェ、そばにねェ、乙《おつ》な丹次郎なるものがねェ、ステッキをつきの、洋服ごしらえ、それ、それ、あはは、あなたのねェ知ってるひと、あッはは、あなたのねえ、あのねえ、贔屓の役……(者といいかけて)、だめだいッ、いまさら和睦を申しこんだって、みんなしゃべっちゃわ、あのねェ、それがねェ(と袖を払い)あァ、およしなさいよ、おまえは、うッふッふゥ、お、およしだめだよ畜生めェ……くッくッくッくッくッ(うしろから擽《くす》ぐられて)だ、だめだよ、おいッ、擽《くす》ぐっちゃァ、おまえはねェ、あッは(とコップを見て)あ、またいっぱいンなっちゃったこらァ……こりゃァいけない(どオーんとコップを置き)ああ、いいえもう、もういけません……もう、こうなるといけませんからひとつゥあたくしゃァ、……踊りを踊る……」
「お、おいおい、あいつァね、たいへんに酔ってるからな。……おまえの踊りなんざァおい、見たかァないよ」
「そうでないですよォ。あなたはねェあたしの踊りを……そうどうして私《しと》の芸にけちをつける、それ(と、鉢巻をしようとして)、かっぽれを……」
「おいおい、危いよおい、みてやれよ。おい、大丈夫か、……あッ、あァ、あッたッたッ」
「とッとッと(と、前へのめり梯子段《はしごだん》から転がり落ちる)へッ、大丈夫大丈夫、大丈夫ですよォ……いいのッ。落ッこったんじゃァないんですよ、飛び降りたのッ。もうここンとこでドロン(と、忍術の手つき)……えッへッへッ、あのねェ、大将にそうおっしゃってくださいな『一八は落っこちましたけども、たいへんな重傷でございます、あれは、とても……助からないでしょ』って、こうおっしゃってください。そいでね、『ェェ香典を十分にやっていただきたい』ッてこうおっしゃってください、へえ。女将《おかみ》さんにお礼を……えッ? 女将さんお寝《やす》み? ああそうですか、それじゃァ……へ? そうですかァ? おみ折《おり》を? あァすみませんねェ、お目にかかれませんけどよろしくッ……いやッ、源ちゃん、おまえさんにィ……下足《げそ》を出してもらうということはァ、まことにもったい……これね(と、懐中から金を出し)これ、煙草煙草、な、なに言ってんのッ、えへッ、また、このお世話ンなります。じゃあァ、よろしくッ……さいならァッ……ああァいい心持ちンなった。あァありがてえ、ああッ(と、大きく息を吐いて)あァこっちの身体《からだ》ですよッ、こうなれァこっちのもんだね、へッへッ、(口三味線で)チャンチャチャンチャ、チャンチャンとくるね、あァありがてえな……こいで[#「こいで」に傍点]家ィ帰るとねェお梅ちゃん待ってるよ。『どうしたの? 遅いじゃないの』って、えッへッへェ、そいから、う、あたくしがひと言、叱言《こごと》を言いますよ、ええ。『冗談言っちゃァいけませんよ、あたくしは、商売ですよう』『商売だってなんだって、家ィ待ってる者《もん》の身になって、ちょうだいようッ』ッてなことを……言うからねェ、おれァ『なァにを……』(と、ぶら下げている折を振りまわし)あッ、なんだいこらァ折の底が抜けちゃったァ……これァおどろいたなァどうも」
「……ただいまァ、……ただいまァッ」
「いま開《あ》けるわよ。……いま開けるッてえの、どんどんどんどん叩《たた》いて……また酔っぱらって帰って来たんでしょう……臭いわねェ、お入ンなさい」
「ェェ、お土産《みやげ》、おみ折《おり》……」
「お土産ッたって、折の底が抜けてるじゃないの」
「折の、底が抜けてますけどもねェ、あの、蒲鉾《かまぼこ》だのねェ、照焼やなんかァねェあの、ポストの傍《そば》にいます」
「なんだい、いますッて? お上がンなさいよ、早くおやすみなさいッ」
「うふゥ、おやすみなさいッてねェ、師匠は? 寝た? うん。お梅ちゃんも? 寝た? あァ、いい、いいんですよ、ええそう、それをうかがえばァ(と、梯子段を上がる)こうやって、こっちはただ二階へ上がりゃァ、こっちの……もんだッ、やァ、あッはッはァ、これでいいんだよ、ねえ、これでねェ、チィンチーンとくりゃァ、おれがすうゥ……お? こらァまずいなァ。こらァ、お梅ちゃんとこィ行くには、師匠の枕元を通るねェ、師匠は目ざとい[#「目ざとい」に傍点]からねェ、『だれだッそこィ来たのァ?』『へ……一八でございます』『なにしに来たんだ?』『へえい、厠《はばかり》へまいりに』『厠はそっちだァ』……こらァまずいなァこらァ……こらァまずいねェ、ばかまず[#「ばかまず」に傍点]だよ、こう、(ポーンと手を打って)よォッ、天の助けだよ、へッ、ここにねェ、三尺の明り取りがあるってえやつです、ね? この明り取りの格子をねェ、こうあたしがつかむでしょ、(と、格子をつかみ)あたしが、一心、不乱に、なって、こういくでしょ。(と、格子をはずす)ね? えへッ、こっからあたしがどおォん……こら音がするねェ。『なんだなァ、いまの、どおォんてったのは?』『一八でございます』『どうしたんだい?』『へえ……ェェ、明り取りから、どおォんと』『明り取りに格子がはまってらァ』『格子の目から漏《も》りました』ッて、漏るわけァないねェ、これァまずい……(上を見て)あッ、えへッ、ここに、また天の助けだ。ここにねェ、横にこう柱があるでしょ。いろいろ、これをねェ、あたしが帯をほどいてねェ(と、帯を解き)この、柱の上ィ、これを、あたしがねェ、ようッ(と、上へ投げて横木にかける)……あ、たいへんな煤《すす》だねェこらァ……(顔の煤を払って)こォりゃァえらいことだ。こらァ足らないねェ。足らないところは腹巻を……(袖口から腹巻を引き出して、帯とつなげ)あたしがいろいろ苦心をいたしまして、腹巻をこう結《ゆわ》いつけてこう……ああ、まだ足らないねェ。足らないところは六尺の褌《ふんどし》を(と、着物の下に手を入れ)取るってえことについては、(褌をつなげ、たぐり下ろしながら)いろいろこの苦心を、いたしまして、こうやって……こうやって、ね? これで、チィンチーンっていうと、あたしがつるつるつるつる……あ、こりゃいけねえな目がまわるね……この目がねェ、まわらねえように、こう、目隠しを……手拭であたしがねェ、(と、手拭で目隠し)するということについては、ね? こうやって、あたしがねェ(と、手さぐりで、縄にぶら下がる)チィンチーンッとくると、つるつるつるつるつるゥっと、えへッ、えへッ、ここですよ。ここまで苦心、を、するという、ことにねェ、ついては……(と、前へこごみ、いびきをかく)」
一八はそのままいい心持ちで寝てしまった。
チィンチーンと鳴ったから、一八は、つるつるつるつるッと……。
もうとうに夜が明けていて、階下ではみんなが朝飯の膳《ぜん》を囲んでいる、そのお櫃《ひつ》のそばへぶら下がった。
「あァらッ、一八ッつァん、どうしたの?」
「(目隠しをとって)こらッ、あ! あッ……おはようござんす」
「この野郎、寝ぼけやがってまァ、そのざまァなんだ。まァどうも……」
「うッふゥ、どうも……あいすいません」
「寝ぼけやがったんだろ?」
「えッへッへッへェ、井戸|替《が》いの夢ェ見ました」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「なんになりましてもひとつの営業となりますと、これがやさしいていう商売はございません。とりわけてこの芸人仲間で、なにがいちばんむずかしいてえと幇間《ほうかん》だそうですな」
お馴染みの〈幇間《たいこもち》〉のマクラだが、幇間という商売は花柳界にはつきもので客に従い、遊興の酒間を幇《たす》くる、男芸者ともいわれ、今日では稀少価値的存在となって、東京周辺に二十人足らず存在する、という。
しかし、この噺の主人公、一八は、八代目桂文楽が、創造した、実在の幇間より、よりいっそう幇間らしい幇間であることにまちがいはない。
「幇間のお座敷のつとめかたを知るために、文楽は涙ぐましいばかりの苦労をしている。この落語の中に出てくる樋ィさん≠ニいう旦那は、実は樋口さんという実在の、文楽のよきご贔屓である。この樋ィさんとお座敷を共にするとき、文楽はいつもきまって、幇間を呼んでくれとねだる。そして酔ったふりをしながらも、本心は酔わないで彼等を観察しつくしたのである。吉原の幇間が町の太夫衆≠ニ呼んでいる新橋や赤坂や、柳橋や四谷、五反田や神奈川の幇間まで、ことごとく生態分析して、芸のこやしとしたという」(『桂文楽全集』〈立風書房版〉小島貞二氏の作品解説)
桂文楽は幇間の噺に、なみなみならぬ傾倒を示し、四季それぞれに、春は、「愛宕山」で土器《かわらけ》投げの山遊びをする一八。夏は、行きずりの客を鰻《うなぎ》屋の二階へ連れこんで、逆にいっぱい食ってしまう「鰻の幇間」の野《の》幇間《だいこ》の一八。秋には本篇。冬は、「富久」の木枯らしの吹く夜、火事見舞のかけもちに奔走する久蔵をそれぞれの色《ニユアンス》あいで演じ分けた。
噺家と幇間とは親戚ぐらいの関係で、幇間を扱った噺は、ほかに「太鼓腹」「王子の幇間」「羽織の幇間」などがあるが、愛嬌《あいきよう》をふりまき、人を娯《たの》しませるサービス精神に徹し、一八のように出入りの待合の飼い猫にまで気をつかう、気骨《きぼね》の折れることではおそらく噺家の比ではないであろう。――この噺を読物化《リライト》している筆者も、自然、噺に感情移入することになるが、この噺だけは、演者、桂文楽の肉体が乗り移ったような幇間の全身全霊に気を配った、身体《からだ》ごとの〈修羅場《しゆらば》〉を追体験する想いにさせられた。だから、一八が待合の下足番に祝儀を置いて戸外《おもて》へ出たときに、大きく息をつく、その心中に感嘆した。
それにしても、男の求愛《プロポーズ》に女が「うん」と言った日ほど、人生において重要な日はないと思うが、その日にすら、お客と飲みたくもない酒をぐい飲みし、一座のご機嫌を取り持ち、師匠の幇間が芸者の置屋を兼業とするその一軒の家に同居し、四年半も抱きつづけたお梅への恋情を、秋の一夜に無にしてしまう一八は、同情するにあまりある。サゲの「井戸替え」は、昔一年に一度、井戸さらいし、井戸から水を汲《く》み出したあとで、一人が太い縄につかまって、つるつると井戸の底へ降りていき、あたりを掃除した、それである。「一八ッつァん、ご苦労さアーま」と、心より言いたい。
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目黒のさんま
江戸時代は、士農工商という身分階級がはっきりと区別されていた。とはいっても、士である武士階級は、四民の上《みなかみ》に立ち、三民の上席を穢《けが》すなどと、権力をほしいままにしていた。そのなかで、大名は特権階級――先祖は、戦陣のなかを駆け巡って、何万石という禄《ろく》を食《は》む、ところが二代目三代目となって、世の中が平穏になってくると、どうも英雄であったり偉人であったり豪傑であっては具合いが悪い。そこでお側《そば》人が毒にも薬にもならないような育て方をする。
当時の江戸ッ子は、そうした大名をばかにして、いろいろな小噺をつくった。
「ああ、これこれ、三太夫」
「はッ、お呼びでございます?」
「うむ、お月さまは出ておるか?……今宵《こよい》は十五夜であるぞ」
「これは異なことをうかがいます。和歌、敷島《しきしま》の道にても、月は月と呼び捨てでございます。なにとぞ呼び捨てに願いとう存じます」
「おう、さようか。しからば月はどうじゃ?」
「一天|隈《くま》なく冴《さ》えわたっております」
「うむ、して、星めら[#「めら」に傍点]はいかがいたした?」
江戸市内は、将軍家のお膝元《ひざもと》であるから、「寄れいッ、寄れいッ」という制止《せいし》声、そのときだけ端《はた》へ寄っていればいい……いちいち土下座《どげざ》していたんでは、江戸市民の生活《くらし》は成り立たないから……中には、
「お、お、おい、立派だね、この行列は、ええ? あァ、加賀さま、おゥ、そうかァ」
友だちみたいなことを言って、慣れっこになっている。
「お、おい。お大名のお姫さまだよ、きれいだねえ。どうだい、おい、見ろよ」
「うン、見てるよゥ」
「見てるかい?」
「見てる見てる」
「……いい女だねえ、買いたいねえ」
「おゥ、この野郎、すぐなんでも買えるもんだとおもって、てめえなんぞ淫売《いんばい》買えッ」
この「淫売買え」という言葉が、お姫さまの耳へちらっと入った。……やがて館《やかた》へ帰って……。
「これこれ、さつき[#「さつき」に傍点]」
「お呼びにございますか?」
「ただいま、江戸市中通行のみぎり町人どもが『淫売買え』と申した。あれはどういうわけじゃ?」
「はァ……」
「遠慮のう話して聞かせ」
「……それは……あのゥ、下々《しもじも》の卑しき言葉にて、休め……休息をせよ、とのことにございます」
「おう、さようか」
と、その場をごまかした。……そこへ、当家のお年寄りがご機嫌《きげん》うかがいにやってきた。
「おう、これはこれは、姫君にはいつもながらご尊顔の体《てい》を拝し、爺ィは恐悦至極《きようえつしごく》に存じます」
「そのほうも堅固でよいの……何歳にあいなった?」
「本年とって八十二歳にござります」
「老躯《ろうく》のみぎり大儀である。ここはかまわん。つぎへ退《さが》って淫売買え」
「ああ、これこれ欣弥《きんや》、欣弥はおらぬか?」
「はッ、お呼びにございますか」
「ううン、今日は、日本晴れの上天気であるな」
「御意、秋晴れとはこのことかと存じます」
「ふむ、どうじゃ、ああ、紅葉を愛《め》でに参ろうか」
「はァ、おなじことなれば、武芸鍛練のために、遠乗りが結構かと存じます」
「ううむ、遠乗りか? 久しくせなんだが、いずかたがよいであろうか?」
「下屋敷からほど遠からぬ、目黒のあたりが結構かと存じますが」
「うむ、目黒か。あすこはいいの、うむ。では遠乗りをいたすぞ。支度をいたせ。……あとへ続けッ……参れェッ……」
と、殿様が飛び出した。おどろいたのは、家来、
「えッ、なに? なんか騒がしい……はッ? 殿様が? お出かけになった……遠乗りで?……これはたいへんだ、支度をしろッ」
あわてて、めいめい厩《うまや》へ飛んで行って馬を引き出すと……かあァーッ[#「かあァーッ」に傍点]と、うしろからばあァーッと追っかけた。
殿様のほうは、最初にばあァーッ[#「ばあァーッ」に傍点]と乗り出したが、ふだんあまり馬に乗りつけていないから、木製の鞍《くら》でごんごんごんごん[#「ごんごんごんごん」に傍点]やられるから、目黒に着いたころはもう意地にも我慢にも乗っていられない。だらしなく馬から飛び降りて、尻《しり》をなでているところへ……
「あァァ、遅ゥなりまして……、どうぞご乗馬を……」
「う、うッ……そのほうどもに尋ねるが、もし戦場に出て参り、馬を敵に射《い》られし場合は、そのほうどもはいかがいたす?」
「はァ……されば徒歩《かち》にて戦います」
「ううむ、よう申したな。あァ……向こうに小高き丘がある……松の木が生えておるな。あそこまでそのほうどもと駆け比べじゃ、うむ? 遅れるでないぞ、参れッ」
ばあァーッ[#「ばあァーッ」に傍点]……もうこうなると駄々《だだ》っ子、駆け出した。しょうがないから家来もいっしょになって馬を引きながら、駆け出した。……追い抜こうとすると、
「これこれ、なんだそのほう……なんだそのほう」
「はァ?」
「なんだ?」
「へえ……駆けてる……?」
「主人の前へ出るやつがあるか、無礼なやつだ……退《さが》れッ」
「はァ……」
これでは、家来は勝てっこない。向こうへ着くと……。
「あァ……いや、そのほうども、やはり余にはかなわんな」
「はァ、恐れ入りましてございます」
「あァ、空腹を覚えた……弁当を持て」
「……弁……だれか弁当を持ってきたか?」
「……べん……?」
「エエ、殿に申し上げます。あまり火急のことゆえ、弁当は持参をいたしません」
「なにッ、弁当がない?……(がっかりして)ああ、さようか……さようであるか」
殿様がひと言「どうして弁当を持って来ないんだ」と文句を言えば、家来のだれか一人が罪を背負わなくちゃァいけない。「そういうことは申してはあいならん」と幼い時分からよく言われているから、「おう、さようか」と言ったものの、空腹だけはどうにもならない、それは家来とて同じこと……。
「…………」
がっくり肩を落として、溜息《ためいき》をもらし、ぼんやり松の根元に腰をおろして、澄みきった秋の空を眺める。鳶《とんび》がピィーッと鳴きながらまわっている。
「……あァ、あの鳶は弁当を食したであろうか……」
「お痛わしい……」
そこへ、付近の農家で、ちょうど旬《しゆん》の、秋刀魚《さんま》を焼いている。その匂いが、殿様の鼻へすうゥッと漂ってきた。
「おゥ? これ、欣弥」
「はッ、お呼びにございますか」
「ふんふん……この異《い》なる匂いはなんだ?」
「はッ、異なる匂い?……恐れながら、百姓家にて焼きおります秋刀魚にございます」
「うむ、秋刀魚、なんのことじゃ?」
「秋刀魚と申す魚《うお》にござります」
「ふゥむ、余は、さようなものを食したことがない」
「これは下司魚《げすうお》にござりまして、下民《げみん》の食しますもの、御大身《ごたいしん》のお口に合いませぬが……」
「黙れッ、なにを申しておる。うむ?……戦場へ来て腹がへっては戦《いくさ》はできるか、一朝事あれば、なんでも口にいたさんければならぬ。苦しゅうない、秋刀魚をこれへ持参いたせ、目通り許す……」
「へへッ、かしこまりました」
家来もしかたがないから、匂いを頼りに農家へやって来て……脂肪《あぶら》がのりきっている盛りだから、もうもうと煙が舞いあがって、
「おう、ひどいな……こりゃどうも、あァ、許せよ」
「なにかご用で?」
「あァァ、秋刀魚を焼いておるな」
「へえ、あのゥ、すぐにやめますで……」
「いやいや、やめんでよい。ェェ、じつは、余の儀ではないが、ご主君が、そのほうの家で焼いておる秋刀魚の匂いをおかぎ遊ばして、秋刀魚を食したいと申せられてな……わけてくれるわけにはまいらぬか?」
「ああ、さようでございますか……いいえよろしゅうございます。ェェ、品川まで出ましたら、秋刀魚が安いもんで、ェェ、ひと山買ってまいりまして……」
「おうおう、ひと山あるか?」
「へえ、まだ箸ィつけておりません、そっくり残っておりますがァ……」
「うむ、どのくらいある?……二十匹ばかりある? おうおう、それは重畳《ちようじよう》じゃ……ァァ、めしはどうじゃ? うむ、炊きたてで一升ある、うん、それも譲ってもらいたいが……すまんな……では、これはほんの礼じゃ」
「いやァ、小判なんかァ出されても困りますんで、へえ。この村中探したって釣銭《つり》なんぞございませんで……」
「いやいや、釣銭《つり》はいらん、そのほうに遣わす」
「あれッ、さようでございますか。ありがとう存じます、ええ、あのゥ、なんでしたらもう一ぺん品川へ行って……」
「もう、そんなに秋刀魚はいらん」
縁の欠けた皿へ焼きたての秋刀魚を五、六本載せて、お手のものの大根おろしを添えて、悪い醤油だが、上からちょっとかけて、殿様の前へ差し出した。
殿様は見ておどろいた。……魚というものは、すべからく平べったくて、真っ赤なものだとおもっている。そこへ真っ黒なものが出てきた。だいいち、焼きたてなど食べたことがない。それがもう、チュプチュプチュプチュプと脂肪《あぶら》がたぎっている。横ッ腹のほうへ消炭がささっていて、まだぶすぶす燃えている……。
「うむ……これ、欣弥、これは奇な形をしておる。食して大事ないか?」
「はァ、殿……天下の美味でございます」
「これは天下の美味?……さようか…………」
怪訝《けげん》な顔をしてこわごわ口へ持っていってひと口食べてみると、うまい。お腹が空《す》いているときはなにを食べたってうまい。そこへもってきて、焼きたての旬《しゆん》の秋刀魚、まして野外で食べる。
「うむ、これは美味なものである。代わりを持て、代わりを持て……」
五、六匹、またたく間にたいらげた。
「あァ、美味であった。……そのほうどもには骨を遣わす」
「……ありがたき仕合わせにござります。……恐れながら申し上げます」
「なんじゃ?」
「お屋敷へお立ち帰りののち、ここで秋刀魚を食したということは、ご内聞に願います」
「いかんか?」
「ご重役のお耳に入りましては、われわれ役目の落ち度に相成ります」
「さようか、うむ。……そのほうどもに迷惑になること、余は口外はいたさん」
「ありがたき仕合わせ……」
さて、帰ってくると、また食膳《しよくぜん》にあいもかわらず鯛《たい》が出てくる。それを見ちゃあ……、
「ああ、秋刀魚はうまかったな……」
しかし、口外してはいけないというので、ぐっとこらえている。ところが、こらえればこらえるほど、想いが募って……秋刀魚に恋い焦がれる……。
「あァ、これ、欣弥」
「はァ……」
「また、目黒なぞに参りたいの」
「はァ、目黒は風光|明媚《めいび》にいたしまして、山あり谷あり……」
「これこれ、景色などどうでもよい。あァあの折出て参った、長やかなる、黒やかなる……」
「えッへん、……おこらえください」
「さようか。……これは口外してはならぬことであった、気のつかんことをいたした……しかし、あの折の秋刀魚はうまかった」
こんなぐあいで、ちょいちょいすっぱぬかれるから、家来のほうでもひやひやしている。
そのうちに、親戚へ客として招《よ》ばれた。
「今日《こんにち》は、なんなりとお好みのお料理をご調達、承ります」
「余は、秋刀魚であるぞ」
「はァ?……ははァ……」
「エエ、お殿様のお料理承って参りました」
「うむ、なんだ?」
「はァ、秋刀魚」
「……秋刀魚?……それは貴公の聞きちがいだ。御大身のお方が秋刀魚をご存じのわけがない、大方あんま(按摩)じゃないかい」
「あんま?……あんまは食えんよ」
それもそうだというので、再度おうかがいをしたところ、
「わからんやつじゃな。余は秋刀魚と申した。黒き長やかなる魚《うお》であるぞ」
「ははァ」
秋刀魚の用意をしていないので、早馬でもって、日本橋の魚河岸へ仕入れに行って、極上の秋刀魚をあつらえてきたが、料理番が、焼いて脂肪《あぶら》の強い魚だから、もし身体《からだ》にでも障《さわ》ったら一大事と、秋刀魚を開いて蒸器《むし》へかけて、すっかり脂肪《あぶら》を抜いてしまった。小骨も毛抜きで一本一本、丁寧に抜いたから、形がくずれて、そのままでは御前に出せないから、お椀《わん》にして、お汁《つゆ》の中に入れて出した。
「……これは、秋刀魚か?」
「御意……秋刀魚にございます」
「さようか、どれどれ……」
殿様が椀を取り上げて、蓋《ふた》を取ってみると、ぷうーんと微かに秋刀魚の匂いがする。
「おお、この匂いはまさしく秋刀魚じゃ。いやァ懐しかった。そちも堅固でなによりであった」
と、ひと口食してみたが、蒸して、脂肪が抜いてあるからぱさぱさ……うまいはずはない。
「……うむ、これこれ、この秋刀魚、いずかたより取り寄せたのじゃ?」
「はァ、日本橋は魚河岸にございます」
「あァ、それはいかん、秋刀魚は目黒にかぎる」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「まえがき」[#「「まえがき」」はゴシック体]参照。収録した定本《テキスト》は、十代目金原亭馬生所演のもの。この高名《ポピユラー》な落語を記念して、東京都目黒区教育委員会は、『目黒のさんま』の碑を現地に建てた。〈茶屋坂は目黒区中目黒一丁目。ここは、江戸から目黒にはいる旧道のひとつで、富士のながめのよいところでした。中目黒の百姓彦四郎が農業の片手間に開いた有名な爺々が茶屋は、家光いらい歴代将軍の遊猟のときの休み場でした。有名な落語の『目黒のさんま』の逸話はこれがおこりだといわれます〉と江國滋著『絵本・落語風土記』は報告している。
殿様を主人公にした落語は多いが、この噺と類似した内容で、古今亭今輔所演の「ねぎまの殿様」があるが、その他に、殿様が蕎麦《そば》を打つ「蕎麦の殿様」、国へ帰った殿様と吉原と三百里の間を使者を頼んで盃の返盃をする「盃の殿様」、将棋に凝った「将棋の殿様」、三味線とそっくりに鳴く鳥を買う殿様の「三味線鳥」などがある。
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厩火事《うまやかじ》
短日や夫婦のでるのひくのかな 久保田万太郎
「どうしたいお崎《さき》さん、また夫婦|喧嘩《げんか》なんだろう?」
「そうなんでございますよゥ」
「そうなんでございますよゥじゃないよ、三日にあげずの喧嘩だよ、始終《のべつ》だよ。たしかにあたしは、仲人《なこうど》はしたよ、仲人はしたけど、おまえの家っくらい喧嘩する家ってえなァ……始終《のべつ》だよ。仲のいいときにゃちっとも出てこない。喧嘩したってそのたんびに引き合いに出されちゃ、なんぼ仲人だって迷惑だねえ。どうしたってんだい?」
「こういうわけなの、今朝《けさ》家を出るときにね、『夜業《よなべ》がふたァつあるからかならず五時までには帰ってくるから、すぐ家《うち》ィ帰って来たらご飯を食べられるように』って、うちの亭主《ひと》に言いつけて、あたしゃ表へ出たんですよゥ」
「おいどうでもいいけど聞き苦しいねェ、亭主にものを言いつけるておまえさんねェ、そいつがいけないてんだ、少しばかり稼ぐのを鼻にかけて……女は女らしくてえことをあたしが毎度言うだろ? そんなこと改めて叱言《こごと》を言ったってしょうがないが、それがどうしたってんだ?」
「表ェ出たんですよッ。たら、あたしの姉弟子《あねでし》のね、お光ッつァんて人に会っちまって、この人が指を怪我《けが》して当分髪を結《ゆ》うことができないッて。『おまえさんすまないけども、あたしのお顧客《とくい》で、どうしても今日は結い日で行かなくちゃならないんだけども、あたしがこんな身体《からだ》ンなって……すまないが代わりに行ってくれないか』って、お互いの事《こ》ってすからねェ、あたしがまた病気ンなって、お願いするばやい[#「ばやい」に傍点]もありますから『よろしゅうございます』ッて、伊勢屋さんっていう家ィ行ったんですよッ。おかみさんの頭ァ結っちまった。この髷《まげ》がちいちゃいからわけェないんで……『娘が明日《あした》、芝居へ行きたいてえますから、ぜし[#「ぜし」に傍点]もひとつ結ってもらいたい』商売ですからねェ、その家のまた娘の毛が悪《わり》い毛の癖っ毛で、『ここが出てるの、ここが引っこんでんの』って頭の毛の悪い人ほど、髪形《あたま》ァやかましいんで、ごまかして結っちまったんですけどもねェ、もっとも少しは遅くなったんですけども、七時ころンなったんですよッ。なにが気にいらないんだかしれないけど、家ィ帰《かい》ったら真ッ蒼な顔ォして、怒ってるんですよ。『どこォ遊んで歩ってやァんだ』と、こういきなり言うでしょ、……旦那のまえですが、あたしが遊んで歩ってるわけァないじゃありませんかッ」
「なンなンなン……おまえにあたしゃ叱言を言われてるようだなァまるで……」
「あんまりくやしいから、そいってやったんですよ。『なに言ってやんだい』ッてそいってやったン……『だれのおかげでそやって昼間っから家で遊《あす》んでいられるんだ』ッてそいってやったんです。向こうも男ですから負けてやしませんからねェ、『なにを生意気なことを言やがんだ、このおかめ[#「おかめ」に傍点]めッ』ってんですよ。そいからあたくしもくやしいから『ひょっとこめェ[#「ひょっとこめェ」に傍点]』ってそいってやったんですよ。そしたら向こうが『般若《はんにや》』ッてんでしょ、そいからあたくしが『外道《げどう》』ッて……」
「おいなんだよおい……おい、面づくしで喧嘩ァしてやがる……まァどうでもかまわないがねェ、で、おまえさんはねェ……どういう心持ちで今日はあたしンとこィ出てきたんだよ」
「もう仲人までしていただいたんですけどもね、今日ってえ今日はもう、愛想もこそも尽き果てましたからね、旦那にお願いして、あたしゃァ別れさしていただこうとおもってね、そいで上がったんですけども……」
「ああそう……あッはッはッはッは、いいでしょういいでしょう、お別れお別れ、ああ別れるほうがいい、あたしも肩抜けだよ……おまえさん考えちがいしてちゃいけませんよ、え? おまえさんの亭主てえものはあたしのほうから出た人間だよ、ほんらいならば、おまえの亭主をあたしゃ庇《かば》わなきゃァならない……庇えないあたしゃ……おまえさんがそう言うから話をするんだよ、おまえさんの亭主のことについて、あたしゃ気に入らないことがあるよ。二、三日前の事《こ》った、おまえの家の前まで行ったんだよ、格子がこのくらい開《あ》いてるだろう……そうでもない、不用心だから、『おいいるかい』って表から声をかけると、『旦那でございますか? まァお入りくださいまし』と、布団を出してくれました、お茶も出してくれた。『まァお入ンなさいまし』と言いながら傍《そば》にあったお膳《ぜん》をこう片づけた。お膳の上を見てあたしが気に入らないてもんだ。刺身を一人前とったと見《め》えるんだ。こらァまァいいや、酒が一本載ってるだろ、これであたしが気に入らない。そうだろ、よく考えてごらん、女房が昼間、油だらけンなって稼いでる留守に、亭主《ていし》だからって留守に遊《あす》んでて昼間っから、家で酒ェ飲んでちゃ困るだろ? 人間っていうものはあたしゃそういうもんじゃあなかろうとおもう。男の働き[#「男の働き」に傍点]てえのは世間さまの言う事《こ》った。男が働いて女房ってえのは家にいるが、おまえンとこはあべこべだ。おまえが稼いで亭主《ていし》が家にのらくらしてるんだ、え? だから飲むなじゃあないよ、飲むなじゃないが、おまえが帰《かい》って来てから飲んだらどんなもんだ。真ン中へ一人前の刺身を置いて、ふたァりが差し向かいで飲んでてごらん。聞けばおまえも飲む口なんだろ? ひとっ猪口《ちよこ》やふたっ猪口は飲めるんだろ? え?『あすこの夫婦は仲がいい』てなもんだ。こんなこと言うなァ、大きなお世話かもしれないよ、あたしのほうがちがってるかもしれませんよ、けれども、話が出たから、あたしゃそう言うんだよ。遠慮することないよ、縁がないんでしょ、お別れお別れ、別れるほうがいい、うるさくなくっていいんだ、お別れ……別れなさいッ」
「……そらァまァそうですけどもねェ、なにもお刺身を百人前|誂《あつら》いて長屋へ配ったってわけじゃあないんですし、二升も三升もお酒飲んで泡《あわ》ァ吹いてひっくる[#「ひっくる」に傍点]返《かい》って寝てたってわけじゃあないんですから、暇な身体《からだ》なんですからねェ、お金に不自由があるわけじゃあないんですから、一合のお酒や一人前のお刺身ィとったってなにも旦那、そんなにおっしゃらなくたっていいでしょ」
「おいどうなってるんだいおい……それだからあたしゃ『夫婦仲の口はやたらきけない』ってな、このことなんだよ。おまえがねェ、『今日てえ今日は愛想もこそも尽き果てた、別れたい』てえから話をするんだよ、じゃあいったいどうしようってえんだよ」
「どうしようったって旦那、じれったい」
「こっちがじれったいよ。だからどう……」
「そら旦那の前ですけどもあたしだっておいそれといますぐって、別れたかァありませんけどもあの人よりこっちが年齢《とし》でも若けりゃあよございますよ、七つもこっちが年齢《とし》が上なんじゃありませんか……だから心配なんじゃありませんか。女なんてものァ年齢《とし》をとっちまえば嫌《きら》われるにきまってますからねェ、皺《しわ》だらけの婆さんになっちまってどうにもこうにもしょうがなくなっちまって病気にでもなって、寝てえてごらんなさいな、若い女でも引きずりこんで、変な真似ェされりゃあ、いい心持ちァしないでしょ? そんなときに食いついてやろうとおもってもそンときァもう歯もなんにも抜けちまって土手ばかり……」
「……そのおまえさんはそのおしゃべりでいけないねェどうも。あたしがひと言しゃべると、おまえ二十言も三十言もしゃべらァ……それじゃァおまえ、喧嘩の絶え間がないよ」
「また旦那の前ですけどもね、鉦《かね》と太鼓で捜しても、あんなやさしい亭主を持つことは、もうこれっきりできないとおもうほど、やさしくしてくれることもあるんですよッ」
「なんだいおい……」
「だけど、あん畜生死んじまえばいいとおもうことがあるんですよ。だから、あの人てえものがほんとうに人情があるんだか不人情なんだか、共白髪《ともしらが》まで添いとげられる人なんだか、死に水を取ってくれる人間なんだか、なんだかあの人の了見ってものがふわふわふわふわしてて、ちっともあたしにわからないんですもの」
「……おいどうもねェ、お崎さん、おまえさん困るよ。おまえさん八年も添ってるんだ、いいかい? 八年も添ってるおまえさんにわからなくって、あたしにわかりようがないでしょ? まァしかし聞いてみりゃ気の毒だ。人間の心の試しようてえものはあるよ、おまえがそういうから話をするんだが、おまえ唐土《もろこし》を知ってるかい?」
「知ってますとも、お団子でしょ?」
「お団子じゃァないよ、支那、中国だよ」
「はァ?」
「ここに孔子という学者があった」
「あァ幸四郎の弟子かなんかですね?」
「役者じゃないよ、学者」
「あァ、がくしゃ[#「がくしゃ」に傍点]ッてえと、どんなもんなんですゥ?」
「まるでわからない……いまでいう文学博士とでもいう、学問のある偉い方なんだ。そういう方だから、町なかへお住まいンならない、いつでも郡部《ぐんぶ》というような静かなところへお住まいンなってた。昔のことだ、お役所へお勤めンなんのに馬でお通いンなる。二頭の馬があった。一頭のこの白馬《しろうま》のほうを、たいへんに孔子さまが、お愛しンなったんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですね、うちの亭主《ひと》もたいへんあれが好きなんで、『夏はいけないけど、冬はあれにかぎる、温《あ》ったまっていい』って」
「おい濁酒《どぶろく》の話をしてるんじゃあないんだよ、白馬ったって乗る馬だよ」
「ああ乗るお馬なんですか? それがどうしたの?」
「その日に限って孔子さまが、乗り換《が》いの黒馬《あお》の方ン乗ってらした。その留守にお厩《うまや》から火事が出た。弟子たちは心配をして、ご愛馬の白馬に、怪我でもあってはたいへんと厩へ飛んでって、どうかしてこの白馬を出そうとおもった。どうして動《いご》くことか、名馬ほど火を怖《おそ》れる……の譬《たとえ》、だんだんだんだん弟子のほうで、あとへ引きずらいた[#「ずらいた」に傍点]。命にァ代えらんないから羽目を蹴破って弟子はのがれた。馬は焼け死んでしまった。孔子さまがお帰りてえことンなった。『お帰《かい》り遊ばせ。あやまって厩から火を発しましてございます。ご愛馬の白馬《はくば》が』と言わないうちに孔子さまが、『弟子の者ォ一同怪我はなかったか?』とおっしゃった。『弟子の者ォ一同無事にございます』『そうか、それは重畳《ちようじよう》であった』って、にこにこ笑ってらして、ほかのことこれっぱかりもおっしゃらない。どうだい、偉い方だろ? そのお弟子はなんとおもう『ああァありがたいご主人だ、この君ゆえには一命を投げうっても尽くさなきゃあならない』とおもうだろ? これがお崎さんの前だけど、一事が万事てえやつだ。これにその反対をした話がある。麹町《こうじまち》にねェ、さるお邸《やしき》の旦那さまがあったんだよ」
「ああらそうですかねェ、三本毛が足らないなんてうかがいましたが、猿が、お邸の旦那さまンなったんですか」
「おまえはそういう了見だから喧嘩をするんだよおい……猿がお邸の旦那さまンなるわけがないでしょ、さる旦那てえなァ、名前が言えないからさる[#「さる」に傍点]旦那てえんだ」
「ああその旦那が……」
「この旦那《だあ》さまがたいへんに、瀬戸物に凝ってらっしゃるんだ」
「ああらそうですかねェ、似たような話があるもんですねェ、うちの亭主《ひと》もたいへん瀬戸物に凝ってるン。こないだねェ、一円六十銭で罅《ひび》だらけの瀬戸物ォ、買ってきたんですよゥ。そいってやったの、『もったいないじゃないか、一円六十銭も出して、そんな罅のいってる瀬戸物ォ買うやつがあるかい』ってそいってやったんですよ。『罅がいってるから、われわれの手ェ入るんだ、罅でもいってなかったひにゃァわれわれの手へ入る品物じゃァない』なんて自分でねェ、箱をこさえて、黄色い布巾《きれ》で撫《な》ぜ……」
「うるさいなァおい……おまえの亭主《てえし》が買うその一円六十銭、二円、そんな物じゃあないんだよ。何千円何万円っていう品物なんだ」
「そおーですかねェ、そんな大きな瀬戸物があるんですかねェ」
「おい、大福やなんかとちがって大きいから高いってわけのもんじゃァないんだよ。こんな小さいもんでも何千円何万円っていう品物なんだ」
「ああそれがどうしたんですゥ?」
「折しも珍客がいらしった」
「うふッ、猿が旦那だてえんで狆《ちん》かなんかお客に来たン」
「珍しい客を珍客てんだ」
「じゃ始終来るお客さまをわん[#「わん」に傍点]客とか……」
「おい、あたしの話を黙って聞きな。お好きな道だから瀬戸物を出して、よもやま[#「よもやま」に傍点]のお話をなすって、お客さまがお帰りてえことンなった。あと片づけを奉公人にさせない、粗相があってはいかんから、安い品物じゃないから、いつも奥さんがお片づけンなる役だ。いま奥さんが瀬戸物を持って、二階から降りようとすると、女は血の道、血の加減、目がぐらぐらッと眩《くら》んできた。前へのめりそう、前へのめっちゃあたいへんだからうしろへ少し反《そ》るようになすった。……足がうわずった。足袋が新しいから、つるッとすべると、どッどッどッどッどッどッどッどとォー、落っこってしまった。それでもふだん瀬戸物が大事だなッとおもってらっしゃるから、瀬戸物を差しあげたなり尻餅《しりもち》をついてらした。この物音に旦那が出てきた。『おいッ、鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか、瀬戸物をこわしゃァしないか鉢をこわしゃァしないか』と、息もつかずに三十六|遍《ぺん》おっしゃった。『瀬戸物は大丈夫でございます』『気をつけんければいかんよ。え? 安い品物じゃァないよ、瀬戸物大丈夫だったか? そうか、あッはッはッ、そらァよかった……』てえんで、これだけのお言葉だ。これがお崎さんの前だけど一事が万事てえやつだ。奥さんの姿が見《め》えなくなった。方々捜したところがわからない。そのうちに、お仲人が来て『ご離縁をいただきたい』ッて『どういうわけで?』『瀬戸物のことを聞いて身体《からだ》のことを少しも、おたずねくださらないところを見るとお宅では、娘より瀬戸物のほうが大事なんでございましょう。そういう不人情なところへ、かわいい娘をやっとかれません。末が案じられるから離縁状をくれ』ッと、こりゃ理屈だよ。その旦那だって、瀬戸物《せともん》と人間といっしょンなるわけがないよ。けれどもだ、凝ってるときというものはしかたがないもんだ、瀬戸物よッか[#「よッか」に傍点]ほかに頭がない。出したくもないご離縁を、出したてえ話があるン……いまだにその旦那《だあ》さまはご独身だ。『あの方ァ不人情な方だ』ッて売りものンなっちまって、嫁の世話のしてがないてな気の毒な方だろ? おまえの亭主が瀬戸物を大事にしてる……ちょうど幸いだい、これから家ィ帰って亭主がそのいちばん大事にしている、箱に入ってる瀬戸物ッてやつねェ、どっかぶつけてこわしてごらん。おまえの亭主がだよ、その瀬戸物のことごてごて言ってるようじゃァおまえの亭主はゼロだよ。瀬戸物ァ金で買えるんですよ、おまえの指一本でもたずねてごらん、そらたいしたもんだ。ふだんねェ、男ってえものはべらべらおしゃべりするもんじゃないんだよ、なんでも男ァ腹だよ、わかったかい?」
「……ああらまァそうですかねェ、へえェおもしろい話があるもんですね。そりゃ旦那の前ですけども、あたしの身体と瀬戸物《せともん》なんぞといっしょンなるわけありませんから、そりゃあたしの身体のことを、聞いてくれるとおもいますねェ」
「おもいますねェッたって、おまえそこを疑《うたぐ》って、……そこを試すんじゃないか」
「あ、なるほどそうですねェ、瀬戸物《せともん》ずいぶん大事にしてますからねェ……これがうまく唐土《もろこし》のほうであってくれればよございますけど、これが麹町の猿ンなったひにゃァしょうがありませんからねェ、旦那あたしゃァ心配で……旦那すいませんがねェ、あァたひと足先ィ家ィ行ってくれませんか?」
「ふうん? あたしがおまえの家でどうするんだ?」
「あいつが瀬戸物をこわすから、かならず身体のほうを聞いてやってくれ……」
「そんなこと言ったひにゃあだめだよ。おまえさんはねェ、充分にその未練てえもんがあって……こうおし、こうおし、教《おせ》ェてあげますから……これから家ィ帰ったら台所のほうから入んなさい。亭主にあやまんなさい。え? たとい[#「たとい」に傍点]どんな亭主でも男だよ、男は立てなくちゃいけませんよ。あやまって……竈《へつつい》のそばのなァ、糠《ぬか》味噌の桶の入ってる縁の下があるだろ? あの縁の下の上の板をずっとき[#「ずっとき」に傍点]、板をずるんだよ、いいかい? 瀬戸物を持って、その上へ乗るんだよ、片足縁の下ィ突っこむン、とたんに持ってる瀬戸物を、竈の角かなんかにぶッつけてねェ、めちゃめちゃにこわしてごらん、どっちを聞くか、おまえの一生だぜェ、おもいっきってやってごらん」
「そうですかねェ、もうあたくしも、もう長年の苦労ですからねェ、畜生めェほんとうに……(と、鼻をすする)」
「おもいきってやってごらん。また困ることがあったら家ィおいで、え? どんなにでも相談ンのるから」
「ありがとう存じます。じゃおもいきってやってみますから……おあとまたうかがいますから、はァ……お世話さまでございました。さよなら、ごめんくださいまし」
「ちョいとォ、ただいまッ……うふッ、うふふ怒ってんだよ怖《こわ》い顔ォしてェ……おまえさん怒ってるんだろ?」
「怒ってやしないけど、おまえみたいじゃしょうがないよ。長い月日だよ、夫婦なんてもなァそんなもんじゃァないよ。たまにァおまえにだっていやなこともあるだろ、おまえに対して気に入らないこともあるだろう、あるだろうけどもおまえが気に入らないって飛び出して、三時間も四時間も帰《かい》って来なきゃしょうがないんだよゥ。少しばかり稼ぐの鼻にかけやがって、髪結《かみいい》がどこが偉いんだ、おまえは人間いいけどもわがままでいけませんよ。こっちァいいか、飯《めし》を食おうてんだ、おまえが帰《かい》ってくんの、こっちゃァ待ってるぐらいにしてンじゃねえか」
「あら、ご飯食べるッておまえさん、あたしの帰《かい》ンのを待ってたの?」
「そうよ」
「おまえさんあたしといっしょにご飯食べたいかい?」
「こん畜生、変わってやんなァこいつァ、ばかだなァこいつァ……食べたいかいって、夫婦じゃァねえか。朝みねえな、『いまこっちに温《あ》ったかい飯《めし》ができるんだから、おまえ同し事《こ》ったから、温ったかいほう食べといで』って、『そうはいかない顧客《とくい》のほうが肝心だから』って出てっちまうだろ。昼間ァ店《たな》で飯《めし》を食っちまうんだろ? 晩だけじゃねえか夫婦が差し向かいで、飯が食いてえじゃねえか夫婦じゃねえか」
「あァらちょいと、おまえさん、もろこし[#「もろこし」に傍点]だよ」
「なんでえ、もろこし[#「もろこし」に傍点]ッてなァ?」
「まァわからないもんだねェまァ、旦那は偉いね、まァどうも……あたしゃね、瀬戸物のほうへとりかかるから」
「おい、なんだいその瀬戸物《せともん》のほうへとりかかるってなあ?……おおいッ、なァに? そんなとこを開けちゃァ、おおいッ、洗ってあるんだよォッ、醤油ゥひと垂《た》らしこぼれてんじゃァないよッ、洗って……」
「洗ってあったっていいじゃァないか、おまえさんのものァ、あたしの……」
「だからいいさァ。いい……おい、よせよ、……いまそんなものを出したってしょうがねえじゃねえか、おいッ! こわしでもしたらしょうがない、それ安いもんじゃないんだよッ、買えやァしないよッ!」
「……(茶碗を手に)だから心配ンなっちまうねェ、いまもろこし[#「もろこし」に傍点]だとおもったら、もう麹町ンなっちゃった」
「変だなおい、危い、変な格好ォして……あッ! そォッ……そォれ見やがれこわしちめえやがった……ばかだなァ言わねえ事《こ》っちゃァねえや、ンなところへ入《へえ》ってたってしょうがないじゃァないかいおい……どっか身体ァ怪我ァなかったかァ? おい、どっか身体……なにをぼォッとしてるんだ、瀬戸物ァ銭で買えるんだよッ、身体ァ怪我ねえかッて聞いてるんじゃあねえか」
「まあァッ……(袖で涙をぬぐい)ありがたいじゃァないかね、あたしゃァもう心配することもなんにもない。おまえさんそんなにあたしの身体が、大事かい?」
「あたりめえじゃねえか。怪我でもしてみねえ、明日ッから遊《あす》んでて酒飲むことができねえ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 八代目文楽が創造した、女髪結のお崎さん――。山本益博著『桂文楽の世界』は、「お崎のことばはけっして愚痴ではあるまい。おそらく、姉さん女房だけが抱える哀しい心情の率直な吐露であるにちがいない。ここでわずかだがしんみりと感じさせるので、この噺の後半でのお崎の悲喜こもごもの心境が鮮やかに甦えるのである。文楽の噺のなかでも、この『厩火事』は夫婦の人情の機微を描きだしていることで出色の噺ではなかろうか」と評している。
もともと三代目柳家小さんの持噺で、「一合のお酒や一人前のお刺身ィとったってなにも旦那、そんなにおっしゃらなくたっていいでしょ」と、お崎が旦那に逆にくってかかる、この箇所が文楽が気に入って、この台詞《セリフ》が言いたくて、伝授されたという。当時、三代目小さんが演じていた原型は、お崎が夫婦になった馴《な》れ初《そ》めが入っていて、四十分以上の長篇であったという。それを、枝葉末節を取り払い、噺の焦点《ポイント》をお崎の、文楽の言う「むずむずした女の情を出す」、文楽特有の研鑽《けんさん》によって、邪心のない、愛らしい、少々おしゃべりで、勝気なお崎像――人間像がつくり出された。
例によって『論語』の「厩|焚《や》けたり、子朝《しちよう》より退き、人を傷えるかとのみ言いて馬を問わず」が比喩《ひゆ》されているが、どちらかというと『番町皿屋敷』、青山|播磨《はりま》の妻、お菊の悲劇を庶民感情で戯化《パロデイ》している展開ではないか。また、文楽所演の孔子の説明部分では、中国→中華民国、孔子→殿様、弟子→家来となっている。本篇はそれを訂正した。
そうしたことはともかく、サゲの、心憎いまでの逆転、これほどの「落語的」なサゲは他に類がない、サゲの格付《ランキング》けの最上位へ推したい。このサゲを聞くと、「最後に笑うものがほんとうに笑う」という、諺《ことわざ》を思い出す。
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寿限無《じゆげむ》
「どうでえ、見ろやい。あは、動《うご》いてる動《うご》いてる。生意気に……」
「あたりまえさ、生きてるんだからさァ」
「けど、どうしてこう赤い顔をしてやがんだろうなァ、めでてえからって一杯飲んで生まれてきたのかァ?」
「ばかなこと言って……赤ん坊はみんな赤い顔をしてんだよ、だから赤ん坊じゃァないか」
「なるほど、ちげえねえや。……それにしてもおっかァばかり心得ていやァがって、おいらになんとか挨拶がありそうなもんじゃあねえか。『おとっつぁん、こんにちは。このたびはどうもいろいろとお世話さまになりました、どうか末永くよろしく……』とかなんとかさァ」
「あきれたねェ、この人ァ、まだ生まれたばかりなんだよ」
「明日あたりは、少し歩きだすかな?」
「冗談じゃァないよ。……そばにいてあんまりおもちゃにしないでおくれよ。いまお乳をやるんだから……」
「なんでえ、女親ばかりつきっきりで、おいらはなにもすることがねえじゃあねえか」
「それがおまえさんでなくちゃァならないことがあるんだよ。すっかり忘れていたけど、おまえさん、今日はこの子のお七夜だよ」
「なんでえ、質屋がどうかしたか?」
「この子のお七夜だよ」
「へーえ、こんな小《ちい》せえうちから質屋をおぼえさせるのか? いくら貧乏だって、そりゃァあんまり手まわしがよすぎらあ」
「なに言ってるんだよ。赤ん坊を質屋へ連れてくやつがあるもんかね。生まれて七日目だから七夜じゃァないか」
「ああ、そうか。つまり初七日《しよなのか》だな」
「初七日という人があるかねェ、縁起が悪い。あの、今日は産婆さんを呼んでお湯を使わしてもらって、赤ん坊の名を付けてお祝いをする日なんだよ。おまえさん、なにか名前を考えてあるかい?」
「そうそう名前を付けるんだな、名なしの権兵衛じゃあわからねえな、なんと付けよう」
「そうだねえ、初めての子だから男らしい立派な名が付けたいねえ」
「うんと強そうなのがいいな……どうだい、金太郎てえのは?」
「金太郎? おまえさんが熊さんで、倅《せがれ》が金太郎じゃあ親子で相撲ばっかりとってそうじゃァないか」
「そうかなァ、……じゃあ親父の熊より出世するように寅太郎はどうだい?」
「寅だの熊だのって、もう少し人間らしい名前はないかい」
「じゃあ、加藤清正てえのはどうだい」
「清正公さま? そんなのは立派すぎらァねェ」
「そおおめえのように人の揚げ足ばかりとってねえで、てめえでだって考《かん》げえてみろよ」
「あたしゃあ、やっぱり男らしい、いい男になるような名前がいいねえ」
「どんな?」
「たとえば、海老蔵とか福助とか」
「べらぼうめ、そんな役者みてえな名前付けてどうしょうてんだ、こんな小汚《こぎたね》え家の倅によゥ」
「だから、たとえばの話だよ」
「なんか、こういい名前の出物はねえものかなァ」
「表の伊勢屋じゃあ氏神さまのおみくじを取って付けたってえが、やっぱり性に合わないとみえて弱くていけないと、おかみさんも始終こぼしてるよ。ねえ、どうだろう? おまえさんお寺へ行って和尚さんに付けてもらったら、どうだい」
「ふざけるない、生まれたばかりの赤ん坊に戒名なんぞつけてもらうやつがあるもんか」
「そうじゃないよ、よく檀那《だんな》寺で名を付けてもらうと長命するって言うじゃないか」
「そんなこたァあるめえ。むやみに長生きされたんじゃあ商売にならねえから、坊主が碌《ろく》な名前を付けるもんか、だいいち、縁起が悪《わり》いや、この前、おふくろの葬式ンときにゃァうんと儲《もう》けやがって、欲張り坊主め、面《つら》ァ見るのも癪《しやく》に障《さわ》らァ」
「そうでないよ。ものは逆が順に帰る、凶は吉に帰るなんていうから、かえっていいんだよ。あの和尚さんは、物知りだから、なにかおめでたい、いい名前を考えてくれるよ」
「なるほどなァ、坊主が選ぶのは戒名とばかりは限らねえや。……それじゃあ、ひとつあのでこぼこ坊主に付けてもらうとするか。……お隣のお婆さん、ちょっと出かけてきますんで、少しお頼み申します……じゃあ行ってくるぜ」
「おゥ、ごめんよッ」
「はい、どなた?……やあ、熊さん、たいそうお早くご仏参で」
「なにを言ってやんでえ。おさまりけえった小坊主だ。墓詣りに来たんじゃねえや。ふざけやがるなべらぼうめッ、坊主はいるか、坊主に用があって来たんだ。和尚はいるか?」
「は、少しお待ちください……ェェ、和尚さま」
「なんだ、珍念」
「神田の熊五郎さんがお出《い》でになりまして、和尚さまにお目にかかりたいと申します」
「あァさようか。熊さんが見えたか? おもしろい方だ。すぐこちらへお通し申せ。……おや、これはこれは、さァどうぞこちらへ、たいそうお早く、なにか改まったご用でも?」
「へえ、なにしろまァおめでとうございます」
「ははァ、なにかおよろこびごとでも……?」
「およろこびごとにちげえねえ、なにしろまァお生まれなすったのが玉のような男の子で、たいへんにまァ親御さんもおよろこびなんで……」
「それはどちらでな?」
「へッへ、こちらでね」
「あァ、それではご家内がご安産をなすったか?」
「まことにやすやすとご難産をいたしました」
「やすやすとご難産はおかしい、男の子か? それはそれはおめでとうござる」
「ところで和尚さん、今日お七夜で名前を付ける日なんだ。なにしろはじめての餓鬼《がき》で男なんだから一つ立派な名を付けてえとおもうんで、かかあの言うには氏神さまがどうも評判が悪《わり》いから、逆が順に帰《けえ》って凶が吉に帰《けえ》るから、檀那寺の坊主に頼んで名を付けてもらったらよかろうと言うんで、あっしゃァまた寺の坊主なんぞ面《つら》を見るのも癪に障《さわ》る、この前、おふくろの葬式ン時にゃァうんと儲けやがった、あんな欲張りの坊主はねえと……」
「これは恐れ入った、面と向かって欲張り坊主は近ごろ恐縮でござるな」
「はッはは、なるほど」
「しかし愚僧に名付け親になれとのお頼み、たいそうお見立てにあずかりましたな」
「なにかこう、うちの坊が丈夫に育って、いつまでも死なないという保証付きの名前を、ひとつ見つくろっておくんなさい」
「見つくろいというのはおかしいが、それでは考えてみましょうかな。……仏説では『生者必滅会者定離《しようじやひつめつえしやじようり》』と申してな、生あるものはかならず死す、人間生まれたのがすなわち死ぬるはじめじゃから、死なんというわけにはいかん。なれど親の情けとして子供衆の長寿を祈るのもまた無理からぬこと。そうじゃ、鶴は千年の寿を保つといってまことにおめでたいが、その鶴の字を取って鶴太郎とか鶴吉とか……」
「鶴太郎に鶴吉……? よく鶴のように痩《や》せっこけたなんていいますが、あんなに脛《すね》ばかり長く痩せた野郎になっちゃァ心配ですから、同じことならもう少し肥った名前を願いたいもんで、でえいち、千年と限られると千年たちゃあ死んでしまう、もっと長《なげ》えのはありませんか?」
「ははァ、千年では不足か。ではどうだ、亀は万年というから亀の字を取って……」
「いけねえいけねえ、亀の子なんぞは縁日に金魚屋の荷へふん縛《じば》ってぶら下げられて、あぶあぶやってるやつでしょう。頭を突っつかれるとひょいと首を縮める、人中で頭を押えられているようじゃあ出世ができねえじゃありませんか」
「そういっては際限がないな。それでは、松は常盤木《ときわぎ》といってめでたいものだが……」
「松はいけませんよ。あんなむずかしいものはねえ、植え換えるとじきに枯れちまう。どんな上手な植木屋でもこればっかりはしょうがねえってます。土地が変わるたびに枯れてしまっちゃあ引越しもできねえからね」
「竹はなかなか強い性《しよう》だが……」
「筍《たけのこ》は頭を出すとすぐみんなに折られてしまうじゃあねえか。子供のうちに折られちゃァかなわねえ」
「では松竹梅というから、梅はどうだ?」
「いけませんよ。花が咲けば枝を折られる、実《み》がなりゃ|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》がれる、おまけの果てに戸板の上にならべられて天日《てんぴ》に曝《さら》されて、樽《たる》ン中へ漬けられてしまう。食う人間にすりゃあいいが食われちまう梅の実になってみると、こいつァおもしろくねえや」
「そう一々理屈をつけられては、口が利《き》けない。それでは、この世の中にあるものはやめにして、経文《きようもん》のなかにめでたい文字がいくらもあるから、『無量寿経《むりようじゆきよう》』というお経の中の文句ではどうかな?」
「お経でもなんでもいいから、長生きするような文句はありますかねェ」
「それならどうじゃ、寿限無というのは?」
「へーえ、なんです、寿限無てえのは?」
「寿《ことぶき》限り無しと書いて寿限無じゃ、つまり死ぬときがないというのだな」
「そりゃあありがてえや。なるほどォ死ぬときがねえなんざうれしいねェ、寿限無か、こりゃァいいや、もうほかにはありませんか?」
「まだいくらもある。五劫《ごこう》の摺《す》り切れというのはどうじゃな?」
「五劫《ごこう》の摺り切れ? なんの事《こ》って?」
「これをくわしく言うと、一劫《いつこう》というのは、三千年に一度天人が天《あま》降って、下界の巌《いわ》を衣《ころも》で撫《な》でる。その巌《いわ》を撫でつくして摺り切れて失くなってしまうのを一劫という。それが、五劫というから、何万年何億年という数えきれない年になる」
「こりゃあ、ますますいいや。まだありますか?」
「海砂利水魚《かいじやりすいぎよ》というのはどうじゃ?」
「なんです、それは?」
「海砂利というのは海の砂利だ、水魚とは水に棲《す》む魚だ、とてもとても獲りつくせないというので、これもめでたいな」
「なるほど、海砂利水魚、これもようがすねえ。まだありますか?」
「水行末《すいぎようまつ》、雲来末《うんらいまつ》、風来末《ふうらいまつ》などというのもある」
「へーえ、なんですい、それは?」
「水行末は水の行く末、雲来末は雲の行く末、風来末は風の行く末、いずれもはるかに果てしがなくめでたいな」
「ますますうれしいねえ。まだありますか?」
「人間、衣食住のうち、一つが欠けても生きていけない。そこで、食う寝るところに住むところなどはどうじゃな?」
「なるほどねえ。あるもんだねえ。まだありますか?」
「やぶらこうじのぶらこうじというのはどうじゃ?」
「和尚さん、あっしが知らねえとおもってからかっちゃいけませんよ」
「別にからかってはおらん。それぞれ原拠《よりどころ》があるので、木にも藪柑子《やぶこうじ》というのがあるが、まことに丈夫なもので、春は若葉を生じ、夏は花咲き、秋は実を結び、冬は赤き色を添えて霜《しも》を凌《しの》ぐめでたい木じゃ」
「なるほどねえ、聞いてみなくちゃァわからないもんだねえ。もっといいのがありませんかい?」
「ついでだから話をするがな、昔、唐土《もろこし》にパイポという国があって、シューリンガンという王様とグーリンダイという王后《きさき》の間に生まれたのが、ポンポコピーとポンポコナという二人のお姫さまで、これが類稀《たぐいまれ》な長寿であった」
「へェー、まだありますか?」
「天長地久という文字で、読んでも書いてもめでたい結構な字だ。それをとって、長久命《ちようきゆうめい》というのはどうじゃな?」
「へえ、ようがすね」
「それに、長く助けるという意味で、長助なんていうのもいいな」
「へえへえ、じゃあすいませんが、そのはじめの寿限無ってえのから長助まで書いてみてくださいな」
「ああ、さようか。書いて進ぜよう」
「でも、むずかしい字はだめですよ、平仮名でわかるように……」
「うん、よしよし。……さあ、みんな書いといたから、これを見てこのなかからいいのをお取んなさい」
「へえ、ありがとうございます。なるほど、最初《はな》が寿限無、寿限無寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助か、……こう並べてみると、みんな付けてえ名前ばかりですねえ。あとであれにすりゃよかったとか、これにすりゃあよかったなんて愚痴のでねえように、面倒くせえからいっそみんな付けちまいます」
うれしさのあまり、長い名前を付けてしまったが、これが近所でも大評判。
「はい、ごめんなさいよ」
「おや、糊屋の婆さん、お出でなさい」
「ほかじゃァないがね、このあいだからなんだよ、家の坊《ぼう》やの名前を覚えようとおもっても、年をとるといけないもんで、なかなか覚え切れないで、このごろようやく少し覚えたから、今日は浚《さら》ってもらおうとおもって来たんで、一ぺんやってみるから、もしちがったら直しておくんなさいよ、おやおやッ、笑ってるよ、そら、あわわわ、ばァッ、寿限無寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
「おい、ふざけちゃァいけねえ、南無阿弥陀仏が余計じゃァねえか、縁起でもねえ……」
この名前が性に合ったせいか虫気もなく健《すこ》やかに育って、この子が小学校へ通うようになった。朝、近所の友だちが誘いにやってくる。
「お早う。寿限無寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助さァーん、学校へ行こうよ」
「あらァまァ寅ちゃん、よく誘っておくれだねえ。あの家《うち》の寿限無寿限無五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助はまだ寝てるんだよ。いま起こすから待っておくれ、さあさ、寿限無寿限無五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末雲来末風来末食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポパイポのシューリンガンシューリンガンのグーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助や、起きるんだよ。ほら、みんなが迎えに来たじゃないか」
「おばさん、遅くなるから先へ行くよ」
この子が大きくなるにつれて、悪戯《いたずら》がはじまる。友だちを泣かしたり喧嘩《けんか》したりして、近所の子供がぶたれて、わァわァ泣きながら言いつけに来る。
「……おばさァん、おまえンとこの寿限無寿限無五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末、食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポパイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が、あたいの頭をぶってこんな大きな瘤《こぶ》をこしらえたよゥ」
「あらまァ、金ちゃん、家《うち》の寿限無寿限無五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助がおまえの頭へ瘤をこしらえたって、とんでもない子じゃァないか、ちょっとおまえさんも聞いたかえ、家の寿限無寿限無五劫の摺り切れ海砂利水魚の水行末、雲来末風来末食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が金ちゃんの頭へ瘤をこしらえたとさァ」
「じゃあなにか。家の寿限無寿限無五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲来末風来末食う寝るところに住むところ、やぶらこうじのぶらこうじ、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助が金坊の頭へ瘤をこしらえたって、どれ、見せねえ頭を……、なんだ瘤なんざねえじゃァねえか」
