土の子供
麻城ゆう
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)山裾《やますそ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)全身|鱗《うろこ》
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(例)[#地付き]END
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[#ここから2字下げ]
アーリ、
俺と一緒に来るか?
[#ここで字下げ終わり]
土の子供
[#地から1字上げ]著/麻城《まき》ゆう
[#地から1字上げ]イラスト/木々《きき》
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敗因は、山裾《やますそ》で食事をした飯屋の給仕の姉ちゃんがえらく別嬪《べっぴん》だったことだ、などとしようもないことをその男は考えていた。
泡雪《あわゆき》を全身にまぶしたようにふわふわな白い羽毛で、全身を包まれていた。
もっとも、その娘《むすめ》を別嬪と言い切る男の感性には、異論を唱える者も多いだろう。全身毛皮とか全身|鱗《うろこ》といった獣相《じゅうそう》に比べて、羽毛は少ないし、あまり好まれない傾向にあるのだ。
ただし、この地方には、鳥系の獣相の種族が多いようで、稀少《きしょう》種族とされる翼《つばさ》を持つ者はさすがに見掛《みか》けなかったが、鶏冠《とさか》とか嘴《くちばし》を持つ人間は多い。そんな中ではもちろん、その娘もたいそうもてるだろう。
ただ、世間|一般《いっぱん》の基準として、その羽毛の娘は、種族を超《こ》えてどんな人間にも好まれるタイプの容姿ではないということだ。
男には、獣相と呼べるほどの特徴《とくちょう》はない。しいていえば眼光鋭《するど》い灰色の目が猛禽類《もうきんるい》を思わせる形であることと、大柄《おおがら》でややいかつい顔立ちに鷲鼻《わしばな》が目立つため、大鷲のイメージがある。
だが、それでも男の皮膚《ひふ》は羽毛でも毛皮でもなかったし、牙《きば》も角《つの》もない、獣相を持たないとされる人間の姿だった。
この世界の神である月……月輪王《げつりんおう》と呼ばれるその神が、人間にその者の才を示すために与《あた》えたとも伝えられる獣相は、実際|性癖《せいへき》に影響《えいきょう》していると思われる面が強い。肉食獣の獣相を持つ者は獰猛《どうもう》な気性の傾向《けいこう》にあり、草食獣のそれは慎重《しんちょう》で臆病《おくびょう》な気質であることが多いのだ。
また、翼ある者は飛び、鰓《えら》のある者は水中で生活できるといった、より明確な特質を持つ場合もあるが、逆にまったく獣相を持たない者は、それを必要としないほど強いか、他の種族に隷属《れいぞく》するしかないほど弱い種族なのだとされていた。
ともあれ、その獣相のない男は、他種族である羽毛の娘をくどいたが、本気だと思ってもらえなかった。ちょうど羽毛の抜《ぬ》け替《か》わりの時期で、同族でも触《ふ》れ合うのを嫌《いや》がるような状態だったから、まして羽毛のない人間に好かれるとはその娘はまったく思わなかったらしい。
だが、男の目には、抜けかけた羽毛のせいでよりふわふわに見えるその娘の肌《はだ》や、時々|舞飛《まいと》ぶ羽のかけらが雪のようできれいに思えたのだ。
「姉ちゃん、俺《おれ》と付き合わねえか? お姫様《ひめさま》みたいな暮らしさせてやっからさ。一緒《いっしょ》に行こうぜ」
そう言ったが、娘は頭から冗談《じょうだん》と受け取ったようだった。だが、悪い気はしなかったらしい。
「一緒に行くのはまっぴらだけど、今から出掛けたら山越《やまご》えする前に太陽が昇《のぼ》ってしまって危険よ。うちの店、宿はやってないけど、酔《よ》いつぶれた人はそのまま寝《ね》かしているからほとんど宿みたいなもんよね。一泊《いっぱく》して、日没《にちぼつ》を待って出掛けたらどう?」
思いやりはかけるが脈はないといった口調だったので、男はつい、格好つけて言ってしまった。
「俺が太陽を恐《おそ》れるような、臆病者に見えるとでも言うのかい?」
で、……今、後悔《こうかい》している。
あの飯屋に、泊《と》めてもらうべきだった。
太陽を恐れないと言ったのは、嘘《うそ》ではないのだが、本音は野宿よりも宿に泊まったほうがいいし、トラブルにも巻き込まれないに越したことはない。
しかし、ここまで来てしまったものは、仕方がない。
正確には、誰《だれ》も太陽自体を恐れはしない。満ち欠けする月に対して、いつも完全な円形を保ちながら、太陽は三日月《みかづき》の輝《かがや》きにさえ負ける。鈍《にぶ》くぼんやりとした明かりと、けだるい中途半端《ちゅうとはんぱ》な熱しかもたらさない太陽は、空には不要なものだとさえ思われている。
