吸血鬼のおしごと 第1巻 The Style of Vampires
|鈴木《すずき》鈴《すず》
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【テキスト中に現れる記号について】
《》…ルビ
|…ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)陽来飯店《ようらいはんてん》
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序幕 ローマにて
第一幕 お化け屋敷
第二幕 千客万来
第三幕 モザイクのチリソース
第四幕 雪村
第五幕 その奥に潜むもの
終幕 ローマにて
序幕 ローマにて
中央礼拝堂の正面扉が、軋んだ音を立てて開いた。
わずか十センチほどの隙間から、大きな黒い瞳が覗いた。探るような視線を礼拝堂の中に送り込み、誰もいないことを確認する。不安そうにしきりにまばたきをしていたその瞳が、不意に扉から離れた。
深呼吸の音。
ややあって、扉は再び軋み出す。人ひとりがやっと通れるくらいの間隔まで開いたところで、シスター服の少女がするりと身を滑り込ませて入って来た。黒い瞳のその少女 レレナ・パプリカ・ツォルドルフは、独り言のような声で「失礼します」と言った。誰かに伝えるつもりはないらしい。
緊張と不安がない交ぜになった顔で、レレナは赤い絨毯の上をゆっくりと歩いて行った。その表情とは裏腹に、暗い茶色の髪を揺らし、大きな黒い瞳をしきりに動かして、レレナは物珍しそうにあたりを見回しはじめる。普段めったに立ち入らない中央礼拝堂に、十五歳の少女にふさわしい好奇心が湧いてきたのであろう。きょろきょろとせわしなく視線をめぐらせるその様子は、見るものすべてを珍しがる子猫のようでもある。
と、彼女の瞳が、ある一点で定まった。
天井に、湾曲する壁面に沿うように、歪んだ絵画が描かれていた。絵心のまるでないレレナが、唯一よく知っている絵だ。
『放逐《ほうちく》』。
質素なレレナの私室の、ひとつきりのインテリア。どうしてもと親に頼み込んで買ってもらった『放逐』のレプリカが、レレナの脳裏に浮かんだ。
思わず見とれ、次いで考えたのは『なぜこんなところにこの絵があるのだろう』ということだった。お世辞にも『放逐』はメジャーな絵とは言いがたい。重要な祭儀礼拝を司る中央礼拝堂を飾るのならば、もっと誰もが知っているような絵を描いたほうが良かったのではないか。
『受胎|告知《こくち》』とか。
『放逐』に気を取られていて、レレナはいつの間にか男が現れていることに、声をかけられるまで気がつかなかった。
「レレナか」
ぎくっとした。
慌てて視線を前に向けると、祭壇の横、パイプオルガンの脇のところに人影がたたずんでいた。見覚えのあるシルエットに、レレナは慌てて膝をついた。
「はい。あ、えと、はい。れ、レレナ・パプリカ・ツォルドルフ、ただいま参りました。大司教様におかれましては―――」
ガゼット大司教は手を振ってその先を制した。
「そんなに畏まらなくてもいい。俺とお前の仲だろう」
「は――」
それでも膝は床につけたまま、ちらと顔を上げると、ガゼット大司教はゆっくりと祭壇の前にまで足を運んでいるところだった。レレナの視線に気づいたガゼット大司教の顔が、その役職にふさわしくない、にやりとした笑いを浮かべる。
「なんなら昔どおり『ガゼットおじさん』と呼んでくれても構わんぞ。いや、むしろそつちのほうが、俺としては嬉しいのだが」
レレナの頬が赤く染まった。顔をうつむかせ、上目遣いにガゼット大司教をにらみ、
「あの頃は、まだ子供でしたし―――それに、大司教様も、まだ俗界におられました」
「昔は昔、今は今、か。お前も昔はもうちょっとかわいげがあったんだがなあ」
「……大司教様」
「あ、いや、すまんすまん。別にそういう意味で言ったんじゃない」
にっこりと笑い、
「今もかわいいぞ。うん」
「大司教様!」
顔を真っ赤にして、レレナは床を蹴るように立ち上がった。が、ガゼット大司教は『何を怒っているんだ』という顔でレレナを見ている。その表情を見つめるうち、レレナは自分の中からへなへなと力が抜けていくのを感じた。
ガゼット・クロムウェル大司教。次期|枢機卿《すうききょう》の呼び声高く、将来は教皇も夢ではないと噂される教会随一の成長株。三十六歳という若さであり、ということはつまり十年前には二十六歳だったわけで、それを考えれば自分がガゼットおじさんと呼んだときの彼の複雑な表情の意味がわかるような気がした。確かに、とレレナは思う。昔は昔、今は今である。十年前には、子供心にもまさかあの『クロムウエルのごくつぶし』ガゼット・クロムウェルが出家して、さらには大司教などという地位にまで登りつめるとは夢にも思わなかった。大司教になったガゼットが家に忘れたレレナの弁当を届けに神学校にまでやって来るとはもっと思わなかった。教会の両雄、クロムウエル家とツォルドルフ家の間に深い交流があるというのは周知の事実なのだが、物には限度というものがある。おかげで友達には囃《はや》されるわ教師には呼び出し喰らうわ、そんなわけでレレナは目下、全力を尽くしてガゼット大司教を避けていたところだった。
そして今日の午後、あろうことか全校集会の場で、校長から直々にしかも名指しで、中央礼拝堂に来るようにとのガゼット大司教からの伝言を賜った。そのことを改めて思い出し、レレナの顔が硬度を増してゆく。
「それで何の御用ですか大司教様。私こう見えても結構忙しいんですけど」
鼻をつんと上にあげ、硬い声でレレナは言った。それを予期していたようなタイミングの良さでガゼット大司教は肩をすくめる。
「怒るなよ。確かにあんなやり方でお前を呼んだのには問題があったかもしれないが」
レレナは「むっ」という顔をした。
「―――そんなことで怒ったりしません」
「怒ってるじゃないか」
「怒ってません」
「だって」
「怒ってません」
無意識のうちに唇を尖らせている。実にわかりやすい性格をしているが、ガゼット大司教はそれ以上その話題に触れることを避けた。唐突に口調を変えて、ガゼットは言った。
「ところでお前、日本に行ってみる気はないか?」
「怒ってません」とまだ強硬に言い張る気でいたレレナは、口を「お」の形に開いたままぴたりと停止した。ガゼット大司教の言葉を理解するのに数秒を要し、理解したら理解したでいきなり何を言い出すのかとガゼット大司教を見つめ、それが自分を呼んだ用件だということに思い当たり、
「口を閉じろ口を。若い娘が」
右手てぺちっと口元を覆った。照れ隠しに怒った表情を作り、レレナはガゼット大司教をにらむようにして見る。
「日本、ですか?」
「日本、だ」
「なんでまた私が」
「お前確か日本語ぺらぺらだっただろ。だからだ」
レレナの顔から表情が消える。ガゼット大司教はわずかに眉を曇らせた。
「――悪い。まだ気にしていたか」
黒い瞳が揺れる。「そんなことありません」と言おうとして、それは結局言葉にならなかった。レレナは下を向く。隠された靴が、破かれた教科書が、悪し様に自分を罵る黒板が、日本人である母を呪った夜が、記憶の底から浮かび上がって来た。今はもうそんなことはないとはいえ、十五歳の少女にとって、その記憶は自然に底に沈んでしまうほど遠い昔のものではない。重しをつけて沈めていただけだ。何かの拍子に重しが外れれば、それはいつでも浮かび上がって来るのだ。
異質である、ということは、それだけで迫害の対象となりうる。レレナはその典型だった。ローマ人の父を持ち、日本人の母を持つレレナは、ただ瞳が黒いという理由で子供の社会からつまはじきにされた。彼女のような真っ黒な目の持ち主はいなくとも、黒みがかった瞳の持ち主ならいくらでもいるというのに。
ガゼットはうつむくレレナに近づき、その肩に手を置いた。
「お前がまだ――あのころのことを忘れられないというのなら、無理に勧める気はない。すまなかったな」
「――いえ」
うつむかせていた顔を上げ、レレナは無理に微笑んでみせた。
「昔のことです。確かに忘れたわけじゃありませんけど、もう気にするってほどでもないです。それに、最近では自分でもこの目の色が気に入ってきてるんですよ」
レレナはやわらかく笑う。
「ガゼットおじさんが、褒めてくれたからです。夜空みたいで綺麗だって」
ガゼット大司教は頬をぽりぽりと掻いた。照れているのである。レレナはそれを見てくすくすと笑い、それから思い出したように、
「でも、日本に行って何するんですか?」
ガゼットはそれを受けて極めて軽めに答えた。それが良くなかった。
「ん、ああ、もう春休みだしな」
ガゼットおじさんと呼ばれて舞い上がっていたのかもしれないが、その言葉でレレナの顔に鉄が復活した。レレナは小さい声で、しかし簡潔に言った。
「それは、つまり、私に、はるばる日本まで遊びに行けと」
侮ってはいけない。いくら年端も行かぬ少女といえど、教会の名門ツォルドルフ家のご令嬢である。『クロムウエルのごくつぶし』とはわけが違う。良家の子女として恥ずかしくないくらいの自制心は持ち合わせているし、そもそも性格的に賛沢を僧むようなところがある。春休みを利用して海外に遊びに行くなど、言語道断というわけだ。
ガゼット大司教はじっと自分を見つめる目の前の少女から視線をそらし、「いやそういうわけではないのだが」などと言葉を濁して、踵を返した。祭壇のところにあつらえてある椅子に腰を降ろして人を呼ぶ。
「立ち話もなんだから、座ってゆっくり茶でも飲め。どうだ、学校のほうは?まあ、お前の成績を俺が心配するなど、キリストに説教もいいところかもしれないが――」
「大司教様」
鋼の声が響く。言葉に反して、すでにレレナは相手を『ガゼット大司教』ではなく『ガゼットおじさん』として扱っていた。なにせほとんど生まれたときからの付き合いである。ガゼットおじさんがこんなふうに言葉を濁すときは、たいてい図星を突かれてそれをごまかすときであることをレレナは知っている。よく知っている。それに何十回何百回と騙されてきたのだから。
今日こそは、とレレナは思う。絶対ごまかされませんからね。
レレナに言葉を中断されたガゼットは、黙りこくって天井を見つめている。大司教付きの修道士がお盆に二つのティーカップを載せてやってきても、彼に視線すら送らない。戸惑った表情の修道士に対し、レレナは目礼で答えた。にわかに修道士の顔が緩み、一介のシスター見習いにすぎないレレナの居心地が悪くなるくらい丁重な礼をして、彼は礼拝堂の奥へと戻っていった。
レレナは目をガゼット大司教に向け、チエックメイトを宣言するときと同じような響きの声をあげた。
「どうなんですか、大司教様。日本まで、私になにをしに行けと?」
ガゼット大司教は天井を見つめたまま、ぽつりと、
「――仕事だ」
唐突なその言葉にレレナは声を失う。ガゼット大司教はレレナに視線を戻すと、急に真面目な顔になり、あたりに誰もいないか注意深く見回したあと、声をひそめて言った。
「お前の両親には『観光旅行』と話してあるが、私がお前に託したいのは無論そんなことではない。仕事だ。詳しくはここでは言えないが、表沙汰にできない仕事だとだけ言っておこう」
レレナの喉がごくりと鳴った。真剣そのもののガゼット大司教の瞳に、吸い寄せられるようにして顔を近づける。
「お前の信仰心の高さは、誰よりも私がよく知っている。だからこそ、お前にこの任務を託したいのだ。だがもちろん、私とてお前を進んで危険にさらしたいわけではない。お前が嫌だというのなら――」
「大司教様、それは、つまり――」
ガゼット大司教はわざとらしく唇の前に指を立てた。
「それを口に出してはいけない。公にはできぬ仕事なのだと、先ほど言っただろう」
「は、はい、でも……」
ガゼット大司教は、口の端だけで笑ってみせた。
「昔からお前がなりたいと言っていたから、私もこの話を用意したのだ。お前ならやってくれると、私は信じている」
レレナは、確信した。思わず天井を見上げる。
そこには『放逐』がある。人々から距離を置かれ、血にまみれたローブを目深にかぶった、隠者のような誇り高き姿―――闇を祓《はら》い魔を退ける聖戦士、『クルセイダル』の姿がある。
『放逐』というタイトルは二つの意味を持っている。すなわち、『悪魔と戦いそれを退けたクルセイダル』という意味と、『悪魔と戦いそれによって人々から退けられたクルセイダル』という二面性の意味だ。悪魔は罪や穢れそのものであるから、悪魔と直接戦うクルセイダルとて、きれいな身体ではいられない。それゆえに、彼らは人に認められることもなく、時には石もて追われることさえあったという。
しかしそれは、誰かがやらなくてはいけないことだ。
レレナは思う。彼らこそ、自らが穢《けが》れることすら厭《いと》わずに戦うクルセイダルこそ、人々の罪を一身に背負って十字架にのぼったキリストの精神を、もっとも色濃く受け継いだものなのではないか、と。
あるいは、そんな難しいことは考えていなかったかもしれない。レレナがはじめてクルセイダルのおとぎ話を聞いたのは、ちょうど彼女がいじめの嵐を耐え抜いていた真っ最中のことだったから。理不尽に迫害されてなお誇り高くいられるクルセイダルの強さに、同じ境遇にあったレレナが憧れを抱くのは、必然といっていいことだった。
そして、そして――大司教様はこうおっしゃった。「非公式な任務」であると。「お前を危険にさらしたくない」と。クルセイダルは、非公式だし危険な仕事だ。レレナは天を振り仰ぐ。そうだ――それならば、ここ中央礼拝堂に『放逐』が描かれていることも、そもそも中央礼拝堂が一般信者の立ち入りを禁止されていることも、すべて説明がつく。ここはそういう場所なのだ。クルセイダルを選出するための。きっとそうだ。絶対そうだ。
そして。
今。
自分が、あのクルセイダルに。
レレナが夢見る瞳で天井を見上げているのを確認してから、ガゼット大司教はわざとらしく、残念そうにつぶやいた。
「仕方がないな。いや、本当はこちらのほうがよかったのかも知れぬ。この話はなかったことにしよう。私も二度と」
あっさりひっかかった。レレナはガゼット大司教の手をふんだくるようにしてつかみ、燃える瞳をまっすぐにぶつけながらあらん限りの大声で叫んだ。
「行きます!!」
第一幕 お化け屋敷
