ザンヤルマの剣士
ノーブルグレイの幻影
麻生俊平
口絵・本文イラスト 弘司
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超古代文明の|遺産《いさん》である“ザンヤルマの剣”を受け継《つ》ぐことになってしまった少年、|矢神遼《やがみりょう》。
その剣のもたらす強大な力に遼は|恐《おそ》れおののく。だが、ある事件をきっかけに、遼は自らの運命にたちむかっでゆく決心をした。
それから、ひと月後。遼はTVで異様な光景を目にした。生番組に出演中のマジシャンの全身を、なんの前ぶれもなく、青い炎《ほのお》が包みこみ、骨も残さず燃え尽くしてしまったのだ。
――これは“|遺産《いさん》”が関わっている!
さっそく、調査を開始しようとしたその矢先、あらたな間題が発生した。厳重に保管しておいたはずの“ザンヤルマの剣”が消え失せてしまったのだ!“剣”はどこにいってしまったのか? そしてマジシャン焼死事件の貧相は?
好評、サスペンス伝奇アクション書き下ろし第二弾!!
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目 次
プロローグ
第二章 剣なき剣士
第二章 超能力者狩り
第三章 一度は友だった君へ
エピローグ
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プロローグ
「それじゃあ、この析れたとごろに針金を入れるから」
彼の腕《うで》のレントゲン写真を見ながら、中年の医師はそう宣言した。
何を答える間もなく、看護婦が手術の用意を始める。
言われるままに彼はシャツを脱《ぬ》ぎ、固いベッドの上に横たわった。麻酔《ますい》がかけられる。
彼が|天井《てんじょう》を見ている間に、医師は手際よく手術を進めた。
手術は呆気《あっけ》ないくらい短い時間のうちに終わった。
ギブスをされ、感覚が戻《もど》らないため丸太のような感じのする腕を三角巾《さんかくきん》で吊って、彼は診療室《しんりょうしつ》から出た。待合室では、彼をこの病院まで連れてきた坂巻《さかまき》学年主任が電話をかけおわったところだった。
「まあ、座れ」
彼は、背のない長椅子《ながいす》に腰を下ろした。
坂巻は、レントゲンを撮《と》る前に彼が預けておいた学生服の|上着《うわぎ》から生徒手帳を取り出した。県内では、ノーブル・グレイの|詰《つ》め|襟《えり》と並んで有名な、|星嶺《せいれい》学園高校のシンボル、六穴バインダー式の生徒手帳だ。
「一年A組、|秋藤邦彦《あきふじくにひこ》くん、か。――英語は学年二四位。悪くはないな。国語、歴史、地理、中の上。数学、普通《ふつう》。理数系は、ちょっと努力が足りないようだなあ。まあ、体育と美術なんて、単位を落とさなければ、それでいいんだ」
バインダーの最後のほうには、テストの結果と、各学期の成績を記したコンピュータのプリント・アウトを綴じ込むようになっている。
坂巻は、ぱたりと手帳を閉じた。
「今回の事故は、おまえが階段で転んで、腕を祈ったということで報告しておくから」
|一瞬《いっしゅん》、彼は、坂巻の言った意味がわからなかった。
「校内での事故だから、治療費《ちりょうひ》は学校が持つし、見舞《みまい》金も出る。保護者の方《かた》には、俺から説明しておくから」
坂巻先生は、いったい何を言っているんだろう。
確かに、あれは事故だったかもしれない。ささいなことで同じクラスの|山本伸一《やまもとしんいち》と言い争いになり、山本が彼の胸を小突《こづ》いた。タイミングが悪かった。場所も悪かった。彼はバランスを|崩《くず》し、階段から転げ落ちた。その時、手の突き方が悪かったのだろう、電気を流されたようなショックが|肘《ひじ》に走った。山本が|駆《か》け寄り、そこに坂巻が通りかかって、事情を聞き、腕の様子を見た。それがら、彼を生徒指導官へ連れていき、しばらく待つように言った。そして、この外科医院に連れてこられたのだ。確かに、あれは事故だった。
「おまえがふざけていて、階段を落っこちた、そういうことだな?」
違《ちが》う。それは違います。先生も山本くんから聞いたでしょう。あれは山本くんの――。
だが、彼が口を開く前に、坂巻が彼の正面にしゃがみ込み、雨具に手を置いた。
「なあ、秋藤。おまえ、山本が嫌《きら》いか?」
彼が答えずにいると、坂巻はもう一度同じことを|尋《たず》ねた。彼は首を横に振った。
「じゃあ、|星嶺《せいれい》学園が|嫌《きら》いか?」
再び彼は首を振った。
坂巻は、真っ正面から彼の目を見据《みす》えた。
「なあ、秋藤。もしおまえが、山本に怪我《けが》をさせられたと言いふらしたら、どうなる?」
山本は野球部員だ。小学生の頃《ころ》から注目されてきた、才能|溢《あふ》れる少年だ。|星嶺《せいれい》学園に来たのも、乞われて、試験|免除《めんじょ》、その他の特典と引き換えだったはずだ。同級生に|怪我《けが》をさせたとなれば、出場停止か、極端《きょくたん》な場合、退学せざるをえないかもしれない。
「わかるよなあ、秋藤。今年の|星嶺《せいれい》は、山本をはじめ、粒《つぶ》ぞろいだ。優勝たって夢《ゆめ》じゃない。野球部員が一丸になって練習に励《はげ》んでいる。おまえが騒《さわ》いだら、いま頑張っている連中の努力は|無駄《むだ》になってしまうんだ。野球部だけじゃない。応援《おうえん》団や、後後会の方たちや、校長も、理事長も、学校中のみんなががっかりする。県内の人、全国の人ががっかりする。
そうだろう? おまえが、山本のしたことを暴力|行為《こうい》だと訴えたとしても、誰も得をしないんだ」
それは……そうだ。確かにそのとおりだ。しかし――。
「おまえも、もう大人《おとな》だろう。自分に|怪我《けが》をさせた人間を困らせて喜ぶような、そんな女の腐ったような真似《まね》はしないよな。それとも、どうしても山本に仕返ししたいのか?」
彼は激《はげ》しく首を横に振った。そんなことはない。そんなことはないが、しかし――。
「じゃあ、あれは事故だな? おまえがふざけていて、転んだんだな?返事は?」
「……はい、あれは、僕が、自分で、転んだんです。ふざけていて……」
「ようし、よくわかってくれたな、秋藤。それでこそ、男だ。山本も、口には出せないが、心の中ではおまえに手を合わせてるよ。じゃあ、このことは、俺とおまえと山本と、三人だけの胸にそっとしまっておこう。男同士の約束《やくそく》だぞ、秋藤」
坂巻が肩を強く揺《ゆ》すぶった。彼はうなずいた。
「よし、じゃあ、家まで送ろう」
坂巻は立ち上がり、窓口で薬の包みなどを受け取ると、彼を促《うなが》して病院を出た。
すっかり暗くなった住宅街を、坂巻の運転するグレイの乗用車は軽快に走りかけた。
いいんだ、これで――。彼は自分に言い聞かせた。これで山本が――友だちが才能を発揮するのを邪魔しないで済む。|怪我《けが》をした彼がいちばん|恐《おそ》れていたのは、そのことだったはずなのだから。
坂巻がスイッチを入れたカー・ステレオから野球|中継《ちゅうけい》が聞こえる。
なぜか、彼の目から涙がこぼれて三角巾を濡らした。
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第一章 剣なき剣士
雲行きの怪《あや》しかった空がとうとう泣き出した。
下北富士の駅で降りた矢神遼《やがみりょう》は、学生|鞄《かばん》の中から祈り畳み|傘《かさ》を出して広げた。背中を丸め、頭だけが先に行くような格好で、足早に歩いていく。|詰《つ》め|襟《えり》の肩は細く、その後ろ姿は、|激《はげ》しい雨脚《あまあし》に霞《かす》んで消えそうに見えた。
その遼を、高所から見下ろす視線があった。
――大いなる力……強大な力……。
ふわりと宙に舞った“視線”は、遼の背中を追いつづける。
――世界を滅ぼせるほどの巨大な力……ザンヤルマの剣!
“視線”は、遼の背後から|駆《か》けてくる別の人影《ひとかげ》を認めた。
後から来た|人影《ひとかげ》は、遼の|傘《かさ》の内に|駆《か》け込んだ。すると今度は、遼が|傘《かさ》の中から走り出た。
「遼!」
“視線”は高度を上げた。
視線の根源《こんげん》――それは、銀色の|蝶《ちょう》のように見えた。衰える気配もない雨の中を悠然と飛びつづける大型の|蝶《ちょう》。|鉛《なまり》色の空を背にして舞うその姿に気づいた者があったかどうか。
眼下で繰り広げられた光景に満足したものか、|蝶《ちょう》はさらに高く舞い上がり、空に溶け込むように消えた。
「ただいま」
遼は、|橘《たちばな》マンション四〇二号室のドアを開けた。誰もいない。父の勝利《かつとし》は、いわゆる一流会社の管理職で、半年ほど前から母の千枝子《ちえこ》とともに渡米し、現在、遼は一人暮らしたった。
誰もいない部屋のドアを開ける時にも挨拶《あいさつ》の言葉を口にする。遼の癖《くせ》だ。
|詰《つ》め|襟《えり》をハンガーに吊るし、濡れた|眼鏡《めがね》をハンカチで拭《ぬぐ》い、ぼさぼさ頭の湿気《しっけ》をバスタオルで取ると、トレーナーとジーンズに|着替《きが》え、ベッドの上にひっくり返った。
――|疲《つか》れた……。
一か月前、遼はある事件に巻き込まれ、思いを寄せていた女性を失った。
事件後一週間、学校を休み、再び教室に姿を見せるようになった遼を、クラスのみんなは明るくなったと言った。だが、授業が終わり、家に帰ると、グッタリしてしまう。
――虚勢《きょせい》って奴なのかなあ。
張り詰めて、張り詰めて、ぎりぎりまで引っ張られた糸が、ぷっつり切れる――。そんな時が遠からず訪《おとず》れるのではないだろうか。
気の滅入《めい》る考えを追い払うように頭を振って、身を起こす。
万里絵《まりえ》には悪いことをしてしまった。
いつものように下北富士の駅で列車を降りると、ほぼ同時くらいに、大粒《おおつぶ》の雨が降ってきた。遼は学生|鞄《かばん》から折り畳《たた》み|傘《かさ》を出して広げた。一人暮らしになってから、遼はいつも|傘《かさ》を持って出かける。雨に降られても、迎えに来てくれる人は誰もいないから。
商店街を抜け、|橘《たちばな》マンションへの道に出た。うつむくようにして歩いていく遼の後ろから、小走りの足音が近づいてきた。
「ああ、助かった」
明るいメゾ・ソプラノと一緒《いっしょ》に、朝霞《あさか》万里絵が|傘《かさ》の中に飛び込んできた。遼は反射的に身を離した。だが万里絵は、そんな遼におかまいなしにハンカチを取り出すと、雨の雫《しずく》を拭きはじめた。
朝霞万里絵――遼と同じ、一七歳の従妹《いとこ》。小学校一年の時に両親とともに渡米し、ついこの間、両親より一足早く戻ってきた。今は、遼の住む|橘《たちばな》マンション四〇二号室の一階上、五〇二号室に住んでいる。
三〇センチと離れていない遼には、万里絵の髪《かみ》の日なたのょうな|匂《にお》いと、濡れた肌の|匂《にお》いが感じられた。
万里絵に|傘《かさ》を押し付けるようにして渡すと、遼はマンションへの道を走り出していた。
「遼!」
万里絵が何をしたわけではない。ただ、その時の遼には、|従妹《いとこ》の放つ明るく快活な雰囲気《ふんいき》が耐えられなかった。|髪《かみ》に、学生服に、雨が染《し》み込んでいくのを、むしろ|快《こころよ》くさえ感じながら、マンンョンの部屋まで走りつづけてきたのだった。
遼はため息をついて、立ち上がった。
自分の部屋を出て、リビングへ行く。別に、することもない。と、サイドボードの中のウィスキーの瓶に目が止まった。もらいものだが、父の好きな種類ではないとかで、封《ふう》を切ってから、二、三度口にしただけだろう。
遼は、サイドボードのガラス戸を開け、瓶を取り出すとキッチンへ持っていき、手近なグラスに半分ほど注《つ》いだ。
「別に、どうってことないさ」
グラスを口許《くちもと》に持っていき、甘《あま》い|匂《にお》いをかぐと、一息に飲もうとした。
ほぼ同時にチャイムが|響《ひび》き、遼は咳《せ》き込んだ。
グラスを脇に置き、こぼれたウィスキーをペーパー・タオルで拭き、急いで玄関に出る。
万里絵が立っていた。
「|傘《かさ》。――さっきはこめんね」
さっき渡したままになってしまった遼の|傘《かさ》を万里絵は差し出した。
「――ごめん、て……別に……」
万里絵のツンと上を向いた感じの鼻が、ヒクヒクした。
「バーボン――多分、アーリー・タイムス。当たった?」
「そうなの?」
遼は、トレーナーの胸元を引っ張って、ウィスキーの染《し》みをかいでみた。
「だめよ、高校生がこんな早い時間からバーボン飲んでちゃ」
万里絵はジーンズの尻《しり》ポケットから小銭入れを取り出し、遼に渡した。
「そのへんで、ジンジャーエール買ってきて。――台所、借りるわね」
そう言って、ずかずか上がり込んでしまった。
遼は、手の中の小銭入《こぜにい》れを見詰《みつ》めると、ため息を一つついてから、とりあえず近所のコンビニヘ向かった。
言われたものを買って遼が帰ってくると、万里絵は三皿《さら》ほどの料理を作りおえたところだった。
「使いやすい台所ね。コンロの火力も強いし」
「親父《おやじ》が、割とそういうこと、好きだから――」
万里絵に促《うなが》されて遼は食卓に着いた。万里絵は自分のダラスにウィスキーを入れ、ジンジャーエールで割った。
「おつかれ様でした、なんてね」
万里絵は自分のグラスを遼のグラスと触れ台わせると、クッと三分の一ほど飲んだ。
こういうところが、かなわないなあ、と思う。ヤケ酒というわけではないけれど、こっそりウィスキーに手を伸ばす、やましいような湿っぽい気持ちが吹《ふ》き払われてしまった。
何事も前向きに楽しんでしまう万里絵の楽天的な精神構造に押されてしまうのだ。
とりあえず一口ウィスキーを含む。口の中に刺激《しげき》が広がるが、味なんてよくわからない。
遼は|黙《だま》って皿に箸を伸ばした。冷凍《れいとう》のポテト・フライといため合わせたコンビーフ、ホウレン草のゴマあえ、鶏《とり》のササミと大根おろしのサラダ……遼がコンビニヘ行って戻ってくるまでの間に、ずいぶんと手際《てぎわ》よく仕上げたものだ。
――まさか、サバイバル・スクールで習ったわけでもないだろうけどさ。
万里絵はアメリカで暮らしている間にサバイバル・スクールで訓練を受けたと言ってい
た。その技能の一端《いったん》は遼も見せてもらった。そのうえ、いわゆる“家庭的な一面”というやつまで備えている。まったく、万里絵にはかなわない。
期末試験のこととか、二、三の話題も出たが、長続きせず、気詰まりな雰囲気《ふんいき》をやり過ごそうとして、遼はグラスを重ねた。
そんな遼の様子に気づいたものか、万里絵はテレビのリモコン・スイッチを入れた。食事の時はテレビを消しておくのが遼の習慣なのだが、このままでいるよりは、テレビの雑音を流しっ放しにしておいたほうがいい。
画面はバラエティ番組のようだった。
『ご覧になれますか。同じナンバーです!』
どこか、スタジオの外にいるタレントが|興奮《こうふん》した口調でしゃべっている。
画面が二分割され、外部とスタジオのそれぞれのタレントが手にしたボードに同じ数字
が書かれているのを映し出している。
――そうか、確か、ミスター・アカシャの……。
新聞のテレビ欄で確かめる。『二元生中継で送る世紀の超能力《ちょうのうりょく》実験! ミスター・アカシャ不可能に挑戦《ちょうせん》』そんなタイトルの後に、|透視《とうし》の予知だのといった仰々《ぎょうぎょう》しい単語が並んでいる。ミスター・アカシャ――最近、超能力者として売り出しているタレントだ。中近東風のスタイル、先の尖《とが》った顎髭《あごひげ》など、いかにもいかがわしい感じがする。
「何よ、あんなの、あたしだってできるわよ」
グラスをなめながら万里絵がつぶやく。最初に会った時より、多少目に焼けた感じの横顔に、遼はちょっと見とれた。
「学校の理科室と工作室で作れる程度の仕掛《しか》けよ。店で買っても一〇ドルしないわ」
万里絵の頭ごなしの言い方は、あまり愉快《ゆかい》ではなかった。別に、遼自身は超能力を信じているわけでも、否定しているわけでもないが。
超能力の実演を一通り終えたのか、ミスター・アカシャはスタジオにいる全員に超能力実験に参加してもらうと宣言した。
『そんなことができるんですか?』
『できます』
司会者の問いに、ミスター・アカシャは神妙《しんみょう》な顔で答えた。
『テレビの前の皆《みな》さんも参加してください。あなたの心の奥深くに眠っている本当の心、トゥルー・マインドに呼びかけてください。そうすれば、誰でもマインド・パワーを使えます。超能力は、本来、人間なら誰でも持っている力なのです』
「何よ、壊《こわ》れた時計でも動かそうっていうの」
だが、ミスター・アカシャが何をしようとしていたのか、知る機会は失われてしまった。
急に画面がまぶしくなると、ミスター・アカシャの体のあちこちから青い炎《ほのお》が立ちのぼった。もがく間すらも与えず、火が全身を包む。
黄色い悲鳴がいくつか聞こえる。画面が揺《ゆ》れる。カメラマンが動揺《どうよう》しているのだろう。
司会者の脇にいたアクション系のタレントが|上着《うわぎ》を脱いで、気丈にも生きた火柱の炎《ほのお》をはたき消そうとした。ミスター・アカシャだったそれは倒れた。カメラが逆上しながらも必死にフォローする。倒れた火柱は、|床《ゆか》の上でバラバラに砕けた。
ADらしき人物がカメラを手で|覆《おお》う。すぐに「しばらくお待ちください」のテロップ画面に切り替わり、何とも間の抜けた音楽が流れ出す。
「VHSは立ち上がりが遅《おそ》い」
いつの間にかビデオのリモコンを手にしていた万里絵が、テープを巻き戻し、見直した。
テープには、ADがカメラを手で遮《さえぎ》ったところからしか録画されていなかった。
再びテレビ画面に切り換え、万里絵は電話をかけた。
「つながらないわ」
そう言って席に戻った。どうやら、局にかけてみたらしい。
画面はテロップからCMに変わっていた。
そこでようやく、空転していた遼の思考が正常に戻った。
「何だったの、今の?」
生きた人間がいぎなり燃え上かり、短い時間のうちに燃え尽きてしまった。――少なくとも遼にはそのように見えた。
テレビの中で起こったことなので、人間|炎上《えんじょう》の光景は|妙《みょう》に現実感を欠いているが、スタジオの混乱は生々しく伝わってきていた。慣れないアルコールのためばかりではなく、胸がどきどきしている。
「わからないわ。何か……事故よね……何だろう」
万里絵は皿に残った料理を平らげ、もう|一杯《いっぱい》だけハイボールを作り、飲んだ。大きな|瞳《ひとみ》がきらきら光っている。
――やっばり彼女も、僕と同じことを考えてるんしゃ……。
現在の遼にとって最も考えたくない可能性――。
だが万里絵は、短いニュース番組の時間まで待ち、何の変哲《へんてつ》もないローカル・ニュースしか流さないのを見ると、何も言わずにテーブルの上の皿を重ねて、立ち上がった。
「いいよ、片付けくらいは僕がやるから」
「そう? じゃあ、悪いけど、これで、おいとまします」
遼は玄関《げんかん》まで万里絵を送った。
「おやすみなさい」
万里絵が去って、ドアにチェーンまでかけた後で、遼はキッチンに戻った。
一人きりの室内は、広くて静かだ。今まで感じなかった寒気が背筋を這い上がってくる。
――さっきのあれが、ただの事故ならいいんだけど……。
だが、あの凄《すさ》まじい人間|炎上《えんじょう》すら、新しい事件の発端《ほったん》にすぎないのではないかという不安が湧き上がるのをどうしようもなかった。
午前|零《れい》時を回った。
テレビで見た光景が引き金になったのか、あるいは慣れないアルコールのためか、遼は数日ぶりに悪夢にうなされていた。
闇の中からにじみ出るように現れた黒いスーツの男――|武骨《ぶこつ》な顔のみが暗闇に浮き上がって見える。男は、手にしたものを遼のほうへ差し出す。赤い波形の|鞘《さや》に収まった|短剣《たんけん》。
『この|短剣《たんけん》は、|鞘《さや》から抜《ぬ》くことができた人間に強大な力を与《あた》えてくれるそうだ』
|短剣《たんけん》が遼の手に握られる。青白い閃光とともに、波形の|短剣《たんけん》は、一メートル余りの直刀に変化する。
遼を取り囲むように二つの|影《かげ》が伸びる。黒い服を着た、長い|髪《かみ》の女と、白衣を着た男と。
『人類の歴史は救いがたい愚行《ぐこう》の積み重ねだよ。今のままなら、何一つ手出しをしなくても、遠からず人類は滅びるだろうよ』
『人間は例外なく|遺産《いさん》の能力に溺《おぼ》れ、自分の欲望、秘めたコンプレックスを暴走させて、破滅《はめつ》していった』
剣が朱《あけ》に染《そ》まる。剣だけではない。遼の手も血に濡れている。
『世界を滅《ほろ》ぼせるほど巨大な力だというようなことは聞いた覚えがある』
足元から地平の彼方《かなた》まで、見渡す限りの地面を埋《うず》めているのは、切り刻《きざ》まれた死体――。
『認めるのが怖いだけで、自分でも薄々《うすうす》気づいてはいるのだろう、少年?愚劣《ぐれつ》で、それに気づきもしない、いや、必死に目をふさいでいる、ちょうど今の君にそっくりな人間の本性に』
そして、遼を見つめている銀色の仮面のような顔。
『――嫌《きら》いよ。みんな|嫌《きら》いよ。あなたも大嫌い!』
悪夢《あくむ》――しかし、正確には、それは遼が経験した一か月前の出来事のグロテスクにデフォルメされた再現にすぎない。あの事件そのものが、遼にとってはまさに悪夢にほかならなかったのだから。
現在の文明が発生する以前に発生した超《ちょう》古代文明イェマド。宇宙にまでその勢力圏を拡大しながら、イェマドは|滅亡《めつぼう》した。だが、その超技術が生み出した数々の道具は、現在に至るまでわずかながら残っている。それらイェマドの“|遺産《いさん》”を管理する、イェマドの生き残りの人間とともに。
イェマドの“|遺産《いさん》”には、特徴《とくちょう》がある。オーダーメイドに近いシステムで作られているため、その品を作らせた人間でなけれぱ、起動すらできないこと。そして、現在の科学技術では原理の解明どころか、コピーの製作さえ不可能であること。
しかも、イェマド|滅亡《めつぼう》の際に生き残った人間たちは、必ずしも技術の専門家ではなかった。道具を使いはしても、それらの仕組みや原理は知らなかった。
これらの理由により、イェマド復興《ふっこう》の道は閉ざされたのである。
イェマドの生き残りたちは、現在の人類の祖先たちが文明を手に入れると、そのなかに紛《まぎ》れ込むようにして生きっづけた。
だが彼等も、考えを異にする二つの立場へと別れていった。人類に|干渉《かんしょう》せず、万一、人類がイェマドの|遺産《いさん》を手にするようなことがあれば、それを回収し、処分する立場の“遣産管理人”たちが一方に。もう一方には、人類の発展に介入し、|干渉《かんしょう》し、イェマドの再現をもくろむ“|遺産《いさん》管理人”がいた。
だが、人類の進歩は、決してイェマドの再来へとは向かわなかった。|干渉《かんしょう》者は人類を見限った。そして、“|遺産《いさん》”を起動させるキーになるものが|偶然《ぐうぜん》にも似通っている人間を見つけ、“|遺産《いさん》”を渡し、その機能によって、おのれの欲望、秘められた|劣等感《れっとうかん》を解放、暴走させ、|破滅《はめつ》に導くことを望むようになった。非|干渉《かんしょう》を旨とする“|遺産《いさん》管理人”たちは、それを防ぐ立場に回った。
一か月前、遼は黒いスーツの男――世界の混乱を望む|遺産《いさん》管理人から、イェマドの|遺産《いさん》の一つである“ザンヤルマの剣”を受け取った。同時に、遼の身のまわりでバラバラ殺人が連続して起こった。被害《ひがい》者は、遼が敵意を待った人間ばかりだった。
自分は、憎い相手を殺してしまう力を待ってしまったのか――遼は脅えた。自殺までも試みた。だが、万里絵や、非|干渉《かんしょう》の立場に立つ|遺産《いさん》管理人との出会いによって、真相の究明と事件解決に挑戦《ちょうせん》することになる。
しかし、突《つ》き止めた真相は苛酷《かこく》であり、結末は残酷だった。
事件から一週間、遼は眠れない夜を過ごした。そして、決意したのだ。イェマドの|遺産《いさん》による心の暴走を喰い止めるために闘《たたか》おうと。
そして、一か月。|遺産《いさん》絡《がら》みの事件らしきものは起こらなかった。遼は、とりあえずは平穏《へいおん》な時間を過ごしていた。一か月という時間が、良いのか短いのかはわからない。だが、その時に受けた心の傷はふさがりかけていると遼自身も思っていた。
そして、それは間違《まちが》っていた。
テレビで見た人間が|炎上《えんじょう》する光景――人知を超えた現象は、イェマドの|遺産《いさん》による事件である可能性を想起させずにはおかなかった。遼が心の奥深く沈めていた記憶《きおく》を、不安が呼び覚ましていた。
遼一人しか居ないはずの部屋に、もう一つの気配があった。下校|途中《とちゅう》の遼を見下ろしていた“視線”の根源――銀色の|蝶《ちょう》が、部屋の天井《てんじょう》近くをひらひらと舞《ま》いながら、うなされている遼を見下ろしていた。
|蝶《ちょう》はゆっくりと舞い降り、遼の眉間《みけん》の上にとまった。銀の羽根が何かを探るようにゆっくりと開閉する。
不意に、遼が静かになった。目を開き、ゆっくりとベッドの上に起き上がる。表情が全くない。それどころか、目の上で羽根をひらひらさせている媒にも無反応だ。
遼は立ち上がり、机のほうへ行った。|鍵《かぎ》を開け、いちばん下の|抽斗《ひきだし》をいっぱいに開くと、その奥へ手を突っ込む。|抽斗《ひきだし》のさらに奥の空間から遼が引っ張り出したのは、ガム・テープで留められた新聞紙の包みだった。
銀色の羽根が遼の目の上で|激《はげ》しく開閉した。
遼は包みを手に部屋を出ると、真っすぐ玄関《げんかん》に向かい、四○二号室を出た。階段を上がり、屋上に出る。
雨は上がったものの、まだ雲に|覆《おお》われた空の下、強い風が湿気《しっけ》の多い空気を運んでくる。
遼は屋上を突っ切り、フェンス際まで来ると停まった。
フェンスの上に立っている|人影《ひとかげ》があった。その肩には、青い鳥が一羽とまり、指先では、遼を誘導してきたらしい銀色の|蝶《ちょう》と同様の|蝶《ちょう》をもてあそんでいる。
|蝶《ちょう》の主人は身軽に飛び降りると、遼の前に立った。
「さあ」
促《うなが》されて、遼は包みを差し出した。
|蝶《ちょう》の主人は包みを取ろうとした。だが、遼がしっかりと|掴《つか》んで離さない。
「フン」
遼の指が、小指から順に、見えない手でこじ開けられるように開き、包みは“|蝶《ちょう》使い”の手に渡った。
「これが“ザンヤルマの剣”か」
包みがボンッと音をたて、|一瞬《いっしゅん》のうちに黒い灰《はい》に変化した。新聞紙の灰は風に吹き払われ、“|蝶《ちょう》使い”の手には、赤い波形の|鞘《さや》に収まった|短剣《たんけん》が残された。
ザンヤルマの剣――今の人間世界の混乱を望む|遺産《いさん》理人から渡されたイェマドの|遺産《いさん》。
遼だけが操ることのできる超兵器。一見したところ、波形の|鞘《さや》は、刀身を抜くことができないような形になっている。まるで、剣に秘められた力を軽々しく行使することを戒めるかのように――。
“|蝶《ちょう》使い”は、手の上の剣を抜こうとしてみた。抜けない。
「フン。嘘《うそ》じゃないわけだな」
そして、今度は遼のほうへ剣を差し出す。
「抜いてみせろ。大いなる力とやらを見せてもらおうじゃないか」
遼は首を横に振った。
「抜けよ。……抜けって言ってるだろ!俺の言うことが聞けないのかよ!」
“|蝶《ちょう》使い”は、剣を握った手で遼の胸を小突《こづ》くようにして詰《つ》め寄った。
だが遼は、首を横に振りながら、後ずさるばかりだった。
「バカヤロウ!」
“|蝶《ちょう》使い”か遼の胸を突く。後ろへ吹き飛ばされかかった遼の体が、ビデオの一時停止のように凍り付く。“|蝶《ちょう》使い”は人差し指で遼を指差している。その指先に遼を操る糸でもあるかのように、指が下を向くと、遼の体もコンクリートの|床《ゆか》の上に|崩《くず》れた。
「ンン。――もういいや。帰って、寝ろ。それから、忘れちまいな」
冷たく見下ろす“|蝶《ちょう》使い”の言葉に、遼は倒れたままうなずき、従った。
それでも何度も剣のほうを振り返り、そのたびに”|蝶《ちょう》使い”は手を振って、遼を促《うなが》した。
やがて、鉄扉《てつび》が閉まり、屋上には、赤い|鞘《さや》に収まったままのザンヤルマの剣を手にした
“|蝶《ちょう》使い”だけが残った。
雲が切れ、月の光が差し込む。“|蝶《ちょう》使い”は目を細め、月を見上げた。
「明日は晴れるかな……」
思わず口にしたそんな言葉を恥じるかのように、“|蝶《ちょう》使い”は舌打ちし、|蝶《ちょう》そのままに宙に舞い、消えた。
|橘《たちばな》マンンョンから車で三〇分ほど離《はな》れた県の北部の山の中に、現在は使われていない製材所がある。雨ざらしの工作用機械には錆《さび》が浮《う》きはじめ、プレハブ建築の割れた窓ガラスからは、荒《あ》れた室内が覗けた。人気のない敷地《しきち》の|端《はし》に、枝を払《はら》われ、長さを揃《そろ》えられただけで捨てられた、直径五〇センチほどの丸太が積まれている。
まだ朝早い。作日の雨のためか、あたりには森の|匂《にお》いがひときわ濃密《のうみつ》に漂《ただよ》っている。やがて、日が高くなれば、濡れた葉から息が詰まりそうな緑の|匂《にお》いが立ち込めるだろう。
敷地の、丸太とは反対の|端《はし》に、一人の男が立っていた。植物の生命力とも、朽ちかけた機械とも不釣り合いなグレイのスーツ姿。端正な顔立ちをした長身の青年である。
彫りの深い顔の、特に青みがかった|瞳《ひとみ》が印象的だ。片手に護身用の伸縮式特殊警棒《しんしゅくしきとくしゅけいぼう》を特っている。
|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》――遼と万里絵の通う|鵬翔《ほうしょう》学院高校の非常勤講師である。学校でも、陰を感じさせる冷ややかな|雰囲気《ふんいき》を身にまといつかせ、周囲からは浮いた存在だが、今の彼は、さらに異様な空気を漂わせていた。
警棒を逆手《さかて》に持ち、顔の横、目の高さまで上げる。警棒の先端が、積み上げられた丸太に向けられる。早朝の冷気が張り詰めた。
|緊張《きんちょう》が極限に達した|瞬間《しゅんかん》、いちばん上に置かれていた丸太に穴が開いた。直径五センチほどの丸い穴だ。空気にかすかに焦げくさいものが混じる。
|氷澄《いずみ》は|緊張《きんちょう》を解き、警棒を下ろした。丸太に歩み寄り、穿たれた穴を検分《けんぶん》する。
表向きこそ高校の非常勤講師だが、彼もまた、イェマドの|遺産《いさん》を巡《めぐ》って闘《たたか》う者たちの一人だ。この世界の混乱を望む|遺産《いさん》管理人に敵対する立場に立ち、バラ撒《ま》かれた|遺産《いさん》を回収し、処分することを使命としている。
|懐中《かいちゅう》時計の形をしたイェマドのメカニズム“守護神”と呼ばれるそれは、存在と非存在の落差からエネルギーを取り出し、|氷澄《いずみ》の身を守り、時には敵を攻撃する武器にもなる。特殊警棒を工ネルギー・コーティングし、剣のように使うのはその一例だ。
今、|氷澄《いずみ》はさらにエネルギーのコントロール|範囲《はんい》を広げ、警棒の先端から一〇メートル以上エネルギーを棒状に延ばし、槍のように使用する訓練をしていた。
一か月前の|闘《たたか》いで、これまでにない破壊力《はかいりょく》を発揮する|遺産《いさん》とザンヤルマの剣の能力を目の当たりにした|氷澄《いずみ》にとって、戦闘力《せんとうりょく》の向上は急務だった。
丸太には、狙ったとおりの場所に穴が開いていた。他《ほか》にも、えぐられた部分や、貫通していない穴などがいくつか開けられている。
今度はもう少し精度を絞《しぼ》り込みたい。|氷澄《いずみ》は、元の位置に戻ろうとして振り返った。
「おはよう、|丈太郎《じょうたろう》」
スタジアム・ジャンパーを羽織った朝霞万里絵が立っていた。土砂降《どしゃぶ》りの翌朝、初夏の日差しが差し込む森の中という道具立てなら、似合うのは|氷澄《いずみ》より万里絵だろう。
決して険《けわ》しいというほどの山道ではないが、十代の女の子にはちょっときつい行程だったはずだ。だが、サバイバル訓練の賜物《たまもの》か、万里絵はくたびれた様子《ようす》もなく、大きな|瞳《ひとみ》に好奇心《こうきしん》を溢《あふ》れさせていた。
「何の用だ」
背後に立たれたことに気づかなかった自分にかすかな|怒《いか》りを覚えながら氷屋は尋《き》いた。
先の事件では、|氷澄《いずみ》は遼や万里絵と一応の共同戦線を張ってはいる。だが、その後、協力して事に対処するような機会もなく、また、|氷澄《いずみ》自身が現在の人類に対して冷ややかな評価を下していることもあって、学校での表向きの関わりを別にすれば、三人の間に特別な関係はなかった。
「先週の授業でわからなかったところを聞きに来たと思う?」
|氷澄《いずみ》の冷たい視線を気にしたふうもなく、万里絵は丸太の穴を見た。
「何?|裏次郎《うらじろう》は死んだのに、戦闘訓練?」
万里絵は、黒いスーツの|遺産《いさん》管理人の名前を出した。
|裏次郎《うらじろう》。かつて、イェマドの栄えた時代には、歴史学者だった男。イェマド|滅亡《めつぼう》後は、
次に現れだ人類をイェマドの栄光に導くべく奮闘し、絶望した男。その後は、イェマドの|遺産《いさん》をバラ撒き、それによって人間を|破滅《はめつ》へと走らせ、現在の人類の|愚劣《ぐれつ》さを証明することを人生とした男。
事件すべての黒幕《くろまく》であった彼は、遼の|怒《いか》りを買い、暴走に近いザンヤルマの剣の攻撃を受け、閃光とともに|消滅《しょうめつ》していた。
「確かに|裏次郎《うらじろう》は姿を消した。だが、|遺産《いさん》が全《すべ》て回収、処分されたわけではない」
|氷澄《いずみ》は警棒を畳んだ。
「|裏次郎《うらじろう》から|遺産《いさん》を受け取った人間全てが、その日のうちに起動してしまうヤガミのようなお調子者ばかりとは限らない。さらに、起動した直後に暴走が始まると決まっているわけでもない。イェマドの|遺産《いさん》は、今や|裏次郎《うらじろう》の|遺産《いさん》ともなった。『おのれの心を暴走させよ』という遺言《ゆいごん》とともにな」
「それを関いて安心したわ。要するに、|遺産《いさん》関連事件への対処は、今後とも積極的に行なうってことよね」
|妙《みょう》な娘《むすめ》だ――。|氷澄《いずみ》は思った。一応、事件関係者ではあるが、万里絵自身は|遺産《いさん》管理人でもなく、|遺産《いさん》を受け取ったわけでもない。|遺産《いさん》を巡っての暗闘は、人類全てに関係あるという意味では、万里絵にとっても他人事ではないだろう。だが、自分で超兵器を操《あやつ》る矢神遼とは切実感が|違《ちが》う。面白そうだから首を突っ込んでくるとしか思えない。
|氷澄《いずみ》は多少のいらだちを覚えた。
「用件を言えと言っている」
「ああ、|丈太郎《じょうたろう》はテレビを見ないよね。ひょっとしたら新聞も読んでないんじゃないの」
万里絵は、ジャンパーのポケットに突っ込んであった新聞を差し出した。社会面に、比較的《ひかくてき》大きく紙面を割いて、昨夜のミスター・アカシャ焼死事件の記事が出ている。超能力者の看板を掲《かか》げていたタレントの|奇怪《きかい》な死が、テレビで生中継《なまちゅうけい》されたのだ。話題性は充分《じゅうぶん》だ。ただ、あくまでも電気関係の事故ということになっているが。
「――これが、“|遺産《いさん》”絡みの事件だっていうのか」
「たまたまテレビで見てたんだけど、青白い炎《ほのお》を上げて、三〇秒かからずに、全身が燃え尽きてたわ。かなりの高温で焼かれたのは確かよね」
人間が自然発火し、焼死するという事件そのものは、古くからいくつもの記録がある。
原因についても、アルコール説やガス説などの常識的なものから、生体エネルギー説、レイ・ライン説、プラズマ説などの超科学的なものまで諸説があるが、決定的なものはない。
「なぜ、ヤガミに調べさせない?自分も闘《たたか》うと、大見得《おおみえ》を切ったそうじそないか」
万里絵は肩をすくめた。
「今の遼には無理よ」
「いつか無理でなくなるのか」
「わからない。――第一、そんなこと、|丈太郎《じょうたろう》には関係ないでしょ」
少し怒《おこ》ったような口調で万里絵は応《こた》えた。
最後に一瞥《いちべつ》してから、|氷澄《いずみ》は新聞を万里絵に返し、畳んだ警棒をしまうと、歩き出した。
「もう、訓練、終わり?」
「――該当《がいとう》するような機能を持った|遺産《いさん》があるかどうかわからないが、とりあえず、かかってみる」
「よろしくね」
万里絵はけろりとした表情で言うと、|氷澄《いずみ》の後に続いた。
「――よく、この場所がわかったな」
「物捜《ものさが》しは基本だもん。―――ところで、捜すといえば、どうして|丈太郎《じょうたろう》はあの町に張り付いてるの?|遺産《いさん》捜しなら、あっちこっち動いてたほうが、効率いいんじゃないの?」
「あの町――日比城《ひびき》市と、隣接《りんせつ》する市町村で、この一〇年ほど、|遺産《いさん》絡みの事件の発生頻度が高い。|偶然《ぐうぜん》か、|裏次郎《うらじろう》がそう仕組んだのか、あるいは、そうならざるをえない要素があったのかは不明だがな」
「ふうん」
「――ところでマリエ、学校では私の名前を呼び捨てにするようなことは慎《つつし》め。無用の誤解《ごかい》や詮索《せんさく》を招きたくない」
「お互いさまでしょ、|氷澄《いずみ》先生」
万里絵は腕時計を見て、小さく悲鳴を上げた。
「どうした?」
「遅刻《ちこく》!」
「何だ、日曜の朝っぱらから」
「野球の応援! チアリーディング部の助っ人頼まれてるの!」
ボンボンを振り回すまねをしてみせてから、猛然と山道を下りはじめた万里絵の背中を、|氷澄《いずみ》は無表情に見送った。
遼が目を覚ましたのは、もう昼に近い時刻だった。
何かひどい夢を見ていたような気がする。頭が重たい。
――バーボンのせいかな……。
かなり濃いめの水割りで五杯……いや、六杯か。遼は二、三度頭を振って、洗面所へ行き、冷たい水で顔を洗った。少しは頭がすっきりしたようだ。
コーヒーメーカーをセットし、朝刊を広げる。社会面の左下|隅《すみ》に、昨夜の事件についての記事が出ていた。電気関係の事故で、燃えやすい合成|繊維《せんい》の衣装《いしょう》が引火し、|一瞬《いっしゅん》のうちに火が回ったのがミスター・アカシャの命取りになったというのが警察の結論らしい。
――そうだろうか……。
テレビ画面に展開された光景を思い返してみる。固面がまぶしいと感じられるほどの光。
そして、青白い炎《ほのお》。ほとんど動く暇さえなく、ミスター・アカシャは灰《はい》になっていた。
――青白い炎《ほのお》ってことは、かなりの高温じゃないのかな。燃えている物の種類にもよるだろうけど。
それに、衣装に火が点いたのなら、全身に|火傷《やけど》を負うことはあっても、体が燃え尽きるということはあるまい。|床《ゆか》に倒れた時には、アカシャの体は砕《くだ》けるほど炭化していた。
不意に鳴り|響《ひび》いた電子音に、遼はびくっとした。コーヒーが出来たのだ。マグカップに
移し、三分の一ほど牛乳を加えて飲む。
人間|炎上《えんじょう》事件というのは「世界の謎《なぞ》と怪奇《かいき》」といった類《たぐい》いの本には必ず出てくる話だ。
遼は怖がりなのに、この手の本が好きで、小学校の図書室に置いてある本を片《かた》っ端《ぱし》から読み、一人で夜道を歩けなくなってしまった|記憶《きおく》がある。
それらの本の記述によれば、一握りの灰しか残らないほどの高温で焼かれながら、周囲には燃え広がらないのがこの現象の|特徴《とくちょう》だ。これは、昨夜の事件にも当てはまるようだ。
ひょっとしたら、そういった「世界の|謎《なぞ》と怪奇」の背後にも、イェマドの|遺産《いさん》管理人が暗躍《あんやく》していたのだろうか。否定はできない。何しろ彼等は、文明の発生以前から現在に至るまで、歴史の陰を生きつづけてきたのだから。
いずれにしても、黙《だま》って見過ごすわけにもいかないだろう。まずは、事件の全容を明らかにすること。それが、闘《たたか》うことを決意した遼の役目だろう。
残ったコーヒーをマグカップにあけ、牛乳を足すと、遼は一息に飲み干した。
自分の部屋へ戻る。そして、机の前に立ち、|抽斗《ひきだし》にかかっていた|鍵《かぎ》を開ける。いちばん下の|抽斗《ひきだし》の奥に、遼が|裏次郎《うらじろう》から相続したイェマドの|遺産《いさん》――ザンヤルマの剣が|隠《かく》されている。
遼にとっては、|裏次郎《うらじろう》がバラ撒いた|遺産《いさん》と闘《たたか》うための唯一《ゆいいつ》の武器である。だが、同時にそれは、敵対者に|破滅《はめつ》をもたらす凶器《きょうき》でもあるのだ。
遼は剣を取ろうと手を突っ込んだ。――無い。手に触れるものが何も無い。
|抽斗《ひきだし》に首を突っ込むようにして、奥の空間を|覗《のぞ》き込もうとした。見えない。ガタガタ言わせながら|抽斗《ひきだし》を外す。
一段目から全部外してしまう。――剣はどこにもなかった。念のために、|抽斗《ひきだし》の中身も掻き回す。ない。長さ三〇センチほどの|短剣《たんけん》を新聞紙でくるみ、ガ
ム・テープで留めた包みだ。どこかの|隙間《すきま》に|紛《まぎ》れ込むような物ではない。
遼は立ち上がり、机の上に両手をついた。こめかみで、鎖骨《さこつ》の下で、速い脈を打っているのが感じられる。
――何とかしなくちゃ……何とか……。
懸命《けんめい》に落ち着こうとする。
まず、|記憶《きおく》をたどってみる。事件後一週間、遼はザンヤルマの剣を机の上に置き、にらみつけて過ごした。学校へ出られるようになってからは、新聞紙で包んで、身近でありながらわかりづらいところ――拙斗のさらに奥のわずかな空間に|隠《かく》すようにしていた。寝る前と、起きてすぐ、そして、学校から帰って最初に、確認する。
昨日は?朝、起きて最初の確認の時にはあった。これは確かだ。
帰ってきてからは?
――失敗だったな……。
神経|過敏《かびん》のような、うつ病のような気分で戻ってきた遼は、その最大の原因であるザンヤルマの剣を見ることを無意識に避《さ》けていたのかもしれない。そして、テレビで見た怪事件のこともあり、またも確認を怠《おこた》ったまま眠ってしまったのだ。
机についた腕が、|肘《ひじ》を中心にプルブルと震えている。
――何とかしなくちゃ……何とか……。
事件後、剣を持ち出したことは一度もなかった。持ち歩かないものを落としたりして紛失《ふんしつ》するわけがない。だとすれば、何者かが盗《ぬす》んだのか。
イェマドの|遺産《いさん》は、キーになる何かが合わない限り、起動させることさえできない。遼以外の人間にとって、ザンヤルマの剣は無価値のものだろう。ならば、盗む理由がない。
それとも、剣には遼の知らない機能があって、勝手にどこかへ行ってしまったとでもいうのだろうか。
――何とかしなくちゃ……何とか……。
さっきから、何度同じことを繰り返しただろう。|焦《あせ》るばかりで、考えがまとまらない。
いつか、|膝《ひざ》までが震えはじめていた。
急行列車で終点まで行き、そこからJRで三時間。目指す場所に着くためには、さらにもう一度私鉄に乗りかえなければならない。
JRの窓から外に目を向けていながら、遼の意識には、景色の変化も、あるいは車内放送もほとんど届いていなかった。
あの後、部屋中を|隅《すみ》から隅《すみ》まで探してみたが、ザンヤルマの剣は見つからなかった。
いろいろと考えたあげく、遼は江間水緒美《えまみおみ》に相談することにした。
|水緒美《みおみ》もイェマドの|遺産《いさん》管理人であり、暗躍《あんやく》する|裏次郎《うらじろう》とたびたびの対決をしてきた女性である。|橘《たちばな》マンションの近くで「冬扇堂《とうせんどう》」という骨董屋《こっとうや》を開いていたが、先の事件の後、閉店。今は、離れた
場所にある別の「冬扇堂」を切り回していた。
遼が剣の紛失について相談できる人間、言い換えれば、イェマドと|遺産《いさん》についての事情を知っている人間は三人しかいない。朝霞万里絵、|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》、そして江間|水緒美《みおみ》。
|氷澄《いずみ》は、遼がザンヤルマの剣を待ちつづけることに反対だった。
万里絵は留守《るす》だった。すでに昨夜の事件の真相究明に乗り出しているのかもしれない。
しかし、もしも万里絵が家にいたとしても、剣の紛失を正直に打ち明けられたかどうか。
前向きで積極的な万里絵の陽性の性格が、時に、遼にとっては近寄りがたいものに感じられることがある。昨日だって、遼は万里絵から逃《に》げようとしていたのではなかったか。
|水緒美《みおみ》なら……遼が剣を待つことを認め、これまで何度も巡察からみの事件に対処してきた|水緒美《みおみ》なら……。それが、混乱する頭で必死に考えて出した、遼の結論だった。
ぼんやりと窓の外を見る、習慣とは恐《おそ》ろしいもので、差し追って解決しなければならないトラブルがあって出かけたというのに、遼は車中の暇潰《ひまつぶ》し用に文庫本を持ってきていた。
もっとも、二、三度ページをめくりはしたが、内容は、一向に頭に入ってこなかった。
窓の外では、見慣れない風景がゆっくりと流れていくばかりだった。
遼が目指す駅に降り立った時には、もう夕方と言っていい時刻になっていた。
背中を丸めるような格好で、冬扇堂に向かって歩き出す。駅前の大通りをかなり歩いたところにある雑居ビルの四階に、新しい冬扇堂は店を構えていた。
遼は、まるで密入国者になったような、落ち着かない気分で歩いた。よく知らない街だからという理由ばかりではない。他人に話せない秘密を待っているためだ。
行き交う人のペースと合わず、何度もぶつかりそうになりながら、ようやく目的のビルに着いた。似たような雑居ビルが肩を寄せるようにして建っている一画だ。
狭《せま》い階段を上る。これで事件は解決できるかもしれないという期待とは別に、自分の不始末について告白しなければならないのだという思いが、自然、足を重くした。
――ああっ!
