ザンヤルマの剣士
麻生俊平
口絵・本文イラスト 弘司
[#改ページ]
ザンヤルマの剣士
鵬翔学院高校に通う矢神遼は、ある日、奇妙な紳士から、波形の鞘に収められた短剣を押しつけられた。
「この剣は、抜くことができた人間に強大な力を与えてくれる……」
謎の言葉を残し、紳士は去る。
一見、どうやっても抜けそうにない形状をしたその剣を、なぜか遼はあっさりと抜くことができた。
しかし、その日を境に、遼の周辺ではバラバラ殺人事件が連続して発生する。
しかも、被害者は遼に不快な思いをさせた人物ばかりであった!
『僕は無意識のうちに殺人を犯してしまったのか?』
いま、遼の運命は大きく変わろうとしていた……
ファンタジア大賞出身の新鋭が贈る、書き下ろしサスペンス伝奇アクション!
[#改ページ]
ザンヤルマの剣士
目 次
第一章 闇の刃
第二章 長き知られざる闘い
第三章 剣よ、光を!
エピローグ
あとがき
[#改ページ]
プロローグ
「それでは、どうあっても、私の邪魔をするというのだな?」
ため息まじりのその声は、どこか嬉しそうでもあった。
「強情た奴だな、おまえも」
「あなたも似たようなものでしょう?過去の栄光に囚われて、依怙地になっているのですから」
応えだ声は、あくまで硬かった。
朝。ようやく緊張の解けた街の住人は活動を再開し、この街で最も高い建物の一つの上空で対峙する二つの人影に気づく者はなかった。
「あれが何かわかるか?」
彼方から、うなりを上げて近づいてくる鋼の鳥。
「この世界は、未だに王政も共産主義も存在する、異常な文明だ。狂った世界だ。そこに首まで浸かっている人間どもが、とうとう手に入れたのだ、巨大な力を」
言われたほうが、その言葉の意味を理解するまでに、寸刻の間があった。
「まさか、そんな……」
「制する術も持たないうちに、巨大な力を使おうとしているのだ。さらに、この世の有り様は、先に述べたような為体。この世の入間ども、遠からず滅びる」
「――放っておけばよいでしょう。それが、人間の限界であるならば、滅びるのもまた、必然であり、宿命でもあるでしょう」
「冷たいな、おまえは」
今度は心底愉快そうに笑いながら言う。
「では、あなたは何だというのです。巨大な力、果てしない知恵を人間に与えて、これまでどんな結果を生み出してきたことか 」
「おまたがそれを言うのは奇妙なことだ。与えられた力も知恵も活かせないのは、まさに人間の限界。与えた私が責められる謂れはないはずだ」
「――どうしても、やめないと言うのですね?」
「ああ、今度は、あの大いなる力を制御するからくりでも与えてやるつもりだよ」
「もう、話す必要もないようですね」
「そうだな」
空中に浮かぶ二人は急速に距離を縮めた。二つの人影が重なり合った瞬間、青白い閃光が飛び散った。
だが、その光をはるかに上回る輝きが地上を照らした。鉄の巨鳥が産み落とした黒い卵が、巨大な力を解放したのだ。
再び距離をおいて対峙する二人の足下で、市街は、瞬時に瓦礫の連なりに変じた。
不吉な形の雲が立ち上がり、その中にいくつかの稲光が走る。
地上では、それまでいかなる人間も想像しなかった地獄絵が展開されていた。
人類が初めて経験する核の焦熱と汚濁の中で、空中の二人は小揺るぎもせずに対峙しつづけていた。
[#改ページ]
第一章 闇の刃
「……矢神。――矢神、休みか?」
「います」
遼は、言いながら右手を上げて、担任の宮内に存在をアピールした。
「よし、全員出席だな」
宮内は出席簿を閉じると、今日の連絡事項を伝えはしめた。
遼は顔をうつむけて、左手でこめかみをもんだ。頭痛の気配がする。
「大丈夫か」
後ろの席の神田川が背中をつっつく。
「大丈夫」
振り向いて、ちょっと笑って見せる。実際、頭痛はまだ本格的なものではなかった。これなら今日は大丈夫だろう。
「……以上だ」
日直の号令で立ち上がり、礼をする。宮内が教室を出るか出ないかのうちにざわめきが湧き上がり、扉が閉まるころには、後ろの席の連中はすでに椅子から立ち上がっていた。
「ほんと、大丈夫かよ」
神田川が遼の顔を覗き込む。
「うん」
遼は鞄から教科書やノートを出し、授業の準備を始めた。
だが、遼が我慢できたのは三時眼目までだった。
脳と頭蓋骨の間にクールを流し込まれるような不快感が広がり、どうにも堪えようがなくなった。眼鏡をはずし、額を押さえる。
「先生、失神、頭痛いんだって」
神田川が教壇の山際に声をかける。黒板に日本地図を書いていた山際は、遼のほうを見ると、またか、といった顔をした。
「保健室へ行け。保健委員、ついてってやれ」
「いいです。一人で行けます」
遼が頭痛のために保健室へ行くのは珍しいことではない。だから、そのたびに保健委員に付き添わせるのは気が引けた。手早く机の上を片付けると、遼は一人で教室を出た。
がらんとした廊下に、昼近い日差しが急な角度で差し込んでいる。英文を読み上げる声。
けっこうテンポのいいのは古文を読む声。そして、それらにおかまいなしの生徒のざわめき……。
一人、取り残された気分で、遼は保健室へ急いだ。
寝不足かな、やっばり。
寝不足の原因はわかっていだ。昨夜の“家族の会話”だ。
遼の父親の勝利は、いわゆる一流会社の管理職である。それが、半年ほど前にアメリカの支社に転勤になった。出立が目前になって、なぜか母親の千枝子も一緒に行くと言い出し、遼ひとりが日本に残ることになったのだ。
昨日は半年ぶりに両親が帰国し、ひさびさに一家三人で夕げの食卓を囲むことになった。
そこで勝利が、思いもよらないニュースを口にしだのだ。
「万里絵ちゃんを覚えてるか」
「うん、マーちゃんだろ」
朝霞万里絵――遼の母方の従妹だ。父親が外資系企業に勤めていて、一〇年くらい前に一家で渡米した。
「今度、こっちへ帰ってくる。史雄さんが国内の仕事に変わったんでな。うちの上に越してくるそうだ」
「え?」
矢神家が住んでいる橘マンション四〇二号室の上の部屋は、確かに空いていた。
「学校の手続きとかがあるんで、万里絵ちゃんだけ先に帰ってくるって言ってたな」
「鵬翔学院に入るつもりだって言ってたわよ」
遼は、それを聞いてすっかり憂鬱になってしまっだ。同い年の従妹が同じ学校に通う
――それだけでもかなり気詰まりなことになるだろう。しかも、一〇年ぶりに会う彼女が
どんな女の子なのか、予想もつかない。遼の苦手なタイプだったとしても、いとこ同士ということで付き合っていかなければならないのだろうか……。
夕食後、こっそり昔のアルバムなど引っ張り出して、従妹の写っているベージを探してみた。
……あった。目のくりくりした、ちょっと猫みたいな感じのする利発そうな女の子が、
こちらに向かってほほ笑んでいる。
――あ、苦手だ、こういう子。
遼は、明るくて人に好かれるタイプの女の子は苦手で、努めて近寄らないようにしている。もっとも、実際は女性一般が苦手なのだが。
――一〇年経つたからって、変わってないだろうなあ……。
布団に入ってからも、そんなことを考えていて、全然寝付けなかった。おかげで今朝は、何度も母に起こされたのに起きられず、遅刻ぎりぎりで教室に滑り込んだのだった。
階段を下り、保健室の扉をノックする。
「どうぞ」
「失礼します」
養護教諭の桐原朝子が、いつものよりに机の前に座っていた。
「矢神くん。どうしたの?」
朝子は、また頭痛なの、などと尋いたりはしない。今や保諸室の常連といってもいい遼に対しても、いつも丁寧に応対してくれる。
「ちょっと頭痛が……」
朝子は手のひらを遼の順に当てた。
「熱はないようね。でも、いもおう計ってみなさい」
そう言って差し出された体温計を遼は脇の下に挟んだ。
遼が三分待つ間、朝子は先ほどまでしていた書き物に戻った。少し栗色がかったショートカットの髪の毛が、きりっとした顔立ちによく似合っている。羽織った白衣の下は、卵色のサマーセーターとグレーのスカートという地味なスタイルだか、胸許に着けた、もよっと変わった形の銀色のブローチがアクセントになって、彼女の清楚な美しさを引き立てていた。知的な顔立ちというのだろうか。頬から顎にかけての線は多少きつい印象だけれど、何かというと、すぐ大声を上げたり笑い声を立てたりするクラスの女子よりも、ずっとやさしく、他人を受け入れてくれるように遼には思えた。
「いいわよ」
言われて体温計を渡す。朝子は一瞥すると、机の上のノートに何か書き込んだ。
「昨夜、よく眠れなかったから、そのせいじゃないかと……」
「そう。じゃあ、少し休んでいきなさい。宮内先主には私から言っておくから」
「はい」
遼は、ふと机の上に目を止めだ。紺の一輪挿しに白百合が一輪、うつむくように挿してある。
「造花よ」
遼の視線に気づいたのか、書き物を続けながら朝子は言った。
「百合の薫りって意外と強いから、気になる人もいるでしょう?」
きりのいいところまで来たのか、朝子は顔を上げ、遼のほうを見た。
「百合の花、好きなんですか」
「花のうちではいちばん好きよ」
必要事項以外の短いやり取りに遼は息苦しくなった。
上着を脱いで、ベッドに横になった。眼鏡をはずし、上着のポケットに挿す。
目を閉じる。枕からもシーツからも日なたの匂いがした。
人の気配で目が覚めた。朝は別にして、何かのはずみですぐに目が覚める神経質な遼だ。
誰かがそばにいれば、まず聞違いなく目が覚める。
目を開けず、耳に意識を集中させる。
「いやあ、勿体ない。思い切って、長く伸ばしてみたらどうですか?きっと似合うと思
いますよ」
声の主はすぐにわかった。柴本教頭。いつもダークブラウンのスリーピースをすっきりと着こなし、こめかみに灰色のものが混じった髪にはきっちりと櫛目が通っている。角縁の眼鏡の奥の目には柔和な表情を浮かべていて、全体に上品な印象の人物だ。朝礼の時など、多少芝居がかった口調でいろいろな珍しいエピソードを織り交ぜて話し、校長よりもよっぼど切れ者に見える。
だが、柴本を嫌っている学生は多い。遼もその一人だ。男子に対する時は腰の後ろに組まれている手が、女子が相手たと、肩、腕、腰とさりげないふうを装って這い回る。
『あれで、家じゃ、自分の娘の鞄の中身のぞいたり、日記盗み読んだり、手紙開けたりしてんだぜ、きっと』
いつだったか神田川がそんなふうに言ったことがある。無茶苦茶な言いがかりなのだが、
聞いていた生徒の大半は納得してしまっだ。そう思わせてしまうようなところが柴本にはあった。
「四六時中子供の相手ばかりでは飽きるでしょう?」
「いえ、そんな……」
音を立てないように気をつけながら、遼は体を起こし、上着に手を伸ばした。
「真面目すぎるんだなあ、朝子さんは。ご不幸があったばかりでこんなことを言うのはなんですが、たまには羽目をはずしたほうが精神の健康にも良いんですよ。どうですか、今度の週末でも、僕と羽目をはずしてみませんか」
教頭の手がどこにあるのか、考えだくもなかった。
今度は目一杯音を立てて薄い掛け布団をまくり、ベッドのスプリングをきしませて降りると、衝立ての向こうへ顔を出した。
「矢神くん……」
朝子が耳の上の毛を指先で整えた。
「教室に戻ります」
これ以上ここに居たら、よけい気分が悪くなりそうだから――そうは言わなかった。教頭が保健室に居る明らかな不自然に、疑惑の目を向けることもしなかった。何か汚らしい恥すべきことを自分がしてしまったような気分で、いたたまれなかった。
「二年B組の矢神遼くんだね」
教頭は手を腰の後ろで組んだ格好で言った。
「はい」
「健全な肉体に健全な精神が宿る、なんて体育の先生がよく言ったりするが、あれは間違いなんだそうだね。古代ローマの詩人ユウェ=ナリスが、健全な肉体に健全な精神が宿ればよいのだが、それはなかなか難しい、と言ったのが本来で、肉体が健全になったら自動的に健全な精神になるとか、肉怖が健全でなければ精神が不健全になるとかいうことではないんだね。しかし、健康な体は一生の財産だ。高校時代は、体を鍛える最後のチャシスだ。矢神くんも、簡単なことから始めだらどうかな?」
「はい」
遼は、二人と目を合わさないようにしながら、扉のところで一礼し、保健室を出た。にらみつけるような視線も、溜まった涙も、見られたくなかっだからだ。
――死んじまえよ、柴本!
水道の蛇口に顔をぶつけるようにして涙を洗い流してから、遼は教室に戻った。
六時眼目まで授業を受けて、掃除を済ませると、“帰宅部”の遼は学校を後にした。
一〇分ほど電車に揺られ、改札を抜けると、遼は背中を丸めて歩き出した。
頭痛がとれた代わりに、胸がむかむかした。教頭に対してではなく、自分自身に。
栗本教頭はけっして褒められた人間ではないと思う。今でもその考えに変わりはない。
だが、相手がろくでもない不愉快な人物だというだけで、『死んでしまえ』とまで思った
のは完全に遼の感情の暴走だ。
――わかっているのに……。
遼は臆病で小心者だと自覚している。それなのに、いや、だからこそと言うべきか、人一倍感じやすく、感情の振幅が大きい。小学生のころは、腕力もないのに、カッとなってはすぐ喧嘩をし、叩きのめされては大声で泣き喚いていたものだ。喧嘩らしい喧嘩は中学一年でおしまいになり、それからは、感情を表に出すまい、せめて行為に直結させまいとするようになった。だが、ともすると爆発しそうになる感情の反応の激しさが消えたわけではない。
そうだ。
マンションに向かう道から、脇道へ入る。この先に、遼にとっては保健室と並ぶもう一つの安息の揚がある。せめて、家に着く前に不愉快さを少しでも軽くしておきたかった。
だが 。
「あれ」
目当ての店はカーテンを降ろし、「本日休業」の札をぶら下げていた。
「冬扇堂」という名のその店は、アンティーク・ショップというには野暮ったく、骨董屋と呼ぶには美術的価値のなさそうな品ばかりが並び、古道具屋にしては実用品が少なかった。二年ほど前、遼がまだ中学生だった時にこの店を見つけ、週に一度は覗くようになっていたのだ。たまにペーパーナイフや文鎮を買うだけの遼は、良いお客ではないのだろうが、店の主人らしい女性は、厭な顔ひとつ見せなかった。
今日はついてないな。
遼が今来た道を戻ろうとした、その時だった。
「君」
遼は身を強張らせた。不意に声をかけられると、反射的に緊張してしまうのだ。
おそるおそる振り向くと、冬扇堂の前に一人の中年の紳士か立っていた。
変だ。さっきまで店の前には誰もいなかっだ。遼は誰ともすれ違わなかったし、それど
ころか、このあたりには人の気配すらなかったのだ。
「僕ですか?」
紳士はうなずくと、ゆっくりと遼のほうへ歩み寄ってきた。黒いスーツを着て、片手にこれも黒い鞄を下げている。まるでマンガの犯罪者だ。だが、がっしりとしだ体の上のいかつい感じの顔は民芸品の木彫りの人形を思わせ、ハンサムではないけれど親しみの湧くものだった。
「私も今日が休みだとは知らなくてね。君は、この店の主人がどこに居るか、知らない
か?」
「いえ」
「そうか。お互い、無駄足を踏んでしまったというわけだな」
そう言って目を細める紳士の笑いには、どこか人を魅きつけるものがあった。
――どういう人なんだろう?
スーツこそ着ているが、印象は会社員とは全く違っている。シャープベンシルの芯を束ねたような硬そうな髪の毛も無造作で、お客を相手にする仕事の人には見えない。
「あの、ご同業の方ですか」
「私が?水緒美と?」
――あの人、水緒美さんていうのか。
二年以上店に通っていても、当然のことながら、今まで名前も知らなかったのだ。
「そうだな、同業というか、同類というか……」
鼻の頭を掻きながら、紳士は笑った。
「ところで、君は、この店が閉まっているのを見る前から、ちょっと肩を落としていたみ
たいだっだね。――いや、覗き見するつもりはなかったんだが」
「いえ、僕はもともと撫で肩なんです」
初対面の相手だというのに、遼は不思議に口が軽くなっていくのを感じた。
「そうか、もともと撫で肩なのか」
苦笑しながら、紳士は、ふと何かを思いついた様手で、鞄の中を掻き回しはじめた。
「あった」
紳士は、鞄から取り出しだものを遼に渡した。
それは、変わった形の短剣だった。象牙らしい柄の付いた三〇センチほどの剣。その刀
身は蛇のような波形を描き、赤い鞘に収まっている。
「珍しい形ですね。どこの国の、いつごろのものなんですか」
「大昔のものさ。今では滅びてしまった国のものだ」
「どの辺の国なんですか。ヨーロッパ?中近東?」
紳士は妙な笑いを浮かべただけで、質問には答えず、全然別のことを口にした。
「君に進呈しよう」
「そんな……」
人か何かをしてくれるというと、反射的に遠慮してしまう遼だが、それにしても、紳士のこの中し出は唐突に過ぎる。ほんの五分ほど前に会ったばかりで、考えてみればお互いの名前すら知らないのだ。
「そうだな、私たち二人に無駄足を踏ませた水絶美に対するささやかな復讐とでも思って
くれ」
「そんなに価値のあるものなんですか」
「美術品というか、骨董品としての価値はほとんどない。だから、安心してもらってくれ」
自分の貧しい心根を見抜かれたようで、遼は赤面した。
「それが価値と言えるかどりか知らないが、この剣には言い伝えがある」
紳士は一度、短剣を遼の手から取り士げ、鞘に収まった刃の部分を示した。
「刃か鞘から抜けないようになっているだろ」
「――あ、確かに」
短剣と鞘の波形の振幅が大きすぎる。刃がゴムで出来ているのでもないかぎり、これでは抜けまい。だが、それでは、この剣を作った人間は、どうやって刃を鞘に収めたのだろう? それとも、短剣というのは見せかけだけで、文鎮のようなものなのだろうか?
遼のそんな疑問を読み取ったかのように、紳士は説明を続けた。
「しかし、この抜けないはずの刃を抜く方法がある。というより、抜くことのできる人間がいる。この短剣は、鞘から抜くことのできた人間に強大な力を与えてくれるそうだ」
「あれみたいですね、アーサー王伝説の聖剣エクスカリバー」
「君も、現代のアーサー王を目指して、チャレンジしてくれ」
そう言って、無造作に短剣を遼に押し付けると、紳士は足早に細い道を行き、遼が声をかける瑕もなく、角を曲がって、姿が見えなくなった。
―――どうしよう。
もう一度、短剣を見る。紳士は価値のないことを強調していたが、遼はなんとなくこの剣が気に入っていた。それに、パズルとか謎解きの類は嫌いではない。強大な力が手に入るというのはともかくとして、パズルめいたこの短剣のミステリーを解いてみたいという気持ちがだんだん大きくなってくる。
――明日、もう一度、冬扇堂に来てみよう。そして、水緒美さんに話せばいいんだ。
紳士の言い方からすると、冬扇言の女主人はこの短剣を欲しがっているのだろう。紳士が彼女に渡すっもりだっだものを、諸般の事情で遼が一晩預かる――そういうことだ。もし、遼に何とかできる範囲の値段だったら、頼み込んで買い取ってもいい。
――とりあえず、パズルのタイム・リミットは明日までか。
返す期限の心積もりも出来たことで、遼はかえってさばさばした気持ちで短剣を通学鞄
にしまっだ。
「ただいま」
遼が駅前の商店街の本屋で、刀剣類についての本を立ち読みしてからマンンョンに帰った時は、もう夕方というより夜に近かった。
部屋の雰囲気が違う。妙に片付いて、何かが足りない感じ。カーテンがきちっと降りていて、台所の食器も洗いあげられている。
遼は、テーブルの上のメモに気づいた。母の字で、父の都合で危遽北海道の支社に行かなくてはならなくなったことが書いてあった。続けて、鍋の中にシチューが出来ているとか、三食分は冷凍してあるとか、トンカツを揚げておいたとか、大根サラダが作って冷やしてあるとか、ハムとべーコンとソーセージを買っておいだとか、その他、生活に関する細々しだことが書き並べてあった。
遼は、鍋の中や冷蔵庫の中をいちいち確認しながら苦笑しだ。母のことだ。脇で父ががみがみ言うのを聞きながら、時間ぎりぎりまでかかって料理を作っていたのだろう。
――ちょっと早めに夕食にしようかな。
とりあえず着替える。また、いつものように自分の分だけ食器を並べ、一人の時よりは若干豪華な夕食に取りかかった。
電話が鳴る。
「はい」
『おう、俺だ』
「お父さん……」
背後から空港らしいざわめきが聞こえてくる。
『いきなり呼び出されてな。北海道から、そっちへは帰らないで、向こうへ戻る。急なことで悪かったな』
「しかたないよ。お父さん、重要人物だから」
『その割に、待遇悪いがな』
父の笑いにつられるようにして遼も笑った。
『まあ、次の休みには一週間くらい日本に居るつもりだ。学校のほうの都合がつけば、おまたがこっちに来てもいいな。高校時代に一度くらいアメリカを見ておくのもいいだろ』
「考えとくよ」
『ああ、それから万里絵ちゃんな、明日か明後日にはそっちに着くはずだから。いろいろわからないことちあって大変だろうから、相談に乗れることがあったら、助けてあげるんだぞ』
「うん」
『ちょっと、母さんとかおるから』
母の話は、メモにもまして細々した注意だった。そばで父がいらいらしているのが目に
浮かぶようだ。
「わかってるよ」
最後にまだ、父が出た。
『万里絵ちゃんな、くれぐれも間違いを起こすなよ。もっとも、女の子を押し倒すくらいの覇気があっだほうが、男らしくていいがな。ハッハッハツ、冗談だ。じゃあ』
「うん。二人とも気をつけて」
『おう』
電話は切れた。
遼は受話器を戻し、ちょっと冷めた夕食に戻った。
――それにしても、さ。
父は真面目で、それこそ、遼がほんとうに間違いを起こしたら、血相変えるのは目に見えている。それなのに、どうしてああいう冗談を言いたがるのだろう。
なんとなく、昼間の保健室での出来事を思い出して、遼は少し不愉快になった。
夕食の後片付けを終えて自室に戻った遼は、机のスタンドを点け、鞄から短剣を取り出した。
意外に軽いな。
伝わる重みには確かなものがあったが、遼の細い腕で支え切れないほどのものではなかった。柄は象牙のような材質で、しっとりと手になじむ。赤い波形の鞘は何で出来ているのか、よくわからない。両方とも、精巧な彫刻や装飾というほどのものはなく、あの紳士が美術品としての価値はないと言ったのも納得できる。ただ、変わった形なのに空飛とか奇抜といった印象はなく、どの角度から見ても均衡を崩さない安定感と、手の中から勝手に飛び出していきそうな躍動感とが同時に存在している、優れだデザインであることだけは確かだ。
隅から隅まで調べてみても、細工やトリックが隠されていそうな継ぎ目などはない。
傷がつかない程度の強さで鞘を弾いてみる。全体が均一の物質で詰まっているような手応えだ。
握った柄の尻を机の上に軽くぶつける。反応なし。
左手で鞘のほうを掴んで、瓶の蓋を開けるようにねしってみる。反応なし。
――まさか、開けゴマ、でもないよな。
両手で剣を握ったまま、遼は真っ正直に剣を抜く動作をしだ。
―えっ?
まぶしさに目を細める。部屋の蛍光灯、スタンドの光が反射され、遼の目を射ている。
あまりに完全な反射なので、それ自体が発光しているのではないかと錯覚されるほどだ。
右手首をひねる。角度が変わり、表面に一瞬、眼鏡の奏で目を細めている遼の顔が映った。
短剣は姿を変えていた。一メートルほどの真っすぐな両刃の刀に――。
右手で掴んでいる柄は、確かにあの波形の短剣のものだ。だが、あの三〇センチに足り
ないような鞘の中に、どうしたらこの一メートル近い刃を収めておけるのだろう? いや、そもそもあの鞘はどこへ行ったのだ?左手は、直刀の刃の中央よりやや柄に近いあたりを握っている。その手の中に、赤い鞘はない。
遼は、こわごわ左手を開いた。指が妙に強張っていた。怪我はしていない。
椅子ごと体を回し、机の反対側に向くと、剣をゆっくりと正面に立ててみる。腕にかかる重さは、短剣と変わらない。これだけの長さの剣としては、異常に軽い。
まるで、何かのはずみで妖精でも目撃してしまった人間のように、信じられない気持ち
を拭い切れないまま、遼は剣に見とれていた。
抜けないはずの刃を抜く方法がある。というより、抜くことのできる人間がいる|。
不意に、あの紳士の言葉が思い出された。
この短剣は、鞘から抜くことのできた人間に強大な力を与えてくれるそうだ――。
――まさかね。
そっと、指先で刀身に触れてみる。金属の冷たさを感じさせない、不思議な感触。
切れ味を試してみだいという気持ちもあったが、適当な試し折りの材料を思いつかなか
った。それに、素人がいきなり刀を振り回しだところで、怪我をするのがオチだろう。
――そうだ、これ、なんとかして元に戻さないと、明日、冬扇堂に持っていけないや。
どうして抜くことができたのかもはっきりわからない剣だ。戻す方法は、さらにわからない。鞘が見当たらないということは、何等かのメカニズムで、鞘に当たる部分が柄の中に 他に考えようがない――収納され、同時に、鞘の中に収まっていだ刃が飛び出したのだろう。
けっこう危ない仕掛けだな。方向によっちゃ、飛び出した刃で怪我してたかもしれない。
とりあえず、怪我をしないように注意しながら、刃を左手で掴んで、柄のほうへ押し込むようにする。
――どう見ても一本の刀だけど、どこかに継ぎ目がないと、収まらないはずだな。
遼は、波形の鞘に収まった状態の剣を思い浮かべた。
手の中の刃が勤いたような感触。
右手と左手、が触れ合うのを感じた瞬間、遼の視界は闇に閉ざされた。
勉強部屋の真ん中に、妙なものが寝ている。
――僕だ。
ジーパンとトレーナー。ちょっとだらしなくなりかけている髪の毛。眼鏡。見覚えがあるのに、違和感の付きまとう顔――鏡の中で見慣れた顔を左右反転させた顔は、間違いない、遼の顔だ。
椅子から崩れ落ちたような格好で床に横たわっている矢神遼を、天井に近い高さから見下ろしている自分も矢神遼だ。
――これは、いったい……。
床の遼を見ている視覚と、意識は確かに存在する。だが、自分の体は存在していない。
目の前に右手を上げようとしても、右手が存在する感覚すらなかった。
時計のチャイムが10時を告げる。
――臨死状態……。
前に遼も何かで聞いたことがある。怪我人や病人の心臓が止まり、呼吸が止まり、瞳孔が開き、医者が死を宣告する。だが、死んだはずの当人には、体を動かしたりはできないものの、まだ意識がある。それだけではない。自分が手術台に横たわり、医者や家族がやり取りしているのを、まるで魂が体を抜け出したような状態で見たり聞いたりすることさえあるという。瀕死の状態 いや、医学的には死んでいるのだ――にあった脳が見る幻覚のようでもあるが、現場に立ち会った人間でなければ知りえないようなことを見た、聞いた、と証言している例もあるそうだ。いまだに解明され尽くしていない現象……。
僕は、死んだのか?
そんな兆候はなかった。昼間の頭痛を別にすれば、それらしい気配は感じられなかった。
頭痛だって、遼にとってはいつものことだ。
横たわっている体に近づく。いや、意識の動きは、遠くのものをよく見ようと目を凝らすのに似ていた。視点が移動して、床の上三〇センチほどの高さから、顔や胸を間近に見る。呼吸している様子はない。目蓋が閉じられているので、瞳孔は見えない。そして、心拍を確かめる方法はない。
――どうしたら、どうすれば……。
遼の混乱そのままに、視界が揺らぎはじめた。視点が天井近くまで急上昇する。天井に沿って走り、壁に突き当たり、一気に床に落ちる。ピクリともしない体のまわりをグルグルと走り回り、自分自身も回転する。
やがて、乗り物酔いのような感覚が意識を飲み込み、視界から一切の光が消えた。
*
壁の時計が七時を打っだ。
――起きないと……。
ちょっと顔をしかめて、頭を振ると、遼は起き上がった。どうやら床の上で眠ってしまったらしい。
とりあえす洗面所に行き、顔を洗う。鏡を覗くと、下にしていた頬が少し赤くなっていた。それ以外は、いつもより健康そうなくらいだ。寝癖のついた髪の毛を撫でつけ、新聞受けから朝刊を取り出す。
――今日は、なんだか調子がいいな。
低血圧気味の遼にとって、朝起きるのはひと仕事なのだが、今朝はすっきりと目が覚めた。
シチューを温め直し、パンをトースターに放り込み、サラダの残りを皿に盛り、コーヒーメーカーで薄めのコーヒーをいれる。
新聞を読みながら、いつもより余裕のある朝食タイム。
昨夜は風呂にも入らず寝てしまっだので、軽くシャワーを浴びる。体にも異常はない。
歯を磨いてから、学生服に着替え、鞄の中身を急いで詰め替える。
最後に、床の、自分が寝ていたあたりを見る。短剣は、波形の赤い鞘に収まった状態で床の上にあった。
――何なんだろう。変な夢……。
遼はしばらく短剣を見詰めた後、床から拾い上げ、机のいちばん上の抽斗に入れると、
鍵をかけた。鍵がきちんとかかっているのを確認してから勉強部屋を出る。
「行ってきます」
一人暮らしでも行き帰りの挨拶の言葉を口にするのが遼の癖だった。
――何だったんだろう、昨日のあれは。
電車を降り、学校への道をたどりながらも、遼の頭からは昨夜の不思議な体験のことが離れなかった。いや、あれが“体験”と呼ぶのにふさわしいかどうか。いまだにほんとうのことだとは思えない。起きた時は、夢だとばかり思い込んでいた。証拠も目撃者もない。
いや、魂とか精神とか呼ぶべき何かが肉体から離れるなどということは、そばに誰かがいても“目撃”することは不可能だろう。カメラで捕らえることもできまい。
幽体離脱は夢としても、剣を鞘から抜いたのは、幻覚なんだろうか……。
遼は、小学校に入学したばかりのころ、四〇度を超す高熱を出したことがある。だが、そんな時にも幻覚を見たという記憶はなかった。
「よう、今日は顔色いいじゃないか」
教室に入ると、野球部の朝練を終えて一個目の弁当を食べていた神田川が声をかけてきた。
「そうかな」
遼が席につくと、神田川がノートを放った。
「ほれ、昨日の分」
「ありがとう」
「昨日は、ノートを渡す暇もなしに帰っちまうんだもんな。――それにしても、おまえも、変に真面目なんだよな。ノートなんて、テストの前にまとめてコピーすりゃいいのにさ」
「溜まると億劫になるから……」
性格をはじめとして共通点がまったくないのに、神田川はなぜ自分と友だちでいてくれるのだろう――。たまに、そんなふうに考える時もある。
「おい、大ニュース!柴本、死んだって!」
学年一の情報通を自認する土屋の飛び込んでくるなりの一言で、教室の中は大騒ぎになった。今朝のニュースではやってなかったの、死因は何だの。何人かは土屋を取り囲んで、詳しい話を聞こうとしているが、土屋自身もたいしたことは知らないよりだった。
いつもより少し遅れて入ってきた宮内が、担任らしく、固まっていた生徒を自分の席へ
追い散らした。
――確かに何かあったんだ!
遼はそう直感した。ふだんは多少だらしなく緩んでいる宮内のネクタイの結び目がきっちりとしている。そのくせ、頬が強張り、いらいらしている様子だ。
日直の号令、出欠の確認もそこそこに、宮内は腕時計を見て、ついで黒板の上のスピー
カーを見上げた。
「これから、校長先生の放送がある」
クラスがまたざわめいた。
『ええ、これより、校長先生から重大なお話があります』
放送委員ではない。三年の学年主任の岩村だ。
『校長の佐川です。今から、皆さんに、たいへん残念な、悲しい報告をしなければなりません。本校の教頭である柴本博之先生が、今朝、お亡くなりになりました』
B組の教室だけではなく、全校にどよめきが走った。
宮内が出席簿で教卓を叩ぎ、教室はやや静まった。ほどなく、学校全体が静かになり、それを待っていたかのように、校長は言葉を続けた。
――気味の悪い偶然で、あるもんだな……。
風邪のかかりはじめに似た悪寒が遼の背筋を撫でた。
教頭がいかに立派な人物であったかなどを語る校長の声を聞き流しながら、昨日の不愉快な一幕のことを思い返してみる。生きている柴本と多少なりとも言葉を交わしてから、
まだ二四時間経っていないのだ。
校長の言葉に刺激されたのか、教室では泣いている女子もいた。日ごろ、柴本について交わされる言葉を耳にしていたので、多少、白けた気分にもなったが、遼とて柴本に対して理屈ではない後ろめたさを感じていた。
校長の放送は絡わった。
「授業は平常通りだぞ」
「先生」
女子の委員長の塚本が手を上げて、通夜や葬式の日時について質問した。
「まだ決まってない。はっきりしたら連絡があると思う」
そう言って宮内は、日直の号令も待たすに教室を出た。
「校長、何で柴本が死んだか、言ってなかったな」
神田川のつぶやきに、遼は悪寒がいっそう強まるのを感じた。
*
昼休みになっても校内はなんとなくざわついていた。何人かが巣まると、柴本教頭の話だ。
落ち着かない雰囲気から逃れるように、遼は図書室へ行った。あの短剣について、作られた時代や国などを調べてみるつもりだった。
――あ、まずった。
今日、冬扇堂に寄って女主人に渡すつもりだった短剣を、家に置いてきてしまった。あんな体験をしたばかりだから、たんとなく身近に置いておきたくないという気持ちもあって、机の抽斗にしまい込んで、ご丁寧に鍵までかけだのだった。
――でも、持ってこなくて正解だったかもしれない。
なんとはなしにそう思った。
図書館は、いつもより人が少ないようだった。事典や美術書が置かれている一角に行く。
――ない。「禁帯出」の赤いラベルの貼られている本の何冊かが見当たらない。
「氷澄先生が研究室に持っていきましたけど」
貸出カウンターの図書委員が教えてくれた。
――教職員だけ持ち出しできるなんて、不公平だ。
思ったけれど、口には出さなかった。
社会科研究室は四階のいちばん隅にある。
ノックをしても返事はなかった。
――食事かな。
「失礼します」
土器やら青銅器やらの破片が並べてある棚に続いて、本や綴じた原稿用紙が乱雑に並べられたスチール本棚、その向こうに机があり、その上に、遼の見たかった本が積み重ねられていた。
いちばん上の一冊をめくる。ヨーロッパの宝物、あるいは美術品として扱われる剣のカラー写真が並んでいる。大きくページをとばす。中国、モンゴル、中央アジア系のもの。
さらに中近東のもの。あの短剣は、それらのどれとも似た部分がありながら、印象は決定的に違っている。
――あの人は、“滅びた国”のものだって言ってたな……。
インカとか、そちらのほうだろうか。まさか、アトランティスとかムー大陸などということはあるまいが……。
「ここで何をしている」
遼はあやうく悲鳴をあげるところだった。全身がびくっと震えたのが自分でもわかった。
真後ろに氷澄が立っていた。去年から歴史を教えている非常勤講師だ。
長身に、なぜか白衣を羽織っている。それがちょうどマントのようにも見えて、周囲からは浮いた印象を与える。
どこか日本人離れした顔だちは端正だが、表情は冷たい。彫りの深さのためだろうか、
一種の陰が付きまとっているように見える。
「ここで何をしているか、と尋いている」
「あの、すみません、図書室で、本がここにあるって聞いたので……」
氷澄は遼を払いのけるようにして机の上の本をまとめ、脇に抱えた。
「本は図書室に戻しておく。用がないなら、出ていってもらおう」
「すみません」
氷澄の青みがかった瞳の凝視から逃れるように、遼は研究室を出た。
*
その日の授業が終わるまでに、柴本教頭の死について、あらゆる噂が学校中を駆け巡った。柴本は何者かの手によって殺害されたというのだ。
今朝、いつもなら六時前に起きてくる夫が、六時半を過ぎても起きないので様子を見に行った夫人が、寝室で切り刻まれた柴本の遺体を発見した――。
「それが、ナイフとか包丁とかじゃないんだってさ」
「何、じゃあ、日本刀とか、マサカリとか、チェーンソーとかで殺されたわけ?」
「きっと、あれだぜ、電波で命令されたヤツが日本刀持ってさ」
「何、それ、何、それ」
神田川と仲間たちの話を聞くともなしに聞きながら、遼は昨夜の不思議な光景を思い出していた。
刀、刀か……。
気持ちの悪い偶然だった。遼が、刀に関係した幻想を見てから半日もしないうちに、嫌悪感を抱いた人物が刀のようなもので殺されだのである。
宮内が教室に入ってくると、みんなは席に戻った。帰りのHRはいつものように進行した。
最後に宮内はクラス全体を見回すようにして言った。
「まあ、変わったことがあると、騒ぎ立てたがる人間もいる。おまえたちに話を聞こうとする人もいるだろり。ご家族とか、近所の人とかな。だがな、柴本先生は、もう自分について弁明も釈明もできないんだ。そこのところをよく考えて、軽率な対応は慎むように」「けっこういいこと言うじゃん、宮内も」
神田川の感想に、遼も同感だった。
遼は、校門に寄り掛かるようにして待っていた。昨日の一件が、しこりになって残っている。柴本教頭の事件で彼女が何か困っているかもしれない――。
何をしようという明確な目的意識があったわけではないし、とりたてて何ができるとも思わない。だが、下校放送までは待とうと思った。
下校放送が終わり、明かりの点いていた教室の窓が暗くなり、かなりの時間が経過した。
――来た!
