ザンヤルマの剣士
麻生俊平
口絵・本文イラスト 弘司
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心の扉を開く――これを実践し、人々にひろめる、オーキス・ムーブメント≠ニいう活動があった。
矢神遼は中学時代の同級生に誘われ、このイベントに参加する。もともと人付き合いが苦手なうえ、重大な秘密を持っている遼は、激しく心を揺さぶられた。
重大な秘密――世界を破滅に導くこともできるほどの力を秘めたザンヤルマの剣≠所有していること……。
それゆえ、苦脳し、なにかに心の救いを求める遼の目に、この活動は非常に魅力的に映った。
しかし、異常なまでの盛り上がりをみせたこのイベントには、やはり超古代文明の遺産が絡んでいたのだ!
戦慄のサスペンス伝奇アクション書き下ろし第三弾!
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目 次
プロローグ
第一章 心の扉を開いて
第二章 守護天使
第三章 剣よ、楽園を斬れ!
エピローグ
あとがき
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プロローグ
「まったく、人の心というものは……」
眼前に広がる壮麗な庭園を彼は見ていなかった。何を見るでもなく、夜の闇に視線を泳がせていた。もう、どれほどの時間、こうしていただろう。何も見ないことで、彼は見ていたのかもしれない。これまでに彼が過ごしてきた時間、踏み越えてこなければならなかった道程を。おのれ自身ですら眉をひそめたくなる、その凄惨な歴史を振り返った感慨が、あるいは疲労が、彼の口を衝いて言葉となって出たのかもしれない。
「まったく、人の心というものは――」
「いくら金を積んでも買えはしない――などという陳腐な言葉が続くのではあるまいな」
自分以外の声を聞き、彼の身の内に冷たい戦慄が走った。かつてないことだった。
静けさに包まれた庭園も、豪壮な屋敷も、屈強な男どもに守られ、最新の防犯設備で固められている。何より、彼自身が幾多の修羅場をくぐり抜けてきた男だ。正体不明の侵入者の間近への接近を許すようなことは、あってはならないはずだった。
――人外の者とでもいうのか!
理不尽な恐怖に捕らわれながら、それでも彼は、おののく心に鞭打つようにして、声のしたほうを向いた。
男が一人、立っていた。黒い上下を着込み、黒い杖を突いている。無造作に伸ばされた髪に半ば隠された顔は無骨で、四〇を越しているのは確かだが、さて、何歳なのかはわからない。年齢だけではない。男の顔は、人種の特定しがたい複雑な特徴を俯せ特っていた。
「それで、人の心がどうしたね? まさに日の出の勢いの成り上がり者も、人の心だけは金で買えないなどと、道徳的な感慨を漏らすというわけか?」
男は、彼のほうを見もせずに言った。揶楡するような口調に、自分の脅えを見透かされたように感じ、彼は言葉に精一杯の嘲笑を込めて応じた。
「馬鹿なことを。人の心を金で買うなど、造作もないことだ。人の心は金で買えないなどというのは、本当の大金を見たことのない貧乏人の世迷い言だ。どんな人間の心でも、金で買える」
「ならば、なぜ、ため息をつく?」
「……人の心は底無し沼だ。昨日、一〇〇万で心を買い取った相手が、今日は二〇〇万なければ心を委ねようとはしない。明日は三〇〇万だ。一度、自分の心が金に換えられることを知った人間は、自分の心の売値を果てしもなく釣り上けようとする。いくら金で人の心が買えるといっても、金には限りがある。底無し沼を埋め立てるほどの金は、さすがに持ち合わせておらん」
「何とも知恵のない言い草だな。人の心の弱みを突けばどうだ? いくらも金はかかるまい?」
「それこそ、人の心の欲深さを知らない者の言い草だ。弱みを突かれた人間は、涙を流し、相手を罵り、我が身の不運を嘆きながら、引き換えに得られる金の桁を勘定し、財布の口を開いて待っている。後は同じことだ」
男は笑った。身を揺らし、さも愉快そうに笑った。
「気に入ったぞ。――それではおまえの信念、この俺が突き崩してやろう」
黒い服の男は初めて彼のほうを向いた。黒い、光のない瞳が彼を見据えている。
「どういうことだ?」
「人の心を自分のものにするのに、金など要らん。一々相手の弱みを突くことも不要。必要な力を俺が与えてやろう」
彼を見ている黒い瞳――血を煮詰めたような、どこか赤みのある黒い瞳に、彼は引き込まれていくような気がした。
「何が望みだ?魂と交換か?」
「神を信じぬ男も、悪魔の存在は信じるというわけか?俺はおまえという人間が気に入った。それだけの理由だ」
「信じられんな」
「――よかろう。退散するとしよう」
男は、気が抜けるほどあっさり言い、彼に背を向けた。
「……無事にここからは出られんぞ」
「無事に入ってこられた。出るのも似たようなものだな」
男は杖を持ち直した。男の足がすっと地面を離れ、宙に浮く。「貴様は――」
「俺の名は裏次郎、遺産管理人だ。遠い遠いご先祖様の遺産を正当なる相続人に渡すことを使命としている。それがかなわんのであれば、退散するしかない。五〇年後、一〇〇年後に新たな相続人が現れるまで、姿を消そう」
「――待て!待ってくれ」
彼は手を伸ばし、叫んでいた。
第一章 心の扉を開いて
『――日比城市よりお越しの矢神遼さま、日比城市よりお越しの矢神遼さま――』
呼び出しのチャイムに続いて、澄ました感じの女性のアナウンスが店内に響く。
不意に自分の名前を呼ばれ、遼は頭に血が上った。まるで、デパートのこのフロアにいるお客が全員、自分のほうを見ているような気がした。
『いらっしゃいましたら、一階、インフォメーション・カウンターまでお越しください』
アナウンスは、もう一度同じことを繰り返した。
「インフォメーション・カウンター、だって。素直に案内所≠チて言えばいいのに」
傍らの万里絵が呆れたような声を出す。
「あの、僕のこと、呼んでたんだよね?」
「一階、インフォメーション・カウンターまでお越しください」
アナウンス口調をまねして万里絵が言う。
「ちょっと行ってくるから」
万里絵は胸のところで小さく手を振った。
エレベーターが全部下の階にあるのを見て、小さく舌打ちすると、遼は階段を降りはじめた。県庁のある街の、ターミナル駅を囲んで建つデパートの一つ。催事場のある八階から一階まで、小走りに階段を下る。
昨夜のことだった。夕食後の片付けを終わり、残っていた夏休みの課題に手をつけようとしていた時に電話が鳴った。かけてきたのは、同じクラスの神田川明だった。
『明日、空いてるか?』
「特に予定はないけど……」
『しゃあ、あれ行こうぜ。世界史の宿題のヤツ。まだ書いてないんだろ』
世界史の夏休みの課題は、歴史に関する博物館その他の展示を見学してレポートを書くことだった。神田川が言うには、あるデパートで明日から「エジプト文明展」が開催されるということだった。
「いいけど……」
他に適当な博物館や催し物の心当たりもなかったので、遼は了承した。
野球部員である神田川は、多少がさつなところもあるが、陽気で人懐っこく、誰からも好かれるタイプだ。運動神経が鈍く、暗くて友だちも少ない遼とは正反対の性格だ。それなのに、なぜか遼のことを気にかけてくれる、おりがたい友人なのだ。
だが、この時は、後がいけなかった。
『でさ、ついでと言っちゃ何だけど、彼女誘ってこいよー朝霞万里絵』
いきなり出てきた従妹の名前に遼は頭を抱えた。遼は、二か月ばかり前にアメリカから一〇年ぶりに帰ってきたこの従妹が苦手なのだ。
夏休みが始まったばかりの頃のちょっとした偶然が原因で、神田川は万里絵のことを遼のガールフレンドだと思い込んでいる。もっとも、二人かいとこ同士であることを学校では秘密にさせ、誤解の下地を作ってしまったのは遼にも責任があるのだが。
神田川からの電話の後、遼はしぶしぶ万里絵に電話した。遼の内心の祈りも空しく、万里絵は誘いを快く受けた。
それなのに、いざ当日となると、神田川は現れなかった。約束の時刻を五分過ぎ、一〇分過ぎても現れなかった。神田川を待つ間、遼は、待ち合わせ場所である展示会場の入り口で万里絵と二人で立っていなければならなかった。
万里絵はそんなに人目を引くタイプではない。どちらかといえば美人の部類に入るかもしれないし、猫を思わせる大きな瞳は印象的だ。とはいえ、通りがかりの人が振り向くような美少女ではない。着ているものもジーンズに白いTシャツと、いたって地味だ。地味さにかけては遼だって負けてはいない。万里絵と似たり寄ったりの服装をした、猫背の眼鏡少年だ。だから、二人並んで立っていたところで、別に注目を浴びるはずもないのだが、遼にとってはさらし物にされたみたいに周囲の視線が気になった。もちろん、自意識過剰のためだということは自分でもわかっているのだが。
――自分から誘っておいて、三〇分も待たせるなんてさ……。
そんな拷問に等しい時間を強制された遼は、内心で八つ当たり気味に毒づいた。
冷房のきいた店内ではあったが、一階までたどり着いた遼はうっすら汗をかいていた。
いつもの気後れを感じながら、案内の女性に名前を告げる。
「神田川さまからお電話が入っております」
遼は示された受話器を取り上げた。
「もしもし――」
『あ、矢神?悪いんだけど、行けなくなった、俺。また、夜でも電話する』
返事をする間もなく、街の喧噪をバックにした電話は切れた。
――何なんだ、いったい?
謝罪の言葉なし。理由の説明なし。神田川はそういう人間だっただろうか。
係の女性に礼を言って受話器を戻すと、遼はエレベーター・ホールヘ行った。ゴンドラは全部上に行っている。ため息を一つついてから、遼は階段を上かり始めた。
神田川の電話の内容についての遼の説明を聞いても、万里絵は特に気分を害したようではなかった。
「どうしようか?」
「世界史の課題はやらなきゃいけないんだし、とにかく展示を見ましょ」
万里絵は入り口で学実証を提示して、中・高校生料金を払うと、会場内に入っていった。遼も後を追う。
「エジプト文明展」はテレビ局とデパートの共同企画で、テレビのドキュメンタリー番組の取材で得られた資料が中心に展示されていた。地図や図解、そして写真などのパネル展示が主で、実際の出土品などはあまりない。
何かレポートの題材になるものはないかと、ナイル川流域における発生に始まるエジプト文明の歴史が書かれたパネルから丁寧に読みはじめた遼だったが、そのうちに、空しいような物悲しいような、妙な気分に捕らわれた。
会場内を一周しても、結局、指定された原稿用紙の枚数を埋めるだけの材料は思い付かなかったが、これ以上ねばっても無駄だと思い、遼は適当に会場を出た。
「ちょっと、本屋に寄ってから帰るから」
「そう」
デパートの正面玄関で、遼は万里絵と別れた。万里絵が往んでいるのは、遼と同じ橘マンションの一つ上の階だ。家に着くまでずっと万里絵と一緒、という事態だけは避けたかった。
駅前の大型書店に寄り、一応、エジプト関係の本なども立ち読みした後、遼は電車に乗った。
文明展の薄っぺらなパンフレットをめくる。石を積んで造りあげた巨大な墳墓に葬られた王の黄金の仮面と、その副葬品の写真が遼の記憶を刺激する。
――どこか似ている……でも、やっぱり違う。
数千年前の文明の遺物の数々。遼は、それらにどこか似た部分のある古代の遺産≠密かに保管している。だが、遺産≠産んだ文明は、ナイルのほとりに文明が発生する遥か以前に生まれ、そして滅びたのだ。いくつかの怨念と闘いを残して。そんな思いが、展示会場で遼に妙な物悲しさを感じさせたのだろう。
盆休みの時季を過ぎ、夏休みもそろそろ残りの日数が気になりはじめる頃合い――。一学期最後の日に経験した痛みも薄らぎ、そんなふうに自己分析ができる程度に、遼は冷静さを取り戻していた。
*
いっこうに升目の埋まらない原稿用紙の上にシャープペンシルを転がす。
印象が薄れないうちにと、夕食後、さっそく世界史の課題に取り組んだ遼だったが、今一つ集中できなかった。
――レポートって、感想文とどこが違うんだろ……。
伸びをしただけでは気分転換にならず、机の脇のベッドにひっくり返る。
時計を見る。九時を回ったところだ。夜でも電話すると言っていたのに、神田川からはいまだに何の連絡もない。
昼間の電話だって、神田川らしくなかった。いやあ、寝坊しちゃってさ、これからじゃ間に合わないから、今日は遠慮しとくわ。ま、おじやま虫抜きで彼女とゆっくりしてこいよ。ベイ・サイドはアベックのメッカだぜ――というような軽い感じの、言い訳ともからかいともつかないような言葉を予想していたのだが。
――まあ、こっちから電話するようなことでもないだろうけど……。
遼の内心のつぶやきに応えるかのように電話が嗚った。身を起こし、リビングへ行く。
「もしもし?」
『矢神さんのお宅でしょうか?』
相手は神田川ではなかった。
「はい?」
『私、北富士第二中でご一緒していました粂沢と申します』
「粂沢くん?矢神です」
生真面目な折り目正しいしゃべり方には聞き覚えがあった。粂沢博樹。中学時代の同級生だ。教室の廊下側の席で、いつも文庫本を広げていたような印象がある。同じ趣味の仲間と、放課後遅くまで話に興じているのをしばしば見た記憶もある。いじめられっ子というわけではないが、クラスの中心人物たちからは少し距離をおいた位置に居た。もっとも、それは遼も同様だったが。今は県の中央にある名門進学校に通っているはずだ。
『どうも、ひさしぶりですね』
「ほんとうに。元気?」
『はい。――ところで矢神くんは、今度の土曜日は空いていますか』
「今度の土曜って、明日のこと?」
挨拶もそこそこの粂沢の問いに、壁に留められたカレンダーに目をやる。見るまでもなかった。予定と呼べるようなものは、来週の登校日と、さらにその次の週の始業式くらいしかなにい。
「別に予定はないけど――」
『では、七時から九時まで、僕につきあってください』
「七時から九時って、夜の?」
『はい。都合悪いですか?』
高校生が外を出歩くには、まあ何とか許される時間だろう。夏休みということで、繁華街には少年係の警察官や生活指導の教師がいるかもしれないが。遼の両親は仕事の都合で半年以上前からアメリカに行っている。一人暮らしの遼には、多少遅い時刻の外出でも文句を言う人間はいない。
ただ、生来の出無精もあって、あまり気が進まないのは確かだった。しかし、無下に断るのも悪いように思う。
「悪くはないけど、何なの、いったい?」
『面白いイベントがあるんです。芸能人や文化人の講演もありますし、音楽や演奏やゲームもあります』
やはり今一つ気が進まない。
『とにかく、面白くて素晴らしいイベントなんです。参加費用のことなら、心配はいりません。いいでしょう?特に予定があるわけでもないなら』
粂沢は意外に強引だった。面白いこと、素晴らしいことと何度も繰り返す。半ば押し切られるようにして、ターミナル駅の西口のバス停の前で六時半に待ち合わせることになった。遼は言われた場所と時刻をカレンダーのメモ欄に書き込んだ。
『必ず来てください。素晴らしいことなんですから』
最後にもう一度念押しして、粂沢は電話を切った。
――急に人気者になっちやったな……。
目立たず、友だちも少ない日ごろの自分を思って、ちょっと皮肉っぼい気分になる。
妙な気もした。読んだ本のことなどで何度か話をしたこともあるけれど、粂沢と遼は特に親しいというほどの間柄ではなかった。実際、北富士第二中を卒業して以来、話をしたのはこれが初めてではないだろうか。
――まあいいか。
粂沢ならば、すっぽかされることはないだろう。それに、待ちぼうけを喰わされたとしても、今度は万里絵と一緒ではないのだから。
コーヒーをいれ、原稿用紙の前に戻る。
一二時まで待ったが、神田川からの連絡はなかった。
*
遼が粂沢に指定された二四番線のバス停に着いたのは、まだ六時をそれほど過ぎていない時刻だった。
列を作っている人たちから離れ、いつもの癖で持ってきていた文庫本の頁を一〇頁もめくった頃、粂沢が現れた。約束の時刻より一〇分ほど早い。
「矢神くん」
中学時代と同じ短く刈り込んだ頭。きっちりと折り目の入った黒いスラックスは学生ズボンのようだった。白い半袖のワイシャツも、校章の刺繍こそないけれど、学生服の一部のように見える。
「今日は来てくれて、どうもありがとう」
そう言って粂沢は右手を差し出した。妙な気がした。握手なんて、どことなくわざとらしくて、不自然だと思う。何より粂沢のイメージとズレる――。
それでも遼は粂沢の手を握った。粂沢は力強く遼の手を握り返し、大きく振った。
「ほんとうにありがとう。でも、わざわざ時間を割いてもらっただけの有意義な経験ができますよ。僕が保証します」
やや大きな明るい声でそう断言すると、粂沢はやっと遼の右手を解放し、バスを待つ列の最後尾についた。遼も続く。
粂沢は腕時計を見、首を伸ばして道路の彼方にバスを探し、あるいは伸び上がって列の前方を窺った。
「バスは三五分に来ます」
そう言った後も、時計を確かめたり、隣のバス停を見たりと、体を動かし続けた。
「あと一〇分くらいですから」
文庫本を開くわけにもいかず、話しかけるきっかけもつかめないまま、遼はバスが来るのを待った。
やがてバスが姿を現した。残っていた乗客を降ろすと、ロータリーをゆっくりと回り、二四番線の標識の前で停まった。行き先は、別の私鉄のターミナル駅になっている。
「どこまで行くの?」
「ついてくれば、わかります」
料金箱に小銭を入れ、車内の奥のほうへと道むと、遼たちが最後だったのか、バスはすぐに走り出した。
「すみません。お婆さんに席を膜ってください」
粂沢の声がした。遼が見ると、若いビジネスマン風の男に粂沢が話しかけている。そばに立っている老女に席を譲るように頼んでいるのだ。男は座席を立ち、老女は何度も頭を下げながら空いた席に座った。
遼はなんとなく居心地の悪いものを感じた。粂沢は真面目な性格だったから、自分が席を立つくらいのことは当然だろう。いや、そもそもバスや電車の中で座ろうとはしない。
しかし、見ず知らずの他人に声をかけて席を譲らせるという、かなりの勇気を必要とする行為を実行するタイプだったろうか。
横目で粂沢の顔を盗み見る。中学時代の粂沢は、もっと頬がふっくらしていなかっただろうか。そのためか、遼の記憶にあるよりも精悍な感じがする。
――高校で何かあったのかな……。
窓の外を流れる暮れかけた町並みを眺めながら、遼はそんなことを考えた。
町中の停留所で粂沢は遼を促してバスを降りた。
「ここからは歩きます。一〇分かかりませんから」
反射的に腕時計を見る。粂沢が言っていた七時よりも五分ほど早く目的地に着きそうだ。
予定時刻の五分前――生真面目な粂沢らしい。
商店と住宅が並ぶ間を行く粂沢の足取りは速かった。遼は、ほとんど小走りになって後を追わなければならなかった。
「ここです」
粂沢が遼を案内したのは、七階建てのビルだった。割と最近になって建てられたものらしく、アメリカ映画に出てくるオフィス・ビルをそのまま縮小したようなデザインで、まわりの商店などからは浮いた印象だ。
プロンズ色のガラスが光っている玄関の仰々しい雰囲気に、遼はいつものように気後れを感じた。しかし、入り口のところで立ち止まった粂沢が怪訝そうな表情で振り向いたのを見ると、頭だけが半歩先に行くような格好で後に続いた。
玄関ホールは、ホテルのロビーに似ていた。ただ、受付か案内所らしいカウンターが正面中央にあり、スチュワーデスか婦人警官のような紺のコスチュームを着た若い女性が二人だけ座っているのが、ホテルとは若干印象を異にしている。
粂沢は真っすぐカウンターに行き、女性に話しかけた。話しかけられた女性は、手元で何かを操作している。どうやら端末機が置かれていて、何かを確認しているらしい。
女性の背後には、薄紫色のベルベットを思わせる布地に金色の刺繍で蘭の花の線画を描いた何かのエンブレムのようなものが掲けられている。注意してみると、ドアや廊下の
突き当たりにも同じシシボルが描かれている。
見るともなしにホールを見ていた遼の体に緊張が走った。ホテルやデパートに比べればはるかに狭い玄関ホールの天井の各所に、遼が確認できただけで一二基の監視カメラがレンズを光らせている。さらに、カウンターの女性たちと同様のコスチュームを着た女性が、玄関脇や通路の途中に立っていた。背筋を伸ばし、両足を肩幅に開いて立つ姿は、案内役よりも警備員に近い印象を与える。
――こんなことに気を回すようになったのも、彼女の影響かな……。
遼は同い年の従妹のことを思った。アメリカで生活している間にサバイバル・スクールで訓練を受けたという万里絵は、また、都市生活での危険から身を守る方法も習得していた。何度か彼女と行動を共にするうちに、多少なりともその影響を受けていたのかもしれない。
――それにしても、銀行や美術館でもあるまいし……。
「矢神くん」
名前を呼ばれて、遼は物思いから覚めた。
「こちら、間違いないでしょうか、確認をお願いします」
女性がカウンターの一部を示した。木目のくっきり浮き出た板が、その部分だけガラス張りになっていて、そこに端末機のものと同一らしい画面がはめ込まれている。橘マンションの住所と四〇二号という部屋番号、電話番号、そして遼の名前が表示されていた。
「間違いありませんけど――」
多少の引っ掛かりを感じながら、返事をする。
女性がキーを操作したらしい。画面は、壁にかけられているのと同じ蘭の花のエンブレムに変わった。アルファベットが並んでいる。ORCHIS MOVEMENT――そう読めた。
――オーキス・ムーブメント……蘭の花運動……?
「それでは二万円」
粂沢が財布から一万円札を二枚出して、女性に渡している。
「粂沢くん――」
「お荷物、お預かりします」
言われるままに、遼は文庫本と筆記用具の入ったサイド・バッグを女性に渡した。引き換えに、番号の書かれたバッジを手渡される。
『このバッジを付けて、三階、レインボー・ホールでお待ちください』
「行きましょう」
粂沢が歩き出し、遼はまた小走りに後を追った。エレベーターに乗る。
「粂沢くん、さっきのお金――」
「いいんです。誘ったのは僕なんてすから」
「よくないよ」
遼は尻ポケットから札入れを引っ張り出し、中から札を出そうとした。
エレベーターが停まり、扉が開く。
粂沢は、遼を促してエレベーターから降りると、指定されたホールヘ向かった。
「もう始まります。これからのイベントが終わって、矢神くんがその内容に価値を認めたら払ってください。二時間を無駄に過ごしたと思ったのに、お金を取るわけにはいきませんから。――ほら、ちゃんとバッジを付けてください」
これでこの話題は終わり、と言わんばかりの口調だった。
――どうしちゃったんだ、粂沢くん……。
見知らぬ場所に対する気後れとは別の何かが、遼の足を重くした。
物々しい二重ドア――そこにもまた、蘭のエンブレムがあった――の向こうは、高校の教室を二つ、横に繋げたほどの広さの部屋だった。折り畳み式のパイプ椅子が一〇〇脚ほどだろうが、扇形に並んでいる。壁は、コンサート・ホール等に見られるような、音響を考えた素材らしい。四隅に黒い大型スピーカー。正面に、教壇のように高くなった部分があり、マイクがセットされている。そして、ひときわ大きな蘭のエンブレム――。
「バッジと同じ番号の席にお座りください。番号は右から順になっています」
玄関と同様の紺のコスチュームの女性が指図する。
遼のバッジの番号は七三番。入り口に近い右端の席だ。
遼が自分の番号の確認をとるかのように振り向くと、粂沢は、最前列の左側の席に腰を下ろすところだった。
――来場順ってわけじゃないのか。
取り残されたような気分で、遼は指定された席に腰掛けた。
あらためて室内を見回す。座席は九割ほどが埋まっている。年齢は、いちばん若くて遼たちと同じ一〇代後半。二〇代前半くらいの人か最も多いようだご二〇代、四〇代もいないわけではない。男女比は半々くらいで、やや女性が多い印象だ。何人かが隣同士でひそひそ話をしているのを別にすると、ひっそりしている。
不意にスビーカーからピアノのメロディが流れ出した。繰り返される単純な旋律に、他の楽器が加わり、音が厚みを増していく。そして、エレキ・ギターが烈しく響き、クセのある、かすれ気味の男の歌声が耳を打つ――。
音楽に疎い遼でも知っているロック・シンガーだった。若者の孤独感、やるせなさを、時には切々と、時には荒々しく歌い上け、信者≠ニ言っていいほどの熱狂的なファンを多数持っていた。最近のコンサートでは、武道館だか東京ドームだがをいっぱいにしていたはずだ。スピーカーから流れてくるのは、いま旅立とうとしている友を送り出す歌だった。粗削りな、ちょっと投げやりな感じもするヴォーカルは、ロックにはあまり縁のない遼にも耳を傾けさせるだけの力を持っていた。
ちらっと、部屋の反対側の粂沢のほうを見る。右手が握られ、曲に合わせて振られている。小声で口ずさんでいるのかもしれない。唇がかすかに勣いている。歌声へのそうした没入は粂沢だけではないようだ。
最後のフレーズが歌われ、そのメロディを繰り返したピアノの響きが消える。歌がオープニング・テーマになっていたのか、演壇にマイクを持った女性が現れた。頬のふっくらとした、どちらかといえば古風な感じのする顔立ちの女性だった。
『今日、ここに居るみんなに、おめでとうって、オレは言いたい』
スピーカーから流れてきたのは、しかし、女性の声ではなかった。さっきまで室内を包んでいた歌声の主の声だった。
『心の扉を開いて、ほんとうの自分に出会える、ほんとうの仲間を見つけて、ほんとうの生き方を知ることができる。そんなチャンスに、みんなは今、めぐり会えたんだ。だからオレは、旅立ちをテーマにした歌を贈った。オレの歌がみんなの魂を揺さぶるのは、オレがほんとうの自分をさらけ出しているからだ。みんなも心の扉を開いて、ほんとうの心のふれあいができるようになってほしい。今、みんなはそのスタート・ラインに立っているんだ。もう一度言わせてくれ。おめでとう』
自分の歌が感動的な理由についての臆面もない説明に、遼は多少しらけた思いを味わった。だが、会場からは感嘆のざわめきと、それを上回る拍手か沸き起こった。本人がこの場にいるわけでもない、録音されたメッセージだったにもかかわらず。
「大高勇二さんの歌とメッセージでした。――それでは、これから二時間のあいだ、お忙しい皆さんから貴重なお時間をいただきまして、オーキス・ムーブメントのウェルカム・イベントを行ないます」
壇上の女性の開会宣言に、また拍手が起こる。何もしないのも悪いような気がして、形ばかりではあるが遼も手を叩いた。
「最初にお断りしておきます。オーキス・ムーブメントは、宗教とか政治運動とかには一切関係ありません。大高勇二さんのメッセージにもありましたように、お互いが心の扉を開いて、ほんとうの自分を見つけ、ほんとうのふれあいをしょう、という運動です」
またも尻の据わりの悪さを感じる。
心の扉を開く――まず遼は失格だ。誰にも言えなし大きな秘密を抱え込んでいる。
これからの二時間、この妙に明るく浮き立った雰囲気の中で過ごさなければならないのかと思うと、気分が重くなった。
「会場の皆さんのなかで、学生さん、手を上げてください」
言われるままに遼は手を上げた。会場の半分以上、三分の二ほどが学生だった。
「残り少ない夏休みの貴重な時間をありがとうございます。宿題、終わってますか?」
軽いジョークで笑いをとりながら、司会はビジネスマン、主婦と挙手させていった。さらに、目本のビジネスマンの平均労働時間、主婦の平均労働時間、学生が学校以外で勉強に割く時間の長さ、そして余暇の短さなどについて数字をあげながら話を進めていく。
「――ねえ、皆さんお忙しくて、人とのふれあいとか、ほんとうの自分についてじっくり考えてみる、自分を見詰め直してみるといったことに時間をとるのは難しいですよね」
遼の前に座っているビジネスマン風の男性がうなずいた。挙手のようにはっきりと要求された場合に限らず、司会者の問いかけや呼びかけには、けっこう素直に反応する人か多い。
「ですから、ちょっとまとまった時間を使って、人と人とのふれあい、ほんとうの生き方について考えてみましょう、というのがオーキス・ムーブメントのテーマであり、それをまだご存じない方にご紹介するのが、今夜のウェルカム・イベントの目的なんですね」
またも拍手。遼も熱のない柏手をする。
「では、今夜の最初のゲスト、女流コラムニスト伊吹美映子さんをご紹介しましょう」
遼の後ろから「ウソ」「マジで?」などとささやきが聞こえた。
壇の背後の大きな蘭のエンブレムの脇のカーテンをくぐり、腰まで届く長い髪の、太めの女性が現れた。長いスカートは古いカーテンを巻き付けたようで、派手というのではないが、ちょっと人目を引きそうなスタイルだった。会場のあちこちがざわめき、拍手が起こる。遼は初めて見るが、彼女が伊吹美映子なのだろう。
司会者が述べたプロフィールによれば、若い女性向けの雑誌を中心に活躍中で、作詞や小説の執筆、テレビのバラエティ番組の構成やラジオのDJまでこなすマルチ・タレシトということだった。そういえば、彼女のコラム集や長編小説の題名のいくっかは、最近話題の本として、遼にも聞き覚えがあった。
マイクを持った伊吹美映子は、拍手が静まるのを待って、言葉を探すように顔をうつむけていたが、片手で髪をかき上げると、聴衆に向き直った。
「結局、辛口コラムっていうのがカン違いの元だったんですよね、あたしの場合」
日ごろのいらだちを、現代的でちょっとひねった語り口調で嗇いた彼女のコラムは同世代の女性を中心に共感を呼び、彼女を一躍人気コラムニストの地位に押し上けた。だが、コラムを量産するためには、ネタになるいらだち≠常に見つけつづけなければならず、極端に言えば、毎日意識的にいらだたなければならなかった。
「ひどかったですよ。初対面の人間に対して、まずイヤな点、気に入らないところを探すわけですよね。テレビも、季節の話題とか街の話題なんかに、とにかく皮肉を言おう、ケチをつけようって見方になっちゃり。マイナス思考に首まで浸かっちゃってたんですね」
仕事のためとはいえ、そんなものの見方ばかりしていれば、当然、日常生活にも影響が出る。特に人間関係にそれは顕著に現れた。話題といえば斜めから見た批評めいた悪口ばかりというのでは、自然に人は遠ざかる。
「忠告してくれた人もいましたけれどね、それが素直に聞けない人なんてすね、あたしは。嫉妬心は、思いやりからの忠告という形をとりたがるものだ、なんてコラムのネタにしてましたもんね」
他人の忠告が素直に受け入れられないという経験は、遼にも心当たりがあった。臆病で非力であるという自覚があるにもかかわらず、遼は衝動的で、激しい感情の振幅の持ち主だった。そして抑えが利かない。カッとなると手が出る。そうでなければ口に出す。時間が経てば後悔もするが、それでも相手を恨む気持ちが拭えない。早い時で小学校六年の頃から、そうした性格の遼を心配して忠告してくれる友人はいた。だが、そういう言葉にこそ遼は反発を感じ、貴重な友人を無くす結果になっていった――。
伊吹美咲子のスビーチは続いた。ほとんど罵倒≠ニ呼んでいいほどになってしまった彼女のコラムが次第に飽きられていったこと。にもかかわらず、人気回復のためにますます過激になることを目指し、それでまた読者が減るという悪循環に陥ってしまったこと。
出口の見えない迷路をさまようような状態だったそんな時に、彼女はオーキス・ムーブメントに出会ったのだ。
「それでも最初はぶった斬ってやろうと思ってたんですね、あたしは。心の扉を開くなんて、ふやけた運中のなぐさめ合いごっこだろう、くらいにしか考えてなかったんです」
だが、ムーブメントは、彼女が思い込んでいたような自己満足の集団ではなかった。
「はじめから開かれているんで、切り込もうとしても、切れないんですよ。そこで、これは本気で取り組んでみないといけないな、と思いはじめたんですね」
やがて、自分は焦りすぎていたのではないかと思い当たった。常にトップに立つための、
不満を言うためだけの不満、いらだちを書くためだけのいらだち――。そこには、読者の姿はなかった。いや、自分の人気を表す数字としてしか読者を見ていなかった。
「何かを伝えたいと思って書いているはずなのに、あたしの心は閉ざされていたんですね。辛口コラム、けっこうなんですけどね、愛≠ェない批判って言ったらいいんでしょうかね、自分がマスコミの世界でてっぺんに出るためだけの辛口っていうのは、空しいんですよ。昔、あたしが反発を感じた友人の忠告とは反対なんですよ。一生懸命に相手の心と自分の心を開こうっていう気持ちがなければ、何を書いても意味がないんですよ。心さえ開いていれば、どんなに厳しいことを書いても、それはたくさんの読者に向けた友人としての忠告になりえるんですよね。そのことに気がつくまで、ずいぶん遠回りしてしまったわ
けですけどね――」
伊吹美映子のスピーチが終わった時、遼は素直に拍手する気持ちになっていた。性格の狭さが人間関係をぎくしやくさせる――売れっ子コラムニストでさえ、自分と同じような悩みを持ち、苦しんだということに、多少の感動さえしていた。
――どうせなら、そのオーキス・ムーブメントの内容にっいても、少しは話してくれればいいのにな……。
それが多少不満だった。
伊吹美映子が退場すると、司会の女性は次のプログラムを紹介した。有志による楽器演奏だ。
白いTシャツとベージュのスラックスの二〇代と思われる男女が七人ほど壇上に現れた。手にしている楽器は、金属や木で出来た簡単な打楽器と管楽器だった。
中心に立った男性が、手にした鐘を打ち鳴らす。残りの男女もそれぞれの楽器を吹き、
叩いた。素朴で単純なリズムとメロディは、サンバ調の陽気な音楽となって会場を包んだ。
椅子に座っている人の間からも手拍子が流れる。足を踏み鳴らす音も混じる。
遼も手を叩き、膝を揺らしていた。演奏は、技術的にはたいしたことはないのかもしれない。だが、会場を包む一体感や明るい雰囲気を盛り上げるには充分だった。
一曲目が拍手をもって終わり、二曲目が始まる。似たような感じの腸気な曲だ。会場のノリはさらに高まった。冷房が利いていなければ、じっとしていても汗が噴き出てくるような夏の夜なのだが、カーニバルを思わせるリズムに含わせて手を打ち、体を揺することで高まってくる熱気は心地よかった。
「さあ、心の扉を開いて!」
最初に鐘を鳴らした、この楽団≠フリーダーとおぼしき男性が叫ぶ。手拍子の音か大きくなり、「うおーっ」とも「うわーっ」とも聞こえる声が上がる。口笛が聞こえる。
「もっと、もっと!」
今度は端で太鼓を叩いていた女性が声をかける。それが「心の扉を開く」ということになるのか、という疑問がちらっと頭をかすめたが、遼も拍手する手に力を込めていた。
演奏は五曲で終わり、楽団は盛大な拍手を浴びた。アンコールの声が飛ぶ。待ち構えていたかのように、テレビでもおなじみの曲が始まり、楽団は演奏しながら退場した。入れ違いに壇上に現れた男の姿に、会場の人はみな息を飲んだ。司会の女性の声が、すぐに起こった拍手と歓声にかき消される。だが、改めての紹介など不要だったろう。スボーツ番組に限らず、コマーシャルなどでもこの人の顔を見ない日はないくらいの話題の人物、Jリーグのエース選手が、やや体になじまないジャケット姿でマイクの前に立った。
彼のスピーチは、先の女性コラムニストのものに比べれば簡単なものだった。勝ち負けを争うスボーツの世界でも、心を開くことが重要であること。それこそが積極的な生き方と向上心の基本となり、出発点となること。
「私は、このオーキス・ムーブメントを積極的に支持します。スボーツの世界に限らず、あらゆる分野での成功は、開かれた心と積極的な生き方、ポジティブな考え方によって手にすることができると信じているからです」
簡潔だがユーモアを交えた、そしてどこか翻訳調のスピーチを終えると、彼はまたスピーカーから流れ出した曲に乗って退場した。熱狂的な拍手に片手を挙げて応えた後、大きな背中はカーテンの向こうへ消えた。
「これで前半のプログラムを終了します。ただ今から一五分間休憩となります」
二重ドアが開放される。室内の人間の大半は席を立ち、三分の一程度は外へ出た。
遼も立ち上がった。
あれだけの豪華なゲストなら、二万円――いや、一人分なら一万円か――も高くはないだろう。
――最初から言ってくれればいいのに……。
いや、登場するゲストの名前を知っていたら、わざわざ参加しようという気になったかどうかは多分に疑間だった。ゲストは、遼が常日頃から興味を持っている人物ではなかった。しかし、面白い話を聞けたという満足感はあった。
粂沢のほうを見る。面白いイベントに誘ってくれた礼を言おうと思った。だが粂沢は、部屋の反対側で何人かの人間と話していた。スビーチのなかに何度も出てきた「心を開
く」というのを実践しているのだろうか、明るく楽しそうな表情で、目をキラキラとさせながら手振りを交えて話している。聞いているほうも、全身でうなずいている感じだ。
割り込んでいくのも気が引けて、遼はとりあえず廊下に出て深呼吸した。腕時計を見る。いつの間にか、一時間が過ぎていた。
廊下にいるのは、どちらかといえば一人でぼんやりしている人間のほうが多かった。
煙草を吸う人、自動販売機で買ったジュースを飲んでいる人、蘭のエンブレムを見ている人……。
それほど喉が渇いているわけではなかったが、遼もオレンジ・ジュースを買って飲んだ。
それから、後半のプログラムが始まる五分前に元の席に着いた。
廊下に出ていた人間がホールに戻り、全員が着席すると、再び二重ドアが閉ざされた。
スピーカーから、オーブニングに使われた大高勇二の曲のインストゥルメンタルが流される。どうやら、このイベントのテーマ曲として使っているようだ。
曲がワンコーラスのみで終わると、司会の女性がマイクを持って壇上に現れた。
「オーキス・ムーブメントのウェルカム・イベント、ただ今より後半のプログラムに移らせていただきます」
遼を含め、会場内の人すべてが拍手していた。
「まず、皆さんが座っている椅子を部屋の隅に片づけてください」
言われて皆が立ち上がる。遼も腰を上げ、座っていた椅子を運ぼうとした。だが、隣に座っていた若い男性が椅子を持ち上け、自分の座っていた椅子と一つずつ両手にぶら下げて、素早く部屋の隅に運んでいった。
並べられていた椅子がなくなると、室内はかなり広かった。
「これから五分間、好きなように過ごしてください」
司会の女性はそう言ってマイクのスイッチを切ると、壇から降りた。
遼は戸惑い、あたりを見回した。好きなようにと言われても、何をしたらいいのか思いつかない。室内にいる人間の大半も、遼と同じようにぼんやりしている。
「失礼します。僕は八木哲雄といいます」
不意に声をかけられ、遼は体を強張らせた。振り向くと、遼と同じくらいの年齢と思われる痩せた少年が立っていた。
「心の扉を開いて、積極的な生き方を選択するために、今日はこのイベントに参加しています。よろしかったら、名前を教えてください」
八木少年は、背筋を真っすぐに仲ばし、遼の目を正面から見ぼえながら言った。怒鳴るという感じではないが、かなりの大声だ。
「あっ……矢神遼です」
気圧されるように遼が答える。
「よろしく、矢神さん。積極的な生き方のために頑張りましょう」
八木少年は両手で遼の手を掴むと、大きく振り、そして離れた。また、別の人間に自己紹介をしている。
――何なんだ、いったい……。
奇妙な明るさは粂沢に共通するものがある。見ると、八木ほど目立つやり方ではないが、手近な人間に次々に話しかけている者、自己紹介をしている者の姿が認められる。粂沢も同様だった。その誰もが笑みを浮かべ、自信にあふれているように見える。
――何なんだ、いったい……。
遼はもう一度、心の中でつぶやいた。
「五分経過しました」
女性の声が室内の人間の視線を集める。
「この五分の間に、特に何もしなかった人――」
顔をそらすようにしながら手を上げる。半分ほどの人間が手を上げている。
「それこそが、今までのあなたたちの生き方だったのではないですか」
声の調子は思いのほか厳しかった。
「自分から積極的に行動しようとはせず、貴重な時間を、ただただ過ぎるに任せて浪費する。前半のプログラムであんなに打ち解けた雰囲気になったまわりの人と、話したり自己紹介し合ったりしようともせずに、人間関係を広げるチャンスも無駄にする―――。今までの人生を、あなたは、まさにそのようにして過ごしてきたのではありませんか」
胸の奥を突かれたような気がした。そのとおりかもしれない。粂沢や八木少年のように積極的に行動する人間に比べれば、消極的で、自ら進んで物事をしようとしない自分のような人間は、時間やチャンスをずいぶん無駄にしてきたのだろう。
「手を下ろしてください。これから簡単なゲームをします」
上げた手を下ろしながら、ほっとため息をついている。
「まず、番号順に二列に並んでください。奇数が向かって右、偶数が左です」
互いの胸のバッジを見ながら移動する。さっきの言葉が効いたのか、人の動きはやや速いように感じられた。紺のコスチュームのスタッフが皆に声をかける。
列が出来ると、先頭と最後尾にスタッフが立って誘導し、人の列は二重の輪になった。
「では、外側の人と内側の人と、お互いに向かい合ってください。間は、手が相手に触れないぎりぎりまで詰めて」
輪の内側に立っていた遼は外を向いた。遼の正面は、小柄な女性だった。遼より頭一つ低いが、年齢は二〇を一つ二つ超えているかもしれない。大きな黒目がちの目が遼をじっと見ている。遼はなんとなく目をそらした。
「それでは、これからゲームの内容を説明します。向かい合った人同士、じっと相手の目を見詰めてください。そらしてはいけません」
しぶしぶ視線を正面に戻す。別にこの女性の顔が嫌いだとか、そういうことではない。
ただ、こんなに近い距離で女性と向き合うなんて経験はあまりしたことがないので、緊張してしまうのだ。
「はい、見詰め合いましたね」
確認をとると、女性はルールの説明に移った。ゲームといっても、これは勝ち負けを争うようなものではない。ふだんはしないような間近に寄って見詰め合い、相手について感じたことを正直に相手に話すというのがこのゲームのルールである。聞くほうは、相手の言葉に反応してはいけない。じっと相手の目を見たまま、言われることをただ聞いていなければならない。
「つまり、どれだけ相手に対して自分が心を開いているか、開くことができるかを確かめ
るのが、このゲームのテーマです」
――相手について感じたこと……
遼は目の前の女性について何を感じているか、考えてみた。背が低い。目が大きい。二〇歳前後。全体に地味な印象……。
――なんだ、外見の特徴ばっかりじゃないか……。
自分の感性の鈍さにがっかりする。こんなことは、言うのも聞くのも不毛だろう。
「では、輪の外側の人、目の前の人について感じたことを言ってあげてください」
ほっとする。人に何かを言うより、自分に対する相手の言葉を聞いているほうが楽だ。
「すごく緊張してますね」
女性の第一声だった。まあ、そのとおりだろう。
「身構えているっていうか、他人に対して壁を作っている感じ」
それも当たっている。
「それでいて、いつも逃げ道を用意しているみたいな……」
そういう部分もあるかもしれない。
彼女の指摘はいちいちもっともと思えた。遼の視線がわずかにでもそらされると、「あ、逃げてる」と彼女が言い、そのたびに、遼はかなりの苦痛を怒じながら、彼女を見詰め直さなければならなかった。
「そこまで」
司会の女性がストップをかけた。遼の体から力が抜けた。
「言葉をかけてもらった人は、相手にお礼を言ってください」
ひどく不当な要求のように思えたが、解放された安堵感もあり、遼は素直に頭を下げた。
「外側の人、一人ずつ左側へずれて」
小柄な女性が横に移動し、今度は二〇代半ばくらいの男性が遼の前に立った。
「はい、見詰め合って。外側の人、感じたままを言ってあげてください」
「凄く他人の視線を気にしているでしょう?相手が自分をどう思っているか、そればっかり気にして生きてる、臆病な人間――」
淡々と続く言葉は、さっきの女性よりもきつかった。
「そこまで、お礼を言ったら、一人ずっずれて」
遼や粂沢や八木と同年代の少年が立つ。
「自分自身というものを持っていない人間に見えます。言われるままに行動する――」
「そこまで。一人ずっずれて」
同年代の少女が立つ。
「表情が暗くて、強張ってる。ううん、表情だけじゃなくて、体中強張ってる感じ――」
「一人ずつずれて」
三〇くらいの女性。
「他人の顔色ばっかり窺っているみたい。真面目ぶってるっていうか、他人に文句を言われないことだけしか考えていない――」
「ずれて」
二〇代後半の男性。
「作り笑いが厭らしい。――目をそらさないでよ。無意識に演技していると思う――」
――そのとおりだよ。僕は隠しごとをしているんだ。だから無意識に演技もしているだろうし、緊張感から体が強張りもするよ。だけど、仕方がないじゃないか。誰にも言えない秘密なんだから!