四階にたどり着いた遼は、|膝《ひざ》から力が抜けそうになった。冬扇堂のドアには「本日休業」の札が下がっていた。
念のため、ノブを握り、回そうとする。|鍵《かぎ》がかかっている。何度かドアを|揺《ゆ》らす。内側でドア・ベルが間の抜けた音をさせた。
――何で……。
出かける前に電話をかけて、|水緒美《みおみ》がいることを確認する――そんな当たり前のことにさえ、考えが及ばなかった。いや、電話をかければ、何が起こったのかを話さなければならない。遼は、それを避けていたのかもしれない。
ノブを握ったまま立ち尽くしている遼を、上の階から降りてきたアベックが、ちらちら見ながら行き過ぎた。
――何とかしなくちゃ……何とか……。
全てはふりだしに戻った。
日はすっかり暮れていた。
せわしい人の流れから逃れるようにして、遼は駅への道をたどった。目的は果たされず、
次に打つべき手も思いつかない。帰るしかなかった。
|人影《ひとかげ》のまばらなJRの客車の向かい合わせになった四人掛けの|椅子《いす》の|隅《すみ》に座り、遼はとりとめもなく考えを巡《めぐ》らせた。
これでいいのだと思おうともした。
ザンヤルマの剣が遼の手元から消えたのも、一つの運命ではないのか。遼は、たまたま、剣を起動させるキーが合ったという理由だけで、剣を相続し、戦った。遼自身に落ち度がないのなら、剣の紛失《ふんしつ》は、運命からの解放ではないのか。剣がなければ、遼には戦わなければならない責任はないのではないか。そして、剣を捜し出す責任も――。
――できない。
少なくとも、剣の|行方《ゆくえ》がわからないまま、放っておくことはできなかった。先の事件でも、遼は一度、剣を捨てている。もし、あの時、ずっと剣を手元に持っていたら、事態の推移《すいい》は変わっていたかもしれないのだ。
「ねえ、隣《となり》に座ってもいいかな」
太い男の声に、遼はもの思いを破られた。いつの間に現れたのだろう。遼の斜め前の席に、でっぷりした中年の男が座っていた。
赤い顔の表情はしまりがなく、ネクタイを締めていないワイシャツの襟は開き、アンダー・シャツの円い襟が見えている。アルコールが入っているのは確かなようだ。
いくらも空いた席はあるのに……。いやだが、断《ことわ》る理由も見つからなかった。
男は、遼の|隣《となり》に大きな尻を割り込ませてきた。汗の臭いに混じったオーデコロンか何かの甘ったるい|匂《にお》いが鼻を衝く。
遼は、文庫本を開いた。まだ、先は長い。話しかけられたくない気分だったので、その意志表示のつもりだった。
「何読んでるの」
息がアルコールくさい。
遼は本の題名を見せた。
「難《むずか》しそうな本だねえ。学生なの?勉強家なんだね」
話しながら、擦《す》り寄ってくる。手が、遼の肩に回された。思わず身を固くしている。
「ちょっと、話さない?僕はねえ、君みたいな若い人が好きなんだよねえ」
粘っこい声で言いながら、もう片方の手が、遼の|膝《ひざ》の上に置かれた。|膝《ひざ》から|太腿《ふともも》へ、大きな熟い手のひらで撫でる。
――こ、この人……。
非日常的な危機から、思いもよらなかった現実に引きずり込まれて、遼の頭の中は完全に混乱していた。
|慌《あわ》てて手を振りほどき、立ち上がろうとする。
だが、男のほうが素早かった。遼は手首を|掴《つか》まれていた。文庫本が|床《ゆか》に落ちる。男は遼の手をしっかり握って、離《はな》さない。
「いいじゃない、そんなに嫌《きら》わなくても」
とっさにまわりを見る。客車内に他《ほか》の客はいない。
「ねえ、お話ししましょう」
逃げようとする遼を、男は意外なほどの力で引き寄せ、抱《だ》き締《し》めようとした。
粘液《ねんえき》質の光を宿した目の下で、大きな口がだらしない笑いを浮かべている。
「やめろよ、おじさん」
すずしい声がした。
遼は助けを求めて、声のしたほうを見た。
思わず息を呑《の》む。学生服を着た少年が一人、通路に立っていた。正面にボタンのないタイプの|詰《つ》め|襟《えり》。光沢《こうたく》のある濃いグレイの生地は特別あつらえで、確か、校長だか理事長だかの命名で、“ノーブル・グレイ”というそうだ。襟章は、デザイン化された星と連峰《れんほう》。
星の部分には、|珍《めずら》しいことにカットされたガラスが使われている。遼も知っている、県内トップ・クラスの進学校であり、同時に高校野球の強豪《きょうごう》でもある、|星嶺《せいれい》学園高校だ。
だが、遼に息を呑ませたのは、文武画道のエリート校の制服ではなかった。
ほっそりとした体躯を包んだグレイの|詰《つ》め|襟《えり》の上で、かすかな笑みを浮《う》かべている少年の顔――茶色がかった長めの|髪《かみ》の下の顔はあくまで白い。それも病的なものではなく、不純物が一切含まれていない|皮膚《ひふ》というものがあるなら、こんな感じだろうと思わせるような艶やかさと張りを備えている。
細い|眉《まゆ》に切れ長の目。通った鼻筋の下で結ばれた唇《くちびる》は、それが開いて何かの言葉を発するのを期待させるほど形がいい。ちょっと中性的な印象の美少年だ。
「やめろよ、おじさん」
少年はもう一度|繰《く》り返した。
「僕はねえ、この人とはお友だちなんだよ、お友だち」
遼に頬擦りせんばかりの格好で男が言う。
少年はかすかに|眉《まゆ》を寄せると、しなやかな動作で人差し指を男のほうへ向けた。
男が、|喉《のど》の奏でヒッというような声を上げ、手から力を抜いた。
その隙に遼は男の腕を振り払い、少年のほうへ逃《のが》れた。
男は胸を掻きむしるようにして、座席の上で身悶《みもだ》えていた。顔に脂汗《あぶらあせ》が浮かんでいる。
「お望みならば、そのまま心臓を止めてあげてもいいんだよ」
からかうような調子の少年の言葉に、男は、頭が取れてしまうのではないかと心配になるくらい|激《はげ》しく首を横に振った。口の端《はし》に泡《あわ》を吹いている。
少年は指を下ろした。男の全身から|緊張《きんちょう》が去る。座席の上にぐったりと横たわり、金魚のように口をばくばくさせる。
遼は改めて少年を見た。
少年は、また人差し指を男に向けると、命令した。
「立て」
フィルムの逆回しを思わせる、どこか|奇妙《きみょう》な動作で男は座席から立ち上がり、直立不動《ちょくりつふどう》の姿勢をとった。
「行け」
少年が車両の出入り口を指さすと、男はゼンマイ仕掛けの兵隊のようなギクシャクした歩き方で出ていった。
「あ、あの……ありがとうございました」
やっと我に返った遼が礼を言うと、少年は初めて嬉《うれ》しそうに笑った。そこだけ光が当たったような笑顔だった。
だが、遼の頭の隅《すみ》に疑問が湧《わ》く。客車には誰も居なかったはずだ。
「君が呼んだから来た」
遼の心を読んだみたいに少年は言った。
「君が助けを求めているのがわかった。だから来たんだよ、矢神遼くん」
遼はまた息を呑《の》む。
少年はいたずらっぼい表情を浮かべると、人差し指と中指をひらひらさせた。落ちていた文庫本が、生き物のように|床《ゆか》から跳《と》び上がり、少年の手に収まった。少年は表紙の汚《よご》れを払うと、本を遼に差し出した。
本を受け取りはしたものの、遼は少年の顔を見つめるばかりだった。
だが、少年は意に介《かい》した様子もなく、遼に背を向けた。
「また、助けが欲しかったら、呼べばいい。僕は必ず馳け付ける」
そのまますたすたと、中年男が出ていったのと同じドアのほうへ行く。
「――ちょっと待ってください!」
「|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》。それが僕の名前だ」
「あ……秋月さん!」
少年―秋月山美彦はドアの向こうへ消えた。
遼が|駆《か》け寄ってドアを開けた時には、そこには誰も居なかった。
車窓の外を、見馴れない夜景が流れていく。
|隣《となり》の車両のドアを開け、左右の座席を確認しながら、急ぎ足で通路を行く。家族連れ、
アベック、サラリーマンの団体、セーラー服の一団……。
――居ない……。
同じことを繰り返して、先頭の車両まで確かめたが、秋月の姿はなかった。
――消えた……。秋月さんも、あの中年の男も。
考えてみれば、|星嶺《せいれい》学園高校は、遼の通り|鵬翔《ほうしょう》学院と同じ県内にある。その学生が、何故、こんなところにいたのだろう。|偶然《ぐうぜん》、だろうか。
――彼は、僕が助けを求めたから来た、と言っていた。
だが、遼は叫び声一つ上げていない。
いや、そればかりではない。指一本触れずに男を撃退し、意のままに操り、あるいは、|床《ゆか》に落ちていた文庫本を宙に舞わせる。教えもしない遼の名前を呼び、口にする前の疑問に答える。そして、|消滅《しょうめつ》――。
――超能力者だとでもいうのか……。
あまりに飛躍した想像だと思う。助けを呼べば現れる、正義の超能力少年……。
「アキヅキ……ユミヒコ……」
口に出してみると、その名前の|響《ひび》きさえ現実感の|薄《うす》いものに思われた。
月曜日、遼は|寝坊《ねぼう》してしまった。
ショッキングな出来事と、それに続く遠出。さらに、|帰途《きと》で|出逢《であ》った不思議な少年――。
一二時近くに帰宅して、すぐベッドに入ったのだが、|興奮《こうふん》のためなかなか寝付かれず、眠った後は、精神的、肉体的な|疲労《ひろう》が一遍に出て、目覚ましが鳴っても起きられなかった。
朝食もとらず、ぼさぼさ頭の寝癖を直すのもそこそこに、遼は家を出た。
遼が二年B組の教室に滑り込むのと、担任の宮内が|出席簿《しゅっせきぼ》を持って現れるのが、ほぼ同時だった。
座る間もなく、日直の号令で朝の挨拶を済ませ、宮内が出席をとった。
「おう、|神田川《かんだがわ》、昨日は残念だったな。二回戦で、いきなり優勝候補と対戦とはな」
|出席簿《しゅっせきぼ》を閉じた宮内は、遼の後ろの席の|神田川《かんだがわ》|明《あきら》に声をかけた。
「なあに、私、|神田川《かんだがわ》|明《あきら》には、まだ来年があります。|鵬翔《ほうしょう》学院野球部には、再来年も、その次もあります。絶対、優勝してみせますって」
|坊主《ぼうず》頭を掻きながら、|神田川《かんだがわ》は応えた。
「みんな、今の言葉、覚えとけよ」
そんなたわいないやり取りの後で、宮内は連絡事項《れんらくじこう》を告げ、出ていった。
途端に教室全体がざわめきはじめる。雑談のなかには、一昨日のミスター・アカシャ焼死事件についての話も聞き取れた。
遼はのろのろと|鞄《かばん》から教科書やノートを引っ張り出し、一時眼目の用意を始めた。
結局、昨日一日かかって、剣の|紛失《ふんしつ》については何も事態の進展がなかった。
昨日の帰りが遅かったのと、|今朝《けさ》|寝坊《ねぼう》したのとで、万里絵には会っていない。|氷澄《いずみ》はB組を受け持っていないので、こちらから行かない限り、会うこともない。
――どうしよう。やっばり、いつまでも|黙《だま》っているわけにはいかないだろうけど……。
いかにも気が重かった。
「どうした、せつなそうな顔して」
|神田川《かんだがわ》のギョロりとした目が遼の顔を|覗《のぞ》き込んでいた。
昨夜の災難《さいなん》の|記憶《きおく》のせいでもないだろうが、遼は少し身を固くした。
「別に……何でもないよ」
「そっか? まるで女にふられたみたいな顔してるぞ」
「そう?」
遼は頬をこすった。それで表情が変わるわけもないけれど。
「ところでさ、A組の朝霞万里絵ってコ、知ってる? 一か月前、アメリカから転校してきたコなんだけど」
「し、知らない、知らない」
「――何、慌《あわ》ててんだよ」
「別に……」
イェマドの|遺産《いさん》の件とは別に、遼は秘密を持っていた。そう、朝霞万里絵が自分の従妹《いとこ》であるという秘密を。地味《じみ》で、性格が暗くて、運動神経が鈍《にぶ》くて、長所らしい長所もなくて、友だちも少ない一七|歳《さい》の少年にとって、美人で、明るくて、運動神経抜群で、誰《だれ》からも好かれる問い年の|従妹《いとこ》がいるというのは、結構|気詰《きづ》まりなものなのだ。
学校では、いとこ同士であることは秘密にする――。万里絵に約束《やくそく》させたのだ。
「それで、その娘《コ》がどうしたの」
「うん、昨日の試合、チアリーダーで来てたんだけど――」
――昨日は野球の応援《おうえん》で留守《るす》だったのか。
万里絵のことだから、さっそくミスター・アカシャの事件について調べはじめているのだとばかり思い込んでいた。
「やっばり、アメリカで仕込んだのかなあ。ひょっとしたら、山本よりも目立ってたんじやないかってくらいでさ」
「山本って?」
「||山本伸一《やまもとしんいち》。|星嶺《せいれい》のエースだよ」
遼の脳裏《のうり》に、昨夜の少年―|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》の姿が浮かんだ。
――彼も、|星嶺《せいれい》学園の制服を着ていた……。
「で、そのコがさ、おまえんとこのマンションに住んでるのな」
肋骨《ろっこつ》の奥で心臓が|跳《は》ね上がったような気がした。
――やめてくれよ……。
くだらないことだと思う。現代の文明の裏側で、超技術の結晶《けっしょう》を操って暗闘《あんとう》を繰《く》り広げる者たちの存在を知り、その|闘《たたか》いに加わっていることに比べれば、取るに足りないどころか、|馬鹿《ばか》|馬鹿《ばか》しくて腹が立つくらいだ。自分でもわかっている。
だけど、それとは別に、遼は自分の心安らかな生活を守りたいのだ。世間から。
「気がつかなかったけど……」
「気をつけててみ。――おまえ、ああいう明るいタイプのことつきあってみたら?案外、うまくいくんじゃないの」
――余計なお世話だ!
「|神田川《かんだがわ》くん、実は、チアリーダーに見とれてて負けたんじゃないの、昨日の試合?」
「おっ、言ってくれるね、矢神選手」
性格が全く|違《ちが》うのに、自分のことを気にかけてくれる、ありがたい友だちなのだ、|神田川《かんだがわ》|明《あきら》は。だが、この時ばかりは、遼は|神田川《かんだがわ》のがさつな性格を|恨《うら》めしく思った。
始業のチャイムが鳴る。
遼は心の中でため息をついた。
身が入らないまま、一日の授業が終わった。
みんなが帰ってしまった後も、遼は教室に残って、ぼんやりしていた。行動を起こさなげればならないという|焦《あせ》りが落ち着かなくさせる一方で、何をするのも|億劫《おっくう》だった。
――帰ろう。
言い訳のように、A組の教室を|覗《のぞ》いてみる。|隅《すみ》に三、四人か固まつてダベっていたが、
万里絵の姿はなかった。
念のために、社会科研究室にも行ってみる。|氷澄《いずみ》は居なかった。
自分から避けていたのに、二人とも不在となると、仲間外れにされたような気分になる。
――いいや。家に帰ったら、電話してみよう。
自分で自分に言い訳しているみたいだった。電話するのはいいとしても、剣の|紛失《ふんしつ》について話す決心がついているとはとても言えない、心境なのだから。
それでも遼は|鞄《かばん》をぶら下げて校門を出た。
いつものように電車に乗る。
単調なレールと車輪の|響《ひび》きを聞くうちに、ふと昨日の|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》の言葉が思い出された。
――助けを求めれば、必ず|駆《か》け付ける、か。
アニメのヒーローじゃあるまいし、と半《なか》ば|呆《あき》れながら聞いていたが。
――できるものなら、助けてほしいよ。
もちろん、本気でそう考えているわけではない。遼の抱えている問題は、そう簡単に理解できるものではないし、何よりも、命を落とす危険のある暗闘《あんとう》に、これ以上他の人間を巻き込むわけにはいかない。本当は、万里絵にだって首を突っ込まないでほしいくらいだ。
列車が下北富士の駅に着いた。遼は|慌《あわ》てて降りた。
「やあ、待っていたよ」
|改札《かいさつ》めざして歩ぎかけていた遼に、背中から声がかかった。
夕焼け空を背に、ホームの|端《はし》からゆっくりと歩いていく|細身《ほそみ》の|影《かげ》――。左手をズボンのボケットに突っ込んだ、ちょっと気取ったポーズのシルエット。折良く、構内の|蛍光灯《けいこうとう》が点《つ》く。白っぼい光が、声の主の顔を照らし出した。
「秋月さん……どうして、ここへ……」
「心外だな。僕は言ったはずだよ。君が助けを求めれば、必ず|駆《か》け付けるって」
秋月は白い歯を見せた。
「でも……」
秋月のことを思い出していたのは誰かだが、本気で助けを求めようとか、頼ろうとか考えていたわけではない。
「とりあえず、出ようか」
秋月は先に立って|改札《かいさつ》口を抜けた。遼も後に続いた。
夕方の雑踏《ざっとう》のなかを、秋月は無造作《むぞうさ》な足取りで歩いていった。
遼は、その背中に遅れないように、いつか小走りになっていた。
ふと、|妙《みょう》なことに気づく。秋月の反対方向から来る人が、みんな、さりげなく道を開けるのだ。秋月の正面一メートルほどになると、右か左へよける。それも、ごく自然に。お喋《しゃべ》りに夢中《むちゅう》になっている女子高生の一団など、秋月の存在に気がついた様子もないのに、そうするのが当然といった感じで二手に分かれ、その間を秋月と遼が通り抜けると、何事もなかったように、再びまとまって、お喋りを続けている。
――超能力……なんだろうか。……そういえば、駅の|改札《かいさつ》も素通りしていた……。
楽しそうに笑っている女子高生の背中を見送りながら、遼は鼓動《こどう》が遠くなるのを感じた。
二人は喫茶店《きっさてん》に腰を落ち着けた。
遼の前にはブレンドのカップ、そして、秋月の前にはパフェの細長いグラスが置かれた。
「おかしいかい?」
「いえ……」
秋月の問いに、遼は短く答えた。
遼だって、甘いものは|嫌《きら》いじゃない。ただ、自分にいわゆる“男らしさ”というものが欠けているという自覚があるから、そういったものを人前で食べる気にはなれない。このうえ、“軟弱《なんじゃく》な奴《やつ》”のレッテルを貼られるような真似をしたくないのだ。
「昨日は、どうも、ありがとうございました」
「どういたしまして。僕も、人の役に立てて嬉しいよ」
昨日のことについては、尋きたいこともたくさんあった。だが、どこから話しはじめたらいいのか、言葉が見つからなかった。
「あの……|星嶺《せいれい》が勝ったんですよね、昨日の野球の試合」
「くだらないよ、高校野球なんて」
沈黙《ちんもく》に耐え切れなくなった遼がようやく見つけた話題を、秋月はすげなく却下《きゃっか》した。
遼は仕方なく、またコーヒーに口をつけた。
「――それで、僕は、秋月さんに、何のことで助けを求めたんですか」
コーヒーカップの底が見えた頃《ころ》、遼は押《お》し殺したような声で秋月に|尋《たず》ねた。
「|妙《みょう》な質問だね、矢神くん」
「だって、僕には、助けを求めた覚えがないんですから」
秋月は、空になったグラスに長い柄のスプーンを放り込んだ。
「気づいていないのか、認めたくないのか――。どちらにしても、君は心の底では僕に助けを求めた。そして、君を本当に助けられるのは僕だけだ」
断定的な物言いに反発を感じる。だが、気になる部分もあった。君を本当に助けられる
のは僕だけだ――。どういう意味だろう。
「僕は、あなたの助けなんて、必要としていません」
遼は初めて秋月の目を正面から見返して言った。
「君は困っているはずだ」
そう、遼は確かに困った問題を抱えてはいる。だが、それは秋月に助けてもらえることではない。
「僕は、あなたの助けなんて、必要としていません」
遼はもう一度、あなたの、という部分に力を込めて繰り返した。
「――いいよ。君が素直に認めるまで待つよ」
秋月は席を立った。
「僕についてきたまえ」
――何とかかんとかしたまえ、なんて言い方をする人間を初めて見たよ。
少し皮肉っぽい気分で、遼は心の奏でつぶやいた。もっとも秋月は、そんな言い回しが似合わない人間ではないが。
立ち上がる時に、テーブルの角にぶつかりながら、遼はグレイの学生服の背中を追った。
いつの間にか、街を歩いている人間の種類が変わっていた。主婦と思われる女性が姿を消し、若い層も、学生服を着ている人間はほとんどいなくなっていた。
あいかわらず、秋月の前には自然に道が開く。それが、単に彼の発する|雰囲気《ふんいき》のためなのか、何がしかの力を使っているためなのかは不明だが。
――もしかしたら、彼も、|裏次郎《うらじろう》からイェマドの|遺産《いさん》を受け取ったのか?
『君を本当に助けられる』という言葉の意味も、つまりは遼と同じ身の上ということなのではないだろうか。
あれこれ考えている遼におかまいなく、秋月は歩いていった。
駅前の商店街からだいぶ離れ、川の上を横切る大通りの上で秋月は立ち止まった。
|欄干《らんかん》に身をもたせかけ、秋月は|黙《だま》っていた。遼は、秋月が何か言うのを待った。
橋は、車の交通量は多いが、人はほとんど通らなかった。他人に聞かれては困るような話をするにはもってこいの場所かもしれない。遠くからバイクの爆音とホーンの音が風に乗って聞こえてくる。月曜の夜だというのに、暴走族だろうか。
「用がないなら、帰ります」
秋月は片手を上げて、遼を制した。
コツコツと、|硬《かた》い音が近付いてくる。ハイヒールの足音だ。
音のするほうを見る。勤め帰りのOLらしき若い女性が、しきりに後ろを気にしながらこちらへ来る。
「いいじゃないかよ、ちょっとくらいよお」
白っぽいスーツに、派手な色のシャツを着た三〇歳くらいの男が後からっいてきた。街灯の青白い光に、テカテカした白い靴と、太い金色のブレスレッドが目につく。
遼は、|喉《のど》の奥が干上がったような気がした。こういう|情況《じょうきょう》にうまく対処できるだけの力は持っていない。しかし、見て見ぬふりもできない。
スッと秋月が身を起こした。
「やめろよ、チンピラ」
どちらかといえば非力そうな学生に正面からチンピラ呼ばわりされて、男の頭に血が上ったようだ。女の後を追う足を止め、秋月のほうへ歩いてくる。
秋月もゆっくりと男のほうへ歩いていく。
「オイコラ、学生」
精|一杯《いっぱい》の凄《すご》みを効かせただろう声にも、秋月は反応しなかった。しだいに間合いが詰まっていく。
秋月は足を止めた。双方《そうほう》が手を伸ばしても触《ふ》れ合わないぎりぎりの距離《きょり》だ。そして、昨日の列車で酔っ払いの中年男にしたのと同じように、正面から人差し指を突《つ》き付けた。
男の全身の筋肉が同時に|痙攣《けいれん》したような印象だった。映画のストップ・モーションのように、歩く動作の|途中《とちゅう》の姿勢のまま、男は動かなくなった。半開きの口の中でピンクの舌がヒクヒクと動き、こめかみが脈打っている。
――同じだ。昨日と同じだ。
遼は、秋月の全身に目を配った。特に目立った異常はない。
「少し頭を冷やせ」
静かに言うと、秋月は足の下を流れる川を指さした。
「あっ……ああっ……」
悲鳴もあげられず、|喉《のど》に何かが詰まったょうな声を出しながら、男はヒョコヒョコした動きで手摺りを乗り越え、水面目がけて飛び込んだ。大きな水音がする。
遼は手摺りに|駆《か》け寄り、下を|覗《のぞ》き込んだ。男が懸命《けんめい》にもがきながら流されていくのが見えた。
「秋月さん!」
「大丈夫《だいじょうぶ》。死ぬことはない」
静かな声で言う秋月の顔を、遼は改めて見つめずにはいられなかった。
「秋月さん、あなたは……」
額にかかった前髪《まえがみ》を細い指先で掻《か》きあげると、秋月も遼を正面から見た。
「僕は、何か、|間違《まちが》ったことをしたかな」
秋月の目は笑みさえ浮かべていた。
先に目をそらしたのは、遼のほうだった。
「そう、僕は、普通《ふつう》の人間にはない“能力”を持っている」
力みも深刻さも感じられない声だ。
「そして、それを、正しいことに使うつもりだし、現に使ってきた」
もう一度、秋月の顔を見る。声同様に、穏《おだ》やかな表情だった。
「能力を待っていることを知られないように、いつも神経を張り詰めていなければならなかったし、能力を持っていたために、何人かの友人も失った」
感情と呼べるようなものは伝わってこない。整《ととの》った顔にも、すずしげな声にも、悲しみを始めとする感情のわだかまりは感じられない。だが、淡々《たんたん》と語る秋月の言葉に耳を傾《かたむ》けるうちに、遼の胸に痛いほどの悲しみが広がってきた。
けたたましい音を立てて、バイクの集団が傍《かたわ》らを通り抜けた。
「だからだよ、矢神くん。君の苦しみが僕にはわかる。僕にだけはわかる。この世界で、
君の苦しみを本当に理解でぎるのは僕だけだ」
「秋月さん……」
「君は、僕の友情を求めているはずだ。君が心を開いて、僕の友たちになれる日を楽しみにしている。僕は、いつまでも待っているから」
ホームで会った時と同じ、片手をズボンのポケットに入れた格好で、秋月は歩き出した。
見送る遼の胸に急に孤独《こどく》が湧《わ》き上がってきた。
遼は、重い足を引きずるようにして|橘《たちばな》マンションにたどり着いた。見上げる建物の窓のいくつかには明かりが灯り、中で人が動いているのだろう、|影《かげ》がちらちらする窓もあった。
それら全てが遼には無縁《むえん》なものに思えた。自分には関係のない団欒《だんらん》、縁のない幸せ。
この世界で、君は苦しみを本当に理解できるのは僕だけだ――。|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》の言葉が思い出される。
「遼!」
玄関口《げんかんぐち》で呼び止められる。万里絵が立っていた。学生|鞄《かばん》の他に、大きなスボーツ・バッグを下げている。
「今帰り?遅《おそ》かったのね」
遼は|黙《だま》ってうなずいた。だが、遅いというなら、万里絵だって遅い。女の子の夜道の一人歩きは物騒《ぶっそう》だし――。
「あたしは、スイミング・クラブに寄ってきたのよね」
バッグを揺《ゆ》すってみせる。そういえば、プールの水の|匂《にお》いがするような気がする。
二人は、郵便受けの中のものを出すと、階段を上った。
ちらっと、万里絵の横顔をうかがう。昨日はチアリーダー、今日はスイミング・クラブ、健康そのものだ。鼻の頭に、汗と、日焼けのかけらがくっついているような、そんな横顔だ。遼のようなタイプの人間は、近くにいるだけで|疲《つか》れてしまう。
「遼も水泳やれば?」
「えっ?」
「他人と勝ち負けを争うわけじゃないし、遼には向いてると思うけど」
「そうかな……」
遼は、別に他人と競うのが|嫌《きら》いなのではない。体を動かすこと一般が苦手なのだ。
「夏休みになったら、一度行きましょ、スイミング・クラブ」
遼は背筋にゾワッとしたものを感じた。そう、万里絵のこういうところが苦手なのだ。
四階に来ると、万里絵も立ち止まった。
「遼、晩ごはん、まだでしょ。食べに来ない?」
そういえば、腹が減っている。今朝は|寝坊《ねぼう》したため朝食抜きで、昼休みに購買部《こうばいぶ》でパンを買って食べただけだった。
「どう?」
「いいよ」
話したいことがある。ミスター・アカシャ焼死事件についての調査を始めたのかどうか。
突然《とつぜん》消えてしまったザンヤルマの剣のこと。冬扇堂にいなかった|水緒美《みおみ》のこと。そして、不思議な力を持った少年、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》のこと。あるいは、神日川明が万里絵のことを気にしていることも話したいし、いとこ同士であることを学校では秘密にすることも念押ししたい。昨日の野球の試合のことでもいい――。
うつむいていた遼は、顔を上けた。大きな|瞳《ひとみ》が明るい表情を浮かべて、それでもしっかりこちらを見ている。
「おやすみ」
遼はそれだけ言って、万里絵に背を向けた。
背中に視線を感じたが、振《ふ》り返ることはしなかった。遼が四〇二号室のドアを開けて、
中に入るまで、視線は遼を見つめっづけていた。
翌日、朝から|激《はげ》しい雨だったが、前日よりはだいぶましな気分で遼は目を覚ました。
――今年は梅雨明《つゆあ》けが遅いのかな。
顔を洗い、トースターに入れたパンが焼けるまでの間、朝刊を広げる。
――これは……。
一つの地方記事に目がとまった。バイクの集団|事故《じこ》についての記事だ。死者こそ出ていないが、十敷台のオートバイが転倒し、互《たが》いにぶつかり合う、かなり大きな規模の事故だったようだ。
遼の目をとめさせたのは、事故の起きた場所だ。昨夜、秋月と話をした橋からそれほど遠くない路上で起こっている。時間も、秋月と別れてから少し経った頃のようだ。
――これも、彼がやったんだろうか……。
二人が話していた時、オートバイの一団が騒音《そうおん》を撒き散らしながら走っていったのを覚えている。事故を起こしたのは、あのグループだろうか。
『僕は、何か、|間違《まちが》ったことをしたかな』
秋月はそう言った。
『僕は、|普通《ふつう》の人間にはない“能力”を持っている。そして、それを、正しいことに使うつもりだし、現に使ってきた』
そうも言った。
確かに、日曜日に中年男を追い払ったのは、遼を助けるためだったし、昨夜のチンピラを川に飛び込ませたのだって、困っている女性を助けたことになる。|間違《まちが》った行動だとは言えないだろう。
だが、遼は引っ掛かりを覚えた。納得《なっとく》のいかない、違和感《いわかん》のようなものを感じる。それが何なのか、はっきりとはわからないのだが。
――いや、それより、ザンヤルマの剣だ。
昨夜は話しそびれてしまったが、今日こそ、万里絵か|氷澄《いずみ》に話して、協力を求めなければならない。何といってもあの剣は、強力な破壊力《はかいりょく》を秘めた武器なのだ。こうしている間にも誰かを傷つけるかもしれない。遼でなければ使えないはずだが、剣の|紛失《ふんしつ》が何者かによって盗み出されたためだとしたら、犯人には剣を起動させる方法があるのかも――。
壁《かべ》の時計が、三〇分過ぎたことを告げた。
遼は舌打ちして、冷めかかったトーストをトースターから出した。
期末試験は先週で終わっていた。後は終業式まで、答案の返却《へんきゃく》などはあるにしても、形だけの授業が続く。なかには小テストなどを行なって気分を引き締《し》めようとする教師もいたが、雑談で終わるような授業のほうが多かった。
万里絵と話をする機会をうかがっているうちに、その日の授業は終わってしまった。放課後、A組の教室を|覗《のぞ》いたが、今日も万里絵の姿はない。
――帰ってからか……。
遼は教室を出た。
秋月は紺《こん》の|傘《かさ》をさし、校門の脇で待っていた。どうやら、人に道をあけさせることはできても、雨粒《あまつぶ》を除けることはできないらしい。
思わず身を固くした遼に、秋月は無邪気《むじゃき》ともいえる笑顔を向けた。
「見せたいものがある。ついて来たまえ」
遼の返事を待たずに、秋月は歩き出した。
つき合うわけにはいかない。家に帰って、万里絵の帰宅を待たなければならない。
「秋月さん――」
「“さん付け”はおかしいな。同じ高二なんだから」
用事があると言って断ろうとした出鼻《でばな》をくじかれて、遼は|黙《だま》った。
秋月は駅に行き、二〇〇円の切符《きっぷ》を買うように指示した。そして、遼が帰るのに使うのとは反対側のホームから列車に乗った。
「今日も、僕が、助けを求めたんですか」
電車の中で、遼は多少の皮肉を込めて秋月に尋《き》いた。
「今日は、僕が、君を誘《さそ》うために現れたのさ。君に、僕のことをもっと理解させてあげようと思ってね」
そう言って秋月はほほ笑んだ。遼の反発心を溶かしてしまいそうな微笑《びしょう》だった。
三〇分ほどで列車は目指す駅に着いた。遼にとっては初めて降りる駅だ。下北富士よりも駅前商店が少なく、何かの事務所が入っているようなビルが目立った。
秋月は一棟《ひとむね》のマンションへ遼を案内した。オートロックの玄関《げんかん》を通り、エレベーターに乗る・エレベーターは四階で停まり、秋月は|廊下《ろうか》の突き当たりの部屋へ遼を導《みちび》いた。
「誰もいないから、|遠慮《えんりょ》は無用だよ」
一人暮らしなんですか――尋こうとして、やめる。
玄関から短い|廊下《ろうか》を抜けると、ダイニング・キッチンだった。
「適当なところに|鞄《かばん》を置きだまえ」
言いながら秋月はグラスを二つ用意すると、冷蔵庫から出した紙パックの中身を注ぎ、
一方を遼に差し出した。
――冷たいココアか?
「チョコレートは|嫌《きら》いかい?」
「いえ……」
遼は、グラスの中の液体をちょっとにらんだ。秋月は結構嬉しそうな顔をして、冷たいチョコレートを飲んでいる。
遼は思い切って尋いた。
「昨日の夜、あの橋の近くで、オートバイの事故がありました。――秋月さんがやったんですか」
「そうだ。僕がやった」
遼が口を開くより早く、秋月か正面から遼の目を見据《みす》えた。
「僕は、|間違《まちが》ったことをしたかな」
何かが間違っていると思う。だが、それが何なのか、自分でもょくわからない。
「誰も彼らを取り締まらない。注意も与えない。だから、いい気になって、好き勝手なことばかりやる。昨日のチンピラや、その前の酔《よ》っ払《ぱら》いもそうだ。だから、僕は、制裁を加えた。いや、あの程度なら、警告、教育的指導と言うべきかな」
自信に満ちた口調だった。自分が自信を待っていることさえ、まるで意識していないような、静かな声――。
「警察や裁判官が罰を与えないような人間に罰を下すこと――それが、|普通《ふつう》の人間にはない能力を待った僕の使命、正しい能力の使い方だと思っている」
――|違《ちが》う。どこがが間違っている。
だが、|揺《ゆ》るぎない自信を待って己の信念を語る秋月に|激《はげ》しい羨望《せんぼう》を覚えることもまた確かだった。
秋月は空《から》になったグラスをテーブルに置いた。
「さて、そろそろ見てもらおうか。本日のメイン・イベントを」
秋月は奥の部屋のドアに手をかけると、遼を手招《てまね》きした。
「君に見せたいのは、これさ」
秋月が開いたドアの向こうにあるものを見て、遼はわだかまりを忘れて、息を呑んだ。
黒いビロードのような大きな羽。金属的な輝きを放つ青い羽。|猛禽類《もうきんるい》の目玉そっくりな大きな丸い紋様。ヨーロッパの教会のステンドグラスを思わせる複雑な模様《もよう》。その他、遼がこれまで見たこともないような、様々な種類の|蝶《ちょう》がガラスの向こうに整然と並んでいる。
部屋の|壁《かべ》は、|蝶《ちょう》の標本箱に埋め尽くされていた。
「これを全部、秋月さんが?」
秋月はうなずいた。|整《ととの》った顔に、少しばかり得意そうな、子どもっぼい表情が浮かぶ。
「好きなんだ、|蝶《ちょう》が。生き物はみんな好きだけど、特に|蝶《ちょう》が好きだな。本当は、アフリカに行って、動物を相手にした仕事をしたいんだ」
そう言って、一つ一つの|蝶《ちょう》について説明する。
信念を語る秋月も羨ましかったが、夢を語る秋月にも、また羨ましいものがあった。
たが、“本当は”とは、どういう意味なのだろうが。そうできない、あるいは不本意なことをしなければならないということなのだろうか。
「まあ、こんなふうに、僕も趣味《しゅみ》とか夢を持った、繊細《せんさい》な人間だってことだよ」
ドアを閉めながら秋月は言った。
「矢神くんが、僕のことを何か特別な、|普通《ふつう》とは全然違った人間だと思い込んでいるんじゃないかと、気になってね」
「そんな――」
そんなことはない、ときっぱり言い切れなかった。特別とか、|普通《ふつう》と違っているということではない。何か、割り切れない、|違和感《いわかん》のようなもの―。
秋月は、エレベーターの前まで遼を送ってきた。
「――秋月さんは、なぜ、僕を助ける、助けると言いながら、助けてくれないんですか。
今まで秋月さんが言ったことからすれば、僕の本当に困っていることが何なのか、秋月さんにはわかっているはずでしょう?」
「わかっているよ」
「だったら、なぜ――」
「君が心を開いてくれないからさ」
エレベーターのドアが開いた。
「今の君は、苦しみながら、自分が苦しんでいることを必死になって否定しようとしているんだ。君が、自分の本当の心に気づいて、それを認めるまで、僕たちは友だちになれない。素直になりたまえ」
遼は|黙《だま》ってエレベーターに乗った。
「昨日言ったこと、僕は忘れてはいない。待っているから。覚えておきたまえ」
そう言って秋月は左手を差し出し、|握手《あくしゅ》をした。見かけより力強い手だった。
エレベーターのドアが閉まり、下へ降りはじめた。
安堵のため息を漏らす。秋月と一緒にいると、なぜか|緊張《きんちょう》してしまう。秋月が自分に危害を加えることを心配しているというわけでもないのに。
――これが、彼の言う“心を開いていない”ってことなのかな。
ただ、一つだけ思い当たったことがある。なぜ、秋月の言葉に反発を覚えるのか――。
――彼の言葉には、|裏次郎《うらじろう》の言ったことと共通するものがあるんだ。
|愚劣《ぐれつ》な者たちに制裁《せいさい》を加えよ。それこそが、大いなる力の正しい使い方ではないのか――。ザンヤルマの剣を遼に渡して、|裏次郎《うらじろう》はそう言った。どこか|納得《なっとく》できないと思いながらも、遼はその言葉に魅かれるものを覚えた。そして、秋月こそは、大いなる力で|愚劣《ぐれつ》な者どもに制裁を与え、自信を持ってその正義を語っている人間だ。だからこそ、遼は感じたのだ。反発と、|羨望《せんぼう》と、そして、引き込まれそうな|魅力《みりょく》を。
――だけど、今の僕の手には、ザンヤルマの剣はないんだ!
雨がいくぶん小降りになってきた。
|鵬翔《ほうしょう》学院の校舎の|端《はし》にある社会科研究室の北向きの窓から、|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》は見るともなしに外を見ていた。|氷澄《いずみ》は雨が|嫌《きら》いではない。雨音は日常の騒音《そうおん》を消してくれる。
「失礼します」
朝霞万里絵の声が静寂《せいじゃく》を破った。
「何だ、朝霞」
「期末テストの問題で、わからないところがあったんです、|氷澄《いずみ》先生」
「――皮肉か、マリエ?」
「学校じゃ、先生って呼べって言ったじゃない、|丈太郎《じょうたろう》」
万里絵は、一応持ってきたノートと教科書と採点済みの答案を、|氷澄《いずみ》の机の上に広げた。
「それで、何かわかったの?」
「断片的な情報はいろいろと入手した。だが、一つの像を結ぶところまではいかないな」
ミスター・アカシャ、本名は|村田寛二《むらたかんじ》。テレビ・タレントとしてデビューする前は、手品用品の販売なども手がける手品師だった。折からのオカルト・ブームを取り入れた“超能力風マジック”か人気を呼び、彼の口にする“マインド・バワー”“トゥルー・マインド”といった言葉は、ちょっとした流行語にもなっていた。
「それで、その|村田寛二《むらたかんじ》さんが殺されるような理由って、あったの?」
「何しろ、マジックを超能力として売り出すような男だからな。特に、同じ手品師業界の人間から白眼視《はくがんし》されていたのは確かだ。だが、殺すほどの感情を持った者は、今のところ浮かんでいない」
「近くにいた誰かの身代わりになったとか――」
「全く否定はできないがな」
人体を短時間で灰にしてしまう、熔鉱炉《ようこうろ》並《な》みの高温を発生させた仕組みは不明だ。
「でも、VTRには収録してあったわけでしょ、生放送とは言っても。そこに何か写《うつ》ってなかったの?」
「いや」
事件の一部始終を記録した証拠物件として、警察もVTRには大きな期待をしていた。
だが、アカシャが焼死する様子はわかったものの、何かが発射されたとか、アカシャに働きかけるようなもの、事件の原因と思われるものは写っていなかった。
「ああいうことがでぎるような“|遺産《いさん》”ってあるの?」
「私には思い当たらないな」
|氷澄《いずみ》は、いつも着ている白衣の下から|懐中《かいちゅう》時計を引っ張り出した。“守護神”――エネルギー・ジェネレーター兼コントローラーである。
「こいつの出力をある程度まで待っていげば、同じようなことは不可能ではないだろう。
だが、光球なりビームなりの形で発射しなければならない」
「それなら、VTRに残るわよね」
前に|氷澄《いずみ》がしていた訓練も、エネルギーを不可視状態で操るところに狙いがあった。
異常な事件ではあるが、ひょっとしたらイェマドの|遺産《いさん》とは関係ないのかもしれない。
そう、単なる“超自然現象”なのかも。
「似たような事件は?」
「最近では、アメリカで二件、イギリスで一件」
「……からかってるの?」
「一年近く前だが、県内でも一件起こっている。|被害者《ひがいしゃ》は高校の教師だ」
「今回の事件との共通点は?」
|氷澄《いずみ》は首を横に振った。
「|被害者《ひがいしゃ》が日本人男性だってことくらいだな」
「結局、何にもわかってないのとおんなじじゃない」
「最初にそう言った」
万里絵が|喉《のど》の奥でうなり声をあげた。
|氷澄《いずみ》は|懐中《かいちゅう》時計をしまい、窓の外に視線を向けた。無人のグラウンドを|鉛《なまり》色の雨が叩《たた》きつづけている。
「――超能力とか、そっちのほうには何かないかな?」
ふと思い付いたように万里絵が言った。
「マリエは、そういう|類《たぐ》いの存在を信じているわけか」
「もちろん、九九・九パーセントまではトリックか、勘違いか、心理学や精神医学で説明できるようなことよ。苦し|紛《まぎ》れだけど、他に手かかりになりそうなものもないでしょ?」
「どんな理屈をつけたところで、|無駄《むだ》は|無駄《むだ》だ」
万里絵は返事をせず、広げられたノート類を片付けた。
「いっそ、もう二、三件、類似事件が発生すれば、背後の構図もはっぎりするのにな」
|氷澄《いずみ》のつぶやきに、万里絵が眉《まゆ》をしかめる。
「最初に言ったはずだ。私は、イェマドの|遺産《いさん》が回収できれば、それでいいのだと」
「フン、ヘボ探偵《たんてい》」
「何もしない人間に言われたくないな」
「調べたわよ。女子高生の口コミネットワークにアクセスしたわよ」
「素直に、|無駄《むだ》話をしたと言え」
「収穫《しゅうかく》らしい収穫はなかったけど、二〇年くらい前に超能力ブームがあったんだって?」
「スプーンを曲げる奴《やつ》な」
「その頃、ぼろぼろ出てきた超能力少年のうちの何人かが、ここ一年くらいの間に自殺してるとかで、そっち方面の趣味のある人間の間ではちょっとした話題になってるんだって。
CIAの陰謀《いんぼう》だとか、MJ12がどうしたとかって。――調べてくれるわよね?」
「手品師の|不審死《ふしんし》と、元超能力少年の自殺と、CIAの陰謀か」
|氷澄《いずみ》の青みがかった|瞳《ひとみ》は、かすかに冷笑を浮かべたようだった。
出ていきかけた万里絵が、戸口のところで振り向いた。
「ところで、|水緒美《みおみ》には協力してもらえないの?」
「|水緒美《みおみ》は今、シベリアだ」
「何で?」
「|遺産《いさん》絡みの事件を追いかけている。|旧《きゅう》共産圈には、かなりの数の|遺産《いさん》がたいぶ深く入り込んでいるようだ。最近になって、やっと情報が伝わってくるようになった」
「シベリアねえ。やっばり、空を飛んでいくわけ?」
「古物商の許可証を特っている人間が、旅券を取れないわけがあるまい?」
「そうね。――じゃ、どうも失礼しました、|氷澄《いずみ》先生」
わざとらしく一礼すると、万里絵は出ていった。
|氷澄《いずみ》はまた、窓の前に戻った。雨はもうすぐやみそうだ。
電車が下北富士の駅に着いた時には、雨はあがっていた。
畳んだ|傘《かさ》をぶら下げ、背中を丸めるような格好で、遼は|橘《たちばな》マンションへの道をたどった。
遼がそれに気づいたのは、マンションの駐車場《ちゅうしゃじょう》の脇を通りかかった時だった。最初は、ペット・ショップかどこかから逃げてきたオウムとかインコの|類《たぐ》いかと思った。さわやかな色合いのブルーの鳥の姿に見えた。
だが、駐車場の柵の上にとまったそれには、ディテールがなかった。羽毛も爪《つめ》も、いや、くちばしも目もない。ぽやけた輪郭《りんかく》の、青一色で描き上げた鳥のシルエットのようだった。
|喉《のど》が干上がるような気がした。非現実的な姿――“|遺産《いさん》”に関係あるのか?
地面に落ちた餌をついばむ雀《すずめ》のように、鳥が柵の上で|跳《は》ねた。その後に点々と、塗料《とりょう》が溶けて歪んだ跡が残された。
遼は、後ずさった。もし、襲いかかられても、今の遼には身を守る手段がない。
しかし、あの鳥が人に危害を加えるようなものならば、放っておくおけにもいくまい。
――そうだ。|氷澄《いずみ》さんに連絡《れんらく》をとろう。
角のコンビニの脇には公衆電話がある。
目のない鳥がこちらの動きを捕らえているのかどうかわからないが、遼はそろそろとコンビニのほうへ歩いていった。
不意に鳥が羽ばたいた。
遼はとっさに|鞄《かばん》を楯《たて》にした。
そんな行動をあざ笑うかのように、鳥は遼の頭上をかすめ、空高く舞い上かった。
恐る恐る見上げる。まだ震に|覆《おお》われた空のどこかで、鮮やかなブルーの鳥影《とりかげ》は見えなくなった。
遼は|鞄《かばん》を下ろし、一息ついた。あたりを見回す。
足が強張る。ニメートルほど離れた空中に魚影《ぎょえい》が漂《ただよ》っていた。熱帯魚を思わせる菱形をした黄色いシルエットが四、五尾《び》、水槽《すいそう》の中にいるようにゆったりと行き来している。
――逃げ道を断《た》たれた?
さっきの鳥は、柵のペンキを溶かすだけの熱を持っていたようだ。この魚も同様だろうか。何にしろ、正体のわからない相手がふさいでいる道を突っ切るわけにはいかない。
遼はもう一度、マンションのほうを向いた。
正面に、獣がいた。
背後の魚や、飛び去った鳥と同様、深紅《しんく》のシルエットのような四足《しそく》動物が、遼のほうを向いていた。大型犬ほどの大きさだろうか。光る霧《きり》のようなもので形作られているそれは、
太い尾をピンと立て、小さな三角の耳らしき部分で、遼の様子《ようす》を窺《うかが》っているようだ。足や尾や耳の先から絶えず小さな火花が散り、野獣《やじゅう》と呼ぶのがふさわしいような、凶暴な|雰囲気《ふんいき》を発散させている。
逃げ道は、棚《さく》を越えて駐車場を横切るか、反対側の塀《へい》を乗り越えるか、だ。どちらにしろ、深紅の|野獣《やじゅう》が追いかけてこなければ、の話だが。
大きな石を転がすような低いうなり声が聞こえる。
|野獣《やじゅう》が身をたわめた。
|傘《かさ》の剣に|鞄《かばん》の楯では心もとないが、とにかく遼も身構えた。背後を窺《うかが》いつつ、逃げる方向を探る。
|野獣《やじゅう》が|跳《と》んだ。
遼は、頭を抱えるようにしてしゃがんだ。
左腕に熱いものを感じる。|野獣《やじゅう》がかすったのだ。
――今のうち!
遼は|駆《か》け出した。正面をふさいでいた|野獣《やじゅう》は、遼を飛び越え、今は後ろにいる。とにかくマンションに逃げ込むっもりだった。
|野獣《やじゅう》が地を蹴る音か追ってくる。
気配が近付いてきたと思う間もなく、今度は足に熱い痛みを感じる。遼は地面に倒れていた。
のしかかってこようとする|野獣《やじゅう》を、|傘《かさ》を振り回して、必死になって近付けまいとする。
遼の|抵抗《ていこう》にいらだっているのか、|野獣《やじゅう》の体のあらゆる場所から|激《はげ》しく火花が噴き出し、あたりの空気をきな臭くしている。
|野獣《やじゅう》が牙を剥く。上下の|顎《あご》に、これも光で出来た白い牙がびっしりと並んでいる。|威嚇《いかく》しようとしてか、|野獣《やじゅう》が|顎《あご》を開け閉めするたびに、|噛《か》み合わさった牙から黄色い火花が飛び散った。
何とか|距離《きょり》をとりながら、遼は起き上かろうとした。
|野獣《やじゅう》が首を伸ばし、|傘《かさ》に|噛《か》み付いた。次の|瞬間《しゅんかん》には、遼の手からもぎ取られている。しぶきのように火花が散り、|傘《かさ》が燃え上がる。布地は|瞬時《しゅんじ》に燃え尽き、骨の部分もゆっくりと曲がり、溶けた金属が|雫《しずく》となって滴った。
殺される――。この間のミスター・アカシャが|炎上《えんじょう》する光景が脳裏に浮かぶ。
――こいつら、あの事件と関係あるのか。
遼は、それこそ自分の体に火が点いたような勢いで立ち上がった。
だが、傷ついたほうの足に|激痛《げきつう》が走り、よろけてしまう。
|傘《かさ》を焼き尽くした|野獣《やじゅう》が飛びかかってくる。
両手で|鞄《かばん》を|掴《つか》み、|殴《なぐ》りつける。重い|手応《てごた》えがした。|肘《ひじ》に電気が流れたような痛み。
|野獣《やじゅう》は斜め後ろの地面に|跳《は》ね飛ばされながら、すかさず体勢を立て直し、隙を|窺《うかが》う。
|鞄《かばん》から焦げくさい|匂《にお》いがする。|肘《ひじ》にも痛みを感じたが、足の傷もひどかった。|膝《ひざ》をつきそうになりながらも、ゆっくりと後ずさり、|野獣《やじゅう》から離れようとする。
再び、|野獣《やじゅう》が真正面から飛びかかってきた。
もう一度、|鞄《かばん》を|叩《たた》きつけようとするが、今度|跳《は》ね飛ばされだのは|鞄《かばん》のほりだった。
そのまま遼は路上に押し倒された。
赤い体がのしかかる。|顎《あご》が開き、体表よりも赤い口の中をさらす。
とっさに|野獣《やじゅう》の|喉《のど》を押さえ、喰い付かれるのを防ごうとする。
「つうっ!」
手のひらが灼ける。
黄色い火花が唾液のようにこぼれ落ち、遼の顔を灼く。
光る霧――エネルギー体とでも呼ぶべきものなのだろう――で出来た|野獣《やじゅう》には、重さはほとんどなかった。だが、白く|輝《かがや》く牙で遼の|喉《のど》を喰い破ろうと追る力は|凄《すさ》まじく、遼の腕は早くも震えはじめた。
前足が遼の胸を掻く。
「うっ!」
牙と同様の白い光で出来た|爪《つめ》がシャツを切り|裂《さ》き、血をにじませる。
腕から力が抜けた。
かっと開いた|顎《あご》が、火花を散らしながら追ってくる。
「うわーっ!」
|瞬発《しゅんぱつ》力、というより絶望的な|抵抗《ていこう》と呼んだほうがふさわしい。追る牙から逃れようと、
遼は全身の筋肉を総動員していた。
だが、|野獣《やじゅう》をはねのけるところまではいかない。上下だった|野獣《やじゅう》と遼の位置が、向かい合ったままの横倒《よこだお》しになる。痛みも忘れて、遼は|野獣《やじゅう》を蹴《け》った。足の裏が熱い。
わずかに|距離《きょり》が開いた。狼《おおかみ》の牙から逃れようとする小兎《こうさぎ》そのままに、遼は逃げた。だが、
遼に小兎ほどの敏捷《びんしょう》さはなく、這いずるようにして逃げるしかなかった。
「!」
目の前を銀色の|蝶《ちょう》が横切っていった。
思わず手足が止まる。
その|一瞬《いっしゅん》を|野獣《やじゅう》は見逃《みのが》さなかった。
遼の背中に|野獣《やじゅう》が覆《おお》いかぶさってきた。
首筋に感じるのは、牙から飛び散っている火花だろうか。背中全体かゆっくりと灼けて
いくのがわかる。|喉《のど》が渇《かわ》き切って、悲嗚も出ない。
その時、遼は信じられないものを見た。
ほんの三〇センチほど先の地面に、物差しほどの長さの物体か落ちてきた。赤い色をした波形の部分と、象牙を思わせる材質で出来た柄《つか》の部分――。
――ザンヤルマの剣!
剣がどこから来たのかを考えるゆとりもなく、飛び付くようにして剣を拾う。勢い余って、濡《ぬ》れたアスファルトの上を転がってしまう。
一か月前にそうしたように、イメージを思い浮かべながら、剣を抜く動作をする。
脳が凍り付いたような気がした。剣は抜けなかった。
手順に間違いはないはずだ。焦っているためなのか。
|輝《かがや》くばかりの直刀のイメージ――二か月前に見たばかりの剣のイメージを、|記憶《きおく》の中から手繰り寄せる。|火傷《やけど》を負った手が痛打のも構わず、剣を握り締め、懸命に抜く動作をする。灼けた手の皮がずるりと剥けただけで、剣に変化はなかった。
――なぜ……。
全身の力が抜けてゆく。
手の中にあるのは、確かにザンヤルマの剣だ。黒いスーツの|遺産《いさん》管理人から相続して以来、わずかな空白期間こそあれ、一か月間、毎日毎日見ていたのだ。間違えるはずがない。
だったら、どうして……。
背中に走った|激痛《げきつう》が、遼の意識を目の前の危機に引き戻した。
|野獣《やじゅう》の|爪《つめ》が、遼の背中を直撃《ちょくげき》していた。
「うあーっ!」
振り返りざま、遼は|殴《なぐ》った。波形の|鞘《さや》に収まったままのザンヤルマの剣で|野獣《やじゅう》を|殴《なぐ》った。
見た目も華奢で、重さもたいしてない|短剣《たんけん》は、いかにも頼《たよ》りないが、遼はそれで|殴《なぐ》った。
泣きながら、悲鳴をあげながら|殴《なぐ》った。|殴《なぐ》るたびに火花が散り、遼の手を灼《や》いたが、構わずに|殴《なぐ》った。
どこから現れたのか、銀色の|蝶《ちょう》が再び宙を舞い、遼の頭上でしばらく旋回《せんかい》すると、姿を消した。
まるで、それが合図だったかのように、|野獣《やじゅう》は忽然《こつぜん》と姿を消した。
道をふさいでいたオレンジ色の魚影も消えている。
「ああーっ!………ああーっ!」
それでも遼は|殴《なぐ》りつづけた。|野獣《やじゅう》がいた場所の地面を|殴《なぐ》りつづけていた。
――気がつくと、遼はうつぶせに寝かされていた。
ぼんやりとした頭で考えてみる。どうしてうつぶせに寝かされているんだろう……。
――そうか、背中を|怪我《けが》しているんだ。
それがわかった途端《とたん》に、遼の脳裏に深紅《しんく》の|野獣《やじゅう》のイメージが呼び覚まされた。
「うわーっ!」
遼は、四つん這いになって逃《に》げ出そうとした。
「遼!」
何か温かくて柔らかいものが遼を抱きとめる。
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》だから、遼。怖がらなくてもいいんだから」
「……マーちゃん……?」
|恐《おそ》る|恐《おそ》る目を上げる。ぼやけた視界に、万里絵の大きな|瞳《ひとみ》が優しい光を浮かべていた。
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》よ、遼」
万里絵は繰り返した。傷ついたところに触れないようにしながら、しなやかな腕が遼の体を抱き締めている。万里絵のTシャツの胸に顔を埋めるような格好になっていだ。
「……あ……ごめん」
遼は万里絵から離れた。
「はい」
万里絵が|眼鏡《めがね》をかけてくれた。視界がはっきりする。万里絵の住む五〇二号室のリビングだ。ソファの上に寝かされていたのだ。
手にはきっちりと包帯が巻かれている。|皮膚《ひふ》全体が突っ張ったような感じがして、熱を持っているのがわかった。薬のせいだろうか、包帯の下はひんやりしている。
同じような感覚は、背中にも胸にも足にも感じる。
|野獣《やじゅう》に切り裂かれたワイシャツと学生ズボンではなく、いっかのトレーニングウェアのパンツと、ゆったりとした白いTシャツという格好になっていた。手当てのために、万里絵が|着替《きが》えさせたのだろう。
テーブルの上には、表面が焦げて変色した学生|鞄《かばん》。そして、その脇に、|鞘《さや》に収まったままのザンヤルマの剣がひっそりと置かれていた。
ソファの上に座り直す。恐怖《きょうふ》の後の虚脱感《きょだつかん》が全身を重たく包んではいたが、思考はどうにか平常の状態を取り戻しつつあるようだ。
万里絵が、ストローのささったコップを手にキッチンから戻ってきた。遼の前でしゃがみ、ストローを遼のほうへ向ける。差し出されるままに、遼はストローをくわえた。甘くて温かいミルクの味が口の中に広がった。
「これ、飲んで。抗生《こうせい》物質と痛み止め」
万里絵がカプセルと錠剤《じょうざい》を差し出した。ミルクで飲み下す。
コップが空になると、万里絵は立ち上がった。
「僕は……どうしたの?」
「駐車場の前で、体のあっちこっちに|火傷《やけど》と裂傷を負って、地面を|殴《なぐ》りつづけてたの。悪いと思ったけど、気絶させて、ここまで運ばせてもらいました」
万里絵は、手を|妙《みょう》な形に動がした。しばらくしてから、それが、柔道《じゅうどう》の“落とす”やり方だと遼にもわかった。
「|普通《ふつう》の傷と|火傷《やけど》の手当てはしておいたわ。放射能の反応はなかったけど――|噛《か》み傷みたいなのもあったけど、狂犬病《きょうけんびょう》のワクチンの必要はある?」
遼は首を振った。
「――原因は、何?」
遼は考え込んでしまう。あの|野獣《やじゅう》や鳥かいっだい何なのか。なぜ自分が襲われたのか。
そして、なぜ止めを刺さずに去ったのか。わからないことばかりだ。
「まさか、いぎなり発火したんじゃないわよね?」
|冗談《じょうだん》めかした口調ではあったが、目は|真剣《しんけん》に遼を見ているような気がした。
「|違《ちが》うよ」
万里絵はコップをキッチンへ片付けると、戻ってきて、遼の|隣《となり》に腰を下ろした。遼は反射的に|距離《きょり》をとる。
「眠れるなら、眠ったほうがいいわ。食欲があるようなら、晩ごはん作るけど」
遼は|黙《だま》って首を振った。体が重たい。
わからないことは、襲撃者《しゅうげきしゃ》についてだけではない。行方《ゆくえ》不明になっていたザンヤルマの剣が戻ってきたが、なぜ消えたのか、なぜ戻ってきたのかもわからない。そして、どうして起動できなかったのかも。
――僕の体に何か異常があるんだろうか。それとも、剣に故障が起きたのか。
遼を襲った|野獣《やじゅう》や鳥は、イェマドの|遺産《いさん》に関係あると見て間違いないだろう。ひょっとしたら、ミスター・アカシャ焼死事件とも関連があるかもしれない。にわかに周囲で事件が起こりはじめているというのに、遼は闘《たたか》うことができない状態になってしまっている。
「遼……?」
万里絵が遼の顔を|覗《のぞ》き込んだ時、インターフォンが鳴った。
「はい……少々お待ちください」
立ち上がって、受話器を取った万里絵が、送話口を押さえて、遼のほうを振り向いた。
「アキヅキユミヒコって人、知ってる?」
遼は思わず顔を上げた。
「彼が来てるの?」
「アキヅキって、名乗ったわ」
立ち上がる。だが、立ちくらみがして、すぐにソファに座り込んでしまう。
「どうする?上かってもらう?」
「迷惑《めいわく》でないなら……」
万里絵は一言二言受け答えし、受話器を戻した。そして、ザンヤルマの剣を|鞄《かばん》にしまうと、|玄関《げんかん》へ行った。
やがて、万里絵に案内されて、秋月山美彦が姿を見せた。
「矢神くん、|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
秋月は、遼の前にひざまずき、包帯に包まれた手を取った。
「今、お茶入れますね」
そう言って万里絵はキッチンへ消えた。
「怒ってるのかい、僕が君を助けに現れなかったことを」
ささやくように秋月が言った。
「いえ、そんなことは――」
不思議な気がした。あれだけ「必ず|駆《か》け付ける」と言われていたにもかかわらず、秋月に助けを求めることを考え付かなかった。ほんの少し前に|蝶《ちょう》のコレクションを見せられたばかりだというのに、目の前を銀色の|蝶《ちょう》が横切った時にも、秋月のことを思い出さなかった。なぜだろう。
「何にしても、命に別状なくて、よかったよ」
言葉の最後がはっきりしない遼の答えでも満足したのか、秋月は茶色がかった|髪《かみ》をかきあげると、遼の|隣《となり》に座った。
「ところで、彼女は誰なの?どういう関係?」
|妙《みょう》なことを尋くものたと思ったが、遼は答えようとした。
――あれ?