大地に豊かな光輝《こうき》を注ぎ、すべての生命を育《はぐく》む月の恵《めぐ》みに比べたら、太陽はあまりに希薄《きはく》な存在だった。
だが、それでも、人は太陽を厭《いと》う。正確には、太陽が天にある時間帯を恐れるのだ。
月と太陽は、まるで二枚羽根の風車のように、なぜか必ず交互《こうご》に天を巡《めぐ》る。月の出が日没であり、日の出に月が沈《しず》む。
だから、月光を恐れるとされる妖魔《ようま》、妖怪《ようかい》の類は、太陽の時間帯に跋扈《ばっこ》する傾向にあるのだ。
また、暗がりで目がきかず動きの鈍る小動物を狙《ねら》う凶暴《きょうぼう》な野獣や、人目を避《さ》けようとする盗賊《とうぞく》の類も、太陽の下で動きがちだ。
つまり、陽光下で外をふらつくような者がいたとしたら、犯罪者かよぼど腕《うで》に自信があるか、かなりの間抜けということになる。
人は、太陽自体を恐れなくても、陽光下でうごめく悪《あ》しきものを恐れる。
まっとうな人間ならば、月の下で働き、太陽の下では戸締《とじ》まりして魔除《まよ》けをした家の中で、眠《ねむ》っているのがふつうなのだ。
せっかくの飯屋の娘からの寝場所提供の話を断って、わざわざ太陽の下で山奥《やまおく》に入り込むような真似《まね》をしたこの男の場合、しいていえば腕に自信のある犯罪者で、少しばかり間抜けだった。
野獣も妖怪も怖《こわ》くはなかったが、土砂降りの雨になるとは考えていなかったのだ。
それでなくても薄明かりの陽光が、厚い雨雲に遮《さえぎ》られて、新月の時のような暗闇《くらやみ》になっている。完全に月が欠ける新月の時には、さすがに真っ暗になるので、月の時間よりは太陽の時間のほうがまだ明るいわけだが、今日の暗さは新月の闇と大差ない。
月は愛されるが、新月の時だけは、人人に太陽以上に厭われる。新月の闇の中では、妖魔、妖怪も怯《おび》えるような悪霊《あくりょう》が飛び交《か》うとされているからだ。
(新月並に暗い太陽の時間って、なんだか最低な気分。闇だけならばなんとか目もきくがなー、このあたり一面|滝《たき》って感じの雨粒《あめつぶ》越しじゃ、よほどの至近|距離《きょり》じゃないとなんかが近寄ってきても見逃《みのが》しそうだ)
男は大きな照葉樹の下で、とりあえず雨宿りしていた。
神経を研ぎ澄《す》ます。この山の中のさまざまな霊気《れいき》を感じ取る。
巣穴《すあな》の奥深くに籠《こ》もって震《ふる》えている小動物や、この雨で狩《か》りをあきらめて物陰《ものかげ》で休んでいる獣《けもの》、それにまったくめげずに獲物《えもの》を求めて徘徊《はいかい》している獣……それらの気配の中に混ざって、妖気《ようき》を発しながらうろついているものもいる。
(やれやれ、シチュエーションにふさわしく妖怪の類がいるな、この山。
ん……? なんだ、この気配? この霊気は、精霊か? それにしては……)
男は戸惑《とまど》う。見慣れぬ形態をとった精霊の群れだったのだ。地中を並外れた速度で移動している。
気配も、地中にいることから考えても、土霊《どりょう》のようだったが、違和感《いわかん》を覚えたのは、それが万物に宿る自然精霊とは異なる動き方をしていたからだ。
何か意図を持っているかのような、動物的な動き。それに、自然にはありえない規模の群れだった。今いる山よりもさらに数倍の膨大《ぼうだい》な土が動いているかのような、土霊の霊気を感じる。
だが、それでいて、地中を走るその存在はひどく小さい。著しく凝縮されているかのように、それ自体は片手でもつかめそうな小動物のようだった。
(意識を持った小動物のような、濃厚《のうこう》な精霊の群れ? 人に飼《か》われたことのある野良《のら》精霊だろうか。魔道者《まどうしゃ》に長年支配されて、疑似意識を与えられていたような精霊は、たとえばその魔道者の死などでいきなり支配から解き放たれた場合、疑似意識を棄《す》て損ねてそのまま生き物のような動きをとることがあるというが……)
そんな考察を、男は打ち切る。のんびり観察している場合ではなくなった。
それは地中を暴走している猪《いのしし》のように進むので、進行方向はたやすく予想できる。その土霊の濃厚な塊《かたまり》は、男のいる方を目指していた。いや、男自体を目指していたのだ。
男は、飼われることに慣れた精霊は自由になっても飼い主を求める傾向にある、ということを思い出す。
「冗談じゃねえぞ。そんな面倒《めんどう》なもん、背負《しょ》い込めるかよ」
男は舌打ちし、豪雨《ごうう》の中へ走り出す。
雨はすっかり小降りになり、雲の切れ目から陽光が差し込んでいる。といっても、真っ暗闇だったものが、薄闇になったという程度の明るさだった。それでも、太陽はほぼ天頂にあるので、日の出間近よりはずっと視界はいい。