さて、ここに|湯ヶ崎《ゆがさき》という町がある。人口一万人程度の、大きくもなければ小さくもない平凡な町だ。大都市東京からつかず離れずといった距離にあるこの町は、もっぱらベッドタウンとして利用されている。欲がないのかやる気がないのか、別段町の人間もこれ以上湯ヶ崎を大きくしようなどとは微塵も思っておらず、つくりもいたってシンプルそのものである。紙を適当に四角く切り取って、そこに縦横の線を引けばそれだけで大雑把な地図が完成する。縦が大通りで、横が線路。それらの交点が湯ヶ崎駅。非常にわかりやすい。その理念は町づくりにも反映され、湯ヶ崎駅以北がいわゆる『北湯ヶ崎』であり、俗に住宅街とされ、以南が『南湯ヶ崎』という名の繁華街、という区分になっている。徹底している。
定規で線を引いたようなこの区画分けのほかには、湯ヶ崎にこれといった特徴などありはしない。目を引く|史跡《しせき》名所もなければ、眉をひそめる凶悪事件や大規模汚職にもまったく縁がない。特徴がないのが特徴という、まことに平凡かつ健全な一町村として、今日も湯ヶ崎は控えめに東京都の一画を担っている。
が。
今日び小学生だって知っている。どのワイドショーの誰の評論でも、街角の老若男女すら間わず、インタビューマイクを向ければみなが口を揃えてこう言うはずだ――目立たなくておとなしくて、あの人はそんなことをする人間には見えなかった、と。
まったくもってそのとおり。
健全で平凡に見えるものほど、一皮剥けばその裏になにがあるかはわからないものなのだ。
◆
ツキは湯ヶ崎の猫たちのボスである。
彼は漆黒の毛並みを持っている。湯ヶ崎の猫たちのあいだでまことしやかに流れる噂によれば、元々ツキは白猫であったのだが、あまりに多くの返り血を浴びすぎたためにいつしかどす黒く染まってしまったということだ。常に油断なく力がみなぎっているようなその体躯には、虎の血筋が流れている。その名の由来である三日月型の傷を負った時の武勇伝は諸説紛々《しょせつふんぷん》あるが、一番有力な説によれば第二次大戦中に爆撃から恋人をかばったときについたものであるらしい。生息地域は北湯ヶ崎住宅地区。主食は生きた犬だが、たまに人間もさらって喰う。尾ひれもここまでつくと逆に清々しい。
初めてツキがモザイクから自分の噂話を聞いたときは、そんなものをマトモに信じる奴がいるものかと一笑に付した。が、世間はツキの予想以上だった。一部を除き、会う奴会う奴みんな目を伏せる。声をかけるとトラックのクラクションでも聞いたような面《つら》で固まってしまう。挙句の果てには怯えた顔の母猫が子猫をくわえてやってくる始末だ。どうやらツキの前足が触れると、どんな病でもたちどころに治ってしまうらしい。ローマ法王か。
とはいえ、大きくなりすぎた雷名も、不都合ばかりもたらしたわけではなかった。
なにしろ野良猫狩りの保健所役員を叩き帰したという逸話《いつわ》を持つツキである。ボスの座を狙って散発的にケンカをふっかけてくる奴も今ではもうめっきりいなくなったし、そればかりか決して少なくない数の猫が『生き神様』としてツキを崇めているらしい。呆れて否定する気にもなれないが、あながち悪い気もしていない。寝て起きるといつの間にかサシミやちくわが置いてある、というようなことがまま起こるようになったのだ。お供え物である。否定する気にならないのは、存外これが楽しみだからなのかもしれない。食いたいときに食って、寝たいときに寝る、という習性は、いかにツキといえども変わらない。彼とてまた、なんの変哲もない普通の猫なのである。
ほとんどの部分は。
ツキは屋根の上で目を覚まし、くぁ、と大きなあくびをした。
ぞんざいに毛繕いをし、耳の後ろを思う存分掻いて、足元のお供え物に気づいた。今日はカツオである。まだ季節には少し早いが、それでも猫の舌にはごちそうであることにかわりはなく、ツキは誰だか知らないが持って来てくれた猫に対して感謝しつつ食べた。
食べ終わると、またあくびが出た。
オレンジ色の空と、沈んでいく夕日を眺めながら、しばしもう一眠りしようかどうか考える。まだ少し時間はある。腹も膨れた。今寝てしまえば気持ちいいことこの上ないだろうが、その分寝過ごしてしまうかもしれないというリスクもある。
ツキは鼻から小さく息を吐いた。その顔には、諦めの色が濃い。
決断するとツキの行動は迅速だった。起き上がり、背伸びすらせずに夕日に背を向け、屋根から塀に飛び移った。バランスを取っているのか、黒く長い尻尾をずいぶん遅いペースで左右に往復させている。物思いにふけっているような表情で、塀の上をゆっくりと歩いて行く。
やがて塀が途切れた。と同時に、ツキの足も止まる。わずかに顔を上げ、まぶしそうに目を細めた。
廃墟である。ちょっとした木造アパートくらいはある大きさの屋敷なのだが、ここまで絶望的に荒れ果ててしまってはどうしようもない。外装はずたずたのぼろぼろ、表面積の半分ほどをツタが覆い、残りの半分はささくれだった木目がツタの侵略を拒んでいる。なにもしていないのに、耳を澄ますとみしみしという音が聞こえてくるのが怖い。きっと誰かが寄りかかったらその寄りかかっている部分だけを残してあっという間に倒壊してしまうだろう。昔そんなコントを見たような気がする。
ツキがその廃墟を見上げていたのは、そんなに長い時間ではない。すぐに彼は行き止まりの塀を見限り、雑草が伸び放題の空き缶が捨て放題な前庭へと飛び降りた。たまに割れたビンが狙いすましたように天を突いているので、注意が必要である。そんなトラップを発見した場合ツキは直ちに取り除くことにしている。
玄関の前を通るときに、扉のすぐ脇にかかっている表札に視線をめぐらせた。
『月島《つきしま》』とある。屋敷相応に古ぼけた表札で、その割には重厚感というものに欠けている。ツキは自身にしかわからないほど短いあいだその表札を眺め、それから小さなため息をついた。 まさに月島亮史そのものを体現した表札だ、と思った。
屋敷前庭から、屋敷北側庭へとまわる。突き当たりを曲がった時点でツキは立ち止まり、猫特有の真剣なまなざしで目の前の光景を見つめた。
屋敷の北側の窓に引っかかるように、種類の区別もつかない細い木が寄りかかっている。その木は三十度くらいの傾斜を保ったまま、そのまま朽ち果てるのを拒むようにがっしりと根を地面に下ろしていた。呆れた根性である。屋敷を覆うツタにしろ庭にぼうぼうに伸びきった雑草にしろ、なんだって植物はこんなにしぶとくて図々しくて意地汚いのかと、ツキはたまに思う。さらっとした猫から見れば異常極まりないのだが、反面、生き物としてはそちらのほうが正しいのかなとも、ツキは思うのだ。
そんなあまり意味のないことを考えつつ、。ツキは木の根元まで歩いて行き、ひょいと幹に飛び乗った。木登りは猫の十八番であるからして、この程度の傾斜など坂と呼ぶのもおこがましい。とんとんとリズムをつけて登り、数秒もしないうちに窓にたどり着いた。表玄関を開けることができない悲しき猫の身体のために、ここがツキ専用の出入り口になっているのだ。防犯上の観点から見れば言語道断の裏口だが、こんな廃城に盗みに入る間抜けな泥棒などいるはずもないので問題はない。
木造の床に降り立つと、みしみしという音がなおさら大きくツキの耳に響いた。フローリングですらない正方形の木のタイルの上は、できたばかりのようにぴかぴかに磨き上げられている。が、見た目に騙されてはいけない。なにせ猫であるツキが歩いてもぎしぎしという音を立てるのだ。人間が歩けばどうなるかは、推して知るべし、である。
ツキは北側の廊下を通って階段へと向かった。角を曲がり、少し歩いたところで足を止め、じっくりと階下を見下ろす。玄関は生意気にもホールのようなつくりになっているが、あくまでも『ホールのような』である。一応一階から二階へと上がる階段が玄関の真正面にあり、その階段もそれなりの幅は確保しているのだが、いかんせん玄関扉・階段のあいだの距離が悲しくなるほど短い。扉を開ければすぐそこに階段。一階の他の部屋にまわるには手すりをまたがなくてはいけない。これを設計した人間は疑問とかそういったものを感じる回路が欠如していたのだろうか。扉が外開きになっているのを見るあたり、実は狙ってやったのかもしれない。
ツキはふいと階段から顔をそらし、また歩き出した。うんざりした表情。そのまま突き当たりを曲がる。目の前は完壁な闇。それもそのはずで、本来なら日当たりのいいはずの南側廊下には窓がひとつもない。どころか、電灯のひとつすら見当たらない。もっともどんなわずかな光も感知できる目を持つツキにとっては、あまり大した意味は持たなかったが。
躊躇《ちゅうちょ》のない足取りでドアの列を横切り、一番奥のドアの前で止まった。見ればドアの足元には、ちょこんという感じで猫一匹がちょうど通れるくらいの穴が開いている。
ツキは真っ黒に開ききった瞳でしばらくその穴を見つめたあと、おもむろにそれをくぐった。
◆
夢を見ていた。
あたりに闇が満ちている。昔の夢だな、となんとなくわかるのは、その闇が墨を流したように濃いからだ。今の薄っぺらな闇とは違う。触れればまとわりつきそうな粘性を帯びた、まだ夜が別の世界であった時代の闇。そんな闇の中を、彼は一人きりで歩いていた。
とっくに慣れきったはずの闇に、なぜかその時は辟易《へきえき》していた。うんざり顔を上に向けるとそこには月があった。半月だ。いや違う。半月よりも少し膨らんでいる。なんと言ったか。そう、確か
上弦《じょうげん》。
突然、嬉しくなった。上弦、上弦と、口の中で何回かつぶやく。聞いただけで嬉しくなる言葉なのに、なぜ嬉しくなるのかがよくわからない。まあいいや、と思う。嬉しいことに変わりはないのだから、その理由などどうでもいい。
上弦《じょうげん》、上弦。つぶやきながら、月を見上げたまま歩きつづける。本当に綺麗な月だ。
ふと、ぴちゃぴちゃという音が聞こえているのに気づく。足を止めて周りを見回してみても、あるのは闇ばかり。再び歩き始めると、またぴちゃぴちゃという音が聞こえ始める。
思い当たり、しゃがんで地面に指をつける。ぬるりとした感触。なめてみる。塩と鉄を水に溶かしたような味がした。――血だ。
月がいっそう光を増し、今まで幕のようにあたりを覆っていた闇が、さあと引いていった。半ば予想していたことだったが、あたりは血の海。彼はそのことに対して特に感想は抱かない。
血の海の中に、少女がいた。四肢を人形のように放り出し、何かに寄りかかるようにして座り込んでいる。顔は伏せ、しかしぼろきれのようなその服は血にまみれている。この子が血を流したのだろうか、と彼はやや心配になり、
「大丈夫?」
と声をかけた。
その声に反応して、少女がゆっくりと顔を上げた。少女の顔を見ると同時に、彼は思い出す。
この子が、上弦だ。
「上弦」
と彼は呼びかける。上弦はにこりと微笑み、つられて彼も笑みを浮かべ、
「寂しくありませんか?」
と聞かれた。
と聞かれても、彼にはなんのことかわからない。しかし上弦は答えを待っている。真剣な瞳でじっとこちらを見上げている。困った。どうしよう。焦った彼は、よく考えないまま、
「いや、別に」
と答えた。実際特に寂しくはなかったので、嘘ではない。が、上弦は途端に悲しそうな顔になり、また目を伏せてしまった。彼は焦った。どう答えればよかったのだろうと思い、どうにかまた上弦に笑ってもらおうといろいろ話しかける。しかし上弦は顔を下に向けたまま。途方に暮れて、彼もその場に座り込む。正座である。彼が上弦に怒られているようにも見える。
不意に、上弦がまっすぐに彼を見た。その顔には一切の表情が消えている。上弦が動いてくれたことに対して若干の喜びを抱きつつ、しかし無表情な上弦に不安も感じる。
上弦が何か言った。だが、あまりにも小さい声で、あまりにも小さい口の動きだったので、何を言ったのかはさっぱりわからなかった。よく聞こうと思い、顔を近づけ―――
突然上弦の手が彼の顔をつかんだ。怒りを露わにした表情で、上弦の口が今までのおとなしさからは想像もつかないほど大きく開かれ、
「起きろぉ――――――――――――!!」
◆
「うわっ!」
という声がしてまず棺桶の頭の部分が「べごん」と鳴り「おごっ」という声がし、次に棺桶の頭の部分の床が「がごん」と鳴り「あう」という声がして、静かになった。ツキは机の上から棺桶が踊り狂う様子を眺めている。十秒ほど数えてから、もう一度起こそうと思い口を開き
棺桶の頭の部分の窓が「ばかん」と開いた。中から細い腕が突き出る。手をひらひらとさせ、棺桶の住入はツキに無条件降伏した。
「主人、もう夜だぞ。起きろ」
ツキがそう言うと、棺桶は、
「あー、う」
と答えた。
もう一度食らわせてやろうかとツキは思い、まるでそれを読んでいたかのようなタイミングで棺桶のふたが開いた。
ぼさぼさのよれよれのへろへろが起き上がってきた。眠たそうに目が垂れているのは起き抜けだからではない。いつもこうなのである。アイロンなど見たこともありませんといった風情のワイシャツとジーパンを着て、シャンプーなど聞いたこともありませんといった具合の髪型をしているのに、不思議と不潔な感じがしない。それよりも不健康な印象のほうが強いからだろうか。普通に見れば『ちょっと美形の優男』なのに、青いというか白いというか、とにかく血の気の感じられない顔色が彼のイメージを『なにかの末期患者』に仕立て上げてしまっている。
末期患考の名は、|月島亮史《つきしまりょうじ》という。
亮史はへらへら笑いながら、
「や、ツキ。ご苦労様」
「……」
ツキはじっと亮史の顔を見つめたあと、聞こえよがしにため息をついた。亮史はへらへら笑いを引っ込め、不思議そうな顔をする。
「どしたの、ツキ」
「―――聞きたいか?」
亮史の視線がツキから外れた。右。しかるのち、左。それからまたツキに目を向け、
「やっぱいいや」
「賢明だ」
皮肉たっぷりのツキのその言葉に気づかなかったのか意図的に無視したのか、亮史は猫顔負けの大あくびをして、ずるずると棺桶から這い出して来た。文字通り這い出して来たのである。
ツキがまたため息をついた。今度は自分にしか聞こえないように。
亮史はほふく前進で部屋の隅の冷蔵庫のところまで行くと、中からどす黒い色合いのパックとストローを取り出した。パックには殴り書きで『B型』とある。パックの上部からは鉛筆ほどの太さのカテーテルが生えており、亮史はそれをくわえてちゅうちゅうと血を吸い取った。あまりおいしそうではない。
ツキが口を開きかけ、さえぎるように亮史が言った。
「夢を見たよ」
ツキは口を閉じる。それから、大して興味もなさそうに言った。
「……で?」
