一夢庵風流記
隆慶一郎
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)傾奇者《かぶきもの》
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(例)前田慶次郎|利益《とします》
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(例)[#改ページ]
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目次
かぶき者
無念の人
松風
馳走
敦賀城
七里半越え
聚楽第
決闘ばやり
男惚れ
骨
女体
死地
佐渡攻め
傀儡子舞い
子供狩り
治部
唐入り
伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴
伽姫
漢陽
帰還
唐入り御陣
難波の夢
天下取り
会津陣
最上の戦い
講和
風流
後書
[#地から2字上げ]解説 秋山 駿
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一夢庵風流記
[#改ページ]
二郎に
[#改ページ]
かぶき者
『かぶき者』はまた『傾奇者』、『傾奇者』とも書く。最後の書き方が最も端的に言葉の内容を示しているように思われる。ほかに『傾《かぶ》く』という動詞や、『傾《かぶ》いた』という形容詞もある。
つまりは異風の姿形《すがたかたち》を好み、異様な振舞いで人を驚かすのを愛することを『傾く』と云《い》ったのである。
久しい以前から、この言葉が、私の胸の中で格別に大きな位置を占めるようになって来ていた。
もともとは野暮の骨頂《こっちょう》で、服装などには全く無関心な男だった。四十代の半ば頃《ころ》だったろうか。仕事の関係で関西のテレビ局のディレクターとつきあうことになった。若いくせに羅漢《らかん》さんのようなつるっ禿《ぱげ》で、かわりに長い顎鬚《あこひげ》をのばしていた。それがまん丸い童顔によく似合った。いつもにこにこしている機嫌《きげん》のいい小男で、仕事の時の服装は常にデニムのジーンズの上下である。時につなぎのこともあった。その職工に似た身なりが、ディレクターという商売にぴったりだった。腕もいいし、人柄《ひとがら》もよさそうなのに、妙にしっくりいかないところがあった。何かが小骨のようにこつこつと当るのである。言葉のはしばしや、なにげない態度にそれが出る。正直いって気に入らなかった。
私は人間関係が巧《うま》くゆかないと仕事を続けられない我儘《わがまま》な気質《たち》だった。なんとかしなくちゃいけないなと思い、或《あ》る日《ひ》、全く個人的なデイトを申し込んだ。ホテルのラウンジで待合せすることになった。先に行って入口の見える席に坐《すわ》り、待った。こういう場所に入って来る様子で、男の人となりが或る程度|判《わか》るからだ。
やがて彼は現れた。
私は肝をつぶしたと云っていい。
ホテルのドアを通り、ロビーに入って一瞬足をとめた彼の姿は、それほどきらびやかなものだったのである。
今、この文章を書きながらも、二十年近い昔の彼の姿が、まざまざと眼前に浮ぶ思いがする。それほどの衝撃だった。
彼は鮮やかなワイン・レッドの天鵞絨《ビロード》の三《み》ツ揃《ぞろ》いに身を包んでいた。ビロードという感じではなかった。どうしても天鵞絨である。Yシャツは薄色のグレイ。細い革の、同色のネクタイをしめている。小柄な彼の背がかなり伸びたように見えた。恐ろしく高いハイヒールのブーツをはいていた。その色もワイン・レッドだった。
私の文章では、その時の彼の感じを正確に描くことが出来ないようだ。読者はひどくきざな、或《あるい》はチンドン屋のようにけばけばしい服装を想像されるかもしれない。だが違うのである。そのワイン・レッドの服の上に乗っているのが、頭髪が一本もなく、顎鬚ばかり長い達磨《だるま》のような童顔だと、けばけばしい感じが全く消え、異風だがすっきりとしたものに変ってしまうのである。その姿は確実に美しかった。そして明らかに『傾《かぶ》い』ていた。私は一瞬にこの男を理解したように思う。そして、なんと、羨しさ[#「羨しさ」に傍点]に身の慄《ふる》える思いがした。
「素晴らしいね」
私は心底からそう云い、彼はにっこり笑った。
意外に思われるかもしれないが、ディレクターとしての彼がつくり出す画面は決してきらびやかではなく、寧《むし》ろ地味に抑えすぎ、時に暗くさえあった。だがその暗い画面の底に一種異様な艶《つや》があった。それが『傾奇者』の窮極の美意識であることを、今の私は理解している。だがこの気難しい美意識は他人に理解されることが少く、彼を焦《い》らだたせていたのではないか。それが対人関係では、私を戸まどわせた反骨の小骨となって現れ、時にワイン・レッドの天鵞絨の三ツ揃いとなって爆発したのであろう。このディレクターはその笑顔とは裏腹に、決して倖《しあわ》せな男ではなかったと思う。
『傾奇者』はいつの世にもいる。
室町時代『ばさら』と呼ばれた佐々木|道誉《どうよ》、戦国期の織田《おだ》信長《のぶなが》、慶長の大鳥逸兵衛、明暦《めいれき》の水野|十郎左衛門《じゅうざえもん》。数えあげればきりがない。
彼らは一様にきらびやかに生き、一抹《いちまつ》の悲しさと涼やかさを残して、速やかに死んでいった。ほとんどの男が終りを全《まっと》うしていない。
『傾奇者』にとっては、その悲惨さが栄光のあかしだったのではあるまいか。
彼らはまた一様に、高度の文化的素養の持主だった。時に野蛮とも思われる乱暴狼籍《らんぼうろうぜき》の蔭《かけ》に隠れてはいるが、大方が時代の文化の先端をゆく男たちなのである。田夫野人《でんぷやじん》とは程遠い生きものであり、秘《ひそ》かに繊細な美意識を育てていたように見える。それがまた一様に『滅びの美学』だったのではあるまいか。
そして最後に、彼等《かれら》は一様に世人から不当な評価を受けているように思われる。或は我から望んでそうした評価を受けようとした節《ふし》さえ見られる。なんとも奇妙な心情であるが、彼等はそこに世の常とは違って、一種の栄光を見ていたような気がする。これこそ滅びの美意識の最たるものではないか。私は彼等の中に正しく『日本書紀』に書かれた素戔嗚尊《すさのおのみこと》の後裔《こうえい》を見る。
『故《か》れ天上《あめ》に住む可《べ》からず。亦《また》葦原中国《あしはらなかつくに》に居る可からず。宜《よろ》しく急《すみやか》に底根国《そこつねのくに》に適《い》ねといひて、乃《すなは》ち共に逐降去《やらひや》りき』
これが神々の素戔嗚尊に下した宣告である。
『時に霖《ながあめ》ふる。素戔嗚尊青草を結ひ束ねて、簑笠《みのかさ》と為《な》し、宿を衆神《かみがみ》に乞《こ》ふ。衆神|曰《まう》さく。汝《なんぢ》は此《こ》れ躬《み》の行濁悪《わざけがらは》しくして逐謫《やらひせ》めらるる者なり。如何《いか》にぞ宿を我に乞ふぞといひて、遂《つひ》に同《とも》に距《ふせ》ぐ。是《これ》を以《もっ》て風雨|甚《はなはだ》しと雖《いへと》も、留《ととま》り休むことを得ず、辛苦《たしな》みつつ降《くだ》りき』
私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕《お》ちた神の姿を見るが、私は単に一筒の真の男の姿を見る。それで満足である。『辛苦みつつ降』ることも出来ない奴《やつ》が、何が男かと思う。そして数多くの『傾奇者』たちは、素戔嗚尊を知ると知らざるとに拘《かかわ》らず、揃《そろ》って一言半句の苦情も云うことなく、霖《ながあめ》の中を『辛苦みつつ降』っていった男たちだったように思う。
無念の人
前田慶次郎|利益《とします》(利太とも書く)は滝川|左近将監《さこんしょうげん》一益《かずます》の従兄弟《いとこ》(甥《おい》とも云《い》う)滝川儀太夫|益氏《ますうじ》の子である。永禄《えいろく》十二年(一五六九)、尾張《おわり》の荒子《あらこ》城主前田|利久《としひさ》の養子になり、当然その名跡《みょうせき》を継ぐ筈《はず》だったが、織田《おだ》信長《のぶなが》の命令によって、荒子城は利久の弟前田|利家《としいえ》に与えられることになった。利家は利久の父前田|縫殿助《ぬいとのすけ》利昌《としまさ》の四男だったのだから、これは全く異例の処置だったといえる。その上、利久は城を追われた。
お蔭《かけ》で慶次郎は養父利久一家を若年の身で双肩《そうけん》に担《にな》い、天下|流浪《るろう》の身となった。本来なら利家の食客《しょっかく》となることも出来たのだろうが、利久は意地でも利家の世話にはなりたくなかったのであろう。その上、利久の妻が利家に非常な怨《うら》みを抱き、巫女《みこ》を招いて利家を呪咀《じゅそ》させたので、益々《ますます》荒子にいることが出来なくなったようである。
慶次郎は人生の出発点でまず蹴つまずいたことになる。それが彼を『無念の人』とし、後の人格形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは、想像に難くない。
慶次郎は後に竜砕軒不便斎、或《あるい》は殻蔵院ひょっとこ斎を名乗り、一夢庵主《いちむあんしゅ》と号した。この『一夢』を一国一城の主《あるじ》になる夢だと解釈する史家もあるが、果してそうだろうか。私にはそう単純なものではなかったように思われる。
滝川一益は信長の寵臣《ちょうしん》である。とにかくこの甲賀生れの男は、戦争をするために生れて来たような人物だった。当時、まだ珍しかった鉄砲の名手であり、鉄砲隊の使い方が巧みだった。信長も史上初の鉄砲隊の使い上手と云われるが、その名声の幾分かはこの一益のお蔭だった。そしてその点を信長に買われ、新しい合戦が起ると、ほとんど常に一益が先鋒《せんぽう》にされた。いってみれば今日の極道《ごくどう》の『鉄砲玉』のようなものだ。そして一益は大方の合戦に勝利を収めた。
滝川儀太夫益氏は、その一益の部隊の中で更に先鋒を勤めるのが例だった。それだけ一益に信頼されていたわけで、勿論《もちろん》勇猛無比の『いくさ人《にん》』だった。だからその子である慶次郎が、滝川一族に属していたために信長に忌避されたわけがない。慶次郎が荒子城を継げなかったのは、養父利久のためである。
前田利久は武の人ではなかった。どちらかといえば治の人である。荒子城といっても、当時陣屋に毛の生えたようなものであり、利久も土豪というよりは名主《なぬし》に近い人物だった。
武にうとい利久は、誰《だれ》か強力な武人の庇護《ひご》を受けなくてはやってゆけない。利久は永禄三年(一五六〇)の父利昌の死によって荒子城主を継ぐや否や、那古屋城《なごやじょう》の林|佐渡守《さどのかみ》秀貞によしみを通じることになった。つまり荒子地方は、林佐渡守の勢力範囲に組み込まれたのである。
林佐渡守は信長の腹心である。だから何の問題もない筈《はず》だったのだが、三年前の弘治《こうじ》三年(一五五七)、その佐渡守の弟林|美作守《みまさかのかみ》通勝《みちかつ》が、末森城にいた信長の次弟織田勘十郎信行と手を結んで、叛乱《はんらん》を起し、信長自身の槍《やり》で突き殺されるという事件があった。尾張《おわり》稲生《いのう》の合戦である。後に勘十郎信行も家老|柴田《しばた》権六《ごんろく》勝家の裏切りによって殺され、一件は落着したように見えたが、弟を殺されて平気な男がいるわけがない。信長は林佐渡守にひそかな警戒を払い続けて来た。
そこへこの荒子の家督相続問題が起きた。
養子縁組は主君の承認を受けなくてはならないきまりである。だから利久が信長に申請をしたのは当然の処置である。信長はこの機会を素早く捕えた。荒子地方を林佐渡守の勢力範囲から奪還しなければならぬ。それには自分の腹心とも云うべき、四男又十郎利家を荒子に配するのが一番だった。
これが前田慶次郎を、『無念の人』に仕立てた極めて現実的な理由だった。慶次郎は己れに一片の咎《とが》なくして信長に忌避されたことになる。
この永禄十二年から、天正十一年(一五八三)までの十四年間、慶次郎と利久一家の足跡は完全に歴史の上から消える。それこそ一片の史料も、伝説のたぐいさえ見当らない。
天正十一年は、前田利家が初めて能登《のと》一国二十三万三千石を領有することになった天正九年十月二日の二年後である。利久一家はこの年、落魄《らくはく》して遂《つい》に利家に哀れみを乞《こ》うた。だが何故《なぜ》天正十一年なのか。利家が大国を領有する大名になったからという理由なら、天正九年でも十年でもよかった筈だ。それが十一年であったということには、別の理由があったに違いない。
天正十年は織田信長の最期《さいご》の年だ。この年の六月二日、信長は京都本能寺において明智《あけち》光秀に囲まれ、火中で自害している。
その後の政権の推移は歴史に明らかである。羽柴《はしば》秀吉《ひでよし》と柴田勝家の戦いは秀吉の勝利に終り、信長がとった天下はそのままそっくり秀吉の手に移った。
前田利家と滝川一益は、両人とも柴田勝家側について秀吉と戦った。だが利家は賤《しず》ケ岳《たけ》の合戦だけは勝家に従ったが、その後すみやかに秀吉と和議を結んだ。勝家を見限ったのである。滝川一益の方は天正十一年の正月、伊勢《いせ》で秀吉と戦って破れ降参した。一益の運はこれを境にして急速に降《くだ》り、この年の七月には既に京都の妙心寺に入って剃髪《ていはつ》している。いわば勝負を降りてしまったわけだ。
この滝川一益の悲運が、前田慶次郎と利久一家を窮迫に追いこんだ原因ではないかと思われる。だからこそ能登に来たのが、天正十一年だったのだ。だがそうなると、この十四年間、慶次郎と利久一家は滝川一益と行を共にしていたという公算が大きくなる。具体的には慶次郎の実父益氏のもとにいたのではないか。
一益はこの十四年間に伊勢の平定と長島|一向一揆《いっこういっき》との戦い、更に伊丹城《いたみじょう》の攻略と忙しく転戦し、その後は秀吉の西国|制覇《せいは》と対照的に、東国の制覇にあずかって来た。本能寺の変の頃《ころ》、彼は厩橋城《うまやはしじょう》にいた。その先鋒を勤める益氏の隊の中に慶次郎の姿が見られたのではないか。
彼の武勇のほどと『傾奇者《かぶきもの》』ぶりは、秀吉の天下となった時、既に有名だった。だからどこかに逼塞《ひっそく》して、細々とその日その日を生きていたということはありえない。彼が輝かしい武功をあげ、その『傾奇者』ぶりを天下に拡《ひろ》めるためには、滝川の陣中が最も似つかわしかったということになる。結局は父と大伯父の下で、滝川流のいくさのしぶりを身を以《もっ》て学び、戦塵《せんじん》の中で生き永らえる術《すべ》をしっかりと身につけたに相違なかった。
その頼りとする滝川が滅んだ時、慶次郎は望みさえすれば、どこの武将のもとにでも行ける筈だった。それだけの実力と名声は得ていた筈である。
それを敢《あえ》て前田利家のもとに戻《もど》ったのは、父の利久と妻の願いがあったからだろう。慶次郎の妻は、前田利昌の三男前田|五郎兵衛《ごろべえ》安勝の娘である。利久は自分の娘が死んだために、この娘を五郎兵衛から譲り受け、これに慶次郎を夫として迎えたのである。
五郎兵衛安勝は利家のすぐ上の兄になるわけだが、よく弟を守《も》りたてて忠実な宿老の役を果して来た。七尾城《ななおじょう》の城代をつとめ、能登支配のかなめともいうべき地位にあった。慶次郎の妻が、能登に行きたがったのは当然であろう。
慶次郎は『傾奇者』の奇矯《ききょう》な振舞いを重ねていたとはいえ、養父と妻には忠実だった。男としての義理は見事に守ったわけだ。だからこそ能登に来た。内心のいまいましさを色にも出さなかった。
彼は四年もここで辛抱している。
利家は利久に七千石、慶次郎に五千石の禄《ろく》を与えたと『高徳公譜略』にある。五千石は決して少い禄高《ろくだか》ではないが、利家の方は二十三万三千石である。格差がありすぎた。だが慶次郎は何も云わない。云うわけがない。
利久は文句を云った筈である。慶次郎の妻も云っただろう。利家が能登に併せて加賀の支配まで委《まか》されるようになっては尚更《なおさら》だったと思う。そんな家庭が楽しいわけがない。恐らく荒寥《こうりょう》たるものだったに違いない。
それでも慶次郎は耐えた。
四年後の天正十五年八月十四日、利久は新たに移った金沢で死んだ。
慶次郎の男としての義理は終った。妻と五人の子供(男一人、女四人)は、五郎兵衛安勝のいる限り、なんの心配もない。
慶次郎と前田家とのつながりが、ほとんど音を立てて切れた。
松風
凍てついた日が続いた。
金沢の師走《しわす》である。この町は寒さが厳しすぎて、雪の降ることさえ稀《まれ》だという。
〈いやな町だ〉
前田慶次郎は茶を点《た》てながらそう思った。
尾張《おわり》育《そだ》ちの慶次郎は寒さに弱い。躰《からだ》がかじかんで動きが鈍くなる。気分まで凍ったようにちぢこまって暗鬱《あんうつ》になる。どうにもからりとしない。それが厭《いや》だった。
慶次郎の茶は型破りだった。どこまでも自然で、一切の型にとらわれず、只《ただ》もう茶がうまいから喫《の》むというだけのことだ。正坐《せいざ》することさえない。あぐらをかいたまま茶を点て、点て終れば喫む。それがいかにもうまそうで、見ている人間をいい気分にさせる。おおらかで、これだけは一級品の茶碗《ちゃわん》を無造作にかかえて喫む。茶碗も由緒《ゆいしょ》のあるものなど一つも持ってはいない。自分で焼いたり、行き当りばったりに買ってくるだけだった。それでいて、見る者が見ると正しく一級品の道具なのである。もっとも本人はそんなことは考えもしない。これで喫めば茶がうまそうだな、と思って求めて来るだけのことだ。自分で焼いたものも、ほとんどは気に入らなくて即座に壊してしまう。その中から生き残った茶碗だけを、見るからにいとしげに使っている。茶をやる人々にとっては、なんとも小癪《こしゃく》な厭な男だった。
夜だった。とうに三更《さんこう》(零時)を過ぎている。妻も子供たちもとっくに眠っていた。家の中で起きているのは、慶次郎だけだった。
慶次郎が早い刻限から眠れるのは、合戦の時だけだった。平時には身内に滾《たぎ》り立《た》つものを抑え兼ねて、いつまでも起きていることになる。滾り立つものは、心と躰の双方だった。
〈こんな町で、こんな生きざまで、生を終えたくない〉
強烈にそう思う。別段寒さがいやなわけではない。その証拠に合戦なら厳寒の中でも平気だった。気持が昂揚《こうよう》しているからだ。ちぢこまっている、というのが厭なだけだった。もっと伸び伸びと感じ、伸び伸びと考え、伸び伸びと動きたい。その思いが息苦しくなるほど胸を圧迫するのである。
慶次郎は秀吉《ひでよし》の九州遠征には参加を許されなかった。留守居役である。何とかして連れていって欲しいと直訴までしたが、主《あるじ》の前田|利家《としいえ》は許さなかった。理由は何一つ云《い》わない。とにかく留守居せよの一点張りだった。
実は慶次郎のあまりの剽悍《ひょうかん》ぶりが前田|家中《かちゅう》では評判が悪かった。まるで敵など目に入らぬように、たった一騎でも構わず遮二無二《しゃにむに》突き進んでゆく。宋色の柄《え》の長槍《ながやり》を麻幹《おがら》のように軽軽と振《ふ》り廻《まわ》し、みるみる敵を斃《たお》してゆく様は、正しく阿修羅《あしゅら》としか云いようがない。慶次郎が駆けると敵陣は真っ二つに割れてしまうほどである。派手といえばこれほど派手ないくさぶりはない。正に『傾奇者《かぶきもの》』の戦法であり、死んで当り前の無茶苦茶さなのだ。それがいつも不思議に生命《いのち》を拾うのは、性来の強剛さのためであると同時に、その一騎駆けの見事さにつられて、多くの若殿原《わかとのばら》がその後に続いて斬り込《こ》むからだ。彼等《かれら》に慶次郎の強剛さはない。当然死ぬことになる。慶次郎の戦いの後には、累々《るいるい》たる若者たちの屍《しかばね》が残される結果になるのだった。これが不評の理由である。
別に軍令に従わないわけではない。ただ白兵戦の場面になると、誰《だれ》よりも早く駆け、誰よりも剽悍に敵陣に斬り込んでしまうだけなのだから、表立って文句の云える筋合ではない。おまけに慶次郎の参加した戦闘はすべて勝っている。敵は慶次郎の予想を遥《はる》かに超える速さと勇猛さに気を奪われ、陣型が四分五裂してしまうからである。だからその後に続く前田家中の整然たる障型に押されると、ひとたまりもなく破れてしまうのだった。誰もが慶次郎を戦功随一と認めざるをえない。だが倅《せがれ》どもを殺された老臣の恨みは深い。身のほど知らずに『傾《かぶ》いた』真似《まね》をする方が悪いのだが、そんな気特にさせる相手がいるから悪いと思うのは親の常である。要するに慶次郎の、人の血を熱く滾らせる能力が、危険この上なく、いけないのである。事実、いい齢《とし》をした男まで、慶次郎が只一騎、躰を馬上に伏せるようにして、敵陣めがけて飛んでゆく姿を見ると、かっと血が燃え上ってしまう。じっとしていられない気持にさせられてしまう。そのためにあたら生命を落した武士も多い。その家族にしてみれば、慶次郎を憎みたくなるのは致し方のないことだった。
慶次郎はそんなことは何一つ知らない。ただただ合戦に出られないことが不満だった。九州遠征を最後に、合戦は途絶え、豊臣《とよとみ》秀吉にとっても、前田家にとっても至極安泰な日々が続いたのが、余計いけなかった。慶次郎一人が胸の思いを滾らせたまま、こうして徒《いたず》らに深更まで起きていることになるのだった。
馬小舎《うまごや》に甲高いいななきの声が起り、次いで馬囲いの板が蹴《け》り破られる音がした。
慶次郎が伴侶《はんりょ》のように愛している松風という悍馬《かんば》の声だ。
慶次郎が合戦で一騎駆けを繰り返して、今日まで無事にいられたのは、半ばはこの松風のお蔭《かげ》である。並の馬の倍近い速さを持ち、馬体も大きく戦闘力も抜群である。蹴り、噛《か》みつき、体当りし、並の馬など押し倒してしまうし、徒歩の人間は馬蹄《ばてい》にかけられて、死ぬ者さえある。元来が野生馬であり、異常に癇《かん》が強く、慶次郎以外の人間は誰も乗せない。何人がかりかで抑えつけて(それも仲々むずかしいのだが)、やっとまたがることが出来たとしても、抑えがはずれたら最後猛然と暴れ出し、乗った人間はあっという間に振り落されてしまう。
実は前田利家が一目見て松風に惚れ込《こ》んでしまい、譲れと云って来たが、慶次郎は右の事情を述べて拒否している。利家が容易に信じないので、家中の馬術の達者三人に御前で試乗させた。結果は無残だった。三人が三人とも瞬《またた》く間に振り落され、その上、一人は蹴られ一人は噛みつかれて、重傷を負った。
利家も三人の騎手も、松風が馬銜《はみ》をつけていず、従って手綱のないことが原因だと主張したが、慶次郎は手綱なしで見事に乗ってみせた上で、奇怪なことを云った。
「馬銜をつけないという約束で乗馬にしたんです」
誰と約束したかは云わなかった。だから利家以下いまだにこの言葉を、慶次郎が馬を譲りたくないばかりに使った口実だと頑固《がんこ》に思い込んでいる。だが慶次郎は嘘《うそ》を云う男ではない。そんな面倒臭いことはしないのだ。約束をした相手の名を敢《あえ》て云わなかったのは、云っても到底信じて貰《もら》えないと思ったからだ。実の話、その相手とは当の松風だったのである。
滝川|一益《かずます》が信長《のぶなが》の命により、甲斐から上野《こうずけ》に入り、厩橋城《うまやばしじょう》を占拠したのは、天正十年四月のことだ。慶次郎も父|益氏《ますうじ》と共にこの戦いに同行している。
慶次郎が松風と知り合ったのは、正にこの頃《ころ》のことだ。しかも父益氏から受けた命令は、松風を追いつめ、鉄砲で射殺せよ、と云うものだった。
この異様な命令は馬|奉行《ぶぎょう》の訴えから起った。
作戦行動中は馬の事故が多く、絶えず補給が欠かせない。その補給が馬奉行の役目である。馬商人から買い入れる場合は簡単だが、それでは間に合わなくて、野生馬まで捕えて急遽《きゅうきょ》調教しなければならないという事態になると、途端に馬奉行の仕事は激務と化す。先ず野生馬の集団を発見して、捕獲しなければならない。これは左程難しいことではない。問題は捕えた後の調教にある。野生馬は人も物もその背に乗せたことがない。勿論《もちろん》馬銜もかけられたことはないし、手綱で操られたこともない。何よりもこれに慣れさせるのに、大変な労力と時間がかかるのである。
ところがこの厩橋では事情が違った。比較的簡単な筈《はず》の、野生馬の発見と捕獲が、恐ろしく困難だったのだ。捕獲人たちが日がな一日馬をとばしても、野生馬の群れにぶつからない。異常だった。野生馬がいないのかと云うと、二十頭単位の群れが三組はいると馬喰《ばくろう》たちは云う。だがその一組の頭領格の馬が恐ろしく頭がよくて、捕獲人たちが来ると、他《ほか》の組の馬にまでしらせて、巧みに姿を隠してしまうのだと云う。仮に見つかったとしても、凄《すさ》まじい速さで疾駆し、忽《たちま》ち捕獲人たちを振り切ってしまう。まるで魔物のような馬だった。馬奉行は初め大袈裟《おおげさ》すぎると思った。どんなに利巧でもたかが馬ではないか。人数さえ増やせば、発見も捕獲も容易な筈である。つまりはたかをくくっていたのだが、お蔭で馬奉行本人が危うく殺されるところだった。
確かに発見は出来た。問題の頭領に率いられた二十頭余りの馬群である。騎馬隊が包囲に成功し、やれやれやっと捕獲出来ると思った瞬間、思いも掛けぬ事態が起った。この馬群が一塊りになって反撃して来たのである。
密集隊形を組み、包囲陣の一角に向って凄まじい勢いで走った。悪いことに馬奉行はその一角にいた。なんとこの押し寄せた馬群は速度をつけて体当りを敢行したのである。奉行の組の馬は或《あるい》は恐怖の余り走り、或は体当りに倒れた。奉行はその倒れた馬の下敷になり、脚の骨を折った。危うく頭を蹴られるところだったと云う。二十余頭の馬群はそのまま駆け続けて、まんまと脱走に成功した。攻撃を受けた馬奉行直属の馬どもは恐怖症にかかり、以後馬群を見るなり逃走するようになった。抑えようとすると竿立《さおだ》ちになって人をふり落す。到底使いものにならなかった。
馬奉行は土地の古老を呼んで話を聞いた。
問題はこの頭領の馬だった。悪鬼のようにずる賢く、しかも地獄の馬さながらに勇猛果敢なのである。この馬にかかって死んだ馬飼いは数えることが出来ない。そのために土地の人間はすべて野生馬狩りを断念してしまった。それほどの馬だった。どうしても野生馬が欲しければ、先ずあの頭領馬を殺すしかない。だが悪鬼の化身を殺しては後のたたりが恐ろしい。だから誰一人自分がこの馬を殺してやろうと云う者がいない。お武家さまなら、たたりを恐れることなく、殺して下さるに違いないと村の者一同期待している、と云うのだ。とんでもない話である。『いくさ人』ほどげん[#「げん」に傍点]をかつぎ、たたりを恐れる人種はいない。誰もがこんな役目は願い下げだった。窮した馬奉行は一益に願い出、一益は益氏に、そして益氏は慶次郎にこのいやな役目を押しつけた。
慶次郎はこの馬に惹《ひ》かれた。慶次郎は六尺三寸(約一メートル九十センチ)二十四貫(九十キロ)の巨体である。慶次郎の最大の悩みは、戦場で一騎駆け出来るほどの脚の速さを持ち、同時にこの巨体を乗せて長時間働くことの出来る頑丈《がんじょう》さを兼ね備えた馬がいないということだった。大抵、一回の戦闘で乗《の》り潰《つぶ》してしまうのである。それでは意思の疎通が出来ず、自在に操ることが出来ない。
この地獄の馬ならば、或はその悩みを解消してくれるかもしれぬ。慶次郎は心中ひそかにこの馬を捕獲し、飼い慣らす決意を固めた。
慶次郎は馬奉行たちから見たら馬鹿《ばか》のような行動をとった。
先に野生馬の群れが馬奉行を襲った地点までゆくと、乗って来た馬を帰してしまった。
広い山峡の地に一人きりになった。鉄砲は勿論、槍も大小の刀すら持ってはいない。全くの徒手空拳《としゅくうけん》だった。馬が鉄の臭《にお》いで警戒するのを恐れたためだ。持っているのは何食分かの握りめしと、馬鹿でかい瓢《ふくべ》に入れた酒だけだった。
その酒を飲みながら、坐《すわ》りこんで待った。探しにゆく気は毛頭ない。また徒歩で馬群を追ったところで、どうなるものでもなかった。馬の方からやって来るまで、何日でも待つつもりだった。
一日が無為に暮れた。
慶次郎は満天の星を仰ぎながら、青草の上で酔っ払って眠りこけた。
明け方、何かに脇腹《わきばら》をつつかれて目を覚ました。
「うるさいな。放《ほ》っといてくれ」
手で払って寝返りをうち、また眠ろうとした。
今度は背中を叩《たた》く。かなり痛かった。
「しつこいね、お前も」
些《いささ》か中《ちゅう》っ腹《ぱら》でまた向き直り、目を開けてぎょっとなった。見たこともないような大きな馬が、自分を見おろして立っている。小突いたのは、その脚だった。
〈こいつだ、間違いない〉
直観した。ゆっくり起き直ると、あぐらをかいた姿勢で、つくづくと眺《なが》めた。
素晴らしい馬だった。馬体は大きく、目方もかなりありそうだ。そのくせ肥えているという感じがない。全身これ筋肉という感じだった。一度も刈られたことのない鬣《たてがみ》は長く房々として漆黒だった。そういえば、躰の色も漆黒である。脚は逞《たくま》しく、足首がきりっとしまっていた。
慶次郎は見るなり惚れこんでしまった。
「なんて素晴らしいんだ、お前は」
声に出して云った。
「お前みたいに綺麗《きれい》な馬は見たことがないよ」
黒馬が首をまっすぐに伸ばした。いかにも誇り高い感じで、そこはかとない気品さえあった。周囲を警戒の眼《め》でゆっくりと見廻す。二十頭ばかりの馬が、これは気楽に散らばって草を喰《は》んでいる。すべてをお頭に委《まか》せて、安心しきっているようだった。それが気配だけで充分に判《わか》った。
「随分頼りにされてるんだなァ、お前は」
馬がまた慶次郎を見た。少々とまどっているように見える。こんな奇妙な生きものに会ったことがない、と云いたげな顔だった。
よく見ると馬体の至るところに傷痕《きずあと》があった。克明に見てゆくと、傷の種類まで判る。明らかに人間の手による刀傷、槍傷、矢のたった痕。鉄砲傷さえあった。爪《つめ》でひっ掻かれた傷は山猫《やまねこ》だろうか。明らかな噛み傷もある。犬か狼《おおかみ》による傷痕であることに間違いなかった。
「傷だらけじゃないか、お前は。よっぽどいくさ好きなんだなァ。俺《おれ》といい勝負だよ」
慶次郎はあぐらのまま、双肌《もろはだ》ぬいで見せた。露出した上半身は、これもまた大小の傷痕だらけだった。馬が不思議そうに、顔を近づけて見た。鉄砲玉が入ったままになっている傷口を見ると、鼻面《はなづら》をしかめて、ひひん、と啼《な》いた。鉄砲が嫌《きら》いらしい。その感じがよく判った。
「俺も鉄砲は嫌いだよ」
慶次郎も頷《うなず》きながら云う。
「あれは何となく卑怯《ひきょう》な気がしてね。けどこれからはどんどん鉄砲の世の中になるな。大鉄砲とか大筒《おおづつ》なんてものまで出来て来たからなァ」
自然に慨嘆する調子になった。
「古い侍はばたばた死んでゆくよ。武田《たけだ》の最後がいい例だ」
これは長篠《ながしの》の合戦を指している。高名な武田騎馬軍団は、織田信長の急設した木柵《もくさく》にその突進を阻《はば》まれ、三段に分けた三千|挺《ちょう》の鉄砲の一斉射撃《いっせいしゃげき》の前に潰滅《かいめつ》している。常時千発の弾丸《たま》が乱れ飛ぶ戦場では、槍の強剛も悍馬も、ひとたまりもなく死んでいった。
「俺みたいな男も、お前みたいな馬も、そうそう生きちゃいけないよ。いずれ鉛弾丸《なまりだま》をくらって死ぬのき」
嘆くような慶次郎の言葉の響きが、馬に伝わったかどうかは判らない。屹然《きつぜん》と首を起して野面《のづら》を眺めていた。いい顔だった。
「どうせ死ぬなら、俺と一緒に死んでみないか」
これが慶次郎の口説《くぜつ》だった。
馬は我関せずといった顔で、そっぽを向いて立っていた。
慶次郎に云わせれば、これは脈があるということになる。真実いやなら、何かするか云うかする筈じゃないか。
声に一層の熱が籠《こも》った。
「俺もお前も図体《ずうたい》がでかいだろう。図体のでかい奴《やつ》は、嘘は云わないんだ。判るな。そんな小汚い真似をしなくていいからさ。一発ぶん殴りや相手は死ぬんだ」
慶次郎は大きな拳固《げんこ》を作って見せた。嘘ではなかった。その拳《こぶし》で既に二人殴り殺したことがある。
「だから本気で聞いてくれ。俺は心底お前に惚れたんだよ」
慶次郎は自分が嘗《かつ》て何頭の馬を乗り潰したかを語った。いかに頑丈でしかも速い馬を求めているかを語った。くたびれて来ると長々と横になり、頬杖《ほおづえ》ついて語り続けた。
「だから頼む。俺のものになってくれ。俺と一緒に死んでくれ。この通りだ」
再びあぐらをかくと肱《ひじ》を張って、きっちり頭を下げた。懇願の形である。
馬が僅《わず》かに身じろぎした。
〈迷ってるんだ〉
誠に勝手な話だが、慶次郎はそう信じた。
〈当り前だ。奴にとっちゃ一生の大事だからな〉
決してせつくことはすまい。そう思った。
だが、なんとか一度、この馬に乗ってみたかった。この太い腹を両膝《りょうひざ》で思い切りしめつけてみたかった。
〈怒るかな。怒るだろうな〉
恐らく生れてから一度もその背に人を乗せたことはあるまい。これほどの悍馬がそんな屈辱に耐えられるわけがない。性急は禁物だった。じわじわと自分に慣れさせてから試みるべきなのは判っていた。さもないとこの馬を失うことになり兼ねない。だが乗りたかった。無性に乗りたかった。
〈怒るかなあ〉
ふらりと立った。馬から遠ざかるように二三歩、歩いた。また戻《もど》って来た。馬の眼をじっと見た。声に出して云った。
「そんなにひどくは怒らないよなァ。俺は本当にお前が好きなんだから」
馬が動きかけた。本能的に危険を察知したかのようだった。
瞬間に慶次郎は跳んだ。馬の首に抱きつくようにして、その背にまたがった。
馬の驚愕《きょうがく》は一瞬だった。突然、頭を低く下げ、思い切り尻《しり》を跳《は》ね上げた。
慶次郎は長い鬣を引《ひ》っ掴《つか》み、膝を思い切りしめることで、辛《かろ》うじて転落に耐えた。
それに続く動きは、正に地獄の馬の真骨頂を見せるものだった。跳び上ると尻をひねって着地し、竿立ちになるかと思えば、逆に頭を下げて跳ね上げる。それが一瞬の休止もなしにいつまでも続くのである。恐るべき馬力だった。
慶次郎もよく耐えた。激烈な運動で頭がぼうっとなり、一切の思考力はとっくに消えている。それでも膝のしめだけは緩めないのは、本能の如《ごと》きものだ。
馬が疾走しはじめた。凄まじい速さである。風がうなり、慶次郎の耳もとで鳴った。松籟《しょうらい》に似ていた。
〈松風だ。お前は松風だ〉
そう思った瞬間に、馬が停まった。今までの速度から計算して信じられない停止だった。慶次郎は馬の頭上を跳び、地べたに激突した。
〈来てくれるかなァ〉
慶次郎は昨日と同じ草叢《くさむら》にひっくり返って空を見ていた。
風が光り、白雲が飛んだ。
昨日の落馬で全身が痛んだが、そんなことは屁《へ》でもなかった。
〈凄《すご》い力だ〉
益々《ますます》惚れ込んだと云っていい。何としてでも欲しかった。あの背中にまたがって戦いたかった。
〈来てくれよ。頼むよ〉
手近な草を一本、ぴっと抜いた。唇《くちびる》に当てると忽ちいい音色が響き渡る。慶次郎は子供の頃から草笛が巧かった。勿論、本物の笛も吹く。誰に習ったでもなく天然自然に吹けるのである。曲はいつも即興だった。ただただ己れの思いを籠めて吹く。だから悲しい時は悲しい曲になり、今のような時は恋慕の曲になる。
〈来てくれた〉
気配があった。馬は見事に足音を消して近づいて来ていた。
嬉《うれ》しさでぞくぞくするのを抑えて、身じろぎもせず、草笛を吹き続ける。
いきなりそれがとんで来た。強烈無比の足蹴りである。まともに喰《くら》ったら即死していたかも知れない。
ごろん。
寝返りを一つうつことで、軽くかわした。草笛はやめない。
二蹴りめが来た。これも凄まじいものだった。
もう一つ寝返りをうった。これくらいの仕打ちは覚悟の上だった。
〈いくつ蹴るかな〉
それが大事なところだった。馬の気持が量れるからだ。
二蹴りでおしまいだった。馬は図々しさと無精《ぶしょう》たらしさに呆《あき》れ返《かえ》ったといわんばかりに慶次郎の顔を眺め、次いで噛みついて来た。
今度は敢《あえ》て噛ませてやった。左腕だった。痛かったが死ぬ程の傷ではない。噛ませたまま囁《ささや》いた。
「昨日はご免。辛抱出来なかったんだよ、俺」
馬は二三度首を振ってから、左腕を放した。慶次郎は馬が許してくれたことを知った。
「好きなんだ、本当に」
慶次郎はもう一度囁いた。軽く蹴られた。
いい加減にしな。そう云っているようだった。
その日も慶次郎は馬に跳び乗った。そして振り落された。次の日も、また次の日も、乗っては落された。次第に、馬の背にいる時間が長くなった。馬の癖が飲みこめて来た。動きの予測が出来、それに備えられるようになった。馬の馬力は一向に衰えを見せなかったが、慶次郎の躰は打身で青痣《あおあざ》だらけになっていた。五日目に従者が握り飯と水と酒を運んで来た時は、死んでいるのかと思ったほどだ。形相《ぎょうそう》は一変し、動きも不自由だった。それでも眼だけはいかにも楽しそうに笑っていた。
十日目、遂《つい》に慶次郎は落ちなかった。馬のあらゆる動きに耐え、悠然《ゆうせん》と背にまたがり続けた。馬の方が疲れて動きをとめた。荒い息を吐きながら振り向いて、信じられないというように慶次郎を見た。
慶次郎はその首を優しく叩いた。
「さァ。たまには俺の云うことも聞いてくれ」
いうなり馬腹を蹴った。反射的に疾走した。例の急停止を試みたが、慶次郎は落ちない。
「いたずらはよせよ、松風」
そういっただけである。馬は慶次郎の命ずるままに、右に走り、左に走った。
次の日、慶次郎が大声で名を呼ぶと、どこからともなく松風が走って来た。慶次郎は岩塩をやり、自分もなめた。
「鞍《くら》は置かなきゃならないんだよ」
すまなそうに慶次郎が云った。鐙《あぶみ》がないと戦闘が出来ない。両手で槍を扱う時、鐙にかけた足を踏ん張る必要があった。
「そのかわり馬銜はつけない。手綱なんか要らないからな。約束するよ」
これが慶次郎と松風の契約だった。
慶次郎は三尺二寸五分の長刀をとると庭に出た。
馬小舎の方で鈍い音と同時に悲鳴が上った。誰かが松風に蹴られたに違いなかった。
慶次郎はにたりと笑った。
慶次郎は松風を馬小舎に入れてあるが、それは寒さを防ぐためである。松風を繋《つな》いではいなかったし、板戸もその気になれば簡単に蹴り開けられるように造ってある。この馬小舎は全く松風を拘束していない。出るも入るも自由なのである。
妙な人間が入りこんで来れば、当然松風は外に出る。抑えようとしたら暴れるにきまっていた。
〈相手は武士だ〉
手強《てごわ》い相手でなければ、松風が蹴る筈がなかった。蹴るというのは真剣を抜いたに等しい。
〈殿さまの手配か〉
いやなことをする、と思った。慶次郎に断わられて、盗んでも手に入れようと計ったに違いなかった。荒子《あらこ》の城のことが思い出された。
〈手に入れてしまえば勝ちだと思ってるな〉
不意に怒りがこみ上げて来た。これが一国の主《あるじ》のすることか、と思った。
また鈍い音が聞え、悲鳴が起った。二人目が蹴られたのだ。一体何人がかりで来ているのだ、と怪訝《けげん》に思った時、慶次郎を愕然とさせる声が上った。
「くそッ。殺せ。殺してしまえ」
〈殺せだと!〉
泥棒《どろぼう》ならまだしも愛嬌《あいきょう》があるが、殺せとは何だ。松風を殺させてたまるか! 慶次郎の怒りが爆発した。猛然と走った。
馬小舎は裏庭にある。松風を囲んで六人の影があった。いずれも柿色《かきいろ》の装束、同色の覆面で顔を蔽《おお》っていた。地べたに二人倒れているが、これも同じ姿である。加賀忍びの面々であることは明らかだった。
石動山《せきどうさん》合戦などで活躍したいわゆる加賀忍びは、四井|主馬《しゅめ》に率いられた利家直属の陰《かげ》軍団である。主君として白日の下で堂々と果すことの出来ぬ隠微な仕事を請け負うのが、この陰軍団だった。この男たちが松風と闘っていると云う一事で、この襲撃の裏に利家のいることがはっきりと示されたことになる。
今、その加賀忍びの一人が、棒手裏剣を投げ終ったところだった。この手裏剣はその名の通り鉄の棒の先をとがらせたもので、通常の手裏剣より遥かに長く重い。たとえ突き刺さらなくても、当ればその打撃力だけで、充分に人を斃《たお》す。
松風は見事に馬体をひねって、その手裏剣を躱《かわ》した。
別の一人が棒手裏剣を構えた。松風がどれほど敏捷《びんしょう》でも、目標としては大きすぎる。いずれは打撃を受けることになるのは明白だった。
慶次郎は一目で松風の危機を感じた。
脇差《わきざし》を抜くなり投げた。
忍びは棒手裏剣を落し、はじかれたように仰向けに倒れた。胸のど真ん中に脇差が半ばまで埋まっている。
その時はもう慶次郎の三尺二寸五分|厚重《あつがさ》ねの剛刀が、更に一人の忍びを斬っていた。忍びの首が血を撒《ま》きちらしながら高く飛んだ。
「貴様ら、それでも盗人《ぬすっと》か」
慶次郎は喚《わめ》き、また一人を袈裟に斬った。
「盗むべきものを殺すとは何だ! 盗人の風上にも置けぬ」
また一人、逆袈裟に跳ね上げた剣で胴を切断され、臓腑《ぞうふ》を撒いて即死した。
残るは二人である。
さすがの加賀忍びたちが、あまりの凄まじい剣に身がすくんで動けない。
慶次郎の剣は誰に学んだわけでもない。この当時、既に兵法者と呼ばれる剣の遣い手たちはいたが、慶次郎とは無縁の存在だった。彼の剣は全く戦場で習い覚えたものである。頑丈な鎧《よろい》で蔽われた敵を斬る剣だった。小手先の業《わざ》は無用だし却《かえ》って有害だった。太刀行《たちゆ》きの速さとそこに籠められた力だけが戦場の勝負を決する。たとえ鎧にはばまれて斬れなくとも、その打撃だけで相手を戦闘不能にする刀法である。兵法者たちはこれを介者剣術《かいしゃけんじゅつ》と呼んで軽侮したが、道場ではいざ知らず、実戦の場ではこの方が遥かに立ちまきっていた。
慶次郎は後に己れの刀法を『殻蔵院一刀流』と名付けたが、これは彼一流の諧謔《かいぎゃく》に過ぎない。習って身につけるどんな型も持たなかったし、日常|錬磨《れんま》らしいことは何一つしていないのである。こんな刀法の流儀があるわけがなかった。
「虎《とら》や狼《おおかみ》が日々錬磨などするかね」
と云うのがこの男の口癖だった。
「そんな真似はしなくても、強い者は強いんだ。刀槍《とうそう》の錬磨をする暇があったら、もっと楽しいことをするよ」
一種の暴言だが、いくら兵法者が歯ぎしりしても、実戦の場で慶次郎に勝てないのだから仕方がなかった。天稟《てんぴん》と実戦経験の豊富さが、彼の刀法を支えていた。正に猛獣なみの剣であり槍だった。
その刀法に対して、鎖かたびらもつけていない忍びが、対等に太刀打ち出来るわけがなかった。
忍びに出来るのは逃げることだけである。身軽さだけが身上だった。
残った二人は本能の命ずるままに逃げた。だが彼等は松風の存在を忘れていた。駆けることで松風に対抗出来る者がいるわけがない。
ようやく塀《へい》まで逃げのび、これを超えようとした二人の忍びは、背後に怒濤《どとう》に似た馬蹄の音を聞いた。思わず振り返った二人の服に、彼等の頭上を高々と跳ぶ松風の美しい姿が映った。馬上の慶次郎の長刀が一閃《いっせん》し、忍びは二人とも頭蓋《ずがい》を斬り割られて塀外に落ちた。
前田慶次郎の屋敷の外に並べられた八個の死体は、加賀藩士たちを震駭《しんがい》させたと云っていい。六人はただ一太刀で斬られ、二人は明らかに馬蹄で蹴り殺されていた。
『馬盗人|之《の》類|也《なり》』
と無造作に書かれた紙片が、死体の頭上の塀に、忍び独特の短い直刀でとめられていた。装束といい、この直刀といい、八個の死体が忍びなのは誰の眼にも明らかである。
目付《めつけ》がとんで来たが、もとより慶次郎に一片の咎《とが》もあるわけがない。馬小舎の柱に突き立った棒手裏剣を見れば、どんな事情だったのか容易に察知出来る。しかも死者は全員忍び装束に覆面までしている。どう考えても私闘とは云えない。つまり慶次郎を罰するどんな法令もないわけだ。
『お構いなし』
目付はそう断ずるしか法がなかった。
死体は引とり手のないままに、無縁墓地に埋められた。
だが勿論、これですむわけがなかった。
馳走《ちそう》
奥村|助右衛門《すけえもん》が慶次郎の屋敷に現れたのは、事件から三日目の昼下りである。
例によって案内《あない》も乞わず、庭先からふらりと部屋に上り、ふんわりと坐《すわ》った。三十六歳の若さなのに、僧のように飄々《ひょっひょう》としている。
慶次郎は助右衛門を見ただけで、用向きを悟った。
「潮どきかね」
「む、む、む」
助右衛門は多くを喋《しゃべ》らない。大方は唸《うな》るだけで話を進めてゆくという特技を持っている。およそ言葉というものを信用していない。対話とはお互いの心と心が理解し合うことだ。そして言葉は多くの場合、心を隠す役しかしない。かたくなにそう信じている。
慶次郎は茶を点《た》てはじめた。助右衛門がその手もとをじっと睨《にら》んでいる。言葉などより、こうした仕草の中に人の心はありありと現れる。慶次郎の点前《てまえ》に些《いささ》かの乱れもない。当り前のことだった。慶次郎は後悔という言葉に無縁である。あったことはあったことで、それ以上でもそれ以下でもない。それにこの助右衛門がいると、不思議に心が安らぐのである。
奥村助右衛門は節義の男だった。
尾張《おわり》克子《あらこ》の城が利久《としひさ》から利家《としいえ》に移った時、つまりは利久が追放された時、助右衛門は十八歳で荒子城の城代だった。奥村氏は元々前田家の家臣ではない。荒子衆として前田氏と同等の力を持つ豪族、いわゆる国人《くにびと》である。国人たちが荒子衆として同盟を結び、その長《おさ》に撰《えら》ばれたのが前田氏だった。そして奥村氏も選ばれて城代をつとめていた。それでなくても戦国の武将とその部下の間には、江戸時代にいわれたような忠義の観念はない。部下には去留の自由があったし、下剋上《げこくじょう》の自由さえあった。それなのにこの助右衛門は、新城主の利家に、利久の自筆の書状を見るまでは断乎《だんこ》として開城せず、と宣言し、なんといくさ支度までして見せた。事は利久自筆の誓紙によって無事にすんだが、助右衛門は浪人し、利家がいくら誘っても仕官しなかった。再三の懇請により利家に臣下の礼をとったのは、四年の後である。
天正十二年九月、末森城にいた助右衛門は佐々《さっさ》成政《なりまさ》の猛攻に対して、孤軍よく城を守り抜き、百世の亀鑑《きかん》と讃《たた》えられた。一万の敵に対して城兵|僅《わず》か千五百。妻子共にたて籠《こも》る、いわゆる諸籠《もろごもり》だったという。最後に助右衛門が突撃を敢行した時、従う者わずか七十余騎だったというから凄《すさ》まじい。
以後の助右衛門は、正しく前田家の柱石だった。家中のどんなもめごとも、彼が出てゆけば治まった。今日のように、ふわりと坐るだけで、相手はもう争う気もなくなってしまうのである。
慶次郎がぼそっと云った。
「もともと親父殿《おやじとの》だけのことだったんだよ」
利久が死んでは金沢にいる理由がないという意味だった。
「うまいな」
助右衛門は慶次郎の点てた茶を喫して、そう云っただけだ。慶次郎の気持など、とうの昔に読んでいる。
「この茶などふるまってやれ」
利家と別れの茶会を持てというのだ。角《かど》を立てずに出てゆくほうが先々都合がいい。
慶次郎は鼻で笑った。利家のせせこましい茶など全く認めていない。あんな飲み方で何がうまいかと思う。それに角を立てずに出て行く気など毛頭ない。出来ればあのさかしげな利家にあっと云わせて行きたかった。
だが助右衛門の顔は立ててやらねばならない。この男が好きだったし、計り知れぬ恩義も受けている。そもそも利久をもう一度前田家に居られるようにしてくれたのは助右衛門なのである。
「明午《みょううま》の下刻《げこく》」
午の下刻といえば午後二時だ。
助右衛門は頷《うなず》き、奇妙な言葉を吐いた。
「鞍《くら》に案内頼む」
一瞬、慶次郎は蔵かと思った。だがこの屋敷に蔵などない。助右衛門を見た。渺茫《びょうぼう》たる表情に変りはない。やっと鞍と云ったことに気づいた。鞍は馬小舎《うまごや》にあるにきまっている。一朝ことある時に、すぐ馬につけて飛び出さねばならないのだから、当然である。だが助右衛門は独りで馬小舎に行くことが出来ない。松風が慶次郎以外の何人《なんぴと》も入れてくれないからだ。だから案内の必要があった。
慶次郎はこの言葉を単に松風に会わせてくれという意味だととった。まさか本当に鞍に用があるのだとは、思いもしなかった。
助右衛門は庭に出ると、連れて来た供の者を呼び、荷物を受けとった。さほど大きくはないが、妙に持ち重りのしそうな荷である。それを手に下げて馬小舎までついて来た。
松風が慶次郎を出迎えに馬房から出て来たが、助右衛門は目もくれない。頑固《がんこ》に云った。
「鞍だ」
慶次郎は呆《あき》れ返《かえ》り、馬房から鞍を持ち出して助右衛門の前に置いた。助右衛門は屈《かが》みこむと、鞍につけた荷物袋を開き、持参した荷を開けてざらざらと流しこんだ。荷の中身は小粒大の純金の塊だった。恐らく数年は悠々《ゆうゆう》と暮してゆけるほどの量である。
「重いが便利だ」
相変らず茫漠《ぼうばく》とした顔で、助右衛門は呟《つぶや》くように云った。
同じ頃《ころ》。
城中では利家が忍びの棟梁《とうりょう》四井|主馬《しゅめ》に喰《く》いさがられて、いい加減うんざりしていた。
主馬は陰《かげ》軍団の面目にかけて、慶次郎を討ち果させて欲しいと嘆願を繰り返していた。
主馬の気持は判《わか》りすぎるほど判った。慶次郎が死体を塀外《へいがい》に曝《さら》したのが悪かったのである。その夜のうちに目付《めつけ》を呼んで、死体を引きとらせておけば、こんなに事は紛糾しなくてすんだ。目付は主馬にしらせ、主馬は表向きは陰軍団の者に非《あら》ず、と言明しながらも、死体を引きとり、隠密裡《おんみつり》に葬儀を行い、それぞれの墓所に埋めてやれたのだ。塀外に曝され、多くの者に目撃されてからでは、その手は効かない。家族の嘆きをよそに、無縁仏として投込み寺に葬《ほうむ》られるに委《まか》すしかなかった。
死んだ八人の忍びは主命で動いている。主馬自身がじかに利家から命令を受け、この男たちを撰《えら》んだのである。まさか死ぬことになるとは思ってもいなかった。戦場働きならまだしも我慢出来る。この平和な金沢の町で、しかも盗人《ぬすっと》の汚名を着たままで埋められるとは、あまりにも苛酷《かこく》ではないか。
困るのは、加賀藩士全員が八個の死体を陰軍団の者と知っている点にある。たった一人の男にかかって、八人もの忍びがいずれも一刀のもとに斬り殺されたとは不名誉も極まったものだ。以後、加賀忍群は軽侮と嘲笑《ちょうしょう》の的になるのは目に見えている。棟梁として到底耐えうる事態ではない。
「御一族さま故《ゆえ》、お庇《かば》いになるお気持はよく判りますが……」
「違うと云った筈《はず》だぞ」
さっきから同じことの繰返しである。利家も中《ちゅう》っ腹《ぱら》になってつい喚《わめ》いてしまった。
「わしはお前たちが全員殺されては困るから申しているのだ」
主馬の顔色が変った。
「六十余名の加賀忍びが、あのお方一人に敗れるとお考えか」
「そうだ。間違いなく殺される」
断乎たる言い方に、主馬の顔に動揺の色が浮んだ。
「お前はあの男の合戦のしぶりを見たことがあるまい。一度でも見ていればそんなことを云い立てるわけがない。あいつは……」
一瞬その姿を思い描くように、声が途切れた。
「人ではないぞ、あれは。毛物だ。いや、魔物だ。魔物が地獄の馬を駆って人の血を流す。戦った者は、皆、そう云っている」
利家の眼《め》の色に、明らかに魔に対する原始的とも云える恐怖心が宿っているのを、主馬ははっきりと見た。利家の恐怖が主馬にうつった。躰《からだ》が震えて来た。
「魔物……ですか」
「そうだ。だから忘れろ。忍び難きを忍んでこそ忍者ではないか」
「忍びに忍んで待ち続け、いつかは望みを果すのが忍者です」
確かに忍びの恐ろしさはその執拗《しつよう》さにあった。何年かかろうと、当の相手が死んでしまってさえ、遺族をなぶり殺しにすることによって、恨みは確実に晴らす。
〈これも一種の魔物だ〉
利家は恐れに胸が凍った。だがその恐れの中で、浮んで来るのは主馬の死顔だけだった。慶次郎の死顔が想像出来ないのである。
〈なんて奴《やつ》だ〉
無性にいまいましさがつのった。
寒かった。
さすがの金沢でさえ、これほどの寒さは稀《まれ》である。
手足の動きが不自由なほどだ。関節が凍ったのかもしれない。頭の働きまで鈍い。
その上、この屋敷には全く火の気というものがなかった。僅かに茶室の炉に埋《うず》み火《び》があるだけである。
家人は一人もいない。昨日のうちに妻と子は七尾城《ななおじょう》へ送り出した。妻の父前田安勝が七尾城の城代である。
もっとも送り出す前に一言だけ尋ねた。
「そなた、流れ者について来る気はあるか」
妻もおおよその事情は飲みこんでいる。言下に応《こた》えた。
「とんでもござりませぬ」
それできまりだった。下僕《げぼく》も一人残らず妻につけてやった。安勝は心優しい男である。無下《むげ》な振舞いはすまい。
〈これでよし〉
慶次郎は満足して手を叩《たた》いた。
馬小舎から松風が応えるように嘶《いなな》いてみせた。既に鞍も置いてある。自慢の朱柄《あかえ》の槍《やり》も三尺二寸五分の太刀も、馬小舎の壁に立てかけてあった。持ってゆく物はそれだけである。鎧《よろい》も兜《かぶと》も必要なかった。そんなものは次々に新しく頑丈なものが出る。手に入れるのは簡単だし、それでいいのである。滝川一族は甲賀忍びの出だった。家重代の鎧兜などあるわけもないし、そんな古臭い代物《しろもの》が鉄砲相手に何の役にも立たぬことを、慶次郎はよく知っている。
風呂桶《ふろおけ》にもたっぷり水を張ってある。これが今朝一番の重労働だった。もっとも慶次郎は一桶々々楽しみながら、この水を運んでいる。
「うふ」
時に忍び笑いさえ洩《も》らす。実はこれが今日の慶次郎の最大の馳走《ちそう》の種だった。ちらりと助右衛門に対して気が咎《とが》めたが、とめてとめられるものではなかった。
〈すまんな、助右衛門〉
そのかわり、明日からは『無縁』の身である。『無縁』は親子兄弟妻子、親族友人知人すべての人々と縁を切ることを云う。つまりは現世と縁を切るのである。現世のあらゆる咎から解放される一面、現世のあらゆる援助を放棄することだった。たとえ飢えに苦しんで、野づらでのたれ死しようと、誰一人《だれひとり》救いの手をのばしてはくれず、葬ってくれる者もない。屍《しかばね》は野犬や狼《おおかみ》に喰《く》われ、風雨に曝されて白骨になるだけだ。それが『無縁』の死である。『無縁』とは自由の謂《い》いには違いないが、それは飢える自由、のたれ死する自由と背中合せだった。『無縁』に生きるには芸が必要である。己れの芸一つが頼りだ。芸がなければ死ぬだけだった。
厳しく、非情の世界だった。鋳物師《いもじ》を筆頭とする職人衆、傀儡師《くぐつし》に代表される芸能の徒はまだいい。必ず仲間が居て、集団をなしていたからだ。武士、博突《ばくち》うちなどには、その仲間さえいない。文字通り天涯孤独《てんがいこどく》の身の上である。頼むは正に己れ独りだった。
今、慶次郎が入って行こうとしているのはその世界である。素戔嗚尊《すさのおのみこと》が『辛苦《たしな》みつつ降《くだ》』っていった常世《とこよ》の国だった。
我から進んでその世界を望んだことが、慶次郎の助右衛門に対する、そして妻や子に対する、唯一《ゆいいつ》の謝罪だった。
利家は慶次郎の点前をほめた。それはそうだろう。この凍てついたような茶室の中で(慶次郎は利家到着の寸前まで、わざわざ戸障子を開け放って充分に寒気をとりこんでおいたのである)、ほのかに温《ぬく》い茶を喫することは正しく蘇生《そせい》の思いだった筈《はず》だ。堪能《たんのう》するまで茶を振舞った後で、慶次郎が云った。
「家人不在のため、かかる日に充分の火をもっておもてなしもかなわず、申しわけなき儀に存ずる。ついては慶次郎精一杯のおもてなしとして、熱き風呂を馳走申し上げたく、用意致し置き申した。お受けいただけましょうや」
こんな日に風呂ほどの馳走はない。利家は即座に承知した。大分前から胴震いがとまらないのである。嘗《かつ》ては槍の又左衛門《またざえもん》と謳《うた》われた戦場往来の武将も、やわになったものだった。
随行人の中で奥村助右衛門一人が、きなくさい顔をした。さすがに助右衛門は慶次郎を熟知している。咄嗟《とっさ》に危険を感じたのである。だがどんな種類の危険かまでは見抜けなかった。
慶次郎は先に立って利家を風呂場に案内した。随行人全員がこれに続く。護衛を兼ねているのだから当然だった。
立派な風呂場だった。風呂桶も大きく、二人は充分入れる。
「お待ち下さい」
慶次郎は一人風呂桶に近づき、湯をかき廻《まわ》し、手桶の水を少々足した。更にかき廻して慎重に加減を見ると、重々しく頷いた。
「よき湯加減にござる。お入り候《そうら》え」
利家は喜び勇んで着衣を脱ぎ始めた。慶次郎はなにげなく風呂場の木戸から消えた。利家は褌《ふんとし》一本になると流しを走り、ざんぶと浴槽《よくそう》にとびこんだ。
絶叫が上った。浴槽の中は手の切れそうな冷水だった。なんと氷のかけらさえ浮いている。利家の姿はみじめで滑稽《こっけい》で不細工この上なかった。
「奴を捕えろ」
利家が喚いた瞬間、裏庭に力強い馬蹄《ばてい》の音が起り、慶次郎の哄笑《こうしょう》が響き渡った。
松風が軽々と塀をとび越え、国境《くにざかい》に向ってまっしぐらに駆けてゆく姿を、奥村助右衛門は目のあたりに見る思いがした。朱槍を小脇《こわき》に抱えた慶次郎の姿には、戦場に劣らず、男の胸の血を滾《たぎ》らす力があるように思えた。
敦賀城《つるがじょう》
冬の旅は難儀が多い。まして北陸路は深い雪の中にある。
慶次郎が、金沢から大聖寺《だいしょうじ》に至るほぼ十一里の道を疾風のように駆け抜け、前田藩の国境を越えるや否や、うって変ってのんびりした足取りに変ったのは、このためだった。
急ぐ必要の全くない旅なのである。行先《ゆきさき》は一応は京ときめていたが、格別の用があるわけではない。
〈都の花はいいだろうな〉
漫然とそう思っただけだ。花の頃《ころ》に間に合えばいい。これは四月《よつき》も先の話だった。
金津《かなづ》、福井、鯖江《さばえ》、府中(現在の武生《たけふ》市)と、ゆっくりと滞在を重ねながら南下し、敦賀《つるが》に着いた時は天正十六年も二月に入っていた。
この当時の敦賀は北陸随一の港町であると同時に、大谷|吉継《よしつぐ》の城下町だった。吉継は秀吉《ひでよし》の小姓から奉行《ぶぎょう》の一人となり、後年関ヶ原合戦において、宿痾《しゅくあ》である癩病《らいびょう》による盲目の身でありながら、輿《こし》に乗って指揮をとり、壮烈な戦死を遂げた『義の人』である。だがこの年三十歳。血気盛んな年頃だった。敦賀城の整備に熱中したのもこの頃のことだ。
従って敦賀の町の活気は北陸随一といっていい。金沢のように武士ばかりの町ではなく、船乗りと交易商人たちの町であったことも、この活気に大きくかかわっている。
慶次郎はこの町が気に入った。どんよりとした暗鬱《あんうつ》な冬空も、酷烈な寒気も、金沢と変りはなかったが、かっかと湯気の立ちそうな勢いがそんなものを吹き払ってくれる。数日の滞在のつもりが一月余《ひとつきよ》に及んだのはそのためである。
宿は武家屋敷だった。滝川|一益《かずます》麾下《きか》の頃、眠懇《じっこん》だった大滝|源右衛門《げんえもん》という武将が、一益没落後、大谷吉継に抱えられてこの地にいた。その屋敷である。『無縁』になった身にも拘《かかわ》らず、知人の世話になるのは心苦しかったが、源右衛門のたってのすすめを断りきれなかった。
だがこの一ヶ月に及ぶ滞在によって、慶次郎の居場所は前田家の知るところになった。
或《あ》る日《ひ》、城を下って来た源右衛門が昂《たかぶ》りを抑えた顔で慶次郎に云った。
「すまんが明日お城へ一緒にいってくれ。殿が会いたいと云われるのだ」
慶次郎は一瞥《いちべつ》しただけで、源右衛門の昂りが憤怒であることを知った。殿様との間に一悶着《ひともんちゃく》あったに違いなかった。悶着の種は自分にきまっている。だが慶次郎は何も云わない。黙って頷《うなず》いただけだ。
翌日、早朝に起き出した慶次郎は、音を立てぬように用心しながら、己れの部屋を徹底的に掃除した。天井《てんじょう》から柱、畳、机、脇息《きょうそく》のたぐいまで、すべて新しい布で拭《ぬぐ》い塵一《ちりひと》つとどめない。終ると香を焚《た》いた。更にこの町へ来てから求めた着衣その他の日用品を、裏庭に穴を掘って埋めた。己れの一切の痕跡《こんせき》を消したのである。
慶次郎は自分の甘さに腹を立てていた。どれほど熱心にすすめられたからといって、『無縁』の身が他人の世話になってはいけなかったのである。別して武家屋敷に泊るなど論外だった。前田家からなんらかの形で抗議が来たにきまっていた。それも領主の大谷吉継に対してである。大谷吉継は豊臣家《とよとみけ》の家臣として利家《としいえ》の遥《はる》か後輩である。禄高《ろくだか》も少く、年も若い。前田家の横槍《よこやり》ともいうべき抗議をはね返す力があるわけがなかった。当然、源右衛門に慶次郎の追出しを命じたにきまっていた。
源右衛門は歴戦の戦国武士である。いかに主君の命令でも、没義道《もぎどう》だと思えば断乎《だんこ》として拒否する骨の硬さを持つ。恐らく一言の下に拒否したに違いない。浪人はもとより、討ち果されても構わぬ。一瞬にそれだけの決意をしただろう。主君の吉継にすれば、そんな真似《まね》をされてはたまったものではない。自分の前田家に対する弱腰を、家中一同に曝露《ばくろ》することになるからだ。窮した吉継は直接慶次郎に敦賀出国を依頼しようと思った。それがこの日の登城であることを、慶次郎は素早く察していた。下らない成行である。だがこんな下らない成行のために源右衛門ほどの『いくさ人』を牢人《ろうにん》させるわけにはゆかなかった。
普通なら慶次郎は黙って出て行けばいい。それで表面上はことは治まる。だが源右衛門の心は治まるまい。義を通すことが出来なかった無念さが残る。その無念さは、どんな形でかは不明だが、早晩吉継に対して爆発するだろう。そうなればやはり源右衛門は死ぬか牢人するかしかないのである。だから黙って出てゆくことは、何の解決にもならない。
〈嚇《おど》すしかない〉
一晩の思案の末、慶次郎はそう結論した。嚇す相手は当然源右衛門である。それも生半可《なまはんか》では駄目《だめ》だ。思い切って嚇さねばならない。嚇すとは、慶次郎が危険思想の持主だということを印象づけることだ。
〈とんでもない男を泊めてしまった〉
心底そう思わせるのである。冗談じゃない。こんな男に義など立てる必要があるか。そう感じさせられれば大成功である。
但《ただ》し、これを実行すると、或《あるい》は大谷吉継に殺されるかもしれない。小心な大名ならやりかねない。後日、その噂《うわさ》が拡《ひろ》まった時、黙って見ていたということで大名本人まで責められはしないかと思うからだ。もっとも慶次郎には殺される気はまったくない。暴れるだけ暴れて、大名を人質にとってでも逃げ出してみせる。それだけの自信があった。
〈逃げ出すのが癖になりそうだ〉
無性におかしさがこみ上げて来て、大声で笑った。
朝の冷気がどこか弛《ゆる》んで来たような気がする。春が確実に近づいて来ていた。
「なんて格好だ」
源右衛門が呆《あき》れたように首を振った。
別段かぶいた格好をしているわけではない。少くとも慶次郎の意識ではそうである。ただ裃《かみしも》も袴《はかま》もその下の着物から足袋まで、藍《あい》一色でまとめているだけだ。但し腰に差した大小は同じ藍の柄糸《つかいと》だが、鞘《さや》はくすんだ朱である。右脇《みぎわき》にかいこんだ槍に至っては燃えるような朱柄《あかえ》だった。だが御前に出る時は槍も太刀も許される筈《はず》がない。そうなれば渋い朱色の脇差だけが僅《わず》かに目立つぐらいだろう。慶次郎にいわせれば、おとなしいものである。
「なんだって槍まで持ってゆかなきゃならんのだ」
源右衛門はしつこい。かなり辟易《へきえき》している様子がありありと見えた。
「いつでも逃げ出せる用意にきまってるじゃないか」
そう云うとぎょっとした表情になった。もの問いたげに慶次郎の顔を伺うが、慶次郎は涼しい顔をしている。
それよりさっきから、つかず離れずついて来る男がいる。そっちの方が気になった。慶次郎とは対照的ともいえる小男だった。身長四尺(一メートル二十)そこそこ。子供の背丈《せたけ》しかない。それでいて顔は分別くさい大人である。ひどく機嫌《きげん》のいい男らしく、常ににこにこ笑っている。奇妙に歯がまっ白だ。百姓でも職人でもない変った身なりで、慶次郎は山人《やまびと》かと思った。足ごしらえだけ、馬鹿《ばか》に厳重だったからだ。草足袋に草鞋《わらじ》ばきである。その眼《め》が慶次郎でなく、松風にだけ注がれているのが面白くない。馬盗人《うまぬすっと》かもしれない、とふと思った。
「狙《ねら》われているくさいぞ。気をつけろ」
身を屈めて松風の耳に囁《ささや》いた。松風がぴんと耳を立て、周囲を見廻《みまわ》した。忽《たちま》ち小男に気づいた。小男が一瞬うろたえた顔になったほど鋭い凝視だった。松風が耳を伏せて軽く鼻を鳴らす。
〈どうってことはありませんよ〉
そう云っているようだった。小男の姿は消えていた。
対面の間は書院だった。
珍しく待たされることもなく、大谷吉継は活溌《かっぱつ》な足どりで入って来ると無造作に坐《すわ》った。異常なほど色が白い。透き通るようだった。
「顔をあげてくれ」
一応礼を守って平伏している慶次郎に云った。面白そうにじっと顔を見ていたがやがて微笑して云った。
「成程な。その面構《つらがま》えでは憎まれもするだろう」
慶次郎は苦笑した。吉継が率直に云った。
「わしには源右衛門が要るんだよ。判《わか》ってくれるか」
気に入った。この殿様は余計なことを云わない。前田家で何をしでかしたのだ、とか、黙って出て行ってくれ、とか一言も云わない。大滝源右衛門を失いたくない、と云っているだけだ。
〈ちょっとした男だ〉
慶次郎は妙に嬉《うれ》しくなって来た。ふらりと立った。吉継が怪訝《けげん》な顔になった。
「慶次郎」
源右衛門が鋭く云った。片膝《かたひざ》を立て、すぐにでも抜討ちのかけられる姿勢だった。無礼があれば許さぬ、という気迫がみなぎっている。
「お別れにざれ唄《うた》と舞いをひとさし」
慶次郎は吉継に向って云った。吉継は明らかにほっとしたようだ。席を蹴立《けた》てて帰られでもしたら、源右衛門を失うことになる。
「喜んで見せて貰《もら》おう」
「されば」
慶次郎は帯にさした白扇をさっと開いた。舞いはじめた。同時にのんびりした節《ふし》まわしで唄いだした。見事な舞いであり、美声だった。だが唄の中身は源右衛門は勿論《もちろん》、さすがの吉継さえ驚愕《きょうがく》させる態《てい》のものだった。それは露骨この上ない豊臣秀吉と前田利家への風刺だったのである。秀吉の極端な色好みと、その色好みにつけこみ、僅か十二歳の娘お麻阿《まあ》を献上することで、天正十一年|柴田《しばた》勝家側について秀吉に抗した罪を許され、能登《のと》の所領を安堵《あんど》された利家のうす汚ない所行《しょぎょう》を、痛烈に罵倒《ばとう》したものだった。
こんな唄を耳にしたら、秀吉にしろ利家にしろ、即座に唄い手を殺すにきまっている。ひょっとしたら、唄を聞いた者まで殺すかもしれない。
源右衛門は躰《からだ》が自然に震えて来た。
〈こいつはいかれている〉
そう確信した。これじゃ前田家にしつこく追われるのは当然だ。俺《おれ》だって殺したくなる。このざれ唄一つで大谷家はとり潰《つぶ》しの危険にさらされかねないのだ。源右衛門は両掌《りょうて》を開いたり握りしめたりした。この手でしめ殺してやりたい。だが殺《や》れるかどうか。慶次郎の自分に劣らず大きな手を見つめた。素手でならどっこいどっこい。刀を抜けば俺が死ぬ。槍でも危い。
〈泊めるんじゃなかった。俺の間違いだ〉
この寒いのに汗が出て来た。
「いい加減にしろ、慶次」
唸《うな》るように云った。やめなかったら、跳びかかるつもりだった。
慶次郎はぴたっと唄も舞いもやめた。にたりと笑った。
「気に入らんか」
「いや、気に入った」
吉継が、喚《わめ》きかけた源右衛門を抑えるように云った。
「なにより唄が面白いな」
さすがの慶次郎が唖然《あぜん》とした。吉継は本当に面白くてたまらないというように、くつくつ笑っている。なんともいい度胸だった。
「だが女子《おなご》一人で一国が救えるならたやすいことではないか。全国の大名にそう思わせることが出来れば、わが君の好色も悪いものではない。少くとも無用のいくさが避けられる。そうではないか」
慶次郎は瞠目《どうもく》した。これは全く新しい見方である。唾棄《だき》すべき破廉恥《はれんち》な振舞いとばかり思いこんでいた秀吉の好色に、新しい光を当てる思考である。
慶次郎は同じ『傾奇者《かぶきもの》』として、信長《のぶなが》の勁烈《けいれつ》な生きざまの方が好きだった。敵は悉《ことごと》く殺す。たとえ降伏しても殺す。一族根だやしにする。信長の場合は人質など何の役にも立たない。まして女の美しさなどに一文の値打もない。ただただ殺す。皆殺しの論理である。
だから信長と戦う者は中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な和平など考える余地がない。負ければどっちみち死ぬのだ。死力をつくして戦うばかりである。
秀吉の場合は違う。戦闘方式は信長ゆずりだが、最後の詰めが甘い。敵将が腹を切ればあとの者はすべて許す。前田利家の場合のように娘を献上すれば、その将の生命《いのち》さえ許す。事実はそれほど単純ではないが、少くともそういう印象を与える。秀吉の好色という弱点がそうさせるのだと人々は信じている。だが真実そうなのか。
好色は古来わが国では悪徳ではない。むしろその人物の人間臭さを強調し、万人に理解されやすい人柄《ひとがら》を形成する条件になる。
「あいつは女が好きだからなァ」
という言葉は、決して非難の意味を持ちはしない。人々をにたりと笑わせる効果しかないのである。
「あいつは人殺しが好きなんだ」
という言葉の不気味さと較《くら》べて見れば一目瞭然《いちもくりょうぜん》であろう。
秀吉が意地汚いほど好色だったのは事実であろう。だがその好色の評判を、秀吉は意図して拡げようとしたのではないか。それは敵を許すための方便であり口実だったのではないか。
大谷吉継はそう云っているのである。
一人の少女の純潔が無理矢理破られるのは確かに無残であろう。だがそのために何千人或は何万人かの男女の生命が救われるとしたらどうか。娘を献上する父親という薄汚いイメージの背後に、二万に近い将士とその厖大《ぼうだい》な家族や領民たちの生命を守るという事実があることを考えるべきだ。そう吉継は云っている。
慶次郎は自分がこの若い領主に負けたことを知った。
「手前は所詮《しょせん》一匹の傾奇者にすぎぬようです」
慶次郎はそう云ってからりと笑った。敗北宣言のつもりだった。そのまま退出した。源右衛門は追って来なかった。愛想をつかしたにきまっている。
〈これでいい〉
満足だった。源右衛門は倖《しあわ》せである。なんとも見事な殿様に恵まれている。
厩《うまや》にあずけておいた松風を口笛で呼び出した。裃を捨て、鞍《くら》にひっかけておいた毛皮の陣羽織を着る。これは狼《おおかみ》の毛皮だった。
〈俺にはこれが一番似合っている〉
これは自嘲《じちょう》だった。一匹狼は所詮はぐれ者である。太刀を差し、朱柄の槍をかいこんだ。
「京へゆこう、松風」
声に出して云った。西近江路《にしおうみじ》を南下して坂本に出、比叡《ひえい》を越えて京に出るつもりだった。
「着く頃には花が咲くぞ」
敦賀城の大手門脇にしゃがみこんでいた男が慶次郎と松風を見送っていた。
例の小男だった。
七里半越え
敦賀《つるが》から疋田《ひきだ》を抜け、琵琶湖《びわこ》最北端の港町|海津《かいづ》に出、以後湖を左に見ながら、今津・大溝《おおみぞ》・堅田《かたた》・坂本と南下して、遂《つい》に大津に達する街道《かいとう》を、西近江路《にしおうみじ》という。日本海と京とを結ぶ古来の道であり、それはそのまま大陸文化の伝播《でんぱ》経路でもあった。
この街道の中で、敦賀から海津までの道を七里半越えという。全長七里半(三十キロ)にわたり、峠から峠へと辿《たど》る山道だったためだ。
慶次郎と松風は、その七里半越えの峠をのんびり歩いていた。別段追っ手がかかっているわけではないから、気楽なものだ。
空は相変らず暗鬱《あんうつ》な灰色一色だった。
「峠が尽きれば湖が見える。天気も変るさ。なにしろさざなみの志賀の国だ」
慶次郎は松風に云った。
「桃の花が多いんだ。優にやさしげな国なんだなぁ。都に近いからかなぁ」
慶次郎は養父|利久《としひさ》や妻子を伴って、この道を逆に辿った四年前の冬を思い出していた。明るく澄明《ちょうめい》な空から、どんより暗雲のたれこめた空への移動だった。人々の口が自然に重くなり、遂には全く無言になった。唐突に長男が泣きだした。泣きながら、帰りたいと云った。
「母さま、帰ろう。父さまに頼んで帰ろ」
慶次郎の妻が返事をしないので、しつこく繰り返し繰り返しそう云う。
「黙らせろ」
利久がたまり兼ねたように低いが強い調子で云った。
「わけの分らないことを云わないの。帰るところなど、ないのですよ、私たちには」
妻の言葉にはあからさまな毒があった。慶次郎にあてた毒である。こんな情けない流れの身になったのは誰《だれ》のお蔭《かげ》か。そう云っているのだった。
勿論《もちろん》、これは八つ当りである。滝川|一益《かずます》が滅ぶことになったのは、何も慶次郎のせいではない。また一益が滅んでも、慶次郎さえその気になれば、もっと暖かい国で仕官することも出来た。それをしなかったのは、養父とほかならぬ妻自身が、前田一族の中で暮すことを強く希《ねが》ったからではないか。
だが慶次郎は何も云わなかった。己れ自身、落ちてゆくという感慨が強かったからだ。
「帰ろうよ」
という子供の言葉が胸に滲みた。子供には帰るべき家や国がなければならぬ。慶次郎にとっては戦場から戦場へ、そして領国から新しい領国へと、転々と流れに流れた十四年だった。その間、妻子は伊勢《いせ》にいた。全く動いていない。息子が帰ろうよと云うのは、伊勢の国のことなのである。だがその伊勢に戻《もど》ることは二度と出来ない。一揆《いっき》の門徒衆をむごたらしく皆殺しにした信長《のぶなが》麾下《きか》の武士が、伊勢の国のどこででも、牢人《ろうにん》として暮してゆくことは不可能である。
慶次郎は決して家族に冷淡な男ではない。縁あって夫婦の契《ちぎ》りを結び、その結果生れて来た子供たちをいとしいと思う気持は、人並に持っている。いや、少くとも子供たちに関する限り、人並以上の愛着を持っていたと云っていい。男の子と転げ廻《まわ》って遊ぶこともあれば、三人の女の子たちのままごと遊びに真面目《まじめ》くさって参加することもある。元々子供の心を持ち続けて来た男である。子供たちとの遊びにも本気でつき合う。子供たちにとっては最高の遊び相手だった。
祖父も祖母も、母でさえお義理でつき合ってくれるだけだ。この父のように自分も楽しんで遊ぶことがない。そのかわり怒る時も本気で怒る。しつけのためなどという観念はない。本当に怒ってぶん殴る。さすがに力は加減していたが、それは相手が弱いからだ。他人に対してでも、弱いと見れば加減する。自分の子供だから、というのでは絶対にない。それでも男の子は必ず気絶し、女の子は顔の脹《は》れが三日もひかない。恐ろしい遊び相手だった。
そんな慶次郎に家族を守る気持が人並以上に強いのは当然であろう。利久は死にぎわに、その点について何度も心から礼を云ったものだが、妻の方にはそんな気持は皆無だった。安楽で、出来れば贅沢《ぜいたく》な暮しだけが望みの女になっていた。そして子供たちを手放す気は毛頭ない。それが慶次郎に家族を棄《す》てさせた理由である。
それでも子供たちとの別れは、断腸の思いだった。子供たちは知らないが、これは永《なが》の別《わか》れなのだ。だが湿った別れは『傾奇者《かぶきもの》』には似合わない。慶次郎は常にも増して陽気に、飄《ひょう》げた身振りまで見せて子供たちを送り出している。子供たちは嬉々《きき》として七尾城《ななおじょう》へ去った。
生涯《しょうがい》を暗い空の下で暮すことは、慶次郎には耐え難かったが、子供たちにとっては少くとも帰るべき家が出来るのだった……。
松風の嘶《いなな》きが、慶次郎の辛《つら》い想念を破った。
慶次郎はそれを、自分が落ち込むのを松風が気づかったためととった。鬣《たてがみ》を撫《な》でて云った。
「気にするな。わしは平気だ」
松風がもう一度嘶いた。これは警告だった。
〈何を甘ったれたことを云ってるんだ。油断するなと云ってるんだよ。何だかおかしいんだ、気配が〉
そう云っているような嘶きだった。
慶次郎は即座に気持を引きしめた。いつでも戦える心構えになる。もっともうわべは変っていない。相変らず悠々《ゆうゆう》たる風情《ふぜい》である。あたりを見廻すような真似《まね》もしない。だが数知れぬ合戦の中で培《つちか》った勘働きが、頭上に何者かがひそんでいることを告げていた。頭上とは山道にまで張り出した樹《き》の上《うえ》ということになる。樹の上から襲うとすれば、これは正規の武士ではありえない。乱波《らっぱ》・素破《すっぱ》のたぐい、つまりは忍びである。とすればこれは十中八九、四井|主馬《しゅめ》麾下の加賀忍者集団ということになる。敦賀城の大谷|吉継《よしつぐ》に圧力をかけ、慶次郎を追い出させた上で、七里半峠に待伏せの陣を敷く。考えやすい作戦といえた。
頭上の気配は一人だった。これは偵察《ていさつ》であろう。主力はこの道の先にいる。慶次郎は鼻をぴくつかせた。火縄《ひなわ》の臭《にお》いはしない。難儀なのは鉄砲だけである。それ以外の罠《わな》なら、どうということはなかった。
「駆けるかね、松風」
松風にとってこれくらいの山道は平地と変りがない。その速さは常人の予想を遥《はる》かに超える。待伏せの面々が何をしかける暇《ひま》もない速力で駆けぬければ、彼等《かれら》に追う力はない。無駄《むだ》な人斬《ひときり》をしなくてもすむし、明るいうちに海津の港町に着くことが出来る。
だが松風は逆にぴたりと足をとめた。
前方の道に樹の上から男が降って来て、膝《ひざ》をついた。忍び刀を鞘《さや》ごと抜き、前に置いた。一応は害意のないしるしである。もっとも忍者にとっては、そんな型などなんの意味もないことは慶次郎はよく知っている。
忍びは敦賀の町で執拗《しつよう》に慶次郎と松風を尾《つ》けて来た、例の小男だった。
「お前か」
慶次郎が呆《あき》れたように云った。町で見た時はまさか忍びとは思わなかった。白歯を見せてにこにこ笑っている忍びなど会ったことがなかった。
慶次郎は滝川一益の甥《おい》に当る。そして一益は元々甲賀の忍者あがりだ。忍者で大名になり上った、たった一人の男である。従って慶次郎も忍者の裔《すえ》だ。術の心得もあったし、一益の麾下にいて数多くの忍びとも会っている。その慶次郎が気づかなかったのだから、この小男はよほど型破りの忍びと思われる。型破りの忍びは総じて恐ろしい術の達者か、どうしようもない下手くそか、二つに一つだった。極端から極端で、その中間がない。
「用件を云え」
こんな格好をしている以上、何か口上があるにきまっていた。だがその口上たるや、さすがの慶次郎も意表をつかれたほど奇怪なものだった。
小男はその躰《からだ》からは思いもよらぬ大声で喚《わめ》いたのである。
「惚れ申した。慶次郎の殿と松風殿に惚れ申した。今日|只今《ただいま》よりお供の端にお加え下さいますよう、伏して御願い申し上げます」
本当に地べたに額をすりつけて見せた。
慶次郎はつくづくと小男を見つめた。少々|馬鹿《ばか》らしくなって来ている。口上の中身も中身だが、それよりもこの男、樹上にいた時は明らかに殺意があった。慶次郎は殺気を感じとる能力に自信を持っている。それに殺気を感じなければ、松風は嘶いたりはしない。間違いなくこの男は慶次郎に殺意を抱いている。そのくせこの口上にも、まぎれもない真率の響きがある。これも慶次郎が見誤ることのない響きなのである。明らさまな殺気と惚れたという言葉が両立出来る心の襞《ひだ》というものが果してありうるのか。それが不明だった。
「お前は俺《おれ》を殺したいんだろう」
慶次郎がずばりと浴びせかけたが、一向に動じた様子もない。
「矢張り分りましたか」
抜け抜けとそう云うのである。
「それも真実でござる。確かに手前は殿を殺したい。加賀忍びなら誰でものことです」
切々という感じだった。
「一方、殿に惚れ込んだのも、紛れもない事実でござる。お供つかまつる間は、決して寝首をかくことはござらぬ。それだけは信じて戴《いただ》きたい」
相変らず誠心誠意という調子だった。だが忍びの誓いぐらい当てにならないものはない。
「お前の身内はどっちにやられた? 俺か、松風か?」
小男が先夜慶次郎の屋敷を襲った八人の忍びの身内なのは自明の理だった。
「殿にござる」
淡々と云う。
「だが敦賀では松風ばかり見ていたな」
小男が一瞬つまった。実はこの男の弟は、慶次郎に斬《き》られたのではない。松風の強烈な蹴りを受け、顔面を潰《つぶ》されて死んだのである。だから復讐《ふくしゅう》の対象は松風だった。
「参り申した。実のところ、弟は松風殿に顔を蹴られて死に申した」
あっさり前言をひるがえすところが、逆にしたたかな感じがする。
「松風を殺す気か」
慶次郎の声に、僅《わず》かだが殺気が絶った。
「とんでもない。こんな見事な馬が殺せますか」
小男はほとんど叫んだ。これは本音以外の何物でもなかった。
「では何が望みだ」
小男が再び躊躇《ためら》った。これは嘘《うそ》のためではない。なんと照れたのである。これも慶次郎は正確に読み取った。
小男は声を落した。
「出来ますものなれば……一度でようござる……たった一度でいい……松風殿に……その……乗ってみたい。走らせてみたい!」
分別面《ふんべつづら》が一瞬のうちに少年の顔になった。
慶次郎は弾《はじ》かれたような高笑いをあげた。
この男の希《のぞ》みを完全に理解し、それを真実の告白ととったのである。松風には人を惹《ひ》きつける魔力がある。なんとかして、一度でも乗って走らせてみたい、と思わせる魔力である。慶次郎は誰よりもその魔力を知っている。だから小男の今の一言で、何《なに》も彼《か》も許す気になった。
〈こいつは俺の生命《いのち》を狙《ねら》い続けるだろう〉
そんなことは百も承知だった。常時生命を狙っている男と暮すのも、また乙なものではないか。こんな男に殺されるようなら、自分はそれだけの男なのである。それに、何時《いつ》、何処《どこ》で、どんな形で死んでも、なんら悔いるところはない。それが『傾奇者』の生きざまではないか。
「お前、名は?」
「捨丸。兄弟|揃《そろ》って捨児《すてご》でした」
男の顔がちょっと歪《ゆが》んだ。泣きべそをかいたように見えた。
「松風にわるさをするなよ」
捨丸が心底驚いたように、大きく目を瞠《みひら》いた。次いで言葉の意味に気づいた。
「お供させて下さるのですか」
「給金だ」
鞍袋《くらぶくろ》から金塊をひとつかみ握ると放《ほう》った。捨丸が慌てて拾い集める。
「多すぎます」
「なくなれば払わぬ」
慶次郎は面倒臭そうに云って、松風を進めた。
「四半刻《しはんとき》(三十分)お待ち下さい」
捨丸が立った。精悍《せいかん》で敏捷《びんしょう》な動きだった。
〈かなりの手|利《き》きだ〉
捨丸が腕ききだとすると、その分、自分の生命が危いことになるのだが、慶次郎の頭はそんな風には働かない。ただその事実を認めた、というだけのことだ。
「この先に待伏せがあります。加賀忍び七人」
「そうだろうな」
判《わか》り切《き》ったことを、といった調子である。
捨丸がちょっと感心したように慶次郎を見た。
「ご奉公のお礼に追っ払って参ります。このあたりで昼寝などなさっていて戴きます」
次の瞬間、跳んだ。驚くべき跳躍力で忽《たちま》ち樹に登ると、枝から枝へつたって、見る間に姿を消した。
〈七人か。あいつをいれて八人〉
これは待ち伏せている加賀忍びが、悉く慶次郎と松風に殺された者の身内だという意味だ。その身内たちをどう騙《だま》くらかして追っ払うのか、これは見ものだった。といって慶次郎が顔を見せては、ことはぶち壊しになる。
「いわれた通り寝るかね」
慶次郎は松風に云い、林からはずれた風の来《こ》ない日溜《ひだま》りを探してひっくり返った。あっという間に眠りこんだ。これは慶次郎だけの特技ではない。戦場往来の『いくさ人』たちは、すべて、何時、どこでも、眠ろうと思えば即座に眠れる。
正確に四半刻の後、慶次郎は自然に目覚めた。
血臭を唄いだのである。
すいと槍《やり》を握ると、鞘を払った。松風を見た。じっと林の梢《こずえ》のあたりを睨《にら》んでいる。その梢が激しく揺れ、捨丸の姿を吐き出した。
全身返り血と自分の血で濡《ぬ》れていた。激烈な戦闘を物語るかのように、着衣がずたずたになっている。さすがに息が荒かった。
慶次郎は顔をしかめた。まさか殺すとは思わなかったのである。言葉で騙すものと信じていた。だからつい、なじる調子になった。
「殺したのか」
「騙し討ちは四人目までしかききませんでした」
これは残り三人とは真っ向からの闘いになったという意味だ。相手が味方と見て油断したにしても、一人で七人の忍びを斃《たお》すとは尋常の腕ではない。
「御検分お願い申す」
「躰を洗って、傷の手当をしろ」
慶次郎は不機嫌《ふきげん》に云った。
「その上で屍《しかばね》を埋めてやろう。それが合戦の作法だ」
戦士の屍を狼《おおかみ》や山犬の餌食《えじき》にすることは出来ない。深く掘って埋めてやることだけが、自分も何時野たれ死するか判らない『いくさ人』にとっての最低の作法だった。
聚楽第《じゅらくだい》
天正十六年は聚楽《じゅらく》行幸の年である。
三年前の天正十三年七月、関白の宣下《せんげ》を受け、豊臣《とよとみ》の姓を新たに興した秀吉《ひでよし》は、その地位にふさわしい屋敷を京に造る必要を感じ、翌天正十四年二月二十一日から内野《うちの》の地に工事を始め、十五年二月に竣工《しゅんこう》したのが、この聚楽第だった。
秀吉の右筆《ゆうひつ》だった大村|由己《ゆうこ》はこの名前について、その『聚楽行幸記』に、
『長生不老の楽を聚《あつむ》るものなり』
と書いている。
十五年の二月五日、秀吉は既にここで公家《くげ》たちの歳首《さいしゅ》の礼《れい》を受けているが、正式に移って来たのは九月十三日ということになっている。九州|征伐《せいばつ》のために入居が遅れたのだ。
天正十六年春四月十四日から十八日にかけて、五日の間、後陽成《ごようせい》天皇をここにお迎えしたのが、いわゆる聚楽行幸だった。
この行幸は初めは三月十五日に行われる筈《はず》だったが、この年は五月が閏月《うるうづき》に当り、三月半ばではまだ余寒が厳しいという理由で、一月《ひとつき》延ばしになった。
慶次郎はこの年の二月半ばには、捨丸を連れて京に入っている。
捨丸はなんとも便利な男だった。慶次郎には見事に欠けている世間的な智恵《ちえ》に長《た》けていて、広い土間つきの借家の調達から始まって、最低の家財道具を買い求め、鍋釜《なべかま》食器のたぐいまであっという間に揃《そろ》えて見せたのである。慶次郎一人だったら到底こうはゆかない。いつまでたっても、不便な旅籠暮《はたごぐら》しということになり兼ねなかった。
広い土間が必要だったのは、勿論《もちろん》、松風を入れるためである。つまりこの二人と一匹は、完全に共同生活を営んでいたことになる。
一度、家主が様子を何いに来て、土間に入るなり松風に睨《にら》み据《す》えられ、あまりの恐ろしさに腰を抜かしてしまった。出ていってくれと喚《わめ》くのをなだめすかすのに、捨丸はいい加減|無駄金《むだがね》を使った。
金の点では慶次郎は鷹揚《おうよう》そのものだった。例の金塊を収めた鞍袋《くらぶくろ》は捨丸に預けっ放しで、湯水のように使った。
(このお方は金を仇《かたき》のように使う)
捨丸はひそかにそう思ったが、この印象は正確だった。慶次郎は何が何でも、一刻も早くこの金を使い切ってしまいたかったのである。この金をくれた奥村|助右衛門《すけえもん》に対する一種のすまなさが、そうさせるのだった。利家《としいえ》を水風呂《みすぶろ》に入れたのはまだいい。だが七里半越えの峠道で、七人の加賀忍びを殺したのが、どうにも気にさわるのである。殺人は捨丸の仕業だったが、加賀の者は誰一人《だれひとり》そうは思うまい。慶次郎がやったと思い込んでいるに相違なかった。自分が下手人にされることは少しも構わない。ただそのしらせを聞いた時の奥村助右衛門の気持だけが気懸りだった。さぞかし暗澹《あんたん》として嘆いているだろうと思うと、すまなさが痛みのように全身を走るのだった。せめて助右衛門のくれた金を無茶苦茶に使いまくって、一刻でも早く一文無しの身になることが、詫《わ》びのしるしのような気がした。誠に奇妙な論理だが、慶次郎の心はそれでどうにか平衡が保てるのである。
そんな思いが捨丸に判《わか》るわけがない。捨丸はこれを慶次郎生来の金銀に対する淡泊さの現れだととった。自分がなんとかしなければ、この主人は忽《たちま》ち明日の食い物にもこと欠くようになる。だから必死に持金を増やそうとした。慶次郎には極秘でこの金を運用し、利を生むようにした。捨丸はこの方面でも才覚があったようだ。或《あるい》はただただつきに恵まれていただけかもしれないが、とにかく皮肉なことに、慶次郎の金は着々と利を生み、肥えていったのである。それに元々だだら遊びに使うぐらいですぐ底をつくような金額ではなかった。一介の市民なら、一生|喰《く》えるほどの金だ。慶次郎はそんなことさえ知らない。愚かといえば愚かだし、気楽といえばこれ以上の気楽さもなかった。
〈どうしてわしはこんなに、このお人の世話を焼かなければいけないのか〉
時に捨丸は本気で考え込んでしまうことがある。捨丸は本心慶次郎に惚れている。その限りでこの献身も偽りではない。だがその恋慕の思いを遥《はる》かに上廻《うわまわ》る強烈さで、慶次郎を殺す、と決意している。それは捨丸の野望と云っても過言ではない。
捨丸はその名の示す通り捨児《すてご》である。弟と二人、真冬の路傍に捨てられた。捨丸が二歳、弟は生れたばかりの赤子だった。拾ったのは今の加賀忍びの棟梁《とうりょう》四井|主馬《しゅめ》の父親だった。この男は兄弟を拾って育ててはくれたが、それは別段慈悲の心からではなかった。奴《やっこ》にするためだ。奴とは奴隷の謂《い》いである。武士にとって、特に忍びにとって、奴ぐらい便利なものはない。それは完璧《かんぺき》な私有財産なのだ。生殺与奪の権は完全に主人が握っているし、奴の方はたとえ不平不満があっても、主人から逃げ出すことは許されていない。どこに逃げようと居所《ところ》が発見されれば、主人は返還の訴えを起すことが出来たし、またそれは必ず勝訴に終るのである。
秀吉が、キリシタンの宣教師が日本人を奴隷として異国に売り払うことで利益を得ていることを怒り、キリシタン追放に踏み切り、同時に日本人同士での人身売買を厳禁したのは天正十四年のことだ。
「日本人が売るから我々は買うのだ」
キリシタン宣教師たちの、この抗弁が、この禁制を生んだのだが、お蔭《かげ》で捨丸は表向きは自由の身になることが出来た。秀吉の意に背くことを恐れた前田|利家《としいえ》が家中に触れを廻して、奴を禁じたためだ。だが奴の身分を解き放たれたところで、加賀に留まる限り、捨丸兄弟の身に実質的な変化はなかった。父の死で後を継いだ四井主馬は、依然としてこの兄弟を私有財産としか思っていなかったからだ。
忍びには上忍、中忍、下忍の三種類がある。この中で、いわゆる忍びらしい働きをするのは、下忍だけだ。中忍は現場の棟梁だし、上忍に至っては現場へゆくことさえ稀《まれ》である。捨丸兄弟はこの下忍にさえ劣る。だから下忍と共に働いても、最も割に合わない役をふられるか(捨丸の弟がいい例だ。彼は真っ先に松風に向って蹴り殺されている)、或は下忍たちの監視という、仲間に最も嫌《きら》われる役をつとめさせられるか、二つに一つだった。七里半越えでの捨丸の役目はこの監視だった。だから、七人の内四人までは疑われることなく殺せたのである。
今、捨丸は逃亡の身である。いずれ加賀忍びたちは、七人の死者の墓場を見つけ出し、掘り返して彼等《かれら》の屍《しかばね》を改めるだろう。その時、捨丸の裏切りと逃亡は明らかになる。四井主馬は激怒するだろう。だが此の場合、主馬は捨丸を裏切者として殺すことは出来ても、奴として取り戻《もど》す、又は返還を要求することは出来ない。先の秀吉の禁令があるからだ。奇妙な話だが、捨丸は裏切りを犯すことによって、初めて奴の身から真に自由になったわけだ。
そこから先が、この男の野望になる。彼はいつか必ず慶次郎を殺す。首にして御主君前田利家公の御前に届ける。裏切りとみせたのは実はこのためだったと云えば、利家公は許してくれるにきまっていた。その上で士分としてお仕えしたいと云えば、十中八九、侍身分にとりたてられるだろう。利家公の慶次郎に対する殺意は、それほど深いと、捨丸は読んでいる。侍分として小なりといえども前田の禄《ろく》をはむことになったら、もう四井主馬などこわくはない。形の上では同格になったわけだ。捨丸を殺せば、私闘として主馬も罰をくうことになる。
〈ざまあ見さらせ!〉
嘗《かつ》ての奴が一人前の堂々たる武士になるのである。城中でも、金沢の町中でも、主馬に会うことがあろう。その時は恐れげもなく胸を張って、軽く会釈《えしゃく》して通り過ぎてやろう。捨丸はその光景を脳裏に描くと、今から胸が躍るのだった。それが捨丸の勝利の日であり、栄光の日だった。捨丸の慶次郎に対する献身は、すべてその日のためのものである。それにしても、
〈手間のかかるお人や〉
なにしろ突っ拍子もないことを思いついて、即座にそれを実行するのである。捨丸ほどの辛抱のいい男でも、参ることが度々だった。
三月も半ばを過ぎて、ようやく待ちに待った花の咲いた日のことを、捨丸は忘れられない。
慶次郎は例の如《ごと》く派手やかな小袖《こそで》を着て、松風に打ちまたがっていく。捨丸は普通の供の姿で朱柄《あかえ》の槍《やり》を担《かつ》ぎ、大ふくべを携えて、その後に従った。
見事に咲いた桜の木の下で、慶次郎は松風の背を降りた。前には賀茂川《かもがわ》の流れが滔々《とうとう》と流れている。捨丸が見てさえ、夢のような景色だった。
慶次郎は大ふくべの酒をあおり、捨丸に廻しながら、松風に語りかけた。
「生きて都の花を見るのは、これが最後かもしれないよ。心ゆくまで味わっておいてくれ」
別段格別のことが起る予感があったわけではない。慶次郎にしてみれば、これは戦士としての普通の覚悟にすぎない。それに明日はないと思うからこそ、今日が楽しいのではないか。
だが捨丸はどきりとした。一瞬、己れの奥深く隠した心づもりを見抜かれたのではないかと、不安に捉《とら》えられたのである。そう思わせるほど慶次郎は繊細な神経の持主であることを、捨丸も漸《ようや》く気付きはじめていた。ちらちらと慶次郎の顔を伺ったが、格別のことはなさそうだった。安堵《あんど》した。
先ほどから同じ花見に来たらしい武士や公卿《くげ》が、松風のあまりの見事さに立ちどまっては感にたえたように見つめてゆく。物聞いたげに捨丸に近づく者もいたが、慶次郎のかぶいた姿を見ると、後難を恐れてか、何もいわずに去ってゆく。もとより慶次郎はとうに気づいていた。
「捨丸よ」
慶次郎が目をきらきら光らせて呼びかけた。捨丸はいやな予感を覚えた。目が光るのは何か妙なことを思いついたしるしである。今までの経験では大体ろくなことではなかった。果して慶次郎が云った。
「お前が一人で松風の番をしている時、これは誰の馬だと訊く者が多かろうな」
その通りだった。今までにいい加減うんざりするほど訊《たず》ねられている。そう応《こた》えると言下に云った。
「よし。今日帰りに、お前の衣裳《いしょう》と烏帽子《えぼし》を買おう」
烏帽子?! 烏帽子なんか買ってどうするというのだ?! 捨丸の胸は不安に波立った。
「これから先、これは誰の馬ぞ、と訊ねられたら、お前は烏帽子を引っかぶり、足拍子を踏んで幸苦《こうわか》を舞え」
何だと?! 何のために幸若なんか舞わなきゃいけないんだ?!