少なくとも二か月前までは、矢神遼は普通の高校生だった。性格が暗くて友だちも少なく、運動も得意でない。とりたてて優れた点のない、そのかわりにひどい欠点も持たない、平均をやや下回る程度の高校二年生だった。
遼を変えたのは、二か月前の出会いだった。黒いスーツを着た中年の紳士に出会い、不思議な短剣を押しつけられた。波形の鞘に収まり、どう見ても抜けそうにない短剣。紳士によれば、その短剣は、抜くことができた人間に強大な力を与えるという。
遼が試してみると、短剣は簡単に抜けた。それも、三〇センチ足らずの短剣が一メートル余りの直刀に姿を変えるという、予想もしなかった形で。
だがそれは、黒いスーツの紳士――裏次郎の罠だった。
現在の文明が発生する以前に栄え、宇宙にまでその勢力圏を広げながら滅亡した前文明イェマド――裏次郎はその生き残りだった。歴史学者だった彼は、自分の持てる知識を総動員し、生物的な連鎖はあるものの、文明的には何等つながりのない現在の人類の祖先に干渉し、イェマドの復興、あるいは新たなる人類によるイェマドの再現を目論んだ。しかし、裏次郎の懸命な努力にもかかわらず、人類はイェマドに至る兆しすら見せず、さりとて滅亡するでもなく、独自の発展と繁栄の道を進んだ。裏次郎は人類を見限った。
失意の歴史学者が立てた新たな目標、それは現在の人類の愚劣さ、劣悪さの証明だった。
裏次郎は、自分の許に遺されたイェマドの超技術の結晶――イェマドの遺産≠人類に分け与えた。魔法に等しい力を発揮するそれら遺産≠与えられた人間は、おのれの内に秘められた欲望、コンプレックスを暴走させて破滅し、遺産の管理人に一時の満足を味わわせた。
イェマドの遺産には特徴がある。一つは、現在の科学技術では、原理の解明はおろか、複製すら作れないこと。もう一つは、完全オーダーメイドに近いシステムで作られているため、本来の所有者でなければ起動さえできないこと。遼は、遺産を起動するキーになる何かがたまたま合ってしまったため、裏次郎に選ばれたのだ。
剣を手に入れた直後から起こった血生臭い事件は、遼を自殺寸前まで追い詰めた。だが、裏次郎と立場を異にするイェマドの生き残りとの出会い、そして一〇年ぶりに帰国した従妹、朝霞万里絵との出会いが遼を救った。
それでも遼は、想いを寄せる女性を助けることができなかった。一週間を泣き明かした後、遼は黒いスーツの遺産管理人と闘うことを決意した。
一か月後、遺産の与えた力を暴走させる人間との対決が待っていた。強大な力のぶつかり合いの陰で、遼は人間の精神の暗い側面とも闘わなければならなかった。それは同時に、遼の持つ遺産――ザンヤルマの剣の圧倒的な力の誘惑に屈しまいとする意志の闘いでもあった。そして、その闘いは、剣を抜かない日常においてさえも続いている――。
容赦のない言葉を浴びながら、遼は半ば気を失ったような状態だったのかもしれない。
ゲームの目的とは逆に、殼の中に閉じこもって自分を守ろうとしていたのかもしれない。
「目をそらさないで」
聞き覚えのある声がする。目の前に立ったのは粂沢だった。最初に会った時から変わらない、明るく落ちついた表情をしている。
「はい、感じたままを言ってあげて」
司会の声に、遼はびくっとした。自分はすがり付くような目付きになっているだろうと思った。
「バスの中で、僕が知らない人に頻んで、お婆さんに席を譲ってもらった時、矢神くんは知らんぷりをしていましたよね。僕が良いことをしているのはわかっているのに、他人のふりをする。まず最初に、まわりの人が何と思うかを考えたからでしょう? それでは心を開いた状態とは言えませんよね」
反則だ!遼は叫びたかった。確かに遼と粂沢は知り合いだから、初対面で感じたままを話すということはできないだろう。それでも、一時間以上前の出来事を蒸し返すという
のはルール違反ではないのか。
「今、目をそらしかけましたね。僕の言うことが受け入れられなくて、反論したいんでしょう?僕の言っていることが素直に認めにくいのはわかります。でも、間違ったこと、見当外れのことを言っていますか?」
相手が問いかけるような言葉を口にしても、聞いている側には答える権利がないのだ。
遼は黙って粂沢を見返すしかなかった。
「さっきの休憩時間もそうでした。僕のほうへ来ようとしていたのに、僕が別の人と話しているのを見て、廊下に出ていってしまいましたよね。また、人目を気にしていたんですよね。何か言いたいことがあったんでしょう? ひょっとしたら、僕が話していた相手を紹介されて、友だちが増えるチャンスだったかもしれないのに。廊下に出てからも、誰と話すわけでもない。司会の人の言葉じゃないけれど、あんなに打ち解けた雰囲気だったのに、どうして積極的に友だちを増やそうとしなかったんですか。そんなことをすると、人が変な目で見るから、ですか。それとも、友だちなんて一人も要らないんですか」
言い返したかったが、何も言えなかった。ルールで禁じられているからというだけではない。粂沢の言っていることは違うと思いながら、反論の言葉が浮かばなかった。
「それから、矢神くんはいっも本を読んでますけれど、あれも、現実の世界に対して心の扉を閉じて、嘘の世界に逃げ込んでいるってことじゃないですか。小説の世界に書がれていることって、犯罪とか悲劇とか、苦しみとか悩みとか、人間の暗くて醜い部分ばっかりでしょう? そういうマイナスの要素ばっかり読んでいると、矢神くんの考え方までマイナス思考になってしまいますよね。矢神くんはマイナス思考で消極的に生きて、せっかくの人生を、無駄で価値のないものにしたいんですか?」
もうやめてくれ――。耳の奥で血の流れる音がする。全身が一個の心臓になってしまったみたいだ。呼吸が苦しい。
「矢神くんを見ていると、人生から逃げている人間としか思えません」
「うるさい!馬鹿野郎!貴様、何様のつもりでいるんだ」
不意に野太い男の声がして、ホールにいた人の注目を集めた。
「おまえが、これからの人生にプラスになる集まりがあると言うから、俺はわざわざ忙しい時間を割いてやったのに、貴様等みんな、俺を馬鹿にしているだろう!」
叫んでいるのは、白いポロシャツを着た、太った中年の男だった。
「わかってんだぞ、俺には。江本、おまえ、このあいだ説教されたことを根に持ってるんだろう。これも神山の差し金だろう。こう見えても俺には三沢専務がついてるんだからな。おまえはもう、会社に出てこなくていい。クビだ、クビ!」
青筋立てて怒嗚りながら、よほど興奮しているのだろう。男は鼻血を出した。流れ落ちた赤い筋がシャツの胸に赤い斑点を散らす。
「俺がおまえくらいの年の時には、もう営業所でトップだったんだ。悔しかったら、契約を取ってみろ、若造!」
目の前にいる三〇くらいの男に掴みかかろうとしたのをスタッフが数人がかりで押さえ、二重ドアの外へ連れ出した。
「心が開けないって、かわいそうですよね……」
粂沢のつぶやきが聞こえた。
「それでは、言葉をかけてもらった人は、相手にお礼を言ってください」
何事もなかったがのように、司会は静かな声で指示を出した。
遼は粂沢のほうに向き直った。向かい合った時と全く変わらない表情をして、粂沢は立っている。
胸が重たかった。鳩尾に鉛の塊を沈めたみたいだ。いつの間にか、膝が震えている。
「あ……ありがとう、粂沢くん」
順に引っかかりそうな声で礼を言う。
レンズ越しに見る粂沢の笑顔、涙で揺らいだ。
ホールに再び椅子が並べられた。スタッフの指示するままに、遼はまた、胸のバッジと同じ番号の椅子に腰掛けた。気の滅入りようがひどく、まるで風邪のひきはじめのような感じがした。
「それではただ今から、オーキス・ムーブメント主宰、津島一幸をご紹介します」
司会の声も、それに応じる拍手も、滅入った気分に拍車をかける以上の意味はなかった。
壇上に、鉢植えの花を抱えた男が現れた。三五歳くらいか。紺のジャケットを着て、ネクタイはしていない。頬のふっくらとした丸い顔で、垂れた細い目が笑っている。
男は、鉢を卓の上に置いた。薄紫色の蘭の花が、複雑な形の花びらを広げている。
――ああ、なんてきれいなんだろう……
見るともなしに見ていた遼の心に、そんな感想が浮かんだ。
「きれいですよね」
津島一幸が言った。会場の何人かがうなずく。
――僕と同じことを感じている人がいるのか……。
単純な事実ではあったが、その認識は遼の鬱々とした気分をいくらか楽にした。
「花を見れば、誰でも美しいと思いますよね。それは、心の扉が開いているからですよ。ほんの小さな隙間かもしれないけれど、誰でも心の扉には開いた部分があるんです。無いのは、死人か気の狂った人間だけです」
蘭の鉢の後ろに津島は立ち、半ば蘭の花に語りかけるように、半ば会場の人間に語りかけるように、言葉を続けた。
「皆さんは、生きているし、正常な人間ですよね。だったら必ず、心の扉に開いた部分があるんです。自分でも気づいていないかもしれないけれど、あるんです。花を見て、『きれいだな』と感じたら、そばにいる人にそう言ってみましょうよ。言われた人はきっと、『うん、きれいだね』って、応えてくれますよ」
闇の中にぼんやりとした明かりが一つ灯ったような気がした。津島の静かな語りかけが、強張った心にゆっくりと染み込んでいく。
――ほんとうに、そうなんだろうか……。
遼はこわごわ隣を見た。ゲームの準備の際に、遼の椅子まで片づけた青年だった。
「今、隣にいる人を見た人――いいことですよ。あなたの心の扉は開きかけているんです。さあ、勇気を出して、あなたの心に浮かんだことを言葉にしてみてください」
さっき粂沢に礼を言ってから、再び声が出ることはないのではないかと思えるほど強張っていた喉が、舌が、ほぐれている。いや、体中の縮こまってしまった筋肉が緊張から解放されている。
青年はじっと遼を見ている。
「……あ……きれいですよね……あの花」
「そうだね、すごくきれいな花だ」
うなずきながら応じた青年の声に、遼は体が震えるような感激を味わった。心が感じるだけではない。感動は、ほとんど皮膚で感じる心地よさになった。砂漠をさまよい歩いた末に差し出された一杯の冷たい水のような、いや、吹雪の中を山越えした後で口にする温かいスープのような感覚が、じんわりと全身に広がった。
「ありがとう」そう言って、相手に抱き着く人がいる。ぼろぼろと涙を流しながら、「きれい……きれいですよね……」と繰り返しつづける人がいる。
遼も涙をあふれさせていた。喜びが波のように押し寄せてくる。
「よかったですね、あなたの心の扉は開かれたんですよ」
肩に温かい手が置かれた。
振り向くと、津島一幸が笑みを浮かべて立っていた。
「ありがとうございます!」
遼は立ち上がって叫んでいた。
「津島さんのおかげで、僕は心の扉を開くことができたんです。ありがとうございます」
「そうですね。そうやって、感じたことを素直に言葉にしましょう。そして、行動に移しましょう。心の扉を開いた人間の積極的な生き方の前には、不可能はないのです」
会場にいる人間がみな立ち上がり、津島のまわりに集まった。みんな涙を流し、口々に感謝の言葉を述べる。
ここにいる全員の心が開かれ、結ばれたのだと思った。これまでの人生で味わった感動の全てを総計したよりも大きな心の高まり――それは、肉体を構成する細胞の隅々にまで行き渡るようだった。その中心に津島一幸がいた。
――僕は……僕は、この人に出会うために一七年間生きてきたのかもしれない!
「今日のために、生きてきたんだ!」
遼と同じことを考えた人が他にもいたのだろう。誰かが叫んだ。
「そうよ、津島さんに出会うために生まれてきたのよ!」
「僕は生まれ変った!今日がほんとうの人生の始まりなんだ!」
「ありがとう!ありがとうって言わせてください!」
熱気がホール全体を覆い、渦巻いているようだった。自分たちの心の熱さが放出されて
いるんだ――そんなことを思う。
そんな興奮のなかで、津島一幸は細い目をさらに細めて、まわりの人の肩を叩き、頭を撫でていた。
興奮の冷めないまま、皆は席に戻った。いや、この言い方は不正確だろう。体を巡る血がいつも温かいように、心を開いた人間同士の間には常に熱いものが通い、奮い立たせてくれるのだ。
「津島一幸です。イッコウと呼んでください」
再び壇上に立った津島一幸はマイクを手に、背後に置かれたホワイト・ボードに名前を書いて自己紹介をすると、オーキス・ムーブメントにっいて語りはじめた。
「蘭というのは、環境に合わせた形質の変化、適応が著しいのです。つまり、蘭の心は、周囲の状況に対して開かれているわけですね。だからこそ、状況に対応できる。そういう特質をもった花ならば、心の扉を開く運動のシンボルとしてふさわしいと思い、私はこの運動をオーキス・ムーブメントと名付けました」
運は、津島の言葉を一言も聞き逃すまいとした。この素晴らしい人の言うことを全て吸収しよう、心に刻み付けようと思った。
津島の言葉は続く。蘭の仲間は、全植物の一〇パーセントにもなるという。
「これが、蘭をシンボルに選んだもう一つの理由です。オーキス・ムーブメントは、まず全人類の一〇パーセントにあたる人々の心の扉を開くことを目指します。心の扉を開かれ
た人間が、全人類の一〇パーセントに達したら――。どんなに素晴らしい世界が待ち受けているか、この世界をどんなに素晴らしい世界に変えることができるか、皆さん、考えてみてください」
世界の人間の一割が、いま会場にいる皆と同様に、心の通じ合う仲間になる――心が躍るというのは、こういう感情を言うのだろう。すぐにでもここを飛び出して、この素晴らしい運動の参加者を増やしたい。素晴らしい人――津島一幸に会わせ、その言葉を聞かせたい――。遼は身を乗り出していた。
「開かれた心というのは、すなわち愛≠ナす。愛が人を変え、世界を変えるのです」
津島は語った。人類の幸福のこと。世界平和のこと。地球環境のこと。未来のこと。それら全てが、開かれた心――愛によって良い方向へ変えられるのだと。
聞きながら、遼は熱心にうなずいていた。手元に筆記具がないのが恨めしい。この深い英知と愛に裏付けられた素晴らしい言葉を書き留め、たくさんの人に伝えたかった。
「そのために、皆さんは何をするべきか――いえ、この言い方は間違っていますね。皆さんは何をしたいと思いますか?」
友だちを連れてきます!家族に話します! いくつもの声があがる。
「そうですね。でも、皆さんの心の扉はまだ開かれたばかりです。それに、胸に手を当てて考えてみてください。つい一時間前、あなたの心の扉は開かれていましたか?何人もの仲間が一生懸命ノックして、初めてあなたの心の扉は開かれたのではありませんか?人の心を開くというのは、難しいことなのです」
会場の人間は考え込んだ。実際に胸に手を当てている者もいる。
「でも、じっくりと、一段ずつ階段を上るように順を追ってやれば、誰でも心の扉を開きます。そのためには、まず、自分の心の扉が開いていなければなりません。言い換えれば、オーキス・ムーブメントに友だちや家族を誘い、心の扉を開いてあげることは、あなたの心の扉が開いていること、積極的な生き方を選択していることの証明なのです。最初は、自分の心の扉を開け放したままにしておく練習をしましょう。そして、他の人が心の扉を開くお手伝いをするやり方を勉強しましょう」
津島の言葉を引き継ぐように、司会の女性が現れ、実務的なことを述べた。トレーニングは明日午前九時から、ここレインボー・ホールで行なわれる。必要なものは……
細々とした通達事項を伝え終わると、司会者はマイクを津島のほうへ差し出した。
津島は、両手を胸の前で合わせた。仏壇や神棚を拝む姿のようだったが、合わせた手は、
中に珠でも入っているみたいに膨らんでいた。
「これは私たちの心、花開く無限の可能性を秘めたつぼみです」
言いながら津島は手を開き、花――蘭の花を思わせる形を作った。
「心が開いていることを確認し、それを示すサインとして、やってみてください」
ホールにいる全員が手を合わせ、開き、蘭の花を形作った。
――開かれた心、無限の可能性!
再び、会場内に静かな興奮が沸き上がってくる。皆が、蘭のサインを繰り返した。隣の人間に、後ろの座席の人間に、花の形に開いた指を見せた。何度も、何度も。
スピーカーからまた大高勇二の曲が流れ出した。旅立ちをテーマにした歌は、まさにこの場のテーマ曲としてふさわしかった。
「では、これで、オーキス・ムーブメントのウェルカム・イベントを終了します。心の扉を開き、積極的な生き方を選択し、世界を良い方向に変えていく人の輪を広けましょう」
司会者は言葉の最後を蘭の花のサインで締めくくった。会場の全員が同じサインで応えた。二重ドアの脇に立っていた紺のコスチュームの女性たちも両手で蘭の花を形作る。
再び鉢植えを手にした津島一幸のまわりに人が集まった。一人ひとりと丁寧な握手をする。遼も人垣に加わり、津島の手を握った。大きくて温かな手だった。
その後、遼は粂沢の姿を見つけ、駆け寄った。
「粂沢くん、ありがとう!」
バス停の時のように、あるいは八木少年のように、今度は遼が粂沢の手を両手で握った。
「ありがとう、ほんとうにありがとう。粂沢くんの言うとおりだったよ。来てよかった。ほんとうに素晴らしかった」
「喜んでもらえて、僕も嬉しいですよ」
粂沢は力強く遼の手を握り返してきた。それから、オーキスのサインをしてみせた。遼もサインを返す。
「……あ、そうだ、一万円」
遼は尻のポケットから札入れを出した。
「いいんですよ」
「よくないよ。だって、粂沢くんは、このイベントに価値を認めたら払ってくれって言ったじゃないか」
「その一万円はとっておいてください。そして、これから矢神くんがムーブメントに誰かを誘う時に使ってください」
「――わかった。そうするよ」
二人は、受付でバッジを返し、預けておいた荷物を受け取った。係の女性ともオーキスのサインを交わす。心を開いていれば、言葉を使わなくても仲間になれるのだ。
建物の外に出た。夜空が輝いて見える。世界中の人すべてを受け入れられそうな気がする。未来はどこまでも輝いていると思う。
気分そのままの弾んだ足取りで、二人は歩いた。
*
遼や万里絵の住む橘マンションから五分ほど歩いた住宅街の一角に、その店はあった。
「冬扇堂」という名のその店には、骨董とも古道具ともアンティークともつかない、古いということ以外には共通点のない品が並べられ、それほど熱心に来店者を待っているようには見えなかった。
店の主人、江間水緒美は、彼女の指定席である長火鉢の脇に腰を下ろし、ハングルの並ぶ新聞を広げていた。切れ長の目と通った鼻筋が清楚な美貌を形作っている。だが、引き結ばれた口元と顎の線は、彼女の隠された意志の強さをうかがわせた。二〇をいくつも超えていないようにも、四〇をとうに過ぎているようにも見える。不思議な雰囲気をたたえた彼女もまた、裏次郎同様、イェマドの遺産管理人である。ただし、立場は異なる。現在の人類にたいした希望を持っていないことこそ共通してはいるものの、どのような未来を選ぶかは人類自身の問題であり、イェマドの生き残りが干渉すべきではない、というのが水緒美の考えだった。たとえ、その干渉の意図、目的がどのようなものであったとしても。結果として水緒美は裏次郎と対決を重ね、裏次郎の手でバラ撒がれた遺産≠回収するために東奔西走してきた。
水緒美は新聞を畳んで、傍らに置いた。さっきから幾度も紙面に目を走らせていたが、活字の列が意味するところは少しも頭に入ってこなかった。
理由はわかっている。一か月ほど前に裏次郎から言われたことが頭から離れないのだ。
――イェマドの滅亡は、人間によって仕組まれ、実行された計画によるものだ。計画名は『ザンヤルマの剣士』。ザンヤルマの剣は、その計画を実行するための道具だった――
――今世の人類に、イェマドの滅亡を再現してもらう。栄光あるイェマドの歴史の最後の一頁がどのように閉じられたのか、最後の歴史学者である私の目の前で見せてもらう。それが私の目論見、言わば『第ニザンヤルマの剣士計画』だ――
南米の石積みの遺跡の上で、黒い服の遺産管理人はそう言った。それは、言い換えれば、矢神遼にザンヤルマの剣でこの世界を滅ぼさせるということだ。
――あたしのしたことは間違っていたのか……。
これまで水緒美は、裏次郎が人間に相続させた遺産を何度も回収してきた。場合によっては、遺産を相続した人間を処分≠キることもした。
だが、矢神遼だけは例外だった。あの時――身も心もぼろぼろになった遼が、ザンヤルマの剣を取って闘うという決意をした時、水緒美には止められなかったのだ。
だが、そのことが、実は裏次郎の企んだイェマド滅亡の再現に手を貸したことになるのではないのか。あの時の判断が、矢神遼をさらなる地獄へ追いやるのではないか。ザンヤルマの剣士――イェマドの古い経典によれば、世界の終わる時に現れ、人間を一掃する存在がザンヤルマの剣士なのだ。
店のドアに付けられたベルがのんびりした音を立て、水緒美の思考を中断させた。
入ってきたのは、白いTシャツにジーパンを履いた少女だった。店をひとわたり見て、他にお客がいないのを確認してから水緒美の前に立った。まだ涼しくはならない午後の熱気の中を来たにしては、汗ひとつかいていない。猫を思わせる大きな目の下の口がニッと笑う。
朝霞万里絵――矢神遼と同い年の従妹だ。そして、イェマドの遺産をめぐる暗闘について知っている数少ない人間の一人である。ただし、遼と違って、遺産は持っていない。
「……どうしたね?」
尋きながら、水緒美は引き寄せた盆の上の湯呑みを一つ上に向け、茶を注ぐと、万里絵の前に置いた。
「丈太郎と連絡がつかないんだけど。――ひょっとして、シベリアでも行ってるの?」
万里絵は、もう一人の遺産管理人の名前を出した。氷澄丈太郎は、表向きは、遼と万里絵の通う鵬翔学院高校で歴史を教える非常勤講師だ。だが、裏では水緒美と同じくイェマドの遺産管理人として裏次郎と敵対している。
「日本のどこかにいるよ。例の〈潜在能力開発機関〉のファイル片手に走り回っている」
夏休み前の遺産絡みの事件に介入していたのが、〈潜在能力開発機関〉だ。いわゆる超能力を持った人間を見つけ出し、場合によっては抹殺する、諜報機関の下部組織である。
イェマドの存在に気づきそうになったため、氷澄の手によって壊滅された。
「あそこは、超能力者の手がかりになりそうな情報なら何でも集めていただろう? そのなかには、遺産に関係のありそうなものもいくつかあってねえ。夏休み中は飛び回ってるよ。元気なもんだ」
「遼に負けたくないんでしょ。丈太郎は、遼に対抗意識もってるから」
「こらこら、そうはっきり言っちゃ、丈太郎の立場がないってもんだ」
万里絵はクスッと笑った。
「それで、今日は何の用だい?」
「教えてほしいことがあるの。――守護神の潰し方」
水緒美は黙って自分の湯呑みに茶を注ぎ足した。
守護神≠ニは、イェマドの人間ならば誰でも持っているエネルギー・ジェネレーター兼コントローラーである。存在と非存在の落差からエネルギーを取り出し、持ち主の体を健康な状態に保つのが、その第一の目的である。疲労を回復させ、病気の原因となるものを排除し、負傷した肉体を急速に復元する。さらに、エネルギーを操作して攻撃用の武器として扱ったり、防御のためのバリアーを張ったり、さらには敵の存在を探知するセンサーとしても使用できる。守護神≠フ名にふさわしい力を持つイェマドのアイテムだ。
「――結局、守護神を潰さないかぎり、多少のことじゃ裏次郎は倒せない。遼や丈太郎からなら、日頃の隙をついて盗むって手もあるけど、裏次郎が相手じゃ、そうもいかないでしょ。だから、教えてほしいの。戦闘中でも実行できる守護神の確実な潰し方」
「お断りだね」
水緒美の返事に、万里絵の大きな瞳が険しい光を浮かべる。
「どうして!?」
万里絵は水緒美のほうへ詰め寄ってきた。
「普通の人間なら死んでるような状態でも、守護神があれば致命傷は避けられるし、完全に回復できる。遼が、剣の力にブレーキをかけずに仕掛けた時も、まんまと逃けられた。
最初に守護神を潰さなければ、駄目なのよ。――自分たちの弱点を知られるのが厭だっていうなら、方法を教えてとは言わない。今度、裏次郎と対決した時には、水緒美と丈太郎の手で守護神を破壊して」
「お断りだって言っただろ。教えるのも、自分でやるのも、どちらもお断り」
さらに怒りの表情を浮かべて踏み込んでくるかと思われた万里絵だったが、目からは強い光が消え、見ようによっては悲しそうともとれる表情になった。
「――どうして?」
「世の中にはね、やっちゃいけないことがあるんだよ」
万里絵の瞳が、再び怒りの色を浮かべた。
「じゃあ、裏次郎のやっていることは、やっちゃいけないことじゃないっていうの?少なくともあたしは許さないわ、絶対に」
「相手がどんな極悪人だとしても、いけないことはいけないんだ」
「いけないことをしている人間に対しては、そういう道徳律は除外されるべきよ」
「道徳だというなら、それは自分のためにあるんだろう?相手か誰であろうが関係ないよ。――万里絵ちゃんには、いや、今の世の中に生きている誰にも、守護神を破壊されることの恐ろしさはわからないんだよ」
水緒美は茶をすすった。万里絵はまだ納得のいかない顔をしている。別に、納得してもらおうとは思わない。死刑よりも残酷な刑罰があるとしたら、それは相手の持っている守護神を破壊することだろう。守護神に守られることなく、この世界に放り出されたら――。
考えるだけで寒気がする。生物として本来もっている肉体の回復力に全てを任せ、視覚、聴覚、嗅覚で危険を察知し、筋肉だけに頼って身を守らなければならない。自分の肉体についた傷が、いったいどの程度の期間で回復するものなのが、水緒美は知らないのだ。だが、守護神を持たない、そういうものが存在することさえ知らなかった人間に、イェマドの人間が感じている恐怖を理解しろといっても、無駄なことだろう。
ふと残酷なことを考える。もしも裏次郎の言っていたことを伝えたら、この気の強い少女はどうするだろう?裏次郎が言った、世界を救う簡単な解決法は二つある。一つはザ
ンヤルマの剣を破壊すること。そして、もう一つは矢神遼を殺すこと。少年を殺すのは論外だろう。剣の破壊も、万里絵の選択肢にはありえない。なぜなら、遺産管理人たちが必ずしも人類のために戦ってはくれないことを見抜き、遼に剣を管理させることを最初に提案したのは万里絵なのだから。では、万里絵はどちらを選ぶのだろう?世界の安全と、矢神遼の命と。
「ついでに言っておくけど、このことに関しちゃ、丈太郎に尋いても無駄だからね」
「どういう意味?」
「どうも丈太郎は万里絵ちゃんには甘いようなんでね。でも、この件に関しては丈太郎も教えてはくれないだろうね」
「――いいわ。そのかわり、邪魔はしないでね」
水緒美はうなずいた。ある種の訓練を受けているこの娘なら、時間さえかければ、守護神を潰す方法くらい思いつくかもしれない。
「ところで、遼くんはどうしてるんだい?」
「さあ? そういえば、ここ四、五日見てないけど」
「あんまりいしめちゃ、かわいそうだよ、万里絵ちゃん?」
「誰が遼をいじめたのよ」
水緒美の軽口に、いかにも怒っているという表情を作って万里絵が応じた。それまでの険悪な成り行きにひとまず終止符を打とうというサインだと思えた。
「――水緒美、何か隠し事してない?」
万里絵のカンの良さに改めて感心する。だが、顔には出さなかった。
「実年齢と恋愛遍歴くらいかね」
「つまんない冗談」
胸のところで小さく手を振り、万里絵は出ていった。
――猫みたいな娘だね。丈大郎は山ザル呼ばわりしていたけど。
やがて、頬から笑みが退いていくのが自分でもわかった。
矢神遼がそう簡単に世界を滅ぼすとは思えない。だが、あの純粋さが、汚濁にまみれた今の世界の有り様に耐え切れなくなる日は、意外に近いかもしれない。なまじっかの正義感と繊細さは、過激な行動に向けて暴走するのではないだろうか。その時、自分はどうしたらいいのだろう。
――あたしがケリをつけるしかないのか……。
わかっていること、それは、万里絵にも丈太郎にも、そしてもちろん、遼本人にも、何も話せないということだけだった。
――収穫なし、か。
夕食後、コーヒーが沸くのを待ちながら、万里絵は水緒美とのやり取りを思い出していた。
学校に煩わされずに時間が使えるうちに、イェマドの遺産問題について少しでも対策を立てておくことが、万里絵が自分で立てた夏休みの課題だった。
まず、裏次郎を討たなければならない。例えばこの間の事件では、裏次郎が遺産を相手に受け取らせたのは二年前だという。いつだったか氷澄が言っていたように、裏次郎がバラ撤き、未だに芽を吹いていない遺産が多数あることは予想がつく。だから、決定的な解決法ではないだろうが、現在以上に被害が拡大されるのを防ぐことにはなるはずだ。
――それなのに。
水緒美は協力を拒否した。所詮、自分たちと遺産管理人たちとでは物の見方、考え方が違うのだと言い聞かせても、裏切られたという気分は拭いがたく残った。
「いいよ、いいよ、自分で解決してみせるから」
口に出して言う。沸いたコーヒーをマグカップに注ぎ、これまでにわかった材料の整理に取りかかろうとした時に、インターフォンが鳴った。
「はい?」
『矢神遼です』
――変だ。
受話器を通して聞こえてきたのは、確かに遼の声だった。だが、万里絵の無意識の警戒装置は第一次警報を出した。何かがおかしい。でも、何が?
『ちょっと話したいことがあるんだけど、いいですか?』
「いま開けるから、待ってて」
警報は、第二段階に移ろうとしていた。おかしい。確かにおかしい。リビングから玄関までの短い廊下を歩きながら、万里絵は自分の頭の中で警報を鳴らしているものの正体について考えた。
――声が大きい……遼は、普段はあんなにはきはきとしゃべらないし……。
ドア・スコープから覗いてみる。いつものようにジーンズに地味なシャツを着た遼が立っている。
――本人よね……誰かが隠れてる様子もないし。
玄関の明かりを点け、客用のスリッパを並べる。
――矢神遼です……ちょっと話したいことがあるんだけど、いいですか……。
違和感の元になっている、インターフォンで聞いた遼の言葉を反復してみる。
ドアのチェーンを外し、四つあるロックを一つずつ開けていく。
――そうか、遼はあたしに対して丁寧語を使ったりしないし、フルネームで名乗ったりしないんだ。
ようやく万里絵が違和感の原因に思い至った時、ドアを開けて遼が入ってきた。
「こんばんは」
明るい笑みを浮かべた遼は、言いながら右手を差し出してきた。
万里絵は腕を組んで、遼の右手と顔を交互に見比べた。
特に気まずさを感じている風でもなく、遼は右手を引っ込めた。
「ここ何日か会わなかったよね。こないだのエジプト文明展に行った日から会ってないから、四日ぶりになるね。ほんとうに、ひさしぶり」
「そう?学校でも会わない日が続くこともあるし、夏休み中だって、遼はなんとなくあたしを避けてたじゃない。ひさしぶりってほどでもないと思うけど」
相手との距離を詰めること。そして、内容は何でもいいから、相手にイエスと言わせること。それが共感と心の交流を産む第一歩である――。説得交渉に成功するノウハウの本の最初に書いてあることを、遼は、そのまま実行しようとしているようだ。
最初の試みをくじかれて、遼は多少言葉に詰まったようだった。だが、表情を変えるようなことはせず、あくまで明るい笑顔を崩そうとしない。割とすぐに感情が顔に出る遼を見慣れていた万里絵は内心、舌を巻いた。
――それで、最終目標は何なの?英会話の教材でも売りつけるつもり?
リビングへ遼を案内しながら、万里絵は観察し、思考を巡らせた。
遼をソファに座らせ、その前にカップを置いてコーヒーを注ぐ。
「ありがとう」
またも、はきはきした遼の言葉、無意識の警戒警報を聞きながら、万里絵は自分のカップを片手に遼の斜め前に座った。本来なら、心理的な圧迫感か少なく、話しやすい位置になる。そして、自分から話すように促すこともせず、遼が口を開くのを待った。
「明日は登校日だよね」
「そうだっけ?」
カレンダーを見るふりをする。あくまでイエスと言わない。そのことだけに固執するのもまずいだろうが。
「午後は何か予定ある?」
「わからないわ。ひさしぶりにみんなと会うから、帰りにどこかに寄るかもしれないし」
「先に誘っているのは僕だよ」
「遼ならいつでも会えるけど、クラスのみんなとは、学校じゃなきや会えないんだもの」
――さて、どう返してくる、遼?
多少の意地悪い興味も込めて、万里絵は遼の反応をうかがった。
意外にも遼はひるんだ様子を見せず、ただ、頭の中で次に使うべき言葉を探しているかのように黙っていた。
「――それじゃ、単刀直入に言うよ。明日の午後、面白いイベントがあるんで、誘いに来たんだ」
「面白いイベントねえ……」
相手の言った言葉を繰り返し、あるいは動作をまねする――相手に信頼感を持たせるための初歩的なテクニックだが、遼は気づいていないようだ。
「面白くて、充実したプログラムが組まれてる。ゲストも豪華だし」
万里絵の反応に脈あり≠ニ見たのか、遼は言葉を重ねた。
「そのイベントの主催者は誰なの?」
「変な政治団体とか、宗教とかには関係ないよ。もちろん、何かを売りつけようとかってことじゃない。僕がそんなことをするように見える?」
笑顔を崩さずに遼が答える。尋かれもしないのに、この答え。そういうふうに疑われそうな団体か、あるいはそのものずばりの可能性もあるということか。
「あたしは主催者は誰かって尋いたのよ。話しちゃいけない決まりになっているの? まさか、知らないわけじゃないんでしょ?」
あくまでも無邪気な感じで尋く。遼は答えなかった。
『そのイベントのテーマは?参加費は? 協賛者は?』
遼は答えない。
「遼がそのイベントを知ったきっかけは? どうしてあたしを誘うわけ?」
明るかった遼の表情に、かすかに困惑の気配が浮かぶ。そんな遼の様子を見ながら、万里絵は薄ら寒いものを感じていた。厭な予想ほど当たるものだ。
――遼……まさか……。
「――ねえ、それで楽しいの?」
遼がひとり言のように言った。
「そんなふうに他人を疑ってばかりいて、心の扉を閉ざしたまま生きていて、ほんとうに楽しい?」
――心の扉、ね。
いささか唐突に出てきた言葉をチェックする。これは重要な用語なのだろう。遼が言うところの「面白いイベント」関係者の間では――。
不意に遼が身を乗り出し、万里絵の肩を掴んだ。
「全部話すよ。僕は、中学の時の友だちに誘われて、そのイベントに参加した。そこで、いろいろな人の話を聞いた。それから、普段はできないような経験もした。そして、気がついたんだ。僕がいがに心の扉を閉ざして、ほんとうの自分を隠して、消極的に生きていたかってことに」
ひどく真剣な眼差しで遼は万里絵を見詰めている。目つきだけではない。言葉にも力がこもり、切羽詰まったものさえ感じられる。
「サバイバル技術を身につけているっていうのは、いつも自分が危険にさらされているって思うからだろ? そして、自分だけは生き延びようと考えてるからだろ? そんなふうに心の扉を閉ざしていれば、まわりの人間がみんな敵に見えるよね。何を考えているかわからない、不気味な存在に思えるのも仕方がないよ。でも、そんな生き方をして、楽しいのかな?もっと他の人と心を通い合わせることが、有意義な人生を送るために必要だと思わない? そのためには、まず、心の扉を開かなきやいけないんだよ」
肩に食い込む遼の指――精一杯の熱意を込めているのだろうが、それでも非力な指の感触が悲しかった。
――遼は、マインド・コントロールされている……。
苦い認識が万里絵を捕らえた。
悪徳商法のセールスから、ある種の自己実現セミナー、そして一部の新興宗教に至るまで、あらゆる場面で悪用されている技術が遼に対して使われたのだ。
遼のように生真面目で、友人も少なく、何より身近に家族のいない青少年が、そうした技術の餌食になりやすいのは仕方のないことだろう。しかも遼は、他人に相談できない悩みを抱えている。「心の扉を開く」という言葉が、普通の若者に与える以上の魅力をもって遼を誘惑したのも無理はない。
――まったく、何てこと!
「――聞いてるの?」
肩を揺さぶられて、万里絵の思考は中断した。
「聞いてるわ」
張り詰めていた遼の表情が、いくぶん平静さを取り戻す。
――こんなに間近で遼の顔を見たことって、あんまりなかったな。
緊張した場面でこそ、自分で自分に声をかけ、過度の緊張をほぐす――万里絵の身についた習慣だった。
「ちょっと、手を放してくれる?」
「あ……ごめん」
視線をそらせるようにして、遼は万里絵の肩から手をどけた。こうした反応は、万里絵がよく知っている遼のものと変わらないようだ。望みはある。
改めてソファに座り直し、万里絵は正面から遼を見詰めた。
「遼は、中学時代の友だちに誘われて、そのイベントに参加して、自分をじっくりと見直す機会を得た。そこで、自分が心の扉を閉じていることを実感した。そして、心の扉を開くためのいろいろなトレーニングをした。その結果、心の扉を開いて、ほんとうの自分がどういうものかを知ることができたし、まわりにいる人々を受け入れられるようになった。積極的な生き方を選択できるようにもなったー――。かいつまんで言うと、そういうことよね?」
「そう、そうだよ」
またもこちらに乗り出してきそうな様子で、遼はうなずいた。
「ほんとうに素晴らしいイベントなんだ。だから、参加してほしいんだ」
自分のやっていることが、ほんとうに価値のある――ひょっとしたら、世界で最も価値のある――ことだと信じている人間らしい熱心さだった。自信にも裏打ちされている。そして、何よりも嬉しそうだった。それはそうだろう。真に価値のあることに自分は邁進している――と本人は確信している――のだから。
――ちょっと痛いかもしれないけど、がまんしてね、遼。
「――言葉だけじゃね」
肩をすくめるようにして万里絵は言った。
「どういうこと?」
「誠に遺憾に存じます。二度とこのような不祥事を繰り返さないよう、前向きの姿勢で努力していく所存でございます――なんて、言うだけなら誰にでもできるでしょ?行動がともなわなくちゃね」
「僕は、心の扉を開いて、積極的に行動しているよ。だから、こうして積極的にイベントに誘いに来たんじゃないか」
新規の会員、信者を勧誘した数を、積極性や信仰心を計る尺度にする――ネズミ算式に組織を拡大しようとする集団が、マインド・コントロールした相手に対してよく使う手だ。
「でも、イベントへの勧誘なんて、みんながやってることでしょ?他人がやっていることに合わせて行動しているなら、単にまわりに流されているだけで、積極的に行動しているとは言えないじゃないの?」
「そういう考え方こそ、心の扉が開いていない証拠だよ。だから、人のやることを否定的にしかとらえられないんだ」
――けっこうやるじゃない。
心の扉を開くトレーニングと遼は言っていたが、それは、自分の心だけではなく、相手の心の扉をこじ開けるテクニックを身につけるためのトレーニングでもあったようだ。
だが、この程度で言いくるめられてしまう万里絵ではない。
「否定的って言うけど、遼のほうこそ、あたしのことを否定的に見ていることにならない? あたしのありのままを受け入れていないわけだから」
「そういうふうに自分の全てを正当化しようとするのは、心の扉を閉じているからだよ。そうやって、まわりに壁を作って、他人の言葉や考えを拒否しようとしているんだ」
「遼の言ってること、よくわからないんだけど。遼は、心の扉を開いてるんでしょ?だったら、他の人がいろいろなものの見方や考え方をするのを全部、受け入れられるはずじゃないの?」
遼はしばらく沈黙した。胸元で手を合わせている。神や仏に祈るような格好だが、合わせた手の真ん中が膨らんでいるのが、祈りの格好とは違う。
「――ほんとうに心の扉が開くっていうのがどういうことなのか、やっばりイベントに来なくちゃ、わからないよ」
熟考の末なのだろう、遼が口を開く。
「いいよ。行く。明日でしょ」
「ほんとうに?」
顔が輝くというのは、こういうことを言うのだろう。飛び上がらんばかりに喜んでいる遼を見て、万里絵は多少の罪悪感に襲われた。
「ただし、条件があるわ」
「何?」
遼は眉をひそめた。
「あたしの目の前でザンヤルマの剣を抜いてみせて」
予想外の要求だったのだろう。困惑の表情が浮かんでいる。
「あの剣は、遼にとっては良い記億のないものだろうけど、ほんとうに積極的な生き方を選択しているなら、そういう過去の経験に縛られることもないし、自分の意志でちゃんとコントロールできるはずよね」
「それは……」
「できるの? できないの?」
「……わかった。抜いてみせればいいんだね?」
遼は自信ありげに笑うと、ソファを立ち、待っているように万里絵に言い残して、部屋を出た。
――まずかったかもしれないな……。
あまりに自信がありそうな遼の笑顔を思い出し、万里絵は多少後悔した。
現代の都会で生き残る技術の一環として、マインド・コントロールについてひと通りの知識は万里絵も持っている。だが、それは、自分を取り込もうとするマインド・コントロールを見分けるための知識、技術であって、コントロールされている人間を正常に戻すためのテクニックについては、心もとない状態なのだ。
――自分がコントロールされていたら、自分で解除するのはまず不可能だもんね。
遼が四〇二号室へ剣を取りに行っている間に、冬扇堂に電話して水緒美に助けを求めようかという考えも浮かんだが、実行はしなかった。さっきのいきがかりから、助力を頼みづらいということもあるが、水緒美がマインド・コントロールを解除する方法を知っていることを期待できないということが大きかった。
――守護神≠ノ守られていれば、マインド・コントロールされる危険なんて考えなくてもいいんだろうな、多分。
遼のマインド・コントロールが解除できなかったらどうなるか。最もまずく展開してしまった場合、万里絞はザンヤルマの剣士と戦わなければならなくなる。
――これは、本気でまずかったかも……。
コントロール解除の勝算が立たないうちに、剣を抜くことを要求してしまったのは、軽率だったかもしれない。
――それでも、やるしかないか……。
いざという時に備えて、いつものように、スタンガンと、伸縮式特殊警棒と、折り畳み式ナイフを用意する。超古代文明の遺産を相手にするには順りない武器だが、戦い運びのうまさでは、万里絵のほうに分があるはずだ。リビング内の家具の位置を億認。いくつかをずらし、ドアの鍵を確かめ、退路を確保する。ここでやられなければ、再戦のチャンスもある。とにかく、ここで終わってしまうことだけは避けなければならない。
――いざとなったら、何とかして遼から剣を切り離すこと。そうすれば、縛るなり何なりして、時間稼ぎができるはず。
最後に壁の鏡を見る。いつの間にか順に浮かんでいた汗を拭い、にっこりと笑ってみる。
目元のひきつれがなくなり、いつもの自分に戻った気がした。
――だいじょうぶ。うまくいく。
最後にもう一回、胸の中で繰り返す。
インターフォンが嗚った。
遼は、落ち着いた様子でソファに座った。万里絵がソファに座らず、肘掛けに軽く腰を乗せているだけだということにも特に関心を示さず、無造作にザンヤルマの剣を差し出した。
赤い波形の鞘に収まった状態のそれは、どこの国の剣とも似ていながら、そのどれとも決定的に印象を異にしている。ちょうど、水緒美や氷澄が、今の人間たちと表面はそっくりでいながら、精神構造に深い断絶を感じさせるものがあるように。
「これを抜いてみせればいいんだよね」
万里絵は黙ってうなずいた。
見た目は三〇センチほどの古い短剣にすぎない。だがその力は、同じくイェマドの遺産を使った通り魔、諜報機関の実働部隊、悪意ある超能力者などを、苦戦の末とはいえ、下している。
後ろに回した手で、特殊警棒を握り直す。そして、スリッパから足を抜いておく。限りない楽天性を持つと同時に、常に最悪の事態を予想して行動することが万里絵の信条だが、現実はしばしば予想を上回る。
遼は、ザンヤルマの剣を目の高さに掲けると、剣を抜く動作をした。
青白い閃光。材質不明の赤い鞘は遼の動きに応え、一メートルほどの直刀に変化した。
一瞬、情況も忘れて、万里絵は剣に見とれた。こんな近くで剣の変化を見たのは初めてだ。
美しい。一点の曇りもない刀身は、それ自体が光を放っているのではないかと思うほどだ。
だが、すぐに注意力を呼び覚ます。剣だけでなく、輝く刃の向こうの遼の顔を注視する。
「これで、来てくれるよね、明日のイベント」
「イヤだって言ったら、どうする?」
「どうするって……」
またも困ったような表情が浮かぶ。
「――もし、ここに遼のご両親が居たら、遼はイベントに勧誘した? お二人は参加したと思う?」
何かを必死になって思い出そうとしているような表情のまま、遼は動かない。肌の表面を電気が走っていくような緊張感を味わいながら、万里絵は遼を見詰めつづけた。
ザンヤルマの剣には守護神≠フ機能がある。遼がマインド・コントロールされているのなら、それを解除し、正常な状態に戻せるはずだ――。それが万里絵の読みだった。だが、肉体に直接手を加えられているのでない場合、守護神はそれを回復できるのだろうか。
テレパシーによるコントロールを断ち切った例はあるが……。
「今の遼を見たら、ご両親は何て言うと思う?」
遼は万里絵を見ていない。声も聞こえていないかもしれない。半開きになった口が、酸素不足の金魚のようにパクパクしている。頬と目蓋の片方だけが痙撃している。
「――うっ」
遼の全身が震えた。
万里絵が身をかわした瞬間、剣が落ちた。特殊警棒で横に払い、遼の手から遠ざける。
遼は、さっきも見せた、手を胸元で合わせる動作をしたが、効果はないようだった。動作は何度も何度も繰り返され、指同士がもつれそうになる。
何が起きたのか。マインド・コントロールの解除か、それとも――。
「遼……?」
遼は答えなかった。
「これで、来てくれるよね、明日のイベント」
「イヤだって言ったら、どうする?」
「どうするって……」
万里絵の言葉に、遼は答えられなかった。そんなことがあるはずかない。自分は約束を果たしたのだ。誰よりも最初に彼女をウェルカム・イベントに誘ったのも、彼女に素晴らしい経験をしてもらいたいからだし、あの素晴らしい人――津島一幸さんに会ってもらいたいからだ。それなのに、イヤだなんて――。
「――もし、ここに遼のご両親が居たら、遼はイベントに勧誘した? お二人は参加したと思う?」
当然だ。それが、心の扉を開かれた人々による愛に満ちた世界を作ることになるのだから。父も母も絶対に喜んでくれるに決まっている。そうですよね、津島さん?