待っていた甲斐があった。ベージュ色の落ち着いた感じのスーツを着た桐原朝子がこちらに来る。
「!」
朝子は遼に気づいた。
「矢神くん、持っててくれたの」
「あ、ああ、いえ、別に」
しどろもどろになっている遼を見て、朝子はほほ笑んだ。
「駅までいっしょに行きましょう」
丸まりそうな背筋を、この時だけは一生懸命に伸ばしながら、遼は朝子の後に続いた。
もっ。と近くに寄りたいが、あまり近づくのも変だ。適当な距離がどの程度のものなのかわからずに、遼の頭の中は乱れていた。結局、体温は感じられないけれど、朝子の薫りがわかる程度の――といっても、彼女の職業柄、一般の女性のような香料の匂いが伝わってくるわけではないが――距離に落ち着いた。
何か話しかけなければならない。だが、話題が見つからない。教室にいても、他人の話に入っていけない遼だ。年上の、しかも女性に、いったいどんな話題を持ち出せばいいのかなんて、想像もつかない。
朝子の横顔を、やや斜め後ろから見詰めな、がら、あれこれ考えているうちに、駅がどんどん近づいてきてしまう。
振り向いた朝子と目が合ってしまった。にっこりとほほ笑まれて、遼はあわててしまう。
「頭痛は、もう大丈夫?」
「ええ、全然平気です」
なんて間抜けな受け答え! できるなら、今の言葉を取り返して、もっとましなことを言い直したい――。そう思うと、焦るばかりで、ますます言葉が見つからなくなる。
「失礼ですが、鵬翔学院高校の柵原朝子先生ですね」
道路脇に停めてあった乗用車から降りてきたグレイのスーツを着た男が、行く手をふさ
ぐように二人の前に立った。
「申し遅れました、私、こういう者です」
男は、週刊誌のロゴ・マークの入った名刺を差し出した。露骨なスキャンダリズムで部数を伸ばしている低俗な雑誌の名前には遼も見覚えがあった。
「実は、殺された柴本さんのことで、お話をうかがいたいんですよね」
胸元に苦い不快感が込み上げてくるのを遼は感じた。せっかく話題にもせず、半ば忘れかけてさえいた事件を思い出させられてしまった。
「私、栗本先生について、記者の方が興味を持つようなことは何も知りませんが……」
朝子が言うと、記者は口元に妙な笑いを浮かべた。
「いえね、これは単なる噂なんですがね、先生と柴本さんが、その、特別な関係だったっていう話を聞き込みましてね」
記者は、“特別な”というところを妙なアクセントで発音した。
「それで、まあ、何ていうか、詳しい事情とか、そういったものをうかがえればと思って、こうしてお願いしてるんですけどね」
遼の脳裏を、昨日の光景がかすめた。頭に血が上るのが自分でもわかった。
――どこで、そんな根も葉もない噂を聞いてきたんだ! そりゃ教頭は、女性なら誰彼かまわず体に触りたがるような男だった。死んだ後まで変な噂を立てられてもしかたのない人問だったかもしれない。だけど、桐原先生には何も関係ないじゃないか!どうして、先生を傷つけるようなことを言うんだ!
「どうなんですか、ほんとうのところ?」
首を突き出すょうにして記者は尋いた。
遼の握った拳が震える。
だが、朝子は静かにほほ笑んだ。
「私は議題学院高校に勤務しています。立場上、校長の許可がなければ、コメントというのはできかねます」
「いえ、そこのところをちょっと――」
「失礼します。――行きましょう、矢神くん」
一礼すると朝子は歩き出し、遼はあわてて後を追った。
「気取るなよ、教頭の情婦のクセしやがって!」
あたりに響き渡る捨て台詞に遼が振り向いた時には、ダレイのスーツは音をたててドアを閉め、車を出すところだった。
「先生は―――」
朝子の横に並んで遼は言った。
「先生は腹が立たないんですか」
「ああいう人種はしかたがないわ。それに、ああいった人たちが書くものを無責任に面白がる人がいるのも事実だし」
自分の子供っぽさを指摘されたようで、遼は顔が赤くなるのを感じた。
「もう気にしないこと。いいわね、矢神くん?」
穏やかな眼差しに見詰められ、黙ってうなすく。
反対のホームヘの階段を昇る朝子を見送りながら、遼は胸の苦しさを抑えかねていた。
*
帰宅した遼は、まず最初に机のいちばん上の抽斗を調べた。鍵はかかったままだ。開ける。大丈夫、短剣は、今朝、無造作に放り込んだ状態のまま、そこにあった。
遼はもう一度抽斗を閉め、鍵をかけた。それから、いつものトレーナーとジーパンに着替えると、簡単に夕食――残っていたトンカツにンースとマスタードを塗りたくって食パンに挟んだだけのカッサンド――を済ませ、ようやく一息ついた。
テレビのスイッチを入れ、夕刊を広げる。社会面の隅に、やや大きめの記事が教頭の顔写真入りで出ていた。
高校の教頭が自宅で殺されたのだ。記事の大きさは当然のことと思えた。
――ひどいな、これは。
遼は眉をひそめた。柴本教頭は、日本刀のようなもので全身をバラバラにされていたの
である。
それをスキャンダラスな扱いの記事にしなかっだのは、新聞の良識というものだ
ろう。だが、それなら、バラバラ殺人であるというようなことまで書く必要もないのではないか。死者の尊厳、あるいは遺族の気持ちを思うと、やり切れない。
―――マスコミって、これだから。
帰途、出会った、あの週刊誌記者のことを思い出した。
――ああいう記者って、ドラマの中だけじゃなかったんだな。
もしもあの時、桐原朝子が落ち着いた対応をしていなかったら、感情の激発を抑え切れず、どんなことになっていだかわからない。遼は反省すると同時に、朝子に感謝した。
――先生は、誰にでも、やさしいんだろうな。
そう思うと、なぜかせつない気持ちになった。
新聞をたたみ、テレビを消すと、遼は自室へ戻った。
抽斗から短剣を取り出し、あらためて眺める。
結局、どこの国の、いつごろのものかもわからず、剣を鞘から抜く仕組みもわからなかった。いや、自分が実際に剣を抜くことができたのかさえ、はっきりしないのだ。
――もう一回だけ……。
右手で柄をしっかりと握り、左手で鞘を掴む。この左手の加減が難しい。あまりきつく握っていると怪我をしそうだし、かといって、鞘と刀身が入れ代わる過程を感じ取れないようでは困る。
できるだけ昨日の晩と同じ持ち方を心がけ、あの真っすぐな輝く剣を思い浮かべて、抜く動作をする。
抜けた。あるいは変化したと言うべきか。剣は、昨夜と同じ姿で、遼の手の中にあった。
左手の中で、波形をしていた鞘がうごめいたように感じだのは、遼の錯覚だろうか。
「やっばり、ほんとうだったんだ」
声に出して言ってみる。カメラがあれば、証拠写真でも撮っておくところだ。
昨日よりは緊張しないでいられる。片手で剣を持ち、水平に伸ばす。美しい。いつまでも持っていだいと思わせるようなこの魅力は、いったいどこから発しているのだろう。
不意にチャイムの音が響いた。来客だ。
遼はあわてて剣を元の状態に戻そうとした。
何の抵抗もなく剣は短剣の姿に戻った。開けっ放しの抽斗に短剣を放り込み、閉める。
玄関にとんでいく。
気が動転していたので、インターフォンで相手を確かめることもせず、鍵を開けていた。
ドア・チェーンの上に大きな瞳が光っていだ。
「あの――」
言葉を全部言い終わらないうちに視界が暗転した。
昨日の晩と同じように、遼の意識は天井に近い高さに浮いていた。
違うのは、見下ろす遼の視界に、矢神遼以外に、もう一人の人物がいることだ。
ジーンズに、コットンのワークシャツを着た、遼と同年代の少女だ。遼のぐったりした体をリビングの床に横たえ、様子をうかがっている。鼻に手をかざす。呼吸していないことを悟ったのだろう。手首を掴み、胸に耳を当てる。
――やっばり心臓も停まっていたのか。
少女が胸から耳を離すのを見て、遼はそう思った。だが、不思議に恐怖はない。昨夜も同様の状態に陥りながら復活したから? むしろ、いきなり現れた少女の行動に気を取られているためかもしれない。
「遼! 目を覚ましなさい、遼!起きるのよ、矢神遼!」
彼女は叫びながら、倒れている遼の頬を平手で打った。
――あの子は、僕の名前を知っている……。
遼の狭い交友範囲の中に、彼女の顔は見当たらない。遼の記憶にはない少女だ。
遼の意識がぼんやりと記憶を手繰っているうちに、彼女は床の遼の喉が詰まっていないのを確認すると、人工呼吸を始めた。続いて心臓マッサージ。
――すごいな。こういうことに馴れてるみたいだ……。
遼の意識が捉えている視界がゆっくりと暗くなった。
「遼!」
順に二、三度痛みを感じる。
眉をしかめ、うめき声を出しながら、遼は目を開いた。間近に少女の顔があった。心配そうに見詰めていた大きな瞳の緊張の色がいくぶん薄まる。
「よかった。気がついたのね」
「あの――」
「玄関で急に倒れたのよ」
「そうですか」
遼はゆっくり身を起こしだ。右手を目の高さに上げて、握ったり間いたりする。自覚できる異常はない。意識というか精神というか、とにかく“魂が肉体に収まっだ”状態だ。
「医者に行かなくて大丈夫?」
「平気。ときどき、こうなるんです」
彼女がわずかに怪訝そうな表情を浮かべた。
遼もまずいと思った。心臓や呼吸がときどき停まる人間は、そうはいないだろう。だが、剣に関係ありそうなことはやたらに口にしないほうがいいだろうと思えた。彼女が追及しないうちに、強引に話題を変える。
「どうもありがとうございました。――あの、ところで、あなたは?」
尋かれた少女は正面から遼を見据えた。
「わからない?」
「――すみません」
大きな日が細められ、形のいい唇から白い歯がこぼれた。
「やっばり、わからないか。――一〇年ぶりじゃね」
「あの 」
彼女はうなずいて先を促した。
「マーちゃん?」
「正解。――ひどいわ。あたしは一目でわかったわよ」
「ごめん」
少女――朝霞万里絵は笑いながら立ち上がり、遼もそれに続いた。
「こっちへ来るって聞いてはいたけど……」
「今日、こっちに着いたの。でも、荷物の手配かうまくいかなくて、部屋の中、何もないのよ。――伯母さまたちは?」
「昨日ね、親父の会社から急に呼び出されて、北海道へ行った。今日はもうアメリカ」
「そうなの? お忙しいのね」
「うん。何かね、やってるみたいだ」
遼はあらためて一〇年ぶりに会う従妹を見た。身長は遼よりこころもち低い。目鼻立ちがくっきりしていて、まあ美人の部類に入るのだろう。特に目が、さっき正面から見られた時にも感じたけれど、人を扱い込みそうな色をしていて、ちょっと猫を連想させる。
でもさ……。
一〇年経ってしまっては、子供のころほど無邪気になれない。思わず”マーちゃん”なんて呼んでしまったけれど、その後で、ものすごく恥ずかしい気特ちになってしまった。
そう、何と呼んだらいいのかさえ、わからないのだ。
「あの、布団とか、貸そうか?親父たちの分、あるから」
「いいわ。なんとかなるから」
――荷物、何にもないんじゃないのか?
「食事は? 夕ごはん、まだじゃないの?」
「ごちそうしてくれるの?」
「たいしたもの、ないけど」
最初からそれを期待していたかのように、万里絵はダイニングの椅子に掛けた。
――この年頃の女の子って、けっこうずうずうしいところ、あるよな。
とりあえずトーストを焼き、冷蔵庫のシチューを解凍し、野菜を切る。
「手際いいのね」
「そうかな」
――これくらい、誰でもできるよ。
「どうぞ」
万里絵ひとりだけに食事をさせるのもきまり悪いだろうと思って、遼は二度目の夕食をとった。
女の子と差し向かいで食事するなんて、初めてじゃないだろうか。部屋の空気が重たくなって、時間の流れがまどろっこしく感じられた。やたらにパンくずが散らばる気がする。
「叔父さんの仕事、こっちになっだんだって?」
「急にね。でも、残務整理とか引き継ぎとかで、すぐには戻れないみたい。だから、あたしだけ先に来たわけ。手続きとか、早めにしておいたほうがいいでしょ」
万里絵の言葉に、遼は舌を巻いた。自分だったら全部親任せにして、帰国も一緒にしていただろう。
「鵬翔学院?」
「うん。来週からは通えると思う」
遼の手持ちの話題はそれで全部だった。
いや、もう一つ、さっきの仮死状態に陥った遼を蘇生させた手際について、彼女に話を聞いてみたい気持ちもある。けれど、それを聞くには、遼が幽体離脱のような状態にあったことを説明せねばならず、話はややこしくなるばかりだろう。
――あっ!
万里絵は遼にマウス・ツー・マウスで人工呼吸を施したのだ。思わず視線をそらし、自分の唇に手をやる。
「どうかしたの?顔、赤いよ」
「なんでもない」
それでもちらちらと万里絵の顔を、特に唇を盗み見てしまう。
「―一やっばり、医者に行ったほうがいいんじゃない?」
「平気」
――まるで、ちょっと前に流行ったマンガだよな。ヒロインがやたらに着替えたり、シャワー浴びたりするやつ。
食事を終えた万里絵は、遼に礼を言って、暇を告げた。
「身のまわりが片付いたら、あらためて挨拶に来ます」
「うん」
「よろしくね」
万里絵の差し出した右手を一瞬見詰めてから、遼はぎこちなく握っだ。女の子の手を握るなんて、体育祭のフォークダンスくらいしか経験がない。
万里絵が去ったあと、遼はドアに鍵をかけ、チェーンをかけた。ふと妙な感じがした。
だが、それが何なのか、はっきりとはわからない。
部屋に戻って、一昨日の晩見たアルバムを引っ張り出し、従妹の写真の貼られたベージを開く。万里絵の瞳の印象は、一〇年経っても変わっていないように思えた。しがし、自分と彼女の間がどんなものだったのかの記憶は、かなり曖昧なものだった。さっき、握手
した時に感じた、さらりとしだ暖かい手の感触を思い出す。
だめ息を一つついて、遼はアルバムを閉じ、かたわらに置いた。
抽斗から短剣を取り出す。最後にしげしげと眺め、鞘の上から撫でると、新聞紙でくるみ、セロハン・テープで留め、黒いビニールのゴミ袋に入れてガム・テープで留め、最後に雑誌の入っていた紙袋に入れて、セロハン・テープで口に封をすると、鞄け入れて、止め金をかけた。明日、冬扇堂へ持っていって、それでおしまいだ。
――いろいろあったなあ、今日は。
台所の片付けを終えて、明日のリーダーのわからない単語の訳だけ教科書に書き込むと、遼は寝ることにした。
ガスの元栓を確認し、戸締まりを確がめ、ベッドに入ってから、遼はさっき感じた奇妙な気分の正体に気づいた。
玄関で倒れた時、僕はドア・チェーンをはずしていなかった。彼女は、どうやって中に入ったんだ?
勘違いだと思おうとした。だが、がけた鍵をもう一度確認することはあっても、鍵のかけ忘れだけはしたことがないことを遼自身もよくわがっていた。
目覚まし時計は、セットした時間より一五分ほど早い数字を示していた。目覚ましを解除し、遼はほんとうにひさしぶりに電子音のアラームを聞かずに起きた。昨日よりもさらに余裕のモーニング・タイム。
――まさが、彼女、朝ごはんを食べに来たりはしないだろうなあ。
別にそれを待っていたわけではないのだが、遼はゆっくり新聞を読み、いつもの時間になってから家を出た。念のために鞄の中に短剣の包みが入っているのを確認する。玄関の鍵をかけ、階段のところで、ちょっと五階の様子をうかがう。万里絵が降りてくる様子はない。遼はマンションを出た。
駅のスタンドに並べられた雑誌のなかに、あの記者が差し出した名刺と同じロゴ・マークを見たとたんに、遼は憂鬱になった。
――あの記者、あれで諦めたんだろうな。まさか、今日も張り込んでるんじゃ……。
電車の中でぼんやりそんなことを考えていた遼の目に、カタカナの四文字が飛び込んできた。――バラバラ。斜め前の中年のサラリーマンが読んでいるスポーツ新聞だ。だが、載っている顔写真は教頭ではない。
遼は、降りた駅のスタンドで同じ新聞を一部買った。あの記者の雑誌とはライバル関係にある系列の会社の新聞だった。半ば走るように校門をくぐり、教室の自分の席に着くなり折り畳まれたページを開く。記事は、雑誌記者の死を報じていた。
――同しだ……。
記事によれば、あの記者――玉川という名前らしい――が、雑誌の編集部のある建物の仮眠室で、日本刀のようなものによって体を寸断されて殺されていだという。この記事を書いた人間は、王川記者が柴本教頭殺害事件について調べていだことは、はっきりとは知らないようだが、殺害方法が同一であることから、二つの事件に何等かの関係があること、あるいは玉川記者が事件について何か重大なことを知っていた可能性をほのめかしていた。
遼の頭の中に、昨日の爆発しそうな不快感と、脳が凍りつくような寒気が同時に湧いてきた。
「おう、読み終わっだんなら、貰ってくぞ」
朝練から戻った神田川が新聞を持っていったのにも、反応しなかった。
――偶然だ。偶然に決まってる。僕に関係あるわけないじゃないか!
肉食獣に追い詰められた草食動物のように、遼は震え出しそうな体を強張らせるだけだった。
授業が始まっても、悪寒は遼から去らなかった。
――先生……。
桐原朝子の顔が見たかった。会って、声を聞きたかった。彼女の顔を見れば、狂いかけた全てのものが元に戻る――。そんな気がした。
「すみません」
授業の途中ではあっだが、遼は頭痛を訴えて、教室を出た。
保健室へ向かう足が、自然に速くなる。
不意に、何かが遼の体にぶつかった。
「何だよ、おい」
遼が謝るより先に、相手が声を出した。遼は、心臓が縮む思いがした。遼ですら顔を知っている、三年の不良二人組だ。
「あ、こいつ、知ってるぜ。二年のさ、保健室に入り浸ってるヤツ」
「今日も保健室、行くってか」
遼は弱々しくうなずいた。
「腹でも痛ぇの?」
「頭が、少し……」
――怒っちゃいけない。おとなしくしていれば、やり過ごせるんだ。
「オレも行こうかな。センセイ、股間がハレちゃったんですぅ。ベッドの上で治療してくださあい」
「お医者さんごっこしましょうってか? 冗談こくなよ。あんな桐原みたいな不感症女」
「何、もうやっちゃったのかよ」
「やらなくたってわか。るって。あんな、男に興味ないような顔しているのは、不感症に決まってるって」
「案外、レズなんじゃねえの」
「こいっなら、知ってるんじゃないの? なあ、桐原は不感症だよな?」
「レズだよな」
さっきまで縮み上がっていた心臓が、何倍にも腫れて膨れ上がったようだっだ。握り締めた拳、がぶるぶると震える。
「おっ、こいつ、怒ったぜ」
「コワイなあ。拳なんか握っちゃって、ボクたち殴るつもりぃ?」
「怒っちゃ、やあよ」
ベタベタと肩を叩かれながら、遼は頭の中でゆっくり数を数えた。それ以外に怒りを鎮める方法が思い付かなかった。
「さあ、怒りに震える純情童貞少年、どう出るでしょうか」
「おい、怒ったの、おまえ? マジで? オレたちのこと殴りたいの?」
肩を叩いていた手が、頬を撫でる。わざと身を屈めて、遼の伏せた顔を下から覗き込むようにする。
「頭痛少年、健康にいいこと、やってやろうか」
遼は首を横に振った。
「遠慮するなよ」
そう言って不良の一人は、遼のズボンに手をかけだ。
「知ってるか?脱パンツ健康法」
「おお、こりゃ効くぜ」
もう一入が面白がって後ろから遼を羽交締めにした。
「やめて……やめてくれよ」
「人の親切、無にしちゃだめだよん」
ベルトがはずされ、ズボンが引っ張られる。脚をばたつかせて逃れようとした遼だが、
その動きがかえって不良だちを助けるようなことになっている。
「あなたたち、何しているの!」
凛とした声が響いた。
――朝子先生!
「出ました、不感症女」
「先生、ボクとベッドの上で腕立て伏せしましょう、お願いします!」
「やめろ!」
思わず知らず、遼は二人の肩に手をかけた。
「聞いた? やめろだってよ」
「よく聞こえなかったから、もう一度、言ってもらおうか。よ、もう一度言ってみ」
二人は遼を挟むような格好で、壁際に押しやった。
「やめなさい、あなたたち」
止めようとした朝子のほうに、一人が遼を突き飛ばした。落ちかかったズボンが脚に絡まり、遼は朝子を巻き込んで倒れた。
「出た、純情童貞少年の押し倒し技、校内レイプだ!」
「センセイ、この股間のハレをセンセイの股間で治療してください!」
二人の嘲笑が響いた。
あわてて離れようとした遼だったが、朝子の白衣の裾を踏み、それが廊下を滑って、あらためて膝をついてしまう。
「何やってんだ、おまえら!」
怒鳴り声と出席簿が二人の不良の横っ面をはたくのが同時だった。ジャージ姿の宮内が目を側いて立っていた。
「何すんだよぉ」
「ちょっと冗談してただけじゃないですか、センセイ」
「やかましい! おまえら、生徒手帳、出せ」
宮内の空手の腕前は、校内で知らない者はない。二人の不良は渋々手帳を差し出した。
「とっとと教室へ戻れ」
「何だよ、暴力教師!」
「たかだか教師の分際で、熱血こいてんじやねえよ」
立ち去る不良二人が捨て台詞と一緒に吐きかけた唾が遼の頬に当たった。
「怪我はしてないか?どうしだんだ、いったい?」
宮内が問いかける。
遼はようやく身を起こして身繕いした。怒りと羞恥と屈辱感で、消えてしまいたかった。
そっと朝子の様子をうかがい見る。
服の乱れを直して、転んだはずみではずれてしまっだブローチを着け直すと、朝子は遼にハンカチを差し出した。
「お使いなさい」
遼は黙って首を振った。
「まったく、しょうがないな、ああいっだ連中は」
「いけませんわ、先生」
宮内のつぶやきを聞きとがめて、朝子が言った。
「相手がどうであれ、生徒なんですから。教師が見捨てるようなことを言って、どうするんです」
「はあ」
宮内は戸惑ったような表情を浮かべ、不良を殴った出席簿で頭を握いた。
遼は、失礼します、と一言だけ言って頭を下げると、その場を後にした。
「そうだ、桐原先生、校長がお呼びです――」
宮内の言葉の切れ端が耳に入った。逃げ場を、声の聞こえない、姿の見えないところを求めるかのように、水道のところまで行き、顔を洗う。
惨めだっだ。自分が何をしたわけではないのに、他人にいいようにもてあそばれ、嘲笑を浴びせかけられる――。弱い人間、力のない人間は、ひだすら耐えるしかないのだろうか。他人を屈服させ、服従させることのできる人間の顔色をうかがうことに神経を擦り減らしつづけなければならないのだろうか。
吐きかけられた唾が、消せないインクになって、遼に敗北者、負け犬の印を染め付けているような気かした。
――大いなるカ、なんて言葉に心が勤くのは、僕が弱いからだ……。
水を止め、ハンカチで顔を拭う。眼鏡をかけた遼の視界に白衣が映った。
ビクッとした遼がさらに顔を上げると、氷澄が立っていた。授業が終わったのだ。
青みがかった瞳が遼を見据えている。透き通った視線は、まるで遼の心の揺れを見通しているかのようだった。氷澄は歴史を教えているが、遼はその視線に、レンズを覗く科学者の観察眼に似たものを感じ取った。
遼が見詰め返すと、氷澄は何事もなかったかのように、研究室のほうへ向かって歩いていった。
帰りのHRが終わると、早々に遼は学校を出た。宮内の顔を見るのさえ抵抗があった。
鞄を脇に抱えるようにして、早足に駅に向かう。電車に乗っても、鞄をしっかり抱いたままだった。
ふと頭の中に、剣をふるって不良を切り捨てる自分の姿が浮かんだ。遼は頭を振って、そんな想像を打ち消した。
二件のバラバラ殺人事件と自分が関係あるはずがない。この短剣との関連性など、真面目に考えてみる価値さえない。だが、理屈ではない恐怖心が遼を落ち着かなくさせていた。
超能力やら呪いやらを信じるょうな感覚が自分にもあることが、遼には意外だっだ。
電車を降り、小走りに道を行く。
――よかった、今日は開いている。
冬扇堂――アンティークとも骨董とも古道具ともつかない品物を並べた店は、休業の時とさほど変わらない、ひっそりとしだたたずまいを見せていた。
遼が扉を押すと、扉に付けられだベルがちょっと間の抜けた音を立てだ。
店内には、古いランプやオルゴール、宝石箱などのアンティーク・ショップらしい品物から、籐製の家具、極彩色の絵皿、大きな中国風の壹、そして黒光りするミシンまでが雑然と置かれている。さらに、大きな品の上には小物が並べられ、振り子時計、額縁、鏡、タぺストリー、扇、能面などが壁面を埋め、いくつかの品は天井からぶら下がっていた。
店の奥の、多分住まいに続くだろう入り口に置かれた長火鉢の脇に、この店の女主人が座って英字新聞のページを開いている。あの紳士か“水緒美”と呼んでいた女性だ。四季を通して、そこが彼女の定位置だった。
切れ長の目と、通った鼻筋。口元がきりっとしていて、しっかりした顎の縁と合わせると、すいぶん意志の強そうな印象を与える。真っ黒な髪は、自然に垂らせば肩より下に届くが、今日は引結髪で、何というものなのか知らないが、和服を着ている。
ちょっとヤクザ映画の姐さんを思わせる。これが、髪をほどいてワンピースを着ている時は、女子大生のコンパニオンのアルバイトのように見えるのだから不思議だ。年齢のわからない女性。
一瞬、顔を上げて遼にほほ笑みかけだ彼女だったが、すぐにまた英字新聞に戻った。
どうやって話を切り出したものか、頭の中であれこれ考えながら、遼はゆっくり店内を一周した。
――とにかく、一昨日のことをありのままに話すしかない。変な推測とか、心配ごとは抜きにして。水緒美さんに相談するのはお門違いなんだから。
遼が思い切って水緒美のほうへ行こうとした時、ベルが鳴った。遼はびくっとして、入り口のほうを見た。
この店の雰囲気にはそぐわない――もっとも、この店にふさわしい人間というのは、あの女主人を除いて思い付かないのだが――地味なスーッの中年と若い男の二人連れが入ってきた。二人はつかっかと水緒美に歩み寄り、中年のほうが内ポケッ卜から手帳を出して、示した。
「所轄署の浜田です。こちらは同僚の石橋巡査です。この店の責任者の方にお会いしたいんですが」
刑事!遼は鞄を抱く手に力を込めだ。僕は何も悪いことはしていない――しそう自分に言い聞かせるのだが、全身の筋肉の緊張は取れなかった。
「わたくしがこの店の主人でございますが」
「江間さんとおっしゃる?」
浜田刑事は手帳を見ながら尋いた。
「はい。江間水緒美と申します」
「実は、二、三、お尋ねしだいことがありまして、骨董や美術品を扱ってる店は全部、あたってるんですよ」
「お尋きになりだいことって、いったい、どのような……?」
水緒美は新聞をたたんで傍らに置くと、刑事二人に茶をいれた。
「恐縮です。――実は、新聞やテレビでご覧になったかと思いますが、例のバラバラ殺人事件を調べてましてね。被害者の体をバラバラにした凶器というのが、どうやら包丁やナイフといった普通の刃物ではないようなんですな」
「日木刀とか、そういった類、ということですのね? しかし、ああいった品物は、全て警察に届け出、登録することが義務付けられているはずでは?」
遼は、水緒美がこれだけ長くしゃべるのを初めて聞いた。妙に間延びのした口調だったが、言っている内容は要点を捉えているようだ。
「そのとおりです。ですがね、江間さん、法律を守らん人間というのは、いつも必ずいるわけです」
「つまり、この店で不法な刀剣類を所持していないか、というお尋ねですのね?」
水緒美は長火鉢にしつらえられた小抽斗から鍵の束を取り出して、刑事の前に差し出した。
「帳簿をお調べになればおわかりになることですが、当店では、刀の類は扱っておりませんねえ。刃物といえば、せいぜい、ペーパーナイフが何本か、といったところでございましょうねえ。なんでしたら、お気の済むように、お調べになってください」
浜田刑事が目で促すと、若い石橋刑事は店の中をゆっくりと調べはじめた。
「それから、ですね、非常にお尋きしにくいことなんてすが、誰か、届け出をせずに日本刀等を所持しそうな人間をご存じありませんか?噂でもけっこうです」
「さあてねえ……」
氷緒美は変に色っぽい仕草で首をひねっだ。
「店はご覧のとおりでございましょう? 刀に興味をお持ちの方には、とんとご縁がございませんものでしてねえ……」
二人のやり取りに聞き耳を立てていた遼の冒を石橋刑事が叩いた。
「君は?」
遼はあわてて生徒手帳を出した。
「鵬翔学院高校二年、矢神遼くん――か。君は、この店にはよく来るのかい?」
「はい、ときどき」
落ち着いて受け答えをしようと思っていたのに、自分でも情けなくなるほど声が上ずっていた。
「よかったら、その鞄の中をちょっと見せてくれないか」
遼は思わず知らず鞄を胸に抱えて、刑事との間の防波堤のようにしていたのだ。
言われるままに遼は鞄を渡した。石橋刑事は無造作に鞄を開け、教科書とノートが整然と詰め込まれているのにちょっと感心したような顔をしだ。そして、雑誌袋のところで手が止まった。
――もう駄目だ!
遼は目をつぶった。このまま、刑事を突き退けて逃げようか。
「いや、どうもありがとう」
石橋刑事は、しごくあっさりと鞄を返してよこした。
「そういうものは、生活指導の先生には見つからないようにしろよ」
きょとんとしている遼の肩を叩いて、刑事はウィンクしてみせた。
緊張が解けると同時に、全身から汗が噴き出すようだった。そのまま、一礼して遼は冬扇堂を出た。
早足で大通りまで出ると、恐る恐る振り向いた。別につけられている様子はない。いや、本職の尾行だから、遼のような素人にはわからないのだろうか。
高熱で寝込んだ翌朝のような、しっかりと定まらない足取りで、遼はマンションにたどり着いた。錠を下ろし、ドア・チェーンをかける。自分の部屋に入り、ドアに鍵をかけた。
学生服のままベッドに倒れ込む。体のすみずみまで疲れが広がっていた。体だけではなく、精神のすみずみまでも。
結局、目的は果たせなかった。
あの時は死ぬほど脅えていたが、今、冷静になって考えてみると、何も逃げ出す必要はなかったのだ。刑事たちの聞き込みが終わるまで待ってから、入手したいきさつを話したうえで短剣を水緒美に渡していれば、面倒なことは全て解決していだのだ。
――でも、そもそも面倒なことって、何だろう……。
一昨日、遼は見知らぬ紳士から短剣を貰った。紳士は、その剣を抜くことができる人間には大いなる力が与えられるという言い伝えがあると言っだ。その夜、遼は剣を抜き――
そのメカニズムも異様なものだったが 、幽体離脱というか、臨死状態というか、奇妙な経験をした。その翌日、柴本教頭がバラバラ死体となって発見された。
――僕と柴本教頭の死には、関係なんて何もないじゃないか。
そう、関係はない。ことの始まりを紳士から短剣を貰ったこととするならば。
昨日の柴本教頭の死について詳細が明らかになるにつれて遼は脅えた。
通常、死体をバラバラにするのは、身元をわかりにくくして、捜査を混乱させるためだという。つまり、手足、胴体、頭など、バラバラに解体したうえで、別々の場所に捨てたりするわけだ。
だが、柴本教頭は自宅の寝室でバラバラに殺されている。柴本に対して特別の感情――
恐らくは彼の命を奪うだけでは飽き足りないほどの憎悪を持った人間が行なったことだろ
遼は事件の前日、柴本に対して強い憎悪の念を抱いている。もしも、それが事件の発端だとしたら……。そんなふうに考えると、翌朝、いつになく気分良く目が覚めたことさえ、関係があるように思えてくる。目的を果たし、ストレスが解消したために、ぐっすりと眠れた……。
――僕には関係ない。学校から帰ってからはずっと家にいたしでたいいも、教頭先生の自宅がどこにあるのかも知らないんだから。
そして、昨日のことだ。遼の前に不愉快な雑誌記者、玉川が現れた。柴本の時ほどではないにしても、遼は強い不快感を覚えた。それから、家に帰り、また短剣を抜いてみた。一昨日と同様の幽体離脱経験。今朝になって玉川記者の死を知った。柴本と同様のパラバラ殺人。
――僕は家にいた。あの記者の居場所どころか、名前さえろくに覚えていなかったんだ。
二つの事件に共通するのは、手口と、どちらの被害者も遼が不快感を感じた人物であるということ、さらに、事件前夜、遼が剣を抜き、奇妙な経験をしていること。
――僕がもっと自分の感情をコントロールできれば、こんな意味のない心配をしなくても済むのに……。
例えば桐原朝子のように、どんな時でも沈着冷静にことに対処し、どんな相手にも誠意と愛情をもって接することができる人間ならば、人の死を悲しみ、犯人がこれ以上の罪を犯さないことを祈るだけだろう。自分が他人の死の責任の一端を担っているのではないかなどという、謂れなき罪悪感に苦しめられることもあるまい。
その時になって、遼は初めて気づいた。今日も、遼は憎悪と不快の感情を覚えた。あの二人の不良に。ついさっきの電車の中では、剣で二人を斬る空想までしていた。
――まさか、いくらなんでも、そんなことがあるわけない!
遼は鞄から雑誌の紙袋を出し、三重の包装を解いた。短剣はあった。昨日の夜、最後に見たのと同じ姿で。
遼が、自分の感情をコントロールすることの不得手な少年であることは確かだが、それでも、この不思議な短剣と、それが垣間見せた超常的な経験がなければ、ここまで不安にさいなまれることもなかっただろう。
僕がこの剣を美しいと思ったのは、やっばり、“大いなる力”を与えてくれるっていう言葉に魅力を感じだからなんだろうな。
よくある言い伝えに過ぎないと思いながらも、あの紳士の言葉は――剣の異常なメカニズムを見たこととも相まって 常に自分の無力さを感じながら、何もできないでいだ遼の心の隙間にいつか巧妙に滑り込んでいたのだっだ。
――今日は抜かないぞ。
ガム・テープを取り出し、短剣全体をぐるぐる巻きにする。茶色の塊になった短剣を抽斗にしまい、鍵をかける。
それにしても、遼に短剣を与えたあの紳士――彼はそもそも何者なのだろう?今日、冬扇堂で水緒美と話をするという予定が狂ったため、あの男の素性を尋くことはできなかったが、一昨日、彼と出会わなければ、そして短剣と妙な暗示を与えられなければ、二つの殺人事件ももう少し別の捉え方ができたかもしれない。
妙といえば、非常勤講師の氷澄も変だった。顕微鏡で微生物を見るような目で遼を見ていた。これまで教わったこともないのに。
食欲も、何をする気もなくなった遼は、とりあえずコーヒーをいれ、夕刊を読みながら飲んだ。玉川記者についての記事は、栗本教頭の記事よりも大きかった。何といっても雑誌社の内部で起きた殺人事件なのだ。だが、記事の中には、遼を不安に陥れる材料も、安心させてくれる手掛かりもなかった。テレビのニュースも同様だった。
いつの間にか番組はお笑いに変わり、遼もつられて笑っていた。だが、笑い終おった時には、胸を締めつけられるような寂しさを感じた。テレビを消し、自室へ戻る。こんな時、話を聞いてくれる友だちがいたら、どんなに気持ちが慰められるだろう。ただの無駄話を電話でするような友だちが。
――マーちゃん、今夜の夕食はどうするの?荷物は、もう届いた?
