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落語百選
麻生芳伸編
目 次
まえがき
うどんや
牛ほめ
弥次郎《やじろう》
寝床
火焔太鼓
首提灯《くびぢようちん》
勘定板《かんじよういた》
鼠穴《ねずみあな》
二番煎《にばんせん》じ
火事息子
按摩《あんま》の炬燵《こたつ》
大仏餅《だいぶつもち》
文七《ぶんしち》元結《もつとい》
芝浜
掛取万歳《かけとりまんざい》
御慶《ぎよけい》
かつぎや
千早振《ちはやふ》る
藪入《やぶい》り
阿武松《おうのまつ》
初天神
妾馬《めかうま》
雪てん
夢の瀬川
粗忽長屋
落語題名一覧
あとがき
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まえがき
落語は、いわゆる〈江戸っ子〉と呼ばれる――長屋住いの職人、行商人、商家の若旦那、奉公人などの生活感――真実感《リアリテイ》から生まれた〈文化〉である。
いまから二百年まえ――江戸中期、寄席が発祥し、そこでプロの噺家《はなしか》が巧みな話芸と日常の悲喜こもごもの出来事を題材《ネタ》に、〈笑い〉をさそい、噺の最終《フイニツシユ》――仕上げに、機智頓智に富んだドンデン返しや他愛ない地口《じぐち》(洒落、語呂合せ)で落ち[#「落ち」に傍点](サゲ)を付ける――落し噺から、落語という独特な演芸娯楽を創り出した。
その〈笑い〉が〈江戸っ子〉の心意気を映し、生きる弾みとなって、心を解き放ち、なごませ、快感となって寄席は毎夜、賑わい、繁盛した。
明治になると、三遊亭円朝はじめ橘家円喬、鼻の円遊、三代目小さんなどの名人の輩出によって、落語は磨かれ、さらにコクのあるものとなって、近代に迎え入れられ、夏目漱石、永井荷風が憧れるような質《レベル》にまで到達した。
また速記による〈活字〉で読む落語、レコード、ラジオによる〈音声〉で聴く落語と、寄席以外でも娯しむことができ、全国的にひろまった。
そして、落語は時代の激動にも耐え、戦後には古今亭志ん生、桂文楽、三遊亭金馬、桂三木助、三笑亭可楽、三遊亭円生、柳家小さん、金原亭馬生などによって一つの完成期を迎えた。――編者はその高座を〈生《ライブ》〉で聴けたことを、生涯の幸せの一つだ、と誇らしい気持でいる。
しかし、時代のめまぐるしい変貌に、人びとの暮らし、感性も変質し、と同時に落語も噺家もその拠所《よりどころ》を失なって変質せざるをえなくなってきた。
そこで〈活字〉によって落語を時代の変貌に耐える普遍性をとどめたい、と希った。
一例だが、「たらちね」の
「飯を食うのが恐惶謹言《きようこうきんげん》なら、酒を飲んだら依《よ》(酔)って件の如しか」
というサゲも、耳で聴いただけではさっぱりわからないが、〈活字〉で読めば、おおよその意味はわかる。〈活字〉の真価である。
本篇は、噺家の芸を取り除いて、落語の「素型」にもどし、時代の推移を停止《ストツプ・モーシヨン》して、その世界と|直か《ダイレクト》に向いあい、読者が一人で自由気ままに、その雰囲気に浸り、思い入れ、自分自身が演者になっていく……臨場感《リアリテイ》をとどめようと企てた。
この「落語百選」は、初版以来、約四半世紀を経て、三たび〈ちくま文庫〉として復刊された。
落語が夏目漱石、泉鏡花、宮澤賢治、坂口安吾等の全集と書架に並べられる……ということは、落語が長いあいだ〈笑い〉――演芸娯楽ということで蔑視されてきた歴史が、これでなにか価値上昇《グレード・アツプ》されたような思いで、私事を越えて、うれしいことである。
望外のことであったが、各巻に日ごろ尊敬し、教示をうけている鶴見俊輔、都筑道夫、加藤秀俊の各氏、そして、小生の人生の師≠ナある岡部伊都子さんから〈解説〉を頂いたことは、僥倖《ぎようこう》の一語に尽きる、感激である。
また表紙《カバー》に装画を飾ってくださった畏友、中島猛詞さんには刊行に至るすべてにお世話になった。
落語もこれで、鶴見俊輔氏の〈解説〉のごとく、「次の二百年」の命脈を保ちえる……であろうか。
一九九九年三月六日
[#地付き]編者
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うどんや
冬、だんだん寒くなると、御酒《ごしゆ》をあがる方は、寝しなに一杯飲んで寝ようということになるが、下戸の方は、なにか温かいものでも食べて寝ようということになる。夜鷹そばのあとの時代になって、鍋焼きうどんというものが売りにきた。鍋は今戸焼きの赤い鍋で、なかはうどんに鳴戸巻き、かまぼこ、それに青味をきかせてある。これを食べると身体が温《あつた》まる、というのでたいへんによく売れた。めくら縞《じま》の筒っぽを着て、手拭《てぬぐい》で鉄砲かぶり、屋台を担いで夜の町を、
「なーべやーき、うどォーん」
「うーい、ああいい心持ちだ……おい、うどん屋」
「お、いけません。もしもし、親方、その荷につかまって揺すぶっちゃあいけません、お汁《つゆ》がこぼれますから……いま、荷をおろしますから……」
「なに、荷をおろす?……うん、おろしてくれ」
「へえ、おろしました……どうもお寒うございます」
「寒いなあ……なんでえ、このやかんは?」
「これは、お汁でございます」
「おう、そうか。ちょっとおろしてみてくれ」
「へえ、おあたんなすって……だいぶごきげんですな」
「どうだい、うどん屋、景気は?」
「ええ、どうも不景気で困ります」
「なに? 生意気なことを言うない、うどん屋のくせに。不景気なんてえことは、てめえたちが言う文句じゃあねえや。景気がよくって、だれがうどんなんてえまぬけなものを食うやつがあるもんか、不景気だからしかたがねえ、我慢して食うんじゃあねえか。人間並みのことを言うない」
「どうも恐れ入りました」
「なにも詫びるこたあねえ、なあ……※[#歌記号、unicode303d]なんたら愚痴だえ、チリツン、チンツンツン……(と長唄『越後獅子』)……牡丹《ぼたん》は持たねど越後の獅子は……って、おらあこの唄が大好きなんだ」
「さようでございますねえ、にぎやかで……」
「なんだい、にぎやかてえのは。縁日じゃあないんだよ……だんだん文句をたたんでいって、ござれ話しましょか、こン小松のこかげで、松の葉のようにこン細やかに……と」
「へえ、三味線の手がこんでよろしいところですなあ」
「いやあ、三味線じゃねえんだよ。おりゃ、唄の文句が気に入らねえんだ」
「さいですか」
「さいですかって、てめえも、言葉の様子じゃあ江戸っ子だろう? こン小松なんて言葉があるかい、おい。こン細やかになんて言葉があるけえ」
「へえ、そういうことはあっしどもにはよくわかりません」
「わからねえったって、気に入らねえじゃあねえか。こン小松のこかげで、松の葉のようにこン細やかにと、ひとつやってみてくれ」
「そんなことは言えません」
「言えねえことがあるか」
「どうも恐れ入ります」
「あやまるか? あやまられてみりゃあしかたがねえ。てめえのあやまるものを、それをおれが腹を立つということはねえ……だけどおめえいい商売だな、おい。この寒いのにこうやって火を担いで歩いていられてよ。往来の者はどれだけ助かるかわからねえぞ、ほんとうに、なあ。世間をひろく歩いてりゃあ、なかなかこれでつきあいも多いや……あっそうだ、つきあいてえばおめえ、仕立屋の太兵衛知ってるかい?」
「存じません」
「知らねえことはねえだろう。つきあいのいい男だぜ。職人に似合わず字《て》をよく書いて、人の応対も立派にできて、かみさんが愛嬌者で、お世辞がよくって、娘が一人いる。ことし十八だ。みい坊って、いい女だぜ」
「へえ、さようでございますか」
「今夜、これが婿《むこ》をとったんだ。養子が来たんだ。同業から来たんだが、これが親父より仕事がうまくって、男っぷりもよし、似合いの夫婦だ。めでてえじゃあねえか」
「へえ、どうもおめでとう存じます」
「おれはな、若《わけ》え時分から太兵衛とは仲よしで、おらあまあ安かなかったけど茶箪笥《ちやだんす》を一つ祝ってやるてえとな、向こうは『親類は少ないし、兄弟《きようでえ》同様にしている間柄だから、ぜひ来てもらいたい』と、こう言うから行ったんだよ」
「さようでございますか」
「向こうへ行くとおめえ、『これはこれは、ようこそ』って、娘が出てきて、おれを上座に座らせて、おれのことを『おじさん、おじさん』って言やあがるんだ、へへへ、どうだ、うれしいじゃあねえか」
「さようでございますか、どうも結構でございます」
「結構?……もっとほんとうに結構らしく言いねえ。口先だけで結構でございますなんて、ばかにしやがる」
「どうも恐れ入りました。まことにおめでとうございます」
「ああ、ありがとうよ……おまえに見せたかったね。そうこうしているうちに、正面の唐紙がすゥーと左右に開いたよ。見るとおめえ、娘とおふくろが立派な扮装《なり》をして突っ立ってやんだよ。おどろいたなあ。なかなかあれは銭かけたぜ、うどん屋。膝ンとこなんぞいっぺえ絵が描《か》いてありやんだ。え? 頭ァ白い布《きれ》で囲っちめえやがってな、簪《かんざし》をいっぺえ差してやんのよ。で、胸ンとこへきらきらしたものを突っこみやがって、それでおめえさァーとしたものを肩からはおって……どこかで見た格好だなとおもったらな、箪笥屋の看板にああいうのがあったぜ……それでおめえ、立ったまんまで挨拶しやがんだよ。おらあ、ムッとしちゃったなあ、ばかにしてやがるとおもってよう。立って挨拶するこたあねえ、座るてえと着物が皺《しわ》がよっちゃうんで、野郎しみったれて座んねえのかとおもったら、そうでもなかったね。うん、ははは……おれは、そばへ来たら言ってやろうとおもった……『みい坊うまくやったなあ、一緒ンなったら亭主を大事にしてやれよ』って、肩のひとつもポンと叩いてやろうとおもった……そばへ来ねえんだよ、おめえ。親子のなれあいで、一間も先の方へ座りやがって、両手をついてさ、なあ、おれの顔をじっと見てやがるのよ。でね、いやにあらたまった調子で『おじさん、さて、このたびは……』っていきなり毒気をふっかけやがんだよ。おどろいたねえ、だってそうじゃあねえか。『さて、このたびは……』なんてえことは、うどん屋のまえだけど、よっぽど学問があるか、軽業《かるわざ》の口上でもなきゃあ、なかなか言えるもんじゃあねえぞ……『おじさん、さて、このたびは、いろいろご心配をいただきまして、まことにありがとうございます』なんてなあ……ねっへっへっ、おらあなあ、みい坊が、まだよちよち歩きのころから知ってるんだよ。よくおんぶしてやったもんだ。その時分にゃあ、小便もらしちゃあ、ぴいぴいぴいぴい泣いてばかりいやがったんだが……なあ、それがなあ、立派な扮装《なり》をしちゃってよ、おれのまえへぴたっと両手をついて、『おじさん、さてこのたびは……ご心配をいただきまして、まことにありがとうございます』なんてよ、おらあ、うれしくて、うれしくて……なあ、めでてえなあ、うどん屋、めでてえじゃあねえか、おいっ」
「えへへへ、さようでございますな。へえ、たいへんにおめでとうございます」
「たいへんにおめでとうございます?……めでてえならめでてえでいいじゃねえか。口先だけで、いやに大げさに、たいへんおめでとうございますなんてえと、なんだかおかしいじゃねえか、ええ?」
「はっは、さいでござんすか。じゃあ、おめでとうございます」
「じゃあ[#「じゃあ」に傍点]てえこたあねえだろ? じゃあ[#「じゃあ」に傍点]なんていやいや言うなよ。そういう不実なやつァ嫌《きれ》えだ。おうおう、なんでえ、いやに火が勢いがねえな。もっと炭をついだらどうなんだ? そのこまっけえとこでなく、大きなところをどんどん入れろやい……しみったれたことをするない。威勢よくやってくれ、威勢よく。めでたくどんどん熾こしてくれよ……おうおう、そう七輪をあおぐなよ……ずいぶん火の粉が飛ぶじゃねえか、見ろよ、物騒でいけねえや。よくこの近所で小火《ぼや》があるけど、火元はおめえじゃねえか」
「いえ、ご冗談、大丈夫でございます」
「いや、大丈夫なこたあねえ。どうもおめえは物騒な面ァしてらあ、なあ。あっははは、勘弁してくれよ、なあ。だけどおめえいい商売だな。この寒いのにこうして火を担いで歩いていられてよ。ほんとうだぜ。往来の者がどのくらい助かるかわからねえや。まあ、おめえなんぞ、世間をひろく歩いて、なかなかつきあいも多いだろうなあ……あっ、そうそう、つきあいが多いって言やあ、おめえ、仕立屋の太兵衛を知ってるか?」
「へっへっへ」
「あれっ、へっへっへだって、おめえ知ってんのか? おう、おめえ、はっきりしろい。おらあな、ずーっと以前からつきあってんだ。つきあいのいい男だぜ。職人に似合わず字《て》をよく書いて、人との応対が立派にできて……おかみさんが愛嬌者で、お世辞がよくって、娘が一人いる。ことし十八だ。みい坊って、いい女だぜ」
「今晩|婿《むこ》をとりました」
「あれっ、おめえそれ知ってんのかい? うーん、それを知ってるところをみると、おめえ、あの近所だな? いや、それにちげえねえ。いやあ、ありがてえな、そうなってくると話は早えや。はっはっは、で、おれはな、若え時分から太兵衛とは仲よしで、おらあまあ、安かなかったけど茶箪笥を一つ祝ってやるてえと、向こうは『親類は少ないし、兄弟《きようでえ》同様にしている間柄だから、ぜひ来てもらいたい』なんて……それから、おらあ行ったんだ。今晩だ、今晩当日だよ。そうしたら、娘が出てきて……」
「娘さん、あなたのことを『おじさん、おじさん』って言ったでしょう?」
「あっはっはっはは、ああよく知ってやんな、この野郎。うん、そうなんだよ。『おじさん、おじさん』って、おりゃあ、もううれしくなっちゃってな……『これはこれは、ようこそ』なんてね、おれを上座に座らせて、で、うどん屋、娘のやつは唐紙の向こうから出てきやがって、おれのまえに両手をついてさ」
「『さて、このたびは』と言いました」
「あっ、おめえ、そばで聞いてやがったな。あっはっはっははッ、ありがてえ、ありがてえ。こりゃどうも……そうなんだ。おらあ、もうほんとうにな、こんなありがてえこたあねえとおもっちゃったな……おう、うどん屋、おめえなかなかどうして苦労人だな……あっはっはっは、笑ってやがらあ、この野郎。しらっぱくれて、若え時分にゃあ、浮名流したほうだな? ああ、いいともいいとも……なんかいうやつは言わしておけてんだ、ほんとうだ、なあ……※[#歌記号、unicode303d]さらばおけ、人の口には、戸が立てられぬゥ、くやしきゃあ噂を、立ててェみろォ……なんてな、うわーい、こりゃこりゃッとくら。うどん屋、どっかへ行こうか?」
「冗談言っちゃあいけません」
「はっはっは、勘弁してくれ。酔っぱらったもんだからな。おう、ちょいと、こう、のどがかわいたような心持ちだな、水を一杯くれ」
「たくさん召しあがれ」
「たくさんは召しあがれねえ……ああ、うめえなあ。酔いざめの水、千両なんてえけど、うん、うめえ……ああ、いい心持ちだ。おい、この水、いくらだ?」
「水は、お代《だい》はいただきません」
「ただか? じゃあ、もう一杯くれ」
「へえ、たくさん召しあがれ」
「おい、おめえ、変なことを言うねえ。たくさん召しあがれって、この寒の中にそうがぶがぶ水が飲めるかい。おめえは、おれに水をたくさん飲まして、おれを患わせようってのか?」
「いいえ、えへっへっへ、べつにそんなことはございません、恐れ入ります」
「いや、それにちげえねえ。うどん屋、こう見えたっておらあ客なんだよ。なんでえ、客に向かいやがって、鉢巻《はちまき》なんぞしやがって」
「どうもあいすいません。こりゃ気がつきませんで、取りますから、どうぞ……」
「言われたからって取るこたあねえだろう。それだから嫌《きれ》えだよ」
「どうもあいすみません。じゃあいたしますから……」
「せっかく取ったものを、またしめるやつがあるかい。いやなやつだなあ。……またあやまる。おめえはすぐあやまっちまうからおもしろくねえ……あっはっはっは、ありがとう、ありがとう。おかげで水は飲んだし、すっかり温《あつた》まらしてもらって、こんなにかじかんでた手がこんなにぴんぴんしちゃったぜ。あんまり温まったんで、なんだか眠くなってきちまった。これから家へ帰《けえ》って寝ちまうが、うどん屋、かみさんにはまだ会ったこたあねえけどもなあ、よろしく言ってくんねえ……あばよ」
「親方、親方ッ」
「なんだよ」
「うどんをあがってってください」
「おらあ、うどんは嫌《きれ》えだよ」
「それでは雑煮《ぞうに》はどうです?」
「なにを言ってやんでえ。おい、気をつけて口をきけよ、ほんとうに。酒飲みに餅をすすめる、そんなとんちきがあるかい、気のきかねえ野郎だ……あばよ」
「なんだい、あいつは……えれえやつにつかまっちゃったい。冗談じゃねえや、ほんとうに……こんなに火を熾こしちまって、あんなのに会ったしにゃ、夜《よ》商人《あきんど》はたまらねえや、悪い晩だねえ、早く帰《けえ》っちまおう。この新道を抜けて行くかなあ……なーべやーきうどォん」
「うどん屋さん」
「へいッ」
「あのね、子供が寝かかっているの、静かにしてちょうだい」
「へい……ばかにしてやがるなあ。夜、表を荷ィ担いで歩いてるやつに、家の中の子供が寝たか、起きたか、そんなことがわかるもんか。第一、静かにしていりゃ商売にならねえや。今夜は、家でかかあの言ったとおり休んじまやあよかった。いやだ、いやだ。おう、寒い。大通りへ出よう。大通りのほうがいいや……なーべやーきうどォーん」
「(低くおし殺した声で)うどん屋さーん、うどん屋さーん」
「あっ、あそこの大店《おおだな》の大戸のくぐりを開《あ》けて呼んでいる。ははあ、主人が寝ちまってから、奥に内緒で、奉公人がうどんを食べて、温《あつた》まって寝ようってんだな。あれだけのお店じゃ、どう少なくっても奉公人は十人からいるからね。一杯ずつ売れても十杯。お代わりでも出りゃあ二十杯。こりゃ総じまいにしてくれるだろう。まずああやって最初に斥候《せつこう》が出て、それから代わりばんこに出てきて食べようてんだ。ありがてえなあ。だから商売は怠けられねえ。悪いことばっかりはねえや……はァーい」
「うどん屋さん、ここですよ。ここですよ」
うどん屋は、気をきかして荷を遠くへ置いて、しのび足で近寄り、
「(ささやき声で)うどんを差しあげますか?」
「熱くしてくださいっ」
「おいくつ」
「一つ」
「(手ばやく、うどんのどんぶりをつくって)……お待ちどおさまっ」
「(ふうふう熱いうどんをすすりこみ)……ごちそうさま」
「へい」
「いかほど?……ここへ、置きますよ」
「ありがとうございました」
「うどん屋さん」
「へえ」
「おまえさんも風邪をひいたのかい?」
[#ここから2字下げ]
≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 柳家小さんの代表噺の一つで、三代目小さんが大阪の「風邪うどん」を移入した。開口一番、「なァーべやァ…きィ、うどォ…んン」という売り声、それだけで冬の到来を肌身に滲み入るように感じる、季節感豊かな落し噺。商売往来の写生図《スケツチ》のなかに、婚礼帰りのほろ酔い客(?)が「どっかで見かけた格好だなと思ったら、箪笥屋の看板にあった」とか「軽業の口上」という表現によって、婚礼の様子が生きた描写となり、心情あふれて伝わってくる。この酔っぱらい、陽気で無邪気だが、気のせいかときどきちらッと酒乱の気《け》をのぞかせる。これは三代目小さんの残像であろうか? 現在の五代目小さんのうどん屋の方は、お人好しのほのぼのとした味が漂っていて、とくに、サゲの小声で応答《やりとり》するところは、身につまされるような実直さで、泣けてくる、サゲもまた気がきいている。このうどん屋は、「代り目」[#「「代り目」」はゴシック体]で、酒の燗《かん》をさせられるうどん屋と同人物であろうし、ほろ酔いの客の方は「居酒屋」から「ずっこけ」に至る酔っぱらいと同類項であろう。ほかに商売往来で客にからかわれる噺として「蜘蛛《くも》駕籠」「豆屋」「提灯屋」がある。
[#地付き](*ゴシックは本「百選」「特選」シリーズに収録)
[#ここで字下げ終わり]
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牛ほめ
「与太郎や、ちょっとここへおいで」
「なんだい、おとっつぁん、用かい?」
「まあ、そこへ座れ、用かいと言うやつがあるか、用があるから呼んだんだ」
「呼ばれたから来てやったんだ」
「そういうふうだから、おまえのことを、ご近所でみんながばかだ、ばかだと言うだろう」
「うん、みんながそう言ってくれる」
「くれると言ってよろこんでいちゃあいけないよ。おまえはなんともおもうまいが、親の身になってみろ、どうかばかと言われないようにさせたいとおもって苦労が絶えやぁしない」
「そんなものかなあ」
「のんきなことを言ってるんじゃあねえ……今日は、お使いに行ってこい」
「どこへ行くんだい?」
「小石川の伯父《おじ》さんのところへ行くんだ」
「ああ、佐兵衛のとこか」
「佐兵衛てえやつがあるか。おまえの伯父さんじゃあないか」
「あそこには行かねえや。おれのことを、ばかばかと言って、悪いこともしねえのに、叱言《こごと》ばっかり言ってやがる」
「それはな、おまえが役に立たねえやつとおもえば叱言なんか言いやしねえ。役に立てようとおもうからおまえのために叱言を言うんだ。人間、叱言を言われるうちが花だ」
「それじゃあ、なにか花を咲かせようか。ええ、枯れ木に花を咲かせましょう」
「ふざけるんじゃあねえ。お使いに行ってくるんだよ」
「行ってどうするんだ?」
「まあ、黙ってお聞き。じつはな、こんど、伯父さんが家を新築したんだ。四、五日前に、おれがちょっと拝見に行ったが、なかなか普請もよくできている。そのとき伯父さんが留守だったので、そのままなんにも言わずに帰ってきた。だから、今日は、おまえが行って、家をほめておいで」
「ふーん、なんと言って?」
「これから、おとっつぁんがよく教えてやるから、よく聞いて、粗相《そそう》のないようにしろよ」
「うん」
「いいか、伯父さんの家へ行ったら、表から入っちゃあいけない。もしもお客さまでも来ていると、邪魔になる。で、店について左のほうへ曲がると、めんどり[#「めんどり」に傍点]の格子があるから、その格子戸のところから出入りをするんだ。いいか。おまえは他人《ひと》の家を出し抜けに黙って開《あ》けるそうだが、そりゃあよくない。近しき仲にも礼儀あり、礼儀を知らないものは禽獣《きんじゆう》にも劣るといって、犬畜生より劣るのだ。伯父甥《おじおい》の間柄でもそういったわけのもんじゃあない。他人《ひと》さまの家だから、『こんにちは』とか『ごめんください』とかおまえがたずねて、先方で『どなたさまでございますか』と言ったら、『ごめんなさい』と格子戸を開けて中へ入るんだ」
「へーえ、おとっつぁんはあたいのことをばかだ、ばかだと言うけれど、おとっつぁんもまんざら利口の質《たち》じゃあないね」
「なにをっ、なぜ?」
「なぜったって、格子戸を開けて中へ入れと言うけれど、格子戸を開けないで中へ入れる人間があるかい? たいてい格子戸というものは開けて入るんだよ。格子戸を開けないで入れるものは、風か放屁《おなら》か、化け物か、煙か……」
「あいかわらず口の減らないことばかり言ってやがる。黙って聞いてろ。それから伯父さんのまえへ出たら、ていねいにお辞儀をしろ。おまえはお辞儀一つ満足にできゃあしない。おまえのはお辞儀じゃねえ、あれじゃ鯱鉾《しやつちよこ》立だ。畳へぴったり両手をついて、指の先が額へ押っつくようにして、ゆっくり頭を下へさげるとお辞儀らしく見える。いいか」
「うん」
「お辞儀がすんだら、挨拶だぞ、『伯父さん、しばらくでございました。いつもごきげんよろしく結構でございます。先日は、父が上がりまして、いろいろご厄介になりまして、ありがとう存じます。このたびは、ご普請が立派におできになりまして、おめでとうございます。さっそく、お家を拝見に上がりました。失礼でございますが、木口《きぐち》の高いところ、工手間《くでま》の高いところを、よく行き届いてできあがりましたねえ』と、ほめておいて、まあ、木もいろいろ使ってあるけれども、檜《ひのき》がいちばん使ってあるから、『家は、総体檜造りでございますな。左右の壁は大阪|土《つち》の砂|摺《ず》りでございますな。天井は薩摩《さつま》の鶉木《うずらもく》でございますな。畳は備後《びんご》の五分|縁《べり》でございますな。結構なお庭でございます。お庭は、総体|御影《みかげ》造りでございますな』と、まあ、このくらいのことを言やあ、おまえを見直して、向こうはきっとおどろく」
「いやあ、向こうよりも、おれのほうがおどろいた」
「どうして?」
「なんだか、ぱァぱァ言ってたけど、おれにはちっともわからない」
「そりゃ一度ではわかるもんか。稽古しておぼえて行くんだ。さあ、おれの言うとおりやってみろ」
「そうか、じゃあ、なんとでも言ってみろ」
「なんだ、おぼえるのはおまえだ。言ってみろというやつがあるか」
「そんな長いのはとてもおぼえられねえや」
「いばってやがる。情けねえやつだ、しかたがねえ、心覚えに書いてやろう」
「心おぼれか」
「心覚えだ、大きな身体《なり》をして舌も回らねえ……いいか、家は総体、檜造りでございますな」
「家は、総体ヘノキ造りでございますな」
「ヘノキじゃあない、檜だ。左右の壁は、大阪土の砂摺りでございますな」
「佐兵衛のかかあは、おひきずり」
「いけねえなあ、佐兵衛のかかあと言うやつがあるか。それじゃあまるで伯父さんの家へ喧嘩を売りに行くようなもんだ。左右の壁は、大阪土の砂摺りだ。まちがえるな。天井は薩摩の鶉木《うずらもく》でございますな」
「天井は薩摩芋と鶉豆……」
「よけいなことを言うな。なんだ、それは?」
「おれが食いてえんだ」
「おまえの食いたいものなんぞ、どうでもいい、薩摩の鶉杢という木の名前だ」
「なーんだ、木の名か」
「畳は、備後の五分|縁《べり》で……」
「畳は、貧乏のボロボロで……」
「貧乏のボロボロって言うやつがあるか、新しく入れたばかりだ。備後の五分縁だ」
「備後の五分縁でございますな」
「そうそう、それから結構なお庭でございますな、お庭は、総体|御影《みかげ》造りでございますな」
「結構なお庭でございますな。お庭は、総体見かけ倒しで……」
「そんなことを言っちゃあいけない。お庭は総体御影造り」
「お庭は、総体、御影、造り……」
「そうだ、わかったか?」
「ちっともわからねえ」
「しょうがねえやつだ。じゃあいいから、(と、ほめことばを紙に書いて)これを伯父さんに見られないようにそーっと読むんだ……そうすりゃあ、いままでのようにばかとは言わず、与太郎とか、与太さんとか言ってくれるようになるだろう。いいか、うまくやってきな」
「うん」
「そうそう、それから、座敷からまっ正面に見える台所に大黒柱があるんだが、どうしたことか、その柱の上のほうに大きな節穴がある。いまさら埋め木をして大きな柱をもろ[#「もろ」に傍点]に疵《きず》物にしては困るし、なんとか穴がかくれる方法はないか、と伯父さんが気にしている。だから、もしも、その節穴を見せたら、おまえが、こう言うんだ」
「うん、なんと言うんだ?」
「『伯父さん、その節穴がそんなに気になるなら、穴の上へ秋葉さまのお札を貼ってごらんなさい。穴もかくれるし、火の用心にもなりましょう』とこう言うんだ。伯父さんが感心して、小遣《こづか》い銭ぐらいくれるだろう」
「そうか、そいつはありがたいな。ほかは忘れてもいまンところだけやろう」
「欲の深いやつだなあ。欲だけは一人前だあ。そりゃあ、もらってみなけりゃあわからねえよ」
「くれなかったら、おとっつぁん、立てかえるか?」
「そんなことができるもんか。よけいなことを言わないで、いま教えたとおりにしゃべって長居をせずに、早く帰ってこい。ほかのことは忘れてもいいから、火の用心のお札だけは忘れるなよ」
「うん、大丈夫……あ、ここだ、ここだ。ここが伯父さんの家だ。……表から入《へえ》っちゃいけねえ、店について左と、あーあ、なんだ、めんどり[#「めんどり」に傍点]の格子というから、どんな立派な格子かとおもったら、縁《ふち》が取れているからめんどり[#「めんどり」に傍点]の格子か。なーるほど……ああ、なんて言うんだったかな? あ、そうだ、はじめにあやまるんだ……エエー、ごめんください、ごめんください、ごめんよ。あれ? どなたもお留守でございますか、それとも死に絶えたかい」
「だれだ? 縁起でもねえ……こっちへ入んな、だれだ? ああ、どうした、ばかか。そんなとこに突っ立ってねえで、早くこっちへ入れ」
「入ってもいいかい?」
「いいから、入れ」
「どっこいしょ……と、上がったら、まずお辞儀だ。それから……さて、伯父さん、しばらくでございました。いつもごきげんよろしく結構でございます」
「おーい、婆さん、聞いたかい。おどろいたねえ。今日は挨拶ができるぞ。はいはい、こんにちは。お天気でも変わらなければいいが……」
「先日は、父が上がりまして、いろいろご厄介になりまして、ありがとう存じます。このたびは、ごふゥ、ごふゥ……ふゥ……ふゥふゥっ」
「舌が回らないようだな」
「ごふゥ、ご普請……あ、そうか、ご普請が立派におできになりまして、おめでとうございました」
「えらいな、だんだんおまえもえらくなってきたな。で、なんの用だ?」
「えー、えー、さっそく、お家を拝見に上がりました……と、どうだい、よく言えただろう?」
「おお、そうか。こりゃありがたいな。さあさ、よく見ていっておくれ」
「よし、見てやるから、覚悟しろ」
「あはっはは、覚悟というのはおかしいな。まあいいや、よし、覚悟したよ」
「覚悟したら、伯父さん、ちょっと向こうを向いておくれ……こっちにも都合があるから……さあ、まだ先があるんだから」
「まだ先がある? なにが?」
「伯父さん、失礼でございますが、木口《きぐち》の高いところ、工手間《くでま》の高いところを、よく行き届いてできあがりましたねえ」
「ああ、ありがとよ」
「こっちを向いちゃあいけないよ。いま、ほめてやるんだから。家は、総体、ヘノコ造りでございますな」
「檜《ひのき》だよ」
「そうそう、左右の壁は大阪|土《つち》の砂摺りでございますな」
「うーむ、さすがは普請道楽の家の息子だけあって、よくおまえ檜や大阪土ということがわかったな」
「それはちゃんと種があるんだ」
「種?」
「天井は薩摩芋と鶉豆《うずらまめ》でしょう?」
「それは薩摩の鶉木だ」
「ああ、そうか、ちがったかな……ええと、やっぱり薩摩の鶉杢と書いてあらあ……伯父さんのほうがよく知ってらあ、それからどうしたい?」
「おまえが言うんだ」
「ああそうだ。畳は、貧乏のボロボロで、佐兵衛のかかあは、おひきずり」
「なんだと?」
「畳は、備後の五分|縁《べり》……でございますな。エエー、結構なお庭でございますな、お庭は、総体、見かけ倒しでございますな……」
「おいおい、見かけ倒しとは、ひどいことを言うな。庭は、御影造りだ」
「ああ、そうそう……ええと、もうこっちを向いてもいいよ」
「おまえ、なにか読んでいたんじゃあないか?」
「ばれたかッ」
「いや、読んだにしても、おまえが普請をほめてくれるというのはありがたい。今日は久しぶりだから、ゆっくりしておいで、なにかごちそうするからな」
「いやあ、まだあるんだ……伯父さん、台所を見せてくれ」
「台所なんぞ見たってしょうがねえだろう?」
「冗談言っちゃあいけねえ。ここが、いちばん肝心なところだ」
「変だな、言うことが……おい、台所でなにをきょろきょろしているんだ?」
「はて、どこかにあるわけだ」
「なにが?」
「ううん……柱の、どこかに……ああ、あった、あった」
「大きな声を出すな、なにがあったんだ?」
「伯父さん、この柱に、大きな節穴があるね」
「おまえにも、これが目につくか? 埋め木をすりゃあいいんだが、これだけの柱が疵物になっちまうし、なんとか穴のかくれる方法はないものかと、気になっているんだ」
「伯父さん、その節穴がそんなに気になるなら、穴の上へ秋葉さまのお札を貼ってごらんなさい。穴もかくれるし、火の用心にもなりましょう」
「うーん、秋葉さまのお札を……うーん、なるほどなあ、座敷とちがって、台所だけに秋葉さまのお札か……穴がかくれるし、火の用心がいいや……与太郎、おめえは、ばかだばかだというけれども、なかなかどうして、ばかどころのさわぎじゃあねえや。秋葉さまのお札とは考えたな。恐れ入った。感心、感心」
「なにを言ってんだい。ただ感心しててもしょうがねえや、少しほかのほうに感心しなくっちゃあいけねえ。伯父さん、忘れものがなにかあるだろう?」
「なに?」
「忘れものがさ」
「そんなものはねえ」
「あるよ、忘れものが」
「なんだ手なんぞ出して……ああ、ほうびの催促か?……うん、やるよ、やるよ」
「いくらくれる?」
「値段をきめるのかい? しかたがねえ、あいよ」
「ふふふ、ありがたいな、利口になると儲かるとは気がつかなかったな」
「ひでえやつだ。たくらんできたな」
「じゃあ、さようなら」
「おい、……おどろいた野郎だね、小遣《こづか》いをもらったもんだから野郎、とんで帰っていきやがる」
「おい、どうした、与太郎、うまくいったか?」
「おとっつぁん、うまくいった……火の用心のお札、あれを言ったら、伯父さん、感心して、……ただ感心してもしょうがない、少しほかに感心しろって催促したら、お小遣《こづか》いをくれた」
「催促なんぞしちゃあいけないよ」
「おとっつぁん、もう、どこかへほめに行く家はないかい?」
「そう普請の家はないよ」
「それじゃあ、うちをほめるから、いくらか出せ」
「自分の家なんぞほめてどうするんだ」
「なんでもいいからほめるものないかなあ、ああ、世の中、不景気だ」
「ばかなことを言うな、……そうそう太七さんの家で牛を買ったというから、その牛でもほめてこい」
「じゃあ、行ってくらあ」
「こらこら、待てよ。牛のほめ方知ってるのか?」
「知ってるよ」
「そりゃあ感心だ。なんと言ってほめる?」
「牛は、総体檜造りでございます」
「そりゃあ家《うち》だ。家と牛とはちがう」
「うち[#「うち」に傍点]とうし[#「うし」に傍点]……ちょっとのちがいだ」
「牛は天角地眼《てんかくちがん》、一黒陸頭《いつこくろくとう》、耳小歯違《にしようはちご》うというんだ。角は天に向かい、眼は地をにらみ、毛は黒く、頭は平らで、耳は小さく、歯のくいちがっているのがいいんだ。まあ、そうそろった牛というものはまずいない。けれども牛をほめるときにはこう言っておけば、向こうはよろこぶものだ。それじゃあ教えてやるから、おまえも言ってみろ」
「うん」
「天角、地眼」
「三角」
「三角じゃあない、天角、地眼」
「天角、地眼」
「一黒、陸頭」
「一石六斗」
「耳小《にしよう》、歯違う」
「二升八合五|勺《しやく》」
「なんだい、その五勺てえのは?」
「これはおまけ」
「米を量《はか》っているんじゃああるまいし、おまけはいらない」
「じゃあ量りっ切りだね」
「なにを言ってやがる、わかったか?」
「わからない」
「しょうのないやつだなあ。それじゃあ、また心覚えに書いてやるから……これで、牛をほめて来い」
「こんど、ほめたらいくらくれるだろう?」
「いくらくれるかわかるもんか。そんなに欲ばらないで、まちがえんようにうまくやって来い」
「うん、行ってくらあ。……ああ、こいつはだんだん忙しくなってきたな、おーい、太七さん、いるかい?」
「おお、与太かい、こっちへお上がり」
「おまえ、牛を買ったんだってねえ」
「ああ、買ったよ」
「その牛を見せてくれねえか?」
「牛を? いいよ……どうしたんだ、なにをきょろきょろしているんだ」
「だって、牛がどこにもいないもの」
「家の中に牛がいるもんか。裏の小屋にいるから、こっちへおいで」
「やあ、いた、いた。こりゃ小さい牛だ」
「おいおい、そりゃ、牛じゃあない、犬だよ」
「そうか、道理で小さいや」
「牛はこっちだよ」
「うわあ、大きいなあ、この牛は動いてらあ」
「生きてるから動いてるんだ」
「なるほど、これが天角か。やい、天角め、地眼め、一黒め、陸頭め、畜生め」
「なんだい、なにを叱言《こごと》を言ってんだ……これ、そんなに柵《さく》のなかに首を突っこんじゃあいけねえ、荒い牛だから、こっちへ退《ど》いていな、危ないからはなれていなっ」
「なに大丈夫だ……やい天角」
「これ、角など押さえちゃあ、怪我するよ」
「なに大丈夫だ、地眼、一黒、陸頭、耳小、歯違う、五勺はいらない、量《はか》りっ切りだ」
「なんだい、その量《はか》りっ切りってえのは……おい、尻《し》っぽを引っぱると、牛に蹴られるぞ」
「うわーっ、牛が放屁《おなら》をしたよ」
「畜生だ、落としものだから勘弁してやってくれ……牛もいいけど、畜生というものは、あたりかまわず糞《ふん》をする。困ったもんだ。朝夕掃除をしてやっても、この尻の穴のしまりのないにはつくづく弱るよ」
「太七さん、そんなに穴で気をもむことはないよ。穴の上へ秋葉さまのお札を貼ればいい」
「どうなる?」
「穴がかくれて、屁《へ》の用心になる」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 檜の材料、天井は鶉木目の屋久杉、畳は備後|表《おもて》の極上、壁は大阪土で塗って砂ずりに仕上げ、庭は総御影石……かつての日本家屋の理想の建築施工とされていた。今日、いずこも新建材、規格品の大量生産《マスプロ》の時代では、この種の噺は、もはや、〈古典〉となった。寄席がかつて〈耳学問〉の場であった時代、与太郎の身を借りて、出産見舞に行く「子ほめ」など、世間常識、礼儀作法等を示し、いわゆる「ばかの一つ覚え」を笑いに仕込んだ、啓蒙《けいもう》的な噺である。とはいえ、世の中には存外、この、「ばかの一つ覚え」で、結婚式の祝辞《スピーチ》、教室の授業、などなど、相手変わって主《ぬし》変わらずで、同じことをくり返して悦に入っている人を見かける。こういう人は、この噺の与太郎以下というべきで、与太郎のいちいちまぜっ返す機知の方も、ついでに学んでもらいたいもんだ。与太郎噺の代表格だが、他の噺とちがって、与太郎の親父が登場し、不憫な倅《せがれ》を少しでもよく見せたいという親心を見せている。
原話は、元禄十一年京都刊『初音草噺大鑑』所収の「世は金が利発」で、これを初代林屋正蔵が、現型にあらため正蔵作の笑話本、天保四年刊の『笑富林』所収の「牛の講釈」にある。「牛」の褒めことばとして、「天角地眼一黒鹿[#「鹿」に傍点]頭耳小歯合[#「歯合」に傍点]」と演る速記もあるが、「ことわざ大辞典」(小学館)の「天角地眼一黒|陸頭《ろくとう》耳小歯違う」に従った。「陸頭」は頭頂が平らであることの意。
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弥次郎《やじろう》
「ご隠居さん、どうもごぶさたで……」
「おや弥次郎さんじゃないか。どっかへ出かけてたのかい。だいぶ見えなかったようだが」
「へえ、ちょいと旅をしていました」
「どこへ行ってたんだい?」
「北海道へ行きました」
「ふーん、たいへん遠いところへ行ったな……いい景色のところがあったろうな」
「景色なんかこちとら、どうってことはありませんがね、寒いのにはおどろきました」
「そうだろうな」
「寒いの寒くねえのって、船に乗ってるうちはそんなに寒くありませんが、陸へ上がって歩き出しているうちに、自然と身体《からだ》が硬くなっちまって、凍っちまうんですから……それから宿へ着いて、風呂場へ行って、風呂桶の蓋《ふた》をとってみると、いくら寒くても湯は熱うございます」
「あたりまえだ」
「熱いからうめてもらってるうちに、流し[#「流し」に傍点]へ足が凍りついてしまいました」
「よせよ、ばかばかしい」
「それから湯から上がって、二階へ来る、また、すぐに寒くなっちまう」
「そうだろう」
「寒いから、お茶でも飲んで暖まろうとおもって、お茶を頼むと、女中がお茶を持ってきて、お茶をお噛《かじ》りなさいと言う」
「おい、冗談じゃないよ。お茶を噛るやつがあるかい」
「そうでしょう。変だとおもったから、湯飲み茶碗のなかをよく見ると、なるほどお茶が凍ってやがる」
「だって、おまえ、お茶というものは湯だよ」
「それが下じゃあ湯だったのが、二階へ持ってくるうちに凍っちまった」
「いいかげんなことを言うなよ」
「いえ、まったくそうなんで……あくる朝、朝めしに生《なま》玉子が出たが、これが茹《ゆで》玉子……茹玉子じゃあないかと言うと、生玉子は、茹《ゆ》でなければ生になりません、とこう言うんです」
「なんだかわかったようなわからない話だな」
「そのうちに、雨が降ってきました。これがおどろきましたね。雨が凍って降るんだから……」
「おどろくことはない。雨が凍れば、雪や霰《あられ》になる」
「いいえ、そんなもんじゃねえんで……まるでガラスの棒ですね」
「ばかなことをお言いでない」
「まあ、こっちじゃあ雨を一粒、二粒と言うけれど、あっちへいくと一本、二本と言います」
「それじゃ、だいいち、傘がさせまい」
「それだから、向こうは紙の傘はありません」
「布かい?」
「布でも突き破ってしまうから、たいていはブリキですね」
「ブリキの傘?」
「ええ、貧乏人はブリキを使って、中くらいの人はトタンで、金持ちは赤金《あかがね》(銅)」
「それじゃまるで庇《ひさし》だよ。ばかばかしい……赤金張りの傘があるもんか」
「ほんとうですよ。けれども、その傘をさして歩くと、ガンガラン、ガンガランと音がして騒々しいものだから、向こうでは、ちょいと近所へ行くくらいのことでは傘はさしません。雨払い[#「雨払い」に傍点]という棒を持って歩きます。あたしもその棒を持って、くるくる頭の上をふり回して、筋向こうの家へ煙草《たばこ》を買いに出かけました。危ないからおよしなさいと言ったんですが、なあーに江戸っ子だ、こんなことはわけはねえと、くるくるとふり回してうまくいったんで、宿屋の番頭なんぞは手をたたいて、うまいうまいとほめやがった。ところが、帰りには、少し気がゆるんだものとみえて、受けそこなったんで、耳たぶあたりへ棘《とげ》が二本、刺さった」
「おいおい、雨の棘というやつがあるかい」
「ほんとうですよ。ぴりぴりとして痛くってしょうがねえ。すると、宿屋の女中が火箸《ひばし》で火をはさんできて、フーフー吹きつけると溶けちまった」
「ばかばかしい。棘の溶けるやつがあるかい」
「ほんとうですよ。ただおどろいたのは雪ですね」
「そうだろう。雪はたいそう降るそうじゃあないか」
「へえ、ある晩のことで、わたしがよく寝ていると、ドタッ、ドタッという音がするんで、おどろいて飛び起きて、浅間山の噴火かとおもったら……」
「なんだい、その音は?」
「一粒が、どうしても炭団《たどん》ぐらいの大きさの雪で、これが降ってきたんです」
「ばかなことを言いなさい。わたしは越後に心やすい人がいるが、どんなにどっさり降っても、積もる雪というものは、ごく細《こま》かいんだそうだ」
「それが北海道のは大きい。家の屋根の上まで積もってしまって、はじめはドタッドタッ音がするが、しまいには音もなくなる。降りはじめた時分には、土地のものは慣れているから、そのあいだをうまくくぐり抜けて歩いている。そのかわり、ひとつ大きな雪がぶつかったら、即死です。その場へぶっ倒れてしまう。これをゆき倒れ[#「ゆき倒れ」に傍点]という」
「おい、またはじまった。しかし、雪が積もっちまったら、まるでそとへ出られまい」
「ところが大ちがいで、庇《ひさし》が長くできていますから、その下を通ってどこへでも行きます」
「なるほど、おまえの話でもまんざら嘘ばかりではない。越後の人に聞いたのにも、雪の深いところには、雁木《がんぎ》といって、庇が長くできていて、ところどころに向こう側へ行く穴みたいなものが通っているというが……」
「ええ、竹の節《ふし》をぬいた樋竹《といだけ》みたいものがところどころにできています」
「なんだい、それは?」
「向こう側の人と話ができるんで……」
「なるほど」
「田舎の人はていねいだから、朝起きると、『お早うございます』『ごきげんよろしゅう』と言うやつが、あっちでも、こっちでも。ところが寒さがひどいもんだから、それがみんな竹のなかで凍っちまいます」
「おい、『お早う』が凍るやつがあるかい」
「それだから不思議なんで……『源兵衛さんお早うございます』、その声がゴチャゴチャと固まってしまう。それを細《こま》かく切って、一本いくらといって売ってます」
「そんなものを買うやつがあるもんか」
「いえ、これがなかなか使い道があるんで……女中やなんかが朝なかなか目をさまさない、客が朝|早発《はやだ》ちで出かけるときなどは、女中部屋へおいて、焙烙《ほうろく》(素焼きの土鍋)へかけておく……焙烙が十分に熱くなったところへ、凍った『お早うございます』を五、六本、放りこむと、これが溶けてくる。雪のなかで向こう側へ通そうというくらいの大声が、『お早う』『お早う』『お早う』……」
「おい、びっくりした。そんな大きな声を出すやつがあるかい。隣の家で胆《きも》をつぶさあ」
「いやあ、胆をつぶしたってえば、夜中に火事がありました」
「おう、そりゃあ、たいへんだったな」
「でもね、江戸っ子の度胸をみせるのはここだとおもうから、いきなり飛び起きて、片肌脱いだ」
「どうして片肌なんぞ脱いだんだ? その寒いのに……」
「威勢のいいところをみせて、刺青《ほりもの》でいちばんおどかしてやろうと……」
「おいおい、おまえはいつ刺青《ほりもの》なんぞしたんだい?」
「いえ、よく考えたら、あっしは刺青《ほりもの》がないので、すぐ片肌、ひっこめた」
「だらしがねえな……火事はどうした?」
「へえ、あっしは火事が好きだからね。向こうからもこっちからも、わいわいと人が出てきて、荷を担ぎ出す大騒ぎ、そのうちに、ぱっと火が動かなくなっちまった」
「そりゃあ、どうしてだい?」
「あっしも、こりゃおかしいなとおもってると、近くで見ていたやつが、『もう大丈夫でございます。今年は、いいあんばいに早く凍りましたから……』火事が凍っちまったんで……」
「ばかなこと言いなさんな、火事が凍るやつがあるかい」
「でね、あたしも気になるから、あくる朝早く起きて、火事場へ行ってみると、冷たくて寄りつけねえくらい、そこへ木挽きが来て、その火事を切って車へ積んで持って行くから、どうするんだとおもって聞いてみたら、海へ捨てに行くんだそうだ。そりゃどうももったいないので、ゆずってくれないかと言うと、ただで差しあげますって。こりゃ、しめたとおもったね」
「どうして、しめただ?」
「昔、珊瑚珠《さんごじゆ》の見世物というのが浅草の奥山にあって、たいそうはやったそうですね」
「ああ」
「それからおもいついたんですが、この火事を持ってきて見世物にしたら、ずいぶんはやるだろうとおもって……」
「なるほど……」
「それから牛を五、六匹と牛方を十人ばかり雇って、これをひき出して、海を渡って津軽から奥州とだんだん下ってきました」
「なるほど」
「ところが困ったことが起こった」
「どうした?」
「ふーっと南風が吹いてくると、牛の背中で火事が溶けはじめた」
「それはたいへんだ」
「みんなで寄ってたかって牛の背中へ水をかけたんだが、ちっとも消えない」
「どうして?」
「焼け牛(石)に水というわけで……」
「冗談じゃない。おまえの話はたいていそんなことだ」
「いや、どうも牛方がおこったのなんのって……おれたちの命の親とおもう牛をみんな焼き殺してしまったひにゃあめしの食いあげだッ、とすごい権幕だから、あたしゃもうかまわずどんどんどんどん逃げましたね」
「それでどうした?」
「どんどん逃げて、もうよかろうとふり返ってみると、そこは、めっぽう高《たけ》え山で、あとで聞くと、これは南部の恐山《おそれざん》という山なんだそうだ」
「うーん、名高い山だ」
「そのうち日はとっぷりと暮れて、月はなし、熊笹の生い繁った山道を、せめて雨露だけでも凌《しの》げるところはなかろうかと一人歩きだした」
「そりゃ難儀をしたな」
「そのうち、山里にかすかに灯火《あかり》が見えた。ああ、ありがてえ、あそこでひと晩泊めてもらおうと、行ってみると、これが家じゃあない」
「なんだ?」
「見ると、熊の皮のちゃんちゃんこを着た……熊坂長範《くまさかちようはん》の子分みてえな大男が八、九人、車座になってたき火をしている」
「ほう」
「あたしもおどろいたが、こういうときに弱味を見せてはいけないから、日ごろ自慢の腕前を示して、強いところを見せてやろうとおもってね」
「冗談言うなよ。おまえの腕前を示すって、どんな腕前があるんだ?」
「日ごろの大力をあらわすのはこのときとばかり……」
「おいおい、なにが大力だ。いつか家の婆さんが沢庵石を運んでくれと言ったが、小さな石が持ちあがらなかったじゃないか」
「あのときは、相手が女だから……」
「変だね……で、どうしたい?」
「先んずれば人を制すっていうわけで、煙草入れを出して、煙管《きせる》に煙草をつめると、連中のなかへぬっと入って気取ってやった」
「へえー」
「卒爾《そつじ》ながら、火をひとつお貸しくだされ……とね」
「茶番だな、まるで……」
「すると、向こうも芝居気を出して、『ささ、おつけなせえ』とおいでなすった。『かたじけねえ』と二、三服ぷかぷかやって、こういうところに長居は無用と行きかかると、前にいたくりくり坊主の素っ裸、背中に猪熊入道《いのくまにゆうどう》の刺青《ほりもの》のある水滸伝の花和尚魯智深《かおしようろちしん》みたいなやつが、ズバッと刀を抜いて、『お若《わけ》えのお待ちなせえ』ときた。『待てとおとどめなされしは、拙者のことでござるよな』……と」
「気持ちの悪い声を出すなよ……つまらねえところで気取るやつがあるもんか」
「『おうさ、あたりに人がいなけりゃあ、汝《おぬし》のことよ。用がなけりゃあとめやしねえ、懐中《ふところ》にある路用の金、身ぐるみ脱《ぬ》いでおいてゆけ、ぐずぐず言うと命はねえぞ』と、たき火にあたっていた連中にぐるりと取り囲まれた」
「そりゃあおどろいたなあ」
「それからおれは、『知らぬ者こそ不愍《ふびん》なれ』と言ってやった」
「なんだそりゃ」
「こっちがおまえさん、百も銭がねえのを知らねえで、くれろと言うから、知らぬ者こそ不愍なれ……」
「なんだい」
「ついでにおれはもうひとつどなってやった」
「なんて?」
「さて、汝《われ》らは六部の背中の牡丹餅《ぼたもち》よな」
「なんだいそれは?」
「六部の背負っているのを笈《おい》というでしょう。牡丹餅はおはぎ[#「おはぎ」に傍点]というから、これを略しておいはぎ[#「おいはぎ」に傍点]という」
「おい、その最中《さなか》につまらない洒落《しやれ》を言うやつがあるかい」
「このくらい落ち着いているところを見せたんで……」
「それから、どうした?」
「それッたたんでしまえと、賊の親分が号令をかけると、八、九人のやつがギラリギラリと長いやつを抜いて、一度に打ってきた。こうなると、わたしも負けてはいられない。心得たりと一刀を抜き、見れば一本の松がある。これを小楯にとって、さあこいッ、と青眼《せいがん》につけた」
「話が混み入ってきたな、青眼につけたとは……よく刀なんか持っていたな」
「へえ、護身用というやつで……なにしろこっちの身体《からだ》に一分一厘のすきがないから、向こうでも打ちこむことができない。そこで、ふと誘いのすきをみせると、鉄棒をふりあげたやつが打ってきたから、こいつを横なぐりに斬り倒した」
「たいそうな腕だな」
「これを見た賊どもはどんどん逃げた。これ幸いとあたしも逃げた」
「両方で逃げたのかい」
「命あっての物種、そのうちだんだん距離が遠くなった。すると後方から、ワーワーと鬨《とき》の声をあげた敵の軍勢二十万」
「戦争《いくさ》だね。それでどうした?」
「ひょいと前を見ると、三間四方もある大きな岩がある。敵の軍勢はどんどん迫ってくる。得物《えもの》はなし、道は不案内、進退ここにきわまった」
「困ったろう?」
「しかたがないから、その三間四方もある岩を、あたしは根こぎにした」
「おっそろしい力だな」
「この大岩を目よりも高く差しあげたが、投げそこなってはいけないので、こんどはそれを小脇にかかえた」
「三間四方の大岩が小脇にかかえられるかい?」
「もっともこの岩、瓢箪岩《ひようたんいわ》といって、まん中がくびれてる。こいつを、ちぎっては投げ、ちぎっては投げ……」
「ふざけちゃあいけない。岩がちぎれるかい」
「それができたての岩だからやわらかい」
「ばかだな、おまえは……」
「その勢いにおどろいて、賊どもは蜘蛛《くも》の子を散らすように残らず逃げちまった」
「それはよかった」
「もとのたき火のところへ戻《もど》ってくると、たき火はどんどん燃えている。ここでいっそのこと夜を明かそうと、暖まっているうちに、旅の疲れで、こっくりこっくり居眠りをはじめた」
「ふーん」
「ひと息ついたが、一つよければまた二つ。九尺二間に戸が一枚、あちら立てればこちらが立たず。そのうちに、ごーっというおそろしい音がしてきたのは、山鳴りというやつ……すると、向こうのほうから仁田四郎《にたんのしろう》(鎌倉時代の武将)がおどろくような、三間もある大きな猪《いのしし》が、テンテレツ、テンテレツクと、調子をとってやってきた。あの猪の牙にひっかかってはたまらない、そばに大きな松の木があったから、これならば大丈夫と、この松の木にかけ登った。さすがに猪は利口なやつで、どうするかとおもうと、牙で、松の根っ子を掘りはじめた。松の木がぐらぐら動くので、その木につかまりほんとうに気[#「気」に傍点]をもんだ。気[#「気」に傍点]が気[#「気」に傍点]でない」
「変な洒落を言っちゃあいけない。それから、どうした?」
「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、度胸をきめて、ひとおもい松の木から飛び降りたら、猪の背中へひらりと、猪乗《ししの》りになった」
「それをいうなら馬乗りだろう?」
「猪の背中だから猪乗りだ……猪はふり落とそうってんで、さかんに跳ね回るからこっちも、尻っぽをつかまえて、手に巻きつけて、あまったやつで襷《たすき》にかけて、鉢巻《はちまき》にした」
「そんなに猪の尻っぽは長いのか?」
「猪が大きいから、尻っぽも長い。刺し殺すよりしかたがないと、脇差《わきざし》を抜いて突き立てたが、甲羅《こうら》を経ている猪で、松やにをつけては砂場へころがり、天日《てんび》で干し固めてあるから、まるで鎧《よろい》を着ているようで始末がわるい。股ぐらをさぐってみると大きな睾丸《きんたま》があった。これこそ天よりわれに授くる睾丸と押しいただいた」
「なんだ、睾丸を押しいただくやつがあるか」
「猪だって、急所にかわりはあるまいと、この睾丸を、力まかせにぐーっと握りしめると、ウーンとうなった」
「わりにもろいものだな」
「猪は七転八倒の苦しみ、くるりとひっくりかえった」
「えらいことをしたな」
「けれども、獣《けもの》にはよくあるやつで、死んだふりをするのがいるから、念のために止《とど》めを刺そうと、腹をすーっと切ってみると、なかから子供が、憎《につく》き親の仇《かたき》と十六匹とびだした」
「十六匹もかい?」
「しし[#「しし」に傍点]の十六匹」
「冗談言っちゃあいけない。おまえさん、いま、猪の睾丸をつかみ殺したと言ったな」
「へえ」
「睾丸がありゃあ、牡《おす》だろう?」
「そうでしょうな」
「牡の腹から子供が出るかい」
「そこが畜生のあさましさ……」
「ふざけちゃあいけねえ」
「とたんに、わーっという歓声。なにごとかとふり返ると、お百姓が八、九十人。どこから集まったか、わたしをとりまいて、わたしのまえにひれ伏した。なかの長老が進み出て言うには『この猪のために、近在六か村の西瓜《すいか》畑がどれくらい荒らされたかわからない、おまえさんのお陰で助かった。礼をしたいから、どうかこれから名主の家へ来てもらいたい』と言う。別に急ぐ旅ではないので、それからみんなに連れられて、名主の家へ行きました。すると、名主は礼服着用で出迎え、奥の座敷へ通されて、いろいろごちそうが出たが、腹が減っていたから、食べなかったね」
「食べたらいいじゃあないか」
「そこが武士は食わねど高楊枝《たかようじ》」
「気取ったね」
「そこへあいだの唐紙《からかみ》がさらりと開いて、入ってきたのが当家の娘だ。こんな山家《やまが》にまれなる美女、十六、七の色白で、目もと涼しい、口は小さく、眉は濃く、鼻は高からず低からず、中肉中背、踵《かかと》のつまったいい女。縮緬《ちりめん》の振袖《ふりそで》に、文金の高|髷《まげ》。畳の縁《へり》を踏まないように、遥か下がってお辞儀をして『こういう茅屋《あばらや》でございますが、今夜はここへお泊まり遊ばして……』ときた」
「そうかい」
「それじゃあご厄介になりましょうと、奥の八畳の間へ通されて、そのままうとうとと寝入った。よい心持ちになったところへ、廊下のほうでミシリミシリと足音がする。こんな夜中に、何者だろうと、うかがってみて、おどろいた。当家の娘だ。美しいのなんのって、燃え立つような真っ赤な緋縮緬の長襦袢……」
「緋縮緬というものは、真っ赤なもんだよ、昔から……」
「そこはものがていねいだから……」
「ていねいすぎるよ。それでどうした?」
「その娘が、わたしに隠し持っていた一本の手紙を差し出した」
「ふーん」
「なにかしらと、その手紙を開いてなかを見ると、『どうか不愍《ふびん》と思召《おぼしめ》し、わたしを連れて手に手を取って、どうか逃げてくださんせ。けっしてあなたさまにご迷惑をかけるようなことはございません。持参金も用意してございます』と、こう書いてある」
「なるほどねえ、それで?」
「たいていの男なら、承知をして、女を連れて逃げるかしらないが、あっしは『思召しはかたじけないが、拙者、少しく望みのある身、不義は御家のきついご法度《はつと》、さようなことは、せっかくながら……』と断わってしまった」
「ほう、たいへんなことをしでかしたね、柄にもなく」
「そうすると、その女、懐中《ふところ》から懐剣《かいけん》を抜いて、あわや咽喉《のど》へ突き立てようとするから、しっかりその手首を押さえて、『こりゃ、娘、なにゆえあってそのお覚悟』『さあ、なぜとは知れたこと、女子《おなご》の口からはずかしい、そこはなして殺してたも』ときた。『じゃと申して』『それではわたしを連れて逃げてくださるか、サア、サア、サアサアサア……』ときた。『それでは連れて逃げよう』と約束をして、自分の寝間へ戻ったが、さて、女を連れて逃げるのは厄介と、その夜のうちに逐電《ちくでん》ときめて、すっかり身支度をして、裏庭から一目散に逃げ出した。しばらく行くと、遥かにザァッという水の流れが聞こえる。だんだん近づいてみると、そこに棒杭が立っていて、紀州日高川と書いてある」
「ちょっと待った。おまえさん、たしか南部の恐山へ行ったんじゃあなかったかい?」
「それが一念とはおそろしいもんで……」
「あきれたもんだ」
「渡し舟があって、船頭がいたから、船頭さん、おれはいま女のために難儀をしている。女があとを追いかけてくるが、女の来ないうちに向こう河岸まで渡してくれ。もしもあとから十六、七の女がやってきて、この川を渡してくれと頼まれても断わっておくれ、と頼んだ。親切な船頭で、よろしゅうございますと言って、あたしを舟に乗せて、向こう河岸まで着けてくれた。舟が岸に着くが早いか、足にまかせてどんどん逃げると、大きな寺があった」
「うむ、そりゃあ道成寺じゃないか」
「昔は道成寺といっていたが、いまは道成寺がなくなっちゃって、安直寺という。住職に面会をしようとおもったが住職がいない。貧乏寺で、鐘撞《かねつき》堂はあっても釣鐘《つりがね》がない始末。しかたなしに台所へまわると、水がめがあった。水がめ結構と、あっしはその水がめのなかへ隠れたね」
「へえ」
「女のほうは、川の淵《ふち》まで来て、船頭さん、こういう男が渡ったでしょう。いや渡さない。それじゃわたしを向こう河岸まで渡してください。いや渡さない。渡さなければ、女の一心、この川渡らでおくべきか、ドブーンとばかり川へ飛びこんだ」
「女の一心で、それが大蛇になったんだろう?」
「それが世の中不景気で、一尺五寸ばかりの小さな蛇になった。チョロチョロ川を渡って、安直寺までやってくると、おれの隠れている水がめを、どう嗅《か》ぎつけたかしれないが、水がめを七巻き半巻いた」
「一尺五寸ばかりの蛇が、水がめを七巻き半も巻けるかい?」
「それがだんだんのびたんで……」
「飴細工だね」
「そのうち、あまり静かなんで、どうしたのかとおもって、水がめを上がって見ると、蛇がすっかり溶けてしまった」
「どうして?」
「寺男が不精で、かめを洗ったことがないから、水がめの底になめくじ[#「なめくじ」に傍点]がたくさんついていた。その上を蛇が巻いたから、蛇が溶けてしまった」
「まるで虫拳《むしけん》だ」
「そこで水がめを出たが、うしろが紅白段々幕とくれば芝居だが、そうはいかない。すっくと立ったそのときの身装《なり》を見せたかったね。金襴《きんらん》の輪袈裟をかけて、大口という袴《はかま》をはいて、中啓を持ってぐっとそり身になったときなんざ、じつにわれながら惚れぼれしたね」
「弥次さん、いったい、おまえ、その姿は?」
「安珍という山伏だ」
「あ、道理で法螺《ほら》を吹き通しだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 話とは、広い意味で嘘、絵空事、戯言《たわごと》等の語意があるのはいうまでもない。しかし、この噺の弥次郎のように、自由奔放、縦横無尽に捲《まく》し立てられては、聴く方は疑う気持ちなど吹っ飛んでしまって、快感さえ感じるのではないか。この場合、隠居と弥次郎の関係は、万歳の太夫と才蔵、軽口のシンとピン、今日の漫才のツッコミとボケの呼吸で、そこへさらに演者、噺家のクスグリが加わって三者が一体となってふくらましていくことのできる、高座受けする噺である。楽屋の符牒で弥次郎は嘘つきの代名詞になっているくらい。別名「うそつき弥次郎」。ほかに、神田の千三つといわれるうそつき男が、向島の須崎の先のうそつき村へうそくらべに行く「うそつき村」がある。
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寝床
蜀山人《しよくさんじん》の狂歌に
「まだ青い素人義太夫|玄人《くろ》がって 赤い顔して黄な声を出す」
ひとつ義太夫でも稽古してみようというのは、たいてい、そうとう身代のある大家の旦那衆。さて、おぼえこんでみると、稽古だけではつまらない、だれか人を集めて聞かせてやろうという、了見を起こす。友だちや親戚は一ぺんは来るが、たいてい初会でこりて、以後いくら使いを出しても立ち寄らなくなる。しかたがないから、出入りの者、店の者が呼び集められて、一人悦にいるという素人義太夫の噺……。
「定吉や、繁蔵が帰ってきたらすぐ来るように言っとくれ。それから定吉や、蔵から新しいほうの座布団を五十枚ばかり出してな、あの高座のまえへずーっと敷いときなさいよ。いつなんどきお客さまが見えても大丈夫のように、いいかい? お湯はわいていますか? お湯は、たくさんわかしといてくださいよ。上戸《じようご》の方には、お燗《かん》をする。下戸《げこ》の方にはまた、お茶を入れて出す。あたしがまたうんと語ると汗をかきますから、身体《からだ》をふいたりしますから、たくさんわかしといてください。それからあとでな、晒布《さらし》を五反に、卵を二十……なに? 怪我人があるんですか? 冗談言っちゃあいけない。あたしが使うんだ。この義太夫というものは、鼻っ先で声を出すんじゃあない、下っ腹から声が出るんだから、晒布は腹に巻くんですよ。卵をのむと声が弾《はず》むからね。だれか買いにやっておくれ。師匠はどうした? 中二階のほうで……あ、お茶を差しあげてお待ちいただきなさい。いま調子を調べていらっしゃる? ああ、たいへん手まわしがいいな。お菓子はきていますか? 羊羹《ようかん》が? ああ、よかろうよかろう。このまえみたいに大きい容器《いれもの》へ入れて、ところどころに出すのはよくありませんよ。ご遠慮深い方は少しも召しあがらない、図々しいやつなんざ、食っちゃったあげくに持って帰るなんてえのがあるんだから……そんなことのないようにめいめいに紙なんかに取って、召しあがるとも、お持ち帰りになろうともご勝手しだいと出すがいい。仕出し屋から料理は届いているか。料理番も来ている? それから見台はできましたか? よしよし、今日はできてきたあの見台を出したいとおもってね……おー、おー……うー……どうも声の調子がよくないな……うー……どうもお昼に食べたお菜《かず》が少し辛かったせいかな……おー、おー……うー……それから、はじまったら、このまえのようにこの座敷へお客さまを連れてきてはいけないよ。高座のまえへ詰めるんだ、それで高座のまえが一杯になったらばここへ詰めると、こういうふうにしておくんだ。ここへ座ったって浄瑠璃《じようるり》は聞こえやしない……みんな気がないんだからねえ、どうも……おうーうー……おほほん、おおー……うー……おほほん……おお、繁蔵、帰ってきたな……ああご苦労ご苦労、長屋をすっかりまわってくれたかい?」
「へえ、おそくなりまして、お長屋を全部、まわってまいりました」
「いや、ご苦労さま。おまえさんのことだから手落ちはなかったろうとおもうけれど、提灯《ちようちん》屋へ行ってくれたろうね。このまえ竹蔵にまわらしたところが、あれが気が利かないから、提灯屋へ知らせるのを忘れちまったもんだから、あとで『先だっては、旦那さま、お浄瑠璃をお語りなさったそうですが、なんだってわたしどもへはお知らせくださいませんでしたか。うかがいそこねて、まことに残念なことをいたしました』なんてね。愚痴を言われてしまった」
「はい、そのようにうかがっておりましたので、提灯屋さんにはいちばん最初にまいりました」
「そうか、よろこんだろうな」
「それはおよろこびでございましたが、あいにく開店がございまして、それの提灯をだいぶ請けあいまして、今晩、夜なべで仕上げなければならないというので、おかみさんまで手を真っ赤にしているような騒ぎで、こういう仕儀であるから、せっかくの催しであるが、今晩はうかがえないから、あしからずというお断わりでございました」
「やれやれ、それはかわいそうなやつだね。このまえといい今夜といい、わたしが義太夫を語るときは、なんかしらさしさわり[#「さしさわり」に傍点]ができるというのは、やつはことしは年まわりが悪いんだな。うん、まあいいや、こんど稽古のときにでも、差し向かいでみっちり聞かせてやるから、そう言っといてくれ……金物屋はどうした、行ったか?」
「へえ、金物屋さんは今夜、無尽がございまして、その無尽が、初回が親もらいの無尽で、親もらいの無尽へ不参をするわけにはいかないから、よろしくというお断わりで……」
「小間物屋はどうした?」
「おかみさんが臨月でございまして、今朝から急に虫がかぶっておりまして、家内が産をするのに、それをうっちゃって義太夫を聞きにうかがったというようなことが後日、親類の者やなんかに知れますとうるさいので、まことに失礼だが……これもよろしくというお断わりで……」
「病人ならしかたがない……豆腐屋はどうした?」
「豆腐屋さんでは、お得意先に年忌《ねんき》がございまして、生揚げとがんもどき[#「がんもどき」に傍点]をまぜて八百《はつそく》五十とか請けあいまして、それを明朝までに納めなければならないというんで……、生揚げは水を切って揚げさえすればよろしいんですが、がんもどき[#「がんもどき」に傍点]のほうはちょっと手数がかかります。豆腐のなかに蓮《はす》に牛蒡《ごぼう》に紫蘇《しそ》の実なんてえものが入りまして、蓮のほうは、皮|剥《む》きで剥きまして、四つに切ったやつをとんとんとんとんときざんで、すぐ使えばいいんですが、牛蒡のほうは、皮が厚く剥けます、ですからこの庖丁でなでるようにして剥くんですが、すぐ使うとあく[#「あく」に傍点]があっていけないから、いったんこのあく[#「あく」に傍点]を出します。紫蘇の実も、ある時分ならよろしゅうございますが、ない時分には、漬物屋から塩漬になっているのを買ってまいります。これをすぐ入れますと、塩辛うございますから…水に漬《つ》けておかなくてはなりません。それをあまり漬けすぎますと、水っぽくて味がすっかり落ちてしまいますし、それがために油をたいそう余計に使います……」
「おいおい、だれががんもどき[#「がんもどき」に傍点]のこしらえ方を聞いているんだ。今夜来るのか来ないのかって、それを聞いているんだ」
「ええ、……そういうわけでございますので、来られません……と」
「来られないなら、来られないと先に言うがいいじゃあないか。生揚げがどうのがんもどき[#「がんもどき」に傍点]がどうのと、余計なことを言って……じゃあ、鳶頭《かしら》はどうした?」
「へえ、鳶頭は、その、成田の講中にもめごと[#「もめごと」に傍点]ができまして、とてもこちらでは話がつかないというので、明朝《みようあさ》一番でこの成田へ立つそうで、一番と申しますと、五時でござんす。五時に……」
「……裏の吉兵衛さんはどうした?」
「吉兵衛さんのところへうかがったんでございますが、不在で、なんでも小田原のほうへお出かけになったとか。おっかさんがおいでになりましたが、なにしろお年寄りでもあり、風邪を引きまして、布団を三枚かけて湯たんぽを三つ入れまして、うーうーうなっておりました」
「わかった、おい、わかりました。おまえさん、いくつになるんだ? 子供じゃああるまいし、いちいちだれは来られません、だれだれは都合が悪い。まいりましたら、みんなこられません、これでわかる。高い米を食って無駄なことばかり言うやつがあるか……長屋の者は、だれが来るんだい?」
「へえ、どうもお気の毒さまで……」
「なにがお気の毒さまだ。よろしい、わかった。長屋の者はご用でこられない、まして他人さまだ。よろしい。せっかく用意もしたことだから、店の者だけで語ります……と、見渡したところ、店の者が姿を見せないね……番頭の宇兵衛はどうしてるんだ?」
「へえ、一番番頭さんは夕べお客さまのお相手で、たいそう御酒をいただきすぎまして、申しわけないが、頭が痛いので、お先へご免こうむるって、表二階で寝《ふせ》っております」
「金助はどうした?」
「金どんは、ちょうど夕方でございました。伯父がひどく具合いが悪いからという知らせがございまして、もう年が年だから、これぎり会えないかもしれないから、ちょっと会ってきたいと申しますので、それじゃあちょうどお店も早くしまったから、ちょっと会いに行ってきたらよかろうと出してやりました」
「梅吉はどうした?」
「梅どんは脚気でございますので、失礼させていただくという……旦那のお浄瑠璃をあぐらをかいてうかがっては申しわけないというので、やはり寝《やす》んでおります」
「竹蔵はどうした?」
「竹どんは、さっき物干しへ上がって布団を干しておりましたが、『竹どん、今晩、旦那の義太夫だよ』と申しましたら、『えっ!』と言って、転げ落ちまして、腰をしたたか打ちまして、身動きできず部屋で寝《ふせ》ております」
「豊次郎は?」
「豊どんは、いえ、その、なんでございます。眼病《がんびよう》でございます」
「おい、眼病といったら、おまえ、目じゃないか?」
「さようで、眼病は目が悪い、腹痛が腹、足痛と申しますのは足のほう……」
「なにを余計なことを言ってるんだ……おかしいじゃないか。耳が悪いから義太夫が聞けないというのならわかるが、目が悪くて義太夫が聞けないというのはどういうわけなんだい?」
「ええ、お言葉をかえすようですが、これがおなじ音曲《おんぎよく》でも、小唄や歌沢《うたざわ》ならよろしゅうございますが、義太夫というものは、音曲の司《つかさ》と申しますくらいたいへんなもの。なるほど浄瑠璃は見るものじゃあございませんが、旦那さまの浄瑠璃は、ことのほかお上手でございますから、悲しいところへまいりますと、泣かなければなりません。涙というものは、眼病にいちばんいけないそうで、これは、いっそはじめからうかがわないほうがよかろうとの、目医者からのおさしとめで……」
「ばあやがいるでしょ?」
「ばあやは寸白《すばこ》でございまして、坊っちゃんと早くから寝《やす》んでおります」
「家内の姿が見えないようだが、どうしたい?」
「ええ、おかみさんは、きょうはなんだか胸騒ぎがしてならないんだけどと申しまして、二、三日|実家《さと》へ行ってくるとおっしゃいまして、お嬢ちゃんを抱いてお出かけに……」
「繁蔵、おまえはどうだ?」
「へっ?」
「おまえだよ、どうなんだ?」
「へえ、あたくしはただいま、全部お長屋のほうをずーっとまわってまいりました。へえ、一人で、すっかりまわってまいりました」
「ああご苦労さま、お使いはご苦労だったが、おまえはどこが悪い?」
「へえ、わたくしは、このとおりなんの因果か丈夫でございます」
「なんだ、因果で丈夫とはッ……無病息災、このくらいの結構なことはない。因果で丈夫とは、なんて言い草だっ」
「いいえ……申しわけございません。お腹立ち……ご勘弁ください……いえ、よろしゅうございます……へッ、てまえ……覚悟いたしました」
「なんだい、覚悟したってえのは?」
「ええ、わたくし一人で、旦那の義太夫をうかがったなら、それでよろしいんでございましょう。えーえ、よろしゅうございます。てまいは丈夫な身体《からだ》でございます。薬一服のんだことがないくらいのもんで……義太夫の一段や二段うかがったから、これが、どうさわりがあるわけじゃあなし、家のほうは兄がおりますんで、わたしが万一どうなっても、家のほうにさしつかえはないんでございます……あたくしさえうかがえば、それでよろしいんでございましょう……さあ、お語りあそばせ……さあ、どうとでも……」
「なんだい、泣くやつがあるかい。じつにどうもあきれかえったもんだ。いや、よろしい。語りませんよ。……おお、師匠にそう言いなさい。『急に模様変えになりましたので、また後日ということにしまして、どうぞ今日のところはお引き取り願います』と言って、帰っていただくようにするんだ……もう、よくわかった。みんなの気持ちはわかったよ。あたしの義太夫が聞きたくないもんだから、長屋の連中が用事をこさいたり、店の者が仮病《けびよう》をつかったりするんだろう……よろしいッ、今後けっして語りませんから……ああ、語りませんとも……なんてえやつらだ……情けねえ人たちだねえ、え? 義太夫の人情というものがあいつらにはわからないのかねえ。……人間らしいやつらは一匹もいねえ。あの金物屋の鉄五郎、世の中にあいつぐらい無尽の好きなやつてえものはない、のべつ無尽だ、なんぞってえと無尽無尽、満回になったっても初回になり、初回になったかとおもうと満回になり、無尽ばかりして、ああいうやつが、不正無尽の会かなんか、でっちあげて他人《ひと》さまに迷惑をかける。また小間物屋のかかあだってそうだ。あそこの家くらい子供ばっかりこしらえている家はねえ。このあいだ産んだかとおもやあ、もうあとできてるんだ。四季に孕《はら》んでやがらあ。あきれたもんだ。ほかにするこたあねえのかねえ。まったく泥棒猫の始末だ。鳶頭《かしら》も鳶頭だ。それほど成田山がありがたきゃあ、成田へ行って金を借りるがいいや。不動さまのほうがご利益があるか、あたしのほうがご利益があるか、胸へ手をあててよォーく考えてみるがいいや。毎年、暮れになると、きまって家へ金を借りにくるんだ……言いたかないが、そのとき、証文一枚取るわけじゃなし、金を返さないって、あたしが一ぺんだっていやな顔をしたことがあるかい。ふだん、印物《しるしもの》の一枚もやって世話をするのはなんのためだ。まったく……」
「まことにさようで……」
「おい、義太夫なんてものは、おもしろおかしいもんじゃあないんだ。昔のえらい作者が、苦心に苦心をかさねて、筆をとってこさいたもんなんだよ。一段のうちには喜怒哀楽の情がこもってて、本を読むだけでも結構なもんだ。それを仮《かり》にあたしが節をつけて、語って聞かしてやる……なに? 節がついているだけ情けねえ? だれだ? 陰でなんか言うなら、こっちへ出てこいっ、そりゃあたしはまずい……」