「あんまり名前が長いから、もう瘤が引っこんじまったァ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 前座噺。また噺家修業の初歩、稽古台として、暗誦《あんしよう》、口ならしのため噺家がだれでも一度最初に習得する噺である。日本の古い遊びの「舌もじり」の一種で、長い言い立てを早口でまくし立てる、そこに職人、女房、坊主、婆さん、子供などが描き分けられるように組み立てられている。したがって、「寿限無」は落語の〈いろは〉〈初心〉などの代名詞にも使われている。
長い名の笑話は、民話に多数派生して、全国に分布していて、大阪落語の場合は『陀羅尼品《だらにぼん》』から名前を取って付ける、「長名の倅」という題である。
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時そば
昔は、夜になると、天秤棒《てんびんぼう》で荷を担いだそば屋が、風鈴を鳴らしながら町々を流して歩いた。このそば屋を俗に「二八そば」と呼んだ。そば一杯の代金《だい》が十六文のところから、二八の十六で、「二八そば」と呼んだ、という……お馴染《なじ》みの噺。
「そばァ…うゥ…い……」
「おゥ、おゥ、そば屋さん」
「へい、いらっしゃいまし」
「おゥ、なにができるんだい? 花巻《はなまき》に卓袱《しつぽく》? 卓袱、ひとつこしらえてくれ。どうでえ、寒いじゃァねえか」
「今晩はたいへんお寒うございます」
「どうでえ、景気は? いけねえか? しかたねえや、そのうちにまたいいときもある。あきねえ[#「あきねえ」に傍点]といってね、飽きずにやらなきゃァいけねえぜ」
「ありがとうございます。親方うまいことをおっしゃいますな」
「おめンとこの看板、変わってるな、これァ。的《まと》に矢が当たってて『あたり屋』……いい看板だなァ、ええ? 縁起を担ぐわけじゃァねえが、ものに当たるッてんで、おれァこれから、他所《わき》へ出かけて友だちが七、八人集まって、ガラッポーンとこんなことをしようてんだ。その前に『あたり屋』へ出ッくわしたなんざァありがてえじゃねえか。今夜おれァ行っておもいっきり当たっちゃおうとおもってね。そばは好きだから、この看板見たらまた来るぜ」
「ありがとうございます。……親方お待ちどおさま」
「(丼《どんぶり》を受けとって)お待ちどおさまじゃァねえや、早《はえ》えじゃねえか、そば屋さん、気が利《き》いてるねェ、江戸っ子は気が短《みじけ》えからねェ、誂《あつら》える、催促をする、できねえとうめえものがまずくなる、しまいにゃあ食いたくなくなっちまう、まったくだよ。(箸を手にして)えらいッ。感心に割箸を使ってる。これァいちばんいいや、きれいごとで……。割ってある箸はだれが使った箸だかわからなくってねェ、心持ちが悪くッていけねえ。やっぱりこう……(口にくわえてパチンと割って)いい丼《どんぶり》だねェ、世辞を言うわけじゃァねえが、このへんの店へ行ってもこんないい丼は使っちゃァいねえだろうな。どうだい、ものは器《うつわ》で食わせるッてねェ、中味が少ゥしぐらいまずくったって、容器《いれもの》がきれいならうまく食えるじゃァねえか……(つゥーと汁を飲んでみて)鰹節をおごった[#「おごった」に傍点]ね。夜鷹《よたか》そばなんてえものァ悪く塩《しよ》ッ辛いもんだが、なかなかこういうふうにね、だし[#「だし」に傍点]をとるのがむずかしい(ちょいとそばをつまみあげて)そば屋さん、おめえとはつきあいてえなァ、太いそばなんざあ食いたくねえや、ねェ。めしの代わりにそばを食うんじゃァねえからねェ、そばは細いほうがいい。そばの太いのは(二、三度箸でたぐったのを、すすゥッとすすりこんで)うン、いいそばだね、腰が強くって、ぽきぽきしてやがら。近ごろこのくらいのそばに出あわねえなァ、うん、いいそばだ……(竹輪をつまみあげて)あ、おめえとはつきあいてえなァ。厚く切ったねェ、竹輪を。なかなかこう厚く切らねえで薄く切りやがってね、うん。食って痛々しいや(竹輪を口に入れ)食ったような気がしねえ、歯のあいだィ入るとそれでおしまい。あのくらいなら食わないほうがいいくらいだ。こう竹輪ァ厚ッぺらに切ってくれると、うん(と呑《の》みこみ)竹輪ァ食ってるような心持ちがする、うん。薄かったひにゃあね、食ってるような気がしねえんだ。歯のあいだィ入っておしまい(ふうふう吹きながら、そばをたぐってはずるずるとすすりこみ、しまいにつゥーと残った汁を丼を傾けて吸い、箸を持った手のひらで、鼻をこすりあげると)うまいッ。もう一杯《いつぺえ》代わりと言いてえんだが、じつは他所《わき》でまずいそばァ食っちゃった、おめえのを口直しにやったんだ。すまねえ、一杯《いつぺえ》で負けといてくれ」
「結構でございます」
「いくらだい?」
「十六文いただきます」
「小銭《こぜに》だァ、まちげえるといけねえな。勘定してやろう(懐中《ふところ》に手を入れて)手ェ出してくンねえ」
「(手のひらを出して)これへいただきます」
「そうかい、(と、小銭をひとつずつ親指で送って)ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何時《なんどき》だい?」
「へえ、九刻《ここのつ》で」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六」
勘定を払って、ぷいッと行ってしまう。
これを陰で、さっきからじィッと見ていた与太郎。
「やァ、あン畜生、よくしゃべりやがンなァ、最初《はな》っからしまいまでしゃべってやがら、あんなにしゃべらなくっちゃァそばァ食えねえのかなァ。そば屋さん寒《さむ》いねェ……なによゥ言ってやンでえ、そば屋が寒くしたんじゃァねえじゃァねえか……どうでえ景気は? いけねえか? しかたがねえや、世間が悪いんだなァ、商売《あきねえ》といって飽きずにやンなくッちゃァいけねえッてやがる。これァうめえこと言やがったなァ……おめンとこの看板変わってるねェ、的に矢が当たってて『あたり屋』で縁起がいいや、これからおれは他所《わき》ィ行って友だち七、八人集まってガラッポーンと、こんなこと(手でなにかつまんで振る仕草)こんなこと(と、考え)変な格好しやがったな、狐つきみてえな格好しやがら……そこィ行っておれァおもいッきり当たっちまうんだってやがら。なんに当たろうてんだい? 箸が割箸で、丼がきれいで、汁《つゆ》の加減がよくって、そばが細くって、竹輪っ厚ッぺらだってやがら。最初《はな》ッからしめえまで世辞ィ使ってやがら、銭《ぜに》を払うのにあんなに世辞ィ使うことァねえじゃァねえか。あんまりよくしゃべるから食い逃げじゃァねえか、食い逃げなら捕《つかま》えてひっぱたいてやろうとおもったら、銭を払ってやがる。いくらだい、十六文いただきます……てやンでえ、値段|訊《き》くことァねえ、十六文にきまってるもんじゃァねえか。小銭だからまちがえるといけねえ、勘定してやろう。ばか野郎、子供みてえな勘定の仕方しやがる。ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何刻《なんどき》だい? 九刻《ここのつ》、とお? (ちょっと首をかしげて)十一、十二、十三、十四、十五、十六……変なところで時刻《とき》を訊きやがったな、あんなとこで時刻《とき》なんか訊くとこじゃァねえじゃァねえか、勘定の途中でなんかしゃべりやがって、勘定まちがえちゃうぞ。まちがえりゃァざまがいいんだけど……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何刻《なんどき》だい? 九刻《ここのつ》で、とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六……どうもここンとこ少ゥしおかしいな、(指を折り、それをひとつひとつ右手の人差指でかぞえながら)ひとつ、(また指を折り数え)ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ。ななつ、やっつ、何刻だい? 九刻《ここのつ》、(指をたしかめて)とお[#「とお」に傍点]……とお[#「とお」に傍点]じゃァねえじゃァねえか、ざまァみやがれ……ン畜生、勘定まちがえやがった、いい気味だ、なァ。とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六……十六じゃァないよ、これァ。ざまァみやがれ、まちがえやがった(指をよく見て)少なくまちがえやがった、じゃァざまァみるのァそば屋がみるんじゃァねえか、おかしいなァ。(と、黙ってひとつふたつと指で折り勘定し)何刻だい? 九刻で、とお、(はたと気づき)あ、ここで一文かすりやがったんだ、うまくごまかしやがったな。これァおもしろいや、おれもやってやろう」
その晩はあいにく小銭がない。翌《あく》る日、こまかいのを用意して表へ跳《と》び出した。
「おゥい、そば屋さん、さっきから呼んでるじゃァねえか、ずんずん行っちまうない。なにができるんだい? 花巻《はなまき》に卓袱《しつぽく》? 卓袱ひとつこしらえてくンねえ、……寒いねェ」
「へえ、今晩はたいへんお暖《あツた》かいようですなァ」
「……? あァそうだ、今夜は暖《あツた》けえんだ、そうだ、おれもさっきそうおもったんだ、今夜は暖《あツた》えけなとおもったんだ、寒いのァゆうべだ、ねェ? ゆうべ寒かったねェ……どうだい、景気は?」
「ありがとう存じます、おかげさまで」
「おかげさまで? なんだい、おい、いいてえのかい? さからうね、こン畜生め。おめンとこの看板変わってるねェ、これァ、的に矢が……当たってねえや、これァ。ずいぶんあっさりしてやンなァ、丸が書いてある……?『丸屋』? ああ、いい看板だァ。これからおれは他所《わき》ィ出かけて、友だちが七、八人集まってね、こんなことをしようてんだ(壺を振る手ぶり)そこで今夜おれはまァるくなって……看板はまァいいや、ねェ。看板はいいけど、そばはどうしたい? おい、まだかい? おい、早くしろよ、こン畜生、じれッてえなァ。江戸ッ子は気が短《みじけ》えじゃァねえか……もっともおれァ江戸ッ子のうちでもいくらか気が長《なげ》えほうだけどもねェ……まだか?」
「へ、親方お待ちどうさまで」
「(丼を受けとって)おッ、感心におめンとこは割箸を使って……きれいごとでいちばんいいねェ、これが。割ってある箸はだれが使った箸だかわからねえ、心持ちがわる……(と、箸を見て)これァもう割ってあるなァ、これァ。ずいぶん手まわしがいいねェ、おい、先のほうが濡《ぬ》れてるじゃァねえか、洗ったのか? ま、いいや(箸の先を着物の胸のあたりでこすって拭き)こうやっときゃァわからねえや……、おめンとこの、この丼いい丼だよ。いや、このへんの店へ行ったってこんないい丼使ってねえ。ものは器で食わせる、中味が少ゥしぐれえまずくッたっておめえ、容器《いれもん》……(と見て気づき、つくづく眺めて)汚《きたね》え丼だねェ、これァ、ええ? 罅《ひび》だらけだねェ、よくこう(と、左右にまわし)まんべんなく欠けたねェ、これァ……いい丼だ、これは。丼にも使えるし、鋸《のこぎり》にも使えらあ。丼なんぞ欠けたっていいんだよ。丼を食うわけじゃァねえから、少ゥし気をつけて食えばいいんだ。おめンとこじゃあ鰹節をおごって……二八そばなんてなあ悪く塩ッ辛いもんだがねェ、なかなかこういうふうにいい汁《つゆ》加減にいかねえ、だし[#「だし」に傍点]を取ンのがむずかしいからね(ひと口吸って、ぐっとこらえ)おい、湯ゥうめてくンねえ、おい。とてもおれにゃあ食えないよ……もっともおれァ甘好きだから。おめえとはつきあいたいねェ(箸で丼の中をかきまぜながら)おたがいに太いそばァ食いたくねえや、そばは細いほう……(と、つまみあげ)うどん? これ……そば? あァ……太かったねェ、これは……太いほうがいいや、食いでがあって、ねェ? (ずずッとすすって、口の中でぐちゃぐちゃかみ)ねばついてやがら、ずいぶん柔かいねェ、これァ。おそばのおじや[#「おじや」に傍点]だ、これァ、ねェ? こういうほうがこなれはいいけどもね(と食い)うん、だいいちぬるいや、これァねェ……こんどは竹輪のほうへ取りかかろう(丼の中をしきりにかきまわして)おめンとこじゃァやけに竹輪が厚ッぺらに切って、こんな厚く切って、あうのか? よく紙みたいに薄く切ってある竹輪がある、痛々しくって食ったような気が……(丼の中を捜すが見つからないので)おめンとこ竹輪入れないの? 入ってます? 入ってませんよ、これだけかきまわして出てこな……あったッ。あったよ、丼へぴったりくッついてたからわからなかった(箸でつまみあげて、片目をつぶってすかして見て)あァ、これァ薄いや、これァ……竹輪の向こうに月がはっきり見えらあ。よくこう薄く切れたねェ、これ、なかなかこう切れるもんじゃァないんだ、ほんとうは……もっとも厚くッても、まがいの麩を使ってるうちがある。麩なんざいけない、あれァ病人の食い物だ。麩なんざあ食いたくねえ。おめンとこァ本物だろう? いや本物だよ、はン……(と食べてみて)本物の麩だね、これァ……麩のほうがいいや、じつはおれァ少し病気なんだよ、麩が食いてえとおもってたとこなんだよ……(ひと口汁を吸って)おれァもう止すよ、おい、いくらだい?」
「へえ、ありがとう存じます。十六文いただきます」
「(両手を懐中《ふところ》へ入れ)小銭だ、まちがえるといけねえからね、勘定してやるから手ェ出してくンねえ」
「(手を出して)へえ、これへいただきます」
「そうかい(銭を親指でひとつずつ送り)ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何刻だい?」
「へえ、四刻《よつ》で」
「いつつ、むっつ、ななつ、やっつ……」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 前半の、江戸ッ子のそばっ食いの見事ともいえる調子よさ、手際よさが焦点《ポイント》、眼目で、定本にしたのは三代目桂三木助所演のもの。この箇所は、単に筋の仕込みというだけでなく、演者によるそばを食べる仕草、芸の精緻《せいち》な機微を十二分に観賞する――「見せる落語」でもある。筋《ストーリイ》だけ抜き出せば、一文かすめる損得のおかしさが結果的に印象に残るが、それは取るに足らぬ他愛ないことで、全篇の根底にあるのはもちろん、落語的な、遊びの精神である。後半は、例によって付け焼き刃で失敗するという、人物の設定としては、「噺家《われわれ》同様、ぼうッとした」――与太郎ということになっているが、与太郎ならずとも、「丸屋」のような食物屋に出くわしたが最後、何人《なんびと》もたじたじで、どうすることもできない(こうした体験はだれしもどこかで一度や二度味わっているはず)。ことの非は、そば屋「丸屋」のほうにあるのは言うまでもない。ただ、前夜、江戸ッ子がそば屋を呼びとめたのは、九刻《ここのつ》――つまり午前零時、翌晩、与太郎がそば屋に声をかけたのが四刻《よつ》――つまり午後十時であった。一|刻《とき》(二時間)早まった与太郎の〈時間差攻撃〉が裏目に出たわけである。
三代目柳家小さんが、大阪の「時うどん」を東京に移し、改作し、今日の型になったものだが、丼の罅《ひび》の入った観察で「丼にも使えるし、鋸にも使える」というクスグリと、竹輪の薄さ加減を月にすかして見る形容は、三代目桂三木助の着想である。
原話は、享保十一年刊の笑話本『軽口初笑』、源流は江戸落語ということになる。
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五人回し
エエ、五代目古今亭志ん生のマクラから……。
寄席から帰《かい》ってきて、夜一杯飲んで行くと……そんなことはしない。なんかこの佃煮《つくだに》かなんかで茶漬けかッこんで、で、電車通りィ出てみると、いま南千住の終電車《あか》が出たとこッてえことになる。電車ァなくなっちゃった。なくなったからって、帰りッこないですな、行こうとなった以上は……。しょうがないから尻《しり》を端折《はしよ》って、電車通りを駆け出しますね、女郎《じよろう》買いに行くんだか、マラソンをしたんだかわからない。
で、まず、吾妻町から土手へ上がって、大門を入るきわになるってえと、尻を降ろして、そして、共襟《ともえり》ンとこへ挟《はさ》んである楊枝《ようじ》を出してこいつをくわえて、酔っぱらったふりィして仲《なか》ィ入ってく。駆けて歩いてるから、カアッとのぼせて上気をしておりますから、楊枝をくわえて入っていくと、酔ったように見《め》えるんですな。
そういうおもいで上がるんですからね。
「おまえさん、今夜寝かさないよォ」
なんてことを言う。
なるほど寝られない、わけで……。こりゃ寝かさないほうですな。
こういうときに限って、朝になっても女ァこねえから、くやしいから、起きて顔を洗って帰《かい》ろうとするときに女が、どッからくるか知らないけども、あわてて駆け出してまいりますな。
「あら、もうゥちょいと帰ンの? ずいぶん早いのねェ」
「なにを言ってやんでえ、べらぼうめェ」
と、腹ン中ではおもうけども、そこでなんか言やあ、あの人は甚助《じんすけ》を起こすとか、野暮《やぼ》だとか提灯《ちようちん》だとか言われなくちゃならねえから、
「あァ、いいんだよ、また来るよ」
「ね? また来てねほんとうに、待ってるわよォ」
てんで、背中をとォんと……叩《たた》く。叩いたって、つまり向こうじゃあ、
「てめえみたいなやつァ、来なくったっていいやい、いまいましいやつだなァ」
とおもうから、どォん……と叩く。
その痛さッてなないね。息がとまるようで、表へ出るッてえと、ざァ……ウッと雨が降ってェる。悪《わり》いときに悪いもんですな。しょうがねえから、尻を端折って、方々の軒下を、雨の当たらないように、こう、ずゥッと歩いていくッてえと、ちょうど漬物屋がある、漬物屋の看板てえものは、このくらい(目の高さ)のとこへ下がってる。その漬物屋の看板へ、こつゥん……寝不足だから向こうが見《め》えない。ぶつけると、その痛えのなんのッて、
「あァ痛え……」
とおもって、その看板を見ると、「ざぜん豆」としてある看板なんで……。それが、寝不足だから、よく見えないから、ざ[#「ざ」に傍点]の濁りが見えねえ、
「させん豆……」
あァなるほど振られるわけだ、なんてことを考える。
妙なもんですな。
女郎買いに行って振られる、これほどつまらないことはない。明け方近くなっても、まだ女は来ない。
「煙草はなくなる、火は消える、命に別条がないばかり……」
という大津絵がある。
「あァあ(と、大あくび)……よしゃよかったな、つまらねえことをしちゃった。今夜ァ、よそうかなとおもったんだけどなァ……こないだはばかにまわりっぷりがいいんだからなァ、初会《しよかい》でこのくれえなんだから、裏でも返《けえ》してやったら、ちょいッと乙《おつ》なことになるかなァとおもって、へッ、助平了見でやって来たらいけねえや、もろ[#「もろ」に傍点]に振られちゃった、ちぇッ……もっとも振られるかもしれねえ、昨夜《ゆうべ》の夢見が悪かったなァいやな夢ェ見ちゃったよなァ、帝釈《たいしやく》さまとおらァ差し向かいで安倍川餅《あべかわもち》食った夢ェ見ちゃった……変な夢だよ、どうも。ああいう夢を見るてえなァ、なんかあるんじゃねえか気にはしていたんだが、振られる前表《ぜんぴよう》てえやつだなァどうも……おれの部屋ァだんだん陰気になってきやがった……それにひきかえて、また、隣の部屋はうるせえなァ……宵《よい》からべちゃべちゃべちゃべちゃしゃべってばかりいやァがるン、女だってどッかへ出ていきゃァいいんだが、回しがねえのかなァ……うるせえなァ……ちょいとォ、もしもしィ、隣の方……お静かに願いますよ。こっちにゃァ独り者がいるんだ。なに? そんなとこォさわっちゃくすぐったいわ? なに言ってやんでえ、うるせえやいッ畜生めッ。……あァあ、いやンなっちゃうなァ……勘定でも払ってなけりゃあ、いめいめしいからこのまンま、すうッと帰っちゃうってえ手もあるんだけども、抜かりはねえや、宵勘定(前払い)だからなァ、ええ? 上がってくるなり、すぐおばさんが出て来やがって、『勘定ッ、いただきますッ』――三円八十五銭也、と。高《たけ》え楼《うち》だね……襟巻《えりま》きでも買やァよかった。替わり台なんかおれァよそうとおもったんだ。あいつが入《へえ》って来やがって、『淋《さび》しいわねェ、なんかお取ンな、ねェ、お鮨《すし》が食べたいわ』ッてやがン。『おゥ、じゃいいや、弥助《やすけ》(鮨)そう言ってこいやい、ちょいとつまもうじゃねえか』なんて、いい間《ま》の振りィして鮨《すし》ィ誂《あつら》えたが……たんと入《へえ》ってやァしねえからなァ、鮨だって……鮨と鮨のあいだが二寸五分ずつぐれえはなれてやがン……数をしてみたら笹ッ葉のほうが余計|入《へえ》ってやがン……、鮪《まぐろ》は一つなんだ……鮪を食いたかったんだけど。女の子のいる前で、いきなり鮪へ手ェ出すわけにもいかねえや、しょうがねえから海苔巻《のりまき》をおれァ食ってるうちに、おばさんが、あッてえうちに、あいつを食っちまやがった……あれで銭《ぜに》を取られるんだからなァ、いやだいやだ……こうなってみると、かかァはやっぱり安いやなァ……かわいそうだ、大事にしてやろう、かみさんを、なァ……かみさんは安い、安い証拠にゃあ回しがなくッて玉代《ぎよくだい》が出ねえ」
そのうちに、廊下でぱたりぱたりと、草履の音……。
「おやおや……そうがっかりしたもんじゃァねえや、ええ? 来やがったねェ。情夫《まぶ》は引け過ぎてえことがあるからなァ、それンとこィ来て落ち着こうてえやつかもしれないよ。『すまないわねェ、おまはん[#「おまはん」に傍点]待たしてさァ、遅くなっちゃって、ほんとに。堪忍してよ、なにしろお客さまがたて混んだからさ。遅くなっちゃったの、急いで来たんだよ、あらいやだわ、この人ァ、そんな顔をしてないでさァ、こッちをお向きよゥ』……ヘヘヘッ……足音ァどッかへ消えちまやがった……ちぇッ、よろこんでいるうちに立ち消えになっちまやがる……。あッ、こんだァ本物だ、えッ? 裏|梯子《ばしご》を上がって来やがった。おゥ、急いでやがんなァ、駆け上がって来た。とんとんとんとんとん……と、あァァ、向こうへ行っちゃった。廊下ばたばた[#「ばたばた」に傍点]胸どきどき[#「どきどき」に傍点]てえやつだ……寝ようとおもやァこれだからいやンなっちゃうなァ、女郎屋ってえものァ落ち着かねえで……、あァ、こんどの音はあいつかな? あいつ、少しこう、片ッ方《ぽ》引きずる癖があったな、ぱたりぱたりッてやがン、ヘヘッ……来られてみると、起きてるのはいけねえかなァ。『あら、ちょいとおまえさん、起きていたの?』『あたりめえじゃねえか、おめえが来ねえから寝られやしねえじゃねえか』なんてえと、いやに甚助な野郎だとおもわれるし……寝たふりをしていようかなァ……寝たふりってえやつも、考《かん》げえもんだからなァ。『あらまァ、せっかく寝ついているのを起こしちゃあ悪いから、どっかほかへ行こうかしらん?』なんてね、すうッと行かれちゃったひにゃあ川流れができるからなァ……。もっとも友だちがそ言ったよ、『おまえは他人《ひと》に寝顔を見せるな』ってえやがった、『どうしてだ?』ったら、『知らねえ者がだしぬけに見るとおびえる[#「おびえる」に傍点]』ってえやがン。『おびえるって事《こた》ァねえや、じゃあ起き顔はどうだい?』『起き顔もよくねえ』って……『起き顔が悪くって寝顔が悪い? どうすりゃいい』ったら、『死顔がいいだろう』って……ばかにしてやがン……いくらよくったって死んでるわけにゃァいかねえや……しょうがねえから、目を開《あ》いて鼾《いびき》をかこうかしら? ふんッ目を開いて鼾をかいてりゃ、寝ているか起きているかわからねえだろう、なァ? 銭を使っちゃあ神経を痛めてやがらほんとうに……くう……ッ、来た来た来た来た……ぐうッ……ぐうッ……ぐうッ……」
「へい、今晩は、あけましてよろしゅうございましょうか?……へッ、今晩は」
「けッ、若い衆か?」
「エエ、えッへへへ、どうも……お目ざめでいらっしゃいまして……? あのゥ、お一人さまで……?」
「見りゃァわかるだろう、この野郎ッ。てめえの面《つら》ァの真ン中で二つ光ってンなァなんだ? 銀紙張ってあるわけじゃァねえだろう。お一人さまだ。宵の口からずうっとお一人さまだい、それがどうかしたかい?」
「いえ、どうも……お一人さまでお淋しゅうございましょうなァ」
「いやな野郎だなァこの畜生ァ。悔みを言ってやがら。昔っから、お一人さんでお賑やかなんてなァねえや。お淋しいかお淋しくねえか、てめえこの布団の上へ一人で座っててみろい」
「あいすいませんで、少々今晩はたて混んでおりまして、お客さまが。へえへえ、それがために花魁《おいらん》のほうもちょっと、なに[#「なに」に傍点]でございますが、もう少々ご辛抱願いまして、そのうちにお回りでございましょうから、ひとつ…」
「なんだと? もう少々ご辛抱願います、そのうちにお回りンなりますゥ? なによゥ言ってやンでえ、なんだ、お回りンなるてえのァ?……腰抜けが神輿《みこし》を待ってるんじゃァねえや、お回りになるてえのァ、ふざけたことを言うない、こうッ、おれなんざあなあ、買った女がそばにいねえから甚助をおこしてぽんつく言うような、はばかりながら野暮な人間じゃァねえんだ、いいか。こッちゃァもう女なんてえのァ飽きてるんだ。そばでなんかされるのは、うるせえんだ。なるたけこうはなれてる……あっさりしたやつが好きなんだ、なァ……これじゃあ少しあっさりしすぎてらいッ……。女にそう言え、生意気なことをするなッて。だいいち客を振る面じゃァねえや、あの女郎の面ァ……廊下で尻《けつ》でも振ってやがれッて……」
「お腹立ちもごもっともでございますが、なにしろ、申し上げましたようなわけでございますので、もうほどなくお見えでございましょうから、もう少々ひとつ、えッへへへッ、ご辛抱いただきたいのでございますが……」
「なにを言ってやンでね、なにがご辛抱いただきてえんだい。てめえみてえな朴念仁《ぼくねんじん》にゃァわからねえ、もう少し話のわかる人間らしいのを連れてこい、ええ? 一閑《いつかん》張りでねえ、叩きゃあ音のするような……切って赤《あけ》え血の出る、人間らしいのを連れてこい」
「へえ、人間らしい……? てまいは人間らしくございませんか?」
「なにを言ってやン、なにが人間らしい、てめえなんか、できのいい猿じゃァねえか」
「こりゃァどうもお言葉で……できのいい猿は恐れ入りましたが……お腹立ちもごもっともでございますが、廓《くるわ》はまたこの、引け過ぎましてから、不寝番《ねずばん》という者がお客さま方のご用を承りますのが、これが廓の法でございまして、へッへへッ、すなわち廓法《かくほう》でございますので……」
「なんだとこの野郎、勘弁できねえこと言やがったな、なんだ、すなわち廓法てえのァ。なにを言ってやン、すなわちてえ面《つら》かい、摺鉢《すりばち》のこわれたような面ァしやがってこン畜生。なにが廓法だい、そんなことを言ってなにか、客をへこませりゃァどこが見栄なんだ、筋ッぽいことを言うない、なにを言ってやンでえ……この切り出し[#「切り出し」に傍点]……」
「へ?」
「筋ッぽいことを言うなてんだ、切り出し」
「切り出し[#「切り出し」に傍点]?……なるほど筋を言うところから切り出し[#「切り出し」に傍点]というようなお叱言《こごと》……」
「筋を言うから切り出し[#「切り出し」に傍点]? なに言ってやンで、洒落《しやれ》がわからねえか。わからなきゃ言って聞かせてやろうか、見世《みせ》にいて客を勧《すす》めるのを妓夫《ぎゆう》てえだろう。てめえなんかァ妓夫《ぎゆう》(牛)の屑だから切り出し(こま切り)てんだ」
「妓夫の屑で切り出し……どうも、へッへへ、恐れ入りまして……」
「よろこんでやがる、こン畜生ァ……なァによゥ言ってやンでえべらぼうめ、このこま切れ[#「こま切れ」に傍点]野郎め。てめえッちにな廓法なんぞを言われて、え? さようでござんしたか、そいつァどうも恐れ入りましたてんで、尻《し》ッ尾《ぽ》を巻いて引っこむようなお兄《あに》ィさんたァお兄ィさんのできがちがうんだ、はばかりながら……こちとらァおぎゃァと生まれて三《み》っつのときからおばあさんに手を引かれて吉原へ遊びに来ているんだ」
「……たいへんお早くのお道楽で……」
「てめえなんかァ廓法なんぞを言いやがったって、どういうわけで吉原ができたんだか、その由縁《いわれ》を知るめえ。後学《こうがく》のため言って聞かしてやらァ、耳の穴ァかッぽじってよく聞け、この才槌《さいづち》野郎め。そもそも吉原というものの初まりは、元和三年の三月に、庄司甚右衛門というお節介野郎が、淫売《いんばい》というものを制せんがために公儀幕府へ願って出て、はじめて廓というものが許されたんだ。はじめっからここにあったんじゃァねえんだ、葺屋《ふきや》町の二丁四面を公儀から拝領をして、そこへ廓をたてた、それがためにいまだにあすこに大門《おおもん》通りという古跡が残っているんだ。そのころは一面に葦《よし》の茂った原で、そこへできた廓だから葦原《よしわら》といったのを、縁起商売だから字を吉原《きつげん》と書いて……。それから三十八年目に、浅草へ引き移って、はじめてこれを新吉原というんだ。近くは明治五年の十月の幾日《いつか》には解放……切り放しというものがあって、女郎屋が貸座敷と名が変わり、女郎が出稼ぎ娼妓となって、大見世《おおみせ》が何軒、中見世《ちゆうみせ》が何軒、小見世《こみせ》が何軒、まとめれば何百何十軒あるんだか、女郎の数が何千何百何十何人いるか、どこの楼にゃァどういう女がいて、年齢《とし》がいくつで情夫《いろ》があるとか借金があるとか貯金があるとか、芸者が何人|幇間《たいこもち》が幾人《いくたり》、横丁芸者は何人いて、おでん屋が三十六軒あって、どこの汁《つゆ》が甘《あめ》えとか辛《かれ》えとか、蒟蒻《こんにやく》の切り方が大きいか小せえか、共同便所へ幾人《いくたり》入って小便をしたやつがあるか、糞をたれたやつが何人だか、ちゃんと心得ていようてえお兄ィさんだ……ふざけやァがって、まごまごしやァがると頭から塩ォつけてかじっちゃうぞ、この野郎ッ」
「……へェへェッ、……少々お待ちを、……ただいますぐうかがい……少々お待ちを……、勘定は少ねえが言うことが多いや……なんだい、よくべらべらしゃべりゃあがる。いちばんしまいに、頭から塩をつけてかじっちゃうッて、なにを言ってやン、生梅とまちがえてやがる。……ェェ喜瀬川さんえ……しょうがねえな、この花魁ときたひにゃまた、くらい[#「くらい」に傍点]抜けだからどッかィしけこん[#「しけこん」に傍点]じまってるんだ……ェェ喜瀬川さんえ……」
「……ちょと、廊下を通行の君、拙宅へも、ちょと、おほン、お立ち寄りを願いたいね、ほほほ……」
「気味の悪いやつが来やァがっ……へェい、へ? へえへ、へいッ」
「廊下かれこれ[#「かれこれ」に傍点]はいけやせんよ、こっち[#「こっち」に傍点]へ入りたまえ」
「ェェお呼びになりましたのはこちらでございまして」
「ほほほ……もちりん[#「もちりん」に傍点]」
「もちりん[#「もちりん」に傍点]?」
「まず、ずっとこちらへ入って、あとを締めていただきやしょう、ね? 後締め愛嬌守り神なんてね、えへッ」
「……どういうご用でございましょうか?」
「恐れ入りましたね、え? うかがっていたよ、おッほ、向こうの野蛮人がなにかぽんつい[#「ぽんつい」に傍点]てましたねェ、え? それを君が、柳に風とすうッと受け流すとこなぞは、さすがに千軍万馬往来をしただけありやすねェ。君なぞはもう、人間の角がすうッと、とれて丸くなってやすな、どうも……、ほんとに、角が丸いよ、もらい物の角砂糖のように……」
「お口が悪くていらっしゃいます……ご用をまずうかがいますが……」
「あァゆるりとしたまいよ。君も、おぎゃァと生まれてすぐお女郎屋のお若い衆《し》じゃごわすまい、ね? いろいろ婦人を迷わした、その罪滅《つみほろぼ》しというところで、なにかその、わけありでがしょ? ねェ、君の、おッほほ、うかがおう、お惚気《のろけ》なぞを……ありやしょう、なにか……え? ありやしょ?……ありやしょッ?」
「へッへへへ、恐れ入りまして、てまえなぞはもう、さようなことはございませんで、野暮天《やぼてん》でございまして」
「いえ、野暮はないよゥ、君なぞはなんとなく拝見したところお品がいいねェ、品がよくって相《そう》がいい、どうも、おほッ、品相《ひんそう》(貧相)だ」
「えへんッ……また後《のち》ほど、うかがいます……」
「ま、逃げちゃいけませんよ。君にちょっと、お話があるが、つまりこの遊《あそ》びというものがでげすな、二階へ上がる、おばさんや新造衆《しんぞし》などが出てきて、そのお世辞をお肴《さかな》にご酒いただきなぞは、ま、とにかくとして、いわゆるこの、お引け、閨中《けいちゆう》のばやい[#「ばやい」に傍点]になって、婦人のいるほうが愉快かそれとも……かくの如く、だれもいないほうが君愉快か……」
「……ェェ、真綿《まわた》で首で恐れ入りますが、なにしろ今晩はたて混んでおりますので……」
「いや、なにも婦人の来ないのをとやこう[#「とやこう」に傍点]言うわけじゃァありやせんよ、ね? 傾城傾国《けいせいけいこく》に罪なし、通いたもう賓人《まろうど》にこそ罪あれ……などとは、ほほ、吉田の兼好《けんこう》も乙《おつ》ゥひねりやしたね……しかし、いまさら姫がご来臨になったところゥで、もはよ鶏鳴暁《けいめいあかつき》を告ぐるから、いかんともすべ[#「すべ」に傍点]なしでげす。それよりも君のお身体《からだ》を拝借しよう、ね? 花魁の代わりに……君の……身体をお貸し」
「ェェどうも花魁のご名代を若い衆が勤めるわけにはまいりませんが……どういうことに……?」
「こちらィ背中を向けたまい、背中を」
「へェ?」
「ここに火箸が真っ赤に焼けている、これをひとつ君の背中にじゅう…ッ……と押しつけてみたい」
「……ご冗談を……ただいまうかがいます……しんねりむっつりして、いやな野郎だな、どうも、背中へ焼火箸を突っ通すッて、ばかにしてやがら……ェェ喜瀬川さんえ」
「おいッ……だれかおらんか(手をぽんぽんと叩く)、おいッ(ぽんぽん)、小使いはおらんか、小使い……(ぽんぽんぽんッ)、給仕ッ……」
「へえい……役所とまちげえてやがる、給仕だってやがら、情けない。へい、へェい……お呼びになりましたのはこちらさまで……」
「そこでは話がでけん[#「でけん」に傍点]。もそっと前へ進め……面《つら》をあげろ、面を……おいッ」
「へ?」
「貴様はここで何役を勤めとるもんか?」
「へいへい、大引け過ぎが手前の役で、二階を回します、へえ」
「ほう、この二階を、貴様|一人《いちにん》で回すちゅうのか。非常な力の者じゃのう」
「え?」
「貴様、年齢は?」
「……お調べでは恐れ入ります。もう、へへッ、てまえなどはいけませんでございまして……」
「人間にいけませんという年齢《とし》があるか。何歳じゃ」
「四十六でございますので……」
「四十六?……男子たるべきものが、四十六歳に相なって、いまだ一個の分別がつかんで、今日《こんにち》客と娼妓と同衾《どうきん》する夜具布団を運搬をして、貴様それが……なにがおもしれえか」
「別にたいしておもしろくはございませんが、商売でやむなくやっておりますので……」
「貴様の両親もあえてかようなものにいたすべく教育をほどこしたわけではあるまいが、貴様の遊惰、惰弱なる精神薄弱性によって、かかるところで賤業婦の奴隷となって、ただ今日《こんにち》を空々寂々《くうくうじやくじやく》で暮らしとおる。いまさらとなって両親を恨むな」
「別に恨みゃァいたしませんが……お叱言《こごと》は抜きにいたしまして、まず、そのご用をうかがいたいのでございますが……」
「貴様も三度のめしを食い、打《ぶ》たれて痛いという感覚のあるやつならば、ものを見て黒白《こくびやく》は判然するじゃろうが、僕の部屋が、かく一目瞭然たることは明らかであろう。見るが如く四鄰沈沈閨中寂莫《しりんちんちんけいちゆうせきばく》、人跡絶えて音さらになし。はなはだこれ遺憾の至りである。僕の陰鬱たる部屋に引きかえ、向こう座敷はまた何事である、彼は娼妓の待遇によって、喜悦の眉を開いて胸襟《きようきん》を開き、歓楽の極に達し、狂喜乱舞し、果てはあやしき淫声を洩らしつつ、喋々喃々《ちようちようなんなん》と語らいつつある。いかにこれ怨羨《えんせん》の極みではねえか……ここにまた……二個の枕があるが、一個は僕が当然使用すべきものであるとして、いま一個は、これは何人《なんびと》がする枕であるか、うん? あえて寝相が悪いというてかけ替えの枕というわけでもあるまい」
「けっしてそういうわけではございませんで、お一つは敵娼《あいかた》のあのお妓《こ》さん……」
「あのお妓《こ》さん……? あのお妓さんちゅうのはどこにおる? あのお妓さんにもこのお妓さんにも、宵から娼妓なぞというものは一回もこれへはまいらんではないか……貴様その、頭を冷静にもって判断してみなさい。男子がこれに登楼するじゃね。その目的ははたして那辺《なへん》にあるか、貴様。語を変えて言えば、女郎買いの本分これなんにとどまる……」
「やかましいことをおっしゃられては困りますが……なにしろたて混んでおりましたために、かようなわけに相なりまして、もう少々でございますから、ご辛抱を……」
「おいおい、おいッ待て。貴様にまだ質問すべき事項がある。ここにこの、領収書というのがある。これに台の物、小物などというものを記《しる》してあるが、これは僕が、酒食に浪費したとあきらめてええが、この劈頭《へきとう》の、娼妓揚代金という点に至っては、大いに解釈に苦しんでおる。この娼妓揚代金ということは、これは有名無実であるな、これは……あん? なに?……いや、貴様さように弁……いやァ、いや……貴様、いや……いやさように弁解するがじゃね、しからば当楼の娼妓に限っては、お酒の相手はいたしますが、閨房中の相手は絶対にできませんということが、なにかその、貴様のほうに、……この法律上……」
「いえ、ただいまうかがいます。少々お待ちを願います……たいへんなやつが来やがった、ええ? 女郎屋の二階で法律上だってやがる……なに言ってやがるン……」
「どこだい、ばたばたやってるの?……へ、ごめんくださいまし、開《あ》けますでございます、ちょっと……どうなすったんで……?」
「入《へえ》ってくれ、え? 入《へえ》ってくれィ」
「……なん?」
「なくなりものがしたから、いま捜してるところだから手伝いな」
「なにがなくなりました?」
「玉代《ぎよく》を払った女がいなくなったよ」
「冗談言っちゃいけませんよ……畳をあげたってあなたしょうがない……」
「これからあれァ天井へ入《へえ》るんだ」
「まァどうか勝手にしてくださいな……大掃除だね、畳をあげて上であぐらァかいてやがる、牢名主《ろうなぬし》だね。厄介なやつばかり来やァがる……ェェ喜瀬川さんえ、……ェェ喜瀬川さんえ……」
「おゥいッ(と、手をぽんぽんッと叩き)若《わけ》ェ衆《し》さァんッ(ぽんぽんぽんぽんッ)、ちょっくら来てもらうべえや(ぽんぽんぽんぽんッ)、若ェ衆さァんッ」
「たいへんな声を出してやがる……へえい、どちらさま」
「こつら[#「こつら」に傍点]さまだこつら[#「こつら」に傍点]さまだいッ(ぽんぽんぽんッ)、返事《へんず》べえぶって来《き》ねえだば話わかんねえな。ちょっくらこけェこう[#「こけェこう」に傍点](ぽんぽんぽんッ)、ちょっくらこけェこう[#「こけェこう」に傍点]ッ」
「なんだい、鶏《にわとり》みてえなやつが来たよ、こけッこう[#「こけッこう」に傍点]だてえやがる……へえい、ただいま……へッ……おや、いらっしゃいまし、なんでげす、どうも……どなたかと存じましたら杢《もく》さんでいらっしゃいますんで……?」
「あんだ[#「あんだ」に傍点]この野郎木助でねえか。あんまり心安く言ってもれえ[#「もれえ」に傍点]たくにええ[#「にええ」に傍点]、ええ? あんだ[#「あんだ」に傍点]、杢さんとは」
「あなたなぞはお馴染《なじ》みでいらっしゃるんで、どうも、酸いも甘いも心得ていらっしゃるんですから、もう少々ひとつご辛抱願いたいもんで……」
「だまれ、この狸野郎め……ふふン、あンまりばかにす[#「す」に傍点]ねえもんだって。ふんと[#「ふんと」に傍点]にほんとうに、呆れ返《け》ってそっくり返《け》って天神《てんずん》さまのお脇差《わきざす》だァほんとうに、ねェ、女《あま》ッ子《こ》におめえから…そう言ってもらうべえ、なァ、客を振るなら田舎者でも振ったらよォかんべえッて、田舎者ォ……おらなんざァこう見《み》いても江戸《いど》ッ子《こ》だァ、この野郎」
「ごもっともで……」
「あァに笑っとるけえ、ええ? おらなんざァ日本橋《ぬほんばす》の在《ぜえ》の者《もん》だァ。肥《こえ》たご桶ェ担いでも真鍮箍《すんつうたが》でなけりば担がねえてえお兄ィさんだ。おらが顔を三日見ねえば女《あま》ッ子《こ》が肺病《へえびよう》になるちゅうだ。疣取虫《いぼたりむし》よりありがてえ顔だって、ねェ……お女郎屋《ぞうろや》へ来てお床《とこ》の番をするだらば、はァ、損料屋《そんろうや》へご奉公に参《めえ》りますてェ、おらのような者を振ったら、女郎|冥利《みようり》に尽きやァしねえかッてねェ……ふんとにふんとにえや[#「ふんとにふんとにえや」に傍点]になりんこ……とろんこ……とんとら、はァ、とことんやれ……とろすく……とんとこォ、おォ……うわァ…いィッ」
「なんだい、こりゃあ……冗談じゃァねえ。花魁はどこへ引けこんじまったんだろうな?……ェェ、喜瀬川さんえ、ェェ喜瀬川さんえ」
「あいーッ」
「どこでござんす?」
「ここだよ」
「なんです、襖の向こうにいて……開けますよ。花魁、あなた、困りますよ。少し回ってやってくださいよ。お客がうるさくってしょうがありませんよ」
「あれッ、女《あま》ッ子、おめえ、そこにいたけえ、おらァとこィ、こっちこい」
「ねえ、杢兵衛大尽、あなた、花魁を少ゥし、回しに出してくださいよ」
「そんだなことォ言ったって……そりゃァおらァだって、商売だから身請けするまでは辛抱《しんぼう》しねえ、そこが苦界《くげえ》の勤めだ、いやな客でも我慢すろてえのに、回らねえだァ……おらァに、お惚《ぽ》れてるだァよ」
「恐れ入ります、どうも……」
「これが回らねえといって、客がわれにつらく当たるべえ?」
「それなんですよ、玉代《ぎよく》を返せなんて、不粋なことを言うのがいちばん困りますンで……」
「玉代|返《けえ》せってか? 呆れたもんだァ、そんなことを言うのは、おおかた田舎者だべえ……そんなざまだから、女《あま》ッ子《こ》に嫌われるだァ……で、一人けえ?」
「いえ、お四人《よつたり》で」
「どうも、呆れたもんだ。……花魁、どうすべえ?」
「玉代を返して、帰ってもらっておくれよ」
「そうけえ、われがそう言うなら、玉代《ぎよく》は、おらが出してやンべえ。……木助、四人前《よつたりめえ》だと、これでええ[#「ええ」に傍点]か?」
「へえ、よろしゅうございます」
「釣銭《つり》はおめえにやるだ。……そんじゃあ、みんなに帰ってもらってくんろ」
「どうも相すいません。まことに恐れ入ります。では、ごゆっくり、えへへへッ」
「さあ、これでわれも安心してここにいられるだぞ」
「だけどもねェ、旦那、すいませんがもう一人前、出しておくれなね」
「どうするだ?」
「あちき[#「あちき」に傍点]がもらって、あらためておまはんにあげます」
「あんで[#「あんで」に傍点]、あらためて、おらがもらってどうするだ?」
「それを持って、おまはんも帰っておくれ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 今日、〈廓〉は落語の中にだけ生き残り、……生きながらえている。
廓噺を列挙すれば、「明烏」「付き馬」[#「「明烏」「付き馬」」はゴシック体]「お直し」「三枚起請」「お見立て」「品川心中」「突落し」「居残り佐平次」「文違い」「錦の袈裟」「二階ぞめき」「紺屋高尾」「木乃伊《みいら》取り」「首ったけ」……等々が挙げられる。さらに範囲を拡げて、「唐茄子屋」「山崎屋」「子別れ」「文七元結」「干物箱」[#「「唐茄子屋」「山崎屋」「子別れ」「文七元結」「干物箱」」はゴシック体]「よかちょろ」「藁人形」「蔵前駕籠」……等々、廓と関係のある噺を数えあげれば、いかに〈廓〉の占める重要度《ウエート》が大きいか、おのずと知れよう。
言うまでもなく、吉原に代表される――〈廓〉は、江戸の文化、人びとの生活《くらし》に作用し、影響を齎《もたら》した、中核的な存在であった。江戸中期、町人階級の台頭とともに、吉原は全盛をきわめ、当時、江戸で一日千両の金が動くといわれた、芝居町と魚河岸との三場所のなかでも筆頭であった。
歓楽地――それは、封建色の強い時代、いや、そういう時代であったればこそ、あくことなき赤裸な人間性の交錯する唯一の場所であった。当時、(むろん男性が)「遊びに行く」といえば、即、〈廓〉を指した、身ぶるいが起こるような興奮と胸のときめきを感じるものであったのだ。
この噺は、回転《ロンド》型式風な、映画の移動撮影のように、登楼した客の部屋部屋を妓夫の木助を狂言回し(進行役)にして、戯曲誇張があるにしろ、風俗、形態、心理などあますところなく活写した、貴重な情景を展開する。「回し」は吉原だけにあった仕組みで、それは需要=供給の均衡《バランス》上そうなったのだ。なお、客の独白《せりふ》の中に「甚助」という卑語《すらんぐ》が再三使われているが、てるおか・やすたか著『すらんぐ』によれば――。
【じんすけ】 甚助と書く。助兵衛の類である。甚は腎のあて字で、あのほうが、まだお年でもないのにいけなくなった状態をいう腎虚《じんきよ》の腎である。むかし尿水を分泌する腎臓を、精液を製造する器官と誤解し、精液のことを腎水といい、それがつきてお手上げになった状態を腎虚といったのである。そこで、それがたっぷりある状態を腎張《じんばり》といった。張は欲張の張である。「綱手車《つなてぐるま》」(一七六四年)の、「満重さんもよっぽどな腎張だと見えて、乳母をはらませるとは、あまり情ねへ助兵衛さ」というふうに、腎張、すなわち助兵衛の意味である。その腎張を擬人化して、腎助といい、その方が、はなはだ強いお人という心で、甚助と書くようになったのであるが、意味も転じて、嫉妬ぶかいこと、またその人をいうようになった。天保八年(一八三七年)刊、為永春水《ためながしゆんすい》作の人情本『春告鳥《はるつげどり》』に、「近来の流行のことばに、嫉妬《やきもち》をやくことを、じんすけといふことは、遊所の隠しことばなりしを」とある……
この卑語、ひと言にも〈廓〉の情趣がこめられているように、〈廓〉が、単に性《セツクス》の処理場としてでなく、男と女のたてひき、性《さが》の懊悩《おうのう》、人世諸行の諸々の〈絵巻〉を繰りひろげた人間生態の証明《あかし》の場所であったことにまちがいはない。人間生存の火であり、灯《あかり》であった〈廓〉は、時代の進歩の廃棄物のように、卑しむべき穢《けが》らわしい場所と見なされ、ついに政府の命により、昭和三十三年三月三十一日をもって廃止され、その灯は永久に消えた……。嗚呼!
【|暗・転《フエイドアウト》】――。
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ねずみ
大工のほうで、名人といえば、左甚五郎|利勝《としかつ》。……飛騨山添《ひだやまぞえ》の住人で、十二歳のときに、三代目|飛騨匠墨縄《ひだのたくみすみなわ》という人に弟子入りして、二十歳のときには師匠墨縄がおどろくほどの技倆《うで》になり、修業のため、飛騨を発《た》って京へ上《のぼ》り、山城の国伏見藤の森に住居して、ここで「竹の水仙」を作りあげた、これを御所へ献上をし、左官《ひだりかん》を許された、という。以来、甚五郎の名は、津々浦々に知れわたった。それからまもなく、京を発って江戸へ下《くだ》ってきて、日本橋|橘町《たちばなちよう》、大工政五郎の家に居候をして、この居候の期間が十年、……いるほうもいるほうだが、置くほうも置くほう。そのあいだに「三井の大黒」を彫り、有名な日光東照宮陽明門を造った。
大工政五郎が若死にした後、倅の政五郎の代になって、甚五郎が後見をしていたが、十年も江戸にいると、生来旅好きの人だから、あらかたもう落ち着いたというので、ある日、思いたち奥州へ旅立った。その仙台での逸話――。
「おじさん、おじさん、あの、旅の人でしょう?」
「そうだなァ、草鞋《わらじ》を履《は》いて、脚絆《きやはん》を着《つ》けて、振分けの荷物を持っている、たいがい旅の人だろうね」
「どっかへ泊まるんでしょう? どうせ泊まるんならあたしの家《うち》ィ泊まってくださいな」
「ほゥ、坊やは宿の客引きさんか? そうかい、どこへ泊まってもおんなじだ。坊やンとこへ、じゃ、今夜泊めてもらおうかな」
「泊まってくれますか? その代わり断わっておきますがね、家はあんまり大きくはありませんよ。座敷もきれいじゃありませんよ」
「あァ、いいとも。ねェ、おじさんの身装《なり》を見ねえ、どれほど大きな身体《からだ》じゃァねえ。十五尺の座敷がなきゃ窮屈で寝られねえ、二十畳の座敷がなきゃ足がつかえる、なんてんじゃァねえやな、うん。そんなになあ、きれいじゃなくてもひと晩ぐらいならどこへ泊まってもいいよ」
「泊まってくれますか? 障子が破けてますよ。障子が破けている代わりにゃあ畳がぼろぼろですよ」
「ずいぶん行き届いているな、おい。いいよいいよ、泊めてもらうよ」
「そうですか……おじさん、あの、寝るとき布団敷いたり掛けたりしますか?」
「変なこと言うなよ、おい。たいがい寝るときには布団を敷いたり掛けたりして寝るもんだよ」
「すいませんが、じゃァ二十文先にくださいな」
「前金かい?」
「前金てえわけじゃねえですけどね、布団屋に借りがありますから、金を持ってかないと、布団貸してくれないんです。で、おじさんが今夜寒いおもいをしたくないとおもったら、二十文出したほうがおためでしょ」
「妙なことを言うなよ。そうか、よしよしわかった、正直でいいや。坊や、二十文でいいかい? ……あいよ」
「へい、すいません……ほんとうはおじさんをご案内して、あたしの家まで連れていかなくちゃいけないんですけどね、おじさんを家《うち》へご案内したり、それから布団屋へ行ったりすると遅くなりますから、すいません、おじさん一人で行ってくださいな。その仙台の町をずゥッとはいって行きますとね、両側にずいぶん旅籠屋《はたごや》があります。右っ側を見て行くと、虎屋っていう大ゥきな家があります。これァ仙台一の旅籠屋なんです。その虎屋の前に小《ち》ィさな家があります。気をつけて行かないと見落としますよ、気をつけて行っても見落とすんですから」
「ふん、ふん、なるほど。じゃ、まァその虎屋を目当てにして行きゃァいいんだな。虎屋の前で、坊やの家はなんてんだい?」
「鼠屋《ねずみや》です」
「鼠屋? はァ? おもしろい名前だね、そりゃ。よしよしわかった。いや大丈夫だ。坊やがついて来てくれなくっても、それだけ聞きゃァわかるよ」
「家には、おやじが一人いますから……じゃあすぐ帰りますから……」
「あァ、よしよし。……さすがに五十四万石のお殿様だ、ええ? 立派なご城下だなァ……八百万石の将軍さまのお膝元の江戸からくらべりゃあ、やっぱり見劣りァするけれども、しかし、これだけのご城下はそうざらにあるもんじゃァねえ……どうでえ、どっちを見ても、はァ、いいご城下だなァ……あ、なるほど、ここか、虎屋というのは……? ヘェ、木口といい、仕事といい、なかなかしっかりしたもんだ。名は体を表わすてえことを聞いたが、なるほどなァ、威風堂々あたりを払ってらあ。虎屋たァ付けたな。その前で鼠屋……と、なるほど、これも名は体を表わしたな。ふゥん、よくこういう細《こま》けえ家があったねェ。虎屋から見るとこりゃあ、家とはおもえねえ、掃溜《はきだめ》だな、まるで。でえち[#「でえち」に傍点]虎屋にしちゃあ鼠屋が小さすぎらあ、こりゃ。ふつうの鼠じゃァねえ、独楽鼠《こまねずみ》だ、こりゃ……ま、ま、いいや……今晩は、泊めてもらいますよ」
「ありがとう存じます。は? ェェ、倅がお願いいたしまして……? はァ、さようでございますか。さっそくあのお洗水《すすぎ》をとりまして、おみ足を洗うはずでございますが、あいにくあたしが腰が抜けておりまして」
「はァ、なるほどねェ、話のわかりそうな大人の腰が抜けてんのかい。ま、ま、いいよ」
「あの、そこに桶がございます。わきに履き替えの草履がございますので、ちょっとそれをお持ちになりまして、裏の小川でおみ足をどうぞお洗いくださいまして……」
「はァはァ、なるほどねェ、あ、草履てえのはこれかい? ええ? おとっつぁん、鼻緒が片っ方《ぽ》切れてるよ」
「あァ、さようですか。では片方でぴょんぴょん……」
「兎だね、まるで……うふ、まァいい……(足を洗い、手をふきながら)きれいな水だねェ」
「え、ェェ、川は小《ちい》そうございますが、水はきれいでございまして、広瀬川へ流れておりまして……」
「そうか、いい気持ちだ。いや、なまじね、水を取ってもらうよりあんなきれいなところがありゃあ、ちっと行って洗ってきたほうがずっと気持ちがいい」
「あ、おじさん来てますね。わかりましたか、家が?」
「あァ、坊やか、ご苦労ご苦労。あァ、わかったよ。布団屋行ってくれたか」
「行ってきました、ええ、もうじき布団が来ますから、安心してください。それからおじさんね、あの、ご飯食べますか?」
「いちいちおめえは妙なことを訊くなァ。旅籠屋へ泊まって、たいがいまァ、めしを食うだろうなァ」
「これからご飯炊いたり、お魚を焼いたり、お菜《かず》を煮たりしていると遅くなりますから、あの、お鮨《すし》でも、そ言ってきましょうか?」
「はァ、はァ、まァひと晩くらいなら鮨もいいなァ」
「どのくらいそ言ってきます? 五人前もそ言ってきましょうか?」
「五人前? 一人だからまァそうは食わねえやな。一人前てえのもなんだから、二人前ぐらいそ言ってきてもらおうかねェ」
「いえ、あたしもお腹空いてますしねェ、おとっつぁんもお鮨好きですから……」
「なんか行き届いてるなァ、おまえのすることはなァ……よしよし、わかった……あいよ、坊や、ここに二分《にぶ》あるからねェ、これでねェ、酒が二升……」
「あ、せっかくですけどあたし、お酒飲まないんで……」
「いや、おまえに飲ませようてんじゃァねえんだ。それからな、残ったやつで鮨を五人前でも十人前でもいいだけそ言っといで」
「どうもあいすみません、勝手なことをお願い申しまして、お腹立ちもなく……」
「いやいや、おとっつぁん、心配しなくってもいいよ。倅さんかい? え? はァ、いい息子だねェ、いくつだい?」
「十二でございます」
「ふゥん、感心だなァ。十二なんて年ごろは近所の子供と悪戯《いたずら》をして遊びたい年ごろだけどねェ。宿《しゆく》はずれまで出て、ま、一人でも客を引っぱってこようてえなあ、えれえ[#「えれえ」に傍点]じゃァねえか、いい息子を持って幸せだなァ。だけどねェ、おとっつぁん、これァまァ、あたしの気持ちだよ、ねェ? 倅はまだ十二だ、いくらいい息子でもおとっつぁんはそうやって腰が抜けてるんだ。来る客ァたまにはいやなことを言ったり、腹立ったりする客がありゃあしないか?」
「へえ、へえ、さようでございます。どうかするとお腹立ちになりましてお帰りになるお客さまもございます」
「そうだろうねェ、一人でも二人でも、女中さんでも置いたほうが、商売はしやすいんじゃァねえかい?」
「へえ、ありがとう存じます。へ、そのご親切なお言葉に甘えまして、年寄りの愚痴を聞いていただきます。へ、あたくしァ、もと、この前の虎屋の主人《あるじ》でございました」
「へえ? 虎屋の主人《あるじ》がなんだって、鼠屋の主人《あるじ》に変わっちゃったんで……」
「へえ、……五年前に女房に先立たれまして、へ、奉公人だけでも三十何人あります。男の手だけでは足りません。目の行き届かないところもたくさんございまして、ま、いろいろの人たちが心配してくれましたが、店にながく働いております女中|頭《がしら》をしておりまするお紺《こん》、これがまァ、あたくしの家にながくおりますのでね、これを後添《のちぞ》えに直しました。店のことはよォくわかっておりますので、万事が行き届きまして、『あァ、いい後添えをもらった』とじつはよろこんでおりましたが、ェェ、ちょうどその年の七夕祭《たなばたまつり》でございました。ご存じでございますか、仙台の七夕といいますと、いや、にぎわいまして、近郷近在から見物に出ていらっしゃいます。どの旅籠屋もいっぱいでございます。あたくしどもも階下《した》も二階もいっぱいのお客さま。二階のお客さま同士で喧嘩がはじまりましてな、皿小鉢をぶっつける、丼をほうる、どちらにお怪我がありましても、とおもいまして、あたくしが留めに上がりました。仲裁にまいりましたら、あっちィ押され、こっちィ押され、どなたに押されましたか、二階から突き飛ばされまして、ひと息に下へ落とされました。梯子段がきれいに拭きこんでありまして、ふだんでも足袋が新しいと、ちょいッとすべって危いくらいでございますから、突き落とされましても、梯子段の途中へ止まるどころじゃございません。二階からひと息に土間へ落ちました。そのときひどく腰を打ちまして、打ちどころが悪かったとみえまして、それっきり腰が立ちません。すぐに離れへ床を敷いてもらいまして、医者よ、薬よ、加持祈祷《かじきとう》とあらゆる手をつくしましたが、どうしてもよくなりません。腰はとうとう立たずじまいでございました、へえ。半年ばかり経ちましたとき、この一軒おいて隣に生駒屋《いこまや》という旅籠屋がございまして、こりゃァあたくしと子供のうちからの喧嘩友だちでございまして、見舞に来てくれました。『おい、卯兵衛《うへえ》』……あたくしは、卯兵衛と申します……『卯兵衛、おまえ子供の身体《からだ》を見てやったことがあるか? 腰の抜けているのは知っているが、了見まで腑《ふ》抜けになっているとは知らなかった。おまえみたいな者とはもうつきあいをしねえからな』……そのまま畳を蹴立てて帰りました。あたくしは『おい、生駒屋』と声をかけましたが、腰は立ちません。あァ、妙なことを言ったな、気になることを言ったな、とおもっているところへ寺子屋から倅が帰ってまいりました。『おい、おまえ裸になってごらん』と言いますと、もじもじしていまして裸になりません。『裸にならねえかッ』とわたくしがおどかしつけますと、いやいや、裸になったのを見ておどろきました。身体じゅうが生傷《なまきず》だらけ……『どうしたんだ?』と訊《き》くと『近所の子供と喧嘩をしたんだ』と言う。『ばかなことを言え、子供同士の喧嘩でそんな傷になることがあるか、ほんとうのことを言わねえと承知しねえぞッ』と言うと、裸のまんまわたくしの首ッ玉にしがみついてきまして『おとっつぁん、おっかさんはなぜ死んだんだ』と言われましたときには……(と涙ぐんで目頭をおさえ)あたくしも泣きまして……あァ、えらいことをした、自分のことばッかし考えてて、子供のことを考えてやらなかった……すぐに番頭を呼びまして、ちょうどその時分ここが物置になっておりました。『おい、番頭、前の物置をすぐに掃除させとくれ、あたしと卯之吉と向こうに移るから』番頭が『へえ、旦那さまよいところにお気がおつきになりました。ひと部屋でもいい部屋をお客さまに使わしていただきとうございます。すぐに女中に掃除させましょう』二階がふた間、階下《した》がふた間ございます。親子二人には広すぎるくらいでございまして、あたくしと倅がこちらへ移りまして、三度のものは前から運ばせておりましたが、ひと月ばかり経ちますと、三度のものが二度になり、しまいには一度になります。倅を前に取りにやりますと、番頭が『いまお客さまの忙しいところで、病人の世話までしていられるか』と、倅の頭をぶったとか、なぐったとか……いや、あたくしァ腹が立ちましてねェ。仮にも主人の息子だ、子供でこそあれ、番頭が手をあげるとはなにごとだ。腹は立ちましたが、腰は立ちません……で、生駒屋がやってきまして『いや、そう怒るな。ついお客さまが立て混んでて気が立ってたから、そんなことをしたんだろう、ほんとうにぶったわけじゃあるまい。いや、心配するな。家から運ばせるからいいよ』と、三度のものは生駒屋から運ばしてくれておりました。あるとき生駒屋が、顔色を変えて家へ来まして『卯兵衛、おまえ前の虎屋をいつ番頭の丑造《うしぞう》に譲り渡した』とこう言うんで『いやァ、とんでもない、あたしゃあ譲り渡した覚えなんざあない』『いやァ、そんなことはない。番頭のすることがあんまりひどいから、前に文句を言いに行くと、丑造が「生駒屋さん、この虎屋と前の旦那さまとはもうなんの関わりあいもございません。これをごらんください」と見せられたものが、〈譲り渡すものなり〉という一札《いつさつ》がはいって、首と釣り替えの印形《いんぎよう》が押してある。おまえさん印形をどうした』と言われて『あァ、しまった。お紺に預けっぱなしだった』と気がついたときにはもう間に合いません。生駒屋が『よし、わかった。心配するな。おまえたち親子を路頭《ろとう》に迷わせるようなことはしないから』と、生駒屋から、三度三度運んでくれておりました。倅が申しますには、『おとっつぁん、生駒屋のおじさんからただ食べさしてもらっていたんでは、乞食同様だ。二階にふた間ある。汚くってもいいから、お客さまに泊まっていただこうじゃァないか。あたしが宿はずれへ出て一人でも二人でも、お客さまを連れてくれば、細々ながらでも命がつなげる』と、こういうわけでございましてな。そいでまァ、倅が宿はずれへ出まして、お客さまへお願いして泊まっていただきます」
「ふん、ふん、なるほどねェ。ふゥん、世の中にゃひどい人があるもんだねェ。……ェェ、鼠屋という名前……?」
「ええ、さようでございます」
「どういうとこで、鼠屋だい?」
「へえ、へ、あの前の虎屋は番頭に乗っ取られましたがな、この、こちらは、物置でございまして、鼠がたくさんおりましてな。で、そこをまァ、倅とあたくしとふたァりで乗っ取ったようなもんだからまァ、鼠に義理を立てまして、鼠屋といたしました」
「はァはァ、なるほどなァ、うん、おもしろい名前だね……おとっつぁん、家に端切《はぎ》れがあるかい?」
「はァはァ、洟紙《はながみ》でございましたらありますけれど」
「いやいや、洟《はな》をかもうってんじゃァねえんだ。端切れというとねェ、柱の切り屑、または板ッ切れみたいなものが家にあるかい?」
「へえへ、物置でございましたので、そういったようなものは、あそこの隅にたくさんございますが……」
「そうかい。あたしがねェ、一人でも二人でもお客さまを引くように、鼠を彫《ほ》ってみよう」