とりとめもなく、そんなことを考えてみる。簡単なことだ。今すぐ部屋を出て、五〇二号室のインターフォンを鳴らせばいい。
――できないよ。
理由はない。強いて言えば、遼は万里絵にも不可解なものを感じていたのだ。ドア・チェーンはかかったままだったはずなのに、部屋に入ってきた彼女。
いや、それよりも、彼女の屈託のない明るさといったものに、遼は拒否反応を示していだのかもしれない。こんな悩みごとを打ち明けたところで、考え過ぎだと一笑に付されるに違いない。
眼鏡もはずさず、詰め襟のホックさえはめたままで、遼はベッドの上で頭を抱え込んだ。
この体を離れて、そう、精神だけが分離した状態で夜空でもさまよっだら、少しは気が情れるかもしれない。
――まさか……。
遼の脳裏に浮かんだイメージ――それは、寝ている間に肉体を離れ、剣を片手に夜空を飛びながら犠牲者を求めている遼の魂だった。
*
窓から差し込む光で目が覚めた。過敏になっている神経と、緊張のため、身を強張らせたままベッドの上で時計の者を聞いていた遼だっだが、いつしか眠ってしまったらしい。
時計を見る。六時。まず、抽斗を開ける。剣に異常はなかっだ。
眼鏡をかけたまま眠ったので、フレームが歪んでいた。直しながらリビングヘ行き、テレビのスイッチを入れる。
「――現場は駅にほど近い、二人の行きっけのコンビ二エンス・ストアの駐車場で、この、時ならぬ惨劇に、付近の住民は恐怖の色を隠せない様子です」
遼も知っている、学校の近くのコンビニエンス・ストアの前にパトカーが停まり、周囲にロープが張られている。そんな現場の中継の映像に続いて、鮮やかなプルーのバックにモノクロの顔写真が二つ、映し出された。遼の胸を絶望感が押し潰した。確かに、昨日の二人の三年生たった。
「二人が通っていた鵬翔学院高校では一昨日も教頭が自宅で殺されるという事件があったばかりで、警察では、手口などから、二つの事件に関連するものがあると見て、被害者の関連などを調べています。それでは次のニュース――」
あふれた涙が遼の頬を濡らした。
線路を挟んだ向こう側に、遼の通った中学校がある。その通学路の途中の公園のベンチに遼は座っていた。
あの短剣は、鞄の中に入れてきた。でも、それをどうしたらいいのか、ということは考えていなかった。
――あの剣が与えてくれる“大いなる力”っていうのは、剣そのものの力じゃなくて、剣に封じ込められていた魔力のようなものなのかもしれない。
遼が剣を抜いたことで、封じられていた力が開放され、遼が憎んだ人間に死をもたらしているのではないだろうか。
馬鹿げた考えなのはわかっている。だが、柴本教頭、玉川記者、二人の不良学生――この四人に共通した「殺される理由」が存在するだろうか。遼に思い付けるのは一つだけだった。遼の心を傷つけた人間であること。残虐極まりない殺し方も、それを裏付けているように思われた。
――僕はどうしたらいいんだろう……。
これが、普通の殺人事件ならば、警察に自首すればいい。あるいは、夜中に夢遊病のようにさまよい歩き、人に危害を及ぼしているというのなら、警察か医者に相談することもできる。だが、常識を越えた事件では、誰にもまともに取り合ってもらえないだろう。両親にも、宮内にも、桐原朝子にも。
向こうでは、若い主婦が何人か、幼児を遊ばせている。バラバラ殺人は彼女たちの話題に上ることはないのだろうか。
たとえまともに応対してもらえなくても、誰かに話すべきかもしれない。それで、分裂病なり何なりの診断を下され、病院に収容されれば、これ以上苦しむことだけはしなくて済むのではないだろうか。
転がってきたゴム・ボールが遼の足にぶつかって、思考を中断させた。遼かのろのろと伸ばした手が届くより先に、横合いから伸びた手かボールをさらい、子どもたちのほうへ放り投げた。
「どうした? この聞会った時より肩が落ちているようだが」
遼の前に立っていたのは、あの黒い服の紳士だった。今日は鞄の代わりにステッキを手にしている。
遠は反射的に立ち上がった。言いたいこと、尋きたいことはたくさんあったが、言葉が出てこなかった。ただ、はっきりとわかったのは、遼が会わなければならなかったのは、ほかでもない、この紳士だったということだ。たとえ、遼がどんなに感情に駆られても、あの短剣がなければ、今のような事態にはならなかっだはずなのだから。
遼の内心の葛藤にはまったく気づかない様子で、紳士はベンチに腰を降ろした。
遼は鞄からガム・テープでぐるぐる巻きにした短剣を取り出し、紳士のほうへ突き出した。
紳士は短剣を見ただけで、受け取ろうとはしなかった。短剣からずっと視線を上げていき、最後に遼の目を真っすぐに見据えた。
「掛けないか」
紳士は言い、遼は短剣を持ったまま、おとなしく従った。
紳士は、ステッキの握りの上に両手を重ね、遠くを見るような目付きをした。
「剣を抜くことができたらしいね」
遼は黙ったままうなすいた。
「それで、巨大な力、大いなる力は、君のものになったのかい?」
胸の中に溜まっていたいろいろなことが一度に口から出そうになった。
遼が求めていたのは、紳士の明確な否定の言葉だったのだ。あの短剣についての言い伝えは、もちろん何の根拠もない言い伝えにすぎない。ほら、私でさえ剣を抜くことができるが、だからといって、何が起きるわけでもない――。そう言ってほしかったのだ。
だが、遼の希望はかなえられなかった。遼は努めて冷静さを保とうとして、話す順番を頭の中で考えた。
「――大いなる力って、どんなものなんですか」
「さあ、私も見たわけじゃないから、はっきりしたことは何も言えないな。ただ、世界を滅ぼせるほど巨大な力だというようなことは聞いた覚えがある」
紳士の言葉に、遼は思わず腰を浮かしかけ、紳士の横顔をにらみつけた。
「なぜ!―――なぜ、そんな力を僕に……僕は、その力で何人もの……何人もの……」
「君がきれいな目をしていたからさ」
紳士は遼の目を見返し、力強く言った。光を吸い込むような、真っ黒な瞳。
「君の目を見た時に、君が純粋な心の持ち主であると確信したんだ。だから、ザンヤルマの剣を渡した」
「ザンヤルマの剣?」
紳士は遼の間いには答えず、言葉を続けた。
「巨大な力というのは、持つ人間の選択を誤ると、途轍もなく危険なものだ。――君のまわりにもいないか?腕力がある、頭が良い、あるいは顔がきれいだなんてことや、財産、家柄、社会的な地位があるということが、そのまま人間としての価値が高い、人間性といったものまでもが優れていることにつながっているかのように錯覚している人間が。
そんな理由だけで、自分のすることが全て正しいと思い込み、この世の人間全部が自分の言うとおりにするのが当惑だと確信している人間が。極端になると、自分が気に入らない人間は殺してもかまわないとすら思っている。金や社会的な地位があるというだけでさえ、そんな有り様だ。そんな人間が、世界を滅ぼせるような巨大な力を手にしたら、いったい何を始めるやら、考えるだに恐ろしい」
紳士の言うことは、遼にもうなずける話だった。だが……。
「だから私は君を選んだ。純粋な心を持っているだろうと信じて。君が大いなる力で人を傷つけるようなことがあったとしても、それはやむを得ないこと、あるいは、しなければならなかったことだろうと、信じられる。だから私は君にザンヤルマの剣を託したのだ」遼の脳裏を、教頭や雑誌記者、二人の三年生とのかかおり合いの場面が駆け抜けていった。確かに彼等は不愉快な人間だった。遼のほかにも、何人もの心を傷つけていただろう。
ならば、彼らは命を奪われても仕方のない人間だったのだろうか?
「君ならぱ、大いなる力をもってすべきことを、迷うことなくやってくれるだろうと信じられる。わずかばかりの、他人から見れば、取るに足りたいくだらない理由で、自己の絶対的優位を確信し、愚行に走る者どもによって食い荒らされている世界を、君なら救える。
いや、必ず救ってくれるはずだ。愚劣な者たちに制裁を加えてくれるはずだ」
遼は手の申の短剣を握り締めた。日々、感じている苛立ち。世の中の理不尽さ。解消できるものなら、解消したい。そのために、許せないことばかりしている身勝手な人間を倒す――。ほんとうに、ほんとうに、そんなことをしていいのだろうか。
「それこそが、大いなる力の正しい使い方ではないのか」
紳士の言葉にうなずこうとする気持ちと、どこかで納得できない気持ちが遼の中で激しくせめぎ合った。
「相変わらず、人をたぶらかすのがお好きなようねえ、裏次郎」
遼の隣に腰掛けていた紳士の体に、瞬時、緊張が走った。舌打ちし、声の主のほうを見る。その時には、元の余裕を取り戻し、口元に笑みさえ浮かべていた。
「たぶらかすとは、言いがかりというものだぞ、水緒美。私は少年に助言を与えていただけだ」
二人の前に、陽光を遮るように立っていたのは、和服を着た冬扇堂の女主人、江間水緒美だった。手にした白扇をわずかに開いたり閉じたりしながら、紳士――裏次郎を見据えている。口元に浮かんだ笑みが、どこか裏次郎に似ていた。
「助言?あなたの助言とやらで、どれだけの人間が地獄に落ちていったことか」
「そういう言い方はやめてもらいたいな、水緒美。彼に誤解されてしまう」
言いながら裏次郎は片手を遼の肩に回した。
「その坊やから手をお放しなさい、裏次郎」
「そうすれば、おまえも私たちの前から消えてくれるのか、水緒美」
「わたくしが消えるのは、あなたを消してからですよ、裏次郎」
「聞いたか、少年。彼女は私を殺そうとしているんだ」
裏次郎が遼の耳元でささやいた。悪寒が遼の背筋を這い登る。一連の事件――その発端をどこに求めるかは難しいが、ともかく短剣にまつわる一連の事件は、この二人の因縁とも深くかかわっているらしい。
「どうして私の邪魔をするのだ、水緒美?私は、遠いご先祖様の遺産を管理し、必要な人間に、必要とされる時に届けているにすぎない。それがどうしていかんのだ?」
「ぬけぬけと……。あなたのほうがよくご存しのはずですよ、裏次郎。今の人問たちが、遺産を与えられるには値しない、愚か者ばかりだということは]
「聞いたか、少年。水緒美はこういう女なんだ。人間はみんな、愚か者ばかりだとさ」裏次郎は面白がっていた。敵意、いや殺意すら露にしている水緒美を前にしながら、この情況を心底面白がっていた。
「ついでに教えてやったらどうだ、水緒美? これまで私か遺産を与えてきた人間たちを、おまえがどのように処分してきたかを」
“処分”という言葉が遼の胸を刺した。彼女は、遼のことも処分するつもりなのだろうか。
「これ以上、お話しすることもないようですね、裏次郎」
「そのようだな、水緒美]
何かが始まる――。遼は二人から少しでも離れようとした。意外にも裏次郎は遼の肩から手を放しだ。
水緒美がもてあそんでいた白扇を小気味良い音を立てて開く。広げられた白い面がかすかな光を放ちはじめる。それが彼女の武器なのか。
だが、そのわずかな間に、裏次郎は行動に移っていた。転がってきたボールを足で止め、さらに、ボールを追ってきた子どもを抱き土げる。
「ようし、いい子だ」
ためらいが水緒美に一瞬の隙を生んだ。
裏次郎のステッキの向きが変わる。次の瞬間、水緒美は体のあちこちから青白い火花を散らしながら倒れていた。
「甘いぞ。水緒美。価値のない人間の命なんぞに囚われるから、その様だ」
裏次郎は子どもにボールを渡すと、親のほうへ走らせた。
「甘いのは、あなたも同じようねえ、裏次郎」
微弱な光を放っていた白扇が畳まれる。畳まれて面積が狭くなるにつれて光は強まり、やがて完全に閉じられた扇の端から一条の光が伸びた。まるで光の剣のようだ。
水緒美が立ち上がりざま、光の剣を払った。
裏次郎がステッキで受け止める。
実体のないはずの光の刃を、ステッキはしっかりと食い止めていた。
よく見れば、ステッキと光の刃の間にわずかな空隙が認められる。外見に変化こそ現れていないが、ステッキにも、白扇同様、人知を超越した技術によるメカニズムが仕込まれており、その力を発揮しているにちがいない。
常識を越えた得物で戦う二人の様は、遼にあの短剣の奇怪な変貌を思い出させた。間違いない。あの剣は、この二人がふるう武器と同じ根から生み出されたものなのだ。
互いの力のせめぎ合いが頂点に達した時、二人は左右に飛び離れた。
向こうで子どもがぽかんとした表情でこちらを見ている。遼も動けずに、現実とも思われない二人の戦いを見ているしかなかった。
飛び離れた二人は、じりじりと動きながら、攻撃のチャンスをうかがっている。引詰髪、が半ばほつれて、肩で息をしている水緒美のほうが明らかに不利と見えた。
その不利を覆そうとしてか、水緒美が切りかかる。
裏次郎、かわすでなく、正面から受ける。
青白い閃光か飛び散り、二人は弾き飛ばされるようにして離れた。
ばさり、ほどけた髪が水緒美の白い顔を隠す。裂けた袂から覗く腕に血がにじんでいる。
裾の乱れを気にするゆとりもなく、水緒美は片膝をついた。
「勝負あったな、水緒美」
拍子をとるように、片手に待ったステッキをもう一方の手に打ち付けていた裏次郎は、
ステッキの先を銃□のように水緒美に向けた。
ゆっくりと顔を上げる水緒美。だが、意志の強そうなその口元は、両端が吊り上がっていた。裏次郎以上に不敵なほほ笑み――。
「後ろをご覧な、裏次郎」
勝利者であるはずの裏次郎の表情が強張る。
「あたしは決めたんだよ、裏次郎。負ける戦はしない、とね」
水緒美による後方の指摘は、罠である可能性もある。ダメージの小さくない水緒美と、
不確かな背後の脅威の間で、裏次郎も一瞬迷った。
背後の何者かは、その空白を見逃さなかった。ベンチの後ろの植え込みから、黄色い光の球が裏次郎を直撃する。
いや、何等かの防御装置が働いたのだろう、緑の光の球殼が裏次郎を取り囲み、攻撃から守る。裏次郎、直撃だけは免れた。
だが、完全に防ぎ切ることもできなかったようだ。体の各所に燠火のような光を宿し、黄色い煙を漂わせなから、裏次郎も水緒美同様、膝を折った。
「そうか、丈太郎もいたのか……」
遼が初めて聞く、裏次郎の苦々しげな声だった。だが、それも一時のことだった。
「見たか、少年。その女は、自分の目的を果たすためなら、どんな汚い手でも使う。素晴らしいご先祖様の遺産を誰にも渡さずに独占しようとしている、腹黒く貪欲な女だ。気をつけろ」
ステッキを握り直すと、裏次郎の体は重力を無視して、ふわりと空中に浮き上がった。
「大いなる力は、君が信じた正義のために使うんだ。君は選ばれた人間なのだ。忘れるな!」
「丈太郎、とどめ!」
だが、水緒美の絶叫に反応はなかった。
裏次郎は空高く舞い上がり、消えた。
小鳥のさえずりが戻ってきた。向こうで、二、三人の主婦がこわごわこちらをうかがっている。悪夢から自覚めたばかりのように、遼は呆然と立ちすくむだけだった。
「裏次郎から渡されたものを……」
よろよろと立ち上がりながら水緒美が遼に向かって手を差し出す。
遼は反射的に、手にしていた短剣をあさってのほうへ投げ出していた。そして、後ろも見学に駆け出した。
「お待ちなさい!」
水緒美の声が遠くなる。子どもの声、ブランコの揺れる音、通りを行き交う車の喧噪、全てから逃れるかのように、遼は走りつづけた。
――やめてくれ。助けてくれ。僕を放っておいてくれ!
いつしか涙がこぼれていた。遼は泣きながら、あてもなく走りつづけた。
公園での超常的な戦いに参加していた誰もが気づかなかった。物陰で観戦していた第五の人物の存在に。
投げ捨てられた短剣を捨うと、しばらくあたりを見回す。遼が逃げた道路。裏次郎が飛び去った空。そして、水緒美たちのいる公園。
やがて行き先を決めたのか、何事もなかったかのように歩き出した。
その場を去った遼や裏次郎はもちろん、公園にいた水緒美も、丈太郎と呼ばれた男も、誰も気がつかなかった。
[#改ページ]
第二章 長き知られざる闘い
「“遺産”は見つからなかった。あの後、裏次郎が回収に現れたとは考えにくい。とすれば、あの少年、矢神遼か――」
「知っているのかい、あの子を」
「鵬翔学院高校二年生、矢神遼。たいして詳しくは知らないが」
「そんな名前だったっけね。顔は知っていたげどねえ」
「その、遼という少年が持っていったか――」
「それも考えにくいねえ。感情に任せてあそこから逃げ出した少年が、もう一度、わざわざ戻ってくるものか……」
「“遺産”にはそれだけの価値がある。惜しくなって、後で戻ってきたのかもしれない」
「時間的に無理だね。その線はひとまずはずそう」
「――残るのは、全く無関係な人間――たとえば公園で遊んでいた子どもなどが持ち去った、ということになるが」
「あるいは、こちらの気づかなかつた人間がいたかもしれないねえ」
「あるいは、な。そして、自分で“遺産”を使おうとして持ち去つた、か」
「何にしろ、面倒なことになつたねえ」
「面倒なことは、まだある。刑事が二人、殺された」
「刑事が?」
「立て続けの殺人に加えて、捜査官までが殺されたとなると、警察の追及は、これまで以上に厳しくなる。早急に対処しなければならない」
「どうするおつもりだい?」
「“遺産”の回収はひとまず置こう。そこで、“遺産”をめぐる一件に関与しているのは、我々を除けば、矢神遼だけだ。――処分する」
「ちょつとお待ちよ。あの子が連続殺人の犯人だという確証はないんだよ?」
「そういう問題ではない。人間社会の道徳律令法、罪と罰はどうでもいい。人間同士が勝手にどうとでも処理すればいいことだ。問題は、我々の安全だ。警察の追及は鵬翔学院にまで及んでいる。教師の全員が事情聴取を受けた。すぐに生徒もその範囲に入るだろう。
警察官の尋問を受けて、矢神遼が何もしゃべらないかどうか、それこそ確証かない。我々の存在が明るみに出れば、また面倒なことになる」
「…………」
「とりあえず、“遺産”のほうは稼動する恐れはない。矢神遼以外にあれを稼動させられる人間は、この近辺にはいないだろう」
「そうだね……」
「発見を遅れさせる原因でもあるがな」
「これっきり殺人事件が起きなければ、それで何よりだよ」
「こだわるな。もっとも、我々の安全にとっても、そのほうが望ましいことは確かだがな。
――ところで、裏次郎はあの遺産のことを“ザンヤルマの剣”と呼んでいたが、どういう意味だ?」
「ザンヤルマ……ザンヤルマねえ……聞き覚えはあるんだけどねえ……」
「剣の形をした遺産というのも、初めて目にするものだ。何のために使うものなのか。単純に、武器と考えてもいいのかな」
「そういえば、そうだ。武器だとしても、剣の形にする必要はないからね。――まあ、裏次郎の知識は膨大なものだ。あたしらの知らない、何か重大な意味があるのかもしれないね」
「事件解決のための手がかりになるとも思えないが、少し気になったものでな……ともかくこの件、一任してくれ、水緒美」
「わかりました。任せます、丈太郎」
*
遼の見下ろす道路を、いつものように車が行き交っている。
超常能力を駆使した戦い――魔戦を目の前で見せつけられた遼は、衝動的にその場から逃げ出していた。大通りを走りに走って、気がついた時には、この知らない街の歩道橋の上に立っていた。
結局、あの剣が、何か常識を越えた力を秘めていることは確実らしい。そして江間水緒美という女性が、遼を“処分”しようとしているらしいということも。
――だけど、彼女は、あの紳士 裏次郎が僕をたぶらかそうとしているって言っだ。
そして、対決の時の裏次郎の振る舞い。とっさに子どもを楯にとり、水緒美の攻撃を封じ、不意を突く――。その後の二人掛かりの攻撃を、裏次郎は手段を選ばない汚いやり方だと非難していたが、遼の目には、どちらが正しいとも判断がつきかねた。
何か恐ろしいことが起きているらしいのだが、全貌が掴めない。そのことが余計恐怖をつのらせる。
もう一つ、あの時、感情に任せて投げ捨てた短剣の行方か気がかりだった。
自分から望んで手にしたものではない。そうしようと思って招いた事態ではない。だが、あの短剣がどうなったか、いや、それよりも、あそこで短剣を捨ててしまったことが正しかったのかどうかが気になるのだ。水緒美と裏次郎、二人のどちらに正当性があるにしても、その見極めさえつけないで手放したのは、間違っていたのではないのか。
――だったら、どうしたら良かったんだろう。
歩道橋から見下ろす街は、相変わらず日常の営みを続けている。視界か涙で曇る。遼は眼鏡をはずし、ハンカチで拭った。
―――あれ?
眼鏡をかけ直した視野が妙に歪んでいる。遠近感が狂い、物が小さく見え、視界の隅は浮いたようになって見える。
遼はもう一度眼鏡をはずしてみた。足の下の道路を走り抜ける車のナンバーブレードはおろか、ルーム・ミラーからぶら下がっているお守りの文字さえ読めた。
――確証のないまま、何度も疑っては脅えていたが、実際に自分の肉体に影響が出ていることを明確に自覚させられると、冷たい恐怖感が身の内に湧き上がる。
――僕は……僕はいったいどうなるんだ?
誰かが階段を昇ってきた。聴覚も鋭敏になっているのだろうか。
階段を昇り切って、こちらに向き直ったのは、社会科の非常勤講師、氷澄だった。
まずい。制服を着たままだ。
遼の順に、そんな日常的な判断がふと浮かぶ。
氷澄はゆっくりと遼のほうへ歩いてくる。さすがに校外では白衣は着ていないが、青みがかった瞳の凝視と、日常感覚を欠いた雰囲気は変わらない。
氷澄は明らかに遼を見ている。遼が誰なのかを知って近づいてくる。だが、生活指導上の注意を与えるためとは思われなかった。
遼は息を詰めて氷澄を見るだけだった。まるで、頭の中に警告音が鳴り響いているような気がする。何か気かつかなければならないこと、思い出さなければならないことがあるのに、それが何なのかわからない、もどかしい感覚。
氷澄は、遼の正面一メートル半ほどのところで止まった。スーツのベストの上で懐中時計の鎖が鈍く光っている。
遼はからからに乾いた口を開いて、何か言おうとしたが、言葉が出てこない。
「矢神遼?」
低く染みとおるような声の問いかけに、遼はうなずいた。
「遺産はどこにある?」
頭の中の警告音が爆発した。氷澄――氷澄丈太郎!
黒衣の紳士に炸裂した光球を思い出す。
遼が後ずさると、氷澄もそれだけ間隔を詰める。
「裏次郎から遺産を受け取っただろう」
遺産―――遠いご先祖様の遺産――あの紳士、裏次郎は確かにそう言った。遺産とは、あの短剣のことを指すのだろう。
遼はうなずいだ。
「その遺産を使ったな」
しばし判断に迷う。あの剣を抜いたことが、すなわち使ったことになるのだろうか。
遼が答えようとしないのを見て、氷澄はネクタイを抜いた。右手を懐中時計に伸ばす。
左手から垂れ下がっていたシルクのネクタイが、斜め下方に一直線に伸びた。まるで――剣のように!
氷澄が左手の“剣”を一閃させる。歩道橋の手摺の一部が輪切りにされて落ちた。
「答えろ、矢神遼」
自分は剣を抜いただけで、使った覚えはない――そう言おうとした。だが、声にならない。それに、そんなことを言ったところで、氷澄が納得してくれるとも思えなかった。
「では、遺産は今どこにある」
どういうことだ? あの短剣は、公園のどこかに転がっているのではないのか。
今度こそ、答えようのない質問だった。
「答えないのなら、それでもいい。――バラバラ殺人の新たな披害者になってもらう」
“処分”という言葉を思い出す。まさか、氷澄がこれまでの事件の犯人なのか?だが、裏次郎のステッキや、水緒美の白扇同様、あの異様な武器なら、人間の五体を寸断することくらい簡単だろう。
――いやだ、死にたくない!
別の足音が耳に入る。氷澄がそちらに気を取られた瞬間、遼は走り出した。階段を駆け下りる。最後の十数段は、一気に飛び降りる。
走る。放置された自転車の群れに引っ掛かり、通行人の体を避けながら、走る。今この瞬間にも氷澄の武器が背中を切り裂くのではないかという恐怖が鼓動を早くする。後ろを振り向きたかったが、振り向いて氷澄を視野に捉えるのが恐ろしかった。まるで、こちらが相手を見なければ、自分の姿も相手に見えないとでもいうように、前だけを見る。障害物を避ける以外は、目に入ってくる何物も、遼の意識には届かない。
真っすぐに逃げつづける愚に気づき、手近な人気のない横道に入る。大きな建物の陰まで逃げると、初めて足を止め、おそるおそる振り返ってみる。――誰もいない。
荒い息を整えて、汗を拭う。
ようやく落ち着いだ遼の耳に、時計の秒針のように正確な足音が聞こえてきた。
細い横道を歩いてくる氷澄――。まるで、子どものころに見た怖い夢そのままに……。
逃げようと遼が飛び出した道の向こうから、大型の工事用車両が、道幅ぎりぎりでつっかえそうになりながら追ってくる。
周囲を見回し、手近な建物の非常階段に駆け寄る。「非常時以外立ち入り禁止」の札の掛かったチェーンを飛び越え、灰色に塗られた鉄の階段を駆け上がる。下を見るどころか、振り返る余裕もない。
なんとか屋上までたどり着いた。
助かった!
屋上から建物の中へ入れば、氷澄から逃れられる。遼は、屋上との境の扉を開けようとした。――開かない! フェンスで囲われた屋上と非常階段の問の扉には鍵がかけられていた。単純なかんぬきにぶら下がっている錠前。金物屋でいくらでも買える、ありふれた錠前。だが、遼にはそれを開ける手だても、引き千切る力もない。何度引いたり捻ったりしても同じだった。
近づいてくる同じ調子の足音。遼の耳には、自分の死への秒読みのように聞こえる。
今、駆け出して、すぐ下の階の非常扉を押せば、建物の中へ逃げられるかもしれない。
だが、迫りくる氷澄への恐怖のため、遼はその場から一歩も踏み出せなかった。
学生鞄を投げ上げる。黒い鞄は放物線を描いてフェンスを越え、屋上のコンクリートの上に落ちた。意を決して、金網に飛び付く。人の背丈よりやや高い。二メートルほどか。
その上に五〇センチほど、内側に傾いた部分がある。たっだ二メートル半ほどの高さが、木登りもろくにしなかった遼にはひどく高く感じられた。いちばん上でフェンスをまたぐ時、下の景色か目に入った。原因不明の視力回復をしている遼には、高さが異常な迫力をもって見えた。
――大丈夫、落もない。落ちても、踊り場に落ちるだけだ。
内側に傾いた部分が登山のオーバーハングのように、降りようとする遼の邪魔をする。
届かない手足に歯噛みしながら、何とかコンクリートの床の上に降りられた。
鞄を抱え、走る。鉄扉にたどり着く。
また、新たな絶望。ノブはぴくりとも動かない。錠は内側から下ろされている。
さっき自分が越えてきたフェンスを見詰める。今にもその向こうに氷澄の冷たい視線が現れ、遼を見つけるのではないか。
明るい日差しがほぼ真上から降り注いでいる。人込みのざわめき。車のうなり。日常の雑音は変わりないのに、自分は殺されようとしている。
――どうして!
なぜ自分が殺されなければならないのか。恐怖と緊張がピークに達した時、扉が内側から開いた。
伸びた手が遼の腕を掴み、建物の内側に引っ張り込もうとする。遼は必死になって抗った。だが、抵抗も空しく、背中の後ろで扉は閉じられ、再び鍵がかけられた。遼は狂ったように扉を開けようとした。
頬に二、三度痛みを感じた。
「しっかりしなさい、矢神遼」
「――マーちゃん……?」
紺のツーピースを着た朝霞万里絵が正面に立っていた。描を思わせる大きな瞳か、薄暗がりでもきらきら光って見えた。
「高いほうへ高いほうへ逃げたら、最後には追い詰められちゃうでしょ。基礎よ」
遼が口もきけずにいるうちに、万里絵は鉄扉の鍵を確認し、傍らに置かれていた脚立をノブに噛ませ、外からは容易に開かないようにした。
「行くわよ」
遼の手を掴み、引きずるようにして、万里絵は階段を降りはじめた。
「誰なの、追っ手は?」
「氷澄先生……高校の」
「じゃあ、家には逃げられないわね。――何人いるかわかる?」
「たぶん一人。いても、もう一人、だと思う。ごめん、はっきりとわからなくて」
「この辺に土地勘はある?」
「ごめん。気がついたらここにいたんだ」
「ちょっと厄介ね」
そう言う万里絵の横顔は引き締まって、ただの明るい笑顔よりもずっと魅力的に見えた。
若ている紺のツーピースはよそ行きで、追跡劇の舞台衣装にはふさわしくないはずなのに、それさえもアダルトな頼もしさを感じさせる。
「警察は? 日本の警察は世界一でしょ?」
「駄目。警察がどうにかできるトラブルじゃない」
二人は一階の玄関に出た。
万里絵はしゃがみ、バッグから鏡を出すと、外の様子をうかがった。
「ちょっと待って」
万里絵は、人の居ない受付の椅子の背に掛けられた事務員服を取ると、遼に羽織らせた。
「学生服じゃ目立つからね。――行こう」
むしろ堂々と万里絵は歩き出した。身を縮めるようにして遼が続く。
「並んで。―「敵は一人の遼を追ってたんでしょ? 二人連れらしくしなきや」
言いながら万里絵は遼にぴったりと身を寄せて、腕を組んだ。“敵”という万里絵の言葉があらためて遼に情況を思い知らせる。今、自分は“敵”に追われているのだ。
「きょろきょろしないで、あんまり速足にならないようにして。――大丈夫、近くに敵はいないわ」
手足の動きがぎくしゃくとしたものになっているのが自分でもわかった。
大通りに出る。
「こっち」
万里絵は、人通りの多い賑やかなほうへ行こうとした。
「だって、人がたくさん――」
「そのほうが追っ手をまきやすいでしょ?」
「でも、誰かを巻き添えにしちゃうかもしれない」
「巻き添えが出てもかまわないなら、もっと派手に飛び道具を使ってるんじゃないの?」
遼は思い出した。敵――氷澄丈太郎は、奇怪な光球を使えるのだ。裏次郎のように超兵器で防御できるならばともかく、普通の人間である遼には身を守る方法はない。
人込みに紛れるようにして二人は駅前の大型ストアの前に出た。
一階の食料品売り場を一巡する。
「どうやらまいたみたいね」
万里絵が笑った。ちょっと恐いような笑い方だった。
「ほんとうは、こっちから逆に相手をつけてみるといいの。確実にまけたかどうかわかるし、敵についての情報も得られるし」
万里絵の言葉を聞きながら遼は思い出していた。初めて会った日の万里絵の振る舞い――ドア・チェーンをものともせず部屋に入り、鮮やかな手際で遼に蘇生術を施した万里絵。
「いったい、どうやって、あのビルに?」
「学校へ手続きに行く途中で遼を見かけたの。様子が変だったから、ちょっと後をつけさせてもらったわけ。歩道橋の上に居るのはわかってたけど、声をかけていいかどうか判断できなかったから、物陰に隠れて見てたわ。そして、あの男が来て、遼が逃げて、あたしは先回りしてビルの内側から屋上へ上がった。――後は遼の知っているとおりよ」
そう言って万里絵は冷凍食品の棚の前で立ち止まっだ。いつの間にやらプラスチックの籠を手にしている。コロッケやフライやらを見るふうを装いながら、周囲を警戒しているようだ。
まわりの客の流れに合わせ、野菜売り場に移る。
「―――それで、遼のほうの事情を説明してほしいんだけど」
黒目がちの大きな目が遼を見据える。思わず遼は視線をそらしていた。
事情と言ったって、遼自身にもわからないことだらけだ。それに、話したところで、まともに取り合ってもらえるとは思えない。
「情況を整理して把握しなおすのは大胆なことよ。一人では気がつかなかったこととか、見落としていた事実関係だって、二入ならわかるかもしれないでしょ。話しにくいこともあると思うけど、正直に話して」
遼の沈黙の意味を取り違えたのか、万里絵は空いた手で遼の手を握りしめた。
「――追われる原因を取り除くか、追っ手を取り除くか、どちらかしかないわ。さもないと、死ぬまで追われっづけることになるかもしれないわよ」
死ぬまで追われっづける――氷澄の武器が、その威力か思い出された。青く冷たい凝視。
「話して。きっと力になれると思うから」
万里絵の真摯な言葉に、遼の口がやっと開いた。
「ここで別れてよ」
出てきたのは、遼自身にも思いがけない言葉だった。
手を掴んでいる万里絵の指をほどく。
「肋けてくれたことにはお礼を言うけど、もうこれ以上、巻き込むわけにはいかないよ。
敵にはマーちゃんのことは知られてないんだから、ここで別れよう」
万里絵から目をそむけるようにして、遼は一息に言い切った。
「なぜ?」
押し殺したような万恩絵の声だった。
「もともと、マーちゃんには関係のないことだから……」
「今は、関係あるわ」
きっぱりとしだ言い方に、遼は思わず万里絵の顔を見詰めていた。
「ここで別れて、それっきり遼が戻らなかったら?何日かして死体で見つかったら?
多分、あたしは一生後悔するでしょうね。――遼が危険にさらされているのを知って、それを助けた時から、もう無関係じゃなくなってるの。少なくともあたしはそう思ってる」
胸に熟いもの、かこみ上げてきて、遼は何も言えなかった。しかし、どうにかして万里絵と別れなければならない。彼女を巻き込みたくない。危険にさらしたくない。
「だけど――」
万里絵は人差し指で遼の言葉をさえぎった。
「敵さんも、なかなかカンがいいみだい」
万里絵は目線で店の入り口を示した。雑踏から頭一つ抜け出ている後ろ姿は、氷澄のものに間違いない。
「行くわよ」
万里絵は遼の手を引いて店を出ようとした。
「一人で逃げてよ。僕はここに居る]
「――それこそ、ほかのお客が巻き添えになるわよ」
万里絵の目がちょっと意地悪く光った。
「ここに居てよ、絶対に」
遼は、万里絵の手を振りほどき、速足で走き出した。万里絵が続く。
「頼むから別れてくれよ」
「あたしの気持ちはさっき言ったとおり。――それに遼、逃げるの下手なんだもん」
氷澄がいるのとは別の出口を探す。豚肉の細切れや切り身のトレーを満載した台車が通路を移勤している。
「あそこから裏へ出ましょ」
万里絵は、台車が出てきた搬入口を示した。
ステンレスの大きなスイングドアを抜ける。蛍光灯が照らす薄暗いバック・スベースを通り、大型トラックが停められている業務用駐車場に出た。
「駅に出るか、車を拾って……」
万里絵が言い終わらないうちに、二人の足元を光が走った。
公園で黒衣の紳士に膝を屈させた黄色い光球の、いくぶん小型のものが、二人の脚の間を駆け抜けると、駐車していたトラックのタイヤを直撃した。破裂音がして、車体が沈む。
機械のような規則正しい足音。
「逃げるんだ!」。
「もう遅いみたい」
万里絵の表情は、どこかこの事態を面白がっているようだった。
足音が止まる。バック・スペースの薄暗がりを背景に、氷澄の長身が二人の正面に立っていた。右手が、懐中時計の鎖に添えられるようにして、上着の奥に消えている。そこに、江間水緒美の白扇や裏次郎のステッキと同様の超兵器が隠されているのだろう。
常識からかけ離れた戦闘態勢に入った氷澄に対して、あくまで自然に万里結は構えた。
だが、徒手空拳のまま身構える万里絵は、あまりにも心細く見える。
「待ってくれ!」
遼は、万里絵をかばうように一歩踏み出そうとした。
さらに、それを制するように万里絵が前に出る。
「懐に入れた手が出る前に――!」
万里絵が氷澄に向かって踏み込む。
左手で氷澄の右手を封じ、右手で氷澄の目を狙う。
氷澄の無表情な顔がかすかに笑ったように見えた。
「!」
氷澄の眉間の前の空間に何の前触れもなく黄色い光球が出現した。
とっさに手を引こうとしたが、間に合わなかった。
右手が光球に触れた瞬間、体を弓なりに反らして万里絵は倒れた。
「マーちゃん!」
かろうじて万里絵の体を受け止める。悪夢にうなされている人間のような声を出して、万里絵は身をよじった。右手を見る。一見、異常はないようだが……。
「しっかりして」
遼は、自分の体を楯にするようにしながら、少しでも氷澄から離れようとした。
氷澄の顔の前には、さらにもう一つの光球が浮かんでいだ。
「知っていることは何でも話す。だから、彼女を見逃してくれ。彼女には何にも関係ないことなんだ」
返ってくる言葉はない。黄色い光にさえぎられ、氷澄の表情も見えなかった。
遼の腕の中では、万里絵の体が時折痙攣しながらも、規則正しい呼吸を繰り返している。
――彼女を助けなければならない、絶対に!