亮史は目だけでちらとツキを見る。
「昔の夢」
ツキの表情に、今まで浮かんでいたものとはまったく別の色が混じった。
「どんな夢だ? どのくらい昔だ?」
「かなり昔だと思う。電灯も提灯もなにもなかったから。すごく暗くて、月が出てた」
ツキは前々から、亮史の過去に興味を持っていた。ツキが亮史の使い魔になってから百年以上が過ぎたが、ツキは亮史のことをほとんど何も知らないと言っても過言ではない。「主人はいつ生まれたんだ?」と聞いても「僕は永遠の二十歳前後」としか答えてくれない。確かに嘘
は言っていないのだが、そういうことを聞いているんじゃない。
「それで?どんな内容だった?」
逸る気持ちを抑えてツキが聞くのだが、亮史にとってはパックの中身をすすることのほうが優先らしい。いらいらするほど長い時間をかけて亮史はパックの中身を味わい、それからようやくストローから口を離し、はっきりした声で、
「忘れた」
ツキの背中の毛が逆立った。
「ちょ、わかったわかったちょっと待って思い出すからいま思い出すから!」
ツキが本気で怒るとかなり怖い。さすがに湯ヶ崎の番を張っているだけのことはあり、猫のくせに殺気みたいなものを放ちはじめるのだ。
言葉どおり、亮史は必死に思い出そうとしている。が、それはしょせん徒労に過ぎない。ツキにもそのくらいのことはわかる。長生きをしすぎたためか、亮史は一度忘れたことは容易には思い出せないのだ。当人によれば「栄養が足りないから」らしいが、まさか夢ひとつを思出させるために生き血を飲ませるわけにもいかない。ツキはもうなにもかもがどうでもよくなり、怒りと共に息を吐き出すと、机から飛び降りた。
「とにかく、俺は起こしたからな。あとはどうなろうと知らんぞ。じゃあな」亮史は見ているこっちが情けなくなるほど安心した顔を上げ、
「うん、そうだね。ありがとう。僕もおなか一杯になったし、もう一眠りすることにするよ」
ぷち。
「っっっ馬鹿か主人はっ!あんたがいつもいつもいつもいつもいつもいつも寝過ごしてバイトに遅れて主任にぶん殴られるって言うから俺がせっかく起こしてやったのにもう一度寝ちまったんじゃまったくなんにも全然意味がないじゃないか一体あんたの頭の中にはなにが詰まってるんだこのボケナスっ!!」
はあはあと肩で息するツキの姿を、亮史は「なにをそんなに怒っているんだ」という顔で見つめている。ツキは「ふーっ!」と一声唸ると、くるりと踵を返し、湯気を立てながら部屋から出て行った。亮史はしばらく、まだそこにツキがいるとでも言うように部屋のドアを見つめていた。が、やがてまた大きなあくびをすると、わざわざ這いずりながら棺桶の中に戻っていった。
もちろん寝過ごした。
◆
もう気づいているとは思うが、一応念のために言っておく。月島亮史は吸血鬼である。
実に理不尽なことだ、と彼自身は思っている。
現代社会で生きていく上で、吸血鬼であるというステータスは非常に不利なものなのだ。
まずまともな社会生活が営めない。夜間しか活動できない彼は、実際に何かしでかしたわけでもないのに警察の要注意人物リストにばっちり載ってしまっている。理不尽なことだが、仕方ないといえば仕方ない。昼間は決して外出しない青白いぼさぼさ髪の男が、毎夜毎夜住宅街をうろつくのだ。こつこつ作った爆弾を仕掛けるのではないかと疑われても、まあしょうがない面もある。
しかし警察に目をつけられてると言っても、直接亮史に関係があるわけではない。まったくないわけでもないが、亮史の実力なら警察官の十人や二十人どうとでもなる。それよりも問題なのは、銀行をはじめ、病院、図書館、市役所などの公的機関を利用できないところにある。日の落ちるのが早い冬場などは間に合わないこともないが、それでも銀行は午後三時ごろにシャッターを閉めてしまうので、亮史とは一生縁がない。役所などは何回門前払いをくらわされたか、おそらくこの日本でもっとも『お役所仕事』の言葉の意味を理解しているのは、月島亮史その人である。
それに就職もできない。日光に当たってはいけないのだから当然である。輸血パックの代金を稼ぐために夜間のバイトをしているが、もちろん未来永劫仕事に困ることはないという保証はどこにもない。いまのところ『食費』に困ることはないが、もしどうしようもなくなったら一体どうするのか――言うまでもあるまい。普段は隠し、誰かに見られても『進化した八重歯』とごまかしている二つの牙で、本物の要注意人物になるのみである。
もっとも、吸血鬼にとって都合の悪いことだけというわけでもない。なにしろコンビニができた。二十四時間営業の雑貨屋というのは、亮史にとって長年の悲願だったのだ。吸血鬼とはいえ腹も減れば喉も渇く。輸血パックだけで我慢しろというのは、これから一生ビタミン剤のみを食べて生きていけというのに等しい。まさにこれこそ吸血鬼にとっての夢の城であり、亮史はコンビニを最初に作った人は吸血鬼であると本気で信じている。以前リクエストはがきに『店内の照明の明るさをもう少し落として欲しい』『輸血パックをできれば廉価《れんか》で売り出して欲しい』との要望を書いて送ったことがあるが、未だ改善はなされていない。がんばってほしい。
なにはともあれ、今のところ月島亮史は、これといったトラブルを起こすこともなく、静かな日常を営むことができている。それもこれも、吸血鬼という種族に似つかわしくない彼の温厚な性格のためであると、言えないこともない。
そして、なによりツキは、そのことが不満だった。
使い魔のツキは、百年ほど前に亮史に拾われた。亮史のその血を体内に受け、彼の眷属《けんぞく》と化してからも、ツキは猫の生活を捨てきることなく、ずっと湯ヶ崎のボスとして君臨しつづけている。他の猫にバレないのが自分でも不思議だが、猫は元々個人主義のカタマリのようなものだから、別に誰がいつからボスを務めていようと関係ないのだろう。
しかし、ツキは猫であると同時に魔物でもある。魔物には魔物なりの、矜持というものがあるのだ。まっとうな生き物であることを捨てた瞬間から、ツキはその矜持を持ちつづけ、守りつづけてきたと自負していた。
それなのに、この主人はどうだ、とツキは嘆く。輸血パックで命をつなぎ、バイト先ではいいようにこき使われ、馬鹿にされてもあいまいに笑うだけ。挙句の果てには、使い魔であるはずのツキにすら小言を言われ、それに満足に反論することもできない。なにも静かに暮らすのが悪いというのではない。トラブルを避けるのも賢明な判断だろう。だがしかし、ツキは亮史の、吸血鬼としての威厳も誇りもへったくれもないへらへらとした笑顔を見るたびに、冷静な猫面の奥底でいつもこう叫ぶのだ。
頼むから、もう少ししゃっきりしてくれ。
◆
太平建築現場主任、岡田《おかだ》要次郎《ようじろう》は、理不尽なことで怒ったりはしない。たとえば誰かが遅刻した場合、彼は声を荒げることも嫌味を言うこともなく、まずその理由を尋ねる。口調が不機嫌なのはいつものことだから気にしなくていい。本当にその理由がやむにやまれぬ事情であり、当人が申し訳ないと思っているのなら、岡田は「そうか」の一言で済ませてくれる。
ただし、その理由が理にかなっていないものだった場合、その対処は厳しい。拳固の一発や二発、覚悟しなくてはいけないだろう。
ましてやそれが「二度寝しました」なんて理由だった日には、命の保証すらしかねる。
浮いた。
極めて間隔の狭い放物線を描きながら、亮史はアスファルトに頭から着地し、「ごき」という良い子は真似してはいけないたぐいの音が鳴った。岡田はアッパーカットの姿勢からいつもの腕組みの状態に戻り、周囲の野次馬は哀れみの視線を亮史に送る。岡田はぎろりと光る目で周りの人間をにらみつけ、低い声で怒鳴った。
「なにしてんだ! とっくに仕事は始まってんだぞ!」
慌てて野次馬たちはばっと散開した。岡田はふん、と鼻を鳴らし、短い足を前後させて、倒立に失敗したような格好のままぴくりともしない亮史に近づいていく。
いきなり腹を蹴った。絶妙なバランスで止まっていた亮史の身体がぐらりと傾き、仰向けに倒れる。岡田はその場にしゃがみ、亮史の顔を覗き込みながら、ドスの聞いた声で言った。
「昨日あんだけ遅刻すんじゃねぇって言っただろうが。お前には脳みそがないのか、え?」
亮史は仰向けのまま、強烈な一撃をもらったあごをさする。
「いやはははは、最初起きたときに結構余裕があったんで、まだ大丈夫かなと思ってしまいまして、はい」
「思うなバカ」
亮史の額をこちりと小突く。立ち上がり、亮史の首根っこをつかんで歩き出した。死体のようにずるずると引きずられながら、亮史は抵抗する素振りも見せない。
積み上げられたブロックの前まで来ると、岡田は足を止めて、まるでゴミでも出すような動作で亮史の身体を放り投げた。どさりとブロックの山のふもとに落下し、ようやく亮史は、生まれたてのゾンビのような動きで起き上がった。
「いいか、そのブロック全部あそこのトラックに積め。三十分でやれ。ただでさえ日程が押してるんだ、これ以上遅れやがったらこの道路の人柱にするからな。そう思え」
「……はーい」
やる気のなさそうな受け答えに、しかし岡田はそれ以上なにも言わず、のっしのっしと歩いていった。亮史は肩をすくめて、後ろの廃棄ブロックの山を見た。高さは優に三メートルはあり、重さは四トンをくだらないだろう。二十分でできる、と亮史は思った。仮にも吸血鬼の端くれである亮史にとって、こんな石の塊など積み木のお城に等しい。
とりあえず手ごろなブロックをつかもうと視線を巡らせる。と、亮史の目に、ねじくれて突き出た鉄骨が映った。なにも考えていなさそうな顔でそれをつかみ、無造作にぐいと引っ張る。山が揺れた。亮史はいったん手を離し、腰を落とし、両手でつかみなおして、一気に―――
岡田の投げた握りこぶし大の石の塊がうなりをあげて飛来し、亮史の後頭部に正確にヒットした。さすがにぐらりと来て、その場でたたらを踏み、ブロックの山によりかかってどうにか姿勢を保つ。後頭部をさすりながらふらふらと頭を振る亮史に、岡田の罵声が飛んだ。
「バカヤロウ!ブロック運ぶときは上からやれっつってんだろうが!」
「………」
亮史は恨めしげに岡田を見るが、そのあまりに強い視線に気後れして目をそらす。そんな亮史に第二撃が襲いかかり、ふらつきながらもかろうじて亮史はそれをかわした。後ろのブロックに当たり、鈍い音が耳につく。
「返事はどうした返事はぁ!」
「……はぁい、わかりましたよ」
岡田は「よし」とはかりに頷き、また作業の見回りへと戻っていった。亮史はまだ頭をさすりながら、口の中だけで文句をつぶやく。
先ほどから下手したら殺人未遂クラスの暴行が続いているが、これはなにも岡田が亮史に特別含むものや殺意を持っているためではない。だからといって彼が分け隔てなく暴虐の限りを尽くしているわけでもない。
岡田とて最初は手加減をしていたのだ。懲りもせず遅刻をする亮史に対しても、一発や二発
ぶん殴るだけで、決してここまで過激な行動はとっていなかった。
が、ものごとというのはえてしてエスカレートする。いじめでもなんでもそうであるが、やられている当人が平気な顔をしていれば、際限なく過激になっていくものだ。その点亮史は吸血鬼である。平気な顔どころか、本当に平気なのだから始末が悪い。岡田も工事現場の人間も「なにか変だ」くらいは思っているのであろうが、それはそれ、問題なのは亮史が「恐ろしく力が強い」ことであり「不死身のように身体が丈夫」という二つの点に限られている。そしてそれは両方とも、現場にとっては歓迎すべき特徴であるのだ。不思議に思いはしても、わざわざ折り入って尋ねるほどのことではないのだろう。
それにしても今のがめちゃくちゃ痛かった。本当に痛かった。たいていの痛みなら無視できる亮史が言うのだから間違いない。今のは普通の人間だったら即死するほどの衝撃だったに違いない。
ふう、と息を吐き、思い直してさっさと仕事を終えてしまおうと振り返った。
ちょうどブロックの山がゆっくりと崩れ落ちてくるところだった。
◆
「ああ〜…………あ」
駅前の喧騒の影に当たる場所、ひっそりとしたビルを囲うブロック塀の一角に、モザイクとツキは陣取っていた。そこから遠く離れた工事現場では、今まさに亮史が走馬灯を見ているところである。きっちり押し潰されるのを確認してから、モザイクは呆れたように、ツキに向かって話しかけた。
「あれですね、ボスの主人ってあんまり頭良くないみたいですね」
「…………」
ツキは亮史がバイトしている工事現場に目を向けてはいない。見ると不愉快だからである。モザイクから少しはなれた塀の上に立ちながら、モザイクとは別の方向をスフィンクスのように見つめている。駅前の雑踏など見ていても、何も楽しいことなどないのだが。
「でもあれはな――、ちょっとやばいんじゃないんですか? だってあんな――あ。すごい。腕だけ出てるなんか手え振ってる。良かったですねボス、ボスの主人生きてるみたいですよ」
モザイクはツキに話しかけることのできる数少ない猫だ。ツキの片腕という地位も手伝っているのだろうが、それよりもその気まぐれで底意地の悪い性格がツキの頑固な面を気に入ってしまったからだ。先ほどから、ボスの主人ボスの主人と連呼しているのはツキの気を引くためである。ツキはツキで精一杯無視しているつもりなのだが、いかんせん耳がばっちりモザイクのほうを向いてしまっている。まだまだ修行が足りない。
「おお。すごいすごい。出て来た。しかもぴんぴんしてる。さすがはボスの主人、普通の人間とは一味違う――あ、また殴られた。あんなに丈夫なのに下っ端なんですか?」
「―――モザイク」
ついにツキは負けた。噛みつくような視線をモザイクに向け、
「俺に喧嘩売ってるのか?」
ツキにこんなことを言われれば、湯ヶ崎の大抵の猫は地平線の向こうまで逃げ出す。が、しかし、モザイクは涼しい顔でさらりと言ってのけた。
「いえ別に。なんですか。やっぱりご主人の失態を実況されるのはお恥ずかしい?」
本当にこいつは猫なのだろうか、とツキは思った。ヘビなんじゃないだろうか。そういえばこの前あくびしたのを見たとき、舌が割れていたような気がする。
「だいたいここの見回りはもう済んだんだろう。とっとと先に行くぞ」
「まあそう言わずに。いいじゃないですか、ちょっとくらいゆっくりしていっても」
「――アホらしい。勝手にしろ」
言い捨ててツキは歩き出す。「え〜、もう行くんすか?」という声が後ろであがり、それを追いかけるようにモザイクの足音が続く。ツキは内心で舌打ちをしながらも、それを止めることまではしない。