「あァ、お客さま、彫物をなさいます……さようでございますか。この仙台にもね、彫物ではかなり名前の売れた方もおいでになりますし、仙台さまのお抱えの彫物をなさる方もおいで……あ、まだ宿帳をつけさせていただいてございません。へえへ、腰は立ちませんが、筆はたちます……へ、ご生国《しようごく》はどちらでございましょう」
「飛騨高山ですよ」
「はァは、高山からこの仙台のほうへおいでになりまして……」
「いや、じかに来たわけじゃァありません。江戸へ出て来まして、そうだな、もう十年になるかね。いまだに、その、居候をしている風来坊ですよ」
「はァ、さようでございますか。で、江戸はどちらさまで……」
「日本橋橘町、大工政五郎内甚五郎とつけてください」
「飛騨のあの、甚五郎さまで……」
「いやいや、そう目の色を変えたり、顔色を変えたりされるとかえってきまりが悪《わり》い。え? 日本一……ふッふッふ、冗談言っちゃァいけねえ、他人《ひと》さまは日本一だのね、名人だのおっしゃってくださるが、自分じゃァそんなことァおもっちゃァいません。いや、まァまァ、おとっつぁん、扱いが変わると、かえってこっちが気が詰まっていけない。まァま、任しておきなさい」
金銀を山と積まれても自分が仕事をしようという気にならなければ、鑿《のみ》を持たない人だが、一文の金にならなくっても自分が仕事をしようとなったからには、魂を打ちこんで仕事にかかる。……あくる朝までに鼠を一匹彫りあげた。
「坊や、そこに盥《たらい》があるね、え? あんまりきれいな盥じゃァねえけども、使ってるかい? 使ってない? そうかい、そいつを借りてえんだが……あ、おじさんが手を貸すよ」
盥を店先へ据えて、その中へ彫りあげた鼠を入れて、上へ竹網をかけた。
「おとっつぁん、縁《えん》と時節があったらまた逢いましょう」
「ありがとうございます」
「……見ろやい、え? 鼠屋さんじゃァなんかなァ、甚五郎先生となんか関《かか》りええ[#「りええ」に傍点]があるだかなァ。あすこに書《け》えてあらあな。飛騨高山甚五郎作『福鼠《ふくねずみ》』……はァこりゃあ、なんだべなァ。はァ、鼠屋さんにあっただかねェ、聞かなかったなァ、いままで……鼠屋さん……ごめんくだせえ」
「はァは、どうも、こんにちは。どうしました、ここンところ久しく姿を見せないからねェ、身体でも悪いんじゃァないかとおもってたが……さァさ、休んでってください。いまお茶ァいれますから……」
「ありがとうごぜえやす……ねェ、旦那、妙なことを訊くようだけど、ここに、はァ、甚五郎作『福鼠』なんて書《け》えてあるけど、こりゃァ、旦那のとこにあるだかね?」
「あァ、ありますよ」
「あれ、ほんとうにあるだかね……あるとよゥ……へー、そうかねェ、じゃァなにかねェ旦那さまァ、甚五郎さまァ心安いだかね?」
「なァに、心安いなんて言われると、はァ、おしょうしい[#「おしょうしい」に傍点]けどもね」
「なァに、恥ずかしがることなんざねえさ。へェ、そうかねェ。じゃ、あの、名人の甚五郎先生……へーえ、で、どこにあるだ、その『福鼠』てのは?」
「その、盥があるでしょう? そン中へ下《さ》がってんだ」
「あれェ、そうか、見せてもらってもいいかね? そうか、見せてもらうべえ、え? ここかね、こン中へ入《へえ》ってるだかね……あ、入《へえ》ってるよ。妙な色の鼠だ、木ィ彫っただからねェ、へェ……あ(と、息をのんで)動いた、動く……動くぞ、これ……」
「なァにを吐《こ》きゃがるだ、ほんとうにおめえは、あわて者《もん》だからいが[#「いが」に傍点]ねえよ。木ィ彫った物が、動くわけがねえでねえか。おめえは自分の身体がこう動いてるだから、鼠が動いてるように見えるだよ、ばか吐《こ》け、あわて者《もん》だなァあいかわらず、え? ばかなこと(と、のぞきこみ、思わず息をのみ)……動く、動く」
「見ろ、動くべえ。どうだ、偉《えれ》えもんだな、さすがにはァ、名人の甚……あれェ? これは、但書《ただしがき》が書《け》えてあるぞ……『この鼠をご覧の方は、土地の人、旅の人を問わず、ぜひ鼠屋へお泊まりのほど、お願い申し上げます』と、こりゃ、今夜鼠屋へ泊まらねばだめだ」
「ばか吐《こ》け、おらァ村まで十一丁しかねえものを、そんな鼠屋へ泊まるなんて、わけにいくかよ」
「十一丁でも十二丁でもしかたがねえ。名人の甚五郎さまに泊まってくンろと頼まれて泊まらんわけにいが[#「いが」に傍点]ねえ」
「そらァだめだな、弱ったな、偉《えれ》えものを……つまらねえものを、おめえ、のぞくからいが[#「いが」に傍点]ねえよ。おらァとこのかかあは、はァ、えけえ[#「えけえ」に傍点]焼餅だからなァ。おらァ仙台《せんでえ》泊まってきたなんて『なにを吐《こ》きやがるだ、仙台とこことどれだけはなれてるだ。野郎どっけえ行ってまた悪《わり》いことしてきたんじゃァねえか』なんて偉《えれ》えことになるぞ」
「ま、しかたがねえ、おらがに任せとけ、おらァいっしょに行って、はァ、言訳ぶってやるから。まァ、しかたがねえ、泊まるべえや、まァ、……鼠屋さん、今夜泊めてもれえます」
「あ、泊まってくれますか、どうもありがとうごぜえます」
この二人が鼠屋へ泊まって、話を聞き、
「へーえ、虎屋の主人《あるじ》てえのはそんなひどい人かなァ……」
と、これがまた他所《わき》ィ行って噂をする。
「まァ、行って見ろやァ、その甚五郎さまのこしらえた鼠動くだから」
「そうかねェ、ほんとにまァ、動くかねェ。じゃ、おらも見せてもれえに……」
鼠を見に鼠屋へ来る。来ては鼠屋へ泊まる。これが仙台じゅうの評判になり、いつか近郷近在まで評判になって、どんどんどんどんお客が来て、鼠屋はたいへんな繁昌ぶり……。
「おゥ、鼠屋さん、泊めてもらうよ、五人」
「ありがとうございます。二階がふた間、階下《した》がふた間ンところへもう四十六人さまお泊まりで、へえ。せっかく泊まっていただきましても、お寝《やす》みになっていただくなんてわけにいきませんで……」
「あァ、いいよいいよ。馬じゃァねえけどひと晩くらいなら立って寝るよ」
「え、もう立っても寝られません。あとはもう天井へぶらさがるよりしょうがありません」
「じゃ、干柿《ほしがき》だなァ、まるで」
こんな具合いだから、裏の空地へ建て増しをして、女中を頼む、料理番を頼む、いや、たいそうな繁昌。……これに引きかえて、前の虎屋のほうはお客が一人減り、二人減り、どんどん減って、しまいには一人も泊まり手がなくなった。三十何人の奉公人をかかえて、ただ指をくわえているわけにもいかない。虎屋の主人《あるじ》の丑造はかんかん[#「かんかん」に傍点]に怒った。
丑造のほうにしても言い分はある。というのが、丑造とお紺とは前々からでき[#「でき」に傍点]あっていた。旦那が見て見ないふりをしているものだとおもっていた。ところがおかみさんが亡くなると、旦那のほうはお紺を後添えにしてしまった。
「畜生、他人《ひと》の女を寝取りゃァがって……」
いつか折があったらと、おもっているところへ、主人の卯兵衛が七夕の晩に二階から突き落とされて、腰が抜けたのを幸い、三月、半年と経つうちに、
「ねェ、お紺さん」
と、袖を引っぱった。これがまた丑造とお紺との焼棒杭《やけぼつくい》に火がついて、より[#「より」に傍点]が戻った。そうなると、卯兵衛と卯之吉が邪魔になってしょうがない、とうとういじめ倒して、二人を前の物置へ追っ払って、うまく虎屋を乗っ取った……が、さて一人の客も来ないとなると、どうすることもできない。
「畜生、ばかにしてやがる。よォし、向こうが甚五郎に鼠を彫ってもらったんなら、おれのほうにも考えがある」
と、伊達《だて》さまのお抱えで、飯田丹下という彫物師――。仙台一というより、当時、日本で一、二といわれる人物、三代将軍家光の御前で、甚五郎と二人で、三蓋松や鷹を彫って、甚五郎に敗れて、日本一のお墨付を甚五郎に取られた、いわば、甚五郎の好敵手、ここへ訪ねて行って、
「お礼はいかほどでも出しますが、じつは、前の鼠屋へ甚五郎が鼠を彫りました。この鼠が動くために評判となり、お客がみんな鼠屋へ泊まって、あたくしの家は一人のお客も泊まりません。先生どうぞ、あたくしの家に虎をひとつお彫り願いとうございます」
「なに? 甚五郎が鼠を彫った。よォし、相手が甚五郎なら、あたしが虎を彫ろう」
飯田丹下が請《う》けて、大きな虎を彫りあげた。彫りあがった虎を運んできて、虎屋の二階の手摺のところへ、でんと据えると、これがちょうど鼠屋の鼠をぐッと睨まえるように、虎がすわった。とたんにいままで、ちょろちょろ動いていた鼠が、ぴたっと動かなくなった。
「あッ、おとっつぁん。鼠が動かなくなっちゃった」
「なに? 鼠が? 動かなくなった? どうして……泣いてねえで、はっきり……え? 虎屋へ? 虎がすわった?……どこどこ……どれだァ、あッ、うッー、畜生ッ……あんなにまでしてッ……」
と、卯兵衛が腹を立てたとたんに、腰が立った。……これは、腹を立てたから立ったわけではなく、腰はもう治っていて立っていた、ただ立たないとおもって立たなかったから、立たなかった……と、たいへんややっこしい。
すぐに、江戸日本橋橘町甚五郎のところへ手紙を出した。
「あたしの腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」
この手紙を見ると、甚五郎は、二代目政五郎を連れて、仙台へ乗りこんできた。
「先生、その節はどうもありがとうございました」
「たびたびお便りをありがとう。え? たいそうなご繁昌だそうだ、いやァ、陰ながらよろこんでいました、うん。さっき、卯之坊が宿はずれへ迎えに来てくれていたがねェ、いやァ、大きくなった。見ちがえてしまってねェ『おじさん』と声をかけられて『なんだ卯之坊だったか』と気がつくような始末だ」
「ありがとう存じます。おかげさまで、ごらんください……建増しをいたしますし、ま、こうやって大勢奉公人を使うようにもなれまして……」
「いやァ、結構結構、うん。手紙を見たが、鼠が動かなくなった……うん。はァてね? どういうわけだ……?」
卯兵衛から、事情《わけ》を聞いて、
「うん、飯田丹下が虎を彫った……うん、その虎てえのはどこにある、え? 前の虎屋の二階の手……ほほゥ、うゥん……飯田丹下が彫ったという虎はあれかい?……うゥん?……政坊、おまえのおとっつぁんは大工のほうでは名人といわれた人だが、政坊の目から見て、あの虎はどう思う?」
「……そうですねェ、おじさん、ええ、あっしァまだ年もいきませんしねェ、それほどの腕ァありません。『政、おゥ、おめえ彫りあげてみろ、仕事をしてみろ』と言われても、仕事はできませんけどもね、見る目は持ってるつもりだ。……腹ン中から大工《でえく》ですからねェ、あっしが見た目じゃあ、あの虎ァそんなにいい虎だとァおもえねえなァ。目に恨みを含んでる。でえいちあっしァ他人《ひと》に聞いた話ですから、よくはわからねえけどもねェ、虎って獣《けだもの》ァごくいい虎ンなると、王頭の虎とかいって、この、頭《かしら》ンところへ王という縞《しま》が出てくるそうですねェ、え? それほどの獣だ。あっしが見た目じゃァそれほどの虎とァおもいにくいなァ。どうです? おじさん」
「そうか、あたしもそれほどいいできとはおもわないがなァ……(盥の中をのぞきこみ)鼠、おれはおまえを彫るときに、魂を打ちこんで彫りあげたつもりだけど、おまえ、なにかい? あんな虎が恐いのかい?」
「え? あれ、虎ですか? あっしは猫だと思った」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 左甚五郎という伝説的な実在の人物を「落語」は実名のまま「竹の水仙」「三井の大黒」など、講釈種を移入してすっかり落語国の住人に仕上げてしまっている。小田原宿で宿賃代に衝立《ついたて》に雀を五羽描き、それが翌朝、抜け出してチュウチュク囀《さえず》る「抜け雀」の絵師の技倆も甚五郎級だが、無名である(サゲで親にかごかき[#「かごかき」に傍点]をさせたために特に名を秘すのかも?)。ほかに講釈種の金属彫刻師の「浜野矩随《はまののりゆき》」があるが、この噺は、三代目桂三木助が浪曲の広沢菊春口演のものを改作した、比較的新しい作品である。舞台が仙台である点もめずらしく、甚五郎が虎屋の虎の彫物を二代目政五郎に評定させ、「虎の目に恨みを含んでいる」など鋭い観察眼を披瀝《ひれき》するが、さすがに甚五郎が魂を打ち込んだだけあって鼠が見事な「ひと言」を挺《てい》する、秀逸だ。
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やかん
「ェェこんちは、先生、いらっしゃいますか?」
「ほほう、現われたな、愚者《ぐしや》」
「え? なんか踏み潰《つぶ》しましたか?」
「なんだ?」
「いえ、ぐしゃ[#「ぐしゃ」に傍点]ッて、そう言ったでしょ?」
「なにを申しておる。ぐしゃ[#「ぐしゃ」に傍点]というのはな、愚かなる者と書いて、これを愚者と読む。つまり愚者といえば、おまえのことだ。わかったか、愚者」
「へーえ、その愚者てえのは、あっしのことですか? へーえ、そりゃァまァ、当人が気がつかねえうちに、愚者なんぞにしてもらって、どうもありがとうござんす」
「いや、礼を言うほどのことはない。まあ、そこへお座り。ふーん、今日は身なりが整っておるなァ、どっかへ出かけたのか?」
「ええ、今日は、浅草の観音《かんのん》さまへお詣《めえ》りをしやしてね」
「どこへ行ったんだ?」
「へえ、だから、浅草の観音さまへ行ったんで」
「ほほう、浅草の観音へ? そういうものが近ごろできたのか?」
「近ごろできたわけじゃァねえ。昔っからあるじゃありませんか」
「そうか。いっこうに知らんが、どのへんだ?」
「あれッ、知らねえのかい? どのへんだって……先生、浅草橋を知ってっでしょ?」
「浅草橋は知っている」
「あれをさァ、蔵前《くらめえ》通りを真っ直《つ》ぐに行って、突き当たりにあるじゃァねえか、赤《あけ》え大《で》ッけえお堂が、観音さまだ」
「なんだ、じつに呆れたもんだ。『もの書かざるは理《り》に疎《うと》し』とは言い条、蔵前《くらめえ》通りてえのは、あれは蔵前《くらまえ》通りと言うべきだ。ええ? 赤《あけ》え大《で》っけえお堂とはなんたることだ、あれは観音ではない」
「そうかい? だってあっしァあれは、観音だとおもってたんで。金毘羅《こんぴら》さまかい?」
「なにを言っておる。あれはな、金竜山浅草寺《きんりゆうざんせんそうじ》に安置奉る、聖観世音菩薩《しようかんぜおんぼさつ》というもんだ」
「ぷッ。いやだよおい、犬が風邪ェひいたときみてえに、ふヮん、ふゥん、なんて、それじゃァなんか威勢が悪《わり》いじゃァねえか」
「なんだ、威勢が悪いとは」
「もっと安直《あんちよく》に言えねえのかい?」
「俗で観音と言ってもよろしい」
「じゃまァ、そのほうで負けといとくんねえ。観音さまへ行ったんだ」
「で、人は出ていたか?」
「ええェ、もう出るの出ねえのッたって、たいへんだよ」
「どっちなんだ? 出たのか、出ないのか?」
「だから、出たの出ねえのって……」
「出たかとおもえば出ないと言うが、出たならば出た、出ないならば出ないと言いな」
「あ、そうか……じゃァ人が……出ェたァッ」
「それじゃあ化け物だ。出ましたと言えばいい」
「じゃ出ました」
「雑踏をしていたか」
「ええ、なんだか知らねえが、猫も杓子《しやくし》も出ていやがってねェ、もうてえへん[#「てえへん」に傍点]だよ」
「猫も杓子も?……猫は生き物だから出ないとは限らないが、杓子が出るのか?」
「なんだァ、他人《ひと》の揚げ足ばかり取っちゃァいけねえやな。よく言うじゃァねえか、大勢出たことを、猫も杓子も出たって……」
「だから、おまえは愚者だ。それを言うならば、女子《めこ》も赤子《せきし》もと言う」
「なんの事《こツ》てす?」
「女子《めこ》とは女子《おなご》、赤子《せきし》は赤ん坊だ。つまり、女子《おなご》も幼な子も、老若男女《ろうにやくなんによ》、とりまぜて、たいそう雑踏しておりました、というふうに言うべきだ」
「へへッ、じゃ、まァそのとおりでござい」
「大神楽《だいかぐら》の後見だな、おまえは……他人《ひと》に言わしといて、そのとおりでございてえのがあるか」
「しかし、まァ観音さまなんてえのァ、豪儀なもんですねェ」
「なにが?」
「十八間四面だなんてあんな大《で》けえお堂に住んでねェ、家賃は安くねえでしょうねェ?」
「観音さまが家賃を出すか」
「お身の丈《たけ》が一寸八分だってえじゃァねえか。あんな大《で》けえとこにいやがって、うまくやってやがら」
「なんだそれは……やってやがるてえのは」
「あの、門番に仁王ってえのが立ってますねェ。あれァむだなもんだねェ、あんなとこへ邪魔っけだァね、大きなやつがつっ立ってて。でえいち[#「でえいち」に傍点]観音さまがあんまり給金やりませんね、えてもの[#「えてもの」に傍点]に……」
「えてもの[#「えてもの」に傍点]とはなんだ……そんなことがわかるか?」
「だって自分の給金だけじゃァ食えねえから、大きな草鞋《わらじ》をこせえ[#「こせえ」に傍点]て売ってるじゃァねえか」
「だから愚者というんだ、おまえは。草鞋を売るんじゃァない、あれは、信心する者が納めたんだ」
「あ、そうですか。あんまり買ってる人ァねえとおもったんだ。いってえなんです、ありゃあ」
「魔神だ」
「はァ……まじん[#「まじん」に傍点]てえと?」
「魔の王さまが立っている。つまり、あれから内《うち》ィ入れば、清浄《しようじよう》なる仏の庭だ。ほかの魔が入ってくるといかんから、魔王が立って、全部の魔を睨《にら》み返すというわけだ」
「あ、なるほど、ふゥーん? それで、あすこにいるわけなんですね? あれ、二体《りやんこ》いるが、一組《つげい》かい、ありゃァ?」
「なんだ一組《つがい》てえのァ?」
「雌雄《めすおす》かい?」
「仁王さまを鳥とまちがいてやがる。なんだ、一組《つがい》とは。いかにも男体《なんたい》に、女体《によたい》だ」
「なんです、なんたい[#「なんたい」に傍点]ににょたい[#「にょたい」に傍点]てえのァ?」
「男と女だ」
「あァあァ、どっちが女?」
「どっちッて、……えへん……つまり、右が女ならば左が男だ」
「へえ」
「左が女なら右が男」
「……だからどっちなんですよ」
「男でないほうが女、女でないほうが男だ、わかったか」
「なんだかちっともわからねえじゃァねえか。へへッ……おまえさんだってよく知らねえんだろう。じゃァ観音さまで、調べようじゃァねえか」
「どこで訊《き》くんだ?」
「仁王の尻《けつ》ゥまくればわからあ」
「なぜそういうばかげたことを言うんだ」
「あァ、話をしてて咽喉《のど》が乾いた、茶でもごちそうおしよ」
「なんだい、茶でもとは。でも[#「でも」に傍点]なんてえ茶はない」
「そんなけちをつけねえでよゥ、出しとくれよゥ」
「おまえにいま淹《い》れてやろうとおもった。さ、うまい茶を飲ませる」
「へえへえ、ありがとうござんす……うーん、こりゃうめえや。結構なお煮花《にばな》でござんすねえ」
「なんだい、おにばな[#「おにばな」に傍点]とは。いつあたしが鬼の鼻を飲ましたい?」
「だって、ていねいに言うと、これ、お煮花ってんでしょ?」
「葉を入れて、出端《でばな》……つまり出たてをやったんだから、それは出花《でばな》と言うべきだ」
「へーえ、出花かい。あァ、出花お出花、天狗の鼻」
「なに?」
「いえェ、こっちの事《こつ》たよ……うっかりなんか言うとすぐ叱言《こごと》を食うんだから……あァ、うめえ、これァなんだねェ、お出花だけでつまらねえが、なんかお茶おけ[#「おけ」に傍点]ありませんかね」
「おまえさんは丈夫な歯だ、桶をかじるのか?」
「鼠じゃァないよゥ。……甘《あめ》え物《もん》だよ」
「なんだ、甘《あめ》え物《もん》とは。甘味なら甘味と言いなさい。茶の受けに食《しよく》するものだから、それは茶うけ[#「うけ」に傍点]と言うべきだ」
「どうだっていいじゃァねえかなァ。なんか食わしとくれ」
「いま、もらい物だが、おまえにごちそうする」
「そうですかい。どうせ買いやァしねえや」
「なにを言ってるんだ。……まァこれをおあがり」
「うまそうな餡《あん》ころですねェ、こりゃあ……」
「おいおい、まァ少し待ちな、餡ころてえのはどういうわけだ?」
「どういうわけッて……こりゃあ、餡ころでしょ?」
「餡の上をころ[#「ころ」に傍点]ッと転がしただけで、そんなに万遍なく餡がつくか?」
「さァねェ、つかねえでしょうねェ」
「つかないとおもうものをなぜ餡ころ[#「ころ」に傍点]と言う」
「そんな理屈ゥ言ったってだめだよ。餅屋へ行けば、どこだって餡ころで売るじゃねえか」
「では、餅屋が餡ころと言えば、おまえがどうしても餡ころと言わなければならぬ義理でもあるか?」
「義理も恩もねえが、餡ころじゃァねえのかい?」
「これは、餡に包《くる》んである餅だから、餡包み餅[#「餡包み餅」に傍点]と言うべきだ。あるいは、衣《ころも》に被《き》せてあるから、餡衣餅[#「餡衣餅」に傍点]と言ってもよい。強《た》って餡ころ[#「ころ」に傍点]と言いたいならば、なんべんとなく、ころころころがすから、餡ころころころころころころ餅[#「餡ころころころころころころ餅」に傍点]と言わなければならん」
「へーえ、むずかしいんだねえ。じゃあ、餡ころころころころころころ餅[#「餡ころころころころころころ餅」に傍点]をいただきます。……しかし、なんですねえ、先生なんか、世の中に知らねえって事《こた》ァねえんでしょう?」
「まあ、わしなぞは、天地間にあらゆるもので、わからんことはない」
「大げさだねェ、言うことが。じゃ、なんでも知ってるのかい?」
「知っているのかいてえことがあるか。おまえのような愚者に訊かれてわからんようなことはない」
「へえ。じゃあ教えてもれえてんですが……魚《さかな》にねェ、いろんな名前がありますねえ。あれは、だれが付けたんでしょう?」
「おまえはどうしてそのように愚《ぐ》なることを訊くんだ。どうでもいいだろう、そんなことは」
「どうでもいいったって、気になるんだよ」
「つまらんことを気にするんじゃあない」
「だれが名を付けたんで?」
「うるさいな……名を付けた者は……鰯《いわし》だ」
「いわし[#「いわし」に傍点]って、魚の鰯ですかい? へーえどうしてあの小《ち》っぽけな魚が名を付けたんで?」
「鰯は、下魚《げうお》といわれているが、しかし、数の多いものでな、それがために、魚《さかな》の中ではあれはなかなか勢力がある」
「じゃ鰯がみんな名を付けたんですか。へーえ、じゃ、鰯ってえ名はだれが付けたんで」
「うーん、その……あれは、ひとりでにできた名前だ」
「どうして?」
「いろいろな魚が、『わたくしどもは、名前を付けていただいたが、さて、あなたはどういう名前がよろしゅうございましょう?』と訊いたんだ。そのときに、『わしのことは、なんとでもいわっし[#「いわっし」に傍点]』と答えた。そこで、鰯となった」
「へーえ、いわっし[#「いわっし」に傍点]? それが名になったんで?」
「そうだ」
「鮪《まぐろ》ってのァどういうわけなんで?」
「あれは真っ黒だから、はじめはまっくろ[#「まっくろ」に傍点]といってたが、それがつまってまぐろ[#「まぐろ」に傍点]となった」
「だってェ、鮪の切り身は赤《あけ》えじゃァねえか」
「だからおまえは愚者だ……切り身で泳ぐわけじゃァないよ」
「ああ、なるほど、|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》ってえのは?」
「|魴※[#「魚+弗」、unicode9b84]《ほうぼう》?……あれは落ち着きのない魚で、ほうぼう泳ぎまわって場所が定まらないから、ほうぼう[#「ほうぼう」に傍点](方々)だ」
「変だねェこりゃあ。鯒《こち》ってのは?」
「……こっちへ泳いでくるから、こち[#「こち」に傍点]だ」
「だって、向こへ泳ぎゃァむこう[#「むこう」に傍点]になっちゃう」
「そういうときは、おまえが向こうへまわればこち[#「こち」に傍点]になる」
「くたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]ますねェ」
「あれはくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]る魚だ」
「じゃあ、鮃《ひらめ》ってのはどういうわけなんで?」
「平《ひら》ったいとこに目があるから、ひらめ[#「ひらめ」に傍点]」
「あ、そうか。……じゃ、鰈《かれい》もやっぱり平ったいとこに目があるねェ」
「あれは……平ったいとこに目があって……」
「どういうわけで、かれい[#「かれい」に傍点]ってんです?」
「うゥん、あれはなァ……」
「あれはなァ……どうしたんで?」
「うーん……そのゥ、そうそう、鮃の家来だ」
「魚に家来なんてのがあるんですか?」
「あァあ、あるとも。昔っから鯛《たい》、鮃といって、身分のいい魚だ、人間にたとえると、あれは大名、のちの華族《かぞく》だな」
「ふゥん? その家来なんですか?」
「ああ、家令《かれい》をしているんだな」
「家令?……なんだかおかしいねェ」
「おかしかァないよ、殿様のことを御前《ごぜん》というだろう?」
「ええ」
「御前(ご膳)のことを、英語でライスという」
「ライス?」
「そばに家令(カレー)がついて……ライスカレー」
「なんだ、洋食ですね。鰻《うなぎ》てえのァどういうわけです?」
「おまえは、いきなりいろんなことを聞くなあ。鰻あれは……もと、のろ[#「のろ」に傍点]といったんだ」
「のろ[#「のろ」に傍点]?」
「のろのろ[#「のろのろ」に傍点]しているから、のろ[#「のろ」に傍点]といったんだ。あるとき鵜《う》という鳥がのろ[#「のろ」に傍点]を呑んだ。あんまり大きいのろ[#「のろ」に傍点]で、半分は呑んだが、あと呑くだすわけにもゆかず。鵜が目を白黒して、苦しんでいた。これを見た人が、『あァ、あんな大きなのろ[#「のろ」に傍点]を呑みかけて難儀をしている。あれは、鵜が難儀だ。鵜難儀だァ』と言ったな」
「なんだかおかしいなァ」
「おかしいことァない。それが、自然にうなぎ[#「うなぎ」に傍点]になった」
「じゃァ、鰻の焼いたのを蒲焼きッてえますがねェ」
「あれはほんとうはばか[#「ばか」に傍点]焼きという。のろのろ[#「のろのろ」に傍点]してばかな魚だ。だからばか[#「ばか」に傍点]焼といったんだが、いかにも名前が悪い、食べ者《て》がないから、そこで、これをひっくり返してかば[#「かば」に傍点]焼きというようになったな」
「名前をひっくり返すのはおかしいね」
「ひっくり返さないと焦《こ》げる」
「なんだァ……落とし噺だよ。……この、湯飲てえのはどういうわけで?」
「湯を呑む道具だから湯飲だ」
「茶碗てえのは?」
「茶碗……というのは、ここへ置けば動《いご》かない。ちゃわん[#「ちゃわん」に傍点]としている」
「なァんだ。動《いご》かねえったって、そいじゃァ箪笥《たんす》だって火鉢だって、ちゃわん[#「ちゃわん」に傍点]じゃァねえか」
「これがいちばん先へできて茶碗、……でいいんだ」
「いいんですかねェ。土瓶《どびん》てえのは?」
「泥土《どろ》でこしらいた瓶だから土瓶だ」
「ほうゥ、瓶《びん》ですかねェ」
「こういうものは、昔は瓶《かめ》をかたちどった。瓶という文字は、へい[#「へい」に傍点]と読む。瓶《へい》は、すなわちびん[#「びん」に傍点]と読む」
「なるほど、……鉄瓶は?」
「どうしておまえはそう頭が働かない。泥土《どろ》でこしらいたものだから土瓶、鉄でこしらいれば鉄瓶ぐらいなことはわかるだろう」
「あ、そうか。じゃ、やかんは?」
「やかん……?」
「ええ、や[#「や」に傍点]でできてるわけじゃァねえや。真鍮《しんちゆう》でできたり、銀でできたり、ブリッキ[#「ブリッキ」に傍点]でできたり、アルマイトなんてえのがある。みんなやかん[#「やかん」に傍点]てえじゃァねえか、え? おウッ」
「なんだ、おウとは?」
「どういうわけでッ?」
「大きな声をしなさんな。それは……なんですよつまり、ェェ……いまは、やかんという」
「ふふッ……昔はのろ[#「のろ」に傍点]っていったか……?」
「真似をするな。水わかし[#「水わかし」に傍点]といった」
「水わかし? それをいうなら湯わかしでしょう」
「だから、おまえは愚者だ。湯をわかしてどうなる? 水をわかして、はじめて湯になるんじゃあないか」
「ああ、そうか。じゃあ、どういうわけで、その水わかし[#「水わかし」に傍点]がやかん[#「やかん」に傍点]になったんです?」
「水わかし[#「水わかし」に傍点]がやかん[#「やかん」に傍点]になったについては、ここに一条の物語がある」
「へーえ、どんな物語があるんで?」
「ころは元亀《げんき》、天正《てんしよう》のころというから戦国時代だ。このとき、信州の川中島をはさんで、対陣したのが上杉謙信と武田信玄の軍だ」
「ああ、川中島の戦《いくさ》ってえやつは、あっしも聞いたことがあります」
「ある日、大雨のときがあった。こういう晩には、よもや敵も攻めてくることもあるまい、久方ぶりに、英気を養おうと、上戸《じようご》は酒、下戸《げこ》はふんだんにものを食べてぐっすり寝たが、油断大敵だ。真夜中にどうっという、鬨《とき》の声、敵から夜討というものをかけられたんだ。すわと、はね起きたが、さァ、寝ぼけているから、周章狼狽《しゆうしようろうばい》、他人《ひと》の兜《かぶと》をかぶって行く者もあり、一つ鎧《よろい》を二、三人で、引っぱりっこするというえらい騒ぎ。一人の若武者が、がばとはね起きたが、若いに似合わず、落ち着いて身支度をすませ、で、最後に兜をかぶろうとしたら、枕元に置いてあったはずの兜がない」
「どうしたんで?」
「だれかまちがえてかぶってったやつがある。さァ兜がない、困ったなと、かたわらを見ると大きな水わかし[#「水わかし」に傍点]が自在鉤《じざい》に掛かって、ぐらぐらぐら、湯がたぎっていたから、これ究竟《くつきよう》の兜なりと、ざんぶとこの湯をあけて、かぶった」
「はァ……なるほど、で、どうしました?」
「これから、馬へ乗って乗り出したが、この若武者が強いんだ。群《むら》がる敵勢の中へ飛びこむと、縦横無尽に荒れまわるその勢いのすさまじさ……」
「そりゃあ勇ましいや」
「この若武者のために、敵方は、斬りたてられて、どうゥッとうしろィ退《さ》がって行く。敵方の大将が、床几《しようぎ》から立ちあがって、小手をかざして眺めると、緋《ひ》おどしの鎧を着た、夜目《よめ》にもこの水わかし[#「水わかし」に傍点]がぎらぎら光った化け物が、馬上において、抜群のはたらきをしている。『あれへ、奇怪なる水わかし[#「水わかし」に傍点]の化け物が出《い》でた。射《い》ッてとれッ』という下知《げじ》がくだったから、三十人ばかり、弓を持ってばらばらッと駆け出した。矢《や》距離《ごろ》を測って、満月のごとくに引きしぼり、きって放したる矢があやまたず、水わかし[#「水わかし」に傍点]に命中をすると、カーンと音がした。また矢を放つと、ひゅーと飛んできて、水わかし[#「水わかし」に傍点]に当たって、カーン、矢が飛んできてはカーン、矢カーン、矢カーン、やかん[#「やかん」に傍点]となった」
「とうとう、やかん[#「やかん」に傍点]にしちゃったねェ」
「これから一時休戦になって陣へ引きあげる。ほっとひと息ついて水わかしを脱ぐと、いままで真ッ黒にはえていた毛がすっかり抜けた」
「あれッ、どうしたんです?」
「たぎりたった湯をあけて、気が張っていたから、熱いのを我慢してかぶっていた。それがためにすっかり毛が抜けたんだ。禿《は》げた頭のことをやかん[#「やかん」に傍点]頭とはこれからはじまった」
「また、おかしくなった……ですが、あんなものをかぶったら、戦《いくさ》をするのに邪魔ンなりませんか?」
「いや、そんなことはなかった」
「そうですかねえ……蓋《ふた》なんぞどうしました」
「あれは、ぼっち[#「ぼっち」に傍点]をくわえて面の代わりにした」
「じゃあ、つる[#「つる」に傍点]のとこは?」
「つる[#「つる」に傍点]は顎《あご》ィ掛けるから忍び緒の代わりになって、水わかしの兜が落ちない」
「そりゃ、気がつかなかった。でも注口《くち》が邪魔でしょう?」
「いいや、昔の戦は、みんな名乗りをあげる。そのときに聞こえないといかんから、聞く耳の役をした」
「おっと、そりゃおかしいや。耳なら真っ直ぐとか上へ向いてなきゃァ。あれ、かぶると下ァ向くね」
「下を向いてていい」
「どうして?」
「どうして……だから、おまえは愚者だ。その日は、朝から大雨だ。注口《くち》が上を向いていたら、雨が流れこんできて耳垂《みみだ》れになるぞ」
「強情だね、先生も……耳なら両方にありそうなもんじゃァありませんか。片っぽうねえのはどういうわけです?」
「いやァ、ないほうは、枕をつけて寝るほうだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「無学者は論に負けず」典型的な隠居と八熊の長屋問答だが、隠居、家主、紅羅坊名丸といえば、深慮遠謀、常識分別の権化と最初からお極まりの筈だが、こうした例外の例外が存在するところが「落語」の本領、多彩《ヴアラエテイ》に富んだところだ。気障《きざ》な半可通を「酢豆腐」、知ったかぶりをする無学者を「やかん」というのは、落語国の二大、万人通用語である。語源解明という素朴な質疑が、とめどなく展開するこじつけ[#「こじつけ」に傍点]、語呂合わせで面白可笑しく、新鮮さを失わない。なんの用意もなくしゃべっているうちに、考えもつかなかった解決がふいと出てくることがよくあるものだ。それで、人知れず悦に入り、自己満足《マスターベーシヨン》に陥っていることがあるものだ。おそらく、この隠居にも最初からいちいち語源についての目論見《もくろみ》、成算はなかったようだ。あまりに対手がしつこく食いさがってくるので、世間の評判《イメージ》を損ってはそれこそ体面に関わるので強情を張り続けた――それが功をそうし、話をしているうちに乗りに乗って、われながら見事だと感心するような迷答怪答(?)を連発したのだ。だから、隠居は対手が帰ったあと、その日は終日ご機嫌であったにちがいない。この問答に懲りずに百人一首の解釈を訊きに来るのが「千早振る」[#「「千早振る」」はゴシック体]で、同系の噺に「浮世根問」「一目上り」がある。原話は、『鹿子餅』(明和九年刊)所載、「薬罐《やかん》」。「千早振る」[#「「千早振る」」はゴシック体]参照。
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山崎屋
吉原は、〈遊女三千人御免の場所〉……方角が北に当たるので北国《ほつこく》、北廓《ほつかく》ともいった。
吉原にはいろいろ慣例《しきたり》があるが、大門の中へは、駕籠乗物はいっさい入れない。これは〈廓抜《くるわぬ》け〉などがあって、駕籠の中へ隠れて廓を抜け出す遊女を防ぐために、乗り入れは禁じられていた(例外として医者だけは乗りうち[#「乗りうち」に傍点]ができた、という)。どんな身分のお客でも、大門口で駕籠をおりて、それから徒歩《かち》で送りこみということになる。
そのころは、花魁《おいらん》の道中というものがあって、夕暮れになると、仲之町張《なかのちようば》りの花魁……最上等の遊女としてあるが、この遊女が、髪を立兵庫《たてひようご》、あるいは横兵庫《よこひようご》という髷《まげ》に結《ゆ》って、簪《かんざし》を後光のように差し、金糸銀糸で縫《ぬ》いをとった襠《しかけ》をはおって、三《み》つ歯《ば》の高い木履《ぽつくり》を履いて、内外八文字《うちそとはちもんじ》を踏んで歩く……。
うしろから、雨も降らなければ、日照りもしないのに、傘を一本さしかけている気の利《き》かない男がいる。両側のお茶屋では、すががき[#「すががき」に傍点]という陽気な三味線を弾いて、この音楽につれて道中をした、という。
「吉原|細見《さいけん》」というのがあって、これに何楼にどういう女がいて、年齢《とし》がいくつだとか、あるいは女の位取《くらいど》りがすっかり記入してある。名前の上に印《しるし》がみんなついていて、山形とか星がついている。いろいろある中で、〈入山形《いりやまがた》に二つ星〉というのが最上等の花魁としてある。玉代《ぎよく》は、昼夜で三分、つまり一両の四分の三、……その時代によって多少差があるが、三分で花魁が買えた、という。これにはみんな新造《しんぞ》というものがついた。新造というのは、花魁の卵で、修業中の身分だが、これにもいろいろ階級があって、振袖《ふりそで》新造、留袖《とめそで》新造、番頭《ばんとう》新造とあって、これを略して、振新《ふりしん》、留新《とめしん》、番新《ばんしん》、ともいった。こういう新造がついて、昼夜で三分という玉代《ぎよく》で遊べた、という結構な、その時代のお話――。
「ェェ、若旦那、どうぞまァ、あんまり大旦那さまを怒らせないように……ひとつ、二階でもってご謹慎を願いたいもんで……」
「いやァ、番頭さん、……佐兵衛さん、おまえさんにもいろいろ心配かけちゃったね、けど、おまえさんの執《と》り成しだよ、今日は親父の叱言《こごと》が短かった、さわり[#「さわり」に傍点]だけで済んだよ」
「叱言のさわり[#「さわり」に傍点]てえのはないでしょうが、まァ、せいぜいご辛抱を……」
「あァ、辛抱しましょう。……ところで、おまえさんに頼みがあるんだがね」
「ほう、なんで?」
「佐兵衛さん、ひとつ、小遣いを貸してもらいたいんだがね」
「お小遣い?……あァさようでございますか。家をお出ましになっていらっしゃると、若旦那も小遣いにはご不自由でございますか? まァあたくしでできますことならばご用立てをいたしますが、いかほどお入用で?」
「そうだね、ちょっと三十両」
「え? 三十両? こりゃあ恐れ入りましたね。お小遣いてえから、あたしゃ二分か一両かと存じておりました。三十金という、さような大金の持ち合わせは商人屋《あきんどや》の番頭にはございませんで、とてもご相談には乗れません」
「おいおい、なにを言ってんだよ。おまえの小遣いを貸してくれというんじゃあないやね。ね、店の帳場格子を預かっているのは、番頭さん、おまえだろ。いずれはおまえ、親父の代物《しろもの》だァね。だから筆の先でちょいちょいと……うまくやって、あたしのほうへお金をまわしておくれというんだ。まっ手っ取り早く言えばごまかしてくれてんだよ」
「なにをおっしゃるン。けしからんことをおっしゃいます。店の金というものは一厘一毛ちがいなくぴたッと帳面づらの合っているもんで、……ごまかすなんて、そんなことはできません」
「そんな堅いことをお言いでないやね。おまえだって初めてごまかすわけではなしさ」
「えッへんッ……」
「おや、啖《たん》を切ったね」
「なんです? 聞き捨てンなりませんね。そうおっしゃるとあたくしが始終ごまかしているようですね。……失礼でございますが、あたくしは十歳《とお》の年からご奉公にまいりまして、ただいまでは通い番頭、ご主人さまの品物は塵っ葉一つ自儘《じまま》にしたことはありません。……この広い横山町で山崎屋の番頭の佐兵衛では人が知りませんが、『ああ、あの堅蔵《かたぞう》か』というと、あたくしの仇名ンなっておりますン、ええ。焼き冷《ざ》ましの餅よりか、あたくしは堅い人間で……石橋の上で転んで頭をぶつければ橋のほうが『痛いッ』というぐらい堅いッ……」
「おいおい、大きな声をするんじゃァないよ。階下《した》でおとっつぁんが聞いているじゃあないか」
「え、え、大きな声は地声でございます。いくらでも……こりゃあ競《せ》りあがります」
「そんなもの競りあげなくったっていいやな。ねェ、ねェ、そりゃ、番頭さん、おまえ、野暮《やぼ》というもんだよ」
「ええ、あたくしは野暮でございます、へえ。野暮でも商人屋《あきんどや》の番頭は勤まりますからな……、へえ」
「は、いやァ……こりゃあ悪かったね、あたしがあやまりましょ、ね……主《しゆう》が家来に手をついてって……いうことにしてご勘弁を願おう、ね。……ところでね、番頭さん、おまえさんにこのまンま階下《した》へ降りて行かれちゃうと、こんだ会ったときに、あたしゃきまりが悪いがね。……どうだい、そこへ座って煙草の一服も吸いながら、これからあたしが世間話をおまえさんに聞かせるから、それを聞いて、にこにこっと笑いながら階下《した》へ降りてっておくれ、ね。長い話じゃあない、いいかい? ええと、ねェ、先月の、あれは二十日の日だった。日をきっちり覚えているのは、町内のお湯が月並み休みで、ね。……あたしゃあ呆れ返ってねェ、この町内で生まれて、この町内で育って、それでいて、湯屋の休みぐらい知ってそうなもんだ。それがわからねえほど遊びほうけていたのかなァ、とわれながらおかしくなって、ね。ついては、ひとっ風呂浴びたいものと、隣町の柳湯へ出かけたと思《おぼ》し召せ。ざっと浴びて、表へ出る。とたんに、女湯の腰障子ががらがらっと開《あ》いたから、ひょいと見ると、……あたしゃあごくりッ[#「ごくりッ」に傍点]と生唾《なまつば》ァ飲んだよ。年ごろが二十……三、四かな、湯あがりのくせに白粉ッ気なしで、小股の切れあがったオツな女だァ、お召しの赤大名の着物に襟《えり》付きだ。帯を引っかけに結んで、素足に吾妻下駄、言うとこがないねェ、絵ン中から抜け出たってえが、まったくだよ。湯屋の路地をついて、すうっとその女が曲がった……こっちも閑人《ひまじん》だからね、はてな? あんないい女がこの近所にいたてえのァ知らなかった。せめて、お宅だけでも見定めたいと、あとをつけて行くと、揚物屋《あげものや》と八百屋ねェ、あの路地を入ってって、突き当たりが井戸端だろう? 右っ手にね、二階|建《だち》の四軒長屋ってえのがあるんだよ。そのいちばん奥まったところへ入ったから、はてなァこの近所にゃあ知り合いがいるんだけどなァってえ顔をして……入ってって、表から見ると、その格子造りの粋な家ン中に御神燈が下がってるんだ。蝉切《せみぎ》りに三瓢箪《みつびようたん》、清元|何《なん》の某《なにがし》としてあるんだ。ははァんここは清元の稽古屋のお師匠さん……そんならなにも遠慮する事《こた》ァねえ、あしたっからここィ、弟子になれば、あの顔《かんばせ》も拝むことができるし、ついでに朗らかなおん声も聴かしてもらえる。こいつァ、いい掘り出し物をしたなァと、あたしがそうおもいながら、もういっぺん、格子の中を覗《のぞ》くと、土間の沓脱《くつぬぎ》の上にそろえてあるのが、男物の下駄なんだがねェ、これが野暮な、油桐《やまぎり》の塗り皮の万年|鼻緒《はなお》ってえのがすがってやがって、真ン中にご丁寧に焼印が押してあるんだよ。それがね、番頭さん、|※《すやま》に崎という字の焼印だ、……家《うち》の暖簾《のれん》の印《しるし》に寸分|違《たが》わない。いつもおまえさんが、ほら、ふだん履《ば》きにつっかけてる、あの下駄ね、あれとおんなしものがそろえてある。……番頭さん、どこへ行くの?……どこへ行くんだよ、おいおい、おいッ、立ってっちゃっちゃあ困るね」
「あたくしはちょっと階下《した》に、おもい出した用がございましてな」
「で? 行くのかい。……あァァ、その心配にゃあおよばない。もっと座ってていいよ。おまえさんでなくっちゃあならないような用ができればね、店の者が手分けをして家じゅう捜しにくる。そんなに鉦《かね》や太鼓で捜すってえほど広い家でもないんだから、大丈夫だよ。……まァま落ち着いてておくれよ。いいかい……番頭さんの履物によく似てえるなとおもいながら、あたしが井戸端のところまで引っ返して来ると、どこかのおかみさんがお米を磨《と》いでたよ。……『ちょいとうかがいますが、この二階家の四軒長屋のいちばん奥まった家は、清元のお師匠《しよ》さんでございますね』って訊《き》いたら、そのおかみさんが『へえ』って言いながら立ちあがってね、『清元のお師匠さんというのは、ま、表向きでございまして、ほんとうは柳橋の小いねさんという姐《ねえ》さんでございますが、あの、横山町の山崎屋の番頭さんに根引きをされまして、いまではあすこィ囲われているんですが、番頭さんてえ方が高麗屋《こうらいや》のような、それはそれは渋い男ッぷり。また、姐さんがね、半四郎のようないい顔つきで、ま、ふたァりとも仲がいいので、近所ではあてられどおしで……』おいおい、おい。また立つね、……どうして、そうお尻が落ち着かないんだい。そんなあんばいで、よく十歳《とお》の年から家ィ奉公勤めができたね、番頭さん。……いいかい、ここンところをよく聞いておくれよ。この広い、ね、横山町で山崎屋ってえなァ家《うち》一軒だよ。そこの番頭さんていやァ佐兵衛さん、おまえよりほかにはないね。おまえさんの年分のお給金てえものは、わたしは知ってる。あれじゃあ手活《てい》けの花を眺められないわけだァ。……けどね、世間は広いからね、そらァ親父にも儲けさせるだろうが、店の品物を一時《いつとき》あっちへ運び、こっちィ運びして、で、鞘《さや》ァ取ってるやつがあると、あたしはふんでるんだ。……おまえじゃないよ。いいかい、おまえは、石橋の上で転ぼうもんならば石のほうで『痛いッ』ってえほど堅いんだから、おまえじゃあない。けど、世間は広いからね、おまえの名前を騙《かた》って、そういう贅沢をしているやつがあるんだから、……このことはいっぺん、あたしゃあ親父の前ではっきりと……」
「……あァた、あァた、若旦那、そんな大きな声……」
「大きな声は地声だ。いくらでも競《せ》りあがる」
「それじゃァあァた、野暮てえもんで……」
「どうせあたしは野暮ですよ。あァ、野暮でも商人屋《あきんどや》の倅は勤まる……」
「そういちいち真似をしちゃあいけませんよ。……こりゃあ恐れ入りましたな。ェェ、それァまァなんですが、じつは若旦那、あれはあなたにもお話を申し上げようとおもっていたんですが、いえいえいえ、とんでもない。あれはその、けしてそういうもんではございませんで、あたくしのあれはその、ちょっと縁合《えんあ》いの者で、うう……家内の妹でございまして、え……あ……」
「ああ、わ、わ、わかった。……もう、それよりかものを言っちゃあいけない、番頭さん。あたしゃァものわかりの早いほうでねェ、家内の妹と聞きゃあ、それで得心がいくんだ。おまえね。額に汗が出てるよ。汗をお拭きなさい。汗ェかくほどの、そんな時候じゃないよ、ええ。ま、汗でも拭いて、ゆっくり一服吸いなさいよ。わかったんだよ、……あたしゃあ。ふふン、おかみさんの妹というと、おまえにも妹に当たるわけだねェ。いい妹を持っておまえは幸せだァ……ははは、いい月日の下に生まれなすったんだなァ、番頭さん。ああいういい妹につきあってられるってえのァ、いいねえ、あたしもあやかりたいなァ。どうだい?……三十両貸すかァ?」
「なんです、あなた。きわどいところでお掛けあいでございますな。……ま、よろしゅうございましょう」
「おい、なんだね? よろしゅうございましょうてえェ、その、不承不承に受けあわないで、胸でも叩《たた》いて反身《そりみ》ンなって『万事ァあっしが……』って、音羽屋のような調子で言えないかい?……この身代てえものはね、どうせ親父が死ねば、ここの家の身代はあたしのものなんだから、先ィ行って使うのもいま使うのもおんなし事《こつ》た。どうせ使うんなら早く片ァつけちまったほうがいいや。ぐずぐずしていりゃあみんなおまえに片ァつけられちまうから……」
「なにを言ってるんです? どうも、おどろきましたなァ、若旦那。……どうも、あなたにそう弱い尻をつかまれていたんじゃあしょうがございませんから、どうしてもお入用《いりよう》ならばご用立てはいたしますが、いったいその金をなんにお使いンなる?」
「なァにを言ってるン。なんにお使いになるったって……きまっているじゃあないか。昨夕《ゆうべ》花魁《おいらん》の夢見が悪かったから、今夜行って遊んで、あしたの朝早く帰ってこようてえ寸法だ」
「いけません」
「どうして?」
「金がなくなったら佐兵衛またごまかせとおっしゃる。あたくしがいけないと言えば、じゃあおとっつぁんに話をすると……そんなことをしていれば、いつかは尻が割れますから、もっと大ざっぱい[#「大ざっぱい」に傍点]なご相談に乗ろうじゃあありませんか?」
「大ざっぱい[#「大ざっぱい」に傍点]とは……?」
「吉原《なか》の花魁というのはあなたにほんとうに惚れているんですか?」
「ああ」
「ああてえのァ恐れ入りましたね。じゃあ、その花魁とあなたと一緒になれば、若旦那、お道楽がやみますか?」
「え?」
「あたくしはあなたさまのお道楽には一方《ひとかた》ならず陰ながら心配をしておりまして、髪結床の職人やなにかに訊《き》きあわせまして、あなたさまがぞっこん[#「ぞっこん」に傍点]打ちこんでいらっしゃる花魁の素性《すじよう》を洗いました。こらァ悪いことではございますが……。武家出でございますな? 本名はお時さまと申し上げて、年齢《とし》が十九、なにひとつできないものはないという結構な花魁、仲間うちの評判もよし、抱え主も、まァ、可愛がっているという、まことによい遊女でございますな。……いかがでございます? あなたのほうでもご執心、花魁のほうでもその気ならば、いっそのこと、花魁とご夫婦になったらどうです?」
「おいおい、番頭さん、赤ん坊の前で風車《かざぐるま》ァまわすようなことを言っちゃあ困るよ。……そりゃあ花魁だって一緒ンなりたがっている。あたしも女房にしたいが、あの家《うち》の親父ね、あの皺《しわ》くちゃが生きてちゃ、だめ。あれが息をしているうちはだめですよ。ま、仮におとっつぁんはいいとしても、世間のてまえ、堅気《かたぎ》の息子が吉原の花魁を家へ連れてきて、女房で候《そうろう》とは、どう考えたってできるわけがないだろう?」
「へへへへ、失礼ながら、あなたはまだ若い。それァ地道《じみち》にいけば大旦那もご承知になるわけもございません。しかし、表通りがあって裏通りのある譬《たとえ》。ここへひとつ狂言を書く」
「狂言とは……?」
「では、前もってあなたさまのご本心をうかがいたいのは、花魁とかならず一緒になれるものとして、早ければ三《み》月、遅いと半年かかるかもしれませんが、そのあいだ、ご道楽を我慢して、若旦那、外へ出ずにじッとご当家でもって、ご辛抱ができますか?」
「そりゃあ一緒ンなれるンなら、あたしだって辛抱するよ、……けれども辛抱しちまってから、『じつは若旦那を堅くしたい一心で、あんなことを言いましたが、これをしお[#「しお」に傍点]に、ご親戚の中《な》ッからいい娘さんでもおもらいなさい……』かなんか、おまえが言うようなことがあったら、あたしゃあ刃傷《にんじよう》におよぶよ。台所から山葵《わさび》おろしを持ってきて顔ォ……縦横十文字に引っ掻いちまうから」
「そんな事《こた》ァどうでも構いませんが、いかがでございます? ご辛抱ができますか?」
「辛抱しますよ」
「こうなりますと、わたくしが作者で、ひと芝居打つことになります。……あなたが役者、あたくしが作者。筋をひととおり申し上げましょうか」
「聞きたいねえ」
「明日《あした》にも……あたしは花魁を親元|身請《みうけ》で根引きをしてまいります。で、すぐにご当家に連れてこられないというのは、ああいういい花魁になりますと、里言葉《さとことば》というものを使いますな……。『そうざんす』『そうでありんしょう』……こんな言葉ァ使ったひにゃあ、どんな物堅い親御さんだって、いっぺんで見破ってしまいます。ですから、あたくしは、この、言葉の直るのと、もう一つは、針仕事ができないと、商人屋《あきんどや》のおかみさんは生涯不自由でございますよ。ですから針仕事を習いがてら、言葉を直してもらうには、出入りの鳶頭《かしら》の家のおかみさんがいい、と、こうおもいます。あのおかみさんてえ人はなかなか、そういうことは面倒見がいいんでございますから……。で、言葉が直る、それがまァ、早くって三月、遅いと半年間……こういうわけでございますよ。晦日《みそか》がまいりましょう、小梅《こンめ》のお屋敷へお掛金を頂戴に行きますのは、ずうっとあたしの役になっております。あのお屋敷では、多いときには三百金を越しますが、少ない月でも百両が欠けるなんてことはございません。その、晦日にあたくしがなにか用をこしらえて、あなたさまにご足労を願います。お屋敷でお金を受け取ったらば、財布ぐるみ鳶頭《かしら》の家に預けて、手ぶらでもって、あなたさまがお帰りになる。大旦那の前へ出まして『行ってまいりました』『あァ、ご苦労だったなァ』……で、『お金は……?』っと言われたときに、あなたさまが懐中《ふところ》やら袂《たもと》を慌てて捜して、もじもじしていれば、大旦那さまのほうが、もう、かッとなさいまして『どうしたんだ? 落としたのか? それともどっかへ預けて使うつもりかッ?』……すったもんだ[#「すったもんだ」に傍点]という騒ぎンなりましょう。……そこへ鳶頭《かしら》が飛びこんできて、『いまあたくしが表へ出る、足へつっかけたものがあるんで、見るとこの財布でございますが、|※《すやま》に崎の字の印《しるし》がございますので、てっきりご当家の財布《もの》と、取るものも取りあえずお届けに上がりました。中はお改めを願います』と、財布を置いて鳶頭が帰る。さァ落とした金が手つかず[#「手つかず」に傍点]出たんですから大旦那ァ大よろこびで……。そこで鳶頭ンところへお礼にいらっしゃる。このときに吉原《なか》の花魁に御殿女中というようなごく堅い服装《なり》をさして、『お茶をひとつ』てんで持って出させる。見なれない女がいるから、『どちらのお嬢さんだ?』てんで訊《き》きます。え? いや、きっと訊きます。あァたのおとっつぁんはつまらないことを根ほり葉ほり[#「根ほり葉ほり」に傍点]訊くのが好きな性分《たち》だから……。そのときに鳶頭にこう言わせるン。『じつはこれはあたしの女房の妹でございますが、長いあいだお屋敷勤めをして、年期《ねん》があけて帰ってまいりましたが、年ごろになったのでどっかへ縁づけたいとおもっておりますが、当人の言うには武家は武張《ぶば》っていやだし、職人は殺風景でいけない。なろうことなら前掛け身装《ごしらえ》、腰ィ矢立《やたて》を差すような方のところへ縁づきたいと申しております。大げさなことはできませんが、持参金が五百両、箪笥《たんす》、長持が五|棹《さお》ほどございますが、よろしいところへお世話を願いたい』と、こうふっかけると、ま、失礼だがあなたのおとっつぁんは欲張っていらっしゃる」
「……これァどうもおどろいたねェ、欲張っているてえのァ」
「持参金が五百両に箪笥、長持が五棹、器量がよくってお屋敷勤めをしたといえば女ひととおりのことはなんでもできるとおもいましょう。鉦《かね》と太鼓で捜したって、またとない嫁御寮《よめごりよう》。『うちの徳にもらうわけにはいかないかい』とくればしめたもんで、ここで立派な仲人《なこうど》をこしらえて、吉原《なか》の花魁を家へ入れて、あなたのおかみさんということで立派にご披露ができますが、どうです? おわかりになりましたか?」
「えらいッ! 恐れ入ったねェ、たいした作者だァ、これァおどろいたねェ、おまえがそれほどの悪党とはあたしも知らなかった」
「なんです、悪党てえのァひどいね」
「まァ勘弁しておくれ……なるほどこれァいいねェ、うゥん。こらァうまくいきますよ。ああ、かならず成就するよ」
「さようでございますか。もしこれでいけませんでしたらばまた、あたくしがなんとか狂言を書き替えます」
「へえェ、……いよいよ二番目|物《もん》だね。おまえが夜中に忍びこんで親父を締め殺す……」
「ご冗談おっしゃっちゃあいけません」
「番頭さん、あのゥ、佐兵衛さん。ちょっと来ておくれ」
「へい、ご用でございますか? 大旦那さま」
「おまえ、いやに落ち着いてるが、今日は小梅《こンめ》のお屋敷へ百両のお掛金をいただきに行かなくっていいのかね?」
「へえ、じつはそのことで申し上げようとおもっておりましたが、わたくしはじめ店の者一同ちょっと手のはなせん用もございますので、若旦那がお手空《てす》きでいらっしゃいますようで、若旦那をひとつ、名代《みようだい》におつかわしを願いたいので……」
「だれを? 徳をかい?」
「へえ」
「おまえさんどうしたんだい。顔を洗ったのかい? 寝ぼけたことを言っちゃあいけないよ。あんなおまえ、道楽者を金の使いにやれますか」
「いえ、若旦那もこのごろはもうすっかりご改心で……」
「いやァ、おまえの目から見たらそう見えるかもしれないが、あれは金の顔を見ないから、〈無いが意見の総仕舞〉よんどころなく辛抱人《しんぼうにん》に見せかけているんだ。そこへおまえ、百両なんてえ大金を見せてみな、猫の鼻|面《づら》へ鰹節《かつおぶし》を持ってったようなもんだ。かならず使ってしまいます、だめだ」
「そんなことはございますまい。あたくしは、たしかにご改心とおもいますが、もしまちがったらこの首を差しあげてもよろしいので……」
「そんな汚い首をもらったってしょうがないやね。だめだよ」
「じゃ、こうなすったらいかがで……なにくわぬ顔で、大旦那さまが黙って使いにお出しンなる。先方から金を受け取ってまっすぐ家へ帰《かい》っていらっしゃれば、ほんとうのご改心ですが、途中で気の変わって使うようなことがあったら、まだまだご改心ではございません。お気の毒だが百両の金は縁切り金。久離《きゆうり》切って勘当。白いか黒いか、試しに大旦那さまやってごらんなさい」
「それァまァね。おまえさんは他人だからそういうはっきりしたことが言えるが、親の身として、そんなばかなことができるか。……百両の金がなくなり、たった一人の倅を勘当ォしたひにゃあ、両方おまえ、損をしなくッちゃあならないよ」
「……あたくしが請けあうからおやりください」
「そうかね、……それほどにおまえが請けあうんなら、じゃ、ま、ひとつ、試しに出そうか、……おいッ、徳や」
「へい、ここにいます」
「なんだい、おまえ、……そんな物陰にいて、こっちィお入り」
「はい、……あたくしが番頭の名代として、小梅のお屋敷へ、お掛金の百両を頂戴に……へい、行ってまいります」
「なんだ、立ち聞きをしてやがった。……ま、ま、いいや。あの、ここに財布がある。なかに印形《いんぎよう》が入ってる。判取《はんとり》の書きようは知ってるだろうな?……あ、それから、御用人さまの中村さまにお目にかかるんだよ。御錠口から行くんだよ。じゃ、わかったな、気をつけて行ってこいよ」
「鳶頭《かしら》……」
「おゥ、若旦那じゃァありませんか。ここンとこはすっかりご辛抱だそうで、結構でござんすね」
「番頭の佐兵衛からおまえ、話を聞いているだろうがね、今日が例の当日なんだ。いま小梅《こンめ》のお屋敷からお掛金の百両いただいてきたから、これ、おまえにそっくり預けるよ。いいかい、早く来てくンなくちゃあ困るよ。家の親父ときたひにゃ、口より手のほうが早いからねェ、親父が腹ァ立っちゃって、煙管《きせる》かなんかでぽかりッとやられてから、おまえが来たんじゃ、手遅れだよ、すぐ来てくれよ、頼むよ」
「ええ、大丈夫で、ひと足|違《ちげ》えで追っかけますから、ご安心なすって」
「そうかい。そりゃありがとう。……ところで……花魁は、どうしてるね?」
「ヘッヘッヘッ、感心だね。堅気《かたぎ》の女房になるんだって、朝から晩まで二階へ上がりどおしで、ちくちくちくちくって縫《や》ってますがね。このごろじゃあね、家のかかあのほうが、追っかけられてるほど達者になっちゃった。一所懸命ってえやつで……」
「そうかい、ありがたいなァ。ね、吉原《なか》で居続けしてる時分にね、鬼ごっこォしてほころび[#「ほころび」に傍点]切っちゃったんだよ。『お針さんとこィ行って縫ってもらう』ったら、『いいわよ、わちき[#「わちき」に傍点]が縫いますわよ』って縫ってくれて、『さあ着なんし』って掛けてくれた。袖ェそっくり縫っちまったからね、あァ、手が出なくなっちゃっておどろいたことがあるんだがね。……そうかねェ、感心なもんだねェ、……ねェ、ちょっと、小半時《こはんとき》ばかり会ってこう」
「なにを言ってるんですよ。今日が肝心じゃあございませんか、若旦那。せっかくここまで運んできて、ぶちこわしちまっちゃあしょうがねえ。初日の千秋楽だ。自分のものになりゃあどうにでも好きになるんですから、おまえさん一人役者だ、どじ[#「どじ」に傍点]踏んじゃあなんにもならねえ。……さァ、お帰り、お帰り……」
「なんだい山雀《やまがら》だね。……じゃ、頼むよ」
「おとっつぁん、ただいま帰りました」
「おい、番頭さん、帰って来たよ、倅が。……あ、あ、あ、ご苦労さまだったな、徳……」
「へ、行ってまいりました。ご用人の中村さまが『久しく会わないが、おまえ、いい若い者になったなァ』なんてことをおっしゃって、『親父によろしく……』なんて、申しておりました」
「うん、そうかい。で、ご勘定は無事に……?」
「はい、たしかにいただいてまいりましてね、へえ、中村さまが、『親父に、よ、ろ、し、く……』と申しました」
「わかってるよ。早く出しな」
「へえ、ェェ、(と懐中《ふところ》をさぐって)はて?……」
「なァにをしてンだ。どうしたんだ……落としたのか……?」
「……ええ、さっき……ちゃらァんと……」
「ばかッ……番頭さん、これだからあたしァ言わないこっちゃあないてんだ……呆れたもんだ。ちゃらァんて音がしたら、なぜそのときに拾わないんだ……いや、落としたんじゃあない。百両の金を落として気のつかないなんてえ、そんな腑《ふ》抜けがあるか。だれか遊び友だちに預けてきたろう。ええ? そうにちがいない。だれに預けた……いいや、余計なことを言うな、番頭。……だれに預けたんだ、金を。言いな……なに? 鳶頭《かしら》が来た? いま、ちょっととりこみがあるから、なにか用があったらあとにしてもらっとくれ」
「……お話ちゅう恐れ入りますが、あっしがいま、表へ出ると足ィつっかけたものがあるんで……。見ると、この財布《せえふ》でござんす……|※《すやま》に崎の字の印がございまして、てっきりこちらさまのと、取るものも取りあえず、お届けに上がりました。中はお改めを願います」
「あッ、いやァッ、あ、あ、あァ……こりゃあ、ありがたい事《こつ》た。ありがたい、この財布はね、ご仏前へちょっと供えて、お燈明をあげとくれ。……あァあ、観音さまのご利益……南無観世音大菩薩さま……あァありがたい事《こつ》た。……おい、おまえ、けろっ[#「けろっ」に傍点]としてるね、おい。困るじゃあないか。おまえは町内へ来てから落としたんだな、おまえの落とした財布は鳶頭《かしら》が拾ってくれたよ」
「へえ、そうなりますんで……」
「なんだい? そうなりますってえなァ」
「い、いえ……」
「鳶頭《かしら》が拾ってくださったから金が出たんだ。ほかの者《もん》に拾われてみろ、出やァしない」