「その上で云え。此の鹿毛《かげ》と申すは、あかいちょっかい革袴《かわばかま》、茨《いばら》がくれの鉄冑《てつかぶと》、鶏《とり》のとっさか立烏帽子《たてえぼし》、前田慶次が馬にて候《そうろう》」
捨丸は目を剥《む》いた。冗談じゃない。そんな馬鹿《ばか》な真似《まね》が出来るか。
「やらねば雇いを解く。どこにでもゆけ」
捨丸は泣きたくなった。だが解雇されるわけにはゆかない。それでは七人の仲間を斬った甲斐《かい》がなくなってしまう。
「ここでやってみろ。それ。あかいちょっかい革袴……」
やりゃあいいんだろ、やりゃあ。捨丸はやけのやん八になって、幸若を舞い、節《ふし》をつけて唄《うた》った。
「此の鹿毛と申すは、あかいちょっかい革袴、茨がくれの鉄冑、鶏のとっさか立烏帽子、前田慶次の馬にて候」
やって見ると、意外に面白い。人々が足をとめて笑って見ている。捨丸は自分が道化になったような気がした。それほど悪い気分ではなかった。もう一度、踊り且《か》つ唄ってみた。
「この鹿毛と申すは、あかいちょっかい革袴……」
「出来た!」
慶次郎はなんと扇子をはらりとひらいて、ほめそやし且つ大声で笑った。
この話は作者の創作ではない。『可観小説』という、慶次郎の数少い史料の中にある逸話である。このくだりを読んだ時、天下の『傾奇者《かぶきもの》』前田慶次郎をげにも鮮やかに描くものよ、と痛く感銘したことを今でもはっきりと覚えている。
天正十六年四月十四日、関白豊臣秀吉は禁裏まで後陽成天皇をお迎えに参上した。自ら天皇の御裾《おすそ》をとって乗輦《じょうれん》を手伝ったと伝えられる。それほどこの聚楽行幸は秀吉にとって重大事だったのである。禁裏から聚楽第までの距離は十五、六町だったが、天皇の華麗な行列は、その先頭が聚楽第の門をくぐった時、後尾はまだ御所の中にいたと云う。
その日は管弦・和歌会・舞楽《ふがく》と、贅《ぜい》をつくした御もてなしがあり、二日目の四月十五日には秀吉は禁裏・諸門跡《しょもんぜき》・廷臣にまで様々の献じ物をし、併せて織田《おだ》信雄《のぶかつ》・徳川|家康《いえやす》・前田利家・長曽我部《ちょうそかべ》元親《もとちか》・池田|輝政《てるまさ》など二十九人の大名に対して、禁裏御料について子々孫々に至るまで異議申し立てまじきこと、秀吉の命には何事も違背せざる旨を誓わせた。これが秀吉の本当の狙《ねら》いだった。天皇の見守る中で、これらの大名から誓紙を差し出させることによって、秀吉の権威は不動のものとなった。朝廷の権威の見事な利用だったわけだ。
五日間の行事が終って、天皇|還御《かんぎょ》の後、次々と退出してゆく二十九名の大名たちは、ひしひしとそれを感じていた筈《はず》である。してやられたという思いが強かっただろう。その中に前田利家もいた。
聚楽第の周囲には、きらびやかな行列を見物する京童《きょうわらべ》たちが群れていた。
前田利家は馬で退出していった。不意に四井主馬が利家に近づいた。
「殿、あれを……」
利家は主馬の視線を辿《たど》り、群集の最前列にいる松風と憎い慶次郎の姿を認めた。
慶次郎はまっ赤な革袴にきらびやかな小袖姿である。にたりと笑うと、烏帽子をかぶりこれも派手な小袖を着た捨丸の肩を叩《たた》いて云った。
「やれ」
捨丸は足を踏み鳴らして幸若を舞い唄った。
「此の鹿毛と申すは、あかいちょっかい革袴、茨がくれの鉄冑、鶏のとっさか立烏帽子、前田慶次が馬にて候」
慶次郎は白扇を開いて、大仰に捨丸をほめ上げた。群集もこれに和した。
利家は馬をとばして慶次郎に斬りかかりたい気持を、辛《かろ》うじて抑えた。
この天正十六年という年を、慶次郎は文字通り、遊び暮したようだ。だがその遊びは、いわゆる飲む打つ買うという、後世の代表的な遊びとは種類を異にしていた。慶次郎の遊びとは風雅の道である。
記録の伝えるところによれば、彼は一条関白|兼冬《かねふゆ》、西園寺《さいおんじ》右大臣《うだいじん》公朝《きんとも》の屋敷に出入りし、三条|大納言《だいなごん》公光《きんみつ》について、源氏物語と伊勢物語の講釈をきき、後にその伝授を受けたといわれる。茶は千|宗易《そつえき》に学び、和歌・連歌を得意とし、乱舞・猿楽《さるがく》を嗜《たしな》み、笛・太鼓まで一流の腕だったと『上杉将士書上』にある。これは慶長二十年に清野助次郎・井上|隼人正《はやとのしょう》が書き置いたものといわれるから、年代的に見て信憑性《しんぴょうせい》が高い。
公卿の屋敷に出入りするにも、まして古典の伝授を受けるような場合は勿論、かなりの金がかかることは常識である。町衆と呼ばれた京の富裕な商人たちも、同じ方法で公卿に金を贈り、古典を学び、和歌を学んでいる例が多く見られる。
これらの公卿屋敷はそうした風雅の士の集まるサロンの如きものだった。そのサロンで、慶次郎の名は漸《ようや》く高くなっていった。とにかく金を敵と思っている男だから金離れは極めていい。服装は伊達《だて》ではあるが、この大男が無造作に着こなしている様を見ると、少しも違和感がない。古典の道に明るく、諸芸に達者だが、それを鼻にかけるところが全くない。何よりもその人柄《ひとがら》が明るく、人なつこく、少年のように初々《ういうい》しいところが、たまらない魅力を持つ。そのくせその明るさの底に、どこか厳しい悲しさが漂っている。こんな男が有名にならない方がおかしい。つまりは男好きのする男なのである。
やがてその名は秀吉にまで聞えた。
前田利家の屋敷は聚楽第の北、天守の下あたりにあった。もう少し正確にいうと、聚楽第の長者町口を正面と見立てて、右側、長者町の門をくぐりすぐ右に折れると蒲生《がもう》氏郷《うじさと》の屋敷があり、その前を通って、同じ側の中央近くに浅野|長政《ながまさ》屋敷、その斜め左|上手《かみて》、つまり濠《ほり》について左に折れた道の中程に、前田屋敷があったわけだ。天正十四年の建造に成り、利家の正妻まつは一年中ほとんどここに住んでいた。人質の意味が多分にある。
まつは利家がまだ微禄の頃《ころ》結婚した糟糠《そうこう》の妻であり、女丈夫といってもいいほど胆《きも》の坐《すわ》った女である。遥か後年、慶長四年九月、利家の子利長が徳川家康に謀反《むほん》を疑われた時、老齢のまつが自らいい出して、江戸に人質第一号として下ることで前田家の危機を救ったことは、余りにも有名である。
秀吉の呼出しをうけて聚楽第に赴いた利家が恐ろしく不機嫌《ふきげん》な顔で帰って来たのにまつは気づいた。
「何か、ございましたか」
などとまつは訊かない。黙って風呂に入れ酒肴《しゅこう》の用意をさせた。次いで自分もするりと着衣を脱ぐと風呂場に入りこんだ。とても大名の奥方のすることではない。だが信長|麾下《きか》の貧しい赤母衣衆《あかぼろしゅう》だった頃はいつもこうだった。燃料の節約のためである。お互いに背を流し合って、何事も隠すことなく語り合ったものだ。
「久しぶりに背を流してたもれ」
とまつがせがむと、利家は又左衛門《またざえもん》の昔に戻って、素直にまつの白い背を洗いはじめた。
「慶次郎の奴《やつ》」
果して利家は唸《うな》った。
「またぞろ奴のお蔭でえらいことになりそうだ」
「慶次郎殿が何事かしでかされましたか」
「しでかしたわけではない。これからしでかそうとしている」
もっと詳しく、とまつが催促した。今度はまつが替って利家の背を流しはじめた。
「慶次の奴、近頃京で妙に名をあげて来たらしい。かぶき者でありながら風雅の嗜み尋常ならず、と云うのだ。あの暴れ者がだぞ」
利家は忿懣《ふんまん》やる方ないといった口調で云った。
まつの方は実のところ慶次郎|贔屓《びいき》である。何よりも爽《さわ》やかな人柄が好もしい。そして利家など遠く及ばぬ風雅の士であることも先刻承知だった。
利家の慶次郎を嫌う気持の底には一種の劣等感がある、とまつはいつも思っている。一国をあずかる戦国武将としては、確かに利家の方が上であろう。だが男と男、一人対一人の場に立った時、残念ながら利家は遥かに劣る。男としての涼しさ、爽やかさ、教養の度、更には格闘技の優劣、胆力の大小、どれをとっても利家は慶次郎にかなうまい。
悪いことにこの二人は体型がよく似ている。どちらも人並はずれた大男である。しかも利家の方も又左衛門といわれた昔には、結構かぶいた武士であり、その点が織田信長と気が合って重用されたのである。従って利家には慶次郎のかぶいた気持がよく理解出来る。それだけに癪《しゃく》なのである。
「今日、関白殿に呼ばれたのは何のためだと思う。何と関白殿は巷《ちまた》の噂《うわさ》を耳にとめられ、慶次に会ってみたいと云われたのだ」
「まあ。それでは慶次郎殿にもよき春がめぐって来るわけですね」
「まつは甘いぞ」
利家はぴしりと去った。
「慶次はこの世の栄達など歯牙《しが》にもかけぬ男だ。素直にお召しに応ずるかどうかも分らぬ。また応じたとしても、御前で一体なにを仕出かすか分ったものではない」
利家の声が異常に高くなり、浴室じゅうに反響した。
「声を小さく。睦言《むつごと》のように」
まつは囁《ささや》きながら利家を握った。小さくうなだれている。
〈気の小さなお人〉
まつは腹の底で軽蔑《けいべつ》した。慶次郎ならこんな時でも触るまでもなく隆々としているのではないか。まつは慶次郎についてのその手の噂も、何度か耳にしていた。まつにいたずら心があるわけではなかったが、女から見て頼もしい男であることに変りはない。
「関白殿はわしと慶次のいきさつを幾分かは御存知《ごぞんじ》のようだ。まるでからかわれるように、召し出すことに異存はないな、と念を押された。異存は大ありだ、など云えるわけがないではないか」
まつの乳房をぎゅっと掘った。これは怒りの発散というだけだった。
「ただ、あの者は己れの意地を立て通すことしか頭にないかぶき者ゆえ、無礼の振舞いがあるやもしれぬ、とそれだけは申し上げておいた。だがそれでも万が一、関白殿を激怒させるようなことがあれば、当然わが家にも災いが及ぶだろう。それを思うと居ても立ってもおれぬ」
漸く利家の男がたけり立って来た。まつは素早く己れの中に入れ、利家の膝《ひざ》に乗りながら囁いた。
「御心配はいりませぬ。お委《まか》せ置き願います」
まつに慶次郎説得の成算があったわけではない。だがまつは慶次郎の人柄を信じていた。その生来の優しさをである。
翌日昼頃、侍女を一人つれただけで屋敷を出た。身なりも地味なものに抑えた。慶次郎の家は昨日のうちに調べさせてある。現在の寺町通りのあたりだったと記録にあるが、この当時はまだ寺町ではない。寺町の成立は天正十九年、この頃から三年後のことだからだ。
生憎《あいにく》なことに、慶次郎は不在だった。隣家の老婆に尋ねてみたが、行き先は不明だという。まつが途方に暮れていると、男が一人走って来て隣家の老婆にがなった。
「えらい騒ぎや。御牢人《ごろつにん》はんがまたごねてはりまっせ」
まつにはすぐぴんと来た。訊いてみると矢張り慶次郎である。
河原町辺の呉服屋、といっても掛小屋の小さな呉服屋で事件が起きているらしい。慶次郎の家からは、すぐ近くである。まつはとりあえず急行した。
呉服屋の前は黒山の人だかりである。侍女が人波をわけて近づくと、居た。正しく慶次郎である。慶次郎に劣らぬ大柄で、しかもでっぷり肥《ふと》った主人が、右脚を投げ出して行儀わるくあぐらをかいている。その投げ出した脚の膝の上に、慶次郎がどっかり腰をおろしているのだった。主人が何とか脚を引き抜こうとするが、慶次郎は涼しい顔で、ぴくりとも動かさない。どこをどう抑えているのか、時に激痛が走るらしく、主人は躰《からだ》に似合わぬかばそい悲鳴をあげ続けていた。
見物人の話では、事の次第は次のようなものだった。
今も昔も京の商人の無愛想と傲岸《ごうがん》は変らない。少々名の通った店ほど、売ってやるという態度をとるし、時に無礼でさえある。
この掛小屋の呉服屋は、思い切り派手で変った染めを扱うので、傾奇者の間ではかなり高名な店だった。同時に主《あるじ》の人もなげな応対でも知られていた。主は大兵肥満《だいひょうひまん》、力は三人力という腕自慢で、大方の傾奇者など屁《へ》とも思っていない。いやなら買うな式の商法を通して来た。
今日も片脚を店に投げ出した自堕落な格好で商いをしていた。客を舐《な》め切った態度である。元々狭い店なのだから、積まれた反物の間にあるこの脚は、ひどく邪魔で目ざわりだった。それでも主は平然としている。
そこへ慶次郎がぶらりと入って来た。一目見るなり云った。
「親爺《おやじ》、店に放《ほう》り出している以上、この脚も売物なんだろうな」
主はせせら笑った。
「そうや。けど高いで」
「いくらだ」
「銭百貫」
慶長六年の換算で、銭百貫は銀約千五|百匁《もんめ》、金にしてほぼ二十両という。この当時は更に銭が高かった筈だ。天正年中の金一両は米四石に該当する。二十両は現在の金にして六、七百万円にもなるだろうか。うす汚い脚一本の値段としては法外なのは、主も承知の上だ。だが相手が悪かった。
「買った」
慶次郎は喚《わめ》くなり、伸ばされた脚の膝の上にどすんと坐った。あまりの痛さに主はぎゃっと叫んだ。自慢の三人力でつきのけようとしたが、こんな姿勢で力が出るわけがない。しかも慶次郎がもぞっと尻《しり》を動かしただけで、激痛が全身を貫くのである。
慶次郎は通行人を呼びとめて、近くにいる黒馬の馬丁を呼んでくれと頼んだ。捨丸が何事ならんとすっとんで来ると、慶次郎はにたりと笑って、急いで銭百貫分の金を持ってくるように命じた。
〈冗談だろう〉
そう思って上の空で承知しましたと云うと、途端に凄《すさ》まじい怒声が降って来た。
「いたずらではないぞ。俺《おれ》はこの脚を叩っ斬って、四条河原に曝《さら》す。銭百貫文の脚|也《なり》、と捨札をしてな。すっとんでいって持ってこい」
慶次郎の目の色はまさしく本気だった。何が何でも脚を斬る気でいる。心底腹を立てているのは確実だった。そして立腹した慶次郎をとめられる者はいない。捨丸は横っ飛びに店をとび出した。
主のあげる悲鳴に忽《たちま》ち人が集ったが、常から主の所業をつら憎く思っている者ばかりだから、いい気味だと思うだけで、助命の口を利く者は一人もいない。
「ついでにもう百貫払って両脚とも貰《もら》おうか。その方がお前も坐りがいいだろう」
慶次郎は真顔で主に云う。今や主も、これが洒落《しゃれ》や冗談ではないことを悟っていた。身内に震えが起り、やがて表にも現れた。肥った躰が波うつように震えている。この男は生れて初めてこの世には途方もない化物のいることを知った。恐怖のあまり泣き喚いた。
やがて騒ぎを聞いて町役人がとんで来た。懸命に詫びを入れたが慶次郎はどこ吹く風である。町名主も来たが同じだ。遂には京都所司代前田|玄以《げんい》のところにまで訴えが届いた。京都所司代はこの前年の九月に、京都|奉行《ぶぎょう》にかわって設けられた役所である。玄以は部下をやって慶次郎を説得させたが、これも効果はなかった。売物として値までつけられた物を買ってどこが悪い、という慶次郎の意見がまっとうだからだ。
捨丸はこの騒ぎの間じゅう、金二十両をしっかりと抱いて、人ごみの一番うしろに立ち、様子を見ていた。この男は二十両の金がなんとしても惜しかったのだ。薄汚い脚一本に二十両は高すぎる。本気でそう思っている。だから成《なる》べくなら払わずにすませたい。後でこっぴどく叱《しか》られるのは覚悟の上で、こうして様子を見続けているのは、この異常なまでの金への愛着のためだった。
その捨丸が群集の中にまつの姿を見出《みいだ》してあっとなった。加賀前田の家中の者でまつの顔を知らない者はいない。この気さくな奥方は、前田家がいくら大藩になろうと少しも変らない。町家の女房《にょうぼう》と同じように、僅《わず》かな供をつれただけで平気で町をぶらつき、衝動買いするのである。気に入った物が見つかると、いい齢《とし》をして、乙女のようにぽっと顔が染まり昂奮《こうふん》すると云う。なんとも可愛《かわい》い女だった。そのまつが、面白くてたまらない、といった顔で見物しているのである。
捨丸はまつに忍びより、そっと袖を引いた。
「なあに?」
まつが捨丸を見た。
「お願いにござりまする。奥方さまのほかにあの呉服屋を救えるお方はおりませぬ」
まつは捨丸がどうして自分を知っているかなど穿鑿《せんさく》もしない。
「でも憎たらしい顔をしているわ、あの人」
まつにも呉服屋の主が気に入らないのだ。
「奥方さまなら、そんな男の脚に百貫文お出しになりますか」
これが効いた。
「ほんとだわ。なんて馬鹿らしい」
まつはつかつかと慶次郎に近づいた。
「およしなさい、慶次殿」
慶次郎は思いもかけぬ人の顔を見て、少々うろたえた。
「これは……」
「馬鹿らしいじゃありませんか。そんな脚、子供の玩具《おもちゃ》にもなりやしない」
慶次郎はこのおまつに弱い。歯切れよくぽんぽんとまくしたてる言葉が、霰《あられ》が顔に当るように爽やかで快く、一瞬うっとりとしてしまうのである。
「それより、おいしいもの喰《た》べさせて」
「いいですよ」
慶次郎はあっさり立ち上った。呉服屋は安堵《あんど》のあまり失神した。
人は慶次郎が悩みなどとは無縁な男だと信じている。確かに、その図体《ずうたい》や容貌《ようぼう》から考えて、悩みはこの男に似合わない。くよくよ悩むより、行動する方がふさわしい。そう見えるに違いないことを、慶次郎自身も知っている。
だが人は間違っている。慶次郎は悩むのである。現に今、悩んでいる。深刻に悩んでいる。懊悩《おうのう》といっていい。
一見悩みそうもない生き物こそ、深く悩むものだと慶次郎は思う。そうとも。熊《くま》や猪《いのしし》こそ悩むのである。そして彼等の悩みを思うだけで、慶次郎はぞっとする。どんなにか耐えがたい、凄まじい辛さかと思う。それがほとんど肌《はだ》で実感出来た。
いかにも繊細そうな、柔らかくほっそりとした躰の持主ほど、決して悩みをもっことがない。心が残忍酷薄だからだ。血が冷たい。悩むのは血が熱い者に限る。考えても見ろ。鹿《しか》や栗鼠《りす》が悩むかよ……。
慶次郎は思案に倦《う》んで、ごろりと横になった。開けっ放しの縁先から爽やかな風が吹きこんで来る。風薫《かぜかお》る五月だった。
〈外はこんないい季節なのに〉
ひどい違和感があった。一度起き上り、またひっくり返った。
〈ひどいもんだ。だから女はいかん〉
心の底から溜息《ためいき》が洩《も》れた。
事の起りはおまつにある。いや、おまつに対する慶次郎の弱きにあった。
(所詮《しょせん》惚《ほ》れているのかね)
自分でも時にそう思うことがあるが判然としない。慶次郎は男にも女にも惚れっぽい男だが、纏綿《てんめん》たる恋慕の情などとは無縁の男である。惚れれば即《すなわ》ち奪う。至極の恋は忍ぶ恋とみつけたり、と云うが、慶次郎には通じない言葉だった。奪うという意識はない。頭がもやもやして来て、気がついて見ると奪ってしまっている、と云うのがより正確な表現であろう。ほとんど無意識の仕業だった。
この慶次郎の流儀によれば、彼はおまつに惚れていないことになる。一度も奪ったことがないからだ。それにしてはこのひけ目ともいえる感覚は何だ。そこが判らない。とにかくおまつがさっぱりした顔で、
「宜《よろ》しゅうございますね。お願いしましてよ」
と云うと、慶次郎は反射的に、
「心得申した」
と云ってしまう。自分でも馬鹿のようだと思うのだが、どう仕様もない。必ずそういう仕儀になるのだった。おまつは、慶次郎が自分でも気づいていない急所を知っていて、いきなりそこを直撃するのだ。それは男としての意地であり、見栄《みえ》である。そこを細く柔らかい指でぴたりと抑えられると、慶次郎は音《ね》を上げるしか方がない。その音が、「心得申した」なのだった。
それにしても今度のおまつの頼みは非道《ひど》すぎた。数日うちに関白秀吉公からのお呼出しがあるが、これには必ず応じて戴《いただ》きます。お逃げになると、関白殿は必ずうちの殿が邪魔をしたのだと邪推なさるにきまっていますから。さて、お目見得《めみえ》に御登城となったら、何をなさろうと御自由ですが、関白殿をお怒らせするのだけはやめて戴きます。精々笑わせて差し上げればいい。さもないと前田の家は潰《つぶ》れ、私は路頭に迷うことになります。宜しゅうございますね。お願いしましてよ。
こんな勝手な言い草があるか。関白にお目見得などいやなことだ。真っ平御免だった。幸いまだ呼出しは来ていない。今のうちに逃げ出すのが一番である。折角住まい慣れた京の都だが、こんな災難を避けるためなら諦《あきら》めるしかない。日本全国、どこへ行ってもお日さまは照る。だがおまつはそれを禁じた。前田家にとって恐らく一番安全な道を封じたのである。
お目見得には行かなければならない。
慶次郎は気落ちした心でそう思った。おまつの云うことをきくと、必ずこういう状態になる。躰から力が抜けてゆくのだ。それだけ無理な注文だということだった。それはまあいい。だが、関白を怒らせるな、だと! そんなことが出来るか! 別段たくんで怒らせるつもりはないが、怒る怒らないは向うの勝手だ。自分にはどうすることも出来はしない。怒らせまいとしたって、怒る時は怒るのだし、第一、自分にはそんな斟酌《しんしゃく》は出来っこない。関白は『傾奇者』に興味があるにきまっている。そして傾奇者は絶対に自分の好きにしか振舞わないからこそ、傾奇者なのだ。おまつの云っているのは無理な注文ではない。不可能な注文なのである。
「私は路頭に迷うことになります」
いやな言葉だった。慶次郎はこの言葉に弱い。おまつでなくても、女子供が路頭に迷うという一事が、彼の心を引き裂くのだ。ましてあのおまつが……。
慶次郎はぶるんと頭を振った。それだけは出来ない。断じてそんなことにはさせない。だが関白を怒らせないと保証も出来ない。ならばどうするか。
慶次郎の眼《め》が坐って来た。いつの間にか起き上って正坐《せいざ》している。まったく唐突に一つの思念が浮上して来た。
〈殺すしかない〉
関白秀吉をである。死んだ人間なら怒ることも出来まい。異常な思念だった。だが慶次郎にとっては自然な帰結だった。おまつとの約束を果すにはこれしかなかった。
〈よし。殺そう〉
一息に懊悩が消えた。奇妙に心が浮き立って来た。心を騒がせるように、なま温《ぬる》い風が吹く。
〈五月なんだ〉
家に籠っているなど愚の骨頂である。
「出掛けるぞ、捨丸」
喚きながら、最後にもう一度、慶次郎は思った。
〈まったく女って奴は……〉
秀吉の呼出しが来たのは翌日の朝だった。
「殿下には当節はやりのかぶき者が見たいとの御所望にござる。精々かぶいて参られよ。本日ばかりは多少無礼な服装でも、差しつかえござるまい」
要するに秀吉をあっと云わせる趣向をこらせと云うのだ。この使者の口上に、慶次郎はにたりと笑って応《こた》えている。
「確かに承った」
衣裳《いしょう》は昨日のうちに用意してあった。
「捨丸。髷《まげ》を結い直せ」
慶次郎の注文を聞いた時、いい加減奇行に慣れた捨丸でさえ、あっと声をあげた。
「いくら何でもそのような……」
「いいからやれ」
有無を云わせぬ強い調子で云い、慶次郎は秘《ひそ》かに懐中にしてゆくつもりの短剣をじっくり吟味しはじめた。
聚楽第の謁見《えっけん》の間《ま》には二十人余りの大名がつめかけていた。その中に前田利家もいる。落ち着かなげに絶えず細かな仕草を繰り返し、両隣の徳川家康と池田輝政の眉《まゆ》をしかめさせていた。鼻をつまむ、眉を掻く、耳をつまむ、袂《たもと》をさぐる、懐中を改める。その動作を果てしなく繰り返すのである。
「又左、うるさい」
たまりかねて輝政が注意したほどだ。利家ははじめて自分のしていることに気付いたように、ぴくりとして動かなくなった。だが無意識にすぐまた同じ所作を始めるのだった。輝政も呆《あき》れ果てて、二度と文句はいわない。利家の不安はそれほど大きかった。おまつは、大丈夫ですよ、と頼もしげに請け負ってくれたが、利家の知っている慶次郎は、女の頼みぐらいで行動を変える男ではない。その上、慶次郎が利家にしっぺ返しを喰わせるには、これほどの機会はない。今日ばかりは慶次郎の一挙手一投足に、前田家百万石が賭けられているのだ。
上段の席から、秀吉が面白そうに自分を見つめているのを、利家は感じている。秀吉にとって今日のお目見得は二重の楽しみなのだ。慶次郎の異風もさることながら、嘗て槍の又左衛門といわれ、自分には及びもつかぬ颯爽《さっそう》たる赤母衣衆だった利家の、赤くなり蒼《あお》くなる顔は何とも小気味のいい眺《なが》めだった。
慶次郎が無造作に入って来た。利家は息をつめた。何とも異様な風態《ふうてい》だった。
白の小袖に朱の革袴。裃《かみしも》はなんと虎の皮だ。小袖の紋所は髑髏《しゃれこうべ》である。それだけでもいい加減異風だが、まあいい。問題は頭だった。髪の毛を片方に思い切って片寄せ、そこに髷が横に曲って立っているのだ。誰もこんな髷の結い方は見たことがない。お蔭で顔がひきつったような錯覚を起させる。まことに無茶苦茶な頭だった。
だが慶次郎が悪びれもせず御前に進み、秀吉に向って平伏した。その時初めてこの髷の意味が分った。慶次郎は通常の礼のように額を畳にこすりつけることはせず、頭を横に寝かせたのである。これは額をすりつけるなどいやなことだという意味にもとれるし、秀吉と同時に諸大名に挨拶《あいさつ》したようにも見えた。髷をこの形にしてあるからこそ出来たことである。つまり平伏した時、秀吉に見えるのは頭だけだ。その頭上の髷は、確かに秀吉に正対しているのである。頭を見る限り、慶次郎は正しく秀吉に平伏していることになる。だが顔は横に向いているのだから、こちらの方は諸大名に会釈していることになる。
大名たちは寂《せき》として声もない。正直のところ度胆を抜かれて、声を出す余裕もないのである。
突然、秀吉がぷっと吹き出し、次いで大声をあげて笑い出した。
大名たちも呪縛《じゅばく》を解かれたかのように、一斉《いっせい》に笑った。利家は笑うどころではない。顔面|蒼白《そうはく》。躰じゅうにべったり汗をかいていた。
秀吉はその利家を見、指をさしてまた笑いこけた。
「面白いな。こんな趣向は初めて見た。何とも変った男ではないか」
慶次郎は顔を上げ、しゃらっとして秀吉を見、大名たちを見廻した。実は腹の中で、秀吉との距離を計っている。
〈遠すぎる〉
聚楽第の造りは万事に大きく広い。この謁見の間の上段もたっぷりの奥行を持ち、慶次郎のいる場所から一跳ねしても秀吉の躰には届かない。秀吉の斜めうしろにいる小姓がとび上って立《た》ち塞《ふさ》がり、抱きついて来るのは明らかだった。振り払う間に秀吉は次の間に逃れ、つめている護衛たちに囲まれるだろう。
〈動くしかない〉
思うと同時に立った。
「芸をつかまつる」
「芸?」
秀吉が意外そうな顔をした。慶次郎は傾奇者といえども一箇の武士である。滝川|一益《かずます》の下で、また利家の麾下として、数々の武功をたてて来ている勇猛の士だ。そんな男が芸をするとは思っても見なかった。
「されば……」
慶次郎は白扇を開くと動き出した。舞うのかと思ったが違った。なんと躰を折って腕を垂らし猿の真似をはじめたのだ。一人で猿廻しと猿を演じわける、意外に確かな滑稽芸《こっけいげい》である。
だが大名たちは笑うどころではなかった。猿の演技が迫真的であればあるほど、恐怖に凍りついた。秀吉が猿面冠者《さるめんかじゃ》と呼ばれたほど猿に似ていることは周知の事実である。その面前でつらあてがましく猿を演じて無事にすむわけがない。
利家は脇差《わきざし》の柄《つか》に手をかけて片膝を立てた。斬るしかない。そう思いつめていた。この痴《し》れ者《もの》を斬る以外に、加賀百万石を救う道はない。
徳川家康がその膝を抑えた。意外に強い握力である。
「お平らに」
低く囁いて、上段の秀吉を眼で指した。
秀吉は笑い転げていた。文字通り腹をかかえて笑っていた。また慶次郎の芸は、余計な気さえ使わずに見れば、おかしさに満ちた見事なものだった。笑い転げて当然なのである。
だが笑い転げながら秀吉の思考は一点に集中していた。
〈何故《なせ》だ? 何故わざわざわしを怒らせようとする?〉
それだった。秀吉もまた一箇の傾奇者である。慶次郎の気持など一目で判るつもりだった。傾奇者にとって天下人《てんかびと》など何者でもない。たかが百姓上りの猿ではないか。そう思っているし、又その思いを露骨に示そうとして当り前である。髷はその現れだった。髷だけは平伏するが、本当の俺はそっぽを向いてるんだよ。そう云っているのである。見事な根性だった。秀吉はこういう根性が嫌いではない。だから判っていたが許した。だがこの猿芸は! ここまで来ると完全に行過ぎである。大名たちは自分が怒り出すのを、今や遅しと待ち構えている。その期待をはぐらかしてやろうという思いひとつで、笑い転げて見せているのだが、それにも限度がある。いつまでも馬鹿にされ続けていては、関白の沽券《こけん》に関《かか》わることになろう。小姓の捧げる太刀をとり、つめ寄って手ずから斬って捨てねばならぬ。だが何故だ? 何故そんなに死にたいのだ?
その時、偶然が秀吉の眼と慶次郎の眼をまともに合わせた。秀吉はぎくっと身を引いた。
〈今見たのは……〉
それは明らさまな殺気だった。この男は死ぬ気ではない。殺す気なのだ。一瞬にしてそれが判った。だからわざと怒らそうとしているのだ。自分が手討ちにするために近づいた時……その時こそこの男は一跳びに襲って来る。
秀吉は改めて、相手の猫科《ねこか》の猛獣のようなしなやかで力強い肉体に気づいた。ぞっとした。
「ちょっと待て」
手を上げてとめた。慶次郎は中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な形をとったまま、ぴたりと停《と》まった。
〈気付かれた〉
そう直観した。懐《ふところ》がさぐられ、短剣が見つかる。それで終りだった。ひと暴れして花を添えるか。そう思った。さほど悪い死にざまでもない。
「まず坐れ」
秀吉が低く云った。声に凄味《すごみ》がある。
じろり。
慶次郎はたじろぎもせず、まともに秀吉を見た。とびかかるなら今である。坐ってしまっては動作が遅れる。但《ただ》し秀吉の方から近づいて来てくれるなら、話は別だ。近づくのは勿論、手討ちにするためにだが、そんなことは屁でもない。だが……
〈こりゃあ駄目だ〉
一瞥《いちべつ》で諦めた。
秀吉の顔が変っている。そこには最早《もはや》権勢を誇る成上りの天下人も、好色な狒狒親爺《ひひおやじ》もいない。したたかで隙《すき》のない、一箇の『いくさ人』がいた。小男の『いくさ人』は総じてはしこくしぶとい。槍でも使えば別だが、今慶次郎が懐に呑《の》んでいる鎧通《よろいとお》し(幅広の短刀)ではひと刺しに仕とめることは難しい。
しかも秀吉の腰が僅《わず》かに浮いている。素早く後方に跳ぶための構えである。これでは十に一つも成功の望みはない。
〈ままよ〉
慶次郎はその場にどかりとあぐらをかいた。どうにでもなれ、と思っている。
秀吉がその姿を鋭く見た。
「で、何故だ?」
前田利家はじめ居並ぶ諸大名は、この言葉を、何故猿芸などするのか、という意味にとった。だが違う。これは何故自分を殺そうと決意したのかという意だった。慶次郎だけがその真の意味を悟った。これは秀吉と慶次郎だけの密《ひそ》かな対話なのだ。
「さて……?」
慶次郎は囁《ささや》くように天井《てんじょう》を見上げた。嘘《うそ》ではなかった。理由など自分にも判ってはいない。
ただ決意しただけのことだ。
「何びとかのためか?」
「まさか」
慶次郎は一笑に附した。おまつの名など出せるわけがない。それに正確にいっておまつのせいではなかった。
〈本当に何故なんだろう〉
慶次郎自身が考えこんでしまった。自分の今居る場所も忘れて、本気で思案している。それがはた目にもはっきり判った。
秀吉は呆れ返っている。こんな馬鹿々々しい男は見たことがない。確たる理由もなく、恐らくは只《ただ》の気分だけで関白秀吉を殺そうとしたというのか。秀吉にはそれが恐ろしく自分の沽券に関わることのように思えた。声に鋭さが増した。
「わけがない筈はあるまい。よく考えろ」
よく考えろ、とは奇妙な言葉であるが、秀吉の気持を正直に表している。わけもなく殺されてたまるか。そう云っているのだ。
「左様……」
慶次郎が考え考え云った。
「強いて申さば、意地とでも申しましょうか」
「意地?」
秀吉が目を瞬《まばた》かせた。理解出来ないというしるしである。
「かぶき者の意地、と申すか」
「人としての意地でござる」
慶次郎の反駁《はんばく》は間髪をいれなかった。
関白であろうと牢人であろうと同じ人である。面白半分に人が人を呼びつけ、曝《さら》し者《もの》にしていいわけがない。正しく思い上りであろう。呼びつけられ、曝し者にされた男は相手を刺すことによってのみ、相手もまた人に過ぎないことを強力に証明することが出来る。思い上りに対する痛烈なしっぺ返しである。
秀吉は今度こそ完全に理解した。戦慄《せんりつ》と共に理解したと云ってもいい。
この男は獣だった。絶対に飼い慣らすことの出来ぬ自然の獣だった。さすがの秀吉が一瞬恐怖を味わったほど恐ろしい獣だった。
〈殺すか〉
反射的にそう思った。これは恐怖に対する最も自然な反応である。
だが秀吉もまた一箇のかぶき者である。当り前の反応に身を委せることを嫌う性癖がある。
一座の諸大名は息をひそめて事の成行を見守っている。誰もが、秀吉が慶次郎を斬ることを期待している。そんな連中の思い通りに振舞うのは癪だった。こいつらの鼻を明かしてやらねばならない。それに自分がこの男に恐怖を抱いたことを知られたくなかった。
秀吉の声が穏やかになった。
「その意地、あくまでも立て通すつもりか」
慶次郎の返事がよかった。
「やむを得ませんな」
気張って意地を立てるわけではない。それが自分にとっては自然の振舞いになってしまっているのだ、と云っているのだった。
「立て通せると思うか」
「手前にも判りませぬ」
そして慶次郎は微笑《わら》った。ちょっと照れたような、含羞《はにかみ》の微笑だった。
秀吉はこの微笑に痺《しび》れた。久しぶりに、まことに男らしい、いい微笑を見たと感銘した。殺す気が一気に失《う》せた。
「見事かぶいたものよ」
秀吉は大声で云った。
「大儀であった」
これは退《さが》っていいという意味である。
居並ぶ人名たちは、この思いもかけぬ成行に茫然《ぼうぜん》とした。特に前田利家に至っては、全身の力が抜け、不覚にも前にのめり、危うく手をついて支えた。
慶次郎は又しても顔を横に向けて平伏し、今度は諸大名に向けて片目をつぶって見せた。これは利家に向けたものだった。次いですっくと立ち、悠々《ゆうゆう》と退出してゆく。威風あたりを払う、堂々の退出ぶりだった。諸大名、声もなくその姿を見送った。
「誰か舞わぬか」
秀吉が云った。
即座に立ったのは、なんと徳川家康である。
「さればひとさし」
短く云うとさっと白扇を開いて舞いだした。
家康の舞いは下手くそである。元々容姿がよくない。極端な短足の上にでっぷり肥えている。見られたものではなかった。
当時の大名たちはいずれも能の心得がある。舞いのひときしやふたさし、誰でも出来る。家康のあまりの下手さ加減に、いずれもくすくすと笑いだし、遂に爆笑した。今まで緊張してぴぃんと張りつめていた座の空気が、これで一気に弛《ゆる》んだ。利家など腹をかかえて笑っている。今までの反動が来たのだ。おかしさの余り涙まで流している。
もとよりそれが家康の狙《ねら》いだった。家康は己れの珍無類の舞いによって、利家を救い、慶次郎を救い、最後に秀吉まで救ったのである。
秀吉だけが素早くそれと悟った。
〈恐ろしい男だ〉
今更ながら家康の男としての見事さに打たれたと云っていい。家康はこの伝で、多くの男たちを味方につけて来たに遠いなかった。
家康の舞いが終った。秀吉は誰よりも早く大きく手を叩き、
「見事な舞いだ。さすがは徳川殿である。正しく天下の舞いだ」
家康は自分の気特が秀吉に通じたことを知った。軽く会釈して席に戻った。
「誰ぞある」
秀吉が近習を呼んだ。
「先ほどのかぶき者を今一度呼び返せ」
利家がぎょっとなった。
家康は不審そうに見ている。
「褒美《ほうび》をとらせるのを忘れた。馬をとらせる。すぐ呼び戻せ」
利家はほっと息を吐き、家康は微笑した。
慶次郎は聚楽第を出たところで、この再度の召出しを聞いた。既に馬上にある。
「馬を?」
「左様」
近習は感にたえたように松風の雄姿を見つめながら云った。いかに関白さまでも、これ以上の馬は贈れまい。
「半刻《はんとき》後に出頭致すとお伝えあれ」
慶次郎は答えると、松風を走らせた。近習がとめる暇もなかった。
〈どういうつもりだ〉
秀吉の怒りを思って近習は身を震わせた。
きっちり半刻の後、慶次郎が再び接見の間に姿を現した時、大名たちは思わず驚きの声をあげた。秀吉も瞠目《どうもく》している。
『可観小説』にあるこのくだりの描写を引用して見よう。
『今度は成程くすみたる程に古代に作り、髮をも常に結直し、上下衣服等|迄《まで》平生に改め、御前へ出《い》で御馬を拝領し、前後進退度に当り、見事なる体也《ていなり》』。
きちんと礼儀を守った、げにも床《ゆか》しい武者ぶりだったのである。
古典はおろか古今の典礼にも通じ、諸芸能まで極めたと噂される当代|稀有《けう》の教養人の姿がそこにはあった。大柄《おおがら》な躰がいっそ涼しげで、匂《にお》うような男振りである。とても半刻前の『傾奇者』とは思われなかった。
秀吉は不覚にも、うっとりしてしまった。惚れ直したと云ってもいい。思わず、
「余に仕えよ」
そう叫びかけて危うく思いとどまった。慶次郎が拒否するのが眼に見えていたからだ。拒否したら今度こそこの男を斬らねばならない。だが斬るには惜しい男ぶりである。
秀吉は咄嗟《とっさ》に言葉を捜し、云った。
「気に入った。今後、どこででもその意地を立て通せ。余が許す」
再び『可観小説』の記述を引けば、
『向後|何方《いづかた》にて成《なり》とも、心儘《こころのまま》に衝《つ》き候《さうら》へと御免の御意を奉《たてまつ》りて、以後種々|思儘《おもひのまま》なる衝き事をして一生を送られけると也』
と云う仕儀になった。
まつはこの日のいきさつを、利家から聞かされた。利家は激昂《げっこう》していた。初めから終りまですべて気に入らない。ひとを薄氷を踏むような思いに曝した上に、慶次郎一人が見事に男を上げて悠々と退出して行った。褒美の馬を頂戴《ちょうだい》したばかりか、どこででも意地を立て通していいという許しまで得ている。これは即《すなわ》ち、前田家で犯したことを、よし、と認められたことである。秀吉の許しがあった以上、利家は慶次郎を罰することは愚か、咎《とが》めだてすることさえ出来なくなった。利家の面目は丸つぶれということになる。
話を聞いているうちに、まつの顔色が変って来た。利家はまつも自分に共感して立腹したのだと察したが、思い違いも甚《はなはだ》しかった。
まつは慶次郎が秀吉を刺そうと決意したことを、敏感にも察したのである。そしてそこまで追いつめたのが他《ほか》ならぬ自分であることを知った。男として、一箇のかぶき者として、絶対出来ぬことを、まつはさせようとしたのだ。まつの注文を果しながら尚且《なおか》つ男であるためには、天下人秀吉を殺すしかなかったのである。それが痛いほど判った。
そのくせ慶次郎は、まつには一言もそんなことは不可能だとは云わなかった。ちょっと悲しそうな眼をして、
「ああ、いいよ」
そう云っただけだった。あの悲しそうな眼の色を理解すべきだったのである。それが出来なかった自分を、まつは激しく責めた。何という思い上った、いやな女だろう。結果は別として、自分が男に死を覚悟させて恬然《てんぜん》としている女だという思いがたまらなかった。そして逆に、何も告げることなく即座に死を覚悟した慶次郎の優しさが心の底からこたえた。これこそ男の窮極の優しさではないか。しかも自分はそんな優しさに値する女ではない。
ふらりと立った。何を考えているわけではなかった。ただじっとしていられなかった。
「どうした。どこへ行く」
利家の慌てたような言葉は確かに聞えたが、幕の向うで誰か別人に云っているようだった。
そのまま歩き続け、いつか屋敷の外に出た。供も連れず、雲を踏むような思いで京の街を歩き続けた。
夕幕だった。空気は暖かく、悩ましいような風が吹いた。
都大路には夥《おびただ》しい人が出ていた。
どの顔も楽しげで、輝《かがや》いているように見えた。
〈あたしは違う〉
自分だけが暗く辛《つら》い。そんな気がした。
いつの間にか泣いていた。
人々が不思議そうに振り返って見送っているのを、見るというより背中で感じた。
〈いい齢《とし》をしてみっともない〉
ちらりとそう思ったが、どうなるものでもなかった。仕方がないじゃないの、女なんだもの。いっそ開き直った姿勢があった。
近よって来て声をかけそうにした男たちもいたが、まつの顔を見ると例外なく黙って離れてゆく。きっとこわい顔をしているに違いないと思った。
いつの間にか慶次郎の家の前に立っていた。
声を掛ける気にもならず、無言で戸を開けて入りこんだ。
土間に真っ黒で恐ろしげな馬が立っていた。じろりとまつを見たが、僅かに足を踏みかえただけで動かない。まつの気迫に押されたのかもしれない。
捨丸とかいう下人《げにん》の姿はなかった。夕餉《ゆうげ》の買物にでも出たのだろう。
構わず上った。
慶次郎は庭に面した部屋に大の字になって眠っていた。着流しでいかにも太平楽な姿である。なんとなく憎たらしかった。まつはぺたんと坐りこむと、開け拡《ひろ》げになっている胸を思いきりつねった。
慶次郎が目を開いた。まだ夢の中にいるような思いで、茫々《ぼうぼう》とまつを見た。その目が信じられぬものを見たように瞬いた。まつが居ることに驚いたわけではない。それほどまつが美しかったからだ。凄艶《せいえん》ともいえる姿だった。慶次郎は躰が動かなかった。
その裸の胸に、ぽつんと涙が落ちた。
「ごめんなさい」
まつが囁くように云った。
慶次郎の目の前が暗くなった。
気がついた時はまつを組み伏せ貫いていた。まつは慶次郎の下で甘やかに呻《うめ》いていた。
匂いたつような、なんともいい女だった。
決闘ばやり
慶次郎が『傾奇者《かぶきもの》』としての意地を立て通すことを、他《ほか》ならぬ関白|秀吉《ひでよし》から許されたという噂《うわさ》は、あっという間に京中に拡《ひろ》まった。就中《なかんずく》、かぶき者でこの噂を聞かない者はいなかった。当然であろう。秀吉の前で猿踊《さるおど》りをして見せたという話くらい、彼等《かれら》の血を沸かせたものはなかった。これは正に生命賭《いのちが》けの意地である。秀吉に殺されて当り前であり、殺された場合には、下らない意地を張って馬鹿《ばか》な男だ、と評されるのがおちである。だが下らないことに生命を張ることこそ正しくかぶき者のかぶき者たる所以《ゆえん》ではないか。
許した秀吉も偉いが、やりとげた慶次郎は男の中の男である。
誰《だれ》もがそう感じた。慶次郎の名は一躍かぶき者の代表のようになった。
だが一方で、かぶき者ほど嫉妬深《しっとぶか》い男たちはいない。慶次郎の名声を嫉妬し、何とかしてそれを奪い己れのものにしたいと望む輩《やから》が出て来るのは、自然の勢いだった。
そのためには慶次郎を殺せばいい。だがその殺し方が難しかった。勿論《もちろん》、闇討《やみう》ちは駄目《だめ》だ。
正々堂々、一人対一人の決闘で殺す必要がある。それも出来るだけ派手やかに宣伝し、多くの見物人を集めてやらなければ意味がない。
総じてかぶき者は己惚屋《うぬぼれや》である。格闘で慶次郎を倒すことについては、誰一人不安に思っている者はいない。何の根拠もなく、闘えば自分が勝つ、と思い込んでいる。慶次郎にとっては、これは極めて不愉快な成行だった。彼等が自信に満ちている限り、慶次郎は果てしなく殺人を続けてゆかなければならないことになる。慶次郎は戦闘は嫌《きら》いではないが、殺人を好む者ではなかった。出来る限り無用な闘争は避けたいと思う。だが逃げるわけにはゆかない。逃げたら最後、彼等は集団で襲いかかり、慶次郎は間違いなく死ぬことになる。
慶次郎に対する初めての果し合いの申込みが、立札という形で告示されたのは、六月初旬のことである。立札が立てられたのは、四条河原だった。
三日後の卯《う》の刻《こく》(午前六時)、この場所で果し合いが所望である。勝負は一人と一人、武器は自由。但《たた》し弓・鉄砲の類《たぐい》はこれを除く。立会人はなし。各自介添人を二名ずつ同道すること。万一この勝負を受けない場合は、卑怯者《ひきょうもの》と天下に触れ廻《まわ》ってくれる、という誠に勝手極まりない言い草だった。
相手の名前は深草|重太夫《じゅうだゆう》。この頃《ころ》、京で名をあげていたかぶき者である。西国の牢人《ろうにん》と自称するが怪しいものだ。名前だっていい加減にきまっている。だが身の丈六尺を超え、胴まわりも驚くほど太い。刃長三尺八寸という長太刀と、刃長二尺三寸の大脇差《おおわきざし》を閂《かんぬき》に差し、恐ろしく派手々々しい小袖《こそで》の下には常時|鎖襦袢《くさりじゅばん》を着込んでいた。膂力《りょりょく》は七人力と云《い》われていた。慶次郎さえ倒せば、京洛《きょうらく》随一のかぶき者と謳《うた》われておかしくない力量の持主だったことは確かだ。
「放《ほう》っておきなされ」
この立札のことをしらせた捨丸は云った。
「尋常の勝負などする男ではございませぬ。危うしと見れば助《すけ》っ人《と》を繰り出すつもりにきまっております」
無視するのが一番だと云うのだ。
「いや。行く」
「そんな……馬鹿くさい」
捨丸にすれば、妙なところで慶次郎に生命を落されては困る。それではあぶ蜂《はち》とらずになってしまう。深草重太夫などという名も知れぬ男では、下手をすれば弓・鉄砲の用意さえしているかもしれないのだ。立札にわざわざ弓・鉄砲は使わない、と書いているところが却《かえ》って怪しい。
「それはお前の役目だろう」
慶次郎はあっさり云った。事前に附近をさぐり、伏せ人の有無を確かめるくらい忍者にとってはわけのないことだ。捨丸は沈黙した。
どうせ慶次郎は一旦《いったん》云い出したら気を変えるような男ではない。
「こんなことに応じていると、きりがなくなるかと思いますが……」
次から次へと真似《まね》をして挑戦《ちょうせん》する馬鹿が必ず現れて来る。そんな相手に一々|生真面目《きまじめ》に応じていては、生命がいくつあっても足りまい。
「だからやるのさ」
慶次郎はそう云っただけだ。捨丸にはこの言葉の意味が不明だった。黙って溜息《ためいき》をついた。それしか仕様がなかった。
当日の卯の刻、慶次郎は松風にまたがり、槍《やり》を小脇にかいこんで、四条河原に現れた。
早朝だというのに、河原は見物人で一杯だった。深草重太夫の仲間らしいかぶき者が十人あまり、汗だくになりながら、人除けをしていた。戦闘の場を確保するためだ。
これだけでもう、重太夫は約束を破ったことになる。介添人は各自二名だった筈《はず》だ。それが先に到着している重太夫のまわりにいる男たちは二十人を越える。
重太夫の衣裳《いしょう》がふるっていた。白地の背に女の生首を大きく縫取りし、袴《はかま》は黒地に白で無数の髑髏《しゃれこうべ》を散らしてある。胸もとからは頑丈《がんじょう》そうな鎖襦袢がのぞき、鉄片を縫いつけた鉢巻《はちまき》をしめていた。
慶次郎の方は鮮やかな紺地にひょっとこの面を大きく染め抜いた、いっそすっきりしたこしらえだった。袴は同じ紺の無地。やはり手首までの鎖かたびらを素肌《すはだ》の上に着込んでいる。
立札のところで松風をとめ、ゆっくりと降りた。
重太夫が図体《ずうたい》にふさわしい野太い声で喚《わめ》いた。
「感心に逃げもせず、よううせた。だが介添人がおらんようだな」
「介添人はこの馬だ」
慶次郎は云い捨てて、立札に手を掛けた。
「馬だと!」
馬鹿にされたと思ったらしく、重太夫の顔が一瞬に真《ま》っ赧《か》になった。
「俺《おれ》の馬は、その辺にいる有象無象二十人より素晴らしい」
皮肉をいいながら、一息に立札を引っこ抜いた。棒は長く太く、先が尖《とが》っている。抜いて捨てられぬよう、しっかり打ち込んだものだった。それを、口を利きながら、あっさり引き抜いた慶次郎の膂力に、かぶき者たちはざわめいた。重太夫の顔色が僅《わず》かに変った。
「この面々は介添人ではない。ただの見物人だ。絶対に手出しはせぬ」
ありふれた口実である。だが重太夫としては一応の釈明は必要だった。夥《おびただ》しい見物人たちの手前もある。
「どっちでもいいさ」
慶次郎はうるさそうに云い、立札をとんとんと突いて棒の先の泥《どろ》を落している。
「立札なんか捨てろ。勝負だ!」
「どうぞ」
依然として泥を落し続けている。重太夫にとってこんな侮辱はない。真《ま》っ蒼《さお》になった。ものも云わず、刃長三尺八寸の長太刀を抜き、大きく振りかぶった。
「参る!」
一気に距離を編め、刃音も凄《すさ》まじく振りおろして来た。
慶次郎はその刃を、立札をさかさにした棒の部分でひっぱたいた。払うという感じではない。文字通りひっぱたいたのだ。
驚くべきことに、三尺八寸、厚重ねの剛刀がぼきりと折れ飛んだ。刀の一番|脆《もろ》い部分である峯《みね》を強打したからである。
重太夫は慌てて二尺三寸の大脇差を抜いた。後世江戸期に入ってからの長刀の定寸は二尺二寸五分である。だからこの大脇差は並の太刀の長さがあった。
慶次郎は相手が抜き終るまで待った。次いで、腹に響くような気合いと共に、立札の棒を電光の迅《はや》さで繰り出した。槍と同じ使い方だった。泥に汚れた太い木の棒が、重太夫の鎖襦袢を突き破り、胸板を貫いて背からとび出した。深草重太夫は音を立てて仰のけに倒れた。即死である。その胸に己れの書いた立札が墓標のように立っていた。
「友の仇《あだ》を討ちたい者は遠慮するな」
慶次郎は落ち着いた声で云い放つと、朱柄《あかえ》の槍の鞘《さや》を払い、ゆったりと松風にまたがった。
「介添人ともどもお相手致す」
隙《すき》ありと見たのか、背後から斬《き》りかかったかぶき者が二人、松風の後脚による強烈な蹴《け》りを同時に受け、顔面を潰《つぶ》されて死んだ。
こんな化物のような男と、地獄の生き物のような馬に立ち向える者がいるわけがない。
重太夫の仲間たちは、算を乱して必死に逃げた。
以後当分の聞、夢に慶次郎と恐ろしげな黒馬が現れ、夜半に悲鳴を上げてはね起きたかぶき者も、一人や二人ではなかったと云う。
慶次郎の作戦は見事図に当った。
立札による挑戦を知った時、慶次郎も捨丸同様、これに応ずればきりがなくなる、と感じた。ただ、慶次郎は闘う方を選んだ。思い切り残忍に、しかも無造作に殺してやろう。咄嗟《とっさ》にそう決心したからである。だからこそ、わざと槍も刀も使わず、立札の棒で刺し殺して見せた。この死にざまを見せつけられたかぶき者たちが、挑戦を諦《あきら》めてくれることを願ったからに他ならない。また万一同じ方法でこりずに挑戦する馬鹿がいても、今度こそ平然と避けることが出来る。誰が見ても慶次郎が卑怯のために避けたとは思わないからだ。
深草重太夫の死後|暫《しばら》くは、慶次郎に挑戦するかぶき者は絶えた。
暫くたって、又ぼつぼつ立札を立てる者が現れるようになったが、どの場合も慶次郎は捨丸をやり、立札の上に、
『かぶき者は武士|也《なり》。戦場以外の推参を認めず』
と大書した紙をべったり貼《は》らせた。
『推参』とは遊女や傀儡子《くぐつ》など雑芸をする者に特に許された慣習で、招かれもしないのに人の家を訪れ、いわば芸の押売りをすることである。彼等はすべて『無縁』の者であり、漂泊の芸人だったために、特にこの押売りの商法が許されていた。この習慣は正月の獅子舞《ししま》いという形で、永く第二次大戦前まで残っていたものだ。
『傾奇者』も精神の上では明らかに『無縁』であり、一箇漂泊の芸人といえなくはない。だがその意味で云うなら彼等の芸は戦争の筈だ。また事実、古来の合戦に自ら進んでとび入り的に参加する牢人は数多くいた。これも『推参』の一種の形であろう。だから慶次郎は『戦場以外の……』と書いたのである。個人対個人の闘争は合戦ではない。果し合いにはそれなりの理由が要る。確たる理由もなく、しかも故意に多数の見物人を集めて闘うのは、厳密な意味で果し合いではあるまい。寧《むし》ろ興行に似ている。それも一方的な押しつけだから、明らかに芸人の推参である。生き死にを賭けた闘争を興行にすることを慶次郎は拒否したことになる。どうしても俺を殺したければ、確たる理由を持ち、見物人を排除した果し合いを申しこめ。さもなければ行きずりの喧嘩《けんか》を売れ。見世物には出ないよ。慶次郎はそう云っているのである。
これで一時立札がなくなった。『推参』と云われては、かぶき者の面目は丸つぶれである。と云って見物人のいない一対一の果し合いでは効果も少く、自信もない。それが大方のかぶき者の正直な気持だった。深草重太夫の弟が闇討《やみう》ちによってでも兄の仇討ちをする気でいるという噂が流れたが、それも一向に姿を現すことなく、まずは平穏裡《へいおんり》に天正十六年の夏は過ぎていった。
きびしい残暑も終りかけた八月末のことである。慶次郎の牢宅の前に一人の若者が立った。かぶき者ではない。どこかの藩士らしく、きちんと月代《さかやき》を剃《そ》り、地味な小袖を着ている。挨拶《あいさつ》も札にかなったものだった。だが話の中身は、慶次郎に溜息を吐《つ》かせる態《てい》のものだった。この若者は正式に果し合いを申込みに来たのだ。
「お主《ぬし》いくつだ」
「十八歳にございます」
確かに躰《からだ》は大きく逞《たくま》しいが、まだ幼な顔が残っている。慶次郎は益々《よすます》気が沈んでいった。見たところ、物いいもはきはきしていて、満更馬鹿とも見えないのに、何たることだと思った。
「その齢《とし》でかぶき者になりたいのかね」
恐らく戦場の経験もないに違いない。これでかぶいたとしたら、一年もたたぬうちに殺されることは目に見えていた。
「違います」
若者は涼しげに云った。
「主君を持つ身でかぶくなど、考えられることではございません」
その通りである。現実には主持ちでかぶいている者もいることはいた。大方は親が高禄《こうろく》をはんでいる家柄《いえがら》の子弟で、慶次郎に云わせれば、思い上り、しかも甘ったれた連中だった。とても真の『傾奇者』とは云えない代物《しろもの》ばかりである。大体『傾奇者』が主君を持てるわけがない。何人《なんぴと》にも制約されることを嫌い、『上ナシ』を標榜《ひょうぼう》するのが『傾奇者』ではないか。主持ちのかぶき者などさっさと殺されてしまえばいいのである。死の時に初めてかぶく厳しさを思い知るだろう。
しかし、この若者はそんな人種ではなかった。だがそれならどうして慶次郎に果し合いを申し込んだりするのか。
「武士の意地にございます」
若者は短く答えて口をつぐんだ。
その意地の内容を詳しく聞かせて貰《もら》えぬ以上、果し合いに応ずることは出来ぬ、と慶次郎が強硬に主張すると、やっとぽつりぽつり話しはじめた。
若者は殿さまの側小姓《そばこしょう》を勤めている。側小姓という役は、大方が藩士の中でも大身の者の子弟があてられる。その中で若者だけが身分の低い家柄の出で、日常なにかと軽侮の眼《め》で見られ勝ちだった。
或《あ》る日《ひ》、小姓たちの雑談中、たまたま慶次郎の名前が出た。当代豪の者の代表としてである。意見が分れた。一方はかぶき者などに真の勇士がいるわけがないと云い、一方はありうるという。白熱の議論になった。若者は遠慮して中立を守っていたのだが、それが却っていけなかった。論より証拠、闘ってみれば判《わか》るということになり、では誰が、となった時、中立という意味で若者が指名されてしまったのである。
おおよそ馬鹿々々しい限りの話だった。
つまるところ、弱い者いじめである。いや、この場合は弱い者殺しということになる。
若者の武芸の腕がどれほどのものか知らないが、少くとも都で噂に上るほどの手利《てき》きを相手に互角に闘えるわけのないことは、常識で判る筈だ。それを敢《あえ》て挑戦させるのは、つまりは死ねということである。
果し合いは腕だめしの場ではない。殺し合いの場である。下らない世間話から、一人の若者をほぼ確実な死地に送るというところに、陰湿で邪悪な意志が感じられた。低い身分の出だというさげすみの表れにしては非道《ひど》すぎる。恐らくはこの若者は、その身分にも拘《かかわ》らず殿様の覚えがいいのだろう。それに対する嫉妬がこんな形をとったに相違なかった。
〈いやな世界だな〉
濡《ぬ》れ汚れた雑巾《ぞうきん》を掴《つか》んだような気分だった。こんないやな話はさっさと断わって、さっぱりしたかった。それが出来ないでいるのは、断わればこの若者は確実に死ぬからである。
「武士の意地にございます」
と云った若者の言葉に、その決意が明白に現れていた。断われば、
「ではお庭先を拝借させて戴《いただ》きます」
と来るにきまっていた。この場を去らず腹を切る気でいるのだ。
「お主たちは人の都合も気持もどうでもいいと考えているのか」
叩《たた》きつけるような調子になった。
若者の顔がはじめて苦しそうに歪《ゆが》んだ。
「申しわけございません」
勿論この若者に罪はない。どうすることも出来ない成行だったのだ。
慶次郎は顔をしかめた。腹の底から怒りが蛇《へび》のように鎌首《かまくび》をもたげて来るのを感じた。
「何人だ」
いきなり訊《き》いた。若者には意味が掴めなかったらしい。怪訝《けげん》な表情で見返した。口がちょっと開いて、若者の顔を一層|稚《おさな》いものに変えていた。
「その争論をしていた人数だ。何人だ」
重ねて訊いた。
「十三人。手前と休んでいた者をいれて十五人がお側小姓の全員です」
「よし。その十三人にこう云え。全員、喧嘩支度で来い、とな」
日時と場所を告げた。早朝であり、人気《ひとけ》のない場所でもある。
「お主を入れて十四人。わしはその全部と果し合いをする。馬上でやる。そちらも全員馬で来い」
「し、しかしそれは……」
無茶ですと若者は云いかけて言葉を呑《の》み込んだ。慶次郎がかぶせるようにして云ったからだ。
「来なければ笑ってやる。お主のことも、お主の仲間のことも、お主の殿様のこともだ。そして死ぬまで軽蔑《けいべつ》してくれる。そう同僚たちに申せ」
若者の頬《ほお》に血が上った。怒ったのだ。慶次郎の侮辱が腹の底までこたえたのである。
〈そうだ。怒れ。その怒りを奴等《やつら》に叩きつけろ〉
慶次郎は胸の中でそう云っていた。
若者は無言で一礼すると立っていった。顔色は蒼白《そうはく》に変り、眼が坐《すわ》っていた。
若者の姿を二度と見ることはあるまい、と慶次郎は思っていた。
上級家臣たちの子弟など、大方は腰抜けである。格好をつけ、口は達者でも、果し合いをする度胸などあるわけがない。仮に生命は拾ったとしても、藩に処罰されるのは目に見えている。決闘の場にのこのこ出て来れる筈がなかった。何とか彼とか云って、一件を水に流そうとするにきまっていた。若者は慶次郎から受けた侮蔑で怒っている。言葉鋭く彼等を罵《ののし》るだろう。それに対する彼等の主張がない。あるわけがない。これは議論ではないのだ。決闘の場に行くか行かぬか、二つに一つなのだ。行かねば、どう理屈をつけても卑怯なのだ。彼等に出来る手は、この若者を懐柔することだけだろう。
「まあそう固いことを云うなよ。たかが座興じゃないか」
そうとでも云って誤魔化すにきまっていた。あとは若者が、どの辺で折れるかという問題だけである。それで事は円く治まる筈だった。
それでも慶次郎は、念のために捨丸に若者の後を尾《つ》けさせている。若者は上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》の京屋敷に入ったと云う。上杉景勝はいくさ上手で知られた上杉謙信の後継者であり、越後藩《えちごはん》の藩主である。その才幹を見込まれて、三十四歳の若さで五大老の一人に擢《あ》げられた男だ。越後薄のこの時の実収は三百万石といわれている。正に越中から越後にかけての大藩だった。
もっともそんなことは慶次郎にとってはどうでもいいことだ。どんな藩にだって腐った奴はいる。それだけのことだった。
それでも若者に告げた三日後の早朝、慶次郎は約束の場所に出掛けていった。鎖かたびらを素肌に着込み、朱柄の槍をかいこんで松風にまたがっている。例によって捨丸を一刻《いっとき》も前に先行させている。飛道具を持った待伏せの有無を確かめさせるためだ。その種の伏兵があれば、捨丸は遅疑することなく殺す。それもこの男の役割だった。
捨丸はいつもより早く慶次郎の前に姿を現した。
「伏勢は居《あ》りませぬ」
慶次郎は意外な顔になった。伏勢はいないとは、果し合いの相手は来ているということだった。十中九まで誰一人来てはいまい、と慶次郎は睨《にら》んでいたからだ。
「十四人、悉《ことごと》く来ているのか」
「はい。ですが一人は裃姿《かみしもすがた》です。他の十三人はいくさ支度で騎馬ですが……」
益々判らなくなった。裃姿の男は齢は三十がらみ、長身で矢のようにまっすぐに馬にまたがった、偉丈夫だと云う。とてもお側小姓とは思えない。慶次郎は松風を急がせた。不吉な予感があった。
慶次郎の指定した場所は、洛西の丘陵地である。起伏の激しい広大な荒野だった。松風を乗り入れると、すぐ具足姿の騎馬武者がひとかたまりになっているのが見えた。
あちらも慶次郎の姿を認めたのだろう。具足姿の者たちから離れて立っていた裃をつけた武士がゆっくり馬を進ませて来た。成程、五尺八寸(約一メートル七十六)の長身である。
痩《や》せぎすだが全身筋肉という感じだった。見るからに涼しげな男である。
両者、自然に馬をとめた。
「前田慶次郎殿ですな」
「左様」
「手前は直江《なおえ》兼続《かねつぐ》と申す」
慶次郎は腹の中で唸った。えらい男が出て来たな、と思った。
直江|山城守《やましろのかみ》兼続はそれほど世に知られた一級の武将だった。上杉景勝より五歳年少の兼続は早くから景勝のいわゆる上田衆に属し、『三拾人|長柄組《ながえぐみ》』と称された精鋭部隊の一人として幾多の戦闘に参加して戦功をあげた。当時|樋口《ひぐち》与六兼続と名乗っていたのが、天正九年、越後三島郡|与板《よいた》の城主直江|信綱《のぶつな》の不慮の死により、信綱の未亡人を娶《めと》って直江の姓と城を相続した。以後、景勝の文字通りの右腕として、戦闘に治政に活躍して来た。後年のことになるが、太閤《たいこう》秀吉は景勝を会津百二十万石に転封させた際、兼続に出羽米沢《でわよねざわ》三十万石を与えるよう自ら命じている。秀吉はこの処置によって景勝と兼続の不和を計ったという史家もいるが、兼続とはそれほどの男だったのである。たかが側小姓ごときの果し合いに顔を出していい人物ではなかった。
「上杉家家中の者として、前田殿に一言お断わり申し上げねばならぬ儀が生じました故《ゆえ》、その口上人並びに見届人として参ったものでござる」
慶次郎は十三人の騎馬武者を見廻《みまわ》した。いずれも若い。十七、八から二十一、二の間であろう。だがその中に例の若者の顔は見えなかった。
「口上を承ろう」
慶次郎は短く云った。若者の身に何事かが起きたことは確実である。それでなければまっ先に声をかけて来た筈だ。
「草間|弥之助《やのすけ》は割腹して相果てました」
「それが手前の家に来た若者の名ですか」
慶次郎には既にことの大筋が見えていた。
この十三人の思い上った馬鹿者どもが、あの若者を殺したのだ。また新たな怒りが鎌首を持ち上げて来るのを慶次郎は感じた。
「左様」
直江兼続は刺すような眼で慶次郎を見た。
「屠腹《とふく》の際、手前にあてた書置きを母者に遺《のこ》しました。手前はその書置きで初めてお手前との約束と、この十三人の卑怯な振舞いを知り申した。残念でした。もっと早く知っていれば、あたら若者を殺すことはなかった」
慶次郎を責めているような調子だった。
慶次郎は頷《うなず》いた。
「殺さないためにとった処置が、裏目に出たようです。確かに手前の過ちだったかも知れません」
一瞬だが、兼続は驚いた顔になった。慶次郎がこんなに簡単に自分の非を認めるとは、思ってもいなかったのだろう。
「矢張りそうでしたか」
兼続は沁々《しみじみ》と云った。
「この十三人には、お手前の気持が通じなかったようです。よってたかって、只《ただ》ひたすらに草間を責めた。己れ一人で果すべきことに、彼等を引ずりこむとは卑怯だと云い張った。卑怯者は死ね、とまで云ったと、書置きにありました」
兼続は振り返って十三人の若者たちを見た。どうにもならないやり切れなさが、胆汁《たんじゅう》のように苦く口中に拡がって来る。
「草間は主君のために死ねぬことを詫《わ》び、決して錯乱による死でないことを告げるために書置きを書きました。この者たちを責め怨《うち》む言葉は一言半句もなかった。だが手前は許せませんでした。上杉家の仕置をする者として、絶対にこの十三人を許すことは出来ない」
厳しい眼だった。為政者の眼ではない。明らかに前線にある武将の眼だった。
「悉く誅《ちゅう》すべきだとは思いましたが、その時草間がお手前と交わした約定《やくじょう》に気がつきました。この約定を破っては草間が余りにも可哀《かわい》そうだと思い返しました。お手前に侮蔑されることが草間には何より辛《つら》かったのですから」
これがこたえた。慶次郎は急に両肩がどしりと重くなったように感じた。若者の死体をいきなり載せられたような重さだった。
「この者たちには切腹と引換えにこの場に出るように申し渡しました。無事生き延びることが出来たら、放逐だけですますことにしてあります」
上杉家を放逐されても武士の生きる道はある。江戸期のような泰平の時代ではない。まだまだ槍一筋で身を起すことも可能な頃だった。
「口上はこれで終ります。さればお心置きなく闘われよ。しかと検分致す」
兼続はそれだけ云うと、一礼して馬首を返した。慶次郎と十三騎の中間に行くと馬を停め、そのまま動かない。
慶次郎は一瞬迷った。兼続の真意を計り兼ねたのである。
無念に犬死を遂げた草間弥之助の仇を充分にとってくれ、と云っているようでもある。
十三人の若者は既に充分に罰は受けたのだから、なるべく生かしてやってくれ、と言外に頼んでいるようにも見える。
慶次郎は松風を進め十三人の若者と向い合った。改めて十三人の顔を一人また一人と眺《なが》めていった。
いやな顔だった。初めての果し合いに一人残らずおびえ切ってはいたが、どこかにふてくされたような色がある。そして何よりも、誰一人として悪いことをしたという感じがない。むしろ不当に罰をうけたという不平不満の方が、ありありと目についた。要するに彼等は何にも変ってはいないのである。下級武士が一人死んだくらいでどうだというんだ。なんのために俺たちはこんな目にあわなきゃいけないんだ。どの顔もそう云っている。中にはかっかと怒っている者さえいた。甘やかされ、思い上った顔である。この果し合いにも何とか勝てるだろうと漠然《ばくぜん》と考えている。相手はたった一人じゃないか。十三人が一丸となってかかれば、どうということはあるまい。
その顔が慶次郎の気持を鎮《しず》めた。
〈殺す〉
はっきりそう決めたのである。直江兼続がどう思おうと知ったことではない。子供たち相手に大人げない、と世人は云うかもしれないが、そんなことも糞《くそ》くらえだ。こんないやな顔をした奴等を生かして置けるものではなかった。
慶次郎はゆっくり朱柄の槍の鞘を払った。
「合戦の作法をしかと見て置け。冥途《めいど》のみやげにな」
これは戦闘開始の言葉である。
その言葉を放つと同時に、慶次郎は異様な行動をとった。松風の馬首を返して一散に走り出したのである。つまりは逃げたのだ。
少くとも十三人にはそう見えた。彼等は安堵《あんど》の思いで馬鹿笑いしはじめた。笑いながら追った。だが元より松風の駿足《しゅんそく》に及ぶ筈もない。
松風は十三騎を遠く引き離し、丘の上に駆け登った。
そこでぴたりと停まると、もう一度馬首を返した。
慶次郎の口から凄《すさ》まじい声があがった。雄叫《おたけ》びである。十二騎の若者たちが揃《そろ》って魂を凍らせ、馬をとめたほど凄絶《せいぜつ》な声だった。
雄叫びと共に、この異様な黒馬がまっしぐらに丘を駆け降りて来るのを彼等は見た。矢のような迅さだ。それが自分たちに向っているのだと気づいた時は、既に五間の距雄に迫っていた。慌てて槍を構え直す暇《いとま》もなかった。慶次郎の朱柄の槍は宙に円を描くようにしてぶん廻され、その長大な穂先が早くも四人の首を宙に飛ばしていた。次の一振りで三人の首が飛び、二人が刺し貫かれた。瞬《またた》く間《ま》に九人の生命が消えた。
残る四人は恐慌を来たした。とにも角にも逃げた。朱柄の槍が空を飛んで、二人の背を同時に貫いた。残る二人は忽《たちま》ち松風に追いつかれ、慶次郎の抜討ちに、ほとんど唐竹割りに斬られた。
あっという間の出来事だった。そこには合戦に出た者と出たことのない者との差が歴然とあった。
慶次郎は槍を死体から引き抜き、ゆっくりと立てると、直江兼続を見た。
兼続はかすかにうなずいて云った。
「獅子欺《ししあざむ》かざるの力ですね」
これは兎《うさぎ》一匹を斃《たお》すにも獅子は全力をあげるという意である。
男惚《おとこぼ》れ
慶次郎はすっかりこの直江《なおえ》山城守《やましろのかみ》兼続《かねつぐ》という男にいかれてしまった。つまり、ぞっこん惚れこんでしまったのである。
仮にも自分と同じ上杉《うえすぎ》家中である十三人の若殿ばらを、眼《め》の前《まえ》で殺戮《さつりく》されながら、この男は眉毛《まゆげ》ひと筋動かそうとはしなかった。
「あたら若者たちを……」
などという判《わか》ったような口も利かなかった。
どれほど若くとも、腐ったものは腐ったものであり、無慈悲に見えても早急にとり除かなければ、腐敗がとり返しのつかぬ速さで進んでゆくことを、この男はしかと承知していたのである。
十三人の若者は、いずれも上杉家の上級家臣団の子弟である。それも嫡男《ちゃくなん》が多かった。親たちは出世の早道と信じてお側小姓《そばこしょう》にしたのである。まさかかぶき者との果し合いで生命《いのち》を落す破目になるなどとは、夢にも思っていなかったにきまっている。親に一言のしらせもなく、立会人の役をつとめた兼続が、これらの父親の怨嗟《えんさ》の的《まと》になることは判り切っていた筈《はず》だ。並の家老なら顔色変えて舞い上るところだが、兼続は涼しい顔をしていた。
自分の生きざまによほどの自信を持っていなければ、こんなことが出来るわけがない。しかも兼続はこの年、まだ二十九歳の若さである。
恐るべき男としか云いようがなかった。
この果し合いの三日後、慶次郎は上杉家の京屋敷に兼続を訪れている。死んだ十三人の父親たちがさぞ兼続を責め立てているだろうと思ったからだ。必要とあらば、その親たちと決闘してもいい、と覚悟をきめていた。だから鎖かたびらを着こんだ、喧嘩支度《けんかじたく》で行った。
上杉屋敷は一条|下戻橋《もとりばし》にあった。
あいにく兼続は所用で石田|三成《みつなり》の屋敷に行っていると云う。もう戻られる筈ゆえ、お待ちになられてはいかが、という家臣のすすめのままに、兼続の居室に通された。部屋に入るなり、慶次郎は瞠目《どうもく》した。
それはとても武将の部屋ではなかった。大藩の家老職の部屋でもない。まごうことなき学者の部屋だった。至るところに書物が積まれてあり、坐《すわ》る場所をさがすのが困難なほどだった。書物の大半は漢籍であり、いずれも手書きで写されたものである。これほどの書物の山を、慶次郎は生れてから見たことがなかった。ほとんど茫然《ぼうぜん》とした。
〈どういう男なんだ、これは〉
果し合いの場で見た兼続は、凛乎《りんこ》たる武将だった。一目見ただけで、
〈手強《てごわ》い相手だ〉
慶次郎でさえ心を引き締めざるをえなかったような一箇の『いくさ人』だった。
その『いくさ人』の印象と、この書籍の山とが巧くつながってくれないのだ。
〈公卿《くげ》の出でもあるまいし……〉
慶次郎は坐りこんで思案に耽《ふけ》った。いや、耽らざるをえなかった、と云った方が正確かもしれない。
兼続は確かに気品に満ちた武将だが、断じて貴種ではない。
彼の実父|樋口《ひぐち》惣右衛門《そうえもん》兼豊《かねとよ》は上田長尾家に仕え、一説では坂戸城で柴《しば》や薪《たきぎ》を取り扱う下級武士にすぎなかったと云う。この当時の下級武士は、平時には自ら鍬《くわ》を握って田畑を耕していた百姓でもある。兼続も幼時には馬の鼻とり、畑の草取りなど辛《つら》い百姓仕事を手伝わされた筈だ。兼続が人がましい生活を出来るようになったのは、坂戸城主長尾|政景《まさかげ》の子喜平次の近習になってからのことである。当時、与六の名で呼ばれていた兼続は僅《わず》かに十歳。喜平次は十五歳だった。この喜平次が上杉謙信の養子となって上杉景勝を名乗り、樋口与六兼続は直江家を継いで直江兼続となったわけだ。だから兼続が学問をしたと云っても、それは景勝の学問の席に連なったぐらいのことで、後は独学に等しかった筈だ。到底これだけ膨大な漢籍を読みこなす力があるとは思われなかった。
慶次郎は改めて、積まれてある書物を調べはじめた。終始同一人の筆蹟《ひっせき》により写されたものと、数人の筆蹟で、明らかに手分けして写されたものの二種類がある。手分けした方の筆蹟はまちまちだったが、一人の方はすべて同じだった。この筆蹟の主は誰《だれ》か。まさか……。
廊下に足音が響いて、兼続が闊達《かったつ》な足どりで入って来た。挨拶《あいさつ》もそこそこに慶次郎は訊いた。
「失礼だが、この筆蹟はどなたのものですか」
兼続の頬《ほお》に血の色が差した。いたずらを見つかった少年のように恥じているように見えた。
「私です。お恥ずかしい筆蹟《て》ですが……」
慶次郎は信じられないという顔で、まじまじと見つめた。
「ではお手前がこれをすべてお写しになられたわけですか」
「いやいや。早急に返却の必要のあるものは、やむをえず、うちの者たちに手分けして写させました。校合《きょうごう》は充分に致しました故《ゆえ》、間違いは少い筈ですが……」
慶次郎は声が出ないように見えた。
「写すだけで、仲々読み返す職《いとま》がありません。難しいものです」
これは嘘《うそ》だった。手ずから筆写するにまさる読み方は、今日でさえないのである。
慶次郎は尚《なお》しばらく無言でいたが、やがてぽつりと云った。
「あんたは化物だ」
惚れたとなったら、一途《いちず》になりすぎるのが、慶次郎の悪い癖である。
以後兼続は三日にあげず、慶次郎の訪問を受けることになった。もっともこの男は全く手がかからない。たとえば兼続本人が居ようが居まいが気にもかけない。居なければさっさと帰るか、或《あるい》は勝手に上りこんで日がな一日書物を読んで過すか、どちらかだった。
弁当、酒の持参は当然としても、呆《あき》れ返《かえ》ったことに茶碗《ちゃわん》まで持参している。勝手に茶を点《た》てて飲むわけだ。勿論《もちろん》、兼続がいれば勧めるが、決して強制的ではない。まるで同居人だった。
だが兼続の家臣たちは、この極めて身勝手な訪問者に、いやな顔ひとつしない。干渉もしない。つまり放《ほう》っておく。これも主人のしつけがいいからだが、慶次郎の側にも、自然にそうさせるような何かがあった。瞬《またた》く間《ま》に空気のようにその場に適合してしまう才能である。まぎれもなく勝手気ままなことをしているのだが、人の気にさわることがない。へつらっているわけではない。むしろそれが皆無なことが、この結果を呼ぶのである。どこの世界に家族同士でへつらう者がいようか。我儘勝手《わがままかって》なことが出来て、なんら咎《とが》められることもなく、気にもさわらないことが家族の条件であろう。慶次郎はこの家族になってしまう名人だったのである。
一日、慶次郎が上りこんだ直後に、兼続が外出から戻《もど》って来たことがある。
この頃《ころ》にはこの二人は顔を合わせても挨拶ひとつしない。お互いに同じ室内にいるのが、それほど自然になってしまっている。格別話などしなくてもいいのである。終日一言も言葉をかわさないことも屡々《しばしば》だった。それで充分なのだ。二人とも、相手がそこに居るということだけで、心が満たされ、平安なのだった。
それが珍しいことにこの日は、兼続は入って来た時から、まじまじと慶次郎を見つめている。
「……?」
夢中になって『史記』を読んでいた慶次郎が、顔を上げて見返した。
この九十冊からなる宋版《そうはん》の『史記』は南宋の慶元二年(一一九六)に刊行されたもので、現代では中国にさえこの完本はなく、現存するのは世界にこの一揃《ひとそろ》いだけという貴重な存在になっている。元は京都五山の所蔵だったものを、妙心寺の住持南北玄興|和尚《おしょう》が特に兼続に贈ったものだ。
「尾《つ》けられている」
兼続がぽつんと云った。
「そうかね」
慶次郎は気にもしない。また『史記』に戻った。
「稀代《きだい》の手だれだ」
兼続にしては妙にこだわっている。慶次郎はようやく『史記』を置いた。
「わしの見ている間に、三度姿を変えた」
兼続はこの日も石田三成との打合せだった。終って外に出ると、松風にまたがって悠々《ゆうゆう》と進んでいる慶次郎の姿が築地《ついじ》の角を曲るところだった。追いかけて一緒に行こうとしかけて、危うく馬をとめた。顔見知りの忍びが、慶次郎に続いて築地を廻《まわ》ったためだ。以後、その距離を保ったまま、上杉屋敷に着いた。忍びは物売り、女、僧侶《そうりょ》と三度姿を変えたが、終始慶次郎の後を尾けていた……。
「忍びともつき合いがあるのか」
慶次郎が面白そうに訊く。この男は自分が狙《ねら》われていることに、一片の関心も示さない。見事といえた。
「勝頼《かつより》殿と同盟を結んだ頃に一度見た。武田《たけだ》忍び衆の中で、飛び加藤と並び称される術者だった」
これは十年前、天正六年のいわゆる御館《おたて》の乱《らん》の時のことである。この年三月九日、上杉謙信が死ぬと即座に後継者争いが起った。一方は景勝であり、他方は景虎《かげとら》である。共に養子だった。景虎は北条《ほうじょう》氏康《うじやす》の子であり氏政《うじまさ》の弟だった。景勝の先攻で戦いが始まると、当然北条氏政は御館城に籠《こも》った弟のために兵を出し、武田勝頼も氏政の要請で二万の軍勢を率いて越後《えちご》に侵入した。勝頼の妻が氏政の妹、景虎の姉だったためだ。この時、兼続は莫大《ばくだい》な賄賂《わいろ》を使って武田の重臣を味方につけ、勝頼との単独講和に成功し、遂《つい》には景虎を敗死させている。その交渉の最中に武田の陣営でこの忍びを見たと云う。
「あまりに異様な姿だったのでな」
男は異常なまでに痩《や》せていたのだ。まるで骨の上にじかに皮がついているようだった。顔などさながら髑髏《どくろ》である。見ているだけで鬼気迫る思いだった。
「だから名前も骨と云うのだそうだ」
武田の骨といえば、諸国の忍び仲間でも一目置かれる存在だった。特技は変り身である。老若男女、どんな人間にも化けた。元々骨なのだから、どんな肉置《ししお》きも可能なのである。背が低いから女はおろか幼児に化けることも出来るという。情報収集も達者だが、好んで刺客《しかく》の役目をつとめるらしい。性酷薄なところがあった。狙った獲物《えもの》は嘗《かつ》て逃したことがない。
武田の部将が幾分の畏怖《いふ》を籠めて、そう語ってくれた……。
「骨か。面白いな」
慶次郎の眼が子供のように耀《かがや》いている。変った人間が好きなのである。
「是非一度会ってみたいものだ」
兼続は思わず失笑してしまった。会ってみたいどころではない。骨は現に慶次郎を狙っているのだ。武田家の滅亡で扶持《ふち》を離れた身である。金次第では誰にでも雇われるだろう。骨と会う時は、当然生命のやりとりになる。それをこの男は、のんびり世間話でもしたいという感じで、一度会ってみたい、などと云う。
「だが妙だな」
慶次郎が首をひねった。
「何がだ?」
兼続が訊く。
「わしの馬丁は、あれで忍びの達者なのだよ。そんなのに尾けちれていたのなら、注意してくれる筈なんだが……」
真実不思議そうな声だった。
「忍びにさえけどられぬところが、稀代といわれる所以《ゆえん》だろう。それに同じ忍び同士だ。知っていても云わぬのかもしれぬ」
「ふーん」
慶次郎は唸《うな》っただけだ。懐《ふところ》をもぞもぞさせて大ぶりの茶碗をひっぱり出した。
「飲むかね」
これは茶を点てるつもりだと云うことだった。
「戴《いただ》こう」
これではどっちの屋敷なのか判らないな、と兼続はおかしかった。それにしても慶次郎の点前《てまえ》は悠揚迫らず見事なものだった。骨のことなど綺麗《きれい》に忘れているのは明瞭《めいりょう》だった。
兼続は微笑し、首を振った。
(どう仕様もない男だな)
その意味である。
捨丸は骨の尾行に気づかなかったわけではない。まして忍び同士の義理で、慶次郎に告げなかったわけでもない。
正確な理由は云いにくいが、捨丸は骨をひと目見た途端に、震え上ってしまったのである。
捨丸はこの相手が『武田の骨』であることなど知らない。生れついての加賀忍び衆で、他国の忍びと共働きをしたことなど一度もないのである。評判も聞いたことがなく、腕前も見たことがない。全くの初対面だった。それなのに震え上ってしまった。
躰《からだ》の芯《しん》からじわじわと拡《ひろ》がって来るような恐怖感だった。
〈こりゃ死ぬな〉
咄嗟《とっさ》にそう信じ、覚悟をきめた。
別段死に急ぎするわけではなかったが、どうせのことなら今日のことにしようと思い、誘うようにして、この直江屋敷前の竹林に入りこんだのである。
相手は誘いと充分に知っていた筈だった。それでものうのうとついて来た。今のところ雲水姿だった。墨染めの衣に網代笠《あじろがさ》をかぶり、手に錫杖《しゃくじょう》をついている。
竹林に三歩踏み込んだ瞬間、捨丸は二本の手裏剣を背後に投げ、同時に左に跳んで伏せた。
雲水は竹林の入口にそのまま佇《たたず》んでいる。今の手裏剣をどう躱《かわ》したのか、捨丸には皆目判らなかった。眼を凝らして雲水を見た。光の加減で、胸のあたりがきらりと光った。手裏剣の一本である。では当ったのだ。更に眼を凝らすと、もう一本は網代笠につき立っている。だが雲水は不動である。
〈何故《なぜ》、動かないんだ?〉
そう思った時、低い笑い声が起った。紛れもなく女の声である。しかも竹林の奥からだった。捨丸の心は、ぞっと凍りついた。
動くことが出来ない。不動金縛りの法術にでもかかったように、小指一本動かすことが出来ない。
〈動けば殺《や》られる〉
その確信があった。
既に敗北を悟っている。この点、忍びの者は一様に或《あ》る意味で諦《あきら》めが早い。彼我の実力の算定が、厳密迅速なためである。つまりは徹底した現実家なのだ。自分の腕のほどを正確に知っている。そこには一片の幻想も思い上りもない。敵の能力の予想についても同様である。だから計算が早い。
〈わしの負けだ〉
忽《たちま》ちそろばんの結果が出る。それを数字と等しくなんら感情的要素の入らぬ、冷厳な事実として受けとめる。泣いても喚《わめ》いても、事実は事実である。だから無駄《むだ》なことは一切しない。負けだと感じた瞬間から、忍者は逃げることしか考えない。腕一本、脚一本くれてやってもいい。欲しいのなら双腕でもくれてやる。それで逃げられるものなら、躊躇《ためら》うことなくそうする。
捨丸が身動き一つしないのは、かすかな脱出の機会を窺《うかが》っているからだ。殺《や》られるのだけは何とか避けたい。
「金縛りになったか。まるで亀《かめ》だね」
また女の声だ。だが方角がさっきとは違う。右手だ。しかも竹林の中に入って来ている。かすかだが、竹の反響がまじっていた。
竹林の中に踏みこんだのは確かだろう。だが方角は当てにならない。忍びは一箇所に立って、反対側から聞えて来るような声を楽々と放つ。
捨丸は方向をさぐろうともしない。そんな不遜《ふそん》な思いはとうに棄《す》てている。
無言不動でいれば、やがて相手のほうから姿を現す筈だった。少くとも察知出来る距離まで近づくことになる。殺すためには、それしかない。乾坤一擲《けんこんいってき》の勝負に出るのは正しくその時である。その時を除いて機会はない。
だがこの相手は捨丸の予想以上の術者だった。肝心の距離を一向につめて来ない。依然声だけが、その都度ちがった方角から飛んで来る。その声さえ同じではない。
「結構やるな。諦めの早いのがいい」
これはしゃがれた老人の声だ。
「腕の一本もくれて逃げるつもりでっせ」
これは脂ぎった商人の声。
「おおいや。あんな腕|貰《もら》ったって百にもならないよ」
これはすれっからしの年増《としま》の声だ。
声だけ聞いていると、何人かの忍びが竹林に踏みこんで、包囲網をじりじり縮めて来ている感じである。
だが捨丸に動揺はない。殺《や》られると思い定めたことで、逆に冷静になって来ている。
やがて、そろりと動いた。と云っても右腕だけだ。見事に音を消して、忍び刀を抜いた。
それを脇《わき》に垂らすと再び不動に帰る。
暫《しばら》く待って、今度は左手が動く。手裏剣を握った。
これで用意はすべて終った。後は相手を視認すればいい。
不意に、正面の竹の間に、派手やかな女の衣裳《いしょう》が立った。
捨丸は動かない。
衣裳だけで実態がないのを見抜いている。細く強い馬の毛か人髪に操られているだけなのだ。そこへ手裏剣でも打ち込んだら最期《さいご》である。忽ち位置をつきとめられ、集中攻撃を受ける。何が飛んで来るかは判らない。手裏剣か、吹矢か、半弓か、それとも鎖鎌《くさりがま》か。火縄《ひなわ》が臭《にお》わないから、鉄砲ではあるまい。
感心したような声が、女衣裳の陰から聞えた。
「見事だ。これほどやるとは思わなかったよ」
爽《さわ》やかな若者の声である。
「お前を殺《や》っても誰もほめちゃくれない。やめようよ、馬鹿々々《ばかばか》しい」
老人の声が頭上でした。これはこちらの位置をおおよそ掴《つか》んだしるしだった。
捨丸は動かず、僅かに躰の力を抜いた。次の跳躍に備えたのだ。跳躍の先は既に決めてある。今、女衣裳が立っているすぐそばの竹である。いかにも弾力のありそうな、しなやかで勁《つよ》い竹だ。その弾力を利用して、すぐもう一度跳ぶ。着地する時が勝負だろう。或は自分はもう死んでいるかも知れない。
「衣裳をお主にやろう。さあ、受け取れ」
同じ老人の声と共に、ふわりと衣裳が舞い上り、捨丸の方へ飛んで来た。
捨丸は迷わず跳んだ。女衣裳と交叉《こうさ》することになるが、気にもしなかった。
だが、捨丸は空中でこの衣裳が意志を持っていることを知った。
敵ははじめからこの衣裳の背後にいたのである。衣裳を操る馬の毛などなかった。相手は衣裳の中に潜み、あたかも操られているように動いていたにすぎない。舞踊の人形ぶりに似た神技だった。裏の裏をかいた術だ。捨丸は見事に術に落ちた。
左腕に痛みが走った。六方手裏剣である。だが捨丸もその寸前に棒手裏剣を、衣裳の下部に向けて放っている。
チイイン。
刃のすり合う音が鳴った。女衣裳の中から繰り出された刀を、捨丸の忍び刀が辛《かろ》うじて受け流したのである。
音とほぼ同時に、捨丸は目指す竹にとびついていた。果して竹が曲った。そして弾ね返す。その力を利用して、捨丸は出来得る限り遠くへ跳んだ。
着地した途端に、ぐらっと来た。眼の前が波動している。
〈毒!〉
六方手裏剣に痺《しび》れ薬《ぐすり》の塗ってあったことに気づいた。
捨丸は躊躇うことなく己れの左腕を斬り裂き、口をつけて毒と血を吸い出し吐き出しながら、疾走した。
竹林を走り出た。
それが限界だった。足が動かなくなっている。毒が全身に廻ったのである。
〈到頭死ぬかね〉
追いついた敵の刀が、自分の胸を背後から貫くことを予想して、捨丸は躰を硬くした。
その時、馬の甲高いいななきを聞いた。
霞《かす》みかけた眼を開いた。
直江屋敷に置いて来た筈の松風が、疾駆して来るのが見えた。あっという間に捨丸の横に立った。
捨丸は最後の力をふりしぼって鬣《たてがみ》を掴み、松風の背に這《は》い上った。振り落されるだろうと思った。今まで再三再四試みて、いつもこっぴどく振りとばされていたのだ。だが今日は落さなかった。ただ、真横に一間半も跳んだだけだ。これは追いついた『骨』の斬撃《ざんけき》をかわすためである。
続いて強烈な蹴《け》りを放った。『骨』ほどの術者が、躰を転倒させて辛うじて逃れたほどの凄《すさ》まじい攻撃だった。
そのまま悪鬼のように走り、直江屋敷に駆け込んだ。
「なんて馬だ」
やっと起き上った『骨』が呟《つぶや》いた。顔色がちょっと青い。小肥《こぶと》りの若党の姿だった。
捨丸は生命《いのち》を拾った。
六方手裏剣に塗られていたのが単なる速効性の痺れ薬だったためだ。素早く吸い出したために、痺れもさほど持続しなかった。
「有難う。お前は生命の恩人だ」
捨丸は本気で松風に頭を下げた。松風は全くの勘で捨丸の危機を知ったのである。そうとしか解釈出来なかった。恐るべき馬だった。やはり悪鬼の申し子と云うしかない。
「初めて乗せてくれたなぁ」
捨丸は沁々《しみじみ》と云い、次いで素早く松風の背に跳び乗った。本当に許してくれたのかどうか、試してみたかった。
松風ははね上り、捨丸は宙を飛んだ。
「やっぱり駄目かね」
捨丸ががっくりして呟くと、松風が小馬鹿にしたように笑った。
「のぼせるんじゃないよ」
そう云っているようだった。
骨
『骨』は今日も慶次郎を尾《つ》けていた。
この仕事を引き受けてそろそろ一月《ひとつき》になる。依頼人がようやく苛立《いらだ》ってうるさく云《い》いはじめていたが、『骨』は気にもかけていない。依頼人と云ってもどうせたいした男ではない。慶次郎に果し合いで殺された深草|重太夫《じゅうだゆう》の弟である。名前は草津重三郎。九条家の青侍だった。九条家は公家《くげ》の中で最も家格の高い五摂家の一つで、藤原《ふじわら》氏の氏《うじ》の長者だ。公家の中では羽振りのいい方で、重三郎はその台所をあずかる身だから当然みいりがいい。兄と違って膂力《りょりょく》に恵まれず、武芸にも暗く、たけているのは算勘の術だけである。だからかなりの金で『骨』を雇い、兄の恨みを晴らそうとしたのだ。
果し合いは恨みを残さないのが建前である。その建前に反するばかりか、人を雇った闇討《やみう》ちで恨みを晴らそうとは外道《げどう》もいいところだ。だから雇われた時から、『骨』はこの男を軽蔑《けいべつ》している。たまたま銭に困っていたから引き受けただけなのである。
ところが、いざ掛かって見ると、これが何とも面白い仕事だった。
まず、難しい。前田慶次郎という男は、常住坐臥《じょうじゅうざが》、隙《すき》だらけのように見えて、意外なほど隙がない。例えば酒にくらい酔って花の下で眠りこけてしまったとしても、頭は必ず桜の幹によせ、太刀も枕《まくら》もとに立てかけてある。しかも右手は常に脇差《わきざし》を握っているという用心のよさだった。これでは襲ったところで精々脚しか切れまい。そして切った瞬間に脇差の一撃を喰《くら》うのは目に見えていた。
その上、慶次郎は単身ということがない。常に松風にまたがり、捨丸と云う馬丁を連れている。この一人と一匹が稀代《きたい》の手利《てき》きであることは、既に実証ずみだった。この馬と馬丁はそれぞれ恐らく十人程度の武士なら軽く殺してのけるのではないか。慶次郎の方は、洛西《らくせい》の決闘で十三人の鎧武者《よろいむしゃ》を、瞬《またた》く間に殺したと云う。二十人は軽いと見ていい。そうなると、この二人と一匹で四十人の戦力を上廻《うわまわ》ることになる。最低五十人の手利きを揃《そろ》えねば勝負にならず、それでも勝てるとは断言出来ない。
〈化物だ〉
『骨』は自分がそう呼ばれていることを忘れて、そう思う。こんな男を相手にする人間は不幸である。自ら災厄《さいやく》を抱えこむようなものだ。だが反面そんな男が殺せたら、どんなにいい気持だろうか、と思う。ぞくぞくするほど嬉《うれ》しくなって来る。刺客冥利《しかくみょうり》に尽きると云うべきではないか。
次に、慶次郎という男の面白さがある。尾けていてこんなに愉《たの》しい男は滅多にいるものではない。何しろ、次の瞬間に何を仕出かすか、全く予測がつかないのである。
毎日のように出掛けて行くが行先《ゆきさき》は常に不明である。慶次郎自身にも判《わか》っていないに違いない。とにかく闇雲《やみくも》に表に出て、歩いているうちに行先をきめるとしか思えなかった。
だから唐突に道を変えるし、後戻《あともど》りして来ることも屡々《しばしば》である。尾行人としては瞬時も気を抜くことの出来ぬ、いやな相手だった。
所用ありげにせかせかと歩いていたくせに、大道の傀儡子舞《くぐつま》いにでも魅《ひ》かれると、半刻《はんとき》でも一刻でもたたずんで動かない。猿廻《さるまわ》しが猿を殴ったのを怒って、半殺しにしたこともあった。いい女を見掛けると、どこまでもついて行く。そのくせ言葉をかけるわけでもない。一口に気紛れと云ってしまえば終りなのだが、こんな多岐にわたる徹底した気紛れを『骨』はこの齢《とし》になるまで見たことがなかった。いっそ羨《うらやま》しくなるような気ままぶりだった。
〈こんな生き方が出来たら、この世も楽しいだろうな〉
ついそんな事を考えてしまう。それだけのものが慶次郎の所業にはあった。
慶次郎が松風をとめた。いとしそうに首を叩《たた》くと下馬し、一軒の家の中に消えた。捨丸が松風に声をかけて木蔭《こかげ》にいって待ちの姿勢に入った。
『骨』は顔を顰《しか》めた。慶次郎の入った先が気に入らなかったのだ。それは風呂屋《ふろや》だった。
この当時、風呂屋と云えば蒸し風呂のことである。現代風に湯を張った場所は湯屋と云う。そしておおむね関西では風呂屋が多く、関東では湯屋が多かった。蒸し風呂の方が温度を保つことが難しく、費用もかかったからだ。一般的に、湯屋より風呂屋の方が好まれたことは、関東の湯屋でも、浴槽《よくそう》の前に天井《てんじょう》から大きな遮断板《しゃだんばん》を降ろして、浴槽内の湯気を逃さぬようにしつらえたことで明らかである。つまり蒸し風呂の要素を加味したわけだ。この遮断板の下をざくろ口といい、浴客は身をかがめて出入りしたものだ。
慶次郎が入ったのは勿論《もちろん》この蒸し風呂の方だ。
『骨』が顔を顰めた理由は己れの肉体にあった。仇名通《あだなどお》り『骨』の躰《からだ》は骨と皮だけなのだ。異常なまでの痩身《そうしん》なのである。しかも侏儒《こびと》に近い小柄《こがら》である。だからこそこの男は何にでも化けることが出来た。肥《ふと》っている人間が痩身になるのは不可能だが、逆は簡単だ。肉襦袢《にくじゅばん》をどれだけ身につけるかで、好みの太さになれる。背丈の方も同じだった。元々が小さいからこそ、どんな大男にでもなれれば、童子にもなれる。だが風呂場でその手は効かない。褌《ふんどし》一本の裸形は嘘《うそ》も隠しもなく、皺《しわ》だらけの、骨と皮ばかりで背の低い老醜の躰をさらけ出すことになる。
だが、風呂の中では慶次郎はひとりである。馬も馬丁もいない。力が半減したことになる。暗殺の好機といえば、これほどの好機はない。それに風呂場には武器は持って入れない。大事な刀を濡《ぬ》らすことになるからだ。だが忍びは違う。手拭《てぬぐ》いに隠した一本の棒手裏剣で、充分に人を殺すことが出来る。
一瞬の躊躇《ちゅうちょ》の後、『骨』は風呂屋に入った。都合よく今日は腰をかがめた老人の装いだった。
『骨』は脱衣場で素早く着衣を脱いだ。
抜けるように色白の女が、こまめに手伝ってくれる。後年の湯女《ゆな》の前身である『垢《あか》かき女《め》』である。古来、有馬の湯の『垢かき女』の技術の見事さは有名だが、その流れが京の風呂屋にもいた。
だが今の『骨』にとって、この『垢かき女』のまめまめしさは邪魔だった。棒手裏剣を手拭いに忍ばせて浴室に持ちこまなければならないからだ。『骨』は浴衣《ゆかた》を着た女の尻《しり》をそっと撫《な》でた。『骨』はその道の達者である。並の男とは指の動きが全く違う。微妙を極めた動きだった。一触して忽《たちま》ち女の躰に戦慄《せんりつ》が走った。
「あれ」
女は驚いたようにこの老爺《ろうや》を見た。気味の悪いほどの痩身のどこにこんな技術が潜んでいるのか。そう疑っているような眼《め》だった。
『骨』の指は隆起から滑って谷間に通した。
「ああっ、あかん」
女の声は悲鳴に似ていた。目がうるんでいる。
「お願い、あ、あとにして、垢かけんようになるやないの」
「そりゃ困るなあ。あとにするかね」
この間に棒手裏剣は無事手拭いの中に移されている。それを何気なく垂らして『骨』は立った。
「きっとでっせ」
女が褌の上から『骨』に触った。
「よしよし」
腰をかがめたまま浴室へ入った。当時の入浴が褌をしめたままだったことは勿論である。
洗い場には別の『垢かき女』が戸まどったような顔で蹲《うずくま》っていた。慶次郎づきの女である。客は慶次郎と『骨』の二人きりらしい。
『骨』はこの女の当惑したような顔から事態を悟るべきだったのだが、珍しく気がせいていたのでつい見逃してしまった。
この風呂はかまど風呂だった。八瀬《やせ》のかま風呂を真似《まね》たものだ。
女が戸を開け、むっとするような熱い空気が流れ出した。
『骨』は素早く中に入り、戸が閉められた。
中は七八人が横になれるほどの広さで、天井が極度に低い。しっくいの床に茣蓙《ござ》が敷いてある。この床の上で青木などを焚《た》き、充分床が熱したところで火をかき出す。そこへ茣蓙を敷き、塩水を撒くのである。これが八瀬のかま風呂の法だった。
「ごめんなされませ」
『骨』は大あぐらをかいた慶次郎に挨拶《あいさつ》した。
さりげない挨拶だが、『骨』はぎょっとなるのを辛《かろ》うじて隠していた。
理由があった。
慶次郎はなんと褌に大脇差を差していたのである。
考えられないことだった。こんな真似をしたら、大脇差の後の手入れが大変である。刀身はまだしも、中子《なかこ》、鞘《さや》の中、柄糸《つかいと》、すべてを乾燥させるには大変な手間がかかる。よほど危急の時でない限り、こんな馬鹿《ばか》なことをするわけがなかった。慶次郎づきの『垢かき女』が困ったような顔をしていたのは、このためだった。
慶次郎がこんな真似をした理由は、一つしか考えられない。『骨』に気付いていたためである。いや、むしろ『骨』を誘い込んだと云った方が正しい。どうして見抜かれたのか『骨』には皆目判らない。慶次郎はそんな素振りはちらりとも見せていなかった。
『骨』は永年かかって築き上げた自信が、みるみる崩壊してゆくのを感じ、同時に死を覚悟した。棒手裏剣一本と大脇差では、得物の差が大きすぎる。浴室の中とはいえ、大脇差を振るう余地は充分にあった。だがその切っ先をはずして逃げ廻るには狭すぎる。戸に辿《たど》りつくまでに斬られるのは明らかだった。
『骨』は覚悟をきめ、慶次郎と向い合うようにしてどっかとあぐらをかいた。どうにでもなれ、という気持だった。
慶次郎は物珍しげに、『骨』の躰をしげしげと見つめていた。子供のような好奇心を丸出しにしている。
「成程、細いな。骨とはよく云ったもんだ」
やっぱり知っていたのだ。だがどうして? もっともそんなことを訊くわけにもゆかない。訊けば未練たらしく響くだろう。
『骨』は無言のまま、にたりと笑ってみせた。
「どの関節でも自在にはずせると云うのは本当かね」
相変らず好奇心のかたまりといった様子だった。
『骨』は即座に右手首、右肱《みぎひじ》、右肩、三つの関節をはずしてみせた。これは誘いである。右手を肩まで使えなくして見せることで、相手の隙《すき》を狙《ねら》ったのだ。左手が手拭いごと棒手裏剣を握った。
ぴしり。
鋭い音と共に『骨』の左手が痺《しび》れた。
慶次郎が手拭いで打ったのである。
「不粋なものは甕《かめ》に捨てろ」
慶次郎の声に殺気がない。もっとも殺気があれば手拭いでは打つまい。大脇差の一閃《いっせん》で、『骨』の首は飛んでいた筈《はず》だ。
『骨』は無言のまま棒手裏剣を風呂の隅《すみ》の水甕の中に放《ほう》った。右手は常態に戻っている。
「器用なものだな」
慶次郎が興ざめたように云った。
「だが風呂の中にまで凶器を持って入るとはつまらんな。品がない」
何を云ってやがる、と思った。自分こそ大脇差を差したままじゃないか。品がないが聞いて呆《あき》れる。
「お手前の用心深さには及びません」
厭《いや》みのつもりだったが、相手はけろりとしている。大脇差をとんとんと叩いて、笑った。
「ああ、これか。これはな、ちょっとした悪戯《いたずら》だ。お主への用心じゃない」
「悪戯?」
「今に判る」
もう一度にたりと笑った。
洗い場が急に賑《にぎ》やかになった。五六人の客が入って来たらしい。客は『かぶき者』らしく傍若無人な大声をあげていた。
「ほーら、来たぞ」
慶次郎の眼が、いかにも楽しげに光るのを『骨』は見た。一体、何をするつもりなんだ?