「ええそうです」
「なにがそうですだ。そりゃあ、あたしゃまずいよ、まずいけれどもあたしゃ素人だ。商売人じゃあないんだ。今日《こんにち》みなさんを招待して、ごちそうして仮にも、ただ聞かせるんだ……なにを? これで金をとりゃあ詐欺だ? こっちへ出ろっ……勘弁できねえッ、おい、繁蔵、おまえ、すまないけど、もう一ぺん長屋をまわってきておくれ。明日のお昼までに店《たな》を明け渡すように、そう言って……」
「それは、乱暴なお話で……」
「なにが乱暴だ。義太夫の人情のわからないような、人間の道理にはずれた者に店を貸してはおけない。お入用《いりよう》の節はいつなんどきでも明け渡しをいたしますという、店請《たなう》け証文も入っているんだ。店《みせ》の者だってそうだ。あたしの家にいると、まずい義太夫の一段も聞かなくっちゃならない。聞くのはいやだろうから、出てってくれ、みんな暇を出すから……片付けな、片付けな、湯なんぞあけちまえッ、料理なんかいらないから捨てちまえッ、見台なんか叩《たた》きこわせっ」
旦那はすっかり怒ってしまい、奥へ入ってしまった。
そのままにしておけないので、繁蔵が長屋へもう一度まわって、まとめ役を介して、お触れをまわした。
「ええ、旦那さま、旦那さま」
「なんだッ、繁蔵」
「ええ、ただいまお長屋の者がみなさん揃ってまいりましたが……」
「なにしに来たんだ?」
「へえ、旦那さまに、ひとつ浄瑠璃をぜひ聞かせていただきたいと申しております……旦那の義太夫をほんのさわり[#「さわり」に傍点]だけでもいいからうかがいたいと、長屋一同こぞってまいっておりますが、むざむざ帰すのも残念と心得ますのでいかがなものでございましょう? お心持ちのお悪いところは、幾重にもてまえがなりかわってお詫《わ》びを申し上げます。ほんのさわりで結構なのですが、お語り願えませんでしょうか」
「ごめんこうむるよ。なぜって、そうだろう。芸というものは、こっちが語ろうとおもったときやらなくちゃあできるもんじゃあない。こんなときに語れるもんか。まずい義太夫を我慢して聞いていただくにもおよばないし、気分も悪い。またの機会ということにして、せっかくながら、お断わりしますと言って、みんなに帰ってもらいな」
「ではございましょうが、そこをなんとかまげて……あたくしがあいだに入って困りますから……ねえ、旦那さま、なにもそんなに芸おしみをなさらないでも……」
「おまえ、それは、あたしの芸はそれほどのことはないよ。あたしがもったいをつけている? そんなことはない、みなさんに対していまさら……なんだい? どうしても聞かないうちは帰らないってえのかい? だれが来ているんだ? 仕立屋に、小間物屋に、うん、提灯屋と、豆腐屋も、金物屋も、鳶頭も来ている? うふふふ、うふふふふ、またみんな揃ってるねえ。あたしに? 一段でもいいからやってくれってえのかい? またみんな好きだねえ……そりゃあ、一段やったって、十段やったっておんなしようなもんだが、これであたしがやらなけりゃあ、また碌《ろく》なことは言わないし、どうも困ったねえ。やりたくないところを無理にやらせられるというのが、ここが芸人のつらいところだ、まったく……おまえがそんなに困るのなら、ひとつおまえさんの顔を立てて、今晩は調子も悪いことだから、ほんの、一、二段語るとしようか」
「ぜひそういうことに願います」
「そうときまれば、あたしがみなさんにお目にかかろう。それから、定吉にそう言って、師匠をすぐ迎えにやっとくれ。料理や菓子はどうした?」
「店の者がいただきました」
「困るなあどうも……こういうことになるとすぐ手がまわるんだから……こういうことは言いだしてから一時《いつとき》は待つもんだ。すぐまた用意をしてくださいよ、足りないものはすぐ届けさせるようにして……」
「ええ、今晩は」
「ええ、今晩は」
「ええ、今晩は……」
「おやおや、どうもみなさん、こちらへどうぞ……さあ、よくおいでくださった。たいしたおもてなしはできませんが、ゆっくり遊んでってくださいよ」
「ええ、今晩は。今晩はまた旦那さまの結構なお浄瑠璃を、ありがとう存じます。さきほどはわざわざお使いをいただきまして……」
「おや、豆腐屋さん、おまえさん、たいへん忙しいっていうじゃないか。よく来られたねえ」
「へえ、どうもあいにく年忌の注文を請けあいました、ところへ、旦那さまの浄瑠璃があるってえことをうかがって、ああ残念なことをしたと悔んでおりましたが、どうも好きなものはしょうがありません、いまごろは、旦那さまがなにを語っていらっしゃるかと気になって、仕事が手につきません。生揚げをほんとうの生揚げにしてしまったり、がんもどき[#「がんもどき」に傍点]のこんな大きいのをこさいちまって、家内に叱言《こごと》を言われて、へえっ、大笑いで、へえ。それほどうかがいたければ、仲間から職人を都合してうかがったらいいだろうって、職人を都合してうかがったようなしだいでして、今晩はまことにありがとうございます」
「いやあ、これは恐れ入った。いえ、あなたが義太夫好きだということは知っていますがね。職人を都合してまで……気の毒をさせたねえ。まあ、職人の手間代ぐらいのことはさせてもらうから……いやあ、嘘にでもそう言ってくれると、うれしいね。こちらも語る張り合いがあるよ……今晩はね、ひとつ、みっちり語りましょう」
「うへえ……ありがとう存じます」
「じゃあ、おまえさんも向こうへ行ってな、やれる口なんだから、かまわずどうぞ飲んでおくれ……おや、鳶頭《かしら》ァ見えたね」
「ええ、どうも、お騒々しいこって……」
「火事じゃあないよ……おまえさん、成田へ行くんじゃなかったかい?」
「どうも、先ほどは申しわけござんせんで、いいえ、成田は行かなきゃあならねえところだったんですがね。さっき兄弟分の辰が家へ寄りまして、おれがかわりに行って、話をつけてこよう、と申しますんで、家の者も、旦那が義太夫をやるってんだから、しかたがねえから……いや、まあ、しっかり聞いてきたらいいじゃねえかと、こう言ってくれますから、じゃ旦那のほうへおれがうかがうからってね。えッへへへ、あっしがまた義太夫が好きでね、飯を食わなくてもいいから義太夫を聞いてりゃあいい心持ちだってんでね。どうも変わった性分で、ふだんからそう言ってるんでござんす。旦那にゃあまあ、ほんとうに、ながいあいだ出入りをさしていただき、なにからなにまでお世話になって、困ったときなんざあ、ま、こういうわけでござんすと申し上げりゃあ、ねえ、金でもなんでも貸していただける。お不動さまなんざあ、いくらありがてえったって、べつに金を貸してくれるわけじゃあありませんし、まあ、旦那の義太夫を聞くのも浮世の義理だから……いえなに、なんでござんす。まあ、浮世の義理人情ってえものは、義太夫を聞いたもんでなけりゃあわからねえってんだ、ねえ、まったくの話が、だいいち旦那の義太夫ってえものは、どうしてあんな声が出るんだろうなんてね、えっへ、人間わざじゃねえ、どうしてああいう間抜けな……いえ、まことに結構な声……、じつにどうもすげえと言おうか、おそろしいと言おうか……いろいろごちそうさまで……」
「なんだい、さっぱり言うことがわからないじゃないか。まあいいや、おまえも向こうへ行って、みなさんのお相手をして……はいはい、いますぐ支度にかかるから……」
「いやどうも、ご苦労さま」
「おや、どうも、お互いさまにとんだご災難で……」
「いや、それにしてもどうなるかとおもって、おどろきましたね。今夜は、不意をくらったんでね。店立《たなだ》てだってんだが、おだやかでないですよ……しかしね、ふだんはもののわかった、ほんとうにいい旦那なんだが、義太夫にかかるってえと、ふだんと、がらっと変わって、狂暴性を帯びてくるってえのは、どういうわけなんだろう?」
「ここの家の先祖が、義太夫語りかなんか締め殺したんじゃあないかねえ」
「うーん、なにかの祟《たた》りが……おっそろしいもんだ」
「気の毒なのは横町の袋物屋の隠居だ。こないだ、この義太夫を聞いて、患《わずら》っちゃった」
「そんなことがありましたな」
「なにしろ、うちへ帰ると、ドッと熱が出ちゃった。さっそく医者にみてもらうと、この原因がどうしてもわからない。なにか心あたりはないかとよく調べてみると、義太夫を聞いてから熱が出た。これは義太熱[#「義太熱」に傍点]といって、医者でも薬のもりようがない」
「義太熱なんてのがあるのかね、どんな熱だい?」
「節々が痛む」
「そりゃあ、たいへんな義太夫だ」
「今夜あたしは、用心に宝丹を持ってきました」
「そりゃご用心ですな、あたしにも少し分けてくださいな」
「さあどうぞ……お互いに被害は少しでも食いとめませんと、あしたの仕事にさしつかえますからねえ……みなさん、義太夫がはじまったら、頭を下げるほうがいいですよ。うっかりあの声をまともにくらったら致命傷ですよ」
「命がけだね、どうも」
「いいえ、嘘じゃありません。その証拠に、糊屋の婆さんの胸の黒あざは、あの声の直撃をうけたあとだってんです」
「おやおや……おひとつどうです? お酌をしましょう」
「こりゃどうも、恐れ入ります。いただきましょう……いいお酒ですね、いただこうじゃありませんか、せっかくですから……」
「この料理、手をつけましょう、食《や》ってごらんなさい、どうです」
「へえ、ありがとうございます……こりゃ、結構……これで義太夫がなけりゃあ、なお結構」
「そういう贅沢《ぜいたく》を言っちゃあいけませんよ。ま、ひとつ、いきましょう……こうなったひにゃ、食いもので継《つな》ぐよりしょうがないんですから……」
「ええと、今晩はどういう段どりになっているんでしょうねえ? 何段ぐらい語るのか、それがわかりゃあ、われわれのほうも覚悟のしようもありますから……」
「それもそうですね、じゃあ、あたしがうかがってきますから……ええ、旦那さま、今晩はどんな語りものが出ましょうな」
「えらい、どうも恐れ入った。義太夫の好きなものは、出しものを聞いただけで、いい心持ちになるというもんだ。そうおまえさん方に乗り気になられると、こっちも張りあいがあるよ。みっちり語りましょう」
「おやおや、やぶ蛇だよ、これじゃ」
「まず最初、咽喉《のど》調べに御簾内《みすうち》で語りますよ、ご祝儀として『橋弁慶《はしべんけい》』」
「なるほど、お勇ましい出しものですな」
「そのあと『恋娘昔八丈《こいむすめむかしはちじよう》』お駒才三《こまさいざ》、城木屋《しろきや》から鈴ケ森まで続けて熱演する」
「なるほど……『橋弁慶』と『お駒才三』これが二段、これでおしまいで……」
「いや、そのあとへ『絵本太功記』十段目、尼ケ崎をいきましょう、太功記十段目というやつを。『近頃《ちかごろ》河原《かわら》の達引《たてひき》』お俊伝兵衛《しゆんでんべえ》堀川の段、これはまあ、猿廻しの曲弾きやなにかで、ちょっと三弦《いと》にももうけさせる。そのあとへ『下総《しもうさ》土産《みやげ》佐倉曙《さくらのあけぼの》』宗五郎の子別れ、地味な浄瑠璃だが、そのあとへ『伽羅《めいぼく》先代萩《せんだいはぎ》』政岡忠義の段、飯《まま》炊き場から抜かさず熱演をする……『彦山権現誓助剣《ひこさんごんげんちかいのすけだち》』毛谷村《けやむら》六助|内《うち》の段をやって、あとへ『御所桜堀川夜討』三の切《きり》、弁慶上使の段……『三十三間堂棟由来』平太郎住家《へいたろうすみか》『柳』はあたしの十八番で、ぜひ聞いてもらいたいが、久しくやらないから……『生写朝顔日記』宿屋から大井川まで、※[#歌記号、unicode303d]領布《ひれ》振る山の悲しみも……というところで、満場をひとつうならせるからなあ」
「……満場うなりますか、へッ」
「そのあとへ『蝶花形名歌島台《ちようはながためいかのしまだい》』八ッつ目、小坂部兵衛館の段を。……『忠臣蔵』を十一段ぶっ通して『後日《ごにち》の清書《きよがき》』までいくからな」
「たいへんでございますなこりゃ、今晩中には……」
「まあ、あさっての夜のしらしら明けごろまでには……」
「ああ、さようでございますか、よろしきようにどうぞ……え? あさっての夜のしらしら明けごろだとよ」
「やっぱり提灯引けですか」
「葬式《とむらい》じゃない」
そのうち、デデンとはじまった。
「おい、おい……ほら、はじまったよ。どうです、人間の声じゃあないね……あの声を出したいために、これだけのごちそうをするんだが、語っているほうはいい心持ちか知らねえが、聞かされるほうこそ、いい面《つら》の皮だ。こういうときは、なるべく大きなもので、がぶ飲みして、早く酔っちまわなきゃ損だよ。あなた、おやりなさい、遠慮したってつまらないから……飲めない? 下戸ですか? それじゃあ、この羊羹《ようかん》を……」
「ありがとうございます……でも仮にもこうやってごちそうになっているんだから、ここらで景気づけに、ほめなくちゃあいけませんよ」
「冗談言っちゃあいけねえ。ほめるところなんぞありゃしねえよ」
「なくとも義理にでも、なんとか言っておやりよ」
「それじゃあほめますよ、よォッ、音羽屋ッ……」
「おいおい、義太夫に音羽屋てえのがあるかい?」
「いいよ、なにを言ったってわかりゃあしないよ。気ちがいッ、よォッ、ばかッ……なんでも声さえ出してりゃあ、向こうはほめてるとおもうよ」
「ドウスル、ドウスル」
「よゥォー、日本一ッ、うまいぞ、羊羹っ」
旦那は、夢中になって語っている。そのうち、奉公人が気をきかして、暑いだろうと、うしろ窓を開けたから、風が入ってきて見台の上の本が七、八枚語ったところで、めくれてしまった。すると義太夫が元へ逆もどり、ひとつところを行ったり来たり……そのうち三味線が東海道へ入って、義太夫は中仙道、いずれ大津あたりで出っくわすだろうという、仇討《かたきうち》のようなありさま……。
しばらくするうちに前がしーんとして、みんな感に堪えて聞いているんだろうと、御簾《みす》を持ちあげて見ると、一人残らず、ごろごろ寝ている。
「師匠、三味線やめとくれ。あきれかえったやつらだ。人に浄瑠璃を語らしておいて、ぐうぐう寝るやつもないもんだ。なんだ番頭なんざあ鼻から提灯を出して寝てやがる……おいっ、番頭、番頭ォッ」
「うゥん、ドウスルドウスル……」
「なにがドウスルドウスルだ。もう義太夫は終わった」
「おしい」
「なにを言うんだい。いいかげんにしなさい。みなさんがお眠気がさしてきたら、お茶でも入れかえてまわるのが、おまえの役目じゃあないか。それがいちばん先に寝るやつがあるか」
「いえ、いちばんあとで寝ました」
「なお悪い……みんな起きて帰っとくれ、わたしの家は宿屋じゃあないんだ。帰れ帰れっ。どいつもこいつもごろごろ寝やあがって、じつに不作法というか、礼儀を知らない……だれだい? そこで泣いているのは、え? 定吉じゃあないか。こっちへ来な、どうした?」
「悲しゅうございます」
「悲しゅうございます? えらい、どうだ。定吉はまだほんの子供だ。それが義太夫を聞いて悲しいという……番頭、もっとこっちへ来なさい。おまえさん恥ずかしいとはおもわないかい? 四十の五十のと重箱みたいに年齢《とし》ばかり重ねて、こうやって大の大人がだらしなく寝ちまうなかで、子供の定吉がわたしの義太夫を聞いて、身につまされて悲しいと泣いているじゃあないか……定吉や、さあさあこっちへおいで、泣くんじゃない、泣くんじゃない。おまえだけだわたしの義太夫がわかったのは……感心だ、あたしゃうれしい……で、どこが悲しかった? 子供は子供の出るところだな、『馬方三吉子別れ』か?」
「そんなとこじゃない、そんなとこじゃない」
「じゃあ、『宗五郎の子別れ』か? そうじゃない? ああ『先代萩』だな?」
「そんなとこじゃない」
「じゃあどこだ?」
「あそこなんでございます」
「あそこはわたしが義太夫を語ったところじゃないか」
「あそこがわたしの寝床でございます」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「寝床」といえば、下手《へた》な素人芸、またその芸に悩まされること……の称呼として使われ、そして、どうしても八代目桂文楽を思い出させる。諸芸の司《つかさ》ともいわれる義太夫を、何故このように目の仇《かたき》にするのか? それは、明治期には娘義太夫が大流行、寄席通いの学生が「どーする、どーする」と血道をあげ、娘太夫《たれ》の乗った人力車の後押しをしながら、寄席の掛け持ちや掛け聞きをして、義太夫が落語寄席に打撃を与え、巷間《ちまた》に蔓延《まんえん》した、そうしたことへの対抗上、こうした噺を演《や》って対応したとも考えられる。それにしても落語も芸を聴かせる立場だから、あまりまともに、辛辣《しんらつ》に排撃したのでは、聴き手も白けてしまうので、義太夫に招ばれる長屋の衆、店の者の避難、狼狽《ろうばい》するさまを、戯画的にナンセンスとして演出する方が好ましい。その点、五代目古今亭志ん生の演出は、旦那が番頭に差しで聞かせると、番頭は進退きわまって逃げまわり、旦那は見台を持ってそれを追っかけ、番頭は蔵の中へ逃げ込むと、旦那は引窓へよじのぼって、蔵の中へ義太夫を語り込む、蔵の中は義太夫で渦巻いて、番頭は七転八倒の苦しみ、そのまま番頭は行方をくらました……と、ギャグの連続で展開した。桂文楽の場合は、怒り出した旦那が、またご機嫌がなおるあたりに人情味をしのばせ、義太夫を語るとき以外は、よく行き届いた好々爺で、自分の義太夫をけっして自慢せず、むしろ集まった人びとに酒、料理を出して、そのことをたのしもうとする行き方であり、そうした人柄は、桂文楽その人の格好の芸域であった。原話は、落語の祖、安楽庵策伝の笑話本『醒睡笑《せいすいしよう》』(寛永五年刊)にすでに収録されている。落語としては大阪が「寝床浄瑠璃」として古く、それを三代目蝶花楼馬楽が東京へ移入して、「寝床義太夫」「素人義太夫」と題して脚色《アレンジ》したのが現型のはじまりである、という。
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火焔太鼓
「ねえおまえさん、おまえさんみたいに商《あきな》いの下手な人はないね。よくそれでおまえさん道具屋になったね。あたしゃ、おまえさんが店でなんか言ってるのを聞くと、ほんとうにかんしゃくが起こるよ」
「どうして?」
「どうしてって、そうだよ。うちは売るのが商売だよ。それなのに、おまえさんは、お客さまが買おうとおもうのに、やンなるようなことばかり言うからさ」
「なんか言ったかい?」
「いまだってそうだよ。お客さまが、『道具屋さん、この箪笥《たんす》はいい箪笥だなあ』って言ったら、おまえさんは、『ええ、そりゃあいい箪笥ですよ、うちの店に六年もあるんですから……』そういうことを言うからいけないんだよ。六年あるてえのは、六年売れないから置いてあるというようなもんじゃないか。『この箪笥の抽出《ひきだ》しを開《あ》けて見せてくれねえか』ったら、『それがすぐ開くくらいなら、とうに売れちゃってるんですよ』……お客さまはびっくりしていたよ。『じゃあ、これ、開かねえのかい?』『いや、開かないことはありませんが、こないだ無理に開けようとして、腕ェくじいた人がある』……およしよ、そんなばかなこと言うの」
「正直に言ってんだい」
「正直ったって、正直にもほどがあるよ。おまえさんは、売らなくちゃならないものを売らないで、売らなくてもいいものを売っちまうんだから……去年もそうだろう。向こうの米屋の旦那がうちへ遊びにきて、『甚兵衛さん、この火鉢、いい火鉢だなあ』って言ったら、『よかったら、持ってらっしゃい』って、うちで使っている火鉢を売っちゃったから、うちに火鉢がなくなっちゃったじゃないか。寒くなって、おまえさん、向こうの米屋へあたりにいったじゃないか。向こうの米屋の旦那がそう言ってたよ。『なんだか、火鉢と甚兵衛さんと、いっしょに買ったような心持ちがする』って……」
「うるせえなあ、おめえは。なに言ってやんでえ」
「たまには儲《もう》けたらどうだよ。おまえさんと一緒にいてね、ほんとうに儲かったためしがないんだからね。満足にものを食べたことはないよ、ええ? おまえさんが損ばかりしているから、ものを内輪内輪に食べてるからね。このごろはほんとうに胃が丈夫になっちゃった。ねえ、ぼんやりしてないで、少しは儲かりそうな品物でも、市で買ってきたらいいじゃないかね」
「うるせえな、おまえは黙ってなよ。きょうは市で、ちょいと儲かりそうなものを買ってきた」
「なんだい?」
「太鼓……」
「およしよ、太鼓なんて……それがおまえさん、了見ちがいだよ。太鼓なんてえものは、際物《きわもの》といってね、お祭りのまえか、初午《はつうま》まえに買って、ぱっと売っちゃうもんだよ。そんなものを買ってきて、おまえさんは、また損するんだろう……どれ、その風呂敷に包んであるのかい? 見せてごらん……あらっ、汚《きたな》い太鼓だね。まあ、なんだい、こりゃ……太鼓かい?」
「おまえは、ものを見る眼が利かねえんだ、汚いんじゃねえんだ、古いんだよ。この太鼓は古いもんなんだなあ……古いものってやつは儲かることがあるんだ」
「ないね。古いんじゃあおまえさん、ずいぶん損してるだろう? このまえも、清盛の尿瓶《しびん》てえのを買ってきて、損したじゃないかよ」
「おまえ、よくおぼえてんねえ。古いんで損したのは、清盛の尿瓶と岩見重太郎の草鞋《わらじ》だよ。あれじゃおれは損しちゃったなあ」
「あきれたねえ、ほんとうに……これ、いくらで買ってきたんだい?」
「一分《いちぶ》で買ってきた」
「まあ……そんな汚い太鼓、一分で買やあ一分まる損だ。そんなもの買う人があるもんか」
「そりゃわからねえ」
「いいや、ないよ」
「定吉、この太鼓……店へ出して、埃《ほこり》をはたきな」
「へへへ、おじさんとおばさんとしょっちゅう喧嘩《けんか》してばかりいやんの……え? おじさん、これ、ずいぶん埃がひどいね」
「埃をはたくんだ」
「へえ……こりゃ、ずいぶん埃が出やがら。埃で向こうが見えねえや。どうだい……」
ドンドンドン、ドンドンドン……。
「たたくんじゃないよ、はたくんだ」
「はたいてるんだよ、これ。縁《ふち》ンところはたくと、こんな音《ね》がするんだから……」
ドドーン――。
「やかましいな、この野郎は。おまえのおもちゃに買ってきたんじゃない、たたくんじゃないよ」
「ああ、これこれ、ゆるせ」
「へえ」
「ああ、いま太鼓を打ったのは、そのほうの家か?」
「へえ、ええ……なんでございましょう」
「いま、お上《かみ》がお駕籠《かご》でご通行の際、太鼓の音が聞こえた。そのほうの家で打ったのだな?」
「えへへ……あたしじゃあないんです……引っこんでろっ、こっちへ……ろくなことをしやがんねえで……いえ、太鼓をたたいたわけではありません。埃をはたいたんでございます……あそこにいるばかが、たたいたんですがね。はたきなよって言ったのにたたいたんでございます。しょうがねえばかで、親類から預かっておりまして、なりは大きく見えましても、まだ十一なんでございまして……どうぞ、ご勘弁を願います」
「いや、そうではない。どういう太鼓であるか、太鼓を見たいとおおせられる。さっそく、太鼓を屋敷へ持参いたせ。お買い上げになるかもしれんから」
「ああ、そうですか……どうもうまくたたきやがったな、あいつは……こいつです、たたいたのは」
「うむ、親類の者か」
「ええ、親類のやつなんでござんす。人間がなかなか利口で、よく働くんでございます。ことし、もう十四になりますんで……」
「いま十一と申したではないか」
「十一のときもあったんです」
「なにを申す……それでは、太鼓を持参いたせ」
「へいへい、お屋敷はどちらでございますな?……はあ、さようでござんすか? へい、わかっております。え、すぐ持参いたします。へえへえ、ごめんくださいまし……ほら、みねえな、売れたじゃねえか。太鼓をお買い上げになるってんだ」
「おまえさん、そんな太鼓が売れるもんか。向こうさまじゃあ、お駕籠のなかで、音をお聞きになったんだ、金蒔絵《きんまきえ》でもしてある太鼓だとおもっているんだろう。そこへおまえさん、その汚い煤《すす》の塊みたいな太鼓を持ってってごらん。お大名というものは贅沢《ぜいたく》なんだから、『かようなむさい[#「むさい」に傍点]ものを持ってまいった道具屋、無礼なやつである』武士《さむらい》なんてえ、気の短いもんだから『道具屋、当分帰すな』って、おまえさん、若侍かなんかにふん捕《づか》まって、庭の松の木へ結《ゆ》わえられちゃう」
「よせやい、おどかすなよ。そんなこと言われたひにゃあ、おれ、行くのやんなっちゃったなあ」
「持って行かなきゃあ、もっとたいへんだよ。いいからさ。向こうさまでもって、この太鼓はいくらだって言ったら、市で一分で買ってまいりました。口銭《こうせん》はいりませんからと言って、売っちまわないと、ほかに買い手はないんだから、一分だけ受けとって、すぐ逃げておいで、いいかい、しっかりおしよ」
「うん、わかった。……背負《しよ》わしてくれ」
「じゃあ、大丈夫かい?」
「いいよ、行ってくるよ」
「……おまえさんは、よォーく自分のことを考えないといけないよ。ふつうの人間とちがうんだから……人間が少しぼんやりしているんだから……ねっ」
「なにを言ってやんでえ。こん畜生。亭主をなんだとおもってやがんだ。いまいましい女だ……ふざけやがって、下から出りゃあつけあがって、あーあ、ああいうのは図々しいから生涯うちにいるんだろうね……いやンなっちゃうねえ。こん畜生っ……こんにちは」
「ははあ、おかしなやつが来たな……なんだ、そのほうは?」
「ええ……道具屋でござんす」
「うん、お達しがあった。ご門を入れ」
「へい、どうもありがとうございます……いい屋敷だねえ、屋敷のきれいなのにひきかえ、この太鼓は汚《きたね》えや、こりゃ、買わないよ……こりゃ、ふん捕まるほうの太鼓だよ。すぐ置いて逃げちまおう……こりゃ、弱ったなあ……え? お頼《たの》う申します」
「おお、最前の道具屋か。こっちへ上がれ、太鼓は持参いたしたか?」
「へえ、持ってまいりました。いけませんか?」
「いけなくはない。どういう太鼓であるか、その風呂敷を解いてみろ」
「ええ、こういうもんでござんす……」
「うむ、たいそう時代がついておるなあ」
「ええ、もう、時代の塊みたいなもんですからなあ」
「よし、お上にご覧にいれるあいだ、そこに待っておれ」
「それ、向こうへ持ってって見せるんですか? そりゃあよしたほうがいいでしょう。ええ、それよか、あなたがここで買ってくれませんか?」
「拙者が買うわけにまいるか。しばらく、待っておれ」
「断わっておきますが、この太鼓はこれよかきれいになりませんよ、どうやっても、へえ。よろしいですか? へ、どうぞお持ちを願います。重いでしょ? 重くって汚いのは請けあいますが、ほかに取柄はないんですよ……ああ、持って行っちゃった。『かようにむさいものを持ってまいった、道具屋ッ』って言ったら、逃げちまうんだから……危なくっていつまでこんなところにいられねえや……あ、どうでした、いけなかったでしょう?」
「いやいや、たいそうお上には御意に入っておられた」
「あれを? ああ、そうですか……」
「うむ、あれは当方で求める」
「へえ」
「あの太鼓は、どのくらいで手ばなせるのか?」
「ええ……さようでござんすな……」
「いくらで売るのだ?」
「いくらということを申しますが、いくらいくらと申しましても……いくらいくら……でござんしょうか?」
「はっきり申したらどうだ」
「へえ、さようでございますな……」
「そのほうが売りに参ったのだ。値段《あたい》を言えないことはなかろう。遠慮することはない。あの太鼓は殿がたいそう御意に入っておる。それゆえ、金子《きんす》のところは拙者がはからってやるから、心配することはない」
「へえ、さようですか……え……いち……」
「かまわんから、手いっぱい申してみろ」
「こんなもんでござんすかな……?」
「手をいっぱいにひろげて……それはいくらということだ」
「ン両」
「はっきり申せ」
「十万両」
「それは高いではないか」
「へえ、手いっぱいですから……そのかわり負けるのはいくらでも負けますから、どんどん値切ってください、あたしのほうは負けるだけ負けましょう。今日一日負けてもよござんす」
「変な売りようだなあ……どうだ、これくらいなら求めるというところを拙者が値段を切り出すから、それでよかったら手ばなせ」
「へえ、いくらで?」
「うむ、三百金ではどうだ?」
「えへ?」
「三百金ではどうだ」
「ええ、三百金と申しますと、どういう金《かね》になりますかな?」
「わからんやつだな。小判で三百両ではどうだ?」
「小判で三百両と申しますと? その小判は使えますんで……?」
「使えぬ小判を出すか……三百両では手ばなせんか?」
「あはーン……あァ……ン」
「泣くことはない。どうだ、売らんか?」
「売ります、売ります……小判で三百両」
「よいか?」
「へえ」
「では、受取《うけとり》を書け」
「受取はいりません」
「こっちでいるから書け」
「へえ……こんな具合いで……」
「印《はん》を押せ」
「印、持ってきてないんでござんすがね。あなたのを押しといてください」
「なにを申す……そのほうの爪印《つめいん》でよろしい」
「では、これを押しますか……五つほど……」
「そんなに押してどうするんだ……ああ、これこれ、金子を持って参れ……では、五十両ずつ、そのほうに渡す。よいか……五十両あるぞ。これが小判が五十枚重なって、五十両。よいか……百両であるぞ」
「あ、ありが……とォほう……ほほ……」
「百五十両ある」
「とほほほ……」
「なにぼォーとしておる。……いいか、二百両だ」
「あは…ァ」
「どうした?」
「み、水ゥ一杯ください」
「やっかいなやつだな。水を持ってきてやれ……飲め。……三百両ある。これを持って行け」
「……みんないただいてよろしいんで……じゃ、しまっていいんですね。じゃ……いただきます……へい、どうも、ありがとうございます。へへ……えー、ちょっとうかがいますが、あの太鼓をどういうわけで、三百両なんて値でお買い上げになるんでしょうな?」
「そのほうは、売りにきて知らんのか?」
「知りませんね」
「はっはは……拙者にもわからんが、お上はそのほうに通じておられる。あの太鼓は、火焔太鼓とか申して、世に二つというような名器であるとのこと、お上はたいそうなおよろこびである」
「へーえ、そうですか」
「帰るか?」
「へえ」
「ああ、風呂敷を持っていけ」
「風呂敷なんぞ、置いてきます」
「風呂敷なんぞいらん。金子を落とすなよ」
「自分を落っことしても金は落っことしっこありません……どうも、三百両……ねえ、夢じゃないかしら、ええ? 三百両ってえのはたいへんだぞ、これは……どうも、ご門番さん、ありがとうごんした」
「おお、道具屋、商いがあったか?」
「ありました」
「どのくらい儲かった」
「……大きなお世話だい。そんなこと言ってたまるかい……ううん。かかあのやつは一分で売っておしまいって言いやがった。よっぽど一分って言おうとおもったが、言わなくってよかったよ。あん畜生、おれのことを商売が下手だ下手だとか、ふつうの人間とちがって、少しぼんやりしているなんてぬかしやがって……帰《けえ》ったら、ただおかねえから。おまえさんと一緒にいたひにゃあ、胃が丈夫になるなんて、満足にものを食ったためしがねえってやがる。みてやがれ、帰って、うんと食わして動けなくしてやるから、亭主をばかにしてやがって……いま、帰ったぞゥ……」
「まあ、あんな顔して帰ってきやがった、追っかけられてきたんだろう? あんな太鼓を持ってって、あたりまえだよ、ほんとうに……早く、天井裏へかくれておしまい」
「な、なに言ってやんでえ。天井裏へなんぞ入れるかい」
「じゃあ、どうしたんだい?」
「どうしたのって、おい……はァ、はァわわ」
「どうしたの?」
「は、ッは……」
「なんだい? わかんないよ」
「おれァ、おれァ、向こうへ行ったんだ」
「行ったから、帰ってきたんだろ」
「……あの太鼓を見せたら、向こうでいくらだって、こう言うんだ」
「そこだよ、一分でございますと言ったんだろう?」
「うん、そう言おうとおもったんだけど、舌がつっちゃってしゃべれねえんだ」
「肝心なところで舌がつるんだね。だらしがないねえ」
「なにを言ってやんでえ。それからおれは、向こうが、手いっぱい言えってえから、手をいっぱいにひろげて……ン両」
「いくらなんだい?」
「十万両」
「ばかがこんがらがっちゃったねえ、この人は」
「そうしたら、向こうで高いってんだ」
「あたりまえだ」
「向こうで三百両でどうだってんで、三百両……三百両で売ってきた、あの太鼓。ええ、おめえ、なんでも、たいへんな太鼓だとよ、あの太鼓……」
「ふゥーん」
「それでもって、小判で三百両、もらってきたんだ。どうでえ」
「え? おまえさん、三百両、もらってきたの? ほんとうかい?」
「ほんとうだい」
「じゃ、三百両、持ってんの?」
「持ってんのよ」
「あァら……ちょいと……あたしゃ、三百両なんて見たこともないねえ」
「おれだってねえやな」
「ちょいと見せてごらんよ」
「いま、見せるよ」
「早くお見せよ」
「見せるから待てよ。ええ? おどろくんじゃあねえぞ。これを見て、ぼんやりして座り小便してばかになっちゃあ承知しねえぞ」
「大丈夫だよ、お見せよ」
「いいか、ほら、五十両……てんだ。これがなあ、小判が五十枚重なって、五十両……見とけ、こん畜生っ、なあ……これが百両てんだ」
「あ、ら、まァ……ちょ、い、と……」
「どうだ、百五十両だ」
「ほう……ほほ……とほほう……」
「……おい、柱へつかまんな、ひっくり返《けえ》るからつかまれてんだよ」
「こうかい?」
「そうよ、な、ほれ、二百両」
「あは……ァ」
「どうした?」
「み、水を一杯おくれ」
「ほうれみやがれ、おれもそこで水を飲んだ」
「まあ、ほんとうにおまえさん、商売上手だねえ」
「なにを言ってやんでえ……どうだ、ほら三百両」
「まあ、儲かるね。これからはもう、音のするものに限るねえ」
「こんどは、半鐘にしよう」
「半鐘? いけないよ。おじゃんになる」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 五代目古今亭志ん生の好きだった噺。明治の末、初代三遊亭遊三が高座で演《や》ったものを志ん生が練り、ほとんど創り上げた。お人好しで酒とバクチが好きで、おかみさんから年中やりこめられていた志ん生の日常そのものが投入され、活写されている痛快さが甦ってくる。火焔太鼓は舞楽(雅楽)の演奏に使う一対の扁平の大太鼓。火焔を型どった飾りの透し彫りを施した太鼓。雅楽用は大きいが神社、仏閣で使うのは一個で小型である。
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首提灯《くびぢようちん》
昔は、武士の試《ため》し斬りというのがあった。新身《あらみ》の一刀を求めて、その切れ味を試そうと、辻斬りといって、橋の畔《たもと》を通りかかると、乞食が菰《こも》をかぶっていい心持ちで寝ている。あたりを見まわすと、人影のないのを幸い、抜き打ちに、
「えいッ」
刀は鞘《さや》へおさめて、屋敷へ帰って、あくる日になると、同僚をつかまえて、
「どうだ、ええ? 近藤、てまえな、昨夜、試し斬りをして来た。橋の畔《たもと》に乞食が一人、菰《こも》をかぶって寝ておったから、こいつを一刀のもとにいたしたが、どうだ刃こぼれひとつない、まことに業物《わざもの》である」
「そうか、では拙者《せつしや》も行こう」
その晩、人影が絶えるのを待って、橋の畔へやってきて、抜き打ちに、
「えいッ」
すると、寝ている乞食がひょいと菰をはねのけて、
「だれだ、毎晩来てなぐるなあ」
斬ったんではなく、なぐっていた……人間なんて、そう簡単に斬れるものではない。
また据物《すえもの》斬りといって、頭へ大根を載せて、それを気合いもろとも抜き打ちに、すゥーっと斬って、頭の上の大根だけが真っ二つに斬れて、頭のほうは傷一つないという、こういうあざやかな腕前の人もいたが、下手な人にやられたひには、大根と南瓜《かぼちや》といっしょに割られてしまう。うっかりこういうことを試されたんじゃあ、たまらない。
昔、人が斬られたのがめずらしくない時代に、胴斬りにされた人が、別々に奉公に行った……。胴が湯屋の番台へ座って、足がこんにゃく屋へ行って、こんにゃくを踏んで、双方ともたいへん繁昌した、という。
「おい、おまえさんかい、斬《や》られたてえなあ」
「ええ、どうもひどい目にあいました」
「どうしたんだい?」
「こっちも少し酔ってましたんでねえ。よしゃあよかったんだが、あんまり言うことが癪《しやく》にさわったからね、なにをぬかしやがんだって、二言三言《ふたことみこと》毒づいたんで、向こうが怒って、抜きやがったから、こいつァいけねえと、逃げようとおもったが、もう間にあわねえ、もろに、さァーと、胴へ……きましてねえ」
「おやおや、かわいそうなことをしたなあ、どうも……しかし、いい塩梅《あんばい》に命はとりとめたなあ」
「へえ、おかげさまで命だけは助かりましたけども、やっぱりなんですねえ、人間てえものは、二つンなっちゃったひにゃあ、なにかにつけて不自由でしょうがありません」
「足はどうしたい、いねえのかい? こっちに」
「ええ、はじめは置きましたけども、なにしろ向こう見ずに駆けだしやがってしょうがねえんで……帰《けえ》ってくるには野郎見当がつかねえんで、いちいち迎えをやらなくちゃあならねえで、遊ばしておいちゃあ無駄《むだ》だから、いま橋本町のこんにゃく屋のほうへ手間取りにやってあるんですよ」
「ふッふ。それァいいや、なあ、おめえが番台へ座って、足のほうがこんにゃく屋で稼いで、結構じゃあねえか……足になんか伝言《ことづけ》はねえかい?」
「ええ、あちらへもしおついでがありましたら、願いたいんですが」
「なんだって」
「どうも、のぼせの加減だか、目がかすんでしょうがねえんで、間をみて三里[#「三里」に傍点]へ灸《きゆう》をすえるように、足へ伝言《ことづけ》してやっていただきたいんで……」
「ああ、いいとも、どうせ用がねえんだから、これから行ってきてやるよ」
その客が、湯の帰りに、手拭《てぬぐい》をぶらさげて、橋本町のこんにゃく屋へ行き、
「おい、おめえさんのうちかい? 足が来ているてえなあ」
「へえ、いらっしゃいまし。足?……ええ、まいっております」
「どうだい仕事のほうは?」
「仕事はよくしますよ、よそ見をしませんから、うちじゃ真面目でいい職人でしてねえ。。だいいち飯を食わねえから、あんな得な職人はありません」
「そうかい、どこだい?……奥から三番目の桶……おう、やってるやってる。おっそろしいどうも威勢がいいな、向こう鉢巻をして……」
「褌《ふんどし》ですよ」
「なんだい褌かい、おりゃ鉢巻だとおもった……おう、どうしたい」
「……やあ、これはどうも、おいでなさい」
「おや? 足が口をきいてやがら……胴のほうへ行ったら伝言《ことづけ》ェ頼まれてきたぜ、なんだかのぼせの加減で、目がかすむから三里へ灸をすえてくれってな」
「ああ、さようでがすか、かしこまりました……それで、恐れ入りますが胴へもういっぺんお伝言《ことづけ》が願いたいんですが」
「なんだい」
「三里はまめ[#「まめ」に傍点]にすえるかわりに、咽喉《のど》がかわいても湯茶をたくさん飲むなって、そう言っとくんなさい。冷えるんで、どうも小便が近くっていけねえから……」
人間が牛蒡《ごぼう》や人参《にんじん》のように、そうあっさり斬れるはずはないが、ほんとうの達人に斬られると、斬られた当人が気がつかない。人斬りの名人の白井権八は、鼻唄三町矢筈斬《はなうたさんちようやはずぎ》りといって、斬られた人が知らずにいい心持ちで、鼻唄を唄っていた、という。
「うゥ……うゥ……イ」
「おいおい、どこへ行くんだよ、そっちへ行っちゃあだめだ、おい、こっちへ曲がるんだ」
背中をぽんとたたくとたんに、二つに、ぱしゃり……。
武士というものは、ふだん帯刀していて、こわいものだということは、町人にもしみわたっている。ところが、酒の勢いでつっかかるなんてえのがいると、始末が悪い。
「ういーッ、いい心持ちだね。こりゃ……あっはは、久しぶりに品川へでも繰りこむかな。女に無事な顔でも見せてやろう。女がおまえさんの顔が見たい、顔を見ないと虫がおさまらないときたね。おれの顔は、虫おさえの顔だからなあ。あっはは……おや、こりゃいけねえ、ここは芝の山内《さんない》だな、もう四つを打っちゃって、人っ子一人通らねえ、このごろやけ[#「やけ」に傍点]に物騒《ぶつそう》だってんだが、ちょいと懐中《ふところ》があったけえ、てえのはまずかったかねえ、といってひき返すのもくだらねえし……えっへへへっへ、ものはなんでも景気づけだあー……※[#歌記号、unicode303d]惚れて……え……」
「おいおい、おいおい」
「なんでえ、おっそろしく背の高《たけ》え野郎だね。日当たりのいいところで、むやみに値の知れねえ米ェ食ったとみえて、おっそろしく伸びたんだなあ……なんだい、おじさん」
「おじさんとはなにを申すか」
「なにを? おめえのほうで、おいおいって言っただろう? おれが甥《おい》なら、てめえは伯父《おじ》さんじゃねえか。伯父甥の間柄じゃあねえか。なにを言ってやんでえ、とんがるない、この丸太ん棒」
「人間をとらえて丸太ん棒とは、はなはだ乱言《らんげん》である」
「なにを言ってやんでえ。らんげんもじゃんけんもあるかい、人間だから夜中にそうやってふらふら歩いてやがんだろう? 丸太ん棒なら親舟のほうへとうに引き取られてらあ、この帆柱野郎めっ、なんか用があんのか?」
「だいぶ、たべ酔うておるな」
「なにを言ってやんでえ。変なことを言うない、たべ酔うとるんじゃねえやい、のみ酔うとるんだい、酔っぱらうほど食ってたまるけえ、てめえだろう酒飲みながら、他人《ひと》の肴《さかな》までぱくぱく食っちまやァがんなあ。冗談じゃあねえ。なんか用があるのかよ、ええ? 用があるなら早くしてくれえ、おれだって先を急ぐんだから」
「それがしは、江戸表へ勤番に相成った者で、今日《こんにち》浅草へ用足しに参《めえ》って、これから麻布《あざぶ》の屋敷へ帰ろうとおもうが、土地不案内で道が相わからん。麻布へ参《めえ》るは、町人、どう参《めえ》る」
「ふッ、なんだ、道を聞くのかい、ええ? いやにくそ落ち着きに落ち着きやがって……麻布へ参《めえ》るには町人どう参《めえ》るてえやがら。なにを言ってやんでえ。どうとでも勝手なほうへ参《めえ》っちまえ、ばかっ。てめえみてえな田舎侍《いなかざむらい》道に迷ってくるだろうてんでな、夜中に手銭で酒飲んで、こんなとこに突っ立ってるばかがあるかい。おうおう、麻布へ行くんだったら、いいことを教えてやら。爪先を先にして踵《かかと》をあとにして、互いちがいに歩いてみねえ、方角が知れなきゃあ、最初東へ行って、それでいけなきゃあ、西へ行って南へ行って北へ行って、それでまだわからなきゃあ東西南北のあいだを捜して行け、なにを言ってやんでえ、領分の百姓をおどかして道を聞くのとわけがちがわあ。江戸っ子はつむじが曲がってるんだ。そんな道の聞き方でだれ一人教えるものはねえや、この擂粉木《すりこぎ》ッ。てめえなんざあ並の擂粉木じゃあねえや、ばかげた大ぶりだあ、蒲鉾《かまぼこ》屋の擂粉木だな、このぼこすり野郎め、どうでも勝手にしろい、このかんちょうれえッ[#「かんちょうれえッ」に傍点]」
「いろいろなことを申すやつ。なんであるか、そのかんちょうれえ[#「かんちょうれえ」に傍点]というのは?」
「なんでも聞きやがるな、弱ったな。かんちょうれえ[#「かんちょうれえ」に傍点]てな、なんだ? そんなこたあ、こっちだって知らねえやい、知らねえことは教えられねえやい、いやな野郎だあ」
「おのれ、たべ酔っておるから不憫《ふびん》を加えておると、これ、二本差しが、そのほう、目に入らんか」
「なにを言ってやんでえ、べらぼうめ。そんな長《なげ》えものが目へ入《へえ》りゃあ手品《てづま》使いにならあ、なんだい、二本差しっていばってやがら、二本差しがこわかったひにゃ、焼き豆腐は食えねえや。おでんだって一本差してら。気の利いた鰻《うなぎ》を見ろ、五本も六本も差してらあ。そんな鰻を食ったことはねえだろ、てめえは……おれも久しく食わねえけど。どうだい、仲直りにどっかで一杯《いつぺえ》やるかい、おい。そんな勇気はあるめえ、ざまあ見ろい……ははあ、てめえなんだな、道を聞くんだってやがって、そうじゃあねえだろう。追剥《おいはぎ》だな、おう、そうだろう? もっとも無理はねえや、なあ、わずかな扶持《ふち》きり米[#「きり米」に傍点]で、とても食えねえから曰窓《いわくまど》の下で小|楊枝《ようじ》をけずって内職をするより、夜出てすっぱ抜きをするほうが稼げるからやるんだろう、おう、いい仕事があったかい、おう、大将……大将ッたってそっくり返《けえ》るなよ、大将って柄じゃあねえや、てめえなんざあ鬱金《うこん》の二引《にびき》に根太笠ァかぶって、富士の巻狩りで猪《しし》の尻を追ってる柄だ、勢子《せこ》組め、ざまあみやがれ」
「あちらへ行け、行けっ」
「フン、顎《あご》でしゃくりやがったね。へへん、病人が蠅を追うような格好をしやがったな。てめえの言い状を立てて、あちらへ行かなけりゃ義理が悪いのか? てめえは顎で人さまを指図するほど偉《えれ》えのか。ふざけやがって、てえげえにしやがれ。ええ? さっと体をかわしやがったよ。ほほう、そうなるとてめえは、追剥じゃあねえな。物盗りじゃあねえな。試し斬りか? よし、試し斬りなら斬られてやろうじゃねえか、おじさん。おう、どっから斬る? 肩から斬るか、それとも腕から斬るか、尻《けつ》から斬るかい、叩《たた》きゃあ音がするんだ、なあ。叩いたってむやみに壊《こわ》れるような金華糖《きんかとう》じゃあねえんだ。斬って赤《あけ》え血が出なかったら赤えところととり代えてやろうじゃあねえか……西瓜《すいか》野郎ってえのはこちとらのことをいうんだ……おう、斬れねえのか? なんでえ、てめえ剣術を知らねえんだろう? 刀掛けッ、長《なげ》え刀掛けだ、ちぇッ、面《つら》ァ見やがれ、カーッ」
「おのれッ……武士《さむらい》の面部《めんぶ》へ痰唾《たんつば》を吐《は》っかけたな」
「言うことが変わってやんね。吐《は》っかけたって……へへへ、吐《は》っかけたんじゃねえや、ひっかけたんだ。唾をかけて怒る面《つら》じゃあねえや、面目ねえ面《つら》ァしてやがって……まごまごしていると、素首《そつくび》を引っこ抜いて、胴がら[#「胴がら」に傍点]ン中へ叩きこむぜ。一度で気に入らなきゃ、もういっぺんやってやろう、カーッ、ぷーッ」
「待てッ」
「なにを言ってやんでえ。屁《へ》もたれられねえくせに大きなことを言うねえ……こちとら江戸っ子だい、あははのはァだあ……」
鼻唄を唄いながらぶらぶらぶらぶら……。
「待てッ……わが面部ばかりなら勘弁もなるが、殿より拝領のご紋服、ご定紋に痰唾を吐っかけたおのれ不届きなやつ、その分には捨ておけん……待て待て待てッ」
タタタタタタッ……。雪駄《せつた》の後金を鳴らして近づいて、刀の鞘《さや》に手がかかると見るまに、
「えいッ」
チャリーンという鍔音《つばおと》もさせず、懐紙《かいし》を出してゆうゆうとこれを拭《ぬぐ》い、払い除《の》けた腰のものが鞘にすぅーとおさまると、袴の塵《ちり》をひとつ叩き、突袖《つきそで》にして『猩々《しようじよう》』の謡かなにかで、屋敷町をすぅっと曲がった……。
「どこへ行きゃがった木っ葉侍。てめえなんぞ相手にならねえや。こちとらあ、おどろくようなお兄《あに》ィさまとわけがちがうんだ。矢でも鉄砲でも持ってこいってんだ。おれはこれから、品川の女ンところへ逢いに行くんだよォ、ふざけやがって、どこへ行きやがった……それともなにか? 一人じゃあとてもかなわねえってんで、屋敷へ帰《けえ》って、先祖伝来のぼろ鎧《よろい》を着て、痩《や》せ馬へ乗って錆槍《さびやり》をぶらさげて、友だちを頼んで仕返しに来《こ》よってのか? そんな仕返しにきたって、おれはここに突っ立っちゃあいないよ。石灯籠じゃあねえんだからな、歩き出すよ。ざまあみやがれ、えーッ(息がもる)……こりゃ、いけねえ、声の出どころが変わったね。ふん、早く品川へ行って、無事な顔を(首が横を向いたので、おやっとおもい、すぐに元どおりにする)見せなくっちゃあ、おれの顔は、虫おさえの顔なんだからなあ……虫おさえの顔はいいが、どういう加減でこう、横向きになっちゃうんだろうねえ? 歩くについちゃ正面を向いて歩かなくちゃあ歩きにくいよ(首を正面にすえる)、品川じゃあ心配しているだろうね。由《よし》さんどうしてたんだねえ、ほかで浮気でもしてたんじゃあないのォ、もう今夜は九つ半(午前一時)まわっちゃったのよ。どこをのそのそしてたんだよッ(首がぐらりと横を向く)なんだい、いやにおれの首は行儀が悪くなりやがったなあ……おれはねえ、芝の山内でりゃんこ[#「りゃんこ」に傍点]と喧嘩しちゃった。いやだよ、この人は、お侍《さむらい》と喧嘩する人がありますか、おまえさんの身にもしものことがあってごらんなさい、あたしはだれを頼りに生きていけるとおもうの、おまえさんばかりが頼りだよ。短気な真似をおしでない、命を粗末にしちゃいやッ(首がガクンとまわる)、なんだいこりゃ、おれの首はこんなにガタつく首じゃねえんだが、どうかしちまったねえ。えっ? 襟がいやににちゃにちゃして……あッ、斬《や》りゃあがったな、畜生っ……斬《や》るなら斬《や》ると、断わりゃあいいじゃないか。とんでもねえことをしやがって……これ、膠《にかわ》でつけてもつかねえよ……あッあ、情けねえことになっちゃった」
両手で頭をかかえて歩き出すと、ジャンジャンジャンジャン……。
「こりゃあいけねえ、悪いところへ火事がはじまったぜ……」
「あらーいッ、らァらァらァらァい……どいたどいた、おう、どいたどいたッ」
「お、おッ……と、押しちゃあいけねえ、こっちゃあ、壊《こわ》れものを持ってんだから……冗談じゃあねえ……あ、いけねえ、混んできやがった、落っことすといけねえ」
自分の首を、ひょいと差しあげて、
「はいごめん、はいごめん」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] SF落語、よく出来た噺である。マクラから小噺で継いでいく噺の運びが巧妙で、奇想天外な世界へ自然に誘い込まれてしまう。類似した噺に三遊亭小円朝に伝わっていた「胴取り」がある。田舎出の勤番侍にからみ悪口雑言を浴びせる江戸っ子の啖呵《たんか》が聴きものだが、相手の侍も言葉に難点はあるが、思慮分別もあり、一刀の下《もと》に斬り去り、袴の塵《ちり》をぽォんと払い、突袖をして謡をうたいながら、闇の中へ消えていくあたり、なかなかどうして、どっしりした風格を見せる。斬られた首が少しずつずり出す仕草《しぐさ》は、見せる落語の本領で、自分の首を「はい、ごめん」と差し出すあたり迫真の演技で、噺を盛りあげる。サゲは「見立て落ち」と称している。品川の円蔵といわれる四代目橘家円蔵より六代目三遊亭円生、八代目林家正蔵に伝わった。
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勘定板《かんじよういた》
昔、厠所《はばかり》のない国があって、用をたすときは川に紐《ひも》のついた板が流してあって、この板を引き寄せて、この板の上に用をする。終わったあとは、この板をまた川の中へ流すと、川の水がきれいに洗ってくれる。これをすることを「勘定する」と土地の人は言う。上からつめて下へさげるから……考えればなるほどとおもう。閑《ひま》な所とかいて「閑所《かんしよ》」と読ませる。それが訛《なま》って「勘定」になった、とも考えられる。そして、この板のことを「勘定板」と称した。
この国の百姓が、江戸見物をしようと二人連れで出てきて、馬喰町《ばくろちよう》の一軒の旅籠《はたご》屋に泊まった。
「五左衛門さん」
「あー」
「おれ、勘定をぶちてえ」
「おらがもぶちてえだ。どこだんべえかな?」
「それがわかんねえ。若《わけ》え衆《す》呼んで、きいてみべえかな? おい……ッ」
「へえーいっ……へい、お呼びでございますか。今日《こんにち》はお旅疲れで、ご見物は明日《みようにち》からということで、案内人も先ほど申しつけまして、明朝は早めにお迎えにうかがいますで、どうぞごゆるりご休息を願いまして、ただいまお風呂の支度もいたしておりますが。お呼びになりましたご用は……?」
「勘定をちょっくら、ぶたしてもれえてえ」
「……ただいま……でございますか? 半月はご逗留《とうりゆう》ということを、うかがっておりましたが……」
「まあ……見物ぶつだで、半月ぐれえはかかんべえかとおもってな」
「ご見物は、手前どもでやはり、ご逗留は願えるんでございますか? は、さようで、それなら、ただいまでございませんで、お出発《たち》の節にまとめていただきますが……」
「はあ? すると発《た》つときまで勘定まとめるけえ……どうだおめえ、まとめられるか、あァ? いかなかんべえ。……そうだに長くぶたねえでは、苦患《くげん》な事《こん》だが、毎日《めえンち》勘定はぶてねえか」
「いえ、できないてえことはございませんが、どちらでもよろしゅうございますが、毎日ではご面倒でございましょう」
「おめえら方《ほう》では、面倒かも知《す》んねえが、おらァ方では日に一度《いつど》ぶたねえと心持ち悪くていかねえ」
「ははあ……やはり、お固くていらっしゃるんでございますな」
「いやあ、固《かて》えか柔《やツけ》えか、やってみなくちゃわかんねえ」
「これァなるほど、ごもっともで。せっかくでございますから、いただいてまいりますか」
「……いたでえて……? 勘定場ィ案内ぶってもれえてえが」
「へえへえ……帳場のほうが、ただいまちょっと、ごたごたいたしておりますので、なるべくならばこちらで願いたいんでげすが」
「あァり、まあ、ここでぶってかまわねえけ」
「よろしいとこで願いまして」
「そんだら……勘定板、貸してもれえてえが……」
「へえへえ、ただいまお持ちしますから」
と、若い衆は、勘定板というから、算盤《そろばん》なんだろうと気をきかして、帳場から算盤を、……その時分のものだから、裏に板の張ってある算盤を、これを差し出した。
「どうも、お待ちどおさまで」
「……えかく狭《せま》ッけだが、これ、勘定板け?」
「へえへえ、さようで」
「こンでは、勘定はみ出す[#「はみ出す」に傍点]ようなことなかんべえか?」
「そんなことはございません。それからはみ出る[#「はみ出る」に傍点]勘定なんてえのはございませんで、どんな大きなご勘定でも、それでうまくおさまりますので」
「……こンでうまくおさまらばええが、何処《どウこ》でぶつべえけえ、人《ふと》の見ている前《めえ》では……、ぶちにくいだ」
「なるほど、お気が散るといけませんで、お隣の部屋が空いておりますから、お使いになってもよろしゅうございます。床の間の前が日当たりがよろしゅうございましょうから」
「……なにけえ、床の間の前《めえ》でぶってかまわねえけ?」
「へ、よろしいとこで願いまして、お済みンなりましたら、ちょっとお手を願いまして、手前があとで頂戴にあがります」
「……いやあ、それはすまねえが、お頼み申しますだよ。……五左衛門さん、おれェ先ィぶつで、ああ、おれが済んだら、われもやれ」
隣の部屋へ入って、算盤を裏返しにして、これへまたがってやろうと、ひょいと着物をまくる。すると着物の裾《すそ》が算盤へつっかかったから、廊下へころころころころッと転がり出た……。
「あッ、ありありありありあり。……いやあ、五左衛門さん、ちょっくら出てみろ、江戸は調法だよ、勘定板、車仕掛けだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 無知が巻き起こす珍奇滑稽ばなしの一つで、ほかに「松山鏡」[#「「松山鏡」」はゴシック体]「手水《ちようず》廻し」(別名「貝野村」)「よいよい蕎麦《そば》」「本膳」などがあり、言葉をとりちがえるものに、「転失気」「てれすこ」などがある。いわゆる尾籠《びろう》な噺で、大阪の演出では、相当にどぎつく汚らしくやり、算盤の上へ便をして、それが宿屋の二階からぼたぼた垂れるところまでやる。東京でも便をするところまではやる……それで聴衆はどッと笑う。それは、笑いにはちがいないが、一種別の、失笑と呼ぶべきものであろう。『岩波・国語辞典』の【失笑】の項目には「笑ってはならないような場で、あまりのおかしさに、思わずふき出してしまうこと」とある。こうした種類の噺に「肥《こい》がめ」(別名「家見舞」)「溲瓶《しびん》」(別名「花瓶」)「禁酒番屋」等がある。
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鼠穴《ねずみあな》
「ええー、旦那さま、ただいまあの、竹次郎さん、とかおっしゃいますお方が、お見えでございますが……」
「うん? 竹次郎、あァあ、おらが弟だ。うん、こっちへ通せ……やあ、どうした、よく来たなあ、こっちへ入《へえ》れ」
「兄《あに》さん、どうも、ごぶさたをいたしまして」
「いやあ、よく来たな。江戸見物か? やあ、われも郷里《くに》で別れたときにはまだ子供ばなれがしなかったが、やあ、たいそう立派になったの、あァよく来た、まあこっちへこい。見物か」
「そんだな見物というようなこっちゃあねえが、兄《あに》さんに折り入って頼みがあって来ました」
「なんだ頼みて、え? 何《あん》だ」
「えッへへへ、言いにくいこンだが、とっつぁまが亡くなるときに、兄《あに》さんとわたしへ身代《しんでえ》分けてくだすって、そんでまあ兄《あに》さんはそれをすぐ金にして、江戸へ出て……こんだなまあ立派な商人《あきんど》になっていなさるが、わしゃ郷里《くに》で百姓ぶってたが、悪い友だちができて、茶屋酒ェ飲むことをおぼえやして、女《あま》ッこにとろけて、とうとう大事な田地田畑《でんちでんぱた》ァみんな手ばなしちまって、これじゃ死んだとっつぁまにも申しわけがねえから、兄《あに》さんに頼んで、奉公をぶたしてもれえてえとおもって……どうかひとつ、よろしくこれから頼みます……いや、それも弟とおもうとあんたも使《つけ》えにくいから、他人だとおもって、かまわず使っておもれえ申してえんで、おらも他人だとおもって、どんな無理なことでも辛抱ぶつで、どうかひとつ、これから面倒見ておもれえ申してえんですが、お願え申しやす」
「……いやあ、まあしかたがねえ、なあ、若《わけ》えうちはありがちのこンだ。しかし、われが悪いとおもって、これから一所懸命に稼ぎゃあ、なに使った金は無駄にゃあならねえ……まあ、おらあとけえ奉公ぶたしてやってもええが、そりゃ、竹、つまんねえこンだ。どけへ奉公するにしても、他におめえの器量で、百両てえ金ェ儲《もう》けて、主人のまえへこれだけ儲けました。ああそうか、それはご苦労だったと、ま、くれたところで十両、ま、五両もくれりゃあ関の山だ。一文もくれねえといっても、こりゃ苦情も言えねえ。それより自分で商売《しようべえ》ぶってみろ、な? 自分で儲けたもんならば、一両しか儲からねえときには一両、百両儲ければ百両が自分のものになる。なあ、そのほうがええ、奉公ぶつより商売ぶってみろ」
「そんじゃあ、なにか自分で……」
「ああ、やってみるがええ、資本《もと》はおらが貸してやンべえ、ちょっくら待て……さあさ、これに資本《もと》が入《へえ》っとるから……大事な資本《もと》だから、なくさねえようにしっかりやれや」
「ありがとうがす……そんじゃあ、おもれえ申しやす、はい。また、何《あん》とか目鼻ァついたら、そのうちうかげえますで……。へえ、ごめんなせえやし……ありがてえもんだなあ、やっぱり兄弟《きようでえ》だ、なあ。郷里《くに》の者は、おらァ兄貴悪く言ってる、何《あん》だおめえのあの兄貴てえのは、人間じゃあねえぞ。郷里者《くにもの》が行っても、茶ァ一|杯汲《ぺえく》んでも出さねえ、あの野郎は人間じゃあねえ、鬼みてえなやつだなんて……えへへへ、しかしやっぱり血ィ分けた兄弟《きようでえ》だ、なあ、商売《しようべえ》の資本《もと》を貸してやるてえ、ありがてえ……だれもいねえ、なんぼ入《へえ》っとるか見べえ、あァ?……なんだ、こりゃ? 三文|入《へえ》っとる、三文……大事《でえじ》な資本《もと》だからなくさねえようにしろ……なるほど人間じゃあねえな、うちの兄貴ァ、鬼だあ、けっ、ばかにしやがって、三文べえの銭《ぜに》、なくすもなくさねえもねえ、こんだらもの……待てよ、地面《じびた》ァ掘っても三文の銭ァ出ねえちい譬《たとえ》がある。これで商売《あきねえ》ぶてねえことねえ……よし、やってみべえ」
三文の資本《もと》で商売をはじめるといっても、三文ではどうにもならない。いろいろ考えた末に、米俵……空き俵の、上へ載せるさんだらぼっち[#「さんだらぼっち」に傍点](藁《わら》製の丸い蓋《ふた》)を買って、これをほどいて、緡《さし》をこしらえた。昔は、孔あき銭を使っていたから、商人《あきんど》などは銭箱に一日に一杯ぐらいたまる。この孔あき銭を勘定するのに、この緡に差して勘定したから、緡をこしらえて、売り歩いた。これで、三文の資本《もと》で六文になった。これですぐまたさんだらぼっち[#「さんだらぼっち」に傍点]を買ってきて、緡をこしらえて売って、六文が十二文。二十四文になると、空き俵が買えたから、こんどは空き俵を買ってきて、ほどいて、藁《わら》を、とんとんとん叩《たた》いてやわらかにして、草鞋《わらじ》を作って、あまった藁で緡をこしらえて売る。一所懸命これをくり返しているうちに、いくらかの資本《もと》ができたので商売《あきない》を一つではなく、朝早く起きて、
「なっと納豆ォ、納豆……ォ」
帰ってくると、お昼まえに、
「豆腐ゥい、生揚げェーがんもどォき」
お昼過ぎになると、
「金ちゃん、甘いよォ」
と、茹《ゆで》小豆《あずき》を売る。夕方になると、
「茹出《ゆでだ》しィうどォん」
夜になると、
「えー、おいなァりさァん」
稲荷ずしを売って歩く。夜中になると、泥棒の提灯《ちようちん》持ちをした……これはまあどうだかわからない。
よくあんなに身体《からだ》が続くというほど、働いた。
二年半ばかりで、十両という金がまとまった。おかみさんをもらい、亭主は表へ出て働き、おかみさんはうちで内職をする。稼ぎ男に繰《く》り女……そのうちに、女の子も一人できた。裏店《うらだな》に住んでいるわけにもいかない、こんどは表店へ出る。奉公人を一人、二人、三人と、十年のちには、深川|蛤《はまぐり》町へ間口が四間半で、蔵の三戸前《みとまえ》もある立派な店の主人《あるじ》になった……。
「ああ、番頭さんや、おい、番頭さん」
「へい、お呼びでございますか」
「あっ、今日は、ちょっくらおれァ出かけべえとおもうがな、もう店ェしまえや……いや、ちょっくら早えが、今日は風がこうだに大《で》けえから、もう店ェしまって、いまあったけえもんでもこせえさしてるから、食わしてやったらよかんべえ。それからなあ、兄《あに》さんとけへおらァちょっくら行って来るから……。留守はあんたに頼むから、どうか、なあ、貰火《もらいび》はしかたがねえが、もし火事でもあったときは、蔵の目塗り[#「目塗り」に傍点]をどうか……あ、それから、気になるのは、あの鼠穴《ねずみあな》だが……」
「はァはァ、ねずみ……へえへえ……わたくしも気にいたしまして、左官のところへちょいちょい催促にまいりますが、なにしろ仕事がたてこんで[#「たてこんで」に傍点]いるので、もうちょっとご猶予を願いたい、ということでございますが、もしものことがございましたら、店の者も大勢おりますから、なんとか手当てをいたしますから」
「ま、あんたがいなさるから、おらも安心だが、どうかな、鼠穴ァ気ィつけてもれえてえ……あ、それから……おい、あのう三文なあ、半紙へ、いやいや三文でいいから、それへ包んで、別に二両、包んで、二つこせえて、できたらこっちへ持ってきてくんろ……あ、よしよし……そんじゃあな、ちょっくら行ってくるだで、頼むぞ」
「行ってらっしゃいまし」
「行ってらっしゃいまし」
「行ってらっしゃいまし」
「行ってらっしゃいまし」
店の者がずらりと並んで、送られて、出て行く……。
「ええー、ごめんなせえやし、ちょっくらごめんなせえ」
「あっ、いらっしゃいまし、竹次郎さんでいらっしゃいます?」
「あんたまあ十年も会わねえで、よくおぼえていなされたね」
「いえ、旦那さまとも始終お噂《うわさ》をいたしておりますでございます。へえ、おいででございます、どうぞ、お上がりくださいまして……ええー、旦那さま、竹次郎さんがお見えでございますが」
「竹が……おォお、よく来たな、さあさあさあ、こっちへ入《へえ》れこっちへ、まあ挨拶はいい。いや、ぶさたは互《たげ》えのこった、まあよく出てきたな……それからな、ちょっくらあの、番頭さんや、店ェもうしまったらよかんべえ。あ、それから、ちょっくら耳ィ貸せや……酒の支度してな、うん……おらが呼んだらくるように、それまではだれもよこさねえように、そこを閉めてな……ああ、まあもっとこっちへこいや」
「はい、ごぶさたァしてすんませんで、ええー、いつぞや、兄《あに》さんにお借りしました商売《しようべえ》の資本《もと》を、なげえことになりまして、ありがとうがした……これをお返しに上がりまして……」
「おうおう、そうかそうか、ううん、どれどれ……ああ、三文|入《へえ》っとる、たしかにこれは……よく使《つけ》えこまなかった」
「……それから、こりゃ兄《あに》さん、けっしてその利子なんちゅうもんじゃあねえが、何《なん》ぞ買《こ》ってこべえとおもったが、何《あに》買ってええかわかんねえから、口に合ったもんでもこれで……」
「おゥお、そんだな心配《しんぺえ》してもらっちゃあすまねえ……そうか、じゃあせっかくだで、もらっとくべえ……失礼だがあけて見べえ……二両|入《へえ》っとる。豪儀なもんだなあ、うん? 三文の銭も、十年経てば、二両の利子がつくだよ、やっはっはは、ありがてえ。こりゃあもらっとくべ……さ、まっとこっちへこいや。ああ、なあ竹、十年|前《めえ》におめえがおらあとけえ奉公ぶちてえちゅう、おらがそれを、商売《あきねえ》でもしろ、資本《もと》は貸してやるからと言って、おめえに三文貸してやったが、あんときァあとで、さぞ腹ァ立ったべえ……うん?」
「……いやッは、腹なんぞおらァ立たねえ」
「いやいや、立たねえことねえ、たしかに立ったにちげえねえ、もしわれがあれで腹ァ立てなきゃあ、人間じゃあねえ、なあ。あんときにおらあ考《かん》げえた、おめえに五両貸してやろうか、それとも十両貸そうかともおもったが、いや、おめえはまだ茶屋酒が腹へしみこんでる。そこへ五両てえ金が入《へえ》れば、ま、三両でも商売《あきねえ》はできるから、二両は別にして、まあちょっと、景気づけに一杯《いつぺえ》飲んで……これが竹、いかねえ。まだ商売《あきねえ》ぶたねえうちに資本《もと》へ手をつけるようなこンではだめだ。そこで、おらがわざと三文貸し、おめえが腹ァ立って一分《いちぶ》でも、二分でも、おらがとけえ持ってきたら、そんときァおらあ、五十両でも、百両でもおめえに資本《もと》は貸してやるつもりだ……さすがに、おらが弟だ、おめえも強情だ、おらあとけえはこねえ。十年経ったいまじゃあ、深川蛤町で、蔵の三戸前もある立派な店へ住んでいる。それでこそ、死んだとっつぁまも、草葉のかげでどのくれえよろこんでいなさるかわからねえぞ、うん? あんときにおらが五両でも、十両でも貸してやったら、おめえ、いまの身代《しんだい》にゃなっちゃあいねえ。ま、そういうわけで、おらがおめえに資本《もと》を貸さなかったわけだ、こりゃま、おめえに会ったら、ひとことおめえに詫《わ》びすべえとおもっていたから……どうかまあ、勘弁してくんろ、な?」
「……兄《あに》さん…すんませんでした……わしァねえ、三文兄さんから、おらおくんなすったとき、何《なん》てえ人だ、まるでまあ鬼みてえ……いや、おっかねえ人だとおもってましたが、そういうこととはおらあ知らなかったで、ちょっくらでも恨んだのァおらが悪かったで、どうか……勘弁しとくんなせえ」
「やッはははは、話がわかりゃあええ、まあまあええ……おいおい……どうした、支度はできたか? ああ、そんじゃあこっちィ持ってこいや。久しぶりだ、まあまあ、一杯《いつぺえ》いくべえ」
これから、久しぶりで兄弟が、杯《さかずき》のやりとり……。
「さあさ、まっと飲めや、遠慮ぶつことねえ。久しぶりだ、なあまあゆっくりやれや」
「や……もうえかく馳走《ちそう》になりやしたから、こんでおらァ帰《けえ》るべえとおもうだ」
「なんだ、帰るっちゅうこともなかんべえに、せっかくのこンだ、今夜泊まってけや」
「いや、泊まっちゃあいかれねえ」
「泊まっていかれねえてえのは……うふふふ、われのかかさまァなにか、やきもち焼きか」
「いや、そんだなことじゃあねえが、こんだにえかく風が吹くだで、もし火事でもあっちゃあなんねえから、おら帰るべえとおもう」
「そんだなこたあ何《あん》も案じることもねえで、なあ、おめえのとこは蔵もあるべ……」
「いや、蔵はあったとこで、兄《あに》さんとこみてえなええ蔵じゃあねえ、おらあとこはぼろ蔵だ、鼠穴があるで、もし、正月《はる》の支度もしてあるから、火でも入《へえ》ったら……」
「あっははははは……われみてえにそう、先の先まで人間案じちゃあ、暮らしていけるもんじゃあねえよ。大丈夫《でえじようぶ》だよ……じゃ、こうすべえ、われがとこがもし焼けた……ま、万が一にだ、焼けるようなことがあったらば、おらの身代《しんでえ》おめえにみんなやるべえ。なあ、そんならよかんべえ。十年|前《めえ》じゃあ、ま、三文しきゃ貸せねえ、いまのおめえなら、おらが身代みんなやったとこで、けっして惜しかねえ。な、そんだらよかんべえ、まあ泊まってけ、な、われもこれまでになるにゃあ、苦労もしたべえ、な、おらも人に言えねえような、つれえおもいをしてこれまでになった。まあいろいろそうだなことも話ぶつべえよ。ま、いいから泊まっていけ」
と、久しぶりで、兄弟が枕を並べて、積もる話をしているうちに、酒の酔いが出て、ぐっすり寝入った……。
真夜中、ジャァーン……。
「……おい、だれか起きねえか、半鐘を打《ぶ》ってる、火事があるぞ、ああ、火の見ィ上がってみろ」
「はい」
その時分、大きな商人《あきんど》には火の見|櫓《やぐら》があった。
「ええー、見てまいりました」
「おう、どこだ?」
「深川|蛤《はまぐり》町近辺だろうという……」
「う? 深川蛤……そりゃいかねえ、竹の家《うち》だ……おい、竹……起きろ、おい、竹次郎っ」
「むゥ…ン、むゥ…ン、むゥ…ン」
「なにうなされてるでえ、起きろよ、おい、おいッ」
「あッ……鼠穴が……」
「なに鼠穴だ」
「何《なん》でえ?」
「いま火事がある、深川蛤町……いやまあ、われがとこかどうかわかんねえが、蛤町の見当だというから起こしたが、ちょっくら行ってこう」
「あっ……」
「ああこれこれ、待て待て……提灯《ちようちん》出してやれ、蝋燭《ろうそく》の代《か》えをなァつけて……気をつけて行ってこい」
「はい」
来てみると、もうあたり一面火の海と化している。その中に自分の店《うち》の蔵だけが、黒くぽっ、ぽっ、ぽっと浮き出たように見える。
「えれえ火事になったなあ、まあ何《あん》だって……おう、番頭さんじゃあねえか」
「お帰んなさいまし、どうも、えらいなんでございまして、なにしろ火のまわりが早うございましたので……それでもまあ、たいていの物は蔵へ入れまして、目塗《めぬ》りをいたしましたからご安心を願いまして」
「そうか、ああ、ありがと、おめえがいなさるから、おらもそりゃ安心ぶってた……どうした、あァあ、みんないるか、怪我ァなかったかみんな、そうかそうか、まあ怪我ァなきゃあよかった……あっ、それからあの、鼠穴ァやってくれたなあ、あ? 鼠穴」
「……あッ……鼠穴だけ忘れました」
「なんだ忘れた? 目塗りィしたって、鼠穴ァふさがねえじゃ何《あん》にもならねえ……おい、一番蔵の戸前のとっから、白い煙《けぶ》が出ちゃあいねえか」
「…………」
「え? いやそんだなことはねえ……おいおい、煙《けぶ》が……おい、だれか屋根へ上がってみろ」
店の者が、蔵の屋根へ上がって、瓦を二、三枚はがすと、どォーッと燃え上がった……。
「……危ねえ、降りろッ……一番蔵ァ落ちたが、まだ二つ助かっとるから……おい、二番蔵からまた、戸前のとっから煙《けぶ》が出ちゃあいねえけえ?」
また、屋根へ上がって、二、三枚瓦をはがすと、どォーッと、燃え上がる。
「……まあしかたがねえ、二つ落ちたが、しょンねえ、一つでも助かってくれたら……」
と、言っているうちに、三番蔵の観音開きが、中からぴゅッと、左右に開き、ガラガラガラガラガラッ……。見ているまえで三戸前の蔵が焼け落ちた。
竹次郎は、持っていた提灯を落とさんばかりにがっくり……。おかみさんが、その時分|流行《はや》った夫婦《めおと》巾着《ぎんちやく》へ、なにがしかの金を持っていたので、その金ですぐに、掛け小屋をつくり、ほとぼりのさめないうちに商売《あきない》をはじめた。――それが、その時分の商人《あきんど》の自慢。さて、店を開《あ》けてみると、どうしたことか、商売がぱったり……いけない。奉公人も暇をやるでなく、もらうでなく、一人減り、二人減り、親子三人になる。
表店も張っていられないので、裏へひっこむ。これを気病《きや》みに、おかみさんがどッと病の床に就くようになる。
「……どうだな、今日はちっとァええか、あ? 薬ィあとにするか、そうか。おれァなあ、ちょっくら兄《あに》さんのとけへ行ってくべえとおもう。正月《はる》の支度もしなきゃなんねえからな、いいか……なんだ? ふん、おめえも? いっしょに行きてえ……芳《よし》が行きてえと言うから、そんじゃこれ連れて行くから、ええか一人で……」
子供の手を引いて、兄の店《うち》のまえまで来たが、表口《おもて》からは入りにくいので、裏口へまわって、
「ごめんくだせえ、ごめんくだせえ」
「だれ……あっ……どうもこのたびはとんだこってございましたなあ。へえまあ、とんだご災難で……へ? ええー、おいででございますが、どうぞ、お上がりくださいまして……ええー、旦那さま」
「なんだ……竹が? おうおう、こっちィ入《へえ》れこっちィ……どうした、焼けたってなあ」
「箸《はし》も出ませんで、まる焼けになりまして……」
「気の毒なことをしたなあ、おらも行ってやるべえとおもうが、なにせえ目のまわるように忙しいて、見舞《みめえ》もぶたなかったが……そうか、まあ怪我ァねえのがなによりだ……はい、はいはい、ほほう、かわいい子だなあ、あ? いくつだ、七つか、ええ子だなあ、あァあ、そうか、よく来た、まあこっちィこい」
「ええー、兄さんに頼みがあって来やしたが……」
「うん」
「正月《はる》の仕込みをしなきゃなんねえで、資本《もと》を少し貸しておもれえ申してえとおもって……」
「あァあ、そうか、ううん、商売《しようべえ》の資本《もと》、ああええ、貸してやんべえ、いくらあったらええ、あ? 一両も持ってくか、二分でいいか」
「……二分や一両じゃどうにもなんねえが、まあ百両と言いてえとこだが……五十両べえ、お借り申してえでがすが」
「……五十両……?……そりゃ竹、だめだ、もとのおめえの身代《しんだい》ならば、そりゃ貸してやってもええが、いまじゃあおめえ、焼け出されで、そんだな大《で》けえ金借りてどうする、う? 一両か二両なら、おら貸してやるだ」
「それァ、おらだって三文からとっついて[#「とっついて」に傍点]商売《あきねえ》したが、その時分といまたあ、年も違《ちげ》えやすし、ひとり身じゃあねえ、女房もあれば……こんだな子供もあるだからねえ、そんだ……」
「そりゃおめえの勝手だ。おらがなにも頼んで持ってもらったかかあじゃあねえ。ま、第一《でえいち》だ……おらに言わせれば、女房持つてえことは贅沢《ぜいたく》なこンだ、う? 女房持てば子供のできるぐれえのことはだれでもわかっとる。おれェみろ、まだひとり者だ。汝《うぬ》が勝手に持った女房だ、そんなこたあ、おらの知ったこッちゃあねえ……何《あん》だ、五十両だ、百両だなんて、そんだな大《で》けえことはだめだ、一両なら貸してやんべえ」