男は、自然にできた獣道よりは少しだけましといった細々とした山道の傍《かたわ》らに、ツバメの巣を思わせる泥《どろ》を練り上げて造ったような土壁《つちかべ》の家があるのを見つけた。
思わずその前で立ち止まったのは、よく先刻までの豪雨で溶けて流れなかったものだと感心したからだ。かなり古びたその家には、『旅籠《はたご》』という札がかかっている。
男は少し考えて、その家の入り口の朽《く》ちかけている木戸をくぐる。
そこは、小ぢんまりとした酒場のような造りだった。奥が宿になっているようだ。どこもかしこも埃《ほこり》にまみれていて、灰色っぽく見える。
少々ひびの入っている壁には、手配書の類が何枚も貼《は》られている。こういうものを目立つところに貼るのは、善良な店だという演出のための場合が多い。
男は、その中の二枚に自分の顔を見つけて苦笑する。
いや、顔というより、名というべきかもしれない。ここしばらく名乗っていた『マーキアス・ガイ』という名が、そこには書き込まれている。
一枚はへたな手描《てが》きの絵で、もう一枚は魔道者を使って、写し絵の魔道で作ったもののようだった。しかし、どちらも似ていない。もろに猛禽類の獣相……というより、大鷲そのもののように見える。
(記憶《きおく》に残るイメージを練って、画布に焼き付ける写し絵の魔道は、特徴が強調される傾向にあるからなあ。なんか凶暴そうな顔だなあ。
それにしても、手描きのほうはともかく、魔道者まで雇《やと》ったらしい絵にしては、安い賞金額だぜ。こいつって確か、涙《なみだ》ながらに命だけはお助けくださいと平身低頭しやがったやつだよなあ。見逃《みのが》してやったってのに、自分の悪事がばれるのが怖さに、逆ギレして俺の命を狙うとはいい度胸だ。
けどなー、いくらびびっていたにしても、俺の顔ぐらい覚えてやがれ)
ふつうならば、手配書の貼ってある宿にわざわざ泊まるお尋《たず》ね者はいないだろうが、似ていないからかまわないだろうと、男は奥に進んだ。
「おーい、誰かいないのか?」
廃屋《はいおく》なのかもしれないという気もした。その場合は勝手に泊まり込もうと思っていたのだが、応じる声があった。
「お客様ですか。でも、旅籠はもうやめているんですが」
「酒も飯もなしでいいから、寝場所だけ貸してくれないか。甘《あま》く考えて山越えしようとしたら、酷《ひど》い目に遭《あ》ってな。月が昇るまで動かないほうが無難そうだ」
「あ、ああ、そりゃあすごい土砂降りでしたものね。本当に何もおかまいしないでよろしいのでしたら、奥のお部屋へどうぞ」
薄暗い廊下《ろうか》の奥から、小柄な老女が出て来た。客商売を意識しているとは思えない汚《よご》れたみすぼらしい着物を、だらしなく身に着けている。
土色の薄い毛皮に全身包まれているようだが、歳《とし》のせいか、それとも栄養が足りていないのか、ところどころはげている。鼻先が黒く湿《しめ》っていたので、犬の類の獣相にも見えたが、耳朶《じだ》が見当たらないのと、黒くて円い目が顔の大きさに比べて小さいこと、それに鼻先が突《つ》き出るように尖《とが》りすぎているので、どうやらモグラのようだった。
それほど珍《めずら》しい獣相ではなかったが、鳥系の獣相の人間がやたらに目についたこの土地では、少ない種族なのかもしれない。
老女はその小さな目で、値踏《ねぶ》みするような視線を男に向ける。どういう人間なのか、怪《あや》しんだのだろう。
男は、かなり上質の生地を使った仕立てのいい服を着込んでいたのだが、それを着崩《きくず》した感じが、かなり鍛《きた》えているらしい大柄な体躯《たいく》と微妙《びみょう》に不調和で、なんだか正体不明に見えるのだ。
まっとうな人間のふりをしている盗賊か、大金持ちのふりをしている詐欺師《さぎし》、あるいは逆に、貴人の御曹司《おんぞうし》が庶民《しょみん》のふりをしているようにも見えるという、得体の知れなさだった。
なにより、青年に見えるが、見た目の数倍|齢《よわい》を重ねていても不思議のないような、老成した雰囲気《ふんいき》がある。老女が戸惑っても、無理はない。
男は察して、言う。
「あ、俺は商人だよ。身軽なのは、さっきの大雨で荷物を流されちまってな」
言い訳じみた言葉を信じたのかどうか、老女は愛想良く応じる。
「そりゃあ、ご災難でしたね」
「月が昇ったら、拾いに行くからいいさ」
そして老女は、いかにも安宿といった質素な部屋に案内してくれた。それでも、一番奥にある、この旅籠では最も広いよい部屋であるらしかった。
それは、眠っている男に腕を伸《の》ばそうとする。いや、腕ではなかったかもしれない。それには、腕とか胴体《どうたい》といった部位の区別は存在しなかった。
しいていえば、不定形の軟体《なんたい》動物のようにとりとめもない動きだった。だが、その表皮は決して柔《やわ》らかくはない。