「エヘヘヘ、そんな事《こた》ァありません」
「なんだい、しょうがない、けろっ[#「けろっ」に傍点]としている。ええ? 番頭さん、なんと言ってもまだ子供だな、ええ? 百両ォ落としてけろっ[#「けろっ」に傍点]としてやがら。……あ、鳶頭《かしら》っどうした? 帰った?……お茶でもあげてくれりゃあよかったのに、気の毒なことをしちまったな……しかしまァ、あいつも帰ってくるところをみると、改心したらしいな」
「大旦那さま、いい按配《あんばい》でございました。……それはともかく、お金を拾ってくれました鳶頭《かしら》の家へ、これはあたくしよりは旦那がひと言お礼においでンなるのがよろしいかとおもいますが……」
「うん、そうだ。このまンまじゃあいけないね、なんの仲でも礼儀だから……いやいや、あたしがすぐ行ってきましょう」
「ェェ、ちょっとお待ちを願いますが、おいでンなるには手ぶら[#「手ぶら」に傍点]というわけには……」
「あァあァ、そりゃわかっているよ。途中でなんか買っていくから……半紙の二帖もやりゃあいいだろう」
「半紙の二帖てえのァどうも……」
「いけないかい? じゃあ金でやってもいいが、いくらやろう、え? 一分《いちぶ》もやりゃあいいか?」
「百両でございますからなァ……ま、お上《かみ》のご定法で一割はおつかわしンなりませんと……」
「え? 一割ってえといくら?……十両? おまえは他人《ひと》の物《もん》だとおもって気前がいいねェ。十両といやァおまえ、たいへんだ」
「いえ、でも百両落としたものを十両で済めばこんな安い物……」
「そりゃァま、理屈はそうだが、いざ出てみると、そうもおもえないやなァ。十両は少し多すぎやァしないかな」
「じゃあ、こうなすったらいかがで……にんべん[#「にんべん」に傍点](鰹節)の切手がございますから、これと十両と二つお出しンなる」
「うん」
「鳶頭はああいう江戸っ子でございますから、『切手のほうは頂戴しておきますが、ふだんからいろいろご厄介になってンで、お金のほうは思《おぼ》し召しで、もう結構でございますから……』と言って返します」
「そうかい、なるほど、請けあうかい?」
「まァ、そりゃあわかりませんが、きっと返すとおもいますが、まァ返すか返さないか、試しにやってごらんなさい」
「おまえ試すのが好きだな……じゃまァいいや、どうせ返してもらえるんなら、十両、包んで持って行きましょう……じゃァあたしは行ってきますよ」
「ごめんなさいよ、鳶頭《かしら》ァ、いるかい?」
「あ、これァどうも大旦那じゃァございませんか。なんですねェ、ご用ならお使いをよこしてくださりゃァこちらからうかがったんでござんすのに、まァこんな小汚《こぎたね》えところへ……まァどうぞお上がンなすって、……おい、布団を出しな、布団を……さァさァそちらへどうぞ、さあどうぞ……」
「まァま、とんだお手数をかけますねェ、どうぞお構いなく……いやいや……さて、さっそくだが、先ほどはどうも、鳶頭《かしら》ありがとう。ほんとうにおまえさんが拾ってくれたからこそ、百両という大金があたしの家へ戻ってきた。ほかの人じゃあそうはいかない。ねェ、こんなうれしいことはありませんよ。ま、なんの仲でもお礼に行かなくちゃあならないというんで、さっそく出て来ましたが、ェェこれはな、にんべん[#「にんべん」に傍点]の切手だ、こっちは……これは、お上のご定法で、まァ一割の……十両だ。で、番頭の言うには、鳶頭は江戸っ子で無欲で、まことに威勢がいい、職人気質だ。まァ、切手のほうは受け取るだろうが、十両のほうは、まァ、えへん、試してみて……という。ま、いろいろなん[#「なん」に傍点]でな……はははは、とりあえずまァお礼に来ましたが、どうかひとつ、これを納めておくれ」
「これァどうも、恐れ入りまして……そんなものをいただくつもりじゃあねえんでござんすが……じゃァまァせっかくのお言葉でござんすから、この切手のほうは頂戴しておきますが、……この十両のほうは、ふだんからいろいろご厄介になってンで、お金のほうは思《おぼ》し召しで結構でございまして、どうぞそちらへお納めを願いたいんで……」
「……返すかい……えらいな、どうもおまえは……いやァ江戸っ子だ。じつに恐れ入った、うん、おまえもえらいが家《うち》の番頭もよく当たる……え? いや、なに、こっちの事《こつ》だが……じゃァまァ、おまえさんがいらないてえのを無理にと言っちゃあ失礼だから、これァまァあたしがいただいておきますが、(と、お金を懐中《ふところ》へしまって)そうかい、それァすまない……はいはい、いやァどうも、へい、へえへ、頂戴をいたします、へ、ありがとう(と、茶を受け取って)鳶頭、見なれない、いいお嬢さんがいらっしゃるが、どちらの? あれァ……」
「いやァ、どうもお嬢さんてえのァ恐れ入りましたが、家《うち》のかかァの妹なんでござんす」
「おかみさんの? 妹さん……へーえ、そうかい、まァ、おかみさんには似ないでいいご器量……いや、ま、えへん。おかみさんもなかなか器量はいいが、顔立ちはちょっとちがうようだが……うんうん、いままで一向《いつこう》見かけないが、どこに……」
「なげえこと屋敷奉公をしておりましたが、こんどお暇が出て帰《けえ》ってめえりましたが、どっかへ、もう年ごろで縁付かなくちゃあなりませんが、当人の言うにゃあ、武家は武張《ぶば》っていやだし、といって職人は殺風景でいけねえから、なろうことなら前掛け身装《ごしらえ》で、腰ィ矢立を差すような方ンところへ縁付きてえなんてね、えッへへへ、贅沢なことを言ってやんで。まァ碌なことはできゃしませんが、箪笥《たんす》、長持が五棹《いつさお》、持参金が五百両ばかりございますんで、どうかひとつ、よろしいところがあったらお世話を願《ねげ》えてえんですが……」
「鳶頭、なにかい? いま、なんと言いなすった? 持参金がいくら……え? え? 五百両。うんうん。箪笥、長持が五棹。うん……たいそう気張《きば》ンなさるねェ……さっそくだが、うちの徳な」
「へえへえ、若旦那で……」
「あいつもこのごろはすっかりもう道楽もやみ、辛抱人になっているが、早く持たせるものを持たして、あたしも安心したいとおもっていたんだが、どうだい、家《うち》へくれるわけにはいかないか」
「若旦那へ……えッへへへへ、冗談おっしゃっちゃあいけませんや。若旦那なんぞァ酸《す》いも甘《あめ》えも心得ている苦労人で、屋敷|者《もん》のあんな野暮なやつが行ったって、それァとても勤まるわけがござんせん」
「いや、そんなことはないよ。あれなら気に入るから……ね、どうせどこへやるもおんなしだな。おくれな……ねェ、じゃ、こうしようじゃあないか。もし徳がいけなかったら、あたしがもらうから……」
大旦那のほうがすっかり気に入った。もとより企《たくら》んだことで、若旦那と花魁《おいらん》は、めでたく夫婦ということにあいなった。大旦那は店を若い者に任せ、裏の隠居処のほうへ引き移ることになった……。
「あの、お時や、お時……」
「なんざます」
「なんざます? うふふふ。屋敷|者《もん》てえのァおもしろい言葉ァ使うもんだなァ。……いや、お茶をちょっと飲みたいとおもってな……まァま、ゆっくりでいいが……おまえが、この家へ来てくれてからは、徳もすっかり堅くなって、店のほうもしっかりやってくれる。あたしァ、安心、こうして楽隠居だ、おかげで当家も大|磐石《ばんじやく》というわけだ。それにね、おまえさんがよくしてくれる。あたしもよろこんでいるんだが、このあいだな、町内の床屋へ行って、『お宅の若いおかみさんは、もとお屋敷奉公をなすったそうで、どちらのお屋敷でございますか?』と訊《き》かれて、返事に弱ったが、おまえ、どこに奉公していなすったんだ?」
「あの、北国《ほつこく》ざます」
「北国? ははァ、お国詰めだね。北国とは、北の国……ああ、加賀さまか? 百万石のご大藩だ。ご家来も数多いだろうが、お女中衆も大勢いるだろうの?」
「三千人ざますの」
「三千人? ふゥん、さすがにたいしたもんだなァ、で、なにかい? 参勤交代の折には、道中はするのか?」
「道中はするんざます」
「やはりお駕籠で?」
「駕籠乗物はならないんざますの」
「じゃあ歩くのかい……そりゃたいへんだ。結付草履《いいつけぞうり》かなにかでか?」
「高い三つ歯の木履《ぼつくり》で……」
「三つ歯の木履? へえェ、それじゃあ道中がはかどる[#「はかどる」に傍点]まいね。ま、女の旅だから朝はゆっくり発《た》って、日の暮れは早く宿ィ着くんだろうの?」
「なんの、暮方《くれがた》に出て、最初伊勢屋へ行って尾張屋へ。大和の長門の長崎へ……」
「おいおい、ま、少し待ちなよ。男の足だってそうは歩けるもんじゃあないや。最初伊勢へ行って、尾張へ行って、大和の、長門の、長崎へ……はァはァ、よく人には憑物《つきもの》がしたという……。おまえにはなにか憑物がある。諸国を歩くのが六十六部。足の達者が飛脚と……うん、おまえには六部に天狗が憑いたんだな?」
「いいえ、三分で新造がつきん[#「つきん」に傍点]した」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「落語」は、〈言葉〉〈言語〉という単一の機能によって表現、伝達されるため、文字通り〈言葉〉〈言語〉として捉えがちだが、実は「落語」は、〈映像〉を描写し、〈映像〉を構成し、〈眼〉に訴えるものなのである。そのために〈言葉〉〈言語〉は、凝縮され、洗練され、その語感のニュアンス、繊細さが〈映像〉の鮮明さと生命感を創《つく》り出し、受け手――鑑賞者の想像力と感覚像《イマージネーシヨン》をかきたててくれるのだ。
それが、この噺のように、若旦那が佐兵衛に――間接的に――隣町の湯屋で会った囲い者の印象を話す箇所においては、いっそう額縁《がくぶち》に縁取ったように、見事な〈映像〉となって〈眼〉に写っていることがわかる。――湯上がりの女の艶やかな姿態。二階建の四軒長屋の路地、格子造りの御神燈の灯《とも》った家の中……まさに、「絵から放け出たような」描写が展開する。
筋立《ストーリー》ては、才腕の番頭が書いた狂言通りに運び、突発事件《ハプニング》も起こらず大過なく進行するので、落語的興味は稀薄だが、最後になって、番頭の仕組まなかった、狂言外の、大旦那と花魁との顔合わせが用意され、マクラにふった吉原の慣例《しきたり》、風俗が「仕込み落ち」になって興味を二重写しにする。サゲの「六部」は、「一眼国」[#「「一眼国」」はゴシック体]に登場する廻国する健脚者を指す「地口落ち」である。
古い江戸落語の一つだが、本篇は正しくは「山崎屋」の〈下〉に当たる。〈上〉は八代目桂文楽の所演《レパートリー》になっていた「よかちょろ」で、独立した噺になっている。若旦那の謹慎中を題材にしたと思われるのが「干物箱」[#「「干物箱」」はゴシック体]で、後半に再登場する。
なお、収録した定本《テキスト》は、六代目三遊亭円生と八代目林家正蔵所演のものを混合《ミツクス》したものである。
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三人無筆
昔は、町方、とくに職人のなかにはまったく読み書きができない者が多かった。職人は腕さえたしかなら、親方でも棟梁《とうりよう》にでもなれるから、なまじっか読み書きなど必要はない……職人が字を読んだり書いたりすると、かえって仲間のうけ[#「うけ」に傍点]が悪かった。
「留《とめ》のやつァあの野郎、字を書くよォ」
「あいつが? いやな野郎だァ」
「変わってンだ。そればかりじゃねえ、算盤《そろばん》もはじくとよォ」
「算盤も? あン畜生、吝嗇《しみつたれ》だから、え? そういうやつとはつきあわねえ。だからあいつァ仕事がまずいんだ」
などと意気がっているが、これは町内に葬式ができ、無筆の連中がとんだ受難にあう、その時代の顛末記。
「おや、おまえさん、お店《たな》へ行ってきたかい?」
「うん、行ったんだけども、どうもよわったことができちまった」
「きまってるよ、この人は、なんでも人の寄り集まるところへ行きさえすれば、よわったことって、きっとしくじったんだろう?」
「おめえの言うとおり、向こうへ行って、『どうもこのたびは申しわけありません』ってね」
「なんだねェ、『申しわけない』って悔《くや》みがあるかい、不幸があったんだよ」
「だからさ、まァ、行って、言ったんだよ『まことにどうも冗談じゃござんせん』と」
「なに言ってんだね。『承りまして、おどろきました』ぐらいのことを言うのァあたりまえだねえ」
「だからそれに似たようなことを言ったんだ。そうすると『まァま、お上がりください』てえから、しめたとおもって……」
「なにがしめたんだい」
「いえ、食い物《もん》がずっと並んでやがるからね、どさくさまぎれにぱくつこうかとおもって」
「下司《げす》ばってるねェ、この人ァ、上がってどうしたい?」
「で、目の前を見るてえと、大福が山ンなってやんだよ。そいからおれァあたりをうかがいながら、ひょいっと一つつまんでみたんだ。するとおめえ、運のいいことにこれが二つくっついてやんだ。しめたとおもってね、そいからまァ、一つのような顔をしてねェ、いっぺんに口ン中へほうりこんじゃったんだ。おどろいたなこいつァ、大福は二つ食うもんじゃねえぜ、無理に呑みこんだらおめえ、咽喉ンとこィつかえちゃって目を白黒していたら、脇の人が『どうしました?』背中をぽゥんと叩《たた》いてくれたから、まァやっとねェ、大福と心中しなかった」
「呆れたねえ」
「で、町内の者も出入りの者も大勢まァ来ていて、そうこうしているうちに、親戚の人が出てきて、いろいろ挨拶をして、明日は、だれが台所のほうのお茶の係をしてもらいたいとか、下足のほうを頼むとか、お強飯《こわ》を配ってもらいたいとか、みんな役々がきまったが、おれンとこへはなんにも言ってこねえ」
「よくよく役に立たないとおもわれたんだろう?」
「そんならおめえ、いいけどね……羽織|袴《はかま》を着たやつが一人すっとおれの前へ来たんだよ」
「ご親戚の方だろう?」
「なんだか知らねえがおめえ、丁寧にこう手をついてお辞儀をしたから、それからおれもやっぱり手をついてお辞儀をしてね。……で、頭をあげてみるてえとねェ、まだその人がお辞儀をしてんだ。こいつァいけねえておもったから、またおれは頭ァさげちゃってね、そいでしばらくしてあげてみるとまだお辞儀をしてやがんだ、これァ長《なげ》えお辞儀なんだ。しょうがねえからまた頭をさげたんだ。考《かん》げえてみるてえとねェ、おれが頭をさげて、あげたときにまだ向こうがお辞儀をしてたんだ。それからこいつァいけねえなとおもってお辞儀してたんだ。それからこいつァいけねえなとおもってお辞儀の継ぎ足しをしてこう頭をさげると、向こうがあげたんだなァ。おれがさげてるもんだから、こんだァ向こうが頭ァさげて、あァこうなってるんだ。いつンなったってこれァおめえ……そうこうしてるうちにねェ、うめえ具合いに呼吸が合ってね、ぐっと顔合わせた」
「相撲だよ、まるで」
「そうすると向こうがねェ、手をついて、なんかむずかしいことを言ったぜ」
「なんて?」
「『ェェさてこのたびは……』と」
「なんだい、軽業《かるわざ》の口上みたいだねェ」
「『いろいろお世話さまになりました』と、こう言うからね、『なにあなた、とんでもないことをおっしゃる』」
「なにがとんでもないことだい」
「え? だっておれァお世話もなんにも、いま来て上がって大福を二つ食ったばかりで……」
「そんなことを言う人があるかねェ、向こうはお世辞でそう言うんだから、『どういたしまして』かなんか言っときゃいいじゃないか。それで向こうはなんと言ったね、え?」
「『こればかりは顔|馴染《なじ》みのものでないと困るんで、あなたを見こんでお願いしたいが、この町内の方だと、商人なら得意だとか、職人ならば出入場だとかよく知っているから、頭《かしら》文字だけでも付けておけばわかる。ぜひ明日の帳付けはあなたにやっていただきたい』とこう言うんだ」
「ありがたいじゃないか。帳付けなんてえのは、赤飯を配ったりお茶を運んだりするより気が利《き》いてる。ねェ、帳場ンとこへ羽織でも着ておまえさん、座ってると箔《はく》があらァね、よかったねェ」
「なにを言ってやんでえ、ばか、帳場ンとこへ座って……おゥ、おれはおめえ、字なんぞ書けないよ、おい、無筆だよ」
「あら、そうだねェ、おまえさん無筆だねェ、だから無筆は困るんだよ。……だから言ってるじゃあないか、仕事が終わったら少し手習いにでも行っといでって」
「なにを言ってやんでえ。いまさらそんなことを言ったって追っつくか、明日の葬式《ともれえ》にゃあ間に合わねえや」
「じゃあどうするのさ?」
「どうするったって、おれはいままで他人《ひと》にものを頼まれていやだのなんだのと後退《あとずさ》りしたこたァねえ。覚悟をきめて、『よろしゅうございます』と請けあった」
「覚悟って、どう覚悟をしたのさァ?」
「家へ帰って、がらくた道具を叩《たた》き売って、夜逃げをしようとおもって……」
「ばかなことを言っちゃあいけない。やっとおまえ、半纏の一枚ももらえるお店《たな》ができたんじゃあないか。職人だって商人《あきんど》だってその土地に慣れるってえことはたいへんなことなんだよ。それをおまえ、帳付けを頼まれてできないことぐらいで夜逃げをするやつがあるかねェ」
「ことぐれえってえことがあるか。べらぼうめ、江戸っ子だァ、男がいっぺん恥をけえたら、生涯《しようげえ》人なかへ面《つら》出しができねえじゃねえか。え? おれが恥ィかいてもいいってのか、おいッ」
「だってさァ夜逃げだなんて……考えてごらんよ、なんとか工夫がつかないかねェ」
「なんとか工夫がつかねえかって、書けねえものは、どう考《かん》げえたって書けねえ」
「それはそうだけども、あのくらいの大家《たいけ》の葬式だから、おまえさん一人ってえことァないだろ? だれかほかにも頼まれた人はあるだろう?」
「おッ、そういえば、なんだか知らねえけれども、源兵衛さんがおれの傍《そば》にいて、おなじように請けあってたから、たぶん源兵衛さんと二人だろう」
「そうかい、それならなにも心配することはないじゃあないか?」
「どうして?」
「どうしてったって、源兵衛さんに帳付けのほうはみんな頼んじまいなよ。……あの人はおまえふだん高慢なことばかり言ってる人だろう」
「うん。じゃ、なんて言って頼むんだ」
「だからさァ、明日、朝早く寺へ行って、火でも熾《おこ》して、湯も沸かして、紙は寺にあるだろうから帳面でもなんでも綴《と》じて、すっかり支度をして、源兵衛さんが来たら、もう下へも置かないようにしてさァ、『一服召しあがれ、さァお茶をどうぞ』って、いやと言えないようにしておいて、『じつは、昨日《きのう》、満座のなかで恥をかくのがいやだから帳付けを請けあったが、職人のことでお恥ずかしいが字が書けないから、どうかあなた書くほうをお願いします。その代わりほかのことはなんでもいたしますから』って、そう言ってお頼みよ」
「そうかい、じゃあ、ちょいと行ってくらァ」
「行くって、どこへ?」
「寺へ行って、いろいろ支度がある……」
「なに言ってんだい、この人ァ。葬式は明日だよ。泊まりがけの葬式てのはないよ。明日早く行きゃあいいよ」
「じゃあ、これから寝ようか?」
「陽が当たってるうちから寝られるかい」
「月夜だとおもえばわけはねえ」
「なんだね、ばかばかしい」
その晩はおちおち寝ちゃあいられない。
夜が明けるのを待って飛び出したが、寺は早起きで、来てみると、本堂からお経の声が聞こえる。台所の方から、
「お頼申します」
「は、お早うございます、どちらからお出《い》で……」
「へえ、相模屋の葬式について参《めえ》りました」
「たいそうお早うございますな、たしか正午《おひる》というお話でございますが……」
「ええ、早いかもしれませんが、少し待ちあわせる人があって来ました。どこか空《あ》いた座敷があるならお借り申したいんで、少し早く来なければ都合の悪いことがあって来ました」
「はい、早いくらい結構なことはございません、ご大家のお葬式で、まだ湯が沸いてないとか、火がないとかいうようなことがあって、折節《おりふし》大まごつきがございます。……待ちあわせる人といえば、夜の明け方に一人お出《い》でになりまして、待ちあわせる人があるから座敷を借りたいといって、最前からつきあたりの座敷に待ちわびておいででございます」
「へえ、じゃあっしより先へお出での方があるんで?」
「へえ」
「ほう、そうですか。じゃあ知ってる方でしょうから、じゃあそっちのほうへまいります。あ、それから恐れ入ります、火鉢とか座布団とか硯箱《すずりばこ》、そういうものを……」
「ええ、そういうものもみな向こうへ行ってますから」
「へえッ、……あ、そうですか。それはご苦労さま……この座敷で……あァ、わかります……ごめんください、ェェちょっと……あッ、あなた、源兵衛さん」
「おや、さァさァこちらへ、たいへんにお早いまァご苦労さま、熊さん、あなたのお出でを待っていました。まァまァ一服召しあがれ、いやもうすっかり火も熾《おこ》してな、湯も沸いてるし、帳面もこのとおりそろえてありますから、なにもいりません、まだだいぶ間がありますから、ゆっくりお茶でもあがって」
「へえ、まァおまえさんお茶をおあがんなさい」
「ええもう、あたしはさっきからやってますからおまえさんどうぞおあがンなすって……じつはなァ、落ち着いたところで少しお願いしたいことがあるんで……」
「え? そりゃあなんだなァ、そりゃずるいよ、え?」
「いえ、あのなァ、じつは面目ない話だがねェ、昨日《きんの》まァ、ああやって相模屋でさ、帳付けを大勢の前で頼まれて、いやあたしはふだん羽織の一枚もひっかけて、高慢な顔をしていて人の名前ぐらい書けないとも言いかねて、人前でいっぺん恥をかけば生涯人なかへ顔出しができない。じつはなァ満座のなかゆえ、やせ我慢でおまえさんをあてに請けあったが、その代わりあとのことはなんでもやるから、ひとつ帳付けだけお願いしますよ。あなた引き受けてくれないとほんとうにこの町内にいられなくなる、夜逃げをするようなことになるんで、ま、ひとつお願いします」
「……夜逃げしたらいいじゃあねえか」
「おい、薄情なことを言っちゃあいけない。だからあたしが頭ァさげて頼むんだ」
「だから、夜逃げして、あっしもいっしょに夜逃げしようじゃありませんか」
「なんだい? いっしょに夜逃げ?……おまえさん、なんだい泣き面ァして、涙なんかこぼして……」
「泣きたくもならァ……あっしがこんな塩梅《あんばい》におまえさんに頼もうとおもって、夜の明けるのを待って早く来たのに、あべこべにおまえさんに先手ェ打たれて……」
「ええッ、それじゃ、熊さん、おまえさんも無筆で?」
「無筆も無筆、おれァ立派な無筆だ」
「そうかい……それァ、どうも、大笑いだな」
「大笑いどころじゃあねえやな。こうしていて、いまに大勢やって来てからじゃ間に合わねえ、あっしは、いったん夜逃げと覚悟をしたんだから、甚兵衛のやつが道具は値よく買うし親切だから、あの道具屋に叩《たた》き売って、早えうちどっかへ逃げることにします。……なァに職人は腕さえできれば、どこへ行ったって食い継《つ》ぎはできる。おまえさんだって商売の道さえ知ってれば、この土地をはなれたってどうにかなるだろうから、これからいっしょに夜逃げをしよう」
「いまから逃げりゃ夜逃げじゃねえ、朝逃げだ」
「朝逃げだってなんだってかまわねえ。まごまごしちゃあいられねえ」
「いえ、あなたねェ、慌《あわ》てたってしょうがない、こうなったら落ち着きなさいよ……そんなに騒がずにさ、こうして無筆の者が二人で帳付けを請けあうなんてえのは、どう考えてもおもしろい」
「おもしろがってやがら……」
「まァ待ちな、なんとか工夫しよう」
「工夫にもなんにも、書けねえやつが二人寄って考《かん》げえたってしょうがねえ」
「それは書けないが、そこが工夫だよ。……こうしましょう、玄関のところへあの大きな机を控えて二人並んで座ってる」
「書けねえやつが何人座ったってしょうがねえ」
「書けないから、帳面と硯《すずり》を向こうへ向けておいて、二人で大きな声を出してどなるんだ」
「どなるくらいは一所懸命やりますが、なんと言ってどなるんで?」
「『お名前は各々《めいめい》付けでございます』と高慢な顔をしてどなるんだ。なにか苦情を言う人があったら、『これは隠居の遺言でございます』ってな、変だとかなんとか言ったって死人に口なしでしょうがない」
「なるほど、こいつァうめえ、向こうに各々《めいめい》書かせりゃあこっちはなんにもしなくてもいいわけだ、ただどなってりゃあいいんだ」
「帳面はやっぱり二つに分けて出しとくほうがいい。なんでもかまわないから、『各々《めいめい》付け各々《めいめい》付け』とこっちはどなってるのが役だ」
「ははははっ、そのくれえのことなら大丈夫できる、もうそろそろ陣取ろう」
「まだ早い」
「いや、早いほうがいい……へへ、ありがてえことンなった」
玄関のところの机の上に、帳面と硯箱を向こうに向けて、熊さんと源兵衛さんの二人が並んで座っている。そのうちに人がぞろぞろと、
「やァ来ました来ました……」
「大きな声を出しちゃあいけねえ、仏が来たんだから、静かにしてなくちゃ」
「へへへ、どうも、お早いお着きさまで……」
「おいおい、宿屋じゃあねえんだ」
「あ、会葬の人が来ました。ェェ帳場はこちらですよ。こちらでござい……ただいま空《す》いておりますから、どうぞ」
「そんなことを言っちゃあいけな……ェェご苦労さまで……」
「ああ、どうも……あっしだからつけといておくれ」
「ああ、もしもし、帳面は各々《めいめい》付けでございます。どうぞ各々《めいめい》でお付けなすって……さァ、熊さん、どなっておくれ」
「ェェー、帳面は各々《めいめい》付けでございますよ、向こう付けでございます、ェェ勝手づけでございます、やたら付けでございます」
「なんだ? 漬物屋みてえなことを言って……自分付けだって、冗談言っちゃあいけねえ、こんなごたごたしているなかでいちいち自分では付けられるもんか、なんのために二人そこに座ってるんだ」
「いえ、それが隠居の遺言で、会葬の方はみんな帳面は各々《めいめい》付けにしてもらってくれと……」
「ええ? 隠居の遺言? そんな遺言があるもんか」
「いえ、なんと言っても遺言なんで、ェェ死人に口なしで」
「そんなばかな遺言をするやつがあるもんかほんとうに、どうもしょうがない……あァあァ、どうも、易の白斎《はくさい》先生じゃァありませんか。いえ、いまねェ、隠居の遺言だてんですよ、帳面を各々《めいめい》で付けるってんですがえ、先生すいませんが、ちょいとあたし急ぐんですが、ごついでにちょいとあたしのを付けてください」
「いや、それはかまわないが、各々《めいめい》付けと呼んでるんだから、ご自分で付けては?」
「いえ、それがちょっとその、都合が悪いもんで」
「ああ、そう、あなたは自分の名前が書けないのか、いやどうもめずらしいなァ、自分の名前が書けないってえのァどうも……おどろいたな」
「先生、そんな声をしないで、内証なんだから」
「おいおい、帳場さん、いいのかい? この人は自分の名前が書けないから、代筆をしてくれと言うんだが、書いてもかまわないかな? 隠居の遺言だってえのに?」
「ええ、それァま、遺言ですけどもね、そちらで書くぶんには、こっちは見て見ぬふりをしております」
「それじゃまァ、これで書いときますから……」
「ェェ先生、おついでに美濃屋清兵衛と願います」
「あ、そうですか、美濃屋さんの清兵衛さん……と」
「先生、ついでに伊勢屋徳兵衛と願います」
「はいはい、伊勢屋、徳兵衛さんですな……」
「ェェ三河屋の宗助と願います」
「へいへい……こりゃ忙しくなったな、三河屋と……」
「ェ、あたくしもひとつついでに」
「なんだ、たいへんだな、どうも、じゃお帳場さん、そっちィまわろうかな、書きにくいから、こっちのほうでひとつ……じゃあ言ってくださいよ、こうなったらあたしが書きますからね、へいへい、へ?」
「ェェ、八百屋の久六と願います」
「ェ、あたくしもついでに」
「ェ、恐れ入ります、先生あたくしもちょっと」
「先生あたくしもちょっと見ていただきたい(と、手を出す)」
「おいおい、なにを言ってるんだ、易を見てるんじゃないんだ、どうも、さァさァさァ、あとを言っておくれ、みんなで言われたんじゃわからないから、一人ずつ言っておくれよ」
「さァさァさァ、先生に代表をしてもらう人はね、順序よく並んで並んで、二列に並んでくださいよ。それで一人ずつちゃんと言ってくださいよ、さァさァ、ずゥッと並んで……」
いい気なもので、もとより先生は筆達者なので、ずんずん書いていって、すっかり帳面はうまってしまった。読経も終わって会葬者はぞろぞろ帰りはじめる。
「どうもおどろいたねェ、あァ、よかったよかった、一時はどうなるかとおもった」
「あの先生が来て残らず付けてくれたんですっかり助かっちゃった。これでもう心配はねえ」
「こう片がついてみると、おなじことでもお強飯《こわ》を配ったり茶を運んだりなんかして下回りで働いた者よりは、こっちはあとで親戚の者が出てきて両手をついて、『ありがとうございました』と礼を言われる勘定で……」
「そうですとも、向こうは茶菓子なんかで終わっちまうが、こっちへは酒が出るという塩梅《あんばい》で……はっははは、どうも」
「おッ、すまねえ、ちょっと頼むよ」
「なんだい、半公じゃっねえか、ねね? なんだっていまごろ、どうしたんだ?」
「すまねえ、遅くなっちゃって。いえねェ、大きな声じゃ言えねえけどね、昨夜《ゆんべ》おれァ品川へ遊《あす》びに行っちゃってよ、うん、なにしろおれァ朝になって『今日は葬式《とむれえ》だから早く帰《けえ》らなくちゃなンねえ』っつって。で、女のやつが『そんなことァ嘘だ』ってね、おれをはなさねんだ」
「ばかだな、こん畜生ァ、寺へ来てのろけを言ってやがら」
「すまねえ、大急ぎで飛んで来たんだよ、ちょいと書いといつくンねえ」
「いけねえいけねえ」
「なぜ?」
「帳面は各々《めいめい》付けだ」
「なんでえ、それァ?」
「隠居の遺言でねェ、会葬の人が各々《めいめい》に自分で名前を書くんだ」
「えッ? 自分で? なにしろおれァ急いで飛んできた、息が切れてるからちょっと」
「息が切れたって、名前だけちょっと書きゃあいいんだ」
「だめだいま手が慄《ふる》えてるから……」
「いえ、手なんぞ慄えたって、名前だけだ、わかりさえすりゃあいいんだから」
「なんだなァ、そんな、ちょ、ちょっと書いてくれたっていいじゃねえかよォ」
「え? おまえは自分の名前が書けないのか。いやどうもめずらしいなァ、自分の名前が書けないってえのァどうも……おどろいたな」
「やい、大きな声をするない。じゃあ源兵衛さん、すいません、お願いします」
「まことにお気の毒ですが、隠居の遺言で代筆をするわけにはいかない」
「なにを言やがんだ。遺言も糞もあるもんか、べらぼうめえ、書けなければ書けねえとはっきり言えッ」
「やァ怒りやがった、やいてめえがそこでどなったひにゃあなんにもならねえ、まだ奥に大勢施主がいるんだ」
「施主がいようがだれがいようがかまうもんか」
「お、おい、大きな声を出すなよ。しょうがねえなァ、じゃ、源兵衛さん、友だちのことだからこっちの工夫をぶちまけようか」
「なんでえ、工夫ッてえのは?」
「じつはな、こっちも書けねえんだ」
「なーに、二人ながら無筆か?」
「そうよ」
「書けねえでなんだって帳付けを請けあったんだ?」
「それがなァ、昨日、満座のなかで頼まれて恥をかくのがいやだから、互いに請けあったんだが、源兵衛さんのほうじゃおれをあてにしてよ、おれのほうじゃ源兵衛さんをあてに請けあったんだ」
「へえー」
「こっちィ来て話してみると、どっちも書けねえじゃねえか、どうにもならねえやな」
「ふゥん」
「ところが工夫てえものはあるもんで、源兵衛さんが各々《めいめい》付けてえことを考えて、『隠居の遺言だから、帳面は向こう付け、勝手付け』って二人でどなっているところへ、占いの白斎先生が来ておめえ、みんなの代筆をして、ずんずんずんずん書いてくれたからすんじゃったんだ。そいでひと安心しているところへまたあとからてめえが来たからこっちだって困るんじゃあねえか」
「ああ、そうかい。けれど苦しいときにはいろいろ工夫が出るもんで、各々《めいめい》付けてえのはうめえなァ、源兵衛さんはどうしてたいしたもんだァ、ええ? うめえなァ」
「なんだい、感心してちゃあいけねえじゃあねえか、どうするんだおめえは?」
「ねェ、なんとかおれ一人ぐらいの工夫はねえもんかなァ、なんかうめえ工夫はねえもんか、源兵衛さん」
「うん、そうだなァ、や、どうも、こう三人ながら無筆なんだからなァ、まァ、なんとか……こうと、ああ、いい工夫がある」
「ありますか?」
「おまえさんがここへ来ないつもりにしておこう」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 〈古典落語〉の考証の上で欠かすことのできぬ一篇といえる。本篇の場合は、たまたま、お店《たな》の葬式の帳付けという大役を請け合ったために、一度は「夜逃げ」を覚悟するほど、狼狽《ろうばい》するが、通常ならば、他篇の熊さん、八っつぁんとなんら変わることのない日常を送っている人物であることに変わりはない。マクラの例のごとく、落語国の登場人物はこうした無筆がほとんどで、こうした人びとによって落語が構築されているといっても過言ではない。このように読み書きということに重点《おもき》をおかない時代では、人びとが単純ではあるにしろ、人間がより人間的であり、かえって〈常識〉という人間共通の思考判断が罷《まか》り通ったのではないか。
当時は、ちょっとした、読み書きができ、手紙が書ければ代筆にひっぱりだこだった。寺子屋は享保年間から普及して、文化文政のころには江戸市中に千軒あった、という。商家では読み書き算盤が必要だったからみな六、七歳から町内の寺子屋へ通わした。『済時七策』には「昨日まで魚菜|商内《あきない》いたし候者も、今日手習師と姿をかへ候など、元より芸の熟不熟に頓着なく、広き江戸故どうやら生活に相成候」とある。
原話は、『鹿子餅』(明和九年刊)「無筆」。ほかに無筆を扱った噺に、「手紙無筆」「清書無筆」(三代目三遊亭金馬が改作した「勉強」)「平林《ひらばやし》」「按七」「泣き塩」などがある。
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真田小僧
「やいやい、なぜそういたずらをするんだ」
「いたずらなんかしてないよ」
「火鉢をかきまわしてるじゃあねえか」
「いま火を熾《おこ》してる」
「火なんぞ熾《おこ》さなくったっていい」
「だっておとっつぁん、火鉢に火がなくちゃあ、煙草ォ吸うのに困るだろう?」
「燐寸《マツチ》があるからいいよ」
「でも、お茶を飲もうとおもったって、お湯ゥがぬるいよ」
「ぬるくってもいいよ」
「お茶ァいれようか?」
「そんな余計なことをしなくってもいい。表へ行って遊んできな」
「じゃあ、行くよ」
「行きなよ」
「へへ……ねェ、おとっつぁん」
「なんだ」
「おとっつぁん、いいおとっつぁんだねェ」
「なァに言ってやがる」
「みんなにあたい、そう言ってんだぜ。家《うち》のおとっつぁんぐらい、もののわかったいいおとっつぁんはないって言ってんだ。ほんとうにえらいおとっつぁんだ、ああいうおとっつぁんはできあいじゃあねえって」
「おやじを誂《あつれ》えたとおもってやがる。なにをくだらないことを言ってんだ。早く表へ行って遊んでこい」
「遊びに行くんだけども……なにか忘れものはない?」
「なんだ、忘れものてえのァ」
「だから、遊びに行くんだからさァ……ェェ、お忘れものはありませんか?」
「なんだ、電車の車掌みてえなことを言ってやがる。忘れものなんかねえや」
「少しもらいたいな」
「なにを?」
「ちぇっ、血のめぐりが悪《わり》いや」
「なんだ、血のめぐりが悪《わり》いとは?」
「いやんなっちゃうなァ。子供が親に向かってもらいたいてんだから、首をくれとは言わないよ……お銭《あし》をおくれよ」
「この野郎、銭《ぜに》が欲しくってさっきからまごまごしてやがったんだな、変な世辞を言いやがって……だめだ」
「少しでいいからおくれよ」
「そう銭を使っちゃあ碌《ろく》な者《もん》にならないよ」
「碌《ろく》な者《もん》にならなくっても、おとっつぁんぐらいになれらあ」
「なんだ、おとっつぁんぐれえとは……おれぐれえンなりゃあ豪儀なもんだ」
「おとっつぁんより悪けりゃ乞食だ」
「ひっぱたくぞ、こん畜生ッ」
「ごめんよ。怒ンないでおくれってばよゥ。いいおとっつぁんだからおくれよ」
「親をおだてる気ンなっていやがる。よくっても悪くってもだめだよ。子供は子供らしい、かわいいところがなくちゃあいけねえ。てめえの言うことでもすることでも、見ろ、いやにこまっちゃくれて[#「こまっちゃくれて」に傍点]やがって。銭《ぜに》ァやらねえことにきめたんだ」
「つまらねえことをきめちゃったんだなァ。少ゥしでいいからよゥ」
「だめだよ」
「こんなに頼んでもだめ? どうしてもだめ?」
「だめだッ」
「そう、どうしても……やさしく言ってるうちに出したほうが身のためだぜ」
「あれっ、この野郎、親を脅迫しやがる……てめえはそういう野郎だ。だめだって言ったらだめだ」
「どうしてもくれないのかい?」
「やらねえと言ったらどうする?」
「おとっつぁんがくれなけりゃあいいよ。くれる人からもらうから……」
「だれがくれるよ」
「おっかさんにもらう」
「ばかァ、おっかさんにもらうったって、おれがとめちまう。『あいつにやっちゃあいけねえ』ってひと言言やァ、くれるもんか」
「ああ、なるほど、そうだ。『おとっつぁんからとめられているからいけないよ』って言えば、しょうがねえや」
「そうよ」
「ふふん、……甘《あめ》えもんだ」
「いやなやつだねェ、肩で笑っていやがる。なんだ、甘《あめ》えもんだてえのは?」
「あたしがおっかさんにお銭をおくれって言うと、『おとっつぁんからとめられているからいけないよ』って、くれなきゃあ、『じゃいいよ。こないだ、おとっつぁんのいないときに、よそのおじさんが来たことを、あたいがおとっつぁんにしゃべってやるから……』って言うと、おっかさんが青くなって、『お待ちよ。お銭はいくらでもあげるから、そんなことはしゃべっちゃいけないよ』と言うだけの、あたいが秘密をにぎってる」
「いやな餓鬼だね、……秘密をにぎってるってなァ、なんかあるのか?」
「なんかあるのかなんて……知らぬは亭主ばかりなり……」
「この野郎、変に気を持たせやがって……なんだ?」
「こないだ、おとっつぁんのいないときなんだぜ……遊んでこようッと」
「おいおい、待ちなよ。よさねえで、話しちまえ」
「うっかりこんなこと話せないよ」
「なぜ?」
「なぜったって、あたいがこの話をすれば、おとっつぁん怒っちゃうもの」
「おれが怒る?」
「ああ、色の黒いおとっつぁんが真ッ赤ンなって怒る。……赤くなって、あとで白くなる」
「炭団《たどん》じゃねえや。話をしてしまえ。なんだ?」
「おとっつぁん、聞きたいかい?」
「だから話をしろってんだよ」
「おとっつぁんは、寄席《よせ》へ行ったことある?」
「講談や噺《はなし》が好きだから、しじゅう寄席へ行ってるの知ってるじゃあねえか」
「寄席てえものは、噺を聞いてから木戸銭を払うの? それとも木戸銭を払ってから聞くもの?」
「変な催促をするなよ。だから、てめえが話をしてしまえばやると言うんだ」
「いやだよ。聞いてから木戸銭を払うなんて寄席はありゃあしないよ。なにもあたいが話をしたいから、お銭をおくれってんじゃあないんだよ。おとっつぁんのほうでお話を聞きたいてえから、じゃ、先におくれと言ってるんじゃあないか。つまりねェ、ものの理屈が……」
「わかったよ。先にやるよ。生意気なことばかり言やがって……さあ、やるから話しちまえ」
「あれっ、放《ほう》り出したね。おとっつぁん、お銭《あし》はお宝といって大事なもんだから、投げたりしちゃあいけないよ……なァんだ、威張って出したって一銭じゃねえか……だめだよ」
「いいよ」
「吝《けち》だなァどうも……じゃ、少ねえが我慢して、してやろう」
「なんだ、してやろうだってやがら」
「あのね、こないだね、おとっつぁんのいないときに、よそのおじさんが来たよ。ステッキついて、色眼鏡かけて……『こんちは』って入ってきたら、おっかさんが『あら、よく来てくれたわねえ。いま、ちょうど都合がいいよ。家《うち》の亭主《ひと》が留守だからさ。早くこっちへお上がりよ』ってね。その男の手を持ってうちへ上げたよ」
「うんうん、それからどうした?」
「あと聞きたかったら、もう二銭おくれ」
「いま一銭やったじゃあねえか」
「あれはここまで、これからが二銭の値打があるんだよ。どうする? おとっつぁん」
「いやな野郎だなァ、ひっかかっちゃったよ……じゃあ、二銭やるから話してしまえ」
「ありがとう……それから、おっかさんが『金坊、おまえはうるさいから、どっかへ行っといで』ってえから、『遊びンなんぞ行きたくねえや』って、そ言ってやったんだ」
「うんうんうん」
「そしたらおっかさんが、『お銭をやるからどっかへ行きなよ』ってね、お銭をくれたんだ。そいから遊びに行っちゃった」
「ばかッ、間抜けだなあ。そういうときはそばへくっついているんだ」
「だけどねェ、おとっつぁん、なんだか気になるから、しばらくして帰ってみた」
「うんうん」
「どぶ板を音のしないようにそっと帰ってきたら、行きに開《あ》けてあった障子がぴったり閉まっていたよ、おとっつぁん」
「ぴったり閉まってた?」
「それからねェ……」
「うんうん」
「あたいが、障子ィ穴をあけて、中を、覗《のぞ》いて見たらねェ」
「なにをしてた?」
「ここが二銭の切れ場、おあとは明晩……」
「殴《は》り倒すぞ、こん畜生、いま二銭やったじゃあねえか」
「やったって、いままでが二銭なんだ。覗《のぞ》いたところから、こんど三銭になるんだ」
「三銭? 吊りあげやがって、この野郎ッ」
「お銭くれなきゃあ、あたいこれから遊びに行っちゃうから……あァあ、惜しい切れ場だ」
「なんだ切れ場たァ、……いいよ、やるよ、三銭……てめえのために負い目ンなってら、こっちァ。ほら、持ってけェ……」
「へへへ、ありがとう」
「で、どうしたんだよ?」
「あたいが覗いてみたらね、……その男のやつが、おっかさんの肩なんぞに手をやったりなんかしてるんだよ」
「うゥーん」
「そのうちに、その男が、こっちをひょいと見たからね、あたいもそいつの顔を見てやった」
「だれだ?」
「それがつまらねえ話、横町の按摩《あんま》さんにおっかさんが肩ァ揉《も》ましていたんだ。どうもありがとッ……」
「あッ、こん畜生ッ、逃げ出しゃあがって……呆れた野郎だ、畜生めッ、ばかにしやがって。なんだい、ステッキついてなんていうからだまされるんだ、杖《つえ》じゃあねえか。たしかに色眼鏡をかけてらァ……手を持って家へ上げたの、肩に手をかけたのなんて、按摩ならあたりめえじゃあねえか。とうとう一杯《いつぺえ》食っちゃった、畜生ッ」
「あら、おまえさん、なにひとり言《ごと》言ってるんだい?」
「銭を持ってかれちまった」
「だからあたしが言わないことじゃあないよ。また家をあけたんだろう?」
「そうじゃあねえ、うちのやっこ[#「やっこ」に傍点]に持ってかれたんだ」
「どうしてさ?」
「なんだかどうもばかばかしくって話もできねえや。おれの留守中に、おめえのところへ男が来て、手を持って家へ上げたの、肩に手をかけたのって言うから、おれだって聞きたくなるじゃあねえか。あいつがうめえんだ。一銭やったら、二銭くれ、三銭くれって、だんだんとふやしやがる。しまいに、『按摩さんだよゥ』って逃げちまった」
「ぷッ、呆れたね。子供にそんな話を聞かされて、お銭《あし》を取られるなんて、おまえさんも間抜けだよ」
「やい、銭《ぜに》を持ってかれた挙げ句に、てめえに間抜けまで言われちゃあ、おれの立つ瀬がねえや。呆れたやつがあるもんだ。親をだまして銭を取るような、あんなものは碌《ろく》な者にゃあならないぜ。親の首に縄をかけるぐれえがおち[#「おち」に傍点]だ。いまのうちにおん出しちまえ」
「怒ったってしょうがないよ。だまされたのはこっちが悪いのさ。近所に子供が大勢いて、遊んでいるところを見ると、うちのあれがいちばん知恵巧者だよ」
「ばかっ、なにが知恵巧者なんだ。よしんば知恵があっても、あいつのは悪知恵というんだ。いいほうになりゃあ結構だが、あんな悪い知恵がなんになる? 子供のうちは悪かったが、大人になってから人が変わって偉くなったなんてえなァめったにありゃあしねえ。おれァ講釈で、いろんな噺を聞いてるが、のちに偉くなろうなんてえ人は、子供のうちからちがったもんだ。……おれが聞いた噺で、天正の、あれは何年だったか、年は忘れたが、なんでも武田勝頼《たけだかつより》が、天目山《てんもくざん》で討ち死にをしたときだ。信州の上田《うえだ》に、真田安房守昌幸《さなだあわのかみまさゆき》という人があったんだ。ここへ、武田方から加勢を頼みに行くと、昌幸は心得て、手勢をひきいて天目山へ行こうと途中まで来ると、勝頼はもう討ち死にをしたという報《し》らせを聞いた。それじゃあしょうがないから、もとへ帰ろうと上田へ引きあげる途中、北条氏政《ほうじよううじまさ》の軍にとりまかれた。向こうの松田尾張守、大道寺駿河守《だいどうじするがのかみ》の軍勢は何万という大軍、こちらは旅の戦《いくさ》、兵糧《ひようろう》は尽きてくるし、わずかな小勢でどう戦ったところで、かなうわけはない。一同ここで討ち死にをしようと覚悟をきめた。すると、昌幸の倅に、与三郎という人があって、当時十四歳、これがのちに左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》となって、大坂城へ入城をして、名代の軍師になる人だけに、『栴壇《せんだん》は双葉より、実のなる木は花から知れる』という。父昌幸の前へ出て膝まずいて、『お父上、これしきのことに驚きたもうな。永楽通宝《えいらくつうほう》の旗を我にお許しくださいまするならば、この包囲《かこみ》を解いて、一同落ちのびることができよう』と、頼んだ。真田は海野小太郎《うんのこたろう》の末孫で、二つの雁金《かりがね》が家の定紋だ。永楽通宝てえのは、敵方の松田尾張の旗印。現在自分の子が、敵の旗を所望するには、なにか仔細のあることと許してやった。すると、与三郎は、自分の手勢をひきいて、その夜、大道寺の陣所へ夜討ちをかけた。『それ各々《おのおの》、敵が夜討ちなり』と、はね起きて旗を見ると、永楽通宝の紋がついている。『さては松田尾張守が変心をした』というので、味方同士で同志|討《う》ちがはじまった。そこが計略だから、この隙に一同信州の上田へ落ちのびたという。そのときの永楽通宝の旗が六本あって勝ちを得たというので、それからのちというものは、真田の定紋を六連銭《りくれんせん》に改めたという話がある。これがのちに、真田幸村という名代の軍師になるんだが、こんな人でも大坂落城の折、計略《はかり》ごとに陥ちて、切腹をして果てたとも言うし、講釈師に言わせると、薩摩《さつま》へ落ちたのがほんとうだと言うが、おれも考《かんげ》えてあのくらいな人だから、薩摩へ落ちたのがほんとうだろうとおもうんだが、……その天目山の戦のときがいくつだってえと、十四歳だぜ、え? うちのやっこ[#「やっこ」に傍点]は十二じゃあねえか。二つ違《ちげ》えでそんな知恵がでるかい?」
「まあ、真田って人はえらいんだねえ。うちのあの子も真田ぐらいになればいいがね」
「とんでもねえ。条虫《さなだ》になんかになるもんか。十二指腸(虫)にだってなりゃしねえや。……おい見ろい、戸袋のかげから覗《のぞ》いていやがる。どうもあいつの目つきがよくねえや……やいッ、こっちへ入《へえ》れ」
「えへへ、怒ってらあ。……さっきァおとっつぁんごめんね」
「しゃあしゃあしてやがる。親をだまして銭を持っていきゃあがって、こっちへ入《へえ》れ」
「おとっつぁん、怒ってるだろ?」
「怒ってやしないよ」
「怒ってない? ほんとに? じゃ、笑ってごらん」
「親をおもちゃにしてやがる。さ、叱言《こごと》はあとでゆっくり言うから、さっき持ってったお銭を返せ」
「あ、お銭って、あれ使っちゃったよ」
「嘘つけ。そんなに一時《いつとき》に使えるもんか」
「使えるもんかって、使っちまったんだもの」
「菓子を買っても食い切れめえ」
「そんなものに使ったんじゃあないんだ」
「なんに使ってきた?」
「講釈ゥ聞いてきたんだ」
「おい……こういうやつなんだ。おれが講釈が好きだから、それで使ったと言やァよろこぶとおもってやがる。……講釈を聞いたのか?」
「うん」
「聞いたら聞いたでいい。おとっつぁんなんぞァどんな噺だって知らねえことァねえんだ。講釈を聞いてきたんなら、おとっつぁんに聞かせてみろ。なにを聞いてきた?」
「真田三代記」
「真田三代記? どこのところを聞いてきた?」
「あたいの聞いたのは、ェェ、天正何……だったか忘れちまったけどもねェ、なんでも武田勝頼が、天目山で討ち死にをしたときなんだ」
「ふゥ…ん?」
「信州の上田に、真田安房守昌幸てえ人があってねェ、武田方から、加勢をしてくれって頼まれるんだよ。途中まで行ったけども、勝頼が討ち死にしたんでね、それじゃあしかたがないから、もとの上田へ帰ろうとおもうと、北条氏政の軍にとりまかれたの。こっちは旅の戦、兵糧は尽きるし、わずかな小勢でどう戦ったところで、かなわないから、一同はここで討ち死にをしようと覚悟をきめたんだって。そのときに、昌幸の倅に、与三郎って子がいたんだよ。年齢《とし》が十四なんだ、この子がとても利口な子なの、ああ。たとえ親父がばかでも……」
「変なことを言うな」
「でね、父の前にけつまずいて[#「けつまずいて」に傍点]」
「けつまずく[#「けつまずく」に傍点]やつがあるか。膝まずいたんだ」
「うん。でね、あのゥ、『お父上、これしきのことに驚きたもうな。永楽通宝の旗を我にお許しくださいまするならば、この包囲《かこみ》を解いて、一同落ちのびることができよう』って父に頼んだの。そいであのゥ、真田てえ人は、二つ雁金って定紋があるんだってね。永楽通宝てえのは敵方の、松田尾張守の旗印なんだ。だけどもこれにはなにか考えがあるんだろうてえんで、許してやると、その晩夜討ちをかけたんだ。向こうではね、起きて旗を見ると、松田尾張守の旗印だから、これは変心をしたってんで、向こう同士で戦がはじまったの。そこをうまくごまかして、信州の上田へ落ちのびたってね。おもしろい噺だよ。そこを聞いてきちゃった」
「この野郎、もの覚えのいい野郎だ、いっぺんで覚えやがった。おれなんか、五、六ぺん聞いてやっとあれだけ覚えたんだ」
「それでね、そのときに、永楽通宝の旗が六本あって勝ちを得たからといって、それから家の定紋を六連銭に改めたんだってね?」
「そうよ」
「二つ雁金ってどんな紋?」
「雁《がん》が二っつくっついてるんだ」
「永楽通宝ってのは?」
「穴のあいた大きなお銭がある、永楽通宝という」
「ふゥん。家《うち》には紋がない?」
「おれンとこだって紋があらァ」
「なァに?」
「かたばみだ」
「かたばみってどんな紋?」
「どんな紋て、こう……つまりお尻《けつ》が三つ、くっついたような紋だ」
「汚《きたね》え紋だなァ。じゃ、家の先祖は汚穢屋《おわいや》かい?」
「なァに言ってやがんだ」
「六連銭てえのは」
「六つ連《つら》なる銭と書いて、六連銭というんだ。六つ並んでるんだ」
「どういうふうに?」
「上へ三つ並んで、下へ三つ並んでるんだ」
「どうやって?」
「だから、上へひい、ふう、みいと並んで、下へひい、ふう、みいと並ぶんだ」
「わかンないよゥ。どのくらいあいだをおいて……」
「うるさいやつだなこいつァ、なんでも訊《き》きはじめると、とことんまで訊くんだから。……おっかァ、おい、そこにあの、穴のあいた五銭玉ばかり、あの紙縒《こよ》りで結《ゆ》わいてあったのがあるだろ。あァ、こっちの抽出しだ、あァあァ、ちょいとこっちィ放《ほう》ってくれ……おゥよし。さ、これで教えてやる。永楽通宝てえのァもっと大きな穴あき銭だ、え? 五銭玉だって理屈ァおんなじだ。……上へひい、ふう、みいと並ぶ、下へひい、ふう、みいと並ぶんだ」
「なァんだァ、そんなんなら、だれだってできらあ……あたいだってできらあ」
「できるとも」
「いっぺん並べてみようか?」
「並べてみなくったってわかってらあ」
「だけどもさァ、貸しとくれよ、ね、いっぺんだけ並べてみるから、ね。ェェ、ひい、ふう、みいってこれでいいんだろう? なんだ、わけェねえや。それからこんだァその下へまた、ひい、ふう、みい……」
「それァちがうよ、梅鉢ンなっちまうよ」
「えへへッ、(と、手早く銭をまとめて)どうもありがとッ……」
「あッ、こん畜生ッ、……また講釈聞くのか?」
「なァに、こんだァ焼き芋を買うんだい」
「あァ、うちの真田も薩摩へ落ちた」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「こまっちゃくれた」という形容の説明がつかないときは、〈真田小僧〉のような子供のこと、と言ったほうがわかりがいいかもしれない(参考までに国語辞典をひいてみたが載っていなかった)。そして、〈真田小僧〉はまた、落語国の子供の代表格なのである。「初天神」「雛鍔《ひなつば》」「桃太郎」「勉強」「池田大助」(別名「佐々木政談」)、いずれも、〈真田小僧〉の類型で、将来は、次代《ポスト》八っつぁん、熊さん、隠居、家主、紅羅坊名丸等々、さまざまな素質、萌芽をすでに有している。
ここには、親子の〈断絶〉などという高尚な関係は存在せず、あるのは〈対立〉である。子供とて自我をむきだしにして、大人の反応を鋭く観察し、おだてたりおどかしたり、ねばりにねばって小遣いを獲得する。かつての貧しい時代の子供たちはみな、こうした苦心|惨憺《さんたん》の日々を味わいつつ、ひとりでに金銭の価値を体得し、成長していった。今日の子供たちは、大人の生活条件に合わせ、小遣いも月極めがおきまりのようだ。どうやら〈真田小僧〉はどこにも存在しなくなったらしい。幸か不幸か?
三代目三遊亭金馬が得意にしていた。
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返し馬
「おゥ、みんな集まったか」
「なんだい、兄ィ?」
「なんだいじゃあねえや。ここンところ仕事ばかり続いて、働いてばかりいるのが能じゃあねえ、そこで、今晩あたり、仕事の垢《あか》をきれいさっぱり流そうってんだが、どうだ」
「こいつは、ありがてえ、遊《あそ》びに行くのかい?」
「そうよ。湯ゥなんど毎日|入《へえ》ってらァ、あたりめえよ遊びに行くのよ、行くか?」
「行きてえけどねェ、兄ィ、家のかかあがうるさくってしょうがねェ」
「だらしのねえ野郎だ、おめえは。……だからよゥ、そこは、おれが考《かん》げえたんだよ。ひとつ、大師詣りてえことで出かけようじゃあねえか、なァ?」
「あッ、そうか。なるほど、兄ィはうめえところに気がついたなァ」
「そうよ。……こちとらあ、大工《でえく》だ、なあ、いつどこで怪我ァするかわからねえ、いつなんどき災難に遭わねえとも限らねえ。神信心てえことなら、かかあだって大目にみらァ」
「そりゃ、そうだ、うん」
「川崎大師《かわさきでえし》ならどうでえ、どうしたって泊まらなくちゃあならねえ」
「だったらなんじゃあねえか、川崎泊まりかァ、つまらねえ」
「冗談言うねえ、朝|発《だ》ちよ、早く発《た》って、昼過ぎにゃ川崎へ飛びこむのよ。そいで手早く護摩《ごま》あげといて、引っ返しゃあ品川でちょうど日いっぱいよ。なあ。そいで廓《くるわ》でひと晩ゆっくり遊んで、朝、知らん顔の半兵衛で帰《かい》ってくりゃあいいじゃないか」
「そうかァ、大師詣りってえのァ、そういうご利益があるたァ知らなかったねェ、そうなるとなにかい? 大師さまを信心するやつァ、みんな助平?」
「なにを言ってやんでえ。そうとも限らねえが、いい口実にゃあなるだろ?……じゃ、そうと話が決まりゃあ、これからみんな家《うち》ィ帰って、かかあに納得させて、そいから正々堂々と、出かけようじゃあねえか。……わかったか。じゃ、今夜またみんな湯ゥで会おう」
「あァ、いま帰った、おっかァ」
「あァ、お帰り、なんの寄りあいだったんだい?」
「いやァ、兄ィがねェ、ここンとこで仕事もちょいと目鼻ァついたから、ひと晩泊まりで川崎大師へ詣りに行って、『こちとらァ、大工《でえく》だ、なあ、いつどこで怪我ァするかわからねえ、いつなんどき災難に遭わねえとも限らねえ。神信心てえことなら、かかあだって大目にみる……』って……」
「なにが大目にみるんだい? 川崎の大師さま? そりゃあいいねえ。あたしもいっしょに行きたいねェ」
「お、お、ちょっと待ってくれ。女が行ったってしょうがねえ。女が行ったっておもしろかねえ、別に」
「いや、おもしろいってえとこじゃないけどさァ、あたしも一度はお詣りに行きたいとはおもっていたんだよ。でも、家にゃあいろいろ用事《よう》もある、いっしょにくっついちゃ行かれないけどもさ」
「あァ、おめえはまたにしねえ。じゃあ行ってもいいな?」
「あァ、行ってきなよ。……あッ、ちょっと待っとくれよ。大師ってえとどこ通る?」
「なにを言ってやんでえ。……日本橋はなれて江戸、八つ山から品川よ」
「品川にゃあなにがある?」
「江戸の入口じゃあねえか、立《た》て場《ば》がある。なァ、江戸から東海道を旅する者はよ、あそこで馬に豆をたっぷり食わせて、馬に乗って行くか、駕籠へ乗って行くか、旅する人と見送る人が涙ながらに別れる、立て場があらあ」
「立て場は知ってるよゥ、両側になにがあるんだね?」
「……左っ側は、海で、右っ側は、山で……」
「なに言ってんだい、女郎屋があるじゃないか」
「女《じよ》……? あッ……」
「そこで悪いことォしようてんだろ?」
「冗談ァ言うねえ、おめえ。……朝まごまご発《た》ちゃ、川崎へ着くのが日いっぺえよ。その晩はおめえ、川崎泊まりだ」
「川崎へ泊まるてえのかい? おまえさん、あてにならないよ。いざ火事てえと、二里や三里飛んでっちゃう若い連中だもの、品川ときまってらあ」
「そんなこと言ったって、おめえ」
「いいよ。行っても……」
「え? 行ってもいいかい?」
「その代わりお呪《まじな》いしてやるから」
「なんだい?」
「いいから、今晩早く湯へ行って……あした、早|発《だ》ちだろ?……寝ちまい」
「おい、おっかァ、出かけるぜ」
「わかってるよ、もう支度はできてんだよ。……たとえひと晩でも家《うち》ィあけるんだ、旅で粗相があってね、下《しも》の物汚れてると笑われるよ。おまえさん、六尺(褌《ふんどし》)替えてっておくれ」
「おゥ、洗ったのか?」
「洗ったんじゃない、新品《さら》だよ」
「そうか、じゃこっちィ出してくれ」
「その前に、ちょっと待っとくれ。……褌する前に、お呪《まじな》いするから」
「なんだい、お呪いってえのは?」
「だまって……こっちへ、鑿《のみ》を出しなよ」
「鑿は道具箱へ入《へえ》ってるよ」
「その鑿じゃあないよ。自分の持ってる鑿だよ」
「えッ? 鑿たァうめえことを言いやがったな。たしかに突っつくよか用がねえ、こりゃあ鑿だ」
「だまって、こっちィ出しなよ……あたしが、いま鑿へお呪《まじな》いをするからね」
「お呪い? どうしようてんだ?」
「今晩、浮気するといけないから鑿の頭へお呪いをするからね」
「え? なんかふん縛《じば》るのか?」
「ふん縛《じば》りゃあ、大きくなったり小さくなったり痛いだろうから……いいから、お出し」
「……?……あッ、冷《つ》めてェッ。……あれっ、筆でなに書いたんだ?」
「ほらッ、ここに〈馬〉という字を書いた。……これが消えたら、おまえさん、浮気したことになるんだから、いいかい」
「おッほほほ、考《かん》げえやがったねえ、こいつァ」
「いいかい、これを消さないように、わかったね、じゃあ行っておいで……」
「あァ、行ってくるよゥ」
四、五人連れだって、川崎大師へ手早く護摩あげて、意気揚々と夕方近く品川へ繰りこんだ。一同|敵娼《あいかた》きまって、飲むだけ飲んで騒ぐだけ騒いで、さて部屋へお引けということになる。
「ちょいと、おまえさん、どうしたの? 浮かぬ顔して」
「だめなんだ」
「なにがだめなの?」
「えッ?……使えないんだ」
「使えない? 変だねェ?」
「お呪《まじな》いされちゃったんだ、鑿《のみ》へ」
「鑿?」
「おれの鑿へよ」
「……? あれっ、あたしゃこんな稼業《しようばい》してるけどさ、そんなお呪いあるのかい?」
「あるのかいって……見てくれよ」
「なんだい?……あ、字が書いてあるじゃないか? あらッ〈馬〉って書いてあるじゃあないか?」
「使えば、これが消えちゃうよ」
「ふン、そんなことなにも心配するこたァないじゃないか。かまうことないから、お使いなさいよ、ねェ? あしたの朝、またあたしが書いときゃあいいんだろう?〈馬〉って字をさ」
「そうか。そこへ気がつかなかったなァ。おまえ、書いてくれるか?……そいつは、ありがてえ」
やっこさん、その晩はいい気持ちンなって、あくる朝ンなると、
「お、お、忘れちゃあいけねえ、〈馬〉って字書いてくれ」
色里、水商売はなにごとも縁起|稼業《しようばい》、〈馬〉も勢《いきお》いがいいので尊《たつと》ばれたが、勢いがよすぎて行きっぱなしじゃあ困る、そこで、また裏を返して、返ってくるようにというので〈馬〉という字を〈|※[#「馬」の左右反転 ]《ひだりうま》〉と書く風習がある。
敵娼《あいかた》もその癖で、筆で〈※[#「馬」の左右反転 ]〉と書いた。
「おゥ、いま帰った、おっかァ」
「あァ、早かったねェ、品川へ泊まったんじゃあないだろうね?」
「泊まりゃしねえよ。おまえのお呪《まじな》いちゃんと守ったよ」
「そうかい……だけどさァ、念のためにちょっと見せてくんないかい?」
「あァいいよ。……どうだい?」
「あらァ、ほんとうだ、消えてないや。……消えてないけど……おかしいねェ、あたしゃあこっちかたへ書いたんだけど、ひっくり返ってるね?」
「え? 往きと帰《けえ》りで、ひっくり返ったんだ」
「そうかねえ?……でも、あたしは行くとき、もっと細く書いたとおもったんだけど、この〈馬〉肥ってるねえ」