「……兄さん、そんじゃあ、あんた、話ィちがうべえ、なあ、おらが帰《けえ》るってえとき、あんた何《なん》て言いなすった、もしおらとこが焼けたら、あんたァ身代みんなやってもええちゅうて……」
「……そりゃあ言ったかもしんねえ……いやあ、待て待て、言ったかもしれねえが、ありゃあ、おらが言ったんじゃあねえ」
「……おらが言ったんじゃあねえ? あんたがたしかに言った……」
「いや、おらが言ったじゃあねえ、ありゃあ酒が言っただ、な? 酒ェ飲みゃあ、人というものは気が大《で》かくなるもんだ、なあ。そんで、おらが身代みんなおめえにやンべえ、ぐれえなことは言うだ、な? あっはははは……酒のうえの戯言《たわごと》、浮世の世辞ちゅうもんだ、それをまともに受けて、百両貸せの、五十両貸せのって、ばかなことをこきやがって、なあ、そんだなことはだめだ」
「……それじゃああんた、あんまりだ……人間じゃあねえ、人の皮ァかぶった畜生みてえなも……」
「なんだ、畜生とは、兄に向かって畜生とはなんだ……なんだ、朝っぱらから来やがって、縁起でもねえ野郎だ。帰れっ、ばか野郎……帰《けえ》れッ……」
「……何《あに》をするだッ……痛えッ……喧嘩じゃねえ。喧嘩じゃねえから泣くな泣くな……兄《あに》さん、おらあねえ、とっつぁまにだって、頭に手ェあげられたこたあねえだ……芳《よし》、この顔をよくおぼえとけ、これがおめえの、たった一人の伯父さまだ。人間じゃあねえ、鬼だまるで……おぼえていなせえッ」
子供の手を取って表へ出たが、
落ちぶれて袖に涙のかかるとき、人の心の奥ぞ知らるる――
「おとっつぁん……お金いくらあったら、ご商売できンの?」
「む?……われと相談ぶったところでどうにもなんねえが……まあ、少なくとも二十両はなきゃあだめだ」
「それじゃあ、あたしがその金こしらいるわ」
「ばかなことを言うもんじゃあねえ。そんだな大《で》けえ金が、子供に何《あん》でできる、うん?」
「ううん、できるの。あの、女の子は吉原《よしわら》へ行って、花魁《おいらん》になればお金ができるって、お隣のおばさんに聞いたから、あたしはお女郎になって、お金こさいるわ」
「そんだなばかなことを言うもんじゃあねえよ、われみたいな小《ち》っちゃっけな子供が、何《あん》でお女郎なんぞになれるよ」
「だからいいじゃないの、あたしを売っておとっつぁんがご商売をして、また連れにきてくれれば、ほんとうのお女郎にならなくてすむから、あたしを売ってお金をこさいてよ、おとっつぁん」
「……おめえは何《なん》てえ発明な子だ……親の口から言いにくいが、それじゃあ頼む」
これから、その道[#「その道」に傍点]に話をして事情《わけ》を話して二十両の金をこしらえ懐中《ふところ》へ……大門を出て、見返り柳、そこへ来ると後朝《きぬぎぬ》をおもいだして、だれしもあとを振り返る。
吉原の空は、紅《べに》を流したようにぽう……と赤くなっている。
「……辛抱してくんろ、なあ。われも辛《つれ》えこともあンべえが、きっとおらあ稼いで、おめえを連れに来るからなあ、どうか、淋《さむ》しかろうが、辛抱ぶて……」
「気をつけろいッ」
「……はっ……ばか野郎……何《なん》だ、汝《うぬ》がほうから行き当たりゃがって、気ィつけろって……おう痛《いて》え、息がとまるかとおもった、まあ、何《なん》てえ野郎だ、おらが胸へ突き当たりゃがって、気ィつけろ…も……あッ、ど、泥っ……あー、もうだめだ……」
と、帯を解くと、木の枝へかけて、輪を結び、足もとに大きめの石を運んできて据《す》えて、首を帯の輪に突っこんで、手を合わせ、
「……南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……」
ぽォーん、と、石をひとつ蹴る。
「うゥ…ん……」
「……こんだによくうなるやつァねえなあまあ。眠ることなンねえで、おい竹、起きろ、おい……竹、おい、竹ッ」
「わはッ……どこだ? ここはどこだ」
「何《あん》だ……どこだっておらあとこだ」
「あんた、兄《あに》さんか? 火事があって……」
「火事? どこに火事があった」
「鼠穴《ねずみあな》……」
「なにが鼠穴だ」
「今日は幾日《いつか》だ」
「なにを言っとるだ、しっかりしろ。おめえおらあとけへ来て泊まって……なにも火事なんざあねえちいに……なんだ、まあきょろきょろして、夢でも見たか」
「……あッ、夢だ……夢だッ、ああありがてえ、夢だった……、ああ、えれえ夢見ただ」
「どうしただよ、う? うん、火事で焼けておらあとけ来たら? 金貸さねえで、うん、首ィくくって死……えれえ夢見やがったな、この野郎は……しかし竹、夢は逆夢《さかゆめ》というし、火事の夢は焼けほこる[#「焼けほこる」に傍点]というから、われがとこの身代《しんでえ》は正月《はる》から大《で》かくなるぞ」
「……ああ、ありがてえ……おらああんまり鼠穴ァ気にしたでよゥ」
「はははははは、夢は土蔵(五臓)の疲れだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 六代目三遊亭円生所演の人情噺。兄が弟に資本《もと》として三文貸すのは、吝嗇《けち》なのか、それとも励ますつもりだったのか? その解釈が鑑賞の興味深い焦点《ポイント》になる。三文といえば、今日でも二束三文、三文判、三文文士など最低の価値基準の代名詞として使われるくらい、明和年間、四文銭が鋳造されるまで、当時の三文は小児の小遣い銭としても多いものではなかった。その三文の資本《もと》で、噺の上とはいえ、一所懸命働くそのスピードが水ぎわだっている。それがじつは、サゲの伏線になっているのである。ちなみに、三文の利子に二両は、一両は四貫、これを文《もん》に換算すると四千文であるから、二両は八千文で、約二千六百六十倍にあたる。十年間の利子である。本来、大阪の人情噺であるが、三代目三遊亭円馬がむらく[#「むらく」に傍点]時代に発掘し演じたのが最初で、六代目三遊亭円生にだけ残っていた。
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二番煎《にばんせん》じ
江戸の町内には、町境の木戸脇に番小屋(自身番小屋)という小屋があって、腰|障子《しようじ》に大きく「火の番」と書いてある。火事は江戸の華《はな》……の譬《たとえ》どおり、とくに冬から春先へかけての出火は
夥《はなはだ》しかった。そのため、各町ともこの番小屋に火の廻り……番太郎を雇い入れて、一刻《いつとき》(約二時間)ごとに町内を見廻って歩いた。
ところが、この番太郎というのが、たいていだらしがなくって、見廻りの途中、縄暖簾《なわのれん》へ入って一杯飲んで、ひと廻り廻ったり、番小屋で酔いつぶれて、そのまま寝てしまったり、ときどき廻らないことがある。これでは困るので、ひところ町内の旦那衆が、軒別に順番に出て、火の廻りを勤めることになった。それを廻っているかいないかを調べて歩く役人が、また見廻りにくる……。
「どうもご苦労さまでございます。近江屋さん」
「これはこれは、こんばんは、みなさん、お寒いところをどうもお早うございますな……これは伊勢屋さん、……おやおや相模屋さん、ご苦労さま」
「へえ、まあ、お互いにご苦労さまで……おや、黒川の旦那……ご苦労さま」
「いやいやどうも……おそくなりましてあいすみません。じつはな、いま、出ようとするところへ、弟子が二、三人まいりまして、ついおそくなりました」
「いや、そんなことはどうでもようございます……あッ、宗助さん、ご苦労さま……」
「どうも旦那|方《がた》がお早いのに、わたくしがおそくなっちゃあ申しわけがござんせん。一所懸命|用達《ようたし》に駆け歩いたんでございますがね、あいすみません」
「おや、辰っつぁん、ご苦労さん」
「へい……どうも、おそくなりまして」
「いやいや、よろしい……いやいや、尾張屋さんに相模屋さん、ご苦労さま……これで人数が揃いましたな」
「じゃあ、ひと焙《あた》り焙《あた》ったら、そろそろ出かけましょうか」
「出かけようだが、わたしが差しでがましゅうございますが、月番なので……どうでしょう、これだけの人数で廻るというのは? 二手に分かれて、半分が廻っているあいだ片方の半分はここで暖まっていて、それが帰ってきたら、こんど暖まっていたほうが出て行くと、こういうふうにしたら、お互いに楽じゃあないか、とおもうんですが、どうですな」
「なるほど、それは結構なお考えでございますなあ。……ええー、そういうことに願えば、こんなありがたいことはございません」
「じゃ、そういうことにして、わたくしが先へ廻って来ますから……じゃ宗助さん、おまえさんすまないが提灯《ちようちん》を持って先へ立っておくれ、それから近江屋さんは、恐れ入りますが、ひとつ鳴子のほうへおまわりなすって。黒川の旦那は、拍子木《ひようしぎ》をお願いします。辰っつぁんは、そこに鉄棒《かなぼう》があるから、その鉄棒を一つ持っとくれ。……それじゃひとつ、わたしどもが廻ってきますから、あとをお頼み申します」
「へえ、どうぞ……ごゆっくり……」
「ごゆっくりはないでしょう……じゃ、そろそろ出かけましょう」
「どうも、ご苦労さま……」
「やあ、お寒いこってすなあ……表へ出ると身の切られるようですなあ」
「いや……どうも。今晩はねえ……なんという冷え方をするんですかねえ……考えてみりゃあ、ばかな話ですなあ、ええ? お互いさまに小僧の時分から皸《ひび》あかぎれ切らして、ようよう一軒の主人《あるじ》になったとおもやァ……また、この火の廻り……奉公人は布団の中で暖まって寝ているてんだが、こんなばかな話はありませんなあ」
「そうそう愚痴《ぐち》をこぼさないで、これも町内安全のため、つまりお互いのためなんだから……宗助さん、提灯はどうした? 暗くって歩けねえじゃねえか、もっと足もとを照らしてくんなきゃあ困るよ」
「いやあ、あんまり寒いんで、上《うわ》っ張りのなかに抱えて歩いてるんで……」
「そんな危ないことをしちゃあいけない。やっぱり手に持って先頭を歩いてくださいよ。……それから、そろそろ黒川の旦那ァ、拍子木をお願いしますよ」
コツリ、コツリ……。
「いやな音ですね。もっと威勢よく叩《たた》けませんか」
「それが、拍子木を持って外へ手を出したんじゃ、寒うございますから、拍子木を両方の袂《たもと》へ入れて、着物の上から……コツリ、コツリ……」
「そんな不精なことしちゃあ……しょうがないなあ……ええー、それからねえ、近江屋の旦那、鳴子がちっとも鳴りませんな、どうしました?」
「はいはい、ただいま鳴らしますよ」
バタリ、バサリ、バタリ、バサバサ……。
「……カラカラ鳴りませんな」
「へえ、……なにしろ寒ゥがすからな、鳴子を前掛けの紐《ひも》へひっかけて、歩くたびに膝《ひざ》で蹴りますと、バタリ、バサバサ……これでご勘弁を……」
「なんだな、どうも、しょうがないな……おーい、辰っつぁん、鉄棒《かなぼう》はどうした?」
「突《や》ってます……突《や》りますよ」
ズルズル、カッチャン、ピシャン……。
「おいおい、なんという鉄棒《かなぼう》の引きようだ」
「そんな叱言《こごと》を言わなくってもいいじゃないか。文句ばかり並べて……鉄棒が凍っていて、手に持つと冷《つめ》てえから、紐を腕に通して、ひきずって歩くんで……ズルズル、というのはひきずる音。カッチャン、というのは石に当たった音。ピシャン、というのは水|溜《たま》りへ入った音……」
「なんだな、チャンチャンと力を入れて突かなくちゃあいけねえ、なんだそれは。だいいち、黙って歩いてないで『火の用心』とか『火の廻り』とか言って歩かなくちゃあいけねえ。……宗助さん、おまえさん、ひと声お願いしますよ」
「ようがす。ええー、火の……用心ッ、火の……廻りッ」
「なんだな、威勢がよくないね。声を切らしちゃあいけない。じゃあ、黒川の旦那、すいませんが、ひとつ、あァた、お願いします」
「かしこまりました、えッへーん」
「たいそう気取りましたね」
「(謡の調子で)※[#歌記号、unicode303d]火のォォォ用ゥゥじィ…ン、ナァサーリィーマァセェーイ……」
「ああ、いやだなあ……冗談じゃないよ、あァた、いくら謡の先生だって、困りますよ。じゃあね、近江屋さん、あなた、ひとつ代わって願います」
「どうもこの寒さじゃあいい声は出ませんよ」
「なんでもかまわない、威勢よくやっておくんなさい」
「へい、よろしゅうございます。※[#歌記号、unicode303d]ちちちィちん…(口三味線)……よォォッ……ちちちんちん(新内節で)※[#歌記号、unicode303d]火のォよゥゥ…じィィん……火のォ…まわァァ…りィ……火のゥ元にィィ気ィ…つけェ…てェえェェくだァさいィィ…よゥ…ちちんち…もしィ火事ィィ…にでェ……もォォなったァなァ…ァらァ…自分ン…ひとりィのォォ…難儀じャァ…ァなァァいィ…町ゥ内ァい…一同…おォォゥォ…ェェ…難儀じゃァえ、…ちちんち……」
「あれッ、弱ったなあ。これは、恐れ入りましたねえ、どうもしようがねえね。……じゃあ、辰っつぁん、ひとつ頼むよ」
「へいッ。よろしゅうござんす。……旦那|方《がた》は、素人ですからね……どうも……うまくいかないのがあたりまえで……この火の廻りなんてえものは他目《よそめ》で見ると楽なようだが、さてやってみるとなかなかむずかしいもんで、まあ……あたしなんざあ、これで若い時分にずいぶん道楽をしましてね、勘当されて、吉原へ行って、少しのあいだ火の廻りをしたことがありますが……どうも、火の廻りの身装《なり》のこしらいがいいねえ、え? 刺子《さしつこ》の長半纏《ながばんてん》でねえ、豆絞りの手拭《てぬぐい》を首に巻いて、こう右の手に鉄棒《かなぼう》を持って左の手に提灯を持ってひと廻り……廻ってごらんなさい……ねえ、助六じゃあねえが、あっちからもこっちからも煙管《きせる》の雨が降るようで……」
「まあ、いいよ。そんなこたあ。能書きァどうでもいいんだ、やってくれ」
「へい、よろしゅうがす……火のォォようゥゥじィん…さァッしゃ…りャ…しょォゥいッ!」
「なるほど……能書き言うだけあって、うまいねえ……やってくれ」
「火のォォようゥゥじィん、さァッしゃ…ァりゃ……しょォゥいッ!……二階を…ゥ…廻らっさァァりやしょゥい……『おい、火の廻りかい?……ねえ寒いから……こっちィ入って、一服|吸《や》っといでよ』『え?……うん、おめえかァ……おい冗談じゃあねえ。住《す》み替《か》えしたのか?……ふざけちゃいけねえなあ……住み替えしたらしたで、いいからよゥ、手紙の一本もよこすがいいじゃあねえか……ふん、薄情なことをするなよッ』……(投げ節の調子で)※[#歌記号、unicode303d]今朝《けさ》の寒さァにィィいィィい……ェェ…帰ェさりょォかァ…ィ……番廻ろう、廻ろう」
こんな具合いにひと廻り……廻って、番小屋へ帰ってきた。
「ただいま」
「や、どうもご苦労さまでございました。さぞお寒かったでございましょう」
「寒いの寒くないのって、鼻もひしげてしまいそうで」
「さようでございましょう。こんどはわたしどもがひと廻り廻って来ますから、ごゆっくりお休みください。あとをお頼み申します」
「では、どうぞ、ご苦労さまでございます。……さあさあさあさあ、みんなこっちへ寄って、どうも寒かったねえ……宗助さん、気の毒だが、そこに炭があるから、どんどん入れてくださいよ……なにしろねえ、この火が、なによりのごちそうですからねえ……まあまあ、もっとこっちへ、いらっしゃい、みなさん、ここへ」
「ええ」
「さあさあ、炭をいくら継《つ》いだってかまうことはない。みんな町内から出るんだ。手前|入費《にゆうひ》じゃあねえんだから、どんどん投《ほう》りこんで、どんどん熾《おこ》して、暖まろう。さあさ、こっちへ手を出してくださいよ」
「ときに、あのう……月番さん」
「なんです?」
「ええー、じつは、家《うち》を出るときに、娘が言うには『おとっつぁん、寒いから……年齢《とし》ィとってるんだし、火の廻りに出て風邪でもひくといけないから……』てんで、この瓢箪《ひようたん》の中へ、お酒を入れて持って来ましたんで、どうです、みなさん、一杯ずつ召しあがりませんか」
「お酒……? 近江屋さん、あんた、ここをなんと心得ているんです、え? ここは番小屋ですよ、ねえ、番小屋で酒ェ飲んだってえことが、役人に知れたら、たいへんですよ。……そうでしょう。あなたはこの中で年長《としかさ》じゃあありませんか、ほかの者がそんなことしたら、あァたが叱言《こごと》を言ってくれなくちゃあいけない。それを真っ先に立ってそういうことをなさるのは、困るじゃあありませんか、年甲斐《としがい》もなく」
「いやどうも、まことに気がつきませんで……じゃあ、こちらへ……」
「いや、なに……ひっこめることはありませんよ。ま、いいから出しなさい」
「どうします?」
「あァた、気がつきませんじゃあ、困りますよ。だいいち、酒を瓢箪に入れてくるというのが心得ちがい。……それをこっちへ出して……この土瓶のお茶をすっかり空《あ》けて、土瓶の中へこの瓢箪の中のものを入れれば……上燗《じようかん》がつきます」
「それを燗《かん》してどうします?」
「冷《ひ》やは毒だから……燗してから飲《や》りましょう」
「だって、あなたいま、番小屋で酒ェ飲んじゃいけないとおっしゃったじゃありませんか」
「へへ、酒だからいけないんで、瓢《ふくべ》から出る煎じ薬なら、さしつかえはない……じつはわたしもこうやって忍ばせてきた」
「なんだ、おどかしちゃあいけない。肝をつぶしましたよ。なるほど、煎じ薬は恐れ入りましたなあ」
「宗助さん、すまないがこの土瓶を濯《ゆす》いで持ってきておくれ……それから、茶碗があったら持ってきて、え? 一つしかない……いいよ、みんなで廻しっこすればいい…さあさ、土瓶をこれへ掛けて……こうやってね、いまじきにお燗がつきますよ……ええと、困ったな、酒ばかりあっても、どうも……なんかこう……食べる物がないと困るがなあ……」
「へへッ……ええー月番さん……そんなこったろうとおもって、じつはあたくしはね、猪《しし》の肉を持ってきました」
「猪の肉? こりゃどうもいいところに気がついたなあ……ウン……肉があったって、鍋がなきゃあ、困るな」
「ええ……鍋、背中に背負《しよ》ってきました」
「こりゃ、手廻しがいいな……それじゃ、さっそく煮てもらいましょう」
「かしこまりました」
「ああ、お燗もいいようですね……じゃ、どうです。……年長《としかさ》の近江屋さんからお先へ、ひとつ……いきやしょう」
「へえ? あたくしから? 頂戴いたしやしょう。おッとッと……あー、うまい。寒いところを帰ってきて飲む酒はまた格別ですな。火に暖まって一杯飲めば、内外《うちそと》から温《あたた》まるからたまりませんや。えっへへへ……どうも空《す》きっ腹《ぱら》に、じゅッとしみこみますな。……じゃあ月番さん、お酌ゥしましょう」
「どうも、ありがとう存じます……あー、うまい。……どうです、黒川の旦那、ひとつ、差しあげましょう」
「いやあどうも……恐れ入りまして、へえ……あッ、とッとッとッと……もったいない、もったいない……あー、うまいッ……それじゃあ、そちらへ廻しましょう」
「だんだん肉が煮えてきました。みなさんどうぞ箸《はし》をつけてくださいよ……こりゃ、うまいッ……この猪の肉てえやつは、いくら熱いものを食べても舌を火傷《やけど》しないところが不思議ですな……宗助さん、猪《しし》をひとつ食べてごらん、うまいよ」
「え?」
「食べたらどうです?」
「へえ、それがねえ?……どういうものだか、あたくしァ、この……猪の肉てえやつが……子供の時分から嫌《きら》いなんで……」
「ほう?……嫌いなら葱《ねぎ》が煮えてますから、葱のほうをおあがんなさい……」
「へ…へえ、さいですか……葱のほうならいけるんですが……わたしゃあどういうわけか……このう、猪《しし》てえやつが……こらァ…ウン……はァは……ふゥゥ、ふゥゥ……ゥゥゥーン……」
「あァた、嫌いだ嫌いだって、葱|除《の》けて、みんな猪のほう食ってますよ」
「いや、どうも……見つかりましたか」
「見つかったじゃあないよ、宗助さん。こすくっていけないな。……辰っつぁんや、こっちへ来て、どうだい、一杯飲んだら……」
「へい……もう、いただき……やしたァ……」
「おう、早いな……なんだあ? みんな飲んじゃったあァ、おおゥ、冗談じゃねえや、あきれけえったねえ……」
「ええー…どうも……いい心持ちンなっちゃった……どうです、都々逸《どどいつ》でもやりますか?」
「おいよせよ。こんなところで都々逸なんぞ唄われてたまるかい」
「いいじゃないか、ねえ……(口三味線)つつん…つん…つつ…とん……うェ…い…」
表で、
「ばん、ばんッ」
「……え?」
「なんだ畜生め、かまぼこ屋の犬だな。猪を煮ているもんだから、匂いを嗅《か》ぎつけてきやがった……」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「ばん、ばんッ!」
「しッしッ」
「これッ、ここを開《あ》けろッ……番《ばん》の者はおらんか……見廻りの者である」
「えっ、たいへんだっ……おいその土瓶を片づけちゃって、鍋もうしろへ……あ、熱ッ…あつ…あつ…ああ、火傷《やけど》しちゃった……いけねえ、いけねえッ」
「これ、番の者、開けろっ」
「へえ、ただいま開けます……へえ、どうも、どうもお役目ご苦労さまでございます」
「廻っとるか?」
「へえ、ただいま……ひと廻りいたしまして、帰ってまいりました」
「それは大儀であるな……ああ、いま拙者が『番々《ばんばん》』と申したら、『しッしッ』と申したが、あれはなんだ?」
「それは……その、なんでございます……この宗助さんが……」
「おいおい、人を引きあいに出しちゃあいけねえ」
「ええー、あれは、その、ひと廻り廻りましたところ、あんまり寒っくって、まあ『火を熾《おこ》そじゃないか、火ィ火ィッ』と申しましたので、へい」
「さようか……いま拙者が入るとき、なにか土瓶のようなものを隠したが、あれはなんだ?」
「……あれは、その……なんでございます……宗助さんが……」
「また宗助さんがだって……いけないよ、他人《ひと》の名前を出しちゃあ……」
「いいんだよ、黙ってな。ええー、少し風邪をひいておりまして、この寒いのに廻って歩きまして、重くなるといけないから、煎じ薬を飲んだらよかろうというので、いま煎じ薬を飲ましておりましたところで、へい」
「ほう、さようか……煎じ薬か。や、拙者も両三日前から風邪をひいておる。役目であるから病を押してこうして廻っておるが、煎じ薬があるならさいわいだ。その煎じ薬を、拙者ももらうから、一杯飲ませろ」
「へえ」
「およしなさいよ。相手は武士《さむらい》だ。出して口ィつけてみて、え? 『これは酒じゃあないか、無礼なやつッ』とバッサリやられねえもんでもねえ。そんなことになりゃあたまったもんじゃあねェ。断わっちまいなよ」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに……ただいま宗助さんが……」
「……いけないよ。あたしゃ命が惜しいっ……」
「なに言ってんだ、大丈夫だよ……へえへえ……ただいま、差し上げますから……へえ、どうぞ」
「注《つ》げ……おッお、よしよし……これはとんだ煎じ薬だな。……寒いときはこの煎じ薬に限る」
「えッへへへ……どうも、これはどうも……これァ大丈夫、大丈夫」
「あ、これこれ、先刻何か膝《ひざ》の下へ鍋のようなものを隠したが、あれは何だ?」
「へえ、あれは……なんでございまして、この宗助さんが……」
「……あたしの名を出してはいけないってんだよ」
「あれは、その……煎じ薬の口直しで」
「その口直しを……これへ出せ」
「へえ、へェへェへ、少し食べ荒らしてございますが、召しあがれますか」
「いや、とんとさしつかえない」
「へえ、これでございます」
「おお、なるほど、これはこれはよい口直しだな。煎じ薬の口直しはこれに限るな。ああ、よい心持ちだ……これ、煎じ薬を、もう一杯注げ」
「へえ?」
「おいおい、もうございませんと断わっちまいなよ。きり[#「きり」に傍点]がねえや、もう一杯もう一杯とみんな飲まれてしまっちゃあしょうがねえ。またひと廻り廻ってきたときに、あたしたちの飲む分がなくなっちゃう。え? お、お断わんなさい」
「これこれ何を言っておる」
「いえなに、この宗助さんが……」
「また宗助さんだ」
「まことにお気の毒さまでございますが、もう煎じ薬はございません」
「なに?……ないと申すか」
「もう一滴もございません」
「ないとあらばいたしかたがない……しからば拙者もうひと廻りしてくるから……二番を煎じておけ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 江戸の時代考証として貴重な資料になる、日常的な出来事が描写されている。しィーんとして身を切られるような凍てつく夜の町の佇《たたずま》い、手拭で頬被《ほつかむ》り、揃いの法被《はつぴ》に提灯、それぞれが拍子木、鉄棒、鳴子を鳴らしながら「火の用心、さっしゃりゃァしょう……」と町内を流して歩く……、それは江戸の冬の響きであり、町内町内が結束し寄り合う、生活《くらし》の槌音《つちおと》でもあった。さらにそして、そこにも江戸の遊びの精神が持ち込まれていかにも旦那衆らしい寄合酒がはじまるのである。見廻り役とて人の子、それを目的《めあて》にお役目を務《つと》めたとて、無理からぬことではないか。ただ宗助があわてたのは、日ごろ見廻り役人に馴染がなかったからである。一度火災が発生すると大火になりやすかった世界最大の木造都市、江戸は、慶安、明暦(振袖火事)、天和(お七火事)と、たび重なる大火災に見舞われ、それだけに防火、火消しの関心は、末端の火の番にまで行きわたっていたのである。
火事に取材した噺は「火事息子」「鼠穴」「富久」[#「「火事息子」「鼠穴」「富久」」はゴシック体]と多い。
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火事息子
……神田明神の祭りもすんで、もう朝晩は袷《あわせ》でも薄ら寒い日がつづいた。うす暗い焼芋屋の店さきに、八里半と筆太《ふでぶと》にかいた行燈《あんどん》の灯がぼんやりと点《とも》されるようになると、湯屋の白い煙りが今更のように眼について、火事早い江戸に住む人々の魂をおびえさせる秋の風が秩父の方からだんだんに吹きおろして来た。その九月の末から十月の初めにかけて、町内の半鐘がときどきに鳴った。
と、岡本綺堂の『半七捕物帳』(「半鐘の怪」)に書かれている。
ジャンジャンジャンジャン――。
神田三河町の伊勢屋という質屋、町内に出火があって、たいしたことはないが、火の粉がどんどんかぶってくる。
「番頭さん、おまえさん片づけものはあとでいいから、ちょいと目塗《めぬ》りをしておくれ……ほかの商売ならいいが、うちは質屋で、他人《ひと》さまの大事な品物をお預かりしているのに、目塗りもしないようじゃ、あんな店へ品物は預けられないという評判が立っちまう……うちの暖簾《のれん》にかかわるから……こういうときに、すぐ左官が来てくれねえのァ困るなあ。左官が間に合わなきゃあしかたがない。さあさあ、番頭さん、おまえ梯子《はしご》をかけて、あたしと小僧と二人で、ここでもって土をこねて放《ほう》るから……ちょっと、おまえ表蔵《おもてぐら》へ上がっとくれ」
「へえ……ではございますが……あたくしは、どうも高いところへ上がりますことが、まことに不得手……」
「まあ、そんなこと言わないでさ……戸前のところへ泥さえついていれば、それで申しわけが立つんだから……あたしも手伝うし……おい、定吉ッ」
「へい」
「おまえもこっちへきて、手伝いなさい」
「へえ、なにをいたしましょう」
「おまえは、この用心土《ようじんづち》をこねなさい。堅くなっているから、水を汲んでこなくちゃあいけねえ」
「井戸まで汲みに行くのはたいへんです」
「なんかなくちゃあ、柔らかくならない」
「じゃあ、しょうがありませんから小便します」
「そんな汚いことをしちゃあいけねえ。水ゥ汲んでこい……ああ、番頭さん、もっと上まで上がんなよ、臆病な男だな」
「へえへえ、どうも……おどろきました……」
「いまさらおどろいたってしょうがねえ。いいか? 片っぽの手をはなして、折れっ釘《くぎ》へつかまんな……ああ、あやしい腰つきだな」
「へえ、折れっ釘はどこでしょう?」
「どこでしょうったって、おまえさんが上がってんだ」
「ええ、上がってますがね、目がくらんじゃって、なんにもわからなくなって……ちょっと待ってくださーい」
「しょうがねえな……定吉、さあ早くまるめな」
「旦那、このくらいでよろしゅうございますか?」
「もっと大きくしな」
「へえ……これくらいなら火保《ひも》ちもよろしゅうございますが、へえ、お値段が少し張ります」
「余計なことを言うな。炭団《たどん》を売ってるんじゃあないよ。さあこしらえたら、こっちィ早く渡しな……じゃあ、番頭さん、この土を受け取るんだよ。柔らかい土だからそのつもりでな。いいか、放るよ。ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
番頭は上で、折れた釘につかまり、片ほうの手で土を上からつまむように受けるが、取りそこなう。
「なにをしてんだ、おまえ。柔らかい土をつまもうたってだめだよ。左官がやってるのを見ないかな……上がってくるところを掬《すく》うように、ひょいとこう受けるんだ、じれったいねえ。……もっとおまえ、身体《からだ》を前へのり出しな、いいか? こんどはうまく受けなよ……ほら、一《ひ》の二《ふ》の、それッ……」
受けそこねて、泥が番頭の顔にもろ[#「もろ」に傍点]にぶつかった。
「へえ、ぷッ……ゥゥこりゃあ、ぷッ……こりゃ、顔ィ目塗《めぬ》りは恐れ入りました」
上も下も、まごまごしているところへ、屋根から屋根を伝わって、火消し屋敷の人足、年齢《とし》のころは二十五、六、ぐっしょり濡れた屋敷の法被《はつぴ》を腰に纏《まと》って、肉体《からだ》じゅう、倶梨伽羅紋々《くりからもんもん》……刺青《ほりもの》だらけ、ざんばら髪《がみ》のうしろ鉢巻のいでたちで、とんとんとんとんッ……とはずみをつけてきて、九尺の廂間《ひやわい》をぽォーんと飛び越して、
「おい、番頭……おれだよ」
「……あァッ、あなたッご勘当ンなった若旦那……」
「……大きな声をするんじゃあねえ。下にいるのは親父か? わずかのうちにてえそう年齢《とし》をとっちゃったなあ……ところでな、おゥ、この火事はもうなぐれる[#「なぐれる」に傍点]よ。おしめえだ。消えちまうよ。目塗りなんざあどうだっていいが、ま、家業柄、目塗りァしておくほうがいいだろう。おれが手伝ってやりゃあぞうさもねえんだが、それじゃおめえの忠義ンならねえ。おゥ、真田のこの前掛けの紐《ひも》を解いて、輪にしてな、この折れっ釘へ掛けたら、おめえは両手が使えるんだ。そっちの手ェはなせよ」
「いいえ、もうどうぞ、おかまいなく」
「はなしてみなよ」
「へえ、いずれそのうち」
「なに言ってやがんだ。はなしてみろッ」
「あッ……ああ、おどろいた……あー、なるほど、うしろィ紐がくっついて……蔵の折れ釘へぶるさがっている。こんなら、大丈夫、さあ、これで両手が使えるから、なんでも持ってらっしゃい、持ってらっしゃい……」
「なんだ踊ってやがら……どうもありがとう存じます。なにしろどうも素人でございますから……さすがにご商売柄だ。そうしていただいたなら……こんどは大丈夫」
ようようのことで目塗りがすんだ。
「ああ、骨が折れた。見ているだけだったが、ちょいとしたことでも、じつにどうもくたびれる。年齢《とし》をとっちゃあいけないな……静かになったようだがどうした? 定吉、もう消えたか?」
「へえ、ただいまやっとしめった[#「しめった」に傍点]そうで……」
「ああそうかい、そりゃまあよかった……はいはい、どうもお早々と、どうもありがとう存じます……お見舞いに来てくださる方があるから、おまえな、清兵衛、よく帳面を落ちのないようにつけて……」
「どうもお騒々しいこってございます。へい、こんばんは、吉田屋でございます」
「へえ、菊屋でございます」
「へえ、和泉屋でございます」
「へえ、亀屋でございます」
「おや、これはこれは、遠いところをありがとうございました。……いいえ、ひとしきりは風もこちらへかぶっておりましたから、どうなることかと思いましたが、おかげさまでよい塩梅《あんばい》でございます。……ええー、どうぞよろしくな」
「こんばんは、お騒々しいこってございます」
「おお、こりゃ岡本屋さん、お宅さまも、風下でねえ、おどろいたでしょう。一時はどうなるかとおもいましたよ。いい塩梅になにごともありませんで、ご同慶の至りというやつ……あっはっはは……おとっつぁんは?」
「へえ、おやじが風邪の気味で、伏せっておりますので、あたしが名代でございますが、くれぐれもよろしくと申しました」
「ああ、そうですかい。風邪は万病のもと、どうぞお大事になさいますようにね、よろしくお伝えください……ああ、いい倅さんだねえ、岡本屋さんの若いのァしっかりしているし、おかみさんを持って……子供ができたって? ええ、ええ、親孝行なこったァ。いくつになんなさる? え? うちのあのばか野郎と、お宮詣りがいっしょだった? おない年かい? おない年でもたいしたちがいだねえ。片方《かたかた》はああやって、おとっつぁんの家業を継いでいなさる孝行息子、それにひきかえてうちのあのばか野郎は、どこにどうして暮らしてるのか、生きているのか死んでいるのか、皆目《かいもく》姿ァ見せねえ……まあまあ、勘当したやつのことをおもってもしかたがないが……あ、姿見せねえっていやあ番頭さんが見えないね」
「まだ、蔵の折れ釘にぶらさがっております」
「えっ、いつまでぶらさがってるんだな。だれか手伝っておろしてやんなさい。だれか梯子《はしご》を押さえててやんな、一人じゃおりられないんだから……」
「へえ、どうも慣れませんことは、しょうのないもんで」
「いやあいや、番頭さんや、ご苦労さまだったね。顔を洗ったらこっちィ来て一服やっとくれ」
「旦那どうも、左官の手間取りはいけませんな。帳場格子で算盤《そろばん》はじいてりゃあどうやらまあ一人前ですが、左官の手間取りは、小僧と旦那さまとあたくしと三人がかりで半人前……いやおどろきました。それにひきかえあの、屋根から屋根を伝わっておいでになりました方……」
「そうそう、ありゃご商売人だね? 素人じゃあないね。おまえの前掛けの紐を取って、輪をこしらえて折れ釘ィ掛けなすった、あのどうも、頓智《とんち》にゃあおどろいたねえ。早速《さつそく》の働きてえな、あれだ。おいおい、あの方にお礼を言うのを忘れちゃったよ」
「へえ、たぶん、お礼がおっしゃりたいだろうとおもいましてな、あたくしァ、あの方をお引き留めしておきました」
「えらいえらい、あいかわらず、佐兵衛さんはよく気をきかしてくれたねえ。失礼だがあの身装《なり》だからねえ、小遣《こづか》いの、一、二両もつけて、お礼をしようかねえ」
「いえ、ええーあの向こうさまは……そのう……大旦那さまには、お目にかかることは、まことに面目ないと、おっしゃるんでございますが……」
「……なんだ、あたしに会うのが面目ない? 会いたくねえってのかい? ううん、すると、うちのお客さまだね? よくあるこったが、無理なことを言って質草ァ置きなすって、それを流してしまったから、主人《あるじ》に会えねえってんだろ、そうだろ?」
「いえ、そうじゃあございません……ご勘当になりました若旦那でございます」
「ええっ、あれが倅かい!? 身体《からだ》じゅう刺青《ほりもの》で……」
「さようでございます」
「屋根から屋根を飛んできた……あの男が? 徳ッ?」
「へえ……」
「まあ、あぶないじゃあないか。もし、おまえ……屋根から落っこちて怪我でもし……いやいや、怪我しようとどうしようとわたしのかまったことじゃあない。ありゃあ勘当した者《もん》だ……向こうで会いたがってもあたしのほうで会えない。勘当した倅に会っちゃあ、世間さまへ申しわけがない」
「へえ。でございますが、あか[#「あか」に傍点]の他人が、火事見舞いに来てくれましても、ま、ひと言お礼をおっしゃるのが、道ではないかとおもうんでございますが……あたくしァ、ご勘当なすった若旦那でなしに、ただの見舞い客として、旦那さまにお礼を言っていただきたいのでございますが、いかがでございましょう」
「はあ、わかりました……ありがとう、よく言っておくれだ……そういうことなら会いましょう。どこにいる?」
台所の竈《へつつい》の隅に、若旦那の徳三郎は、濡《ぬ》れた法被《はつぴ》一枚で、太股のところまでしている入れ墨を隠そうと、下帯のさがりを前掛けのように伸ばして、膝がしらをくるむように、ちぢこまっている。
「先ほどはありがとうございました。おかげさまで、どうやら目塗りも無事にすみました。番頭から委細を聞き、ひと言お礼を申し上げにまいりました。どうぞこちらへお出ましを願いたいもんで、そんな隅にいらしったんじゃあ、暗くてよくわかりません」
「へえ……どうも、ごぶさたをいたしました。うかがえた義理じゃあございませんが、あまり急なことで、われを忘れて飛んでまいりまして……いつもお変わりもなく……おめでとう存じます。かような姿になりまして、お目にかかりますのも、まことに面目ないことで……」
「ありがとうございます。わたしも年齢《とし》はとりましたが患いもせず、どうやら丈夫に暮らしております。あなたもお変わりなく、と申し上げたいが……たいそう立派な絵が描《か》けましたね。わたしどもにおいでのころは、そんな絵なんぞ描いてあげなかったが……いまさら言ったってしょうがねえが、小せえうちから、火事が好きで、おもちゃを買ったって、纏《まとい》だの鳶口《とびぐち》だの梯子だの……十八の年に、鳶頭《かしら》ンところィ行って鳶《とび》の者になりてえッて言った。あたしが鳶頭に断わったので、四十八組の頭取手合のところへは廻状をまわしてくれた。どこィ行ったって、てめえを子分にするなんてひょうきん[#「ひょうきん」に傍点]な頭取はいなかったろう。ないが意見の総仕舞、堅くなるかとおもったら家を飛び出しゃあがった……火消屋敷の人足ンなったってことは聞いたがね、目《ま》のあたりにおまえの姿を見るまでは、親てえものはばかなもんで、よもやよもやとおもっていたよ、ええ? ばかめっ、ここはおまえの家だよ。身性《みじよう》さえよけりゃあここの若旦那だ。竈《へつつい》の隅で、小さくなってなくたっていいんだよ、なあ。そんなざまでこの近辺を跳んで歩いて、あれが伊勢屋の倅さんかと、他人《ひと》さまから後指《うしろゆび》を指される……親の顔へ泥を塗るというのは、おまえのことだ」
「へへへ、旦那なんか、さっき番頭さんの顔へ泥を塗りました」
「余計なことを言うな、定吉、あっちへ行け。……お礼を申し上げまして、もうご用もございますまい。お引き取りを願います」
「まことに面目しだいもございません。またお詫《わ》びする時節もございましょう。それじゃこれでお暇《いとま》を……」
「あーっ、ちょっと待ちな……ついでにおっかさんにも会っといで……おい、定吉や、おかみさんを呼んで来なよ……え? どっかにいるだろう……おうおうおうおう、婆さん、ちょっと用があるからこっちィ来な。なにをしてんだい、え? 猫が見えなくなっちゃった? いやだね、猫なんざあどうだっていいんだよ。早くこっちィおいでよ、おまえさんに会わせてえ人があるから……」
「なんです? だれで……だれが来たんですよ」
「倅の徳三郎が来たから会いなさい」
「えッ、徳が来ましたか。まあ、ありがたいことですね。なるほど猫どころじゃあありませんよ……そうですか、どこにいますえ?」
「あすこに座ってるよ」
「あらまあ……よくおいでだねえ。まあ、苦労したと見えて、わずかのあいだにずいぶん年齢《とし》をとっちまって、髪ン中へ白髪《しらが》がまじって……」
「そりゃ、番頭の佐兵衛だよ」
「あら、ほんとうだ。いやだよ、佐兵衛さん、なぜおまえ、そこへ顔を出すんだ。まちがえるじゃあないか。こっちへどいててくださいよ。ああ、おまえ、徳三郎っ……おまえもっと前へお出。ああ、よかったねえ無事で、え? またどうも、見事な刺青《ほりもの》だこと、目がさめるよ」
「なに言ってるんだ、刺青なんぞ、ほめなくてもいいよ」
「……上がられた義理じゃあございませんが、庇《ひさし》を通りかかりますってえと、番頭が困っておりましたんで、取るものも取りあえず、お手伝いをいたしましたが、おとっつぁんも、おっかさんも、お変わりがなくって、おめでとうございます……」
「……はい、ありがと。よく言っておくれだ……変わりはありませんよ。このとおり、おとっつぁんも丈夫なら、あたしも丈夫、家業は繁昌するばかり、なにひとつ不足はないわけだが、ただね、おまえが家にいないのが心がかり……いまごろはどうしているだろう? 烏《からす》の鳴かない日があったって、あたしがおまえをおもい出さない日は、ただの一日だってありゃあしない……お産をするときも、年齢《とし》をとってからのお産だからずいぶん苦労して、ようやく産み落とした、ひと粒種だもの……まあまあ、そうやって、無事にいてくれりゃあなにより、あたしゃこんな、うれしいことァありませんよ。ねえ、どうかして会いたいとおもってね、おまえの居所は知れず、あんな火事の好きな子だったから、どうか近所に大火事がございますように……って、あたしゃあ朝晩ご仏前に向かうたんびに……ご先祖さまへ手を合わして……」
「おうおう、おいおい、お婆さん、あまりばかなことを言ってちゃいけません。他人《ひと》さまがお聞きンなるとおまえ、他人《ひと》さまは、腹を立てる……」
「他人《たにん》さまは他人さまでさあね。おとっつぁんだって、あんなことを口じゃ言ってるが、男親というものは、やせ我慢をして、お腹《なか》ン中では泣いていることは、あたしはよく知っていますよ」
「なにをばかな……」
「まあ、見てごらんなさい。この寒空に、法被《はつぴ》一枚、かわいそうに……風邪でもひかないようにどうかまあ、あの着物をやってください」
「これに着物をやる? とんでもない話だ。勘当した倅におまえ着物がやれますかい」
「だってね、あなたはお慈悲深い方ですよ。出入りの者がしくじった[#「しくじった」に傍点]って、おかみさんがお産をしたとか、おっかさんが患ってると聞くと、わざわざお見舞いを持って、行きなすって、もとどおり出入りを許す。他人《ひと》さまだってそれなんですもの、血肉を分けたこれァ倅ですから」
「やれないねえェ……」
「やれないったってあたしゃもう、蔵の虫干しのたンびにこれのものを見ると……胸がいっぱいになりますよ」
「なにもこんなやつのものを蔵へなんぞしまっておくことはないじゃないか。そんなに目ざわりだったら、往来へ捨てちまいな」
「それがあなたは頑固ですよ。捨てるくらいならやってくださいな」
「わからないなあ、小遣いでもなんでもつけて捨てれば、拾って行くから捨てなさいてんだ」
「……ああ、ああそうですか。よおく言ってくださいました。さっそく、捨てますよ……みんな、ちょっと手を貸しとくれ、箪笥《たんす》ごと捨てるから」
「おうおう、そんなに捨てなくったっていいよ」
「小遣いはどのくらい捨てましょうね? 千両も捨てますか?」
「そんなに一ぺんに捨てずに、ちょくちょく捨ててやんなよ」
「じゃ、まあ五十両も捨ててやりましょう。着物と帯は、まあ結城《ゆうき》というところへ落ち着きますかねえ。それに古渡《こわた》りの唐桟《とうざん》。それから、ふだん着に西川のものを揃えてやりましょうか。帯は、紺献上に……色が白いから、黒っぽいものも似合いますから、薩摩もついでに捨ててやりましょう」
「まあいいように捨てなよ」
「なにしろ、あの子は色が白いからほんとうに、品のいい服装《なり》がよく似合います。ほら、いつでしたか、あなたの代わりに、年始廻りをしたことがありましたねえ。……黒|羽二重《はぶたえ》の紋付に、仙台平の袴《はかま》をはかせて、雪駄《せつた》ばきで、脇差を差して……すれちがった人が、どこの役者衆だろうなんて、噂をしたくらい。あのときは、あたしァ、もううれしくてうれしくて、あの子は、あなたより男っぷりがようございますからね」
「つまらないことを言いなさんな」
「だって、ほんとうですもの……わたしは、これに、あのときの身装《なり》をさせて、小僧を一人供に連れてやりとうございます」
「おい、勘当した倅に、そんな改まった身装《なり》をさせて、どうするんだ?」
「だってあなた、火事のおかげで会えましたから、火元へ礼にやりましょう」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 大津絵の「冬の夜」に、※[#歌記号、unicode303d]冬の夜に風が吹く、知らせの半鐘がじゃんと鳴りゃ、これさ女房|草鞋《わらじ》出せ、刺子、襦袢、火事頭巾、四十八組追々とお掛け衆の下知を受け……とある。――江戸の華と謳《うた》われた火事と喧嘩。火焔に生命《いのち》を的《まと》に立ち向かう鯔背《いなせ》≠ニ勇み肌=\―それが江戸っ子気質に適合して、町方の人気は絶大であった。頽勢の武士権力にかわって町方の台頭する江戸中期以後、「いろは四十八組」の町火消しは、その結集された〈象徴〉ともいえるものだった。町民を火災から守るその使命を背負って、揃いの半纏、肩で風を切って市中を闊歩する姿は民衆の喝采を浴びたという。その出現は当時どれほどのものであっただろうか。
伊勢屋の若旦那の徳三郎が、そうしたカッコよさにあこがれたのは今も昔も変わらぬ若者特有の熱情なのである。若旦那の場合もまた、親の反対に遭《あ》い、家を勘当され、臥煙《がえん》(火焔とも書く)にならざるを得なかった。小山内薫の戯曲「息子」に見るまでもなく、こうした親子のいきちがい[#「いきちがい」に傍点]はいつの世にも、どこにも起こり得ることなのである。
ただ、勘当というものが、今日とはちがい、親類、五人組、町役人連署の上、名主へ届書を差し出し、名主から勘当伺いを奉行所へ提出し、その決裁の結果、人別帳つまり戸籍から取り除かれる、というきびしい掟であった(解除する場合も、また同じ手続きをふんで戸籍に載せてもらうことになっていた)。
八代目林家正蔵と六代目三遊亭円生の持ち噺になっていた。
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按摩《あんま》の炬燵《こたつ》
ビュービュー寒い空《から》っ風の吹く夜。
「どうしたい、大勢《おおぜえ》顔を揃えてなんだい?」
「ェェ店一同で番頭《ばんと》さんに折り入ってお願いがござんす」
「ははあなんだな、寒《さぶ》いてんで帳場でもしけ[#「しけ」に傍点]たら、蕎麦《そば》の一杯っつもごちそうしろッてえのか」
「いいえそんなわけではござんせん……なにしろこの二、三日ねェ、寒《さぶ》さが特別でござんす、へえ……昨晩なぞァ店一同まんじり[#「まんじり」に傍点]ともいたしませんで、へえ。こんなこと申し上げるのはなんでございますが、店の布団《ふとん》が少し薄《うす》すぎますので、いかがなもんでござんしょう? 各人《めい》各人《めい》っつ増《ふ》やさなくってよろしんでござんす、へえ。大勢の中へ五枚でも六枚でも番頭さんのお計《はか》らいで、奥から布団を拝借願いたいとおもうんですが、いかがなもんでござんしょう?」
「ばか野郎、おまえさん方は奉公をなんとおもってなさる? 遊《あそ》びに来てるんじゃあないよ。寒い時分に暖かいおもいができ、夏ンなって涼しいおもいができりゃあ、そりゃあ奉公でもなんでもない。それが修業じゃないか、万々《ばんばん》出世じゃないか、最初《はな》から偉い者がありますか。桜が咲く時分になっておまえさん方、暖まるものを掛けて寝るか? 寝なかろう? 寒《さぶ》いったってもうわずかの間《ま》じゃあないか、そのくらいのことが辛抱ができなくって、一人前の人間になれますか。なんだッ、修業中に」
「ああさいですか。おう松どん、かわってくれ、しくじっちゃったい」
「ええー、番頭さんお言葉を返してまことにあいすみませんでござんすがなあ、煎餅《せんべえ》布団ってなよくありますが、餅《べえ》抜きの煎布団《せんぶとん》なんでござんす、へえ。袷《あわせ》へ少ぅし綿《わた》が入ってるっていうくらいのもんですから、とてもやりきれませんです、へえ。番頭《ばんと》さんなんざあ一枚でも二枚でも、余計なものをお掛けんなって、炬燵《こたつ》の一つもお入れンなるから、そりゃあお暖かで……」
「おうおう、おい、何を言うんだ、いつあたしが炬燵ゥ入れました? いつあたしが炬燵を入れたよ?」
「…………」
「へえじゃあないよ、おい……え? あたしが炬燵ゥ入れたのを見たことがあるかい?」
「ェェご立腹では恐れ入りますが、番頭さんのことですから、ェェお入れんなるだろう……」
「だろうなんざあいけません。そらあ、あたしが炬燵を入れたからって、奥ではなんともおっしゃりゃあしまい。見て見ないふりをしてくださるだろう。くださるだろうけど、おまえさん方も奉公、あたしだって奉公、奉公に変わりはない。そりゃ一枚でも二枚でも、余計なものを掛けているかもしれません。おまえさん方と年齢《とし》がちがう、え? 十年てえ年季を勤めあげれば、おまえさん方の好きな自由、どんなことでもできる。なんだ修業中に……生意気な、とんでもないこったッ」
「……ああさよですか、へえ……わかりやした、へえ……番頭さんが寒いおもいをしてお寝《やす》みンなるのに、へえ、われわれァあたりまえのことで、へえ、万々《ばんばん》出世でございます、修業でございますから、みんな、ああ、寒いおもいして寝ます」
「えっへっへっへっ松どんお待ちよ、お待ちてんだよ、えっへっへ、叱言《こごと》は叱言なんだよ。いや、寒かろう。知らないじゃあない知ってます。この二、三|日《ち》特別だね。……一家のうちってもんはなかなかむずかしいもんで、こういう細かいところっていうものは、そこの家《うち》のおかみさんが気がついてくださらなきゃあ困る。ご当家のおかみさん、まことに結構なよくできた方だ。しかしこういう細かいとこへ気がついてくださらない。しかしこれもしかたがないよ。奥ィそ言ってあげてもいいよ。おまえさん方から、頼まれたとおもってくれりゃあいいんだよ。それが、あたしがなんだか先立ちンなって、布団を借りたいて言うようにおもわれるんでまことに残念なんだがねえ……といって、どうも言ってあげないのも悪《わり》いしねえ、どうだい、奥から布団を借りずに、ひと晩でもいいからおまえさん方をひとつ暖かく寝かしたいもんだな」
「ああ、さよですか、へえ、ありがと存じます」
「おい、松どん、うまいことを考えたよ」
「へえ背中ィ唐辛子《とうがらし》かなんかァのせて……」
「そんなことをするんじゃない、奥ィ按摩《あんま》の米市《よねいち》が来てるだろ?」
「ええ、ええ、まいってます」
「あの米市をなあ、奥へ内緒で、店へそっと泊めるんだ。あいつは三度のめしより、酒が好きだよ。あいつに酒を飲んでもらってあいつに炬燵ンなってもらう……え? ひっくる[#「ひっくる」に傍点]返《かい》ったって火事ンなる憂《うれ》いはなし、安全炬燵だ、いいだろ? 按摩《あんま》の炬燵《こたつ》ってんだ」
「寒《かん》の内《うち》、袷一貫《あわせいつかん》で暮らせるて言うくらいなもんですが、へえェ、米市がそんなことをきいてくれますか?」
「いい、きいてもきかなくてもいい。奥から出てきたらなあ、あたしが頼んでみるから。え? 出てきた? そうかい、呼びなさい、呼びなさい」
「米市っつぁーん、米市っつぁん」
「……へいッ、ェェ、おや、これはこれは……ェェ、みなさん、まだ、起きてらっしゃるんですか? ああさようですか。へえェ……へえへえ、お療治すみました。今晩ちと、お療治たてこみましてな、ェェお三人でございました、へえ。ェェご隠居さま一番おしまいで、いますやすやお寝《やす》みンなりましたから、あんまりそばにおるのも気がききませんから、そっと、出てまいりました。今日《こんち》は冷えますな……へえェ手がかじかんでねぇ、おどろいたんですよゥ、えっへっへっへェどうも……へ? ェェ番頭さんご用ですか? ああさよですかァ、へえ……ありがとう存じますがなあ、今晩もう疲れとりますから、お療治なら明晩に願いたいんで……へ? ああ療治じゃない? ああさよ……じゃあ、ェェそちらィまいります」
「もうなにかい、もう他所《ほか》へ療治に行かないのかい?」
「ええもうまいりません。もう宅ィ帰ってな、今晩はもう寝ます」
「どうだい、米市っつぁん、おまえ、今日店へ泊まってかないか?」
「ああさいですか? えっへっへっへっへェ、ありがとう存じます。ご案内のとおり盲人《めくら》はな、なんの楽しみもござんせんで、聞くものよりしょうがござんせんで、えっへっへェ、みなさんのお話、久しぶりでうかがいますかな、えっへっへっへ今晩ひとつ、ェェ泊めて、い、いただきますかな」
「そのかわり米市っつぁん、おまえの好きな酒を今日はうんとごちそうするよ」
「おやッ、ほんとうですか? いやあ、こりゃあありがたい。あたくしはもう酒ときたひにゃあもう目がないんでござんす」
「酒とこなくたって、目なんざあないじゃあないか」
「ああ、なるほど……こりゃ一本やらいた[#「やらいた」に傍点]なあ、どうも……じゃ、盲人はなんて言います? 耳も鼻もねえってます? あっはっははっは、言いにくいねどうも。泊めていただいた揚げ句に、ご酒《しゆ》をごちそうンなんじゃ、てまいにとっちゃあ、盆と正月と、ェェかちあったようなもんですなあ。さよですか、ェェじゃあ、今晩ひとつ、ご厄介ンなります」
「そのかわり、どうだい、おまえ炬燵ンなってくれないか?」
「……炬燵?」
「いやあ、炬燵ったって、わたしといっしょに寝てくれりゃいいんだよ。米市っつぁんが酒ェ飲んで、身体《からだ》が暖かいとこィ、ちょっと手足をつけて今晩楽々と寝たいとおもうんだ」
「へえー、失礼だが番頭《ばんと》さんは、炬燵ゥお入れんなりませんか?」
「いやあ、そりゃわたしは炬燵を入れようとおもえば入れられないことはない。けれどもあたしが入れる、若い者が入れる、小僧が真似ェして入れる。もし、それから粗相《そそう》でもあったひには、ご主人に対して申しわけがないから、あたしゃどんなに寒《さぶ》くっても、炬燵ってものァ入れたことがないよ」
「……へえ、恐れ入りましたなあ。いいじゃありませんか、なにもあァたが……へえ、ああそういうもんですかなあ。へえへえ、よろしゅうござんす。てまえは、酒を頂戴いたしまするとねえ、カッカァ[#「カッカァ」に傍点]いたしてまいります。へえ、火のようになるン、へえ。そりゃあもう上等の炬燵……上等の炬燵でござんすが、断わっときますが、酒は一合や二合ぐらいでは、ェェ消し炭ぐらい……」
「なんだい、消し炭ってえな?」
「へえ、消し炭はすぐつく[#「つく」に傍点]けれどもすぐ消えちゃいますからなあ……ェェせめて五合ンなりますと、炭団《たどん》を二ッつ三ッつあしらう見当ンなります、へえ。一升ンなりますと、備長《びんちよう》ォ積んで……」
「なんだいおい、そんな強請《ゆすり》がましい炬燵があるかい。こうしとくれ、中ァとって五合ごちそうしよう。五合でひとつ暖まっとくれ」
「へえさよですか? えッへッへェへェヘェ、……よろしゅうござんす。今晩のことで、じゃあ、おまけ申しときましょう」
「市《いち》ィ行って買い物をしてるようだな。相談ができた。……燗《かん》がついたか? 早いほうがいい早いほうが……ああ、さあ、米市っつぁん、遠慮なくどんどんやっとくれ」
「おやっ……なんですか? もう支度ができてんですか? あはッそうですか、こりゃあ気がつかなかったなあ。さよですか、へッ、では頂戴いたします。……ああ、こんな大きいもんで? へえへえ、お酌《しやく》ですか? お酌? へえへえ、さよですか、へえへえ、お、おっとォ、おっとォ……おっとォ……」
「お、お、おいどうでもかまわないがねえ。なんだってその湯飲みィ指ィ突っこむんだい?」
「へい、ちょっと量《ど》を測りまして……へえ、ええええ……ェェあァた方は、あがらないんですか? ェェわたくし一人ィ? いやあ、こりゃきまりが悪《わり》いなあどうも……さよですか? えっへっへ、じゃあいすいません、へえ、頂戴いたします。もう、なによりでござんす、へえ……よいご酒でござんすなあ……ええこういうご酒はとてもいただけませんで、へえ……てまいどもォ稼ぎが稼ぎでござんす……へッ? いや、ェェお顧客《とくい》さまがねえ、あたくしが酒が好きってなみんなご存じでねえ、おりおりそ言ってくださるんですよ、えっへっへェ、『米市、おまえなあ、今日は、酒があるから飲んでけ』って『ええ、ありがと存じます、いただきます』っていただきますがねえ、うまくない。へえ……ェェ旦那の飲み余り、お神酒下《みきさ》げ、お燗ざまし……いっひっひっひっひひ、ほんとうのことを言うと、一合でいいから、いい酒がいただきたいって、いえ、これはねえ、ええ、こんなことを申し上げちゃあすいませんが、ほんとうのことを言えば、そうなんです。えっへっへっへっへ、今晩なァ、上等でござんす。へえ、頂戴いたします……へい、ェェ、どんどん注《つ》いじゃってください、へい……最初、火の加減みますから、へい。……へえへえ、だいいち、お燗が上等ですなあ、天晴《あつぱ》れですなあ、どなたがお燗番をなすってらっしゃいますゥ? 松どん? 松どんですか? ああそうですか。あァたいける口だね? えへっ、この燗のぐわいじゃあ、いえほんとうに……えへっ、番頭《ばんと》さんの前ですがね、燗はむずかしゅうごわす。この素人てえとおかしゅうござんすがねえ、この下戸《げこ》の方に、燗をしていただいちゃあ往生ですねえ。煮え燗《がん》にしちゃいます、へえ……人肌《ひとはだ》てえくらいなもんで、へえ。人肌すぎてもいけませんがな。この燗のぐわいじゃあ、ェェ松どん、あァたァいける口だよ……えっへっへっへェ、そうでないよ。いやあ、あんなことを言って、番頭《ばんと》さんがいるもんだから隠してるんだよ。えっへっへっへェ、なに? えっへっへっへェ、いいとこあるねえ。えっへっへっへェ……へえへえ、お菜《かず》ですか? 鯊《はぜ》の佃煮……はあ、そうですか、へえ頂戴いたします。……では、つまんで……うう、うまい……頭のうしろにこの布巾《ふきん》があるんですよ、ねえ、このとおり、えっへっへっへェ、あいすいませんで、へえ、どうも……ありがとござんす。いい酒は冷酒《れいしゆ》に限るなんてえことをうかがっておりますが、あたしに言わせりゃあ嘘ですなあ……へえ、あたくしなんぞは、家《うち》ィ帰って、燗をしていただくなんてわけにいかないン……ェェですからね、お療治の帰りにねえ、酒屋さんの前ィ立ちましてね、ェェ兜《かぶと》てえやつゥやるんで、へえ……枡《ます》の隅からきゅうゥッといきます、へえ。うまくない。やっぱり燗を……へえェそうなんですよ、えっへェ、家内でもおればね、えっへっへっへ、仕事から帰ってくる、まあ、ェェ女房が、すべてをやってくれるんですがねえ。いただく、そんなことが、ェェわれわれの楽しみです、へえ。あたくしも不自由でござんすからねえ。家内をもらおうとおもいましてね、ェェ仲間ィ頼んでござんす、へえ。仲間が親切でねえ、こないだなんざあ、ェェオツなのがあるから見合《みや》いに行かないかってこう言ってくれましたんで、へえ……そいから[#「そいから」に傍点]見合いにまいったんです、へえ。それがねえ、あんまり悪すぎますからねえ、そいから断わって、あたくしは帰ってきちゃったんです」
「ああ、おもしろい話を聞くもんだねえ。おまえさん方ァやっぱり見合いがあんのかい?」
「番頭さん、変なことをおっしゃるねえ。おまえさん方ァ……ああ、盲目《めくら》だから見合いができまいとこうおっしゃる? あっはっはっはっはァッ、あァたねえ、盲目《めくら》をばかになさる。いいえ、ェェ見る目ばかりが目じゃあござんせんよ。心の目てえやつで、心眼てえやつで、へえ。それが証拠にゃあ、目あきの方が棚ァ吊ってごらんなさい。丸い物を載っけりゃあ落っこっちゃいますよ、へえ……そこィいくとねぇ、われわれが吊った棚ってなァ丸い物ァそっとしてるってのァねえ、これァ口幅《くちはば》ったいことを申し上げるようですけど、ほんとうはそうなんです、へえ。こないだねえ、見合いに行った、え? ときの話を、おもしろい話があンですよ、えっへっへ、あたくしどもはねえ……へいへいへいへい、あいすいません、へい……こんな不自由な身体《からだ》でねえ、弱い者をもらったひにゃあ往生で、へえ……身体検査ってものをするんです、へえ、みんなやるんです、へえ。ェェあたくしもやりました、へえ。腰の周囲《まわり》からねえ、肺腸、胃は申すにおよばず、背筋ンとこから、この襟《えり》っ首ンとこィくりゃあもう、梅毒《かさ》っ気があるかないかてえなあすぐわかります。こないだ見合いに行った女ってえなあねえ、番頭さん……額《ひたい》ィこう手がさわった。額からこの顎《あご》ィ漕《こ》いでくる間に鼻がさわらずてんで……どうです情ねえでしょ? この女の鼻ァねえのかと、横のほうからちょいとさわりましたらね、これっぱかり……」
「やな見合いだな」
「あっはっはっはァッ冗談言っちゃいけない。なんぼねえ、不自由な身体《からだ》だって、ひけもの[#「ひけもの」に傍点]をおっつけやがって、ひでえことしやがるとおもってね、そいから、断わってね、帰ってきちゃったんで、へえっ……家内なんぞいらないんですよ、えっへっへェ。なまじ女房もらって苦労するより、へっへェ、あたしの女房は酒だ。えっへっへっへっ、いいえ、ほんとうなんで、あっはっはっ、それについてねえ、まったく……え? へ? なんです? 炬燵《こたつ》ゥ? ああ、炬燵忘れちゃった、きゅーッ……へいッ、いただきました。もう、このくらいにしときましょう。いやあ、あたくしはねえ、いただくとおしゃべりンなってねえ、えっへっへっへェ、みなさんの、お話ィうかがうなんて、一人でしゃべって、申しわけがござんせん。いやあ、いい心持ちンなりました……へ? えっへッ、空《す》き腹炬燵ですからねえ、ええ、すっかりもう、炬燵おこってきましたよ、えっへっへっへ……ええ、へえ、この帯ねえ、これ取っときますが、片づけないでくださいよ。ここへ置いてくださりゃあねえ、もう、どなたも、ついてくださらなくっても、始終うかがってるお宅ですからわかってますから……これ片づけられるとわからなくなっちゃいますから、へえ……え? 番頭さんのお寝間? ええェ心得てます、えへッ。いいんですよゥ、ついてくださらなくてもよろしいんです、へえ……ェェそれでは、どなたも、あたくしは、お先ィご免こうむる……」
「おいおい、おい、その先ィご免こうむらいて、ながなが寝ちゃあ困るんだよ」
「……ながなが寝らんねえんですか? 炬燵の格好《かつこう》ンなんですか? 炬燵の格好なんぞしたことござんせんがなあ……そいじゃひとつ、こんなこってひとつご勘弁願いたいン……」
と、米市は、布団の中にまるく臥《ふ》せる。
「おい、みんな大奥ィご挨拶しましたか? あ、安どん、金どん、あの、右のほうへ当たっとくれ。由《よし》どん彦どん、あの、お尻のほうへ当たっとくれ。左はあたしが一手で借りるから……あの、おい、長吉長吉、おまえも当たらしてやる。おまえは、あのう、炬燵の頭へ当たんなさい。え? 頭ァ当たりにくい? 知恵を出さないか、おまえの股《また》でもって、炬燵の頭を挟《はさ》んで……」
「ちょいちょいちょっと……ちょっと待ってくださいよ。そんなに大勢《おおぜえ》当たるんですか? あっしは番頭《ばんと》さん一人だとおもったんだがな……だいいち汚《きたね》え当たり方があるもんだ。炬燵の頭を股で挟むって言《や》ァがる。ばかなことをしちゃあだめだよそんな……おい、そんなおい、出し抜けに……おっ、痛いッ!」
「おいっ、そんな騒々しい炬燵があるかい……おい奥ィ知れたら、どうするんだい?」
「……ああそうですか……ええすいません、じゃあ大きな声ェ出したなァ悪《わり》いけど、どなたか知れませんが、横っ腹《ぱら》ィどんときましたよ、あなた……壊れもんだよあァたァ……あのうねえ、静かに、入んなら、断わってくださいよ。入りますか? 入る? お、おっと……お、よろしい……わっ、また入ったね……あっと……あ冷《つべ》てえッ……こりゃ冷《つべ》たいねえ、こらァ……こら冷《ひ》えてるねえ、おい、おいおい、おっつけたらおっつけたっきりだよ。なまじ動《いご》かしちゃあだめだよおい……そいじゃあ方々《ほうぼう》じゅう冷《つべ》たくなっちゃうじゃないか……あっ、また入ったなあおい……おいおいだれだいおい、おい炬燵の股ぐらィ足を突っこむのは、だれだいおい? 炬燵だって急所があるよおい……急所ォ避《よ》けておくれよおい……こりゃ危ねえなあこらどうも……お、背中へ足ィ乗っけたねえ……長どんだろ? ちいちゃい足だから長どんだろ? ああいいよ、おまえ当たらしてやる……おまえねえ、家《うち》へちょいちょい使いにくるんだから……静かに当たらなきゃだめ……あ左《ひだり》ィ番頭《ばんと》さんですか? 左、番頭さんでしょ? ああ、そうですか、あ、おっとッ……ううん、なるほどォ、番頭さん冷えてますねえ、ェェ引っこまさなくってようがんすよ、ええ……こうなりゃしょうがねえ、こりゃどうも……こりゃおどろいた。こりゃ請けあったものの、こう夜っぴてこんなことォしちゃあいらんねえや……おいだれだい? くだらない悪戯《いたずら》ァしてんなァおい……だれだい炬燵の尻《けつ》を掻《か》いてんなァ? なにィしてんだなァおい……えッ? 霜焼けで痒《かゆ》い?……おい、爪ェ取ったらどうだ爪を……たいへんな爪ェしてんねえおい……火傷《やけど》させるよ……火傷ができるか? 火が跳《は》ねンなァ引っ掻くんだから……こりゃあ夜っぴてこんなことォしちゃいらんねえやこらあ……こりゃおどろいた。どうです番頭さん、いくらか暖まりましたか? もしいけなかったら趣向を変えようじゃありませんか、ねえ? こう、番頭《ばんと》さん……安どん……金どん……彦どん……松どん……なんだよおい……え? 他人《ひと》の背中へ足ィ乗っけてよく寝られるもんだなあ……ああ、疲れきってるんだねえ、綿のごとくってえやつだあ。またご当家はお忙しいや……こんなお忙しいお店はないよ、朝から晩までだ。商人《あきんど》もこのくらい繁昌したらおもしろいだろうなあ。しかし奉公ってものァ辛《つら》いもんだとめえん[#「めえん」に傍点]なあ。われわれは貧乏したって家《うち》ィ帰《かい》りゃあ一軒の主人《あるじ》だ。炬燵ゥ入れたいとおもえば入れられるよ。奉公じゃあそうはいかないよ、へえ、万々《ばんばん》出世だ。こうやってみんな修業して、みんな立派な旦那さまンなるんだ。他人のめしを食わなくちゃあいけないってよく言うがまったくだねえ……たとえば番頭《ばんと》さんはうまいことォ言ったな、え? あたしが炬燵ゥ入れる、若い者が入れる、小僧が真似して入れる、もしそれから、粗相でもあったひにゃあ、ご主人に対して申しわけがないって、ありゃ偉いねえ……なんでもねえ、上の人からそういう了見でなきゃあだめなんだよ、ね? なんでもてめえだけ……こら臭《くせ》えなこらあ……やったねこりゃあ……こりゃあおどろいた。おい、歯ぎしりィしてるよ、おい……やだなあ……おい……気味《きび》が悪《わり》い。あ、寝言言ってやがら……大きな寝言だなあ」
「合羽《かつぱ》屋の小僧ォッ、おぼいてやァがれッ! よくもさっき、いじめやがったなァ」
「えっへっへ、へっへ、長どんだね。かわいいもんだねえ、子供だねえ、喧嘩してやがら、へっへっ」
「うし、うし、うし……松どォん、もう我慢ができないからねえ、この溝《どぶ》ィやっちまうよッ……立って見ててくんなァ」
「?……おい変な寝言ォ言ったねェ、おい……溝《どぶ》ィやっちまうってなにィやるんだ?……ああああ、冷《つべ》てえ冷《つべ》てえ……」
と、布団を跳《は》ねのけて、飛び起きた。
「いいかげんにしてくださいッ、あァたァ方ひどいねえ、え? さんざ炬燵にして寝小便引っかけりゃあどこがおもしろい……」
「しいっしいっ、静かに……静かにしないか、おい、奥ィ知れたら……静かにしなよ。……長吉ここへ来なさい。え? まあ米市っつぁん待っとくれてン。え? おまえたちが寒いのなんのって言うから、いやがる米市っつぁんに炬燵ンなってもらった。暖《あつた》まればって、寝小便するやつがありますかッ。おまえ、あっちィ行って一人で寝なさい……米市っつぁん、堪忍しとくれ。おまえのおかげで暖まって、やれやれうれしやとおもったら小僧のおかげでまた冷《つべ》たくなっちまった。いまねえ、布団をすっかり取り替える、も一ぺん炬燵ンなっとくれ」
「いええェ、炬燵ァだめでござんす。へっへっ、小僧さんがこのとおり、火を消してしまいました」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 商店《たな》の奉公の厳しさの具体例として、小僧、丁稚に焦点をあわせた冬の噺の一題。窮余の一策、番頭の考案《アイデア》による「あんまの炬燵」、安全炬燵にはちがいないが、火種(?)を起こす米市の一人称のしゃべりの間、じっと待っている奉公人たちの固くなった表情が浮かんでくる。米市も酒飲みたさに一夜の温《ぬく》みを買ってでる(そうでない演出法もある)。善意の想いで見つめざるを得ない、哀れでうつくしい光景だ。小僧の足に霜焼けができている、これは栄養にも関係があるらしい。寝言のなかで小便をかけられる米市も哀れだが、山本有三の作品に同じ盲人のあんまを描いた小説がある、その題名は奇しくも「無事の人」である。「麻のれん」「藪入り」[#「「麻のれん」「藪入り」」はゴシック体]参照。三代目柳家小さんが大阪の桂文吾の「按摩炬燵」を東京に移し、現型を八代目桂文楽が伝えたものである。
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大仏餅《だいぶつもち》
三遊亭円朝作の三題|噺《ばなし》で、題は「大仏餅」「袴着《はかまぎ》の祝い」「新米《しんまい》の盲乞食《めくらこじき》」の三題――。
大きいものの名物の一つに、奈良の大仏がある。その昔、大仏の目が片方とれたことがある、そのときの話――。
あるとき、大仏の目が、大きな音をさせて、ガラン、ガラガラガラン……と、腹の中へ落っこちて、片方だけ空洞になってしまった。これには土地の人も心配して、なんとか修繕をしなくてはと……大勢が寄って相談をしていると、そこへ一人の男がやってきて、
「あたくしがやりましょう」
「あなたが? ふゥ、やってくださるのはありがたいがねえ、なにしろ……あんな高いところへ足場をかけるったって、たいへんなんだ」
「いいえ、足場なんぞいりません。大仏さまに這《は》い上がっていきまして、あの目玉のがらんどの所《とつ》から中へ入って、お腹の中へ落っこっているのを張りつけりゃあいいんですから……造作もない事《こつ》です」
と、この大仏へ攀《よ》じ登っていって、空洞のところから中へ入って、腹の中に落ちている目の玉を拾って張りつけた――これで大仏はもとどおり、両眼明らかになった。
「へーえ……世の中にはえらいやつがいるもんだねえ……一人で直しちゃったよ」
「え? あッ……あれ、あの人は、入ったところを塞《ふさ》いじまったねえ。どこから出て来るんだろうねえ、大仏の腹ン中に生涯いるつもりかね?」
大勢が心配していると、男は、やがて鼻の穴からすーっと出てきた。
利口な人は目から鼻へ抜ける――。
奈良の大仏の傍《かたわ》らに鐘撞堂《かねつきどう》があって、そこで「大仏餅」というのを売っている。あまりうまくはないが、名物には変わりはない。昔、この「大仏餅」が江戸へ出て来て、浅草の並木の付近に店を出して、観音さまへ参詣《さんけい》の方が帰りに土産《みやげ》に買っていく……たいへん繁昌した時代もある。
「旦那、雪が降ってまいりました」
「そうかい、いやに冷えるとおもったがなあ、とうとう降ってきたか。じゃあ今夜は積もるな、こら……おい、徳次郎、表にだれかいるようだぜ」
「……お願いでございます。おとっつぁんが怪我をいたしまして、血止めにいたします、煙草の粉《こな》を少々いただかしてくださいまし」
「お乞食《こも》さんのようだね。どうしたい?」
「……はい、あたくしは新米の盲乞食[#「新米の盲乞食」に傍点]でございまして、土地の様子がわかりませんもんでございますから、この山下《やました》でいただいておりますと大勢の乞食に取り巻かれまして『ここはおれたちの縄張りの内だ、渡しもつけねえで、なんでもらって歩く、ふてえ野郎だ』……寄ってたかって殴られまして、息子《これ》に怪我があってはたいへんと、息子を庇《かば》っておりますと、うしろからどんと突かれまして、膝を擦《す》り剥きましてございます。お情けでございます、煙草の粉《こな》を少々いただかしてくださいまし」
「そうかいそらあ、かわいそうに……ああそりゃあねえ、おまえ煙草の粉じゃあだめだよ。たいへん血が出て……おいおい、その、用箪笥《ようだんす》の小さいほうの抽出《ひきだ》しに、傷薬《きずぐすり》があったろ? ああァそれそれ、こっちへおくれ……こっちへ足をお出しよ。この薬は、やたらのとこに売ってない薬だ、鎧《よろい》の袖《そで》≠ニ言ってね。もっとこっちへ足を出してごらん。そのかわりしみる[#「しみる」に傍点]よ、いいかい? そら……どうだ? しみるだろう?……おい、古|手拭《てぬぐい》一本やっとくれ、うん……切らなくてもいいよ。それェ巻いてね……ああ、どうだい、しみるだろう?」
「……旦那さまァ、結構なお薬でございます。痛みがばったりと止まりました」
「ああそりゃよかったね。この子はなにかい、おまえの子かい」
「はい、倅《せがれ》でございます」
「いくつになるね?」
「六つでございます」
「そうかい、たいへんなちがいだ。うちの子供の今日は袴着の祝い[#「袴着の祝い」に傍点]で、お客さまを招待して八百善の料理を取り寄せて、いま食べて帰ってもらったところだ。あれがまずいのこれが気に入らないのと贅沢《ぜいたく》なことばかり言って、ああたいへんなちがいだねえ、あの……料理の残ったもんがあったろ? ああそれやっとくれ……ああなんか容物《いれもの》がなくちゃあいけないなあ。面桶《めんつう》かなんかァ持ってるかい?」
「ありがとう存じます。結構なお薬を頂戴したそのうえに、お料理のお余りを頂戴する、ありがたいことでございます。それでは、お言葉に甘えまして、へへえ、これへ、頂戴をいたします……」
「そうかい、これへ……こりゃあたいへんだ。こりゃあ、たしか朝鮮|鈔羅《さはり》の水こぼし……おまえさんはなにかい、この水こぼしを、面桶の代わりに使ってなさるのか?」
「なにもかも売りつくしまして、それはわたしの秘蔵の品でございます。手放すことができませんもんで、ただいまもって、面桶の代わりに使っております」
「はあはあ、恐れ入ったねえ、おまえさんはお茶人だね? いやあ、こりゃあおどろいた。あのねえ、お膳を二つこさえとくれ、ああ。おまえさんが、この朝鮮|鈔羅《さはり》の水こぼしを、面桶の代わりに使っている、恐れ入った。ご飯をあげたいから……」
「あ、あ、あッ、旦那さまァ、あたくしはかように、汚《きたの》うございますから……」
「えへッ、そんなことを心配しなくったっていいんだよ。あッはっはっはァ。そこをぴったりと閉めてねえ、雪が吹っこむから……ああ、足が汚れてるなあ。……おい、徳次郎、この人の足ィ洗ってやんなさい……なぜおまえはそういうことを言うんだ、え? いまこそァお乞食《こも》をしてても、もとは相当な方だ。なぜ人をそう見くびりなさる。おまえなんざあそんな了見だからだめだ……あの、洗ったかい? ああ、お膳は、そこに二つ並べてある。残り物だけど、八百善の料理だ、たくさんお食べよ」