だが、遼の心の呼びかけに、津島一幸は応えてくれなかった。
ウェルカム・イベント以来、遼の心の中にはいつも津島一幸が居た。蘭の花の鉢を持った津島一幸が、笑顔で語りかけ、うなずいてくれた。そのとおり、あなたの心の扉は開かれていますよ、と。そのたびに遼は、胸に温かなものが広がり、体を流れる血や呼吸する空気までが甘いものになったような幸福感に包まれる。この素晴らしい人と出会えたこと、そして何より、津島一幸自身に感謝する気持ちでいっばいになる。
それが今、消えてしまった。この数日、遼を満たしていた喜びと充実感はどこかへ行ってしまった。遼の心の扉を開き、ほんとうに生きるということを教え、人生の目的を与えてくれた津島一幸が、遼の心から居なくなってしまったのだ。
蘭の鉢を手にした津島一幸の姿ははっきりと覚えている。一日に一人、オーキスの仲間を増やしていけば、一年で三六五人の仲間が作れます――全世界の人間の一〇パーセントを仲間にしましょう――開かれた心に不可能はありません――心を開くこと、それは愛です――。語った言葉も、すぐに思い出せる。だが、あれほどの感激を呼び起こした姿はピンぼけの写真以下のものになり、人間に対する深い洞察と理想を含んでいると思えた言葉は輝きを失い、実体をともなわない、空しいフレーズに変化してしまった。心を通わせ合った仲間たちとの時間も、濃い霧を透かして見るように、おぼろげだ。
どうしたらいいのだろう……足元が崩れ、ぽっかりと開いた穴に落ち、いつまでも落ちつづけているような気分だ。
何かが伝わってくるような感覚――。剣から伝わってくる。張り詰めた緊張感と、一筋の糸のようなもの――遼に向けられた、視線よりも確かな何かが。
だが、今の遼には重すぎた。剣が手から落ちる。自由になった手でオーキスのサインを繰り返すが、心の平安は戻らなかった。
助けて!叫びたかった。あんなに確固としていた人生の目的が消える。溢れかえっていた喜びが消える。果てしなく落ちていくような喪失感が全身を覆っている。
「遼……?」
何か、確かなものが欲しい。確かなものが、あったはずだ。
「遼……?」
視界がグラグラ揺れている。しばらくしてがら、ようやく誰かが肩を掴んで揺さぶっているのだと気がついた。
自分を揺すっている手を掴む。揺れが止まった。肩に乗っている暖かく力強い指を感じる。しなやかな腕、意外に張った肩ふんわりと広がった髪、そして、人を吸い込みそう
な不思議な色合いの大きな瞳……。
「……マーちゃん? どこ?」
「ここにいるよ、遼」
肩に置かれた手に、また力がこもる。大きな目の視線と自分の視線が、やっと互いを捕らえた。万里絵がうなずく。
――これだったんだ……。
ザンヤルマの剣を通して遼に伝わっていたものの正体がわかったような気がした。それまで遼を包んでいた喪失感が、波が退くように消えていった。
同時に、すべきことの一つに気づく。
遼は、万里絵の手をどけると、立ち上かった。ソファの向こう、絨毯の上に落ちているザンヤルマの剣を拾い上ける。けっして重量のあるものではない。だが、手に取れば、遼にとっては常に重たいものだ。
もとの鞘に収まった状態を思い浮かべ、握った刃を柄のほうへ押し込む動作をする。手の中で刃がうねったような感触がすると、剣は赤い波形の鞘の姿に戻った。
「持ってて……危険はないと思うけど……」
剣を万里絵に押しつけるようにして渡すと、遼は意識を失った。
ザンヤルマの剣を稼動させた後、遼は仮死状態に陥る。
稼動時間が短かったためか、今回の仮死状態は長いものではなかった。
ソファの上で遼が身を起こすと、万里絵が盆を持ってキッチンから戻ってきた。
「食べなさい」
遼が何か言うより早く、万里絵は盆を遼の前に置いた。白い皿に乗った握り飯が二つと、味噌汁の碗。
遼は一つめの握り飯にかぶりついた。塩気はきつめだが、今はそれが舌に心地良い。というより、体が欲しがっている感じだ。
「よく噛んで。――ちゃんと食事してた?」
「食べてたよ。トレーニング中は、パンと牛乳が出た」
「三度とも?」
遼がうなずくと、万里絵は肩をすくめた。
味噌汁をすする。実は茄子だ。
「うちは日本茶ないから、コーヒーでがまんしてね」
うなずき、二つめの握り飯に手を出す。ようやくがぞの香りを味わう余裕が出てきた。
「ごちそうさま」
かなり大振りの握り飯二つと味噌汁を遼が片付けると、入れ違いに、万里絵がコーヒーのカップを置いた。そして、自分もカップを手にして、遼の隣に座る。
「ちょっとつらいと思うけれど、何があったのか、最初から話して」
意識を取り戻した時から、そうしなければならないという覚悟はしていた。コーヒーを一口すすり、先週、エジプト文明展から帰った後で粂沢に電話をもらったことから話しはじめた。翌日のウェルカム・イベント――そこで起こった出来事は、自分でも驚くほど詳細に覚えていた。極度の精神的な落ち込みと、そこから助けてくれた津島一幸――。
「それで?」
翌日から始まったトレーニングについて話そうとして、遼はためらった。
「全部話してくれないと、何があったのか、はっきりとはわからないよ」
遼はぎゅっと目をっぶった。
「ひどいこと……したんだよ……」
「遼……話したほうが、楽になるよ」
遼はゆっくりと言葉を押し出した。まるで他人のしゃべるのを聞いているようだった。
トレーニングは九時から始まった。まず、心の扉を開いていないことが、いかに現在の社会に悪い影響を与えているが、心の扉を開けば、どんなに素晴らしい人間、社会が実現するかの講義を聞く。それから、参加者は、分厚いマニュアルを手にしたスタッフの指示に従って少人数のグループに分けられ、心の扉を開く≠スめの実地訓練を開始した。
過去のべどい目に遭った経験≠話す。聞いていた人間は、そんな経験をする原因になったと思われる相手の欠点、行動の過ちを指摘する。ひどい日に遭ったのは、心の扉を閉じていたからだ――。結論は必ずそこに行き着いた。
グループが輪になり、中心に立った一人に対して、厭な点、嫌いな点を述べる。結局、全ての批判の根底にあるのは、その人間が心の扉を開いていない≠ニいうことだった。
心の扉を開いてやるため、と称して、真ん中に立った人間を殴ったりすることもあった。
そんなことの繰り返しの結末には、常に津島一幸が現れた。
「昨日より今日のほうが、ずっと心の扉が開いていますよ。明日はもっと開いているはずです」
遼に限らず、参加者は全員、津島の言葉に涙を流した。津島一幸の姿を見、声を聞くためにトレーニングに参加しているようなものだった。
結局それが、より津島に認められたいという意識に繋ったのだろう。グループ内で他人を攻撃する口調は激しくなった。相手の表情を注意深く観察し、反応があったと見ると、さらにそこを重点的に攻撃する。これは、相手の心の扉を開くためのノックなのだ、相手のためを思ってやっていることなのだ、それに、何より津島さんは喜んでいる……。
「……誰よりも自分を、津島さんに認めてほしいってことしか考えていなかったと思う。だから、自分がいちばん心の扉を開いているって、証明したかった。……三〇歳くらいの気の弱そうな男の人だった。僕は言ったんだ。ほんとうは、ここへ来たくなかったんでしょう。そうやって心の扉を閉じつづけているなら、ここから出ていったほうがいい。心の扉を開けない人は……生きている意味のない人だって。……その人は、泣いていた……私は心の扉を開きたいんです、どうか、ここに居させてくださいって、上下座して頼んでいた……」
すすり泣きが聞こえた。しばらくしてから、それが自分の泣き声であると気づく。
「……遼、自分がやったことをちゃんと話せるってことは、それだけ冷静さっていうか、自分を取り戻した証拠よ。自分の経験を、ある程度客観的に評価できるんだから」
万里絵の言葉も、あまり慰めにはならなかった。
「遼は――遼だけじゃない、多分、そのイベントの参加者のほとんどは、マインド・コントロールされていたはずよ」
唐突な万里絵の台詞に、遼は顔を上げた。
「そんなはずないよ。粂沢くんにしたって、他の人にしたって、洗脳されているようには見えなかった……」
「洗脳されると、どういうふうに見えるわけ? 目の下に黒いくまが出来て、青いライトが当たって、低い声でしゃべるようになるの?」
遼は詰まった。
「――でも、僕は薬を飲まされたり、催眠術をかけられたりしていないよ」
「ついでに言えば、頭に電極を埋め込まれたり、拷問されたりもしていないんでしょ?」
皮肉っぼい万里絵の言葉に、遼はいささかムッとした。
「マインド・コントロールっていうのは、心理学を応用したテクニックなの。相手にイエスと言わせる説得の方法から、狂信的な宗教団体の信者獲得まで、あらゆる場面で応用されている。もちろん、薬物も拷問も必要なしにね」
遼は、にらむように万里絵を見た。気にした様子もなく、万里絵は静かに話しはじめた。
「例えば、粂沢って人が遼の参加費を立て替えたでしょ?あれで、遼の心にはプレッシャーがかけられたはずよ。彼に従わないと悪い、イベントに真面目に参加しなければならないっていう方向づけがね。もちろん、決定的なものじゃないけど」
トレーニングの終わりに、紺のコスチュームを着たスタッフ――ウェルカム・イベントの司会を務めた女性で、榊村美津子といった――が細々と述べた勧誘≠フ注意事項の一つに、相手の参加費を立て替えること、というのがあった。相手に負担をかけてはいけません。自然な状態の心で参加してもらうのです――彼女はそんなふうに理由を説明した。
だが、万里絵の言うとおりならば、本来の意図は正反対のところにあったことになる。
「それから、バッジの番号に合わせて着席するでしょ? そうすると、遼みたいに誘われて来ているほうは、唯一の顔見知りである誘った人から切り離されて、多少不安定な心理状態になるわけ。これも、決定的なものではないけどね」
遼は思い出していた。会場で粂沢と離れた席に座らなければならなかった時の心細さを。
後には、それも心の扉が開いていない≠スめだったとして納得していたのだが。
「その後のゲストのスビーチとかは、権威づけと、心の扉♂]々っていう価値観を飲み込ませるための下地づくり程度の意味だったと思う。休み時間を挟んで、最初に一喝。精神状態を揺さぶったうえで、さっきのバッジの番号のトリックが再登場する」
「どういうこと?」
「心理ゲームで二列に並ばせた時に、一方の列は勧誘した人、もう一方は勧誘された人になっているの、奇数と偶数で。そうすると、言葉をかけるのは、いつも勧誘した側になるようになるでしょ?初めてムーブメントに参加した人は、初対面の人から次々に人格を否定されるような言葉を投け付けられて、精神的にボロボロの状態まで追い詰められる」
「トレーニングでやったように?」
「そう。そして最後に、自分を勧誘した人と向かい合う。唯一知っている人間の顔を見て、無意識のうちに、相手にすがり付くような気持ちになるでしょ? でも、相手の口から出るのは、止めの一撃になる言葉よ」
その時の感情かよみがえる。冷静さを取り戻していると万里絵は言ったが、思わず顔をしかめてしまうような胸の痛みは依然として残っていた。
「そこに救世主として津島一幸が現れて、隣の人に声をかけてみましょうと言う。隣に座っているのは勧誘した側の人間だから、当然、津島の予言どおりの肯定的な返事が返ってくるでしょ? そこでカタルシスを昧わった被勧誘者は、同時に津島一幸に対する尊敬と感謝の念でいっばいになる。そして、オーキス・ムーブメントのために働くようになる。
今度は遼が粂沢って人の立場になるわけね。翌日からの訓練は、センシティビティ・トレーニングとか、「気づき」の技法っていうのの応用だと思う。あたしも詳しくは知らないけど」
遼が感じたのは、怒りでも悔しさでもなかった。重たい疲労感と、胸が冷たくなるようなやり切れなさだった。
「……僕が、もっと強ければ……」
「それは違うよ、遼」
万理絵の表情は、これまでになく真剣だった。見ている遼が恐くなるほどだ。
「こういう心理学的な技術は、知らなければ誰でも簡単に絡め取られちゃうの。いわゆる意志とか精神力の強さなんかは関係ないんだから」
遼はまたうつむいた。
「最後に確認しておきたいんだけど」
顔を伏せたまま、うなずく。
「センシティビティ・トレーニングの類いでは、今まで他人に言えなかったことを告白する訓練があったんじゃないかと思うんだけど――犯罪に近いこととか、性的な経験とか。二日めだっけ?」
そう、二日めだった。二人ずつ、膝が触れるほど近い距離で向かい合って椅子に座り、罪悪感を覚えている経験を告白した。
「――イェマドにかかわる内容を話した?」
「ううん」
不思議な気がしだ。これまで遼は、ザンヤルマの剣をふるって、敵対した相手を破滅に追いやっている。だが、それを告白することはしなかった。何故だろう。
「――ごめんね、遼。あたし、マインド・コントロールの解除方法は、あまり詳しくないから、ザンヤルマの剣を抜かせるなんて、無茶な方法しか思い付かなかったの」
黙って首を横に振る。
「――粂沢くん、どうしたらいいんだろう?」
「わからない。マインド・コントロールのこととか、オーキス・ムーブメントについてとか、ちょっと調べてみるけど、とりあえず、できることはないわね」
遼が顔を上けると、万里絵は組んだ手の上に顎を乗せて、何か考えている様子だった。
――やっばり、あのことかな……。
遼にとって、そして万里絵にとっても、いちばん考えたくない可能性――。
「遺産≠ェ絡んでいると思う?」
問いかけられて、万里絵は遼のほうを向いた。
「今のところ、その可能性は薄いと思う。とにかく、調べがつくまで待ってて」
そう言って立ち上がると、万里絵は空になったカップにコーヒーを注いだ。
疲れが汚れた水のように体に染み込んでいる。いつでも、誰に対しても、イェマドの遺産か絡んでいる可能性を考えることが、半ば習慣となりかけている。
――心の扉が閉じている¥態か……。
順に浮がんだその言葉を、遼は慌てて振り払った。
「――さっきはごめん。勧誘しょうとして、ずいぶんひどいことを言った――」
「遼が悪いんじゃないわ。津島一幸だっけ、オーキス・ムーブメントの主宰者? そいっが悪いのよ」
万里絵は遼のカップにもコーヒーを注ぎ足した。
「ところで、遼は先方に住所と電話番号を知られてるから、しばらくはしつこい再勧誘とかがあるかもね」
「どうしたら……?」
「遼には難しいだろうけど、適当にごまかすのね。――それとも、うちに泊まってく?」
「駄目だよ、そんなの!」
頬が赤くなるのが自分でもわかった。万里絵が含み笑いをする。冗談だとわかっていても、この手の言葉には過剰な反応が出てしまう。しかし、やっと元の自分に戻れたような実感があった。
一時間ほどたわいもない話をしてから、遼は四〇二号室に帰った。念のため、留守番電話をセットしてから寝た。
*
一か月ぶりの登校だった。朝、起きられるかどうか多少の不安もあったのだが、目覚まし時計に起こされる前に、遼はベッドから出た。昨夜の、というより昨日までの特異な経験にもかかわらず、精神状態も体調もまずまずだと思えた。ザンヤルマの剣の守護神
の機能によるものだろうか。
半袖のシャツに手を通し、ほとんど何も入っていない鞄を下けて、玄関を出る。万里絵に声をかけようかという考えが頭をかすめたが、実行はしなかった。一人で駅へ向かう。コンビニを除けば、商店街もほとんどの店はまだ開いておらず、商品を納めに来た車が、
下りたシャッターの前に停まっていたりした。人のいない運転席から、点けっばなしのカー・ラジオの音楽が流れている。
何かが遼の足を止めた。鼓動が大きくなり、呼吸が浅く、速くなる。心の扉、開きましょう、心の扉……声が聞こえるような気がする。そして、津島一幸のイメージが浮かぶ。
ムーブメントを裏切った罪悪感と、自分が破滅してしまうことへの恐怖感が湧いてくる。
このままでは、僕は駄目になる。せっかく開いた心の扉を、再び閉ざしてしまったら、価値のある人生は送れな
全世界の一〇パーセントが、僕の仲間、見詰めていてくれる仲間を、あの素晴らしい津島さんを、僕は裏切ってしまった
今からでも遅くはない。ムーブメントに戻るんだ。仲間を増やすんだ
指が、オーキスのサインを形作ろうとする。
――いけない。僕は、もう、コントロールされていないんだぞ!
合わせた手のひらを離す。眼鏡を拭き、深呼吸する。そして、昨日の夜のことを思い出す。万里絵の瞳、声、ちょっとしょっぱかった握り飯の味、それから、万里絵との雑談で出てきた内容を。
――心理的な技術で、津島一幸は僕をだました。津島一幸は、具体的なビジョンは何も語らなかった。開かれた心ですることっていったら、会員の勧誘だけじゃないか。
「――大高勇二のニュー・アルバム「新時代」、いよいよ九月九日発売』
ラジオだ。遼はやっと気がついた。イベントで、そしてトレーニングでもテーマ曲として使われていた大高勇二の曲が、ラジオのコマーシャルで流れていたのだ。あの曲を聞いたことで、コントロールのために植え付けられたメッセージがよみがえったのだろう。
――当分、テレビも見られないし、レコード屋や花屋のそばには近寄れないな……。
汗を拭い、まるで音から逃げようとするみたいに、遼は早足で下北富士の駅へ向かった。
途中は何事もなく、遼は鵬翔学院高校に着いた。
二か月前に壊れた校舎の修理は、ほとんど終了したらしい。昇降口に入る前に、遼は校舎を見上げ、過ぎた事件のことをわずかに思い出した。
「矢神くん――」
声をかけてきたのは、一年の時に同じクラスだった渋井保だった。浅黒い顔をして、すばしっこい感じの、クラスでも人気のあるタイプだった。
「ひさしぶり。元気?」
――同じだ。粂沢くんと同じパターンだ。
それほど親しくもない知り合いが、親しけに話しかけてくる。これで、今日の午後の予定を尋いてくれば完璧だ。
「ところで、今日、学校が終わった後、空いてるかな?」
思わず遼は笑っていた。その直後、寒気が背筋を這い登ってきた。適当にごまかせと万里絵は言っていたが、これまた万里絵の言葉どおり、遼はそういうことが苦手なのだ。
「どう、矢神くん?」
とっさに両手を胸元で合わせ、オーキスのサインをする。渋井は白い歯を見せて、同じサインを返してきた。
「そうだったのか。矢神くんもオーキス・ムーブメントに参加していたんだ?」
差し出された渋井の手を、遼は後ろめたい気持ちで握った。
「今日のウェルカム・イベントに誘う相手は決まった?」
「うん」
「そう。ひょっとしたら、会場で会えるかもしれないね」
「うん」
「それじゃあ、心の扉を開いて」
渋井はもう一度オーキスのサインをすると、階段を上がっていった。遼もサインをしたまま見送った。
登校途中に大高勇二の曲を聞いた時よりひどい罪悪感に包まれる。しかし、もしも遼がマインド・コントロールから逃れていなかったら、仲間との出会いで、ムーブメントヘの参加意欲は一段と強化されていただろう。人気歌手のヒット曲をテーマ曲として使用する
のも、日常生活で耳にする機会が多く、そのたびに意欲が掻き立てられるからだろう。
だが、遼は見逃さなかった。遼がムーブメントに参加していると知った渋井の表情に、一瞬とはいえ、暗いものが浮かんだのを。トレーニング中に他人を攻撃することに懸命になっていたのと似ている。津島一幸に対して自分の意欲を認めてもらうために、他人を勧誘することに没頭し、ムーブメントの参加者が増えることよりも、自分が勧誘した人数が増えることのほうを喜ぶような状態になっているのではないか。
――トレーニングの成果だな……他人の表情を読むことばかり鋭くなって……。
これから、どれほどの間こんな状態が続くのだろう。すっかり重たくなってしまった足を引きずるようにして、遼は二年B組の教室へ向かった。
教室には、一か月前と同じ顔ぶれが揃っていた。何人かは真っ黒に日焼けしていたが、かえって夏休み前より白くなったのではないかと思うような顔も見受けられた。
遼の後ろの席に座っている神田川明の顔が目に入る。意外にも神田川は日焼けしていない部類に入った。地区予選で敗退したとはいえ、夏休み中、野球部の練習はなかったのだろうか。そういえば、坊主頭も多少髪が伸びた印象がある。いつもは大きな体で、ふんぞり返る≠ニ言っていいような姿勢で座っているのだが、今日は背中を丸め、まるで机にしがみつくような格好だった。先週のエジプト文明展の時のことを尋きたいと思ったが、今日の神田川には話しかけるのをためらわせる雰囲気があった。
挨拶もせずに、遼は自分の席に座った。ほぼ同時くらいに担任の宮内が入ってきた。出席をとり、簡単な連絡事項を二つ三つ伝えると、後は雑談になり、適当な頃合いを見計らって解散になった。
当番だった遼は、掃除を済ませてから教室を出た。まだ昼前だ。A組の教室を覗いてみる。万里絵の姿は見えない。すでに帰ってしまったのだろうか。
朝から今までの短い時間ではあったが、違は、渋井保以外にもオーキス・ムーブメントの参加者らしい人間を何人か見ていた。遼や粂沢のようなおとなしいタイプの人間ばかりではなく、性格も年齢も関係なしに、ムーブメントは広がっているようだった。
サインを交わし合い、あるいは誰かをイベントに勧誘している姿を見て遼が感じたのは、
取り残されたような寂しさだった。それが、心理学的な操作によるものだとしても、イベントの夜から、連日のトレーニングの間、そして昨夜、マインド・コントロールを解かれる時まで、遼の心には充実感があった。自分にはたくさんの仲間がいるのだという安心感があった。
――確かに具体的なものは何一つなかったけれど、心の扉を関くという主張や、それで仲間を増やしたこと自体は、間違いではなかったのではないか……。
知らないうちにマインド・コントロールされたことへの強い反発心がある一方で、ムーブメントを全面的に否定しきれない気持ちもまた、どこかにあった。
――マーちゃんは、強さは関係ないって言ってたけど、これが僕の弱さなんだな……。
心理的なトリックでもいい、もう一度、あの充実感を味わってみたい――。そう思う。
「矢神――」
振り返る。神田川が立っていた。
「ちょっとつき合え」
遼が返事をするのを待たず、腕を掴むと、引きずるようにして神田川は歩き出した。
「オーキス・ムーブメントって、いったい何なんだ」校舎の裏、シートをかけられた建築用資材が積まれた場所に遼は連れてこられた。
「オーキスって、これ?」
遼は片手でオーキス・サインをしてみせる。
神田川の顔がひきつった。
「おまえたちは何をやってるんだ、何を!」
大きな手で襟首を掴まれ、背後の壁に押し付けられる。神田川のぎょろりとした目が血走っている。
「ちょっと待って、神田川くん。僕は、オーキス・ムーブメントの参加者じゃない」
「F組の渋井と話していただろ」
遼より頭一つは商い神田川か、黒い壁のように見えた。
「確かに、一度はムーブメントに勧誘されて、トレーニングも受けたよ。でも、僕はもう、マインド・コントロールはされていない」
「マインド・コントロール?」
おうむ返しに神田川が言う。昨夜、万里絵の口からこの言葉が出た時の自分の反応もこうだっただろうと思う。あまりに非現実的で、マンガのような言葉。本気で取り合う気になれない――。
「ほんとうなのか、マインド・コントロールって」
遼はうなずいた。そして、万里絵から聞かされた知識をかいつまんで話した。
「――それで、何をさせられているんだ?」
「イベントへの勧誘。僕が言われた、というより言い出したのは、それだけだよ。みんな、自分から言い出すんだ。ムーブメントのために、自分は何をするのか」
再び、神田川は黙った。気がつくと、遼を絞め上けていた手の力が緩んでいる。
「それで、マインド・コントロールを消すには、どうすればいいんだ?」
「僕も詳しくは知らない。偶然、解けたようなもんだから」
明らかに失望したのが、神田川のかすかな表情の変化から見て取れた。
「どうしたの、神田川くん?」
「――悪かったな」
神田川は答えず、手を放すと、遼に背を向けて、足早にその場から去った。
『粂沢です。初めての勧誘はどうでしたか? 心の扉を開いた矢神くんなら、もちろん、成功しましたよね。今日は矢神くんの記念日になると思います。オーキス・ムーブメントを広げるためにがんばりましょう』
『渋井です。矢神くんがムーブメントに参加しているのを知って、とても喜んでいます。開かれた心には不可能はないんだから、これからもお互いにがんばりましょう』
学校から戻った遼を迎えたのは、留守番電話に吹き込まれたメッセージだった。背筋をピンと伸ばして受話器に話しかけている姿が目に浮かぶような、はきはきとした調子の声だった。
メッセージを聞き終えると、遼は受話器を取り、神田川の家の番号を押した。
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第二章 守護天使
室内は湯気で満たされ、明かりもぼんやりとかすんでいた。
オーキス・ムーブメントの各種イベント、トレーニングの会場となっているビルの最上階、通常は立ち入れない一角である。高校の教室ほどはあろうかという部屋の半分は、温度の違う湯を湛えた二つの大理石の浴槽が占めている。津島一幸は、ぬるいほうの浴槽で手足を伸ばしていた。
午前中のトレーニングの締めくくりに顔を出し、一〇〇人近い参加者に声をかけ、涙を流させた。ぬるめの湯が、その疲れを溶かしてくれるような気がする。しかし、これも真の休息とは言えない。夜は夜で、ウェルカム・イベントに出席し、五〇人ほどの新たな参加者にオーキスの真理を語りかけねばならない。今はそのための準備期間にすぎないのだ。
津島は湯から出た。三〇を過ぎた体には、不健康な印象こそないものの、かなり肉が付いている。太っているほうが、人に安心感を与えるものだという考えから、適度に太って見えるように、微妙なウエイト・コントロールをしているのだ。
「美津子、美津子」
「お呼びですか」
津島の声に応えて、紺のトレーニングウェアの女性が入ってきた。ウェルカム・イベントで司会を務めることの多い中心的なスタッフ、榊村美津子である。
「洗って、美津子」
「失礼します」
ウェアの袖をまくり、美津子は津島の背中をこすりはじめた。津島は、されるがままになっている。美津子の手は、津島の背中から腕を洗い、足に回った。白い指が疲労の度合いを確かめるように土踏まずを押し、さらに足の指の間を滑る。足の先からゆっくりと上
ってくる心地よさを味わいながら、津島が考えているのは、屋上にしつらえられた温室の蘭のことだった。
「温室の手入れは先ほど終わりました。業者の報告書は、お部屋のほうに」
「そう」
美津子の言葉に、津島は気のない様子で応えた。もちろん、慎重で行き届いた世話が蘭に必要なことは、言うまでもない。だが、津島が温室にこもるのは、花の世話をするためだけではない。一つひとつの花に手をかけることで、自分の心までも手入れされ、生き返るような気がするからだ。わざわざ金と時間をかけて温室を作らせ、貴重な花を運び込んだのに、ここ数か月、津島にはそれらに触れる充分な時間がなかった。
「しばらくのご辛抱ですよ、主宰の大望が実現されるまでの」
津島は応えなかった。県の人口が約二〇〇万、県庁のあるこの町の人口が二五万。イベントで参加者に提示する人口の一〇パーセントという目標は、まだまだ実現の気配さえ感じられない。
「――ほんとうは、僕は、こんなこと、やりたくなかったんだ。。オーキス・ムーブメント≠チていう名前も反対だったんだ」
「ご辛抱ください。九日の昇陽祭≠ナ一つの区切りを迎えられますから」
津島の口からこぼれた愚痴めいた言葉に、美津子が応える。その声に、宥める言葉に特有の押しつけがましさはない。
「僕の誕生日なら、昇陽祭≠ネんて名前じゃなくて蘭開祭≠ニでもすればよかったんた」
「日が昇る。新しい時代の夜明けを迎える。その象徴が主宰なのです。お疲れなのはお察しいたしますが、ムーブメント参加者の期待には、応えていただかなくては――」
「わかってるよ」
親に叱られてふて腐れた子どものような返事だった。美津子は穏やかな表情を崩さず、
シャワーで津島の体から泡を洗い流した。
「お食事の支度が出来ています。その後、ウェルカム・イベントの準備を――」
「わかってる」
再び湯の中に身を沈めた津島が面倒臭そうに応じた。
「それから、今夜、もう一度つ実験を行なうようにと」
「――わかった。承知したと――」
一礼して榊村美津子か浴室から去る。プールで遊ぶ子どものように、津島は頭のてっぺんまで湯の中に浸かった。こうしていれば、誰の声も津島の耳には届かないのだ。
*
「ああ、おいしかった。ごちそうさま」
ささやかなコースの締めであるアスパラガスとエビのチャーハンを食べ終えて、万里絵は満足そうに目を細めて箸を置いた。
「どうも、お粗末さまで――」
遼が頭を下けて応じる。男の一人暮らしでは、どうしても料理は炒め物中心になりがちだ。それを、ちょっと体裁を整えて、中華風のミニ・コースにしてみたのが今日の食卓に並んだ皿の内容である。
学校から戻って、神田川の家に電話した後で、遼は万里絵を夕食に誘った。
『ちょうどよかったわ。あたしも、遼に話したいことがあったのよね』
万里絵は、待ってましたとばかりに応じた。
遼のレパートリーのうち、まず絶対に失敗しない三品に、卵スープと、万里絵の好物であるチャーハンを付け加える。そして、いつだったか雑談の時に出てきたアンカー・スーティームというアメリカのビールも――多少の後ろめたさを覚えながら――用意した。
別に目的があるとはいえ、万里絵との夕食は楽しくないわけでもなかった。
食後はコーヒーだけで、甘いデザートはなし。
「それで――」
湯気の立つカップを前に、万里絵が尋いた。
「話したいことがあるんでしょ。何?」
見抜かれている――。遼は内心、舌を巻いた。
「マインド・コントロールを解除する方法を教えてほしいんた」
万里絵は口元をキュッと捻った。
「――ちょっと、これ見てくれるかな」
万里絵は、持っていたファイルノートから紙を一枚取り出して、テーブルの上に置いた。
園芸雑誌の記事らしいコピーの中央に、温室をバックにした津島一幸の写真があった。
「蘭の栽培愛好家の雑誌よ。津島は、そっちの方面では多少は知られた人物らしいわね」
「そう?」
「気分悪くない、遼?」
確かに、鼓動が速くなって、胸が苦しい。登校途中で大高勇二の曲を聞いた時や、学校で渋井のオーキス・サインを見た時と同様だ。
必死に落ち着こうとする。蘭の愛好家だから、自分がやっている運動のシンボルも蘭の花にした。素直にそう言えばいいのに、もっともらしい理屈をつけたりして、意外に津島一幸は小心者なのかもしれないな――。
「こんなのは、どう?」
万里絵の手が、オーキスのサインを形作る。途端に、津島一幸のメッセージが脳裏によみがえり、遼を落ち着かなくさせた。
「――気分悪いよ。実は、これだけじゃないんだ……」
自分の身に起こっていることを正確に把握し、他人に伝えるごとで、精神の安定を確認できるとでもいうように、遼は登校途中や学校で起こったことを話した。
遼の言葉にうなずくと、万里絵は言った。
「残念だけど、遼、マインド・コントロールは完全に解除されていないわ」
テーブルの上で組み合わせた両手に、指が白くなるほど力が入る。
「――どういうことなのかな……守護神≠ノも、心理的なものは正常に戻せないってことなのかな……」
「一面ではね」
万里絵はコピーを自分のほうへ引き寄せた。
「思い出してみて、この間の事件を。遼は、最初の事件のショックがもとで、ザンヤルマの剣が抜けなくなったでしょ?剣を抜けば、また誰かを傷つけるかもしれない。そんな無意識の不安が、剣を抜けなくさせた。もし守護神に、心理的な傷まで回復させる機能があったなら、あんなことにはならなかったはずよね」
黙ってうなずく。
「でも、その一方で、テレパシーによる支配からは説出しているでしょ?」
また、うなずく。どういうことだろう。
「仮説なんだけど、精神に対する一定水準以上の干渉とか、ある方向性を持った操作とかを選択して排除するんじゃないのかな、守護神は。精神的な傷っていっても、人生の経験とか、人格形成とかに密接に結びついているから、一律にそれを排除したら、本来の――本来っていうのも曖昧な言い方だけど――本来の遼の人格とか、精神にも影響が出るわけよね? そうならなしょうに、精神的な傷は選択的に回復させているんじゃないかっていうのが、あたしの仮説」
遼は、万里絵の言葉を反芻してみた。他人に対するやさしさや、遂に他人を拒否する態度にしても、それは過去の経験に基づいているだろう。実際の経験や、親をはじめとする周囲の人間関係や環境に影響されているだろう。それらのうち、苦痛を伴うものを全て取り除いたら、遼は遼でなくなってしまう――。手放したくない苦痛、忘れたくない悲しみというものを、遼は確かに持っていた。
「オーキスのトレーニングでは、オーキスに出会う前の過去を全否定していた」
「過去の全面否定は、マインド・コントロールの基本よ」
万里絵がうなずく。マインド・コントロールについても、かなり調べたようだ。
「それで、もう一度、これ見てくれる?」
目の前に差し出されたコピーを、遼は挑むように見た。
「今でも津島一幸は素晴らしい救世主だと思う?」
津島の姿を思い浮かべる。言葉も思い出してみる。
遼はゆっくりと首を横に振った。もはや、最初に味わった感動はなかった。
「その部分については、守護神によって正常に戻ってるみたいね」
そう。ムーブメントから離れていくことへの罪悪感や、そこから湧ぎ出る孤独感はある。
しかし、津島の姿を思い浮かべて胸が熱くなるようなことは、もうなかった。
「仮説の上に仮説を積み上げることになっちゃうけれど、守護神に排除されたのが津島一幸に対する尊敬の念だけだとすると、その気持ちというか暗示を植え付けたのは、テレパシーと類似したものじゃないかって考えられないかな。罵ったり、叫んだりのトレーニングは、実はそれほど強力じゃなくて」
「――前に、氷澄さんが言ってたんだけど、たとえ強力なテレパシーでも、他人に自殺を強制することは難しいだろう。だから、そこにトリックが必要になるんじゃないか。高いところから飛び降りさせるんじゃなくて、高いところに登らせて、そこで激しい運動をさせて、結果として転落死をさせる、みたいな――」
「つまり、イベントやトレーニングは、補強手段にすぎないんじゃないかってことね」
ゆっくりとではあるが、遼にも万里絵の言わんとすることがわかりかけてきた。
視線を上げる。万里絵の猫のような大きな瞳と真っ正面から見詰め合う。
「――津島一幸は、イェマドの遺産を相続している……」
「かもしれない」
断定を避けるような表現で、万里絵は遼の言葉を引き取った。だが、可能性があれば、彼女は調べずにはいられないだろう。遼にしても、放っておくつもりはなかった。
「津島一幸っていうのも、よくわからない人物なのよね。父親は津島一光っていって、ネットワータ販売会社の経営者だったけれど、一幸が子どもの時に死んでいる。一幸は蘭の栽培以外、仕事らしいことは何もやってなくて、遺された財産を食い潰しているとしか思えないのね」
万里絵はファイルノートを広けて説明した。
「オーキス・ムーブメントは、口コミで組織を広けているから、知らない人は全く知らなしし、知っている人は会員ばっかりだから、情報が手に入らないわ。途中で脱退した会員とか、最初のイベントに参加したけれど会員にならなかった人間が今のところ見当たらないっていうのも、変よね。まあ、調べはじめて、まだ一日経ってないんだけどね」
ウェルカム・イベントに参加した人間が、必ずムーブメントの会員になっていたとしたら――。遼は、突飛な空想を頭から追い払った。
「それで、今のところ最大の疑間点は二つ。一つは、オーキス・ムーブメントと津島一幸の目的が何なのか」
「ムーブメントの拡大じゃないの?」
「拡大して、それで何をやりたいのか、何のために拡大しているのかってことよ」
万里絵はノートから顔を上け、遼のほうを見た。
「心の扉を開く云々っていうのは、具体的には何も言っていないのと同じでしょ? これが自己実現セミナーの類いなら、トレーニングにバカ高い料金を取って、それで儲けるわけ。売る商品の仕入れも要らない。スタッフはボランティアでしょ。会場代を別にすれば、料金はほぼ全額利益になるから、こんなにボロい商売はないわよね」
遼は厭な気分になった。そんな商売をしている連中がいることと、簡単にカモにされるだろう自分と、そしてボロい商売≠ネどという言葉を使う万里絵に対して。
「宗教だったら、原価の一〇倍以上の値段を付けた壷やら印鑑やらを信者にセールスさせるとか、全財産を寄付させるとかで、やっぱり儲けるわけよね」
うんざりする。マインド・コントロールは、金儲け以外に使い道がないのだろうか。
「まさか、津島一幸は国会議員にでも立候補するつもりなのかな」
思い出してみる。ムーブメントの参加者を増やす以外に、津島は目的らしいものは何も示さなかった。
「それから、もう一つの疑問。津島一幸がイェマドの遺産を持っていたとしても、そのマインド・コントロールの効果は、守護神で排除できる程度のものだったわけよね。イェマドの人間は誰でも守護神を持っているんだから、他人をマインド・コントロールする遺産なんて、意味がないんじゃないかな?」
考えてみる。氷澄や水緒美ならコントロールを受けることはない。そして、イェマドの人間は全員、氷澄や水緒美と同じ条件にあった。だとすると、コントロール装置は役に立たない。全く効果のない道具を作るようなことをするだろうか。
「津島一幸は、遺産なんか受け取っていないのかな」
「そういう可能性もあるってこと。あんまり頭から決めてかからないで、柔軟に対応しましょ」
そう言って万里絵はファイルノートを閉じ、コーヒーを飲み干した。保温状態になっているコーヒーメーカーのポットから注いでやる。
「ありがとう。――それで、マインド・コントロールの解除法が知りたいって?」
「――神田川くんの身近に、オーキス・ムーブメントに絡め取られた人間が出たらしい」
学校でのことを手短に話す。家に帰ってきてから電話してみたが、詳しいことは何も語ろうとしなかった。とにかく、くれぐれもうかつな行動に出ないように念押しだけはしておいたが。
「何よりも、家族の協力が必要ね。遼の場合は、要になっている津島一幸への崇拝の念がなくなっちゃったから、あとは地滑りみたいにコントロールが崩れちゃったんだけどね」
「完璧に解除されていないって言ってたけど――」
「津島への崇拝ほどには解除されていないって意味。遼の話からすると、津島のコントロールは別にして、心理臨床の経験のないスタッフがマニュアルどおりに進めているみたいね。それはそれで問題あるけれど、本質は一種の躁状態で、二、三か月で戻るはずよ。反動で落ち込むし、新たな刺激を追ったりする危険もあるけれど。遼については、あとは時間が解決してくれるでしょう」
ちょっと澄ました調子で万里絵は言った。
「とにかく調査は開始するけど、潜入かできないのは、きついわね」
全くだ。万里絵がマインド・コントロールされたら、どうしていいか遼にはわからない。
「――僕が行こうか?」
「今度コントロールされたら、解除できるかわからないわよ。津島への崇拝の念を保つために、邪魔になるザンヤルマの剣を破壊しちゃうかもしれない」
「氷澄さんか江間さんに協力を頼めないの?」
「丈太郎は旅行中。水緒美には……ちょっと頼めないな」
「――喧嘩でもしたの?」
万里絵らしくない間が気になって尋くと、大きな目が一瞬、遼を見てからそらされた。
「似たようなこと、水緒美にも言われた。あんまり遼をいじめるなって。――あたしって、そんなに性格悪いかな?」
テーブルの上に身を乗り出してくる。遼はたじろいだ。
「そんなことないと思うけど……」
ニッと笑うと、万里絵はさらに遼のほうへ迫ってきた。
「それで、遼に言いたいことがあるのよね」
「何?」
「あたしに相談事とか頼みがあるなら、はっきりそう言うこと。変に気を使ったり、晩ごはんで買収しようとしたりしないこと。こないだ約束したでしょ」
万里絵は、小指だけ立てた右手の拳を遼に突き付けた。恥ずかしい記憶を刺激されて、思わず下を向く。
「ごめん。次からはちゃんと頼むから……」
「よろしい」
――やっばり、性格いいとは言えないよな……。
椅子に座り直して満足気にコーヒーを飲んでいる万里絵を見ながら、遼は胸の内でつぶやいた。
*
オーキス・ムーブメントのイベント会場として使用されているビルが、周囲の建物から頭一つ≠ニいった感じで抜け出ている。アメリカのオフィス・ビルをまねたような外観の特徴は、多少の距離をおいてもはっきりと見て取れた。
「ふーん、港、デパート、ドーム球場、……こないだの観覧車も見えるよ、遼」
コンパクト・カメラを平べったくしたような双眼鏡で、万里絵は周囲を見回していた。
「そんなことより、早く」
「はいはい」
いつもと立場が逆みたいだな――。そんなことを思いながら、遼はスポーツ・バッグの中からザンヤルマの剣を取り出した。周囲に張り巡らされた金網に歩み寄る。夕方とはいえ、まだ日は沈み切らず、グラウンドでは野球部が練習をしている。他にも、二、三の運動部が列を組んで走っているのが見えた。
昨夜の打ち合わせの後、万里絵はあちらこちらを走り回って、オーキス・ムーブメントについての情報を集めてきた。だが、最も知りたかったムーブメントの最終的な目的については全くわからなかった。
『潜入するしかないかもね』
今日はその準備段階ということで、ムーブメント会場にほど近い高校の屋上へ偵察に来たのだった。夏休み中ということで、出入りに対する目は厳しくない。学生ズボンに半袖のワイシャツなら、学校の中を歩いても、それほど怪しまれない。万里絵は例の耐熱耐刃繊維の黒いトレーニングウェア姿で、髪をポニーテールにしている。やはり学校内ではそれほど目立たない格好だ。
何気ないふうを装い、人気のない校舎を通り抜け、屋上に出る。途中、遼は何度も転びかけた。変装というわけでもないが、眼鏡を外していたのだ。
『――遼、コンタクトにしたら?』
階段で何度目かにつまずいた時、万里絵が言った。
『地顔はそんなに悪くないんだから、ね?』
『からかわないでよ』
自分でも怒りっぼくなっていると思う。昨夜のウェルカム・イベントをすっぽかしてから、遼の家の電話は最低でも一時間に一回は鳴った。留守番機能の応対メッセージが終わると、粂沢の、渋井の、そして、トレーニングで同じグループだった人間の声が流れる。
『矢神くん、今夜のイベント会場で君の姿を見ませんでした。ひょっとしたら、イベントヘの勧誘がうまくいかなかったのでし太うか。とても心配しています。僕たちは、心の扉を開いた仲間同士です。お互いに誓ったことは守りましょう。オーキスの輸を広けるためにがんばりましょう』
外に出ても、誰かが監視しているのではないかと、不安になる。立ち話をしている人、通行人、商店の主人、客、……みんな、ムーブメントの参加者ではないのか?あの角を曲がったら、粂沢や他の人間が顔を出すのではないか? ほとんど被害妄想のような状態である。そして、理性では、マインド・コントロールの後遺症にすぎないと納得しているはずなのに、ムーブメントを裏切ったのだという罪悪感は拭えなかった。
だから、偵察に行こうという万里絵の言葉には、正直、救われた気がした。だが、いざ現場に着いてみると、自分はいけないことをしているという罪悪感が湧き上がってきた。
「それじゃ、始めましょ」
ファイルノートと鉛筆を取り出して万里絵が言う。遼はうなずき、暗い気分を振り切るように、赤い鞘に収まったザンヤルマの剣を目の高さに上げた。輝く刀身のイメージを思い描き、静かに剣を抜く動作をする。赤い波形の鞘は青白い閃光を放ち、一メートル余り
の直刀へと変化した。同時に、ぼやけていた視界が次第に明瞭になっていく。守護神≠フ働きで視力が回復するのだ。これまでは切羽詰まった時にしか抜かなかったので、視力回復の過程を意識するのは初めてである。
ゆっくりと剣をムーブメントのビルのほうへ向ける。遼の視線が、剣の切っ先とビルを一直線に結んだ。目を凝らす。
ザンヤルマの剣は、武器としての力の他に、守護神≠ニしての能力がある。微弱なエネルギーによるスキャニングで敵を捕らえるセンサーとしても使える。遠くに目の焦点を合わせる遼の意識に連動するように、剣のセンサーは離れた建物に到達し、その内部に探索の刃を入れた。
「まずは部屋の数と位置関係だけでいいわ」
目を閉じる。センサーから入ってくる情報だけに集中する。硬い手応えがある部分と、全くない部分がはっきり区別される。壁と、何もない空間だろう。
いったん目を開き、傍らのファイルノートにいま見たものを書く。
「――ちょっと、わかりづらいみたいね」
ノートを覗き込んだ万里絵が言う。遼も認めざるをえなかった。小学三年生の頃まではマンガ家になりたくて、ノートやスケッチブックに絵ばっかり描いていた記憶があるのだが、いつ断念してしまったのだろう。何にせよ、それは正しい選択だったようだ。
「じゃあ、あたしがメモをとるから、遼は偵察に専念して」
素直に従うことにする。再び剣を構え、目を閉じる。「まず玄関があって、ホールがあるのよね」
「うん」
「ホールの広さは?玄関のドアを基準にすると――」
「玄関には四枚ドアが並んでいるけど、奥行きは同じくらい……」
巧みな誘導で、ビル内部の位置関係や距離を遼から引き出すと、万里絵はそれを写し取っていった。
調査は警備システムや、スタッフの配置、壁の構造にまで及んだ。
「風呂場まであるんだ、あのビル。……警備は、思ったほど厳重ではないわね」
夕日が西の彼方に消える頃、二人の調査も終了した。
「あとは、イベントまで待って、津島一幸が遺産≠使っているかどうかを確認するだけね」
「うん」
人目につかないように出入り口とは反対側に回り、一息入れる。日中の強い日差しにあぶられたコンクリートはまだ熱く、下から熱気を立ち昇らせてくる。空気自体も冷える兆しさえない。
「どうしたの、遼?」
気がつくと、万里絵の大きな目が、遼の顔を覗き込んでいた。
「別に、どうもしないよ」
「だって、あたしが話しかけても、上の空じゃない」「――ごめん……」
ズボンのポケットからハンカチを引っ張り出し、額の汗を拭く。眼鏡専用のハンカチを出してから、眼鏡をかけていないのに気づき、しまう。そして、最後にため息をついた。
「――オーキス・ムーブメントって、そんなに悪いことなのかな」
コンクリートの床に座り込み、膝の間に顔を埋めるような格好で遼は言った。
返事はない。
「確かに、方法は褒められたものじゃないとは思うよ。だけど、お互いに心を開いて、交流していく輪を広げようっていう主張自体は間違っているとは思えないんだ」
万里絵は何も言わない。
「もちろん、イェマドの遺産に関係していることがはっきりしたら、それを回収するために全力を尽くすつもりではいるけれど……」
何の言葉も返ってこない。遼は思わず顔を上けていた。
「マーちゃん――」
万里絵は押し付けるようにして、吸い口付きのスポーツ・ドリンクの容器を遼に渡した。
そうしろと言われたわけでもないが、冷たいドリンクを一口すする。
「 あたしは、津島一幸の役をやるつもりはないからね」
遼が差し出した容器を受け取って万里絵が言った。
「どういうこと?」
「それらしい理屈を言って、遼を納得させるつもりはないってこと。やるのは簡単よ。きつい言い方になるけど、今の遼は、何かにすがりたくてしょうがないんだもの。正しそうな言葉があれば、飛び付くでしょうね」
そこまで言わなくてもいいじゃないか――。万里絵の言葉に反発を覚える。
「あたし自身の考えはあるけれど、実用的すぎるのよね。遼は自分で考えて、自分の結論を出しなさい。逆に言えば、ほんとうに津島一幸を許せないと思えないなら、この件については関わらないほうがいいのかもしれない」
万里絵は自分でもスポーツ・ドリンクをすすると、さっきの場所へ戻った。
「一九時一〇分前――。そろそろウェルカム・イベントの始まる時間ね」
遼も腰を上げ、再び剣をビルのほうへ向ける。三階、レインボー・ホールと呼ばれる広間に、もう一〇〇人近い人間の反応がある。これから、あそこでマインド・コントロールのための手管が駆使されるのかと思うと、胸が苦しくなる。会場に座っている人間の中には粂沢や八木、渋井、それから神田川に縁のある誰かもいるかもしれない。
「一九時。始まったみたいね。どう、何か変わった様子はある?」
「今のところ、別に……」
剣のセンサーに集中したまま、片手を離し、バンカチで額を拭う。これから約二時間、イベントが終了するまで立ちっぱなしだ。
――けっこうキツイかな……あ、関係ないか。
ザンヤルマの剣の守護神は、遼の体から運やかに疲労を取り去ってくれるはずだ。
建物の各所に立っているスタッフ。イベントの来場者。司会進行役とゲスト――プログラムが始まってからは、ほとんど動きがない。規則的に微弱な脈動を繰り返す無色の光の点が並んでいるだけだ。
やがて、プログラムは音楽の演奏になったのだろう、光の脈動が強く、早くなる。
「そうそう、休憩時間になっても、気を抜かないでね」
口元に濡れた何かが触れる。スポーツ・ドリンクの吸い口だった。
「ありがとう」
汗となって出ていった水分を補給する。
二人口のゲストのスピーチが終わり、休憩時間となった。整然と並んでいた光の点が乱れ、散る。
「――休憩に入ったけど、特に何もないみたいだ……」
短い休憩が終わると、椅子の片付け、そしてゲームが始まる。司会者が全員――いや、正確には、今日初めて会場に来た約五〇人に対してだけだ――を一喝し、そして二列に並ばせ、二重の翰を作らせる。これから、次々に人格を否定する言葉を浴びせられるのだ
――自分がその場にいた時のことを思い出して、口の中に苦いものが広がる。
勧誘されて来場した人間たちに、精神的な揺さぶりを与え終えたのだろう。一〇〇人分の光る点は、また最初と同じように並んだ。
ザンヤルマの剣を待つ手に力が入る。いよいよ津島一幸が入場するのだ。
「来た」
司会者――多分、榊村美津子という女性だろう――が脇に退くと、別の光点が演壇の中央に出てくる。それ自体は妙なところのない、普通の人間の反応にすぎない。
しばらく間がある。蘭の鉢を置き、会場を見回す津島の姿が目に浮かぶようだ。
「――!」
次の瞬間、それは起こっていた。津島一幸とおぼしき光点を中心に薄桃色の光る波動が見せられ、ホール全体に広がる。波動を浴びた光点は、反響する音の模式図のように波動を跳ね返す。跳ね返された波動はまた別の光点を包み、包み込まれた光点もまた逆に波動を広げる。光の波動の乱反射だ。やがて、均一で濃密な桃色の光が室内を満たす。一人ひとりを表す無色の光点は、しだいに薄桃色に染まる。影響を受けていないのは、津島一幸と司会者らしい光点のみだ。
遼はセンサしが捕らえるそうした光景をいちいち口に出していた。
「……光が……一人ひとりの光が脈打ちはじめた……同じリズムで光ってる……津島一幸が、来場者のなかに入っていく……みんながまわりに集まって……光が脈打つテンポが早まってる……興奮してるんだ……」
――心の扉が開かれたってわけね」
「そうだと思う……」
津島のまわりに集まった光点は、いつしか元の座席に戻り、津島自身も演壇の上に戻ったようだ。これからオーキス・ムーブメントについての説明が始まるのだろう。その間も、薄桃色の光は来場者に浴びせっづけられ、幾重にも重なった波紋を広げっづけた。
最後にそれぞれの光点が爆発的な輝きを見せ、光る波動は瞬時に消えてしまった。再び、津島の前に光点が集まる。みんな、感激しながら握手をしているのだろう。
「イベント、終わったみたいだ……」
「二一時四分前。ほぼ予定どおりの進行ね」
会場からイベント参加者が全員いなくなり、津島が最上階の主宰室に引き上ける。
それから三〇分ほどねばったが、津島は簡単に入浴を済ませると、主宰室の時にある寝室に行き、早々と眠ってしまった。
「今日はこのへんにしておきましょ」
遼はザンヤルマの剣を下ろした。二時間以上、同じ姿勢を保っていたにもかかわらず、
腕の筋肉は強張っていなかった。そのまま、無意識に剣を畳んでいる。
「遼!」
万里絵の声に、剣を畳むと仮死状態に陥ってしまうことに気づいて、しまったと思ったが、遅かった。意識が闇に閉ざされた。
仮死状態に陥っている間、遼はまた、自体離脱状態でもある。
肉体から抜け出した遼の意識は、ぐったりとなった自分の体を目立たない場所に万里絵が横たえるのを、二、三メートル上から見ていた。
「覚えている、遼? この間、遼が言った、闘う理由」
遼の意識の状態を心得ている万里絵は、撤収の準備をしながら、普段の遼に話すのと変わらない調子で話していた。
「闘う理由が、ザンヤルマの剣を持っているからってだけなら、相手と一緒だし、それじゃ彼を止められない。相手も、自分が正しいことをしていると思っているから――そんなふうに言ったでしょ。それは、あたしがどうやっても出てこない考え方だし、それで正しいんだと思う」
スポーツ・ドリンクの容器に口をつけ、一気に空にする。
「焦らないでって言っても難しいかもしれないけど、結論を出すことだけに気をとられないで」
遼は答えられなかった。精神が肉体から離れているためだけでなく、答える言葉が見つからなかった。
――誰かに正しい答を与えてほしいと思う、その弱さを突かれる……みんな、そうなのか?