言葉が出てこない。どこから話したらいいかわからないのとは|違《ちが》う。彼女のことを話そうとするのだが、|記憶《きおく》が白く塗《ぬ》り潰《つぶ》されてしまったように、何も思い出せないのだ。まるで、彼女に関する部分だけ、脳の接続が切られてしまったみたいだ。
「どうしたの、矢神くん?」
何か言おうとして口を開くのだが、どうしても言葉が出なかった。
「おまたせ」
盆の上に紅茶《こうちゃ》の道具を乗せて、万里絵が戻ってきた。
遼の頭の中の|奇妙《きみょう》な混乱は解消した。今は、何でも話せる。だが、そういう|雰囲気《ふんいき》でもなくなっていた。
「珍《めずら》しいですね、グレイの学生服なんて。――|星嶺《せいれい》学園でしたっけ?」
万里絵の言葉に、秋月はちょっと傷ついたような顔をした。
「有名なんだよ、|星嶺《せいれい》学園のノーブル・グレイの制服は」
遼が説明する。|普通《ふつう》にしゃべれる。異常はない。
「|星嶺《せいれい》って、一昨日《おととい》の試合で|鵬翔《ほうしょう》に勝ったところですよね」
「見てくれたんですか」
「応援に行ってました。でも、|星嶺《せいれい》のエースは凄《すご》いですね。今年の県代表は、|星嶺《せいれい》で決まりじゃないですか」
秋月は、何とも言えない、複雑な表情を浮かべた。
――彼は野球が|嫌《きら》いなのかな。
この間の喫茶店でも、高校野球はくだらない、みたいなことを言っていた。
――それにしちゃ、見てくれたんですか、なんて言ったりして。
遼がそんなことを考えている間、秋月と万里絵は、初対面のぎこちなさもなく、話に興じていた。万里絵は意外に聞き上手で、秋月の話を引き出すような質問をいいタイミングでしていたが、秋月の話は世間話に類するものにとどまった。よく聞くと、どこかよそよそしい感じの拭えない受け答えだった。
「――それで、秋月さんは、矢神くんとはどういう知り合いなんですか」
「この前、僕が困っていたところを助けてもらったんだ」
――矢神くん、か。
何となく仲間外れにされたような気分で遼は言葉を挟《はさ》んだ。
「朝霞さんは、矢神くんとは、どういう――」
「あたし、一か月前にアメリカから戻ってきたばかりなんです。クラスは|違《ちが》うけど、彼とは学校が同じだから、いろいろ教えてもらったりしてるんです」
二人の会話は続いた。ただ、なぜ秋月がここへ|駆《か》け付けることができたのかについては、万里絵は何も尋ねなかった。
時計が七時を告げた。
夕食を食べていけという万里絵の勧めを断って、秋月は五〇二号室を辞した。
|鞄《かばん》と、切り裂かれた制服をひとまとめにして小脇に抱えた遼も続く。
|廊下《ろうか》に出た二人がエレベーターに乗ったのを見て、万里絵は小さく手を振ると、ドアを閉めた。
「彼女について教えてくれるかな」
エレベーターのドアが閉まると、秋月は遼の目を正面から見据えて言った。
「あ……」
さっきと同じだ。言葉が出ない。口を開けたまま、声どころか息も出てこない。
「さあ、話したまえ」
まるで|喉《のど》に|蓋《ふた》をされたみたいだ。何も出ない。それだけではない。彼女について知っていることもあるはずなのに、思い出すことさえできない。名前さえも。
エレベーターが一階に着いた。
秋月の端正な顔は何の表情も浮かべていない。ただ、切れ長の目から発する視線が射るように正面から遼を見詰めているだけだ。
不意に秋月が視線をそらした。
「さようなら、矢神くん」
それだけ言って、秋月はマンンョンの|玄関《げんかん》から出ていった。
ブザーが鳴り、ドアが閉まると、ゴンドラは上昇を始めた。
遼は深々とため息をついた。体を包んでいた虚脱感《きょだつかん》が倍になったような気がした。
――なぜだ。誰かが、彼女のことを彼に話すのを|妨害《ぼうがい》してるのか。
ゴンドラが停まる。ドアが開き、万里絵が顔を見せた。
「遼――」
――マーちゃん!
叫びたかった。気恥ずかしいけれども呼び慣れている|従妹《いとこ》の|愛称《あいしょう》で、呼びかけたかった。
だが、できなかった。
とっさに「閉」のボタンを押し、続いて「4」のボタンを押す。
降下感覚。
――何かが、僕のまわりで何かが起こっている。
危険な何かが|暗躍《あんやく》している――それを知りながら、何をしたらいいのかわからない、いや、どうすることもできない遼だった。
夜の闇の中を、銀色の|蝶《ちょう》が飛んでいた。
|橘《たちばな》マンションの建物の上を幾度か|旋回《せんかい》する。
その“視線”が見つめているもの――剣を封じられた剣士と、一人の少女。
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第二章 超能力者狩り
「朝霞、万里絵、ですか」
都内にあるオフィスビルの一つ、地方に本社のある小さな企業《きぎょう》の東京営業所としては手頃な大きさのフロアの一画に、その男は座っていた。
機能第一といった印象の部屋の中で、その男だけが多少|場違《ばちが》いな感じを与える。座っているのは、肱掛《ひじか》けこそあるものの、高級とは言えない事務用の|椅子《いす》、向かっているのは、両袖に|抽斗《ひきだし》があるとはいえ、間違いなくスチール製の事務机でしかない。対する男の|紺《こん》のピンストライブの三つ揃いと、広い額、こめかみに混じった灰色《はいいろ》のものが、こんな小さな事務所には不釣《ふつ》り合《あ》いな|雰囲気《ふんいき》を醸《かも》し出しているのだ。
現在、午後一一時。フロアに残っているのは彼だけだった。しかし、彼は会話していた。
彼の耳には、はっきりと声が聞こえている。
『そうだ。|日比城《ひびき》市に住んでいる高校生だ』
「当方のリストには上がっておりませんが」
『一か月前にアメリカから帰ってきたばかりだ。リストから漏れていても、不思議じゃないだろう』
「そんなはずは……我々の情報網は|完璧《かんぺき》です」
彼の耳に嘲笑が|響《ひび》く。
『その|完璧《かんぺき》な情報網が俺を見つけるのにどれだけかかった? えっ、雨宮《あまみや》?』
「――面目次第もございません」
会話している相手か目の前にいるかのように、男――雨宮は頭を下げた。その広い額に、
銀色の|蝶《ちょう》がとまり、ゆっくりと羽を開いたり閉じたりしている。
「それで、その娘が〈能力〉を持っていると判断される根拠をお聞かせ願えませんか」
『思考をブロックしている』
「つまり、思考を読み取らせないと?」
『そのとおりだ』
「――アメリカ帰りとおっしゃいましたな。外国語で思考している相手の場合、読む側にも同じ外国語の心得がないと、読みにくいということはあります。人間は言語で思考するわけですから――」
『俺が読もうとした途端《とたん》なんだよ、思考どころか感情まで読めなくなるのは! こっちが読むのに気づいて、そのたびにブロックしているとしか考えられないだろうが!』
「あまりお得意ではありませんでしたからな、思考を読むのは」
『うるさい!』
おっかない先生に雷《かみなり》を落とされた小学生のように、雨宮は首を縮めた。
『つべこべ言わずに、朝霞万里絵を見張れ。命令は、また後で出す』
「はっ」
雨宮は、再び、何もない空間に向かって頭を下げた。
「時に、志摩本久美《しまきくみ》を殺したのは――」
『俺だ。頭の上から鉄骨を落としてやった。文句があるか』
「いえ。ただ、志摩木久美の〈能力〉は目覚ましいもので――」
『うるさい!|黙《だま》れ!』
|蝶《ちょう》の銀色の羽が|激《はげ》しく震えた。優美な曲線で構成されていた羽自体も、炎《ほのお》のような、あるいは地震計《じしんけい》の記録のような刺々《とげとげ》しいものに変化する。
『何が目覚ましいんたよ。いいか。あの女は、自分の頭の上から鉄骨が落っこちてくるのを予知できなかったんだ。大マヌケじゃないか』
「全く、おっしゃるとおりです」
『だいたいな、鉄骨が落ちてくることを予知できて、一日外へ出なかったとしてみろよ。
それで命は助かったとしても、結局、未来予知はデタラメだったってことじゃないか」
「全くです」
『要するにな、予知能力なんてのは、くだらないんだよ。そうだな?』
「おっしゃるとおりです。予知能力など、〈能力〉としてはくだらないものです」
『それでいいんだ』
額にとまっている|蝶《ちょう》の動きが、穏やかなものに変わった。
『朝霞万里絵だ。忘れるな』
雨宮は三度《みたび》、頭を下げた。
|蝶《ちょう》が額から離《はな》れ、室内を一周して消えた。
「あ……」
雨宮は、我に返った。このところ仕事が忙《いそ》しいせいか、ぼんやりしてしまうことが多いようだ。志摩木久美の事故死、その前のテレビ・タレントの自然発火死、立て続けの異常事態で、彼等〈開発機関〉のスタッフは息をつく間もない。責任者となればなおさらだ。
だが、念のためということもある。雨宮は、部屋の|隅《すみ》の端末《たんまつ》の前まで行くと、スイッチを入れた。IDナンバー、パスワードを入れ、心理チェックの実施《じっし》を指示する。
『問1今朝はいつもと同じ時聞に起きられましたか?』
イエス。「1」のキーを押《お》す。イエスなら「1」、ノーなら「0」、次々に現れる一〇〇項目の質間に、三秋以内に答えなければならない。質問は一〇万以上あり、その組み合わせは毎回変えられる。どの問いにどう答えるのが正しいのか、それは、責任者である雨宮も知らない。
『……間100時々、誰《だれ》もいないのに、声を聞くことがありますか?』
ノー。「0」のキーを押した。それにしても、こんな質問に「1」のキーを|叩《たた》く奴がいるのだろうか。
画面が切り替わる。
『|若干《じゃっかん》の|疲労《ひろう》(Bクラス)は認められるものの、正常』
当然の結果だ。自分は|疲《つか》れていても、正常だ。誰もいないのに人の声が聞こえたり、自分は神に選ばれた人聞だと信じるような手合いとは|違《ちが》う。
だが、もしも、異常が認められた場合、画面に「異常」と出るというのだろうか。
雨宮は知っていた。もちろん、そんな表示は出ない。〈開発機関〉の保安部と、責任者である彼だけがそれを知り、処分の決定を下す。交通事故か、行方《ゆくえ》不明か、急性|心不全《しんふぜん》か。
「異常」の判定を受けた者は、自分でそれを知る機会を永久に失うのだ。
では、ここの責任者である自分に「異常」の判定が出たら?
――確かに|疲《つか》れてるな。
雨宮は苦笑して、端末の電源を切ると、帰り支度《じたく》を始めた。多少、気分が軽くなっている。確かに、志摩木久美の事故は不幸なことではあったが、考えてみれば、取るに足りないことだ。予知能力など、くだらない。現に志摩木久美は、自分の事故さえ予知できずに死んだではないか。
部屋を出る前に、明朝一番ですべき仕事の指示をインターフォンで出す。こうした心配りが、ぬきん出た才能のない自分を責任者の地位にまで押し上げたと雨宮は思う。
「デリバリーを一件だ。|日比城《ひびき》市」
『ヤガミが襲《おそ》われた?』
電話の向こうの|氷澄《いずみ》が、万里絵の言ったことを繰り返した。
現在、一二時三〇分前。遼《りょう》と秋月が帰った後で、何度か電話をかけたのだが、この時間になるまでつながらなかったのだ。|氷澄《いずみ》が電話に出ると、万里絵は今日あったことを手短《てみじか》に伝えた。
「そう。詳《くわ》しいことはわからないんだけど――」
受話器から笑い声が聞こえてきた。
「ちょっと!何で、そこで笑いが出るのよ?」
『いや、物好きがいるものだと思ってな』
「どういう意味?」
『少し冷静になって考えてみろ。ヤガミは、命を狙《ねら》われるような重要人物か?』
万里絵はちょっと詰まった。確かに、なぜ遼が襲《おそ》われたのか、理由がはっきりしない。
「だからって、笑うことはないでしょ!」
『マリエが怒《おこ》る必要もないと思うがな』
「――イェマドの人間って、みんな|丈太郎《じょうたろう》みたいな性格してるの?|滅亡《めつぼう》したの、そのせいじやないの?」
|氷澄《いずみ》が鼻で笑った。
『もっとも、ヤガミがいわゆる超能力者だというのなら、一連の事件の関連で襲われたという推測も成り立つが』
「どういうこと?」
『昼間マリエが言っていた女子高生の口コミネットワークも、そうそう|馬鹿《ばか》にしたものじゃないな。すでに一〇件以上、超能力者と呼ばれていた人間の変死を釣り上げた』
「変死――」
『いちばん最近のものでは、志摩木久美という、九州の大学生だ。航空機事故や火山の|噴火《ふんか》を予知したとかで、地元では話題になっていたそうだが、一週間前、建築現場の近くを歩いている時に資材が落下して、その下敷《したじ》きになった』
「その人って、その、本当に超能力者だったの?」
「確かめようがないな。まあ、超能力者と言われながら、無傷な例もいくらもあるがな」
「例の自然発火とか、似たような例は?」
『今のところ、まだ見当たらない。一年前に焼死した教師も、超能力や霊感《れいかん》には縁のない人間だった』
万里絵は、これまでのところを頭の中で整理してみた。
まず、人間|炎上《えんじょう》事件の系列で二件。ただし、一件は一年前。海外の事件三件は除く。
共通点は不明。
それから、超能力者変死事件。自殺もあるらしい。現在調査中なので、不明な点が多い。
背後に|黒幕《くろまく》というか、犯人《はんにん》が存在したとして、なぜそんなことをしたのか、動機が全く不明。よって、犯人像もまるで|掴《つか》めない。
そして、最後に矢神遼|襲撃《しゅうげき》事件。詳細《しょうさい》は不明。まあ、熱を発する凶器を使ったらしい|痕跡《こんせき》はあるので、人間|炎上《えんじょう》事件との共通点はあるかもしれない。
「……謎《なぞ》が増えただけみたい」
|氷澄《いずみ》はまた鼻で笑った。
『とりあえず、ヤガミをマークしろ。今のところ、相手をおびき寄せる餌になりそうなのはヤガミだけだからな』
――マークだけじゃなくて、ガードも必要みたいだけどね。
万里絵が発見した時、遼はほとんど|錯乱《さくらん》状態で、|鞘《さや》に収まったままのザンヤルマの剣で地面を|叩《たた》いていた。剣を使った後なら、仮死状態になるはずなのに、そうなっていなかった。つまり、遼は剣を使わなかったということになる。なぜ? ただ、そのことを|氷澄《いずみ》に言うつもりはなかった。
「そうだ、|丈太郎《じょうたろう》。|星嶺《せいれい》学園って知ってる?」
『比較的最近出来た学校だな。進学と高校野球の分業で名前を売っている、成り上がり学校だ。校長はなかなかの野心家だと聞いている。その学校がどうした?』
「そこの生徒で、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》っていう人を探ってみてくれない?」
万里絵は、夕方の秋月の出現について語った。
「その秋月って人、遼のピンチを知っていた節《ふし》があるのよ。――どうしたの、|丈太郎《じょうたろう》?」
『いや、例の自然発火して死んだ坂巻《さかまき》という教師な、|星嶺《せいれい》学園に務めていた』
「ちょっと面白い|偶然《ぐうぜん》ね」
あまり勢い込むと、また|氷澄《いずみ》の冷笑的な言葉を聞かなければならないと思い、万里絵は努めて素っ気なく応じた。
『調べがついたら、また|連絡《れんらく》する。――この電話、|盗聴《とうちょう》されてはいないだろうな』
「今さら」
『それから、|緊急《きんきゅう》事態以外では、社会科研究室には来るな。他人の目を引くことになる』
「そうそう、それで考えたんだけど、歴史研究同好会を作らない?あたしと遼が会員で、|顧問《こもん》は|丈太郎《じょうたろう》で。だったら、堂々と研究室で会えるでしょ?」
『――考えておこう』
|氷澄《いずみ》は電話を切った。
――勝った。
何が「勝った」のかよくわからないが、|氷澄《いずみ》の苦々《にがにが》しい声を聞いて、そう思った。
受話器を元に戻《もど》し、時計を見る。一二時を回っている。
――遼は明日、学校、どうするんだろう。
|氷澄《いずみ》の考えるような二度目、三度目の|襲撃《しゅうげき》があるのかどうか。そして、それに立ち向かえるのかどうか。
――まあ、明日は明日の風が吹く、か。
とりあえずは寝ることにして、万里絵はシャワーを浴びに行った。
自分の部屋に引きこもって、遼はザンヤルマの剣を調べていた。調べるといっても、何か|分析《ぶんせき》したり計測したりできるわけではない。改めてじっくりと見直すたけのことだ。
――特に変わった様子はないな。
|深紅《しんく》の光で出来た|野獣《やじゅう》の高熱を発する体を何度も|殴《なぐ》りっけていたにもかかわらず、表面には目立った傷もない――。
だが、これも結局のところ、当面の問題から目をそむけるための|行為《こうい》に過ぎなかった。
机の上に剣を置いたまま、遼はベッドにひっくり返った。背中に痛みが走り、|慌《あわ》ててうっぶせになる。
とっさのこととはいえ、剣の力にすがりついた自分にひどい|嫌悪《けんお》を感じる。結局、危険が|迫《せま》れば、人間は力に|頼《たよ》るのだろうか。力によって|脅威《きょうい》を排除するしかないのだろうか。
――それだけじゃない。
剣の機能障害。正体不明の敵の|襲撃《しゅうげき》。さらに、万里絵について秋月に話そうとすることを、誰かが|妨害《ぼうがい》している。万里絵と|氷澄《いずみ》はすでに動き出しているだろうに、遼だけが、いくつもトラブルを抱えたまま、身動きできずにいる。
――秋月さんが羨《うらや》ましいよ。
|納得《なっとく》のいかない部分は多々あるにしても、自信に満ちた秋月の態度は|魅力《みりょく》的だった。だが、その秋月も、ひょっとしたら遼の許から去ってしまったのではないだろうか。
――これから、どうすればいいんだろう……。
部屋の中には時計の秒針の音だけが|響《ひび》いていた。
翌朝、遼は、いつもなら目を覚ますか覚まさないかの時間に家を出た。勘《かん》だった。万里絵が朝から訪《たず》ねてくるのではないか――。悪いとは思ったが、どうしても顔を合わせられなかった。
傷は、痛みの割に深くはなかったのか、動くのに問題はなかった。教科書やノートをスポーツバッグに入れ、夏用の替えズボンに苦労して足を通すと、まるで悪いことをしているような気分で駅に向かった。
――抜《ぬ》かれた!
四〇二号室のドアの前で万里絵は舌打ちした。もしやと思って早めに遼を訪ねたのだが、
先を越されたようだ。
――全く、何を考えてるのよ。
ぶっぶつ言いながら階段を|駆《か》け降りる。そして、駅への道を一目散に走った。
遼の身の安全も気になったが、それより心配なのは精神状態だ。
思い人を失った痛手のみに心を奪われ、積極的に生きることを|放棄《ほうき》してしまうのではないか――。一か月前、事件が一応の終結を見た時、万里絵がいちばん|恐《おそ》れたのはそのことだった。
遼が|闘《たたか》いを決意した時、万里絵は安心した。少なくとも現実に対して積極的なかかおりを持つことを遼が心に決めたのだと思えたからだ。ザンヤルマの剣によって現在の人類が守られるかどうかなどは、むしろ二の次、三の次のことだった。
だが、あの時の決意が、今や重圧となって遼を押し潰そうとしているのではないか?
――一人で抱え込むから!
いつもの半分以下の時間で駅にたどり着く。遼の姿はない。自動|改札《かいさつ》では、遼を見たかどうか尋くこともできない。
――とにかく学校よ。
万里絵が定期入れを取り出した時だった。
『朝霞万里絵』
振り向かなかった。自分のことをフルネームで呼ぶような知り合いはいない。ここで呼びかけに反応して、自分が朝霞万里絵だということを認めれば、害意を抱いた相手の場合、面倒なことになる。
そう思って無視した万里絵だったが、階段の途中《とちゅう》でもう一度呼びかけられた時には足が止まった。
――声じゃない……。
万里絵の名前を呼んだのは、声ではなかった。音として耳に入ってきたものではなかった。あえて言うなら、万里絵の名前、というより「アサカマリエ」という音が持つ意味そのものが頭の中に湧いて出たようだった。
異様な感覚だった。意識の中に、自分ではコントロールできない部分が勝手に現れて、自分の名前を呼んでいる――。
――テレパシーっていうやつ?
万里絵は基本的に超能力というものは存在しないと考えている。いや、絶対に存在しないと断定するわけではないが、絶対に存在しないと考えても困ることはない、その程度の存在でしかないと思っている。
それほど例が少なく、また、問題になるほどの|威力《いりょく》もない存在だと。例えば、自分は勘がいいほうだと思うが、それも別に未来を予知したり、他人の思考を読んだりしているわけではない。
自分でも意識すらできないようなわずかな手がかりに基づき、これも意識できないほどの短い時間で判断を下しているにすぎない。経験と訓練によって身についた、ただの「能力」だ。そういう意味では、人間に秘められた能力というものは素晴らしいと思うが、それを説明するのに、「科学では解明できない未知の力」を持ち出す必要はない。
にもかかわらず、|瞬間《しゅんかん》に呼びかけをテレパシーと判断し、精神のどこかで|警戒《けいかい》態勢をとるスイッチが自動的に入ったのは、それこそ経験と訓練の賜物だろう。
階段の下を見る。飛び下りられない高さではない。ホームには人はまばらだ。反対側の上りホームのほうが人が多い。この時間帯なら当然か。|不審《ふしん》な人物は見当たらない。
――事件の犯人か、|黒幕《くろまく》とまではいかなくても、深くかかわっているヤツのはず……。
周囲を探る。気配は全くない。相手が、音声を使わずに呼びかける以外にどんな能力を持っているのかは不明だ。ひょっとしたら、今にも炎《ほのお》を噴いて燃え上がるかもしれない。
――バカバカしい。
意識して万里絵は笑みを浮かべた。|過剰《かじょう》な|緊張《きんちょう》は失敗の元だ。
『二番ホーム、ご注意ください。電車が通過します。危ないですから、白線の内側までお下がりください』
駅員の割れたような声がスピーカーから|響《ひび》いたのが合図のように、万里絵はまた階段を昇《のぼ》りはじめた。
『待て、朝霞万里絵』
――やっと、意味のあるメッセージを送ってきたわね。
再び足を止める。
警笛《けいてき》が|響《ひび》き、レールの上を快速特急が走り抜けていった。
――どうせなら、自分の名前くらい名乗ったらどう?
頭の中で呼びかけてみる。返事はない。
『朝霞万里絵、君に警告しておく』
――ニニンが四、ニサンが六、ニシが八、ニゴ十、ニロク十二……。
頭の中で九九を唱える。効果があるかは疑問だが、相手にこちらの思考を読まれないための予防策のつもりだった。もっとも、|情況《じょうきょう》の|把握《はあく》と対応に支障があっては困るが。
『近いうちに、君は予想もしなかった|災厄《さいやく》に|見舞《みま》われる』
――サブロク十八、サンシチ二十一、サン八二十四、サンタ二十七……。
『危険を感じたら、私を呼ぶのだ。私に助けを求めるのだ』
“私”という言葉のところで、かすかに何かを感じる。気配というか、|匂《にお》いのようなもの。
『私の名は――カオルクラ。危険を感じたら、カオルクラの名を呼べ』
――ゴック四十五、ロクイチが六、ロク二十二、ロクサン十八……。
『これは、君が私の|同類《どうるい》だと思えばこその警告だ。私は君と同じ種類の人間なのだ』
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
思わず言葉が口をついて出ていた。
『|隠《かく》す必要はない。|同類《どうるい》を助けるのは私の使命だと思っている。危険に|見舞《みま》われたら、私を、カオルクラを呼ぶのだ』
万里絵は続きを待ったが、それっぎりメッセージは送られてこなかった。
『間もなく一番ホームに上り電車が参ります。危ないですから、白線の内側まで下がってお待ちください』
ホームでアナウンスをしている駅員に、こっちを向け、と念じてみる。反応はない。
――当たり前よ!あたしのどこが|同類《どうるい》よ、どこが。
テニス・ラケットの挿《さ》さったスポーツ・バッグを待ったセーラー服の三人連れが、チラチラと万里絵のほうを見ながら通り過ぎた。
――それで、なに、次のターゲットは、あたしってわけ?
額を|拭《ぬぐ》う。汗がべっとりと手の甲を濡らした。
|氷澄《いずみ》はデータの収集と|分析《ぶんせき》に追われていた。
学期末試験の採点が終わり、成績会議の結論が出れば、非常勤講師の仕事は激減《げきげん》する。
それで空いた時間は全《すべ》て、「超能力」をキーワードにした情報の収集と|分析《ぶんせき》に投入された。
キーワードがキーワードだけに、公式のデータはほとんど役に立たない。女性週刊誌などの記事を検索《けんさく》し、霊媒《れいばい》やら占《うらな》い師《し》やらにも調査の対象を広げる。
同時に、自殺、変死の情報も検索する。よくもこれだけの人間が|不審《ふしん》な死に方をするものだと感心するくらい、データのなかには数多くの|不審《ふしん》で|奇怪《きかい》な死が詰まっていた。
そのなかのいくつかの事件が|氷澄《いずみ》の目を引いた。
一件は、テレパシーを持っていると言われた女子高校生、橋詰恵利香《はしづめえりか》の自殺だった。昨年の一〇月、彼女は、家の中にあるガラス食器を全《すべ》て砕《くだ》き、その破片を飲み下して出血死を遂げた。彼女がなぜそんなことをしたのかは不明だった。
別の一件。|霊媒師《れいばいし》として地元では有名だった主婦、松前房子《まつまえふさこ》の例だ。彼女は、大鍋《おおなべ》に湯を沸《わ》かすと、煮《に》えたぎったその中へ頭を突っ込み、自殺した。悪霊《あくりょう》の崇《たた》り――周囲はそんなふうに噂した。これは、今年の三月。
“気”の力であらゆる病気を治療《ちりょう》するとして多くの患者《かんじゃ》を集めていた治療師・国友博喜《くにともひろよし》は、診療所内で餓死《がし》していた。診療用のベッドの上に横たわった死体には、|凄《すさ》まじい力で自分を押さえ付けている何物かに対して懸命《けんめい》に|抵抗《ていこう》した痕跡《こんせき》が残っていたという。ただ、国友が餓死するまでベッドの上に彼を押さえ付けていた殺人者が、内側から|鍵《かぎ》の掛かった診療所からどのように脱出《だっしゅつ》したのかは不明だった。死体の発見は今年の正月早々のことだ。
かつて超能力少年としてブラウン管に姿を見せていた神山淳夫《かみやまあつお》――現在は小さな喫茶店《きっさてん》の経営者に落ち着いていた彼は、頭蓋骨《ずがいこつ》が割れ、脳が流れ出すまで店のカウンターに頭をぶつけて死んだ。客やウエイトレスが必死になって止めようとしたが、彼は「助けてくれ」と叫びながら、尋常《じんじょう》とは思えぬ力を振《ふ》り絞《しぼ》り、凄惨《せいさん》な自殺を続けた。彼が息絶えた時、店内のスプーンもフォークもナイフもマドラーも、|奇怪《きかい》な形に歪《ゆが》み、ねじれていたという。
これが去年の九月末。調べた範囲《はんい》ではいちばん古い事件になる。
データを|分析《ぶんせき》しながら、|氷澄《いずみ》は共通する何かを見つけ出そうとしていた。
これらの事件が自殺ではなく、何者かが仕組んだことだとすれば、どういうことになるか。例えば、胃から食道までが|一杯《いっぱい》になるほどガラスの破片を飲むなど、|普通《ふつう》の脅迫《きょうはく》で実行させるのは不可能だ。
他人の手で飲ませるのは、それ以上に不可能だろう。だが、何者かが、いわゆるテレパシーで強制したのなら? 強制された側は、自分の意志でガラス片を飲みっづけるだろう。元超能力少年の死は、いわゆるテレキネシスを持った人間の仕業《しわざ》だとしたら、どうだろう?彼に自殺の意志がなかったことは、「助けてくれ」と叫んでいたという目撃者《もくげきしゃ》の証言《しょうげん》からも明らかではないのか。
事件の犯人が超能力者だとする。テレパシーで自殺を強制された橋詰恵利香はテレパシストだったという。テレキネシスで自分の頭蓋骨を割ろうとした相手に、神山淳夫はテレキネシスで|抵抗《ていこう》しようとしたのだろう。その余波で、昔とった杵柄《きねづか》と言うべきか、店に置いてあったスプーンやフォークがねじ曲げられた。
こう考えてくると、一つのパータンが見えてくるような気がする。超能力者を、同じ能力を使って殺す――。
――いや、志摩木久美には当てはまらないか。
九州で死んだ女子大生は、予知能力者だったという。建築現場の脇を通っている時に、クレーンが運びあげる途中《とちゅう》の建築資材が、彼女の上に落ちてきたのだ。
|氷澄《いずみ》の青みがかった|瞳《ひとみ》が、つかの間、変死の詳細《しょうさい》を報告する文字の列からそれ、形のいい眉《まゆ》がわずかに寄せられる。
テレパシーやテレキネシスならともかく、予知能力で人を殺すのは無理だろう。ならば、志原木久美の死は単なる事故なのか。あるいは、|氷澄《いずみ》の立てた仮説に誤《あやま》りがあるのか。
|氷澄《いずみ》は、出来かかった仮説の骨組みを|崩《くず》した。水緒美《みおみ》からも時おり指摘《してき》を受けるが、|氷澄《いずみ》には結論を急ぎすぎる傾向《けいこう》がある。それは自覚しているつもりだった。
――急ぐな。行動を開始してから四目目、超能力を追いかけはじめてからは、まだ一日経過していない。
意識をデータのほうへ戻す。
“最後の相場師《そうばし》”と呼ばれた、かなりいかがわしい株式《かぶしき》投資家の事故死。証券街を歩いている|途中《とちゅう》、落ちてきた金庫の下敷きになって死んでいる。証券マンの自殺が続いたような時期、それをチャンスとして利用できた数少ない投資家の一人だった男の死だ。
当然のことながら、殺人として捜査《そうさ》が進められた。だが、落ちてきた金庫は、通常のゴミとして処分できないということで業者が特別に引き取ったもので、その日の朝まで、現場から五〇キロ以上離れた場所にあったことが確認されている。それを、どうやって短時間のうちに証券街まで運び、ビルの上まで引っ張り上げ、|被害者《ひがいしゃ》の上に落とすことがでぎたのか。
次の例は、タクシー運転手だった。割のいい客が、いつもいいタイミングで乗ってくるので、「あいつには、タクシーの守り神がついている」と噂されていた運転手が、羽田《はねだ》空港で客を降ろしたと本社に|連絡《れんらく》があったのを最後に|行方《ゆくえ》不明になり、青本ヶ原樹海の手前で車のみが発見された事件。車の発見は、今年の五月。
――待てよ……。
|氷澄《いずみ》は、変死と超能力の二つのキーワードで検索している。そのため、変死した人間の人物像を調べることで、いわゆる超能力者の可能性があるものをリスト・アップしている。
だが逆に、超能力者を見つけ出し、これを殺そうと企んだ場合、どのように調査をしたらいいのだろう。マスコミが|騒《さわ》ぐような超能力者や、地元では評判の|霊媒師《れいばいし》というのならまだしも、成績のいいタクシーの運転手や、あるいは株式投資家を、超能力と結び付けて考えるだろうか。超能力者かもしれないと疑うだろうか。
さらに考えるなら、|被害者《ひがいしゃ》の周辺に「超能力」の兆《きざ》しすらないが、事故死や自殺のパターンに、他と共通している点があるケースもいくつか見られる。周囲に知られてはいなか
ったものの、何等かの能力を有していたという可能性は否定し切れまい。
これらの事件が全て殺人で、|被害者《ひがいしゃ》全員が超能力者だとしたら、犯人はあらゆる可能性を考慮し、砂漠《さばく》に落とした一粒《ひとつぶ》のダイヤモンドを捜《さが》すに等しい努力をしていることになる。
――背後にいる奴《やつ》、予想以上の相手かもしれんな。
狭《せま》い島国にひしめく一億二〇〇〇万以上の人間のなかから超能力者を見つけ出すのだから、かなりの能力を持っているのだろう。あるいは、組織という可能性もある。何を目的として超能力者狩りをしているのかは全く不明だが。
昨日、万里絵から「超能力者」というヒントを受け取ってからほぼ二〇時間。混迷の度合いが高まるばかりという気がする。今度の調査の発端となった人間|炎上《えんじょう》事件のほうは、
全くお手上げ状態だった。
一か月前の連続バラバラ殺人事件のデータが出てきた。まとめて消去する。
――いっそ、同様の事件が続げざまに起こればいいのだよ。
|氷澄《いずみ》は|懐中《かいちゅう》時計――イェマドのエネルギー・ジェネレーター“守護神”を|上着《うわぎ》の下から取り出すと、働きを|若干《じゃっかん》高めた。|氷澄《いずみ》の身体機能を良好な状態で|維持《いじ》するのが守護神の第一の役目だが、多少きつい仕事の場合は、水準を高めに設定することもある。
身体機能が活発になったせいでもないだろうが、|氷澄《いずみ》は万里絵から依頼されていた別の調査もあることを思い出した。
――山ザル娘が!私を何だと思っているんだ。
|氷澄《いずみ》は、|星嶺《せいれい》学園の学生名簿を手に入れる方法を考えはじめた。
「まーりーえっ!」
「――なんだ、アッコか」
「なんだしゃないでしょ。今日の万里絵はおかしいぞ。ボンヤリしたり、ニヤニヤ思い出し笑いしてみたり。さーてーは、何かあったな。白状しろ、このこの」
「何考えてるのよ、何にもないってば!」
笑いながら頬っぺたをつついてくるクラスメイトに、万里絵も笑いながら“応戦”した。
――そうか、ニヤニヤ笑ってたのか。
正体不明の相手から、予想もつかない|災厄《さいやく》に|見舞《みま》われると予告され、|緊張《きんちょう》した状態にあったのは確かだ。それが、何にも知らない人間の目には、ボンヤリしていると映っても仕方がないだろう。だが、ニヤニヤ笑いを浮かべていたというのは意外だった。極度の|緊張《きんちょう》に陥《おちい》らないための防衛手段を無意識にとっていたということだろうか。それとも……。
――けっこう楽しんでるのかもしれないなあ。
少し反省する。事件のほうから自分に直接かかわってくるようになったのだから、ある意味では気が楽な部分はあったかもしれない。しばらくは、陰惨《いんさん》な殺人事件は起こらないかも、という期待もあったし。
ひさしぶりの晴れ間は短かった。教室の窓から見える空は、早くも灰色の雲に|覆《おお》われはじめている。
|氷澄《いずみ》は、今日は学校に出ていない。例の調査で何かが発見できれば、今度は向こうのほうから報告してくるだろう。|氷澄《いずみ》はあれで意外に見せたがり屋の一面があるから。
遼との接触は避けている。正体不明の敵の|襲撃《しゅうげき》があった翌日だから心配ではあったが、朝の一件で、放っておくことにした。|怪我《けが》はともかく、早朝から万里絵を出し抜くだけの気力があれば、たとえそれが空元気だとしても、二、三日は保つだろうと思えた。下手《へた》に接近していると、自分に降りかかってくるという“予想外の|災厄《さいやく》”の巻き添《ぞ》えにしてしまうかもしれない。
少なくとも、自分と遼の特別な関係を知られるのはまずい。いや、今度の事件の背後にいる奴は、それくらいお見通しかもしれないが。どちらにせよ、遼が再び|錯乱《さくらん》状態に陥《おちい》るようなことだけは絶対に避けたかった。
――それにしても、カオルクラって、何者?
万里絵のことを自分の|同類《どうるい》――超能力者《ちょうのうりょくしゃ》という意味だろうか――と思い込んでいる、お節介焼《せっかいや》きの予言者。正体も目的も不明。ひょっとしたら、とんでもない詐欺師《さぎし》かも。
朝は、謎《なぞ》の人物からの呼びがけをテレパシーと判断したが、今ではそれ以外の可能性を考えている。例えば、ある種の|催眠《さいみん》暗示――駅のアナウンスのなかの言葉をキーワードにして、それを聞くと、メッセージが頭の中で再生されるような――をかけられたとか。仮説を立ててぱ、穴を見つけて壊す。朝からもう何度も繰り返している。
それから、これから出くわすはずの|災難《さいなん》についても考えていた。危険を感じたら私に助けを求めろというメッセージの内容からすれば、万里絵が助けを求めることができるような|災難《さいなん》ということになる。つまり、いきなり体が燃え上がるようなことではないだろう。
遼を襲って|火傷《やけど》を負わせた相手による|襲撃《しゅうげき》などは可能性が高そうだ。
いずれにしても、カオルクラなる人物が、万里絵にとって味方ではないことだけは確かだと思えた。それ以上に、好きになれない人物だった。勿体ぶっていて恩着せがましいあのものの言いようときたら――。
「万里絵、そろそろ行こうよ」
アッコ――クラスメイトの宮崎淳子《みやざきあつこ》か声をかける。
「何だっけ?」
「もう! チアリーディング部の残念会。ちよっと遅《おそ》くなっちゃったけど、夏休み前にやるからって」
「ソウデシタ」
「――ホラ、雨が降る前に行くよ」
万里絵は|鞄《かばん》を待って淳子の後に続いた。
|災厄《さいやく》――ご親切な誰かさんが事前に警告してくれるような|災厄《さいやく》なら、自分を狙って起こるだろう。淳子たちを巻き添えにする危険性は、少ないだろうと万里絵は判断した。
「あーあ、早く夏休みにならないかな」
淳子が伸びをしながら言う。
そう。来週はもう夏休みなのだ。
とうとう雨が降り出した。遼は昇降口でため息をついた。昨日の事件で|傘《かさ》が駄目になったのを忘れていた。
――しばらくやみそうにないな……。
教室に戻ろうかと思った。しばらく本でも読んで、時間をつぶそうかと。
――文庫本、学生|鞄《かばん》の中だった。
間の悪い時は重なるものだ。教科書や筆記用具はスポーツ・バッグに移して待ってきたが、読みかけの文庫本は――焼け焦げていなければ――学生|鞄《かばん》のポケットの中に入ったま
まだ。図書室はもう閉まっているし、雨がやむのを待つ間、何もすることがない。
|憂鬱《ゆううつ》な気分が一気に戻ってきた。朝は、顔を合わせづらくて、自分のほうから避けていたのに、学校での万里絵のよそよそしい態度――それこそ遼を避けているような――には、少なからず傷つくような思いを味わっていた。
――厭な奴だ、僕って。自分勝手で……。
「おう、矢神、駅まで一緒《いっしょ》に行こうぜ」
振り向く。|神田川《かんだがわ》|明《あきら》の|坊主《ぼうず》頭が遼を見下ろしていた。
「|傘《かさ》、忘れたんだろ。とりあえず駅まで一緒しようや」
いつものように反射的に|遠慮《えんりょ》の言葉が出かかったが、|神田川《かんだがわ》はそんな遼におかまいなしに大きな黒いスポーツ・バッグから真っ赤な折り畳み|傘《かさ》を取り出して広げた。大輪の花の模様が散りばめられている、どう見ても、野球部員|神田川《かんだがわ》|明《あきら》とは不釣《ふつ》り合いな代物《しろもの》だ。
「いやさ、乾《かわ》いてる|傘《かさ》がこれしかなくってさ」
|神田川《かんだがわ》はすたすたと歩き出した。遼も続いている。
「ま、恥ずかしいのも駅までの辛抱《しんぼう》な」
「いや、そんなこと……」
はっきり礼の言葉も言えない自分が情けなかった。
男同士の|奇妙《きみょう》な相々《あいあい》|傘《かさ》の二人連れは、特に話すこともなく、駅までの道を急いだ。
両手の包帯については、朝のHR前に説明してあった。昨日の夜、天ぷらを揚げていて失敗したということになっている。「ずいぶんきれいに包帯巻けてるな」という神明川の鋭《するどい》い突っ込みに対しては、ちゃんと医者に行ったからと言い訳した。一つ嘘《うそ》をっくと、そのあらを|隠《かく》すための嘘を重ねなければならない。こうして神国川の屈託《くったく》のない表情を見、親切に触れていると、後ろめたさを感じないわけにはいかなかった。
「これ、待ってきな」
|神田川《かんだがわ》が赤い|傘《かさ》を押しつけてきた。いつの間にか駅に着いていたのだ。
「でも、|神田川《かんだがわ》くんは――」
「俺は駅から電話して、妹にでも|傘《かさ》待ってこさせるさ。――じそあな」
遼が何を言う間も与えず、|神田川《かんだがわ》は|改札《かいさつ》を抜けて、遼が使うのとは反対側のホームへ行ってしまった。
――ありがとう、|神田川《かんだがわ》くん……。
遼は、思うように勣かない包帯を巻いた手で|傘《かさ》の柄を握ると、胸の内でっぶやいた。
|橘《たちばな》マンションに帰ると、遼はとりあえず万里絵の部屋に電話をした。呼び出し音の後で、録音された万里絵の声が、現在留守であることを告げた。遼はメッセージを入れずに受話器を置いた。直接――といっても電話でだが――話さなければならない。そう思い決めていた。とにかく動こう、動かなければならないと思ったのだ。
一時間ほどしてから、もう一度かげてみる。今度はつながった。
『はい、朝霞です』
万里絵の声の背後から、|珍《めずら》しくテレビの音声がかなり大きく聞こえた。
「僕だけど」
『何の用っー』
ちょっと不機嫌《ふきげん》そうな声が返ってくる。遼は少したじろいだ。
「これから、そっちへ行っていいかな。話したいことがあるんだけど」
しばしの沈黙《ちんもく》。そして、息を扱い込む音が聞こえた。
『いい加減にしてよね。一人暮らしの女の子の部屋に夜を狙って来るなんて、いったいどういうつもりなのよ』
一息にまくし立てられ、|一瞬《いっしゅん》、言われている意味がわからなかった。あまりに刺々しい言葉なので、万里絵が言っているのだとはにわかには信じられないほどだ。
『昨日は、ケガしてたから、同じマンションに往んでる誼みで手当してあげたけど、勘違《かんちが》いはやめてよね。ただの親切なんだから』
頭の中を流れる血液の音が聞こえるような気がしだ。パニックを起こしがけている。
『もうかけてこないでよね。変なことがあったら、先生に言うからね。サヨナラ』
電話は一方的に切られた。
――嘘だろ……。
手から受話器が滑《すべ》り落ちた。包帯の手で、苦労して戻す。
そばにあった|椅子《いす》にへたり込む。心臓が、熱くて早い|鼓動《こどう》を打っているのを感じる。
「……だろ……嘘だろ……」
口に出していた。|膝《ひざ》に落ちた水滴《すいてき》を見て、初めて自分が泣いているのに気がついた。
「これが、今日一日の朝霞万里絵の行動です」
雨宮は、プリントアウトされた報告書を机の上に広げた。
〈開発機関〉の本部があるオフィスビルの一室。今夜も室内には雨宮しかいない。いや、正確に言えば、雨宮のほかに銀色の|蝶《ちょう》がいた。
先夜のように雨宮の顔に張り付いている|蝶《ちょう》の羽は、ささくれだったような形になり、空気の状態が良くないガスの炎《ほのお》のように、絶え間なく形を変えつづけた。それが見えているのか、いないのか、雨官は無意識のうちにプラチナの結婚指輪をせわしなく撫でつづけた。
「これといって、特に変わった様子はないようです――」
『それが気に入らないんだよ!』
銀色の羽が、|一瞬《いっしゅん》赤みを帯びた金色に輝いた。
『チアリーディング部の打ち上げ会だ?何を考えているんだ、あの女!」
雨宮は、自分の額にとまっている|蝶《ちょう》の|怒《いか》りが鎮まるのをじっと待った。
『いいか。明日だ。明日、朝霞万里絵をかっさらえ。いいな?」
「はっ」
背筋を伸ばした雨宮は、指先までピンと伸ばした右腕を順に上げかけて、やめた。
「朝霞万里絵を|拉致《らち》した後は、どのように………」
『自分が超能力者だってことを認めさせろ。ただし、|怪我《けが》はさせるなよ。何ができるのか、どの程度できるのか。他に超能力者の仲間がいるのか、洗いざらいしゃべらせるんだ」
「そのことで、お耳に入れたいことがあるのです」
雨宮は、もう一通の報告書を広げた。
「先の志摩木久美をはじめとしまして、能力を持った者の変死を調査している者がおります。|村田寛二《むらたかんじ》の|炎上《えんじょう》事件も、翌日から調査にかかっておりまして、目的は不明ですが、見過ごすわけにはいかないのでは、と」
報告書には、問題の人物の身上や昨日の行動、さらに、関連があると思われるここ数日の行動を|詳細《しょうさい》に記してあった。また、望遠レンズで盗み撮りしたらしい人物の写真も数薬《すうよう》添付してある。まだ三〇歳前に見える青年だった。蒸し暑い季節、だというのに、グレイのスリーピースをきっちりと着込み、ベストの上には|懐中《かいちゅう》時計の鎖が光っている。彫りの深い顔立ちはどこか日本人離れし、青みがかって見える|瞳《ひとみ》に浮かぶ表情は冷ややかだ。
「|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》。朝貢万里絵の通う|鵬翔《ほうしょう》学院高校の非常勤講師です。朝霞万里絵のクラスで世界史を受け持っています。阿か関係があるのではないかと……」
自分の言葉に対する反応を待ちながら、雨宮は、はまったままの指輪を回しはじめた。
銀色の|蝶《ちょう》はしばらく写真に見入るかのように動きを止めている。
『――よし、こいつもさらえ』
「承知いたしました。朝霞万里絵と|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》の|拉致《らち》と|尋問《じんもん》、ですな。可能な限り|迅速《じんそく》に行ないます」
『そうだ、雨宮。失敗は許さないから、そのつもりでな』
|蝶《ちょう》は羽ばたき、雨宮の額から離れると、沢井近くの空間をぐるりと一回りし、消えた。
雨宮は、ふうっと絹いため息をついた。凱の時計を見る|零時《れいじ》を回っている。
――我ながら、ずいぶん長い時間、調査報告書とにらめっこしていたものだな。
思わず苦笑する。だが、|熟考《じゅっこう》の|甲斐《かい》あって、方針は決定した。
朝霞万里絵――放置しておくわけにはいかない娘だ。早急に確証を|掴《つか》む必要がある。いや、|違《ちが》う。娘の口から直接聞き出すのだ。〈能力者〉であることを認めさせ、さらに、何ができるのか、どの程度できるのか、仲間はいるのか、洗いざらいしゃべらせる。ただし、傷が残るようなことは避ける。さらに|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》――この男も押さえねばなるまい。一連の〈能力者〉殺害事件を嗅ぎ回っている。我々〈|潜在《せんざい》能力開発機関〉の存在を|揺《ゆ》るがすことになるかもしれない。とにかく、とにかく押さえるのだ。失敗は許されない。
雨宮は、インターフォンのボタンを押した。
「回収を二件。|日比城《ひびき》市だ」
その後で雨宮は、いつの間にかずれている結婚指輪に気づき、直した。妙《みょう》なこともあるものだと思いながら。
「昨日はありがとう」
|朝錬《あされん》を終え、一つ目の弁当をかき込んでいる|神田川《かんだがわ》に、遼は丁寧《ていねい》に折り畳んだ赤い|傘《かさ》を差し出した。
「おう」
やや不明瞭《ふめいりょう》な発音で返事をし、唇《くちびる》の脇に付いたご飯粒を口に入れると、|神田川《かんだがわ》は|傘《かさ》をバッグに押し込んだ。
空になった弁当箱の|蓋《ふた》を閉めてから、|神田川《かんだがわ》は遼の顔をまじまじと見つめた。
「――フラレたか?」
|神田川《かんだがわ》の唐突《とうとつ》な質問に、比喩《ひゆ》でも何でもなく、胸に痛みが走るのを感じる。
「|違《ちが》うよ」
「そうか?」
缶入りウーロン茶を飲み干すと、|神田川《かんだがわ》は弁当箱をしまった。
――誰《だれ》がふられるもんか。
ただ、理不尽《りふじん》な|怒《いか》りの言葉を投げつけられただけだ。その後で泣いてしまったのは、自分でもみっともないと思うが。ひょっとして、目が真っ赤に|腫《は》れているのたろう、か。
「矢神、今いくら持ってる?」
質問の真意がどこにあるのかわからなかったが、遼は頭の中で所持金を計算した。
「三万五〇〇〇と、ちょっとだけど……」
「よっ、お金持ち」
「|違《ちが》うよ、これは、何かあった時のための――」
|神田川《かんだがわ》が手で制した。
「三万五〇〇〇円か。――そうだな、じゃあ一万円でいいや」
――|傘《かさ》のレンタル料か?