戸が開いて、六人のかぶき者が先を争って入って来た。呆れたことに、色とりどりの褌をしめている。紫、紺、中には燦然《さんぜん》たる金色のまである。
「早く戸をしめろ。汗が引いてしまう」
慶次郎がわざとらしい大声で喚《わめ》いた。
六人の『かぶき者』が、何、という感じで慶次郎の方を見た。
この風呂の中はなにしろ暗い。たった一本の細い蝋燭《ろうそく》が立っているだけだった。別して表から入って来た者には、容易には見えない。
先頭の二人が、最初に気づいた。
「脇差をさしているぞ」
この一言で恐慌が起った。六人残らずとび出していったのである。洗い場をかけ抜ける足音が聞えた。
慶次郎が『骨』に片目をつぶって見せた。『骨』にはまだ慶次郎の意図が判らない。まさかこの中で、あの六人相手に喧嘩《けんか》を始める気ではあるまい。第一それでは悪戯にも何もなりはしない。
足音が戻って来た。さすがに今度は走ってはいない。用心深く戸が開いた。
「早く入れ」
慶次郎がまた怒鳴った。
六人の『かぶき者』が油断なく入って来た。いずれも凝った造りの脇差を褌にたばさんでいる。慶次郎を囲むようにして坐《すわ》った。緊張のせいかもう汗ばんでいる者もいる。
『骨』は邪魔にならぬように、隅の方へ引っ込んだ。
温度が急に上った感じだった。息苦しくさえある。『かぶき者』の中には、口を開けて喘《あえ》いでいる者もいる。
さすがに脇差の柄《つか》に手をかける者はいなかったが、いずれもすぐすっぱ抜けるように、抜討ちの構えを崩さない。
無言と緊張のうちに刻《とき》が経《た》っていった。
蝋燭の焔《ほのお》が揺れた。
全員、汗にまみれている。
『骨』が手を上げて、服に入る汗を払った。
その僅《わず》かな動きで、六人の『かぶき者』の手がぎくりと脇差の柄に伸びる。だがすぐ照れ臭そうに離れた。
瞬間。
慶次郎の手がひらりと動いた。
電光のような迅《はや》さで、大脇差をすっぱ抜いた。
『かぶき者』たちは動かない。いや、正確には動けない。動いた者が先に殺《や》られる。一同、『骨』までそう信じた。それほど凄絶《せいぜつ》な抜刀ぶりだったのである。
だが……
異様なことが起った。
慶次郎が大脇差を使って、腹のあたりをひっかきだしたのである。まるで削っているようだった。結構力を入れている。忽ち血が噴き出して当然だった。だが、そんな様子はない。
皆、あっけにとられて、この動作を見つめていた。
最初に気づいたのは勿論『骨』である。
この大脇差はみせかけだった。刀身は竹べらだったのである。垢おとしの竹光《たけみつ》だった。
〈なんてことを……〉
『骨』は笑いをこらえるのに苦労した。
『かぶき者』たちの顔は正に観《み》ものだった。口をあんぐりあけ、次いで怒り出し、と云って喧嘩をするわけにもゆかない無念さに、震えだす者さえいた。竹光相手に真剣で喧嘩を売っては、それこそ『かぶき者』の名折れであろう。その上、筋も立たない。本物の脇差を台なしにしたのは彼等《かれら》の勝手なのだ。更に云えば彼等の臆病《おくびょう》のなせるわざだ。慶次郎は一言も、脇差を差して来い、とは云っていないのである。
『かぶき者』たちは無言で浴室をとび出していった。体面を保つためには、それしか法がなかった。
最後の一人が出てゆくまで、慶次郎はにこりともしないで垢をかき続けていた。
戸が閉まった。
途端に慶次郎の笑いが爆発した。浴室が震えるような笑いだった。『骨』も笑った。ひっくり返るようにして笑った。武田家滅亡以来、こんなに笑い転げたことは一度もなかった。胸の中が空っぽになるほど、笑った。この世も満更捨てたもんじゃない。笑いながら『骨』はそう思った。
この頃《ころ》の風呂屋は大方二階が座敷になっていて、酒も飲めれば女も抱けるようになっていた。貸《か》し衣裳《いしょう》まであって、自在に身なりを変えて出かけられたようだ。
慶次郎と『骨』はその座敷へ上って、それぞれの女を侍《はべ》らせて酒を酌んだ。
刺客が殺すべき相手と酒を酌むようになってはおしまいである。『骨』はとっくにこの仕事を放棄していた。この相手は浴室で出逢《であ》って以来、今に至るまで、刺客の件については一言も云わない。依頼人が誰《だれ》だとも、いくらで雇われたとも訊かない。大事な刀を台無しにした『かぶき者』たちの口惜《くや》しそうな顔を一人々々真似して見せては笑い転げ、まるで水のように酒を流し込んでいる。
つまり今日のことは『かぶき者』たちをこけにするのが狙いで『骨』はおまけだったわけだ。
あまりの馬鹿々々しさに『骨』は腹も立たなかった。
〈これが大の男のすることかね〉
慶次郎は今日のために、わざわざ古脇差を買い、半日かかって刀身を竹べらにすり替えたのだと云う。何故《なせ》そんなことを、と女が訊くと、連中の色とりどりの褌気に入らなかったのだと云う。外はどんな綺羅《きら》を飾ろうと、逆にどんな襤褸《ぼろ》をまとおうと構いはしない。だが褌は男の最後の着衣ではないか。それだけは己れの心のように、まっさらで、輝くような自であるべきだ。
「なんとそうではないか」
この男は大真面目《おおまじめ》な顔でそう云うのである。『骨』も女二人も呆れ返って溜息《ためいき》をつくばかりだった。
「後のたたりが恐ろしゅうまっせ」
女が云ったが歯牙《しが》にもかけない。
「紫や金の褌をしめた男に何が出来る」
あくまで褌にこだわっているところが、何ともおかしかった。
「刺客稼業《しかくかぎょう》ってそんなに面白いか」
唐突に、しかも真正面から訊かれて『骨』はどぎまぎした。
「別に面白くなんかありませんよ」
「嘘だな」
慶次郎の言葉は明快そのものだった。
「面白くない仕事が、そんなに続けられるわけがない。何故面白いんだね」
「さあ」
『骨』も首をひねってしまう。確かに面白くない、というのは嘘である。だが何故面白いといわれても困る。ただ、いばり返っている人間や恵まれすぎた男を見ると、
〈殺してやろうか〉
反射的にそう思う。どれほど権力があり金があり学問があっても、その時は同じなのだ。
刺されれば信じられないという眼で己れの傷口を見つめ、首をしめられればもがきながら脱糞《だっぷん》する。万人が同じ顔になり、同じ反応を呈する。そこがいい。勿論、自分もいつか同じ顔をして死ぬだろう。そこが益々《ますます》もっていい。
ぼそぼそと喋《しゃべ》りながら『骨』は仰天していた。自分にこんなことを喋らせたのは、この男がはじめてである。
〈なんて男だ〉
慶次郎は辛《つら》そうな顔で沁々《しみじみ》と聞き入っていたが、やがてぽつんと云った。
「痩せすぎだ、お主」
これはこたえた。
『骨』はそれこそ何十年ぶりに、泣きたいような気持に襲われた。
女体
まつには貞節という観念がほとんどない。
当代の武士に忠義の観念がないのと同様である。
この当時の女、別して武家の女は、男の従属物としか考えられていなかった。系図を繙《ひもと》けばこのことは一目で判《わか》る筈《はず》だ。そこには男なら幼名から諱《いみな》まで克明に掲げられているのに、女は名前すら書かれていないのである。そっけなく『女』としか書かれていない。
『女』は父または兄、時に弟の都合によって、見も知らぬ男のもとに嫁ぎ、勝手に離婚させられ、また別の男のもとに嫁いでゆく。すべて家の都合であり、政略だった。家と家を結ぶかすがいの役であり、時としては単なる人質の役だった。
跡継ぎが必要だという口実の下に、亭主《ていしゅ》はそれぞれの身分に応じて多くの側室を持つ権利を持ち、悋気《りんき》はつつしみのない女のする業だなどと勝手にきめられている。その上貞節さまで要求するとは虫がよすぎると云うものだろう。
奇妙なことに、こうした徹底した男尊女卑の時代は、一方で途方もなく自由で野放図な女を生み出すようだ。さしずめこの当時では出雲《いずも》の阿国《おくに》などがその代表的な例だろう。まるで時代そのものが、そうした女性の出現によって一種のバランスをとろうとしているかのように見えるところが、何とも面白い。
まつはその自由で野放図な女の一人だった。
それは浮気《うわき》っぽいと云うことではない。亭主を愛していないと云うことでもない。ただ己れの心に忠実なだけだ。それを浮気と呼ぶのは他人の勝手である。亭主も子供も充分に愛している。だがそれでは足りず他《ほか》の男も愛してしまったというだけのことである。いわば常の女より、愛情の量がたっぷり豊かだったとも云える。
とにかく、この時のまつは慶次郎という事件のただ中にあった。どうにもこうにも、いとしくていとしくて仕方がない。屋敷に一人で坐《すわ》っていると、時に叫び声をあげたくなるほど切なくなって来る。そのまま裸足《はだし》で駆け出して逢《あ》いに行きたいのである。と云って逢えばどうなると云うものでもない。慶次郎がその気になれば、忽《たちまち》ち狂瀾怒涛《きょうらんどとう》のような性の中に投げ込まれることになるが、その気にならなければ何事も起きはしない。慶次郎は気のむくままに勝手なことをするし、まつはそのそばでぼんやり時を過すだけである。それで充分に愉《たの》しく、胸の渇《かわ》きはぴたりととまるのだから奇態だった。
〈まるで十五の小娘みたい〉
まつは自分でもそう思い、自らを嘲《あざけ》っても見るのだが、何がどう変るわけのものでもなかった。
まつが思い切って前田家を去り、慶次郎の牢宅《ろうたく》に押しかけ女房《にょうぼう》のように入りこまないでいるのは、利家《としいえ》に対する遠慮でもなければ、不義に対する制裁を恐れたからでもない。倖《しあわ》せはむさぼりすぎてはいけないという、一種の神への畏《おそ》れからだけだった。あまりにむさぼることは、結局は喪《うしな》うことになる。そういう女の直観からだ。
〈なんて好《い》い女なんだ〉
慶次郎は寝転んだまま、部屋の隅《すみ》でひっそり小袖《こそで》を着こんでいるまつの動きを眼《め》で追いながら、沁々《しみじみ》とそう思った。
終ったばかりの行為の余燼《よじん》が、全身の肌《はだ》をまだ薄桃色に染めている。おくれ毛が一筋はらりと垂れているのを、ゆっくりとかき上げる腕の白さが、ずきんとこたえた。凄艶《せいえん》ともいうべき美しさだった。
〈熟れきっている〉
抱けばとろけるような女体だった。そのくせどこか一筋、凛《りん》としたものが通っていて、いたずらに手を出すことをはばからせる怖さがある。
「帰ります」
まつがちらりと慶次郎を見て囁《ささや》いた。強い含羞《がんしゅう》の色《いろ》がある。あられもなく取り乱し、切ない声をあげ続けたことへの羞じらいだった。
「送ろう」
はね起きると素肌の上に鎖かたびらを着た。全く無意識の仕業だった。果し合いでもない限り、慶次郎が鎖かたびらを着ることは少い。
まつが目を瞠《みは》った。
「また誰《だれ》かに狙《ねら》われているんですか」
慶次郎はその言葉ではじめて自分の仕業に気づいた。格別狙われているという覚えもない。だがいつ襲われても不思議ではないような生きざまをしていることは確かである。
それにしても何故《なぜ》こんなものを着たんだ。
「いや、別に」
曖昧《あいまい》に応《こた》えながら、慶次郎はこのままで行こうと決めた。慶次郎は己れの無意識の勘を信じることにしている。そのお蔭《かげ》で今までもない生命《いのち》を何度か拾っているのだ。
鎖かたびらの上に小袖をつけ袴《はかま》をはいた。
わざわざ大脇差《おおわきざし》を腰に差した。これも同じ無意識の流れの中だった。
〈何が起きるというのか〉
慶次郎は自分の勘が面白くなって来ている。
明らかにかなり激烈な修羅場《しゅらば》への予感なのである。修羅場は大歓迎だった。ここのところ闘いには久しく御無沙汰《ごぶさた》だった。慶次郎の武名が高くなりすぎて、この京の町では、喧嘩《けんか》を売ろうとする『かぶき者』がいなくなってしまったからだった。一片の意地や好奇心だけで、必ず死ぬと判っている闘いを挑《いと》む者はさすがにいなかった。
〈誰かな、相手は〉
ちらりとそう思ったが、すぐ忘れた。どうでもいいことだった。喧嘩とは、たとえその結果が死につながろうと、男と男の触れ合いの場である。一期一会《いちごいちえ》の機会だった。
〈楽しいな、この世は〉
慶次郎という男にとっては、なんとそう云うことになってしまうのだ。闘いは愉しみ以外の何物でもない。
腕をぐるりと廻《まわ》し、足を踏みしめてみた。躰《からだ》の具合は上々である。まつとの充足した行為のお蔭で、節々《ふしぶし》まで油がゆき渡っているような感じだった。
「よし」
満足そうに呟《つぶや》くと、腕を伸ばしてまつを抱きよせた。柔らかく口を吸った。
「うまいな」
破顔した。これでいつ死んでもいい、と思った。
まつは呆《あき》れたように慶次郎を見ていた。また危ない修羅場に出てゆく気でいることが、何も云わずとも判った。
〈なんて子なの〉
涙ぐみたくなるような切なさで思った。
〈ひとがこんなに好きだというのに〉
だがとめようとしても無駄《むだ》なのは判っている。また慶次郎にしても、とめられようがないのである。まだ何が起るのか判ってもいないのだから当然であろう。
まつは深々と溜息《ためいき》をついてみせただけだった。
慶次郎はまつの腰を抱いて、松風にまたがってゆく。まつの方はさすがに頭巾《ずきん》で面態《めんてい》を隠しているから、どこの誰とは判らないものの、たおやかな女ぶりはどう隠しようもない。何とも派手やかな道行だった。
松風につきそって歩きながら、捨丸は身の不運を嘆いていた。こんなことになっては、捨丸は二度と前田家に戻《もど》るわけにはゆかない。捨丸は、人もあろうに殿様の奥方の不義の目撃者になってしまったわけだ。事が公《おおやけ》になれば前田家の面目は丸つぶれである。どんなことをしても慶次郎を斬り、目撃者である捨丸を斬らねばならなくなるのは目に見えていた。
〈せめて人目を忍ぶくらいのことはせんかい〉
腹の中で毒づいてみるが、慶次郎にそんなことを要求することが無理なくらいは、初手から判っている。それにしてもこんなに人目につく格好で都大路《みやこおおじ》を練り歩かなくてもいいではないか。慶次郎の『かぶき心』が、捨丸にはなんとも恨めしかった。
慶次郎の『かぶき心』を恨めしく思っていたのは、捨丸だけではなかった。
往来の人々にまぎれて、慶次郎の家の前からずっと後を尾《つ》けて来た武士にとっても事は同様だった。
これは奥村|助右衛門《すけえもん》である。慶次郎の莫逆《ばくぎゃく》の友であり、前田家中でたった一人の慶次郎の庇護者《ひごしゃ》だった。
助右衛門はもとより偶然にこの場に居合せたわけではない。妹の加奈《かな》のしらせによって、わざわざ京まで上って来たのである。
加奈は今年三十になる。二十五の年から奥付きとして、まつの身の廻りの世話をして来た。助右衛門としてはたった一人の妹を、人並に嫁にやりたかったのだが、加奈が二十四になって最後の縁談をにべもなく断わった時、遂《つい》にその望みを諦《あきら》めた。
加奈の不幸は兄の助右衛門に恋慕したことだった。もとよりそれは不倫の道に踏み込む態《てい》のものではなかったが、この兄に較《くら》べると他の男がすべて色褪《いろあ》せて見えるのである。それほど奥村助右衛門はいい男だった。どちらかと云えば風采《ふうさい》の上らない小男だったが、海のように広い心の持主であり、常に清潔な美しさに満ちていた。こんな兄に惚れこんだのも、加奈に男っぽい部分があったためかもしれない。奥付きになるとその部分が急速に発達したようで、今では男たちも揃《そろ》って一目《いちもく》置くような女になっている。
三年前に一つの事件があった。この頃《ころ》は表と奥の区別がそれほど厳しくはなく、表の男たちも比較的気軽に奥への出入りを認められていた。
利家の寵童《ちょうどう》で雪丸と云う小姓がいた。文字通り雪のような白い肌で、比類のない端正な顔立ちだった。こうした容貌《ようぼう》を持ち、しかも殿様の寵を一身に集めている男というのは、大方が性残忍酷薄、爬虫類《はちゅうるい》に似た冷たい心の持主というのが通り相場である。それでも夢中になる女が多いのも、これまた世の常だった。
加奈の下で仕えていた娘がこの雪丸と通じ、不幸にも身籠《みごも》ってしまった。加奈としては娘の将来のためにも、ことを穏便にはからうしかない。雪丸を呼んで、くだんの娘を嫁に迎えるようにすすめた。雪丸にはもともとそんな気がない。ただの戯《たわむ》れにすぎない。卑怯《ひきょう》にもすべてを否定し、その上、いいがかりをつける気かと逆に居丈高《したけだか》に加奈を詰《なじ》った。君寵をたのんだ思い上りであることは明らかだった。
加奈は無言で雪丸の顔を見つめながら、ゆっくりと懐剣の紐《ひも》をといた。加奈は富田流小太刀の目録を得ている。本来なら皆伝も受けられる腕だったが、助右衛門が敢《あえ》て承《つ》けさせなかったのだ。
雪丸はそんなこととは知らない。たかを括《くく》ってせせら笑っていた。
「腐った殿御ですね」
加奈は静かに云うと、眼にもとまらぬ抜討ちで、雪九の顔を十文字に斬った。生命を奪う程ではないが、充分の深さである。一生消えない傷痕《きずあと》が残った。雪丸は傷が癒《い》えると金沢を逐電《ちくでん》し、今に至るも行方が知れない。加奈はまつに届けて処刑を待った。娘の名はおくびにも出さず、雪丸が自分に無礼を働いたからだと云い張った。だがまつは娘の件を承知していた。だから利家を半ば脅《おど》して、加奈にお構いなしの裁決を下させた。以後、前田家中の者は老職に至るまで加奈を恐れ、はばかるようになったと云う。
まつには女っぽい見栄《みえ》というものが欠如している。思った通りのことを直ちに行動に移し、そこに何の抵抗も感じない。抵抗があるとすれば、常に外部からのものであり、そうなればしゃかりきに闘うことになる。だからその種の抵抗がない限り、誠にあっけらかんとして、一見平静に見える。慶次郎との不義が奥の女中たちに全く気づかれずに来たのは、このためだった。
まつの場合は、唐突に供もつれずに町に出てゆくことなど、日常茶飯事に属した。大方の場合は、数日前に見かけた簪《かんざし》を嬉々《きき》として髪に飾って帰って来たり、突然たべたくなった菓子を山のように買って来たりするのがおちだった。心配する方が馬鹿《ばか》を見ることになる。だから屋敷から消えても、またか、としか思われない。齢頃《としごろ》から考えても、不義などという疑いは誰の頭にも浮ばなかったのは、むしろ自然だった。
加奈にしても当初はそんなことは考えもしなかった。だがやがてまつの肌の変化に気づいた。もともと齢より若いすべらかな肌だったのが、急にその艶《つや》が増して来た。それこそぬめるような、妖《あや》しいまでの美しさである。
〈尋常でない〉
加奈は色ごとに無縁の女だが、それだけに逆にこういう現象には恐ろしく敏感だった。そして一旦《いったん》そう思うと、他にも色々と奇妙な節が見えて来る。遂に思い定めて、一日、まつを尾行して見た。まつにはそうした顧慮が皆無である。だから寄り道もせずに、まっすぐ慶次郎の家に行った。加奈は二刻《ふたとき》の余も待たされ、まつを送って出て来た慶次郎を見た。
驚愕《きょうがく》したと云ってもいい。もとより加奈は慶次郎を熟知している。兄助右衛門の旧主の養子であり、莫逆の友なのだ。一度慶次郎が助右衛門の屋敷に来たのを、たまたま宿下りしていた加奈が見たことがある。慶次郎は半日も屋敷にいたが、遂に一言も口を利《き》かなかった。助右衛門も同じである。わざわざ屋敷へ訪ねて来て、一言も交わさずに帰ってゆくとはどういう男なのだろうと、怪訝《けげん》な思いに駆られたことを、加奈ははっきり覚えている。そのくせ、慶次郎の顔にも、助右衛門の顔にも、満ち足りたような安らかな表情が浮んでいたことも忘れられずにいた。
その慶次郎が不義の相手だった。これはなんとも加奈の手に余った。どう処理していいか、いくら思案してみても皆目判らないのである。
〈あたしは甘えている〉
そう自覚しながらも、越前《えちぜん》の兄に事の次第を知らせる手紙を書くしかなかった。
手紙の返事は来《こ》ず、そのかわり昨日、助右衛門自身が京に現れたのだった。
松風が足をとめた。
聚楽第《じゅらくだい》の近くである。
さすがの慶次郎も、ここから先へまつを抱いたまま行くことは出来ない。そのことを松風は慶次郎以上に知っているようだった。だから何の合図がなくても足をとめたのである。
慶次郎がまつを抱いたまま、松風の背から滑り降りた。
ぐっと腕に力を入れて抱きしめると、放した。
別れはいつも苦手だった。甘い口説《くぜつ》など出来るわけがない。口を利くのがこわかった。だからいつも無言だった。抱きしめたことで思いのたけは伝わっている筈である。そう信じていた。
まつも口を利かない。
眼でちらりと微笑《わら》ってみせるだけだ。まつもそれで充分だということを知っている。
「捨丸」
慶次郎が短く云った。頼むよ、という意味である。いつも此処《ここ》から先は、捨丸がまつの陰の護衛を勤めている。
「へい」
応えながら捨丸は素早く慶次郎に近づいて囁いた。
「尾けられてます、家を出た時からずっと」
「ほう」
慶次郎がのんきな声をあげた。
「殺気など感じなかったが……」
「そうなんで。殺気はないんで」
『骨』かな、とちらりと思った。だが『骨』ならば捨丸に勘づかれるわけがない。殺気がないとなれば尚更《なおさら》である。
「今、どこだ?」
「左はしの柳の蔭。隠れてるつもりのようで」
捨丸の声に嘲《あざけ》りがある。この尾行人は明らかにど素人《しろうと》だった。それに殺気も感じられないのだから無害な人間にきまっている。
「では」
捨丸はまつに頭を下げた。
不意にまつの胸が騒いだ。暗い予感があった。手を伸ばし、慶次郎の指を握った。
「危ないことはいけませぬ」
姉のように云った。
慶次郎が目を瞠った。嘗《かつ》て無いことである。自分が無意識に鎖かたびらを着込んだのと同じ予感に、まつもひたされていることを感じた。
慶次郎はまつの指を強く握り返して、すぐ放した。その予感が確かなものなら、早くまつをこの場から離さなければならない。
捨丸が歩きだした。まつが珍しく未練ありげにその後に従った。二人が聚楽第の道を曲ってゆくまで、慶次郎は微動だにせずに見送っていた。
二人の姿が消えると、松風の首を叩《たた》き、ついでひらりとまたがった。
「さて、ゆくかね」
左の端の柳の木へ向った。そこでとまった。
「下手糞《へたくそ》な隠れ方だ」
柳の蔭から、影が一つ滑り出た。勿論《もちろん》これは奥村助右衛門である。編笠《あみがざ》をかぶっていたが、慶次郎には一目で判った。なんと云っても加賀藩でたった一人の友である。
〈この男が……〉
衝撃があった。
〈この男が俺《おれ》を尾けて来た〉
考えられることではなかった。自分に用があるなら、黙って眼の前に立てばよかった。それだけで助右衛門の考えていることは判ってしまう。それをせずに届けて来たというのは、まつへの遠慮としか考えられない。つまり自分とまつの仲を知っている、ということだった。
〈そうか〉
一瞬に閃《ひらめ》くものがあり、慶次郎は即座に死を覚悟した。
助右衛門が編笠をとった。いつもなら、そこでにたっと笑う筈だった。親友を編笠までかぶって尾行するなど、到底助右衛門の任ではない。誰よりも本人が一番そのことを知っている。だから必ず照れたように笑う筈だった。
だが今日の助右衛門は笑わない。厳しく、ずしりと重みのある顔だった。眼だけが悲しそうに慶次郎を見つめている。
〈何て眼をするんだ〉
慶次郎は泣きたくなった。
無言で手を伸ばした。
助右衛門がちらりと松風を見た。
〈乗せてくれるかな〉
そう疑っているのだ。
「俺と一緒なら大丈夫だ」
慶次郎が云うと、助右衛門はその手を掴《つか》み、ひと跳びで前鞍《まえぐら》にまたがった。
松風は気にもかけず、早足で歩き出した。
「河原へ行く」
宣言するように慶次郎が云った。いつもそこで捨丸を待つことになっていた。
二人ともそのまま押し黙って、松風が鴨川原《かもがわ》に運んでゆくままにさせていた。
まつの胸騒ぎがひどくなっている。何度か足をとめかけた。
〈自分がいては邪魔になる〉
その危惧《きぐ》がなかったら、とうに引き返していただろう。
前田屋敷までの距離の半分も行かぬうちに、まつは呼びとめられた。加奈だった。顔色が異常なまでに蒼《あお》い。いきなり云った。
「兄にお会いにはなりませんでしたか?」
「助右衛門が出て来ているのですか?」
まつが驚いて訊き返した。胸騒ぎが一層ひどくなった。
「慶次郎さまのお宅に伺った筈なのです」
加奈の声も切迫している。
助右衛門は前田屋敷には入らなかった。茶店から加奈を呼び出したのである。異例だった。兄妹《きょうだい》とはいえ、男が女にしていいことではない。それを充分に承知している筈の兄である。加奈が茶店につくと、助右衛門は一言訊いただけだった。
「慶次郎殿の住いはどこだ?」
加奈が教えると、すっと立って出ていった。それが昼頃だった。それっきり、顔も見せなければ、呼出しもない。日が落ちると加奈は不安でたまらなくなり、遂に屋敷を出た。先刻《さっき》の茶屋によって訊いてみたが、あれきりだと云う。慶次郎の家にゆくしかないと歩き始めたところで、まつに逢ったのである。
加奈もまた不吉な予感にさいなまれていた。
助右衛門は海のように広い心の持主だが、その核になる部分は異常なまでに硬い。一度そこにぶつかると、てこでも動かない。頑固《がんこ》に己れの意志を守り通す。
助右衛門が男女の道についてどんな考えを持っているか、加奈は知らない。だが当時の武士にしては珍しく、一人の側室も置かなかった。子供は正室の産んだ者ばかりである。その数も決して多くはないところを見ると、房事に淡泊なのだろう。加奈は漠然《ばくぜん》とそう思っていた。慶次郎とは対照的と云ってもいい。
こちらの方は加賀にいた頃から艶聞《えんぶん》が豊富だった。これほどの男となると、女の方で放《ほう》って置かないのである。だが女について慶次郎が意外に気難しいという噂《うわさ》は聞いたことがある。女が誘っても振られることが多いと云う。据膳《すえぜん》くわぬは男の恥、と云うが、どうやら慶次郎には通じない言葉らしい。
「それほど渇してはおらぬ」
にべもなくそう云ってのけると云う話だった。
助右衛門は慶次郎のそんなところが気に入っているのかもしれない、と加奈は思う。とにかく今まで色事のことで兄が慶次郎を批判したことは一度もない。
だが今度は違った。茶屋で逢った時の兄の形相がいつになく厳しく、加奈は胸をつかれたものだ。
〈ひょっとして……〉
そう思うと加奈の胸が凍った。
「捨丸」
まつが叫んだ。
「慶次郎さまはどこ?」
「鴨川の河原でしょう」
捨丸には何が何だか判らない。判っているのはまつの血相が変っていることだけだ。
「案内して。今、すぐ」
せきこむようにまつが命じた。
慶次郎と助右衛門は河原にあぐらをかいて瓢《ふくべ》の酒を飲んでいた。二升も入りそうな大きな瓢で、常時鞍にぶらさげられている。
ここへ着いてからも二人は無言である。酒を注《つ》いでやりもしない。勝手に手酌《てじゃく》で盃《さかずき》を重ねていた。
その瓢が空になった。慶次郎は最後の一しずくを大切そうに飲み干すと、云った。
「うまかった。これでいい」
まっすぐ助右衛門を見た。にこっと笑った。
「そろそろ始めたらどうだ」
慶次郎は助右衛門が自分を斬るつもりでいることを、一目見た時から知っていた。こいつに斬られるんじゃ仕様がないな、と思った。手向いする気は全くない。斬られる理由は判然としなかったが、いずれまつのことだろう。何にせよ理は助右衛門にあるにきまっていた。それでなくてこの男が人を斬るわけがない。だから斬られてやればいいのである。見も知らぬ他人ではなく、莫逆の友に斬られることが、なんとはなしに満足だった。
二升の酒は別れの酒であり、慶次郎にとっては末期《まつご》の酒のつもりだった。最早、なんの思い残すこともない。
助右衛門は自分の盃を傾けて、最後のしずくを飲みこんだ。ぽいとその盃を投げてよこした。反射的に受けとろうと腕を伸ばした。
その瞬間に、来た。眼にもとまらぬ抜討ちが慶次郎の胴を充分に斬った。
息がつまり、目の前に星が散った。それほど凄《すさ》まじい打撃だった。
〈腕を上げたな〉
瞬間にそう思った。この齢になって腕が上るとは、平生よほど根をつめて修錬に励んでいる証拠だった。
だが慶次郎はまだ生きていた。鎖かたびらのお蔭である。それでも常人なら失神した等の打撃だった。
慶次郎は幾分苦しそうに笑った。
「すまん。着込みをつけているんだ。こっちをやれ」
手で首を叩いた。首には鎖かたびらも及んでいない。
助右衛門は応《こた》えない。無言で月の光にかざして太刀を見ていた。
「どうした?」
「腰が伸びた」
これは刀のそりが伸びたと云うことだ。余りに固いものを斬ろうとすると、この現象が起きる。数日放っておけば元に戻るが、すぐは使えない。助右衛門の刀の腰を伸びさせたのは鎖かたびらだけではない。それがくるんでいた慶次郎の肉体の硬さである。
「刃もつぶれている」
「脇差があるじゃないか」
助右衛門が慶次郎を見つめた。
「太刀で斬り損じて、脇差で斬るのか」
「いかんかね?」
「俺がそれほどお主を斬りたいと思うか」
慶次郎は沈黙した。助右衛門の辛《つら》さが胸に沁《し》みた。
「又左に云われたのか?」
又左とは前田|又左衛門《またざえもん》利家のことだ。
「違う」
きっぱりと云った。
「加賀藩士とその家族のためだ」
殿様の奥方が不義を働いていることが天下に知られては、藩の面目は丸つぶれである。以後藩士たちもその家族たちも、肩身を狭くして生きなければならない。それを種に嘲弄《ちょうろう》されてかっとなり、生命を落す者も出て来るだろう。だからと云って、慶次郎にやめてくれと云うことは出来ない。助右衛門は慶次郎の恋がいつも本気なのをよく知っていた。断じて浮気ではない。そのためにいつ死んでもいいと思っているのだ。その恋をやめろとは云えない。また云っても無駄であろう。残る道は斬ることしかない。それが助右衛門の思考だった。だから斬った。正しく充分に斬った。その時点で慶次郎は死に、助右衛門もまた死んだ。誰がその手で年来の友を斬って生きていられるだろうか。
生涯《しょうがい》にたった一度のことだ。やり直すことが出来るわけがなかった。
助右衛門は力いっぱい刀を放《ほう》った。それは月光にきらめきながら、川の中に吸い込まれていった。
助右衛門が両手で顔を蔽《おお》った。泣いた。加賀随一の武将が泣いた。
とてもたまらなかった。
慶次郎はもぞもぞと口のあたりを掻いた。何かが口から飛び出そうとしている。言葉だ。言葉が飛び出したがっている。だがそれは断じて飛び出させてはならぬ言葉だった。その言葉を吐けば、助右衛門を救うことは出来るかもしれぬ。だが同時にまつと慶次郎は死ぬ。
声が響いた。
「何を躊躇《ためら》っているの」
まつだった。加奈と捨丸をつれて、一歩々々近づいて来ていた。先刻からのいきさつをどこかで見ていたに違いなかった。顔色が月光の下でぞっとするほど白い。眼が濡《ぬ》れてきらきら輝《かがや》いていた。
「さあ、云いなさい。あの女子《おなご》とは別れるって」
威嚇するような声だった。そのくせ無限の悲しさを含んでいた。
「いやだ」
慶次郎は駄々っ子のように首を振った。
「判らないことばかり云って……」
声がはっきり濡れていた。
「二人とも大人じゃありませんか。いつかはこんな日が来るのは、判っていたじゃありませんか」
本当かな? 本当に判っていたのかな? 慶次郎は一瞬本気でそう考えた。
月がにじんだ。なんと俺が泣いている。
「いやだ!」
悲鳴のように慶次郎は叫んだ。
死地
合戦がしたい。
痛切にそう思った。
合戦しか今のこのやるせない思いを忘れさせてくれるものはなかった。
ぎりぎりの死地に身を置いて、一命はひたすら天に委《まか》せ、朱柄《あかえ》の槍《やり》を振りまわしながら猛然と敵陣めがけて一騎駆けしてゆく。
あの凄絶《せいぜつ》ともいえる昂揚《こうよう》した気分に較《くら》べれば、恋を失ったやるせなさなど何物でもなかった。
だが生憎《あいにく》なことに天下は泰平そのもので、合戦の気配もない。豊臣《とよとみ》政権の安定期だった。秀吉《ひでよし》の前に立《た》ち塞《ふさ》がる者は、東の北条《ほうじょつ》を除いて誰《だれ》も居なかった。僅《わず》かに東北の伊達《だて》政宗《まさむね》が会津へちょっかいをかけているくらいのところである。北条とはいずれ近い内に結着をつけることになるだろうが、慶次郎の間には合わない。
慶次郎はたった今戦いたいのだ。今、戦わなければ、心が破れてしまう。それほど辛《つら》く切《せつ》ないのだ。
慶次郎は感情の起伏が大きい。嬉《うれ》しい時はそれこそ転げ廻《まわ》って笑い、悲しい時は号泣する。
事実、捨丸などは初めて見るこの主《あるじ》の身も世もない嘆きぶりに呆《あき》れ果てていた。
何しろ思い出すと泣くのである。時と処《ところ》を問わない。めしを食っている最中でも、厠《かわや》の中でも、声をあげて泣く。
〈大の男が何だ〉
ついそう云いたくなってしまう。たかが女と別れたぐらいのことで、とも思う。所詮《しょせん》恋の価値観が違うのだから、どうしようもないのだが、とに角捨丸にしたら歯がゆくて仕方がない。
〈みっともないと思わないのか〉
捨丸が心底うんざりするほど、それは開けっぴろげのだらしなさだった。
慶次郎にすれば、みっともないなどと云う考えは糞《くそ》くらえである。悲しいのに泣いてどこが悪い。お前ら、あれほどの女と別れたことがないから、平気でいられるんだ。大体、破れて平気でいられるような恋などするな。
だがそんな熱い思いを語れるような友もいなかった。
直江《なおえ》山城守《やましろのかみ》兼続《かねつぐ》は、主君|上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》と共に越後《えちご》へ帰っていた。
「領内の整備をしなければなりませんので」
それが別れを告げに来た兼続の言葉だった。
捨丸にとって一番弱ったのは、慶次郎の機嫌《きげん》が激変することだった。
たった今、顔を顰《しか》めてほろほろと大粒の涙を流していたかと思うと、次の瞬間、猛然と怒り出したりするのだ。これは往来を歩いている時が多かった。お蔭《かげ》で慶次郎の癇《かん》にさわった『かぶき者』が七人まで、手足をへし折られている。辻説法《つじぜっぽう》の坊主《ぼうず》までこの突然の怒りの犠牲になって、頬《ほお》げたを砕かれた。
正に『仏にあっては仏を殺し』だった。このままではいずれ慶次郎自身が自壊することは明らかだった。
慶次郎は喪《うしな》った恋の未練に、全身全霊をあげてのたうち廻っていたのである。
〈さすがに友だ〉
越後から遥々《はるばる》寄せられた直江兼続の書簡を一読するなり、慶次郎は狂喜してほとんど部屋じゅうを跳び歩いた。捨丸が、遂《つい》に狂ったかとぎょっとなったほどのはしゃぎようである。
「判《わか》るか、捨丸。これが判るか」
手紙を高く掲げてそう喚《わめ》く。判る道理がなかった。
「直江さまがどうかなさいましたか」
「合戦だ。合戦なんだよ、おい」
上杉景勝は向背常ならぬ態度をしぶとくとり続けて来た佐渡ケ島の本間一族を、今度こそ根こそぎ討伐《とうばつ》するために兵を起すことになった、と兼続は書いて来たのである。
佐渡は一応越後上杉領として秀吉にも認められた土地である。その領内がいつまでも治まらなくては、武将たる者、かなえの軽重《けいちょう》を問われても仕方がない。別して天下が泰平に落ち着いた現在ではそうである。下手をすればそれを口実に取《と》り潰《つぶ》される危険さえある。それがこの佐渡征伐の主たる理由だった。
昔から佐渡は下尾《しもお》佐渡守《さどのかみ》諸家《もろいえ》、本間山城守|利忠《としただ》、羽茂《はもち》三河守《みかわのかみ》高茂《たかもち》、佐原|与左衛門《よざえもん》利国など六人の領分だったが、この内、下尾佐渡守と本間山城守は天正十五年七月、景勝の父謙信に亡《ほろ》ぼされている。現在は沢根《さわね》・潟上《かたがみ》・羽茂・佐原の本間一統が、お互いの間で小競合《こぜりあい》を続けながら、越後上杉には一致協力して敵対するという、一族らしい小賢《こざか》しい態度で島を守っていた。
これが島でなければたいした勢力ではない。だが世に聞えた荒海が、上杉勢の侵出を強固に阻んでいた。侵略は先ず兵船の用意から始めねばならなかった。この時、上杉景勝は千三百余隻の兵船を集めたと云う。
「捨丸。すぐ支度だ。越後までひと駆けに駆けるぞ」
慶次郎は無造作に云って捨丸を狼狽《ろうばい》させた。
京から越後までは、どの道をとっても最低百四五十里(五百六十キロ乃|至《ないし》六百キロ)はある。ひと駆けに駆けられる距離ではない。馬を休まず走らせても五日から七日はかかる。歩けば半月の旅なのだ。
それに重大な障碍《しょうがい》があった。
京から大津へ出て西近江路《にしおうみじ》を辿《たど》り、やがて北国街道《ほっこくかいどう》に出て日本海沿いにどこまでも北上する。それが越後への道だった。だがこの道は必然的に越前、加賀、越中を通り抜けることになる。大半が加賀前田藩の領地なのだ。慶次郎が加賀藩の土地を何事もなく抜けられる筈《はず》がなかった。
この道を避けようとすれば、先ず中仙道《なかせんどう》を行き、次いで加納《かのう》から関《せき》・八幡町《はちまんちょう》を経て坂本峠を越え高山に至る郡上《ぐじょう》街道を行く。高山から野麦峠を越えるいわゆる野麦街道(善光寺道ともいう)を辿り、信州松本に出、ここから千国《ちくに》街道を経て糸魚川《いといがわ》に達する。これなら完璧《かんぺき》に加賀領を通らずにすむが、廻り道の上に道の大半が嶮《けわ》しい山道になる。冬になれば豪雪地帯で通行不可能になるが、今の季節ならその心配はない。
捨丸は素早くその道程を一々脳裏に描き、おおよその距離を計算すると同時に、現在|土倉《つちぐら》などの金融業者や抛銀《なげがね》商人(海外貿易に投資する商人)に廻してある莫大《ばくだい》な銀の処置を考えた。彼等《かれら》はすべて信用第一だから踏み倒される心配など皆無だったが、旅先へいつでも必要なだけの銀を送って貰《もら》えるように手形を組んで行かねばならない。それだけではない。旅装と武具を整え、それを積む馬も買う必要がある。捨丸の乗馬としては慶次郎が秀吉に貰い野風と名づけた馬がいるが、荷駄用《にだよう》の馬も、松風や野風の迅《はや》さについてこれる優秀な馬を撰《えら》ばねばならない。
「二日お待ち下さい」
それやこれやを計算した上で出したぎりぎりの数字だったが、
「今日中に発《た》つ。駄目なら後から追って来《こ》い」
冗談ではなかった。単身、松風に乗って疾駆する慶次郎に追いつけるわけがなかった。
おまけに慶次郎は、捨丸が考えた越後への安全な道を一言のもとに拒否した。
「なんでそんな厄介《やっかい》なことをするんだ。西近江路を辿り北国街道を行く。それでいい」
この主人は加賀藩領を抜ける危険など、屁《へ》とも思っていないのである。
出発の方はなんとか明後日早朝ということで納得させた。
「鎧《よろい》などありあわせで宜《よろ》しいのですね」
捨丸がわざと念を押したのが効いた。『かぶき者』慶次郎としては、ありあわせの鎧で栄えある合戦に参加するなど、もっての外である。
更にこれから冬に向うことでもあるし、佐渡の荒海を押し渡ることにもなる。松風にも自分にも防寒・防水の衣類が必要だ。それもまたどこでも手に入るじじむさい物は真っ平御免だった。そうなると京である。京で手に入れてゆくしかない。それが二日の期限だった。
だが道の方は何と説得をしても無駄だった。断乎《だんこ》として西近江路から北国街道と云い張るのである。
「わしらの迅さに追いつける加賀藩の武士などいるわけがない」
その一点張りだった。
捨丸も遂に覚悟をきめた。だが何の手当もせずに北国街道を行くのは、死ににゆくようなものだ。四井|主馬《しゅめ》の実力を捨丸はよく承知している。慶次郎の動きはその配下の忍びたちが常時|掴《つか》んでいる筈だった。慶次郎が鎧を買い、防寒具を買うのを見たら、すぐ金沢に注進が行くにきまっている。四井主馬は容易に行先《ゆきさき》を知るだろう。直江兼続との親交も知っている筈だから尚更《なおさら》だった。主馬が北国街道に二段三段の迎撃の備えをすることは、目に見えていた。
捨丸は思案の末、奥村|助右衛門《すけえもん》に手紙を書き、慶次郎の動きを知らせた。助右衛門は既に金沢に戻っている。どんな手を打ってくれるかは不明だが、少しは役に立つだろう。
そして自分は夥《おびただ》しい煙硝《えんしょう》を買いこみ、せっせと手投げ弾を作った。中に散弾を仕込んだがこれで忍びを殺傷出来るとは思っていない。一種の目くらましであり、脅《おど》しのつもりだった。
二日は急速に過ぎ、出発の日が来た。
二日の遅延は慶次郎の心を焦《あせ》らせていた。初日から思い切り松風を駆った。疾走と去っていい。
ひどい目にあったのは捨丸と新しく買い求められた荷駄用の馬だ。軽々と走る松風の後を、必死に走るしかなかった。
捨丸はようやく松風に追いつくと、このままでは荷駄用の馬が潰れることを告げた。
「なんでそんなやわな馬を買った」
慶次郎は恐ろしく不機嫌になったが、鎧なしで合戦に参加するわけにはゆかない。しぶしぶ捨丸の案を入れ、大津から舟を雇って長浜まで渡ることにした。時間はかかるが、これでいきなり北国街道に出られることになる。
捨丸は意図したわけではなかったが、これで四井主馬の迎撃第一陣を見事にかわすことになった。
捨丸の推測通り、主馬は慶次郎主従の慌ただしい動きを早馬の報告で聞くと、忽《たちま》ち越後ゆきと察しをつけた。上杉の佐渡攻略は、既に金沢まで聞えていたのである。
主馬は熟考して、慶次郎が西近江路から北国街道をゆくつもりでいるとの結論を出した。慶次郎の性格から見て、危険な金沢を避けるわけがないと思ったのだ。そして前回と同様に七里半越えの山道に迎撃の第一陣を置いた。
京から慶次郎たちを追尾した主馬配下の忍びたちは、慶次郎の無茶苦茶な疾走についてゆくことが出来なかった。野風に乗った捨丸さえ悲鳴をあげた迅さである。いかに駿足《しゅんそく》の忍びとはいえ、徒歩で追いつくことは不可能だった。旅人の眼《め》もある。自分たちの正体を曝《さら》すような真似《まね》も出来なかった。
だから彼等は慶次郎たちが船に乗る姿を見損ったのである。捨丸が惜しみなく銀をはたいて、特別仕立ての船をあっという間に調達したせいでもある。忍びたちはそのまま駆け続け、七里半越えに至って初めて、自分たちが影を追っていたことに気付く始末だった。
慶次郎は船が長浜に着くと、又ぞろ疾駆を再開した。普通なら当然長浜泊りになるのだが、この男の考えでは船中で充分休息をとったから、休む必要はない、と云うのだ。夜道も何の苦にもならなかった。慶次郎も捨丸も、両者ともに夜目が利く。平気で昼なお暗い栃《とち》の木峠《きとうげ》を登った。もともとこの道は天正六年|柴田《しばた》勝家が安土《あづち》と北《きた》ノ庄《しょう》(現福井)を結ぶ軍用道路として整備した道である。馬の歩行は容易だった。
峠を越え、板取・今庄・府中を抜けて北ノ庄に達したところで、慶次郎はようやく休んだ。野風も荷駄用の馬も気息奄々《きそくえんえん》、松風だけが涼しい顔をしていた。
〈底の知れない馬力だ〉
今更ながら捨丸は感嘆した。
慶次郎は陽《ひ》のある間、この北ノ庄で休み、夕刻と共に金津・大聖寺《だいしょうじ》・小松を過ぎて加賀藩領に入るつもりでいる。この当時はまだ大聖寺は溝口《みぞぐち》秀勝、小松は村上|義明《よしあき》の領地だった。
加賀藩領を横断する北国街道はほぼ四十五里(一八〇キロ)。途中に倶利伽羅峠《くりからとうげ》の難所がある。更に親不知《おやしらず》の難所を抜けるとようやく糸魚川だ。徒歩は勿論《もちろん》のこと、馬を使っても到底一日で通り抜けられる距離ではない。
だが慶次郎と捨丸はその不可能事を可能にしなければならぬ。それには半刻《はんとき》の休息もとることなく、遮二無二《しゃにむに》突っ走るしかない。すべては馬と人の体力にかかっている。馬に疲労の色が見えたら、人は降りて馬を曳《ひ》くしかない。疲労がとれれば又乗馬する。倶利伽羅峠などではほとんどそうやって馬を曳くことになる。人の体力も必要な所以《ゆえん》である。
捨丸は前日の経験に懲りて、出来るだけ頑丈《がんじょう》そうな馬を更に二頭買った。荷駄用の馬を三頭にし、荷物を三分して乗せたのである。こうすれば一頭が倒れ、その荷を他《ほか》の二頭に荷《にな》わせても何程の負担でもない。その上、捨丸はこの二頭の鞍《くら》に、例の手投げ弾を仕込み、火縄《ひなわ》をつけた。危急の時は馬もろ共敵中に放って破裂させるつもりでいる。馬爆弾とも云える。何とも忍者らしい非情の扱いだった。慶次郎はこの仕掛けを知らない。
ぐっすり眠って、午後も遅く目覚めた。充分の食事をとる。あとは一日中、ほとんど食事をとる暇もなくなる筈だった。馬にも充分の飼料をやり、かなりの水を皮袋に入れて積んだ。
出発した。金津の関所が閉まるぎりぎりのところで通り抜けた。小松までは足ならしにゆっくり歩く。加賀藩領に入ったら疾走を開始するつもりだった。
慶次郎も捨丸も予想した通り、国境を越えた地点には、四井主馬配下の第二陣が待ち構えていた。それを速さでかわそうと云うのである。
捨丸は小松で休息した時、荷駄を二頭とし、一頭を空馬にして、鞍につけた爆弾の量を増した。この馬を犠牲にして敵にぶつけるつもりだった。
その頃《ころ》、金沢では奥村助右衛門が四井主馬の屋敷を訪れていた。
奥村助右衛門の無口は誰が相手でも変らない。四井主馬の眼を覗《のぞ》き込むようにしてひたと見つめ、やがて断定するように云った。
「すんだな、手配」
「何の手配でしょう?」
主馬はとぼけようとしたがもう遅かった。眼の動きだけで、助右衛門はとうに読んでいる。
「忘れたか。承知の上でか」
もう次の質問に移っている。
「何をですか?」
主馬は腹の底で煮えたぎっている。誰が苦手と云って、奥村助右衛門ほどの苦手はいなかった。この男に較べたら、殿様などは餓鬼のように扱い易《やす》い。
「関白秀吉さま御免状」
これは聚楽第《じゅらくだい》で慶次郎に与えられた、何時《いつ》どこででも思いのままに意地を突っ張るがよい、と云う許しのことだ。口頭の許可で、別に文書になっているわけではないから、御免状と云う言葉は間違いだが、天下の諸侯が居並んだ席上での許可である。文書を与えられたと同様の力を持つ。助右衛門はその意を籠《こ》めて、敢《あえ》て『御免状』と云ったのだった。
四井主馬もこの件は知っている。この許しがある以上、加賀藩領内で慶次郎を討つことは、下手をすれば藩自体を襲う危険のあることも承知している。承知してはいたが我慢出来なかった。この許しを笠《かさ》に着て(慶次郎にはそんな意図はないのだが)、敢て加賀藩領内をつっ走る気でいる慶次郎が憎かった。関白秀吉の許しがある以上、お前たちには手も足も出まい。そう侮《あなど》られているような気がしたのだ。だから何としてでも殺す。とにかく殺してしまえば、後は何とでもなる。そう多寡《たか》を括《くく》っていたところがある。そこを助右衛門に正確に指摘されたことになる。
「そうか。承知の上か」
又しても助右衛門は主馬の眼の色を読んでひとり頷《うなず》いた。
「殿並びに加賀藩への叛逆《はんぎゃく》だ」
ぼそりと世にも恐ろしい言葉を吐いた。
主馬の顔が紫色に近くなった。
「御冗談もほどほどに……」
「殿並びに藩を危険に曝しても、復讐《ふくしゅう》の我意を通す。叛逆でなくて何だ」
ずしりと重い、そして正確無比の言葉だった。
「腹を切れ、主馬。介錯《かいしゃく》してとらす」
四井家を取り潰されたくなければ、それしかないと迫ったのである。主馬には嫡子《ちゃくし》が居る。
主馬は愕然《がくせん》となった。今更に奥村助右衛門の恐ろしさを知った。それは云ってみれば、正論の恐ろしさだった。大上段の剣の恐ろしさと去える。一切の小細丁や屁理屈を斥《しりぞ》け、ま正面からずんと斬り下げる剣の威力が、助右衛門の言葉にはあった。助右衡門以外の誰が、たった七言のやりとりで、人を切腹にまで追いこむことが出来よう。しかもその言葉には磐石《ばんじゃく》の重みがあり、忽ち主馬を金縛りにしてしまっている。
切腹を免《まぬか》れるためには、助右衛門を斬るしかない。どれほど腕が立とうと相手は一人だ。やってやれないことはなかった。現に隣室には、八人の忍びが護衛のために常時控えている。
だが加賀藩で奥村助右衛門を殺して、無事にすむ道理がない。助右衛門は常に止しいのである。正義そのものであり、忠節無比、一片の私心もない。それを殺す者は、どれほど詭弁《きべん》を弄《ろう》し理由をつけてみても、常に邪悪であり罪ある者なのだ。四井家は潰され、主馬以下一族ことごとく誅《ちゅう》されるだろう。忍びの者も斬られ、或《あるい》は放逐される。助右衛門ただ一人のために加賀忍びは全滅するのだ。
「ど、どうすれば……」
不覚にも声が震えた。
「免れることが出来ましょうや」
助右衛門の返事は非情だった。
「判っている筈《はず》だ」
そう。勿論、判っている。慶次郎に対する手配をすべて解除し、忍びたちを呼《よ》び戻《もど》せばいいのである。だが……。
「出来申さぬ。遅すぎました。つい先刻、慶次殿が金沢の町を駆けぬけて北へ向ったと報告が入りました。今からあの松風を追いかけて抜き去り、味方の陣営に知らせることは誰にも出来ませぬ」
主馬の声に絶望があった。
「部下を伏せたのは倶利伽羅峠か」
主馬がちらっと助右衛門を見た。
「違います。親不知にござる」
「親不知――」
これは意表をついた作戦だった。親不知は越後領だ。慶次郎の一行がほっと安堵《あんど》の息をついたところを襲おうという見事な詭計だった。
助右衛門の言葉にも絶望の響きがある。遂に慶次郎を救うことは出来なかったか。
「人数は?」
「四十五名」
主馬は低く答えた。七里半越えの第一陣、加賀藩領入口の第二陣に配した者と、今この屋敷内にいる側近を除く加賀忍びの全員を、親不知の天嶮《てんけん》に集結させてあった。加賀忍びの面目をかけた不敗の陣であり、慶次郎の側から云えば絶対確実な死地だった。
助右衛門と主馬は長いこと沈黙を守った。
ことは既に二人の手を離れた。慶次郎を救うものは最早《もはや》彼自身の力量と天運しかなかった。
「天に祈ることだな」
助右衛門がぼそりと云った。
「切腹は慶次の生死の判明まで待つ。但《ただ》し……」
眼がかっと開かれ、凄《すさ》まじい殺気を放射した。
「逐電《ちくでん》無用。艪櫂《ろかい》の及ぶ限り追う」
これはどんな辺境の小島に身を隠そうと、船でゆけるところまでは絶対に追うと云う、当時の慣用句である。それが助右衛門の口から発せられると、尚更確定的な響きを持った。
四井主馬は戦慄《せんりつ》し、死を覚悟した。
慶次郎は快調に松風を駆っていた。
こんな時に松風ぐらい頼りになる馬はいない。全幅の信頼をおいてよかった。松風はいかにも気分よさそうに走っている。まるで本来の野生馬の姿をとり返したように見えた。背に慶次郎を乗せていることなど忘れたように、自ら道を選び、自由自在に走る。人馬一体の理想像のようなものだった。慶次郎は拍車もかけなければ、長い鬣《たてがみ》を掴んで方向を指示することもしない。その必要がない。心に思うだけで松風はその通りに走るからだ。松風が慶次郎の思いを知り、忠実に従うと云う意味ではない。慶次郎の欲求がそのまま松風の欲求なのだ。その間に紙一枚のへだたりもない。
捨丸の野風と三頭の荷駄用の馬は、死に身で走っていた。たった一つ楽な点は、一切自分たちで判断する必要がないということだ。とにかく松風について行けばいい。それに積んでいる荷も軽い。だからこそどうにかついて来れたのである。
既に金沢を抜け、倶利伽羅峠の難所を渡り、富山を抜け、魚津さえ過ぎようとしていた。
ここまで何の障碍もなかった。加賀藩領に入ったあたりで、二十名ほどの忍びが伏せていたが、何一つ出来ないうちに通りすぎてしまった。それほどの迅さだった。誰が疾風を迎撃することが出来ようか。捨丸が用意した馬爆弾さえ使う必要が全くなかった。使う暇《いとま》がなかったと云った方がいいかも知れぬ。
倶利伽羅峠は嶮路であると同時に、待伏せに便利な畳々《じょうじょう》たる山嶽地帯《さんがくちたい》である。だがここは捨丸が細いけもの道の一筋に至るまで知悉《ちしつ》している場所だった。捨丸兄弟が四井主馬の父に拾われたのは、この山中だったのである。長じてから捨丸は、ひょっとして親たちの痕跡《こんせき》が残っていはしまいかと、弟と共にこの山中を何度も隈なく調べ歩いたことがあった。
さすがの慶次郎も、ここだけは捨丸の案内《あない》に委せた。馬を降り、徒歩でけもの道からけもの道を辿って、遂に一度も伏兵に逢《あ》うことなく、峠を下って大昔の砺波《となみ》の関《せき》に出、再び馬上に戻ると高岡の町を一気に駆け抜けた。
富山の町も難なく通り抜け、魚津の町も背後になった。その間、加賀忍びの影も見えなかった。
魚津を過ぎると後は坦々《たんたん》たる海沿いの道である。忍びが身を隠す場所もなく、凡《およ》そ迎撃には向かない場所だった。危険は去ったと云っていい。
〈加賀忍びは倶利伽羅峠に全力を結集していたのではないか〉
慶次郎も捨丸もほとんどそう信じた。
〈峠の決戦をはずされて、最早うつ手がなくなったのでは……〉
百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の二人が、それしきのことで油断をすることはない。戦いにはあらゆる予測が禁物であることを、骨髄に徹して知っている。
ただこの二人は戦いにかけては現実的である。襲われる不安がないのに、無茶苦茶に馬を飛ばすことはない。既に加賀藩領のほとんどを駆け抜けているのだ。松風は別として他の四頭は息も絶え絶えの状態にあった。
松風は嘗《かつ》て野生馬の頭《かしら》だったことがある。それだけに仲間の体調をよく見ていた。魚津を過ぎると歩度を緩め、のんびりと走った。
もう黄昏《たそがれ》だった。
このまま走り続けて糸魚川まで行きたいところだが、それには北国街道最大の難所親不知を通り抜けなければならない。夜、親不知を渡ることは、いかに慶次郎でも不可能だった。市振《いちぶり》の町で一泊するしかない。
市振を流れる境川は、文字通り越中と越後を分ける国境の川である。だから加賀忍びの最後の伏勢が待ち構えている可能性がある。昼の強行軍に疲れて、ぐっすり眠っているところを、夜討ちでもかけられてはたまったものではない。
捨丸はそれこそ竹箒《たけぼうき》で掃くようにして、市振の町を端から端まで調べ上げた。加賀忍びの影さえなかった。人も馬も安堵して、ゆっくり休んだ。
早朝に市振をたった。
街道に人の気配はない。慶次郎はかなりの速さで松風を進めた。今日も昨日と同じくらいの道のりを行くことになるかもしれなかった。直江兼続がどの港から船を出すつもりでいるのか判っていないためだ。出雲崎《いずもざき》の港だとすれば市振から約三十里、新潟《にいがた》だとすれば更に十里以上ある。何としてでも兼続の船出に間に合いたかった。
松風が疾走に移った瞬間、山側の防風林から老婆が一人よたよたと出て来るのが見えた。
松風は自然に老婆をよけて、海辺の側に寄った。見る見る距離がつまった。その時また老婆が海側に寄った。松風が山側にさける。同じ方角に老婆も寄った。馬の響きに動顛《どうてん》しての動きとも見えたし、わざと進路を阻《さまた》げたようにも見えた。どっちみち衝突は避けられなかった。
松風が素晴らしい跳躍を見せた。老婆の頭上を跳び越えたのである。
振り返った慶次郎の眼《め》に、老婆の姿は映らなかった。かわりに松風が足をゆるめた。
捨丸がうしろから叫んだ。
「腹の下」
驚くべきことに、老婆は松風の腹にぴったり吸い着いていた。両手は鐙《あぶみ》を掴み、両脚で松風の胴を挟《はさ》みこんでいる。捨丸が手裏剣を投げようにも松風と馬を並べない以上、不可能だった。慶次郎が下を見ると、老婆は顔だけつき出して、にたりと笑って見せた。
なんとこれは『骨』だった。
「右へ。山側へ入って下さい」
「俺《おれ》は急ぐ」
「親不知で射《う》たれたいのですか」
この当時の街道は四、五百メートルの嶮崖《りんがい》の下を通っている。荒波が常時その道にうちよせ、何もかも沖に拐《さら》ってゆく。旅人は波が引くのに合せて、濡《ぬ》れた道を走り抜けるのである。転んだりして遅れ、寄せ波にぶつかったら最後だった。次の瞬間、遥か沖合いまで持ってゆかれてしまう。その危険この上ない道で、崖《がけ》の上から拳下《こぶしさが》りに鉄砲で狙《ねら》われたら最期《さいご》である。防ぐ方法はなく、反撃の術《すべ》もない。
「鉄砲の数は?」
慶次郎が喚《わめ》いた。
「四十|挺《ちょう》」
これは二十挺ずつ交替で、切れ目なく弾幕を張るつもりである。間断なく二十発の弾丸《たま》を浴びて、親不知を走り抜けることは不可能であろう。四井主馬らしい絶対の死地であった。
慶次郎は岩壁の下で松風をとめた。捨丸が忍び刀へ手をやったのをとめた。
「やめろ。こいつは『骨』だ」
捨丸が瞠目《どうもく》し、同時にぶるっと躰《からだ》を震わせた。この男には殺されかけたことがある。意識せずとも、躰の方が覚えていた。
「また逢ったな」
『骨』が愛想よく云った。
「この上に伏勢がいるそうだ」
崖を見上げながら慶次郎が云う。
捨丸は伏勢より『骨』が不安だった。
〈こいつを信じられるか〉
その思いが先に来た。
「わしとお主で行こう」
咄嗟《とっさ》に云った。慶次郎にこの目もくらむような岩壁を登らすことは出来なかった。
「馬鹿《ばか》を云え。俺も行く」
慶次郎が喚いた。
「直江さまに遅れますよ」
捨丸が急所を衝《つ》いた。事実でもあった。登攀《とうはん》に慣れない慶次郎を連れて、この切り立った岩肌《いわはだ》を登るとしたら、半日はかかる。
慶次郎が唸《うな》った。さすがの『かぶき者』も岩攀《いわのぼ》りだけは経験がない。
捨丸はさっさと手投げ弾を馬からはずし、出来る限り多く身につけはじめた。
「わしも貰おう」
『骨』もかなりの数を身につけた。
「行くかね」
『骨』が先に立つと登り出した。恐ろしい速さである。捨丸も楽々とこれに続いた。
慶次郎は苦り切って見ていた。自分にはあの真似は出来ないと認めた。『骨』にも捨丸にも一点借りた思いだった。
「お主、俺を信じていないな」
『骨』が最後の大岩にほとんど指だけでぶら下りながら云った。指先の力だけで躰を引き上げてゆく。
「当り前だ」
唇《くちびる》を嘗《な》めながら捨丸は答えた。この大岩を自分一人で越えられるかどうか、自信がなかった。『骨』はやっと登り切ると綱を垂らした。
「信じて使って見るかね」
声が笑いを含んでいる。迷った。だがこの岩を登らなくては、慶次郎は親不知を越えられない。綱を掴んだ。足をつっ張って登った。『骨』はがっしりと確保してくれた。忽ち崖の頂上についた。
「すまぬ」
「いいさ」
云いながら指さした。猟師風の男たちが四十五人、親不知に鉄砲を向けて構えているのが、眼下に見えた。
慶次郎は凄まじい爆発音を立て続けに聞いた。足もとが揺らぐほどの衝撃の中で、加賀忍びの迎撃が遂に潰《つい》えたことを知った。
佐渡《さど》攻《ぜ》め
上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》が佐渡《さど》の徹底的な攻略を決意したのは、秀吉《ひでよし》の意向の中にきなくさい臭《にお》いを嗅《か》いだからだと云われる。
三年前の天正十四年、秀吉はわざわざ景勝に書を送り、佐渡|国人《くにびと》の旧悪を赦《ゆる》し、それでも従わない者は厳罰に処すように命じている。だが景勝は新発田《しばた》の攻略に手間どって、佐渡まで手が廻《まわ》らなかった。
それをいいことに、佐渡では争乱が絶えない。景勝は何度か腹心の将を送って調停を計らせたが効果がない。従来は北佐渡の本間氏が反上杉で、南佐渡の羽茂《はもち》本間氏などが親上杉だったのだが、この頃《ごろ》では会津の芦名《あしな》盛隆《もりたか》の策謀によって、その羽茂の本間|三河守《みかわのかみ》高茂《たかもち》が反上杉の急先鋒《きゅうせんぽう》に変っていた。
秀吉は藤吾郎《とうきちろう》の昔から細作《さいさく》(スパイ)使いの名人である。そのため情報の入手が早い。景勝より先に芦名盛隆の陰謀を読み取り、直江《なおえ》兼続《かねつぐ》を呼んでさりげなく云った。
「景勝殿が佐渡を不用と申すならわしが貰《もら》おうか。その上で改めてそなたにやってもいい。盛隆ごときにくれてやるよりはましだ」
兼続は芦名氏の件は初耳だった。だが色にも出さず、のんびりと応《こた》えた。
「生憎《あいにく》手前にはさいはての島よりも都の方が性《しょう》に合っております。それに景勝の殿は船遊びがお好きなようで……既に千を越える船を集めていられると聞きます」
「もうそうそうは待たぬぞ」
秀吉は苦笑しながら云った。既に三年も待ったと云いたかったのだろう。
兼続の報告を聞いた上杉景勝は恐慌を感じた。佐渡をとり上げられるのが恐ろしいのではない。直江兼続をとり上げられるのが恐ろしかった。秀吉の兼続の買い方は異常とも思えるほどで、今までにも再三|直臣《じきしん》として譲って欲しいという申しこみがあった。その都度景勝も兼続もきっぱり拒否し続けて来た。この君臣の仲は兄弟さながらであり、さすがの天下人秀吉の力でも、引き裂くことは不可能だった。
佐渡が不安定だということは、領内を治める力に欠けているということだ。秀吉の云うように佐渡をとり上げる理由にもなるし、下手をすればもっと禄高《ろくだか》の低い土地へ転封される理由にもなり兼ねない。そうされたくなかったら、お前がわしの直臣になることだ。秀吉はそう云っているのだ。
それに対する兼続の返事の前半は拒否の言葉であり、後半は上杉藩は既に佐渡進攻の準備中だと云う意味だった。千余隻の船を集めていると云ったのは必死の嘘《うそ》である。これを嘘でなくさなければ、兼続の生命《いのち》はない。
上杉景勝はとりあえず三百隻の船を集めて先発隊とし、五月二十八日に出雲崎《いずもざき》から出帆させた。続いて六月に入って兼続の言葉通り千余隻を集め、自ら佐渡に渡ることにした。
〈今度こそ本間一族の息の根をとめてくれる〉
景勝は怒っていた。自分と兼続をこんな窮地に追い込んだ本間一族が憎かった。彼等《かれら》は上杉が攻めて来ると必ず二つに割れる。一方は敵対し、一方は上杉方につく。これで大局的には鎌倉御家人《かまくらごけにん》以来の本間の血は絶えることなく佐渡に残る。狡猾《こうかつ》なやり方と云えた。だが今度はその手はきかない。景勝は心の底でその決意を固めていた。
上杉本隊の出発は六月十二日と定められていた。
前田慶次郎が出雲崎の港に着いたのは、その前日のことである。危ういところだった。供は捨丸一人だった。『骨』は親不知《おやしらず》の難所で加賀忍び四十五人をほとんど壊滅させると、そのまま慶次郎にも顔を合わせることなく姿を消していた。
明日の船出に備えて、配船や諸部隊の割当てに忙殺されていた兼続は、突然の慶次郎の出現に瞠目《とうもく》した。また瞠目に値する慶次郎の出立《いてた》ちだった。
先《ま》ず黒く焼きを入れた南蛮の鎧《よろい》だった。純粋に西洋の騎士が着ているあの鎧なのである。それは日本の優美な鎧に較べて、何か禍々《まがまが》しいものに見えた。頭から爪先《つまさき》まで黒光りする金属で蔽《あお》われ、顔さえ鉄仮面で隠された様は、どう見ても人間とは思えない。その上に表は黒、裏は猩々緋《しょうじょうひ》のマントを羽織り、朱柄《あかえ》の槍《やり》をかいこみ、松風にまたがった姿は、さながら死神《しにがみ》だった。兼続とて松風がいなかったら慶次郎と判《わか》らなかったかもしれない。
慶次郎は兜《かぶと》を脱ぐとにっこり笑いかけた。
「押掛け助《すけ》っ人《と》一騎、只今《ただいま》参上」
兼続は苦笑した。自分で押掛けと云うのだから世話はなかった。
「それほどのいくさじゃありませんよ」
先ずそう断わった。事実、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の上杉勢に較べて、荒波に守られて来た分、本間の兵は弱い。合戦と云っても同族間のたかの知れた小競合《こぜりあい》しかしていない。一騎対一騎の闘いになっても、ねばりがなく、両腕を失えば、歯で噛みついても敵を殺すという『いくさ人』の気迫に乏しい。荒海さえ無事に乗り切り、上陸してしまえば、上杉方の勝利は動かぬところだった。
「それに急ぐんです」
のんびり戦っている暇がないのだ。大急ぎで平定の実をあげてしまわないと、秀吉が又ぞろ何を云い出すか判ったものではない。
事情を話すと慶次郎の眼《め》が大きく吊《つ》り上《あが》った。怒ったのである。
「急ぎ働き結構。手荒く闘えば、いやでも早く終る」
その無造作な云い方に、兼続は戦慄《せんりつ》した。凄《すさ》まじい集団|殺戮《さつりく》の予感がしたためである。果して慶次郎が云った。
「一城皆殺しにすれば、他《ほか》の城は戦わずして落ちる。即《すなわ》ち一罰必戒」
これは亡《な》き織田|信長《のぶなが》のやり方である。実のところ兼続はこのやり方が好きではない。それに殺戮だけでは天下はとれないことを、信長も最後には承知していた。だが今度の場合は有効かもしれぬ。兼続は暗い気持になった。
翌十二日早朝、暁闇《ぎょうあん》の中を千余隻の船が一斉《いっせい》に帆を上げ、出雲崎の港を出ていった。
波は漁師の予報通り穏やかで、船は滑るように外海に向う。
慶次郎は客将として景勝、兼続と共に御座船に乗っていた。甲板に立って遠くかすかに見える佐渡ケ島を見つめた。
黄金色の太陽が上って来た。その光に照らし出された光景に、慶次郎の胸は躍った。
洋上に展開された千余隻の船の姿はなんとも云えず雄大で美しい。希《のぞ》みというものの象徴的な姿がそこにはあった。
「このまま海の果てまで行ってみたいな」
慶次郎は隣に立った兼続に云った。それほどこの光景に心を揺り動かされていた。
「朝鮮にぶつかってしまいますよ」
兼続が笑いながら云った。
「西にゆけば明国《みんこく》ですか」
慶次郎は聞いていない。朝鮮にも明国にも別して興味はなかった。ただこうして船に乗って紺碧《こんぺき》の空と海のあわいにいたい。その思いだけが心中に満ち満ちていた。
今、慶次郎の胸に、まつへの思いはようやく消えていた。
上杉勢千余隻の船団は、佐渡の沢根浦《さわねうら》に着いた。
天正十五年の佐渡侵攻の際は、久知《くじ》泰時《やすとき》が野崎浜の磯《いそ》ぎわに二丈ばかりの土手を築き三千の兵で防戦したため、三日も上陸出来ず、揚句の果てに西の強風と山のような波に遭遇して、沖に吹《ふ》き戻《もど》されるという苦戦を強いられている。
今度は三百隻の先発隊のお蔭《かげ》でそんな危険もなく、難なく上陸することが出来た。
南佐渡の諸豪族を率いて戦いを挑《いど》んで来たのは、羽茂の本間三河守高茂である。
高茂は八千の兵を集め、河原田城に拠《よ》って、国府川《こくぶがわ》を挟《はさ》んで上杉勢と対戦の構えをとった。
例によって潟上《かたがみ》、沢根、雑太《さわた》、久知の本間氏は上杉勢に素早く恭順を誓い、景勝の命に唯唯《いい》として服従して先鋒となり、川向うの羽茂軍を激しく攻め立てた。
夥《おびただ》しい鉄砲が国府川をへだてた両軍の陣営から発射され、時に川に駆けこむ小部隊を迎えて、華々しい白兵戦も展開された。見た目には正しく同族|相喰《あいは》む悽愴《せいそう》この上ない合戦図絵と見えた。
「馬鹿々々《ばかばか》しい限りだな」
慶次郎が兼続に云った。
「あれは芝居だ。誰《だれ》も本気でいくさなどしておらんぞ。派手な音を立てているだけで、手負い死人は一人もいない」
慶次郎は腹を立てている。合戦は男の生き死にの場である。それを道化じみた芝居で虚仮《こけ》にしているのが許せなかった。
「判っています」
兼続は平静に応えた。
「毎度のことです。島侍の浅墓な智恵《ちえ》です」
「判っているなら、さっさと奴等《やつら》を引っ込めたらどうだ。川さえ渡れば、あんな城、一日で落ちる。急いでいると云ったんじゃなかったのか」
「それも承知です。だが気になることがある」
慶次郎が苛《いら》だたしげに兼続を見た。
「今度の芝居の仕ざまが今迄《いままで》と全く違う。軍師が代ったとしか思えない。それが誰かつきとめようとしているのですが、一向に掴《つか》めぬ。そこがどうもおかしい」
今までの侵攻では、業を煮やした上杉勢が本間勢に替って猛攻を開始すると、城方はすぐさま白旗を掲げて降伏してしまう。敵将はひたすら詫《わ》びを入れ、上杉方に味方した本間一族のとりなしもあって、大方が極刑に至ることなく、隠居か追放でことは終っている。それが今度のは様子が違う。時間稼《じかんかせ》ぎをやっている点は同じだが、そこに一脈必死の形相が見える。
ひょっとすると援軍を待っているのではないか。
「援軍って誰だ」
「会津の芦名盛隆」
羽茂の本間高茂をそそのかし、上杉に敵対行動をとらせたと囁《ささや》かれる影の仕掛人である。
「芦名の軍師が城にいると云うのかね」
「そうです。だから城を落す際にも、なんらかの罠《わな》が仕掛けられているかも知れません」
「らちもない」
慶次郎は舌打ちした。
「罠があれば噛み破る。それだけのことだ。いずれにしてもやって見ねば判らん」
「こんないくさで、藩士を一人でも殺したくない」
これが兼続の本音だった。慶次郎はつくづくと兼続を見た。『いくさ人』にしては優しすぎると思った。
「死んでも惜しくないのがいるだろう。生きていると、はた迷惑だという奴等だ。そいつらを貸してくれ。五人でも十人でもいい」
「死んでも惜しくない者など居《お》りません」
兼続は苦笑したが、どこの藩にもそういう半端者《はんぱもの》は必ずいるものである。さすがに上杉家に『かぶき者』はいなかったが、その気《け》の強い者はいくらでもいた。慶次郎の呼掛けに対して、なんと三十人の『死んで惜しくない』者共が即座に名乗りをあげた。
慶次郎と捨丸、そしてこの三十人は、黎明《れいめい》、寅《とら》の一点(午前四時)に国府川を渡った。陽《ひ》が昇り初めた時は既に対岸に駆け上っていた。
仰天したのは敵方よりも寧《むし》ろ上杉方の最前線にいた恭順派本間一族である。三十二人の騎馬武者はいずれも上杉の旗じるしを背に負っていたが、本間一族は構わず射殺しようとした。
後で誤射だったと弁解すればいい。そう思ったのである。だが彼等が火蓋《ひぶた》を切る前に一斉射撃の音が彼等の背後の上杉陣から起った。本間一族の鉄砲隊は背を射たれて斃《たお》れた。振り返った本間一族は、自分たちが上杉勢に見事に囲まれているのを知って愕然《がくぜん》となった。上杉勢はそのまま、ひたひたと押して来る。最前線の兵は、押されるままに川を渡り、河原田城に攻めかかるか、上杉勢に抗して川を背に戦うか、二者択一の場に立たされた。
虚を衝《つ》かれた彼等に上杉勢に逆らう気力はない。また逆らえば皆殺しは必至だった。押されるままに川に入った。
彼等がまだ川の中にいる間に、凄まじい大声が対岸で上った。慶次郎である。
「これは天下のかぶき者前田慶次とその一統である。直江山城守殿への友誼《ゆうぎ》により、本間三河殿に一槍《ひとやり》馳走《ちそう》致す。これより見参《けんざん》!」
喚《わめ》くなり、勁烈《けいれつ》ともいうべき矢声を長々と放ちながら、朱柄の槍をかいこんで松風の上に伏せ、只一騎、猛然と疾駆しはじめた。捨丸と三十人の半端者たちも一団となって遅れじとこれに続く。だが松風の俊足《しゅんそく》に及ぶ者がいる筈《はず》がない。
一騎駆けは戦場の花である。だがこの花を見事咲かせては敵方の面目は丸つぶれになる。忽《たちま》ち鉄砲の一斉射撃が慶次郎に集中した。だが一発も当らない。松風の余りの迅《はや》さに距離の測定を誤るのであり、余りに無法な『いくさ人』を天が別して愛するからである。
慶次郎は見る見る敵の第一線に迫り、槍を軽々と振り廻して当るを幸いの殺戮を開始した。その間も松風の足はとまることがない。あっという間に前線を駆け抜け、第二線に攻めこんでいた。捨丸と三十騎が、慶次郎の切り開いた口を更に切《き》り拡《ひろ》げ、漸《ようや》く渡河を終えた本間一族と上杉の正規軍が更にその口になだれ込み、ぶっ叩《たた》く。たまったものではなかった。羽茂本間とその一統は、あっという間に四散し、殺された。
慶次郎は既に本陣に突入している。急いで城に戻ろうとする本陣と共に、そのまま城内に入ってしまった。大手門を閉めようとする兵たちはすべて殺された。捨丸たちも追いつき、門を確保する。
本間三河守高茂は生れてからこんな凄まじい、或《あ》る意味では馬鹿々々しいいくさをしたことがなかった。作戦も駆引きもない。無闇《むやみ》やたらにぶん殴られ斬りまくられている感じである。動物的な恐怖しか感じる暇《いとま》がなかった。逃げることしか考えられない。彼は城も兵も放《ほう》り出して逃げ、妻子の待つ羽茂に向って駆けに駆けた。駆けながらも絶えずうしろを振り返った。今にもあの死神のような馬と異様な鎧武者が姿を現すのではないかと気が気でなかった。
六月十六日、上陸後四日目に羽茂本間八千の軍団は潰滅《かいめつ》した。本間高茂は妻子と共に出羽《でわ》に逃れんとして船を出したが、逆風に妨げられて新潟《にいがた》に漂着し、捕えられて佐渡に送り返され、妻子|諸共《もろとも》に磔《はりつけ》にかけられた。
上杉景勝は佐渡の本間一族を一人残さず越後《えちご》に移した。恭順を示した者には領地を与えたが、佐渡に残ることは認めず、代って上杉譜代の家臣を配した。この果敢非情の処置によって、佐渡一国は完全に平定されたのである。
磔柱は三本だった。
羽茂城主本間高茂を中心に、左右に妻と五歳の嫡男《ちゃくなん》がいる。
出羽に逃れようとして船を出したが、荒天のため新潟港に吹き寄せられてしまい、不運にも代官所に捕えられた。その身柄《みがら》をわざわざ島まで送り返させた上で磔にかけたのは、佐渡の全島民に対するみせしめであることは明らかだった。本来は斬首《ざんしゅ》が敗軍の武将に対する礼であるにもかかわらず、敢《あえ》て磔刑《たっけい》に処したのも同じ理由である。
慶次郎は刑場からかなり離れた丘の上で、その磔刑の様を眺《なが》めていた。松風にまたがっている。数歩下って野風にまたがった捨丸がいた。それだけである。他に人はいない。
慶次郎には処刑を見世物のように観《み》る悪趣味はない。ただ戦った相手への礼儀から、その最期《さいこ》の様を見届けに来ただけだ。だからわざわざこんな刑場から遠い丘まで松風を駆って来たのである。
断末魔の悲鳴が、こんなに離れた場所まで微《かす》かに聞えて来た。
五歳の男の子が最初の犠牲になったのだ。下腹から斜めに槍で内臓を貫かれ、こねくり返されている。叫ぶのは当然だった。
本間高茂とその妻は、死の前に我が子の苦悶《〈もん》の様をいやと云うほど味わわされることになる。妻は絶叫し、縛られた躰《からだ》を空《むな》しくのたうたせていた。これが全本間一族への警告だった。
慶次郎は顔を歪《ゆが》めた。
〈馬鹿な男だ〉
そう思った。高茂は新潟港で捕えられる前に何故《なせ》自決しなかったのか。高茂が死んでいれば、妻子は助かったかもしれないのだ。少くともこんな残酷な処刑はされずに済んだ筈だ。
同時に一抹《いちまつ》の不安を覚えた。上杉景勝と直江兼続に対してである。高茂に近い一族の者が、この処刑を見て復讐《ふくしゅう》を決意したとしても決して無理ではない。合戦で勝つことは不可能でも、暗殺は必ずしも不可能ではない。どんな厳重な警備も、少数の人間の侵入を完全に阻《はば》むことは出来ない。そして暗殺はたった一人の人間で充分やれるのだ……。
不意に捨丸が警告の叫びをあげた。
男が一人、松風の右手の叢《くさむら》の中から身を起したのだ。松風は動かなかった。それは男に殺意のないことを示していた。
男は『骨』だった。行脚僧《あんぎゃそう》の姿だった。
「島へ来ていたのか」
慶次郎が声を掛けた。
『骨』は応えず、暗い眼で処刑場を見ていた。
子供の悲鳴が絶え、かわって母親の絶叫が響き、不意に絶えた。呆《あ》っ気《け》ないほど早い死だった。肩口から槍の穂が突き出している。
「こたえますね、ああいうのは」
『骨』が呟《つぶや》くように云った。
「別して子供がいけません」
数珠《じゅず》を揉《も》むとぶつぶつと経文を誦《とな》え出した。
「お主、本間一族と関わりがあるのか」
『骨』のあまりに真摯《しんし》な姿に、読経《どきょう》が終ると思わず訊《き》いた。
「まさかね」
からりと笑った。
「それにしても見事な一騎駆けでしたね。惚々《ほれぼれ》しました。久しぶりに血が騒ぎましたよ」
「ふん」
慶次郎は照れたように鼻で笑ったが、すぐ表情を引きしめて訊いた。
「お主、どこで見ていた」
『骨』が困ったように頭を掻いた。
一瞬に慶次郎は理解した。
「お主、河原田城にいたな」
『骨』がにやりと笑った。いたずらを見つけられた子供の笑いだった。
「直江山城殿が新しい軍師が河原田城にいるらしいと云ってたよ。お主がそうかね」
「忍びが軍師になれるとお思いか」
『骨』が声をあげて笑った。
「私は手紙を持参しただけですよ」
「芦名盛隆のか?」
慶次郎は本間高茂を蔭で操っていたと云われる会津の策士の名を挙げた。
『骨』は薄く笑っただけだ。忍びが依頼人の名を告げるわけがなかった。
石の色が白い。
松風が石ころだらけの道を慎重に辿《たど》っていた。
左手は荒れ狂う海、右手は岩だった。その間に道とも云えぬ道が、白く一筋に続いている。
海の向うに何も見えはしない。
『さいはて』という言葉がひしひしと迫って来る、荒寥《こうりょう》たる光景だった。
さっき廃村のような二十戸あまりの聚落《しゅうちく》を通り過ぎた後は、人っ子一人見えない。やがて島の北の果てに着く筈だった。
松風の前を雲水姿の『骨』が、烈風に墨染めの衣を翻《ひるがえ》しながら行く。松風は無心にその後に続き、更に野風が追うという形になっていた。
正直のところ捨丸は心穏やかではない。
淡々と『骨』の後についてゆく慶次郎が気に入らないのだ。そんなに信じていいのかと思う。相手は忍びなのだ。常人とは心の持ち方からして違う『異形《いぎょう》の者《もの》』である。『化生《けしょう》の者《もの》』と云ってもいい。自分も忍びだからよく判る。決して信じてはいけない人種なのだ。
慶次郎はその信じてはいけない者を心底信じてしまう。それが忍びを感動させるのは事実だが、つけ込もうと思えば、いつでもつけ込めるのだ。
慶次郎もそんなことは百も承知である。つけ込む気ならつけ込めばいい。そう思っている。いざという時の働きに自信があり、更にいつ死んでもいい躰だからこそ出来ることだった。疑って安全を保つより、信じて裏切られた方が気分がいい。そもそも安全とはそれほど望ましいことであるか。常時危険に身を曝《さら》していることこそ『かぶき者』の生き甲斐ではないか。だから逆に慶次郎の心は常に平安そのものだった。
松風の足が白い石を踏んで滑る。
「もうすぐだ」
『骨』がすまなそうに松風に云った。慶次郎にではない。明らかに松風に云ったのである。
「何を見せようと云うんだね」
慶次郎がのんびりと尋ねた。
この男はこうした荒天が好きだった。海は荒れに荒れ、烈風が吹きすさび、どんより曇った空には雲の動きの早い日が、穏やかな晴天より気に入っている。何となく胸が騒ぎ、昂揚《こうよう》した感じになる。それがたまらない。荒れた空を見上げながら、
「いやあ、いい天気だ」
本気でそう云って捨丸を呆《あき》れさせたことさえある。
「賽《さい》の河原《かわら》」
『骨』がぽつんと云った。
「ほれ。あれです」
指さした。
道の右手に海に向った大きた洞穴《ほらあな》があった。高さも幅も奥行もたっぷりある。その洞穴の中に大小のお地蔵さまと、塚《つか》として積まれた河原石とが無数にあった。
賽の河原とは稚《おさな》くして死んだ子供たちの行く場所である。婆婆《しゃば》と冥途《めいど》の境川にある河原だ。死んだ子供たちは地獄にやられることはなく、といって極楽往生もかなわぬ身である。まして裟婆へ帰すことも出来ぬ。だからこの境川の賽の河原にとめ置かれる。五つ六つの子は桔梗《ききょう》・刈萱《かるかや》・女郎花《おみなえし》・萩《はぎ》の花を集め、九つ十の子は石を集めて塚を積む。
「一じやうつんでは、ちちのため、二じやうつんでは、ははのため……」
と『賽の河原|和讃《わさん》』に唄《うた》われる有名な情景である。日暮になると鬼風が吹き荒れて、飾った花を吹き散らし、積んだ石もつきくずす。そして新たに花を摘み、石を積むことが命じられる。
『にしをむいては、ちちこひし、ひがしをむいては、ははこひし、こひしこひしと、なくこゑが、みどりのなみだの、たへもなし』
その泣声を聞きつけてお地蔵さまが現れ、
『なんぢがちちは、しやばにある、めいどのちちは、おれなるぞ』
そう云って子供たちを抱きしめ慰めてくれると云う。
子をなくした父母が遥《はる》かにこのさいはての土地までやって来て、黙々として石を積むのは、子供たちの冥途での苦役を少しでも軽くしたいためであり、石の地蔵を供えるのは、子供たちが早く地蔵菩薩《じそうぼさつ》にめぐり合えるようにとの願いなのである……。
『骨』は自分でもせっせと小石を積みながら、そう賽の河原の由来を語った。今日磔にかけられた五つの子のための行為である。自分の子でもないのに、奇怪と云えば寄怪だった。
「私も磔柱に上ったことがあるんです」
『骨』が囁くように云った。矢張り五歳の時だと云う。名前は云わないが父は叛将《はんしょう》だった。父は討死し、母と二人が磔にかけられた。
「あの柱に上ると本当に遠くまで見えるんですね。その景色が妙に透き通って見えるんです。他界と云うのでしょうか。もう自分とは何の関わりもない、澄んだ美しい世界に見えるんです。音がね、聞えるんです。きーんと云うような高い音が、ずっと聞えているんです」
その音が絶える時が死なのだ、と子供心に思ったと云う。処刑人が槍《やり》を構えた時、一騎の騎馬武者が刑場に駆けこんで来た。赦免状を高く掲げていた。
お蔭で『骨』は磔柱から下ろされたが、実のところ、その使者は贋者《にせもの》だった。父が雇った忍びの者だったのである。そのまま『骨』は忍びになった。
「ですから、ひとごととは思えないんですね。でも私にはあの子は救えなかった」
本間一族の報復を恐れて、刑場の警備は常の三倍も厳しかったことは、慶次郎も知っている。
慶次郎も捨丸も、一言の口も利かなかった。利けるわけがなかった。
既に黄昏《たそがれ》だった。今からあの石と岩の道を帰ることは出来ない。
洞穴の前に掘立小屋があった。そこで夜を明かすしかない。『骨』は焚火《たきび》をたき、酒を煖《あたた》めて慶次郎にすすめた。
夜の海は饒舌《じょうぜつ》だった。空間は絶え間のない声で満ちている。
「子供たちの泣声です」
『骨』が云った。
慶次郎は黙々として酒を飲んだ。飲みながら泣いている。声はなく、涙だけがあとからあとから湧《わ》いては流れ落ちた。
『骨』が何十杯目かの酒を注《つ》いだ。盃《さかずき》を口もとまで運んだ慶次郎の手がとまった。
相変らず涙を流し続けながら慶次郎がさりげなく訊いた。
「これは痺《しび》れ薬《ぐすり》かね。それとも死ぬ毒か」
一瞬さすがの『骨』が絶句した。だがすぐ淡々と答えた。
「ただの眠り薬です。明け方にはすっきりと目が醒める筈です」
「では上杉本陣への攻撃は暁闇か」
『骨』がふっと溜息《ためいき》をついた。
「どうして判りました?」
「わしは滝川一族だ。忍びの血が流れている」
慶次郎は滝川|一益《かずます》の弟|益氏《ますうじ》の子である。そして滝川一益は甲賀忍者だった。恐らく忍びの者から大名に成り上った最初の男である。
「その血がいつもわしに何事かを告げてくれるのさ」
『骨』は一言もなかった。
「それに忍びが己れの素性《すじょう》を語るのは、死人《しびと》に対してだけだろう」
「それは違いますね。心底惚れたお方に対してだけです」
慶次郎は苦笑した。
「惚れた相手を眠らすかね」
「仕事であれば……」
「そうだな」
慶次郎が納得したように頷《うなず》いた。
「お斬りになりますか」
捨丸が素早く動いて戸口に立っていた。
「俺《おれ》は一度信じた男は斬らぬ」
にべもないといえる言葉だった。
「本陣への攻撃は寅《とら》の一点」
『骨』の声も淡々としている。寅の一点とは午前四時だ。
「五人の忍びと二十人の武者」
「本間一族か」
「違います」
慶次郎がほうという顔になった。
「では芦名か」
「それも違います」
『骨』の声に幾分|揶揄《やゆ》の響きがある。
捨丸が手裏剣を両手に握った。怒りの絶頂にあった。
〈こいつは殿さまをからかっている〉
それが怒りの理由だった。
慶次郎がじろりと捨丸を見た。それで辛《かろ》うじて捨丸は思いとどまった。
「判らないよ」
慶次郎が諦《あきら》めたように云う。
「関白さまですよ」
この一言は正に慶次郎の意表をついた。
「関白だと?」
「羽茂の本間高茂さまの後楯《うしろだて》は関白さまですよ。それでなくてどうしてあれほど果敢に戦えますか」
「何故だ」
慶次郎は喚《わめ》いたが、既に答えは知っていた。
「勿論《もちろん》、直江さま欲しさの一念です。せめて一月《ひとつき》高茂さまが戦いを永引かせれば、関白さまの失止めの御命令が下ることになっていました。佐渡は上杉の手を離れ、関白殿下の直領となり、改めて直江さまに贈られることになっていました。まさか十日ももたずに落城するなんて……」
慶次郎のせいだとでも云うように、溜息をついて見せた。確かに慶次郎の蛮勇が局面を打破しなかったら、戦局は一月ぐらいは沈滞したままだった筈だ。
「気に入らぬ小細工だな」
慶次郎はゆっくり立ち上った。
捨てようとする盃を『骨』が素早く奪いとると、一気に飲んだ。
「手前は朝まで眠ってゆきます。夢でさぞかし赤子たちにいじめられるでしょうが……」
たとえ殺す毒でも『骨』は飲んだ筈である。
それしか慶次郎の素っ裸の信頼に応える道はなかった。
「のんきなものだな」
慶次郎は笑って小屋を出た。
「飛ばせば寅の一点に間に合うだろう」
松風にまたがりながら慶次郎は云った。
「半道は石ころだらけですよ」
「松風が心得ているさ」
慶次郎と捨丸は馬首を返し、漆黒の闇《やみ》の中を恐れげもなく進んでいった。
波の音が高い。
「悪鬼羅刹《あっきらせつ》だな、まるで」
『骨』は大あくびをしながら呟いた。
傀儡子舞《くぐつま》い
御免色里とは時の政府機関が公《おおやけ》に許可した遊廓《ゆうかく》のことだが、これがいつ頃《ごろ》から始まったかについては諸説があって定かでない。
だが傾城屋《けいせいや》が町の一角に集中し、遊女が軒を並べた傾城屋に住み込んで競って色を売るようになったのは、京都|万里小路《までのこうじ》の柳《やなぎ》の馬場《ばんば》に出来た廓《くるわ》をもって嚆矢《こうし》とする。
もとよりこれが京都に出来た初めての遊女町ではない。西洞院《にしのとういん》に遊女町があったことは様様な記録に残っている。その西洞院の遊女町を、応仁《おうにん》の乱《らん》によって焼野原と化した柳の馬場に移して土地の繁栄を囲ったのがこの廓だった。二条|押小路《おしこうじ》南北三町を上中下三町に分ったいわゆる三筋町のはじめであり、廓の周囲に楊柳《ようりゅう》を植えたので『柳町の遊里』と呼ばれたと云《い》う。
関白|秀吉《ひでよし》の馬丁だった原|三郎左衛門《さぶろうざえもん》と浪人林又一郎が、秀吉の許しを得て開いたのだから、立派な御免色里だった。天正十七年のことだ。
三筋町にしたのも楊柳を植えたのも明《みん》の妓院《ぎいん》の模倣であり、明の妓院は唐代の長安の色里|平康里《ぴんかんり》以来の伝統に従ってつくられたと云われる。後に柳の馬場が西洞院に引《ひ》き戻《もど》され、六条三筋町に移った時は、既に民家が密集していて廓を楊柳で囲むことが出来ず、やむなく『出口の柳』を一本だけしるしとして植えた。これが朱雀野《すざかの》新屋敷の島原遊廓に移った時も伝えられ、更には江戸に吉原《よしわら》が出来た時も真似《まね》された。俗に『見返り柳』と云う。
新しい遊里に新しい女はつきものである。それが目当てで男たちは押しかけ、柳の馬場は凄《すさ》まじいまでの繁盛ぶりだった。昼間から押しかけるのは、いわずと知れた『かぶき者』が多く、当然の鞘当《さやあ》て、喧嘩《けんか》・刃傷沙汰《にんじょうざた》の絶え間がない。廓の中には所司代の手も及ばず、喧嘩で死ねば死に損ということになっている。それが一層無法な振舞いに拍車をかけるのだった。
その日。
慶次郎は寛闊《かんかつ》な服装で廓に入っていった。松風は廓の入口の外に、捨丸と共に置いて来ている。
七月のうだるように暑い日だった。京の暑さは格別である。とても家にいれるものではなくふらふらと出て来たのだ。
佐渡《さど》の合戦から一年|程《た》っている。まつへの思いは変らないが、そのために血が荒れることはもうない。この一年、慶次郎はひたすら学問と和歌・連歌の世界に没頭し切っていた。『源氏物語』『伊勢《いせ》物語』の許しを貰ったのもこの頃であり、紹巴《じゅうは》の催す連歌の会にも頻繁《ひんぱん》に出ている。文人前田慶次郎の名は京洛《きょうらく》の地に漸《ようや》く高かった。
人だかりがしている。中から口汚い罵声《ばせい》が聞えて来る。肩が触れたとか何とか声高に文句を並べている。いずれ『かぶき者』のいいがかりにきまっていた。
〈この暑いのに……〉
慶次郎は不快だった。こんな声を聞いていると余計暑苦しさがつのる。反射的にやめさせようと思って人垣《ひとがき》をかきわけて前に出た。
目を瞠《みは》った。いいがかりをつけられている相手は少年だったが、これがとんでもない美貌《びぼう》の持主だった。別段華やかな衣服をまとっているわけでもないのに、ぱあっとあたりが明るくなるような美しさだった。前髪立ちで色あくまで白く、唇《くちびる》は紅を塗ったように赤い。だが、色若衆でないことは、その地味なこしらえと、凛《りん》とした顔立ちで判《わか》った。