「うゥん、そうかもしれねえ、品川の立て場で豆ェ食わせた」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 現在、噺家の裏芸として、ごく少人数の座敷などで披露される、いわゆるバレ噺、艶笑ばなし。かつて、性《セツクス》がおおらかな時代――少なくとも江戸時代まで――は、絵双紙、小噺本、浮世絵の隆盛《ブーム》に見るまでもなく、性をかたちを変えて娯しむことは、公然のことであり、本流であった。それが明治以後、すべてが高尚[#「高尚」に傍点]になり、性をなぜか秘事として罪悪視し、陰湿な、裏街道へ追いやってしまった。「落語」もまたそうした時代の要求に応じ、高尚[#「高尚」に傍点]にならざるをえなくなった。そのために「落語」の起源を安楽庵策伝の『醒睡笑』に求めたり、さては『宇治拾遺物語』『伊勢物語』『竹取物語』等々、それぞれ由緒正しき[#「由緒正しき」に傍点]文献に結びつける研究がなされた。また本シリーズのような『落語百選』などが編集される経緯《いきさつ》になったが(語るに落ちるとはこのこと!)、言ってみれば「落語」の根源は、現在こうした陽の目をみないバレ噺、小噺群が本流なのである。今日、日常の会話のなかにも性《セツクス》に関しての話材がなにかと挿入され、そのことでは万古不易こと欠かないようだが、「落語」もまたそうした性、また性器を擬人化した笑話を何千種と有している。ただ、演じるとき、おおらかに、さらりと演出するのが身上だが……。「紙入れ」[#「「紙入れ」」はゴシック体]参照。
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茶の湯
蔵前のさる大家の主人、若いころから金を溜める一方で、なにひとつ道楽がない。倅《せがれ》に代を譲って、自分は楽隠居ということになったが、新たに隠居所を建てるというむだをせず、出入り者に出物を頼んでおいた。すると、根岸の里にもってこいという家が出た。前に住んでいたのが茶人で、茶道具一式、お囲いまでついて、孫店《まごだな》の長屋が三軒ついて売るという……話がまとまって、買い取ることになった。
賑やかな蔵前から、静かな根岸の里へ、定吉という小僧を連れて引き移った。
「定吉、定吉っ」
「ヘェ…い、ご用ですか? ご隠居さん」
「おまえ、少しは家にいなさい。表へばかり出歩いてては、家の用が足りないで困る」
「へい、……少しはご近所の様子をとおもいまして、ひとまわりしてみましたが、蔵前とちがって、根岸てえとこは寂《さび》しいとこですねえ」
「なぜ寂しいと言う。おなじ言うなら、閑静《かんせい》と言えば雅《が》があっていい。静かでいいなァ」
「ご近所に住んでる方、みんな上品な方ばっかりで……」
「そりゃそうだ、なんといっても風流な土地だからなァ」
「お向こうの垣根のあるお庭の広い家があるでしょ? あそこでね、いい音がしてンですよ、なんだろうって、そうっと行って覗《のぞ》いて見たら十七、八の娘さんが琴をひっかいてました」
「ひっかくてやつはないよ。猫じゃあるまいし……琴は弾《だん》じる、あるいは調べるとでも言うもんだ」
「へえ、そうですか。あのゥ、自分の爪で足りないんで、長ァい爪はめちゃうんですね。で、だれも見てないとおもって、安心しちゃって、目ェ据《す》えて、夢中ンなってバリバリッ」
「バリバリッってえのがあるか」
「こっちのお隣の奥さんは、お花|活《い》けてます」
「お上品なお遊びだなァ」
「こっちは変なことしてんですよ、お盆の上へ銀砂だの石っころを載せて、鳶《とんび》の羽根でこすってんです」
「はっはっはっはっ、おのおの風流な遊びをなさるなァ」
「ご隠居さんだって、火鉢の前で朝から晩まで煙草ばかり服《の》んでないで、なんかおやんなさいよ」
「うん、じつはな、かねがねやろうとおもってるものがあるんだ」
「なんです?」
「茶の湯だ」
「ああ、蔵前の若旦那がかきまわして飲んでるやつですね?」
「かきまわすてえのがあるか」
「あれはお上品ですね、あれ、おやんなさい」
「やろうとおもうんだがなァ、子供のうちに習ったんで、すっかり忘れてしまってな」
「おかしいなァ、うちのおやじがよくそう言ってましたよ、ものを習うなら子供のうちに習わなけりゃいけない、中年で習ったものは忘れていけないったんだけど、子供のうちに習ったんで忘れたんですか?」
「変なことを言うんじゃない」
「じゃ、知らないんですね」
「知らないんじゃない、忘れたんだ、やればおもい出す」
「忘れた忘れたって、なにを忘れたんです?」
「全部忘れた。第一番にあの茶碗の中へ入れる青い粉《こな》さ、あの粉がなんの粉かなァ」
「なんだ、あれか」
「知ってんのか?」
「お銭《あし》をください、買ってまいります」
定吉は、表へ飛び出すと、まもなく帰ってきた。
「どこへ行ってきた?」
「角の乾物屋へ」
「なにを買ってきた?」
「青黄粉《あおきなこ》」
「そうそう、青黄粉青黄粉、おもい出した。伝授に書いてあった。『ひとつ、青黄粉を入れるべし』とな。これさえあれば茶の湯ができる」
隠居はお囲いへ入って……もとより置き炭なぞわきまえはない、きれいに切ってある炉の中へ山形に組ませ、ため火を手伝わせるなんてまだるっこいことはしない、消壺《けしつぼ》から消炭をわしづかみにして、炉の中へ放りこんで、渋《しぶ》団扇《うちわ》でバタバタバタバタ、あおぎはじめた。……茶の湯だか、栄螺《さざえ》の壺焼きだかわからない。
「定吉や」
「へい」
「今日は、あたしが主《あるじ》で、おまえが客だ」
「あたしがお客さまですか?」
「仮にもお茶の湯だから、お行儀よくしなきゃいけない、膝が割れてるから、きちんと座んな、衣紋《えもん》を直して、肌がはだけてちゃいけない。……洟《はな》をかめ」
「ズルズル……」
「なぜ吸いこむ? ちゃんとかみなさい」
「かんだって、またあとから出てくる」
「出てきたら、出るたびにかめばいいじゃないか」
「紙が損だ」
「厄介な洟だなァ。……それ、うしろにあるお茶の道具、いろいろあるだろ、こっちへ取りな」
「なにを取ります?」
「茶碗がいるな」
「深いのと浅いのがあります」
「深いほうがたくさん入るから、おまえだって得だろう? それを取れ、それから、長い柄の竹の杓《ひしやく》があるだろう? そうだそうだ、それだ」
「へい、これですか? ずいぶん長いんですねえ。お湯がはねると熱いからって遠くから汲《く》むようになってるのかな?」
「それから、粉入れがあったな。あとでこの中へ粉を入れるんだ。それから、大きな粉ァしゃくうものがあるな、大仏さまの耳かきみたいなやつが……」
「これですか? これで象の耳を掻いてやるとよろこぶでしょうねえ」
「うん、それからまだあるぞ。ほら、布巾《ふきん》があるだろ? 絹の袷《あわせ》の……」
「赤い真四角な布巾ですか? これ布巾ですか?」
「うん、お茶の湯はお上品だから、汚れたものは布巾で拭くんだなァ。それからまた、かきまわすものがある、こういうのが……(と、茶筅《ちやせん》の形を示す)」
「これは、おもしろい格好をしてますね、なんてんです?」
「なんてんだって? こりゃおまえ……うん……座敷ざさら、てんだ」
「座敷ざさら?」
「うん、一名、泡《あわ》立たせとも言う。さァ、茶釜が鳴ってるよ。ちりんちりんいってたのが、いまがばんがばん[#「がばんがばん」に傍点]沸いてきた。根岸の里へ引き移って茶の湯三昧……(釜の蓋《ふた》を取ろうとして)あッちちちち……俗物にはこういうことがわからないな、わッはははは」
「そろそろごちそうになりたいものですね」
「よしよし。いま飲ましてやる。ええっと? 粉、粉……初日でわからんでなァ、分量を少し余計に入れといてやれ、まあ、三杯ぐらいがいいだろう……あッははははは、……こうやってかきまわしているうちに泡が立つ。……泡が立ったらおまえに飲ましてやろうという段取りなんだが……おかしいな、いくらかきまわしても泡が立たない、どうしたんだろう?」
「おかしいですね、……蔵前の若旦那がやるてえと、ちょいちょいとやると泡が立って、お茶碗のはじをこちんとやるとおしまいになっちゃって……ご隠居さんのは立ちませんね」
「泡が立たなくちゃあ、なんだか茶の湯をやってるような気がしないなァ……こりゃなにかほかに泡の立つ薬を入れるんじゃないか?」
「わかりました。あれを入れりゃきっと泡が立ちます」
「そんなものがあるのか?」
「ええ、買ってきますから、お銭《あし》をください」
定吉が駆け出していくと、帰ってきて、
「買ってきました」
「なんだ?」
「椋《むく》の皮です」
「あッそうそう、椋の皮椋の皮、いや、そういえば、師匠が許し物をくれたなかにあった。『ひとつ、泡の立て方、椋の皮を用うべし』としてあった。茶釜ン中へ入れちまえ」
ぐらぐら沸《わ》いている茶釜の中へ椋の皮を放りこんだから、かきまわさなくても泡が立つ……。
「おっそろしい立っちゃったなァ、蟹《かに》が飯炊《まんまた》くみたいだ」
「うまくいったな、しかし少々立ちすぎたかな」
「その代わりかきまわす世話がないやァ」
「しゃくって茶碗に入れればできあがりだ。早茶の湯ってんだ。……さあ、定吉、飲め」
「えッ?」
「飲みなよ」
「あたしが飲むんですか?」
「そうだよ」
「ご隠居さまからおあがりなさい」
「おまえがお客だから先に飲むんだ」
「いえ、ご隠居さまが主《あるじ》ですから、どうぞお先に」
「お茶の湯には遠慮があってはいけない、とにかくおまえ飲め」
「飲み方がわかりません。ご隠居さまが、お手本を見せてください」
「ああ、そうか……よく見ておきなさい。茶碗の縁をこう……二本の指でつかむ。そうしたら、こうやって上へ持ってきて、目八分ここでこう……三べんまわすんだ」
「お呪《まじな》いですか?」
「お呪いじゃァない、作法だ。……なぜって、青黄粉が下へおどんでる[#「おどんでる」に傍点]といけないから、手元へ引いて、このまんま飲むと泡が鼻につくだろ? ついちゃァいけないから、泡を向こう河岸《がし》へ、ふッと吹きつけて、こっち河岸へ来ない隙《すき》をうかがって、くいっ(と、飲み)……ごほっ、あはっ、うふっ(と、むせて)ああ、こりゃ風流だぞォ」
「じゃあ、あたくしもいただきます。こう二本の指で茶碗をおさえるんですね? 目八分に持ってきて……三べんまわすんですね? 三べんまわって煙草にしょ、じゃない、三べんまわして茶の湯にしょだ。なるほどすごい泡だね……吹きゃいいんでしょ、向こう河岸へ……ふうゥゥッ……と、こっち河岸へかえってこない隙をうかがって……こりゃまずいな。隙をうかがおうとおもうてえと泡のほうが、すうっとかえってきちゃう」
「強く吹きすぎるんだ、おまえのは、心得のないやつはしかたがないもんだな。軽く吹いてごらん、軽く……」
「軽く? へえ、やってみます……けどご隠居さん」
「なんだ?」
「茶の湯だの空巣|狙《ねら》いなんてえものは隙をうかがわなきゃいけないもんですかね?」
「空巣狙いといっしょにするやつがあるか」
「軽く向こう河岸へ、ふうっと……よし、いまだな……(と、飲み)うゥ、うゥん、ぎゃあっ」
「なんてえ顔をするんだ。飲め」
「うゥ……ん(と、含んだまま)」
「早く飲めッ」
「うゥん(と、飲み)あはっ、うゥうゥ、こりゃ、こりゃ風流だ」
毎日毎日、風流だ風流だと、青黄粉と椋の皮の煎《せん》じたのを飲んでいるうちに、四、五日|経《た》つと、二人とも腹の具合いがおかしくなってきた。
「定吉や、定吉」
「ふえェい……また火を熾《おこ》しますか?」
「いや、今日はやめとこう。いいからそこへ座れ。おまえ顔がよくないな」
「お腹《なか》が、ずーと下りっぱなしで……」
「おまえもやられたか? あたしは昨夜《ゆうべ》、厠所《はばかり》へ十六ぺんも通ったよ」
「あたしゃ一ぺんしか行きません」
「若いからえらいなァ、たった一ぺんですんだかい?」
「いいえ、一ぺん入ったきり出なかったんです」
「おやおや、かわいそうに……おしめ[#「おしめ」に傍点]の乾いたのないかな。え? 厠所へ通い切れずにおしめ[#「おしめ」に傍点]をしてるんだ。雨の降る日は茶の湯は休みにしよう。おしめ[#「おしめ」に傍点]が間に合わない。明日でも蔵前へ行ったら、しめし籠を取っておいでよ。しかし、なんだな、下っ腹に力がなくて、えへんと咳《せき》をしてもピイッとくる。じつに風流だなァ」
「風流なんてものは、お腹が下るんですか?」
「まァ、そーっと静かに暮らすことになるから、風流だ」
「ご隠居さんとあたしと二人でお腹下してもつまりません、だれかほかの人を呼びましょうよ」
「だれを呼ぶ?」
「蔵前の若旦那呼びましょう」
「あれとあたしと流儀がちがう」
「お茶の湯にお流儀なんかあるんですか?」
「ああ、襖《ふすま》の開《あ》けたて、座り方から、物の褒《ほ》めようにな」
「へーえ」
「どうだろう、このご近所にお茶の湯はやるが、お流儀がないってえ人はどっかにいないかな?」
「そんな重宝な人あるもんですか」
「困ったな」
「孫店の長屋が三軒あるじゃありませんか、手習いのお師匠さんに、仕事師の鳶頭《かしら》、豆腐屋さん。手紙をお書きなさい」
「なんだって?」
「お茶の湯をするから飲みに来いって」
「三人とも茶の湯を知らなけりゃいいがなァ、知ってて『ご隠居さん、あなたのお流儀がちがいます』なんて言われたら面目ない」
「そんなこと言ったら、怒ってやるんですよ、『お茶の湯ゥごちそうになりにきて、流儀がちがうなんてえのはとんでもないやつだ、店《たな》ァ貸しとくわけにいかないから店立《たなだ》てだァ』って、言っちゃうんです。こんど越してくる人の店請《たなうけ》証文の中へ書き入れるんです。『店賃は遅れてもさしつかえないから、お茶の湯のときに呼びにやったら、いさぎよく来て、ガブガブ飲んで、ピーピー腹を下せ』」
「そんな店請証文があるか」
「とにかく手紙をお書きなさいよ」
定吉は、自分ばかり茶の湯の相手をさせられるものだから、手紙を三本書かせて、豆腐屋、仕事師の鳶頭《かしら》、手習いの師匠へ案内状を出した。
「おい、おっかァ、たいへんだ、ちょっとこいッ、こんどの家主の隠居さんとこから、茶の湯するから飲みに来いとよ」
「なんだね、まァ、びっくりしたよ。お茶の湯ぐらいでおまえさん、その豆ェ挽《ひ》いちまえば用ないんじゃないか。それから行って、ちょっとガブガブ飲んでおいでよ」
「ばかなことを言うない。おれだって、この土地で、親方とかなんとか言われて、口のひとつも利《き》き、なんかことのあったときにゃあ上座《かみざ》へ座らせられる人間だ。家主のほうでもおれを相当な人物とみて、こう言ってよこしたにちげえねえ。……おめえの言うように、ちょいとお茶をガブガブッと飲めるかい。襖の開けたて、座り方、物の褒めようとお流儀がたいへんむずかしいんだ」
「豆腐屋|風情《ふぜい》で茶の湯なんか、知らないものは知りませんて言やァいいじゃないか」
「そうはいくけえ。町内でも豆腐屋の六兵衛はもの知りだって言われてるおれだぞ。茶の湯も知らねえなんてことが世間に知れたひにゃあ、とんだ恥をかいちまわァ」
「じゃあ、今日は行かれませんて、断わりゃァいいだろ?」
「今日行かれねえったら、明日来いって言うだろう。明日断わりゃ、明後日《あさつて》来いだ。向こうは閑人だ、こうなりゃあ茶の湯にとっつかれたようなもんだ」
「茶の湯がとっつくかい。どうすんの?」
「しかたがねえ、引っ越そう」
「引っ越す? なにを言うんだよ。茶の湯ぐらいで引っ越してどうするんだよ。ここへ越してきて、こいだけのお顧客《とくい》をふやすの、並みたいていじゃないよ。よその豆腐屋より、雁《がん》もどきや生揚げを少しずつ大きくして売ってんのァなんのためだい。一軒でもお顧客ふやそうとおもえばこそじゃないか。茶の湯ぐらいで引っ越したんじゃ、せっかく雁もどきや生揚げ大きくしたのが、なんにもならないじゃないか」
「おもしろくねえなッ。……じゃ、亭主は茶の湯で恥をかいても、雁もどきや生揚げさえ大きくして売ってりゃいいてえのか? おれより雁もどきのほうが大事だてえのかよ。それほど大事な雁もどきなら、おれと別れて雁もどきと夫婦になれッ」
「くだらないことを言うもんじゃないよ。……おまえさん、どこへ越すの?」
「わからねえ。とにかく店請の家へ行ってくる、羽織を出してくれ」
「どうするんだい?」
「これから、鳶頭《かしら》の家へ暇乞《いとまご》いに行ってくらあ。こまけえもんだけ片しときな」
「ェェごめんください、鳶頭《かしら》ァ……?」
「おォッとッとと、静かにしろい。だれだい、二階ィ上がりやがったの。ちぇッ、引っ越し馴《な》れねえやつが揃ってやがるじゃねえか。……台所《だいどこ》ィまわったのはだれだ? 鍋《なべ》だの釜だの、ガチャガチャガチャガチャやっちゃァいけねえや、ぼろ[#「ぼろ」に傍点]きれか藁ァかう[#「かう」に傍点]んだ。……おッととと、火鉢ィ出すなら、灰の飛ばねえようにすんだよ。畳はあとだ、畳は……」
「ごめんくださいッ」
「おォう、だれ?……なんでえ、豆腐屋の親方じゃァねえか。うっははは、羽織なんぞ着こんで、葬式でもあったのか?」
「いえ、そうじゃァねえんですが……たいそうこちらとり混んでますが……?」
「おめえにね、ずいぶん厄介になったがねェ、よんどころねえ事《こつ》て急に引っ越しだ」
「あァ、そうですか。じつはあたくしもよんどころないことで引っ越しで」
「おお、もったいねえじゃねえか、あんなに商売繁昌してるのに、お顧客《とくい》をおいて引っ越すのか?」
「鳶頭だってそうじゃありませんか。四、五日前に大工が入って造作、直したのに」
「ああ」
「で、どのへんへお引っ越しになります?」
「まだ、どこへといって、じつは、あてもござんせんが、ともかくも坂本の兄弟分の家まで一時立ち退《の》いてね。……なァに遠くへ行きゃしません。どうせ近所へ家を見つけるつもりなんで……」
「鳶頭ァ、なんだって越すんです?」
「ばかばかしいッて、聞いてくれ。隠居のとっから手紙が来たんだ。開いてみると茶の湯するから飲みに来いってやんだ。おいらァ知らねえで行こうとすると、かかあ出て来やがってね、『茶の湯を知らずに行ったら恥をかこうじゃァありませんか』ときやがった。『おいらァ男だなァ、呼び出しかけられて行かねえのァ男の恥だ。隠居さんの前へ大あぐらァひっかいて、茶の湯てえやつにぶつかって、ガブガブくらって立派に男らしく恥をかいてくンだ』……ばあさんが出てきやがってよ『先祖の代からうしろ指さされたことのない家が、お茶の湯ぐらいで恥ィかいて、先祖のお位牌《いはい》に対してすまなかろうじゃないか』、子分のやつらの言うにァよ、『鳶頭ァ、茶の湯ぐらいで恥ィかいたひにゃ、往来ィ大手ェ振って歩くわけにいかねえから、親分子分の手ェ切ってくれ』ッて、言いやんのよ。なにしろ、悪いやつにこの地面を買われたのがこっちの災難、しかたがござんせん。こんなとこでびくびくしてるより、どこか茶の湯に攻めたてられねえとこへ一時引っ越すことにきめて、急に騒ぎ出したんでござんす」
「そうですかい。いえ、じつはね、あたしのとこもその茶の湯で引っ越しなんで」
「へーえ、行ったかい? 親方ンとこへも」
「するってえと、隣の手習いのお師匠さんとこへも来ている勘定ですね」
「こうして二軒へ来たくれえだから、あちらはまっ先に来てるにちがいねえ」
「そんなら好都合だ。あの先生なら知ってましょう」
「あっ、こりゃァうっかりしてた。なるほど、こりゃ知ってるにちげえねえ。仮にも人の子供を集めて読み書きを教えようてえ人だもの、茶の湯だって心得てるにちげえねえ」
「行って聞こうじゃァありませんか、『隠居の茶の湯へいらっしゃいますか?』って、『行く』ってったら、ひととおり教わっといて、あとは先生に上座に座ってもらって、諸事万端、先生のするとおり真似をするってことに」
「さあ、そううまくいくかなあ?」
「いくかいかないか、先生のとこへ行ってみようじゃありませんか」
「それもそうだなァ、だめでもともと、引っ越しはそれからあとでいいや」
「そうですとも、せっかくのお顧客《とくい》をふいにするかしないかの瀬戸際ですから」
「よし……おゥ、ちょいと待ちなッ、え? 待て待て待てってんだよッ、荷物出すのは待てよ。ああ、風向きが変わったんだ。おゥい、羽織出してくれ、羽織……うん、ちょいと先生ンとこへ暇乞いに行ってくるから。……や、親方、行きやしょう」
「お供します」
「これこれ、金之助、彦之丞《ひこのじよう》、そう騒ぐでない。おまえたちは、お机も、そっくり持って帰んなさい。ああ、お染ちゃん、かなえちゃん、おまえたちのお机は届けてあげるから、硯箱《すずりばこ》だけをよく始末して持って帰るのじゃよ。いずれ、おとっつぁんやおっかさんにお目にかかって、くわしいお話をするが、お師匠さんは、よんどころない事情で、急に引っ越さなくてはならなくなった。いいか、みんな、お師匠さんは、よんどころない事情で転宅……」
「おいおい、親方、子供が机を担いで、ぞろぞろ出てきたよ」
「聞いてみようじゃありませんか。ごめんくださいまし」
「こんにちは、いませんかねェ」
「どォれ……これはこれはご両所、お揃いで見苦しきあばら家へ。まァ、いざまず、これへ」
「気取ってちゃいけねえや。先生、たいへんとり混んでますが、どうかしましたか?」
「あなたがたにえらいご厄介になりましたが、このたびはよんどころないことで転宅をなァ」
「ぷッ……よんどころないが流行《はや》ってやがら。けさ隠居さんとこから手紙が来たろ?」
「ああ……いいや」
「なにを言ってやんでえ、開いてみると、茶の湯するから飲みに来いてんだ。茶の湯知らねえんだろ。で、行って恥をかくより引っ越しをしようてんだろう?」
「鳶頭、人相を見るのかい」
「じゃあ、先生も茶の湯ゥご存じねえんですかい?」
「いや、なに……知らんというわけではござらん。少しは学びましたが、そのころは、学問にばかり心を入れて、とんと風流の道は怠《おこた》っておりましたために、なにぶん深く嗜《たしな》みがござらんでな、まァまァ、飲みようぐらいは存ぜぬこともないが、それも、とんと失念いたしましてなァ」
「飲みよう知ってりゃいいじゃねえか、え? こっちはからっきし[#「からっきし」に傍点]知らねえもんだから、豆腐屋もろとも引っ越しだよ」
「では、あなたがたも?」
「先生が知ってるんならなにも引っ越ししねえでもすむんだ。おれたちは、下《しも》へ座って万事真似してごまかしちまうから」
「飲みようは知っているが、それがさ、茶の湯というものは、なかなかにむずかしいもので、会席ひととおり、道具ひととおりは知らんければ、挨拶もできない。また、流儀など問われたおりに当惑するのでのう」
「流儀のほうは、もしも聞かれたら、杉山流とか、新陰流とか、やっつけたらようござんしょう」
「それは、柔術《やわら》や剣術の流儀で、茶のほうへもちいるわけにはいかん」
「いかんも糸瓜《へちま》もありゃしねえ。こうなったら出かけましょう。向こうだって、それほど名人でもねえでしょう。行って、あなたの飲みようを見て、なんでもあなたのするとおり真似をして、お流儀はって訊《き》かれたら、聞こえないふりをして知らん顔していりゃあいい。それでももしまたお流儀はと来たら、拳固《げんこ》をこさえて待ってて、三度目にお流儀はてえのを合図に、隠居の横づっぽひっぱたいちゃう。隠居があッとその場へひっくり返ったのを見て帰ってきて、引っ越したって遅くねえだろう」
「しかし、三度目にうまくぽかりといけばよいが」
「任しとけッ、茶の湯は知らなくたって喧嘩《けんか》は慣れてるんだ、矢でも鉄砲でも持って来やがれッ」
三人は隠居のを見て覚えよう。隠居は三人を呼んで、見て覚えよう……、例のとおり、青黄粉と椋の皮を煎じたものがそれへ出てきた。――茶の湯では、おつめ[#「おつめ」に傍点]といって、いちばんおしまいに座を占める人がむずかしい、とされている。鳶頭はそんなことは知らないから、茶の湯だの八八(花札)ははじに限るって、いちばんおしまいに座った。
上客の手習いの師匠から飲みはじめた。
「では、いただきます。……お先へ……うん(と、飲み)うゥ……ん(と、顔をしかめる)」
つづいて、豆腐屋の親方にわたして、豆腐屋も、手習いの師匠の見よう見まねで、
「うゥ……ん(と、飲み)うゥゥ……ん(と、顔をしかめる)」
「ははァ、妙なことをしやがる。茶碗をぐるぐるまわして、飲んで、あんな面ァするもんかね? 千振《せんぶり》だの茶の湯なんて飲んだあと顔をしかめるもんらしい」
自分の前へ茶碗が来たから、鳶頭も見よう見まねで、茶碗を持ちあげてがらんがらんとまわして、がぶっと飲んだ。
「うわッ……ぎゃァッ……すげえものを飲ませやがったな、畜生ッ、……なんか口直し口直しッ」
前にあった羊羹《ようかん》をがばッと口へ押しこんだ。
これから隠居は、おもしろくなり、退屈しのぎに、毎日毎日、茶の湯だ茶の湯だと、近所の者まで呼ぶようになった。
「おゥ、正さん」
「なんだい?」
「隠居さんの茶の湯ってやつに呼ばれたかい?」
「ああ、おどろいたなァ。ひでえものを飲ませやがんだねェ。おらァ初めて口ィ入れたときにゃあ、こりゃァとても生きて帰《けえ》れめえとおもったね」
「だけど、おめえ、菓子は乙《おつ》だろ?」
「ああ、いい羊羹が出るねェ。だから、おいらちょくちょく行くんだよ。お茶の湯を一服いただきますてんでね、飲んだふりして飲まねえで、羊羹を五つぐらい食っちゃうんだ。それで隙を狙って、二つ三つ袂《たもと》へ入れてきちまうのさ」
「そりゃうめえなァ、おれもやろう」
羊羹泥棒が出入《ではい》りしたから、晦日《みそか》になって菓子屋の勘定《つけ》を見て、隠居はびっくり仰天、根が嗇《けち》な人だから、茶の湯もいいが、羊羹にこう金がかかったんではかなわない。なにか安いいい菓子を自分でこしらえようと薩摩芋《さつまいも》を一俵買ってきて、よく蒸《ふか》して皮をむいて、摺鉢《すりばち》の中へ入れて、黒砂糖と蜜を加えて、摺粉木《すりこぎ》でがらがらがらがら摺《す》って、できたものを椀型の猪口《ちよこ》へつめて、型を抜こうとしたが、芋だの砂糖でべとつくから、うまく抜けない。そこで、油をつけたらうまく抜けるだろうと、あいにく胡麻油がないので、灯油《ともしあぶら》を綿へしめして、猪口のまわりに塗ると、すぽんとうまく抜けた。……芋が黄ばんでいるところへ、黒砂糖と蜜で黒味がついたところへ照りがかかって、見た目にはいかにもうまそうな菓子。それへ、「利休饅頭《りきゆうまんじゆう》」と名付けて、来る人ごとに出していた。
根岸の里が紅葉し、隠居庵の閑雅深まったある日、蔵前にいたころの知り合いの客が、ひょっこり訪れた。
「おや、吉兵衛さん、おめずらしい」
「ご隠居さま、ひさしくお目にかかりません。こちらへお移りの由《よし》をうかがいまして、ちょっとおたずね申さねばならないのでございますが、ついごぶさたいたしましてあいすいません。どうもいいお住居《すまい》でございますな」
「いや、店のほうは倅に任せっきりでな、こちらで風流を嗜んでおる次第で……」
「どうも、それは結構で、ときにご隠居、うけたまわりますれば、近ごろお釜がかかるそうでございますな」
「え? 釜がかかるとは?」
「いえ、お茶の湯を遊ばすそうで……」
「そうです。このごろはもっぱら茶の湯をやっています」
「それは、恐れ入りました。あなたがお茶をなさるとは、少しも心づかずにおりました。そうと存じましたら、とうに上《あ》がるのでございました。今日《こんち》も、お釜がかかっておりましょうか?」
「はい、いつでも、ぐらぐら煮立《にた》っております」
「ははァ、ご定釜、釜日をお定《さだ》めがなく、つねにぐらぐら煮立っているとは、恐れ入りました。ぜひ一服頂戴を…」
隠居は大よろこびで、囲いへ招き入れて、奇特な客人というので、青黄粉と椋の皮をいつもの倍入れた。
「さァ、どうぞ」
「では、頂戴ィ……う、うゥ…んッ」
吐き出すわけにはいかないので、目を白黒させ死ぬ苦しみで飲みこんだ。口直しは、と見ると、おいしそうな、例の「利休饅頭」があったから、欲ばって二つばかり取って、あぐっとやってみると、とても食べられるような代物《しろもの》ではない。あわてて紙へ包んで、袂《たもと》へ隠すと、
「ちょっとご不浄《ふじよう》を拝借」
縁側へ飛び出して、菓子を捨てようとしたが、一面の敷き松葉、掃除が行き届いて塵《ちり》一本落ちていない。前を見ると、建仁寺《けんねんじ》の垣根越しに、向こうが一面、菜畑になっている。ここなら捨ててもわかるまいッて、ひゅーッと放った菓子包みが、一所懸命畑仕事をしている百姓の横っつらへぴしゃりッ、
「あッはは、また茶の湯やってんな……」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「落語」から見た〈風流〉の実態、〈風流〉に対する痛烈な反抗《レジスタンス》がこめられた一篇。茶、生花《いけばな》などのとりすました、お体裁の、しかも高額な免許、伝授料をとる――いわゆる〈流儀〉に、日ごろ「なにをくだらねえことをやってやンでえッ」と、一撃を加えたくなるのは、筆者ならずとも、庶民のだれしもが心の底に抱いている感情……衝動であろう。
そもそも……と、茶の湯の発祥に関して〈解説〉を記すほど、筆者は残念ながら知識も見聞も持ち合わせていないが、わずかな愚見を述べれば、……豊臣秀吉が天下を取って、南蛮渡来の絢爛《けんらん》豪華、贅沢|三昧《ざんまい》の、いわゆる桃山文化の時代に、千利休が二畳の部屋を造り、野の木を切って、杉の皮や葉で天井を作り、そこへ秀吉を招き、朝鮮の庶民の井戸端にざらに転がっているような茶碗に、茶の湯をたてて、自然な、素朴なものに秘められた真実の〈美〉をたたきつけた、のだった。つまり、それは千利休が体を張った、命がけの、秀吉に対する挑戦であり、ルネッサンスだったのである。――それが〈原点〉であり、最初の意図だったのである。……ところが、その〈原点〉が忘れられ、その後、千利休の帰依《きえ》者や研究家によって理論化され、形式化され、〈侘《わ》び〉だの〈寂《さ》び〉だの、やれ〈表〉だの〈裏〉だのと、こじつけられ、体系づけられて、それぞれの〈流儀〉が派生し、その〈流儀〉を習得することが、茶道の心[#「茶道の心」に傍点]に通じると、いつのまにかすりかえられてしまったのではないか。
さて、舞台となった根岸の里は、万能俳句「……や根岸の里の侘び住い」の例句として有名なほど、江戸時代、御行《おぎよう》の松、二股榎、天狗の樅《もみ》、藤寺の藤などの名木に呉竹の繁み、鶯、雲雀《ひばり》、鶴などが飛び交う、いわゆる文人墨客、隠居などの居住する、文字通り〈風流〉の里であった。この環境、周辺を仮に〈桃山文化〉と見立てれば、本篇は「落語」が創《つく》り出した千利休の意図と同じくする一撃とも言えるだろう。
隠居の茶の湯と本式の茶の湯とは大同小異、しかし、定吉|試案《アイデア》の青黄粉と椋の皮の原料、おなじ真似をしながら、まったく異質なものに変容させてしまう「落語」の精神に裏打ちされている。この茶の湯の流儀、製法(?)はさておき、本篇の最も主眼とするところは、茶の湯を扱う人間とそれに対する人びとの反応で、他人《ひと》眼を気にして、自己の階級意識、見栄に固執しようとする人間社会の悪弊を描き出している点にある。茶の湯に招かれて狼狽する三軒の長屋の住人の愚かしさは、いってみれば、日常のわれわれの愚かしさによく似ていないだろうか? 茶の湯そのものも愚かしさこの上なしだが、それにしても、サゲに突然、顔を出す畑仕事をしている百姓のひと言は、こうした愚かしい人びとの上に投げつけられた、痛烈な批評であり、挑戦であり、まさに「落語」の真骨頂ともいえる〈輝き〉に満ちている。三代目三遊亭金馬の持ち噺だった。
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宿屋の仇討
宿屋では、夕方、灯《ひ》がはいると、宿屋の若い衆や女中が店先へ出て、さかんに客を呼んでいる。
「ェェお泊まりさまではございませんか、ェェ玉屋でございます」
「ェェお泊まりさまではございませんか、ェェ蔦《つた》屋でございます」
「ェェお泊まりさまではございませんか、吉田屋でございます」
「ェェ、てまえどもは武蔵《むさし》屋でございますが……」
年齢《とし》のころ三十七、八、色は浅黒いが人品のいい武士、細身の大小をたばさみ、右の手に鉄扇を持っている。
「許せよ」
「いらっしゃいまし、ェェお泊まりさまでございますか、武蔵屋と申します」
「ほう、当家は武蔵屋と申すか。ひとり旅じゃが泊めてくれるか?」
「へえ、結構でございますとも、どうぞお泊まりくださいまし」
「しからば厄介になるぞ」
「へえ、ありがとうございます」
「拙者は、万事世話九郎《ばんじせわくろう》と申す者。夜前《やぜん》は相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて、むじな屋と申す宿屋に泊まりしところ、なにはさて雑魚《ざこ》ももぞう[#「もぞう」に傍点]もひとつに寝かせおき、親子の巡礼が泣くやら、駆落《かけおち》者が夜っぴて話をするやら、相撲取りがいびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵は間狭《まぜま》でもよいが、静かな部屋へ案内《あない》をしてもらいたい」
「かしこまりました」
「その方の名はなんと申す?」
「ェェ伊八と申します」
「ああ、その方だな、鶏の尻《けつ》から生き血を吸うのは?」
「えっ、なんでございます?」
「鼬《いたち》と申した」
「いいえ、いたち[#「いたち」に傍点]ではございません。伊八でございます」
「ああ、それで重畳《ちようじよう》、夜前がむじな屋で、また今晩は鼬に出会ったかと……」
「おからかいなっては困ります……どうぞこちらへ……お花どん、お武家さまにお洗足《すすぎ》をお取り申して……それから、奥の八番さんへご案内だよ」
あとから来たのが、江戸の魚河岸《うおがし》の連中三人づれ、結城《ゆうき》の着物に献上の博多の帯、脚絆甲《きやはんこう》掛け、草鞋《わらじ》ばき、金沢八景を見物しようという、ごくのんきな旅……。
「おッとッとッとッと、そうあわてて行っちまっちゃしょうがねえじゃねえか、宿場ァ通り抜けちまわァな。どっかいいかげんなとこで宿を取ろうじゃねえか」
「ェェお早いお着きさまでございます、お泊まりさまではございませんか、武蔵屋でございます」
「おゥおゥ、若《わけ》え衆《し》がなんか言ってるぜ、おい、ええ? 武蔵屋だとよ」
「待ちなよ……武蔵屋?」
「へえ、武蔵屋でございます」
「武蔵っていえば江戸のことだ。こちとら江戸っ子だ、気に入ったぜ」
「なにょう言ってやンでえ、武蔵ばかりが江戸じゃアねえや。武蔵ってなァそこらじゅうにあらア」
「そんなにあるのか?」
「昔ッからおめえ、十六武蔵ってえじゃァねえか」
「いいかい、おい? 若え衆が変な顔して笑ってるぜ。……おい若え衆、こちとら魚河岸のしじゅう[#「しじゅう」に傍点]三人だけど、どうだ、泊まれるか?」
「へえ、ありがとうございます。へえ、てまえども大勢さんほど結構でございまして……。おーいッ、喜助さァん、お客さま大勢さんだから、すぐ魚のほうへかかって……おもよさん、さっそくご飯を、釜のほうへどんどんしかけてくださいよっ、お客さまはみなさん江戸の方だから、お気が短いから……ありがとう存じます。さァさァ、お客さま、お洗足《すすぎ》をどうぞ……てまえどもちょっと見ますと狭いように見えますが、中ィ入りますと、これでわりあい間数もございます。もう、みなさんゆっくりおやすみになれます。で、あのゥ、おあと四十人さまはいつごろお見えになりましょう?」
「え? なんだい、そのあと四十人さまてえなあ?」
「あァた、いま四十三人《しじゆうさんにん》とおっしゃいました」
「おい、おめえ、欲ばったことを言うねえ。落ち着いて聞きなよ、おれたち三人は、飯《めし》を食うにも三人、湯ィ入《へえ》るにも三人、酒ェ飲むにも三人、女郎買いにいくのも三人、旅へ出るのも三人、年じゅう三人つるんで[#「つるんで」に傍点]歩いてるから、それでこちとらァ魚河岸のしじゅう[#「しじゅう」に傍点]三人てんだ」
「はァはァ、始終三人ですか?」
「討入りするんじゃァあるめえし、四十何だなんてまとまって旅するわけはねえじゃねえか」
「ああそうですか。あァた、妙な言い方するからまちがえちゃうんですよ。……あのゥ喜助さん、あわてちゃいけないよ、魚はどうした? え? 切っちゃった。……おもよさん、ご飯は? しかけた。しょうがねえなァ、こんなときにかぎって手がまわるんだから……ちがうんだよ、客はたった三人だよゥ」
「おうおう、いやな言い方しやがンなァ、たった三人で悪けりゃどっか他所《よそ》へ泊まろうじゃねえか」
「いやァ、とんだことがお耳に入りまして……これはてまえどもの内緒話で……」
「内緒話でどなるやつがあるかい」
「へえ、ご勘弁願います。どうぞお泊まりくださいまし」
「そうだなァ、足も洗っちっまったことだし、おめンとこィ泊まろうか」
「ええ、どうぞお上がりくださいまし。おすみさん、奥の七番へご案内しておくれ」
「どうでえ、どうせ上がるんなら景気をつけて上がってやろうじゃねえか……わァ…い、らァらァらァらァらァッ……」
「あァた困りますなァ」
「なにを言ってやんでえ、景気よく上がってるんじゃねえか」
「いえ、その声の大きいのァかまわないんですけどもねェ……おあとからいらっしった方、まだ草鞋をはいたままお上がり……」
「草鞋取ってやれやい、かあいそうに、ねェ、足を洗おうとおもって待ってるじゃァねえか」
「どこだどこだどこだどこだいッ」
宿屋へ着いたんだか火事場へ着いたんだかわからないような騒ぎ、……この三人が最前の武士の隣の部屋に陣取った。
「おォい、え? 若《わけ》え衆《し》呼んで……とにかく、おい、姐《ねえ》や、おめえじゃ話がわからねえかもしれねえ、だれでもいいや、若え衆に来てもらおうじゃねえか」
「……ェェ、ありがとうございます、お呼びで……?」
「おい若え衆、ずうっとこっちへ入《へえ》っちゃってくれ……さっきも言うとおり、おれたちゃァまァ、魚河岸《かし》の三人だ、いいかい? これからまァ、おとなしく湯ィ入《へえ》って飯《めし》を食って床ン中ィ入《へえ》るなんて、そんな素直なことはできねえよ、おれたちのこったからよゥ、うん。とりあえず一杯《いつぺえ》飲みてえってやつだ、うん。生意気なことを言うわけじゃねえけれどもねェ、酒は極上てえやつを頼むぜ。頭ィぴィんとくるようなのはいけねえや。それから魚、さっきも言うとおり、魚河岸《かし》の連中だァ、ふだんぴんぴん跳ねてるような魚ァ食ってるんだ。こいつを吟味してもれえてえなァ。それから、芸者ァ三人ばかし頼もうじゃねえか。腕の達者なところを、ひとつ生け捕ってもれえてえなァ。いくら腕が達者だって、やけに酒の強いなァいけねえぜ。そうかといって、膳の上にあるものをむしゃむしゃ食うってえやつも、これもあんまり色気がねえなあ、とにかく、芸が達者で、器量よしで、酒を飲みたがらねえで、ものを食いたがらねえで、こちら三人にいくらか小遣いをくれるような……」
「それはありません」
「そうかい、ねえかい? いなかは不便だ」
「どこへ行ったってありません」
「そうかい、ま、そいつァ冗談だけどもね、とにかくねェ、威勢のいいのを三人呼んでくれ。今夜は夜っぴて騒ごうてんだ、ええ」
「……今晩ありィ……」
と芸者衆が来る。
「おゥ、……ありがてえありがてえ、待ってたんだよ。すぐにその、なんだ……お座つき? お座つきなんぞァいいんだよゥ、もう……とォんとぶっつけてもらおうじゃァねえか、都々逸《どどいつ》でいこうじゃァねえか」
そのうちに、
「どうだいひとつ、もっと、ぱァッといこうじゃねえか、ねェ、にぎやかに……おれ、裸で踊るから、相撲|甚句《じんく》でも、磯節《いそぶし》でもなんでも威勢よくやってくンねえッ」
「伊八いィ……伊八いィ(と、ぽんぽんと手を打つ)……」
「へえェい……奥の八番さん、伊八っつァん、お呼びだよ」
「へえェい……へえ、お武家さま、お呼びになりましたか?」
「これ、敷居越しでは話ができん、もそっとこれへ進め。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節、その方になんと申した? 夜前は相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて、むじな屋と申す間狭な宿屋に泊まりしところ、なにはさて雑魚ももぞう[#「もぞう」に傍点]もひとつに寝かせおき、親子の巡礼が泣くやら、駆落者が夜っぴて話をするやら、相撲取りがいびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵は間狭でもよいが静かな部屋に案内《あない》してくれと、その方に申したではないか。なんだ隣の騒ぎは……宵からじゃんじゃかじゃんじゃか三味線を弾いて、あの騒ぎではとても寝られん。静かな部屋と取り替えてくれ」
「あいすみませんでございます。先ほどでございますと、まだ旦那さまに入っていただくお部屋もございましたが、もうどの部屋もふさがってしまいまして、ェェ隣にまいりまして、隣の客を鎮《しず》めてまいりますから、この部屋でどうぞご辛抱を……」
「しからば、早く鎮めてくれ」
「へえへ、かしこまりました」
「ェェごめんください」
「よゥッ、来たな?……おい、この野郎だよ、入口でたいへん世話ァやかしちゃった……こっちィ入《へえ》れ、こっちィ入《へえ》ンなよ、おい、一杯《いつぺえ》やってくれ、大きなもので飲みなよ、飲めよ」
「へえ、ありがとうございます、へえ、ただいまいただきます。……あいすみませんが、少々お静かに願いたいんですが……」
「なんだと? お静かにとはなんだ? ふざけちゃァいけねえや。こちとらァお通夜へ来て酒ェ飲んでるんじゃねえんだぞ、陽気にぱァッと騒ぎてえから飲んでるんじゃァねえか、おめえんとこだって、でえいち景気がついていいじゃねえか」
「へえ、そりゃァたいへんに結構なんでございますが、お隣においでンなりますお客さまが、どうもやかましくて寝られないとおっしゃいます」
「なんだ? 隣にいる客がやかましくて寝られねえ? その野郎ォここへ連れてこい、その野郎を。言って聞かしてやるから。宿屋へ泊まってやかましくて寝られねえなんて言うなら、宿屋一人で買い切りにしろッて……その野郎ここへ引きずってこい……ぴィッとふたつに裂いて洟《はな》ァかんじまうから」
「ちり紙だね、まるで……お隣のお客さまてえものが、只者《ただもん》じゃァございませんで……」
「只者じゃァねえ? なに者《もん》なんだ?」
「じつは、差していらっしゃいますんで……」
「差してる?簪《かんざし》かァ?」
「簪じゃありません……腰へ差してるんですよ」
「煙草入れだろう?」
「いいえ、二本差してるんですがねェ」
「なんだい、なにを言ってやんでえ。二本差してようと、三本差してようと、こちとらァ、矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ、おどろくんじゃァねえんだ。なんだって若い衆、なにを言いに来たんだい」
「ちょいと清《せい》ちゃんお待ちよ。おしまいのほうで若い衆の言ったことで少ゥし気になることがあるんだけどもね……なんだか二本差してるってじゃねえか、腰へよゥ」
「なんだァ? 二本差してる? 焼豆腐みてえな野郎……なんだい、矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ、おどろくんじゃねえや……え? 二本? 二本、腰へ?……おい、ちょいと断わっとくけど、それはなんだろうね? 刀じゃねえんだろうねェ」
「腰へ二本差してるんですから、まァ刀でございますなァ……えへへ……あァた……あァた、いま矢でも鉄砲でも持ってこいっておっしゃった」
「矢でも鉄砲でもとは言ったけども、刀とまでは言わねえじゃねえか。じゃァおめえ、二本差してちゃ侍《さむれえ》じゃァねえか」
「へえへえ、たいへん威勢がよかったようですが、やっぱしお侍となりますと、おそろしゅうございますか?」
「おそろしかァねえけども、怖《こえ》えじゃねえか」
「おんなしだな、それァ……」
「そんなおめえ、怖えッたってよゥ、どうも侍《さむれえ》ってやつは虫が好かねえんだよ。侍《さむれえ》と茄子《なす》の煮たのはおれァ虫が好かねえんだよ……なにも怖《こわ》がるわけじゃねえけどもよゥ……で、なんだってんだい、静かにしてくれってのかい? よし、わかったわかった。静かにすりゃァいいんだろ? 静かにすりゃァ。若え衆、静かにするって隣へ言っとくれ……おゥ、それから芸者衆、すまねえなあ、じゃ三味線たたんで、早く引きあげてくれ、相手が悪いや……ああァ、せっかくいい心持ちに酔っぱらったのが醒《さ》めちまったぜ。とにかく侍《さむれえ》は始末が悪いや。気に食わねえと、抜きやァがるからね、あれを抜かれると、ぞォッとするんだよ。だめだめ……とにかくもおとなしく寝ようぜ、もうこうなりゃあ、寝るよりほかに手はねえや……姐や、ぼんやりしてねえで、早くこっちへ来て、早く床《とこ》敷いてくれ」
「あれ、おやすみンなりますか?」
「なにを言ってるんだい、おやすみになりますかって、夜っぴて起きてられるかい。床敷いとくれ、……おゥおゥ、姐や、気の利かねえなァ、そうやって三つ並べて敷いちゃったひにゃあ真ン中のやつと端《はし》のやつとしゃべるときはいいけどもよゥ、端《はし》と端《はし》としゃべるときにゃあ、大きな声を出さなくっちゃならねえ、そうなりゃあ、また隣の侍がうるせえやなんか苦情ォ言うだろう。巴寝《ともえね》にしてくれ、巴寝に」
「巴寝といいますと?」
「布団を並べねえで、こう、頭を三つ寄せて敷いてくれ。そうすりゃァ巴みてえな格好になるじゃねえか、宿屋の女中だァ、そのくれえのこと覚えとけ……さあ、床へ入《へえ》ろう」
「ふん、こんなばかな話はねえや、なあ? ようやくおもしろくなってきたなとおもったら、隣の侍がうるせえことを言うじゃあねえか。こうなりゃあ、早く江戸へ帰って飲み直しといこうぜ」
「江戸ってえと、帰るとたんに相撲だなァ。おれァ、あの相撲が好きよ、ほら、捨衣《すてごろも》ってやつ、名前《なめえ》がおもしれえじゃねえか。もと坊主だったやつが還俗《げんぞく》して相撲取りンなったんで捨衣ってんだよ。出足の早《はえ》えやつよ、なァ。行司が軍配を持って、呼吸をはかってよ、さッと軍配を引くとたんにどォんとひとつ上突《うわづ》っ張《ぱ》りでもって向こうの身体《からだ》ァ起こしておいて、ぐっとこう(と、帯をさぐって)左が入って……」
「痛いッ痛いッ、痛いよ、おい……おめえ、ずいぶん手が長《なげ》えんだな、おい。そんなとっから手が届くとはおもわねえやな、おい」
「なにをこン畜生……やる気か? よォし、来いッ」
「いや、お待ちよ、寝てえちゃどうにもしょうがないよ、一ぺんお放しよ。また持たしてやるよ……褌《ふんどし》を締め直そう、竪褌《たてみつ》と前袋ォ気をつけとくれ……さ、来いッ」
「よいしょッ」
「なにくそッ」
真ん中の男も黙って見ているわけにもいかない。お盆を取って軍配の代わりにして、
「はっけよい、残った、残った残った、残った残ったッ……はっけよいッ」
どたんばたん、どすんどすん、めりめりめりめりッ……。
「伊八ィ……伊八ィ(と、ぽんぽんぽんと手を打つ)……」
「しょうがねえなこりゃあ……へェ…い、お呼びになりまして……?」
「これ、敷居越しでは話ができん、もそっと前へ進め。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節、その方になんと申した? 夜前は相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて、むじな屋と申す間狭な宿屋に泊まりしところ、なにはさて雑魚ももぞう[#「もぞう」に傍点]もひとつに寝かしおき、親子の巡礼が泣くやら、駆落者が夜っぴて話をするやら、相撲取りがいびきをかくやら、とんと寝かしおらん。今宵は間狭でもよいが静かな部屋へ案内をしてくれと、その方に申したではないか。なんだ、隣の騒ぎは。三味線と踊りがやんだとおもえば、相撲取りだ。どたんばたん、どすんどすん、めりめりめりめりッ……唐紙からこっちへ片足を出したぞ……さようなことはどうでもよいが、あの騒ぎではやかましくッて寝られん、静かな部屋と取り替えてくれ」
「あいすいません。最前申しましたとおり、どの部屋もふさがっております。隣へまいりまして客を鎮めてまいりますから、この部屋でご辛抱を……」
「しからば、早く鎮めてまいれ」
「どうもあいすいません……弱っちゃったなどうも、手がかかっちゃってしょうがねえな……」
「ェェごめんください」
「よう来たな、野郎……一番来るか」
「寝られねえや、これは……あァたさっきお願いしたじゃありませんか、お隣のお客さまがやかましくって寝られない……」
「あっ、そうそう。すまねえ、すっかり忘れちゃった。いや、もうすぐ寝るよ。いえ、もう大丈夫、もう話なんかしないよ。もういびきもかかない。息もしない。もうすぐ寝る。安心して帰れよ、すまねえ、あとぴったり締めてってくれや……ああ、おどろいたおどろいた、いけねえいけねえ、またやりそくなっちゃった、え? だめだよ、あんな力の入る話をするから、どたんばたん、どすんどすん、めりめりめりンなっちまうんだよ。もっとねェ、力の入《へえ》らねえ話をしようぜ。なんかねえかな、力の入《へえ》らねえ話は?」
「力の入らねえ話とくりゃあ、女出入りなんだけどもね、これはいちばん静かでいいんだが、ま、おたがいさまに、いずれをみても山家《やまが》育ちってやつでね、女出入りにゃああんまり縁のねえ面《つら》だからな」
「おゥッとッとッと……ちょっと待ってくれ、清ちゃん。いかに親しい仲だとは言いながら、少ゥし言葉が過ぎやしねえかい?」
「なにが?」
「だってそうじゃァねえか。なんだいその、いずれをみても山家育ち、女出入りにゃああんまり縁のねえ面だとは、少し言葉が過ぎるだろう? 気障《きざ》なことを言うんじゃァねえが、色事なんてもなあ、顔や姿でできるんじゃねえんだよ。……人をふたァり殺して、金を百両盗って、間男《まおとこ》をして、三年|経《た》っていまだに知れねえってんだ。どうせ色事をするんなら、このくれえ手のこんだ色事をしてもれえてえなァ」
「へーえ、してもらいてえなってところをみると、源ちゃんはそういう色事をしたことがあるのかい?」
「あたりめえよ。あるから言うんじゃねえか。おれが三年ばかり前《めえ》に江戸をはなれて、川越《かわごえ》の方へ行ったことがあったろう?」
「うんうん、そんなことがあったっけなァ」
「あんときゃ、川越にいる伯父貴《おじき》ンところへ行ってたんだよ。伯父貴はな、小間物屋をやってるんだが、店で商《あきな》いをするだけでなくって、荷物を背負《しよ》って、ご城内のお侍のお小屋お小屋を歩く、まあ、糶《せり》小間物屋とでも言うのかなァ」
「ふゥん」
「おれもいい若《わけ》え者《もん》だ、毎日ぶらぶらしてるのも気がひけるから、『伯父さん、おれもひとつ手伝おうじゃねえか、なァに、伯父さん年をとってるからそんな大きな荷物を持っちゃあ骨が折れるだろう、おれが担ぐからいいよ』ってんで、伯父貴にくっついて、毎日城内のお侍《さむれえ》のお小屋を歩いてた。ある日、伯父貴が具合いが悪《わり》いもんだから、おれが一人で荷物を背負って、ご城内のお侍のお小屋を歩いていると、お馬廻り役、百五十石取りのお侍で、石坂段右衛門という、この人のご新造さんが家中《かちゆう》でも評判の器量よしだ、なあ? おれがここの家へ行って、『こんにちは、ごめんくださいまし』と言うと、いつもなら女中さんが出てくるんだけども、その日にかぎって、ご新造さんが出てきて『おゥ小間物屋、ちょうどよいところへ来た、どうぞこちらへ上がってくりゃれ』と、こう言うんだ」
「なんだい、その『上がってくりゃれ』てえなあ」
「おめえなんか知らねえんだよ。お侍のご新造さんなんてえなあ、こういう、くりゃれ言葉[#「くりゃれ言葉」に傍点]てえのを使うんだ、なァ? それからおれが上がってくりゃれ[#「くりゃれ」に傍点]た」
「なんだい、おまえまでが使うことァねえじゃねえか」
「お座敷へ通されると、ご新造さんが『小間物屋、そなたは酒《ささ》を食べるか』と、こう言うんだ。それからまァ『たんとはいただきませんが、少しぐらいなら』と、おれが返事したんだ」
「へえェ、おまえがか? 笹を? そうかねェ……筍《たけのこ》を食うことは知ってたけどもねェ……笹を食うてえなァ気がつかなかったなァ……あァ、そう言われてみりゃあ、きのうも、海苔《のり》巻がなくなってから、まだ口をもごもごやってるのァ……」
「なに言ってやんでえ。ささ[#「ささ」に傍点]ったって、笹っ葉じゃねえやい。酒のことをささ[#「ささ」に傍点]というんだよ、なァ? ま、そんなことはどうでもいいや……しばらくすると、お膳が出てきて、乙なつまみもンが二品三品あって、ご新造さんが、おれに盃《さかずき》を渡してくれて、お酌までしてくれるじゃあねえか。せっかくのお心持ちだから、おれは一杯《いつぺえ》いただいて、ご新造さんのほうを見ると、ご新造さんがなんか召しあがりてえようなお顔をしているんだよ。これはおれだけごちそうンなってちゃァまずいなとおもうから『失礼でございますが、ご新造さんも、おひとついかがでございます?』と言うと、ご新造さんが、にこッと笑って、その盃を受け取る。おれがお酌をする、ご新造さんが飲んでおれにくる、おれが飲んでご新造さんに返す、ご新造さんが飲んでおれにくれる、やったり取ったりしているうちに、縁は異なものてえのかな、このご新造さんとおれと割りなき仲になったとおもいねえ」
「おもえない! おめえは器量のいいご新造さんと割りなき仲ンなる顔じゃァねえもの。おめえは、その器量のいいご新造さんに使われている、ちんくしゃ[#「ちんくしゃ」に傍点]の女中と薪《まき》でも割ってる顔だよ」
「なによゥ言ってやンでえ、縁は異なもの味なものてえのァそこなんだよ、なァ? それからというものは、おらあ、石坂さんの留守をうかがっちゃあ通《かよ》ってたんだよ」
「泥棒猫だねェ、まるで……うん」
「ある日のこと、ご新造さんとおれとが盃をやったり取ったりしていると、段右衛門さんの弟で石坂大助、家中一等《かちゆういつとう》の使い手だよ。この人が朱鞘《しゆざや》の大小のぐーっと長《なげ》えのを差して『姉上はいずれにござる、姉上、姉上……』がらッと唐紙をあけると、ご新造さんとおれが盃をやったり取ったりしている。これを見ると、この大助てえ野郎が怒ったの怒らねえの『姉上にはみだらなことを。不義の相手は小間物屋、なんじから先に、兄上に代わって成敗《せいばい》してくれん』ってえと長えやつをずばりと抜きやがった。おどろいたねェ、おれは。斬られちゃァたまらねえとおもうから、ぱァッと廊下へ跳《と》び出す。続いて大助てえ野郎も跳び出してきた。こっちはたまらねえから夢中でうわッと逃げ出した。大助てえ野郎が『やァ逃げるとは卑怯なやつ、返せェ戻《もど》せェッ』とどなってやがら。こっちは返したり戻したりしちゃァたまらねえからよ、夢中で駆け出した……そうたいして広いお屋敷じゃァねえから突きあたりになっちまった。どうにもしょうねえから、ぱッと庭へ跳び降りると、続いて大助てえ野郎も跳び降りてきたが、人間、運不運てえやつはしかたのねえもんだ。大助てえ野郎が足袋《たび》の新しいのを穿《は》いてやがったもんだから、雨あがりの赤土の上でつるりとすべって、すぽォんと横っ倒しになったとたん、敷石でもって、したたか肘《ひじ》を打った。手がしびれたから持っていた刀をそこへ放り出した。しめたッとおもうから、その刀をおれが拾ってね、大助てえ野郎を、うわーッとめった斬りにしちまった」
「えれェことをやりゃァがったなあ……それで?」
「ご新造さんはまッ青な顔ンなって、なにをおもったか箪笥《たんす》の抽出しを開《あ》けると、このくらいの袱紗《ふくさ》包みをつかんで、『小間物屋、ここに金子《きんす》が百両ある、これを持ってわらわを連れて逃げてくりゃれ』ってんだよ。『ええ、よろしゅうござんすとも』ってんで百両の金をおれは懐中《ふところ》へ入れちゃった。ご新造さんが着替えの着物をってんで、箪笥を開けて着物を出している隙《すき》をうかがって、うしろからおらァご新造さんを、うわーッとめった斬りにしちまった」
「ひでえことをしやがったなァ……ご新造さんを殺すことはねえじゃねえか」
「そうはいかないよゥ、おめえ。あとから追手《おつて》のかかる身だよ。足弱《あしよわ》なんぞ連れて逃げきれるもんか。とうとうおれは川越を逐電《ちくでん》よ。どうでえ? 金を百両盗って、間男をして、人をふたァり殺して、三年たっていまだに知れねえッてんだい。どうせ色事をするッてんなら、おれはこのくれえ手のこんだ色事をしてもらいてえなァ」
「へえェッ……ひとは見かけによらないッてえけど、ほんとうだねェ。たいした色事師だねェ、これだけの色事をする人とはおもわなかったなァ、え? 色事師だよ、源ちゃんは……※[#歌記号、unicode303d]色事師は源兵衛、源兵衛は色事師、スッテンテレツク、テンツクツ、スケテンテレツク、テンツクツ……源兵衛は色事師、色事師は源……」
「伊八ィ(と、ぽんぽんぽんと手を打つ)」
「寝られねえや、また手が鳴ってやがる、こりゃどうも……へえェい、……お呼びになりまして……?」
「これ、敷居越しでは話ができん、もそっと前へ進め。これ伊八、拙者、先刻泊まりの節その方になんと申した?」
「夜前は相州小田原宿、大久保加賀守殿のご領分にて…」
「黙れッ、万事世話九郎と申したは世を忍ぶ仮の名、まことは川越の藩中にして、石坂段右衛門と申す者。前年|妻弟《つまおとうと》を討たれ、逆縁ながらその仇《かたき》を討たんがため、雨に打たれ風にさらされ、めぐりめぐって三年目、隣の部屋に仇《かたき》の源兵衛というやつがいることがあいわかった。すぐに隣の部屋に踏ンごんで斬り捨てようとは存じたが、それではあまりに理不尽。一応その方まで申し入れるが、てまえが隣の部屋へ参るか、隣の部屋から源兵衛と申す者が斬られに来るか、二つに一つの返答を聞いて参れッ」
「これはどうも……少々お待ちください……こりゃたいへんなことンなった、えらいことだぞォ……」
「ええ、ごめんくださいッ」
「※[#歌記号、unicode303d]スッテンテレツク、テンツクツ、スケテンテレツク、テンツクツ、源兵衛は色事師、色事師は源……あァツ、はッはッは、また来やがった。わかったわかった、すぐ寝る」
「いえ、こんだァ寝ないで起きててください……こン中に源兵衛さんてえ人がいますか?」
「おれだよ」
「あァたねェ、人を殺《あや》めたとか傷つけたとかいう覚えはありませんか?」
「え?……ああそうか。廊下かなんかで聞いてやがったんだよ……おゥ、若《わけ》え衆《し》、もう少しこっちへ入《へえ》ンな。生意気なことを言うわけじゃァねえけどねェ、色事をするんならこのくれえ手のこんだ色事をしてもらいてえ、いいかい? 人を二人殺して、金を百両盗って、間男をして、三年経っていまだに知れねえてんだ、どうだ、てえしたもんだろう?」
「いえ、あんまりたいしたもんじゃァありません。お隣のお侍さまは、石坂段右衛門とおっしゃいます。三年前にご新造さんと弟さんを殺されて、その仇を討たんがため、雨に打たれ風にさらされ、めぐりめぐって三年目、隣に源兵衛……あ、あァた……あなたですよ……仇のいることがわかった。すぐ踏ンごんで斬り捨てようとおもったが、まァわたしを呼んでね、源兵衛のほうで隣の部屋に斬られに来るか、そのお侍がこっちへあァたを斬りに来るか、二つに一つの返答を聞いて参れッてんですけどもねェ、あァた隣に斬られに行きますか?」
「おい、ほんとうかい? それァ、おい、ちょっと待ってくれ、そいつァ。落ち着いとくれよ」
「あァたが落ち着くんですよ」
「若え衆、まァ聞いとくれ、世の中に石坂段右衛門なんて、そんな間抜けな名前の人があったのかい、おい? 知らねえやな、こっちは……まァ聞いとくれよ、こういうわけだ、おれがね、両国の小料理屋でもって、一杯《いつぺえ》飲んでたんだ。そうしたらそばでもって、この話をしていたやつがあるんだよ。そンときおれは、あァおもしろそうな話だな、どっかでもってこいつを一ぺん使ってみてえなあとおもってたんだよ。そうしたら清ちゃんが、さっき、色事のできる顔は一つもいねえなんてことを言やがったろう? しめた、ここだなとおもうから、おれァもう、両国で聞いた話をいまおもい出しながら、ここで話をしたんだよ。めった斬りにしたてのはね、両国にいるんだから、その隣の人に両国へ行ってもらって……」
「じゃあ、なんですか? この話は受け売りなんですか? あァたねえ、こんなややっこしい話を口から出まかせに、むやみに受け売りなんぞしちゃあ困りますよ」
「いや、面目ねえ。つい調子に乗っちまったもんで」
「こいつァなにしろ魚河岸きってのおしゃべりだからしょうがねえ」
「ほんとうにしょうがァありませんねェ。あなた方のために、こっちゃあ寝られやしねえんだから……ま、まァなんてえかわからねえけれど、とにかく、隣へ行ってお侍さまによく話をしますからね……しょうがねえなあ、ほんとうに世話ばっかり焼かせて、どうも……」
「ェェどうもお待たせをいたしました」
「いかがいたした?」
「へえ、どうも……なにかのおまちがいじゃァございませんか? まァ間男をしたの、金を百両盗って、人を殺したのなんのというお話でしたが、いえ、とても間男をするどころの男じゃァございません。いまごろ自分のかみさんが、もう間男をされてるような顔でございまして……それでとても人を殺すなんて、とてもそんな度胸のある男じゃァございませんで、源兵衛という男の申しますには、あれは、なんでも両国の小料理屋でもって、隣で……」
「黙れッ。現在、自分の口から金を盗った、人を殺したと白状しておきながら、ことここにおよんで、嘘《うそ》だ冗談だですむとおもうか、たわけ者め。さようなことを言って、この場を逃《のが》れんとする不届至極の悪人めッ、ただちに隣室に踏みこみ、そやつの素っ首|叩《たた》き落とし、血煙あげて……」
「少々お待ちください、お武家さま、ただの煙とはちがいますよ、その血煙ってのァいけませんよ。武蔵屋でもってあの部屋で血煙があがったなんてえことが評判になりますと、てまえどもにこれから先お客さまが泊まってくださる方がございませんで、どうか、せめて庭へでも引きずり出して、血煙をおあげになるというようなことに願いたいもんで……」
「いや、わかった。その方の申すところ一応もっともだ。仇討とはいいながら、死人が出たとあっては、当家へ迷惑をかける。……しからばかよういたそう、明日までそやつの命をその方に預けおこう。明朝《みようちよう》、当宿はずれにおいて、出会い敵《がたき》といたそう。しからば、当家に迷惑はかかるまい」
「へえ、ありがとうございます。大助かりでございます、ええ。そう願えればもう、このうえありがたいことはございません」
「さようか。仇は源兵衛|一人《いちにん》であるが、あと朋友《ほうゆう》が二名おったな。これはきっと朋友のよしみをもって助太刀いたすであろう。よしんば助太刀をいたすにもせよ、いたさぬにもせよ、ことのついでに首をはねるゆえ、三名のうち、たとえ一名たりともとり逃がすようなことがあらば、当家はみな殺しにいたすから、さよう心得ろ」
「えっ、一名でもとり逃がすと、当家はみな殺し?!