見回りである。
正確には、散歩兼見回りと言ったほうが正しい。
こんなことをして特になにかあるというわけではない。しかし、湯ヶ崎のボスとしてやるべきことはやらなくてはいけない。見回りをするのは、例えば保健所による猫狩りや、野良犬・野良人間による猫への迫害、さらにはよそ猫の侵入を防ぐという意味合いも持っている。が、無論そんなことがそうそう起こるわけはなく、そもそも猫というのは単独行動を好む動物である。ほとんどの探め事は個人的な問題として処されることが多い。
だから『散歩兼』なのである。毎日毎日町のあちこちを巡回・監察し、スーパーマンのようにすべての揉め事を解決していたのでは身が持たない。適当な場所をうろつき、もし先に述べたような事件に遭遇した場合に限りそれを排除する。無責任などと言ってはいけない。もともと猫のボスというのは『その周辺地域で一番強い猫』くらいの意味しか持っていないのだ。ツキのように他の猫を外敵から守るボス猫など、日本中を探したっていはしない。
それに、まるっきり無意味というわけでもない。その証拠として湯ヶ崎保健所の職員の中でツキの爪跡の洗礼を受けていないものはないし、ツキの写真は『キケン! この猫には決して近づかないでください!』というコピーと共に交番に貼り出されている。ツキにとっては言いがかりもいいところだ。向こうから襲ってこなければ、ツキが他の生き物に危害を加えるということはほとんどない。ネズミをのぞけば、であるが。
「あ」
と後ろから聞こえた声は、モザイクのものどころか猫言語ですらなかった。人間の、メスの声である。振り返ると塀の上のモザイクに向かって人間のメスが手を伸ばしていた。どこででも見かける、茶色い毛色のメスである。同じような毛色のオスを一匹従えている。
「あー見て見てケンジ、猫だよ猫猫」
ケバい服装と化粧に似つかわしくない、子供っぽい声だった。ツキにはどうでもいいことである。ツキはモザイクに向かい、来るなら早く来いと言いかけて、やめた。
モザイクはうっとうしそうな顔をしながらも、メスの手に撫でられるままになっている。
「……なんだようるせえな、猫なんて別に珍しくもねぇだろうが」
「やめろ」とは言わない。
「おーおとなしい。いい子だねぇキミ、毛皮もかっこいいし」
それを聞いて、モザイクの口元が笑みの形に変わる。湯ヶ崎の猫なら誰でも知っていることである。モザイクは自分のまだら色の毛色に、自惚れに近い自信を持っているのだ。ちなみにまだらの英訳は『モザイク』ではないのだが、なぜか誰もが彼のことを『モザイク』と呼ぶ。そんなもんである。
「――俺の毛並みの良さがわかるとは、人間ながらなかなかやるじゃねぇか。いいだろう、俺を撫でることを特に差し許すってああてめえ逆から撫でるな毛並みが乱れるだろ毛並みが」
「あはははははは、嫌がってる嫌がってる。かわいー」
ツキとメスの連れのオスは、似たような温度の低い視線で一匹と一人を見守っている。ふと
メスがツキのほうに視線を向けた。ツキの背中を嫌な予感が駆け抜ける。それは見事に的中し、メスは「ちちちち」と舌を鳴らしながらこちらに手を伸ばしてきた。引っ掻いてやってもよかったが相手はまだガキだ。ツキはひらりとその手をかわすと、早々に後ろの塀まで引き下がった。
メスは悲しげな視線でしばらくツキを見つめたあと、またモザイクの背中に手を伸ばした。「よしよし、お前はいい子だね。あっちの黒いのとは大違いだよ」
モザイクが失笑に近い笑いを漏らす。ツキは意図的にそれを無視する。
「……おい、もういいだろ。行くぞ」
メスの連れのオスが痺れを切らしたようにそう言った。メスは焦ったような困ったような視線を一瞥オスに投げかけ、それからモザイクに目を向ける。モザイクは首をかしげて一瞬メスの目を見つめたあと、ぺろりとその手をなめ、ツキの隣まで飛び退った。
メスが寂しげな目をしたのは一瞬だった。すぐにオスに向き直り、「行きましょ」と声をかけ、二人手をつないで歩き出す。
ふと、メスが顔だけを振り返らせた。口元が動き、
「ばいばい」
という言葉をつむいだ。モザイクはそれに対し、
「にい」
とだけ鳴いた。言葉ではない、ただの鳴き声だった。
メスはそれで満足したようだった。また前を向き直り、今度は二度と振り返ることなく、夜の雑踏へとまぎれていく。モザイクはそれからしばらくしても、そこから視線を離さなかった。
「―――すいませんねボス。行きましょうか」
やがてモザイクはツキのほうを振り返ると、なにもなかったような声でそう言った。ツキはモザイクの目を真正面から見つめ返し、おもむろに、
「前から思っていたが、お前やけに人間と仲がいいな」
モザイクの顔に、緊張が走る。
「……それがなにか?」
「いや、別に。俺だって飼い猫だ。どうこう言えた義理じゃないが、普通野良は人間から遠ざかるもんだろう。だから少し気になって、な」
「……ボスには関係ありませんよ」
モザイクはほんの少し敵意の混じった目でツキを見ていた。ツキは謝りも怒りもせず、ただ一言、
「そうだな」
とだけ言った。前を向き、歩きはじめる。塀から降りて、人間の足元を潜り抜けるようにして道路を駆けた。南口駅前のアーケードに入り、人間では到底入れないような路地裏まで一気に走り抜けてから、ようやくツキは止まった。後ろを振り返ると、モザイクがついて来ていた。気分を害し去ってしまったものとはかり思っていたが、意外に責任感は強いらしい。
無言が続いたのは、ほんの少しのあいだだけだった。
「―――ボス」
「なんだ」
「怒ってます?」
「なぜ」
「……さっきからなにも言わないから」
ツキはモザイクを振り向き、意味ありげに笑ってみせた。
「ほう、お前でも俺の機嫌を窺うことなんてあるのか」
モザイクは口をへの字に曲げ、そっぽを向いてしまった。いつもいつもやられているのだから、こんなときくらいは馬鹿にする側に回ってもバチは当たらないだろう。
「別に」
と、しばらくしてモザイクが言った。
「人間と仲がいいってわけじゃありません。ただ人間にいい顔しとけば。いろいろおいしい目が見れるじゃないですか。うまい餌もらったり、あたたかい寝床にありつけたり―――」
ツキはモザイクの言葉に、ただ一言、ずばりと、
「お前、元飼い猫だろ」
モザイクは、覗き込むようにツキの顔を見た。
「生まれつきの野良はそんな考え方はしない。人間でもなんでも、自分以外の足音はみんな敵って考え方をする。うまい餌もあたたかい寝床も、みんな命あってのモノダネだからな」
ヒゲのあたりに恨めしげな視線を感じる。やがてモザイクがぽつりとつぶやいた。
「―――だからどうだって言うんですか」
「別に」
沈黙。
目の前の雑踏は途切れることがない。アーケードの中へ行くもの、アーケードの中から帰ってくるもの、様々にいるが、本当にご苦労なことだと思う。ツキなど日にほんの数時間の散歩でも疲れきってしまうというのに。これだけあくせく働ける人間というものに、畏敬を通り越して不気味なものさえ感じる。
隣にモザイクがやって来た。ツキと同じようにして座り、ツキと同じように雑踏を見つめる。
「……確かに人間は嫌いじゃないです」
やがて、モザイクが独り言のように言った。
「昔、まだ俺がガキだったころに世話をしてくれたあの子には、本当に感謝してます。―――勘違いしないでくださいよ。俺、別に捨てられたんじゃないんです」
言葉を選ぶような間。
ツキは横目だけでちらりとモザイクを見て、それからすぐに視線を目の前に戻した。
「―――少なくとも、あの子に捨てられたんじゃない。悪いのはあの子の親だ。俺がいなくなって、きっとあの子だって、寂しがったはずです。泣いたかもしれない。……あの子は、本当に泣き虫だったから」
最後のほうは、ほとんど昔話をするような口調だった。
あるいは、モザイクは誰かにこのことを話したがっていたのかもしれないと、ツキは思った。ならば、ツキにできるのは、口を挟まずにただモザイクの話に耳を傾けることだけだ。
これもまた、湯ヶ崎のボスとしての役目かもしれない。
「なにせ、俺がゴキブリをとってきただけでも泣いちゃいましたからね。あのときは、ホント、窓が割れるんじゃないかって思うくらい泣かれました。夜寝るときは俺が近くにいないとダメだったし、ああそれに、こんなこともありました―――ボス、聞いてます?」
「きーてるよ」
目の前の雑踏も、モザイクの話も、途切れることを知らない。まあたまには、こんな見回りもいいかなと、ツキはぼんやり思った。
◆
「たーだいまー」
亮史は高らかにそう宣言するなり、玄関の扉を勢いよく開けた。片手にコンビニの袋を持ち、危なっかしい足取りで家の中に入っていくさまは酔っ払い以外の何物でもないが、その青白い顔を見ればそうではないことがわかる。もともとこんな足取りなのである。
玄関をくぐってすぐ近くにある階段に、どっこらしょと腰を下ろした。そのままの姿勢で、全身の力を抜くようにして段差に寄りかかった。背中に角があたる感触。亮史は顔をぐっと上に向け、逆さまになったホールに向かって大声で呼びかけた。
「つーきー、いるー? 頼まれた本買ってきたよー」
ツキは猫のくせに本を読む。右前足で本の右端を押さえて固定し、左前足でページをめくって読むのであるが、なにせ猫の足である。ページをめくるたびにごそごそと手間取り、ようやくめくれたと思ったら実は爪が引っかかっていただけで何十ページも進んでしまったり、ひどいときはカンシャクを起こしたツキが文庫本相手に三十分近くも格闘していたことがある。吸血鬼の使い魔とはいえ、猫は猫、ということか。
「つーきー、カツオブシも買ってきたよー。食べないー?」
返事はない。どうやら外出中のようである。真夜中の散歩は珍しいことでもないのだが、行ったり行かなかったりの間隔が非常に不規則なのだ。そのためにこうして屋敷の隅まで響き渡る大声を、夜中の二時にあげなくてはいけなくなる。たまに近所から石が投げ込まれるのはそういう理由もあってのことなのだが、亮史自身気がついていないので仕方がない。
亮史は姿勢を正し、脇に置いたコンビニの袋から肉まんを取り出した。しばし真剣な表情でそれをじっと見つめ、それから情けない顔に変わり、ため息をつき、肉まんを『はむ』とかじった。
あー今日も疲れたなー。
確かに亮史は吸血鬼であり、普通の人間の数十倍の体力を持っている。が、それは『疲れない』ということではない。どれほどの体力を持っていようが、それに見合うだけの労働をすれば普通の人間と同じように疲れるのだ。
だが――と、亮史は思う。それも仕方のないことだろう。仕事というのは、疲れるのが普通だ。日当だって人の二倍以上もらっているのだ、愚痴は言えても、文句までは
ふと、思った。
普通の人間の数十倍の労働をしているのなら、普通の人間の数十倍の日当をもらうのが道理ではないのか。
なにやらどっと身体が重くなったような気がした。それ以上考えるのをやめる。
「……ああ…………」
疲れがあふれ出たような、ため息とも言葉ともつかないような声だった。またもや背中を階段に預け、右手以外の全身の力を抜き、だらしなく身体を放り投げたまま肉まんをぱくつく。
―――――?
身を起こし、後ろを振り向く。見覚えのある感覚。消音されたテレビがついている部屋に入ったときのような、無音の音を聞いているような感触。
吸血鬼の端くれとして、亮史は『不思議な力』を持っている。あまりにも大雑把な言い方で恐縮だが、なにしろ亮史自身その力の原理を知っているわけではないので、こう表現するほかない。経験でそれがどんな働きをするか知っているだけなのである。その亮史が知っているうちの『力』の働きのひとつに、『力と力は引き寄せあう』というものがある。
迷惑極まりない。過去何度も、そのおかげでひどい目に会ったことがある。一口に『不思議な力』といっても、電力や磁力や重力のようにさまざまな種類がある。が、『力と力は引き寄せあう』という法則にはそういった種類は関係ないらしい。その昔、いまだ亮史が吸血鬼として生きていた頃などには、彼の『血の力』に惹かれた数々の人外に何度も襲われたことがあった。もっとも、生き血を啜るのをやめた今ではそんなこともほとんどなくなり、たまにあってもせいぜいがはぐれ幽霊くらいのものである。
亮史は肉まんをかじりながら階段を上っていく。警戒の必要はないだろう。亮史に危害を及ぼすほど強力な『力』の持ち主ならば、もっと以前に気づいているはずだ。
階段を上がりきって、少し迷った。亮史は一応、吸血鬼の能力の一環として離れた場所からでも力を感知できる。が、そんな亮史でも、いま感じた力があまりに微弱すぎて見つけ出すことができない。気のせいか――と一瞬思ったが、なんにしろ確認しなくては落ち着かない。
亮史は目を細め、深呼吸をし、精神を集中させようとして、右手の肉まんが邪魔であることに気づく。置き場所がない。左手に持ち替えては意味がない、地面に置いては食べられなくなる。結果、頭の上に落ち着くことにあいなった。これはこれで気になるが、まあ障害になるほどではない。
力を感じる能力をなんのひねりもなく亮史は『感知』と呼んでいるが、その知覚する力の大きさを顕微鏡のようにコントロールする能力を、ミもフタもなく亮史は『調整』と呼んでいる。
『調整』で『感知』の精度を次第に研ぎすませていく。
―――見つけた。
右だ。北側廊下。窓のあるほう。そう言えばあそこからは月がよく見える、今日は月が見えるだろうか―――そんなことを考えつつ、肉まんを再び手にとりかじりつきつつ、肉まんについていた髪の毛をぺっぺっと吐き出しつつ、亮史は角を曲がった。
満月だった。
光が入り込んでいる。ツキがひなたぼっこをしたいというのでしょうがなくつけた窓だが、あながち亮史にとっても都合が悪いばかりではないのかもしれない。
それほど、月の光に照らされ、壁に背を預けるようにして座るその少女の姿は美しかった。 十五、六歳の、パジャマ姿の女の子だった。伏せた顔を隠すように長い黒髪が覆っていて、その黒髪の奥から泣き声が聞こえる。普通の人間には聞くことのできない声。じっと見れば、淡い月光の中でも、彼女の身体を通して向こうの景色を見ることができるはずだ。
オーソドックスな幽霊である。
なんと言って声をかけるべきかしばし迷い、うつむき加減の少女の横顔を見つめる。頬が涙に濡れている。幽霊だって笑いもすれば泣きもする。なぜ泣いているのかよくわからないが、話を聞いてみれば―――
ん?