腰にしている刀が変っていた。恐ろしく長い唐剣だったのである。それを帯に差すのでなく、吊《つる》している。そう云えば、差している脇差《わきざし》の方も、こしらえは明らかに唐の短剣だった。少年の持物の中で目立つのはそれだけである。囲んでいる『かぶき者』は六人。いずれも素肌《すはだ》の上に薄く派手な小袖《こそで》を着て、ぐっしょり汗をかいている。どの顔も好色そうにたるんでいた。
『かぶき者』の意図は明瞭《めいりょっ》である。当時男色は公認である。少年の美貌が全員にその気を起させたに違いなかった。
「判らん奴《やつ》だな。一緒に店へ上って飲めば許してやると云ってるんだぞ」
「所用があります故《ゆえ》、ご勘弁願います」
少年におびえの色がないのが慶次郎の気に入った。穏やかだが涼しげな応対である。
『かぶき者』たちの表情が険悪になった。
「よし。では三遍|廻《まわ》ってわんと吠《ほ》えろ。それも出来ぬとあれば……」
ぷつりと鯉口《こいぐち》を切った。
そろそろ出番かと慶次郎が一歩出ようとした時、少年の声が聞えた。
「お安い御用です」
云うなり本当に三遍廻って「わん」と吠えてみせた。それが又見事だった。舞いのたしなみがあるらしく、恐ろしく美しい形で三度回転し、突然首をつき出し、『かぶき者』の鼻先すれすれの所で大きく「わん」とやったのだ。
『かぶき者』がぎょっとして思わず躰《からだ》をそらせたほどの迫力だった。
野次馬がどっと笑った。手を叩《たた》く者さえいる。それほどの芸だった。
〈やるなぁ〉
慶次郎は今までの不快感を忘れた。涼風を受けたようにいい気持になっている。
『かぶき者』がかっとなったのは当然である。
「貴様……」
抜討ちに斬《き》ろうとした。慶次郎がすいと近づくと左手でその柄《つか》がしらを押し戻し、右手で頬《ほお》を張った。
「かぶき者なら約定《やくじょう》を守れ。お主が出した条件は果された。その上、手を出すならわしがぶった斬る」
相手が慶次郎と見て『かぶき者』たちの顔色が変った。慶次郎は正確に云った通りのことをやる。ぶった斬ると云った以上必ずぶった斬る。引き下るしか法がなかった。
彼等《かれら》が全員背を向けて行きかけた時、少年が云った。
「ちょっと待って下さい」
一同振り返り足をとめた。逃げたと思われたくないのだ。
少年は次に慶次郎に意外な事を云った。
「失礼ですが、余計なことをしないで下さい。ひとさまから助けられるほど落ちぶれてはおりません」
ぴしりと頬を張られたような爽快感《そうかいかん》があった。
「ほう」
思わず破顔した。
「そちらの方々は遊びのつもりのようでした。だから私も遊びでお応《こた》えした。果し合い乃至《ないし》喧嘩ならそんなことはしません。武士として出来ません。その上ひとさまに助けられたとあっては恥辱この上ない。腹を切らねばなりません」
少年の云う通りだった。
「わしの考えが足りなかったようだ。すまぬ。ではもう一度やり直しといこう。おい、貴公。刀を抜くところから始めろ」
さっき抜討ちをかけようとした男を手招きして、元の場所に立たせた。
「もちっとこっち。そう。そこだ。わしは検分する」
まるで相撲の行司のように、すいと下った。
「さあ、やれ」
『かぶき者』が抜刀した。この奇妙な成行《なりゆき》にかんかんに怒っている。
「来い、この色小姓」
少年もさすがに蒼《あお》い顔になっている。すっと唐剣を抜いた。刃長三尺五、六寸はありそうな双刃《もろは》の長剣である。ただ日本刀のように地金が厚くない。僅《わず》かに撓《しな》った。少年はその唐剣を眼《め》の高さに一文字につき出して構えた。日本の剣法にはない構えである。唐剣法《からけんぽう》に相違なかった。
少年は口の中で何か呪文《じゅもん》を誦《とな》えている。蒼白《そうはく》だった顔に赤味がさして来た。
「いやああああ」
『かぶき者』が八双の構えからいきなり間合いをつめ、斬撃《ざんげき》を送った。
少年の口から明らかに中国語と思われる絶叫が響き、蛇《へび》のように長剣が振られた。
相討ちかと思われたが、剣の長い分だけ少年の方が早かった。その鋭利な刃が『かぶき者』の双腕を斬りとばした。同時に少年は横に跳び、次の者の襲撃に備えた。左手がいつか短剣も抜いていた。双刀の術である。
「見事だ」
慶次郎が手を叩いた。野次馬も夢中で拍手していた。
残った五人の『かぶき者』の血相が変った。このまま引き下っては『かぶき者』の名がすたる。何が何でも少年を討たねばならなかった。五人全員で少年を囲んだ。
少年はびくともしない。ゆっくり見廻して五人の位置を計った。次の瞬間翔んだ。正面の二人の頭上を高く越えながら、一人の頭蓋《ずがい》を割り、一人の胸に短剣をつきたてていた。しかも着地すると同時に背後に長剣を振り、追いすがった一人を胴斬りにしている。
慶次郎はふっと眉《まゆ》をしかめた。
〈唐剣法はむごい〉
そう感じたのだ。今斬られた三人はいずれも一刀で即死していた。
残った二人はおびえきっていた。だが逃げ出すのは論外である。そんなことをしたら二度と京洛の地は歩けなくなってしまう。
「わーっ」
自棄《じき》のような喊声《かんせい》と共に同時に斬り込んで来た。少年の長剣が横に振られ、一太刀で二人を斬っていた。
野次馬が沈黙していた。あまりに凄惨《せいさん》な闘いに声を失ったのである。斬り手が絵にしたいような美少年であることが、余計残酷さをきわだたせていた。
少年は剣に拭《ぬぐ》いをかけると鞠におさめ、さっき投げた短剣を死者の胸から抜いた。
「お役人はどちらでしょう」
少年が慶次郎に訊いた。
「果し合いの証人になって戴《いただ》けますか」
少年は廓内の喧嘩の不文律に暗いようだった。
「届けはいらないんだ。さっさと行くんだね」
少年は躊躇《ためら》った。
「でも……人を殺しましたから……」
「この中じゃ喧嘩《けんか》で死んだ奴は斬られ損だ。そういう決りなんだよ」
驚いて目を瞠っている。
「わしが亡八に云って、後の始末はさせておく。心配はいらん」
「かたじけない。用件が片づき次第、お礼に伺いたいのですが……私は相州|牢人《ろうにん》庄司《しょうじ》甚内《じんない》……」
「前田慶次郎。あの屋形におる」
慶次郎はこれから登楼しようとしている遊女屋を指さしてみせた。
〈それにしても奇妙な小僧だ〉
盃《さかずき》を干しながら慶次郎はまだあの少年のことを考えていた。
どうしてあんな年であれほど剣の達者なのか。どうして唐剣で唐剣法なのか。あんな少年がどうして廓に用があるのか。
何も彼も不明で、どこかいかがわしかった。
相州牢人と名乗ったが、あの姿形、あの考え方、共に牢人のものではない。相州と云ったのが本当なら、北条家《ほうじょうけ》の家臣ということになる。
だがこの時期に北条の家臣が京都にいる筈《はず》がなかった。
北条家は早雲以来既に五代、押しも押されもせぬ関東の雄藩である。武田《たけだ》・上杉《うえすぎ》との絶えざる合戦によって、その強大な武力は証明ずみだったし、その本拠小田原城は幾多の攻城戦にもびくともしなかった天下の名城である。更に西との境に箱根の嶮《けん》を持つことによって、北条四代|氏政《うじまさ》と五代|氏直《つじなお》は、自国が不可侵であると過信していた。その上、三河の徳川|家康《いえやす》とは姻戚関係《いんせきかんけい》にある。万全の態勢だった。
秀吉は昨年五月、使者を小田原にやって氏直の上洛を促した。自分の配下になれというのだ。氏直は叔父の氏規《うじのり》を西上させることでこれに代えた。氏規は聚楽第《じゅらくだい》において秀吉に謁《えつ》し、真田《さなだ》昌幸《まさゆき》の領する沼田城をねだった。沼田城をくれるなら氏直も上洛するだろうと云ったのである。秀吉は返事を保留した。北条家の頭《ず》の高い応対が気に入らなかったのであろう。
今年天正十七年六月、秀吉はもう一度使者を送って四代氏政・五代氏直父子の上洛を促した。先に氏規から請われた沼田領の三分の二に当る利根郡《とねこおり》倉内の地を氏直にさき、真田昌幸には名胡桃領《なくるみりょう》のみを安堵《あんど》した。氏直はこの処置を喜び十二月に父の氏政が上洛することを告げた。
だからこの時点で北条家と秀吉の仲は巧くいっているようだが、実のところそう簡単ではなかった。北条父子はいわば秀吉を嘗《な》めたのである。秀吉が北条に譲ったのは徳川家康への遠慮だということに気づかず、己れの力を過信し、傲慢《ごうまん》になった。
北条家は秀吉のような成上りではない。藩祖の早雲の出自こそ不明だが既に五代も続いた名家である。しかも当代最強の武将上杉謙信、武田信玄双方と闘って一歩もひけをとっていない。秀吉はだからこそ北条を恐れているのだと思い上り、勝手な工作を始めた。つまり沼田のみならず名胡桃城までも手に入れようとしたのだ。
これが秀吉に聞えたら、今度こそ合戦になるかもしれない。氏政・氏直父子はならないと踏んでいるが、氏政の弟で徳川家康の親友である氏規はなると信じている。秀吉の恐ろしさを氏規だけは知っていたのだ。
そして秀吉はそのすべてを見抜いていた。
慶次郎は直江《なおえ》兼続《かねつぐ》や上杉|景勝《かげかつ》、更には公家《くげ》・町衆たちとの風雅のつき合いの中で、それらの情勢をほぼ正確に知っていた。
だから北条家の家臣が京にいる筈がないと考える。但《ただ》し畑作《さいさく》(スパイ)ならば別だ。
相州小田原から京への道は遠い。
今の時期に、その遠い道を敢《あえ》て上京して来た北条家の家臣と云えば、先《ま》ず細作と見て間違いないだろう。相州牢人などと云っているところが余計臭い。
だが庄司甚内はせいぜい十四、五歳の少年である。こんな少年を北条家ともあろうものが細作に使うだろうか。北条家には全国に聞えた風魔衆と云う乱波《らっぱ》がいる。箱根あたりを根拠地とし、関東一帯に威を張った忍びの集団である。風魔小太郎と云う巨人の如き頭領に率いられたこの忍び集団は、異種と云われ、他の忍びの絶対に潜入することのかなわぬ、結束の堅さを誇っていた。そして藩祖早雲以来、北条家の扶持《ふち》を貰っている。畑作として使うなら、必ずやこの風魔衆であろう。そう考えると、この少年を細作と考えるのは無理のような気がして来る。
その辺まで考えが及んだ時、慶次郎は飽きてしまった。どうでもいいことではないか。細作も忍びも人であることに変りはない。多少、並の人間より面白いと云うだけである。
四半刻《しはんとき》(三十分)もたった頃には、慶次郎の脳裏から庄司甚内のことは綺麗《きれい》にかき消えていた。
慶次郎の遊びは陽気この上ない。目指す女を揚げてしんみりと酒を呑《の》み、一刻《ひととき》の房事を愉《たの》しむと云った陰湿さがない。女は揚げるが、正直なところ誰《だれ》でもいいのである。出来れば明るくて芸の巧い女がいい。要するに愉しく騒げればそれでいいのだ。
この頃の廓に、後世の太夫《たゆう》という一種完成された女はいない。だが江口・神崎《かんざき》の昔から宿宿の遊君《ゆうくん》を経て一筋の芸能の流れはあり、この柳の馬場に集められた女たちにも、やはり地女《じおんな》には及びもつかぬ芸の蓄積があった。鼓《つづみ》を打ち、琴を弾き、唄をうたって踊る。和歌を詠《よ》み、連歌をよくし、書を書いて良く、絵を描いて達者である。伊勢物語、源氏物語に詳しく、漢詩をよくする女までいた。到底後代の売笑婦と同一のものではない。勿論《もちろん》、房中術にも長《た》けているが、決してそれがすべてではなかった。
慶次郎はいわゆる女を買いに来たわけではない。その気になれば床につくこともあるが、それが本来の目的ではない。愉しく賑《にぎ》やかに遊び騒いで、一刻の憂さを晴らせればそれでいいのである。だから新造・禿《かむろ》・やり手まで呼び集め、とことん遊びつくす。自分だけ愉しんでも面白いわけがない。一座の全員が愉しまなければ真の意味で愉しいとは云えないのを、慶次郎はよく知っている。だから一座に気を使い、気分を盛り立てようとする。慶次郎の座敷は女たちにとっても愉しい遊びの場だった。慶次郎の座敷がかかれば、浮々として出かけて来る。それほどの人気があった。
揚屋の女房《にょうぼう》が来て慶次郎の背後に坐《すわ》った。これは野暮用があると云うしるしである。
「野暮用なら先ず呑んでからにしろ」
慶次郎は盃を差した。
「まあひどい」
女房は文句を云いながらも見事に盃を干した。云《い》い難《にく》い用件の証拠だった。慶次郎は腹の中で舌打ちしたが、これくらいのことで腹を立てることはない。
「それで……」
返盃《へんぱい》を傾けながら訊いた。
「是非お礼を申し上げたい云うて、お武家はんが見えてはります」
「礼だと?」
「へえ。えらい美しいお子をおつれにならはって……あんさん、覚えがありまっしゃろ。憎らしわ、もう」
女房の言葉が飛躍し、一座がどっと騒いだ。
「待て待て。何が何だか判らんぞ。何だ、その美しいお子と云うのは? いくつぐらいの娘だ?」
「娘はんと違いまっせ。男の子はんどす」
「なんだ、あれか」
すぐぴんと来た。庄司甚内に決っていた。甚内が恐らく父親と共に礼に来たのだ。
「通してくれ、そのかわり……」
にやっと笑った。
「この座敷へ入るなら芸をさせられると承知して貰いたい。そう云っとけ」
あの少年が唐剣法のほかにどんな芸を持っているのか興味があった。
「お気の毒やわァ。固そうなお武家はんどっせ」
女房は口とは裏腹にひどく愉しげに立っていった。
庄司|又左衛門《またざえもん》と名乗った。五十がらみの武士である。馬鹿《ばか》に日灼《ひや》けして、乾《ほ》し固めたような皺《しわ》だらけの顔だった。髪が半ば白い。矢張り相州牢人と名乗った。
〈何が牢人だ〉
馬鹿々々しくなった。宮仕えの身であることは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だった。それもかなり高禄《こうろく》の武士に違いなかった。身につけている物がどれも金がかかっている。
さらりと息子を助けてくれた礼を云った。くどくどしく大仰でないところに嗜《たしな》みの深さが感じられ、悪い気はしない。
一座の者の視線はすべて息子の甚内の方に集中している。この華やかな場でも、甚内の美しさは群を抜いていた。女たちが一様に気圧《けお》されるほどだった。
「そのお子には助けなどいりませんな。却《かえ》って穏やかにすむところを殺伐《さつばつ》な場に変えてしまったようで、心苦しく思っています」
慶次郎は思った通りを云った。
思いもかけず甚内がぽっと頬を染めた。恐ろしいまでの艶《つや》っぽさだった。その気の全くない慶次郎まで、一瞬どきりとしたほどである。一座から期せずして嘆息が洩《も》れた。
「いやいや。後の処置の仕方も知らずに闘いを始めるようでは、小犬の喧嘩のようなものです。まだまだ修業が足りません。本気で腹を切ることを考えていたと申しますから、呆《あき》れ返って物も云えません。お手前のお心遣いがなければ、これは死んでいた筈です」
庄司又左衛門はそこでもう一度頭を畳にこすりつけるようにして、改めて礼を述べた。
「もういいでしょう」
慶次郎はひらひらと手を振った。こういうことは苦手だった。人が折角遊んでいるところを何だ、と思った。
「左様ですな。御遊興のところを興を醒めさせて申しわけないことで……」
又左衛門が意外にわけ知りのような声を出した。
「この座敷に入るについての罰則を聞かされました。早速そちらにとりかかることに致す」
身軽に腰をあげて琴と鼓を受け持った新造のところへゆくと何か小声で頼んだ。新造がちらりと驚いた顔をしたことから見て、意外な注文だったことは確かである。
「よろしいんどすか、ほんまに」
新造の一人が心配そうな声を出した。
「景気よくやっとくれ」
又左衛門の言葉つきまでが変っている。顔付きも一変していた。愉しくて仕方がないと云うように白い歯をこぼし、笑っている。袴《はかま》の股立《ももだ》ちを高くとった。
曲舞《くせま》いでも踊るのだろうと思っていた慶次郎は、この格好に目をむいた。
同時に曲が始まった。慶次郎の知らない曲だった。異常に調子が早く高い。ひどく陽気だった。
又左衛門がその早い調子に乗ってぎくしゃくと踊り出した。なんてひどい踊りだ、と思ったのは一瞬のことで、すぐさまそれが感嘆に変った。これは人形ぶりだったのである。くぐつ人形の動きを真似《まね》て踊っているのだ。それは滑稽《こっけい》であると同時に哀れだった。心のない人形の愉しさと哀《かな》しさが、じかに伝わって来るような感じだった。
曲の早さが次第に増してくる。それにつれて又左衛門の動きもまた目にもとまらぬ早さになる。異常な昂奮《こうふん》が一座を包んだ。手拍子が起り、それでもたまらずに立って踊り出す者もいた。忽《たちま》ち踊り手は四人になった。
〈これは一体なんだ?!〉
慶次郎には見当もつかない。だがこの曲は明らかに人をつき動かす力がある。慶次郎自身がざわざわと胸が騒ぎ、じっとしていられなくなって来ている。
ふらっと立った。むしろ立たされたという感じだった。又左衛門について踊りだした。身ぶり手真似、足の踏みよう、すべて又左衛門に倣《なら》う。別段むずかしい振りではなかった。ただ異常な早さだけが問題だった。だが慶次郎は楽に又左衛門についていっている。
甚内が驚いたように見つめていた。慶次郎は知らないが、この踊りはそう簡単に真似出来るものではないのだ。余程の反射神経と柔軟な筋力と鋭い音感がなければついて来られるものではない。それを慶次郎は前々から稽古《けいこ》していたかのように楽々と踊っている。非凡と云えた。剣にも体術にも余程の鍛錬を積み、しかも音曲について余程の造詣《ぞうけい》がなければこうは出来ない。甚内は心の底から感嘆して、この大きな男のしなやかで優美とさえいえる不思議な舞い姿に見とれていた。
踊りは何時《いつ》までも続くかと思われた。現実にこの踊りは夜っぴて休みなしに踊られることもあるのだ。だがこの場合は先ず新造たちが参った。それぞれの楽器を放棄して叫んだ。
「堪忍《かんにん》や。もうあきまへん」
まるで悲鳴だった。
突然、曲を切られて、又左衛門がばたりと倒れるように坐った。荒い息を吐いている。
慶次郎が手をのばして又左衛門を引き起した。息の乱れもなく、汗一つかいていない。
「いやあ、楽しかった。こんな面白い踊りは初めてだ。何て云うんだね、これは?」
慶次郎は新造に尋ねた。
「傀儡子舞《くくつま》いどす」
新造がちょっと憚《はばか》るように云った。
慶次郎が三度目に庄司甚内を見たのは四条河原でだった。
柳の馬場から十日もたった頃である。
河原はいつものように猥雑《わいざつ》で活気に満ちていた。
相も変らず傀儡子の一族が屯《たむろ》していて、人形操りや大規模な手品、曲芸、剣投げなどの諸芸を見せていた。
立売りの茶も出ている。
甚内はその茶を喫しながら、明らかに傀儡子一族と思われる服装の老人と何事か話をしていた。
今日はその美貌に幾分の翳《かげ》りがあった。焦燥と疲労の色が濃い。
慶次郎は松風の背から一目で甚内を見つけた。
「はいよう」
一声|喚《わめ》くと松風は数人の男の頭上を翔び、立売り茶の前に着地した。茶売りは仰天の余りひっくり返り、老人と甚内はぱっとうしろに跳んで身構えた。
慶次郎は屈託のない声を放った。
「よう、どうした、美少年」
甚内の頬がみるみる桃色に染まった。
「これは前田さま……」
「顔色がよくないなぁ。何かあったか」
慶次郎は馬を降り、追いついた捨丸に手綱を渡した。
「父御《ててご》はどうされた?」
「父は相州に帰りました」
「そうか。到頭名胡桃城を攻めることにきめたか」
ずけりと云った。
甚内と老人の顔色が変った。甚内は反射的に唐剣の柄《つか》に手をかけ、老人が急いでその手を抑えた。
名胡桃城は沼田領にある真田昌幸の城である。北条氏が沼田領支配を望んだ時、秀吉がここだけは真田領として残したのは、名胡桃が真田氏発生の地だったからだ。貪欲《どんよく》な北条氏政・氏直父子はこの処置に不満で、沼田の完全支配を狙《ねら》っていた。
『秀吉恐るるに足らず』
田舎者らしい思い上りと貪欲さが、その処置に踏み切らせたのである。
だが北条にも人はいた。氏直の叔父氏規がそれである。彼は秀吉軍団の恐ろしさを説き、なんとかこの暴挙を阻止しようとした。庄司親子が京に派遣されたのはこのためだった。
庄司又左衛門の娘、甚内の姉に当るおしゃぶは、北条氏直の寵妾《ちょうしょう》だった。そのために庄司家はとり立てられ、又左衛門は氏直の側にあって各地の情報収集に当っていた。庄司家の素姓がそれを容易にした。
庄司又左衛門は傀儡子一族の長《おさ》だったのである。もとより全国に散らばる夥《おびただ》しい傀儡子一族は、小人数の集団で、その一つ一つに長がいる。又左衛門も四十人ほどの傀儡子の長だった。
傀儡子は漂泊の民である。常に全国を旅して廻り、従って全国の情報を知っている。又左衛門は小田原に本拠を置き、その漂泊する一族から情報を集め、かわりに便宜を計ってやっていたのである。
だが今度ばかりは居ながらにして情報を集めるわけにはゆかなかった。事は北条家の興廃に関《かか》わる。自分の眼で秀吉の意図と、その軍事力を確かめて来る必要があった。
秀吉は判り難《にく》い人物だった。ひどく衝動的に事をきめるかと思うと、永い年月をかけて緻密《ちみつ》な作戦を練りもする。どちらが本当の秀吉なのか、先ずそこから掴《つか》まねばならない。
だが北条氏直はこの二人の報告を待っていなかった。二人に知らせもせずに名胡桃城の攻略を始めてしまったのである。このしらせを聞いて、又左衛門は急遽《きゅうきょ》小田原に帰った。甚内だけが傀儡子との接触役として残った。名胡桃城攻撃は極力|秘匿《ひとく》しておく筈だった。既成事実さえ作ってしまえば秀吉は諦《あきら》めるだろう、そういう甘い読みがあった。
それをいきなり慶次郎にずばりと指摘されたのである。甚内に殺気が生じたとしても、無理ではなかった。
慶次郎が笑った。腹の底から可笑《おか》しそうに大口あけて笑ったのである。
当然、甚内は更にかっとなったが、慶次郎の次の言葉を聞いた途端に愕然《がくせん》となり、次いでしゅんとしてしまった。
「田舎だな。そんなことが大事の秘密だとでも思っているのかね。既に昨日のうちに真田昌幸が聚楽第に駆け込み、関白殿に訴えているんだよ。今日になれば京じゅうの者が知っているさ」
嘘《うそ》とは思えなかった。慶次郎がどれほどの男でも一介の牢人である。諜者《ちょうじゃ》を飼っている筈がない。だから情報の出所は聚楽第しかない道理だった。
「北条は滅びるよ。つらの皮が厚いだけの、貪欲な田舎者だ。到底豊臣軍団の敵ではない」
沁々《しみじみ》と甚内を見た。
「京に置き去りにされたのも何かの縁だ。ずっとこっちにいろ。郷里に帰って死んだって何の役にも立たん」
傀儡子の老人が口を挟《はさ》んだ。
「ほーれ。わしの云う通りやないか、若」
「若?」
慶次郎が驚いた顔になった。
「お主、傀儡子の出か。傀儡子で武士とは当節珍しいことだな」
傀儡子は本来一所不住の徒である。それだけに特定の主君に仕えるのが珍しかった。鎌倉《かまくら》末期までは高名な武士で母が傀儡子と云う者がいくらでもいたし、その意味で傀儡子武士は多かった。だから慶次郎は当節と断わったのだ。それに『若』と呼ばれるのは長の息子の証拠だった。
「道理で父御の踊りは絶品だった」
甚内の唐剣もそれで説明がつく。傀儡子は海を渡って来た『異族』として知られている。
「父をはじめ一族の者四十人余りが小田原におります。帰らぬわけにはゆきません」
「どうかな、それは」
慶次郎が本心疑わしそうに云うと、傀儡子の老人が、立ち話も出来ますまい、と云って、自分たちの小屋の裏手へ案内してくれた。
流れのすぐそばで大鍋《おおなべ》が火にかけられ、何かがぐつぐつ煮えている。濃厚だがひどくうまそうな臭《にお》いが漂っていた。どうやら手のすいた者が時間かまわずにここへ来て、腹を満たしてゆくらしい。慶次郎が坐ると器量のいい女がいきなり椀《わん》と箸《はし》を渡した。
慶次郎には遠慮もなければ、わけへだてもない。長い箸を鍋につっこんで正体不明の肉らしい塊を椀にうつすと、いきなりかぶりついた。
「うまい」
実際、熱いがとろけるようなうまさだった。
傀儡子の老人と甚内双方の顔から、明らかに緊張が去り、微笑が浮んだ。慶次郎が心から云った言葉であることを実感したからである。
「関白さまは本気で合戦に踏み切るとお考えですか」
老人が訊いた。それは甚内との争点がそこにあったことを伝えていた。
「話の外だな。それより今は北条攻めにどれだけの兵を集めるかの方が問題だろう」
熱い肉をふうふう吹いて頬張りながら、慶次郎は無造作に応えた。
「精々三万」
と甚内が叫び、老人は、
「いや、五万は確実に……」
と云った。慶次郎はじろりと二人を見た。
「二人とも合戦に出たことがないな」
これはこたえたらしい。甚内が熱くなって応じた。
「確かにありません。でもそれくらいのことは……」
「関白の……いや、織田軍団の合戦のしぶりを知らなすぎる。北条の危うさはお主たちを見れば一目瞭然だな」
相変らず旺盛《おうせい》な食欲を見せながらの応答である。
「もっと多いとお考えか」
「けたが違う」
「けたが……?」
「左様。関白殿の集める兵は……」
一瞬宙を睨《にら》んで、
「十五万乃至二十万」
沈黙が来た。甚内も老人も不信の眼で慶次郎を見ている。彼等の観念の中にそれだけ多数の兵団はないのである。
「二十万だろうな、大方は。それも百姓侍ではないぞ」
関東、甲信越の武士はいまだに百姓侍だった。つまりは一方で己れの土地を耕しながら、一方で合戦をする。この土地の合戦の歴史をひもとけば、すぐそれと判る筈だ。合戦は農閑期にのみ行われるのである。
だが信長軍団は違った。兵を農地から切り放すことが信長の最初の努力だったのである。彼の兵は耕すべき農地を持たない。かわりに扶持米《ふちまい》を貰う。だから平時でも、兵としての訓練しかすることがない。合戦の時期も四季を問わない。勿論、一朝一夕にそんな軍団が作れるわけがなく、初めの内は、例えば長兄は百姓として土地を守り、二男、三男が専従の武士として軍団に参加したのである。
織田軍団を踏襲した豊臣軍団は、完全にこの専従の兵だけで組織されていた。いわばプロの兵卒である。合戦の場でのいくさ振りに大きな差の出来るのは当然であろう。
「それにしても二十万とはちと……」
大袈裟《おおげさ》にすぎるのではないか、と甚内の顔は云っている。
「西国、九州、越前、越後の兵を集めれば、容易だ。それに関白は戦うとなったら徹底的に叩く。北条を潰《つぶ》し、余勢を駆って奥州《おうしゅう》を切り取る気だ。必ずそれだけの兵士は集める。お主はこの京に居坐って、その眼でしかと見届けるがいい」
ようやく食いおさめると、先程の女が素早く茶を点《た》てて持って来た。慶次郎は礼を云って、ゆったりとした作法で喫した。
「何から何までうまいな。見事なものだ」
「有難うございます」
老人は心から嬉《うれ》しそうに頭を下げた。
「その姿で傀儡子と居ては目立つだろ。わしの家に来んか」
甚内が躊躇《ためら》った。
「相州に帰らねばなりません」
「関白の陣立てをじっくり見た上で帰るさ。その方がお主のためにも、北条のためにもなるだろう」
甚内は田舎者扱いされたことをまだ根に持っていたが、京に居るなら慶次郎と居た方が有利なのは当然だった。何より慶次郎と一緒にいる限り、素姓を怪しまれることがない。それに関白の陣立てを知るのにも最適だった。
関白秀吉が北条攻めの決意を固めたのは、天正十七年十一月二十四日のことである。
秀吉はその理由を書き、徳川家康をして北条に伝達させると、諸大名に小田原出陣を命じた。
北条氏直は小田原城|籠城《ろうじょう》の決意を固め、小田原の商人百姓に至るまでかき集め、武器を渡した。伊豆《いず》でも漁師・百姓までかき集められた。その総数五万三千といわれる。
北条氏直はこの人数に傲《おご》り、翌天正十八年二月七日の富田|知信《とものぶ》・津田|隼人《はやと》正家への手紙でもまだ、秀吉の母大政所《おおまんどころ》を人質としてよこすなら、父氏政を上京させてもいい、などとほざいている。
同じ二月、小早川|隆景《たかかげ》、吉川《きっかわ》広家は既に入京して、清洲城《きよすじょう》、星崎城の守備についていたし、北条が自軍の味方と確信していた徳川家康まで聚楽第で秀吉に会い、北条攻めの討議をしていた。北条の目算違いは甚《はなはだ》しかった。そればかりか家康は北条攻めの先鋒《せんぽう》となった。これだけで大勢は決したと云っていい。氏直は更に伊達《だて》政宗《まさむね》と結んで、常陸《ひたち》佐竹氏に当らせようとしたが、政宗は芦名《あしな》義広《よしひろ》と争っている最中であり動かなかった。その他の奥羽《おうう》の諸侯はすべて秀吉に応じ、北条氏は完全に孤立した。
やがて、徳川家康と織田|信雄《のぶかつ》は東海道を、前田|利家《としいえ》と上杉景勝は東山道(現中仙道《なかせんどう》)を進んで信濃《しなの》・上野《こうずけ》方面から小田原の腹背をつき、脇坂《わきさか》安治《やすはる》・九鬼《くき》嘉隆《よしたか》・加藤嘉明・長曽我部《ちょうそかべ》元親《もとちか》らは水軍をひきいて清水港に向った。
秀吉自身は三月一日京を発《た》ち、十九日に駿府《すんぷ》に入り、二十六日には富士川を渡り、翌二十七日には沼津三枚橋に至った。
秀吉が集めた兵は総数二十二万。華麗壮大な作戦と云えた。
庄司甚内は慶次郎と共に、この作戦の展開をすぐ間近で見ていた。慶次郎は大胆不敵にも、頼みこんで秀吉の帷幕《いばく》に居たのである。
甚内は正直に云って胆《きも》をつぶしていた。一つの作戦にこれほどの兵が動くものか。すべて予想を遥《はる》かに越えた。甚内は自分が正しく田舎者であることを痛感した。北条氏そのものもまた田舎者だと思った。
北条氏が頼みとする箱根の嶮も、これだけの軍勢の前にはひとたま巧もなく、四月三日には秀吉は兵を湯本から小田原にすすめ、やがて小田原城を俯瞰《ふかん》出来る笠懸山《かさがけやま》に降した。ここに石塁を築き、石垣山の陣と称した。
秀吉は勝ちをあせらない。長陣を覚悟し、京・堺《さかい》の商人が陣中に出入りするのを許し、遊女屋も呼びよせて酒宴遊興も自由にした。自らも淀君《よどぎみ》を招き、諸大名にも女房を呼び寄せさせた。家康の家臣|榊原《さかきばら》康政《やすまさ》が加藤|清正《きよまさ》に送った手紙の中で、
『御陣中に於《お》いて生涯《しょうがい》を送るとも、退屈あるべしとも覚えず候《さうらふ》』
と書いたことは有名である。
一万数千の水軍を乗せた安宅船《あたけぶね》、関船《せきぶね》は小田原沖を埋め、一定の間隔をおいて、城内に大砲を射ちこんだ。
北条方としてはこんな不本意ないくさはなかっただろう。
支城との連絡はすべて断たれ、海からは砲撃を受け、完全な包囲網の中で身動きもとれない。食糧も水も豊富にあるが、ただ生きているというだけである。それに対して一歩城外へ出れば弦歌さんざめく遊楽の地である。白昼から酒に酔った兵が、遊女屋の店先に消えてゆくのが、城から望見出来る。大名たちは大名たちで、茶席を設け、或《あるい》は連歌の会など開いて楽しんでいる。あまりと云えば違いすぎた。これは正に地獄極楽の図だった。苛烈《かれつ》ないくさの中で地獄にいたところでどうということはない。だが何の小競合《こぜりあい》もなく、敵は極楽、味方は地獄というのでは、到底耐えられるものではなかった。
これは神経戦だった。誰《だれ》だってこんないくさにそう長く耐えることは出来ない。当然裏切者が現れ、脱落者が続出した。
七月五日、北条氏直は自ら城を出て降服した。秀吉は氏直の父の氏政と叔父の氏照及び老臣大道寺|政繁《まさしげ》と松田|憲秀《のりひで》の四人に切腹を命じ、氏直と氏規を高野山に送ることで、降服を許した。氏直は徳川家康の女婿《ひすめむこ》であり、氏規はその竹馬の友だったからだ。
一世紀にわたり関東に覇《は》を唱えて来た北条家はここに消滅し、北条の抑えていた関東の地は、そのまま家康に与えられた。
庄司甚内は自分の見たものを容易に信じることが出来ないでいた。
「これが合戦なんですか。本当にこれが……」
「くり返さなくたっていい。確かにこれが関白流の合戦さ」
慶次郎がうんざりしたように云った。
「だって戦闘なんかほとんどありませんでしたよ」
「ここではな。まわりじゃ結構あったようだな。人死《ひとじに》も多かったらしい」
「どうしてここでは闘いがなかったんですか」
「もううんざりしているのさ、誰も彼も。関白は別して人の気持に敏感なんだ。やる気ならもっと血なまぐさいいくさも出来ただろうがね。今度はそれじゃまずいと思ったんだな。それだけのことだ」
甚内は肩を落し、溜息《ためいき》をついた。
「がっかりです。私は合戦といえばもっと激しい、切羽つまった生命《いのち》のやりとりの場かと思っていました」
「そりゃそういう合戦もある。だが今度のは違う。云って見れば駆引きのようなものだ。駆引きに生命が賭《か》けられるかね」
「でも父にとっては駆引きではありませんでした。姉にとってもです」
甚内の父又左衛門は落城の時、腹を切り、氏政に殉じた。姉のおしゃぶは氏直に斬られた。
他人の手に渡したくないほど素晴らしい女だったためだ。
「父御は本来武士ではなかった」
慶次郎は自分が酷なことを云っているのを百も承知していた。
「だから死ななければならなかったんだ」
甚内が慶次郎を見つめた。危険な感じがあった。
「武士よりも、もっと武士らしくなければ気がすまなかったんだ」
依然としてじっと見つめている。だが僅かに理解の色が濃くなったように感じられた。
「柳の馬場で初めて会った時のことを覚えているか、あの時お主は云ったな。果し合いを逃げたとなったら、腹を切らねばならぬ、とね」
はっとした表情。今度こそ理解した顔だ。
「つまりはあれだ。緊張の度がすぎる。武士なんてものはそんな堅苦しいもんじゃないんだ。傀儡子と何の変りもないのさ。何時でも生き永らえる方を撰《えら》ぶんだ。もっともいつでも逃げれば生きられると云うもんじゃない。突き進んだ方が生きのびられる場合もある。判るな。それを間違いなく撰べるのがいくさ人と云うものだ。お主も父御も遂《つい》にいくさ人ではなかった」
甚内の躰から急激に空気が抜け、しぼんでゆくように見えた。
「私にそれが数えたくて此処《ここ》まで連れて来てくれたんですね」
「わしは暇人だからな、しなきゃならんと云うことが何一つないのさ。たまたまお前さんに気がむいた。そう云うことだ。若くて様子のいい男が死に急ぐのは、見ていて辛《つら》くてね」
「どう生きろと云われるのですか。たった今ひとの足もとをすくっておいて……」
「起《た》てばいいのさ。お前さんを頼りにしている一族がいるんだろう。四十人とか云ったな。先ずその連中を生かすことを考えるんだね」
慶次郎は足をとめた。
「江戸とか云うところへでも行ったらどうだ。徳川家康がそこに移るそうだ。何も彼もこれからの町になるだろうな」
「考えてみます。前田さまは?」
「直江に会いに行くよ。縁あらば逢《あ》おう」
甚内は一族と共に東海道吉原宿で旅籠《はたご》を経営したが、やがて江戸に出て遊女屋をはじめ、後に家康に根気よく願いを出し続けて、遂に江戸で初めての御免色里吉原を開き、その惣名主《そうなぬし》になった。その頃は庄司甚右衛門と名を変えていた。
子供狩り
「あれは何だ」
慶次郎が松風の背で喚《わめ》いた。
出羽国《でわのくに》角館《かくのだて》からさして遠くない村の中である。
晩秋の風が身に沁みる一日だった。
二十人あまりの子供たちが前後を胴丸姿の兵士に厳しく守られ、一団となって村境に向っている。子供たちは七つ八つから十一二まで。男の子もいれば女の子もいる。服装の貧しさから、いずれも百姓の子供であることが知られた。女の子や、男の子でも年端《としは》のいかない者たちは、揃《そろ》って泣いていた。
それだけではなかった。
その子供たちを追うように、母親らしい百姓の女たちが歩いて来る。時々護衛の兵士の槍《やり》でひっぱたかれながらも、尚《なお》も執拗《しつよう》について行く。いずれも絶望の表情であり、すすり泣く姿が多く見られた。
「子供たちをどうしようと云《い》うんだ」
慶次郎はもう一度訊いた。
馬を並べているのは、何時《いつ》もながら涼やかな感じで見事な姿勢を崩さぬ直江《なおえ》山城守《やましろのかみ》兼続《かねつぐ》だった。それぞれ、郎党を一人ずつ連れている。慶次郎の郎党が捨丸であることは云うまでもない。
直江兼続の秀麗な顔に、一瞬苦い表情が浮んだ。
「証人ですよ」
「証人? 上杉《うえすぎ》では百姓の子まで証人にとるのか」
証人とは人質のことだ。武士の場合、一国の領主の子、乃至《ないし》筆頭家老の父母や妻や子供たちが証人にとられるのは、この頃《ころ》では日常茶飯時になっていた。
別して豊臣《とよとみ》秀吉《ひでよし》が天下をとって以来、秀吉に従属する大名は一人残らず妻子を証人として京に置かねばならなかった。そしてその大名たちはまた、自分の城下に主だった家臣の妻子を住まわせた。これもまた証人である。
慶次郎もそれくらいのことは知っている。巧妙といえば巧妙だが、いやな施政方針だと思っていた。それほど部下が信用出来ないのかと、軽蔑《けいべつ》したくもなる。昔なら戦略的な和瞳《わぼく》の時などにしか使われなかった制度なのだ。
だがそれが百姓身分にまで及んでいるとは、ついぞ知らなかった。
「関白さまの御命令なんです。検地に対する抵抗がそれほど強いということでしょうか」
兼続が溜息《ためいき》をつくように云った。珍しく弁解がましい口の利《き》き方《かた》だった。
「呆《あき》れたな」
慶次郎は暗然として意味もなく首を振った。
「証人は大事にあずかっていますよ。村にいるより食い物もいいし、着るものも支給される。打擲《ちょうちゃく》するようなことは決してありません」
「当り前だ、そんなことは。それでも非道は非道だ」
慶次郎の語気はいつになく鋭かった。
天正十八年九月。
秀吉が北条氏《ほうじょうし》を滅ぼしてから二ヶ月たっている。
小田原城が落城した翌日、秀吉の奥羽《おうう》への進発が公表され、『奥州仕置』と呼ばれる豊臣政権の東北支配が始まった。
秀吉が会津黒川城に着いたのは八月九日だが、道中急使を使って、次々に指令を出し、その支配の構造を明らかにした。
小田原の陣に来《こ》なかった大小の武将は悉《ことごと》く所領を没収され、伊達《だて》政宗《まさむね》は小田原へ行ったにも拘《かかわ》らず、会津をとり上げられ、米沢《よねざわ》の旧領に戻《もど》らざるを得なかった。その結果空いた土地は一旦《いったん》秀吉の直轄領となり、改めて配下の大名に与えられた。
秀吉はたった三日しか会津に滞在せず、八月十二日には黒川城を発し、九月一日に京に着いている。あとは甥《おい》の秀次《ひでつぐ》の率いる征討軍に委《まか》せたのである。
『奥州仕置』の最大の眼目は新たな奥州各地の総検地にあった。上杉|景勝《かげかつ》は庄内《しょうない》・最上《もがみ》・仙北《せんぼく》地方、前田|利家《としいえ》たちが秋田・津軽・南部地方の検地を命じられた。
小田原以後、直江兼続と行を共にした慶次郎が、角館くんだりにいた理由はそこにある。
上杉家分担の検地は九月下旬にほぼ終っていた。もうすぐ京へ帰れる。慶次郎は兼続と共にそう信じていたのだが……。
「いやなものを見たなぁ」
思わず溜息が出た。
「こりゃあ、そう簡単には京へは帰れないな」
兼続が怪訝《けげん》な顔になった。
「どうしてです?」
「このまま落ち着くわけがないじゃないか。落ち着くと考えているんだったら直江山城はとんだ阿呆《あほう》だ」
兼続は苦笑した。慶次郎の口の悪さには慣れている。
「楽観しているわけではありませんがね。それにしても時がかかるでしょう。潰《つぶ》された国人《くにびと》(土豪)領主たちがそう簡単に手を結べる筈《はず》はありませんし……」
「どうかな」
慶次郎は鼻の穴を拡《ひろ》げて見せた。
「わしは鼻のいい方だ。その鼻がいくさの臭《にお》いを嗅《か》いでいるんだよ」
嘘《うそ》でも誇張でもなかった。慶次郎の鼻は血と煙硝《えんしょう》の臭いをたっぷり嗅いでいた。
その夜半、慶次郎は馬蹄《ばてい》の音で眼《め》を覚ました。角館城の一室である。慶次郎はことわったのだが、上杉景勝が客人扱いをやめず、無理矢理この部屋をあてがったのだ。
蒲団《ふとん》の中にひっぱりこんであった刀をとって廊下に出た。
捨丸が走って来た。廊下を音もなく走るところはさすがだった。
「逃げたそうです」
「誰《だれ》がだ?」
「昼間の子供たちです。二十三人全部。小屋の見張りが三人、殺されたと云います」
慶次郎はしかめつらになった。兵士を殺してはいけなかった。これであの村は恐らく焼打ちにされるだろう。下手をすれば全員が斬られることになる。子供を助けた者たちは果してそこまで考えているのだろうか。
「つかまるといいな」
捨丸が意外そうに慶次郎を見た。子供と動物には眼のない主人なのだ。
「逃げた子供は二度と村へは戻れぬ。つかまったって、子供は罰もうけまい。家に帰れた方がいいんだ」
喋《しゃべ》りながら気分が悪くなった。関白秀吉の頬《ほお》げたをぶん殴ってやりたかった。
次の朝、慶次郎はまた兼続と共に例の村へ行った。村は焼打ちを受けてはいないと云う。
兼続が弱ったように鼻を掻いた。
「困りました。村人は我々が子供たちを殺したと信じているんです。せめて死体だけ引きとらせてくれとしつこく迫るんですね。いくら殺しなどしないと云っても駄目《だめ》なんです」
「無理もないが……奇妙だな」
「左様。極めて奇妙です。そのまま信じれば、子供たちを逃がしたのは村人ではないことになる。でも親たち以外に誰がこんなことをしますか。二十三人の子供なんて厄介《やっかい》なだけだ。どう使いようもないでしょう」
兼続の云う通りだった。既に人買い船の横行する時代ではない。誰がなんのためにこんな事をしたのか不可解だった。
騒ぎの音が聞えて来た。村人の一団と警邏《けいら》の上杉兵たちが揉《も》み合《あ》っていた。数は村人の方が圧倒的に多い。手に手に武器を握っていた。槍・刀・半弓の類《たぎ》である。
上杉の巡邏隊長は身の危険を感じたのであろう。発砲命令を下し、二十|挺《ちょう》あまりの鉄砲が火を噴いた。密集隊形でいた村人は忽《たちi》ち散った。後に十人ほどの死体が転がっている。鉄砲隊はすぐさま弾丸《たま》を籠《こ》め、再び射撃姿勢をとった。
「やめろ!」
慶次郎が喚き、松風を飛ばした。兼続も急いで馬を駆った。松風は鉄砲隊を横手から襲って一気に蹴散《けち》らした。怒った隊長も兼続の姿を見ると大人しくなった。
「いきさつを聞こう」
兼続が冷たく訊いた。いきさつも何もなかった。村へ一歩入った途端に襲われたのである。村人に口を利く隙《すき》もなかったと云う。
「奇妙だな」
兼続はそう呟《つぶや》いて、それがさっきと同じ言葉なのに気付いた。
慶次郎が死んだ村人を調べ、その槍と刀を手にして戻って来た。無言で兼続に差し出す。
兼続は見た。刀には口金もはばきもない。こんな刀では人を斬ることは不可能だ。槍の方は錆びた槍の穂に、手作りの白木の柄《え》をつけただけである。武器と云うのも恥ずかしいような代物《しろもの》だった。
これはこの小競合《こぜりあい》が充分の計画を持ったものではないことを示している。この当時の百姓はいっぱしの『いくさ人』である。合戦となれば徴集され、最も激烈な戦闘場面に投入される。だから男なら誰でも二人や三人の敵は殺している筈だった。そんな男たちがこんな武器で闘うわけがない。すべて咄嗟《とっさ》の出来事に相違なかった。
「村人を煽《あお》った者が居るな」
慶次郎がぽつんと云った。
兼続がうなずいて云った。
「早々といくさになるようですね。それもいやないくさだ」
暗い顔だった。これは一揆《いっき》のことを云っているのだ。
慶次郎は黙って馬首を返した。
慶次郎も一揆と戦ったことは何度もある。滝川|一益《かずます》の配下として主として一向一揆と戦っている。兼続の云う通りいやないくさだった。それは死兵との戦いだった。死ねば浄土へ行けると信じこんだ兵卒たちとの戦いには、武士の栄光もなく功績もない。無益で果てしのない殺人があるばかりだった。躰《からだ》じゅうが血腥《ちなまぐさ》くなり、洗っても洗ってもその臭いが抜けなかった。泥沼《どろぬま》の中の戦いに似ていた。
〈こんないくさは二度と御免だ〉
その度にそう思った。だがぶつかれば戦うしかない。戦わねば殺されるからだ。だがいつでも釈然としないものが残る。何故《なぜ》こんなことをしなければならないのか、という思いが残る。
「京へ帰る」
唐突に云った。
「その方がいいでしょうね」
兼続が辛《つら》そうに云った。
慶次郎は土崎《つちざき》の港で船を待った。北国《ほっこく》海運は既に盛りで、小浜《おばま》、若狭《わかさ》への船は常時この港から出ていた。運ぶ荷は大方が材木か金銀だった。
慶次郎はこの港町で『骨』を見た。
『骨』は艀《はしけ》から上るところだった。商人姿で、前掛をし、手には部厚い帖面《ちょうめん》を握っていた。
「おい」
慶次郎が呼ぶと、あッ、と云うように口を開けた。
「こんなところで何をしている?」
『骨』はその問いには答えず、逆に訊いた。
「京へお帰りですか。そりゃァ結構でした」
心底ほっとしたような表情だった。
慶次郎の胸の中で、何かが騒いだ。だがまさかとも思った。
『骨』は突堤の方へ慶次郎と捨丸を誘った。
「どの船にお乗りですか。当てがおありにならなければ、手前が手配致しますが……」
口では愛想よくそう云いながら、眼はたった今、港を出てゆく船を見送っていた。思いのこもった眼差《まなざし》だった。
「そうか」
慶次郎が云った。
「あの船に乗せたのだな、子供たちを」
捨丸が仰天して『骨』を見つめた。
『骨』はうっすらと微笑《わら》った。
「旦那《だんな》にはかないません」
ぺこりと頭を下げた。
「子供たちをどこへ運ぶつもりだ。二度と家には帰れんぞ」
「ある島に運んで、全員忍びに仕立てます」
『骨』の言葉は慶次郎の意表をついた。
「忍びだと?」
「天下人を憎む忍びにです。いつ、どこででも、機会さえあれば天下人に逆らう心を持った忍びにです」
「丁度お主のようにか」
「丁度手前のようにです」
鸚鵡返《おうむがえ》しに云いながら、にたりと笑った。
「哀れと思わぬのか、子供たちも親たちも。お主が手を出さなければ、穏やかに家に帰れた筈だぞ」
「そして一生喰うや喰わずで暮らす」
「だが死ぬよりはましだろう」
「いや、死んだ方がましです。人としての誇りを持つ者なら、死ぬ方を撰《えら》ぶ筈です」
「人としての誇りか。だが大方はそんなものより、一振りの米の方がいいと云うぞ。無理押しすぎるのではないか」
『骨』はひどく疲れた顔になった。
「いつかお主に連れてゆかれた賽《さい》の河原《かわら》のようなものだな。いくら石を構もうが鬼風が来てつき崩してゆく。徒労というべきだろう」
船がようやく港を出て、西に針路をとるのが見えた。大きな帆が上ってゆく。
「それでも人は石を積むんです。一つ一つに願いと悲しみを籠めて。そしてその思いだけが世々伝えられてゆく。それでいいんじゃないでしょうか」
慶次郎は応《こた》えなかった。『骨』と同じように船を見送り、空を仰いだ。北陸の暗い曇り空だった。
「時化《しけ》なければいいな」
慶次郎は呟くように云った。
仙北郡六郷の百姓たちが京儀(京風・秀吉の仕置を指す)を嫌《きら》って蹶起《けっき》したのは天正十八年十月のことだ。それは燎原《りょうげん》の火のように出羽一帯に拡まっていった。一揆の総数二万五千と云う。だがその悉くが上杉の精兵に蹴散らされることになった。
治部《じぶ》
奥州仕置《おうしゅうしおき》の当然の余波とも云《い》える仙北一揆《せんぼくいっき》は、容易には平定されなかった。『骨』たちの裏働きがそれを支えていることを慶次郎は知っていたが、親友の直江《なおえ》兼続《かねつぐ》にさえその事実を告げることはなかった。一つにはこの頃《ころ》の上杉家《うえすぎけ》の動向が、慶次郎の気に入らなかったせいでもある。
上杉|景勝《かげかつ》は石田|三成《みつなり》を筆頭とする五|奉行《ぶぎょう》の中央集権派と深く結んでいた。豊臣《とよとみ》政権の内部ではこの中央集権派と、徳川|家康《いえやす》を筆頭とし前田|利家《としいえ》・浅野|長政《ながまさ》を含む分権派とが久しく争って来ている。秀吉《ひでよし》の弟豊臣秀長は分権派であり、その穏やかで現実家らしい人柄《ひとがら》によって中央集権派を抑えて来たのだが、天正十九年一月五十一歳で死に、秤《はかり》は大きく中央集権派に傾くことになった。
この正月、聚楽第《じゅらくだい》へ挨拶《あいさつ》のため上洛《じょうらく》して来た上杉景勝と直江兼続の二人は、どう隠しようもない仏頂面《ぶっちょうづら》をしていた。
慶次郎にはその理由が手にとるように判《わか》る。
二人は仙北一揆を通じて、石田三成たちのやり方がいかに強引で現実的でないかを今更ながら痛感しているに遠いないのだ。それを強行すればどうしても余計な血が流れる。民百姓の夥《おびただ》しい流血のつぐないなしには、総検地も刀狩りも実施出来るわけがない。そして民百姓を無益な反抗の戦いに駆りたてる者は本来領主として失格であろう。もっとも、そんなものは古い領主の観念だと、三成たちは云うだろう。彼等《かれら》が求めている領主とは、民百姓を愛し自分も愛されているような仁者ではない。中央の、つまりは秀吉と五奉行の方策を忠実に実施し、軍役《ぐんえき》を提供出来る一種の高級代官であればいいのだ。
上杉謙信を父に持つ、誇り高い景勝が、豊臣家の一代官の地位に甘んじていられるわけがない。だが同時に古い友誼《ゆうぎ》を容易に破り捨てることの出来ないのも越後人《えちごじん》の性格だった。石田三成は天正十三年の落水会談以来の上杉家の昵懇衆《じっこんしゅう》であり、恩人でもある。今更手を切ることは不可能だった。そこに彼等の仏頂面の理由があった。
慶次郎は例によって兼続の屋敷に図々《ずうすう》しく上り込み、兼続の蔵書を勝手に繙《ひもと》きながら、兼続の眉間《みけん》に刻まれた縦皺《たてじわ》に、その苦悩の深さを読んだ。いきなり訊いた。
「治郎《じぶ》がいなくなれば、その皺も消えるのかね」
治郎とは三成のことだ。治部|少輔《しょうゆう》の官位を持っていたからである。
兼続はのけぞるようにして、慶次郎を見つめた。とんでもない問いだった。正確に核心を衝《つ》いてはいるが、ほとんど不可能であり、しかも恐ろしく危険である。何より困ることはこの男ならやりかねないことだった。自分が一言、
「そうだ」
と云えば、慶次郎はふらりと出て行って、本当に三成の首をぶら下げて帰ってくるかもしれない。兼続がこの手の男の恐ろしさを実感したのは、この時であると云ってもいい。
この時点で三成が死ねばどうなるか。豊臣秀長の死と同じように、それによって中央集権派の力は衰えるかもしれないが、それはそれで上杉にとっては頭の痛いことだった。
兼続は誤解されないように、はっきりと首を横に振った。
「そう簡単には行かないようですね」
慶次郎は頷《うなず》いた。
「気の毒にな」
そして又書物の中へ戻《もど》っていった。
兼続はほっと息をついたが、何とも云えぬ羨望《せんぼう》で躰《からだ》が慄《ふる》えた。
(この男のように生きられたら……)
腹の底からそう思ったのだ。
慶次郎にとって人生は簡単であろう。好きな時に寝、好きな時に起き、好きなことだけをして死ぬだけである。誰《だれ》もが望み、誰もが果せない生きざまだった。何故《なぜ》誰にも出来ないか。一切の欲を切《き》り棄《す》てなければならないからだ。あらゆる欲とあらゆる見栄《みえ》を棄て去り、己れの生きざまだけに忠実にならなければ慶次郎のようには生きられない。
それだけではなかった。慶次郎のように生きるには天賦《てんぷ》の才能が必要だった。文武両道にわたる才であり、中でも生き抜く上での才である。或《あるい》はこれを運と云うことも出来よう。運の良さも明らかに才能の一つである。
〈天に愛されている〉
慶次郎を見ていると兼続はつくづくそう思う。そして、
〈天は不公平だ〉
そうも思う。だが天に向って文句を云うわけにもゆかないではないか。
「利休殿のことだが……」
兼続は何の接穂《つぎほ》もなく、ふと云った。
兼続から見れば、利休もまた天に愛された男である。不世出の茶人として関白秀吉さえも這《は》いつくばらせ、堺衆《さかいしゅう》の金力を背景にした利休は豊臣秀長と共に根強い分権派の味方だった。その利休の運命が秀長の死を境に突然狂い出したように見える。茶器の鑑定に不正があるという噂《うわさ》が流れ、大徳寺の山門の上に利休の寄進で建てられた金毛閣に、杖《つえ》をつき雪踏《せった》をはいた利休の木像が安置されたのが、秀吉を痛く怒らせたという噂も高い。すべて石田三成たち中央集権派の策謀であることは、兼続には明白だった。
慶次郎がにべもなく云った。
「あんな気むずかしい茶は大嫌《だいきら》いだ。関白の金キラキンの茶も嫌いだがね」
慶次郎はうまい茶が呑《の》めれば満足なのだ。わびだのさびなどと云われると、躰のどこかがむずがゆくなって来る。
「それに関白に気に入られすぎた。今度は危ないな」
さすがに読むだけは読んでいた。
「それにしても治郎は心が狭いな。茶人の一人や二人のさばっていても天下に変りはないだろうに」
「それが出来ないんですね、あのお人には。すべてがすっきり割り切れないと気がすまない。たとえ考えていることは正しくても、そのために逆に歪《ゆが》んでしまうことさえある。少くとも、ひとにそう見られる。気の毒なお人です」
慶次郎は気に入らないように首を振った。だが一言も文句はつけない。自分の考えを他人には、一切強要しない。それが慶次郎の生きざまだったからだ。慶次郎には石田三成の成り行く先が大方は見えている。この手の男が運に乗れるのは平和の中でだけだ。つまりは強権の庇護《ひご》がある時だけだ。その庇護がなくなればひとたまりもなく衰運に向う。出来ることならその時、兼続と上杉家もまた衰運に向うことを、何とか防ぎ留めたい。それが慶次郎の願いだった。
利休が突然堺追放を命じられたのは、二月十三日のことだ。利休はその夜のうちに聚楽第を出て堺に向った。数ある茶道門下のうち、淀川《よどがわ》の舟着場まで送って来たのは、古田|織部《おりべ》と細川|忠興《ただおき》の二人だけだったと云う。
半月後の二月二十八日、利休は切腹して自らの生命を絶った。多くの人々が秀吉に謝罪するようにすすめたが、利休は固くこれを辞したと云う。今更|生命乞《いのちご》いをする醜態に耐えられなかったのであろうか。
大徳寺山門の利休像は引きおろされ、一条|戻橋《もどりばし》で磔《はりつけ》にかけられた。木像の磔とは前代未聞《ぜんだいみもん》だと京中の噂になり、貴賤《きせん》の見物人の絶え間がなかったと云う。
慶次郎も捨丸を連れて見物に出掛けた。
木像の磔は確かに滑稽《こっけい》でそのくせどこか不気味だった。磔に掛けた人間の心の捻《ねじ》れが、一種|凄惨《せいさん》な形で露出していたのである。
慶次郎は長いこと木像の前に立っていた。
やがて不快さをありありと見せて吐き出すように云った。
「これが治郎だ。こせこせしていて、滑稽で、しかも残忍極まる。とても人間の類《たぐい》とは思えんな」
喚《わめ》くような声に、近くの者たちが慌てて遠ざかった。高札場やこの手のみせしめの見物人の中には必ず所司代の下人《げにん》がまじっている。庶民の噂や評判をかき集めるためだ。五奉行の筆頭を恐れげもなく批判して無事ですむわけがなかった。果して、慶次郎が橋を渡りかけると、五六人の下人がとりかこんだ。
「所司代へ来て貰《もら》いまひょ」
頭分《かしらぶん》らしい男が爬虫類《はちゅうるい》の冷たい眼《め》で云った。
「逃げでも無駄《むだ》や。あんさんの名前も顔も知れてま。すぐ手配されるだけや」
「がやがやとやかましいな」
慶次郎はその男をあっさり橋から放《ほう》り投げた。川水の量は多くはないが、氷の冷たさである。顔色を変えた残りの下人たちも、あっと云う間に後を追った。
「俺《おれ》をつれて行きたかったら、十日前に都合を訊け」
松風にまたがると何事もなかったように去った。
事がこのままですむ筈《はず》のないのを捨丸は心得ている。大車輪で脱出の支度にかかった。例によって金の始末が大半である。
慶次郎は何事もなかったように、終日|坐《すわ》り込んで書見に余念がない。
夕刻になって表の戸の開く昔がした。
松風が騒がないところを見ると、心配する相手ではない。構わず書見を続けていると、顔を出したのは兼続だった。
兼続がこの家に来たのはこれが初めてである。だが慶次郎はじろりと一瞥《いちべつ》を与えただけで何も云わず、兼続も一切口をきかない。ただただ坐り込んでいる。
さすがに最初に口を利いたのは慶次郎の方である。
「所司代か」
「いや」
「じゃあ冶部か」
兼続がこくりと頷いて見せた。
「それで……」
「追放にはなりません」
「ほう」
「そのかわり……」
珍しく兼続が云い淀んだ。余程伝えにくい内容に違いなかった。
「かわりがなくてはすまないんだな、治部って男は。貧乏性な男だ」
慶次郎がせせら笑うように云う。兼続に話し易《やす》くさせようという、この男らしい気遣いなのである。
「朝鮮へ行って欲しい」
「何だと?!」
あんまり途轍《とてつ》もなさすぎた。
天正十五年以来、秀吉は朝鮮に対して我が国への入貢を促して来たが、昨天正十八年七月上洛した朝鮮の使節に対しては、何と明国《みんこく》征討の先駆けをすることを命じた。目茶苦茶と云ってもいい注文である。その使節がこの正月京を発《た》って帰国の途についた。
「いずれ対馬《つしま》の宗殿《そうとの》の家臣が、京城まで使節と同道することになる筈ですが、実のところ関白殿下は宗殿を余り信用して居《お》られないのです。都合のいい返事しかしないのではないかと、疑っていられる。ついては対馬藩以外の者をかの地に送り、実情をつぶさに知りたいと云い出されたのですが……」
どの藩も二の足を踏んだのである。失敗すればその藩全体が秀吉の不興を買うのは明白だった。言葉の関係もあるし、しくじるのは目に見えている。こんな損な役を引き受ける者がいるわけがない。
「その引受け手のない仕事を、俺にやれと云うのかね」
慶次郎が呆《あき》れたような声を上げた。
「それが治部の案か」
「そうです」
「追放と変りないじゃないか」
むしろ追放の方が生命の危険は少ない。
兼続がにこっと笑った。
「追放より悪いんじゃないでしょうか。並の人間なら十中八まで殺されますからね」
「何故笑った?」
「慶次殿は並の人間ではないからですよ。生き延びるとしたら、慶次殿しかいません。それに実のところ……」
兼続が珍しく口ごもった。
「実のところ、慶次殿ならお引き受けになるとぴんと来ましたので……」
慶次郎は苦笑した。
〈お見通しだ〉
そう思った。本当は聞いた途端に行きたくなっていたのだ。
朝鮮と云うところがよかった。十中八まで殺される、と云うところが又よかった。是非殺して貰いたいようなものである。只《ただ》で死ぬと思ったら、大きな間違いだ。
言葉については全く不安はなかった。勿論《もちろん》朝鮮語など一言半句も判らないが、何とか意思の疎通は出来る筈である。相手だって同じ人間ではないか。馬とさえ話をする男が、同じ人間と話せないわけがない。
もっとも結果については、慶次郎も楽観してはいない。実情と云うが、そんなものを秀吉が望んでいるとは思えなかったし、秀吉の希望が正確に向うへ伝えられているかどうかも怪しいものなのである。
慶次郎が派遣される理由はたった一つしかない。対馬の宗氏に対する脅しである。関白殿下はお前の報告を疑っていられるぞ、という恐喝《きょうかつ》なのだ。その限りでは、慶次郎は有効であろう。そのかわりいつ宗氏配下の刺客人に殺されるか判らない。つまりは捨駒《すてごま》である。
〈捨駒結構〉
妙な役を負わされるより、こっちの方が楽でいい。またそんな役割には慣れている。
「案内人はつくんだろうな」
それでなくては西も東も判りはしない。
「つく筈です」
「船は?」
「明国か南蛮の船が運んでくれる筈です」
「壮行会はやってくれるんだろうな」
慶次郎はそう云って、自分からぷっと吹き出した。
男は日本人ではなかった。永年の日本暮しで日本語は達者だし、着ている物も日本のものだったが、顔付きを一目見ただけで日本人でないことが判る。明の国の男だった。齢《とし》の頃は三十五六。精悍《せいかん》そのものと云った顔だ。
その赤銅色《しゃくどういろ》の皮膚の色が陸者《おかもの》でないことを示している。男の名は金悟洞。倭寇《わこう》の残党だった。
倭寇とは本来日本人の海賊で明国の港々を荒《あら》し廻《まわ》った者を謂うが、明国人がその剽悍《ひょうかん》ぶりを極度に恐れたことから、明国人の海賊まで敢《あえ》てその名を名乗ったのである。二年前の天正十七年七月、朝鮮王|李※[#「日+公」]《りえん》の要請で関白秀吉は多くの倭寇を捕えて朝鮮に送ったが、金悟洞は巧みに行方を昏《くら》ませて逮捕を免《まぬか》れた。以後、新興されたこの博多《はかた》の町にもぐり込み、主として刺客業で生計を立てて来た。
金の殺しの腕には定評がある。狙《ねら》った獲物《えもの》は絶対にはずしたことがない。通常は相手のことを慎重に調べ上げ、その行動範囲を確かめた上で充分の余裕を持って殺す。使う武器は様様だった。鉄砲・弓・吹矢の飛道具から、槍《やり》、刀、短剣、絞殺具《こうさつぐ》等なんでも使う。あらゆる武器の使用に習熟していた。
博多の町で食い物屋の屋台を出している宗兵衛《そうべえ》と云う老人が、金の中継ぎ役だった。宗兵衛も本当は明人で倭寇の残党だった。明国の料理が得意で結構客を集めている。その宗兵衛に耳打ちし代金を全額前払いで払うと、金に連絡してくれる。金はまず依頼主の身許《みもと》を調べ、罠《わな》でないことを確認してから仕事にかかる。
日限を切られる仕事は成るべく引き受けないことにしている。やむをえず引き受ける時は、三倍の料金を要求する。今度の仕事は日限も短いので五倍だった。相手を充分調べる時間さえない。何しろ今日大坂からの船で着き、神谷《かみや》宗湛《そうたん》の家に泊り、明日にもまた船に乗って朝鮮へ渡るかもしれないと云うのだ。下手をすれば一日の余裕しかないことになる。
金は思案の揚句、港を殺しの場として撰《えら》んだ。己れの顔を曝《さら》さねばならぬという欠点はあったが、船の着いた時の港は人でごった返すことになる。人ごみにまぎれて、一刺し刺して素早く立ち去れば、誰にも気付かれぬ自信があった。それでも用心のため、短刀に毒を塗ることにした。これなら刺突によって致命傷を与えられなくても殺すことが出来る。
問題は金が相手の顔を知らないと云う点だった。間違った相手を殺しては身《み》も蓋《ふた》もない。だから依頼人に相手を確認し、指示してくれるように頼んだ。
依頼人は中老の武士だった。それも明らかにどこかの藩の藩士である。もっとも藩士にしては馬鹿《ばか》に肌《はだ》の色《いろ》が黒い。金と同じくらい日に灼《や》けている。海の男に違いなかった。九州には水軍を持つ藩は多かったが、金は勘で対馬藩士ではないかと思った。対馬藩は朝鮮との交易で保《も》っている藩である。殿様は朝鮮の官位まで授かっていると云う。対馬藩の藩士なら、日灼けしていて少しもおかしくはなかった。
わあっという声が上った。
大坂からの船はとっくに着いて沖の舟溜《ふなだま》りに投錨《とうびょう》している。人と荷物が次々と艀《はしけ》で海岸に運ばれて来ていた。
その一艘《いっそう》に二頭の馬が乗せられているのがこの騒ぎの原因だった。
二頭とも見事な馬だった。特に黒馬の方は鬣《たてがみ》が長く、まるで野生馬のように精悍な感じである。癇《かん》の強い馬を艀で運ぶのは容易でないが、見たところこの二頭は神経質になっている様子もなく、泰然として乗っていた。余程馬丁がしっかりしていないとこうはゆかないと金が感心した時、並んでいた依頼人が、かすかに震える声で云った。
「あれだ。あの馬を抑えている男だ」
金は遠眼鏡を伸ばして艀に焦点を合わせた。
馬を抑えているのは二人の男だった。一人は堂々たる体躯《たいく》で、恐ろしく派手やかな衣裳《いしょう》を身につけ、片手に朱柄《あかえ》の槍《やり》を握っている。奇妙なことに黒馬には手綱がなく、男は片手でその鼻づらを撫《な》でているのだった。もう一人はこれまた派手な小袖姿《こそですがた》だが明らかに下人である。貧相な小男だった。
「大きい方だな」
金は横柄《おうへい》な口調で云った。武士はちょっとむっとしたようだが、虫を抑えて、
「腕が立つぞ。しくじるなよ」
云い捨てるとそわそわと離れていった。
金は鼻で笑うと遠眼鏡を縮めて腰に吊《つる》した袋に蔵《おさ》めた。ついでに懐中の短刀に触って見る。
それからゆっくりと舟着場へ向った。
慶次郎は松風に優しく語りかけながら、迫って来る博多の港を眺《なが》めていた。
「この博多の津はな、松風、昔から在家十万軒と云われ、明国の交易船の入るさかった港だったんだよ。それが竜造寺《りゅうぞうじ》と大友との度重なるいくさで、町は焼かれ荒れ果てていたのを、今から四年前の九州|征伐《せいばつ》が終った時、関白が再興を命じたんだ。図面づくりから町割りまで自分でやったって云うから物好きな男さ。町の中に武士が住むことを禁じて完全な町人町にしたそうだ」
松風が僅《わず》かに鼻を鳴らし、足を踏みかえたので艀が大きく揺れた。捨丸が必死に野風の手綱を引いて動きを抑えた。二頭同時に踏みかえられたら、艀はひっくり返るかもしれない。
もっとも慶次郎は艀の揺れなど歯牙《しが》にもかけていない。
「関白はどうやら此処を唐入《からい》りの兵站基地《へいたんきち》にするつもりらしいな。島井宗室、神谷宗湛と云う大金持がさかんに船を出して、朝鮮や明の事情を探っているらしい。わしらはその船に乗せられる筈だ」
島井宗室、神谷宗湛の二人は博多を代表する大商人だった。両者とも博多に表四十三間半の大邸宅を秀吉から与えられている。
島井宗室は金融業者として財を築いたし、神谷宗湛はその祖|寿禎《じゅてい》以来|石見銀山《いわみぎんざん》を背景として無尽の財力を持つと云われた。両人共に堺の大商人たちと交流があり、同じ利休門下の茶道仲間だった。博多再興の実務はこの二人を中心として行われ、町割りの測量に使われた間杖《けんじょう》と呼ばれる松材の物差は、後々まで神谷家に伝わっていたと云う。
艀が舟着場に着いた。
物売りや出迎えやただの見物人まで群れていて、舟着場のあたりはひどい混雑である。
艀に板がかけられ、まず捨丸が野風の口輪を曳《ひ》いて舟着場に上った。続いて慶次郎が松風を追って上る。
ところが松風が上った地点から動こうとしない。野風までそれに倣《なら》って、いくら捨丸が手綱を引いてもぴりっとも動かなくなってしまった。
「妙だな」
慶次郎が手近の群集を見廻した。
「どうやら殺気があるようだ」
捨丸も慎重に群集を見廻している。
金悟洞は、顔色こそ変えなかったが、腹の中で震え上った。
〈なんて男たちだ〉
人知れず毒づいた。こんなに用心深く敏感な男どもを相手にしたことは嘗《かつ》てなかった。
見ていると慶次郎がひらりと松風にまたがった。槍の鞘《さや》を払う。捨丸が同様に野風にまたがると、慶次郎の左やや後方に位置した。
そのまま群集の中に馬を乗り込ませた。
どきどきするような二尺近い穂をつけた槍がつき出されていてはたまったものではない。慶次郎の前に立つ者は慌てて身をよけた。左側と後方は捨丸が完全に護《まも》っている。襲うとしたら、右側からしかないが、そこは槍の守備範囲である。到底近づけるものではなかった。
まして今日の金の得物は短刀である。体格のいい松風にまたがった慶次郎の躰《からだ》に届くわけがない。届いても精々脚である。毒刃だから脚でも刺せれば効果はあるが、金には自信がなかった。槍でひと払いされればこっちは間違いなく即死である。
それに左側面を護っている男は明らかに忍びだった。きょときょとと眼を動かすことなく、まっすぐ正面を向いたまま、どこを見るでもなく無造作に馬を進めている。これは警戒の基本型である。一ヶ所を見ようとすれば視野が狭まる。漠然《ばくせん》と瞠《みひら》いた眼は、前方は勿論、やや背後に至るまでそこはかとなく見ているものだ。つまり視野が広くなる。ちらりという動きも見逃さない筈だった。
(こりゃァ駄目だ)
金は諦《あきら》めた。要はこの二人を朝鮮にやらなければいいのだ。朝鮮ゆきの船が出るまでに、襲えばいい。そもそも相手が馬で来るとは、依頼人は云わなかった。それを口実にして引き延ばすしかなかった。
金は意識して殺気を消し、群集を離れて町へ向う二騎の姿をぼんやり見守った。二人の男の背中に、一分の隙《すき》もなかった。
〈恐ろしい男たちだ〉
武者震いが起きた。奇妙にいい気持だった。仕事は難しい方がやり甲斐《がい》がある。
「殺気ですか」
神谷宗湛が云った。
茶室である。五奉行の一人石田三成が特に指名して朝鮮へ赴かせようとする男の器量のほどを計るために、宗湛は慶次郎を先ずここへ誘った。
慶次郎はいつものように無造作に、だがいかにもうまそうに、立て続けに三杯の茶を喫した。おおぶりで悠揚《ゆうよう》として迫らず、闊達《かったつ》な茶だった。
宗湛はこの男が気に入ってしまった。確かにこういう男でなければ、朝鮮へ行かせることは出来ない。
〈石田さまも人を見る眼はもっていられるようだ〉
そう思った。実のところ宗湛は石田三成が嫌いだった。才に傲《おご》り、人を容れない狭量さがある。その三成の眼鏡にかなった人物なら、さぞせせこましく威張り返った秀才だろうと思っていたのだ。それが全く反対の男を送ってきたところが何ともおかしかった。
なにげない話の末に、舟着場で強い殺気を感じたことを慶次郎は告げたのだ。
「左様。まぎれもない殺気でした」
慶次郎は淡々と云う。
「京、金沢なら知らず、この土地で何故あれほどの殺気を向ける者がいるのか、その辺が不可解で一応伺ったまでのことです。お心当りがなければ、それで結構」
正直に云っていることは明白だった。さして気にしている様子もない。
「心当りはありますよ。むしろありすぎて、どの線なのか判りませんな」
宗湛がにこやかに笑いながら応《こた》えた。
「ははあ、そんなに沢山いますか」
慶次郎は相変らず他人事《ひとごと》のように云う。狙われているのが自分であることなど気にもかけていない。
「つまりはわしを朝鮮にやりたくないと云うわけですか」
「そうでしょうな」
「何故です」
直截《ちょくせつ》な問いである。心から不思議に思っていると云う口調だった。
「わしが朝鮮に行ったところで、何が変るものでもない筈だが……」
言葉も通じないし、高位高官へのつてがあるわけでもない。慶次郎としては漫然と朝鮮という土地を歩き廻り、庶民たちと飯をくい、酒をくらい、手《て》ぶり身真似《みまね》で僅かに心を通わせ合い、彼等の暮しの一端でも掴《つか》めればいいと暢気《のんき》に考えている。役人に捕えられそうになれば闘って逃れる。そうなれば表街道《おもてかいどう》は歩けなくなるだろうが、山にでも入ってしまえばなんとかなる。山には虎《とら》がいると云うことだが、是非一度手合せをしたいものだ……。
宗湛は聞いているうちに、何とも暢《の》びやかないい気分にひたされ、虎のくだりでは遂《つい》に耐え切れずぷっと吹き出してしまった。全く途方もない人物である。こんな野放図な男に国中を歩き廻られては、朝鮮の役人たちはさぞ頭が痛いことだろうと思った。
宗湛は朝鮮のことを少しは知っている。朝鮮は礼の国である。礼儀|即《すなわ》ち身分秩序だけで成り立っているような国だ。その国で野放図であることは卑であり、時に叛《はん》に通ずる。しかもそれが倭人《わじん》となれば益々《ますます》処置に苦しむだろう。朝鮮も倭冦には散々手痛い目にあっている。出来れば倭人とことを構えたくないのだ。と云ってこんな男を野放しにしておいたら何が起るか判ったものではない。
永年の関白秀吉の申越しに朝鮮が曖昧《あいまい》な態度をとり続けているのも同じ理由による。秀吉の云い分は全く礼に反しているし、理にもかなっていない。本来なら一言のもとに拒否したいところだ。朝鮮は明に臣従している国である。それを日本に臣従し責物《みつぎもの》をよこせとか、明討伐の道案内をしろとか、無法ないいがかりとしか云いようがない。ただ下手をしていくさになった時、倭人の強さは倭寇で経験ずみだった。だからぬらりくらりとはぐらかせて来た。
宗湛は朝鮮のこの曖昧な態度の蔭《かげ》には対馬の宗氏が一役買っているのではないかと疑っている。宗氏の当主|義調《よししげ》と子の義智《よしとし》にとって、朝鮮はめしの種であると同時に主君に当る。つまり義調・義智は秀吉と朝鮮王|李※[#「日+公」]《りえん》(宣祖)という二人の主君に同時に仕えていることになる。この二人が闘うことは宗氏にとって迷惑極まる事態なのだ。だから宗氏は積極的に対朝鮮交渉を一手に引き受け、双方にいい加減なことを伝えては、当面の事態を糊塗《こと》しようとしているのではないか。そのうちに秀吉が諦めるか、ひょっとして死ぬかもしれない。そうなればすべて前と同じことになる。
その宗氏にとって、日本全国の仕置が終ったということは恐るべき事態だった。秀吉の眼がいやでも朝鮮にそそがれることになるからだ。
今、宗義智は朝鮮へ行っている。彼のごまかしも限界に来ていると見ていい。そこへこの慶次郎のような男が現れたらどうなるか。
万一慶次郎が捕えられ、国王李※[#「日+公」]の下に曳き出されて審問を受けることにでもなったら、今までの宗氏の欺瞞《ぎまん》は悉《ことごと》く曝露《ばくろ》されてしまう。
〈刺客の出所は宗氏ではないか〉
宗湛はそう睨《にら》んだ。
豊臣秀吉の朝鮮侵略、いわゆる『唐入り』の理由については諸説がある。
第一は秀吉は日明勘合貿易の復活を要求したという説だ。朝鮮を通じて明の国に紹介させ、室町《むろまち》時代の勘合(符)の制を復活して、官船商舶の往来を開かそうとしたものだと云う。
第二は秀吉の功名心による海外征服説だ。自分の名を唐《から》・天竺《てんじく》まで拡めたかったと云うのだ。
『予の願いは他に無く、只、佳名を三国(日本・明・朝鮮)に顕《あらわ》すのみ』
と朝鮮国王に書いた文章がその論拠になっている。
第三は秀吉の領土拡張説である。これは天正二十年五月主都漢城府(ソウル)が陥落した時、秀吉が明・朝鮮を含めた征服地国割り方針を出したことを論拠としている。
第四は秀吉の専制的な性格にその理由を求める説だ。日本国内における土一揆《どいっき》以来の農民の力をはぐらかそうとする封建領主の望みと、ポルトガルの商業資本に対抗しようとする日本の豪商の要求の上に乗って、秀吉自身が専制化し、その鉾先《ほこさき》を近隣諸国に向けたと云うのだ。
どの説にも相応の論拠があり、もっとものように聞える。
秀吉がこのような考えを持つに至った時期は、一番古い記録が天正十三年からあると云う。天正十四年には対馬の宗義調に、朝鮮国王を日本の内裏へ参洛《さんらく》させるように命じている。つまりは日本へ服属させよと云うのだ。
ここには秀吉の事実に対する大きな誤認がある。秀吉は朝鮮が対馬に服属しているものと信じていたのだ。事実は全く逆で、朝鮮側では対馬が朝鮮の属島だと思っていた。
『対馬島太守宗盛長は世に馬島(対馬)を守り、我国に服平す』
とか、
『対馬島は乃《すなわ》ち我国の藩臣なり』
とか云う文章が朝鮮側の記録にはある。
宗氏はこの苦しい立場を欺瞞で切り抜けようとした。秀吉はじめ日本側は朝鮮語を解しない。朝鮮側には日本語が通じない。通訳が適当にごまかせば、双方誤解の内に納得するのではないか。浅墓にもそう思ったのである。そこで朝鮮に行って、以前あった通信使を復活し派遣してくれるように頼んだ。秀吉には国王が病気で来られないから代理で我慢してくれと頼む。すったもんだがあって、朝鮮側が黄允吉《こういんきつ》を正使、金誠一を副使、許筬《きょせい》を書状官として日本へ派遣することになったのは天正十七年十一月のことだ。あくまで通信使としてである。
彼等が聚楽第で秀吉に対面したのが天正十八年十一月七日。彼等の持参した国書には、
『大王六十余州を一統す(中略)今三使を遣わし、以《もっ》って、賀辞を致さん』
とあった。秀吉はなんと彼等を服属使節だと思い込み(或は思い込まされ)極めて無礼な返書を書いて与えた。自分を『日輪の子』と称し、朝鮮国王宣祖を『閣下』と呼び、『一超、直ちに大明国に入り、吾朝《わがちょう》の風俗を四百余州に易す』と抱負を述べ、朝鮮にその先駆けとなることを求めたのである。通信使たちはその文言の不穏当さを指摘したが、聞き入れられるものではなかった。彼等は天正十九年正月に帰国の途に上った。この時、僧|景轍玄蘇《けいてつげんそ》と宗氏の家老|柳川《やながわ》調信《しげのぶ》が朝鮮まで同行した。正使黄允吉は朝鮮が明への道案内をしなければ、秀吉は躊躇《ためら》うことなく兵を出すつもりでいることを強調し、早急に応戦の準備をすべきだと説いたが、副使金誠一は只の恫喝《どうかつ》にすぎぬと主張した。宣祖は金誠一の説をとったが、一応ことを明国に知らせることには同意した……。
前田慶次郎が博多に現れたのは丁度そんな時だったのである。
金悟洞は神谷宗湛の屋敷うちを一目で見おろせる大木に登っていた。
金は左手に奇妙なものを杖のようについていた。ほとんど一丈(三メートル強)もの長さで、短槍《たんそう》と見間違うほどだが、これがなんと鉄砲だった。中目当《なかめあて》(今日《こんにち》の照星《しょうせい》)が三箇所もある遠距離射撃用の長鉄砲で、まだ当時は我が国には存在しない代物《しろもの》だった。金はこれを南蛮人から買い求めた。長すぎるし目方もかなりあるので、とても腕で構えて射つことは出来ない。折畳みのきく脚台に支えて射つ。金は自分の身長に合わせた高さにその脚台を作らせ、鉄砲と共に背に負って運んでいた。
慶次郎の到着の翌日である。
金はまだ暗い内にこの木を見つけ出し、早朝に登った。絶対に誰からも見られていない自信があった。
鉄砲の脚台は既に枝にうちつけてあった。葛《かずら》を絡《から》めて偽装してある。鉄砲さえその上に載せれば、銃口は客間の縁にまっすぐ向うことになる。
金は宗湛屋敷を隅《すみ》から隅《すみ》まで知っていた。前にも一度この屋敷で仕物《しもの》を掛けたことがあって、その時に調べ上げたのである。その時は忍びこんで眠っている相手に声も立てさせず一突きにして悠々と逃げたのだが、その手は今度の相手には通用しそうもなかった。従者が忍びだと云うことが、金を用心深くしていた。金も朝鮮で忍びの訓練を受けている。この国の乱波《らっぱ》・素破《すっぱ》と呼ばれる忍びの者の実力も多少は知っていた。それにあの驚くほど勘のいい不思議な馬がいる。
昨夜一晩考え込んだ揚句、この遠距離射撃に賭ける気になった。何よりもこれなら、たとえしくじっても充分逃げる暇がある。
〈出て来た〉
縁先に派手やかな色彩を目にして、金は鉄砲を持ち上げ、そっと脚台の上に置いた。火のついた懐中|火縄《ひなわ》をとり出して、鉄砲の火縄に点火した。あとは火蓋を開き、撃鉄を上げてゆっくり頬《ほお》づけした。
慶次郎は縁に坐って、矢立を抜き、懐手帖《ふところてちょう》に何か書き始めた。漢詩を詠《よ》んでいたのだが、金が知るわけがない。
距離は五百歩。金は息を止め、指は自然に引金を圧《お》しはじめていた。照準はぴたりと慶次郎の頭に合っている。数瞬後にその頭はなくなっている筈だった。
引金がことりと落ちた。
轟音《ごうおん》と白煙。同時に来た凄《すさ》まじい衝撃を、金は木の幹に圧しつけちれることで防いだ。白煙をすかして見た。愕然《がくぜん》となった。
慶次郎が立っていた。憤怒《ふんぬ》の表情でしびれた手を振っている。
弾丸は間一髪の差でそれ、懐手帖を引き裂き、吹きとばしたのである。
慶次郎が何か喚き、こちらを指さしている。例の小柄《こがら》な下人が恐ろしい早さで走って来る。
金は長鉄砲を諦めた。あらかじめ垂らしておいた綱にとび移ると一気に木を滑り降りた。そのまま走った。向うも忍びならこちらも忍びである。追いつくわけがなかった。
「化物のような鉄砲で……」
捨丸は木の枝に奇蹟的《きせきてき》にひっかかっていた馬鹿長い鉄砲を差し出しながら云った。
「これで支えて射ちよったんですわ」
脚台を放り出す。相手を逃がした口惜《くや》しさをぶつけているようだった。
慶次郎は忽ち怒りを忘れたらしい。夢中になって鉄砲をいじくり出した。まず※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖《さくじょう》で火薬の煤《すす》で汚れた銃腔《じゅっこう》を掃除した。
「火筒」
手を出した。火筒とは適当量の硝薬を入れた紙の筒である。早ごめのための必需品だった。捨丸がやれやれというように渡した。銃口からつめこみ、※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖を使って充分につき固める。
「弾丸」
また手を出す。普通のものより大ぶりの弾丸を捨丸は差し出し、ついでにつめものも渡す。
これも※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖を使って弾丸とつめものをしっかりとつめ終った。
「火」
また手だ。捨丸は懐から火種を埋めた小箱をとり出し、火縄に点火する。慶次郎は撃鉄を上げ、火蓋を開き口火の火薬を盛る。構えようとしたが長すぎて銃口が下る。捨丸は脚台を適当なところにかった。銃身が安定する。
「上から二本目の枝」
慶次郎はそう云って、さっきまで金のいた枝の先を狙い、引金をしぼった。轟音を気にもかけず弾着を見つめる。枝の先がぱっという感じではじき飛んだ。当ったのである。
「いい鉄砲だ」
うっとりした声になっている。
「貰っといていいかな」
すまなそうな顔をするところが慶次郎の可愛《かわい》さである。捨丸は呆れ返った。
「文句を云いには来ないでしょうねえ」
「そりゃそうだ。わしの懐手帖を粉微塵《こなみじん》にしおって。どれだけの詩と句がけしとんだと思う。いまいましい。今度出会ったら……」
「でもその手帖で生命拾いしたんですよ。まともに当ってたら今頃は……」
「あの詩が辞世となっとる。仲々いい詩だったぞ、うん。山城たちも惜しい男をなくしたと思っただろうに……」
頭をぶち抜かれなかったのが残念だとでも云っているようだった。どこまでも、太平楽な男である。
「ちっとは用心して下され。わしは町を探って来ますから。これじゃ落ち着いて船にも乗れません」
「まったくいい詩だったぞ」
慶次郎はいきなり自分の頭を殴った。
「それがどうしても思い出せん。あのずどん一発で綺麗《きれい》に頭から消えてしまった。いまいましいと云ったらないな。くそッ」
生涯《しょうがい》の大事ででもあるかのように、また頭をかかえこんだ。
〈長生きするな、旦那《だんな》は〉
捨丸はつくづくとそう思いながら町へ出かけて行った。
金悟洞の刺客としての評判は中々のものだった。
「倭寇の成れの果てか」
それにしては手口が荒っぽくない。
「朝鮮の忍びや云いよりますたい」
ある男が吐いたこの言葉が、捨丸を刺戟《しげき》し、緊張させた。
〈朝鮮の『骨』かね〉
油断ならないと思った。『骨』の変幻自在の変装ぶりを思い出した。この連想は偶然ではなかった。捨丸がこの情報を得たのは宗兵衛の屋台においてであり、『朝鮮の忍び』と喋《しゃべ》った男は他ならぬ金悟洞その人だったからだ。もっとも金は紺の法被《はっぴ》にぴっちりしまった股引《ももひき》という職人の姿だった。鉄砲職人というふれこみだった。国友のところに居たのだが師匠にさからって追い出され、今では博多くんだりまで流れて来て修理や改造といったしがない仕事をしている、云々《うんぬん》。
だが金は鉄砲鍛冶《てっぽうかじ》にしては日に灼けすぎていたし、何より顔付きが明人である。『骨』を連想した途端に捨丸はその点に気付いた。
「そいつはいい。実はうちの旦那が妙てけれんな鉄砲を手に入れなすってね。なんと長さが一丈もある」
捨丸は両腕を拡げてその長さを強調してみせた。
「長鉄砲や。遠町筒《とおまちづつ》とも云いよるたい。南蛮人が持っとるのを見たことのあるたい。一度手にとって見たかねえ」
棄てるには惜しい武器だった。出来ればとり返したかった。うまく欺《だま》くらかせば、同じ鉄砲で近距離から今度こそ間違いなく相手を射殺出来るかも知れなかった。
「丁度いい。火孔《ひあな》の通りがようないと旦那が云うとった。ついでに見てくれるかね」
宗兵衛が警戒するように金を見た。罠の臭いがぷんぷん臭った。金もそんなことは百も承知である。だが自分が問題の刺客だと確認するまでは殺しはすまい。相手の罠を逆用して斃《たお》すのは正に刺客の醍醐味《だいごみ》と云えた。
金は職人らしく道具箱を持って来ているが、その中には修理道具と共に焙烙玉《ほうろくだま》が二箇入っている。木《き》の椀《わん》を二つ合わせたような殻《から》の中に鉛の玉が二三十筒と煙硝・硫黄が詰められている。その外側に幾重もの紙と牛皮を貼《は》りつけ口火がついていた。口火に火をつけて投げると爆発し、鉛弾《なまりだま》を撒《ま》き散らす。鉛弾がまた同じ仕掛になっていて中に煙硝がつめられている二重構造で、多人数|殺戮用《さつりくよう》の強力な武器だった。それに両足首の内側に毒を塗った短い短刀が鞘ごとくくりつけてある。道具箱の中には長鉄砲の鉛弾と早合《はやあい》(適量の火薬と弾丸をつめた紙袋)もあり、煙草入《たばこい》れの胴乱には灰の中に火種を埋めた器も入れてあった。刺客の心得というべきだった。
「旦那。例の鉄砲の火孔を直してくれる職人を見つけて来ましたよ」
捨丸の言葉は意味不明だったが、慶次郎は怪訝《けげん》な顔もしない。永年の主従暮しで息はぴったり合っている。この鉄砲職人が刺客らしいということはすぐぴんと来た。
「そうか。こいつだ」
無造作に長鉄砲を渡した。
「見せていただきますたい」
金は火挟《ひばさ》み(撃鉄)を上げ、火蓋を開いてまず銃腔を見る。綺麗に掃除してあった。銃口からぷっと息を吹きこんで火孔の通り具合を見る。別に異常はなかった。
「煙硝を少々お貸し願えましぇんか」
金は懐紙を破いて丸めた。弾丸のかわりにつめるつもりだ。空包を射ってみるということを示したのである。慶次郎は口薬入《くちぐすりい》れをとって渡した。金は火蓋を閉じ、銃口から火薬を流しこみ、紙を丸めたものを入れる。その時素早く掌《てのひら》の中に隠し持った弾丸も落しこんだ。※[#「木+朔」、第3水準1-85-94]杖で充分つき固め、火蓋を開けて火皿《ひざら》に口薬を盛り再び蓋を閉じる。
「火縄をひとつ。すみまっしぇん」
捨丸が火縄に火をつけて渡した。いつの間にか、金の背後に廻り込んでぴったりついている。金は平気な顔をしている。どうせ発射の衝撃で躰がうしろに飛ぶ。体当りする格好になるわけで、それを利用して斃せばいい。火挟みに火縄を挟み、準備は完了した。庭先を狙いながら火蓋を開く。これを火蓋を切ると云った。あとは引金を引けば、火挟みが落ち、火縄の火は火皿の口薬、ついで火孔から銃腔の中の火薬にと点火され、弾丸がとび出すのである。金は呼吸を計って、さっと銃身を振り、銃口を慶次郎に向けた。
「殺すな」
慶次郎が叱咤《しった》したが、これは金悟洞に向けられた言葉ではない。金の背後にいる捨丸に向けたものだ。
事実、捨丸の匕首《あいくち》の鋭い切尖《きっさき》は、既に金の背にくいこみはじめていた。
金はそれより前に引金を引き、慶次郎を殺すと同時にその衝撃で捨丸をはね跳ばしていた筈である。
それがそうはいかなくなった。
金は引金を引くことが出来なかったからだ。
理由は指一本だった。
慶次郎の左手の中指が、金の鉄砲の銃口に差し込まれていた。
ただそれだけだった。だがそれだけで金は引金を引けない。
引けば慶次郎の左中指は粉砕されるだろう。だが中指一本だけである。銃腔内で障碍《しょうがい》に出合った弾丸は逆に飛び、鉄砲のからくり部分を粉砕する。粉砕されたからくり部分はどこへ行くか。当然後方に向って飛び散る。そしてそこには金の顔があった。銃床を頬につけて構えた金の眼と額のあたりに、からくりの部品は喰いこむことになる。まず即死だった。
引金を引けば自分が死ぬのでは、金に射てるわけがない。慶次郎は指一本でこの危樅を逆転させたことになる。
金は死を覚悟した。暗殺に失敗した刺客を待つのは死だけである。それがこの稼業《かぎょう》の掟《おきて》だった。捨丸の匕首が内臓をえぐる痛さに備えて、金の躰が緊張した時、慶次郎のこの声が飛んだのである。
捨丸の手際《てぎわ》は見事と云えた。匕首の先を五分背中にくいこませただけで、ぴたりととめたのである。尋常の腕ではないと、金は感じ入った。
「金というのは本名か」
下らない問いだった。名前などただの符牒《ふちょう》にすぎぬ。符牒ならいくつ持っているか判らない。元の名など自分でも知らなかった。金は黙ったままだ。
「朝鮮人か、それとも明人か」
これも下らぬ問いだった。金は明人だが、ほとんど朝鮮で育った。だから朝鮮なら隅から隅まで知っている。もっとも金は無言だった。
だがこの大男の日本人は人の顔色を読むらしい。合点するように頷いてみせた。
「そうか。朝鮮は詳しいか」
次いで呆れ返るようなことを云った。
「どうだ。朝鮮でわしらを案内してくれんか」
金はまじまじと慶次郎を見た。
「どうして?」
遂に口を利いてしまった。それほどこの男は意想外のことを云ったことになる。
「わしらが朝鮮を知らないからさ。言葉も判らん」
「そんなことじゃない。どうして俺だ?」
慶次郎がにたりと笑った。
「面白そうだからさ」
金は鼻を鳴らした。なんとも妙なことばかり云う男だった。何を考えているのか一向に掴めない。
「殺さないのか」
「死にたいか」
慶次郎は微笑《わら》っている。
「死にたくないね」
「それなら殺さないさ」
捨丸がたまりかねて口を挟んだ。
「殺した方がいいですよ。この男、しつこそうだ。いつ寝首をかかれるか判ったもんじゃない」