松毬《まつかさ》のようなかさかさに乾《かわ》いた木屑《きくず》めいたものが、鱗のように全体を包んでいる。動いているそれに、生物の気配はない。まるで朽ち木がただ風に吹《ふ》かれて揺《ゆ》れているかのような、生命とは無縁《むえん》の動き。
それを動かしているのは、生気ではない。妖気だった。それは、物怪《もののけ》。おそらく腐《くさ》った草木や土に宿った澱《よど》んだ邪気《じゃき》が、生み出した化け物。
だが、その妖気には、この土地と微妙な親和性がある。その物怪は、この山で生まれた主《ぬし》のようなものらしかった。それの発する凄《すさ》まじい妖気は、多くの殺戮《さつりく》を繰《く》り返して他の生命を食らって、力を蓄《たくわ》えてきたことを示している。
物怪はむろん、男を食う気だった。腕のようにも見える突起《とっき》を伸ばして、眠っている男にのしかかろうとする。
が、その動きは硬直《こうちょく》したように停止した。それは、男を見失ったのだ。
「百か、それとも千か、人間を食らってきただろう、おまえ。でも、てんでなっちゃねえな。そんな動きをしているようじゃ、おまえもここで終わりだ」
その声がどこから聞こえるのか、その物怪には確かめる余裕《よゆう》もなかった。次の瞬間《しゅんかん》にはその巨大《きょだい》な松毬のようなものは、粉々に砕《くだ》け散っていたからだ。
男は部屋から出て、宿の中を歩き回る。確認《かくにん》したいことがあったからだ。
物怪が出るような土地ならば、いや、そうでなくても、守護の呪符《じゅふ》などを貼って守りを固めるはずだ。だが、呪符があるべき位置の梁《はり》や柱には、そういったものが貼られていた時もあったらしいという痕跡《こんせき》はあっても、今現在は何もない。
「ちっ、宿をやめたから呪符も貼らなくなっていたってことか。だったら、一言ぐらい声をかけておけよな」
男はぼやきながら、老女を探す。
老女は出口に一番近い部屋で眠っていたので、男はたたき起こす。
「こら、婆《ばあ》さん、不用心にもほどがあるだろうが」
老女は、男が物怪を屠《ほふ》ったことを聞くと、ひどくおどおどと恐縮《きょうしゅく》して応じる。
「申し訳ありませんです。入り口近くで寝ていたあたしを無視して、奥のお客様のほうを狙うなんて、思ってもみなかったもんですから」
男は顔をしかめた。整ってはいるがいかつい顔立ちなので、怒《おこ》っているかのように見えて、老女は思わず身をすくませる。だが、男は思いの外、優《やさ》しい声で言った。
「婆さん、おめえ、死にたいのか。なぜなんだ?」
そのとおりだった。老女は死にたかった。でも、自殺をするのも怖かった。だから、呪符も貼らず、入り口付近にいつもいて、物怪が襲《おそ》ってくれるのを待っていたのだ。
もっとも、今まで襲われることがなかったのも、今日物怪が老女ではなく男を襲おうとしたのも、おそらく干涸《ひか》らびたような老女では食いでがないとでも思い、無視したといったところだろう。
薄々、物怪は自分を食いたくないのかもしれないと思い始めていた老女は、今日のことで二重に失望していた。物怪には老女を襲う気がなかった上に、死んでしまったのだからもう決して襲ってはくれないのだ。
「いっそお客様がお尋ね者の盗賊か何かだったらよかったのに。ああ、でも、あたしなんざ襲っても、なんの儲《もう》けにもなりゃしませんよね」
自嘲《じちょう》的につぶやいた老女に、男は言う。
「なんぞ訳でもあるのか?」
老女は自分の失望感にとっぷり浸《つ》かっていたので、声をかけられたことも意識していなかった。
男は腑抜《ふぬ》けた様子の老女に、いきなり怒鳴《どな》りつけた。
「訳を話せって、言ってるんだ!」
老女は怯えて、やや混乱した口調でなんとか答える。
「その、孫が死にましたです。あ、その、そう、事故で、いきなりで……つれあいにも娘夫婦にもだいぶ前に、はやり病で先立たれてたもんですから、あたしのたった一つ残った生き甲斐《がい》でしたのに……」
涙ぐむ老女に、男は言う。
「そりゃあ、気の毒なこったな。なんて名前で、幾《いく》つぐらいの子だ?」
「アーリといいまして、十歳になったばかりでしたです」
男は、老女をしげしげと見つめる。
やっぱりモグラに似ていると思う。涙でうるうるになった小さいがつぶらな目は、土の底のような暗い色をしている。
(ふうん。モグラの獣相のせいか、土霊と相性よさげだな)
そんなことを思いながら、男は内緒話のようにささやく。
「その子供、生き返らせてやろうか?」
「確か、このへんだったのだが……」
月は天に輝いている。しかも満月、まばゆいばかりの光輝は、雨上がりの濡《ぬ》れた草木をあざやかな緑にきらめかせ、半日前の暗闇の豪雨が嘘のように思えるほど、山の様子を一変させている。