遼は札入れに手を伸ばした。
「いいか。一万円分、花を買うんだ。それ持って、彼女に会いに行け。花もらって怒る女なんていないんだから。そんで、とにかく頭下げて、許してもらいな」
「――|違《ちが》うんだってば!」
「まあまあ。いろいろあるさ。特に矢神みたいなタイプは、何かと感じるところもあると思うけど、素直なのがいちばんだぞ」
「だから、|違《ちが》うんだって」
その時。|出席簿《しゅっせきぼ》を子に担任の宮内が入ってきた。生徒はそれぞれの席に戻った。
――ふられたんじゃないんだって。
気がつくようでいて、がさつで、とにかくお節介《せっかい》な神田川を煙たく思いながらも、遼は感謝した。
結局、遼は花束《はなたば》を抱《かか》えて帰ることになった。
何の気なしに|覗《のぞ》いた駅前の花星の店員のお姉さんにニッコリと笑いかけられて、花を買うはめになってしまったのだ。それも一万円分。
サービスしてくれたものか、一万円分の花束は両手に余るほど大きく、豪華《ごうか》で、香《かお》りも豊かで、人目を引いた。ほとんど市中引き回しにされる罪人《ざいにん》の心境で、遼は家路を急いだ。
バッグだけ自室に置くと、遼は階段を上かり、万里絵の五〇二号室の前に立った。大きく深呼吸し、息を止める。そして、目を閉じてインターフォンのボタンを押した。
返事はなかった。
――まだ帰ってないのか。
出かかったため息を飲み込んでから、昨日の電話の会話を思い出してみる。
冷静になって考えてみると、万里絵の言葉には、辻《つじ》つまが合っていないというか、おかしな部分があった。手当てしてやったのは、同じマンションの住人だからだ、誤解《ごかい》するな――確か、そんな意味のことを言った。
――変だよな……。
まるで、二人がいとこ同士であることを忘れたみたいな言い方だ。確かに秘密にしろとは言った。だが、二人っきりで電話で話している時まで|隠《かく》せとは言っていない。
――誰《だれ》かがそばにいたんだろうか。
特にそれらしい様子はなかったように思う。ただ、いつもよりテレビの背かやかましかっただけだ。
あの時、第三者が近くにいたとしよう。それが誰かという疑問も脇に置く。とにかく、その第三者の存在が非常に不都合なので、もう電話をかけてくるなと言った――。それなりに辻つまが合うようでもある。だが、それならそれで、|情況《じょうきょう》が変わった後で、万里絵のほうから|連絡《れんらく》してきそうなものだ。事実、今日はいっもどおり学校に来ていたのだから。
――そりゃ、ここ何日かの僕の様子だって、かなり変だったろうけどさ。
一人暮らしの女の子に付きまとう変な男――それが万里絵が遼にふった役回りなら、乗ってみるのもいいだろう。会うのだ。会って、……謝《あやまる》るのだ。何をどう謝ればいいのか、それはまだわからないげれど、とにかく話の糸口を作れれば――。そう思って、花束を買いもしたのだ。
ドアの前に花束を置き、階段を降りる。不用心かとも思ったが、抱えたままうろうろして、花が傷むのが心配だった。いったん建物の|玄関《げんかん》まで降りてみる。中途半端《ちゅうとはんぱ》な時間のためか、前の通りは人通りもなく、きつい日差しの下にアスファルトの道路だけが置き忘れられたように見える。静かだった。一昨日の出来事が嘘《うそ》のようだ。
学校でみんなの間にいた時には感じなかったが、いつまた|襲《おそ》われるかわからないという恐怖《きょうふ》感か湧いてくる。
遼は道から目をそらすように、壁《かべ》に並《なら》んだ銀色の郵便受けを|覗《のぞ》き、中身を取り出した。
夕刊と、ダイレクト・メールと、いちいち手で投げ込んだらしい小さなチラシが何枚か。
そして、その下に朝刊が入っていた。
―あれ?
遼の家でとっている種類ではない。万里絵のところでとっているのと同じものだ。
五〇二号室の郵便受けも|覗《のぞ》いてみる。朝刊はないが、他《ほか》の中身は入ったままだ。どうやら万里絵はまだ一度も帰ってきていないようだ。この朝刊を入れたのが万里絵だとしたら、
朝入れていったのだろうか。
もう一度、四〇二号室に帰り、郵便物と夕刊を置く。何か挟んであるものでもないかと朝刊を開いてみた。特に何もないようだ。とりあえず、五〇二号室の前に戻る。
ドアの前を何度か行きつ戻りつした後で、遼は花束の脇にしゃがんだ。
――これで、スイミング・クラブに寄ってきた、夕食は外で済ませた、なんていったら、悲惨《ひさん》だよな。
日は、だいぶ西に傾《かたむ》いたようだ。
見られたら気まずいとは思ったが、遼は再び四〇二号室に下り、夕刊と何者かが郵便受けに入れた朝刊を手に五〇二号室の前に戻った。
夕刊を開く。夏枯《なつが》れというには少し早いかもしれないが、高校野球の地区予選の結果が大きく紙面を占領している以外は、特に目立つ記事もなかった。遼は畳《たた》んだ夕刊を尻の下に敷いた。
――でも、僕は彼女に何を話そうって言うんだろう。
剣の|紛失《ふんしつ》や機能障害について話し、助力を求めるのか?
――おかしいよな。本当なら、僕が彼女を守らなくちゃいげないのに……。
黄色い、ギラギラした夕日が空の西半分を染《そ》めているのがわかる。そろそろ帰宅する人も増え、この|廊下《ろうか》も誰かが通るかもしれない。
遼は立ち上がり、伸《の》びを一つした。
|謎《なぞ》の朝刊を広げる。慣れていないせいか、どこか読みづらい。
――これは……?
遼は|眉《まゆ》をひそめた。週刊誌の広告の文字の上に赤い染みが一つ。「ベストセラー作家に盗作疑惑《とうさくぎわく》」という見出しの「盗」の字に。
注意深く前後の紙面に目を走らせる。今度は穴が一つ。「漆器《しっき》・陶芸展《とうげいてん》」の「器」。さら
に、「視聴者《しちょうしゃ》の声」の「聴」にも穴が開けられている。
――盗……器……聴……|盗聴器《とうちょうき》?
昨夜の電話での万里絵の様子が思い出される。もしも、部屋に|盗聴器《とうちょうき》が仕掛《しか》けられていて、それを万里絵が知っていたら?遼が余計なことを言わないうちに切ろうとするのではないか。テレビの音がやかましかったのも、少しでもこちらの行動を読まれまいとする
カムフラージュでは?
立ち上がる。空はすっかり暮れ切っていた。
|無駄《むだ》とはわかっていながら、もう一度インターフォンのボタンを押す。返事はない。
遼は四〇二号室に戻って、五〇二号室に電話をしてみた。昨夜と同じ録音された万里絵の声が不在を告げた。遼はフックを押した。
受話器を耳と肩で挟んだまま、電話帳を引っ張り出し、ベージをめくる。万里絵が入会しているのは駅の向こう側のスイミング・クラブだった。該当《がいとう》する番号を探し当て、キーを押す。――第二、第四木曜日が定休である旨の女性のメッセージが流れ出す。遼は受話器を戻した。
変わったところはいろいろあるが、万里絵だって|普通《ふつう》の高校生だ。友だちとどこかへ寄り道して、帰りが遅くなることだってあるだろう。それが|妙《みょう》に気になるのは、自分が花束などを買ってきて、万里絵の帰りを待ちわびているからだ――そう考えてみるのだが、自分を|納得《なっとく》させられない。
夕刊をテーブルの上に放り、いらだちを一層つのらせて、遼は五〇二号室の前に戻った。
|窒息《ちっそく》寸前《すんぜん》まで潜水《せんすい》した後で急速に浮上《ふじょう》するような、不快感と解放感の入り混じった感覚が頭蓋骨の中を満たす。確かなのは、休のあちこちに感じる痛みと不快感だけで、自分がどうしてここに居るのか、いや、そもそもここがどこなのかさえ、はっきりとしなかった。
―そうだ、ユーコとミノリとリンリンと、パフェにつきあったんだっけ……。
今日はスイミング・クラブが休みだから、カロリー消費量のことを考えると、気の進まない部分もあったけど、甘いものの誘感《ゆうわく》には勝てなかった。意外に太りやすい体質なのに、甘いものが|嫌《きら》いじゃないから、油断すると大変なことになる。よし、今夜はジョギングしなくちゃ。どうも、このところ目まぐるしい日が続いている。昨日もチアリーディング部の打ち上げだったもんなあ。家に帰れば、部屋に|盗聴器《とうちょうき》が仕掛けてあるし――。
万里絵の意識は|一瞬《いっしゅん》で平常の状態を取り戻した。
下北富士の駅を出て、|橘《たちばな》マンションへ帰る|途中《とちゅう》に、商店街が終わって、人気が少なく、
例えば人を襲おうと考えている人間が知ったら、よだれを流しそうな場所がある。そこを歩いている時だった。路上駐車している宅配便の自動車の脇を通り過ぎ、しばらく行ったところで、低い、銃声に似た破裂《はれつ》音を聞いたような気がした。ほぼ同時に、体にヘビー級ボクサーのパンチを食らったようなショックを感じ、意識を失ったのだ。頭のどこかの|隅《すみ》で、あの宅配便の車が怪しいと思いながらー。
多分、殺傷力のない、砂袋《すなぶくろ》などを発射する一種の銃だろう。使ったことはないが、知識としては知っていた。的に傷を負わせずに捕らえられるので、|誘拐《ゆうかい》には便利な道具だ。
やっと現在の|情況《じょうきょう》が|把握《はあく》できた。
――あたしは|誘拐《ゆうかい》されて、どこかに閉じ込められている。
とりあえず、|怪我《けが》らしい|怪我《けが》はしていない。着衣にも異常はないようだ。自覚できる|範囲《はんい》では、薬物などを使われた|痕跡《こんせき》なし。ただし、時計を始めとする所持品は、一切取り上げられているようた。基本的に武器になるようなものは何一つないことになる。肩から先が痛むのは、両手首を後ろで|縛《しば》られているからだろう。そして、|妙《みょう》に古典的な猿ぐつわ。
耳を澄《す》ます。周囲に人の気配はない。
静かに目を開く。出来たばかりの貸しビルの一室という感じの、殺風景な部屋だった。
家具と呼べそうなものもない部屋のタイルの|床《ゆか》の上に万里給は転がされていた。
驚いたことに、室内には人がいた。ドアの脇に安っぼいパイプ|椅子《いす》が置かれヽ|紺《こん》のスーツを着た、がっしりした体格の四角い顔の男が座っていた。
――要注意人物その一ね。
直前まで気を失っていたとはいえ、万里絵に全く気配を感じさせなかった男。このレベルの相手ばかりだと、脱出こ容易ではないだろう。
そう、万里絵は逃げるつもりでいた。たとえ相手が何者であっても、自由を奪われた状態に甘んじるつもりはなかった。
――それにしても、いったい誰が、何の目的で、あたしをさらったの?
逃げるのはもちろんだが、相手に関する情報収集もしなければならない。何一つ見逃《みの》すまい、聞き逃すまいと、万里絵は神経を張り詰めた。
男は、万里絵が意識を取り戻したと見ると、肩を|掴《つか》んで立たせた。賢《かしこ》い犬を思わせる小さな潤んだ目をしている。
万里絵は暴《あば》れた。猿ぐつわにふさがれた口で喚いた。本気ではなかったが、落ち着き払《はら》っていてはおかしいと思ったからだ。
万里絵の肩を|掴《つか》んでいる野球のミットのような手にぐっと力がこもる。どこかツボを押さえているのだろうか、|激痛《げきつう》が走り、万里絵は体を弓なりに反《そ》らせて、|抵抗《ていこう》をやめた。
男の手が緩《ゆる》み、万里絵は口を|覆《おお》うタオル越《ご》しにため息をついた。
「おとなしくしていれば、痛い思いはさせない」
意外に|甲高《かんだか》い声で男は言った。万里絵はうなずいた。
|抵抗《ていこう》しないのを確認するように、男は二、三度軽く肩を|叩《たた》き、部屋のドアを開けると、
万里絵を促《うなが》して外へ出た。部屋の外にはタイル張りの|廊下《ろうか》が続き、万里絵が居た部屋と同じようなドアがいくっか並んでいる。まるで、背中にナイフを突き付けられ、首に鎖を巻き付けられているような気分で、万里絵は歩いた。
|廊下《ろうか》のタイルには傷も汚《よご》れもなかった。ほんとうに出来たばかりの建物なのだろう。窓はなく、|天井《てんじょう》に等間隔《とうかんかく》で設置された小さなランプが薄暗《うすぐら》い空間を照らしている。|壁《かべ》には、非常口を示す緑色のランプ以外に表示や掲示《けいじ》物はなく、ここがどこなのか、建物の何階なのかさえわからなかった。時間もわからない。下北富士の駅に着いたのが六時くらいだった。それからどれほどの時間が過ぎたのか。
――遼、どうしてるかな。
昨日の晩は、部屋に|盗聴器《とうちょうき》が仕掛けられているのに気づいたところに、遼が電話をかけてきたのだ。盗み聞きをしている連中に余計なことを|掴《つか》ませまいとして、一方的にしゃべって、切ってしまった。
――遼、真に受けてないよね。
一応、手掛かりになるようなメッセージを残してきたが、遼は気づいたかどうか。
――例のカオルクラが予告していた|災難《さいなん》て、このことなの?
もっと途方もない大|災厄《さいやく》が訪れるものだとばかり思っていた。|盗聴器《とうちょうき》を見つけた時は、多少考え方を軌道《きどう》修正したが、正体不明の一団に|襲《おそ》われるなどというのは当たり前すぎて、“予想もしない|災厄《さいやく》”と呼ぶにはふさわしくないと思い、|警戒《けいかい》の対象に入れていなかった。
それこそ“予想もしない|災厄《さいやく》”ということか。
――油断があったかな……。
不意に男が肩を|掴《つか》んだ。万里絵が立ち止まり、|恐《おそ》る|恐《おそ》るという感じで振り向くと、男は四角い|顎《あご》で脇にあるドアを指した。万里絵がドアのほうを向くと、男は長い腕を伸ばし、ドアを開けた。万里絵は中に入った。
部屋の中央には、スチール製の事務机があり、その脇にフロア・スタンドに似た――ただし、それよりはだいぶ強力そうで、スタジオ|撮影《さつえい》にも使えそうな――照明が立っていた。
部屋の|隅《すみ》にはパソコンと、計測器らしき用途不明の機械が四、五台。そして、机に脚を乗せて雑誌を読んでいるグレイのスーツを着たサングラスの男がいた。
「何だい、やっとお目覚めかい」
男は立ち上がり、雑誌を丸めて、肩凝《かたこ》りをほぐすかのように肩を何度か|叩《たた》いた。
「さて、先生を呼んでくるとするか」
ぶっぶつ言いながら部屋を出る。
ひっばたいてでも目ェ覚まさせれば早かったのによ――そんなぼやきが聞こえた。
“一着のご予算で二着”といった感じのありふれた背広の下で、四五口径の挿さったホルスターが所在なげにしているのがわかった。男の力量が見て取れた。
――論外ね。
|紺《こん》のスーツの男に肩を押されて、万里絵は机の前のバイプ|椅子《いす》に腰を下ろした。
ほどなく、さっきのスーツの男と、似たようなスーツの男がもう一人、さらに、白衣を着た男が入ってきた。全員が三〇代半ばといったところか。
白衣の男だけが、万里絵と反対側の|椅子《いす》に座り、他の二人は、その後ろに立った。一人が照明を引き寄せ、万里絵の顔に向けると、スイッチを入れた。同時に、部屋の明かりが絞《しぼ》られる。万里絵は目を細め、顔をそむけた。
背後の男が万里絵の顔を両側から押さえ、正面を向かせると、猿《さる》ぐつわを取った。
「何なのよ、あなたたち! あたしを家に帰してよ!警察呼ぶわよ!」
腰を浮かせて叫《さけ》ぶ万里絵を、背後の男が肩を押さえ付けるようにして|椅子《いす》に戻した。
万里絵の正面に座っている男は、待っていたファイルを机の上に置き、広げた。ちょっと太めだが、骨太という感じではない。同じように白衣を着ていても、|氷澄《いずみ》などとは全く異なるタイプに見える。|眼鏡《めがね》レンズの表面が脂で汚れているのがライトの反射でわかった、
「|鵬翔《ほうしょう》学院高校二年A組、朝霞万里絵さんですね?」
「……どうして知ってるの?」
相手が誰だかわからないで|誘拐《ゆうかい》する人間はいないだろうし、生徒手帳を見れば、そんなことはいくらでも調べられるだろう。だが、万里絵は目を丸くして見せた。男は薄ら笑いを浮かべた。
大学の研究室に残り、ひたすら自己の研究テーマに没頭した男――万里絵は、目の前の男をそう見た。「頭の悪い女子高生」らしい反応を見せると、単純に引っ掛かり、優越《ゆうえつ》感と軽蔑《けいべつ》心が顔に出る。ヒステリーでも起こさない限り、邪魔《じゃま》にはならないタイプだ。
「1〇年ほど前、|旧《きゅう》ソビエトで、一六歳から五五歳までの男女四八〇〇人を対象にして行なわれた実験のデータがあるんですよ」
男は机に|肘《ひじ》を突き、両手を組み合わせて、人差し指だけを小刻みに動かしていた。
「例えば、物を待ち上げるテストで、約三〇パーセントの割合で、テレキネシスが観測されているんです。テレキネシス――念力のことです。わかりますか?」
万里絵はおずおずとした様子でうなずいて見せた。
「どういうことかと言いますとね、体の各部に筋肉の働きを計測する装置《そうち》を付けて、重量物を持ち上げさせるんですが、筋肉の発揮した力を合計しても、|床《ゆか》に置かれた重量物を持ち上げるには不充分《ふじゅうぶん》なんですね。それで、その時に、脳がアルファ波を発しているのも記録されているんです。つまり、本人も気づかないうちに、テレキネシスで筋力を補助しているんです。約三〇パーセント、つまり三人に一人がね」
きょとんとした表情を浮かべながらも、万里絵は必死に頭を働かせていた。どうやら、この連中が万里絵をさらってきたのは、超能力に関係があるらしい。
「同様に、視覚、聴覚では確認できない|距離《きょり》にいる相手を確認している例も報告されています。男性では四人に一人、女性では五人に一人の割合でね」
――それは、カクテル・パーティー効果と一緒《いっしょ》じゃないの?大勢の客でざわついたパーティー会場でも、必要な話し声に集中すれば、聞き取れるっていう……。
「ね? そうした能力は決して珍《めずら》しい、異常なものではないんですよ」
「はあ……」
「朝霞万里絵さん、あなたもそうした能力を持っていますね?」
「はっ?」
男の目が万里絵をじっと見つめている。自分の言葉が思ったほどの効果を上げていないのが不満なのか、目にいらだちの色が浮かんでいる。
「あなたも超能力を持っていますね?」
前よりは多少|硬《かた》い声で男は繰り返した。
「持ってません」
男の薄《うす》ら笑いに毒々しいものが混じる。
「嘘はいけませんね」
言いながら、ファイルを広げ、ページを繰る。余裕《よゆう》を見せているつもりなのだろうが、
演技力不足だ。顔は引きつっているし、手の動きからはいらだちがあからさまに窺《うかが》える。
「こちらにはちゃんとわかっているんですよ。あなたが他の超能力者に思考を読ませないほど強力なテレパシーを持っているということがね」
手札《てふだ》をさらすのが旱すぎる――自分の身が危険にさらされているにもかかわらず、|尋問《じんもん》の手際《てぎわ》の悪さに、万里絵はいらいらした。
――思考を読ませないってことは、誰かがあたしの思考を読もうとしたってことよね。
この間の朝、駅の階段で九九《くく》を唱えたことだとも思えないが。
「あなたは一〇年間アメリカ合衆国で暮らしましたよね」
「はいっ」
「それにしては日本語が流暢《りゅうちょう》すぎる。テレパシーの応用ではないですか」
――は……本気で頭悪いんだ、こいつ。
この分では何を言い出すかわからない。一〇年間アメリカで暮らしたにしては箸《はし》の使い方がうますぎる。テレキネンスの応用ではないですか。1〇年間アメリカで暮らしたにしては納豆が食べられる。超能力を使ったでしょう……。
その後も質問は続いた。万里絵の経歴をはじめとして、相手が一応のデータを揃えているのはわかった。だが、通っていた学校の名前はわかっていても、クラスメイトの名前まではわからない、その程度の情報しか握んでいないようだった。
時には質問の意味がわからないふりをし、超能力関連の質問についてはひたすら「知らない」「持っていない」「わからない」の「三ない」を繰り返し、すっとぼけた。
「痛めつけたほうが早いんじゃないのか」
白衣の男の後ろで、サングラスの男が聞こえよがしにっぶやいた。成果らしきものがいっこうに得られない|尋問《じんもん》が、|尋問《じんもん》している本人以上に、傍《そば》で聞いている人間をいらだたせているようだった。
「わかっていないんだな、君は!」
急に|興奮《こうふん》状態になって白衣の男が立ち上がる。
「君たちのような一般人《いっぱんじん》には誤解《ごかい》されているようだがね、超能力は、心身の状態が良好な時にこそ発揮されるんだよ。精神が落ち着いていて、肉体が健康な状態の時にね。生命の危機に瀕した時に発揮されるようなものなら、誰が飛行機事故で死ぬものか!」
「吐かせるだけだろ。別に目の前で実演させるわけじゃないだろ」
「なんだったら、俺たち二人で手伝ってやってもいいんだぜ」
もう一人の男が茶々を入れる。
「得意なんだぜ。女のココロもカラダも気持ち良くしてやるのはよ」
「わかってない! 君たちは全然わかってないんだよ!」
その時、万里絵の背後に控えていた男が、スーツの二人を促《うなが》して、部屋の|隅《すみ》へ行った。
だいたい、雨宮の野郎が……何でこんなことやんなくちゃ……そんなつぶやきを万里絵は聞き逃さなかった。
白衣の男を見つめる。|唇《くちびる》の|端《はし》が|痙攣《けいれん》していた。人差し指でせわしなく机の角を|叩《たた》く。
ほどなく、グレイのスーツの男たちは、すっかりおとなしくなって持ち場に戻った。
「先生、|休憩《きゅうけい》にいたしましょうか」
|紺《こん》のスーツの男はそう言って、白衣の男の返事を待たずに万里絵を立たせた。そして、最初に居た部屋へ戻らせた。
振り向く間さえ与えずドアは閉まった。男は部屋の外で番をしているようだ。
万里絵は|床《ゆか》に腰を下ろし、静かに|緊張《きんちょう》を解いた。
これまでにわかったことを頭の中で整理する。
万里絵を|拉致《らち》した組織が、どの系列に属するのかはわからない。ただ、人材にはあまり恵まれていないらしい。ガードマンというか、荒事《あらごと》専門の連中は、一人を除いてカス同然だし、研究員は、自分の専門分野以外何も知らないヒステリー気質だ。組織の関係者――
命令を出せる立場にある人間の一人は“雨宮”という名前らしい。そして、この組織は、超能力を研究していて、万里絵が超能力者であることを確認するために|拉致《らち》したらしい。
――変ね。
万里絵が超能力者であることを確認するには、ある程度の期間の監視《かんし》で事足りるのではないか。確かに万里絵は一人暮らしだから、|行方《ゆくえ》がわからなくなっても、すぐに事件にはならないだろうが、|普通《ふつう》に学校に通っている女子高校生を|誘拐《ゆうかい》するなどという無謀《むぼう》な|行為《こうい》に出る必要性が今一つわからない。何をそんなに急いでいるのだろう。
――そういえば、彼等も|納得《なっとく》していないみたいだったわ。なんでこんなことやんなくちゃいけないんだ、みたいなこと言ってたし……。
『朝霞万里絵』
この間と同じ、声なき呼びかけ――カオルクラだ。
『どうだい、予想しなかった|災厄《さいやく》の感想は?』
――正直に言って、まあ、つまらなかったわ。
万里絵の頭の中に浮かんだ感想に、カオルクラは応えなかった。
『今からでも遅くはないよ。私に助けを求めなさい。私の名を呼んで、助けを求めるのだ。そうすれば、すぐに助けてあげる』
万里絵は|黙《だま》っていた。
脳裏に、赤みを帯びた黄色い光が浮かび、口の中に苦い金属のような味が広がった。言葉とは別に、不快な感じが伝わってくる。
『君が|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》をあてにしているなら、|無駄《むだ》だよ』
不意に|氷澄《いずみ》の名前を出され、多少|動揺《どうよう》したのを、カオルクラは見抜《みぬ》いただろうか。
『彼も今頃は〈|潜在《せんざい》能力開発機関〉の人間に捕らえられているはずだ』
――|潜在《せんざい》能力開発機関。それがこの組織の名前ね。
怪しげなサブリミナル・テープやらアルファ波を出す装置《そうち》やらを売っているような名前だが、いくら何でも〈超能力研究所〉を名乗るわけにはいかなかったのだろう。
|氷澄《いずみ》なら|大丈夫《だいじょうぶ》だ。彼は、現代科学を越えた技術の|結晶《けっしょう》に守られている。むしろ、組織の|暗躍《あんやく》を|掴《つか》む端緒《たんしょ》を与《あた》える結果にしかならないだろう。
『ついでに教えてやろう。矢神遼は全くの役立たずになってしまっている。彼が頼りにしているザンヤルマの剣は、今では抜《ぬ》くことさえできないんだからな』
「なっ――」
言葉の主《ぬし》が目の前に居るかのように、万里絵は思わず顔を上げていた。
万里絵から反応を引き出せたことに満足したのか、かすかな含《ふく》み笑いのような気配が伝わってくる。
『何が巨大な力だ。今の矢神遼は全くの役立たずさ。君はもう私を|頼《たよ》るしかないんだ。素直に私と|同類《どうるい》であることを認めて、助けを求めるんだ。カオルクラ、助けてくださいってね。待っているよ、朝霞万里絵』
カオルクラの気配は消えた。
万里絵の体に多少の震《ふる》えが残っていた。
――そうか。それであの時、遼は剣を使わなかったのか。
疑間の一つが解消する。しかし、何故《なぜ》、遼は剣を抜けなくなったのだろう。
――ありがとう、カオルクラ。
万里絵は胸の内で皮肉を込めてつぶやいた。敵に捕らえられ、|尋問《じんもん》を受ける境遇《きょうぐう》になった時、何よりも必要なのは未来を考える精神力だ。敵の情報を収集することで相手に対して静かな攻撃を加えているのだと信じ、脱出の段取りを考え、そして、報復の算段を巡《めぐ》らせる。そのことが苛酷《かこく》な|情況《じょうきょう》を乗り切る精神の支えとなるのだ。
第一ラウンドは乗り切った。第二ラウンドを前にして、万里絵は精神的タフネスの補給を必要としていた。
そして、万里絵は、遼の最悪の|情況《じょうきょう》を知った。さらに、それを嘲笑するカオルクラの声――正確にはテレパシーだが――を聞いた。|怒《いか》りが、カオルクラと名乗る者の正体を明らかにし、ぶちのめしてくれようという闘志《とうし》が湧《わ》いてくる。そのためには、この局面を切り抜け、何としてでも脱出しなければならない。
――ありがとう、カオルクラ。後でお礼はたっぷりさせてもらうからね。
夏の長い日もすっかり暮《く》れ、夜と呼んでいい時刻になった。インターフォンで不在を再確認した後、遼はまた花束の脇にしゃがんだ。あらゆる色の花が揃っているなかに、白い百合の花だけはなかった。店員に頼んで、抜いてもらったのだ。
――いやだよ……この間の二の舞はいやだ……。
|膝《ひざ》の間に埋めるようにしていた顔を上げる。足音か近づいてきた。
立ち上がり、花束を取り上げると、体の後ろに|隠《かく》した。
硬く規則正しい足音が、しだいに大ぎくなってくる。遼の精神の奥底から|緊張《きんちょう》を呼び覚まさずにはおかない足音。
階段の暗がりに現れたのは、スーツに身を固めた背の高い青年だった。
「―――|氷澄《いずみ》さん!」
|氷澄《いずみ》はかすかに|眉《まゆ》をしかめたようだったが、そのまま、つかっかと遼のほうへ歩いてくると、ドアの前で止まった。
「留守《るす》か?」
遼はうなずいた。
|氷澄《いずみ》は、|珍《めずら》しくネクタイを締めていなかった。それだけではない。真っ白なワイシャツのカラーのボタンが取れかかっている。
何かが――|恐《おそ》らく戦いがあったことを遼は悟《さと》った。エネルギー・コントローラー“守護神”で、手近なものをエネルギー・コーティングして武器にする――それが|氷澄《いずみ》の基本的な戦い方だ。主に特殊警棒《とくしゅけいぼう》を使うが、持っていない場合はネクタイで代用することもある。
「|氷澄《いずみ》さん、この部屋、|盗聴器《とうちょうき》が仕掛けられてるかも――」
遼の言葉を遮るように、|氷澄《いずみ》は突き出した人差し指で遼の|唇《くちびる》を押さえた。絶対に口をきくな――念を押すように、もら二本指を添えて|唇《くちびる》を押さえる。遼はうなずいた。
|氷澄《いずみ》の手が、|上着《うわぎ》の下の|懐中《かいちゅう》時計に伸ばされる。エネルギーをコントロールして、室内をスキャンしているのだろう。
「――誰もいない。|盗聴器《とうちょうき》の反応もないな」
|氷澄《いずみ》は、|上着《うわぎ》の下から手を抜くと、ポケットから黒い|手袋《てぶくろ》を出して、はめた。|奇妙《きみょう》な|手袋《てぶくろ》だった。黒いといっても、ただの黒さではない。艶消しの黒、というより、そこだけぽっかりと穴が開いたような黒さだ。
――そうか、光を全く反射しないんだ。
多分、これもイェマドの|遺産《いさん》なのだろう。
|氷澄《いずみ》は指を五本とも揃え、|円錐《えんすい》を形作るような格好にした。そして、その頂点を五〇二号室のドアの|鍵穴《かぎあな》に押し込んだ。
―――えっ?
遼は目をこすった。遠近感が狂ったような気がしたのだ。
|氷澄《いずみ》の指先は、どんどん先が細く尖《とが》っていく。そして、|鍵穴《かぎあな》に吸い込まれるように伸びていく。だが、決して穴の中へ消えてはいかない。まるで、絵画の遠近法で使われる消失点を、|鍵穴《かぎあな》のところへ無理矢理特ってきたような具合だ。|幻《まぼろし》の消失点を目指して、手は細くなりながら伸びていく。同時に、全く光を反射しなかった黒い表面が、|鈍《にぶ》い金属的な光沢を放ちはじめ、とうとう鏡のような反射率の高い状態になってしまった。
手の動きが止まる。|氷澄《いずみ》は、手元とは関係のない方向に視線をやった。指先で何か複雑で細かい操作をしているのだろうか。
固唾を飲んで見守っていだ遼に、|氷澄《いずみ》の|緊張《きんちょう》が解けだのが伝わった。|氷澄《いずみ》のほうを見る。
青みがかった|瞳《ひとみ》が見返す。遼はうなずいて、少し後ろに下がった。
|氷澄《いずみ》が一気にドアを開ける。同時に、空いた手からエネルギー・コーティングされたネクタイが飛び出した。
室内には明かりは一つも点いておらず、人の気配もなかった。
「どういうことなんてすか、|氷澄《いずみ》さん。どうして、ここヘ――」
冷ややかな視線が遼の手のところで止まる。遼は花束を背中に|隠《かく》した。
「私を襲ってきた奴らがいる。締め上げたら、吐いた。私とマリエを|拉致《らち》するように指令を受けていると」
脳が|一瞬《いっしゅん》のうちに|沸騰《ふっとう》したような気がした。
|氷澄《いずみ》はネクタイを丸めて、スーツのポケットに突っ込んだ。部屋の明かりを点けないまかま、あたりを掻き回す。何かの手掛かりを探しているようだった。
「サバイバル・スクールで訓練を受けたといっても、所詮《しょせん》、鼻っ柱が強いだけの小娘《こむすめ》だ。
プロが乗り出してきたら、ひとたまりもないたろうな。特に、私と違って、相手を殺せないとなれば――」
何の手掛かりも得られないと見切りをつけたのか、|氷澄《いずみ》は最後にひとわたり室内を見渡してから、|玄関《げんかん》へ出た。遼は、|一瞬《いっしゅん》迷ったが、洗い桶に水を張り、そこに花束を突っ込むと、|氷澄《いずみ》の後を追った。
「なぜ、部屋に|盗聴器《とうちょうき》が仕掛げられていると思った?」
遼は、新聞を差し出し、自分がたどり着いた結論について話した。
「――|恐《おそ》らく万里絵は|拉致《らち》された後だな。|盗聴器《とうちょうき》がないのは、撤収《てっしゅう》したからだろう」
|盗聴器《とうちょうき》を仕掛けた人間と、万里絵を|拉致《らち》した人間は同じだろう。そいつ等はいったい何者なのが。そして、今度の事件と、イェマドの|遺産《いさん》と、いったいどのような関わりがあるのたろうか。
「――助けに行きましょう!」
「どこへだ?」
軽蔑《けいべつ》し切った口調で|氷澄《いずみ》が応じた。
「意地と勢いとその場の気分だけの言動……。今からでも遅《おそ》くはない、ザンヤルマの剣を私に渡せ。君が待っていても、ろくな結果を生まん」
「――暴走の心配だけはないですよ。何しろ、今の僕には剣を起動することさえできないんだから」
むっとした遼は、これまで言えずに胸の奥に抱え込んでいたことを、思わず口走ってしまっていた。
しばし言葉を失った|氷澄《いずみ》だが、すぐに嘲笑《ちょうしょう》混じりの言葉が出た。
「だったら、なおのこと、できることは何一つないわけだ。――|膝《ひざ》でも抱えて待っているんだ」
「行きます、僕は。行かなきやならないんだ」
「また、意地か」
行く手をふさぐように立った遼を脇に退けるようにして、|氷澄《いずみ》は外に出た。
遼は追いすがった。
「|氷澄《いずみ》さん!」
「投立たずは引っ込んでいろ」
遼の体が凍《こお》りついたように動かなくなった。
かすかに鼻で笑うと、|氷澄《いずみ》は階段を降りて、見えなくなった。
遼は四〇二号室に戻った。
|氷澄《いずみ》が投げ付けた言葉を|噛《か》み締める。役立たず――そうかもしれない。そのとおりだ。
ザンヤルマの剣の力がなげれば、遼は平均以下の高校生にすぎない。自分には何もできないのだ。何も。
テーブルの上に|肘《ひじ》をつき、組み合わせた手に額を押しつける。
秋月に頼ろうかという考えも浮かんだ。秋月のマンンョンまで行き、彼の超能力で万里絵の居場所を探してもらうのだ。まさに今こそ、遼は助けを求めているのだから。
遼は首を振って、その考えを追い払った。できない。|氷澄《いずみ》がイェマドの武器を使って立ち向かわなければならなかったような相手である。危険だ。いくら秋月でも、例えば飛んでくる銃弾《じゅうだん》は止められまい。
ガクンと頭が|揺《ゆ》れた。額をもたせかけていたところの包帯がずれたのだ。手当をしてもらってからだいぶ時間が経《た》っている。包帯は多少|緩《ゆる》んで、薄汚《うすよご》れた感じだった。
巻き直す。両手とも包帯を巻いているので、思うようにならない。幾重《いくえ》にも巻かれて団子のようになってしまうところもあれば、|皮膚《ひふ》が出てしまうところも出来てしまう。
遼は両の拳《こぶし》でテーブルを|叩《たた》いた。
……もう|大丈夫《だいじょうぶ》だから、遼。怖がらなくてもいいんだから……夏休みになったら、一度行きましょ、スイミング・クラブ……だめよ、高校生がこんな早い時間からバーボン飲んでちゃ……。
しなやかで力強い腕、表情豊かな大きな|瞳《ひとみ》、ちょっと日焼けしたような横顔……。
立ち上がる。
――本当なら、侯が彼女を守らなくちゃいけないのに……。
このまま、|黙《だま》っているわけにはいかない。何もしないわけにはいかない。サバイバル・スクールで訓練を受けているといっても、万里絵は|普通《ふつう》の人間だ。それでも、超古代の文明の|遺産《いさん》をめぐる|闘《たたか》いに加わった。彼女は有能な戦士だったが、その有能さが|闘《たたか》いに参加した理由ではないだろう。知ってしまったから、|黙《だま》って見過ごしたら、一生|後悔《こうかい》する……。
あの時、万里絵はそう言った。そのとおりだ。ここで何もしなかったら、遼は一生後侮するだろう。たとえ、万里絵が無事に戻ってきても。
防災の日に買った非常用持出し袋を引っ張り出す。ロープ、|懐中《かいちゅう》電灯、医療《いりょう》キット、工具……。役に立ちそうなものをスポーツ・バッグに移すと、肩に懸け、遼は部屋を出た。
万里絵を|誘拐《ゆうかい》するとしたら、どごでやるだろう――。学校から|橘《たちばな》マンションまでの道筋を順に思い浮かべながら遼は歩いた。
自分が花束の脇に腰を下ろし、あれこれとりとめもないことを考えていた頃、万里絵は|拉致《らち》されたのかもしれない――。そう思うと胸が価いだ。行き先など構わずに、走り出しだくなってしまう。足が速まりそうになるのを懸命《けんめい》に抑える。
私を襲ってきた奴らがいる――|氷澄《いずみ》はそう言った。襲う――|襲撃《しゅうげき》――車から銃を持った男が二、三人飛び出してきて、万里絵を車内に押し込めると、猛《もう》スピードで走り去る――
そんな方法だろうか。もしそうだとすれば、人目につかない場所で行なわれたはずだ。
住宅が少なくなり、商店街まではまだ少し|距離《きょり》があるというあたりで、遼は立ち止まった。もしも、さっき考えたような方法で誰《だれ》かを|誘拐《ゆうかい》しようとするならば、こういう場所かおあっらえ向きなのではないだろうか。
しかし、まさに|誘拐《ゆうかい》にはうってつけの場所だけあって、人通りは全くなかった。|懐中《かいちゅう》電灯で、地面を照らしてみる。手掛かりになりそうなものも見つからない。いや、あっても遼にはわからないかもしれない。
それでも遼はその場にしゃがみ込んで、|懐中《かいちゅう》電灯の光で地面を|端《はし》から少しずつ照らしていった。さっきの新聞に隨されていたメッセージのように、万里絵が何かの手掛かりを残しているかもしれない。なめるように、少しずつ、少しずつ。この場所が駄目なら、駅のほうへ移動して、また同じように手掛かりを探す。それでも駄目なら、学校へ移動する。
|膝《ひざ》をつき、這うようにして、遼は手掛かりを探しつづけた。昼間、触れられないほど熱くなっていた路面も今は冷たく、|膝《ひざ》や手のひらから熱が逃げていく。
自分は|無駄《むだ》なことをしているのではないか――何度も湧いてくる考えを押さえ付ける。
しだいに頭の中が真っ白になっていくようだ。
――手掛かり……マーちゃんの手掛かり……。
不意にすぐ近くで何かが光った。
光っているのはスポーツ・バッグの中身だ。だが、発光するようなものは何もないはずだ。|懐中《かいちゅう》電灯は手に持っているし、ロープや救急セットが光るはずがない。
――まさか!
次の|瞬間《しゅんかん》、遼は顔をそむけてのけ反っていた。バッグを突き破って、光る切っ先が飛び出してきたのだ。
震える手でジッパーを引く。理由不明の|紛失《ふんしつ》、そして理由のわからないまま戻ってきて以来、とりあえず手元に置くようにしていたザンヤルマの剣が、直刀《ちょくとう》の姿になって光を放っていた。
おそるおそる手を伸ばし、|掴《つか》む。柄を伝わって、剣と手が一体になった感覚――一か月前の感覚がよみがえる。そのままバッグの中から取り出し、顔の前に立てる。美しく|輝《かがや》く鏡のような刀身。だが、そこに秘められているのは、限界のわからない破壊《はかい》力。
―今は、武器として使うんじゃない。マーちゃんを助けるためだ。
立ち上がり、ゆっくりと剣を下に向け、あたりを探る。一か月前の|闘《たたか》いで、剣は鋭敏《えいびん》なセンサーとして見えない敵の姿を捕らえている。では、かなり前に連れ去られた人間の|行方《ゆくえ》を|掴《つか》むことはできないか?
剣の柄から熱のようなものが伝わってくる。何か、圧迫《あっぱく》感のようなものを感じる。胸を押されて、息ができなくなるような感じ。剣の切っ先をあちこちに向け、何かの変化、あるいは手応《てごた》えがないかどうが探る。
ある方向に剣を向けた|瞬間《しゅんかん》、真っ正面から顔を|殴《なぐ》られたようなショックを感じ、鼻から頭の中いっぱいにきな臭いものが広がった。切っ先が指しているのは、脇道のうちの一本だった。危険なもの、何か厭《いや》なものがこちらの方角へ逃げていったということか……。
遼は慎重《しんちょう》に歩みを進めていった。
――落ち着け、落ち着くんだ。
だが、足はしだいに速くなる。不快なきな臭《くさ》さは、いっこうに衰《おとろ》えない。何かが、正体はわからないが、遼にとって危険な何かがこっちのほうにいる、あるいはいたのだ。
脇道は、児童《じどう》公園の前を通り、シャッターの下りた商店の間を抜け、とうとう大通りに合流した。
行き交うヘッド・ライトの群れを見て、遼は嘆息《たんそく》した。この車の流れの中を、剣が教える手掛かりをたとっていくのは不可能だ。仮にたどれたとしても、敵が万里絵をどこかへ運ぶのに車を使ったのは確実だろう。遼の足では、間に合わない。
――間に合うって、いったい何に間に合わせようっていうんだ?
間に合わない――考えたくないさまざまな可能性が遼の脳裏をかすめる。
そんな遼の焦燥も知らぬげに、留どまることを知らない光の流れは、河を思わせた。遼と万里絵を隔《へだ》てる、越えられない河――。
遼は歯を食いしばった。行くのだ。何としても、行って、万里絵を助けるのだ。
気配は、流れの一方――東へ向かっている。
遼は走り出した。
後ろからヘッド・ライトが追ってくる。
止まって身構えた遼の前方で白い乗用車か停まり、ドアが開いた。
「乗れ、ヤガミ!」
|氷澄《いずみ》の声が聞こえると同時に、遼は助手術に滑り込んでいた。
|氷澄《いずみ》はすぐに車を流れに乗せようとはしなかった。
「わかるか」
剣のセンサー機能は万里絵の|痕跡《こんせき》らしぎものを捕らえることができた。はたしてそれは、金属で出来た自動車のボディーの中にいても追いつづけられるだろうか。
遼はザンヤルマの剣の柄を両手で握り、意識をそちらに集中させた。はっきりしている。
頭の中全体がきな良くなるような感じ、色でいえば、くすんでいるのに目に痛いような黄色といった感じがはっきりと捕らえられる。
「わかります。このまま真っすぐ行ってください」
短い操作で、|氷澄《いずみ》は車の流れの中に自分の車を入れた。
自分のことを役立たずと罵ったくせに、どうしてタイミングよく拾えたのか――そう問いただしたい気分もないわけではなかった。襲ってきた相手から、|隠《かく》れ家なり集合地点についての情報を得られなかったのか――追及《ついきゅう》したい気持ちもある。
|氷澄《いずみ》にしても同じことではないだろうか。起動さえできないと言っていたはずのザンヤルマの剣が、なぜ抜けたのか。そして、なぜ万里絵の手掛かりを追えるのか。それ以前に、どうして遼に剣を抜くことができなくなったのか、疑問に思っているはずだ。
だが遼は、そんなこだわりを上回って、|氷澄《いずみ》に何かを感じていた。それが何なのか、自分でもよくわからないのだが。
不意に、列車がトンネルに入った時のような感覚が、左耳の中だけに起きた。見ると、左へ伸びる道が後方へ過ぎていくところだった。
「すみません、今の交差点、左に曲がってください」
「前もっては、わからんか」
皮肉っぼい言葉を続けることもなく、|氷澄《いずみ》は|無駄《むだ》のないハンドル操作を見せ、脇道を幾度か折れると、遼が何かを感じた道に車を出していた。
最初と同様のきな臭い感覚が戻ってきた。
――前もってわからないだろうか……。
剣の|鋭敏《えいびん》な感覚を、もっと大きな|範囲《はんい》に広げられないだろうか。いや、今だって、広|範囲《はんい》にわたって探査しているのだろうが、遼に感じられるのは、ほんの少し先の手掛かりだけだった。これだって、ほんとうに万里絵の手掛かりなのかはわからない。
しばらくして、車は赤信号で停まった。
「わかるか」
「ええ、見失ってません。――もちろん、見ているわけしゃないですけど」
剣は、前方に続く手掛かりを捕らえつづけている。
「何なんだろうな、剣が|捕捉《ほそく》しているマリエの手掛かり――熱線ではないだろうし、まさ|匂《にお》いか」
剣を通じて手掛かりを捕らえている遼にも、その正体はわからなかった。
「マリエを|拉致《らち》した一味の逃走《とうそう》経路を忠実にトレースしているようだな。方位磁石の針のように、マリエの居る方向を剣が指し示しつづけるものだと思っていたが」
「何か、まずいんですか?」
「いや――」
ルームミラーの中の|氷澄《いずみ》が苦笑を浮かべていた。
遼は、さっきから|氷澄《いずみ》に対して感じていたものの正体がわかったような気がした。共通の目的を持つ人間同士の、信頼《しんらい》感とまでは呼べないけれど、助けてもらえることは助けてもらってもいいのだという感覚。分担感覚とでも呼べそうな感覚なのだ。
信号が変わり、車は再び走り出した。
マンションから駅へ行く道を歩いていたときの引っ張られるような感じがした。今度は右のほうへ引かれる。
「右へ行ってください」
言いながら、いつの間にか伏せていた顔を上げ、前を見る。道は二股に分かれていた。
――もっと、もっと力を……もっと先を見る力を……。
行く手はずっと直線が続いている。|氷澄《いずみ》がアクセルを踏み込み、車は一気に加速した。
ザンヤルマの剣は遼の手の中で確実に手掛かりを追い続けている。
万里絵は|天井《てんじょう》から吊されていた。
しばらくの|休憩《きゅうけい》時間を挟んで、第二ラウンドが始められた。最初に見せられたのは、万里絵が閉じ込められていた部屋を盗み撮りしたVTRだった。何かに耳を澄ましているように顔を伏せていた万里絵が、不意に短い叫びを放って顔を上げ、まるでぎりぎりと歯ぎしりの音でもさせそうな表情で宙を見つめている映像が、何度も何度も再生された。
白衣の男は、伸間からテレパシーを受け取ったのだろうと言い、効果の|薄《うす》い|尋問《じんもん》を|執拗《しつよう》に繰り返した。|催眠《さいみん》を使うことも試みた。万里絵はことごとく見破り、対抗《たいこう》し、遠回しに嘲笑を浴びせかけることさえした。
白衣の男は|興奮《こうふん》に我を忘れ、大声で喚《わめ》き、そのことがさらに|興奮《こうふん》を掻き立てるという悪循環に陥った。|紺《こん》のスーツの男がすかさず宥め、一度室外に連れ出した。
五分足らずで戻ってきた|紺《こん》のスーツの男は、グレイのスーツの男二人に指示をして、万里絵を|天井《てんじょう》から吊させた。|途中《とちゅう》、白衣の男が戻ってきて、指揮権の侵害《しんがい》とか、拷問《ごうもん》の非有効性とか、君たちは何もわかっていないとかいったことを喚き散らしたが、|紺《こん》のスーツの男が合図すると、グレイの二人が両脇から抱《かか》えるようにして外へ引きずり出した。
「さて、と」
吊す作業を終えると、四角い顔の男は万里絵を正面から見据《みす》えた。
「万里絵、君がそれなりの訓練を受けた人間だってことはわかった。あの連中よりも優秀なくらいだ。しかも、薬物も電気も使うなというお達しだ。困ったもんだな」
万里絵は、この男が本格的に自分の|尋問《じんもん》に取りかかるのだということを悟った。
拷問の目的は、相手の精神力を使い果たさせることにある。通常は、肉体的な苦痛を与えることで、目的を遂げようとする。
だが、生爪《なまづめ》を剥がすようなものばかりが拷問ではない。別の系統の方法もある。より直接的に精神力を使わせ、擦《す》り減《へ》らす方法が。
|天井《てんじょう》から吊《つ》り下げられた万里絵の足の下、|床《ゆか》まではほんのわずかの空間しか残っていない。本当に、あともう少しで足が|床《ゆか》に届《とど》く。実は、この|距離《きょり》がくせ者なのだ。別に、|床《ゆか》に足を着けなければならないという理由はない。だが、あと少しで着く。着きそうで着かない。気になる。いらいらする。もどかしい。何とか足を着けようとして精神力を費やし、それが叶わぬことで、またも精神力が蝕《むしば》まれる。最初はささいなもどかしさだったものが、ついには気が狂わんばかりの状態にまでなってしまう。
細かなことであったが、男が本気でかかるのだということは理解できた。
「どんなに拷問をしたところで、|無駄《むだ》よ。あたしは超能力なんか拷ってないんだから」
「そうかもしれないな、万里絵」
男は分別臭《ふんべつくさ》くうなずいた。賢い犬のような、潤《うる》んだ小さな目が万里絵を見ている。
「だいたい、本当に超能力があるなんて思ってるの? そんなの、マンガやテレビの中だけよ。幽霊や宇宙人かいるって信じるようなもんだわ!頭おかしいんじゃないの?」
「俺は神様がいらっしゃるのを信じてるよ、万里絵」
真面目《まじめ》くさって男が言った。万里絵は思わず百葉を飲み込む。
「確かに、超能力なんてものは存在しないかもしれない。だが、これは俺たちの仕事なんだ。それに、もっと他の提供できる情報もあるんじゃないのかね?――なるべく早く口を割ってくれ、万里絵」
そう言って、男は万里絵のそばを離れ、例のスタンドを灯すと、万里絵の顔に向けた。
目を閉じ、顔をしかめながら、万里絵は考えた。
他の連中は、割の良くない部署に回されたと思いながら、言われたことを何とかこなすだけの人間だ。だが、この|紺《こん》のスーツを着た男だけは、“仕事”ということの本当の意味
を知っていた。海外での実践的な訓練も積んでいるようだ。表面上の指揮系統はどうであれ、この男が実質的な責任者なのだろう。
さっきまで背中に回されていた手は、今や頭の上にある。手首できつく|縛《しば》り上げられているのは変わらないにしても、前よりは|闘《たたか》いに有利な状況かもしれない。|氷澄《いずみ》も事態に対処するため、動き出しているはずだ。そして……。
――――遼……。
自分を助けてくれるとか、そういったこととは別に、遼が心配だった。
――剣に潰《つぶ》されないで、遼。
遼と|氷澄《いずみ》が乗った車は、|日比城《ひびき》市からだいぶ離れた町のオフィス街まで来ていた。
ザンヤルマの剣が捕らえていた万里絵の手掛かりは、テナント募集中《ぼしゅうちゅう》の真新しいオフィス・ビルの地下|駐車場《ちゅうしゃじょう》の中へと消えていた。
|氷澄《いずみ》は、そのビルの前で車の速度を落とすことさえせず、通過した。
立体駐車場のある一区画で停める。
「グリーン・ヘルス株式会社、か」
|氷澄《いずみ》がつぶやいた。遼が目で尋ねると、|氷澄《いずみ》は前方を向いたまま語りはじめた。
「あのビルの四階のテナントだ。今回の事件――発端《ほったん》は、例の芸能人の自然発火死だが、
それを追っている|途中《とちゅう》で、マリエが聞き込んできた。超能力者と呼ばれる人間、それに類する人間が、ずいぶん変死していると」
|氷澄《いずみ》が掘り起こした膨大《ぼうだい》な変死のデータのなかには、|普通《ふつう》では超能力の存在を感じさせないような例がいくらも認められた。それが、関係のないものなのか、超能力者を変死さ
せている何者かが見つけ出した、埋《う》もれた――場合によっては、本人にすら自覚がないような――超能力者なのか。|氷澄《いずみ》は後者の可能性を探ってみた。タクシー会社、私立高校、ゴルフ・クラブ等に入り込んでいた共通する組織、それが、健康診断からフィットネス・クラブの経営に至るまで手掛けている総合健康サービス会社グリーン・ヘルスだった。
「生命保険会社の出資した関連会社ということになっているが、役員の何人かは、元公安関係者、|顧問《こもん》には|旧《きゅう》陸軍の|諜報《ちょうほう》組織の生き残りまでいる」
「その会社が超能力者を探し出していたっていうんですか?」
「そこの健康診断サービスは、心電図から脳波のチェックまでやってくれる行き届いたものでな。逆に言えば、目的不明の余分な検査が一つ二つ入っていてもわからない。その支社の一つがさっきのビルのテナント権を買っている。変死した超能力者の線から出てきた名前が、マリエを|拉致《らち》した一味の潜むビルのテナントとして再登場しだとしたら、|偶然《ぐうぜん》ではないと判断するのが妥当《だとう》だろうな。他に適当な場所がなかったのかもしれんが、よりによって支店開設予定のビルに|拉致《らち》した相手を連れ込むとは、間抜けなことをしたものだ」
「その会社は、どうして超能力者を殺していたんですか?」
「わからん。だが、異分子を排除《はいじょ》し、抹殺するのは、現在の人類のいわば本能だろう。それを秘密裡に行なう組織が存在しても不思議じゃない」
そうかもしれない。|氷澄《いずみ》をはじめとするイェマドの人間たちが、一般《いっぱん》社会からその存在を|隠《かく》すようにしながら生きているのも、一つには人類のそうした本能のためだ。
「彼女を|誘拐《ゆうかい》した目的は?」
「さあな。あの山ザル娘が、何かしくじったか……」
遼は手の包帯をほどいた。一昨日の|襲撃《しゅうげき》で受けた|火傷《やけど》は完全に治り、つるりとした|皮膚《ひふ》が再生している。|氷澄《いずみ》の|懐中《かいちゅう》時計同様、ザンヤルマの剣にも“守護神”の機能がある。傷つき、病み、衰《おとろ》えた体を急速に回復させる機能が。遼は指先でシャツの下を探った。傷を|覆《おお》った包帯の上を指でたどってみる。痛みは感じない。傷は治っているのだ。
|氷澄《いずみ》がマンションのドアの|鍵《かぎ》を開けた黒い|手袋《てぶくろ》を差し出した。
「指紋《しもん》を残さないためだ。――私以外の人間がはめている限りは、ただの|手袋《てぶくろ》だ」
ためらいを見せた遼に|氷澄《いずみ》が言う。そうだった。イェマドの|遺産《いさん》は使用者を選ぶ。この|手袋《てぶくろ》の不思議な機能は、|氷澄《いずみ》以外の人間には引き出すことはできないのだ。
「|氷澄《いずみ》さんは?」
「守護神のエネルギー・フィールド内にいれば、指紋は残らん。――確認しておくぞ」
遼が|手袋《てぶくろ》をはめ終わると、|氷澄《いずみ》はグリーン・ヘルスが万里絵を監禁しているビルヘの突入《とつにゅう》の手順を、一つ一つ説明した。ピルの前を通過するわずかな間に|氷澄《いずみ》が守護神でスキャンした限りでは、ビル内にいる人間は総数一〇名。うち一人は万里絵だから、敵は九名ということになる。居るのは四階。一|項目《こうもく》の説明が終わることに、遼の理解を確認するかのように短い沈黙の時間をとる。そのたびごとに遼は「わかりました」と返事をする。
「今回の私の行動の目的は、あくまで|遺産《いさん》探索《たんさく》の途上で|妨害《ぼうがい》者となっているグリーン・ヘルスの連中を排除《はいじょ》し、|遺産《いさん》及び|遺産《いさん》管理人の存在を隠蔽《いんぺい》すること。さらに、彼等が持っている|遺産《いさん》に関連する可能性のある情報を手に入れることだ」
遼はうなずいた。
「したがって、マリエの救出は、イェマドについての情報を相手に渡さないための手段に過ぎない。マリエが監禁されている部屋に|襲撃《しゅうげき》をかけるのも、そこに敵の中枢《ちゅうすう》部があると考えられるからだ」
「つまり、その組織の壊滅《かいめつ》なり情報入手なりと彼女の身の安全が天秤《てんびん》に懸かった場合は、彼女のほうを見捨てると――」
「察しが良くて結構だ」
|氷澄《いずみ》は車を降りた。遼も続いた。
オフィス・ビルの前で、遼と|氷澄《いずみ》は別れた。
|氷澄《いずみ》は裏に回り、上の階から攻撃《こうげき》をかける。遼はその援護《えんご》のために陽動に出る。
――一呼吸で一つ、三〇数えたら、行動開始……。
もう一度、頭の中で手順を反芻《はんすう》する。
ビルの入り口には防犯カメラが設置されている。この機能を殺す。それがそのまま、監視《かんし》の任に就いている人間たちへの陽動になる。さらに、非常ベルを鳴らす。その間に|氷澄《いずみ》が屋上から侵入、万里絵が監禁されている部屋を目指す。遼は電源《でんげん》を切る。一五分後に、車のあるところまで撤退《てったい》、脱出《だっしゅつ》。
――あれ?