慶次郎がおかしそうに云った。
「お前と同じじゃないか」
捨丸がつまった。確かに彼もいつかは慶次郎を刺す気でいる。
金が心底驚いたように叫んだ。
「お前、主人を殺すか」
「そうだ。いつかはな。だがお前とは違う。れっきとしたわけがある」
捨丸の声はいかにもいまいましそうだった。刺客人と一緒にされてはかなわない、と云っているようだった。
「殺すのは一つだ。わけもへちまもない」
「そりゃそうだ」
慶次郎がいかにも愉《たの》しげに云った。
捨丸の顔が怒りで真《ま》っ赧《か》になった。案外単純な男だと金は思った。
「こんなのに案内を委《まか》せたら、どこへ連れてゆかれるか判りませんよ」
「その方が面白いじゃないか」
「いかがわしいところで身ぐるみ剥《は》がれるなんてことも……」
「身ぐるみ剥がれるかね、俺とお前が」
「そりゃそうですが……」
「ならいいじゃないか」
「よくありません」
慶次郎が唐突に金に訊いた。
「お前、役人に追われた時、逃げこめる場所があるか、勿論、朝鮮でだが……」
金は馬鹿にしたような顔をした。
「俺は生きてるじゃないか」
隠れ場所の一つもなくて、生きて朝鮮を出れたわけがない。そう云っているのだ。
「ずっと山の中かどこか隠れ歩いて、この国へ帰って来れるか」
「山へなんか入ることないね」
「きまった」
慶次郎がどすんと金の肩を叩《たた》いた。あまりの痛さに鉄砲をとり落してしまった。捨丸が素早く火蓋を閉じ、火縄をもみ消した。
慶次郎が金に向ってその長鉄砲を顎《あご》でさした。
「持ってろ」
金はこれで痺《しび》れた。不意に二、三ヶ月、朝鮮に行って見るのもいいじやないかと云う気になった。
神谷宗湛がつけてくれた朝鮮の案内人は弥助《やすけ》という手代だった。年は三十三だと云うが、どう見ても四十前には見えない。丸々と肥《ふと》っていかにも柔和であり、大人《たいじん》の風格を備えていた。いつもにこにこ笑っていて、険しい表情など見せたことがない。著しく目尻《めじり》の下っているのが益々《ますます》福徳円満の相を思わせる。挙措も緩慢で、いかにもゆったりしているように見えた。
だが慶次郎たち三人では相手が悪すぎた。三人とも、その緩慢さが全くの見せかけであることを、ほとんど瞬時に見抜いた。
「出来るな」
と云ったのは慶次郎であり、
「喰わせ者だ。用心用心」
と云ったのは捨丸である。金悟洞に至っては、
「あの男、人殺しだ。臭いで判る」
とまで云ったものである。
言葉は朝鮮語も明の言葉も喋ることも書くことも出来る。オランダ、スペインの言葉も少しなら喋れる。常に大きなそろばんを懐中に入れている。計数の達人だと云い、一種のそろばん占いまですると云う。
金悟洞を連れてゆくと云った時、慶次郎は初めてそのそろばん占いを見た。
弥助は宗湛の前でいきなりそろばんをとり出し、鹿爪《しかつめ》らしい顔でぱちぱちと鮮やかに玉を弾《はじ》いた後、やおら云った。
「ええことおまへんな」
弥助の日本語はその時の気分次第で大坂言葉、京言葉、長崎言葉と変化する。
「どういう風に悪い」
慶次郎が訊くと、相変らずにこにこ笑いながら答えた。
「余計ないさかいが増えますわ。生命にかかわることもあるかもしれまへん」
「結構だな。旅は面白い方がいい」
慶次郎はどこ吹く風である。
「それにあの男えせ倭寇でっせ」
日本人でもないのに倭寇と称するのがえせ倭寇である。朝鮮でも明でも、本物の倭冦以上に嫌われさげすまれる存在だった。
「知ってるよ」
慶次郎は眉《まゆ》も動かさない。
「仲間と思われたらかないまへんな」
「わしはその手の男どもが好きでな。なんなら本物の倭寇になってもいい。面白いじゃないか」
どこまで行っても『面白い』の一点張りである。さすがに弥助もさじを投げかけたかに見えた。大きな溜息をついて黙ったからだ。
だがこれですんだと思ったら間違いだった。弥助はそんなやわな男ではない。
三日あとに慶次郎の前に現れるといきなり云った。
「あれは対馬の宗さまの刺客人ですたい。前田さまのお生命を……」
「狙ってもうしくじってるよ」
「斎藤《さいとう》五郎左衛門《ごろうざえもん》と云うのが依頼人ですたい。約束を守らん云うて、えらく立腹しとるとです」
「その男と会わして貰おう。ぶった斬《ぎ》ってやる」
さすがの弥助がぎくりとしたほどの殺気が一瞬に慶次郎の躰にみなぎった。
「そりゃいけん。手証がありまっしぇん」
「生命のやりとりに証拠がいるか」
これでは話にならない。薮蛇《やぶへび》になるのを恐れたのか、弥助にしては珍しく、そそくさと退散した。
次の日、夕刻になって金が薄ら笑いを浮べながら宗湛屋敷に帰って来た。
「五人ね」
いきなり云う。
「五人がどうした?」
捨丸が聞くと、金はくいっと咽喉《のど》を引き裂く真似をした。
「殺したのか」
捨丸が馬鹿のような質問をした。
「海へ捨てたね」
この日、金は宗兵衛と話をつけに行った。暫《しばら》く日本を留守にするわけだから、一応ことわってそくばくの銭を払うのがこの道の仁義である。宗兵衛はさんざんぼやいた揚句、
「浜伝いに帰るがよかばい。町の方な、依頼人の待ち伏せとるごたる」
宗氏の家臣斎藤五郎左衛門が手利きを揃えて金を斬ろうとしていると云うのだ。暗殺をしくじったのは仕方がないが、逆に相手に雇われたとなると、放っては置けない。何時《いつ》自分の身分が割れるか判ったものではない。何しろ関白秀吉から、全国気まま御免を許された無茶苦茶な男である。宗氏に対して何をするか判らなかった。悪いことに斎藤は金に顔を見られている。大急ぎで金を殺す必要がある筈だった。
金は仲間の宗兵衛を信じ、浜伝いの道を辿《たど》って逆に五人の刺客の襲撃を受けた。いずれも武士ではない。潮の香りの染《し》みついた海の男たちだった。或は倭冦崩れかも知れない。五人とも盛りはすぎているが、見るからに兇悪無残《きょうあくむざん》な顔をしていた。
だが海の男が強いのは船に乗っている時だけである。陸では手足に敏捷《びんしょう》さが欠け、金のような殺し専門の男から見れば隙《すき》だらけだった。金は剃刀《かみそり》一|挺《ちょう》を武器として、あっという間に五人の咽喉を切り裂き、死体を海に放りこんだ。折からのかわたれ時に、見ている者は一人もいなかった。
金はその足で宗兵衛の屋台に戻った。宗兵衛は金の顔を見た時から、もう震えはじめていた。
「さっきの銭、返しちくれんね」
金が平静な顔で云うと、慌てて全額返してよこした。
「五人の依頼科の後金も貰うといてよかじゃろ」
これもすんなり払ってくれた。宗兵衛はこれで生命だけは助かったと信じたらしい。
「依頼人の名は?」
宗兵衛がその名を吐いた瞬間、金はにっこり笑って剃刀を抜き、宗兵衛の咽喉をかき切った……。
「依頼人、誰と思うか」
相変らず笑いながら金が訊いた。
「弥助さ」
慶次郎があっさり云ってのけて、金を驚愕させた。
「何故判るね」
本気で訊いた。金には思いもかけぬ名だったからだ。
「侍が船乗りを刺客に雇うか。博多の商人の考えそうなことさ」
慶次郎にはお見通しだった。金は僅かながらこの男に恐怖を感じた。
「それにあの男はしつこい。並大抵じゃない。おぼえておいた方がいい」
「必要なか。殺すけん」
「弥助をここへ呼ぶ。お前の目の前で、殺しを頼んだかどうか訊いてみよう。もし素直に頼んだと白状したら……」
「そげなこと云うわけなか」
金が呆れたように云う。
「だからさ、もしあっさりと認めたら……」
慶次郎はじろりと金を見た。凄《すご》い眼だった。
「殺すことはならん。いいな」
「云うわけなかね」
金はもう一度繰り返した。
慶次郎は手を叩いて店の者を呼び、弥助を連れてくるように云った。
慶次郎は動かない。捨丸は縁に腰かけて、焙烙玉の製作に余念がない。木の椀を合わせた球で、中に煙硝・硫黄と共に鉛弾二三十個をつめ、球のまわりに紙を何枚も張る。時に牛皮を糊《のり》づけして張ることもある。口火がぽつんととび出していて、これに点火して投げる。多人数相手の戦闘用だった。
これで誰一人前もって弥助に予告することは不可能の筈だった。
やがて弥助が来た。叮嚀《ていねい》に挨拶して入ると、いきなり笑い出した。額を叩いて一応は恐縮の態《てい》を見せているが、内心愉快で仕方がないといった風だった。
まだ誰も一言も口を利いていない。
「何がそんなにおかしいんだね」
慶次郎が尋ねた。
「いやあ参りましたわ。実は金さんの腕試してみたれ思いましてなあ、宗兵衛はんに頼んで喧嘩《けんか》売って貰いましてん。まんまと失敗や。あはは。金さん、堪忍《かんにん》どっせ。けど強まんなあ、あんた」
金は開いた口が塞《ふさ》がらなかった。
「したたかなことだな、弥助」
慶次郎が云うと更に笑って応えた。
「そらそうですがな」
二日後、四人は博多を船出して、釜山《ふざん》に向った。
唐入《からい》り
海峡は濃い霧だった。
島影も見えず、まるで幻の海を行くようだった。
波は穏やかで、船は滑るようにその夢幻の海を進んでゆく。
この船は三千石積みの和船である。こんな大船には慶次郎も捨丸も乗ったことがなかった。
慶次郎は艫屋形《ともやかた》の屋根の上にごろりと横になって、のんびり酒を含んでいる。いつもの大きな瓢《ふくべ》が手もとに据《す》えられている。
金悟洞が膝《ひざ》をかかえてその隣にいる。
捨丸は松風と野風のそばを一刻《いっとき》も離れられずこの場には居ない。実は船酔いするのではないかと、金は疑っていた。
慶次郎が無言で大盃《たいはい》を金に廻《まわ》す。
金も無言でゆっくり酒を呑《の》み干した。
〈変った旦那《だんな》だ〉
つくづくそう思う。金も何人か主《あるじ》に仕えたことはあるが、こんなのは初めてだった。いつ生命《いのち》を狙《ねら》ってもいいと云《い》うのも変っているが、つき合っている内に、とてもそんなものではないことが判《わか》って来た。
この男の頭には主人も従者もない。全くの対等なのだった。ただの人と人、或《あるい》は男と男なのだ。盃《さかずき》も、下さると云うのではない。廻すのである。呑み仲間のような気易《きやす》さである。遠慮などしようものなら、心から不思議そうな顔をする。
「躰《からだ》でも悪いのか」
そう訊きたそうな表情だった。だから遠慮する方が馬鹿《ばか》を見る。
怒って怒鳴りつけると云うことも全くない。ただじろっと見るだけである。それだけでどきっとする。本当に怒ったら、恐らくいきなり叩《たた》っ斬《き》るんじゃないか。そんな気がする。だからこの、じろり、に会うと思わず躰が硬くなるのだった。
だが平穏な時の何という安らかさだろうか。たとえば今、こうやって海の上にいて、霧に包まれて、酒を呑んでいる。この充足した気分はいまだ嘗《かつ》て金の味わったことのないものである。こんな時間を持つためなら、男は何でもするんじゃないか。そんな気さえして来る貴重な刻《とき》が流れてゆく。
「えへん」
わざとらしい咳払《せきばら》いがした。
金は露骨に顔をしかめた。いやな奴《やつ》が来た。勿論《もちろん》これは弥助《やすけ》だった。
「何見てはりまんねん」
上って来ると云った。
「えらい霧や。なーんも見えへん。折角の景色がわやや」
「俺《おれ》たちはその霧を見ているのさ」
慶次郎の声は心から満足そうだった。
「しょむない。霧を見て何になりまんねん。ほんまやったら、そろそろこっちに五六島が、あっちに影島が見える頃《ころ》や。五六島というのはでんな、東側から見ると六つの島に、西側から見ると五つの島に見えるという……」
「弥助よ」
慶次郎が眠そうな声を出した。
「うるさいんだよ、お主《ぬし》」
「うる……」
弥助が絶句した。
「わては案内人でっせ。これでも一所懸命朝鮮という国を説明しようと……」
「説明はいらん」
「そんな……」
「いらないんだ、そんなものは」
慶次郎がむくりと起き上った。
金は一瞬どきっとしたが、相手が自分ではないのを思い出して力を抜いた。
「これから朝鮮に着くんだから、はっきり云っておく。わしには説明は一切不要だ。あんたはこちらが聞いたことにだけ返事をしてくれればいい」
「けどそれやったら、何で朝鮮くんだりまで行くのか意味ないことになるんと違いまっか」
「そうでもないさ」
慶次郎の声が再びもとの柔らかさに戻《もど》っている。
「俺は別に朝鮮を攻めたいわけじゃない。だからこの旅は敵情偵察《てきじょうていさつ》じゃない。それなら俺はことわってるよ。ただ見てくりゃいいと云うから来たんだ」
盃になみなみと酒を注《つ》いだ。
「俺は朝鮮を知りたいわけじゃない。地図が描きたいとも思わない。ただただうろうろ歩いて、風土を見、人に会えばいい。朝鮮の人間が何を着、何を喰い、どんな酒を呑み、どんな夢を見るか。そいつが判ればそれでいい。出来れば心の許せる友の一人も見つかればこれに過ぎたるものはない」
「言葉も判らんで友達が出来まっかいな」
弥助の声に嘲《あざけ》りがあった。
「俺はそうは思わんな。そもそも友とは何かを喋《しゃべ》るものかね」
これは弥助の理解の外にある。金は思わずにたりと笑ってしまった。果して弥助は何かわけの判らぬことを呟《つぶや》きながら早々に降りていってしまった。
慶次郎がまたごろんと寝ころんだ。
金は黙って慶次郎の盃を満たした。
霧が流れた。風が立ったらしかった。
この頃、朝鮮の都漢城の東平館で、一人の日本人の僧侶《そうりょ》が、黄允吉《こういんきつ》と金誠一の訪問を受けていた。東平館とは日本からの使節が滞在する館《やかた》だ。この僧も正月に宗氏の家臣|柳川《やながわ》調信《しげのぶ》と共にこの国に来た人物だった。
僧の名は景轍《けいてつ》玄蘇《げんそ》。博多《はかた》聖福寺《しょうふくじ》の僧であり、外交僧として既に何度かこの国を訪れていた。
『倭人《わじん》中、頗《すこぶ》る文字に通じ、而《しかう》して作詩を喜び、又必ず文を能《よ》くす』(『宣祖実録』)
と云われ、教養人として朝鮮側から高い評価を受けていたからである。
対馬《つしま》藩主宗|義智《よしとし》はこの玄蘇をことのほか頼りにしていたらしい。天正十七年には玄蘇を正使とし自らは副使となってこの国に渡っている。
黄允吉と金誠一の二人は前年、朝鮮通信使の正使、副使として日本へゆき、関白|秀吉《ひでよし》に対面して来た男たちである。黄は秀吉が朝鮮に攻めこむ意図を持つと信じ、金はただの恫喝《どうかつ》であると信じている……少くとも帰国後国王宣祖にそう報告している。
今日の訪問は接待のためだが、話はどうしてもその件に及ばざるをえない。
玄蘇はこの当時の国際人だった。別に異国に多く旅していたからではない。感覚が、自国中心的でない。諸外国の状況を知悉《ちしつ》し、その動きと勢いをほぼ正確に読んでいる。現代風に云えば思考がグローバルなのである。
この僧侶は関白秀吉の愚かさをよく知っていた。いわゆる唐入《からい》りに何の必然性もないことを承知している。朝鮮を先兵として明国《みんこく》を討つ、つまり『征明嚮導《せいみんきょうどう》』はたわ言にすぎない。朝鮮が明に対してそんなことをするわけがない。朝鮮の国情を知っている者には自明の理である。だが秀吉は知らない。朝鮮が拒否すれば秀吉は激怒し朝鮮を討つだろう。勝手きわまる怒りであり、愚劣としか云いようがないが、それだけですまされないのは、その皺《しわ》よせを受けて苦しむのが日本全国の大名であり庶民であり、朝鮮の官民だからである。
玄蘇の目的はただ一つ、この誰《だれ》にとっても無益以外の何物でもない戦争を起こさせないことだった。そのためならどんな嘘《うそ》もつく。詐称《さしょう》もする。脅喝《きょうかつ》さえ辞さない。僧侶の身としてあるまじきことであるが、そんなことを気にしてはいられない。それだけの覚悟があった。 とにかくあと数年の辛抱である。玄蘇の見たところでは、秀吉の寿命は決して長くはない。秀吉さえ死ねば、こんな愚劣な戦いは忽《たちま》ち解消される筈《はず》である。それまで忍びに忍んで、嘘でもいい、ぺてんでもいい、秀吉の気をそらすことさえ出来れば、無辜《むこ》の人々の死は免《まぬか》れうるのだ。それが玄蘇の切なる願いだった。
『中朝、久しく日本と絶ち、朝貢通ぜず。平秀吉、此《二れ》を以《も》って心懐慣恥し、兵端を起さんと欲す。朝鮮、若《も》し先に(明へ)奏聞を為《な》し、貢路通ずるを得せしめば、則《すなは》ち必ず無事なり。而して、日本の民、亦た兵革の労を免れん」
これは『宣祖修正実録』にある玄蘇の金誠一に語ったと云う言葉だ。この言葉は必ずしも秀吉の真意を伝えたものではない。朝鮮が受《う》け容《い》れやすい、そして朝鮮が戦争にまきこまれずにすむ道を教えているようなものだ。
秀吉の目標は明国なのだから、朝鮮は積極的にその両者を周旋することにより、或《あるい》は周旋すると称することにより、少くともかなりの時を稼《かせ》ぐことが出来る筈である。極端に云えば、明には何も云ってやらなくてもいい。秀吉の言葉を伝えたと称して、秀吉の気に入るような返事を小きざみに出してやればいい。そうやって時を稼ぎ、秀吉の死を待つ。或は明と充分に相談し、自国の軍備を整え、秀吉も簡単には攻められぬ状況を作ることも出来る。朝鮮が手強《てごわ》いと判れば、秀吉も慎重になる筈である。
これが玄蘇の考えだった。
だが秀吉が朝鮮を誤解したように、朝鮮も日本を、秀吉を誤解していた。日本を化外《けがい》の国(教化の及んでいない国)と看做《みな》し、秀吉を恫喝好きで傲慢《ごうまん》なほら吹きととった。まして明国は朝鮮が服属している大国である。玄蘇の云うごまかしなど、話にもならなかった。これより後、六月に宗義智が玄蘇と同じ趣旨でかき口説いた時の朝鮮側の返事が『朝鮮通交大紀』にある。
『然《しか》りといへとも貴国は朋友《ほういう》の国なり。大明は君父なり。若し、貴国に便路を許さは、是《こ》れ友有事を知りて、君父有を知らさるなり。匹夫《ひっぷ》すら是を恥つ。況《いはん》や礼儀の国に於《お》てをや』
玄蘇に対する金誠一の返事も似たようなものだっただろう。玄蘇を責めたかもしれぬ。
玄蘇は苛《いら》だったのだろう。途方もない返事をしている。
「昔、朝鮮は元の兵を案内して日本を討ったではないか。日本はこの怨《うら》みを晴らそうというのだ。無道とはいえまい」
これも言葉通りの意味ではあるまい。昔、元を案内して、と簡単に云うが、実はこの時朝鮮は国をあげて惨憺《さんたん》たる目に遭《あ》っているのだ。またそんな目に遭いたいのかと玄蘇は云っているのだ。だから案内役はやめて周旋役に、つまりは調停役に廻れと云うのだった。
だがそんな論理が通じる相手ではない。とにかく『礼の国』なのだ。だが礼のために何万、何十万という人間の血を流そうと云うのか。
玄蘇は内心|憂鬱《ゆううつ》極まりなかった。
当時の釜山《ふざん》は富山浦とも書く。小さな漁村にすぎなかった。釜山浦から十五キロほどのところにある金井山麓《クムジョンさんろく》の東莱《トンネ》が、慶南地域の行政・商業・交通・文化の中心地として栄えていた。東莱城もここにあった。城は釜山にも左水営にもあった。
慶次郎の一行は釜山浦に上陸するとすぐこの東莱に来た。
例によって弥助がしゃしゃり出て、釜山浦になぞ見るべきものはないと云い立て、無理失理この町に連れて来たのである。
さすがに松風は船の影響を全くと云っていいほど受けていなかったが、野風の方はその主人である捨丸もろとも、幾分元気がなかった。人馬ともにかなりの船酔いに見舞われたようだ。それでも土を踏むと元気をとり戻した。
慶次郎の眼《め》は何よりも先に朝鮮服に惹《ひ》きつけられたらしい。その軽くゆるやかなしつらえがひどく気に入ったようだ。やはり生れついての『傾奇者《かぶきもの》』と云うべきだろうか。
「あれを着てみる」
そう云い出して、弥助が何と云ってもきかない。着いた次の日には白の朝鮮服を着て、おまけに背の高い朝鮮帽をかぶり、長煙管《ながぎせる》をくゆらせながら、悠然《ゆうせん》と松風に揺られていた。
それがまた憎いことにぴったり合うのである。もっとも服の上に帯を巻き、両刀を門《かんぬき》に差した姿は、この土地の人々には異様なものと映ったらしい。往《ゆ》き交《か》う人々が一様にぽかんと口をあけて見送っていた。
「お願いですから、それだけはやめて下さい。ごたごたの元です」
弥助が恐ろしく真剣な顔で頼んだ。この男は本気になると東国の言葉を使うらしい。案外生れは箱根山の向う江戸から小田原にかけてのどこかではないかと、慶次郎は秘《ひそ》かに思った。
「何故《なぜ》だ」
「何故って……」
弥助にも巧く説明出来ない。
「前田様だって南蛮人が日本の着物を着ていたら、妙な格好だとお思いになるでしょう。何となく気に触りませんか。そうなるといらざる喧嘩《けんか》を吹っかける者も出て来るでしょうし、喧嘩となれば役人がとんで来ます」
「甚《はなは》だ結構だな」
慶次郎がひどく嬉《うれ》しそうな顔になった。
「朝鮮に着いた次の日に、かぶくことが出来て、その上、喧嘩まで出来るなんて上等すぎて罰が当りそうだ」
弥助は蒼《あお》くなった。
〈このお人は本気だ〉
今まで弥助は慶次郎の云うことをすべて言葉の上のことだと思っていた。本心そう思っているなど夢にも思わなかった。
〈えらい役を引き受けちまった〉
自分ともあろうものがと、舌打ちしたい思いだった。こんな男の案内をしていた日には、こちらまで災害に見舞われかねない。下手をすれば生命懸《いのちが》けだ。
不意に金悟洞が云った。
「ごたごたな向うから歩いて来たごたる」
この男も嬉しそうに、にたりと笑って見せたものである。
だが弥助は金の笑いを見ている余裕がなかった。正しくごたごたが道の向うからやって来ていた。
それは馬に跨《またが》った武将らしい男と、その部下の一隊だった。どうやら東莱城の市中見廻りらしい。
武将の名は鄭撥《ていはつ》と云った。
この国では武将の地位は低い。儒学を学んで文科の試験に及第した者だけが官界で出世の道を辿《たど》り、武官は文官の下位に属し、その意のままに操られる存在だった。
鄭撥はそれが面白くなくて仕様がない。学者に兵が操れるか、と思う。兵書ぐらいは読んでいるかもしれないが、書物でいくさが出来るわけがない。それに軍籍簿に男たちの名は連ねてあっても、訓練一つしたことのない男|達《たち》ばかりである。いざとなれば逃げ散るか無益に殺されるかどちらかだった。この国には一握りの下級武官以外にプロの兵士といえる者はいなかったのである。
軍籍簿にある農民や町民を集めて訓練しようとしても、何《なに》や彼《か》や口実をつけて集まって来《こ》ない。それを強行して逆に訴えられでもしたら、どんな目にあうか判らなかった。何しろ国王宣祖は大の戦争嫌《せんそうぎら》いなのである。そのくせ町民は勿論、農民まで酒に溺《おぼ》れ、町では楽と舞いに酔《よ》い痴《し》れていた。やがて世は亡《ほろ》びるという噂《うわさ》が流布《るふ》し、せめて生きている間に好きなことをしようと、破産になるほど遊びにうつつを抜かす者さえいる。若い者は日本に於ける『傾奇者』と全く同じ感じになるのが多く、奇抜なことに耽溺《たんでき》し、生命を賭けさえした。
鄭撥はその風潮が苦々しく、こうして毎日のように城下を巡察して廻っては、その手の『傾奇者』を見ると引っ捕え、城へつれ帰って厳しい訓練でしごきあげ、性根《しょうね》を入れ替えさせるのを日課としていた。前田慶次郎とゆきあったのは、そんな一日だったのである。
何しろ慶次郎は目立った。
この国でも滅多に見掛けることのない巨大な馬にまたがり、異様としかいいようのない服装で長大な煙管で煙草《たはこ》を吸っている。おまけにそのつれは朱色の長槍《ながやり》を担《かつ》いで、馬の左側を歩いている。右側には馬鹿長い鉄砲を背に負った険しい顔の男がついている。
これが鄭撥の注意を引かない筈がない。
だが一瞬とまどった。主従ともに若くなかったからだ。『傾奇者』という齢《とし》ではない。それに馬上の男は明らかに倭人《わじん》だった。
だが見すごすわけには行かない。
「止れ」
部隊をとめると道一杯に展開させた。部下の半分が半弓を持っている。忽ち矢を引き抜いて、いつでも弓を放てるように用意した。
捨丸は朱柄《あかえ》の槍《やり》を素早く慶次郎に渡した。己れは松風から離れながら懐中|火縄《ひなわ》と炸裂弾《さくれつだん》をとり出し、両手に握った。
金悟洞も松風から離れ道端に寄りながら、手が何本かの※[#「金+票」、第4水準2-91-35]《びょう》を握っている。※[#「金+票」、第4水準2-91-35]は手裏剣に似た中国の投擲用《とうてきよう》の武器である。金はこれを一呼吸で五本、立て続けに投げることが出来る。
松風の後方を歩いていた弥助が抱《あわ》を喰《く》って前に出た。鄭撥に向い合う形になった。
慶次郎は片手に朱柄の槍を掘りながら、相変らず煙管を吸っていた。のんびりした表情で、面白そうに弥助と鄭撥を眺《なが》めている。まるで他人事《ひとごと》のように、二人のやりとりを見ているつもりのようだ。
鄭撥が弥助に何か喚《わめ》いた。
弥助がへらへら笑いながら何か答えている。中々の度胸だった。臆《おく》している様子は一切ない。朝鮮語も流暢《りゅうちょう》なものだった。
「おい」
慶次郎が弥助に声を掛けた。
「何を喋っているのか知りたいな」
「ちょっと待っておくれやす。この隊長はんわしらをかぶき者と思うてはるんですわ」
「結構鋭いじゃないか。確かに俺はかぶき者だよ。俺が誉《ほ》めてるって云ってくれんかね」
弥助が慌てて手を振った。
「暫《しばら》く邪魔せんといておくれやす。大事なとこですさかい」
金悟洞の声がとんで来た。嘲《あざけ》るような調子がある。
「その男、旦那《だんな》のことを阿呆《あほう》のように云うとりますぜ」
弥助がぎょっと金を見た。朝鮮語の判る男がいたのを忘れていたのだ。
慶次郎が哄笑《こうしょう》した。
「そんなところだろうと思ったよ」
「つまらん口出しせんといてや。あの矢で針鼠《はりねずみ》になりたいんか、あんた」
弥助が金に怒鳴った。
「弥助」
慶次郎がぴしりと云った。
「妙なことを云うと、その男たち、一人残らず殺すぞ。気をつけて口をきけよ」
「そんな無茶な。この人たちはお城の……」
慶次郎の足が松風に合図を送った。
突如、松風が凄《すさ》まじい勢いでとび出した。
鄭撥を乗せた馬が棒立《さおだ》ちになる。鄭撥がふり落された。はね起きようとする鄭撥の咽喉笛《のどぶえ》にいつ鞘《さや》を払ったのか槍の穂先がぴたりと擬せられている。鄭撥は地べたに大の字になったまま身動きも出来ない。
「弥助よ」
慶次郎が妙に優しい声で云う。
「この男に云え。部下たちに半弓を蔵《しま》うように命じろとな。わけもなく喧嘩を売る気なら、このまま殺す。部下も生きてはいまい。捨丸が握っているのは炸裂弾だ。金の手裏剣は部下が矢をつがえるまでに五人は殺す。さあ、その通り伝えろ」
捨丸は既に炸裂弾の口火に火縄から点火していた。
弥助はあまりの衝撃に一瞬言葉が出て来ない。
「早いことしないと投げるしかなくなりますがね」
捨丸が穏やかに云った。
〈なんて男たちだ〉
弥助は悪鬼の群れを見るように主従二大を見廻すと、急いで鄭撥に通訳した。
鄭撥が大きく目を瞠《みひら》いた。
慶次郎はその咽喉から槍を引くと、
「一つよこせ」
捨丸に手を差し出した。捨丸が炸裂弾を手渡した。慶次郎はそれを鄭撥の方にそっと転がした。鄭撥は愕然《がくぜん》とはね起き、大きくとびすさりながら部下たちに何か喚いた。
部下たちも仰天して、一斉《いっせい》に地に伏した。全員炸裂弾の恐ろしさをよく知っているのだ。
慶次郎は笑いながら、槍先に炸裂弾をひっかけ、はね上げると手で掴《つか》んだ。素早く短くなった火縄を指でもみ消し、捨丸に放《ほう》った。
捨丸が慎重にもう一度火縄を消す。
「槍で刺すと爆発することがありますよ」
咎《とが》めるように慶次郎を見た。
「知ってるよ。ひっかけただけさ」
慶次郎は平然たるものだ。
鄭撥と部下たちが地に伏せたまま、恐る恐るこちらを窺《うかが》っている。あまりの荒芸に肝をとばして、攻撃する気などどこかに消しとんでいた。もともと人間を弓で射たことなど一度もない連中ばかりだった。
「弥助」
「へ、へい」
弥助の声が僅《わず》かながら震えた。
「その隊長にうまい酒を呑ます店を訊いてくれ。俺が一緒に呑みたいと云ってるとな」
弥助が鄭撥につかえつかえ通訳した。
鄭撥の目がもう一度大きく瞠かれた。
夜。
慶次郎は痛飲した。鯨飲と云ってもいい。
東莱の酒家である。鄭撥の行きつけの店らしい。確かに酒も食い物もうまかった。
鄭撥もしたたかに酔っていた。彼も大酒のみの列に入るが、この倭人には到底及ばない。腕も度胸も酒量までも並はずれていた。
最初は二人とも黙々と呑んでいたのだが、鄭撥の方がなんともいい気分に酔って来て、今や喋りづめである。お蔭《かげ》で弥助は通訳のしっ放しで碌《ろく》に酒を呑む暇《いとま》もない。金悟洞は隣の卓で一人ちびちびとやっている。時々鋭い眼を店内に廻《めぐ》らすだけで、あとはにやにや笑いながら肴《さかな》をつつき、酒をなめている。慶次郎の護衛役だから普通なら酒は禁物の筈なのだが、当の慶次郎が呑め呑めとすすめる。それに多少の酒で腕が鈍ることもなかった。
捨丸だけが松風と共に店の表にいる。これはさすがに一滴の酒も呑んでいないようだった。
鄭撥はようやくろれつが廻らなくなって来ている。話がしつこくなり、接穂《つぎほ》もなく話題が変る。弥助は大忙しだった。
武官蔑視《ぶかんべっし》への憤懣《ふんまん》、いくさを知らぬくせにえらそうに命令だけ発する文官へのさげすみ、頼りになる兵卒を持つことの出来ぬ軍制への怒り、どれをとっても今の日本が心底掴みたいと思っている情報ばかりである。それを具体的な数字を上げながら、この武将は夢中になって喋っている。
弥助は信じられなかった。何という見事さであるか。慶次郎の密偵《みってい》としての腕の良さは自分の予想を遥《はる》かにしのぐものがあった。労せずしてこれほどの情報を掴んで顔色一つ変えない……。
その時、慶次郎が云った。
「弥助よ」
「へい」
「その男に云ってくれ。お前は今酔って国の秘密を喋っている。恐らく数字は出鱈目《でたらめ》だろうが、それにしてもこの国の欠陥を異国人に喋るのはよくない、とな」
「そんな!」
弥助は思わず叫んだ。
「その手の情報を掴んでお帰りになるのが、前田さまのお役目でしょう」
「見積うな。俺は密偵じゃない。俺はただこの国を、この国の人間を見に来ただけだ。今この国を思う一人の武将に逢《あ》った。お蔭で今夜はひどくいい気分で酔える。そう伝えてくれ。正確にだぞ。いい加減な伝え方をしたら、お主は死ぬと思え」
弥助は思わず金悟洞を見た。金が白い歯を見せて頷《うなず》いた。聞いているよ、と云っているのだ。
弥助は思わず胴震いした。首のあたりにうそ寒い風が走った。用心して一語々々間違いのないように、鄭撥に伝えた。
突然、鄭撥が変貌《へんぼう》した。先ずしゃきっと躰《からだ》を起した。眼が鋭くなり、身ぶりに無駄《むだ》がなくなる。今までの酔態は嘘のようにかき消えていた。事実、酔ったと見せたのは偽態だったようだ。
「どうして判った、と訊いてくれ」
鄭撥が叫ぶように弥助に云った。弥助には一瞬意味不明の言葉だった。だが、そのまま慶次郎に伝えた。
慶次郎が笑った。弥助が見ても、なんともいい笑いだった。
「本物の酒呑みには、相手の気持が手にとるように判るんだよ、弥助。なんとなくそうなるんだなぁ」
漸《ようや》く弥助にも判った。鄭撥は慶次郎の凄まじい腕と、外見上の異様さに、初手から密偵の疑いを抱いていたのだ。だから酔ったと見せかけて国防上の機密を喋り、慶次郎の出方を窺っていたのだろう。あげた数字はいい加減なものだったに違いない。
おまけに慶次郎がその話に関心を見せれば、直ちに逮捕し処刑出来るような手を打って来たに遠いなかった。つまり十中九までこの酒家は手練《てだ》れの兵によって囲まれている筈である。そう云えばこの店の客はすべて屈強な男たちであり、女連れは一人もいなかった。使用人もそんな仕事の男たちにしては頑丈《がんじょう》で、給仕のしぐさがぎこちない。つまり自分たちは完全に敵のまっただ中にいたことになる。
弥助は冷水を浴びたような気分になりながら、慶次郎の言葉を正確に伝えた。
鄭撥がまた変貌した。
見る間に照れ臭そうな顔になり、立ち上って丁重に慶次郎に一礼したのである。
「すまなかった。わしは武人にあるまじき小細工をした。心から謝る。これから本当に酔うがつき合って貰《もら》えるだろうか」
弥助の通訳は不必要だった。
慶次郎は無言で銚子《ちょうし》をとり上げ、鄭撥の盃を満たした。鄭撥も心底嬉しそうに、自分の銚子をとって注ぎ返した。二人は同時に盃をあげ一息に呑み干すと、愉《たの》しげに笑った。
鄭撥が一声喚くと、今までそしらぬ顔で呑み食いをしていた客たちが一斉《いっせい》に立って、一人ずつ慶次郎に近づき、恭《うやうや》しく盃を献じた。そのたびに鄭撥が名前を告げる。慶次郎は泰然自若として、差される盃を片っぱしから引き受けて、うまそうに呑んだ。そこには何の作為もないことが、弥助にもはっきり判った。
心を許し合った友に対する誠意しかない。たとえ初対面であっても、相手の素姓など何一つ判らなくても、男は一瞬にして莫逆《ばくぎゃく》の友になり得るのだということを、弥助は悟らざるをえなかった。
〈俺は一体今まで何をして来たんだ〉
弥助が自分の人生に対して疑いを抱いたのはこれがはじめてだった。だが同時に、身内の引緊《ひきし》まるような警戒心が湧《わ》いた。
〈この人に惚《ほ》れたらえらいことや〉
慶次郎に惚れたら最後、自分が営々と築き上げて来た人生が崩壊してしまうことを、弥助は本能的に知ったのである。
〈所詮《しょせん》、酔狂人や。碌な死にざまはせえへん〉
故意に上方言葉《かみがたことば》で思考した。そうでもしないと保《も》ちそうもない感じがしたためだ。
〈お前も野たれ死したいんか、弥助〉
自分を叱咤《しった》しなければならないとは、辛《つら》いことである。それほど慶次郎の生きざまが羨《うらやま》しかったと云える。
〈この人は化けもんや。並の人間が真似《まね》したら、忽ち潰《つぶ》れてまうわ〉
少くとも酒の上では慶次郎は正しく化物だった。どれだけ呑んだか計算も出来ない。それでも崩れなかった。相変らず爽《さわ》やかに、温かく笑っている。呆《あき》れたことに、急速に朝鮮語も習い覚えてゆくようである。何と鄭撥と怪しげな片言で喋り合っているではないか。弥助の出場《でば》はなくなったようだった。自分がみるみる酔ってゆくのを弥助は感じていた。
〈酔いでもせなんだら危ない〉
どこかでそんなことを考えている自分を、弥助はおぞましく観《み》ていた。
伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴《カヤグム》
慶次郎がその琴の音を聴いたのは、東莱《トンネ》から密陽へゆく山中である。
足もとに流れる川音に混って、それは正しく夢幻の音のように微《かす》かに聞えた。
慶次郎は松風をとめて暫《しばら》く耳を澄ましていた。
気づかずに先にいった弥助《やすけ》が慌てて馬首を返して来た。弥助も金悟洞も釜山《ふざん》で買い求めた朝鮮の馬に跨《またが》っている。弥助の手綱さばきは中々堂に入ったもので、この男の多芸さを明かしていた。
「どないしやはりました」
「琴だ」
慶次郎は眼《め》を上げて山頂を窺《うかが》った。
「だがちと違うようだ」
云った瞬間にもう動き出していた。道を離れ、山腹を上ってゆく。
「迷子になりまっせ」
弥助が泡《あわ》をくって喚《わめ》いた。
「山は危のうます。虎《とら》が出まっせ」
「琴を弾く虎か。逢《あ》ってみたいな」
慶次郎は笑いながら上ってゆく。何の指図をしなくても、松風は琴の音の方へ進んでいた。文字通りの人馬一体だった。
捨丸を乗せた野風と金を乗せた朝鮮馬がそれに続く。この二頭には慶次郎の気持は読めないが、松風には無条件に従うのである。弥助を乗せた朝鮮馬さえ、何の抵抗もなく三頭のあとに従って山を登りだした。弥助の手綱さばきなど全く軽視している。弥助にはそれが面白くない。
〈馬まで手なずけよってからに〉
誰《だれ》も彼《かれ》も慶次郎の思い通りに動くのが気に入らないのである。弥助はこの国を知っているから案内人として撰《えら》ばれたのだ。案内人に従って貰《もら》わなくては面目も立たないし、責任も負いかねる。だがそれを云うわけにはゆかなかった。云えば慶次郎のことだ。
「帰っていいぞ」
あっさりそう云いかねない。それこそ弥助の最も恐れているところだった。慶次郎の機嫌《きげん》を損ねてもどうということはないが、神谷《かみや》宗湛《そうたん》にたかが道案内も出来ぬ男かと思われては、この先商人としてやってゆけなくなる。口惜《くや》しいが慶次郎を追ってゆくしかなかった。
登るにつれて琴の音が大きくなって来た。嫋々《じょうじょう》としてしかも冴《さ》え返《かえ》り、魂を天外に誘う不思議の音色だった。弾き手も只者《ただもの》ではないが、楽器も並のものとは思われない。
不意にその音がぷつんと熄《や》んだ。
同時に女の悲鳴が上る。
松風の歩幅が拡《ひろ》がる。まるで跳躍するように走った。
山の中腹だった。斜面を切り開いて小ぢんまりした家がある。庵《いおり》に似ていた。その縁で男が女を組み伏せようとしている。ごくありふれた情景を異様なものにしているのは、五人の明らかに武人と見える男たちが、そちらには背を向け腕を組んで立っていたことだ。護衛のようだった。木に六頭の馬がつながれ、木立の中に細い小径《こみち》が見えた。
松風と共にとび出した慶次郎を見ると、その五人が一斉《いっせい》に剣を抜いた。いずれも屈強の大男ばかりだった。
「捨丸!」
慶次郎が怒鳴ると、背後から朱柄《あかえ》の槍《やり》が飛んで来た。きちんと慶次郎が右手を伸ばせば掴《つか》めるあたりを走る。捨丸の投げ方にそつはなかった。
掴んだ瞬間に、五人の内、右よりの三人が地べたに転がっていた。脳天を強打されたのである。次いで左よりの二人が、げっという声と共に仰向けに倒れた。槍の石突きで胸を突かれたのである。
奇妙なのは、女を犯そうとしている男が一度も振り向かなかったことだ。この男はそれほど護衛を信用していたことになる。その横着ともいえる態度が慶次郎の癇《かん》に触《さわ》った。
槍が一閃《いっせん》すると、そのむき出しになった尻《しり》をずぶりと刺した。
「ぎゃあっ!」
男は絶叫し、女を放しのけぞった。その着衣に槍の穂をひっかけると跳《は》ねあげた。男は抛物線《ほうぶつせん》を描いて跳んだ。松の木にぶつかり護衛の一人の上に落ちた。
慶次郎は見むきもしない。
ゆっくり起き上り、身じまいをしている女を見ていた。
この当時の常識で云えば、女は美人ではなかった。下顎《したあご》が頑丈《がんじょう》で、意志の強そうな顔だった。だが色は抜けるように白く、漆黒の眼《め》が大きい。長い髪の毛を無造作に縛っている。小柄《こがら》で敏捷《びんしょう》そうな躰《からだ》だった。
「大丈夫か」
とは慶次郎は云わない。槍先で女のそばにある楽器をさした。
「それは?」
「カヤグム」
と女が答えた。
「わしの国では新羅琴《しらぎごと》と云う。珍しい楽器だ」
新羅琴は正倉院に三面ある。古代の琴だ。
「カヤグム」
女は断乎《だんこ》として云った。
「字は?」
慶次郎は字を書く真似《まね》をした。
一女は暫く慶次郎を睨《にら》むように見ていたが、座敷の奥から硯箱《すずりばこ》と紙を持って来た。
『伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴』
楷書《かいしょ》で大きく書いた。勢いのあるいい字だった。
「そうか。カヤゴトか」
「カヤグム」
女はもう一度云い、自分の強情さがおかしかったのか、くく、と笑った。笑うと花が咲いたようだった。齢《とし》も二十代前半らしい。
「判《わか》った。カヤグム」
慶次郎が云った時、急に馬蹄《ばてい》の音が起り、尻を刺された男と五人の護衛が大慌てで小径を遠ざかって行った。
「えらいこっちゃ。あの男、密陽府使の朴晋《ぼくしん》さまの弟御でっせ。何も槍で突かんかてよろしやおまへんか。厄介《やっかい》でっせ、これから」
弥助が怨《えん》ずるように喚いた。
府使とは今でいえば市長にでも当るのだろうか。中央政府から派遣された地方官で、当時の日本で云えば代官である。その弟の尻を刺したとなれば、確かにただごとで済む筈《はず》がなかった。もっとも傷はさしたるものではない。弥助が大慌てで金創膏《きんそうこう》を塗り、血どめだけはしておいた。府使の弟と称する男は怒りのあまり一言の口もきかず、手当を終えた弥助に平手打ちをくらわすと、馬にとび乗って去った。密陽に着くまでにまた出血を起すのは目に見えていた。
慶次郎には弥助の言葉など聞えていないようだった。女の顔をじっと見つめながら、琴を弾く真似をした。女は驚いたようだ。何か云った。
「今弾くのか?」
と訊いているらしい。慶次郎が頷《うなず》いた。女はちょっと考えて、やがて下唇《したくちびる》を噛《か》むようにして決意を固めると、伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴をとりあげ、調子を整えて弾き出した。
「阿呆《あほ》な。そんなのんき……」
喚きかけた弥助は、槍を脳天にくってへたりこんだ。慶次郎はこのために振向きもしない。
清冽《せいれつ》な音が湧《わ》き上《あが》った。心の隅々《すみずみ》まで洗うような音色だった。
捨丸は炸裂弾《さくれつだん》をとり出しながら、金悟洞は狙撃銃《そげきじゅう》に弾丸《たま》をこめながら、うっとりとこの音色にひたっていた。弥助さえ、頭をなでながらおとなしく聴いている。
いつか慶次郎は泣いていた。声こそ出さないが、大粒の涙が次々に頬《ほお》を伝う。
やがて曲が終った。
「ありがとう」
慶次郎はきっちりと頭を下げ、次いで硯箱の筆をとると、
『亡国』
と書いた。女の眼が大きく瞠《みひら》かれ、やがてこくんと頷いた。それは正しく亡国の悲しさを唄《うた》った曲だった。
伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]は古代南朝鮮に栄えた国である。六つの国の集合体だったので六伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]とも云う。温暖で豊かな風土に恵まれ、中国大陸の進んだ文明と技術を受《う》け容《い》れた文化国家だったが、不運なことに束に強大な軍事力を誇る新羅があり、遂《つい》にこれに併呑《へいどん》されてしまった。五六二年のことだ。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]という国名はその日をもって地上から消えうせた。たった一つ、その名を残した琴と、幾つかの曲だけが連綿と生き続け、亡《ほろ》び去《さ》った国への郷愁を奏《かな》でるのだった。女はその伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]王朝の裔《すえ》である。少くとも父はそう云っていた。この一家がどうしてこの山中に住むようになったか女も知らない。山中に僅《わず》かな畑を耕し、弓で鳥や獣を狩り、衣服は自ら織って、完璧《かんぺき》ともいえる自給自足の生活をして来た。母が死に、やがて父が死んだ。父が女に語ってくれたのは、すべて古代伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国の美しい話ばかりであり、今の国や習慣については何も教えなかった。女は外に出て行くことが出来ず、そのままここに住んだ。今日、琴の音に惹《ひ》かれて二人の男が来た。一人は犯そうとし、一人は助けてくれた。女の名は伽姫と云った。
「逃げるしかおまへん。相手が悪うます。このまま釜山へ逃げて、何とか船を工面して……」
「俺《おれ》は漢城府にゆくんだよ、弥助」
慶次郎はのんびり云いながら、座敷の奥を見ている。そこには明国《みんこく》の鎧《よろい》と巨大とも云える鉄弓、更に長大な鏑矢《かぶらや》の束が飾られてあった。鉄弓に弦は張られていない。
「そら無理ちゅうもんや」
「無理でもなんでも行くんだ。この娘御も一緒にな」
弥助が恐慌を来たした。
「目茶苦茶や」
慶次郎はもう聞いていない。伽姫を見て弓を指して訊いた。
「父上のものか」
伽姫に日本の言葉が判る筈はない。それでも慶次郎の云うことは判った。強く頷いた。
「見せて貰えるかね」
伽姫が黙って立つと、弓と鏑矢を持って来て縁に置いた。慶次郎がとり上げて驚いたように叫んだ。
「鉄弓か。あんたの父上はこれを引いたのか」
伽姫は誇らしげに頷いた。だが次の瞬間、驚いて目を瞠《みは》った。
慶次郎が無造作に弦を掛けたのである。それは凄《すさ》まじい膂力《りょりょく》を必要とする筈だった。伽姫は晩年の父が、ほとんど必死の力で弦を掛けていたのを覚えている。それをこの男は別に力む様子も見せず掛けた。その上、立ち上ると楽々と弓を引きしぼって見せた。放すと凄まじい音がした。
捨丸と金がさすがに仰天したようにこの弓を見た。
「弓の化物や」
「一矢で三、四人死によるたい」
二人はほとんど同時に叫んだ。
「弥助」
慶次郎が惚々《ほれぼれ》と鉄弓を見ながら云った。
「姐御にこの弓を貸してくれと云ってくれ。あの鎧もだ。それで府使の兵を喝《えっ》してやる。但《ただ》し以後ここには住めまい。わしと一緒に来るように云え」
「けど、そんなこと出来まへんで」
「出来るし、俺はやる」
じろりと見た。弥助の胆《きも》が凍った。暫く息を整えてから、ぽつりぽつりと伽姫に伝えた。
伽姫が拒否することを弥助が期待していたとしたら、見る見る輝《かがや》きを増して来る伽姫の眼の色に、さぞがっくり来ただろう。
弥助が語り終えると、伽姫は意外の所作をして見せた。いきなり慶次郎にひたと抱きつき、その胸に顔を埋めたのである。どうやら泣いていたらしい。この気の強い娘は涙を見せるのを嫌《きら》ったのだろう。
慶次郎は妙にきなくさい顔で伽姫を抱いてつっ立っていた。
〈惚れちまった〉
その顔を見た瞬間に捨丸はそう悟った。
〈もう駄目《だめ》だ〉
惚れたとなったら一途《いちず》になるしかない慶次郎を、捨丸はまつの例でよく知っていた。だから尚《なお》も何か云おうとする弥助の背を叩《たた》いて云った。
「諦《あきら》めい。あんた眼がないんか」
それでやっと弥助にも呑《の》みこめたらしい。深々と溜息《ためいき》をつくと、黙ってしまった。
密陽に至る途中に鵲院《しゃくいん》の桟道《さんどう》がある。千丈の絶壁に僅かに作られた一筋の道だった。上を見ても下を見ても凄まじい絶壁である。その下は黄山江の速い流れだった。完璧な隘路《あいろ》である。何千、何万の兵が来ようと、ここだけは精々二人しか並んで歩けない。
その釜山側の端に、慶次郎は立っていた。明国の鎧兜《よろいかぶと》を身につけ、手に鉄弓を握っている。
鞍《くら》につけた失壷《やつぼ》に長大な鏑矢が蔵《おさ》められていた。
その斜めうしろに、朱柄の槍を立てた捨丸が控えている。そのまた背後に弥助と一つ馬に乗った伽姫。そして例の長い狙撃銃を鞍の上に横たえた金悟洞。金は背後から来た者を狙撃する役だった。
人馬の響きが漸《ようや》く近づいて来る。曲りくねった道を三十人あまりの騎馬隊が近づいて来るのは、先刻《さっき》から眼に入っている。
先頭の一騎が桟道の向うに現れた。慶次郎を見て驚いたように足をとめかけたが、うしろから押されて急にはとまれない。
後から後から騎馬隊が桟道へ進んで来た。桟道に人馬が溢《あふ》れる。
その時はじめて慶次郎が動いた。
鏑矢がつがえられた。そのまま引きしぼられ、放たれた。
ひゅる、ひゅる、ひゅる。
鏑矢は音を立てて飛ぶように作られている。魂も凍りそうな音を立てながら、騎馬の者たちの頭上すれすれのところを飛んだ。
恐慌を起したのは馬だった。ほとんど一頭残らず棒立《さおだ》ちになり、乗手を振り落して、いま来た道を引き返そうとした。角のあたりで衝突が起り、何頭もの馬と兵が黄山江めがけて落ちていった。
「みんな泳げりゃいいがな」
慶次郎はそう呟《つぶや》きながら、二本目の鏑矢をつがえた。
二本目の鏑矢が飛び、三本目の鏑矢が飛んだ。その度に二、三人の兵士が断崖絶壁《だんがいぜっぺき》を落ちていった。最初から数えれば、もう十人は河中にいる筈である。
角を廻《まわ》って来る兵士がいなくなった。
「捨丸」
慶次郎が一言がなると、捨丸は朱柄の槍を渡し、野風から滑り降りると、恐ろしい速さで走り出した。
曲り角に近づくと方向を変え、垂直に近い絶壁を斜めに駆け上る。
弥助が眼を剥《む》いた。これほどの忍びの術を見たことがなかったのである。
捨丸は角近くの岩肌《いわはだ》にへばりついた。そのまま横移動すると、角から顔をつき出して覗《のぞ》いた。かなりの高さだから、仮に向う側の道で兵士たちが半弓を構えていたとしても、少くとも数瞬の間は気づくまい。
捨丸が指を二本立て、次いで掌《てのひら》を開いて二度振った。二十人いるという意味だ。次いで袂《たもと》を探って炸裂弾をとり出し、懐炉に似た懐中火縄《かいちゅうひなわ》から火を点《つ》けた。暫く口火の燃え方を見ていてから、ひょいと角の向うへ投げた。
爆発音が起った。
同時に慶次郎は松風を駆った。
岩角を廻ると、兵士たちが騒いでいた。また数人が断崖から落ちたらしい。残った兵士たちは先を争って密陽に向って逃走を始めていた。声を嗄《か》らして引き留めようとしているのは、先刻慶次郎に尻を刺された男だ。振り返って蒼白《そうはく》になった。慶次郎が疾風のように近づいて来たからである。逃げもかわしもならなかった。呪縛《じゅばく》されたように身動きもせずにいる間に、槍で脳天を一撃されて失神した。落馬する寸前に慶次郎の腕が伸び、軽々と引き抜いて荷物のように鞍の前に横たえた。
捨丸が野風で駆けつけた。それに向って槍を放《ほう》ると、再び鉄弓をひきしぼり、敗走する兵士たちの頭上に四本目の鏑矢を放つ。
ひゆる、ひゆる、ひゆる。
鏑は不気味な昔を高らかにあげながら飛び、兵士たちを恐慌に追い込んだ。狭い道には危険なほどの速さで、彼等《かれら》は駆けに駆けた。
慶次郎の一行はそれをゆっくり追って行く。
伽姫は弥助の馬の前鞍から身を乗り出すようにして手を叩いてみせた。眼がきらきらと耀いている。
弥助がやけのやん八のような声をあげて、慶次郎に語りかけた。
「どぎゃんしなさるとね。まさかこのまま密陽の町へ入りなさる気やなかでしょ」
慶次郎の声はのんびりと屈託がなかった。
「そのまさかだよ」
「無茶ですたい。殺されに行くようなもんたい。何でそぎゃん危なかこつ……」
「この馬鹿者《ばかもの》を兄貴に返してやらなきゃならんだろう」
慶次郎はまだ失神から醒めない男をこつこつと叩きながら云った。
「殺してやろうかとも思ったが、わしのせいでこの国の者が、倭人《わしん》を人殺しだと思いこんだりするといかんからなぁ」
不意に、男が頭から滑り降りようとした。慶次郎に叩かれて意識が戻《もど》ったのだ。
慶次郎はとめようともせず、松風を川の方へ寄せた。男はぎょっとなった。滑り降りればそのまま断崖を落ちることになる。必死にとまろうとするが、躰が勝手に滑ってゆく。悲鳴をあげ何か叫んだ。言葉が出来なくても、助けを求めていることは判る。それでも慶次郎は放って置いた。遂に躰の大半が断崖に向って乗り出し、足も離れたと見えた瞬間に、ようやく足首を掴み、片手で引き戻した。人間離れのした強力である。ついでに相手の腰のあたりをひょいと押した。かくんと音を立てて腰の骨がはずれた。
「これでもう悪さは出来まい」
慶次郎は平然と云った。
常陽府使朴晋は部下の報告を容易に信じることが出来ないでいた。
弟の朴義《ぼくぎ》が三十人の兵を引きつれ、血相変えて出掛けたこと、その前に尻の傷の手当を受けていったことはとっくに報告を受けていた。何の権限もないのに私兵のように城兵を使うことを、帰って来たら今度こそ厳しく叱責《しっせき》せねばなるまいと思っていたのだが、帰って来た兵士の話では、その半数が鵲院の桟道で長大な鏑矢を受け、断崖から黄山江に落ちたと云うのだ。鏑矢に射られた者はいないらしい。頭上すれすれを射られ、馬が狂奔したために黄山江に放り出されたものらしい。
それだけでもいい加減信じ難いのに、その鏑矢を射た男は倭人であり、もう一人、炸裂弾を投擲《とうてき》する小男もそうらしい。朴義は捕虜となり、その倭人たちは密陽の城めがけて接近中だと云う。人数はしめて五人、うち一人は女だそうだ。
こんな出鱈目《でたらめ》な話を信じろと云う方が無理である。朴晋ははじめ、弟がよほどの不始末をやらかし、それを糊塗《こと》するためにこんな途方もないうそ話を作り上げたに違いないと思った。ところがたった今、巨大な馬に乗り鉄弓をたずさえた倭人が城門に現れ、府使との面会を強要していると云うのだ。鞍壷には朴義が横たえられ、晋が会わないなら殺すしかないと云っている……。
〈いっそ放って置いて殺させるか〉
一瞬そう思った。
それほど晋はこの無頼の弟に手を焼いていたのである。だがこの儒教の国でそんなことが許されるわけがなかった。
やむをえず会おうと答えたが、使いの者が戻って来て、向うは城門の外で会いたいと云っていると伝えた。
考えてみれば当然の要求である。一歩城中に入って、門を閉められてしまえば逃走は不可能であろう。城内には少くとも百人の兵はいる。いくら無法で腕の立つ倭人でも、生きて城を出ることは出来まい。
〈あいつのためにこんな馬鹿な目に遣《あ》わされるんだ〉
晋は腹の中で弟を罵《ののし》りながら、やむをえず城門へ急いだ。
城門を一歩出ると、先《ま》ず地べたに長々と横になっている弟の姿が眼に入った。
朴晋は理由もなくかっとなった。弟に怒鳴った。
「なんだその格好は! 恥を知れ。府使の弟ともあろう者が! 町じゅうの人間が見ているのだぞ」
事実、濠《ほり》の向うは黒山の人だかりだった。
「立て! せめて立って兄を迎えるのが礼儀だろう!」
朴義は相変らず寝たまんま情けなそうに答えた。
「立ちたくても立てないよ、兄さん」
「どうしてだ?!」
「腰の骨をはずされたんだよ」
朴晋はぎょっとなった。確かに弟の格好には異様なところがあった。
「わしの弟に何をしたんだ!」
晋は巨大な馬に跨った倭人に喚いた。
どうやら言葉が通じないらしく、朝鮮馬に乗った商人態《しょうにんてい》の倭人が何か告げている。見るからに武人らしい男が応《こた》えた。
「先ずわしの弟は何をしたんだと訊いたらどうだ?」
商人態の男がそれをきちんとした朝鮮語で大声に伝えた。
晋は一瞬ひるんだ。町の連中が聞いている。弟の悪行は誰一人知らぬ者のないほどだったが、それでもこと新しく公衆の面前で暴《あば》かれるのは、望ましいことではない。
「その男はわしの弟だぞ。何をしたか知らぬが、いやしくも府使の弟たる者の腰骨をはずす狼籍《ろうぜき》は許さん」
商人態の男が通訳すると、武人風の男が怒鳴った。
「伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の姫を手籠《てご》めにしかけ、それをとめられると三十人もの兵をつれて襲って来るのを、この国では狼籍とは云わんのか。お蔭《かげ》で当方は身を守るために何人かの兵士を殺さざるを得なかった。本来は、この男も即座に殺すところだが、府使の弟と聞いたから儀礼上生かして連れて来たのだ。そちらが道理を無視する気ならやむを得ん。弟を殺し、お主も殺す。敵対する兵も悉《ことごと》く殺す。その上で漢城に行き、国王にお主を殺した理由を申し立てる」
商人態の男の長い通訳を聞いているうちに朴晋の躰が小刻みに震えて来た。この倭人の云うことはもっともだった。何よりも濠の向うの町の連中が、もっともだと思うことは確実だった。しかもこの倭人は恐れげもなく国王に訴えると云っている。そんなことの云えるのは絶対|倭冦《わこう》ではない。まともな倭人の武士である。大体通辞をつれた倭寇など見たことがなかった。
朴晋は、先に通信使が帰って来た時、釜山城まで行って倭の話を聞いている。倭王|豊臣《とよとみ》秀吉《ひでよし》に朝鮮侵攻の意図のあることも聞いた。ひょっとするとこの男、豊臣秀吉の密偵《みってい》ではないか。
或《あるい》はまた囮《おとり》ということも考えられなくはない。剽悍無比《ひょうかんむひ》の倭寇といえども、たった四人で三十人の兵士を相手に闘うことはない。必ず逃げる。それをこの男は恐れる様子も見せず堂堂と闘い、半数を絶壁から落し、残りの十五人を追って城まで文句を云いに来ている。普通では考えられることではなかった。風貌《ふうぼう》といい、身に帯びている武具といい、これは豊臣とか云う国王の家臣の中でも、名の高い武将に違いない。その武将が全く義にかなった行動をとった上に捕えられ断罪されたとなったらどうなるか。豊臣秀吉に戦闘開始の絶好の理由を与えるだけではないか。
ぞくりとした。
朴晋は自分が戦争のきっかけになるのなど真っ平である。その上、無道の弟をかばい悪行を働いた解任として後世に名を遺《のこ》すことになろう。一族の出世のさまたげであり、恥辱になる。
まだある。大昔に滅びた伝説の伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国の姫を弟が手籠めにしようとしたと云う話である。
伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国の姫など眉唾物《まゆつばもの》もいいところだが、見たところ、同行の女人にはそれらしい気品もあり、何よりも伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴を抱いている。民衆は亡国の姫が犯されかけ救われたなどという話が好きだ。多少の疑いはあっても進んで信じようとするのは確実だった。この場合も晋は悪府使の代表としてその名を喧伝《けんでん》されてしまう。
どちらの場合も朴晋の極力避けたいいざこざに違いなかった。
〈謝罪し和するしかない〉
咄嗟《とっさ》に朴晋はそう判断した。一族の恥辱にだけは断じてなりたくはない。
「それは誠のことか」
朴晋の問いに慶次郎は答えず、伽姫を指さした。
伽姫がよく透《とお》る美しい声で、起ったことを詳しく話して聞かせた。黒山のように集まった町の人々にも、この話は明瞭《めいりょう》に聞きとれた。
慶次郎が松風から降りると、朴義を引き起し、腰を叩いた。腰の骨が簡単にはまった。慶次郎は朴義をそのままにして、再び松風に跨った。長大な鏑矢を抜き、鉄弓につがえた。
伽姫がすかさず、その鉄弓が父の物であり常人には使えぬ強弓であること、それをこの倭人は楽々とひくこと、身につけた甲冑《かっちゅう》も父の物であることを声高に語り、この倭人は父の生れ変りであり、だからこそ自分の危難に間に合って助けてくれたのだろうと云った。
町の人々はどよめいた。心を動かされていることは明らかだった。
慶次郎が天に向って鏑矢を放った。
凄まじい音を立てながら鏑矢は天空の中に消えた。強弓のほどを示すものである。
人々は感嘆の声をあげ、手を叩く者さえいた。
その時である。茫然《ぼうぜん》として立ちすくんでいた朴義が、不意に行動を起した。まっしぐらに朴晋めがけて走り寄った。庇護《ひご》を求めての動きであることは明瞭だった。兄の背後に隠れようと逃げ出したのである。
義が朴晋の背後に廻りこもうとした瞬間、晋が腰をひねって抜刀した。晋はもとより文官である。だが幼時から剣を学んで精妙の域に達していた。
剣が一閃した。
振り上げられた双刃《もろは》の剣は恐ろしい速さで落下し、義を袈裟《けさ》がけに斬り下げていた。義は絶叫をあげて倒れ、ほとんど即座に死んだ。
朴晋は声を張り上げて云った。
「義は可愛《かわい》い弟である。情においては忍び難きことであり、人倫の道にも悖《もと》ることではあるが、府使として義のためにこれを斬った。これをもって倭人並びに伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の姫に対する心中よりの謝罪としたい」
町民たちは一斉に歓声をあげ、手を叩いて朴晋の義をほめそやした。
「やられたな。見事な振舞いだ」
慶次郎は弥助にそう云った。
「謝罪を受けると云ってくれ。弟御の死と兵士たちのために哀悼の意をささげるものであるともな」
同時に鉄弓の弦をはずした。戦意のないことを示す武人の礼である。
弥助が伝えると、朴晋は剣をおさめ、深々と頭を下げることで慶次郎の礼にこたえた。
この見事なやりとりに打たれたように、町民たちは鎮《しず》まり返《かえ》っていた。
丁度その時、天空に消えた鏑矢の音が頭上から響き、落下して来た。矢は偶然、倒れている朴義の頭の近くに落ち、土中に深く突き刺さった。
町民たちの拍手は熱狂的だったと云っていい。誰も彼も酔ったように手を叩いていた。
朴晋は心底からほっとしていた。
これで一族の恥は受けずにすんだし、府使としての晋の公正さを町民は深く信じた筈である。おまけに厄介《やっかい》の種であった弟を除くことさえ出来た。一石三鳥の利と云える。
だがそんな思いは露ほども見せず、晋は悲痛な表情を作って、町民の拍手に手を振って応えていた。
天正二十年四月十八日、朴晋は殺到する倭軍を鵲院の陸路で迎撃している。慶次郎がただ一騎で三十人の騎兵を敗北させた記憶がそうさせたのである。だが倭軍は山に登り、背後から蟻《あり》がへばりつくように山肌を伝って攻撃した。朴晋の手勢は恐れて逃げ、朴晋もやむなく密陽に帰り、火を放って軍器倉庫を焼き、城を捨てて山に入ったと云う。
伽姫
〈旦那《だんな》にしちゃ珍しい〉
捨丸はそう思っている。
伽姫のことである。密陽を発《た》って数日になるというのに、慶次郎が伽姫を抱いていない。
伽姫の方はただもう一筋に慶次郎を慕って、父か兄のように甘え、まとわりついている。慶次郎はきなくさい顔でその相手をしているだけだった。明らかに自分で自分を抑えているのだ。嘗《かつ》てないことだった。
伽姫が生娘《きむすめ》らしいことは捨丸も察している。だがそんなことで躊躇《ためら》うような慶次郎とは思えなかった。
異国の娘だから、ということも考え難《にく》い。捨丸の見るところ、慶次郎くらいいわゆる差別感のない男はこの当時では珍しかった。現に自分や金悟洞がまるで仲間扱いされているのもその証拠だったし、鄭撥《ていはつ》初めこの国の武人とも官吏とも全くわけへだてなく酒を呑《の》み、心を開いて語り合っている。女だからといって例外はありえない。前田慶次郎と云うのはそういう出来の男なのだ。だからこそどこへ行っても好きなことが出来、何度戦っても不思議に生き延びるのだ。天性の明るさがこの男をそうさせている。
では何故《なぜ》伽姫を砲かないか。相手は十四や五の小娘ではない。生娘とはいえ二十歳をとうに越えた成熟した女なのである。まさか何百年も前に亡《ほろ》び去った伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国《かやこく》の姫だからではあるまい。それも彼女の父親の言葉だけで、一片の証拠もあるわけではない。
「どう思う?」
金悟洞に聞いてみた。
「惚れちょる」
金は言下に云った。
「惚れて楽しんどる」
「楽しんでる?」
捨丸には理解しがたい言葉だった。
「抱きもしないで、どうして楽しめるんだ?」
金はじろりと捨丸を見た。明らかに軽蔑《けいべつ》の眼差《まなざし》だった。
「お主には判《わか》らんたい。男と女子《おなこ》の間には、抱き合わん方が楽しかこともあるもんたい。大将はそれを楽しんでおられる。まっこと生粋《きっすい》の遊び人たい」
「それやがな」
弥助《やすけ》まで熱心に口を挟《はさ》むのである。
「わても感心しとりますんや。豪気一筋のお侍やとばかり思うとったのに、えらい間違いや。花も実もある色好みやおまへんか」
どうやら弥助にとっては『色好み』という言葉は格別の尊敬の対象らしい。うやうやしいほどの畏怖《いふ》を籠《こ》めて発音した。
「旦那が色好みだって?!」
捨丸は中《ちゅう》っ腹《ぱら》で云った。
「間違《まちが》うたらあかん。どないにええ男で、どれほど金があったかて、人はほんまもんの色好みにはなれへん。目え廻《まわ》すほどの金を塵芥《ちりあくた》のように使《つこ》うて眉《まゆ》の毛《け》一筋動かさんほどの大気もんで、おまけに女子の心の裏表まで悉皆《しっかい》承知してはるお人やないと、色好みとは云わへんのや。人は関白さまを色好み云うが嘘《うそ》の皮や。大きな声では云えへんけど、あないな薄みっともない色好みがありますかいな。あんなん好色ともよう云わんわ」
弥助の論理が捨丸に判るわけがない。それは平安期以来連綿と京都を中心に伝えられて来た色好みの観念であり、京都の町衆の育《はぐく》んで来た高貴さのしるしでもあった。その高貴さが町衆のみならず全国の大商人の憧《あこが》れでもあった。大商人たらんと志す弥助が力を籠めて説く所以《ゆえん》だった。
「それにしても歯がゆいわ」
捨丸はにべもなく云った。
「第一、旅がちっともはかどらん」
これは捨丸の云う通りだった。
密陽を出て清道へ行き、そこから八助嶺《はちじょれい》の峻嶮《しゅんけん》を越えて大丘《たいきゅう》(大邱)に入った。更に仁同を経て、洛東江《らくとうこう》ぞいに上り、支流の甘川が本流に合流するあたりで対岸に舟で渡った。このあたりを月波亭と云う。もう一足のばせば善山府だと云うのに、伽姫がこの月波亭が気に入ってしまい、もう三日もこの山の頂上にある宿に泊っているのだった。確かに月光が洛東江に映り、きらきらと輝《かがや》くさまは天下の絶景だったが、捨丸は風景に心をとらわれることのない男である。先が急がれて、焦々《じりじり》するばかりだった。
慶次郎と伽姫の二人は、そんな捨丸たちとは別世界にいた。正確に云えばこの世にいなかったと云っていい。二人は古代伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国にいたのである。
伽姫は当代に生きながら当代にいなかった。彼女の知っているのは二百年前の伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国だけだった。
慶次郎は伽姫に惚れることによって、急速に朝鮮の言葉を理解するようにはなったが、勿論《もちろん》古代の伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国の話を聞いて理解するほど上達するわけがない。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国については筆談に頼ったのである。漢文である。ちなみに当時朝鮮を訪れた日本の僧侶《そうりょ》たち知識人も、すべて漢文の筆談によって意志を疎通させたものだ。
慶次郎にとっては漢文だろうと何だろうと少しも気にはならない。彼は伽姫の眼《め》になってものを見ている。惚れるとはそういうことではないか、と慶次郎は思う。無意識に自分を捨て、相手の身になって相手の眼で世界を眺《なが》めると云うことが即《すなわ》ち惚れたと云うことなのだ。だからこそ惚れると云うのは素晴らしいのではないか。他人の眼で、全く違った世と人を見られることに、たまらない新鮮さがあるのではないか。
伽姫の眼を通して垣間見《かいまみ》た古代伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国は、慶次郎を恍惚《こうこつ》の中に引きずりこんだと云っていい。
それは礼譲の国であり学芸の国だった。土地は豊かで風景はのびやかに美しく、住む人もまた美しい。彼等《かれら》はいくさを好まず、平穏を愛した。だからこそ新羅《しらぎ》の武力攻撃の前に、無残な敗北を喫したのである。国破れて山河ありと云う。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国は滅びたが伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の人々は各地に散らばりながらその輝かしい礼譲と学芸の遺産を守り続けた。
倭《わ》にも沢山の伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]人が渡った筈《はず》だと伽姫は云う。近江《おうみ》や山城に強大な勢力を振った秦氏《はたうじ》、大和朝廷の中に深く喰い込んだ漢氏《あやうじ》などは、悉《ことごと》く古代伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の民だと云う。
「ではわしもひょっとすると伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]人だったかもしれないな」
と慶次郎が云う。
「あの鉄弓がひけるんですもの。きっと伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]人に違いないわ」
と伽姫が云う。
伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国には数は少いが強剛の武人がいて、その面々はすべて鉄弓をひいたと伽姫の父はよく話したものだった。
「わしが伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]人だったとしたら名は何だろう」
と慶次郎が訊く。
「慶郎」
戯《たわむ》れに伽姫が云う。
「私が倭に生れたとしたら名前は何と云うのでしょう」
と伽姫がお返しに訊く。
「伽子だ」
慶次郎が笑って答える。
それ以来、慶次郎は伽姫を伽子と呼び、伽姫は慶次郎を慶郎と呼ぶようになった。
伽姫の父は、自分に伝えられた伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国の伝説を繰り返し繰り返し伽姫に語って聞かせたらしい。伽姫が当代の朝鮮について自分ほどの知識もないことに慶次郎は驚いた。
「伽子の父上はどういうつもりだったんだろうな」
溜息《ためいき》と共に慶次郎が訊いた。真実不思議な話だった。父親の教育法はまるで伽姫に野たれ死しろと云っているようなものだったからだ。亡《ほろ》び去《さ》った古い国の姫として、人一人いない山中で人知れず死に、一族ことごとく絶えることこそ伽姫の父の願いだったのだろうか。そうとでも考えなければ、理解し難いことだった。
「私に生きる運があれば、誰《だれ》かが現れて生かしてくれるだろう。生きる運がなければ美しく悲しく死ね。父はそう云いました」
伽姫は明るい顔でそう云う。
「慶郎が来るのを父は予感していたのでしょう」
「わしが伽子を救うのか」
「もう救ってくれました」
「あんなことは救ったうちに入らないよ」
慶次郎は痛ましそうに首を振った。
「伽子にはもっとまともな救い主が要るな」
自分にはその資格のないことを慶次郎はよく知っている。何時《いつ》死んでも悔いのない男に一人の女を救う力はない。
「私は慶郎だけで沢山。慶郎が死ねば私も悲しく美しく死ぬ」
伽姫の顔は本当に悲しく美しかった。
慶次郎は無意識に伽姫の手をとって引いた。伽姫のかぐわしい躰《からだ》が、慶次郎の膝《ひざ》の上《うえ》に崩れて来た。
何かが破裂したようだった。或《あるい》は何かが熟し切って落ちたようだった。
二人の脳裏が一瞬空白となり、激しく熱いものだけが満たした。
我に返った時、二人は裸で肌《はだ》を合わせていた。
伽姫は生娘のしるしを流したが、不思議に痛さは何も感じなかった。痛さは空白のうちに過ぎてしまったのかもしれない。
「伽子を倭に連れてゆく」
慶次郎は宣言した。
「わしに何ほどの事が出来るか覚つかないが、倭につれ帰って出来るだけのことはする」
「伽子はどこにでもゆく」
伽姫は初めて自分から伽子と云った。
慶次郎の一行は月波亭を出て善山を通り、洛東江沿いの街道《かいとつ》を北上し洛東里に入った。
大きな舟着場があって、夥《おびただ》しい舟が着いていた。洛東江は古代から水運が盛んで、この時代には慶尚道《けいしょうどう》北部の租税が舟でこの洛東里まで運ばれ、後は陸路で鳥嶺を越えた。忠川近くの金遷で再び舟積みされ漢江を下ったのである。洛東江の流れは美しいが、川をさかのぼる時は舟に太い綱を結びつけ、それを数人の人夫が岸辺から曳《ひ》いてゆく。岸辺の道は嶮《けわ》しく、時に急流をさかのぼらねばならぬ。言語を絶する苦労だった。
洛東里から三、四里ゆくと城洞里、仙郎峠を越えると急に前方が開けひろびろとした盆地が現れる。そこに城壁に囲まれた尚州《しょうしゅう》の町があった。
尚州、又の名を洛陽とも上洛とも云う。城壁は周囲三八〇〇尺、高さ九尺だった。
伽姫の説明によると、この辺の地勢はこういう風に峠を降りると盆地があり、そこに一つの小さな町が国があった。それが集まって伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国を形造っていたのだと云う。
伽姫は松風の前鞍《まえくら》に横坐《よこすわ》りになっている。慶次郎の太い腕がその腰を抱いていた。
熟し切った果実が落ちるように結ばれた日からこの二人の仲の濃密さはまわりの男たちを悩ませる態《てい》のものになっていた。濃密ではあるが爽《さわ》やかである。清々《すがすが》しさがある。溜息が洩《も》れそうな仲だった。男なら一度はあんな関係を女と結んでみたい。切ない気持でそう思わせるような仲だった。さすがに朴念仁《ぼくねんじん》の捨丸にさえそれがはっきり判った。
「見ましたやろ。あれやねん。あれがほんまもんの色ごとや。色好みだけが手に入れられる、なんともいえん人外の境地や。わし、朝鮮まで来てあんな景色見るとは思うてまへんどしたわ」
弥助は大仰に、だが本気で騒ぎ立てて見せた。
金悟洞まで考えこんだように首を振っている始末である。それほどのものだった。
尚州の城門にかかろうとした時、松風が自然に足をとめた。城内に異変を察知した証拠である。慶次郎は鉄弓に素早く弦を張りながら伽姫に云った。その流暢《りゅうちょう》な朝鮮語は弥助を驚かすに足りた。
「伽子。弥助の馬に行け。厄介事《やっかいごと》のようだ」
「伽子、ここにいる。慶郎と一緒」
伽姫の返事は断乎《だんこ》としていた。
「いいだろう」
慶次郎は弓に鏑矢《かぶらや》をつがえながら云うと、松風の馬腹を蹴《け》った。
捨丸は両手に素早く点火した炸裂弾《さくれつだん》を握り、金悟洞も鉄砲の火縄《ひなわ》に点火した。そのまま慶次郎に続いて門を潜った。
城壁の中には夥しい兵が半弓に矢をつがえて待ち構えていた。
慶次郎は先手をうって鉄弓をひさしぼるとひょうと射た。
ひゅる、ひゅる、ひゅる。
鏑矢が禍々《まがまが》しい音を立てながら、兵士たちの頭上すれすれに飛んだ。兵士たちは首をすくめ、一様に畏怖の色を示した。
その時はもう慶次郎は二本目の矢をつがえ、兵士たちの先頭中央にいるでっぷり肥《ふと》った男を狙《ねら》っていた。朝鮮語で叫んだ。
「わしは倭人前田慶次郎だ。この国にいくさをしに来たわけではないが、そちらが仕掛けようと云うなら何時《いつ》でも買うぞ。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国の鉄弓を受けてみるか」
うしろを見なくとも、捨丸が焙烙玉《ほうろくだま》を投げる準備を整え、金倍洞が狙撃銃《そげきじゅう》で同じ人間を狙っているのが判った。
肥った男が慌てふためいて何か喚《わめ》き、兵士たちは半弓をおさめた。
男の言葉を伽姫が通訳して慶次郎に聞かせた。
「この人は慶尚道巡察使|金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86][#「目+卒」、第3水準1-88-86]《きんすい》って云うの。密陽府使から連絡を受けたので、慶郎を接待するためにここで待ってたんですって。弓を構えていたのは、慶郎の腕を見たかっただけだって。勘弁してくれって云ってるわ」
巡察使とは位は正二品《しょうにほん》という高官で、一道ごとに置かれ、朝廷からの命令を実施する役である。そのため一道の王ともいわれる。当時朝鮮は八道に分れていたから、全土に八人の巡察使がいたことになる。金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]はその一人だった。
「うまい酒がのめるなら、腕だめしぐらいで文句はいわないと云ってくれ」
慶次郎は呵々《かか》として笑った。
豪勢な『いはち』だった。いはちとは朝鮮語のイハジで、奉仕、贈り物から転じて宴会を意味する。
慶次郎は思いのままに喰い、思いのままに呑む。興|到《いた》れば漢詩を書き、金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]や尚州府史の金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]、尚州判官の権吉たちと交換する。
慶次郎は和歌・連歌と同様、漢詩に巧みである。しかもこの当時京都では漢詩と俳句をまぜた連歌さえ頻繁《ひんぱん》に行われていた。それほど漢詩は身近なものだったのである。
朝鮮は儒学の国である。士大夫《したいふ》の教養として詩文を欠かすことは出来ない。金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]、金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]、権吉いずれも文官であり、当然詩文に詳しかった。
彼等はほとんど仰天したと云っていい。それまでは慶次郎を一介の武辺と見ていたのだ。膂力《りょりょく》すぐれ武術に巧みだが、所詮《しょせん》は倭寇《わこう》に毛の生えた程度の暴れ者だと思っていたのが、この詩を見てがらりと態度が変った。
〈この男、只者《ただもの》に非《あら》ず〉
三人同時にそう思った。詩は見事な教養と文雅に満ちていた。まぎれもなく士大夫のものだ。筆蹟《ひっせき》もまた格調の高いものだった。
やがて三人は真剣な顔で議論をはじめた。
この人物はとても只の旅人とは思われない。正式の使者として遇すべきではないか、というのだ。だが正式の使者なら釜山浦《ふざんぽ》でその旨《むね》届けを出し、漢城の国王宣祖にお伺いを立てなければならない。慶次郎たちはその手続きを踏んでいないし、当然国王からの許可もおりていない。それに引きつれた人数もたった三人で使者の体裁をなしていない。従って通常なら使者の待遇などとんでもないことだった。
事実、通辞役の弥助がのっけにこの一行は博多《はかた》の商人|神谷《かみや》宗湛《そうたん》の客人で、朝鮮見物に来ただけであると伝えている。使者などと云うだいそれたものではなかったし、国王に会うつもりもないのである。だから金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちは余計なことは何一つ考えなくていい筈だった。
だがそれにしては慶次郎の教養が尋常でない。初めは密偵《みってい》かと思ったのだが、こんな密偵がいる筈がなかった。
今、漢城には倭からの特使が滞在している。柳川《やながわ》調信《しげのぶ》と玄蘇《げんそ》の二人だが、玄蘇の詩文の才は素晴らしく、そのために国王側に非常な信頼を呼んでいる。慶次郎の才は殆《ほとん》どその玄蘇に迫るものと思われた。
「貴殿は漢城府に到れば玄蘇|和尚《おしょう》に会われるおつもりか」
金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]が訊いたのはこの事実を踏まえたうえのことだ。
弥助の通訳でその問いを聞くと、慶次郎は首を横に振って、にべもなく云った。
「坊主《ぼうず》に会うつもりはないと云ってくれ」
更に怪訝《けげん》そうに一同を見て、
「さっきから何をごたごたやってるんだ、この連中?」
弥助は説明に苦労した。この国の規則のややこしさは一片の知識もない者には説明不可能な部分が多い。
例えば倭人の上京使の往複する経路は『倭人上京道路』と呼ばれ、きめられた右路、中路、左路、漢江や洛東江を利用する水路の四路のうちのどれかを進まねばならない。使者の格式によって同行の人数も限定され、送迎の役人の格式も、更には道中で開く宴会の回数さえきちんと規定されていた。
国王使従者二十五人宴会五ヶ所
巨酋使《きょしゅうし》 従者十五人 宴会四ヶ所
対馬《つしま》特送使その他 従者三人 宴会二ヶ所
このうち巨酋使とは有力守護大名の使者と云う意味だ。
食事は早飯、朝、昼(点心)、晩飯の四回、早飯以外は常にきめられた献立である。
どうして、とは訊かないで欲しい、自分にも判らないのだから、と弥助は汗を流しながら云い、慶次郎たちを唖然《あぜん》とさせた。
今、朝鮮の三人の役人は、彼等をこの第三の使者、即ち対馬特送使その他の部類に入れるべきではないかと、真剣に討議しているのだと云う。その場合、宴会の数は慶尚道で一回、忠清道で一回ときめられている。慶尚道の分は現在やっているのだから問題ないが、更に鳥嶺を越えた先にある忠清道でもう一度宴会の手配をしなければならぬ……。
あまりの馬鹿々々《ばかばか》しさに慶次郎は笑う気にもなれない。憮然《ぶぜん》として弥助に云った。
「酒がまずくなったから出発すると云ってくれ。今すぐこんなけったくそ悪い町は出る」
弥助はぎょっとなった。この『礼』の国でそんな真似《まね》が出来るわけがない。だが慶次郎ならやりかねなかった。
「勘忍や。それだけはあきまへん。倭人は礼を知らぬと思われまんがな」
「客を前にして、その扱い方を討議する方がよっぽど礼儀知らずだろう」
「そない云うてみま。けど、とにかく短気はあきまへんで。悪気があってしとるのとちゃう。逆でんがな。前田さまを高《たこ》う買《こ》うたあまりのことや。腹立てるのは筋違いでっせ」
弥助は間違っていた。慶次郎はそんなことにかまう男ではない。からりと酒杯を捨てると、刀をとってもう腰を浮かしかけていた。
弥助は泡《あわ》をくった。
「待、待っとくなはれ。わけも云わんと立つわけには……」
弥助にとって倖《さいわ》いなことに、この時、廊下で怒号に似た声が聞え、どすんどすんと近づく足音がした。
戸が開き、一人の偉丈夫が立った。年の頃《ころ》は五十がらみ、だが鉄片を叩《たた》きつけたような頑丈《がんじょう》な躰つきで、見上げるような長身。横幅も厚みもたっぷりあるが贅肉《ぜいにく》ではない。恐るべき体力の持主なのは一見して明らかだった。
金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たち三人が仰天したように叫んだ。
「李鎰《りいる》将軍!」
李鎰と呼ばれた壮漢は右手に慶次郎の鉄弓を握っていた。玄関であずけて来たものである。それを放《ほう》り出《だ》すと喚いた。
「この弓をひく男はどいつだ」
李鎰、字《あざな》は重卿、中宗三十三年(一五三八)の生れだからこの年五十四歳。八年前、咸鏡道《かんきょうどう》の慶源府使だった頃、女真族の反乱を鎮圧して一躍猛将の名を高からしめた男である。申※[#「石+立」、第4水準2-82-36]《しんりぶ》と並んで国王の最も信頼する武将だったが、二人とも乱暴ですぐ人を斬《き》るので有名だった。文官の金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]、金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]、権吉が震え上ったのは当然である。
「将軍。その弓はここにいられる倭の客人のものだ。手荒な真似はつつしまれたい」
金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]が辛《かろ》うじて威厳を見せて云った。
「倭人だと。そんな馬鹿なことがあるか。この鉄弓はまぎれもなく伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]のものだぞ。倭人がどうして伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の弓をひくんだ」
「それは……」
権吉が伽姫のことを語り、鉄弓の由来を告げた。
李鎰がはったと慶次郎を睨《にら》んだ。
「さては密陽で朴晋《ぼくしん》を威嚇《いかく》したという倭人はこの男か」
金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちは慌てた。こんなところで闘いが始まった日には、どちらが勝つにしてもえらいことになる。現に金悟洞はそろりと例の長い狙撃銃を膝もとに引きつけていたし、捨丸はさりげなく懐中に手を入れた。焙烙玉を握っているに相違なかった。
「その朴晋の依頼でこの宴を張っているのだ、李鎰将軍。折角の平和な饗宴《きょうえん》を邪魔しないで貰《もら》いたい」
李鎰は鼻で笑った。
もとよりこの武人は慶次郎に喧嘩《けんか》を売っているわけではない。たった四人で朴晋をして自ら弟を斬るしかない立場にまで追い込んだ、その勇と義を片腹痛く思って、恫喝《どうかつ》をかけているだけだった。
この間、慶次郎は一言も発していない。李鎰の顔さえ見ていない。まるでそんな男はこの場にいないと云うような悠々《ゆうゆう》たる態度で、酒を呑み続けていた。
李鎰の言葉は一言半句も判らないが、その態度や話のしかたから、恫喝をかけて来ていることは一目瞭然《いちもくりょうぜん》である。だから敢《あえ》て無視している。それに李鎰は今のところ慶次郎に直接話しかけて来てはいない。話しかける相手は金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たち三人である。だから返事をする必要もないわけだった。
伽姫はさすがにおびえて慶次郎にぴったり躰をくっつけている。
慶次郎はその手をさすり柔らかく云った。
「気にしなくていいんだよ。よく吠《ほ》える犬は臆病《おくびょう》だと云うんだ」
捨丸と金悟洞はくすりと笑ったが、伽姫には犬のたとえは判らない。慶次郎は器用に身振りでその意味を教えた。伽姫にもやっと意味は通じたが、同時に李鎰はじめ金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちにも判ったからたまらない。当然李鎰はかっとなり、金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちは真《ま》っ蒼《さお》になった。
「おい、そこの倭人」
李鎰がはじめて慶次郎に語り掛けた。
「呼んではりまっせ」
弥助がしらせた。この男も胆《きも》をとばしている。李鎰の噂《うわさ》は聞いているのだ。
「放《ほ》っとけ」
相変らず慶次郎は李鎰に目もくれない。
「気に人らんとすぐぶった斬るいう噂の将軍でっせ」
「俺《おれ》も同じさ」
これでは話にならない。
李鎰が今度は弥助に話しかけた。
「その男に伝えろ。鉄弓をひくぐらいのことでえらそうな顔をするな、とな。実際のいくさでは鉄弓より並の半弓の方が役に立つんだ。戦場では速さが勝負だ。悠長に鏑矢など射てる間に敵は接近して何倍もの矢を浴びせかけるんだ。だから伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国は新羅に滅ぼされたんだぞ」
弥助が正確にその言葉を慶次郎に伝えた。
「伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]が滅びたのは合戦が嫌《きら》いだったからだ。弓のせいじゃないと云ってやれ。ついでに、今のこの国は合戦が嫌いなとこだけは、伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]に似ているんじゃないかとも云え」
「そないなこと云うたら、決闘になりまっせ」
「何が決闘だ。只の喧嘩だよ。俺は売られた喧嘩は必ず買うことにしている。それが傾奇者《かぶきもの》の心意気だ。さあ、さっさと通訳しろ」
弥助は諦《あきら》めて出来るだけそっけなく通訳した。
思いもかけぬことに李鎰は満足そうに高く笑った。
「うまいことを云うな。確かに今の我が国は伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]に似ている。太平を謳歌《おうか》し兵備をゆるがせにし……いずれは思い知ることになるだろう。だが……」
ぴたりと笑いがとまった。
「弓の優劣は譲れぬ。鉄弓など無用の長物だ。それを否定するなら実際に射術を競って明らかにしよう」
弓競《ゆみくら》べを挑《いと》んだわけである。
金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちはほっと愁眉《しゅうび》を開いた。弓競べなら闘いと云うほどではない。血の流れることもなく、むしろ遊戯に近い。
「これはいい」
「名案ですな」
など手を叩いて賛成した。
「金よ」
慶次郎が金悟洞に声を掛けた。
「いつでも撃てるようにしとけ」
云い捨てて立った。理由は何一つ告げなかったが、この頃の悟洞は完全に慶次郎を信じている。黙って鉄砲に火縄をかけた。
弓競べは料亭《りょうてい》の庭で行われることになった。
小さな的が二つかけられる。距離はほぼ二十メートル。鉄弓には近すぎ、半弓にはぎりぎりの距離だ。
「命中は勿論必要だが、問題は速さだ。太鼓を三回叩く間に何本の矢を射て当てられるか、それを勝負としよう」
と李鎰は云う。
「承知」
慶次郎が短く答えた。
誰が見てもこの勝負は慶次郎が損である。遠い的に当てるか、近くの者なら数人を射抜くのが鉄弓と鏑矢の威力だ。勝負を同じ時間内に射る矢の数にしぼられるのは不公正というべきだろう。半弓の方が数多く射れるにきまっている。