へえへえ、いえ、もうかならず逃がすようなことはいたしません。へえ、かしこまりました。いえもう逃がすどころではございませんで、てまえどもも大助かりで、たしかにお請けあいいたしました。へい、ありがとう存じます。では、どうぞ、旦那さま、ご心配なくおやすみくださいまし……さあ、善どん、益どん、寅どん、喜助どん、みんな来てくださいよ。いえね、悪くすると家で仇討が始まるとこだった。お武家さまのおはからいで、明朝、当宿はずれで出会い敵ってえことになった。その代わりね、三人のうち一人でも逃がすようなことがあると、家じゅうみな殺しだってんだから、こりゃおだやかじゃあないよ。え? そうだよ、仇は、さっき泊まった江戸の、うん、あいつらだよ。悪いやつらなんだ、逃がしたひにゃァえらいことになる。……縄ァ持ってきて、で、あたしが声をかけたら、かまうことァないから、あいつら、ぐるぐる巻きにふンじばって、柱へでもなんでも縛りつけとかなくちゃァ、うん。今夜は寝ずの番だよ、みんな覚悟しといてくれ……」
「ごめんください」
「おゥ、どうしたい、若え衆、話はついたかい?」
「つきました、あしたの朝までつきました。明朝、当宿はずれで出会い敵ということで、話は無事につきました」
「おいおい、話は無事についたなんて言ってるけど、冗談じゃァねえや、その出会い敵てえのはなんだい?」
「ええ、宿はずれであァた殺《や》られます。ェェそれでね、仇は源兵衛一人であるが、あとの二人、これは朋友のよしみで助太刀をするだろう……?」
「しないッ……しないよ、こっちは」
「ああ、しないよ、二人とも……」
「いいえ、してもしなくても、ことのついでに首をはねる」
「おいおい、ことのついでにって、気やすく言うなよ」
「あァた方のうち一人でも逃がすようなことがあると、こんだ、こっちの笠の台が飛んじまう、家じゅうみな殺しというようなことで……まことにお気の毒ですが、少し窮屈かもしれませんが、あァた方一ぺん縛らせて……」
「おい若い衆、おい堪忍……」
「堪忍もくそもあるもんか」
「おい、なにをするッ……」
「なにもくそもあるもんか……おい、みんな、かまうこたァねえから、縛っちまえッ」
店じゅうの者が、寄ってたかって三人を荒縄でぎゅうぎゅう縛りあげて、柱へ結《ゆわ》いつけた。江戸っ子三人は、さっきの元気はどこへやら、青菜に塩で、べそをかいている。一方、侍のほうは、さすがに度胸がすわっているとみえて、隣の部屋に仇を置いて、大いびきで、ぐっすり寝てしまう……。
一夜明けて、侍は、うがい手水《ちようず》をすませ、ゆうゆうと朝食も終えた。
「ェェお早うございます」
「おう、伊八か。昨夜はいろいろとその方に世話を焼かせたな」
「へ、ェェどういたしまして……ェェ先ほどはまた、多分にお茶代まで頂戴いたしまして、ありがとう存じます」
「いや、まことに些少《さしよう》であった。今後、当地へ参った節は、かならず当家に厄介になるぞ」
「ありがとう存じます……ェェそれから旦那《だア》さま、あの昨夜の源兵衛でございますが……」
「源兵衛?」
「はい。ただいま、あの、一ぺんその唐紙をあけてお目にかけます……ェェ旦那さま、よく顔をおおぼえになっておいていただきませんといけないと存じますが……あの、真ン中に縛ってございますのが、あれが源兵衛でございます。その向こうでべそをかいておりますのが清八に喜六でございます」
「ほほう、ひどく厳重にいましめられておるが、昨夜、なにかよほど悪事でも犯《おか》したか?」
「いえ、あの方は、別に悪事というほどのことはいたしません。ただ、裸でかっぽれを踊ったくらいでございます……」
「それが、なにゆえあのように?」
「でございますから、あの真ン中の源兵衛が、旦那さまの奥さまと弟御さまを殺した悪人でございます」
「ほほう、それは、なにかまちがいではないか? 拙者、ゆえあっていまだ妻をめとったおぼえもなく、弟とてもないぞ」
「いえ、そんなはずはございません。ねエ、お武家さま、あァた昨夜《ゆうべ》おっしゃったでしょう。前年妻弟を討たれ、その仇を討たんがため、雨に打たれ風にさらされ……って」
「ああ、昨夜《ゆうべ》のあれか、はッはッはッ……あれは座興じゃ座興じゃ」
「えっ、座興? 座興とおっしゃいますと、口から出まかせで……? 旦那も口から出まかせにおっしゃったんで?……へーえ、口から出まかせが流行《はや》るね、こりゃどうも……しかし、旦那さま、冗談じゃァございませんよ。あァたが一人でも逃がしたら、家じゅうみな殺しだっておっしゃったでしょ? あァたがそうおっしゃったから、家じゅう一人だって寝た者はおりません。ええ、逃がしちゃァたいへんだとおもうから、みんな寝ずの番で、あの三人を……あの三人だってかわいそうに、生きた心地はありませんよ。みんなまッ青になって、あそこへ縛られてべそをかいて……寝てるものは一人もいませんよ。あァた、なんだってそんな口から出まかせの嘘をおっしゃったんでございます?」
「いや、あのくらい申しておかんと、拙者が夜っぴて寝られん」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] これほど庶民像をあますところなく描写している噺はほかにない。源兵衛がひとつまちがえば「たがや」[#「「たがや」」はゴシック体]や「首提灯」[#「「首提灯」」はゴシック体]の町人のように、首が胴についていないような事態になりかねない、この噺を最初に聞いたとき、筆者はどうなることかと、はらはらして源兵衛他二人の命の危機をわがことのように心配したものだ。その点で、サゲの伏線は、知らぬ者には千金の値打ちがあり、名作に数えられる秀作である。宿屋の若い衆の伊八もしたたかな、如才ないもう一つの庶民像であって、噺の進行をいっそうおもしろくしている。特筆すべきは、侍で、一般に侍といえば、野暮で無骨で通っているが、この噺に登場する侍は、四民の上に立つ風格と、そして寛容さ、さらに洒落を解する点、出色の人物である。おそらく、侍というものは、自己の本分を全うし、町人階級に斬りつけるなどということはありえなかったにちがいない。歌舞伎などに描かれたサムライ像が、そのまま外国に輸出され、サムライ即、ハラキリの印象《イメージ》が透徹してしまっている今日、こうした「落語」を翻訳してその先入観を打破したいものだ。
定本は、三代目桂三木助所演。なお、「宿屋の仇討」は、ふた通りの型があり、もう一つは「甲子待《きのえねま》ち」「庚申待《こうしんま》ち」と題し、江戸馬喰町の宿屋が舞台となり、サゲは同じだが、登場人物、中に挿入される話の筋などはまったく異なっている。しかし、こちらが本来の江戸の型で、三木助所演のは大阪の型である。原話は笑話本『無塩諸美味』(天保年間刊)所載の「百物語」。
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一人酒盛
酒好きというものは、なににつけても、うれしいといえば……、
「あァ、めでたいよ、ェェ祝いに一杯やろうじゃァねえか」
悲しいときは、悲しいときで……、
「もうしょうがないよ、できちゃったことさ、こんなんなっちゃっちゃ、しょうがねえや、ええ? 自棄《やけ》だッ、一杯のめッ」
暑いときは、
「どうも暑くてしょうがねえ、暑気払いに一杯やろう」
寒いときは、
「おゥ、寒《さぶ》くってしょうがねえ、湯豆腐かなんか温《あつた》けェもんで、ちょいと……」
というぐわい。……なかなか止められるものではない。
ひとつ酒を断《た》とうと、神様へ願《がん》をかけると、そこへのみ友だちが誘いに来る、
「ええ? なにを、断《た》った? 酒をか? ばかだなあおめえは。好きなものを急に断ってごらんよ、なおよくねえぜそれァ。断ったって、どう断ったんだい。向こう一年? ばかな真似をするじゃあねえか、ほんとうになァ、しょうがねえ、断っちまったんだから、じゃこうしなよ、もう一年延ばして二年にしといてなァ、晩酌《ばんしやく》だけやらしてもらったらどうだ?」
「おゥ、そういう手もあるなァ、いっそのこと三年にして朝晩のもうか」
酒は呑《の》むべし呑むべからず
ほどほどに召しあがっとくと、まァたいへん身体《からだ》のためになるが、どうしても好きな人は度をすごす。そういうところから身体《からだ》をこわしたり、まちがいを起こすなんてえことになる。また、のみたいとなると、好きな方はどんなことをしてものもう、あらゆる艱難苦労をしてこの酒にありつこうという……。
「おゥおゥおゥ、ま、こっちィ入《へえ》ってくれ」
「う、いまなんだかちょいと来てくれってえからやってきたけども、なんか用があンのかい? おれもこれから仕事に行かなくちゃならねんで暇《ひま》がねんだけども」
「まアまアいいやな、こっちィ上がれよ、ちょいとよゥ」
「なんだい?」
「じつはね、いま他所《わき》から酒をもらったんだ、こいつは昔おれが世話ァした野郎で、上方《かみがた》の方を久しく行っていたんだ、『こっちィ帰《けえ》っつくるで、急でございますから土産《みやげ》といったが、どうも手がまわりませんので、造酒屋《つくりざかや》にこころやすいところがある、酒の素《もと》のようなものを、そこで一升だけ持って来ました。で、残らず置いていかなくちゃあならねんですが、もう一軒お世話になったところがあるんで、そこへ半分持っていきたいとおもうが、まことにしみったれたことを言うようですが、五合だけで勘弁していただきてえ』とこう言うんだ、え? 言うことが可愛いじゃあねえかなァ。なにも余計ものをもらったからいいってえわけじゃあねえから、『よゥし、おめえが一軒世話ンなったところがあンなら、そこへ持ってってやっつくれ……じゃ、おれが半分もらおうじゃねえか』ってんでね、……ちょいとやったところが、これがまたうめえんだ……うゥんかかあは出ていっちまやがったし、夜まで我慢しようとおもったけども、とても辛抱しきれねえ……で、一人で呑んだところでおもしろくねえし、呑み友だちは大勢いるが、留さん、おめえがおれァいちばん好きなんだよ。ふたァりでやろうとおもって迎《むけ》えにやったんだけども……つきあってもらえねえかい?」
「そうかい? ありがてえなァ、へッへッへッへ、酒を呑むんで友だちァ大勢あるがおれだけ呼んでくれたてえなァ、うれしいじゃねえか」
「忙しくっちゃしょうがねえ」
「いいよ、忙しいけれども、まァ……ちょいとやるぐれえな何《なに》なら、どうでもできらァな。いますぐ呑むのかい」
「呑むんだけれどもよゥ……なにしろおめえこれじゃあしょうがねえ、火がねんだ。お燗《かん》をつけてなァ……やりてえし、徳利を放ォりこんでなかなか燗ができねえなんてなァじれってえや。ちょいと火を熾《おこ》してもらいてんだが、表に炭俵が出てえるが、そン中からちょいと二つ三つつまんでなァ、その焜炉《こんろ》へ入れて……おゥおゥ……それからここに種火《たねび》があるから……こいつを持ってってちょいちょいっとこう、お尻《けつ》をあおってくれ、ええ? 炭は柔《やら》けえからすぐぽッとするからなァ……その薬罐《やかん》を載っけつくんねえ、温湯《ぬるまゆ》ンなってくるから、うん……で、肴《さかな》はなんにもいらねんだけども、やっぱりなんかなくっちゃあ形がつかねえから、魚金へ行ってなんでもいいから見てくンねえか、ええ? おまえに任しとくから……」
「おッ、行ってきた」
「なんかあったかい?」
「うん……どうせ余計|買《と》ったってしょうがねえから、一人|前《めえ》だけもらってきたが、いい刺身だ」
「おッ、これァいいや……中とろ[#「とろ」に傍点]だ、留さん、おめえ、銭を出したのかい? ええ? そうかい、ありがてえありがてえ……ェェそれじゃァなァ、そこに徳利があるんだがなァ、抽出しン中に、うん、一合ずつ入るやつが……よしよしそいつを二本出して、酒はそれだそれだ、たしねえ酒[#「たしねえ酒」に傍点]だからこぼさねえようになァ、大事に入れつくンなよ……おゥ済まねえ……で、二本いっしょに……こう突っこんどいつくンねえ……ェェ刺身がありゃあいいけども、箸休めに香物《こうこ》があるといいんだが……あのゥ、台所のなァ、こっちから三枚目の板をあげると糠《ぬか》味噌だ、うん。なんか上に入ってるだろ? ちょいと出しつくれよ、済まねえが……よォよォよ、えらいえらい、ええ? 留さんは器用だなァ、おめえはすることが小器用だ、おれときたひにゃあなにしろ口が八丁で手が一丁てえやつでねェ、文句は言うがなんにもできねんだよ……済まねえ……湯呑《ゆのみ》みだ。よしよし、おれはねェいつもこれでやらなくちゃねェ……ちょいと徳利をこっちィ出してくンねえか……なに、早え? 早くったっていいよ、もうこうなりゃあ子供がおもちゃをもらったようなものでねェ、(徳利を受け取って、自分で注《つ》ぎ)とても我慢ができねんだ……おいおい留さん、見ねえこの酒をよ……どうだい、ええ? 色といい、上へこうぐうっ[#「ぐうっ」に傍点]と盛りあがる、こういかなくちゃあいけねえ、酒は平《てえ》らになっちまっちゃいけねえやな。注《つ》いでこう上へこんもり盛りあがるような酒でなくちゃあねェ、うん。なにしろいい酒だって自慢をしてやがった、ええ? (徳利を置いて)どんなもんか……(と、湯呑を口へ三口ばかりのむ)」
「おい、酒はうめえかい? おい」
「うゥ(一気にのみ干し)……あァ、うめえ!……おい、酒ェ呑んでるときなんか言っちゃあいけないよ……あァ、気が遠くなるようだ……すゥッと入《へえ》っていくとこなんざァねえなァどうも、あァいい酒だども……七十五日《しちじゆうごんち》どころじゃあねえや、こりゃどうも、三年ぐらいおれァ生きのびちゃったァ……おゥ、徳利をこっちィ出してくンねえ、こんだいい燗だろ。(徳利を受け取り)あとを入れといつくンねえ……あァこれァいいよどうも(湯呑に注ぎながら)……自慢をしてやがったよ、うん。これァねえ酒の素なんだそうだ、こいつィ水をいくらか入れてね、こう薄めて売物《うりもん》になるんだそうだ。『これァねェ、ほかにゃあないもんですから、どうか味わっていただきてえ』なんてそ言ってやがったがねェ……(湯呑を手にふた口ばかり呑み)いい酒てえもなァ、ありがてえもんだなァ、うん。呑むときがうまくって、酔い心《ごころ》がよくって、醒《さ》めぎわがいい……そこへいくと悪い酒はいやだねェ、呑むときはまずいし、酔い心《ごころ》が悪くって醒めぎわがいやな心持ちだ、ねえ。しかし酒呑みてもなァ意地の汚《きたね》えもんだよ、ああ、それしきゃねえとなりゃあ、悪い酒でも文句を言いながらやっぱり呑んじまうからねェ……へッへッへ、どうもしょうのねえもんだ……(ふた口ほど呑み)うめえ酒だなァ……おれの親父ァねえ、花見酒ってやつでね、猪口《ちよこ》ィ注いだやつを三口か四口にこうなめるように呑んでる、ああ。おれがねえ大きい器《もん》できゅゥッ[#「きゅゥッ」に傍点]とやると、『この野郎なんざァ雲助酒だ』なんてねェ、あァあ、叱言《こごと》を言やァがったけどもねえ、こいつァやっぱり好き好きだからなァ、うん。大きい器《もん》できゅッ[#「きゅッ」に傍点]とやって好きな人もありゃあ、また、ちびちびその、なめるようなのがいいッてのもあるし、どうしょうがねえもんだよ……(ひと口呑み)いい酒だ。だけどもねえ、おれァこの酒をもらったとたんにそうおもったよ……呑み友だちは大勢あるけれども、留さん……おめえだけはどうしても呼びてえとおもってなァ」
「ありがてえなァ、そ言ってもらえるのァ……ほんとうにおれァうれしいよ、おれもねえ、酒は好きだがかかあがやかましくってねえ、『どうしておまえさんはそうなんだろう、酒を見りゃあすぐに仕事もなんにも忘れちまうんだから……どうして済んでからゆっくり呑めないんだろう』なんてね……」
「あッはッはッは、そうだよゥ、どこのかかあだっておんなしだよ……用が済んで、それから呑みゃあいいって言うが、そうはいかないよ、ねえ。好きなものを、だいいち我慢するのァ毒ですよ……(またふた口ほど呑み)ほんとうにいい酒だ……(湯呑を置き)おっ、徳利を出しつくれ、あとをつけといてくんなよ……(徳利を受け取って)あァどうも済いません……(湯呑に注ぎ)ありがてえありがてえ、こりゃあほんとに……こういういい酒はまた呑もうったって呑めねえからなァ。おれァねえ、大勢知ってるやつァあるけれどもさ、やっぱり留さんでなくちゃいけないよ、ねえ……気の合った同士で呑むてえやつァ……これァまたなんとも言えねえから。いやな野郎と、鼻ァ突きあわして呑むてえなァおもしろくねえもんだからねえ……(徳利を置いて、ひと口呑み)ああ、上燗《じようかん》ですよ。あァかかあが帰《けえ》ってきやがってまたね……ぐずぐず言うだろうとおもうんだよ、こねえだもおれァ癪《しやく》にさわってねえ、他所《よそ》でちょいと一杯やってね、帰《けえ》ってきたんだよ、するとうちのかかあのやつがおれの顔を見やがって、『おや、おまえさんまた酒ェ呑んだねえ』とこう言やがる、ええ。おれァもう無体《むてえ》癪にさわっちゃった……『お帰《かい》ンなさい』とか、ねェ、やれなんとかそこに文句があって、『おまえさん、お酒を呑んだんじゃあないの』とこうやさしく言やァいいや、ええ? 顎《あご》を、こう突き出しゃァがってね、『またおまえさん、呑んできたねえ』……おれァむッ[#「むッ」に傍点]としてねえ(ふた口ほど呑み)……『おれァ酒なんぞ呑んじゃあいねえや』ったらね、『なに言ってるんだね、呑んでるか呑んでないか、鏡を見たらわかるだろう』とこう言やァがる……それから『鏡はどこにあるんだ?』ったら『そこに出ているよ』ってやがる……机の上に鏡を、ほら……こうやって手に持って見るやつがあるだろう? 手鏡ってのが……あれが載っかってやがる。それからおれァ無体《むてえ》癪にさわったからねえ、『おれの顔がどうなってんだ?』ってんで鏡を見たときは……おれァとびあがっておどろいたよ、おれの顔へまっ黒に毛が生えてやがる、おかしいんだよゥ、その朝おれァ床屋へ行ったんだからね……そういっぺんに毛が生えるわけがねえんだが……それから『どォしたんだ、おっかァ、たいへんな毛だなァ』ったら、『なにがさ?』『だっておめえ、鏡に写ってるおれの顔がまっ黒に毛が生えてらあ』ったら、『ばかだねこの人ァ、そりゃ刷毛《はけ》じゃないか』って……はははは、刷毛じゃァおめえ、毛が生えてらあね、あたりまえだァな、はははは……(ぐいぐいと三口ほど呑み)自分じゃあ酔ってねえつもりだが、やっぱり酔っているんだねェそのときにゃあ。あァ……しかし酒呑みてえなァおかしなもんだよ。(ぐッと呑み干し)酒呑みてェ……おゥ、留さん、ちょいと徳利を出しつくれ、お燗いいだろ、あァ、ありがてえ(湯呑に注ぐ)……ほんとにいい酒だなァ……おれァねえ、この酒をもらったときァそうおもったよ……呑み友だちは大勢いるが、いやな野郎とァ呑みたくねえし、留さんと呑みてえなとおもってね、うん……あァほんとにありがてえ……おゥそうだ、しゃべって、刺身をせっかく持ってきてもらったのを忘れちゃった。こいつゥいただこうじゃねえか、ええ……おッ、いい山葵《わさび》を使ってやンなァ……とろッ[#「とろッ」に傍点]として、こういかなくちゃいけねえ(箸で皿の醤油の中へ入れ)、刺身てえものァ半分は山葵で食うもんだからねえ、うん。山葵は高《たけ》えから粉山葵でもいいてえやつがあるが、冗談言っちゃあいけねえやな、粉山葵じゃあやっぱり、ねえ、おもしろくねえやな……あァ粉山葵でいいぐれえなら、切身ィ醤油ゥぶっかけてかじったっておんなしだ、刺身てえものは半分はこの、山葵で食わせるてえぐれえ、ええ? いいなァ、この中とろンとこで……(刺身を箸ではさみあげ皿の醤油につけ、ぺろッと食べ)こりゃあ…う…むゥッ(山葵が利いて顔をしかめ)、はァッ、おォゥ辛《かれ》え、つゥん[#「つゥん」に傍点]ときやがったよ……山葵利いたか目に涙……てえやつだ、あッはは、うめえなァどうも(また食べて箸を置き、湯呑を取る)やっぱりこの、山葵はつゥん[#「つゥん」に傍点]とこなくッちゃあうまくないねえ、うゥん、魚《さかな》が舌の先ィぴりッ[#「ぴりッ」に傍点]ときてねえ、山葵が甘くなっちゃったひにゃあもう、どうにもしょうがないからねえ……(ぐいぐい呑み)……あァ、ありがてえありがてえ、ほんとにいい酒だ……こうなってくるとなんだなァ、ちょいとぺんぺん[#「ぺんぺん」に傍点]でも弾《し》いてもらうといいなァ……おゥ留さん、おめえ、乙《おつ》な咽喉じゃあねえか、ひとつ聞かしつくれやい、ええ? おい、留さん、なんか唄いねえな……」
「……ふッ、唄えったっておめえ、素面《しらふ》でばかばかしくて唄えねえやな」
「なにおめえ、一人で、もそもそ[#「もそもそ」に傍点]言ってるんだよゥ。お酒を呑んだら、呑んだような心持ちにならなくちゃいけないよ、ね?……達磨《だるま》さんこちら向かんせ世の中は、月雪花に酒と三味線……なんてねえ、ねへへ、いいねえ、ああ(と、呑み)……近ごろ小唄なんてえものが流行《はや》るが、乙《おつ》なのがあるねえ、古い唄だが『今朝《けさ》の別れ』なんてなあ、いいねえ……『今朝の別れに貴方《ぬし》の羽織がかくれんぼ……』なんてなァ、えへへ……おい留公、しっかりしろい冗談じゃあねえ……※[#歌記号、unicode303d]今朝ァのォ…オゥォ、別れェ…にィ……てなァ、ええ? 留ちゃんや、はは……(と呑み)※[#歌記号、unicode303d]ぬしの羽織がァかくれんぼ……チテチン、チンチンチン、とくらあ、どうだ留の字……※[#歌記号、unicode303d]雨ェがァあ…ァに、チリチリ、チン、チチチン、チンチン、降るゥわァいィいんな、チテンテン……おいおいおい留さん、おい徳利、徳利……ごとごとごとごといってるじゃあねえか、間抜けな野郎だなァこいつァまた、早く出せてんだよゥ。おめえ、お燗番だろう?……おい、薄ぼんやりしているやつもねえもんじゃあねえか、どじ[#「どじ」に傍点]助。おめえはねえ人間はいいが、どういうもんだか、その間が抜けたところがあって、おれァいやなんだよ……どうしたんだ、え? 熱くなっちゃった? あたりめえじゃあねえか、徳利をほうりこんでから薄ぼんやりしているからよ。………こっちィ出せ、徳利を、ええ? どんなんだ?……あちッ……(あわてて手を徳利からはなし耳たぶへ持っていく)おォう熱《あつ》い、こんなに煮えくり返《けえ》しちゃって、持てねえじゃねえか手で……(袖の中に手を入れて徳利を持ち、注ぐ)おやおや、情けねえな……おァあァ……いやだなァ、おい見ねえな、ぼわッ[#「ぼわッ」に傍点]と湯気《けぶ》が出てるじゃあねえか。おまえだって酒を呑むんだろう? こんなに煮えくり返《けえ》しちゃっちゃあしょうがねえじゃねえかなァ……人肌というんだよ、ね? 酒の燗をするんならよく覚えとけ……こんなに熱くしちゃって、どうも……(湯呑を持ち、ふゥッと吹く)こりゃ熱いや、(また、ふゥッふゥッと吹き)酒てえものはねえ、こやって吹きながら呑むもんじゃないよ、ええ? 甘酒とァわけがちがうんだから……(ひと口呑み)吹きながら呑むのァねえ、実母散《じつぼさん》ばかりだ……熱いねえどうも、むゥうゥ、あとをつけとけあとを……酒ェ……なにをぼんやりしてるんだ、おい、早くつけろよ、なに?……もうない?……『もうない』ってどうしたんだ? あァ、呑んじゃったのか、なんだィ、それじゃァおつもり[#「おつもり」に傍点]だろうこの酒ァ……せっかくの酒《もの》をこんなにしちまやがって、だらしのねえ野郎じゃあねえか……(呑み)しかしうまいね、あァいい酒はやっぱりいいけども、ただもったいないてんだ、こう熱くしちまっちゃあ……なァ、おつもりかいこれで、ええ? おォ留さん、どうだい、無官《むかん》の大夫おつもり(敦盛)てえなあ……あッはははッ、あァ、どうだい留……なんて顔ォしてンだい、洒落を言われてぼうッ[#「ぼうッ」に傍点]としてやがら、洒落を聞いたら『よゥよゥ』とかなんとか言いねえな、なんだなどうも、煮えきらねえ男だなァ、(ひと口呑み)無官の大夫のおつもりッて、いけないかい、ええ? 玄関つきの洒落は……い、いけなきゃいンだよ、うん。しかしいい酒だよ、おれァねえ、この酒をもらったときそうおもったんだ、これァ、ひとりで呑んじゃあもってえねえから、留公呼んで……呑ましてやろうとおもったんだよゥ、ほんとうだよ、ありがたくおもえ、冗談じゃねえ……(呑む)あァいい酒だ、いい酒(飯坂《いいざか》)の温泉てえところがあるねえ……あッはッはッは……あァうめえやどうも(ぐっと残りをあおり、とォんと湯呑を下へ置いて)あァあうめえ、じつにいい酒だ、なァおい留公、どうでえうめえだろう」
「なッによォ言ってやンでえ、べらぼうめ……うめえもまずいもあるかい。なんでえひとりでがぶがぶ、くらやァがって、ええ? 忙しいってのに呼びに来やがって、あっちィ行けの、へッ(鼻をこすりあげ)……やれなんのッてやがって、そんな酒なんぞァ呑みたかねえやおれァ……酒なんぞ呑みたかァねえけども、ええ? たとえ一杯でも『どう?』って……へッ、なんでえ畜生め、なんだてめえ一人でくらってやがって、『こんなうめえ酒は……』うめえかまずいか見てるだけでわかるかい。うん、てめえのようなやつとァもう生涯《しようげえ》つきあわねえや、畜生め、……面《つら》ァ見やがれ、この、ばか野郎ッ!」
「(女の声で表から)……ちょいと熊さん、どうしたんだよゥ、留さん、たいへん怒って帰《けえ》ったが、喧嘩でもしたんじゃないのかい?」
「なんだい、留公かい? あッはッはッは、いいんだいいんだ、うっちゃっときなよ、あの野郎ァ酒癖が悪《わり》いんだから」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 落語には必ず〈対立〉がある。家主と店子にはじまって、亭主と女房、親と子、旦那と使用人、商人と買手、武士と町人、粗忽者と慎重居士、気短と気長、吝《しわ》いと浪費家……そして、酔っぱらいと素面《しらふ》等々、多士済々な組みあわせの〈対立〉が盛りこまれ、描かれている。花田清輝氏流に表現すれば、「まさに〈対立〉を〈対立〉させたまま〈統一〉しているすばらしさ」である。
この噺は、酒呑み噺[#「酒呑み噺」に傍点]特有の、五合の酒を呑む間《ま》と、その酔いがだんだんに回っていく形態を見せ、聴かせる――高座芸を娯しむ噺でもある。全篇、熊の一人語りだが、同時に対手の、留さんがいつ、いま飲めと言い出すかと、咽喉をぴくぴくさせて待っている表情を間接描写するところにある。そして熊がだんだん図に乗って、ああだこうだとごたくを並べ、そのうち徳利の酒が減っていく、留さんの方は気が気でなく、じりじりして、みんな飲まれてとうとう怒り出す。その過程がシーソーになって、〈対立〉させたまま合奏《アンサンブル》を醸し出す、絶妙だ。そして、隣のおかみさん、第三者の介入で、この可笑しさが断面としてさらに浮き彫りにされる、切れ味のいいサゲだ。俗に「逆さ落ち」と称する。登場人物がそれぞれに自分自身の立場しかわからず、ことの真相は、鑑賞者にしか知らされない。これは「干物箱」[#「「干物箱」」はゴシック体]のサゲと同様、秀逸である。六代目三遊亭円生の得意噺であった。酒は「飲む、打つ、買う」の三道楽の一つだけあって「花見酒」[#「「花見酒」」はゴシック体]「親子酒」「居酒屋」「ずっこけ」「代り目」など数多いが、一杯呑まれてしまう同系の噺に「猫の災難」「馬のす」があり、酔いがだんだんに回っていく見せる噺に「らくだ」「試し酒」がある。
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ぞろぞろ
昔、浅草|田圃《たんぼ》のまン中に「太郎|稲荷《いなり》」というお稲荷さまが祀《まつ》ってあって、大昔はたいそう繁昌をした。しかし、ご多分にもれず、神仏にも栄枯盛衰《えいこせいすい》というものがあって、いまでは参詣人が来なくなった。もとより神社仏閣は参詣人が頼《たよ》りだから、参詣人が来なくなると、お堂のほうも荒れ放題。……だれかが建てた、「正一位太郎稲荷大明神」という旗がもとは赤地に白く染めてあったが、それが雨風のためにすっかり剥《は》げてしまって、いっぺん柿色になって、それから橙《だいだい》色になってまっ白になって、今度は砂埃《すなぼこり》で鼠色になった、という幟《のぼり》がかかっているくらいだから、鳥居は笠木《かさぎ》もとれ、棒ばかり、水屋は倒れたまま……という荒れ方。
その前に茶店が一軒あったが、肝心のご本社のほうがそんなありさまだから、これもともどもさびれて、茶店では成り立たないから、かたわら荒物を並べ、かたわら飴、菓子を商《あきな》って、年寄り夫婦が細ぼそ暮らしている。しかし、この老夫婦は心がけのよい人で、朝起きるとお社《やしろ》の掃除を先にし、水を汲むとお初餞《はつ》を供える。ご飯を炊くときにはお饌米《せんまい》というので、かいがいしく仕えている。
ある日のこと夕立があった。田圃の中の一軒家だから、周辺《あたり》を歩いている人残らずが雨宿りに駆けこんできて、狭い土間は人でいっぱいになった。
「おじいさん、ありがとうござんした、お宅があったんで助かったよ。さもなけりゃあこの一張羅《いつちようら》ァ台なしにするところ。地獄に仏ッてえのァこれですよ。ありがとうござんした。ほんとうに助かったよゥ……降ってやがるなァ……この夕立は少ゥし、こらあ場ちがいだねェ。夕立ってえやつは、さあァッと降って、からッと天気ンなるてえのが身上《しんじよう》で……これァ、さあァ……とは降ってやがるが、なかなかあがる気配がないねェ。場ちがい夕立……こんなものにつきあっちゃあいられねえ……あのねェ、おじさん、ここにお菓子の箱が並んでるがねェ、お茶をいれてくれませんかねェ」
「はい、ただいまなァ、差しあげようとおもっておりましたところで……はなはだ粗末でございます」
「あァ、なんでもいいよ、持ってきておくれ……おッ、うまそうなお茶じゃあねえか。あァ、これァ結構だァ……さァて、このお菓子の箱の中に入っている、この白い菓子ねェ……おじさん、これ薄荷《はつか》かい?」
「へえ、薄荷でございます」
「薄荷の菓子ってえものは、たいてい三角ンなんだがねェ、これァ六角だの八角だの、形はいろいろだね」
「はい、仕入れましたときには三角でございましたがな、ちっとも売れねえもんでございますから、店の掃除のたンびに、菓子の箱をあっちィやりこっちィやりしますとな、ぶつかりあってそんな形に欠けちまったんでござんすよ」
「へーえ、薄荷《はつか》のお菓子も苦労したんだねェ、揉《も》まれたんですなァ、あァ、苦労の末だァ。いくら古くったって薄荷だよ、あたる[#「あたる」に傍点]ようなことはねえだろう? これ頂戴しよう」
菓子をつまんで、お茶を飲んでいると、
「……あァ、お天気ンなった。ありがてえありがてえ……おじいさん、なげえことどうもお邪魔ァしちゃったねェ……これァねェ、お菓子のお代ですよ。これァ少《すくね》えが茶代だァ、取っといてくださいよ。なに? お礼にゃあおよばない。あァ、どうも、ごめんなさい」
茶店をとび出してったが、すぐひっ返してきて、
「だめだめ」
「……?」
「だめだめ、あァ、歩けない」
「歩けない?」
「あァ、いまの雨で、つるつるつるつッ、と滑ってだめだ……あッ、おじいさん、お宅で草鞋《わらじ》を売ってるんだ……これァありがてえ。あの、草鞋、一足くださいよ」
「へえ、ありがとうございます。八文でございます」
「あ、おれにも売ってもらおう」
「おいらにもくンねえか」
一人が草鞋を買うと、雨宿りの人がみな草鞋をばたばたっと買って、履いて帰り、またたくうちに草鞋は品切れになった。
「ありがたいねェ、おばあさん。夕立さまさまだねェ、太郎稲荷さまのご利益だよ。あしたァお稲荷さまへ、赤のご飯を炊いてあげとくれよ。それから尾頭《おかしら》つきねェ、お神酒《みき》……お榊《さかき》も忘れなさんなよ、いいかい?」
「はい、おじいさん……あッ、お店にお客さまですよ」
「おや? 源さん。いまの土砂降りはどうしたい?」
「たいへんだったなァ、大門寺前《だいもんじまえ》の寮の廂間《ひやわい》であの雨は凌《しの》いだがねェ、ここまで来るのになんどつんのめりそうになったか知れやしねえ……あァ、ようやくここィたどりついたよゥ。これから鳥越《とりこえ》まで用足しに行くんだ。すまねえけれども、草鞋を一足売ってくンねえか」
「あァ、おまえさんが来なさることがわかっていれば、一足ぐらいとっとくんだったが、いま雨宿りのお客さまが、残らず買っていっちゃって、品切れンなっちゃってなァ、悪《わり》いことしたよゥ、一足もないよ」
「いえェ、一足だよ」
「ええ、その一足にも半足にも、草鞋は残っちゃあいねえんだよ」
「だって(ちらっと見あげて)そこにあるじゃあねえか、おじいさん」
「あァ、ありゃあしないよ、ねェ、おばあさん、売り切れンなったんだもの」
「なにを言ってんだよゥ。年寄りはどうしてこう強情なんだい。おじいさんや、いいかい? おいらの言ったとおり、雁首《がんくび》をこうひとつひんねじって(と、首をまわし)、天井裏ァ見てごらん。そこに一足だけ草鞋がさがってるよゥ」
「なにを言いなさるんだ。売り切れた草鞋がおめえ、どう雁首をひねろうと(と首をまわし、見あげて)あるはず……がァ、あァ、あ、あったァ」
「なんだい。あるから頼んでるんだよゥ。おいらじゃあ売らねえのかい」
「いいえ、そりゃ悪《わり》いことをした。売るよゥ、あたしのおもいちがいだった、一足残ってたんだねェ、八文だよ」
おじいさんが、草鞋へ手をかけて、すッ[#「すッ」に傍点]と取ったら、あとから、ぞろッ[#「ぞろッ」に傍点]とまた草鞋が出てきた。
「おおッ?!」
お客が帰って、しばらくするとまた買手が来て、これをすッ[#「すッ」に傍点]と抜いて売ると、また草鞋がぞろり[#「ぞろり」に傍点]。一足ぶらさがっている草鞋が、すッ[#「すッ」に傍点]と抜くとあとから、ぞろり[#「ぞろり」に傍点]……ぞろり[#「ぞろり」に傍点]……いくらでも出てくる。
この評判が世間にたちまち広まって、茶店の老夫婦は正直者、太郎稲荷のご利益ということになった……。
ほど近い田町に、ちっとも流行《はや》らない髪結床があって、ここの親方が店ッ端で大あぐらァかいて髭を抜いていると、
「おゥい、親方、いるかい?」
「親方ッてえのァおれだよゥ、なんだい?」
「あァ、いたな? 今日は暇かい?」
「なァに言ってやンでえ……へへへェ、暇だか、忙しいか、よく見なよゥ、なァ? ひと目で見渡せねえほど広い店じゃあねえ、客の姿は一人もねえや。おれがこうやって、髭ェ抜いてる」
「おゥ、身体《からだ》が暇なら、おいらといっしょに行かねえかい? あの、太郎稲荷の前の茶店、たいへんな人なんだぜ。おもしろいよ。草鞋が一足ッかぶるさがってねえやつを、うェェいッてんで売ると、あとからぞろッ[#「ぞろッ」に傍点]と出やがるんだァ、ああ。あれァご利益だっていってるがねェ、見に行かねえか」
「ご利益? てェェ……聞いたふうなこと言っちゃあいけないよゥ、神仏にご利益なんてえものあるかい。ほんとうに、ばかばかしい。ええ? てェッ、ご利益だとおもって行くのか? おめえは。はァッ、いい玉だなァ。はァ、まァ、おれもねェ、こうやって客はいねえし退屈《てえくつ》だから、いっしょに行ってもいいがね」
来て見ると、太郎稲荷のご利益の評判を聞き伝えて、参詣人も日増しにふえ、幟はもう何十|旒《りゆう》となしにあがり、納め物の小さな鳥居は並べるところがなくなって、空に向けて積みあげるという大繁昌。縁日が出、例の茶店は、
「あァ、土産にするんだから、一足ください」
「お札《ふだ》代わりに、一足ください」
と、朝から晩まで押すな押すなの行列……。
これを見た髪結床の親方は、
「へえ、なるほどたいへんなんだねェ。こんなに繁昌してやがんのかなァ……おい、おじいさん、この茶店もたいへんだなァ。儲かるだろうなァ、つうッ[#「つうッ」に傍点]と取ると、ぞろッ[#「ぞろッ」に傍点]ときたひにゃあねェ。只《ただ》で、これだけの商売。これがご利益……おゥッ、そうだ、神仏のご利益。ご利益となったら、おれも授かろう……今日から裸足《はだし》詣りをして……(両手を合わせ、拝み)南無太郎稲荷大明神さま、なにとぞあたくしにも、この茶店の年寄り同様のご利益をお授けくださいますように……この茶店の年寄りとおんなしご利益をお授けください、南無太郎大明神さま……」
と、一心に祈って七日目……、
「お帰《かい》んなさい。……ごらんよゥ、一年じゅうのお客が今日いっぺんに来ちゃったよゥ。家ィ入れきれやしない、隣の空店《あきだな》ァ借りて、みんな休んでるよ。早く仕事にかかっておくれよ」
「ありがてえな、ご利益だなァ……いいよ、すぐに仕事にかかるから安心しろい……ェェみなさんお待ちどおさまでございました、あたくしがここの主人《あるじ》でございまして、腕に覚えがございますから、お手間ァとらせません。どなたがお先でございましたか? 順にやらせていただきますが……」
「おゥ、親方、帰ってきたかい。おれがいちばん先手に来てんだ。髭ェやっとくれ」
「へえ、かしこまりました」
その客の頬っぺた、ひょいと見ると、熊の背中のように毛が入り乱れて、びっしり生えている。
「はい、よろしゅうございます。さァどうぞこちらィこちらィ……」
腰かけへ据えといて、十分にこれを湿《し》めした。それへ、剃刀《かみそり》を当てがって、すうゥッ[#「すうゥッ」に傍点]と剃るとあとから毛が、ぞろぞろッ[#「ぞろぞろッ」に傍点]……。
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 言うまでもなく、かつての人びとの生活《くらし》の根拠《よりどころ》となったのは〈信仰〉であった。まだ科学などという〈叡智《えいち》〉が人びとの脳裏を掠《かす》めることのない時代では、神仏の力はなにより健在で、人びとの生活《くらし》を支配し、君臨していた。事実、それは人びとの感情に敬虔さと、自然に対する神秘観を齎《もたら》すものであった。当然、「落語」の中の人びとのちょっとした会話、行為にそうしたことが具現されているわけだが、〈信仰〉そのものを正面《まとも》に扱った噺として、盲目が開眼をする「景清」、商売繁昌と親孝行のお礼詣りに行く「甲府い」、命拾いをしてお題目のおかげと地口の落ち[#「落ち」に傍点]でおわる「おせつ徳三郎・下」(別名「刀屋」)、人情噺の「鰍沢」など、数え上げることができる。
とはいえ、「落語」の本領とする風刺、道化は、この噺のようなナンセンス、ばかばかしさで、〈信仰〉を見事に逆転させ、突き放している。この種の噺に「後生鰻」「小言念仏」等、これに輪をかけた痛烈なものまである。こうした噺が存在することによって、庶民大衆が、如何に〈信仰〉を捉えていたか、如何に賢明であったか、を識《し》ることができる。また、烏合《うごう》の衆といわれる、移り気な大衆の本性もちょっぴり描き出している。八代目林家正蔵の持ち噺だった。
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猫怪談
「おい、いるか、与太郎」
「だれだい。やあ、家主《おおや》さんが来た、あはは、家主さん、家主さん、おやおや……」
「なにを言ってやがる……まあ、とんだこったなあ」
「なんだい?」
「おめえの親父《おやじ》がおめでたくなったそうだなあ」
「えへへ、うそだよ、おめでたくなんぞなりゃあしねえや」
「そうか。また糊屋のばばあ、そそっかしいじゃあねえか。いまおめでたくなったてえから、おらあわてて飛んで来たんだが、じゃ、まだ存命でいなさるのか?」
「うん……?」
「いやさ、存命でいなさるのかよ」
「なんだか知らねえがね、けさっからものを言わねえでいなさる。そばへ行ったら息をしねえでいなさる。触《さ》わってみたらつめたくなって、えへッ、しゃッちょこばっていなさる」
「ばか野郎、それじゃあやっぱり、おめでたくなっていなさるんだ」
「あはっ、そうしていなさるか」
「なにを言ってるんだ」
「だって、家主さんめでたいってえから。死ぬとめでたいかい?」
「そういうわけじゃあないが、ま、人間六十を過ぎる、それならばおめでたいと言ってもいい、うん? おまえの親父はいくつだ、六十三だろう。それ見ろ、だからおめでたいと言うんだ」
「あ、そうか。じゃ六十過ぎて死ぬとおめでたいてえのか。家主さんはいくつだ」
「おれは……変なとこで年齢《とし》を聞くな。まあいい」
「えへ、まあよかあねえ、いくつだい」
「うるせえやつだなあ、おれは六十六だ」
「ああ、じゃ、もうおめでたいほうだねえ、えへへ、いつおめでたくなる?」
「なにを言やがる。人の死ぬのを待ってやがる、どうも困ったもんだ。なんだろう、支度なんぞできてやしねえだろう?」
「なんだい、支度てえのァ」
「支度といやあ、お線香をあげて、え? 樒《しきみ》の花をそなえて……そんなことはちゃんとなっているか」
「なんにもなってねえ」
「なっていなくちゃしょうがねえ、え? ま、さっそく線香だけでもあげろ、仏さまへ」
「ない」
「なければ線香買ってきな」
「ない」
「表の荒物屋にあるよ」
「ないよ」
「ないことはない」
「ないんだ」
「なにが?」
「銭《ぜに》がねえんだ」
「銭がねえ?……線香買う銭がねえのか、しょうがねえな、それじゃあ早桶もなにも買えねえじゃねえか」
「うん、そうだね」
「そうだね……じゃあねえ、葬式《ともらい》が出ねえや」
「出なけりゃ出さなくてもいいや、当分寝かしとかあ」
「ばかなことを言うな、当分寝かしておかれてたまるか」
「早桶ならね、あるよ」
「早桶は? 用意がしてある……そうか、そりゃあまあ感心だ。買ったのか」
「うゥん、落っこってた」
「おい、変なことを言うな、早桶なんてものァ、むやみに落っこってるもんじゃねえ。どこに落ちてた」
「井戸端にね」
「井戸端に?」
「うん、水が張ってあった」
「そりゃおめえ、菜漬《なづ》けの樽じゃあねえのか?」
「えへへ、そうかもしれねえ」
「なんだ、そうかもしれねえって……おめえの樽だろ」
「うゥん、おれンじゃねえや、四斗(他人《しと》)樽ってえから……」
「なんだ、変な洒落を言うな。印《しるし》があったか」
「印はねえ、あの、丸に三て書いてあらあ」
「丸に三? ありゃおれのうちの樽だ」
「あ、家主さんのかい? じゃ、いいだろ」
「よかあないよ、いけねえ」
「そんなことを言わねえでよゥ、じゃ貸しとくれよ」
「貸してどうするんだ」
「あいたら返《けえ》さあ」
「ばかなことを言うな。そんなものを、あいて返されてどうするんだ。まあしょうがねえ、てめえみてえなばか野郎はねえ。しかし、おまえはばかだというが、こんど親父《おやじ》の世話をよくしたことは、それァまあ感心だ、ほめてやる。ま、だいたいあの親父というのは、おまえのほんとうの親じゃあねえ、てめえの両親てえものは、おまえがまだ結いつけ草履[#「結いつけ草履」に傍点]でいる時分に、流行病《はやりやまい》で、続いてなくなっちまった。その住んでいた家主てえのが、まことに無慈悲なやつで、てめえが遊《あす》びに行ったあと、家財道具を表へ放り出して釘づけにしちまった。そんなことは知らねえおめえが、遊びさきから帰ってきて、暮れがた、戸へつかまって、父親《ちやん》や……おっかァや、おっかァや……父親《ちやん》や、と泣いている。それを見て、かわいそうだと言って飴の一つも買ってくれる人はあるが、さて引き取ってどうしようという者がない。そのとき、この死んだ仏《ほとけ》が、こんなことをしておいて、小さい者にまちがいがあっちゃあならない、あたしが育ててやると……大きなことは言えないが、食い物さえあてがっておけば、自然と背丈も伸びるだろうから、わたくしが世話をしてやりたい、というので、てめえを引き取って……。かみさんはない、ひとり者だから、世話をするといったってなかなかたいへんだ、おしめの世話からしなくちゃならねえ、仕事に行くときァ、おめえを負《お》ぶって仕事場へ行って、こういう厄介者がおりますので、どうぞみなさんよろしくお願い申しますと、さげなくてもいい頭を他人《ひと》にさげて、気がねをして、育ててみりゃあ、てめえみてえなばか野郎だ。まあしかし、こんどはよく面倒を見たというので、長屋の者もほめている。与太郎はばかじゃあございますが、あれァ利口者の手本になります、感心な心がけだと言って、みなさんがよくおまえのことをほめてくださる。おれも聞いて、まことにうれしい。まあこれからは、親父の命日にちゃんと墓詣りをして、あとあとをよく弔《とむら》い、細々ながらでも人にかわいがられれば、それで暮らしのたっていくもんだ。一所懸命にやらなくちゃあいけねえぞ、え? おれの言ったことがわかったか?」
「えへえ、なんだかちっともわからねえ」
「わからねえって、さっきから聞いているだろう?」
「顎《あご》がこう、ぴょこぴょこ、ぴょこぴょこ動いてンのを見ていると、二十八まで勘定して、あとわからなくなっちゃった。もう一ぺんやってみろ」
「ばかだなこいつは……どうも、人の顎の動くのを見ているやつがあるか、しょうがねえ……長屋の者に話をして、なんとかしなくちゃならねえが、寺はどうした、報《し》らしたか、え? まだ報《し》らしてねえ?……こりゃまあ無理はない、な? だいいち寺てえものは、一人で行くもんじゃあねえ、二人で報らせに行くべきもんだから、いま頼んでやるが、どこだ、寺は」
「寺はない」
「ばかなことを言え、寺のないことはない、どこだ」
「どこだかわからねえ。どこでもいいよ、近《ちけ》えとこのほうが……」
「近えとこのほうがいいったって、おまえ、むやみなとこへ持ってったって、死体《ほとけ》を受け取りゃあしねえ」
「受け取らなかったら、むこへ置いて逃げてくらあ」
「そんなことをしちゃあいけねえやな。長いあいだに、おやじと墓詣りをしたろ? 寺へ行ったということもあるだろうから、おもい出してみな」
「おもい出す? 面倒くせえや」
「面倒くせえってことがあるか。おもい出せ」
「じゃ、しょうがねえ、おもい出そうか」
「恩にきせるやつがあるか」
「あっ、おもい出した」
「どこだ」
「うン……ねえ、夜中《よなか》」
「夜中……? なんだ夜中てえのァ。谷中《やなか》じゃあねえのか」
「あ、そうだ、うん、谷中だ」
「谷中の、なんという寺かおぼえているか、え? 瑞輪寺?……うゥん、大きな寺だ、瑞輪寺じゃあねえんだ、その寺中《じちゆう》だろう」
「えへ、和尚さんは男だい」
「なんだ、男だてえのァ」
「女中だって……」
「女中じゃあねえ、寺中と言ったんだ、その末寺にちげえねえ。まあまあいい、それだけわかりゃあ、たずねてみりゃあ見当《あたり》がつくだろうから。とにかく早桶も買って支度もして、それから今夜はお通夜。で、長く置きゃあそれだけ物入りもするから、今夜のうちに差し担《にな》いで、寺へ持ってっちまうんだ。人足を雇ったりすりゃあ安いことじゃあねえから、てめえが片棒担げ、いいか……てめえがかつぐのァいいが、あと、片棒担ぐ者がいねえから困ったなあ」
「ああ、いい、ある」
「ある?」
「うん、よろこんでね、担ぐって人があるよ」
「そうか、それァいい塩梅《あんばい》だ、だれだ」
「えへ、家主さんだ」
「ばかなことを言え、だれがそんなものをよろこんで担ぐやつがあるもんか……まあ、長屋の者に頼んでみるか、今月の月番はだれだ。羅宇屋《らおや》の、甚兵衛さん?……あの人はいくつだ、七十……いくつか……。しかし、まあふだん軽い荷でも担いでいるから、担げねえことァねえだろう。うん、よしよし、じゃ、おれがいま、話をしてみるから……」
家主が長屋へ話をしてやると、ふだんかわいがられている与太郎のこと、香奠もおもったより集まり、これで寺のほうの、百か日までの仕切りをすませることができた。その晩は通夜……といっても貧乏|葬式《どもらい》で、ただ形ばかりで早く出してしまおうというので、深川|蛤《はまぐり》町を出たのが、四刻《よつ》(午後十時)、これから川っぷちを通り、町を抜け、伊藤松坂(上野松坂屋)のところへ出てきたのが、ちょうど九刻《ここのつ》(午前零時)、右へ曲がって山下(上野公園入口)へ出て、あれから池の端を通って、これで七軒町を通って谷中へ行くのが近道……。
十一月の末、もうかなり寒くなっていて、霜柱《しもばしら》が一面に立っている。これを三人が、サクサクサクサク踏みながら歩いている。家主が提灯をつけて先に立ち、後棒が与太郎、先棒が羅宇屋の甚兵衛、……このおじいさんがまた臆病で……、
「ねェ、与太郎、与太郎さん」
「なんだい?」
「あァびっくりした。大きな声をするんじゃあないよ」
「だって、いま、呼んだから返事したんだ」
「返事をするったっておまえ、こっちが与太郎さんと、静かに声をかけているんだから、もっと小さい声で返事をしな。だしぬけに大きな声を出すから、おらァ跳びあがったよ、おどろいて……」
「なんだよ」
「だいぶ夜も更けているようだが、だいいち真っ暗だねェ……、寂《さむ》しいねェ」
「へへへ、寂しいねったっておめえ、夜だもの、灯《あか》りもなんにもねえから寂《さむ》しいや」
「なんか出やしねえかなァ」
「出るかもしれねえなァ」
「出るかもしれねえって、なにが出るんだ?」
「てえげえ暗いとこィ出るのァお化けが出るんだ。お化けってのァ、人が死んで、それが化けて出るんだってねェ、へへへ、ちょうどいま、化けるのを、ふたァりで担いで歩いてらあ」
「変なことを言うんじゃないよ、気味の悪いことを言いなさんな。幽霊が出るのは、てえげえ何刻《なんどき》だろうなァ」
「九刻《ここのつ》過ぎだってねェ……」
「じゃ、まだ九刻は打たねェ、な、前だ。じゃ、こんな寂《さむ》しいところは早く行こう」
「さっき、……もう九刻打ったよ」
「え? じゃもう九刻過ぎてるかい?」
「うん、いまお化けが出ようッて、そろそろ支度ゥしているところだ」
「なんだ、変なことを言うなよ……おまえのおとっつぁんは、もの堅い人だったねェ」
「うん、うちのおとっつぁんは堅いから、よろこんでるよ。甚兵衛さん、今夜はこの寒《さぶ》いのに、ご苦労さまですねって、早桶の中から甚兵衛さんの襟ンところを……」
「あッ、あわわ……ばかなことを言っちゃいけないよ」
「おいおいおい、なにをしてんだい、おい。往来へ座っちまっちゃあしょうがねえじゃあねえか。どうしたんだ? 甚兵衛さん」
「与太さんが変なことを言うから、あたしァおどろいた。だいいち、肩がどうもめりこみそうで……」
「与太郎早くしなッたって、おれにばかり叱言《こごと》を言ったってだめだよ、甚兵衛さんが前へ出ねえんだもの。おれがうしろから押してるから、少ゥしでも歩くんだ。甚兵衛さん、だんだんうしろへ押してるからね、うっちゃっとくと、このまま家《うち》へ帰《けえ》っちまう」
「帰《けえ》っちまっちゃあしょうがねえじゃねえかな。甚兵衛さんもしっかり歩いとくれ」
「へえ、なにしろ肩ァ変えねえで、右ばかりで担いでますからね、どうにも、こうにもめりこみそうになってね」
「おい、与太郎、しょうがねえ、気をつけて、ほら、肩を変えてあげろ」
「なんだ、そんなことなら早く言やあいいんだ、肩を変えようってえば、おれだって変えるんだ、おれも痛《いて》えのを我慢してたんだ。じゃ甚兵衛さん、変えるよ、いいかい、ほら、ひのふの、よいッ……」
与太郎が頭越しに左右の肩を変えようと、加減なしに上へあげて、ひょいッとさげた。急に重みがかかったんで、縄がやわ[#「やわ」に傍点]だったとみえて、ぶつッ[#「ぶつッ」に傍点]と切れて、とォンと早桶が地面に落ちた。安物のなので底が抜けて死骸《ほとけ》がにゅうッと出た、
「あわわ……出ました、だ、だ、だ……」
「なんだな、どうも、しょうがねえ。与太郎乱暴なことをするんじゃねえ、毀《こわ》しちまやがって」
「毀しちゃったって、縄がやわ[#「やわ」に傍点]だから切れちゃったんだよ、しょうがねえや。じゃ、これ直さなくちゃならねえから。じゃ、こうしとくれよ、ねェ、おれェ、早桶ェ直すからね、甚兵衛さん、ちょっと、おとっつぁんを抱いてておくれ」
「ううゥ……とんでもねえことで、死骸《ほとけ》なんぞ抱けませんよあたしゃ」
「しょうがねえなァどうも。与太郎出しな」
「いいよ、すぐ直るよ、こんなもの。おれがいま、うまく直しちゃうから」
天秤をはずして、とんとんとんとん、底の木片をはめこんで、どうやらぴしッと直りかけたところで、与太郎がとォンと力を入れて打ちつけたところ、打ちどころが悪く、こんどは早桶がばらばらになった。
「あ、あッ……しょうがねえなァ、ま。とうとう毀しちまやがった。あァ、もうだめだ、そんなものどうやったって、まとまりゃあしねえや、困ったことだなァ。じゃ、しょうがねえ、早桶をどっかで買わなくちゃならねえが、この近所で売ってるとこはねえかなァ、ええ? なんだ、仲町? そんなところへ行ったってありゃあしねえ。そうだ、広徳寺前(稲荷町)まで行ったら、あのへんにはたしかあったはずだから、じゃ、与太郎、てめえいっしょに来い。……じゃ、あのねェ、甚兵衛さん、ふたァりでこれから早桶を買ってくるから、おまえさんここで、ちょっと、番をしていて……」
「いえェ……とんでもないことで、あたくしァこんなところへは、とてもいられません」
「なんだな、しょうがねえ。じゃあ甚兵衛さん、あたしと行くかい。じゃそうして……与太郎、おまえここで番をしているか?」
「うん、じゃいいよ、おれがここで番をしてらあ」
「灯りを置いとくか?」
「うゥん、いいよいいよ、提灯なんかいらねェ、持ってっちゃっていいよ、うん。またねェ、甚兵衛さんみたいな臆病な人が通っておどろくといけねえから、あァ、大丈夫だ」
「いいか、一人で……」
「一人でいいよ、大丈夫だよ、怖くもなんともありゃあしねえ。甚兵衛さんみてえに、おら臆病じゃねえから。だれか来てね、聞いたらそう言うよ。いまこの人は(死骸を指し)ちょいと涼んでいるところですからって……」
「ばか野郎、こんな寒いときに涼むやつがあるかい」
「えへへ、いま、夏の夢を見てるって」
「変なことを言っちゃいけねえ……じゃ、甚兵衛さん、行こう、気の毒だがね。じゃ与太郎、いいか、提灯は持ってっちまうぞ」
「いいよいいよ、灯りなんざいらねえやい」
家主が甚兵衛をつれて、早桶を買いに行ったあと、与太郎は、ばらばらになった早桶を、またそこへ並べて、死骸《ほとけ》を寝かし、蓋の上へ自分は腰をおろして腕組みをしている。
うしろは上野の山で、ときどき風が吹くと、ごォーッという音。前は不忍《しのばず》の池。夜の水というものは不気味で、不忍の弁天堂がその中へ黒く抜き出ている。ときどき枯れすすきが、かさかさかさかさ……という音をさせる。
いくら与太郎でも、あんまりいい心持ちはしない。
「……なるほど、甚兵衛さんが怖がるのァ無理ァねえやなァ、なんだか変だなァ。だけども、人間てものァどういうわけで死んじゃうんだろうなァ……おとっつぁん、おめえまだ死ななくたっていいんだな、おれに世話ンなるのが気の毒だって、おめえ死んじゃったのか? おめえ生きてりゃあ、おれが一所懸命稼いで、うめえもんでも食わせてやったのに。おめえ死んじゃったら、なんにも食えねじゃねえか。おめえ死んで、極楽の方へ行きなよ、地獄の方はよせよ、赤鬼だの青鬼やなんかいるからなァ。もし地獄の方で鬼が出て、おめえをいじめたら、おれンとこへ知らせに来いよ、なァ。おれがすぐとんで……とんで行くて……じゃ、おれも死ななくちゃならねえ……じゃいいよ、来なくっても。おめえ死ななくったっていいんだ、おれ一人で寂《さむ》しいじゃねえか」
しきりに与太郎が死骸《ほとけ》に話しかけていると、与太郎のしゃがんでいる向こうの方を、一尺ばかりの黒いものが、すゥッと動いたかとおもうと、いままで横になっていた死骸《ほとけ》がぴょこぴょこ、ぴょこぴょこと動き出した。
「あッ、なんだ、なんだ、動《いご》いてやがら。あ、また動いた……変だなァ、死んじゃって、もう動かなかったんだがなァ」
そのうちに、死骸がぴょいッと起きあがって座り、与太郎と向かいあった。
「ひひひひ……」
与太郎は怖くなって、おもわず平手打ちをくわし、
「……あァおどろいた。なんだい、変な笑い方ァしやがる。あ、また横ンなっちゃった。おゥ、おとっつぁん勘弁してくれよ、おめえ変な声ェ出したから、おれ気味《きび》が悪《わり》いから殴《なぐ》っちゃった。痛かったか? おゥ。なんとも言わねえや。あッそうか、なんかおれに言うつもりなんだな? それでぴょこぴょこッとやって、座ったんだ。おれが殴《なぐ》ったもんだから、また寝ちまやがった。おい、おとっつぁん、おめえなんか言うことがあったのか、おゥ、もういっぺんぴょこつけ[#「ぴょこつけ」に傍点]よ、おれに言うことがあンだろ? ぴょこぴょこッとまたやれよ、おゥ、頼むよ」
すると、また死骸《ほとけ》が、ぴょこぴょこッと、手をあげたり足を動かしたり、こんどはすゥッと立ち、ぴょこッぴょこッと跳びあがった。
「あッ……おッ? こりゃおもしれえや、えへ、上へ跳びあがりやがら、こりゃおもしれえや、あは……やァい、おとっつぁんは上手《じようず》だ、おとっつぁんは上手だ……」
与太郎が手を打って囃している。そのうちに、山の方から、すゥーっと一陣の風が立つと、死骸がそのまんま、すゥーっと天へ昇っていってしまった。
「あ、あ、あ……いけねえ、あ、あんなに行っちまったァ、おーい、おとっつぁーん」
「……与太郎の声がしているようだ、あァ、ここだここだ。……あァ、どうした? いまやっと買ってきた……甚兵衛さん、ご苦労だったねえ、え? 急いで来たんで暑くなった、や、ご苦労さま、そこへ置いて、どうした……?」
「えへ、どうしたって、早桶ェ買ってきたのか?」
「うん、早桶屋をやっとのことで起こして頼んで、こせえてもらってきたんだが、死骸《ほとけ》はどこだ?」
「ェェ死骸《ほとけ》はいねえ」
「なんだ? いねえって? どうしたんだ?」
「家主さんが行っちゃったからね、それからおれが前へおとっつぁんを寝かしてね、じっと見ていたんだ。そうしたら、なんだか、ぴょこぴょこぴょこぴょこ動くんだ」
「ふん?」
「で、座っておれの顔を見て、死骸《ほとけ》が、ひひひ」
「よせよおい、変な笑い方ァするな」
「いえ、死骸《ほとけ》が笑ったんだよ。で、おれも気味《きび》が悪《わり》いから、横っつらをぴしゃッと殴ったら、また寝ちゃったんだ。それから、おれになんか言うことがあって、ぴょこぴょこッとしたんだなとおもうからね、それから、すまねえけども、もういっぺんぴょこついてくれって、おれが頼んだんだ」
「変なことを頼むな、この野郎。どうした?」
「そうしたら、またぴょこぴょこぴょこぴょこッて、動いて、こんどァねェ、立って上へ、ぴょッぴょッこぴょッこぴょッこ跳ぶんだよ、えへッ。それから、おれが、おとっつぁんは上手だってほめて、そしたら、すゥッとね、あっちの方へ飛んでッちゃった」
「このばか野郎。……まァ、死骸《ほとけ》へ魔がさした[#「魔がさした」に傍点]んだ。まァ、死骸《ほとけ》がいなきゃ、ど、どうするんだッ……甚兵衛さん、聞いたかい?」
「へええ……ぬ、抜けました」
「しょうがねえなァどうも、いま買ってきたばかりだが、またなにかい? 早桶の底が抜けたのかい?」
「いえ、こんどァあたくしの腰が抜けました」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 六代目三遊亭円生の『円生全集』所載。サゲのあと、「翌日この死骸《しがい》が七軒町の上総《かずさ》屋という質屋の、土蔵の釘へかかっておりまして、ここで、また早桶を買う。ひとつの死骸でみっつの早桶を買ったという、谷中|奇聞《きぶん》『猫怪談』でございます」と結んでいる。
「らくだ」「黄金餅」のように死骸を火葬場、寺へ担いで行く噺は、比較的口演される機会はあるが、この噺に限ってほとんどといっていいくらい昔から口演された例を聞かない。またこれほど、〈生と死〉を大胆に内容とした噺は例がない。埋もれた名作というべき、特異な噺である。
また与太郎噺としても注目すべきで、身よりのない孤児《みなしご》である与太郎の身上《みのうえ》がこの噺によって明らかにされ、これによって「大工調べ」「道具屋」[#「「大工調べ」「道具屋」」はゴシック体]等の与太郎のおふくろは、義母であることへの興味が深まることにもなる。本篇に集約される与太郎像は、突きつめるところ人間ほんらいの、〈生〉を持って生まれてきた者がだれしも味わう――孤独感、寂寥感《せきりようかん》を心の奥底に忍ばせているように思えてくる。与太郎のそこはかとない無垢《むく》さが、〈死〉を背負って、静寂な暗闇の中に置かれる様相は、息をのむような〈存在感〉が伝わってくる。
「落語」が綺麗事だけでなく、人生の喜怒哀楽、冠婚葬祭などのさまざまな人生の諸相をも包みこみ、それ自体、一つの「世界」をもち、それ自体で「生きている」ことを、この噺は鮮やかに示しているといえよう。
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野ざらし
「ちょいと開けてくれ。おーい。先生っ、ちょっと開けて……まだ起きねえのかなあ。おいッ、先生、開けてくれよう」
「だれだい、朝っぱらから騒々しいな……お声の模様ではご隣家の八っつぁんか。いま開ける。そんなにドンドン戸をたたいては、戸がこわれてしまう……これこれ、そうたたくではないと言うに……いま開けるから……さあ、おはい……り……」
と、戸を開けるとたんに頭へポカリ。
「あっ、痛いッ」
「お早う」
「なにがお早うだ」
「おっ、いまぶつかったのはおまえさんの頭かい。そいつはすまなかった。むこうみずにたたいていたもんだからね、おまえさんが不意に開けたんでポカリとやったようなわけで……どうも戸にしちゃあ、柔らかいとおもった」
「戸とわたしの頭といっしょにするやつがあるか」
「えへへ……先生、黙ってなんかおくんなさい」
「どうもひどい人もあるもんだ。朝っぱらから起こして人の頭を殴っておいて、なんかくれと手を出すのはどういうわけだい?」
「どういうわけ? こん畜生っ」
「たいへんなご立腹のようだが……」
「そうよ。ばかなご立腹だあ。先生、おまえさんはふだんから高慢な面《つら》をして、わしは聖人じゃから、婦人は好かんよなんか言いやがって……ちょと先生、おい、ゆうべの娘はどこから引っぱってきた? おまえさんは毎日釣り竿を担《かつ》いで向島へ釣りに行って、世の中を去ってるなんて言ってやがって、どうも変だとおもってたんだ。やいっ、こちとらゆうべは一杯《いつぺえ》飲んでうたたねよ、夜中に寒《さぶ》いんでひょいと目を覚ますと、おまえさんのところでひそひそ声。はて先生はひとり者、相手のいようはずもなしと聞き耳を立ててみると、相手の声が女……それだよ。ますます勘弁できねえ。ふだんに言う口とちがうじゃあねえか。そこで、商売ものののみ[#「のみ」に傍点]でもって壁へ穴をあけてのぞいたぞっ」
「おまえさんか、あの大きな壁の穴は……これは……ではおまえ、夕べのあれをごろうじたか?」
「ごろうじたか? 冗談じゃねえ。ごろうじすぎて、一晩中まんじりともできやしねえ……どこの娘だよ、いい女だねえ。色の白いの通りこして、ちょいと青みがかっていたが、文金の高島田、年のころなら十六、八かね」
「十六、八? 七が抜けてるよ」
「そう、七(質)は先月流れた」
「くだらんことを言いなさんな……しかし、八っつぁんがゆうべの様子をごらんならば、隠してもしかたあるまい。残らずお話しをしよう。なにかの功徳《くどく》にもなろう。じつは八っつぁん、ゆうべのはな……こういうわけだ」
「へーえ、そういうわけかい」
「まだ、なんにも言っちゃあいない……ご存知のように、わしは釣り好き……彼岸中の鯊《はぜ》は中気のまじないになるから、ぜひ頼むと、おまえさんに言われたのが頭《つむり》にあったので、釣り竿をかたげ向島へ出かけたが、きのうは魔日《まび》というのか、雑魚《ざこ》一匹かからん。あああ、こういう日は、殺生してはならん、いましめとおもうて、釣り糸を巻いていると、折りから夕景、浅草弁天山で打ちいだす暮れ六つの鐘が、陰にこもってものすごく、ボォーン、鳴ったな」
「先生、おどかっしゃあいけねえ。あっしはこうみえても、あんまり気の強えほうじゃあねえんだから……話をそう陰気にしないで、もっと陽気に話しておくんなせえ」
「四方《よも》の山々雪解けて、水かさまさる大川の、上げ潮|南風《みなみ》で、岸辺にあたる波の音がドブーン」
「ふうーん」
「あたりはうす暗くなって、釣り師はみな、帰宅したか、残った者はわしひとり。風もないのに、かたえの葭《よし》が、ガサガサガサッと動いたかとおもうと、なかから……パッと出た」
「ひゃー」
「なんだとおもう?」
「なんで?」
「烏《からす》が一羽出たよ」
「烏? なんだ、烏かい。烏なら烏とことわってくれやい。肝をつぶしたぜ、ほんとうに」
「はて、ねぐらへ帰る烏にしては、ちと時刻もちがうようだと、わしももの好き、その場へ行って、釣り竿で葭をわけてみると、なまなましいどくろだ」
「へえ、傘のこわれたのがかい」
「それは轆轤《ろくろ》だな、屍《しかばね》があったのだ」
「赤羽《あかばね》へ行ったんで?」
「わからない人だな。水死仏があったのだ、野ざらしの人骨がよ」
「さようですか、つまらねえものが……」
「わかったかい」
「いいや」
「わからなくってつまらないと言うのはおかしいねえ」
「まるでわからねえのも愛嬌がなさすぎるから」
「愛嬌に返事をするというやつがあるか……野ざらしの土左衛門の舎利骨《しやりぼね》があったのだ」
「へえ、……それで?」
「どこの者だか知らないが、こうして屍《かばね》をさらしているのはお気の毒千万、浮かぶこともできまいと、懇《ねんご》ろに回向《えこう》をしてやった」
「猫がどうかしましたか?」
「猫じゃない、回向、手向《たむ》けをしたのだ」
「へえー、狸を……」
「わからない男だ。回向だ。死者の冥福を祈ったんだ。うまくはないが手向けの句を詠《よ》んだ、『野を肥やす骨にかたみの薄《すすき》かな、生者必滅会者定離《しようじやひつめつえしやじようり》、頓証菩提《とんしようぼだい》、南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》』と、瓢《ふくべ》にあった酒を骨《こつ》にかけてやると、気のせいか、赤味がさしたようにみえた。ああ、よい功徳をしたと、そのまま家へ帰ってきて、床をのべ、うとうとっとすると、さよう、時刻はなんどきであろうか、しずかに表をたたく者がある。なにものかと問うてみたら、かすかな声で、向島から参りましたと言う。さては、先刻の回向がかえって害となり、狐狸妖怪《こりようかい》のたぐいがたぶらかしに参ったなとおもい、浪人ながらも尾形清十郎、年はとっても腕に年はとらせんつもり、身に油断なく、がらりと戸を開けた。乱菊や狐にもせよこの姿……ゆうべの娘が音もなく、すーっと入ってきたとおもいなよ、八っつぁん」
「うッぷ、いやだよ、先生っ」
「おいっよせっ、なぜ顔をなぜる……それで、その娘が言うには『あたくしは、向島に屍《かばね》をさらしておりました者でございますが、あなたさまのお心尽くしによりまして、今日はじめて浮かばれました。おかげさまで、行くところへ参られます。今晩は、そのお礼にあがりました。せめておみ足なりともさすりましょう』というのだ。わしももう六十五歳だ、色気もなんにもないが、せっかくのこころざしをすげなく断わるのもどうかとおもい、その娘の言うがままに肩をもませ、足をさすらせ、まあ明け方まで四方山《よもやま》話をしていたが、ゆうべ来たのは……あの娘は、この世の者ではないのじゃ」
「へーえ? あれは幽霊かい? ふーん、それにしてもいい女だねえ。先生、あんないい女なら、幽霊でもお化けでもかまわねえや。あっしも、せめてひと晩でもいいから、みっちり話をしてみてえねえ……向島へ行きゃあ、まだ骨《こつ》はあるかねえ?」
「さあ、それはわからんな」
「あれっ、それはわからんなんて、おまえさん、ひとりじめしようってのかい? 教えろやいっ、このしみったれ」
「いや、別にしみったれてるわけではない。骨《こつ》はまだあるかも知れん」
「ありがてえ。じゃあ、骨《こつ》がやってくるまじないを教えておくんなさい」
「なんだ、まじないというのは?」
「それ、猫と狸の一件さ」
「猫と狸でない、手向けの句だよ」
「それを教えておくんなさい」
「これは、腹から出たことでなくてはいかんのじゃが、教えろと言うなら、教えもしよう……『野を肥やす骨にかたみの薄かな、生者必滅会者定離、頓証菩提、南無阿弥陀仏』」
「それが手向けの句というやつだね。先生、ありがとう。じゃあ、釣り竿を貸してくんねえ。さっそく向島へ出かけるから……」
「ああ、これこれ、それは継竿《つなぎ》だからいかん。わしが大事にしている竿だから……持っていくなら、こっちの竿を……」
「なに言ってやんでえ。けちけちすんねえ。これを借りてくよう」
八っつぁんは、そのまま朝めしも食わず、先生の釣り竿を肩に担いで、ふいと飛び出した。途中、酒屋で二、三合買いこみ、向島の土堤《どて》へ来てみると、もう四、五人の太公望がならんでいる。
「おお、やってるな。みんな骨《こつ》が目当てなんだな。えへへへ……、なにを言ってやんでえてんだ。年をとっても浮気はやまぬ、やまぬはずだよ、先がない……てえ都々逸があるが、尾形さんも隅におけねえや、わしは聖人じゃから、婦人は好かんよなんて言って、釣りだ釣りだ、なんて出かけて、ああいう掘り出し物を釣ってくるんだから、あきれたもんだ。いい年をして、骨《こつ》を釣りに行こうたあ、気がつかなかったねえ、おれも早くいい骨を釣りあげなくっちゃあ……おう、そっちはどうだい? てめえの骨は年増《としま》か、新造か?……あれっ、あそこに十一、二の子供が釣ってやがらあ、なんてませたがき[#「がき」に傍点]だろう……おーい、どうだ、骨《こつ》は釣れるかい? 骨《こつ》はどうだ?」
「骨《こつ》? 気味の悪いことを言っちゃいけません。いま、魚《さかな》を釣ってます」
「とぼけたことを言うない。魚を釣ってますなんて、そんなことでごまかされるおれじゃあねえんだ……おい、おめえは、どんな骨《こつ》を釣りてえんだ? 娘か? 年増か? 乳母《おんば》さんか? 芸者か? 花魁《おいらん》か? なんの骨《こつ》でえ?」
「なんです。あの土堤から下りてきて骨々と言っている人をおまえさん知ってるかい?」
「いえ、知りません」
「なんだか少し目の色が変わっていて、気味が悪いね。色気ちがいじゃないか。女のことばかり言って……陽気がおかしくなるとよく出るんですよ、ああいうのが……もしもし、どうかお静かにねがいます。いま、少し魚が寄ってきたところですから……」
「なにを言ってやんでえ。ぐずぐず言うねえ。お静かにねがいますったって、魚に人の言葉がわかるけえ。おれもそこへ行くぜ……どっこいしょのしょっと……」
「ああ、なんだい、この人は湯へ入るようだね。こりゃあ、とんだことになっちゃった……すいませんが、あなた、ご順にお膝《ひざ》おくりを……とうとうあいつに釣り場をとられちまって……これからってところだったのに、あいつのために……あなた、あなた、見てごらんなさい。あいつ、どう見てもふつうじゃありませんよ……ふふふふ」
「やいやい、この野郎、なんだって、おれの顔を見て笑うんだ。てめえ、なんだな、おれに骨《こつ》が釣れめえとおもってせせら笑ってやがるんだな。冗談言うねえ。こっちは、ちゃーんと回向の酒も買って、元手《もとで》がかかってるんだ。てめえたちにいい骨《こつ》を釣られて、おやそうですかとひっこんでいられるもんか。こん畜生、さあ、これから、オツな骨《こつ》を二つでも三つでも釣って行こうてんだ。こうなりゃあこっちのもんだ」
「こりゃひどいな……もしもし、骨《こつ》だかなんだか知りませんが、そう竿をふりまわしたんじゃあ、水がはねかってしょうがありません。お静かに、お静かに……」
「なにを言ってやんでえ。お静かにしようと、おやかましくしようと、おれの勝手じゃあねえか。それともなにか、この川は、てめえの川か?」
「いいえ、別にあたしの川じゃありませんが、とにかく水をはねかさないでもらいたいんで……あれ、あれ、あなた、失礼ですが、餌がついていないようですね。それじゃあ釣れっこありませんよ。餌をお忘れなら、あたしのをおつかいなさい」
「よけいなお世話だい。骨を釣るのに、餌もなにもいるもんか。ええ? 餌がついてなけりゃあ、釣れっこありません? なにを言ってやんでえ、連れっ子も継《まま》っ子もあるか。なんにも知らねえくせに、素人は黙ってひっこんでろってんだ。こうやってりゃあ、鐘がボーンと鳴るだろう。葭がガサガサとくらあ。なかから、烏がパッと出てくりゃあこっちのもんだ。べらぼうめ、こっちはそれを待ってるんだ……(さいさい節になり)※[#歌記号、unicode303d]鐘がボンと鳴ーりゃさ、上げ潮、南風《みなみ》さ、烏が飛ーびだーしゃ、こりゃさのさあ、骨《こつ》があーるさーいさい、ときやがら、スチャラカチャン、スチャラカチャン」
「しょうがねえな、こりゃどうも……あなた、そう浮かれちゃあ困るなあ……あなた……あなた……水がはねかるから……そう、かき回しちゃだめだよッ」
「なんだと? かき回してるだと? かき回してなんぞいるもんか。おらあ、ただ、水をたたいてるんじゃあねえか。かき回すてえなあ、こうやって竿を水のなかへ入れてぐるぐるっと回すんだ」
「あれ、あれ、こりゃあいけません。とても釣れませんから、あなた、しばらく見ていましょう、竿をあげましょう」
「なにを言ってやんでえ……けど、ゆうべ先生ンところへきた骨《こつ》は、年が若すぎたねえ。あれじゃ話相手にならないよ。やっぱり二十七、八、三十でこぼこの、オツな年増の骨《こつ》でなくちゃいけねえ。やって来ますよ、きっと……カランコロン、カランコロン、カランコロン、カランコロン……『こんばんは。あたし、向島から来たの』『おう、骨《こつ》じゃねえか、遅かったね』『遅かったって、おまえさんがお酒をかけたろう、だから、あたし、酔っぱらっちゃって……』『そうかい、そういやあ、顔色がほんのり桜色だな、まあ、こっちへ上がんねえ』『だって、むやみに上がると、角《つの》のでる人がそばに座ってんじゃないの?』『そんなことあるもんか。おらあ、ひとり者だよ。心配しねえで上がってこいよ』『おまえさんのそばへ座ってもいいのかい?』『ああ、いいとも、座ってくんねえな』『じゃあ、そうさせてもらうよ』ってんで、骨《こつ》がすーっと上がってきて、うふふふ、おれのそばへぺったり座る……ああ、ありがてえ」
「あれ、ごらんなさい。あの人、水たまりへ座っちまいましたよ」
「おれのそばへ座った骨《こつ》が、またうれしいことを言うよ。『けども、いまは年が若いから、おまえさんがいろんなことを言うよ。けど、おばあちゃんになるてえと、あたしを捨てて、若いのかなんか引っぱりこんで、苦労をかけるんじゃあないの?』『よせやい、おめえというかわいい恋女房がありながら、そんなことをするもんかよ。おまえを一所懸命かわいがるよ、おれはもう、一所懸命働きますよ』『あら、ほんと。ほんとうに様子のいいことを言うよ、この人は。その口であたしをだますんだろ? なんてにくらしい口なんだろう。ぐっとつねってあげるから』」
「痛い痛い痛いっ、なんで、あたしの口をつねるんだ」
「嫉《や》くない、この野郎」
「嫉いてやしませんよ。ああ、痛い」
「『じゃあ、おまえさん、ほんとうに浮気はしないね』『ああ、しやあしねえ。大丈夫だってことよ』『そんなことを言って、もしも浮気したら、くすぐるよ』『よせよ、おれはくすぐられるのがいちばんだめなんだ』『でも、ちょっとくすぐらしてよ』てんで、骨《こつ》が、柔らかい手で、おれのわきの下を、くちゅくちゅくちゅ……『よせよ、よせよ。くすぐったいよ。だめだ、だめだよ、はっはっはっはっ、助けてくれ、くすぐったい』痛いっ」
「ふふふふ、ごらんなさいよ。あいつ、自分で自分をくすぐって、ひとり言を言いながら釣り竿をふり回して、自分のあごを釣り上げちゃいましたよ」
「ああ、痛《いて》え、痛《いて》え。畜生め、人があごをひっかけてるのに笑ってやがらあ。薄情な野郎じゃあねえか。えーい、と、やっと針がとれた。いけねえ。血が出てきやがった……うん、こういう針なんてつまらねえものがついているからいけねえんだ。こんなもの邪魔だ、捨てちまえっ」
「あれっ、あいつ、針をとっちまったよ。あきれたねえ」
「どうもこんなところにはいられない。さあさ、みんな、場所替えだ……逃げましょう」
「おい、おい、どこへ行くんだよ。おい、逃げることねえだろう?……ははは、ざまあみやがれ、まごまごすっと、はり倒すぞ……おやおや、野郎、泡ァくらって、弁当箱を忘れていきやがった。どんなものを食ってやがんだろう?……ふーん、油揚げと焼き豆腐の煮たやつだ……うーん、こりゃあ、見かけによらずうめえや、ふふふ、こうやって弁当を食って、晩にゃあ骨《こつ》が来るというんだから、釣りてえものは結構なものだね。……それにしても、もう烏が出そうなもんだぜ……よッ、出た……出たけど、なんだ、烏じゃねえ、椋鳥《むくどり》が出やがったよ、ははあ、烏が忙しいんだな、さもなきゃあ風邪かなんか引きやがったんだなあ、『すまないけど、ちょいとあたしァ頭が痛いんだから、椋《むく》ちゃん代わりに行っとくれよ』『よし、心得た』ってんで椋鳥が出やがったんだ。なんだってかまやしねえや、出さえすりゃあこっちのもんだ。※[#歌記号、unicode303d]葭《よし》をかき分けさあ、骨《こつ》はどこーさ、とくらあ……これじゃあどこに骨《こつ》があるかわからねえ。まあいいや、このあたりに……ずーっと酒をまいておけば骨《こつ》にふりかかるだろう……と、おやおや、おどろいたねえこりゃたいへんに骨《こつ》があったぞ、ありがてえ。また、大きな骨《こつ》だねえ……さあ、骨《こつ》や、酒をかけるからな。いいかい、先生みてえに飲み残しじゃあねえぞ。こちとらあそんなしみったれじゃねえや。まだ手つかずってえやつだ。これをみんなかけちまうからな。きっと来てくれよ。ほろ酔い機嫌で来てくれよ、頼むからなあ、……待ってくれよ、骨《こつ》のまじないの文句があったっけなあ……そうその来う、野をおやす、骨《こつ》をたたいて、お伊勢さん、神楽がお好きで、トッピキピノピッ……ときやがらあ。いいか、来とくれよ。待ってるよ。おれのうちは、浅草門跡さまの裏で、八百屋の横丁を入った角から三軒目、腰障子に、丸に八の字が書いてある、すぐわかるよ。じゃあ、あばよ」
と言って、そのまま帰った。
すると、かたわらの葭のかげに屋根船が一艘《いつそう》つないであって、その中に幇間《ほうかん》が客待ちをしていて、これを耳にした。
「よう、恐れ入ったね、よそでは人目につくってんで、女人を葭のなかへひき入れて、晩の出会いの約束なんぞはにくいね。あの場へ出ていって、よう、お楽しみ、なにかちょうだいてなことを言えば、そりゃ、いくらかになるだろうが、それじゃあ、芸人の風流がなくておもしろくないや。こうしてお客をしくじり、船のお留守番で障子を閉めてうとうとしてたんだが、これもなにかの縁起……よし、今夜、お宅へうかがって、ご機嫌をうかがうとしよう。なんとか言ってたね、うちは、浅草門跡さまの裏で、八百屋の横丁を入った角から三軒目、腰障子に、丸に八の字が書いてあるからすぐわかると言ってたな。芸人はまめなのが身上、さっそく、夜分になったら、うかがいましょう」
八っつぁんは、そんなことはちっとも知りませんから、七輪の下をあおぎながら、待っている。
「どうしたんだろうと。とまどいしていやがるんじゃねえか……もう来てもいい時分なんだが……もし、お隣の先生……おまえさんところへ骨《こつ》が行ったらこっちへまわしておくんなさいよ。あっしゃあ、元手をかけてるんだからね……もう、湯も沸いてるし、差し向かいで一|杯《ぺえ》やろうてんで、すっかり支度もできてるのになあ、どうしやがったんだろうなあ……あれっ、表に足音がする。やっ、ぴたりととまった。来たのかな?」
「ええ、こんばんは」
「だれだい?」
「ええ、向島から参りました」
「向島から来た? よう、待ってました。いらっしゃい……いらっしゃいはいいけど、いやに声が太いねえ。いったい、どんな骨《こつ》なんだろう? おい、まあ、こっちへ入んねえ」
「ええ、ごめんくださいまし。もそっと早く上がりたかったんでげすが、すっかり遅くなりやして、どうも……おやおやおや、こりゃ、結構なお住居《すまい》でげすなあ。あなたが当家のご主人さまで……へえ、お頭髪《つむり》がのびて髭《ひげ》ぼうぼうの格好はようございますな。じつにどうも骨董家の好《す》くうちでげす。障子は渋紙を用いたところは風流で、桟《さん》ばかりときましたねえ。畳はがれの根太板ばかり、薄縁《うすべり》の上に座っている格好などはオツでげすな。流板《ながし》おっこちの、みみずうじゃうじゃ大行列……お宅のご仏壇はみかん箱を荒縄でしばって吊《つる》してあるなんてえのは、凡人にはできないことでようがすな。線香立ては鮑《あわび》っ貝、お灯明皿がさざえの壺なんざ、うれしいや。このお天井なるものが、ちょいとそのへんに類のないてえやつだ。雨の降る日には、座敷に座ったままで番傘をさすという……じつにどうも、よそのお宅では味わえない風情《ふぜい》で……しかも、いながらにして月見ができるんでげすから……裏住居すれどこの家に風情あり、質の流れに借金の山、あ、よいよい、というのは、ここらでげしょう。てまえもかくなる上は、ひとつなにかやりやしょう。※[#歌記号、unicode303d]人を助ける身をもちながら、あの坊さんが、なぜか夜明けの鐘をつく、あれまた木魚《もくぎよ》の音がする……」
「な、な、なんだよ。おい……オツな年増の骨《こつ》がやって来るとおもったら、おっそろしい口の悪い骨《こつ》がやって来やがった……おまえはいったい、なに者だ?」
「あっしでげすか? あっしは新朝という幇間《たいこ》です」
「なに、新町《しんちよう》の太鼓? あっ、そうか。それじゃあ、あの骨《こつ》は馬の骨《こつ》だった」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「こんにゃく問答」[#「「こんにゃく問答」」はゴシック体]と同じ二代目林屋正蔵の作だといわれている。原話は中国の笑話本「笑府」にあり、その翻案が天保八年刊の「落噺仕立おろし」にある。正蔵の作った当時は、因果応報を説いた怪談風のものであった。それを明治中期、鼻(俗に、ステテコ)の円遊がにぎやかな、陽気なものに作りかえた。八五郎の言動は「湯屋番」[#「「湯屋番」」はゴシック体]の若旦那を彷彿《ほうふつ》させる。さらに明治末期以後は春風亭のお家芸となり、近年では八代目春風亭柳枝(昭和三十四年没)の唄うような釣りでのひとり言は印象に残る。
落語はいいかげんなところが妙味だが、この噺、季節はいったいいつなのか? 手向けの句「野を肥やす骨にかたみの薄《すすき》かな」は秋だが、「四方の山々雪解けて、水かさまさる大川の、上げ潮|南風《みなみ》……」と春の景色、さらに幽霊が出没するから夏の怪談噺……と、目茶苦茶で統一しようがない。
矢野誠一著『落語・長屋の四季』は、「烏のかわりにとび立つ椋鳥を理由に秋としたいところだ。人骨に回向をするさびしさも秋にふさわしいし、だいいち、くるか来ないかわからない佳人の幽霊を待とうなどは、絶対に、秋の夜長でなくてはならないではないか」と俳味ある判定をくだしている。
サゲは難解だが、新町は台東区浅草吉野町付近で、昔ここに太鼓屋がたくさんあり、太鼓の皮は馬皮を使った。そこで幇間《たいこもち》のたいこ[#「たいこ」に傍点]と太鼓を引っかけた「語呂合せ」。おなじ隣家の浪人が夜ごと、看経《かんきん》の伏鉦を叩き、反魂香を焚き、三浦屋の高尾の霊魂と語りあう「反魂香」という噺がある。こちらの浪人の名は島田重三郎で、尾形清十郎ともどもさびしく、あわれな身の上である。
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碁どろ
「こんばんは」
「あや、こりゃあどうも、今日は具合いが悪い、ちょっと使いでもあげればよかったんだ、ついどうも、人手がないもんでねえ、お気の毒さま、悪いことをしたね」
「いや、いいんですよ。別に用もないから、ぶらぶら来ました。じゃまた、明晩まいりますよ」
「それがねえ……明日の晩もちょいとねェ……」
「じゃ明後日《あさつて》の晩……」
「明後日《あさつて》にもいつにも、とうぶん碁が打てないことになっちまったんで……」
「へえ、なにか?」
「今朝《けさ》、家内から碁のことについて少し苦情が出ましてね」
「あれ、そうですか。でも、別にねェ、おたがいさまに、碁を打つために、夜ふかしをして、商売をよそにするというわけじゃあなし、昼間一日稼いで、夜のたのしみに打つんで、それも時間がくりゃあちゃんと切りあげて、打ちかけでも止めて、でまた明日《あした》あらためてやるというようなことにしてんですから、おかしいですなァそりゃあどうも、ェェおかみさんのほうから、なんか苦情があるてえのァ……」
「いや、それはねェ、わたしも言ったんですよ、ね? それはいいんだが、家内の言うには、火の用心が悪いから、どうか碁だけは打ってくれるなと言うんで……」
「へーえ、火の用心が?」
「いえ、じつは今朝、奥の八畳へ来てくれというので行ってみますとね……いつもあなたと二人で碁を打つ座敷でさァ、昼間は敷物が敷いてある。この敷物をあげて、このとおりだと言われたときには、われながらぞッとしましたよ」
「どうして?」
「碁盤の周囲《まわり》は焼け焦《こ》げだらけじゃありませんか。因果と二人とも噛《か》むほど煙草が好きで、夢中になって碁を打ちながら喫《の》むので、この吹《ふ》き殻《がら》が畳の上へ落ちる。この吹き殻のために火事になったことが、昔もいまもありがちのことで、いかにも不用心だから、なにかほかに安心のできる慰《なぐさ》みと変えて、碁だけは打ってくれるなと、こう言われてみると、それでもやるというわけにもいきませんしね」
「なるほど、そう言われてみるとごもっともですな、火事を出しても碁さえ打てばいいというわけにもいかず、そうかといって、わたしどもへおいで願うといったところが、子供が多くってうるさくっていけず、ひとつ火の用心をして、これなら安心ということにしてやろうじゃァありませんか」
「そこでだね、安心といったところで、煙草を喫まぬということはできない。なにか名案がありますか」
「じゃあ、庭の池を拝借しましょう」
「池には水がありますよ」
「水があるから吸殻が落ちても、じゅうじゅう[#「じゅうじゅう」に傍点]消えてしまうでしょう」
「冷《つめ》たいですよ」
「冷たいぐらい我慢をしなければいけません」
「我慢するにしても碁盤は?」
「首から紐をさげて両方で吊っていればいいでしょう」
「碁石はどうします? 袂へ入れるのも具合いが悪いでしょう?」
「腰へ魚籠《びく》をさげてその中へ入れる」
「まるで釣り支度だね、ばかばかしい。ほかにいい考えはありませんか?」
「それでは、畳をトタンで張るということにしては……」
「そんなことは、今夜の間に合わない」
「それじゃこうしたらどうですか。今晩はそう寒くもないから、あの座敷へ二人|立籠《たてこも》って……まるっきり火の気のないようにしてやったら……」
「それはいけないよ、おたがいに碁は三日や四日は休んでもいられるが煙草ばかりはものの一分もやめてはいられないんだから……」
「うゥん、それもそうだ」
「してみると、碁より煙草のほうが好きの度が強い」
「もちろん」
「いかに碁がおもしろいといったところで、それより以上に好きな煙草が喫めないということになると、ものにたとえてみれば、頭をさすられて、尻のほうを撲《ぶ》たれる理屈でつまらない」
「いやいや、全然喫まないということはとてもできない話だが、ひと勝負が何時間かかるというものじゃあない。だいたいこりゃあ、どっちが負けだと見切りを立って、半ばで壊《こわ》しちまうような碁ばかり打ってるわれわれだから、十分か、十五分で片がつく。そのあいだは、ぴったり我慢して、一局済んだらば、隣の部屋へ火種を置いといてもらって、そこでまた、煙草を充分に喫《す》っちまうんですね、いくら喫《す》ったってこりゃ腹へ溜まるもんじゃないんだから、充分に喫《す》い溜めをして……」
「そんなに喫《す》っちまったらあァた、目がまわる」
「まァ、目のまわるほど喫《す》っちまうんですよ。そこで煙草を喫《す》いおわったら、こんだ碁盤のほうへかかって碁を打つ。碁は碁、煙草は煙草、と、片ッ方ずつ片づけたらどうです? これなら大丈夫でしょう」
「ほう、なるほどねえ。碁は碁、煙草は煙草……。ああそうだ。火種を置かなきゃいいんだから、こりゃ喫《す》いたくったって喫《す》えるわけがないんだからねえ……ほう、うまいことを考えたなァ。ええ? いえ、あァたね、煙草を喫《の》んじゃいけないってえからさァ、そりゃだめだとおもった。そんなら大丈夫だよ。まるッきり喫《の》めないわけじゃないんだから、ああ……じゃあそうしましょう、そんならまちがいはないでしょう、ね? じゃ、隣の部屋へひとつ、すっかり用意をしておいてもらって、で、一局終わったらこっちィ来て……こりゃうまい考えだァ。碁は碁、煙草は煙草……ええ? なんだいなにを笑ってんだね、なにが? いや、いまおたがいに安全な方法で、打ちたいとおもうから相談をして……なに? それならば差しつかえない? あたりまえですよ、火のないところでやってそれで差しつかえがあってたまるもんか……家内のほうが、それならいいとさァ、ね?」
「じゃ、さっそくやりましょうか」
二人は奥の八畳の部屋へ入って碁盤を囲み……。
「さァさ、いらっしゃい……いやァはッはッはどうも。碁は碁、煙草は煙草なんてことはねェ、こりゃなかなかどうして……」(パチリ)
「そりゃァまァ、ね、碁も煙草も好きですがねェ、去年の歳末《くれ》などは商売が忙しくって、碁のほうは十日ばかり休んだこともありましたがね、碁はそれでもすむけれど、煙草のほうは一日はおろか、三十分だって我慢するってえわけにはいきませんからねえ……碁は碁、煙草は煙草とは、どんなもんですな」(パチリ)
「ふゥ……なるほどなァ、煙草は煙草……いい煙草ですねェ、こりゃァなァ……ああ、あなたはまた今日はいやに考えるねェ」(パチリ)
「え? いや、考えるてえますけどもねェ、今日はちょいとあなたねェ、今日は手きびしいですよ……煙草は煙草……じゃァあたしもひとつ、こっちへ、煙草は煙草と、いきますか」(パチリ)
「ふふゥん? なるほどねェ……ああ、ここンとこィひとつこう……こう、こう……切るかな。……切り煙草なんてなどうだ」(パチリ)
「こりゃしょうがないよ、なァ、こりゃどうしてもこりゃこっちへ継《つ》ぐ一手だ、なァ、継《つ》ぎ煙草だ」(パチリ)
「ははァ……? ここンところはちょいと危いかなァ、こっちのほうへひとつ、継いどくことにするかな、ここへなァ……継ぎ煙草だ」(パチリ)
「ははァ……? そうしたらあたしのほうも、こっちを、地盤を固めなくちゃいけないやな、ここンところ、じゃこうひとつ……これはいい煙草ですよ」(パチリ)
「なるほど、いい煙草だねェ、こっちにゃ悪い煙草だ、こりゃあな、ほう? なるほど……こういく、こう切る、のぞく、お……ここは……ちょいと迂濶《うかつ》にはおろせないよ、こら……はあァ……うまいなこりゃなァ……待ってくださいよ(と、煙草入れを出し、煙管《きせる》を手に持つ)ふゥむ……こういくと、こう継ぐ……まずいな、こりゃ(と、膝の傍の煙草盆を手さぐりする)あァ悪いとこをおろされたなァ、こらなァ、ええ?……うゥ……む? こうくる……あァ、ここはまァひとつ、思案のしどころだな、こらァな(と、煙草盆を捜すが手応えがない)おゥい……火が来てないよゥッ……煙草盆が来てないよッ」
「そーらはじまった。清《きよ》や、持ってっちゃあいけないよ。困ったねえ、もういつものとおり、まるで夢中なんだから……」
「どういたしましょう。さかんに持ってこいとおっしゃってますが」
「今夜ばかりは大丈夫だとおもって、いい敷物のほうを敷いて置いたんだけど、あれをまた焼けッ焦《こ》がしにしてごらんなさい、自分でやっといて、それでお叱言《こごと》なんだから……いえ、持ってけませんよ、だめですよ」
「火がないよーゥッ」
「どうしましょう? どなっておいでですけど……」
「困っちまうねェ、煙草盆ばかりじゃ持っていかれないし、なにか火の代わりになるものはないかしら?」
「炭でも入れておきましょうか」
「炭じゃあ黒くっていけない……そうそう、あの縁側の軒先へね、烏瓜《からすうり》が下がってるだろ? あァ、あれをひとつもぎとっておいで。黄色いのじゃあいけないよ。まっ赤になってるんでなくっちゃあ……さあ、これを煙草盆に入れるんだよ。なァに、夢中だからわかりゃあしないよ。すっかり埋《い》けちまって、少ゥし赤いところを出しておいてごらん……そうそう、ほら、ちょっと見ると火に見えるだろう? あァあ結構結構、早く持ってって……なにを笑ってるのさ。笑って持ってっちゃあいけないよ。笑わずにね。真面目な顔をして置いてこなくちゃ、うん」
「あァ、煙草盆を持ってきた? あァ、そこへ置いてって……あとはよく閉めてな、うん、気が散っていけないから……こりゃまァしょうがない……じゃまァ、ここはしょうがないから、こう……はねておきますかな?」(パチリ)
……盤面に気をとられ、煙草盆のほうへ手をのばし、烏瓜の頭へ煙管を持っていっては、すぱすぱやってみても、煙がいっこうにこない。……いくらすぱすぱやったところで、火が発《つ》くわけがない。煙管をくわえてみてはまた烏瓜の頭を撫《な》でている。
これなら安心とおかみさんは、下女といっしょに風呂に入った。もっとも奥深で風呂と座敷とはだいぶはなれている。
二人は夢中で差しむかい、表のほうはだれもいない。そこへ入ってきた泥棒が、これがまた、碁好きときていて、……大きな包みをこしらえて、背負《しよ》いこんだところへ、パチリッ、パチリッという……深夜、しィーんとしているところへ碁石の音が響いてきたからたまらない。……音にひかされて、泥棒は包みを背負ったまま、奥の八畳の部屋へのそりのそりと入ってきた。
「……はァ、やってるな……はァはァ、二人っきりだな。いいねェ、気が散らねえでなァ……はァはァ、いい盤だなあ、石もいいや、ふくらみもあって……盤石がいいと、いつもより二目がた強く打てるというが、まったくだね。いい石だ。塩|煎餅《せんべい》みたいなそっくり返った石じゃあおもしろくない……ェェ、はなはだ失礼ですが、互先《たがいせん》ですな。碁は互先に限りますな。はあ、そこが攻《せ》めあいになってますな。力のはいる碁だなァこらァ……ふゥむ、なるほど、うん、その石はそりゃあこわい石ですよ、そりゃあ……ああ、そりゃ気をつけなくちゃあ……」
「……だめだ、だめだよ。口をだしちゃあだめですよ。そりゃァねェ、見てんのァかまわないが、口を出しちゃあ……岡目八目助言はご無用と……ひとつ、これへ……」(パチリ)
「ええ、ごもっともですなァ、……助言てえことは……あたしも助言は堅くご無用と……」(パチリ)
「あァ、そりゃつまらないよその石は。それはあァたねェ、上へその、あがるべきですよ、そりゃあねェ、その……」
「うるさいな、また口を出して……おや、おや?!