オーキス・ムーブメントは、想像以上に手強い敵なのかもしれない。
遼と万里絵が橘マンンョンに帰り着いた時は、もう一一時を過ぎていた。
いつも猫背気味の遼だが、高校から帰る間中ずっへ自分でも意識できるほど背中を丸めて歩いていた。肉体的な疲労こそ、ザンヤルマの剣の守護神によって完全に取り除かれていたものの、精神的な疲労は拭いがたく残っていた。夜も遅いというのに、熱気が鬱陶しく体に絡みついている。
どこにムーブメントの参加者がいるかわからない。声の大きい人、明るくはっらつとしている人を見ると、遼は顔をうつむけた。
話の内容を誰かに聞かれることを恐れたわけでもないが、二人はずっと黙っていた。
「――元に戻るのかな?」
マンションまで続く住宅街の道で遼は口を開いた。
「何が?」
「遺産≠破壊すれば、マインド・コントロールされている人たちは、みんな元に戻るのかな」
遼の言葉に、万里絵が足を止める。
「――最低でも、犠牲者が増えるのを止めることにはなるわよ」
「でも、元に戻らなかったら?道具がなくなっても、津島一幸を崇拝しつづけたら?」
「事件を解決したことにはならないわね……」
万里絵には珍しく、言葉の最後がため息になった。
「――ねえ、遼。イベントの最中、司会者だけは波動の影響を受けていなかったって言ったわよね」
「そう見えた。津島と司会の光点だけ、波動の色に染まらなかった」
「何か、ヒントになるかも――」
しばらく濃い眉を寄せていた万里絵だが、不意に表情を崩して、遼の肩を叩いた。
「とりあえず、今日のところは休みましょ」
それがいいかもしれない。二人はまた歩き出し、橘マンションの玄関を入った。
「おやすみ」
四〇二号室のドアを閉めてから、遼はささいな事件≠ノ思い至った。
――間接キスしもやった……!
*
――まさか、また縁談じゃあるまいな。
その日の夜遅く、ひさしぷりに自宅に戻った氷澄がネクタイを緩めたとたん、電話が嗚った。かけてきたのは、大学時代の恩師、国坂喜一郎教授である。明日の予定を尋ねられ、特に予定はないと答えると、強引に夜の二時間を空けさせられてしまった。
上着を脱ぎ、カラーーのボタンを外す。さらに、いっもの習慣で懐中時計を引っ張り出しヽやがて、背後にクッションでもあるかのように身を授け出した。上背のある体が、水面に浮いているように空中に留どまる。
氷澄丈太郎――彼もまた、江間水緒美と同様、裏次郎に敵対するイェマドの遺産管理人である。日頃は、遼や万里絵の通う鵬翔学院高校で歴史を教える非常勤講師であるが、現代社会に入り込んだイェマドの遺産を回収、処分する狩人でもあるのだ。懐中時計は氷澄の守護神≠ナあり、局所重力制御はその機能の一つである。
人目がないとはいえ、弛緩しきった今の姿は氷澄らしくなかった。ぼんやりと聞かれた目の奥の青みがかった瞳には、人を射るようないつもの光はなく、彫りの深い顔には、どこか疲労の影がまといついている。
守護神は、肉体の疲労は除去するが、疲弊した精神を回復させることはない――万里絵の仮説のバリエーションのような状態に氷澄はあった。
この一か月間というもの、氷澄は、先の事件で入手した諜報機関の情報ファイルを片手に日本中を駆け回っていた。そこに記された超常現象に関連した情報を手掛かりに、遺産を発見するためである。結局、遺産とは無関係と確認された情報が一一件。回収された遺産が四つ。けっして少なくはないが、賞賛されるほどの成果でもない。さらに言えば、全ての情報の裏をとったわけでもない。心のどこかにある焦りが、氷澄を消耗させていた。
――国坂教授か。
日本における稲作の発生と集落の形成を専門としている。研究成果には、これといって目立つものもない、平凡な学究の徒である。その反動というわけでもないだろうが、教え子の面倒見はいたって良い。氷澄が現在の職を得たのも、国坂の口利きによるものである。
だが、面倒見の良さも多少度を過ぎるきらいがあるようで、氷澄のような――書類の上だけとはいえ――適齢期の独身者を見ると、年に何度かは必ず縁談を持ち込んでくる。
現在の人間に混じって暮らす氷澄が最も忌避しているのが、こうした社会的な人間関係である。早いうちに人間嫌いの偏屈者≠ニいうレッテルを手に入れた氷澄だったが、それでも最低限の人間関係は保たねばならない。
――マリエが聞いたら、大笑いだろうな。
白い頬に苦笑を浮かべると、氷澄は空中で身を起こした。
駅前のホテルのラウンジに、氷澄は、指定された時刻より一〇分早く着いた。だが、国坂はすでにテーブルの一つで白いカップを前にしていた。
「ごぶさたしています」
氷澄が頭を下げると、国坂は皺だらけの顔をさらにくしやくしゃにして笑った。氷澄が大学にいたころと変わらない、濃いグレイの上下を着ている。べっ甲縁の眼鏡と今どき珍しい棒タイを除けば、文化的な事業に携わっている人間の雰囲気はない。縁側で孫に小遣いをねだられているのが似合いそうな、白髪の老人である。
老教授は、氷澄が席に着くやいなや、ろくな挨拶もさせずに、今夜の予定についてしゃべりはじめた。
「――要するに、一種の講演会、ということですね」
同じ無駄な時間を過ごすにしても、一対一の人間関係を強制されないことに、氷澄はかすかに安堵した。
「有意義な内容であることは、僕が保証しますよ」
老人特有の高い声で言って、国坂は笑った。
多少、意外な気がした。教壇に立っていても、学生たちに対して上目使いの視線を送ってしまうのが国坂という人物である。自分の発言に相手が答えようとしないと、「どうですかね……どうですかね……」と曖味な笑みを浮かべながら探ってくるような人間なのだ。学界なり大学なりでしかるべき地位を占めていないのも、業績の乏しさばかりが理由でもあるまい、というのは氷澄にも見当がついた。そんな国坂が、アルコールでも入っているのかと疑わせるような笑顔で、自信に満ちた断言をしている。
「そろそろ行きましょう」
伝票を手に席を立つ。氷澄は、その細い首筋を見ながら、後に従った。文化人等と呼ばれるような人間には、どうして自分のことを僕≠ニ称する人間が多いのだろう、などと考えながら。
ホテルの玄関口で国坂が拾ったタクシーは、一〇分ほど走ると、七階建のビルの前で二人を下ろした。設計者か持ち主が自分の独善的な美意識を満足させるためだけに建てたようなビルだった。入り口には、講演会を含めて催し物の案内はない。
国坂に続いて中に入ろうとした氷澄は、ビルの名称を示すプレートに目を止めた。ツシマ新一号ビル――。
――〈機関〉のファイルに載っていた名前だ……。
氷澄の手元にある諜報機関の情報ファイルに要調査≠ニして並べられていた人物名、団休名のなかに、ツシマ新一号ビルの名前があった。
――夏休み最後の課題というわけか。
氷澄はゆっくりと建物の中に入った。
手続きを終えた氷澄と国坂はホールに入り、プログラムが始まるのを待った。
国坂から離れた席を指定された氷澄は、懐中時計――守護神を操作して、周囲の観察を始めた。微弱なエネルギーによるスキャニング。玄関ホールに監視カメラが物々しく設置されている以外は、会場内に特別な装置はない。警備員らしいスタッフも見当たらない。
紺の制服を着ている女性も、警備の役に立つとは思えなかった。
会場の音響装置から流行りの曲が流れはじめる。特に不審な点はない。
やがて曲が終わると、制服のスタッフの一人がマイクを手に演壇に立ち、開会を宣言した。空疎な言葉を聞き流しながら、氷澄は守護神で会場を探りつづけた。
「――ご紹介します。丸川文学賞受賞作家の井本震央さんです」
茶色の上着を着た、四〇代半ばとおぼしき男が壇上に現れ、拍手が終わるのを待って会場を一瞥すると、おもむろに口を開いた。
「日本の精神伝統の真髄は和≠フ心にある。和≠ヘ円環の輪≠ノ通じる。この、一見閉じた構造が、実は全方位への開放であるという、日本人の精神特性について話します。
西欧の二元論的な物質文明の押し付けが、現代社会の行き詰まりを生んでいるわけですね。
心の扉を開く≠ニいうテーゼは、実は、逼塞した情況を打開する和≠フ心の……」
――哀れなものだな。
マイクを片手に言葉を重ねつづける作家を見ながら、氷澄は思った。
――作家の、文化人の、アーティストのと偉ぶってみたところで、所詮、人気商売。お呼びがかからなくなれば、口が干上がる。そうなれば、大衆に媚びるか、体制に擦り寄るか、何にせよ本業以外で生き延びることを考えねばならないのだからな。
人の列を挾んだ向こう側にいる国坂を見る。どこかいかがわしい、こんな催し物に彼が関与しているのは、たいした業績を持っていないという自覚があるためだろうか。
――国坂教授、あなたの保証に反して、このスピーチの内容は無駄そのものだ。
最近は小説から遠ざかり、日本の精神伝統論を振りかざして、文化、政治、経済を問わず批評することに忙しい作家の言葉はしだいに熱を帯び、論理は飛躍、破綻していった。
――それでも感謝はしますよ。調査すべき場所に、不自然でなく立ち入ることができたのだから。
会場内――装置にもスタッフにも変化らしいものはない。
「――心ある人が、伝統に立ち返ること、心を開くこと、それが物質文明に汚染された現代を超克する精神を生むものであると強調して、結びとします」
スピーチの内容を理解した気になった者と、理解できないながら、何より礼節と周囲の視線を気にする者とが拍手をした。そして、そのなかに氷澄は含まれていなかった。
司会者の手にマイクが返り、次のプログラムの紹介をする。
素人の手による楽器の演奏を、氷澄は聞き流した。会場にいる一〇〇人ほどの人間がのめり込めばのめり込むほど、氷澄は冷笑と軽蔑の障壁を周囲に張り巡らせた。
「続きまして、マルチ・クリエイターの小竹信吾さんのスピーチです」
一瞬、司会の女性と目が合う。丸い顔の黒い瞳が氷澄を認めて光ったように思えたのは、錯覚だろうか。だが、何一つ起こらず、司会者は次のゲストにマイクを渡した。
麻のジャケットを着た三五歳くらいの小太りの男は、マイクを横に持ち、上ずったイントネーションの英語で挨拶してから本論に入った。
「――国際都市ジャパン、僕なんかは敢えて日本を一つの巨大都市って定義づけちゃうわけだけど、そこに生きてるビジネス・パーンンにとっては、語学力とコンピュータについての知識っていうのは、もうカーライセンス以下の低位なわけね。では、ビジネスフィールドで評価されるファクターって何なのか。本来的な意味でのマン・パワー、それを決定づけるのはオープン・マインドなわけですよ」
男は背後のホワイト・ボードにのたくった筆記体でOpenMindと書いた。
ゲストにマイクを渡した司会者は、演壇の脇に控えている。時おり氷澄のほうに視線を向ける。何が面白いのか、たまに聴衆が笑い、どよめくなかで、氷澄と司会者の間だけに一本の緊張の糸が張られていた。
「――そういうクリエイティブな人間性を目指してください。グッド・ラック」
司会者は何事もなかったように小竹信吾からマイクを受け取り、前半のプログラムの終了と休憩時間をとることを告げた。
氷澄が席を立つより早く、彼女は舞台裏へ姿を消した。
休憩時間の後に現れた司会者は、前半の女性とは別人だった。休憩中に彼女の居場所を尋ねたが、スタッフは規則を盾に答えようとはしなかった。
司会者の指示に従い、椅子を片づける。
その後、展開されたゲームは、氷澄にとっては何の意味もないものだった。現在の人類のなかに、氷澄に対して批判的な言辞を投げかけられる者は存在しないし、耳を傾けるような内容のある言葉は皆無だ。いらだたしくはあったが、野良犬の吠える声以上のものではない。一様に明るい表情をした人間たちは、初対面の氷澄に否定的な評価をしたが、眉一つ動かさない氷澄に戸惑いを覚えるらしく、何人かは笑顔の片隅をひきつらせた。
ゲームが進むうちに、会場には二種類の人間がいることに氷澄は気づいた。自信に満ちた、スタッフの補助的な立場で行動している人間と、今日、この場所に来るまで何も知らなかった人間と。それらは完全に分けられている。
――何が狙いだ?超能力者を調査対象としていた〈潜在能力開発機関〉が、何故ここを要調査のリストにあけたのだ?
国坂が前に立ち、大学時代にまでさかのぼって氷澄の人間性を否定する言葉を吐いた。
――無駄だ、国坂喜一郎。私は、今の人類が口にするところの人間性というものに、何の価値も、意味さえも認めていないのだから。
仮面のような無表情は、いつか冷酷な鏡となって、前に立つ人間の姿をそのまま映し、はね返す。高みから氷澄を見下ろして批判していたはずの国坂の顔に、何かとんでもない間違いを犯してしまったことに気づいたような、うろたえた表情が浮かぶ。額に浮かんだ汗が、皺を伝って顎から滴り落ちる。
「それでは、自分に言葉をかけてくれた人にお礼を言ってください」
司会の声がゲームの区切りを告ける。
「ありがとうございました、国坂先生。実際、有意義でしたよ」
必死に笑顔を取り繕おうとしながら、唇の痙攣をいかんともしがたい国坂を後に、氷澄は椅子を元通りに並べなおす動きに加わった。
「それでは、ただいまよりオーキス・ムーブメント主宰、津島一幸をご紹介いたします」
ゲームは、準備段階に過ぎない。何かあるとすれば、この後だ――。氷澄は懐中時計に手を伸ばして待った。
壇上に、蘭の鉢を抱えた男――津島一幸が現れた。肉体的にも精神的にも苦労を味わったことがないだろうと思わせるたるんだ顔。目尻がとろけそうな曲線を描いて垂れ下がっている。ちょっと突き出した形の大きな口のために、顔全体の印象は、肥満体のアヒルといったところが。スタンド・カラーの白いシャツの上に紺のジャケットを着ているが、真っ赤な蝶ネクタイと半ズボンのほうが似合いそうな男だ。
津島は卓の上に鉢を置き、しばらく見ていた。
氷澄は眉をひそめた。最初に司会を務めた女が、いつの間にか壇の脇に戻っている。
「きれいですよね」
津島が声を発するのと同時に、氷澄の守護神が張り巡らせたエネルギー・フィールドに反応があった。何等かのエネルギーが放射されている。
広範囲に広けていたフィールドを狭め、防御力を高める。さらに、発信源を探る。間違いない、津島だ。エネルギーは津島一幸から発射されている。
視覚から守護神のセンサーへ、感覚の中心を移す。津島の放射するエネルギーは、周囲の人間の脳に影響を及ぼしているらしい。脳の部分のみ体温が上かり、脳波に変動が見られる。奇怪なことに、影響を受けた脳からも同様なエネルギーが発生し、周囲の人間の脳へ干渉を起こしている。
「さあ、思ったことを口に出して言ってみましょう」
エネルギーにさざ波が走り、津島の言葉どおりに、会場内の人間が動いていた。一〇〇人近い人間を津島ひとりで操っている――。
――超能力者狩りを目的としていた連中が目をつけるはずだ。これまで知られていなかった方法によるマインド・コントロール。テレパシーを疑うのも、無理はない。
壁際に立っているスタッフたちでさえ、陶酔にひたっているのは明らかだった。
懐中時計に指を走らせる。センサーの探査範囲が絞られ、津島の体を嘗めるようにスキャニングしていく。
――これか!
エネルギーは津島の右手から出ている。正確には、右の手首に発信源があった。
周囲の人間たちは感動の声をあけ、なかには感激のあまり泣き出す者までいる。
守護神の細い探査ビームが、あまりくびれていない手首に巻き付いている遺産≠捕らえる。固定。あとは、存在と非存在の落差から取り出すエネルギーを、探査ビームをガイドにして送り込むだけだ。
だが次の瞬間、ビームの糸は断ち切られていた。氷澄と津島の間に人影が立っている。
――構うか!
エネルギーを撃ち込む。悪くても、邪魔者を追い払う役には立つだろう。
だが、遺産を破壊するはずのエネルギーは完全に打ち消されてしまった。
――何っ?
視線を上ける。紺の制服の肩の上に、壇の脇に控えていた、最初の司会者の顔があった。
――この女……。
守護神の放つ探査ビームは、人体も含めあらゆる物質を透過する。破壊レベルのエネルギー・ビームなら、無事では済まない。だが女の体は、X線を遮断する鉛の板のように、ビームを完全に防いでいた。
氷澄が行動を起こすより早く、津島は演壇を降り、ゆっくりと客席の間へ入っていった。
距離だけはしだいに詰まっていく。だが、興奮した来場者たちが次々に席を蹴り、津島のそばへ駆け寄った。氷澄の前を、後ろを駆け抜けていった人の群れが途切れると、女が正面から氷澄を見据えていた。
「津島さんが、ほんとうに生きるってことを教えてくれたんだっ!」
「先生っ、先生って呼ばせてくださいっ!」
「津島さんは、人生の先生だっ!」
熱狂の渦のなかで、氷澄と女だけが醒め切っていた。
ゆっくりと立ち上がり、女と相対する。丸い輪郭、小作りな鼻、口……派手さのない顔に、艶やかな黒い瞳が印象的だ。
「あなたは心の扉を開けなかったようですね、氷澄丈太郎さん」
静かに言って、笑う。氷澄より頭一つは低い女が、ある強圧的な存在感を持って立っている。警察官か軍人を思わせる制服が、どのスタッフよりも似合っているようだ。
「私は、自分をマインド・コントロールに委ねるような愚かな連中とは違う。――だが、そんなことはどうでもいいことだ。津島が裏次郎から相続した遺産、破壊する」
「できますか、こんな情況で」
横目で津島を見る。背の低い津島の顔が、一〇〇人近い来場者の間に見え隠れしている。
「どうでもいいことだ。愚かな連中が巻き添えを食おうと、津島自身が死のうと」
「でしょうね。今しがたも――」
一瞬の隙を突いて放たれたエネルギー・ビームを、女は空中で打ち消した。飛び散った青白い閃光を目に止めた者がいたかどうか。女の周囲には、氷澄と同様のエネルギー・フィールドが張られている。さっきまでは出力が小さくて、氷澄の守護神のセンサーでは探知できなかったのだろう。
「……おまえもイェマドの生き残りなのか」
「何のことですか」
丸い顔の穏やかな表情に、相手の言葉の意味を測りかねている戸惑いが浮かんだ。
「黒い服の男から遺産≠受け取っただろう」
女は、今度は静かにうなずいた。
これまで何人もの遺産を相続した人間と対決してきた。だが、守護神を相続した人間というのは初めてだ。矢神遼という例外中の例外もあるが、ザンヤルマの剣は厳密な意味では守護神とは呼べまい。
――どうする?
氷澄にとって障害となるのは、正面にいるこの女だけだ。エネルギー・レベルは、ほぼ同等。戦闘の技術についてはわからない。だが、この女を下したとして、本来の目的である津島一幸の持つ遺産を破壊できるか。
――こちらの素性は知られている。どちらにしても、面倒なことに変わりはない。
フィールドの出力を上け、一歩踏み出す。
応じるように、女も静かに一歩を踏み出した。
ぎりぎりの距離だ。これ以上間隔を詰めるか、あるいは出力を上けると、双方のエネルギー・フィールドが互いに干渉を起こす。そうなったら、情況を判断し、守護神を操って、エネルギー・コントロールの主導権を握ったほうが勝つ。
思い切って踏み込むか。相手が踏み込むのを待って、いったん間を外すか。
「守護天使――」
スタッフの一人が女に声をかけた。プログラムの進行について指示をあおぐ。
天使≠ニ呼ばれた女は、二言三言簡単な指示を出すと、スタッフを元の場所に戻らせた。
「天使、か」
氷澄の皮肉っぼい声色に、天使≠ヘかすかに眉をひそめた。
「恥ずかしい呼び方だから、やめるように言っているのですけど――」
あまりにも日常的な反応を示した天使≠ノ、一瞬、氷澄は気を奪われたが、すかさず踏み込んだ。だが、二人の距離は縮まらない。天使≠ゥ滑るように退いている。
構え直した氷澄だったが、天使≠ヘそれ以上退くつもりも、攻撃に転じるつもりもないらしい。
「どうして主宰を狙うのですか。あの方は、地上に楽園を建設なさろうとしているのに」
人の動きが変わった。進行役の指示があり、津島を取り囲んでいた人が、元の席に戻りはじめた。
「それに、あなたが何をしようとしても、ここにいる一〇〇人が主宰をお守りします。私たちは善良な市民ですから、無法な暴力をふるうなら、警察が黙っていませんよ」
「確かに、一〇〇人全員を殺すのには、多少の手間はかかるだろうな。だが、ここで大立ち回りをされて困るのは、私ではなく、むしろおまえたちのほうだ。講演会、セミナーという形をとってマインド・コントロールの対象者を集めているというのは、すなわち、知られては困る実態があるからだ。警察沙汰にできないのは、そちらも同じことだろう」
再び津島が演壇に立っている。獄えない距離ではない。だが、守護天使≠ゥ再び津島と氷澄の間に立った。その呼び名にふさわしく、あらゆる脅威から津島を守るように。隙がない――というよりこの女は、隙があるのかないのか、傍からは判断しがたいのだ。
壇上の津島以外に、立っているのは氷澄と守護天使≠セけになった。
「出ましょう。本来なら禁じられているのですが、中途退室していただきます」
自然に傍らに寄り添うと、守護天使≠ヘささやくように氷澄に言った。静かにしていなければならない場所でぐずっきはじめた子どもをたしなめる母親のような声だった。
氷澄は、守護天使≠ノ付き添われるようにして、その場を離れた。二重ドアの脇にいるスタッフが不審そうな表情を浮かべたが、天使≠ェかすかな笑みを浮かべてうなずくと、静かにドアを開けだ。
人気のない廊下に出る。守護神のエネルギー・レベルを上げれば、壁越しに津島を狙撃できるはずだ。探査ビームは、今も津島の位置を捕らえている。
「余計なことは、なさらないように」
氷澄の考えを読み取ったように、天使≠ェ忠告した。氷澄は天使≠フほうへ向き直った。
「ここなら、心置きなくやりあえるというわけか?」
天使≠ヘ静かに首を横に振った。
「私どもの仲間に――スタッフの一員になりませんか、氷澄さん?」
唐突な申し出の意図が、すぐには理解できない。
「どういう意味だ?」
「オーキス・ムーブメントは、この国を手初めに、世界中に広がります」
「誇大妄想だな」
「人間なら誰でも、主宰の呼びかけに応じて心の扉を開きます。必ずです」
「つまり、おまえたちが行なっているマインド・コントロールは、防ぐ手だてがないと言いたいんだな?」
「心の扉を開けない氷澄さんが、どのように受け止めようと、それは仕方のないことです。しかし、全世界の人間がオーキス・ムーブメントの参加者になった時、心の扉が開けない人間には、居る場所が無いのですよ。私と同様、スタッフとしてムーブメントに参加しているのでもない限り、あなたの居場所は、この世界のどこにも無いのです、氷澄さん」
「――マインド・コントロールを受けないがら、多少はマシな人間かと思ったが、思い違いだったようだな。コントロールされずに、この馬鹿騒ぎに進んで参加しているということは、根っからの愚物ということだな」
冷ややかな言葉にも、天使≠ヘ表情を変えない。
「心の扉を開くなどという世迷い言に、何の価値も認めるものではないが、自分たちの自己矛盾に、どう説明をつけるつもりだ? 心の扉を開いた人間は、開いていない人間を、世界から駆逐するのか? おまえたちが言うところのムーブメントの実体は、酒に酔った人間同士が『キミはボクの最大の理解者だ、心の友だ』などと喚き合っているのと変わらない。そういう人間たちにとって、酔っ払っていない人間は目障りだろうな」
話しながらも、氷澄は待った。目の前の女が隙を見せるのを。
「私どもが酔っ払いと違うのは、世界を一つにし、楽園を築こうという理想を待っていることです。そして何より、それを実現する力を待っていることです」
「同調しない人間を排除してでも、か」
天使≠ヘため息をついた。駄々っ子に困らされている母親の表情を浮かべて。
「楽園建設の手助けをすること、素晴らしいことだとは思いませんか?」
「思わない」
「寂しくないですか」
「酔っ払いと抱き合う趣味はない」
「――私が恐いですか」
「馬鹿なことを」
吐き捨てるように言う。だが、頬が痙撃するのが自分でもわかった。
「私は、長いこと生きてきました。長いこと。仲間が欲しいんです。氷澄さん、今すぐには無理でも、あなたはきっと、私の仲間になってくれる、そう信じます」
「ありえないな」
天使≠フそばの壁に懸かっていた蘭のエンブレムに火が点いた。光沢のある薄紫の布地は、金色の蘭の刺繍ごと燃え尽きた。守護神によるささやかな悪戯だ。
「これが俺の返事だ。決して変わらん」
「子どもじみたことを……」
天使≠ヘしゃがむと、床に落ちた灰を拾い集めた。
「津島の遺産を、場合によっては津島ごと破壊する。せいぜい守ってやるんだな、守護天使%a」
「榊村美津子と申します。名前でお呼びください」
「もう、名前で呼び合うような機会もないだろうよ、守護天使=v
立ち上がった榊村美津子は、改めて氷澄に視線を向けた。疲れたような、心配しているような表情だった。
「私は待ちます」
氷澄は榊村美津子に背を向けて、階段を降りた。受付や玄関脇のスタッフが両手で何やら合図を送ってくるのを無視して表に出る。
風のない夏の夜、澱んだ空気は、どろりとした熱を帯びている。
負けたわけではない。決して負けてはいない――。それなのに、何故か氷澄の胸から灼けつくような敗北感か消えなかった。
*
「――実験は成功裏に終わりました」
経過を詳細に記したファイルを差し出しながら、榊村美津子は結論のみを報告した。
「主宰から遠ざけられる、そのことだけで人は死を選びます」
返事はない。美津子は報告を続けた。
「その後、幹部社員の教育、新入社員の教育にオーキス・ムーブメントを導人することを申し出てきた企業は一七社、課外活動の一環としての導入を決定した学校が八校です」
オーキス・ムーブメントは、これまで個人による口コミを主な手段として、参加者を増やしてきた。あまり早い段階でムーブメントが表面化し、騒ぎ立てられることを恐れたためだ。だが、下地は出来たとの判断から、既存の組織を利用した拡大に着手することになった。社会的な地位のある人間――企業経営者、私立学校の校長、理事長など――によって、教育の一環としてオーキス・ムーブメントに参加させる。一見、通常の自己実現セミナーと変わらない体裁をとっているオーキス・ムーブメントにとって、効率的な組織拡大手段と思われた。事実、訪問販売会社がすでに三社、津島一幸による解放≠受けた。
そこに働く社員たちは、業績を伸ばして周囲の注目を集めつつ、オーキス・ムーブメントヘの参加者を増やしている。
『最近、調子のいい理由? すごく効果のあるセミナーを受けたんだよ。良かったら紹介しようか?』
『ある幹部社員教育のセミナーが、業績向上にたいへん有効でしてね。導入を検討なさってはいかがですか。よろしかったら、ご紹介いたしましょう。なに、他ならぬ御社の利益のためです』
「まだまだ不充分だ」
不興げな声に、美津子は顔を上けた。
声に含まれる不快な感情は、拡大する参加者の数の不足によるものではなかった。
「主宰のためなら喜んで死にます、そう言わせなければならん。自らの意志で死を選ぶようでなければ、いざという時に使い物にならん」
閉じたファイルが、投げつけられるようにして返される。
「それから、殺すほうの実験はどうした?」
「――人間にとっていちばん困難である自殺を強制することが可能だったのですから、殺人強制の実験は、わざわざ行なうまでもないのではないかと――」
「偉くなったものだな、美津子」
笑いを含んだ声だったが、美津子はすくみ上がった。
「オーキス・ムーブメントの最高責任者は私だとばかり思っていたが、いつの間にか、そうではなくなっていたらしい」
「中し訳ございません!」
震える膝を折り、土下座する。
「総人口の一割など要らん。地獄へ来いと言えば地獄へ行く、そんな人間が一〇万、いや、五万人いればいいのだ」
愚痴ともつかないつぶやきを、美津子は額を床に擦り付けた姿勢で、震えながら聞いた。
「立て、美津子。おまえには、もう一働きも二働きもしてもらわねばならん」
言われるまま、美津子は立った。だが、顔を上げる勇気はない。うつむいたまま、最も言いにくいことを言う。
「お耳に入れなければならないことがあります。本日のウェルカム・イベントに主宰の解放≠受け付けない人間がおりました」
「受け付けないとは、どういう意味だ?」
「――私と同類、ということです」
言葉が返ってくるのを恐れるように、美津子は、今日の出来事の経過と、氷澄丈太郎に関するデータを読み上けた。
「ちょうどいいではないか。その男を殺させろ」
「――かしこまりました」
同じことを二度繰り返して言うことはない相手だ。服従の意志を表明する以外に、美津子にできることはなかった。
一礼して退出しようとする美津子に、全く別の指図がある。
「早く子どもを産め、美津子。名前はもう考えてある。数字の一≠ノ忠孝の孝≠ニ書いて一孝≠セ。――早く産めよ」
もう一度頭を下けると、満足げな笑い声を後に、美津子は退出した。
*
偵察の翌日、半日がかりで、わかったことを整理し、調べなければならないことをリスト・アップした。作業はほとんど万里絵が行ない、遼の仕事は、確認のための質問に答えることと、コーヒーを注れることくらいしかなかった。優等生が勉強している脇で何もすることのない劣等生のようで、自分の家にいるというのに、居心地が悪かった。
作業中も、一時間に一回は電話が鳴った。オーキス・ムーブメントの参加者からのメッセージだ。参加者が互いにかけ合う電話は、ザンヤルマの剣のセンサーで見た光の波動が乱反射する光景を思い出させた。互いに波動を反射させ、結果として津島一幸のコントロ
ールを強化していた様子を。
「どうして、本部からは電話してこないんだろう」
遼の名前も住所も、本部のコンピュータに入っているはずだ。
「何かあった時に、あれは会員が勝手にやったことで、本部が指示してやらせたんじゃないって、言い逃れをするためかもね。その手の組織は、みんなそうよ」
ノートから顔も上げずに万里絵が答えた。
「あ……テープ終わっちゃった……」
「放っとけば?」
留守番電話のマイクロカセットをひっくり返そうと、電話器のレコーダーの蓋を開き、カセットを抜き取ったとたんに、ベルが嗚った。
――あっ、しまった……。
反射的に受話器を取っていた。
『矢神さんのお宅でしょうか』
聞き覚えのない女性の声だった。身構える。オーキスのスタッフだろうか――。
『私、鵬翔学院でご一緒しています、神田川明の母です』
――神田川くんの?