頭をぽりぽりと掻いた。なにかを思い出しそうな、頭の一番奥でなにかがもぞりと動いたような、そんな感触がした。それがなんなのかよく考える暇もなく、少女がこちらを見た。頭を掻く気配が伝わったらしい。
はっきり言ってしまえば、左目から顎にかけてまでの肉がこづそりと削がれていた。
いままで見ていた横顔はちょうど無事なところだったらしい。左の目にはすでに眼球がなくそれどころか骨まで見えていて、ぽっかりと開いた眼窩はいままで亮史の見たどんな闇より黒
い。頬肉は完全にこそげおち、唇も剥がれて前歯が見えてしまっている。まともな場所はかわいい女の子なだけに余計に怖い。亮史はあとで肉まんもツキにあげようと決心する。
亮史を見て、少女の目が痛みを思い出したように見開かれる。半分だけの唇が開き、
だれか だれか いたい かおが
あたしの いたい め
おねが いた い だれ たす て
思考が垂れ流しになっている。大の男だって怪我をすれば体裁を考えずに悲鳴をあげるのだから、こんな年頃の女の子が顔の半分を持っていかれて冷静でいられるはずがない。
とはいえ、このまま放っておくのもいろいろとマズい事態を引き起こす。幽霊とはイメージの産物であり、そして人の思考や感情がそうであるように、変わりやすい存在なのである。特に死んだばかりの頃はひどく移ろいやすい存在なのだが、その波は時と共に次第に落ち着いていく。幽霊として安定してきた時期の感情が『痛い』や『苦しい』で固定されてしまえばどうなるか。―――要するに、ふと目覚めると枕もとに立ち尽くしこちらを恨めしげな視線でじっとにらんでいたとかいう、そういった種類の話の種になってしまう。
「ねぇ」
と、亮史は声をかけた。そんな声をかけなくても、先ほどから少女は助けを求める視線を一心不乱に送りつづけている。
まずは死んだことを自覚させなくてはいけない。痛みとも苦しみとも縁のない身体になってしまったということを理解すれば、自然とそれらの感覚は消えるはずである。
そのためには――と、亮史は足を一歩前に踏み出した。それを見た少女は顔を歪ませ、ふらつく足を無理矢理立ち上がらせ、こちらに向かって来ようとしてべちゃりと転んだ。それでも視線だけは片時も亮史から離さず、肘と膝を使い、這いずるというよりなにかに引っ張られているといったほうが近い動きで向かってくる。
少女の手が、亮史に向かって、精一杯伸ばされた。
その手をつかむことに、亮史は一瞬だけためらいを覚えた。しかし結果的には少女を救うことになるのだと自分を納得させ、足を踏み出してその手を握ろうとして
亮史の身体から重力が消えた。
―――猫であるツキが歩いてもぎしぎしという音を立てるのだ。
人間でなくとも、それと同等の重さの物体が歩けばどうなるかは、推して知るべし。
◆
一方その頃、ツキはといえば、アーケードは中ほどに位置する『陽来飯店《ようらいはんてん》』の裏口にたたずんでいた。赤と金を基調にした派手な店構えが特徴の中華料理店である。この店の売りは味ではなく量と安さにあるというのはモザイクの評だ。モザイクは湯ヶ崎町内のあらゆる餌場に精通している自称グルメであり、彼の評価はかなり信用していいらしいのだが、所詮飼い猫であるツキにあまり関係のある話ではない。
何事もなく見回りも終え、さあこれから家に帰って思う存分寝ようかという矢先に、モザイクが「ちょっとひっかけていきましょう」と提案したので、こうしてのこのこついて来たのである。なにをひっかけるのかはよくわからなかったが、どうせ家に帰ってもやることがあるわけではない。それに、モザイクの身の上話を聞いてしまった手前、誘いを断りづらかったということもある。そのモザイクはいま、ツキの目の前で尻尾を振りたてて鶏肉を貪っているところである。驚くべきことに鶏の腿肉がほとんど丸々捨ててあった。そしてさらに驚くべきことにモザイクはそれをひとかけらでもツキに譲る気はないらしい。この野郎。
「やだなあボス、自分の口は自分で養うなんてのは基本中の基本でしょうが。ま、心配しない
でも今日はずいぶんあまってますから、少し探せばすぐに見つかりますって」
口元をソースでべとべとにしながらモザイクはそう言った。それきり鶏肉に専念するモザイクを呆れたように見つめたあと、ツキは意を決して残飯があふれるゴミ箱へと飛び乗った。
確かに、これならば食いっぱぐれる心配はない。チャーハンやらギョウザやらシュウマイやら北京ダックやら、むしろ普段のツキの食生活よりもよほど豪勢なメニューが並んでいる。ツキはその中でも個人的に一番好きなエビをくわえ、モザイクの隣までわざわざ持って行った。妙な対抗意識が働いたのかもしれない。
モザイクはツキの持って来たエビを見ると、嬉しそうな声をあげた。
「あ、エビチリじゃないですかそれ。ボスちょっと一口」
ツキはここぞとはかりに冷淡な声で、
「自分の口は自分で養うのが基本なんだろ。欲しけりゃ自分で取って来い」
「……でもそれ」
「お前もくどいな。なんと言ってもやらんものはやらん」
言ってやった。ツキはチープな勝利感に浸りつっ、エビを殻ごとはりばりと食い破り、一気に口の中に収めた。収めてしまった。
はじめに、沈黙があった。モザイクは何も言わない。心配そうな目でツキを見ている。ツキも何も言わない。まるでそこに重大な発見があるのだと言わんばかりに、エビの殻の残骸を食い入るように見つめている。
やがてツキが、深刻な口調で言った。
「なんだこれは」
緊張感がツキの全身にみなぎる。毛が逆立ってきた。暴れたがる身体を絶大な意志の力でねじ伏せた結果、どこかかゆいところを我慢しているようなもじもじした動きをする。モザイクが困ったように、
「あの、エビチリっていうのはチリソースがかかってまして、それでそのチリソースっていうのはなんていうかもうわかってると思うんですけどものすごく辛くてあのボス聞いてます?」
「聞いている」
マフィアのドンを思わせる重たい声だった。ツキの動きがさらにせわしなくなる。その場をぐるぐると回る。意味もなく壁に身体をこすりつける。しまいには神経質そうに自分の毛皮を繕《つくろい》はじめた。まるで自分をなめることで辛さを紛らわそうとしているようで、不覚にもモザイクは笑ってしまい、ツキは凶悪な視線で目ざとくそれを見つけた。
「笑ってる場合かこの野郎。こんなに辛いなら先にそう言っとけ」
やけに早口である。モザイクはくすくす笑う。
「だってボスが話を聞かず食べちゃうからいけないんでしょう。言いかけたのに。ま、そのうち治りますから、今は我慢してください」
「我慢? いま我慢って言ったのかじゃあお前これ食ってみろ俺の気持ちがわかるから」
モザイクの笑いの質が変わった。いままで「くすくす」だったのに、ツキのその言葉を聞いた瞬間「はっ」と小馬鹿にしたような笑いを漏らす。
モザイクは何も言わず、先ほどツキがしたのと同じようにゴミ箱に飛び乗り、手際よくエビを見つけて、それをツキの目の前まで持って来た。
そして、あろうことか、モザイクはエビに付着したチリソース『だけ』を綺麗になめとってしまった。
「…………!」
見ているだけで辛くなった。モザイクは不敵に笑い、
「この味がわからないようじゃまだまだですねボス。まあ精進すればいずれ俺のレベルまでたどりつけますから、がんばってください」
言葉が終わらないうちからツキはぶんぶんと首を振った。『こいつ大丈夫か』という目でモザイクを見ながら、ツキは自分のことを棚に上げてはっきりと確信していた。
やっぱりこいつは猫じゃない。
◆
幸い胸のあたりで止まったものの――いや、ここまで来たらむしろ一気に下まで落ちてしまったほうが、まだ幸運と言えたかもしれなかった。なにしろ手を差し伸べた格好のまま、いきなりずずずずと床にめり込んだのである。それも途中で床につっかかってしまったために、斜め下に伸ばされていた手はまっすぐ水平に少女の顔を指し示す形になってしまった。さらに言えば、少女の手もさっきまで亮史がいた斜め上に伸ばされたままなのだ。その気まずさといったら、筆舌に尽くしがたいものがあった。
少女は亮史を見つめている。さっきまで痛い苦しいと騒いでいたのが嘘のように、ぽかんと驚いた顔で、腕は斜め上に伸ばされたまま。
亮史も少女を見つめている。あまりのことに思考が停止状態になり、とりあえず目の前のものを見る以上のことができない。もっとも、よしんば何か考えられたとしても、亮史は結局少女の顔を見つめることしかできなかっただろう。この状況では説得だろうがなんだろうが笑い話にしかならない。
やがて少女が、ゆっくりと動いた、両腕で自分の身体を支え、その場にへたり込むようにして座り、亮史の顔を上から心配そうに見下ろす。
――だ、大丈夫ですか?
救おうとしていた相手に心配されていれば世話はない。
亮史はあいまいな笑顔で、「ああ、うん」と答え、なにはともあれまずはここから抜け出さなくてはと考えた。まっすぐ伸ばされたままだった腕を床について力を込めると、そのまま脇はばきばきと床に沈む。底なし沼、という単語が頭に浮かんだ。
――あの
顔を上げると、少女がおずおずといった感じで、自分に手を伸ばしているところだった。
亮史は複雑な思いでその手を見つめる。ちらと目を上げて少女の顔を見た。少女の顔が泣きそうに歪んでいるのは、亮史を心配しているためではあるまい。
いずれにしろ、それしかないのだと自分を納得させ、亮史はばぎっと床から腕を抜いた。それをそのまま少女の手に持っていき
少女の手が、亮史の手をすり抜けた。
少女は絶句して、自分の手を見る。それにかぶせるようにして、亮史は言った。
「こんなこと、あんまり言いたくないんだけど――君はもう、死んでるんだよ」
瞬間、ひとつしかない少女の目が、自分の手から亮史の顔に劇的な速さで向けられた。その迫力に圧倒されながら、しかし亮史は一息に言ってしまおうと思った。
「幽霊って、知ってるでしょ。映画とか小説でよく出てくるあれ。ホラー映画とかだと人間に悪さする幽霊って形でものに触れたりすることもあるけど、実際にはそうじゃない。幽霊は思念体だ。思念って言うのは人間のイメージのこと。夢や幻がそうであるように、幽霊もまた、普通は人に触れることはできない」
少女は亮史を見つめたまま、身じろぎもしない。開ききった瞳についに恐れをなし、亮史は顔を伏せて早口で言った。
「―――今、君の手は僕の手をすり抜けたよね。つまりそれは、君が幽霊になってしまったということ。君は死んでしまったんだ。早くそのことを理解したほうがいい。今痛いのも苦しいのも、自分が死んじゃったっていうことがわかればなくなるはずだから」
耳が痛くなるほどの沈黙が舞い降りた。
亮史は顔を伏せたまま、それを上げることもできない。少女の顔を見るのが怖かった。苦痛を和らげるためとはいえ、自分が死んだということを、まだこんな年端も行かない少女に告げることは、ただそれだけで罪悪感があった。
かなりの時間が流れたあと、亮史は意を決して、少しだけ顔を上げた。
少女はうつむいていた。傷跡がなくなったかどうかは、長い黒髪が顔のほとんどを覆っていたために見て取ることはできなかった。ただ、少女のか細い肩が、寒さに耐えるように震えているのだけは、いやでも目に飛び込んできた。
少女は、声を殺して、泣いていた。
「――あ」
亮史は蚊の泣くような声をあげ、ここから抜け出ようと身体を動かした。こんな状況でこんな格好でいること事態が、なんだかひどく悪いことのように思えたからだ。
そして、もちろんと言うべきか、そんな横暴を許すほど床は頑丈にできてはいなかった。
ばぎばぎばぎばぎと盛大な音を立て、亮史は周辺の床を巻き込んで、一階へと落ちていった。あの格好のままでいるよりはマシかなとちらりと考えたのは、彼が意識を失う一瞬前のことである。
目が覚めたとき、目の前には少女の顔があった。正座をしてじっと亮史の顔を覗き込む少女の顔には、もうすでに傷跡は残されていなかった。しかしその表情は相変わらず曇ったまま。亮史は起き上がり、わずかに目を細め、なんと言うべきか迷う。よかったね、では無責任のような気もするし、落ち込まないで、ではさらに落ち込ませそうな気がした。
「――大丈夫?」
結局、それだけしか言えなかった。
――少しは、落ち着きました
少女はそう言うと、耐え切れないように目を伏せた。少しだけ笑っているような口調で、
――あれから結構時間たったんですけど、全然起きないから、心配しちゃった。でも、そのおかげで、ゆっくり考えることができました
不意に少女が顔を上げた。
――まだ、かなり、ううん、すごく混乱してるけど、その……あたしが、死んじゃったっていうのは……
張り詰めた瞳からつうと涙が一筋こぼれ、それをきっかけに少女の顔がくしゃくしゃに歪んだ。鳴咽の混じった声で、どもりながら言葉を続ける。
――ごめ、ごめんなさい、でも、なんで――なんであた、あたし、なにも、なにもわるいことしてないのに、あたし、こんなの、なんでこんな――
そのあとは言葉にならず、ただ次から次へとあふれ出てくる涙を抑えるように、少女は自らの顔を手で覆った。亮史が固まっていると、唐突に少女が、泣きながら「あはっ」と笑った。
――しん、しんじゃっても、なみだ、ながれるんですね。ほら、これ
見るものの胸をえぐるような笑顔を浮かべて、少女は自分の両手を亮史に差し出してみせた。
べっとりと涙に濡れている。自分でなにをしているのか、なにを言っているのか、よくわかっていないのだろう。
少女は亮史に向かってなにかをねだるように両手をつき出したまま、その悲痛な笑顔を引っ込めて、、「ひぐっ」と息を呑んだ。唇を強く結び、まぶたを硬く閉じ、それでも抑えきれない涙がぽろぽろと少女の頬を伝って流れる。
――うっ、ううっ、ううう、うううううううううううううう
泣き顔を見られたくないのか、自分の腕に顔をうずめ、歯を食いしばり、声を噛み殺して、少女は泣きつづける。その姿を見ながら、亮史はゆっくりと立ち上がった。言うべきかどうか一瞬迷ったが、すぐに亮史は口を開いた。自分は彼女の肩を抱くことも、涙を拭うこともできないのだ。それならば、せめで自分にできる唯一のこと――言葉をかけるくらいのことは、しなくてはと思う。
「混乱するのは仕方がない。今はまだ、泣いててもいい」
少女は顔も上げずに泣きつづけている。亮史は努めて明るく言葉を続けた。
「僕には―――なにもできないかもしれないけどさ、それでも、話し相手になるくらいはできるよ。なんならずっとここにいてもいい。君みたいにかわいい女の子だったらなおさら歓迎だよ。僕も、その、ある意味では、君と同じなんだし」
少女が、顔を上げた。
顔は変わらず涙で濡れ、絶えずしゃくりつづけていたが、しかし、少女の澄み切った瞳はまっすぐに亮史の顔を見据えていた。自分の全体重を支えてくれるものを見つめるときの、縋《すが》りきった視線。
亮史はその瞳を真正面から見つめ返し、そして笑ってみせた。
「名前は?」
いきなり聞かれるとは思っていなかったのか、少女はハタから見ていてそれとわかるほどに慌てふためいた。泣きながら言葉をつむごうとして、嶋咽がそれを邪魔する。一息で言おうとして途中でどもってしまう。幾多の失敗を積み重ねて、ようやく少女は言った。
――ゆきむら、まい
亮史は頷き、その場に膝立ちになって『まい』と視線の高さを同じにした。
「いい名前だね。僕は月島亮史」
にっこりと笑い、
「よろしく」
第二幕 千客万来
よく晴れていた。電車の中はがらがらで、人影のあまりない車内には、暖かくなり始めた日の光が差し込んでいる。レレナはその光に目を細めながら、シートの上に膝立ちになり、窓ガラスにほっぺたをくっつけるようにして流れ行く景色を眺めていた。そこからやや離れたドア付近の座席、真昼間から学生服を着てはばからない二、三人の男子学生どもが、なにやらレレナにちらちら視線を送りながら互いに小突きあっている。レレナはそれに気づくこともなく、ぼんやりとした視線を車外に投げかけている。その姿はどこか儚げで、見るものをそれとなく魅きつけるような、危うげな魅力に満ちていた。