李鎰も不公正なことは百も承知している。当然慶次郎が反駁《はんばく》して来るものと思い、そこでこまごまと条件をつけようと思っていたのだが、案に相違して何の文句も出ない。慶次郎も、その三人の従者も何も云わない。
〈こいつら揃《そろ》って馬鹿か〉
一瞬そう思ったが、朴晋に対してとった態度から考えて彼等が愚の筈がない。だとすれば一体どんな策を秘めているのか、それが不審だったし、不気味だった。
大太鼓を叩くのは権吉の役になった。ゆっくり三度叩く。その間の矢数の勝負だ。的にあたらない矢は勘定に入らない。
「用意」
権吉の声に慶次郎と李鎰がそれぞれ鉄弓と半弓に矢をつがえた。慶次郎のは長大な鏑矢である。
どーん。
一番太鼓が鳴った。
二人とも弓をひきしぼり、放った。
意外なことが起った。
慶次郎の矢が不気味な音を発しながら李鎰の的を斜めに射て吹っとばしてしまったのである。李鎰の矢は空《むな》しく土壇に刺さった。これは数の中に入らない。
李鎰は怒って慶次郎の的を射ようとしたが、慶次郎の素早さは李鎰を上廻《うわまわ》った。しかも鉄弓を半弓よりも軽々とひく。鏑矢が半弓の矢よりも速く的の中心を射抜き、遅れた李鎰の矢をはじきとばした。
どーん。
その時になってようやく二番太鼓が鳴った。
第三矢も同じことになった。李鎰の矢がつき刺さる筈のところに又もや鏑矢が立ち、半弓の失をはじきとばす。李鎰がさらばと、吹きとんだ自分の的を狙うと、慶次郎の鏑矢がその的自体を更に遠くに飛ばした。
どーん。
三番太鼓が鳴った時、慶次郎が怒鳴った。
「金、この矢を撃て!」
五本目の鏑矢を天空に射た。金悟洞の手さばきは目にもとまらなかった。火蓋《ひぶた》を開くと、長い銃身を捨丸の肩で支え、素早く狙って撃った。
ずだーん。
銃声と共に鏑矢は折れてけし飛んだ。
李鎰はじめ金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]、金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]、権吉、伽姫までが、この恐ろしい妙技に声もなく見とれていた。
慶次郎もいい加減変った男だったが、この李鎰と云う武将の面白さも半端《はんぱ》ではない。
なにしろこの弓競べに自分が負けたと感じるや否や、すっとんで来て慶次郎に抱きついたのである。
「素晴らしい」
「一騎当千とはお前だ」
「是非とも友となってくれ」
「お前と闘うことになったら、俺は逃げる」
などと云う言葉を早口にまき散らしながら、顔を真《ま》っ赧《か》に上気させ、抱きしめたまま慶次郎の背を力一杯ひっぱたくのだ。もっとも李鎰の早口は慶次郎には一言半句も判らない。すべて弥助が汗みどろになって通訳する。二人揃って喚きたてるようなもので、そのかしましさと云ったらない。
「もういい。黙ってろ」
慶次郎は先ず弥助に喚き次いで李鎰をひっぺがすと、
「おらよ」
掛声と共に高々と差し上げたものである。李鎰の肉厚の躰はかなりの目方である。差し上げた慶次郎も並ではないが、差し上げられた李鎰も見事だった。
通常なら投げとばされると思って口をつぐみ躰を柔らかくして衝撃に備える筈なのだが、この奇人にそんな常識は通用しない。頭上高く差し上げられながら、李鎰はまだ喚いていた。
「凄《すご》い。なんて力だ」
「俺を千里の彼方《かなた》に投げてくれ」
おまけに拍手喝栄《はくしゅかっさい》までしてみせたものである。
「こりゃあ俺の負けだな」
慶次郎は大声でそう云うと、からからと笑い、そっと李鎰を地におろして、うやうやしくその手を握った。
李鎰が慶次郎を持ち上げたのはその瞬間である。しかも高々と持ち上げたと思うと、力まかせにぶん投げた。
一同、ぎょっと息を春んだが、慶次郎の方は平気の平左だった。投げられた時、李鎰の肩を軽く蹴《け》って加速度をつけ、鮮やかに躰をひねって両足から着地した。図体《ずうたい》の大きな猫科《ねこか》の生き物を思わせるしなやかさであり、見ていた者たちに鳥肌《とりはだ》を立たせるような凄さがあった。
「素晴らしい」
李鎰は何度目かの讃辞《さんじ》を喚き、すっとんでいって慶次郎の手を握った。
「お前は虎《とら》だ。本物の虎だ」
腕競べはどうやらそれで終り、金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちを安堵《あんど》させた。だが、捨丸は違った。
「今夜は酒はやめろ」
金悟洞にそっと囁《ささや》いた。
「あの男、何をするか判らんぞ」
「部下は二十五人じゃ。たかが知れとるたい」
金悟洞は新しく弾丸籠《たまご》めをすませた遠町筒をそろりと撫《な》でながら応《こた》えた。
「それに一発であの将軍は死によるけん」
二人の対話に蒼《あお》くなったのは弥助である。
「無茶すなよ、おい」
「騒ぐんじゃない。悟られる。あいつは馬鹿じゃないぞ」
「逃げ道を考えとかなあかんな」
弥助も結構いい根性をしていた。
「鳥嶺へ入りよったら、何百人来よっても皆殺したい」
悟洞がにたりと笑った。
鳥嶺とは鳥も越えることの出来ない山という意味だ。尚州から漢城にゆく間に聳《そび》えたつ天然の要塞《ようさい》だった。道は断崖を削って作った狭い棚《たな》のようなもので、どれほどの大軍でも一列でしか通れない。腕のいい狙撃手なら、弾丸のある限り殺し続けることが出来た。それに嶮しい嶺《みね》から嶺《みね》を伝って、どこにでも逃げることが出来る。山を越えれば漢江の流れを使って海に出ることも可能だった。
「食糧と弾丸と矢が要る。それを積む馬が二頭。火薬も欲しい。火縄もいる」
捨丸が早口に云った。
「委《まか》せとき」
それきり弥助の姿が消えた。
李鎰は、この翌年の秀吉の朝鮮進攻、朝鮮側のいわゆる倭乱《わらん》での働きぶりで判る通り、決して名将の器ではなかった。尚州の合戦では斥候《せっこう》も出さず、小西|行長《ゆきなが》の大軍がすぐそこまで押し寄せていたのに全く気づかなかったと云うから、お粗末と云うほかはない。もっとも小西行長をはじめとする第一軍の軍勢は一万八千と云われるのに対して、李鎰の軍はかき集めた百姓八、九百人と云うから、どちらにしても負けいくさに決っていた。
注目すべきは李鎰の逃げっぷりの鮮やかさである。尚州の戦いでは朝鮮軍はほとんど全滅したのだが、この男はしぶとく生き残った。
『馬を棄《す》て、衣服を脱ぎ、披髮《ひはつ》し(髪をふり乱し)、赤体して(裸になって)走り、間慶に到る』
倭乱の時、中央政府の要職にあった柳成竜《りゅうせいりゅう》がこの戦争のいきさつを克明に記録した『懲※[#「比/必」、第3水準1-86-43]録《ちょうひろく》』には、李鎰の逃げっぷりをこう書いている。何《なに》も彼《か》も捨ててすっ裸で逃げたと云う記述に臆病さを読むのは誤りである。果敢としぶとさを見るべきであろう。
これに次ぐ忠州弾琴台の合戦でも、李鎰と並び称された将軍申※[#「石+立」、第4水準2-82-36]は脆《もろ》くも破れ、川に身を投じて死んだが、李鎰は東側の谷間から見事に脱走している。
次いで平壌に姿を現した時は葬式の時に使う竹の笠《かさ》をかぶり、庶民の着る白の上衣《うわぎ》をつけ、草履ばきだったと云う。そしてこの平壌の戦いでも負けた。結局|明軍《みんぐん》が乗り出して来るまでこの男は負け続けだったわけだ。
それでもしぶとく生き続け、倭乱から九年後の宣祖三十四年(一六〇一)に六十四歳で死んでいる。恐るべき生への執念と云うべきだろう。
再び李鎰をまじえての酒盛りが始まった。
弥助がいないので通訳は金悟洞ということになったが、この男は性来|寡黙《かもく》だし、怠惰でもある。彼自身が必要と認めたことしか通訳しない。
慶次郎にはそれが極めて好都合だった。悟洞に劣らぬ怠惰である。折角うまい酒を呑んでいるのに、べちゃくちゃ喋《しゃべ》る気にはなれない。黙々と呑み、時に筆をとって詩を書く。それで充分だった。
李鎰は意外に勘がよく、慶次郎にうるさく話しかけることをしない。鉾先《ほこさき》を変えて専《もっぱ》ら金悟洞に話しかけた。主として鉄砲のことである。
朝鮮に鉄砲が渡ったのは古い。勿論中国を経てだ。これを小銅銃と呼んだが、なんともいい加減なしろもので、よく故障が起った。銃身が破裂するのである。そのため誰もが小銅鉄に信を置かず、ほとんど使うこともないので一向に発達しない。従って射程距離も短く、人体必中距離は三、四十メートルだった。これでは弓とかわりがない。それに一発撃つと銃身を掃除し、また厄介《やっかい》な手続きで弾丸籠めしなくてはならないのがなんとも悠長で馬鹿々々しいと思われたようだ。
事情は我が国でも同じことだったが、多勢の兵が何段かに交替して撃つ戦法で、この時間がかかるという弊害は克服されたし、鉄砲の改造によって射程距離も百メートルほどに延びている。早合《はやごう》と云う火薬と弾丸を紙の筒におさめたものも作られ、弾丸籠め自身も早く出来るようになっていた。倭乱の時の圧倒的な日本軍の強さは、この鉄砲事情にあったと云っても過言ではない。
もっとも大砲、いわゆる震天雷の発達は日本よりも明、朝鮮の方がすぐれ、このため海戦では朝鮮軍の方が優位を占めた。日本では本当の大砲の連射による戦いは、大坂冬の陣まで待たなければならないのである。
そんな事情だから李鎰が金悟洞の遠町筒に異常な興味を示したのは当然の成行《なりゆき》だった。
だが金悟洞は本来殺し屋である。殺し屋が自分の武器について他人に詳しく話す筈があろうか。武器への知識が自分の生死に拘《かかわ》る場合も考えられるのだから、これはこれで当然の態度だった。だから、李鎰の質問にもぬらりくらりとかわして正確な答えはしない。李鎰としては面白いわけがなかった。漸《ようや》く癇癪《かんしゃく》が昂《たかぶ》って来て、あわや爆発せんばかりになった時、慶次郎が伽姫に一言云った。
「琴を聴きたいよ、伽子」
「いいわ」
伽姫が伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴《カヤグム》の調べを整えはじめた途端に、李鎰の癇癪が忽《たちま》ち雲散霧消してしまった。それほどこの琴の音は深かったとも云える。
調律がすんで、伽姫が弾きはじめると、一座は水をうったように静かになった。李鎰はじめ金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]も金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]も権吉も、今まで伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴を聞いたことがないわけではない。だがこんな胸に沁みいるような音も曲もはじめてだった。彼等は揃って今いる場所を時を忘れた。遠い遠い昔に帰り、美しくのびやかな古代の伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国に遊んでいるかのような思いにひたっていた。
李鎰の眼に涙が溢《あふ》れ、あとからあとからと双頬《そうきょう》に流れた。遂《つい》には働哭《どうこく》した。
「なんという音だ。なんという曲だ」
膝を叩いて呻《うめ》いた。
「どうして俺はこの曲を未《いま》だかつて聴いたことがないのだ。こんなに魂を震わせる曲が倭のものの筈がない。絶対にわが国のものだ。それをどうして俺は聴いたことがないのだ。こんな馬鹿なことがあろうか」
それは同席する一同の気持でもあった。
「俺の聴いたことのない曲を、どうして倭人が知っているのだ。どうして倭人の一言でこの女はこんな曲を弾くのだ」
李鎰の心の中で陶酔が怒りに変ってゆくのがはっきりと見えた。
「女」
遂に伽姫に怒鳴った。
「お前、伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の女だそうだな。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の女が何故倭人と一緒にいる? 伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の唄《うた》を何故倭人に聴かせる?」
これは正に八つ当りだが、李鎰の迫力はもの凄く、伽姫を仰むけに倒して犯さんばかりの勢いだった。
だが伽姫は平気だった。にこっと笑ってみせたのである。
「きまってるでしょう。好きだからよ」
「それが怪《け》しからんと云うのだ。なぜわが国の男でなく倭人に……」
「さあ、どうしてでしょうね」
伽姫はあくまで可愛《かわい》らしく、首をかしげて見せた。
「私にも判りません」
「そんな馬鹿なことがあるか!」
李鎰が再び喚いた時、慶次郎が金悟洞に静かに云った。
「将軍に云え。女に喚くことで人の迫る気配を消そうとしているのなら全く無駄だ、とな」
金悟洞がにやっと笑って通訳すると忽ち李鎰の顔に狼狽《ろうばい》の色が浮んだ。
「何を云う。わしが仁義を破るわけが……」
「まず馬を抑えるつもりだろうが、そうはいかない。あの馬は魔物だ」
「魔物?」
李鎰はぎくりとした。畏《おそ》れが顔ににじみ出す。
「それに、仲間の一人がもう厩《うまや》に行っている。あの男は炸裂弾を使う。人が大勢死ぬな。それに……」
金悟洞の手ぎわは正に魔術のようだった。懐中から火種をとり出す、火縄に点火する。撃鉄をあげ火縄を火挟みにはさむと火蓋を開いた。既に火薬が装填《そうてん》されていた。長大な鉄砲がぴたりと李鎰を狙う。
「人死が出る前に部下をとめろ。とめる気がないなら撃たれたい場所をいえ。額か、眼か、それとも胸か」
言葉に従って銃口が動く。
「仁義がきいて呆《あき》れるぜ、将軍。汚らしい男だな」
「黙れ!」
李鎰が吼《ほ》えた。
「わしの専門はいくさだ! 何としても、どんな汚い手を使っても勝ちを掴むのがいくさだ! 仁義もへったくれもあるか!」
悟洞の通訳でその言葉を聞いた慶次郎が大声で笑った。
「将軍に礼を云ってくれ。お蔭《かげ》で遠慮会釈《えんりょえしゃく》なしに闘えるとな。他《ほか》の方々には、折角|御馳走《ごちそう》になりながら、こんな仕儀になって申しわけないと詫《わ》びをな」
悟洞は通訳するとぷっと火縄を吹いた。
「殺していいですか」
慶次郎に訊く。
「やめておけ。馳走してくれた方々が困るだろう」
突然、表でわーっという人々の声と、馬のいななきが聞えた。
「松風ですたい」
悟洞が云った時は、もう慶次郎は立っていた。琴を抱いた伽姫をそのまま抱き上げると、鉄弓と矢筒を手にする。
「逃がすか」
李鎰が肥った躰からは信じられぬ素早さで横っとびに立った。悟洞の銃口をはずすためだ。同時に抜刀して慶次郎に斬撃《ざんげき》を送る。
慶次郎の反応は無造作だった。鉄弓でいきなり李鎰の顔を殴ったのである。同時に悟洞の遠町筒が火を噴いた。鮮血が飛び、李鎰の左の耳が消しとぶ。李鎰は昏倒《こんとう》した。
「馳走になった」
慶次郎は金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]たちに深々と一礼すると、悠々《ゆうゆう》と表に向った。悟洞は手早く銃口を拭《ぬぐ》いながら後を追う。
表で轟然《ごうせん》と焙烙玉の爆発音が聞えた。一発、二発、三発。そのたびに悲鳴が上った。
「弥助、まだ、いない」
伽姫が心配そうに云った。
「大事ない。あの音を聞けば、途中で待ってるさ」
玄関を出ながら慶次郎が云う。
捨丸が松風はじめ四頭の馬を玄関前に並べて立っていた。片手に点火された焙烙玉を握っている。
「五十人いました。助《すけ》っ人《と》を集めたようです。もっとも八人は減りました」
云いながらまた焙烙玉を投げた。破裂音が轟《とどろ》き、悲鳴が聞えた。
「十一人減りました」
慶次郎は松風に伽姫を乗せると鉄弓に弦を張り鏑矢をつがえた。
「これで十四人になる」
ひょうと放った。一失で三人が串刺《くしざ》しになった。
「十五人」
悟洞が遠町筒を撃つ。将校らしい馬上の男がけし飛んだ。
「行くかね」
慶次郎は松風に跨《またが》ると北へ向って駆った。
天正二十年の倭乱(秀吉の朝鮮侵略を朝鮮側では倭乱という)の際、金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]は尚州に兵を集め、李鎰を待ったが、李鎰の到着が遅れた上に大雨と兵糧不足《ひょうろうぶそく》のため、兵の大方は脱走してしまい、金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]は李鎰を迎えに行くと称して山に入ってしまった。金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]もやむなく逃げ出し、権吉一人が李鎰を迎えたという。
いくつかの山村を抜けると、急に山々の姿が近々と見えて来る。幽谷里と云って、鳥嶺の登り口だと弥助が説明した。幽谷里を過ぎると道は断崖を削った棚のような嶮しい道になる。縁崖桟道《えんがいさんどう》と云う。勿論人は一列でしか進めない。
峠を一つ越えると犬灘里で、街道は断崖の間に分け入ることになる。渓流《けいりゅう》に沿って半道ほど行く。突然、峡谷が半円を描いて左旋回し、休む間もなく右旋回する。前方に断崖が立ちはだかるが如《ごと》く聳え、街道はその真下を左へ半周して北上する。頭上に古い城壁が見下ろしているように迫る。これが姑母山城だった。急流を挟んで魚龍山の頂上に姑文山城があり、両城でこの谷間を完全に抑えている。
慶次郎が松風をとめた。
「奇妙だな」
誰にともなく云う。
「如何《いかが》致しました」
捨丸が尋ねた。
「あの二つの城だ。あそこに城兵の五百もいたら、何万の軍勢でもこの道は通れん筈だ。それがどうしたことだ、一片の生気も、殺気もないぞ」
金悟洞がつまらなそうに応えた。
「そりゃそうですたい。無人じゃけん」
「無人だと!! 何故だ?」
信じられないと云う声だった。
「いくさが嫌いなんじゃ、この国は。だからですたい。今はわしらのような世を忍ぶ男どもか獣の隠れ家にしか使われちょりません」
慶次郎は暫く無言で片方の城から片方の城へと眼を移していたが、
「贅沢《せいたく》な国だな、ここは」
首を振って伽姫に訊いた。
「あれは伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国の時からあるか」
「知らない」
伽姫は答えた。
「多分ちがうでしょうと思います」
「それもそうか。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]の国にあのような城はあるまい。だが贅沢だったのは同じではないのか」
「わからない」
伽姫が真剣な顔で慶次郎を見つめた。
「王道楽土は国として最高の贅沢だろうと云うのさ。だからいつか滅びざるを得ない。だがたとえ滅びても贅沢は素晴らしいとも云える」
「今のこの国は王道楽土じゃなかとですよ」
金悟洞が珍しく憤然と云った。
「そう思っちょるのは、国王と廷臣ども、それに金持の商人だけですたい。他のもんは、何ばしよっと暮しは辛《つら》かけん、捨躰《すてばち》になって酒ばくらいよると。何が王道楽土じゃ」
「お前はこの国の者じゃなかった筈だな」
慶次郎が怪訝《けげん》そうに訊いた。
「明でも同じこってすたい」
吐き出すように云った。金悟洞を殺し屋にまでさせた理由がそこにあることは明らかだった。
〈ひょっとしてこの男|奴婢《ぬひ》ではないか〉
慶次郎はちらりとそう思った。この時代、中国にも朝鮮にも日本にさえ奴婢がいた。つまりは奴隷《どれい》である。人でありながら官庁や個人の所有物であり、所有者によって売買・相続・寄贈が自由であり、どれだけ酷使されても不平一つ云うことが出来ない。しかもその身分は世襲であり、その一族は永久に救われることがない。朝鮮ではこれらの奴婢を管理し逃亡を防ぐため掌隷院《しょうれいいん》と云う役所を主都漢陽に設け、奴婢の戸籍とも云うべき奴婢文書を備えていた。後に倭軍《わぐん》の攻撃によって漢陽が焼かれた時、この掌隷院が真っ先に焼かれたのはそのためである。
慶次郎にとって、奴婢は意味を持たない。人はあくまで人である。男なら『いくさ人』であるかないかだけが問題であり、女なら惚れるか惚れないかだけが問題だった。
「あの城まで馬が登れましょうか」
捨丸が現実的な話題に引き戻した。この男は『いくさ人』そのものである。
「無理だな。それに必要もないようだ」
慶次郎はうしろを振り返って見た。追っ手の影も見えない。
「悟洞。この道を通らずにわしらより先に漢陽に着けるか」
「そげん道はなか」
悟洞はきっぱりと云った。
「それなら問題はあるまい。この山間《やまあい》の道の続く限りわしらは安全だ。広いところへ出たら、その時考えよう。とにかく俺は漢陽までゆく」
それだけで慶次郎は再び松風を進めた。
道は次第に急になり、樹木の幹も太くなった。名も知れぬ野鳥の鳴声がきこえ、時々|山百合《やまゆり》の強い香りが鼻をつく。
雨が降って来た。忽ち道が泥濘《でいねい》と化し、歩きにくいこと甚《はなはだ》しい。松風でなければ躊躇《ためら》うような難路だった。
急坂《きゅうはん》を登りつめると、ぱっと目の前が開けた。頂上に達したのである。広大な草原だった。そのためここは『草岾《センジェ》』と呼ばれていると云う。小白山脈が急傾斜をなして谷に陥《お》ちこみ、その先には幾重にも層をなした山塊が望見された。一筋の道が草原の彼方《かなた》に見える。
「忠清道どす」
弥助が云う。この道を辿れば忠川を経て漢陽に達する。途中から漢江の流れに身を委せる水路も考えられた。
「陸路を行く」
慶次郎が即座に断を下した。陸路馬をとばせば漢陽は近い。それに舟に乗って戦うことは出来ない。
「ですが、漢陽に着いてどうなさいます」
捨丸が訊いた。
「見物」
慶次郎は屈託がない。
当然のことのように云う。
「見物ですか」
捨丸が溜息をついた。
「そんな暇がありますかね。尚州から報告が届けば、朝廷も放っちゃおけませんよ。都ともなれば、兵士の数も千や二千ではないでしょう」
「心配なか。漢陽、かくれが、いくらでもある。役人は入れん場所もあるけん」
悟洞がせせら笑うように云う。
「漢陽にはまだわが国の御使者がいらせられる筈ですわ。景轍《ていてつ》玄蘇《げんそ》和尚《おしょう》はんと対馬の御家老|柳川《やながわ》調信《しげのぶ》さまや。このお二人にすがればなんとかなりますやろ」
弥助が勢いこんで主張した。
「玄蘇和尚には会ってゆこう。だが、とりなしは無用だ。折角の使者の邪魔はしたくない。わしらのことはわしらが処理する」
慶次郎は当然のことのように云った。
「けど同じ日本人でっせ。つまらん見栄《みえ》はらんと……」
弥助の声がぷつんと消えた。慶次郎の凄《すさ》まじい一瞥《いちべつ》を受けたのである。
「お前とはここで別れる。好きなように動くがいい。わしらとは一切無関係だと云え」
弥助は馬から転げ落ちそうになった。恐れていた事態が来た。ここでしくじっては自分の一生は終りである。神谷宗湛は一生自分を許すまい。宗湛に睨《にら》まれては、九州と京・大坂で商人として大成することは不可能だった。
「そうは行きまへんな」
弥助は胸を張って云った。本来なら土下座でもして謝るところである。弥助は商売人の勘で逆手に出たのだった。慶次郎という男は、謝る男が嫌いである。気に入らなくても、己れなりの主張を持つ男を認める。もっとも男として認めても、許すとは限らない。そこが弥助の賭けだった。
「わては宗湛さまからこの一行の宰領を委された身や。何が何でも無事に博多までつれ戻す責任がおます。要らん云われたかて引《ひ》き退《さ》がるわけには行きまへん。第一、わしがおらなんだら、金《かね》がおまへんやろ。どないしてもと云やはるんなら、殺して金をとりなはれ」
捨丸と悟洞は冷やりとして顔を見合せた。弥助は全くの阿呆《あほう》である。居直った男はまさか斬れまいとたかをくくっているに違いないのだが、慶次郎という男は違う。こういう居直りが嫌いだし、斬れまいと云われると逆に斬ってしまうようなところがある。
果して慶次郎の眼が坐《すわ》った。松風が慶次郎の思いを察したように自然に弥助の方に動いた。
弥助が蒼白《そうはく》になった。この男も自分の間違いに気づいたのである。
〈斬られる〉
思った瞬間に、黒いものが凄まじい迅《はや》さで降って来た。鉄弓だ、と悟った時は既に遅く、脳天に一撃を受けて馬から転げ落ちていた。
「ゆくぞ」
慶次郎は不機嫌に云い、松風の首を忠川に向けたと見るなり猛然と走り出した。
漢陽
さすがの景轍《けいてつ》玄蘇《げんそ》が心が晴れない。
日本からの使節が代々宿をとる東平館にもう一ヶ月以上も滞在しているが、事態は一向に変ろうとしないのである。
玄蘇は天文六年の生れだから、この年五十五歳。もともと博多《はかた》聖福寺の住職だったが、天正八年(一五八〇)に乞われて対馬《つしま》に渡り以酊庵《いていあん》を開き外交僧として活躍していた。
玄蘇の宗派は禅家の中でも中峰派《ちゅうぼうは》或《あるい》は幻住派《けんじゅうは》と云い、十三世紀の中国、元の天目山、幻住庵の中峰明文に興り、遠漢祖雄らによって日本に伝えられた。主流である五山派からはずれた地方の宗派だったが、守護大名大内氏の支持を得て、中国・朝鮮との外交交渉役として起用される僧侶《そうりょ》が多かった。玄蘇もその一人だったわけだ。ちなみにこの以酊庵は江戸時代を通じて、朝鮮外交文書を起草する場所になったと云う。
玄蘇は既に書いた通り根っからの平和主義者である。朝鮮が秀吉《ひでよし》の軍勢に蹂躙《じゅうりん》される様も見たくなかったし、徴発された日本の百姓たちが異国の空の下で死んでゆくのも見たくない。秀吉も宣祖も所詮《しょせん》は権力に酔った愚者である。こんな男どもを欺《だま》して何が悪いか。朝鮮は、日本と明《みん》との仲介に立つと称して、明と日本双方においしいことだけ伝えて誤魔化してゆけばいいのである。そのうちに老齢の秀吉は死に、天下は変る。日本も明や朝鮮どころではなくなる。それまでどんな要求を出されようと、どんなに罵倒《ばとう》されようと、ひたすら耐え、大人しく恐縮し、忠誠を誓い、詫《わ》びを入れていればいいのである。
既に玄蘇も対馬の宗家《そうけ》も秀吉と宣祖を欺《あざむ》いている。秀吉が朝鮮は日本の先兵となって明を討てと喚《わめ》いているのに、玄蘇も宗家も宣祖に対しては、朝貢のため明への案内を頼む、と云うおとなしい言い方しかしていない。
だがそれでさえこの先の見えない国はうんと云わないのだ。さすがにこの段階では秀吉が武力をもって朝鮮を意のままに動かそうとしていることは伝えていたが、日本を馬鹿《ばか》にしているこの国はたいしたことだとは思っていない。
キリシタン大名小西|行長《ゆきなが》も五|奉行《ぶぎょう》の一人石田|三成《みつなり》も、玄蘇と宗氏の意見に賛成し、その後押しをしていた。二人ともこのいくさが労して功なきものであることを充分に知っていたからだ。特に石田三成にとってこれは豊臣家《とよとみけ》の興廃にかかわる大事だった。だから玄蘇への肩入れの程も大きかった。
それなのに……。玄蘇はやるせなくなった。
〈まるで賽《さい》の河原《かわら》ではないか〉
いくつ石を積んでも夜の間に鬼がすべてを崩していってしまう。自分たちの努力がいっそ空《むな》しかった。慶次郎の訪問が弟子によって告げられたのはそんな一日のことだ。
「前田慶次郎と申される御仁が、是非|和尚《おしょう》さまにお目にかかりたいと……」
玄蘇は首をひねった。『傾奇者《かぶきもの》』前田慶次郎の名は玄蘇でさえ知っている。だがこの朝鮮の都で、どうしてそんな名前を聞くのか。
「御案内申せ」
弟子が去るともう一度首をひねった。慶次郎が秀吉のお気に入りで、どこでも我儘勝手《わがままかって》を許されていたことを思い出した。
〈関白の密使か〉
一瞬そう思ったが、あんまり馬鹿々々しすぎた。だが慶次郎が入って来た時、もう一度その疑いが頭を掠《かす》めた。それほど慶次郎の姿は威風堂々としていたし、挙措も端正で礼法にかなっていた。『傾奇者』の名からは思いもかけぬ偉丈夫なのである。
「この国にはいつお越しかな」
当りさわりのない問いから玄蘇は始めた。
「まだ半月にもなりません」
慶次郎の返答はのんびりしたものだった。
「何しに、この時に……?」
「観《み》るためです、この国を」
「で、どう見られた」
禅僧らしい鋭い切返しである。
「滅びの美しさに酔っている国と観ました」
玄蘇はまばたきもせず慶次郎を見つめた。何故《なぜ》とは訊かない。
「滅びることは美しいかな」
「滅びたものは美しいが、滅びるものは無残でしょう」
玄蘇は微笑した。
〈どうして、この男が『傾奇者』なのだ?〉
もう一度不審の念が強く湧《わ》いた。
「その無残を避けたいとこうしてねばっているのだが……」
慶次郎は首を振った。肯定とも否定ともつかない形だった。
「何人《なんぴと》にも、どう手の下しようもないからこそ滅びるんじゃありませんか」
玄蘇は声を失った。正にその通りなのだ。だがそれでは人は何のためにあるか。
「天の道に逆らうのが人と云う者かもしれぬ」
話しながらどこか弁解めいて聞えるのが自分でも判《わか》り、一瞬恥じた。
慶次郎が大きく笑った。
「和尚もかぶかれるとは知りませんでしたな」
玄蘇もはじけるように笑った。考えて見れば朝鮮へ来て以来初めての笑いだった。
〈いいなあ、男は〉
強くそう感じさせる相手だった。
玄蘇は手を叩《たた》き、酒の支度を命じた。
「それで前田殿がこの国に来てなされたことは?」
玄蘇が訊く。
「相も変らずかぶき者のすることしかやって居《お》りませんな」
「かぶき者のすることとは?」
「喧嘩《けんか》」
「喧嘩?!」
さすがの玄蘇も驚いたようだ。一瞬声が高くなった。
「左様。大方はな。あとは恋」
「恋?!」
玄蘇は自分が馬鹿のように相手の言葉を繰り返しているだけなのを知っている。だがこの男は、そうでもするしかないようなことしか云わないのだから仕方がない。
「喧嘩と恋ですか」
溜息《ためいき》をつくように云った。半ば呟《つぶや》きに似ている。
「それだけで手一杯だったようで……」
慶次郎は照れたように顔をつるりと撫《な》でた。
「喧嘩は何度くらい?」
玄蘇がまた訊いた。正直なところ信じ兼ねている。だが慶次郎が嘘偽《うそいつわ》りを云う男でないことは一目で判る。
「三度……ですか」
「三度!」
また声が高くなった。慶次郎はその三度の喧嘩を簡単に語り、いやが上にも玄蘇を驚倒させた。倭人《わじん》でこの国に渡った者の数は多いが、これだけの短時日に、これだけの喧嘩をした男はいない。簡単に喧嘩と云うが、どれもこれもほとんど戦闘ではないか。並の人間ならとうに死んでいる筈《はず》だった。
〈この男はこの国にとって倭冦《わこう》を凌《しの》ぐ災厄《さいやく》だったのではないか〉
玄蘇はそう信じた。信じると同時に馬鹿々々しいほど愉《たの》しくなって来た。この『かぶき者』の見事さは、これほど激烈な戦闘を闘いながら、極力人殺しを避けたところにある。少くとも文官も武官も、ただの一人も殺してはいない。そして三度目の李鎰《りいる》を除いては、傷つけてもいない。
「それで今、追われているのかね」
この東平館へ来たのは庇護《ひご》を求めるためか、と一瞬思ったための質問である。
慶次郎は無造作に手を振ってみせた。
「奇妙なことに誰一人《だれひとり》追って来《こ》なかったようで……勿論《もちろん》、御坊に庇護を求めるつもりは毛頭ありません。御放念下さい」
きっぱりそう云うと、漢陽に来るまで全く追っ手の影も見なかったこと、とりわけ鳥嶺では一戦を覚悟していたのに戦うべき一兵にも行《ゆ》き逢《あ》うことなく、逆に失望したことを語った。
「まあ、そのうち追っ手が来ることは来るでしょうが、その頃《ころ》は我等《われら》は漢江を下っている等ですから」
暢気《のんき》に笑っている。その慶次郎を見ているうちに、玄蘇には閃《ひらめ》くものがあった。
「念のため調べさせて見ましょう」
「いやいや、どうぞお構いなく」
ひらひらと手を振っている。玄蘇は鈴を鳴らして近侍の僧を呼ぶと、役所に行って尚州《しょうしゅう》から前田慶次郎相手のなんらかの訴状が届いているかどうか、調べにやった。
「わしの感じでは……」
玄蘇は盃《さかずき》を乾《ほ》して驚くべきことを云った。
「追っ手はない」
「ほう」
慶次郎の対応は矢張りのんびりしたものだった。
「しかしそれでは武将としての面目が立ちますまい」
「あべこべでござるよ。武将としての面目が立たないからこそ、追っ手を出さない」
「ふーん」
慶次郎が首を捻《ひね》った。
「考えてみられよ。李鎰ともあろう将軍が、五十に余る兵をもってして、たった三人の倭人に破れ、耳まで失ったと天下に知れたらどうなります。辺境の胡(女真族)を破った軍功も忽《たちま》ち地に墜《お》ちましょう。それを思えば恥の上塗りにもなり兼ねない追っ手を出すわけがない」
「しかし金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]殿《きんすいどの》はじめ文官たちが何人も現場で見ていたんですがね」
「彼等は前田殿をほとんど国使の如《ごと》く遇し、饗応《きょうおう》をした。その相手を咎《とが》めることは彼等の落度を認めることになる。益々《ますます》追っ手は出しませんね」
慶次郎はもう一度|唸《うな》ったが、玄蘇の云うことには、いかにもという現実感があった。この国では恨みつらみより、体面の方が大切なのかもしれない。密陽府使|朴晋《ぼくしん》が弟を斬ったのも、結局はその体面のためではなかったか。
「ありそうなことだ。だがどちらに転んでもたいしたことではありません」
玄蘇は思わず失笑しかけた。なにがたいしたことではないだ。慶次郎本人にとってはそうだとしても、この国にとってはたいしたことどころか途方もないことであろう。
この男の相手になった者たち、釜山《ふざん》の鄭擬《ていはつ》、密陽の朴晋、尚州の金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]、金※[#「さんずい+解」、第4水準2-79-30]、権吉そして李鎰は、この男を何だと思っただろう。それが玄蘇には興味があった。
倭の国使として柳川《やながわ》調信《しげのぶ》と自分がここ漢陽にいる時を狙《ねら》ったように釜山に上陸し、到《いた》るところで大きな波乱を巻き起しながら、これも正しく国使の通る道である中路を正確に辿《たど》って漢陽に向って来る異様な武士の一団。倭冦にしては人数も少く、何よりも堂々としすぎている。国使にしてはいかがわしすぎる。どう見ても貿易商人ではなく、まして亡命者でもない。
会って見れば金※[#「目+卒」、第3水準1-88-86]を驚かすほどの詩文の達者であり、李鎰将軍を打ち負かすほどの武人である。こんな男をどう評価したものか。文官も武官も遂《つい》に正体を掴《つか》むことが出来なかったことは容易に想像出来る。
謀者《ちょうじゃ》。
それしかあるまい、と玄蘇は思う。この国の官憲が遂に行き着くところはこの一語しかあるまい。しかも只《ただ》の調査人と云う意味の諜者ではない。一種のおとりの役目を持った諜者だ。この国の武力・兵力をさぐるために、躰《からだ》を張った諜者である。さもなければこんなに行く先先で争いを起し、闘争を引き起すわけがない。
まだある。この諜者は起爆剤かもしれないのだ。つまり関白秀吉|麾下《きか》の優秀な部将で(その武勇を見れば容易に察することが出来る)、まかり間違って殺されることにでもなったら、秀吉はえたりや応とこの国に苦情を申し立て、それこそ開戦の口実にするかもしれない。
そんな様々な不都合の可能性を持った男に対して、彼等に何が出来るか。軍兵《ぐんぴょう》を集めてこれを追うか。それこそ絶対にしそうもない事であろう。彼等にとって最高の恥であり、危険が大きすぎる。そう考えて来ると、この男を殺す手は一つしかないのが判る。即《すなわ》ち密殺。ごく内密裡《ないみつり》に、何者とも知れぬ人物の手で殺され、どことも知れぬ土地に土中深く埋められる。多くの人々、別して倭人の眼《め》に、慶次郎は殺されたものとは映らない。確たる理由もなく、ふっとかき消えたとしか思えない。古来、そのような形でこの世から消え去った男女がどれほどいることか。
玄蘇はうそ寒い思いで慶次郎を見つめた。断じてそんな陰険なやり方で殺されて欲しくない男だった。あくまでも陽気で開けっぴろげな、一種天衣無縫の男。この男に密殺は似合わない。烈々たる陽《ひ》の下《した》で、死骸《しがい》は山をなし、血の川の流れる苛烈《かれつ》な合戦の中こそ、この男の死場所ではないか。
「前田殿」
玄蘇は切迫した声で呼びかけた。
「お手前は一刻も早くこの国を離れた方がよいかもしれぬ」
「何故でしょう」
けろっとした顔で慶次郎が訊き返す。
「それは……」
玄蘇はいい淀《よど》んだ。密殺される危険があると云うのはあんまり無残すぎるような気が強くしたのだ。
「お手前は虎《とら》じゃ。それも人喰《ひとく》い虎《とら》であろう」
慶次郎がいやな顔をした。
「喰いたくて喰ってるんじゃありませんよ」
「虎もまたそう云うだろうな」
玄蘇は返した。
「それでも虎は狙われ殺される。無数の罠《わな》をかけられ、遠巻きにおどかされ、罠の方へ追いやられてな。役人はこわがって近づかない。村人にも話したがらない。評判が高くなると騒ぎになるし、役人は騒ぎを嫌《きら》うからだ。彼等はすべてを狩人《かりゅうど》に委《まか》す」
慶次郎は暫《しばら》く玄蘇の顔を見ていたが、不意ににこっと笑った。
「狩人ですか。面白いな」
慶次郎はそう云った。
一見して『いくさ人』と判る凄《すさ》まじい面魂《つらだましい》の男だった。だが齢《とし》をとり且《か》つ傷《いた》んでいる。
躰中傷だらけらしい。少くとも衣服の外に出ている部分は大小の傷で蔽《おお》われている。顔が最もひどい。すだれのように切り刻まれていて、傷の中に辛《かろ》うじて目・口・鼻・ロがついているようだ。耳たぶは左右ともに無い。無残にひきつれた傷口があるだけである。
手の指も三本なかった。左手二本、右手一本が根許《ねもと》から綺麗《きれい》にない。この手では弓を弾くことは不可能だし、剣を扱うこともむずかしそうだった。
右脚を大きく曳《ひ》きずっているのは、大腿部《だいたいぶ》に傷があるためだろう。
これら全身に及ぶ傷は、それが戦闘中に受けたものだけではないことを明かしている。敵に捕えられ苛酷な拷問を受けたためだ。特に顔の傷がそうだった。失明せずにすんだのは奇蹟《きせき》に近い。
この男の生業《なりわい》が不明だった。
最早《もはや》兵士でないことは明らかだ。刀槍《とうそう》のたぐいは一切身につけていないし、兵士にしては着る物がひどすぎる。嘗《かつ》ては白だったと思われる埃《ほこり》だらけの褐色《かっしょく》に近い着物を身にまとい、足にはすり切れた草履をはいている。腰には一筒の瓢《ふくべ》を下げていた。
男の名は今はない。誰かが尋ねても阿呆《あほう》のようににたにた笑いながら、首を横に振るだけである。殴られても蹴られても同じことだった。人は遂《つい》に戦場の中で己れの名さえ忘れ果てた魯鈍《ろどん》な兵士であろうと思いこみ、一抹《いちまつ》の憐《あわ》れみと共に放置する。役人とて同じだった。激烈な戦闘の中で記憶を失う例は意外に多いのである。一種の戦争恐怖症である。いずれは胡《こ》との戦いでそうなったものと誰もが思った。
男に名がないわけではない。朴仁。実は誇り高い朴一族の裔《すえ》である。だが胡の捕虜になった時点で、恥のために名を棄《す》てている。密陽府使の朴晋はこの男の従兄《いとこ》に当った。
朴晋は弟を斬ることで、辛うじて府使としての安泰を保ったが、落ち着くにつれ無念さばかりが募った。弟を斬った時の手ごたえが折にふれ蘇《よみがえ》って来て朴晋を苦しませた。忘れようとしたが駄目《だめ》だった。
〈殺すしかない〉
そう決意した時、この従弟《いとこ》の顔が浮んだ。名を捨てて漢陽の巷《ちまた》に潜んでいたが、朴晋とだけは連絡があった。昔から二人は気が合って、助け合って来た仲である。晋は文官になり、仁は武官となった。文武手をとり合って官界の出世街道《しゅっせかいどう》を進む筈だった。その連繋《れんけい》は胡族の反乱さえなかったら、そして仁が捕虜にさえならなかったら、巧くゆく筈だった。そしてそれが無残に破れた今も晋の仁に対する友情は変らず、何かと世話を焼いていたのである。
晋は仁がいつか殺人請負の組織に加入したことを知っていた。それは金《かね》のためではなかった。金なら晋が必要なだけ送っていた。それは怨《うら》みのためだった。胡に対する、長い捕虜生活をやっと脱出して都へ帰って来た時の朝廷のさげすみと冷遇に対する、深く果てしない怨みだった。人を殺すという行為によってしか、その怨みが爆発するのを抑えることは出来なかった。
晋は仁に長い手紙を書いた。前田慶次郎を殺してくれとは書かなかった。ただ慶次郎から蒙《こうむ》った苦しみについて書いた。そして慶次郎の現在の動静。それだけで充分だった。朴仁は喜び勇んで仕事についた。舌なめずりせんばかりだった。
朴仁の属する組織は巨大なものだ。この国全体に手足を持ち、揃《そろ》って無口だが冴えた腕の持主で構成されている。この組織では個人の請負は許されていない。必ず組織が請け負い、一つの単位に仕事を下す。最低の単位が五人だった。だから朴仁が動く時は、他《ほか》の四人も同時に動くことになる。
勿論、この五人が五人とも殺人の達者と云うわけではない。一人は調べ屋。一人は武器の調達から変装まで引き受ける支度屋。一人は逃走を助ける逃がし屋であり、更に一人が直接の助《すけ》っ人《と》屋《や》。そして最後に殺し屋。そう云う構成になっていた。
今も朴仁は調べ屋の調査に基づき、東平館に向って歩いている。前田慶次郎とそのつれの四人は、玄蘇の切なるすすめに従って東平館に起居していた。調べ屋はまた慶次郎の部下のうち二人が恐るべき手だれであることを報告していた。この二人と慶次郎が一緒の時に襲うのは愚の骨頂である。分ってこれを討つ。それしかないことを告げている。
今日はそのやり方について研究するために朴仁自ら出むいて来たのだ。だから助っ人屋が朴仁の前方十間の場所を歩いている。この男はごく当り前の青物の物売りである。既に二度東平館に顔を出して、なんら怪しまれてはいない。
そして朴仁の後方十間のあたりに、逃がし屋がいた。これは正規の兵士の格好をしていた。
前方の助っ人屋がふっと足をとめた。
すぐ近くに迫った東平館の門から一人の男が出て来たのである。
これは弥助《やすけ》だった。
弥助は助っ人屋の趙《ちょう》の前に行ってしゃがみこみ、瓜を吟味するような顔で何か喋《しゃべ》っている。
〈やっとる〉
朴仁はにたりと笑って、ゆっくり弥助に近づいて行ったが、あと五間の距離で首のあたりにうそ寒いような感触を味わった。これは誰かが凝視している証拠である。
〈やっぱり居た〉
朴はその凝視の方向を見るような真似《まね》はしない。あくまで趙の地べたに置いた野菜の籠《かご》に眼を据《す》えたまま、のろのろと通りすぎた。
朴の後ろに居た逃がし屋の沈が、不意に野菜売りの趙に近づき、瓜を一つ買った。これは朴を援助し、併せて監視人の目撃を狙《ねら》ったものだ。趙が沈に云われるままに器用に瓜の皮を剥《む》いて渡すのを、弥助はぼんやりと眺《なが》めている。間の抜けた表情に見えた。
沈が瓜をたべながら歩き続けて朴仁に追いついたのは、東平館を大分ゆきすぎてからだ。
なにげなく肩を並べた瞬間に沈が云った。
「塀《へい》の上から例の鳥銃で狙っていた」
「やっぱりな」
朴は応《こた》えた。朴たちは最初、慶次郎一行の中で一番|隙《すき》だらけの弥助を誘拐《ゆうかい》し、身代金《んのしろきん》を要求することで一行をおびき出し、慶次郎を殺そうと考えたことがある。その策を放棄したのは、他の二人の連れが並大抵の者でないことが判ったからだ。
年齢不詳の小男は忍びだと云い、炸裂弾《さくれつだん》をよく使うと云う。朴晋の部隊も李鎰将軍の私兵も、この炸裂弾でかなりの損害を受けていた。
もう一人の竿《さお》のような鳥銃を持った男は、調べ屋の馬《ば》が面識のある男だった。名は金悟洞。明人で贋倭寇《にせわこう》として兇悪《きょうあく》そのものの男だった。朝鮮で暴れすぎて居られなくなり倭国に渡り、自分たちと同様に人殺しをなりわいとしていると云う噂《うわさ》を、馬は聞いていた。長い鳥銃は『遠町筒』と云い、驚くべき飛距離と命中精度を持つことは李鎰将軍の試射で明らかだった。
本人の慶次郎でさえ、今はひく者とていない鉄弓を軽々とひき、長大な鏑矢《かぶらや》を放って確実に半弓の三倍の距離から的を射抜くと云う。
つまりこの主従三人は揃って飛道具の達者なのだ。その上、接近戦においても容易ならぬ技術の持主だと云う。馬の調査は大方の人間を意気阻喪《いきそそそう》させる態《てい》のものだったが朴仁は並の人間ではない。逆にやる気が起ってくる。
弥助の誘拐を諦《あきら》めたのは、この策では三人をばらばらにするどころか、却《かえ》って結束させてしまうことが明らかだったからだ。それにこれは官兵の出動を誘うことになりかねない。
慶次郎たちは現在倭の使節と一緒にいる。弥助の誘拐は使節の同行人の誘拐として訴えられるだろう。倭国とこの国が緊張した関係にあるだけに、宮廷としては放置するわけにはゆかない。官兵を動員し、草の根わけても犯人を追うだろう。それがわずらわしかった。
通常使われる狙撃《そげき》、乃至《ないし》忍び込みによる刺殺などと云うやり方は論外だった。狙撃も忍びも向うの方が上手かもしれないからだ。少くとも狙撃については向うの武器の方が遠くまで届き、狙いも正確なのは明らかである。
この殺しだけは、何らかの目くらましを伴った策謀による以外に果すことが不可能である。
朴仁以下その結論に達し、様々な手を考えた。誘拐策もその一つだった。
やがて一つの策が採用され、検討され、決定した。
これはかなり複雑な手続きを要する作戦だった。
先《ま》ず慶次郎たちの関心を、自衛から他の人間を守るという方に転回させる必要がある。
そのために撰《えら》ばれた人物は玄蘇和尚だった。
この外交僧はその教養の深さ、詩文の達者のために、李王朝の中にも多くの知友がいる。と云うことは同数|或《あるい》はそれ以上の敵もいると云うことになる。この当時の文官はその出身地によって東人と西人と云う大きな派閥を組み、後に『士禍』と呼ばれたほどの激しい政争に明け暮れていた。だから東人派が玄蘇を買えば西人派は必然的に玄蘇を嫌うということになる。その上、玄蘇は歯に衣着《きぬき》せぬ云い方が得意であり、今度の件では大分李王朝の憤怒《ふんぬ》を買っていた。朴仁たちに云わせれば条件は整っていたのである。
本来調略は調べ屋の仕事だが、馬は金悟洞を識《し》っている。向うも馬を見識《みし》っている危険があった。そのため今度だけは助っ人屋の趙が調略屋を買って出て、東平館警備の兵に賄賂《わいろ》を贈り、野菜売りとしてこの建物に出入りすることを許された。
毒殺を警戒する慶次郎一行は、弥助に食糧の調達方を命じてある。趙はすぐ弥助と親しくなった。殊更新鮮な野菜を仕込み、値も僅《わず》かに安くしてある。あまり大幅に安くすると疑われるもとだからだ。
趙は自分はしがない青物売りだが、兄は科挙に通り宮廷につとめる立派な文官だとしきりに自慢しておいた。弥助が趙をひいきにする理由の一つはそこにあった。
弥助は弥助でこの男を通じて宮廷の情報を仕入れられるかと思案しているのだ。兄との往来は頻繁《ひんぱん》なのか。自分は商いを恥じてあまり兄とは顔を合わせないようにしているが、女房《にょうぼう》の方は嫂《あによめ》と気が合うらしく毎日入りびたりで役にも立たぬ宮廷の情報を仕込んで来ては自分に話して聞かせる。趙は極力苦々しげにそう応えた。
それは都合がいい。お前は知らないだろうが、倭国と朝鮮は今|厄介《やっかい》な紛争の種をかかえてすったもんだしている。万一宮廷で倭国或は倭人の噂が出たら、すぐ報せてくれないか。勿論、その度に相応の謝礼はする。弥助はそう云って趙をたらした。実のところ慶次郎一行に対する宮廷の反応を一刻も早く知りたいのである。宮廷で慶次郎の名が出たら最後、官兵は東平館に押しかけて来るにきまっていた。
だが若干の余裕はある筈だ。何と云っても倭国の正式の使節と同居しているのだから、身柄《みがら》を抑えるにもそれなりの手続きが要る。その僅かな遅れに乗じて、素早く逃げ出さねばならぬ。それによって自分たちの生命《いのち》も救い、玄蘇たちに迷惑もかけずにすむ。その意味でこの青物売りは弥助にとっては貴重な男だった。
趙という男は凄腕《すごうで》の短剣使いであり、吹矢の術をよくする。だが一見したところ、躰こそ大きいが極めて正直で無能なうどの大木に見えるのが、この商いとしての取柄《とりえ》だった。
趙から云わせれば弥助はまんまと罠にはまったことになる。
今日、趙は謀略の一歩を進めることになっている。
兄が宮廷で容易ならぬ噂を聞いて来た。わざわざ女房を通じて、ここ数日は東平館に商いに行くのをやめろと云って来たほどである。どうやら国王はこの度の倭国の態度を憎むあまり、その使節及びその供をする者ことごとくを誅《ちゅう》する意志を示されたらしいと云うのだ。武官たちが秘《ひそ》かに行動準備を始めている。当然のことながら官兵をもって公《おおやけ》に倭の使節を討つことは出来ぬ。そんなことをしたら忽ち戦争である。だから先ず何者かが東平館に火をかけ、消火のためと云う口実で官兵がなだれこむ。その騒動の中で真っ先に玄蘇和尚が斬られ、他の使節たちも討たれる筈だ。それを避ける道はただ一つ、只今即刻都を発《た》って漢江を下り、帰国の途につくことである。陸路では何が起るか判らない、云々《うんぬん》。
弥助は蒼白《そうはく》になったが、さすがはしたたかな商人である。趙の言葉を鵜呑《うの》みにするようなことはしない。趙を慶次郎のもとに連れて行き、話を伝えた。
慶次郎は別に驚きもしない。ありそうなことだと思っている。だが念のため趙を玄蘇のもとに引っ立てて行った。
玄蘇は首をかしげた。
「拙僧が国に嫌われていることはよく知っている。だが誅されるほどのこととは思わぬ」
きっぱりと云った。
「わしを誅すればすぐいくさになる。この国ぐらい、いくさを恐れる国はない。仮にもいくさの口実になりそうなことをするわけがあろうか」
慶次郎もそれくらいのことは知っている。これはいわば常識である。だが常識外の行為をする人間が出て来ないと云う保証は何もない。それがほかならぬ国王だったとしたらどうなるか。
「試す法がある」
玄蘇は薄く笑い、趙を自分の前に坐《すわ》らせた。
ふっと手をあげた。気合一つかけないのに趙はこちんこちんに硬くなった。不動金縛りの術と云われるが、実のところ瞬間催眠術である。この術にかけられると、現代で云う、告白剤を注射されたのと同様になる。なんでも正直に喋ってしまうしかなくなるのだ。
玄蘇は名前、年齢、職業などの易《やさ》しいことから始めて、やがて宮廷の話に及んだ。
驚くべきことに趙は、弥助に語ったのと全く同じことを、それも正確に一言々々同様に喋ったものである。
もし玄蘇が最初から話を訊いていれば忽ち気づいた筈なのだが、これは趙が催眠術破りの術をかけられていることを意味する。つまり前もって催眠術にかけられ、云うべきことを吹きこまれているのだ。趙はそのことを忘れるように、だが催眠状態に陥ったら即座に思い出すように云われて覚醒《かくせい》させられる。これが催眠術破りの術だ。玄蘇の不動金縛りの法術はそれほどこの国では有名だった。だからこそこの対抗術をあらかじめ掛けられていたのである。
結果として玄蘇も慶次郎も趙を信じた。だが趙の真実驚いたことに、この二人は顔色も変えないのである。
「逃げますか」
慶次郎がのんびり訊く。
「お主たちは逃げた方がよさそうだな」
玄蘇も常に変らぬ落ち着いた調子で云う。
「わしらはどうでもいいんです。死んで惜しい生命でもなし、修羅場《しゅらば》には慣れている。どんなごたごたでも何とかなります。だが御坊方はそうはいかぬ。それに立場と云うものもおありでしょう」
玄蘇は笑った。
「それさ。わしは痩《や》せても枯れても倭の国の使節だ。こんなことはいつでも予想して海を渡っている。今更じたばたすることはないし、また使節としてそれは出来ぬ」
その顔がふっと曇った。
「だが、これでいくさは避けられなくなってしまった。それが心残りだ。愚かしいいくさなのだ。何としても避けさせたいと、そればかりを念じて来たのになぁ」
そこには紛れもない深い嘆きがあった。一代の名外交僧として、なんとか戦争だけは起したくないと奔走して来た玄蘇である。自分の死よりも、使節たち全員の死よりも、その点が口惜しかったに相違なかった。
趙には日本語が判らない。だが玄蘇の嘆きは言葉の障碍《しょうがい》を越えて趙の胸に伝わった。
〈俺《おれ》たちは途方もない間違いをしようとしているのではないか〉
国に国民に怨みと憎しみを抱き、世に叛《そむ》いて犯罪者の道に入った趙がそう考えこんだほど、玄蘇の嘆きは一途《いちず》だった。
「まだまだ判りませんよ」
慶次郎が微笑して云う。
「和尚を死なすようなことは、われらがしませんからね」
「心強いことだな。だが女子《おなご》がいるのを忘れるな」
「伽子は和尚とぴったりくっついていて貰《もら》います」
玄蘇が目を剥いた。
「わしを破戒僧にするつもりか、お主」
慶次郎はのけぞって笑った。
二日たっても三日たっても、何の襲撃もなかった。
朴仁と趙は慎重に時を計っている。
実は趙がこの話を切り出した時、火つけの仕掛はすべて終っていたのである。いつでも即座に東平館を炎上させることは出来る。
三日目の夜も更けた時、金悟洞が初めて疑いの言葉を発した。
「贋情報にかかったごたる」
慶次郎が首を振った。
「そうは思えん」
青物売りの趙に玄蘇が術にかける場面は、慶次郎だけでなく、全員が見ている。
「青物売りは嘘《うそ》を云うちょらんでも、その兄貴が嘘を云うちょるいうことはあるたい」
「青物売りはどうでもいいのだ」
慶次郎が妙に底深い眼差《まなざし》で云った。
「俺の勘が何かあると告げている。だからある」
断乎《だんこ》とした態度である。金悟洞が沈黙した。
「お前の云うようなことを云わせたいのさ。それが向うの狙いだよ」
捨丸が云う。金が呆《あき》れた顔になった。
「倭人がそげん気の長かとは思わんかったとばい。この国の男どもはもっと気が短か」
「官兵ではないのとちゃいますか」
弥助にも鮮人は気短かだという先入観念がある。
「官兵は大ざっぱやし、待つのは苦手でっせ。宮廷でも官兵ではまずい思わはったんでっしゃろ」
これは当っていて当っていなかった。支度屋の白が官兵の隊長を金で雇ったのである。もっとも隊長はなんら咎められる心配はなかった。たまたま市内巡察中に火事に遭い、消火につとめたまでだからだ。彼等は誰も傷つけず誰も殺さない。ただわあわあ騒《さわ》ぎ廻《まわ》って火を消せばいい。殺しは朴仁の仕事だった。
何事もなく四日目が明け、そして何事もなく暮れようとした。
その時、突如爆発が起った。
爆発は束平館の建物の六箇所で、全く同時に起った。爆発と同時に火の手が上ったのは、爆薬を油で囲んであったためだ。
この爆薬は十日も前に、支度屋の白によって仕掛けられている。白は背丈は小児なみだが、顔は皺《しわ》に蔽われ、好々爺《こうこうや》のおだやかさだった。人に危害を加えることなど想像も出来ない外貌《がいぼう》だが、その実、恨み深い性質で、しかも爆薬の専門家だった。今度使われた爆薬も白が自分の手で作ったものである。現代風に云えば油脂爆弾乃至|焼夷弾《しょういだん》である。精巧な作りだった。
白はその虫も殺さぬ外貌から十日前に東平館の掃除人として雇われている。朝夕外廻りの掃除をしながら爆薬を仕掛け、今日も掃除をしながらそれぞれ長さを変えた導火索をとりつけていった。
導火索に点火するのは逃がし屋の沈の役目である。
黄昏《たそがれ》はかわたれどきと云う名で分明なように、彼が誰であるか判別しがたい暗さの時である。沈はその中を松明《たいまつ》を持って歩き、平然と爆薬に点火して廻った。服装は兵士のものだ。服装と云い、松明と云い、躰の大きさもあって、かわたれどきの中ではひどく目立つのだが、逆にそれが盲点になって誰の目も引かない。松明は庭に配置された灯籠《とうろう》に火を点ずるためのものだったから尚更《なおさら》である。
だがたった一人、沈に不審を抱いた男がいた。金悟洞である。
この男はなんと束平館の一番高い屋根の上にいた。捨丸と任務を交替したばかりだった。
この高みに登ると、東平館の庭は勿論、表の通りまで充分に見通すことが出来る。絶好の展望台だった。だからこの四日間、捨丸と悟洞は交替で、終日ここでとぐろを巻いていたのである。
黄昏が降りて来て、すべてが薄明りに包まれた中で、沈の持つ松明はくっきりと目立った。その動きが不審だった。非常な迅《はや》さで建物に近づいたり石灯籠に戻《もど》ったりしながら、庭を一周した。石灯籠に点火するような仕事を、こんなに急いでやる男は普通いない。
悟洞はなんとなく『遠町筒』を構え、その松明の持主を照準の向うに捉《とら》えた。
沈は六筒の爆薬に点火し終えると、松明を池の水につけて消した。これがいけなかった。
池のほとりの石灯籠にまだ火が点《つ》けられていなかったのである。本物の灯明番《とつみょうばん》なら絶対に犯す筈のない過怠《かたい》である。
悟洞は一瞬の躊躇《ためら》いもなく『遠町筒』の引金をしぼった。こういう胸のすくような決断は殺し屋に特有のものである。
雷鳴のような銃声が轟《とどろ》き、同時に沈は吹っとんだ。見事に胸を射《う》ち抜《ぬ》かれ即死している。
これが実質的な戦闘開始となった。
爆発はほとんど間もなしに起り、忽ち紅蓮《ぐれん》の炎《ほのお》が上った。
同時に支度屋の白が手配した五十人に及ぶ官兵がどっと屋敷内になだれ込んだ。わいわい騒ぎながら消火に当る。
金悟洞はそれを見届けるとすぐ屋根を降り、玄蘇たちの居る室内にすべりこんだ。
一瞬、悟洞ほどの男が目をむいた。
なんと室内に馬がいたのだ。しかも三頭である。
慶次郎は松風にまたがり、玄蘇と伽姫は野風に乗っていた。もう一頭の朝鮮馬には弥助が乗り、捨丸の武器である炸裂弾をおさめた箱を二つ、ふりわけにして鞍《くら》の両側に下げている。
「官兵の五十人ばっか来よりましたですばって、騒ぐばっかで殺気はなかとです」
悟洞が馬鹿にしたように告げた。
「お主、一人撃ったな」
慶次郎は見ていたらしい。
「爆薬に火を点けて廻っとったとです。手遅れで申しわけなかとです」
慶次郎が手を振ってその謝罪の言葉を消し去った。
「奇妙だ」
ぼそっと云う。珍しく考え込んだ顔だった。
もう一人の使節柳川調信の家臣が血相変えてとびこんで来た。三頭の馬を見て、ぎょっとしたが、荒っぽく云った。
「何をしていられる。火事でござるぞ。猫《ねこ》の手《て》でも借りたいところを、のんきに馬遊びなど……」
「火を消すな」
慶次郎が云う。
「何ですと?!」
「火を消す役は他にいる。お主たちは殿様を守ることに専念しろ。刺客が来るぞ。四日前に柳川殿に注意した筈だ」
「そ、そんな……」
家臣が真《ま》っ蒼《さお》になった。
「今、殿様のそばに何人いる」
「はっ。多、多分、二人かと……」
「馬鹿な家臣だ。殿様を殺しても火事が消したいか」
家臣はこの侮辱に応える余裕もないらしかった。慌ててとび出して行こうとする。その背へ慶次郎が喚いた。
「わしらを一切当てにするな。わしらは和尚を守るので手一杯だ。そちらの殿様が討たれようが焼かれようが知ったことではない。いいな」
家臣は一瞬振り返って怒りの表情を見せたが、一言も発することなく、すっとんでいった。
表の騒ぎが大きくなり、ぱちぱちと云う音と熱気と煙が押し寄せて来た。
だが玄蘇も伽姫も平然としている。慶次郎を信頼し切っているのだ。松風も野風も涼しい顔をしている。朝鮮馬だけが落ち着かない。小やみなく動こうとしている。弥助が必死に抑えながら喚いた。
「動かんといてや。頼むわ。わしだけが信用でけんようで、みっともないやないか。お前、主《あるじ》の顔に泥塗《どろぬ》る気か」
捨丸がくすりと笑った。
「案外利口なんじゃないのか、その馬」
「何ぬかす。わてがなんで……」
「お主のことじゃないよ。その荷物さ。それに火がついたら最後、馬も人も粉微塵になって痕《あと》も残らないからな」
悟洞が怪鳥《けちょう》のようにけ、けと笑った。
弥助ははじめてその事実に思い当ったらしい。愕然《がくぜん》として馬を降りようとした。慶次郎の槍《やり》がその後《うし》ろ襟《えり》を刺し、そのまま持ち上げて鞍の上に引き戻した。
「お前が降りると馬は跳びだして死ぬことになる。馬だけ殺すような真似は許さん」
「そんな……」
弥助は泣き出さんばかりである。
事実、四方から迫って来る熱気は凄《すさ》まじく一同はしとどに汗に濡《ぬ》れていた。流れ込む黒煙も濃度と量を増している。
「斜め前に池があります」
捨丸がちらりと慶次郎を見て云った。
「それこそ金輪際近づいてはいけない場所だろう」
慶次郎が汗を拭《ふ》きながら云う。
「そうですな」
火中から飛び出した者が最初に行くのは水のある場所だ。それも斜め左十数歩のところにある池である。十中十まで罠が仕掛けられている筈だった。
「もう、あかん! 爆発する! 表へ出まひょ。池でなければええんでっしゃろ? とにかくもうもちまへん!」
「もう少し待て」
慶次郎は落ち着いたものだった。
「待つって、何を待ちまんねん?!」
「人が来る筈だ。それが誰かで、この仕組みがはっきりする」
「仕組みも何も、焼け死んだらしまいやおまへんか」
「人はそう簡単に焼け死はしないよ。多少、ぬくいくらいは我慢しろ」
「ぬくいやて?! これが!」
「心頭滅却すれば火もまた涼しと云われた御坊がおわす」
玄蘇がにこやかに笑いながら云った。
「人が来ます」
捨丸が低く云ったのはその時である。
「やっと来たか」
慶次郎がにたりと笑った。
国王宣祖が玄蘇と柳川調信を殺す命令を出したとは、今の慶次郎は信じていない。それなら官兵たちがとうになだれをうってこの部屋に殺到している筈である。多人数との闘いに備えて、慶次郎は敢《あえ》てこの部屋から動かなかったのだ。狭い室内では多数の方が不利である。
乱戦になれば同士討ちをせざるを得なくなるからだ。それが今迄《いままで》に一人の官兵も部屋に現れていないと云うことは、金悟洞の見た五十人の官兵は目くらましに過ぎぬと云うことだった。
〈刺客の数は少数。ひょっとすると一人だ〉
慶次郎はそう読んでいる。
だがそうなるとこれは国王の命令ではないと云うことになる。廷臣の一人か二人の計画ではないか。
〈それもどうかな〉
慶次郎は首をかしげる。廷臣にそれほどの度胸があるだろうか。十中九まで倭国と戦争になる危険を冒してまで、敢て玄蘇を討とうとする廷臣などいるだろうか。
それに首尾よく玄蘇を討ったとしても、国王宣祖の怒りを買うのは必定である。謀者が廷臣と判れば到底生きてはいれまい。それが、
「奇妙だ」
と慶次郎の呟いた理由だった。
朝鮮語で喚く声が近づいた。
部屋にとびこんで来たのは、野菜売りの趙と見知らぬ大男だった。勿論これは朴仁である。二人とも煙で煤《すす》けている。
趙が弥助に向って喚いた。朝鮮語である。
「何してるんだ、旦那《だんな》。こんなとこにいたら焼け死ぬだけだよ。案内するから表へ出なさい」
捨丸が慶次郎を見た。二人とも玄蘇がこの男に不動金縛りの術をかけた所を見ている。嘘を云ってはいないと云う結論が出ていた。だが今の様子を見ると、この男が最も怪しい。
「つれは誰だと尋ねてみろ」
慶次郎が弥助に云う。
弥助の問いに趙はいらいらと手を振って答えた。
「俺の仲間ですよ。ここが火事だと聞いて心配になって、助っ人につれて来たんです。とても喧嘩強い。頼りになる男ですよ」
「名前は?」
弥助が通訳すると慶次郎が直接朴仁に訊いた。
「朴仁」
面倒臭そうに朴が応えた。実は部屋に入った時から慶次郎を狙っている。だが馬上というのではどうにもならない。さりげなく近づいて刺すというわけにはゆかないからだ。
しかも化物のように巨大なこの馬は、朴仁を疑うかのようにじっと眼を据えて見つめている。異様な迫力だった。
朴仁の暗殺の得物《えもの》は錐刀《すいとう》である。錐刀とは我が国の畳針に刃をつけ、柄《え》をつけたようなものだ。掌《てのひら》の中にすっぽり隠れるくらいの短さで、しかも細い。
これで前または背面から、心臓を一突きするのだが、錐刀があまり細く鋭いので、たとえ心臓に穴があいても本人も気づかず、即死することもない。犯人がその場を離れて充分遠ざかった頃、刺された者は唐突に死ぬ。
刺客にとっては何ともこたえられない得物だった。先ず死ぬ現場にいないのだから犯人と疑われずにすむ。第二に刺し傷が小さすぎて、屍体《したい》を調べても中々見つからない。科学の進んだ現代の警察の鑑識課でさえ、時に見過すと云うのだから、この当時の人間に見破られるわけがない。大方は心臓発作による自然死と云うことになる。つまり犯罪を構成しないのである。犯罪でないのに犯人がいるわけがない。刺客としては最高の仕事になるわけだ。
だがこの素晴らしい武器を振るうには、相手の躰が自分と同じ高さにいなければならない。馬上の男を刺すことは出来なかった。
悟洞が云った。
「この男、ほとんど指がなかとです。これじゃ匕首《あいくち》も握れんたい」
朴仁はわざと両手を曝《さら》している。相手を安心させるためなのは勿論だった。
「どうかな」
慶次郎は冷たく云った。松風の様子から、既に朴仁をかなりの遣い手と睨《にら》んでいる。
趙の方もかなりの腕に違いなかった。玄蘇の術を逆用して見せたことだけでもとても只者ではない。
火が迫り炎が戸口をなめはじめた。
「わしらをどこに案内するつもりか聞け」
慶次郎の言葉を弥助が通訳すると、言下に趙が応えた。
「池」
これは通訳がなくても全員に判った。同時に趙たち二人が刺客であることを証明したようなものだった。
「よし。行こう」
慶次郎と松風が真っ先に戸口をとび出すと廻廊《かいろう》の欄干をとび越え、庭に着地した。
すぐ玄蘇と伽姫を乗せた野風が後に続く。捨丸と悟洞がその両脇《りょうわき》をしっかり固めていた。
最後に弥助の朝鮮馬が着地する。弥助は恐怖のあまりしっかり目をつぶっていた。
朴仁と趙はこの連中のあまりの素早さに肝を潰《つぶ》しながらも後を追って来た。
趙が急いで野風のくつわをとった。
「池へ。早く」
「お前が先だ」
慶次郎の槍が趙の襟首を貫くと、軽々と池に放《ほう》り投《な》げた。
趙の躰が池に落ちて潜った瞬間、轟音が起り、最後の爆薬が破裂した。池に入った途端に爆発するように仕掛けたものである。
「くそっ」
朴仁が跳躍して慶次郎に襲いかかった。或《あるい》は襲いかかったつもりだった。松風が信じられぬ迅《はや》さで横に一間を跳び、朴仁は空を切って空《むな》しく地に落ちた。
「狙いはわしか、それとも和尚か訊いてみろ」
悟洞が弥助より早く質問した。朴仁は歯がみして応えた。
「お前だ」
朴仁にとって意外なことに、慶次郎はほっとしたようににっこり笑った。
「やっぱりな」
朴仁がもう一度跳躍し、空中で停止した。
慶次郎の槍がその胸を貫き、そのまま支えていたのである。
帰還
天正十九年八月末。ようやく秋風の立ちはじめた都大路を、奇妙な格好の一行が人々の眼《め》を瞠《みは》らせながら進んでいた。
一行は三頭の馬に乗った四人の男女だった。先頭の巨大な肥馬に六尺豊かな大男が明らかに朝鮮の美姫《びき》を抱いてまたがっている。続く二頭の馬には、それぞれ朱柄《あかえ》の槍《やり》を捧《ささ》げた小男と、恐ろしく長い鉄砲を立てた、これまた朝鮮か明国《みんこく》の男が乗っていた。
「前田慶次郎はんやないか」
「天下一のかぶき者が帰って来やはったんや」
「ええ女子《おなご》抱いとるなあ。さすがやなあ」
通りすがりの人々は感嘆したようにこの一行を見送っていた。
三ヶ月を越える不在だった。
京洛《きょうらく》の人々は彼がどこへ行ったのか全く知らない。或《あ》る日《ひ》ふっとかき消えるようにいなくなった。それだけだった。大坂から船に乗るのを見たと云う者もいた。金沢に帰ったと云う者もいた。それきり消息が絶えた。
京のかぶき者たちは一気に勢いを盛り返した。慶次郎さえいなければ怖いものはない。再び勢力争いが起き、毎日のように四条河原で果し合いが行われた。三月《みつき》の間にその争いにもどうやら結着がつき、鳥辺野|死右衛門《しえもん》と云う不吉な名を名乗る男が、京かぶき者の第一人者と認められるに至った。死右衛門は多くの手下を引きつれて、都大路を練り歩き、傍若無人の振舞いを重ね京童《きょうわらべ》の顰蹙《ひんしゅく》を買っていた。
そこへこの突然の帰還である。
噂《うわさ》はあっという間に京洛中を駆《か》け廻《まわ》り、当の死右衛門の耳にも届いた。
死右衡門は六尺の大男だが痩身《そうしん》である。しかも顔色が悪い。それこそ死人《しびと》のような青黒さだった。その顔がこのしらせを聞いた時だけは一瞬白くなったと云う。そして叫んだ。
「殺せばいいんだろう、殺せば」
当の慶次郎はそんなことは何一つ知らない。彼は十日前に博多津《はかたつ》に上陸した。
東平館襲撃の翌日に玄蘇《げんそ》に迷惑をかけた詫《わ》びを云い、漢陽を去ったのである。自分のために使節に累《るい》を及ぼしてはならぬと思ったのだ。この奇妙に義理固い男は、漢江を舟で下るがいいと云う玄蘇たちの意見を拒否し、正確に往路と同じ道をゆるゆると辿《たど》り、釜山浦《ふざんぽ》に戻った。
自分に刺客を放った相手の攻撃を誘うためだ。だが奇妙なことに、最後まで何の攻撃も受けなかった。李鎰《りいる》は故意に他道に避けたし、朴晋《ぼくしん》は心底震え上って手を出すどころではなかった。この国最強の殺し屋朴仁を、無造作に返り討ちにしてのけた悪鬼のような男に攻撃をかけるのは、自殺するようなものである。
こうして釜山浦から船に乗り、航路もまことに平穏に博多に着いた。
神谷《かみや》宗湛《そうたん》に厚く礼を云い、弥助《やすけ》を返した。
「よく働いてくれました」
慶次郎はあっさりそう云っただけだが、宗湛は笑って云った。
「一生分の胆《きも》っ玉《たま》を使い果したような顔をしていますよ、あの男。よほどこわい目にあったと見えます。暫《しばら》くは使いものになりますまい」
「別にたいしたことはなかったのだが……」
慶次郎が本気で首をひねった。
「御貴殿にはたいしたことでなくとも、並の人間には驚天動地のことなんですよ。御心配なく。一月《ひとつき》も休めば恢復《かいふく》します。その時は前より一廻り大きな商人になっているでしょう」
金悟洞の処置は厄介《やっかい》だった。これも博多に置いてゆくつもりだったが、頑《がん》としてついてゆくと云ってきかないのである。捨丸までが口添えをしたのが、奇妙だった。結果、
「好きにしろ」
その一言で悟洞は京に現れることになった。
博多から船で大坂に着き、淀川《よどがわ》に沿って馬を走らせ京に入ったが、慶次郎たち一行に宿はなかった。寺町の家は、朝鮮行きの時、捨丸が始末してあったからだ。そうなると行く場所は一箇所しかない。直江《なおえ》山城守《やましろのかみ》兼続《かねつぐ》の屋敷である。
生憎《あいにく》なことに兼続は不在だった。この前年、南部|信直《のぶなお》の一族である九戸《くのへ》政実《まささね》が九戸城に拠《よ》って豊臣《とよとみ》政権に叛旗《はんき》をひるがえしたが、南部信直にはこれを討つ力がなかったため、この年六月、秀吉《ひでよし》は上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》・徳川|家康《いえやす》、豊臣秀次・伊達《だて》政宗《まさむね》・浦生《がもう》氏郷《うじさと》・佐竹|義宣《よしのぶ》等をもってこの攻撃に当らせた。兼続は景勝に従って陸奥《むつ》の地《ち》にあった。
だが主人が不在でも慶次郎には何の不都合もない。まるで自分の屋敷のように平然と上りこみ、勝手に使用した。留守居の武士たちもまたそれを少しも怪しまず、気儘にさせておいた。主人と慶次郎の仲を熟知しているからである。もっとも慶次郎はすぐ捨丸に家を探させている。
兼続の不在で一つだけ困ったことがあった。朝鮮行きの結果を直接石田|三成《みつなり》に報告しなければならなくなったことだ。
慶次郎は朝鮮で毎日克明に旅日記をつけている。この男らしからぬ凡帳面《きちょうめん》さだが、日記は時に詩文を、或《あるい》は和歌・俳諧《はいかい》を混えた自由|闊達《かったつ》なもので、慶次郎はこの手の書き物が嫌《きら》いではなかった。その旅日記を兼続を通じて三成に渡すつもりだった。それが出来ない。
慶次郎は石田三成が嫌いである。才能は認めるがどうにも好きになれないものは仕方がない。出来ればじかに逢《あ》いたくなかった。会えば意見を求められるだろう。慶次郎は既に三成の意見を知っている。
三成は小西行長・対馬《つしま》の宗《そう》義智《そうよしとし》と同腹だった。出来るだけ朝鮮と戦いたくないのだ。もっとも理由はそれぞれ違っていた。宗義智は朝鮮ひいては明国との貿易を失うことが何より恐ろしい。小西行長はキリシタンの熱烈な帰依者《きえしゃ》だっただけに、戦争を起したくない。石田三成は莫大《ばくだい》な戦費をついやすことによって豊臣政権の基盤の弛《ゆる》むのが心配だった。
三成が慶次郎を朝鮮にやったのは、現実の朝鮮の情勢を見せ、朝鮮が我が国に協力的でなく攻撃は困難であると秀吉に報告させるためである。
宗と小西は今まで朝鮮は我が国に協力的であり、いざとなれば喜んで明国征討の道案内をするだろうと嘘《うそ》を云い続けて来た。何とかして朝鮮への出兵をやめさせ、明国との交渉は朝鮮に委《まか》せるよう説得する気だった。朝鮮に対しては、日本が明国に貢物を送り服属を望んでいるから斡旋《あっせん》して欲しいと、これまた嘘をつき続けて来た。要するに事態を極力引きのばして、秀吉の死を待とうとしたのである。
ところがしびれを切らした秀吉が朝鮮出兵に決したところから事態が変った。現実に朝鮮に攻めこめば、朝鮮が我が国に非協力的であることはいやでも判《わか》ることになる。三成たちの嘘が曝露《ばくろ》されるわけだ。三人はその時の秀吉の凄《すさ》まじい怒りを恐れた。こうなったからは前もって朝鮮国王宣祖が裏切ろうとしていることを秀吉に告げておかねばならない。慶次郎の報告をその転機をつくる方便として使うつもりだった。
三成は神谷宗湛からの使者で、慶次郎の帰還を知った。安堵《あんど》すると共に一刻も早く大坂城に報告に来て欲しかった。ところが慶次郎は一向に現れない。三成は狼狽《ろうばい》した。急遽《きゅうきょ》家臣を京にやって居所を探させ、直江山城邸に居ることをつきとめた。朝鮮から美しい女を連れて帰り、日夜その女に不思議な琴を弾かせ、詩を作り句を練って悠々《ゆうゆう》と過していると云う。
聞くなり三成は頭に血が上った。元々三成は短気で傲岸《ごうがん》である。京都所司代前田|玄以《げんい》に命じて武装した兵の一隊を送り慶次郎を大坂城に招喚させた。
慶次郎は所司代の使者の口上を聞くと鼻で笑った。
「宜《よろ》しい。同道致そう。衣服を整える間、待たれよ」
案外のおとなしさに拍子抜けした所司代の武士たちは、やがて現れた慶次郎の格好を見て仰天した。慶次郎は完全に朝鮮の服装をしていた。それも農夫の服装である。ご叮嚀《ていねい》に丈の高い帽子までかぶり、長大な煙管《きせる》までたずさえている。その姿で松風にまたがり、同じ服装の捨丸に槍を持たせて従えている。この格好で京の町をすぎ大坂まで行くのだから目立って仕様がない。一同|辟易《へきえき》すると同時に秀吉がどんな反応をするかと思って気が気でなかった。下手に機嫌《きげん》を損ねでもしたら、自分たちにまでとばっちりが来るかもしれないのだ。と云って、服装を改めろと云ったところでこの男が従うわけがない。こんなくだらないことで生命《いのち》を失うのはご免だった。
大坂城で待ち構えていた石田三成もまた、この服装を見て驚愕《きょうがく》した。
「装いを改められよ。その姿で殿下にお目通りすることは許さぬ」
「では帰らせていただこうか」
慶次郎はぷかりと煙管をふかして云った。
「伊達《だて》や酔狂でこの姿をして来たわけではない。わしなりの理由あってのことだ。それがならぬと申されるなら、帰るしかない」
三成はまた頭に血が上ったが、慶次郎をこのまま帰しては何にもならない。自分たちの首を救うためには、何としてもこの男が必要だった。
「その理由を聞こう」
三成は虫を抑えてそう云った。
慶次郎は哀れむように三成を見た。
「石田三成とも云われる者が、首一つ失うのがそれほどこわいか」
三成は余りの暴言に瞠目《どうもく》した。怒る暇《いとま》もなく二度目の痛打が来た。
「貴公と小西行長、宗義智の三人は、終始関白殿下を欺《だま》し続けて来た。勿論《もちろん》、理由あってのことだろうが、偽りは偽りだ」
三成は蒼白《そうはく》になった。
「貴公たちは朝鮮が我が国に服属するものの如《ごと》く殿下に思い込ませて来たが、事実はあべこべだ。朝鮮の方が我が国が服属しているに等しい夷国《いこく》だと信じている。貴公方はまた征明嚮導《せいみんきょうどう》などと称し、朝鮮国王自ら明回征服の先兵となるなどと殿下に申し上げているが、朝鮮に対しては仮途入明、即ち明へ入るので道を借りたいと申し込み、それさえ拒否されているのが現実ではないか。ご承知ないかもしれぬが、世間ではこういうのを二枚舌と申す」
三成は口が利けない。それほど打ちひしがれていた。たかが『傾奇者《かぶきもの》』とあなどったのが間違いだった。朝鮮に行っても言葉も判らず、ただただ酒をくらい料理を食し、女でも買って帰って来るぐらいのことだろうとたかを括っていたのが誤りだった。それにしてもここまで見抜かれようとは、夢にも思わなかったところである。
「わしは性来嘘は嫌いだ。関白殿下に対面すれば見たまましか云えぬ。だから直江山城に代って報告して貰《もら》おうと、敢《あえ》て待機していたのだ」
慶次郎の言葉が鋭くなった。
「それを京都所司代の兵によって威嚇されてはやむをえない。貴公たちには気の毒だが真実を申すしかない。それに関白殿は阿呆《あほう》ではない。とうに御承知かも知れぬ」
三成は震え上った。今日は慶次郎の話を利用するために、小西行長と宗義智も呼んである。揃《そろ》って御前に出て、朝鮮状勢の一変したことを説明するつもりだった。そこへ慶次郎にこんなことを喋《しゃべ》られてはたまったものではない。下手をすれば三人揃って腹を切らねばならなくなる。否定しようにも、朝鮮に行ったことのあるのは宗義智だけで、それも何年か前のことだ。説得力と云う点で慶次郎にかなうわけがなかった。
〈このまま帰らせた方がいい〉
三成はそう直観したが、悪いことに秀吉に慶次郎の来ることを既にしらせてあった。三成の気短さが今度こそ裏目に出たのである。
三成は突然慶次郎の前に手をついて平伏した。頭を畳にすりつけた。
「前田殿。この通りだ。お手前を武士と見てお願い申す」
言葉つきまで一変している。傲岸な男ほど、必要とあらばこういう思い切った真似《まね》をするものだ。その典型的な例だった。
「今申された仮途入明と征明嚮導のこと、それだけは絶対に殿下のお耳に入れぬようお願い申す。決して手前の生命欲しさに申すのではござらぬ。我等《われら》には何とかしてこのいくさをとめたい理由がござった。そのための方便でござる。なにとぞお許しを……」
慶次郎のような男にはこういう場面が最も苦手である。勿論三成はそれを読んでいる。慶次郎も読まれていることを承知だが、それにしてもひとかどの男がこんな格好をするのを見たくないことに変りはない。
「許しを乞《こ》うのはわしにではなくて関白殿にでしょう」
仏頂面《ぶっちょうづら》で云った。
「では申し上げずに戴《いただ》けるか」
三成の勝手な云い草である。馬鹿々々《ばかばか》しい限りだが、反駁《はんばく》もしたくない感じがある。
「いいでしょう。その二つの言葉は使わない。でも同じことですよ」
三成はまたどきっとした顔になった。
「どういうことですか」
ようやく普通の話し方になった。
「そもそも朝鮮を対馬の属国の如く関白に思わせた宗氏がいけない。それが間違いのもとだし、わしはそれだけは云わぬわけにはゆかないからです。朝鮮は明国に貢物を送っている国ですよ。属国というなら明国の属国だ。その国に対して明侵攻の案内をしろと云う方がどうかしている。関白殿だってそれくらいは判る筈《はず》だ」
三成は今や全身に汗をかいている。
「お主、宗氏に恨みがあるのか」
「見たこともありませんよ。もっとも博多で宗氏の刺客に襲われましたがね」
「何という馬鹿なことを!」
三成が天を仰いだ。
慶次郎が手を振った。
「別にどうということはない。生命を狙《ねら》われるのは慣れています。だが虚言によって合戦を引き起すことは許されぬ。宗氏の罪は明らかにすべきでしょう」
絶体絶命だった。宗氏が咎《とが》められれば、小西行長も自分も連座せざるを得ない。今やこの男を斬る以外に破滅をまぬかれる道はなかった。
だが、石田三成に慶次郎が斬れるわけがない。小西行長・宗義智、三人がかりだって斬れはしない。
さすがの三成が窮した。
〈これで俺《おれ》も終りか〉
絶望の表情でつくづくと慶次郎を見た。
慶次郎が珍しくむずかしい顔をしていた。
これも眼を据《す》えて、まばたきもせず、三成を凝視している。
〈こんな男のために、この俺が死ぬのか〉
三成は自ら天下の才子と認め、今日までおよそ考えられる限りの傲慢さをさらけ出して生きて来た男である。実のところこの傲慢さは作り物だった。本来三成は義の人であり、繊細な文人であり、理想家、と云うより夢想家に近い人物だった。彼が直江山城守兼続の莫逆《ばくぎゃく》の友《とも》でありえた理由はそこにあった。兼続ほどの男を惹《ひ》きつける人物が、倨傲《きょごう》に満ちた一介の才子であるわけがない。三成にとって倨傲とは、その僅《わず》かなことにも傷つく柔らかく繊細な心を見すかされないための楯《たて》であり、同時に己れの夢想に賭ける一途《いちず》さを容易に覗《のぞ》かせないための偽装だったのである。
窮地に立った今、その偽装がはがれ、三成の生地《きじ》が露呈した。無意識に罵《ののし》った。
「馬鹿! 阿呆《あほう》! うすらとんかち!」
慶次郎が目を瞠った。呆《あき》れ返るほどの豹変《ひょうへん》ぶりだった。
傲慢で抜け目のない才子はもういない。
慶次郎の前に立っているのは、夢が大きいためにいつまでたっても大人に成り切ることの出来ぬ一箇の餓鬼だった。夢を見て、その夢に裏切られ、どうしようもなく傷ついてしまった少年だった。その少年が口惜《くや》しさに地団駄《じだんだ》ふみながら、思いつく限りの悪態を慶次郎にあびせかけている。
「鬼畜! 天魔! 増上慢!」
もう抑えがきかなくなったようだ。三成は自分より遥《はる》かに高い慶次郎の分厚い胸板を、握《にぎ》り拳《こぶし》で何度も何度も叩《たた》いた。歯ぎしりし、双眼から大粒の涙が溢《あふ》れている。
「貴様に何が判る! 天下百年の計のかけらも判るまい! 虚言が嫌いだと! 当り前だ! わしの方が貴様よりずっとずっと嫌いだ! 虫酸《むしず》が走るわ! そ、それでも敢《あえ》て虚言を云わねばならぬ者の胸のうちが貴様に判るか! 糞壺《くそつぼ》に落ちて糞尿《ふんにょう》に塗《まみ》れるよりまだ悪い! 自分がいやになる! いっそ死んだほうがましだ! その思いに耐えてぬけぬけと虚言を云うんだ! 虚言のために合戦を引き起すだと! 合戦をしたくないから、させたくないからの虚言なんだ! 嘘に嘘を重ねても、たとえ身は糞尿にまみれても、合戦だけは起したくない! そう思うからこその虚言なのだ! こと志と違って、合戦が避けられなくなったからと云って責められる筋合はない! 貴様たちは何をした! 無謀で残忍ないくさを避けるために、一体何をしたと云うんだ! 古今|未曽有《みそう》のいくさが迫るのも知らず、知ってもとめようともせず、太平楽にだらだらと生きて来た貴様たちに、わしらを裁くどんな資格がある! 云ってみろ! どんな資格があるんだ!」
叩くのに飽きたのか、胸襟《むなえり》を掴《つか》んでゆすぶっている。三成の力では、慶次郎の躰《からだ》はぴりっとも動かないのに、それでも夢中でゆすろうとしている。大木にとまった蝉《せみ》のようなものだった。その仕草が益々《ますます》三成を餓鬼っぼく見せているのだが、本人は気づいてもいない。気づく余裕さえないのだ。
顔はもう涙でくしゃくしゃで、太い青洟《あおばな》さえ垂らしていた。
「洟をふいた方がいいな」
慶次郎はそう云って懐紙を渡した。
一瞬、凍りついたように、三成の動きが停《と》まった。自分の狂態に気づいたのである。
まじまじと慶次郎の顔を見つめながら、手渡された懐紙で大きな音をたてて演をかんだ。
次いで涙を拭《ふ》いた。懐紙を懐《ふところ》にねじこむ。
胸をしゃんと張った。もういつもの三成に戻《もど》っている。傷つけられたままの少年に似た眼だけが、僅かに平常と異《ちが》っていた。
「御案内つかまつる」
低く云った。
「殿下がお待ち兼ねだ」
平然と先に立って歩きだした。
今までの狂態はかけらもない。端正で誇り高い一世の才子がいる。見事とも云える変貌《へんぼう》ぶりだった。
「……!」
慶次郎は何も云わない。これまた堂々と胸を張って三成に従った。
「き、き、き、き、き」
秀吉が猿《さる》のように笑っている。
慶次郎を指さし、ひっくり返りそうになって笑っている。
「なんだ、その格好は。やめろ、やめろ。それでは一代のかぶき者が台なしではないか」
白の朝鮮服に黒い帽子、長大な煙管。おまけに坐《すわ》らずに蹲《うずくま》っている。それが慶次郎の格好だった。朝鮮の、それも身分の低い連中の格好だが、秀吉にそんなことが判る道理もない。
同席した石田三成、小西行長、宗義智の三人も、慶次郎のこの格好をあっけにとられて眺《なが》めていた。
三人とも既に切腹の覚悟をきめていた。三成はせめて腹を切る前に、朝鮮とことを構えることがどれほど無謀で無意味なことか、歯に衣着《きぬき》せずに云えるだけ云ってやろうと腹を括っている。その悲愴《ひそう》な決意とは対照的なまでの、滑稽《こっけい》とも云える慶次郎の態度だった。
慶次郎の方は泰然自若、やおら長煙管を口に運ぶと、ぷかりと煙の輪を吹いて見せた。
「それで朝鮮はどうだった? 玄蘇たちの交渉は巧く運んでいるのか? 朝鮮王の意向はどうだ?」
秀吉が畳みかけるように性急に尋ねる。
慶次郎はぷかりとまた一つ輪を吐いておいて、おもむろに応《こた》えた。
「わたし、倭国《わこく》の言葉、ぜーんぜん、判らないね」
三成は急に胸のあたりを汗が流れるのを感じた。躰がかっと熱くなり、次いで氷の冷たさに変る。
こんな痛烈な批判はなかった。それがどすんと胸にこたえた。
確かに朝鮮から見れば、日本人の云うことは全くわけが判らない筈である。すべて朝鮮は対馬の属国|也《なり》という巨大な虚妄《きょもう》の上に築き上げられた一方的な論理なのだ。倭国を蛮国としか見ていない朝鮮にとってわけが判る筈がないのである。日本側が何か云えば云うほど益々判らなくなって来る。事態はそういう仕組みになっているのだ。
慶次郎は只《ただ》の一言でそのことを明白にしたのである。
「我らの申すことが判っておらぬと云うのか」
秀吉の顔が途端に険しくなった。
「判らなーい」
またぷかり。
「玄蘇たちは判らすために向うに居据わっているではないか」
慶次郎は手を振ってみせた。
「へらへらへら。判らなーい」
「馬鹿者!」
秀吉が脇息《きょうそく》を扇子でぴしりと打った。鋭い音が室内に響いて人々をぎょっとさせた。それほど室内は緊張し、息をつめていた。
「何しに朝鮮くんだりまで出掛けたのだ! 三月も旅をして、判らなーいだけか!」
「国王判らなーい。大臣判らなーい。役人判らなーい。軍人判らなーい。庶民判らなーい」
不意に鋭い口調に変った。
「何年旅をしようとこっちにも判りっこありませんな」
「ふーむ」
秀吉が考えこんだ顔になった。
「では今までの再三の交渉はすべて無駄だと云うのか」
来た! 三成も行長も義智も、同時にそう思った。冷や汗がどっと流れた。嘘に嘘を重ねた交渉で何が判る筈もない。そう慶次郎が答えれば万事休すだった。三人とも息をのんで慶次郎の口許《くちもと》を見つめた。
だが慶次郎の口は動かない。
手だけが動いた。ひらひらと振って見せたのである。ひらひら、ひらひら。それだけで慶次郎はすべてを語っていた。だが三成たち三人の果した役割は綺麗《きれい》に消えている。慶次郎は三成の頼みをきいてくれたのである。
どっと安堵感がこみ上げて来た。躰から力が抜けてゆく。
〈なんて奴《やつ》だ〉
世に聞えた三人の武将をここまでいいように翻弄《ほんろう》しっくした男は嘗《かつ》ていない。
〈まさしく傾奇者だなあ〉
つくづくそう思った。
もっとも秀吉にはそんな三人の感慨は判らない。矛先《ほこさき》を変えた。
「向うの戦力はどうだ? いくさ人の数は? 武器は?」
またまた忙しい質問攻めだった。
慶次郎がまた手を振った。
「どういう意味だ?」
「朝鮮は儒の国です。国王をはじめ百官すべて合戦を嫌います」
「何を云っているんだ」
今度は秀吉の方が判らない。合戦は好き嫌いの問題ではない。否応《いやおう》なしに迫る現実である。
「合戦の嫌いな国にいくさ人がいる筈がない。どんな軍勢でも天馬空をゆく如し」
三成がぎょっとなった。まるで戦争をけしかけているような言葉ではないか。
「そんなに弱いか」
秀吉が気が抜けたように云った。
「鉄砲も少い。いくさ人はいない。小西殿、宗殿の先鋒《せんぽう》で充分勝てますな」
行長と宗義智がぎょっとなって慶次郎を見た。だが考えて見ると、自分たちが先鋒をつとめるしかないことは明らかだった。自分たちの虚言を繕おうと思ったらそうするしかない。