「何でしょうか?」
『あの、明がそちらにおじやましていませんでしょうか』
「いいえ、うちには来てませんけど」
ため息のような、かすかな声が聞こえた。
「神田川くんに何かあったんですか?」
『……一昨日の夜から、家に帰っていないんです。無断で外泊することなんて、今までなかったんです。だから、心配になって、お友だちの家に電話してるんですけど……』
母親の声は、快活な神田川からは想像できない、疲れ果てた響きを帯びていた。いや、日頃は明るかったとしても、心配事が重なれば、参ってしまうだろう。神田川の行方不明の前には、近しい人間にオーキス・ムーブメント絡みの何かが起こっていたようだし――。
「彼を見かけたら、家に連絡するように言っておきます。友だちにも声をかけてみます」
『すみません、ご面倒をおかけします』
電話は切れた。
受話器を戻すと、すぐ脇に万里絵が立っていた。電話の内容を手短に伝える。
「心配ね……」
万里絵のつぶやきを聞きながら、遼は裏返したカセットをレコーダーにセットした。
「――オーキス本部に乗り込もう」
思ってもみなかった言葉が出た。万里絵が濃い眉の間に皺を寄せる。
「津島一幸に直接交渉するんだ。マインド・コントロールを解除しろって」
「無茶よ」
「でも、他に方法がないなら、やるしかない」
「津島が遼の言うとおりにすると思う?」
「させるよ」
たとえ、ザンヤルマの剣で脅してでも――。
「それで、いつ実行するの?」
遼の決意の固さを読み取ったのか、声の調子を変えて万里絵が尋く。
「これからだって……」
「今から本部に行くとなると、着くのはちょうどウェルカム・イベントの最中ね。津島に近づくのは、難しいわ」
遼は舌打ちした。気ばかり焦って、実際的なことは何も思いつかない。いらいらとさまよわせる視線が、猫のような大きな目とぶつかる。万里絵は肩をすくめた。
「一晩もようだい。それでも、うまい手を考えつけるか自信ないけど……」
「ごめん。だけど、時間がないんだ」
遼の言葉に、万里絵はうなずいた。
――僕にとって、神田川くんのほうがマーちゃんより大切なんだろうか……。
一人になった部屋で、遼はぼんやりと考えていた。
机の上には、万里絵の描いてくれたオーキス本部とその周辺の概略図が広けられている。
『本部に乗り込むなら、これだけは順に入れておいて』
帰りがけにそう言って置いていったものだ。
最初のうちこそ、イベントやトレーニングで本部を訪れた時の記憶や、ザンヤルマの剣のセンサーで探った時の感触と重ね合わせて、覚え込もうとしていたが、しだいに雑念が沸き上がってきた。
――マーちゃんが危なくなっても、神田川くんに助力を求めたりはしないだろうな……。
机のいちばん下の抽斗を開け、鞘に収まったザンヤルマの剣を取り出す。ほんとうにオーキス・ムーブメントが悪いことだと思えないなら、津島一幸が許せないと思えないなら、
今度の事件には関わり合わないほうがいい――。万里絵の言葉が思い出される。今でも、はっきりとした結論は出ていない。
――神田川くんの身近な誰かがオーキス・ムーブメントに絡め捕られたと知ったから、偵察に出かけた。今度は、神田川くんが行方不明になったと知って、オーキス本部に乗り込もうとしている……。
自分は、行動のなかから結論を見つけようとしているのかもしれない、と思う。
――でも、それでいいんだろうか……。
自由とか正義とか理想とか、真剣に考えたことはない。それ以前の善悪の判断だって、世間一般の常識≠ノ拠っている。はっきりとした自分の考え、結論といったものさえ持たずに行動するというのは、世界を滅ぼせるほど巨大な力≠秘めた剣をふるう人間にしては、あまりに軽率ではないのか。
手の中の短剣は、意外にわずかな重みを伝えるだけで、何も答えてくれない。
――彼は、何を考えて、この剣をふるったのだろう……。
仮死状態の幻覚の中で見た少年――おそらく、最初にこの剣を手にした初代ザンヤルマの剣士≠セろうと遼は考えている――の姿を思い浮かべる。
いつしか遼は、机に向かったまま眠り込んでいた。
翌日、まだ暑くならない午前中に、万里絵は四〇二号室に現れた。
万里絵の立てた計画は、いたって簡単なものだった。
「遼があたしを勧誘して、ウェルカム・イベントに参加するの」
「!」
大胆な計画だが、理屈には合っている。全くの部外者であっても、ムーブメントの参加者として登録されている遼が勧誘した形をとっていれば、会場への侵入はスムーズだろう。
イベントの本来の目的を果たす必要上、津島一幸は絶対に本部に居るはずだ。
遼が計画の狙いを飲み込んだと見ると、万里絵は実際的な手順の説明に移った。本部の建物の図面を見ながら、いちいち確認しつつ説明を進める。遼は、その説明の一切を、頭の中に押し込んだ。今夜七時からのイベントに参加しようと思ったら、準備に使える時間は、もう一〇時間もない。
説明が終わると、万里絵は遼に手順を復唱させた。
「大丈夫ね」
万里絵の言葉にほっとする。暗記は苦手なのだが、図面の内容も頭に入っているようだ。
「それで、絶対に守ってもらいたい注意事項なんだけど――」
大きな瞳が厳しい光を湛えている。
――まずいと思ったら、必ず逃げること。逃げのタイミングをはずさないこと。逃げる時は躊躇しないこと。たとえ、あたしを置き去りにするようなことになっても」
思わず何か言おうとする遼を万里絵は指一本で制した。
「いい?今度の敵が恐ろしいのは、目指す標的以外にも多数の協力者がいて、組織的に対抗してくることなの。あたしたもの有利な条件っていったら、素性を知られていないことと、敵のご本尊の正体を知っていること、そして、まだ相手にそれを知られていないことくらいしかないの。圧倒的に不利なの。だから、一点突破の奇襲戦法に賭けるしかないの。それが失敗したとたんに、こちらの有利な条件はなくなっちゃう。そして、相手に捕まったら、もうリターン・マッチの機会はなくなるわ」
遼は黙ってうなずいた。
「逃け延びて、生き延びれば、次のチャンスがある。敗北だって、次の戦いのためのデータ収集に変えられる。だから、常にチャンスを確保するの。逃げて、ね。わかった?」
「わかったよ」
続いて万里絵は、オーキス本部周辺の地図を広けた。
「ここがツシマ新一号ビル、オーキス本部ね。それで、ここに水緒美が待機しているから、撤収にしろ脱出にしろ、目標はここね」
「江間さんに協力を頼んだの?」
この間の様子から、オーキス本部潜入は万里絵と自分の二人だけでやらなければならないだろうと覚悟していた遼にとって、これは意外だった。
「イェマドの瞬間移動は逃げるにはもってこいだもん、利用しない手はないわよ。水緒美に頭下けたわ」
「氷澄さんは?」
万里絵は横に首を振る。
「まだ戻ってないみたい。もうすぐ新学期が始まるっていうのに、あの不良教師――」
遼は、思いついたことを尋いてみた。
「――イェマドの瞬間移動装置って、オーキス本部への潜入に使えないかな?」
「聞いてみたわ。あれ、一方通行なのよ。別の場所にいる人間なり物なりを、装置のところへ呼び寄せることしかできないんだって」
「――あの、マーちゃん……」
見ていた図面から顔を上げ、万里絵が正面から遼を見た。人を吸い込むような、不思議な色合いの瞳だ。真正面から見詰められると、遼は目をそらしてしまう。
「……まだ、結論、出てないんだ……知っている人間が関わり合いになっているっていう以外に、僕の行動する動機は何もなくって、オーキスや津島に対する考えだってひどく曖昧で……」
「――それで、どうするの?」
万里絵の声はおだやかで、やさしかった。
「そんな状態なのに、僕は、オーキス本部に乗り込もうって考えているし、今だって変わっていないんだ……」
「いいんじゃないのかな、それで」
軽い調子で万里絵は言った。
「何にも考えないのも困るし、考えてばかりで何もしないのも役に立たないし、完璧な答が出るまで待っていたら、人生終わっちゃうし。いくつものことに手をつけながら、考えて、行動して、その間で何とかバランスをとって、よりベターな方向へ持っていくしかないんじゃないの?」
自分はベターな方向へ進んでいるのだろうか――尋こうとして、やめる。
「――やるよ。津島一幸がどんな人間なのか見極めて、結論を出す」
ザンヤルマの剣を握り締めた遼の肩を、万里絵が軽く叩いた。
遼と万里絵は、オーキス本部近くの停留所でバスを降りた。
――それにしてもさ……。
遼は、自分の半歩後を歩いてくる万里絵をちらっとうかがった。
待ち合わせ場所であるターミナル駅の駅前広場に現れた万里絵を見ても、遼は、誰だかすぐにはわからなかった。眼鏡をかけ、いつもよりボリュームをなくした髪のてっぺんに大きなリボンを付け、ひらひらした感じのブラウスと長いスカートといういで立ちに、遼が知っている万里絵の雰囲気はまるでなかった。
『おまたせ、矢神くん』
声を聞いて、目の前の少女が誰なのか、やっとわかった。だが、声の調子もまるで違って聞こえる。いや、声だって顔だって、無理に変えているところはない。
『人間って、着ているものを変えれば、性格や考え方や表情まで変わるのよ。メイキヤップも、気分経由で顔つきを変えるためにするんだから』
そこまで聞いて、遼は納得した。オーキス本部にウェルカム・イベント参加の申請をする時、万里絵については偽名で申告している。
――でも、どこかで楽しんでいるんじゃないかって気がするんだよな……。
困難な課題に対した時、遼は緊張する。何もできなくなるほど萎縮してしまうことさえある。だが万里絵は、そういう情況でこそ無駄口をたたき、おふざけに近いような行動を織り交ぜる。根っからの性格なのか、サバイバル・スクールの訓練によるものなのかはわ
からないが。
「ほら、もっと背筋を伸ばして、自信を待ってあたしをエスコートしてくれなきや。遼はオーキス・ムーブメントの参加者で、心の扉が開いているんでしょ?」
――どっちが心の扉を開いているんだか……。
それでも、精一杯胸を張り、明るい表情を心がける。顔の筋肉に疲労を感じる前に、本部ビルの前にたどり着いた。
「立派なビルですねえ」
真面目で、おとなしくて、温和な性格の、地味な女の子――いかにもそんな声で万里絵が感心したようにつぶやく。
「さあ、行こう」
粂沢や八本のことを思い出しながら、遼は努めて明るく言った。多少の硬さを除けば、心の扉を聞かれた人々≠フしゃべり方と同じように聞こえた。
――そうか、元の性格がどんなものであれ、オーキス・ムーブメントは、同じ型にはめられたような均質の明るさに統一してしまうんだ……。
マインド・コントロールを行なうオーキス・ムーブメントにとって、人間の個性などは地ならしするべき歪み≠竍バラつき≠ノすぎないのだろう。
玄関の大きなドアを通る。監視カメラが全て自分のほうへ向けられたような気がする。
鼓動が早くなり、鎖骨のあたりが熱くなって、体から浮き上がるようだ。額に前髪が貼り付いているのは、夏の夜の熱気のためだけではない。
受付に行き、スタッフに声をかける。短期間のトレーニングを受けただけの遼でさえ、相手の表情を読む能力は向上していた。スタッフであれば、そういった能力は一般参加者以上だろう。だが、紺の制服を着た女性の笑顔に、遼がマインド・コントロールを受けていないことを疑う表情は見られなかった。遼も仮面のような笑顔のまま事務手続きを進めた。万里絵の偽の住所、氏名を確認させ、CDで引き出してきた一万円札二枚を払う。
「レインボー・ホールでお待ちください」
バッジを受け取り、万里絵がついてくるのを確かめながら、遼はなるべくゆっくりとエレベーターに乗り、「3」のボタンを押した。
――とりあえず、ここまでは問題なし、か……。
だが、油断はできない。まだ、第一関門を突破したにすぎない。そして、これから先、関門を越えれば越えるほど、情況は難しくなり、危険は増大する。
お互いのバッジの番号を確認する。万里絵の推理どおり、奇数と偶数の、離れた番号になっている。
エレベーターが三階に着いた。改めて胸を張り、遼はホールへ向かった。
蘭のエンブレムの付いた二重ドアを開いて、中に入る。時刻が早いせいか、席はそれほど埋まっていない。万里絵のほうを意識せずに、自分のバッジの番号の席に座る。万里絵は、間に三〇ほどの椅子を挟んだ、二列後ろの席だ。
腰を落ち着けてみると、また緊張が高まってくる。まるで死刑執行の呼び出し―――そんなものがあるのか知らないが――を待っている死刑囚のような気分だ。
――この部屋にいる人間の半分は、マインド・コントロールされている……。
場合によっては、遼たちの敵になるかもしれない人たち。そして、残りの半分は、何も知らずにマインド・コントロールされようとしている人たち。ほんとうの意味で彼等を助けることが、自分にできるだろうか?
万里絵が席を立った。ドアのところに控えているスタッフに話しかけている。トイレの場所を尋いているのだ。そして、それは本格的な行動をスタートする合図である。
万里絵が外へ出た。
反射的に腕時計で時間を確認し、頭の中で手順を再確認する。
まず五分後に、遼もホールを出る。開会までにまだ時間的な余裕があるから、外へ出るのを禁じられるようなことはないだろう。それまでに万里絵はスタッフの一人と入れ代わっているはずだ。合流して、七階にある主宰専用室へ行く。津島一幸は、基本的にはその部屋にいる。そこまでは、スタッフを装った万里絵が遼を連れていくという形をとる。この段階から、ザンヤルマの剣は稼働状態にしておく。津島にマインド・コントロールの解除を要求する。場合によっては脅迫も辞さない。
大きめの夏用の遊び着の下に隠された短剣を意識する。これまで何人かの強敵を下してきた剣だったが、今回に限っては、ただの刃物以上の威力はないかもしれない。
時計を見る。まだ一分しか過ぎていない。
「こんにちわ、私は北村明美といいます。今日はクラスメイトを誘ってウェルカム・イベントに参加しました。よかったら、お名前を教えてください」
遼の前に立った少女は、心の扉を開かれた人間らしい明るさで自己紹介した。
「矢神遼です」
反射的に作り笑顔をして応える。
「矢神さん、体の調子でも悪いんですか?」
北村明美の目が、遼の表情をうかがっている。訓練された観察眼――。
「ええ風邪をひいたのが、治り切っていないんです。でも、それくらいのことでイベントに参加しないわけにはいきませんからね。それに、津島さんや、心の扉を開いた仲間の顔を見れば、風邪だって治っちゃうと思って――」
「そうですよね。がんばってください」
少女が差し出した手を握って、振る。彼女は意外に強い力で遼の手を握り返した。
北村明美が去った後、力が抜けそうになるのを堪える。心の扉を開かれた人間は、いつも活気にあふれて、明るくしていなければならない。不審を招いてはならないのだ。
――だけど、いくら活力に満ちているつもりでも、実際に体が疲れてくるのはどうしようもないじゃないか……。
だからこそ、参加者の間で電話をかけて激励しあい、サインを交わしあうのだろう。何のことはない、疲れて休憩することを許さないための、体のいい相互監視システムだ。
時計を見る。まだ三分残っている。時計ばかり見ていては、変に思われるだろう。そういえば、このホールには時計がない。前の事件の後で万里絵が語ったところによれば、時間の感覚をおかしくするのは、拷問やマインド・コントロールにおける基本的な条件の一つなのだそうだ。時間を気にしている人間は、スタッフの注意を引いてしまうだろう。時間ばかり気にして、何事にも真剣に取り組まない人間――トレーニングなら、そんなふうに言って追及するところだ。考えまい。時間のことなど気にするまい――。
「矢神くん!」
いちばん聞きたくない声がした。
「粂沢くん!」
立ち上がって、声のしたほうを見る。粂沢が椅子の間を走るようにしてこちらへ来る。
「来ましたね、やっと」
粂沢が遼の肩を抱くようにして言った。
「昨日まで熱を出して寝てたんだ。でも、動けるようになったら、居ても立ってもいられなくなったんだ」
自分でも驚くほどすらすらと嘘が出た。
「勧誘は?」
「もちろん、うまくいったよ。心の扉を開けば、不可能なことなんてないだろ」
固く握手をしてから、別の知人を見つけた粂沢は遼から離れた。
――僕の存在は知られてしまった。今夜、けりをつけられなかったら、再戦の機会があるかどうか……。
あと一分
――もしも、マーちゃんがマインド・コントロールされたら……。
遼がいちばん恐れているのは、そのことだ。どんな失敗をしたところで、ザンヤルマの剣を稼働させれば、守護神≠フ機能によって遼は正常に戻れる。だが、万里絵はそうはいかない。しかも、津島一幸のマインド・コントロールは、通常の方法で解除できるよう
なものではないらしいのだ。
『逃げる時は躊躇しないこと。たとえ、あたしを置き去りにするようなことになっても』
万里絵に言われた注意事項が、妙に暗示的に思えた。
遼のマインド・コントロールを解除するために、万里絵はザンヤルマの剣を抜かせた。
場合によっては、自分がザンヤルマの剣士を敵にして戦わなければならない危険があったにもかかわらず。だが、遼にはできない。万里絵が敵になってしまったら、とても戦えない。
指示された五分が過ぎた。
立ち上がる。明るく、胸を張って、何事もないように落ち着いて、遼はホールを出た。
ドアの脇にいたスタッフは、特に遼を見とがめるようなこともしなかっだ。ただ、一瞬だけ胸のバッジの番号を見たような気がした。
『津島一幸のマインド・コントロールは完璧なんでしょうね。だから、すでにコントロールされている参加者に対しては、ある程度油断しているところはあるかもしれない』
万里絵の分析は当たっていたのだろう。バッジを見たスタッフは、遼を洗脳済みと判断して、いちいち行き先と目的を尋ねたりしなかったのだ。
『マインド・コントロールを使用している集団――宗教でも、違法なビジネスをやっている集団でも、いちばん恐れているのは脱道者よ。マインド・コントロールには情報の遮断が必要不可欠なんだけど、脱退者は、内部の実態を外部に伝え、内部の人間が知らない外部からの情報を内部に伝えてしまう。津島のコントロールには、本来なら脱退者はありえないと考えているなら、遼みたいな人間の存在は、普通以上の脅威になるわね』
オーキス・ムーブメントにとって遼が脅威なら、遼にとっても、自分を脅威と見なす集団は脅威なのだ。そして今、遼はその集団の真っ只中に居て、主宰に脅迫をかけようとしている。
――無茶だよな、僕も、マーちゃんも……。
絨毯の敷き詰められた廊下には、スタッフの他に、かなりの数の来場者も見られた。緊張と好奇心のないまぜになった表情を浮かべているのは初めての来場者だろう。すでにコントロールされている人間も、顔付きでなんとなくわかる。橘マンションからここへ来るまでの間、道を歩いていても、電車に乗っていても、それらしい人間を見かけた。神経過敏になっているための思い過ごしならいいのだが。
廊下にけっこう人が居たおかけで、それほど怪しまれずに移動できた。合流地点は、トイレの向こう側、廊下の角である。
指定された場所に着いたが、万里絵の姿はなかった。また、鼓動が早くなる。
こんな場所に意味もなく突っ立っているわけにもいかない。遼はいったんトイレの中に入った。洗面台の前で眼鏡を外し、冷たい水で顔を洗う。気分が落ち着いたという感じはあまりしなかった。
――こんなことでビクついてちや駄目だぞ。
鏡の中の自分に、心の中で声をかける。
表情を取り繕い、トイレの外へ出る。
「矢神遼さんですね?」
絹の制服を着たスタッフが、何かのファイルを片手に立っていた。バレリーナのように後ろでまとめ上げた髪形、セルフレームの眼鏡、目元のさりげないメイクと薄い色のルージュ……明るく穏やかな笑顔ではあるが、どこかキリッとして、婦人警官か、厳しい女教師を思わせる。
「主宰室まで同行していただきます」
バレたのか――。薄いジャケットの下のザンヤルマの剣に手が伸びる。
「コンタクトに変えるより、検眼しなおして、もっと度のきつい眼鏡を作ってもらったほうがいいみたいね、遼」
「……脅かさないでよ!」
大きくなりそうな声を押さえ付けて怒る。地味な女子高校生から、一昔前のキャリアウーマン風のオーキス・スタッフに、万里絵は見事に化けていた。
「まだ時間はあるけど、直前になればスタッフもそれなりに動き出すし、ばれないとも限らない。急ぐわよ、遼」
遼はうなずき、背筋をピンと伸はして歩き出した万理絵の後に従った。
意外なことに、上の階層の警戒は厳重ではなかった。入り口を固めて、マインド・コントロールされていない人間の侵入さえ防げれば危険はない――そう判断しているのだろうか。玄関の大袈裟な数の監視カメラが嘘のようだ。
肌寒いくらいに冷房が効いている。気のせいか、床に敷かれた絨毯はまだ汚れていない感じで、人の気配もない。それでも万里絵が油断なく神経を張りつめているのは伝わってくる。
五階から六階へ上かる階段のところに、スタッフが一人立っていた。
「どちらへ?」
笑顔のまま問いかけてくるのが、むしろ無気味で、恐ろしかった。
だが、万里絵は落ち着き払って、両手でオーキスのサインを形作ると、同じような笑顔で問い返した。
「主宰からお呼び出しを受けたのですが、主宰室にはいらっしゃらないのですか?」
「まだ降りていらっしゃいませんから主宰室でなければ、温室でしょう」
「ありがとう」
二人はサインを交わした。遼も指で蘭の花をかたどった。
振り向くな。早足にならないように、落ち着け――。階段を上っている間中、今にもスタッフが追い掛けてくるのではないかという、子どもが見る怖い夢のような恐怖感で、背中がひりひりする。
「上出来よ、遼。笑顔とサインね、忘れないように」
万里絵のささやきに、多少気が楽になる。
「スタッフも、参加者のボランティアだけみたいね。問題があるとしたら、例の、遺産のコントロールを受けなかったスタッフね」
「たぶん、僕の時にも司会をやっていた、榊村って女性だと思う」
「それだけ重要な、でなければ津島一幸の信任の厚いスタッフなのかな。障害になるかもしれない」
六階に出る。やはり階段脇にいたスタッフを、笑顔とサインでやり過ごす。
いよいよ主宰室のある七階だ。偵察で得た情報によれば、階段脇の他に、主宰室のドアの前に二人、スタッフが居るはずだ。
「抜くタイミングだけ、間違えないで」
踊り場で立ち止まり、万里絵が注意した。うなずき、手の汗を拭ってから、ジャケットの下に手をやる。手遅れになっては困るが、抜くのが早すぎても人目につく。さらに、畳めば遼は仮死状態に陥る。意外に厄介な武器なのだ、この剣は。
「行くわよ」
階段のスタッフにサインを示し、真っすぐ主宰室へ向かう。記憶している図面と対応させる。この壁の裏側は浴室、反対側には主宰専用らしい食堂と調理場があるはずだ。
「――どう、榊村って女性がいる?」
木目の浮き出た立派なドア――表面には金色の蘭のエンブレムがある――の前に立っているスタッフを目で指して、万里絵が尋く。
「両方とも違う」
遼がささやき返す。
「それにしても、どうしてスタッフが女性ばかりなのかなあ……」
つぶやきながら、万里絵は主宰室へ歩を進める。遼も続いた。
ドアの正面に立つ。ファイルを小脇に抱えて、万里絵はオーキス・サインを示した。遼もそれに倣う。ドアの脇を固めていた二人もサインを返した。
「主宰のお呼びで、こちらの方をお連れしました。主宰は中にいらっしゃいますか?」
スタッフが顔を見合わせる。
顔の上下で表情がバラバラになっているのを、遼は自覚した。作り笑顔も限界に近い。
一方で、目の前にいるスタッフの挙動、表情の変化を見逃すまいとして目を凝らしている。
顔の下半分しか笑っていないとしても、仕方のないことだった。
「主宰はただ今、温室にいらっしゃいます」
向かって右のスタッフが応えた。単に不在を伝えるだけではなく、誰も邪魔をしてはいけないのだという含みが感じられる物言いだった。
「お戻りは?」
「はっきりとは……もちろん、イベント後半のブログラムには間に合うように戻られるはずですけれど」
温室は屋上にしつらえられている。コンクリートの天井を挾んで一メートルほどの距離しかない。
「――困るんです。僕、七時前にこちらにうかがうように、榊村さんからきつく言われているんです」
遼はとっさにスタッフの名前を出した。
「守護天使が――?」
「だったら、いいのよね?」
二人のスタッフがささやきを交わす。
ジャケットの下のザンヤルマの剣の柄を握っている手がじっとりと汗ばんでくる。まさか、この二人に切りつけるわけにもいかないだろうが、遼たちも退くに退けないところまで来ている。
「では、応接室でお待ちください」
榊村美津子の名前が効いたのか、分厚いドアが開けられる。遼は昨夜暗記した主宰室の間取りを思い出した。ドアの向こうは短い廊下、その奥が応接室だ。そして執務室、休憩室と続く。休憩室には小型のエレベーターがある。温室のある屋上へ出るための、主宰専用のものだ。他に屋上に通じているのは、かなり大型のエレベーター――おそらく温室の手入れ等の業務に使用されるものだろう――だけだった。これは、途中の階には停まらない。
一度は応接室のソファに腰を下ろしながらも、万里絵は室内を観察しているようだった。
退路の確保を考えているのかもしれない。
遼は眼鏡を外し、ザンヤルマの剣を取り出した。目の高さに上け、直刀の姿をイメージする。そして、そのままゆっくりと抜く動作をした。三〇センチほどの赤い波形の鞘が、一メートル余りの輝く刀身に変化する。
「遼――」
剣を垂直に立て、目をつぶる。屋上に向けて、センサーが開かれる。たくさんの規則的な模様がぼんやりとした光を放っている。温室の中の蘭の花か。その中に、人間の存在を示すはっきりとした光の点が一つだけ――これが津島一幸だろう。
「津島ひとりだけだ。温室の、花の中に居る」
「奥には誰か居る?」
剣の切っ先を、奥へ通じるドアに向ける。人間の反応はない。万里絵にそう告ける。
再び、屋上を探る。光の模様の一つを伴って、津島の光点が動き出した。
「降りてくるみたいだ」
遼がそう告けると、万里絵は立ち上がった。
「行くわよ」
オーク材の大きなデスクの置かれた執務室を抜け、休憩室に入る。鍵はかかっていない。
きちんと整えられたベッド。かなり高級そうなオーディオ・セットと大きなプロジェクター。変わった形のソファは、特注品のようだ。本棚には蘭に開する専門書や雑誌がぎっしりと詰め込まれている。ベッドと、その脇のクローゼット以外に、生活臭を感じさせる
ものはない。
その壁の一角に、部屋の雰囲気とは多少不釣り合いな、ペンキをごられたドアがある。
専用エレベーターのドアだ。
遼と万里絵がドアの両脇に分かれるのとほぼ同時に、津島一幸の光点はエレベーターに乗り込んだ。それほど強くもない光が、だんだんと近づいてくるのがわかる。
万里絵を見る。オーキス・スタッフの制服のどこに隠していたのか、大ぶりなナイフを手にしている。猫を思わせる大きな瞳が、今は獲物を待ち構え私肉食獣を思わせる光を放ち、遼の視線を捕らえた。その一瞬だけ、悪戯っぼく笑う。
モーターが停まるかすかな音がする。二人は互いにうなずき、構える。
ドアが開き、蘭の鉢を手にした津島一幸が降りてきた。
「働くな。騒ぐと、殺す」
滑り込むように近づき、津島の首にナイフを突き付けた万里絵が、低い声で言った。緩んだ喉の奥で、ヒッというような声がした。
そのまま壁に押しつけ、片手で肘を押さえつけて、津島の動きを完全に封じた。
遼は津島の正面に立った。
「誰ですか、君たちは」
脅えた顔は、壇上で人間の真理を語っていた人生の師≠フものではなかった。畏怖の念は湧かない。いや、武器を手に脅迫することへの罪悪感を覚えさせるほどひ弱に見える。
「始めに言っておきます、津島さん。僕は、一度はオーキス・ムーブメントに参加して、あなたにマインド・コントロールされた人間だ。だけど、それも解除された。もう、あなたのことを尊敬もしていないし、二度とコントロールされることはない。彼女も同じだ」
言葉の後半は、遺産を使わせないためのはったりだ。だが、どうやら津島は信じたらしい。蘭の鉢を一回強く抱え込みながら、突き付けられたナイフと、目の前の遼、そして自分の右手に視線をさまよわせている。遺産≠ヘそこにあるのか。
「あなたが黒いスーツの男から受け取った遺産を回収して、処分する。その前に、やってもらうことがある。あなたが洗脳した人たちを、元に戻すんだ」
目尻の垂れた津島の目が、いっばいに開かれる。
「で……できないよ、そんなことは……できるわけないだろう……」
できないというのは、原理的に不可能ということなのか、それとも単に拒否するということなのか。
遼はザンヤルマの剣を上け、津島に真っ正面から突き付けた。
「――やるんだ」
「できないよ。世界の人間の一〇パーセントをムーブメントの参加者にしなきやいけないんだ。昇陽祭≠成功させなければならないんだ」
津島は、上ずった声で、独り言を言った。
「これを……これを渡すなんて、できない……できないぞ!」
右の手首を蘭に鉢の陰に隠すようにする。
「何故だ、津島さん?あなたはオーキス・ムーブメントで何をやろうとしているんだ?オーキス・ムーブメントの目的とは何だ?」
「……世界人口の一〇パーセントをムーブメントの参加者にするんだ……するんだ……するんだ……」
自分が置かれている情況から逃避しようとしてか、津島は目をつぶり、同じことを繰り返している。
多少の切り傷くらいは負わせることになるかもしれない――遼は、切っ先が津島の顔に触れるぎりぎりのところまで踏み込んだ。
「こちらの要求を受け入れないのなら、あなたはここで死ぬことになるよ、津島さん。次善の策だけれど、それでも良いと思ってるんだよ。これ以上、あなたに洗脳される人間が増えなくなるならね」
死ぬ≠ニいう言葉が口につっかえる。早く、言うとおりにしろ――胸の中で叫んでいる。
津島の閉じた目から涙がこぼれ、丸い頬を濡らす。
「時間がないわ。とにかく、遺産の回収だけでもしましょ」
このままではらちがあかないと見たのか、万里絵は遼に指示した。
剣を突き付けたまま、遼は津島に歩み寄り、右の手首を掴んだ。
高熱で溶けた金属のような、奇妙な形の腕輪がはまっている。継ぎ目らしいものは見当たらない。それどころか、津島の手首と腕輪の間には全く隙間がなかった。まるで生まれた時から体の一部だったか、そこだけ銀色の塗料を塗りつけでもしたかのように。
――本人の意志でなければ外せないのか……。
次の瞬間、遼の眉間の裏側にきな臭い火花が散った。ザンヤルマの剣が危険を知らせている!
片手で剣をふるう。鏡のような刀身が両断したのは、青白い光の球だった。
手に伝わる衝撃から、それが氷澄や裏次郎が使うのと同様のエネルギーの塊であることを知る。
光球が飛んできたほうを見る。
「美津子!助けてよ、美津子!」
休憩室と執務室を隔てるドアの前に、オーキスの制服を着た女性が立っていた。榊村美津子――イベントで司会進行役を務めた、中心的なスタッフだ。ただ、いつものような隙のない印象ではない。上着のポケットに片手をだらしなく突っ込んでいるからだろうか。
――まさか……。
ポケットの中にあるもの――それは、氷澄の懐中時制や水緒美の白扇と同じく、守護神≠ネのだろうか。津島のコントロールを受けなかったのも、そのためか。
――この人もイェマドの遺産管理人なのか……。
あるいは遼と同じように、遺産を相続しただけの人間なのが。どちらにしろ、津島一幸の他に遺産を持っている人間がムーブメントにいるとは予想していなかった。いつの間にか、裏次郎から遺産を受け取った人間は一人でいるものだと思い込んでいた。
遼が必死に考えを巡らせている間、榊村美津子も衝撃を噛み締めているようだった。
津島は万里絵に任せ、美津子のほうへ向き直る。
「危ないものを下ろしなさい。あなたたちは何か誤解しています」
遼たちに語りかけてきた声は、イベントを進行させる時と同様、落ち着いたものだった。
「私どもは、人々の心の扉を開いて――」
「この剣は、守護神の機能を備えている」
美津子に最後まで言わせず、遼は言葉をかぶせた。
「僕は一度マインド・コントロールされたが、これで正常に戻った。それがどういう意味か、あなたにはわかるはずだ。それでも誤解だと言い張るんですか」
「誤解です、ほんとうに。あなたたちは誤解しているんです」
言いながら、毛ほどの気配も見せずに、美津子は光球を三つ、立て続けに放った。
ザンヤルマの剣がひらめき、エネルギーを四散させる。
だが、美津子の狙いは別にあったようだ。
「くっ!」
苦痛の声が上がった。
振り向いた遼の視界に、肩を押さえてうずくまる万里絵の姿が映る。
「マーちゃん……!」
「津島を!」
剣を突き出し、鉢を胸に抱きかかえながら逃げてくる津島を止める。
「遺産をこちらによこせ。さもないと、死ぬぞ」
万里絵の怪我の程度も気になったが、ためらっている暇はなかった。
「あなたに主宰は殺せません」
落ち着き払った美津子の声がする。
「脅しじゃない。僕は本気だ」
「江坂修二さんという人かいました。ウェルカム・イベントのゲームの最中に癇癪を起こして、会場から出ていただいた人です」
あの男か。鼻血が出るほど興奮して叫んでいた。スタッフに引きずられるようにして、ホールの外に出された――。
「江坂さんが落ち着いてから、主宰が一対一で面談されました。江坂さんも、心の扉を開いてくださいました」
「――それがどうした」
二昨日、主宰は江坂さんに言い渡しました。もう二度とここに来てはいけない。私は二度とあなたに会わない。その日のうちに江坂さんは自殺しました」
心臓が一瞬のうちに固まってしまったような気がした。血の染み付いたワイシャツ、興奮した怒鳴り声、振り回す手足、まわりから取り押さえる紺の制服の群れ――。
「三〇回ほど同じことをしましたが、結果はいつも同じです。もしも、あなたが主宰の命を奪ったら、もう二度と主宰に会えない、言葉も聞けないと知ったムーブメント参加者は、どうするでしょうね」
美津子の声に、勝ち誇った調子はなかった。母親が子どもを宥めるような、困りながらも楽しんでいるような、不思議な声だった。
遼は視線をさまよわせた。イベントの進行をしている時よりくつろいだ様子の榊村美津子。自分に突き付けられた剣だけを見ている津島一幸。エネルギーの直撃を受けた肩を押さえている万里絵――。
オーキス・ムーブメントの参加者にとって主宰は、生きることの意味を教えてくれた人、生きる喜び、生きることそのものなのですよ。それは、あなたにもわかるでしょう?」
そのとおりだった。津島一幸が自分から遠ざがってしまったことへの喪失感――遼にとって有害な心理操作を守護神が排除したにもかかわらず、精神的なダメージは大きかった。
あれを、津島一幸の死という形でぶつけられたら……。
「主宰をお守りすることは、生きることそのもの。そのためなら、心の扉を開いた人間は全て、命を授け出します」
粂沢博樹、八木哲雄、渋井保、北村明美……無邪気な明るい笑顔の人、人、人……無数の人が遼の手足に、ザンヤルマの剣に絡み付いて、身動きをとれなくしているような気がした。
――これが、一度は心を寄せたムーブメントの正体か!
「さあ、剣を捨てて……私どもに協力してくださいね」
「お断りよ!」
飛び出した万里絵が、津島の腕から蘭の鉢をむしり取り、榊村美津子へ投げつけた。
「駄目ーっ、美津子!」
津島の悲鳴に、守護神を使おうとしていた美津子は、鉢を受け止めざるをえなかった。
その隙に遼と万里絵が津島の手から遺産を奪おうとする。
「およしなさい!」
美津子の背中から光の翼が広がったように見えた。氷澄や裏次郎とは異なるパターンのエネルギー放出だ。
光の翼が津島一幸の体を包む。自分と津島の体を光る翼で覆いながら、美津子は津島に駆け寄った。母親が雛を守ろうとするように。守護天使――ドアの前のスタッフが口にした言葉を思い出す。
「撤退よ!」
冷えた声で万里絵が叫ぶ。目に侮しさがにじんでいる。
――僕は、無茶なことを頼み込んで、事態を悪化させただけなのか!
胸に痛みを感じながら、遼は走った。
行く手にスタッフが立ち塞がる。
「フン!」
万里絵が特殊警棒で薙ぎ払う。遼と視線が合うと、ぐるりと腕を回して、開題ないことを示した。
主宰室の分厚いドアを抜け、廊下に出る。五、六人のスタッフが待ち構えている。
腰にすがり付いてくるスタッフの首筋を、ザンヤルマの剣の柄で殴りつける。
「非常階段」
遼の肩を叩いて万里絵が言う。そうだ。やたらに走るだけなら、何のために本部ビル内部の図面を覚えたのか、わからない。
「とにかく、水緒美のところまで逃けるのよ」
本部ビル周辺の地図が脳裏に浮かぶ。水緒美が待機している地点も。
来た時に使った階段とは逆のほうへ走る。緑色の表示ランプ。鉄扉を開け、非常階段を駆け下りる。
六階、五階、四階……。
榊村美津子は、どうやって津島の危機を知ったのか。すでに建物全体に非常配備は済んでいるのか。万里絵は無事に逃げられたのか。次々に沸き上がる疑問が、後ろも見ずに走っていた遼の足を遅くする。
不意に鉄扉が開き、スタッフが飛び出してきた。両手を広けて立ち塞がる。
その顔を見て、遼の足が止まった。
「君……」
知っている顔だった。長い髪と、おとなしそうな顔立ち。一か月前に遊園地で偶然出会った、神田川の連れだった。
「誰か来てください!」
甲高い声で叫ぶと、少女は飛びかかってきた。遼を逃がすまいとして必死にしがみつく。
階段の上から、いくつもの足音が追ってくる。下を見る。同じだ。紺の制服を着た一団が駆け上がってくる。
「来て!誰か来てください」
少女は叫び続けていた。
「めぐみっ!恵、居るのか!」
太い男の声がした。少女の腕がわずかに緩む。
――ごめん!
少女の細い体を突き飛ばす。だが、すでに足音は間近に迫っている。
手摺りに足を掛け、思いっきり飛んだ。
三階から二階へ下りる途中の踊り場だ。無謀な行動だったかと思う。だが、捕らえられるわけにはいかないのだ。追っ手を傷つけることもできない。こうするしかなかった――。
地面に足にぶつかった衝撃が、遼の思考を断ち切った。勢い余って、コンクリートの地面の上を転げながら、遼は苦痛に顔をしかめた。着地のショックとは別に、左足首に電気を流されたような痛みを感じる。
本部ビルの脇、道路の上だ。足音。何かを叫ぶ声。グラグラする頭で、しなければならないことを思い出そうとする。どこかへ行かなければならない。そう、水緒美が待っているところへ。ところで万里絵はどうしたのだ? 脱出してくる気配が全くない。
『逃げる時は躊躇しないこと。たとえ、あたしを置き去りにするようなことになっても』
前に万里絵が言ったことが、頭の中でこだましている。
――駄目だ、マーちゃん、探さなくちゃ……。
立とうとする。左の足首に激痛が走った。見ると、関節ではない部分が妙な角度にねじれている。全身に冷や汗が噴き出す。
非常階段の踊り場に集まっていたスタッフが、こちらへ向かってくるようだ。
――マーちやん、どうしちゃったんだ……。
頭が空回りしているのが自分でもわかった。わかっていながら、それを正常に戻すことができない。もどかしさで気が狂いそうになる。
――働け、守護神!僕の足を立てるようにしろ!
剣を杖に、立ち上がろうとする。よろめき、再び倒れる。
紺の制服の群れが、遠巻きに、しかし確実に遼を包囲している。冷え切らない夜の空気が揺らいで見えた。
イェマドの超兵器を手にした相手とさえ、殺すための闘いができない遼である。津島にマインド・コントロールされているだけの一般人に対しては、剣は全くの無力だった。
その時、空気を裂く音がした。遼を取り囲んでいる人々の間から悲鳴が聞こえ、コンクリートの上に何かが落ちて、硬い音を立てる。
「逃げるぞ!」
熱くて汗臭い塊が遼の脇の下へ滑り込む。そして、肩を賃すというより、片方の肩に遼を中途半端に担いだような格好で走りだした。
「……か……神田川くん?」
ぎょろりとした目玉が、白っぼい街灯に光る。スタッフたちを牽制したのは、神田川が投けた石か何かだったのだろう。
「駄目だよ、戻ってよ。戻らなきや」
遼は、無傷の右足を突っ張った。神田川は立ち止まり、何も言わずに遼を背負うと、以前にも増した速さで駆け出した。
「まだ彼女があそこに居るんだ、戻ってよ」
「彼女?朝霞か?」
「降ろしてよ!」
「……たった、二人で、何が、できる、逃げなきや、このまま、ゲームセットだ……」
あえぎながらの神田川のつぶやきは、遼よりも自分自身に言い聞かせているようだった。
――ゲームセット……リターン・マッチ……。
逃げ延びれば、生き延びれば、リターン・マッチの機会もある――そうだ。今の自分には何の手だてもない。戻ることは、チャンスを自ら手放すことになる。
――マーちゃん、ごめん……。
「そこを右に入って」
「あ?」
「逃けるための段取りがしてあるんだ。僕の言うとおりに行って」
「おう」
遼の言うとおり、神田川は角を曲がり、横道に入った。
万里絵が指定していたのは、信用金庫の裏口の前だった。
もしかしたら万里絵が先に来ているかもしれないという、かすかな期待は裏切られた。
そして、待っているはずの水緒美の姿もなかった。
「ここでいいのかよ?」
「うん」
壁に寄り掛かるようにして、遼はいったん神田川の背中から降りた。改めて互いの姿を確認する。神田川は、ジーンズに黒っぼいTシャツという格好だった。家にも帰らず、夜露をどこでしのいだのか、顔に多少の疲労が見られる。
――さっき恵≠チて叫んだのは、神田川くんだった……。
踊り場で遼に掴みかかってきた少女――恵というのは彼女の名前だろう。前に神田川が連れていた少女。神田川も、大事な誰かを置いてきたのだ……。
「折れてるぜ」
しゃがんで遼の左足首を調べていた神田川が立ち上かって言った。
「矢神よ、おまえ、何やってるんだ?」
我が身を省みる。ジャケットはよれよれになり、顔にはいっもの眼鏡がない。何より抜き身の剣を片手にぶら下けている。異様な姿だ。
「――言えない」
「人に言えないようなことなのかよ」
怒っているのか、半ば揶楡するような口調で神田川が尋く。
「言えない」
「矢神――」
神田川が声の調子を変えた時、ゆったりした足音がこちらに近づいてくるのが聞こえた。
壁に張り付くようにして、建物の脇に隠れる。
そっと窺う。ほっそりとした人影が一つ、無防備な様子で歩いてくる。人影は右手を顔の高さに上げた。しなやかな指の先で、小気味よい音を立てて白い扇が開く。
「江間さん――」
人影――江間水緒美は遼を認めた。イェマドの遺産管理人は、黒っぽいパンツスーツには不似合いな和扇を畳み、建物の角を回ると、遼たちの隠れているところまで足早に来た。
「遼くんだけかい? 万里絵ちゃんは?」
そこまで言って、水緒美は細い眉を寄せた。
「おや、お連れさんかい?」
遼は、オーキス本部で起きたこと、脱出の時に万里絵とはぐれ、自分も足を傷めて捕まりそうになったところを神田川に助けられたことなどを手短に話した。
話を聞きながら、水緒美は白扇を開いたり閉じたりした。
「それで、どうするね、遼くん?遼くんと合流して一五分しても現れなかったら、先に逃けてくれって万里絵ちゃんからは言われてるんだけどねえ」
当然のことかもしれないが、万里絵は遼の脱出を第一に考えていたのだ。ならば、逃げるべきなのだろう。今の情況で万里絵を助けに戻っても、混乱を拡大するだけだ。下手をすると、万里絵の足を引っ張る結果にもなりかねない。
だが、安全圈に確実に逃けられる状態になった今、自分だけ逃げる気になれなかった。
榊村美津子が語ったことが胸に突き刺さっている。マインド・コントロールされた人間は、津島のためなら命を授け出す。それどころか、津島から遠ざけられるだけで生きる意味を見失い、自ら命を断つ――。津島のために命を捨てる万里絵など考えたくもなかった。
――だけど、そうならないって保証はない……。
今こそ津島一幸とオーキスームーブメントが許せないと思う。
「――とりあえず一五分待ちましょう。それで、ここへ来なかったら、その時は……」
「それで、そちらのお連れさんはどうするね?」
所在なげにしている神田川を見遣って、水緒美が尋いた。
「神田川くんには、僕から説明します」
水緒美はうなずいて、二人から離れた。
夏の終わり。まだ七時をそんなに過ぎていない。自動車が行き交う音や、テレビの野球中継の声が聞こえてくる。耳を澄ませば、そうした街の雑音の中にも追跡者の足音が聞こえるかもしれない。
「どうしたんだよ、矢神が説明してくれるんじやないのかよ」
沈黙に焦れた、神田川が口を開いた。
「――お母さん、心配してたよ。うちにも電話があった」
「関係ないだろ、そんなこと」
神田川が横を向く。とりあえず、やりにくい説明は先に伸ばせたが、後味は悪かった。
「――さっきは、ありがとう」
思い出したように言う。
「いいんだよ」
「よく逃げてくれた……」
「これでも情況判断は素早いんだぜ。一点差で迎えた九回のウラ、ツー・アウト、ランナー一・三塁、なんて情況で、体はゴロをさばきながら、あたりに目を配って、どこにボール投けるのか、決めてなきやならないんだからな」
補球して、どこかへ投げる一連の動作をしながら神田川が言う。
「だって……だって、恵さんて人がいたんでしょ。逃けちゃってよかったの?」
質問を口にしてから、自分の無神経さにほぞを噛む。親にさえ何も言わず、オーキス本部に張り込んでいたのだ。中で起こった混乱だけでも、神田川には迷惑この上ないだろう。
さらにオーキス・スタッフに顔をさらし、主宰を脅迫した犯人の逃亡に手を貸したのだ。
神田川が何を考えていたにしろ、それは滅茶苦茶になってしまったはずだ。後悔もしているだろうし、遼を恨む気持ちだって、ないはずがない。
「ごめん、神田川くん――」
「いいって言ってるだろ!」
遼はまたうつむいた。
「さて、そろそろ一五分だ」
水緒美が二人のところにやってきた。
「――神田川くん、これから何が起きても、驚かないでほしいんだ」
もたれていた壁から離れ、両足で立つ。
「矢神、足――」
ズボンの裾を捲り、左足首が元の状態に戻っていることを示す。
「江間さん、お願いします」
水緒美がうなずいた。三人のまわりの景色が揺らぎ、変色すると、周囲は一変した。
――ごめんね、遼。
エレベーターのゴンドラの天井裏に身を隠しながら、万里絵は胸の内でつぶやいた。
脱出の混乱時、遼を非常階段から逃がす一方で、万里絵は正面の階段へ走った。
『賊が、暴漢が逃げました!階段です!階段を降りていきました!』
自分も階段を走りながら叫ぶ。あの榊村美津子という女が動き出せば、すぐにばれるとは思ったが、オーキス・スタッフの制服を着ているメリットを利用しない手はない。万里絵は叫びながら、存在しない暴漢を追って走った。
だが、それも三階までだった。別の女性の叫びに、スタッフが非常階段に誘導されたからである。
逃けた暴漢を追うふりをして、万里絵も非常階段に回った。見えたのは、体格のいい人影が、遼を担いで走りだす光景だった。
――……神田川明?