おかげで少々山中を迷ったが、しばらくして見つけることができた。
それには目立たぬように、霊気の発散を抑制《よくせい》する魔道をかけておいたのだが、間近に行けばそんな魔道はなんの意味もないような、目立つ代物だった。
地面が動いている。地面そのものが、這うようにうごめいている。
その下にモグラか何かがいて、土を掻《か》き進んでいるかのようにぼこぼこと地表が変形していくが、モグラだったら何百匹が一度に動くような規模だった。
なにしろ、人の胴ぐらいも太さのある照葉樹の群れが、およそ三十本ほどその地面の上で跳《は》ねていた。
地面は、その場でうごめいているのではなく、前進していた。その土は、たとえるならば生物のように、別の土を捕食し、排泄《はいせつ》するといった動きをすることによって、前進し、巨大化していた。
「やはりな。こんなことになっているんじゃないかと、思ってはいたんだ。本能だけの存在に取り憑《つ》かせるには、荷が重かったんだよなあ」
男はつぶやくと、跳躍《ちょうやく》し、のたうつ地面の中心部へ降り立つ。
土は男を呑《の》み込もうとするかのように、足にからみついてきたが、男は気にせず中腰《ちゅうごし》になり、一気に拳《こぶし》を地面に叩《たた》きつけた。
うごめく土は軟《やわ》らかくもあったのだろう。男の片腕は、肘《ひじ》のあたりまで地中にめり込んで、その瞬間、土の動きが停止する。
まるで息の根が止まったというふうに、静かになってしまった土の中から手を引き抜くと、男は拳を開く。そこには、地中で捕《と》らえたものがいた。
それは、一匹の地虫。人の親指ぐらいの大きさで、半|透明《とうめい》で白い幼虫のようなものだった。その地中の生き物は、男の手のひらの上で、月光に晒《さら》されたことに怯えるように、ひくひくと動いている。
見掛けはただの、無害な地虫だ。だが、それに宿る霊気の強大さは、断じてただの虫のものではなかった。
男は、昨日、この山中であの尋常《じんじょう》ではない土霊の塊に取り憑かれそうになった時、とっさに地虫を身代わりにすり替えたのだ。つまり、あの妙な野良精霊らしきものを、結果としてこの地虫の中に封《ふう》じ込めてしまった。
むろん地虫には、そんな大きな力の使い方などわからない。ただ本能のままに動いた。だから、土の精霊の霊気に感応した大地は、一匹の虫の本能と化して、這いずり始めたのだ。
男は、この事態を多少予見していた。放置しておくには、地虫とそれに宿った膨大な霊気の釣《つ》り合いが悪すぎて、大変なことを引き起こすような気がした。どうすればいいか、ずっと考えていたのだ。
この地虫を殺せば精霊は離《はな》れるが、また男を狙って取り憑こうとされると面倒だし、かといってこれほどの精霊の力を他人にくれてやるのも惜《お》しい気がする。
だから、あの老女の旅籠に泊まったおかげで思いついた悪戯《いたずら》を、男はかなり気に入っていた。地虫をつんつんと指先でつつきながら笑って、男は言う。
「おい、虫、おめえをあの婆さんに、押《お》しつけてやろう」
そして、男は呪文《じゅもん》を唱える。
それは、数多《あまた》の種族、さまざまな文明が存在する、この月が統《す》べる世界においても、どこにも存在しない言葉だった。いや、人の言葉ですらなかった。この世ならぬものとしかいいようのない呪文。
男の口から発せられる旋律《せんりつ》に合わせ、この世ならぬ霊気が寄り集まってくる。
死霊だった。
満月が空にある。まばゆいばかりの光にあふれ、生命を謳歌《おうか》する世界がある。死霊が這い出てくることなど、できるはずのない時間だった。
月光には、死霊を祓《はら》う力がある。この世の神である月に逆らい、しかも満月の光の中で現世に留《とど》まることができるはずなどないのだが、死霊たちは間違《まちが》いなく、男の呪文によって召喚《しょうかん》されていた。
死霊の数は百近い。男は、月光の中では形さえ定かにとれぬ弱々しい死者たちの霊気に視線を走らせ、告げる。
「おめえたちの中に、アーリという者はいるか? いるのならば我が元に参れ。残りの者どもは散ってよい」
死霊の群れの中から一体が抜け出て、男の手元に近づく。そして、残りは霧散《むさん》した。
男は、アーリの死霊に語りかける。
「おめえ、旅籠の子だろ。婆さんのところへ帰りたくねえか?」
「ウン、帰リタイ。オ婆チャン、寂《さび》シガッテイル。僕《ぼく》ガイナイト、生キテイケナイッテ、言ッテタモン」
「そういや、事故死って、どんな事故だったんだ?」
「知ラナイ。気ヅイタラ、死ンデタモン。背中、痛カッタカナ? ヨク覚エテナイ」
「ふうん。即死するような不慮《ふりょ》の事故かな。病で長く寝込んだ後ならともかく、そんな急のことじゃあきらめがつかなくて、婆さんがあんなに未練を持っても仕方ないか。
アーリ、おめえに肉体をやるぞ。婆さんのところへ戻《もど》ってやるといい」