「ありがとう存じます。それでは、お言葉にしたがいまして、頂戴いたすことにいたします。これ、幸之助、おまえなんぞは、八百善の料理は、食べはじめの食べじまいだぞ。だいいちお膳で頂戴するなんてもったいない。よく、お礼を、申し上げていただきなさい」
「旦那さま、おありがとうォございまァーす」
「たくさんお食べよ。えっへっへっへェ、見るからに以前おまえさんも相当の方のようにおもうけども、時節が変わったんでお気の毒だあ」
「はい、昔はわたくしも、お客さまを招待いたしまして、八百善の仕出しを取り寄せて、食べていただいたこともございました。料理がまずいの、お汁《つゆ》が甘いの辛いのと、贅沢を申したために、かような俄《にわか》盲目《めくら》になりました。ただ、かわいそうなのがこの子でございまして、雪の降るのに素足《はだし》で歩いて、親の面倒をよくみてくれます。まことに恥ずかしいしだいでございます」
「いえあたしの言うのはねえ、おまえさんが、この、お乞食《こも》をしてても、朝鮮鈔羅の水こぼしを、手放さないってそこがあたしおもしろいとおもってんだ」
「はい。さる方が、値をよく買うから、手放したらよかろうと、こう言ってくれましたが、えっへっへェ、なんの因果でございますか、あたくしが、どうしてもこれを自分からはなすことができませんもんで、まことに、お笑い草でございます」
「おまえさんは真《しん》のお茶人だ。お流儀は?」
「千家《せんけ》でございます」
「どなたの門人だ?」
「川上|宗治《そうじ》のお弟子でございます」
「あなたのお名前は?」
「……あ、あたくしの名前は、申しあげたくないのでございますが、かずかずのご親切……なにをお隠し申しましょう、あたくしは、芝片門前《しばかたもんぜん》に住《す》まいおりました、神谷《かみや》幸右衛門でございます」
「……え? 神谷幸右衛門とおっしゃると、あのお上《かみ》のご用達をなすってた、あの神幸……へええ……や、こりゃあおどろいた、こりゃ意外だねえどうも。いやあわからんもんで、いやあ、それなれば、お話をしますがねえ、こういうことがありました。久しい前の話だけど、なんかお宅のおめでたいことがあった。あたしも近江屋もご招待を受けた。あたしはのっぴき[#「のっぴき」に傍点]ならない用事があって行くことができなかったが、はあ人間なんてものはわからんもんだ。おみな[#「おみな」に傍点]ァ、聞いたか?」
「うかがいましてございます。まことにおいとしいことでございます。よく道具屋の原久《はらきゆう》がまいりまして、お宅の、お庭のご様子がこうの、お茶席の具合いがこうのと、よく話をしてくれました。まことに、お気の毒さまでございます」
「……そう、おっしゃいます、あのこちらさまは?」
「あたしは御徒町《おかちまち》におりました、河内屋金兵衛ですよ」
「はあ、はあァ、さようでございますか。なればこそ、この水こぼしがお目に止まりました。……ありがたいことでございます」
「いやッ、こりゃあ奇遇だね。こうしよう、あの、神幸さんに、あの、お薄《うす》を一服あげたいねえ、うん。あの、その鉄瓶点《てつびんだ》てでいい……ああその、棗《なつめ》でいいでしょ。あの……お薄を一服あげたいから……」
「さようでございますか? あたくしはもう、生涯お薄なぞは、いただけないものと、おもっておりました。旦那さまの、お点前《てまえ》を頂戴する、もうこの世に心残りはございません」
「いや、そうおっしゃられるとまことに困る……なんかあのお菓子があったろ? え? みんな、お客さまに出してしまった、ああそうか、そりゃまずい、ま……ああ、大仏餅[#「大仏餅」に傍点]があったろう? ああそう、それそれ、ああこっちへおくれ。さ、この大仏餅を食べてくださいよ。子供にやってくださいよ」
「ありがとう存じます。それでは頂戴をいたします。これ幸之助、いただきなさい。おとっつぁんに手に一つのせておくれ、はい……旦那さまァ、この大仏餅というお菓子は、雅《が》がございまして、お茶うけには結構なお菓子でございます。では、頂戴をいたします……ううッ、うッ……うッ……」
呑《の》みこもうとして咽喉《のど》につかえ、目を白黒させる。
「お、お、どうなすった? え? 咽喉へつかえた? あ、そ、泣きながら食べるから……おッおッ、神幸さん、しっかりなさいッ」
ぽォーンと背中を叩く……。
「うッ……(鼻声で)ありがとふゥございまァし……た。胸のつかえはホれまヒてございまフ……」
「あれッ、あなた、目があいたね?」
「はあ、目があきましたが、鼻がこんなになりました」
「はあ、食べたのが大仏餅、目から鼻へ抜けた」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 出題された三題を即席に織り込んでサゲをつける――のが三題噺である。三遊亭円朝作らしく上品な風雅趣味が織り込まれ、人物にもしっかりした肉付けがされ、雪もよいの夕暮れどき、八百善の料理、朝鮮|鈔羅《さはり》の水こぼし……等、背景、小道具に至るまで粋に精通した配慮がなされている。同じ三題噺で、三遊亭円朝作の人情噺「鰍沢《かじかざわ》」[#「「鰍沢《かじかざわ》」」はゴシック体]は有名である。
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文七元結《ぶんしちもつとい》
本所の達磨《だるま》横町に、左官の長兵衛という、腕のいい親方――。ふとしたことから博奕《ばくち》に凝《こ》って、これが負《お》い目になっていまでは抜き差しできないほど、深間にはまってしまった。そこへ、一人娘のお久《ひさ》が、昨夜から姿を消してしまった。どうしたんだろうと、夫婦で途方に暮れていると、
「ご免くださいまし、ご免くださいまし」
「だれか来たよ……えへえ、おまえさん、どなただい?」
「どうもお久しぶりでございまして、あたくしは、佐野槌《さのづち》の藤助でございます」
「藤どんだァ、おもいだしたよ。お見それ申したねえ、どうも、わずかなうちに年齢《とし》をとったねえ」
「へえ、また店へ戻《もど》ってまいりましたんで、よろしく……。あのう、さっそくでございますが、女将《おかみ》さんのお使いでまいりましたんですが、ェェ親方がおいでンなりましたらば、すぐさまご同道願いたい、とこういうお伝言《ことづけ》でございますので、どうぞ、わたくしとごいっしょに店までお出ましを願いたいもんでございやすが……」
「女将《おかみ》さんが用があるてえのは、いずれ仕事の事《こつ》てやしょうがね。仕事ならちょいと待ってもらえませんかね。じつはね、家に取りこみができちゃってねえ、昨夜《ゆんべ》から十七ンなるあまっちょですが、娘がいなくなって、かかあの言うにゃ、ことによったら淵川《ふちかわ》へ身を投げていやあしねえかって、縁起でもねえことを言ってやがんで、あっしもどうもうっちゃっとくわけにもいかねえから、これから川通りでも捜すか、高尾山の呼ばわり山[#「呼ばわり山」に傍点]でも行って、ひとつ捜してこようとおもってね。そのほうのかた[#「かた」に傍点]がつきましたら、さっそく、お店《たな》へうかがいますんで、女将さんによろしくおっしゃってくださいまし」
「ェェー、つかぬことをうかがいますが、こちらの娘御《むすめご》さんのお名前は、お久さんとおっしゃいましたな」
「ええ」
「なら、ご安心くださいまし、へえ。娘さんは昨夜《ゆんべ》っからお店《みせ》へ来ていらっしゃいます」
「えっ!? お宅《たく》ィ、そうですかい。……お、おいおい、佐野槌《さのづち》さんへ行ってるとよ、お久は……」
「そりゃよかったねえ。まあ、よく知らせてくださいました。ありがとうございます。どんなにか心配したかわかりゃしませんよ……さあ、おまえさん、すぐにこれから行っといでよ、ね。あの、お供して、すぐに、佐野槌さん」
「うるせえなあ、いろいろこっちに都合があるんだよゥ。……あのね、藤どん、ひと足先へ店へ帰ってください。あっしはすぐ支度をしてね、うかがいますんで、女将さんによろしくおっしゃってください」
「さようでござんすか、じゃ、お待ち申しておりますから、お早くどうぞ……」
「へい、ご苦労さま。……おめえのようにそうせっついたってしょうがねえ。おれの着ているものを見ねえ。おれァ、おめえ、法被《はつぴ》一枚じゃあねえか」
「法被一枚だっていいじゃないか」
「よかあねえや。鳶《とんび》細川の部屋|博奕《ばくち》で、スッテンテンに取られたやつァ、寒さ凌《しの》ぎにこれを着て帰《けえ》ってくる。いいか、こんなものを着て歩いてたひにゃあ、あの野郎は博奕にふんだくられて一文なしだってえのを、ひろめに歩いているようなもんだ。こんなものを着ちゃあ、お店《たな》にも行けねえよゥ」
「だってほかに着るものはないよ」
「おめえの着物を着ようじゃねえか」
「いけないよ。これをおまえさんが着て行ったひにゃあ、あたしァおまえ、困るじゃないか。ねえ、半襦袢《はんじゆばん》に腰巻だよ」
「いいじゃあねえか、この法被をおめえに着せるから」
「だって困るよゥ。お手水《ちようず》に行くこともできないやァね」
「いいやな、表へ出なくたって。畳《たたみ》上げて、根太板《ねだいた》ァひっぺがしとくからな、そこへしょご[#「しょご」に傍点]っちまいな。内《うち》から心張りを支《か》ってな、だれか来やがったら、留守だって、そう言うんだ」
「だっておまえ、おかしいじゃあないか」
「それでも開《あ》けて入《へえ》ってくるようなやつは、かまうこたあねえから、向こう脛《ずね》でもなんでも食《く》らいついちめえ、いいか。さあさあ、そんなことを言ってるうちに刻限《こくげん》が経《た》つ。その着物を貸しねえッ」
と嫌がるおかみさんの着物を無理やり着こみ、猫の腸《ひやくひろ》のような三尺を締め、丈《たけ》が長いから、尻《しり》をはしょって、汚い手拭《てぬぐい》で頬被《ほおかぶ》り。
吉原の大門《おおもん》をくぐって、佐野槌の前へ来てみると、もう仲之町の引手茶屋《ひきてぢやや》は、両側ずうーッと行燈《あんどん》に灯がはいって、二階ではもう気の早い客が芸者、幇間《たいこもち》をあげて、ちりからたっぽゥ[#「ちりからたっぽゥ」に傍点]の大陽気《おおようき》……。
「へえー、世の中はいろいろだなあ。ええ? 吉原へ来やがって、ほんとうに、湯水のように金銀を遣《つか》おうってえやつもあるし、一文なしでこうやってかかあの着物を着ているやつもあるし、愚痴を言ったってしょうがねえが。こりゃ刻限がよくねえ。引け過ぎまでここに立ってるかあ、弱ったねえ」
さすがに表口からは入れない。裏口へまわって女将の部屋へ、
「ごめんくださいまし、ェェー、長兵衛でございますが……」
「さあさあ、遠慮はいりませんよ。こっちへ入っとくれ」
「へえ、どうも……まことにごぶさたしておりましてね、ええ? こう……ごぶさたしちまうッてえと、敷居《しきい》が鴨居《かもい》になっちまいやがって……、へえ、入《へえ》りにくいわけなんでござんす。どうも申しわけのねえこってございまして、また、ただいま、お使いをありがとうございまして、へえ。あの……ゥ、……あッ、お久ッ、おまえ、そこになんだって……。女将さん、ごめんくださいましよ。……おい、ここはねえ、親父《おやじ》の大事なお店《たな》だよ。その旦那場《だんなば》へ来て、そのおまえ、女将さんよりか上座へ座って、おめえ、めそめそ泣いてちゃいけないよ。……ご当家は、盛り塩をして、切り火を打ってご商売をなさるという、縁起|稼業《かぎよう》。そこへ来て、宵のうちからおめえ、めそめそ泣いてちゃいけねえやな、ほんとうに。また、酷《しど》い身装《なり》をして来たねえ。その、おめえの着ているものは、おめえ、……あれじゃねえか。こちらへ来るなら来るように、おふくろに話をして、箪笥《たんす》の抽出しにゃあお召《めし》、縮緬《ちりめん》の着物でもなんでもあるんだから、あれを引っ掛けて来たら、よかりそうなもんじゃねえか。なんだってそんなものを着て来たんだよう。まあ色気のねえッてえのは、しょうがねえもんでねえ。女将さんの前ですが、どうも……ええ、ま、からもう、ねんね[#「ねんね」に傍点]でござんすからねえ」
「この娘《こ》に叱言《こごと》を言わないで、おまえさんが、その箪笥の抽出しから、なにか着てきたらどうなんだ。そりゃあ、おかみさんの着物だねえ、袖《そで》が長い」
「へっ、へえ。こりゃ、まあ、ねえ。……あっしァ、お馴染《なじみ》でござんす」
「いくら馴染だって、困らァね、そんな身装《なり》をして来る人がありますかい、ねえ。この娘《こ》から何もかにも聞きましたよ。じつは昨夜《ゆんべ》ね、大引け近くンなって、この娘《こ》があたしの店《うち》へ来て、会いたい。へーえ、若い娘《むすめ》さんが、こんな場所へ来て会いたがるってえのはおかしいが――って、会ってみたらねえ、おまえさんの娘だってさあ。名乗られるまでは気がつかなかったねえ、大音寺前《だいおんじまえ》の寮の仕事のときに、おかみさんといっしょになにか持っちゃあ来なすったが、なにしろ、あのときは小さかったからね。こんないい娘になろうとはおもわないから、すっかりあたしゃあお見それしてしまったんだね。それから、ま、話を聞いてみると、――親父《おやじ》がこのごろでは仕事をしませんで、博奕にばかり精を出しまして、家のものは、屋財家財《やざいかざい》持ち出して、なにひとつございません。わたくしのような不器量な女《もの》でも、こちらさまでもってお抱《かか》ィくださいまして、その身代金とやらは、親父《おやじ》を呼んで、女将さんから、よォくご意見をしてくだされば、堅くもなりましょうから、お願い申します――と、この娘が言うじゃあないか。あたしゃまあ、ともに涙にくれてしまったよ。……なんだって、おまえ。あんないい腕ェ持っていて、そう博奕にばっかり凝っちまったんだね。仕事なんぞしないってねえ。困ったもんだねえ、長兵衛さん。おまえさんは、ね、仕事にかけては名人だよ。竜泉寺前《りゆうせんじまえ》のあの寮の土蔵なんぞは、職人が褒《ほ》めて通るね。――この土蔵《くら》だ、見ねえ、長兵衛が手をかけたのは……。長兵衛の仕事だから、この土蔵《くら》には目塗《めぬ》りがいらないよ――と言っちゃあ、職人衆が通りなさる。いずれご同業だろうがね。あたしゃ、そのたびに鼻が高いじゃないか。なんだってあんないい腕を持っていて、おまえ、博奕になんぞ凝ってしまうんだね、長兵衛さん」
「そんなことを、女将さんのお耳に入れましたかい。しょうがねえもんですねえ。あまっちょ[#「あまっちょ」に傍点]ってえのは、おしゃべりだ」
「なにを言ってるんだね。それどころじゃないよ。あたしも相談に乗ろォじゃないか。ね、いくらあったら、もとの堅気《かたぎ》の職人になれるんだい?」
「へえ、そうおっしゃられるってえと、面目しだいもございません。あっしゃあねえ、根っからの博奕打ちじゃあねえんでござんす。鳶《とんび》細川の屋敷へ仕事に行ってますってえと、煙草《たばこ》休みに役当ての部屋をちょいとのぞくってえと、――おう親方、いいところへ来てくれた、今日は少うし駒《こま》が足りねえから、遊《あす》んでってくれ――持っている金、二両ばかりですが、それをすっかり取られてしまいまして、こうなるってえと、くやしい、取り返《けえ》してやろうって、あっしも男ですから意地がござんす。家《うち》のものは屋財家財持ち出して、命から二番目の鏝《こて》まで質に入れて注《つ》ぎこみました。まあ、いっぺん目と出たらば、足を洗って、女房娘《にようぼこ》に新しいもんの一枚も着せてやろうと、こうおもったんでございますが、どうもうまくいきませんで、今日《こんにち》までとうとう、ま、のびのびになっちまったわけなんでござんすが、ここで女将さんが、こんなおかめ[#「おかめ」に傍点]ですが、これをまあ、お抱《かか》ィくださいますれば、あたしァまたもとの堅気の職人になれますんで……」
「そう、話は早いほうがいい。いったい、いくらありゃあ、いいの?」
「そうですねえ……。義理の悪《わり》ィ借財があって、それから、鏝《こて》に鏝板《こていた》、質受けをして、それから職人の手間代、食い繋《つな》ぎ、なにやかやでもって、五十両あれば、あっしゃあもとの職人になれます」
「五十両。ああ、よォござんす。お貸し申しましょ」
「へえ、……女将さん、お貸しくださいますか」
「ああ、貸しましょ。……ああ、米《よね》や、用《よう》箪笥のね、深い抽出しに財布があるでしょ? あれ、持って来ておくれ。いやいや……あの……ああ、そのままでいい。……ああ、ご苦労さまね。このなかにはねえ、窄《つぼ》めて五十両入っている。じゃおまえ、勘定して持ってっておくれ」
「いいえ、勘定なんぞ、どうでもよろしゅうござんす」
「この財布は、旦那さまが生きている時分、好んで着ていらした羽織のきれっぱしでこしらえたものだよ。おまえさんも見覚えがあるでしょ、ね? この財布を見るたんびに旦那に意見をされているんだとおもって、仕事に精出して、励んでくださいよ。いいかね、で、いつ返《かい》しに来るね?」
「さいでござんすねえ……。今年ももうわずかでございますから、来年、目一杯稼いで、大晦日《おおみそか》までにゃあ、必ずお返しにあがります」
「来年の大晦日。ああ、ようござんす。それまでは、こうしましょ。この娘《こ》は、家《うち》の娘分《むすめぶん》でもって、預かっておこう。家《うち》にはお針《はり》さんもいるし、花を活《い》ける妓《こ》もいれば、茶を立てる妓《こ》もいるから、それに手習いの師匠も出入りするから、まあ女ひととおりのことは仕込んで、あたしの娘分でちゃあんと預かっとく、ね。しかし、それをおまえさんがいいことにして、いつ返してもいいんだという油断があっちゃあならないよ。来年の大晦日には必ず返してくださいよ。さもないと、あたしは鬼になりますよ、長兵衛さん。あたしの家じゃ商売だから、この娘《こ》をお女郎《じよろう》にしてしまいますよ。こんな気立てのやさしい娘《こ》だから……、それがために悪い病《やまい》を引きうけないものでもないし、お客さまにせがまれて指を切るようなことをしても、あたしを恨《うら》んでくれちゃ困りますよ。この娘《こ》がかわいそうだとおもったら、どうか来年の大晦日までに、そのお金、持って来ておくれ。利分なんぞ持って返しに来ると、あたしゃ腹を立てますよ。元金だけで結構、わかったね。じゃ、そう話がわかったら、この娘《こ》に礼を言って、さ、持っておいで」
「なんですって?」
「この娘《こ》に礼を言って持ってらっしゃいよ」
「この娘《こ》にって……こりゃあ、あっしの、あっしの餓鬼《がき》です」
「こんなに立派になった娘《むすめ》を、餓鬼だなんて、この娘《こ》がいればこそ、おまえ、五十両という才覚ができたんだよ。この娘《こ》に礼を言うのがいやなら、あたしゃ貸しませんよ」
「ちょっと待ってくださいよ、女将《おかみ》さんも気が早くていらっしゃる。礼を言やあいいんでしょ。ええ、言いますよ。……おう、お久、おめえのおかげでもって、女将さんから五十両という大金を拝借ができた、なあ、ありがてえや、礼を言うよ。……ばかばかしい」
「なんだい、ばかばかしいってえのは……そんな礼の言い方がありますかね」
「おとっつぁん。そのお金を持って帰って、また博奕なんぞしないようにしてください。ねえ、博奕で取られて家《うち》ィ帰ってきて、おっかさんをぶったりなんかして、おっかさんが癪《しやく》でも起こすようなことがあると、あたしがそばにいないから、看病の仕手がない。おとっつぁん、わかった。……わかった、ね。……ね。……ね」
「あいよ、あいよ。わかったよ。……変なことを言ってやんな、別れぎわに。うゥッ(と、こみあげてきて)……女将さん、気だてのやさしい娘《こ》でしてね。おふくろの身を心配して、泣いております。へへ……泣いておりやす、ええ、ええ……へえ、へえ……」
「おまえさんも泣いてるねえ」
「いいえ、あっしゃ目から水が出るんでござんす。……じゃあいいか。人さまに憎まれねえようにな。ええ、あんまり気がねして、食うものを食わねえようじゃ瘠《や》せちまうから、……いいな、わかったな。辛抱してくれ、来年の大晦日までにゃあどうしたって、おいら金を持って迎《むけ》えに来る。じゃ、頼むよ。え、おまえが大事にしているみィ[#「みィ」に傍点]ちゃんとこィいってる香箱《こうばこ》なんぞ届けてやろう」
「いいよ。そういうものはね、欲しけりゃあ家《うち》で買いますしね。たってこの娘が、それでなくちゃあいけないと言えば、使いの者に取りにやるからね。……じゃ、おかみさんによろしくね」
「へえッ、ありがとうございました」
闇の夜は吉原ばかり月夜かな
五十両の金を懐中《ふところ》へ佐野槌《さのづち》を出て、大門をそこそこに、見返り柳あとにして、土堤《どて》の道哲、待乳山《まつちやま》、聖天町《しようでんちよう》、山《やま》の宿《しゆく》、花川戸を過ぎ、吾妻橋……。
「おいッ、待ちねえッ」
「へえッ、……あたくしァ生きていられないことがございまして、これから身を投げます。どうぞはなしてくださいまし」
「いや、はなさねえ」
「いや、助けるとおもって殺してくださいましッ」
「そうはいかねえ。助けたり殺したりはできねえから、その助けるほうへいこうじゃねえかッ。おいッ、その欄干《らんかん》につかまっている手をはなせよ。手をはなせッ、はなさねえかッ(と、突き飛ばす)、この野郎めッ」
「ああ、痛ッ……あなた、こんなところィ人を叩きつけて、怪我《けが》ァしたらどうします」
「なァにを言いやがる。てめえ、いま、ここから身を投げて死んじまうって、言ってやがったじゃねえか。怪我ぐれえ愚かなこったァ。おめえは、お店《たな》者だな? 縞《しま》の着物に角帯を締めて、前垂れ掛けでもって、腰ィ矢立てェ差してやがるなあ、おう。おう、若《わけ》えの、この曇っている空にあそこだけはぽーッと映るのは、ありゃあ吉原の灯《あかり》だ。あれにゃ憶《おぼ》えがあるだろう? どうでえ、てめえは女郎買いの遣《つか》いこみだなあ、そうだろう。帳尻が合わなくなった、面目《めんぼく》ねえ、生きちゃあいられねえてんで、申しわけのためにドカンボコンだあ、なあ、たいてい相場は決まってら、そうだろ?」
「いえッ、あたくしは、吉原……なんぞへまいりますような道楽者じゃございません」
「そうかい、そいつは悪かったな。おめえはどこの者《もん》だ?」
「へっ、わたくしは横山町《よこやまちよう》二丁目の近江屋卯兵衛《おうみやうへえ》と申しまする鼈甲問屋《べつこうどんや》の手代《てだい》で文七《ぶんしち》と申します」
「うん」
「小梅《こンめ》の水戸さまがお出入り先でございまして、今日お屋敷へお掛け金を頂戴にまいりまして、五十両、たしかに懐中《ふところ》に入れて、あのう、枕橋《まくらばし》の上までまいりますと、風《ふう》の悪い方がトーンと、わたくしに突き当たりました。ああ、ああいう方が他人《ひと》の懐中《ふところ》を狙う方だと、手をやったときにはもう遅うございました。うゥッ、五十両盗られてしまいました」
「なんだッ、五十両盗られた? 待ってくれ、待ってくれッ。……お、おれは持ってるよ。おれは持ってるが、五十両ったら、大金だぜ。それを手ぶらで歩いているから、いけねえんだ。なあ、財布の上からしっかり握っていなくちゃいけねえ。けどォ他人《ひと》事じゃねえなあ、とんだ災難だなあ。……けどよ、死ぬのはつまらねえ、なあ。おめえの家《うち》は鼈甲問屋だってなあ。鼈甲問屋なら左官たァちがうから、五十両ねえからといって身代が左前《ひだりめえ》になる気づけえはねえだろう? なあどうでえ? おい、おめえより上手《うわて》な番頭さんがいるだろう? よォくその番頭さんにわけを話して、主人に詫《わ》びをしてもらいなよ、いいか。人間に災難ってえのはあるこったから、盗られたものはしかたがねえ、なあ、わかったかい。死ぬなんて了見を起こしちゃいけねえぜ、わかったな。ちょっとおれは急ぐからな(と、行きかけて)……お、おッ、ちょっと待てよ、待てッ、……てめえは死ぬつもりか、おい。おれの言うことがてめえにはわからねえかよゥ」
「へっ、おっしゃることはよくわかりますが、あたくしも、九《ここの》つや十《とお》の子供じゃあございません。ながらくご恩を受けましたご主人さまのお金を、五十|金《きん》、盗られたと言って、このまま、とても店《みせ》へは帰れません」
「しょうがねえなあ、おめえのようにそう一途《いちず》じゃなあ。……じゃあ、こうしたらどうでえ、おめえは若《わけ》え衆《し》だろう? 若え衆なら、給金がもらえるだろう? もらう、なあ。よしッ、なら、どっかから融通して来てな、これはお屋敷のお金でございますよ、主人《あるじ》の前をつくろっておいて、月々もらうおめえの給金のうちから、そのほうへ返《けえ》していきゃあいいじゃねえか、そうだろう? わかったかい、わかったか」
「へえ」
「おまえにも親ァあるだろう? なあ、子供ってえもんは、かわいいもんだよ。わかったねえ、わかりゃいいんだよ。……お、おッ、待ちねえ、てめえはいま、こっくり[#「こっくり」に傍点]をしてやがったから、おれの言うことを聞いていたんだろッ。それを、おれがひと足も歩かねえうちに欄干のほうへいざり寄って、てめえはまだおれの言ったことがわからねえのかよう」
「へっ、おっしゃることはよくわかりましてございますが、お店者|風情《ふぜい》のわたくしに、四十の五十のという大金は、とうてい工面ができません」
「えらいッ、おめえは正直|者《もん》だなあ。……五十両は大金だ、無理はねえぜ。……じつは、おれはいま、五十両のために親子生き別れをしてきた。……よしッ、おれはてめえの正直なところへ惚《ほ》れこんだから、おれの持っている金、おめえにやっ……、ね…、ね…、五十両ときちんと揃ってなくったって、いいんじゃねえか。どうでえ、二十五両ッ、半分ン、え? だめかい。三十両……いけねえか? 四十《しじゆう》両ッ……どうしても五十両なくちゃいけねえのかッ……はァーッ(と、ため息)、えッ、どうせ、おれにゃ授からねえ金だ……さッ、おう、この財布の中に五十両|入《へ》ってる、おめえにやるから持ってって生命《いのち》を助かんねえ」
「へえ、見ず知らずのあァたさまから、五十金という大金をいただくわけがございません」
「おうッ、おおおっ……おれだってやりたかねえ、やりたかねえよ。いいか、てめえのを盗ったんじゃねえ。財布《せえふ》を見ろ、財布を……、財布の縞《しま》がちがってるだろ? おれはこんな女の身装《なり》をしているから、てめえは怪しい野郎だとおもうだろうが、これでもおれは、堅気《かたぎ》の職人だ。商売《しようべえ》は左官だがなあ、つまらねえことで博奕《ばくち》に凝っちゃって、にっちもさっちもいかねえ、首のまわらねえほど借財《しやくぜえ》ができちゃった。一人娘のお久ってえのが、吉原の佐野槌という旦那場へ駆けこんでこせえてくれた、この五十両だ。女将《おかみ》さんとの約束でね、来年の大晦日までに持ってって返さねえと、娘は女郎になっちまう……。おれァいま、おまえにここで五十両やっちまって、来年いっぱいどう稼いだって、職人の痩《や》せ腕じゃ五十両は揉《も》み出せねえ。おれはもう、返さねえときめちゃったがね。こうしてくんねえか、おめえもこの金でもって生命《いのち》が助かった、ありがてえ、とおもったら、お店者だァ、たいしたことはできめえが、店《みせ》の隅へ棚ァ吊ってね……不動さまでも金比羅さまでもいいから、おめえの信心する神仏を拝んでやってくんねえ。な、吉原の佐野槌に勤め奉公をしておりまする、お久という女でございますが、どうぞ悪い病を引きうけませんように、商売繁昌いたしますように……、おまえ、拝んでやってくれ、なあ、頼むよ。えッ、さ、さ、事がわかったら持ってきねえ、持ってきねえッ」
「へえ、さようにわけがございますお金は、なおさらもっていただくわけにはまいりません」
「なにォ言ってやんでえ、てめえは五十両なけりゃ生きちゃあいけねえんでィ……おれッち親娘《おやこ》はな、おれが左官の手間取りになろうとも、娘が女郎ンなろうとも、生命《いのち》に別条はねえんだから、わかったか……安心して持ってけよ、持ってけってんだッ」
「でも……」
「でももなんにもねえッ、気持よく懐中《ふところ》へ入れるんだよ」
「いえ、これは……」
「なにをまごまごしてやんで、持ってけッ」
「いいえ……」
「いいえじゃねえ……持ってきやがれッ」
「……あなたッ、なにをなさるんです。……酷《しど》い方だッ、こんなものを叩《たた》きつけて、……あんな汚《きたな》い身装《なり》をして、お金なんぞォ、おや?……お、あッ、お金だッ。ああー、お金だ。ああー、お金だッ、ああー……助かった。……あァーッ、うううううッ……(財布を押しいただいて)ありがとうございます。……おかげで生命が助かりましたッ」
トン/\/\/\、トン/\/\/\。
「はいはい、だれだい? えッ? 文七ッ、あっ……文七が帰ってまいりましたよ」
「文七が? ……ああ、鳶頭《かしら》にそ言ってくれ、もう捜しに行かなくてもいいって。提灯の灯《あか》りを消してくださいよ。あの文七が帰ってきたって、旦那さまに申し上げてくれ……ああ、いい按配《あんばい》だったねえ、あのうそこのね、締まりはしてないんだから潜戸《くぐりど》が開《あ》くよ、やえん[#「やえん」に傍点]は下りていないから、……さあ、こっちィお入り」
「どうも遅くなりまして」
「おう、どうしたんだ? 心配したよ。まあまあ遅くなったのはいい。おまえさんの帰りが遅いんで、旦那もまだ就寝《おやすみ》にならない、店の者は一人も寝やァしないよ、まあこっちィお上がりよ……あら、おまえ足袋《たび》裸足《はだし》だね?」
「へえ、あんまり急ぎましたので、どっかへ下駄ァ……脱ぎ忘れてしまいました」
「そうかい……どうも顔の色もよくないし、鬢《びん》の毛やなんかほつれているね、えッ? 着物の前もはだかってるよ。まあ、ま、いいやね。ェェ心配にはおよばないよ、うん。いま旦那に申し上げるからね……ェェ旦那、文七が帰ってまいりました」
「おう、そうかいッ。……待っていましたよ。ああ、ご苦労、ご苦労……どうしたね。こっちへ来なさい。こっちへおいで……、あのう、さっそくだが、お屋敷のご勘定はどうした?」
「はい、いただいてまいりました」
「うーん」
「財布がちがっておりますが、どなたかおまちがいになったらしいんでございまして、この次のご勘定日にはまた取り戻してまいります。お金はこれでございます」
「へえッ、お金を持って来た? へえーッ、番頭さん。文七がお金を持って帰ってきたよ。おい、どういう経緯《いきさつ》なんでしょうねえ。番頭さん、よく聞いとくれ」
「へえ、へえ。かようなことを等閑《なおざり》にいたしますと、店の者の示しがつきませんので、あたくしもよく問いただしてみますが、どうぞ旦那さまもそこでお聞き取り願いたいものでございます。……おい、文七や、もう少うし、おまえ、前のほうへ出ておくれ、そこじゃ話が届かない。え? おまえね、いまさら改めて言うんじゃあないが、おまえはどうしてああ、碁が好きだい。そりゃ、ま、人間にはなんか道楽があるがね、おまえは碁を囲《かこ》ってるところだと、商売先でもなんでも夢中になる。今日おまえ、お屋敷へ行ってお掛け金を頂戴しちまって、御用人の中村さまのお部屋の前を通ると、中村さまと河田さまが碁を囲っていらしたね、おまえがそのそばへ座って拝見をしていた、そうだろ? そのうちに河田さまがお立ちになると、そのあとへおまえが座って、中村さまのお相手をしていた。そのうち『おい、文七、もう門限だよ』と言われたんで、おまえは慌《あわ》ててお暇《いとま》をしてお屋敷を退散してきた。そうでしょ? そうだね。あとでねえ、中村さまが碁盤をお片づけンなると、碁盤の下に、おまえのいただいたお金が財布ぐるみ、出てきたんだよ。お屋敷じゃびっくりして、中村さまも、このお金を持って帰らなければ、当人も心配しているだろうし、店でも案じているだろうって、わざわざお使いをもってねえ、先ほどお届けくださったのが、ごらんなさい、旦那さまのあの手文庫の上にある、財布だ。なかに印形《いんぎよう》も入っているし、店《うち》のありゃあ財布だよ。お金が先に届いて当人が帰ってこないんだ、だから、おまえ、店じゃ心配するじゃないか。なあ、刻限は経《た》ってしまう、暗くはなる、さあどうしよう、ついに鳶頭《かしら》ァ呼びにやってえ、鳶頭ァ先立ちになって川通りでも捜そうかってんで、いま、支度をしているところへおまえが帰ってきた……それはそれでようがすがね。文七、おまえが手ぶらで帰ってきたんなら事はよくわかる。おまえ、お金を持って帰ってくるってえのは、どういうわけだい。おまえが持って帰ってきた金と、お屋敷から届いたお金と、お金が増えて、倍になっちゃったよ。これはいったい、どうしたわけだい?」
「はあはァーッさよですか。……うーッ、えらいことになりました。わ、わたくしはそんなこととは知りませんで……、これはてっきり途中で、と…と、盗られたもんだとおもいまして、吾妻橋から身、身を投げようといたしました」
「えっ? ばかなことを、まあ、あきれたもんだなあ。おまえが身を投げるってえ……」
「そこへ通りかかった方があたくしを助けてくださいまして、それでこのお金をくださいました」
「ほう、五十両という大金をねえ、ふーん、見ず知らずの通りがかりの方がねえ。……どこのなんてえ方だ」
「それはうかがいません」
「おまえも迂闊《うかつ》だねえ。聞かないってえのは困ったもんだ。どんな身装《なり》をしていたい?」
「へえ、身装《なり》はァ……なんでも袖の長い女の着物を着ていました」
「へえ、あんまり身装《なり》はよくないねえ。そりゃあことによったら、泥棒じゃあないかい?」
「いえ、とんでもないこって。……この財布をわたしの目の前にお出しんなって、たいへん出しにくそうな様子でしたが……あッ、『おれァ堅気の職人だ』って、ああ、左官だとおっしゃいました」
「ふーん」
「なんでも、博奕に凝っちまって首のまわらないほど借財ができちまって、一人娘のお[#「お」に傍点]、ひ[#「ひ」に傍点]、さ[#「さ」に傍点]、さん?……あッ、お久さん、そのお久さんというのが、吉原の佐野屋? じゃない……さの…さのづ…ち? あ、佐野…槌……。そこへ駆けこんでこしらえてくれた五十両だそうで、来年の大晦日までに持って返さないと、女将さんとの約束で、その娘さんがお女郎になってしまうそうで……おまえにこれをやってしまえば、もうとても返す見込みはない……どうか悪い病にならないように、店の隅へ棚ァ吊って不動さまでも金比羅さまでも拝んでやってくれと、わたくしは頼まれてまいりましたんで、えェッ(泣き声で)……まことに、お、恐れ入りますが、不動さまと金比羅さまと棚は二つ吊っていただきたいもんでござい……」
「そうかい、いや、よくわかりました。旦那ァ、お聞きになりましたかなあ……」
「……聞きましたよ、聞いてますよゥ。恐れ入ったねえ……世の中にはえらい方があるもんだねえ……そうかい、それで五十両の金を恵んでくだすったか……文七、もう泣かなくてもいいよ、わかった、わかった……」
「はい、そのお方のおっしゃるには、おまえはこの金がなけりゃあ生きていられない、おれたち親娘《おやこ》は左官の手間取りになろうとも、娘が女郎になろうとも、生命《いのち》に別条はないから持ってけとおっしゃって、財布ゥ叩きつけてお出でになりました」
「ほ、ほほほ、ふふン、そうかい。いやあ、よくおまえそこを耳にとめてきたねえ、ええ。ェェーと、吉原のお店《みせ》の名前が佐野槌ってんだなあ。娘さんの名前がお久さんか。そこまで手蔓《てづる》がありゃもう、それで充分だよ、ああ。まあまあ、いつまで泣いてなくてもいい、あっちィ行って顔でも洗ってきなさい……ところでね、番頭さん、こうなるとあんまり堅いというのも良し悪《あ》しだ。おまえさんもわたしも吉原なんぞ足踏みしたことがない、大門《おおもん》てえのは噂には聞いているが、どっちを向いて建っているか、そんなことも知らないしねえ。また、家《うち》のォ店の者が堅いからね……栄次郎、佐野槌ってのはどこだい!?」
「へい、あれは、そのゥ……いかがでございますか……」
「なにがいかがだよ、おい。おまえ、ありゃそのォって乗り出したが、知ってるんじゃないかい?」
「ええ、知らないってえことは、へえ、申しませんで、へえ。知ってはおりますが、それはそのォ……書物の上だけで……」
「なにを言ってる……おまえさんに叱言《こごと》いうんじゃない。家は鼈甲問屋だからねえ、店の者が一人ぐらい吉原に明るい人がいたって、そう恥にはならない。おまえでなくちゃならないこともありますからね、おまえだけはひとつ、もう半刻ばかりつきあってもらいたいねえ……じゃ、番頭さん、どうもご苦労さまでした。文七や、おまえも寝てしまいな。さ、さ、店の者、これで散会にしましょうね。ああ、ご苦労さま」
あくる日になると、
「番頭さん、ちょいとあのう、文七を呼んでくださいよ……ええと、おまえを連れてね、わたしァあのう、浅草の観音さまへお詣《まい》りをして、帰りに本所ゥ方《がた》へ用足しをしたいとこうおもうんだ。供はおまえに限る、おまえ、供になってておくれ。それから……番頭さん、文七に少うし細《こま》っかいのをね、あのう余計に持たしてくださいよ。じゃ、行ってまいりますよ」
大勢の店の者に送られて、まっすぐ観音さまへ参詣をした。橋を渡って本所の方向へ……、
「なにを足を止めている」
「へッ、旦那、昨晩《さくばん》あたくしが身を投げようとおもったのはこの辺でございます」
「ここらかい、へえ? ちょうど橋の真ん中だね」
「へえ、いまここをのぞいて見ましたらば、水が轟々《ごうごう》と音がして流れております。ここから飛びこみゃあ、もう生命《いのち》はございません。ああ、ばかなことをしたもんだ」
「おいおい、そこの角にね小西という酒屋があるな。あすこへ行ってね、お酒の切手を買ってきなさい。上等なお酒をくださいまし、二升のよい切手をってな。そいから、あのう、ついでに聞きなさいよ、このご近所に左官の親方で長兵衛さんという方がおいでンなるはず、そこへ持ってまいりますんでって、角樽《つのだる》を借りてきな。長兵衛さんの家もよく聞いてくるんだよ」
「へえ」
「お待ちどおさまでございます、へえ。これが角樽で、これがお酒の切手でございます」
「ふん、お宅聞いたかい?」
「へえ、長兵衛さんのお宅はどちらでございましょうッたら、店の人が、この酒屋の路地を入ってくと、すぐわかると、こう言うんで……」
「ほォう、酒屋の路地だな、ああ何軒目だい?」
「あたしもそう言って聞いたんですよ、何軒目でございましょうったら、酒屋の若い衆やなんか、みんな笑いだしましてね。『世の中にあんな夫婦|喧嘩《げんか》をする家はめずらしい。いままでは時たまやってたんだが、昨晩《ゆんべ》っからの喧嘩は少うし長くって、ずうーッといままで続いているから、喧嘩を目当てに行きゃあ長兵衛の家へ入っちまう』って言いました」
「だから言わねえこっちゃねえよ。おれがなあ吾妻橋まで来るってえと、色の生白《なまつちろ》い野郎が身投げしようてんだ。ふんづかまえて聞いてみたらば、五十両なくちゃ生きていられねえてえ言うから、おれがやろうったら、そん畜生、また依怙地《いこじ》に、いえッ頂戴ができないの、滑ったの転んだのぬかしゃがったから、面倒くせえから、いい加減にしやがれってんで、横面《よこつつら》ァにおれァ、五十両、叩きつけて逃げてきたんだ」
「そこがあたしァ何度聞いてもおかしいね。世の中にお金を盗って逃げるってえ人はあるが、お金をやって逃げるなんてえのはおまえさんぐらいなもんだよ。だから、やるなじゃないよ。やるのは結構、他人《ひと》を助けるのはいいけれどもさ、そんならそのように、向こうさままで送ってって、この方が死のうってえところへあたくしが通りあわせましたが、五十両なくちゃ生きていられないとおっしゃいますから、それはあたくしが持ってますから、差しあげますと、そこで出したらよかりそうなもんだ」
「それが、女の浅はか[#「浅はか」に傍点]だ。なあ、野郎と女と了見がちがうッてえのは、そこを言うんだ。その野郎にやるから、金が生きるんだ。迷子じゃあるめえし、向こうまでおめえ、いい若え者を引っぱってって、そこで金を出すッたって、向こうで金を受け取る気づかいはなし、余計しくじるもとじゃあねえか。おれの言ったことにまちがいはねえ。金ェやって逃げて来たんだ」
「そんなことを言ったって、あたしゃほんとにできないよ。博奕に負《と》られちまったから言いわけがないから、それでそんなことを言ってやがんだろ、畜生めッ! 赤ん坊の前で風車《かざぐるま》まわすようなことを言ったってだれが本気にするもんか、ばかばかしい」
「やったんだよ、おい。おれァ嘘をつきゃしねえ、たしかにやった」
「やったもなにもない、畜生めッ! これからあたしァ吉原へ行ってくるよ」
「吉原? 吉原行ってどうするんだい」
「女将さんにも会うし、娘にも会って、よおッくこの事を言ってやる心算《つもり》だァほんとうに、くやしいッ」
「お、お、おい! てめえの着ているのはなんだァ、おい。鳶細川のおめえ法被《はつぴ》一枚じゃねえか。そんな身装《なり》をしやがって、真っ昼間、大門が潜《くぐ》れるか潜れねえか考えてみやがれッ」
「潜れたって潜れなくたって、あたしゃこうなりゃあ、一所懸命……どこでも行きますよ」
「どうでも出かけんのかウヌ[#「ウヌ」に傍点]は、亭主の言うことがきかれねえのか。ようし、そういうかかあならこっちも、了見がある。上げ板|背負《しつちよわ》せるから覚悟しやがれ、ほんとうに!」
「ごめんくださいまし、ごめんくださいまし」
「だァーッ……(女房に小声で)おいおい、だれか来たよ……(表に向かい)ちょいと待ってくださいよ。むやみに開《あ》けて入《へえ》んなさんなよ。いいってまで開けっこなしだよ。その雨戸に節穴ァ開いてるがねえ、そんなとっからよろこんでのぞいてやがるてえと、こっちから火箸《ひばし》でもって目の玉ァ突っついちまうから、畜生め……(女房に)おい、人が来たからちょいと屏風《びようぶ》ン中|入《へえ》ってくれよ、後生だからよ。屏風ン中へ……その陰じゃなんにもならねえからよ、屏風ン中へ、いいか。屏風が低いからぐうッと平《たい》らンなるんだよ、突っ伏して。頭ァ持ちゃがってるよ、頭をぐうッと。あれッ? 尻が持ちゃがるじゃねえか、お尻《けつ》をぐうッと下げて……また頭ァ持ちゃがるね。どうしてそう不器用なんだよ、ぐうッと平らンなるんだ、ぐうッと。よし、それでいい、動きなさんなよ……(表に向かって)ええ、お待ちどおさまでございました。どうぞお開けなすって」
「ごめんくださいまし。これはお初にお目にかかりましてございますが、左官の長兵衛親方はあなたさまでございますな」
「てへッ、親方てえほどの代物《しろもん》じゃねえ、長兵衛というのはあっしでございます。あなたさまは?」
「へい、てまえは横山町二丁目に、鼈甲《べつこう》問屋を営んでおります、近江屋卯兵衛と申しまする商人《あきんど》にございまして……」
「ああァッ、鼈甲屋さんか、そいつは家がちがうね。あっしの家《うち》にもかかあみてえなのはいますがね、頭髪《あたま》の物《もん》で苦労したことはねえんだからね。中挿《なかざ》しなんざァそば屋の箸《はし》をおっぺしょって、挿しておくほうなんだから、そりゃあ家主《いえぬし》のほうじゃありませんか、家がちがってるよ」
「へえ、こちらへちょっとお邪魔《じやま》にまいりましたもんでございますので、お手間はとらせませんから、少々お邪魔をさせていただきたいもんで……(表に向かい)文七や、こっちィ入んなさい。そこへね、品物を置いてこっちィおいで、おまえはこの親方をよく知っているだろうね?」
「え? どの……あ、ああァッ、昨夜《ゆんべ》、あの、吾妻橋でもって、あたくしを助けて、お金をくださいましたのは、旦那、この方でございます……昨晩はありがとうございました、ありがとうございました……」
「えっ? 吾妻橋で、金……おッ、おめえだ、おめえだッ。ああよく来てくれたなあ……たしかにおれァやったね、やったな? (屏風の陰の女房に)そゥれ見やがれ……いやいや、だれもいませんがね。へェえ、よかったねえ」
「ェェわたくしは、これの主人でございますが、なにからお礼を申し上げてよろしいやら、昨晩は生命《いのち》を助けていただきました上に、五十金という大金をお恵みにあずかりました。ありがたいことにございまして……ェェさて、親方、あたくしはどうも、お世辞の言えない性質《たち》でございますので、なにもかも洗いざらい申し上げますが、じつは、この文七が盗られたとおもいました金子《きんす》は、お屋敷へ忘れてまいりました。これの帰りませんうちに、お屋敷から金は届いておりましたが、当人が戻らない……店じゅうで心配しておりますところへ、立ち帰っての話に、あなたさまに生命《いのち》を助けていただいた上に、大金をお恵みにあずかった。まことにありがたいことと心得まして……なにはともあれ、昨晩お恵みにあずかりました、この五十金、これはお手元へご返済にうかがいましたので、とりあえず、これを先へお納めを願いたいものでございますが……」
「なんだい、忘れたのと盗られたんじゃあ、大《てえ》したちげえじゃあねえか……若い者ってえのは、生命《いのち》を粗末にしてしょうがねえねェ……けど旦那、目の前に置いて褒《ほ》めちゃすまねえが、この人は正直者だねえ、ご主人にすまないすまないの一点ばりだ。あっしはこの人の気性に惚《ほ》れこんじゃったよ。この金はね、あっしの懐中《ふところ》から跳び出しちゃって、この人ィいったんやったんだからね、金が出たからって、おうそうかいッて、受け取れねえやね、そうでしょ? この人だって、腰の曲がるまでおまはんの店《うち》へ奉公している気づかいはねえ。いずれ一軒、店《みせ》を持つでしょ? そのときにね、おう、こうしてもらおう、これはね、暖簾《のれん》の染め代に、(うしろで女房が袖を引っぱるのをふり払って)あっしが清くこの人にお祝いをしようじゃねえか、ねえ。いえ、ま、旦那、そうおっしゃらないでね、こりゃ、あっしがね、この人にやっちゃった金だからね、まあま、取っといてください、ね? こりゃあこう……(うしろで女房が袖を引っぱる)ええ、これ、そっちへね、そっちへひとつ持っててくださいな」
「ありがとうございます。そのお志《こころざし》だけは頂戴いたします。いったん出ました金子を、またあなたさまからいただくというわけにもなりかねます。近卯《きんう》がこのとおり両手をついてお願いをいたしますが、曲げてもそれはお納めを願いたいもので……」
「旦那、旦那……そりゃいけねえや。手をあげてください、手をおあげなすってください。あっしゃあ大家《たいけ》の旦那さまから両手をつかれて頼まれるほど、ほんなァ偉《えれ》え職人じゃねえんだい、ねえ。じゃ、これさえもらっておきゃいいんですね? もらいますよ、もうつかんだらはなさねえよ、いいかい? じゃ、頂戴しますよ……ありがてえ、ありがてえ……じつはねえ、旦那、この金のために、あっしァ、昨晩《ゆんべ》っから寝ねえんでござんす……ありがとうございます」
「つきましては、お願いでございますが……」
「へえ、壁の塗り替えかい?」
「いや、そんな事《こつ》ちゃございません。あたくしもずいぶん奉公人を扱っておりますが、見ず知らずの者に五十金という大金を投げ与えて、生命《いのち》を助けるという気持が、さあ、そのときになりまして、いかがなものでございますか……。親方のそのお心持ちには、つくづく感心をいたしました。いかがでございましょう、てまえ宅と親戚のおつきあいを願いたいもんで、せめてお供餅《そなえ》のやり取りだけでも結構でございますから、ご承諾を願いたいもので……。もう一つは、この文七でございますが、これはいささか遠縁の者になっております。行く末には他《ほか》商売なりさせて、一軒、店を持たしたいとおもいますが、ェェそれには、後見が入り用でございます。あなたさまが生命を助けてくださいました命の親というところでこれの後見もついでにお願いをしたいのでございますが、お聞き届けくださいますでございましょうか」
「なんだな、旦那。……なんですって? おまえさん、親類のつきあいをする。待ってくださいよ。おまえさんの家《うち》と、あっしの家《うち》は、たいへん身代がちがうんだが、お供餅のやり取りたって、おまえさんの家は大家だからね、二尺のお供餅なんぞ担ぎこむだろうがね、お返しは二寸だよ」
「結構でございます」
「それにこの人の後見するったって、あっしは読み書きもろくすっぽ[#「ろくすっぽ」に傍点]できねえ、鏝《こて》ェ持つよりほかに能がねえ。大丈夫かね?」
「さっそくのご承引《しよういん》で、ありがとうございます。つきましては、これはお金の出ました身祝いでございます。どうぞ、そちらへお納めを……」
「あ、ありがてえね、この角樽ってえやつはいつ見ても景気がいいね。こりゃあ小西の切手だね? 二本《りやんこ》だねえ、とんだ散財をかけちまったねえ。すいませんねえ、いただきます」
「つきましては、お肴《さかな》でございます」
「おッ、肴はやめてもらおう。あっしはねえ、枡《ます》の隅からきゅうッとやってね、塩ォつまんで口ン中へ放りこみゃあいいんだ、肴はむだだよ」
「あいにくの時化《しけ》でございまして、お気に召しますやら、いかがなものでございますか……ただいま、お目にかけますんで……(表に向かって)おォーい、栄次郎、ここだようー」
「へえーい」
刺青《ほりもの》揃い、三枚のできたての四つ手|駕籠《かご》が、長兵衛の長屋へタタタタタタタッ……と入ってくると、家の前でぴたッと止まった。
駕籠屋が垂《た》れをぐいとあげると、中から出たのが、娘のお久、昨日に変わる立派な姿になって、
「おとっつぁん、あたしゃ、この旦那さまに身請けをされてきました。おっかさんは……?」
「おッ……おう、おめえは、お久じゃねえか?」
「このお肴は、いかがさまで……」
「へえ、ありがとうございます……おい、お久が帰ったよ」
屏風の中の女房は、さっきから、出たい出たいとおもっている矢先、頭の上で、お久……という声がしたので、
「まあーッ」
と、立ち上がったら、法被《はつぴ》に継ぎの当たった腰巻だけなので、ぐるぐるとまわって、その場へ、ぺたぺた……と座りこんでしまった。
このきまりの悪いというのも打ち忘れて、屏風の陰から這《は》い出してきて、親子夫婦がうれし涙にくれた……。
この文七とお久と、夫婦《めおと》になって、麹町貝坂《こうじまちかいざか》へ元結《もつとい》屋の店を開いた……文七元結、元祖のお噺――。
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 達磨横町の長兵衛の長屋――吉原の佐野槌――吾妻橋――横山町二丁目の近江屋――長兵衛の長屋、と映画の場面転換のように二日間の歳末《くれ》の出来事を構成している。六代目三遊亭円生の説明によると「年齢は文七が二十一、二歳、長兵衛が四十ちょっと、その女房が三十四、五ですか、佐野槌の女将が四十四、五の分別盛りで、近卯の旦那が六十がらみ、一番番頭が四十五、六……というところでやります」。長兵衛、女将、近卯、文七、お久……と噺家は一人で演じ描き分けるわけだが、長兵衛、女将、近卯は役柄としてももうけ役だが、狼狽《うろたえ》、悲嘆を抑える文七、お久……とくに文七がむずかしい。さて、娘を身売りし、女将に諭《さと》されて、手にした五十両、人を救けるためとはいえ、通りがかりの他人に与えられるだろうか? 噺の上とはいえ、鑑賞する側の最大の興味、関心事である。筆者の愚考を述べれば、この長兵衛という職人、破滅型の、根っからの博奕好き、橋の上で金を「えいッ」と投げ出したのも、そうした気質のあらわれではないか、とても分別があってはでき得る行為ではない。文七がその金包みを見て、感涙するのは、生命《いのち》に対して素直になれたからである、と解釈をしている。八代目林家正蔵の演出は、この点を強調している。文字通り蛇足だが、冒頭の佐野槌の藤助と幕切れに登場する栄次郎の役割にふれておきたい。佐野槌の店の前に立っていたお久を見つけたのは、実は藤助なのである。佐野槌の店の者でお久の顔を知っているのは藤助だけであって、それを女将に取り次ぎ、部屋の中へ招き入れたのである。そしてことの次第を聞いて長兵衛の長屋を訪れた……のである。栄次郎のほうは文七が帰って、店の者が寝てしまってからも、旦那の部屋で、お久を身受けすることについて夜更けまで旦那と話しあい、翌日、用意万端整えて、旦那と文七より早く店を出て佐野槌へ行き、女将に折り入って事情を打ち明け、駕籠を仕立てて、息せき切って本所の達磨横町に駆け込んだ……という陰で鮮やかな働きをしたわけである。「芝浜」[#「「芝浜」」はゴシック体]とともに歌舞伎にも劇化された、三遊亭円朝の作の人情噺としてあまりにも有名である。『落語百選』中の唯一の純人情噺。
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芝浜
「ねえ、おまえさん、おまえさんっ」
「……おう……あゥ……、なんだなあ、人がいい心持ちで寝てるのに、おい、こん畜生、邪慳《じやけん》な起こし方ァしやがって……なんでえ?」
「ねえ、早くってすみませんけどねえ、起きて魚河岸《かし》へ行ってくださいよ」
「えッ?」
「商売《あきない》に行ってくださいよ」
「なんでえ、商売《あきない》に行けってえなあ?」
「なんだじゃあないよ、昨日《きんの》おまえさん言ったじゃあないか、あしたの朝っからおれァもうまちがいなく商売《あきない》に行くから、今夜は飲むだけ飲ましてくれっておまえさん、ぐでんぐでんに酔っぱらうほど飲んだじゃないか」
「うふん……昨夜《ゆうべ》? そんなことを言ったか、おれァおめえに? え? ふうん? 商売《あきない》ってえやつも、いえ、行かねえってわけじゃあねえけどもよッ、ものにゃあついでてえこともあらァな、いいじゃあねえか、おめえ、まだ行かなくったって、もう二、三|日《ンち》」
「ばかなことを言っちゃあいけないよ。もう、おまえさん、十日も二十日《はつか》も商売を休んでるじゃないか。歳末《くれ》も近いってえのに、どうするつもりなんだい?」
「わかってるよ。おめえがなにも鼻の穴ァひろげて、歳末《くれ》が近いって言わなくったって、うちだけが歳末が近《ちけ》えわけじゃねえや」
「なにをのんきなことを言ってんのさ。釜《かま》の蓋《ふた》ァあきゃあしないよ」
「釜の蓋があかなきゃあ、鍋《なべ》の蓋かなんかあけときゃあいいじゃねえか」
「釜も鍋もあかないんだよッ」
「うふん……なにもおめえ釜だの鍋だの無理にあけるこたァねえじゃあねえか、あかねえもんなら。どうしてもあけてえなら水甕《みずがめ》の蓋かなんかあけて、間に合わしときねえ」
「鮒《ふな》や鯉じゃないから、水ばっかし飲んで生きてるわけにゃあいかないじゃないか。そんなことを言わないでさァ、しっかりしとくれよ、ねえ、昨日《きのう》あれだけ約束したんだから、行っとくれよ、商売《あきない》にッ」
「そんな約束したかい? 昨夜《ゆうべ》?……行かねえとは言わねえけどもよう、考《かん》げえてみねえな、そう、すらっといくもんじゃあないよ。そうだろう。十日も二十日もおめえ、商売《あきない》休んじゃったんだぜえ。得意先がおめえ芋《いも》だの牛蒡《ごぼう》食ってつないでるわけァねえだろ? どっかほかの魚屋が入ってるとか、な? なんかしているところへ、間抜けな面ァして荷を担いで『今日《こんち》ァ、魚勝でござんす』『なんだい勝つぁん十日も二十日も来ねえでいまごろ来たってしょうがねえや、ほかの魚屋が入《へえ》ってるんだい、だめだよ』……なんてンで剣《けん》のみォ食って引き下がってくるなんざあ気がきかねえじゃあねえか」
「なにを言ってるんだよ、おまえさんが行かないからほかの魚屋でもなんでも入るんじゃあないか、おまえさんの得意なんだよ、おまえさんが行きゃあ、『どうしたんだい魚勝、また酒に飲まれやがった』ぐらいそれァ一度は叱言《こごと》は言われるだろうけれどもさ、蟹《かに》の一杯でも鰈《かれい》の一枚でも買ってくださるんだよ。そりゃ最初《はな》のうちは少しぐらい、いやな顔をされて断わられたって、そこはおまえさん十日も二十日も休んだほうが悪いんだからしょうがないよう、ね? それともなにかい? おまえさん、もう他人《ひと》にとられた得意先を取り返すだけの腕ァないのかい?」
「なによゥ言ってやがんでえ、こちとらァ餓鬼《がき》のうちから腕でひけェとったこたあねえや」
「そんなら行っておくれな」
「行けったっておめえ、……二十日《はつか》も休んじゃってんだろう? 盤台《はんだい》がしょうがねえじゃあねえか……箍《たが》ァはじけちゃっておめえ、水がたらたら洩《も》る盤台なんぞ担いで歩けるけえッ」
「なにを言ってんだい、きのう今日魚屋の女房になったんじゃあないよ。ちゃんと糸底ィ水が張ってあるからね、ひとッ滴《たら》しでも水の洩れるようにゃあなっちゃあいないんだよ」
「……庖丁《ほうちよう》はどうなったい?」
「昨夜《ゆんべ》出して見たんだけどねえ、おまえさんがちゃんと研いで、蕎麦殻《そばがら》ン中へつっこんであったろう? ピカピカ光って、生きのいい秋刀魚《さんま》みたいな色ォしているよ」
「……草鞋《わらじ》ァ?」
「出てます」
「フッ、よく手がまわってやがんな。商売《あきねえ》にいくったっておめえ、仕入れの銭《ぜに》だっているんだぜ?」
「馬入《ばにゆう》に入ってるよ」
「ふ……煙草ァ?」
「馬入に入れといたよ」
「いけねえ、こっちィくれ、どうも煙草ァ馬入ィ入れとくてえと、すぐ出そうったって間に合わなくってしょうがねえ、こっちィかしねえ、……やっぱし煙草てえやつァ腹掛けのどんぶりにつっこんどくのがいちばんいいんだい。ええ? 行くよゥ、行きゃあいいんじゃねえか、行きゃあ……やいやい言うない、うるせえなッ」
「……いやな顔しないで行っとくれよ。久しぶりで商売《あきない》に出るんじゃないか、ね? ほうらごらんな、支度をすればやっぱしいい気持ちだろ? 草鞋ァ新しいからさあ、気持ちがいいだろう?」
「よかないよ……気持ちがいいってえのは、好きな酒飲んで、ゆっくり朝寝しているときを言うんだ」
「勝手なことを言うんじゃないよ。しっかりやっとくれよ、魚河岸《かし》行って喧嘩しちゃあいけないよ」
「あー、行ってくるよ(と天秤《てんびん》を肩に)……うー、寒《さむ》い、寒《さむ》い。眠気なんかすっかり覚めちまった……ちぇッ、やだやだ……なあ、考《かん》げえてみると、魚屋なんてなあ、つまらねえ商売だなあ。どこの家だってみんないい気持ちで鼾《いびき》ィかいてるさかりだあ、なあ? あたりは真っ暗だし、起きてるとこなんざ一軒もありゃしねえや、なあ? 起きてンなあおれとむく犬[#「むく犬」に傍点]ぐれえなもん……シッ、シッ、こん畜生ッ、なんでえ吠《ほ》えつきやがって、よせやい、二十日も面《つら》ァ見ねえもんだからこん畜生忘れちまやがって、おれだいおれだい、あッはッは、やっと気がつきやがって尻尾《しつぽ》ォ振ってやがら、なんでえ、ええ? 犬に忘れられちまうようじゃあ商売《あきねえ》に行っても心細《こころぼせ》えな、……あーあ、しかしなんだな、愚痴をこぼすようなもんの、餓鬼《がき》のうちからやってる商売《しようべえ》だ、な? だんだん浜ァ近くンなってきて、こう磯っくせえ匂いがぷうんと鼻へ入《へえ》ってくると、この匂いはまた忘れられねえや。けどなんだねえ。ここまでくるとてえげえ明るくなるんだけどなあ……いやにうすっ暗《くれ》えじゃねえか。ああ、なんでえ……問屋ァまだ一軒も起きてねえじゃあねえか、なんでえ浜ァ休みか、今日は? ええ? おれが出てきたら問屋ァ休みだてんじゃまずいじゃねえか、休みなわけァねえやあ、どうしやがったんだい、浜へくれァいつもいまごろは夜が明けてこなくちゃならねえんだがなあ、(と、空を見て)おかしいなあ……、あ、切り通しの鐘だい、ええ? ああいい音色だな、おまけに海へぴィんと響きやがるからたまらねえなあ、あの味がよォ、また、なん……一つ刻《とき》ちげえやがるじゃねえか(と、も一度空を見あげて)暗えわけだ。かかあ、時刻《とき》ィまちがえて早く起こしやがったッ……ちぇッ、忌々《いめいめ》しいなあ、ほんとうに……といって家ィ帰《けえ》ってかかあおどかしたって、またすぐここへ出直してこなくっちゃならねえんだ、まあま、しょうがねえや、浜へ出て一服やってるうちにゃあ、しらしら明けになんだろう……よッ、どっこいしょっと(と盤台を肩から降ろし)ああいい心持ちだい、ああ昨夜《ゆんべ》飲みすぎてやがんだ、そいでなんかこうにたにたしてやがんだな、塩水で口でもゆすいで、な? (両手に水をすくって、口をゆすぎ、ペッペッと唾《つば》を吐き、それから顔を)ううッたまらねえ、たまらねえッ(と二、三度ぶるぶるッと洗って)ああいい気持ちだ……ああさっぱりしてきやがったい、ありがてえありがてえ、はっきり目が覚めてきやがった、ここらで一服やるかなあ」
盤台を左右へ置いて、その上に天秤を渡して、傍らへどっかりと腰を降ろした。火口《ほくち》とって、石をカチッカチッと打って、煙管《きせる》の煙草に火をつけて、ぷうッと吸い、
「……あっ、ぽおゥッと白《しろ》んできやがった……ああ、いい色だなあ、ええ? あーあ後光がさすってえことをよく言うが、なるほど雲の間から黄色い色が出てくるなァたまらねえな、え? どうでえ、だんだん薄赤くなってきやがるなあ、どうみても、鯛《てえ》の色だな……あ、帆かけ船が見えやがらあ。なんだ、もう帰《けえ》るんだな、あいつァ、え? おれが早《はえ》えとおもったら船のほうはまだ早えや、愚痴も言えねえやな、考えてみりゃあ……ああ、海ってえやつァいつ見ても悪くねえが、こいつを十日も二十日も見ねえで暮らしていたんだ……へッ、どうでえこの海……」
と、一服吸って、火玉をはたき、ふと、その火玉がすうッと波打ち際に消えたところへ目がいってじいっと見ながら、も一つぷッと煙管吹いて、持っていた煙管をぐうッと伸ばして、その雁首《がんくび》に砂に埋まっている紐《ひも》をひっかけて、ぐいッとたぐり寄せた。
「……なんでえ、え? あれっ、汚《きたね》え財布《せえふ》だな、ええ? 革にゃあちげえねえが、ぬるぬるだよ。ながく水に入《へえ》ってやがったんだよ。砂ァ入《へえ》ってるとめえて[#「めえて」に傍点]、なんだか重てえな、なげえあいだ波にもまれてる間《ま》に、いつ入《へえ》るともなく、な? 砂を出しちまわなきゃどうにもしゃあねえや……あッ――」
のぞきこんで中味を認めると、身体が小刻《こきざ》みにふるえだし、周囲《あたり》を見まわすと、あわてて財布の紐をくるくるッと巻き、ぐうッと水をしぼって、腹掛けのどんぶりへねじこみ、盤台を肩へ……。
ドンドンドンドン/\/\/\……。
「おっかァ、ちょっと開《あ》けつくれッ、おい、おっかァ…」
「はい、いま開けます、すみませんねえ、いえ、一つ時刻《とき》ちがえちゃったんでねえ、おまえさん怒って帰ってきやしないかとおもって気にしてたんだよ、すみません、いま開けるから待っとくれ……なんだようそうドンドン叩《たた》かないでさあ、近所へみっともないからさ、いえいま開けるからお待ちなさいよ。いま開け……どうした? おまえさん、喧嘩でもしてきたんじゃないのかい?」
「おっかァ、後《あと》ォ締めろいッ、だれもついてこねえか、え?……おっかァ、おめえ時刻《とき》ィまちげえて早く起こしたな?」
「すみません、おまえさんが出ちゃってから気がついたんだよゥ。また怒られるとおもって、おっかけていこうかなとおもったんだけど、女の足じゃあ間に合やァしないし。すみません、ほんとうに」
「それァいいんだよ……おれァ魚河岸《かし》ィ行くとねえ、問屋ァ一軒も起きてねえや。起きてねえわけだ、早《はえ》えんだもの、え? ま、浜へ出て一服やってようとひょいと波打ち際ンところを見ると、なんかこう動くもんがありやがる……最初《はな》ァ魚だとおもったんだ。それから煙管《きせる》の雁首《がんくび》ィ、ひっかけて引きずってみたら、やけに重いんだ、たぐっていくとおめえ……(小声で)だれもいねえか、革の財布が上がってきやがった。汚《きたね》え財布なんだ、そいからおめえ、なんの気なしに中ァのぞいてみるとなあ、おっかァ……これだ、見つくれ、おい、銭で一杯《いつぺえ》だ」
「え? なんだって? おまえさん革の財布を芝浜で拾ってきた?」
「ま、黙って見てみろいッ、勘定してみろいッ」
「まあ……ほんとうかい、おまえさん、え?……たいそうな目方だねえ……おや、銭じゃない、金《かね》だよッ。二分金じゃあないか、たいへんな……いえ、勘定してみるからさあ……ちゅう、ちゅう、たこ、かい、な……」
「じれってえ勘定のしかたをしてやがんなあ、ええ? いくらあるィ?」
「待っとくれよ、数えてんのにわきからなんか言っちゃだめだよ……だいいち手が震《ふる》えて、勘定しているうちにあとにもどってしまうんだよう」
「こっちィかしてみなこっちィ……ェェひとよひとよ……ふたふたふた、みッちョみッちョ、みッちョみッちョ、よッちョよッちョ……(小声で)おいッ、おい四十八両あるぜ!」
「まあ、たいへんなお金だねえ……どうするい、おまえさん?」
「なによゥ言ってやんでえ、どうするってことァねえじゃねえかなあ、おれが拾ってきたんだ、おれの銭だあ、商売《あきねえ》なんぞに行かなくったって、釜の蓋でもなんでもあくだろう、ええ? へっ、ざまあみやがれってんだ。ありがてえありがてえ。これだけ銭がありゃあ、おまえ、明日っから商売なんぞに行かなくっても大いばりだあ。毎日毎日ぐうッと好きな酒を何升飲んだって、びくともしねえや。おっかァ、江戸中捜したって四十八両も持ってる金持ちァ一人もあるめえッ、ここんところねえ、金公だの寅公、竹、みんなにもう借りっぱなしだよ、いつでも向こうに銭払わしちゃってたんだよ、きまりが悪いッたってねえやな。おればっかり飲んじゃあいねえや、え? 呼んできてやってくれ、でな、あいつら好きなものをうんとな、山ほど誂《あつら》えてきて、で、みんなで、今日はもう、祝え酒だ、うんとやるんだから、おい、ちょっと声かけてきてくれ」
「なにを言ってんだよう、おまえさん。いま夜が明けたばかしじゃないか、金ちゃんだって寅さんだって、商売《あきない》もあれば仕事もあるんだよう、お昼過ぎンでもならなけりゃ、どうもしょうがないやね」
「ちげえねえッ、へっへっへっ……あんまりうれしいんで夢中ンなっちゃったい。そうか……といって昼過ぎまでつないじゃあいられねえなあ。昨夜《ゆんべ》の酒ァまだ残ってるだろう? え? 今朝《けさ》ァ早えからよ、眠くってしょうがねえやな、うん、ぐうッと一杯《いつぺえ》やってね、ひと眠りをして、そいから昼過ぎンなったらみんな呼んできて、家で飲むから……ああ、湯飲みでいいよ、めんどうくせえから、うん、注《つ》いでみつくれ……ああ、うめえなあ。ああ、ありがてえありがてえ。ええ? 正直なことを言うとねえ、昨夜《ゆんべ》は明日《あした》から商売《あきねえ》行くんだってやつが胸につけえやがってよ、飲む酒がうまくねえや……ああ、もうこれで商売《あきねえ》なんぞ行かなくていいってんだから、どうでえ、酒の味がちがうなあ。ああ、たまらねえなあ、……え? 香《こう》こでもなんでもいいや、なんでえ鯊《はぜ》の佃煮があったかい? ちょっとつまみゃあいい……はあ、ありがてえなあ……まだあるか? 注《つ》いじゃってくれ……うん、おっとっとっと、なんでえ、ずいぶん残ってやがるじゃねえか、そうか、ふふ、へッこのごろ弱くなったのかな……ああ、ありがてえありがてえッ、ええ? おれは運がいいんだな、昔っからよく早起きは三文の得《とく》てえが、三文どころの得じゃあねえや、まさかおめえ浜で財布《せえふ》を拾おうたァおもわねえじゃあねえか……ちゅうッ、ちゅうッ……よしよし、そいでおつもりか。また後《あと》でみんなとふんだんに飲めるんだから、もういい……ああ、利《き》きやあがんな今朝《けさ》ァ……あっ、いけねえッ、さっきから妙だとおもってたら褌《ふんどし》もなにもびしょびしょだ。おい、褌《ふんどし》出してくれッ、ああ腹掛けも取らなくちゃあ、……おいおっかァ、腹掛け脱がしてくれよ。おう、おれァ寝るからな、昼ンなったら起こしてくんな」
床の中へ入ると、ぐうッと……。
「ねえ、おまえさん、おまえさんっ」
「……おう……あゥ……、なんだなあ、おうッ、畜生、びっくりするじゃねえか……なんだ火事か?」
「火事じゃあないよう。商売《あきない》に行っとくれよ」
「……なに?」
「商売に行ってくださいよう。ぐずぐずしてると魚河岸《かし》ィ行くのが遅くなるよう」
「なんでえ、商売《あきない》てえなあ?」
「おまえさんが商売に行ってくれなきゃあ家《うち》の釜の蓋《ふた》ァあかないじゃないか」
「……また始まりゃがったな、こん畜生。釜の蓋も鍋の蓋もあるかってんだ、昨日《きのう》のあれ[#「あれ」に傍点]であけときゃいいじゃあねえか」
「なんだい、昨日のあれって?」
「おい、よせよゥ、おい。なんだってえこたあねえじゃねえか、え? おめえに渡したろう?……(小声で)四十八両! あれであけとけってんだい」
「なんだい、四十八両ってなあ……?」
「おッ、畜生、この野郎ッ……いい加減にしろよう、少うしぐれえいくなァかまわねえけどもよ、そっくりいくなァひでえじゃあねえか、なんだいそのうすっとぼけて四十八両なんだなんて……おれが昨日芝の浜で拾ってきた四十八両があるだろう?」
「なにを言ってんだよう、おまえさん昨日芝の浜なんぞに行きゃあしないじゃあないか」
「なにィ? おれが芝の浜へ行かねえ? そんなことがあるもんか。おい、お、お、おめえが起こしたろう、え? そいで、おれァ芝の浜へ行ったじゃあねえか? そうしたら時刻《とき》まちげえて起こしたもんだから、まだ問屋も一軒も開《あ》いちゃあいねえ。しかたがねえから、おれが浜へおりて、一服《いつぷく》やってるうちに革の財布《せえふ》を拾って、家《うち》ィ帰ってきて、おめえと勘定してみたら、四十八両あって、おめえに渡したじゃあねえか」
「……情けないねえ、この人ァ……いくら貧乏しているからって、おまえさんそんなものを拾った夢ェみたのかい?」
「おいッ、夢ェ……? 夢じゃねえ、おれァちゃんとおめえに渡し……」
「なにを言ってるんだよ、おまえさん、しっかりしておくれよ。四十八両、どこにそんなお金があるんだよう……そんなお金がありゃあ、この寒空にあたしゃあ洗いざらしの浴衣《ゆかた》ァ重ねて着ちゃあいないよ、いいかい? たいして広い家じゃあない、天井裏でも縁の下でもどこでも捜してごらんな、どこに四十八両なんてお金があるんですよう、しっかりしておくれよ。おまえさん、情けない夢ェ見るねえ、いいかい? よくお聞きな、昨日の朝起こしたとき、なんてったんだい。うるせえッて、ひとのことをどなりつけてさ、ね? あんまりしつっこく言ってまた手荒なことォされちゃつまらない。だからあたしゃあ、いま起きてくれるだろうとおもってそのままにしといたら、いつの間にかおまえさんはまた床の中へもぐりこんで寝ちまって、そして今度《こんだ》ァ、起こそうとゆすぶろうと、どうしたって起きるどころじゃあ、ありゃしないじゃないか。そいでお昼時分にぽっくり目を覚まして、『おッ、手拭《てぬぐい》出しな』……手拭持って朝湯へ行っちゃって、帰りに寅さんだの、金ちゃんだの、竹さんだの大勢お友だちをいっしょに連れてきて、『おう、酒ェ買ってきねえ、天《てん》ぷらそういってこい、鰻《うなぎ》を誂《あつら》えてこい』友だちのいる前でおまえに恥をかかせるようなこともできないとおもうから、どうしたんだろうとはおもいながらも、お酒を無理に都合して借りてきたり、天ぷらを頼んだり、鰻を誂えたりしてさ、なにがうれしいんだか知らないけれども、さんざんおまえさん飲んだり食ったりして、おまえさん、もうぐでんぐでんになるほど酔っぱらってさあ、そのまま寝ちまったじゃあないか、そうだろ? いつおまえさん芝の浜ィ行ったんだい?」
「……ちょっと待ってくれ、おい!……えッ? 昨日、おれァ、朝、おれァ芝の浜へ行かなかったか?」
「行きゃしないじゃないか、起こしたって起きないで、床ン中へまたもぐずりこんで寝ちまったじゃないか」
「えッ? じゃあなにか? おれ、昨日の朝、行かねえ? 夢だ?……ずいぶんはっきりした夢だなあ……なにをゥ言ってやんでえ……え? おッ、切り通しの鐘はどこで聞いたんだい?」
「なに言ってるんだよ、鐘ァここだって聞こえるじゃあないか。いま鳴ってるのは切り通しの明《あけ》六刻《むつ》ですよう」
「……あッ、……夢だ、しまったァッ、そう言われると、おれァ餓鬼《がき》のころからときどきはっきりした夢ェ見る癖があるんだ……でなにか? おいッ、友だちを連れてきて飲んだり食ったなァほんとうかい、おいッ?……えっ? 銭を拾ってきたなァ夢で、飲み食いしたなァほんとうかい、おい? そいでおめえ、そんな格好ォしてんのか、……そうか、えれえことォしちゃったなあ、十日も二十日《はつか》も商売《あきねえ》休んで、家《うち》ン中へ銭あるわけやァねえやなあ、その挙げ句に友だちを大勢《おおぜえ》連れてきて飲んだり食ったりしちゃっちゃあ始末がつくめえ……えれえことォしたなあ、おっかァ、面倒くせえから、死のうか」
「なにを言ってんだよ、おまえさん、しっかりしておくれよ。死ぬ気でやれァどんなことだってできるじゃないか、おまえさんがね、少うし身を入れて、商売《あきない》を四、五|日《ンち》してくれりゃあ、あのくらいのものはすぐに浮いちまうよ」
「おれが商売《あきねえ》に行きゃなんとかなるか? え? (身を引きしめて)おっかァ、おれァな、酒が悪《わり》いんだ、え? もう金輪際酒飲まねえッ、酒飲まねえでおれァな、一所懸命に商売《あきねえ》するッ、おめえに苦労かけてすまねえ、おれァもう酒飲まねえから安心してくれッ」
「……おまえさん、ほんとうに、酒をやめてくれるかい? えッ? 好きな酒だよ、やめるッたってやまるもんじゃあないんだよ」
「なにを言ってやんでえ、おれだって男だ、一ぺんこうと歯から外へ出したことあ……、やめるったからにゃあ、きっとやめるよ、おれァ一所懸命|商売《あきない》に行くよッ」
「(泣いて)ほんとうに商売《あきない》に行ってくれるかい?……そうしてくれりゃあ、このくらいのものはどうにでもなるよ、じゃあおまえさん、しっかりやっとくれよッ」
「よしッ、こうしちゃあいられねえッ、支度しようッ、なんだ? 二十日《はつか》も休んでるんだ、盤台《はんだい》、箍《たが》ァはじけちまったろう?」
「糸底へちゃんと水が張ってあるから大丈夫だよ」
「庖丁はどうなってる?」
「おまえさんが研《と》いで、蕎麦殻《そばがら》ン中へつっこんであるから、ピカピカ光ってるよ」
「よしッ、草鞋ァ?」
「出てます」
「……あー……妙なもんだなあ、夢にもそんなところがありゃあがったい、仕入れの銭ァいくらかどうにかなるか」
「わずかだけどもね、こしらえて馬入《ばにゆう》へ入ってるから、今朝はそれで我慢しといておくれな」
「おっかァ、おめえはえれえな、なあ、こんな飲み食いしたりなんかァして、その上まだおめえに仕入れの銭まで都合させたりなんかして、すまねえ。そのかわり、おれァもう酒ェやめてうんと働くからな、じゃあ行ってくるぜ」
「しっかりやっとくれよ、魚河岸《かし》ィ行って喧嘩ァするんじゃないよ」
「大丈夫《でえじようぶ》でえッ……」
町々の時計になれや小商人《こあきゆうど》――
人間ががらっと変わって、商売に精を出す。あの魚屋さんが来たから、もう何刻《なんどき》だ、あの豆腐屋さんが来たから、そろそろお昼だよと言われるようになれば、商人《あきんど》も一人前――。
好きな酒をぴたりとやめて、早く魚河岸《かし》へ行って、いい魚を仕入れてきて……もとより腕のいいところへもってきて、顧客《おとくい》を持っている。
「やっぱしなんだねえ、魚ァ魚勝じゃあなきゃだめだねえ」
「おう、寄ってってくれよ、おれンところへも……」
「じゃあ、あしたの朝まちがいなく来ておくれ。夕《ゆう》河岸《がし》ィ、いつかまた来てくれよ」