遼が緊急の行動に移ったきっかけは、神田川明の行方不明だった。彼がオーキス本部の近くに居ても不思議ではない。だが――。
『来場の皆さんは、レインボー・ホールヘお戻りください。スタッフは所定の位置へ戻ってくださいー』
アナウンスが響く。どうやら、万里絵がトイレに引きずり込んで入れ代わったスタッフを発見されてしまったようだ。点呼を始めている。ホールの来場者もチェックされるだろうから、遼の身元は完全に割れたと思っていい。
――これまでか。
非常ドアが閉められ、何が起きたのかとホールから出てきた一般参加者をスタッフが誘導する。行動するなら、この混乱が治まり切らないうちだ。
いかにも任務で動いているスタッフらしく、きびきびとした足取りで階段を降り、玄関へ行く。だが、正面のドアも閉ざされ、その前をスタッフ数人が固めている。
頭の中で、この建物の図面を繰る。
きびすを返し、ロッカー室へ行く。誰もいない。室内を物色し、手頃な大きさのトレーニングウェアを見つけると、脇に抱えて、ロッカーを踏み台に通気ロヘ入った。
とりあえず、榊村美津子の攻撃を受けた肩を調べる。まだしびれは残っているものの、行動に支障はないようだ。主宰室を出る時こそ多少のもみ合いになったが、ナイフを始めとするツールは無事だ。手早く着替える。タイトスカートのツーピースでは、狭い通気□
を伝って活動するのに不便だ。それに、スタッフにはもうしばらく、制服を着てスタッフに化けた女≠追いかけていてもらいたい。
まずはフロアの隅、エレベーターのところに行く。大型のゴンドラは、途中の階には停まらず、屋上直通となっている。おそらく温室の蘭の手入れをするための業者専用のものだろう。誰もいないのを見澄まして、いったん床に降り、エレベーターのドアを開け、中に入ると、すぐに閉める。点検口を開け、天井裏に出る。ぼっかり開いた空間に、太いワイヤーが垂直に張られている。飛び付き、上に登りはじめる。心配された肩から腕の筋肉も、問題なく働いている。途中気づかれることもなく、どうにか屋上にたどり着いた。
『神様、もう二度と高いところには登りません、てね』
広い屋上に人の姿はない。近づくのがためらわれるようなガラスの部屋と、その向こうには場違いな感じの白いパラボラアンテナ付きのコンクリートの小屋。中は無人で、衛星通信による中継用の自動設備が一式揃っていた。
蘭の温室の見事さに、一瞬目を奪われるが、すぐに、今度は主宰室に通じている津島専用のエレベーターのドアをこじ開け、ワイヤーを伝って降りた。
危険を冒して主宰室に戻ったのには理由がある。もちろん、オーキスの連中が捜索の手を緩めるまでの潜伏場所として、盲点となるこの部屋はもってこいだというのもその一つだが、もう一つ、津島一幸と榊村美津子の関係を調べたいということがあった。さっき見た限りでは、津島一幸は、何千、何万の人間を自分の支配下に置きたいと考えるタイプではない。津島の護衛からイベントの進行に至るまで、実務的な一切を美津子が仕切っているのは確かのようだ。だが、彼女も支配欲の権化かどうか。万里絵の疑惑を深めたのは、主宰室に仕掛けられた監視装置だった。オーキス・ムーブメントの中心人物である津島の身辺を警護し、遺産を守るという目的から、防犯装置があるのは納得できる。だが、装置はいかにも多すぎた。自分たちの目に触れない重大な何かがあるのではないか。
――ごめんね、遼。
結果として、遼を囮に情報収集をするようなことになってしまった。それに、遼のことだ。万里絵が脱出してこないうちは、容易にこの場から離れようとしないだろう。
再潜人したもう一つの理由。それは、自分があまり役に立っていないという自覚があったことだ。今回の遺産の能力の性質からすれば仕方のないことかもしれないが、自由に行動できる遼に比べて、今一つ効果的な行動がとれなかったのではないかという焦りがある。
明確なものではなく、漠然としたものにすぎないが。
ゴンドラの天井裏に降り立ち、耳を澄ます。男と女の声――津島一幸と榊村美津子だ。
休憩室に居るのだろう。エレベーターのゴンドラを挟んで、何メートルも離れていないところに。
――遼だったら、突っ込んでいるかもね。
津島や美津子を倒すと決めたら、たとえ刺し違えてでも実行に移すだろう。万里絵にはそういう発想はない。生き延びなければ、勝利とはいえない。相打ちでは意味がない――。
それが万里絵の強さでもあり、限界でもあった。だから遼の無謀さを恐れる一方で、勝てないと思ってもいるのだ。自分に越えられないものを、気弱な猫背の少年は、時に軽々と越えてしまう。
足元の点検口の蓋を開く。会話の内容が、より明瞭に聞こえてきた。
「――今回は特別に、最初から主宰にご登壇いただきます。この情況では、ゲストのスピーチやゲームで下地を作るのは難しいので」
「あいつらはどうしたの?」
片割れはここに居るよ――。遼についての情報が得られるかと、万里絵はいっそう耳を澄ませた。
「最低限必要なスタッフ以外には、捜常に当たらせています」
「まだ捕まってないの?」
いらだちと脅えを声ににじませる津島とは反対に、万里絵は一応胸を撫で下ろした。
「どうするの、あんな奴等を放っておいたら、オーキス・ムーブメントは、津島は、滅茶滅茶にされちゃうじゃないか。昇陽祭までに何とかしてよ。わかってるの、美津子?」
――昇陽祭……何のことだろう……。
それにしても、たまたま遺産のコントロールができる以外、何の役にも立たないくせに、偉そうな口をきいちゃって――。自分たちを攻撃してきた榊村美津子より、むしろ津島一幸のほうに反感を覚える。
「大丈夫です。主宰は、私がお守りします」
「――昇陽祭を成功させるんだ……世界の一〇パーセントをムーブメントの参加者にするんだ……」
「ええ、ええ、成功しますよ、必ず。主宰の大望は絶対に成就します」
「……僕は、お父様のようにはならないよ!」
その後しばらく、何も聞こえてこなかった。
「さあ、参りましょう。みんなが主宰をお待ちしているんですから」
美津子に促されて、津島は部屋を出たようだ。
――お父様のようにはならないよ……どういう意味?
津島一幸の父親、津島一光は死んでいる。
誰も居ない間に、万里絵は主宰室の天井裏を調べた。通常の防犯カメラは、警備室でモニターされている。だが、それとは別の系統のカメラがあった。屋上へ繋がっている――。
――パラボラアンテナ!
どこか離れた場所でモニターしている人間がいるのだ。
さらに、超小型の盗聴器も見つかった。
――これ……。
前に万里絵の家に仕掛けられたのと同じ種類のものた。
――潜在能力開発機関も目をつけていたのね。
だが、その諜報機関も、氷澄の手によって壊滅している。
――こうなったら、丈太郎にも出てもらわなくちゃね。よおし――。
内容は多少変更されているが、今はウェルカム・イベントの真っ最中だ。イベント運営に人手をとられ、捜索のためのスタッフは少ないはずだ。
万里絵は脱出の算段に取り掛かった。
「どういうことだ、矢神」
信じられない経験――オーキス本部から見知らぬ一室への瞬間移動を目のあたりにして、
神田川は大声を出していた。
「説明できないんだよ」
声がひび割れているのが自分でもわかる。
「できるなら、神田川くんの記憶を、そこだけ削り取ってしまいたいくらいだ」
ぎょろりとした神田川の目が遼を見る。
「助けてもらって、何にも説明しないで、神田川くんの邪魔までして、こんなこと言えないのはわかってるよ。でも、こう言うしかないんだ。黙って僕を信じて」
「――妹はどうなるんだ」
「妹さん?」
「恵は俺の妹だ」
遼は下を向いた。
「――僕を信じてくれ……」
*
五人、殺した。いや、この言い方は正確ではない。氷澄に彼等を殺す意図はなかったからだ。五人死なせた、と言うべきだろう。
二日前の夜だった。あれだけの挑発をしたのだ、無事に終わらないことは覚悟していた。
だが、オーキス・ムーブメントが選んだ方法は氷澄の予想を越えていた。
その日の深夜、氷澄は電話のベルに起こされた。国坂敦授だった。家の前の公衆電話からかけているという。罠であることは承知のうえで、氷澄は呼び出しに応じた。
国坂は、丸めた新聞紙を片手に待っていた。氷澄の姿を認めると、新聞紙を開き、中から包丁を取り出した。ここへ来る途中、金物屋で買い求めたのだろう。真新しいステンレスの刃が光った。
『私を殺しますか、国坂先生』
国坂は無言だった。両手で包丁を握ったまま、震えていた。
『心の扉を開いた人間には、開かない人間が邪魔、ということですか』
国坂は答えない。
『それとも、津島一幸の命令ですか』
『これは、僕が勝手にしていることだ、津島先生は関係ない!』
自分の孫に近いような年齢の男を先生≠ニ呼んだことに、多少の驚きを覚える。
包丁を胸の高さで構え、老教授は突っ込んできた。氷澄は難なく身をかわした。
『心の扉とやらを開くと、随分と狭量になるものですね、先生?』
「津島先生が正しい、津島先生が正しいんだ!」
振り回されるステンレスの刃をくぐり、背後に回り込むと、細い腕に手刀を叩き込む。
包丁は呆気なく国坂の手を離れ、地面を滑った。
押さえ込みはしたものの、氷澄は国坂の処分に困った。まさか、殺すわけにもいかない。
国坂は震えていた。
『先生……津島先生、僕を見捨てないでください……先生……』
不意にエンジン音が嗇いた。
『逃げるんだ、国坂教授!・』
迫る車体が明らかに自分めがけて突っ込んでくるのを悟ると、氷澄は国坂の腕を握んで避けようとした。
遅かった。国坂は反射的に抵抗し、次の瞬間には、赤い新型車が老人の体を宙に跳ね上けていた。
――私一人をひき殺すだけなら、四人も乗り込む必要はあるまいに、仲の良いことだな。
身をかわしながら、氷澄はそれだけ見て取った。
方向を変え、車は再び氷澄に狙いをつけた。
上着の下に手を伸ばし、懐中時計を掴む。守護神≠ヘ、氷澄の体を重力から解放した。
四人を乗せた車は標的を失い、横道から出てきたもう一台の車に衝突、炎上した。
――馬鹿が……!
もう家には戻れない。まぎれもない怒りを胸に、氷澄はその場を離れた。
翌日、オーキス・ムーブメントと津島一幸についての資料を漁った。潜在能力開発機関のファイルを持ち出せたのは幸いだった。
そして、一夜明けた今日、早朝から氷澄は、ある高校の屋上に立ち、オーキス・ムーブメントの本部ビルを見ている。
昨夜、何かがあったらしい。スタッフとわかる人間が、建物の周囲に配置されている。
――狙えるか?
本部ビルまで、かなりの距離がある。存在と非存在の落差からエネルギーを取り出すジエネレーターである守護神は、実質的には永久機関とかわりない。だが、エネルギーを供給できる時間は無制限でも、一時に発生させられるエネルギー量には限りがある。
――ぎりぎりか。せめて温室に出てくればな。
「氷澄さん」
振り向く。地味なベージュのスーツを着た榊村美津子が立っていた。
「やはり氷澄さんでしたね。サングラスなんかかけていたので、人違いかとも思ったのですけど」
話しながら美津子はフェンス際まで行き、ごく自然に、氷澄から本部ビルを隠すような位置に回った。
「お似合いですよ。サングラスをかけたほうが、やさしそうに見えるみたい。氷澄さん、怖い目付きをしてらっしゃるから―」
「何故、殺さなかった?」
美津子の接近を感知しえなかったおのれのセンスに怒りを覚えながら尋く。
「隙だらけの状態だった。おまえの守護神を使えば、殺すのは簡単だったはずだ」
「私、待っていると申し上げたはずです。氷澄さんがオーキス・ムーブメントの一員になってくださるのを待つと、そう申し上けたはずです」
「刺客を差し向けた者の言うことか」
「せざるをえなかったのですよ、せざるを」
美津子は顔を伏せ、そのまま氷澄に背中を向けた。殺せと、それで気が済むなら殺せと、無言で呼びかけるように。
「――氷澄さんのいちばん古い記憶って、どんなことですか」
ベージュのスーツの背中から声がする。
「私が覚えているいちばん古い記憶――馬に乗ったお侍が駆けていくんです、土手の上を。髪を振り乱して、狂ったように。私は、土手の下の草むらに埋もれるようにして、見てました。御一新の頃です。一〇歳くらいだったでしょうか。さかき村のおみつ、百姓の娘、それが私です」
美津子は氷澄のほうへ向き直った。
「裏次郎さんから遺産をいただいたのもその頃です。もうかれこれ一〇〇年以上経ってしまったんですね。――氷澄さんは?」
「私はおまえたちとは違う」
「もっと高貴な加生まれですか」
「私は、今世の人間のような、血続に対する幻想は持っていない」
美津子の穏やかな表情に、一瞬、暗い影が指すのを氷澄は見逃さなかった。
「――悪くなるばかりです」
気を取り直したのか、美津子は再び語りはじめた。
「御一新以来、今に至るまで、この国は、人間は、悪くなるばかりです。だから決めました。完全な支配者による独裁、それだけが世界を救うのです」
「あの花咲か坊や≠ェ完全な支配者か?」
声にありったけの嘲りを込める。
「今までのどんな支記者も持っていなかった、支配のための完全な手段を持っています。それで充分です。世界の支配が完全なら、陣営を分けての争いはなくなるのですから」
「完全な手段ではないはずだ。私やおまえがいる」
「ですから、お願いしているのです。仲間になってください。そうすれば、氷澄さんを狙うこともしないで済みます」
「おまえは裏次郎の尻尾だな」
氷澄の言葉をどう理解したのか、美津子はフェンスから離れ、出口へ向かった。
「待て」
鉄扉の前で立ち止まる。黒い眼差しが氷澄を見る。
「この間は、もうお互いを名前で呼び合うこともあるまいと言った――」
「覚えています。悲しかった――」
「あの時は、次に会う時には決着をつけることになるだろうと思っていたからな。――取り消すよ」
「はい」
サングラスを外す。青みがかった瞳の凝視を、美津子の黒い目が受け止める。
「それでは、また。――そうそう、優秀な生徒さんにもよろしく」
一礼すると、美津子は階段を下っていった。
「ひょっとして、バレてたのかな」
明るいメゾ・ソプラノが響く。屋上に突き出した出入り口の、さらに上にある貯水タンクの脇から、セーラー服の万里絵が現れた。
「――何かやらかしたな、昨夜」
「うまいこと逃げられなくてね、隠れてたのよ。ところで、榊村美津子さんとは、どういうお知り合い?」
「どこまで知っている、オーキス・ムーブメントのこと」
「遺産がらみってことの他に?」
「ヤガミはどうした」
腕を組んで考える格好をしていた万里絵だが、結局、面倒臭そうに言った。
「とにかく、水緒美のところへ行きましょう。全てはそれからよ」
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第三章 剣よ、楽園を斬れ!
夢を見ていた。ザンヤルマの剣を手にした少年の夢を。
強い風に吹きなぶられれば、それだけで切れてしまいそうな細い髪は、日の光に透けるほど薄い茶色。目は黒々とし、そして潤んでいた。貫頭衣のような白い服をまとい、右手に剣をぶら下げ、遠くを見ていた。遠くを、悲しそうな目をして。
――あなたはザンヤルマの剣士≠ネんですか。
少年は答えない。問いが聞こえた様子もない。
――教えてください。世界を滅ぼせるような巨大な力を手にして、あなたは平気だったのですか?あなたはザンヤルマの剣を、何のために使ったのですか?
ようやく振り向いた顔は、しかし、少年のものではなかった。
――マーちゃん?
『私は主宰とご一緒します』
万里絵は、顔と同様、無表情な声で遼を見ずに言った。
『主宰こそが私の幸せ、生きる喜び、生きる意味、生きることそのものですから』
万里絵は手にしたザンヤルマの剣を首筋に当てた。
――やめろ……やめろ……やめろ!
『遼……さようなら、遼……』
剣を掴んだ手に力を込め、切り下げる。
遼は万里絵に飛び掛かった。
「あっ、痛っ!」
ぼんやりした遼の視界に万里絵がいた。頬っぺたを押さえ、顔をしかめている。
「何であたしがぶたれなくちゃいけないのよ」
万里絵だった。夢ではない、ほんものの万里絵。昨日、オーキス本部からの脱出の際に別れてから、何の連絡もなかった。万里絵なら大丈夫だと信じながらも、もう二度と会えないのではないかと、どこかで心配していた、その万里絵が――。
自分を起こしにきた万里絵を、寝ぼけて殴ってしまったことを謝るのも忘れて、遼は涙をこぼしていた。
「ちょっとぉ、殴ったほうが泣かないでよね」
怒ったような声で言い、横を向くと、万里絵は小さな声で付け加えた。
「――遼、ごめん」
遼や万里絵の住む日比城市からJRで三時間ほど離れた市の雑居ビルにも、骨董屋「冬扇堂」は店を構えていた。昨日の夜、転送装置によってオーキス本部から脱出した遼たち三人だったが、移動した先は、橘マンション近くの「冬扇堂」ではなく、こちらの店だった。遼の素性が相手に割れている以上、万一を考えてのことだ。
今日になって、はぐれていた万里絵、連絡のなかった氷澄が現れ、裏次郎およびイェマドの遺産が起こす事件に対処するメンバーが顔を揃えたわけである。――一名の部外者がいたが。
店の奥の住居として使っている部屋に、遼たち四人は情報交換と対策会議のために集まった。部屋は、日比城市の冬扇堂よりは若干手狭だ。その分、家具などは新しく、それなりに洒落た感じのものが並んでいる、四人が話している間、神田川明は「本日休業」の札の下がった店のほうで待たせてあった。
「まったく、どうしちまったんだい、男どもは」
一同を見回して水緒美が言った。
椅子に座った遼は、膝の間に頭を埋め込まんばかりに背中を丸めて床を見ている。氷澄は氷澄で立ったまま、サングラスも外さずに、あらぬ方を見ている。いらだちを押さえかねているのが傍からでもわかった。
わずかな時間に膨大な量の調査をこなそうと駆けずり回った水緒美にしてみれば、やる気のない男どもを怒嗚りつけたくなるのも無理はないだろう。
「始めちゃえばいいのよ。興味のある話になれば、遼は顔を上げるし、人の話に口を挟まないでいるなんて、丈太郎にはできっこないんだから」
事もなげに言う万里絵に、一瞬呆れたような視線を送った水緒美だったが、気を取り直して報告に取り掛かった。
「まず、マインド・コントロールに使われている遺産だけれど、これは、動物を手なずける装置だね。ペット化装置≠ニでも言ったらいいのかね」
「それが、どうして人間にも効果があるのよ」
「今の人間は、これを持っていないからさ」
水緒美は白扇――自分の守護神≠取り出して、指先でひらひらさせた。
「コントロール・ウェーブは守護神で完全に防げる。だから、ペット化装置の設計に、人間への影響やら安全性やらへの配慮はないのさ」
「守護神を持っている人間に対しては無効な道具を作るわけがないから、変だと思っていたんだけど、考え方が逆だったのね。現代の人間が守護神を持っていないから、もともとは想定されていなかった使い方ができる――」
「人間の大脳は、生物のなかではずば抜けて大きい。そのためだろうな、コントロール・ウェーブが一人の脳に影響を与えると、共嗚現象のように、影響を受けた脳がまた微弱ながらコントロール・ウェーブを発する。最初は一対一で始めただろうマインド・コントロールも、ある段階を迎えれば、組織化され、拡大の効率が上がる。しかも、犬や猿はお互いに心理学の技術を使ったりしないだろうが、人間は使う。暗示。動機づけ。本来的には、持ち主に対する単純な好意を植え付けるだけだった遺産が、今や絶対的な支配者を産むために使われている」
ほらね、言ったとおりでしょ――氷澄の説明を聞きながら、万里絵は水緒美にウィンクした。
「しかし、そんなことは重要ではない。これ以上騒ぎが大きくならないうちに、遺産を潰すことだ」
「待ってください」
遼が顔を上げた。
「遺産を破壊する前に、コントロールされている人を元に戻さなくちゃならないんです」
「どういうことだい?」
氷澄に代わって水緒美が尋く。
遼は、榊村美津子が語ったことを説明した。
「殉死というわけか。マインド・コントロールに自分を委ねるような忌引な人間が死んだところで、それがいったい何だというんだ」
「本来関係のない人間が犠牲になっていいわけないでしょう!」
「自分の弱さ、愚かさの責任をとる。当然のことだろう」
「彼等に責任をとらせる権利が、あなたにあるんですか、氷澄さん」
「――もう一つの障害は、榊村美津子よね」
にらみ合う二人の緊張を解こうとしてか、万里絵は別の障害のことを口にした。
「守護神を相続させるとはねえ……あの男も、何を考えていることやら」
水緒美の間延びした声に、ため息が混じる。
「彼女がいる限り、手出しできないわ。遺産にも、津島一幸にも、ね」
「榊村美津子は私が倒す」
三人分の視線が氷澄の背中に集まる。
「――だって、相手は守護神を持っているのよ。どうやって倒すっもり?」
「守護神を持っているということなら、裏次郎も同じだ。私はいずれ裏次郎を殺す。榊村美津子も同じようにすればいい。手だてはある」
三人が何か言うより早く、氷澄は部屋を出た。
「――それで、何を調べろって?」
「津島一幸と榊村美津子の親類縁者、特に津島の父親。それから昇陽祭≠チて何なのか。あたしたちへの追及がどの程度の状態かも知りたいけど、そこまで言ったら贅沢よね?」
「わかったよ。とりあえず、ここで待っといで」
黒いワンピースに、地味にまとめた髪形の水緒美は、日比城市の「冬扇堂」の転送装置を呼び出して、移動した。
残された万里絵が見ると、遼はまた背中を丸めていた。
万里絵が何か言いかけた時、店に通じるドアが開いて、神田川明が顔を出した。
「会議、終わったのか」
「まあ、自然散会ってところね」
「ちょっと、電話どこだか知らないか?矢神の台詞じゃないけど、一応、お袋に無事だってことだけでも言っとこうと思ってさ」
「やめたほうがいいわ」
「どうしてだよ」
いささか冷たい万里絵の言い方に、神田川がむっとする。
「昨夜、オーキス・ムーブメント本部に侵入した犯人を逃がしたのが誰なのか、向こうはとっくに掴んでるでしょうね。家のほうにも張り込んでいる人間がいるかもしれない。お母さんの声を聞いても、冷静でいられる?」
「馬鹿にすんなよ。だいたい、どうして俺のことがバレてるんだよ?」
「神田川くんが本部を見張る原因になった人がいるでしょ?」
「恵はそんな人間じゃねえよ!」
「オーキス・ムーブメントには、個人の人間性なんて関係ないのよ」
大きな音を立ててドアを閉め、神田川は出ていった。
「嫌われちゃったな」
遼は顔を上げた。万里絵は椅子の上で膝を抱えている。水緒美から借りたのか、白いブラウスにぴっちりとした黒いスラックス。顔もノーメイクの素顔に戻り、いつもの万里絵らしい格好になっていた。変装して敵の内部に潜入し、ナイフを突き付けて人を脅迫するような人間には見えない。好奇心旺盛で、ちょっと出しゃばりな、普通の女の子に見えた。
不意に万里絵が遼のほうを向く。視線が合ったとたん、悪戯を見とがめられた子どものように、遼は目を伏せた。
「遼、悪いんだけど、神田川くんに、あたしが謝ってたって、言ってくれない?」
「僕が?」
万里絵はかすかにほほ笑んで、うなずいた。
――ずるいよな、マーちゃんは……。
しぶしぶ腰を上けた遼だったが、何をどう言っていいものか、名案は浮かばなかった。
明かりの点いていない店に出る。商店街のなかの雑居ビルという立地に配慮したものか、橘マンションそばの店に比べると、店内に並べられた品物はある程度統一がとれているようだった。若い女性がお客の中心なのだろう。古いランプや宝石箱、木彫りの人形やタペストリーなど、アンティーク・ショップと呼ぶにふさわしい品揃えだ。店の看板にも「冬扇堂」をもじって「Winterfan」というロゴが描かれている。
神田川は、店の隅に立っていた。時計やオルゴールの並べられた一画だ。神田川の大きな手――それこそグローブのような手か、宝石箱の蓋を開ける。小さな金属の響きが続き、一つのメロディを形作る。落ち着いたデザインの宝石箱とはちょっと不釣り合いな「レット・イット・ビー」。遼は、電話のお待たせオルゴール≠連想した。
パタンと音を立てて蓋が閉まり、メロディが途切れる。振り向いた神田川のぎょろりとした目が遼を見る。
「あの……彼女が、ごめんって……」
聞こえたのか、聞こえなかったのか、神田川は何も言わない。沈黙が重かった。
「なあ、矢神……俺って、野球ができることを鼻にかけた、しょうもない奴なんだろか」
「そんなことないと思うよ」
遼の言葉をそれほど真剣に聞いてはいなかったのか、神田川はまた、商品を並べた台のほうへ向き直った。再び「レット・イット・ビー」が流れ出す。
―― 何で急にそんなことを尋くの?」
別のオルゴールが鳴りはじめる。「エリーゼのために」。また別のオルゴールが鳴る。
「トロイメライ」。さらに別のメロディがかぶさる。「ローレライ」。小箱の上でバレリーナが踊る。「白鳥の湖」。水車小屋の水車が回る。「禁じられた遊び」……。
「俺んとこは三人兄妹なんだけどな――」
ごちゃ混ぜになったメロディは、澄んだ金属の響きを持ったせせらぎのようだった。
「兄貴は優秀だった。成績も良かったし、陸上部のホープだった。今は、まあエリート・コースの端っこくらいに居るよ。だけど、俺は取り柄なんて無くってさ、まあ、野球だけは好きだったし、そんなに下手でもなかったから、勉強そっちのけで朝から晩まで野球、野球でさ、気がついたら、それで高校に入ってた」
神田川が何を言いたいのか、遼にはわからなかった。だが、黙っていた。人の話は最後まで聞いてあげなければならない――。
「恵とは、うまくいってたんだぜ。兄貴より俺のほうが、恵とは伸が良かった」
妹と遊園地へ行く――高校二年の男子にとっては、かなり恥ずかしい行為だろう。だか神田川は、照れながらも実行したのだ。
「うちの近所の商店会長が大の野球好きでさ、今月の始めにちょっとした野球大会を開いてさ、言われて俺も出たんだけど恵との約束、すっぽかすことになっちゃってさ」
それで彼女が怒ったのか? それだけなら、よくある話ではないのか。もっとも、兄弟のいない遼には、想像するしかないのだが。
「喧嘩になって、親父やお袋が宥めてくれたんだけど、恵がなおさら怒っちゃって、いつもいつも、みんな俺の味方ばかりして、どうせ、自分は出来が悪いなんて言い出して――。
何か、堪えていたものとか、我慢していたものが一遍に噴き出した感じだった」
「――その頃なの、妹さんがオーキス・ムーブメントに参加したのは?」
「たぶんな。変だって気がついたのが、お盆の頃で、最初は変な新興宗教にでも引っ掛かったのかと思った。そっちのほうの本も調べたりした」
バレリーナが踊りを止めた。ミニチュアの水車も回転を停める。一つ、また一つとオルゴールは動きを停め、しだいにメロディの聞き分けがっくようになってくる。
「――遊園地に連れてったの、あいつの誕生日だったんだ。今度はガールフレンド誘いなさい、なんて言いながら、けっこう楽しそうだった。俺が読んだ本の中に、家族との楽しかったこととか思い出させるのが正常に戻すために有効だって書いてあったから、誘ったんだ。矢神たちと一緒なら、あんまり唐突な行動もとらないだろうと思って」
「あ……エジプト文明展の時?」
神田川はうなずいた。
「デパートをあちこち覗いてみるのもいい、映画でもでディスコでも。夕方には遊園地に行って、観覧車に乗るつもりだった。だけど、恵は朝早く家を出た。それっきりだ」
鳴っているオルゴールは再び一つだけになった。レット・イット・ビー。
「俺や親父やお袋は、いつの間にが恵を追い詰めてたんだ。そうじゃなきや今頃は――」
「それは違う」
遼は神田川のほうへ一歩踏み出していた。
「オーキス・ムーブメントは、すごく汚い手でマインド・コントロールの犠牲者を探している。不幸な人間だろうが、幸福の絶頂にある人間だろうが、ポイントさえ突けば、簡単にコントロールされてしまうんだ。意外な有名人まで、ムーブメントに協力している。神田川くんの家族に何か問題があるのかどうか、僕にはわからない。だけど、そのことと、恵さんがコントロールされていることとは全く別問題だ。奴等のやったことは、恵さんの不幸を解決するどころか、拡大しただけじゃないか」
「矢神――」
「前に言ったとおり、僕もムーブメントに勧誘された。人づきあいができない、友だちが少ないって自覚を利用された。一度はオーキスの一員になって、勧誘までやった。だから、はっきり言える。神田川くんはオーキス・ムーブメントを憎むべきだ。何も引け目を感じる必要はない」
店内には、いつの間にか静けさが戻っていた。
「――矢神が正常に戻ったってことは、恵も元に戻れるんだな?」
「安請け合いはしない。でも、可能性はあると思う」
「俺は何をしたらいい?」
「待っていてほしい。それだけしか言えない。――ごめん」
――やはり、津島一幸ともう一度対決しなければならないか……。
神田川を店に残し、奥の部屋へ戻りながら遼は考えた。
――津島は殺せない。じゃあ、遺産だけを破壊したら、どうなるんだろう……。
崇拝の対象としての津島は残る。だが、オーキス・ムーブメントの犠牲者を増やすことは止められる。では、現在ムーブメントに参加している人々は?
あれだけ熱心に勧誘活動をするのは、ウェルカム・イベントで津島に会えるからだ。だがそれは、ただ津島の姿を見、声を聞きさえすればよかったのか。それとも、遺産のコントロール・ウェーフを浴びることが目的だったのか――。
――やはり、津島ともう一度対決だ。そして、コントロールを解除させるんだ。
解除はできない、と津島は言っていた。あれは単純な拒否を意味するのか。あるいは、原理的に不可能ということなのだろうか。
遼が部屋に戻ってくると、万里絵がニッコリと笑った。
「――遼に話を聞いてもらって、彼もだいぶ気が楽になったんじゃない?」
――……だったら、最初からそう言ってよ!
まんまと乗せられたという不愉快な気分と、仕方がないという納得が相半ばする、複雑な気分になる。神田川の話を聞きに行けとはっきり言われていたら、自分は尻込みしていただろう。
気持ちを整理できないまま、万里絵からいちばん離れた椅子に遼は腰を下ろした。
「ところで、気になってたんだけど、彼にはイェマドのことを話したの?」
遼は首を横に振った。
「それで、彼は納得してるわけ?」
「何も尋かれなかった。納得じゃなくて、我慢してるのかもしれないけど……」
遼にとっては、それも悩みの種だった。事件が解決しても、こちらの問題はそう簡単にけりがつきそうにない。事件か解決した後、神田川と、どうつきあっていけばいいのだろう。粂沢や渋井たちとは、二度と顔を合わせられないのではないか。
万里絵のほうを見る。
「何?」
「別に……」
神田川だけではない。遺は、半月ほど前の出来事を思い出していた。お盆休みに合わせたのか、アメリカ支社勤務の父と母が帰国した時のことだ。イェマドの遺産をめぐる暗闘に身を投じて以来、遼は両親に会っていない。一〇日か二週間に一度くらいかかってくる国際電話に対して、簡単な近況報告をするだけだった。どんな顔をして両親に会えばいいのか。
しかし、実際に二人が帰国して、夕げの食卓を囲むと、遼は自然に受け答えをしていた。ただし、事件の進行中に、学校でクラスメイトや担任などと話す場合と同じように、だが。その晩は、万里絵も同じ食卓に居た。万里絵の両親は、帰国寸前に業務上の交渉がこじれて未だに戻れずにいる。予定外の一人暮らしを強いられている彼女を慮って、タ食に招待したのだ。緊張していたためか、父の冗談に遼は間の抜けた返事をしてしまい、みんながどっと笑った。
『やだ、遼ちゃんたら』
万里絵が笑いながら口にしたこの言葉に、遼は胸を突かれたのだ。無邪気な幼なじみ兼いとこ――。遼ちゃん≠ニいうのは、そういう役どころにふさわしい呼び方だった。そう、この一家団欒も、親に心配をかけまいとしての演技にすぎないのだ。
「――どうしたの?」
覗き込むようにして万里絵が見てしる。
「今までで、いちばん難しい事件だなって……」
別のことを口にする。
「そうね。今回の遺産は、あらゆるものを切り刻める剣でもない。埋もれている才能を発掘する装置でもない。ただ、動物を手なずけることしかできないのに、敵は手強いし、やっていることはいちばんひどいことかもしれない」
「組織的にやっているから?」
「って言うより、社会に入り込んでいるからじゃないかな。今までの事件は、学生の個人的な欲望が引き起こしたこととか、学校っていう、ある種の閉鎖社会の中で起きたことでしょ。ほんとうは、むしろ、こういうタイプの事件のほうが多いのかも」
気が重い。自分たちがやろうとしていることは、海の水を飲み干そうとするのに等しい、
無謀な行為なのだろうか。
「――それでも、津島にコントロールを解かせなくちゃ」
「そのためには、津島を守っている人間を排除すること。それから、津島にあれをやらせている人間を排除すること」
「津島は自分の意志でやっているんじゃないの?」
「津島が言ってた、コントロールの解除なんてできないって、誰かに強制されているって意味じゃないのかな?」
思い出してみる。確かに、津島は他人を支配することに喜びを感じるタイブには見えない。いや、外見だけでは人間はわからないというのは、遼もつくづく思い知らされていることだが。だとすれば、誰が津島を操っているのだろう。榊村美津子だろうか。
「――で、本気で津島を許せないと思う?」
ちょっと皮肉っぽい目をして万里絵が尋ねる。
「うん」
「神田川くんの妹さんのことがなくても?」
遼は黙ってうなずいた。
水緒美は意外に早く戻ってきた。氷澄を連れて。
「どうやら、ゆっくり作戦を練っている暇はないようだねえ」
そう言って水緒美はテーブルの上に新聞を置いた「中央県民新報」――日比城市のある県の地方新聞だ。
「これが何か?」
「これだよ」
中央のベージを開く。一面全部が広告になっていた。
「ほんとうの心の交流を取り戻そう、集まれドーム球場へ――『昇降祭』?」
「オーキス・ムーブメントが初めておおっぴらに、なおかつ大規腰に仕掛けるイベントだ。
津島一幸のバースデイ・イベントということだがな、実態は万単位の人間を動員したウェルカム・イベントだろう」
紙面の中央にはドーム球場の外観イラストがあり、主宰の津島の顔写真は、それほど大きな扱しではない。だが、イベント・プロデュース小竹信吾、ミュージック・ディレクター大高勇二など、著名人がスタッフとして名前を逓ねているところに、オーキス・ムーブ
メントがこのイベントに賭ける意気込みが感じられた。
「ゲストが――青年会議所の代表、与党の県本部長、文部大臣、通産大臣まで来るの?」
「オーキス・ムーブメントの出資者というか黒幕は、ツシマ・ネットワーク販売という訪間販売会社だ。洗剤や化粧品や浄水器の販売で大きくなった会社で、心理学を応用したトレーニングや自己実現セミナーも手掛けている」
「それから、これだね」
水緒美がページをめくった。「今こそ心の交流を」という題名の社説があり、津島とオーキス・ムーブメントを極めて好意的に紹介していた。
「そして、こっちのページ、と」
昇陽祭の広告の隣から延々三ページにわたって、津島一幸と井本館夫、伊吹美咲子の座談会が収録されている。司会を務めるのは、中央県民訴報礼の社主だった。
「この新聞社は、オーキス・ムトフメントに乗っ取られたと見て、問違いないようだね」
水緒美の言葉が重くのしかかる。
「この社主って人も、蘭の愛好家よ。津島のことを調べた時、雑誌で見かけたわ」
遼や万里絵の懸命な努力をあざ笑うように、いや、全く気にもとめていないょうに、オーキス・ムーブメントは拡大を続け、今や新たな段階に達しようとしている。
「何とか止められないんですか、このイベント」
「ツシマ・ネットワーク販売は、多額の政治献金を欠かしたことがない。最初は、訪問販売に対する規制を緩和することが狙いだったがな。今は、オーキス・ムーブメントヘのお目こぼしが狙いだ。アカに敏感、クロに鈍感な警察が、保守党代議士に多額の政治献金をしている団体のイベントにうるさいことを言うか?」「そんな馬鹿な話があるの? オーキスを野放しにすれば、日本は乗っ取られるのよ。仮にも与党の代議士が黙って見過ごすなんて――」
「黙って見過ごすだけで、資金と人員の両面から選挙協力が得られるんだ。目先の利益と自己保身を第一に考える人間でなければ、今の政治の世界ではやっていけんよ」
「そんな……」
「さらに言えば、マスコミは相互批判を暗黙のタブーにしている。地方紙とはいえ、新聞社を押さえたのは策としては上等だな。この新聞の系列のラジオ、テレビも、オーキス関係のニュースを好意的に取り上げるし、他のマスコミは、うさん臭いと思っても、批判はしないだろうな」
氷澄の冷ややかな言葉が、水緒美のむしろ淡々とした言葉が、一つ吐かれるたびに、オーキス・ムーブメントは巨大なものになり、遼との間に障害が増えていくような気がした。
万里絵の言葉でさえ、津島がいかに強大で、遼には手の届かない存在であるかを強調する役にしか立っていないようだ。
「――それで、津島と植村の親類関係は?」
「榊村美津子については、全く調べがつかなかったよ。明治維新の頃から生きてるんだろう? ちょっと難しいね」
「津島は?」
「父親のツシマ・カズミツは、ツシマ・カズユキが子どもの頃、死んでいる。母親は、カズユキが生まれてすぐ亡くなったらしいね。祖父のイッコウは健在で、ツシマ・ネットワーク販売の創立者だ。ネズミ講商売の王者と呼ばれた男だけど、今は引退して、名誉会長になってるね」
水緒美はメモ用紙に三人の名前――一光、一幸、一公――を次々に書きながら説明した。
「津島は、イベントの時、自分をイッコウと呼んでくれって言ってました」
氷澄がかけていたサングラスを新聞の上に放った。単独行動をしていた氷澄がここへ戻ってきたのは、水緒美に連れてこられたのだろうか。いらだちがひしひしと感じられる。
「これにいったい、何の意味があるんだ。あの女と津島一幸を倒す。それだけのことじゃないか」
「オーキス・ムーブメントの犠牲者を放っておいたら、事件の解決にはなりません」
「私には関係ないな」
「そうでもないわよ」
万里絵が二人の間に入る。
「丈大郎、守護神を持った、言ってみればイェマドの人間に近いような榊村美津子が、どうして津島一幸みたいな人間を守っているのか、不思議だと思わない?」
「愚かな女にはふさわしい役目だと思うがな」
「たぶん、この一公っていう、津島の祖父が鍵を握っていると思う。カンだけどね」
「――そういえば、津島の父親の一光は、このツシマ何とかっていう会社の社長だったんだけど、自殺だって噂も聞き込んだねえ。公式には病死となってるけどね」
「僕は、お父様のようにはならない――。一幸が言ってたわ」
水緒美は、折り畳んだパンフレットを取り出して広げた。ターミナル駅に置いてある、駅周辺の名所案内だ。
「それで、お祖父さんの一公だけど、今はこの『覚命寺』っていうお寺さんに住んでいるそうだ」
絵地図から矢印を引っ張った形で、実際の建物や場所の写真と簡単な説明がある。水緒美が指さしたのは、古い寺の写真だった。
「オーキス本部の主宰室には、警備室に繋がっていない監視モニターがあったけど、ここで監視してたのね、衛星通信を使って」
万里絵が示した寺の端の建物の屋根に、不釣り合いな白いパラボラ・アンテナが立っている。
「祖父の一公にとって、息子の一光や孫の一幸は、自分の所有物っていうか、代理っていうか、分身みたいな存在なんだと思う。だから、イッコウって自分の名前と同じ読み方になる名前をつけた。人が、ツシマイッコウの名前を称えれば、自己同一化して喜べるから。
そして、自分には操れないイェマドの遺産を一幸に使わせて、本来なら自分の手でやりたいマインド・コントロールを一幸にやらせているんじゃないのかな。一幸の私室での行動を監視するのも、自分の手足が勝手なことをしないように、注意する必要があったんじゃないのかな」
「あの女が津島一幸のガードをしているのも、その老人の差し金か?」
「そりじゃないかと思う」
「自分で遺産を操れない老人が、守護神を持った女を支配できるのか」
「――心理的な弱点、弱みを突けば、可能だと思います。心理学的なトレーニングによる操作は、守護神でも防げません」
遼は、自分の経験を思い出して言った。
「そうか、ツンマ・ネットワークは、自己実現セミ。ナーもやってたのよね」
津島一幸の引きつった顔が浮かぶ。津島も祖父から絶対服従のマインド・コントロールを受けているのかもしれない。遺産を持たない津島一公こそ、怪物なのか。
「よし、そのお爺ちゃんは、あたしが引き受けようじゃないか」
「――丈太郎は榊村美津子を倒して。遼――」
万里絵を見る。大きな瞳は、人を吸い込みそうな色合いをたたえて、真っすぐ遼を見ている。
「命令する支配者を失い、守ってくれる保護者を失った津島一幸と対決するの。その時こそ、戦士としての――ううん、人間としての強さ、真価が問われることになるわ。やる、遼?」
「やるよ」
自分でも驚くほど静かな声だった。
「―――ヤガミ、私と同行しろ。守護神を持った相手の潰し方を教えてやる」
「丈太郎!」
悲鳴に近い水緒美の声にも、氷澄は反応しなかった。
「どうせ、あの女が居たのでは、津島一幸に近寄ることもできないんだからな、おまえは。それに、もう時間もない」
広告には、イベント開催日として三日後の目付が書かれている。
「はい、お願いします」
遼は素直に頭を下げていた。
*
――どうやら問題はないようですね。
人工芝のフィールドに立った榊村美津子は、頭上に両手で丸を形作った。
『こちらも問題なしです』
場内アナウンスで返事がある。イベント本部に居るスタッフの声だ。照明や放送関係はもちろんのこと、正面の超大型スクリーンや、競技の内容に合わせた一部の座席の移動、そして、イベント用にセットされた各種の舞台装置までを一手にコントロールする、この球場の中枢神経のある管制室に、美津子が最も信頼を置くスタッフたちが詰めている。
東京ドームより広いとか、容積が大きいとか、あるいは超大型モニターなどの設備が整っているとか、とにかく、何等かの規準によれば、このドーム球場は日本一らしい。だが、明日の昇陽祭≠境に、そういった評価は無意味になり、別の意味づけが為されるだろう。すなわち、オーキス・ムーブメントが一般に対して、その存在と活動を明らかにし、総人口の一〇パーセントという目標さえも高らかに宣言した記念の場所としての意味づけが。言うなれば、この球場は、新たなる聖地となるのだ。
ほんの一時間前まで、明日の本番を控えてのリハーサルが行なわれていた。昼過ぎ。に一度、通しで行なわれたリハーサルに続き、午後七時からは、本番と同じ時間、同じ手順でプログラムは進められた。来賓の紹介、挨拶こそ省かれたものの、主宰である津島一幸さえ短い時間ながら会場に姿を見せ、一同にねぎらいの言葉をかけた。リハーサルはつつがなく終了し、今は、明日の本番に備えての会場整備も終わろうとしている。
――問題ないようですね。
美津子はもう一度、胸の中で繰り返した。いや、まだ問題は残っている。重大な問題が。
大胆にもウェルカム・イベントを利用して津島に接近、ムーブメントを根本から破壊しようとした二人組の少年少女は、まだ捕らえられていない。そして、守護神を持った男――氷澄丈太郎も、行方は掴めていないのだ。一幸のほんとうの誕生日である九月九日の予定を大幅に繰り上けて昇陽祭を実行するのも、妨害を避けるためだった。
『守護天使、お電話が入っています。二番をお取りください』
アナウンスが美津子を現実に引き戻した。
――その呼び方、やめろって言っているのに……。
了解の合図に、片手を上げて振る。そして、小走りに三塁側のベンチのほうへ向かい、壁の電話の受話器を取って、二番の回線ボタンを押した。
「もしもし、榊村にお電話代わりました」
『オーキス本部にかけたら、ごっちだって言われたんでな――』
「氷澄さん――」
冷ややかだが、深みのある声。胸の奥で熱いものがうごめく。
『球場のそばからかけている。会えるか?』
「――通用口――三番の通用口に来てください。連絡しておきます」
三つある通用口のうち、最も目立たないところを指定する。
『わかった』
電話は切れた。受話器を戻さず、三番通用口に繋ぎ、これからそこを訪れる氷澄丈太郎という男を、自分が行くまで持たせておくようにスタッフに言う。
指示を終え、受話器を戻すと、美津子はコンパクトを取り出して自分の顔を鏡に映した。
疲れの隠せない顔の、目元だけが薄紅色に染まって見えた。
――これは!