一五分経っても、|氷澄《いずみ》が脱出してこなかったら、遼はどうすればいいのだろう。万里絵ならともかく、遼に自動車の運転はでぎない。
ため息をつきつつ、遼は手の中の剣を見つめた。今度の相手は、銃《じゅう》などで武装していたとしても|普通《ふつう》の人間だ。はたして、剣をふるってもよいものかどうか。
ため息が二七回目の呼吸だった。
――二十八、二十九、三〇!
遼はポケットから発煙筒《はつえんとう》を取り出して点火した。さっきの立体駐車場に駐車していた車の中から失敬してきたものだ。
煙を噴き出した筒をビルの|玄関《げんかん》に投げ込む。続いて、もう一本。
薄暗がりに吹き上げる白っぽい煙の向こうに、監視カメラの赤いランプが透《す》けて見えた。
もう深夜と呼んでいい時間帯である。オフィス街には|人影《ひとかげ》ひとつ見えない。遼は|玄関《げんかん》の脇に身を|隠《かく》し、何かが動き出すのを待った。あのカメラでモニターしている人間は、異変に気づいただろうか。|氷澄《いずみ》はもう行動に移っただろうか。そして、万里絵は――。
むしるようにして|眼鏡《めがね》を外し、胸のポケットに突っ込む。剣の守護神機能のおかげで、視力は回復している。顔の印象が少しでも変わればという、遼なりの配慮《はいりょ》のつもりだった。
カメラの死角を縫うようにして、煙の立ち込める|玄関《げんかん》へ走り込む。|玄関《げんかん》脇の受付には人の姿はない。階段を|駆《か》け上がる。二階の|廊下《ろうか》に出る。無人の|廊下《ろうか》には満足な照明もなく、
非常口の緑色の表示や火災報知器の赤いランプの放つ光が、タイルの上に液体をこぼしたような不規則な反射を見せていた。
――あれだ!
|廊下《ろうか》を走る。火災報知器のところまで行き、丸い透明《とうめい》なカバーを破ってボタンを押す。
途端に、静まり返ったビル内にけたたましいベルが鳴り|響《ひび》いた。
さらに見回す。エレベーターには|普通《ふつう》に電気が来ているらしい。上昇《じょうしょう》ボタンを押し、脇の|壁《かべ》に張り付くようにして待つ。モーターがワイヤーを巻き取る音がし、停止する意外に大きな音の後、エレベーターのドアが開いた。
|壁《かべ》に背を押し付けるように立ち、片手で剣を突《つ》き出す。ゴンドラ内部からの反応はない。
残った発煙筒に点火し、無人の。コンドラの中へ投げ込み、「4」のボタンを押す。ドアが閉まり、ゴンドラは上昇を再開した。
まだ、誰かが階段を降りてくるような気配はない。
遼はザンヤルマの剣を垂直に立てた。この上、四階のどこかに万里絵がいる。頭の中がすうっと冷たく静かになっていくような感じがした。コンクリートと鉄とガラスで出来た建物の中に、健康そうな|鼓動《こどう》を思わせる、力強い何かが感じられる。そのそばに、固いしこりのような手応《てごた》えが三つ。その他、似ているもの、似ていないものも含めて感じるポイントは合計一一個あった。
――一一人……一人はマーちゃんで、もう一人は|氷澄《いずみ》さん……敵は九人……。
非常ベルが鳴っても反応に変化がないのが三つ――。最初から遼の動きを予想している|氷澄《いずみ》と、多分、自由に動ける|情況《じょうきょう》にはない万里絵と、そして、敵の一人。
今すぐにでも|駆《か》け上かっていきたい衝動《しょうどう》を遼は抑えた。自分の役割はあくまで陽動だ。
敵九人のうちの四人か動き出した。万里絵のいるところへ近づき、離れ、散る。そして、そのうちの二人の反応がゆっくりと大きくなってきた。
――近づいてくる……階段か……。
遼は剣を構え、階段を降りた。配電盤《はいでんばん》は地下にある。
非常ベルはまだ鳴りつづいている。
―――早い!
ビルの中で非常ベルが鳴りはじめた時、|氷澄《いずみ》は屋上の手摺《てす》りを乗り越えたところたった。
“守護神”を操《あやつ》り、重力を制御して、建物裏手の非常階段に身を|隠《かく》すようにしながら屋上
までたどり着いたのだ。
――ヤガミ、頭に血がとっているな。
とりあえず、グリーン・ヘルスの一団と万里絵が四階にいることはわかっている。守護神によるエネルギー・スキャンで各階の通路と部屋の位置と|情況《じょうきょう》を読み取る。
九人いる敵のうち、二人が下へ移動しはじめた。さらに二人が侵入に備えた位置につく。
一人が意味もなく動き回り、残る四人は動かない。
|氷澄《いずみ》はポケットからネクタイを出して、守護神でエネルギー・コーティングした。屋上の出入り口の|鍵穴《かぎあな》に突き入れる。錠前《じょうまえ》の合金は|瞬時《しゅんじ》に溶解《ようかい》した。
鉄扉《てつび》を蹴《け》り、|氷澄《いずみ》は建物内に侵入《しんにゅう》した。
単調に、あるいは|妙《みょう》な波を作って行なわれる|尋問《じんもん》が、万里絵の精神力を徐々《じょじょ》に消耗《しょうもう》させていった。
|紺《こん》のスーツを着た男の|尋問《じんもん》は巧妙《こうみょう》だった。|普通《ふつう》は二人で担当する責め役と宥《なだ》め役を一人でこなし、時には万里絵の体のツボに圧迫《あっぱく》を加え、悲鳴を上げさせることもした。その緩急自在《かんきゅうじざい》な手口が、寄せては引く波が海岸線を浸食《しんしょく》するように、万里絵の精神の防壁をじわじわと後退させつつあった。
脂汗《あぶらあせ》がねっとりと全身を包んでいるのを感じる。縄《なわ》の食い込んでいる手首から先がひんやりとしている。
――|冗談《じょうだん》じゃないわよ!
心の中で自分を叱《しか》りつける。
|眼鏡《めがね》をかけた気弱そうな顔、やや猫背《ねこぜ》の後ろ姿を思い浮かべる。
――遼は……遼は、何の見返りもなしに、人類の代表選手になることを自分から選んで、歯を食いしばってるんだからね!何もわかっていない連中に、|膝《ひざ》を折ったりするもんか。
まだ、ある。ふざけた超能力者“カオルクラ”に思い知らせてやらなければならない。
そのためには、何としてもここから脱出する。敵は、今、この部屋にいる三人と、白衣の男。そして、白衣の男を抑える役目の人間が一人はいるだろう。さらに、外部を監視する人間と|連絡《れんらく》係で、四人は欲しいところだ。
――九人か。一人で相手をするにはきつい人数ね。
何度も何度も、脱出の方法を考えることで、万里絵は何とか自分を支えようとした。
その時、非常ベルが鳴り|響《ひび》いた。
万里絵の顔を照らしつけるライトの背後の暗がりで、多少のざわめきがあった。
――吊されてなきや、チャンスだったのに……。
部屋の扉《とびら》が開き、声がした。耳を済ませるが、話の内容までは聞き取れない。万里絵は自分の精神力の疲弊《ひへい》を改めて感じた。
|紺《こん》のスーツの男が指示を出したのか、扉は再び閉ざされた。
「何が起こったと思うね、万里絵?」
|甲高《かんだか》い声がライトの向こうから問いかけてくる。笑いを含んだ声。万里絵を混乱させようと、故意に作った声なのはわかっていた。わかっていたが、釣《つ》り込まれそうになる。
――敵は最低でも九人……電気を切って陽動、分断……この男をどうするか、ね……。
ビルの最上階には、敵の姿は全くなかった。
|氷澄《いずみ》は守護神をコントロールして、|床《ゆか》の上数センチのところに浮かび上かりながら移動した。
滑るように階段を降り、敵の拠点となっている四階を臨む踊り場まで来て止まる。
様子を|窺《うかが》う|氷澄《いずみ》の視界の中で、エレベーターのドアが開き、中に立ち込めていた煙が|廊下《ろうか》に流れ出した。
だが、誰も乗らず、何の指示も出されなかったエレベーターは、ブザーを嗚らしでドアを閉めてしまった。
――考えが浅いんだよ、ヤガミ。
|氷澄《いずみ》が心の中で舌打ちした時、|廊下《ろうか》に並んだドアの一つが開いて、|眼鏡《めがね》をかけた白衣の男が顔を出した。男は、|廊下《ろうか》に流れている煙に気づくと、大声を上げながら部屋の中へ戻った。すぐに、もう一人の男を押し出すようにして|廊下《ろうか》に戻ってくる。新たに現れたスーツの男は、煙の出所かエレベーターだと気づいたらしく、懐《ふところ》から拳銃《けんじゅう》を抜くと、素早くドアの脇に回り込んだ。さらにもう一人が反対側につく。
――やむを得んか。ネクタイでうまくやれるか……。
|氷澄《いずみ》は守護神に手を伸ばし、ネクタイを|覆《おお》っているエネルギーを長い棒状に変化させた。
|氷澄《いずみ》の潜《ひそ》んでいる踊り場からエレベーターの前まで一〇メートル足らず。ネクタイの先から伸びた目に見えないエネルギーの棒は、長い槍《やり》となって男のほうへ伸びていく。
――まだだ、まだ遠い……。
男がエレベーターのボタンを押した。ドアが開き、またも煙が吐《は》き出される。同時に、白衣の男が再び部屋の中へ逃げ込んだ。
――今だ!
|氷澄《いずみ》は手首を捻《ひね》り、狙《ねら》いを定めた。守護神を操作していた右手を左手に添え、トンと突いた。エネルギーの切っ先は、ゴンドラ内に誰もいないことを確かめていた男の延髄から|喉《のど》を突き破った。声一つ立てることなく、男は死んだ。
男の体がゴンドラ内へ倒《たお》れ込み、自動的に閉まりかけたドアがぶっかっては開き、またブザーを鳴らしては閉まりかけ、開いた。
――一人目!
倒れた仲間に驚き、身を加わそうとした男の胸を、エネルギーの刃は刺し貫いた。
――二人目。残りは七人。一人は非戦闘員。二人はヤガミのほうへ行った。実質四人か。
エネルギーを通常の状態に戻すと、|氷澄《いずみ》は踊り場から出た。
遼は、配電盤《はいでんばん》を破壊《はかい》すると、地下駐車場の管理人室に|隠《かく》れ、ドアの|隙間《すきま》から息を殺して外の様子をうかがっていた。暗がりに馴染んだ遼の視界には、階段を降りてくる二人組の姿がしっかりと捕らえられていた。
遼が配電盤を壊《こわ》す前に、火災報知器のベルはやんでいる。あの二人か止めたのだろう。
――どうする?
改めてザンヤルマの剣を握り直す。今やそれは人捜《ひとさが》しの道具ではない。強大な力を秘め、敵対する相手には|破滅《はめつ》をもたらす凶器《きょうき》――。今、こちらに向かってこようとしているのは、何人もの人間を手にかけているかもしれない連中だ。だが――。
どう行動すればよいかを考える。
――|氷澄《いずみ》さんは行動に移ったのか?
遼が火災報知器を鳴らしてから、もうかなりの時間が経《た》っている。ビル内に侵入《しんにゅう》しているのは確実だろう。ならば、ここにいる二人を足止めするのが遼の役目のはずだ。
――できるのか……。
男たちは油断なく銃を構えている。
ザンヤルマの剣は、あの二人を殺してしまうかもしれない。だが――。
男たちは配電盤のほうへ歩き出そうとした。
遼はドアを蹴った。
二人が振り向く。ドアの陰《かげ》から飛び出してきたのが、剣を構えた少年であることへの驚愕が目のあたりに浮かんだのが遼にはわかった。
間髪《かんぱつ》を入れず、二人が発砲《はっぽう》する。
|眉間《みけん》の裏側にきな臭《くさ》い黄色い火花が散り、意識するより早く剣をふるっている。
銃声《じゅうせい》の残響《ざんきょう》の中に、澄んだ金属音が混じる。
遼がふるった剣は、飛来する弾丸《だんがん》を全てはじき飛ばしていた。
そのまま突っ込む。
すでに、やらなければならないことはわかっている。
ザンヤルマの剣は、敵を切り裂く武器であるのと同時に、平凡《へいぼん》な高校生である遼に戦い方を教えるアドバイザーでもあった。
「むんっ!」
剣の柄《つか》の|端《はし》を、男の一人のこめかみに|叩《たた》きつけるようにして|殴《なぐ》った。
咳き込むような声を発して、男が倒れる。
残りの一人が、|細身《ほそみ》のナイフを抜いた。
遼は、流れるような一続きの動作で向き直り、剣をふるった。
白い光を放つ切っ先が男の手からナイフを払った。
すかさず懐《ふところ》に飛び込む。
|鳩尾《みぞおち》に一撃。さらに、頭部にも|打撃《だげき》を加える。
男は壊れた人形のように|崩《くず》れた。
遼は剣を構えたまま退《しりぞ》いた。
普段《ふだん》の運動神経ゼロの遼からすれば信じられないような早業《はやわざ》の後だが、呼吸一つ乱れていない。ザンヤルマの剣は遼の能力を引き出し、最大限に高める。自分でも|恐《おそ》ろしくなるほどだ。
|床《ゆか》の上の二人は、死んだように動かない。二丁の銃《じゅう》とナイフに切っ先を突き込み、使い物にならなくする。
さっきの銃声は、四階まで聞こえただろうか。陽動のためには効果があったかもしれないが、これ以上の人数に対して、相手を殺さないような戦い方がどこまで通用するものか。
――それでも、やらなくちゃ……。
遼が階段を見つめた時だった。
――!
気配が、それもよく知っている気配がした。ザンヤルマの剣をそちらに向ける。
階段の手摺りの上にとまっているそれは、|蝶《ちょう》のように見えた。銀色の羽を持った、この世のものとは思えない|蝶《ちょう》に。
剣を構えて、|蝶《ちょう》と向き合う。
一昨日、学校帰りの遼を|深紅《しんく》の獣《けもの》が襲った時に眼前を横切った|蝶《ちょう》と同じ種類のものに見えた。正体不明の|蝶《ちょう》――いや、|蝶《ちょう》とは呼べまい。手摺りの上でゆっくりと羽を開閉しているそれは、どう見ても生物ではない。あの|深紅《しんく》の獣と|同類《どうるい》の、エネルギーの|塊《かたまり》とでもいったもの、常識を|超越《ちょうえつ》した何かだ。しかも、遼を傷つける意図を持っているかもしれない。
――超能力……。
遼の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。これも、超能力者と何か関係があるのだろうか。そして、万里絵を|誘拐《ゆうかい》したグリーン・ヘルスとの関係は。
遼は、銀色の|蝶《ちょう》をにらみつけた。剣を持つ手に力がこもる。
不意に、また、頭の中が涼《すず》しくなった。万里絵や敵の位置を探った時と同じ感覚だ。
――これは……。
イメージが流れ込んでくる。目や耳を通さずに、構えた剣から直接、遼の脳に伝わってくるようだ。|蝶《ちょう》から伝わってくるのは、遼の知っているイメージだった。
――秋月さん!
茶色がかった細い|髪《かみ》。切れ長の|瞳《ひとみ》。グレイの|詰《つ》め|襟《えり》。涼やかな声……そんな中性的な美少年のイメージがしっかりと捕らえられた。
「どういうことなんですか、秋月さん。あなたがこの銀色の|蝶《ちょう》を操《あやつ》っているのなら、どうして僕が|襲《おそ》われた現場にいたんですか。そして、どうしてここにいるんですか。彼女を|誘拐《ゆうかい》した一味と、いったいどんな関係があるんですか」|硬《かた》い声での遼の呼びかけに返事はなかった。
「秋月さん!」
『警告しておこう、矢神遼くん』
それは、確かに|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》の声のイメージを待っていた。だが、声ではなかった。
――テレパシーなのか。
『朝霞万里絵は君の考えているような少女ではない。彼女は危険だ。危険な超能力者だ』
突拍子《とっぴょうし》もない話に、遼の思考が一時空転した。
『警告しておく。彼女にだまされるな。充分に気をつけたまえ、矢神くん』
銀色の――秋月の制服のノーブル・グレイに似た色の|蝶《ちょう》はにじむようにして消えた。
「嘘《うそ》だろ……」
剣を持つ手が多少下がる。
確かに万里絵は少し変わった少女かもしれない。だが、彼女が超能力者などということがありえるだろうか。
しかし、これまで超能力者を対象に活動してきただろうグリーン・ヘルスが、どうして万里絵を|誘拐《ゆうかい》したのか、理由がわからないのも確かなのだ。もしも万里絵が超能力者ならば、まだ説明はつけやすい。
――関係ないよ。超能力者であろうがなかろうが、僕はマーちゃんを助けなくちゃいけないんだ。
遼は改めて剣を握った。
上の階からの第二波はまだ来ない。
「死んでる死んでる!」
悲鳴を上げて飛び込んできたのは、例の白衣の男だった。扉の向こうから煙が流れ込んでくる。低いブザーの音が断続的に鳴りつづけている。
――攻撃《こうげき》開始ね。
万里絵はあらゆる方向に注意を向けた。
|紺《こん》のスーツの男が白衣の男と話している。
「目的を果たしていないのに、撤収《てっしゅう》できるわけがないだろう!責任者はこの僕なんだよ! 勝手な行動は許さないよ!」
白衣の男が叫《さけ》んだ。|紺《こん》のスーツの男が小さな声で応している。
――|丈太郎《じょうたろう》が来たのは間違いないわね。こっちの位置がわかってるのかな……。
|氷澄《いずみ》のことだ。万里絵を救出することには、そんなに関心を払っていないかもしれない。
――それでも、これは脱出《だっしゅつ》のチャンスよ。
突然《とつぜん》、スタンドを残して部屋の電気が消える。ブザーもやんだ。
それからしばらくして、四度、続けざまに銃声がした。
「どういうことかね、里見くん! 発砲《はっぽう》は禁止されているはずだろう!保安の責任者は君だろう! どう責任をとるつもりなのかね!」
里見と呼ばれた|紺《こん》のスーツの男は、残った二人の男を呼び、指示をしたようだった。そのまま、白衣の男の背を押すようにして、部屋から出た。
グレイのスーツの男たちは、万里絵を移動させるように指示を受けたらしい。一人が万里絵を吊しているロープを緩《ゆる》めにかかり、もう一人は万里絵の体を押さえる側に回った。
手を握ったり開いたりしてみる。指先の感覚はなくなってはいない。
万里絵のほうに来たのは、最初にこの部屋で雑誌を読んで。いた男だった。グレイのスーツは安物なのに、かけているサングラスは、かなり値の張るクラスのポルシエたった。
「まったく、つまんねぇ仕事だぜ」
サングラスの男はこぼしながら万里絵の体に手を伸ばした。指先が蛇《へび》のように胸元を這《は》い回り、ブラウスのふくらみを|掴《つか》んで、撫でまわす。
|嫌悪《けんお》を感じながらも、万里絵は素早く計算していた。このサングラスの男を取っ掛かりにしよう。任務の遂行《すいこう》中に余計なことをする人間は、どこかに穴というか、間《ま》の抜《ぬ》けたところがあるものだから。
「おい、やめろよ」
男の手から逃《のが》れようと身をょじる万里絵の動きがロープを伝わったのだろう。もう一人の男がたしなめた。
「いいじゃねえかょ、これくらいのお楽しみはょ。どうせアメリカで誰彼《だれかれ》かまわずズコズコやってたに決まってるんだからよ」
サングラスの男が応《こた》える。
ロープは緩《ゆる》められ、万里絵の足は|床《ゆか》に着いた。
――来た!
万里絵はよろけたふりをして、前のめりに倒れかかった。
「おい」
さっきまで胸を触《さわ》っていたサングラスの男が、万里絵を引き起こそうとした。|警戒《けいかい》感はまるでなし。体の前面ががら明きになっている。
万里絵は渾身の力を込めて、男の股間《こかん》を蹴《け》り上げた。
「ふむんっ!」
口から内臓を吐《は》き出しそうな声を出しながら、男は|膝《ひざ》を突いた。
続いて、低くなった顔を蹴る。
「ぐやぁーっ!」
みっともない悲鳴を上げ、男は砕《くだ》けたサングラスの破片が刺さった顔を両手で|覆《おお》った。
「目が……目がぁっ!」
ロープを緩めていた男が飛びかかってくる。
万里絵は|一瞬《いっしゅん》早くスタンドに飛び付いた。重いが、せいぜい五キロ程度だ。振り回し、ライトの部分で、飛びかかってきた男の顔を|殴《なぐ》りつける。|恐《おそ》らく、何が起こったのかさえ正確に|把握《はあく》できなかっただろう。男は|床《ゆか》に倒れ、動かなくなった。
真っ暗になってしまった部屋の中で、呼吸を整えながら、手首に食い込んだロープをほどく。あの里見と呼ばれだ男が戻ってこないうちに脱出《だっしゅつ》だ。
「ぶっ殺してやる!」
最初に倒された男が銃を抜いた。コルト・ガバメント。標的《ひょうてき》どころか、室内の様子も見えないだろうに、男は引き金を引いた。室内に銃声が轟《とどろ》く。撃つたびに銃口が踊《おど》る。闇の中で、男の位置は丸見えだ。
|尋問《じんもん》の時に使っていた事務机の下に伏《ふ》せる。
弾倉《だんそう》が空になるが早いか、パイプ|椅子《いす》を|掴《つか》んで立ち上がり、男の側頭部を|殴《なぐ》る。男は吹っ飛び、勤かなくなった。その脇に、スライドの下がったガバメントが転がっている。――バカッタレ!
|床《ゆか》に横たわった二人を見下ろして、万里絵は唾《つば》を吐きかけたい気分だった。
だいたい万里絵は、アクション映画の軍人や警察官の描《えが》かれ方にいつも不満を感じるタイプなのだ。いくら主人公の引き立て役とはいえ、国家の安全や秩序《ちつじょ》を守るという最重要任務を負っているスタッフをあそこまで間抜けに猫く必要があるのだろうか。
だが現実は、映画製作者の認識以上に間抜けな連中に国家の安全を守らせているようだ。
いや、一人だけ、国家の安全を守るにふさわしい男がいた。
――あの里見という男、今の銃声《じゅうせい》を聞きっけているはずだわ。
万里絵は、もう一人の男の懐《ふところ》を探った。銃は持っていない。スタンガンと、|氷澄《いずみ》が使っているような特殊警棒が一本、どちらも、里見のような男を相手に女の子の腕で振り回すには不適当な武器だった。
――ないよりはマシか。
とにかくここを出て、|氷澄《いずみ》と合流することだ。
万里絵は簡単な武装《ぶそう》をすると、立ち上がった。
素人《しろうと》なのは敵だけではないことを思い出し、万里絵は心中ひそかにため息をついた。
銃声が続けざまにした。
遼は暗がりの中を弾かれたように走り出した。
剣から流入してくる情報のほうに自然と意識が向かう。一一の反応のうち、二つは二階で倒れている。そして、二つが消えていた。|恐《おそ》らく、|氷澄《いずみ》が相手の命を奪ったのたろう。
やむを得ないことなのだろうが、遼には|嫌悪《けんお》感が先に立った。
残る七つの反応のなかで、最も生命力を感じさせる反応は健在だ。そして、そばにあった二つの反応が弱まった。
――彼女、白由になったんだ!
直感的にそう思った。
階段を|駆《か》け上かる。
敵は拳銃《けんじゅう》を持っていた。いくら万里絵でも、素手《すで》では拳銃に立ち向かえないだろう。多少の心得はあったとしても、絶対に不利だ。
三階を通り過ぎ、四階に出た。
|眉間《みけん》の裏側にまた危険信号が光る。周囲が暗いため、まるで目の前で実際に黄色い火花が散ったようだった。
飛びすさる。
着弾《ちゃくだん》が二つ。タイミングが|一瞬《いっしゅん》でも遅れていたら、命中は避けられなかっただろう。
転げ落ちるように踊《おど》り場まで後退し、手摺りの陰に身を潜める。剣のセンサー機能に集中する。近くにいるはずだ。残った三人の敵の一人か。
「万里絵の従兄の矢神遼だね」
少し高いが、よく通る声がした。遼は身を固くする。
「暗いもんでね。お互い、ちょっとした勘違いをしているみたいだな」
――勘違いで殺されてたまるか!
声に気を取られたためか、相手の居場所を捕らえられない。遼の首筋を冷たい汗が伝っていく。
「君のことは万里絵から聞いたよ、遼。――そうだ、万里絵のことだな!」
唐突な呼びかけが、またも遼の集中を破る。呼びかけの後に続く意味ありげな含み笑いも、遼の神経を逆撫《さかな》でした。
「うんうん、万里絵はいい娘だよな」
ひそめた声なのに、まるで耳元でささやかれているみたいに、はっきり聞こえる。
「万里絵は非常に協力的だったよ。何もかも話してくれたよ。何もかもね」
――惑《まど》わされるな。相手は僕を混乱させようとしている。耳を貸しちゃ駄目《だめ》だ。
ザンヤルマの剣は遼の意志を汲み取り、的確なアドバイスを伝えてくる。だが、遼の精神が集中を欠いている時に、どこまで効果があるものか。
「心配しなくていい。命に別条はないよ。――他については保証できないがね」
粘液《ねんえき》にまみれた長い舌で背骨をなめられたような気がした。
思わず手摺りの陰から一歩踏み出している。
遼の|眉間《みけん》の裏側できな臭い火花が散るのと、足に細い何かが巻ぎつくのが同時だった。
強い力で紐《ひも》が引かれ、足を上に引っ張られる。
体勢を|崩《くず》した遼を狙って、銃が火を噴いた。
体の前でわずかに剣の角度をずらすことで、弾丸《だんがん》の直撃《ちょくげき》だけは免《まぬが》れた。
剣が銃弾を払い、二の腕から肩にかけて、|鈍《にぶ》いしびれが走る。
かまわず剣をふるい、足に巻きっいた紐のようなものを切る。
自由を取り戻すと、遼は再び手摺りの陰に逃げ込んだ。
そこに罠《わな》が待っていた。
闇に|紛《まぎ》れて待ち受けていたもう一本の紐が、魔法のように遼の首に絡《から》みっいた。ワイヤーなのか、合成|繊維《せんい》なのかはわからない――先に重りの付いた細紐は遼を手摺りの陰から引きずり出し、真上に引っ張り上げた。足が|床《ゆか》を離れ、遼の体はそのまま宙吊《ちゅうづ》りにされた。
故意か|偶然《ぐうぜん》か、巻き付いた紐を引かれた時に首が折れなかったのは幸いだった。だが、細紐は容赦なく首に食い込んでいる。
――紐を切らなくちゃ……。
剣は右手にある。だが、締め付けてくる紐を少しでも緩めようと、首の紐の間に指を入
れてしまったため、自由に使うことができない。
――あっ!
剣を持ち換えようとしたところが、指の間を柄《つか》が滑《すべ》り、そのまま落っこちてしまう。
――持て、待って!
かろうじて柄だけが運動靴のつま先で捕らえられた。だが、どうやっても剣を手に取り戻すのは不可能だった。
―――|慌《あわ》てるな……。ほどくんだ。なんとか紐をほどくんだ……。
少しでも力を抜けば、紐はどんどん首を締め、自分の体重も手伝って、|窒息《ちっそく》させようとする。懸命に紐を緩めようとするのだが、どこがどう絡まっているのかもわからず、びくともしなかった。宙吊りにされた体が、右に左に回る。
顔の|皮膚《ひふ》が膨《ふく》れ上がるような気がした。こめかみ、鎖骨《さこつ》の下、脇の下、全身のあちらこちらが脈打っているのが感じられる。立ちくらみにも似ているが、もっと熱っぼい感覚が頭の中いっぱいに広がり、意識が遠くなる。視界が闇よりも暗くなる。耳の奥で血液が無理やり血管の中を流れようとする音以外は何も聞こえなくなっていく。まわりの空気が黒い液体のように感じられる中で、遼は、剣が|床《ゆか》に落ちる音を聞いたような気がした。
―サ・ト・ミ・ゴ・ロ・ウ……里見、悟郎……。
それが、遼を宙吊りにしている男の名前……。四角い顔の真ん中に、賢い日本犬を思わせる潤んだような小さな目が光っているのがわかる。|紺《こん》のスーツをまとった肉体が、針金をより合わせたような筋肉に|覆《おお》われていることまでわかった。
遼の意識に、一つの光景が展開される。ベッドの上、毛布をかぶった深い皺を刻んだ老人の顔があった。里見はグローブのような手で老人の鼻と口を塞いだ。皺だらけの|皮膚《ひふ》の下で、弛んだ筋肉と細い骨が必死の|抵抗《ていこう》を試みる。鼻と口を|覆《おお》う手を、細い指が懸命《けんめい》に外そうとする。たが、呼吸を遮《さえぎ》る手は小揺るぎもせず、やがて、老人の体は力を失った。それでも里見は一五分ほどそのままの姿勢を保った。
別の光景。夜道を歩いている若い女性に背後から忍び寄る。一気に|距離《きょり》を詰め、片手で肩を|掴《つか》み、もう片方の手で口を塞ぐ。悲鳴を上げるひまも、|抵抗《ていこう》する余裕も与えない。頭を|揺《ゆ》するように、あるいは首をねじるように力を加える。頚骨《けいこつ》が折れ、女性は絶命した。
また別の光景。金色の|髪《かみ》をポニーテールにした七歳くらいの女の子だ。公園で遊んでいる。里見が声をかけ、植え込みのところまで来させた。顔を正面から|殴《なぐ》りつける。呆気ないくらい簡単に女の子は死んだ。
いくつもの殺人の光景が展開された。だが、そこには何の感情もなかった。サラリーマンが毎朝オフィスヘ向かうのと同じ程度の感慨《かんがい》しかない。何のこだわりも感じられない。
むしろ、一件一件の殺人をここまで鮮明に覚えているのが不思議なくらい、里見は事務的にことを行なっていた。
国民の安全を守るために、異分子を“隔離《かくり》”すること。それが、彼の所属する|潜在《せんざい》能力開発機関――株式会社グリーン・ヘルスを表看板とした|諜報《ちょうほう》機関の下部組織――の目的である。だが、その目的に対する誇《ほこ》りも|嫌悪《けんお》もなく、里見は殺人を行なっていた。職業的な殺人者として、おのれの職務を全《まっと》うすべく。
「うおおあーっ!」
自分の命を奪《うば》おうとしている敵の正体を知った時、遼は絶叫していた。
手の中には剣があった。熱い。
刃《やいば》が白い光を放つ。
首に巻きついていた紐が切れた。正確には弾け飛んだと言うべきだろう。紐は微細な繊維に分解され、宙に舞った。
足が|床《ゆか》に着くが早いか、遼は階段を|駆《か》け上がった。
危険信号の閃《ひらめ》きを意識する間もなく、剣が弾丸を弾いている。
きな臭さがなくなり、弾倉《だんそう》が空になったことがわかる。
四階の|廊下《ろうか》に出た。さっきまで誰かがいたとは思えない、全く気配のない|廊下《ろうか》。
電薗か切られ、闇に閉ざされた建物のどこかで、里見は息をひそめ、気配を殺し、次の行動に移るタイミングを測っているのだろう。
遼も同じだった。生きていることさえ疑わせるほどの静けさに包まれた遼も、完全に闇と同化している。
だが、最も危険な相手との対決の場にいながら、遼の心を占めているのは里見ではなかった。万里絵ですらなかった。
――僕は、何を、しているんだ……。
遼が剣を取り、闘《たたか》うことを決意したのは、イェマドの|遺産《いさん》によって心を暴走させる人を出さないためだった。少なくとも自分ではそのつもりだった。だが、今、自分は何をしているのだ?|諜報《ちょうほう》機関の工作員と命のやり取りをしている。それも、|遺産《いさん》とは全く関係なしに。なぜ、こんなことになったのだろう。
『認めるのが怖いだけで、自分でも薄々気づいてはいるのだろう、少年?|愚劣《ぐれつ》で、それに気づきもしない、いや、必死に目をふさいでいる、ちょうど今の君の姿にそっくりな人間の本性に――』
|遺産《いさん》をバラ撒き、人間の心の暗部を暴走させることを喜びとした男――黒いスーツの|遺産《いさん》管理人、|裏次郎《うらじろう》はそう言った。|潜在《せんざい》能力開発機関は、そして里見こそは、そうした人間の|愚劣《ぐれつ》さそのものではないのか。|裏次郎《うらじろう》の言葉を否定するためには、人間のこうした暗黒面とも闘わなければならないのか。だとしたら――。重い。遼にとって剣はあまりにも重すぎる。
ザンヤルマの剣が人間の反応を捕らえている。――近い。――場所はとこだ?
「武器を捨てろ。万里絵が死ぬぞ」
|一瞬《いっしゅん》、里見の言葉に気を取られる。
――上っ!
遼が突き上げる剣を避けようとしてか、里見は体勢を|崩《くず》したまま襲いかかってきた。
左肩に熱いものを感じる。
同時に、剣に|手応《てごた》えを覚えた。
だが、遼が剣を操る間もなく、里見の体は離れた。
生暖かいものが左腕を伝っていく。
里見もどこかに傷を負っているはずだが、その気配は感じられない。感じられるのは殺意だけだった。それも、研ぎ澄まされた刃物のような|鋭利《えいり》なものではなく、岩の|塊《かたまり》というか、大きな|壁《かべ》のような殺意。
――僕の武器は剣だから、里見は|距離《きょり》をとったまま攻撃してくるか、|懐《ふところ》に飛び込んでくるか、どちらかのはずた。
ようやく剣のセンサー機能によって闇の中を“見る”ことに慣れてきた。
里見は背後にいた。
遼が振り向くのと、里見が突っ込んでくるのが、ほぼ同時だった。
右腕が|掴《つか》まれ、捻られる。筋肉が骨から剥がれてしまうのではないかと思うような痛みとともに、剣が手から離れ、|床《ゆか》に落ちる。それを|丁寧《ていねい》に里見が後方へ蹴った。
身をよじる。さっき肩に感じたのと同様の熱い感覚が脇腹に湧き上がった。
熱さの中心がスッと冷たくなる。体に開いた穴から風が吹き込んだみたいだった。
里見が刃物を抜いたのだ。反射的に傷口を手でかばう。だが、溢れ出るものは指の間からこぼれ、脇腹から腰、腰か|太腿《ふともも》、そして|膝《ひざ》へ、生暖かい|感触《かんしょく》を広げていく。
――次は、どこだ……。
遼は武器を手にしていない。次は止めを刺しに来るのではないか。首か、胸か。
もう、気配を捕らえることさえできない。
第三撃が正面から来た。
遼は片手を突き出し、刃物――ごつい感じのナイフを握り、受け止めていた。何かが顔にぶつかりそうになった時に目をつぶるような、意識しない|行為《こうい》だった。
遼の手がナイフの刃を|掴《つか》めたのは単なる|偶然《ぐうぜん》だった。だが、ナイフの勢いによろけながらも刺されずに済んだのは、|偶然《ぐうぜん》ではなかった。遼のはめている黒い|手袋《てぶくろ》のためだった。
指紋を残さないために|氷澄《いずみ》から渡された|手袋《てぶくろ》だった。|氷澄《いずみ》以外の人間がはめているため、イェマドの|遺産《いさん》としての本来の機能は働いていない。だが、その材質は|鋼《はがね》の刃を受け付けなかった。そして、その表面は、全く滑ることなく|鋼《はがね》の刃を捕らえている。
ナイフの刃渡りは、遼の握った拳に余った。針金をより合わせたような里見の腕の筋肉が、ゆっくりと、しかし確実にナイフの切っ先を遼の体に送り込もうとしている。
――くっ……!
遼に追ってくる|圧倒《あっとう》的な|壁《かべ》のような殺意――。
次の|瞬間《しゅんかん》、里見の肩が|揺《ゆ》れた。
「ヤガミ!」
|氷澄《いずみ》の声がした。
|床《ゆか》の上を固いものが滑ってくる音がする。遼の足の間を抜けて、止まる。
――どうやって拾えって言うんだよ!
|鈍《にぶ》い|打撃《だげき》音がして、また里見の体が|揺《ゆ》らぐ。
「マリエ、退がれ!」
不意に、ナイフを押し付けていた力が消える。
遼はとっさにナイフを背後に捨て、|床《ゆか》の剣を|掴《つか》んだ。
再び闇の中が“見える”ようになる。
里見のグローブのような手が万里絵の首にかかっていた。
さっき脳裏に浮かんだ女性の|最期《さいご》が連想される。
遼は里見の腕に斬りつけていた。
万里絵の手の棒――三段式の特殊警棒《とくしゅけいぼう》が里見の顔を打つ。
手の中の獲物に逃げられ、|紺《こん》のスーツの巨体が遼のほうを向いた。左目が潰れている。
遼も剣を構える。
拳銃の弾倉《だんそう》は空になったはずだ。ナイフは取り上げた。利《き》き腕《うで》は切られて役に立たない。
だが、この男なら、まだ奥の手を|隠《かく》しているのではないか。
――殺すのか……。
遼が生まれて初めて目にした職業的な殺人者。万里絵を|誘拐《ゆうかい》し、拷間した男。遼を殺そうとした男。ひょっとしたら、何人もの超能力者を殺したかもしれない男。
――殺すのか……。
暗闇の中でザンヤルマの剣が青白い光を放っている。里見にとっては良い目標だろう。
――来る!
右足を引き、里見を正面から見据える。
だが、次の動作に移ることなく、里見は青白い炎《ほのお》に包まれた。鍛え上げられた筋肉が何をする間もなく焼け、灰になって|崩《くず》れた。
遼はゆっくりと構えを解いた。
「遼」
万里絵が|駆《か》け寄ってきた。多少やつれたように見えるが、猫を思わせる大きなキラキラした目は健在だった。
だが、遼の心に、万里絵を救出したという喜びは湧いてこなかった。まだ、脱出していないということもあるが、それだけではなかった。ここ数日の|慌《あわ》だたしい出来事の|推移《すいい》が一つにまとまらない。確かに、万里絵を|拉致《らち》した連中を倒すことはできたが、それで何が解決したのか、そして、これから何が起こるのか、全くといっていいほどわからない。そして、人間を発火|炎上《えんじょう》させる敵の存在――。
不意に金切り声が|響《ひび》いた。|氷澄《いずみ》がドアの一つを開き、中から白衣を着た男を引きずり出していた。
「洗いざらいしゃべってもらう」
|氷澄《いずみ》が男の|喉《のど》元にエネルギー・コーティングしたネクタイの先を突き付けながら言った。
「|無駄《むだ》なことだ。私は科学者だ。科学は、暴力には屈しないぞ。絶対に屈しない!」
舌をもつれさせながら白衣の男は言った。懸命《けんめい》に威厳《いげん》を保とうとしているようだが、|氷澄《いずみ》の青みがかった|瞳《ひとみ》の凝視《ぎょうし》には通用しなかった。
「科学は屈しないだろうな。だが、科学者は暴力に屈する。おまえは、そのなかでも簡単に屈するほうだ」
|氷澄《いずみ》は開け放したドアの中に、男を突き飛ばした。続いて部屋に入ると、|氷澄《いずみ》は後ろ手にドアを閉めた。しばしの間をおいて、ドアの向こうから悲鳴が聞こえた。
遼は、胸元に苦い不快感が込み上げてくるのを感じた。いかなる立場の違いがあっても、やることは同じ。苦痛を与えて、自分の欲するように相手をねじ伏せることだけか。
|膝《ひざ》から力が抜ける。万里絵がとっさに支え、ゆっくりと座らせた。肩と脇腹の傷は、ふさがってはいなかった。ザンヤルマの剣の“守護神”としての機能をもってしても、また完全に回復させられないということは、傷はよほど深かったに違いない。プロのやったことだ。即死はしないまでも、失血死は免れないような刺し方をしたのだろう。
「|大丈夫《だいじょうぶ》?苦しくない?」
暗闇《くらやみ》の中、近く寄って、ようやく遼の傷の深さに気づいたのか、万里絵の声も緊迫していた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》……」
口の中が粘りつくような感じだ。冷たい水が|一杯《いっぱい》飲みたかった。
「それより……|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「あたしは平気……ありがとう」
万里絵の声を闇いているうちに、|疲《つか》れがどっと押し寄せてきた。眠りたい。何も考えずに、ただ眠りたかった。考えてみれば、テレビでミスター・アカシャが焼死する映像を見、さらに悪夢にうなされて以来、遼には安らかに眠れる夜はなかったような気がする。
――でも、まだ終わっていない。終わるまでは眠れない……。
「脱出《だっしゅつ》だ」
ドアが開き、|氷澄《いずみ》が出てきた。
遼は、剣を杖のようにしながら立ち上がった。万里絵が脇から支える。
そんな二人におかまいなく、|氷澄《いずみ》は階段を上がり、屋上に出た。
見下ろすと、|玄関《げんかん》前には人だかりが出来、警官らしい姿も見られた。
「飛ぶぞ」
|氷澄《いずみ》は遼と万里絵を体にしがみつかせると、|懐中《かいちゅう》時計を操作した。
三人の体は重力を無視して浮き上がり、離れた一角にあるビルの非常階段に降り立った。
人がいないのを確認して、階段を降りる。|氷澄《いずみ》が車を停めた場所のすぐ近くだった。
白い乗用車に乗り込む。
万里絵は遼に楽な姿勢をとらせ、傷を調べた。
「すごい回復力……。これなら心配ないと思う」
三人が、それでも多少の|緊張《きんちょう》を解いた時だった。
近くで爆発音《ばくはつおん》がした。
「この方角は――」
「あのビルのあるほうよ」
|氷澄《いずみ》は車を出した。だが、現場の間近にまでは接近しなかった。いかにもやじ馬らしく、|炎上《えんじょう》しているビルの確認だけすると、すぐにその場を離れた。
「ガス爆発だな、証拠|隠滅《いんめつ》のための」
ルーム・ミラーの中の|氷澄《いずみ》の|瞳《ひとみ》が遼を見る。
「僕じゃありません」
「――カオルクラって奴だと思う、多分」
「カオルクラ?」
「昨日の朝、あたしに接触《せっしょく》してきたのよ。あれ、テレパシーだと思うけど。予想もしない|災厄《さいやく》に|見舞《みま》われるから、その時は助けを求めろって。あたしを超能力者だと思い込んでるみたいだったわ。そいつが自分で名乗ったの。カオルクラって」
「奴ら――|潜在《せんざい》能力開発機関の連中は、マリエを|拉致《らち》して、何を知るうとしたんだ?」
「あたしが超能力者だってことを認めさせようとしていたみたい。――ちょっと飛躍《ひやく》した想像だけど、カオルクラが連中を操っていたってことは考えられない?」
「何故?」
「だって、あたしが超能力者だっていうとんでもない発想を、専門の機関のスタッフが、何の根拠もなしに持つわけないでしょ?」
「機関の連中の思い込みをカオルクラが知って先回りしたってことは考えられないか」
「だって、あたしが超能力者であるって判断する材料かそもそも何もないでしょ。専門機関が根拠もなしに人をひとり|拉致《らち》するような強硬《きょうこう》手段に出るかしら?」
「根拠がないというなら、そのカオルクラって奴がマリエを超能力者と信じているのも同様だろ」
「彼はシロウトで個人、|潜在《せんざい》能力開発機関は専門家の組織。誤認する可能性は、どちらが高いか、考えるまでもないんじゃない? それに、人間|炎上《えんじょう》もカオルクラの仕業かも」
「カオルクラ……イェマドの女の名前だ」
|氷澄《いずみ》の言葉に万里絵が|眉《まゆ》をひそめる。
「まあ、こいつが手掛かりになるかもしれんな」
|氷澄《いずみ》は何枚かのフロッピー・ディスクを見せた。
「あの学者先生から貰ってきたわけ?」
「ああ」
遼は、痛む脇腹と肩を押さえながら、聞くともなしに万里絵と|氷澄《いずみ》の会話を聞いていた。
一つだけ思い出したことがある。万里絵を超能力者と断じた人間がもう、一人いることを。
――|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》……。
『間98自分は選ぱれた人聞だと思いますか?』
イエス。「1」のキーを押す。熱烈《ねつれつ》な気持ちで押す。
『間99視界の|隅《すみ》で、小さな黒い虫がうごめいていることがありますか?』
「1」のキーだ。
『間100誰かが電波で自分に命令していると感じることがありますか?』
「1」だ。
端末機《たんまつき》のディスプレイの画面がしばらく灰色に変わる。
「これでよろしいでしょうか、秋月さま?」
ピンストライブのスーツをかっちりと着こなした男――雨宮が空中に向かって問いかけた。もう明け方近い。部屋の中には雨宮ひとりだけだ。
『いいぞ、雨宮』
満足そうな返事が、雨宮だけに聞こえた。雨宮の額にとまった銀色の|蝶《ちょう》が、ゆっくりと羽を開閉している。
ディスブレイの画面に表示が出た。
『|若干《じゃっかん》の|疲労《ひろう》(Aクラス)が認められます。二四時間以内に医療部に出頭、検査を受けてください』
雨宮の長年の疑問が解けた。責任者である自分に「異常」の判定が出た場合は、医療部に出頭を命じられるのだ。
非常事態用のマニュアルに従い、株式会社グリーン・ヘルス、すなわち|潜在《せんざい》能力開発機関のコンピュータのデータを処分する。わずかな書類には酸をかけて焼却《しょうきゃく》した。これで、機関の存在の|痕跡《こんせき》すら残らないだろう。残っているのは、責任者である雨宮だけだ。
『いろいろやってもらったが、最後の最後で、とんだドジを踏んだもんだな』
「申し訳ございません、秋月さま」
雨宮は空中に向かって頭を下げた。
『役立たず!能無し! 間抜け!』
「おっしゃるとおりです」
投げっけられる面罵に、雨宮はうなだれながら耐えた。
『――まあいいや。ところで雨宮、高校時代は体操の選手たったんだよな?』
「はい。大学時代は、オリンピック候補だったこともあります」
『よし、その腕前《うでまえ》を見せてもらおうか』
「はい、喜んで、秋月さま」
誇らしさに|輝《かがや》くような表情を浮かべ、雨宮は立ち上がると、部屋を出た。弾むような足取りで階段を上がり、屋上に出る。
『さあ、見せてくれ』
銀色の|蝶《ちょう》は雨宮の額を離れ、屋上を囲む手摺りの|端《はし》にとまった。
雨宮は腕時計を外し、貴重品をひとまとめにすると、|上着《うわぎ》のポケットに突っ込んだ。さらに、ネクタイを|端《はし》から丸め、反対側のポケットに入れた。脱いだ|上着《うわぎ》は、出入り口のドア・ノブに掛ける。
軽く|膝《ひざ》の屈伸運動などをして、手摺りを正面から見る。
そこで、はたと気づいてプラチナの指輪を外し、|上着《うわぎ》のポケットの貴重品のなかに加えた。この指輪に万一のことがあったら大変だ。
改めて手摺りに向き直り、二、三歩|後退《こうたい》してから、最初はゆっくりと、しだいに勢いをつけて走った。
踏み切る。
前方に伸ばした手か手摺りを捕らえ、体重を受け止めると、再び空中へと舞い上からせる。
勢いづいた体が、前方宙返りをしながら、同時に縦方向へ捻りも行なっている。
――やった!