……三年|経《た》つか経たないうちに、裏長屋にいた棒手振《ぼてふ》りが、表通りへ小体《こてい》だが魚屋の店を出すようになった。……「御料理仕出し」というのを障子《しようじ》へ書いて、岡持ちの三つ、四つ、若い衆の二人、三人置くようになった。
ちょうど三年目の大晦日《おおみそか》――。
「お帰んなさい、どうだったい?」
「どうもこうもおどろいたい、ええ? 混んでて、まるで芋ォ洗うようだぜ。……そこいらどんどん片づけて、ぐずぐずしねえで、なんだァ、みんな早えとこ湯ィ行ってきねえ。もォなんだろう? お得意さまンとこァ届けるもんは届けちゃったんだろう? おう、片づけちまいな、ああ、どんどん。うん、残った魚ァどうにでもまた始末ァつくから、そっちンとこへまとめといてな。早えとこひとっ風呂浴びてさっぱりしろい。ここんとこずうッと遅くまで働いたんだ。ぐずぐずしてると、どんどん湯ァ汚くなっちゃうんだ。……ああ、そうよ、どうせすきっこねえや。それから、なんだ? 庖丁はどうした? 研《と》いで蕎麦殻へつっこんどいた? ようし、庖丁の始末さえついていれァ大丈夫《でえじようぶ》だ、道具だけは大事《でえじ》にしとおけよ、うん。そいから、その盤台の上へ、ちょい輪飾り載っけときねえ、うん、ようしよし。高張《たかはり》(提灯)は出てるな、今夜ァ出しっぱなしにしとかなくッちゃいけねえよ、うん……それからもっと炭ィついどきな、景気が悪くっていけねえ。勘定ォ取りにくる人が、表《おもて》は寒《さぶ》いんだからねえ、火がなによりのごちそうじゃあねえか。もっとうんと火をつけとけえ。で、ああ、なんだ、みんな一ぺんに行っちゃっちゃあいけねえや、まただれか勘定取りにくるともわからねえからな、代わりばんこに、早間に……」
「いいんだよ。みんな、そっくり行っちゃっとくれ。勘定なんぞ取りにくる人ァ、もう一人もありゃしないんだから、あと、あたしが細かいことはやっとくからかまわないよ」
「なんだ、そうか、払《はれ》えはもうみんな済んじゃったのか、そんならいいや……かみさん、あとォやるとよ。早く湯へ行ってきねえ」
「いいから、湯はまとめて行っちゃっておくれよ。それでないと、いつまでも寝られなくてしょうがないから……それからそこにねえ、蕎麦《そば》の器物《いれもの》があるだろう? 向こうだって忙しいからなかなか下げに来られやしないよ、ついでだから行きがけにちょいと放りこんどいてやんな。うん、銭はそこに載っかってるよ。お釣銭《つり》は少しあるだろうけどねえ、担いでった人が煙草《たばこ》でもなんでも好きなものを……ま、およしよ、みっともない、わずかの煙草銭で奪いあいなんぞしてさあ、正月が来りゃあやるじゃあないか……で、あとぴったり閉めてっておくれよ……おまえさん、そんなところへいつまでも立ってないでお上がんなさいな」
「うん、上がるけどもよう……おや? やけに明るくって、なんだかてめえの家《うち》のような気がしねえとおもったら、畳を取っ替《け》えたのか」
「おまえさん、朝っから店にいたから気がつかなかったろうけども、前々からあたしゃあどうにかなったら畳ァ暮《くれ》に取り替えたいてえのが念願だったんだよ、いえ、ここんとこだけね、さっきから畳屋さんに骨を折ってもらってね、すっかり替えてもらったんだよ、いい心持ちだろう?」
「そうか、道理で……(上がって、座につき)ああいい心持ちだ、ええ? うん昔っからよく言うな、ええ? 畳の新しいのとかかあ……は古いほうがいいけどよ」
「なにを言ってんだよ、変なお世辞を言わなくってもいいよ」
「しかしなんだなあ、おっかァ、ええ? 考《かん》げえてみりゃありがてえやな、大晦日ァ怖《こわ》くなくなってきたんだ、はっは、三、四年|前《めえ》だったか、おどろいたことがあったな? どうにも勘定がつかなくってよう、ええ? どこへ行ってもそこいら中で断わられちまって、一文の銭もどうにもならねえ、『おっかァ、なんとかならねえか』ったら、『あたしがうまく言いわけをするから、おまえさん顔を見せるとまずいから戸棚ン中へ入ってらっしゃいよ』ってえから、おれァ戸棚ン中にいたら、おめえが『伯父さんところへ行ってますから夜が明けるまでには目鼻ァつけます』なんてうまくごまかして、みんな借金取りを帰《けえ》したけど、いちばん終《しめ》えに米屋が来やがって、米屋が帰《けえ》っちゃって『もうだれも来る者ァないから、おまえさん出てきてもいいよ』ってえから、おれァ戸棚から出るとたんに米屋ン畜生、提灯忘れやがって引っ返《けえ》してきやがった。おどろいたねえ、あンときにゃあ……もう戸棚へ入《へえ》ってる間がねえや、どうしようかとおもったら、おめえがそばにあった風呂敷《ふるしき》をおれの頭からぱッとかぶせやがったから、おれァ中でガタガタ震えちゃった。けど、米屋の言い草がいいや『おかみさん、よっぽど寒いとめえて、風呂敷が震えてますね』ってやがった。春ンなって、米屋に顔を合わして、あんなきまりの悪いとおもったこたァなかったけどねえ、はっはっは、大笑《おおわれ》えだ……ええ? ほんとうに、今夜はもう取りに来るところはねえのかい?」
「取りにくるどころじゃない、いえね、こっちから二、三軒いただきにいくところも残っているんですけどね。なあに大晦日だからってあわててもらわなくっても、春永《はるなが》ンなってゆっくりもらやァいいとおもってね」
「そうそう、そうだよ、うん。お互《たげ》えに覚えのあるこった、な? 無理に取りにいったって払えねえもなァ払えねえんだ、ああ春永に、それよりな、お互いにいい顔をしてもらったほうが心持ちがいいやな。……おう、茶を一|杯《ぺえ》くんねえ」
「いまちょうど除夜の鐘が鳴っている。福茶《ふくぢや》が入ってるから福茶ァ飲んじゃってください」
「また福茶ってえやつか、おい? 大晦日になると妙な茶ァ飲ませたがりゃがんな、あいつァどうも、あんまり好きじゃあねえんだよ、え? 飲まなくっちゃいけねえのか、ああしょうがねえ、縁起もんだ、ちょいと、じゃあ、ひと口だけだぜ……なんだいおい、雪が降ってきやがったのか、いまおれァ湯から帰ってくるときにゃあ、めずらしくいい天気の大晦日だとおもったけども……」
「なにを言ってんだよ、雪が降るもんかね、笹がさらさら触れあってるんだァね」
「ああ、そうか、あッははは……雪が降るわけァねえとおもった。明日《あした》は、いい正月だぜ。なァ、飲むやつァたのしみだろうなあ」
「おまえさんも飲みたいだろうねえ」
「いやあ飲みたかあねえや、うん。……茶ァ一杯《いつぺえ》くんねえ」
「そうかい?……ねえ、おまえさん、あのう、じつは……見てもらいたいものがあるんだけどねえ?」
「なんでえ着物か、おい? だめだい、おれァ女の着物なんざァまるっきりわからねえ、おめえが気に入ったやつゥいいように着ねえな」
「いいえ、着物なんかの話じゃあないんだよ、あたしがおまえさんにきかないで着物なんぞ買うもんかね、いえ、じつはお金なんだけどね」
「ああ、臍繰《へそく》りか、いいじゃあねえか、おめえに臍繰りができるようならてえしたもんじゃあねえか、お? 正月《はる》ンなったら芝居へいくとも、好きな着物を買うとも、いいように勝手にしたらいいじゃあねえか」
「いえ、そんなこっちゃないんだよ、じつァ、おまえさんこれなんだけどね……この財布に覚えはないかい?」
「どれ?……汚《きたね》え財布《せえふ》だな、こういう汚え財布に入れとくほうが臍繰りゃあ気がつかれねえでいいってえのか、へッ、いろいろ考《かん》げえてやがんな、だけど、これ……女の財布じゃあねえや、これ……、え? 財布は汚えけどもずいぶん貯めやがったなあ、おい? こんなに臍繰られちゃあ、おい、たまらねえぜおれだって、へへッ、ほほ、あるある/\/\……なんだいこれァおい? ひでえことァしやがったな、なんだいこれァおい、ええちゅうちゅうたこかいな……ちゅうちゅうたこかいな、ひとよひとよ/\/\、ふたァふたァ/\/\、みッちョみッちョ/\/\……」
勘定してみると、小粒で四十八両――。
「おっかァ、なんだ? この銭ァ?」
「……おまえさん、その革財布と四十八両に覚えがないかい?」
「……革財布と四……(と、考えて、ぽんと一つ手を打ち)おっかァ、もう三、四年|前《めえ》か、おれァ、芝の浜で、革の財布《せえふ》に入《へえ》った四十八両の銭を拾ってきた夢をみたことがあったな?」
「……じつァおまえさん、これァ、そんとき[#「そんとき」に傍点]のお金なんだよ」
「そんときの銭? おめえッあんときァおれに夢だと言ったじゃあねえか」
「だからさ、それについちゃあおまえさんにね、今夜話を聞いてもらおうとおもってね、おまえさんは腹立ちッぽいから、途中で怒ったりなんかしないでね、あたしの話を終わりまで聞いておくれよ、いいかい? それだけは頼んだよ、じつァね、このお金、お前さん芝の浜で拾ってきたんだよ」
「おめえ夢だってたじゃねえかッ、じゃあ、じゃあ、あれァ夢じゃあねえのか」
「ほんとのことを言えば夢じゃ……、まあまあゆっくり聞いておくれよ、だからさ、ね? ほんとうのことを言うと夢じゃあないんだよ。おまえさんがこのお金を拾ってきてね、二人で勘定してみると四十八両、『おまえさん、このお金、どうするつもり?』ってえと『明日っから商売なんぞに行かなくて毎日毎日好きな酒を飲むんだ』とおまえさんが言ったね? ああ弱ったことになったなあとおもったら、おまえさんがいい按配《あんばい》に、お酒を飲んで、そのまま床ン中へ入ってぐっすり寝こんじまった。その間にあたしゃあ自分ひとりじゃあどうも始末がつかない。大家《おおや》さんとこへ、この財布とお金を持っていって、『じつァ勝五郎が芝の浜でこれを拾ってきたと言いますけど、どうしましょう?』『どうしましょうったって、そんなお金、おまえ、一文だって手をつけてみろ、勝公の身体《からだ》ァ満足でいやァしない、とんでもねえ話だ、すぐにあたしがお上《かみ》へ届けてやるから、おまえは、勝公のほうを寝ているのが幸い、夢だとかなんとか言ってうまく誤魔化《ごまか》しておきな、後《あと》はおれがいいようにやってやるから』と、家主さんがお上のほうのことをすっかり受けあってくれたんだよ。いえ、おまえさんが目を覚ましたときに、よっぽど言っちまおうかなと、ここんとこまで出かかったんだけどもさ、いや、そうじゃあない、ここでほんとうのことを言っちまっちゃあたいへんだ。それよりも夢にしておくほうがいいと、とうとうおまえさんに、夢だ夢だで、あたしゃあ、押し通しちゃったけどもね……それからてえものはおまえさん、あの好きな酒をぷっつりとやめて、夢中ンなって商売《あきない》をしてくれる(と、目頭を袖口で拭《ふ》き)雪の降る日なんぞは、ああ気の毒に、あんなに一所懸命ンなって商売《あきない》をしてくれるんだ、帰ってくるまでに一本、つけて、好きなものでも取っといてやったら、どんなによろこぶかしらん、と。何度もそんなことおもったこともあるけども、いやそうでもない、なまじそんなことをして、せっかくここまで辛抱してきたものを、また昔のようにお酒を飲まれてはなおさらたいへんなことになるとおもってね。いえね、このお金だってもっと早ァくお上から落とし主《ぬし》がないてえことで、お上からあたしの手もとへ下がってきてはいたんだけれどもね、いえ、そんとき、よっぽどおまえさんに打ち明けて話をしようとおもったが、じつァ今夜まで黙ァって内証《ないしよ》にしていたんだよ。今日このお金をおまえさんに見てもらって、いままであたしが隠し事をしていたことをおまえさんにお詫《わ》びして……腹が立つだろうねえ、連れ添う女房に隠し事をされて……さ、これだけ話してしまやあ、あたしゃあねえ、おまえさんにぶたれようと、蹴とばされようとなにされてもかまわない。気のすむだけおまえさん、あたしのことォなぐっておくれ」
「(両手を膝に目をつぶったまま)……そうか……おっかァ、待ってくれ。なぐるどこじゃあねえ……いや、えれえ、えれえッ、いや、腹ァ立つどころじゃあねえ……いま、おめえに言われて、おれァ気がついたい、ねえ? あんときにこの金ェ見たときにゃあ、商売《あきない》に行くどころじゃあねえや。毎日毎日、朝から晩までおれァ酒飲んで、うん、友だちを呼んできて、酒ェ飲ましたり、好きなものを食わしたり、まあ、そんなことをしていたら、これっぱかしの金ァまたたくうちになくなるだろう。もとの木阿弥《もくあみ》だ。ばかりでなく、このことが、もしもお上に知れたひにゃあ、おれの身体《からだ》ァ満足じゃあいねえや。佃《つくだ》の寄せ場送りンなって、いまごろァ畚《もつこ》ォ担いでいたかもしれねえ。そいつをおめえのおかげで、ま、こんな店の主人《あるじ》ンなって、親方とかなんとか言われるようになれたんだ。なぐったりするどころじゃねえや、おっかァ、おれァおめえに礼を言う……このとおり……」
「なにを言ってんだねえ。両手をついたりなんかしてさあ。じゃなにかい、おまえさん、堪忍してくれるかい?」
「堪忍するもしねえもねえ、おれァおめえに礼を言いてんだ」
「いいえ、礼なんぞ言われちゃあ、きまりが悪いやね。あたしゃあ今日はおまえさんにうんと怒られるだろうとおもって、機嫌《きげん》直しに一杯飲んでもらおうとおもって……これ、お燗《かん》もついているんだよ……」
「酒かい? おい、え? お燗がついてる? どうもさっきからなにかいい匂《にお》いがしやがったけど、おれァ畳の匂いだけじゃあねえとおもったんだ。ほんとうか?」
「いいえもう、こうやって若い衆の二、三人もいるんだし、いつおまえさんがお酒を飲んだってお得意さまへご不自由をおかけ申すようなことはないとおもってね、もう今夜っからはおまえさんにお酒を飲んでもらってもいいなあとおもってさ、好きなものも二品三品こしらえといたんだけど……」
「そうか、いいのか、ほんとに飲んでも、え? そうか、飲みたかったんだよ……ありがてえなあ、おっかァ、おおお、茶碗のほうがいいや、久しぶりだ、猪口《ちよこ》なんぞでちびちび飲んじゃあいられねえや……注《つ》いでくれッ、おッとと、(湯飲みの中をしみじみと眺めて)どうでえいい色だな、え? ぷうんと匂《にお》やァがる、匂いをかいだだけでも千両の値打ちがあンなあ、(一つ、頭を下げて)暫《しばら》く……、いいんだな? ほんとうに飲んでもいいのかい? おい……ああ、ありがてえなあ、たまらねえや(と、湯飲みを口もとまで持っていって)あ! よそう……また夢になるといけねえ」
[#ここから2字下げ]
≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「落語ははっきり、物語の世界に遊ばせた聴客を一瞬に現実にひき戻す、そしてだました方が快哉《かいさい》を叫べば、だまされた方も『してやられたな、あっはっは』……ということになる、言わば知的なお遊びです」――これは桂米朝の言葉で、もっともよく落語の本質を表現した名言だと思う。
この噺もまた、この名言にたがわぬ名作である。武藤禎夫著『落語三百題』の〈鑑賞〉によれば、「三遊亭円朝が〈酔払い・芝浜・革財布〉の題で即席につくった三題噺といわれているが、『円朝全集』中にも見えず、明らかではない。「大仏餅」[#「「大仏餅」」はゴシック体]同様、幕末時の三題噺の会でつくられた祖型に、円朝が手を加えて……人情噺に仕立てたものであろう」とある。円朝以後は、四代目三遊亭円生、四代目橘家円喬、初代談洲楼燕枝、初代三遊亭円右と継承され、磨かれて、人情噺としてきわめて大きな地位を占めるものとなった。円朝の作品は「塩原多助一代記」「真景累ケ淵」「牡丹灯籠」など芝居に移入されたものは数多いが、この噺も「芝浜の革財布」と題され、六代目尾上菊五郎によって上演された。
記憶に新しいのは、三代目桂三木助の十八番となって、芝浜での日の出のすがすがしい感嘆の描写――昔は、東京湾で取れる小魚を朝夕二回ここの河岸《かし》で卸《おろ》した。主に棒手振りの連中が買い出しに来て、江戸前の、芝魚《しばざかな》といって多少価格が高かった、という――と、三年後の大晦日、除夜の鐘を聴きながら夫婦が差しむかいで――世帯を持って以来、初めての機会――福茶を飲みながら、門松の笹の葉がさらさらとふれあって雪の降るように聴く、繊細な感覚が織り込まれ、文学的な香気と情感を漂わせる、近代の落語史上、不朽の名作にまで高めた。
三木助死後は、十代目金原亭馬生が、また別の視点から工夫、演出し、演じていた。
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掛取万歳《かけとりまんざい》
江戸っ子の生まれ損《ぞこ》ない金を溜《た》め
という川柳がある。江戸っ子は宵越しの銭を持たない。その日|稼《と》ったものはその日に遣《つか》ってしまう。明日はあしたの風が吹く、どうにかなるなんて、世の中が安直だったせいもある。……がまた、溜めようもなかったのかもしれない。
ところが、江戸っ子がどうにもならないときがある。一年の大晦《おおつごもり》。大晦日《おおみそか》。三百六十五日積もりに積もっての大晦だから、どうにもならない。
そのころの川柳に、
大晦日|箱提灯《はこぢようちん》は怖《こわ》くなし
箱提灯というのは武士《さむらい》が持って歩く、ふだん見ると怖《こわ》い。しかし、大晦日だけは掛取りが持って歩く弓張《ゆみはり》提灯のほうが怖い。
押入れで息を堪《こ》らして大晦日
大晦日どう考えても大晦日
大晦日いまは臍繰《へそく》り当てにする
大晦日ますます恐い顔になり
大晦日猫はとうとう蹴飛ばされ
大晦日もうこれまでと首縊《くびくく》り
元日や今年もあるぞ大晦日
「ちょいとおまえさん、どうするんだよ、どうするつもりだよ」
「なにを?」
「なにをじゃないよ、今日は大晦日なんだよ……落ち着いてちゃいけないよ、借金取りが来るんだよ」
「来たってしょうがねえ」
「しょうがないじゃあすまない、どうして払うよ」
「払うよったって、おめえ。銭がねえものはしょうがねえじゃあねえか。いよいよいけなかったら、去年のでん[#「でん」に傍点]で追っぱらおう……」
「去年の?……また死んだふりをしようてのかい? いやだよ、あんなばかなこと……万事おれが心得てる、任しとけってえから、あたしァ、どっかでお金でも借りてくるんだとおもったら、大きな早桶《はやおけ》を担いで帰ってきて、こん中ィ入って死んだふりをしているから、おまえがその、涙をこぼして言いわけをしろって……そんなばかなことはできないじゃないかったら、やらなきゃしょうがないてえから、出もしない涙を、方々つねったりなんかして、こういうわけで、急に亡くなりましたてえと、向こうも死んだんじゃしょうがないから、帰ってくれたが、そのうちに家主《おおや》さんが来て、どうしたてえから、こういうわけで、急に死なれて途方にくれておりますてえと、あんないい人だから、それァまあとんだこった。おまえもさぞ、困るだろうが、あとあとはまた、なんとでも相談に乗ってやるから、これァほんの、心ばかりだが香奠《こうでん》だと言って、いくらか包んでお出しなすったけども、そんなものはいただけやしないやね。あしたンなればおまえが生き返んのァ、こっちはわかってんだから、もう思召《おぼしめ》しで結構ですと押し戻《もど》したら、なんだいおまえさん……早桶の中から手を出して、せっかくだからもらっとけっ……家主《おおや》さん、きゃーっと言って、裸足《はだし》で逃げ帰っちゃった……その置いてった下駄をはいて、おまえさん、家主《おおや》さんの家《うち》ィご年始に行ったろう」
「ふっふっふ……そんなことがあったっけなあ」
「そんなことがあったっけじゃないよ。……その挙げ句に腹がへったからなんか買ってこいって……お金なんかありゃあしないじゃないかって言ったら、そこに家主さんの置いてった香奠があるから、焼き芋でもなんでもいいから買ってこいって……しょうがないから焼き芋を買ってきて、おめえにあてがって、食べているところへ、炭屋のおじさんがきて……そりゃまあとんだことをした、永年のお馴染《なじ》みだからお線香を上げたいからって、おじさんが棺のそばへ行った。そのあいだ食べるのをよしゃあいいじゃないか。食らい意地がはってるから、中で割っちゃあ食べてんだろう? 早桶の縁《ふち》からポーッと煙が出ている。おじさんが変な顔をして、おみつ[#「おみつ」に傍点]さん、おまえ、仏さま茹《う》でたのかいって……仏さまを茹でるやつァないやね……そのうちにおまえ、中でもってプッーゥ……って、あたしゃあまあ、あんときばかりはどうしようかとおもったね」
「……おれもどうも、やるにはやったが、息の抜け場がねえんで弱っちゃった、どうも……こんだうしろへ穴ァあけよう」
「なにを言ってるんだね、いやだよあたしァ、あんなばかなことは」
「じゃあ、まあ他の手を考えよう」
「なんかいい智恵があるかい?」
「好きなものには心を奪われるてえことを昔から言うじゃねえか、借金取りの好きなもので言いわけをして追っぱらってやろう」
「そんなうまい具合いにいくかい?」
「いくんだよ、まあ見ていろ。おっ、だれか来たな……」
「家主《おおや》さんだよ」
「家主はなにが好きだ?」
「あの人は、狂歌家主ってえくらいだもの、狂歌が好き……」
「よし、わかった。おまえがそこに顔を出しちゃあまずいから、そっちィ引っ込んでな」
「はい、こんばんは……いるかい?」
「おや、いらっしゃいまし、どうぞお上がりを……」
「いや、お互いに忙しい大晦日だ、上がってもいられないよ。これから方々まわるんだが、おまえの家《うち》は、店賃《たなちん》が、五つ溜まってるな」
「へーえ、五つ? 店賃が? そりゃあどうも、よく溜まった……」
「よく溜まったって、よろこんでちゃあしょうがないよ」
「五つてえのもなんですから、もう一つ増やして六つにしますから、そのへんで、流すということに……」
「おい、冗談《じようだん》言っちゃいけないよ、店賃と質屋とまちがいちゃいけないよ」
「エエ冗談はさておきまして、ほかのものとちがって、なにはさておいても、雨露を凌《しの》がしていただいている店賃、お払いをしなければあいすいませんが、じつは、好きなものに凝《こ》りましてねえ、へえ、狂歌に……。また、やってみると、あんな風流で、おもしろいものはありませんねえ」
「なァにを言ってるんだ……あたしが狂歌が好きだから、そんなことで誤魔化《ごまか》そうてんだ」
「いいえ、誤魔化すどころじゃない、まったく狂歌に凝りまして、もうばかな凝りかたで……狂歌(今日か)明日《あす》かてえぐらい」
「なんだ、いやな洒落《しやれ》だな、どうも……ほんとうに凝った? うーん、それは感心だ、あたしも、二十六軒|店子《たなこ》を持っているが、狂歌に凝ろうなんという風流な者は一人もいない。おまえがその道に心を寄せるというのは感心だ」
「じゃあ、店賃はいらない?」
「だれもそんなことは言っちゃいないよ。しかし、やったのがあるかい?」
「ええー、こういうのはいかがでしょう。『何もかも、ありたけ質に置き炬燵《ごたつ》、掛かろう縞《しま》の布団だになし』と……」
「なに? 『何もかも、ありたけ質に置き炬燵、掛かろう縞の布団だになし』……うーん、なるほど、おもしろいなあ」
「貧乏という題でやりましたが『貧乏の棒も次第《しだい》に長くなり、振りまわされぬ年の暮かな』」
「うん、おもしろいなあ」
「『貧乏をすれば口惜《くや》しき裾綿《すそわた》の、下から出ても人に踏まるる』」
「うん、うまいな、貧乏がよく表われているな」
「『貧乏をしても下谷《したや》の長者町《ちようじやまち》、上野の鐘のうなるのを聞く……』」
「なるほど……」
「『貧乏をすれどこの家《や》に風情《ふぜい》あり、質の流れに借金の山』」
「風流だな……」
「エエ『貧乏の……』」
「なんだ、おまえのは貧乏ばかりだな、どうも……貧乏を少しはなれなくちゃいけない。おまえばかりにやらしていてはなんだから、あたしもひとつやってみようか?」
「家主さんが? ぜひうかがいましょう」
「どうだ、『貸しはやる……』」
「へっ? 貸しはやる?……どうもありがとうござい……おいおい、おみつ、ちょいとお礼を申し上げな……」
「な、なん……ほんとうにやるんじゃない、狂歌だ」
「あ、そうですか……いいよ、礼は……うん……ああ、狂歌……へへへへ……やれやれ……」
「なんだ、がっかりするやつがあるか……『貸しはやる、借りは取らるる世の中に、なにとて家主《おおや》つれなかるらん』と……」
「(芝居がかって)女房よろこべ、狂歌がお役に立ったわやい」
「冗談じゃあない、おい……しかしおまえが『菅原』もどきで言いわけをするんなら、あたしも決して、時平《しへい》(酷《ひで》え)ことは言わない、桜丸の散る時分まで、松《まつ》(待つ)王《おう》としてやろうか」
「そう願えましたら、来春《らいはる》は必ず店賃の方も梅《うめ》(埋め)王《おう》にいたします」
「よしよし、ではまちがいのないように、頼みましたよ……」
「えーえ、どうも、お寒いところをご苦労さまで……へっ、どうぞ、お気をつけて、へっ……ごめんください……ふっふふ……見ねえな、おい、よろこんで帰《けえ》っちゃった」
「へえェー、うまくいくもんだね。おまえさん、言いわけはうまいねえ……どこでそんなこと覚えて来たんだい?」
「寄席《よせ》へ行くとみんな噺家《はなしか》がこんなことをやらあな」
「へえェー、寄席てえなァためになるねえ」
「ああ、なんでも落語は聴かなくちゃいけませんよ、なんかいいことがあるよ」
「ちょいと、また来たよ」
「だれだ?」
「魚屋の金《きん》さん……」
「魚屋の金公はなんか好きなものがあるのか?」
「あの人は……喧嘩《けんか》が好きなんだよ」
「喧嘩? そんなのはだめだよ、なんかほかにねえのかい、踊りか唄かなんか……」
「ないよ。喧嘩がいちばん好きなんだから、あの人は……」
「おっそろしいどうも、厄介《やつけえ》なやつが来やがった……じゃあ、薪《まき》ざっぽう持って来い」
「およしよ、この人ァ。怪我でもしたらどうする」
「黙って持って来いってんだ。手拭《てぬぐい》をとってくんな……なに向こう鉢巻だ。よしと……ちょいと大きな声でどなるかもしれねえが、出るんじゃねえぞ、いいな」
「こんばんは……ええ、こんばんは……」
「だれだっ」
「……おどかすない……おれだよ……魚屋だよ」
「なにをゥ? この野郎……魚屋の金公だな……とんでもねえ野郎だ……こっちィ入《へえ》れっ」
「なんだァ……たいした勢いだな、ええ? なんだい、向こう鉢巻をして……まあどうでもかまわねえけども、おめえンとこの勘定は長すぎらあ、……冗談じゃあねえやな、いつまでたったって、おめえ、帳面の締めくくりがつきゃあしねえや、ま、銭ァわずかだが、今日は大晦日だから、勘定をもらおうじゃねえか、ええ? おゥ」
「……じゃあ、なにか? てめえ勘定取る気か?」
「あたりめえだな、取る気かったって、貸しがあるものを取ろうてえな不思議はねえじゃあねえか」
「じゃあおれのほうでも、借りがあるから払おうと、こう言やあいいんだろうが、なにしろ銭が無《ね》えんだからしょうがねえ、なあ、逆さに振るって鼻血も出ねえン……ま、昔から無《ね》え袖は振れねえってたとえもあるし、おめえのほうでもわずかな銭をと言ったんだ、わずかなものを取ったってしょうがねえだろう。まあ払える時期が来たら払ってやるから、四の五の言わずに黙って帰《けえ》れ」
「やいっ……こん畜生、ふざけたことを言やあがる、四の五の言わずに帰れ? な、なんだ、その言い草は? 勘定は払えねえ? てめえのほうで、そういうふざけたことを言やあがンなら、銭のできるまではここを動《いご》かねえぞ、おれァ」
「この野郎、無《ね》え銭をおめえ取ろうってえのか?」
「あたりめえよ、そう言いたくなるじゃねえか、ええ? 人間ふだんが肝心だ、こねえだだってそうだ。おれが表でおめえに会ったら、てめえ、人の面《つら》ァ見て、傍《わき》ィ向いて、すうっと曲がったろう? いやな真似ェするない、こん畜生め。ああいうときになぜ言いわけのひとつも、おれにしねえんだい、おまはんとこには借りがあって、長びいてすみませんが、とても大晦日は払いがつきませんから、春まで待っておくんなさいましと、ひと言頼まれりゃ、忙しいのにえっちらおっちら[#「えっちらおっちら」に傍点]来るかい、……無《ね》えものは払えねえ、そういう……てめえのほうでふざけたことを言やがンなら、おれのほうでも意地だ、金ができるまで動《いご》かねえぞ、おれァ」
「……じゃあなにか? 勘定取らねえうちは動かねえてんだな?」
「一寸《いつすん》も動かねえ」
「よゥし……おれも男だ、てめえに勘定を払うまでは一寸も動かせねえからそうおもえ」
「ふっ、こいつァおもしれえ、じゃ、もらって行こうじゃねえか」
「もらって行こうてえが、あるものを出さねえんじゃねえんだ、なにしろいまも言うとおり、百も無《ね》えんだ。ま、人間は七転び八起き、いつ何時《なんどき》銭が転がってこねえたあ限らねえ、銭が入《へえ》り次第《しでえ》、なにはさておいてもおめえに先ィ勘定ォするから、ま、できるまで、半年《はんとし》でも一年でもそこへ座ってろい、そこへ」
「……うんっ……ふン……ふンっ……おいおい、冗談はよそうじゃねえか、ええ? おめえンとこ一軒でおれァ商売してンじゃねえんだから……方々まわらなくちゃならねえんだ、大晦日で忙しいんだから……」
「忙しいか忙しくねえか、そんなことは知らねえや、おめえのほうじゃ勘定を取るまでここは一寸《いつすん》も動かねえと言ったんだ、ああ、おめえのほうで動かねえてえものをおれが無理に動かせようとは言わねえんだから……気のすむまで、一年でも二年でも座ってりゃいいじゃねえか」
「そうはいかねえやな……じゃなにか? ほんとうに無《ね》えのか、払う銭は? ちぇっ、しょうがねえなあ……じゃこうしよう。二三軒まわって来るから、それまでに、なにもそっくりとは言わねえよ、気は心だ。まあちょいとでも形をつけてくれりゃいいんだから、な、頼まあ、な、あとでおれはこっちィまわらあ」
「おい、待て待て、おい。逃げんのか?」
「なんだあ、逃げんのかとは? だれが逃げたい」
「勘定のできるまではおめえ、ここを一寸《いつすん》も動かねえと言ったんだろう、動かねえなら動かねえで、そこへじいィっと座ってりゃあいいじゃねえか。でえいちなんだ、勘定を取ろうてんならふだんが肝心だぜ、ええ? こんなことを言いたかあねえけども、おれがこねえだ表でてめえに会ったら、他人《ひと》の面ァ見て、傍《わき》ィ向いてすうっと曲がったろう、いやな真似するない。ああいうときになぜおれに、催促のひとつもしねえんだい、てめえンとこにゃあ貸しがある、大晦日には取りに行くから、まちげえなくこせえとけと言われりゃあ、どんな無理算段をしてもこせえようじゃあねえか。てめえのほうで知らん面《つら》ァしているから、こいつァ大晦日にゃあ来ねえんだなと、こうおもうからこっちァこせえとかねんだ」
「なァにを言ってやんでえ、いまおれの言ったこっちゃねえか。世の中にてめえくれえ図々しいやつァいねえや……おれァ忙しくてしょうがねえ、てめえなんぞにかまっちゃあいられねえ。帰らァ、おれァ」
「おいおいおい、待てよ、おい、勘定取ったのか?」
「この野郎、いいかげんにしねえと張り倒すぞ、こん畜生……取ったかって、取るわけがねえじゃあねえか」
「取るわけがねえっ……て、じゃあ取らねえんだろ? じゃあなぜ動くんだよゥ、おめえここを一寸《いつすん》も動かねえと言ったんだろう。男がいったん歯から外へ出して動かねえと言ったんだろう。できるまでは何年でも座っていりゃあいいじゃあねえか、それともなにか? 動くにゃあ、取ったのか? 勘定は……おゥっ、はっきりしろいっ」
「……うんっ……ちぇっ、じゃあ、もう……面倒くせえ、もらったでもいいよ」
「なに?」
「もらったでもいいよ。……もう、面倒くせえから……いいよ」
「いいよじゃねえ、もらったんならもらったと、はっきり言えよ、はっきり」
「もらったよっ……」
「もらったんなら受け取りを置いてけよ」
「受け取り? けっ、あきれてものが言えねえや、ほんとうに。世の中にこんな人を食った野郎はいねえや……ほら、持ってきやがれっ」
「なんだ、叩《たた》きつけやがって……おいおい、これァまだ判《はん》が押してねえや、これ……」
「畜生、出せっ、こっちィ(と、受け取りをひったくって、判をとり出すと、めったやたらにやけっぱちで押して)いいか、これで」
「ふふ、じゃあ、これでおめえに勘定払ったな?」
「うんっ……もらったよ」
「なァんだい、その言い草は、もらったよってのは……おめえだって商人《あきんど》だ、ええ? 愛嬌《あいきよう》が大事だよ。毎度ありがとうとか毎度ごひいきさまぐれえなことは……」
「……いい加減にしろっ、取りもしねえ勘定をてめえにやった挙げ句におれがすみませんと言えるか言えねえか……」
「ほう、取りもしねえだと? 取らなきゃあ何年でもそこへ座って動くないっ……」
「あ、わ、わかったよ。言うよ、礼を言やいいんだろう……ありがとうがしたっ……」
「食いつきそうな礼を言ってやがら、ええ? ひと言《こと》いわれりゃアこっちだっていい心持ちだ。……いくらだ、勘定は……? 六円七十銭也と……ふふっ安い勘定だなあ、六円七十銭……いま十円札で渡したからお釣りを出しな」
「ふざけるなっ……」
「あっはははっは、怒って帰っちゃったよ」
「およしよ。いやだよあたしァ……どうなることかとおもった。あんなことしちゃってかわいそうだよ。……あらちょいと、また来たよ」
「よく来やがんな、だれだい?」
「大坂屋の旦那」
「なにが好きだ?」
「あの旦那は、義太夫がたいへんに好きだよ」
「義太夫? 手数のかかるやつが来やがったな……じゃあ……ちょっと、あの見台《けんだい》かなんかねえかい?」
「そんなものありゃしないよ」
「じゃあその、蜜柑箱《みかんばこ》でもなんでもいいから……持ってこい、こっちへ……ああ、よしよし。これを前にこう構えて……エエいらっしゃいっ、お一人さんご案内っ」
「な、なんや、なにしてんね……なんやその形は、ええ? 蜜柑箱を前に置いて、なにしてんね……ああ、どないでもええけども、あんたとこの勘定はもう、長すぎるわ。今日は大晦日や、勘定を払《はろ》うてもらおか」
「わしもあげたい……払いたい(と、義太夫の調子)」
「ほな、払《はら》ったらええやないかい」
「……払いたいとはおもォえエ…どォ…もォ、身は貧苦に、せめられて、あげますことォが…ァ…あ…ァ、できませぬゥ…っ」
「なんちゅう声を出すねン……阿呆《あほ》らしなってきた。浄瑠璃《じようるり》が好きやよってに、義太夫で断わりを言う、うーん、こりゃおもしろい。聞いてやりましょ。払えるのは、いつごろや?」
「さあ、その、ころかえ?」
「ほんな、おかしな声出しないな」
「ころはァ…如月《きさらぎ》ィ、初午や、桃の節句や、雛《ひな》ァあ済ゥんで、五月ゥ人形も、済んでエのォち、軒の灯籠やァ、盆ン過ぎィいて、菊ゥ月ィ済めェば、恵比寿講ゥ…オ、中払いやら大晦日、所詮《しよせん》、払いィは、できィまァせェぬ」
「そら難儀やな」
「それから先ィいは、十年、百年、千年万年、待ったァとォてえェ、エ、エエエエエエ、そのとき払いが……」
「でけるのか?」
「ちえェーえッ、おぼつかなァいィいっ…(と、首を振りながら声をふりしぼる)」
「なにを言うてんね、おぼつかなんだら困るやないか。ま、しゃァない、来春また来てみましょ」
「すいません」
「ほな、まちがいのないように頼みまっせ、はい、ごめん……」
「へい、どうも……と、帰ったぜ」
「まあ、ちょいとおまえさん、言いわけはほんとうにうまいよゥ、ねえ、隣の家にもずいぶん来ているようだけど、少しこっちィ引っぱってこよう」
「ばかなことを言うな、このうえ引っぱってこられてたまるもんか」
「ちょいと、おまえさん、また来たよ」
「よく来やがんだな、どうも……こんだ、だれだい?」
「酒屋の番頭さんだよ。あの人は芝居が好き」
「芝居か、よし。(声を張って)お掛取りさまのォ、おいりィ……っ」
「どこだい? 変なことを言ってやがんのは……ああ、八公のうちだ。ふふっ、おれが芝居が好きだもんだから、おれを上使に見立てやがって芝居仕立てで言いわけをしようてんだ。それならこっちもひとつ、芝居で催促をしてやろう……これじゃあいけねえから、風呂敷をこうひろげて……肩ィかけて(と、左の肘《ひじ》を曲げて張り)ええ? この溝板《どぶいた》を花道に見立って……」
「お、おい、見なよ、あの野郎。うふっ……腰から矢立を抜いて、なんだか風呂敷を肩へ引っかけて、形をつけてやがん……おいりィ…いっ」
(お囃子『中の舞』の鳴物。番頭、気取って入って来て、花道七三で見得をきる態)
「お掛取りさまには、遠路のところご苦労千万。そこは溝板、いざまず、あれへ……お通りくだされい」
「掛取りなれば罷《まか》り通る。正座《しようざ》、許しめされい」
「まず、まァず……」
(三味線よろしく花道から本舞台へかかる心。正面になおったところで、座をしめる)
「して、お掛取りの趣きを、この家《や》の主人《あるじ》八五郎に、仰せつけくださりようなら、ありがとう存じまする」
「掛取りの趣き、余の儀にあらず、謹《つつし》んで承われエ」
「ははァ……」
「ひとつ、このたび、月々溜まる味噌醤油、酒の勘定、積もり積もって二十六円六十五銭、丁稚《でつち》定吉をもって、数度催促に及ぶといえど、いつかな払わず。今日《こんに》った、大晦《おおつごもり》のことなれば、きっと勘定受け取りまいれと、主人|吝兵衛《けちべえ》の厳命、上使の趣き、かくの次第」
「その言いわけは、これなる扇面《せんめん》……」
「なに、扇をもって言いわけとな(鳴物『一丁入り』にかわり、扇子を開いて、読む)雪晴るる、比良《ひら》の高嶺《たかね》の夕まぐれ、花の盛りを過ぎしころかな……こりゃこれ近江八景の歌……この歌をもって言いわけとは?」
「(鳴物『世話合方』となる)心やばせと商売に、浮見堂《うきみど》やつす甲斐《かい》もなく、膳所《ぜぜ》はなし、城は落ち、堅田《かただ》に落つる雁《かりがね》の、貴殿に顔を粟津《あわず》(会わす)のも、比良の暮雪《ぼせつ》の雪ならで、消ゆるおもいを推量なし、今しばし唐崎《からさき》の……」
「松で(待って)くれろという謎か。して、そのころは」
「今年も過ぎて来年の、あの石山の秋の月」
「九月下旬か?」
「三井寺の、鐘を合図に」
「きっと勘定いたすと申すか」
「まずはそれまではお掛取りさま」
「この家の主人《あるじ》八五郎」
「来春《らいしゆん》お目に……」
「かかるであろう」
「(チャンという三味線のかしらに合わせて、扇をさっと開き、口の前をちょっとおおうようにして、鳴物は『只唄』になる)心のォこォしてェ……はっははは、行っちゃったァ」
「(芝居がかりで)おまえもよっぽどォ……」
「おいおい、なにもおっかァ、おめえが気取ることァねえや」
「でもおもしろかったよ……あらちょいと、また来たよ、三河屋の旦那が……」
「三河屋の旦那?」
「あの人はね、万歳が好きなんだよ」
「万歳てえと?」
「あの、ほら、お正月来るだろ?」
「ああああ、三河万歳……あれが好きなのかい? たいへんだな、こりゃあどうも……しかたがねえ、やってみよう……ははあえーえ、こォンれェは、こォンれェは三河屋どォん、矢立に帳面、手に持ォって、は、勘定ォ、取るとォは、さってもォ太い三河屋どん、そんそん……」
「なにがそんそんじゃ。勘定取るがなにが太い?……あァ、わしが万歳が好きじゃによって、万歳で言いわけをしようという……うん、こらおもろい、待ってくれなら待っちゃろか(と、万歳調)」
「待っちゃろか」
「待っちゃろか、待っちゃろかァと、申さァば、ひと月ィか、ふた月か」
「なかァなかァそんなことじゃ勘定なんざあできねえ」
「はァ、できなけれェば、待っちゃろかと申さァば、ずゥと待って一年か」
「なかァなかァそんなァことで勘定なんざあできねえ」
「はァ、できなけれェば、二ィ年か、三年かァあ四ォ年か、十年べえもォ待っちゃろか、こけえらァじゃどうだんべえ」
「なかァなァあかそんなァことでは勘定なんざあできねえ」
「はァ、できなけれェば、二ィ十年、三十年が五ォ十年」
「はァ、なかなァあかそんなァことでは勘定なんざあできねえ」
「はァ、できなけれェば、六十年、七十年が八十年、九十年《くじゆうねん》も待っちゃろか、はァ、こけらァじゃどうだんべえ」
「はァ、なかァなァかそんなことでは勘定なんかできねえ」
「ばかァ言わねえもんだな、そんじゃあいってえ、いつ払えるだァ」
「あァら、百万年も過ぎてのち、払います」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「大晦日」――気候的にも瀕死、心身ともにこと切れようとする時季に、一つの区切り、総決算をこの時期に選んだのは、人間の、日本人の、ながい歴史のなかで培った感覚なのであろうか。今日のように、三月決算、上・下二半期の決算などに切り替わってから、人の気持ちもだいぶ楽になったのではないか。ひと時代昔までは、歳末はあらゆることの締めっくくり、終結《ピリオド》が打たれる、人世諸相の〈縮図〉が見られた、それを反映して落語も「芝浜」「文七元結」「富久」[#「「芝浜」「文七元結」「富久」」はゴシック体]など、名作が多く、さらに「尻餅」「言訳座頭」「睨《にら》み返し」「狂歌家主」と続く大晦日への拍車の……この「掛取万歳」[#「「掛取万歳」」はゴシック体]は、放たれた一つの〈イヴェント〉なのである。
まずこの噺の主人公《ぬし》は、この『落語百選』の登場人物中、比類なき強者、剛者《つわもの》であり、真山青果の、『人斬り以蔵』の「貧乏というものは、代々人を掠めなかった、人を苦しめて盗まなかったという立派な証拠だ。自慢することなのだ」の言葉を地で行き、ぎりぎりのどたん場で踏んばり、しかも敢然《かんぜん》と立ち向かう。逆境で強い人間ほど強いものはない。それも相手を叩きのめすのではなく、次々に訪れる借金取りを快刀乱麻のあざやかさで、道化《フアース》にし、遊びの精神に転化してしまう。その生活力《ヴアイタリテイ》と楽天性は、非情な桎梏《しつこく》の現実のなかで生きる人びとを、最後のところで支えてくれるものにちがいない。歳末期を選んでこうした演目《レパートリ》が寄席で演《や》られ、聴客は主人公を英雄のように頼もしく思い、「そのいきそのいき」と、笑いの底で喝采し、心に受けとめ、慰められた。……寄席が大衆とともにあった――と言われるのは、こうした強い繋がりがあったからにほかならない。
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御慶《ぎよけい》
江戸っ子のあいだに富籤《とみくじ》というものがたいへんに流行《はや》った時代がある。
江戸の三富として有名なのが、谷中の感応寺、目黒の不動、湯島の天神で、文政から天保にかけて、この三富だけに限って毎月二度ずつあった。
そのころ、富の札《ふだ》は一枚|一分《いちぶ》……一分は、一文銭に直すと一千文、その時分の職人の一日の手間賃が約三百文から五百文だったから……一分は、ちょっと大金……。しかし、これで、大富《おおどみ》の千両に当たれば……一分金が四つで一両、その千倍になる……千両あれば長者番付へのるくらい、ふつうの人間が、一生かかっても手に入れることのできなかった大金だから、江戸っ子が夢中になったのも無理はない。
そのころの川柳に、
「一の富どッかの者が取りは取り」
だれかに当たるにはちがいないが、そうそう当たるものではない。で、富に夢中になって、身代を潰《つぶ》したという者もいくらもいた。
「富籤の引き裂いてある首|縊《くく》り」
一つ当たれば一夜|分限《ぶげん》というので、稼業はそっちのけで、一枚一分の札をなけなしの金をはたいて、買うことになる。
そのために、夫婦|喧嘩《げんか》の絶えない家もずいぶんあった。……
「どうするんだい、この人ァ。あきれかえっちまうねえ。暮れの二十八日だというのに、おかちん[#「おかちん」に傍点]一切《ひとき》れないじゃァないか。そればっかりじゃァないよ、米も切れてるよ、醤油も切れてるよ、味噌も切れてる、塩も切れてらいッ」
「よく切れてやがんな、ほんとうに。ほかになにか切れねえもなァねえのか」
「菜ッ切り庖丁《ぼうちよう》が切れないやいッ」
「なに言ってやがんでえ、そんなもなァ切れたほうがいいんだい。さッ、なんでもいいから一分だけ都合しろいッ、いい夢えみたんだからよゥ」
「なに言ってんだよ、一文の都合だってつきゃァしないよ。ねえ、ほんとに、富なんぞに夢中ンなってやがって、こんな夢みた、あんな夢みたなんてやがって、そうしちゃあ始終損ばかりしてやがら。とてもおまえとなんぞと一緒ンなってられないよ。うだつ[#「うだつ」に傍点]ァ上がらないよ、離縁しとくれ、えッ? 離縁しとくれよ、去り状書いとくれッ!」
「なにを言ってやんでえ、畜生め、朝っぱらから、ほんとうに。え? おまえその半纏《はんてん》脱げ、半纏を……そいでおれァ質屋に談じこんで、おれァ一分こしらえるから」
「冗談言っちゃいけない、こんな半纏で一分貸すもんかい」
「いいよ、おれァ頼むからよ」
「だめだってんだよ。盆正月が来たってこれ一枚しきゃないんだよ。これァおまえ、おっかさんの形見だよ」
「そんなことォ言うねえ、形見だっておめえのもんじゃねえか、女房のものは亭主のもの、亭主のものは亭主のもんだ」
「じゃああたしのものはないじゃあないか」
「ぐずぐず言うねえ、いいからそれ脱ぎねえッ」
「だめだってのに……いけないよッ」
「なにを言ってやんでえ、こん畜生ッ、脱がねえとひっぱたくぞ、蹴倒すからこん畜生ッ」
八五郎は、女房の半纏を腕ずくで引っぱがして、これを質屋へ持ちこんで、貸せないという番頭を無理に拝み倒して、一分の金をこしらえると、湯島の札場へ飛んできた。
「おうッ、すまねえッ、札ァ一枚もらいてんだ」
「へえへ、番号にお好みは?」
「大ありなんだよおめえ、なにしろ昨夜《ゆうべ》の夢見がよかったんだ、え? 正夢《まさゆめ》てえやつよ。鶴が梯子《はしご》の天辺《てつぺん》へ止まってよ、すうっとこう羽根を広げてるんだ。いい夢だろ? え、おい? 鶴は千年てえから鶴の千ととめてね、梯子だから八、四、五、となあ、鶴の千、八百四十五番、この番号、ひとつもれえてんだがね」
「ああ、さようでございますか……よろしゅうございます、お待ちくださいまし……このところ湯島もたいへんできがよろしゅうございますんで、たしかにあるとはお請けあいはできませんが、ただいま調べますでございますから……エエ、おやッ、これはどうも……ああ、たったいまでした、その番号を買ってお帰りになった方がございます」
「えッ売れちゃったッ? 一足《ひとあし》ちがい? その番号かい、おいッ? そいつァ困るな、今日の明け方から買おうとおもって……そりゃおれの番号じゃねえか」
「おれの番号とおっしゃられても、こちらは先にお買い求めの方がいらっしゃれば、これはもう、その方にお売りするよりいたしかたがないんで、まことにどうもお生憎さまでございます」
「おい、冗談じゃねえぜ、それが千両になるんじゃねえか、よ、おい……じゃ、こうしようじゃねえか、その、鶴の千八百四十五番、もう一枚こさえてもらおうじゃねえか」
「あなた、そんな無茶なことおっしゃっちゃいけません」
「だめかい? あああ……情けねえ」
「いかがでしょう? まだ両袖が残っておりますが……」
「なに言ってやがんで、袖なんか買ってみたって当たりっこねえじゃァねえか、その番号でなくっちゃだめだいッ。ほんとうになァ、もう一足《ひとあし》か、えッ? どっちィ行った? そいつ」
「さァ、どっちへ行ったかわかりません」
「わかりません?……なんとかならねえかね、千両富に当たったら、その野郎とおれと山分けにするってなあ……」
「そんなことはできませんなあ」
「畜生ッ、ほんとうに……かかあン畜生が早く半纏脱ぎやァいいんだい、質屋の番頭だってそうだい、ご託ゥならべてやがって早く貸しゃァこんなことにならねえんだ、ほんとうに……かかあが五百両、質屋の番頭が五百両、畜生め、千両泥棒め、畜生、情けねえなあ……」
「ああこれこれ、そこへ行く方? だいぶ心配事があるようだな? 見て進ぜようか、これ……」
「なんでえ、占《うらね》えか……」
「ああ、さあさあこっちィおいで、こっちィ、手相は無料《ただ》で見て進ぜるぞ、なんだ? 縁談、金談、失《う》せ物《もの》、失踪人《はしりびと》……」
「おうおう、そんなものじゃねえんだい、じつはね、おれァいい夢を見たんだけどな」
「ああ夢判断か、いや、それはわしの得意とするところだ。ああ、よろしいよろしい、さあ黙っておいで、黙っておいで、エエしゃべらないでいい……」
「ふうん? 黙ってていいのか、黙ってておれの見た夢がわかんのかい?」
「いや、一応はしゃべってごらん。あとは黙っておいで」
「じゃあたりめえじゃァねえか。じつはねェ昨夜《ゆうべ》、梯子《はしご》の天辺へねェ鶴が止まってね、こう羽根を広げているといういい夢を見たんだよ。で、鶴は千年ってえし、梯子《はしご》は八四五だ。だから鶴の千八百四十五番てえ富札を買やあ、おめえ、千両富に当たるじゃねえか、なあおい先生ッ」
「ああ、なにかとおもったらおまえさん、富に凝ってなさるな、うん。およしおよし、富なんてえもなァこりゃァ当たるもんじゃァない、それは非望の欲というもんだ。一分で千両当てようというのが、こりゃァ図々しいなァ、ありゃァ当たるもんじゃァない。あたしが請けあう、やめなさい」
「あれっ、この野郎、つまんねえことを請けあうない。千両当たらねえと、おれンとこじゃ、かかあと離縁になっちまうんだ……おい、なんとかしろいッ」
「おや、急に涙ぐんだな。よほどおもいつめたとみえる……まあよろしい、見て進ぜよう。ああなるほど、鶴が梯子の天辺《てつぺん》に止まったので、鶴の千ととめて、梯子だから八百四十五番か、……これは、失礼だが、素人《しろうと》了見」
「なに? 富の札に素人も玄人《くろうと》もあるのかい」
「おまえさんに聞くが、梯子は昇るものか、降りるものか」
「なにをおさまりけえって、つまらねえことを言うんだ。昇ったり降りたりするから梯子じゃァねえか」
「それにはちがいないが、まあ、たとえば、あなたが仮に、二階にいたとする」
「自慢じゃねえが、おれんとこは平屋《ひらや》だ。二階なんぞあるもんか」
「いや、いばらんでもよろしい。まあ、仮に二階があったとして、下に急用ができて、降りようというときに、下から梯子を取られたら、おまえさん、どうなさる?」
「なに言ってやんでえ。おらあ、身が軽いんだ。ひょいと飛び降りらあ」
「なるほど、飛び降りるか。では、二階に急用があって上がろうとするときに、上から梯子を引かれたらどうする?」
「おらあ、身が軽いんだ。ひょいと……うーん、飛び上がる……ほうは無理だな」
「さあ、そこだ。もとより梯子は、昇り降りのためにあるもの、だが、肝心なのは上がることだ。そこでおまえさんの言う、鶴の千八百四十五番だが、八、四、五、と降りずに、下から上へ昇るように読んで、鶴の、千、五百四十八番のほうを買わなければ、当たらないな」
「なるほど、うめえね。さすがは商売商売だ、言うことがすがれて[#「すがれて」に傍点]やがら、下から上へ、鶴の千、五百四十八番かい、ありがとうよ」
「ああ、これこれ、見料を置いてきな」
「見料? そんなものいらねえ」
「おまえさんがいらなくても、わたしがいる」
「そんなもの、当たったら、いくらでも払ってやらあ……へへへ、ありがてえ、ありがてえ、畜生、ほんとうに……おうおう、札くんねえ札くんねえッ」
「あ、また来ましたよ……何度おいでんなりましても先ほどの番号はございません」
「なにを言ってやがんでえ、さっきの番号? あんなもなァ素人了見だってんだ。梯子は下から上へ上がんなきゃいけねえ。鶴の千ときたら、五百四十八番、その番号、あるか?」
「はいはい、少々お待ちを。鶴の千五百四十八番ですな……ございました」
「えッ、ある? 畜生めッ、それ、それ、それをくんねえ」
「へいへい、それでは、お代を?」
「おう、一分、ここへ置くぜ……うーん、鶴の千五百四十八番、こいつだ。ありがてえありがてえ……当たったッ」
「そりゃ突いてみないでは、お請けあいはできませんので、まだわかりませんよ。でも、まあ、その了見でなくちゃァ、富札なんてものは買えませんねえ」
「なにを言ってやがる。当たったっててめえなんぞにやらねえぞ」
「へえへえ、結構なこってございます。まもなく札を突きますので、境内の方へおまわりください」
「あたりめえよ。行かねえでどうするもんけえ、畜生ッ」
境内は、時刻が迫ってくると、人、人、人……で一杯、うおッうおッというわれっ返るような騒ぎ。寺社奉行が同心をしたがえて、町役人、世話人なども羽織、袴といういでたちで拝殿へずらりと控えている。祝詞《のりと》がおわると、正面に据えられた富の箱――高さ三尺五寸、横二尺、幅三尺五寸、箱の中には、番号の書いてある縦四寸、幅一寸の木札が入っていて、この札が富を買った人の人気《じんき》で動いた、というくらい――これを世話人が二人出てきて、ガラン、ガラン、ガランと揺り動かす。そのうち稚児《ちご》が、柄が三尺七寸五分という長い錐《きり》を持って出てきて、目隠しをして、箱の蓋の中央に二寸四分の穴があいている、そこへ「御富《おんとみ》突きまァーす」という声がかかると、その穴へ錐を突く……わッわッ言っていた群衆が一瞬、しィんとなる。箱の蓋を左右から世話人が持ちあげると、目隠しをした稚児がぽォんと錐の先へ突き刺さった木札を差しあげて、そのまま、手を触れないで、場内に見せる。傍《わき》からこれを稚児がいちいち読みあげる。子供の声というものは、甲高《かんだか》く響く……口富《くちどみ》、中富《なかどみ》と、順に突いてきて、いよいよ本日の突留め……っとくると、千両富だからたいへんで、柝頭《きがしら》がちょォんちょォんと入って、
「突きまあ……す」
境内は異様に静まり返って、もの音一つしない。ぽォんと突きあげた札を……、
「鶴の千、五百、四十、八ばあん……鶴の千、五百、四十、八ばあん……」
「ああ……あ、……たッた、たッた……」
「なんだなんだ、変な野郎だな。立った立ったって座っちゃったじゃねえか、どうしたい?」
「たたた……」
「なにを? 当たったあ? おめえがかッ? 千両富にか? こん畜生、運のいい野郎だ、おうッ、こいつが千両富に当たったとよゥ」
「おう、早く行って金ェもらってこい、金をよ」
「た、た、た、た、た、た……」
「なに? 腰が抜けた? 無理もねえや、おうおう、みんな手伝ってやれ手伝ってやれ」
弥次馬連中がおもしろ半分に、わっしょいわっしょい担ぎこんで、帳場どころへぽォんと放り出した。
「ち、ち、ち、ち畜生、放り出しゃァがったい」
「どうなさいました?」
「いまね、この人が、千両富に当たったんで腰が抜けちゃったから、みんなで担ぎこんでやったんだ」
「そりゃあ、どうも、ご親切にありがとうございます。どうもお世話さまでございました。さあさ、あなた、どうぞこちらへ……」
「千両ウ、千両ウウウウ……あた、あた、あたた」
「あなた、しっかりなさいよ……まあ、無理もございませんが……さあ、札をこちらへ……」
「ふ、ふ、札は、これだ」
「ああ、たしかに当たっております。どうもおめでとうございます」
「早くくれよ、千両ウ、千両ウ……」
「まあ、落ち着いて、落ち着いて……おい、この方に、水を持ってきておあげ……さあ、あなた、まず、この水をお飲みになって、ぐっとお飲みになれば、気が落ち着きますから……どうです? 少しは落ち着きましたか? まあ、とにかくようございました。いや、なかには、千両当たったとたんに気がちがうなんて人がおりますからな……で、落ち着いたところでお話いたします。ご承知でもございましょうが、いますぐにお金をお受け取りになると、二割のご損になります。来年の二月の末にお取りになれば、千両そっくりお渡しいたします」
「じょ、冗談言っちゃァいけねえ、来年だなんて、い、い、いますぐもらいてえなッ」
「はいはい、それはよろしゅうございます、その代わり二割引けます、よろしゅうございますな? 二百両引けますでございますが」
「二百両? そ、そんなおめえずるい……」
「いや、いろいろとこの手数料やなにやかや引かれますので、これはそういう取りきめになっておりますので、それでよろしければ、ただいまお渡しいたします」
「い、い、いいよ、そうすっと、いくらンなるんだい?」
「八百両でございます」
「は、は、八百両と千両と、ど、どっちが多いんだい?」
「いえ、あなた、勘定がおわかりにならなくては困りますな。千両の内から二百両引けて八百両でございます。よろしいですか?」
「い、い、いいよいいよ、早くくれ早く、八百両ッ!」
「はいはい、ただいま差しあげます。ま、お待ちくださいまし。ええ、いかがでございますな? こういうことはよくありますことで、お持ち帰りになります途中、またまちがいがございますてえと、富興行にも差し支えますので、いったんお帰りになりまして、ご町内の鳶頭《かしら》でもお連れになって、でまあ威勢よく取りにおいでんなるというようなことになすっては?」
「じょじょ、冗談言っちゃァいけねえやな。そんなことしていられるもんけえ、家《うち》じゃァおめえ朝起きると、かかあが離縁をしてくれのなんのって、待ってやがんだからおめえ、と、とにかくすぐもらってこうじゃァねえか。こんなとこでまごまごしてたらまたおめえ二割引かれちゃ……」
「いえ、そんなに引きゃいたしません。ではご承知ならよろしゅうございます。……その三宝をこちらへ持ってきて、よしよし。ェェなにしろ大きいのではちょっと揃えかねますので、これは切餅でございます……一包みが二十五両、一分金で百枚入っておりますが、全部で三十二個ございます。……どうぞよくお改めんなってください。……よろしゅうございますな? かなりかさばりますが、どうしてお持ちになりますか?」
「うへー、これがみんなおれの金かい? ええ? いいのかい? じゃ、も、もらってくよ、いいね? ありがてえな、ありがてえな……どうやって持ってくったって、どこへでもみんな突っこんじまうから、大丈夫《でえじようぶ》だい。両方の袂《たもと》へ入れて……懐中《ふところ》ィ入れて……背中へも背負《しよ》って……うわーい、身体《からだ》じゅう金ンなっちまった……じゃいいんだね? おれァ帰るよ、こんなところへまごまごしたってまた引かれちゃうといけねえから……じゃ、帰るよ」
八五郎、立ち上がったが金の重みでふらふらして、地に足がつかない。
「おっかァ、……いま帰った」
「なんて面《つら》ァしてるんだい、真ッ青《さお》な面ァしてやがら、どうしたんだい? 土間へぶっ座《つわ》っちまって、なにをしてやがんだい? こっちィ上がったらいいだろ? お上がり、お上がりッ」
「手、手、手ェ引っぱッつくれ」
「なにしてやがんだい、ほんとうに……こっちィお上がりッ」
「そ、そんな、こん畜生、乱暴なことォするねえッ、いまてめえに見せるもんがあるから、おどろくなッ、おうゥ、なんでもいいからあとォ閉めろッ」
「てやんでえ、なんて顔ォしてるんだい? きれいにまた一分すっちゃったんだろ? ざまァ見ろッ」
「てやんでえ、いいから、しっかり閉めろッ、いいか、おどろくな……おう、こいつァなァ、切餅ってんだ、切餅ったって餅じゃねえぞ……これァおめえ一分金で二十五両|入《へえ》ってるんだ。いいか、見ろ、これで二つだ。五十両よ。ざまあみやがれ、さッ、どうだ、これでもって、七十、七十、五両だ。どうでえ、さッ、方々から出るんだ、これで……いくらだかわかンねえけども、おウおウ、見ろいッ、これをよ」
「まァ……、なんだいこれァおまえ? どうしたんだい、こんな大金、え? どうしたのさッ?」
「ど、どうしたもこうしたもあるけえッ、せ、せ千両富に当たったんでえッ、二、二割引きのな、八百両、八百両あるんだ、八百両!」
「……えっ、当たったの? 千両富に? あーら、うれしいじゃないか、だからあたしゃァおまえに富をお買い……」
「なにを言ってやんでえ畜生め、てめえ富ィ買うんなら離縁しろッたじゃねえか」
「当たらないからだよゥ……まァありがたいね、ほんとうにまァ、こんなにまァお金があって……こんなにありやァ、第一ね、あたしゃ気になってしょうがないんだけど、家主《おおや》さんとこの店賃《たなちん》、ずいぶんもう溜まってんだからね」
「そんなものォ心配すんない、こいだけ銭があるんじゃァねえか、いくつ溜まったか知らねえけどもよ、向こう十年ぐれえ一ぺんに払っちめえ」
「そんなおまえばかなことをしなくてもいいんだよ。それからね、あたしだって、こんなぼろを着てるのはいやだよ、春着の一枚も欲しいねえ」
「なに言ってやンでえ。そんなことォ心配《しんぺえ》するねえ、いいともいいとも、どんな着物だっておめえ、ちょいとなァ町内類のねえ着物をこさえろよ、な? 十二単《じゆうにひとえ》に緋の袴《はかま》なんか着ていろいッ」
「なに言ってんだい、そんな格好ができるもんかね、それからねおまえさん、頭のものが欲しいんだよ。表のね、魚勝ンとこのおみっ[#「おみっ」に傍点]つぁんがやってんだよ。あれァ珊瑚珠《さんごじゆ》の三分珠《さんぶだま》だとおもうんだがね、あたしゃうらやましくて……」
「いいじゃァねえか。三分珠? そんなしみったれたこと言うない、一尺珠ぐれえのこしれえろ」
「そんなのァありゃァしない。そいからおまえさんもなんだね、やっぱり春着がいるねえ」
「ああ、それなんだ。いつもおれァ、印半纏《しるしばんてん》着て、旦那のお供で年始まわりをしてるてえなァ気がきかねえや。こんだ、おれが旦那とおんなしような身装《なり》して、てめえ一人でまわりてえなあ」
「旦那みたい身ィ装って、裃《かみしも》つけてかい?」
「なんだか知らねえが、あの、突っぱった、おかしなものを着て、よく芝居《しべえ》のご上使が着てるようなやつを着てよゥ。そいつを、ひとつ誂《あつら》えてくんねえか」
「誂えるったって、この節季にいまからもう間に合やしないよ。それよりね、市ケ谷に甘酒屋ッて古着屋があるから、そこへ行けばなんでも揃うよ」
「おうおうそうか。そこへ行きゃァいいんだな。ありがてえ」
「そいからおまえねェ、裃つけたらやっぱり刀がいるねェ」
「刀か? いいかなあ」
「いいよウ、一本差す分にゃァ……あの辺に刀屋もあるからついでに買っといでな」
「じゃァちょっとこれから行ってくるがな、おれが出るてえとな、おめえ一人でもって物騒だ。いいか、布団敷いてな、その下へ金ェ敷いちまってな、いいか? その上でおめえ寝ちまいなよ、いいな? 眠っちゃっちゃいけねえぞ。そいからなんだ小便がしたくってもな、便所なんか行くんじゃァねえぞ、いいな。おう、その上へ寝てろ、座り小便してもかまうこたァねえからな」
「なにをばかなことを言ってんだい、大丈夫だよ。昼間だから心配ありゃァしないよ。じゃァ行っといで」
「へ、いらっしゃいまし」
「おめえんとこだな甘酒屋てえな?」
「へえへえ、さようでございます」
「おう、番頭さん、一つもれえてえものがあるんだがな?」
「へえへえ、かしこまりましてございます。ええ、なにを差しあげます? 印半纏《しるしばんてん》長半纏、ねんねこ……?」
「なにを言やあがるんだ。ばかにするな。こんな長半纏の汚《きたね》えのを着ているが、懐中《ふところ》にゃあ、金がありすぎて、身体《からだ》が冷えて困ってんだ。どうだ、裃ってえやつを知ってるか?」
「へえ?」
「いや、ちょいとわけありで、銭はあるんだが、正月には景気よく、裃を着て年始まわりをしようとおもうんだがなあ」
「へえ、あなたが裃をお召しに?……それは結構なこってございます」
「ああ、そうなんだ。着物から、帯から、裃から、残らず揃えてくれ」
「はいはい、それは……で、そのゥご紋はなんでございますな?」
「え?」
「ご紋はなんでございます?」
「ああ、紋か……おれんとこの紋は、ほれ、なんとかいうやつだ。あのゥ、丸いところへなによ……」
「紋はたいがい、丸か菱形、四角もございますが……丸になんでございます?」
「その、丸ん中にな、なんだか尻が三つかたまってるような……」
「ああ、酢漿《かたばみ》でございますか」
「ああそうそう、その、ばみ[#「ばみ」に傍点]だ」
「……? 酢漿は、剣がございましょうか?」
「なんだかわからねえ。まあいいやな、そんなとこァ、おめえのほうでなんとかみつくろって、ひとつ頼ま」
「あ、へえへえ、ええよろしゅうございます、またこのいろいろと柄もございますが」
「そりゃいいや、おまえのほうでね、なんでもいいから全部その、下へ着るものからなにからみんな揃えてくれりゃァいいんだ。そいからあの、チャラチャラいう雪駄《せつた》な? あれと足袋……」
「雪駄はそのてまえどもにはございませんが……」
「じゃおゥ、すまねえがちょいと小僧さんかなんかに買って来てもらいてえな、頼むぜ」
「あ、よろしゅうございます」
「それから刀ァ一本ね、差してえとおもうんだが……」
「てまえどもには刀はございません。これを少し四谷御門の方へおいでになりますと、二軒ばかり刀屋がございますんで」
「ああそうか、そいじゃァ、そいつァ帰《けえ》りに寄るからいいや。あ、揃ったかい、あ、どうも。いくらンなるんだい?」
「へえへえ、ありがとうございます……」
「なに? 十両? そいつは安いなあ、遠慮なく取んなよ」
「いえ、てまえどもはお負けもしないかわりに、けっして掛値をしてございません」
「そうかい、そりゃまありがてえな。じゃ、まあ、なんだい……おっ、小僧さん、骨折らしたな、こりゃ少ねえけど、小僧さん、藪入りの小遣いだ。取っときねえ」
「そりゃどうも……とんだご散財をおかけいたしましてあいすみません。では、どうぞよいお新年《とし》をお迎えください」
「おっありがとうよッ。……へッへッ、ああ、ありがてえ、ありがてえ、これでまあ着るもんは揃ったと……ああ、刀屋刀屋、おうごめんよ」
「いらっしゃいまし」
「ええ刀ァ一本もれえてんだがな」
「はあはあ、どのようなお刀がよろしゅうございますな?」
「なんでもいいからな、こう立派なやつを一つもらいてえんだ」
「はあはあ、立派なやつをと申しましてもいろいろとございますが、なにかその、作にお望みがございますか」
「柵《さく》も塀《へい》もねえんだい、なるたけ立派そうなやつを頼ま、銭金に糸目はつけねえ」
「へえ、では、これなぞはいかがでございましょう? 白鞘《しろざや》でございますが、揃いはまたどうにでもなりますが、ちょっとごらんになって……」
「ほ、ずいぶんこいつァ長《なげ》え刀だな? うーん、どうもピカピカ光ってて斬れそうだなあ。これはいくらなんだい?」
「はあ、これはその揃いを別にいたしまして、二百両でございます」
「そ、そんなおめえ大仰《おおぎよう》でなくったっていいんだよ、人ォ斬ろうてえんじゃァねえからな、もっとこう、すっきら[#「すっきら」に傍点]として安いなァねえかい? 見てくれがよきゃァいいんだ」
「はあはあ? ぐっとお安いのでございますと、こちらのほうはいかがでございます?…これは拵《こしら》えごと五両でございます」
「ああ、そいつは豪気だ。それもらおうじゃないか。五両か? じゃおいここへ置くよ。すまねえが差しこむのを教えてくんねえ……ああ、ありがてえ、若い衆さん、働かしたな、どうも、小遣いだ、取っときな」
「おゥ、おっかァ、いま帰ったよ」
「あ、どうしたい、揃えた? そりゃよかった」
「おう、おれァひとつ着てみてえんだが、ちょっと手伝って着せてくんねえか」
「着るのかい? じゃァひとつ着てごらんよ」
「うふふふ、どうも……変な心持ちだなあ、こんなに突っぱらかっちゃったもんを着たのははじめてだい……おうおう、刀貸せ刀貸せ……よしよし、ここへ差しゃいいのか? ようし、こうか、……ははは、うゥどうも……」
「あら、ちょいとおまえさん、見ちがえるようだよ、馬子にも衣装だねえ」
「おゥ、ちょいと踏み台持ってこい、踏み台」
「どうするんだい?」
「ちょいとおれァ腰掛けるんだ……はっは、ええどうでえ畜生ッ、なんだか知らねえけど、突っぱらかって立派ンなっちゃったな。また着るなァたいへんだ。おゥおっかァ、おれァこのまんまずっとこう正月が来るまで、ここへ座ってッからな」
「なに言ってんだよ。今日は、まだ二十八日だよ。またあたしが手伝って着せるから、いいからもうお脱ぎよ」
それから、家主のところへ溜まってる店賃《たなちん》を払い、何年かぶりで餅屋が餅を持ってくる、酒屋が菰《こも》を積みにくる、八五郎の家は大騒ぎ……。
大晦日になると、
「ねえ、おまえさん、いくらなんだってちょいと寝たらどうなんだい?」
「そうはいかねえや、大晦日の晩に寝るやつはばかだってくれえのもんだ、なあ、寝られるもんかい。おゥ、おっかァ、ちょいと手伝って、早えとこ、着せてくれ着せてくれ」
と、八五郎が待ちかねていると、東の方が白んでくる。そのうちに、コォケコッコゥ……
「たァはァはァ…い。う、正月ンなりやがった畜生、ありがてえありがてえ……さあどっからひとつ年始ぶっくらわしてやろうかな? 家主《おおや》ンところがいいかな?……やァい、家主さん、今日《こんちや》ァッ」
「やあ、ばかに早いな。いや、おめでとう。いや立派ンなったな。いやァ立派ンなったが、どうもなんだなあ裃で弥蔵を組んでちゃァいけねえなあ、え? そういうこしらえをしたんだから、突袖てえのをしなよ」
「ええ? なんだい、その突袖てえなァ」
「ああ、その両方の袂《たもと》へこう手を入れてな、そいでこの左の方の袂はお太刀の上へ軽くのせるんだ……そうだそうだ、そういう格好で……扇子がないのはおかしいな。……おい、ばあさんや、白扇を持ってきな……うん、さあ、八公、この白扇は、おまえにやるから、これを前のところへ差してな……そうだ、そうだ、あははは、すっかり立派ンなった」
「えへへへへ、こうかい? なんだか芝居《しべえ》してるようだなあ。どうもおめでとうござんす」
「あははァ、裃で『おめでとうござんす』てえなあどうもなんだなあ、安直《あんちよく》でいけねえなあ。やっぱりそのような格好したら挨拶ができなくちゃいけねえ」
「そういうもんかねえ、なんてえばいいんだい?」
「そうさなあ、『旧冬中はいろいろお世話さまンなりまして、本年も相変わらずお引き立てのほどを願います』ま、商人《あきんど》でも職人でもそのくらいのことを言ったらいいだろう」
「冗談じゃねえや、そんな長ったらしいこと言えるもんかい。もっとこう短くッてねえかい、なんかこう体裁のいいなァ」
「あはは、短くてと、そりゃ困ったな。ああ、どうだい御慶《ぎよけい》というなァ」
「どけへ?」
「どけへじゃない、御慶」
「なんだい、そりゃァ」
「ま、おめでたいという意味だな……『長松が親の名で来る御慶かな』『銭湯で裸同士の御慶かな』なんて句がある」
「へーえ、おめでとうで御慶ねえ」
「向こうで『おめでとうございます』といったら、『御慶』と言うんだ」
「ああ、なるほどねェ」
「で、まあ、初春のことだから、『お屠蘇《とそ》を祝いましょう、どうぞお上がりください』と言ったら……」
「そりゃあいけねえ。上がってたひにゃあまわりきれやしねえ」
「だから、そう言われたら、春永《はるなが》にうかがいますってんで、『永日《えいじつ》』と言って帰ってくればいい」
「へえ、そうかい。それじゃ、向こうでおめでとうって言ったら『御慶』、お屠蘇を祝うから上がれよって言われたら、『永日』って言やいいんだね」
「まあ、そうだな」
「へっ、わけはねえや、『御慶』に『永日』とくらァ、家主さん、ちょいとやってくんねえかい?」
「そうか、これは申し遅れた。やあ、あけましておめでとうございます」
「へへへ……畜生うふん、御慶ェッ!」
「あはははは、いやあどうも威勢がいいな、ま、お屠蘇を祝おう、どうぞお上がりを」
「お、そうかい、じゃちょいと上がって……」
「おいおい」
「あ、そうか。えへへへ、どうもなんだ、永日ゥ……っときやがら」
「きやがらは余計だ」
「じゃあ、これから長屋ひとまわりしてくるからね、また来ます、どうも……えへへへ、ありがてえありがてえッ、寅ンべのところィ行ってやろうかな? よしッ、寅ンべをひとつ叩《たた》き起こしてな、ぶっくらわしてやろう、あ、まだ寝てやがら、なにをしてやがんだなほんとうに……おうッ(と、戸を叩いて)起きろ起きろいッ、いつまで寝てやがんだ、おッ寅公ッ」
「あの、もしもし、あの寅さんはお友だちが早く見えましてね、なんでも三人でお出かけんなったようですよ」
「なに? 出かけちゃった? しょうがねえな、せっかく年始に来たのにな、じゃあ、ま、糊屋の婆さんで間に合わすから、ひとつやってくんねえ」
「あらまァだれかとおもったら、八っつぁん? 冗談じゃあないよ、まあ立派ンなったねえ、おめでとう」
「へッへッへッへッ……御慶ェッ」
「……なんですゥ?」
「へッへ、なんでもいいんだよ。まあいいから、あとをやってくんねえかあとを」
「あとと申しますと?」
「どうぞお上がりって言ってくんねえか」
「言いたいけど散らかってるんで」
「いいんだよいいんだよ。上がりゃァしねえんだよ。おまえがそう言ってくンねえとおれァ向こうへ行けねんだからよ。ひとつ言ってくれェ」
「ああそうですか、じゃァどうぞお上がりください」
「永日ゥ……ッ、べらぼうめ……あはははは、目を白黒させてやがら、ざまァみやがれ、畜生ほんとうに……おう、喜之、まだ寝てんのかい、御慶ッ」
「ええ?」
「御ォ慶ェッ」
「だれだい?」
「おれだい」
「なんだ?」
「御慶ッ」
「わからねえ、おめえの言うことは」
「永日ゥッ」
「なんだ?」
「だめだ、だめだ、てめえなんぞにゃァわからねえ……おうおう、半公のやつ来やがったなあ……おゥ、半公ゥ」
「よう、どうしてえッ? 立派じゃねえか。千両富に当たったってなァ?」
「ェェやってってくれよ、おめでとうっての」
「おゥおゥおめでとう」
「御慶ェ……ッ」
「えッ?」
「なに言ってやんでえッ、あとをやれいッ」
「なんだ、あとてえなァ?」
「お上がりくださいってえのをやっつくれいッ」
「お上がり……よせやい、往来じゃあねえか」
「往来だってかまわねえ、早くやれ」
「なんだこいつは?」
「永日だい、この野郎ッ」
「なんでえこの野郎ッてえッ……?」
「あッはははは、大笑いだまったく、ありがてえありがてえ……おうおう、向こうから寅ンべの野郎が帰ってきやがったな? なんだい、芳ちゃんと盛公と三人でもって繭玉《まゆだま》ァ担《かつ》いで帰って来やがら……やいやいッ、おうッ」
「おう、見ろ? 当たり屋だい。変な格好してるじゃァねえか、え? どうでえおう立派ンなっちゃったな、おいどうしてえッ? 大当たりッ!」
「へへへへッ畜生ッ、三人揃ってやがんな? おう、なんでえおめでとうってえのをやってくれッ」
「おッ、おめでとう!」
「や、おめでとう!」
「おめでとう!」
「へへッ、じゃ三人まとめて、いいかッ、御慶! 御慶! 御慶ェッ!」
「おいおいおいおい、よせよこん畜生、みっともねえ野郎だな、おけッこが卵ォ産むみてえな声しやがって、何がはじまりゃァがったんでえッ?」
「なにってやンでえ畜生、わからねえ野郎だな、御慶《ぎよけえ》(何処へ)言ったんでえ」
「ああ、恵方詣《えほうまい》りに行ったんだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 初春の寄席のご祝儀として演《や》られる演目。〈晴れ〉と〈褻《け》〉が一年じゅう厳然と区別され、暮らしのなかに浸透していた時代。落語的表現をすれば、「牡丹餅で頬っぺたをひっぱたかれているような」甘い、なにがなんでもめでたがる日本の正月の風習に迎合した噺で、八五郎に千両富が当たって狂喜する行状をくすぐり、江戸の正月風景が背景になっている。別名「八五郎年始」「富八」とも言う。
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かつぎや
呉服屋の五兵衛という主人、たいへんなご幣《へい》かつぎ、見るもの、聞くもの、なんでも気にしてかつぐ……目が覚めりゃあ寝て見た夢を気に病み、朝茶に茶柱が立ったといって機嫌《きげん》を直し、一膳めしは縁起が悪いと食いたくなくても二膳かっこみ、出がけに袖がほころびても針は使わせない。歩き出して途中で下駄の鼻緒でも切れれば、大騒ぎでそのまま外出はとりやめる。凶は吉に返ると申しますからと番頭になだめられると、おもい直して出かけるが、道で烏鳴《からすな》きを聞いて真っ青になる。帰ってくると、おかめのような福々しい顔の新参女中が迎えるので、気分をよくするが、その女中がついうっかり寝床を北枕に敷いたので、たちまち寒気がして熱を出す――というぐあい。