男は地虫を地面に置いた。そして、呪文を唱える。
今度はわりと多く使われる、この世界の呪文だった。土霊を操り、下僕《げぼく》となる動く土人形を作る呪文。
土が、虫を核《かく》として固まっていく。人めいた形となっていく。それはまだ粗雑《そざつ》な輪郭《りんかく》にすぎないが、十歳ぐらいの子供の大きさに見える土の塊となった。
もっとも、目鼻もなく指先なども整っていないので、土人形というより、その前段階といった感じだった。
「アーリよ、自分で細部は整えるといい。
あ、難しく考えなくてもいい。元どおりに生きたいと強く思うだけでいいんだ」
男は死霊を、その作りかけといった土人形の上に降ろした。その瞬間、土霊と地虫と死霊の霊気が和合する。
土人形の輪郭が急速に形を整え、生き生きと明確なものへと変わっていく。
それは、愛らしい子供だった。
あの老女に似ているかというと、鼻先が黒く湿っていることや、目の色などは祖母|譲《ゆず》りともいえる。
だが、肌を包む毛皮は薄く、一見獣相はないかのように見える。
祖母のようにはモグラに似ていない。尖りすぎてはいない鼻梁《びりょう》に沿ってだけ、やや毛皮が濃《こ》いが、それは鼻筋を整って見せる効果になっている。つぶらな黒い瞳《ひとみ》も、モグラのイメージはまったくなく、大きめだった。
それに、祖母にはない頭髪《とうはつ》があった。ふわふわで柔らかそうなそれは、肩《かた》に触れるぐらいの長さだったが、よく見ると、細長い羽毛でできていた。
おそらく、片方の親はモグラではなく、鳥系の種族なのだろう。異種族間で、これほどきれいでバランスのよい子が生まれることは珍しい。
たいていは、皮膚が妙な模様になったり、模様だけならまだしも、鱗と毛皮が斑《まだら》に生えてしまったり、右手と左手が別の形状になったりといった、醜《みにく》い遺伝をすることが多いのだ。
だから、人は本能的に異種族との恋愛を避ける。同族か、どんな獣相をつけても支障のなさそうな獣相の少ない者に恋《こい》をする傾向にある。
この子程度の獣相ならば、種族を超えて誰からも愛されそうな容姿だった。
「ふうん。大人《おとな》になったら、嫁《よめ》さんに困らんようなきれいな子だな。婆さんには、さぞかし自慢《じまん》の孫だったんだろうな。
早く、戻ってやんな」
男が言うと、愛らしい男の子の姿になった土は、老女の元へ駆《か》け戻っていった。
男はそれきり、老女とこの土人形のことなど忘れきっていた。
旅の途中、旅籠の看板を見つけて、やっとあの時のことを思い出した。
土壁は半ば崩れ、屋根は落ちている。確かめるまでもなく無人で、老女も、あの土人形もそこにはいないのが明らかだった。
あれから一年までは経《た》っていないはずなのだが、その場所は十年も過ぎたかのように荒《あ》れ果てている。何が起こったのか見当もつかなかったので、さすがに気になって麓《ふもと》の飯屋で老女のことを尋ねてみた。
あの時に、山越えを引き止めてくれた娘はまだいたが、男のことを覚えてはいないようだったし、抜け替わりの時期ではない羽毛は妙にぺたりと体に密着して、ふわふわ感がなくつるんとして見える。今一つ好みではなくなっていたので、今回は口説かずに話を聞くだけにする。
少し太った娘は、不思議そうに言った。
「あんた、あの婆さんの旅籠に泊まったことがあるのかい? よくまあ、無事だったもんだねえ。
あの婆さんって、物怪を引き込んで客を襲わせているって、噂《うわさ》だったもんね」
「噂?」
「そりゃ、現場を見た者はないけどさ。
でも、ここいらを通って行く旅人って、それほど多くはないからさ、誰かしらが目撃《もくげき》しているんだよね。どんな服だったとか、どんな荷物を持っていたかとか。顔を覚えてなくても、懐具合《ふところぐあい》はそういうことで見えるから、なんとなく記憶に残るじゃないか。
で、山越えの途中にあそこあたりに泊まったんじゃないかって頃合いに、ここらを出て行ったやつらが持っていたような感じの荷物を、何日か後に婆さんがこの先にある雑貨屋に売りに来るんだよね。
ま、ふつうに物怪に襲われた旅人が落とした荷物を、婆さんが拾ったとも考えられるけど、それにしちゃ回数が多かったからさ」
するとあの日、襲ってきた物怪は、老女が意識的に守護の呪符を外して招き入れたものだったのだろうか。
「くそっ、まんまとたぶらかされたか。しかし、それがわかっていて、このあたりの連中はあの婆さんを放っておいたのか」
「まあ、ふつうならば、あんな獣道みたいな山道を通るやつは、ろくなもんじゃないからね。関を通る道があるってのに、あっちの悪路を通るってことは、後ろめたいやつだろうから、物怪に食われたところで泣くやつもないだろうしさ。
誰が困るわけでもないから、みんな、放っておいたんだけどね。それに、同情すべき点もあるから。