「先鋒の儀、伏してお願い奉《たてまつ》りまする」
咄嗟《とっさ》に行長が平伏して云った。堺《さかい》商人の息子だけあって機を見るに敏だった。それに行長は自分が先鋒になることで一筋の光明を見た。自分が先頭に立てば、無益な虐殺は防げるし、早期和平の望みもある。
「手前にも何とぞ先鋒の儀……」
宗義智も慌てて平伏した。
〈なんて男だ〉
石田三成は呆れ返って慶次郎を見た。虚言で合戦を引き起した以上、自分で収拾しろと慶次郎は云っているのだ。またそれをたった一言で実現してしまった。なんとも恐ろしい男だとつくづく感じ入った。
(さすがは直江山城が惚れこんだ男だけのことはある)
秀吉は意外な事の成行にきょとんとして行長と義智を見た。慶次郎が鋭く指摘した通り、秀吉は既にこの二人、いや三成を含めて三人の嘘と謀計を見抜いていた。どう処罰してやろうかと思案していたところなのである。
宗義智の嘘がもっとも罪が重い。一族を皆殺しにしても飽き足らぬ男である。小西行長は娘の婿である義智の肩を持っただけだから罪は軽い。三成に至っては、豊臣家の力を温存するためにいくさを避けたいだけである。罪なきに等しい。だが義智を処罰すれば勢い行長も三成も罰しなければならぬ。そこが頭の痛いところだった。
それが今、急転直下解決したことを秀吉は漸《ようや》く悟った。先鋒を願い出た武将を罰するのは、全軍の士気にかかわる。それにこれが一番巧みな罰だとも考えられる。それが凡《すべ》て慶次郎の一言から起った。
〈やるものだわ〉
としいた改めて慶次郎を惚々《ほれぼれ》と見た。これほどの男を手放すとは、前田|利家《としいえ》も駄目な男である。
「許すぞ」
行長と義智に言いながら、心は慶次郎に集中している。
〈なんとかたらしこめぬか〉
自分の直臣《じきしん》にしたかった。かぶかせておくには惜しい男だった。
「お主は行かんのか。道案内が必要だろう」
また手をひらひら振った。
「相手不足でござる。鵲院《しゃくいん》の隘路《あいろ》と鳥嶺の嶮《けん》さえ越えれば、漢城までは一走り」
一息いれた。
「用心すべきはその後でしょうが、これまた手前のいくさではござらぬ」
「用心とは何だ?」
「殿下。誰《だれ》でも殴られれば殴り返しますよ。官兵にいくさ人はいなくても、野にはおります。しかも彼《か》の国《くに》は義の国です。人間の数も多い。恐らく官兵の破れたところから、合戦は始まるでしょう」
慶次郎はこの時、漢陽の東平館を襲った刺客たちのことを思い出していた。巧みないくさぶりだったと今にして思う。官兵を完全な目くらましにのみ使い、たった四人で凄まじいばかりの攻撃をかけて来た。それは密陽の朴晋や李鎰将軍の官兵たちとは比較にならぬ危険極まる攻撃だった。彼等は、たった一人の廃兵らしい傷だらけの男を除いて、兵士としての経験があったとは思われない。庶人、それも下層の出の者であることは確実だった。
「義のために起《た》った者たちは義兵です。彼等を侮《あなど》ることは敗北につながる。ましてや明軍が国境を越えて進撃して来て彼等と手を結べば……」
ぷつりと言葉を切った。暫くして言った。
「手前は一揆勢《いっきぜい》とのいくさは好きませぬ」
秀吉の顔色が変った。
「門徒一揆か」
信長《のぶなが》から秀吉まで、侍身分の者を永年にわたって散々に苦しめた一向一揆との戦いは、武士という武士の忌《い》み嫌《きら》うところだった。彼等が完全な死兵だったからである。彼岸に浄土を見、現世を逃れることに救いを見る男どもと戦うことは、賽《さい》の河原《かわら》で小石を積むのに似ている。いくら働いても、その甲斐がないのだ。
秀吉は初めてこのいくさについて不吉な予感に襲われた。
降服した九戸政美が斬られ、陸奥が全く平定されたのは、天正十九年九月四日のことだ。
徳川家康はじめ征討の諸武将はそれぞれ領国に引き揚げることを許され、直江山城守兼続も主君上杉景勝と共に越後《えちご》に帰った。京に現れたのは十月に入ってからのことだ。
屋敷に入る前から兼続は不思議な琴の音を耳にしていた。門をくぐると急に音の大きさが増した。
出迎えに出た家臣の一人が、弱ったように笑って云った。
「茶室におられます」
兼続は頷《うなず》いて馬を降りた。
茶室では伽姫がほとんど無心の境で伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴《カヤグム》を弾いていた。
慶次郎は暢然《ちょうぜん》と茶を点《た》てている。
兼続が坐ると黙ってその前に茶碗《ちゃわん》を置いた。
何とも程のいい、うまい茶だった。
「いま一服」
兼続が所望すると、やはり無言で点ててくれた。前のよりやや熱く、気持がぐっと落ち着いた。
この間じゅう、伽姫の琴は続いている。それがやっと終った。
伽姫は兼続を見て驚いたような顔をした。人の出入りなど念頭になかったためだ。伽姫には兼続が突如としてその場に出現したように見えたに違いない。
「これは?」
兼続がじっと異風の琴を見て云った。
「伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴だ。いい音色だろう」
慶次郎が応える。
「女子は伽子。いい女子だ」
伽姫が顔を赧《あか》くして頭を下げた。
「伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]とは初めて聞く名だな。土地の名か、人の名か」
「古く滅んだ国の名だ。南朝鮮のあたりにあったと云う。今にそれを伝えるのは、この琴だけだそうだ」
「そしてその女性《にょしょう》と」
兼続が微笑して云った。
珍しいことに慶次郎が照れたように笑った。
「そうだ。この女子と」
「お主と云う男は……」
兼続が感じ入ったように云う。
「どこへ行っても一番いい目に出遇《であ》うようだなぁ。よほど強運に恵まれていると見える。羨《うらやま》しい男だ」
「やくたいもない。いい目も悪い目もわしは知らん。ただぶつかるだけのことだ」
屈託もなく笑った。
〈結局はそう云うことだ〉
と兼続も思う。この男は何が起り、何にぶつかろうと一向に苦にしない。まるで予期していたかのように平然と立ち向う。神を呪《のろ》うことも己れの不運を嘆くこともない。だからこそ神も時に御褒美《ごほうび》を下さるのだ。当然と云えば当然のことである。
「石田殿を結局は救って進ぜたそうな」
石田三成は慶次郎とは正反対の男だ。あらゆる起り得る事態に智恵《ちえ》をふりしぼって対策を立てる。そのくせ事は必ずしも対策通りには起らない。そうなるとこの男は神を呪い、人を罵《ののし》り、結局は自分を責める。よろず事に向う姿勢が派手々々しく、終った後も知る限りの人人に吹聴《ふいちょう》して熄《や》むことがない。
兼続は陸奥にいる間に、既に三成からの詳しいしらせを受けていた。
「途方もなき大たわけ者に候《そうろう》。胆縮み申し候。されどこの大たわけのお蔭《かげ》にて生命拾い申し候」
手紙の終りはそう結ばれていた。三成のいまいましさが手にとるように判って兼続はおかしくて仕方がなかった。なんのことはない。三成も小西行長も宗義智も慶次郎に手玉にとられたような按配《あんばい》だった。いまいましいのは当然であろう。
慶次郎が鼻で笑った。
「あれは餓鬼だぞ。心は綺麗かもしれんが、することは童《わらべ》なみだ。共に事をなす場合は充分の用心が肝要だな」
よく観《み》ている、と兼続は思った。確かに三成は子供めいた夢想家の部分がある。打つ手の一つ一つは狡猾《こうかつ》なまでに考え抜かれた見事なものだが、それを生み出す基盤がひどく脆《もろ》いことがある。だが逆にその部分がなかったら三成は只の傲慢な才子にすぎず、鼻もちならぬ悪党と云うことになる。
その上、これこそ最大の皮肉ではないかと兼続には思われるのだが、どうやら三成は今度の件でぞっこん慶次郎に惚れ込んでしまったらしいのである。手紙の端々からそれは感じら
れたし、
『大たわけにも使い道はあるものに候。必ず手放されぬようご配慮お進め申し候』
むきつけにそう書いてさえいる。
慶次郎にそれを告げたら、どんな顔をするだろうかと考えると、兼続は何となく心楽しく、これでは自分までが童なみと軽蔑《けいべつ》されそうだと、腹の中で苦笑するのだった。
だがそんなことを言えば慶次郎だって到底大人になり切れぬ部分がある。
〈三人の飢鬼か〉
兼続はそれでいいじゃないかとふと思った。
捨丸は目の廻るような忙しさだった。
慶次郎の金の投資先である町衆のもとを駆けめぐり、利子や配分のことで話し合い、当座必要な金子《きんす》を受け取り、余分は再投資しなければならない。それだけならたいしたこともないが、慶次郎の朝鮮ゆきが明らかになった今は、町衆たちはかの国の詳しい情報を何とか一つでも多く手に入れようと、中々捨丸を放してくれないのである。
いずれも朝鮮|侵冦《しんこう》の間近いことを悟っていて、どうすれば安全で有利な投資が出来るか思案投首《しあんなげくび》でいるからだった。
それに新しい屋敷も手に入れなければならないし、家財道具も整えねばならない。
何より京及び天下の形勢を知る必要があった。この知識がなくては慶次郎のような男は何時《いつ》攻撃を受けるか判ったものではない。
島辺野死右衛門が『傾奇者』の筆頭にのし上ったことはすぐ判った。だが死右衛門自身については、町衆たちでさえ、あまり多くのことは掴んでいなかった。
とにかく死人のような蒼黒い顔色のことが特徴として必ずあげられた。何人かは病気なのではないかとも云う。だが病もちで『傾奇者』の頭領の位置にのし上れるとは捨丸には信じられない。
調査となると徹底して調べつくすのが捨丸の忍びとしての優秀さである。捨丸は都でも優秀な医師数人のもとを廻り、死右衛門の顔色についての意見を求めた。
その医者の一人が奇妙なことを云った。
「ひょっとすると、その男、鬼役上りとちがいますか」
鬼役とは毒見役である。権謀術数|渦巻《うずま》く戦国の世では、影武者と同様、一種の必需品であった。どんな武将も必ず信用の置ける鬼役を何人か飼っていたものだ。
「何ででっか」
捨丸が問うと、医者が首をかしげながら答えた。
「いや、手前も現に見たことはないんやが、鬼役の中には常々色々な毒を微量ずつ飲んで、毒に当らぬ躰になっている者がいると聞いてます。そういう連中は例外なく死人のような顔色やとか……」
捨丸は医者の言葉を全面的に信じたわけではない。そんなこともあるやろな、と感じただけである。鬼役のような仕事をして来たら、いつかはいやになる筈である。馬鹿々々しいと思わなければどうかしている。或る日|忽然《こつぜん》と、かぶいてやれと決意しても少しもおかしくはない。鬼役をするために毒になじんだほどの男なら、度胸は人一倍であろう。死ぬことも恐れない筈だった。死んでもともとなのである。
だが捨丸は多寡《たか》を括《くく》っていた。
慶次郎はかぶき者の頭領ではないし、嘗てそうであったこともない。こちらからかぶき者に戦いを挑《いど》んだこともほとんどない。よほど目に余るか、癇《かん》にさわった場合だけだ。だから死右衛門が大人しくしている分には、慶次郎は何の関心も持たない。今までの例を知っているなら、死右衛門もわざわざ喧嘩《けんか》を売って来ることはあるまい。そう考えていた。
だがその死右衛門から果し状ならぬ招待状が届いた時は、捨丸も考えを変えざるをえなかった。
それは丁度直江兼続の来京の直後だった。
如何にもかぶき者らしい派手々々しい装束の男共が三人、馬を連ねて直江屋敷を訪れ、慇懃《いんぎん》に慶次郎あての文を置いていった。それが問題の招待状だった。
かねて御貴殿の武勇のことは存じ上げ、敬意を抱いていた。勿論争う気など毛頭ない。ただ出来うべくんば一度御拝顔の栄を賜わり、お近づきのしるしに酒でも酌《く》み交《か》わすことが出来れば、栄誉これに過ぎたるはなく……。そんな調子の、いかにも慶次郎の好きそうな文面が簡潔にのべられ、会見の場所として柳《やなぎ》の馬場《ばんば》のこれも名の通った揚屋が日時と共に指定されて来たのだ。
慶次郎からこの招待状を渡された時、捨丸の頭に咄嗟に浮んだのは、あの医師の話だった。
柳の馬場の廓《くるわ》の中で、卑怯《ひきょう》な決闘は出来ない。一人に多人数でかかれば忽ち見物人から罵声がとぶ。
だが毒殺となれば話は別だ。一流の揚屋でと云う点も巧く考えてある。そんな所で毒殺されたら揚屋は自家の評判のためにも、必死になってその事実を隠そうとするからだ。恐らく持病とか、食当りとか、くい合せが悪かったとか、尋常の病ですまされてしまう筈だった。
相手が毒になじんだ鬼役だとすれば、益々そういうことになり易《やす》い。揚屋の主人|乃至《ないし》太夫《たゆう》、禿《かむろ》たち第三者の証人のいる前で、死右衛門も同じものを喰い、同じものを飲んで見せれば、慶次郎だけが苦しみ出してもこれは病と云うことになるにきまっていた。
行くべきでない。それしかこの陰険な攻撃を避ける道がなかった。だが行かねば、慶次郎は恐れたと受けとめられる。向うとしては思《おも》う壷《つぼ》であろう。
「まさか行かはるのでは……」
捨丸が訊くと、恐れていた答えが返って来た。
「行くよ。折角呼んでくれたんだ」
「毒で殺す気でっせ」
捨丸は医師の言葉を伝えた。効果はまるでない。余計乗り気にさせただけだ。
「そんな男がいるのか。これは一見の値打があるなぁ」
忽ち興味|津々《しんしん》といった顔になった。こうなったらもう何を云おうと無駄である。なんとか対応する策を考えるしか方がなかった。
当日、慶次郎は例の通り松風にまたがって行った。捨丸は徒歩である。これも例によって派手な衣裳《いしょう》で松風の番をすることを命じられた。相手が相手だから揚屋まで供をさせてくれと頼みこんだが駄目だった。
もっとも捨丸もそれなりの手配はしてある。招待された揚屋と大通りを挟《はさ》んで向い合った揚屋に部屋をとり、金悟洞を遠町筒と共に置いてあった。捨丸自身も今日ばかりは松風を厩《うまや》に置き、同じ部屋に詰める気でいる。
倖《さいわ》い揚屋の楽しみは往来の遊女や客たちを眺めるところにもあったので、上等の部屋は通りに面して窓を開け放ち、青すだれを棒でかかげているのが大半である。向いの部屋から充分に見てとることが出来た。それにしても見えるだけで何もすることは出来ない。捨丸は久し振りに不安におびえた。
慶次郎の方はどこまでも暢気《のんき》で明るい。
島辺野死右衛門のとても生ある者とは思えぬ顔を一目見るなり叫んだものだ。
「成程なぁ。これは凄《すご》い。確かに死人だ」
死右衛門は当然かっとしたが、ここで爆発してしまっては元も子もない。なんとか耐えて丁重な挨拶《あいさつ》をした瞬間、慶次郎の第二打がとんだ。
「お主、鬼役だったそうだが、あれか、毒を僅《わず》かずつ飲むとそんな顔色になるのかね」
死右衛門は危うくとび上るところだった。己れの最高の秘密武器をいきなり暴《あば》かれたのだから、これは当然である。
〈噂にたがわぬ恐ろしい男だ〉
身内が冷えるような思いだった。これでは当初の作戦は使えない。どんぶり一杯の毒酒を先ず死右衛門が飲んで見せ、次いで慶次郎に飲ませようとしたのだが、ここまでお見通しではそんな手に乗るわけがない。
だが死右衛門は衝撃を色にも出さず部下に顎《あご》をしゃくってその男の前の金蒔絵《きんまきえ》の銚子《ちょうし》を自分の前に運ばせた。
「途方もないお疑いだが、御用心はごもっとも。では手前ではなく先ずこの館《やかた》のあるじ殿に毒味をお願いすることにしましょう」
揚屋の主《あるじ》は気味悪そうに盃《さかずき》を見た。死右衛門が自ら銚子をとって酒をついだ。主は息をつめて飲んだ。まさか自分に毒を飲ますことはあるまい。そう信じていた。酒は芳醇《ほうじゅん》でひどくうまかった。
「結構な御酒《ごしゅ》で」
死右衛門は次いで主に自分の盃を満たさせ、一気に飲み干した。そのまま待つ。毒酒が効果を現すのに時はかからない。主も死右衛門も平然としていた。死右衛門が笑った。
「如何《いかが》かな、お受け下さるか」
慶次郎は主が使った盃をとった。盃に毒が塗られていることもあるからだ。
死右衛門は銚子をとり上げその盃に注《つ》ごうとした。
銃声が起り、銚子はぱかっと割れてすっとび、酒を撒き散らした。慶次郎が銚子の残骸《ざんがい》を拾った。中に仕切りがあり、注ぎ口まできっちり二つに仕切られていた。揚屋の主には普通の酒を、死右衛門自身には毒酒を注いだのである。
「簡単な仕掛けだな」
つまらなそうに慶次郎が主に云った。
「別の酒を持って来てくれ。折角飲みに来たんだ。朝までやるよ」
向いの揚屋で鉄砲を撃った悟洞も捨丸も呆れ返ったことに、慶次郎は朝まで飲んだ。
死右衡門と部下たちもつき合わされ、奇妙にも死右衛門が一番早く正体不明になった。酒についての免疫はなかったらしい。
唐入《からい》り御陣《ごじん》
天正二十年四月十二日、釜山僉使《ふざんせんし》となっていた鄭撥《ていはつ》は釜山浦の絶影島で猟をしていた。
黄昏《たそがれ》が迫った頃《ころ》、ずっと酒を飲み続けていた鄭撥はうつらうつらしているところを部下に叩《たた》き起《おこ》された。
「隊長! あれを……!」
ものうげに躰《からだ》を起した鄭撥は、かっと目を瞠《みひら》いた。酔いなど瞬時に消しとんだ。
海を蔽《おお》う船団だった。いずれも派手やかに旗指物《はたさしもの》を掲げた軍船で、夥《おびただ》しい甲冑姿《かっちゅうすがた》の武士を満載し、急ぐ様もなくひたひたと迫って来る。
鄭撥の脳裏に忽《たちま》ちあの得体の知れない武士の姿が浮び上った。前田慶次郎と名乗る異装の武士であり、しかも見るからに頼《たの》み甲斐《がい》のありげな『いくさ人』だった。あの男はさりげなく近い将来に倭国《わこく》の侵略がありうることを告げていた……。
「倭だ! 倭が攻めて来た!」
銃声が湧《わ》いた。先頭の赤い長旗を掲げた軍船から鳥銃で撃って来たのだ。信じられぬ距離だった。死人こそ出なかったが部下の数人が傷ついた。
「城へ帰るぞ! 急げ!」
この距離では鄭撥たちの持つ弓では矢が届かない。城に戻《もど》って防備を固める一方、急いで漢城府に急を告げねばならなかった。
兵を数艘《すうそう》の小舟に分乗させて力の限り漕《こ》がせながら、鄭撥はまた慶次郎のことを思った。鄭撥はあの時すぐに漢城に使いをやり、倭の侵略の危険について報告したが、官府から返って来たのは叱責《しつせき》の言葉だけだった。徒《いたず》らに人心を動揺させてはならぬ。倭にはそんな力はない、と云うのだ。以後も官府は何の対応策もとろうとしなかった。
〈云わないことじゃない〉
鄭撥は文官たちを呪《のろ》い罵《ののし》った。
〈お前たちは到頭この国を滅ぼしてしまった〉
もとより鄭撥は死を覚悟していた。
『是《こ》の日《ひ》、僚船、対馬島《つしまじま》より海を蔽いて来たる。これを望むに其《そ》の際《さま》見えず。釜山僉使鄭撥、絶影島に出猟す。狼狽《ろうばい》して城に入る。倭兵これに随《したが》って登陸し、四面雲集す。時を移さず城|陥《お》つ」
これは朝鮮政府の要人|柳成竜《りゅうせいりゅう》の書いた『懲※[#「比/必」、第3水準1-86-43]録《ちょうひろく》』の文章だが、実際に釜山城が陥ちたのは翌十三日である。李氏《りし》朝鮮王朝の正史『李朝実録』は次のように書く。
『翌暁《よくげう》、賊(日本兵)、城を囲むこと百匝《ひゃくさう》、西城外の高処に乗り、雨の如《ごと》く、砲を発す。溌(鄭撥のこと)、西門を守り、抗戦すること良《やや》久し。賊衆矢に中《あた》り、死する者|甚《はなはだ》だ衆《おほ》し。溌、矢尽き丸《たま》に中りて死し、城|遂《つひ》に陥つ』
武の男鄭撥の奮戦と壮絶な討死を描いて余すところがないと云うべきであろう。
この時の倭軍は小西行長と宗《そう》義智《よしとし》の率いる第一陣一万八千の兵だった。
この日をもって以後七年に及ぶ秀吉《ひでよし》の朝鮮侵略戦争が開始されたのである。
直江《なおえ》兼続《かねつぐ》はこの合戦のおよそ無意味なこと、何人《なんぴと》にも何の益ももたらさぬことを慶次郎から詳しく聞いている。むしろその後に来たるべき事態に備えて、国力を充実させておくべきだと云う忠告も受けていた。
兼続自身も当代一級の智識人《ちしきじん》である。実際にその土地を踏んだわけではないにせよ、朝鮮についても、明国《みんこく》に対しても一応の智識はある。とりわけその広さについて識っている。それは到底日本人の人口では抑えることの不可能な広さだった。兼続は、窮極的には豊臣《とよとみ》軍団が泥沼《どろぬま》にはまりこみ、敗北に終ることを予見していた。だから慶次郎の忠告を素直に受け、上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》にもそう上申した。
この、秀吉に云わせれば朝鮮|征伐《せいばつ》、朝鮮側に云わせれば倭乱という戦いの中で、最も非協力的だった武将は徳川|家康《いえやす》と上杉景勝である。前田|利家《としいえ》も伊達《だて》政宗《まさむわ》も動いていない。
家康については逸話がある。家康の腹心中の腹心本多|正信《まさのぶ》が、
「殿には渡海なされますか」
と訊いたが返事をしない。繰り返し三度まで訊くと、
「何事だ、やかましい。人が聞くぞ。箱根を誰《だれ》に守らせるというのか」
と応《こた》えたと云う。折角緒につきかけた関東の経営を、こんな馬鹿《ばか》げたいくさでめちゃめちゃにしてたまるかと思っていたのだ。だからこそ家康は前進基地である肥前名護屋までは出かけているが、遂に一兵も海を渡らせていない。
上杉景勝の方はそうはゆかなかった。名護屋に参陣し、いわば予備軍の地位を守ったが、六月三日、秀吉の代理として海を渡っている。
これは秀吉自ら朝鮮に渡ろうとしたのを、徳川家康、前田利家の二人が必死にとめたためとも云い、後陽成《ごようせい》天皇に引き留められたためとも云うが、実際は制海権が朝鮮側の手に移ったためだ。陸地では日本軍は連戦連勝、無人の野を行くに似ていたが、海では李舜臣《りしゅんしん》が日本水軍に連勝していた。五月七日、巨済島の東岸玉浦、五月二十七日、泗川《しせん》、六月一日、唐浦とことごとく日本水軍は破られている。これは亀甲船《きっこうせん》と大砲のためだ。日本の船で大砲を積んでいるものは皆無だったのである。
この時、名護屋では徳川家康・前田利家対石田|三成《みつなり》一派の大激論がかわされたと云う。石田一派は秀吉に朝鮮に行って欲しかった。実際に現地を踏めば、このいくさがどれほど無用のものか判《わか》る筈《はず》だと考えていたからだ。だが大政所《おおまんどころ》(秀吉の母)の病気もあって、この度の渡海はとりやめになり、石田三成、増田《ました》長盛《ながもり》、大谷|刑部《ぎょうぶ》吉継《よしつぐ》たちが奉行《ぶぎょう》として現地へ行くことになった。この時、上杉景勝も秀吉の代理として朝鮮に渡ることになったのである。但《ただ》し釜山までだ。
六月三日名護屋を立ち、釜山に着くと熊川城の修築をはじめた。戦闘は全くしていない。
なんと翌|文禄《ぶんろく》二年(天正二十年は十二月八日に改元され文禄元年となった)の正月十日、景勝と兼続は陣中において連歌の会を催している。いかに悠々《ゆうゆう》と朝鮮につき合っていたか、よく判ると思う。
この間、兼続は泥土《でいど》と火災によって失われんとしていた多数の図書を収獲させ、すべてを国許《くにもと》へ送った。
そして上杉勢はこの年の閏《うるう》九月に帰国している。
直江兼続にとっての朝鮮戦争とはこれだけのことだった。
慶次郎は当然この戦争とは無縁だった。
秀吉の考えていることが馬鹿々々しすぎるとは慶次郎は思っていない。云っていることは確かに下らない。天正二十年五月十八日、秀吉が関白秀次に出した二十五条の覚書などは、その最たるものだ。これは漢城府陥落の報を受けた二日後のことであり、秀吉の意気大いに上っていた時のものだが、それにしても凄《すさ》まじい。
秀次を明の関白に任命し、北京《ペキン》の周囲で百ヶ国を与えると云い、後陽成天皇を北京に移し参らせる計画を立て、天皇の御料所として十ヶ国を進上し、公家衆《くげしゅう》にも知行を加増する。明への行幸は明後年と定め、その儀式について公家衆の記録を調べさせている。
更に天皇が北京に移られた後の日本の天皇として、皇太子良仁《よしひと》親王か皇弟|智仁《としひと》親王(秀吉の猶子《ゆうし》)を立て、日本の関白は羽柴《はしば》秀保《ひでやす》か宇喜多秀家、朝鮮には羽柴秀勝か宇喜多秀家を置き、九州には羽柴|秀俊《ひでとし》を置く。自分は寧波《ニンポー》を居所とし、天竺《てんじく》まで征服しよう。
まことに壮大な大法螺《おおぼら》である。
だが慶次郎はこの大法螺の蔭《かげ》に、秀吉の恐怖を読んでいる。それは合戦がなくなった時の恐怖である。
天下統一を目指して戦っている間は安心だった。部下の諸将はそれが自分の地位を押し上げ、知行も増えることにつながると信じているからこそ必死に戦って来た。だが天下統一が成り、合戦がなくなればどうなるか。もう領国も知行も新たに与えることは出来ない。身分も収入も固定してしまい、それ以上にはならない。当然不満が生れるだろう。治世には向かない武将も出て来るだろう。彼等《かれら》が行き着く先は一つしかない。叛乱《はんらん》である。それが秀吉には何より恐《こわ》いのだった。
部下の欲求は無限である。だが与えるべき領地には限りがある。絶対に無限の欲望に応ずることは出来ない。心の冷たい男なら、ここで方向を転換すべきなのだ。戦乱の世は終ったことを宣言し、平和の中で生きてゆく道を厳重に教えるべきなのだ。それによって落伍《らくご》してゆく者が出てもそれはそれでやむをえない。たとえそれが昨日までの莫逆《ばくぎゃく》の友であっても、切り捨てるべき者は切り捨てねばならぬ。
だが秀吉にはそれが出来ない。秀吉の心は熱いのである。何よりも秀吉自身が元々『いくさ人』であり、恒久的な平和に適応出来ない型の男なのだ。
非情の人事が出来なければ、手は一つであろう。いつまでも戦い続けることである。限りある家臣を率いて、無限の合戦に挑《いど》み、次々と領地を与え続けてゆくことである。
これが慶次郎の理解した秀吉の本心だった。無茶苦茶で、馬鹿々々しいかもしれないが、心の熱さに免じて許すことが出来るではないか。慶次郎はそう思っていた。
但《ただ》し、この熱い心は家臣にだけ向けられたものだ。いわゆる民百姓や慶次郎のような牢人《ろうにん》たちには無縁のことである。だから参加する気もないし、必要もない。かぶき者たちの中には喜び勇んで参戦し渡海してゆく者がかなりいた。それはそれでいい。酔狂と云うものである。慶次郎も現実の朝鮮を見ていなければ或《あるい》はそうしたかもしれない。だが今の慶次郎には全く食指が動かない。
かぶき者の減った京の町は静かで有難かった。慶次郎は元の寺町あたりに家を借り、珍しく平穏のうちに一年の余を過した。書を読み、茶を点《た》て、時に町衆や僧侶《そうりょ》・公家衆と共に連歌を作り、伽子の琴を聴き、まるで桃源郷にいるように倖《しあわ》せだった。
文禄三年春、太閤《たいこう》秀吉が関白秀次や在京の諸将を連ね、青野山に花を賞《め》でていた頃、慶次郎は松風に伽子を乗せ、捨丸、金悟洞を伴って鞍馬《くらま》に花見に出掛けた。
この山中に一本だけぽつんと咲いた樹のあることを、慶次郎はかねて知っていた。誰に見られるでもなく、たった一人、思いきり豪華に咲いた花。そして誰知られることもなく華麗に散ってゆく花。慶次郎は都のどの花よりもこの花を愛した。人に全く告げず、自分だけで毎年この花を賞して来た。伽子もはじめてその花を見た時、あまりの贅沢《ぜいたく》さに痺《しび》れたようになった。今年で三回目の無上に楽しい花見だった。
狭い、人一人がやっと通れるほどの山径《やまみち》でそれが起った。
山の上から降りて来た騎馬の一行と、出逢《であ》いがしらに馬の鼻をすり合せるほど近々と向い合ってしまったのである。
先頭に立ったのは二十歳になるやならずの若い武士だった。癇癖《かんぺき》の強そうな硬い顔だった。
供の者は五人、いずれも騎馬である。
慶次郎は穏やかに云った。
「すまんな。この下にはすれちがえる場所がないのだ。あの林まで退《さが》ってくれないか」
上の方に雑木林がある。そこまで行けば一方が林の中に踏みこんでかわすことが出来る。
若者のこめかみのあたりが蒼《あお》くなった。
「わしは結城《ゆうき》秀康《ひでやす》だ。断じて後には退らん。退るのはそっちだ」
慶次郎は呆《あき》れ返《かえ》って半ば口を開けた。
結城秀康の名は聞いている。徳川家康の次男である。母親が正妻|築山御前《つきやまごぜん》の侍女だったため折檻《せっかん》を受け、家臣の本多|作左衛門《さくざえもん》が秘《ひそ》かにかくまってようやく秀康を産んだ。
家康はこの子を愛さず、於義丸《おぎまる》と名づけた。その顔が黄※[#「桑+頁」、第3水準1-94-2]魚《ぎぎゅう》という魚に似ていたためだと云う。鯰《なまず》に似て小さく、捕えられるとギギと鳴く。幼名とは云えこんな名をつけられた子が倖《しあわ》せな筈がない。しかも二歳まで家康はこの子に会っていない。長男の三郎|信康《のぶやす》が哀れんで無理矢理対面させたらしい。
十一歳の年、秀吉の養子になった。養子と云えば聞えがいいが、ていのいい人質である。秀吉旗下の将士は秀康をさげすみあなどり無礼を働くことも屡々《しばしば》だったと云う。秀康が傲慢《ごうまん》と思われるほど誇り高く、勁悍《けいかん》な行動をもって知られるに至ったのは彼等に対する憤懣《ふんまん》のためである。
天正十七年十六歳の時、伏見の馬場で馬を乗《の》り廻《まわ》していたところ、秀吉のお気に入りの馬丁が戯《たわむ》れに馬を並べて駆けさせた。秀康は馬を馳せながら、
「無礼者!」
一喝《いっかつ》するなり抜討ちに斬《き》り殺《ころ》した。驚いて集まった御家人たちに秀康は云った。
「たとえ殿下の御家人といえども、馬を並べて秀康に無礼を致す法やある」
『松平津山家譜』によれば、
『我レ不肖《ふせう》ナリト雖《いへど》モ、家康ノ実子ニシテ、当家ノ養子タレバ、旗下ノ賤人《せんじん》ドモ、イカデカ我ヲ軽蔑《けいべつ》スル様ノ有《ある》ベキ。今ヨリ後、無礼ノ者アルニ於《おい》テハ、即坐《そくざ》ニ打果スベシ』
と云ったと云う。家人一同その威に慄然《りつぜん》とした。秀吉はその剛勇をほめたが、内心恐れを抱いたらしい。名門結城家の当主結城|晴朗《はるとも》が男子なきを憂《うれ》い、秀吉に格好の相続人を世話して欲しいと云って来たのに乗じて、秀康をくれてやった。秀康十七歳の年だ。以後この年まで下総《しもうさ》結城五万石の小大名だった。いかに足利《あしかが》以来の名門とはいえ、たかが五万石では何ほどの力もない。秀康は不満のかたまりだった。勁悍の振舞いが多く、結城のじゃじゃ馬の名は、かぶき者の間では高名だった。
慶次郎は暫くつくづくと秀康の顔を見ていたが、やがてまた穏やかに訊いた。
「うしろに退るのがおいやなのですな」
「そうだ。武士に後退はない」
秀康は傲然と応えた。
「結構」
慶次郎はにこっと笑うと、身を乗り出していきなり秀康の馬の横面《よこつら》をひっぱたいた。豪力の慶次郎に殴られた馬は、本能的に顔をそむけ、この狭い場所でくるりと廻り、向きを変えてしまった。つまり山頂の方を向いたのである。その尻《しり》をまた慶次郎が殴った。
馬は狂奔した。供侍たちの馬も恐れてくるりと向きを変え、山上めがけて走り出した。
必死に馬を抑えようとする秀康の背に、慶次郎が叫んだ。
「前進なら文句はないでしょう」
呵々《かか》と笑いながら、ぴたりとついて行った。
「ひ、ひーん」
松風が一声|吼《ほ》えた。啼《な》いたのではない。明らかに吼えたのである。
これがとどめの一撃だった。
永年野馬の長として不敵にも人間と闘って来た松風の貫禄とでも云うのだろうか。この一声で秀康たちの馬は本能的に松風に服属してしまった。もう乗手のことなど考えもしない。いくら手綱を引きしぼろうが、胴を脚で締めつけようが、停止する気配もみせない。急ぎに急いで、とことことことこ雑木林まで一気に駆けた。その上、我から林の中に踏みこんで松風に道を譲ったものである。
秀康の怒りが頂点に通したのは当然と云えた。
あろうことか抜刀して、己れの乗った馬の首を斬ろうとした。瞬間、凄まじい衝撃を手首に受け、刀は林の中にけし飛んだ。慶次郎が捨丸から受けとった槍《やり》の鐺《こじり》で跳ね上げた結果だった。しかも次の瞬間、槍は返って鋭い穂先が左胸につきつけられていた。
「馬を殺す男は許せないな。降りろ。貴公に馬に乗る資格はない」
蒼白《そうはく》になりながらも尚《なお》も馬上に踏んばっていると、無造作に襟《えり》を刺し貫かれ一間先に放《ほう》り出された。まるで玩具《おもちゃ》を扱うようだった。
「おのれ、殿に対し……」
家臣の一人が逆上して抜刀したが、
「だーん」
銃声が轟《とどろ》いてその刀が無残に折れた。金悟洞の遠町筒の銃口から、ふわり、煙が吐き出された。蒼然となった家臣たちに、
「つっぱると死ぬことになる」
慶次郎がゆったりと云った。
「わしは花見に来たんだ。人を殺したくない。折角の気分が壊れる」
槍を捨丸に渡した。
「わしは前田慶次郎。喧嘩《けんか》がしたければいつでも買う。但し別の日にな」
云い捨てると凍りついたような結城家の家臣たちの鼻先を通り、尻餅《しりもち》をついたまま茫然《ぼうぜん》としている秀康に眼《め》もくれず、山径《やまみち》を登って行った。
今の争いでささくれだった空気をなだめるつもりだったのだろうか。伽姫が馬上で伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]琴《カヤグム》を弾じはじめた。その哀切な音色が秀康の胸に沁《し》みた。
「嗚呼《ああ》」
思わず声になった。
秀康は人と争って負けたことがない。膂力《りょりょく》がすぐれていることもあるが、それにも増して一種|捨躰《すてばち》とも云える怒りの爆発が相手を威圧するからである。ましてこんなみじめな負け方をしたことがなかった。だがそれ以上にこの不思議な音色に参ってしまった。
幼時から積もりに積もった屈辱と憤懣、生れて来たことへの呪詛《じゅそ》、それらすべてが急速に洗い流されてゆくのを、秀康は感じた。
いつか秀康は泣いていた。雑木林の湿った土の上にきっちり膝《ひざ》を揃《そろ》えて坐《すわ》りこんだまま、首を垂れ、顔を蔽って泣いていた。
桜は相変らず孤独に、しかも精一杯華麗に花咲いていた。豪華でさえあった。
「また来たよ」
慶次郎が懐《なつ》かしげに声をかけた。
「わしも不思議にまだ生きていたようだ」
捨丸が野風につんで来た緋毛氈《ひもうせん》を拡《ひろ》げ、酒と食いものを拡げていた。
「何度見ても、たまらない美しさだなぁ。咲いてくれて有難う」
樹に向って深々と頭を下げた。これは酔狂ではない。心底からの本気である。慶次郎には人も獣も樹も花も違いがなかった。すべて自分の友だった。奇妙なことに自分の生命《いのち》を狙《ねら》う敵でさえ友の一人だった。生命のやりとりほど深いつき合い方があろうか。慶次郎はそう信じて疑わない。
宴がはじまった。
慶次郎は、自分の酒を時折、桜の樹にも注ぐ。
「桜だって時には酔いたいさ」
この奇態な男はそう云うのである。
「琴を聴かせてやってくれよ、伽子」
これも桜の樹のためなのだ。伽姫もまた恋しい慶次郎と一心同体である。完璧《かんぺき》に慶次郎と同じ感覚になり了《おお》せていた。だから心から桜の樹のために琴を弾いた。
誰一人|訪《おとな》う人もないこの奥山に、たった一人きりで夏を凌《しの》ぎ、秋を迎え、冬の寒冷に耐えて来た剛毅《ごうき》な樹である。折々の淋《さび》しさも辛《つら》さも少しも色に出さず、この一時だけ狂ったように美しく己れを花咲かせる異能のものである。一年にたった一日とはいえ、共に酒を酌み、共に琴を弾ずる友がいてもいいではないか。
琴を弾じているうちに、伽姫の脳裏には朝鮮の山奥の我が家が浮んで来た。父と共に永い間生きて来た家である。懐かしかった。あの家に、この桜の樹があったら、どんなによかっただろうと思う。そしてこの野放図もない男がいれば云うことはない。
〈ここに棲《す》みたい〉
伽姫は沁々とそう思う。慶次郎と捨丸と金悟洞と、四人でここに小屋を作り、ここで生きられたら、なんとまあ素晴らしいことか。
だがそれが叶《かな》わぬ望みであることを伽姫は知っている。
慶次郎はそんなことが出来る男ではないのだ。三月《みつき》、半年、或は一年ぐらいはこの山奥で暮せるかも知れない。だがそれが限度であろう。或る日、ふっと出て行く。そして二度と帰らない。そうなるにきまっていた。
何故《なぜ》かは伽姫にも判らない。慶次郎自身にも判らないかもしれない。この男の胸の中には、荒《すさ》ぶる魂がある。平穏に生きることを拒否する心がある。苛烈《かれつ》に生きなければ、己れを許せない、そんな気持がある。安らかな休息など、この男の願うところではない。身も心もぎりぎりの極限まで使い果して、或る日、ばたりと倒れてそのまま終りになるのがこの男の願いなのだ。倒れる場所は荒寥《こうりょう》たる野づらがいい。それが戦場であれば尚更《なおさら》いい。葬《ほうむ》る者とてなく、いつまでも放置されて、やがて風にかすかに鳴る白骨と化することが出来たら、倖せこれに過ぐるものはない。
およそ愛人には不向きな男だった。一人の女ととも白髪《しらが》になるまで添いとげてくれる男では絶対にないのだ。
永劫《えいごう》に流れてゆく時の中で、女は所詮《しょせん》短い一齣《ひとこま》を占める存在に過ぎない。だがその短い時の一助の、どれほど華麗であることか。どれほど豪奢《ごうしゃ》であることか。並の男と暮しては一生決して味わうことのない至福の時なのである。だからこそ伽姫には一点の不満もない。慶次郎と一緒に生きられる今が、何よりも大切なのだった。
伽姫は今、その思いのすべてを琴に託して桜の樹に語りかけている。
「判ったよ、可哀《かわい》そうに」
桜の樹はそう云うだろうか。それとも、
「判ったよ。倖せな女だな」
そう云ってくれるだろうか。
伽姫の桜の樹への問いかけは、三人の男と三頭の馬にも明瞭《めいりょう》に伝わっていた。それぞれがそれぞれの答えを心の中で呟《つぶや》いていたと云っていい。
切なく甘い時が流れた。
かちり。
悟洞が遠町筒の撃鉄を上げたのは、あくまで無意識のなせるわざである。殺し屋としての本能が、機械的に何者かの接近を感知した。ただそれだけのことだ。
同じ本能が捨丸に棒手裏剣を糎らせ、松風に足踏みをさせた。
慶次郎は手をあげて、二人と一匹を制した。
「聴くんなら、こっちへ来て聴けよ」
あくまで琴の邪魔にならないための、穏やかな、だがよく透《とお》る声《こえ》だった。
木立の中から現れたのが秀康とその家臣たちだったのを見ても、誰一人驚きもしなかった。とうに予想ずみだったとも云える。
秀康は這《は》いつくばるようにして緋毛氈の端に乗り、黙って慶次郎に一礼した。慶次郎も無言のまま大盃《たいはい》を渡し、捨丸が酒を酌んだ。
この間、琴の音は途切れることなく続いている。伽姫の眼には秀康も家臣たちも映ってはいなかった。今を盛りと咲き誇る薄桃色の花しか見えていない。
秀康はちびちびと酒を飲んだ。
家臣たちも既に悟洞の酌《しゃく》で飲んでいる。
秀康が盃《さかずき》を干し、慶次郎に返す。大きな瓢《ふくべ》を持ち上げ、うやうやしいと云えるほどの慎重な手付きで酌をした。
慶次郎が一息に飲んで盃を返した。瓢をとって酌をしてやった。
「はっ」
と云うような吐息が秀康の口から洩《も》れる。
〈許された〉
その安堵《あんど》の思いだった。今度は前よりも早く盃を空けた。慶次郎に返し、また細心に酌をする。
慶次郎がにたりと笑い、ゆるゆると盃を傾けた。
秀康も笑い返す。
〈我、終生の友を得たり〉
その思いが秀康の全身を痺れさせていた。
結城秀康の深情けには、さすがの慶次郎もほとほと参った。
なにしろ三日にあげず寺町の慶次郎の家に現れ、ほとんど半日|居据《いすわ》っているのである。
もっともこの癖は慶次郎にもある。直江兼続に惚れこんだ時がそうだった。
それを思うと秀康に文句を云う気にもなれなかった。下手なことを云うと、この繊細な若者の心をひどく傷つけてしまいそうで、それもこわかった。
「悪女の深情けって奴《やつ》だ」
苦笑しながら伽姫に云うのが精一杯の愚痴だった。
伽姫の方は何とも思っていない。自分の琴に惹かれる者は例外なく悲しい人間だと云う感覚がある。秀康も例外ではなかった。悲しい人間同士肩をよせあって何が悪いか。
「それは違うな」
慶次郎は云うのである。
「悲しい奴は肩を寄せ合ってはいけないんだよ。みじめになるばかりだ。それにそんなことが出来ないのが悲しさじゃないか。みんな独り。それがいいのさ」
それは男のことだ、と伽姫は思う。別して慶次郎のように強い男のことだ。
若者もいつかは強くなるかもしれない。だがそれまでは肩を寄せ合いたい気持があっても、許してやらなければいけない。
慶次郎は秀康が来てもほとんど話をしない。勝手に居させるだけで、自分も勝手に書を読み、茶を点て、酒を飲む。
秀康もまたそれで満足している。時に喋《しゃべ》りたいことがあると、伽姫に喋る。まるで姉に対するようだった。伽姫はいつか誰よりも秀康の半生に詳しくなった。
秀康二歳の頃、初めて父に対面した話を聞いた時など、ほとんど声をあげて泣いた。
家康の長男三郎信康は不世出の武将であると同時に心優しい男だった。十七歳の時、自分に異母弟がいることを知った。城に迎えられることもなく、本多作左衛門|重次《しげつぐ》に養われていると云う。父子の対面もしていないことも判った。信康は当時|岡崎《おかざき》の城にいたが、一日家康が来ることが判ると、秀康を呼び出し家康が通る廊下に面した一室に置いた。家康が通りかかると明障子《あかりしょうじ》をあけ、廻らぬ舌で、
「父上」
と呼びかけさせた。
家康の態度は、ある意味で徹底していた。くるりと背を向けると城を出てゆこうとしたのである。
信康はその袖《そで》を捉《とら》えて、
「手前の弟を今日こそ見参に入れようと存じましたのに、お逃げになるのですか」
と叫んだ。
この場面を『藩翰譜《はんかんぷ》』で描いてみせた新井白石の記述を借りれば、
『深く恨みいきどほり給《たま》ふ御気色見えければ、此上《このうへ》は見参なくては事あしかりぬと思召《おぼしめ》され……』
遂に家康も対面を許したと云う。
秀康は、父がくるりと自分に背を向けて足早に歩き出した後ろ姿を、今に至るも鮮明に記憶していた。と云うより秀康の記憶は正しくここから始まるのである。彼の心の中で家康がどんな地位を占めていたか、問うも愚かであろう。しかもこの父は、秀康にとってたった一人の保護者だった兄信康まで殺してしまった。信長の命によるものであり、殺したくて殺したわけでないことぐらいは重々承知していたが、それにしてもその冷たさは世の常の父とは思えなかった。自分を十一歳で豊臣秀吉の人質として送ったのも、大根《おおね》のところではいつ復讐《ふくしゅう》されるか知れたものではないと云う冷たい計算の結果であることを、秀康は当時から直観的に知っていた。結城家を継がされたのも全く同じ理由による。僅《わず》か五万石の小大名では、仕返しをしたくても出来る道理がないからだ。家康にとって秀康とは常時警戒を絶やすことの出来ぬ身内の敵だったことになる。
伽姫には考えられぬ父子のありようだった。
慶次郎は話を聞いて笑った。
「戦国の世にあっては、それが当然なのさ」
男にとって、親子・兄弟はすべて最も身近な、従って最も警戒すべき敵である、と云う。子に殺された父、父に殺された子はいくらでも例があると云う。
「何もとりたてて騒ぐことではないのだ。父は子を愛し、また子に愛されると信ずる方がおかしいのだよ。誰もが一匹の男だ。一匹の獣だ。それぞれの理由で牙《きば》をむくのが本来のさがだ。それを恐れて子の牙を抜けば、その子は他《ほか》の獣の牙にかかるだけだ。親に叛《そむ》く牙も持たぬ男に、何が出来る」
慶次郎は慶次郎で秀康を一匹の獣と認めていたことになる。
そんな日々の中で文禄は終り、新しい慶長の世が明けた。
難波《なにわ》の夢
朝鮮の戦局は慶次郎の予言していた通りになった。
官兵こそ脆《もろ》かったが、各地に起った義兵は執拗《しつよつ》に戦い続け、明《みん》の援兵と共に日本軍を漸《ようや》く各地で破った。それでも補給さえ続けられれば、日本軍はまだまだ勝てた筈《はず》である。だが朝鮮海峡の制海権は、ほぼ完全に朝鮮水軍によって握られ、補給の路《みち》は絶たれた。李舜臣《りしゅんしん》の耀《かがや》かしい勝利だった。
以後日本軍の最大の敵は飢餓になる。
小西行長一流の虚偽と詐略に満ちた講和政策は遅々として進まず、一旦《いったん》の停戦も破れて再度のいくさになる。慶長の役、朝鮮側からいえば丁酉倭乱《ていゆうわらん》がそれである。
正に泥沼《どろぬま》にはまったような戦争だった。海戦を除けば、大方のいくさには確かに勝っている。それにもかかわらず、現地派遣軍はいつの間にか次第に窮状に追いこめられてゆくのである。底なし沼にじりじりと沈んでゆくような思いだったと思う。
この間の故国からの便りといえば、これまた窮状を訴えるものばかりだった。働き盛りの男たちをすべて戦争にとられ、働き手としては老人、女、子供しか残っていない国許《くにもと》で、貢租だけは厳しくとり立てられている。老人や女たちが死ぬほど働いても到底達成出来る額ではない。それでも達しなければどうなるか。石田|三成《みつなり》を筆頭とする文官たちの周旋によって大商人から米を借りて納めるしかない。そして借米に対しては厖大《ぼうたい》な利子がつく。現地派遣の武将たちはいつまでたっても届かぬ補給を待ち望みながら、生命《いのち》を賭《か》けて戦っていると云うのに、国許では日一日と借金が増してゆくのだった。しかも文官たちはこの周旋によって莫大《ばくだい》な金を大商人から受けとっていた。大商人にとっては当然の割戻《わりもど》しであるが、こんなことが許されていいものではあるまい。
国許が不安で焦燥に身を焼くような思いをしながら、帰国することも出来ず、日々酷烈ないくさを戦わねばならぬ現地軍の武将たちの胸に、文官憎しの怨念《おんねん》が強固に定着していったのは全く自然な成行だった。
もう誰《だれ》の目から見ても、このいくさは失敗以外の何物でもなかった。一日も早い講和と撤兵だけが、残された唯一《ゆいいつ》の希望だった。それを阻《さまた》げているのは、半ば亡者《もうじゃ》と化した太閤《たいこう》秀吉《ひでよし》の儚《はかな》い夢への執念だけだった。
「太閤は死に時を誤ったな」
慶次郎は秀吉によって醍醐《だいご》の花見が催された時に伽子たちに云った。
「見ろ、この警護のさまを」
その日、慶長三年三月十五日は、それまで続いていた長雨が嘘《うそ》のように晴れ上り、正に絶好の花見日和《はなみびより》だったと云われる。
北政所《きたのまんどころ》・淀殿《よどとの》・松の九殿・三の丸殿など、秀吉の正室・側室が次々に輿《こし》をつらねて醍醐に到着し、在京の諸武将も招かれ、茶屋は一番から八番まで建てられ、いずれも人で溢《あふ》れた。確かに豪奢《ごうしゃ》で華麗な花見だった。
だが同時に、この日は伏見から醍醐までぴっちり馬廻《うままわ》り衆《しゅう》が警備態勢をしき、蟻一匹《ありいっぴき》通さぬ警戒ぶりだった。それは現在秀吉が置かれている位置を端的に物語るものだった。秀吉はもはや庶民の英雄ではなく、呪《のろ》うべき戦争を強引に続ける専制君主そのものに変貌《へんぼう》していた。
「こんな馬鹿《ばか》な花見が出来るかよ」
招かれて気軽に出かけて行った慶次郎だが、この有様に嫌気《いやけ》がさして、途中から引き返してしまった。
そして五月五日、秀吉は病に倒れ、八月十八日、六十二歳で死んだ。
露とおち露と消えにし我が身|哉《かな》
難波《なにわ》のことも夢のまた夢
それが秀吉の辞世と伝えられている。
停戦と朝鮮撤兵。それが緊急事だった。だが敗北は許されない。敗北を認めては十四万に及ぶ朝鮮派遣軍の大方は遂《つい》に故国の土を踏めぬ筈だった。
秀吉の死は厳重に秘せられ、五分五分の停戦工作がはじめられた。そのための使者徳永|寿昌《ひさまさ》と宮本|豊盛《とよもり》が釜山《ふざん》に到着したのは十月一日のことだ。あたかも泗川《しせん》の戦いの当日だった。
島津|義弘《よしひろ》の率いる剽悍無比《ひょうかんむひ》の薩摩|隼人《さつまはやと》たちが慶尚造《りいしょうどう》泗川で明と朝鮮の連合軍を破った合戦である。
そして、派遣軍が完全に朝鮮半島から撤退したのは十一月二十日、奇《く》しくも同じ島津勢が巨済島を離脱して対馬《つしま》に向った日だった。
前後七年にわたるこの愚劣な戦争は、秀吉の死によってやっと終ったことになる。
「これから面白くなるな」
慶次郎は舌なめずりするように云った。
伽姫は悲しそうに慶次郎を見た。慶次郎の血が騒いでいるのだ。新しい天下人をきめる大きないくさが起ろうとしている。下手をすれば天下は再び動乱の巷《ちまた》と化し、到るところで合戦が繰り返されることになるだろう。
男が掛値のない男として生きられる、慶次郎好みの時勢が来るのだ。当然、慶次郎がじっとしているわけがない。松風を駆って東奔西走して戦うつもりでいる。休息の時は終った。なまじ朝鮮戦争に行かなかった分、何ともいえぬ鬱屈《うっくつ》したものがその体内に溜《たま》っている。伽姫にはそれがはっきり判《わか》る。
それでも七年の余も慶次郎と一緒に暮せた自分は倖《しあわ》せだったと伽姫は信じている。不平をいう筋はなかった。男を男として生かすのが女のつとめであろう。
「行ってしまうのね」
切なく云うのが精一杯だった。
慶次郎は少しの間沈黙する。心からすまないと思っていることを、その状態で示しているつもりなのだ。やがてぽつんと云う。
「なにしろいくさだからな」
いくさと自分とどっちが大事か、などと云う愚劣なことを伽子は云わない。これはいわば次元の違うものなのだ。生死を賭《と》した戦場は、男にとって最高の生き場所であり、死場所であろう。世のどんな倖せも愉楽も、それに替ることは出来まい。
「伽子はどうしたらいいの」
伽姫はそうしか云わない。また云いようがないのだ。
「待つのさ。なに、すぐ帰って来る」
「すぐ?」
「うーん、多分な」
この辺になると曖昧《あいまい》になって来る。どんな戦闘か不明なのだから、これはやむをえない。
「ひとりぼっちで?」
「いや。誰かつけておく。捨丸に云ってある」
事実、才覚もあり腕もたつ女を至急探せと命じてあった。秀吉の死を知るとすぐである。それだけ慶次郎は伽姫に惚れていた。
「安心な町衆にあずけはったらよろし」
捨丸はそう云って、そちらの方も当っていている筈だった。この頃《ころ》の捨丸はいつの間にか京言葉になっている。
「いつ行ってしまうの」
「判らん。一年のうちだろうな」
来年、つまり慶長四年じゅうに事は始まると慶次郎は読んでいた。勿論《もちろん》、徳川|家康《いえやす》によって、である。
家康は永いこと天下を待ち望んで来た男だ。やっと順番が廻って来たのである。
慶次郎もこの男が新しい天下さまになることに何の異存もない。ただ実際にどうやって取るか、そのやり方が問題だった。
秀吉なき後、天下を狙《ねら》う実力を持つ武将は家康と前田|利家《としいえ》であると云うのが大方の意見だった。これに次ぐのが島津義弘、加藤《かとう》清正、黒田如水、毛利輝元、上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》、伊達《だて》政宗《まさむね》と云ったところだ。他《ほか》に宇喜多|秀家《ひでいえ》、福島|正則《まさのり》、佐竹|義宣《よしのぷ》、浅野|長政《ながまさ》・幸長《よしなが》親子などがいるが、いずれも器が小さいと云う。
秀吉が五大老として指名したのは、家康を筆頭に前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元だ。つまり秀吉が危険視した武将はこの五人と云うことになる。その中で武力も人格も伯仲しているのが家康と利家だった。
但《ただ》し利家に天下取りの野望はない。その上、病んでいた。だが嘗《かつ》ての盟友の遺言を守り、遺児|秀頼《ひでより》を守りたてようと云う気持が強い。
秀吉が五大老に対抗するものとして作ったのが五|奉行《ぶぎょう》の制度だ。前田|玄以《げんい》・浅野長政・増田《ました》長盛・石田|三成《みつなり》・長束《なつか》正家の五人がそれだ。この中で最も戦闘的なのが石田三成なのは当然だった。その三成はいち早く前田利家にとり入っている。またそうしなければ三成は生きていられそうになかった。朝鮮派遣軍はあげてこの怜悧《れいり》で非情な文官に恨みを抱いていたからである。いわゆる七将と呼ばれる加藤清正・黒田長政・浅野幸長・福島正則・池田輝政・細川|忠興《ただおき》・加藤|嘉明《よしあき》が三成の首を虎視眈々《こしたんたん》と狙っていた。利家への遠慮だけが三成の首を皮一枚のところで支えていたのである。
だが石田三成もただの鼠《ねずみ》ではない。
それだけ我が身を狙われていながら、尚且《なおか》つ再三再四にわたって家康暗殺を試みている。
第一回目は何と秀吉が死んだ翌日の八月十九日だった。
第二回目は、慶長四年正月十日、秀頼が伏見城を去って大坂城に移った時だ。家康はこの時秀頼と共に大坂城に行き、片桐《かたぎり》貞隆《さだたか》の屋敷に泊ったが、十一日の夜半、三成の放った刺客団がひそかにこの屋敷をうかがい侵入を計った。家康は細作《さいさく》(隠密《おんみつ》)のしらせでこれを察知し、防備を固めた上で、早朝に片桐屋敷を出て街道《かいどう》をさけ、舟で淀川《よどがわ》を遡《さかのぼ》って枚方《ひらかた》に至った。ここで迎えに急行した井伊|直政《なおまさ》に逢《あ》い、ようやく愁眉《しゅうび》を開いたと云う。
第三回目は三月十一日、家康が前田利家の病気見舞いに大坂に行き、藤堂《とうどう》高虎《たかとら》の屋敷に一泊した時だ。この時も家康は畑作のしらせで事前にこれを避けている。天正十年六月、伊賀越えの大難以来伊賀・甲賀の忍びを大量に抱えた家康が、諜報戦《ちょうほうせん》に於《おい》て石田三成に勝ったと云うべきであろう。三成の家康暗殺作戦は三度にわたって破れたのである。
慶次郎がこの暗闘の次第を詳しく知ることが出来たのは、絶えて久しい『骨』との再会のお蔭《かげ》である。
『骨』は三月の半ばに忽然《こつぜん》と慶次郎の前に現れた。正確に云えば慶次郎の枕《まくら》もとに降って来たのだ。
その夜、慶次郎は渾身《こんしん》の優しさを籠《こ》めて伽姫との房事を楽しんでいた。惜別の確かな予感が伽姫へのいとしさを増し、このところ連夜にわたる激しい房事を営ませていたのだ。
伽姫もまたようやく熟れ切った躰《からだ》を開いて慶次郎を迎え羽化登仙《うかとうせん》の境にあった。その時、慶次郎が天井《てんじょう》に向って云ったのである。
「見たければ降りて来てちゃんと見ろ。目ン玉をなくしたいか」
いつ抜いたか、慶次郎の右手には抜身の脇差《わきざし》があった。返答次第ではいつでも投げ上げる構えだった。そのくせ動きは一向にとめることなく、伽姫を責め続けている。
次の瞬間、天井から声が降って来た。
「目ン玉はご勘弁下さい」
同時に人間とは思えないほど痩《や》せ細《ほそ》った小さな躰が、ふわりと降って来て枕もとにぴたりと坐《すわ》った。それが『骨』だった。
伽姫は驚いて夜具をかぶり、慶次郎は動きをとめ脇差を鞘《さや》におさめた。
「もう少しのところを……無粋な男だ」
夜具の上にあぐらをかいた。巨大な陽根が一向に萎《な》えることなく吃立《きつりつ》している。『骨』は惚々《ほれぼれ》とそれを見つめた。
「相変らずお見事な……」
「お主もよく生きていたな」
慶次郎は平然と云い、手を叩《たた》いた。
捨丸が襖《ふすま》を開け、愕然《がくぜん》と立ちすくんだ。顔が赧《あか》くなった。捨丸も悟洞も『骨』の侵入に全く気付かなかったのである。これは忍びとして最高の恥辱だった。
「酒だ」
と慶次郎が云い、
「すまぬ」
と『骨』が云った。
捨丸は口惜《くや》しそうに鼻を鳴らして去った。相手が『骨』では仕方がなかった。何しろ忍びの天才なのだ。自分や悟洞には及びもつかぬ腕である。
「おまつさまのおいいつけで来ました」
と『骨』は云った。今、彼はおまつに雇われているのだと云う。前田家でもなく、利家でもなく、おまつに雇われたというところに『骨』という男のおかしさがあった。
「どんな用だ」
慶次郎がきな臭い顔で云った。珍しく女名前を聞いて、伽子が顔をしかめているのを感じていた。
「判りません。ですが殿様がもういけないようで……」
「又左衛門《またざえもん》が死ぬか」
慶次郎が顔をしかめた。到頭|喧嘩別《けんかわか》れのままか。そう思うと淋《さび》しかった。
「まだ意識はあるのか」
「常とおかわりありません。おかわりなさすぎるくらいで、ちと、その……」
『骨』が云い淀んだくらい、利家は死に対して熱心だと云う。
遺言状をおまつに筆記させ、死後配分する遺物の目録を作らせ、土蔵・物置に保管する道具類の帖面《ちょうめん》を点検し、これに花押《かおう》を据《す》えたと云う。納戸《なんど》の奉行たちが後にあらぬ嫌疑《けんぎ》を受けないための配慮だというからふるっている。
慶次郎は声をあげて笑った。
「又左らしいわ。あの男はな、蚤《のみ》の金玉《きんたま》のような胆《きも》っ玉《た王》の男なのさ。おまつ殿もさぞうんざりしていることだろう」
『骨』も苦笑している。おまつが正にこれと全く同じ表現で夫を罵《ののし》ったのを思い出したからだ。
「だが……」
慶次郎の眼《め》が鋭くなった。
「お主が来たのはおまつ殿のためではあるまい。又左の差金だ。そうだろう」
『骨』は顔を拭《ぬぐ》った。
「判りますか」
「それだけ死ぬことに熱心なら、わしのことを忘れるわけがない」
慶次郎の云う通りだった。利家がおまつに頼みこんで、慶次郎と連絡をとるようにさせたのである。
捨丸はなんとか引き留めたかった。
慶次郎が大坂の前田屋敷へ行くと云い出したのだ。
捨丸の直観が確かな危険を告げていた。だが『骨』が使者である以上、それを云うことは出来ない。云えばあからさまに『骨』を侮辱することになるからだ。『骨』が、
「お供つかまつる」
と云う以上、死を賭しても慶次郎一行の安全は保証すると云うことだった。
それでも捨丸は不安だった。
捨丸は昨日や今日の雇い人ではない。慶次郎と前田利家の根深い確執の歴史を身に徹して知っているし、前田藩の気風も事情も自分のことのように知っている。
前田藩は忘れることのない藩だった。良い事も悪い事も決して忘れない。どれほど歳月が経《た》とうと、どんなに事情が変ろうと、一人の人間のしでかした事はいつまでもそのままで記憶されている。
従って慶次郎が利家にやってのけた無礼や、四井一族を翻弄《ほんろう》したことは、今もってしかと前田藩士の脳裏にある。何かの事情で利家が慶次郎の赦免を告げたとしても、前田藩士が慶次郎を許すことはあり得ないのだった。それほど『忘れない』、ある意味では『怨みっぽい』藩の屋敷に、こちらから赴くのは、正に死地に入ることだった。
『骨』がその辺の感覚を掴《つか》んでいるかどうかが捨丸の不安のもとだったのである。
だがことは捨丸の不安と焦燥にかかわりなく進行し、慶次郎は夜半に松風をとばして大坂へ行くことになった。案内は『骨』、供は捨丸一人である。捨丸が炸裂弾《さくれつだん》・煙玉を蔵《おさ》めた胴乱を持参したのは当然の用心だった。危ないのは慶次郎だけではない。捨丸もまた四井一族から裏切者として狙われている身だった。
前田利家はしぼんでいた。それも一廻りや二廻りではない。背丈だけが従来通りで、『骨』と同じくらい痩せこけていた。
寝床に臥《ふせ》ったまま慶次郎を迎えた。利家好みの若い女が二人、介抱のためについている。一人は腕を、一人は脚を、飽きもせず撫《な》でていた。
慶次郎はものも云わず、その枕許に坐りこんだ。この変り果てた姿を一目見ただけで、慶次郎はもう泣けそうになっている。長い間の敵としての懐《なつ》かしさがどっと胸にこみ上げ、その衰弱の様が胸をかきむしるのだった。
だが口は相変らず辛辣《しんらつ》である。
「これが槍《やり》の又左の成れの果てか。しなびた又左とでも名を変えたらどうだ」
「措《お》け、慶次」
声も弱々しかった。
「嬲《なぶ》られるために呼んだわけではない」
「当り前だ。こちらも死にかけた男を駆りに大坂くんだりまで来たわけではない。一生の結着がつけたいのだろう。相手になるぞ。庭へ出ろ」
利家が呆《あき》れたように見た。
「お主は喧嘩のことしか頭にないのか」
「その通りだ。俺《おれ》とお主の間に、喧嘩以外の何がある」
「いくつになっても少しも齢《とし》を喰《く》わない男と云うものがいるんだね。全く進歩するということがないし、頭が悪い。その分、躰だけは丈夫だし、女にも強い。お前たちの前にいるのがその馬鹿の見本だ。よく見物しておくがいい」
利家が女二人に云った。女たちは慶次郎に遠慮しながら、くすくす笑った。
「少しは口が達者になったようだな。それがお主の云う進歩かね。馬鹿々々しい。結着をつける気がないなら、俺は帰るぞ」
本当に腰を浮かしかけた。利家は本気で驚いたらしくがばと半身を起した。
「遊ぶのはやめろ、慶次」
「それは俺の云うことだ。そのけったくそ悪い女どもを退《さが》らせない限り、俺は帰る」
本気だった。
利家の爺《じじ》くさく好色そうな格好にさっきからむかむかしていたのだ。それが最晩年の太閤秀吉の真似《まね》であることを、慶次郎はとうの昔に察していた。それが今の豊臣家《とよとみけ》の家臣たちを象徴しているようで、なんとも気分が悪いのである。
「徳川殿もいい齢《とし》だが、そんな自堕落な格好はしていないだろう。天下を狙って剣を研いでいるだろうな」
利家は苦笑し、手を振って女たちを退らせた。
「その徳川殿だが、お主やってくれぬか」
やるとは殺すの意である。
「これがわしの結着だ」
慶次郎は呆れたように利家を見た。
「幾つになっても馬鹿なのはお主の方のようだな」
「何?!」
「お主は俺の方がお主に対して負い目を背負っていると思いこんでいる。今も昔もその点では変っていない。だから徳川殿を討てば許してやるなどと云うんだ。馬鹿々々しいもいいところだ。俺はお主に一片の負い目もない。ましてや徳川殿に何の怨みもない。おまけに俺は暗殺人じゃない。正々堂々の殺ししかしておらん」
「負い目がないだと?!」
一瞬、利家の目の中にかっと燃える色が走った。だがその炎はすぐ消えた。
「負い目の話はいい。わしの最後の頼みだ。なんとか聞き届けてくれ」
「いやだね。刺客を仕立てるなら忍びを使え。四井|主馬《しゅめ》はどうした? 加賀得意の陰《かげ》軍団は何をしている」
「主馬に徳川殿が討てると思うか。人間の格が違う。たとえ枕許に立ったとしても、あやつには殺すことは出来ぬ」
これは正確な判断だった。一代の武将の中で忍びに殺された人物が一人もいないのはこの為《ため》である。
「お主ならそれが出来る。お主のその野放図さをもってすれば……」
「やめろ!」
慶次郎が一喝《いっかつ》して綿々と続きそうな利家の口説《くぜつ》をぶち切った。
「二度とは云わん。俺は刺客はやらん。判ったか。やらないんだ」
利家が蒼白《そうはく》になった。
「俺がこれほど頼んでもか」
「くどい。馬に鼠になってくれと頼んでみろ。え、頼んでみろ。頼まないだろう。男を虚仮《こけ》にすると病人といえどもぶちのめすぞ」
慶次郎は怒っていた。
自分に刺客を依頼する無礼もさることながら、今まさに死に瀕《ひん》しながら家康暗殺などと云う姑息《こそく》な手段に思いをめぐらせている、或《あるい》はめぐらさざるをえない利家に、怒っていた。
「それにな、徳川殿を殺せば豊臣の家は安心だと、お主、本気で思っているのか。昔の槍の又左衛門として考えてみろ。本当にそう思うか」
「思わないさ。そんなこ之は百も承知だ。それでも他《ほか》に手だてがなければやむをえまい」
「手だてがなければ天に委《まか》せろ。じたばたして醜をさらすより遥《はる》かにましだ」
なんだってそんなに豊臣家に尽くさなきやいけないんだ。秀吉がお前に何をしてくれたと云うんだ。娘を二人までとり上げて妾《めかけ》にし、その代償に加賀百万石をくれた。それがそんなに恩に着るほどのことか。そう云ってやりたかった。豊臣家など放《ほう》っておけ。栄枯盛衰は乱世の常だ。時代は新たなる乱世に入ろうとしているのではないか。死んだ主君のことなど放っておけ。家康同様、乱世の新しい覇者《はしゃ》としての道を行け。それが真の『いくさ人』のとるべき道ではないか。
「やかましい!」
今度は利家が吼《ほ》えた。瀕死の病人とは思えない気迫の籠った一喝だった。
「判っとるわい。わしだってそうしたいわい。ど、どれほどそうしたいか……」
絶句した。それは無念の叫びだった。
折角新しい乱世にめぐり合いながら、なすすべもなく死んでゆかねばならぬ『いくさ人』の肺腑《はいふ》から発する無念の叫びだった。
「倅《せがれ》は駄目《だめ》なのか」
「黙れ!」
また吼えた。だが前よりは力がない。
「立派な倅だ。貴様ごときに駄目よばわりはさせん。利長も一箇の男だ。だが……若い」
嘆くように云った。辛《つら》いのだ。
「生れたての小犬を虎にぶつけるようなものだ。忽《たちま》ち八つ裂きにされて喰われてしまう」
確かにその通りだった。『海道一の弓取り』といわれた家康とその三河軍団が相手では、若い前田利長には万に一つの勝利も望めまい。
「それに治部《じぶ》がいる」
石田治部|少輔《しょうゆう》三成のことだ。
「あれのお蔭で天下の『いくさ人』は悉《ことごと》く徳川殿の味方だ」
三成憎し、の一念が武断派の諸将を結束させ、あげて家康に味方させていることを利家は知っている。三成さえいなければこの武将たちは本来の『いくさ人』の意識に目覚め、それぞれが天下を狙《ねら》おうとするだろう。そうなったら家康といえども油断出来ない筈だった。
「残された手は唯一《ゆいいつ》つ……」
「違うな」
穏やかな声だ。慶次郎はこの男が無性に可哀《かわい》そうになって来ていた。穏やかに死ぬことさえも許されぬ小心な男だった。剛腹さと武勇の裏に、小心翼々たる地つきの百姓の顔がのぞいている。元々が荒子の百姓なのだ。慶次郎のような忍びの出ではない。漂泊を生とする根なし草のような勁《つよ》さがない。土地を持っていなければ安心出来ないのだ。
「徳川殿が死ねば、本当の乱世になる。各所で果てしない戦さが生れ、強い者がしぶとく生きのび、弱い者は喰い殺される、あの末世の時代になる。お主の自慢の倅がそんな中で生きてゆけると思うか。群狼《ぐんろう》の中に投じられた小犬にすぎん」
利家は口を開きかけてまた閉じた。慶次郎の云う通りだったからだ。
「お主は結着をつけておきたいだけなのさ。蔵の中の品物を改めるように、形見わけをきちんと揃《そろ》えておくように、徳川殿もきちんと殺しておきたい。それだけのことさ」
利家は無言だった。ぐうの音も出ないのだ。
「ふとくたびれて、道端に坐る。ごろんと横になる。眠りこんでそのまま覚めない。俺はそんな風に死にたい。お主のは手がこみすぎている。そういうのをじたばたすると云う」
辛辣きわまりない言葉だった。
「荒子の土地のことは悪かったな。あれは俺がどうしても欲しかったんだ。前田一族の土地なんだ」
慶次郎が前田|惣家《そうけ》を継ぎ、荒子城主になることが織田信長の鶴《つる》の一声《ひとこえ》でとりやめになり、利家に渡されたことを云っているのだ。四十年近くも昔の話だが、利家がこの件で謝ったのはこれが初めてだった。
「いいさ。俺は所詮《しょせん》忍び上りだ。土地に執着はない」
「すまなかった。だがこれでせいせいしたよ。ずっと胸につかえていたんだ」
「驚いたな」
本音だった。慶次郎に負け惜しみの気持はない。
「それにしても随分いたぶってくれたな」
利家が懐《なつ》かしそうに云った。慶次郎との争いの一齣々々《ひとこまひとこま》が、走馬燈《そうまとう》のように脳裏をかけめぐっているに違いなかった。
「冗談だろう。痛めつけられたのはこっちだ」
「いや、違う。こっちだ」
暫くの繰返しの揚句、二人は声を上げて笑った。
さっきの女たちが酒の支度をして運んで来た。
「殿様がお笑いになるなんて、何日ぶりでしょう」
女の一人が云い、瞼《まぶた》を抑えた。
「去《い》ね」
一喝して女を追い出すと、利家が銚子《ちょうし》をとり上げた。唐突にいった。
「胸のしこりがもう一つある」
「ン?」
慶次郎が見つめた。利家の口調に、何かそうさせるものがあった。荒子の城どころではない重大事と見えた。その証拠に暫く口を利こうとしない。
「それで……」
慶次郎が催促した。
利家が光る眼で慶次郎を視《ふ》た。
「お主、おまつを抱いたか」
さすがの慶次郎が一瞬絶句しかけた。だが躊躇《ためら》うことなく云った。
「抱いた」
「この野郎!」
利家が渾身《こんしん》の力を籠めて慶次郎の頬《ほお》げたを殴った。
〈昔なら俺は吹っとんでいただろう〉
僅《わず》かに躰を傾けただけで耐えながら、慶次郎は悲しかった。こんな蚊を叩くような打撃が、今の又左衛門の精一杯の打撃とは。
利家がまた殴った。
慶次郎は一切逆らわない。躱《かわ》そうともしなかった。黙って殴られるままにしていた。
利家の方が力尽きた。五発目でもう肩で息をしている。
「それだけか」
慶次郎が促すと、もう一発殴ったが、それが精一杯のところだった。寝床にひっくり返って荒い息をついていた。
「大丈夫か」
とは慶次郎は訊かない。訊けば侮辱したことになる。黙って頬を撫でた。
利家がやっと起き上った。
「これで残らず終ったよ」
云いながら再び銚子をとりあげて慶次郎の盃《さかずき》を満たした。手が震えていた。慶次郎は見ない顔をし酒がこぼれても拭《ふ》かなかった。自分の銚子をとり上げ、さそうとした。
「いや、わしは……」
利家が手を上げてとめようとした。慶次郎が吼えた。
「情けないことをぬかすな」
「そうか。それもそうだな」
利家は盃をもち、満たされると一息に空けた。
「うまい。やっぱりうまいよ、おい」
「当り前だろう」
慶次郎は今度は自分で自分の盃を満たした。
部屋の外でおまつが立ちすくむようにして泣いているのを、二人は知らない。
天下取り
慶長四年|閏《うるう》三月三日|卯《う》の刻《こく》(午前六時)、前田|利家《としいえ》が死んだ。享年《きょうねん》六十二歳。遺骸は遺言通り長持に入れて翌日金沢にたち、四月三日金沢着、八日に葬儀が行われたと云う。
利家の死んだその夜、加藤《かとう》清正《きよまさ》を筆頭とするいわゆる七将は石田|三成《みつなり》屋敷を襲った。利家の死の直接の結果だった。
三成も機敏だった。事前にこれを知って大坂を逃れ、女駕寵《おんなかご》に乗って七将の目をくらましながら伏見に下り、なんと家康《いえやす》のもとに庇護《ひご》を乞《こ》うた。家康は七将の頭《かしら》とも云うべき男である。その男に敢《あえ》て身柄《みがら》をあずけた三成も大胆不敵だが、これを七日間にわたって庇《かば》い通した家康の計算もしたたかだったと云える。
徳川家の家臣の中には、三成討つべしとはやり立つ者もいたが、本多正信《まさのぶ》は急いで御前に出て云ったと伝えられる。
「今、治部殿《じぶとの》を殺せば、やがて七将は殿を討つことになります。治郎殿を生かせば、最後まで殿にお味方するでしょう」
三成憎しの一念が七将を家康の味方にしているのである。三成が死ねば彼等《かれら》はその本来の立場(豊臣家《とよとみけ》護持)に目覚め、遂《つい》には家康に弓引くことになる筈《はず》だった。正信はそれを云った。家康の返事はたった一言だった。
「判《わか》っとるわい」
七将を懇々と説得し、三成には奉行《ぶぎょう》を辞退させ、ご叮嚀《ていねい》にもその居城佐和山まで、次男|秀康《ひでやす》に軍勢を引き連れて送らせた。そして閏三月十三日には自邸を出て、伏見城に入った。
後年、これを家康の天下取りの第一歩とする。
大坂城には父の跡を継いで五大老次席となった前田利長がいる。利家は遺言で、三ヶ年大坂を動くべからずと利長に命じてあったのだが、陰に陽に圧力かけて来る家康のやり方に若い利長が耐えられるわけがない。遂に八月二十八日に金沢に帰ってしまった。
奥村|助右衛門《すけえもん》が瓢《ふくべ》一杯の酒と鞍袋《くらぶくろ》一杯の金を携えて慶次郎の住いを突然訪れたのは、その前夜のことだ。
助右衛門は大坂退去のことを告げ、
「御運の末かね」
一言そう云った。秀頼《ひでより》傅育《ふいく》の任に当ることを父から命じられた利長が大坂を去ることは、その責任と地位の放棄を意味する。もう家康が大坂城に入るのを引き留める何物もない。
「戦う気か」
慶次郎が酒をすすめながら云った。
「やりたくはないが、いずれそうなるだろう」
助右衛門が他人事《ひとごと》のように応《こた》えた。
「意地を立てるな、助右衛門。又左の子を生かせ。なんとしてでも生かせ」
助右衛門は応えない。家康が加賀という要地に腰を据《す》えた百万石の大藩を放《ほう》っておくわけがない。早晩、なんらかの口実で戦いを挑《いと》んで来るのは、目に見えていた。
「内府の意表をつけ」
慶次郎が云った。内府とは内大臣の意であり、家康のことだ。
「内府が夢にも考えつかないような条件を出せ」
助右衛門の表情がはじめて動いた。
「たとえば百万石をくれてやる、と云うようなことか」
「違う。そんなもんじゃ駄目《だめ》だ。いくさに勝てば当然手に入るものだからな。そう……例えば……」
慶次郎が一拍の間を置いた。
「おまつ殿を人質として江戸に送る」
助右衛門の愕然《がくぜん》とした顔は観物《みもの》だった。どんな場合でも動揺を示さない男なのである。
「お、お主、本気でそんなことを……」
「勿論《もちろん》、本気だ。お主が驚いたくらいだから、当然内府は仰天するだろう。それにまだ誰《だれ》も内府に人質を出した者はいない。必ず心を動かす筈だ。加賀百万石の正室を人質にとったことは、百万石を手に入れたより値打がある」
慶次郎の云う通りだった。前田家が、しかも人もあろうに当主のお袋さまを人質に出したと聞えれば、家康に忠誠を誓おうとする諸大名は先を争って人質を江戸に送るだろう。それによって家康の地位は安泰になる。
「しかし……おまつさまを……お主、よくもまあ……」
自然に怨《えん》ずるような声になったのは、助右衛門がおまつと慶次郎の仲を知っているからだ。
おまつは慶次郎の灼熱《しゃくねつ》の恋の相手だった。その恋人をよくもまあ人質に……。
「おまつ殿は必ずや喜ぶ筈だ。あの人はわが身一つで加賀百万石を救う機会がないものか、必死に探しているのだよ。それがせめてもの贖罪《しょくざい》だと思っているんだ。多分人質の話が出れば、ほっとすると思う。幾分でも心が軽くなると思う。そしておまつ殿の心を楽にするのが、わしのせめてもの罪滅ぼしだろう」
慶次郎の言葉に涙はない。どこまでも淡々としている。それなのに奥村助右衛門はなんとなく泣きたくなった。己れの恋人に苛烈《かれつ》な生を願う男がいようか。それが唯一《ゆいいつ》おまつの心を安らかにする法であることを洞察《どうさつ》していればこその、慶次郎の言葉だった。
二人は明け方まで黙々として盃《さかずき》を交わし、助右衛門は金を置いて帰った。
それから十日ばかりたった九月七日、家康は大坂で増田《ました》長盛《ながもり》の密告を受けた。前田利長が浅野長政、大野|治長《はるなが》、土方《ひじかた》雄久《かつひさ》らを使って家康謀殺を企《たくら》んでいると云う。家康は直ちに大軍を召集し、十二日には大坂城へ入り、やがて北政所《きたのまんどころ》に替って西の丸に腰を据えた。
同時に浅野・大野・土方を配流《はいる》に処し、前田利長とその姻戚《いんせき》細川|忠興《ただおき》に対し討伐《とうばつ》の軍を送ろうとした。
大体増田長盛という男はおべんちゃらの巧みな蝙蝠《こうもり》のような存在である。あちらへ行って気に入られるようなことを云い、こちらへ来て又ぞろ気に入られそうな話を作る。事実などどうでもいいのだ。でっちあげでもなんでも、相手に都合のいい筋書を作る。
この場合もそうだ。家康は大坂城に入る口実を必要としていた。大坂本丸に出入りする大野治長などに暗殺の企てがあるとしたら、自ら城内に入って監督するしかない。
前田利長の場合もそうだ。家康は合戦を必要としていた。朝鮮帰りの武将たちを冷静にしてしまってはまずいのである。すぐにでもいくさに狩り出さねばならぬ。勿論家康の名の下で起すいくさではない。秀頼の名の下に、家康が大老筆頭、つまり一の家老として事実上の統帥権を握り、諸大名の軍を動員して行ういくさだ。中央政府の名の下に闘うのだ。家康の私闘ではない。
前田家はその敵第一号として指名されたのである。
倖《さいわ》いなことに細川忠興は中央の情報にくわしい機敏な男だった。常時忍びを放って大坂・京都・伏見の噂《うわさ》を集めていたらしい。いち早くこの家康の意図に気づき、利長に急使を走らせると共に、自らは家康のもとに出頭して、釈明にこれつとめた。一種の先制攻撃である。
家康は内心|辟易《へきえき》したと思うが、色にも出さない。糾弾の気持は益々《ますます》強かった。
金沢は大騒ぎになった。利長の弟|利政《としまさ》はかねてから家康が嫌《きら》いである。隷属の恥辱を受けるよりは戦うべしと云う立場を堅持した。
利長は弟より現実家だった。家康とその連合軍と闘ってよもや勝てるとは思えなかった。すぐ横山|長知《ながちか》を大坂に送って必死の陳弁をさせた。だが家康はこの噂に根のないことは百も承知で横車を押して来ている。弁解など聞くわけがない。
奥村助右衛門が秘《ひそ》かにおまつ、利家の死後は髪をおろして芳春院と云っていたが、その居室を訪れたのはこの時だった。
慶次郎の言葉をほとんどそのまま伝えた。
おまつは一瞬遠い眼《め》になった。そこに明らかな慕情を認め、助右衛門の胸がわけもない嫉妬《しっと》で煮えくり返った。
「あの方には、どうしてそんなに正確に、わたしの気持がお読めになるのでしょう」
うっとりとした顔で云う。助右衛門はいまいましげに一言云った。
「恋慕でござろう」
おまつはすぐ利長に会い、自分を人質として差し出すように云った。
驚愕し拒否する利長におまつが云ったという言葉が『加賀藩史料』所収の『桑華字苑』に残っている。現代語にすれば次のようなものだ。
「侍は家を立てるが第一。母を思って家を潰《つぶ》すことはならぬ。つまるところは我を捨てよ」
我を捨てよ、と云う凛乎《りんこ》たる言葉に、利長は負けた。
それは家康も同様だった。おまつが自ら大坂に出て家康に会った時は、彼の方が動顕《どうてん》し、おどおどしていたと云う。
だがさすがは家康である。瞬時にこの方式の絶大な効果を認めた。
現在諸大名から差し出された人質はすべて大坂にいる。家康が天下さまになろうとしている今でも、江戸には一人の人質もいない。加賀百万石の当主の母親が人質として江戸に下向すれば、諸武将もこれに倣《なら》うにきまっていた。現に細川忠興はすぐさまその倅《せがれ》忠利《ただとし》を人質第二号として江戸に送ることを申し出ている。
おまつは人質として伏見に移り、翌慶長五年五月江戸に赴いた。以後十四年の人質生活を送り、慶長十九年六月利長の死の後に許されて金沢へ帰った。六十八歳である。七十一歳で死ぬまでさぞかし心安らかな晩年を金沢で過したことだろうと思う。
家康は前田家にうまく体をかわされたようなものだが、たいして気にかけた様子は見られない。すぐ次の相手をみつけた。それが上杉《うえすぎ》景勝《かげかつ》だった。
この場合も密告者がいる。出羽角館《でわかくのだて》城主戸沢政盛、上杉の旧領越後《えちご》に移封された堀《ほり》秀治《ひではる》、更に上杉家家臣|藤田《ふじた》信吉《のぶよし》、この三人が上杉に叛意《ほんい》ありと告げた。家康は慶長五年正月以来景勝に詰問状を送り、頻々《ひんぴん》と上京を促した。
だがわずか四月《よつき》前の慶長四年九月、領地会津に帰って領国の経営に専念せられよ、と景勝にすすめたのは他《ほか》ならぬ家康である。
景勝が先祖以来の越後から会津へ転封になったのは慶長三年正月。雪どけを待って実際に赴任したのは三月のことだ。ところが八月に秀吉《ひでよし》の死を聞き九月に伏見にのぼり、以後豊臣家五大老の一人として政務に忙しく、帰国する暇《いとま》もなかった。新しい領国に僅《わず》か半年しか滞在していない。国替えはそれでなくとも厄介《やっかい》なものだ。旧主を懐《おも》う住民が叛《そむ》く場合も多いし、年貢《ねんぐ》体制を確立せねばならず、城や道も直さねばならぬ。その大切な仕事を一年も放《ほう》って置いたのだから、景勝が苛立《いらだ》つのも当然だった。家康はそこにつけこんで親切ごかしに、中央のことは自分が責任をもって果すから、領国に帰られたらどうか、とすすめたのである。この件では家康の書簡が現存している。それが三月《みつき》とたたぬ間に大坂に来《こ》い、では骨の堅い景勝が承知するわけがない。しかもその理由がいい加減な密告によるのでは尚更《なおさら》である。
世に有名な『直江状《なおえじょう》』はこの時の返書である。直江|兼続《かねつぐ》が景勝に代って書いた書簡であるが、格調高く、理をつくし、しかも凛として己れの所説を書きつくした一世の名文として今も世評の高いものだ。
兼続はこの『直江状』の中で、まず讒言《ざんげん》をした三人の云い分をそちらで詳細に調べて欲しいと云った。そうすれば上杉に叛意のないことなどすぐ判る筈だ。それもせず、いい加減な男どものいい加減な言葉のみ信じて当方を責める気なら『是非に及ばず候《そうろう》』といい切っている。一戦も辞せずと云うのだ。前田利長と違って謙信公以来の武門の誉《ほま》れを大事にする上杉家の自負が明確に読みとられて、爽《さわ》やかである。
慶次郎のもとにこのしらせを齎《もた》らしたのは結城《ゆうき》宰相秀康である。五月七日、あたかも三奉行・三中老が連署の上、家康に会津征伐を一年延期するよう勧告した日だった。誰の眼から見ても家康のやり口は強引にすぎた。
「何の役にも立ちはしません」
秀康はこの奉行衆・中老衆の動きを評して云った。
「父は秀頼さまの御名のもとに、豊臣の武将を集め、その面々を手のうちに握りたいんです。会津征伐なんて茶番もいいところです。誘いの隙《すき》ですよ。わざと大坂を留守にして、事を起させるつもりです」
事を起すのは石田三成だろうと云う。ただ三成には人気がない。これまた秀頼さまの名のもとに誰か実力のある武将をいただいて起《た》つにきまっている。つまり同じ秀頼の名のもとに二つの軍団がぶつかることになる。
「会津でなんか合戦をしても仕様がないのです。どこか京・大坂の近く、美濃《みの》あたりでなくてはならない。そのいくさで初めて父が天下さまになるかどうかきまるんです」
汚いやり口だと、秀康は吐き捨てるように云った。
「合戦に汚いも綺麗《きれい》もないんだよ」
慶次郎は云った。
「勝つか負けるか、生きるか死ぬか。それだけのことさ。勝って生きのびれば、それでいいのさ。恥も外聞もない。ぎりぎり結着のところがいくさなのだ。内府殿はそれをよく知っていられる。戦機と見ればなりふり構わず強引に仕掛けるのだ。さすがと云うべきだろう」
そうでしょうか、と秀康は不満そうに呟《つぶや》いた。
『直江状』は凛然として爽やかであろう。だがまさしくその爽やかさ故《ゆえ》に、慶次郎は敗北を予感した。
もっともそんなことはどうでもよかった。
慶次郎にとって大事なのは、莫逆《ばくぎゃく》の友直江兼続が死ぬ、と云うことだった。兼続が死ぬなら、自分も死ぬしかないと云うことだった。そしてそれはまた伽姫を捨ててゆくと云うことでもあった。慶次郎は一瞬その辛《つら》さを噛《か》みしめるように眼をつぶった。再び眼を開けた時、慶次郎の顔が一変していた。既に『いくさ人』の顔になり切っている。死を決した、と云うようなものではない。『いくさ人』がそんな一見悲壮なようで実は馬鹿々々しい覚悟をするわけがない。ただ生死の境に入ると覚悟するだけである。生死は天に委せると云うことだ。力の続く限り殺してくれようと思う。修羅《しゅら》に入るのである。
「一刻後に会津に起つぞ」
捨丸に無造作に云った。一刻の間に伽姫を安全な場所に移せ、と云う意味だった。
会津陣
慶次郎にとってこれは出陣である。出陣は思い切り華麗でなければならない。
かねてこの日に備えて、ことさらに派手な小袖《こそで》の用意があった。伽姫が一針々々心をこめて縫い上げたものだ。慶次郎のものばかりではない。捨丸と金悟洞の分まである。捨丸は慣れているが悟洞は生れてからこんなきらびやかな衣裳《いしょう》は身につけたことがない。危うく逃げ出しそうになった。だが、
「逃げるのは勝手だが、二度と旦那《だんな》には逢《あ》えないよ」
捨丸に沁々《しみじみ》そう云《い》われると、それも出来ない。観念して着てみると、これが意外に似合うのである。
「男ぶりがぐんと上りよった」
捨丸がいまいましげに云ったほどだ。捨丸は小男にすぎて、どんなに派手々々しいものを着ても映えないのである。
「旦那にはかなわんたい」
照れ臭そうに悟洞が呟《つぶや》いた。
まったく慶次郎は派手がよく似合う。躰《からだ》の大きさと顔のいかつく荒削りなところが、逆に派手さをほどよく抑え、いかにも見事な伊達男《だておとこ》ぶりだった。
例の南蛮の鎧《よろい》はとうに捨てられ、新しい鎧が鎧櫃《よろいびつ》に入れて替え馬の背にある。捨丸たちの具足、炸裂弾《さくれつだん》・煙玉のたぐい、弾丸・食糧などが別の替え馬に積まれていた。すべて捨丸の予《かね》てからの用意のよさを物語るものである。金も充分に鞍袋《くらぶくろ》に入っているし、大半は例によって町衆に貸し付けてある。自分たちが全員討死した場合は、そのすべてが伽姫に渡るように手配されていた。
伽姫は本阿弥《ほんあみ》光悦の屋敷にあずけられた。上層町衆として、また法華《ほっけ》一族として本阿弥一族の力は強大であり、ここにいる限り、伽姫の身は安泰だった。光悦自身が慶次郎の心を許した友でもあった。
その伽姫が、寺町の小宅から出陣する慶次郎を、たった一人で見送った。
もとより涙は見せない。伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]国《かやこく》の武人の娘は、戦陣の掟《おきて》は充分心得ていた。
伽姫は惚々《ほれぼれ》と慶次郎を見つめ、にっこり笑った。
「とても立派。素敵」
「惚れ直したか、伽子」
慶次郎も笑って云った。
「はい。惚れてます」
この国の女では云《い》い難《にく》いことを、さらりと云ってのけた。おまつが居合せたら、悋気《りんき》のあまり刺し殺しかねない可愛《かわい》さだった。
「だから死なないで。生きてわたしを迎えに来て」
ようやくその声が湿った。だがすぐ明るく気を変えると、
「げんまん」
小指を絡《から》めて来た。
「指きりげんまん、嘘《うそ》ついたら針千本のーます」
慶次郎の胸に熱いものがこみ上げて来る。だがその顔には一かけらの悲しみの色も浮ばない。
「慶郎も云って」
伽姫がせがんだ。
「いいとも」
慶次郎は改めて伽姫と共に誓いの言葉を大声で云った。
「指きりげんまん、嘘ついたら針千本のーます」
捨丸が横を向いて、ちん[#「ちん」に傍点]と手洟《てばな》をかんだ。不覚にも涙がこみ上げて来たのである。
〈京の町も当分見おさめか〉
道はいつもの若狭路《わかさじ》から北国街道《ほっこくかいどう》を辿《たど》ることになる。時候は風薫《かぜかお》る若葉の季節だ。気特のいい旅になる筈《はず》だった。だが慶次郎の気分は晴れない。さっきのげんまんがこたえているのだ。
「指きりげんまん、か」
ふっと呟いた時、背後に馬蹄《ばてい》の音を聞いた。一瞬、本阿弥家まで伽子を送っていった捨丸かと思ったが、野風の足音ではなかった。振り返って見ると結城《ゆうき》秀康《ひでやす》だった。夢中になって馬をあおって来る。
慶次郎は松風をとめて待った。
秀康が追いつく。馬もろとも荒い息をつきながら、
「お宅へ伺いました」
空っぽになっていたので仰天して追って来たと云う。何も仰天することはないではないか、と慶次郎はおかしかった。あまりの敏速さと早い決断に驚くのは常民のすることである。『いくさ人』なら、当然と受けとめるべきだ。
「出陣致す」
厳然と云った。
「秀康殿とは戦場でお目にかかることになろう。随分のお働きを」
にこっと笑った。男にはこたえられない、いい笑顔である。秀康は痺《しび》れるような思いで、
「左、左様」
やっと云った。情けないことに涙がこみあげて来る。
「上杉勢《うえすぎぜい》にお味方か」
「直江《なおえ》山城《やましろ》は莫逆《ばくぎゃく》の友。死んでやらねばなりますまい」
淡々として云った。
「で、では敵味方と云うことに……」
当り前のことである。今更口に出す必要のないことだった。秀康の若さである。
「戦陣の慣《なら》い」
ずばりと切って捨てた。
「戦場でお目にかかるのを楽しみにしておる。遠慮は御無用」
ぶるっと秀康が震えた。武者震いである。異様なまでに気持が昂揚《こうよう》して来た。
戦場で慶次郎と槍《やり》を交わす図が、ぱっと脳裏に浮んだ。素晴らしい光景だった。勝敗は問うところではない。これほど憧《あこが》れた男に槍をつけると云うだけで、至高の倖《しあわ》せだった。
〈死んでもいい〉
本気でそう思った。
「かなわぬまでも、存分に戦わせていただき申す」
慶次郎は莞爾《かんじ》と笑った。若者らしい、いい返事だった。そして事実この若者は獅子《しし》のように、阿修羅《あしゅら》のように闘うだろう。素晴らしかった。これだから合戦はいい。
「しかと拝見つかまつろう」
手をさし出した。秀康はその手をがっしと掴《つか》むと、次の瞬間、馬首を返してまっしぐらに駆け去った。涙を見せるのを恐れたのであろう。
「いくさはいい。実にいい」
慶次郎は大声で云った。げんまんのことは綺麗《きれい》に脳裏から消えていた。