だが、遼を嘲笑うかのように、二人目がけて黄色い光球が襲いかかった。
遼は、万里絵の上に体を投げ出した。不思議に目を閉じず、迫る光球を見詰めていた。
黄色い光がまさに遼を直撃しようとした時、白い何かが鳥のように飛んでくると、遼と光球の間に滑り込んだ。
光球に触れた瞬間、白い飛鳥は緑色の光を放ち、光は壁となって遼たち二人を守った。
「水緒美、この件の処理は私に一任したはずだぞ!」
バリアーが光球とともに消え、コンクリートの上に落ちたのは、公園で江間水緒美か手にしていた白扇だった。
タイヤのパンクで傾いたトラックの陰から、黒いワンピースを着だ水緒美が現れた。凧の糸を引くような手つきをすると、白扇が息を吹き返したかのように地面の上から飛び上がり、水緒美の手に収まった。
「坊やは何でも話すってお言いなんだ。話だけでも聞いてみようじゃないか。え、丈太郎? こちらが見落としている何かがわかるかもしれないよ」
言いながら水緒美は遼たちのそばにしゃがみ込み、万里絵の様子を見た。
「命には別状ないよ。――タフなお嬢ちゃんだねえ」
笑いかけた水緒美の表情が強張る。
水緒美の首筋で光ったもの さっきのビルを出る時に様子をうかがうのに使った鏡の破片だった。
「こちらの安全を保証してもらうための保険ね。それから、詳しい情報も欲しいわ」
「やめなよ」
万里絵のきつい視線が遼のほうにも向けられる。
「僕たちを殺すっもりなら、江間さんは手を出したりしなかったはずだよ。その気になれば、痕跡を残さないで死体を片付けることくらい簡単なことなんでしょう?」
遼の間いかけに水緒美はうなずいた。
「遼から情報を得るためのトリックかもしれない」
「――わかったよ、お嬢ちゃん。そんなことをする必要がないってことを、わからせてあげようじゃないか」
水緒美か氷澄を見る。氷澄は歩み寄り、水緒美と二人で遼たちを挟むような位置に立っだ。
「何を……」
周囲の景色がネガ・フィルムのように色彩に変調をきたし、電波障害を起こしたテレビのように歪んだ。
四人は、薄暗い部屋の中にいた。
「ここは……」
「冬扇堂――あたしの店の奥さ」
遼は呆然として周囲を見回した。テレビのチャンネルを変えるよりあっけなく、別の場所に移動するなんて……。
「落下感覚はなかった。体に加わる力も感じられなかった。信じられない技術……」
さすがの万里絵も驚きを隠せない様子だった。その隙を狙っていたわけでもないだろうが、水緒美が立ち上がり、部屋の明かりを点けた。明るくなった室内は、特に目を引くようなものはない、多少殺風景ではあるが、普通の洋間のように見える。
「適当に座っておくれ」
遼はのろのろと立ち上がった。
「大丈夫?」
尋かれて万里絵は、体の各部を確認するょうにしながら立ち上がり、うなずいた。
遼が手近なソファに座ると、万里絵も油断のない動作で腰を降ろしだ。
氷澄はカーテンの引かれだ窓の脇に、三人に背を向けるょうにして立った。
「あらためて自己紹介しておこうか。あたしは江間氷緒美。この店の主人だ」
「矢神遼。鵬翔学院高校二年」
「朝霞万里絵」
「矢神との関係は?」
不意に氷澄が三人に背を向けたまま質問を挟む。
「答える必要あるのかしら?」
氷澄の詰問に、万里絵は逆に尋き返した。
「まあいいさね。――そして、あの、窓の脇に突っ立っているのが氷澄丈太郎。鵬翔学院の非常勤講師だから、遼くんは顔くらいは知っておいでだね?…愛想のない男だけど、性分て奴だ、大目に見てやってほしいね」
いささか妙な自己紹介の後で、水緒美は、遼たちと向かい合うソファに座った。
「さて、どこから話したものかねえ……何しろ、今まで他人に説明なんてしたことのない話だからねえ……」
「“遺産”ていう言葉を何度か聞きましたけど、どういう意昧なんですか」
遼の言葉に、水緒美は、言葉を探してさまよわせていた視線を上げた。
「……そうだね、そのことから説明しよう」
「本気か、水緒美」
窓のほうを向いていた氷澄が振り向いて言った。
「あたしには、どうも、今度の裏次郎のやり口が気に入らないのさ。あたしたちがバラバラに持っている事実の切れ端をつなぎ合わせたら、何か重大なことがわかるかもしれないじゃないか」
「空しい期待だな」
苦笑ともとれる表情を浮かべだ水緒美だっだが、あらためて遼たちのほうを向くと、語りはじめた。
「あたしも裏次郎も、あんたたちのような今の人間とは違うんだ」
「金星人だとでも言うの?」
多少挑戦的な調子で万里絵が口を挟んだ。水緒美は静かに首を振った。
「イェマドの生き残りさ」
「イェマド――どういう字を書くんですか?」
「書きようがないよ。今の文明のどの言語でもないんだから」
遼は居心地の悪いものを感じはじめていだ。
「かなり突拍子もない話に聞こえるだろうけど、あたしは事実しか話さない。あんたたちが信じようと信じまいとね」
「無駄だ、水緒美。事実は彼等の理解を超えている」
「丈太郎、少しは静かにしておくれ」
「それで、何なんです、そのイェマドって」
「今の人類の文明が発生する以前に栄えた――文明と言えばいいのかね?」
「いいのか、余計な口を挟んで?――例えばローマと言った場合、単なる地名だけでなく、
一つの時代、文明の様相も連想するだろう?中国、ギリシャなども同様だ。イェマドもそれと似ている。ただし、地名でも時代区分でも、文明の名前でもない。政治の、いや、国家そのものの仕組み、文明の様相、それ以上に、知的生物の生態というか、“相”とでも呼ぶべきものだな」
歴史の講師らしい口調で氷澄が注釈を入れた。
「固有名詞なんですか、それとも何かの略語とかの一般名詞?」
「もしもこの世界を唯一の神が治めていだら、“神”は固有名詞かね、一般名詞かね?
イェマドもそれと同様だ。この世界で唯一の存在だった」
「――それで、一昼夜で海中に没したとでも?」
「アトランティスの水没やノアの方舟の話は、イェマドの滅亡に基づいた民間伝承に題材を採っている」
「滅亡したんですか」
「そのわりに、痕跡が残っていないようだけど?」
「勢力圏の中心は宇宙にあったからね。地上に残されたものは少ないよ。それはそれは素晴らしい世界だったよ。だけど、滅んでしまったんだ。ほんとうに短い時間にね……」
夢見るような様子の水緒美に万里絵が疑問を投げかける。
「ちょっと待って。まるで自分がその場に立ち会ったみたいに言うけど、あなた、今の文明の発生する以前から生きてるっていうの?」
「史上、類のない大災害だとは思った。だから避難したんだよ、カプセルの中へね。だけど、待っても待っても、復興の兆しはなかった」
「カプセルって、シェルターみたいなもの?」
「イェマドには、過去へさかのぼることは無理でも、限定された場の時間経過を遅くする技術はあった。カプセルは、その技術を使った緊急装置だ。もちろん、生命工学の発展による延命技術の存在も確かにあるが」
「その中で待つうちに、ようやくあたしは悟ったのさ。イェマドが滅びたってことをね」
室内を、しばらく沈黙が覆った。
遼は、ここまでの水緒美の話を頭の中で反芻した。滅亡した超古代文明の生き残り……。
にわかには信じがたい話ではあったが、これまで見てきた数々の超常的な出来事を説明するには、むしろ物足りないような気もした。
「それでは、遺産というのは……」
「イエマドの遺物ということさ。あたしも裏次郎も専門家じゃあないが、巡り合わせでやむなく引き受けた“遺産の管理人”てところだね」
あの紳士――裏次郎の言葉を思い出した。滅びた古い国のもの……。
「宇宙にまで進出して、局所的な時間のコントロールさえしていた文明の遺物があったなら、それこそ今の人類を支配することだって可能なはずよ。悪くても大金持ちくらいにはなれるわ。ちまちました古道具屋の経営者や、高校の講師なんかじゃなくてね」
「この遺産は、なかなか厄介なものなんだよ」
水緒美は白扇を取り出し、裏次郎と対決した時のように、閉じだり開いたりした。
「まず、今言っだように、あたしだちはメカニズムの専門家じゃない。「―遼くんね、ワープロとか電卓くらいは使えるだろう?」
「ええ、まあ……」
「じゃあ、その原理を説明して、同じものを作れるかい?修理だけでもできるかい?」
「それは……無理ですね」
「ついでに、こいつは、今の科学技術水準では原理を解き明かせない」
「試したの?」
「戦時中、両陣営に持ち込んでみたよ。どりにもならなかったね。下手に分解すれば、解剖された生物同然さ。機能は死に、復元できない。それにね、もしもあんたたちがデパート丸ごと一軒と過去にタイム・スリップしたら、歴史を思うままにできるかい?」
「……できないと思います」
「あたしなら、ピラミッドの一つくらいは残せるわ」
「お嬢ちゃんの鼻、が少し低かったら、歴史は変わっていたかもしれないね。もっとも、あたしはピラミッドの建造には興味はないがね。 さて、いちばん大きな問題点だ。こいつはね、完全オーダーメイドに近いのさ。例えばこの扇を使いこなすのはあたしにしかできない。ほかの人間には、使いこなすどころか、起動することさえできないのさ。あたしは、自分に必要な道具は一通り持っている。それ以外に、かなりの数の遺産も管理しているけれど、あたし自身には使えないものが大部分なんだよ。これはあの男――裏次郎もご同様だ。ただし、瓜ふたつの赤の他人がいるように、道具を起動させるためのキーになる何かが非常によく似ている場合がある。そういう人間を見つけて遺産を渡せば、すなわち力を発揮するというわけさ。そして、裏次郎がやっているのは、まさにそのことなのさ」
この剣を抜くことができる人間がいる――。この剣は、その人間に巨大な力を与えるそうだ――。あの短剣が、超古代文明イェマドの遺産であるなら、裏次郎のステッキや水緒美の白扇同様の恐るべき力を発揮するだろう。裏次郎の言ったことはほんとうだった……。
「以上で、遺産についての概略はわかったはずだ。矢神遼、君があの短剣を手に入れた経緯について説明してもらおうか」
いつの間にこちらに向き直ったのか、氷澄が、窓を背に遼を見下ろしていた。
「短剣を手に入れたのは、三目前です。あの裏次郎って人から貰いました」
「裏次郎は、何て言ったんだい?」
「江間さんの鼻を明かすために、僕にくれるって言いました。この剣は、滅びた古い国のもので、抜くことができた人間には巨大な力を与えてくれるんだって」
「それで、君は、抜いてみたのか」
遼はうなすいた。
「その日は、この店、休みだったから、翌日は江間さんに渡そうと思って、夜、やってみました。あの波形の短剣は、一メートルくらいの真っすぐな剣に変わりました」
「変わった?」
「ええ。鞘の部分がなくなっていたし、それに、鞘の長さから考えて、一メートルもの刃が内部に収まるわけ、ないんです。イェマドのメカニズムなら、それくらい普通なんでしょう?」
「あたしらには、それこそ、メカニズムの見当はつかないけれどね」
「それで、君は、その剣を使って何をしたんだ?」
「僕は何もしていません」
「では、何故、翌日、冬扇堂に剣を持ってこなかった?」
「それは……」
「まあまあ、丈太郎。話は順を追ってしてもらおうじゃないか。――それで、剣を抜いた後で、どうしたんだい?」
「そのままだと、鞄の中に入れられないから、元の短剣の姿に戻そうとしました。――言い忘れてましたけど、抜く時に、抜けだ剣をイメージしていたんです。何て言うか、普通の剣を鞘から抜くのと同じ動作で、そうすれば抜けるって確信しているような感じで……。
それと同じことをしたんです。そうしたら、剣は元の状態に戻って、それから――」
「どうした?」
「こんなことを言っても信じてもらえないかもしれません。僕だって、今でも信じられないんです。でも、ほんとうなんだ」
「遼くん、君は、あたしの言うことを一応信じてくれたんだろう?あたしも信じよう、遼くんが嘘をついていないっていうことをね」
「はい。――剣を戻した途端に目の前が暗くなって、気がついたら、床の上に倒れている自分を、もう一人の自分か見下ろしていたんです」
「分身ていうことかい?」
「いえ、見下ろしている自分は意識だけで、実体がなくて、天井ぴ近くの空間に浮いていたんです。幽体離脱って、あんな感じだと思います」
「それで、どうしたんだい?」
「意識のほうの僕はパニックを起こしましだ。それで、もう一度目の前が暗くなって、気がついだら朝になっていて、僕は床の上で寝ていたんです」
「ふうん……」
「さっき、氷澄先生が、どうして翌日短剣を持ってこなかったのかって言いましたけれど、そんなことがあって、気味が悪かったんです、なんとなく」
「その日の早朝、第一の犠牲者が出ている」
「犠牲者って?」
それまで比較的おとなしく聞いていた万里絵が言葉を撒んだ。
「遺産をめぐるこの一件が我々にとって火急の事態なのは、連続殺人事件が絡んでいるからだ。日本刀のようなものによるバラバラ殺人だ」
「遼が犯人だって言うの?」
「それをはっきりさせるために、こうして情報の交換をしている」
さっきは問答無用で殺そうとしたくせに――万里絵はつぶやいた。
そうだっだ。目前の危険や目まぐるしい事態の推移に心を奪われていたが、そもそも遼を恐怖に陥れていたのは、自分が殺人者かもしれないという疑感だった。
「そのことですけれど、僕は……柴本教頭に殺意を感じました」
「どういうことだい?」
「教頭が殺される前の目、僕は保健室で寝ていて、偶然、見たんです。その……」
言い澱んだ遼に、一同の視線が無言の圧力をかける。
「教頭が、桐原先生に……言い寄っているのを」
「それで君は柴本に殺意を抱いたのか」
冷ややかな氷澄の言葉に、遼は下を向いた。
「あなたが欲しいのは情報でしよ? だったらしばらく黙ってられないの? そうやって遼の口を重くして、何の得があるわけ?」
「――お嬢ちゃんの言うのが正しいようだね、丈太郎。さあ、遼くん、先を続けてくれないか」
重い口を聞くには、けっこう努力が要った。感情が高ぶりはじめている。それを抑えながら言葉を続けるのは、苦痛だった。
「教頭先生が死んだ日の帰り道、僕は桐原先生と一緒になりました。途中で、玉川っていう雑誌記者が待ち伏せしていて、……先生と教頭が、特別な関係だったって言って……もしも先生かうまくやり過ごしていなかったら、僕はその記者をどうにかしていたかもしれない。……家に帰ってから、今度こそ剣を返さなくちゃならないと思って、もう一度だけ剣を抜いてみたんです。前の晩と同じことが起こりました」
「あの日ね、あたしが引っ越してきた?−あの時、ほんとうに心臓は停まっていて、呼吸もしていなかったわ」
「そして、翌朝、玉川記者が殺されたのを新聞で知りました」
「昨日、君は、校内で不良にからまれたらしいな。――殺された二人、柳と沢か?」
遼はうなずいた。
「そして君はまたしても短剣を水緒美に渡そうとしなかった。何故だ」
「僕は店に来ました。でも、刑事が来たから……」
「凶器の線から洗っていたんだね。骨萱屋をしらみ潰しにしているって言ってたよ」
氷澄の転じた視線に、水緒美が答えた。
「君はまだ知らないかもしれないが、刑事が二人殺されている」
遼の膝の上で握り締めた拳が震えはじめた。
「不良にからまれた日は、剣を抜いたのか」
「抜きませんでした。なんとなく、バラバラ事件と剣が関係ありそうだと思えて、怖かったんです。でも、二人は殺された……」
「刑事も、だ」
「昨日の夜は剣を抜いていないんでしょ? だったら、遼には関係ないはずよ」
「彼が事実を話しているとすれば、な」
万里絵が怒気を膨れ上がらせたのを感じて、遼は止めた。
「いいんだ。――最初に剣を抜いたことで、封じられていた力が僕にとり憑いたってことも考えられるでしょう?剣が巨大な力を与えるって、そういう意味にもとれます。僕は、
剣を抜く抜かないに関係なく、自分でも無意識のうちに、敵意を感じた相手を殺してしまうようになったのかもしれない」
誰にとっても重い沈黙だけが残された。
「裏次郎はね、歴史学者だったんだよ」
静寂を破り、水緒美は語りはじめた。
「イェマドが滅亡し、長い時間が過ぎた後で、今の人間たちが文明を手に入れはじめたころ、裏次郎はある計画を実行に移したんだ。文明の進歩を加速させ、少しでも早くイェマドの段階にたどり着かせる――。それが裏次郎の企てだったのさ」
「イェマドの段階って、人類が必ずそうなるとは限らないでしょ」
「イェマドは絶対的に正しい。正常な進歩をする知性体なら、遅かれ早かれ必ず到達する最終段階がイェマドだというのが裏次郎の学問の結論さ。詳しくは知らないけれど、科学的にも明快に証明されているそうだ。疑いようのない真理なのさ、裏次郎にとってはね。
だけど、お嬢ちゃんの言うとおり、人類はイェマドに至る兆しすら見せなかった。かといって、奇形の文明として崩壊するわけでもなかった。ゆっくりとではあるが、着実に進歩を続け、繁栄を重ね、今や宇宙にまでその生存圈を広げようとしている。それが裏次郎には許せなかった。どうしても認められないことだったんだよ」
最後はため息まじりになった水緒美の言葉を氷澄が引き継ぐ。
「今の人類は絶対に滅びると、何度も自分に言い聞かせながら、結局は耐え切れなかったんだな。裏次郎は、イェマドの遺産をバラ撒いている。現在の人類の愚劣さを証明するために。遺産を起動させることのできる人間を見つけ出し、甘言を弄して遺産を渡す。受け取った人間は例外なく遺産の能力に溺れ、自分の欲望、秘めたコンブレックスを暴走させて、破滅していった。そうやって、人類が低劣な種であることを確認し、できるなら世界を混乱させることが裏次郎の目的だ。もっともその混乱も、人類の蒙昧さの証明のための手段であって、それ自体が目的ではないがな」
教頭の死を告げられた時のような悪寒が遼の全身を包んでいた。
「矢神遼、君はまんまと裏次郎の策略にはめられたのだ。柴本、玉川、二人の不良学生、どの場合にも、君の想い人である柵原朝子について性的な含みのある言動が交わされている。思春期にある少年のオスとしての衝動を刺激するには充分だろう。さかりのついた 獣そのまま、君は自分の欲望の対象である女性に手を出そうとする男たちを放っておけなかった。その結果が、バラバラ殺人だ」
「刑事は?刑事についてはどうなの?」
「――刑事の一人か、僕の鞄の中をあらためた。その時、短剣を包んであった雑誌の袋をエロ本か何かと勘違いして、僕にそう言った。きっと、そんなことが無意識に残っていたんだと思うよ」
最後のほうは嗚咽混じりになっていた。
「それで、あたしたちをどうするつもり?」
低い、むしろ落ち着いた声音で万里絵が尋ねた。
「私は、人類の法や道徳には関心がない。イェマドの遺産を管理し、現在のこの世界に出てしまった遺産を回収し、知られないょうに処分できれば、それでいい」
「つまり、助けてはくれないわけね」
「そのかおり、罰を与えようとも思わない」
「今回は殺人という形で遺産が能力を発揮しているからね。警察が犯人を捜す過程で、遺産の存在、イェマドの存在が知られれば、生き残りであり、遺産管理人であるあたしたちはずいぶん面倒なことに巻き込まれる。それだけは避けるつもりだがね」
水緒美は言葉を切り、開いたり閉じたりする白扇をぼんやりと見詰めた。
「――あたしは、人類に干渉するべきではないと考えている。そこの点では裏次郎とは反対の考えだけど、今の人類が愚か者だという点では、裏次郎と同意見だね。確かに、人類の歴史は救いがたい愚行の積み重ぬだよ。裏次郎は、人類の繁栄に苛立って干渉をしているけれど、今のままなら、何一つ手出しをしなくても、遠からず人類は滅びるだろうよ。
だけど、それは現在の人類自身の問題だ。自分たちで解決しなけりやならない。あたしたち生き残った恐竜は、それを加速もしなけりや、止めもしないつもりだよ」
「帰ってもいいですか」
唐突に、奇妙に明るい声で遼が尋いた。
他の三人の視線が遼に集まる。
「最後に尋こう。あの短剣をどうした?」
「公園で捨てました。その後は、知りません」
「――もしもどこかで見かけたら、あたしたちに知らせておくれ。ここで話したことについては、お互い口外無用。それから、裏次郎には近づかないほうがいいね」
「はい」
万里絵が何か言うより早く、遼は立ち上がり、店の表から外へ出た。
「年の近い女の子の前で『さかりのついた獣』なんて言えば、遼は今度はあなたを狙う。
――筋書きはそんなところ?」
遼の丸まった背中が見えなくなってから、万里絵は氷澄に言った。
「私は、矢神遼が遺産を持っている可能性を捨ててはいない。さらに、矢神遼が自分で言ったように、遺産によって何等かの能力を得た場合は、矢神自身を処分しなければならない。矢神遼に私を狙わせるのは、その確認に最適の手段だ」
万里絵は肩をすくめた。
「罰を与えようとも思わない、ね。――何千年、何万年生きているのか知らないけど、人間心理についてわかっちやいないのは確かみたいね。――失礼させてもらいます」
万里絵も外へ出た。
「妙なお嬢ちやんだ」
水緒美は笑った。
「笑いごとではないぞ、水緒美。イェマドの存在が二人もの人間に知られてしまった。もしも矢神遼が警察の手に落ちたら――」
「わかってるよ。ただね、あの坊やの言っていたことがほんとうなら、腑に落もない点もニ、三ある。気をつけてかからないと、裏次郎の仕組んだもっと大きな罠にはまる――そんな気もしてるのさ」
「考え過ぎだな、水緒美。正攻法で、一つ一つ潰していけばいい」
「そうだね。――どうも、あたしは、丈太郎や裏次郎と違って、一つのことを思い詰めるのは苦手だよ。冷たいんだね」
「それは、言いっこなしだぞ、水緒美」
妙にすねたような氷澄の言い方に、水緒美はまた笑った。
「ともかく、払は矢神遼が行動を起こすのを待つ。水緒美は、自分の気になることを追えばいい」
「そうさせてもらおうか」
水緒美の深い色の瞳が光った。
*
遼は、マンションの自分の部屋へ帰った。するべきことを思い極めると、後の行動は早かった。
洗いあげられた食器を食器棚へ戻す。後はだいたい片付いている。
勉強机の前に立つ。中学に入った時に学習机から買い替えた、大きな事務机だった。この前で過ごした時間のことを思い返してみる。本棚に並べられた、読み終えた本と、買っただけでまだ目を通していない何冊かの本。
両親に手紙を書こうかと思い、やめる。書き残さねばならないようなことが思いつかなかった。
――ニ人がいない時で、ほんとうによかった。
他に、手紙を書きたいと思うような相手はいなかった。遼の真意は、あの三人を除いて、誰にも知られることはないだろう。
この聞見たアルバムをもう一度見てみる。それなりに、いや、ほんとうに恵まれた一七年間を送ってきたのだ。それなのに……それなのに、こんなことになってしまった。
一〇年前の万里絵の写真が貼られたページで手が止まる。
――ごめん、マーちゃん、せっかく助けてもらったのに。
アルバムを閉じ、本棚に戻す。あらためて考えてみると、したいこと、やっておきたいことというのは意外になかった。
――着替えるべきなんだろうか。
考えてみたが、ふさわしい服装というのがわからないので、やめた。
最後にひとわたり部屋の中を見回す。
「さよなら」
遼は玄関を出て、鍵を閉めた。
マンションを出て、しばらく歩いてから、ようやく遼は思いついた。たった一つ、“したいこと”“やっておきたいこと”があることに――。
手近な電話ボックスに入り、電話帳で目当ての名前を探す。……あった。住所を頭の中に入れ、ボックスを出た。
乗って七つ目の駅で遼は電車を降り、目指すアパートヘ急いだ。
――会いたい。先生に会いたい。
桐原朝子に会いたい。言葉を交わさなくていい。物陰から顔を見るだけでいい。それだけを考えて、遼は足を進めた。
初めて訪れる朝子のアパート。二階建の上の階、いちばん右端が朝子の部屋のはずだ。
遼は、斜向かいの駐車場の車の陰に隠れた。
――先生、まだ帰ってないのかな……。
土曜日の午後、夕方とは言えないが、昼をだいぶ過ぎた頃合いである。
だが、さすがにドアをノックして確かめるわけにはいかない。
通り過ぎる車に脅え、人影に胸を高嶋らせながら、遼はただ待った。
――終わる。最後に先生の姿を見れば、全てが終わる。
近づいてくる足音が一つ。遼には、それが朝子のものだと確信できた。
乗用車の陰から顔を出す。
朝子が歩いてくる。いちばんのお気に入りらしいベージュのスーツに、小さな黒いバッグ。胸元に光っている、いつかのブローチ。片手に近所のスーパーのビニール袋を下げている。ショートカットの栗色がかった髪ときりっとした顔立ちがひときわ輝いて見える。
――先生!
目頭を熱くした遼の背筋を悪寒が駆け抜けた。雑巾を継ぎ合わせたような上着を着た浮浪者のような男が朝子に近づいてきた。遼の場所からでも明らかに酔っ払っているのがわかる。男は朝子にからみはじめた。
――いけない。
遼の身の内に熱い敵意が影き上がってくる。それは、また一人、無残な犠牲者を増やすことにつながるかもしれない。だが、朝子の窮地を見過ごしていいのか。
酔っ払いは手を伸ばして、朝子の体のあちらこちらをしきりに触ろうとする。朝子の顔をなめんばかりにまとわり付く。朝子の胸元でブローチが揺れる。男を払いのけようとした朝子の手からビュール袋が落ち、中身が地面にこぼれた。遼は堪え切れなくなって飛び出した。
「やめろ!」
突ぎ飛ばされて、男は呆気なく尻餅を突いた。赤く腫れぽったい目蓋の聞の、どろりと濁った目を遼がにらむ。
「何しやがるんだ、この野郎!」
男は信じられないような早さで立ち上かり遼の襟首を掴むと、したたかに殴りっけた。
「だいたい、おまえは学生じゃないか!親に食わせてもらってる分際で、何様のつもりだ、この野郎!」
地面に転げた遼の上に馬乗りになって、拳の雨を降らせてくる。
「生意気な□をききやがって。何とか言ってみろ、この野郎!」
遼は歯を食いしばって耐えた。
望まないのに踏み込んでしまった最悪の事態が通り過ぎるのを待つしかなかった。
視界の端で、二つの黒いパンプスが走り去るのが見えた。朝子は無事なのだ。
だが、そんな時でも、黒衣の紳士のささやきが脳裏に浮かび上がる。……巨大な力……愚劣な考たちに制裁を……。
――駄目だ。どんな理由があったって、人を殺すのはいけない!
殴られた痛みが熱となって体を覆い尽くした頃、遼にかかっていた重みがなくなった。
脇腹に二、三度、靴のつま先が食い込み、遼に吐き気をもよおさせた後、男は去った。
遼は静かに目を開けた。あたりには誰もいない。
噴き出しそうになる殺意を意志で抑えられたことに遼はささやかな満足を覚えた。だが、安心はできない。最初に酔っ払いに敵意を持ったことは確かなのだし、自分が人を害するメカニズムについては何もわかっていないのだから。
ゆっくりと立ち上がり、お座なりに制服の汚れを落とす。
最後に、アパートの右端の部屋を見る。
――先生、さようなら……。
片脚を引きずるょうにしながら、遼はその場を離れた。
遼がたどり着いたのは、私鉄の終点からバスで一五分ほど入ったところにある山だった。
ここを選んだのは、特に理由があってのことではない。人目につかないというところという条件を満たすような場所が、他に思いつかなかっただけだ。
地面だけを見詰めながら、遼はただただ登りつづけた。
学生服の下の体がだいぶ汗ばんできた。遼は立ち止まって汗を拭った。
見下ろすと、市街地は早くも薄闇に沈み、黄色いヘッド・ライトと赤いテール・ランプの流れがせわしく行き交っている。その向こうの山の端に、沈み切らない夕陽がオレンジ色の光を放っている。
思わず知らず涙が温れた。
――このままだと……。
遼は涙を拭い、下界に背を向けて足を速めた。これ以上夕陽を見ていたら、決心が鈍る。
一歩も歩けなくなる。
登山道を外れる。下生えの枝を折りながら歩を進め、適当に開けている場所に出た。
地面に腰を降ろす。鞄を開け、ペシ・ケースからカッター・ナイフを取り出す。キチキチと音をたてて伸びた刃は、いかにも頼りない。だが、切る場所さえ間違わなければ、遼の命を断つのも不可能ではないだろう。まずは手首。それから首筋。たとえ致命傷にならなくても、夜がすぐそこまで来ている山の中だ。万が一にも助かることはないだろう。
落日の残光が消えかかっている。
ハンカチでカッターの握りをグルグル巻きにする。これで、出血のために手が滑るのを多少は防げるはずだ。腕時計をはずし、左手首に当てたカッターの刃の位置を何度も確認した。目を閉じる。さすがに見ていられる自信はなかった。
大きく息を吸い込む。
「私の期待を裏切るのか、少年」
不意にかけられた声に刃先が滑り、手のひらを傷つけた。
目を開く。黒いスーツの紳士――裏次郎が、中空から静かに降りてくるところだった。
「どうした、少年」
聞を凝縮したような黒い瞳が遼を見詰める。
震える手からカッター・ナイフが落ちる。両手の震えが、肩、胸、唇へと広がり、やがて全身が震え出した遼は、それを止めようとするかのように、自分の肩を抱ぎ締めた。
「辛い思いをしたようだな、少年」
裏次郎の問いかけにも、遼は歯を食いしばって、全身を固くするだけだった。
動けずにいる遼のまわりを、裏次郎はゆっくりと歩きはじめた。
「確かに辛かろう。これまでの十幾年かの歳月によって身についた様々な常識、道徳といったしがらみを断ち切って、新たな一歩を踏み出そうというのだから。だが、君にならできる。そう確信したからこそ、私はザンヤルマの剣を君に託したのだ。恐れるな、少年」裏次郎の静かな語りかけが不意に止む。緊迫した気配が伝わってくる。
「何者だ?何故、私に刃物を向ける?」
「質問できる立場にあるのは、あたしのほうだと思うんだけど」
聞き覚えのあるメゾ・ソプラノが応える。
「では、何が知りたいのだ、少女?」
「どうして、遼にしつこく付きまとうのか」
「少年がザンヤルマの剣をふるえぱ、世界さえ変えることができるからだ」
「何万年も前にガラクタになっちゃった文明に未練タラタラなあなたが、突然、改革者の情熱につき動かされたっていうわけ?自滅した間抜けな連中の生き残り、おめおめと生き恥さらしてるあなたが?」
「私を怒らせて、何か情報を得ようというのなら、無駄なことだ、少女」
「無駄というなら、あなたが遼を焚きつけようとしているのも無駄よ。だって、遼は、例の短剣を持ってないんだから」
「なっ……」
裏次郎の衝撃が遼にも伝わる。
「捨てもやったのよ、ポイッとね」
「少年が、そこまで純粋だったとはな……」
しばし沈黙を保っていた裏次郎が、一転、高らかに笑い声を上げた。
一陣の凰が吹き抜ける。万里絵の舌打ち。そして、朗々たる声が上方から響いた。
「少年、剣は必ず君の許へ遣る。矢神遼、私は君の純粋さに賭ける。信じているぞ!」
裏次郎の気配は消えた。
「遼……」
肩に触れられた遼は、まるで焼きごてを当てられでもしたかのように、飛びすさった。
おそるおそる上げた目に、ジーンズ姿の万里絵が映った。
万里絵が口を開き、何か言おうとするのより早く、遼は発条仕掛けのように立ち上がり、走り出していた。
「待ちなさい、遼!」
行く手をふさぐ木の枝を掻き分け、傷だらけになりながら、遼は気が狂ったように走った。
いつしか登山道に出ていた。
途端に、後ろから何かがぶつかってくる。万里絵だった。
「待って、遼」
万里絵の腕から逃れようとして遼はもがいた。
足がもっれ、地面に倒れ込む。腕を絡めたまま、万里絵も遼の上に倒れた。
情けないほど簡単に、遼は万里絵に押さえ込まれた。
胸が熱くなるほど息遣いが激しくなっている。それは、上になっている万里絵も同じだった。かすかにしかめられた顔の中で、半開きになった口が酸素を求めて荒い呼吸をしている。汗の匂い、触れ合っている部分から伝わってくる速い鼓動。
――生きてる……。
その思いが、半分死んでしまったような遼の心の中に響いた。
抵抗しないと見て、万里絵は遼の体から下り、さっきカッターで傷つけた遼の手にハンカチを巻き付けた。
「帰るからね」
万里絵は立ち上がり、遼の腕を掴んで立たせた。
「行くよ」
黙ったまま、歩こうとしない遼を引きずって、万里絵は山道を下りはじめた。
いつの間にか学生鞄やカッター・ナイフまで回収して、万里絵は遼をバスに押し込んだ。
駅に着くと、鈍行列車の隅の座席に遼を座らせ、自分は隣にかけた。
向かいの窓ガラスに映っている半透明な自分たち二人の中を時折、建物や踏切の灯りが通過していくのを、遼は見るともなしに見ていた。
窓外の光景が見慣れたものに変わっていく。
「降りるわよ」
万里絵に手を取られた瞬間、遼は抗った。だが、そういった相手を扱い慣れているのか、万里絵はさして苦労する様子もなく遼を列車から降ろし、改札を抜けた。
列車を降りる時の抵抗が最後だった。遼は万里絵に手を引かれて、呆けたようにマンションヘの道を歩いた。目に入るもの全てが違和感を与える。再び見ることはないと思っていた光景。
とうとう四階の自分の部屋に着いた。
「鍵を開けて」
万里絵に言われるまま、遼は鍵を開けた。
ドアが開いた瞬間、遼は隙間から玄関に滑り込み、力いっばい閉めた。
「遼!開けなさい、遼!」
錠を下ろし、チェーンをかける。それでも安心できず、遼はノブにしがみつき、身を固くした。
万里絵が無理矢理入ろうとするのではないかと恐れていた遼だが、万里絵はそれ以上何もしようとしなかった。ドアの向こうは静かなままだ。
ドアに寄り掛かるようにして部屋のほうを向く。カーテンを通して街の明かりが見える。
それを背に真っ黒なシルエットとなって浮かび上がる家具――テレビの赤い電源ランプ。
冷蔵庫のモーターのうなり。点滅している留守番電話のランプ。
身をよじるようにして、背を向ける。ドアに額を押し付けるようにして目を閉じる。
遼にとっては、どれもこれも無縁なものに思えた。自分には、もう、居るべき場所はないのだ。自分は生きていてはならない人間なのだ――。
不意に両肩をしっかりと掴まれて、遼は悲鳴を上げた。腕を振り払い、逃げようとする。
いきなり玄関の明かりが点いた。万里絵が立っていた。
「殺してあげる――そんなに死にたいなら、殺してあげる」
低い声でそう言った万里絵の手には、鈍く光るナイフが握られていた。
ナイフを低く構えた万里絵の体が突っ込んでくる。ドアを背にした遼は逃げようもなく、ナイフが突き立てられる衝撃を全身で受け止めた。
永遠とも思える時間が過ぎた。
「――目をつぶって、手を体をかばおうとして、体中にカを入れているでしょう?」
静かな万里絵のささやきに、遼は自分の体の状態を確かめる。――万里絵の言うとおりだった。
「それはね、遼が、ほんとうは死にたくない、生きたいって思ってる証拠。生きようとする意志があるってこと」
万里絵が語りかけるたびに、熱い息が遼の順にかかる。山の上で押さえ込まれた時よりもはっきりと万里絵の鼓動が伝わってくるような気がする。
万里絵の手が遼の手首を掴み、ナイフが刺さっているところへ導いた。震える指先がナイフの柄に触れる。万里絵は遼の手を包み込むようにして柄を握らせると、手を離した。
そして、遼の肩を押すようにして体を離した。
ナイフは遼の体に刺さってはいなかった。
「寸前にね、刃を柄の中に畳んだの」
ちょっといたずらっぼいような笑みがすぐに消え、真顔になった万里絵はあらためて遼に向き直った。
「これから五分間だけでいいわ、あたしの話を聞いて」
万里絵の仕掛けたトリックの衝撃のためか、遼はただうなずくだけだった。
「四つの事件が起きた。手口は同じ。それで、ここに一人、動機を持っていそうな人間がいたとする。それだけで遼はその人を犯人だと決めつける?」
遼は首を振った。
「でも、遼がしようとしたことは、そういうことなのよ」
夕暮れの山中で感じた寒気がよみがえってくるようだった。
「僕は……だって、僕には動機があるし……」
「人には誰だって、他人を憎む気持ちはあるわ。電車の中で足を踏まれたくらいで、相手に理不尽なまでの怒りを感じることだって珍しくないでしょ」
「それだけじゃないよ、凶器だって……」
「凶器っていっても、確かなことは何もわかっていないでしょ?」
万里絵の言うことは筋が通っている。それはわかる。だが、しだいに聞いているのが辛くなってきた。
「――放っておいてよ、もう!」
感情の高ぶりが戻ってくる。
「僕が何をしようと、関係ないじゃないか。僕には……」
しゃがみ込み、頭を抱え込んだ遼のそばから万里絵が離れた。
手の中の折り畳みナイフが意識される。これなら、あのカッター・ナインよりはずっと頼りになるはずだ……。
不意に、聞き覚えのある声が居間のほうから流れてきた。
『宮内です。今日は連絡もなしに欠席したんで、ちょっと心配しました。後で、アパートのほうでも電話をするように。――ええ、矢神、ご両親と離れて一人暮らしだと、いろいろ困ることもあるだろうが、そういう時には遠慮なく相談してくれ。一応、おまえの担任なんだから。それから、昨日のことはあんまり気にするな。いいな? それじゃあ、月曜日には元気で出てくるように』
担任の声が終わり、電話を切る音。切れた電話のシグナル音の後に、無機質な女性の声が日付と時刻を告げる。万里絵が留守番電話の録音を再生したのだ。
『ああ、俺。神田川だけど。まじめな矢神が無断欠席したんで、宮内、心配してたぞ。途中で車にひかれたんじゃないかとかさ。――なんかさ、昨日、三年の沢と柳にからまれたんだって?あんな、しょうもない連中のことなんが気にしないでさ、学校出てこいよ。
おまえ、けっこう気にするたちだからな。まあ、何かあったら、不祥事にならない程度に援護してやるから。ノートとっといたから、月曜来たら写せよ、じゃあな』
再び、電話の日時を告げる声。
手からナイフが落ちる。
膝を抱くような格好でうずくまっていた遼の目から、いつしか涙がこぼれていた。
「遼……」
遼の傷ついた手を、万里絵が両手で包むようにして握る。さらりとした感触と温かさが伝わってくる。
「一日学校を休んだだけで心配してくれる人が、遼には二人もいるんだよ」
遼は涙でべとべとになった顔を上げた。万里絵の大きな黒い瞳が穏やかな光を浮かべて遼を見ている。握られた手には、万里絵が傷に結んでくれた大きな白いハンカチ。
「……たい……」
「遼?」
「生きたい……僕は生きたい。生きていたいよ……」
万里絵がうなずく。
「僕に、……生きていく資格があるのかな……」
「戦おう、遼」
万里絵はきっばりと言い切った。
「僕が……戦う?」
「遼を事件に巻き込んで、真相を覆い隠したまま、陰で糸を引いている奴がいるなら、隠された真相を明らかにするのが遼の戦いよ」