まして元日のこと、
「さあさあ、めでたく夜が明けましたよ。めでたく起きて、みんなめでたく布団をたたんで、ああ、めでたくその枕がおっこちましたよ。だれだい、汚い褌《ふんどし》をめでたくこんなところへおくというのは、どうもめでたく不精でいけませんよ。めでたく片づけておきなさいよ。さあ、めでたく急いで顔を揃えな。どうも今日はめでたく寒いよ。めでたく火を熾こしなさいよ。もっとめでたく炭をつぎな……」
「権助ッ、権助ッ、これ、権助、権助ッ」
「またはじまりィやがった。夜が明けると権助、日が暮れると権助、やれ権助、それ権助、この家ぐれえ人|使《づけ》えの荒《あれ》え家はなかんべえ」
「権助ーッ」
「まだ呼ばってる。給金出してるだから、使わなけりゃあ損だとおもってるんだな。人間だからええが、雑巾《ぞうきん》ならとうにすり切れちまってるだ」
「権助や権助ッ、おい、権助」
「まだ呼ばってるだな。呼ばるだけ呼ばれ」
「おーい、権助。いないのか、おい権助」
「だんだん近寄って来たな。そろそろ返事ぶつかな」
「権助ッ」
「ひぇー」
「なんだ? その返事は……そこにいるならさっさと返事しろ、さっきから百ぺんも呼んでるじゃあないか」
「嘘ォつかねえもんだ。たった五たびだ」
「勘定をしてやがる、まあ、こっちィ、入れ」
「手がふさがってるだ」
「なにをしてるんだ?」
「懐中手《ふところで》をしてるんだ」
「不精なやつだな。手を出して開《あ》けたらいいじゃないか」
「しかたがねえ。開けるかな。どこだ?」
「ばかっ、主人の居間を開けるのに、どこだってやつがあるか。早く中へ入って……あとを閉めろ……そこへ座れ」
「はあ」
「そこへ、座れッ」
「さあ、座った、殺さば殺せ」
「だれが殺すと言った。おまえぐらい礼儀を知らない男はない、主人の前で頬被《ほおつかぶ》りをしているやつがあるか」
「おまえさまがおらが前《めえ》でなんで襟巻《えりまき》をしているだ。参《めえ》ったか」
「参《まい》ったかとはなんだ、わしは寒い」
「おらがも寒い」
「わしはいい」
「おらがもいい」
「おまえはよくない」
「なにがよくねえ?」
「わしは主《しゆう》だ」
「おらがもしゅう[#「しゅう」に傍点]だ」
「ほほう、おまえがしゅう[#「しゅう」に傍点]か?」
「ご家来衆だ」
「口のへらないやつだ、取りなよ」
「取れってば取るでがす、何《あん》だね?」
「今朝は元日だ。井戸神さまへ橙《だいだい》を納めて来なさい」
「あんで、でえでえ[#「でえでえ」に傍点]を納めるだ?」
「おまえはまだ家へきてから間もないから知るまいが、わしの家では、吉例によって、井戸神さまへ橙を納めることになっている。ついでに歌を唱《とな》えるから、よくおぼえなさい」
「はあ? ぬた[#「ぬた」に傍点]か?」
「ぬた[#「ぬた」に傍点]じゃない、歌だ」
「八木節か」
「そんなんじゃあない。『新玉《あらたま》の年立ちかえる旦《あした》より若柳水《わかやぎみず》を汲《く》み初《そ》めにけり、これはわざッとお年玉』とな」
「はあ、そうかね」
「わかったか?」
「わかんねえ」
「『新玉の年立ちかえる旦より若柳水を汲み初めにけり、これはわざッとお年玉』だ……こう唱えて、橙を納めてきな」
「はあ、たまげたね。こりゃあむずかしいことを言いつかったぞ……なんとか言ったな? エー、目の玉の…だ。ェー『目の玉のでんぐり返るあしたには末期《まつご》の水を汲み初《そ》めにけり、これはわざッとお人魂《ひとだま》』と……これでよかんべえ……へい、行ってめえりやした」
「ご苦労、ご苦労、どうした? 権助、ちゃんとやってきたか?」
「井戸神さまがおめえによろしく申しやした」
「井戸神が口をきくわけはない。歌はどうした?」
「歌かね?」
「そうだ、やってみろ」
「途中で蹴つまずいて忘れた」
「おやおや、では唱えずにきたのか?」
「やったよ。おもい出してもう一ぺん向こうをつん向いてやってみべえ、何《あん》でも玉がついたな」
「なんとやった?」
「目の玉の……」
「ちがうちがう、新玉だ」
「新玉か? まちがったものはしかたがねえ、『目の玉のでんぐり返るあしたには末期の水を汲み初めにけり、これはわざッとお人魂』とな」
「縁起でもない。元旦そうそう人魂だの末期の水だのと。とんでもないことを言う。たったいま、暇をやるから出ていけ」
「ぶったまげたな」
「さっさと、出ていけッ」
「出ていかねえ、どんなことがあっても出ていかねえ、来月の四日までは待ってくんろ」
「来月の四日まで待てばどうするんだ?」
「ちょうど今日から三十五日だ」
「あんなことを言やァがる、縁起でもない。権助ッ、ああ、逃げ足の早いやつだ」
「ここだ、ここだ」
「あれっ庭の松の木のかげへ隠れて、手ェ合わせてやがる……権助ッ、そりゃいったいなんのまねだ?」
「堪忍してくんろ。このとおり草葉のかげから拝んでるんだから……」
「あれだ、あきれかえってものも言えやしない」
「ェェ旦那さま、おめでとうございます」
「ああ番頭さん、おめでとう……なに? お雑煮ができた、ああそうか。みんな揃ったか? 元日はみんな揃ってお雑煮を祝うのがしきたりだ……いや、みんな、おめでとう」
「旦那さまおめでとうございます」
「旦那さまおめでとうございます」
「旦那さまおめでとうございます」
「おきよどん、まことにすまないね、ェェ三が日はあなたにお給仕をしていただけますので、食い上げなければなりませんので、どうか加減してお頼み申します……あッ、しょうがないなあ、こんなに芋ばかり入れて……あッ、芋が落ちた……芋がまるくって箸がまるいから、こりゃ滑ってしょうがない、芋が逃げるところを、さっと突く……」
「定吉、なんです。行儀の悪い」
「芋が逃げて、なかなか捕まらないんです。……天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして漏さず、とうとう磔刑《はりつけ》に……」
「なんだ縁起でもない」
「エー旦那さま、ただいま餅をいただいておりましたところ、お餅のなかから折れ釘が出てまいりました」
「番頭さんかい、危なかったねえ、怪我ァしなかったか」
「いえ、これほどめでたいことはございません。餅の中から金《かね》が出まして、ご当家はますます金持ちになるというのはいかがでございます」
「ああ、ありがたいな、ちょいとでも、嘘にもそう言ってくれるのは、ありがたいな」
「あんだ、おべっか[#「おべっか」に傍点]番頭、胡麻摺《ごます》り番頭、いいかげんなことォしゃべくって……」
「おい、権助、おまえは黙っておいでよ」
「いや黙っていねえ。餅の中から金が出て金持ちということがあるけえ。金の中から餅が出たなら金持ちちゅうことがあるが、餅の中から金が出りゃあここの家は身上《しんしよう》、持ちかねるだあ」
「なぜ、おまえはそういうことを言うんだよ。もういいから……おいおい、長吉、こっちへ来なさい」
「旦那さま、お年賀の品をお持ちしました」
「やあご苦労さま……お早々と年頭の挨拶においでくださった方がある。あたしもこれからおまえを連れて年始まわりをしなけりゃならない。わたしが、ここへ書き止めますから、ちょっとそこで、名前を一人一人読みあげておくれ」
「かしこまりました。……では、伊勢屋の久兵衛さん」
「伊勢久さんか、あいかわらず、お早いな……あとは?」
「美濃屋の善兵衛さん」
「美濃善さんかい。それからな、長吉、美濃屋の善兵衛さんなら美濃屋さんでわかる。商人《あきんど》というものは帳面を早くつけなければいけないから、それを略して、美濃屋の善兵衛さんなんて言わないで、美濃善というように読みあげてくれ、わかったか」
「へい、わかりました。では、あぶく[#「あぶく」に傍点]と願います」
「あぶく[#「あぶく」に傍点]? だれだい、それは?」
「油屋の九兵衛さんで、略して、あぶく[#「あぶく」に傍点]」
「そんなのはふつうに読みなさい。あとは?」
「あとは、てんかん[#「てんかん」に傍点]」
「あぶく[#「あぶく」に傍点]のつぎがてんかん[#「てんかん」に傍点]かい、だれだそれは?」
「天満屋の勘兵衛さんで……」
「なるほど、つぎは?」
「しぶと[#「しぶと」に傍点]でございます」
「しぶと[#「しぶと」に傍点]? おい、いいかげんにしろ、それはだれだ?」
「渋屋の藤吉さんですから、しぶと[#「しぶと」に傍点]」
「ろくなのはないな。つぎは?」
「ゆかん[#「ゆかん」に傍点]でございます」
「ゆかん[#「ゆかん」に傍点]? そんな名前があるか?」
「湯屋の勘蔵さんで、ゆかん[#「ゆかん」に傍点]」
「どうも困ったもんだ」
「そのつぎがせきとう[#「せきとう」に傍点]」
「順にいってるな。だれだい、せきとう[#「せきとう」に傍点]というのは?」
「関口屋の藤八っつぁんでございます」
「もういい、あっちへいっておくれ。頭が痛くなってきた」
「ねー、旦那さまあたくしが代わって読みあげます」
「ああ、番頭さん、そうしておくれ」
「では、まず鶴亀とねがいます」
「鶴亀? おいおい、わたしが気にするからといって、つくりごとはいけませんよ」
「いえ、このとおり鶴屋の亀吉さんで、略して鶴亀と申し上げました」
「なるほど、ありがたいな、あっははは、おまえさんのおかげで気分が晴れてきましたよ。うれしいね。……あとは?」
「ことぶき[#「ことぶき」に傍点]で……」
「ことぶき?」
「はい、琴平屋の武吉さんで、ことぶき[#「ことぶき」に傍点]となります」
「うれしいねえ。鶴亀のあとが寿《ことぶき》なんぞはじつに縁起がいい。胸がすーっとしました……。あッ、悪いやつが向こうからやって来たよ。せっかくいい心持ちになったとおもったら」
「どうかなさいましたか?」
「いえさ、あの向こうから来る……あたしとは子供時分からの友だちだがね、商売が早桶屋《はやおけや》で、四郎兵衛ってんだが、あたしの顔さえ見れば縁起の悪いことばかり言ってよろこんでいるやつだ。このあいだも表で会ったから、『おい、福の神にこにこしてどこへ行くんだ』って言ったら、『いまおまえの家から出てきた』と言やがる。つぎに会ったときには、忌々《いまいま》しいから、『貧乏神どこへ行くんだ』と言ったら、『これからおまえの家へ行くんだ』と言うじゃないか。どうせ今日もろくなことを言うまいから、あたしは奥へ行ってるよ。番頭さん、おまえさん帰しておくれ」
「へい、かしこまりました」
「うわーッ、どうした、かつぎやの卵塔《らんとう》」
「だいぶ召しあがっておいでですなあ。卵塔は恐れ入りました。てまえは番頭でございます」
「番頭かい? ときにおまえさんとこの檀家《だんか》はどうした?」
「檀家? 旦那で……」
「おれは商売柄、檀家と言いたくなるねえ。おめンとこの旦那は幽霊旦那だぜ。いまおれが向こうから来たときには、たしかに姿が見えたが、ここへ来るまでに消えてなくなるところを見ると、すでにお逝去《かくれ》か」
「おいおい、いけないよ。お逝去《かくれ》はいけないよ」
「おッ、出てきやがった。あっははは、どうしてた?」
「おめでとう」
「なにがめでたい」
「なにがということはないだろう? お正月だよ。ねえ、このとおり門松が立って、松飾りが下がって、おめでたいじゃないか」
「門松がめでたい? おれは、この門松が悲しくって、しょうがねえ……『門松は冥途《めいど》の旅の一里塚、めでたくもありめでたくもなし』……南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「いけないよ。元日からお念仏なぞ唱《とな》えていちゃあ。朝っぱらからたいへんなご機嫌だな、恵方《えほう》詣りにでも行ってきたのかい?」
「なあに、お寺詣りだ」
「お寺詣り? 元日から」
「ああ、元日から寺詣りさ、なにもおれだって元日早々寺詣りなんぞしたかあねえ。けども、これには深いわけがある。おめえとおれと建具屋の伊之吉とは、この町内で生抜《はえぬ》きだ。伊之が頭《かしら》でおめえが中でおれが末、生まれるときは別っこでも、死ぬときゃあいっしょに死のうと約束した兄弟分だ。それがさて人間は老少不定《ろうしようふじよう》『明日ありと思《おも》う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは』。去年、伊之吉がポックリ死んじまったじゃあないか……だれも墓詣りをしてやるやつもいねえ。おれァ今日|商売《しようべえ》が休みだから久しぶりに伊之の墓詣りをしてやったんだ」
「泣いてやがる、そりゃいいことをしたねえ」
「それでさ、寺の門前へ出るときに、ひょいと胸に浮かんだのは、ものには順てえことがある。去年伊之吉が死んだんだ。順にいくと今年はおめえの番だよ。おめえはいやに太って大きいから並の早桶じゃあ間に合わねえ、今日は来たついでだから棺桶の寸法をとらしてもらうか」
「おい、いやだよ。やめてくれッ」
「あっはっはっはっ、怒るな、怒るな。まあとにかく元日の礼儀は礼儀だ。これはお人魂だ」
「おい、またお人魂かい。おどろいたねえ」
「あっはっはっは……いずれ冥途《めいど》で会おう。はい、さよならッ」
「ああ、なんだか気分が悪くなってきた。あたしは寝ますから……」
あくる日は正月の二日で、宵に、七福神の乗っている宝船の一枚刷りの絵を売り歩く習慣があった。「長き夜のとおのねふりのみなめさめ浪のり舟の音のよきかな」という上から読んでも下から読んでも同じ歌と七福神の絵を枕の下に敷いて寝ると、よい初夢が見られるという。
「ェェお宝、お宝……」
「長吉や、宝船を一つめでたく買おうじゃないか」
「へえ……おい、おい、船屋さん、ここだよ」
「へーい、お呼びで?」
「旦那、呼んでまいりました」
「おい、船屋さん、船は一枚いくらだい?」
「これは旦那さまで……へい、四文《しもん》でございます」
「四文《しもん》はいけないな。わたしは四《し》の字はきらいだ。死ぬ、しくじるなどといってな……では、十枚ではいくらだい?」
「四十《しじゆう》文で」
「百枚では?」
「四百《しひやく》文で」
「どこまでいってもだめだな。縁起が悪いから、それじゃせっかくだが、こんどということにしよう」
「こんどったって、明日になっちゃあ売れやしません。そんなことを言わないで、一枚でも半分でもいいから助けるとおもって買っておくんなさい」
「そんな縁起の悪い船はいらない」
「いえ、あっしがね、こんな商売をしているってえのも、じつは去年の春かかあに死なれ、あとに残った乳のみ子をかかえているところへ家が火事に遭《あ》い、縁起直しに宝船でも売ったらよかろうと友だちが言うから、いま買い出してきて、こちらが口あけなんで、その口あけにひやかされて、今夜じゅう歩いてこの宝船が売れなきゃあ、あしたの朝、おまえさんのとこの門松で首を縊《くく》ってやるから……」
「おい、番頭さん、なんとかしておくれ」
「旦那さま、お気になさいますな、わたしが縁起直しにいい船屋を捜してまいります」
番頭が往来へ飛び出していって、横町の角に待っていると、威勢のいい宝船屋がやってきた。
「ェェーお宝お宝、お宝お宝……」
「おい、船屋さんッ」
「へい、こんばんは」
「いえ、あたしが買うんじゃない。あたしのところはその呉服屋だが、旦那がたいそうかつぎやなんだ。なんでもいいからめでたいことをたくさん列《なら》べておくれ、うまくいけば、たくさん買うから……」
「へえへえ、ありがとうございます。それじゃあ、さっそくめでたくうかがいましょう」
「頼んだよ」
「へえ、……お宝お宝、大当たりのお宝お宝」
「ああ、大当たりなんぞはうれしいね……船屋さん、船屋さん」
「へい、こんばんは、宝船がただいま着きました」
「こりゃうれしいね、宝船が着いたというなァ。一枚いくらだい?」
「一枚し……いえ、よ文でございます」
「十枚は?」
「よ十文でございます」
「百枚は?」
「よ百文でございます」
「こりゃ、うれしいね。それじゃ、たくさんいただくか、どのくらいある?」
「えー、旦那のご寿命ほどございます」
「なに、わたしの寿命ほど? どのくらいだね?」
「さあ、千枚もございましょうか」
「なるほど、あたしを鶴に見立ててくれたのはうれしいね。寿命をよそに売られては困るから、すっかり買いましょう。総仕舞《そうじまい》になれば用もないだろうから、こっちィきて一杯おやり」
「へえ、ありがとう存じます」
「船屋さん、飲めるんだろう?」
「へえ、ご酒ならば、亀のようにいただきます」
「亀のようにはうれしいな。ともかくもお屠蘇《とそ》をもっておいで……さあ、遠慮なくやっておくれ」
「これはどうもありがとうございます。いただきます……こりゃあ結構なお道具で、薪絵《まきえ》もお見事でございますな……ちょっとお重《じゆう》を拝見いたします……あ、なるほどこれはお約束ですが、結構なおせち料理でございますな。田作《ごまめ》に牛蒡《ごぼう》で、牛蒡(御坊《ごぼ》)ちゃんごまめ[#「ごまめ」に傍点]にご成人というのはいかがで?」
「言うことがいちいちうれしいね」
「数の子はかずかずおめでとうございます」
「なるほどねえ」
「こちらは干瓢《かんぴよう》ですね。干瓢(勘平)さんは三十に、なるやならずで……うーむ」
「どうしたい?」
「えへへへへ……まことにおめでとうございます」
「こりゃちょっとあぶなかったようだね。まァ、いいからおあがり」
「へえ、どうもごちそうさまで、もうだいぶいただきまして、身体《からだ》がこうひとりでに揺れてくるところは、ちょうど宝船に乗ってるようでございます」
「宝船に乗っているというのはうれしいね」
「旦那さま、お宅さまでは、七福神が揃っておりますな」
「七福神が揃ってる? そりゃあありがたいなあ。どこに揃っているんだい?」
「エエ、まず旦那さまがにこにこしているところは、生きた大黒さまでございます」
「うんうん、わたしが大黒さまなぞはうれしいね……おい番頭、いくらか包んでお出し、これはご祝儀、大黒|賃《ちん》だ」
「へッへ、ありがとうございます。それから、ただいまあそこにおいでになったのは、お宅のお嬢さまで?」
「ああ、家《うち》の娘だ」
「へえ、どうも生きた弁天さまでございますなあ」
「ええッ、家の娘が生きた弁天さま……これは、弁天賃だ、取っとおき」
「へッへ、恐れ入ります、ありがとう存じます……これで七福神揃いましてございます」
「おいおい、船屋さん、ちょっとお待ち、ええ? なんだい? わたしが大黒で、娘が弁天、これじゃ二福じゃないか?」
「でも、こちらのご商売が呉服(五福)でございます」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「御慶」[#「「御慶」」はゴシック体]と同じく初春のご祝儀用の内容だが、こちらの方は冒頭、正義漢で反骨居士の権助が登場し、まぜっかえし、帳面付けの語呂遊びなど適当にあり、たのしめる。正月の噺として格好だし、「しわいや」のように誇張されたところがなく、この「かつぎや」は、古今東西を問わず人間の利益、功徳願望の縁起かつぎ≠ヘ、よくあることだ。とくに身代が大きいほど、もの持ちほどその傾向は、顕著である。果てしなき欲望を拡げ、現状を少しでも欠落させたくない、後はどうなってもいいというわけにはいかない。日本の大手製鉄[#「鉄」に傍点]会社がいまもって金を失うという御幣をかついで「鐵[#「鐵」に傍点]」という旧字をかたくなに使用したり、庭に金銀を増やそうというので錦鯉を飼い、応接間には「富士山」や「朝日」の絵を飾ったりする、五兵衛の涙ぐましい努力とは、比較にならない。
寄席の世界もかつぐ、上方では前座は入れ込み噺≠ニ称し、「旅の噺」をする慣例《しきたり》になっている。東京でも正月は「御慶」「かつぎや」[#「「御慶」「かつぎや」」はゴシック体]「初音の鼓」、婚礼などの祝儀には「高砂や」「松竹梅」「たらちね」[#「「たらちね」」はゴシック体]「安産」などが演《や》られ、泥棒の噺なども客を取り込む[#「取り込む」に傍点]といって縁起のいい噺とされている。なお、同じ型式《パターン》で、歳末には「厄払い」がある。
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千早振《ちはやふ》る
「ご隠居さん、こんちは」
「やあ、どうした? 八っつぁん」
「ええ、今日はひさしぶりで仕事が休みで家にいたんですがねェ……どうも困ったことができましてね」
「どうしたんだ?」
「へえ、あっしァね、夜逃げをしようとおもいましてね……」
「夜逃げをする? そりゃあおだやかでないな。いったいどうしたわけなんだ?」
「ええ、え。そらァまあね、どっちにしろ話をしなくちゃわからねえんですがね。じつは、あっしのところの一人娘の、あまっちょが、近ごろ、変なものに凝《こ》っちまいましてね」
「へえー、なんに凝ったんだい?」
「ええ、正月になると、よくやるでしょ……みんなでとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いて、花札みてえなものを並べて、一人仲間はずれなのが札ァ読んで※[#歌記号、unicode303d]なんとかの、なんとかで……なんておかしな節をつけて読むと、まわりのやつが手ェ出して、わッてんで札をふんだくりあう、あれなんで……」
「ははあ、そりゃきっと百人一首じゃあないか」
「へえへえ、百人一緒で?」
「そうじゃない、百人一首だ。その昔、小倉山において藤原定家というお方が古今の歌人百人から一首ずつ集めたのが、すなわち小倉百人一首だ」
「つまり百人から割り前を集めたわけだ」
「割り前なんか集めない。……しかし、百人一首なら娘らしい遊びで結構じゃないか」
「それがちっとも結構じゃあねえんで……、その歌の文句がわからねえってんで、あっしに教えてくれってんで、あまっちょのやつが。『おとっつぁんはいま忙しい』ってえと、『煙草を吸ってるじゃあないか』ってきかねえんですよ。親ですからねェ、『知らねえ』ってえのも外聞が悪いしねェ、『おとっつぁんはいま厠《はばかり》ィ入るところだから出てから教えてやる』と言って、厠ィ入ったんですが、出るに出られず、これがほんとの雪隠《せつちん》詰めで……」
「情けない人だねェ」
「このまんま入ったきりでもいられませんから、厠の窓を壊して飛び出してきたんですが、その歌の文句のわけてえのがわからねえと、このまま家へ入れない、夜逃げしなくちゃあならない……と、こういうわけなんで、ひとつ教えてもれえてんですが……」
「なんだそんなことか、ほほう、おまえさん、そりゃあただ歌の文句ったって、たくさんある。どういう歌だい?」
「へえ、……なんでもその、娘の言うには、大勢いる中で一番いい男の歌だってんですがね。……千早はやはや……とかいう……」
「うん、それは、在原《ありわら》の中将|業平朝臣《なりひらあそん》の歌だ」
「ええ、そうなんです」
「お歌は、『千早振る神代もきかず竜田川から紅に水くぐるとは』……有名な歌だな」
「ですかね、その歌の文句のわけを教えてもらいたいんですよ」
「そのわけか?……そりゃあ、おまえ、ちはやふる、というから、かみよもきかず、となる……ものが順だから、たつたがわ……したがって、からくれないに、みずくぐるとは、となって、まちがいはないな。もしこれが、八っつぁんの前だが、業平の歌でないというやつがいたら、あたしを呼びにおいで、あたしが出向いていって、すっかり話をつけてやるよ」
「そんなことはどうでもいいんですがね、千早振るという歌のわけさえわかりゃあいいんで……ご隠居さん、知らないんでしょう?」
「いや、そんなことはない。こういう大それたことを聞くなあ、おまえぐらいだ、ばかだな。……※[#歌記号、unicode303d]千早振るゥゥってえと、神代もきかず竜田ァ川ァァァ……」
「なァんだ、節をつけたっておんなしじゃあありませんかねェ」
「ちょいと小手調べをしたまでだ。おまえさん、そうせっついてはいかん。じゃあ、ま、かいつまんで話して聞かせるが……『千早振る神代もきかず竜田川』というが、そもそもこの竜田川てえのを、おまえ、なんだとおもう?」
「わからねえから聞いてんですよ」
「だからさァ、素人《しろうと》考えに、竜田川てえのをなんだとおもう?」
「うーん、なんですかね?」
「しょうがないねえ。まるっきり気がねえんだから……これだからものを教えても張り合いがない。おまえさんは、この竜田川というのを川の名だとおもうだろう?」
「そうですかね?」
「そうですかねじゃないよ、川の名だとおもいなよ」
「じゃあ、おもいます」
「そこが畜生の浅ましさだ」
「なんだい、ひどいね。ご隠居がおもえと言ったから、あっしはおもったんじゃありませんか……じゃァいったいなんです。竜田川てえなあ?」
「じつは、なにをかくそう相撲取りの名だ」
「へえー、相撲取り……でも、そりゃあおかしいや」
「なにがおかしい?」
「だって歌のなかに、どうして相撲取りが出てくるんです」
「そりゃ出そうとおもえばなんでも出てくるが、おまえが不承知ならこの話はやめにしよう」
「いやァ、やめなくたってようがすが、あっしァ竜田川なんて相撲取りあんまり聞いたことがねえから……」
「そりゃ、おまえ、聞くわけがない。江戸時代の相撲取りだ」
「へえー」
「で、この竜田川てえ人がたいへんに、強いッ。大力無双だ。田舎《くに》で相撲取るけども、竜田川には勝てるものがいない……だから、この竜田川が江戸へ出て、立派な関取になりたい、とこうおもったんだが、親に話をしたら、親が承知をしない」
「へえ?」
「しかたがないから、留める袖を振り切って、江戸へ出て、ある関取の弟子ンなって、相撲取りになった」
「へえー」
「この人も、相撲取りになったからには、『どうぞ三年のあいだに立派な関取になれますように』って、摩利支天《まりしてん》さまに、酒、女を断って願掛《がんが》けしたな」
「へえ」
「その甲斐あって、三年目にこれが大関になったな」
「へーえ、たいへんな出世だなあァ。三年で大関ンなった?」
「出世する人は心がけがちがう。これが東の大関だ。偉いもんだろう」
「へー、たいしたもんですねえ……それで、どうしました?」
「そりゃあもう相撲が強《つお》いし、男がいい、人気の出るのはあたりまえだ」
「なるほど」
「だから、したがって、いい贔屓《ひいき》がつくな」
「へえ」
「すると、ころは弥生というから三月だな、あるご贔屓がお祝いに繰り出したのが、吉原へ夜桜見物だ。ただでさえ灯の早いところ、両側の茶屋は昼をあざむくばかりの灯だ。月は満月、桜は真っ盛り、げに不夜城の名義むなしからず、じつに見事だ。おまえにひと目《め》見せてやりたかったな」
「へえ、ご隠居は見たんですかい?」
「わしも見ない」
「なんだい、言うことがしまらねえな……で、どうなりました?」
「ある茶屋の二階で、お客さまと一杯飲んでいると、その時分は、花魁《おいらん》道中てえのがあったな。一番目は何屋のだれ、二番目は何屋のだれと、先を競《あらそ》い、飾り競《きそ》って出てくるのは、いずれを見ても勝《まさ》り劣《おと》らぬ花|競《くら》べだ」
「たいしたもんですねえ、いい女ばかりだ」
「そして、三番目に出て来たのが、これが千早《ちはや》太夫だッ」
「千早太夫ゥ?……すると千早てえのは、花魁の名ですか?」
「花魁だよ。なあ……金糸銀糸の打掛《うちか》けを着て、立兵庫《たてひようご》という髪を結《い》って、な。高い下駄を履いて外八文字を踏んで、やってきたな、禿《かぶろ》、新造《しんぞ》、若衆《わかいもの》に取り巻かれ……」
「へえェー」
「で、こいつを、茶屋の二階で飲みながら見ていた竜田川がひと目見るなりぽォーッとなったな」
「無理もありませんね」
「そうだろう。なにしろいままで土俵よりほかに見たことのない竜田川だから、おもわずぶるぶるっとふるえたってんだ」
「地震ですか?」
「だから、おまえは愚者《ぐしや》だというんだ」
「なんです? なにか踏みつぶした? ぐしゃっと……?」
「愚か者を愚者というんだ。まあそんなことはいい……で、竜田川のいうには『ああ、世の中にこんないい女がいるものか。おれも男と生まれたからには、たとえひと晩でもああいう女と過ごしてみたい』……摩利支天さまに掛けた願《がん》もこれまでというわけ。これを聞いた贔屓《ひいき》の客が『なあに心配することはない、相手は売り物、買い物、金さえ積めばどうにでもなる』と、茶屋の女将《おかみ》に掛けあってくれたんだが、太夫といえば格式があって、昔は大名道具、職人だの、相撲取りのところへは出ない。困ったことに、この千早という花魁が相撲取りが大嫌いッ……『わちきは相撲取りはいやでありんす』てえン……な、振っちゃったんだ」
「……う、なるほど!」
「竜田川は、惚れた弱味で通いつめたが、しかたがないので、妹女郎に神代《かみよ》というのがいて、これが、ちょっと千早太夫に面《おも》ざしが似ているから、この神代に話をつけようとしたが、『姉さんがいやなものは、わちきもいやでありんす』てんで、神代もいうことをきかないんだ」
「たいへんに振られちまったもんですねえ。それからどうしました?」
「さあ、竜田川は、相撲をやめて豆腐屋になったな」
「へーえ、そりゃあおかしいじゃァありませんか。なにも豆腐屋なんぞにならなくったっていいじゃァありませんか?」
「そりゃ、すぐ相撲をやめたわけじゃあないよ。もう竜田川はすっかりくさって、酒は飲む、博奕《ばくち》は打つ、稽古は怠る。さあ、そうなるってえとだんだん相撲は弱くなってくる。土俵へ上がるってえと、これがどっから知れるんだかわからないが、八方から『振られ相撲、振られ相撲ォ』って声がかかる。こうなっては天下の関取がご贔屓のてまえもあり、身の不面目、あっさり相撲道から足を洗っちゃったな」
「へえ、もったいないねえ。大関までになってねえ。またあきらめのいい男だなあ。それにしたって、なんで、年寄ンならないで、豆腐屋なんぞになったんです? なにも、よりによって豆腐屋になるこたァねえじゃねえか」
「なったっていいじゃあないか。当人が好きでなったんだ、おまえがとやこう[#「とやこう」に傍点]言うことはないよ」
「ええ、別にとやこう言ってやしませんがねェ……だって他に商売がいくらでもあるじゃありませんか」
「あってもしかたがない、な、田舎《くに》の両親というのが、これが代々豆腐屋だ。つまり、家に帰って親の商売を継いだのだから文句はないだろう」
「ああ、そうですか、そりゃどうも、しょうがねえ、で、どうしました?」
「田舎《くに》ィ帰って年老いた両親の前へ手をついて『長い間、故郷《くに》をはなれておりまして、たいへん不孝をいたしました。これからは、一所懸命、親孝行をいたしますから、いままでの不孝をどうぞご勘弁ください』とあやまった。さあ、両親はたいへんによろこんだなあ。『ああそうかい、まアおまえも遠く(豆腐)からよく達者《まめ》(豆)で帰って来た』……」
「なんだい、いやな洒落《しやれ》だね、どうしました?」
「で、月日の経《た》つものは早いもので、光陰矢のごとく、早や十年は、夢のように過ぎ去ったな。ある秋の夕間暮れ、あしたの仕込みをしようと、竜田川が、臼《うす》へ豆を入れて碾《ひ》いてるとな、痩せ衰えて、汚《きたね》えぼろぼろの着物を着た、頭の毛は抜けあがり、竹の杖にすがって、ひょろひょろとやってきた女|乞食《こじき》。竜田川の店《うち》の前へ来て、『二、三日|一飯《いつぱん》も口にしておりませぬゆえ、ひもじゅうてなりませぬ。どうぞ、お店先の卯の花を少しばかりいただかしてくださいまし』と手を出した。この竜田川もとより情け深い人だ、『ああ、もう三日も食わんでいちゃあ、そら辛かろう、いまやるから待ちな』てんで……大きな手で卯の花をしゃくって、『さ、こんなものでよかったら、なんぼでもおあがり』と、女乞食の前へ差し出して、顔ォ見てェ、びっくりッ……」
「イヨー、チ、チ、チン……」
「そんなところで三味線を入れるなよ……この女乞食を、おまえさん、だれだとおもう?」
「ええ、知りません、だれです?」
「これがだれあろう、十年前に竜田川を振った、吉原で全盛をうたわれた千早|花魁《おいらん》の成れの果てだ」
「へええ、わからねえもんだねえ、吉原で全盛をうたわれた太夫が、どうして乞食になんかなっちゃったんでしょうね?」
「おまえはうるさいね、どうも。どうしてなったんでしょうって、なっちゃっちゃあしょうがねえじゃねえか、えッ? なろうとおもえば、人間はなんにでもなれる。とりわけ乞食になろうとおもえばすぐなれる。おまえもやってみるかい?」
「冗談言っちゃいけねえ……いやだよ」
「しかし、因縁というか、数多《あまた》の客をだまし、贅沢《ぜいたく》をし尽くした、その罰《ばち》が当たったんだな。悪い病を引きうけて、花魁がつとまらなくて、乞食におちぶれて、流れ流れて竜田川の店先に立ったってえのも、これもなにかの因縁だな」
「へえ。怖《こわ》いもんですね。やっぱり因縁てえやつはあるんですねェ」
「おまえ、感心しているが、おまえならこのとき、卯の花をやるか、やらないか?」
「あっしならやりませんね。癪《しやく》にさわるじゃありませんか」
「そうだろう、わしもやらない……それともまた、おまえさんがやるような了見なら、もうつきあわない」
「だからやりませんよ。やらねえでどうしました?」
「竜田川は、顔を見て烈火のごとく怒ったな、『われは、十年前おれを振った千早だなッ。てめえのおかげで、おれは大関まで棒にふったんだ。そのことォよもや忘れやァしまい。心がらとはいいながら、よくまあその姿で物乞いに来られたもんだ。ざまァ見やがれッ』と、手に持った卯の花を地べたに叩きつけて、逃げようとする女乞食の胸をどーんとついた」
「へえ」
「ついたのが元大関、大力無双の竜田川、つかれたのが、二、三日食わずにいた女乞食だからたまらない。よろよろよろッとよろけると、豆腐屋の事《こつ》たから、前に大きな井戸がある」
「へえへえ」
「この井戸の傍《わき》に柳の古木が一本あったな。で、よろけるとたんに、この柳の木へ背中がどーんと当たると、枝につかまって勢いがついてるから木をひとまわりまわって止まった、こうじいっと、空をうらめしげににらんで、前非を悔いたか、『まことに面目ない』と、そのまま井戸の中へどぶーんと身を投じた」
「こいつァおもしろくなってきたな。それからどうなりました?」
「どうにもならない。これでおしまい」
「そんなことはないでしょう? これから死んでうらみを晴らすとかなんとか、夜な夜な千早の幽霊が井戸からあらわれて……鳴物が入って怪談噺かなんかになるんでしょ?」
「いや、ならない、これでおしまい」
「ねえ、おしまいってえことないでしょ、これじゃあばかにあっけねえじゃねえか」
「これで話はおしまいなんだよ。おまえも、くどいな」
「ええッ? どういうわけで」
「おまえさん、他人にものを教わって、ぼんやり聞いてちゃあいけないよ。よく考えてごらん。……だから、いいかい。竜田川が千早に振られただろう? だから、『千早振る』じゃあないか」
「ええっ? いまの話は、こりゃ、あの歌の話ですかい? なんだい、気がつかなかったなあ」
「千早が振ったあとで、妹女郎の神代に話をつけようとしたが、神代もうん[#「うん」に傍点]と言わないから、『神代もきかず』だ。十年後に、女乞食におちぶれた千早が、竜田川の店先で、卯の花をくれって手を出したろ。でも竜田川はやらないから、『竜田川からくれないに』じゃあないか、おまえ」
「なんでえ、おれァいやだよ。で、あとは?」
「井戸へどぶーんと飛びこめば、『水くぐるとは』じゃないか」
「なるほどねえ、井戸へ飛びこんで、『水くぐる……とは?』おかしいねえ。水をくぐるンなら、『水くぐる』でいいでしょう? 『水くぐるとは』てえのはなんです? そのおしまいの『とは』てなァなんのことです?」
「おまえさんも勘定高い男だな。『とは』ぐらい半端《はんぱ》は負けておきなよ」
「負からないねえ。こうなったら、『とは』の片ァつけてもらいたいねえ、え? 『とは』ってえのは、いったいなんです?」
「『とは』というのは、……あとで調べてみたら、千早の本名だった」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 「ご隠居、知らないんでしょう?」と言われて、俄然、本領?を発揮するところは「やかん」[#「「やかん」」はゴシック体]と同じ御仁、それにしても百人一首の迷[#「迷」に傍点]解釈である。この「解説《のうがき》」を書かされている筆者なども、大同小異、その傾向は十二分にある。そこで、この項は、国文学者風に、元歌[#「元歌」に傍点]の解釈を記すことにする。「千早振る」は「神」の枕詞《まくらことば》、「神代も聞かず」は「かつて神の代、古代《いにしえ》にも聞いたことがない」、「竜田川」は奈良県生駒郡を流れる河川。「韓紅《からくれない》に水くくる[#「くくる」に傍点]とは」……「水くぐる[#「くぐる」に傍点]」でなく「水くくる[#「くくる」に傍点]」、「くくる[#「くくる」に傍点]」とは「くくり染め、しぼり染め」のことで、「紅葉がくくり染めるように水に写っている」ことであり、「とは」とは?……「千早の幼名」――あッ、地が出た。
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藪入《やぶい》り
昔、世の中が貧しかったころ、男の子は小学校を終わると、たいていみな奉公に出された。おもに商店の小僧として住みこむのが慣例《ならわし》で、定休日は、藪入りといって、正月と盆の十六日の年に二度だけ、それも奉公にいって三年間ぐらいは、里心《さとごころ》がつくというので、自宅の近所へのお使いにも、ほかの小僧をやるというようにして、親子は、三年目にやっと口がきけたという――その時分の人情を伝える噺《はなし》。
「なあ、おっかァ」
「なんだい?」
「金坊のやつ、よく辛抱したなあ」
「ほんとうだねえ。三年だものね」
「奉公は辛《つら》いといって、飛び出してきやしねえかとおもって、いい心配《しんぺえ》していたが、やっぱりおれの子だなあ」
「なんだねえ、おまえさんてえ人は、いいことがあると、おれの子だ、おれの子だっていうけれども、悪いことがあると、おめえが悪い、おめえが悪いって、勝手だったらありゃあしない」
「だけど強情なところはおれに似ていらァ。そんなことより、あしたは早く起きて、あったけえめしを炊《た》いてやんなよ」
「わかってるよ。冷《ひ》やめしなんぞ食べさせるもんかね」
「野郎、納豆《なつとう》が好きだから、納豆を買っといてやんなよ」
「あいよ」
「それからな、蜆汁《しじみじる》がいいから味噌汁をこしらえておいてな。刺身が好きだから二人前ばかりそう言ってやんな。天ぷらがいいぜ、ああ、鰻《うなぎ》もよろこぶぜ。それから甘《あめ》えもんも食いてえだろう。みつ豆に汁粉《しるこ》に牡丹餅《ぼたもち》なんか……」
「そんなに食べさしたら、お腹をこわしちまうよ」
「腹なんぞこわしたってかまわねえよ。うめえものを食わしてやれ。食うのがたのしみで帰ってくるんだから」
「奉公してたって、なにも食べずにいるわけじゃあないよ」
「そうだけどもな、おめえは奉公したことがねえから知るめえが、自分の好きなものが食えねえんだ。とにかくあした来たら、あったけえめしを炊いてやんなよ」
「わかってるよ」
「いまから起きて炊けよ」
「そんなことをしたら、冷《ひ》やめしになっちまうよ」
「冷やめしになってもいいからあったけえめしを食わしてやれよ」
「そんなわからないことを言う人があるもんかね」
「いま、何時だい?」
「まだおまえさん、三時半だよ」
「三時半? 昨日はいまごろ夜が明けたのになあ」
「なに言ってんだい」
「どうも今日は、いやに時計の針のまわりが遅いぜ。おめえ起きてひと周《まわ》り針をまわしてみろよ」
「そんなことをしたっておんなじだよ。もう少し寝《ね》なさいよ」
「ひと晩ぐらい寝なくったっていいやな。野郎だって来たい一心だ。枕もとへ帯だの着物だの下駄だの揃えておいて、寝られるもんじゃあねえや。倅《せがれ》がひと晩じゅう寝ずにいるんだ。親がぐうぐう寝ていちゃあつきあいを欠かァ、今晩ひと晩、お通夜だ」
「およしよ、縁起でもないことを言うのは」
「明日の朝来たら湯へ連れて行ってやろう」
「そうおしなよ」
「それから、奉公先ィ世話してくれた吉兵衛さんのとこへ顔を出させようじゃあねえか」
「そうおしなさい」
「浅草の美家古《みやこ》へ一ぺん連れてって見せてやりてえなあ。あの親方はたいへんかあいがってくれたからよろこぶぜ。それから観音さまへ詣りに行って、宮戸座へ芝居見に行って、いや野郎は花屋敷のほうがよろこぶぜ。いやあ浅草もいいが、浅草はいつでも行かれるから、ひとつ日光を見せてやろう。華厳《けごん》の滝、甚五郎の眠り猫、それから仙台の松島から塩釜へ行こう。そこまで行くんだからついでに平泉へも行って光堂を見せて南部の石割桜《いしわりざくら》を見せて青森へ行って善知鳥《うとう》神社へ参詣して、函館へ行って五稜郭を見せて、船へ乗って新潟へ行って白山《はくさん》公園を見せて、郷津《ごうづ》へ行って国分寺へ参詣して親不知を通って旧道を見せて、加賀の兼六園を見物して、越前の敦賀へ行って気比《けひ》の神宮へ参詣して、美濃の養老の滝を見せて、お伊勢さまへ参宮して、伊賀の上野へ出て荒木又右衛門の仇討の跡を見せて、近江八景を見物して、それから京都見物をして、大和めぐりをして、大阪へ出て紀州の和歌の浦を見て、高野山へ参詣して四国へ渡って、讃岐の金比羅さまから安芸《あき》の宮島へ出て、九州へ渡って……」
「ちょいとおまえさん、どこを連れて歩かせるつもりなんだよ」
「方々連れて歩くんだ」
「方々ったって、明日一日にそんなに歩けやあしないよ」
「歩けなくったって、そうしてえって話だあ」
「早く寝なさいよ」
「まだ夜が明けねえのか?」
「まだだよ」
「どうしたものかなあ? お天道さまが寝坊してんのかなあ?」
「いやんなっちゃうねえ、そんなことばかり言って……まだ四時半だよ、おまえさん、表はうすっ暗いよ」
「四時半? しめた、そんならもう夜は明けらあ」
「ちょいとおまえさん、いまごろから起きてどうするんだよ、電車もなにも通ってやしないよ」
「電車は通らなくったって、野郎、来たい一心で歩いて来らあ、めしを炊け、めしを」
「あきれたねえ、早すぎるよ」
「おれは表ェ掃除するから、おい、箒《ほうき》ィ出せ」
「いいよ、それじゃあ、あたしが起きるからおまえさんはもう少し寝なさいよ」
「いいってことよ。久しぶりで野郎が帰《けえ》ってくるんだ。きれいにしておいてやりてえとおもうからよ。早く箒を出せっ」
「あいよ」
「よしよし、おれが表を掃除するから、おめえは家ン中ァ掃除しろ」
「まるで気ちがいだね、この人は……」
長屋の近所の早起きの人がこれを見て、
「おい、善ちゃん、見てごらん。ふだん横のものを縦にもしない不精者の熊さんが、めずらしく表を掃《は》いてるぜ」
「あれあれっ、どうなってるんだ。不思議なこともあるもんだ……どうも陽気が変だとおもったんだ」
「ああ、わかった。あすこの家にァ金坊ってえ子供がいたじゃないか。今日は十六日だよ、藪入りで帰ってくるんだよ、きっと」
「ああそうか……あんな乱暴者でも子供はかわいいんだなあ……熊さん、お早う、たいそう早いねえ」
「エエ今日はやつの宿下がりで……」
「そうかい、そりゃおめでとう、来たら遊びにくるように言ってください」
「ええ、当人がなんと言いますかわかりませんが……」
「金ちゃん、大きくなったでしょう?」
「ええ、小さくなりゃあなくなっちまいますからね」
「ちょいとおまえさん、いい加減におしよ。せっかく遊びによこせと言ってくださるのに、そんな挨拶がありますか、ご近所の方がみんな笑ってるじゃあないか。こっちィお入りよ」
「笑ったってかまうもんか。近所のやつらめ、いやに世辞を言やァがって、おもしろくもねえ。そんなことより、おい金坊のやつ、いやに遅《おせ》えじゃあねえか。なにしてやがるんだろうな? ことによったらあすこの番頭、意地の悪そうな目つきをしてやがったから、あいつが出かけようって矢先に、あすこへ使いに行け、あれやれ、これやれ、余計な用をいいつけやがったんじゃあねえか。もう三十分待って来なかったら、あすこの家へ飛んでって、番頭の野郎、張り倒してやるから」
「いけないよ。なんてったって初めての宿下がりだろう。上の古い人たちから順に出してしまって、そのあとで、お店の掃除でもして、おしまいに出てくるんだよ」
「そんなひでえ話があるもんか。初めての宿下がりじゃあねえか。掃除なんぞ主人がすりゃあいいんだ」
「そう腹を立ててたってしょうがないよ」
「へえ、お早うございます」
「はい、どなた?……ちょっとおまえさん、見ておくれ、だれか来たから……わたしはいま、ご飯が吹いてきて手がはなせないからさ」
「ああ、いま見るよ……はい、だれだい?」
「こんにちは、ごぶさたをいたしました。めっきりお寒くなりましたが、ご機嫌よろしゅうございます。おとっつぁんにもおっかさんにも別にお変わりもなくなによりでございます。このあいだ、おとっつぁんがご病気だということを吉兵衛さんにうかがいまして、一度来たかったのですけれども、わけを話せば、ああいういいご主人ですから、行ってこいとそう言ってくださるのですけれども……ほかの人も行かずにいるのに、わたしばかりあんまりわがままだとおもったものですから、とうとう我慢をして来ませんでした。けれども心配でしたので、あの手紙を書いて出しましたが、あの手紙、読んでくださいましたか? おとっつぁん、あの手紙見た? ねえ、おとっつぁん、おとっつぁん」
「ちょっとおまえ、どうしたの? なんとか言っておやりよ」
「ま、ま、待ってくれ、口がきけねえんだ。へえ……へえ、どうも……ご親切さまにありがとうございます。本日はまた……ご遠方のところ、わざわざおいでいただきまして、ありがとうござんす……さて、はや……」
「なにを言ってんですよ、さあ、早くお上がり」
「ああ、ありがてえ。なあに、病気てえのはなあ、おれァ風邪ェひいたんだよ。いつも風邪ェひいたときにゃあ、熱い酒ェひっかけて、熱い湯へとびこんで、布団かぶって寝《ね》ちまえば治っちまったんだが……もう年齢《とし》なんだな。こんだそいつをやるってえと、四十度からの熱になってよ、苦しくてたまらねえんだ。二日も三日も熱が下がらねえもんだから、おっかァが心配してよ、医者を呼んでくれたところが、急性肺炎だっていうんだ。あとで聞いたんだが、一時はずいぶん先生も心配だったとさ。胸と背中へ辛子《からし》を紙へ塗って張りつけてな、苦しくって、苦しくて、まるで犬が駆け出したときのように、ハアハア、ハアハア、息ばかり切れるんだよ。それだもんだから、おっかァもびっくりして、もしものことがあっちゃあてんで、たった一人の子供だから、一ぺんだけ会わしておこうとおもって、おっかァから吉兵衛さんに頼んだんだそうだ。そうしたら、おめえから手紙が来て、お店のご用が忙しいし、ご主人やほかの人たちのてまえうかがえませんが、よほどのことがあったら電報くださいと書いてあった。それをおっかァが持って来て見せてくれた。見ると字がうまくなりやがった、おめえが書いたんじゃあねえと言うと、おっかァは、たしかにあの子だと言いやがる、あらためて見直すと、たしかにおめえの字だ。おれァうれしくなって、その手紙を持って飛び起きちまった。すると、とたんに肺炎が治っちまった。あれからっていうもの、風邪ェひくと、おめえの手紙を見て治してるんだ。ふふふふ、おれには、風邪薬なんかよりも、おめえの手紙のほうがよっぽどきくんだ、ああ、ありがてえ……おい、おっかァ、おい、そばにいろよ、どこへ行っちまうんだ? 心細いじゃあねえか。野郎、大きくなったろうな? え?」
「なに言ってるんだよ、おまえさんの前にいるからごらんよ」
「見てえけれど目が開《あ》けねえんだ。目ェ開けると、涙が出てきやァがっていけねえ。おめえ、かわりに見てくんねえ」
「なに言ってるんだろうねえ。しっかりおしよ。男のくせに……」
「うん、うゥん……お、おう、金坊……立ってみろ、立ってみろ……久しく見ねえうちに、大きくなりゃがった、おう、おっかァ、見ろよ、おれより丈が高いぜ」
「おまえさん、座ってるんじゃあないか」
「ああそうか、向こう向いてみろ、ひとまわりまわってみろッ」
「おもちゃじゃあないやねェ」
「ああ、よく帰ってきた。おめえが来るってんでな、おっかァ昨夜《ゆうべ》よっぴて寝ねえんだ」
「おまえさんが寝ないんじゃないか」
「おまえだって寝ねえじゃねえか。ほんとうに立派ンなってよかった。別に身体《からだ》も患わねえか……ありがてえ、ありがてえ。お内儀《かみ》さんも旦那もお変わりがねえか? そいつは結構だ」
「これは、家へ持って行けとおっしゃいまして、ご主人さまからお土産《みやげ》にくださいました」
「そうかい、どうもありがてえなあ。子供をこれだけ大きくしてくださるのは並大抵じゃねえ。その上に、これだけの物でも持たしてよこしてくださるんだ。……おーい、おっかァ、お礼に寄らなきゃあ悪いぜ。わざわざ行かなくっても、あっちィ行ったついでに勝手口からでも、ちょっと顔を出しておきなよ。毎度子供がお世話になりますってな。……このあいだ、おまえの家の前をおれが通ったんだ。お店をのぞいてみると、おまえがいたよ。……おまえより太った小僧さん、なんていうんだ? なに? 新どん? そうか。その小僧さんと二人でなにか引っ張りっこみたいなことをしていたから、よっぽど声を掛けようとおもったが、いや、そうでない、ここまで来て里心でもつかれちゃいけねえとおもって目ェつぶって駆け出しちゃった。大八車へぶつかって、気をつけろッてんでおどかされたよ。大笑いだ。なんだい、それは?」
「これはつまらないものですけど、わたくしがお小遣《こづか》いをためておいて買ってまいりました。お口には合わないでしょうが、おとっつぁんとおっかさんでおあがんなすってくださいまし」
「そうか、すまねえな、ええ、おっかァ、見ろよ。家にいた時分にゃあおれの面《つら》さえ見りゃあ、銭をくれ、銭をくれとせがんでいたんだ。それが三年経つか経たねえうちに、これだけのものを自分の小遣いで、おとっつぁんとおっかさん食べてくださいとよう、涙の出るほどありがてえなあ。むやみに食っちゃもったいないから、神棚へ上げておきなよ。後で長屋へ少しずつ配ってやんな。家の子供のお供物《くもつ》でござんすってな」
「そんなこと言う人がありますか。子供のお供物なんてえのが……」
「なんでもいいから湯へ行って来い。横町の桜湯を知っているだろう。普請をしてきれいになった。ちょいと着替えて行っといで」
「新しい下駄も買っておいたよ。それ履いてきな」
「よしよし、入り口に小桶《こおけ》が出てる。石鹸と手拭《てぬぐい》も新しいのを下《おろ》してやんな。湯銭だ……いいよ、いいよ。おれのほうで出すから心配するな、このごろは景気がよくなって、おまえが奉公に行く時分とちがって、おとっつぁん、銭ァあるんだ。湯銭ぐらいおれが出してやるよ。早く行きなよ……おい、おい、その犬にかまっちゃあいけねえよ。このごろ食いつくようになったから、子供を産んでから気が強くなったんだ。おまえがまだ家にいる時分にいた犬だあ。見ろよ、おっかァ、犬もかわいいな。知ってるよ、尾っぽを振って駆けていきやがる。ありがてえな。……おい、納豆屋さん、路地を入るのはちょっと待ってくれ。いまうちのやつが湯へ行くんだから。なに? 路地が狭いから言うんだ。こん畜生、張り倒すぞ。溝《どぶ》板を踏んじゃあいけねえよ。こっちを踏むと、向こうが跳ねるんだ。ここの家主ァ、店賃《たなちん》、取りやがって、溝板一つ直すことを知りゃあしねえ……なあおっかァ、もう帰《けえ》って来そうなもんじゃねえか」
「なに言ってんだ。いま出てったばかりじゃないか……でも、あのうしろ姿、おまえさんにそっくりだったよ」
「そうよ、おれの子だもんなあ。でもよう、おっかァ、最初《はな》、ガラッと障子を開けてみると、お辞儀していたときゃあわからなかったぜ。おれの考《かん》げえじゃあ、『おとっつぁんただいまっ』と飛びこんでくるとおもってたが、手をついて『めっきりお寒くなりました』ときやがったんで、こっちはぐっとつまっちゃって、なんとも言えねえんだ。『別にお変わりはございませんか』ときやがったぜ、おどろいたねえ。おれはどうなることかとおもったよ。ありがてえな、あれだけ行儀をおぼえやがった。てえしたもんだ……着物だって、いい着物だなあ、帯だって年季野郎の締めるもんじゃあねえよ……おい、なにしてるんだ? 子供の紙入れなど開けて見るなよ」
「だって土産を買っちまって、小遣いがなくなっちゃったんじゃないか?……あら、ちょいとおまえさん、たいへんだ」
「なにが?」
「紙入れの中に、五円|紙幣《さつ》が三枚も入ってるよ。……初めての宿下がりだよ。あれだけ土産なんぞ買って、まだ十五円もあるってえのは、多かァないかい?」
「さあ、そう言われてみれば少し多いな、野郎、当人にそんな悪《わり》い了見はなくとも、友だちに悪《わり》いのがいて欺《だま》されて、まさか、ご主人の金でも……畜生ッ、親の気も知らねえで、帰《けえ》ってきやがったら、野郎ッ、どうするかみやァがれッ」
「そんなことはないだろうけど、おまえさん、早まっちゃあいけないよ。帰ってきたら、よく聞いてからにおしよ」
「ああ、帰ってきやがった。こっちィ上がれ」
「結構なお湯でございました」
「この野郎、前へ座れ。しらばっくれるんじゃあねえ」
「え?」
「やい、ちゃんとネタはあがってんだ。てめえの紙入れに入っているありゃあなんだ? 五円|紙幣《さつ》三枚、ありゃあどうしたんだ?」
「なんです? わたしの紙入れェ開けて見たんですか?」
「なにッ、この野郎ッ……」
「あッ、痛いッ……痛いッ」
「ちょっとお待ちよ、おまえさんッ……金坊、さぞびっくりしただろうねえ。おとっつぁんは、気が短いから、口より手が先なんだから……あのお金、どうしたんだか、おっかさんに話しておくれ。……お待ちよ、わたしが聞くから……いいえ、あんまりお金が多いから、おっかさんが心配して、おとっつぁんに聞いてもらったんだよ。盗んだのでなけりゃいいんだよ。おとっつぁんは、貧乏していても、他人《ひと》さまのものは、塵《ちり》ッ葉一本|掠《かす》めたことはないんだよ。それだからむき[#「むき」に傍点]になって怒るんだよ。盗んだんでなけりゃあいいけれども、どうしたのか、正直に、おっかさんに言っておくれ」
「盗んだんじゃありません。じつはあれァ去年ペストが出ましたときに、鼠捕《ねずみと》りの懸賞付きのお布令《ふれ》がでましたので、わたしが河岸の土蔵で鼠を捕っちゃあ交番へ持って行って、そのうちの一匹が懸賞に当たりました。その懸賞金の十五円をもらって、ご主人に差し出すと、子供がこんな大金を持っているのはためにならないから預かっておくと言って、ご主人が預かってくださって今日宿下がりに店を出るとき、そのお金を家へ持ってって親たちをよろこばしてやれと言って、今日、ご主人からいただいてきたのです。盗んだのじゃありません。鼠の懸賞で当たったのです」
「まあ、そうかえ。わけも聞かないでぶったりして、金坊や堪忍しておくれ」
「へーえ、鼠の懸賞でとったのか。うまくやりゃがったな」
「おまえがご主人さまを大事につとめるから、こんなお金がいただけたんだよ」
「うん、そうだ。それも、これもチュウ[#「チュウ」に傍点]のおかげだ」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 本篇を読んでいてもはや、お気づきだと思うが(あるいは不審に思われた)、藪入りで帰って来るわが子を迎えるふた親のうち、父親の方だけが一人はしゃいで、母親の方は冷静で、あまりよろこびを表現しないことだ。それは原本の発端の部分を除外《カツト》したからで、実は、母親は後妻であり、金坊にとっては継母になる、なぜ除外したかと理由を言えば、この金坊が、継母なるがゆえにひねくれ者で、近所の魚屋の切身を盗んで、「魚屋さん、いま、犬が切り身をくわえていったよ」と言って、魚屋が追っかけるすきに、持ち逃げしたり、そうした悪戯《いたずら》を知った継母が、それを父親に言いつけやしないかと、「おとっつぁんの留守には、おっかさんが、おいらに飯《まんま》をくわしてくれねえ」と、継子いじめの嘘言《つくりごと》を父親につげて、家の中は喧嘩が絶えない、それを見かねた吉兵衛さんが、根性(悪い意味)を直そうというので、奉公に出す……という、旧時代の嫌な人間関係がくどくどと描写されている。そのために、奉公に耐えた金坊が別人に成長して、いささか他人行儀で三年ぶりの再会をするのである。母親が遠慮がちで、愛情の示し方が稀薄なのは、こうした事情[#「事情」に傍点]からである(そのために抑えられて、構成上はしまった効果があったが)。奉公制度の風俗として「藪入り」は、不可欠な噺だが、この噺の内容は、忠孝などを説き、時代的には一番新しいにもかかわらず、『落語百選』中、もっとも旧弊で封建的なのは、皮肉である。
「お釜さま」という古い噺を盲目の小せんこと初代柳家小せんが、「ねずみの懸賞」と改題し、改作したものをさらに三代目三遊亭金馬が人情噺風に「藪入り」として、現型に直した。
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阿武松《おうのまつ》
昔のお噺で、京橋の観世新道《かんぜしんみち》に武隈《たけくま》文右衛門という関取があった。ここへ能登《のと》の七海《しつみ》というところから名主さまの添書《てんしよ》を持ってまいりました。開いてみると、この者相撲執心で、どうか取り立っていただきたいという頼み状で……。
「ふゥん、そうか、まァとにあれ[#「とにあれ」に傍点]身体《からだ》をあらためにゃあならんで、こっちィ上がって裸ンなれ」
「はい」
裸にして見る、なかなかいい体格でございますので、
「そうか、よし、それじゃあ汝《われ》を今日から弟子にして、小車《おぐるま》という名前をやるから、一所懸命やれ」
「はい」
新弟子ンなりました小車てえのが台所で働いている。米のなくなりかたがひどいので……、おかみさんが台所の監督をしておりますから、だれか米を持ち出して酒に替えるようなやつでもあるんじゃあないかと、気をつけて見たが、そんなこともない。今度来た小車がたいへん大食で……、お相撲さんだから少ゥし余計食べたって目立ちもしませんが、朝、ご飯を炊くと、釜底という焦《こ》げたところで、赤ン坊の頭ぐらいな……握飯《むすび》を七、八つこしらえて、これを食前にぺろッと食《や》っちまって、これから、お膳に向かって何杯食うんだかわからない。さあおかみさんが肝《きも》をつぶした。
「ちょいと、親方たいへんだよ。うちィ来やがった今度の小車てえやつ。あんな大めし食いはあたしァはじめて見たよ。お膳へ向かって何杯食うかとおもっていたら、三十六杯まで勘定したが、あとはわからなくなっちまった。あんなやつに永くいられたひにゃあ食いつぶされてしまうから、早く暇を出した方がよかァないかしらん」
と、おかみさんがちょっとしゃべったやつ「雌鶏《めんどり》すすめて雄鶏《おんどり》時刻《とき》……」という譬《たとえ》がある。
「うん? そうか、小車をここへ呼べ……こら、汝《われ》はたいそう大めしを食《くら》うそうじゃな。ばか野郎……昔から大めしを食うやつに碌《ろく》な者はねえ、無芸大食という。汝は相撲取りにゃァなれんから、暇ァやるから郷里《くに》ィ帰《けえ》れ。ただ暇ァ出すわけにもいかんから、ここに金が一分《いちぶ》ある。これを汝《われ》にくれてやる……これはきさまにやるのではねえぞ。手紙をつけてよこしなすった名主さまに対してこの銭をくれてやるから、早く郷里《くに》へ帰《けえ》れ」
「へえ……」
相撲取りにはなれないというので断わられた。
しかたがないから一分の金を懐中《ふところ》に入れまして、京橋を出て板橋から志村。戸田川という大きな川がございます。昔のことで渡船《わたしぶね》ですから、船の来るあいだ腕組みをして……考えていたが、どうおもい直しても面目なくって郷里《くに》ィ帰《かい》れない。……そうでしょう、めしを食うてんで断わられた。こんな不名誉な話はない。いっそここへ身を投げて死のうかしら……おれは死んでもいいが、懐中《ふところ》に一分という金がある。これを川へ埋めては勿体《もつてえ》ねえ。昔、青砥左衛門尉藤綱《あおとさえもんのじようふじつな》という人は、三文の銭を滑川《なめりかわ》へ落としたのを、松明《たいまつ》をつけて拾わしたという話もある。まして一分の金をここへ埋めてしまっちゃあ勿体《もつたい》ねえから、なんとか活《い》かして死にたいが、どうしよう?……そうだ、いま通って来た板橋というところは宿屋もあるから、あすこへ帰ってひと晩泊まって、一分だけのめしを食って、あしたこの川へ身を投げて死のう。そうすればおれもめしが食えるし金も活《い》きる……。やっぱり食べる人ァほかに考えが出ないと見《め》えて、とって返しました板橋の平尾《ひらお》、橘屋善兵衛という旅籠《はたご》へ泊まりましたが、時刻も早いのでいい部屋へ通してくれる。
「……あのう、お客さま、お誂《あつら》えがございますか?」
「いやあ、注文は別にありませんが、わしはめしを余計食うから、茶碗はなるべく大きいのを貸してもれえてえ。それから何杯《なんべえ》食っても、もういいというまでめしだけは黙って、どうか食わしておくンなさいまし。これはあんたにお払いしておきます……」
一分の金を出した。……一銭か一銭五厘あったら立派に泊まれた時分に、二十五銭の前金でめしだけ食わしてくれてんで……おもしろいお客が来たとおもったが、向こうも商売ですから、お膳を持ってくる。
「さ、お客さまお給仕を……」
てんで盛《よそ》って出すと、こいつがもしょもしょもしょもしょ[#「もしょもしょもしょもしょ」に傍点]、食べはじめたが、ただでさえ大食いの人が、この世のめしの食い納めという、お鉢を三度取りかえました。二升ずつにしたって三度だから六升で……まだおしまいじゃァない、継続中なんで……。さあ女中が胆をつぶして下へ降りてきて話をしているのを、主人《あるじ》が聞いて、
「どうしたんだ、ええ? めしがどっさりいる? 結構じゃあないか。宿屋で少ないようなことじゃあしょうがないが……え? 一人のお客さまで?……ふーん、ふん、ふゥーん。まだ召しあがってるのかい。それァめずらしい方が泊まったもんだ……お菜《かず》が足りないだろうから、料理場へそ言ってな、二品ばかり急いで届けるように、これは主人《あるじ》からのおつかいものでございますと申し上げて……めしが足りなかったらあとをどんどん追い炊《だ》きをして持ってくようにしな。いまおれも見物に行くから………」
「へえ、いらっしゃいまして……橘屋善兵衛でございます。今晩はお宿をいただきまして、ありがとう存じます……ただいま女中どもの話でお客さまがたいへんご飯を召しあがるということ……いいや、結構でございます……板橋というところは農家も多うございまして……、てまえどもも旅籠屋のかたわら農作もいささかやっておりますので、どんな不作な年でも年《ねん》に二百俵の小作米があがってまいります。そのうちをお客さま方に差しあげてありますのでございますから、ご飯の代金《だい》というのは別に頂戴はいたしませんでよろしゅうございます。定まりましたお旅籠《はたご》賃で結構でございますから、お心おきなく、十二分に召しあがっていただきとうございますが……しかしあなたのように召しあがられたら、定めしおいしいことでございましょうな?」
「エエ、それが……いただきましてあんまり旨《うま》くねえです。一杯《いつぺえ》食やァ一杯《いつぺえ》ッつ寿命が縮まりますから……」
「……? そりゃおかしいな。なにか病《やまい》でも……? そうじゃァない……どういうわけで……?」
「恥をお話するようですが、お見かけどおり身体《からだ》が大きいもんですから、村の者が相撲取りになれというんで、京橋の武隈文右衛門という親方に弟子入りしまして…」
「おうおう、武隈関……ふん」
「小車という名前をもらいましたが、あんまり大めしを食うんで、相撲取りにゃあなれんから郷里《くに》ィ帰れと言って、一分|金《かね》ェもらってとうとう暇ァ出されましたが、なんぼなんでもめしを食うんで断わられたんじゃあきまりが悪くって郷里《くに》へも帰《けえ》れねえから、いっそのことこの先の川へ身を投げて死のうとおもいましたが、一分の金を川へ埋めては勿体《もつてえ》ねえから、こちらさまへひと晩泊めていただき、一分だけのめしを食って明日は身を投げて死のうという……それですから、一杯《いつぺえ》食やァ一杯《いつぺえ》ッつ、わしが寿命が縮まっていくようなもんで……」
「それァ気の毒な話だ。じゃ、あなたが立派な関取になれたら別に死ぬにも及ばないんで……あたしはね、相撲てものがたいへんに好きで、懇意にしている関取もありますから、おまえさんをお世話ァしようじゃあないか」
「せっかくお世話願っても、まためしを食うんで断わられましては……」
「いや、今度はねえ、めしのほうで苦情の出ないように、あたしからおまえさんが一人前になるまで仕送りをしてあげよう。さっき言ったとおり、年に二百俵の小作米があがってきますから、おまえさんに月々の食扶持《くいぶち》をあげようじゃァないか。まァいまは死ぬとおもったから余計食べたとして、ふだんはどのくらい食べるんで……?」
「まだ生まれて腹|一杯《いつぺえ》食ったことねえから、わからねえ」
「やっかいな腹だねェ……まあ一片食《ひとかたけ》一升として一日に三升、十日で三斗《さんと》だが……月に五斗俵を二俵ずつおまえさんにあげるが、どうだいそれで……」
「え?……なんですか旦那、わしが一人|前《めえ》になるまで月に五斗俵を二俵ッつおくンなさいます……?」
「どうだい、それだけあったら」
「さァ、五斗俵が二俵なら……たぶん足りるだろうか」
「おう? だろうかてえなァ心細いね……お待ちなさいよ、どっかいいところ……うん、あります。根津の七軒町に錣山《しころやま》喜平次という、幕内《まく》の中どころで、まあ武隈関とはたいして変わらないが、この人ァ相撲がうまい、だいいち、情のあるなかなかいい関取だから、おまえさんをそこへ世話をしてあげよう。ま、今夜というわけにはいかない。うちへゆっくり泊まって、あしたの朝あたしが案内をするから……人間というものは、気をしっかり持ってなくちゃァいけない。しっかりおやり」
「はい……ありがとうございます。なにからなにまでお世話ンなります……ねえさん、よろこんでくれ、旦那さまのおかげでおれも死なずにすむ。いままでは死ぬとおもいながら食ってためしで、何杯《なんべえ》食っても味がねえ。これから食うのが美味《うめ》えだから、もう一杯盛《いつぺえよそ》ってくれ」
「なんだい、まだ食うのかい」
その夜は枕につきましたが、烏《からす》かァと夜が明ける。宿屋というものは朝早いもので、お発《た》ちのお客さまを送り出すと、主人は支度をし小車を連れて宿屋を出かけた。
「ここが巣鴨の庚申塚《こうしんづか》というところだ、にぎやかだろう」
「そうですかねェ、きのうは考《かん》げえながら歩いてましたからいっこうにわかりません」
「無理ァない。ここが本郷の追分だ……おや、話は早い、もう来ちまった。あすこに見《め》えるのが……おまえさんを連れて行く錣山関の家だから……少しお待ち」
間口《まぐち》が三間半で疎《あら》い面取りの格子《こうし》がはまっております。取的《とりてき》が掃除をしているところで……、
「はい、お早う」
「いやァこれは……板橋の旦那《だん》はんで……兄弟子、板橋の旦那がお見えんなったよ」
「いやあこれは……板橋の旦那はんで……いつも上がりましてはごッ馳走《つあん》になっておりますで……」
「いや、親方にお目にかかりたいが、おいでかな?」
「はあ、おりますでござんす……親方ァ、板橋の旦那はんがお見えんなったよ」
「いやァ、これはこれは……板橋の旦那はんで……どうぞこれへ……野郎、布団を持って来い、早うせえ……さあさあ、まあどうぞお当てくださいまし……毎度若いやつが上がりましてはごやっかいをかけておりまして、一度お礼に出にゃァならんとおもいながら、ついご無沙汰をいたしております……。今日はえらいお早いことで、どちらへ……?」
「いや、じつはねェ、関取に頼みがあって来たんだが、弟子を採《と》ってもらえないだろうかね」
「弟子? 力士でござりますか?……いや、旦那のお世話なら身体《からだ》を見ずにお引きうけをいたします」
「身体を見ずに?……へェ、じゃあ別に見なくてもいいもんで……?」
「いや、これはどなたがお世話をくだされても一度はあらためねばならんもんですが、あなたのように相撲好きのお方で、十日の相撲を十二日見るというような方で……けしてまちがいがござりませんで……」
「変なことを言っちゃあいけないよ。十日の相撲を十二日の見ようが、ないじゃあないか?」
「いや、小屋組みをして明日《あす》からここで相撲があるという小屋を先に見に来なさる。十日の相撲を見てその翌日、あァあ、きのうここで相撲があったとこじゃなと、壊すところをまた見に来なさる。十日の相撲を十二日見るという、これがもう一番《いつち》好きなお方で。まちがいがござりませんで、お引きうけをいたします」
「そうですかい、それァありがたい。まあとにかく当人を連れて来ましたから、会ってやっていただきたい……あのゥ、若いのをこっちへ……ああああ、こっちへ入んな……この男で……どうかひとつまあ、よろしくお世話を願いたいんですが……こちらにいらっしゃるのがおまえの親方になる錣山関だから、よくお願いをしな」
「はい、はじめましてお目にかかりまして……わしは能登の国、鳳至郡鵜川村七海《ふげしごおりうがわむらしつみ》で、とっつぁんは仁兵衛《にへえ》といいまして、その倅の長吉といういたって不調法者で、どうぞ親方なにぶんともよろしくお願い申しまして……」
敷居越しにお辞儀をしている山出し男を、錣山がじろっと見ましたが、相撲道で最高の位置といえば、これはいうまでもなく横綱でございますが、深川八幡の境内に横綱力士の碑《ひ》というのがございます。代々の横綱の名が碑に刻みこんでございますが、中に例外が一人だけ、入っております。雷電為右衛門という、あの人は生涯大関で終わりましたが、一人だけ大関でいながら横綱力士の中に名前が入っております。「無類力士雷電為右衛門」と書いてありますが、よほど実力があったものでございましょうが……。
初代というのは野州宇都宮の人で明石志賀之助《あかししがのすけ》、そのつぎが野州栃木の産で綾川五郎次《あやがわごろうじ》、三代目の横綱が奥州二本松、丸山権太左衛門。四代目が奥州|宮城郡《みやぎごおり》の人で、谷風梶之助《たにかぜかじのすけ》、※[#歌記号、unicode303d]わしが郷里《くに》さで見せたいものは、昔ゃ谷風、いま、伊達模様……という、唄にも残っております名力士で。そのつぎが滋賀県の大津から出ました小野川喜三郎。六代目の横綱が能登の国鳳至郡鵜川村七海、阿武《おうの》松緑之助《まつみどりのすけ》という、相撲道が開けて六人目に横綱免許をとる男が敷居越しにお辞儀をしている。武隈にはわからなかったんでしょうが、錣山が見て……、
「うぅ……ん、……旦那、相撲になりてえと言うのはその人ですか?」
「この男だが……どうだろう?」
「うゥん、その人なら相撲にはいいねェ」
「いいかねェ」
「うゥん、いい」
「いい?」
「いい、いい」
まるで神経痛がお湯ゥへ入ったようで、ただ「いい、いい」てんで……。
「にいさん年齢《とし》はいくつだ? 二十五……いやァまだ遅くはねえが……酒はどうだ? 好きか? 一滴も飲まん……まァ贔屓《ひいき》の旦那方にすすめられるようになったら酒も飲むようになろうが……勝負ごとはどうだ……うん? それはきらい……女は? どうだ。それァおかしい。人間は三道楽煩悩《さんどらぼんのう》という。酒がきらい、博奕がきらい、女がきらい……噺家の三遊亭円生みてえ人だな……じゃあ好きなものが……?」
「いや、この男、一つだけ好きなものがある」
「なんです?」
「めしが好きでしょうがない」
「なんです? めしてえ」
「いえ、お飯《まんま》が好きなんで」
「はッはははは、旦那、ばかなことを……めしはだれでも好きなもんで……」
「いや、それァ好きなんだが、この人は少し好きすぎるんだ。割った話をすると、武隈さんの部屋にいて、小車という名前をもらったが、あんまり大めしを食うというんで断わられた。身を投げて死のうというんであたしが気の毒だから、こちらへ頼みに来たわけなんだ。そのかわり今度はそのほうで苦情の出ないように、一人前になるまで月に五斗俵を二俵ずつ食扶持《くいぶち》として送りますから、どうか世話をしてやっていただきたい」
「いや、せっかくですが、五斗俵を二俵というのはそれはお断わり申します。この人が幕内《まく》にでも入るときに、なんぞ印物《しるしもん》の一つもこさえてやっていただければ結構で。武隈関がなんぞ勘ちがいをしていなさる。相撲取りがめしを食えんような事《こ》ッちゃァあかんで……にいさん、うちは遠慮はいらん。ああなんぼでも食うとくれ。仮に一日一俵ずつ食ったところで年に三百六十俵しきゃ食えん。一日一俵ッつ食わせる」
それじゃあ化物だ……。
「ところで名前をつけにゃあならんが、どうです旦那、小緑《こみどり》という名は……?」
「小緑……ふゥん、あたしァどうも名前のことはわからないが……」
「いや、これァわしが前相撲をとっていた時分につけた名で。それをこの人につけさしたいが……」
「それァありがたいなァどうも。関取の出世名前、小緑だ。しっかりやんなよ」
「へい」
文化十二年の十二月、麹町十丁目|法恩寺《ほうおんじ》の相撲の番付にはじめて名前が載りました。序の口、終《すそ》から十四枚目に小緑常吉。翌十三年の二月、芝西久保八幡の相撲の番付には序二段、終《すそ》から二十四枚目に躍進をしておりますが、そのあいだまだ一百日《いつぴやくにち》経たないのに、番付を六十何枚飛び越したという、古今にめずらしい出世で。文政五年に蔵前八幡の大相撲に入幕をいたしまして、小緑改め小柳長吉。初日、二日、三日と連勝をいたし、明四日の取組をご披露いたしますというなかに武隈と小柳というのがあった。それを見てよろこんだのが師匠の錣山で……、
「おい、明日《あす》はおまえの旧師匠、武隈との割り[#「割り」に傍点]が出た。しっかり働け」
「へえ、親方、明日の相撲にすべりましては板橋の旦那はんに合わせる顔がござりませんで……、うゥんッ、飯《まんま》の仇武隈文右衛門。明日《みようにち》はきっと十分の相撲をお目にかけます」
翌日、旧師匠との立ち合いが長州公のお目にとまりまして、阿武松緑之助と改名をして横綱を張る、出世力士のお噺でございます。
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 六代目三遊亭円生所演のものだが、円生にはほかに「紺屋高尾」[#「「紺屋高尾」」はゴシック体]「紀州」など、演者自身の持ち味、饒舌で聴かせる噺がある。講談種で、落語的な潤色がしてある。こうした人物描写をあまり入れず、演者自身の地《じ》で運んでいく噺を一般に、地噺と称し、「お血脈」「源平盛衰記」がよく知られている。また相撲を題材にした噺は意外に少なく、「花筏《はないかだ》」(別名「提灯屋相撲」)「佐野山」「鍬潟《くわがた》」「相撲風景」などがある。
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初天神
「おっかァ、おい、ちょっと羽織出しとくれよ、羽織」
「うるさいね。この人は。羽織こさえたら、どこ行くんでも着たがるんだからね。どこ行くんだい?」
「どこ行くんでもいいよ。羽織ィ出しとくれてんだよ。ええ? おれは、これから天神さまにお詣りに行こうとおもってね。初天神」