北国街道に入るあたりで、痩《や》せ馬《うま》が一頭、一行に加わった。これは『骨』である。
「おまつさま御命令でござる」
それで理由は充分というような云い方だった。
「お守のいる齢《とし》ではないぞ」
慶次郎は口をとがらせて抗議したが、
「女性《にょしょう》と云うものは、いとしい殿御には、いつまでも自分の庇護《ひご》が必要だと思っているようで……」
『骨』はにこりともしないでそう云ったものである。
加賀藩領を抜けて越後《えちご》に入った途端に、いきなり、異常な空気の中にとびこんだような感じになった。この空気は煙硝《えんしょう》と血の臭《にお》いに溢《あふ》れていた。
ここは二年前まで上杉家の所領であり、上杉家会津転封にともなって、越前から堀《ほり》監物《けんもつ》秀治《ひではる》が移って来ていた。
上杉家の家臣は中世以来の半農半武の地侍たちが多く、主君|景勝《かげかつ》会津転封に伴って簡単に移住するというわけにはゆかなかった。自分は会津にゆくとしても、一族の中《うち》誰《だれ》かを越後に残し、農地を守らせなければならなかったのである。
この残された人々は、百姓の姿はしているものの、元々は武士、それも戦場往来の古強者《ふるつわもの》である。今尚《いまなお》旧主上杉家への忠誠を守り、己れの武勇の腕に誇りを持っている。
新来の堀家にとっては、こんな厄介《やっかい》な存在はなかった。当然、彼等《かれら》の特権は一切認めず、真性の百姓でない者の追い立てにかかった。彼等がおとなしく新しい藩主の命令に従うわけのないのは自明の理である。
それだけではなかった。
本来大名が転封される時には、何よりも先に先祖の墓を新領地に持ってゆくものである。大方が新しい寺を建てて菩提寺《ぼだいじ》とし、ここに墓をおさめる。
ところが上杉家はそれをしなかった。謙信の墓を春日山《かすがやま》城内に残したまま去った。
これは直江|兼続《かねつぐ》の策と云われている。上杉景勝はさすがに驚いて、あとに来る堀秀治が気色が悪かろう、と云ったが、
「越後に残る者どもの心の支えになり申す」
断乎《だんこ》として残していった。兼続の思惑通り、これが効いている。
更に神仏に対して崇敬の念厚い謙信の政策によって、越後では寺社の所領が多い。堀秀治はそれをことごとく取り上げてしまった。
つまり堀家は、百姓・地侍・僧侶《そうりょ》・神人《じにん》のすべてを敵にしてしまったのである。これでは騒擾《そうじょう》の起きない方がどうかしている。
至るところで一揆《いっき》まがいの小競合《こぜりあい》が起き、そのため越後領には血と煙硝の臭いが常時たちこめるに到《いた》ったのである。
「やるなぁ、山城は」
『骨』と捨丸がそれだけのことを調べ上げるのに、ものの一刻とかからなかった。事情が判明すると、慶次郎は感心したように首を振り振りそう云ったのである。
「堀監物は会津を攻めるどころではあるまい」
事実、この年の七月以降には、直江兼続は多くの将に密命を下して堀領に潜入させ、大々的で組織だった一揆を蜂起《ほうき》させている。このため越後から会津に至る三つの道、六十里越え、八十里越え、津川口は、いずれも一揆によって遮断《しゃだん》され、村上・溝口《みぞくち》を率いて前田|利長《としなが》と共に会津に侵入する使命を与えられた堀秀治は、手も足も出ない状態に追いこめられたのだった。
だが捨丸にとってはそんなことはどうでもいい。問題はこの土地がひどく居心地が悪いし、それも刻々と悪さが増していると云うことだった。
なにしろ人目につく衣裳なのだ。それが茶屋に一刻も居据《いすわ》って、まるで水でも飲むように大瓢《おおふくべ》の酒をあけている。替え馬には鎧櫃が積まれているし、従者の一人は遠町筒にいつでも発射出来るように火縄《ひなわ》を巻いている。
参戦のために会津に行こうとしていることは、どんな馬鹿《ばか》が見ても判《わか》る。
その証拠に、さっきから下《した》っ端《ぱ》らしい役人が茶屋の表をうろうろしている。今頃《いまごろ》は城へ注進が行って、それでなくても殺気だっている連中がこちらに向って疾駆している最中かもしれない。
「そろそろ出かけまひょ」
捨丸は何度目かの懇願をくり返した。
「別に慌てることはないさ。お前も一杯やったらどうだ」
「そんな無茶な」
ここは敵地である。敵地で忍びが酒を飲んだらどうなるか。
『骨』がくすっと笑った。
「どうやら旦那は一暴れなさりたいらしい」
立ち上ると替え馬の手綱を解いた。
「わしはこれをつれて先に行くよ」
なんとも無責任に云って、痩せ馬にまたがると、二頭の替え馬と共にさっさと進み出したものだ。と思った瞬間に、どうやったのか知らないが、替え馬は狂奔しはじめ、『骨』はそれを追ってゆく形になった。慌ててよける通行人たちの中をまっしぐらに駆け、すぐ姿を消した。
「とんだ護衛や」
捨丸が毒づいた時、慶次郎の前に男が一人立った。馬を曳《ひ》いている。
躰の大きさは慶次郎に変らない。筋骨|秀《ひい》でた大兵《たいひょう》の男だ。頭をつるつるに剃《そ》り上《あ》げ、あご髯《ひげ》だけが長い。筋金をつけた長い棒を持ち、恐ろしく長い大小を腰に横たえていた。着ているものは粗末で、旅塵《りょじん》にまみれている。
「お主、前田慶次郎ではないか」
慶次郎がじろりと見た。
「どこかで逢ったか」
「わしは山上道及。昔、滝川の陣で共に戦ったことがある」
慶次郎がしげしげと見た。
「そう云えば追及くさいが、いつからそんなむさい坊主《ぼうず》になり下った?」
「措《お》け。むさいは余計だ。お主こそいかに派手やかに装おうと、齢は隠せんぞ」
「何を抜かすか」
慶次郎は大口をあけて笑うと、
「飲むかね」
瓢を向けた。追及は無言で茶碗《ちゃわん》をとり、なみなみと注がせて一息に飲んだ。
山上道及。関東|牢人《ろうにん》というだけで出身は明らかでない。これまでに首供養《くびくよう》を三度もやったと云われる屈強の『いくさ人』だった。反骨も慶次郎とどっこいどっこいだ。
「会津かね」
慶次郎が訊《き》く。
「ほかに行く所があるか」
と追及。もう三杯目だった。
「負けるぞ」
「そこがいい。わしは負けいくさが好きだ。お主もだろう」
「まあな」
二人|揃《そろ》ってにたりと笑った。『いくさ人』の頼もしさが充分に発揮されるのは、負けいくさの方が多いのである。それに勝つ側に味方するなんて薄みっともないことなぞ、男として出来るわけがない。
「来よりました」
捨丸が低く云った。
二十人ばかりの武士が手に手に槍を握って騎馬で駆けつけて来るのが見えた。
「ハッ」
道及が馬鹿にしたように笑った。
「あれっぱかりで来るかね。わしらをなめとるな」
「まったくだ」
慶次郎は最後の一杯を飲み終ると、ゆっくり立った。
「蹴散《けち》らして、さっさと会津へ行くか」
「そうだな。それにしても……」
道及がまだ不満そうに首を振ると馬にまたがった。慶次郎も松風に乗り、槍の鞘《さや》を払った。
二人の咽喉《のど》から全く同時に勁烈《けいれつ》な雄叫《おたけ》びが上り、疾走が開始された。
確かに二十人は少すぎた。忽《たちま》ちのうちに殴られ払われ刺され、路上に屍《しかばね》をさらしていった。
この時期、合戦の噂《うわさ》を聞き伝えて上杉家に集まった牢人の数は夥《おびただ》しいものに上ったと云われる。
主だった者の名をあげると、関東牢人では山上道及、上泉《かみいずみ》主水《もんど》、車|丹波守《たんばのかみ》であり、上方《かみがた》牢人では前田慶次郎、水野|藤兵衛《とうべえ》、宇佐美|弥五左衛門《やござえもん》であると『上杉将士書上』にある。蒲生家《がもうけ》の牢人も多かったようだ。いずれも老練の『いくさ人』ばかりである。
慶次郎は他の牢人同様、一応は上杉家に正式に仕える形をとり、禄《ろく》二千石(五千石という説もある)を貰《もら》い、直江山城の麾下《きか》に入った。
慶次郎にとっても、他の牢人共にとっても禄高などどうでもいいのである。どうせそんなものを受けとる暇《いとま》もなく戦闘に突入する筈だった。彼等はひとしく戦いがしたいために会津くんだりまで来たのだ。或《あるい》は合戦で死ぬためにと云ってもいい。いずれ揃って、蒲団《ふとん》の中でぬくぬくと死ぬのが何よりも怖い連中ばかりだった。
死ぬ時は戦場で死にたい。心底そう願っている面々ばかりだ。だから禄の多寡《たか》など問題にもしない。そんなものより、慶次郎の皆朱《かいしゅ》の槍《やり》が問題になった。
皆朱の槍とは武勇衆にすぐれていると云うしるしである。武人が勝手に持つことは許されぬものだった。必ず主君の許可を得なくてはならない。
慶次郎はこの槍を古く魚津の闘いで前田家から得ているのだが、上杉家に来た以上、主君景勝公の許可なく持ち歩くことは出来ないきまりである。
文句をつけて来たのは宇佐美弥五左衛門を筆頭として、藤田《ふじた》森右衛門《もりえもん》、水野藤兵衛、薤塚《にらづか》理右衛門《りえもん》の四人だったと『可観小説』にある。
直江兼続が色々と説諭したが四人はきかない。困って慶次郎に相談すると、
「四人ともに皆朱の槍を持たせたらいいでしょう」
無造作にそう云われ、やむを得ず兼続はその通りに事を運んだ。
半ば意地になって強弁していた宇佐美たち四人は、揃って皆朱の槍を許された途端に、逆に慄然《りつぜん》として躰が震えたと云う。
本来なら皆朱の槍を許された者は一藩に一人の等なのである。武勇随一の士が一人きりなのは当然だろう。
それが五人になった。つまりはこの五人は今度の合戦で皆朱の槍の持主にふさわしい武勲をあげ、いわば自らの腕が上杉家随一であることを証明しなければならない。しかもそれが他の四人より大きくなくてはならない。戦場での武勇争いは死につながることを老練の『いくさ人』である彼等が知らない筈はない。だからこそ慄然としたのである。
その上、それを兼続にすすめたのが慶次郎本人であると云う点がこたえた。これは或る意味で、慶次郎の絶大の自信を示すものであり、或る意味では途方もない人間の大きさを示すものでもある。
とにかくこの処置で宇佐美たち四人は、いやでも戦場で慶次郎のそばを離れるわけにはゆかなくなってしまった。別々の場所でそれぞれどれほどの武功を示そうと、そんなものは比較にならない。弱い敵からとった十の首は、強大な敵からとった一つの首に及ばないのは当然である。だから必ず同じ戦場で、同じ立場で、同じ敵を破らねばならない。つまりは五本の皆朱の槍はさながら一本のように働くことになる。慶次郎はほとんど四人の屈強な部下を得たに等しい。
さすがに山上道及はすぐこのことを見抜いた。
「呆《あき》れ返《かえ》った古狸《ふるだぬき》だ。何と云う巧妙さか。宇佐美たちが哀れな気がするよ」
わざわざ慶次郎に会いに来て、そう毒づいたものである。
「くだらないことで、うだうだ云った報いさ」
慶次郎は平然と笑っている。
「いやなら皆朱の槍を返上すればいいんだ」
「そんなことの出来る手合か」
道及も思わず笑ってしまった。四人が早速皆朱の槍をあつらえて、飲み屋の往来にまで麗麗しく押し立ててゆく様をみていたからだ。
「可哀《かわい》そうに四人とも死ぬことになるな」
慶次郎の顔から笑いが引いた。
「お主は生き残るつもりかよ、道及」
「俺《おれ》が知るか。俺の躰はこれで因果と丈夫でな。本人がいい加減飽きているのに、一向に死んでくれんのだよ」
「よく似てるな。わしの躰もそうらしい。だから死ねる奴《やつ》がいっそ羨《うらやま》しいよ」
「判るな」
それで話はしまいになった。二人とも本音を吐いただけである。
〈こんなのと戦う相手は災難だな〉
そばで聞いていた『骨』はつくづくそう思ったものである。
慶長五年六月二日、徳川|家康《いえやす》は譜代の三河軍団に出陣準備の命令を発し、六月六日には諸大名の部署を定めて発令した。
それによると家康と秀忠《ひでただ》は白河口を進み、仙道口《せんどうぐち》は佐竹|義宣《よしのぶ》、信夫口《しのぶぐち》は伊達《だて》政宗《まさむね》、米沢口《よねざわぐち》は最上《もがみ》義光《よしあき》が当り、仙北《せんぼく》諸将がそれぞれこれに所属することにした。津川口は前田利長と堀《ほり》秀治《ひではる》で、堀|直政《なおまさ》・同|直寄《なおより》・村上頼勝・溝口秀勝たちがこれに属する。
六月八日、朝廷は権大納言《ごんだいなごん》勧修寺《かんしゅうじ》晴豊《はるとよ》を勅使として大坂に下し、家康の出陣を慰労し、曝布百反を賜わった。これで家康は会津|征伐《せいばつ》の大義名分を手にしたことになる。また秀頼に会い、黄金二万両と米二万石の軍費を受けた。
部署を与えられた諸大名は急いで帰国した。兵を整えて会津に向うためだ。家康の方は六月十六日に大坂を発して伏見城に入り、十八日に出発している。江戸城に着いたのは七月二日。ここで悠々《ゆうゆう》と諸大名の参集を待ち、二の丸で順次到着した各大名や将兵を集めて大饗宴《だいきょうえん》を開いたと云う。
七月二十一日を家康出陣の日と決定し、前軍の司令官は秀忠、これに従う者、結城秀康・松平|忠告《ただよし》・蒲生《がもう》秀行・榊原《さかきばら》康政《やすまさ》・本多忠勝・真田《さなだ》信幸《のぶゆき》・石川康長・皆川広照等で兵数三万七千五百余人。本軍は家康が率いる外様大名《とざまだいみょう》を主体としてその数およそ三万一千八百余人。しめて七万に及ぶ大軍だった。
これに対して上杉景勝の布陣はどうか。
景勝は直江兼続と共に自ら粗衣を着て自河口附近の偵察《ていさつ》に出かけている。慶次郎も同行した。この辺は若年の時、滝川|一益《かずます》の麾下《きか》として駆《か》け廻《まわ》った土地なのである。景勝や兼続より遥《ほる》かに地形に詳しかった。その上『骨』と捨丸と云う忍びがいる。金悟洞と云う護衛人もいる。更に四人の皆朱《かいしゅ》の槍《やり》を抱えた面々がいた。あとは数人の武将だけで偵察行には充分の人数だった。
『骨』は慶次郎に劣らずこの土地に詳しい。自ら買って出て案内人になった。
家康の七万の大軍が大挙して侵攻するのはここ白河口をおいて他《ほか》にはない。これをどこでどう叩《たた》くか。問題はそれだけだった。他の口から侵入を試みる伊達・最上・堀の軍勢など景勝の頭にはない。そんなものは直江山城に任せて置けば足りた。軍の主力さえ潰《つぶ》してしまえば、それらの諸隊は放《ほう》っておいても領国に引き揚げてゆくに決っていた。
白河関の南方、革籠原《かわごはら》に来た時、景勝の足がとまった。こここそ大軍を邀撃《ようげき》するに絶好の場所だと判断したのである。
革籠原より南にある越堀・芦野あたりに小部隊を出し、先ず秀忠軍の先鋒《せんぽう》に挑戦《ちょうせん》し、敗れて退却すると見せて、この草籠原に誘い、待ち受けていた精兵によって秀忠軍を木《こ》っ端微塵《ぱみじん》に破る。急を聞けば家康の本隊は必ず救援に駆けつけて来る。その時が肝心だった。更に三方に伏せて置いた全軍をあげて一気に攻撃し、泥沼《どろぬま》と化した西原に追い込み、殲滅《せんめつ》する。そのために事前に川を逆流させ西原を深沼にしておかねばならない。
革籠原はいわば二重の罠《わな》である。秀忠隊への罠。家康本隊への罠。だがここに全軍を集結するのは一箇の賭けであろう。草籠原で敗れれば泥沼に追い落されるのは上杉軍になる。
この当然の疑問に対して景勝はきっぱりと云ってのけた。
「草籠原に利を失えば、景勝はじめ上杉家中残らず白河を墓所として討死を遂げるばかりである」
慶次郎は鞍を叩いて景勝の意気を称した。
秀忠の前軍は七月十三日に出発、十九日には宇都宮に達した。
景勝の会津出陣は七月二十二日と決った。
その決定の日、慶次郎の仮屋敷に山上道及と四人の皆朱の槍衆、更に蒲生家の牢人たちが集《つど》って、酒宴を持った。昼日中の大饗宴に一同したたかに酔った。
蒲生牢人志賀与三左衛門、粟生|美濃守《みののかみ》の二人が、酔顔でしきりに、
「残念だ。何とも心残りだ」
と喚《わめ》いているのに慶次郎が気付いて声をかけた。
「御両所。何がそれほど心残りなんだね」
「林泉寺の坊主にござる」
「林泉寺?」
景勝の帰依《きえ》の篤《あつ》い寺である。それを頼みにこの寺の住職がひどく頭《ず》が高いと云う噂を、慶次郎も聞いている。
「あのくそ坊主、殿の帰依の篤さをかさに着て、広言|甚《はなはだ》しく、面《つら》を見ても虫酸《むしず》が走る。いずれ一度は面がひん曲るほどぶん殴ってやろうと思っておったに、明日出陣となってはそれもかなわぬ。それで残念無念と申した次第にござるよ」
二人とも本気でいまいましげに云う。
「今日一日がある。行って殴ってはどうだ」
慶次郎が無造作にすすめた。
山上道及がこの男にしては珍しく慌てたようにとめに入った。
「出陣に際して祈祷《きとう》を捧《ささ》げるべき和尚《おしょう》の面を理由もなく叩き割っては、お咎《とが》めは必至だ。折角の合戦に参加出来なくなっては本意ではあるまい。やめておけ」
聞いているうちに、慶次郎はむらむらして来た。いつもの悪い癖である。いたずらが死ぬほど好きなのだ。賭けられているものが大きければ大きいほど、いたずらの面白さは増大する。
「どうかな、ご両所?」
先《ま》ず志賀と粟生に訊いた。
「山上殿の云われる通りだ。大事の前の小事。我慢致す」
二人揃って云った。
「わしは我慢ならんな」
慶次郎がにたりと笑った。道及は自分がはからずも慶次郎を刺戟《しけき》してしまったことに気付き、愕然《がくぜん》とした。今、この大切の時に、恐らく当代無双の男を失うわけにはゆかない。
「やめてくれ、おい」
「ちょこっと行って来《こ》よう」
慶次郎がふらりと立った。
「道及。お主、検分に来い」
「頼む。それだけはやめろ。上杉家が神仏を大事にすることは、他国の者の想像を絶する。いくらお主でも、必ず咎を受けるぞ」
「やって見ようじゃないか」
慶次郎は楽しそうに笑うと出て行った。
道及があたふたと追う。いざとなったら、自分が替って罰を受けよう。道及は咄嗟《とっさ》にそう決心していた。それがこの男なりの責任のとり方だった。
林泉寺は馬をとばせば一息の場所にある。山門の外に松風を放つと、慶次郎は悠々《血ゆうゆう》と寺に入った。いつの間にか大瓢をつかんで来ている。道及が今は覚悟を定めて、一緒に入った。
林泉寺の和尚がこの高名なかぶき者を知らぬわけがない。『可観小説』のこのくだりには、慶次郎が巡礼を装ったと書かれてあるが、信じ難い。およそ慶次郎らしくないし、和尚がそれほど無智《むち》な筈もない。
慶次郎は庭の築山《つきやま》を見たいと所望し、座敷に通されると、忽《たちま》ち即席で築山を詠《よ》んだ五言絶句の詩を作り和尚を驚倒させたと云う。地方の寺の住職は、その地方きっての文化人である。大方は若く京に学び、漢詩及び和歌の素養を受けている。たまに都ぶりの文人墨客に逢えば喜んで迎えるのはそのためだ。
和尚は忽ち慶次郎が気に入り、詩の話、歌の話、京の話などつきることがない。互いに詩歌の唱和をかわし飽きることがなかった。
山上道及は正直のところ呆《あ》っ気《け》にとられていた。話が全然ちがうではないか。何が我慢出来ない、だ。こんな駘蕩《たいとう》たる雰囲気《ふんいき》の中で、どうして和尚を殴ろうと云うのか。
部屋の片隅《かたすみ》に立派な碁盤があった。手ずれで光っているのは、和尚が好きな証拠である。慶次郎は巧みに話を碁の方へ持っていった。果して和尚は乗って来た。一番いかが、と云う。慶次郎は喜んでお相手致す、と云い、金品を賭けるのは下品にすぎる、と云って何も賭けぬのも興が薄い。どうです。負けた者には鼻にしっぺいをくらわすと云うことにしませんか。しっぺいとは、指を弾《はじ》いて打つことである。痛いと云ってもたかが知れている。和尚は気楽に承知し、勝負が始まった。
最初の一局は、慶次郎がわざと負けた。
「では約定通り」
大きな鼻をぬっとつき出した。和尚は躊躇《ためら》った。
「僧の身で人を痛めるのはいかが」
などと渋るのを無理矢理しっぺいを弾かせた。やる段になるとこの和尚、まるで遠慮がない。かなりしたたかな打撃で、和尚の本性が見えた。
二局目が始まり、これは慶次郎が楽々と勝った。一局目で和尚の癖を見抜いている。和尚は不機嫌《ふきげん》を押し隠して、しっぺいを当てられよ、と云う。
「いや、やめておきましょう。坊さまにしっぺいを当てるとは仏身を被るに同じ。後生《ごしょう》にさわり申す」
「それはないでしょう。僧の身で敢《あえ》てやったことをお返し願わなくては、手前が困ります。是非是非しっぺいを……」
「左様か。是非もなし」
慶次郎はうやうやしく指を曲げて、つき出した和尚の鼻をはっしと打った。忽ち鼻梁《びりょう》は潰れ、血まみれとなって和尚は悶絶《もんぜつ》した。
「やったぁ」
山上道及は思わずとび上って叫んだ。
徳川家康が江戸城を発して会津に向ったのは、慶長五年七月二十一日のことだ。二十二日|岩槻《いわつき》、二十三日|古河《こが》、二十四日|小山《おやま》に到着。この時、秀忠の率いる前軍は宇都宮にあり、先鋒は佐久山《さくやま》、大田原まで進出していた。
家康は江戸から宇都宮まで一里ごとの継飛脚を置いて、急のしらせに備えていたが、これは既に石田三成と大谷|吉継《よしつぐ》が兵を挙げたというしらせが入っていたためだ。
だがその全貌《ぜんぼう》は、七月十八日に伏見城の鳥居|彦右衛門元忠《ひこえもんもとただ》が出した密使浜嶋無手右衛門の到着によって初めて明らかになった。七月二十四日、小山の陣においてである。
伏見城は密使を出発させた翌日、七月十九日から西軍四万余人の兵によって蟻《あり》の這《は》い出《で》る隙《すき》もないほど囲まれ、総攻撃をかけられた。
伏見城中の兵は城将鳥居元息以下千八百余人。四万と千八百では話にもならない。さぞひともみで落ちるだろうと大方は予測したが、どっこい、これが落ちない。なんと十二日間も持ちこたえ、八月一日に至ってようやく落城した。それも城兵中の甲賀衆の裏切りのためだ。鳥居元忠以下全城兵が壮烈な討死をとげた。元忠、この時六十二歳。
家康は七月二十五日、小山で会議を開いた。会津討伐に参集した武将たちの殆《ほとん》どは、家康の部下ではない。豊臣家に属する同格の武将である。しかも豊臣家にさし出した証人(人質)はすべて大坂にいた。だからこそ家康はこの会議で、関西の状況を細かに伝え、全員自由に陣を引き払って大坂へ上り、石田方西軍に属すは自由と云った。
もっとも家康も野放図ではない。前日の夜福島|正則《まさのり》を本陣に招き、膝《ひざ》を抱くようにして懇談している。決して秀頼公には迷惑をかけぬと誓った上で、この日の会議を導いてくれるように頼みこんだのである。正則は石田三成が憎い。それに『いくさ人』として家康の力量を信じている。一も二もなく賛同し、この日の会議でも真っ先に進み出て発言している。誰が妻子に後ろ髪ひかれて、『いくさ人』としての進退を誤ろうか、と云うのだ。この呼び水のお蔭《かげ》で諸将はほとんどすべて家康に味方することになった。
家康は更に言葉を続けて、今後の作戦として、先ず上杉を叩き、しかる後に西上するか、それとも上杉は捨て置き、抑えの兵のみを残して、大挙直ちに西上すべきか、と問うた。全武将が後者を採った。
彼等は全員、この会津討伐が家康の無理押しであることを感じていた。上杉景勝はいわばいきなり横面をひっぱたかれたようなものである。わけも判らずに喧嘩《けんか》を売られたのである。謙信以来の武人の名門が、こんな無法にへいこらと頭を下げるわけがない。景勝は売られた喧嘩を買ったのである。それだけのことだった。そのために家を破るかもしれないが、事の成敗は問わぬ。その潔《いさぎよ》さが明白にあった。それが討伐に加わった面々に、何とないうしろめたさを感じさせていたのだ。
相手が石田三成の方が、すっきり戦えるのである。これはまぎれもない策師であり、朝鮮で諸武将を辛《つら》き眼に遭わせた張本人である。憎さも憎しとは三成のことだった。
家康ほどの男が、武将たちの気特を読みとらない筈がない。これが後の上杉家への処置に大きな影響を与えることになったのは明らかである。
家康は全軍に西上を命じた。自分は本隊となり東海道を上る。秀忠には第二軍として東山道(後の中仙道《なかせんどう》)を通って西上を命じ、上杉の抑え役を結城秀康に振った。
秀康は命を受けるや否や、憤激して即座に馬にとび乗り、本陣に駆けつけて家康に抗議したと云う。
天下分け目の大合戦から外されたという無念さは、それほどのものだった。
〈またか〉
秀康は歯がみせんばかりだった。何故《なぜ》自分はこれほど父に嫌われるのか、とも思った。秀康の眼《め》から見れば、およそ武将の器でない秀忠ばかりどうしてそれほど優遇されねばならないのか。東山道軍は三万五千である。三万五千の大軍を率いて大坂に向う晴れがましさは、宇都宮くんだりに滞陣し、しかも出来るだけ戦うなと命ぜられた秀康の立場とは雲泥《うんでい》の差である。
家康はもっともらしい言い訳で秀康をなだめようとした。西軍は数こそ多いが文官上りのたかのしれた相手である。それに較べて上杉景勝は謙信公以来のいくさ上手であり手ごわい相手だ。とても秀忠には抑えられない。お前の豪勇を知っているからこそ、この役を振ったのではないか、云々《うんぬん》。
それなら何故戦いを避けろと云うのか。秀康は追及する。戦うなとは云わない。だが戦闘は敵が鬼怒川《きぬがわ》を渡った時に始めよ。そして敵が引き返す様子を見せたら、全軍を挙げてこれを叩け。上杉は白河の陣にすべてを賭けている。決して白河で合戦するな。これが家康の考え方だった。さすがに『海道一の弓取り』である。景勝の意図を完全に見抜いていた。
だが秀康だってそれくらいのことは知っている。本軍を欠いた兵数での白河攻めは、敗北以外の何物ももたらさぬことも百も承知である。秀康には家康の言葉がすべて言いのがれであり、おためごかしのように聞えた。どんなに頼んでも上方《かみがた》の合戦に参加させる気はないのだ。
秀康が結局この配置を承知したのは、異常の決心をしたためである。
〈死んでくれるわ〉
そう思ったのだ。何がいくさを避けよ、だ。何が鬼怒川を渡ったところで叩け、だ。敵が待ち構えている白河関に、敢て挑《いど》んでくれる。勝敗は問うところでない。それが『いくさ人』の意地だ。
家康は八月四日に小山を立って江戸に向ったが、途中|栗橋《くりはし》に架設した舟橋を、後続部隊が渡りきらぬうちに切断してしまった。お蔭で残りの部隊は小舟を仕立てて川を渡るしかなく『迷惑限りなし』と『慶長年中|卜斎記《ぼくさいき》』は書いている。何がそれほど家康の気持をせかせたのか。上杉軍の追撃しかなかった。家康はこの追撃を異常なまでに恐れたのである。景勝と直江兼続に率いられた上杉勢はそれほど手強《てごわ》い戦闘集団だったと云うことになる。そして又、転進する軍には激しい追撃をかけることが、兵家の常識だったということになる。
では、上杉勢は何故その常識ともいえる追撃を敢てかけようとしなかったのか。
秀康は己れの決意に忠実だった。
家康が小山から姿を消すや否や宇都宮に駆けつけ、軍を掌握すると直ちに白河関に向った。
仰天したのは秀康に付けられた蒲生秀行・里見義康・佐野信吉・那須《なす》七党などの諸将である。ここはあくまで守りに徹すべしとの命令を、家康本人から受けている。上杉家の背後にいる伊達政宗、最上義光に対しても、家康は堅く挑戦を戒めている。今、その厳命を秀康は早々に破ろうとしているのだ。
秀康にとっては彼等の中止勧告など屁《へ》でもない。ただただ闘いたかった。出来るものなら、上杉陣のどこかにいる前田慶次郎と闘いたかった。秀康は若々しい挑戦状を上杉景勝にあてて書いた。
景勝をして兵法上当然の追撃戦を断念させたのは、ひとえにこの挑戦状だったと思われる。
『先人謙信は軍を用ふるに、未《いま》だかつて人の危さに乗らず。われまた敢て違《たが》はず。かつ公は年若くしてわが敵に非《あら》ず。われ公の父内府の返るを待って決戦なさんのみ。食料もし欠くることあらばまさに給すべし。すなはち兵を収めて会津に帰りける』
とは湯浅常山の筆になる『常山紀談』の一節である。景勝は八月十日、直江兼続たちの進言もしりぞけて、前線から会津若松に帰ってしまった。常山は景勝を『大人気《おとなげ》』ある大将として称《たた》えているが、兼続にすれば千載一遇の機会を逸した無念さに切歯扼腕《せっしやくわん》したことだろう。合戦をしたいばかりに各地から馳《は》せ参《さん》じた牢人たちにしても思いは同じである。軍法を知らなすぎる。おっとりしていすぎる。現実的でない。様々の言葉をあげて景勝を責めた。
慶次郎一人、その意見に与《くみ》しなかった。
「このいくさは領土とりのいくさじゃないんだよ。何かが欲しくて闘うんじゃないんだ。向うは知らないが、こっちは意地で闘うんだ。売られた喧嘩を買うってのは、つまりは遊びさ。遊びには遊びのきまりがある。餓鬼相手じゃ面白くないって云えば、それがきまりなんだ。何も文句を、つける筋合はないなぁ」
これが慶次郎の云い分である。これはむしろ慶次郎の合戦観の如《ごと》きものであろう。それにすべての『いくさ人』に通ずる一側面であったかもしれない。この意見を聞いて、牢人たちが一瞬黙ってしまったのがその証拠だった。だが慶次郎は自分の喋《しゃべ》ったことを文字通り真実だとは思っていない。景勝には景勝の計算があっただろうと、朧《おぼろ》げには感じている。
だが全力をあげて、『海道一の弓取り』と戦おうとしていたのが、相手が小倅《こせがれ》に変っては拍子抜けしたことは確かであろう。つまりはこの合戦にいやけがさしたのである。その意味で確かに上杉景勝は気ままな武将であり、後代、『戦争の芸術家』と称された謙信の遺風を継ぐものだった。要するに秀康相手に戦うことは、景勝の美意識にとって耐えられることではなかったのであろう。
直江兼続はやむをえず家康の追撃を諦《あきら》め、背後を脅《おびや》かす伊達政宗を討とうとした。
家康はこの会津討伐に当って、政宗に刈田・伊達・信夫・二本松・塩松・田村・長井の七郡四十九万五千石の地を与えると約束をしていた。今の所領にこの四十九万五千石を加えると、伊達家は百万石を越えることになる。これが俗に『百万石の御墨付』と云われる所以《ゆえん》である。だが主戦場が西に移ったため、この約束は遂に果されぬままに終った。
政宗もまた家康から厳に挑戦を戒められている。それでなくても政宗は、家康が果して西国の合戦に勝ちを拾うかどうかについて、疑いを抱いていた。天下の形勢が決るまでは徒《いたず》らに戦うべきではない。そのため政宗は上杉に和議を申し込んだ。これは当然、様子伺いのための偽りの和議だったし、兼続もまたそれを見抜いてはいたが、敢てこれを了承した。
従来の関ヶ原合戦についての歴史家の記述は、石田三成と直江兼続の提携作戦説をとっている。つまり会津に家康の注意を引きつけ、会津討伐に出発した隙に三成が起《た》つ。家康が軍を返して西上すれば、上杉軍は追尾して、三成軍と共に挟撃《きょうげき》する予定だったと云うのである。家康は賢明にもこれを事前に見抜き、わざとゆるゆると動いて、逆にこの挟撃を避け、関ヶ原に勝利をおさめた。
だが第二次大戦後になって、この定説に多くの疑問がよせられることになった。
既に見た通り、会津討伐は上杉が望んだものでもなく、挑発したものでもない。家康の方が無理矢理|叛意《はんい》ありときめこんで、一方的に討伐の軍を起したのである。喧嘩を売ったのは明らかに家康の方だ。これを上杉の謀略と云うのはどう考えても無理である。
しかも上杉は現実に追撃をしていない。
やればかなりの成果をあげた筈の追撃戦を行わなかった。そこには売られた喧嘩だから、と云う姿勢がはっきりと見える。
確かに直江兼続と石田三成は永年の友であり、心を許し合った仲だった。だがこの関ヶ原戦に限らず、この友情を利用するのは常に三成であり、馬鹿を見るのはいつも兼続だったような気がする。越後人の律義さの如きものが明確に感じられるのである。
だからこの関ヶ原合戦も石田三成が勝手に上杉を利用しただけで、景勝も兼続も当初から三成と手を組んで事を謀《はか》ったものとは思えない。
最上《もがみ》の戦い
伊達《だて》政宗《まさむね》の偽りの和議をうけ入れた上杉勢《うえすぎぜい》は、隣接する出羽《でわ》二十四万石|最上《もがみ》義光《よしあき》の攻略に鋒先《ほこささ》を転ずることになった。
最上陣は、総大将|直江《なおえ》兼続《かねつぐ》、第一軍は色部光長・春目元忠・上泉《かみいずみ》主水《もんど》・杉原親憲・溝口《みぞぐち》左馬助《さまのすけ》の各将をもって編成され、第二軍は木村|親盛《ちかもり》・松本|善右衛門《ぜんえもん》・横田旨俊・篠井泰信の各将である。前田慶次郎たち牢人組《ろうにんぐみ》は大方が兼続の直属だった。
九月九日、兼続は第一軍二万余を率い、米沢《よねざわ》から出陣した。春目元忠・上泉主水が先発する。
最上の居城山形城の前線には出城が二十四箇もある。中でも上《かふ》の山城《やまじょう》・長谷堂城《はせどうじょう》・畑谷城《はたやじょう》の三城が堅城をもって知られていた。
兼続率いる第一軍は間道をつたって畑谷・長谷堂の両城に向い、第二軍は本道の上の山城に向った。
九月十三日早朝、兼続は畑谷城を力攻し、交戦一刻の末、これを落した。城主江口道連父子は自刃《じじん》。最上義光の派遣した援軍も兼続に壊滅させられ、この将|飯田《いいだ》播磨《はりま》戦死。
近くの出城はこの報《しら》せを聞くと、皆、城を捨て長谷堂城に走った。兼続は畑谷城で五百、他の戦いで二百の首を得た、と報告している。
上の山城に向った第二陣は失敗した。最上側の奇計に陥って敗北し、木村親盛は戦死。
山形北方の谷地城《やちじょう》・寒河江城《さがえじょう》・白岩城は上杉方の志駄義秀・下吉忠たちに破られ、城を捨てて逃げたと云う。
最上義光はこの余りにも迅速な上杉の攻撃に驚愕《きょうがく》し、伊達政宗に援軍を乞《こ》うた。
政宗は上杉家と講和中だったが、最上を放置しておいては、家康が勝った時に申開きが立たない。やむなく叔父の伊達|上野介《こうずけのすけ》政景《まさかげ》に兵三千を与えてこれを出羽に送った。
兼続は長谷堂城の攻撃にかかっていた。この城は噂通《うわさとお》り堅固で攻めあぐんでいるうちに篠谷峠に伊達の援軍が現れた。
長谷堂城を包囲すること十余日の後に、関ヶ原の西軍敗戦のしらせが届いた。九月二十九日のことである。
肝心の関ヶ原で石田|三成《みつなり》たちが敗れたのでは、のんびり最上義光と戦っている暇などなかった。徳川家康《いえやす》が直ちに兵を返して、奥州《おうしゅう》を襲うことは目に見えていたからである。和戦いずれにしても、即刻会津に帰って景勝と共に最後の防備を固めねばならない。
直江兼続は合戦の中で最も困難とされる退却戦を行う破目に陥った。
この合戦についての上杉家の記録は異常なほど少い。慶長二十年に清野助次郎と井上|隼人正《はやとのしょう》が書き、寛文九年五月、酒井忠清を通じて幕府に呈出された『上杉将士書上』と、寛文元年二月、米沢藩士丸田左門友輔が古老たちからの聞音を集成した『北越耆談《ほくえつきだん》』の二書に僅《わず》かに残されているばかりである。
記録するのが苦痛なほど、この時の戦いは激烈で苛酷《かこく》なものだったと思われる。そして僅かに残されたこの二書の記録が、揃《そろ》ってこの日の前田慶次郎の凄《すさ》まじいまでの働きを伝えている。
直江兼続は三千の兵を率いて、自ら殿軍《しんがり》を務めた。
味方を無事に退却させるために、殿軍は全力をあげて戦い、全滅するか、それに近い状態に追いこめられるのが常である。その役を総大将自ら引き受けたところに、武人直江兼続の誇りと廉潔《れんけつ》さが歴々として示されていると云えようか。
この殿軍を追う最上義光の兵は二万。勝敗の帰趨《きすう》は戦わずして明らかの筈《はず》だった。一揉《ひとも》みすれば忽《たちま》ち殿軍は潰滅《かいめつ》すると最上勢は信じた。
ところがこの殿軍は類を見ない頑強《がんきょう》な抵抗を示した。
八百の鉄砲隊(全軍のほぼ三分の一である)をもって散々に撃ちかけ、逆に反撃してくるのだ。
『北越耆談』によれば、この日、慶長五年九月二十九日の戦いは、朝の卯《う》の刻《こく》(午前六時)から申《さる》の刻《こく》(午後四時)まで十時間、僅《わず》か一里半(六キロ)の間で、二十八回の戦闘が行われたと云う。信じられない激戦である。
慶次郎は『骨』と捨丸、金悟洞の三人を連れ、例の皆朱《かいしゅ》の槍組《やりぐみ》四人と共に兼続の近習三百の中にいた。山上道及が深田で重傷を負い、運ばれて来た。躰《からだ》じゅう泥《どろ》にまみれ、傷口も泥に埋まっている。傷に泥が入るのは破傷風のもとであることは当時でも常識である。
「水」
と慶次郎が喚《わめ》いたが、誰《だれ》も水を持っていない。長時間の、しかも激烈な戦闘で息が上ってしまい、竹筒で携行している水はすべて飲み干されていたのだ。『骨』でさえ水を持っていなかったことが、この戦闘の苛烈さを物語っている。
「道及よ」
慶次郎が気息奄々《きそくえんえん》たる道及に声を掛けた。坊主頭《ぼうずあたま》まで泥まみれだった。
「悪いが水がない。俺《おれ》の小便で洗ってもいいかや」
道及はさすがに歴戦の『いくさ人』である。自分の死を極めて客観的に観《み》ることも出来るし、他人への配慮も忘れていない。じろりと慶次郎を見上げて云った。
「措《お》け。いかなお主でも、こんな時に小便が出るか」
戦闘が始まる前にはしきりに尿意を催すが、一旦《いったん》始まるとぴたりと止る。余程の余裕がないと小便など出るものではない。道及は慶次郎にこの期に及んで恥をかかせたくなかったのである。
「出るとも。賭《か》けるか」
「受けよう。この刀をやる。千住院村正だ。お主は?」
「槍をくれてやるわ」
道及はこの傷ではとても助からないことを承知している。だから村正は形見として慶次郎にくれてやるつもりなのである。
慶次郎は袴《はかま》をずりさげると、平然として見事な一物を引き出した。一、二度しごくと隆々と立った。戦闘時には例外なく縮こまる一物がである。兼続はじめ見物していた一同が揃《そろ》って驚嘆した。これは慶次郎の底なしの度胸を示すものである。その上、慶次郎は堂々と小便を垂れた。勢いよく噴出した小水は、忽ち道及の傷口の泥を洗い流した。道及が坊主頭を叩《たた》く。そこへも充分にあびせかけた。
更に瓢《ふくべ》の口を開けると、傷口を酒で洗う。
「勿体《もったい》ないことをするな。酒はこっちだ」
道及が口を指さす。慶次郎は少量の酒を流し込んだ。多量に与えては出血が止らなくなる。
「うまい。それ、礼だ」
道及が村正を投げてよこした。捨丸が傷口に薬を押しこみ、手早く縫った。後方に運ばれてゆく道及を見送りながら捨丸が云う。
「あの仁、生命《いのち》を拾うかもしれません」
「本物のいくさ人は、運も強い」
慶次郎は改めて戦況を見た。苦戦だった。二万と三千。兵数の差が徐々に効果を現して来ている。死人・手負いが増えるほど、その差が歴然として来る。しかも接近戦になって鉄砲が使えない。三百の近習はさすがに隊伍《たいご》を崩してはいないが、既にかなり数を減らしている。
一方の大将格を務めていた溝口左馬助勝路が重傷を負いながら兼続の本営に現れた。
「夜に入っての引揚げは潰走《かいそう》のもとです。あそこに見える山は曼陀羅ヶ鼻です。あれから半里こちらに野陣を張り、今夜を持ち耐えて下さい。引揚げは明早朝」
それだけ云うと息絶えた。
軍法に山を阻《へだ》てて陣を取れ、と云う。左馬助はそれを云ったのである。だが、その曼陀羅ヶ鼻の前までの一里を退《さが》るのが容易でない。血戦につぐ血戦に直江勢も漸《ようや》く疲れた。
「無念だが、これまでのようだ。せめてものことに我が首を敵の手に渡すことなかれ」
兼続はそう云うと馬を降り、具足を脱いで腹を切ろうとした。直江|山城守《やましろのかみ》兼続が討ち取られたと聞えれば、味方の士気は落ち、敵の士気はいやでも増すことになる。兼続はこれを恐れたのである。自らも槍をもって闘い、幾多の傷を身に受けていた。兼続なりの冷静な判断だった。
腹をくつろげ、鎧通《よろいどお》しを抜いた時、それが槍ではね上げられ、遠くへ飛んで行った。慶次郎が松風で駆けつけたのである。この時、慶次郎が喚いた台詞《せりふ》を『上杉将士書上』から引用して見よう。
『言語道断。左程の心弱くて、大将のなす事とてなし。心せはしき人かな。少し待(ち)、我手に御任せ候《さうら》へ』
心せわしき人かな、と云うのがいい。死にいそぎするな、と云うのである。
慶次郎は最上方の本陣が、すぐ近くまで来ているのを既に見ている。すぐ皆朱の槍の四人を集めた。これも『上杉将士書上』によれば、水野|藤兵衛《とうべえ》、藤田《ふじた》森右衛門《もりえもん》、薤塚《にらづか》理右衛門《りえもん》、宇佐美|弥五左衛門《やござえもん》の四人である。
「こっちの方に……」
慶次郎は馬上に伸び上るようにして、槍で一方を指した。
「最上義光がいる。今からその首を貰《もら》いに行く。さて、誰が真の皆朱の槍の持主か、しかと見せて貰おうか」
云い捨てると莞爾《かんじ》と笑い、松風の馬腹を蹴って雲霞《うんか》のような敵勢に向って疾走をはじめた。『骨』と捨丸、金悟洞がそれぞれの馬でその後を追う。『骨』と捨丸は炸裂弾《さくれつだん》を握り、悟洞は長巻を風車のように振《ふ》り廻《まわ》していた。誰一人、死ぬことなど考えていない。殺すことしか脳裏になかった。まわりはすべて敵である。間違っても味方を殺す心配はない。
皆朱の槍組四人も奮い立った。忽ち馬を駆って、慶次郎の左右に馬首を並べる。いずれも深紅の槍を構えた騎馬武者がたった五騎で群がる敵陣に突入してゆく姿は、壮烈この上ない。
慶次郎のこの日のいでたち、黒具足に猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織、金の数珠《じゅす》を首にかけ、松風にも金の兜巾《ときん》をかぶらせていたと云う。その背後をゆく異形の三騎の姿もまた人目を惹《ひ》かずにはいない。『骨』と捨丸もその晴れがましさに胸が震えたと云う。二人ともその半生を裏の世界で生きて来た男たちである。華麗とも云える合戦の檜舞台《ひのきぶたい》で華々しく馬を駆ることがあろうなどとは、夢にも思っていなかったに違いない。すべてこれ慶次郎のお蔭《かげ》である。この主《あるじ》のためなら、死など何物でもなかった。金悟洞は倭寇《わこう》だった青春の日々に戻《もど》っている。漢語を叫び、闘いに酔っていた。
驚くべきことに、この八人の壮烈果敢な突撃は最上の軍勢を散々に突き破り、四分五裂させてしまったのである。彼等は遮二無二《しゃにむに》、最上義光の本陣めがけて突き進んだ。まるで鋭い錐のように敵陣に穴を穿《うが》ち、その穴に直江兼続の近習隊の大半が押し込み、穴を更に拡大してゆくのである。
この八人の前に立ちはだかった者は悉《ことごと》く死んだ。槍先にかかり、炸裂弾にかかり、長巻で首を飛ばされて死んだ。それはまるで死の壁に似ていた。ぶつかれば即《すなわ》ち死ぬ。
勝ちいくさにある者は死にたくないものだ。死んでは折角の勝利を味わうことが出来ない。だから生命が惜しい。生命を惜しむ者が、死の壁にぶつかって行くわけがあろうか。
信じられない光景が展開された。追撃していた最上の軍勢が、われ勝ちに逃げ出したのである。この隙《すき》に直江兼続の本隊は、首尾よく曼陀羅ヶ鼻の手前半里の地点まで無事|辿《たど》りつき、堅固な陣を張ることが出来た。
この話が二つの記録の作者たちのつくり話でない証拠を、余人ならぬ敵将最上義光の言葉で示しておく。
『ここかしこの難処へ追ひ詰め追ひ詰め討ち捕りければ、(上杉勢は)一人も助かるべしとは見えざりけり。然《しか》れども直江は近習三百騎ばかりにて少《すこし》も崩れず、向の岸まで足早やに引きけるが、取って返し、追ひ乱れたる味方の勢(最上勢)を右往左往にまくり立て、数多《あまた》討ち取り、(最上勢は)この勢に辟易《へきえき》してそれらを追ひ捨て引き返しければ、直江も虎口《ここう》を逃れ、敗軍を集めて、心静かに帰陣しけり』(『最上義光記』)
不思議なことにこの突撃に参加した八人は、慶次郎以下一人も死んでいない。それどころか碌《ろく》に手傷も負わなかった。戦闘とは正にそう云うものなのである。
彼等は悠々《ゆうゆう》と引き返して兼続の陣に加わり、翌早朝、粛々と会津に引き揚げて行った。
講和
伽姫は、京の本阿弥《ほんあみ》光悦の屋敷内に数寄屋造《すきやづく》りの離れを与えられ、捨丸が見つけて来た三十がらみの端女《はしため》にかしずかれて静穏に暮していた。端女の名を京という。お京は実のところ女忍びである。捨丸と同じ加賀忍びの裔《すえ》であり、同じ抜忍の一人だった。別段、捨丸と男女の関係はないが、加賀忍びの苛酷《かこく》な報復を避けるために捨丸を頼り、この仕事を世話されたのである。加賀忍びの頭領四井|主馬《しゅめ》に奴隷のように日夜責めさいなまれていた暮しを思えば、ここはまるで桃源郷だった。それにお京は伽姫が好きだった。こんなに素直で純な女がいると云うこと自体が、大きな驚きだった。守ってあげなければと自然に思った。
お京は忍びの術においても、富田流小太刀の術においても、大方の男より遥《はる》かにすぐれた業の持主である。捨丸と同様、火術にも長じている。伽姫にとってこれほど心強い護衛はいなかった。
もっとも伽姫はそんなことは全く知らない。ただ少々暗いところはあるが、気の利く、働き者としか思っていない。何よりも何でも頼めるという気楽さがよかった。慶次郎と居る時は、捨丸と悟洞が相手であり、さすがに遠慮しなければならぬことが多かったのである。
師走《しわす》のそうした平穏な一日。
離れの縁に巨大な人馬の影が差した。驚いて見上げると、松風に跨《またが》った慶次郎である。にやっ、と白い歯がこぼれた。
「慶郎!」
悲鳴のような声をあげると、裸足《はだし》で庭にとび降りた。慶次郎がひらりと下馬し、突進して来る伽姫の柔らかい躰《からだ》を厚い胸板で受けとめ、そのままかかえ上げると口を吸った。
息のつまりそうな思いにかられながら、伽姫は泣いていた。
「げんまんの約束は守ったぞ」
ようやく放すと、まだ抱き上げたまま慶次郎が云った。
「いくさ、終ったのね」
「まあ大方はな。これからが最後の勝負さ」
関ヶ原合戦は終り、石田|三成《みつなり》、小西行長、安国寺|恵瓊《えけい》は捕えられて斬首《ざんしゅ》に処せられ、長束《なつか》正家は自殺、宇喜多|秀家《ひでいえ》は薩摩《さつま》へ逃げ行方不明、毛利輝元は本領|安堵《あんど》と云う家康《いえやす》の言葉に騙《だま》されて、むざむざと大坂城を明け渡したにもかかわらず、六ヶ国を没収され、防長二国に削封された。薩摩だけがまだ未解決だったが、その他の西軍方の諸大名は悉《ことごと》く改易|乃至《ないし》削封の処罰を受けている。
上杉家《うえすぎけ》一国だけが、最後まで戦闘状態にあった。十月六日から始まる伊達《だて》政宗《まさむね》の、二万の軍勢を投入した数度の合戦を戦い、これを悉く破った。伊達家の侵攻はなんと翌慶長六年五月まで続くが、遂《つい》に上杉領を劫略《ごうりゃく》することは出来なかった。
この間、十月二十日、会津若松において大軍事会議が開かれた。
合戦中も伏見屋敷に残留して、京・大坂方面の情報の収集に当っていた千坂|対馬守《つしまのかみ》景親《かげちか》が、中島|玄蕃《げんぱ》・舟岡《ふなおか》源左衛門《げんざえもん》の両名を使者として会津に送り、和議の望みがあるから抗戦を停止するよう上申して来たためである。
諸将の中には、上杉の武名にかけて最後まで抗戦すべしとの意見も強かったが、直江《なおえ》兼続《かねつぐ》は和平を主張した。
その結果、福島城の本荘《ほんじょう》繁長《しげなが》を使者として上洛《じょうらく》させることにきまった。繁長はこの和平に反対だったらしい。彼の説得には兼続自ら出かけて行っているし、上杉|景勝《かげかつ》からも、
『寒天の時分長途、大儀痛ましく候《さうら》へども、早々|罷《まか》り上られ尤《もっとも》に候』
と云う手紙が出されている。
本荘繁長は渋々腰を上げ、師走も押しつまった頃《ころ》、伏見に着いた。
慶次郎はこの繁長に同行して来たのである。彼にはこの和平で果さねばならぬ大事な役割があった。
千坂景親が、和平の見込みありと会津にしらせたのは、別段家康の意志を知ったからではない。東軍についた武将たちの何とない好意が、上杉家に向けられていることを感じたからにすぎぬ。従って本式に和平交渉を進めるとなれば大変な作業だった。
関ヶ原合戦の後、天下の諸武将の功罪の度を査定するよう家康が命じたのは、三河以来の徳川家譜代の家臣団に対してである。即ち井伊|直政《なおまさ》、本多|忠勝《ただかつ》、榊原《さかきばら》康政《やすまさ》、本多|正信《まさのぶ》、大久保|忠隣《ただちか》、徳永|寿昌《ひさまさ》の六人である。実質的には彼等《かれら》が天下の全武将への決定権を握っていたと云っていい。
伏見に着いた本荘繁長は、千坂と共にこの六人の屋敷を内密又は公然と訪れて、上杉家の釈明をしなければならない。千坂は内密に訪れるべきことを説いたが、本荘繁長は頑《がん》として公式訪問を主張した。千坂が娩曲《えんきょく》に匂《にお》わせた賄《まいない》のことも一喝《いっかつ》のもとに撥《は》ねつけてしまった。
「殿の首をはした金に賭けるつもりか」
返答次第ではぶった斬《ぎ》らんばかりの勢いに、千坂は一言もなく自説を捨てたと云う。
こうした繁長の堂々たる態度は、徳川譜代の武将の中で、特に本多忠勝と榊原康政の好感を買ったようだ。文官である本多正信も好意を抱いたように見えたが、この男は家康以上の狸《たぬき》である。本音がどこにあるかは最後まで判《わか》ったものではない。京の豊光寺《ほうこうじ》承兌《しょうたい》も従来の関係から助命に奔走する約束をしてくれた。
だがこれでは不充分だった。上杉助命の意見を出してくれる者が半数の三人、しかも一人は不確かでは話にならない。僧侶《そうりょ》の助命運動には限度がある。
繁長も千坂も焦《あせ》りに焦った。この運動は長びいてはいけないのである。本国ではいまだに戦闘態勢を解いてはいない。長びけば激発するおそれがあった。そうなれば間違いなく上杉家は滅亡する。
或《あ》る日《ひ》、繁長が慶次郎を京から呼んだ。
「わしらの手だては尽きた。お主の思案を働かせて貰《もら》いたい」
会津から伏見に来る道中で、繁長は慶次郎に厳しく独走を禁じておいた。かぶき者らしい派手で奇矯《ききょう》なやり方で助命運動をやられてはかなわないと思ったからだ。名門上杉家の面目にかかわると云うのである。滅亡するかどうかの瀬戸際《せとぎわ》に、面目もへったくれもあるか、と慶次郎は思ったが、
「いいでしょう。お手並を拝見致す」
あっさりそう云って、京へ去り、伽姫との濃密な日々に没頭していた。慶次郎はこの本荘繁長という頑固で融通のきかない武将が好きだったからだ。この間に慶次郎がしたことはたった一つ、大坂の前田屋敷に行って奥村|助右衛門《すけえもん》に会ったことだけだった。
助右衛門は慶次郎が何も云い出さないうちに、
「判った」
と云った。慶次郎はそれだけでほっとした顔になって、碁をうつ真似《まね》をして、
「やるかね」
そう云っただけだ。二人は夕刻まで碁を打ち、慶次郎は松風をとばして帰っていった。
助右衛門の方は翌日主君|利長《としなが》に対面し、上杉家助命について一肌《ひとはだ》脱いで欲しいと去った。
「何故《なぜ》そんなことをしなくてはいけないんだね」
利長が尋ねた。
「上杉は当家の身代りになったからです」
助右衛門がそう云った。利長はちょっと考えこんだが、
「それにしても……」
と云った。助右衛門が返した。
「御母堂が人質となられたのは誰《だれ》の言葉によるか御承知か」
これで利長は沈黙した。母おまつの申し出がなければ、加賀前田は潰《つぶ》れていた筈《はず》である。そしてその手段を母に示唆《しさ》した人物については、はっきり母の口から聞いていた。
「具体的には何をすればいいんだね」
利長は訊いた。
「仰《おお》せの通りに」
慶次郎の返事はあんまり無造作で、逆に繁長と千坂を警戒させてしまった。とりわけ千坂は慶次郎が好きでない。
〈バサラ者に何が出来る〉
腹の底でそう思っている。いくさは出来るかもしれぬ。歴戦の勇士であるかもしれぬ。だがいくさに強い男は大方は和平交渉には向いていない。ほとんど無能である。根廻《ねまわ》しという言葉さえ知るまい。千坂はほとんどこの男を軽蔑《けいべつ》していたと云ってもいい。だから無造作に引き受けられたりすると、ついかっとしてしまう。侮蔑の気持をはっきり見せて云った。
「成算がおありかな、前田殿」
慶次郎がにたりと笑った。
「そんなものがあるわけがない」
「それでも引き受けるのか」
千坂の声の鋭さが増す。
「上杉景勝と直江山城に惚れていますからね。二人の首が賭かっているんじゃ、やるしか法がないでしょう」
「そんなことでこの難しい仕事が出来るとお思いか」
「無法天に通ず」
これは本来『至誠天に通ず』と云う言葉である。それを『無法』と云い換えたところに慶次郎の真骨頂があった。
千坂は呆《あき》れ返《かえ》った。繁長に向って激しく云った。
「こんな男を信用なさるおつもりか。こんないい加減な……」
「殿の御命令だ」
繁長が冷たく云った。
「本当は、前田に委《まか》せてお前はその云う通りに動けと云われた。わしが勝手にその御命令を破った。非がありとすれば、わしにある」
ぎょっとしたように千坂が黙った。だがすぐ火がついたように喚《わめ》いた。
「な、なぜ殿はそれほどこの者に……」
「簡単ですよ。わしはしくじれば死ぬ。お手前のように生きて文句をつけたりはしない」
強烈な平手打ちをくったように千坂は黙った。あまりに明らさまな侮辱に口が利けなかった。
「すべてを尽くして事成らぬ時は、勿論《もちろん》、わしらは死ぬ。侮辱は許さぬ」
繁長が平然と云った。
「失礼つかまつった。かぶき者は死に急ぎするのが悪いところで……」
慶次郎は大口開けて笑うと、そのまま出て行った。具体的に何をするかは到頭云わずじまいだった。
伏見の結城《ゆうき》秀康《ひでやす》の屋敷に慶次郎が現れたのは、翌日の卯《う》の刻《こく》(午前六時)である。
慶次郎は例の黒具足に猩々緋《しょうじょうひ》の陣羽織、金の数珠《じゅす》を首にかけ兜《かぶと》はかぶっていない。かわりに松風に金の兜巾《ときん》をかぶらせていた。最上《もがみ》のいくさの時と寸分変らぬ姿である。
「開門」
まだ閉じられたままの門に向って、凄《すさ》まじい大声で慶次郎が叫んだ。
「前田慶次郎|利益《とします》、結城秀康殿に対し奉《たてまつ》り、過日の京での約定《やくじょう》を果すために参上つかまつった。開門」
寝惚《ねぼ》けまなこで出て来た門番は、慶次郎の物々しいいでたちを見ると、仰天して引っこんだ。上役に告げに行ったのである。
秀康は既に起きていた。茶を喫しているところへ慶次郎の声が聞えて来た。はね上るように立ち、唐突に喚いた。
「誰ぞある。具足を持て」
次いで槍《やり》をとると玄関に向って走り出した。廊下で慶次郎の応対に出た武士と躰合《はちあわ》せしそうになった。
「殿! 前田……」
「俺《おれ》はつんぼじゃないぞ」
云い捨て更に走った。玄関に達すると怒鳴った。
「門を開けろ! 何を愚図々々しておる」
門番と集まった武士たちが躊躇《ためら》いを見せた。
「さっさと開けぬと手討ちにするぞ」
家臣一同、秀康の猛気を知っている。下手をすると本当に斬りかねない。慌てふためいて門を開けた。
慶次郎がゆっくり松風を進めて門を入った。捨丸と金悟洞が続き、門のところで止った。
扉《とびら》を閉じさせないためだ。門を閉じればそこは結城家の領地内である。謀殺されても仕方がなかった。だがこれは杞憂《きゆう》にすぎなかった。
「前田殿」
頬《ほお》を紅潮させた秀康が呼びかけた。
「申しわけなきことながら暫時《ざんじ》お待ち願いたい。具足をつけておりませぬ。このまま相手せよと云われるなら……」
槍の鞘《さや》を払って構えた。
「京での約定は戦場で会って槍を合わせようと云うことだった。具足もつけずに戦場の闘いと云えましょうか。喜んでお待ち致す」
「かたじけない」
深く頭を下げると、具足を玄関先に運ぶように去った。慶次郎の眼前で着用しようと云うのだ。
慶次郎は乗馬のまま微動だにすることなく、満足そうに待った。
一刻の後、二人は馬場で向い合っていた。二人とも具足姿。秀康は兜までかぶっている。
二人の距離はほぼ一町(約百九メートル)。
「参ろう」
慶次郎が誘うと、秀康は槍を構え、鋭い掛声と共に疾駆しはじめた。松風がそれを上廻る迅《はや》さで駆ける。みるみる二人の姿が接近する。すれ違った。秀康は槍を繰り出す隙《すき》もなく、慶次郎の槍にひっぱたかれて落馬した。
「い、いま一度」
ようやっとの思いで立ち上ると、秀康が叫んだ。
「いいとも」
慶次郎は笑い、松風を駆って先刻まで秀康のいた地点で止った。場所が入れかわっただけで、距離は一町と変らない。
どちらからともなく疾駆しはじめ、途中ですれ違った。今度は秀康も素早く槍を繰り出したが無造作に払われ、又しても殴り落されていた。
「も、もう一度だけ」
秀康の口調が懇願に変っている。
「何度でも」
慶次郎は云い、またしても一町の距離をとった。だが今度は戦法が違った。松風が走り出すと、慶次郎は槍を頭上で風車のように振り廻し、凄まじい声をあげたのである。それは正に血も凍らんばかりの殺戮《さつりく》の雄叫《おたけ》びだった。秀康も、秀康の馬も、その声を聞いただけですくみ上って動けなかった。松風は忽《たちま》ち一町を走り、秀康の馬に体当りした。秀康は馬もろともすっとんで落ち、気絶した。
「お主、秀康を完膚なきまでに叩《たた》きつけた上で、上杉助命への仲介を頼んだそうだな」
大坂城西の丸の一室である。関ヶ原戦が終るとすぐ家康はここへ入った。本丸には秀頼《ひでより》も淀殿《よどとの》もいるが、鳴りをひそめている。今やこの城の実質上の主は家康だった。両側に例の六人の譜代衆が並んでいた。
「御意」
慶次郎はいつものかぶいた服装で、一段下って坐《すわ》っていた。髪もひときわ高々と結い上げて白の元結で結んでいる。
「叩きつけた方が仲介を引き受けてくれると、どうして考えた?」
「そんなことは考えませんでしたね。ただ約束を果した上でなくては、頼みごとは出来ぬと思ったまでで……」
「勝ちを譲る気は全く無かったのか?」
「手前はいくさ人です」
勝ちを譲ったりしたら先ず合戦に対して、次いで秀康に対して無礼至極だろうと云う。
「当代のいくさ人はそのようにかぶいて見せるものかね。わしら若年の頃《ころ》とはえらい違いだな」
家康はやんわりと刺した。
「和平の使者としては尚更《なおさら》似合うまい」
慶次郎の顔にぱっと喜色が浮んだ。家康の方から『和平』の言葉が出たのである。
「御廊下を拝借つかまつる」
一礼すると、するすると退って廊下に坐った。勿論、家康の視界の中にある。先ず裃《かみしも》を脱いで脇《わき》に置き、髑髏《どくろ》を散らした小袖《こそで》を脱いだ。下に白無垢《しろむく》の小袖を重ね着している。
次いで今まで着ていた小袖を前に置き、脇差から小柄をはずして、先ず高い髷《まげ》をぷっつりと切った。次に鬢《びん》の毛をじょりじょりと剃《そ》り上《あ》げてゆく。恐ろしく鋭利な小柄だった。あっと云う間に、頭からすべての毛髪が消えた。掌《て》で撫《な》で廻《まわ》しながら、克明に残っている毛を剃り上げてゆく。手慣れたと云ってもいい手付きだった。
綺麗《きれい》に坊主頭になると、毛を小袖でくるみ、同朋《どうぼう》を呼んで捨てるように頼み、再び禅をつけて家康の前に戻《もど》った。
気づいて見ると裃も袴《はかま》も裏返しにされ、白一色となっている。完璧《かんぺき》な白装束だった。
慶次郎は深々と一礼すると、胸を張って云った。
「和平の使者、これで相勤まりましょうや」
家康がにっこりと笑った。
「和議の条件について話すことにしよう。どうかな? 異議のある者はおるか?」
左右を見た。反対していた井伊直政が真っ先に頷《うなず》き、次いで本多忠勝と榊原康政、大久保忠隣、徳永寿昌の順で頷いた。本多正信は矢張り曲者《くせもの》だった。五人全員の肯定を見定めてから、大声で云った。
「結構でござる」
まるで自分が真っ先に賛成したような声だった。
上杉景勝と直江兼続が若松城を出発したのは慶長六年七月一日である。二十四日伏見に到着。八月十六日に家康に呼ばれ、会津百二十万石から米沢《よわざわ》三十万石への減封を申し渡された。
この時の景勝と兼続の堂々として悪びれぬ態度は、長く語り草となった。
風流
「はくしょん」
慶次郎が大きなくしゃみをして、青々と剃《そ》り上《あ》げた頭をいまいましげにつるりと撫《な》でた。まるで、お前のせいだ、と云っているようだった。
伽姫は思わずくすりと笑ってしまった。慶次郎が不満そうにじろりと睨《にら》んだ。
「風邪をひきかけている」
「そうですね」
「この頭のせいだ」
「そうでしょうか」
「それにきまっている。もう秋だというのに、ここはいつも丸裸だ。風邪だってとり憑《つ》きたくなるに決っている。何しろ形がいい」
「そうですね」
確かに慶長六年も九月に入っている。世の中は既に秋である。
伽姫は倖《しあわ》せのまっ盛りにいた。秋のそこはかとない悲しみもなんの影響も与えないほど倖せだった。もう九ヶ月近く、慶次郎は伽姫と共にこの本阿弥《ほんあみ》光悦の屋敷にいた。或《あ》る日《ひ》、出かけて行って、帰って来た時はこの坊主頭《ぼうずあたま》だった。
「ま、可愛《かわい》い」
伽姫が思わずそう云ってしまったほど、慶次郎はあどけなく見えた。
以後、春を迎え、夏が去って、秋が来る間じゅう、慶次郎はこの坊主頭に文句をつけて来た。よほど気に入らないらしい。そのくせ、毎日のように剃刀《かみそり》をあてるのである。
「どうして?」
と訊くと家康《いえやす》が大坂にいる限りは、髮をのばすわけにはいかないという。それが約定《やくじょう》だといった。上杉家《うえすぎけ》の赦免と何か関係のあることは伽姫にも判《わか》ったが、それ以上は訊かなかった。
伽姫としては慶次郎の坊主頭に何の不満もなかったからだ。
それにしても慶次郎の毎日が異様だった。外見は会津に行く前と何の変りもない。気ままな毎日だった。書を読み、時に僧や公家《くげ》を訪れて夜おそくまで清談をかわし、連歌の会に出席し、そして酒を飲んでは伽姫を抱いた。
前と違ったところといえば、無闇《むやみ》に武士が訪れて来ることだった。それも家老格の者ばかりである。いずれも仕官の話だった。高禄《こうろく》をもって召し抱えたいというのだ。中でも福島|正則《まさのり》の家老は執拗《しつよつ》で、三日にあげずにやって来る。禄高も五千石から一万石まではね上ったものである。
最上《もがみ》の陣《じん》の際の慶次郎の戦いぶりはそれほど見事だったのである。たった八人で追尾する敵軍に逆に斬込《きりこ》みをかけ、これを四分五裂させたなどという話は、どの武将も聞いたことがなかった。それほどの勇士を牢々《ろうろう》のまま放《ほう》っておく手はなかった。
だが慶次郎はどの話も一言のもとに拒否している。仕官の望みは全くないと云って、坊主頭を叩《たた》いて見せる。既に隠遁《いんとん》したと云っているのだ。それでも帰らない客には、
「只今《ただいま》の手前は一夢庵《いちむあん》ひょっとこ斎《さい》。前田慶次郎は死に申した」
と云い、後は何を言われても答えない。
だが慶次郎の日常から伽姫が嗅ぎとった異様さは、そんなことに起因するものではなかった。珍しいことに慶次郎はいら立っているのだ。そのいら立ちが、毎日の暮しの味を微妙に変えているのだった。伽姫にどうしても判らないのは、そのいら立ちの理由だった。
お京に訊いてみたが判らない。この女忍びは慶次郎が苛立《いらだ》っていることにさえ気づいていなかった。
次いで捨丸に訊いた。捨丸は無造作に云った。
「きまってますがな。旦那《だんな》は上杉からの仕官話を待ってはりまんのや」
「上杉からの? だって慶郎は……」
家康へのとりなしが成功した夜、慶次郎は本荘《ほんじょう》繁長《しげなが》に向って上杉家を退転することを告げ、そのまま京に引き上げてしまっている。元々慶次郎たちは合戦に備えての臨時雇いである。合戦が終れば召し放たれるのは当然のことだった。しかも上杉藩は百万石から三分の一以下の三十万石に減封になる。譜代の家臣たちでさえ禄高は三分の一になる計算である。そんな苦しい内所の中に漂泊の『いくさ人』が居据《いすわ》れるわけがなかった。だから慶次郎は退転した。最上陣の他《ほか》の朱槍《あかやり》の面々はいずれも前よりも高禄で各地の武将に再仕官していた。慶次郎ひとりが頑《かたく》なに仕官をこばみ続けている。だがそんな難しい因縁のある上杉家の誘いを待っていようとは、ことは伽姫の理解の外にあった。
九月がすぎ十月に入った。
京には冷たい雨が降りそそぐ日が多くなった。
この頃《ころ》になると慶次郎は屋敷に籠《こも》ってほとんど外に出ない。
いつもと変らず伽姫には優しかったが、慶次郎の鬱屈《うっくつ》した思いは、誰《だれ》の眼《め》にも明らかに見えるようになった。
そんな寒い雨のしょぼ降る一日、全く突然に直江《なおえ》兼続《かねつぐ》が本阿弥屋敷に現れた。慶次郎が合戦から帰った日と全く同じやり方だった。いきなり馬で、慶次郎たちの棲《す》む離れの縁外に立ったのである。雨具もつけずびしょ濡《ぬ》れのまま、馬上にあって、じっと座敷を見つめていた。
慶次郎は伽姫の膝《ひざ》に頭をのせて眠っていた。伽姫は呼び覚まそうとしたが、何故《なぜ》か声が出なかった。直江兼続の姿勢に、それほど得体《えたい》の知れぬ緊張感が漂っていたためだ。
伽姫はそっと膝を揺すった。さすがは慶次郎である。その動き一つで忽《たちま》ち目覚めた。同時に左手が太刀を握っている。
「お庭に……」
伽姫がやっとそれだけ云った。慶次郎はそのままの姿勢で庭を見、兼続の姿を認めるとゆっくりと身を起した。縁先に出ると坐《すわ》りこんだ。深い庇《ひさし》はあるが、雨の勢いが強く、慶次郎も忽ち濡れしょびれてゆく。兼続も慶次郎もそのまま暫《しばら》く動かなかった。寄妙にも伽姫はその二人の動かない姿を美しいと感じた。
「殿とわしは十五日に米沢《よねざわ》に発《た》つ」
長い沈黙の後に兼続がぽつんと云った。
慶次郎は依然として無言だった。
「来てくれるんだろうね。頼むよ」
兼続の声がひびわれているように聞えた。まぎれもない悲しみの響きがあった。
「二千石だ。今の上杉には……」
ぷつんと声を絶った。
「殿もお待ちになっていられる」
ややあってそうつけ加えた。同時に馬首を返して、来た時と同様、唐突に出ていった。疾風のように馬を駆った。
「あいつ、馬が巧《うま》いな」
初めて慶次郎が口をきいた。次いで、
「雪の中に骨を埋めることになるか」
満足そうに云った。今日までのいらだちが、嘘《うそ》のように消えていた。
慶次郎は四条河原のど真ん中に立っていた。横に大きな旗じるしが立てられている。
『一夢庵ひょっとこ斎 風流仕候《ふりゅうつかまつりそうろう》』
大きな字が旗じるしに書かれ、風にはためいていた。風流《ふりゅう》とは風流踊りのことだ。
珍しく暖かい日だった。風も十月半ばにしてはなまぬるい感じである。
〈地震が揺れるんやないか〉
捨丸がちらっと思った。それほどの異常気象だった。
捨丸も慶次郎同様、思い切ってかぶいた小袖《こそで》を着ている。だが大柄《おおがら》な慶次郎にはよく似合うその派手な衣裳《いしょう》が、小柄な捨丸にはどうしても道化めいた印象を与えてしまう。
慶次郎と捨丸の立っている地点を中心に、人々が渦《うず》まいていた。いずれもこの河原で生計を立てている、この世の底辺に生きる人々だった。そして大方が漂泊の徒だった。
人々の数は慶次郎よりも捨丸のまわりの方が多い。理由は捨丸の足もとに開かれたいくつかの銭箱にあった。
「銭まくど、銭まくど」
捨丸が妙な節《ふし》をつけて喚《わめ》く。
「銭まくさかい風流《ふりゅう》せい。仕事忘れて風流せい。かぶき者前田慶次さまのかぶきおさめや。一夢庵ひょっとこ斎と名変えて、この都とはおさらばさらばじゃ。二度とないこの日を、風流せんかい。そーれ。まくど」
捨丸はひときわ声を張り上げると、ぱっと銭をまいた。ひとまき、ふたまき、みまき。
人々が悲鳴のような叫びをあげながら、銭を追って走った。
慶次郎は銭箱ごと小脇《こわき》にかかえこむと、捨丸より遥《はる》かに早い速度で銭をまきながら歩き出した。
「音だ。音を出さんか」
慶次郎が怒鳴ると、傀儡子《くぐつ》の男女が得意の笛太鼓を鳴らし、唄《うた》いはじめた。人々の心を巧みにかきたてる浮いた曲である。
銭をまきながら歩く慶次郎の足どりが、いつか踊りの所作に変った。野太い、だが人の心に沁《し》みるような声で唄いだす。傀儡子がそれに合わせ、銭を拾う人々も唱和した。
今やこの一団は完全に風流の一団となっていた。捨丸の銭箱が空になっても、風流はそのまま続く。やがて河原じゅうが踊りに巻きこまれていった。
先頭に立つ慶次郎の踊りが見事だった。大きな躰《からだ》が軽々と動き、次から次と美しい形を作った。だが本人はそんなことは意識していない。全く忘我と陶酔の中にあった。それは続く人々の間にも伝染し、人々は冬空の下で淋漓《りんり》と汗を流しながら、狂ったように踊った。
伽姫は『骨』と金悟洞に守られながら、土堤に坐ってこの風流の渦を見つめていた。何故か涙が出て仕方がなかった。
「慶郎と居ると、毎日が風流みたい」
『骨』と悟洞もはっきりと頷《うなず》いた。同じ思いだった。
「変なお人ですね」
『骨』が呟《つぶや》いた。
「そうなの。変な人なの。でも大好き」
「私だってそうですよ」
『骨』がまた呟いた。
「わし、踊ってくるけん」
悟洞が遠町筒を『骨』に渡して、風流の列に走っていった。
慶長六年十月十五日、直江兼続は主君上杉|景勝《かげかつ》と共に伏見をたち、新領地である米沢に向った。元々ここは兼続の領地だったから移動はたいした混乱もなく行われる筈《はず》だった。だが家臣全員の扶持《ふち》は切り縮められ、藩自体も窮乏の冬を凌《しの》いでゆかねばならぬ。それでも上杉の家が残ったことは僥倖《ぎょうこう》ともいえる出来事だった。たとえ元の三分の一の禄高であろうと、三十万石は決して低いものではない。必ず藩を建て直すことは出来る。いや、意地でも建て直して見せる。兼続は心中深く期するところがあった。
それにしても前田慶次郎は来るだろうか。上杉家が存続を許されたのは、ひとえに慶次郎の尽力によることを、兼続も景勝も本荘繁長から聞いて知っている。その最大の功労者を米沢に迎えねば、武将としての面目が立たなかった。それに何よりも、暗くとじこめられた米沢の冬空の下で、慶次郎のいない生活がどれほど暗鬱なものであるか、兼続にははっきり予感出来た。
〈どうして今日まで返事をよこさないんだろう〉
馬上で揺られながら兼続はそっと唇《くちびる》を噛《か》んだ。
兼続たち一行に遅れること九日、十月二十四日に慶次郎たちは同じ伏見をたっている。米沢に着いたのは十一月十九日。この二十六日間の旅については『前田慶次道中日記』として彼自身の手になる記録が、今日も米沢市立図書館に遺《のこ》されてある。随所に和漢の古典を引用し、和歌を詠《よ》み、俳句をつくり、しかも簡潔流麗の文である。一読して何ともいえぬ涼風の中にいる思いがするのは、慶次郎の人柄であろうか。
慶次郎のこの米沢行は、経路として奇妙なまわり道をとる。
伏見を発して大津・堅田に至り、琵琶湖《びわこ》をはすに渡って前原。以後関ヶ原を通って東山道を辿《たど》り、下諏訪《しもすわ》から望月《もちづき》、軽井沢を経て宇都宮へ出る。宇都宮から白河、郡山《こおりやま》、板谷と辿って米沢に着いている。
こんな奇妙な道を辿った理由をあれこれと思案してみたが、どうにも判らなかったことを白状するしかない。関ヶ原、白河などを訪れた理由は分明だが、下諏訪、宇都宮となるともう駄目《だめ》だ。ついでに下諏訪での俳句を一句書いて置く。
こほらぬは 神やわたりしすはの海
米沢での慶次郎の逸話はほとんど知られていない。城外堂森に隠棲《いんせい》し、二千石の捨扶持を与えられて、嘯月《しょうげつ》吟歌、愛する伽姫と共に悠々《ゆうゆう》の歳月を送ったものと思われる。米沢に移ってからはもう二度とかぶくことはなかったのではないか。景勝の次代忠勝の時まで生き、米沢で死んだ。没年は慶長十七年六月四日とあるから、関ヶ原以後十二年も生きたことになる。伽姫は充分に倖せだったと思う。
他に異伝があり、前田|利長《としなが》によって大和刈布に蟄居《ちっきょ》させられ、慶長十年十一月九日に死んだとも云われるが、にわかに信ずることは出来ない。慶次郎の性格から考えて、到底おとなしく蟄居《ちっきょ》していた筈もないし、前田利長にしても慶次郎を抑えておく理由がないのである。やはり慶次郎は生涯《しょうがい》の友《とも》だった直江兼続の住む米沢で死んだと考えたい。
最後に私の好きな慶次郎の言葉で、この稿を終りたいと思う。これは慶次郎が信濃《しなの》善光寺に住んだ時の作として伝えられる『無苦庵記』にある。
「抑《そもそも》此《この》無苦庵(慶次郎のこと)は、孝を勤むべき親もなければ、憐《あはれ》むべき子もなし。こころは墨に染ねども、髮結ぶがむづかしさに、つむりを剃り、手のつかひ不奉公もせず、足の駕籠《かご》かき小揚やとはず。七年の病なければ三年の蓬《もぐさ》も用ひず。雲無心にして岫《くき》を出《いづ》るもまたをかし。詩歌に心なければ、月花も苦にならず。寐《ね》たき時は昼も寝、起きたき時は夜も起る。九品蓮台《くほんれんたい》に至らんと思ふ欲心なければ、八萬地獄に落つべき罪もなし。生きるまでいきたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ」
[#地付き](了)
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後 書
前田慶次郎は現代では極めて知名度の低い人物である。
理由は彼が歴史に残した爪痕《つめあと》がそれほど深くなかったからだろう。天下を狙《ねら》った覇者《はしゃ》でもなく、槍《やり》一筋で一国を掠《かす》め取った武将でもない。それにこの男はいつでも負ける側に属するという奇妙な性癖の持主だった。甲賀忍者から一国の大名に成り上った滝川|一益《かずます》。名将|上杉《うえすぎ》謙信の養子で、養父が死ぬや否や、義理の兄と戦わねばならなかった上杉|景勝《かげかつ》。共にそうである。たった一人、勝つ側に属した前田|利家《としいえ》には、煮え湯ならぬ氷水を浴びせて我から逐電《ちくでん》している。
敗者の記録は勝者によって消され、あるいは書き変えられるのが歴史の常である。だから敗者に属して、しかも僅《わず》かでも名を残す者は人並はずれてすぐれた人間に限る。前田慶次郎はその数少い男の一人だった。
しかもこの男『かぶき者』である。別のいい方をすれば『バサラ』だった。『かぶき者』『バサラ』は、時の権力に逆らうことをもってその生存理由とする。そして権威に逆らって尚《なお》かつ生き延びるためには、格別の力を必要とするのは自明の理であろう。しかもこの力は何の役にも立たないものなのだ。所詮《しょせん》無益な力なのだ。だがそこがいい。
私がこの前田慶次郎と最初にめぐり逢《あ》ったのは、遠く戦前のことだ。私は旧制高校の生徒で、ボードレール、ランボオ、ベルレーヌの詩に耽溺《たんでき》するかたわら、時代小説を片っ端から濫読《らんどく》していた。その頃《ころ》、誰《だれ》かがこの慶次郎について書いたものを読んだのだが、一種の貴種|流離譚《りゅうりたん》の印象しか残らなかったように思う。加賀前田家の縁戚《えんせき》だということから生じた錯覚だった。
次の出逢いまでにはかなりの時間がかかった。戦後、映画の仕事をするようになり、その仕事の中で石原裕次郎のプロダクションで司馬|遼太郎《りょうたろう》氏の原作で『城取り』のシナリオを書くことになった。この主人公が前田慶次郎だった。映画の仕事ではよくあることなのだが、この時もシナリオを書く段階で原作が出来ていない。短いストーリイがあるだけである。もちろん司馬さんの責任ではなく、石原プロ側がなんらかの事情で映画の完成を急いでいたためだ。そのために原作もなく、なんの史料もなく慶次郎を書く破目になった。当然出来は悪く、私は恥じた。終った段階で史料を探し始めるという逆の作業をすることになった。そして見つけたのが『日本庶民生活史料集成』に蔵《おさ》められている慶次郎の旅日記だった。
この本は私の中にあった慶次郎のイメージを一変させたと云っていい。
この短い旅日記の中にいる慶次郎は、学識|溢《あふ》れる風流人でありながら剛毅《ごうき》ないくさ人であり、しかも風のように自由なさすらい人だった。したたかで、しかも優しく、何よりも生きるに値する人間であるためには何が必要であるかを、人間を人間たらしめている条件を、よく承知している男だった。確かにさすらいの悲しさは仄《ほの》かに匂《にお》うけれど、そこには一片の感傷もなく、人間の本来持つ悲しさが主調低音のように鳴っているばかりである。
前田慶次郎という、戦国末期の時代をしたたかに、だが自由に生き抜いた一匹狼《いっぴきおおかみ》の新たなイメージが私の中に固定した。以後私はこつこつとこの男の史料集めにかかった。富山県の氷見《ひみ》に能坂利雄氏をお訪ねしたのもそのためだった。
それにしてもとぼしい史料だった。だがその中で私は漸《ようや》くこの男の別の一面を見た。恐ろしいいたずら好きなのだ。それこそ身を滅ぼしかねない、いや、絶対に滅ぼすにきまっている場合でも、あるいはそれだから尚更《なおさら》、途方もないいたずらをやってのけるのである。
それが私にとっては前田慶次郎の決定的魅力になったと思う。いつかこの男を書きたい。それが私の執念になった。
週刊読売がその機会を与えてくれた。私はほとんど手さぐりしながら書いた。一箇の男としての自分と慶次郎の関わりを一つ一つ確かめながら書いた。
当然、原稿の出来は遅く、担当の池田敦子女史には入社以来初めてと云われるほどの御迷惑をかけることになった。衷心から御詫《おわ》び申し上げる次第である。
出版に際しては出版局の関根祥男氏の望外ともいえる御好意と御世話を受けた。ここに深甚《しんじん》な謝意を呈するものである。
平成元年二月十六日
[#地から2字上げ]隆 慶一郎
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解説
[#地から2字上げ]秋山 駿
本当に面白い小説は、冒頭の一ページから、ある幸福を予感させるものだ。うむ、面白い、先へ行くともっと面白くなるだろうな、と。途中まで息継ぐ暇《いとま》もなく読んできて、私は思わずニッコリした。期待が裏切られなかったからだ。そして読み終えたとき、何か充実したものが躯《からだ》の内に漲《みなぎ》るのを感覚した。ああ、読んで善《よ》かった! そういう幸福感を、この『一夢庵《いちむあん》風流記』は与えてくれた。
平成の時代に、こんなに立派な時代小説が産み出されていたとは、私は知らなかった。私は隆慶一郎を知ること余りに遅きに過ぎた。これは文芸批評家としてではなく時代小説フアンとしての私の不明であり怠慢であった。私はなんとなく、五味|康※[#「示+右」、第3水準1-89-24]《こうすけ》、柴田錬三郎|亡《な》き後、もうこれで時代小説は行き止まりであろう、真の才能の出現するはずがない、と思っていたのである。私が初めて隆氏の文章に出遇《であ》ったのは、エッセイ『時代小説の愉《たの》しみ』であった。思わずその機鋒《きほう》の鋭さに眼《め》を撃たれ、これを「週刊朝日」誌上に書評したちょうどそのときに、隆氏は逝去《せいきょ》された。私は何か因縁めいたものを感じ、『花と火の帝』『捨て童子・松平忠輝』『吉原御免状』『かくれさと苦界行』を、次々に読んだ……。
隆氏は、時代小説の大才であった。恐るべき才能である。時代小説家の才能は、彼の描く剣士や武将になぞらえることができる。たとえば五味廉※[#「示+右」、第3水準1-89-24]は時代小説界の宮本|武蔵《むさし》である。では、隆氏になぞらえるべきは誰か? とにかく戦国期の武将である。志高く、力は抜群である。天下取りを試みる一人であったと言っていい。
器量が大きい。つまり気宇が広大で、だから小説の構想力が雄大である。そして、作家の想像力が、戦国期の兵のごとく活溌《かっぱつ》で、現実的に犀利《さいり》である。だから武将になぞらえるなら、実際に天下人になる少し前の秀吉《ひでよし》、羽柴《はしば》筑前《ちくぜん》としての秀吉に、なぞらえるのが一番いいと私は思う。
それでは、この『一夢庵風流記』が、なぜ立派な時代小説であるのか、また、どんなところに私が魅力を感覚したかを、次に書いてみよう。
第一が、主人公の創造ということ。
立派な時代小説は立派な主人公を創造しなければならぬ。そりゃあ、ここの主人公、前田慶次郎には、『前田慶次郎道中日記』などいくらかの資料はあるだろうけれど、そんなことに関係はない。史料は読み、かつ捨てられる。捨てたところから、一個の人間の創造が始まる。小説家の仕事とはそういうものだ。隆氏は、自分の内面から截《き》り出《だ》すようにして、一人の主人公の像を得た。それがこの前田慶次郎である。してみると、作者は本当には何を描いたのか。
一個の真の男、潔《いさぎよ》い日本男子。
そういうものを描いたのだ。だから、この男がわれわれの琴線に触れる。その琴線は遠く古典に源を発する。『平家物語』である。合戦の中で果敢に行動し、潔く死んでいくもののふ(武士)。あれは日本男子の一つの理想像であった。作者はそれを、この平成の現代に生きいきと甦《よみがえ》らせたのである。
第二が、構想力の雄大。
作者はこの主人公に、「傾奇者《かぶきもの》」という性格を与えた。そして、この性格に、あるいは高く、あるいは低く張られた二本の綱を操って舞踏するように要求した。冒頭を見よ。低く張られた綱は、今日のテレビ局のディレクターであり、高く張られた綱とは、『日本書紀』が描く、神々の世界から追放されて底板国《そこつねのくに》へと、「辛苦《たしな》みつつ降《くだ》りき」という素戔嗚尊《すさのおのみこと》の像である。つまり古代の神話である。作者は言う。
〈私はこの『辛苦みつつ降りき』という言葉が好きだ。学者はここに人間のために苦悩する神、堕《お》ちた神の姿を見るが、私は単に一箇の真の男の姿を見る。それで満足である。〉
ピリッとした創作の宣言である。そして傾奇者とは、この「辛苦みつつ降りき」という男の末裔《まつえい》なのだ。そう考えるとき、なんと雄大なロマンの発生があることか。
第三が、行動を描いたこと。
小説の魅力とは、いうまでもなく、主人公の行動を描くところにある。行動と共に、新しい現実の光景が妬《ひら》け、新たな物語が展開する。だからわれわれは、息継ぐ暇もなく主人公を見て一喜一憂する。それはつまり、主人公と共に小説の中を歩くということだ。歩くことによって、ある生きた一つの時間を、主人公と共に共有する。これが小説の醍醐味《だいごみ》というものだ。
戦後の現代文学は、なぜか、主人公を創造しなかった。またなぜか、行動を描くことを中心にしなかった。知的解釈による歴史小説や、心理を叙述するばかりの現代小説が多過ぎた。そんな時に当たって、隆氏が試みたのは、 壮快なる男子の、颯爽《さっそう》たる行動を描く。
そういうことであった。まさに反時代的な制作であり、小説の原型的な魅力を回復する制作であった。
前田慶次郎は、この世の中を吹き過ぎる一陣の涼風のように行動する。ことに朝鮮|往《ゆ》きの場面が素晴らしかった。
実は私は隆氏に聴いてみたいことがあった。壮快なる男子の颯爽たる行動を描いて、近代文学には一種の古典がある。スタンダール『パルムの僧院』の主人公ファブリス。隆氏はフランス文学に精《くわ》しい。これは私だけの感覚かもしれぬが、ここに描かれた前田慶次郎とファブリスとの間には、なにか血縁関係の共鳴があるような気がする。無邪気な人間の勁烈《けいれつ》な行動ということ。(もっとも、隆氏はこの「勁烈」という言葉が好きなようで、しばしば使われているが、ごく日常的な辞書にはこの言葉は見出せない。)
第四が、友情を描いたこと。
これが大切なところだ。まったく極端に誇張化すれば、日本近代文学の中のいわゆる純文学は、日本人を主人公にして西欧的な恋愛を描く、というような処《ところ》から出発したのである。そこで、それ以前の、いわば東洋文学の髄であったもの、「友情」という主題を見喪《みうしな》ってしまった。したがって、友情は、時代小説の中にしか生きる場を持たないのである。
見られるとおり、この小説は全編、これ友情物語である。冒頭、主人公が鮮明に自己のイメージを現わすところの、駿馬《しゅんめ》・松風と「友」としての関係を結ぶ場面に始まって、以下、次々に自分を殺しに襲ってくる刺客《しかく》と、あるいは直江《なおえ》兼続《かねつぐ》、結城《ゆうき》秀康《ひでやす》と、友情を交流させる。ここが気持ちがいい。ここがわれわれの琴線に触れる。
友情とは、心の交流である。敵味方に分れて戦っても、友は友である。このあたりが日本に独得の心性であろう。義を立てるとか、誓を立てるという意味の友ではないのだ。言葉で説明する必要のないものだ。朝鮮に往ったとき、「言葉も判《わか》らんで友達が出来まっかいな」と問われて、主人公はこう言う。
〈そもそも友とは何かを喋《しゃべ》るものかね。〉
つまり、潔い男だと相手を認めること、それが友情なのである。だから、裏切られるかもしれないが、それなら裏切られたっていいという覚悟の中にいること。そこから潔い男の生の態度が発する。
第五が、優しさ、あるいは恋。
強いばかりが能ではない。潔い行動の背後には、必ず鋭敏にして繊細な心が隠されているものだが、古代に亡《ほろ》んだ幻の国、伽※[#「にんべん+耶」、第3水準1-14-34]《かや》王朝の裔《すえ》である伽姫と主人公の交情の中に、その繊細なものが奔《ほとばし》り出る。錦上《きんじょう》花を添えるといった光景で、とてもいい。作者の感受性の深さと品質を示している。
それから、ここに描かれた恋は、相互の憧憶《どうけい》というものを芯《しん》にして清らかな、日本的な恋の典型であろう。現実はともかく、日本人は、こんなふうにいくらか兄妹的《きょうだいてき》な感じのある恋を、一つの理想として夢想してきたのではないかと思う。
第六が、立ち合い、あるいは決闘。
これはもう贅言《ぜいげん》を要しない。時代小説家の工夫《くふう》と発明が集中する場である。立ち合いを描く巧拙は、そのまま作品の出来不出来につながる。正規の合戦からテロリストの怪しい術に至るまで、作者は数々の決闘に新味を盛って提出してくれる。面白さが満喫できる。もっとも、一番|凄《すご》いのは、決闘ではないが、主人公が秀吉と対決する場面であろう。描く手に気合いが入っている。ピンと張りつめた鋭気が感覚される。
隆氏は、六十を過ぎてから時代小説を書き始めた。こんな才能が、なぜそんなに長い間沈黙していたのか?
私は、これは自分だけの冗談みたいな思い付きで、たいして理由もないが、それは小林|秀雄《ひでお》のせいであろう、と思っている。隆氏はある意味で小林秀雄の弟子だった。
隆氏は昭和二十三年に東大の仏文科を卒業するが、折から辰野《たつの》隆《ゆたか》の定年退官のときで、小林秀雄が「挨拶《あいさつ》」の演説をすべくやってきた。その後のパーティーの席で、彼はいきなり小林の前に立つ。小林はそのころ創元社という出版社の重役だった。この場面を、「編集者の頃《ころ》」(『時代小説の愉しみ」)はこう描く。
〈「先生のとこで働きたいんですが……」
返事は簡単だった。
「いいよ。明日からおいで」
これで私は創元社の編集者ということになった。〉
まるで時代小説の名場面である。それから小林主宰の編集会議で鍛えられる訳だが、それは「正に一個の塾だった」という。
そんな経験の中から、いってみればこの作品の前田慶次郎ふうに、言葉では説明できないが、何か堅く心に期するものが育っていったのではないかと思う。小林秀雄の眼の黒いうちは小説を書かない、と。何かそんな想像を呼ぶところがある。小林が世を去ったのは昭和五十八年であり、隆氏が処女作『吉原御免状』を書き始めたのは、その一年後、昭和五十九年のことである。その後の圧倒的な創作力、恐るべきエネルギーの放出は、よく読者の知るところだ。
この作品の中、慶次郎と利家《としいえ》の妻まつとの交情を描くところに、こんな一行がある。
〈とにかく、この時のまつは慶次郎という事件のただ中にあった。〉
疑いもなく、その一行は、小林が昭和二十三年に発表した「ランボオV」の中の、
〈僕は、数年の間、ランボオという事件の渦中《かちゅう》にあった。〉
という一行と呼応する。この二人の手の間に、精神の血縁関係というと大袈裟《おおげさ》だが、深い交信はあるのだ、と考えてもよかろう。
傑出した時代小説の、戦後における意外な水源は、小林秀雄である。小林はよく、精神の世界における天才の決闘を描く。それが時代小説の役に立つ。もう一つは、『無常といふ事』に始まり『私の人生観』を経て『本居《もとおり》宣長《のりなが》』へと至る歴史観、史眼。日本人とは何か、ということが独創的に深く問われているからである。
隆氏の描くこの前田慶次郎は、師の発したそういう問いへの、一つの答えであろう。
傾奇者――潔い男の颯爽たる行動――そして、そんな自分を、「生きるまでいきたらば、死ぬるでもあらうかとおもふ」と、みずから面白がっている男。作者はこれを「風流人」と呼ぶ。一つの痛快な日本人の典型である。
[#地付き](平成三年八月、文芸評論家)
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この作品は平成元年三月読売新聞社より刊行された。
底本
新潮文庫
一夢庵《いちむあん》風流記《ふうりゅうき》
平成三年九月二十五日 発行
著者――隆《りゅう》慶一郎《けいいちろう》