万里絵が、握った手に力を込めた。遼も、その手を静かに握り返した。
*
万里絵がまず最初に遼にさせたのは、顔を洗うことだった。
汚れを洗い流して多少は気分の落ち着いた遼がリビングに戻ると、万里絵が救急箱を用意して待ち構えていた。
「痛くないの?ずいぶん腫れてるわよ」
万里絵が指したところを指先でたどってみる。酔っ払いに殴られた頬が熱をもっているのがわがった。
手の傷、頬の腫れ……万里絵は手際よく手当てを済ませた。
万里絵が救急箱を片付けると、遼はあらためて万里絵と向かい合い、疑問に思っていたことを尋こうとした。
「あの……」
「どうやって入ったかってこと?」
遼はうなずいた。ほんとうは、もっと別のことを尋きたかったのだが。
「ベランダから。あたしの部屋、真上だし」
「だって、鍵が――」
「悪いと思ったけど、勝手に開けさせてもらいました」
万里絵は冗談ぼく言った。
遼は、万里絵が現れた最初の夜のことを思い出した。ドア・チェーンがかかっていたにもかかわらず、室内に入ってきた彼女……。
「――向こうのね、サバイバル・スクールで訓練受けたの」
サバイバル・スクール――遼も雑誌の記事か何かで見た覚えがある。野外での実践的な活動技術を中心とした、いわゆるサバイバル技術の訓練をする学校だ。万里絵がナイフの扱いに慣れ、山中で苦もなく遼に追いつき、あるいは手際よく応急手当てや蘇生術を施すことができたのも、そこでの訓練の賜物なのだろう。だが――。
「その後、都会でのサバイバル技術も教わってね。たいていの錠前なら開けられるわ」
追跡者を振り切るのも、「都会でのサバイバル技術」ということか。屈託なく笑う万里絵を見て、遼はかえって気後れしてしまった。
「どうして、僕があの山に行ったのがわかったの?」
「あの後、骨萱屋を出てから、とりあえずマンションまで戻って、出てきた遼の後をっけただけよ」
「それで……僕が……」
「――遼は覚えてないかな? 一年生の春の遠足、あそこだったでしよ」
言われて遼も思い出した。小学校に入って最初の行事らしい行事だった。今まで行ったことのない電車の終点まで行って、ハイキング・コースを通り、遼が自殺を図ったあたりよりもう少し上で弁当を広げたのだ。
「あの時、確か――」
「そう、迷子になっちゃったのよね」
今の彼女からは信じがたいが、一人で脇道に入っていった万里絵は迷子になり、ちょっとした騒ぎになった。いや、面白そうだと思うと、すぐそっちへ進んでいってしまう性格の傾向がその時からあったということかもしれない。
「あの時は、遼が見つけてくれたんだよね」
そうだった。遼が、いわゆる“男らしい行為”と言われるようなことで褒められたのは、後にも先にもこれだけだった。間もなく朝霞一家は日本を離れた。万里絵にとっては、日本での最後の思い出だったはずだ。
「だから、遼があの山に登っていった時は、ちょっと不思議な気がしたな……」
時計の音が妙に大きく聞こえる。
「ねえ、おなか空かない?」
突然、声のトーンを全く変えて万里絵が尋いた。
確かに万里絵の言うとおりだった。時計を見ると、九時を回っている。
「冷蔵庫に何かあると思うよ」
遼は席を立った。いちばん尋きたかったことは尋けなかった。
空腹も、万里絵言うところの「生きようとする意志がある証拠」なのだろうか――。そんなことを考えながら、遼はキッチンに立った。
とりあえずパンをトースターに放り込み、コーヒー・メーカーをセットする。
冷蔵庫の中には、思ったほどの材料はなかった。しかし、トーストとコーヒーとゆで卵だけでは、ちょっとわびしいように思える。
冷蔵庫から卵とソーセージを出し、買い置きの野菜の中からジャガ芋と玉ねぎを見つけ出し、遼は判理に取りかかった。
さりげなく万里絵が入ってきて、遼の手元をのぞき込む。あんなことがあった後だけに、まともに刃物を設えるかどうか心配したのだろうか。ギャラリーを意識して緊張はしたが、遼の手は震えも強張りもしなかった。
ジャガ芋、続いて玉ねぎをフライパンでいため、さらに、ソーセージを加えて、塩、胡袱で味を整える。
「へえ、スパニッシュ・オムレツね。 生クリームとかはあるの?」
遼は、小さなプーフスチックの容器に入ったコーヒー・マイルダーを示した。
「なるほど」
「ちょっとパセリは切らしちゃってるけど」
野菜の入った卵液を、油をひき直したフライパンにあけるところまでは何とかうまくいった。蓋をかぶせ、しばらく待つ。
遼がフライ返しを取り出して、オムレツをひっくり返そうとすると、万里絵が割り込んだ。食器棚からいちばん大きな皿を取り出し、フライパンに蓋のようにかぶせる。そのまま皿とフライパンを逆さにすると、今まで焼いていた面を上にしたオムレツが皿の上に現れた。フライパンをコンロの上に戻し、その上で皿を傾けると、オムレツは、焼かれていなかった面を下にしてフライパンに収まった。遼がいつも苦労させられる作業を、万里絵は皿一枚であっさりとこなしてしまった。
「すごい」
「まあね」
実に得意そうに万里絵が言ったので、遼は思わず笑い出していた。ほんとうにひさしぶりに笑ったような気がした。
大きなスパニッシュ・オムレツをはさんで、遼と万里絵の遅い夕食は始まった。
意外なことに万里絵はなかなかの聞き上手だった。学校のこと、担任の宮内のこと――
受け持ちは体育、空手の有段者、最近腹が出てきた――、級友の神田川明のこと――野球部で、朝一つ、昼二つ弁当を食べる。なぜか遼のことを気にかけてくれる――、あるいは、この間、帰ってきたと思ったら急にアメリカに戻ってしまった両親のこと、そして養護教諭の桐原朝子のことなど、遼は、自分でもあきれるくらい話した。
万里絵も黙り込んでいたわけではない。サバイバル・スクールのことなどを、時には身振りなども交えて話した。
「それで、どうして、サバイバル・スクールに?」
「どうしてって言われても……そんなものすごいことじゃないでしよ?自動車の免許を取ったり、英会話を習ったりするのと、あんまり変わらないじそない」
少なくとも遼にとっては、サバイバル・スクールに入るのは、飛行機のライセンスを取るのと同じくらいのことに思えた。
「まあ、あえて言うなら、他人をあてにするのが好きじゃないから、かな」
「なぜ?」
「何ていうのか、その分、自由じゃなくなるわけでしょ?」
「僕は、そんなふうに考えたこと、ながったな……」
遼はあらためて従妹の顔をうかがった。大きな瞳は、やはり「猫」という形容がいちばんふさわしいようだ。キュッとしまった感じの唇も、笑みを浮かべた時は猫を思わせる。
ツンと上を向いた鼻と顎の線が、気の強そうなイメージを与える。磁力でも発しているような目が印象的なためか、意外に濃い眉がそれほど目立っていない。明るい表情で和らげられているが、遼などよりずっときつい顔だ。服の上からではわからないが、全身の筋肉も遼よりたくましいだろう。
「何、遼?」
見つめ返されて、遼はあわてて視線をそらした。
食器を片付け、リビングに移ると、遼は疑問に思っていたことを尋いてみようと思った。
「さっき、事件の真相を明らかにするって言ってたけど、具体的には何をするの?」
「――今までの事件のパターンからして、今度犠牲者が出るとしたら、誰だと思う?」
鼓動が速くなるのを感じながら、遼は考えを巡らせた。
「桐原先生にからんだ酔っ払いがいた。僕は止めに入って、殴られた――」
万里絵はうなずいた。
「まず確実にあの男が狙われるでしょうね」
遼は、万里絵の言葉に一瞬引っ掛かるものを感じたが、口は挟まずにいた。
「これから出かけていって、あの男を探し出して見張るの。事件がどんなふうに起きたかがはっきりするし、うまくすれば犯人も突き止められるわ」
遼は、万里絵の言ったことを頭の中で反芻した。
「――それじゃ、僕の無実を証明するために、無関係な人間の命を危険にさらすってことじゃないか!」
「ほかにもっといい方法があれば、言って。言うとおりにするわ」
万里絵の冷たい言い方には反発を感じたが、他の案は思いつかなかった。
「確かに、人間一人の命を囮にした危険な罠よ。でも、他の方法が考え出せない以上、やるしかないわ。安全確実な方法を考えている間にも、犠牲者は出るかもしれない。それに、事件の真相がはっきりしない限り、遼が静かに眠れる夜は来ないのよ」
「――もしも、僕が犯人だったら、マーちゃんだって危険じゃないか」
「そうそうやられたりしないわよ」
言いながら万里絵はナイフの刃を出してみせだ。
「それに、あの二人のうちのどちらかも見張ってるんじゃないかな」
江間水緒美と、氷澄丈太郎 黒の紳士、裏次郎と同様に、超文明イェマドの遺産管理人である二人が、事情を承知のうえで張り込んでいるならば、新たに犠牲を増やすことは避けられるかもしれない。
「どうして――」
「何?」
「こんな危険なことに、どうしてマーちゃんはがかわるの?どうして僕を肋けてくれるの?」
万里絵の目が大きく見開かれる。そして、その視線は、彼女には珍しく、あさっての方向へそらされた。
「こう言ったら怒るかもしれないけど、面白いから。――誰も知らなかった、こんな手ごたえのある事件なんて、そんなにないと思うし」
そう言って万里絵はまた遼のほうを見ると、にっこりと笑った。
「あたしが好きで首を突っ込んだんだから、遼が負担に感じることなんてないのよ」
「強いんだね、マーちゃんは」
万里絵の目が再び見開かれ、そして、細められた。それは、寂しげな笑いのようにも見えた。
「撃たれたり、刺されたり、大怪我するでしょ。体のダメージももちろんなんだけど、ものすごい怪我をしたんだっていう精神的なショックのために死んじゃうことのほうが多いのね。だから、負傷しても持ちこたえる体力と、適のな応急処置ができる知識と、冷静に情況を判断して、自分は絶対に死なないんだって思うことのできる精神的なタフネスと、三つを揃えて持っていないと駄目なの。――これも、訓練の成果かな」
遼が言いたかったのは、「強いから、やさしくなれる」という陳腐な文句が実は真理であることを彼女の中に見た、ということだった。だが、あえて言おうとはしなかった。口に出すのが恥ずかしいということもあったが、なぜか、彼女の中の触れてはいけない部分に触れることになるような気がしたからだ。
「さて、支度しようか」
万里絵が立ち上がり、遼も続いた。
五階にある朝霞家は、台所など、生活に即必要な部分は整えられていたが、まだ、梱包の解かれていない荷物も多かった。
「とりあえず、これに着替えて」
万里絵が包みを開いて取り出したのは、黒いトレーニングウェアの上下だった。遼は、ウェアをじっと見てから、万里絵のほうを見た。
「その布はベトナム戦争の副産物でね、普通の刃物は通さないし、燃えないから。着心地もそんなに悪くないわよ」
遼は黙ってうなずいた。
「スタン・ガンと、ロープと、……痴漢撃退用スプレーも……」
必要なものを揃える万里絵は、楽しそうに見えた。さっき彼女がロにした「面白いから」というのは、照れ隠しでも何でもない、本音なのだろう。
「着替えたら、出るからね」
万里絵は自分用のトレーニングウェアの上下を手にすると、隣の部屋へ行ってドアを閉めた。
遼はのろのろと着替えた。
闘い――万里絵はそう言った。これから、パラバラ殺人が行なわれそうなところへ行って、ことの真相が明らかになるのを待つ。それが遼の闘いだと。そして、もし、遼自身が犯人だったら……。そうだった場合、自分はどうしたらいいのだろう。
ノックの音がする。
「遼、入ってもいい?」
遼はあわててトレーニングパンツに足を入れ、上着の袖に腕を通し、ジッパーを上げた。
「支度できた?」
そう言って入ってきた万里絵は黒猫 というより黒豹のように見えた。
「じゃあ、行こうか」
「ちょっと待って」
万里絵はきょとんとした顔で遼を見た。
「もしも、――もしも、ほんとうに僕が殺人事件の犯人だったら、どうするの」
「遼は、どうしたいの?」
「――死ぬしかないかなって……」
万里絵が遼の肩を両手で掴んで揺さぶった。
「ちょっとぉ……さっきまでの遼の決心とかは何だったのよ。――遼が犯人だってわかった時は、あたしが全力で犯行を食い止めるから、遼も自分にできることを全力ですること。
それから、あの二人――丈太郎と水緒美を見つけて、対策を検討すること。いい?」
遼が答えずにいると、万里絵はまた肩を揺さぶり、答えを促した。
「わかった。言うとおりにするよ」
「あたしの言うとおりじゃなくて、自分の意志でそうするの。遼を助けられるのは、結局、遼だけなんだから」
「うん」
「それで、万が一、どうしても、どうにもならないってことになったら――その時はしかたがないわ。でも、その前に、あの黒服の男、裏次郎を倒しましょ。あいつが、そもそもの元凶なんだから」
遼はうなずいた。
「行こう」
「うん」
二人の、誰に知られることもない闘いが、いま始まろうとしていた。
*
矢神遼と朝霞万里絵が二人だけの闘いを決意した頃、氷澄丈太郎は、自分の闘いの始まりを告げるゴングが鳴るのをじりじりしながら待っていた。
桐原朝子のアパートがある私鉄の駅からさほど遠くない公園の繁みに潜み、もう何時間も、矢神遼を殴った酔っ払いの様子をうかがっている。男は、浮浪者じみた身なりとは不釣り合いなコンビニエンス・ストアの白いビニール袋からビールの缶やら何やらを出し、ベンチに広げていたが、今は眠りこけている。矢神遼が犯人ならば、狙うのはあの男か、あるいは氷澄自身だろう。
柴本教頭が殺された翌日、氷澄は図書室から刀剣に関する書籍をごっそり持ち出していた。柴本教頭を斬殺した犯人は、ひょっとしたら剣についてマニア的な愛着を持った人間かもしれない――。望み薄ではあったが、とりあえず張ってみた罠に飛び込んできたのが矢神遼だったというわけだ。たびたび水緒美の店「冬扇堂」に顔を見せているというのも、確信を深める一助になった。
いきなり、人体を切断するためのビームなり何なりだけが襲いかかってくるということは考えられなかった。たとえ、どのような原理で作られ、作動するものだとしても、使用目的と方法には一貫した論理がある。敵意、不快感といった自分の感情に基づいて「人体の切断」を行なうのなら、“遺産”を使用する人間は自身が現場に現れ、その一部始終を見届けなければ気が済まないなずだ。最低でも、情況をどこかから監視しているはずだ。
それをたどれば、遺産を継承した人間が誰なのかを確認できる。そして、もう一人――。
――どこかで見ているのだろう、裏次郎。
黒いスーツの遺産管理人、この世の混乱を望む男が、自分の撒いた種が芽を吹き、花を咲かせ、実をつける様を見に来ているはずだ。
――出てこい、裏次郎。
この前は、とどめを刺す機会があったのに、そうしなかった。自分の心の不可解な動きに氷澄白身も戸感った。
――だが、今度こそは……。
連続殺人事件の犯人を待っていることよりも、裏次郎の出現を待つことが、氷澄を苛立たせているのかもしれない。
犬の吠える声が聞こえる。どこかで一匹が吠えると、一帯の犬が皆つられて吠える。だが、何者かの気配は――。
――来た。
氷澄は、懐中時計に擬装した“守護神”を握り締めた。守護神――イェマドの人間なら誰でも持っている、存在と非存在の落差からエネルギーを取り出すジェネレーターである。
一時に供給できるエネルギーの量にこそ上限があるものの、供給できる時間は事実上無限である。生体を活性化させ、肉体の状態を健康に保つのが第一の機能である。さらに、氷澄や水緒美の周囲にはいつもこの“守護神”で発生させた微弱な力揚が張り巡らされ、外界からの攻撃を防いでいる。また、特定の物体をエネルギー・コーティングし、武器として使用することも可能である。水緒美の白扇や、裏次郎のステッキのように。
氷澄の視野に捉えられた異変――それは、酔っ払いが寝ているベンチの斜め上の空間に現れた。テレピ画面のノイズのような鉛色の光点が数十個走る。テレビのノイズと違うのは、走る方向が縦だということだ。
氷澄は、上着の下に隠し持っていた伸縮式の特殊警棒を右手で握った。瞬時にエネルギー・コーティングされ、たいがいの物質なら切断できるエネルギーの刃に変わる。普段はネクタイなど手近なものを使うのだが、何人もの人間を殺してきた殺人音を相手にするとなると、固い感触の警棒のほうが安心できた。
空間に現れた光るノイズ呟しだいに形を整えていった。ニメートルに少し足りないほどの人の形に。やがて、全体が輝く赤で彩られる。真っ赤な人形。上腕部と膝の下にそれぞれ二本ずつ緑色の線が輪を描いているのが、何かのスポーツのユニフォームを思わせた。
赤い人形は、何度も再生されたビデオテープの映像のように、輪郭がにじんで見えた。
立体感がまるでない。あたかも地面に映し出された影を引き剥がして空中に立たせたようだ。
――こいつ、実体でないとすると、本体はどこにいるのだ。
周囲に意識を走らせる。あの赤い影を操る本体が近くにいるかもしれない。あるいは、第二、第三の影が氷澄を襲うがもしれない。そして、黒衣の遺産管理人も近くにいるはずだ。
赤い影の右手から銀の光が伸びる。光は、水緒美の白扇から伸びたのと同様の剣を形作った。無造作に振られた光の剣がベンチの脚を切り払い、酔っ払いは地面に転げた。目を覚まし、不機嫌そうに頭を掻きむしる。赤い影は、男が事態を認識できるだけの頭脳の働きを取り戻すまで待っているかのようであった。
濁った目が、ようやく真紅の異様な人物を捕らえたようだった。だが、アルコール浸しの頭脳は判断力を持たないようで、適切な行動に移ろりとはしない。
己の姿を獲物の網膜に焼き付けただけでよしとしたのか、真紅の剣士は銀光をひらめかせた。男のむくんだ手から、赤味を帯びた白い芋虫のような指が五本、ポロリと落ちて、地面に散らばった。
自分の肉体の損傷を受けても、酔っ払いの頭脳は正常な状態に復旧しなかった。アルコールが、神経の伝達機能までもおかしくしているのだろうか。
剣士は、今度は掬い上げるように剣をふるった。指を失った手のひらが、手首から落ちる。剣は止まらず、優美な曲線を描いて振り下ろされる。腕が、汚れた上着の袖ごと切り落とされて、宙に舞った。
クルクルと回りながら頭にぶつかった自分の腕と、残された上腕の赤く濡れた断面が、ようやく男の正気を呼び覚ましたようだった。
泣き声の混じった悲鳴が上がる。尻を地面についたまま、男は懸命に後ずさった。
――ほんとうに、あの男を殺すことだけが目的だというのか?
氷澄は、繁みに身を潜ませたまま、眼前に展開される惨劇を眉一つ動かすことなく見詰めている。
緋色の殺戮者は、銀色の凶器を哀れな犠牲者のロに押し込んだ。猛獣使いが鞭を振り上げるような手つきで光の剣を立てる。赤いしぶきと一緒にピンクの肉片が吐き出され、地面にぶちまけられた。くぐもった悲鳴を上げ、舌を失ったロを一本だけ残った手で押さえるようにして、男はうつ伏せになった。
マニュアルに書かれた手順を実行しているような、几帳面とも思える手つきで、赤い影は男の手足を関節ごとに切り難し、最後に首を切り落とした。
何かの感慨に浸る様子もなく、自分の行為の結果の確認だけ行なうと、赤い剣士は光の剣を消し、自らの姿も、足のほうからノイズに変えて消そうとした。
「チッ!」
氷澄は繁みから飛び出した。エネルギー剣と化した警棒で赤い剣士に切りつける。
青い閃光が飛び散り、剣は受け土められた。赤い腕の先から再び光の刃が現れ、氷澄の一撃を受け止めていた。
次の瞬間、氷澄の体は地面に投げ出されていた。
身を起こす暇を与えず、銀の切っ先が突いてくる。体を転がし、逃げる。
氷澄の体が水飲み場に行き当たり、止まる。
赤い剣士は光の剣を振りかぶり、切りつけた。
氷澄は危うく身をかわす。
光の刃は、水道管とコンクリートの塊を両断していた。水の柱が白く噴き上がる。
そのわずかな隙に、氷澄は何とか体を立て直していた。
剣に限らず敵の全身を形成しているのは、氷澄を防御しているのと同質のエネルギーだ。
出力が上回れば、防ぎ切れまい。
――奴は逆上している。現れた時と同様、消えてしまえば済むものを、私を殺そうと躍起になっている。勝てる。絶対に負ける相手ではないはずだ。
だが、形勢が不利なのは、氷澄の頭から裏次郎の存在に対する警戒感か去らないからだ。
今一つ、眼前の敵に集中できない。
警棒を握り直して突っ込む。
赤い影は空いた手で顔をかばいながら、剣を振り回した。
氷澄の得物が赤い体に触れるたびに青白い火花が散る。
緑のラインのある上腕を突く。
胸でポッリと銀光を放っている点を狙う。
表情のない真紅の顔面――いや、表情どころか、知覚器官と思われる色違いの部分を除いては目も鼻も口もない顔に攻撃を集中させる。
――いける!
逃げ腰になった赤い剣士の腕を狙う。
決まった。
腕に警棒が当たった瞬間に“守護神”からのエネルギーを集中させる。
氷澄のエネルギーと、赤い腕を形作っていたエネルギーがぶつかり合って、金色の閃光が飛び散った。目を灼く光の強さに反して、蛍光灯が破裂したような低い音以外、音らしい音はしなかった。
上腕部にひかれた二本の緑のラインより先の部分を失って、赤い影は走って逃げはじめた。ショックのあまり、消滅する手だての存在を失念しているか、あるいは機能に障害が出たのだろう。
――逃げるがいい。逃げて、本体のいる場所まで私を案内するのだ。
氷澄は赤い逃亡者を追った。
*
江間水緒美は北の街にいた。
氷澄と別れた後、その街では名の知られた開業医の家族について調べるためにここまで来たのだ。
いわゆる地方の名士であるその医者には、四人の子供がいた。上の三人までが父親と同じ道に進んだ。
医者とその妻、息子二人とその妻子が事故死したのは、二週間前のことだった。ひさしぶりの家族旅行ということで、親子孫、三家族九人が自家用車を連ねて高速道路を走っていた。
目撃者の話によれば、事故は一瞬のことだったらしい。先頭を走っていた長男の車、後続の父親の車、三男の車が三台とも突然にコントロールを失い、玉突き衝突のような状態で追突。三台は間もなく爆発、炎上、九人は全員死亡した。付近を走っていた乗用車が五台、巻き添えを食った。
水緒美が警察のデータに侵入して知ったのは、次のような事実だった。
事故を起こした車が炎上する以前に、父親と母親、長男と三男は死亡していた。鋭利な刃物で腕や首を切断されていたのである。車内に凶器は見当たらなかった。付近をくまなく捜索した捜査員も、凶器と思われるものは発見できなかった。
さらに、車のバンドル・シャフト、前後輪のシャフト、ガソリン・タンクにも切断箇所が発見された。工業用のレーザー以上の切断力を持つ凶器は、その実体の見当さえつかなかった。
この事故は、彼等を皆殺しにしようとして仕組まれた殺人事件であるようにも思われた。問題は犯行の方法である。高速道路を走行中の自動車の内部にいる人間を切り刻み、さらに、自動車の車体をも切断するようような凶器、手段が存在するのか。
結局、捜査は、ありえないことを選択肢から除外して進められた。どんなに奇怪な様相を呈していても、これはあくまでも交通事故である……。離れた街で二週間後に起きた連続殺人事件にこれを結び付けて考える捜査員はいなかった。
もう一つ、水緒美が知った事実がある。二週間前の事故で死ななかった次男は、アメリカに行っていた。臓器移植学会の会台ということだった。だが、一〇日前に行方不明となり、つい今し方、日本で待っている妻の許へ、バラバラにされた夫の死体が発見されたという報がもたらされた。もちろん、海を渡った島国の一都市の連続殺人事件、あるいは高速道路での事故にこれを結び付けて考える捜査官はいないだろう。
これで、医者の四人の子供のうち、残ったのは末の子だけだ。
医者の家族に何があったのか、何がなかったのか、確証もなければ、確認する手段もない。だが、小さな街の連続殺人事件を追ってきた水緒美には、あまりに明白にこれらの事件を結ぶ糸が見えた。
水緒美は、最後に一件、新聞社に電話を入れ、先日殺された刑事二人の名前を確認した。
「かわいそうな……矢神遼……」
公衆電話の受話器をフックにかけた水緒美の唇から思わず言葉が漏れていた。自分の“守護神”の一部、白扇に擬装したエネルギー・システムを握り締める。
「いけない……丈太郎はまだ知らないはず。手遅れになる――」
遠く離れた骨董屋――冬扇堂の転送装置を呼び出す。
北の街の冷たい夜気の中から、黒いワンピースをまとった江間水緒美が瞬時に消えた。
静まり返った聞の中に、どこで鳴くのか、犬の遠吠えだけが長く尾を引いていた。
*
闇の中にいま一人、黒衣をまとった男が浮がんでいた。ちょうど西洋の魔女の絵そのままに、宙に浮かんだステッキの上に腰掛けて、下界を見下ろしていた。
事態の進行は、男 水緒美たちと同じようにイェマドの遺産管理人でありながら、立場を異にする者―――裏次郎が企んだよりもはるかに早かった。そして、効果的に組み合わされていた。
――踊れ、踊るがいい、水緒美、丈太郎、そして、矢神遼!
必死になって、自分の持てる力の全てを出し切って戦う者たち。だが、彼等の働かせた知恵も、裏次郎という戯曲家の書いた筋書きをなぞるものにすぎない。彼等の懸命の奮闘も、その一挙手一役足に至るまで、裏次郎という振り付け師による巧みな演出のままなのだ。
ただ一つの気がかりは、せっかく矢神遼に渡したザンヤルマの剣が行方不明だということだ。
剣は必ず矢神遼の許へ遣る――あの時はそう言った。だが、裏付けや確信があって言ったことではない。
――かまうものか。俺の企みが成就するのであれば、誰が行く手を阻もうと、剣は必ず少年の手に還るだろうよ。
枯れ葉が枝から落ちるように、黒いスーツの体がステッキの上から滑り落ちた。
――少年一人、剣一本、思うとおりに操れなくて、何で望みがかなえられるものかよ。
ザンヤルマの剣士の誕生という望みを。
上着の裾をはためかせながら、裏次郎は地表目がけて頭から落下していく。命を危険にさらすことを楽しんでいるというのか、裏次郎の頬に喜悦の表情が浮かぶ。
――今世の人間どもが信じるように、運命なるものが存在するというのなら、俺をもてあそべ、押し流せ、破滅させてみろ!
ステッキが、意志あるもののごとく急降下し、裏次郎の下へ回り込む。だが、裏次郎は手を伸ばそうとしない。全身を包み、吹き抜けていく風が、あたかも運命それ自体であるかのように、裏次郎は空気の激流と戯れた。
やがて、力強くもしなやかな腕が伸ばされ、ステッキに触れる。黄色い閃光とともに黒衣の遺産管理人の姿は消えた。まるで、闇の中を駆け抜けた黒い流星が燃え尽きるように。
[#改ページ]
第三章 剣よ、光を!
夜の闇が周囲から遼を押し潰そうとしているよう、たった。マンションの外に出れば、部屋の中にいた時に感じた窒息感、圧迫感から解放されるかと思っていたが、寒さと、純粋な恐怖が加わっただけだった。
この闇のどこかに、犠牲者を求めている殺人鬼がいるかもしれない。誰かをバラバラに切り刻もうと狙っている奴が、息をひそめて、周囲をうかがっているかもしれないのだ。
自分の肩を抱くようにして身を固くしている遼のことを知ってか知らずか、万里絵は路上駐車しているバイクを物色していた。
適当なものが見つかったのか、軽快なエンジンの音が響き始めた。
「日本はいい国ね、治安がしっかりしていて、平和で」
白いカウルのバイクに跨った万里絵は、ちょっと意地の悪い笑みを浮かべ、手をはたくと、どこから調達したのか、赤いヘルメットを遼に投げてよこした。遼はぎこちなくヘル
メットを頭にかぶせた。
「ちょっと、こっち来て」
自分も緑のヘルメットをかぶった万里絵が、手早く遼のヘルメットを直す。
「乗って」
遼は、おそるおそる万里絵の後ろに腰掛け、掴まる手掛かりを探してキョロキョロした。
万里絵が小さく舌打ちし、遼の両腕を取ると、自分の腰に回した。
「しっかり掴まってないと、振り落とされるわよ」
遼はあわてて腕に力を入れた。
万里絵がアタセルをふかし、左手を緩めると、バイクは走り出した。
バイクはかなりのスピードで走ったが、トレーニングウェアの布地は風を通さず、寒いということはなかった。だが、断熱効果のある繊維は、万里絵の体温も伝えてはくれなかった。
「ねえ!」
沈黙に耐えられなくなった遼が万里絵に声をかける。
「――とりあえず、あの酔っ払いが遼を殴った場所を中心に、まわりをあたってみましょ」
手順は遼にも飲み込めた。だが――。
「なんで裏次郎は僕にあの短剣を渡したんだろう?」
「あの二人が説明したとおりなら、短剣の機能を始動させられるのが遼だけだからでしょ」
遼が尋きたがったのは、そういうことではなかった。しかし、その答を万里絵が知っているはずもない。
「疑ってるの、あの二人が言ったことを?」
「っていうより、一〇〇パーセントは信じていないってところかな。――いや、そうじゃないな。きっと隠していることがあると思ってるのね、あの二人も裏次郎も」
「隠していること?」
「これまでの戦いの経緯とか、なぜ裏次郎と二人の直接的な抗争にならないのか、他にイェマドの遺産を管理している人間はいないのか。それから、なぜ、あの剣は“ザンヤルマの剣”と呼ばれているのか――わからないこと、いろいろあるでしょ?」
彼等が隠していること――。万里絵には、多少の見当はついているのかもしれない。
「ぼんやりしていると、危ないわよ。カーブが多いから!」
万里絵が怒鳴るようにして言う。遼は腕に力を込め、歯を食いしばった。
適当な場所にバイクを乗り捨て、酔っ払いの姿を求めて走り出した――ジョギングの途中に見せがけるため――ニ人だったが、目指す相手は簡単に見つかった。それも、最悪の状態で。
「見ないで。――ちょっと待ってて」
そう言って、遼の肩を抱くようにして後ろを向かせると、万里絵は懐中電灯を片手に、公園の暗がりのほうへ注意深く歩を進めていった。殺人者の何等かの手がかり、あるいは、事件の真相を解明するヒントを探しているのだろう。
万里絵が無理矢理反対を向かせるまでのわずかな隙に、遼は見てしまっていた。公園のベンチの脇に男が散らばっているのを。汚らしい上着に見覚えがあった。間違いない、昼間の酔っ払いだった。
遼の背筋を、いつかの悪寒が這い上かってきた。これは……これは、どういうことなのだろう。あの男に殺意を抱いた人間は、遼以外に思い当たらない。だが、遼は手を下していない。眠っている間に何かが作用したということもありえない。今朝、目を覚まして以来、遼は一睡もしていないのだ。
まさか、ドッベルゲンガー――もう一人の自分 が存在し、こちらの自分が不快に思った人間を殺して回っているとでもいうのだろうか……。
「行きましょう」
押し殺した声が耳元でし、遼はギョッとして振り向いた。目に険しい表情を宿した万里絵が立っていた。
身を擦り寄せるようにしてその場を離れる。
気がつくと、奥歯がカタカタと鳴っていた。いや、震えているのはそれだけではない。
全身がかすかに震えている。
「寒いの?」
遼は首を振った。
「気分が悪い?」
「ちょっと」
「無理ないわ。あたしだって気持ち悪いもん」
万里絵は、街灯の下へ遼を連れていった。
マンションの室内に比べればぼんやりした明かりの下でも、万里絵の顔を見ると安心できた。
「あれは――」
万里絵の眼差しが先を促した。
「あれは、僕が、やったのかな?僕が殺してしまったのかな?」
自分でも泣き声になりかかっているのがわかった。だが、闘うと、真相を確かめるのだと決意して、ここまで来たのだ。目をふさいで逃げ出すわけにはいかない。
その思いが伝わったのか、遼の目を覗き込むようにしていた万里絵が口を開いた。
「違う、と思う」
伏せ気味だった遼の顔が上がる。何より嬉しい言葉ではあるが、だからといって、そのまま信じてしまうことにもためらいがあった。
「なぜ?」
「あの死体、殺されてから一時間と経っていない。一時間前から、それよりすっと前から、遼はあたしと一緒にいたでしょ?」
「それは、そうだけど――」
悪夢は終わったのかもしれない。だが、今一つ、確價が持てない。遼は、自分の体が震えるのを止めることができなかった。
「とにかく、ここを離れるわよ」
「?」
「人に見られたら、面倒でしょ。それに、犯行の後、あまり時間が経っていないっていうことは、犯人がまだ近くにいるかもしれない。明るい所にいたら、まわりから丸見えよ」
万里絵は遼を促して、街灯の下から離れた。
遼はぽんやりとさっきの万里絵の言葉を考えてみた。ほんとうに、ほんとうに自分が犯人ではないのだろうか。だとしたら、いったい、犯人は……?
「誰かいるわ」
ささやくような声で万里絵が言った。
後方に意識を集中する。誰かが近づいてくる気配がする。
誰だろう。さっきの万里絵の言葉どおりだとすると、あの酔っ払いをバラバラにした犯人の可能性もある。闇に潜んだ殺人者からは、街灯の下に立った二人は丸見えだったはずだ。
「あたしが合図したら、人通りのあるほうへ思いっきり走るのよ。何があっても、振り返っちゃ駄目。いいわね?」
「でも――」
「そこにいるのは遼くんと万里絵ちゃんかい?」
闇の奥から投げかけられた、ちょっと間延びのしたその声は、骨董屋「冬扇堂」の女主人のものに間違いなかった。
「江間さん――」
遼は立ち止まって、振り向いた。
万里絵も止まり、身構えた。
街灯の投げかける円錐形の光の中に、黒いスーツ姿の江間水緒美が現れた。
「おっかない顔をしてるねえ、万里絵ちゃんは。――ほら、あんたたちを害するつもりはないよ」
そう言って彼女は空の両手を上げた。
「スーパーの駐車場では、あなたの扇形の武器は思考でコントロールされていたでしょ。
両手を上げようが縛ろうが、あんまり意味はないわ」
「それも、ごもっともだね」
とぼけた表情で水緒美は自然に両手を下げた。
「――あんたたちがここにいるってことは、ひょっとして、誰かがまた、死体になったってことかい?」
「遼には関係ないわよ」
「ああ、わかってるよ」
こともなげに応じた水緒美の返事に、遼も万里絵も驚いた。
「遼くん――」
水緒美は深く黒い眼差しを遼に向けた。
「君がこれまでの殺人事件に関係ないってことは調べがついたよ。今さらだけど、怖がらせるようなことをさんざんして、すまなかったね。もう、君を脅かすことはないよ。もちろん、万里絵ちゃんもご同様だ。――ザンヤルマの剣は、見つかったのかい?」
「いえ」
「そう。――だったら、もう、これまでのことは忘れておくれ。イェマドの遺産のことも、裏次郎のことも」
遼は混乱していた。万里絵の推論に加えて、江間水緒美も遼が殺人事件の犯人ではないと言う。だったら、ほんとうに自分は殺人犯ではないのだろう。ならば……ならば……考えがまとまらない。自分が人殺しである場合のことしか考えていなかったため、恐怖から解放されたことが容易に信じられないのだ。
「ところで、丈太郎を見かけなかったかい?」
「いえ」
「そうかい……。それじゃあ、ここでお別れだ」
満足な働きをした後の疲労感を感じさせるような表情を浮かべると、水緒美は二人に背を向けて、元来たほうへ歩き出した。夜の闇がすぐにその後ろ姿を飲み込んだ。
ようやく万里絵が緊張を解いた。
「どういうこと……」
遼はその肩を叩いた。
「後をつけよう」
遼にしては積極的な提案に、万里絵が戸懇いの表情を見せる。
「江間さんは、何かを掴んだんだ。もしかしたら、真犯人を突き止めたのかもしれない」
「それで、もう遼を追う必要はない――考えられなくはないわね」
「はっきりさせたいんだ。気づかれないように、後を追おう」
意気込む遼に半ば呆れたような表情を見せると、万里絵は先に立って尾行を始めた。
*
氷澄は不覚をとった。
逃げる緋色の剣士を追い詰め、ついにその本体を突き止められると思った。
赤い逃亡者がようやく姿を消した時、氷澄は犯人の手がかりを目の前にしながら、自分の見ているものの意味がしばらくわからなかった。
これまでに目にし、耳にしてきた手がかりをつなぎ合わせ、ようやく一つの結論に達した時、氷澄の頭上に輝くノイズが現れた。
降りかかる光の刃を避けた次の瞬間に、真後ろから断りつけられていた。
個人用エネルギー・ジェネレークー“守護神”の張り巡らせる力揚が氷澄を守ろうとする。
鉄の棺桶に閉じ込められて横からバンマーで殴りつけられたような衡撃だった。
間髪を入れず、全身に電撃を受けたようなショックが走り、氷澄は地に伏せた。
手から離れた伸縮式警棒が光の剣に寸断された。
背中の傷は深くはない。だが、強烈なエネルギーの刃を力揚で受け止めた“守護神”はその出力の限界を越え、一時的に機能を麻痺させている。
――二体同時に現れるとはな……。
いや、三体目、四体目が現れないとも限らない。
しびれた体に鞭を入れる思いで立ち上かる。まだ他人のもののような手足で、どうにか距離をとる。
“守護神”が機能を回復するまで、氷澄にできるのは逃げることだけだ。何しろ、エネルギー兵器は使えない。実体のない相手と、まさか拳をふるって戦うわけにもいくまい。
二体の緋色の剣士がじりじりと追ってくる。立体感の全くない二体が重なると、四本の腕と四本の脚を持った魔神の血で染めたシルエットのようだった。距離感か掴めない。どの腕が剣を繰り出すのか、読めない。
――まさに、それを狙って、していることだろうがな。
物音も絶えた深夜の住宅街。乱れたスーツの肩で息をする氷澄に、非現実的な赤い殺人音が音もなく追ってくる。
銀光が夜の空気を切り裂いた。
大きく横に払われる剣の切っ先が弧を描く。あたかもその弧を弓として次々に放たれる矢のように、もう一本の剣が素早く突きを繰り返す。何本の剣があるのか、氷澄に疑わせるほどに。
路上に放置された自転車がスクラップになる。電柱にくくられた交通安全標語の看板が、カッター・ナイフで切られたボール紙よりあっけなく二つになる。タイル張りの門柱の頭が斜めに切り落とされる。
そのたびに間一髪で身をかわす氷澄。繰り出される二本の剣は、時間的にも空間的にも立ち直る隙を氷澄に与えない。体内を巡る血が沸騰するような感覚を氷澄は味わっていた。
――これではまるでいつかの矢神遼だな……。
追い詰めたつもりが、いつの間にか追い詰められている自分に皮肉を投げかける。
次の瞬間、輝く刃が肩口を突いていた。
かすかによろけた氷澄の顔を狙って、もう一本の光の剣が走る。
危うく避ける。鼻をつくオゾンの臭い。
――限界か……。
赤い死神は二手に分かれ、氷澄が逃げる途を完全に断とうとしている。
――いや、まだだ!