「あらそう、それじゃ金坊、連れてっとくれよ。家にあの子がいると、もう悪戯《わるさ》ばかりして、近所で遊ばしてりゃ、始終苦情だろ、いっしょに連れてっとくれよ」
「金坊? だめだよ」
「え?」
「だめ、だめ、だめ」
「どうして?」
「どうしてったってだめ。おらァあいつといっしょに行きたくねえんだ。おれは、いやだよ」
「いやだよったって、おまえさん、自分の子供だろう」
「そりゃおれの子にちげえねえが、あれが他人《よそ》のもんだったら、おらァいっしょの家にゃァいないねえ。自分の子供だからしょうがねえからいっしょに暮してんだ。いやだよ」
「そんなこと言わないで、頼むから連れてっとくれよ」
「いやだってんだ、おれは」
「へへへ……おとっつぁんとおっかさん、言いあらそいをしてますねェ。あの、一家に波風が立つというのは、よくないよ、ご両人」
「聞いたか? おいっ、親をつかまえてご両人だとよ。……金坊なにも言いあらそいをしてるんじゃねえんだ。表へ行って遊んでな」
「ふゥーん。おとっつぁん、どっかへ行くんだろ?」
「行かないよ」
「行きますよ。羽織を着てるもん。ね、連れてってよ」
「だめだ」
「おとっつぁん、お願い、連れてっておくれよ」
「だめだったらだめだ。おとっつぁんこれから大事な仕事に行くんだから」
「嘘だよ、今日は仕事あぶれてんの知ってんだい。連れてっとくれよ、ねえ」
「やだよ。連れてかねえったら連れてかねえ」
「ふゥーん。じゃァどうしても連れてかない? これほど頼んでもだめなの? あ、そう、やさしく頼んでるうちに連れて行きゃァためになるんだけど……」
「これだ、親を脅迫しやがる。また、悪戯《わるさ》しようてんだろ? そんなこっておどろくもんか」
「へへへ、おどろかないな」
「おどろかないよ」
「そうかな、あたいはおどろくとおもうんだけどなあ……ふふふ、どういうことになるか、たのしみだ……」
「待て、待て、待てよ。この野郎、とんでもねえことをやりかねねえからな……ちぇっ、いいよ、連れてってやるよ。そのかわりな、なんか買って買ってって言うんじゃねえぞ。……言わねえな、え? じゃあ、着物着せてもらいな」
「うれしいな、やっぱり口はきいてみるもんだな。……なんだよォ、おっかさん、こんなぼろな着物、もっといいのがあっただろう」
「あったんだけどね。いま箪笥の下のほうにしまいこんじゃった。今日はこれで我慢しとき」
「つまんねえな。あんまりおとっつぁん、酒飲むからこんなことになっちまうんだよ。なにか入れ替えするものないの?」
「おい、なんだい、おい。質屋のことまで知ってやがんのか。呆れたもんだ。さ、生意気なこと言ってねえで、来い。じゃあ、行ってくるからな」
「はい、行ってらっしゃい。……金坊が言うこときかなかったら、かまわないから大川へ放りこんじまっとくれ」
「そうら、聞いたか。おめえが言うこときかねえと、大川へ放りこんじまうぞ。おめえなんぞ、すぐ放りこめるんだから」
「放りこめる?」
「ああ、すぐ放りこんじゃう」
「あたい、泳げないよ」
「泳げなくたってかまわねえ」
「人殺しだぞ、罪ンなるぞォ」
「うるせえ、こん畜生。おめえはすぐそういうこと言って、親をばかにしやがる。なんでもいいから早く歩きな」
「へへへへ」
「笑ってやがる、親をばかにするんじゃねえ。おまえがあんまり言うことをきかねえとな、炭屋のおじさんが山から出てきたときに、連れてってもらって、山へ捨ててきちまう。そんときンなって泣くな」
「ああ、山か。いいな、山は」
「山がいい?」
「いいよ、山は」
「山はこわいんだぞ」
「なにか出る?」
「出るさ、あの、狼が出てくるぞ」
「狼なんか平気だい」
「狸だって出てくら」
「へェ、狸なんぞつかまえちまう」
「そんなこと言ってて、いざ炭屋のおじさんが来たら、おめえ逃げるんだろう」
「逃げんのはおとっつぁんだい」
「どうしておとっつぁんが逃げる?」
「だっておとっつぁん、炭屋のおじさんに借金あるもん」
「この野郎、なんでも知ってやがる」
「ねえ、おとっつぁん、なんか買ってよ」
「それ、それを言っちゃいけねえったろ。だめだよ」
「ねえ、おとっつぁん。そんなこと言わないで買っとくれよ。あそこに大福売っている。ねえ、買ってよ」
「大福はだめ、大福は毒だ」
「毒? へえ、大福毒なんての、はじめて聞いた。じゃ蜜柑買って」
「蜜柑も毒だ」
「じゃあ……」
「毒だ」
「なにも言ってないじゃないか。ほらね、あすこ、バナナ売ってるよ、あれ」
「あれ? バナナ、八十銭……あ、あ、毒だ毒だ」
「おとっつぁんは、八十銭が毒なんだ」
「うるさいよ、おまえは。あのね、子供は子供らしく子供がねだるようなものをねだりな」
「子供がねだるようなものって、どんなもの?」
「そうだな、たとえば、飴《あめ》玉のようなもんだ」
「じゃあ買って」
「ここじゃ売ってない」
「おとっつぁんのうしろで売ってら」
「けッ、この野郎、悪いとこへ店を出してやがんなあ。今日ぐらい休め」
「冗談言っちゃいけません。今日はもうかき入れです。どうぞ坊ちゃん、買ってもらいなさい」
「余計なことを言うないっ、買ってやる、買ってやるてんだよ。おい、この一つ一銭の飴、いくらだ?」
「へえ、一つ一銭の飴は一つ一銭です」
「あっ、そうか。おまえがうるさいから、おとっつぁん恥かくじゃねえか、ほんとうに。……じゃァおとっつぁんが取ってやる。いちばんでかそうなやつをな。……値段はどれだって同じなんだろ? ほいきた、ああ、これがいい。こいつァいいや、赤くてでけえから。え? 赤いのはいやだ? 同じだよ、おめえどれだって(指をなめて)同じなんだ。これはどうだ? え? 小さい? (指をなめる)うん、これがいい、これ。え? 白いのはやだ? (指をなめて)同じなんだ、どれでも。これは欠けてやがる(指をなめる)これは……」
「ちょいと、もしもし。あんたいくつ買うんだい?」
「一つだ」
「一つだって、あらかたなめちまったよ、この人ァ。そんなにされちゃあ、売り物にならなくなっちゃう、汚くて」
「なに言ってやんで、てめえの顔のほうがよっぽど汚《きたね》えや。……じゃこれだ。……さ、口を開《あ》けろ、ほら、旨《うめ》えだろう……よかったよかった。さ、行こう……それ、その飴玉噛むんじゃねえぞ、な、歯の裏へ当てがってりゃいいんだ、噛むてえと歯を傷《いた》めるからな」
「おとっつぁん、うまいこと言って、噛むと早くなくなるからだろ?」
「いいから、さっさと歩きな」
「だけど(飴玉を頬ばって)……飴ってうまく考えたね。こんな安くって、長持ちするもんはないねェ」
「黙って歩けてんだよ。……ほらほら、下はぬかってるんだ。べちゃべちゃ歩いて、着物を汚して、またおふくろに叱られるぞ。着物が汚れるから、こっちィ来いッてえのに、わからねえやつだ。こいつは、やいっ」
「痛《いて》えッ……痛《いて》えやい。なにかってえとすぐぶつんだから、やんなっちゃう、おとっつぁんは。下がぬかるみぐらいわかってらい。上がぬかるみだったら天地がひっくり返らい」
「泣きべそかきながら理屈言ってやがって、ほら、早く歩けよ」
「なんか買って」
「なんかって、いま飴買ってやったばかりじゃないか」
「おとっつぁんがぶったもんだから、落っことしちゃったい」
「油断もすきもねえな。うっかりなぐることもできねえな。……どこにも落ちてねえじゃねえか」
「お腹ン中へ落とした」
「それじゃ、食っちまったんじゃねえか。もう買ってやんない」
「買って、買って、買って」
「だめ、だめ、だめ」
「買ってエーッ」
「声でおどかしたって、買ってやるもんか」
「買ってエーッ!」
「こんなところでそんな大声あげて、みんな見てるじゃないか。なにを買うんだ?」
「凧《たこ》買って」
「畜生ッ、なんだってこんなとこへ店開いてんだ、この凧屋の野郎ッ。しょうがねえなァ……じゃ、そのいちばん小っちゃな凧くれ」
「大きいの買って」
「大きいのは売らねえんだ、看板だ、ありゃ。なあ凧屋、売らねえんだな、その大きいのは飾ってあるだけだなあ」
「いえ、全部売りますよ。なんでしたら奥にもっと大きいのも……」
「この野郎、余計なこと言うな」
「唸《うな》りはどうしましょう」
「唸りなんぞいらない」
「唸りも買ってえン」
「わか、わかった。いいよ、唸りもつけろ」
「糸はどうします」
「やい凧屋、おめえ、なんだっておれに恨みでもあんのか? 畜生ッ」
「おとっつぁん、糸も買ってえン」
「畜生っ、おぼえてやがれっ、だからおめえなんか連れてくるんじゃァなかった。……みんなつけろ、みんな。いくらだ、え? おい、そんな高《たけ》えのか。ちぇっ…………おとっつぁん、帰りに一杯やろうとおもった銭、ここでみんな取られちゃう。畜生っ、こんな高《たけ》えもの買わせやがって……ほら、払うよ。受け取れっ」
「へ、毎度ありがとう存じます。またおいでを」
「二度と来るかい。こん畜生ッ……おい、凧貸しな、持ってってやるよ。こんなでけえ凧、おめえが持ってりゃあ、すぐやぶかれちまう」
「ねえ、おとっつぁん、あすこの原っぱでもって、凧あげて、そいから帰ろうよ」
「だめだ、もう家《うち》へ帰るんだ」
「そんなこと言ったって、家に帰ったら凧あげるとこないもん」
「じゃ、ちょいとだけ、ここであげてやる」
「じゃあ、おとっつぁん、あたいが凧持って行くよ」
「うん、じゃあ、ずっと下がれ。……ずっと、ずっと、うん、ずっと。ずーっと。よし、糸はいっぱい買ったから大丈夫だ。よしよし、もっとこっちへ寄んな、もっとこっち。そっちは人が通るから、もっとこっちだ」
「(凧を手に差しあげて)どっち? こっち?」
「(糸を引きながら)こっちだってんだっ……おっとっとっと、しょうがねえな、酔っ払いの野郎がぶつかっちまやァがって……おい、気をつけろっ……どうもすいません、それァ、あっしの倅《せがれ》なんで、ご勘弁願います。……泣くな、泣くんじゃあねえ。おとっつぁんがついてらあ。おめえがそっちへ行くからいけねえんだ。こっちだよ、こっちだ、こっち」
「痛《いて》えッ、この野郎ッ、気をつけろいッ」
「あっ、こんだ、おとっつぁんがぶつかっちゃったい。しょうがねえな。……どうもすいません、それァ、あたしの父親なんで、ご勘弁願います。……おとっつぁん、泣くんじゃあねェ、おいらがついてらあ」
「なにを言ってやがる。……いいか? うん。ひの、ふの、みィで手をはなすんだぞ。いいか?……ひの、ふの、みィッ……と、ほれ、見ろ、どうだい。ええ? もっと糸買っときゃよかったな。……どうだい、ブーンッと唸るだろう? この引きの強えこと。ブーンッ……と、どうだい、ああ、いいなあ」
「あの、おとっつぁん、おとっつぁん、ちょっとあたいにもやらして」
「どうだい、あがったあがった、あがったい。見ろ、なるほど、値段の高《たけ》えのはちがわあ。ええ? こりゃいいや。……さ、どんどん延ばすぞ、糸はまだあるぞ。ああ、いい気分だなあ、ひさしぶりだあ。ブーン、ブーンッ……と、唸りを買ってよかったろう、……え? 待て、待て、待て、待ててんだよ。待ちなってんだよ」
「あの、おとっつぁん、あたいに……」
「うるせえな、こん畜生は。あっちへ行ってろ、あっちィ行けてんだっ」
「おとっつぁん、そんなのあるかい、その凧はおいらンじゃねえか……あああ、こんなことなら、おとっつぁん、連れて来るんじゃなかった」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 月の二十五日は天神の縁日、正月は初天神というわけ。昔の人びとは月に一度は、きまって縁日に参詣に出かける習慣があった。浅草の観音さま、水天宮、新井薬師、鬼子母神、巣鴨のとげぬき地蔵、堀の内の御祖師さま……等々がそれで、その寺社を信仰し、参詣することが一つの生活のリズムとなり、また慰安《レクリエーシヨン》になっていた。こうした庶民信仰はいまでも根強く人びとの中に生きている。父親の手に引かれて「買って、買って」とだだをこねるこの噺の情景は、だれにも遠き幼き日の思い出を蘇《よみがえ》らせる。薄日のこぼれる亀戸天神の境内で宙天の凧を見上げる二人の父子の歓声が、冷たい風に伝わって響いてくるようだ。原話は安永二年刊『聞上手』の中の「凧」。「真田小僧」[#「「真田小僧」」はゴシック体]参照。
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妾馬《めかうま》
女|氏《うじ》なくして玉の輿《こし》に乗る。
女の方は器量がいいと、見染められておもわぬ出世をする。それはいまも昔も変わらない。
男は意気地なくして飴や|※[#「米+巨」、unicode7c94]※[#「米+女」、unicode7c79]《おこし》を売る。
昔は、大名のご本妻に子供(男児)がないと、お世継がなく、家の血統が絶え、お家は断絶……取り潰《つぶ》しという破目になる。そこで、腹は借り物というわけで、子供をつくるための、下様《しもざま》でいう妾《めかけ》を、側室《そばめ》と称してたくさん屋敷に置いた……。というのは表向きで、殿さまのなに[#「なに」に傍点]の都合もあり、適当にお遊びいただいていたほうが、なにかと事がまるく納まったのではないか……と、おもわれる。
丸の内の赤井御門守《あかいごもんのかみ》という大名、ある日、屋敷への帰り道、駕籠に乗ってわずかな供を従えて町家を通行している折、裏長屋から出てきた十七、八の娘、染めかえしの着物に、細い帯をぐるぐると巻き、手にした味噌漉《みそこし》を前掛けで隠し、路地口に立って頭《つむり》を下げているのが、駕籠の中から目に留まった。
殿さまが扇子で引戸のところを軽く叩《たた》くと、供頭《ともがしら》の侍が駕籠の脇へ近寄って、なにか耳打ちをして、そのまま行列は行ってしまった……。
一人、家来の者が残って、この裏だというので、長屋の路地へ入って来る。
「あー、これこれ、町人」
「へえ?……ああ、これはどうもお武家さま……なにかご用でございますか?」
「あァ、ちとものをたずねたいが、この中に家守《やもり》がおるか」
「へ?」
「いや、家守はおらんか?」
「え? やもり?……やもりはね、いまいませんが、日が暮れると、あの塀のところへ出てまいります」
「いや、そのようなものではない。この長屋を支配する者を申すのだ。町役《ちようやく》はおらんか、家主《いえぬし》は……」
「あ、家主ですか、やもりッてえなあ、ぷッ、なんだ、大ちげえだ。おい、やもりってのは家主だとよ」
「知ってるよ」
「いやな野郎だなァこん畜生。知ってるなら早く教《おし》えりゃァいいじゃねえか」
「だけど、そう言われてみるとね、やもりかなとおもうんだよ」
「どうして……?」
「こねえだの大風の吹くとき板塀へつかまってた」
「ありゃ倒れそうだから、家主のやつ押えてたんだぜ」
「余計なことを申すな。家主はどこだ?」
「へえ、家主なら……旦那、ご苦労さまでも、もういっぺん外へおいでなすって、右っ角に米屋がございます。その隣が染物屋で、その隣の荒物屋がそうなんですよ。いえ、荒物ったって、碌《ろく》なものはありませんよ。そのくせ他店《わき》より高《たけ》えときてるんで、商いといったところが店子のものとか、町内のものが義理にしかたなく買うんですよ。自身番へ出て、町役とかなんとかいわれておりまして、たいした役に立つじじィでもありませんが、でもまあ、高慢な面をしております」
「そんなことはどうでもよい。それが差配をいたす者であるな」
「へえ、さようで、角から三軒目、二間半の間口で、草箒《くさぼうき》が表につっ立って、束子《たわし》だの蝋燭《ろうそく》だの線香だの、そんなものが並べてあります。二階の窓の外に三尺ばかりの物干みたいなものを作ってあって、上に植木が並べてあります。この爺さん植木が好きで……たって、縁日に行って植木屋をむやみにひん値切[#「ひん値切」に傍点]っちゃあ、安い物ばかり買うもんですから、根の無《ね》え植木やなんか押ッつけられて……、けちな松の木なんぞが摺《す》り鉢の鉢巻したやつに植わってます」
「なんだ、鉢巻というのは?」
「なに、鉢にひびが入ってるんで、箍《たが》がかかっていますんで……へえ、その植木棚が腐っているから危のうございますから、お気をつけて……お会いになったら…家賃を上げやがってしょうがねえんですが、もう少《ち》っと安くするように、ひと言言っておくンなさい……とにかくすぐわかりますから……」
「あー、ちとものをたずねたいが……」
「へ? おや、これはこれは、いらっしゃいまし……お婆さん、布団を持ってきな、布団を、さあ、どうぞ、お当てくださいまし」
「拙者、ただいま表をお通りになった、赤井御門守家来であるが、この先の裏長屋を差配するのは、そのほうか」
「へえ、さようでございますが、なんぞ長屋の者が粗相でもいたしましたら、わたくしがなり代わってお詫びをいたします。どうも無作法なやつばかりでまことにどうも……」
「いやいや、あやまるにはおよばんが、年のころ十七、八にあいなるか、眉目《みめ》よき女子《おなご》が味噌漉とやら申すものを持って、かの長屋の路地のうちに入ったが、あれは何者の娘であるか?」
「へえへえ、味噌漉を持って?……だれだい、お婆さん、え? ああ、お鶴かい?……ええ、お武家さん、あれはてまえの支配内の者でございますが、あれは体格《なり》が大きゅうございますので、ちょっとご覧になりますと、十七、八に見えますが、まだ十三でございまして、から馬鹿[#「から馬鹿」に傍点]なんでございます」
「なに? 年齢は十三で、しかもから馬鹿[#「から馬鹿」に傍点]と申すか?」
「へえへえ、さようで……」
「それは、まことに困ったな。いや、じつは内々のことであるが、殿のお目に留まり、屋敷へ奉公にあげるようにと……その下話《したばなし》に参ったが、馬鹿では困るな」
「ああ、……さようでございますか、いえ、まったくのことを申し上げますと、あれは本年十八になりまして、もう目から鼻へ抜けるような利口者でございまして、親孝行で、あんな心がけのよい娘はございません」
「なんだ、いま、十三と申したではないか」
「いえ、それは、なにか粗相がございましたときは、十三で、から馬鹿[#「から馬鹿」に傍点]ということでお許しを願おうと存じましたもので、……へえたしかに十八で、利口者でございます」
「しかとさようであるな?」
「ええ、けっしてまちがいはございません。昨年が十七で今年は十八で、この分で首尾よくまいりますと、来年が十九歳……」
「くだらんことを申すな……で、あの者に親兄弟は?」
「へえ、おふくろと兄がございます」
「しからば、その兄に相談をいたして、よろしければ…」
「いいえ、相談もなにも……兄と申しましてもこれがやくざ者で、あってもなきがごとくでございまして。おふくろを相手に、ぼろを着て、一所懸命内職をして働いておりますが、じつに感心な娘でございます。まだ色気とてもまるっきりございません。もしご縁がございまして、ご奉公がかないますれば、おふくろの喜びはひと通りではございません。どうもありがとう存じます」
「いや、しかし、おまえがありがたいと言ったところが、本人が不承知ではいかず、またやくざ者にせよ、兄という者があってみれば、それに相談せねばなるまい?」
「なあに、とんでもございません、兄貴だって、あんな野郎は、長屋の厄介者で、否応いわせる気づかいはございません」
「しかし、万一、不承知を言うようなことがあってはならん。さっそく屋敷へたずねまいるよう、そのほうから申しつけてもらいたい。支度金は望みどおりとらせる。いま一つ申しそえておくが、いたって堅い殿さまで、これまでいくらお勧め申しても、妾、手掛というものをお持ち遊ばさない。ところが、奥方さまにいまだお世継の若君がおられない。お家のため、お召し抱えになろうというのである。したがって、かの鶴とか申す娘が、幸いお世取りでももうけるようになれば、たいそうな出世であるから、母や兄にもよく申しつけて、とくと相談の上、さっそく否応《いなや》を申し出《いず》るよう」
「へえ、さっそく明朝、うかがうようにいたします。え? どちらさまで……へえ、赤井御門守さまお小屋|内《うち》、石部弥太夫さまとおっしゃいます?……さようでございますか。お茶もさしあげませんで、たいへん失礼をいたしました、へえ、ごめんくださいまして……お婆さん、お鶴だよ。ああ、殿さまのお目に留まったてえ。いや、ありがてえありがてえどうも、おれの長屋からそういう者が一人でも出てくれりゃァ、こっちも鼻が高《たけ》え。ちょいと行ってくるからな、羽織を出しな。いや、なんの仲でも、こういうときはな、きまりだから、羽織の一枚も引っ掛けて行かなくちゃいけねえ。おれァ話をしていますぐ帰《けえ》ってくるから、いいか……」
「おい、いるか、婆さん。婆さんや、婆さんっ」
「なんだなあ、婆さん婆さんて、女が年を取りゃァ婆さんになるのァあたりめえでえ。男が年を取ってみろ、じじいにならあ」
「なに言ってるんだい。あたしだよ……開《あ》かねえなあ」
「開かねえのなら勝手にしろ……わかっているってえんだよゥ。なんだなあ、三合や五ン合借りがあったって、そんなにちょくちょく催促に来るにゃァおよばねえじゃねえかなあ。」
「あれ、なんだ、おれを酒屋のご用聞きとまちがえてやがる……おまえねェ、人の顔を見ないで話をするから……おや、寝てるな」
「おや……まあ、どなたかと存じましたら、まァこれはこれは家主《おおや》……さん」
「あとでさん[#「さん」に傍点]をつけなくったっていいやな。どうした、風邪でもひいて寝てたのかい? 鬼の霍乱《かくらん》ということがあるが、ふだん丈夫なおまえが風邪をひくなんて……」
「いえなに、仮病《けびよう》なんで……晦日《みそか》が近いもんで、そろそろ書付やなんか持って来るもんだから、気が気じゃァないから、まあ、風邪でもひいていると言えば、同じ言いわけをするにも、しようがあるんでねェ、じつは丈夫なんで……」
「あきれたもんだ……じつはな、今日来たのはほかでもない、まァ、上がらしてもらう」
「さあどうぞ……いいえ、もうおっしゃるまでもございませんで、雨露をしのぐ店賃《たなちん》を、どういう了見でとどこおらしたというお叱言《こごと》でございましょうが、なにしろ、うちのあのばか野郎がなまけておりまして、まるっきりこのところ仕事をいたしませんので……お鶴一人で働いておりますんですからねえ」
「いえ、今日来たのは店賃の催促じゃあないんだよ」
「おやまあ、めずらしい」
「ふざけなさんな。なんだめずらしいとは……」
「あなたのお顔を拝見すると、もう店賃の後光《ごこう》がさすようで……」
「ばかなことを言うな。……じつはな、おまえに相談ごとがあってな」
「相談ごと? なんでございます?」
「うん、いいお妾の口があるんでな」
「まあ、いやですよ、家主さん。そりゃあ、あなた、年は取りましても、茶飲み友だちの一人や二人、ないことはございませんけども、こんな年寄りを、あなた、お妾だなんて……あたしゃ恥ずかしい」
「なにを言ってるんだ。おれのほうが恥ずかしいや……いいえ、おまえじゃあない。娘のお鶴だよ」
「おや、そうでございますか、どうもわたくしも少しおかしいと……」
「あたりめえだな。だれがおめえなんぞ引き取るやつがあるもんかな。さっき表をお通りになった丸の内の赤井御門守さまというお大名だ。殿さまのお目に留まって、お屋敷へ奉公にあげるようにという、ご家来からのお問合《つかい》があった。当人にも聞いてみなくちゃあわからねえが、支度金も望みどおり出すとさ、どうだい、おまえ、不承知か?」
「まあ、家主さん、不承知どころか、ありがたいじゃありませんか……まあ、いいえ、あの娘《こ》だけは、どうかわたくしも出世をさせてやりたいとおもいまして、ご承知のとおり、ほんとうに心がけのいい娘《こ》でございまして、それにあの娘《こ》は、小さいうちは虫持ちでございまして、まァあっちの虫封じだ、こっちの護符《ごふう》をいただくんだ……そのうちにあなた、四つの年に疱瘡《ほうそう》でございましょ。疱瘡は器量定めなんていいますから、もし顔へ傷でもつけたら親の甲斐がない、どうかこれがうまく仕上がるようにと、それは、ねえ……まあ、夢のようですねえェ、これと申しますのも、三年前に亡くなりました親父の引きあわせでございましょう。また、一つには、日ごろ信ずる象頭山《ぞうずざん》の金比羅さま、中山の鬼子母神さま、熊本の清正公さま、豊川稲荷大明神、成田山新勝寺、不動明王さま……※[#歌記号、unicode303d]妙見さまへ願かけて……」
「なんだ、唄わなくたっていいや。まあまあ、おまえもそうして苦労をした子が出世をするという、結構なことだ。当人にはおまえから話をして、八公には、わたしからよく話をして、得心させなけりゃあいけないから……」
「あんなもの、いいんですよ」
「そうはいかねえんだ。どこにいるんだ?」
「どこにいるんだかわからないんですが……まあ、今日で五日も帰りませんから、もうそろそろ帰ってくるとおもうんでございますよ。これから心あたりを捜しまして、さっそくお宅へうかがわせますから……」
「なにしろ、あしたの朝までに、お屋敷のほうへご返事をしなくちゃあならない。こっちさえよければ、先さまでは御意にかなっているんだから、いいか、捜したらすぐ八公を家《うち》によこしておくれ」
「はい、かしこまりました」
「こんちはっ、家主さん……いま新道の建具屋の半公の二階で仲間とわるさしていると、迎いがきてばばあが『家主さんとこへ急いで行ってみろ』てんで……」
「やあ、八か。まあ、こっちへ上がれ」
「へえ、どうもまことにすいません。……おっかァから、あらかたの話は聞きましたが、なんだかしらねえけれども、お鶴のあまが大名《でえみよう》の鼻へ留まったって?」
「なにを言ってやがる。蠅《はえ》やなんかじゃああるまいし、鼻へ留まるやつがあるか。お目に留まったんだ」
「ああ、目に留まったのか。なんでも、その見当だとおもった……で、なんです。その、お目に留まったてのは?」
「ま、早く言えば、おまえの妹を見染めたんだ」
「うふッ、助平殿公……」
「な、なんだ、助平殿公とは……そういうことを言ってはいかん。丸の内の赤井御門守という立派なお大名だ」
「へェえ?」
「おれがいま武鑑《ぶかん》を調べたところが、なかなかどうして、まあ、たいしたお家柄だ。元はお公卿さまでな、ご先祖は算盤数得卿玉成《そろばんかずえのきようたまなり》とおっしゃる。中《なか》たび任官して、八三九々守《はつさくくくのかみ》となった。お禄高《たか》が十二万三千四百五十六石七斗八升九合|一掴《ひとつかみ》半分お取りになる」
「へえェ、おっそろしいねえどうも……」
「そこからご奉公にあげるようにと、さっきお使者《つかい》があった。それについておまえに不承知があるかどうか、それを聞きてえから、おふくろに捜しにやったんだ」
「どういたしまして、不承知なんかありゃしません。おりゃどうでも構わねえ」
「構わねえってことはねえだろう。しょうのねえやつだな。支度金のところは望み次第とらせるというから、ともかくも着物をこしらえたりなにかして、このくらい要るだろうというところを言いなさい。いくらでもいい」
「いくらでもいいったって、そういうことは、たいがい相場があるだろうからねェ、どうかよろしくお願《ねげ》え申します」
「それはいけねえや、おれはこんな人間で、なかへ入って一銭一文でも儲けようという考えはねえ。おまえのためをおもうから心配しているんだ。おめえは主人《あるじ》じゃあねえか」
「主人《あるじ》は、裸だ」
「裸でもなんでも、望みはあるだろう。このくらい支度にかかって、婆さんの手当も少しは取って、借金を返すぐらいの勘定を立ててよ」
「うまく言ってやがる。店賃を取ろうとおもって……」
「なにを言やがる。店賃《たなちん》なんぞ別に取ろうというわけじゃない。明日の朝までに返事をするんだからどうだ」
「どうも弱ったなあ。こんなことにはじめて出っくわしたんだから……。あいつを女郎にぶちこんだところで大したことはねえんだからね」
「女郎に売るのたァちがうよ。女郎といっしょにするやつがあるか」
「そりゃそうだけれども弱ったなあ。……そうさなあ……こんなところじゃあどうでしょう? 片手というところじゃあ……」
「そうさなあ、片手というと、ちょっと多すぎるようだが……」
「じゃあ、三両ぐらい……」
「ええ?」
「三両……」
「なにを言ってんだ。相手はお大名だ。なんだ、三両ばかり……おまえが片手といったんで、五百両だとおもったから、少し多いと言ったんだ。まあ、三百両ってとこなら、向こうだって出すだろう。三百両ということにするか?」
「三百両、こりゃありがてえなどうも、三百両なら、おふくろをつけてやりましょう」
「おふくろなんぞつけなくったっていいや」
「だけど、この田地からできたんですから、田地ごとお持ちなさいって……」
「ばかなことを言うな、百姓が養子に行くんじゃあるめえし」
「じゃあ、三百両。手を打ちましょう。三百両ときたひにゃあ、すっかり近所の払いもできるし、質も出して……だけど家主さん、店賃は払わねえよ。せっかくこれだけ溜めたんだから」
「ばかいえ、もらうものはもらう。……なに言ってんだ。そんなことを言ってる場合じゃあねえ」
翌日、家主が屋敷のほうへ話をする。さっそく三百両という金が下りて支度万端ととのい、お鶴は屋敷へあがった。……殿さまのご寵愛深く、たちまちご妊娠。月満ちて産みおとしたのが、玉のような男の子、お世取りをもうけたというので、にわかにお鶴の方さま、お部屋さまというお上通りの扱いになった。そこで、お鶴から兄に会いたいと願いが出、八五郎に屋敷に出るようにという使者《つかい》が来る。あいだに入り毎度迷惑するのは家主で……。
「しょうがねえ野郎だ。いたかい? 婆さん、ええ? 合羽《かつぱ》屋の二階に転がっていたって? おえねえ擂粉木《すりこぎ》野郎だ。八公のやつァ持ちつけねえ金が入《へえ》ったもんだから、友だちに『兄ィ兄ィ』てんでおだてられて『おゥ、いいから来ねえ』なんて、威勢よくぱっぱと遣《つか》っちまって、一文無しンなって、奴《やつこ》さんきまりが悪いから家へ帰《けえ》れねえって、友だちンとこを居候のまわし[#「まわし」に傍点]を取って歩いてやがる。……来やがった来やがった……なにをしてんだそんなとこで、上がったらいいじゃねえか、こっちィ入《へえ》れっ」
「……どうもすいません。えへへ、方々捜したってね」
「捜したんじゃねえや。どこィ行っちまったんだ」
「どこィ行ったって、なにしろ、えへッ、家《うち》の方へご無沙汰してますからね」
「なにを言ってやがる。てめえの家ィご無沙汰をするやつがあるか。どうしたんだ?」
「どうしたって、ェ、外聞《げえぶん》が悪くて帰《けえ》れねえや」
「外聞が悪いって……」
「妹が奉公に行ってるから、月々の手当をもらって、おふくろはいまンとこはまあ、のんきに暮らしてらあね。そこへまたあっしが厄介《やつけえ》になりゃあ、なんのこたあねえ、干し大根《だいこ》と生大根《なまだいこ》といっしょにかじってるようなもんだからねえ」
「なんだい、干し大根と生大根とかじるてえなあ」
「おふくろのほうはしなびちまってるから、干し大根みてえなもんだ。妹ァまだ水々してるから生大根……」
「なにを言ってやがる。親兄弟の臑《すね》を大根にたとえるやつがあるかい」
「そのかわり、いくら食ってもあたらねえ[#「あたらねえ」に傍点]」
「そういう……てめえはばかだからしょうがねえ。同腹《ひとつはら》からできたが、おまえの妹は利口だ。お屋敷でこんど大したことになった」
「え?」
「お世取りをもうけた」
「だれが?」
「おまえの妹だよ」
「ああ、ごよとり[#「ごよとり」に傍点]をねェ」
「うん」
「儲けた……あ、そうですか。うまくやったねえどうも、あんまり儲からねえもんだけどねェ。ごよとり[#「ごよとり」に傍点]なんてものはねえ、へえ、儲けましたか。あれで、運がいいんだねえ。十姉妹《じゆうしまつ》なんざあもう安くなって……」
「な、なにを言ってるんだい。鳥の話をしているんじゃねえやな。わからねえやつだ。ご世取りてえのは、お子さまができたんだよ」
「ああ、お蚕《こ》さま。ああー、あれならあっしァ上州《じようしゆう》ィ行ってる時分に、ちょいと手伝ったことがありますがね、ええ。春取れるやつは春蚕《はるご》、秋取れるやつは秋蚕《あきご》てえますがね。どうしても春蚕《はるご》が当たらねえと……」
「なにを言ってるんだ。桑の葉をたべるお蚕《こ》さまじゃあないや。わからねえやつだ。ご男子《なんし》ご出生《しゆつしよう》だよ」
「ごなんしごしゅっしょう[#「ごなんしごしゅっしょう」に傍点]? なんだな、最初《はな》っからそう言やあいいんだね。へえ、おどろいたねえどうも」
「じつに大したことになった」
「ふン、豪儀なことですねえどうも……ごなんしごしゅっしょう[#「ごなんしごしゅっしょう」に傍点]なんてえなァ気がつかなかったねえどうも。おどろいたねェ、ごなんしごしゅっしょう[#「ごなんしごしゅっしょう」に傍点]……って、なんです、それァ?」
「なんだい、こんな心細いやつはねえな。わからねえで感心をしてる……」
「あっはは、そうわからなくちゃ、おまえさんもがっかりするだろうとおもって、景気づけに感心をした……」
「景気づけに感心をするやつがあるか、お鶴に、子供衆《こどもし》ができたんだ」
「あーあ、餓鬼《がき》をひり[#「ひり」に傍点]出したのかい」
「な、な、なんだ?」
「なんですかい、跳び出したのは雄《おす》かい?」
「ばか野郎、なんだ、雄とは。男の子だからご世取りだ」
「女の餓鬼なら四十雀《しじゆうから》……」
「まぜっかえすな……それについてお屋敷からお沙汰があった。そういう身分の方にお目どおりがかなうのも妹のおかげだ。おまえもおよろこびに屋敷へ上がらなくっちゃァいけねえ」
「あっしがですか?」
「そうだよ」
「いやだな」
「どうして?」
「どうしてって……手ぶらじゃ行かれねえ、ちったあ手土産の一つも持って行かなくちゃあならねえでしょ、佃煮の折《おり》ぐらい? 断わっておくんなさいな。大名《でえみよう》づきあいときたひにゃァ気骨がおれるからねえ」
「この野郎つきあう気でいやがる。そうじゃあねえや、おめえが向こうへ行くんだ。だいいち、高貴《うえつ》がたへ対して、なにか持ってくなどということはたいへんに失礼だ。ただ、行きさえすりゃあいい」
「行きゃあどうなります」
「行けば、損はないよ」
「へーえ、なんかくれますか?」
「そりゃあ、くださるさ」
「なにを?」
「お目録をくださるな」
「へーえ、おもくもく?」
「ちがう、お目録といって、金をくださるんだ」
「へえー、大名てえものは大したもんだねえ。してみると、つきあって損はねえや……で、いくらくださるんで?」
「どうもおまえは、がさつだからいけねえ。口のききよう、立ち居振舞い、丁寧にしねえと、妹が恥をかくぜ」
「へえ、かしこまりました……じゃあ、これからさっそく行ってきますから……」
「おいおい、行ってきますって、その服装《なり》で行くやつがあるかい」
「いけませんかね?」
「あたりまえだ。大掃除の手伝いに行くんじゃねえや。お屋敷へ行くには、紋付の着物に、袴をつけて行かなくちゃあいけねえ……どうだ、あるか?」
「えーあります」
「ふーん、感心だな。年じゅう尻切り半纏一枚でいるやつが、よく持ってるな」
「へえ、へへへ、ものはよくないけどねえ……うしろの箪笥《たんす》の三つ目の抽出しに入《へえ》ってる」
「こりゃあ、おれンちのだ」
「へへへ、それだ」
「じゃあ、借りていくつもりなのか?」
「へへへ、勿論《もち》さ」
「なんだい、勿論《もち》たあ。あきれ返《けえ》ってものが言えねえ。他人《ひと》のものを借りるのに、だいいちものはよくねえけどってやがる」
「どうせおまえさんとこにいいものはねえ」
「なにを言ってやがる……じゃ、貸してやってもいいが、それじゃあしょうがねえ。先ィ湯ィでも入《へえ》って、髪結床ィ行って、きれいごとンなって来い、早く……行ってきな」
「早く行くんだけどもさァ、へへへへ……行くようにしなくちゃ行かれねえじゃねえか。ただ行け行けったって、そうはいかねえや。ねえ、てえげえ見りゃあわかるんだがなあ。えへっ、どういうわけで、こうむだに年を取ってやがる。血のめぐりが悪い」
「なにを言ってやがる。なんだ、血のめぐりが悪い? 察するとこ、なんだなこの野郎、髪結銭が無《ね》えんだ」
「えへっ、ついでに湯銭も無《ね》え」
「なんだ、まるっきり無《ね》えんだ」
「へええ、さばさばしてる」
「さばさばしすぎてる。しょうのねえ野郎だ……さ、これだけありゃあ足りるだろ?」
「へえへえ、こんなにありゃあ、余るよ……釣銭《つり》いらねえだろ?」
「いきとどいてやがる」
八五郎は、湯へ行って、髪結床へ行ってさっぱりして帰ってきた。
「おゥ、頭ァ見つくンねえ、こう……刷毛先《はけさき》を散らさねえとこ……」
「ああァ、お屋敷向きは、それが上品でいい。さあ、そこへ着物が出てるよ」
「そうですかい。すみませんねえどうも。ええ、みんな出てるかね?」
「お婆さんがてえげえ揃えたろう」
「へえ、そうですかね、ええ……袴だね、帯に足袋に、襦袢に、羽織に……はてな、足りねえなあ」
「なにか出てねえか?」
「へえ、褌《ふんどし》がねえ」
「ばかだな、褌がねえって、締めてねえのか?」
「……恥をかかせるもんじゃないよ。うふッ」
「なんだ、あきれたやつだ……じゃ、婆さん、締めかえを一本出してやんな」
「どうもすいません。ありがとうがす。へェえ、家主さん、なんだね、越中だね……腰ィ当たりがいいように絹紐がついてやがる。贅沢《ぜいたく》だね、どうも……」
「なぜ他人《ひと》の前でぱっと振るんだ」
「だけどいっぺん振るわねえと心持ちが悪い」
「なにを言ってやがる。いくら新しいもんだって、他人《ひと》の前で下帯を振るやつがあるか。……一人で着物が着られるか? え? 着物をつけたら……、こんど袴をはくんだ」
「家主さん、こりゃあ、臍《へそ》の蓋《ふた》ですかね?」
「臍の蓋? あれっ、婆さん、見てやんなよ。袴をあべこべに穿《は》いちまったんだ……臍の蓋じゃあねえ。そりゃあ腰板といって、うしろへいくんだ」
「あ、うしろィ行くのかいこれァ……すると、屁《へ》の蓋かね?」
「屁の蓋なんてものがあるか。早く穿《は》き直すんだ」
「えい、面倒くせえ、やあ……(と、両手を腰に当て、そのまま袴をまわそうとして)」
「おい、両足を割って穿いたものを、そのまままわそうったって、まわりゃあしないよ。手数のかかるやつだ」
「えへ、じれってえ」
「こっちがじれってえや……穿き直したら、紐はちゃんと結ばねえと、袴がさがっていけねえぞ」
「へえ」
「しっかり結んだか?」
「へえ、結びましたが……ずいぶん長《なげ》えねこれあ、ちょいと鋏《はさみ》で切ってくれませんか?」
「おいおい、切るんじゃあねえよ。そりゃあ、こうやってはさんどくんだ……そうそう……あれっ、縒るんじゃねえ。草鞋《わらじ》の紐じゃあねえや……袴が穿けたら、こんどは羽織を着るんだ……うん、馬子にも衣装というが、どうやらかたちがついた。結構結構、男の紋服姿はいいもんだ。生涯にそういう服装《なり》を一度すれば、また二度することがある」
「へえ、近々にまたどうしてもするだろうとおもうんで」
「なにかあるのかい?」
「へえ、へッへ、家主さんの葬式《とむれえ》があるだろうとおもって……」
「なんてことを言うんだ。縁起でもねえ」
「まあ怒っちゃいけないよねえ。こういうことは言い当てるから」
「なおよくねえや……それから、そんなとこへ拳固を入れるもんじゃあねえ。羽織袴で弥蔵ってなあおかしいや。袂《たもと》の先へ手を入れて、突袖《つきそで》というものをするんだ」
「へえ、こうですかい?……へへ、なんだか変だねえ、どうも。疳癪《かんしやく》持が縁日ではじき豆ェ買ったようで……」
「そう動かすからおかしいやな。ただ手を入れて、いくらか反《そ》り身になったほうがいいな。女は、屈《こご》みかげんのほうが女らしくていいし、男は、反りかげんのほうが立派に見える」
「へーえ、そうですかねえ。女は屈《こご》みかげんのほうが女らしいですかねえ……その割りにゃあ、ここンちのお婆さんなんざあ女らしくねえなあ、あんなに屈《こご》んでンのに…」
「ばかだなあ、こいつは。婆さんが聞きゃあ怒らあな。あれァ年のかげんで曲がったんだ……くだらねえことを言ってねえで、早く行ってこい。おめえ、お屋敷は知ってるな?」
「ええ、わかってます。あの、丸の内の、真っ赤な大きな門のある家でしょう?」
「そうだ。向こうへ行ったらな、ご門番に、『お広敷《ひろしき》へ通ります』って言うんだよ。それで、『田中三太夫ってお方にお目にかかります』ってこう言うんだ。いいか、田中三太夫ってお方は、ご重役で、万事を心得ていらっしゃるんだからな」
「わかってるよォ、いい塩梅《あんべえ》にやっつけるよ」
「おまえはそのように言葉が乱暴でいけない。ああいうところへ行ったら、言葉に気をつけて、丁寧な言葉を使わなくちゃあいけねえ」
「大丈夫《でえじようぶ》だよォ。うまくぶッくらわせらあ」
「なんだい、ぶッくらわせるなんてえなァ。いけぞんぜえな野郎だァ。そういう言葉は使っちゃあいけねえ」
「そんなことを言ったら、口がきけねえじゃねえか。丁寧にって、どうすりゃあいいんだ?」
「ものの頭《かしら》には『お』の字をつけて、しまいのほうには『奉《たてまつ》る』をつける。そうすりゃあ、自然に丁寧になる」
「ああ、なるほどね……上へ『お』の字がついて、下へ『奉る』で、おったてまつるだ」
「なんだい、おったてまつるとは?……じゃあ、わかったな?」
「おう、わかってるよ」
「うまくやってこい……おいおい、履物は?」
「え?」
「履物は……?」
「へえ、いま新しい雪駄をおろしたよ」
「おい、いけねえ。そりゃまだおれが一度も履かねえんだ」
「いいよゥ、こういうときおろしゃあ縁起がいいや」
「なにが縁起がいいやつがある……格子を閉めねえのかい」
「へえ、行ってきまーす……あっははは、……ありがてえありがてえどうも……なんのかんのいっても、家主ァ世話好きだからなあ、おれのことをいろいろ心配《しんぺえ》してくれらあ。なあ。人間は運が天にあり、牡丹餅ァ棚だなんてやがら、運天牡丹棚と来なくちゃしょうがねえやどうも……これでおれが向こうへ繰《く》りこんで、殿さまがなんて言うだろうなあ。ええ? 『おめえかい、八っつぁんてえなァ。よく来たじゃあねえか。まァいいやな、こっちィ上がンねえ』かなんて言うかもしれねえから、こっちも構わねえから『おい、どうした殿さん』てなことをやっつけらあ、『殿さん、なんだってなァ。子供ができたてえじゃあねえか、え? 野郎だってえじゃあねえか。豪儀だなあ。なんでも男でなくちゃいけねえや、なあ。初節句にゃあなんか祝うぜ、おれァ、金太郎の人形なんか持ってきて』……そんなこたァよそうかなあ、ええ? いや、おれがこれから向こうへ行くのを、みんな噂してるぜきっと……御殿女中やなんかが、ばかに丁寧な言葉でね、『お鶴さまのお兄上さまのお面付《つらつき》は、いかがでござり奉りましょうか?』なんてんで、そこへおれが行くと、『あらっ、なんてまあ、お粋で、お伝法で、おいなせで、おわたくしは、お見染め奉り候』てなことを……言うかどうかわからねえけど……うふふふっ、うれしくなってきやがったなあ、畜生め!」
「へへへ、こんちはァ……ちょいとこう……」
「これこれ、待て待て。いずれへ通るけえ?」
「へ?」
「いずれへ通るけえ?」
「……向こうへ通るけえ」
「あやしいやつだ。そのほうは、いったい何者であるけえ? ああなんであるか?」
「おてめえは人間であるけえ」
「なにを言うとォる。さようなことは申さんでわかっとォる。なに用で屋敷へ参《みえ》った者であるかと言うに」
「ああ、なに用? あのねェ、屋敷ィ妹がいるんだがねえ。お鶴ってのが。え? お鶴」
「おつる?」
「おつる? 知らねえのかい、お鶴をよォ。殿さまの妾《めか》ちゃん」
「殿さまのめかちゃん[#「めかちゃん」に傍点]……?」
「じれってえなあ。れき[#「れき」に傍点]だよ……こんど妹がねェ。孕《はら》んでひり出したんだ、餓鬼が……」
「あっ、これはこれは、お部屋さまのお兄御さまで……」
「ええ、それなんだ。お兄御よ、お兄御さまだってんだ。妹が会いてえってえから今日やって来たんだが、入《へえ》ってようがすかねえ」
「それならば、かねてお達しのあることで、どうぞお通りを……」
「ちゃんと知ってるくせに、横着な……」
「なにを申しておる……どちらへ参る?」
「ェ、お風呂敷《ふるしき》ってとこへ行くんで……」
「お風呂敷なんてとこがあるか。お広敷である。……どなたにお目にかかる?」
「へえ、田中三太夫って人」
「これこれ」
「へえっ?」
「田中三太夫って人とはなんだ」
「人……人じゃねえのかい?」
「なにを申す……人にまちがいはないが、人と申してはならん。田中三太夫殿であろう。うー? 田中三太夫殿なら、当家の重役であるわ」
「重役だか、重箱だか知らねえが……早く教えろ」
「な、なにっ……。乱暴なやつだ。では、拙者が教えてつかわすが、よいか。このご門を入るな、まっすぐに行くわ。すると、左の方にお馬場が見える。そのお馬場を通り越すと、柳の木がある。その下に井戸がある」
「へへへ、そこからお化けが出る……」
「そんなもの、出やせん。そこへ参れば、すぐにお広敷に通れるわ」
「へえ、どうもすいません……なんだ、あの野郎、いばった野郎じゃあねえか。へっ、門番なんてもなァいくらもらうか知らねえけど、おッそろしいやかましい面《つら》ァしてやがら……なんだと、まっすぐに行くと、左の方におばばが見えるだと……なに言ってやんでえ。ばばあなんぞ見えるけえ。原っぱが見えるだけじゃあねえか。でたらめ教えやがって、畜生め……ああ、ここに柳の木があって、井戸もあらあ。こいつはほんとうだ……ああ、ここだな、お広敷てなあ……こんちは、おーい、どうしたい? だれもいねえのかい? こんちはァ、留守かい? それとも死に絶えたかい?……おーい、奉るよー」
「どーれ……これっ、なんだ?」
「あ、こんちはッ。お鶴の兄でござんすが、お鶴が会いてえってんで、やって来ましたが、すいません、ちょっと親分にそ言っとくンないな」
「親分? お部屋さまのお兄御さまで……あ、これはこれは、ただいま重役に申し上げるあいだ、暫時それへお控えのほどを願いたいで……」
「なにを願いたいんで……?」
「いや、ただいま取次ぐあいだ、暫時それに控える」
「ああ、ざんじ蟇蛙《ひきがえろ》……じゃ、ここへ蟇蛙ンなってればようがすか。おい、おい、あんちゃん、おい……早くしろよ。ちぇっ、なに言ってやがる。屋敷なんてものは、面倒臭えことばかり言ってやがる、へッ。なにもそんなに片づけてるこたァねえ、さっさと出て来やがるがいいじゃあねえかなァどうも。いやに裃《かみしも》をつけて……おっそろしい立派なやつが出て来やがった……(会釈して)こんちはァ、へへッ、おまはん、なんですか、殿さまで……?」
「てまえは、当家の用人田中三太夫と申する者であるが、ただいま御前へ申し上げたるところ、さっそくお目通りがかなうという、ありがてえことである」
「そうですかねえ、いい塩梅《あんべえ》にお天気で」
「なにがよい塩梅にお天気じゃ。ただいま御前へ申し上げたるところ、さっそくお目通りがかなうという、ありがてえことである。しからば身が尻へくっつきなさい……身が尻へくっつく」
「おまえさんの尻ィ食いつく……?」
「なにをたわけたことを。尻へ食いつくやつがあるか。身があとからついて、同道《どうどう》をしなさい」
「え?」
「身のあとからついて、同道をしなさい」
「えー、すると、どこンとこでやりましょうね? まわるんでしょ? どうどうめぐり……」
「いや、そうではないのだ。いっしょに来ることを、同道というのだ」
「ああ、符牒《ふちよう》だね?」
「符牒ではない。こっちへ参《めえ》るように……」
「えー、雪駄《せつた》ァここへ脱いどいてよござんすか?」
「いや、構わん」
「構わんたってね、家主の、借りてきたんだよ。盗《と》られちゃ困るからねェ」
「盗られはせん」
「しかしねえ、もしもってことがあるといけねえから、これ、懐中《ふところ》へ入れて……」
「こらこら、汚い……そこへ置けばよい」
「そうですか?……じゃあ、そうしましょうか」
「しからば、こっちへ参《めえ》れ」
「へーえ、なるほどねえ、広い屋敷だねえ……へえ、こんなに広かったひにゃあ掃除がたいへんですねえこりゃあ。座敷の数ァずいぶんありますが、家賃も安かねえんでしょうねえ」
「えへん……このお廊下を右へ曲がる」
「へえ」
「お廊下を左ィ曲がる」
「へえ」
「また右へ曲がる、……左へ曲がる。……右へ曲がる」
「よく曲がるね。……ちょっと待っとくれよ。おいおい、こんなにおじさん、曲がったひにゃあ、帰り道がわからなくなっちまわあ。こんなに曲がるんじゃあ、角々《かどかど》に小便をひっかけて行かなくっちゃあ……」
「…大声を発してはならん……御前間近である。頭《ず》が高い。頭が高い。どたま[#「どたま」に傍点]を下げろっ」
「なに……?」
「わからんやつである。どたま[#「どたま」に傍点]を下げろッ(と、頭を押えつける)」
「なにをするんだよォ、頭《あたま》って言えばいい。どたまどたま[#「どたまどたま」に傍点]ってえから……」
「ご出座であるから、どたま[#「どたま」に傍点]を持上《おや》かすな……どたま[#「どたま」に傍点]を持上《おや》かすなちゅうに」
「けっ、叱言《こごと》ばかり言ってやがら。大丈夫だてんだよ、がりがり[#「がりがり」に傍点]言うなよ。うるせえなあどうも」
「しいッ、しいッ……」
「赤ん坊がおしっこしてンのかい?」
「ご出座である(と、手をつきお辞儀して)おそれながら申し上げます。お鶴の方《かた》のお兄御八五郎、これに控えましてござります」
「おゥ、鶴の兄八五郎とはそのほうであるか? うん、さようか……これ、苦しゅうない、面《おもて》をあげい。面をあげい。これ……いかがいたしたのか? 三太夫、かれはつんぼであるか?」
「は、はっ、……これ、これっ、面《おもて》をあげい」
「表《おもて》なんて、あがらねえよ」
「なぜあがらん?」
「いえね、もう古いもんですからね、土台もすっかり腐っちまってね。こりゃもうあきらめたほうがいいってそ言ってやったんだ」
「なんの話じゃ?」
「表の戸でしょ?」
「なにを申しておる。頭《あたま》をあげろというのじゃ」
「さっきは、あげちゃいけねえって言ったくせに……」
「こんどはあげるのだ」
「なんだい、あげたりさげたり、忙しくってしゃァねえや……あッ、こりゃ、向こうはぴかぴか光って見えねえや」
「おゥ、鶴の兄八五郎とは、そのほうであるか。予は赤井御門守である。このたび、鶴が男子出産をいたし、予が世継である。予も満足にあるが、そのほうはどうじゃ? 八五郎、鶴が男子出産をいたしたぞ、……これ、三太夫、かれはいかがいたしたか?」
「即答《そくとう》、即答をぶて[#「ぶて」に傍点]」
「え?」
「即答をぶて[#「ぶて」に傍点]ちゅうに」
「ぶて? いいのかい、殴《ぶ》って」
「早くぶて[#「ぶて」に傍点]ちゅうに」
「ほんとうに殴《ぶ》つよ、いいかい? 殴って……」
「わっ、な、なにをいたす? 拙者の面体《めんてい》を殴《なぐ》るとはなにごとだっ」
「これこれ、そこでなにをいたしておるか?」
「すみません。あっしも悪いとはおもったんですがねえ。この人がそっぽ(横顔)を殴《ぶ》て、そっぽを殴《ぶ》てってますからね。こっちも変だから、いいかいって念を押したんですがねえ。そうしたら、早く殴《ぶ》て早く殴《ぶ》てって……しょうがねえから、野郎の横っ面を殴《は》り倒したんで……」
「……即答をいたせと、そっぽを殴《ぶ》てと、まちがえたか……三太夫、まちがいである。許してつかわせ」
「はっ……殿にお答えを申し上げいちゅうに」
「なんか言うのかい。じゃ、はっきりそう言やあいいじゃねえか。そっぽ殴《ぶ》て、そっぽ殴《ぶ》てってえから……どうもすみません。ぶん殴って、勘弁しておくンない。じゃ、いいかい、なんか言って、え? 大丈夫かい、おい……へへへ、こんにちはァッ」
「(あわてて八五郎の袖をひいて)これこれ」
「お今日《こんにち》は、いい塩梅《あんべえ》さまのお天気さまでござり奉りましてございます。エエ、おわたくしさまは、お八五郎さまで……」
「(八五郎の袖をひいて)自分へさま[#「さま」に傍点]をつけるやつがあるか」
「お妹さまのお鶴さまが、餓鬼が跳び出し奉りまして、まことにめでたく候かしく、恐惶謹言お稲荷さまでござんす」
「なにを申しておるか、かれの言うことは、予にはようわからん」
「おまえの言うことは殿さまへおわかりがない」
「あたりめえだよ。自分でしゃべってて、てめえでわからねえんだ」
「そのほうは、がさつ者と聞きおよんでおる、予の前に出《い》でた折は、言葉を丁寧にいたせなぞと申しつかって参ったか。今日は無礼講である。そのほうの朋友《ほうゆう》に申すごとく、遠慮のう申してよい。許す、無礼講じゃ」
「ありがてえことである」
「えっ?」
「ありがてえことである」
「おまえさん一人でありがてえ、ありがてえってえけど、こっちァなにがありがてえんだか、わけがわからねえや。……どうするんだい、え? なんだいその、朋友ってなあ、え? 友だちにしゃべるように? へえ、ざっくばらんにやれって? だれが……? 殿さまがそう言ってんのかい?……えらいねェどうも。苦労人だねェ、おどろいたよあっしァ。生まれてはじめてだよ、こんな窮屈なおもいをしたなあ。座ってるんで、さっきからしびれ[#「しびれ」に傍点]が切れちまってどうにもしょうがねえんで、ま、まっぴらごめんねえッ……」
「あぐらをかくやつがあるか」
「これこれ、三太夫、控えておれ」
「はッ」
「じつはねェ、殿さまの前《めえ》だが、あっしァもう博奕ですっかりお手あげになっちゃってねえ。一文なしで合羽屋の二階でくすぶってたんでげす、へえ、家主から迎えが来やがってね『屋敷へこれから早く行け行け』ってやがって、なんだって聞いたら、お鶴の女《あま》っちょが餓鬼をひり[#「ひり」に傍点]出して……」
三太夫、あわてて八五郎の袖を引く……。
「三太夫、控えておれ」
「はっ」
「それからねえ、まあ、屋敷へ行くったって行くについちゃあ、紋付の着物を着て、袴をつけて行かなくちゃあいけねえって、こっちは、尻切り半纏一枚だ。そうしたら家主が『しょうがねえ、じゃあおれの貸してやるから着ていけ』ってやがって、湯銭から髪結床の銭まで出してくれて、上から下までそっくり借りて、褌《ふんどし》まで借りちゃった……だらしがねえったって、てめえのものァなに一つねえンですよ、へえ。『屋敷ィ行きゃあどうなる?』ったら、『行けば、損はない』って、『お目録をくださる』って、『へーえ、おもくもく』ってなんだって言ったら、『お金をくださる』、『大名《でえみよ》てえものは大したもんだねえ。してみると、つきあって損はねえ』……と」
「これこれっ」
「三太夫、控えておれ」
「……この人ァお宅の番頭《ばんと》さんかい? どうでもいいけど、うるせえねえ。この三ちゃんてのァ……あっしが、なんか言うと、やたらに尻《けつ》をつっつきやがって……尻だからいいけど、ほおずきならとっくにやぶれてらあ。ここンところで、わけのわからねえことを、ぱァぱァぱァぱァ言ってやがる。殿さまもよくこんな者を飼っとくねえ」
「あははは、おもしろいことを申すやつじゃ。これ、八五郎、そのほうは、酒《ささ》をたべるか? どうじゃ?」
「え? せっかくだがご免こうむりやしょう。……馬じゃあねえからね。いくら食らい意地が張ったって、笹っ葉ァ食いませんや」
「いやいや、酒《ささ》と申す。酒《さけ》である」
「え? 酒? 酒なら浴びるほうなんで……」
「おう、さようか。よほど好物とみえるな。これ、酒《ささ》の支度をいたせ」
「え? ごちそうしてくださるんですか、どうも。すいませんねェ……手ぶらで来ちまって、散財かけちゃあ、どうも……おや、用意はできてたのかい、こりゃどうも……なんだい、まだ来るのかい? もういいよ。番頭さん、留めとくれよ。ねえ、殿さま、あと断わっとくンないよ。およしなさいよ。そんなに食い物ばかりこてこて[#「こてこて」に傍点]来たって食いきれねえから、むだだからさあ、ねえ、殿さま、そんな見栄《みえ》張るこたァありませんや。こうやって大きな屋台骨はしてるが、おたげえに懐中《ふところ》は苦しいんだから……」
「おい、これこれっ」
「三太夫、控えておれ」
「見ねえ、三太夫控えておれって言ってるじゃあねえか。控えていなよ」
「これ、たれぞある、酌をしてつかわせ」
「おっ、ありがてえなあ。まあ、立派な金|蒔絵《まきえ》のついた大きな盃《さかずき》だねえ……えへへ、なんです、お婆さん、お酌? やってくれンのかい? へっへっ、すいませんねェどうも……婆さんに酌ゥさして……(袖をひかれて)え? なんでえ、婆さんて言っちゃあいけねえ、ご老女《ろうじよ》? ご老女ってえのかいこの人……ご老女ったって、やっぱりばばあじゃねえか……すいませんねえ、おッとッとッと(と、盃を持ちあげ)えへっ、酌のしかたが慣れてるね、へへ、どうも、へへへへ……じゃ、殿さま、いただきます。こんな立派なもんで飲むのははじめてなんで……(と両手に盃を持って飲み)いい酒だねェどうも、ふだんやってんですかいこれを……へへ、口がおごってンねェどうも。安くねえだろうねェこの酒じゃあ、一合いくらぐれえするんで?」
「これこれ、なにを申す」
八五郎、空っ腹のところへ大盃で、たてつづけに五、六杯あおったから、すっかり酔いがまわって……
「……殿さま、へへ、すいませんねェどうも。おれァすっかりいい心持ちになっちゃった。ああ、ほんとうにねェ、今日はじつのところを言うと、来るのよそうとおもったんだ……ほんとうのとこさ、ねえ、なぜったって、百文《ひやく》も銭がねえんだから、手ぶらで来ちゃあみっともねえから、『佃煮の折箱《おり》ぐらい持って行かなくちゃあならねえ』って、おれァそ言ったんだ。そうしたら家主が『なんか持ってくなァ失礼だ。ただ行きさえすりゃあいい』ってさあ。あっははは、きまりが悪くってしょうがねえやな……こっちだってねえ。こんだァまた都合のいいときに、なんかぶらさげて来ますからね、え? 勘弁しとくンなさい、えへへへ……ええ、なにしろ、酒はいいしねえ、食い物はうめえや、うん、板場《いたば》にいくらかやりてえけれども、なにしろ銭がねえから、立替えといつくンねえ、ねえ、えへへへ、立替えだよ。あっしなんぞァこんなやくざ[#「やくざ」に傍点]だけど、でもねえ、ほんとうだよ、殿さまとねえ、おれとァ兄弟分《きようでえぶん》……(三太夫に袖をひかれ)なにしてやんだ、なに、怒ったってしょうがねえじゃねえか。ほんとうのことを言うんじゃねえか、ねェ、あっしの妹が、殿さまの、えへッ、れき[#「れき」に傍点]だ、ねえ、えへへ。殿さまとあっしとァ兄弟分《きようでえぶん》みてえなもんだ、ねえ、ほんとうのことがさ。だがねえ、あっしァ貧乏でしょうがねえけれども、もし殿さまが、どっかで喧嘩するとか……まあそんなこたァねえだろうがねえ。殿さまがなんか引け目があってさ、向こうでなんか言ってきて、癪にさわる、なんてことがあったら、あっしにそ言ってくンなよ、ええ、これでもねえ、友だちで十人や二十人は、あっしのために命を投げ出そうなんてえ、へッ、野郎ァいるんだよ。そのかわりこっちだってふだんいい交際《つきあい》してらあね、銭のあるときァ小遣えもくれてやるし、うめえ物も食わしてやりますからね。そういうときはあっしァ殿さまンとこへ加勢に来るよおれァ、ほんとうさァ。どっかに殴りこみかなんかあるときァねえ、どうか遠慮なしにそ言ってくンなよ。えへへ……しかしさ、こちとらとちがって、殿さまなんざいい身分だよ。うめえ物は食い放題だし、うめえ酒ェ飲んでさ。きれいなこんな女を、こてこて[#「こてこて」に傍点]傍へ並べて……おゥッ、なんでえ、お鶴じゃねえか、おゥ。あっは、おーう、お鶴やァーい」
「これっ、無礼者っ」
「なにを言ってやんでえ。なにが無礼だァ。おれの妹だい。なんでえ、なんでえ、おゥ、おゥ、兄貴だ、兄貴だ。……そこにいるんなら、なんとか声をかけろよ。へーえ、きれいになりゃあがったなあ、おっそろしい立派な着物を着てやがる、錦布《きんぎれ》なんぞ着やがって、それァ、お神楽の衣装かあ……はははは、こんど、おめえ、子供ォ産んだってなァ。男の子だってなあァ、乳ァ出るか? そうかァ……おっかァよろこんでたぜ、ばばあがよ、『初孫だ初孫だ』ってなァ。おふくろァ心配《しんぺえ》していたぜ。『おしめ洗うものァあるか』ってよォ……えへへ、『手伝いに行こうか』ってよォ。へッへッへ……殿さまァ、こんな妹ですが、ひとつ、かわいがってやっておくンなさい。頼むよ、ほんとうに。あっしはこんなだらしがねえけれど、やつは利口で、気立てのいい女で、親孝行でねえ……どうかまあひとつ、末長く面倒を見てやっつくンねえ。お願《ねげ》えしますよ(と、頭をさげ)おゥ、お鶴ゥ、おめえもなんだぞ、殿さまァ大事《でえじ》にしろよ。しくじるなよ、ええ? ほんとうだよ、笑い事《ご》っちゃねえぜ。子供を産んだなんてんで、大きな面ァして他人《ひと》に憎まれちゃあ損だからなあ。なんでも人にゃあ如才なくして、殿さまァ大事《でえじ》に、いい塩梅《あんべえ》にやってくれ、え?……ねえ、殿さまァ、えへへ、あっしゃあ口は悪いけどもねえ、腹ン中ァきれいなもんだ。おらァ、ありがてえんだ、え? うれしくってしょうがねえんだ、うわーッ。どうだい、三ちゃん、えッ、一ぺえいくかい? え? なに?……御前|態《てい》で無礼である? ああそうかい。そいじゃあいいんだ。せっかくの他人《ひと》の親切、無にしやがって、ねえ、おい、大将《てえしよう》!」
「これこれっ、大将とはなんじゃ」
「三太夫、よいよい、控えておれ」
「よいよい、控えておれとよ、三ちゃん。……殿さまァ、景気づけに一つ唄でも唄おうかね?」
「ほう、唄を唄うと申すか。それは一興である。なにか珍歌はあるか、どうじゃ?」
「……ちんか? なんだ、変なことを言っちゃいけねえや。なんでえ、ちんか[#「ちんか」に傍点]ってなあ」
「なにかめずらしき歌があるか、どうじゃ?」
「めずらしき唄が? あっははは、冗談言っちゃいけねえ、めずらしい唄なんてえのァこちとらァ知らねえけれども、都々逸なんてえのァ、乙《おつ》なのがありまさあ、ねえ、三日月は痩せるはずだよありゃ病み(闇)あがり、それにさからう時鳥《ほととぎす》……なんてのは、いいねえ……えへへ、――この酒をとめちゃいやだよ酔わしておくれ、まさか素面《しらふ》じゃ言いにくい……なんていい文句だね、殿さま」
「おゥ、さようか」
「こりゃおどろいた。へへ、なんだい。都々逸を聞いたら『よォこらこら』とかなんとか言ってもらいてえなあ。……都々逸を聞いて『さようか』ってやがら、いやだよおい。……※[#歌記号、unicode303d]悪縁か因果同士か仇《かたき》の末か……ってね、※[#歌記号、unicode303d]ェェ、添われェぬゥ…人ほどォなおかァわいィ……なんてねえ、おォ……オいッと、くらあ……どうでえ殿公」
「なんだ殿公とは……」
「三太夫無礼講じゃ、控えておれ……いや、おもしろいやつである。かれを抱えてつかわせ」
……殿さまの鶴のひと声で、後日、ものを知らぬ男でも、またなにかの役に立つこともあろうと、八五郎を、五十石の小身《しようしん》ながらも武士《さむらい》に取り立て、また母親も孫の顔が見られるようにと、屋敷内に小屋をくださるという沙汰があって、親子もろとも屋敷住まいということになった。さてこうなると、八五郎にも名前がなくてはいけない。お側役人もおもしろ半分、蟹《かに》に似ているからというので、石垣|杢蔵源蟹成《もくぞうみなもとのかになり》という名をつけた。
「おっかァ、こっちへ移るとき、つい急いだもんで、ろくにいとま乞《ご》いしてこなかった。それについて、おれはこないだからそうおもってるが、今日は友だちのところをずーっとまわって、家主さんのところへも行って、この姿を見せたらみんなも安心するだろうとおもうんだ」
「そうさねえ、行ってくるがいい」
それから、八五郎は、大小をさし、ぶっ裂《さき》羽織を着て、供を一人連れて、屋敷を出て、もと住んでいた町内へ来ると、職人が多いから、昼間はあまり姿が見えない。あっちこっちをまごまごしていると、
「おう、向こうから来た侍《さむれえ》な、八の野郎に似てるぜ」
「似てるけども、相手は侍《さむれえ》だぜ。あいつ、やり切れなくって、夜逃げしたってえじゃあねえか」
「夜逃げをしたやつが、侍《さむれえ》になるわけがねえ」
「だけども、なんだか妹を女郎に売ったとか、妾にしたとかいうぜ」
「妹が妾になって、あいつが侍になるわけがねえ」
「あんまりよく似てるなあ。にこにこ笑ってきやがる。声をかけてみようじゃねえか」
「八公なんて呼んで、もしまちがって、いきなり無礼討ちなんてやられると大変《てえへん》じゃあねえか」
「だけれども似ている。だんだんこっちへ来るぜ。ひとつなんとか言ってみよう」
「じゃあ、おれは尻をはしょって逃げる支度をしているから、おめえ、声をかけてみねえ。おめえが八公つったら、おれはぱっと逃げる」
「なるほど、そいつはおもしれえ。なーに、追いかけたって、向こうはあれだけのものをさしているんだ。こっちゃあ空身だから、駆けっこなら大丈夫だ。いいか、呼ぶぜ、おお、どうした八公、おそろしく立派になったじゃあねえか」
「いや、これはこれは一別以来……」
「おーい、逃げねえでもいい。ほんものの八公だ。一別以来ときやがった。おそろしく立派な刀をさしてるじゃあねえか」
「これは殿より拝領して、もらって、いただいたんだ」
「ばかにご丁寧だな。なにしろうまくやりゃあがったな」
「まあよろこでくれ。いまじゃあこういう身分になった」
こんな調子の俄《にわか》侍だから、そのうちに屋敷の周囲にも知れて、赤井御門守においては、おもしろい家来をお抱えになった。非番の折は、つれづれを慰めるため、お遣《つか》わしくださいと、毎日のように八五郎、屋敷へおもちゃ[#「おもちゃ」に傍点]に呼ばれ、いけぞんざいな口をきいたり、変なことをするのがおかしく、明日はお客があるから来てくれというような具合い……。
ある日、ご親戚の大名から口がかかったが、当人も諸方へ行ってたびたび恥をかくので、辞退し、殿さまとしてもやむをえず、使者の役をいいつけた。委細はこの文箱《ふばこ》のなかの書状にしたためてあるから、これを持参して参れということになった。文箱を持って出かけようとすると、門前に馬の用意がしてある。
「おい槍持ち、この馬をどうするんだ?」
「へえ、あなたさまがお召しになるんで……」
「そりゃあいけねえ。まだ三日しきゃあ馬の稽古をしねえから、尻がふわふわして鞍につかねえ」
「それでも馬乗《ばじよう》のお使者ですから、お召しなさらなくっちゃあいけません」
「いけねえったっておれァ乗れやしねえから、おまえが乗って、おれが槍をかついで供をする」
「それはいけません。ご主人が槍をかついで、槍持ちが馬に乗るということはありません」
「弱ったなあ。どうしても乗らなきゃあいけねえのかい? じゃあ乗るよ」
どうにかこうにか手綱を持つくらいのことはおぼえたが、馬は乗り手を知るといって利口なもので、馬のほうがばかにして、のそのそ歩き出して、小川町《おがわまち》あたりのにぎやかなところへ来ると、ぴたりと立ち止まって、どうしても動かない。
「おい、いけねえや。馬をどうかしてくれ。弱ったなあ。どうにもしょうがねえ」
そのうちに人が集まってきて、槍持ちは槍を持って、往来に突っ立ってもいられないから、近くの番小屋へ行って、槍を立てかけて、縁台へ腰をかけると、日当たりがいいので、そのうち居眠りをはじめた。
「どうしたんだ、あの侍は? 往来の真ん中に馬なんか止めやがって」
「寝てるんだろう。なんにしても邪魔な野郎だ。かまうこたァねえから馬の尻をひっぱたけっ」
気の荒い職人が、ぽーんと一つ鞭《むち》を入れたとたん、馬がヒーンと棹《さお》立ちになった、八五郎は馬の首っ玉へかじりついて、
「助けてくれッ、助けてくれッ」
と、どなったが馬はそのまま走り出して、品川の方をさして飛んで行く。このとき、ちょうど品川の方から同家中で、石塚馬之丞という馬の師範がやってきた。そして、飛んでくる馬の前へ立って、「ドウ」と言って口を取ると、たちまち馬はピタリと四足を止めた。
「石垣氏、血相変えていずれへお越しになる? なにかお家に椿事出来《ちんじしゆつたい》、お国表への早打ちか? いずれへおいでになる?」
「拙者にはわからん、馬が知っておりましょう」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 長屋と殿様とを見事に融合させた落語名作中の大物噺である。全篇を通すと一時間以上かかる長篇で、「後日譚」はサゲのための蛇足で、ほとんど上演される例はなく、したがって「八五郎出世」と題する場合もある。演出には、人情噺に重点を置く六代目三遊亭円生の型と、落語的な展開に終始する五代目古今亭志ん生の型と、ふた通りある。ここに採用したのは前者の型を基本にして、後者の型を要所に盛り込んだ、複合の中間型である。八五郎の自由闊達な言動は、豊富な笑いを生み、いきいきとした感動を盛り上げる。一国の大名に長屋の職人が対面するなどということは噺の上だけの夢想にはちがいないが、そこに、庶民の立場からの武家像がつくり上げられ、そのようなものとする共通の理解が生まれていたのであろう。当然、そこにさしさわりのない善意の配慮がなされていて、それが、より人間的な現実性《リアリテイ》を発揮させていることも見逃せない。「妾馬」という題名の由来を留《とど》める意味で、「後日譚」を附記したが、案の定、出世してしまった八五郎に精彩がなく、かつて家主や殿様とわたり合った生《いき》は見る影もなくなっている。この「後日譚」の作者は一変して透徹した鋭い観察力で、侍姿の八五郎を見かける町内の人びとの冷ややかな白けた態度、また、屋敷内ではおもちゃ扱いをする出世の結末をつきつけている。そこに庶民の賢明な〈眼〉を感受する思いがした。しかし、「後日譚」はたしかに欲ばりすぎで、現行のように、八五郎が殿様と対面する場面まででカットするのが妥当のようだ。大衆はそのほうを好むし、噺は噺の上だけでおわらせたい。
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雪てん
「こんちは、ご隠居さん、お宅ですか?」
「おーや、熊さんかい。しばらくだな。まァこっちィお上がり」
「ありがとがす」
「今日はなにか用か?」
「別に用じゃねえんですよ。仕事が半ちく[#「ちく」に傍点]ンなっちゃってね、休んじゃったんです。退屈《てえくつ》だから遊びに来たんですが、お邪魔ですか?」
「いや、わしもな、徒然《とぜん》で困っていたんだ」
「あ、お膳に困ったんですか。なんか食うんですか?」
「そうじゃないよ。退屈していたところだ。ゆっくりしていきな」
「へえ」
「お茶でもいれるから」
「どうぞお構いなく……」
「お茶ぐらいいいだろ?」
「お茶ぐらいったってね。やっぱり火をおこして湯ゥ沸かして、お茶の葉っぱ入れなきゃならないんでしょ。そんな手数かけたくないんですよ。冷やでもようがすよ。酒のほうが……」
「それァいいよ、あたりまえだよ。おもしろいことを言うなあ。こりゃ、ご挨拶だねえ」
「じつはね、いま横町の髪結床で大勢寄って世間話が出てねえ、ご隠居さんの噂が出たんだ」
「なるほど、うわさ[#「うわさ」に傍点]とは字に書けば、口で尊《たつと》ぶだが、なかなか口では尊ばない、碌《ろく》な事を言やあしまい」
「まァなんのかのといったって、この諸式《しよしき》の高いのに絹物を着て旨《うま》いものを食べて、毎日毎日遊んでいる横町の隠居さんは、ことによったら……じゃあねえかってね」
「ことによったら、なんだって?」
「だからさ、ことによったら、泥棒じゃあねえかって」
「ひどいこと言うなよ。人聞きが悪い。わたしは隠居だ」
「ははあ、隠居屋さんか」
「隠居屋じゃあない、隠居だよ」
「へえー、隠居というとなに商売《しようべえ》ですね」
「商売じゃあない。こう言っちゃ失礼だが、わしは若い時分おまえさん方みたいに毎日遊んではいなかった。真っ黒になって働いたもんだ」
「なるほど、炭屋をして」
「炭屋ばかりが黒くなるわけじゃない。苦労して一所懸命稼いだおかげで少しばかりの金ができた、そこで倅《せがれ》に嫁をとり、若夫婦に店のほうを任せ、わしはここへ隠居して、月々倅のほうから分米《ぶんまい》をもらって暮らしているんだ」
「ああそうですか。じゃあ息子さんは提灯屋さんだね」
「どうして?」
「月々ぶんまわし[#「ぶんまわし」に傍点]をもらってるって」
「ぶんまわし[#「ぶんまわし」に傍点]じゃあない、分米だ」
「なんです分米てえなァ」
「分ける米と書いて分米だ」
「じゃあ分けない米がやるまい[#「やるまい」に傍点]だ。食べてしまえばおしまい[#「おしまい」に傍点]だ」
「よくしゃべるな」
「じゃァあっしも分米だ」
「どこから?」
「向こうの横町の米屋から……」
「それはおまえさんのは買うんだな」
「しかし毎日遊んでいたら退屈でしょうね?」
「それは退屈しのぎに一つの道楽があるよ」
「へえ、……やっぱり出かけますかい。吉原や品川へ」
「そんなところへ行かれるかい、この年齢《とし》で……、そんな道楽じゃあない、わしのは風流だ」
「はァ風鈴かあ」
「風鈴じゃあない、風流……いろいろあるな、花を生《い》けても風流だし」
「炭団《たどん》をいけても風流だし」
「お茶を点《た》てても風流だ」
「塔婆《とうば》を立てても風流だ」
「そんな風流があるか。掛け合いにしゃべってるね、そのうちでわしのいちばん多くやるのは俳諧だな」
「へえー、灰買い? ですかね。なにも食うに困らなけりゃあんな商売しなくってもよさそうなものですがね、風の日なんざ目ン中へ入《へえ》るしよ」
「なにが?」
「灰でござい、灰のおかたまりはございませんかって」
「灰を買って歩くんじゃない。句を詠《よ》むんだ、初雪や……」
「ああ、あれですか。『初雪やきゅうり転んで河童の屁』ってやつ」
「そんな句があるかい。でもそういうところをみるとおまえさんもおやりか?」
「いえ、おやり(槍)も薙刀《なぎなた》もねえんですよ。横町の髪結床の親方がよくやってますがね。ああいうこたァ、わっしたちにゃあできませんかね?」
「できるとも、しかし初心のあいだは発句よりやさしいのは和歌だね」
「はァばか[#「ばか」に傍点]かね」
「ばか[#「ばか」に傍点]じゃあない。和歌、三十一文字《みそひともじ》だ」
「そいつは咽喉《のど》が乾く」
「なにが?」
「味噌をひと舐《な》めにするんでしょう」
「ちがうよ。三十一文字、歌だ、歌の一つも詠《よ》もうとするならまず、山を山と言わず、月を月と言わず、火を火と言わぬようにする、つまりこれが秘事《ひじ》だな」
「なるほどね。じゃあどうでしょう、こういうのは」
「おや、できたかい?」
「エエーと、『地瘤《じこぶ》から星の親父《おやじ》がずばと抜け、火事の卵をすぐに吹っ消し』てんで」
「なんだいそりゃあ」
「山を山と言わねえんだから、山は地瘤で、月を月と言っちゃいけねえんでしょう。だから月は星の親父さ。火を火と言わずってえから提灯の灯は火事の卵だ。地瘤から星の親父がずばと抜け、つまり山から月が出たんだ。火事の卵をすぐに吹っ消し、月が出れば提灯はいらねえから、火事の卵を消したんだね」
「なんだァ、それではめちゃめちゃだよ」
「だめですかね」
「つまり最初を細く長くのばして、中ほどをふくらまして、おしまいに固くぱらりと散らすんだな」
「さあたいへんだ。むずかしくなってきたぞ。エーと、じゃあどうです、こんどはこういうんです」
「早いね」
「エーと、いとすすき[#「いとすすき」に傍点]」
「おや、こんどはどうやら歌らしいね。いとすすき[#「いとすすき」に傍点]などというのは、初心にはめずらしい」
「ああそうですか……『いとすすき布袋《ほてい》の腹に綿《わた》巻いて、霰《あられ》まじりの金てこが降る』」
「なんだいそりゃァ」
「はじめ細く長くのばすから、糸薄《いとすすき》で、中ほどをふくらますから、布袋の腹へ綿を巻いてさ、しまいに固くぱらりと散らすんだから、霰まじりの金てこが降るってんで……」