ブランクを感じさせない、見事な前方宙返り二回捻りだった。
雨宮は胸を反らし、両手をV字型に広げて着地しようとした。
着地は、雨宮が思っていたより遅かった。きれいな着地ポーズをとったままの六八キロの肉体かビルの屋上から地上に落下するまでのわずかな時間のずれに過ぎなかったが。
コンクリートの路面に|叩《たた》きつけられても、雨宮は会心の笑みを浮かべていた。
『よくやったぞ、雨宮』
|潜在《せんざい》能力開発機関総責任者、いや、株式会社グリーン・ヘルス東京支店長、雨宮の死を見届けると、銀色の|蝶《ちょう》は宙に舞い上がり、しばらくあたりを飛んでいたが、夜明け前の空気に溶け込むようにして消えた。
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第三章 一度は友だった君へ
彼は、小学校の校庭のブランコにぼんやりと腰を下ろしていた。
「どうした、何か厭《いや》なことでもあったのか」
声のしたほうを見る。黒いスーツを着てステッキを持った、中年の男が立っていた。
男の顔が笑みを浮かべた。決して|整《ととの》った顔立ちではない。ごつくて、鑿《のみ》だけで彫った木の人形を思わせる顔だ。どこか日本人離れした感じもする。その顔が笑った。|妙《みょう》に|魅力《みりょく》的な笑顔だった。
「――君が、さっきからずっと地面を見つめたまま、動こうともしないんでね。ちょっと気になって、声をかけてみたというわけさ」
言いながら、男は彼の正面にまわり、柵の横本に腰を乗せた。
「何か厭なことでもあったのか、少年?」
「高校の推薦《すいせん》入学が決まったんだよ」
「ほう、そりゃおめでとう」
「そっ、おめでたいのさ」
彼は、男との会話を断ち切るように、ブランコをこぎはじめた。
「あんまり行きたくない高校なのかね?」
「最近じゃ、文武《ぶんぶ》両道の新鋭《しんえい》校って、県内じゃ有名だよ」「でも、行きたくない?」
「仕方ないだろ、そう決まっちゃったんだから」
ブランコの|揺《ゆ》れが大きくなり、黒いスーツの男は少し脇に体をずらした。
「俺の才能じゃ、そうするしかないのさ!」
ブランコがいちばん大きく振れた|瞬間《しゅんかん》、彼は|跳《と》んだ。固い地面の上にふわりと着地し、それから男のほうを振り返った。
「そうするしかない、か。――それなら、本当のところ、君は何をしたいんだ?」
「関係ないだろ」
「聞かせてくれないかな。私に話したからといって、君の損にはならないと思うがね」
「得にもならないだろ」
「さあ、どうかな」
男は芝居《しばい》がかったポーズで肩をすくめ、首を傾げてみせた。
「――アフリカ、行きたいんだよ」
顔をそむけ、つま先で地面を蹴りながら彼は言った。
「アフリカ?」
「アフリカで動物の相手するような仕事をしたいんだ」
「すればいいじゃないか」
「言っただろ、俺の才能じゃ無理なんだって!」
何も知らずに無神経な言葉を吐く中年男に、彼は半ば本気で腹を立てた。
「才能か。――確かに才能とは残酷《ざんこく》なものだ。その人間の人生を方向づけ、進路を強制する。――だが、君の中に、まだ手つかずの才能が埋もれている可能性だってないわけではあるまい?」
「あるもんか、そんなの」
ふて腐れた口調で彼が言うと、男は微苦笑を浮かべた。
「例えば、幾何学《きかがく》に関して、天与の才能に恵まれた人間がいたとしようか。だが、彼が生
まれたのが戦国時代の農村だったとしたらどうかね。いや、現代だっていい。氷上でアザラシを追うような生活をしているとしたら、彼の才能は埋もれたまま終わるだろう? 才能は、誰かが発見し、それを開発してやらなければいけない」
「何だよ、あんた、『キミもライバルに差をつけよう』とか言って、ヘンな教材でも売り付けようっていうの?」
男はスーツの|懐《ふところ》をまさぐり、一個の球を取り出した。ちょうど硬式《こうしき》野球のボールくらいの大きさの|鈍《にぶ》い銀色の球だ。表面には込み入った模様《もよう》が浮かんでいる。何か複雑な機械を圧縮して球形にしたような印象だ。
「君に進呈《しんてい》しよう」
「要らない。俺、金もってないからね」
「無料だ。タダであげるよ。私が持っていても仕方がない物だ。君にしか扱えない品物だ。君には受け取る権利がある。遠い遠いご先祖様の|遺産《いさん》だ。君は正当な相続人なのだ」
男の語りかける声に引き込まれるように、彼は手を伸ばした。|恐《おそ》る|恐《おそ》る球を|掴《つか》む。重い|手応《てごた》え。金属らしい表面は、しかし冷たさを感じさせなかった。
目の前まで持ってくる。
「――どうやって使うのさ、これ……」
言い終わらないうちに、変化が起きた。
|硬《かた》い金属製と思えた球が、水銀の|雫《しずく》のように硬さを失い、砂地に染み込む水そのままに、彼の手のひらに吸収されてしまった。思わず悲鳴を上げる。
『落ち着いてください』
頭の中で声が|響《ひび》く。異様だ。自分の頭の中で、他人の声がしゃべっている。
『私は一種の人工知能です。“カオルクラ”と呼んでください。前の所有者は、そう呼んでいましたから』
目の前の風景が、ドアを開放された映画館のスクリーンのように光の中にかすむ。
「ご先祖様の|遺産《いさん》、確かに渡したぞ。せいぜい有効に使って、君の夢を実現することだ」
頭を抱えてうずくまる彼におかまいなしに、男はステッキを突きながら歩ぎ出した。
「ちょっと待て――おい!」
「いつかまた会うこともあるさ。ひょっとしたら、アフリカのサバンナでの再会になるかもしれないな」
足を止めず遠ざかってゆく男の背中から、低い声だけがはっきりと聞こえてきた。
「――一応、名乗っておこう。私は|裏次郎《うらじろう》。|遺産《いさん》管理人だ」
「|裏次郎《うらじろう》……?」
彼が顔を上げた時、ブランコのそばには、いや、校庭のどこにも、黒いスーツの男の姿は見えなかった――。
――夢か……。
彼は、ベッドの上に身を起こした。
――あれが全ての始まりだった……。
それにしても、何と鮮明《せんめい》な夢だっだことだろう。右手に、不意に硬さを失って|皮膚《ひふ》から吸収された|銀の球《カオルクラ》の|感触《かんしょく》が残っているような気さえする。
――それにしても、なんで今頃、こんな夢を見だんだ? 二年近く前のことだぞ。
彼には過去認知の能力はない。だいたい過去認知というのは、場所や品物などの手掛かりから、そこで何があったか、品物の持ち主かどんな目にあったかを知る能力だ。どんなに鮮明だといっても、今のは夢に過ぎない。
――まさか、カオルクラが見せた夢というわけじゃないよな。
彼は銀色の球を取り出して、しばらく手の上でもてあそんだ。
ここ数日、ハードな日が続いている。知らず知らず|疲《つか》れが溜まっているのかもしれない。
――もう一息だ。
彼はシャワーを浴びに浴室へ行った。今日もまたいつものように、早朝から分刻《ふんきざみ》みで決められたスケジュールをこなさなければならない。彼を持っている人が大勢いるのだから。
ガス爆発《ばくはつ》の現場を離れ、しばらく走った後、|氷澄《いずみ》は車を細い脇道へ入れて、停めた。
「移動する」
遼たちが言われた意味を理解しかねている間に、|氷澄《いずみ》が何かの操作をしたのだろう、車の窓の外の風景が、故障したテレビの映像のように歪み、変色した。
次の|瞬間《しゅんかん》には、車は薄暗《うすぐら》く狭《せま》いコンクリートの部屋の中にあった。
「|瞬間《しゅんかん》移動……」
イェマドの技術を使った|瞬間《しゅんかん》移動自体は、前にも経験したことがある。四人の人間が|一瞬《いっしゅん》のうちにかなりの|距離《きょり》を移動していた。だが、車ごと移動できるとは思わなかった。
「ここは?」
「私の家のガレージだ」
|氷澄《いずみ》はエンジンを停め、車から降りた。万里絵の肩に支えられながら、遼も後に続く。
|氷澄《いずみ》の家は、外にまわらなくても出入りできるように、ガレージと住居が直接つながっていた。
遼と万里絵を応接室に通すと、|氷澄《いずみ》は階段を上かっていった。きっと二階に自室があるのだろう。
遼をソファーに座らせると、万里絵は脇腹の傷を確かめた。
「完全にふさがってるわ。内臓も|大丈夫《だいじょうぶ》だと思う」
そう言って、ソファーの背もたれに寄りかかるように身を投げ出した。遼自身よりも、むしろ万里絵のほうが安心したようだ。
しばらく二人とも|黙《だま》っていたが、やがて万里絵がクスクスと笑い出した。
「何か、変よね。|丈太郎《じょうたろう》が、キッチンもトイレもバスもある|普通《ふつう》の家に住んでるなんて」
遼は室内を見回した。応接セットにサイドボード。|天井《てんじょう》からはシャンデリア。|壁《かべ》には風景画の額縁《がくぶち》。インテリア雑誌のグラビアそのままといった感じの部屋だ。おかしなところはない。だが、人の住んでいる|痕跡《こんせき》のようなものが感じられない。たとえ普段は使わない客間でも、住人の肌触り、|匂《にお》いといったものが残るものだ。だが、この部屋は、それこそイェマドの超技術でグラビア写真を立体化したかのような、「豪華《ごうか》な殺風景」とでもいった印象だ。ただ、サイドボードの上の置き時計が立てる多少大ぎめの規則正しい音だけが、わずかに家の主の性格にふさわしいもののように思えた。
ひとわたり室内を見回した遼が視線を戻すと、万里絵がすぐ|隣《となり》にいた。下校|途中《とちゅう》に|拉致《らち》されたため、着ているのは夏用の白い半袖《はんそで》のブラウスだった。辛い時間をくぐり抜けた名残か、全体が汗を吸ってくたびれた感じになっている。手首に縄《なわ》の跡《あと》が残っているのが痛痛しい。だが、万里絵自身は、ひとまず安全な場所に逃げ込めた安心感からか、ビルの中で見た時よりも精気を取り戻しているようだった。
「新聞のメッセージ、気がついてくれた?」
遼は|黙《だま》ってうなずく。
「あの時は、部屋に|盗聴器《とうちょうき》が仕掛けられてたの。ごめんね」
「いいよ、気にしてない」
「できれば、シャワー浴びて、|着替《きが》えたいよね」
確かに。全身が血と汗にまみれ、気持ちが悪い。特に脇腹から下はおびだだしい量の出血のため、まだべとべとしている。
「|丈太郎《じょうたろう》が作業している間、シャワーを使わせてもら見ないかどうか尋いてくるわ」
そう言って立ち上がった万里絵だが、遼を見て、立ち止まった。
「――遼、剣だけでも畳んだら?」
言われて遼は右手を見る。ザンヤルマの剣は直刀の姿のまま、シャンデリアの光を反射している。
「いや――」
乾いた何の間から遼が返事をし、万里絵が物問いたげに遼を見た時、|氷澄《いずみ》が降りてきた。
「面白いデータが出てきたぞ」
|氷澄《いずみ》の自室こそ、正真|正銘《しょうめい》の殺風景だった。壁際《かべぎわ》に置かれたスチール製の事務机、その脇にパソコンデスクがあり、コンピュータが置かれている以外は、家具らしいものもない。
実験室というか、作業場といった印象の部屋だった。ただ、コンピュータに関しては周辺機器も多数あり、それなりに使い込んでいるようだった。応接室よりも、むしろ、|氷澄《いずみ》という人間がよく表れている部屋と言えるかもしれない。
「イェマドのコンピュータってわけじゃないのね」
パソコンデスクに歩み寄った万里絵が|冗談《じょうだん》ぽく言った。
「イェマドのコンピュータだ」
|氷澄《いずみ》は本体脇に置かれている小さな箱に触れた。バード・ディズクのようにも見えるユニットの|蓋《ふた》が開く。中は虹色に光る液体で満たされ、さっき車内で|氷澄《いずみ》が見せたディズクが浮いていた。
「今のコンピュータのどの機種にもソフトに対応できる、一種の翻訳《ほんやく》機能を高めた人工知能とでも言えるかな」
万里絵はディスクの浮いているユニットとキーボード、ディスプレイを見較べた。
「見てもわからんよ」
万里絵を押し退けるようにしてコンピュータに向かうと、|氷澄《いずみ》はユニットの|蓋《ふた》を閉め、キーを操作し、画面に情報を呼び出した。
「引き出せる限りの情報を詰め込んできたんでな、多少混乱している。これは――|潜在《せんざい》能力開発機関の概略《がいりゃく》だな」
|氷澄《いずみ》は別のリストを呼び出した。
「どういうことなの、ちゃんと説明してよ」
キーを|叩《たた》きながら、いかにも面倒そうに|氷澄《いずみ》は説明した。|潜在《せんざい》能力開発機関が、総合健康サービス会社グリーン・ヘルスを表看板にした、|諜報《ちょうほう》機関の下部組織であること。国家と国民の安全のため、いわゆる超能力者を見つけ出し、観察、保護、隔離するのを任務としていること。本部は都内にあるグリーン・ヘルス東京支社に置かれ、雨宮清行《あまみやきよゆき》という男が総責任者を務めていること。
「そんな組織が本当にあったんだ?」
「実績も上げている」
画面は、履歴書《りれきしょ》を思わせるものになった。左上に通し番号がふられ、顔写真、名前、現住所、家族、係累《けいるい》、履歴などの|詳細《しょうさい》なデータ、そして、数字がびっしりと書き込まれた欄が続く。
「これが、|潜在《せんざい》能力開発機関が発見した超能力者のリストだ」
何人かのデータが現れては消えた。
「ちょっと待って」
遼は思わず声を出していた。
「戻してください、今の小さな女の子の画面に」
|氷澄《いずみ》の操作で、画面は三つ四つ前のデータに戻った。金髪《きんぱつ》をポニーテールにした七歳くらいの女の子の写真が添付されたデータだった。ペトロワ、アンナと読めた。
「どうしたの、遼」
画面を見つめたまま|黙《だま》っている遼に、万里絵が尋いた。
「アンナ・ペトロワ。双子の一人。能力はテレパシー。双子のもう一人、リリアナとの間のみに働くテレパシーを使用し、|諜報《ちょうほう》活動を行なう、か」
「|諜報《ちょうほう》活動ってこんな小さな子が?」
|氷澄《いずみ》が読みあげたデータの内容に、万里絵が疑問を挟む。
「もちろん、活動の主体は別にある。得られた情報を安全に本国に伝えるのが、この娘の役目だ。アンナは日本、リリアナは本国、テレパシーを使った安全確実なホットラインだな。|恐《おそ》らく、見たまま、開いたままを伝え、再現する訓練は積んだんだろうがな」
「――殺されたんだ、あの里見って男に」
「遼……」
遼の言葉に、|氷澄《いずみ》が画面を操作する。
「通達〇一〇六二五号に基づき処分――五年前のことだな。担当、里見|悟郎《ごろう》――。几帳面な|諜報《ちょうほう》機関もあったものだ。こんなことまで記録に残しておくとはな。一人殺すごとにボーナスでも出たのかもしれんな」
遼の挙が震えた。里見に殺されかかった時に見えた殺人の光景が生々しく思い出される。
「生かしておけば、それなりに利用の方法もあっただろうにな。娘を手掛かりに|諜報《ちょうほう》網を潰すとか、偽情報を流して敵を混乱させるとか、な。結局、敵国人よりも超能力者のほうが異分子ってことか」
「それで、面白いデータってのは、何?」
|氷澄《いずみ》の講評を断ち切るように、万里絵が尋いた。
「几帳面な記録のおかげで、彼等が手掛けた殺人と、それ以外の死を区別することができる。彼等の業務ではない死のうち、明らかな事故、病死、あるいは他国の機関による殺人も記録はされている。これも除外する。つまり、真相の解明されていない死だけを抜き出し、そして、それを時系列で並べると、こうなる」
講義口調で言いながら、|氷澄《いずみ》は再びキーを操作した。
「――とりあえず、この五年分だ」
切り替わった面面にはグラフが表示されていた。一年を三か月ごとに区切った合計二〇の升目のところどころに点が打たれている。
「点一つが、一人の死亡を示す。はっきりと増えているとわかるのは、去年の末からだ」
数字や統計データといったものに弱い遼にも、それくらいはわかった。それまでは、まばらに散っていた光る点が、去年の最後の三か月には、それとわかるほど増えている。今年になってからは、頻繁《ひんぱん》というより、満遍《まんべん》なくといった表現のほうが近いかもしれない。
「件数の|推移《すいい》をグラフにして重ねてみる」
グラフに折れ線が重なった。月ごとに集計してある。やはり、昨年の一〇月から桁《けた》が一つ違っている。今年に入ってからは、多少の上下動はあるものの、安定しているようだった。ただ、六月はやや増えた印象で、今月は、まだ終わっていないが、すでに六月と同数に達している。
「去年の秋に何かが起こったってことよね」
考え込む様子で万里絵が言った。
「これだけなら、さして面白いデータというわけでもない。だが、この真相不明の死を遂げた人間のデータに共通性が見られるとしたら――。そこの|壁《かべ》を見ていろ」
|氷澄《いずみ》がせわしなくキーボードを操作する。
「昨年一〇月二二日に|不審《ふしん》な自殺を遂げた橋詰恵利香《はしづめえりか》だ」
|氷澄《いずみ》が示した|壁《かべ》に不意に新しいデータが一人分示された。どこかから投射されている映像ではない。この部屋は、|壁《かべ》もディスプレイとして使用可能になっているのか。
遼と万里絵は、白い|壁《かべ》に表れたデータを読んだ。橋詰恵利香。一七歳の高校生。住んでいたのは|隣《となり》の県だっだ。
「下の数字が並んでいる欄、それが計測された各種能力の数値だ」
テレパシー発、テレパシー受、テレキネシスなどの項目の下に数字が書き込まれている。
「へえ、テレパシーに発信と受信の区別があったんだ」
橋詰恵利香の場合は、テレパシーの数字が発信、受信ともに大きかった。三・八、四・二となっている。他の欄は一未満の数字ばかりだ。
一一月七日に死んだ久米義久《くめよしひさ》。この男もテレパシーだ」
橋詰恵利香の|隣《となり》に、自動車のセールスマンのデータが並ぶテレレパシー発の数値が四・四。もしかしたら、日常の仕事に応用していたのだろうか。
「左上の通し番号を見てみろ」
六桁の数字の右にアルファベットのAが付いている。
「A?」
「全員に付いているわけではない」
|氷澄《いずみ》は三人ぱかりのデータを|壁《かべ》に映し出した。どれも通し番号は数字のみで、アルファベットや記号は付いていない。
「三人とも、能力の数値にたいしたものはない」
各欄に記入されている数字は一前後、二に満たないものがほとんどだった。
「つまりこのAマークは、かなりのレベルの超能力を持っている人間の印ってわけね?」
「|恐《おそ》らくな。そして、去年の一〇月以降の真相不明の死者の八割以上かAマーク付きだ」
Aマークの付いていない三人のデータが消え、代わりに新たなAマーク付きの超能力者のデータが現れた。四方の|壁《かべ》が、そして、|天井《てんじょう》も|床《ゆか》も、Aマーク付きの超能力者のデータで埋め尽くされた。男もいる。女もいる。年齢層もバラバラだ。さらに、テレパシー、テレキネシス、予知……。能力の種類もさまざまに異なるが、どこが突出した数値と、左上のAマーク。そして、ここに表示されている誰もがすでにこの世にいない。
「前にマリエが言ったことがヒントになって、超能力者と呼ばれる人間の変死を探ってみたが、そのほとんどが、このAマーク付きの連中だ。超能力と変死という二つの方向から調べていったわけだが、変死の線にしか現れなかった人間、つまり周囲からは超能力者などと認識されていなかった人間のうちの何人かは、機関のリストにもあがっていた」
「つまり、かなり高い能力を待っていた人間であることを知っていたのは、本人を除けば、この|潜在《せんざい》能力開発機関だけだったってことね?」
「これらの死が何者かの意図によるものだとしたら、その何者かは、このデータに基づいて行動した可能性が高い。言い換えれば、このデータを入手できる立場にあったということになる。もっとも、その何者かが非常に高いレベルの能力を持っていて、高レベルの超能力者を見つけ出すことが可能だったのだという考え方もできないわけではないがな」
万里絵と|氷澄《いずみ》のやり取りを聞きながら、遼は|壁《かべ》のデータを一つ一つ見ていった。ある人物のデータを求めて。
――あ……秋……秋山か……秋月……秋月……。
だが、求める人物の名前は見当たらない。|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》。彼の名前も写真も見当たらない。
彼は、|潜在《せんざい》能力開発機関がAマークを付けない程度の能力しか持っていないのだろうか。
あるいは、機関には発見されていなかったということか。「――ところで、あたしのデータは?」
「ない」
「|丈太郎《じょうたろう》は?」
「ない。さっきマリエの言ったマインド・コントロール説が正しいのかもしれんな」
「例のミスター・アカシャは?」
「ない。ただ、あの焼死事件そのものは調査対象だったらしい。いわゆる超常現象のファイルもわずかながらある」
|壁《かべ》のデータの上に、ミスター・アカシャこと|村田寛二《むらたかんじ》焼死事件の調査データが表示される。|瞬間《しゅんかん》に違した最高温度、全体で発生したと推測される熱量の総計、スタジオ内の|詳細《しょうさい》な調査報告、そして|村田寛二《むらたかんじ》に関するデータ。
「Aマーク付きの人間の変死をさかのぼっていくと、昨年九月末の元超能力少年、神山淳夫《かみやまあつお》まで、短い期間をおいて起こっている。それより前となると、間が一年半ほどぎいてしまう。そして、|村田寛二《むらたかんじ》の前に起こった自然発火死事件が、昨年八月末の|星嶺《せいれい》学園の教師、坂巻信博《さかまきのぶひろ》の事件だ。|偶然《ぐうぜん》かもしれんが、二つの自然発火死の間に、超能力者の変死事件か並んでいるわけだ」
|氷澄《いずみ》の説明の中に意外な単語を聞いて、遼は振り向いた。|星嶺《せいれい》学園――秋月の通う学校
だ。|偶然《ぐうぜん》だろうか?
「そして、これがいちばん|妙《みょう》な、言い換えれば面白いところなんだが、飛び抜けた能力を持ちながら、データが不充分な人間がいる。そして、死んでいない」
ミスター・アカシャ焼死事件のデータを表示しているのと反対側の|壁《かべ》に、広げた新聞紙ほどの大きさで、一人分のデータが現れた。
写真の欄は空白になっている。左上の通し番号の最後にはアルファベットのSがふられている。現住所、家族構成、履歴などの欄も空白だ。テレパシー発が二三・六、受が三・〇、テレキネシス二九・七、……予知や過去認知などは低い数字だが、それこそ桁違いの数字が並ぶ。最後に注意書きがあった。――バイロキネシス能力の可能性あり。
データの主の名前の欄を見る。|恐《おそ》れていた、ある意味では予想どおりの名前があった。
「|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》……」
|氷澄《いずみ》は、秋月を残して、|壁《かべ》に表示されたデータを消去した。
「現在、|星嶺《せいれい》学園に在籍している学生は男子のみ、中学高校合わせて約三〇〇〇名。そのうち、約一八00名が高校生だ。中学から高校への進学時に、外部から|若干《じゃっかん》の人数を取るからな。マリエの言葉から高校のみに絞った」
さっきの紅色の液体の入ったユニットに、|氷澄《いずみ》は新たなディスクを投入した。
「今年度の学籍ファイルの写しだ。正確には一七九三名」空白だった|壁《かべ》を、今度は学生のデータが埋め尽くす。灰色の|詰《つ》め|襟《えり》を着た|坊主《ぼうず》頭の男子生徒の上半身正面の写真と、同じく真横の写真が添付されている。学籍番号、名前、本籍地、現住所、家族構成、学歴、身長、体重……。中学から|星嶺《せいれい》学園だった生徒には、中学時代の成績までデータとして記入されている。
遼は秋月を捜した。データは五十音順に並んでいる。だとすれば、各学年の最初のほうを見ればいいはずだ。だが、秋月の名前はなかった。
「|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》という学生は、少なくとも今年の四月以降、|星嶺《せいれい》学園には在籍していない」
「アキヅキ・ユミヒコって名前、ちょっと偽名くさいと思ってたけどね。――このヘアスタイルは規則なの?」
「ああ。――同じ灰色の服に、刈り込んだ髪形。まるで前科者カードか囚人の名簿、でなければ軍隊だな。指紋を登録させないのが不思議なくらいだ」
「彼は、あたしほどじゃないけど、伸ばしてたわよ」
「偽学生か」
「|氷澄《いずみ》さん――」
万里絵と|氷澄《いずみ》のやり取りに、遼が□を挟んだ。
「さっき、彼女の言葉から、調査対象を高校だけに絞ったって言いましたよね」
「そのとおりだ。ヤガミが|襲《おそ》われた日の夜、マリエから依頼があった。|星嶺《せいれい》学園の学生、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》を調べろ。ヤガミが|襲《おそ》われたことを知っていた節がある、とな。その時点で、|村田寛二《むらたかんじ》と同様に自然発火死した坂巻信博が|星嶺《せいれい》学園の教師だったことはわかっていたから、多少の興味もそそられた。だが、まさか、私やマリエを襲った連中が超能力者を対象にした|諜報《ちょうほう》機関で、そのリストの中に同じ名前があるとは予想しなかったが」
|氷澄《いずみ》の言葉を聞きながら、遼は胸の中に冷たい感覚が広がっていくのを感じた。いたたまれない、叫んで、その場から飛び出したくなるような感覚を。
万里絵を見る。いつも真っ正面からものを見る視線が、今はたまらなく疎ましく思えた。
「どうして、そんなことを頼んだの?」
自分でも意外なほど低く落ち着いた声だった。
「カンよ。彼が今度の事件にかかわっているっていうカン」
「かかわってるって、どういう意味?」
「彼も、超能力を持っているかもしれないって――」
「こまかさないでよ! はっきり言えばいいじゃないか。僕を襲ったのも、ミスター・アカシャを殺したのも、他の超能力者を殺したのも、全部、秋月さんの仕業だと思ってるんだろ! 秋月さんが犯人だと思ってるんだろ!」
万里絵は否定も肯定もせず、|黙《だま》って目を伏せた。そのことが、遼の感情の高ぶりをますますつのらせる。
「何とか言えよ!」
「そんなことは、どうでもいいことだ」
遼の言葉を受けたのは|氷澄《いずみ》だった。
「変死も、|諜報《ちょうほう》機関の|暗躍《あんやく》も、私にとってはどうでもいいことだ。だが、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》と名乗る人物については、見逃すわけにはいかない」
|氷澄《いずみ》はキーボードを操作し、再びAマーク付きの超能力者のデータを呼び出して、|壁《かべ》の秋月のデータと並べた。
「秋月以外で、各能力が最高の数値を示している超能力者だ。能力のデータが五を超える数値を示しているのは、わずかに二人だ。これがどういうことか、わかるか」
あくまで冷ややかに語る|氷澄《いずみ》を、遼はにらむようにして見た。
「超能力を開発する訓練法など、現在は存在しない。彼等は生まれつきの、言ってみればネイティヴな能力しか持っていない。多少の経験で強化はされていても、数値五以上の能力を発揮するのは至難の業ということだ。だが、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》は、ものによっては三〇近い数値を示している。これがネイティヴな能力か?」
「……そういうことだって……あるかもしれないでしょう」
遼は言い返したが、言葉に力がないのが自分でも感じられだ。
「私は、そして君も、説明のつく解釈を一つ持っている」
遼は首を横に振った。
「秋月の飛び抜けた能力は、イェマドの|遺産《いさん》に因るものだ。秋月山美彦は、|裏次郎《うらじろう》から|遺産《いさん》を受け取った」
遼はまた首を振った。
「私は処分しなければならない。――ヤガミ、ついでに知らなげれば教えてやる。バイロキネシスとは、念力放火能力のことだ」
「|違《ちが》う!彼は関係ない!」
遼は叫んだ。部屋を飛び出し、階段を|駆《か》け降りた。そのまま|廊下《ろうか》を突っ切ると、|玄関《げんかん》から、夜明け前の町へ|駆《か》け出していた。
遼は、夜明け前の町をあてもなく歩いた。
『|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》は|裏次郎《うらじろう》から|遺産《いさん》を受け取った』
『バイロキネシスとは、念力放火能力のことだ』
|氷澄《いずみ》の言葉が今でも頭の中でこだましているような気がした。
自分でも不思議なのだ。|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》と出会ってから、まだ一週間も経っていない。電車の中で酔っ払いにからまれていたところを助けられたのが最初だった。その翌日、再び現れて、超能力を持っていることを告白された。次の日には、自宅へ|招待《しょうたい》された。その日は、光の|野獣《やじゅう》に|襲《おそ》われた後にもう一度現れて、遼を助けられなかったことを詫びた。そして、さっきの不可解な警告――、短く、深いとは言えないつきあいなのに、万里絵が彼を事件関係者と考えていることに、ひどく反発を感じた。彼が殺人者である可能性を|氷澄《いずみ》が示唆した時に、頭を股られたようなショックを受けた。どうしてだろう。
――僕は、秋月さんに魅かれてたんだな……。
それは、秋月の中性的な美貌や、自分の信念を堂々と語れる自信のためではなかった。
『僕は、|普通《ふつう》の人聞にはない“能力”を持っている。能力を持っていることを知られないように、いつも神経を張り詰めていなければならなかったし、能力を持っていたために、何人かの友人も失った』
秋月は孤独だったのだろう。
『だからだよ、矢神くん。君の苦しみが僕にはわかる。僕にだけはわかる。この世界で、君の苦しみを本当に理解できるのは僕だけだ』
――秋月さんが孤独な人間だったからこそ、僕は魅かれたんだ。この人なら、僕を理解してくれるかもしれない、友だちになれるかもしれないって――。
だが、遼の気持ちも裏切られたのではないか。秋月は、遼が思っていたとおりの人間ではないようだ。
――僕は……。
遼の思いを断ち切るように、後ろから来た白い乗用車が前に回り込み、停まった。
エンジンをかけっ放しのまま運転席から降りてぎたのは万里絵だった。
「|丈太郎《じょうたろう》の車、引っ張りだしてきちゃった」
何も言わず、顔をそむけて遼は行こうとした。
「言い訳はしないわ」
きっぱりとした言葉が、遼の足を止めさせた。
「認めるわ。遼の言ったとおりよ。あたしは、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》って人か今回の事件に深くかかわってると思う。ほとんど確信してる。特に、遼が|襲《おそ》われた事件については、犯人が誰なのかさえ知ってると思うわ」
「――秋月さんは言ったんだよ。僕が困った時、助けを求めれば、必ず|駆《か》け付けるって。だけど、あの時は間に合わなかった。それをずいぶん気にしているみたいだった」
「だからなの、遼が彼をかばうのは?」
「あの人は寂しい人間なんだ」
「あたしにはわからない」
遼は振り向いた。開け放った車のドアの脇に立つ万里絵が、なぜかとても小さく見える。
「『今回の事件』なんて、わかったみたいな言い方してるけど、どこからどこまでが関連のある一続きの事件なのか、本当は全然わかってないの。ミスター・アカシャの事件と、|星嶺《せいれい》学園の先生が死んだ事件、|潜在《せんざい》能力開発機関の里見の死に関係があるのか。機関のリストにあったAマーク付きの超能力者の変死は関係あるのか。機関は、どうしてあたしを超能力者だと判断して、|拉致《らち》しようとしたのか。それを予告して、助けを求めるように警告してきたカオルクラって何者なのか。遼を襲ったのは誰で、何の目的を持っていたのか。関係あるともないともわからないバラバラの出来事をつなぐキーは、超能力――」
「そして、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》」
自分の口にした言葉の苦さに、遼は顔をしかめた。
万里絵もまた、辛そうな表情でうなずいた。
「秋月って人には、あたしは一度しか会っていない。何かを|隠《かく》しているような、変なところのある人だとは思ったけど、それ以上のことは何もわからない。遼だけだよ。遼にしかわからないことがあるはずなの」
あれはいつのことだったか――秋月についての|記憶《きおく》の断片がゆっくりとよみがえり、全体の見通せない事件の欠落部分のいくつかに収まった。
「秋月さんは、マーちゃんのことを知りたがっていた」
「あたしのこと?」
遼はうなずいた。
「だけど、僕には答えられなかった。答えようとするたびに、|喉《のど》がふさがれたみたいに声が出なくなって……それだけじゃない、まるで脳にブレーキがかかったみたいに何も思い浮かばなくなったんだ」
それはある種の超能力による|妨害《ぼうがい》だったのかもしれない。
「それから、|潜在《せんざい》能力開発機関のビルの中を秋月さんは監視していた。銀色の|蝶《ちょう》の姿で」
「ちょうって、蝶々?」
「もちろん、本物の|蝶《ちょう》じゃない。何かのエネルギーの|塊《かたまり》みたいなものだと思う。僕がマンションの前で|襲《おそ》われた時にも、その|蝶《ちょう》は現れた。僕を襲ったのも、鳥や|野獣《やじゅう》の形をとった、そうしたエネルギー体だったと思う。その|蝶《ちょう》は僕に言った。朝霞万里絵は危険な超能力者だって」
万里絵が息を呑んだ。
「僕にだって推理できるよ。マーちゃんを超能力者だと思って、接触したがっている人間――カオルクラの正体が秋月さんだろう、くらいは。そして、自然発火殺人の犯人も」
遠くで電車の|警笛《けいてき》が嗚っている。そろそろ始発電車か動きはじめる時刻になったのか。
「遼――」
遼は右手にぶら下げていた剣を顔の前で立てた。行かなければならない。秋月のところへ。そして、確かめなければならない。秋月がイェマドの|遺産《いさん》を受け取ったのかどうか。
さらに、今度の事件とどうかかわっているのかを。そして――。
「もしも秋月さんがイェマドの|遺産《いさん》を使って自分の心を暴走させて、他人を傷つけているなら、僕はそれを止める。止めなきやならない。――ごめん、マーちゃん」
「別に、遼が謝る必要なんてないわ」
「車を運転してほしいんだ。秋月さんのところまで」
一度、私鉄の駅まで走り、秋月のマンションと駅の中間あたりで、二人は車を降りた。
マンションまでの道は、遼が|記憶《きおく》をたどりながら案内した。
遼はグレイの|上着《うわぎ》を羽織《はお》っている。血だらけのシャツでは歩げないだろうと、万里絵が|氷澄《いずみ》から借りてきたものだ。「まだ七時前よ。――どうする?」
「会う。起こしてでも会うよ」
「抜き身の剣をぶら下げたまま?」
遼は、|上着《うわぎ》の下に剣を|隠《かく》した。
「今、剣を収めたら、仮死状態になっちゃうからね――」
「そのほうがいいんじゃない?」
言葉の意味を測りかねて、遼は万里絵のほうを見る。
「ひさしぶりにザンヤルマの剣を稼働させて、プロを相手に闘って、一晩眠ってないんだもん。|休憩《きゅうけい》をとったほうがいいんじゃないかってこと」
「休むのはまだ先だよ。秋月さんのことが全て解決するまでは休めない」
「そうね」
遼はマンションの|玄関《げんかん》の郵便受けで秋月の名前を捜した。|蝶《ちょう》の標本が|壁《かべ》を埋めていたあの部屋は、確か四階にあった。だが、四階の部屋番号のついた郵便受けに「秋月」の文字はなかった。
――やっばり偽名か……。
「遼、彼の部屋の番号は覚えてる?」
「……四〇一。僕の部屋番号より、一つ少なかった」
「――四〇一号室、ネーム・ブレートに表示なし。購読しているのはスポーツ新聞、と」
郵便受けに新聞があるということは、まだ部屋に居るのだろう。
万里絵は番号を押し、呼び鈴のボタンを押した。返事はない。新聞が配達されるより早く出掛けてしまったのだろうか。
「どうする?帰ってくるまで待つ?侵入用の道具一式取ってきてから出直す?」
「今すぐ中に入る方法はないの?」
遼はオートロックのドアを見ながら尋いた。
「ないことはないけどね……」
万里絵が|玄関《げんかん》ホールを見回す。
「遼、そっぽ向いてなさい」
何をする気かと遼がいぶかしんだ時、ドアが開いて、|紺《こん》のスーツを着たサラリーマン風
の男が出てきた。
「おはようございます」
万里絵は明るく声をかけながら男と擦れ達った。
「ああ、おはよう」
男は|一瞬《いっしゅん》、|怪訝《けげん》そうな表情を浮かべたが、曖昧な笑顔がそれを飲み込んだ。
男が道の向こうへ消えるのを横目で見送って、遼が振り向くと、すでに建物の中に入った万里絵が、開きっ放しのドアのところで手招きしていた。
「単純な手が一番。こういう建物の住人は、|隣《となり》に住んでいる人間の顔も知らないのよね」
ほとんど空き巣狙いの手口じゃないだろうか――。遼も万里絵に続いて素早く建物の中へ入った。|廊下《ろうか》には見覚えがあった。そして、エレベーターにも。
エレベーターが四階に着くまでのわずかな時間で、|鼓動《こどう》の速さが倍くらいになったような気がした。腕をまわし、自分の肩を抱くようにする。|上着《うわぎ》の下に|硬《かた》い|感触《かんしょく》があった。
ゴンドラが停まる。ドアが開く。遼が先に降りた。
|廊下《ろうか》の突き当たり、秋月が遼を招いた部屋のドアがあった。
自分でもぎこちないと思える足取りで近づき、ドアの前に立つ。特に変わった様子もな
い。静かだ。ドアの向こうは空き部屋なのではないか――。そんなことさえ思うほどだ。
「四〇一号室、ここもネーム・プレートに表示なしね」
万里絵のつぶやきには答えず、遼は呼び鈴のボタンを押した。部屋の奥でチャイムが鳴っているのがかすかに聞こえる。
しばらく待ったが、誰も応えなかった。人の気配は全く絶えている。
続けざまにチャイムを鳴らす。ドア・ノブを|掴《つか》んで開けようとする。|鍵《かぎ》のかかったドアは動かない。遼はドアを乱打した。
「ちょっと――」
万里絵が制する。
「人に見られたら、言い逃れられないでしょ」
そう言って万里絵はドアの前に|膝《ひざ》をついた。
「そっちへ寄って。|鍵《かぎ》を開けるから」
言われたとおり、脇にどく。他の住人に見られないように|衝立《ついた》てになるつもりもあった。
「入り口が厳重そうな建物ほど、中の錠前は軟弱《なんじゃく》な傾向《けいこう》があるのよね」
万里絵は胸ボケットに挿したペンを分解し、細い針金を取り出した。さらにヘアピンを一本伸ばして、これも針金にする。
「さて、即席《そくせき》のピックとテンション・レンチで開けられますかどうか。――誰かに見られたら、言い訳できないぞ、と」
言いながら|唇《くちびる》をなめる。
いつにない口数の多さに、遼は万里絵の|緊張《きんちょう》と|疲労《ひろう》を感じた。
遼の|疲労《ひろう》を案じ、剣を畳んで仮死状態になってでも休息をとれと言った万里絵だったが、
自身の|疲労《ひろう》は遼以上のはずだ。下校|途中《とちゅう》を|襲《おそ》われ、遼と|氷澄《いずみ》が助け出すまでは拷問に遭っていたはずなのだから。肉体的、精神的な|疲労《ひろう》や、|情況《じょうきょう》から来る|緊張《きんちょう》感を、軽口をたたくことで少しでも解消しようとしているのだろう。
ピュッと短く口笛が嗚った。
遼が振り向くのと、万里絵が立ち上がるのが同時だった。目がうなずく。
遼はノブに手をかけた。ドアは呆気なく開いた。遼が中に入り、万里絵が後に続く。
短い|廊下《ろうか》に続いてダイニング・キッチン、そして、その奥が|蝶《ちょう》の標本の部屋のはずだ。
朝の光がレースのカーテン越しに差し込んでいる。冷蔵庫の立てる軽いうなり。水気の残ったキッチンまわり。かすかなものではあるが、生活の気配は感じられる。少なくとも空き部屋ではないようだ。
万里絵は、トイレ、バス、クローゼットにまで気を配っている様子だった。
残っているのは標本の部屋――秋月の私室と思われる部屋だけだ。
ノックをすべきか少し迷うが、ひと思いにドアを開ける。思わず、あっと小さく声を漏らしてしまう。
「どうしたの、遼?」
「全然|違《ちが》うんだ。前に来た時は、|蝶《ちょう》の標本の箱がびっしりと|壁《かべ》に並んでいて――」
誰もいない部屋の|壁《かべ》は、白っぼい壁紙の表面をさらしている。あれほどたくさんあった|蝶《ちょう》の標本は一つもなかった。事務机とベッド、洋服ダンス、そして、それほど大きくない本棚が一つ。それだけだった。
念のために洋服ダンスを開けてみる。シャツや靴下が詰め込まれているばかりで、鮮やかな羽のひとかけらさえ見当たらない。机の|抽斗《ひきだし》、ベッドの下、みんな同しことだった。
「昨夜、ここで寝たのは確かみたいね」
ベッドを探った万里絵が言う。
改めて部屋を見回す。もう一度ダイニング・キッチンへ戻り、冷蔵庫を開けてみる。
「チョコレートにアイスクリーム……甘いもの好きなのね、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》って。どうやって、あのスリムな体形を|維持《いじ》しているのか、教えてほしいわ」
遼の肩越しに冷蔵庫の中を|覗《のぞ》いて、万里絵がつぶやいた。
三本並んでいるドリンク・チョコレートの一リットル入り紙パックは、前に訪ねてきた時に秋月が出したのと同じ種類のものだ。見覚えがある。
|叩《たた》きつけるようにして冷蔵庫の扉を閉めた。
――わからなくなった……秋月さんに案内されたのは、この部屋じゃないんだろうか。
「遼」
|隣《となり》の部屋から万里絵が呼ぶ。行ってみると、本棚に並んだ大判の本を引っ張り出して、|床《ゆか》に広げていた。
「本らしい本っていったら、この動物図鑑だけ。特に昆虫の巻の鱗翅目《りんしもく》のページは何度も開いてるみたいね」
|床《ゆか》の本のページをめくってみる。もちろん、そのままではないが、あの日見た標本にイメージが似ていないこともない。だが、これだけでは確信が待てない。
「動物が、特に|蝶《ちょう》が好きだって言ってだ。本当は、アフリカで動物を相手にした仕事をしたいんだって――」
「遼はいつもザンヤルマの剣をどこにしまってるの?枕の下?本棚の裏?」
「机のいちばん下の|抽斗《ひきだし》の奥だけど――」
唐突な質問の意図がわからず、おずおずと答えると、万里絵は微笑を浮かべた。
「|普通《ふつう》はそんなものよね」
言いながら万里絵は事務机の|抽斗《ひきだし》の|鍵穴《かぎあな》に即席の錠前破《じょうまえやぶり》りの道具を突っ込んで、あっさり開けてしまった。いちばん下の大きな|抽斗《ひきだし》を抜き取ると、その奥に手を突っ込む。不意にピクッとして手を引っ込めかけたが、もう一度、今度は注意深く手を差し入れ、ゆっくりと何かを取ひ出した。多少強張った表情で、万里絵は手の上の物を遼のほうへ差し出した。
それは、野球のボールほどの大きさの球だった。表面は、|鈍《にぶ》い銀色に光る材質で、金属で出来ているように思われる。よく見ると、複雑な線が縦横に走っている。塗料《とりょう》で描かれているものではなく、針の先で彫ったような細い溝だ。部品の継ぎ目のようにも見える。
まるで、入り組んだ機械装置《きかいそうち》を押し潰して球にしたとでもいった印象だ。大きさは全然ちがうが、SF映画に出てきた惑星ほどもある巨大な機械化|要塞《ようさい》を、もっと生物的に、あるいは非西欧文化的にアレンジしたら、こんな感じになるかもしれない。
「いったい何なのか見当もっかないんだけど、やっばり、イェマドの|遺産《いさん》だと思う?」
遼は|黙《だま》ってうなずいた。覚悟はしていたつもりだが、実際に|遺産《いさん》と思われる品を目の前にすると、|鳩尾《みぞおち》を圧迫されるような息苦しさを感じる。
手を伸ばして、銀の球体《きゅうたい》を|掴《つか》んだ。指先が球に触れた時、初めて震えているのに気がつく。球はずっしりと重かった。
「本当は、秋月さんと会って、話し合ったうえで結論を出したかったんだけど――」
|上着《うわぎ》の下からザンヤルマの剣を出し、右手で握る。
「下がって」
野球のノックのように、左手で軽く銀の球を投げ上げ、剣を一閃させる。重い球と軽い
剣、タイミングの難しい動作だったが、ザンヤルマの剣のアドバイザー機能のためか、球体は一撃で重石二つになり、|床《ゆか》に転がった。
鼻を刺すような臭いが広がる。断ち割られた球体は、何百年もの樹齢《じゅれい》を経た木の切り株のように何重にも層の重なり合った断面を、早くも黒く変色させていた。
遼は|残骸《ざんがい》の半球を|上着《うわぎ》の左右のポケットに一つずつ入れた。
万里絵が手早く侵入の形跡《けいせき》を消す。
ドア・スコープで外を窺い、人がいない隙に四〇一号室を出ると、二人は階段を降り、マンンョンから外へ出た。
車を停めてある場所へ遼と万里絵は急いだ。
「公園を抜けましょ。そのほうが早いわ」
子どもの遊び場というより、緑化区画といった感じの公園だった。枝振りのいい木が、かなりの本数植えられて、ちょっとした雑木林《ぞうきばやし》のようになっている。
柵を乗り越え、植え込みを抜けたところで、遼がよろめいた。万里絵が肩を貸す。
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
遼はうなずいたが、かなり消耗しているようだった。
――“守護神”はどうしたのよ。
剣には、肉体の状態を健康に保つ“守護神”の機能が備わっているはずだ。
「|疲《つか》れてるっていうのと、ちょっと|違《ちが》う感じで……何て言うのかな、電気を流しっぱなしにした電気器具みたいに、体のあっちこっちがオーバーヒートしてるみたいで……元気とか活力とかはあるんだよ。それが、僕の体の中には収まり切らない感じなんだ」
確かに遼の体は熟くなっている。
昨夜の救出作戦から六時間以上、ひょっとしたら半日近く、遼はザンヤルマの剣を稼働させたままのはずだ。
――やっばり、|遺産《いさん》を相続したといっても、遼はもともとの持ち主じゃないから……。
イェマドの|遺産《いさん》は使用者を選ぶ。オーダーメイドに近いため、起動するための何かが一致した人間でなければ、|遺産《いさん》はその機能を発揮しない。遼がザンヤルマの剣を扱えるのも、その何かが|偶然《ぐうぜん》一致したからにすぎない。だが、それも完全な一致ではなく、近似値でしかないのではないだろうか。守護神の機能が備わっているにもかかわらず、これほど消耗するのは、剣が完全に稼働していないためではないだろうか。
「剣を収めるわけにはいかなかったんだ」
遼が言った。
「話してなかったけど、日曜の朝、起きたら剣がなくなってた」
日曜日――万里絵が、前夜テレビで見た事件について|氷澄《いずみ》に話しに行った日だ。
「マンンョンの前で|襲《おそ》われた時に、剣は戻ってきた。だけど、抜くことができなくなっていたんだ」
――カオルクラの言ったとおりね。
|潜在《せんざい》能力開発機関に捕らわれていた時、カオルクラはテレパシーで万里絵に語った。矢神遼はザンヤルマの剣を抜くことができなくなっている、と。
「マーちゃんがさらわれたって聞いて、|行方《ゆくえ》を探さなきゃならなくなった時、やっともう一度剣を抜くことができた。でも、収めてしまったら、今度は抜けるかどうか、わからない。だから、収めるわけにはいかなかったんだ」
だんだん遅くなっていた遠の足が、本に囲まれた広場のような場所で止まる。
「遼?」
遼は顔をうつむけたまま、|上着《うわぎ》の下からザンヤルマの剣を取り出した。
「――考えて出した結論のはずなんだ。僕も闘《たたか》うって。でも、|闘《たたか》いたくないんだ。今度もそうだよ。あの里見って男と対決した時、僕には何もできなかった」
ザンヤルマの剣の|輝《かがや》く刀身が震えている。柄を握っている遼の手が、いや、からだ全体が震えているのだ。
「|裏次郎《うらじろう》は言ってた。この剣は、抜くことができた人間に、世界を減ぼせるほどの巨大な力を与えるって」
遼は顔を上げた。
「――怖いんだ……どうしようもなく怖いんだよ! この剣の力で何をしてしまうか、怖くてしょうがないんだよ……」
言葉の最後は嗚咽に|紛《まぎ》れた。
万里絵は、震えている遼の体に手を回して、そっと抱きしめた。
「遼、剣を収めて。そして、今は休むの」
「僕は、|疲《つか》れたからこんなことを言ってるんじゃないよ」
「でも、|疲《つか》れているのは本当だし、|疲《つか》れていたら、いい考えも浮かばない。今の遼には休息が必要なのよ」
「休んでもいいのかな」
「とりあえずイェマドの|遺産《いさん》は処分できた。休んで、これからのことを考える時間は手に入ったはずよ」
「――そうだよね?|遺産《いさん》を破壊したから、これで秋月さんと闘わずに済むんだ」
万里絵の腕の中で、遼の細い体が力を失って|崩《くず》れた。
「遼?」
手の中の剣が赤い波形の|鞘《さや》に収まった|短剣《たんけん》の姿になっている。剣を収めたことで、遼に安息の時間が与えられたのだ。一時的な仮死という、|普通《ふつう》ではない状態ではあったが。
「どうせなら、車のシートに座ってからにしてほしかったわね」
どういう形にせよ遼が休息に入ったことで、万里絵の|緊張《きんちょう》も多少は緩んだ。軽口も出る。
車まで運ぼうと、遼の体に手をかけようとした時だった。――!
気配、それも剌すような敵意を含んだ人の気配だ。
――とりあえず石ころと、いざとなったら、さっきの|遺産《いさん》の|残骸《ざんがい》を投げつけるか。
武器になりそうなものといったら、それくらいだ。こういう時、イェマドの|遺産《いさん》の使用者限定性が|恨《うら》めしい。
「君は|恐《おそ》ろしい女だ、朝霞万里絵」
涼しげな、というより冷ややかな声がした。
――|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》……。
|潜在《せんざい》能力開発機関の追っ手なら、里見ほどではないにしてもプロだし、飛び道具も待っているだろう。だが、イェマドの|遺産《いさん》を破壊され、超能力を失ったはずの|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》なら、万里絵でも充分に勝ち目はあると思えた。
声のしたほうへ顔を向ける。木の陰からグレイの|詰《つ》め|襟《えり》を着た|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》が姿を現した。
片手をズボンのポケットに入れた、少し気取ったポーズで、万里絵と遼を見下ろしている。
「何の用、カオルクラさん?」
皮肉っぽい万里絵の言葉に、|端整《たんせい》な顔が|一瞬《いっしゅん》歪んだ。
「見破っていたのか」
「あなたがカオルクラだってことくらい、ちょっと頭を働かせれば、すぐにわかるわよ」
「――さすがだ。たいした能力を待っているようだな、朝霞万里絵」
「だから、超能力は関係ないんだってば。それに、どうしてあたしが|恐《おそ》ろしい女なのよ」
言葉のやり取りをしながら、少しずつ姿勢を変え、攻撃に出られるようにする。こちらの意図に気づいていないのか、秋月は身構えるでもなく、万里絵と遼を見ている。万里絵の言葉に一度は|衝撃《しょうげき》を受けたようだった秋月の顔は、感情を読み取らせない無表情を再び取り戻していた。
「同じ超能力者として、君は、僕の飛び抜けた能力に|嫉妬《しっと》した。だから、強力な武器を待った矢神遼をコントロールして、カオルクラを破壊させた」
――カオルクラって、あの|遺産《いさん》の名前だったのね。
緊迫《きんぱく》した|情況《じょうきょう》にもかかわらず、疑問の一つが解消したことを万里絵は喜んだ。カオルクラは|遺産《いさん》の名前。偽名《ぎめい》を使う必要に|迫《せま》られて、とっさにこの名前が出たのだろう。
「だから、あたしは超能力者なんかじゃないんだって、何度言ったらわかるのよ!」
「いい加減に認めたまえ!」
「だいたい、あたしが超能力者だっていう思い込みは、どこから出てぎたのよ?」
秋月は答えず、しなやかな腕をすっと伸ばし、人差し指と中指を二人のほうへ向けた。
遼の上将のポケットから、断ち割られたイェマドの|遺産《いさん》の片割れが飛び出す。
――まさか!
万里絵が手を出すより早く、銀色の半球体は、差し出された手の中に収まった。
――|遺産《いさん》は破壊《はかい》したのに……。
|遺産《いさん》の|残骸《ざんがい》を見る秋月――能面のような表情とは、こういう顔を言うのだろうか。怒るような、悲しむような、呆けたような、どうとでも見える、そしてそのどれとも微妙に|違《ちが》う表情。それでいながら、無表情と呼ぶのが一番ふさわしいよりな表情。
――秋月はテレキネシスを使った。|遺産《いさん》の機能は死んでいないの? それとも、秋月の能力は|遺産《いさん》とは関係ないの?万里絵は、じわじわと遼から|距離《きょり》をとった。
相手はバイロキネシス――念じただけで人間を焼き殺す能力さえ備えているかもしれない、一種の怪物《かいぶつ》だ。まともに戦うわけにはいかない。時間を稼ぐこと――人か往来するようになれば、そうそう派手な力は使えないだろう。そして、情報を引き出すこと――|遺産《いさん》を破壊されながら、どうして超能力が使えるのか。秋月の目的は何なのか。
「あたしのことを“|恐《おそ》ろしい女”なんて言ってたけど、あなたのほうこそたいした策略家じゃないの、カオルクラさん?」
「何のことだ?」
「|潜在《せんざい》能力開発機関の連中に、あたしと|丈太郎《じょうたろう》を襲わせたでしょ?」
「……君が超能力者である以上、機関の連中は必ず君を見つけ出していたはずだ。僕がやったのは、それを早めただけだ」
「自分で|災厄《さいやく》の種を蒔いておきながら、あたしに警告をよこして、助けの求め方まで教えてくれたのは、どこのどなた?」
「……君が心を開いていないから、やかを得ず、したまでのことだ」
「どういう意味?」
「能力を持っていることを、僕と同じ種類の人間であること、が心を開いて認めれば、あんなことはしなくても済んだ」
「遼を襲ったでしょ? それも、遼が心を開いていなかったからだとでも言うの?」
「僕は、彼を助けるために接近したんだ」
秋月は、白い美貌《びぼう》に苦笑を浮かべた。
「大いなる力、世界を滅ぼせるほどの巨大な力、助けてくれ――矢神遼は、心の中でそう喚きつづけていた。だから、心の重荷になる剣を彼の手許から遠ざけた。僕の能力をもってしても稼働させられないのを確認し、彼の許へ戻した。自分の命が危険にさらされても剣が稼働しないのを見て、彼も|納得《なっとく》したはずだ。もう、大いなる力に押し置されずに済むってね。感謝してもらってもいいくらいだよ。だが、君は自分の身を守るために、彼をコントロールして剣を抜かせてしまった」
――無茶苦茶言うわね。
剣が機能しないことの確認のために、一時的とはいえ、|錯乱《さくらん》状態に陥るまで遼を追い詰めたというのか。自己正当化のためならどんなことでも言うのではないか。万里絵は秋月という男に改めて|警戒《けいかい》心を抱いた。
「ずいぶんとしゃべらされてしまったものだ」
――まだ、全然、聞き足りないわよ。
一連の事件と秋月とのかかわりについては、まだ何も聞いていない。そして、全てが|謎《なぞ》に包まれた男、秋月山美彦とはいったい何者なのかも。
「今度は君が話す番だよ。もっとも、僕が聞きたいのは、自分が超能力者であることを認める、ただ一言だけなんだけれどね」
静かだった。公園を包む空気は、まだ朝の冷たさを残している。それなりに時間も経過したようなのに、周囲に人の気配はなかった。
「あたしが超能力者だって認めたら、あなたはどうするつもり?」
「同じ種類の人間は、仲間になるのが自然だ。君が心を開いて、自分に素直になるならば、僕の伸間にしてあげよう」
「あたしは超能力者なんかじゃないわ」
秋月の細い|眉《まゆ》がかすかに震えた。手にしていた銀色の半球体が宙に浮き、万里絵のほうへ飛んできた。
わずかに体を反らせてかわす。
|恐《おそ》ろしいほどのうなりをあげて万里絵をかすめた半球体《はんきゅうたい》は、それ白身がクルクル回転しながら、|威嚇《いかく》するように万里絵のまわりを飛び回った。
「こんなこと、いくらやっても同じことよ。あたしは超能力者なんかじゃないんだから」
身構えたまま、秋月に向き直る。
「――あなたがあたしを超能力者だって決めつける根拠って何なの? そんなものがあるなら、教えてほしいもんだわ」
「僕の脳から直接読めばいいだろう? 君に強大なテレパシー能力が鰹わっているのはわかっているんだ」
「テレパシー?」
「とぼけるのは、いい加減にしたまえ。最初に会った時から、君はその能力で、僕に思考を読ませまいとした。その能力を使って、矢神遼や|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》もコントロールしているのだろう?僕が君のことを矢神遼に|尋《たず》ねた時に、彼が話すのをテレパシーで|妨害《ぼうがい》したのも、その一例だよ。現に、今だって君は思考を読まれるのをガードしているじゃないか」
胸の中に熱いものが湧き上かってぎた。滅多《めった》にないことだった。
「――下司《げす》野郎って、あなたみたいな人のことを言うのね。初対面の相手の心の中に土足《どそく》で踏み込んで、考えていることを盗み見ようとするわけ?飛び抜けた能力?心を開け?遼を肋けて、感謝されてもいいくらいだ?寝言《ねごと》もいい加減にしてよね」
飛び回っていた半球体が、一直線に万里絵に襲《おそ》いかかる。
「!」
遼のポケットから抜き取っておいたもう半分の半球体を投げつける。
秋月のテレキネシスで操られる半球体のスピードが、万里絵の投げた半球体の勢いを|圧倒《あっとう》した。重い音を立てて、万里絵の半球体が弾《はじ》き飛ばされる。
だが、わずかながら角度を変えることができたのだろう。直撃《ちょくげき》をかわす時間だけは得ることができた。
秋月の顔めがけ、砂と石の混合物を投げつける。
「フン」
だが、それらは空中で止まり、逆に万里絵に降りかかってきた。
「くっ」
|一瞬《いっしゅん》、視界を失う。
それでも万里絵はすでに第二撃を放っていた。親指の先ほどの大きさの小石が、指で弾かれて飛ぶ。さっきのは目潰《めつぶし》しのフェイントで、あくまでこちらが本命だ。
「あっ!」
秋月が目を押さえた。
「あたしの思考が読めないっていうのは本当らしいわね」
地面から土が舞い上がり、視界を遮断《しゃだん》する。
今度は二方向からうなりが近づいてきた。
落ちていた石で一つ目をブロックする。
手にしびれが広がり、石が落ちた。
二つ目をかわす余裕はない。
――遼!