氷澄の敵、黒いスーツに身を固めた、もう一人のイェマドの遺産管理人の顔を思い浮かべた瞬間、萎えかけていた闘志が膨れ上がった。奴は、この光景をもどこかから鑑賞しているだろう。
――裏次郎、貴様を地べたに這いつくばらせるまでは、私は闘いをやめん!貴様の企むこと、ことごとく叩き潰してくれる!
青みがかった瞳に、ぎらりと強い光。
踏み込む。
不意に、背後から黄色い光条が二本伸びた。
最終電車を逃がした酔漢でも乗せているのか、屋根に「個人タクシー」のランプを灯した車が、細い道に入り込んでくる。
クラクションが鳴った。
赤い剣士の動きが瞬時止まる。
実体のない剣士が、まるで人間のような戸惑いを見せたのは、氷澄の錯覚か。
立ちはだかる二体の剣士の間のわずかな隙を氷澄がくぐり抜ける。
二体が反応を見せる前に、氷澄はコンクリートの電柱の陰に飛び込んだ。
情況を見切ったか、二体の赤い剣士は、ノイズと化して消えた。
今まで死闘が演じられていた空間を、何事もなかったかのように、タクンーのオレンジ色の車体が走り抜けた。
再び闇と静寂が戻る。実体を持たない赤い殺人者の存在が、まるで嘘のようだ。
――なに、すぐにまた現れる。
しびれた体で逃げ回って稼いだわずかな時間のうちに、どうやら。“守護神”は正常な状態に戻ったようだ。力揚が復活し、各所に受けた傷が、傷口こそふさがらないものの、細胞の活性化によって回復していくのが実感できる。
ネクタイを抜き取り、端から丸め、手の中に収める。
来い! 一発で仕留めてやる。
氷澄は力場の範囲を通常より広げた。防御力は低下するが、これで、赤い殺戮者を出現と同時に感知できる。
空気が張り詰める。力場のためだけではない。氷澄の緊張感が、あたりに広がっているのだ。
やがて、それも感じられなくなる。氷澄自身さえ夜の闇に溶け込んでしまったかのよう
に。
氷澄の右斜め後方に光るノイズが走る。
氷澄はまだ動かない。
正面にまた一つ、ノイズの流れ。
氷澄は懐の“守護神”を握った。
正面のノイズがいきなり爆発的な閃光を放ち、氷澄の目をくらませる。
「行けっ!」
氷澄の振った左腕から弾丸を思わせる勢いで光球が飛ぶ。前方の閃光の根源を直撃する。
まばゆい光の輪はさらに大輪の花と化し、その中で、赤い人型の影だけが薄暗かった。影は、緑のラインのある上腕と膝の下の部分から四肢を四散させ、残った頭部と胴体も消滅した。
一瞬のうちに起こったこれだけのことを、しかし、氷澄は見ていなかった。
光球を放つと同時に身を沈める。ネクタイにエネルギーを回し、コーティングする。エネルギー・コーティングされたネクタイは氷澄の手から飛び出し、真っすぐな剣となった。
それは、赤い剣士の手から光の剣が伸びる光景そのままだ。
後方がら忍び寄っていたもう一体の剣士にエネルギーの刃を突き込む。出力を上げる。
さらに力場を自分の周囲に集め、敵の剣が襲いかかってきた部分に集中させる。光の楯だ。
エネルギー剣の刺さった部分から波紋のように虹色の光輪が広がり、二体目の剣士も消滅した。
「おみごと、丈太郎」
振り向くと、白扇を手にした水緒美が手を叩いている。
氷澄は立ち上がり、額を拭った。汗で前髪がべっとりと張り付いていた。
水緒美がかすかに眉を寄せる。
「これくらいでは死なん」
傷の具合を調べようとする水緒美から背中を隠すようにして、氷澄は向き直った。
「それより、裏次郎から。“遺産”を受け取った人間がはっきりしたぞ」
「あたしも、突き止めて、今戻ったところさ。――ただ、処分するにしても、最後の確認だけは、しっかりとらないとねえ」
氷澄は黙ってうなずいた。
*
「あんなのが相手……」
赤い殺人者と氷澄の死闘を物陰から固唾を飲んで見ていた遼と万里絵だったが、嘆息し、ためらいを見せたのは万里絵のほうだった。初めて見るバラバラ事件の犯人の異様な姿、そして、それを上回る異常な能力が二人に与えた衝撃は、二人をしばらくその場に釘づけにするのに充分だった。
――彼女は、自分と敵のカ量を正確に判断できるからだろうな。
たとえ正確でなくても、自分の力がどの程度のものか、あの真紅の殺人者の力がどれくらいのものなのか、そして、その二つの間にどれほどの隔たりがあるのかくらいは、遼にもよくわかった。だが、遼は、もうこれ以上ためらうわけにはいかないのだ。しっかりした足取りで、氷澄と水緒美のほうへ行く。
「矢神……」
遼を見とがめた氷澄のつぶやきに水緒美が振り向く。
声の届く距離まで来て、遼は止まった。
「なぜ帰らなかったの……お帰り、遼くん。今すぐ帰るんだよ」
遼は首を横に振った。
脇に万里絵が立つ。
「事件の真相を話してください」
自分でも驚くくらいしっかりした声だった。
「さっきのあの二人は誰だったんですか」
「――ただの道具に過ぎん。あれを操っている人間は別にいる」
「丈太郎!」
水緒美がたしなめたが、氷澄は全てを語るつもりらしかった。
「それじゃ、僕は――」
「犯人じゃない。ただの囮だ。君は水緒美とも知り合いで、真犯人とも親しかった。我々を混乱させるために、裏次郎にいいように利用されたというわけだ」
真犯人とも親しかった。――それでは、遼の知っている誰かが、あの赤い異形の者どもを操って、次から次へと人を殺していったというのか。
動悸が速くなる。
「誰なんですか」
乾き切った喉に引っ掛かるような声だった。
「連続殺人の犯人、すなわち裏次郎から遺産を受け取ったのは桐原朝子だ」
体の中で魂の位置がずれたような気がした。
さっきまでしっかりと踏み締めていた地面が揺らぐ。いや、遼のまわりで世界そのものが揺らぎはじめた。
「……嘘だ……」
「昼間の浮浪者を殺した、あの赤い影を追った、あいつは桐原朝子のアパートの前まで来て消えた」
「嘘です。先生は犯人じゃありません」
「考えてみろ。柴本教頭に言い寄られたのは誰だ?雑誌記者に不快な質問を浴びせられたのは誰だ? 生徒と一緒に不良にからまれたのは誰だ?」
「違います。僕です。剣を貰って、人を殺したのは僕です。先生じゃない。僕だ。僕がやったんです!」
万里絵が後ろから腕を掴んで引き留めようとしたが、遼は振り払った。
「刑事は、二人の刑事はどうなるんですか。先生には関係がないでしょう」
「殺された刑事は、真田刑事と堀田刑事。あの日、冬扇堂に訪ねてきて遼くんと話した二人とは別人さ」
目をそむけたまま水緒美が言った。
「刑事が二人って聞いた時、あたしもてっきりあの浜田と石橋っていう二人だと思い込んじまったのさ」
「真田、堀田の両刑事は、鵬翔学院高校の教師一人一人に聞き込みをしていた。そこで、桐原朝子にとって知られたくない何かを知ってしまった――そんなところだろうな」
「……嘘だよ……そんなこと、あるもんか……」
遼は目を閉じた。耳を手で覆った。
氷澄の、水緒美の姿が見えなくなり、声が聞こえなくなれば、これまでの悪夢のような出来事と、その真相までもがなくなってしまうとでもいうように。だが、二人の声は容赦なく遼の耳を打った。
「二週間前、桐原朝子の両親と二人の兄、その妻子が死んでいるんだよ。高速道路走行中の事故ってことになってる。けどね、警察のデータに侵入して調べたんだが、両親と兄は、事故が起きる前に絶命している。鋭利な刃物で四肢と頭部を切断されてね。自動車のほうも、ハンドル、その他が切断されている。ガソリン・タンクも切られている。必ず引火して爆発するように――」
「やめてくれ、聞きたくない!」
高速道路を走っている車の中の人間をバラバラにするなどということは、あの赤い剣士でなければ不可能だろう。だが――。
「桐原先生がそんなことするはずありません。動機がないじゃないですか」
「では、いったい、他の誰に動機がある?教頭、雑誌記者、二人の不良学生だけなら、君にも充分な動機があるだろう。だが、二人の刑事や、桐原朝子の家族については、殺害に及ぶ動機を持っていると考えられるのは桐原朝子のみだ」
遼と氷澄の間に緊張した空気が流れた。
「静かに――」
水緒美がささやいた。彼方からパトカーのものらしいサイレンが近づいてくる。
「死体が見つかったのかもしれんな」
「まずいねえ」
氷澄と水緒美が視線を交わす。
いつかのように、瞬時に周囲の光景が変わる。
四人は一瞬のうちに骨董屋「冬扇堂」の奥へ移勤していた。
*
「警察が動き出したとなると、桐原朝子に接触するのは難しくなるな」
「下手なちょっかい出されだら、また犠牲者が増えるねえ」
「私は敵に顔を見られている。案外、家のほうに刺客を差し向けたかもしれん」
氷澄と水緒美のやり取りを聞ぎながら、遼は店のほうへ出た。
静まり返って明かりもない店の中には、そこここに置かれた古い品物の匂いが漂っている。この匂いが遼は好きだった。
壁に懸かった、古い百合の花のレリーフ。そっと指で撫でる。暖かな肌触り。
遼は、ほんの少し前までの日々を思い出した。運動神経も鈍く、成績にも目立ったものがなく、特に親しい友人もいない遼にとって、学校の保健室とこの店だけが心の落ち着く場所だった。だが、店は、人知を超えた古代文明の遺産による暗闘の拠点であることを明らかにした。そして、保健室は……あの部屋の主は……。
高校の入学式の当日から頭痛で保健室の世話になった遼だった。その日が桐原朝子との出会いの日だった。何度も保健室に足を運ばなければならなかった遼に厭な顔をするでなく、かといって過剰な心配をするでなく、穏やかな笑顔で迎えてくれた彼女。知的な面差し。清潔感あふれるいで立ち。遼が嫌悪してきた女性によくある感情的な反応をまったく見せない、そんな朝子が、家族までも手にかけた殺人犯なのだろうか。
「そんなこと、あるもんか。絶対、何かの間違いだ」
「遼……」
振り向くと、奥の部屋の明かりを背に、万里絵が立っていた。
「どうするの、これから」
「――柵原先生は、誰にでもやさしい人なんだ。どんな時にも声を荒立てたりしない、落ち着いた人だ。 前に話したよね、雑誌記者が付きまとってきた時のこと。先生は、喚いたり脅えたりしないで、すごく冷静に対処した。僕をたしなめる配慮だってあった。そういう人なんだ、桐原先生は。そんな人が、自分の家族まで殺すなんて、ありっこないよ」
「そうかな」
明るいメゾ・ソプラノはいつものままだったが、感情が感じられない。逆光のため、表情も読み取れなかった。
「桐原先生って、保健の先生よね。昨日の午後、遼が酔っ払いに殴られた時のことだけど、彼女、酔っ払いが自分から離れると、アパートの自分の部屋へ逃げ込んでしまったのよね。警察を呼ぶとか、怪我した遼の手当てをしてくれるとかするのがほんとうじゃないの?」
万里絵の冷たい言葉に遼はたじろいだ。
「それは……若い女性が変な男にからまれたんだよ。自分の部屋が近くにあったら、とりあえず逃げ込むのは当たり前じゃないか。それにあの時、僕はあの場所からすぐに立ち去ったんだ。その後、先生は僕のことを探したかもしれない」
「そんなに心配なら、電話くらいしてくれてもいいわよね」
「保健の先生が、僕の電話番号まで知ってるもんか」
「でも、宮内先生だっけ、遼の担任? その先生に連絡するくらいはできるはずよ。ほんとうに遼のことを心配したなら」
万里絵の言い方が遼の神経を逆撫でした。
「何が言いたいの」
「ヤガミ」
氷澄が妙な発音で遼を呼んだ。
逆光でシルエットになっていた万里絵を氷澄が押し退ける。
「こっちへ来い」
遼は、万里絵から顔をそむけるようにして、氷澄の後に従った。
最初に四人が着いた部屋で、氷澄は遼のほうに向き直った。
「ヤガミ、今度は我々のために働いてもらう」
青みがかった視線が遼を見据える。
「どういうことですか」
「桐原朝子がイェマドの遺産を受け取ったかどうかを確認しろ」
「なぜ……僕が……」
「赤い剣士と闘った際に、私は顔を見られている。桐原朝子か犯人だった場合、容易に近づけない。水緒美は全く彼女と関係がないので接触する理由付けが難しい。桐原朝子に近づき、彼女が裏次郎からイェマドの遺産を受け取ったかどうかを確認する役、君が最適任者だ」
「もちろん、厭なら断ってもいいんだよ。こんなこと、あたしらが頼める義理じゃないし。遼くんにも、引き受けなきやならない謂れはないんだからね」
水緒美はやさしく言った。
「何か、イェマドの遺産を発見する道具とががあるんですか。エネルギーを感知するセンサーとか」
「そんなものはない。今の人間の目には驚異のメカニズムでも、我々にとっては日常使う道具に過ぎない。わざわざ発見しなければならないような情況は考えられないからな。それに、イェマドの遺産は使う人間を選ぶ。ここには、君に貸せるようなものはない」
遼はうつむいた。もしもここで引き受けなければ、氷澄たちは彼等なりの方法で確認し、処分してしまうだろう。そして、遼がその経緯を知ることはないのだ。
万里絵のほうを見てみる。大きな瞳はそっぽを向いていた。
そうだ。これは、マンションを出る前に万里絵が言ったとおり、遼自身が自分の意志で決めなければならないことなのだ。
「……それでは、先生が裏次郎と会ったことの証明はできますけど、会わなかったことの証明とか証拠っていうのは無理ですよ」
「それは、あたしらがやったところで似たようなものさ。遼くんの判断に任せるよ」
「ただし、忘れないことだな、ヤガミ。君が柵原朝子への感情に負けて、彼女が真犯人であることを見落とし、あるいは見逃せば、狂気の殺人者が野に放たれることになる。我々にとっては、イェマドの存在さえ隠せればかまわないが、君には重荷になるだろうな」
遼はうなずいた。
「引き受けます。桐原先生が犯人かどうか、確かめに行きます」
「ちょっと待ってよ!」
万里絵が叫んだ。
「さっきから聞いてれば、やらなくてもいいとか言いながら、結局強制してるじゃない」
万里絵は遼の肩を掴み、強引に自分のほうを向かせた。
「遼、帰ろう。帰って、忘れようよ。――よく考えてよ、遼。これから先のことは、遼にできる範囲を越えてる。遼がしなくちゃならない範囲も越えてる。ここでやめても、誰も遼を責められないわ」
何故、万里絵が急にこんなことを言い出したのだろう?遼は万里絵の瞳を見た。
「僕は、闘うためにここに来たんだ。マーちゃんだって、そう言ったじゃないか」
「そうよ。そう言ったわ。でも、それは、遼のための、遼が自分のために事実を明らかにしようとして始めた闘いだったはずよ。この先は違う。危険ばっかりで、遼には何のメリットもない。そんなこと、する必要ないわ」
万里絵は遼の体を激しく揺さぶった。
「これ以上深くかかわると、絶対、遼が傷つくことになるよ。心配なんだよ、遼が。――覚えてる?昨日、ここで自分の行動について説明した時、遼は、自分のしたこと、隠しておきたいようなことまで、全部話したでしょ。誰だって、自分は大切だし、自分の身を守ろうとする、それが当たり前なのに、遼はそうしなかった。自分を傷つけるかもしれないほうでも、かまわず進んでいきそうで、怖いよ」
切羽詰まった、それでいて染み込むような語りかけだった。
「そう。イェマドについて江間さんたちから聞いたのは、昨日のことだったんだ。もう、ずいぶん昔みたいな気がする」
万里絵の目が、さらに大きく見開かれる。
「結局、僕は、自分が殺人犯かどうかってことしか頭になかった。殺された人たちのことなんて、何一つ考充ていなかった]
「それが普通よ」
「それに、僕が犯人じゃなかったら、誰か別に犯人がいるはずなのに、そのことも考えてみなかった。それから、捨ててしまったザンヤルマの剣の行方もわかっていない。全ての元凶、裏次郎だって健在だ。まだ事件は終わっていないし、僕がやらなけれぱいけないことが残っているんだよ。僕の闘いは終わっていないんだ」
万里絵は遼の顔を覗き込んだ。さっきまでは涙に濡れ、脅え、あるいは怒りに血走っていた目が、今は静かな光を湛えている。
「……僕は、僕はね、臆病な人間なんだ。それなのに、怒情が暴走しやすくて、抑えが利かない、そんな弱い人間なんだ。裏次郎が使った“巨大な力”っていう言葉に心を動かされそうになるような、ね」
そう言う遼の声は、瞳に宿した光と同様、静かで力強いものだ。
「だから、今度のことでは、脅えるばっかりで、役に立つようなことは何もできなかった。
――前に言ってたよね、僕を見殺しにしたら一生後悔することになる、そうはなりたくないって。僕も今そう思ってるんだ。これまでのこと全部に目をつぶって、耳をふさいでしまったら、僕は、これから先、ずっと後悔しながら生きていかなきゃならなくなる。僕は、そんなことに耐えられそうにない。だから、行くんだ。――誰かを救うためとかじゃない
し、何ができるってわけでもないのが情けないけど」
呆れたような、哀れむような、泣き笑いのような表情を浮かべた万里絵だったが、遼の肩に置かれた手には力がこもった。
「馬鹿だよ、遼は」
「そうかもね」
肩に乗った万里絵の両手を静がに降ろすと、遼は、二人の遺産管理人のほうへ向き直った。
「それで、どうしたらいいんですか?」
「とりあえず、朝まで待つとしようじゃないか。今、出かけていっても、時間が時間だからね」
遼が時計を見ると、夜明けまでにはまだ聞がある時間だった。
「それに、あのあたり一帯は、今は警官がうろうろしていて、とてもあたしらの行動できるような状態じゃないだろうしね。朝になったら、車で桐原朝子のアパートの近所まで送っていく。その後は、遼くん、君のやりたいよりにやっておくれ」
一度、家に戻るかと尋かれて、遼はうなずいた。
「八時に車で迎えに行くよ。橘マンンョンだったね」
「いいのか、水緒美」
「引き受けておいて逃げるくらいなら、最初から断っているはずさ。遼くんの性格ならね」
遼は冬扇堂を出た。万里絵が続く。
空気が凍るように冷たかった。街灯が落とす青白い光に照らされた道には、何一つ動くものもなく、そこだけ時間までが凍りついてしまったようだった。
遼は背中を丸めて黙って歩いた。隣を歩いている万里絵も何も言わない。
明日の朝には、全ての決着がついているはずだ。
――先生……。
もしも、万が一、桐原朝子が犯人だったら 。イェマドの遺産管理人たちに彼女を処分させるわけにはいかない。だが、たとえ彼女が自首しても、超常識的な話に警察が耳を貸すとは思えない。とすれば、彼女自身に彼女を裁いてもらうことになるのか。
――何を考えているんだ、僕は。
自分が犯人だった場合だけを考えていた時の苦しみが、またよみがえってきたようなものだ。
そして、もう一つ、ザンヤルマの剣の行方は、相変わらずわかっていない。誰かが拾って、持っていってしまったのだろうか? イェマドの遺産は誰にでも扱えるものではないという。ならば、拾っていった人間が剣を抜くことはできない可能性のほうが大きいだろう。
――僕が犯人でないなら、裏次郎の言っていた「剣を抜くことで得られる巨大な力」って、いったい何だったんだろう。それとも、単に、僕を囮にするためだけに、裏次郎はザンヤルマの剣を渡したんだろうか。
橘マンションの前まで来た時、万里絵が遼を呼び止めた。
「あしたは、あたしもついていくわ」
「駄目だよ、それは」
冬扇堂でのやり取りを思い出した遼は、さっきとは逆に、万里絵の肩を掴んでいた。
だが、万里絵の表情はあっけらかんとして、思い詰めたようなものは何も感じられなかった。
「いちばん最初に言ったでしょ?あたしは面白そうだから首を突っ込んでるんだって。だから、遼が負担に感じる必要はないわ。そのかわり、遼が遠慮しても駄目ってこと。わかった?」
そこまではっきり言われると、遼には返す言葉がなかった。
万里絵が、肩に置かれた遼の手に自分の手を重ねた。
「手、すっかり冷たくなっちゃったね」
遼はあわてて手を引っ込める。
「あしたは、うまくやろうね」
大きな瞳が光る。遼が何か言うより早く、万里絵は階段を駆け上がった。
「ありがとう、マーちゃん」
誰に聞こえることもない、遼のつぶやきだった。
*
遼は自室のベッドに行かず、毛布を体に巻き付けてソファで寝た。
少しでも眠っておかなければならない。最低でも体を休めておかなければ、行動に差し支える。興奮状態だったので眠れるかどうか心配だったが、スイッチを切ったように眠りに落ちた。そして、八時前には、やはりスイッチを入れたように目が覚めた。
いつも学校に行く時のように、学生服を着込む。ただし、鞄は持たない。
玄関を出る。日曜の朝、まだ寝ている人も多いのか、あたりは静かだった。
少し離れたところに、ありふれた型の白い乗用車が停まっていた。近寄ってみる。助手席の窓が開き、髪をアップにした江間水緒美が顔を出した。
「遼くんは承知してるのかい?――後ろの席に万里絵ちゃんがいるのさ」
「ええ」
万里絵が後部のドアを開ける。遼が乗り込むと、運転席の氷澄が車を出した。
車内には、途切れ途切れの無線の声が響き、タクシーを思わせた。だが、耳を澄ませてみると、それは警察無線のようだった。
「とりあえず、非常線は解かれたようだねえ」
古代の超文明の遺産を相手にし、自らもその文明の生き残りである人間がする行為にしては、警察無線の盗聴というのは、あまりにも常識的に思えた。
それにしても、この四人で検問に遭ったら、いったい何と説明するのだろう。昨日と同じようなグレイのスーツにきっちりと身を固めた氷澄。和服の水緒美。ジーンズの万里絵。
そして、学生服の遼。
「眠れた?」
万里絵がささやく。
遼はうなずいた。
万里絵は、飾り気のないジーンズの上下を着ていた。そして、デイ・パックが一つ。見掛けは普通のジーンズだが、昨夜のトレーニングウェア同様、特殊な繊維を使っているのかもしれない。そして、デイ・パックの中身も、思いもよらない道具なのかも。
「では、遼くん、今度の事件で使われている“遣産”について、わかっている範囲のことを説明しておこうかねえ?」
「――お願いします」
水緒美はシート・ベルトを締めたまま、器用に遼のほうを向いた。
「あれは、スポーツ用品みたいなものなんだよ」
「ゲーム用品といったほうが適当かもしれんな」
ハンドルを切りながら氷澄が口を挟む。
「要するに、刀を振り回して、溜まったストレスを発散させるための道具ってことだね」
「ストレスを発散させるために、辻斬りをやるの?」
「もちろん、試合としてやるんだから、相手も同様の装備をしているのさ、本来はね。あたしはやったことがなくて、詳しいことはわからないんだが、各人のオーダーメイドに近い品物だから、個々にチューンされていて、はっきりした性能は掴めない。ただ、最低限のルールはある。あの剣士の能力レベルは三段階。もちろん、詳しいところは知らないけれど、最低レベルが三体、次のレベルが二体。最後は、本人が最高レベルの剣士として闘うことになる。それが倒れればゲームは終了。戦闘データを元に、新しいゲーム用品を作らせるって寸法だ」
「昨日の夜、私は二体の赤い剣士を倒し、一体を作動不能にした。残っているのは中級レベルの二体と、遺産を持っている本人ということになる」
「それで、その遺産は、どんな形をしているんですか」
「わからないのさ、あいにくとね。さっきも言ったけど、あたしには、そっちのほうの趣味がなかったもんだからねえ」
遼は、膝の上で組み合わせた手を見つめた。捜し物がどんなものなのかわからないのでは、捜しようがない。
「ただ、そんなに大きなものじゃないはずだよ。指輪ほど小さくはないにしろ、プレスレットとか、ライターくらいの大きさのはずだよ」
水緒美の持っている遺産は白扇に偽装してある、裏次郎の使う武器はステッキそのものだった。一目見てわかるようなものではないだろう。
それにしても、氷澄が負傷しながらやっとの思いで倒したあの赤い剣士が最低レベルの力しか持っていないとは。残る二体、そして、本人が変身する最高レベルの剣士を相手にしなければならなくなったら、氷澄たちはどう立ち向かうのだろう。
「ところで、もしも桐原朝子が犯人だった場合、遼の安全はどうやって確保するの?」
「――遼くんの安全?」
水緒美が聞き返すと、万里絵は喉の奥でうなり声を上げた。
「もしも彼女が犯人で、遼がそれを見抜いたとしたら、見抜かれた彼女は遼の口をふさごうとするでしょ、当然。それをどうやって防ぐのかって尋いてるの」
「――確実な方法はないねえ」
水緒美はしれっと言ってのけた。
「あたしと丈太郎が援護する――それ以上できることはないねえ」
「援護って言ったって、桐原朝子からはわからないような場所からでしょ。万一の時に間に合うの?」
「不服なら、君がやればいい」
二人のやり取りに苛立ったのか、氷澄が口を挟んだ。
「私だって、無関係な人間に協力させて、事態を複雑にすることは望んでいない。だが、これほど我々に身近なところで、二人以上の人間に裏次郎が接触したというのは例のないケースだ」
「できるなら、あたしがやってるわ。……そうよ、あたしがやる」
運転席のほうへ身を乗り出した万里絵を、遼は押し止どめた。
「僕がやるよ、マーちゃん。僕がやりたいんだ」
「遼がそう言うなら、しかたないけど……」
万里絵は不満そうな表情のまま、シートにもたれかかった。
遼は窓の外を見た。昨夜、万里絵と一緒にバイクで走った道路だ。気のせいか、警宮の姿が目立つようだ。
「せめて、“守護神”を貸してあげられれば、いいんだけどねえ」
「なに、“守護神”って?」
万里絵に尋かれて、水緒美は守護神の概略をざっと説明した。
「すごく発達、細分化したオーダーメイドじゃ、傘の一本も他人には貪せないってわけね」
――雨が降っても、待っている傘は自分専用、他人はさすことさえできない――そんな、自分だけのための道具を発達させつづけたために、超古代文明イェマドは滅亡したのではないだろうか。
万里絵の皮肉っぽい言葉を聞きながら、遼はそんなことを思った。
「もしも、ゲームだっていうのなら、とにかくゲーム・オーバーにしてしまえば、遺産を操っていた人間も無事なはずですよね。何といっても、ストレス解消のためのゲームなんですから」
車が、桐原朝子のアパートに通じる道の途中で停まった時、遼は氷澄に尋いた。
「こちらも同じゲーム用品を使ってゲームをして勝つならばな」
氷澄の言葉は、遼のささやかな期待を消し去った。
「余計なことは考えないほうがいい。イェマドの遺産の有無の確認、それだけに集中しろ」
「はい」
遼は車を降りた。
白い乗用車は角を曲がり、すぐに見えなくなった。
万が一の場合には即時対応できるような場所で、氷澄たちは見ているはずだ。それなのに遼は、見知らぬ世界にたった一人で置き去りにされたような気がした。
アパートヘ向かう。一歩、一歩、踏み出すたびに足が重くなる。詰め襟が苦しい。
何を言おう?何と言って話を切り出そう? どういうふうに質問すれぱいい?彼女は何と答えるだろう?彼女の言葉から、声の調子から、あるいは表情から、自分は何かを読み取ることができるだろうか? やらなければならない。しかも、絶対に誤りのない判断を下さなけれぱならない。そして、やり直しはきかない――。
考えれば考えるほど、わからなくなる。頭がグラグラ揺れるようだ。
とうとうアパートの正面に来た。朝子の部屋は二階の右端だ。
鉄の階段を登る。三軒並んだいちばん奥。
手前の部屋は、玄関の窓のところに朝刊が挿さったままだった。
真ん申の部屋の前、玄関脇に置かれた洗濯機が、大きな音を響かせている。幼児か赤ん坊をあやしている母親の声も聞こえる。
日常の営みがたてる雑音の中に、超現実的な力を秘めた古代の遺産が眠っているというのだろうか。
目指す部屋のドアの前に遼は立った。
インターフォンのボタンを押す。
『どなたですか』
「二年B組の矢神です」
『――はい、今、開けます』
ドア・チェーンを外す音。さらに鍵を開ける音が二度してから、ドアが開き、柵原朝子が顔を見せた。
いつも化粧っ気の少ない顔だがら、日曜日の朝でも、学校で会う時とあまり印象が違わない。白いブラウスの胸元には、昨日と同じ銀色のブローチが光っている。どこといって変わったところはない、いつもどおりの朝子の笑顔がそこにあった。
「どうしたの、矢神くん、こんな朝早く」
遼は目をそらした。何と答えればいいのだろう。うかつな答えをして、本題に入れなかったら、何のために苦しい思いをしてここまで来たのかわからない。
「――とにかく中へお入りなさい」
答えない遼に、何か複雑な事情があると見たのか、朝子は遼を招じ入れた。
部屋の中は白一色だった。玄関クローゼットには白いレースの花瓶敷きが置かれ、その上にパール・ホワイトの一輪挿し。白い百合の造花が飾ってある。高校の保健室に飾ってあったのと同じものだ。本物と見聞違いそうなほどよく出来ている。
壁紙は白。ブラインドも白、テーブルにかけられたテーブル・クロスも真っ白だった。
「お掛けなさい。今、お茶をいれるから」
言われるままに、遼は手前の椅子を引いて、腰掛けた。
キッチンでは、食器の触れ合う澄んだ音がしている。その音を聞きながら、白い部屋の真ん中で、遼は自分の頭の中まで真っ白になっていくような気がした。
朝子が、紅茶の道具を盆に乗せて戻ってきだ。ティー・ポットに湯を注いで、しばらく待つ。
遼は、朝子の表情を盗み見た。別に、目が血走っているわけでもなく、頬が痙攣しているわけでもない。どこといって不自然な点は見当たらない。これが、人を一人、ハラバラに切り刻んで殺した人間の犯行翌日の表情だろうか。
銀のポットから白いカップに紅茶が注がれ、遼の前に置かれる。シュガー・ポット、ミルク・ピッチャー、レモンの輪切りの小皿も並べられる。
「どうぞ」
すすめられて、遼は一ロ紅茶を飲んだが、味などわからなかった。
正面に座った朝子もティー・カップを手にしている。その表情には、何の屈託も感じられない。
遼は、昨夜の万里絵の言葉を思い出した。
ほんとうに遼のことを心配したなら――。
遼は頬を撫でた。酔っ払いに殴られて、万里絵が手当てしてくれたところだ。まだ、湿布薬が張り付いている。
「それで、今日は何の用かしら」
朝子の声は、無邪気と言えるほど明るく、穏やかなものだった。一連の事件は全く関係なく、それどころか、遼が頬に張っている湿布薬までもが何かの間違いであるかのような気がしてきた。
「聞きたいことがあるんです」
遼は、朝子の笑顔から目をそらして言った。
「――先生は、裏次郎っていう人を知ってますか」
言ってから、遼はあわてて顔を上げた。どんなに嘘のうまい人間でも、予想外の人間の口から予想外の名前が出れば、一瞬の動揺が顔に出るかもしれない。
だが、朝子の顔には、質問の意味を解しかねている戸惑いの表清らしきものしか浮かんでいなかった。
「うらじろう?」
「黒いスーツを着た、中年の男の人です。身長は僕より少し高くて、がっしりした感じの」
朝子はカップを両手で包み、首を頷げた。
「名字は何ていうのかしら」
「僕も知らないんです」
朝子は、しばらく考えている様子だった。
「……あの人かしら。ステッキを持った……」
遼の心臓が胸の奏で跳びはねる。
「知ってるんですか」
「骨董品を扱っている人だったわ。髪の毛がボサボサして固そうな」間違いない。裏次郎だ。
手許でカチカチと音がする。遼の手が震え、持っているカップが小刻みに受け皿にぶっかっているのだ。
「それで、どうしたんですか?」
「どうしたって、別に何も。あたしに何かくれるって言ってたけど、断ったわ。変な人で、ちょっと気持ちが悪かったから」
遼の全身から力が抜けた。思わずぎゅっと目をつぶる。
――よかった!確かめにきてよかった!
相原朝子は遺産を受け取っていない。バラバラ事件とも無関係なのだ。確信が持てた。
もしも彼女が犯人なら、裏次郎と会ったことさえ認めないだろう。
「ありがとうございます。失礼します」
カップの紅茶を一息で飲み干すと、遼は立ち上がり、テーブルの脚につまずきながら、走るように玄関まで出て、ドアのところで一礼してがら外へ出た。
空を見上げるようにして大きく伸びをする。来た時の憂鬱な気分が嘘のようだ。
早く氷澄たちに報告しなければならない。遼は鉄の階段を駆け降りた。
「わっ!」
急ぎすぎた。足がもつれ、最後の数段を滑り落ちてしまう。
次の瞬間、遼は肩に灼熱感を覚えた。
「……………?」
肩を見てみる。学生服の黒い布地から光る棒が突ぎ出ていた。こわごわ指先で触れてみる。ピリピリした。子供のころ、アイロンに触ってみた時のことを思い出す。熱いのだ。
「あ……」
光の剣――。その正体がわかった瞬間、肩から体全体に激痛が走った。前のめりに倒れる。切っ先は抜けた。汗がどっと噴き出る。悪寒が背骨を掴み、体を強張らせる。吐き気がした。
青い人影が鉄の踏段の裏側から姿を現した。手に光の剣を持っている。転んでいなければ、胸を貫かれ、即死していただろう。
刺されたのは肩なのに、膝が震えて立てない。
青い剣士――昨夜の赤い剣士と同様の姿形をしているが、しっかりと立体感を持ち、色は鮮やかなコバルト・ブルーだ。同色の短いマントのようなものを肩から垂らしているのが一種の貫禄を感じさせ、赤い剣士より格が上であることを誇示しているかのようだ。そして、腕と膝の下に黄色い輪が三本ずつ。
剣士は一言も発することなく、剣を構え直した。
――殺される……。
恐怖よりも、目の前の現実に対する違和感が先立った。受け入れられない。こんなことは嘘だ。
銀の剣が遼を斬るよりも早く、白い飛鳥が間に入った。緑のエネルギー障壁が遼を守る。
――江間さん!