といえば聞こえはいいが、早い話、現実逃避である。
空港に降り立って、『歓迎、レレナ・パプリカ・ツォルドルフ様』というプラカードを探すのに四時間を費やした。途中で気がつきそうなものだが、生真面目なレレナは半べそになりながらモンゴル草原より広い空港の中を足を棒にして探し回ったのだ。この空港に自分の探し人はいない、ということを場内アナウンス係に教えてもらったときには、もうすでに限界が近づいていたように思う。
だがしかし、レレナは諦めなかった。きっと連絡に行き違いがあったのだろう。そう思ってしまった。よく考えればローマのガゼット大司教に国際電話をかけてなんとかしてもらうとかそういう解決法もあったのに、いや実際レレナの頭にもその考えは浮かんだのに、なぜかレレナは東京駅への直通バスを選んでしまった。こんなことでいきなり故郷に泣きついたのでは、これからの過酷な任務に耐えられるわけがないという、いかにもレレナらしい思考が顔をのぞかせたのかもしれない。
それに、ガゼット大司教からもらったメモには、きちんと宿泊先の住所が書いてあった。住所といっても『湯ヶ崎センター教会』という大雑把な名称だけだが、それでも場所を特定するのには十分だ。バスから降りて、大都会東京の人いきれに圧倒されながらも東京駅に足を踏み入れ、どうにかして切符売り場までたどり着き
まあ、普通に考えればわかることだ。彼女がほとんど自宅のある教区から外に出たことのない箱入り娘だから、とか、バチカン神学校の規律を馬鹿みたいに守ってきた筋金入りの世間知らずだから、とか、そういう理由のはるか以前の問題だった。十五歳の少女が、何の予備知識もないまま、まったく見も知らない外国の雑踏に放り出されて、迷わないほうが不思議なのである。
案の定、レレナには東京駅に張り出された路線図は、迷路に見えた。
壁を伝って行けばそのうち出口にたどり着くはずだ、と思った。
ほぼ錯乱状態だったレレナに駅員が話しかけてきたのは、そのときだった。不覚にも涙が浮かんだ。駅員もそれを見て驚いたようで、慌てふためくあまり日本語になっていないレレナの言葉を根気よく聞いてくれ、湯ヶ崎への行き方も懇切丁寧に教えてくれた。
「いいかい、まず三番線から出る電車に乗るんだ。ああでも赤い電車は急行だから乗らないで、青い電車に乗って、それで津久篠《やくしの》っていう駅で降りたら今度は五番線の電車に乗って、次は新井田《あらいだ》っていう駅までそれに乗っていく。着いたら西口のバスターミナルからバスが出てるはずだから、それに乗り継いで終点の所官《ところみや》で降りて、そうすると多分すぐそこに営西線《えいざいせん》っていう私鉄が走ってると思うから、今度。はそれの一番線」
ここでレレナの精神がバーストした。
彼女の意識が復旧したちょうどそのとき、駅員が優しく微笑みながら「わかった?」と聞いてきた。それに対し、レレナはそれはもう自信満々に、「わかりました」と答えてしまった。
そこから先のことはあまり覚えておらず、ふと気がついたら今こうして電車に揺られていたのである。流れる景色に目を奪われながら、もはやレレナはこの電車の色が赤だろうが青だろうがドドメ色だろうが知ったこっちゃない。頭のどこかで「このままじゃマズいなあ」と思ってはいるのだが、それが具体的な行動に結びつかないのだ。
多分テストの前日に遊んでしまう人の心理というのは、こういうものだと思う。
景色を眺めるのも飽きて、レレナは座席に腰を下ろした。男子学生どもの熱い視線に微塵も気づかず、深いため息をつく。
どうしよう、といまさら思った。
湯ヶ崎へ行くにはどうすればいいのかどころかここがどこなのかすらわからない。今ごろ湯ヶ崎センター教会の皆さんは心配してらっしゃるだろうか。もしかしたら「時間を守れないような奴にクルセイダルが務まるはずがない」などと言われて、いきなりクビになってしまうかもしれない。そのうえ「我々の存在を知ったからには、かわいそうだが生かしておくわけにはいかない。安心しろ。お前はきちんと神のために戦って死んだと家族には伝えてやる、ふっふっふ」とか言われるかもしれない。いやそれ以前に湯ヶ崎に着けないかもしれない。この可能性が一番高いのが怖い。
いったん現実に戻ってしまうと、それまで棚上げにしてきた不安要素がじわじわと戻ってくる。このじわじわ感が実にキツい。時間が経つごとにレレナの顔が強張ってゆく。瞬きの回数が多くなる。ひとつ不安要素を思い出すたびにひとつ喉が上下する。嫌な汗が背中を伝う。
レレナは、最終手段に出た。
ちょこんと揃えた膝の上に、組んだ指を落として目を閉じた。口の中でつぶやくように、小さな声で、
「―――愛する主イエス様。どうかこの迷える子羊を、あなたさまの栄光の光でお導きください。願わくは私が親愛なる兄弟姉妹の下に無事にたどり着けることを―――」
神頼みである。もちろん、こんなことでどうにかなるなどとは思っていない。神は愛すべき存在であり、頼るべき存在ではない。天は自ら助くるものを助く、散々神学校で学んだことである。優等生のレレナはそのことを頭の中に叩き込んでいたし、無論本気で神様に縋ろうなどと考えていたわ
けでは少しもなく、むしろこれで助けてもらっても全然嬉しくない。すべては神の試練なのだ。解答を見て宿題を解いても、まったく、完全に、これっぽっちも嬉しくないのである。
「次は湯ヶ崎〜、次は湯ヶ崎でございます。反対側のドア開きます、ホームと列車のあいだ離れていますのでご注意ください、次は湯ヶ崎〜」
一生ついて行きます神様。
◆
なにもかもモザイクが悪いのだ。機嫌の悪い虎のような足取りで歩きながら、ツキはそう思う。確かにエビチリを選んだのはツキであるし、モザイクの言うことをよく聞きもせず食べてしまった非というのはあるのだろう。だがしかし。あの野郎はそれを心底面白がってやがった。そうとなれば、ツキにも意地というものがある。なにがなんでも、モザイクの世話になるわけにはいかなかった。
人間でも猫でも、意地を張るとろくなことがない。
モザイクと別れ、水を探しに湯ヶ崎の町に繰り出したツキであったが、よくよく考えればツキは飼い猫である。湯ヶ崎の大体の地理は把握していても、『どこに』『なにが』あるのかまでは理解していなかった。それならそれで他の猫に尋ねようとツキは思ったが、悲しいかな、彼は湯ヶ崎のほとんどの猫たちの間では『生き神様』なのだった。まともに受け答えをしてくれる猫がいない。舌を焼く炎熱の苦しみのために、知らず知らずのうちに不機嫌顔になっていたせいもあったのかもしれない。強者ゆえの孤独を味わったツキは、八方塞の末、寝て起きればこの辛さもどうにかなっているはずであるという結論に達した。
時間はかかったものの、裏路地の暗がりでどうにか眠ることができた。
夢を見た。
全身火だるまになったところで目が覚めた。
冗談抜きでこのままでは死ぬ、とツキは思った。家に帰って売史をたたき起こし、いつもそうするように蛇口をひねって水を出してもらう――という考えもないではなかったが、自分の不始末で亮史の手を煩わせるというのがイヤだった。別に彼が自分の主人だからとかそういう健気な理由ではなく、普段あれだけ小言を言っている手前、なんとなく言い出しづらかっただけである。
意地を張るとろくなことがないというのに。
逆に笑ってしまうほど水は見つからなかった。もう家に帰ってゆっくり寝ようと考えたのは日もだいぶ高くなってからのことで、そのときにはすでに辛さもほとんどなくなっていた。止まない雨がないように、明けない夜がないように、引かない辛さもまたないのである。が、今のツキにそんな哲学をしている余裕は逆さにしても出てこない。今まで俺はなにをしていたんだという徒労感とやり場のない怒りに苛まれつつ、ツキは窓にかかった木の幹をとぼとぼと登っていき、窓から屋敷の中に入り込んだ。
廊下に開いた大穴の前でパジャマ姿の幽霊が正座をしていた。
ツキに何ができたというのか。思わずその場に座り込み、まじまじと幽霊を凝視してしまったとしても、誰も彼を責めることなどできない。
幽霊が視線に気づいて顔を上げた。
まだかなり若いメスだった。十五、六歳くらいだろうか、この年頃のメスの大部分がツキを見てそうするように、彼女は顔をほころばせ、ツキに向かって手を伸ばしてきた。何かを考えているような表情でメスを見つめていたツキは、その手が触れるか触れないかというところで、きっぱりとした声で言った。
「誰だお前は」
メスの手がぴたりと止まる。凍りついた表情の口元が「え」と開いて「あ」と開き、身体ごとツキに向けて、結婚でも申し込むのかと思うくらい丁重な礼をぺこりとする。
――あっ、あの、|雪村《ゆきむら》|舞《まい》と申します
「…………」
ツキは何も言わず、再び舞の顔をじっくりと観察し始める。まばたきひとつしないツキの沈黙に、舞の表情が刻一刻と焦りと混乱の度合いを増していく。ついにそれがあふれ出すというまさにその瞬間、ツキは舞からふいと視線を外し、廊下へと降り立った。
舞のすぐそばを、まるでそこには空気しかないとでも言わんばかりの態度で横切り、大穴をよけてホールへと向かう。舞が呆然としている気配がびんびん背中に伝わってくるが、そんなことはツキの興味のはるか彼方だ。とにかく今は一刻も早く寝たい。
ツキの寝床はその日の天気や気分によって微妙に変わってくる。ちょっと昼寝を楽しみたいときはどこか日光やそよ風の当たる場所で、泥のように疲れ果てているときは暗くて静かなやわらかい寝床で。ちゃんとそんなときのことも想定して、ホール階段の脇に右から左へ『んかみ めひえ』と書かれた化石クラスのダンボールが置いてあり、そこに内緒でくすねた亮史のTシャツが詰められている。よし今日はそこで寝ようと決意したところで、上から逆さまになった舞の顔が割り込んできた。
――ちょっときみ!
そこでなんと言うべきか数瞬。言いよどみ、結局出てきた言葉が、
――どういうつもり!?
知らんよ。
ツキは無視して階段を降り始めた。その後ろをふわふわ浮かぶ騒音がついていく。
――ねぇ、ねぇってば、ちょっと聞いてよ! あなた月島さんの猫なんでしょ? あたし幽霊になったばっかりでなにがなんだかもうさっぱりってだから寝るな!!
ダンボールの中でツキは丸くなり、それを叩き起こそうと舞の手がぶんぶか振り下ろされる。
が、いかんせん幽霊でありどうあがいても触ることができない。少女漫画のヒロインを妬む性悪女が計画に失敗したときに発するような「きいいいいい」という叫びを聞いて、ツキは思った。ちょっと面白い。
――あっそうだ、あたしの声は聞こえてるんじゃない。起きないとわあわあ騒いで絶対寝かせてあげないんだから!それでもいいの!
ツキが片目だけ開いてうっとうしそうに舞を見る。その視線に、舞はそれとわかるほど怯んだ。しかしその表情はむっつりとした仏頂面のままで、ツキは仕方なしに口を開く。
「何の用だ」
舞はぐっと言葉に詰まった。最初から特に用があったわけではなく、単に無視されたのが気に食わなかっただけであり、ツキはそのことがわかっているくせにわざとこういう。言い回しをする。舞は言い訳めいた口調でぼそぼそと言った。
――だから、その――あたし幽霊になったばっかりで……
「知らん」
――しっ、知らんってことないでしょ! きみ月島さんの飼い猫じゃないの!?
「それがどうした」
――だ、だから……
「俺には関係ない。聞きたいことがあるなら主人に聞け」
――月島さんは、もう寝ちゃって――
「日が落ちれば勝手に起き出してくるから起きてから聞け」
そしてついに舞はなにも言うことがなくなった。静かになった空気に満足し、再び目をつぶり、これみよがしに耳まで伏せたツキは、そのときの舞の冷たい決意とでもいうべき表情を見逃していた。それまで仁王立ちにツキを見下ろしていたのを、急に膝立ちになって、両手で小さなメガホンまで作り、舞は言った。
――わあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!
大人気ないなどと言ってはいけない。彼女はまだ中学生に毛が生えた程度の年齢であり、それにそもそもツキのほうがずっと大人気なかった。彼はむっくりと起き上がると、まだまだ続く「わああああああ」に向かって容赦もクソもない大声で、
「やかましい!!」
舞の身体が吹っ飛んで壁を突き抜けていった。ただの猫と侮ってはならぬのはこういうところだ。吸血鬼月島亮史の使い魔としてそれなりの力はきちんと持ってるし、年齢だって長寿やギネスなどという甘っちょろい単語をはるかに超越している。昨日亮史を起こしたときのように、力を声に込めて放つという芸当だって造作もなくできる。昨日今日死んだばかりの即席幽霊など足元にすら及ぶはずもなく、多分舞は隣町くらいまで飛んで行っただろう。どうやって帰って来るのか、それを悩むのはツキの仕事ではない。
ツキは、くあ、と大あくびをすると、再び眠りの世界へ旅立った。
今度は夢を見なかった。
◆
「あのすいません、湯ヶ崎センター教会はどこかご存知ないですか?」
「すいません、ちょっとお尋ねしたいんですけど。湯ヶ崎センター教会ってどこでしょう?」
「ちょっとよろしいですか、湯ヶ崎センター教会へはどう行けばいいのでしょう?」
これだけ尋ねたのに、まともな答えはひとつも返ってこなかった。
レレナが最初心配していた『外国人だから』『変な日本語だから』答えてくれないのではなくて、むしろ向こうのほう(特に男性)から積極的に「どうしたの?」と声をかけてきてくれた。
が、肝心のレレナが行きたい場所のことになると、誰ひとりとして知っているものがいない。レレナにとっては信じがたい話だ。自分の住んでる教区の教会の場所など、自宅の住所よりも先に頭に思い浮かべることができるというのに。
北に南に右に左にうろうろした結果、今レレナは人通りさえまばらな、多分住宅街かどこかの通りにたたずんでいた。湯ヶ崎についたころには確か午後一時をだいぶ回っていて、それからかなりの時間をほっつき歩いて潰したのだ。すでに太陽はかなり傾いており、否が応でもレレナの焦燥《しょうそう》を煽《あお》る。
春の強い風が、レレナの暗い茶色の髪をなでた。片手で髪を押さえながら、レレナはひとつ身震いをする。春とはいえまだ風は冷たく、そうでなくとも今着ているのはキリスト教丸だしのシスター服なのだ。注目を浴びるのには役立っても、あまり防寒効果は期待できなかった。
レレナは鼻をすすりながら足を踏み出した。どこかから音楽が流れてくる。それに混じって『子供はとっとと家に帰れ』という趣旨のアナウンスが流れてくる。その音楽がまた寂しさを増幅させるために作られたとしか思えないメロディで、帰る家すらないレレナにとってはドナドナに等しかった。
ふと顔を上げると、まわりには誰もいなかった。
ごくり、と喉が鳴る。
焦りと寂しさと心細さが急にこみ上げてくる。それに突き動かされるようにレレナは足を動かして、もっぱら視線を上にあげ、シンポルの十字架を探す。知らず知らずのうちに、肩からかけた小さ目のショルダーバッグから十字架を取り出していた。レレナが故国から持って来たのはこのショルダーバッグだけで、中にはパスポートと帰りの航空券と財布と十字架とガゼット大司教のメモしか入っていない。せめてガイドブックでも持ってきていればかなり違っていたものを、「観光旅行じゃないんだから」の一言でリストから外した自分を、レレナは激烈に後悔していた。
ふと、視界の端を、何かが横切った。そちらに目を向ける。
地図だった。
だからどうしたとレレナは自虐的に思う。立て看板の地図など住宅街に迷い込んでから両手の指に余るほど見た。どれもこれも暗号かと思うほどわかりづらく、それにどっちにしろ湯ヶ崎センター教会の湯の字も見当たらなかったのだ。どうせ今回も見つかるはずないと頭では思っているのに、悲しいかなわずかな希望がレレナの足を地図へと向けさせる。
絶望が一面を覆った表情でレレナは地図を見る。直線定規だけで描いたようなひどく大雑把な図形。大村酒店。七福寿司。湯ヶ崎靴のムラタ。センター睡蓮堂書店。教会ブティック―――
ん?