あまりふだん見たことのない人だ……ェェ、これは、あまりふだん見たことのない人だと……あれッ大きな包みを背負《しよ》ってますねェ……大きな包みだなと……」(パチリ)
「これは大きな包みッと……」(パチリ)
「大きな包みを背負ってる、おまえはだれだいと、ひとつ打ってみろ」(パチリ)
「なるほど、おまえはだれだいは恐れ入ったな、……それではわたしもおまえはだれだい、といきますかな」(パチリ)
「じゃあ、あたしも……おまえはだれだい?」(パチリ)
「へへへ、ええ泥棒で……」
「ふゥん、泥棒かい」(パチリ)
「なるほど……おまえは泥棒かと」(パチリ)
「これは泥棒さん、あァ、よくおいでだねェ」(パチリ)
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 秋の夜長、京橋あたりの骨董商の主人の部屋、池のある庭の軒先に烏瓜の蔓《つる》がからまっていて、湯殿ではお内儀《かみ》さんと下女がもの静かに入浴している。しィーんとしたしじまにパチリッ、パチリッという盤石の音――静謐《せいひつ》で、情趣にみちた名篇である。
かつて、柳派の名人とうたわれた三代目柳家小さんが練り上げ、絶品として名高い噺で、当時、三遊派の一方の旗頭、橘家円喬が、三代目の「笠碁」[#「「笠碁」」はゴシック体]とこの「碁どろ」[#「「碁どろ」」はゴシック体]を聴いてからは生涯高座へかけなかった、という逸話《エピソード》が残っている。
定本《テキスト》は三代目小さんの型に、その芸風、演出を踏襲している当代・五代目小さんの高座を加味した。――柳家小さん代々の十八番物。
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干物箱
「おい、幸太郎、なにをがたがたしてるんです? なんですゥ? お湯ゥ行くんです? おまえお湯ゥ行くんならもっとおまえ早く行ったらどんなもんだい? 昼のうちから行っときゃ、湯だってきれいじゃないか。それにおまえの行く湯はちょいと遠すぎますよ。前の晩出てって、明日の朝にならなきゃあ帰ってこられないような、そんな遠い湯に行かないでも、町内にいくらも湯屋があるんだから。こないだみたいに、湯へ行ってきますと、家を出たっきり、七日も帰らないのはいけませんよ。早く帰っとくれ」
「へえ……えッへッへッへェ、なんだいうちの親父《おやじ》は? えっ? おれがお湯に行くってえば、あれだけの叱言《こごと》が言いてえんだからねえ。始終《のべつ》叱言ばかり言ってやがら……。叱言の国から叱言をひろめに来たんだね。あはッ、うちの親父てえものァ、おれが花魁《おいらん》かなんかに騙されてるとおもってるんだな。え? 花魁の言ったことを親父に聞かしてやりてえな。『おまはんみたいな粋な息子さんをこさいた[#「こさいた」に傍点]、おとっつぁんの顔が早く一ぺん見たいわッ……』えッへッへェ、花魁はおれの女房ンなる気があるからそれを言うんだけど、あの親父を見せたひにゃあひと晩で寝返りだね。縁切り親父だね、あの親父てえものァ……お湯ゥ行って帰《かい》ってきたら親父ァよろこぶだろうなァ……『おッ、おまえ帰ってきはしまいとおもったけどそいでも[#「そいでも」に傍点]おまえ、よく早く帰ってきた』ってにこりッと笑う顔が見たいな。孝行の万分の一にあたるからなァ……親父の笑う顔もいいけど吉原《なか》の花魁の笑う顔もいいぜ。親父のはあれァ顔が笑うんじゃあないんだからね。皺《しわ》が笑うんだからねえ……顔じゅう皺だらけだからね。花魁のァこう笑うとねェ、えくぼ[#「えくぼ」に傍点]が出て、ここイ指を入れてねェ、ひょいと抜くとぽォん[#「ぽォん」に傍点]と音がするんだからなァ。行きてえなァどうも」
「あらよゥッ!」
「ああァ威勢のいい俥《くるま》だなァ、綱ッ曳《ぴ》きときたねェ……えッへッへッ、女郎買いの俥だねェ、えッへッへッ、お寺詣りの俥じゃないぜェ……えへ、うまく本屋の善公が家にいててくれりゃあいいんだがなァ。たしかにこの路地だとおもうんだが……ああ、いるいる、あッは、灯火《あかり》がさしてやがる。犬がちんちん[#「ちんちん」に傍点]してやがる。借金取りが来るとこの犬をけしかけるんだがね、どういうわけのもんだ……おおい、善公、おい、いるかァい?」
「おやおや……たまたま家にいれば夜まで借金取りが来るんだからかなわねえなァどうも。……エー、善さんよくお寝《やす》みですよッ」
「お?……お寝《やす》みだっておまえ、中で口きいてるじゃねえか」
「覗《のぞ》いちゃいけねえなァどうも。ええ、たぶん寝言でござんしょ」
「なにを言ってるんだよおい……おれだよゥ、おい、心配することない、おれだよ、おれの声がわからないか? おれだよ」
「おや、若旦那? 幸太郎さんですか? あ、そう、すいません。あたくしァねェ、もう怖い怖いとおもうとだれの声でも借金取りの声に聞こえるんで……そこ、締まりありませんから開《あ》けてごらんなさい。ただ開けたって開きゃあしませんよ、敷居が腐ってますから……へえ、戸を少ゥしこう上へこう持ちゃげの気味にしまして、ェェ、うわァッといけません。それだけしか開かないんで……ェェ身体《からだ》を横になすって……横に……えへッ、もう泥棒がねェ、風呂敷包背負って出られねえ入口なんで……用心がいいんで。釘が出てますからねェ、鉤裂《かぎざ》きを気をつけまして……ああァッとそこだめ、そこ根太板《ねだいた》がない」
「おれいやだなァ、おい。……どうしたい根太板?」
「根太板……燃料《たきもん》に困ったからねェ、とうにおッぺし折《よ》って燃しちまった」
「乱暴だなァ。根太板ァいいけど天井がねえじゃねえか」
「天井なんぞとうに取り払い……困ったから剥《は》がして売っちゃったんです。どうです? 家にいながら、月を拝めるなんてえな、閑静でしょ?」
「おい、さばさばしてるなァ、おい。雨が降るだろ?」
「うッふッ、『大雨に盥《たらい》家じゅう這い廻り』なんてね、そんな手ぬるい事《こつ》ちゃあない。こないだの大雨にねェ、……あたくしァねェ、家《うち》で傘ァさしてた」
「戸外《そと》だね、まるで……」
「どうしたんですよ、若旦那、え? まるっきりお見限りじゃないですか?」
「ここんとこちょっと遊びすぎちゃってね。親父《おやじ》が怒っちまってね。で、今夜は、湯へ行こうと、家を出たんだがね……おい善公、おれァおめえに頼みがあって来たんだ」
「よう、よう、へッ……黙ってらっしゃい、え? いま時分あァたがご出馬ンなって、ねえ、善公なんのご用だ……ちゃあんとあたくしゃあ心得てる。あァたねェ、花魁からご無心を言われ……えッへ、まァさァ黙ってお聞きなさいてえこと、え? おとっつぁんのちょいと金庫が引き出しにくいや、一時ご融通に、お時計かなんかを入質《まげ》ようてえ寸法でしょう? あッはァあたくしァまたねェ、あのほうときたひにゃあばかに顔がいいんで、ええ、えへェ手一杯借り……」
「だれが質に置くったんだ、おい。そんな事《こつ》ちゃあないんだ、たいへんこの節ゥおまえ声色《こわいろ》に凝《こ》ってるってえじゃあねえか、とりわけておれの物真似がおまえたいへん上手《うめえ》ってえじゃねえか?」
「えッへッへ、いやだねェあァた、若旦那あァた、いま時分そんな……そのことについて、こないだね、おかしな話……亀清《かめせい》のご宴会で、あァたが家で留守番をして、おとっつぁんがお出《いで》ンなったことがありましたろ? あのとき、あたくしァねェ、石町《こくちよう》さんに勧めらいてねェ、『善公、おまえ、座が白《しら》けておもしろくねえから、なんか余興に物真似ェやんね』『よろしい、心得た』ってんであたくしァねェ、あァたの声色を使った。ばかな喝采。へッ……『そっくりだ』ってんで喝采。おとっつぁんがちょうどねえ、厠所《はばかり》から出て来て、廊下を通ってどうとりちがいたか、『倅ッ、家で留守番をしていろというのに、またてめえァここへ出てきやがって、このばか野郎めッ』ってんで、おとっつぁんが、お叱言《こごと》。石町さんがね、『いいえ、あれは、本屋の善公が、ご子息さんの物真似をいたしたんでござんす、あれは声色でござんすよ、幸太郎さんじゃあございませんよ』『おやッ……そうですか。いや失礼なことを申してあいすいません、あたしゃすっかり倅だとおもって……いやァ善さんて方は器用な方だ、倅そっくりだが、どうしてああいう声が出るんだろう? ああ、そうですか、あッははは』って笑ってねェ、あのときのおとっつぁん、入歯を吐《は》き出しちまった」
「そんな話を親父に聞いたよ。それについておれァおめえに頼みに来たんだ」
「よォッ、よォッ、おッほッほ……黙ってらっしゃい」
「うるせえなァこいつァ、よくしゃべって……」
「こういうことにしましょう。あァたのお召物をあたくしが拝借をして着ちまうでしょ、すうゥッとねェ、へッへッへェ、それで吉原《なか》ィ繰りこむよ、へッへッへェ、花魁《おいらん》の三階の角部屋、衝立《ついたて》の陰へあァたを隠しといて、あたくしがあァたの外套を着ちまって帽子をかぶって眼鏡あてて、こういう形ンなってねェ、お部屋の前ンとこでもって『花魁……おォい、おい来たよォ』って、こう言うんで……ね? ふさぐ矢先に来たよと言われ片々ちんばの上草履《うわぞうり》=A花魁があァたに焦《こ》がれてるでしょ。『あら若旦那、どうしたの? 待ってたのォー』ってんであァたとまちがいてあたくしにかじりつくだろ、『家《うち》ィ入ったら帽子なんざァ、お取ンなさいね、なんですねェ』ってんで帽子をひょいと取ると、あたくしの凸助頭《でこすけあたま》が出るでしょ。『あらッ、若旦那に善公が化けてきやがった畜生め、あたしゃ口惜しいッ』ってんで口惜しいのと恥ずかしいので癪《しやく》を起こします。『花魁そんなに病《やまい》づかなくってもいい、あァたの合薬《あいぐすり》はこれにあり』と、うふッ、あァたを衝立の陰から出して、えッへッへェ、どおォんとぶつけるとねェ、あァたは日本一の色男はおれだてえな顔ォして、あァたが反《そ》り身ンなって、下眼《しため》を使って、にやり[#「にやり」に傍点]ッと笑うでしょ。花魁が、『あァらうれしいわ』ってねェ、上眼《うわめ》を使ってにやり[#「にやり」に傍点]ッと笑う。ご病気が全部ご全快てえことんなって『よッ……こりゃあめでたい。なんたるめでたいことだろう』ってんであたしが、お祝いとしてこの五円頂戴を……」
「欲張ってやァんなァ、おい……おまえの話はみんな自分がしまいに儲かる話だねェ、おい……そんな事《こつ》ちゃない。親父が寝ずに待ってるってんだよ。年寄りを寝かさねえなんて、そんなこたァない、三時間のあいだ、ちょいと顔さえ見せりゃあいいんだ。『親父がねェ、やかましくって来らんなかった』ってこの顔さえ見せりゃあ……花魁の胸がぐう[#「ぐう」に傍点]ッとすくんだから」
「ラムネみてえな顔だねェ、あァた」
「三時間のあいだ二階へ上がっててね、親父が話をしかけたら『おとっつぁん睡《ねむ》うございますから、なんかご用がございましたら明朝《みようちよう》に願います』って『お寝《やす》みなさい』っとこう言ってりゃあいいんだ。おれは、急いで行ってくるから、裏口で交替になるから頼むよ」
「へえ、なるほど……と、てまえごいっしょにお供をするのかとおもったら、ええ、お留守番で……」
「いやかい?」
「いやかいって……そりゃあ、つまんない役だァ、ばかばかしいや、よそうじゃァありませんか」
「なんだよ、いやだってえのかい? ああ、いやならいいんだよ。おまえ、去年の暮れのこと忘れちゃあいけませんよ。去年の暮れェどうしたい? 単衣物《ひとえもん》を着やがってぶるぶる震えてやがったろ?『善公、どうしたい?』ったら『若旦那、あたくしはこのとおり単衣物一枚』てめえ泣きッ面ァして、おれが貸してやったとき、なんて言った?『若旦那、あァたのご恩は死んでも忘れません。あァたのためなら生命も捨てる』って言ったじゃあないか?」
「言いましたよ、生命も捨てるってえことは。でもこりゃ、それほどのことじゃあないでしょ? およしなさいよ、つまんない。第一、あァたのおとっつぁんに、もしバレてごらんなさい。たいへんですよ。それでなくとも『うちの倅を道楽者にしたのはおまえだ』って、目の仇《かたき》にされてるんだから……」
「そんなことはないよ。いやな顔すんなよ。おまえにものを頼んだって、これまでに、いつただ[#「ただ」に傍点]頼んだ? こんなことはねェ、羽織の一枚、小遣いの十円もつけりゃ、だれでもやるんだから、おまえは偉いよ、おまえは……」
「な、なんです、なんですよッ……それならそれと最初《はな》からそ言ってくださいな。羽織と十円とくりゃァあたしァ、もう二階どころか、屋根へでも上がる」
「烏《からす》だねまた……じゃあやってくれるか?」
「ええ、あたしは若旦那のためだったら生命もいらねえ」
「現金な野郎だァ。じゃあ頼むよ。……戸締まりはどうだい?」
「ええ、この家は用心がいいんです。泥棒が入ったら、泥棒が気の毒だって、なにか置いてこうって家です。さ、まいりましょう。……若旦那、結構ですねェ、あァた、今夜、大和《やまと》さんに会うんでしょ?」
「それがためにおめえを頼むんじゃねえか」
「えへへ、あたしだって、たまには橘《たちばな》にこの顔を見せてやりたい」
「いやなやつだねェこいつァ、そういえば、善公、橘とばかなでき[#「でき」に傍点]だってえじゃねえか」
「へッ、でき[#「でき」に傍点]はないでしょ。へッへ、あれとあたくしの仲なんてえものは、もう夫婦ってってもいいくらいなもので、へえ。一つ夜に二つ枕で話したことが、どうして廓へ知れ……=v
「しィッ」
「へえ?」
「しッ、場知らず、……家の前へ来てるじゃないか、おまえはそれだからいけねえ。じゃあ、おれはこれからちょいと行ってくるから、うまくやっとくれよ。しくじっちゃあだめだよ、いいかい? 頼んだよ……」
「ェェおとっつぁん、ただいま帰りました」
「おお、幸太郎か? 早かったな。そうやって早く帰ってくりゃあ結構、締まりをしたら、どうだ、こっちィ来て、茶でも飲むか?」
「いえ、あの……明朝早く起きていただこうとおもうんで、ェェ、今夜は睡《ねむ》とうございますから、お先ィ、お寝《やす》みなさい……と、どうです? うまいもんでしょ?」
「……? なにがうまいだい?」
「いえ、なに、こっちのことで……えッへッへェ、このままお二階へ……と、若旦那になりすまし、こうしてりゃあ、そのうち若旦那が帰ってくるよ、うん。……裏木戸をこんこん[#「こんこん」に傍点]と叩《たた》いて、『ご苦労だったな』ってんで、羽織と小遣いをいただき……小遣いをいただいたら、今度はおれのほうで、すゥッと遊びに行こうじゃねえか。……よろこぶだろうねェ、橘がまた、うん。ありがてえな、どうもなァ。……けど、これが、万に一つも、今夜のうちに帰ってくれないとたいへんなことになるよ。夜中に見《め》っかって『てめえ、善公じゃねえァかッ』って、お目玉食らったひにゃあ、目もあてられねえや。……またあの花魁《おいらん》てえのがなかなかはなさないんだよ。そこんところを、振り切って帰ってきてもらわねえと困るよ。若旦那はまた、女に甘《あめ》えからなァ、『若旦那、帰っちゃいやッ』てなこと言われると、『うん、そうか、じゃあそうしようか』なんてえことになると困るんだよなァ、ここんところはひとつおもい切りよく帰ってきてもらわないとなァ。……けどな、そのまんま帰す花魁じゃねえからな。なんか手を考えるよ? 都合のいいときに癪《しやく》が起きるんだ。ねェ、『痛いよう、きりきり痛いよう』なんて、すぐどっか痛むんだからね。体裁がいいね、ほんとうに。『どうしたんだ?』『どうしたって、若旦那が帰るってえから痛むんだよゥ』『うん、じゃ、しょうがねえから今夜泊まろうか?』なんてって、泊まっちゃったりしちゃあ、やだよ、おれ。泊まられちゃあ困るよ、そりゃあ困るよッ」
「なにか困ってんのか? おいッ」
「いや、あの、おとっつぁん、お寝みなさい」
「なんだい? ぐずぐずぐずぐずひとり言を言ってさ。まだ起きてんのか?」
「いえ、あの、よォく寝てます」
「なにを言ってやがる。口をきいてるじゃあねえか」
「たぶん寝言でしょ」
「起きてるんなら、聞きてえんだが、おまえ、今日無尽に行ってくれたな?」
「おい、知らないよ、いやだよ。こういうことがあるからいけないよ。こういうことは最初《はな》からそう言っといてくれなくちゃいけませんよ。また、こんな日に無尽に行くことはねえじゃねえか……はい、行きました」
「行ったのはわかってんだよ。それで、それで、どこへ落ちた?」
「なに?」
「どこへ落ちた?」
「はい、なんです、あの、落ちたんでございます」
「落ちたのはわかるよ。だから、どこへ落ちたんだよ」
「いえ、ですからあの、ずうッと先の銀杏《いちよう》の木へ……」
「冗談言っちゃいけない。雷じゃねえや。どなたさまのところへ、落ちたと聞いてるんだ」
「し、知らないよ。おれァいやだよ。うん、うん、なんでござんす。ええ、あの、あの、落ちたんでござんすから、どうぞご心配なく」
「いや別に心配はしてねえんだよ、どちらさまへ落ちたんだか聞かしておくれ」
「つまりなんでござんす。あのゥ……ンやさんに落ちました」
「なんだ?」
「うあ……さんです」
「なにを言ってんだか、さっぱりわかんねえな、おまえは。ええ、どちらさまだ、山田さんか?」
「ええ、ええ、そう山田さんですよ。だれがなんと言っても山田さんで……」
「だれもなんとも言わねえじゃねえか。そうか山田さんのところへ、そうかい……あの、それからな」
「おとっつぁん、もう助けるとおもって、お寝《やす》みなさい」
「なんだよ、助けるとおもっててえやつがあるかい。もうひとつだけ聞きてえことがあるんだ。……幸太郎、おまえだろ? 今朝、『お向こうの泉屋さんから北海道の土産だって干物をいただきました』って、おまえ預かっといたんだろ? あれァなんの干物だったい?」
「知らないよ。干物なんぞもらわなくたっていいじゃねえか。この家《うち》っくらいなんかもらってよろこんでる家ってものはないねェどうも……へえ、干物は、たぶん魚の干物でござんしょう」
「青物《あおもの》の干物てえのがあるかい、あたりまえだよ。大きいからなんだって聞いてるんだよ」
「しょうがねえなァどうも……大きいのァ鯨《くじら》の干物でござい……」
「干物ですよッ」
「お寝みなさい」
「ばか野郎、鯨の干物てえのがあるか。もっとずっと小せえや」
「小さいのはあれァ鰌《どじよう》で……」
「なにをくだらないことを言ってんだよ。なんでもかまわねえが、鼠ががたがた騒いでるんだ。どこへしまったんだ?」
「冗談じゃあないよ、他人《ひと》の家の台所までわからないよ。どこへしまったって……あの、大丈夫でござんす、ちゃんとしたところへしまっておきました」
「ちゃんとしたとこってえと、どこだ?」
「へえ、箪笥《たんす》でござんす」
「ばか、箪笥の中へしまうやつがあるか、臭くなっちまう。ほんとうに、ふざけてねえで、どこへしまったんだ」
「あの、なんでござんす、その、箱でござんす」
「ああ、どんな箱?」
「あのゥ……干物箱に……」
「ひものばこ? そんな箱があったかい? どんな箱だい?」
「あるんですよ、ずっとまえから家には……お寝《やす》みなさい」
「なにを言ってんだ……年寄りをからかいやがって……どうでもいいけど、鼠ががたがたしてしょうがない。おまえね、あたしの枕もとに、あの干物……いいッ、あたしがするからいいッ」
「……ああッおどろいた。寿命が三年ばかし縮《ちぢ》まっちゃったよ。畢竟《ひつきよう》ここの家《うち》が、親が甘いから上がってこないがねェ、やかましい家《うち》ならいまどきどんな目にあってるかわからない。羽織と十円ぐらいじゃ合わないねェこんなことは……ねェ、このていたらく[#「ていたらく」に傍点]を知らねえや、いま時分若旦那、花魁と差し向かいでうまくやってるてえのにこっちァ……というものの、若旦那も罰当たりだよ。え? おとっつぁんだってやかましく言うのは無理ないよ。親の心子知らず、といってね。いい部屋だねェ、銭がかかってますよ。こんないい部屋にいて、寒いなかわざわざ出かけることはねえじゃあねえか。ここの家の一人息子だからねェ、少ゥし我慢すりゃあいいじゃねえか。いまにみんな自分のものになる……あッ、これですよ。若いもののする仕事てえものは……花魁からきた手紙を、こんなとこへおッぽり出しといて、明日《あした》親父に見《み》っかりゃあまた叱言《こごと》だ。頭かくして尻かくさず。えへッ、この手紙を読んどいて、明日《あした》若旦那から罰金を取ってやろうじゃないか。えッへッへッ、ご商法ご商法、と。……ああ、大和さんが書いたんだな、ェェ『おん開かせもご面倒ながら、想うに耐えかね、一筆《ひとふで》しめし上げまいらせ候』……うまいねェ、え?『先《せん》もじは、ようぞやおん出《いで》くだされ、あの節わたしこと、血の道が起こり、うち臥《ふ》し居り候』……あッはッは、殴るぞふざけると畜生ッ……いい女の病《やまい》はちがうねェ、え? 血の道とくるね、もっとも悪い女でも痔《じ》の病とは書きにくい……あッ、おれの名前が書いてあるよ。『次に本屋の善さんの敵娼《あいかた》、橘さんの申すに』……はァ? どうだいおれの女ァ言づけしてよこしゃあがった。あッははは、あいつァ惚れてやがんねェ……なんのかんのったっておれだ。よくあるやつだ『若旦那ンとこィお手紙? そォ? じゃあうちのひとへも、お言づけを願いたいんですがねェ』『あーら……お高価《たか》いことよォ、なんかお奢《おご》りよ』えッへッへ、なんて噂ァとりどりだ。ェェ『橘さんの申すには、あの善公』……善公ってえなァひどいねェおい……ああ、口でけなして、心でほめてってえからな、『あの善公はもとよりいやな客に候えども、若旦那のお供ゆえ、余儀なくお客にいたし候』……そんな様子《けいき》じゃあねえんだが、なァどうも……『先夜|名代床《みようだいどこ》の下に、汚き越中褌《えつちゆうふんどし》を置き忘れ』……ああァ、あの褌あすこィ忘れてきちゃった……あの褌の行くえ捜索中だったからなァ……もっともあの褌てえものは、他人《ひと》さまに見せる代物じゃなかったよ。鼠の華鬘《けまん》ときてるン……紐は真田《さなだ》で小間結びンなって、しかも脂《あぶら》ぎってほどけねえんだ。しかたがねえから寝床ン中で切っちゃって、まるめて布団の下へ入れといて、あの朝、若旦那に急《せ》かされて、忘れてきちゃった。あの褌は敵《かたき》だよ。けど、それをなにも麗々《れいれい》と書くことはねえだろう。『藤助どんがなんの気なしに床を上げるが早いか、その臭気はなはだしく』……その臭気はなはだしく? 大形《おおぎよう》だな、おい……『その臭気はなはだしく仲之町まで臭い』……そんな遠くまで臭うかい。『角町《すみちよう》、揚屋町《あげやまち》まで大評判、衛生係が出張なし石炭酸もよほど散財、ああァいやなやつ』……なン、なに言ってやがんだい。こっちゃあ客じゃねえかッ、客をとッつかまえやがって……そんなわからねえ……」
「……? なんだい二階の騒ぎは? え? こらばか野郎一人じゃあないよ。たまに家ィ泊まればこれですよ。なんの事《こつ》たいまァどうも。(手燭を持って二階へ上がりながら)あきれたもんだねェ、おとなしく寝らんないのかねェ。気ちがいじみた声を出しゃがって、じつに情けない。どういうわけのもんでしょう、どうも……あッ、こんな事《こつ》てしょう。まァどうも様子がおかしいと思《おも》……おまえさん善さんじゃ……」
「なんぼ善さんだってこっちゃあ客じゃありませんか。客をとっつかまいてあァた……あッ、あ、どォも昨年中はどォもいろいろご厄介ンなりましてござんす。ェェ本年もあいかわらず……」
「なにを言ってんだ。秋口になって年始を言うやつがあるか……察するところ、うちのばか野郎になんかもらって、頼まれなすったんだろ?」
「あッは、じつはお宅のばか野郎に……」
「なんだおまえまでばか野郎とは……」
トントントントントントン……。
「おい善公……おおい……おおい……善公……忘れ物《もん》だよ、忘れ物忘れ物……用箪笥の抽出《しきだし》ッ……紙入れ紙入れ、おいッ……窓から放っておくれ、おおい……善公ッ」
「ばか野郎、罰当たり、忘れ物《もん》して帰ってきやがった。……幸太郎ッ、どこをのそのそ歩いてる?」
「あッはッは、善公は器用だ、親父《おやじ》そっくり」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 本篇は活字でなく録音によって鑑賞すべきであろう。話芸である「落語」は、噺家という高座の芸人の〈一人芝居〉によって体現されるのは言うまでもないが、演者は回り燈籠≠フように一瞬一瞬旦那になったり幸太郎になったり本屋の善公になったり手紙のなかの花魁になったり、絶えず変転し、心理、感情を自由自在に調整《コントロール》していく――そこに客観的な一貫性をつねに保って展開していく、ここが他の芸能ジャンルにない独特の技法《テクニツク》である。そうした人物描写、描き分けは高座での身ぶり手ぶりもさることながら、噺家自身の口跡――声音《こわね》の微妙な高低、調子《ニユアンス》によって表現させているのである。男女、老若はもちろん、性格、境遇、状況等々を、鮮明に浮き彫りにする。そして、対話者との距離――屋外と屋内、二階と階下《した》、自らのひとり言等々……を瞬時にわからせ、そして、瞬時に点滅させるのである。――個々に一人一人の俳優をとおして体現させる〈芝居〉においては、その演じられている人物に、俳優もまた観客も、その人物を「落語」のように、自由に点滅させることができないから、どうしても客観的なものの見方ができなくなるのではないか。
閑話休題《それはさて》――「落語」が客観性と自由自在な変転、点滅を身上としていて、唯一変らぬのが、噺家自身の口跡――声音《こわね》ではないか。その特種性に着想したのが、この噺で、その着眼《アイデア》が見事に生かされている。サゲとして屈指の作品である。お馴染みの道楽者の若旦那物の一つだが、「山崎屋」[#「「山崎屋」」はゴシック体]の徳三郎と同類項で、例の謹慎中の行状のひとコマと推察してもいい。本屋の善公は、「品川心中」に登場する金蔵と同じ、お出入り先の人びとに賃貸しで本を貸す貸本屋のことである。
かつて三遊派、柳派と噺家の組織が二派に分れていた時代では、三遊派はこうしたお店の若旦那物を専売にして、はなやかな人情噺的な行き方をし、一方、柳派は隠居、熊さん八っつぁんの長屋物が中心で、地味な滑稽噺で対抗した、と言われる。(時代の移行によってその伝統は、今日統合されてしまった。)たとえば、替玉の善公がバレるくだりで、花魁の手紙を見つけ、読み上げる箇所は、明治中期、鼻の円遊によって案出された演出と言われ、鼻の円遊のサゲの部分は、親父が窓から顔を出し、「声色じゃねえ、おれの顔を見ろ」「どうだい、声色ばかりかと思ったら親父の顔までそっくりだ」とナンセンスなものに創りかえている。
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死神
偽《いつわり》のある世なりけり神無《かんな》月
貧乏神は身をもはなれず(狂歌)
「なにをしてんだい? 表へのっそりつっ立ってなにを考えてんだね。入ったらいいじゃあないか、こっちへ……」
「そりゃあてめえの家だから入《へえ》らあな」
「どうしたい? 三両できたのかい、三両」
「その算段ができねえから、弱ってんだ」
「呆れたね、弱ってんだって……ぼんやりして、よく家ィ帰ってきたねェ、子供が生まれちゃってんだよ。おまえ、それでも男かい?」
「男だか女だか、おめえだって夫婦だから覚えがあンだろう」
「男なら男らしく、三両くらいの金工面できるだろ? いくじなしッ。よくまァおめおめ帰ってこられたもんだ。まったく。三両こしらえといで。算段できなきゃあ、おまえさん、豆腐の角《かど》へ頭ァぶつけて死んじまい……早く行っといでッ」
「行ってくらい、うるせえな。……なんてえ強《つお》いかかあなんだろうなァ。ちぇッ、忌々《いまいま》しい……豆腐の角へ頭ァぶつけて死んじまえって、冗談じゃあねえや、まったく。かかあにゃあぎゃァぎゃァ[#「ぎゃァぎゃァ」に傍点]言われ、三両の銭の工面はつかねえし……人間、銭のねえのは首のねえにも劣るってえが、おれもどうしてこう運がないのかねェ。貧乏神に、とり憑《つ》かれてるんだなァ。首がなけりゃ、人間死んだも同然、あァ、いっそのこと死んだほうがましだァ……となると、貧乏神より、おれァ死神にとり憑《つ》かれてるんだなァ」
「そうだよ……」
「え? (あたりを見まわし)ンな、いまだれかなんか言やがった……だれだい?」
「……おれだよ。……死神だよゥ」
「……? えッ……?」
上手を見ると、木の陰から、すゥッと出てきたのが、白い薄い毛が頭へぽゃッ[#「ぽゃッ」に傍点]と生えて、鼠色の着物の前がはだけ[#「はだけ」に傍点]て、あばら骨が透きとおるように痩せっこけ、藁草履《わらぞうり》を履《は》き、竹の杖《つえ》をついた老人……。
「へッ、へッ、死神だよゥ」
「死神!?」
「いま、おまえさん呼んだだろ?」
「呼ぶもんかッ……どうも変だとおもった、いま急に死のうなんて気になったのは……てめえのせいだな? こん畜生、冗談じゃあねえ、死神ィ、そっちィ行けッ」
「まァ、そう邪慳《じやけん》に言うなよ。……おまえがいま死神にとり憑《つ》かれた、なんてえもんだから、てっきり呼ばれたもんだとおもって、うっかり出てきちまった。しかしまァ、これもなにかの縁だ。仲よくしよう」
「いやだよゥ、だれが死神なんぞと仲よくするけえッ、ごめんこうむらァ、おらァ行くよ」
「おいおい、おいおい……待ちな待ちな、おい。おめえは逃げるつもりだろうが、そっちは二本足で歩いて逃げる。おれァ風につれてふわッ[#「ふわッ」に傍点]と飛ぶんだから、おめえいくら逃げようッたってむだな話だ。……おまえさん、身装《なり》といい、顔色といい、どうやら金に見はなされたな?」
「いやなことォ言うな、死神だけあって……そりゃあ金の算段ができねえで困ってるんだがねェ……」
「そうだろう。だから、おれがその相談にのってやろうってんだが、どうだ?」
「おかしなことを言わねえでもらいてえなあ。死神に金の相談したってはじまらねえ」
「おめえ、そういやがるもんじゃあないよ。おめえとおれァ昔、深い因縁《いんねん》がある……ま、そんなことを言ったところでわかるまいが、おまえさんだいぶ困っている様子だから、金の儲かるいい仕事を教えてやるから、やってみねえか?」
「いいよ。たくさんだよ。なんだろう? 下請けかなんかさせようってんだろう?」
「……? なんだ、下請けてえのァ。ばか野郎、死神の下請けなんてえ商売があるかい……おまえさん怖《こわ》がることはないよ。人間というものはいくら死にてえと言ったって寿命というものがあって、時期が来なければ死ねるもんじゃあねえ。生きていたいと言っても寿命が尽きりゃあそれっきりだ。おめえは……まだまだ長い寿命を持っているから安心しな……おめえ医者にならねえか? どうだ?」
「医者に?」
「儲かるからやってみろ」
「からかうのはよしとくれ。おれァ脈もとれねえ、薬の調合もできねえ。そんなものはだめだ」
「なあに、おれがついてりゃ大丈夫。いいか。いま言ったとおり、人間には寿命というものがあるから、いくら患ってても、寿命のある者は助かる。その代わりぴんぴんしているやつだって、寿命のないのはだめだ。脈なんぞァどうだってかまわねえや。病人が治れば、おまえはお医者さまで立派に世間に通用するし、金も儲かるからやってみねえ。……おれがな、ほかの者には見えねえ……おまえさんだけにはちゃんと見えるように呪《まじな》いをしてやったから、長患いをしている病人の部屋へ入って、頭か足のほうかを見ろ。かならず死神が、一人|座《つい》ているもんだ」
「へえ!?」
「枕元に座っているのはいけねえよ。それァ手をつけちゃいけねえ。足元のほうにいるんなら、こいつは助かる方法がある。おめえな、呪文を唱えてみねえ」
「なんだい、呪文てえのァ……?」
「教えてやるが人間にはけっしてこんなことを言っちゃあいけねえ、いいか……『あじゃらかもくれん、あるじぇりあ、てけれッつのぱァ』ぽんぽん……と、二つ手を叩《たた》いてみな。死神がどうしてもはなれて、帰らなくっちゃあならねえことンなってる。病人から死神がはなれさえすりゃあ、嘘のようにけろッ[#「けろッ」に傍点]と治っちまう。どうだ、おめえはそこで立派な医者で立っていかれる。やってみな」
家へ帰って、ぼんやりしていると、まもなく……
「おゥ、いるか?」
「なんだい、おどかすねえ。竹さんじゃあねえか、いってえ、なんの用だ?」
「いえね、うちのお店《たな》のお嬢さんが長い患いで、いろんな医者に診《み》せたが、いっこうによくならねえ。そいで、たいそう当たる易者があるんで、それに見てもらったところ、辰巳《たつみ》の方《かた》(東南)の医者に診《み》てもらうといいってえ卦《け》がでたんだ。日本橋から辰巳の方角てえいや、こっちなんで、お店から頼まれて捜しに来たんだが、どうだい? このへんに、いい医者の心当たりはないもんかね」
「医者?……待てよ、あ、あッ、よし……おれが行こうじゃねえか」
「そうじゃねえんだよ。医者を捜そうてえんだよ、このあたりの」
「このあたりの……っていやあ、だから、おれが行こうてんだよ」
「わからねえなおめえも、医者だよ」
「だから、その医者ってえのがおれなんだ」
「だっておめえ……?」
「医者なんだよ、今日からおれァ」
「冗談じゃあねえぜ、そんなあやしい医者、連れてけるわけがねえだろう、大事なお店なんだから」
「大丈夫だよ。病人を診《み》て、助かる病人なら助けてやろうじゃねえか。助からねえものは、どうやってみても助からねえ。それがわかりさえすりゃいいんだ。連れてけッ」
「おい、冗談じゃねえぜ、こんな汚《きたね》え医者連れてってみろ。お店いっぺんでしくじ[#「しくじ」に傍点]っちゃうぜ」
「いいってことよ。おれにゃあ……がついてんだ」
「なにが……ついてんだ?」
「心配するな。おれはおめえ立派に医者で立っていかれるってンでえ、そこへ連れてけよ」
「こりゃとんでもねえことを言っちゃったぜ。おどろいた野郎だ、おめえも。……ここなんだけどね。おめえは入ってきちゃあいけねえよ。ちょいと待っててくんねえ」
「おや、竹さん、さっそくご苦労さん。で、見つかったかい? お医者さま?」
「へえ、それが見つかるには見つかったんですが、これがどうもその、あやしい医者なんで、なにしろ今日から医者になったという」
「まァ連れてきたんならしょうがない。だからあれほど言ったじゃないか、いい医者を捜しておくれと」
「それが、おれは立派な医者だ、心配ないって、自分でついてきちゃったんで……」
「まァ、しょうがないねえ。ついてきちゃったものを、追い帰すわけにもいくまい。脈だけでも診てもらって、けっして薬などはもらうんじゃない……こっちィお上げしな」
「へい、それじゃ……おい、上がれとよ」
「へい、ェェ、こんちは」
「おいおい、これが先生かい? まァ、どうもご苦労さま、ともかく、病人をごらんなすって……あ、それから、お薬は結構ですから」
「あァ、病人を診さえすりゃあ、薬なんぞどうだってかまわねえ……」
案内されて、病人の寝ている部屋に入って、ひょいと見ると、死神がいい塩梅《あんばい》に病人の足へ座っている。
「うッ……しめたッ」
「……へ? なんでございます?」
「……ええ?」
「いま、なにかしめたとおっしゃいましたが……?」
「いえェ、あたしがこの部屋へ入ってあとを閉めた、とこう言ってね……ェェ、お嬢さまで……?」
「はい、さようでございます」
「ふゥ……ん。よほど長いのかい?」
「長病《ちようびよう》でございます」
「あァ、長病……ああ、長病だから長いんだな。うんうん……安心しな。娘さんは助かる」
「さようでございますか」
「ああああ、じきに元気になる。この病人は」
「いままでいろいろ先生のお見立てでは、あまりおもわしくないということでございましたが……」
「ははァ……どういう先生に診《み》せました?」
「いちばんはじめは板橋終点先生に診ていただきました」
「ほほう、どういうお見立てで?」
「この病人は先がない、とおっしゃいました」
「ふうん、なるほど……そのほかの先生は?」
「そのほか甘井羊羮《あまいようかん》先生、三角銀杏《みつかどぎんなん》先生、北野寒風《きたのかんぷう》先生なども、みなお見立てはおなしなのでございましたが……」
「ふふゥん、みんないけないのかい?……いや、あたしは大丈夫、治りますよ、あたしが請けあう……あたしァ、医者だが、呪《まじな》いもやる。ちょっとお待ちください……あじゃらかもくれんあるじぇりあ、てけれッつのぱァ……ぽんぽんッ」
死神がすゥッとはなれた。と、いままで唸《うな》っていた病人が、
「……あのゥ、お茶が飲みたいわ……なんだか頭がすうッとして、急になんだかお腹が空いてきたわ……」
「先生、お腹が空いたと申しますが……」
「ああそうかい、そんならなんか食わしてやったらいいだろう」
「お粥《かい》かなんか……?」
「いや、お粥でなくったっていい。鰻でも刺身でも」
「ェェ、お薬は?」
「薬なんぞ飲ますこたァねえ、もう大丈夫、また来るよ」
病人は、厚紙をはがしたように、けろッ[#「けろッ」に傍点]として全快してしまった。
これが評判となって、名医だというので、あっちからもこっちからもひっぱりだこ。また間のいいときは妙なもので、どこの病人もみな死神が足元のほうへ座っている。たまさか死神が病人の枕元にいると、
「あ、これはもう寿命が尽きているから、とても助かりません、おあきらめを……」
表へ出るか出ないで息をひきとる……という首尾。そんなわけで、生神《いきがみ》さまとまで崇《あが》められ、立派な邸宅を構え、門前市をなす勢い、奉公人も置き、贅沢三昧。ひとつ京大阪を見物しようと女房、子を連れて、世帯をたたんで上方見物へ出かけた。ところが所詮《しよせん》身につかない金、金にあかして豪遊したために、江戸へ帰ってきたときには、もとの木阿弥、また以前のような一文なしになった。医者の看板を出してはみたが、まるっきり患者が来ない。たまに患者があって出かけていくと、死神が枕元に座っている。……これでは商売にならない。
困り果てていると、ある日、佐久間町の伊勢喜という、江戸でも指折りの大家、ここの主人の容態がおもわしくないので、ぜひ先生に診《み》てもらいたいという使いが来た。しめた、と出かけていくと、死神が枕元にどっかりと座りこんでいる。
「おやおや……これもだめだ……これァお気の毒だがねェ、お宅のご主人は助かりませんよ」
「だめでしょうか?……なんとか先生のお力でもって、助けていただくわけには……」
「それァねェ、お助けしたいとおもいますがねえ、寿命がない、この病人は……」
「困ったことでございますなァ、いかがなもんでしょう。ま、かようなことを申し上げてたいへん失礼でございますが、もし先生に主人の病気を治していただけますなら、三千両のお礼をいたしますが、いかがなもんで……」
「それァ、こちらもなんとかしたいが、あたしの手にはいきませんからだめですよ」
「ただいま主人になくなられましては、えらいことになります。せめてひと月でも主人の寿命を延ばしていただくわけにはまいりませんか?」
「うゥん、三千両……? なんとかしたいが……」
枕元の死神を見ると、だんだん夜が更けるに従って死神の目が、異様に光を帯びてきて、病人が、
「うゥん、うゥん……」
という苦しみ。そのうちに夜が白々明けてきて、朝方に近くなると、死神が疲れたとみえて、こっくりこっくり居眠りをはじめた。病人も落ち着いてすやすや寝こんだ様子……。
「うん、よし……ちょっとお耳を拝借。この病人を助けたら、ほんとうに三千両いただけますな? それでしたら、ご当家の若い衆をちょっと四人《よつたり》集めておくれ」
「はい」
「いいかい、病人の寝ている布団の四隅へ一人ずつ座ってもらう」
「はァはァ」
「で、あたしが合図したら、それをきっかけに、若い衆が布団の四隅を持って……寝床をぐっとこう、まわしておくれ。……いいね、頭のほうが足ンなって、足のほうが頭ンなる。ね? これァいっぺんやりそこなったらもうそれっきりだから、粗相のないように気の利いた者を手配しておくれ」
「へえ、承知いたしました」
若い衆が四人|駆《か》り出されて、四隅に座り、死神がこっくりこっくり[#「こっくりこっくり」に傍点]する隙に、ぽんという合図で、それッと寝床をぐるッとまわし、間髪を入れず、
「あじゃらかもくれんあるじぇりあ、てけれッつのぱァッ」
ふたッつ手を打った。死神がはッと目を醒ますと、病人の足元に自分が座っているんで、わッとおどろいて、そのまま跳びあがって、姿を消してしまった。……いままで唸っていた病人が起きあがり、見ちがえるように元気になった。約束どおり三千両をもらい、ご機嫌で、佐久間町の伊勢喜を出た……。
「うわーッ、うふふ、やっぱり人間てえものは知恵を出さなくちゃあいけないねェ。われながらいい考《かん》げえだったなァ、どうだいあの死神のやつがおどろきやがったねェ、わァッて跳びあがりやがった、はッはッは、ざまァみろってんだァ」
「……おいッ」
「あッ、……死神さん」
「さん[#「さん」に傍点]だってやがら……ばか野郎、なんだってあんなことをしたんだ」
「どうもすみません。なにしろあたしもねェ、ここンとこひどい世話場で。そこへあなた、三千両と聞いたもんだから、つい。悪くおもわないでくださいな」
「ひどい目に合わせるじゃねえか……恩を仇で返しやがった」
「勘弁してくださいよゥ」
「助からない者を無理に助けて……あの病人はどうにもならなかったんだよ、それを……で、礼はもらったのかい?」
「へえ、三千両、たしかに」
「じゃあ、これからおれといっしょにおいで……」
「へえ、どこへ?」
「いいから来な……さ、ここへ入《へえ》れ……」
「え?」
「ここへ入《へえ》れ」
「なんだかむやみと暗えが、……なんです、これァ、石段がずうッとあらァ……」
「早く降りなよ」
「大丈夫ですかい……気味が悪い」
「黙ってついてきな……ほら、見ろッ」
「おやッ? またばかに明るくなりましたね、はァはァ、こりゃまたたいへんな蝋燭《ろうそく》だねェ、なんです、これは?」
「これか、これはみんな人間の寿命だ」
「えッ?」
「人の寿命は蝋燭の火のようだってよく言うだろう。これがみんな人間の寿命だよ」
「へーえ、そうですか。話にゃあ聞いてましたが、いやァ、ずいぶんあるもんですねェ、おどろきました。いやァ、恐れ入りました。長いのや短いのや……あ、なんです? これァ? ここに蝋がたまって暗くなってんのがありますねェ」
「こういうのは患っているんだ。蝋を払って、炎がまたすゥッと立つようになれば病が治る」
「あ、あるほど。これァ患いですか……ふゥん……ちょいと、ここにおっそろしく長くって威勢よくぼうぼう燃えてンのがありますね」
「それがおまえの倅だ」
「あァそうですかァ、やっこですか、これァ。へえェ、達者だねェ、どうだい長くってぼうぼうよく燃えて……この隣に半分ぐらいンなって威勢よく燃えてますが……」
「それがおまえのかみさんだ」
「あ、そうですか。ふゥん、やつもまだ達者ですね、これァ、へえェ……あれ、このうしろにいまにも消えそうンなってるのがありますね」
「それがおめえだ」
「えッ?」
「おまえの寿命だよ」
「だってッ……いまにも消えそうで……」
「消えればおまえの命がなくなる」
「命がなくなるって……あたしァこの……じゃあもう死ぬんですか?」
「ふふふ、教えてやろう。おまえの寿命はこっちにある、半分より長く威勢よく燃えているんだ。こいつがおまえの寿命だったんだ。それを、おまえは三千両の金に目がくらんで、その寿命を取換《とツけ》えたんだ。かわいそうに……もうじき死ぬよ」
「おどろいたねェ、そんなこととァ知らねえから、あんなばかなことをしちゃったんです……三千両あったって、命がなきゃなんにもならねえ……じゃ、金は返します。すいません。もとのとおり寿命を取り換えてください」
「そうはいかねえ、いったん取り換えたものはもうだめだ」
「そんなおまえさん不人情なことを言わないで……ねェ、ちょいと、死神さん、頼みますよ。おまえさんだってあたしを助けてくれたじゃあねえか。ねェ、お願いだから、もういっぺん助けてくださいよ」
「しょうのねえ男だ……じゃここに燈しかけ[#「燈しかけ」に傍点]がある……これと消えかかっているのと、継《つな》いでみな。うまく継がれば、おめえの命は助かるから、ひとつやってみるか?」
「へえへえ、ありがとうございます……じゃあなんですか? これ、継《つな》ぐんですか?」
燈しかけの蝋燭を手にしていま消えようとする微かな炎に継ごうとするが、
「そう震えるな、震えると消《け》えるぞ。早くしな」
「は、は、はい、震えようとしてるわけじゃないけど、手、手、手がどうしても、震えちまって」
「早くしなよ。消《け》えるよ……早くしな。ふふ、ふふふふふふ、早くしねえか」
「……おまえさん、なんか言うからこっちァなお震えらァね。黙っててくださいよゥ」
「ほら、早くしろ」
「へ、へえ(震える手で継ごうとし、それを見つめて)あァ、消える……」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「あァ、消える……」とひと言、発したあと、高座の演者は、バタリとその場にくず折れ……生命《いのち》がこと切れることを暗示する、すごい[#「すごい」に傍点]幕切れである。三遊亭円朝が「イタリア歌劇『靴直しクリピスノ』から翻案したもの」と言われているが、原話である『靴直しクリピスノ』という歌劇の方はまったく知られていないところをみると、円朝の創作力《オリジナリテイ》の方がより優っているのはあきらかだ。とくに、人の生命《いのち》を蝋燭の炎にたとえた着想は、深淵《しんえん》な哲理を底に漂わせ、SF的な視点で、人の生命《いのち》を一か所に集めた炎、炎、炎、炎、炎……の霊場(?)の様《さま》はこの世に生ある者に〈生と死〉の現実感を鮮烈に具現する。風前の灯[#「風前の灯」に傍点]の寿命を継ぎ換えようとする仕草は、一瞬、胸がきゅぅんとしめつけられるような戦慄《スリル》が襲う。〈古典〉は理屈でなく、あくまでも人間の感性《ハート》に訴えるのが身上だが、本篇には作者、三遊亭円朝自身の、人間に対する悟り[#「悟り」に傍点]のようなものが盛り込まれている。
「落語百選」中、ベスト・テンに入る名作。
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粗忽《そこつ》の釘
「おまえさん、どこをうろついてたんだよ。いいかげんにおしよ。ほんとうに。ほかの日じゃないんだよ、引っ越しだよ。車を頼もうてえのに『すぐ向こうの横町だから車なんざいらない、大きな荷をこしらえて二、三度ひっ背負《ちよ》って運んでしまやァことが済む』って、おまえさん、荷物を背負《しよ》って、朝暗いうちに出たんだよ。出たっきり帰ってきやしないじゃないか。お長屋の方が心配をして見にいってくださった。行きがたがわからない。うっちゃっときゃ日が暮れちまう。しかたがないんで家主《おおや》さんはじめお長屋の衆が大勢手伝ってくださって……ごらんよ。この荷物。みなさん運んでくだすって、いまお帰りになったとこだよ。こんな夕方暗くなるまで、大きな荷物を背負《しよ》ってさ、どこをほっつき歩いてたんだよ」
「うん、おっかあァ、おらァじつにおどろいた」
「また、はじまった。おまえさんぐらい、ものにおどろく人はないねえ。猫があくびしたっておどろいて、電車が動くって感心してさ……いったい、なんにおどろいたんだい?」
「うん、あれからな、すぐに大通りへ出て四つ角へ来ると、家主ンとこの赤犬と、どっかの大きな黒犬がケンカしてるんだ。ところが赤犬《あか》が旗色が悪くって、下になっちまった。おれも心やすい犬だから、見て見ぬふりもできねえから、そばへ行って『赤ッ、ウシウシ』と言ってやると、赤犬《あか》のやつ、急に元気づいてぴょいと跳び起きたんで、おらァおどろいてひっくり返《けえ》っちまった。ところが、葛籠《つづら》が重いもんで、どうにも起きることができねえ。足をばたばたやってると、往来の人が親切に起こしてくれて、やれうれしやとおもったとたん、こんどはおめえ、横町から出てきやがったんだ。あの、ほら、あん畜生だ」
「なんだい?」
「なんだいってえほどの代物《しろもの》じゃあねえや。あれだよ、うん……自転車。これがおめえ、なんと人が乗って出てきたんだ」
「ばかだね。人が乗らない自転車が出てくるかよ。それで?」
「ぶつかっちゃったい」
「あらあら……」
「ようやく起きあがったとたんだもの、かわす間がねえや。もろにぶつかっちゃった。向こうもひっくり返った、おれもひっくり返った。両方ともひっくり返っちゃったんだ。一所懸命に起きようとおもったけど、葛籠がもう地面《じべた》にひっついちゃってはなれねえ、動きがとれねえんだ」
「で、どうしたい?」
「しょうがねえから、どなってやったい」
「なんだって?」
「助けてくれェー」
「やだねェ……意気地がないねえ。それで、どうしたの?」
「自転車に乗ったその若い者が親切者だ。自分だって痛かったんだろうけど、そいつを我慢して起きあがって、おれを起こしてくれて、泥をすっかりとってくれてさ。『どうもとんだ粗相をいたしました、すいません、ご勘弁を願います』って、おれにあやまった。おれァ感心しちゃった。だからおれも言ってやった」
「なんてった?」
「そうでございますとも、おめでとうございますと」
「そんな挨拶があるかい」
「あるかいったって言っちまったものはしかたがねェ。そういや向こうも妙な顔をして、『じゃごめんなさい』てんで右と左に別れて、どんどんどんどん来るてえと、たいへんな人だかりだ。なんだろう? この人だかりはとおもったから、『はい、ごめんなさい。はい、ごめんなさい』って前へ出てみたんだ。すると、子供がねェ、大勢、相撲をとってるんだ。えへッへ……子供なんてえ罪はねえや、勝ったり負けたり負けたり勝ったり、いつまでもいつまでもやってやがる。だからこっちもな、いつまでもいつまでも見てたんだ、うん。どういうことになるだろうとおもってね……そうしたらなんとなく、あたりが暗くなってきやがった。……おどろいたねェ、気がついたんだよ。今日は引っ越しだってえことに。こいつはたいへんだ。びっくりして立ちあがって、どんどんどんどん歩いてたんだ。いくら歩いてもねえんだ、豆腐屋が。なんでもこんどの家は、左側に豆腐屋があって、その横を曲がった角から二軒目だてえことをおぼえてたから、なんでもかまわねえから豆腐屋を目当てに行ったんだ。ところが行けども行けども豆腐屋がねえ。ようようのことであったとおもったら、これが右っ側よ。しかたがねえからまたどんどんどんどん行くと、左っ側に豆腐屋があったんだが、その横に曲がり角がねえ。またどんどん行くと、曲がり角があるかとおもうと、豆腐屋がねえ、こんなことを繰り返しているうちに、まるっきり見当がつかなくなっちまって、そのうち右っ側に一軒、豆腐屋があったから、え? 左っ側の豆腐屋が右っ側にあるのは、なにかわけがあるにちがいないとはおもったが、おれはもうくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]ちまったから、わけをゆっくり考える暇はねえ、なんでもかまわねえから入ってやれってんで、その豆腐屋へ入っちゃった。するとそこの主人《あるじ》が出てきやがって『なんです?』ってんだ。『なんですじゃあねえ。引越してきたんだ』って言ってやった。そうしたら『冗談言うなこの野郎ッ』って追ン出された。……そりゃあもっともだってね」
「呆れたねェ、それからどうしたね?」
「うん、もうこうなりゃあ、いままで住んでた家へひっ返《けえ》して、はじめっから出直しだってんで戻ってみると、家ン中はがらんとして、荷物ひとつありゃしねえ。おらァくたぶれ[#「くたぶれ」に傍点]たから、背中の荷物を降ろして一服やってると、いいぐあいに家主がやってきた。きっと見まわりに来たんだな。ところが、おれがいたからおどろきゃァがったね、『おめえ、いってえ、どうしたんだ?』って言うから、『家主《おおや》さんの前だが、あっしァ自分の引っ越す先がわからねえ』『ばか野郎、おめえが捜してきた家じゃあねえか』『そりゃあ、あっしが捜してきた家にはちげえねえが、まるっきり見当がつかなくなっちゃった。家主さん、ご存じなら、どうか連れてっておくんなせえ』『まったく厄介《やつけえ》な野郎だァ』ってんでな、家主にそこまで送ってもらったんだ」
「まあ、ほんとうにやんなっちゃうねェ。どうしておまえさんってえ人はそうそそっかしいんだろうねえ……どうでもいいけどさ、話をするなら、そんな門口へ立ってないで、こっちへ上がって、背負ってる荷物を降ろしたらどうなのさ」
「え? あああああ、重い重いとおもったら……冗談じゃあねえぜ、おい。おれはくたぶれてる[#「くたぶれてる」に傍点]んだよ。こういうことは、さっさと教えろ。さんざっぱらしゃべらしときゃがって……ああ、どっこいしょッと、ふゥー、軽くなった」
「あたりまえだよ。それよりね、この道具、いまからがたがた動かしたらご近所に悪いから、今夜はこのままにしといて、寝るところだけあればいいんだからね、それは明日《あした》のことにしといて、困っちゃうのは、そこにあるその箒《ほうき》……箒なんてものは寝かしとくと始末に悪いもんだから、その箒をかける釘を打っておくれよ。……わかってるね、箒をかける釘だから、長い釘を打っとくれ」
「やいっ、おうっ」
「なんだい?」
「なにを言ってやんでえ。ふざけるな。おれをいってえなんだとおもってやがるんだ。餓鬼の時分から年季を入れて叩《たた》きあげた大工《でえく》だぞ、おれァ。『箒をかけるんだから釘を打ってください』と言やあ、どのくらいの釘を打ちゃあいいかっくらいのことは、言われねえでもわかっていらァ。それをなんでえ、長い釘を打てだ? ちぇッ、生意気を言うなってんだ、生意気を。長《なげ》えのを打ちゃいいのか? よし、気のすむように長えェのを打ってやるからそうおもえ。早く釘箱ォ持ってこい……金槌《かなづち》を出しなよ。金槌がねえ? 玄翁《げんのう》があるだろ? それでいいや。こっちィよこせ。……ぷっ、長え釘を打ちゃいいんだろ?……痛えッ、痛えや、こん畜生。つまらねえことをぎゃあぎゃあ言うから、指を打っちまったじゃねえか、ああ痛え(と指をくわえ)あ、この指じゃねえや、こっちだ」
「なにをしてんだい、自分で打った指をまちがえる人があるかよ。それもいいけど、ずいぶんまあ長い釘打ったね、おまえさん」
「どんなもんだ、釘はこのとおり打ったよ」
「おまえさん、おまえさん。このとおり打ったなんてすましてる場合じゃあないよ。たいへんなことをやっちゃったよ。そこはねえ、壁じゃあないか。長屋の壁なんてえものはねえ、大きな声じゃ言えないけど、もう薄いもんだよ。大きな玄翁で釘の頭をおもいきりぽかッと……ごらんよ。釘の頭が壁のなかへめりこんじまってるじゃあないか……どんな釘を打ったのさ?」
「どんな釘って……大は小を兼ねるてえことをいうから、いちばん長《なげ》え瓦《かわら》っ釘を打ったんだ」
「あら、いやだよ。たいへんだよ。そんな長いのを打ったのかい? もしも、その先がお隣りへ出て、大事な道具へ傷をつけたらどうするんだい? ほんとうにたいへんなことになるよ。困ったねえ、どうも……まァ、やっちまったことでしかたがないから、お隣りからなんとも言われないうちに、早くこっちから行ってあやまっておいでな。早く行っておいでよ」