「あぶないなどうも、いいえさ、そうおまえさんのように別々にはなしてはいけない。みんなくっついてなくちゃあ歌にならない」
「みんなくっつけるんですね、じゃあ、『にべ膠《にかわ》』……」
「早いねえ、どうでもいいが、にべにかわ[#「にべにかわ」に傍点]……?」
「『せしめ漆《うるし》に紺屋糊《こんやのり》、それでつかねばわしゃ[#「わしゃ」に傍点]にそっくい[#「そっくい」に傍点]』」
「妙なことを言うねえ、なんだいそれは?」
「こんどはつくものばかり、まず第一番に、にべ膠、なかなかよくつきますぜあれは。つぎが、せしめ漆に紺屋糊、それでつかねば、わしゃ[#「わしゃ」に傍点]にそっくい[#「そっくい」に傍点]、そっくい[#「そっくい」に傍点]はお飯《まんま》の練ったやつです」
「それは知っているが、わしゃ[#「わしゃ」に傍点]というのはなんだい?」
「わしゃ[#「わしゃ」に傍点]ですか。芝居のお姫さまが若い男といちゃつく[#「いちゃつく」に傍点]ときには、きっと言いますぜ。『わしゃ[#「わしゃ」に傍点]どうしてもはなれはせぬ』と言うから、わしゃはなかなかよくくっつくだろうとおもってね」
「なんだい、そう無理にくっつけるにはおよばないよ」
「さっき話した、初雪やというのはむずかしいかね」
「そうさね、まァむずかしいといえばむずかしいが、必ず巧《たく》まずに、『初雪やなにがなにしてなんとなら』と、見たとおりのことを言えば、それで句になっているんだ」
「見たさまを言うんですね。エーと、じゃどうです、こういうのは、『初雪や方々の屋根が白くなる』見たさまだ」
「見たさますぎるね、それに少し色気をつけなけりゃあだめだな」
「だんだんむずかしくなってきたね。色気をつけるんなら『初雪や小便すれば黄色くぼつぼつ穴があく、猫の火傷《やけど》によく似てる』と」
「そう無理に色気をつけなくってもいいよ。『初雪や瓦《かわら》の鬼も薄化粧』雪が降って屋根の鬼瓦に積もったのを見て薄化粧をしたようだと言う、そこを言ったのだ。見たようでも色気がついているだろう」
「なるほど、そうですかい。じゃあどうですい、『初雪や瓦の鬼も薄化粧』いいな」
「それはいま、わたしが言ったんじゃないか」
「あっしもいま考えた、へっ、だれの心もちがわねえ」
「冗談言っちゃあいけねえ。こういう句もあるな、雪を言わずに雪を想わせる。『猿飛んで一枝青し峰の松』とな、また手近で一句やろうとおもったら、『初雪や狭き庭にも風情《ふぜい》あり』と」
「なるほど、隠居さんとこには庭があるからようがすが、わっしの家《うち》にゃねえんだからね。『初雪や他人《ひと》の庭ではつまらない』と」
「愚痴を言っちゃあいけないね」
「エエー、『初雪や梅の足跡犬の鼻』と」
「なにを言うんだ。それは『初雪や犬の足跡梅の花』というんだ。……梅に足跡があるかい。『犬去って梅花を残し、鶏《にわとり》飛んで紅葉《もみじ》を散らすかな』犬の足跡だから梅、鳥の足跡なら紅葉だ」
「あはは、なんでも足跡でやるんだね。どうです。『初雪や馬の足跡お腕《わん》四つかな』」
「それは感心しないな」
「それならと、じゃあ、『初雪や草鞋《わらじ》の足跡|大人国《だいじんこく》の南京豆かな』」
「そんな変なものはいけないよ」
「また落第かえ。じゃあこんどはね、『初雪や草履《ぞうり》の足跡あたしゃ見ないが昔の小判かな』」
「あたしゃ見ないけどなんてえのはだめだよ。十七文字と限ったものだ。『でやかな[#「でやかな」に傍点]』といって『初雪や』といったらあとへ『かな』とは言えないんだ」
「むずかしい規則があるもんだね」
「『やと』言ったら『かな』と言わないでこしらえる。『初雪や二の字二の字の下駄の跡』」
「なんだ、あたりめえじゃあねえか、そんなもんでいいんですか?」
「ああ、これはすて女《じよ》という小さな女の子の詠んだ名代の句だよ」
「じゃあ『初雪や一の字一の字一本歯の下駄の跡』と、これは行者の歩いた跡だ」
「そんなのはだめだ。『雪の日に坊主転んで手鞠《てまり》かな』」
「あァ、頭《あたま》だね……『雪の日に大坊主と小坊主一緒に転んで頭の足跡お供餅《そなえ》かな』」
「おいおい、頭の足跡ってのがあるかよ、ばかばかしい」
「だめですか?」
「そういうのはだめだ……足跡でおもい出したが、こういう句がある。『初雪やせめて雀《すずめ》の三里まで』」
「どういうわけで?」
「初雪というものは、たくさん降らないで、雀の脚《あし》の三里を埋めるくらいがいいんだな」
「そうですかねえ、あっしはそんな吝《しみ》ったれなのはいやだね、どうせ降るならうんと降ってもらいたいね。『初雪やせめて駱駝《らくだ》の股《もも》ッたぼ[#「ッたぼ」に傍点]』」
「たいそうどっさり降ったね」
「エエ、北海道の初雪だ」
「冗談じゃあないよ。『初雪や草履を穿《は》いて隣家《となり》まで』」
「なるほど、わっしのは少し遠くだ。『初雪や長靴穿いて樺太《からふと》まで』」
「そんなに遠くまで行かなくってもいいじゃないか」
「なーに、ついでがあったから」
「『初雪や子供の持って遊ぶほど』」
「なるほど、ご隠居さん、こういうのはいけませんかね。『初雪や塩屋転んであっち舐《な》めこっち舐めこりゃどうだ』ってえのはどうだい?」
「なんだかわからないね」
「塩屋が塩ォ持って転んじゃったんだ。雪が白くて塩が白いだろ、どっちが雪でどっちが塩だかわからねえから、あっち舐めこっち舐め、こりゃどうだと考えてる」
「そんなのはいけないよ」
「『初雪やこれが砂糖なら金儲け』てえのはどうだい」
「金儲けなんてえのは俗でいけない。風流だから少しは欲をはなれなくちゃあいけない」
「『初雪や金が落ちていても拾わない』とどうです、欲をはなれたでしょう」
「くだらないなどうも。昔の句はまことに情愛の深いものがあるな。『雪の日やあれも人の子樽拾い』とな、……雪の日に窓から往来を眺めていると、樽拾いの子が寒そうな姿をして通る、同じ人間と生まれながら、ああかわいそうにと、同情した句だな」
「ああなるほどね、じゃああっしも情のあるんでやりますよ。あっしのは、『雪の夜やせめて玉《ぎよく》だけ届けたい』」
「なんだい、それは」
「吉原の女のところへ行きてえが大雪で行くことができないし、といって大雪だから閑《ひま》でお茶を引いてるだろう、せめて玉《ぎよく》だけ届けたい、まことに情があるでしょう」
「おもしろいなどうも」
「こういうのはいけませんかね。『枝々に……』てんで」
「重ね句だね。『枝々に』?」
「『烏《からす》止まって雪積もり、鷺《さぎ》かとおもって飛ぶとこ見れば、やっぱり元《もどり》の烏なりけり、山桜かな銀杏《いちよう》の木、おやおやちょいちょい茹で小豆《あずき》』」
「さあわからないな、なんだい、そりゃあ」
「あのね、枝があって、そこへ烏がきて止まって、寒いからじいっとして居眠りかなんかしていると、そこへ雪が降ってきて、烏の身体《からだ》が真っ白になっちゃったから鷺が止まっているのかなと見ている間に、羽ばたきして飛んで行った。すると雪がすっかり落ちてしまったから、やっぱり元《もどり》の烏になっちゃう。山桜かとおもったら銀杏の木、おやおやちょいちょい茹で小豆、と」
「そんな手数のかかる歌はいけないよ。だいいちなんだいそのおしまいの、茹で小豆てえのは?」
「これはおまけだ」
「おまけなんざァいらないよ」
「エエご免ください」
「はい、どなた?」
「エー、根岸の、如月庵《きさらぎあん》からまいりました者で……」
「ああ、さようですか。梅寿《ばいじゆ》さんのお宅から、それはようこそ、さあどうぞこちらへ……いえ、別にお客さまじゃございません。近所の心やすい人で……そこではなんですからどうぞご遠慮なくこっちへ……」
「ご免ください。あなた、こんにちは」
「おい、熊さん、ご挨拶をしなさい。……ときに今日はなんぞご用ででも?」
「じつは先達《せんだつ》て頂戴してまいりました、獣詠《けものよ》みの狂歌の御題ができましたので、はなはだ不出来でございますが持参いたしました。どうぞご覧くださいますように」
「おやさようでしたか。わざわざどうも恐れ入りましたな。ではさっそく拝見いたしましょうか。……これですか? 『子鼠が阿漕《あこぎ》に噛《か》じる網戸棚度重なりて猫に挟まれ』……なるほど、結構ですが、ちと点になりかねますな」
「ではこちらのを……」
「どれ拝見を、エーッと『ぽんぽんが痛いと虚言《うそ》を月の夜に鼓《つづみ》の稽古休む小狸』……うむ、よくできてはおりますが、まだ点にはなりませんな」
「エーッ、『初雪やッ』……」
「あっ、熊さん、少し待っといで、いまちょっと調べものがあるから、……エエおあとは、はあ、これですか……『深山路《みやまじ》は人も行かねば徒《いたずら》に憂き年月を送る狼』、なるほど、なかなか結構ですな、しかし点にはなりかねますな」
「では、どうぞこれをご覧ください」
「どうれ……『猫の仔を秤《はかり》に掛けてもらいしが朝と昼とは匁《め》(眼)の違うなり』なるほど」
「いかがでしょうか?」
「結構にはできておりますがちと、点にはなりかねます」
「エー『初雪やッ』……」
「待っといでよ、熊さん、いますぐだから……エエおつぎを拝見いたしましょう。『狩人が鉄砲置いて月を見《み》ん今宵は鹿《しか》(確)と熊(隈)もなければ』、よくできてはおりますが、まだ点にはなりかねますな、そちらのは……」
「エー『初雪や』」
「エーと、『狐をば野干《やかん》(薬鑵)というは茂林寺の文福茶釜狸なりけり』結構ですが、ちと点になりかねるようで……」
「恐れ入りました、では、どうぞこれを」
「ははあ、『飼う人の恩を魚の骨にまでよく噛み分けて門《かど》守る犬』、これも点にはなりかねます」
「ねえ隠居さん、『初雪や二尺余りの大鼬《おおいたち》、この行く末は何になるらん』」
「うん、熊さん、これなら、貂《てん》(点)になるだろう」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] 別名を「雑俳」ともいう。機知と即興性の遊戯に富んだ、江戸文学の長屋版である。榎本滋民編『落語名作全集〈第二期〉』(普通社刊)の解説によれば、「元禄ごろから盛んになり、冠付《かんむり》け、沓《くつ》付け、折込み、もじりなどの多くのルールができた。これらの遊戯化した文学を総括して雑俳という。点者が判定するわけだが、景品や賞金を出したのでギャンブル同様のものになり、禁止されて沈滞した。しかし、安永ごろから再び大流行を見、天明の絶頂期を迎える。その点者の一人である柄井川柳《からいせんりゆう》の選川柳点≠ゥら川柳と呼ばれる独立ジャンルも派生する」とある。松尾芭蕉や与謝蕪村の芸術性は別にして、俳句は元来、連歌の貴族性に反撥して俳諧《おかしみ》の精神から発した庶民性に根ざした、いわゆる雑俳に類するものであった。それを江戸市民が親しみ、もてはやしたのもうなずける。サゲの「点」は、天地人の「天」のほうが正しいかもしれないが、わかりやすくするために「点」とした。新趣向に富む三代目三遊亭金馬は「天」でやっていて、サゲも「初雪や人工衛星犬を乗せこの打ち上げる先はどこへ行くらん」と熊が言い、「それは天へ行きます」と演《や》っていた。本篇のサゲの「貂《てん》」というのはイタチ科の動物。なお狂歌の中の「飼う人の……」と「深山路は……」は、蜀山人の作。落語に狂歌・俳句を題材にした秀作が多く、俳人が向島へ雪見に行き、乞食が三人酒盛して和歌を詠む、「和歌三神」[#「「和歌三神」」はゴシック体]、実在の狂歌師をモデルにした「紫檀楼古木」「蜀山人」、歳末の借金言訳を狂歌でする「狂歌家主」等がある。
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夢の瀬川
「もしあなた、もしあなた、お起き遊ばせ、うたた寝は毒でございますよ……たいそううなされて、……あなた、お起き遊ばせ。しょうがありませんね。あなたってば、あなた、あなたっ」
「う、うーん……へえ、へえ、どうも、ありがとう存じます、へえ、もゥ、もゥ、お暇《いとま》をいたします。へえ、ありがとう、どうもとんだごちそうさまになりまして、へえ、あ、あり……あッ、あーっ、どうも……なんだい、ここは家か?」
「なにをあなた、きょろきょろなすって……たいそううなされて、夢かなにかごらん遊ばしましたか」
「あァ、そうかい、そんなにわたしはうなされたかね? あッははは、そうかい、夢を見たんですよ」
「そうですか、どんな夢をごらん遊ばしまして」
「……どんな夢ったって、なに、ばかばかしい、あァ、どうもいやな心持ちだ」
「あなた、どんな夢を……?」
「なに、つまらない夢さ」
「ですからお聞かせ遊ばして、どんな夢で……?」
「どんな夢ってってね、はっははは、ばかばかしい夢よ。しかしねなんだよ。臍《へそ》の緒《お》切ってはじめてだよ、どうもいい女だった」
「えっ、いい女? どんな夢をごらん遊ばしましたの」
「どんなだっていいじゃないか、なにも夢ぐらいのことを、そう聞きたがることはないじゃないか、よい折があったら話してあげよう」
「おかしいじゃあありませんか、あなた。いい折があったらお話をなさるとおっしゃいますが、ではなんですかあなた、いい折がなかったら、お話をなさらないつもりなんですか?」
「お、おまえさんは生真面目すぎるよ、なるほど理屈だよ。いい折があったら話をしよう、じゃあいい折がなかったら話をしないのか、それァおまえ、短兵急というもんだよ。いい折があるもないもないよ。おまえとわたしは夫婦だろう、そうだろう、夫婦の間柄で夢ぐらいの話の折はいくらもあらァねェ、そうせっついたっておまえ、そうだろう?」
「だってあなた、いま現在連れ添う女房に……(泣く)夢ぐらいのことをおっしゃることができないなんて、それじゃあなたあんまり……」
「みっともないおよしなさいよ、そんな大きな声で……店には奉公人もいます、よしてください、みっともない。そんなに言うなら話すよ、話したらいいんでしょう。しかしこれは夢の話だから、怒ると話をしませんよ、怒らないかい? じゃあ話をしましょう。……あの、ここへなにかい、一八《いつぱち》が来なかったかい? 幇間《たいこもち》の一八さ……来ないって? そうかい、いえも少し先刻《さつき》なんだよ、来ない? あっははは、そうかい、あれから夢だったんだ、あはははは、よっぽど長い夢を見たんだね、……いえこうなんだよ、ここでね、昼寝をしているとね、わたしを起こすものがあるんだ、ぱっと目を醒ますと一八が来たんだ、なにしに来たんだと言うと一八の言うには、どこのお得意さまだかね、そのお得意と商売上のことで秘密に落ちあって相談をしようとこう言うのだ。その秘密に落ちあう場所は、向島の水神の八百松、あの奥の八百松さ、飲みながら話をしようという約束だったのだ。それをわたしがその約束を忘れてしまって行かなかった。先方《さき》さまは待っていて、いつまで待ってもわたしが来ないものだからやきもき[#「やきもき」に傍点]なすって一八をお使者に向けたのだね、『それはご苦労だった、なにね、二、三|小用《こよう》があったものだから、つい遅くなってしまった。まだ少しばかり用事《よう》が残っているから、その用事《よう》を済ましてすぐ行くから、おまえすまないけれども先方《さき》さまへ行って、ぐわいよく里心の出ないように取巻いていておくれ』と、一八を帰してしまって、わたしはすぐ着物を着替えて向島へ行こうというのだ。……ねえ、ところがおまえもわかっているだろう、ほんらいならば、家から向島へ行くには、吾妻橋を渡って左へ切れて、枕橋を渡って土手へ出るのが順序だろう。どういうものだかそれがね、吾妻橋を渡らず、まっすぐに行って橋場の渡しを渡って、向島へ行こうというのだ。橋場の渡しまで来ると、ひと足ちがいで舟が出たあとなんだ。ほい、しまったことをしたとおもって、おしそうに舟を見送っていると、南東《たつみ》の方にあたって黒い雲がちょっと出た、小さな雲が、いいえさ、虫の蜘蛛じゃないんだよ、空へ出る雲なんだ、小さな雲が出た。妙な雲がと、見ていると、最初《はな》小さかった雲がみるみるうちにだんだん広がってくると、空一面する[#「する」に傍点]墨《すみ》を流したように真っ黒になってしまったのだ。おやおや妙な天気だとおもっているうちに、チラチラチラチラ雪が降ってきたんだ、ねえ、それがさ、最初《はな》のうちはチラチラだったが、みるみるうちにだんだんひどくなってきて卍巴《まんじともえ》、たちまちのうちに方々の屋根は白くなって、大地は白布《しろぬの》を敷いたようだ。しょうがないこの雪ではとおもっていると、どんどん雪は降っているんだけれども、それがなんだかわたしの身体《からだ》へは雪が積もらないんだ。ほんらいなら、わたしは傘なしで立っているのだから、肩なんぞへ雪が積む理屈だろう、それが積もらないのだ。不思議なことがあるものだと、ひょいと上を見ると、わたしの頭の上にね、女持ちの渋蛇の目の傘がさしかけてあるんだ。いくらなんだって蛇の目の傘が降る陽気じゃあないとおもってね、ひょいとうしろを振り返って見ると、さァ年のころならば三十に、さァ手が届いたか届かないかぐらいかね、色のくっきり白い、小股の切れあがった、目もとの涼しい、口もとの尋常な、いい女だった……お、おッ、おい女というとおまえさん妙な顔をするんだね、よしましょう。なんだかおまえと夫婦喧嘩をするようだから、もうよそう、よしましょうこの話は……」
「あなた、おっしゃってくださいよ」
「そんな泣声を出しなさんな。夢なんですよ、夢なんぞでそう膨《ふく》れちゃあいけませんよ。怒っちゃあいけませんよ、夢の話なんだから……いい女が傘をさしかけているんだ。それからね、十八、九になる小女《こおんな》が手拭だの糠袋《ぬかぶくろ》などをぶらさげているところを見ると、湯帰りというわけだ。『ありがとう存じます、ご親切さまに助かります、ありがとう存じます』と、お礼を言うと、その女が、『いいエ、さぞかし急の雪でお困りでございましょう。舟の出ますにはよほど間《ま》があるのでございますから、わたくしの家はすぐそこでございます。失礼ですが、お立ち寄りくださいまし、渋茶一杯ぐらい差しあげますから、そのうちに舟も来ましょう』『ありがとう存じます』と礼を言って、舟のほうへ気をとられている。聞くともなしに、その女と小女と二人で話しているのを聞くと、『ほんとうにこちらはよく似ているわねえ、たのもしいわ』と言うのが、わたしの耳に入ったのだ、わたしの耳へさ。こっちもよせばいんだが、からかい[#「からかい」に傍点]半分にね、『エーなんですか、あなたのお知り合いの中にわたしみたいな、こんな変な顔の方がいらっしゃいますのでございますか?』と言うと、その女がきまりの悪そうな顔をして、『いーえ、お話をしなければわかりませんが、てまえの良夫《おつと》と申しますのは、三年前に没しました。良夫とあなたと生き写しなので、つい下女《これ》と立ち話をいたしました、お耳ざわりになってあいすいません』、するとなんだね、その女のほうは年齢《とし》は若いけれども、後家さんなんだよ。『あァ、そうですか、それはどうもお気の毒さまで、他人の空似などとよく言ったもので……』と、話をしているうちに、いつの間にか舟も帰って来て、いま渡し舟が出はじめるのだ。『へえどうも、ありがとう存じます、とんだご厄介になりました。舟も出ます、雪もやみました、ありがとう存じます』と礼を言って、わたしは舟へ乗って向島へ行って、水神の八百松へ……、さあ行ったのだか行かないのだか、用事《よう》が足りたんだか足りないんだか、そこは夢ではっきりわからないが、……無理ですよ。夢だからわからないのだよ。たぶん用事《よう》が足りてしまったのだろう。こんど向島の渡しを渡って、もとの橋場へ帰ろうというので、渡し場まで来ると、渡し舟が一艘《いつそう》あるのだけれども、肝心の船頭がいないだろう、行くことができない。向こう河岸じゃあしきりに、さっきの二人の女がおいでおいでをしている。黙っていちゃあ悪い。お断わりをしようとおもってね、手で舟を漕《こ》ぐ真似をして、頭を振って船頭がいないからだめだということを手つきで断わるんだけれども、なにしろ向こうじゃあ遠いからわかったかわからないか、しきりとこっちを見て二人でおいでおいでをしている。わたしのほうじゃあ船頭がいなくって行かれません。行きたいけれども行くことができないから、わたしはやきもきやきもき[#「やきもきやきもき」に傍点]しているのだ、わたしがさ」
「そうですか、(涙声で)それはほんとうにお気の毒さまでしたわねェ」
「そんなこと言ったって夢だよ。……わたしがやきもき[#「やきもき」に傍点]していると、そこへ定吉が来た。定吉、店《うち》の小僧の定吉が来たんだ。え? なにしに来たんだって、夢で来たんだよ。傘だの下駄などを持って来て、『お困りでしょうから持ってまいりました』『よくおまえわたしがここにいるのを知っているね』と言うと、定吉の言うのには、『いえ、若旦那と一八さんのさっきお話のうちに、ちょうどわたしは庭を掃いておりました。向島向島と言うことを聞きましたから、さぞかしいま時分雪でお困りだろうとおもって下駄を持ってまいりました』『やァご苦労、ご苦労、気が利いているな』、よろこんでわたしは下駄を履き替えた、……けれども夢なんていうものは満更かたち[#「かたち」に傍点]のないものではないね。おまえ知ってるだろう、定吉の家は深川だ。あれの親父《おやじ》は船頭じゃあねえか、ねえ、定吉にわたしは『向こう河岸《がし》へ行きたいんだが、舟はあるけれども肝心の船頭がいなくて行くことができない』こういうと定吉が、『じゃああたしが舟を漕ぎましょう』『おまえ漕げるのかい? 舟が……』『若旦那、漕げる漕げないじゃございません。わたしの家は深川で、わたしの親父は船頭ですよ。お宅さまへご奉公に上がる前までは、親父と二人で毎日舟を漕いでいたんです。このくらいの川は、溝《どぶ》っ川も同然、まァ、親船と言いとうございますが、ご心配なくお乗りになってください』『大丈夫かい、わたしは泳ぎができないよ』『まァ、お任せください』、こっちは行きたいのがやまやま[#「やまやま」に傍点]だから、こわごわ舟へ乗っかった。ところが、定吉が漕ぎはじめたらおまえ、巧《うま》いの巧《うま》くないのって、畳の上をすべるように……ずーっと向こう河岸へ着くと、桟橋のところへその先刻《さつき》の後家さんと下女が来て待っているんだ。『さァどうぞこちらへ……』と言うだろう。その家へわたしは連れこまれて、お座敷へ通ると、その座敷が広いんだ、なんでも十畳ぐらいの座敷だったかね、中央《まんなか》へ大きな卓袱台《ちやぶだい》が出て、その卓袱台の上には山海の珍味がうんと出ている。そのごちそうがね、へッへッへ、そのごちそうが、へッへッへ、ばかばかしいねェ夢なんてものは、そのごちそうがみんなあたしの好きなものばかり載っかっているんだ、つまり食い意地が張っているからだね。……え? そのごちそうを食べたかって、だれが? わたしがかい? 食べませんよ。夢で物を食べてごらん、すぐに風邪を引くよ。なんでもお酒をお猪口《ちよこ》に五、六杯飲みましたかね、どういうものだか、頭がピンピン割れそうで、意地にも我慢にもわたしは起きていられないのだ。『どうも今日はごちそうさまになってあいすみません、どういうものだか頭が痛いんで困ります。いずれ二、三日中にはお礼に上がります……』帰ろうとすると、『とんでもない若旦那、この雪でお帰りになれるものじゃございません。ごらん遊ばせ』障子を開《あ》けられて庭を見ると、おどろいたよ。雪なんてえものはおまえ、ほら音のしないものだろう、気がつかなかったんだね、ひょいと見るといつの間《ま》にか、雪がもう一丈ばかり積もってしまっているんだ、……これはこんなに積もっちゃあいけない、いくらなんだって帰ることはできない、困ったな、どうしようかとおもうと、その後家さんの曰《いわ》くさ、『あなた寒いおもいをなすって、お酒を召しあがって、それで逆上《のぼせ》たんでしょう。あなたを病人にしてお帰し申しては申しわけありませんから、どうぞご都合でひと晩泊まっていらっしゃいまし、てまえどもの家は下女《これ》とあたくしとたった二人っきりなので淋しいくらい、どうぞあなたよろしかったらお泊まり遊ばせ、ひと晩かふた晩、ひと月一生でもあたしのほうは願ったり叶ったり。さァどうぞこちらへ……』と言うので、二人であたしを無理やり手をとるようにしてつぎの座敷へ連れて来る、転がるようにしてわたしはつぎの座敷へ入っちまった……つぎの座敷がさァそうさねェ、六畳だったかね、中央《まんなか》に絹布《けんぷ》の布団が敷いてあって、煙草盆から水差し、有明(行灯)、寝間着まですっかり揃っているんだ、……まさかどうも図々しく泊まっていくわけにもいかず、どうしようかと、わたしもその布団の上へ座りこんで、とつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]しながら考えていると、見る気もなしに正面をひょいと見ると、正面が一間の床の間だ。床の間の上手の方に文台《ぶんだい》があって、その上に短冊《たんざく》が載っかっているんだ、雅《みやび》なものだな、なんと書いてあるかとその短冊をわたしが悪いとおもいながらとって見ると、歌が書いてあるのだ、本歌なんだね。こう書いてあるんだ、お待ちなさいよ。……あァ、そうそうおもい出した、『恋も……』いやちがう、『恋は……』だ、『恋はせで身《み》をのみこがす蛍《ほたる》こそ』と、女の手で見事に書いてある。手といい、定《きま》りといい、これだけの身代《みもち》で、これで後家さんだ。もったいないとおもってね、しきりと考えていると、すーっと頬ぺたを切られるような風が吹いて来た。ひょいと振り返って見ると、間《あい》の唐紙がすッと開いて先刻《さつき》の後家さんだ、緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢一枚、扱帯《しごき》を巻いてぐッと締めたやつがだらりとぶらさがって、二、三本|鬢《びん》の後《おく》れ髪《げ》がさがっているのを前歯できッと噛んで、わたしとお酒を二、三杯飲んだから、目のまわりがほんのり桜色……まるで、歌麿の絵が浮いて出てきたようだ。近ごろの文士の先生が筆を執《と》れば、確かに形容で一ページぐらいは埋まっちまうね、昔の学者だったら沈魚落雁《ちんぎよらくがん》とでも言うんだろう。まァ手っ取り早く言えばとろけて[#「とろけて」に傍点]しまうようないい女だ。『あら若旦那、それはあたしの心意気なのよ』、言うにも勝《まさ》るおもいなるらめ、『こっちへ頂戴』と言ってな、わたしの持っている短冊をひょいと取ってビリビリッと破いてしまった。これをまるめてポーンとほうられてしまったのだ、……ねえあたしはおまえきまりが悪いから、照れ塞《ふさ》げに、『どうもあいすみません』とお辞儀をしていると、その後家さんの曰《いわ》くさ、『あら、若旦那、あたしはけっして恩にきせるのじゃァないのですよ、飲めないお酒を飲んだので、あたし、とても起きていられませんわ、すみませんけれども、寝《やす》ませて頂戴……』と入りかけたじゃァないか……」
「そうでござんしょう(と、泣き出し)どうせそうでしょう。たぶんそうなることだろうとおもうと、案の定そうなんですもの……いえ、それにちがいありません。なんとおっしゃったって、いえ、そうでしょう、わかっておりますよ。……あ、あたくしは……い、いえ、あなたはそういうような、……いいえ、あたくしは、あたくしは、さ、実家《さと》へ帰ります……い、いいえ(と、しくしく)」
「はい、いま帰りましたよ。だれも留守に来なかったか? あァ、そうか。……あの、はァははァ、また喧嘩か? おまえたちはよく喧嘩をするね、ええ? 喧嘩をなにかい稼業《しようばい》にしているのかい、いいかげんにしなさい。……徳、夫婦喧嘩は犬も食わないよ、みっともない、よすがいい、ばかばかしい……あはははは、おまえもそうだよ、そう子供のようにぴいぴい泣くものじゃァありませんよ。往来まで聞こえますよ……徳、なにがおかしいのだ、女房をいじめてなにがうれしいのだ、そんな了見だから夫婦喧嘩が絶えないのだ。ぜんたいおまえが悪い、おそらくおまえぐらい勝手なやつはないよ。……エエ、どうした? 喧嘩のことをあたしに話してごらん。おとっつぁんが裁きをつけましょう。構わないから、泣かずにおっしゃい……おまえは黙ってろ、なにを笑ってるんだ、しょうがねえ野郎だ。……言ってごらん、喧嘩の原因《もと》はなんだい? その原因《もと》は……なんですと? うん、うん、なに? じれったいな、そう泣きしゃべりじゃァわかりゃしない、泣くなら泣く、しゃべるならしゃべると別々にしなさい、別々に……う、うん、徳三郎がどうした? うんうん、向島へ?……そりゃァいけませんよ、商売上じゃ仕方がない。あァ、そうかい、うん、うん、そうすると橋場の渡しを渡って向島へ、……そのほうがかえって近いかもしれないよ。うん、渡し場へ行くと、ひと足ちがいで渡し舟が出たあとだ、くやしいもんだ……なにを笑っているんだ、黙っていらっしゃい、おまえは……うん、うん、そうすると雪が降ってきた、いつ? 今日《きよう》? この温気《うんき》にかい、うーん、もっとも陽気が悪いからな、うん、うん、それからどうした? そうすると三十ばかりになる後家さん……後家さんの家へかい? あいかわらず図々しい男だね、うん、うん、それでごちそうになった。うんうん、そうすると、その後家さんと、く、く、くっついた? うんうん、そうすると定吉が舟を漕いでいろいろ取り持ちを、あの野郎が……とんでもねえ話だ。おまえが泣くのは無理はねえ、もっともだ、おとっつぁんにお任せ。実家《さと》などへこんな話をされると、年寄りがついていて申しわけが立たない、……これ徳三郎、徳ッ、もっとこっちへ来なさい、前へ出ろ、……徳三郎、おまえはまだその色事がやまないのか、……なに笑ってるんだ、呆れ返ったやつだ。……だいいち、定吉のやつ、ふだんからちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]、ちょこまか[#「ちょこまか」に傍点]しやァがって、……定吉ッ、定吉ッ」
「へーい」
「こっちへ来なさい」
「へえ?」
「こっちへ来な」
「へえ?」
「こっちへ来いと言うんだっ、この野郎ッ(と、殴る)」
「うわーッ、痛いーっ」
「おい、なぜおまえは要《い》らざることをした、余計なことをして舟などを漕ぎやァがるのだ」
「わ、わ、わたくしは、お店で、お、お、お帳合いの……ば、ば番頭《ばんと》さんのお帳合いのお手伝いを……」
「嘘ォつけ、主人の情事《いろ》の取り持ちをしやァがって(と、殴り)……そんな呆れ返ったやつがあるかっ」
「うわッ(と、泣き出し)わ、わ、わたくしは、わたくしは、そ、そんな……」
「おとっつぁん、定吉を折檻《せつかん》するのは、待ってください……そんなことを、そんなくだらないことをまァ待ってくださいよ、おとっつぁん、あっははは……どうも、あっははは」
「なにを笑っていやァがる。なにがおかしいんだ」
「あっははは、……おとっつぁん、いまの話はみんな夢なんですよ」
「なにっ?」
「あっははは、ほんとうにくだらないじゃァありませんか。いまわたしがここでうたた寝をしていて見た夢ですよ。定吉が舟を漕いだのも夢ですよ」
「なんだと? 夢かい。……おいおい、いまのはおまえ、夢だというじゃァないか」
「(泣きながら)そうでございます」
「そうでございますじゃねえ、夢ならなにも泣くことはないじゃァないか」
「いいえ、ふだんからそういう女好きなお心持ちですから、そういうような夢をごらん遊ばす……」
「ごらん遊ばすったって、あっははは、……定吉や、勘弁しろよ、おまえが、ほんとうに舟を漕いだんじゃァないんだとよ。夢で舟を漕いだんだとよ」
「(へッ、へッへと、しゃくりあげながら)……ごめんこうむりましょうおもしろくもねえ。エエこう、夢で舟を漕いだたびにほんとうにぽかぽか殴《や》られたひにゃ、ほんとうに舟を漕いだら殺されてしまわァ、……若旦那、これから夢を見てもようございますから、夢の中へわたしを入れないようにしてくださいよ、へッ、へッ……」
「わたしが悪かった、勘弁しろ勘弁しろ、わたしが悪かった……お清や、おまえさん、わたしの着物が奥の六畳の方にありますから畳んでおくれ、おまえさんあまり泣いたものだから、お白粉《しろい》が剥げちまった、あっははは、そっちへ行って……まァ、いいからわたしにお任せ、徳三郎、おまえもよくない、つまらない夢を見なさんな、わたしがきまりが悪いじゃァねえか」
「まことにおとっつぁんすみません。ぜんたい女房《あれ》が……」
「女房《あれ》じゃないよ、おまえもそんな夢を見たって、なにもあからさまに話をするこたァない、しょうがない、わたしがあいだへ入って困らァな、それはそうと、ちょいと用事《よう》があるから、じきに帰って来ますから、留守、頼んだよ」
「はい、どうぞ行ってらっしゃいまし。とんだお騒がせをしてしまって、お気をつけて行ってらっしゃい……あっははは、定吉、痛かったろう、勘弁しておくれ」
「へ、へ、ご冗談でしょう。若旦那は痛くないから勘弁しておくれですむでしょうが、わたしのほうは殴《ぶ》たれたら取り返しがつきませんよ。だいいち若旦那がずぼら[#「ずぼら」に傍点]で、若いおかみさんがやきもち焼きで、大旦那がそそっかしいときてるから、あいだへ入ったわたしが……」
「愚痴を言うなよ。勘弁しろ、そのかわりあした親父《おやじ》の代参で、深川の不動さまへ参詣に行くから、いっしょに連れて行って、罪滅ぼしになにか旨いものを奢《おご》ってやる」
「そのくらいじゃあ、おっつきませんよ、ほんとうに……」
「まァ勘弁して、気をとり直して、こっちへ来い……定吉、おまえすまないけど、さっきからどうも肩が張ってしょうがないんだ、おまえすまないが肩を二つ三つ叩いておくれ」
「ごめんこうむりましょう。エエこう、大旦那に頭を殴《なぐ》られた埋め合わせに肩ァ叩きゃあ世話が……」
「そんなに膨《ふく》れなくったっていいじゃないか、あしたごちそうしてやるから、いいじゃないか、頼むよ」
「やりますよ、主《しゆう》と病《やまい》にゃァ勝たれねえ」
「そんなことを言うな……右のほうが凝《こ》っていんだ、按摩は家《うち》じゃおまえがいちばん巧い……」
「ごめんこうむりましょう。この上目でも潰《つぶ》されちゃァかなわねえや……へッ、へッ」
「黙って叩けよ……あッ、冷《つめ》てえ、なんか垂らしゃあしねえか? 涙か? そうか、泣いてやがる。悪かったよ。……おいおい、もう少し強く叩いてくれなくちゃあいけねえ、こっち、ここを……おい、なにをしてるんだ? あっはは、子供だねェ、泣きながら居眠りをしてやがる。……おいッ、もっとしっかり叩け、居眠りなんぞしねえで、もっとしっかり叩けっ」
「ご新造さんご新造さん、たいへんですよ、たいへんですよ」
「なんだよ、お花、頓狂《とんきよう》な声を出して、なにさ」
「また若旦那が、橋場の後家さんのところへお出かけになりますよ」
「ええっ、また? いえそうだろう、おかしいとおもったんだよ、夢だ夢だなんて、どうも夢にしちゃァ、はっきりしすぎているもの。お花や、おまえすまないけれども、若旦那を止めてくださいよ。こんどあたしはもう勘弁しませんよ、いまおとっつぁんの手前、我慢したけれど……なにを言っているのさ、お花、若旦那はあそこで定吉に肩を叩かせているじゃあないか」
「だってご新造さん、ごらん遊ばせ、定どんがまた舟を漕いでおります」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] この噺の若旦那、徳三郎は二十六歳、遠い縁故にあたる一歳年下の大家の呉服屋の一人娘、お清と昨年の初秋に婚礼をして、新婚四か月半、下女のお花はお清の実家から嫁入りとともに連れて来た。帳場に通じる奥座敷の四畳半のひと間に、絹布の女物の布団の炬燵の中で、新妻と二人でお茶と煎餅で手を休めている、そのうちに身体《からだ》の火照《ほて》りのまわりぐあいで、ふと、うとうとしてくる――という設定はどうであろうか? この炬燵の場面と一面の雪景色の橋場の渡しの情景は、冬の噺の舞台効果として、白眉《はくび》であろう。白い、雪のなか、ふと、背後から蛇の目の朱鷺《とき》色の光がさしこんでくる〈絵〉は、夢のまた夢である。やらずの雪[#「やらずの雪」に傍点]に、行きずりの女が積極的に誘う〈物語〉は、男性にとって見果てぬ夢《ロマン》である。そして、「すーっと頬っぺたを切られるような風が吹いて……緋縮緬《ひぢりめん》の長襦袢一枚……二、三本|鬢《びん》の後《おく》れ髪《げ》がさがっているのを前歯できッと噛んで……」という、落語の濡れ場の極付――ほかに「湯屋番」「浮世床」「宮戸川」[#「「湯屋番」「浮世床」「宮戸川」」はゴシック体]「なめる」などに挿入される――は、「近ごろの文士の先生が」、何ページ費やしても、これほど息をのむ、すさまじい迫力のある描写はできないのではないか。(とくに男性には、再読三読をおすすめする。)落語ファンなら説明するまでもないと思うが、「夢の酒」はこの噺の一部が独立したものである。同じ夢で、冬の夜、船宿の船頭の熊蔵が、客の侍が介抱ごかしに連れ出した女から金を奪おうとしたところを寝返って、女を救け、お礼に大金をもらい、「しめた」と両手でにぎりしめると、自分の急所をにぎりしめていた、という「夢金」[#「「夢金」」はゴシック体]があるが、サゲもこの噺の方が秀れている。別名に「橋場の雪」「夢の悋気」「雪の瀬川」。原話は安永二年刊『聞き上手』所載の「やきもち」、安永三年刊『仕形咄』所載の「夢」。
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粗忽長屋
そそっかしい連中ばかりが長屋に集まっている。そうなると、もう朝からまちがいだらけ……。
「おゥ、まァてえげえにしなくちゃァいけねえ、よしねえってことよ」
「なんだい? なんだか知らねえが、いきなり他人《ひと》の家へ裸足《はだし》で飛びこんできて、どうしたんだ?」
「どうしたんじゃねえ、みっともねえ、朝っぱらから……」
「なにが?」
「なにが……ってよ、おまえ、エエ、そのよくねえな、そういうことは……」
「どういうこと?……」
「どういうことって、いまここンとこを、おれァ裸足でもってすゥーと、飛んで来るようなことを、てめえしたにちげえねえ」
「なにもやってねえ」
「やらねえこたァねえ、やってたい、隠すねえ……この野郎!……あ、そう、夫婦喧嘩……よしなよ、みっともねえから」
「どこで……?」
「おめンとこでよゥ」
「夫婦喧嘩ァ?」
「そうだよ」
「やらないよ」
「やった」
「夫婦喧嘩できない。おれ、独《ひと》り者《もの》だから……」
「あ、そうだなァ……う、うん、でもいま、かかァ出てけッてどなってたろう」
「ああ、あれァおまえ、そう言ったんじゃねえんだよ。あれァいま、ここのね、沓脱《くつぬぎ》ンところをきれいに掃除したところへ、エエ、あいつが入《へえ》って来たんだい」
「だれ?……」
「いえ、だれってほどのもんじゃァねえんだ。ウウ、おまえ、挨拶もなんにもしねえで、ここンとこィぬゥッと入《へえ》って来やがって……うん」
「どこの野郎だい?」
「ど、どこの野郎だかはっきりしねえ野郎なんだい。なァ、いるんだよ、よく、ここらィ……夜、こんなンなって歩いてて(と、四つ足の手つき)、よく鳴くやつよ」
「ああ、鼠かァ」
「いや、鼠じゃァねえんだ。……もっとずっと大きなもんだ」
「じゃァ、象かァ?」
「ウ……この野郎、急に大きくしやがら……象がこんなとこへ入《へえ》ってくるわけねえじゃねえか。もっとずゥッと小さくて……いるだろう」
「どんな形してえたい」
「ほら、(手で)こんな耳していて……(手で)こんな口して……いるんだよゥ」
「あぁあぁあぁ、猫か」
「うゥ、この野郎……そばまで行ってて言わねえな、ウウ、猫にもよく似てらあ」
「じゃァ、もぐら」
「もぐらじゃァねえや、こン畜生ァ……あ、あの、犬」
「なんだい、犬かァ」
「赤い大きな犬がここンとこィ入《へえ》って来やがって、せっかくおれァ掃除したところへ馬糞《ばふん》してきやがったのよ」
「へェえ、犬のくせに馬糞したかなァ」
「あんまり汚《きたね》え畜生だから、このあかァッ、出てきやがれェッて、おれァどなったんだ」
「あか[#「あか」に傍点]っつッたのか。おれ、かかあとまちげえて……」
「そうだよ」
「……いねえな?」
「なに? 犬か?……とっくに逃げちゃった」
「惜しいことをしたなァ。おれがいりゃァその犬ゥとッ捕まえて、ぶち殺して、その犬から熊の胆《い》とってやンだがなあ」
「……ふふふッ、おめえはそそっかしいな。犬から熊の胆がとれるか。鹿とまちげえンな」
……こんなのが咬《か》みあってると、しまいに話がわからなくなる。
長屋に、片方は不精でそそっかしい、片方がまめ[#「まめ」に傍点]でそそっかしい、この二人が隣合わせで住んでいる。
で、このまめ[#「まめ」に傍点]でそそっかしいほうが、浅草の観音さまに参詣に行き、雷門を出ると、いっぱいの人だかり、どんなそそっかしいやつでも、これには気がつく。
「なんです? この、大勢立って……なんかあンですか? こん中ァ……」
「行《い》き倒れだそうですよ」
「あれ……見たいですねェ」
「あたしも見たいと思ってね」
「前の方に出られませんかねェ」
「これだけの人だから、ちょいとにゃァ出らンねえなァ。……まァ、股《また》ぐらでも潜《くぐ》りゃァ出らンねえこたァねえとおもうがねェ」
「ああ、そうですか、股ぐらをねえ……(前の人の背中を叩き)エエもし、ちょいと」
「なんでえ?」
「いま、あっしァこの、前の方へ出たいっていう心持ちですけどねえ」
「なにを言ってやンでえ。心持ちだって、そうは行くけえ」
「なんでえ、てめえ一人で見ようとおもってやンな、どかなきゃどかねえだっていいんだ。こっちァ、股ぐらてえ手があンだから、なあ、そら(と、首をすくめて股ぐらを潜る)ほらほらほら……」
「おゥおゥおゥ、なんだなんだ、こいつァ?……おゥおゥ、変なとこから……」
「へッへッへッ……えェーい、このぐらいの元気がなくちゃ、前の方へ出られねえや……ほゥら、前へ出ちゃった(きょろきょろ、見まわし)なんだいこれァ、人間の面《つら》ばっかりじゃァねえか、これァ……え? あっ、どうも(と、ぴょこっとお辞儀)……」
「だめだよ、おまえさんかい、おかしなところから這《は》い出して……さァさァさァ、さっきから見てる人はどいてください、これいつまで見ていたっておんなしなんだから。なるべく変わった方に見てもらいたい……いま、あァた来たんだ、こっちィいらっしゃい」
「エエ、どうも、ありがとうござんす」
「礼なんぞ言わなくっていいんだから……」
「なんですか……もうじきはじまるんですか?」
「え? いや、別にこれアはじまったりするもんじゃねえんで……行《い》き倒れだ」
「ああ、そうですか。いきだおれ、これからやるんですか?」
「……なんだい、わかンねえ人が出てきたなァ……いえ、この菰《こも》がそうだがねえ……こっちィ出てきてごらんなさい」
「えへへへ……へえ……あははは、なんだ、あんなとこへ頭が出てやがら……おゥい、なにしてンだなァ、おゥ、みんな見てるじゃねえか、起きたらどうでえ」
「……起きやァしないよ、これァ……寝てるんじゃねえんだから。死んでるんだから……行《い》き倒れだよゥ」
「あれ、これ死んでんのかい? じゃあ死に倒れじゃァねえか。おまえさんがさっきから、生《い》き倒れだってえからさ」
「いやだな、この人ァ……おかしな問答をして……ほんとうは、行《ゆ》き倒れ。ま、そんなことァどうだっていいんだよ。手さえつけなきゃいいんだ。菰をまくってごらんなさい」
「えへへへ、なあに、そんなもん手ェつけるやつァあるもんかい……へッへッへッ、この野郎、きまりが悪いんだな、え? 向こうッ側《かわ》むいて死んでるじゃァねえか」
「そういうわけじゃねえやな。……エエ知った方だか、よォくごらんよ、顔を……」
「……ンな、なにも知ったやつなんざ……(菰をつかんで払いのけ、のぞきこみ)あッ、あァッ……」
「おウ、どうした?」
「(じィッと見て)これァ、熊の野郎だ」
「おウ、熊の野郎だなんてえとこを見ると、知ってるんだね」
「知ってるもいいとこだよう。こいつァおれの家の隣にいるんだよ。仲よくつきあってンだァ、こいつとァ。兄弟同様につきあってンだからねえ。生まれるときは別々だが、死ぬときは別々だってえ仲だ」
「あたりめえじゃねえか」
「あたりめえの仲だい、こいつとァ……(ジッと見つめて)えれえことンなったなァ、これァ……おゥッ、しっかりしろい」
「しっかりしろったって、もう死んじゃってンだから……」
「だれがこんなことをしたんだ。おめえか?」
「いやァ、あたしじゃァない。あたしはね……いろいろ心配して……なにしろ身元がわからねえんだ。書付け一本持ってねえんでね。ま、こうやって大勢の方に見てもらえば、なかには知った方も出るだろうとおもって……でもよかったよ」
「なに? よかったァ? よかったなんてよろこぶとこを見ると、おめえが締め殺したな」
「冗談言っちゃァいけねえ。引き取り手がわかってよかったてんだよ……どうしよう? あたしのほうからすぐ知らせに行こうか、それともおまえさん先ィ帰って、この人のかみさんにでも知らしといてくれるかい」
「いやァ、かかあねえんだ、これ、独《ひと》り者《もん》だから……」
「ああ、そうかい。じゃァ家の方でも、ご親類の方でも……」
「なんにもないの、これ……身寄り頼りのねえ独りぼっちでねェ……可哀そうな野郎です……こいつてえものァ」
「それァ困んなァ、引き取り手のねえてえのはなァ……あ、じゃァあァたが兄弟同様につきあってるんだから、ひとまずこれ、引き取ってもらえるかい?」
「うふふふ……あの野郎あんなうめえことを言って持ってっちゃったなんてねェ……あとで痛くもねえ腹ァさぐられンのァ……」
「おいおい、おかしなことを言っちゃァいけねえなァ」
「じゃァこうしましょう。あの、ともかく、ここへ当人連れて来ましょう」
「……? なんだい? なんだい、その、当人てえのァ?」
「ええ、ですからこの、行き倒れの当人を……」
「おい、しっかりしろよ、この人ァ……この方はなんだろう、身寄り頼りのない独り者だろ?」
「そうなんです。可哀そうな野郎なんですよ。……ええ、今朝《けさ》もちょいと寄ってやったら、ぼんやりしてましてねえ、どうだい、お詣りに行かねえかッたら、気分が悪いからよそうなんつッてましたがね……」
「今朝ァ?……会ってンのかい?……ああ、じゃァちがう……いえいえ、そりゃちがうンだよ。……この方はねえ、昨夜《ゆんべ》っからここへ倒れてンだから……」
「そうでしょう? だから当人が来なきゃわからねえッてンですよ。てめえでてめえのことのはっきりしねえ野郎ですからねェ、……もうここでこんなンなっちゃってるとはきっと今朝まで気がつかねえんですよゥ」
「しょうがねえなァ、この人ァ……あァたねェ、よォく気を静めて、そいで話をしなさい」
「いえ、あの、こいですぐ連れて来ますから、こいで並べて見て……あ、これならまちげえがねえと思えば、これ、そっちも安心して渡せるでしょう?」
「困ンねえ、あァた。……いえ、あなたねェ、気が動転《どうてん》してるようだから、よく落ち着きなさいよ」
「え? いえ、あの、すぐ連れて来ますから、もう少しこれ、見ててくンねえ、お願いします……」
「おいおいおい、待ちなよ……なんだい? あいつァ、当人当人つッて、当人はここに死んでるんじゃねえか。頭があいつァおかしいんじゃねえのか」
「おゥい……(と、とんとん戸を叩き)なにをしてやンだ、まったく……おゥ、起きねえかァッ……熊ァッ……熊公ッ……熊やいッ……おゥッ」
「ばかだね、あいつァ。夢中ンなって戸袋を叩いて、熊公熊公ッて、だれェ呼んで……あ、熊ァおれだ……おいおい、そこは戸袋だい、おまえ、寝ちゃァいねえ、こっちだよ」
「あれッ、この野郎、ほんとうに、てめえ、そんなところィ座って煙草なんぞふかしていられる身じゃァねえぞ、おめえは……」
「なんかあったか?」
「あったもいいとこだァ。情けねえ野郎だなァ、こいつァ……」
「なんかしくじ[#「しくじ」に傍点]ったか?……」
「大しくじりだよゥ。いまおらァてめえに話をして聞かせるから、びっくりしておどろくな。……おゥ、今朝おれァなにィ行ったろう、どさくさ[#「どさくさ」に傍点]の、あの……どさくさ[#「どさくさ」に傍点]じゃねえ、あの、あすこの……浅草の……なにィ行ったろう? あの……なにィしに……こんなことをやりに(と、拝む手つき)……ほら、あのウ、ずゥッと突き当たりンとこへ……あるじゃねえか、ほら、拝むところよ。浅草名代の水天宮さま……じゃないよゥ、ほら、浅草の不動さま……じゃあない、ほら……ほらほらほら、浅草の……」
「ああ金比羅さま」
「そう、金比羅さま……なにを言ってやンでえ、金比羅さまじゃねえやい、ほんとうに……あ、観音さま」
「で、どうしたい?」
「おれァお詣りをして仁王門……なんだァ、雷門を出るてえとな、いっぺえの人だかりだよ。なんだと思ってかき分けて前《めえ》の方へ出てみると、これがおめえの前《めえ》だがおどろくない……(声をひそめて)行《い》き倒れだ」
「ほほゥ……うまくやったなァ……」
「あれッ、この野郎、てめえもわかンねえなァ……おれもはじめよくわかンねえで……見るてえと、着物の柄からなにからそっくりだよ。……こうなっちゃァもう、おめえだってしゃァねえだろう。因縁だとおもってあきらめろ」
「なんだか話がちっともよくわからねえ」
「この野郎、行き倒れッつって気がつかねえかなァ……おゥ、おめえはなァ……昨夜《ゆんべ》なァ、浅草でもって(声をひそめ)死んでるよゥ」
「おゥ、よせやい、気味の悪いことを言うない……おれがかァ?……だって兄貴、おれァ死んだような心持ちはしねえぞ」
「それがおめえは図々しいてんだよ。心持ちなんてそうすぐわかるもんかい。いまおれ、たしかに見てきたんだから安心しろよ……迷うんじゃないよ、おめえ……」
「だって考《かん》げえてみつくれやい。今朝おめえとおれとここで会って、ちゃんと話をしてるじゃァねえか」
「だからおめえは死んだのがわからねえってんだ。昨夜《ゆんべ》どこィ行った?」
「吉原《なか》ァ素見《ひやかし》て、帰りに馬道ンとこで夜明し[#「夜明し」に傍点]が出てやがってね、そこでそうさなァ、五合も飲んだかなァ。いい心持ちでぶらぶら歩きながら帰《けえ》ってきた」
「どこを歩いてきた?」
「観音さまの脇を抜けたまでは覚えてンでえ。それから先、どうやって家まで帰って来たもんかなァ」
「そゥれ、みやがれ。それがなによりの証拠じゃァねえか。……おめえ悪い酒ェ飲んで、あた[#「あた」に傍点]っちゃったんだよ。観音さまの脇まで来て、もうたまらなくなって、引ッくり返《けえ》って冷《つべた》くなっちゃって、死んだのも気がつかずに帰ってきちゃったろう?」
「……そうか」
「そうだよゥ」
「そう言われてみると……どうも今朝、心持ちがよくねえ」
「そウれみやがれ。だから早く行けよゥ」
「どこへ?」
「死骸《しげえ》をおめえ、引き取りに行くんだい」
「だれの……?」
「おめえのよゥ」
「ああ、おれの?……だって兄貴、これがあたしの死骸ですなんて、いまさらきまりが悪くて……」
「なにを言ってやンでえ。当人が行って当人のものをもらって来ンのに、きまりが悪いなんてこたァあるもんか。おれが行って口ィきいてやるよ。当人はこの野郎ですと、よォく見くらべた上で、よろしかったらお渡しを願います……向こうだって当人に出て来られたんじゃァもう、どうにもしょうがねえだろう。ええ? おめえも黙ってることァねえ。いろいろお世話ンなりましたぐれえのことァ言っとけ」
「……おどろいた……」
「おどろくこたァねえ。早いとこしろい。てめえぐらい手数のかかるやつァねえぞ。まごまごしてるとほかのやつに持ってかれちまうじゃねえかよゥ……ええ?……ほら、ここだ、ここだ……ここだ。ほらほら、見ろ見ろ、あんな大勢立って……見られてンだ……さあ、いっしょに入《へえ》って来い、いっしょに……」
「おい、兄貴兄貴」
「なんだい?」
「ここォ、おめえ、なんだぞ、絵草紙屋のようだぞ」
「なにを? 絵草紙屋だ?……絵草紙屋じゃねえか。おめえ落ち着かなきゃァだめだよ」
「いや、兄貴が落ち着いて……」
「ほんとうに畜生、あんなとこにつっ立って見てる野郎に買ったためしはねえんだからな。……おいおい、ここだ。こんだァまちげえはねえ。ここがそうなんだよ……(人をかき分け)ほら、おゥ、ごめんよ……(うしろを見て)おウいっしょに入《へえ》って来い、いっしょに……おゥ、ごめんよ、ごめんよゥ、どいつくれ、どいつくれ……」
「あッ痛えッ……危ねえなァ」
「危ねえも糞もねえ、当人が来たんだからどけてんだ、この野郎。なに言ってやンでえ、ほんとうに……おい、こっちィ入《へえ》って来い、こっちィ……ええ? てめえのものを取りに来たんだ。遠慮することァねえ。ずゥッとこっちィ入って来い……あ、どうも……さきほどは(と、ひょいとお辞儀)……」
「……あ、また来たよ、あの人ァ。困ンな、話がわかンねえで……。どうだ、おまえさん、そうでなかったろう?」
「いえ、あのねェ、帰《けえ》ってすぐ当人に話をしますとね、野郎そそっかしいぐれえのやつですからね、おれはどうも死んだような心持ちがしねえなんてね、わかりきったことを強情張ってやがン……」
「困るなァ、どうもなァ……いえね、あァたねえ、よゥく気を静めて話をしなきゃァだめだよ」
「え、だんだん話をして……聞かせますとね、そう言われてみると、今朝心持ちがよくねえから、そうかもしれねえッて……この野郎でござんすから、どうぞひとつよろしく……おゥ、こっちィ出て来い。ええ? あのおじさんにいろいろお世話ンなったんだ。よくお礼申し上げろ」
「……どうもすいませんです。ちっとも知らなかったんで、兄貴に聞いて気がついたンすけど、あの……昨夜《ゆんべ》ここンとこィ倒れちゃったそうで……」
「おい、しょうがねえなァ、これァ……ええ? おんなしような人がもう一人ふえちゃったよ。ばかばかしいやい。この人ァ、おまえさん、行き倒れの当人だなんて……あのね、あァた、この菰がそうだから、こっちィ出て来てごらんなさい」
「いいンす、あの、もう見なくても……」
「いや、見ないてえのァ困るんだから、ごらんよ」
「いえ、もうなまじ死に目に会わないほうが……」
「いけないな、おかしなことを言って」
「見ろよゥ。向こうじゃ並べなきゃァ安心ができねえから言うんだから」
「そうかァ、なんだかいやな心持ちンなっちゃったなァ、ええ? (と、菰をとりおそるおそる見て)……これがおれかァ……?」
「そうよ」
「なんでえ、ずいぶん汚《きたね》え面《つら》ァしてンじゃァねえか」
「そりゃおまえ、死顔なんてえのァ変わるもんだ」
「なんだか顔が長えようだなァ」
「ひと晩夜露に当たったから、伸びちゃったんだろう」
「はァ……(じっと見つめて)あッ、やッ、これァおれだッ」
「そうだろう」
「(情けない声で)やい、このおれめッ、なんてまァあさましい姿ンなって……こんなことと知ったらもっとなんか食っときゃよかった」
「泣いたってしょうがねえや」
「どうしよう?……」
「頭のほうを抱け。足のほうを持っておれァ手伝うから……」
「そうか、じゃァ頼むよ……人間はどこでどんなことンなるかわからねえ。こんなとこで恥をさらして……(と、頭をささえ、胴をかかえるようにして抱きあげる)」
「おいおい……いけねえな、おい、おい、さわっちゃあ困るな、おい……えっ?……抱いてみてわからねえのァいけねえなァ。よくごらんなさいよ、おまえさんじゃないんだから……」
「うるせえ、余計なことを言うねえ。当人が見て、おれだつッてンだからまちげえねえじゃねえか……いいから抱け抱け、なァ、なにも自分のものを抱いておめえ……」
「(抱いたまま)ンン……なんだか兄貴、わかンなくなっちゃったな、おれァ?……抱かれてンのはたしかにおれなんだが……抱いてるおれは、一体《いつてえ》だれだろう?」
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≪解説≫[#「≪解説≫」はゴシック体] ご存じ、五代目柳家小さん所演のものである。最初聴いたときは、ただ可笑しくて、いわゆる抱腹絶倒、身体がよじれるほど笑いこける。しかし、二度三度と聴くうちに、その笑いのなかに涙が少しずつにじみ出てきて、その量は回を重ねるごとに多くなってくる。内容もそれにつれて、納得させ[#「納得させ」に傍点]ようとすればするほど、逸《そ》れていっそう宙に飛ぶような心持ちになってしまう。そして、ある一瞬に、ばかばかしさに徹した(徹する)ことの意味を悟る。だれでもがよく「落語」に理屈は要らない、と言うけれど、この噺に〈出合った〉とき、われわれの理屈では量《はか》り知れないこと、われわれの日常を超越していることが、「落語」の世界のなかで、目の前で起こっていることを知り、聴客は一種の陶酔状態になってしまうのではないだろうか。うまく表現できないが、生きているその瞬間がそこにある状態にしている[#「生きているその瞬間がそこにある状態にしている」に傍点]ことなのではないだろうか。この「粗忽長屋」を聴いていると、人間が人間である以上この範疇からけっして出ることはなく、だれかれの見境なく、死骸をも抱きかかえて、この現身《うつしみ》をいとおしんでいる……そのようにも筆者は思えてならなくなってくる。
さて、以上をもって〈百編〉の最後となるが、この「粗忽長屋」を主任《とり》――最後にもってきたのは理由がある。つまり、いい落語[#「いい落語」に傍点]には「解説」などと言うものはまったく要らないのであって、聴客がそれぞれの想いで「落語」との〈出合い〉を娯しみ、それぞれの感じ方で受け取ればいいのである。
従って、前記の「解説」全文取り消し[#「全文取り消し」に傍線]、削除[#「削除」に傍線]――。
おあとがよろしいようで……。
[#ここで字下げ終わり]
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落語題名一覧
(東京で噺家が演じる主なもの
ゴシックは本「百選」「特選」シリーズに収録したもの)
あ[#「あ」はゴシック体]
青菜〈夏〉[#「青菜〈夏〉」はゴシック体]
あくび指南〈夏〉[#「あくび指南〈夏〉」はゴシック体]
明烏〈春〉[#「明烏〈春〉」はゴシック体]
朝友《あさとも》
麻のれん〈夏〉[#「麻のれん〈夏〉」はゴシック体]
朝這い(三人旅)
仇討屋(高田馬場)
愛宕山《あたごやま》
あたま山〈春〉[#「あたま山〈春〉」はゴシック体]
穴どろ
あり(無筆の女房)
鮑《あわび》のし
安産
按摩《あんま》の炬燵《こたつ》〈冬〉[#「按摩《あんま》の炬燵《こたつ》〈冬〉」はゴシック体]
い[#「い」はゴシック体]
言訳座頭《いいわけざとう》
家見舞(肥がめ)
いが栗
幾代餅
池田大助(佐々木政談)
居酒屋
石返し
磯の鮑
一眼国〈夏〉[#「一眼国〈夏〉」はゴシック体]
一日公方
一分茶番(権助芝居)
一文惜しみ
井戸の茶碗(茶碗屋敷)
田舎芝居
稲川(千両幟)
稲荷車
稲荷のみやげ(犬の糞)
犬の目
居残り佐平次〈下〉[#「居残り佐平次〈下〉」はゴシック体]
猪退治
位牌《いはい》屋
今戸の狐
今戸焼〈下〉[#「今戸焼〈下〉」はゴシック体]
芋俵(芋どろ)
入れ眼(義眼)
う[#「う」はゴシック体]
浮世床〈春〉[#「浮世床〈春〉」はゴシック体]
浮世根問〈上〉[#「浮世根問〈上〉」はゴシック体]
浮世風呂
氏子中
宇治大納言
牛の子
牛ほめ〈冬〉[#「牛ほめ〈冬〉」はゴシック体]
うそつき村
うどんや〈冬〉[#「うどんや〈冬〉」はゴシック体]
鰻の幇間《たいこ》〈上〉[#「鰻の幇間《たいこ》〈上〉」はゴシック体]
鰻屋
馬のす
馬の田楽《でんがく》
厩火事〈秋〉[#「厩火事〈秋〉」はゴシック体]
梅の春
梅若礼三郎
売り声〈夏〉[#「売り声〈夏〉」はゴシック体]
うんつく(長者番付)
え[#「え」はゴシック体]
永代橋
越後屋(角兵衛)
縁切榎
お[#「お」はゴシック体]
追いだき(将門)
応挙の幽霊
王子の狐〈春〉[#「王子の狐〈春〉」はゴシック体]
王子の幇間〈下〉[#「王子の幇間〈下〉」はゴシック体]
鶯宿梅《おうしゆくばい》
阿武松〈冬〉[#「阿武松〈冬〉」はゴシック体]
近江八景
大どこの犬
大山詣り〈上〉[#「大山詣り〈上〉」はゴシック体]
おかふい
おかめ団子
置どろ(夏どろ)
臆病《おくぴよう》源兵衛
お血脈
おさん茂兵衛
押しくら
お七
お七の十
唖《おし》の釣り
おすわどん
おせつ徳三郎
お茶汲み
お直し〈上〉[#「お直し〈上〉」はゴシック体]
お化け長屋〈夏〉[#「お化け長屋〈夏〉」はゴシック体]
お初徳兵衛
帯久《おびきゆう》
お藤松五郎
お文さん
お祭佐七
お神酒徳利
お見立て
おもと違い
親子酒
泳ぎの医者
お若伊之助
か[#「か」はゴシック体]
蚊いくさ
開帳の雪隠《せつちん》
返し馬〈秋〉[#「返し馬〈秋〉」はゴシック体]
火焔太鼓〈冬〉[#「火焔太鼓〈冬〉」はゴシック体]
加賀の千代
鶴満寺
景清
掛取万歳〈冬〉[#「」はゴシック体]
笠碁〈夏〉[#「」はゴシック体]
重ね菊(なめる)
鰍沢《かじかざわ》〈上〉[#「鰍沢《かじかざわ》〈上〉」はゴシック体]
貸本屋の夢
火事息子〈冬〉[#「火事息子〈冬〉」はゴシック体]
数とり
風の神送り
片側町
片袖
刀屋(おせつ徳三郎下)
片棒〈下〉[#「片棒〈下〉」はゴシック体]
かつぎや〈冬〉[#「かつぎや〈冬〉」はゴシック体]
神奈川宿(三人旅)
花瓶(しびん)
かぼちゃ屋
釜どろ
蟇の油〈春〉[#「蟇の油〈春〉」はゴシック体]
紙入れ〈夏〉[#「紙入れ〈夏〉」はゴシック体]
上方見物
上方芝居(長崎の赤飯)
紙屑屋
からくり屋
蛙茶番〈上〉[#「蛙茶番〈上〉」はゴシック体]
代り目〈上〉[#「代り目〈上〉」はゴシック体]
癇癪《かんしやく》
勘定板〈冬〉[#「勘定板〈冬〉」はゴシック体]
雁とり
堪忍袋
看板のピン
雁風呂
巌流島《がんりゆうじま》[#「巌流島《がんりゆうじま》」はゴシック体](岸柳島)〈上〉[#「〈上〉」はゴシック体]
き[#「き」はゴシック体]
義眼(入れ眼)
菊江の仏壇(白ざつま)
紀州
喜撰
狐つき(熊沢蕃山)
擬宝珠《ぎぼし》
きめんさん(素人易者)
肝つぶし
きゃいのう(団子兵衛)
伽羅《きやら》の下駄
九州吹戻し
九尾の狐
狂歌家主
胸肋鼠《きようろくねずみ》
御慶〈冬〉[#「御慶〈冬〉」はゴシック体]
近日息子
禁酒番屋
金玉医者
黄金《きん》の大黒〈上〉[#「黄金《きん》の大黒〈上〉」はゴシック体]
金明竹〈夏〉[#「金明竹〈夏〉」はゴシック体]
く[#「く」はゴシック体]
くしゃみ講釈
薬ちがい
九段目
口入屋(引越の夢)
首提灯〈冬〉[#「首提灯〈冬〉」はゴシック体]
首ったけ
首屋
熊の皮
熊野の牛王(権助魚)
汲み立て〈下〉[#「汲み立て〈下〉」はゴシック体]
蜘蛛《くも》駕籠
くやみ
蔵前駕籠〈下〉[#「蔵前駕籠〈下〉」はゴシック体]
廓の穴
九郎蔵狐
鍬潟《くわがた》
け[#「け」はゴシック体]
稽古屋
傾城《けいせい》瀬川
袈裟《けさ》御前
喧嘩長屋
元久桂
源平盛衰記
こ[#「こ」はゴシック体]
肥がめ(家見舞)
孝行糖
強情灸
甲府い
高野違い
黄金餅〈下〉[#「黄金餅〈下〉」はゴシック体]
後家殺し
小言幸兵衛〈上〉[#「小言幸兵衛〈上〉」はゴシック体]
小言念仏
後生鰻
胡椒《こしよう》のくやみ
五段目(とけつ)
小粒
碁どろ〈秋〉[#「碁どろ〈秋〉」はゴシック体]
五人回し〈秋〉[#「五人回し〈秋〉」はゴシック体]
木の葉狐
小幡《こはだ》小平次
五百|羅漢《らかん》
子ほめ
駒長
小間物屋政談
米搗《こめつき》の幽霊(搗屋の幽霊)
五目講釈
子別れ[#「子別れ」はゴシック体](子は鎹《かすがい》)〈秋〉[#「〈秋〉」はゴシック体]
強飯の女郎買い(子別れ)
権助芝居(一分茶番)
権助提灯
紺田屋
こんにゃく問答〈春〉[#「こんにゃく問答〈春〉」はゴシック体]
権兵衛狸
紺屋高尾〈上〉[#「紺屋高尾〈上〉」はゴシック体]
さ[#「さ」はゴシック体]
西行
盃の殿様
ざこ八
佐々木政談(池田大助)
五月幟
雑俳(雪てん)
真田小僧〈秋〉[#「真田小僧〈秋〉」はゴシック体]
佐野山
皿屋(崇徳院)
皿屋敷
猿後家
猿丸
ざるや
三軒長屋〈下〉[#「三軒長屋〈下〉」はゴシック体]
山号寺号
三国誌
三十石
三助の遊び
三でさい
三人旅〈秋〉[#「三人旅〈秋〉」はゴシック体]
三人無筆〈秋〉[#「三人無筆〈秋」はゴシック体]
三年目〈夏〉[#「三年目〈夏〉」はゴシック体]
三百植木
三方一両損〈春〉[#「三方一両損〈春〉」はゴシック体]
三枚起請〈上〉[#「三枚起請〈上〉」はゴシック体]
さんま芝居
し[#「し」はゴシック体]
鹿政談〈夏〉[#「鹿政談〈夏〉」はゴシック体]
しじみ売り
四宿の屁
紫檀楼古木《したんろうふるき》
七段目
質屋庫
十徳
品川心中〈上〉[#「品川心中〈上〉」はゴシック体]
指南書
死神〈秋〉[#「死神〈秋〉」はゴシック体]
死ぬなら今
しの字嫌い
芝居の穴
芝居風呂
芝浜〈冬〉[#「芝浜〈冬〉」はゴシック体]
しびん(花瓶)
渋酒
地見屋
〆込み〈春〉[#「〆込み〈春〉」はゴシック体]
蛇含草《じやがんそう》
写真の仇討(指切り)
三味線栗毛
三味線鳥
洒落小町
宗論
寿限無〈秋〉[#「寿限無〈秋〉」はゴシック体]
将棋の殿様
将軍の賽《さい》
松竹梅
樟脳玉《しようのうだま》
蜀山人《しよくさんじん》
白井左近
尻餅《しりもち》
素人鰻〈夏〉[#「素人鰻〈夏〉」はゴシック体]
素人芝居(一分茶番)
城木屋
白ざつま(菊江の仏壇)
しわい屋〈夏〉[#「しわい屋〈夏〉」はゴシック体]
心眼〈下〉[#「心眼〈下〉」はゴシック体]
甚五郎
す[#「す」はゴシック体]
菅原息子
鈴ケ森(崇禅寺馬場)
鈴ふり
ずっこけ
酢豆腐〈上〉[#「酢豆腐〈上〉」はゴシック体]
崇徳院《すとくいん》〈春〉[#「崇徳院《すとくいん》〈春〉」はゴシック体]
相撲風景
せ[#「せ」はゴシック体]
清正公酒屋
清書無筆
節分
せむし茶屋
疝気《せんき》の虫〈上〉[#「疝気《せんき》の虫〈上〉」はゴシック体]
先の仏(ざこ八)
千両みかん〈夏〉[#「千両みかん〈夏〉」はゴシック体]
そ[#「そ」はゴシック体]
宗漢
粗忽長屋〈冬〉[#「粗忽長屋〈冬〉」はゴシック体]
粗忽の釘〈秋〉[#「粗忽の釘〈秋〉」はゴシック体]
粗忽の使者〈春〉[#「粗忽の使者〈春〉」はゴシック体]
そば清(蕎麦の羽織)
そばの殿様
ぞろぞろ〈秋〉[#「ぞろぞろ〈秋〉」はゴシック体]
た[#「た」はゴシック体]
大工調べ〈春〉[#「大工調べ〈春〉」はゴシック体]
太鼓腹
大師の杵
大仏餅〈冬〉[#「大仏餅〈冬〉」はゴシック体]
代脈
高砂や
高田馬場(仇討屋)
たが屋〈夏〉[#「たが屋〈夏〉」はゴシック体]
だくだく
竹の水仙
蛸坊主
たちきり
立浪
辰巳の辻占(辻占)
館林
狸賽〈夏〉[#「狸賽〈夏〉」はゴシック体]
田能久
煙草の火
魂の入替
手向けのかもじ(はなむけ)
試し酒
たらちね〈春〉[#「たらちね〈春〉」はゴシック体]
団子兵衛(きゃいのう)
探偵うどん
短命(長命)
ち[#「ち」はゴシック体]
ちきり伊勢屋
縮みあがり
千早振る〈冬〉[#「千早振る〈冬〉」はゴシック体]
茶金(はてなの茶碗)
茶の湯〈秋〉[#「茶の湯〈秋〉」はゴシック体]
長者番付(うんつく)
長短
提灯屋
町内の若い衆
ちりとてちん
ちん輪(錦の袈裟)
つ[#「つ」はゴシック体]
付き馬[#「付き馬」はゴシック体](早桶屋)〈春〉[#「〈春〉」はゴシック体]
突き落し
搗屋《つきや》幸兵衛
搗屋の幽霊(米搗の幽霊)
搗屋|無間《むげん》
佃祭〈夏〉[#「佃祭〈夏〉」はゴシック体]
辻駕籠
辻八卦
つづら泥
壺算(壺算用)
つる
つるつる〈秋〉[#「つるつる〈秋〉」はゴシック体]
鶴屋善兵衛(三人旅)
て[#「て」はゴシック体]
手紙無筆
出来心〈夏〉[#「出来心〈夏〉」はゴシック体]
鉄拐
てれすこ
天狗裁き
天災〈秋〉[#「天災〈秋〉」はゴシック体]
転失気
転宅
と[#「と」はゴシック体]
道灌〈夏〉[#「道灌〈夏〉」はゴシック体]
道具屋〈秋〉[#「道具屋〈秋〉」はゴシック体]
胴取り
唐茄子屋[#「唐茄子屋」はゴシック体](唐茄子屋政談)〈夏〉[#「〈夏〉」はゴシック体]
遠山政談
時そば〈秋〉[#「時そば〈秋〉」はゴシック体]
とけつ(五段目)
富久〈下〉[#「富久〈下〉」はゴシック体]
とんちき
な[#「な」はゴシック体]
長崎の赤飯(上方芝居)
中沢道二
長襦袢
中村仲蔵〈下〉[#「中村仲蔵〈下〉」はゴシック体]
長持
長屋の花見〈春〉[#「長屋の花見〈春〉」はゴシック体]
泣き塩
薙刀《なぎなた》傷
茄子娘
夏どろ(置どろ)
夏の医者〈夏〉[#「夏の医者〈夏〉」はゴシック体]
なめる(重ね菊)
成田小僧
に[#「に」はゴシック体]
二階ぞめき〈下〉[#「二階ぞめき〈下〉」はゴシック体]
にわか泥(仏師屋盗人)
錦の袈裟(ちん輪)
二十四孝〈夏〉[#「二十四孝〈夏〉」はゴシック体]
二丁蝋燭
二人癖(のめる)
二人旅
二番煎じ〈冬〉[#「二番煎じ〈冬〉」はゴシック体]
睨《にら》み返し
人形買い
ぬ[#「ぬ」はゴシック体]
抜け裏
抜け雀
布引の三
ね[#「ね」はゴシック体]
ねぎまの殿様
猫怪談〈秋〉[#「猫怪談〈秋〉」はゴシック体]
猫久〈春〉[#「猫久〈春〉」はゴシック体]
猫定
猫忠
猫の災難
猫の皿[#「猫の皿」はゴシック体](猫の茶碗)〈春〉[#「〈春〉」はゴシック体]
ねずみ〈秋〉[#「ねずみ〈秋〉」はゴシック体]
鼠穴〈冬〉[#「鼠穴〈冬〉」はゴシック体]
寝床〈冬〉[#「寝床〈冬〉」はゴシック体]
の[#「の」はゴシック体]
能祇《のうぎ》法師
野ざらし〈秋〉[#「野ざらし〈秋〉」はゴシック体]
蚤のかっぽれ
のめる(二人癖)
は[#「は」はゴシック体]
羽団扇
羽織の遊び
羽織の幇間
化物使い
羽衣
八五郎出世(妾馬)
八五郎年始(御慶)
八問答
八九升
初天神〈冬〉[#「初天神〈冬〉」はゴシック体]
初音のお松
初音の鼓
初雪(雪てん)
はてなの茶碗(茶金)
派手彦
花筏(提灯屋相撲)
花色木綿(出来心)
鼻利き源兵衛
鼻ねじ
鼻ほしい
花見扇(崇徳院)
花見小僧(おせつ徳三郎上)
花見酒〈春〉[#「花見酒〈春〉」はゴシック体]
花見の仇討
はなむけ(手向けのかもじ)
浜野|矩随《のりゆき》
早桶屋(付き馬)
囃子長屋
反魂香〈下〉[#「反魂香〈下〉」はゴシック体]
反対車
半分|垢《あか》
ひ[#「ひ」はゴシック体]
引越の夢(口入屋)
一つ穴〈春〉[#「一つ穴〈春〉」はゴシック体]
一目上り〈下〉[#「一目上り〈下〉」はゴシック体]
一人酒盛〈秋〉[#「一人酒盛〈秋〉」はゴシック体]
雛鍔《ひなつば》
ひねりや
姫かたり
干物箱〈秋〉[#「干物箱〈秋〉」はゴシック体]
百人坊主(大山詣り)
百年目〈春〉[#「百年目〈春〉」はゴシック体]
日和《ひより》違い
平林《ひらばやし》
ふ[#「ふ」はゴシック体]
福禄寿
不孝者
武士の情
富士詣り
無精床
武助馬
双蝶々
ふたなり
ふだんの袴
不動坊
船徳〈夏〉[#「船徳〈夏〉」はゴシック体]
文違い〈下〉[#「文違い〈下〉」はゴシック体]
古手買い(古着屋)
風呂敷
文七元結〈冬〉[#「文七元結〈冬〉」はゴシック体]
へ[#「へ」はゴシック体]
へっつい幽霊
勉強
ほ[#「ほ」はゴシック体]
坊主の遊び
棒鱈《ぼうだら》
庖丁
星野屋〈下〉[#「星野屋〈下〉」はゴシック体]
法華長屋
仏馬
骨違い
堀の内
ぽんこん(初音の鼓)
本膳
ま[#「ま」はゴシック体]
将門(追いだき)
松田加賀(頓智の藤兵衛)
松曳き〈下〉[#「松曳き〈下〉」はゴシック体]
松山鏡〈春〉[#「松山鏡〈春〉」はゴシック体]
豆屋
万金丹
万歳の遊び
饅頭こわい〈春〉[#「饅頭こわい〈春〉」はゴシック体]
万病円
み[#「み」はゴシック体]
木乃伊《みいら》取り〈下〉[#「木乃伊《みいら》取り〈下〉」はゴシック体]
身代り杵《きね》(大師の杵)
水屋の富〈夏〉[#「水屋の富〈夏〉」はゴシック体]
味噌蔵
三井の大黒
宮戸川〈上〉[#「宮戸川〈上〉」はゴシック体]
深山《みやま》隠れ
茗荷宿
む[#「む」はゴシック体]
村芝居
め[#「め」はゴシック体]
妾馬《めかうま》〈冬〉[#「妾馬《めかうま》〈冬〉」はゴシック体]
めがね泥
目黒のさんま〈秋〉[#「目黒のさんま〈秋〉」はゴシック体]
も[#「も」はゴシック体]
毛せん芝居
もう半分
もぐら泥
元犬
百川〈夏〉[#「百川〈夏〉」はゴシック体]
桃太郎〈上〉[#「桃太郎〈上〉」はゴシック体]
紋三郎稲荷
や[#「や」はゴシック体]
八百屋お七(お七の十)
やかん〈秋〉[#「やかん〈秋〉」はゴシック体]
やかん泥
やかんなめ
厄払い
弥次郎〈冬〉[#「弥次郎〈冬〉」はゴシック体]
宿屋の仇討〈秋〉[#「宿屋の仇討〈秋〉」はゴシック体]
宿屋の富〈上〉[#「宿屋の富〈上〉」はゴシック体]
柳田角之進
柳の馬場
藪医者(金玉医者)
藪入り〈冬〉[#「藪入り〈冬〉」はゴシック体]
山岡角兵衛
山崎屋〈秋〉[#「山崎屋〈秋〉」はゴシック体]
ゆ[#「ゆ」はゴシック体]
雪てん〈冬〉[#「雪てん〈冬〉」はゴシック体]
指切り(写真の仇討)
夢金〈下〉[#「夢金〈下〉」はゴシック体]
夢の酒
夢の瀬川〈冬〉[#「夢の瀬川〈冬〉」はゴシック体]
夢分限
湯屋番〈春〉[#「湯屋番〈春〉」はゴシック体]
よ[#「よ」はゴシック体]
よいよい蕎麦
よかちょろ
吉住万蔵
吉野狐
四段目〈春〉[#「四段目〈春〉」はゴシック体]
淀五郎
四人癖
寄合酒
ら[#「ら」はゴシック体]
らくだ〈上〉[#「らくだ〈上〉」はゴシック体]
り[#「り」はゴシック体]
両国八景
悋気の独楽《こま》[#「悋気の独楽《こま》」はゴシック体](喜撰)〈下〉[#「〈下〉」はゴシック体]
悋気の火の玉
りん廻し
ろ[#「ろ」はゴシック体]
六尺棒
ろくろ首
わ[#「わ」はゴシック体]
和歌三神〈上〉[#「和歌三神〈上〉」はゴシック体]
笑い茸
藁人形
ん[#「ん」はゴシック体]
ん廻し(寄合酒)
(〈上〉〈下〉は「特選」の巻数)
[#改ページ]
あとがき
編者の三十代に執筆した≪解説≫は、当時の現在形を過去形に改訂した以外は加筆せず、今回、佐久間聖司さんの入念な検証、考証で、本篇の落語のまちがい[#「まちがい」に傍点]まですべて訂正して、文字どおり〈決定〉版となった。
筑摩書房の編集担当の祝部《ほうり》陸大《りくお》さんは、小生の希望した解説執筆者への原稿依頼をすべて適《かな》えてくださり、次々に入稿の報告を受けるたびに、小生は身震いするほどの感動に見舞われた。
日ごろプロデューサーとして、他人《ひと》の世話やき、裏方をして、徒労ばかりで報われることのまことに少い小生としては、今回ばかりは何もせず、旧著を編集部の豊島洋一郎、青木真次さんら無類の落語好きに寄ってたかって作っていただき、よろこびをどう表わしてよいかわからぬほど感激した。
これを期に「落語百選」の増補版『落語特選』(上・下)を新たに編集、書き加えて、さらに充実したものにして、応えたいと思っている。
一九九九年四月
[#地付き]麻生芳伸
麻生芳伸(あそう・よしのぶ)
一九三八年、東京に生まれる。京華高校卒業。映画、ジャズ、落語、本が大好きな芸能プロデューサー。林家正蔵、岡本文弥、高橋竹山、山田千里、エルビン・ジョーンズらのステージ、衣笠貞之助の映画の上映、津軽三味線や瞽女《ごぜ》唄などのレコードをプロデュース。編著書に『林家正蔵随談』『噺の運び』『こころやさしく一所懸命な人びとの国』『林檎の實』『往復書簡・冷蔵庫』(共著)などがある。
本作品は一九七五年十二月に三省堂から刊行され、一九八〇年九月、社会思想社の現代教養文庫に収録、一九九九年四月、ちくま文庫に収録された。