銀の弾丸となって飛ぶ半球体を、白い閃光《せんこう》が迎え撃った。
閃光とも見えた白い飛来物が半球体にぶつかった|瞬間《しゅんかん》、青白い電光か散り、半球体は地に落ちた。土の嵐も鎮まる。
白い何かは、鳥のようなシルエットを一回転させると、木立。の間へ消えた。
「何者だ!」
「坊やに|遺産《いさん》を相続させた男の|同類《どうるい》さ。ただし、立場は全く|違《ちが》うけれどね」
どこか間延びのした女の声がした。
秋月が視線を走らせる。白い何かが飛んできた方向と、飛んで行った方向へ。だが、女の声は別の方向から聞こえる。というより、どこから聞こえてくるのかわからないのだ。
秋月も混乱しているのだろう。超能力を使うことを忘れている。
「そうそう、坊やが、そこの女の子の心を読めない理由を教えてあげようか?」
秋月が人差し指を一本の木に向けた。ドンッと低い破裂音がする。本の幹に亀裂が入り、ゆっくりと倒れる。
「残念だねえ、はずれだよ」
笑いを含んだ、間延びした女の声。
秋月はいらだちを抑えるように目を閉じた。超能力で相手の所在を探っているのだろう。
「坊やがお嬢ちゃんの心を読めないのはね、それは、坊やがお嬢ちゃんに恋しちゃってるからさ」
――へ?
意外な言葉に、万里絵は|一瞬《いっしゅん》、危険を忘れた。
秋月も、一度閉じた目を開いている。
「好きな人の心は知りたい。だけど、知るのは怖い。嫌われていたら、どうしよう? そんなためらいの気持ちが、坊やのテレパシーにブレーキをかげたのさ」
そんなことがあるのだろうか――。万里絵はいぶかしみながらも、秋月が女の声に気を取られている間に、遼のほうへ歩み寄った。
「矢神遼くんが坊やの質問に答えなかったのもおんなじさ。坊やは女の子について尋きながら、何を言われるか怖くって、無意識に遼くんにテレパシーを送っていたのさ。絶対にしゃべるな、何も言うなってね」
「|馬鹿《ばか》なことを言うな!僕は……そんな……」
「もちろん、自分でも自分の気持ちに気づいちゃいないだろうさ。無意識ってヤツだからね。坊やみたいに、体ばっかり大きくて心はまだ子どものままっていうような男の子しゃ、無理もないねえ。―――初恋、なんだろう?」
次の|瞬間《しゅんかん》、秋月を中心に、見えない爆発が起きた。対象を絞らずにサイコキネシスを使ったのだろう。秋月の周囲の木が、外に向かって根こそぎ倒れる。
体に力が加えられているという感覚もないまま、万里絵も吹き飛ばされた。
「遼!」
地面に横たわっていた遼の体が、風に吹き上げられた木の葉のように舞い上がっている。
「万里絵ちゃん!」
声のしたほうを向く。緑色の光の球が飛んでくる。光の球殼の中に、黒いワンピースを着て|白扇《はくせん》を手にした、|髪《かみ》の長い女がいた。
「|水緒美《みおみ》!」
もう一人のイェマドの|遺産《いさん》管理人、シベリアに出かけていたはずの江間|水緒美《みおみ》が、自分の“守護神”である|白扇《はくせん》を操って、バリヤーを張りながら空中を飛んでいるのだ。
|水緒美《みおみ》の光球は、時おり急角度で折れ曲がったりしながら飛び、遼と万里絵、そして二つの|遺産《いさん》の|残骸《ざんがい》を球殼の内側に引き込み、保護した。
「移るよ」
|水緒美《みおみ》が言うが早いが、周囲の光景が歪み、三人は|瞬間《しゅんかん》移動していた。
三人が移動した先は、前に万里絵も来たことのある骨董屋《こっとうや》「冬扇堂《とうせんどう》」の奥の洋間だった。
|氷澄《いずみ》|丈太郎《じょうたろう》が表向きは|鵬翔《ほうしょう》学院高校の非常動講師をしているように、江間|水緒美《みおみ》はこの店の女主人である。
「ここも突き止められて、攻撃されるんじゃない?」
「イェマドの技術で攻められなけれぱ|大丈夫《だいじょうぶ》なようにしてあるよ」
|緊張《きんちょう》が多少はほぐれる。
万里絵は手近なソファの上に、ぐったりした遼の体を横たえた。
「例の、剣を使った後遺症《こういしょう》の仮死状態かい?」
「そう」
「それじゃ、手当てのしようもないねえ」
遼の顔を|覗《のぞ》き込むようにしていた万里絵は立ち上がり、|水緒美《みおみ》に向き直った。
「ありがとう、|水緒美《みおみ》。助かったわ。――シベリアに行ってたんじゃなかったの?」
「今朝、帰ってきたところだよ。空港から|丈太郎《じょうたろう》のところへ行ったら、万里絵ちゃんたちが出掛けたまま戻っていないって言うじゃないか。|丈太郎《じょうたろう》の車を手掛かりに捜したけれど、結構いいタイミングだったろう?」
「シベリアのほうは、うまくいったの?」
「てこずらされたけど、どうにかね。まあ、現代の科学では説明のつかない|謎《なぞ》の出来事ってヤツが、また一つ増えちまったようだけどねえ。――そうだ、|丈太郎《じょうたろう》のところにおみやげのウォッカとキャビアが預けてある。後で取りにお行き」
|緊張《きんちょう》感のない言葉を聞きながら、万里絵は|水緒美《みおみ》のスタイルを改めて見た。
「――ちょっと変な格好ね、厚手のワンピースに和扇なんて」
「そうかね?扇の|端《はし》に羽根飾りでも付けたらどうだろうね」
言いながら、横八の字に白扇《はくせん》を動かしてみせる。万里絵がクスッと笑い、|水緒美《みおみ》も笑い返した。
|水緒美《みおみ》は|白扇《はくせん》を畳み、しまうと、|床《ゆか》に転がっている二つの銀色の半球体を拾い上げた。
「|丈太郎《じょうたろう》からだいたいの事情は聞いてるよ。万里絵ちゃんも|災難《さいなん》だったね」
「まあね。――それで、その|残骸《ざんがい》、本当にイェマドの|遺産《いさん》なの?」
「――間違いないよ。ただ、だいぶん古いものだねえ」
|妙《みょう》な気がした。イェマドそのものが、現在の文明が発生する以前に栄えた、超古代の存在ではないか。
「変な顔をしないでおくれよ。あたしが物心ついた頃には、もう廃れていたってことさ。こいつは、教育を目的にした人工知能を中心としたシステムでね、人間の|潜在《せんざい》的な才能を探り出し、それを最大限にまで拡大、向上させるんだよ」
「超能力を使えるようになる機械じゃなかったの?」
「テレパシーやら念力やらの素質を持った人間が使えば、当然、それが最大限にまで発達するだろうよ」
「それじゃ、|遺産《いさん》を破壊しても、開発された能力は残るわけね」
「車の運転や英会話みたいに、長いこと使わなければ衰えることもあるだろうけどね」
万里絵はため息をついた。|遺産《いさん》を破壊されても秋月が超能力を使えた理由が、これで明らかになった。
「遼くんは、あたしが見ているよ。その間に、シャワーだけでも浴びといで。美人が台なしじゃないか」
気分をほぐそうとしてか、|水緒美《みおみ》が明るく言った。万里絵は|水緒美《みおみ》の言葉に従うことにした。
バスルームは、ごく|普通《ふつう》のホーローの浴槽の据え付けられたタイル張りの部屋だった。
一か月は留守にしていたはずなのに、|氷澄《いずみ》の住居よりむしろ生活感が残っているようだ。
コックを捻る。ぬるめの揚が気持ちいい。|潜在《せんざい》能力開発機関に|拉致《らち》されて以来、初めて体を洗うことができた。こちらの“古い”冬扇堂は、|橘《たちばな》マンションから一〇分足らずのところにある。できれば下着も替えたいし、ベッドの上で思う存分眠りたかった。
――まだ、駄目か。
熱い湯と冷水を交互《こうご》に浴びる。眠気覚ましくらいにはなったようだ。
万里絵がバスルームから戻ると、今度は|水緒美《みおみ》が立ち上がり、奥へと消えた。
部屋に残された万里絵は、テーブルの上に置かれた|遺産《いさん》の|残骸《ざんがい》を取り上げた。
「|潜在《せんざい》能力開発機関に、|潜在《せんざい》能力開発装置。|潜在《せんざい》能力開発って言葉がつくづく|嫌《きら》いになりそうだわ」
秋月がカオルクラと呼んだイェマドの|遺産《いさん》――今世の人間を憎悪した|遺産《いさん》管理人、|裏次郎《うらじろう》の|遺産《いさん》でもあるそれは、さらに、超能力という|遺産《いさん》を秋月に遺したわけだ。
万里絵はしばらく|残骸《ざんがい》をもてあそんでいたが、はたと手を止め、遼のほうを見た。
「今日、終業式だったんだね。完全に|遅刻《ちこく》だけど、行くだけ行ってみる?」
|着替《きが》えた|水緒美《みおみ》が戻ってきた。黒に近い紫《むらさき》色の部屋着に、長い|髪《かみ》は頭の上にまとめて、店から持ってきたのだろうか、かんざしで留めてある。ソファに腰を下ろし、気持ち良さそうに伸びをした。
全てにケリがついたかのような気楽そうな様子に、多少むっとする。だが、思い直した。
|水緒美《みおみ》たちにとっては、|遺産《いさん》やイェマドの存在が明らかになるのを防ぐことが目的なのだ。
カオルクラを破壊したことで、彼等にとって事件は幕を下ろしたも同然だろう。
「それで、どうするおつもりだい?」
「何をするにしても、遼が意識を取り戻してからよ」
ソファのほうを見る。遼には全く変化がないように見える。
「|水緒美《みおみ》、公園で言ったこと、ほんとなの?秋月山美彦があたしのことを――」
「口から出空かせに決まってるじゃないか」
「|一瞬《いっしゅん》、心臓が停まったかと思ったわよ」
「それは、あの坊やもおんなじさ。だから精神の集中が破れて、隙も出来た。それに乗じて脱出もできて、今はこうして体を伸ばしてられる。メデタシメデタシ」
「いい性格してらっしゃる」
|水緒美《みおみ》は片目をつむってみせると、ロシア語の新聞を出して広げた。
「ところで、どうしてこの装置は廃れちゃったわけ?」
万里絵が半球体の|残骸《ざんがい》を手にして尋いた。
「必要ないからさ」
「どうして?」
「才能やら|潜在《せんざい》能力なんて、イェマドの人間には不必要だろ」
「よくわからないんだけど」
「イェマドの機械は、完全オーダーメイドに近いってことは話しただろ? これは、言い換えれば、初心者がいきなり触っても、最高の性能が発揮できるように出来ているってことなのさ」
「向き不向き、慣れ不慣れも関係ないの?・」
「最高っていうのはね、イェマドが生み出すことのできる最高って意味さ。誰にでも、同じ最高の力が手に入る。言ってみれば究極の平等だね」
「そんなの、変よ」
「そう言うけどね、初心者や非熟練者《ひじゅくれんしゃ》が扱っても一定の高性能を発揮するっていうのは、道具を作るうえでの一つの目標だろう? 早い話、今の家電や自動車も、つまるところはそれを目指してるんじゃないのかい?」
「まあ、そう言えなくもないけど――」
「才能も熟練も必要がない世界だったから、趣味《しゅみ》の世界で多少残りはしたけれど、結局は要らなくなってしまったのさ、|潜在《せんざい》能力開発装置は」
万里絵は|黙《だま》った。
「――遼くん、起きないねえ。よっぽど長いこと剣を使っていたのかねえ」
「|水緒美《みおみ》、もう一つ、尋いていい?」
「何だい?」
「イェマドには超能力者っていたの?」
「万里絵ちゃんが言うような超能力は、存在は確認され、研究もされていたようだけれど、ほとんど意味はなかった只“守護神”かあれば、いわゆる超能力と言われるようなことは全部できるんだから」
「でも、思考を読み取られるなんて、困るでしょ?」
「防げるさ、これでね」
|水緒美《みおみ》は指先で|白扇《はくせん》をクルリと一回転させてみせた。
「それにね、他人の心の中を|覗《のぞ》き見したい、なんて人間はイェマドにいなかったのさ」
「どうして?」
「知ってどうするのさ?」
万里絵は再び|黙《だま》った。
どうやら、|遺産《いさん》管理人たちから、秋月の超能力に対抗する手段のヒントを得るのは無理のようだ。
遼がいきなりうめき声をあげた。
「遼?」
顔をしかめ、二、三度頭を振ってから、遼は身を起こした「|大丈夫《だいじょうぶ》、遼?」
「うん」
|駆《か》け寄って、手を貨してやると、遼は腰を軸に体を回し、ソファの上に座り直した。
「あたしたもの話していたこと、お聞きだね?」
畳んだ新聞を傍らに置き、|白扇《はくせん》を閉じたり開いたりしながら|水緒美《みおみ》が尋いた。
「はい」
仮死状態に陥った遼は、同時に幽体離脱《ゆうたいりだつ》状態でもある。生命反応を示さない肉体の上に、意識だけが浮かんでいる状態なのだ。
「|遺産《いさん》は遼くんが処分してくれた。だが、超能力坊やが残ってる。あの子の口から|遺産《いさん》やらイェマドやらについてしゃべられると、あたしたちとしては困るねえ」
穏やかな口調ではあった。だが、意志の強そうな|顎《あご》の線が強調する口許の表情は固かった。切れ長の目も手許の|白扇《はくせん》に向けられ、表情はかわらない。
「――問題は、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》よりも、|潜在《せんざい》能力開発機関のほうだと思います。何といっても、|諜報《ちょうほう》機関が組織立って行動しているわけですから」
「|丈太郎《じょうたろう》は、そっちのほうに関心があるようだね。――それで、遼くんは、あの坊やについては自分に任せろと、こうお言いなわけだ」
「はい」
「まあ、あまり万里絵ちゃんに迷惑をかけないことだね。そうでなくても無茶しがちなんだから、この娘は」
遼の目が|一瞬《いっしゅん》、万里絵を見る。
「シャワーを浴びるか、顔だけでも洗っといで」
「はい」
遼は立ち上がった。あの公園で見せた|疲労《ひろう》はどこにも見られない。猫背気味の背筋も真っすぐ仰ばされている。ただ、すがすかしそうな表情のどこかに、ほとんど透明《とうめい》な悲壮《ひそう》さのようなものが感じられるように、万里絵には思えた。
冬扇堂を出て、遼が学校へ行くと言うと、万里絵は驚いた。
「終業式なんだよ。行くだけでも行ってみるかって尋いたのは、マーちゃんだろ」
「でも、その格好じゃ行けないわよ」
二人は一度|橘《たちばな》マンションに戻り、学校へ行く支度をした。
遼が、|氷澄《いずみ》から借りた|上着《うわぎ》を脱ぎ、シャツを|着替《きが》え、クリーニングから戻ってきたばかりの冬用ズボンに仕方なく履き替えた頃、スッキリした顔の万里絵が現れた。
「職員室に電話しておいたわ。遼はマンションの|玄関《げんかん》で貧血を起こして倒れたんで、通りかかったあたしがとりあえず部屋まで連れていった――。先生にはそう説明したから」
遼は礼を言った。
「ところで、これ何?」
万里絵は二、三本の花を遼に見せた。遼の顔がかあっと無くなる。
「……説明すると、ちょっと長くなるんだけど……」
言葉が見つからない。良くなるというよりも、説明がつかないのだ。今となっては、どうして一万円分も花を買う気になったのか、自分でもよくわからない。
「とりあえず、貰っとくね。ありがとう。――部屋中に飾っても余りそうだから、お風呂に浮かべてみようかな」
また、顔に血が上るようなことを言う。遼は、万里絵をうながして部屋を出ようとした。
「遼、包帯、包帯」
そうだった。剣の“守護神”の働きですっかり回復してしまったが、光の|野獣《やじゅう》に|襲《おそ》われて負った|火傷《やけど》に包帯がしてあった。学校のみんなには、料理をしていて|火傷《やけど》をしたことにしてある。たった三日で跡も残らないほどきれいに治っていたら、変だろう。
万里絵が手早く包帯を巻き終えると、遼は古いスボーツ・バッグを引っ張り出して肩から下げ、部屋の中を見渡してから、|玄関《げんかん》を出た。
遼は、万里絵と三〇センチほどの|距離《きょり》をとりながら駅へ歩いていった。
「秋月山美彦のこと、|水緒美《みおみ》や|丈太郎《じょうたろう》に任せられないの?」
万里絵の問いに、うなずく。
「僕が、大いなる力、世界を滅ぼせるほどの力に脅えていて、それを知った秋月さんが僕に近づいてきたのなら、今度の事件の責任は僕にもある」
「秋月山美彦が嘘をついた可能性だってあるわ」
「だって、彼は超能力者なんだよ。僕の心の中を読めるんだ」
「関係ないわよ。超能力で他人の心が読めるからって、読んだ内容を正直に話してるとは限らないでしょ。超能力者だって墟もつけば、さっきの公園の時みたいに逆上して超能力を使うのを忘れることだってあるわよ。能力と人格には相関関係はないんだから」
「そうかな。――それじゃ、|水緒美《みおみ》さんの言ったこと、正しかったのかもしれないね」
遼の言葉に万里絵は|眉《まゆ》を寄せた。
「秋月さんがマーちゃんのことを好きだから超能力が使えなかったって言ってた、あれ」
「|冗談《じょうだん》でしょ。|水緒美《みおみ》本人も口から出まかせだって認めてたじゃない」
「秋月さんについてはどうだかわからない。でも、僕とザンヤルマの剣の関係については正しいんじゃないかと思う」
「――遼が、無意識では剣を抜くことを拒否していたってこと?」
「そうじゃないかな」
「自分が殺されそうになったのに剣を抜けなかったんでしょ? そんなことがあるかな」
遼は|黙《だま》った。|黙《だま》ったまま歩いた。
「――でも、遼なら、そういうこともあるかもしれないね。――それで、今度は剣が抜けるっていう保証はないのに、それでも|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》と対決するの?」
遼はもう一度うなずいた。
「やっばり僕の責任の部分はあると思うし、それに、剣のあるなしは関係ないんだって、マーちゃんが教えてくれたんだ」
万里絵が足を止める。
遼も足を止めて、万里絵の顔を見た。
「あたし、何か言ったっけ?」
「――剣がなくなった時、僕は、もう闘《たたか》う責任がなくなったんだと思おうとした。でも、できなかった」
「あたしが|拉致《らち》されたから?」
「それもあるけれど、何が起きているのか知ってしまったら、|黙《だま》って見過ごすことはできなかった」
「遼……」
「それにね、秋月さんは、力を手に入れたから自分が正しいと思っていることをやっている。僕の闘《たたか》う理由が、ザンヤルマの剣を待っているからって、それたけならば、秋月さんと一緒だし、それじゃ、彼を止められないよ」
万里絵が苦いものでも口にしたような顔をする。
そんな万里絵の顔を見ていると、今度は遼のほうが辛くなってしまった。
「あっ?」
頬に、肩に、水滴が当たる。始めは乾いた路面にまばらに黒い染みをちりばめていた雨が、一気に土砂降りに変わった。
二人は近くのコンビニエンスストアの軒下に|駆《か》け込んだ。
「――|傘《かさ》待ってないや」
「あたし、持ってる。駅まですぐだから、一緒に行こう」「一本買うよ。ここ、コンビニたから、ビニールの安いのくらい売ってるだろ」
「|妙《みょう》なところで出会ったものだな、少年」
万里絵への言葉の最後を、まだ舌の先に残したまま、遼の体が動かなくなる。全身の骨と筋肉との聞に|隙間《すきま》が出来て、そこを風が吹き抜けたような気がした。
「|水緒美《みおみ》のところに顔を出すつもりだったんたが、まさか君に会うとは思わなかったよ。元気そうで何よりだ」
遼はスポーツ・バッグの中に手を突っ込んだ。|硬《かた》い柄の|感触《かんしょく》。握る。抜こうとする。
「駄目よ」
遼の腕を万里絵が押さえた。
「――そうだな、少女の判断が正しいようだな」
ビニール袋を下げだ男がコンビにから出てくると、遼たちの脇を歩いていった。
「私はともかく、町中で白刃を振るって人を斬殺したとあっては、ただでは済むまいな」
遼は振り向いた。
「ひさしぶりだな、少年。いや、ザンヤルマの剣士」
ニメートルと離れていないところに、|裏次郎《うらじろう》が立っていた。もう一人の|遺産《いさん》管理人。黒いスーツにステッキ。整えられず無造作なままの硬そうな|髪《かみ》。いかっいが、どこか|魅力《みりょく》的な造作の顔に、何かを面白がっているような笑みを浮かべている。だが、黒い|瞳《ひとみ》は光を吸い込むようで、何を考えているのかは読み取れない。その姿は、現代によみがえらせた魔導士といったところか。
「生きていたのか、|裏次郎《うらじろう》」
「ご挨拶だな、ザンヤルマの剣士」
|裏次郎《うらじろう》は白い歯を見せた。遼の言葉に対して|怒《いか》りや不快感を覚えたわけではないだろう。
遼に向けられるのは常に嘲りか、罠に陥れるための優しげで人を魅きっける言葉だけだ。
いや、遼に限ったことではあるまい。今という時代に生きている人間全てに|嘲笑《ちょうしょう》を浴びせかけるのが|裏次郎《うらじろう》の目的なのだから。
「――何故、彼に|遺産《いさん》を渡した」
「彼?」
「|潜在《せんざい》能力を開発する|遺産《いさん》を渡しただろう」
「ああ、あの少年か」
意味のない問いかもしれない。今の時代に生きている人間全ての|愚劣《ぐれつ》さを証明しようとする男にとって、一人ひとりの人間にたいした差などないだろう。だが、問いかけずには
いられなかった。
「他の人間の場合と同じことだ。彼は|遺産《いさん》を起動できる。つまり、|遺産《いさん》を相続する権利があった。そして、彼にはそれが必要だった」
|裏次郎《うらじろう》は、雨脚を見るように視線を脇にやった。
「|遺産《いさん》を渡した時、彼は自分の才能の|欠如《けつじょ》に悩んでいた。アフリカに行って、動物を相手にする仕事をするのが夢なのだが、自分にはその方面の才能がなくて無理だ――そんな風に言っていたな。私は喜んだよ。あの教育装置なら、彼に打ってつけだ、とね」
地面を|叩《たた》く雨の音は|激《はげ》しく、街の喧噪《けんそう》が遠くなるほどだった。にもかかわらず、|裏次郎《うらじろう》の深みのある低い声は確実に伝わってきだ。
「もっとも、彼の中に埋もれている才能がどのようなものなのか、ということまでは私にもわからないがら、賭けの要素がないわけじゃない。ひょっとしたら、アフリカに行って動物相手の仕事をするのには不適当な、あるいは役立たない才能が引き出されるかもしれない。それでも、夢を待っている若い人なら、確かな才能が自分にあると知ることで、きっと夢を実現させるスブリング・ボードにしてくれるだろうと思った。よもや危険もあるまいと思った。だが、私の買いかぶりだったようだな」
ため息まじりの|裏次郎《うらじろう》の声に込められた|嘲笑《ちょうしょう》が遼の胸をえぐる。
「あれからもう二年になるというのに、彼はまだ日本国内にいるわけか。夢を実現させるための手立てを何もしていないというわけか」
いかにも悲しげな表情をし、芝居《しばい》がかった仕草で肩をすくめ、首を振ると、|裏次郎《うらじろう》は遼たちのほうへ向き直った。
「今世の人間というやつ、現実から逃げようとする時、いや正確に言うなら、現状から逃れたいが、そのための努力など何もしない時に“夢”という言葉を待ち出すらしい。言葉を発する者も聞かされる者も、それが何か美しい意味を待っているかのように思い込んでいる。つくづく――」
ザンヤルマの剣を|掴《つか》んだままの遼の手が震える。胸の内に沸ぎ上がる熱いものが、腕を伝わって剣にまで届くようだった。
「駄目よ、遼。剣の力をコントロールできない状態で抜いちゃ駄目」
万里絵の言葉に、遼は懸命に|怒《いか》りを押さえた。だが、コントロールできないといえば、まさに遼の感情こそコントロールしがたくなっている。
遼の戦意を感じ取ったか、|裏次郎《うらじろう》がステッキを持ち変えた。|水緒美《みおみ》の|白扇《はくせん》や|氷澄《いずみ》の|懐中《かいちゅう》時計同様の働きをする|裏次郎《うらじろう》の“守護神”だ。
「この前の一件で、私もようやく命が惜しいという心境になったよ、ザンャルマの剣士。だから、ここで君と刃を交えるわけにはいかないんだ」
戦闘回避《せんとうかいひ》の宣言であるにもかかわらず、|裏次郎《うらじろう》の言葉は挑発的だった。
「|水緒美《みおみ》の顔を見るのは、また今度だな……。では、頑張ってくれ、ザンャルマの剣士」
|裏次郎《うらじろう》は身を翻し、弱まる気配さえない雨の中へ|駆《か》け出した。
遼は後を追った。
だが、脇道を曲がったところで、黒いスーツの背中は見えなくなった。|傘《かさ》もささない、ステッキ小脇の黒いスーツ姿、そう簡単に見失うはずはない。
遼は空を見上げた。言に閉ざされた|鉛《なまり》色の空からは大きな雨粒が絶えることなく降りつづいている。どこにも黒い|人影《ひとかげ》は見当たらなかった。あるいは|瞬間《しゅんかん》移動してしまったのか。
水滴が付いた|眼鏡《めがね》レンズの歪んだ視界が赤く染まった。万里絵が|傘《かさ》をさしかけたのだ。
遼は正面から万里絵を見た。意外と濃い|眉《まゆ》の下の、猫を思わせる大きな|瞳《ひとみ》が遼を見ている。その表情は、どこか悲しげだった。
「どうしてもって言うなら、次は止めない」
|硬《かた》い声で万里絵が言った。
遼は、剣の柄を握っていた手を開いた。
「――|馬鹿《ばか》だよね。大いなる力って言葉に脅えていたのに、あいつの話を聞いているうちに自分を抑えられなくなって――」
遼は|眼鏡《めがね》を外し、照れ|隠《かく》しのようにレシズの水滴をハンカチで拭った。
――それは、遼が、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》のことを大切に思っているからよ」
大切――そうかもしれなかった。たとえ、超能力によって他人の命を奪っている人間であっても、秋月山美彦は遼にとって、心を開けるかもしれないと思った相手なのだ。
「やっばり、|水緒美《みおみ》や|丈太郎《じょうたろう》じゃなくて、遼が結論を出すのがいいのかもね」
「――ありがとう、マーちゃん」
遼は、万里絵の真っすぐな視線を正面から受け止めて言った。こんな近くに、わかってくれる相手がいるのに、どうして自分は孤独だと思い込んでいたのだろう。遼は恥ずかしかった。
「じゃ、学校へ行こうか」
赤い|傘《かさ》の中で、それでも万里絵とはきっちり一五センチの|距離《きょり》をとりながら、遼は駅へ向かった。
遼たちが|鵬翔《ほうしょう》学院高校の門をくぐった時には、講堂での終業式も終わり、各教室での事務的な話が始まっていた。
二年生最初の成績を記した通知表をはじめとする各種の印刷物の束を渡され、注意事項を聞かされ、呆気ないほど簡単にその日の予定は片づいてしまった。
遼が、担任の宮内のところに行くと、「|大丈夫《だいじょうぶ》か」と尋かれただけで、医師の診断書を提出しろといった面倒なことは言われなかった。保健室の常連だったことが幸いしているのかもしれない。
終業式を終えた午後、電話で在宅を確かめてから、遼は|氷澄《いずみ》の家を訪ねた。
「あの、お借りした|上着《うわぎ》なんですが――」
「捨てろ。ただし、中身が何なのかわからないようにしてな」
茶の|一杯《いっぱい》を出すでもなく、|氷澄《いずみ》は遼を私室へ案内した。
「|遺産《いさん》の処分は済んだそうだな。――|水緒美《みおみ》から聞いた」
|氷澄《いずみ》は|上着《うわぎ》のボケットから一通の淡いグリーンの封筒を取り出した。どうやら何かのダイレクト・メールらしい。
「学校の事務室に来ていたのを、掠め取った」
遼は渡された封筒の発信者を見た。株式会社グリーン・ヘルス――|潜在《せんざい》能力開発機関の|隠《かく》れ蓑だ。総合健康管理システムのご案内――白い紙に黒いインクで印刷された挨拶状《あいさつじょう》、さらに、カラーのパンフレットと、申し込み用紙が入っている。パンンレットには、豪華《ごうか》な設備の写真や、著名人の推薦文《すいせんぶん》、そして、総合健康サービスを利用している有名企業や学校などの名前が並んでいた。そのなかには、|星嶺《せいれい》学園の名前もある。
「|潜在《せんざい》能力開発機関の責任者だった雨宮という男、今朝死んだ」
遼はパンフレットから目を上げ、|氷澄《いずみ》の顔を見た。
「東京支社のあるビルの屋上から投身自殺をしたらしい。時間的には日の出の前後、自殺者の多い時間帯だ。不自然ではない。だが、雨宮は|上着《うわぎ》を脱ぎ、そのポケットに貴重品とネクタイをひとまとめにして入れていた。まるで、体を動かす作業の準備のようにな」
「どういうことなんですか」
「テレパシーでも、自殺を強制するのは難しいだろう。だから、トリックが必要だったのではないかな。例えば、暑くて|喉《のど》が渇くから、冷たいものを飲むのだという暗示をかけて、ガラス片を飲み込ませるとか、|髪《かみ》の毛が汚れているから、熱い湯で洗おうと思わせて、煮えたぎった鍋の中に頭を突っ込ませるとか、な。雨宮も、屋上のフェンスの上でラジオ体操でもさせられたのかもしれん」
遼の脳裏に|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》の笑萌か浮かんだ。胸の奥がすっと冷えていく。僕は|間違《まちが》ったことをしたかな――。そんな言葉が聞こえるようだ。
「――責任者が死んでも、組織が生き残っている以上、私たちの|脅威《きょうい》にならないように|叩《たた》く。第二次大戦後では九つ目の特殊《とくしゅ》機関になるな。――|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》は君に任せよう」
「お願いします」
「|星嶺《せいれい》学園の学籍《がくせき》カードだったな」
「はい、お願いします」
|氷澄《いずみ》はイェマドのコンピュータを操作し、前にやったのと同じように、部屋の四方の|壁《かべ》一面に写真入りの学生のデータを映し出した。
遼は|端《はし》から見ていった。
「――手掛かりになるかはわからんが、|妙《みょう》な話を聞き込んだ」
一つの|壁《かべ》のデータを見終えたところで、|氷澄《いずみ》が口を開いた。
「|星嶺《せいれい》学園に、秋藤邦彦という学生がいたそうだ」
「アキフジ・クニヒコ……」
「似ているだろ。|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》という名前、秋藤邦彦にヒントを得ているのかもしれん」
「|星嶺《せいれい》学園にいたって言いましたけれど、今は――」
「死んだ。去年の九月初句、殺人だ」
「超能力か自然発火が関係しているんですか?」
「いや、力の強い何者かに、後頭部を何度もコンクリートの路面に|叩《たた》きつけられて死んでいる。犯人は不明。殺人事件として捜査が始まった段階で学籍は抹消されている」
遼は、|隣《となり》の|壁《かべ》のデータを読み始めた。胸にわだかまるものを感じる。なぜ、殺人事件の|被害者《ひがいしゃ》が学籍を抹消されなければならないのだ。犯人というのならまだしも、|被害者《ひがいしゃ》であることが学校にとって不都合なのか。いや、犯人だったとしても、教育の場である学校が、一切関係なしという立場になって平気なのか――。
――!
|壁《かべ》の左下の|隅《すみ》、遼は、目指す少年の顔を見つけた。後ろめたい気持ちで、記載されているデータを読む。
「終わりました、消してください」
立ち上がって|氷澄《いずみ》に言う。
|壁《かべ》は|普通《ふつう》の白い表面を取り戻した。
「秋月山美彦の正体がわかったのか」
「いえ、半分だけです」
「半分?」
|怪訝《けげん》そうな、どこか軽蔑したような声で|氷澄《いずみ》が聞き返す。
「秋月さんが、本当は何という名前の、どんな顔をした人関なのかは、実はどうでもいいことなのかもしれません。少なくとも、僕にとってはどうでもいいことです。僕が知ってるのは、秋月さんだけなんですから」
「――ヤガミ君はそれで本当に|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》との決着がつけられるのか」
「決着?」
今度は遼が聞き返した。
「秋月山美彦は死ぬべき人物だ。君に彼が殺せるのかと尋いている」
「――わかりません。でも、やらなければならないことはわかっているつもりです。そして、そのことから逃げることもしません。結論は僕が出します」
遼は一礼して、|氷澄《いずみ》の家を後にした。
彼は小さな花束を手に現れた。
一日中降りつづいた雨がやっとあがり、夜空には月も出ている。青白い光の射す墓地の石畳《いしだたみ》を、彼は慣れた足取りで歩いてきた。
毎月、あの子の命日にはお花が供えられているんです。どなたがなさるのかわからないのですけれど――。
|星嶺《せいれい》学園高校は有名な進学校だから、県内のみならず、県外からも多くの学生が通っている。まずは自宅の電話帳のページをめくった。|日比城《ひびき》市を含む県南部に該当する家はなかった。電車で|隣《となり》の市まで行って、公衆電話に備え付けの県西部の電話帳を繰り、番号を押す。三件目の秋藤姓が目指す家だった。小学校で友だちだった者だと身分を偽り、一〇年ぶりにアメリカから帰ってきて、秋藤邦彦の死を知って驚いていると嘘をついた。秋藤の母親はぽつりぽつりと、息子とその死について話してくれた。テレホンカードの数字が一桁になるまでに知ることのできた手掛かりらしきことは、秋藤邦彦の命日には墓前に花が供えられているということだけだった。
墓石の陰に潜んで遼は待った。秋藤の家族にさえ献花する姿を見せないのなら、夜のかなり遅い時刻に墓参りをしているのだろう。そして、人目を避ける理由は――。
息をひそめて待つ遼の視界に、不意に彼は現れたのだった。真っすぐ秋藤家の墓に向かい、手にした花を墓石の前に置くと、頭を垂れて合掌する。
遼は墓の陰から出た。
|納得《なっとく》がいくまで拝んだのか、やがて彼は立ち上がり、墓の前でもう一度頭を垂れた。
「秋月さん――」
大きな声を出すっもりはなかった。だが、秋月を呼ぶ声は、思った以上に大きかった。
彼のうつむけていた顔が上がる。
「矢神……」
遼はゆっくりと秋月の前に出た。墓参りに合わせたわけではないが、冬服の|詰《つ》め|襟《えり》姿だ。
秋月の目が細められる。
「何故、君がここにいる」
「秋月さんと話したかったからです」
「君に話すことなど何もない。帰りたまえ」
「いえ、聞かせてください。僕はどうしても知りたいんです」
「何をだ」
「どうして、あなたが人を殺したりしたのか。いえ、どうして、|星嶺《せいれい》学園高校野球部のエースである||山本伸一《やまもとしんいち》さんが|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》になったのか。その理由を聞かせてください」静かだった。市街地から少し山の中へ入った場所にある霊園《れいえん》である。夜になれば|人影《ひとかげ》は全く絶える。だが、自然の静けさに加えて、遼の発した問いがあたりの空気を重たい沈黙で|覆《おお》ったようだった。
「知っていたのか……朝霞万里絵か?」
「違います。――あなたは、常にテレパシーで美少年のイメージを周囲の人間に送りつづけていた。あなたのテレパシー発信能力は凄いレベルのものらしいから――。そうやってあなたは||山本伸一《やまもとしんいち》とは全くの別人、実際には存在しない“|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》”になっていた。
――ザンヤルマの剣には、体を正常な状態に保つ機能があるんです。|疲《つか》れや|怪我《けが》や病気を急速に回復させます。剣を抜くことで、僕は秋月さんのテレパシーの支配から逃れることができました。そして、秋月さんの素顔も見ることができた」
「君が剣を抜いた後では、僕は君の前に姿を見せていないはずだ」
「仮死状態になった僕は、同時に幽体離脱《ゆうたいりだつ》状態でもあるんです。あの公園での秋月さんと彼女のやり取りや、彼女が脱出した一部始終を見ていました」
秋月は、目の下に手をやった。万里絵が弾いた小石が当たったところだ。
「今度は秋月さんが答えてください。|裏次郎《うらじろう》は、二年ほど前に秋月さんに|遺産《いさん》を渡したって言ってました。秋月さんは、それから何をしたんですか」
「――|遺産《いさん》――カオルクラは、貰ったその場で動き出した。俺の中に眠っている才能は超能力だって言って、それを引き出すための教育を始めた。一か月もしないうちに、俺は自分でもびっくりするような超能力が使えるようになった」
「何もしなかったんですか」
「したさ。|隣《となり》の庭の木を折ったり、学校の窓ガラスを割ったり、|透視《とうし》で女の子の裸を見たり、そんなことをな」
強張っているように見えた秋月の顔が余裕を取り戻したようだった。だが、遼と目を合わせることはせず、視線は下に向けられていた。
「秋月さん――いえ、||山本伸一《やまもとしんいち》さんは、高校野球のエースとしてまわりの人から期待されることから逃げたかったんじゃないですか。校則違反の長い|髪《かみ》の毛をして、何々したまえなんて、|普通《ふつう》はできないような気取ったしゃべり方をして、高校野球のエースらしくない甘いもの好きの一面を堂々と解放し、持ってもいない|蝶《ちょう》の標本を見せて、野球以外の夢を語る――|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》という仮面が手に入った時、息抜きをしたくて、二重生活に使ったんじゃないか、そんなふうに思うんです。――ごめんなさい、僕の勝手な想像です」
「当たらずといえども遠からず、だよ。あのマンションの部屋も、そのためのものだ」
「では、どうして人を殺すことになったんですか」
秋月は答えなかった。
「別に秋月さんが犯人だと決めつけるわけではないんです。――何人かの人間が、|恐《おそ》らく超能力に関係あると思われる死に方をしています。だから、僕は秋月さんに聞きました。
僕が知っている超能力者といえば、秋月さんだけですから。秋月さんが事件に関係ないと断言するなら、僕はそれを信じます」
|蝶《ちょう》が現れた。秋月の|詰《つ》め|襟《えり》に似た色合いの|蝶《ちょう》だ。秋月の指先から水銀が滴るように現れ、つぼみが花開くように四枚の羽を形作ると、ひらひらと吉に舞い、近くの墓石にとまる。
意識してやっているのか、あるいは無意識の|行為《こうい》なのか、秋月の指先からはノーブル・グレイの|蝶《ちょう》が次々に生まれ、墓石の縁にとまっては微弱《びじゃく》な銀色の光を明滅《めいめつ》させた。
「あなたが秋月山美彦であろうが、||山本伸一《やまもとしんいち》であろうが、僕にはどうでもいいことです。でも、あなたが人を殺したのなら、何故そんなことをしたのか、僕はそれが知りたい。知らなくてはいけないと思っています。友だちになりたい、なれるかもしれないって思った時もある人なんですから、あなたは」
遼に言えることは、もう何もなかった。
風のない夜だった。町のざわめきも、ここまでは伝わってこない。
いつの間にか銀色の|蝶《ちょう》があたりを埋め、今では月の光よりも明るく二人を照らしている。
「一年前――」
秋月が口を開いた。
「俺は、つまらない口喧嘩《くちげんか》が元で、秋藤邦彦に|怪我《けが》をさせた。選手が傷害事件を起こせば、学校は出場停止になる。|星嶺《せいれい》学園は、そんな選手を学校に置いておかないだろう。どうしたらいいのか、俺はわからなかった」
遼に対して、自分の正しさや夢を語った時とは|違《ちが》う、気取りのない口調だった。遼はうなずいた。秋月は見ていなかったけれども、うなずいてあげなければならないと思った。
「だけど、何も起こらなかった。傷害事件の話はどこからも出なかった。俺は勝ち進み、甲子園で準優勝ってとこまで行った。そして、大会が終わった後で知ったんだ。秋藤の|怪我《けが》は、階段でふざけていて自分で落っこちた事故として処理されたって」
また、遼はうなずいた。昼間の電話で秋藤の母親から聞いた話と一致する。去年はあの子にとっては巡り合わせの悪い年だったんですねえ。夏休みの前にも、階段で転んで腕を折ってしまって――。
「秋藤に嘘をつかせた奴がいるとすれば、坂巻しかいない。何といったって野球部の|顧問《こもん》だし、あの時の発見者で、秋藤を病院へ逓れていったのも坂巻だ。俺は、あいつに酒を飲ませて、意識の|抵抗《ていこう》力が落ちたところで、頭の中を読んだ。俺の思ったとおりだった。坂巻が秋藤を脅かして、事故ってことで処理したんだ。だから……」
それまで淡々と言葉を進めていた秋月の声が濁った。鼻をすすり上げる音が聞こえた。
「だから……俺は坂巻を殺した。『私と野球部員たち』とかって、PTAの会誌に載せるくだらない自慢話の原稿を書いているところを、焼き殺してやった」
とうとう秋月は自分が殺人者であることを認めた――。遼の胸に苦いものが広がる。自分から求めた真相ではあったが、直面してみれば、あまりに辛いものだった。そして、それはまだ真相の全てではない。
「秋藤は、俺を裏切った」
しばしの沈黙の後で、秋月は言葉を継いだ。
「俺は、秋藤のために、あいつの|恨《うら》みを晴らすために坂巻を殺したんだ。秋藤のためにやったんだ。俺は、それまで誰にも話したことのなかった超能力のことを秋藤に話した。あいつのために坂巻を殺してやったことも話した。それなのに、あいつは、俺のやったことを認めなかった。自分には関係ないんだ、もう関わらないでくれ、学校もやめて、どこかへ引っ越すから、どうか自分に近づかないでくれ、あいつはそう言った」
秋月の言葉が途切れた。肩がかすかに震えているようだ。だが、泣いてはいなかった。
秋月は笑っていた。美しく|整《ととの》った顔の左の頬だけが|痙攣《けいれん》し、歪んだ笑みを形作っていた。
「俺の気持ちをわかろうとしない秋藤を許せなかった。俺はあいつを|殴《なぐ》り倒した。馬乗りになって、何度も何度もあいつの頭を地面に|叩《たた》きつけた。いつの間にか、秋藤は働かなくなっていた。俺の心を傷つけなければ、こんなことにならなかったんだと思うと、悲しくて涙が出たよ。坂巻も秋藤も、どうして俺を傷つけるようなことばかりするのか、腹立たしかった」
「――そんなあなたが、何故、秋藤邦彦をもじったような|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》を偽名に使っているんですか」
遼の質問が聞こえなかったのか、秋月は話を続けた。
「俺が、傷ついた心を抱えて苦しんでいた時、週刊誌の広告で、昔話題になった人間が今どうしているかって特集を見た。俺も見覚えがある超能力少年の名前があった。俺はその記事を立ち読みした。今は喫茶店のマスターをやってるそいつが、にやけったらしい顔で載っかってた。今でも時々スプーンを曲げたりします、なんていい気になってインタビューに答えていた。超能力を持ちながら、気楽そうに暮らしているそいつが許せなかった。
そんなに自慢できる超能力なら、自分の命を守ってみせろ。俺はテレキネシスでそいつに挑んだ。何度も何度も店のカウンターに頭をぶつけてやった。たいした|抵抗《ていこう》もできずに、そいつは死んだ。もともと超能力と言えるような力じゃなかったんだ。当然だ」
秋月は笑っている。|唇《くちびる》の両端《りょうはし》を吊り上げ、笑っている。
「|馬鹿《ばか》な女子高生が読むようなオカルト雑誌を読んで、超能力者とか霊能力者と呼ばれている連中のことを調べてみた。雑誌の記事になって、くだらない御託《ごたく》を並べている奴等が、どんな人間なのか知ろうと思った。同じだった。みんな、くだらない人間ばかりで、俺の足元にも及ばない才能しか持っていなかった。テレパシーを持っている奴は俺のテレパシーでコントロールして自殺させた。テレキネシスの持ち主は超能力少年と同じさ。――予知能力を持っていた奴は傑作だったぜ。何しろ、自分の頭の上からピアノが落っこちてくるのが予知できなかったんだからな。自分が死ぬことも予知できないなんて、間抜けもいいとこだぜ」
笑い声とともに秋月の肩が|揺《ゆ》れる。その肩から、ゆらりと青い炎《ほのお》が立ちのぼった。いや、炎《ほのお》ではない。青く光るそれは形を整え、遼を襲った鳥の姿になっていた。
「五、六人、そうやって能力比べをしたところで、例の|潜在《せんざい》能力開発機関の連中が俺に気づいた。逆に利用してやったよ。ボスの雨宮からして丸っきりの|馬鹿《ばか》だもんな。俺の能力が最高なのを確認させた。それから、連中が見つけた超能力者のうち、多少は才能がありそうな奴に勝負を仕掛けたけど、誰も勝てなかったな。どいつもこいつも、幸せそうな顔をした|馬鹿《ばか》ばっかりだったよ」
秋月の空いている肩にも青い光の鳥が現れた。両側から青い光に照らされた秋月の白い顔の中で、切れ長の目と、通った鼻筋と|唇《くちびる》の形作る曲線の微妙《びみょう》な陰影《いんえい》だけが黒い。実在しない、テレパシーで与えられたイメージとは信じられない。
「そんな時、君が現れたんだ、矢神遼」
秋月の目が、初めて真っすぐ遼を見だ。うなずきながら遼も見返す。
「大いなる力、世界を滅ぼせるほどの巨大な力、怖い、肋けてくれ。君の心はそう叫びつづけていた。それが聞こえだ。だから、君に救いの手を差し伸べたんだ。後は君も知っているだろう。君は僕の心を踏みにじった。素直に心を開こうとしなかった。君も、朝貢万里絵も」
遼はうなずかなかった。
「何故、|潜在《せんざい》能力開発機関を使って彼女を|誘拐《ゆうかい》させたりしたんですか」
「朝霞万里絵の頑なな心の|壁《かべ》を破るには、ある程度のショック療法《りょうほう》が必要だったからさ。君も同じだよ、矢神遼。列車の中で君にからんできた中年も僕が操《あやつ》った。橋の上でOLにからんでいたチンピラもそうだ。君に僕という人間を理解させてあげるのに効果的だからやった。それなのに、君は心を閉ざしたままで――」
「彼女は機関の連中に拷問されたんですよ」
「朝霞万里絵が素直に僕の忠告を受け入れていれば、そんなことにはならなかった。彼女が捕らえられている間にも、僕はわざわざ忠告したんだ。僕に頼めば、そこから救い出してあげるってわ。にもかかわらず、彼女は拒否した。僕の好意、無償《むしょう》の善意を」
荒っぽかった口調が、どこか気取ったものに戻りかけている。||山本伸一《やまもとしんいち》は、脱ぎかけた秋月山美彦の仮面をまた被るつもりなのか。
「ミスター・アカシャを殺したのは――」
秋月は高笑いした。
「わからないのかい?あの|馬鹿《ばか》な男が何て言ったか覚えてないのかい?超能力は誰にでもあります――。|馬鹿《ばか》なことを言う! 王選手が、誰でもホームラン八○○本打てますって言うかい? 誰でも一〇〇メートルを一〇秒以下で走れるかい? ノーベル賞やアカデミー賞は誰にでもとれるかい? できるわけないだろう!」
吐き捨てるように言うたびに、秋月の足元から|深紅《しんく》の|影《かげ》が伸びた。やがて、|影《かげ》は四本足の|野獣《やじゅう》の姿となり、遼と秋月の間に立ち上かった。
「いいかい、才能っていうのはね、選ばれた、限られた人間しか持っていないものなんだ。
その選ばれた人間が、努力に努力を重ねて、やっと手にできるものなんた。誰にでもあるわけないんだよ。自分はただの|手品《てじな》師のクセに、知りもしない超能力についてくだらないことをしゃべった。死んで当然だよ」
「――そうですか……。だから殺したんですか……」
体の奥底が震えている。震えが胸から肩、さらに首から頭へと伝わっていくのを感じる。
「――それで、秋月さんは、これからどうするつもりなんですか」
激情に|駆《か》られての言葉を吐き切った虚脱感からか、秋月の表情は平静に戻っていた。両肩には青い鳥、前には赤い|野獣《やじゅう》、周囲に銀色の|蝶《ちょう》をはべらせた秋月の姿は美しかった。
「前に君にも言ったことがあるはずだ。僕は自分の才能を正しいことに使うつもりだ。世の中には、僕が救いの手を差し伸べてあげなければならないような人かまだまだたくさんいる。そういった人たちを見つけ出し、助けてあげようと思っていいる。たとえ何度裏切られても」
「それが、あなたの夢ですか」
「君には僕の心は理解できないだろう」
遼は|眼鏡《めがね》を外した。涙があふれてしかたがなかった。
請われて無試験で高校に入学でぎるほどの野球の才能を持ちながら、それは不本意だという。正義感はある。しかし、他者がそれを正義と認めない時には、攻撃に出てしまう。
孤独《こどく》に脅《おび》え、心からわかりあえる友を求めながら、勝ち負け、優劣《ゆうれつ》にこだわり、自分が上に立って、相手に手を差し伸べる以外の人間関係を知らない、あるいは認めない。
――何で……何でなんだよ……何でそんなふうに……。
「――秋月さん、あなたはかわいそうな人だ」
涙を|拭《ぬぐ》う。外した|眼鏡《めがね》を|詰《つ》め|襟《えり》の内ポケットに挿す。そして、代わりに、赤い波形の|鞘《さや》に収まった|短剣《たんけん》を取り出した。
「かわいそうな人だけど……許すわけにはいかない人だよ!」
叫びとともに白い閃光が走る。赤い波形の|鞘《さや》は|一瞬《いっしゅん》のうちに、月光に濡れる一メートル余りの直刀に姿を変えていた。
「自分の立場がわかっていないようだな、矢神遼」
秋月が笑った。これまで見せたどんな笑顔よりも毒々しい。刺すような笑いだった。
「許すとか許さないとかいうのは、上位にある人間が下に向かって言うことた。君こそが今、僕に対して許しを乞わなければならない立場にいる」
周囲の墓石にとまっていたノーブル・グレイの|蝶《ちょう》が放つ光で、あたりはぼんやりと明るい。銀の光に取り囲まれた闘技場《とうぎじょう》のようだ。
|蝶《ちょう》については、メッセンジャーと監視役《かんしやく》としての機能しか確認していないが、あの|野獣《やじゅう》や鳥の|同類《どうるい》だ。どんな攻撃力を秘めているかわからない。
遼は手の中の剣に意識を集中した。
柄から切っ先まで、自分の体の一部のような感覚が通じている。さらに、センサーとしての機能が周囲のあらゆる情報を伝えてくる。そして、遼の意識の動きに反応して、どこを攻撃するべきか、どう動けば相手の攻撃を防げるか、適切なアドバイスもしてくれる。
加えて、傷ついた体を癒す機能さえ備えているのだ。
――|蝶《ちょう》と、鳥と、|野獣《やじゅう》と、そして|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》!
秋月の周囲に何かの力が感じられる。身構える遼の眼前で、秋月はゆっくりと宙に浮いた。地面から一メートルほどの高さに留どまると、遼を指さした。
――来る!
グレイの|詰《つ》め|襟《えり》の肩で青い翼が羽ばたいた。右肩、続いて左肩から鳥が舞い上がり、遼のほうへ向かってくる。遼は、時代劇の鷹狩《たかが》りの場面を連想した。
マンションの前で|襲《おそ》われた時には、高いエネルギーを持っているらしいことしか確認していない。飛べる分だけ、|野獣《やじゅう》より攻撃方法が多彩になるだろうか。
先に飛び立った右肩の鳥が遼の真っ正面から襲いかかってきた。斬りつける。
|硬《かた》い|感触《かんしょく》が剣を弾く。ぼやけた輪郭しか持たない、|恐《おそ》らくはエネルギー体とでも呼ぶべき存在にしては、剣に伝わる|感触《かんしょく》はあくまで硬く、実体がないのだとは信じられない。
透明感のある涼しげな色の翼を|激《はげ》しく羽ばたかせ、青い鳥は遼を攻撃しようとする。遼は押され気味になり、少しずつ後ろへ下がった。
|眉間《みけん》の裏側で黄色い火花が敢った。危険信号だ。
――もう一羽はどこに……。
考えると同時にわかっている。
――後ろ!