三番通用口で美津子が見たものは、気を失って倒れている警備スタッフだった。
これで、氷澄がオーキス・ムーブメントに恭順の意を持ってここを訪れたのではないことが明らかになった。いや、そもそもの始めから、そんな期待をすること自体が間違いだった。それは自分でもわかっていたのではないか。
美津子は場内電話を取って、本部の番号を押した。誰も出なかった。
耳の奥に圧力を感じた。列車がトンネルの中に入った時みたいだ。空気の圧力でドームを膨らませている関係上、球場内は多少気圧が高く、ドアの開け閉めには力と注意が必要だ――そんなことを遼も聞いた覚えがある。
緑色に塗られたコンクリートの廊下を遼は歩いていた。外野席への出入り口がある、二階の廊下である。本部ビル同様、壁に一定の間隔をおいて蘭のエンブレムが掛けられていることが遼を緊張させる。自分は今、敵の領域内にいるのだ。しかも、闘うために――。
球場内はエアコンが効き、夏用のジヤケット一枚では肌寒いくらいだ。だが、遼はいつか寒さを忘れていた。
氷澄と万里絵の連携で、三番通用口を固めていたスタッフを気絶させると、三人は球場内に入った。氷澄と万里絵は会場の実行本部になっている管制室を目指した。管制室を占拠した後、万里絵はそこに残る。氷澄はどこかへ行くはずだが、その場所は明らかにされていない。そして、榊村美津子と対決することが遼の役割だった。
――どこでやる?
すでに榊村美津子は、三番通用口で気を失っているスタッフを発見しただろう。そして、本部のある管制室に連絡を取るはずだ。氷澄は万里絵を抱え、守護神の局所重力制御を利用した高速移動で管制室へ行ったから、もう、本部スタッフも倒され、管制室も占拠されてしまっている。本部に連絡がっかないとなれば、彼女はどうするだろう?
――それでも、やっばり管制室を目指すんじゃないかな……。
ドーム球場の内部図を思い出す。通用口から管制室のある階へ直接通じるエレベーターはない。一階入り口脇の事務所から通じている、関係者専用エレベーターを使うしかない。
――そこで待つか。
遼は廊下を走った。
「君……?」
声をかけてくるスタッフもいたが、わがってますよと言わんばかりに、軽くオーキス・サインをするだけで無視する。やがて、「関係者以外の立ち入りはご遠慮ください」と書かれた鉄扉が行く手を塞いでいるところまで来た。
ノブに手を掛ける。鍵はかかっていない。扉を開け、中に入る。野球を始めとするスポーツを行なうための施設なのに、舞台裏はきっちりとまとめられた事務所という雰囲気だった。人影はない。イベントの予行演習も終え、明日の本番を待つばかりとなった今は、手の空いたスタッフから引き上けているのだろう。ただ、いくつものスケジュールが走り書きされ、メモが磁石付きクリップで留められているホワイトボードだけが、一、二時間ほど前まではあったかもしれない慌ただしい雰囲気の名残を留どめている。
奥のエレベーターのドアの前で遼は待った。ジャケットの下に手を伸ばし、ザンヤルマの剣の柄を握る。
『これから、オーキス・ムーブメントと津島を潰しに行くから』
九時間ほど前になるか。正午を一時間ほど過ぎた頃だった。遼と万里絵、そして神田川は、「冬扇堂」の入っている雑居ビルの一階にある喫茶店でテーブルを囲んでいた。水緒美ご推奨のちょっとおいしいクリームソーダ≠ノもほとんど手をつけず――万里絵だけ
は例外だったが――気詰まりな時間だけが過ぎていた。
『どうしたんだよ』
神田川の問いに遼は答えた。これから、オーキス・ムーブメントと津島を潰しに行く、と
『僕たちが成功すれば、明日のイベント――昇陽祭は実行されない。その時は、うまくいったんだと判断してはしいんだ。妹さんもじきに帰ってくると思う』
神田川はうなずいた。
『もし、昇陽祭が実行されるようなら、僕たちは失敗したってことになる。無責任なようだけど、その時はどうしたらいいのか、僕にはわからない』
『いいよ、矢神が言ったとおり、信じて待ってるよ。何も言わないでさ』
そこで、ようやく胸のつかえが取れた気になって、アイスクリームの溶けかかったクリームソーダのストローをくわえたのだ。
『気をつけてな』
喫茶店を後にする時、神田川か最後に言った。
――負けられない……神田川くんの信頼に応えるためにも……。
剣の柄を握る手に力がこもる。
「あなたもいたのですか」
女の声。全身に力が入る。たが、向き直るタイミングを外されてしまっている。
「後ろから来るとは思っていなかったようですね。健康のため、なるべく階段を利用するようにしているんです、私」
笑いを含んだ穏やかな声だった。それなのに、遼の動きを封じる力がある。強さ――それも強圧的なものではなく、幼子が母親に感じる絶対性にも似た、自分を包み込むような力。それが榊村美津子の恐ろしさだった。
――守護天使……。
ムーブメント内での呼び名はだてではないようだ。
「氷澄丈太郎さんは、どうしたのですか?」
「知らない。途中で別れた」
少し、間があった。
「それで、どうして危ないことをしてまで、私どもの邪魔をするのですか」
子どもの悪戯に手を焼いた母親のような声の調子だった。
「人の心を操るのが許せないからだ。あなたたちは、参加者すべてを人質にとることさえしている」
「確かに、やり方に問題がないとは言いません。しかし、心の扉を開くとしう、私どもの目的の正しさは認めていただけるのでしょう?」
榊村美津子が一歩近づいたのがわかった。だが遼は、退くことも進むこともできずに、同じ姿勢のまま立ち尽くしている。
「矢神さんは、ウェルカム・イベントに参加なさっていますよね。それでしたら、イベントの前半、ゲストの皆さんのスピーチに共感していただけたのではありませんか?だからこそ、後半のブログラムにも積極的に参加したのではありませんか?」
また一歩、榊村美津子が間を詰めた。遼は動けない。津島一幸の部屋で見た光の翼が襲いかかってくるのではないか――。その恐怖もある。だが、遼をその場に立ち尽くさせているのは恐怖だけではなかった。
遼はで反撃の手掛かりを探していた。ここで美津子の言葉にうなずくこと、いや、美津子の言葉を否定できないことは、すなわち敗北を意味する。心の隙間に滑り込んでくる言葉。一時とはいえ、孤独を癒してくれた連帯感、陶酔感。心の扉を開くという訴え自体は間違っていないのではないか? それは、今度の事件で常に遼の頭から離れなかった疑問でもある。
「――もしかしたら、心の扉を開くというのは、とても大切な、意味のあることなのかもしれない――」
ゆっくりと言葉を押し出すように口にしながら、ジャケットの下で、逆手に握った剣の柄を放す。
「それでも、今の僕は、オーキス・ムーブメントに参加しようとは思わない。何故なら、あるべき人間像みたいなものを決めて、一律にそれを押し付けるやり方は、人間性を踏みにじることだと思うからだ。僕はつまらない人間かもしれないけれど、自分らしさを大切にしたい。考える時間と、参加の意志を確認する機会を与えられれば、参加を拒否する人間は何人も出てくると思う」
手首を返す。小指をきつく、しだいに緩く、剣の柄を握り直す。
「それは矢神さん個人の考えでしょう? 一人の考えだけで私どもの全てを否定するのですか?」
「参加者に選択の機会や考える時間がありましたか、榊村さん? マインド・コントロールされて、津島一幸を絶対者、救世主として崇めるように強制された――本人にそれと気づかせずに強制された人問に、ムーブメントに参加するかしないかを選択する機会がありましたか? 心の扉を開く――そのことの是非はどうでもいい。なぜなら、結局それはオーキス・ムーブメントの目的なんかじゃない。実態をカムフラージュするための隠れ蓑にすぎないがらだ。まさに手段が問題なんだ」
かすかなため息が聞こえた。
「あなたはそうおっしゃいますが、ムーブメントが人の悩みを解消しているのは事実なのですよ。孤独に悩む人々を孤独から解放しているのは、紛れもない事実です」
「――聞いたことがある。暴力団は、悩んでいる若者に親身になってやるって。そうして構成員として育てる。悪徳商法も同じだ。孤独な老人の話を聞いてあげることから始めて、わずかな蓄えから年金まで巻き上げる。インチキな宗教もそうだ。悩みや孤独を解消したからって、暴力団や詐欺師やインチキ教祖のやっていることが許されますか? オーキス・ムーブメントのやっていることは、それと同じだ。津島も、あなたも、人を悩みから救ったんじゃない、人の悩みに付け込んだだけだ」
ジャケットの内側から光が溢れる。遼の精神の高ぶりに反応して、今まさに、ザンヤルマの剣が発動しようとしている。
「弱みに付け込み、心も命も支配する――精神的な麻薬を密売しているも同然だよ、あなたたちは!」
遼の中で何かが弾けた。爆発的な光とともに、赤い波形の鞘が一点の曇もない真っすぐな刀身に変化する。同時に、意識が剣の柄を通って、切っ先まで流れ込んだような感覚があった。ザンヤルマの剣の変化と同時に、遼は身を翻し、剣を青眼に構えて榊村美津子と向き合っていた。
小柄な女性だった。身長は万里絵より低いだろう。目鼻立ちも地味で、襟の高さで切り揃えられた髪は、最近では日本人にも珍しいくらい艶々と黒い。見ようによっては、二〇代の半ばにも、遼の母親の年齢を超えているようにも見える。守護神の力によって一〇〇年以上の時を過ごし、人間の繰り広げる様々な行為を見てきたことが、彼女にイェマドの人間たちと共通する雰囲気を与えたのだろうか。オーキス・スタッフの紺の制服を着込んだ体はで不思議な迫力を発していた。
彼女の患い瞳が濡れている。
「やらせませんよ」
遼の眉間の裏側で黄色い火花が散った。
事務机の上に置かれたメモが舞い上がる。雑誌の、新聞のページが羽ばたく。クリップでまとめられた書類が踊る。榊村美津子の背後から、光の翼がゆっくりと立ち上がる。
「やらせません!」
翼は一気に広がり、部屋中を覆い尽くした。
髪の毛が逆立ち、ジャケットの裾が激しくひらめくのを遼は感じた。
ザンヤルマの剣の守護神は正常に機能しているようだ。エネルギーの乱流が室内に溢れても、とりあえず遼の体に異常はない。
『あの女と闘え。そして、球場の真ん中まで引きずり出せ』
氷澄は言った。そうすれば、自分が榊村美津子の守護神を破壊すると。
――簡単なことじゃないぞ……。
手探りで背後のボタンを押す。関もなくエレベーターのドアが開いた。中へ転がり込む。
美津子が近寄る前に、「閉」のボタンを押し、さらに、すぐ上の階数ボタンを押す。
――自分から密室へ逃げ込むなんて、自殺行為もいいところだ……マーちゃんが見たら、怒るだろうな……。
いつもは階段を利用するという榊村美津子の健脚がどの程度の速さなのか。
ほどなくエレベーターは停まり、ドアが開いた。ドアの脇に身を隠し、ザンヤルマの剣のセンサーに集中する。近くに敵はいない。
飛び出す。そのまま走り、外野スタンドのいちばん上に出るドアに向かう。今いる場所からグラウンドに出るには、そこがいちばん近いはずだ。
センサーから遼の意識へ情報が流れ込んでくる。コンピュータ・グラフィックスによるワイヤーフレームの画像を見ているように、ドーム球場内部の構造が手に取るようにわかる。暗記した図面を思い出すのと違うのは、立体感を持っていることと、遼が動くにつれて角度が変わること、現在の詳細な情況――ドアの開閉、錠が下ろされているか否か、照明が点いているかどうか、人が居るかどうか――までがわかることだ。
――!
眉間の裏にきな臭い火花が散る。危険信号だ。
光が、彗星のように尾をひいた光球が、廊下の向こうから追ってくる。
遼が体の前に剣を立てて身構えるのと、光球がぶっかるのが、ほぼ同時だった。
衝撃が全身を包む。だが、遼が剣をふるう寸前に、光球は後退した。
――エネルギーの塊をぶつけてきたんじゃないのか……。
よろけた足で踏ん張り、構え直そうとした瞬間、第二の光球が飛んできた。
剣を横に払う。光球に刃が跳ね返される。
「くっ……」
指先から肘へ、肘から肩へ、しびれるようなショックが走る。
足元が不安定な状態で食らった第二撃に、遼は体勢を崩し、床に転がった。
光球が来た方向へセンサーを向ける。気配――エネルギーを発する存在感のようなものが感じられる。
――光の翼……。
通常の人間から感じられるより強い光――それが輝くようなV字型の光を背負っている。
これから羽ばたこうとしている翼のように。
翼の輝きが増した。向かって左の翼が輝きを強めながら、こちらに伸びてくる。続いて右の翼も。伸びた真の先端は、光球というよりも、巨大な光の拳のように見える。氷澄が使うエネルギー・コーティングした特殊警棒よりも高レベルなのではないか――!。
光る鉄拳の予想コースが頭の中に浮かぶ。立ち上がっている暇はない。頭から滑り込むようにして一つめをかわす。そこへ二つめが突っ込んでくる。どうにか上半身を起こし、両手で剣の柄を握り直すと、正面から斬りつける。
光の拳は飛び散った。だが、四散したエネルギーは、それぞれが光のつぶてとなって、遼を打ちすえた。ジャケットが焼ける。ジーンズの脚がえぐられる。眼鏡も弾き飛ばされた。さらに、拳と剣がぶつかった衝撃は、遼を背後のコンクリート壁に叩きつけていた。
一瞬、目の前が昏くなる。光の薄れた視界に、V字型の光だけが浮かんでいる。片方の翼の先端を剣で切り裂いたはずなのに、輝きは安定している。
――このままじゃ、グラウンドヘおびき出す前に、こちらがやられてしまう……。
背中を壁に押し付けるようにして、なんとか立ち上がる。
「剣を捨ててください。私は人を傷つけることを望みません」
――冗談じゃない、今だって充分、傷ついているぞ……。
緩やかに湾曲した壁に沿って、少しずつ、少しずつ移動していく。
「あなたと女の子が主宰室に潜入した時も、私にはあの女の子を殺してしまうことができたんですよ。でも、私はしなかった。傷一つ残さなかった。それは、オーキス・ムーブメントの本義に反することですから」
「あなたの言っている本義なんて、端から存在しないんだ!他人の命を楯にとって身を守ったくせに!あなたたちがやっていることは、人殺しより悪い!」
――来る!
二枚の翼がうねり、一本の太い繩のようになって押し寄せてくる。
壁を蹴る。突っ込んでくる光の太い流れを、体を横手にまわしながら避け、真横からザンヤルマの剣で断りつける。弾かれたように、光は元の翼に戻った。
思ったより体力が回復している。息遣いこそ荒くなっているものの、手足を動かすのに不都合はない。
だが、このまま受け身の闘いを続けていては、榊村美津子をグラウンドにおびき出すことなど、いつまで経ってもできないだろう。彼女は、遼の武器が剣であることを踏まえて、冷静に対処している。絶対に近寄ろうとしない。
自分だけがグラウンドに飛び出していくなら簡単だ。遠くないところにスタンドに通じるドアがある。懸命に走れば、光の翼の餌食になる前にたどり着けるだろう。だが、榊村美津子がついてくるかどうか。
「――こうなったら、あなたや津島をどうこうしようとは思わない。この球場を破壊してやる。あなたたちのイベントを開催不可能にしてやる。残骸の中でお祭をやるんだな!」
ギンッ!光の翼が広げられた。大きく膨れ上がる。守護神の出力が上かっただけではない。彼女自身が重力の束縛を逃れて、急速に接近してくるのだ。
――来いっ!
遼は走った。背中が灼けるような気分に追い立てられながら走った。
前方のドア――錠は下りていない――。
肩から体当たりをするように飛び込む。
コンクリートで固められたスタンドの階段を、遼は転げ落ちていった。
野球場に縁のない遼が漠然と思い込んでいたより、コンクリートの段は急だった。肩、肘、膝、あちらこちらをぶつけながら、遼はスタンドのいちばん下まで落ちていった。
立ち上がる。体中に鈍い痛みを感じるが、骨折などの深刻な傷は負っていないようだ。
後頭部の裏側がチリチリする。これも、ザンヤルマの剣が送ってくる危険信号なのだろうか。
目の前のフェンスに剣を突っ込み、横に引く。弾力を失った古いゴム紐のような手ごたえを残して、太い針金は簡単に切れた。さらに剣を大きく回し、自分が通れるだけの切れ目を作ると、頭を押し込み、グラウンドへ飛び降りる。オーキス本部の非常階段の手摺りを越えて飛んだ時のことがちらっと頭をかすめる。
痛みをともなった経験が活きたわけでもないだろうが、今度は、よろけただけで怪我もなく着地することができた。
振り向く。光るV字がプラスチックの座席の間を下りてくる。フェンスの前でいったん止まると、舞い上がり、注意深く飛び越えてから、グラウンドに下りた。施設を破壊することを避けようとしてのことだろう。
――もう金網は切り裂かれてるっていうのに……。
その真面目さ、律義さがかえって恐ろしかった。
外野から、グラウンドの中心めざして走る。最低限の照明しか使われていないドームの中は、だだっ広く見え、屋外よりも暗く陰影な感じだ。いつもなら企業や商品の名前が並んでいるあたりが薄紫色のシートで覆われ、球場らしい雰囲気はかなり薄れている。何より違っているのは、グランドの中央からバックスクリーン寄りに大きな蘭のエンブレムの描かれたステージがしつらえられていることだ。背後に「OPEN MIND」と書かれた垂れ幕。両脇には、白いクロスをかけられた来賓席。そして、一段高いところにあるのが津島一幸の席なのだろう。
心積もりしていた半分も行かないうちに、背後からの圧迫感が遼を押し潰さんばかりに迫ってきた。後頭部に感じていたチリチリした感じが、燃え上がりそうに強まる。
眉間の裏に黄色い火花が飛ぶ。
下げていた剣を無意識に構える。
遼の頭上を越えて、榊村美津子が行く手に立ちはだかった。
――止まるか?
さっきと同様に、剣の届かない距離からの攻撃か続くだけだろう。
――ならば……。
遼は歯を食いしばり、そのまま突っ込んだ。
光の翼が美津子の体の前で交差する。そのまま、仏前で合わせた手のような、あるいは手刀を二つ合わせたような形で、遼めがけて押し寄せてきた。
自ら光を発しているのかと疑うような曇のない刀身で、巨大な光の刃を受け止める。
弾き飛ばされるか、光に飲み込まれるかと思ったが、剣を構えたまま踏み止どまった。
遼の前に見えない球殼が存在するかのように、美津子の光の翼がそこだけ押し退けられている。
美津子の守護神のエネルギーの翼――正確には、守護神の発する力場によって翼の形にコントロールされているエネルギー・フィールドをぶつけてくるのを、ザンヤルマの剣が発する同様の力場が受け止めているのだ。二つの力場の均衡が崩れたら、翼が遼を飲み込むか、あるいは剣が翼を切り裂くだろう。
「心の扉を開くの、ほんとうの自分だのと、きれいごとばかり並べて――」
遼は少しずつ美津子のほうへ詰め寄っていった。
「やっていることは、ただの個人崇拝の強制でしかないじゃないか」
立てた剣の刃がじりじりと美津子に迫る。
「主宰は、一度たりとも、私利私欲で行動したことはありません」
ザンヤルマの剣と光の剣がせめぎ合う間の一点が徐々に輝きを増していく。行き場を失ったエネルギーが二つの力場の接点に集められ、レベルを上けっづけているのだ。
「他人の心を支配し、他人の命を楯にして身を守ることが、私欲でなくて何だっていうんだよ!」
「しなければならないことをしたまでです!」
光の向こう、真正面に見る美津子の黒い瞳が濡れている。遼の心に一瞬、迷いが生じた。
その迷いが均衡を破った。
剣がわずかに退き、その隙に光の翼が一気に押し込んできた。
慌てて防ごうとした遼の動揺が伝わったものか、剣の力場が揺れる。
勢いづいた攻撃と不安定な防御が、エネルギーの爆発を呼んだ。圧縮されたエネルギーが一時に解放されたのだ。
遼は吹き飛ばされ、グラウンドの上を転がった。
何本もの熱い矢で体中を貫かれたようだった。衝撃波に押し潰され、肺に空気が入ってこない。心臓までが、強い力で押さえ付けられているような感じがする。手の中に剣を握っているのが奇跡のように思えた。
いつの間にか、舞台演出用のスモークが放出されている。遼と美津子のぶつかり含いでかき乱された白い煙が舞い上がり、視界を悪くしていた。
危険信号を感じる。
遼が体を横に転がすと、それまで遼の居た空間を光の鞭が打った。空気がそこだけ熱くなったためか、スモークが小さな上昇する渦を作る。そんな様子を見るか見ないかのうちに、逃げたところへ第二、第三の攻撃が来る。剣で払う。だが、次の攻撃は避け切れなかった。左肩から背中へ、熱い痛みが走る。
どれだけのスモークを放出しているのか、伏せている限りは、相手が全く見えない。
相手にさらす面積が大きくなる分、不利だとは思ったが、走ろうとして立ち上かる。全身の筋肉が重たい痛みを訴えた。
相手を見る。自分と一緒にエネルギーの爆発に巻き込まれたはずの榊村美津子だったが、紺の制服に乱れさえ見せず、静かに立ち、そして、光の翼を広けていた。
――歯が立たないのか……。
ザンヤルマの剣にも守護神の機能はある。そうでなければ、遼は戦闇中に確実に死んでいる。だが、本来の持ち主でない遼が使っているためか、あるいは性能的に劣っているのか、すぐに完全な回復をもたらすということはない。特に、センサーや武器としての機能を最大限に発揮しているような場合は、傷や疲労の回復は遼にもそれとわかるほど遅くなった。
一〇〇年以上、守護神を持ちつづけ、使いこなしているということなのだろうか、榊村美津子は傷一つ負っていない。
――だけど、僕だって守護神を持っている。それに、今のところ致命傷は受けていない。
一時に出せるエネルギー総量に上限こそあるものの、実質的に永久機関といってよい守護神――。エネルギーを操り、持ち主の体を守るこのアイテムを身につけた者同士の戦いに、どうすれば決着がつけられるというのか。
――何度か、命懸けで闘ったこともある。支えてくれる人もいる。イェマドの遺産の力だけで勝負が決まるものじゃない!
立ち上がってから、そう思い切るまで、実際にはほんの一瞬のことだったろう。
彼我の能力の差を気力でカバーしようとして、遼は声を上げて突っ込んでいた。
遼の決意に応えるべく、ザンヤルマの剣の機能が最大限に発揮される。敵の位置を捕らえ、予測される攻撃パターンを知らせ、とるべき回避行動や攻撃行動を告ける――平均以下の高校生である矢神遼に剣士としての闘いを可能にさせるアドバイザー機能だ。
――翼の羽ばたき、光の矢……。見える。剣の切っ先の行くべき道が見える!
ほとんど意識しないで剣をふるう。四方から、遼の死角を衝くように追っていた光の鞭が次々に叩き落とされる。
美津子か第二陣の攻撃を放つまでに、わずかな時間ではあるが、隙ができるはずだ。
――今だ!
斬り込む。だが、次の瞬間、遼は我が目を疑った。
意志と力を誇示するように美津子の背後で光り輝いていた翼が消滅してしまったのだ。
このままでは、無防備な美津子に切りつけることになる。だが、目的はあくまで守護神の破壊だ。主宰のためなら、命を投げ出す―――。そんな言葉が頭をかすめる。
――まずい!
遼は全身の筋肉を総動員して、懸命に剣の勢いを殺そうとした。
まさにその瞬間だった。痛みを感じるほどの強い危険信号が閃く。同時に、青白い光球が遼の前後に現れた。しかし、切りつける力と、それを止めようとする力、二つの力の桔抗が、遼とザンヤルマの剣のあらゆる行動を封じていた。
延髄と鳩尾、二か所に雷が落ちたような衝撃を受け、今や腰の高さまで溢れている白いスモークの中へ遼は倒れた。剣が手から離れ、地面を滑る。
イェマドの遺産の力だけで勝負が決まるものじゃない――。そのとおりだった。考えていたのとは正反対の形で、遼はそれを証明してしまった。
――光の翼に気を取られすぎた………あれが消えても、守護神そのものを捨てたわけではないのに……。
やさしそうな顔をして、榊村美津子は、これまで遼が対したどんな敵よりも戦い上手だった。特に、相手の性格や考えを見抜いての駆け引きは、とても遼の及ぶところではない。
――だけど、ここで負けるわけにはいかない……。
光球の直撃を受けた部分から全身にしびれが広がっている。
「――おやめなさい。これ以上、自分を傷つけるようなことをして、どうなるというんです」
――言ったはずだろ……僕には、あなたたちが許せいんだよ……。
もう少しで手が届くというところで、榊村美津子がザンヤルマの剣を拾い上げた。
「――素直になりなさい。そうすれば、楽になれます」
「――元気で明るい人間だけが正しい生き方をしているって言えるのか?痛みも、苦しみも、悲しみも感じない心が、まともなものか?辛いこと、苦しいことに反応し、涙を流す、怒りもする。そういう心を失ってたまるか……」
スモークの向こうに黒い瞳が見える。深い色の視線は、無表情に遼を見下ろしている。
「――結局、あなたは人の心を操るのが面白かっただけなんじゃないのか」
美津子の眉間に痛みを堪えるような表情が浮かんだ。拾い上けた剣を、両手で逆手に持ち、振り上ける。遼の手を離れたザンヤルマの剣は、ただの刃物にすぎない。だが、剣を手にしていない遼を殺すには、それで充分だった。
美津子が遼めがけて剣の切っ先を突き込もうとした瞬間、いくつものスポットライトが彼女を照らした。
ドーム内にピアノのメロディが流れる。オーキス・ムーブメントがテーマ曲として使っている、大高勇二の曲だ。
美津子の手が止まっている間に、遼は這うようにして美津子から離れた。
球場の正面、VTRの映像が流されたりする超大型のモニターに、津島一幸の顔が映し出されている。
――マーちゃん……。
管制室を占拠した万里絵のしていることだろう。
何が始まるのか。遼のみならず、榊村美津子も超大型モニターの画像に目をやる。
「目くらましのつもりですか、氷澄さん」
――氷澄さんか……。
そうだった。遼が榊村美津子と戦いながらここまで来たのも、氷澄に言われたからだ。
榊村美津子の守護神は自分が潰す――全てはそのための段取りだったはずだ。
『何も言わない おまえの 背中が なんで こんなにも小さく 見える』
少しかすれた感じの大高勇二のヴォーカルが流れ出す。
不意に、スモークに包まれたグラウンドのどこかから細い光の糸が伸び、モニターの津島の顔に制さった。画像に、そこだけ黒い染みが出来る。
榊村美津子の肩が、ぴくりと震えた。
また別の方向からビームが飛ぶ。津島の画像の順に染みが出来る。
「やめなさい、明日のイベントに差し支えます」
さらに別の方向から加えられた攻撃が返事だった。
こちらへの注意が全くされていないのを見て取ると、遼は美津子の持つザンヤルマの剣に飛びついた。
強い力で頬を叩かれはしたものの、剣を奪い返すことはできた。素手による平手打ちしかしないことが、美津子の精神の動揺を物語っている。
美津子の背に再び光の翼が現れた守護天使≠フ呼び名そのままに、空中に舞い上がる。
これまでとは全く別の場所から、正面のモニターめがけてビームが飛んだ。
美津子の光の翼から、青白い光球が飛び、津島の画像を攻撃した者がいると思われる場所を直撃する。
『おまえが どんなに遠くにいても いつもほほ笑んで いるようにと』
美津子をあざ笑うように、別の場所からビームが飛ぶ。
前より大きな光球が、その場所へ撃ち込まれる。
――違う、あれは氷澄さんじゃない!
細い光は、鮮やかな緑色に染まっている。スモーク同様、舞台演出用の道具建てであるレーザー光線だ。正面から直視すれば失明もするだろうが、超大型モニターの画面を破壊するような力があるわけもない。
金属とガラスの砕ける音がして、濁った煙が上がる。レーザー発振器が壊れたのだ。
「外れだな、守護天使!」
冷ややかな声が響く、壊されたレーザー発振器のすぐそばだ。再び青白い光球が見舞う。
スモークが激しく渦巻いた。
空中の美津子を背後からビームか襲う。振り向きざま、美津子が光球を放つ。ほとんど白に近い、まぶしい光球だ。
『握った手を 放したら 振り向かずに 歩き出そう』
色鮮やかなビームが飛ぶ。それを引き金にするように光球が飛ぶ。
美津子は気づいていないようだが、ビームに占める氷澄のエネルギー・ビームの割合が低下している。だが、美津子の光球は輝きを増しているように見えた。
大高勇二の曲は間奏部分に入った。リリカルなピアノのメロディ。だが、遼の心には怒りしか呼び起こさない。
逆上が、施設の破壊という、美津子の最も望まない結果を呼んでいた。
ところどころに濁ったような赤い色の斑点を浮かべた黄色い光の翼は、それでも美津子を白い天井に覆われた空に浮かばせていた。
「――どうした、それでおしまいか」
凍りついたステンレスのような声が響く。今は黒い染みだらけになってしまった津島一幸の顔の映像を背に、ライトグレイのスーツに痩躯を包んだ氷澄が立つ。
「それでおしまいかと尋いているんだ!」
氷澄の顔の前に黄色い光球が現れ、弾かれたように飛び上がった。モニター画面の津島の右目が潰れる。
「もう一つ、いくぞ」
「やめてーっ!」
耳を覆いたくなるような悲鳴を上けて、榊村美津子が降下する。氷澄めがけて。一直線に。もはや天使の姿ではない。黄色い尾を曳いた流星、あるいは悲しみに金色の髪を振り乱して泣きながら疾走する狂女のように見えた。
「氷澄さん、やめてくれ!」
遼は思わず叫んでいた。たとえ、許せない相手を倒すにしても、心理的な弱点を突き、追い詰めるという氷澄のやり方は惨すぎはしないか。
遼の叫びが聞こえた様子もなく、黄色い光の球殼で全身を包んだ氷澄が浮上する。
守護神の力で重力の梅から逃れた二人は、空中で激突した。
互いの周囲に張り巡らせた力場を押し包むように、氷澄は両手を広げ、ぎりぎりと狭めていく。やがて、榊村美津子の体を翼ごと抱き締める形になった。
「ヤガミ、来い!」
美津子の守護神の重力制御を上回る力で、氷澄の守護神が重力を強めるコントロールをかけたのだろう。二人はステージ中央へ落ちた。
「ヤガミ、翼を切り落とせ」
駆け寄った遼を認めたのか、らしくない、切羽詰まった声で氷澄が言う。
「いやあああーっ!」
初めて聞く、榊村美津子の獣じみた叫びだった。光の翼は再び羽ばたこうとして、氷澄の腕の下で必死に抵抗する。火花が散り、ライトグレイのスーツの袖が煙を上けばじめる。
「早くしろ、ヤガミ!」
美津子の背後に回り込む。振りかぶり、右の翼の付け根を狙って振り下ろす。
エネルギーを翼の形にして制御していた力揚が破壊された。光の切片を撒き散らしながら、翼は炎のような不安定な光の塊に変わる。
「左もだ!」
言われるままに剣を一閃させる。残された翼も、燃え上がる光の塊に変じた。
「簡単なことだ、ヤガミ、そしてマリエ。守護神は無限にエネルギーを出しつづけられる。
だが、一時に使えるエネルギー量には上限がある。守護神を持つ者が二人以上、協力して当たれば、守護神を機能停止に追い込むことは可能だ」
氷澄は懐中時計――自分の守護神を片手に握り締めていた。
「――予備のエネルギーを攻撃用に使い尽くし、攻撃、防御両用のエネルギー・フィールドを破壊され、今のおまえの守護神には、自分を守るぎりぎりのエネルギーしか残されていないはずだ」
氷澄の全身が光に包まれる。美津子の頬に光る筋が二本、流れ落ちた。
――僕と、囮のレーザーを使ったといっても、彼女の守護神のエネルギーを使い果たさせるために、氷澄さんの守護神も使っている。それほど豊富にエネルギーの備蓄があるはずないのに……。
「ただの榊村美津子に戻るんだな、守護天使」
榊村美津子を抱く腕に力がこもり、二人を包んでいた光が、目を開けていられないほど強まる。
ブラウン管の破裂するような低い音がすると、光は消えていた。
遼が手を伸ばす間もなく、二人は崩れた。
「氷澄さん!」
「――私の体を活性化しているエネルギーを攻撃に回した。本来、不可逆の守護神の働きを逆にしたんでな。――すぐに回復する」
苦しい息の下で言いながら、氷澄は視線を美津子の上着のポケットに向けた。
遼はうなずいて、ポケットを探った。
「熱っ」
高熱を発する硬い物体の感触。注意深く取り出す。厚みのある小さな円盤。鈍い光沢を放つ金属製のコンパクトのように見えた。これが榊村美津子が裏次郎から相続した遺産、守護神なのか。
『握った手を 放したら 振り向かずに 歩き出そう』
大高勇二の曲はまだ続いている。
馬に乗ったお待が駆けていくんです、上手の上を。髪を振り乱して、狂ったように。私は、土手の下の草むらに埋もれるようにして、見ていました。御一新の頃です。一〇歳くらいだったでしょうか。さかき村のおみつ、百姓の娘、それが私です。裏次郎さんから遺産をいただいたのもその頃です――。氷澄に語ったという、榊村美津子の過去。一〇〇年以上昔の農民の娘に、裏次郎は何と言ってこの遺産を渡したのだろう。
感傷が生んだ遼の隙を、しかし、彼女は見逃さなかった。
どこにそれだけの体力が残っていたのか、立ち上がり、駆け出す。
「ヤガミ、あの女を追え!」
「だって――」
「この馬鹿が!」
体が動かない埋め合わせか、氷澄の声はいつになく大きかった。
「あの女がどこへ行くと思っているんだ。津島一幸のところに決まっているだろうが。津島のコントロールからオーキス・ムーブタントの参加者を解放すると言いつづけていたのはヤガミ、おまえだろうが――」
「でも、氷澄さんが――」
「おまえがここにいても、私の回復に貢献できる要素は何一つない。あの女を追え!」
『遼、入ってきた通用口に回って』
万里絵の声が響く。
「おまえたちでも、ニ人いればなんとかなるだろう。――行けっ!」
「……はいっ!」
遼は一礼して、駆け出した。
『振り向かずに 歩き出そう――』
大高勇二の最後のリフレインが、ゆっくりと消えていった。
「何があったんですか、守護天使?」
ハンドルを握るスタッフが尋く。美津子は答えなかった。
氷澄丈太郎と矢神遼、二人の連携の前に、自分は強力な武器を失ってしまった。しかし、それでも守らなければならない。主宰を。津島一幸を。ムーブメントを。
「ひどい対顔の色ですよ、守護天使」
空気がこれほど悪臭に満ち、肌に張り付くような粘着質のものだとは思わなかった。それに、この絶え間ない騒音。今の人間は、どうしてこんなひどい環境に耐えられるのだろう。守護神を失うまで全く気づかなかった。
――だからこそ始めたはずではなかったの?
守らなければならない。津島一幸を守り切らなければ……。
――私は再び地獄を見る!
美津子が必死になって記憶の底に沈めているものが浮かびよかろうとする。
津島のそばには、主だったスタッフが集まっているはずだ。氷澄丈太郎が球場まで来ていると知った時、美津子は彼女たちを本部へ行かせた。念のためということだったが、自分ひとりで氷澄を下すことができると思っていたから、保険以上の意味はなかった。
自分の手に守護神が無い以上、スタッフの力で津島を守らなければならない。だが、一般人の集団に何ができるだろう。イェマドの遺産、現代の科学を以てしても解明されない技術によって作られた凶器を手にした人間を相手にして。
――対抗するとしたら、主宰の持っている遺産でするしかない。でも、どうやって?
二人の遺産相読者によって、守護神さえ破壊されてしまった。ならば――。
――その手はあるかもしれませんね……
「急ぎなさい。主宰をお守りするのです」
噴き出る汗を拭おうともせず、美津子はうわごとのように言った。
「この方角だと、オーキスの本部ね。当たり前っていえば、当たり前だけど」
ヘルメット越しの万里絵の声に、遼は身が引き締まるのを感じた。
ドーム球場の駐車場から走り去る白いワゴン車を追って、万里絵はオートバイを走らせた。その後ろに、ザンヤルマの剣を背負って遼がしがみついている。
「でも、どうするつもりなんだろう。津島の持っているペット化装置≠ヘ武器にならないし――」
「最悪の場合は、オーキス・スタッフや参加者との肉弾戦になるかもね」
否定できない。
「とにかく、榊村美津子にはもう守護者としての能力がないことと、祖父の一公もすぐに倒されることを津島一幸にぶつけるのね。それなら、マインド・コントロールを解除させられる可能性も高いと思う」
「――恐いのは、榊村美津子だ。あの情況でも逃げた。ひょっとしたら、何か、僕たちが考えつかないような手段があるのかもしれない」
「そうね。すごくカンが良くて、一瞬の隙を掴むのがうまい。ああいうタイプは恐いわ」
しかし、その榊村美津子でさえ、心理的に追い詰められれば、守護神を破壊されるような失態を犯すのだ。
「氷澄さん、大丈夫かな」
「丈太郎が放っとけって言ったんだから、素直に放っとけばいいのよ」
万里絵の答えは素っ気なかった。
――二つ以上の守護神を使えば、守護神を破壊できる。だったら、氷澄さんと江間さんが協力すれば、裏次郎を倒せるはずだ。かなり長い間戦ってきたみたいなのに、どうして裏次郎は倒されていないんだろう……。
「もっとしっかりしがみついて。何を考えてるのよ」
「江間さん、一公との対決、うまくいったんだろうか」
「水緒美が自分でやるって言い出したんだから、任せればいいの。――ぼんやりしてると、振り落とされるわよ」
信号が青から赤に変わる寸前、オートバイは交差点を左に祈れた。
「スタッフをレインボー・ホールに集合させなさい。残っている有志の参加者も一緒に」
帰ってくるなり、オーキス・サインも出さず厳しい声で指示を出す榊村美津子に、若いスタッフは脅えたような顔をした。
「主宰はお部屋か?」
「はい」
礼も言わずに、美津子はエレベーターに乗った。いつもの彼女にはないことだ。
指示されたとおり、スタッフはホールに集まった。一五〇人ほどか。何があったのか、そして、何が起こるのか。ほんの少し前までは、明日に控えた昇陽祭≠フことで頭が一杯になり、興奮のあまりじっとしていられなかったのに、今では不安のために落ち着いていられなかった。三々五々集まっては、ひそひそとささやきを交わす。心の扉を開かれた者にはあってはならない態度だったが。やがて、津島一幸と連れ立って、榊村美津子が現れた。
「皆さん、本日は遅くまで昇陽祭の準備に頑張ってくれて、たいへん嬉しく思います」
津島の言葉に、一同が拍手で応える。それが治まるまで待ってから、津島は言葉を続けた。
「さて、記念すべき日を翌日に控えながら、ここに一つ問題が起きてしまいました」
一同の間からざわめきが起こる。何かあったらしいと予想はしていても、はっきり問題が起きた≠ニ言われると、動揺は隠せない。
「一度は心の扉を開きかけながら、迷い、恐れ、疑いから、ほんとうの心の交流をする人間に対して嫉妬心と敵意を持ってしまった人間が、今、ここへやってこようとしています。昇陽祭≠妨害しようとして。会場は榊村さんが守りました。会場の破壊が不可能と知ると、今度は私を傷つけようとして、今、ここへやってこようとしているのです」
自分たちの心の交流の場、自分たちの記念祭の場、自分たちの人生の師、自分たちの救世主、自分たちの楽園を壊し、傷つけようとする者に対して、怒りが湧いてくる。
「しかし、だからといって、その人を傷つけるようなことをしてはいけません。私たちは、心の扉を開いている人間です。その人の閉ざされた心の扉をみんなでノックして、開いてあけましょう。それこそがオーキス・ムーブメントにふさわしい、昇陽祭の前夜にふさわしいやり方だと言えるでしょう」
津島の言葉を引き継いだ美津子の言葉に一同が柏手する。
津島の遺産から出るコントロール・ウェーブを受けると、コントロールされている脳も微弱ではあるが同じようにコントロール・ウェーブを発する。氷澄が共鳴現象≠ニ呼んだ現象である。オーキス・ムーブメントを展開していく上で、榊村美津子も遺産の効果については研究していたし、共嗚現象についても知っている。では、もしここにいる一五〇人が一人の人間に対して集中的にコントロール・ウェーブを向けたら?微弱とはいえ、
一五〇人分である。守護神でも防ぎ切れないのではないだろうか。
美津子にも確信は持てなかった。賭けである。だが、他に方法はないのだ。
「それでは、これから指示に従って行動してください」
いつものイベントやトレーニングの時と同様、落ち着いた声で指示を出す。一五〇人の人間は、自信に溢れた表情を取り戻して、榊村美津子の声に従った。
「静まりかえってる――」
オーキス本部から少し離れたところにオートバイを停めた万里絵は、偵察の時にも使っていた平べったい双眼鏡で様子を探った。
「車はあそこにあるけど、彼女は居ないわ。何か、応戦の準備をしているのは確かね」
遼は後ろのシートから降りた。
「――ここからは僕ひとりで行く」
背中に回してあったザンヤルマの剣を、左脇、上着の下へ隠す。
「ガードに就いてるのは、オーキスのスタッフか、参加者でしょ?普通の人間を相手にするなら、あたしのほうがうまいと思うけど」
万里絵が特殊警棒を取り出して、伸ばしてみせた。
「たぶん、津島は遺産を使って仕掛けてくると思う。単に、津島の安全を確保するためなら、本部に連絡を入れて逃けさせればいいんだから――
「榊村美津子には、津島の遺産を利用した攻撃方法があるってこと?」
「僕と氷澄さんを倒す手を考えていると思う。用心に越したことはない」
警棒の先でトントンと肩を叩きながら、万里絵はしばらく考えているようだった。
「――でも、やっばり考えられるのは、人海戦術みたいなものじゃないかな。それなら、あたしと一緒のほうが絶対有利よ」
遼はザンヤルマの剣を垂直に立てた。目を閉じる。センサー機能に集中し、切っ先を本部ビルに向けた。
人を現す光の点が一〇〇以上、一つの部屋に集まって、輪を作っている。三階、レインボー・ホールだ。中心にいる点が津島一幸、輪の外にいるのが榊村美津子だろうか。人の輸の中で、光の波動が飛び交っている。
「やっばり、遺産を使って攻撃する準備をしているみたいだ」
だいたいの様子を万里絵に話す。
「間違いないみたいね」
「――行くよ」
歩き出した遼の肩を、万里絵が掴んだ。
「遼、何か、すごく焦ってない?」
足が止まる。
「――恐い夢、見たんだよ」
「夢?」
「マーちゃんが、津島の後を追って殉死する夢」
「……あたしがそんなことするわけないじそない」
「オーキス・ムーブメントに個々の人間性は関係ないって言ったろ。津島の持っている遺産は、なおさらそうじゃないか。普通のマインド・コントロールについての知識を持っていたって防げない。そんな危険なことにマーちゃんが飛び込んでいくのが厭なんだよ!」
空いていたもう一方の肩にも万里絵の手が乗った。
「――焦ってたのは、あたしのほうかもしれない。遼が言ったとおり、今度の事件については、あたし無力だもんね」
「そういう意味じゃ――」
万里絵の手に力が入り、強引に遼を自分のほうへ向かせた。
「榊村美津子にも、津島一幸にも、遼なら絶対負けないわ。真価が問われるなんて言ったけど、遼のほうが絶対上よ。信じてる。だから必ず帰ってくるの。待ってるから」
遼よりも、自分自身に言い聞かせているような声だった。
「うん」
遼はうなずいた。
走り出す。もう何も言えないし、聞く必要もなかった。
夜の熱気の中を駆け抜ける。抜き身の剣をぶら下げていたが、誰にも見とがめられなかった。
玄関前に立つ。ガラスのドアが開く。ホールには誰もいない。全員がレインボー・ホールに集まっているのだろう。
――ザンヤルマの剣にも守護神の機能があるなら、エネルギーをコントロールして、敵を攻撃したりできるのかな……。
剣が抜けなくなるほどではないにしろ、遼のどこかに剣の力を恐れる気持ちがあって、機能を充分に発揮させないのかもしれない。
今のところ危険信号は感じない。遼は踏み締めるように階段を上がり、三階へ向かった。
見覚えのある二重ドア。蘭のエンプレムは、最初にここを訪れた時と変わっていないようだ。それが忌まわしいものに見えるのは、遼の目が変わったからだろう。
センサーに意識を向ける。ドアの後ろにも、待ち伏せしている人間はいない。
一つめのドアを開き、さらに二つめのドアに手を掛ける。緊迫した情況であるのに、一気に飛び込むというわけにもいかず、間延びした行動になってしまうのが自分でも滑稽だった。
ドアが開く。明るいホールには、イベントやトレーニングの時と同様、一〇〇人以上のスタッフと一般参加者が手を繋いで輪になっていた。
「津島一幸、あなただけに用がある。輪の中から出ろ!」
遼の叫びは黙殺された。
「さあ、皆さん、あの人の閉ざされた心の扉をノックするのです」
津島の声が響く。三〇〇近い目が一斉に遼を見る。
危険信号のきな臭い火花が、眉間の裏で続けざまに散る。
それで身を守れるのか、遼は体の正面に剣を立てた。
人の輸から外れたところに、榊村美津子が立っている。
――あなたの考えたことですか、榊村さん……。
次の瞬間、遼はまばゆい光を見たような気がした。目を細める。だが、まぶしさは強まる一方だった。そして奇怪なことに、目の前はどんどん暗くなっていくのだ。
目を見開く。視界は暗くなりつづけている。だが、目が痛くなるほど強い光が満ちている。
――マインド・コントロールだ、それも強烈な……。
遼の意識はゆっくりと闇の中へ沈んでいった――。
――遼は白い闇の中にいた。白一色で、他には何も見えない。まぶしさはない。牛乳のタンクの中に潜ったら、こんな感じだろうか。いや、それだったら何も見えないか。
四方に注意を巡らす。剣のセンサーがこの情況で能力を発揮するのかはわからない。だが、周囲に物質的な反応を示すものはなかった。
――僕は、マインド・コントロールされているのか?