「わかったよ、うるせえなあ……行きゃいいんだろ、行きゃあ」
「おまえさん、ただ行きゃいいってもんじゃないよ。よォくあやまるんだよ、落ち着いてね。落ち着かなきゃだめだよ。落ち着きゃおまえさんだって一人前なんだから」
「てやんでえ。落ち着きゃあ一人前とはなんだ? じゃあなにか、落ち着かなきゃあ半人前《はんにんまえ》か? 人をばかにすんねえ。ほんとにおれをなんだとおもってやがんだ。亭主だぞ、亭主関白の位てえことを知らねえか。なんてえことを言いやがるんだ……やいっ、なんてえことを言いやがるんだ……やいっ、なんてえことを言うんだッ」
「えッ? なんだい、おい、変な人が入って来たよ。……いいえ、知らないよ。見たことのないお方だ。……あのゥ、なにかご用で?」
「なにを言ってやがるんだ、笑わすない。……えへッ、ご用? あ、こんちは」
「変な人だね、なんです?」
「へえ、どうもただいまなんでございますが……」
「なにがなんでございます?」
「それが、その、へえ、なんでございまして、なんでしょう?」
「なんだかさっぱりわかりませんなあ」
「わかりません?……ああそう、あのゥ、あっしゃあねえ、引っ越しをしてきましたんでね」
「ああ、さいですか、それはどうも、ご丁寧に恐れ入りました。ご挨拶にお見えになったんで?」
「いいえ、挨拶なんぞわざわざ来やしません。じつはね、おまえさんに見てもらいたいことがありましてね」
「ははァ……なんでしょう?」
「なァに、ほかでもないんで……あっしのかかあなんですがね」
「おかみさんを、拝見しますので……?」
「いえいえ、あんなものはお見せするほどのものじゃあないんで……かかあの言うことが癪《しやく》にさわるんで、ええ。釘をかけるから箒を打てとこう言やがるんで」
「ほう、妙なことをおっしゃいますな。釘をかけるから箒を打て?」
「へえ? あべこべだよ、それじゃあ。おまえさん、落ち着いて……」
「あなたのほうで落ち着くんだ」
「へえ、その……箒をかけようとおもってね、釘を打ったんですが、壁と柱とまちがえちまって、そのゥ、瓦っ釘を壁へ打ちこんじまったんで……なにしろ長屋の壁は、大きな声じゃあ言えねえが、薄っぺらだ。ひょっとしたら、おまえさんとこの道具へ傷でもつけやあしねえかと、かかあが言うもんですからやってきたんですが、ちょいと見てもらいてえんで……」
「ああ、そうですか、それはどうもたいへんだ……でも、あなた、今日お向かいへ越してらっしゃったんでしょ」
「ええ、ええ、そうなんです。あすこに見えてるあの家です」
「うぷッ、あなたしっかりしてくださいよ。どんなに長い瓦っ釘だったか知りませんがねえ、お向かいの家で打った釘が、こっちまで届く気づかいはないとおもいますがなァ」
「いえ、それが、たいへんに長い……」
「どうも話がわからなくって困るなあ。いいですか? あたしの家はこっち側で、あなたの家は向こう側ですよ。往来を一つ隔てて、向こうからこっちまで届く釘はないから、ご安心なさいよ」
「なるほど、あなたの家はこっち側だ」
「そうですよ」
「こりゃあどうも失礼しました、ごめんください、さようなら……あははは、こりゃおどろいた。なるほどそそっかしいや。どうしておれはこうそそっかしいのかねえ。かかあの言うとおりだ。おまえさんは、落ち着けば一人前だって言やがったけれど、たしかに落ち着かなけりゃ半人前だ。よし、こんどはうんと落ち着いてやるぞ。落ち着きゃ、これでも一人前だ。じゅうぶんに落ち着いて……さて、落ち着いてみると、おれの家はどこだい? わかンなくなっちまったよ……いま出たばかりなんだからなくなるわけはねえんだが……ああ、これだ、これがおれの家だ。するてえと釘は?……こう向いて、こう打ったんだ。すると、釘の先は、この家だな? どうもばつ[#「ばつ」に傍点]が悪《わり》いなあ。ェェ、ごめんください」
「はい、いらっしゃいまし。なにかご用で?」
「ええ、ちょいと落ち着かせてもらいます」
「え? なんだか変な人が来たよ。……いえ、知らない方だよ。……あなた、どんなご用件で?」
「へえ、ちょいと上がらせてもらいます」
「おい、ちょいと……あの、座布団を持っておいで……あなたあの、どうぞお敷きなすって……」
「こりゃあどうも……せっかくですから頂戴します……まァ、とにかく一服……」
「おい、おまえ、この方が煙草をあがるようだから、煙草盆に火を入れて持ってきておあげ」
「どうもすみません。とんだお手数をおかけしまして……」
「で、なにかご用で、いらしたんですか?」
「いえ、ご用てえほどのことではないんですがね。とにかく落ち着かしていただいてからのことで……今日は、いい塩梅《あんばい》にお天気になりましたな」
「はァ?」
「この調子では、明日も天気はよさそうですな」
「はァ、たぶん晴れましょう……あなた、いったいなにをしにいらしたんで?」
「(煙管で煙草をゆったりと吸い)……つかぬことをうかがいますが……」
「へえ、へえ」
「あそこにいらっしゃるご婦人は、あなたのおかみさんですか?」
「ええ、あれはあたしの家内ですが、家内がどうかしましたか?」
「いいえ、別にどうしたってわけじゃないんですが、それであの、なんですか、仲人《なこうど》があっておもらいになったんですか? それともくっつきあいで?」
「おかしな人だねえ。あたしンとこじゃあ、立派に仲人があってもらったんだ。それがどうかしましたか?」
「いえ、なに、どうしたというわけじゃァありませんがね、なんでも仲人がなくっちゃいけませんな。あたしンとこじゃ仲人なしなんで、くっつきあいなんで……」
「へーえ」
「あなたご存じでしょ? あそこに伊勢屋という質屋がありましてね」
「いえ、知りません」
「そんなはずは……ねえ、白ばっくれちゃあいけねえ」
「いや、別に白ばっくれやあしません。その伊勢屋さんがどうしました?」
「あっしゃあねえ、大工《でえく》なんですがね。親方の平蔵に連れられて、あすこの家へ仕事に行ったときに、いまのかかあが女中で働いてましてねえ、あるとき、あっしが弁当をつかおうとしますとねえ、あいつが出てきて、『大工さん、これは、あんまりおいしくはないんだけどもね、よかったら食べておくれ』ってんで、塩の甘《あめ》え鮭なんぞ出してくれたんで……こいつァ、もう、ただごとじゃあねえとおもったからね、あくる日、前掛を買って持っていくと、『まあ、ありがとう』と、あっしの顔をじーっと見つめてにっこり笑いましたときには、あっしはぶるぶると震えました。すると、あれが、『大工さん、おひとりですか?』と聞きますから、『どういたしまして、あっしのような貧乏人のかかあに成《な》り手《て》はありませんや』と申しますと、『うまいことおっしゃって……雨が降ってお仕事がないときはどうなさいます?』『そんなときは家におります』と申しますと、『あなたのお宅はどちらで?』と聞きますから、『この先の荒物屋の二階を借りております』と申しますと、『こんど雨の降った日にお邪魔に上がってもよろしゅうございますか?』と申しますから、『ぜひいらっしゃい』と申しますと、あれがまっ赤な顔をして、でも、あたしなんかがお邪魔したら、叱《しか》る人がおいででしょう?』と申しますから、『なァに、そんなものがいるはずがねえじゃァありませんか』と言って、あっしゃあ、あいつの手をぎゅーっとにぎったんで……」
「こりゃあおどろいた。あなた、そんなことをおっしゃりにいらしったんで?」
「そんなことをおっしゃりに?……いけねえ、あんまり落ち着きすぎた……えへへへ、どうも失礼しました。さようなら……」
「あれあれっ、あなた、お帰りになるんですか? なにかご用がおありなんじゃァありませんか?」
「そうそう……肝心の用を忘れて帰るところだった。へえ、じつはね、あっしゃあ、お隣へ引っ越してきたんで……なにぶんよろしく願《ねげ》えます」
「ああ、さようで……それならそれと最初からおっしゃってくださればよかったんですが、どうもわざわざご挨拶に……なにぶんお心やすく願います」
「いえ、そんなことはいいんですがね、じつは、その、なんです……かかあがね、箒をかける釘を打ってくれと言うもんですからね、打ってやったんですが、打った場所がよくねえんで、壁に打ちこんじまったもんで……おまけにそれがいちばん長《なげ》え瓦っ釘だったもんでね、かかあのやつがびっくりしましてねえ、あんな長い釘を打って、もしも、その先がお隣へ出て、大事な道具へ傷をつけちゃあたいへんだ。行って、よく見てもらってあやまってこなくちゃあいけねえとこう言いますもんで、それでやってきたんですが、すみませんがちょいと見ていただきてえんで……」
「えっ、瓦っ釘を壁へ打ちこんだ。そりゃあたいへんだ。……ちょっと待ってくださいよ。ちょっと見てきます……あっ、こりゃあ、おどろいたなァどうも……あなた」
「え?」
「ちょいと、こっちィ来て、あの仏壇をごらんなさい」
「へえどこの?……おやおや、ご立派な仏壇ですな」
「仏壇をほめてくれって言ってるんじゃあないよ。なかを見ろってえの……阿弥陀《あみだ》さまの頭の上を見てごらんなさい」
「阿弥陀さまの頭の上?……へーえ、長い釘を打ちましたなァ。お宅じゃァあすこへ箒をかけますか?」
「冗談言っちゃあいけない。ありゃあ、あなたの打った釘ですよ」
「ははあ、こんな見当になりますか?」
「のんきなことを言ってちゃあ困るなァ。ほんとうに呆れちまう。あなたは、まあ、そんなにそそっかしくて、よく暮らしていけますなあ。ご家内はお幾人《いくたり》で?」
「ええ、あっしにかかあに、七十八になる親父の三人で……」
「へーえ、そうですか? お見かけしたところ、お年寄りはどうも見えませんでしたが……」
「あっ、たいへんだ。じつは、親父が三年前から中気で寝ておりますが、二階へ寝かしたまま忘れてきちまった」
「こりゃあおどろいた。どんなにそそっかしいといって、自分の親を忘れてくる人がありますか?」
「なあに、親を忘れるぐれえはあたりめえでさあ。酒を飲むと、ときどきわれを忘れます」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体]とりとめない粗忽者のおしゃべりで、ほかに「堀の内」がある。別名「我忘れ」「宿替え」「粗忽の引越し」。原話は、文政十三年刊の笑話本『噺栗毛』所収「田舎も粋」。
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子別れ
吉原へ回らぬ者は施主《せしゆ》ばかり
「弱ったなあ……かかあのやつァ怒ってやんだろうなあ。そうおもうてえと、いくら自分の家《うち》でも入《へえ》りにくいし、素面《しらふ》じゃあいけねえとおもったから、途中できゅっと兜酒《かぶと》をひっかけてきたが、自分の家の前へ来るてえと、酒が無罪放免になりそうだ、弱ったねェ、敷居が高いったって、まさか梯子《はしご》を買ってくるわけにもいかねえし、かかあだってそうじゃあねえかなあ、亭主が帰《けえ》らねんだから、ふて[#「ふて」に傍点]寝かなんかしてやがるがいいじゃあねえか、なにしてやんでえかなんとか言って、怒鳴った勢いで入《へえ》っちまうんだけど、ああして神妙に仕事なんぞォしてるのを、いきなり入《へえ》って張り倒すわけにゃあいかねえし、どうも。どうしてうちのかかあってものァああ仕事をしたがるのかねえ……病気だね、困ったもんだ……困ったからって入《へえ》らねえわけにもいかねえんだから……ェェ、少々うかがいますが……ェェ、大工の熊五郎さんのお宅はこちらでござんしょうか?」
「はい、てまえどもでございますが、どちら?……なんだねェまァ、自分の家ィ帰《かい》って聞いてるやつがあるかね、まァ……おはいンなさい、こっちィ」
「どうもごぶさた……」
「よくまあ、家を忘れなかったねえ」
「ああ、角々《かどかど》の匂いをかぎながら、ようやく帰ってきた」
「それじゃあ、犬だよ……ばかばかしい。ちょいとおまえさん、今日で四日になるじゃないか。どこへ行ってたんだい?」
「どこへといったって、お店《たな》のご隠居の葬式《とむれえ》に行ったんじゃあねえか」
「冗談言っちゃいけないやねェ、ご近所の方はみんな暮《くれ》がた帰っておいでじゃあないの、おまえさんだけがどうしてそんなにかかるの?」
「それァしょうがねえやなァ、ま、ほかの連中とはつきあいがちがうんだ、仏とのさ。『おめえは小《ちい》せえときから面倒みたんだから、どうか焼場までいっしょに行って、おれの灰になるまで見とどけてくれ』と、死んだ仏の遺言だ。ところがどうも、八十六だってんだから、ああなると人間油っけが抜けちまってなかなか燃えつかねえんだねェ、うゥん。今朝がたンなってようやく焼け落ちた……」
「よくそんなばかげたことが言えたもんだね。なんだってえじゃあないか、お葬《ともら》いに行く前に棟梁のところへ寄って、おまえさん、お金を前借りをしてったそうだねェ。うちも困るんだから、その金は使ってきやあしまいねェ」
「あれっ、いけねえやこりゃどうも、お調べはつぶさに行き届いてらあどうも」
「なにもお葬いに行くのに、まとまったお金を持っていくことはないじゃないか」
「そりゃあ、おめえは女だから、そうおもうのも無理はねえが、男は敷居をまたぎゃあ七人の仇《かたき》があるてえじゃあねえか。いつどんな仇に会うかわかんねえから、そのときの用意のために金を借りていったんだあな」
「それで、仇にめぐり会ったかい?」
「ああ、会っちまったねえ」
「だれに会ったんだい?」
「そう、おめえ、こわい目つきをしなくってもいいじゃねえか……こうなったらしょうがねえから、まァ有様《ありよう》なことを白状しちまうけど……」
「言ってごらんよ」
「まァそう、おめえ怒ったってしょうがねやなァ、……なにしろ、お店のご隠居てえのは八十六だてんだから、めでてえよ。人間それまで生きりゃあ結構だなあ」
「そんなことは聞かなくったって知ってるよ」
「まあ、黙って聞きなよ。……お葬《とむれ》えは立派よ。花輪《はな》なんぞ、どのくれえあったか知れやしねえくれえだ。あれだけの大店となると、つきあいが広《ひれ》えからなあ。出入りの職人もたくさん台所を働いていたぜ。こっちァ葬いより早く寺へ行って、手伝いだ。台所で見ると土瓶の中へ酒が入《へえ》ってやンの、こいつァ飲んでもいいてんだから、好きなもんだし、こっちァ下司《げす》ばってるから、がぶがぶやって、葬《とむれ》えが来た時分にゃあおらァぐうぐう寝こんじまったんだ、坊主にたたき起こされて、おどろいて寝ぼけまなこで表へ飛び出す、出っくわしたのが近江屋の隠居だから、『どうだい、これから吉原《なか》ィでも繰りこんで遊《あす》ぼうじゃあねえか』ったら、『むだに使う金があったらかみさんにうまいものを食わして、子供に着せるもんの一枚も着せておやりよ』と、こう言うんだ。ふだんなら『ありがとうございます』と礼のひとつも言うところだが、気違《きちげ》え水が入ってるからたまらねえや、『なにを言やがんだこん畜生めッ、ふざけたことを言うない。かかあにゃあ食わせるものがなくって、屋根へ上げて、風ェ食わせとこうと、餓鬼に着せるものがなくって、あんぺら[#「あんぺら」に傍点]のちゃんちゃんこを着せとこうと、てめえの世話になるけえ』てんで、おれが啖呵をきって、土手へふらふらかかってくると、うしろから、『親方、どこへ行くの?』って声をかけるやつがあるんだ。ふりむいてみると、これが紙屑屋の長公さ。『親方、お葬式《とむらい》ですかい?』『うん、いま帰りなんだ』『どうです? おたがいにあの仏さまにはご厄介になったんですから、これからお通夜に行こうじゃありませんか』てえから、『よかろう、通夜に行こう』てんで、それから通夜に行ったんだ」
「ばかばかしいことをお言いでないよ。お通夜てえものは、お葬いを出す前にするもんじゃあないか。お葬いのあとでお通夜てえのがあるかい?」
「それがよ、葬《とむれ》え出しちまったけども、これから焼き場へ仏さまを持っていくんだ。仏さまは、あんな中へ入れられて、錠《じよう》をぴーんとおろされてよ、合鍵を持っていかれちまったんじゃあ、もう出ることもひくこともできねえ。さだめしさびしかろうから、それで、お通夜をしてやろうてんだ。『よかろう、じゃあ出かけよう』ってんで、焼き場へ行くと、『いらっしゃいまし。お上がんなさいよ』と、こうにぎやかな声をかけてくれやがった。上草履をつっかけて、幅の広い梯子をとんとんとんと上がっていくと、『さァ、どうぞこちらへ』てんで、そこへ座っていると、肴だの酒が出てくるから、長公を相手にちびりちびりやっていると、赤い着物を着た島田の姐《ねえ》さんがそこへ出てきたから、おやおや、こいつァ変だとおもってね……」
「な、なにを言ってるんだい、ばかばかしい。聞いて知ってるよ。紙屑屋の長さんを連れて、おまえさん、お女郎買いに行ったんだろう?」
「うん、じつはそうなんだ」
「まあ、お酒の上で行ったものはしかたがないが、なぜあくる朝帰ってこないんだい? 紙屑屋の長さんは、一人で先に帰ってきてるじゃあないかね」
「さあ、それがね、おれもその、なにしろ酔っぱらっていたし、朝ンなって目を醒まして、連れはどうしたと聞くと、『お連れさまは、先ほどお帰りになりました』って言やがらあ。長公もしみったれた野郎じゃねえか。ぐずぐずしていると、また一日商売を休まなけりゃならねえとおもって、先にずらかりゃあがったんだ。なにしろ前の日に、酒をうんと飲んでるもんだから、胸がじりじりしてしょうがねえ。あつい塩茶かなにか飲みてえような気がするんだ。敵娼《あいかた》から楊枝《ようじ》をもらって、こいつをくわえて、顔を洗おうとおもって、階段をとんとんとんと降りていこうとした。すると、下で、おれを見あげている女があるんだ。『熊さん、熊さんじゃあないか』『おめえみてえ乙《おつ》な女に熊さんなんて言われるこたあねえんだぜ、人|違《ちげ》えしちゃいけねえぜ』ったら、『なにを言ってるんだね、男てえものァほんとうにそれだから憎らしいよ。人ちがいかなにか、わちき[#「わちき」に傍点]の顔をよくごらんよッ』……おい、おッかァ、おい、おめえ仕事をしながらその横目でじろじろ見ていねえで、おれの話をこっちを向いて身にしみて聞いてくれやい。それがおめえびっくりするじゃあねえか、それ、品川にいたお松を……おうおっかァ、怒っちゃあいけねえよ。……そのお松の女《あま》っちょが、住み替えしてきやがったんだ。あれが品川にいた時分、おれが芝へ泊まりがけで仕事にいって、『友だちのつきあいだ、ひとつ行ってくれ』てんで、こっちもいやとも言えねえから、『よしきたッ』てんで、いっぺん上がったやつが病みつき、裏、馴染《なじ》みと通ってるうちに、その時分にゃあ赤い手絡《てがら》で、向こうもまだ子供ばなれがしてなかったが、豪儀とおれに馴染《なじ》んでやがって、『ちょいとあたしみたいなもんでもおまえさん、なんとかしてくれる』なんてやがってね、うん。『なんとでもしようじゃねえか』『年期《ねん》があけたらどうするの?』ってえから、『じゃあおれが引きとろうじゃあねえか』ったら、『ほんとうなの』ってから『ほんとうもうそもあるかい、親船へ乗った了見でいねえな』ったら、『どうもおまえさんは、ふわふわしていて危ないねえ』ってやんの。いつだったか遊びに行って、夜があけるとどうもひどい降りだ。『どうすんのこれから仕事に行くの?』ってえから、『冗談言っちゃあいけねえやな、こんな降りで仕事なんぞできるもんかい、直そうじゃあねえか』ったら、『まァうれしいよ、じゃあねェ、ちょいとあたしが奢《おご》るからお待ちよ』ってやがってねェ、おれの好きなたのしみ鍋[#「たのしみ鍋」に傍点]かなんか取ってくれて、差し向かいで……こう、飲んでいる……やつァおれの顔を孔《あな》のあくほどじィッと見てやがったが、下ァ向くと熱い涙ァぽろぽろッとこぼしゃあがって、『どうしたんだ? おう、酒ェ飲んでる前《めえ》で、めそめそ涙なんぞこぼしなさんな、お通夜で酒ェ飲んでるんじゃあねえ、しめっぽくなるじゃあねえか』ったら、『わちき[#「わちき」に傍点]は考えりゃあほんとうにつまらないわ』ってやがる、『なにがよ?』『おまえさんは口じゃあたいそう様子のいいことを言ってるが、お友だちから聞いたら、かわいい女房や子供があるてえ事《こつ》たから、わたしがどうのぼせたって末の遂げられるもんじゃあなし、考えりゃあほんとうにわちきゃ[#「わちきゃ」に傍点]もう世の中がいやになったわ』ってやがる、『なにを言ってやンだってんだ、ねェ、かかあや餓鬼があったってなんだってんだ、合わせものははなれもんじゃあねえか、かかあなんざァ叩き出……』(言いかけて、女房の顔を見て咳ばらい、下を向いて頸《くび》を撫ぜ)……なにを言ってやんでえってんだ、ねェ、かかあなんぞは、叩き出すわけにはいかねえってね、おらあ、そ言ったんだよ、うん。そのうちに仕事があってこっちィ帰ってくる、だんだん亀は大きくなってきやがる、『とっちゃん、お仕事《ちごと》かい、とんとんかい』なんて、まわらねえ舌でなんか言われりゃあかわいいや、女のことなんざあそれっきり忘れちまっていた、あいつは、おれの顔を見るなり、『熊さん、あれっきりってえのはひどいじゃないか。手紙をやっても返事もくれず、あたしァ、流れ流れて、この楼《うち》へ来たんだが、なにさ、さんざっぱらひとに気休めを言っときながら、いったいあのときの約束はどの口でお言いなんだよ』ってえから、『まァほかに持ちあわせもございませんし、たぶんこの口でござんしょうか』ってんでね、おれがよしゃあよかったんだよ、顔を出したら、『この口が悪いんだよォッ』って、おれの頬っぺたをきゅッと、つねって振りまわしゃァがる、そのときの痛さてえなあなかったねェ、ここが我慢のしどころだとおもうから、じィッとおらァ辛抱していた、今朝楊枝を使うときまだぴりぴりしていやがる、ここンとこ……どうかなってないかい?」
熊五郎の出た顔を、おかみさんは、ぴしッと平手打ち。
「……あ、痛え。おいでなすった、おれももうくるかなとはおもっていたがね、かねて覚悟とわしゃ知りながらてえやつだ、ねェ、おぶちおたたきどうでも……おや? なぐったやつが泣いてなぐられたほうが、しゃァしゃァして……なにが不足でお泣きゃ……」
「いいかげんにしやがれ、畜生めッ(袖で目頭を抑え)、三日も四日も女郎を買って帰《かい》ってきて、女房の前で女郎の惚気《のろけ》を言やあ、どこが働きになるんだいッ」
「なに、働きのなんのてえわけじゃあねえが、金を使った筋道がわからなきゃあ、おめえもいやだろうとおもうからこっちァ、親切に話をしてるんじゃあねえか、なんでえ、仮にも亭主を、ひっぱたきゃあがって、ひでえことをしやァがる」
「(涙声で)おまえさんにゃァあたしゃあもうつくづく愛想《あいそ》が尽きました。子供のある仲だとおもうから、いままでは辛抱してきたが、これじゃあとても末の見こみもないし、おたがいに年の一つでも若いうちに、身の振り方をつけなきゃあなりませんからねェ」
「ごもっともでござんす、じゃあどうするてんだ、え? なにを? 離縁《りえん》してくれ? ふゥん、これァ恐れ入ったねェ、かかあのほうから離縁をしてくれてえものを、お願《ねげ》え申しますてんでこっちからあやまって、鎖でつないどいたってしょうがねえや、気に入らねえもんなら出ていってもらおうじゃあねえか、なにを言ってやんでえ、こっちだって悪《わり》いとおもうから下手に出てあやまってるんでえ、のさばるない、気に入らなきゃあどんどん出ていけ、あとがつかえてらあ、裏の溝《どぶ》じゃあねえけども、かかあだのぼうふら[#「ぼうふら」に傍点]なんてものァ、棒をつっこんで掻きまわしゃあいくらだって出てくらい、気に入らねえんなら出て行け」
「出ていく代わりに、仲人ンところィ行って、どういうわけで出てきたと言われたときに証拠がなくちゃあなりませんから、離縁状を、さ、一本書いてください、証拠になるように一本お書きなさい」
「なにを言ってやんでえ、変なこと言うねえ、一本書け一本書け、そば屋の出前持ちが釜|前《めえ》で鰹節《かつおぶし》をかくんじゃあねえや、見ている前で一本書けてえことがあるかい、それならばてんですぐに筆を取って書ける腕がありゃあ、親から譲られた棟梁株だ、なァ、指金《さしがね》ェ腰ィはさんで帳場ァひとまわりぐるっとまわりゃあ職人のはね[#「はね」に傍点]が取れるんだ、字が書けねえからこうやって貧乏してンだい自慢じゃあねえが」
「そんなこたあ自慢にゃあなりません、書いてください」
「書けねえや、二、三日待て、活版所へ誂えてやらあ、何百枚でもこせえてやらあ」
「そんなもんじゃ証拠にゃならない」
「いけねえッてンなら、台所《でえどころ》に五合徳利があるだろう? あいつを持ってけェ、仲人ンとこへ。これが離縁状の代わりです、どういうわけだったら、ごんご道断一しょうのわかれ[#「ごんご道断一しょうのわかれ」に傍点]でございます、このとおり逆《さか》さにしても夫《おつと》(音)もない」
「そんな口上茶番《こうじようちやばん》みたいなことは言っていかれない、きめるものをきめてください」
「じゃ、きめるものをきめてやらあ」
と、手をあげて乱暴に殴りつける、
「おいっおいっ、危《あぶ》ねえッ……おいおいッ待ちな」
と、仲人《ちゆうにん》が停《と》めに入ったが、
「なにをっこの、木魚頭《もくぎよあたま》っ」
と、これもぽかぽかと殴りつける。
「痛いね、どうも……丸髷《まるまげ》と禿げ頭の見分けもつかねえか、おお痛えッ」
「旦那、いま旦那ンところへ行こうとおもったんです」
「聞いた聞いた、聞いてたよ……おい、熊、冗談じゃないぜ、どんなおとなしいかみさんだって怒るのァ無理ないや、ええ? 三日も四日も女郎買いに行って、かみさんの前で女郎の惚気《のろけ》を言うてえなあどうも呆れたもんだ。まァそう言っちゃあ失礼だが、おまえさんには過ぎたもんだよ……こんなよくできたおかみさんてえなぁないよ、おまえが帰らなくったって、ひと晩でも寝ちゃあいないよ、夜っぴて仕事をして待っている、じつにまァあんなに身体《からだ》がつづくもんだとおもう。路地が閉まっちまう、とんとんと叩《たた》くものがあると、『熊さんかい』てんで、すぐにおかみさんが出て行く、とんとんまでは叩かせない、『とん』てえと『熊さんかい』『とん熊さんかい』てえくれえのもんだ。昨夜《ゆうべ》もあたしゃあ用足しに行って遅くなって帰ってきた、困ったなとおもって路地を、とんとんと叩くと、『熊さんかい』てえから、『いいえわたしです』てえと、『おや旦那ですか、いま開《あ》けますから』てんで、おかみさんが開けてくだすった。『ありがとう存じます』てんで、礼を言って家ィ帰った。今度はいくら叩いても、うちのばばあが起きねえ、しょうがねえから裏へまわって、戸をはずして中へ入って寝ちまったが、まだ知らねんだ、今朝ンなってからわたしの顔を見て、言い草が気に入らねえ、『おやおやいやなおじいさんだね、戸締まりは厳重にしておいたが、どっから入《へえ》ってきたんだい? おまえさん、節穴からかい?』と、こう言やァがる、亭主を油虫と間違《まちげ》えてやがる、ええ? それもいいが、『こねえだ、半纏《はんてん》がなくなったのは、おまえさんの仕業じゃないかい』だって言やがる。呆れ返《けえ》ってものが言えねえ。ま、そんなかかあを持ったところでしょうがない、まァおまえさんにはほんとにすぎたおかみさんだ、まァ今日のところァ熊さん、できが悪いや、ええ? 重々でき[#「でき」に傍点]が悪いよ」
「どうせでき[#「でき」に傍点]が悪いよ、なにを言ってやンでえ、お供餅《そねえ》じゃあねえから、でき[#「でき」に傍点]が悪いったってどうなるもんじゃあねえんだ、第一《でえいち》、なにかい、なにしに来たんだ? おめえ」
「なにしに来たって、夫婦喧嘩ァしているから、あたしァ仲裁に来たんだ」
「大きなお世話でえ、こっちゃこっちで勝手に蹴合ってるんでえ」
「軍鶏《しやも》だ、まるで……仮にも仲人《ちゆうにん》は時の氏神ていうぞ」
「氏神もねえもんだい、渋ッ紙でこしれえた蛇《じや》みてえな面《つら》ァしてやがって、まごまごしやァがると顎《あご》の先を引っ裂《つア》いて、洟《はな》ァかんじまうぜ」
「なんだい、こりゃおどろいたねェ」
「なにがおどろいたんでえ、仲人なんてえものァなァ、おゥ、かかあをむやみに持ちゃげて、亭主をへこましゃあそれでいいってのかい、なにを言ってやんでえべらぼうめェ、いやにかかあの肩ばかりもちゃあがって、どうもこねえだっから、かかあに変な目つきばかりしやがっておかしいとおもった」
「なんだい、こりゃどうも呆れたねェ」
「なにを呆れてやんでえ、こっちが呆れてらい、しみッたれ野郎」
「なにがしみったれだ」
「しみったれだから、しみったれだてんだ、てめえにゃあ今日このごろ癪にさわるんじゃァねんだ、おとどしの秋の彼岸から癪にさわってんだ」
「たいそう古いなァ」
「あたりめえでえ、おれンとこで精進揚げを二十一こしれえてやったら、小さな牡丹餅《ぼたもち》を七つ持ってきやがったろう。第一《でえいち》酒飲みのところへ牡丹餅なんぞ持ってきやがって、こん畜生め」
「こりゃ呆れてものが言えねえ、これじゃァまァ口がきけない。……いいえ心配しなくってもいいよ、あたしァ帰るから。……おゥ、亀坊か、いいとこへ帰《けえ》ってきた、親父ァまたあいかわらず酔っぱらって帰《けえ》ってきて、おふくろを困らしてらあ」
「しょうがねえなァ、酔っぱらって帰ってきちゃおっかァ困らしてんだから、ばか親父ッ」
「なんだこん畜生め、帰ってきて、なぜただいま帰《けえ》りましたと挨拶をしねえんだ、ふざけやがって、まごまごしやがると……踏み殺すぞッ」
「へへ……尻をまくるんなら、もう少し褌を堅く締めてくれ」
「いやな餓鬼だね、こん畜生どうも……てめえの育て方が悪いから餓鬼が高慢になってしょうがねえや」
「……すみません(袖で目を抑え、むせびながら)、男の子は男につくのが法だというが、あたしも置いていくと気になりますから、この子はあたしが連れていきたいとおもいますが、それともおまえさん……どうしても置いていけてンなら、しかたがないが……亀坊おまえ、ここへお座り、おまえおっかさんがいなくなってもおとっつぁんのそばにいるかい?」
「いやだい、だれがこんな親父のそばにいるもんか」
「なにを言ってやんでえこん畜生め、こんなものァ置いていかれちゃあ迷惑だ、悪魔っぱらいだ、どんどん連れてってくれ」
「なにを言ってやんでえ、ざまァねえやッ」
「そんな憎まれ口をきくじゃあない……じゃァおとっつぁんにご挨拶をおし、ながながご厄介になりましたと」
「おとっつぁん、あやまっちまいなよォ、おとっつぁんが悪いんだからあやまっちゃえってんじゃないかよォ、お酒飲んでおっかァをいじめるから怒っちゃうんだよ、おいらだのおっかァがいなくなると、お酒買いに行くもなあなくなっちゃうぜ、あやまンなよ、いまのうちにあやまれば、ともに口を添えらあ」
「生意気を言うな、とっとと出てけッ」
「さあ、ながながご厄介になりましたとお礼をお言い」
「しょうがねえなあ……いま言うよ、ながなが……ながなが亭主にわずらわれ」
「なにを言やンでえ、こン畜生め」
おかみさんは、子供の手をひいて、小さな風呂敷包みを持って、仲人《なこうど》のところへ行く。
「なァに、酔っぱらって帰《けえ》ってきやがって、体裁が悪いからそんなことを言ってるんだ、まァまァいい、二、三|日《ち》泊まって、おどかしてやんな、向こうから迎えに来るから」
仲人は、たか[#「たか」に傍点]をくくっていたが、迎えが来ないで離縁状が届いた。しかたがないから、おかみさんは他人《ひと》の家を間借りをして、賃仕事をして子供を育てることになった。
熊五郎のほうは、その晩から吉原へ通いづめで……年期《ねん》あけをやっとのことで家へひっぱってきたが、先のおかみさんとは大ちがい。
手にとるなやはり野に置け蓮華草《れんげそう》……
裲襠《しかけ》を着ていりゃあ乙《おつ》な女だが、連れこんで襷《たすき》をかけさせてみればさまにならない。亭主といっしょに大酒を飲む、長屋の鉄棒《かなぼう》をひく、朝寝をして昼寝をして宵寝をする……というわけで、手がつけられない。
「おい、起きてめしを炊いてくれなくっちゃあ困るじゃあねえか、おい、起きねえよ」
「いやだよゥ」
「いやだって、仕事に行くんだぜ」
「おまんまァあたしゃ炊けないんだもん……」
「弱ったなあ」
「おまんまが炊けるくらいなら、おまはんところは来やしないよ。吉っちゃんとこへ行きたかったんだけれども、おまえがおまんまなんぞいいから来い、てえから来たんじゃないの」
「そんなおまえ、言いがかりみてえなことを」
「言いがかりはそっちだよ、ねェ、炊けないものを無理に炊けだなんて……ねェ、おまんま炊くのはおまはんのほうがうまいんじゃないかね、上手だよ、炊いとくれよォ……上手だけれど、昨日は少しご飯が固かったよ、胃に障《さわ》るから今日もうちっと柔らかめに炊いとくれ」
「ふゥん……」
「いやだよゥ、溜息なんぞついて、貧乏くさい」
「あァあ……とんでもねえことをした、いやだいやだ」
「あら、なんだい、気に入らないっての? いやだってのかい? ふん、おまえがいやならわちき[#「わちき」に傍点]もいやだ、おたがいにいやじゃしょうがない……あァあやだやだ」
背中を向けて布団をかぶってしまう。これじゃあしょうがない、追い出そうとおもってるうちに、もとより踏台で来た女、向こうで出て行ってしまった。
熊五郎は、これでようやく目が醒め、酒を断って、真面目な人間に改心する……。
そして、三年後……。
「あのお隣のおばあさん、すみませんがねェ、番頭《ばんつ》さんの供で、これから木場まで行かなくちゃあならねんですが、どうか留守を頼み申します。それから、あとで水屋が来たら、この水がめへ一荷《いつか》入れといてもらっておくんなさい。お銭《あし》は、かめの蓋の上に乗ってますから、へえ。いえ、たいして遅くァなりませんから、どうもすいませんで……番頭さん、お待ち遠さま、まいりましょう」
「たいへんだねェ、棟梁、出て行くのにいちいち隣へ頼まなくちゃあならないのァ」
「へえ、どうもねェ、ひとりじゃあしょうがござんせんで、ちょいと近所へ出かければって、向かいだとか、隣だとかへ留守を頼まなきゃあなりません。まァそんなことはどうでも、洗濯ものだ、なんだかんだとあって、男世帯てえやつは、どうもうまくいかねえもんで、女やもめに花が咲き、男やもめに蛆《うじ》が湧くってたとえがありますが、どうも意気地がござんせんよ」
「しかたがないよ、おまえさんもいいことをした酬《むく》いだ、まァそう言っちゃあなんだが、あの二度目のおかみさんてえなあ、よほどひどかったらしいなァ」
「へえ、どうしてあんなばかな女に迷ったかとおもうようですが、どうもしょうがありませんで、なにしろ朝寝をして昼寝をして宵寝をしやがんですから」
「じゃ一日寝てるんじゃないか」
「へへえ、百《ひやく》(安価)で馬ァ買ったようなもんで、酒ェくらっちゃあ鼻唄ばかり唄ってやン。こっちも忌々《いまいま》しいから、叩《たた》き出そうとおもったら、なァに、向こうがさっさとおン出てくれましたから、こいつァいけねえとおもったんで、好きな酒も断ちまして、一所懸命稼ぐようになりましたんで」
「結構なことだ。真面目にさえ仕事をしてくれりゃあ、腕はいいんだ、店《たな》の評判もよし、わたしもよろこんでいるんだが……先《せん》のおかみさんはどうしたんだね?」
「……へえ」
「いいおかみさんだったじゃあないか、器量も悪かあなし、仕事もできるんだろう」
「へえ、なんてんですかまァ、貧乏なれがしているとでもいいますか、世帯の繰《く》りまわしのうめえ女でした」
「棟梁、たまには、おかみさんのことをおもい出すこともあるかい?」
「そりゃあ、かかあのことなんぞおもい出しゃしませんが、おもい出すのは餓鬼のことでございます」
「そうだ、男の子があったねェ、エエッと、亀ちゃんてんじゃあないかい? うん、憶《おぼ》えてる、かわいい子だったねェ、いくつだ?」
「あれから三年ですから、十……一、でござんす」
「かわいいさかりだねェ、どこにいるんだい?」
「さァ……どこにいるものか、野郎の音沙汰ァまるっきり知りませんが、やっぱりどうも、表へ出て、おんなし年ごろの子供を見ると、うちのやっこ[#「やっこ」に傍点]じゃねえかとおもって……こねえだも、菓子屋の前を通りますとね、饅頭を蒸《ふ》かしてる、蒸籠《せいろ》の蓋を取るとぽォッと湯気《けぶ》が出てるんで、あァうまそうだなァ、野郎が饅頭が好きだったが、買って食わしてやったらどんな面《つら》ァするだろうと……おもわずあっしゃ饅頭を見て涙をこぼしましてねェ。菓子屋の小僧が不思議そうにあっしの顔を見ていたが、『あのおじさんは饅頭を見て泣いてるが、清正公さまの申し子じゃあねえか』なんて……へへへへ、親てえものァばかなもんでござんすよ」
「いや、そりゃばかなことじゃあない、ほんとうの情《じよう》というもんだ、向こうが亭主を持ってしまっていりゃあしかたがないが、もしそうでなかったら(と、言いかけて、遠くの一点に目を据えて、しばらく見つめて)……おい、棟梁」
「へ?」
「噂をすれば影というが、おかしなことがあるもんだね、ほら、向こうから子供が三人駆け出してきたろ? ほらほら……いま、しゃがんでなにかしている、絣《かすり》の着物を着ているあの子だよ、あれ……ねェ、亀坊じゃないかい?」
「え?……あっ、あァあ……」
「そうだろう?」
「ええ……そうそうそ、そうです、亀の野郎で、へへへへへ、動《いご》いてやがる」
「動くよ、そりゃあ、あたりまえだよ。へえェ、縁だねェ、噂をしていて、こんなにひょっこりここで逢うというのはさ、縁だよ」
「へえ……」
「棟梁、ひと言言葉をかけておやりよ。あたしはね、ひと足先へ行っているから……」
「へえ、さようでござんすか。じゃあ番頭《ばんつ》さん、すいませんが、ひと足お先へ願います……おうおう、亀、亀、きょろきょろしてやンな、どこを見てンだ、おう、こっちだよッ」
「……やァ、だれだとおもったら、おめえ、おとっつぁんだな」
「こっちィ来いよ、なにをはにかんでるんだい、久しく見ねえうちに大きくなったなァ」
「おとっつぁんもたいへん大きくなった」
「大きくなりゃあしねえやな、おゥ、色が黒くなって丈夫丈夫しやがったなァ、おっかさんは達者か? そうか……おとっつぁんはかわいがってくれるか?」
「おとっつぁんて?……おめえがおとっつぁんじゃあねえか」
「おれは先《せん》のおとっつぁんだ、こんだあとからできたおとっつぁんがあるだろう?」
「そんなわからねえやつがあるもんか、いくら世の中がひらけたって、子供が先ィできて親があとからできるなんて……子供が先ィできるのァ八頭《やつがしら》ばかりだ」
「生意気なことを言うな……じゃあおっかさんとふたァりか?」
「うん」
「そうじゃあねえだろう、おまえはまだ子供でわからねえが、寝ちまって遅くなって泊まりに来るおじさんがあるだろう?」
「そんなものァありゃしないよ、あたいンとこはねェ、畳がふたっつしかないんだよ、で、荷物があって、あたいとおっかさんと寝ればいっぱいなんだもの、あたいが寝相《ねぞう》が悪いから、ときどき流しィ転がり落っこちる」
「危ねえ家《うち》にいるんだなァ、なにをしてるんだ」
「おっかさんがねェ、着物を縫ったりなんかして……」
「そうか、おっかァは針が達者だった……学校はどうしてる?」
「行ってるよ」
「おっかさんが苦労して学校へ通わしてくれるんだ、怠けるんじゃねえぞ」
「大丈夫だよ、怠けやしないよ、あの、おっかさんがそう言ってるもの、『おとっつぁんはお仕事はお上手《じようず》だけど、あの人は惜しいかな明き盲で出世ができないんだから、おまえは一所懸命勉強しなよ』って、よくそう言ってるよ。……おとっつぁんは明き盲なんだってね。あたいがここにいたの、よくわかったね」
「なにを言ってやン……おとっつぁんみてえな明き盲じゃあいけねえ、なァ、これからはなんでもお勉強ができなくちゃあいけねえから、一所懸命やってくれ……で、なにか、おっかさんは……たまにゃァおとっつぁんの話を、するか?」
「よくそ言ってるよ」
「なんだって?」
「あのゥ、いまのうちに相談相手になるものを持ったらどうだって、ずいぶん勧めてくれる方はあるけれども、おまえがかわいそうだからおっかさんはもう生涯ひとりで暮らすんだって、亭主は先《せん》の飲んだくれ[#「飲んだくれ」に傍点]でこりごりしたって」
「ひでえことを言やあがる、無理ァねえやなァ、あの時分にゃ酒ばかり飲んじゃあおっかァに苦労かけたから、いまでも、恨んでるだろう」
「ううん、恨んでなんかいないよ」
「だって、おとっつぁんのこと、よくは言ってねえだろう?」
「そんなことないよ、あの、雨が降って遊《あす》びに行けないでねェ、お仕事のないときだと、家にいるとおっかさんがいろんなお話してくれるよ、おっかさんが昔はお屋敷ィご奉公していたんだってねェ、で、そこィおとっつぁんがお出入りの大工さんで、仕事に来たんだって、で、その時分に半襟だの前掛なんぞよく買ってくれたことがあるって、親切な人だとおもっていたら、番頭さんからお話があって、姑小姑《しゆうとこじゆうと》もないし、一緒になったらどうだって勧められたから、ご夫婦になったんだって、おとっつぁんはいい人なんだけど、お酒がいけないんだって……お酒を飲んで魔がさしたから、こんなことになったんだけれども、ほんとうはおとっつぁんはいい人だって……いつでもいい人だいい人だってそ言っているよ、へへ、おっかさんだいぶおとっつぁんに未練があらあ」
「生意気なことを言うな、おとっつぁんもいまじゃあ酒は断《た》っちまったし、変な女なんざあ、とっくの昔に追い出して、ひとりでいま稼いでるんだ」
「じゃ、おとっつぁんひとりでいるの?」
「うん」
「じゃ寂しいだろ?」
「……寂しいったって……ふふふふ、寂しくたってしょうがねえやな」
「あたいン家《ち》ねェ、すぐそこなんだから寄っといでよ……荒物屋とねェ、豆腐屋の路地入ったとこなんだから、すぐそこだよ、寄っといでよ」
「ばかなことを言うな、おっかァに逢えねえいろいろわけがあるんだ、おめえは子供でわからねえ、そのうち逢える時機がきたら逢うから、まァま、それまでなにしてな、無理なことを言うな、さァさ、じゃ、おめえに小遣《こづけ》えをやるから手を出しな……さ、おい、手を出せよ」
「やァ……こんなに? あたいお釣銭《つり》ないよ」
「お釣銭《つり》なんざあいらねえやな、おめえにお小遣いにやるんだからみんな取っとけってんだよ」
「みんなくれンの? ほんとうに? えらいなァ、先《せん》にはお銭《あし》おくれってえと、この野郎なんてすぐ怒ったんだけども、へへ……年齢《とし》はとりてえもんだ」
「生意気なことを言うな、落っことすなよ、え? しっかりしまっとけ、むだなものを買うんじゃねえ」
「むだなものなんぞ買わないよ、鉛筆が欲しいから買ってくれったって、おっかさんなかなか、いいって買ってくれねえんだもの、買ってもいいかい?」
「ああいいとも、学校のもんならおとっつぁんまたいつでも買ってやるから……おい、どうしたんだ額《ひたい》のところ、さっきから、おらあ墨がついてンだとおもったら、傷があンじゃねえか……男の子の向こう傷なんてよくねえ、え? どうしたんだ、転んだのか」
「これかい?……これ、転んだんじゃあないんだよ、斎藤さんとこの坊っちゃんと独楽《こま》ァまわして遊《あす》んでたんだ、あたいの独楽ァ利いたんだけど、坊っちゃんがそのとき利かねえってから、いまの利きましたって、そ言ったら、利かねんだいって、そ言って、独楽でここンとこをぶったんだよ。痛いから家ィ泣いて帰ったら、おっかさんそンときァずいぶん怒ったよ、いくら男親のない子だって、こんな傷までつけられて黙っていたら、しまいにはなにをするかわかったもんじゃない、この後《ご》もある事《こつ》たし、おっかさんがよくかけあってやるから、どの子がしたんだか言えってえからねェ、斎藤さんの坊っちゃんにぶたれたんだって、そ言ったんだ、そうしたら痛いだろうが我慢しろって……あすこの奥さんには、しじゅう仕事をいただくし、坊っちゃんの古いものを頂戴をしておまえに着せたりなんかァしてンのに、子供の喧嘩ぐらいなことで気まずくなって、おまえもあたしも路頭に迷うようなことがあるといけないから、痛いだろうが我慢しろって……(目をこすり)そンときおっかさんがそ言ったよ、こんなときにあんな飲んだくれ[#「飲んだくれ」に傍点]でもいたら、少しは案山子《かかし》になるって、そ言ってた」
「そうか……すまねえ、おとっつぁんがばかァしたために、おめえにまで苦労をかけて申しわけがねえ、そのうちにきっと人をもって、おめえやおっかァを迎えにやって、楽をさせるから、え? (目をこすり)少しのあいだ我慢をしろ、え? へへへへ……泣くな泣くな、みっともねえ、え? 男がめそめそ泣くやつがあるけえ、泣くねえ……」
「……おとっつぁんだって泣いてるじゃあねえか」
「おとっつぁん泣きゃあしねえやな、目から汗が出るんだ、ははははは……おめえ、鰻が好きだったなァ、鰻ァ食うことァあるか?」
「ううゥん、鰻なんて、そんなものァ食えるもんか、肝《きも》だってめったに食えねえや」
「そんなことを大きな声で言うんじゃあねえ、じゃ、これから連れてってやりてえが、今日はいけねえんだ、番頭さんの供で木場へ行かなくちゃあならねえから、明日《あした》いまごろここに待ってるから、その角《かど》の鰻屋ィ連れてってやるから、来るか、いいか? そうか、じゃ、おとっつぁんな、待ってるから忘れねえで来なよ」
「うん」
「どうしたんだ……うんうん、じゃ、おっかァが心配《しんぺえ》してるから早く帰《けえ》ンな帰《けえ》ンな……あァあァ、おいおい……明日鰻を食いに行くことだの、小遣いをもらったことをおっかさんに言うんじゃねえ、いいか」
「どうしていけないの?」
「どうして……ってこたあねえが、おとっつぁんと言わねえで、よその知らねえおじさんにもらったと言うんだ、おとっつぁんと言っちゃあならねえ、いいか、言うなよ、わかったな、じゃ、早く帰ンな帰ンな……おいおいおい……用じゃあねえ、駆け出すなてんだよ、ちゃんと歩いてけよ、危ねえじゃねえか。なにを……ああ、いいよいいよ……わかったわかった、そこを曲がって、よしよし、わかった(遠く見送って)……へッへッへッへ、大きくなりゃあがったなァ……」
「おっかさん、ただいま」
「ただいまじゃないよ、早く帰ってくれなきゃしょうがないじゃあないか、仕事はつかえているし、お手伝いをしておくれよと頼んであるじゃあないか、ほんとうに困った子だ。さァさ、こっちィ来るんですよ、さ、糸をかけるの(と、子供の両手の手首に糸をかける)、ちゃんとしてなくちゃ糸がかからないよ(と、手をぐるぐるまわして糸を巻きとる……)ほゥら、また洟《はな》を垂らしてンねこの子は……、どうして、洟をおかみなさいよ」
「おかみなさいよったって、両方の手がふさがっちゃってるんだもの、おかみなさいよったってかめやしねえや」
「先ィかめばいいじゃない」
「先ィかんだってだめなんだよ、あとからすぐ出てきちゃうんだもの……あたいの鼻ァ掘り抜きなんだ」
「なに言ってるんだね、掘り抜きの鼻てえのがあるかね」
「そんなこと言ったってしょうがねえやな、あとから出てきちゃうんだもの、へへへへ……(上唇をなめる)」
「なぜなめるんですよ、洟を、汚い……ちょいとお待ち、(巻きとる手をやめて、子供の手ににぎっているものを取り)どうしたの、このお金は?」
「それ、……いいんだよ」
「いいんだって、どうしたの?」
「もらったんだよ」
「だれに?」
「だれにだって……うゥん、もらったんだい」
「嘘をおつき……こんなにくださるわけないじゃないか、五十銭も。え? どこでだれにいただいたの?」
「そんな……名前は言うなって、そ言ったんだもの、えへへへ、言えないんだよゥ、あたいがもらったんだから返しとくれよ」
「どうしても言えないのかい? そうかい、ああいい、言わなくともいい。おっかさん、けっして怒りゃしない、じゃ、表をちょいと閉めといで、いいからお閉め……おっかさんのそばへおいで、ここへおいでなさい……なにをしてるんだ……人さまからお使いを頼まれれば、一銭や二銭はくださるだろう。だけど、おまえに五十銭銀貨をくださる人が、いったいどこの国にいる? まさか、(と涙声になって)さもしい了見を出したんじゃァあるまいね、おっかさんは三度のものを一度しか食べなくたって、おまえに不自由をさせたことがあるか、(すすりあげ)取ったものはしかたがない、おっかさんがお詫びをして、お返しをしてくるから、どこの家から持ってきた? どっから盗んだ、まだ言わないか、よし、強情張ってろ……ここに金槌がある、おとっつぁんと別れたときにおまえが風呂敷ン中へこれを包んできたんだ、これでぶつのはおとっつぁんが仕置をするのもおんなしだ、言わないとこの金槌で(と、振りあげ)、頭を叩き割るから」
「うわーッ……あ…ァん、……盗んだんじゃあねえ、もらったんだ、盗んだんじゃあねえ、もらったんだァ(と、泣き出す)」
「どこでもらったの?」
「……わァーん……もらったんだァ……おとっつぁんにもらったんだァ」
「おとっつぁんに? 逢ったのかい?」
「なんだい、おとっつぁんたら前へはい出してきやがった」
「なにを言うんだい……ばかな子だよ、それならそうと言えばいいじゃないか。で、おとっつぁん、お酒に酔って、また汚い身装《なり》でもしていたかい?」
「ううん……きれいな半纏《はんてん》着て、あたいにお小遣いくれたろう、見ちゃったんだ、お金たくさん持ってたよ。お酒も断って、変な女なんぞはもう追い出しちゃって、一所懸命稼いでるんだって、おまえにも苦労かけてすまないって、おとっつぁん、泣いてたよ」
「おとっつぁんがお酒を断って、(しみじみと)ほんとうにねェ、あの人がお酒さいよしてくれりゃあ申しぶんがないんだけども……で、なにかい? あたしの……おっかさんのこと、おとっつぁんなにか聞いてたかい?」
「なんだい(と、鼻をこすり)両方でおんなしようなことを言ってやがる、へへ……いやンなっちまうなァ」
「なにを言うの、いやな子だよ」
「明日ね、鰻を食べに連れてってやるって、ねえ、行ってもいいかい?」
「ああいいとも、行っておいで」
翌日、女親は子供に小ざっぱりした身装《なり》をさして出す。自分も気になるから、鏡の前で鼻の頭をちょいと、ふたッつみッつぽんぽんとたたいて、半纏《はんてん》を上に着《か》け……きまりが悪いから鰻屋の前を四、五|度《たび》行ったり来たり……。
「ちょっとうかがいますが、わたしどものわるさ[#「わるさ」に傍点]がこちらィご厄介になっておりますか?」
「え? へえへえ、坊っちゃん、どちらかの親方とお見えになってますよ。お呼びしますか?」
「いいえ、呼ばなくてもよろしいんですが(と、階段の上をのぞきこむように)あのゥ、亀や、亀や」
「……やァ……おとっつぁん、おっかさんが来たよ、……おっかさん、いいから上がっといでよこっちィ」
「しょうがないねェ、おまえ、まァ、見ず知らずの方とごいっしょに」
「あんなこと言って、知ってるくせに……上がっといでよ、おっかさん、いいから……おとっつぁん、きまり悪がってるからよゥ、おっかさん呼んでやんなよ。……おっかさん、上がっといでってばよゥ。……おとっつぁん、呼んでやんなってばよゥ。……おっかさん、……おとっつぁん、……しょうがねえなァどうも、こう仲人に世話ァ焼かされちゃあやりきれねえ」
「なにを言ってやがる」
「まァ……きのうお小遣いをいただいて今日鰻をごちそうになるというから、どこの方と言って聞いても、ただ知らないよそのおじさんだと言うので、お礼のひと言も申し上げなきゃあならないとおもってうかがったんですが、おまえさんでしたの」
「え? えへん……ェェ、きのうじつァ、亀に逢ってね、で、鰻を食いてえってえから、じゃァまァ鰻でも食おうじゃあねえかってんで、へへへへへ、黙っていろって、そ言ってあるのになァどうも、しゃべっちまやがって、へへへ、子供はどうも無邪気だからしょうがねえや……きのう亀にひょっくり逢って……鰻が食いてえってえから、じゃ、まァ、久しぶりで鰻を食おうじゃねえかって、どうも…うッふふふ、子供は正直だからしょうがねえやどうも、へへへへ……じつはきのう亀に逢って……」
「おとっつぁん、おんなしことばかり言ってンだなァ」
「こいつをこれまで大きくしてくれたてえのァ、おれから改めておめえに礼を言わなくちゃならねえ、女手一つで育てていこうてえにゃあなかなか容易なこっちゃあねえ、ま、いまさらそんなことをおれの口から言えた義理じゃあねえが、なにごともこいつのためだとおもって水に流して、より[#「より」に傍点]を戻してもらうわけにゃあいかねえか」
「(袖を目にあて、すすりあげ)うれしいじゃあないかね、そうしてもらえばあたしはともかくも、この子が行く先どんなにしあわせになるかもしれない、三年ぶりにおまえさんに逢って、もとのようになれるのも、畢竟《ひつきよう》この子があればこそ、子供は夫婦の鎹《かすがい》ですねェ」
「やァ、あたいが鎹だって? あァ、道理できのう金槌で頭をぶつと言った」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「子別れ」は上・中・下の三部作になっている。〈上〉は熊さんが葬式の帰途、紙屑屋と会い吉原へ繰りこむ、別名「強飯《こわめし》の女郎買い」と題している。収録したのは〈中〉と〈下〉で、〈下〉は別名「子はかすがい」とも題し、「子別れ」として頻繁に口演される。作者は初代春風亭柳枝(慶応四年没)と伝えられているが、現型に改作したのは三代目柳橋――後の初代春錦亭柳桜の力で、その後三代目柳家小さんらに受け継がれ、柳派を代表する大真打噺となっている。時代設定は明治中期あたりと推察するが、最も注目したいのは〈中〉で、ここには他の「落語」とはひと味ちがう〈近代〉が持ちこまれているところである。とくに、冒頭の熊が朝帰りする心理に、家庭、女房に対する人間臭さ――市井のいわゆる小市民の生活感、体臭がはっきりと意識されている(男性のだれしもが家を前にして抱く、普遍的な感情だ)。従って、それから起こる夫婦の諍《いさか》いも、おたがいの蟠《わだかま》りが抑えられず、行き着くとこまで行ってしまうという結末[#「結末」に傍点]になる。女房の方も「厩火事」のお崎のように情に流される[#「情に流される」に傍点]ようなことはなく、イプセンの『人形の家』のノラのような名セリフ[#「名セリフ」に傍点]は言えぬにしろ、しっかりと先を見通した生き方をはっきりと主張する。こうした女性の言動には、だれしも身につまされる。「落語」の女性のいずれもすばらしいのに引きかえ、男性はこの噺の熊のように、いずれもめちゃくちゃでだらしなく、日常の中でちり積る汗や垢を仕様もなくさらけ出す。……そんな男を三年間、子供を育てじィッと待っててくれた。こうした「落語」に〈出会う〉たびに思う、「落語」は本質的に男性を対象にした、男性の聴くものではないかと……。
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麻生芳伸(あそう・よしのぶ)
一九三八年、東京に生まれる。京華高校卒業。映画、ジャズ、落語、本が大好きな芸能プロデューサー。林家正蔵、岡本文弥、高橋竹山、山田千里、エルビン・ジョーンズらのステージ、衣笠貞之助の映画の上映、津軽三味線や瞽女《ごぜ》唄などのレコードをプロデュース。編著書に『林家正蔵随談』『噺の運び』『こころやさしく一所懸命な人びとの国』『林檎の實』『往復書簡・冷蔵庫』(共著)などがある。
本作品は一九七六年二月に三省堂から刊行され、一九八〇年九月、社会思想社の現代教養文庫に収録、一九九九年三月、ちくま文庫に収録された。