背後から忍び寄っていたもう一羽の鳥が遼の首筋を狙う。
正面の鳥の攻撃パターン、背後の鳥の軌道、鳥をコントロールしている秋月の位置――
必要な情報が総合され、遼がふるうべき剣のコースを教える。ザンヤルマの剣のアドバイザー機能だ。
一旦は後退《こうたい》し、そこに出来たわずかな間隔《かんかく》を利用して、剣を一閃する。重い|手応《てごた》えがあり、青い光の|雫《しずく》を羽根のように舞い敗らせながら、正面の鳥は後方へ弾き飛ばされる。
それを確認する瑕もなく、遼は腰を落とし、体を回転させながら、背後の鳥を横に払った。同じような重い|手応《てごた》え。だが、二羽目の鳥は空中で踏み止どまった。そこだけ白い|爪《つめ》が――それとても体の他の部分同様、光で出来ているのだが――しっかりと剣を受け止めてしまっている。引こうとすれば引っ張られ、押そうとすれば押し返される。鳥の|爪《つめ》ががっちりと|掴《つか》んだ位置から剣が動かせない。
|眉間《みけん》の裏側でまた一つ、きな臭い黄色い火花が散る。一度は|叩《たた》き落とした鳥が逆襲《ぎゃくしゅう》をかけてくるのだ。
遼は剣を捨てた。
柄から手を放し、近くの墓石の陰へ走り込もうとする。
「|無駄《むだ》だ、矢神遼」
二羽の鳥が後を追ってくる。
背後で金属音が|響《ひび》いた。
遼は立ち止まり、振り向いた。
闇《やみ》をバックに、青く|輝《かがや》く二羽の鳥が急接近してくる。剣を|掴《つか》んではいない。
地面を蹴る。でぎる限り体を低くするが、二羽の下をくぐる時に、背中に灼けるような痛みが走った。ヘッド・スライディングのような格好で、敷石《しきいし》の上に鳥が落としていった剣に飛びつく。どうにか再び剣を手にすることができた。ザンヤルマの剣が遼に与えたアドバイスだった。
息をつく間もなく、身を起こし、剣を構えて反撃の体勢をとる。
二羽の青い鳥は左右に分かれ、大きな弧を描きながら遼に|迫《せま》る。
一度に二羽は墜とせない。後退してやり過ごし、機会を待つか。
――致命傷《ちめいしょう》を受けなければいい!
それが遼の判断だった。
左側の一羽に狙いを定めて斬りかかる。またも|硬《かた》い|手応《てごた》えが剣を弾く。
だが、鳥の勢いもそがれた。
構えを変え、突く。かすかながらも|手応《てごた》えがある。
剣を固定される前に引く。引きながら身を伏せる。
もう一羽の鳥が遼の頬をかすめる。ふわりと風に吹かれたような|感触《かんしょく》がして、次の|瞬間《しゅんかん》には頬と肩が裂け、血が噴き出していた。
一旦は飛び去った鳥、そして、攻撃を受けて空中に留どまった鳥の位置を剣が伝えてくる。攻撃を受けた鳥のほうが近い。遼のそばを勢いよく通過した鳥は、戻ってくるのに|若干《じゃっかん》の時間を必要としそうに見えた。
――惑わされるな。
輪郭こそは、熱帯のジャングルに棲息する色鮮やかな大型鳥を思わせる姿だが、目やくちばしや羽毛といったディテールを欠いた、青い光を放つ霧のようなものの集合体である。
|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》が操るエネルギーの|塊《かたまり》にすぎない。生物にはない力を備えているはずだ。
鳥たちが攻撃に移るどんなささいな前兆でも見逃すまいと、剣のセンサーが研ぎ澄まされる。
顔の右半分から肩にかけて、べっとりと血で濡れているのが強く意識される。
飛び去ると見えた鳥が光った。輝きの中で烏はバラバラに分かれ、三羽の鳥となって遼めがけて突っ込んでくる。
身を避わす余裕はなかった。わずかに剣の向きを変えるのが精|一杯《いっぱい》だった。
刀身が重たい|衝撃《しょうげき》を伝えてくる。
|輝《かがや》く剣は一羽の青い鳥を貰いていた。
残る二羽が遼の両脇を通過する。またしても緩やかな風に吹かれたような|感触《かんしょく》がすると、遼の肩と脇腹が切られていた。
遼は渾身の力を込めて剣を押した。何の支えもなく空中に浮かんでいる青いエネルギーの|塊《かたまり》に対してどこまで有効なのかはわからない。だが、砂地に木の棒を差し込むような手ごた応えをさせながら、剣は青い光の中に突き刺さり、刃が進むにつれて、烏の輪郭《りんかく》は生物そのもののように翼をばたつかせた。翼の|端《はし》から、まるで羽根布団が破れた時のように光の破片が散る。刀で刺されてのたうちまわる鳥のシルエットは、やがて風にあおられる炎《ほのお》のようになった。
――来る!
剣で突かれて、一度はひるんだもう一羽が逆襲《ぎゃくしゅう》に出た。
新たに生まれた三羽のうちの残り二羽がそれに加わる。
刺すのに使った力を、今度は剣を引くのに使う。重い。筋肉が悲鳴を上げる。
体の方向を変える前に、三羽の青い鳥は飛びかかっていた。遼は片手を放して顔をかばった。さっき受けた傷を中心に、灼けるような痛みが広がる。さらに、尖《とが》った服で引っかかれるような痛みが何度も感じられる。攻撃から顔をかばっている腕がぼろぼろになっていくのがわかる。
片手で剣を引こうとする。だが、今や青い炎《ほのお》となったエネルギー体を纏い付かせた剣はびくともしない。
脇腹から胸の奥にまで達するような痛みが走る。鳥が、がら明きになった遼の側面から攻撃したのだ。続いて、脊髄《せきずい》を電撃《でんげき》が|駆《か》け抜ける。こちらが動けずにいる分、自在に攻撃できる相手のほうが|圧倒《あっとう》的に有利だ。
剣を手放せば、逃げる自由は得られる。だが、さっきと同じ手は通用しないだろう。剣は秋月の手元に引き寄せられるか、場合によっては破壊されてしまうだろう。それに、これだけの攻撃を受けながら、遼が何とか命を保っていられるのは、ザンヤルマの剣の“守護神”機能のおかげのはずだ。手放すわけにはいかない。
攻撃を受けるたびに身をよじる遼の反応を面白がるように、三羽の鳥はそこかしこから苦痛の|爪《つめ》を突き立ててくる。遼は、悲鳴を上げる気力さえ失い、秋月の力で空中に固定されているザンヤルマの剣にすがって、ようやく倒れずにいるような状態だ。
――どうした、そこまでか、矢神遼」
秋月の声が聞こえた。
――笑ってる……面白がっているのか……。
超能力を持った者は生命反応が強いのか、それとも、いまだに秋月山美彦のイメージを発信しつづけているためか、剣のセンサーははっぎりと秋月の存在を捕らえていた。|揺《ゆ》るぎない存在を示す、強い圧力をともなった光のようなもの。キラキラと輝いて――。
――遊んでいるのか……楽しんでいるのか!
|崩《くず》れかかった|膝《ひざ》に力が入る。片手で顔をかばうことをやめ、両手で剣を握る。
致命傷にならなければいい――それが、さっきまでの遼の判断だった。だが、笑い混じりの秋月の声を聞いて、それは変わった。
――刺し違えてでも、止めてやる。
自分の力に溺れること、欲望を暴走させること――今の秋月が浸っている状態こそが、かつて思い人を遼から奪った元凶ではなかったか。肉体的な危機に陥って忘れかけていたその時の悲しみと|怒《いか》りがよみがえる。
――止めてやる。それこそが、僕の秋月さんへの……。
両手で握った剣が、遼の精神状態に反応する。手を伝わっての反応というより、遼の精神に直結したと言ったほうが近い。
「失せろ!」
遼の短い一言で、剣に粘り付いていた青い炎《ほのお》は飛び散り、鏡のような、それでいて透明にも見える刀身が現れた。白い輝きを放っている。光が炎《ほのお》を灼き尽くしたかのようだ。
剣が静かだったのも|一瞬《いっしゅん》のことだった。|呪縛《じゅばく》を断ち切った刃は、そのまま、|執拗《しつよう》な攻撃を繰り返していた残り三羽の鳥を払った。わずかな|手応《てごた》えがしたのみで、鳥型のシルエットは両断された。それぞれが羽毛のような薄青い断片を撒き散らす渦となり、|消滅《しょうめつ》した。
遼は秋月に向き直り、剣を構えた。頬の傷はふさがっている。体の奥底にはまだ痺れが残っていたが、肩から腕にかけての無数の傷も、痛みは薄れはじめている。
秋月は表情を変えず、再び真っすぐ遼を指さした。
空中に立つ秋月の足元で出番を待っていた|深紅《しんく》に光る|野獣《やじゅう》が一、二歩前に出て凪を剥く。
白く光る牙が、黄色い火花を散らしている。大型車のアイドリングのようなうなりが聞こえてくる。
遼は視線を秋月から|野獣《やじゅう》に移した。
前に|襲《おそ》われた時は、一時的な|錯乱《さくらん》状態に追い詰められさえした相手だ。だが、今の遼にあの時の恐怖感はない。ザンヤルマの剣があるから? 剣が正常に稼働しているから?確かにそれらの理由もあるだろう。だが、あの時と決定的に|違《ちが》うのは、遼に迷いがなくなっているということだ。すべきことを思い極めた遼に恐怖はなかった。
――来い!
心の中で叫ぶと、踏み出す。
夜の空気を裂いて|深紅《しんく》の|野獣《やじゅう》が飛びかかってくる。
遼も敷石を蹴った。
斬りつける。確かな|手応《てごた》えと同時に熱線が噴き出し、目の前が輝きで|覆《おお》われる。
半ば弾き飛ばされるようにして、遼は|野獣《やじゅう》から離れ、体勢を立て直した。
|野獣《やじゅう》も、着地するが早いか背をたわめ、次の攻撃の機会をうかがっていた。肩から背に白く光っているのは、ザンヤルマの剣による傷だろう。だが、よく見れば、ゆっくりとではあるが確実に傷口はふさがっていく。
剣を構え直す。
|野獣《やじゅう》を斬った時に浴びた熱線のためだろう、手の甲や頬がひりひりする。だが、剣を使うのに支障はなかった。
今度は遼から仕掛けた。
正面から|野獣《やじゅう》を串刺しにするつもりだった。生物の姿を象っていても、実際にはエネルギーの|塊《かたまり》、脳も心臓もなければ、血管や神経が走っているわけでもない。どこが急所なのかはわからない。だが、足や耳や尾などを切ったところで、全体に影響がないことくらいは予想できる。ひょっとしたら、首を切り落としても、効果はないかもしれない。
ならば全部にダメージを与えてやろう。頭から体の中心を通ってしっぽまで、切っ先が届くかぎり刺してやる――。遼の判断に、ザンヤルマの剣か応える。剣の狙いが定まる。
|野獣《やじゅう》が反応した。大きな|顎《あご》が開き、上下にびっしりと植わった牙が光る。全身から火花をこぼし、あたりの空気をきな臭くしながら突っ込んでくる。
ザンヤルマの剣は、まさにその開いた|顎《あご》の中に突き刺さった。
|野獣《やじゅう》を形作っているエネルギーが乱れているのか、不規則な熱と振動の高まりが刀身を伝って遼の腕を震わせる。
足を踏み締め、歯を食いしばって、剣をさらに|野獣《やじゅう》の体内深くへ押し込んでいく。
|強烈《きょうれつ》なエネルギーを|野獣《やじゅう》の形に固定するために、何等かの力が働いているはずだ。実体のない光の鳥や獣に剣を刺して|手応《てごた》えがあるのは、その力場が剣を排除しょうとするからだろう。剣が力場の安定を|崩《くず》した時、エネルギーは獣としての形態を|維持《いじ》できす、光る|野獣《やじゅう》は“死”を迎えることになる。
口の中に剣を剌されたまま、|野獣《やじゅう》は吠えた。
生物ではないのだ、力場で空気に振動さえ与えれば吠え声くらい立てられる、と頭では理解していても、やはり驚く
|野獣《やじゅう》は、さらに口を開いた。そして、そのまま遼に飛びかかろうとする。
剣が力場を破壊できなければ、このまま光る牙の餌食になってしまう。そして、力場を破壊する方法といえば、遼にはザンヤルマの剣を刺す以外にないのだ。
|深紅《しんく》の足が地を蹴ろうとした|瞬間《しゅんかん》、遼も剣に力を込めた。
手首が折れるのではないかと思うほどの|衝撃《しょうげき》の後、剣を軸に双方の力がせめぎ合う。
|若干《じゃっかん》の|距離《きょり》が縮まっていた。飛びかかる体勢だった|野獣《やじゅう》は、後脚だけで立ち上がった格好になっている。顔の脇まで上げていた前足が振り下ろされた。前足の先で白い|爪《つめ》が光る。
遼の肩を直撃した|爪《つめ》は、黄色い火花と血しぶきを飛び散らせながら、肩から脇腹までを一気に滑り降りた。
遼は全身を強張らせた。震え出しそうな体に力を入れて耐えるしかなかった。
ここまで相手の懐深くに踏み込んでいては後退できないという実際的な問題もある。
たが、そうした物理的な条件以上に、遼の心に退路がなかった。結論を出す。決着をつける。そう決意して来たのだ。ここで引き下がったら、何のために来たのかわからなくなる。
――僕はまだ、結論を出しちゃいない……。
|爪《つめ》が光る。二度、三度、四度……。そのたびに火花が散り、血が流れる。それだけではない。肉の焦げる臭いがしはじめた。
――それどころか、秋月さんと対等の立場に立つことすらしていない……。
胸、背中、腕の筋肉が痛み、震える。無意識に傷をかばおうとして、無理な力の入れ方をしていたのかもしれない。
|深紅《しんく》の|顎《あご》がまた吠えた。これまでにない力が加わり、遼の足がずるずると後退させられる。体内に震えが来ている。|火傷《やけど》の痛みとは別に、寒気がしてきた。
足が固いものを踏む。いつの間にか、墓石のところまで追い詰められていた。
――墓石を倒しちゃったら、まずいよな……。
そんなつまらない心配が脈絡なく頭に浮かぶ。思考にもダメージの影響が出ているのか。
――まだだ。僕は結論を出さなきやならない!
踏み込んだ。牙が、|爪《つめ》が待つほうへ。
|爪《つめ》が左目を突き制した。それでも踏み込む。
手が完全に|顎《あご》の中に入ってしまう。何十本という牙の光る|顎《あご》が|噛《か》み合わさる。鋭い痛みが骨まで達したが、構わず、そのまま下へ力を加えた。
不意に|抵抗《ていこう》が消えた。
ザンヤルマの剣は、|野獣《やじゅう》の|深紅《しんく》の体を|顎《あご》から尾の先まで切り裂いていた。
熱い|衝撃《しょうげき》波が遼を襲う。
四足獣の形態を|維持《いじ》できなくなったエネルギーが四散したのだ。
さらにいくつか傷を増やしながら、遼は墓石ごと倒れた。
意識が霞んでいるが、剣を杖にまた立ち上がる。
秋月がじっと見下ろしていた。
「たいした道具だな、その剣……大いなる力ってわけかい?」
遼は、体を支えていた剣から足へ体重を移した。足元がふらつく。
|蝶《ちょう》が放つ光で、周囲はまだ明るい。秋月は何事もなかったかのように落ち着いている。
「たいした道具だよ、その剣は」
秋月は繰り返した。指先にとまっていた|蝶《ちょう》が、炎《ほのお》が燃え尽きるように消える。
「だけど、僕には勝てない」
遼は|黙《だま》って剣を構えた。片目だけの視界に浮かぶ|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》――。
「君は、オウムやネコを下して、僕に勝ったつもりかもしれないが、それは間違いだ。ああいう形をとらせることで、強力なエネルギーが操りやすくなる。だからそうしているだけで、僕の能力は本来、目に見える力ではない」
噛んで含めるように説明する|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》――。自分の汚れた黒い|詰《つ》め|襟《えり》に対して、秋月が身に纏う|輝《かがや》くグレイの服の美しさといったらどうだろう。薄笑いを浮かべながらこちらを見下ろす視線に、淡々と語る声に、あふれている自信はどうだろう。
「その道具では、触れることさえでぎない力だ。君は、僕には勝てない」
そのとおりかもしれない。それでも遼は闘《たたか》うのだ。そうすることを選んだのだから。
「それに、君を倒すのには、そんなたくさんの力は必要ない。この程度で充分さ」
ともすれば霞みそうになる意識の中で鮮やかな黄色い火花が散る。危険信号だ。
二人の周囲に立っていた墓石のいくつかが音もなく浮き上がっていた。浮くというよりも、空中に場所を移したと言ったほうが適切かもしれない。浮いているという不安定さは全く感じられない、静かな浮上だった。
――――!
石の一つが飛んでくる。
とりあえず遼は避けようとした。
だが、動けない。腰から下が石になってしまったかのように、びくりとも働かないのだ。
――テレキネシス!
秋月のテレキネシスが墓石を飛ばし、同時に遼の動きを封じているのだ。
幸いなことに腕は自由だった。
正面から飛んでくる石にザンヤルマの剣で切りつける。剣が触れた途端、文字を刻まれた四角い石は、粉々になって飛び散った。
同時に、足が自由になった。よろけそうになりながら、遼は秋月に対して構えをとった。
「簡単なことだよ。足が動かないだけで、君は冷や汗をかくことになるんだから」
青い鳥や|深紅《しんく》の|野獣《やじゅう》のようなはったりの要素が全くないだけ、空を飛ぶ墓石の攻撃はかえって|恐《おそ》ろしかった。
遼が秋月のほうへ踏み出そうとした|瞬間《しゅんかん》、再び足が動かなくなった。
同時に、宙に浮いていた墓石の群れから、第二、第三の石が遼めがけて襲いかかる。
遼は必死になって剣をふるった。二つ、三つ、四つ、五つ、……。
いつしか石は後方からも飛んできた。振り向きざまに剣を|叩《たた》きつける。石が砕け散る。
それは、熱も炎《ほのお》もない爆発だ。
|眉間《みけん》の裏側で火花が散る。
――上か!
苔の付いた石を突き上げる。砂利の雨を浴びながら、さらに飛んでくる石を迎え撃つ。
きりがない。この墓地にある墓石全部を破壊するまで、これは続くのだろうか。
今や体は痛みの|塊《かたまり》だった。息を吸えば骨がきしみ、吐けば筋肉がひきつる。脈拍が打つたびに傷口がうずき、血を流す。神経に悲鳴を上げさせずに動くことは不可能だった。
不意に足が自由になった。剣をふるった勢いが余って、遼はよろめいた。
「まだ終わりじゃないよ、矢神くん」
足元がふらつく。いや、そうではない。足の下の石畳が|揺《ゆ》れているのだ。敷石が地面から離れ、遼に襲いかかる。左目が見えないために狭まった視界の外から追る。
だが、剣のセンサーは健在だ。数十枚の平たい石の一枚一枚の飛ぶコースを正確に|把握《はあく》し、安物の皿を割るように打ち砕く。
センサー、アドバイザー、そして本来の武器としての機能をフル稼働させているザンヤルマの剣。しかし、遼の体を回復させる“守護神”機能は低下しているのか、剣の動きに体がついていくのが苦しくなりつつある。
最後の敷石を粉砕し、遼は再び秋月に対して剣を構えた。
|眉間《みけん》の裏側に火花が飛ぶ。危険の来る方向に遼は剣を向けた。
今度は、握り拳大の石が飛んでくる。
遼は剣をふるおうとした。
――あっ?
動かない。剣が動かない。いや、今度は腕が動かないのだ。指の一本さえ動かない。
石は左側を直撃した。息が止まる。
石は、新たに撒かれた砂利の上に落ちた。|硬《かた》い音が一つする。遼はよろめくことさえしなかった。いや、できなかったのだ。腰から下が|崩《くず》れてしまいそうな|強烈《きょうれつ》な|衝撃《しょうげき》を受けたのだが、体のどこも動かないのだ。
不意に|呪縛《じゅばく》が解ける。
遼は秋月めがげて突っ込もうとした。動いた途端に側に痛みが走る。肋骨にひびが入っているようだ。構わずに走る。剣を構えて走る。
だが、遼の動きは再び封じられた。
黒く光る立派な墓石が正面から飛んでくる。避けられない。足はぴくりとも動かない。
――駄目だ、ここでやられるわけにはいかない。僕は、秋月さんと――。
ザンヤルマの剣は、遼との一体感を失っていない。今も遼の意識に反応しっづけている。
――まだだ!
石が遼にぶつかる。
同時に剣が力を示した。
石は砕かれ、飛び散った。
だが、衝突の際のショックは剣では防げず、破片のいくつかは遼を打ちすえていた。
またも秋月が|呪縛《じゅばく》を解いた。遼はその場に|崩《くず》れた。
「わかったかい、矢神くん。どんなに優れた道具を持っていても、君は僕に触れることさえできない。つまり、絶対に勝つことができないというわけだよ」
朦朧とする意識が秋月の言葉の意味を理解するのにしばらく時間が必要だった。
遼の動きを封じた力も、重たい墓石を投げつけた力も、どちらも目に見えなかった。
ザンヤルマの剣のセンサーではどうだろう?
目を閉じる。センサーの伝える情報が明瞭になる。宙に浮く秋月の姿もはっきりと捕らえている。
秋月の体から波紋が広がっている。水面に広がる波紋、あるいは磁石のまわりに散らした砂鉄のような模様が。
――これが、秋月さんの“力”……。
きれいな真円を描いていた波紋が歪む。一部だけ、極度に間隔が狭くなる。力が集中しているということか。
密度の高くなった波紋が墓石をくるむ。波紋の密度が変化し、石のまわりが均一になると、石は浮き上かった。秋月のほうから新たな変化が伝わる。石を乗せた波が、遼めがけて押し寄せてくる。
――剣で、力を捕らえることはできる。では、それを防ぐことは?
ザンヤルマの剣の破壊力は、通常の刃物としての働きによるものではないだろう。ちょうど、|氷澄《いずみ》が特殊警棒をエネルギー・コーティングして剣として使うのと同じように、見えないエネルギーが剣のまわりを|覆《おお》っていると考えられる。でなければ、光の|野獣《やじゅう》たちを倒すことはできなかっただろうし、|細身《ほそみ》の剣で墓石を砕くことも不可能だったはずだ。
――そのエネルギーで、何とかならないのか?
ゼロに近いような短い時間のうちに、遼の思考はそこまで回転していた。
秋月を包む波紋と逆の方向の波をイメージする。
ザンヤルマの剣がそれに応える。
――――!
秋月の操る波紋と、剣から放たれた波紋が打ち消し合う。石はスピードを失い、地面に落ちた。
「そういう芸当もできるわけか。――それなら、これはどうかな」
傍らで重たい音がした。
墓石の一つが割れ、ばっくりと口を開いている。その内部では、熔岩のような赤い光がどろどろと|揺《ゆ》れている。
―バイロキネシス……。
ミスター・アカシャを、坂巻学年主任を、そして、里見悟郎を殺した念力放火能力だ。
石の内部が温度の急激《きゅうげき》な上昇で膨張《ぼうちょう》し、破裂したのだろう。
遼は走った。秋月の視線から逃れるように走った。
テレキネシスの時とは違い、秋月の放つ力は、対象物の中心にいきなり湧いて出る。剣からカウンターになるような力を発することもできなかった。
なるべく秋月との間に障害物が入るようにして走る。わざとそうしているのだろう、遼が走り抜けた後を追うようにして墓石が割られていく。
畳半分くらいの大きさの碑の陰に、倒れるように逃げ込む。いや、実際、倒れたと言っても間違いではないだろう。遼の体は、筋肉が張り、骨がきしみ、自分の流した血に濡れそぼっている。ここまで走ってこられたのが不思議なくらいだった。
――逃げて、時間を稼げば、何とかなるのか……。
ザンヤルマの剣の“守護神”機能が健在ならば、遼の肉体を回復させるはずだ。だが、秋月の攻撃のたびに増えていくダメージのことを考えると、時間稼ぎにさほどの意味があるとは思えない。自らの努力で苦しみを引き伸ばしているようなものだ。
――だからといって、うかつな勝負は仕掛けられない。僕は、秋月さんの手に掛かるためにここまで来たんじゃないんだ……。
「|隠《かく》れんぼかい、矢神くん?対象物を目で捕らえていたほうが力を向けやすいけれどね、別に見えなくてもかまわないんだよ。肉眼に頼らなくても、|透視《とうし》能力があるしね」
秋月の言葉が終わると同時に、遼の右脚が青白い炎《ほのお》を噴いて燃え上がった。
とっさにザンヤルマの剣を突き刺す。
切っ先から光が噴水のように噴き出し、炎《ほのお》は消えた。
「なるほど、剣をアースのように使って、僕が送ったエネルギーを逃がしたわけか」
黒く焼け焦げ、剣の刺さった自分の脚を、遼は|恐《おそ》ろしいもののように見ていた。
痛みは感じない。奥歯が浮いたような感覚。寒い。右の|膝《ひざ》から先は、完全に感覚がなくなっていた。震える手で、刺さっている剣を抜く。全く何も感じない。
それでも、剣で地を突き、身を起こそうとする。――闘《たたか》うために。
「見えるよ、矢神くん。けなげに、愚かな努力をしている君の姿がね」
自信にあふれかえった声が、遼の心をかきたてる。そこにあるのは、もう一つの遼の姿、力に溺れて暴走する、人間だれもが持っている暗黒面に他ならないのだから。
「――だけど、僕の力には、|距離《きょり》も障害物も関係ないんだよ」
左脚に圧迫《あっぱく》感を覚える。次の|瞬間《しゅんかん》には、|膝《ひざ》から先が一八〇度ねじれていた。
とっさに剣を突き、よろけた体を碑に預けて倒れるのを防ぐ。
そのまま、上体を石の|壁《かべ》にもたれさせ、|肘《ひじ》で下半身を引きずるようにして、ゆっくりと進んでいく。
胸に、左脚と同様な圧迫感。胸の奥に熱さが広がり、肩、首、顔へと上ってくる。苦しい。呼吸ができない……。
「僕が何をしているか、わかるかい? 君の肺と心臓を停めているのさ」
いっかの電車の中年男の悶え苦しむ様を思い出す。秋月がその気になれば、面倒なことをしなくても、遼一人くらい殺すのは簡単だ。バイロキネシスでも、テレキネシスでも。
意識が通常の状態にない遼に対してなら、テレパシーで自殺させるのも容易かもしれない。
もっとも、心臓を停めたことをわざわざ解説するのは、スタイリストの秋月らしいが。
構わずに、ずるずると進んでいく。
不意に、胸の圧迫感がなくなる。反射的に息を吸い込む。頬に当たる碑の石が冷たい。
また、進む。
再び、秋月の力が心臓を押さえつける。
「いきなり脳みそを焼き尽くしてやってもいいんだけどね。内臓でもいい。そうしたら君は、切腹するのかな。――僕の心を裏切ったことをじっくり反省するがいい」
それでも進む。石の|壁《かべ》の|端《はし》まで行き、裏側へ、秋月のいるほうへ回り込む。
「感動的と言うべきなのかな、矢神くん」
声は聞こえたが、意味は頭を素通りしていく。
右目だけの視界にめるのは、宙に浮いた秋月、|崩《くず》れた墓の|残骸《ざんがい》、そして、|残骸《ざんがい》の中に一つだけ残っている墓石と、その前に供えられた小さな花束……。
――マーちゃんが、何か、言ってた……。
「……だよ、あなたは」
自分の|唇《くちびる》から出る言葉を、遼は他人のもののように聞いた。
秋月がこちらを凝視しているのを感じる。
「哀《あわ》れな人だよ、あなたは」
遼の片目だけの視線と、秋月の冷ややかな視線が絡まり合う。
「傷害事件を起こしてしまったあなたは、自分の将来を守ろうと、坂巻学年主任をテレパシーでコントロールして、秋藤邦彦を脅迫させた。事件をもみ消した後は、口封しのために学年主任を殺し、秋藤邦彦に責任|転嫁《てんか》しようとして、失敗すると殺す――」
息が続かなくなる寸前で、心臓と肺にかかっていた力がなくなる。
遼は、残った目に、有りったけの気力を込めて秋月をにらみつけた。
「本当の友だちなんて、あなたには一人もいないんだろ。野球がうまいからちやほやしてくれる人間と、テレパシーで操っている人間しか、あなたのまわりにはいないんだろ。哀れな人だよ、あなたは。秋藤邦彦だって、あなたが|嫌《きら》いだったんだ」
顔の筋肉に力を人れる。|唇《くちびる》の歪みを、秋月が|嘲笑《ちょうしょう》と受け取ったかどうか。
重い音がした。背中に振動が伝わる。遼は石碑こと地面に倒され、その上に秋月か馬乗りになっていた。
「この野郎! この野郎! この野郎!」
秋月の拳が右に左に遼の頬を|殴《なぐ》る。そのたびに遼の頭はぐらぐらと頼りなく|揺《ゆ》れた。
「野球なんか、将来なんか、関係なかったんだ。俺は秋藤のために、あいつのために坂巻を殺したんだ!」
秋月の血走った目が間近に見えた。
――ごめん、秋月さん。そのとおりだと思う。あなたはきっと純粋《じゅんすい》な気持ちでやったんだろう。経緯は知らないけれど、秋藤邦彦っていう人は、あなたにとった大事な人聞だったと思う。そうでなければ、いくらなんでも学年主任を殺したりしないだろうし、彼の名前をもじった偽名《ぎめい》を使ったり、命日に墓参りをしたりはしなかったよね。
「おまえなんかに何がわかる!何がわかるっていうんだ!取り消せ!今の言葉を取り消せ!」
秋月は、遼の襟首を揖むと、倒れた石碑に何度も何度も頭をぶつけた。
――あなたは、秋藤だけは素手で殺した。人づき合いのできないあなたが、彼のためにやったことを否定されて、心が乱れて、超能力を使うことさえ考えられなかったんでしょう?今と同じように。ごめん、僕はあなたの心を傷つけてしまった……。
頭の中で白い火花が散った。墨のように真っ黒な液体があふれ出し、意識を|覆《おお》っていく。
頭の中がいっぱいになると、黒い液体は鼻からあふれ、目の中にも流れ込んできた。
――あなたはかわいそうな人だ。でも、許すわけにはいかない人だよ。
「――ごめん、秋月さん」
秋月の勣ぎが止まる。
それが、遼の謝罪《しゃざい》の言葉のためなのか、自分を貫いているザンヤルマの剣のためなのかはわからない。
「今のこと、本気で言ったんじゃないんです。あれは嘘です。あなたを接近戦に引き込むための――。ごめん、ごめんなさい、秋月さん」
|鉛《なまり》のように重たい左腕に最後の力を込めて、遼はさらに剣を押し込んだ。
――遼の耳に歓声《かんせい》が押し寄せる。まぶしい。夏の日差しの下では、グラウンドはこんなに光を反射するものなのか。立ちのぼる熱気は地面からか、それとも自分の体が発している熱なのか。
歓声が押し寄せる。呼んでいる。名前を呼んでいる。山本――山本――エース山本!
『みんな、僕を見てくれ!』
『凄いだろう、僕を見るんだ! 見なきゃ駄目だ!』
歌声が上がる。彼はそれに応えている。山本――山本――エース山本!
だが、それらの声にかき消されそうな声、かすかな声を遼は耳にしていた。
『|違《ちが》う。もっと僕を見て。本当の僕を見て!本当の僕は|違《ちが》うんだよ!』
エース――エース――エース山本!
『|違《ちが》う!』
速球を投げ込みながら、彼の心の一部は、青い空の彼方に色鮮《いろあざ》やかな|蝶《ちょう》を追っている。
彼と、|蝶《ちょう》についての言葉を交している少年――秋藤邦彦なのか? 二人の間に|蝶《ちょう》が舞う。
『才能だけが僕じゃない……|違《ちが》ううんだ……僕は|違《ちが》うんだ……』
小さな声、細い声は大歓声に飲み込まれていった――。
熱い滴《しずく》が遼の頬に落ちた。秋月の目からこぽれた滴が、二つ、三つと落ちてくる。
「矢神……友だちに……」
言いかけた言葉を最後まで言わずに秋月は|崩《くず》れた。
あたりを照らしていた光の源《みなもと》――ノーブル・グレイの|蝶《ちょう》が消えている。
|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》――自信家で、ナイーブで、スタイリストで、感情のコントロールができなくて、負けず|嫌《ぎら》いで、我がままで、他人とのつき合い方を知らなかった少年。甘いものと|蝶《ちょう》が好きだった、中性的な美貌《びぼう》の少年。罠を仕掛けてまで他人の愛情と友情と尊敬を得ようとした孤独な少年。才能によって強いられた道から逃れようとして、別の才能に溺れていった少年。過ちに対する|後悔《こうかい》が生み出した、実際には存在しない少年――。
|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》は死んだ。その強大な超能力とともに。
――あなたの孤独を知っても、僕には許せなかった……。
「さようなら、秋月さん……」
遼はザンヤルマの剣を引き抜いた。
頭の中にあふれた黒い液体が、遼の視界にもボタボタとこぼれ落ちる。目を見開いているのに、深夜の墓地の光景が黒く塗り潰されていく。一つだけ残った秋藤家の墓と、そこに供えられた小さな花束。それはまた、秋月山美彦への手向けでもあるのかも。
|疲《つか》れた。もう、痛みも感じない。眠りたい。
何も見えなくなった目から熱いものが流れ出すのを感じながら、遼は目を閉じた。誰かが自分の名前を呼んだような気がしたが、もう振り向く力はなかった。
「遼!」
たった一〇分、いや五分ほどの|闘《たたか》いだった。
その五分間で、二人の少年は霊園を破壊しつくし、共に倒れた。
そして、万里絵は、何一つすることができなかった。
手立てが何もなかったというわけではない。何といっても、秋月は万里絵の思考が読めないのだ。|一瞬《いっしゅん》でもいい、秋月の気をこちらに向けることができれば、遼の勝機に結び付くかもしれない。底知れない能力を持っていることは確かだろうが、例えば公園で、囮の砂と石に気を取られて、本命の石つぶてを受けてしまったように、秋月も万能ではない。
隙を作れれば、勝てるはずだ。そう思い、それを伝えようと、遼の後をつけたのだ。
だが、一人で|氷澄《いずみ》の家を訪ね、電話番号を調べた遼の背中が、万里絵の助力を拒否していた。声をかけることさえできずに、万里絵は遼の後を追ってこの墓地まで来た。そして、遼と秋月の|闘《たたか》いを見守り、二人だけの決着を見届けたのだ。
「遼……」
倒れた石碑の上に横たわっている遼は、無残な死体にしか見えなかった。右脚は焼け焦げ、左|膝《ひざ》は折られ、左目が潰されている。細かな――致命傷には至っていないという程度の――傷は数知れず。血で汚れた|皮膚《ひふ》のところどころにも|火傷《やけど》を負っている。そして、何より、後頭部の損傷《そんしょう》は致命的《ちめいてき》に見えた。
ザンヤルマの剣は、赤い波形の|鞘《さや》に収まった状態になっている。呼吸と心臓の停止は、剣をふるった後遺症《こういしょう》だと思いたい。必要な時間が経過すれば、傷はふさがり、|鼓動《こどう》は再開し、健康な状態の遼に戻るのだと。たが、そう信じるには、遼の体は傷つぎ過ぎていた。
それだけ見て取ると、万里絵は、遼にかぶさるように倒れているグレイの|詰《つ》め|襟《えり》を着た少年の検分にうつった。
――生きている!
大柄《おおがら》な|坊主《ぼうず》頭の少年は、呼吸していた。大きな目と大い鼻筋、厚めの|唇《くちびる》。愛嬌のある大造りな顔立ち――初めて見る秋月山美彦の素顔だった。遼がザンヤルマの剣で秋月を刺した次の|瞬間《しゅんかん》には、秋月の姿は|揺《ゆ》らめき、体格が変わったように見えた。あの時、遼が言っていたテレパシーによるイメージの投射が停止したのだろう。
だが、傷はない。確かに遼は、ザンヤルマの剣を秋月に突き刺したはずなのに。
ナイフを抜く。今なら|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》に確実に止めを刺せる。
鋼鉄の刃を秋月の首筋に当てる。
万里絵は遼のほうを見た。傷つき、汚れた顔だが、苦痛にまみれてはいない。満足とは言えなくても、穏やかな表情だった。
――これが、遼の出した結論なの?
秋月との決着を、|氷澄《いずみ》や|水緒美《みおみ》に任せなかった遼。だとすれば万里絵にも、遼の出した結論に|干渉《かんしょう》する権利はないだろう。
ナイフをしまい、遼の体を背負う。たとえ死んでしまったのだとしても、このままさらしておくわけにはいかない。
墓地を抜け、市街地のほうへ歩いていく。遼は人目につく。電話のあるところで|氷澄《いずみ》に|連絡《れんらく》を入れ、迎えに来てもらわなくてはならないだろう。
――遼……遼……遼……。
胸の中で呼びかげながら、夜道を歩く。
「――遼……遼……」
いつか声に出している。仮死状態に陥っただけなら、遼の意識は上空に浮いているはずだ。
呼びかける一声一声が、街へ向かう一歩一歩が、遼に再生のエネルギーを与えるとでもいうように、万里絵は遼の名前を呼びながら歩きつづけた。
[#改ページ]
エビローグ
彫刻《ちょうこく》を施された石を積み上げた塔――正確にはピラミッドと呼ぶべぎなのだろうか――の頂上に、黒いパンツ・スーツを着た女が一人、立っていた。イェマドの|遺産《いさん》管理人、江間|水緒美《みおみ》である。
南米の発掘調査の現場で|奇妙《きみょう》な出土品が多数発見された――そんな情報を得だ|水緒美《みおみ》は、とりあえずこの地まで飛んできたのだった。
――どうやら空振りだったようだねえ……。
|珍《めずら》しいことではなかった。イェマドの|遺産《いさん》につながる情報は少なく、不正確なことが多い。今度もそのようだった。
――あの子たちは、どうしていることやら……。
|氷澄《いずみ》からは|連絡《れんらく》を受け取っていた。|潜在《せんざい》能力開発機関は中枢《ちゅうすう》部に壊滅的な|打撃《だげき》を受け、総合健康サービス会社の仮面の下で行なってきた本来の業務を断念せざるを得なくなった。
声がした。石段を登る足章が聞こえる。|水緒美《みおみ》は|白扇《はくせん》を構えた。
階段の向こうから、大きな目をした現地人の子どもの顔が見えた。|水緒美《みおみ》は|白扇《はくせん》を下ろした。
だが、現地人の子どもに囲まれ、自身も子どもを抱いて石段を上がってきたのは、|水緒美《みおみ》同様、この場所には不釣り合いな黒いスーツを着た男だった。
男は頂上にたどり着くと、抱いていた子どもを下ろし、二言三言話しかけると、頭を撫でて帰らせた。
子どもたちの姿が見えなくなると、男は|水緒美《みおみ》のほうへ向き直った。
「ひさしぶりだな、|水緒美《みおみ》」
|武骨《ぶこつ》な顔が愛嬌《あいきょう》たっぷりの笑みを浮かべる。
「|裏次郎《うらじろう》……」
|水緒美《みおみ》が|白扇《はくせん》を構えようとした時には、|裏次郎《うらじろう》もステッキを持ち直している。完全に攻撃の間を外されてしまった。
「――あなたとあたしは殺し合う仲。今さら、きれいの汚いの言おうとは思いませんよ。それにして|裏次郎《うらじろう》、あなた、つくづくいけすかない男ですねえ」
「出合い頭に殺されてはかなわないからな。それに、これは、おまえのためでもある」
「あたしの……?」
|水緒美《みおみ》はかすかに|眉《まゆ》を寄せる。
「聞きたいことがあるのではないかと思ってな。ザンヤルマの剣士について」
|裏次郎《うらじろう》の言うとおりではあった。悔しいが、認めざるをえない。
「何故、矢神遼を“ザンヤルマの剣士”と呼ぶのです?あの剣はそもそも何なのです?」
|水緒美《みおみ》の問いに、|裏次郎《うらじろう》はいかにも嬉しそうに笑った。
「ザンヤルマ――おまえも聞いたことくらいはあるだろう?」
「――教典に書かれている、この世の終わりのことですね。その時、ザンヤルマの剣士という者が現れて、人間を一掃する――そんな話でしたっけ」
「うむ」
|裏次郎《うらじろう》はうなずくと、眼下に広がる光景に目を向けた。黒い土の上に、石造りの白い遺跡。今の人類の古い文明の|遺産《いさん》は、イェマドの生き残りの目には、どう映っているのか。
「イェマドの|滅亡《めつぼう》な」
何を言い出すのか。|水緒美《みおみ》はいぶかしんだが、|裏次郎《うらじろう》は構わずに続けた。
「生き残った我々は大|崩壊《ほうかい》とか、大|災厄《さいやく》とか、適当な呼び方をして、わかったような気になっていたがな、あれは全部間違いだ」
振り向いた|裏次郎《うらじろう》の真っ黒な目が、|水緒美《みおみ》を射るように見る。
「あれは人災だ。いや、正確に言おう。あれは、人間によって仕組まれ、実行された計画によるものだ」
「イェマドの人間が、イェマドを滅ぼすことを計画して、実行したというのですか」
|裏次郎《うらじろう》は再びうなずいた。
「まさか――」
「そいつ、あるいはそいつらが何を考えていたのかはわからん。計画名は『ザンヤルマの剣士』。あの剣は、その計画を実行するための道具だ。イェマドの|滅亡《めつぼう》以来、ずっと追いつづけてきた|謎《なぞ》の、これが真相だ」
黒く大きな鳥影《とりかげ》が空を横切る。
「今世の人間ども、放っておいても遠からず滅びる。それはおまえも認めるだろう。同じ滅びるなら、イェマドの|滅亡《めつぼう》を再現してもらう。栄光あるイェマドの歴史の最後の一|頁《ページ》がどのように閉じられたのか、最後の歴史学者である私の目の前で見せてもらう。それが私の目論見《もくろみ》、言わば『第ニザンヤルマの剣士計画』だ」
|裏次郎《うらじろう》は足元の石をステッキでこツコツと|叩《たた》いた。
「こんな出来損《できそこ》ないの文明、滅びる時にしか役に立たんのだからな。――見てみたいとは思わんか、|水緒美《みおみ》?俺一人さえ殺すことのできなかった剣が、どうやって世界を|滅亡《めつぼう》に導くのか。誰も見たことのない、史上最大のショウだ」
「……滅ぼす……矢神遼が世界を滅ぼす……」
「この世界がどうなろうと、今世の人間どもがどうなろうと、おまえにはどうでもいいことのはずだな、|水緒美《みおみ》? だが、どうしてもそれを防ぎたいのなら、簡単な方法が二つある。一つは少年を殺すこと。もう一つは剣を取り上げるか、破壊すること。簡単なことだろう?」
|裏次郎《うらじろう》は体を|揺《ゆ》すって笑った。
反射的に|水緒美《みおみ》は|白扇《はくせん》を投げた。
|裏次郎《うらじろう》は空中に溶け込むように消えた。
|白扇《はくせん》は空しく|旋回《せんかい》して|水緒美《みおみ》の許へ戻ったが、|水緒美《みおみ》は受け止めようとはしなかった。
扇は白い鳥のように|水緒美《みおみ》のまわりを回りつづけた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》? ごめんね、無理に誘《さそ》っちゃって」
ベンチの上で震える|膝《ひざ》を必死に押さえつけている遼の顔を万里絵が|覗《のぞ》き込んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》。地面に足が着いたら、だいぶ落ち着いたから」
七月最後の土曜日、遼は万里絵に強引《ごういん》に誘われて、近くの遊園地まで引っ張り出されたのだ。名物のジェットコースターにつき合わされた結果がこれである。パンツを濡らさずに済んだのは幸いだったと、半ば本気で思う。
「あんまり気にしないほうがいいよ。ジェットコースター苦手《にがて》なのは、女の子よりも男の子のほうが多いんだから」
「うん」
言葉ほどには気にした様子もなく、万里絵は遼の|隣《となり》に腰を下ろした。
秋月山美彦との死闘《しとう》を終えた時、遼は死体と変わらない状態だった。だが、持ち主の健康を|維持《いじ》する“守護神”の機能は、時間こそかかったものの、遼を再生してみせた。万里絵がいつもより子供っぽいようなはしゃぎぶりを見せているのは、やはり嬉しいからなのだろう。
「じゃあ、落ち着いたところで、あれに乗りましょ」
立ち上がった万里絵は遼の腕を取って歩き出した。
――おいおい。
いやいやながら歩いていた遼だったが、思わず足が止まってしまった。
「矢神……」
「|神田川《かんだがわ》くん……」
|髪《かみ》の長いおとなしそうな女の子を連れた|神田川《かんだがわ》|明《あきら》が、どんぐり眼で遼と万里絵を見ていた。
「ちょっと」
|神田川《かんだがわ》は連れをその場に残して、遼を脇に引っ張っていった。
「うまくやってるみたいじゃないか。一万円の花束が効いたのか?」
誤解だと言おうとしたが、|神田川《かんだがわ》は遼がしゃべろうとするのを押し止どめた。
「とりあえず、お互い、見たことは他言《たごん》無用ということにしておこう。いいな?」
遼はうなずくしかなかった。
二人はそれぞれの連れのところへ戻り、別れた。
「|神田川《かんだがわ》くんは女の子に人気があるんだよな」
「羨《うらや》ましい?」
「別に」
それから、いろいろな乗り物につき合わされた。
日が暮れてから、万里絵は、ジェットコースターと並ぶこの遊園地の名物である大観覧車に遼を誘った。遼と万里絵の乗ったゴンドラはゆっくりと上昇していく。それ自体かイルミネーションで彩《いろど》られた観覧車の鉄塔《てっとう》の下に、光をちりばめた遊園地が広がり、彼方《かなた》には市街地の灯、さらに港と停泊《ていはく》する船の明かりも見えた。
「|床《ゆか》は|薄《うす》い鉄板一枚しかないんだよね、なんて言わないでよね」
万里絵の言葉に、遼は尻《しり》が落ち着かなくなるのを感じた。そんな遼の様子に、万里絵がまた笑う。だが、いつか笑みは退き、静かな光が大きな目にたたえられていた。
「――尋いていい、遼?」
「何?」
「彼が出てきたら、会うつもり?」
墓地での|闘《たたか》いの翌日、||山本伸一《やまもとしんいち》は警察に出頭した。一年前の秋藤邦彦殺人事件の犯人《はんにん》として。
遼は首を振った。
「僕の知っている秋月さんは死んだ。もう二度と会えないんだ」
ザンヤルマの剣が発揮した力は、||山本伸一《やまもとしんいち》から一切の超能力を奪っていた。故に、|秋月由美彦《あきづきゆみひこ》が遼の前に、いや、この世界のどこにも再び現れることはない。
何十人も殺した||山本伸一《やまもとしんいち》が、たった一件の殺人事件の犯人としてしか名乗り出ないのは|納得《なっとく》がいかない気もした。だが、強固な現実という制約のために仕方がなかったのだろう。
むしろ、自首する気になった山本の心境の変化を遼は信じたいと思った。それに、何と言っても、秋藤を殺したことこそ、山本にとって最大の罪だったのだから。
「そうだ、これからは、出かける前にちゃんとあたしに言ってよね」
「うん。ごめん」
万里絵が小指だけ立てた右の拳を突き出した。
「誰も見てないから」
渋々小指を絡め、口の中でもこもこと指切りげんまんを唱えると、早々に手を放す。もうまともに万里絵の顔が見られない。
窓の外を見る。
万里絵に言っていないことが一つだけあった。仮死状態に陥った時に見た|幻《まぼろし》――白い衣を纏った中性的な少年の姿。|一瞬《いっしゅん》、秋月かと思った。だが、別人だということにすぐ気づいた。顔立ちが全然|違《ちが》う。それに、何よりも表情か違った。深い悲しみに沈んだ|瞳《ひとみ》。
誰だろう。そして思い当たった。――ザンヤルマの剣士。遼が手にする前にザンヤルマの剣を手にしていた人間。本来の剣の所有者ではないのか、と。
――彼は何故、あんなに悲しい目をしていたのだろう。彼は、ザンヤルマの剣で何をしたのだろう。
できることなら、聞いてみたい気がした。
「始まったわよ」
万里絵の声に、遼はもの思いから覚め、外の景色を見た。夜空に色とりどりの光が散り、大輪の花を形作っている。
「ここが特等席なのよね」
次々に打ち上げられる花火は、夜の海面にも反射する。それが見られるのは、確かにこの席くらいだろう。
ふと視線を転じる。猫のように大きな万里絵の|瞳《ひとみ》の中にも光の花が咲いている。
万里絵、|氷澄《いずみ》、|水緒美《みおみ》、|神田川《かんだがわ》、宮内――。好きだ。この人たちが、この世界が、今が好きだ。心の底からそう思った。
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あとがき
どうも。ザンヤルマの剣士・矢神遼《やがみりょう》、ファンタジア文庫では二度目のお目見えです。今回は、雨に彩られたノーブル・グレイの物語――とても言えますか。
もちろん、この本だけでも充分わかるように書いてありますが、同じくファンタジア文庫の『ザンヤルマの剣士』から続けて読むと面白《おもしろ》さ倍増――と書くのは「あとがき」のお約束ということで(笑)。
いやあ、苦しかった。あとがきで作者の苦労を書くなんてみっともないと思っていましたが、とにかくこの話については苦労したという印象が最初に来てしまいます。これで、長編は二冊目だし、短編は三本書いているし、少しは馴《な》れて、楽になるかと思っていたんですが、今まででいちばん苦しかったんじゃないでしょうか。
まず、ストーリーを考える段階から苦しかった。せっかくファンタジア文庫では|珍《めずら》しい学園ものなんだから、ジュブナイルSFの王道を行くような作品を書こうじゃないか。やっぱり「学園支配」「転校生」「|謎《なぞ》の美少年(あるいは美少女。これが宇宙人だったり、エスパーだったり、アンドロイドだったり、未来人だったりする)」「生徒会長」といった要素は不可欠――などとあれこれ考えていたのですが、麻生の乏《とぼ》しい脳みそでは、これら全部を含んだ話は無理と、早々にリタイアしました(多少、名残《なごり》はあるけれど)。
ならば、学園ものの設定を活かして、学校行事を取り上げよう、と方向転換・主人公が出不精だから、なるべく舞台が変わったほうがいい。それなら修学旅行だろう。最近の高校生はハワイやらグァムやらへ修学旅行で行くそうだから、いっそ外国にしようじゃないか。派手な銃撃戦《じゅうげきせん》をやらかしても、日本国内ほど|違和感《いわかん》がないだろうし。万里絵《まりえ》が「あたしは奈良や京都に行きたかったのに!」とか言ってむくれる、なんてギャグも入れられる。
決めたわ、決めた。
「というわけで取判旅行に行きたいんですけれど……」
担当のMさんにニッコリ笑って却下されてしまいました(遼と万里絵のハワイ珍道中が読みたいという奇特な方は富士見賞居までリクエストのお手紙を)。
これなら良いだろうというストーリーを組み立て、実際に書きはじめ、予定より多少(笑)遅れて脱稿。ちょっと分量が多いかな――。
「麻生さん、これ長編三冊分あるよ」
と担当のMさん。といっても原稿の枚数ではなく、ネタの話。書きようによっては長編三冊くらいになるネタを詰め込んでいたらしい。もったいないとは思いませんよ。読みにくかったら問題だけど、ネタの出し惜しみなんて、作者の不遜《ふそん》ですよね? だいたい、惜しむほどずば抜けたネタってわけじゃないんだから。もっとも、分量もかなりあったので、冗漫な部分をかなり削り込みましたけど、結果としてはよかったと思います。だから、この本は多少値が張るけれど、けっして暴利を貪るものではないと強調しておきます(笑)。
|冗談《じょうだん》はさておき、前作『ザンヤルマの剣士』をお読みになった方のなかには、今回の展開にこ不満の方もいらっしゃると思います。しかし、前作の結末を書いている時点ですでに、今回の展開は決めていました。こういうふうに考え、こう行動するキャラクターだから、この物語に登場してもらった、だから、こうなるのが最も自然だし、必要なステップだと思っています(ぶっちゃけて言っちゃうと、状況にホイホイ流されちゃう主人公に|納得《なっとく》がいかないのだ)。
作者である麻生がこう言うのは図々しいけれど、書いていてますます遼や万里絵が好きになりました(今回は前作よりも、みんなそれぞれの個性を発揮しているし)。あなたの感想を聞かせてください。
最後になりましたが、担当のMさん、ご迷惑をおかけしました。イラストの弘司さん、今回もすばらしいイラストをありがとうございます。ストーリーのポイントで解決のヒントをいただいたまんが家のがぁさん先生(単行本発行おめでとうございます)、万里絵関係を中心に膨大な知識でサポートしてくれたasukaさん、自らの骨折体験を聞かせてくれたYさん、まだまだ万里絵を好きになってはくれないテリオスのKさん、実は腸《はらわた》が煮え繰り返っているかもしれないけれど麻生を黙認してくださっている職場の上司Kさん、料理のご指導をいただきましたKさんの奥さん、みなさん、ほんとうにありがとうございました。それから、神奈川県にお住まいの田野奈々さんには、万里絵のキャラクタリ設定をはじめとして有形無形の数々のご助力をいただきましたので、特に名前を記して感謝の念を表させていただきます。
ほんとうに最後になりましたが、この本を手にとってくださったあなたに感謝します。
どうもありがとう。
一九九四年一月             麻生 俊平
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ザンヤルマの剣士
ノーブルグレイの幻影
平成六年二月二五日 初版発行
麻生俊平
テキスト化
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2008/06/06