鼻先を地図につきつけて、食い入るように見る。
『湯ヶ崎靴のムラタセンター睡蓮堂書店教会ブティック』
「あ」
湯ヶ崎靴のムラタセンター睡蓮堂書店教会ブティックではない。『湯ヶ崎』『センター』『教会』が余りに長すぎる名称のため地図に入りきらず、縦に三分割されてそれぞれが他の店舗の名前とくっついているように見えたのだ。
そう理解した途端、胸の奥が「どくん」と鳴り、次の瞬間には駆け出していた。やっぱり神様はいる。苦労した分だけ報いをくださるんだ。地図によれば、湯ヶ崎センター教会は赤い矢印で示された現在位置から二件しか離れていない近距離にあった。レレナは地図の脇の道路を全力で駆け抜ける。ようやく見つかった、その思いに涙があふれ、視界が歪む。もう軒先では教会の皆さんが待ってらっしゃるかもしれない。叫びだしたくなる衝動を必死に抑えながらレレナは角を曲がり――
歪んだ視界は駐車場を映した。
心細さのあまり錯覚が見えているらしい。レレナは目をこすってもう一度確認する。するとそこには城と見まごうばかりの立派な教会がそびえ立っているわけはもちろんなく、いくら目をこすっても駐車場は駐車場で、月極は月極だった。
立ち尽くしていたのはどのくらいのあいだだったか。ふと気がつくとあたりはすでに真っ暗になっていて、こうこうと灯る電灯のじりじりという音が、なんだか今の自分にぴったりあっているような気がした。
ナメクジよりも活気のない足取りでのろのろと来た道を戻る。停止状態にあった思考が再び活動しはじめるが、それは必ずしもいいことではない。なにしろ、地図に載っていたはずの教会が駐車場だったのだ。それの意味するところはつまり……
やめよう。
これ以上考えたら、本当に泣いてしまう。
視界の端を掲示板が横切り、レレナの中のなにかに火がついた。数歩行ったところで堪忍袋の緒が切れ、業火の視線を後ろに送るとそこには裏切り者の地図がいて、裏切り者はこう言ってレレナをせせら笑った。
『一九九四年度 湯ヶ崎町内地図(区画整理によって場所の名称が変わる可能性があります)』 ケンカキックをくれてやった。
◆
なにが起きているのか、一瞬わからなかった。上下左右の感覚がなくなってしまったような、宇宙遊泳というのは絶対こういう感じだと思う。頭があるほうを上、足があるほうを下と勝手に決め、ふいと足元に視線を向けた。
壁がある。自分の胴体は壁から生えていた。
腕を上げると、灰色の水面から上がってくるように、するりと腕が抜けてきた。
視線を前に向ける。そこには地面があり、今自分は重力方向に対しうつぶせになっているということを理解する。よっこらしょと身を起こし、壁をすり抜けて民家側から道路側へと移動。あたりを見回す。
見知らぬ町の、見知らぬ通りだった。
あんのクソ猫。
舞は猛然と走り出す。とりあえずここがどこかを確かめなくてはいけない。走りながら視線をあちこちに送り、電柱に貼り付けられた住所を確認する。所宮《ところみや》2の4の4。所官といったら湯ヶ崎の隣町だ。かなりの距離を飛ばされたことがわかり、なにがなんでもあの屋敷にたどり着いてあのバカ猫を蹴り飛ばしてやろうと心に誓う。足を止め、腕を組み、にらみつけるような目つきで、改めて回りに視線を巡らせた。よろしい、と思う。ひとまずは、怒るのはやめにしよう。一人で怒ったところでどうにもなるものではない。怒りを鼻息とともに外に吐き出して、それでも目いっぱい機嫌の悪そうな顔で、舞はゆっくりと歩き出した。
時間の経過にいまいち実感が持てなかった。あまり長く気絶していたという気がしないのだが、すでに空はオレンジ色で、遠くでは『夕焼け小焼け』のメロディが流れている。学校帰りの小学生の一団が、舞の横をはしゃぎながら走り抜けていった。舞はそれを目で追いながら、十字路へと足を踏み出す。
湯ヶ崎に戻る、といっても、どこをどう行けばいいのかさっぱりわからない。その辺の電柱にはきちんと住所が記されているのだが、どちらへ向かえば湯ヶ崎にたどり着くのかまでは教えてくれない。誰かに尋ねるのが一番手っ取り早いのだが――と、そこまで思ったところで、唐突に実感が舞の中に湧いてきた。
――そっか、死んじゃったんだっけ
今はもう誰にも聞こえない声でつぶやく。と、そのすぐ横を、自転車に乗ったサラリーマンが疾走していった。複雑な表情で、十字路を左に曲がる。前方から買い物帰りの主婦が一人。無言で道を譲った舞の目の前を、何も気づかずに通り過ぎていった。悲しみも怒りもなかった。自分でも不思議なくらい平静な気持ちで、自分は死んだのだということを、舞は受け止めていた。
ふと思い立ち。舞は地面を蹴って宙に浮かんでみた。どこかの漫画で、空を飛ぶ幽霊というのを見たことがある。それを実践してみたくなった。
舞の身体がどんどん浮上していく。家々の屋根を越えたあたりではまだまだ余裕で見下ろせていたが、人の姿が親指ほどの大ききさに見えるくらいの高空にまで昇ると、さすがに舞の顔からは表情が消えていた。高さもさることながら、やたらと強い風のごうごうという音がかなり怖い。地に足がついていない感覚も落ち着かない。降りることにする。
ふわりと降り立って、舞は歩き出した。もはや自動車もガードレールも関係ない。堂々と車の行き交う車道を横切る。が、さすがに自動車が自分の身体を素通りして行ったときには、大丈夫だとわかっていてもひやりとした。
舞は顔を上げ、さてどうしたものか、と思った。とりあえず今すべきは、あの屋敷に帰ることだ。あの家の持ち主の、やたらと不健康そうな男なら、これから自分がどうすればいいのか教えてくれるかもしれない――しかし、一体あの人はどういう人なんだろう。結局詳しいことを聞きそびれたまま、「もう朝だから」ととんちんかんなことを言って寝室に入ってしまった。普通朝になったら仕事や学校に行くのではないのか。もしやホスト?
舞はぶんぶんと首を振った。こんなことを考えていても仕方がない。なにはともあれ、あの屋敷へと帰らなくてはいけないのだが、しかしどうすれば――
舞の目に、沈みつつある太陽が映った。ピンと来た。
確か、湯ヶ崎は所宮の東に位置するはずだ。隣町なので、大雑把な地理くらいなら知っているということは、つまり、あの太陽とは逆方向にひたすら歩いて行けば、湯ヶ崎には着くはずだ。自分でもだいぶ適当な案だと思ったが、背に腹は変えられない。舞は太陽に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。ともかくも湯ヶ崎にたどり着かないことには話にならない。そもそもあの屋敷が湯ヶ崎のどこにあるかすら舞は知らないが――あれだけ大きなお屋敷なのだから北湯ヶ崎の住宅街のどこかだろう――今さっき確かめた『浮遊』を使えばどうにかなる。と思う。
と、考え事をしているうちに、目の前に壁が迫っていた。何気なく突き当たりを曲がろうとして、自分には家も壁も関係ないのだということを思い出した。まっすぐ突き抜ければいいだけの話だが、なにを思いついたものか、舞の顔にイタズラをするときの子供の笑顔が浮かんだ。
――お邪魔しまあす
壁に向かってぺこりとお辞儀をして、舞はするりと壁の中に入って行った。こじんまりとした庭。それを横目でちらりと見て、家の中へと入り込む。
ござっばりとしたリビングだった。どきどきしながら、舞はキッチンをのぞき込んだりドアから少し首を出したりして、家の中を探ってみた。が、どこを探しても誰もいない。舞は拍子抜けして、真っ白なソファの上に腰を下ろした。ソファに身が沈む。誇張ではなく本当に沈んだ。お腹のあたりまで沈み込み、藤の上で両手を組んで、さてこれからどうしようと思い、
「だれ?」
跳ね上がるようにして立ち上がり、舞は慌てふためいて後ろを振り返った。
十歳くらいの少女がいた。目をぱちくりさせて、舞のことをじっと見詰めている。その目には不審の色はまったく浮かんでおらず、念のため舞は自分の後ろを確認してみたが、そこには透明なテーブルと大きなテレビがあるだけだった。
「おねぇちゃん、だれ?」
やはり自分だ。サーチライトを当てられた泥棒の気分。舞は両手を胸の前で小さく振り、しどうもどうになりながらどうにか口を開いた。
――あ、いや、あの、怪しいものじゃないんだけど
「……ふうん」
めちゃくちゃ怪しい、と自分でも思った。が、一方で、子供には『見える』というのは本当だったのか、などと考えていた。少し嬉しい。誰からも見捨てられたわけではないのだ。
――あ、あのさ、お母さんはどこ? いないみたいだけど
苦し紛れに言ってみたその言葉に、少女はそれとわかるほど不機嫌顔になった。
「パパはおしごと、ママはおけいこ、あたしはひとりでおるすばーん」
――ああ……そう
言葉を濁した舞に、少女はふと思いついたように言った。
「そうだ、おねぇちゃんあたしと遊んでよ。タイクツでタイクツでしょうがないんだもん。ね、お願い、ママが帰って来るまででいいから」
ヤブヘビだった。少女の瞳は真剣そのもので、無下に断るのがなんだかかわいそうな気もする。それにもし母親が帰ってきて「今このお姉ちゃんと遊んでたの」などと言われでもしたら、このあたりの怪談話の格好の材料になってしまう。さすがにそれは遠慮したい。舞はうろたえながら、なにか言い訳の材料がないかと視線を巡らせる。少女が不思議そうに舞を眺め、舞は少女にむかって愛想笑いを浮かべる。その笑顔が凍りついた。フラッシュパック。
(おでかけ?あたしもいっしょに行っていい?)
(……だめよ。あなたは留守番)
(またぁ? もうおるすばん飽きたよ)
(――あたしの言うことが聞けないの?)
(…………)
(留守番。鍵はあたしがかけとくから。誰か来ても絶対開けちゃだめ。いいわね)
(…………)
(返事は)
(…………はい)
(おい、。いいのか?)
(なにが?)
(あの子、まだあんなに小さいのに、ひとりにして)
(じゃあどうするの? 一緒に連れて行く気?)
(……そうは、言っていないが)
(いいわよ、連れて行きましょうか。部屋の隅に置いておいて、どんな反応するか見てみましょうよ)
(――おい、聞こえるぞ)
(ふん、構うもんですか。放っておけばいいのよ、あんなの。邪魔なだけよ。あれが、あいつがいるから、あたしは――)
「――ぇちゃん? おねぇちゃん? どうしたの?」
気がつくと、いつの間にか足元にまで近寄って来た少女が、怪訝《けげん》そうに舞の顔を見上げていた。舞は青ざめた顔でその少女を見る。だだっぴろいリビングにひとりきりの少女の姿に、舞は心の底から恐れおののいた。
――ごめんなさい、あたしもう行かなきゃ
早口にそう言うと、舞は逃げ出すように身を翻した。少女がなにか言ったような気がしたが、確認している余裕はなかった。一刻も早くこの家から逃げ出したかった。
帰りたい――と、生まれてはじめて思った。帰る場所は、あの雪村の家などではない。勝手もよくわからない、場所すら把握していないあのぼろ屋敷に、帰りたいと思った。
あの、不健康そうな、だけどとても優しそうな男の人の笑顔が、頭に浮かんだ。
◆
ツキはばかりと目を開けた。あられもない姿で横たわっていた己の身体をきちんと元の体勢に戻し、ダンボールの中で立ち上がりあくびをする。寝起きのぼーっとした視線をあたりにさ迷わせ、それからおもむろに毛繕いを始めた。
すでに日が傾いていた。時間にすれば五、六時間も寝ただろうか、それでもまだ少し寝たりないという気がした。猫は元来一日二十時間寝る動物である。もっともツキは使い魔であり、睡眠時間を普通の人間くらいまで減らしても何の差しさわりもないのだが、それはそれ、やはり猫である以上眠りの魅力は断ち切りがたいものがあった。
毛繕いを終えたツキは、ふと寝る前のことを思い出した。舞とかいう幽霊娘に会った。そのあとどこかへすっ飛ばしてやった。自分の安眠が妨げられなかったということは、まだどこぞで迷子になっているのかもしれない。
ツキはまたあくびをひとつ。思いっきり身体を伸ばし、のそのそとした動作でダンボールから出る。傾いてはいるもののまだ日光の勢力範囲内であり、ということはまだしばらくは亮史が起き出してくることはないだろう。
ツキはしばし考える。なぜ幽霊がこの家にいたのか、まあ大体の予想はついた。なにがあったのかは知らないが、お人好しの主人のことだ、めそめそ泣いている幽霊に同情して袷ってきてしまったのだろう。しかし、自分がその幽霊を吹っ飛ばしてしまったと主人が知ったら、一体どういうリアクションを取るだろうか。
ツキの顔が見る見るうちに曇っていく。あの主人に限って、俺を怒るなんてことはまずないだろう。せいぜい不満気に自分をにらんで、しかし自分がにらみ返したらすぐに視線をそむける、そのくらいが関の山だ。
ふう、と息をつきながら、ツキは思う。
そんな主人は、見たくない。
階段に敷かれた絨毯に、ツキは足をかけた。真っ赤な絨毯に視線を落とし、一段一段、ゆっくりと登って行きながら、ツキはこの絨毯にまだシミひとつなかった頃に思いをはせる。
主人がボケだしたのは、いつからだったろうか。
昔はよかった、と、ツキは毎日のように思う。なにしろまだ亮史がボケていなかった。普通使われる『ボケ』の意味とはかなり差があるだろうが、それでもたまに亮史はそうとしか思えないような行動を取る。「こうすればちょっとはおいしくなるかも」などとほざき輸血パックに調味料をたらして、結果三日ほど腹痛で寝込んだときは、真剣に見捨てようかと思った。
ツキは今でも、はるかな昔の、まだ自分が普通の猫であった頃の生活を思い出すことができる。もう百年以上前の話だが、明月堂の寅吉や魚好の玉助や六角庵の春菊の顔もはっきりと頭に思い浮かぶ。寅吉は飼い犬の餌を盗み食いするほど意地汚かったし、玉助はオスのくせにいつもいつも毛繕いをしている酒落者だったし、春菊《しゅんぎく》はツキの子供を六匹も産み、一匹たりとも死なせることなく立派に育て上げてみせた。臨終の間際、そのことをそれは自慢気に語った春菊の顔を、ツキは一生忘れることはないだろう。
そして、あの頃の亮史は、今とはまったく別の存在だった。すっかり人間の生活が板についてしまった今では想像もできないほど、あの頃の亮史は孤高で誇り高く、そして冷酷だった。だからこそツキは亮史を尊敬し感服し、彼の使い魔として共に生きることを選んだのだ。
その挙句がこれでは、まったく詐欺ではないかとツキは思う。
大穴のある廊下に着いた。やはり舞はいない。ツキは穴をよけ、木の寄りかかった窓にひょいと飛び移りながら、今日は主人とは顔をあわせないでおこうと心に決める。なんだかいろいろ考えてしまって、今は主人ののほほんとした顔を見るだけで怒ってしまいそうだ。
木を半分ほど降りたところで、西日が目に入った。ツキは目を細め、なにをするべきかを考える。見回りは昨日やったが、別に二日連続でやってはいけないなどという決まりはどこにもない。そうしようと思い、それからちらりと、別のことも考える。
――もしも、それでも時間が余ったのなら、ついでのついでに舞を捜してやってもいいかもしれない。道に迷いべそをかいている舞を見かけたら、ここに連れて帰るくらいのことはしてやろう。そのくらいしてもいいと思う程度には、先ほどの自分の態度に、ツキも責任を感じていた。
◆
「うわっ!」
叫んで亮史は飛び起きて、懲りもせず頭を棺桶のふたにぶつけた。不意を突かれた。ブロックの山に押しつぶされても平気な割には、こういう細かい痛みに亮史は弱かったりする。このまえタンスの角に足の小指をぶつけたときは死ぬかと思った。
つったー。
眼に涙すら浮かべて。亮史は棺桶のふたを外し、むっくりと起き上がる。命に関わることなので室内の気密は完壁であり、光の粒子のひとかけらさえ入って来ることはできない。自然、室内は完全な暗間で包まれていて、亮史は吸血鬼であることの特典のひとつ、『夜目』を使用して机の上の時計を見る。
午後六時を少しまわったところだった。亮史は頭をぼりぼり掻きながら、一体何事かと思う とんでもない大声だった。夢の中まで響いてきた。寝ていたのではっきりとはわからないが「あったあった」とか、そんなことを連呼していたような気がする。寝起きのぼんやりとした視線を天井あたりにさ迷わせて、亮史は奇妙に感じる。あれは確か、上から聞こえてきた。普通の人間は民家の屋上で「あったあった」などと叫んでまわったりしない。とするとやっぱり夢だったのだろうか。
――つーきーしーまーさああああああん! どーこー? どこですかあー?
……………。
一瞬誰の声かわからなかった。まだほんの少ししか話をしていないからということもあるがそれ以前に声の質がまったく違っていたからだ。突き抜けて明るく、そしてどこか差し迫ったようなその声に、亮史は自分の名前を呼ばれているのにどういう反応をすればいいのかわからない。
真っ暗な室内の、亮史の見ている前を、薄く透き通る舞の身体が右から左へと駆け抜けていった。壁に吸い込まれる前にふと何かに気づいたような素振りを見せ、亮史のほうを振り返って「あっ」という顔をしたところで向こうまで突き抜けていった。しばしの時間が流れ、戻って来ないことを不審に思った亮史が立ち上がりかけ、耳元で、
――わっ!
びっくり箱みたいな動きで亮史は棺桶から飛び上がり、着地に失敗して滑って転んだ。顔面から墜落。この男はつくづく頭を打つのが好きだ。
舞は手を叩いて大喜びである。亮史は涙眼で鼻をさすりながら、怒るというよりはむしろ呆れたような視線を舞に向ける。
――ねぇ月島さん聞いてよ、ひどいんだよあの黒猫
「ま、舞くん? どうしたの?」
舞は眼をぱちくりさせ、
――なにが?