娘夫婦が切り盛りしていた頃には、あの旅籠もまともだったんだけど、はやり病で死に別れてからはあの婆さんひとりではどうにもならなくて、ちっちゃな孫を育てるためにやむをえずやっていた面もあるのさ。
これがとってもきれいな顔をした、利発ないい子でねえ」
「アーリってガキだな」
「おや、知っているのかい? どんな種族の女だって、つい母性本能をくすぐられちまうような、すごくかわいい子だったろう?」
アーリの頭髪も細長い羽でできていたが、この娘の細かい羽毛とはまったく異なる。明らかに別種族なのに、それでもその子供をかわいいと思ったのなら、アーリは真の意味で愛らしい子供だったのだ。
「だからさ、あんまりかわいいから、取られそうになった時、あの婆さんが思い余って殺してしまったのもわかるような子だったんだよね」
「なんだって? その子は、事故死だったんじゃないのか」
驚《おどろ》いた男は、どうやら話し好きらしいその娘に、事細かに事情を説明してもらった。
老女はよく、摘《つ》んだ山菜や木の実を売りにこのあたりにやって来ることがあった。それらの中には、山の中で拾った落とし物という名目で、旅人の荷物らしきものも混ざっていたのだが、麓のここらの集落もあまり物資が豊富とはいえなかったので、老女の荷はむしろ歓迎《かんげい》されていた。
老女は、時々アーリを連れてきた。子供のためのものなどを選ぶ時などに見せるうれしそうな様子に、どれほどこの孫に愛情を注いでいるか、誰もにわかった。
そんな折り、妻子を亡《な》くしたばかりの富豪がアーリを見そめたのだ。アーリの父親がその富豪の遠縁にあたるという縁もあったせいか、死んだ子供とアーリは似ていた。いや、アーリのほうがさらに愛らしかったので、どうあっても我が子の身代わりにしたくなったらしい。
跡継《あとつ》ぎとして大切に扱《あつか》うから、という申し出を、老女はあくまで拒否した。
孫の幸せを願ってはいたが、この孫のために物怪を使って物盗《ものと》りまでしていたのだ。老女の存在意義のすべてが、アーリにある。それを失ったなら、どうやって生きていけるというのだろう。
しかし、富豪はあきらめなかった。老女が物怪を操っているらしいという噂を聞き込むと、物怪狩りをすると言い出した。
物怪が出入りするようなところには、妖気の痕跡《こんせき》が残る。老女の旅籠に残る妖気を証拠《しょうこ》に、老女をも物怪の下僕として狩り、アーリをも物怪と見なしてもいいのだと、老女を脅迫《きょうはく》した。
物怪が徘徊《はいかい》するような山中ではどこにでも妖気が残る可能性はあるし、また、きちんと妖気を読み取ることができる魔道者ならば、老女やアーリが物怪の類でないことなど、すぐにわかる。
けれど、富豪には、事実をねじ伏《ふ》せることができるだけの権力があった。
老女は、追い詰《つ》められて、一度は孫を手放すことに同意した。しかし、いざその当日となると、思い詰めた老女は迎《むか》えの者たちの目の前で、去ろうとする子供の背を鉈《なた》で打ち、殺してしまったのだ。
「さすがにかわいそうで、誰ももうあの婆さんには関わらないようにしていたのさ。婆さんも懲《こ》りたのか、それきり旅人の落とし物を売りに来ることがなくなったし。
ところが、この話にはまだ続きがあって、一年ほど前にアーリが死んでから月が二回ぐらい変わった頃だったかな。婆さんがまた、よく来るようになったのさ。アーリが生きていた頃、そろえていたような品物を手に入れるためにね。それがしばらく続いたんで、まるでまた子供を育て始めたようだって、皆《みな》、不審《ふしん》に思っていたんだよねえ。
それでさ、あっ、ここからは、私よりくわしいのがいるよ。ちょっと、あんたあ」
娘は、奥に声をかけた。この飯屋の厨房《キッチン》のほうにいたらしい、娘と同種族らしい若者が顔を出す。もっとも、同種族といっても親兄弟の類ではないらしい。
(なるほどね、前に俺を振《ふ》ったのは、この亭主《ていしゅ》がいたからか)
妙に納得した男に、そのまじめそうな若者は話し始める。
どうにも老女のことが気になった若者は、山中の旅籠にまで様子を見に行った。
そして、目を疑った。確かに死んだはずのアーリとそっくりの子供が、かいがいしく老女を助けて、働いているではないか。
子供は生前と少しも変わらない、いや、むしろ以前よりもよくなっているかのように見えた。
富豪がこだわった愛らしさにはさらに磨《みが》きがかかったようだし、物陰から見ていると、老女が一言言っただけで、何倍も気を利かせてやってのける利発さとか、薪《まき》を割ったり、運んだりする力強さとか、縄《なわ》で束ねる時に結び目を工夫する器用さとか、なんだか賢《かしこ》さもたくましさも増したように思える。
見た目は死んだ時の小さいままの子供なのに、中身だけ成長しているかのようだ。死んだ子供が、成長している……?