江間水緒美の白扇が発するエネルギーの壁が楯になっている間に、遼は這うようにして逃げた。
だが、青い剣士は、まるで割り箸で綿菓子を絡め取るように、剣でエネルギーを吸収してしまった。白扇は力なく地に影ちた。
「お待ち!」
再び刃を遼に向けようとした剣士に、水緒美の凛とした声が飛ぶ。
白扇が舞い上がり、水緒美の手に戻る。
ひと振り。先端から光の刃が伸びる。青い剣士のものに比べると細身の刃だ。
水緒美、切りかかる。
剣士、受ける。
青い火花が散った。二人の光の刃が砕け散ったかのように。
飛び離れ、間合いをとる二人。
その時、青い剣士の背後のプロック塀を飛び越えて、氷澄が切りつけた。
剣士は水緒美に対して身構えたまま、氷澄の刃を受け、はね返した。
背中から三本目の腕が突き出し、剣を構えている。
「なるほど、昨夜の赤い奴より能力的に上か」
超常の能力を持った一体の剣士を挟んで、氷澄も江間も身動ぎがとれずにいた。
遼はアパートの壁にもたれかかるようにして立ち上がった。肉が焼けてしまったのか、肩の傷は出血していない。転んだ拍子に膝が擦り剥けて血がにじんでいたが、歩けないということはなかった。
階段を上かる。昨日の夜、万里絵が言ったことが頭の中によみがえる。負傷しても持ちこたえる体力、適切な応急処置ができる知識、そして、自分は絶対に死なないんだと思うことのできる精神的なタフネスー・。
最初の二つは自信がなかった。三つ目だって……。
――死なないぞ。死んでたまるか。
二階にたどり着く。よろめくようにいちばん奥まで行き、桐原朝子の部屋のドアを乱打する。
ドアが開く。
「先生!」
朝子の表情は、ほんの数分前と変わらなかった。
「死ななかったのね、矢神くん」
朝子の表情は変わっていなかった。
遼の意識の中で、何かが変わった。
白い盃の絵が、何一つ手を加えずに、向かい合う二人の人物の横顔のシルエットに変化する。黒い部分と白い部分のどちらに注目するかで、同じ図形が全く別の意味を待つ――
心理学の解説書に載っている図のようなものだ。遼は、注目すべき部分を間違えていたのだ。いつもやさしい、穏やかな笑顔が、今は仮面のように見えた。
「先生……僕をだましたんですか……」
朝子が裏次郎と会ったことを認めたため、遼は、その後の「品物は貰っていない」という話を信じ込んでしまった。一つの嘘を信じさせるために、一〇のうち九まではほんとうのことを言う。嘘を見破られないために、あえて不利な事実をぎりぎりまで認める。だましの王道とも言うべきテクニック。
朝子の表情は変わらない。
涙が溢れてきた。
だまされた悔しさ、裏切られた悲しみ――そんな状態はとうに通り越していた。信じて、恐れて、怒って、泣いて、祈って、安堵して……一生のうちに経験する感情の極限を一昼夜で味わわされた心は、疲れ果て、反応する余力さえ失ったかのようだった。それでも、朝子が自分をだましたのだと知り、全く変わらない表情を見た途端、熱いものが遼の胸に込み上げ、目から溢れたのだ。
「離れてちょうだい。部屋を血で汚されたくないの」
朝子の表情は変わらなかった。
胸元で銀色のブローチが歪んだ金属光沢を放っている。
――あれが“遺産”!
遼がブローチに手を伸ばすより早く、光の刃が二人の間を遮った。二体目の青い剣士が遼の横に立っていた。
「さあ、離れて」
――先生……先生……。
光る刃よりも、朝子の声に押されるように、遼は階段のほうへ歩いていった。涙を流しながらも、殺されることへの恐怖は感じなかった。
ドアを閉めようとした朝子の動ぎが止まる。
「遼を解放しなさい」
メゾ・ソプラノの声に、首筋に当てたナイフが力を添える。マンションでしたのと同じように、万里絵は窓から朝子の部屋に侵入していたのだ。要求を再確認するかのように、鈍く光るナイフが朝子の喉元で存在を主張する。
遼を追い立てていた光の剣は引かれ、青い人形は一瞬で消滅した。
すかさず万里絵が朝子の胸からブローチをもぎ取ろうとする。
「マーちゃん、危ない!」
青い人形が万里絵の背後に現れた。赤い剣士と追って、出現と消滅に要する時間がほとんどゼロなのだ。
朝子の体を楯にするようにして、万里絵が身をかわす。プローチの奪取はかなわなかった。
体を転がした万里絵は、遼の前で立ち、身構えた。
油断できない。今、桐原朝子の後ろにいる剣士が、いつ何時、遼たちの背中から襲いかかるかわからないのだ。
遼の恐れたとおり、剣士の青い姿が消える。
遼は背後に注意を向けた。
「遼!」
次の瞬間、遼は万里絵に突き飛ぱされていた。剣士は遼の予想とは逆に、万里絵の正面に現れていた。
万里絵の手からナイフが弾かれる。
己の力を見せつけようとしてか、光の剣はナイフを空中で受け止めた。研ぎ澄まされた鋼の刃は、赤い雫となって飛び散った。
得物を失いながらも、万里絵は身構えた。
「……遼……ごめん」
万里絵の背中が謝る。
遼がロを開く前に、万里絵は背中を向けたまま、それを差し出した。ガム・テープでグルグル巻きにされた、三〇センチほどの棒――ザンヤルマの剣!
「公園で拾ったの。あの時、あたしもそばで見ていたのよ。でも、どうしていいかわからなかった。こんな時に返すのは、いいことだと思わないけど、遼なら絶対間違った判断は下さないって、あたし――」
じりじりと間合いを詰めていた青い剣士が消えた。瞬間に現れ、消えられる剣士には間合いなど意味があるまい。
遼の中で時間が凍りついた。
この短剣は、抜くことのできた人間に強大な力を与えてくれる……花のうちでは百合がいちばん好きよ……今の人間たちは愚か者ばかり……遼が傷つくことになるよ……狂気の殺人者が野に放たれることになる……月曜日には元気で出てこいよ……遼には、心配してくれる人がいるんだよ……死ななかったのね、矢神くん……遼なら絶対間違った判断は下さないって……。
いくつもの言葉が、声が、頭の中で渦巻いた。
確かなのは、鼓動が伝わりそうなほど近くにいる万里絵と、手の中の剣――。
二人の正面、正確に必要な距離だけをおいて人の形をした青い死が現れた。
遼の網膜がそれを捉え、視神経が大脳へ映像を伝える―人間には意識できないわずかな時間のうちにも、光る刃は遼の命を断ち切ろうと迫る。
青い剣士の出現を認識したその瞬間、遼は自分でも気づかずにイメージを浮かべていた。
いつかの夜、波形の鞘から変化させた真っすぐな刀。鏡のょうに光を反射し、それ自体が発光しているのではないかと思うほどの、一点の曇りもない刀身。それが、光の剣を受け止めている――。
澄んだ音を響かせ、透明にも見える刃が光の剣を受け止めていた。
さっきまで、傷ついた肩をかばうようにして背中を丸めていた遼が、両手で剣を構え、万里絵の楯になるかのように前に出て、足を踏ん張っている。
遼と青い剣士のまわりに黒い花びらのようにふわふわと落ちてきたのは、焼け焦げて四散したガム・テープの残骸か。
だが、この鍔競合い、明らかに剣士のほうに分があった。押されているのが遼白身にもわかった。
「むん!」
渾身の力で押し返す。同時に剣士もここぞと力を込めた。
磁石の同極のように、二人は飛び離れた。
遼が体勢を立て直すより早く、剣士が切りつける。思いもよらない角度から切り込んでくる切っ先を、ザンヤルマの剣は素早く受け、弾き返す。
非現実的なコバルト・ブルーの体と、肩に穴の開いた黒い学生服が再び間をとった。
――よくやれる……。
肩で息をしながら、遼は感心していた。
遼が剣をふるっているというより、剣が遼を操っているというほうが正確ではないか――遼の実感である。
不意に、真ん中の部屋のドアが開き、洗濯籠を手にした主婦が顔を出した。
剣を手に対峙する遼と異形の剣士の姿に悲鳴を上げる。
剣士は無造作に剣を垂直にふるった。
苦痛のうめきをあげる間もなかった。まるで写真をカッター・ナイフで切るように、主婦は唐竹割りにされた。
遼の思考が空転する。人間があまりに呆気なく真っ二つの縦割り死体になってしまったことが受け入れられないのだ。
『嫌いよ、中年の女なんて。無教養で、下品で、不格好なくせに、結婚しないで働いている私を変な目で見て、女として欠陥があるんじゃないかって、いつも陰で笑い物にしている。あてつけがましく幸せそうにして。死んだのね。いい気味だわ』
遼の思考の空白に、けたたましい嘲笑が響いた。
――これは……この声は……。
泣き声があがる。母親の無残な姿に、五歳くらいの女の子が顔中を涙でグシャグシヤにしながら泣いている。
『嫌いよ、子供は。うるさくて、不潔で、ずうずうしくて』
青い剣士は部屋の中へ女の子を突き飛ばした。火のついたような泣き声が遼の耳を打つ。
遼が動くより早く、剣士は部屋の中へ消えた。
「やめろーっ!」
ふっつりと泣き声が途切れた。
その静けさの意味に、遼は震えた。
『いい気味だわ』
遼は剣を構えた。それは、あたかもザンヤルマの剣が、それ自体の意志で静かに起き上がっていくようだった。
青い剣士が再び消える。
だが、遼は、頓着しない。
「遼……」
万里絵のつぶやきも耳に届いていない。外界の全てを意識から遮断してしまったような静謐さである。
そして、次の瞬間、それが起こった。
氷澄、水緒美の二人掛かりで立ち向かっても、青い剣士は強敵だった。
最初に構えた光の剣に加え、背中から現れた腕に一本、空いていた手にもう一本。さらに、隠していた腕が三本、それぞれに剣を持って現れ、氷澄と水緒美の二人で、六本の剣を相手にしなければならなくなった。
一本の腕がカバーする空間は広い。六本の腕がそれぞれに剣をふるえぱ混乱が起こりそうなものを、実に見事な連携で攻めてくる。
氷澄が切りかかるのを二本が受け、空いた氷澄の胴を一本が突く。顔を狙ってもう一本が空を切る。残った二本のうち一本が水緒美を連続して攻め、最後の一本がとどめの機会をうかがう。
「水緒美、こちらへ来るな。動ぎがとれなくなる!」
「こっちも、そうしたいのはやまやまだけどね 」
アパート脇の狭い空間。かえって、氷澄と水緒美のほうが、互いに相手の邪魔になっていた。
「ヤガミリョウなど放っておいて、桐原朝子を始末していれば、ことは簡単に片付いたんだ!」
必死の思いで見つけた一瞬の隙に氷澄が放ったエネルギー球も、十字に組み合わせた光の剣に吸収されてしまう。
「水緒美、私が突っ込む。その間にエネルギーの全量を撃ち込め」
「馬鹿お言いでないよ」
「他に手はあるまい」
氷澄が“守護神”を制御し、自分の前面に力場を集中させ、青い剣士に突進しようとした時だった。
何の前触れもなしに、青い剣士の姿が消えた。
「どういうことだ……」
氷澄は力場を拡散させ、あたりを探った。
「上?」
「遼くんたちのほうへ行ったんだ!」
鉄の階段は、輝く剣戟のとばっちりでぼろぼろになっていた。
「飛ぶよ」
「うかっに出ると危険だ」
「そんな場合かい!」
水緒美が白扇を一度鳴らすと宙に舞い、氷澄が続いた。
運動選手や職人が一流の域に達すると、道具が自分の体の一部になるという。実際、道具を扱っているという感覚がなくなると語る人間は多い。道具のすみずみにまで触覚が張り巡らされ、時には視覚すら感じるという。そして、切るべき場所に刃物が滑り込み、ボールが来る場所にバットのほうが吸い込まれる。あるいは、ボールがバットに引き寄せられる。それも、バットを握っている人間にとってはごく自然に。
遼に起こったのは、この感覚を何千倍、何万倍にしたような感覚だった。それが一瞬に起こった。
それまで、単なる物体であり、遼の肉体にとっては外部の存在、異物であったザンヤルマの剣が、肉体の一部へと変化したのだ。いや、この言い方は正確ではない。人間が自分の手足に感じる感覚が、剣にまで感じられるようになったのだ。それも、剣を持つ手による知覚ではなく、まさに、自分の手を意識するのと同じ感覚で。
遼の意識に剣の機能が直結した。
遼はザンヤルマの剣を構え、ありったけの力を込めて切りつけていた。
剣は、何もない空間を虚しく通過するかに見えた。だが、そこに青い剣士が出現した。
まさに、切られるために、剣の来る場所を選んで出現したとしか見えない。あるいは剣が引き寄せたのか。
その時、ザンヤルマの剣は、武器であるばかりでなく、センサーでもあった。さらに、遼の行動をサポートするアドバイザーであり、コントロール・タワーでもあったのだ。
青い剣士の出現も、所要時間が完全にゼロというわけではない。前兆がある。
ザンヤルマの剣は、その有るか無きかの現象を捉え、その意味を遼の意識に送り込んだ。
周囲の情況、特に万里絵と桐原朝子の位置についての情報に基づき、防御、反撃という目的が意識されると、剣と遼がたどるべき最良の道筋が明らかになる。そのとおりに、遼はザンヤルマの剣をふるっていた 。
一瞬のことだった。
ザンヤルマの剣が青い人形を斬る。剣に引っ張られるようだった遼が、いつしかありったけの力を剣に込めている。剣は、出現した青い剣士の体を肩口から斜めに切り下げていった。
ダメージが、持ちこたえられる範囲を上回ったのか、コバルト・ブルーの体は五色の閃光を放って消滅した。
色鮮やかな光の中で、遼は次の行動に移り、終了させていた。
ついさっきまで氷澄たちを相手にしていたもう一人の青い剣士の出現を予知し、個別に目標を狙う六本の剣のうち万里絵に向けられた二本を切り落とし、青い胸の真ん中を貫いた。昨夜、氷澄が倒した赤い剣士の時と同様に、正確な真円の虹色の光輪を遺して二体目の剣士も消滅する。
駆け付けた氷澄と水緒美が目にできたのは、二つの光輪が消えようとする光景だけだった。
遼は剣を片手に立っていた。常人を超える動きをし、体の各所に無理な力も加わっていただろう。だが、それを感じさせない自然な姿で、いや、いっもの猫背を真っすぐに伸ばして、遼は立っていた。
「遼――」
剣をふるうのに邪魔にならない距離をおいて万里絵が立つ。
氷澄と水緒美は、空中に留まっている。
そして、ザンヤルマの剣を構えた遼の正面に、桐原朝子がいた。
「裏次郎から受け取ったものを渡してください」
遼が差し出した手を、朝子は拒んだ。
「いや……」
氷澄の居るほうでエネルギーの高まりが感じられる。
「いやよ!」
朝子の叫びをきっかけにしてか、氷澄がエネルギー球を放つ。遼は飛び出しざま、斬った。
ザンヤルマの剣はエネルギーの塊を真っ二つにし、青い剣士か水緒美の白扇のバリアーを剣で吸収したのと同じように吸収してしまった。
だが、その隙に、朝子は最後の剣士を繰り出していた。
胸元の銀色のブローチから光が溢れる。そう、発光したというより、強い金属光沢を持った液体が流れ出したようだった。滑らかな金属の輝きが朝子の全身を覆う。
エネルギー球による攻撃を中断させた遼が再び朝子のほうへ向き直った時、そこに立っていたのは、最強の力を秘めた白銀の剣士だった。流れるような曲面で構成された銀色の体。上腕部と膝の下に薄紫色の輪が一本ずつ。目に当たるところにはゴーグル状の桃色の部分があり、そこだけ透けているように見える。頭頂部からは、長い髪の毛のような尼僧のベールのようないぶし銀の膜が広がっている。
それは肩を越え、マントのようになびきながら、空中に溶け込むように消えていた。美しくもあやしい、人間的でありながら、これ以上はなく非人間的な姿。持っているのは底知れぬ力。その考えていることは予想もつかない。
白銀の剣士は、剣を抜くこともせず、いぶし銀のマントを翻すと、消滅した。花びらの
ように漂う薄片は、途中から透けて消えている銀の膜の破片だろうか。
「ヤガミ、この馬鹿が!」
氷澄が空中から舞い降りるなり、遼の襟首を掴んだ。
「あれが、柵原朝子を処分する最後の機会だった。我々の武器では、あの最強レベルの剣士には歯が立たないかもしれんのだぞ」
「殺させない。先生は殺させません」
「まだ、そんなたわ言を――」
水緒美と万里絵が二人を分けた。
「ちょっと、今にもあの銀色のが現れるかもしれないだろう」
水緒美の言葉に、遼はぞっとした。と同時に、柵原朝子を人間扱いしていないことに多少の引っ掛かりを覚えた。たとえ、奇怪な姿に変貌しているとしても、あれは人間なのだ。
それも、救わなければならない……。
氷澄の青みがかった目が遼を見た。険のある光を浮かべていた。
遼はにらみ返した。
その時、眉間の裏側で、きな臭い光が破裂した。
「危ない!」
見えない刃、それも、人間が操るには大きすぎる刃が、アパートの建物を横薙ぎにして
いた。斜めに入れられた切断面に沿って、建物の上半分が遼たちのほうへ彫り落ちてくる。
『嫌いよ、こんなアパート。安っぽくべ不潔で。無くなってしまえばいいのよ!』
遼の順にまた声が響く。
「飛ぶんだよ!」
遼の手を掴んで水緒美が空へ舞った。
「マーちゃん!」
氷澄が万里絵の体を抱きかかえていた。
さっきよりもはるかに高度をとって、水緒美たちは飛んでいた。
重力に逆らう力が加わっているのは水緒美と氷澄だけのようだ。遼は鉄棒で懸垂している時と同じように、腕に全体重がかかっているのを感じた。
風が強い。和服の水緒美は優雅とも言える姿で、髪の毛一筋すら乱れていない。それにひきかえ遼の目の前では、吹きなぶられた前髪がうっとうしく踊っていた。
足のずっと下のほうで、緑の屋根のアパートは周囲に土煙を撒き散らしながら崩れていた。人が集まりはじめている。
『いい気味だわ』
声がした。そして、遠くなった。どこへ消えたのだろう。追わなければならないというのに。
「降りる場所を選ばなくちゃねえ。タイミングも見極めないと」
水緒美がひどく実際的なことを言った。
「あそこはどう?」
万里絵が指さしたのは、この辺でいちばん高そうなビルである。
一行は、そのビルの非常階段の踊り場に降りた。
「今度は、このビルを真っ二つにするかもしれんな」
氷澄の言葉に冗談の響きはなかった。
「――いえ、もう、この近くにはいないはずです」
「なぜ、そんなことが言える?」
「さっき、声が聞こえたんです。そして、遠くへ行ってしまった……」
「……あたしには何も聞こえなかったけどねえ……」
「こんなアパート嫌いだ、壊れてしまえばいい、いい気味だって」
あれは朝子の声だった。隣室の主婦と子供を殺した時にも響いた声。
「学校じゃないかしら」
唐突に万里絵が言った。
「彼女が人を殺した理由が、利害とかじゃなくて、嫌悪の感情によるものだとしたら?
アパートの破壊も、もちろん、あたしたちを殺す意味もあったんでしょうけど、日ごろの嫌悪感が爆発したからだとしたら?」
「――確かに、柵原朝子が職場を愛していたとは思えんな」
「行こう、丈太郎」
「行って、どうするんですか」
「処分する」
「させません」
「止められるなら、やってみろ」
氷澄の手から光の刃が伸びる。
遼も再びザンヤルマの剣を構えた。
狭い踊り場に緊迫した空気が流れる。
「やめなさい、遼」
二本の剣の間に万里絵が立ち、曲げた肱で剣を制した。
「どいてくれよ!」
思わず激しい言葉が出ていた。
だが、万里絵は大きな瞳で静かに遼のほうを見据えた。人を引き込むょうな、不思議な目だと思った。
「一つだけ確かなことは、ここで二人が剣を交えていても事態の解決には何の役にも立たない、つまり彼女は肋けられないってことよ」
遼は唾を飲み込んだ。確かに万里絵の言うとおりだろう。貴重な時間が失われていく。
こうしている間にも、朝子は刃をふるい、犠牲者を増やしているかもしれない。
「とにかく一時休戦。鵬翔学院へ急ごうじゃないか?」
江間の言葉に、遼はうなずき、氷澄は渋々刃を引っ込めた。
*
パトカーや救急車が、崩れたアパート目指して集まってきた。
混乱に乗じて、遼たち四人の乗った白い乗用車はその場を離れた。
遼はザンヤルマの剣を抱くようにして持っていた。狭い車内では邪魔だし、他人に見とがめられたら面倒だし、何ょり抜き身の剣は危険だ。遼としてもしまいたいのはやまやまだが、鞘に収めてしまうと、遼は仮死状態に陥ってしまう。それを避けるためには、臨戦状態の剣を抱くのも、やむを得ながった。
「傷がふさがりかけてるわ」
デイ・パックの中から応急セットを取り出して遼を手当てしようとした万里絵が言った。
左肩を見てみる。裂けた学生服の奥、焦げたワインャツの下にあるはずの傷は、かさぶたを剥いた跡のような薄桃色の皮膚でふさがれていた。
「痛みはないの?」
「ない」
万里絵は、狭い車内で器用に身を屈めて、遼の膝を見た。
「こっちの擦り傷は完全に治っているわ」
身を起こしてそう言うと、万里絵は応急セットを前の席に回した。
「その剣には、“守護神”の力もあるってことかねえ」
絆創膏を貼りながら水緒美が言う。
それ以上の力があるはずだ。遼は目を閉じ、シートにもたれかかった。
体が熱い。内臓一つ一つの活動する状態、血液を始めとする体液が循環する様子、細胞の一個一個の活動が感じられるようだ。体が活発になりすぎて、恐いくらいだ。
それでいて、涼しいような爽快感が全身を包んでいる。
遼は、腕の中の剣を意識した。
遼の体を活性化し、同時に外界の必要な情報を感知し、伝えてくれる。そして、恐るべき剣士二体を一撃で葬り去った。だが――。
――先生を助けられるだろうか。
剣の力は“大いなる力”と呼ぶにふさわしいものだった。だが、遼には、もっと巨大な、予想もできないような力があるょうに思えてならない。
――その力で、先生を……。
体が熱い。剣の力が、遼の貧弱な肉体を煮えたぎらせ、弾き飛ばしてしまいそうだ。
剣を抱いたまま、遼はしばしの休息をむさぼった。
車は鵬翔学院高校から少し離れた路地に停まった。
「ヤガミ、とりあえず協定だ」
ルーム・ミラーの中で氷澄の青みがかった瞳が遼を見据えた。
「君は桐原朝子を助けたい。いいだろう。やればいい。ただし、失敗したら私がやる。私が引き継ぐ。私の流儀で処分する。異存はないな?」
遼はうなずくしかなかった。
「そのかわり、僕が諦めるまで、絶対に手出ししないでください」
ルーム・ミラーの中の氷澄の目が細められた。
「いいだろう。――行くぞ」
二人は車を降りた。
校庭には、運動部員の姿も見えなかった。日曜日の、まだ九時前だ。比較的朝の早い野球部、サッカー部の姿も、今日はまだ見えない。
薄曇りの空の下、人気のない学校は、平日に通っている時とは全く別のものに見えた。
いや、恐ろしい敵が潜んでいるという緊張感が、違ったように見せているのかもしれない。
二人は校門を抜けた。
「何か感じるか」
氷澄の声に遼は首を振った。
「まずは彼女の職場に行ってみるか」
氷澄が先に立った。
剣をぶら下げたまま、校庭を突っ切る。誰よりも自分が悪いことをしているような気持ちになる。
「ヤガミ――」
氷澄が顎で示した方向に、白い手足と、体操服の胴体か散らばっていた。
遼は眉をひそめた。すでに桐原朝子は校内にいて、犠牲者を出してしまった。微風に乗って、かすかに血の匂いが感じられるような気がした。
眼鏡を外し、ポケットに挿す。
「――視力、回復したのか」
「はい」
「その剣の“守護神”としての機能、かなりのものらしいな」
周囲に何も遮るもののないグラウンドを歩いていく。意識が張り詰めているためだろうか、不思議に恐いとは思わなかった。
二人は、見えない刃の襲撃を受けることもなく、昇降口までたどり着いた。
薄汚れたコンクリートの壁。四階建ての校舎の壁に規則正しく並んだ窓が、虚ろに空を見る薄暗いガラスの目のようだ。
無意識に自分の下駄箱へ行こうとするのを、氷澄が冷笑とともに止めた。
土足のまま校舎に入る。
玄関を入ってすぐ左に行ったところに保健室がある。ドアは閉じられたまま、部屋の明かりも点いていない。
氷澄は遼を見た。遼はドアの正面に立った。この中で待ち伏せしているとしたら、確実に餌食になるだろう。
ザンヤルマの剣に意識を移す。
息をひそめている気配が伝わってくる。まるで脅えているような。
遼は剣をぶら下げたまま無造作にドアを開けた。
間髪を置かず、見えない刃が飛んできた。
剣が立ち上がって、それを受ける。
体に直接当たらなかったが、遼は反対側の壁に叩きつけられていた。
後頭部を抱え、身をよじる。脊椎に損傷がなかったのがせめてもだ。
黒い糸のような切れ目が保健室のほうから天井を走る。蛍光灯が真っ二つになる。見えない巨大なギロチンの刃が降ってくるように、黒い切れ目が伸びてくる。
剣で受け止める。剣と刃がぶつかった瞬間、頭上に迫る壁のような刃が、発光して見えるようになった。
氷澄がエネルギー球を放つ。青白い電光が刃の上を走り、見えない死の大鎌は砕け散った。
『子供は嫌い。うるさくて、不潔で、ずうずうしいから!』
アパートで聞いたよりも生々しく朝子の声が遼の頭に響いた。
残響のように、見えない刃が四方八方へ飛ぶ。
氷澄がバリアーを張った。
「氷澄さん、手出しはしないって約束でしょう?」
「このバリアーも、余計な手出しだったか?」
木のドアが切断され、倒れる。
壁がえぐられ、コンクリートの中から鉄筋が飛び出す。
破壊は廊下だけでなく、室内にも及んだ。
衝立て、ベッド、事務机、椅子……撫で斬りにされ、脚を切り倒され、パイプが寸断される。窓ガラスが色のないモザイクとなって桟から飛び出す。
『嫌いよ、こんな部屋!薄汚い高校生が寄り集まってくる不潔な部屋! いやらしい目で私を見たりして!無くなってしまえばいいのよ!』
見えない刃が新たな犠牲に襲いかかるたびに、氷澄の張った光の壁が激しく明滅を繰り返し、氷澄の体までが揺れる。
「どうする、ヤガミ。これでも桐原朝子を救うのか?」
皮肉ともとれる表情を浮かべた目が遼を見る。遼は剣の無力を感じた。
――違う。無力なのは僕だ。
何も打つ手がなければ、氷澄の処分の手に朝子を委ねることになる。
「そろそろ天井が落ちるな」
重いものを転がすような音がして、ささくれだったコンクリートの板が落ちてきた。
「僕は諦めません!」
叫びながら遼は身をかわした。氷澄は反対方向に跳んで避けた。
立ち込めるほこりの中、遼は保健室へ歩を進めた。
「先生……」
呼びかけに、かすかに反応の気配がある。
ザンヤルマの剣は、依然としてセンサーとしての役割を果たしている。コンクリートすら切り裂く見えないエネルギーの刃を吸収することもできる。だが、遼は無力だった。剣をどのように使ったらいいのか、わからない 。
青い剣士を相手にした時は、ひたすらに攻撃だけを考えればよかった。相手は、超文明の遺産が生み出した影にすぎないのだから。
だが、今、遼が相手にしているのは、たとえ外見が変わり果て、恐るべき破壊力を振り回しているとはいえ、人間なのだ。それも、遼のよく知っている……。
目の前で無残な人殺しの現場を見た時に湧き上かった怒りは、青い剣士を倒したことで冷めてしまったのだろうか。あれを操っていたのは桐原朝子だというのに……。
見えない刃の強襲が遼の思いを断ち切る。
ほとんど意識せずに剣が立ち、見えない刃を砕く。
『嫌いよ、陰気くさくて、脅えた目で私を見るあなたなんか! 死んでしまいなさい!』
見えない刃は、横殴りの暴風雨のように襲いかかってきた。
息をつく間もなく、剣が走る。無数の凶暴なエネルギーを粉砕する。
「先生!」
叫びとともに遼の体が走った。剣に引かれるようにして、剌の上を添ったと言うほうが正確かもしれない。
そのまま、破壊の根源、絶叫を発する源へ剣を一閃させる。
金属的な悲鳴が響く。
身を強張らせる遼。
アパートで見せた銀色の姿が空中からにじみ出る。だが、その体には、傷一つない。
「先生、もうやめてください」
『死んじゃえ!』
叫びがそのまま刃物となって飛んでくるようだ。かろうじて剣で受けた。だが、体がバランスを崩して転がる。
その隙に、銀色の朝子は中空に舞っていた。崩れた天井の亀裂から二階へ抜ける。
『嫌いよ、こんな学校!消えちゃえ!無くなっちゃえ!』
コンクリートを切断する音。崩れる壁がたてる響き。
剣を杖にして立ち上かった遼は、ようやく階段にたどり着くと、二階へ上がった。
窓ガラスが次々に割れる。
「やめて。やめてください」
破壊のエネルギーの軌跡をザンヤルマの剣で寸断する。
いぶし銀のベールを翻し、銀色の顔が遼のほうを向いた。
「先生……先生は、こんなことする人じゃないでしょう。もうやめてください」
鋭利なエネルギーの切っ先が返事だった。
ためらいが隙を生んでいた。
肩が裂け、血しぶきが飛ぶ。
遼が床に転がると、天井が落ちてきた。
剣が走る。遼を頭上から押し潰そうとするコンクリートの一枚板を切り刻み、直撃を避ける。
銀色の朝子は、その隙にまたも宙に身を躍らせていた。
ザンヤルマの剣には、傷ついた遼の体を回復させる“守護神”の能力があるらしいが、即時の再生は無理らしい。遼は肩をかばい、くじいた片足を引きずりながら、朝子を追って三階へ上がった。
薄暗い廊下には、人の気配はなかった。ぼっかり空いた床の穴と、そこから舞い上がるほこりだけが、さっきまでの死闘と破壊の証明だった。
――そうだ、氷澄さんはどうしたんだろう。
一階で、落ちてくる天井を避けた時に、反対方向へ逃れたのを見たきりだ。
不意に固い音が響き、遼は剣を構えた。
音に続く動きはない。どうやら、崩れた天井…の一部が、さらに下へ落ちたらしい。
ザンヤルマの剣のセンサー機能を最大限に働かせる。だが、引っ掛かるものはない。何とかして、朝子を見つけなければならない。だが、見つけてどうする?
――やめさせなければ。
しかし、今の状態の朝子が遼の言葉に耳を傾けてくれるとは思えない。
――どうすればいいんだ。どうすれば……。
眉間の裏側に黄色い閃光が走る。
遼は後方へ跳んだ。
それまでの遼のいた位置に、コンクリートの塊が落ちてくる。
――四階!
階段へ走る。
踏み出す足のかかとを追いかけるように階段がえぐられる。
踊り場で、またしても透明なギロチンの刃が降ってきた。巨大な刃が時計の振り子のように真横から襲いかかる。
昔、英語の副読本で呼んだE・A・ポーの短編小説を思い出す。
床に伏せる。さっきまで背にしていた壁に穴が開き、崩れる。
遼を立ち上がらせまいとしてか、天井を破って、第二の刃が降ってくる。
体を転がし、落ちてくる刃を横殴りに払う。
重い手応え。青い電光がひらめき、刃は消滅する。
立ち上がって、四階への階段の残り半分を上かる。
今度は、階段を滑り落ちるように襲いかかってきた。
剣を真っ向から振り下ろす。
踊り場まで落っこちながらも、見えない刃を両断する。
『死んじゃえ! あんたなんか、死んじゃえ!』
子供が泣きじゃくるような声が響く。
その声を頭から振り払うように、遼は一気に階段を駆け登った。
自分に何ができるかは考えなかった。桐原朝子が見えないエネルギーの刃を放つのなら、ザンヤルマの剣で受け、無害化する。彼女が破壊を続けようとするなら妨害する。そう、力の続く限り。
遼がたどり着いた時には、四階にも朝子の気配はなくなっていた。
――もっと上――屋上か。
奥のほうの教室で、ガラスの割れる音がする。
遼が駆け付けると、今度は、反対の端の教室でガラスの割れる音。
そちらに気を奪われた瞬間、見えない刃は教室の外から遼を狙った。割れた窓ガラスを引き連れて、研ぎ澄まされたエネルギーが遼を襲う。
――!
エネルギーは剣で吸収できた。だが、窓ガラスの破片が体の各所をかすめ、切り裂く。
「つうっ!」
皮肉なことに、超現実の力よりも、ただのガラスの破片の与えるダメージのほうが強力だった。思わず膝をっく遼。左の二の腕を押さえる。血は溢れ出て、床にしたたった。ふくらはぎにも濡れた感じと痛みがある。身を縮めるようにして、遼はひたすら耐えた。
蛍光灯が落ちてくる。鈍い破裂音。面白がっているのか、直接遼を狙わず、体に触れるか触れないか、ぎりぎりの位置に落ちてくる。
またも眉間の裏にきな臭い光が飛ぶ。
床を蹴る。
コンクリートの破片が降ってくる。
床の上で背泳ぎするような格好で、遼は教室から逃れた。
立ち込めるコンクリートの粉にむせる。咳き込む遼の眼前に、銀色の滑らかな脚が二本、立った。
薄赤い光が伸び、遼の顔面に突き込まれる。
片手で構えた剣で、かろうじて受ける。
『ウフフフフフ……』
笑い声が聞こえる。いや、触れ合った剣から伝わってくるのか。
「何が、おかしいんですか!」
赤い光の剣を払い、間合いをとろうとする遼。だが、膝が伸びない。片膝をついたまま、朱色の血の帯を後に残しながら、遼は後ずさった。
『みっともない。いい格好だわ!』
確かに、不様に床を逃げ回る遼とは対照的に、銀色の剣士と化した朝子は美しかった。
銀色の光沢。滑らかな曲線で構成された体。すらりとした立ち姿。赤く輝く光の剣。全てが美しかった。美しくて残酷な姿だった。
――駄目だ。このままじゃ駄目だ。
気力を奮い起こす。ザンヤルマの剣の肉体回復機能もそれに応えたのか、なんとか脚に力が入る。
一度、靴が血で滑ったが、どうにか立って、剣を構えられた。
何の表情もない銀色の顔が正面から遼を見据えた。
銀色の剣士は、長い鞭をふるうように赤い光の剣を扱った。しなやかに、変幻自在に、思いもしない場所から切りかかる剣。長さすらも朝子の意のままに変化しているかのようだ。
押される。剣の技量の差もさることながら、攻撃に踏み切れない遼は決定的に不利だった。
追い詰められていく。赤い剣を受け流しながら、結局は後退するしかない。階段まで追われ、逃げながら登る。
涙がにじんできた。朝子を助けたい。そう思って、ここまで来たのではなかったか。それなのに今、自分は何一つできずに、彼女の新たな犠牲者の列に加わろうとしている。
背中が、屋上の出入り口の鉄扉にくっついた。どん詰まりだ。
銀色の剣士が得物を垂直に構えた。まるで、死刑宣告の儀式のように。
情けない――。自分でもそう思いながら、目をつぶっている。
『遼、一、二の三で開けるよ』
万里絵の声!
息を停めて一、……身構えて二、……床を蹴って三!
赤い死刑宣告が遼に叩きつけられるのと、鉄扉に遼が背中からぶつかるのが同時だった。
後ろへ体を転がしながら、遼は屋上に出ていた。
空を切った赤い剣は、鉄扉の蝶番を切り裂いた。
身を起こした遼が剣を構える。
だが、構えたまま、動けずにいた。
吹きさらしの屋上へ、銀の剣士も姿を現した。いぶし銀のベールが風になびく。
風を切り裂いて、黄色い光球が飛ぶ。氷澄のエネルギー球だ。
朝子は片手で剣をひと振りした。エネルギー球は、呆気なく弾けた。
「氷澄さん、手を出さないでください!」
「意地を張るたけでは事態は解決しない」
光球が飛んできたのとは無関係な方向がら声がする。
氷澄の言うとおりだ。そんなことはわかっている。痛いほどわかっている。
『嫌いよ、こんな学校、こんな町、こんな国、……こんな世の中、大嫌いよ!』
朝子の足元で円形の火花が散る。コンクリートが粉塵となって舞い上がり、朝子のまわりで渦を描く。朝子を中心としたつむじ風。
それは、エネルギーの竜巻だった。あらゆる物質を切断するエネルギーの旋風。勢いを増し、半径を広げていく破壊の渦巻。
−嫌いよ、こんな学校、こんな町、こんな国、……こんな世の中、大嫌いよ!朝子の絶叫が思い出される。滅ぼしてしまうつもりなのだろうか、この世界を。
続けざまにエネルギー球が撃ち込まれる。もはや、弾き返すことすらせずに、渦は光球を切り裂き、吸収していく。
空中の別方向から水緒美が仕掛けた。白扇の先端から閃光が走る。だが、排水口に飲み込まれる水にこぼした絵の具のように渦に絡め取られ、消えていく。
出入り口の鉄扉が切られた。倒れた扉の下から万里絵が這い出す。
扉は切り刻まれ、その破片が万里絵の手を傷つけた。押さえた傷から血がしたたる。
「先生……どうして……」
ザンヤルマの剣の機能で視力が回復している遼には、そのわずかばかりの赤い色がはっきりと見えた。何かが沸々とわき上がってくる。
「どうして……どうして、こんなことになったんだよおっ!」
何かが、遼の動きを封じていたものを断ち切った。
遼は、破壊の渦を目がけて突っ込んだ。
天に昇るがごとく立ち上がっていた渦が、火を吐く竜のように身をくねらせ、遼に向かってくる。
「うおおああーっ!」
エネルギーの旋風をザンヤルマの剣が受け止める。切り裂く。
エネルギーの激流が遼を飲み込もうとする。剣で突き刺す。断つ。
寸断されたエネルギーの竜は蛇に変じ、四方八方から遼に食らい付こうとする。
鎌首をもたげて襲いかかる凶暴なエネルギーを、剣は次々に粉砕し、吸収していった。
遼は苦痛にあえいでいた。痛むのだ。あらゆる方位から襲ってくるエネルギーの全てを吸収できるわけではなく、いくつかは体をかすめ、肉をえぐる。だが、遼に苦痛を与えていたのは、それではない。
『死んじゃえ!』
『嫌いよ!』
ザンヤルマの剣で破壊の毒蛇の鎌首を叩き切るたびに、それを放った朝子の暗い感情が遼の意識に直接響いてくるのだ。精神的な苦痛が、ほとんど肉体的苦痛になろうとしていた。
――負けてたまるか。
朝子が、これらの悪意を吐き出し尽くした時、彼女を“遺産”の魔力から解放することもかなうのではないか?遼は歯を食いしばった。
膝をつく。最後のエネルギーを断ち切り、そのまま手をつく。肩で息をしながら、剣を杖に立ち上がり、構える。
銀色の朝子は、何事もなかったがのように立っていた。銀の仮面からは、彼女が何を考えているのか全く読みとれない。
遼は、ザンヤルマの剣のセンサー機能に集中した。
それを隙と見たか、銀の剣士は自ら切りかかってきた。銀色の体が、矢のように飛ぶ。
――やめてくれ。
赤い光の剣がひときわ輝く。だが、なぜか遼の目には、薄黒い濁った色に見えた。
――やめてくれ。
赤い光がもう一条現れた。二本の光る剣。近すぎる。
――やめろ、やめてくれ。
「先生ーっ!」
ザンヤルマの剣と、二本の赤い剣が触れ合った瞬間、白い爆発的な閃光が遼の目を撃った。
――遼は赤い闇の中にいた。真紅の闇。真っ赤な血の海に沈んだら、こんなふうに見えるだろうか。ただ、血の海と違うのは、輝くような赤い色がはっきりと見えること、そして、取り囲んでいる赤に液体の感覚と圧力、温度がないことだ。純粋な赤い色彩の中に遼はいた。
上下感覚のない赤い闇の中で、上昇感も落下感も、浮遊感すらないままに、遼は剣を片手にそこにいた。
『あたしも、お医者様になるの。お父様みたいに』
女の子の声がする。
赤い靴を履いた細い脚がばたばたと走っていく。
『朝子はお利口さんね』
やさしい女性の声がする。
――桐原先生?