コントロールされている当人には、当然、その感覚はない。考えてわかる問題ではなかった。
この白い闇に遼は見覚えがあった。白い闇そのものではないが、似たような赤い闇の中にいたことがある。そういえば、浮遊感覚すらないのも共通している。
これまで何回かザンヤルマの剣で闘ってきたが、相手を倒す寸前、あるいは倒すのとほぼ同時に見ている幻覚に似ているのだ。
そのことを意識したとたん、遼は自分自身の存在する感覚を取り戻した。
以前には、闘いにピリオドを打つ時に陥っていた情況だった。そこで遼は、常に相手の過去を覗き見てしまうのだ。痛みと悲しみをともなった記憶を。
――あれと同じだとすると、僕は今、津島の記憶を見ているのか?
だが、白い闇に変化はない。
いや、かすかな変化を遼は感じた。甘ったるい匂い、、あるいは味だろうか、違う、もっと直接的に神経というか脳に伝わってくるような感覚だ。その甘ったるい感覚が白い闇を満たしている。半分目覚めながら、暖かい布団の中でまどろんでいるような感じにも似ている。
剣を持った腕を中心に張り詰めていた筋肉が、神経が、弛緩していく。体が統一性を失い、端から白い闇に溶けていきそうな気分だ。しかも、それが心地よい。
――これが、津島一幸のマインド・コントロールの実態か!
肉体が存在していれば、たとえば剣を体に突き立て、痛みで覚醒を保つことを試みたりもできただろう。だが、現在遼がいるのは、いわば精神だけの世界だ。意志をとろけさせようとしている力に対して、まさにその意志の力で抵抗しなければならないのだ。
――働け、守護神! マインド・コントロールに屈するな!
甘くて暖かな感覚が全身を浸す。このまま眠ってしまいたくなる。
遼はもがいた。眠気を払おうとして体を動がすように、自分の体を、精神を少しでも活力のある状態に保とうと、手足を振り回した。
――さあ、心の扉を開きましょう。
爽やかな声がする。
――この心地よさを与えてくれる人に、全てを任せましょう。
――この心地よさを与えてくれる人の望むようにふるまいましょう。
――この心地よさを与えてくれる人の望むような人間になりましょう。
――それが幸せ。
――それが正しい生き方。
――それが苦しみや悲しみから解放される生き方。
いくつもの声が、壮大なパイブオルガンの演奏のように、あるいはシンセサイザーによるヒーリング・ミュージックのように、重なり合い、不思議な和音の響きとなって、遼の耳から流れ込んでくる。
――さあ、心を開いて。
――さあ、剣を捨てて。
――さあ、拳を開いて。
――さあ、力を抜いて。
――さあ、目を閉じて。
――さあ、怒りを鎮めて。
一面の白い闇に凹凸が現れた。顔だ。仮面のような顔、顔、顔……。幸せそうな笑み、明るい表情を浮かべた顔が見渡すかぎり並んでいる。一つひとつの顔立ちは違うはずなのに、表情が均一なためか、皆同じ顔に見える。
仮面のような顔たちが、いつか球形の檻のように遼を囲み、包んでいた。何十という白い顔が口々に呼びかけている。
――さあ、心を開いて。
――さあ、剣を捨てて。
――さあ、拳を開いて。
――さあ、力を抜いて。
――さあ、目を閉じて。
――さあ、怒りを鎮めて。
遼はようやくこの情況を把握した。津島だけの力ではない。偵察の時に遼もセンサーで見た、氷澄が言うところの共鳴現象≠ネのだろう。ホールにいた一〇〇人以上のスタッフが津島一幸の下、心を一つにして、遼の心の扉を開≠アうとしている。
――だとすれば、この顔を傷つけたら、スタッフの精神にもダメージを与えてしまうってことなのか……。
どこかに津島本人の発するコントロール・ウェープ、ひいては精神世界に通じる出入り口のようなものがあるのではないか。だが、遼のまわりは白い仮面のような顔だけだ。完全に囲まれてしまった。
呼びかける声は強くなる一方だった。一つの口が発した声が乱反射する。そのこだまに、別の口からの呼びかけがかぶさる。遼が見た薄桃色の光の波動が乱反射する様を、声に置き換えたような状態だ。しかも、この場合は前後左右に上下まで囲まれて、目標は中心にいる遼だけなのだ。
守護神の機能は遼の精神を正常に保とうとするだろう。だが、以前経験したように、ザンヤルマの剣に他人の精神とコンタクトするような能力があるとしたら――。津島一幸を中心に精神を集中している一〇〇人以上の人間が作る精神世界に飲み込まれてしまうのも、ザンヤルマの剣があればこそ、ということになる。剣を捨てればマインド・コントロールに屈することになる。だが、剣を持っているかぎり精神世界からの脱出はなく、ここで受ける心理的攻撃に屈すれば、やはりマインド・コントロールされてしまうだろう。
眠りに落ちる寸前のように、目が開けていられなくなる。幾重にも響き合う声が、妙に遠くから聞こえてくる。手も足も重たい……。
――駄目だ、眠っちゃ駄目だ。
苦し紛れに剣を太腿に刺す。だが、意識をはっきりさせるような苦痛は生まれない。
――ここで倒れたら、死ぬような思いをした氷澄さんの努力はどうなる……僕を津島のコントロールから覚ましてくれたマーちゃんに何て言えばいいんだ……神田川くんも、黙って僕を信じてくれたんだ……マーちゃんも、神田川くんも、僕を信じて待っているんだぞ……。
脳の中まで染み込んでくるような眠気――正確には眠気ではなく、津島に全面的に降伏させるコントロール・ウェーブ――に対抗する手掛かりを、遼は探していた。
「……氷澄さん……マーちゃん……神田川くん……マーちゃん……神田川くん……」
彼方で地面に針が落ちるような、音ともいえないような気配、そんなものだった。だが、遼は捕らえていた。遼のつぶやきに反応した何かを。
「氷澄さん! マーちゃん!神田川くん!」
意識しての呼びかけに、今度は明確な反応がある。
綿よりも頼りなくなってしまった筋肉に号令をかけ、ザンヤルマの剣の切っ先をそちらに向ける。
真っ白な一つの顔があった。おとなしそうな少女の顔。
「――神田川恵さん……そうでしょ?」
白い顔は応えない。
「神田川くん――お兄さんは、とても心配していたよ」
他の顔が呼びかけを続けているなかで、少女の顔だけが静かになる。口の動きが小さくなっている。
――兄が心配するのは、心の扉を開いていないからです。
遼の呼びかけに答える。やはり、神田川恵だった。明るい声をしている。何の不安も心配もないように聞こえた。だが、遼は続けた。
「この間、僕を助けてくれたのはお兄さんだった。それも、心の扉を開いていないからなのかな」
――そのとおりです。
「君は、心の扉を開いているんだよね?」
――そのとおりです。あなたもすぐに開いてください。
「二週間くらい前のことだ。君とお兄さんと、そして僕と、デパートのエジプト文明展を見に行く約束をしていたよね? でも、君は朝から家を出て、約束をすっぽかした。それは、心の扉を開いている人間のすることじゃないんじゃないのかな」
――嘘です。兄は私を監禁しようと考えていたんです。
「違うよ。僕はデパートで三〇分も待っていたんだ。神田川くんと面白い時間を過ごそうとしてね」
――嘘です。
何をどう話せばいいのか。いや、こうして話していることに意味があるのか。わからない。だが、遼は続けた。自分を、神田川を助けることはできた。それをもう一歩広けられないか。もう一人、マインド・コントロールから救い出すことができないか?
「お兄さんに、約束をすっぽかされたことがあったんだって?」
――心を開いていない人だから、当然です。
「その時、悲しかった?」
――もちろんです。心の扉を開いていない人は、そういうことをするのです。
「エジプト文明展に行く約束を君にすっぽかされた時、お兄さんはどう感じたかな」
恵の仮面は初めて黙り込んだ。
「君がお兄さんにすっぽかされた時と同じように感じたんじゃないのかな?」
沈黙が続く。
「夏休みの始めに遊園地へ行って、とても楽しい時間を過ごしただろ。あの時、僕とばったり出会ったよね。覚えているかな?」
――はい。
「神田川くんはね、あんな楽しい時間をもう一回、取り戻そうとしたんだ」
――心の扉を開いていない人間の言うことを聞いては駄目だ!
――言うことを聞いては駄目だ!
――聞いては駄目だ!
――駄目だ!
恵の異常を察知してか、他の仮面が叫ぶ。
「心の扉を開いている人間には、不可能はないんじゃないのか!恐れるものはないんじゃないのか!少し黙っていろ!」
剣を振りながら叫ぶ。叫びを刃で断ち切ったわけでもないだろうが、他の声は聞こえなくなる。甘ったるい気配も弱まっている。
「神田川くんがこの何日か、家に帰っていないのは知っているかい?」
返事はない。
「本部ビルの近くに張り込んでいたんだ。全然知らない人たちと、知らない制服を着て行動している君を見て、お兄さんはどう思ったかな? ご両親はどうだろう?」
恵に語りかけているうちに、力が湧いてくるのを感じる。そして、何を語らなければならないか、はっきりとわかってきた。
「僕も、一度はオーキス・ムーブメントに参加した人間だ。友だちも少なくて、地味で、暗い性格だから、心の扉を開いて、たくさんの仲間が出来た時には、とても嬉しかった。君がムーブメントに参加して喜びを感じたことは、少しは理解できるつもりだ。だけど今は、それが間違いだとわかる。とても辛いことだけど」
――何故ですか?
その一言を求めていたのだ心の扉を開く≠ニいう言葉の呪縛を断ち切って、外部に対して関心を示す反応が。妙に明るくもない。そして、変な暗さもない。一〇代の女の子が持つような好奇心を秘めた声。
「心の扉を開いただけで、みんな同じ表情、同じしゃべり方になってしまうのは、何故なんだろう?心の扉を開くと、個性ってものはなくなってしまう。おかしくないかな?」
――いわゆる個性は、マイナス思考の囚われにすぎません。
「心の扉が開いたなら、その積極的な精神で、例えば友だちを増やすとか、何かのスポーツや芸事に挑戦するとか、やることはいくらでもあるんじゃないのかな。それなのに、オーキス・ムーブメントは参加者の拡大以外のことを意味のあることとは認めていない」
――私は、自ら望んでムーブメントの拡大に務めています。
「僕の中学時代の友だちだった人は、読書家だった。だけどムーブメントに参加してからは、本は人間の精神をマイナス思考で一杯にするからと言って、読書を否定している。何故だろう?」
恵は答えない。
「それに、心の扉が開いているなら、ムーブメント参加者以外とも心が交流できるはずじゃないのかな。家族をムーブメントに勧誘しなかったのは何故だろう。――僕は、神田川くんの家の事情なんてよく知らない。でも、何か問題があるなら、そして、君が心を開いているって言うなら、その開いた心で、お兄さんやご両親とじっくり話し合ってもらいたいんだ。自分は、野球がうまいことを鼻にかけた最低の人間なのか、なんて悩んでいる神田川くんを見るのはつらい――」
――兄さんが、そんなことを……
もう、恵の返事はない。
――心の扉を開いていない人間の言うことを聞いては駄目だ!
――言うことを聞いては駄目だ!
――聞いては駄目だ!
――駄目だ!
思い出したように仮面の声が噴き出る。
「まだだ、まだ!」
恵の仮面に向けた剣を握り締める。
その時、恵の仮面が消えた。白い表情から目鼻立ちがなくなり、滑らかな曲面に変化すると、床に落ちた水滴のように、白い滴となって飛び散った。
――彼女はどうなったんだ……。
これでマインド・コントロールが解除されたのだと思いたい。だが、確かめようがない。
――あれは……!
恵の仮面が消えた向こうに、空間が広がっている。暗い穴の向こうで何かが光っている。
――津島一幸の本体か?
ザシヤルマの剣の切っ先を光のほうへ向ける。遼の体は吸い込まれるように光の源のあるほうへ飛んでいった。
体か激流に巻き込まれてねじ曲がるような感覚があった。それが消えた時、遼は、蘭の花に覆われた場所に居た。
四方の地平線が少しずつ持ち上がっている。どうやらここは球の内側らしい。
――球から外側へ出たはずなのに、また球の中か。
足の裏には、固く尖った感触や、何かぬるっとしたものの感触がある。無数の蘭は、津島が目にしたくないものを隠すために鮮やかな花びらを広けているのだろうか。
―― これが津島の精神世界なのか……?
―― ザンヤルマの剣のセンサーに集中する。確実な反応は一つだけだ。
――上、ということは、球の中心か。
現実の世界でないためか、遼の行動に制限は少なかった。反応に集中すると剣に引かれるようにして、遼は空中に舞い上がった。
足の下は、見渡す限り一面の蘭の花である。そして、意外なことに、遼の後を追いかけてくるものがある。白い仮面が列を作ってついてくるのだ。
――どういうことなんだ?
だが、考える間もなく、前方に反応の実体が見えてきた。
――これは!
それは、確かに人の姿をしていた。だが、少なくとも三〇歳を超え、何千、何万という人間に生き方を説き、人生の師、救世主と崇められている男の精神の象徴、あるいは実体としてはあまりに奇怪だった。巨大な、胎児に近いような真っ白な赤ん坊。津島一幸の顔をした赤ん坊が指をくわえ、巨人に抱かれている。鋼鉄の剣、槍、斧で武装し、鎧をまとった巨人に。だが、その巨人は乳房を持っていた。赤ん坊を乳房に押し付けるようにして抱いている。
赤ん坊がむずがった。鋼鉄で覆われた腕が赤ん訪をあやす。
――これが、津島一幸とオーキス・ムーブメントの楽園か……。
遼は剣を赤ん坊に向けた。
「榊村美津子の守護神は破壊した。もはや彼女は、おまえの絶対的守護考ではない!」
崩れる。剣が、槍が、斧が、ボロボロと崩れていく。乳房がしなびる。
「おまえの祖父も倒される。おまえは絶対的支配者から解放される。その代わり、自分の足で立ち、自分で判断しなければならないんだ!」
鎧が、いや、巨人そのものが崩れて消えた。空中に一人で浮かんでいる巨大な赤ん坊は大声で泣きはしめた。地上から、色とりどりの花弁が舞い上がり、球の内側の空間を鮮やかな花吹雪で満たす。その下から何が現れるのだろう。
遼の足元や後方に浮いていた白い仮面が、神田川恵と同様に、滴となって消えた。苦痛に満ちた青白い電光が縦横に走る。
――これで終わったのか……?
再び、まぶしい光が遼の目を灼く。一瞬のうちに周囲は闇に飲まれた――。
レインボー・ホールだった。青眼に構えた遼の前に津島一幸がいる。津島を囲んでいた円陣はいつの間にか解けていた。
「遺産を捨てろ、津島一幸」
それが自分にとっても忌まわしいものであるかのように、津島は腕輪を引き抜いて捨てた。高熱で溶かされたような奇妙なデザインの腕輪が床に落ちる前に、ザンヤルマの剣は一閃していた。両断された腕輪は、細かい針状になって飛び散り、消滅した。
――終わった……。
剣を下ろす。これまでの闘いの後に残ったものが痛みなら、今の遼の体を覆っているものは、重たい疲労感だった。
「馬鹿野郎!」
罵声が飛んだ。
「いかさま師!」
「返してよ!あたしの時間を返してよ!」
それは、マインド・コントロールが解除されたことの激烈な証明だった。泣き喚く者。
顔を真っ赤にして怒鳴る者。掴みかかろうとする者。部屋の隅で嘔吐する者。
「美津子、助けて、美津子!」
津島の悲鳴に、遼もやっと気づいて、榊村美津子のほうを見た。穏やかな、しかし悲しげな表情を浮かべた美津子は、控えめに腕を広げ、津島を待っていた。
不意に危険信号が飛んだ。
「危ない!」
部屋にいた参加者の一人がナイフを隠し持っていたのだ。
遼が剣をふるうより早く、ナイフを持った男は津島に襲いかかった。
だが、ナイフは津島にかすりもせず、飛び込んできた榊村美津子の腹に刺さっていた。
室内の人間がわっと出口に殺到する。
いったん抜かれたナイフが遼のほうを向く寸前に、黄色いビームが男の腕を撃ち抜いた。
「――潜在能力開発機関の生き残りだ」
必死に出口に走る人間を掻き分けるようにして氷澄が入ってきた。
「無事だったんですか、氷澄さん」
氷澄はかすかに顔をしかめただけだった。
ホールには、遼と、氷澄と、潜在能力開発機関のエージェントと、榊村美津子だけが残された。
「榊村さん!」
紺の制服に穴が開き、溢れ出る血が床に赤い染みを広けていた。
守護神を失っても、ほとんど反射的に津島一幸を守ろうとしたのだろう。
駆け寄って、抱き起こす。氷澄を見たが、黙って首を横に振るだけだった。
「――これで、ほんとうに守護天使じゃなくなって、ただの榊村美津子、ううん、さかき村のおみつに戻れます」
確実な死を目前にしながら、美津子は落ち着いていた。
「榊村さん、さっき、全員でマインド・コントロールをかけた時、あなたはそのなかにいなかった。何故ですか」
こんな時に、と思ったが、尋かずにいられなかった。
「一幸は駄目です。あれは、人間にはなっていません。でも、あの遺産を使える。だから、担ぎ上げたんです……それに、一幸は……」
「津島の先々代に強制されたからじゃないのか」
氷澄の非情な問いに、美津子の青ざめた頬が引きつった。
「安心しろ。その男もすぐにかたがつく」
「――どうしようよない人間を救うために、どうしようもない人間を偉い人に仕立てあげ、それで、罵られ、邪魔をされ……私は疲れました……」
薄い笑いを浮かべて、美津子は目を閉じた。
「榊村さん、それであなたは幸せだったんですか。満足なんてすか」
「――ナイフ騒ぎで逃けていった人たちね、すぐに次の津島一幸、次のオーキス・ムーブメントを探しますよ。誰か他の人から、あなたは幸せなんだって言ってもらわないと、自分が幸せなのかどうかもわからない、そんな人間ばっかりですねえ、今のこの国は」
違う―――遼は言おうとした。弱さのためではない。あなたたちが使った技術が悪いのだ、と。だが、美津子の青ざめた顔に浮かぶ荘厳な表情の前には、言葉は無力だった。
「そんな人たちに比べれば、ずっと――」
言葉の最後は、静かに吐き出される息になって消えた。
「――遺産は片づいた。もう、私のすべきことはない」
氷澄が去っていくのにも、遼は顔を上げなかった。
許せない敵だったはずだ。何人かの人間の死に責任があるはずだ。だが遼は、溢れる涙をどうすることもできなかった。
*
覚命寺は、それほど由緒ある寺院というわけではない。鉄斎という、ひどく怪しげな僧侶が開いたことになっている。鉄斎は、さして知られていない割には様々な伝承に彩られた人物で、三〇〇歳まで生きたと言われる。一種の怪人と言ってよいだろう。
その覚命寺の庫裏の一画に、立ち入り禁止の部屋がある。建物の調和をいささか損なっている白いパラボラアンテナからの配線も、そこへ繋がっている。そこに入れるのは、一人の老人だけだった。
今もその部屋で、老人は黄金の仮面を撫でていた。端正な顔をかたどったマスクを、いとおしそうに撫でていた。
「いくら撫でても、おまえの寿命は伸びんぞ――」
深みのある声が響く。
老人が振り向くと、自分以外は立ち入れないはずの室内に、黒いスーツを着た男がステッキを片手に立っていた。
「――それにしても集めたものだな。ファラオの黄金のマスク。これだけ完全な縄文式土器は珍しいのではないか?銅鐸に、夏王朝の頃の壺か。ここにあるのが本物で、博物館に腰示しているのが偽物と知ったら、国立博物館の連中は腰を抜かすだろうな」
豊満な女性を思わせる曲線を描く壺を、男は無遠慮にステッキで突いた。
壺は安定を失い、床に落ちて砕けた。
「ああ、なんてことを……」
散らばった破片を前に、老人はしゃがみ込んだ。
「おまえの心の一方にある思いを、代わりに実行してやったまでだ、津島一公。たかだか金属の塊や土くれの成れの果ての分際で、人間の何十倍、何百倍の時を超える。おまえはそのことに憧れながら、同時に凄まじいまでの嫉妬を感じていた。粉々に、跡形もなく消してしまいたい。人の目に触れないところへ隠してしまいたい。独占欲と破壊欲とが入り混じった感情――。そう、榊村美津子に抱いたのと同じ感情だ」
榊村美津子の名前が出て、津島一公は顔を上げた。
「永遠の命に憧れながら、嫉妬する。だからおまえは、あの女を支配下に置いた。えげつない手段でな。だが、榊村美津子は死んだ。おまえの孫も遺産を破壊された。残念だったな、津良一公」
津島一公は立ち上がった。
「ほんとうなのか、今の話」
「たった今だ。――来たか、骨董屋」
黒いスーツの男――イェマドの遺産管理人、裏次郎が出入り口のほうへ声をかける。入ってきたのは、黒い和服を着た女性――同じくイェマドの遺産管理人、江間水緒美だ。
「聞いてのとおりだ、水緒美。この男、命に対する執着が異様に強い。榊村美津子の秘密を知ると、強引に自分の子どもを産ませだ。さらに、その手どもが成長すると、榊村美津子と結婚させ、また子どもを産ませる。いつか自分の家系が長命になるのではないかという妄念に駆られてな」
「津島一幸は、榊村美津子の……」
「孫でもあり、息子でもある。妻の秘密を知った一幸の父、一光は自殺した。俺がこの男と知り合ったのは、その頃だ。もっとも、榊村美津子が居たのには驚かされたがな」
いつの間に取り出したのか、水緒美は右手に白扇を持ち、わずかに開いたり閉じたりを繰り返していた。
「人の心はどうにもならない――。それがこの男のつぶやきだった。息子に自殺された父親の嘆きかと思ったが、事情はだいぶ複雑だったわけだ。さらにくわえて、この男が人の心を支配して、何をやらせようとしたと思うね?」
裏次郎は陳列物の真ん中へ進み、ガラス・ケースにかけられた白布をステッキの先ではぐった。ミニチュアだった。ビラミッドとも方墳とも見える丘の上に、古代ギリシャ風の神殿が建っている。
「津島神殿。中央には津島御老人の御遺体が鎮座ましまし、孫によってマインド・コントロールされた人間たちが、一日三回、彼の人の名を崇めて祈りを捧ける。こうして死後も、津島一公老人は、永遠の命を得るというわけだ。素精らしい。私には考えもつかない構想だよ。今世のある宗教によれば、救世主は神の御子だそうだが、この老人は自分の孫を救世主にして、自分が神になろうとしたというわけだ」
それまで黙っていた津島老人が、裏次郎のほうへ歩み寄った。
「お願いだ、裏次郎。何か別の遺産をくれ。守護神だ。守護神をくれ。いや、何でもいいんだ。旱くくれ。そうでないと、私は――」
はたと気づいたように、水緒美のほうを向く。
「なあ、あんたもイェマドの人間なら、何か遺産を持っているだろり? くれ。命を一日でも伸ばす遺産はないか? くれ」
老人は涙を流しながら、水緒美の前で土下座した。
「金ならいくらでもやる。いや、わしの持っているものなら、何でもやる。だから、だから――」
水緒美の白扇から一条の光が伸び、細身の刃となった。光の刃は一瞬で、津島一公の妄念を断ち切った。
ガラスの砕ける音が響く、裏次郎が神殿のミニチュアにステッキを振り下ろしたのだ。
「これが特別な人間、異常な人間だとは言うなよ、水緒美。金も権力も握った人間でさえ抱えている、命への執着。この男は行動力があったにすぎん」
ステッキの先で、津島一公の死体を転がす。
「それにしても、遺産を相続したわけでもない人間を殺すとはな。少年――いや、ザンヤルマの剣士には見せられない人間だということか?」
「いいえ。私は、ことの顛末を話すつもりですよ、裏次郎」
「ほう?」
「あの子は、こんなことで潰れたりしない。世界に、人間に絶望したりしない。この世を滅ぼしたりはしないでしょうよ。あの子に、矢神遼に賭けますよ。それが、私とあなたの戦いでもあるんです、裏次郎」
水緒美の言葉に、裏次郎は心底愉快そうに笑った。
「いい度胸だ。さすがに俺が一度は愛した女だけのことはある。惚れ直したぞ、水緒美」
ステッキを肩に背負うと、裏次郎は屋根を突き破って消えた。
乾いた音を一つ立てて、水緒美の白扇が畳まれた。
*
津島一幸は蘭の鉢を動かしていた。貴重なものから順に、この温室から運び出そうというのだろう。一つひとつ丁寧に、選んでは腕に抱えている。
「津島一幸――」
遼の呼びかけに、丸い肩が滑稽なほど震えた。
振り向いた津島は、遼と目が合うと、頬を痙攣させ、手にした鉢を抱えて、そこへうずくまりそうになった。
「……あ、あの……オーキス・ムーブメントに参加していた皆さんには、お気の毒なことをしたと思っています。僕が弱くて、スタッフの暴走を抑えられなくて、それで……」
「榊村さんは死んだよ」
「あ、はい?」
「榊村さんは死んだ」
遼の言葉にどう答えたらいいのかわからないのだろう。鉢をしっかりと抱えて、津島はきよろきよろと視線をさまよわせた。
「あの……僕が悪かったんですよ、ほんとうに……ごめんなさい……僕……」
遼はゆっくりと津島一幸に近づいていった。
津島は後ずさった。だが、すぐに鉢の並んだ棚に背中がぶつかり、それ以上退がれなくなる。そのままするずると津島はへたり込んだ。
「責任とれよ」
遼はザンヤルマの剣を津島の首に当てた。
「簡単だよ。その先っぽを持って、横に引けばいい」
津島の垂れた目が見開かれる。
「そんな……僕だって披害者なんですよ。それに僕は、自分の責任だって、ちゃんと認めたじゃないですか。そんな僕を殺そうっていうんですか、そんな……」
「だから、責任をとれよ」
「もっと……もっと建設的に考えましょうよ、ね?もっと……」
責任は自分にあると口にはするものの、ほんとうの意味での責任はとろうとしない男、真の意味での責任能力がないにもかかわらず、いや、だからこそと言うべきか、救世主として担ぎ上げられた男、そんな男は生き残り、スタッフの暴走を口にして、自分を免罪し
ようとしている――。
簡単なことだ――。遼の心のどこかでささやき声がする。簡単なことだ。剣をちょっと横に払えば、津島一幸は――。
遼は剣を津島から遠ざけた。弛んだ順に安堵の色が浮かぶ。
下ろした剣を、もう一度振り上げ、無造作に、だが、怒りを込めて振り下ろす。
光の爆発が温室を満たした。色とりどりの蘭の花びらが裂け、焦け、飛び散った。鉢が、温室のガラスが、粉々になる。
一瞬、何が起こったのかわからない様子だった津島一幸だが、すぐに顔をくしやくしゃに歪ませて、泣き声を上けはじめた。
「何てこと、するんだ。ここには、日本に、いや世界にも二つとない、貴重な品種が集められていたんだぞ……もう、取り返しのつかないことに……ひどい、ひどいよお…:何てこと、したんだよお……君は、君はそれでも人間なのかよお……」
遼は、骨組みだけになった温室を出て、大型エレベーターに乗った。作業用のエレベーターは、屋上から一階まで直通だった。
本部ビルの建物の中には、もう誰もいない。ほれぼれするような機能的で洗練されたデザインの金属とガラスの塊が残っているだけだ。
遼は玄関を出た。氷澄が立っていた。だが、遼が出てきたのを確認すると、何も言わずに背を向けて歩き出した。
「遼!」
万里絵が駆け寄ってくる。
「榊村美津子は死んだ。オーキス・ムーブメントは完全に崩壊したと思う」
遼の言葉に万里絵が力強くうなずく。そして遼は、屋上でしたことを話した。
「――僕は最低の厭な奴なんだろうか……」
「少なくとも、そういうふうにあたしに尋く遼は好きじゃないな」
それでも万里絵の足取りは弾んで見えた。
剣を畳んで休みたい――。全身を覆う疲労にそう感じてはいたが、もう少し、万里絵と肩を並べて歩いていたかった。澱んだ夜の熱気の中ではあったが。
[#改ページ]
エピローグ
九月に入って間もなく、ツシマ・ネットワーク販売は訪問販売法違反容疑で摘発を受けた。自己実現セミナーを中心的な業務としている関連会社、ツシマ総合コミュニケーションを主な舞台とした不正経理も明るみに出た。実権を握っていた会長の津島一公が心不全で急死したため、企業グループ全体が混乱に陥った。
株式会社「県民ドーム」が、ツシマとの不明朗な関係を追及されることになったのも、この事件がきっかけである。前触れとして、県内の高校の合同行事であるマーチング・バンド大会がへ開催日の直前になって一方的に会場使用を拒否されるという事件かあった。
しかも、代わりに得体の知れないイベントが挙行されることになっていたのだから、穏やかではなかった。理由の説明もなく、違約金を払うという形で解決しようとしたことが騒ぎを大ぎくした。そして、その金も、実際にはツシマの金庫から出ていたのである。
地元の有力な地方紙である「中央県民新報」が、その社説でこの事件に言及し、「県民の文化的、健康的な活動に貢献すべき公共性を持った施設が、反社会性を指摘されることも多いネットワーク販売会社の不明朗なイベントに会場を優先使用させるために、理不尽な使用拒否をしたこと、さらに札束で頬をはたくようなやり方で解決を図ったことに対して憂慮の念を表明」したことは、多少の記憶力を有する人間にとっては滑稽だった。何となれば、社説子の言う「反社会性を指摘されることも多い」会社の「不明朗なイベント」を、「経済成長のかけで大切なものを忘れかけている現代人に心のうるおいを取り戻すための場」として称賛していたのが、他ならぬ「中央県民新報」の二週間ほど前の社説であったからだ。健康上の理由で地位から退いた「中央県民新報」の社主についても、金銭的な不正を追及されると、健康上の問題を口にするのは世の常と、冷笑をもって迎えられた。
もちろん、与党の県本部、青年会議所は平穏無事である。何等後ろ暗いところのない、
清廉潔白な人間が、何で法の番人の追及を恐れることがあるだろう。
若い世代にとっては教祖的な存在であるミュージシャン大高勇二がニュー・アルバムの発表直後、一年間の活動休止を発表したことは、芸能界に大きな波紋を起こした。サングラスに不精髭というスタイルで記者会見の席に臨んだ大高は、これはアーチストとしての自分の精神的な向上を図るための時間であるとし、音楽活動から遠ざかる一年間は、インド、チベットを放浪すると口にした。人間の生と死の間題について考えることが必要なのだ――短い会見の時間を、大高は『死者の書』を片手にそう言って締めくくった。愛人に産ませた子どもの認知を迫られているのだとか、大高はだいぶ前からドラッグに手を出しているのだとか、そんな無責任な噂も聞かれた。芸能人であれば仕方のないことである。
コラムニストの伊吹美映子は、新だに自己実現セミナーを開始した。特に若い女性の応募が殺到し、会場の手配が追いつかない状態である。
マルチ・クリエイターの小竹信吾は映画制作に乗り出した。自らメガホンも取るという映画の主題は、宗教であるという。教祖はアイドル、ミサはライブ――制作発表で小竹が口にしたこのフレーズが、そのまま映画の宣伝コピーに流用された。
覚命寺という小さな寺でぼやが出た。有名な寺でもなく、たいした火災でもなかったため、新聞の地方版の小さな三面記事として採り上げられただけだった。
そして、蘭栽培愛好家の専門誌「愛蘭土」がひっそりと休刊した。原因は、有力出資者が手を引いたためだという。
交通事故で不慮の死を遂けた歴史学者、国坂喜一郎教授の葬儀は、無宗教で行なわれた。
新聞に載ったのは、顔写真さえ入らない小さな記事だった。同じ研究者や、大学関係者でさえ欠席した者が多かったにもかかわらず、かつての教え子たちが多数参列したことが故人の人柄を偲ばせた。
若い教え子たちの何人かは、人間嫌いの偏屈者として知られている氷澄丈太郎の姿を見かけて驚いた。ダークグレイのスーツを隙なく着込んだ氷屋は、献花だけ済ませると、誰とも口をきかず、目を合わせることさえ避けるように、足早に会場を立ち去ったという。
*
「あなたの健康と幸福を祈らせてください。三分でいいんです」
質素な白いシャツを着た若い女性の呼びかけを、まるで聞こえなかったかのように、遼は無視して歩いた。九月に入ったというのに暑さは相変わらずで、いっこうに涼しい風が吹いてくる様子もない。照りつける日差しがアスファルトの路面に反射して、まぶしいくらいだ。上からも下からも熱が押し寄せ、歩いているだけで汗がシャツを濡らす。
――それにしても、僕はそんなに不健康で不幸そうに見えるんだろうか……。
ターミナル駅の前を歩いている間に、声をかけられたのはさっきので三回目だ。
鵬翔学院の教師の問では、生徒にレポートを書かせるのが急に流行りはじめたのか、今日は、美術のレポートを書くためにデパートの印象派展を見学に来たのだ。それも、どういう訳か、前の晩に電話をかけてきた万里絵と待ち合わせて。
『一緒に行けばいいじゃない』
確かに、同じマンションの四階と五階に住んでいながら現地集合というのも変なものなのだが、それ以上押しても遼が折れないと悟った万里絵は譲歩した。
――ちょっと、早かったな……。
駅前広場のブロンズ像の前で時計を見る。約束の時間より一五分ほど早い。
「――なのです。さあ、心の扉を開いてください――」
車の騒音の間から漏れ聞こえてくる声――。遼は耳を澄ませ、声のほうを見た。
「――あなたが心ある人間なら、津島一幸先生が私たちに訴えかけたことの重大さ、重要さがわかると思います――」
白いシャツに黒いズボン。鉢巻きを巻いて、たすきを掛け、署名を募るためだろうか、美術の時間に使う画板のようなものを首から下げている。幟旗を片手に、顔を真っ赤にしてメガホンで叫んでいるのは、粂沢博樹だった。
「――私が何より許せないのは、津島先生のお祖父さんの会社が摘発されたという、本来、津島先生とは何の関係心ないことを理由に、津島先生を誹謗する人間、津島先生の主張をあざ笑う人間、津島先生のなさろうとしたことを非難する人間がいること、さらに、事件をきっかけに、津島先生を見捨て、無関係を装っている人間がいることです!」
――榊村さん、あなたは正しかった。いや、事態はあなたが考えている以上のものだ。
第二の津島、新たなオーキス・ムーブメントどころか、津島本人、オーキスそのものの復活を望む人間がいるのだから……。
思えば、あの日、本部ビルに居なかったスタッフ、ムーブメント参加者は、どれだけの数に上るだろう。自殺者が出てないのがせめてものなぐさめか。
――そして、僕のしたことは……。
苦いものが込み上げる。遼は逃けるような足取りで、その場を離れた。
――気づいてくれ、粂沢くん。何故、津島一幸が身を隠してしまったのかを……。
「すみません、あなたの健康と幸福を――」
避けるという意識さえなしに通り過ぎる。
不意に腕を掴まれ、遼は立ち止まった。
――マーちゃん……。
白いTシャツに、珍しくジーンズのミニスカートといういで立ちの万里絵がニッコリと笑う。
「……あ……あのさ……」
言葉が出てこなかった。
「――ああいうのに声をかけられない方法を教えてあげようか?」
駅前のあちこちで道行く人に声をかけている質素な身なりの若者たちをちらっと見て、万里絵が言う。
気圧されるように遼がうなずく。
「こうするの」
万里絵は遼に寄り添って、しっかりと腕を組んで歩き出した。
「ちょ、ちょっと、マーちゃん――」
「さっきより、多少は幸福に見えると思うけどな」
何故か、涙が出そうになる。
「――あのさ、今度の連休、神田川くんのところは家族旅行だって」
昨日の教室での雑談を思い出して、万里絵に報告する。万里絵の大きな瞳が遼にほほ笑みかけた。
確かに、さっきよりは多少幸福かもしれない――。そう思った。
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あとがき
ザンヤルマの剣士・矢神遼、三度目のお務めです。今回は、夏の終わりに起こった、寝苦しくなるような事件をめぐって展開します。この本の発売が八月下旬。読んだあなたが、新学期に学校でみんなと顔を合わせるのが恐くなったら、最高ですね(って、そんなに凄い話じゃないけど)。考えてみると、作中の季節と、本の出版時期が一致しているのって、これが最初だな、麻生にとっては。
ときに、本編で言及されている一か月前、二か月前の事件について詳しく知りたい人は、本屋さんへレッツ・ゴーだ(笑)。
ところで、麻生が言うのも何ですが、今回のストーリーは単純です。『ノーブルグレイ』のように、バラバラな事件が絡み合うような展開はありません。その分、事件と、それをめぐる主役、ゲストの描写にはかなりの紙幅を費やしているつもりです(値段が……)。
遼が、氷澄が、万里絵が、そして今回のゲストがとった考え方や行動は正しかったのか。
比べてみると面白いと思います。そして、読み終わった時、あなたはどう考えたのか。よかったら聞かせてください。
なお、マインド・コントロールについて、本文中では、宗教カルトと教育カルトを混ぜたり、部分的に省いたり膨らませたりしていますが、基本的なところは外していないつもりです。特に参考になった本をあけておきますので、興味を持った方は読んでみてください(うーむ、まるで小説家になったみたいだ)。
二渾雅喜、島田裕已『洗脳体験』JICC出版局
福本博文『心をあやつる男たち』文蔀春秋
S・ハッサン『マインド・コントロールの恐怖』恒友出版
この物語はフィクションであり、本作品に登場する人物、団体、は架空のものであることをお断りしておきます。
話変わって身辺雑記。先日、ファンタジア大賞出身作家を中心に飲み会をやりました(一応、理由はついていて、小林めぐみさんはスニーカー文庫進出記念、大林憲司さん、富永浩史さんは出版記念。ちなみに、皆さんにサインをねだった顰蹙者は麻生だ。駝鳥のたかむらさんイラストまで書いてくれた小林さん、ありがとう)。皆さん、書いているものは全く違うけれど、真面目というか、真剣というか、自分の書く小説を面白くしようと、いろいろなことを考え、勉強しているんですね。当たり前だと言われそうですが、改めてそういう熱気みたいなものに触れると感動しますね。あの時に出た話題が作品になるのかと思うと、ワクワクします。ここに名前をあけた人の作品は要注目と、声を大にして言っておきましょう。
まさか、こんなに早く三冊目が出るとは、作者である麻生も予想していませんでした(自分のことだろ。予想しちゃいかんな、努力せにゃ)。これもひとえに読者の皆様のご声援と、担当Mさんのご助力あってのこと。改めて、御礼申し上げます。
今回も勉強になりました。学園物は夏休みを書かないほうがいいとか、流血戦を避けても、主人公がひどい目に遭うのは変わらないとか。貴重な教訓は次回に活かすつもりです。
次は体育祭か学園祭かな。いきなり期末試験とか。
最後になりましたが、担当のMさん、毎度ご迷惑をおかけします。次はもう少し早く原稿をあけますね。
弘司さん、毎度、絵になりにくい内容ですみません。今回は、万里絵と榊村美津子ですね。男性ゲストは、あんまり見たくなかったりして……。
技術顧問のasukaさん。今回も麻生の素朴な疑問にお答えいただき、ありがとうございました。
まんが家のがぁさん先生。今回は、あまりお手を煩わせずに済みました(ど顰蹙な電話を二、三回かけたけど)。お仕事がんばってくださいね。
テリオスのKさん、いいかけん万里絵を好きになってよ。
職場の上司Kさん。すみません、皆さんの足を引っ張らないように気をつけますから。
麻生より後から書きはじめて、先に本が出た大林憲司さん。これからも励ましあっていきましょう。
あと、田野奈々さんのお母さん、いきなり電話で味噌汁の実を尋かれて面食らったことでしょう。ご協力ありがとうございました。
そして、誰よりも、この本を読んでくださった読者のあなたに感謝します。お手紙を下さった方、全部、何度も読み返しています。ありがとう。ほんとうにありがとう。
一九九四年七月
麻生俊平
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ザンヤルマの剣士
オーキスの救世主
著者―麻生俊平
平成6年8月25日 初版発行
平成9年4月1日 五版発行
テキスト化
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2008/06/07