そういえば、アーリは物怪の類だという話もあったなどと思い出して、戸惑いを通り越して怖くなってきた若者は、あせって麓へ戻ろうとして物音を立て、老女に見つかってしまった。
温和に子供を見つめていた老女の顔は、恐ろしい形相に変わる。
「何をしに来た!」
怒鳴りつけられた若者は、すっかり萎縮《いしゅく》して、機嫌《きげん》をとるように言う。
「か、かわいい子供を引き取ったんだね。
アーリよりもいいくらいじゃないか」
若者は、精一杯《せいいっぱい》の世辞を言ったつもりだった。が、老女の顔つきはますます恐ろしいものに変わる。
老女は、まるで脅《おど》すような口調で尋ねてきた。
「この子は、アーリよりかわいいかい?」
「あ、ああ。ずっとかわいいし、利口そうだし、役に立ちそうだし、こんないい子なら誰だって欲しくなる……」
そして若者はやっと、自分の失言に気づいた。
老女は、薪を割るのに使っていた鉈を手に取った。そしてそれをいきなり、子供の顔に振り下ろしたのだ。
愛らしい男の子の顔が、まるで仮面でも剥《は》がすように、鉈の刃で削《そ》ぎ取られ、地面に落ちた。
動転した若者には、平らになった顔の切断面から血が吹き出すこともなく、均一な土色になっていることを、疑問に思う余裕さえなかった。
老女が、なおも鉈を振り上げたのだ。口の中で、ぶつぶつとつぶやき続けている。
「そうだ……人に好かれる愛らしい顔など要らぬ」
老女は、鉈を子供の腕に振り下ろした。まるで、木の枝でも払《はら》うように、子供の腕が落とされる。
「人に好かれる器用な手など要らぬ」
老女は、さらに鉈を振るう。
「人に好かれる身軽な足など要らぬ」
やがて老女は、子供の体をめった打ちにし始める。
「やめろ、婆さん、やめろおっー!」
話し終えると、その時のことを思い出して気分が悪くなったのか、若者は奥へ引っ込んでしまい、女房《にょうぼう》である娘が補足するように話を引き継いだ。
「ま、そんなわけで、止めに入ったうちの人と操《も》み合ううち、転んだ婆さんは打ち所が悪くてあの世行き。
婆さんが死んだ後で、そのアーリは土霊操りの魔道による土人形にすぎなかったって、わかったんだけどね。
結局、物怪を利用して子育てしていたような人間だから、まともな心じゃなくなっていたんだろうねえ。
かわいそうに。婆さんの孫は、婆さんに二度も殺されたってわけさ」
娘はしんみりした表情で言い、男は問いかける。
「その壊《こわ》れた、婆さんの土人形がどうなったか、知らねえかな?」
「ああ、それなら、人形とはいえかわいそうだって、うちの人が山奥に塚《つか》を作って埋《う》めてやったんだよ」
男は、教えてもらった山中の場所へ行く。形ばかりだが、大きめの石を幾つかそれっぽく積み上げてあったので、すぐわかった。
「死霊は冥府《めいふ》へ戻ったか。でも、精霊と地虫はそのままなんだな。悪かったな。よかれと思ってやったのだが」
男は、塚を蹴った。石の一部が崩れ、その下にある霊気の澱みが、ぴくりとしたように動いたのを感じた。
「おめえ、どうするね? 死霊が離れたから人としての知恵《ちえ》はもうないが、地虫にも戻れまい。どうすればいいかわからなくて、あれからずっとじっとしていたんだなあ。
でも、永劫《えいごう》にこのままでいるわけにもいくまい。宿っている精霊が大きすぎる。
こうなったのも、俺の責任が大きいことだし、……俺と一緒に来るか?」
塚が震えた。地震《じしん》のように。あるいは同意するように。
「ようし。じゃあ、出て来い」
塚が崩れ、その下の地面が隆起《りゅうき》する。小山のようになった土は身震いし、輪郭を変えようとしていた。
男は、早口に告げる。
「ああ、待て。子供の姿になんぞ、ならなくていい。かわいい必要も利発な必要もない。おめえにとって楽な姿でいるといい」
土は、動きを止めた。男の言葉に戸惑ったらしい。
子供の姿の時は、死霊の記憶から形を作った。しかし、それ以外の姿など、地虫は知らなかったのだ。
男はやっと、そのことを理解した。
「ああ、俺が悪かった。おめえにそんな判断力、あるわけねえもんな。よし、俺がおめえの姿を作ってやろう」
そして男は、粘土《ねんど》細工を作るように、地虫を核として土霊に満ちた土を練り、人の姿に整えてやった。
「おめえの名は、面倒だからアーリのままでいいな」
アーリにとって不幸だったのは、男にあまり芸術的センスがなかったことだ。
それは子供が作る雪ダルマに丸太のような手足を付けたといった、ひどく大雑把《おおざっぱ》なものだったが、アーリはその体が気に入った。
「おいら、アーリ?」
アーリはいびつな指で、男を指《さ》す。
「俺の名か?」
男はあの旅籠に、自分の手配書が貼られていたことを思い出す。名は幾つかあったが、縁のある名なのかもしれないと思った。
「マーキアス・ガイってんだ」
地虫よりは進化したが、幼児並の知能しか持たないアーリは、やがてこの出会いのいきさつを忘れてしまった。
いや、むしろ、マーキアス・ガイが忘れるようにし向けたといえるかもしれない。
二度も殺された不幸な子供は、不幸だったことなどかけらも覚えていず、今もマーキアス・ガイと名乗った男の傍《かたわ》らで、けっこう幸せに生きている。
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底本
The Sneaker 12月号増刊
The Beans [ザ・ビーンズ] VOL.1 2002.12
発 行 二〇〇二年一二月一日 発行
発行者 井上伸一郎
発行所 株式会社角川書店
[#地付き]校正M 2007.11.08