違う。似ているが別の人の声だ。
『もっともっと勉強するんだ。でないと、医者にはなれないぞ、朝子』
深みのある男性の声が聞こえる。
――柵原先生のお母さんと、お父さん?
『さすがは桐原の妹だな』
この口調は、教師のものだろうか。
『お兄さんたちに負けちゃだめよ』
女性の声がやさしく励ます。
『これくらいは当然だな。英一たちは、もっと優秀だった』
『それはしかたありませんわ。朝子は女の子ですもの』
闇の赤の向こうに透けて見えた。小学校六年生くらいか。利発そうな少女。髪の毛こそ、その年頃には不似合いなおかっば頭だが、面差しに痕跡がある。いや、逆だ。そこに遼が見ているのは、柵原朝子の子供時代の姿だ。
『あたし、お医者様になるの、お父様みたいに』
ああ、朝子の声だ。間違いない。
『どうした、柵原の妹にしてはだらしがないぞ』
教師が、彼女を奮い立たせよりとして言っているのはわかる。その言葉に応えようとして、年には不似合いなほどの努力を重ねる朝子。
『なんだ、こんな問題もわからないのか』
明るい少年の声。別に馬鹿にした響きではない。だが、朝子の胸にかすかに走った痛みが遼にもわかった。
『おめでとう、英一兄さん』
大学の合格発表の光景。朝子の声は、純粋に喜んでいるように聞こえた。
似たような情景が二度、繰り返される。
『利口ぶった女って、厭だよなあ、かわいげなくて』
高校時代の同級生の声か。
『違う! あたしは利口ぶってなんかいない。お父様たちの期待に応えるために一生懸命やってるだけなのに 』
朝子が実際にそう口にしたわけではない。誰の耳にも届かずに、朝子の叫びは胸の奥深くに沈められる。
『無理するなよ。朝子には無理だよ』
別の兄の声か。明るい声だった。悪意があるわけではないのだろう。それなのに、朝子の感じている痛みは前より強いのだ。
『どうしても医者にならなければいけないってことはないんだ』
父親の声。それは心からの慰めの言葉だったのだろう。だが、ひとりぼっちで立ち尽くす、一〇代の朝子。泣いていた。――まあ、四人もいれば、凡庸な子供も一人くらいいるさ――そんな言葉を、父の言葉の背後に聞いていた。
桐原先生の嬢さん、医学部に入れなかったんですって。周囲の無言の嘲笑。しかたないよ。お兄さんたちは優秀だったけどねえ……。
『いいのよ、朝子。あなたは幸せなお嫁さんになって、あたしたちを安心させてちょうだい』
母親の声。違う、あたしがしたいのはそんなことじゃない。そんな人生を生きたいんじゃない。お父様、お母様の期待に応えて、お兄さんたちと同じように一人前と認めてもらって……。しかし――。
そっとしておく――それが朝子には放置と感じられた。
――しかたがないわ。たとえ親でも、出来のいい子供のほうがかわいいに決まってる。
朝子の悟り。それがますます親子の距離を遠くした。
親元を離れる。
彼女がたどり着いたのは、高校の養護教諭という資格。
『あら、じゃあ、医者の親戚みたいなものですのね』
英一の妻の声。冷たい痛みが朝子の胸を刺す。
どんなに一生懸命にやっても、朝子の心は満たされない。なぜなら、養護教諭は医者ではないからだ。両親が期待し、朝子自身も望んでいた医者ではない。だから両親も、三人の兄たちを愛したようには朝子を愛してはくれないのだ……。
日常。同僚、生徒と交わす言葉のやり取り。そこに朝子は棘を見る。さりげない言葉の端々に、朝子を軽蔑し、嘲笑する心の現れを見る。それこそ、アパートの隣室の主婦との朝の挨拶にさえ。
それでも朝子は努力した。嫌われたくない。能力がないために親に見限られはしたけれど、もう、誰からも嫌われたくない。笑顔を絶やさず、言葉を荒立てず、誰にでもやさしく、そして、穏やかに――。
全てを切り裂いて、赤い闇よりもなお赤い光が走り、光景を一転させる。
高速道路。三台並んで走ってくるのは、柵原家の家族旅行。
人の形をした朝子の殺意が、最後尾を走る父の車に躍りかかった。
走る車のボンネットに立つ。
恐怖にひきつる顔。地元の名士。患者を安心させる自信に満ちた容貌。だが、自分の職業以外の職業を一段低く見る男だった。他人を蔑んでいるからこその、余裕の笑顔だ。光の刃をふるう。ここまでの地位を築き上げた腕が胴体を離れる。
剣を横に払う。優秀な頭脳を詰めた頭部は、役に立たない、重たいだけの肉の塊となって、膝の間に落ちた。
剣士の視線は、助手席に座っている母親に向けられる。血の気を失った顔。惨劇を目の当たりにしながら、何が起きたのかを理解できず、気を失うことさえできずにいる。上品でいて気さくな院長夫人。そして、三人の優秀な息子が何よりの自慢だ。子供は四人いたのに―――。
剣士は短く剣をふるった。車を破壊したのは、ほとんどついでのことだった。
先頭の車に移動する。
まだ、後ろを走る父の車の異常に気づいていないようだった。いきなり眼前に現れた異形の殺識者の姿に、知的な顔が哀れなほど歪んでいる。
両親の言いつけをよく守る優等生の長男。何かあるごとに、しかたがないなと苦笑しながら助けてくれた英一兄さん。父親の助力で大学に入り、開業した。親の期待に応え切ったことへの報酬か。
父親の時と同様、手から切り落とす。朝子の頭を撫でて、問題集のわからないところを説明してくれた手……。
首を切る。もう、親の期待に応えることはできない。もっとも、その親も二人とも、子供に期待できない状態になってしまっているのだが。
剣士の視覚が、後部座席で母親にすがりついている子供たちを捉える。
朝子を傷つけたのは両親と兄たちであって、子供たちには関係ない――。
『僕もパパみたいに医者になるんだ』
この間の正月だったか、英一のいちばん上の男の子が言った。
『そうしたら、朝子おばさんも診察してあげるね』
目を細めていた英一、父……。
朝子は、英一の妻子も見殺しにすることに決めた。
父親の車と同じように各所を切断し、ガンリン・タンクに切れ目を入れる。
今はまだ生きている母子が、確実に助からないのを確かめて、剣士は最後の車に移った。
『僕たち三人とも親父の跡を継いで医者になる。朝子もなれ』
敬三のそんな言葉が脳裏をかすめたのも一瞬のことだった。
事務的といっていいほど無感動に、滞りなく事は運んだ。
先頭の車を最初に手に掛ければ、事はもっと簡単に済んだだろう。ひょっとしたら、それだけで、続く二台も完全に破壊できたかもしれない。だが、朝子は、脅える家族が最後にどんな顔で何を言うのか知りたかったのだ。
だが、純粋な恐怖の表情と悲鳴以外に朝子が得られたものはなかった。
玉突き衝突。炎上。
空虚な気持ちだけが残った。
車を離れる寸前に剣士のほうを見ていた甥っ子の目が、まだこちらを見ているような気がした。
それでも、次兄優二の居場所を確かめる。臓器移植学会の事務局に問い合わせることで、目的は簡単に果たせた。何しろ優二は将来を嘱望された若きエリートなのだから。
どんなに距離が離れていても関係がなかった。海外で、学会の合間に羽根を伸ばす優二を、路地裏に追い詰めて刻んだ。
胸に残った空虚な部分が、さらに膨れ上がったようだった。
そして、止まらなくなっていったのだ。柴本教頭、玉川記者、三年C組の柳と沢、二人の刑事、酒浸りの浮浪者……。
――お父様も、お母様も、お兄さんも、みんな、あたしのことをほんとうには愛してくれなかった。誰も愛してくれなかった。……みんながあたしをちゃんと愛してくれれば、こんなことにはならなかったのよ!
遼は罪を犯したのを知った。誰も触れてはならない、心の奥底の秘密を覗き見てしまった。痛みと悲しみをともなった記憶を。
赤い闇の中に浮いている小さな白い人形。それは、柵原朝子に違いなかった。だが、どこかが違う。遼のよく知っている彼女のようでもあり、今し方イメージで見た、少女期の面影がだぶっているようでもあった。
――あたしは……みんなに愛されたかっただけなのに……みんなが悪いのよ!
「……あなたは……あなたって人は……」
続けるべき言葉が見つからなかった。
いつも穏やかな笑顔を浮かべていた朝子。落ち着いていて、知的で、やさしかった朝子。
一輪挿しの白百合の花。白い清潔な部屋がよく似合っていた朝子。
「あなたは……それだけのことで人を殺すんですか。それだけの理由で殺したんですか」
けっして非難する気持ちではなかった。
“それだけのこと”と言ってしまってから遼は後悔した。親から愛されていないと感じ、それは自分の能力が足りないためだ、自分に愛される資格がないからだと納得してしまったら、その後の人生は、どんな苦しみの連続になるだろう。
それに、行動に結び付かなかっただけで、殺人への衝動といったものは遼にもあったではないか。しかも、それが実際の殺人とならなかったのは、遼の意志でも何でもない。ただ、力を持っていないという自覚があっただけにすぎない。
そして、遼には手を差し延べてくれる人がいた。愛されないことに苦しむことはなかった。だが――。
「あなたって人は……」
小さな人影が遼のほうを向く。まるで、たった今初めて遼の存在に気がついたかのように。泣き腫らした目。何度も涙をぬぐったのだろうか。こすれて赤くなった頬っぺた。
――嫌いよ。みんな嫌いよ。あなたも大嫌い!
「それでも――」
遼は目を伏せた。手の中の剣がひどく重たく感じられる。
「それでも僕は、先生のことが好きでしたし……今でも責める気持ちにはなれません」
目を上げ、剣のないほうの手を差し出す。
「先生――」
――嫌いよ、あたしは。
そう言って、朝子は膝を抱えた。
――嫉妬と、嫌悪感と、衝動的な殺意と、あたしの心の中はそんなものばっかり。ただ、人が幸せそうにしているだけで許せないの。そんな、そんな人間なのに、心にはまるっきり曇りもないような顔をして平気で生きている。やさしいふりをして、笑顔を浮かべて、偽物の思いやりを見せて――そんなあたし自身がいちばん嫌い!
膝を抱え、背中を丸めた朝子は、くるくると回りはじめた。光の粉を撒き散らしながら、朝子は小さくなっていく。
「先生……」
―――いなくなってしまえばいいのよ!
「先生!」
濁流に落ちたひとひらの雪のように、朝子は自分の白さを失い、周囲に溶け、消えていった。
憎悪と嫌悪と哀しみの赤い闇に光が差し込んだ。
だが、遼にはわかってしまった。それが、希望と喜びを意味するものではなく、闇の帳を必要とした魂が一つ、消滅したためだということが。
時間にすれば、ほとんどゼロだったに違いない。
ザンヤルマの剣は、難なく二本の赤い剣を弾き飛ばし、遼と銀色の朝子は互いの体に刃を触れさすことなく、すれ違っていた。
「先生!」
すぐに遼は向き直り、朝子を見た。物理的な接触とは別のダメージを与えていた確信があった。
いぶし銀のベールが、車のフロントガラスのように粒状に砕けて消える。朝子の頭上で緑色の光輪が輝く。体を包む銀の曲面に輝く線が縦横に走る。線で区切られた曲面は、細かな銀の薄膜となって朝子の体から浮き上がり、消滅した。
「終わったな――」
氷澄が言った。
水緒美が空中から降り、万里絵が歩み寄ってくる。
朝子は、コンクリートの床にぺったりと座り込んでいた。
「先生……」
遼はおそるかそる朝子の体に触れた。温かい。規則正しい呼吸が続いている。
「先生?」
朝子の肩を掴んで揺さぶってみる。反応はない。
遼は正面から朝子の顔を覗き込んだ。全てを悟る。朝子の黒い瞳に今や魂の輝きはなかった。
父を嫌い、母を嫌悪し、兄たちを呪った朝子。自分の仕事を、職場を、住む町を憎んだ朝子。それらを殺し、あるいは滅ぼそうとして剣をふるったあげく、ついには、誰よりも嫌いだった自分自身を消してしまったのだ。
横合いから手を伸ばした氷澄が朝子の胸から黒焦げになったブローチをむしった。遼は、氷澄の端正な横顔を殴りつけてやりたいと思った。
「私にも弁明の時間を与えてもらえるかな」
どこか気取った低い声が響いた。
黒いスーツを身にまとった男は、あくまでも控え目に、腰を低くして立っていた。全ての出し物が終わり、幕が下りた後で観客の前に立ち、感謝の言葉を述べる座長のように。
「彼女――桐原朝子さんに渡した遺産は、別に殺人のための道具ではなかったんだよ。彼女はね、すごく疲れていた。ストレスが溜まっているようだった。だから、気晴らしのための道具として遺産を渡したんだ。それは、全部で三六種類のゲームを楽しむことができる。
もっとも、同じ道具を待った対戦相手がいないから、実際には、一人でもやれる六種類のゲームしかプレイできない。逃げる光球を追いかけたり、遺産が生み出したダミーの対戦相手と戦ったり、ね。性能として三六種類のゲームをうたっておぎながら、六種類しかできないのは誇大表示にあたるかもしれない。私は、桐原朝子さんに謝った。そして、お願いしたんだ。ゲーム用とはいえ、こいつは地球上のあらゆる物質を切断できる。
剣士たちはどこにでも現れることが可能だし、痕跡を残さない。くれぐれも取り扱いには注意して、けっして悪用したりしないようにってね。だが、柵原朝子さんは、聞き入れてくれなかったようだ」
そこまで言うと、黒衣の紳士――裏次郎は、悲しげに伏せていた顔を上げた。
「そういうことなのだよ、少年。君の憧れの人、君がこの世界で最も素晴らしいと思った
人の、これが正体、本性だったというわけだ。――以上で私の弁明はおしまいだ」
裏次郎の言葉が終わるか終わらないかのうちに、遼は立ち上がりざま、斬りつけた。
むしろ面白がっているような表情で裏次郎は飛びすさった。
「少年、私に怒りをぶつけるというのか。それは筋違いというものだぞ。私は何一つ嘘を言っていない。遺産の性能について正直に話し、人を傷つけたりしないように、厳重に注意した。とはいえ、いくら私でも、彼女が間違いを起こさないように四六時中見張っているわけにはいかないからな」
遼の身の内に、凄まじいばかりの衝動が膨れ上がる。怒り、憎しみ、殺意すら通り越した灼熱の感情の塊。
「あくまでも、彼女が悪いのではないとすれば、悪いのは彼女の家族か、友人か、職場の同僚か、それとも、世間という奴か。いっそ、この世界全てが彼女を追い詰めたということにしておくか?」
遼の瞳を覗き込むようにしながら、かすかに首を傾げる裏次郎。
「みんな同じなのだよ、少年。善人面の裏側には、見るもおぞましいものがドロドロと渦巻いている。他人が幸せそうに笑っているだけで殺してやりたくなる、そんな心がな。それを互いに押し隠して、偽善者同士の猿芝居。それが今の世、今の人間どものありのままの姿よ」
ザンヤルマの剣が、今までに見せたことのない青白い光を放っている。「確かに、人間は完全に善良な存在じゃないさ。だけど、みんな、それを克服しようとして努力しているんじゃないか」
遼の食いしばった歯の間から押し出される声。
だが、黒衣の遺産管理人は芝居がかった動作で肩をすくめてみせた。
「努力、克己心、人類愛……偽善と自己韜晦は、何と文才の豊かなことか」
輝きを増す剣。遼の衝動のまま、剣は裏次郎を追う。
剣が立てる風にあおられたかのように、黒いスーツが宙に舞う。
屋上を囲むフェンスの上に裏次郎は立ち、遼を見下ろした。
嘲りの言葉を吐く暇を与えず、ザンヤルマの剣がフェンスを薙ぎ払う。フェンスの上端が灼かれて落ち、裏次郎は、さらに空中高く舞い上がった。頬にはますます愉快そうな笑みが広がっている。
だが、その表情か一瞬強張る。剣で切りかかる勢いそのままに遼が宙に飛んだからだ。
裏次郎の“守護神”――手にしたステッキの出力が最大に上がり、ザンヤルマの剣を迎え撃つ。
触れ合った剣とステッキはまぱゆい光を放った。光の中で、遼と裏次郎はにらみ合った。
あたかも視線の激しさで決着がつくとでもいうかのように。
「誰かを名指しするがいい、少年。使える遺産を見つけて、配達しよう。遺産を手にした人間は、絶対に破滅への道を突っ走る。絶対にな。なぜなら――」
ぎりぎりと裏次郎がステッキで押してくる。
「なぜなら、それが今世の人間の本性だからだ」
ステッキ全体が赤熱し、煙が上がる。それでも裏次郎は押すのをやめない。
「認めるのが怖いだけで、自分でも薄々気づいてはいるのだろう、少年? 愚劣で、それに気づきもしない、いや、必死に目をふさいでいる、ちょうど今の君の姿にそっくりな人間の本性に」
「人間が――」
ザンヤルマの剣から発した青白い光は稲妻となって裏次郎の全身を包んだ。
「人間がほんとうに駄目な存在なら、先生は苦しまずに済んだんだよ!」
悲鳴一つ残さずに、裏次郎は消滅した。
行き場を失った遼の怒りそのもののように、のたうつ電光がとぐろを巻く。
「今度はヤガミが暴走か」
氷澄は懐に手を入れ、“守護神”を操作した。水緒美も白扇を構える。
だが、それを遮るかのように万里絵が遼のほうへ駆け出した。
「遼!」
万里絵が叫ぶ。
「やめなさい、遼!」
荒れ狂う電光の中で、遼が万里絵を認めたようだった。
光る竜巻は鎮まり、遼は静かに降りてきた。
「遼?」
駆け寄った万里絵が遼の顔を覗き込む。
「助けられなかった……助けられなかったよ」
見聞かれた目からは涙がこぼれていた。
「先生は、僕と同じだったのに……力の誘惑に溺れていくのを……助けることができなかった……」
膝をつく。
今は輝きを失ったザンヤルマの剣が手から落ちた。
サイレンが近づいてくる。階段を駆け上がる足音さえ聞こえてきた。
「――まずいな、移勤しよう」
氷澄の言葉に水緒美がうなずき、遼の頭を胸に抱く格好になった万里絵も従った。
四人はまた「冬高堂」の奥の間に移動していた。
万里絵は遼の体を抱く腕をそっと緩めた。持てる力の全てを使い尽くしてしまったかのような遼の体は、ぐったりと崩れた。呼吸も脈拍も感じられない、痩せた体。
「遼くんには、むごいことをしてしまったねえ……」
水緒美がつぶやく。
「それでも遼が自分で選んでしたことですよ。――それに、舞台設定と結末こそドラマチックに過ぎたけど、女教師に憧れる少年の物語、ハッピー・エンドは難しかったでしょうね」
おちゃらけた口調だったが、万里絵の目は笑っていなかった。
ザンヤルマの剣に伸びた氷澄の手を払いのける。
「どういうつもりだ」
「あなたたちが、あたしたち人間のために闘ってくれるとは思えないから。これの処分は遼に任せます」
「――それがいいかもしれない」
水緒美の言葉に氷澄が目を剥く。
「あたしたちには後始本か残ってるよ、丈太郎」
仮死状態の遼を背負い、波形に戻ったザンヤルマの剣を持つと、万里絵は店を出た。水緒美が何か言ったようだが、耳に入らなかった。
*
遼を背負った万里絵は、何事もなかったかのように橘マンションヘ歩いていった。
腕の傷は血が固まりかけていた。これまで経験したことのない危機のさなかとはいえ、応急処置さえしなかった自分が信じられなかった。
万里絵の肩がら前に垂らされた遼の腕が、万里絵の歩調から半テンポずれて揺れていた。
「遼、あたしの声が聞こえる?」
ひとり言のように万里絵は言った。前に遼が冬扇堂で語ったとおりなら、遼の意識は上空から万里絵のほうを見ているはずだ。
「遼が自殺しようとした時、あたしは、できるかぎりの手立てを尽くしたわ。でもね、もし、それでも遼があくまで自殺しようとしたら、結局、あたしには防げなかったと思う。
声をかけて、手を差し延べて、……でも、他人にできることって、そこまでなのよね。声に耳を傾けて、差し出された手を取って、立ち上がろうって決心して、実際にそうするのは誰でもない、自分自身しかいないんだから。冷たい言い方に聞こえるかもしれないけど、自分を助けられるのは、自分しかいないんだよ、遼」
ずり落ちかかった遼の体を背負い直す。傷ついた腕にかすかな痛みが走った。
「遼は、桐原先生に向かって一生懸命に手を差し延べたんでしょう?最後の最後まで、先生を助けようとしたんでしょう? それで充分だし、誰にもそれ以上のことはできなかったはずよ。差し延べられた手を拒否したのは、彼女の選択。ぞれは、誰にも変えられないわ」
日曜日の朝。ようやく寝坊の床から抜け出したのか、細い道にも人の姿が見えはじめた。
「それでもね、最後の最後まで手を差し延べつづけてくれた遼がいたことは、彼女にとって幸せな、とても大切なことだったと思うよ。だから、遼も――」
万里絵は口をつぐんだ。
半ズボンを履いた五歳くらいの男の子が走る。
「おにいちゃん! おにいちゃあん!」
赤いスカートの女の子が懸命にその後を追いかける。
「ほらほら、車に気をつけて。――耘ぶわよ」
後からゆっくりと歩いてくる夫婦連れ。遊園地にでも出かけるのだろうか。
女の子が転び、泣き出した。男の子が戻って、両手を引っ張るようにして立たせる。母親が小走りに駆け寄って、服の泥をはたくと、擦りむいた膝小僧を見る。
万里絵は腹立たしかった。悲しくもあった。平穏で何もない日常の裏で、命を懸けて戦い、魂までもズタズクにしてしまった人間がいることを誰も知らないのだ。たとえ、それが、本人の選んだことだとしても。
――わかっているよ、遼。遼が守ろうとしたのは何なのかってこと。
雲が切れ、青空が覗く。今日はいい天気になりそうだ。
エピローグ
地球の衛星、月。地球からおよそ三八万キロ離れたこの天体は、地球のまわりを回る公転周期と、自転周期が一致している。つまり、月は常に同じ面を地球に向けつづけ、その裏側は地球から観測することはできなかった。
そのためだろうか、月の裏側には空飛ぶ円盤の基地があると信じている人たちがいる。
月の裏側の写真が発表されても、彼等は信じるところを曲げようとはしなかった。陰謀だ。
NASAは真実を隠蔽しようとしている。
残念ながら、彼等は間違っていた。月に空飛ぶ円盤の基地は存在しないし、NASAも何も隠そうとはしていない。ただ、彼等の観測技術に限界があったということは確かである。だが、それをNASAの責任とするのは不当だろう。NASAのみが現在の人類の科学技術の限界を越えられるわけはないのだから。
月には一人の人間が住んでいた。超古代に栄え、勢力圏を宇宙空間にまで拡大しながら滅亡した文明イェマドの生き残りの一人が月の裏側に生活していた。存在と非存在の落差からエネルギーを取り出すジェネレーター“守護神”があれば、どこであろうと生活できる。
彼は月面を高速で移動していた。彼の日課、青い水の惑星の観察をするために。彼は歴史学者だった。
この観察が彼の日課になったのは、もう一人の歴史学者の影響によるものだ。
まるで野生の動物のように活力に満ちあふれた男だった。何よりもイェマドを愛し、その歴史の栄光を書き記し、研究し、解き明かすことに情熱を注いだ男だった。
イェマドが崩壊した目、男は生きながら臓腑をえぐり取られたような苦痛にのたうちまわっていた。
だが、強い意志は男を立ち直らせた。彼が生涯を捧げてきた歴史学の、今こそが実践の時なのだ。彼は、青い水の惑星へ降り立ち、自分たちと生物的な連鎖はあるものの、文明的には全く関係のない人聞たちを正しく導こうとした。
それがいかなる苦痛の連続であったか、男は彼に語ろうとしなかった。
ある目、月に帰ってきた男は、頭上に浮かぶ青い星に向かって、ありったけの憎悪と呪いの言葉を投げかけた。そして、二人か回収し、管理していたイェマドの遺物の全てを持ち出した。
それからだ。男は月に現れては、イェマドの道具を渡された現在の人類がどんな愚行を繰り広げたあげく破滅していったかを、嘲笑とともに彼に語るのを常とした。
確かに、核エネルギーの完全制御技術も開発しないうちに字宙に進出するような人間が正常だとは思えない。だが、今の人間たちに対するあの男の憎悪は常軌を逸していた。
男が最後に現れたのは、もう一〇年以上も前になるだろうか。
『ついに見つけた。こいつを使える人間をな』
そう言って彼が示したのは、赤い波形の鞘に収まった短剣だった。
ザンヤルマの剣――ニ人の歴史学者にとって最大の研究テーマであったイェマドの滅亡の原因に深くかかわっているイェマドの遺産。
何をするつもりなのです?
男はただ一言答えた。
『ザンヤルマ再び』
その答に息が止まるような衝撃を味わったものだった。
――あれから一〇年以上経つ。
あの男は、ザンヤルマの剣をもう誰かに渡したのだろうか。
「カロ・ウラージェロ……」
今はいずこに居るとも知れない男の名をつぶやく。
いつものように地球が見えてきた。
これからしばらくの間、歴史学者は青い星を見詰める。
どんな結果が出ようと、自分には関係ない。だが、それでも彼は地球を見詰めつづける。
*
日常は、非日常の出来事をいともたやすく葬り、飲み込む。
鵬翔学院高校の養護教諭、桐原朝子は、精神病院に収容された。同校の校長は辞職した。
鵬翔学院の校舎を担当した建築業者が取り調べを受け、同じ業者が扱った建物が入念に調査された。
校舎の修復は迅速に行なわれたが、四クラスが急造のブレハプ校舎で授業を受けなければならなかった。
禿鷹のようなマスコミが鵬翔学院の頭上でしばらく輪を描いて飛んでいたが、意外に短期間で消えていった。
そうした混乱と喧噪の中で、アメリカ帰りの朝霧万里絵は、むしろあっさりとクラスの一員として編入されてしまった。
ただ、一週間にもなるのに、矢神遼は学校に出ていなかった。
*
江間水緒美は、橘マンションの近くにある冬扇堂を閉めた。冬高堂は日本各地に店がある。店名こそ違え、水緒美は海外にもいくつかの店を持っている。
水緒美が店を閉めたのは、裏次郎に所在を知られたためではない。そんなことは前からだ。異次元に拠点を特つ裏次郎と違い、水緒美や氷澄は常に攻撃にさらされる危険を覚悟して生活しなければならない。直接攻撃をしかけないことを裏次郎が信条にしていなければ、二人ともとっくの昔に命を落としていたろう。
そうではないのだ。今度の事件で傷ついた矢神遼を見るのが厭だったから。遼にしても、冬扇常が変わらずに商売を続けているのを見たくはあるまい。
今度の裏次郎の仕打ちはむごすぎた。これまで、今世の人間の愚劣さを証明するために仕掛けた数々の罠よりも。何より、本来無関係な矢神遼の心を深く傷つけた。
考えようによっては、あの少女、朝霞万里絵が言ったとおりかもしれない。女教師に憧れた少年の物語、ハッピー・エンドは難しい……。
自分の思うとおりにならないことがこの世にはある。人には裏がある。人々の善意が組み合わさって、お互いが傷つく――。そんなことを知って、少年は大人になる。そんなことを感じもせずに、体だけ大人になる者もいれば、昔から知っていたふりをする者、そこで挫折する者もいる。そんな人間と世の中の様を知って、どういう人生を選ぶかが問われるのが少年の時期だ。
だが、ただでさえ苦いそんなセレモニーは、人間の世界の枠の中で味わわせてやりたかった。人生は不条理かもしれないが、少年の心は傷つきながらもそれを受け止められるだろう。だが、イェマドの遺産が明らかにする人間の心の暗黒は、少年の心では受け止め切れない不条理だ。
入り□のドアに付けられたベルが、どこか間の抜けた音を立てる。
「江間さん」
英字新聞をぼんやりと眺めながら物思いに耽っていた水緒美に声をかけだのは、矢神遼だった。
「遼くん……」
すぐには言葉が続かない。
「……よくここがおわかりだねえ。丈大部がしゃべるはずもないし……わかった、万里絵ちゃんだろう?」
「はい」
遼は鞄からザンヤルマの剣を取り出した。
二週間、考えました。――僕も闘います。“遺産”の力の誘惑に負けないことが、僕の闘いです」
水緒美は遼の目を見た。幾晩か、眠れぬ夜を数え、泣きながら夜明けを迎えた者の目だった。だが、その瞳は悲しいほどに澄んでいる。
危険と困難と苦痛を並べ立てて思い止どまらせようという水緒美の気持ちは消えた。
水緒美はうなずくしかなかった。
遼は鞄に短剣をしまい、一礼して去った。
遼が閉めたドアのベルが嗚るのを聞いて、水緒美は不意に思い出した。古い神話、伝説の言葉なので忘れていたが、「ザンヤルマ」と意味を同じくする言葉が、今世の言葉にもあることを。
「最終戦争……」
自分のかすれたつぶやきを誰かに聞かれはしなかったかと、水緒美は無意識に周囲を見回した。
*
大都会の上、見上げる者もない夜空に、一人の男が浮かんでいた。
黒いスーツに身を固めた男、もう一人のイェマドの遺産管理人、裏次郎である。
「やったぞ……やった。ザンヤルマの剣士の誕生だ!」
ザンヤルマの剣の凄まじい破壊力から身をかわせたのは、まさに奇跡としか言いようがない。だが、それも、自分のしようとしていることの成就の前兆に思えた。いや、企ての成就のためならば、自分の命など惜しいと思っていなかったが。
「矢神遼――純粋な少年! いいぞ、いいぞ」
言葉の最後は哄笑に変わる。
「欲にとり憑かれた人間に、どうして世界を滅ぼすなどという何の得にもならない仕事ができるものかよ! それができるのは純粋な人間、愚かなまでに純粋な人間のみ!教えてやろう、少年。今世の人間の心の闇の深さを。どんな無知蒙昧の迷宮で愚行に耽っているかを。その迷宮の中、その闇がおまえの心を包む時、おまえは手にした剣でこの世を滅ぼすのだ」
黒い花びらのように、裏次郎は宙を舞った。笑いながらひらひらと舞った。溢れ出る歓喜を抑え切れず、いつまでも舞い続けた。
下界は光の洪水。誰一人、夜空を見上げる者などいない。
あとがき
最初にお断りしておきます(というのもヘンだな。あとがきなんだから)。この小説は、ドラゴンマガジンー九九二年八月号に掲載された同タイトルの短編小説を長編化したものではありません。短編版『ザンヤルマの剣士』と『闇への招待者』(ドラゴンマガジン一九九二年一二月号)と同一の設定に基づくストーリーのいちばん始め、物語のそもそもの素肌を描いた内容になっています。そういう話にふさわしいタイトルということで、あえて重複を承知で『ザンヤルマの剣士』としました。
矢神遼がザンヤルマの剣を手に入れたいきさつ、万里絵や氷澄との出会い、短編では描かれていなかった黒いスーツの遺産管理人(“継承者”という呼び方、改めました)のディテール、さらに、この長編で初お目見えの遺産管理人など、なかなかお得な内容になっているのではないでしょうか。
この長編を読んでから先の短編を読み返すと、(設定・内容の矛盾点も含めて)新たな発見などがあって、楽しめるのではないかと思います(あ、遼の通う学校ですが、「城北高校」から、「鵬翔学院高校」に名称変更しました。別に、この話の後、遼は傷心のあまり転校したというわけではありませんので、念のため)。
さて、近未来ハードボイルド風小説から、現代の高校を舞台とした、オカルトのようなSFのような話へ、作風がガラッと変わりました。本人も驚いています。書き方も変わりました。
キャラクターの設定をあれこれ考えて、そのキャラクターにふさわしい名場面を考え、そこに至るストーリーを構成し、舞台設定なども作る――というのがこれまでやってきたパターンなのですが、今回は、最初に舞台設定が来て、それにふさわしい主人公、さらに、それを活かす人物配置――というように考えて書き進めていったわけです(だから、最初はモヤモヤしたイメージしかなくて、キャラクターの描写ができなくて困りました。弘司さんのイラストにどれだけ救われたことか。万里絵の初登場シーンなんて、キャラクター・ラフを見なければ書けなかったし、短編版『ザンヤルマの剣士』の扉イラストがなければ、今回のラストの闘いも、もう少し違った仕上がりになっていたかもしれません)。
このキャラクターたちがどれだけ受け入れていただけるか、心配もあったのですが、さいわい、短編版は好評でした。地味な主人公・遼も、美男美女超人揃いのドラゴンマガジン誌上で意外にがんばってくれましたし、万里絵も予想以上に人気出ましたね。
今回は、初めての長編小説出演ということで、キャラクター一同、多少肩に力が入ってしまったところもあるかと思いますが、キメるところはビシッとキメてくれたと思います。
途中がらは、自分の高校時代なんかも思い出したりして、楽しいというのとは少し違いますが、やりがいを感じながら書き進めることができました。
感想などお寄せいただけると嬉しいです。
それにしても、この後、ストーリーはどう続くのでしょうか。
@剣の次は、楯、鎧、鏡、珠など、アイテムを探す。
A遼以外のザンヤルマの剣士を探す(総勢五人とか、七人とか。で、最後の一人が万里絵だったりして。お約束の展開)。
B……うーん、思いつかない。
最後になりましたが、担当のMさん。あなたがいなければ、遼たちは誕生しませんでした。本当にありがとうございました。締め切り破ってごめんなさい。
弘司さん。すばらしいイラストをありがとうございました。この本では、遼や万里絵をカラーで見られるのかと思うと、胸がワクワクします。新キャラクターも楽しみです。
万里絵ファン第一号のasukaさん。万里絵関係の描写にっいては、あなたの膨大な量の知識に助けられました(もちろん、当方の勘違いやチェック漏れもあると思います。
本文内容のミスは、全面的に麻生本人の責任であることはお断りしておきます)。
まんが家のがぁさん先生。読者を楽しませることに対してのあなたの執念と呼んでもいいような誠実さと努力は、麻生の目標とするところです。今回も、人物のシフトやアイテムの扱いにっいての適切な助言をありがとうございました。活動するジャンルは違います
けど、こちらは一方的にあなたをライバルだと思っていますから。
それから、現在唯一のアンチ万里絵派の“テリオス″のKさん、麻生を野放しにしてくださっている職場の上司Kさんご夫妻に感謝の意を表します。
そして、誰よりも、この本を読んでくださった読者のあなたに感謝します。ありがとう。
一九九三年二月 麻生 俊平
富士見ファンタジア文庫
ザンヤルマの剣士
平成5年3月25日初版発行
平成8年5月20日八版発行
あそうしゅんぺい
著者 麻生俊平
発行者――佐藤吉之輔
発行所――富士見書房
〒102東京都千代田区富士見1-12-14
一汗営業部O3(3238)8531
尉゜編集部03(3238)8585
振替00170-5-86044
印刷所――暁印刷
製本所――大谷製本
落丁乱1本はおとりかえいたします
定価はカバーに明記してあります
1993 Fujimishobo、Printed inJapan
ISN4-8291-2485-7 CO193
1993 Shunpei Asou、 Kouji