「いやだってほら、昨日とあまりにも――その、人格が違うから。なんかあったの?」
舞は「あー」と声をあげ、顔の前でひらひらと手を振ってみせる。
――あれね。あれ、なしなし。だってほら、最初はなにがなんだかわかんなくて混乱してたんだけど、落ち着いて考えてみると幽霊もそんな悪いことはっかじゃないしね。ごめんね、なんか心配させちゃって
笑いながら言う舞に、亮史はぽりぽりと頭を掻き、困惑したように眉を寄せた。
「……んー、まあ、元気が出たっていうならそれでいいんだけど」
でもなんだか騙されたような気がする。
――でしょ? やっぱほら、人生ポジティブにいかないと
亮史はじっとりとした目で舞を見る。確かに、プラス思考なのはいいことだ。が、こんな短期間のあいだに、あんなに悲しそうに泣いていた少女がここまで明るくなるものだろうか。無闇に上機嫌な舞の笑顔には、迷子が親を見つけたときのような、安心感によるハイテンションが浮かんでいる。
鼻の痛みも引いてきた。亮史は立ち上がり、大きく伸びをして、ふと気がついたように舞を見た。
「黒猫って?」
――あ、そうそう、聞いてよ月島さん、あの黒猫ね……
「ツキのこと?」
――ツキっていうの? ふん、変な名前。まあいいや、それでね、ツキくんったらあたしが「幽霊になったばっかりでなにもわからないからいろいろ教えてください」って頼み込んでるのに「知るか」とか言ってぐーすか寝ちゃって、それであたしが起こそうとしたら今度は逆ギレで「やかましい!」ってすっごい大きな声出して、なんだか知らないけど所宮まで飛ばされちゃったんだから。おかげでこの家探し出すのにものすごく手間取ったし、ああもう、思い出すだけで腹が立つなあ
ああ、と亮史は得心した。幽霊になったばかりの舞にとって、この家と自分は確かに『親』のようなものだ。それにしてもツキもずいぶん大人気ない真似をする。たかだか眠りを邪魔されたくらいで力を使うことはないのに。
――でさ、月島さん
「ん?」
――早速だけど、教えてくれない? いろいろ、基本的なこと
亮史は息を吐くようにして笑った。うん、と頷き、
「いいけど、ここじゃなんだから居間まで行こうよ。起き抜けで喉渇いちゃったし」
――うん。そうしよ
「……あ、その前に」
大丈夫だとは思うが念のため、亮史は舞に尋ねる。
「もう日は沈んでた?」
舞の怪訴そうな顔を見て、亮史は昨日のことを思い出した。あのあと結局、まだまだ泣き止まない舞をなだめすかしているうちに朝が来てしまい、ほとんどなにも説明する暇がないまま眠りについたのだった。亮史は棺桶を指差し、
「あのさ、まだ言ってなかったけど、それ見ればわかると思うんだけど」
舞は指示どおり棺桶に目を向け、再び亮史に視線を戻したときには、「なにが?」という顔をしていた。それを見た亮史の、棺桶に向けた指がへたりと下を向く。普通気づかないものだろうか。いろいろ考えた末、ストレートに言うことにする。
「実はね、吸血鬼なんだ、僕」
◆
角を曲がると、にこにこ笑顔がそこにあった。
ツキはそれを見て表情ひとつ変えず、少しも歩く速度を落とさずにぐるりとUターンした。何事もなかったかのように踵を返すツキの背中に、無邪気な声が突き刺さる。
「ツキさんツキさん。こんにちは」
無視するわけにもいかない。ツキは背を向けたままバツが悪そうに顔だけで振り返り、
「――ユキ」
「こんにちは」
「…………」
無言のツキに、不意にユキの顔が泣き出しそうに歪んだ。
「――こんにちはあ」
「――こんにちは」
途端に先ほどと同じ曇り一つない笑顔に戻る。まずい奴に見つかった、とツキは思った。
彼女の名前は、ユキという。生粋の野良猫であるのに、なぜか汚れ一つない純自の毛皮がその名の由来だ。メスだからといって別にどうこういうわけではない。百年の生を送り、数多くのメスとの出会いと別れを経験してきたツキにとって、ユキなどまだ親猫に首根っこを抑えられている子猫に等しい。
そして、だからこそツキは、ユキが苦手なのだ。
「ねぇねぇツキさん、なにしてるんですか? また見回りですか?」
そうだったと思い出す。自分にはいま重要な用件があるのだった。
「そう、そうだユキよく聞いてくれた。実はな……」
失言だった。「よく聞いてくれた」など普段のツキは絶対に口にしない。ユキはツキに褒められたと思い込んで大はしゃぎである。ごろごろ喉を鳴らしながら顔をこすりつけてくるユキがなんともうっとうしいが、かといって邪険にするわけにもいかず、適当にあしらって半ば強引に言葉を続ける。
「あのな、十五歳くらいの、人間のメスを見なかったか?」
子供と動物は幽霊を見ることができる、らしい。亮史の受け売りだ。といっても、それには個体差があり、かくいうツキも普通の猫だったころに幽霊を見た記憶がない。亮史曰く、「それはツキが偏屈な猫だから」だそうである。余計なお世話だ。
しかし、ということは、素直な猫ならば幽霊を見ることができるはずである。そして、湯ヶ崎の猫の中で、ユキよりも素直で単純な猫はそうはいない。子猫を含めても、である。と、そこまで思い至ったところで、ツキはユキの変化に気づいた。うるさいほどぐるぐる喉を鳴らしていたユキが、ぴたりと静かになっていた。びっくりしたような表情でしばしツキを見つめ、上目遣いで、
「人間、ですか?――さあ、ちょっと。なにか、あったんですか?」
モザイクやツキはよほどの例外なのだ。普通の猫ならば、たとえ飼い猫だって見知らの人間には一歩も近寄らない。ましてや野良猫なら、人間など危険な生き物の第一級である。特にユキは臆病極まりなく、人間の足音がしただけでその場から逃げ出すほどの怖がりようだ。悪いことを聞いてしまったかな、とちらりと思った。
「いや、ちょっとした用がな。――それじゃ俺は急いでいるから」
そそくさとツキは立ち去ろうとする。ユキの脇をすり抜けるようにして歩き出し、そして予想通り、後ろからひたひたという足音がついてきた。苦い顔をして振り返ると、そこには思いつめたようなユキの顔がある。
「……なんだ? まだなにかあるのか?」
「ね、ツキさん、やめましょうよ人間なんて。危ないですよ」
「大丈夫だ」
一言そう言って、再び歩き出す。しばらく迷っているような気配のあと、だいぶ離れてユキもツキを追って歩き出した。
「ねぇ、ねぇってばツキさん」
「…………」
「ツキさん、ツキさあん」
もはやなにも答えるまいとツキは思った。かわいそうだが、これ以上ついて来られても困る。そのうちユキも諦めるだろう、などと思っていたツキのほうが百倍甘かった。後ろから聞こえる声が急に真剣味を帯び、
「私見ましたよその子。十五歳くらいの人間のメス」
ツキの足は止まらない。どうせ嘘に決まっている。俺が答えればなんでもいいのだろう。
「変な服着てました。すごい不安そうな顔もしてました」
ぴたりと止まった。猫が人間のファッションのことなど知っているわけがなく、パジャマ姿を『変な服』と表現するのは実に自然だ、と思った。だがそれでも、ツキはまだ疑っているような視線を後ろに向ける。
「――いつ?どこで?」
「ほんのついさっき、北湯ヶ崎公園で、です」
それからユキは、間を持たせるように顔を伏せた。まだなにか言うべきことがあるのだろうとツキは思い、ユキの言葉を待ち、上げた顔に浮かぶ決意の色に少なからず驚く。そしてユキは、その決意を言葉にするために口を開いた。
「あの――その子が、ツキさんの飼い主なんですか?」
ツキは訝しげな表情を浮かべた。
「……なんだそりゃ。なんでそうなる」
「だってツキさん、その子のこと必死で探してるみたいだから。それにツキさんが飼い猫なの結構有名な話だし、もしかしたら、って思って」
ツキはわずかに不機嫌な顔を作った。別に『必死で』捜しているわけではない。断じてない。にわかに湧き上がった意固地な感情に突き動かされ、自分でも驚くほど冷たい声で言った。
「もしそうだとして、それがお前になにか関係があるのか?」
ユキは困惑したようにツキを見上げる。再び顔を伏せ、聞き取れないような小さな声で、
「だって――そしたら、悔しいじゃないですか」
ツキはわざとらしく首をかしげた。
「なぜ?」
ユキはまたツキの顔を見上げる。そこにはすでに困惑の色はなく、もっと別の、強いて言えば怒りに近い感情が浮かんでいた。半ばケンカを売るような目つきでツキをにらみつけ、すっくと立ち上がってユキは言った。
「だって、だって――私、ツキさんが、好きだから――」
好意を持たれているのは知っていた。が、ここまではっきりした形で言われると、ツキとしても対処が難しい。しばらく考えたあと、ツキはまたのらりくらりとかわした。
「――それで? それがどうした?」
ユキの頭に血が上る音が聞こえてくるようだった。怒りと焦燥と恥ずかしさでいっぱいになったユキは、今まで聞いたことがないほどの大声で叫んだ。
「だから! もしあの子がツキさんの飼い主で、だからツキさんがいなくなったあの子を必死に捜してるんだとしたら、ツキさんはあの子のことが私よりも好きだっていうことになるから悔しいんですっ!!」
素直で正直なのも場合によりけりである。こんな場合、どう答えればいいのかツキはまったくわからない。百年生きているといっても、硬派一徹を貫いてきたツキにはいまだ女の扱い方というものがよくわからないのだ。ツキは再び考え、考え、考えた挙句、もっともやってはいけないことをした。鼻で笑い、呆れたような声で、
「なに言ってやがんだガキが、んな台詞吐くのは十年早いんだよ」
ユキのなにもかもが凍った。心臓まで凍りついたのではないかと思うほどだった。うなだれることすらままならず、ユキは凍った表情でじっとツキを見つめる。その視線に少なからず怯み、しかし前言を撤回するわけにもいかないツキは、おもむろに踵を返した。もう話すことはなにもない、と思ったからだが、それはあくまでもツキが勝手に思い込んだことであり、事実上の退却以外の何物でもなかった。
ユキはその隙を見逃さなかった。
尋常でない殺気が巻き起こった。しまった、と思う暇すらなかった。反射的に後ろを振り向きかけたところで、尻尾にちぎれるような激痛を感じた。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っっ!!」
怒りよりも驚きのほうがはるかに強く、ツキは慌てて振り返り、そこでは尻尾が二倍ほどの太さになったユキがツキの尻尾に噛みついていた。こんなユキは見たことがない。ツキが口を開こうとすると、それを制するようにユキが「かーっ!」と威嚇する。真剣に怖いと思った。身体ごと向き直り、耳を伏せ、身体を低くして、頭のてっぺんの毛まで逆立てたユキを見上げた。怒れるメスに逆らえるものなど、この世のどこにもいはしない。
突然、ユキが、激怒を表すその表情と態度に似つかわしくない弱気な声で言った。
「―――ツキさんの、ばか」
後ろを向き、一目散に駆け出した。ツキにはなにがなんだかわからない。まだそこに憤怒のユキがいるとでもいうように、耳を伏せて身体を低くして、呆然とユキの後ろ姿を見送る。
◆
居間といっても、古ぼけたソファとテーブルがひとつあるだけのいたって貧相なつくりである。来客など絶対にあるわけがなく、それならば無駄金を使うのはやめようというびんぼっちい根性の成れの果てがこれなのだが、その絶対になかったはずの来客は結構このインテリアが気に入っているようである。テーブルの上のガラスランプをまじまじと眺め、
――へえ。いいね、このアンティーク
まあ、確かに骨董品なのではあるが。亮史は苦笑に近い笑いを浮かべながら、目の前のテーブルにごとりと緑茶の入った湯飲みを置く。舞が視線を亮史に移して言った。
――あれ、あたしの分は?
亮史は不思議そうに舞を見た。ソファに座り、テーブルの向かい側にふわふわ浮かぶ舞に向かって、押し出すように湯飲みを差し出す。舞はそれを真剣なまなざしで見て、おもむろに湯飲みをつかもうとし、すり抜けた自分の手をわきわきと動かしてみる。
――うーん、これさえなんとかなればなあ。バラ色なんだけどなあ
亮史は差し出した湯欽みを再び自分の陣地に取り戻した。そのまま口に運び、熱い緑茶をほんの少し喉に流し込み、「っあ〜」というオヤジくさい声をあげる。舞がー『うわあ』という顔で見ているのに、亮史はまるで気づいていない。
「まあ、できないことはないよ」
ソファにもたれかかり、眠そうな眼を舞に向ける。舞は「うわあ」という顔を引っ込めた。
――なにが?
「幽霊が物に触るということができないわけじゃない。それなりの手順を踏めば」
――ホントに!?
その言葉に答えようとする亮史を、舞は手で制する。
――待って、その前に、確認しておきたいことがあるんだけど
「なに?」
――さっき、吸血鬼とか言われたような気がするんだけど
なにを今さら。
「そうだよ。だってそう言ったもん」
舞は真剣な顔で亮史を見つめ、それから腕を伸ばして亮史の額に手をかざした。勢いあまって頭の中までめり込んだ手のひらをじっとにらむこと数秒、まじめくさった声で、
――熱はないようね
「…………なに。なんで。別におかしくないじゃん幽霊がいるなら吸血鬼がいても」
――いやそうなんだげど、どうにも月島さん吸血鬼って感じじゃないし。なんだろうなあ、病気がちなヌリガベって感じかな、どっちかって言ったら。それか、ぬらりひょんとか。語感的に
好き勝手言ってくれる。そこまで言うならば、と亮史はソファから立ち上がり、それを見た舞がぎくりと顔を強張らせた。無理に笑っているような声で、
――な、なに? やだなあもう月島さんってば冗談だよ冗談
亮史はにやりと笑い、『霧』の能力を発動させた。
舞は目を丸くする。亮史の指先が白くなっている。まるで雲のような――と、そこまで考えた時点で、一気に白が指から手、腕、肩へと電撃的な速さで進んでいき、それを追うように指先の白が分解されるように消えていく。気がついたときにはもう、にやりと笑った亮史の顔も虚空に溶けていた。夢を見ているような感覚。呆然と舞は目の前の、先ほどまで亮史がいた空間に手を伸ばす。
さっきのお返しだ。亮史は舞の耳元で、よく聞こえるように片手を口元に添えまでして、「これで僕が吸血鬼だってことを納得してもらえたかなっ!」
舞の驚きようといったら亮史の比ではなかった。「うひゃああああ」という女の子にあるまじき悲鳴をあげ、滑って転ぶどころか飛び上がって天井を突き抜けていった。まだコントロールが完壁ではないが。昨日今日幽霊になったばかりにしては上出来だ。道のりは案外そう遠くないかもしれない、と亮史は一人でうんうんと頷く。
やがて舞が天井から帰って来た。首だけである。逆さまに天井から生えた舞の顔には驚きと感動が浮かんでいた。なんだかなあ、と亮史は思う。
――すごい。なにそれどうやったの
「吸血鬼の能力。吸血鬼は狼、コウモリ、霧に変身することができる」
亮史はソファに座り、舞にそう答えた。舞もふわりと降りてきて、亮史の対面にあたるテーブルの向こう側ではなく、亮史の隣のソファにちょこんと座った。正確に言えば座ったのは格好だけで、ふわふわと不安定に浮かぶ舞の身体はソファから浮いたり逆にソファに沈んだりしている。
――へええ。吸血鬼って血を吸うだけじゃないんだ。でもなんでそんなことができるの? いい質問だ。
「僕たちはみんな力を持ってる。目にも見えない耳にも聞こえない不思議な力。いま霧に変身したのは、その力を使ってやったんだ」
舞は黙りこくって真剣に聞いている。亮史は少しいい気分になって言葉を続けた。
「それがなんなのかは知らないけど、そういう力があるっていうのは知っている。それは別に吸血鬼に限った話じゃなくて、普通の人間だってわずかだけど力を持ってる。もちろん君もね」
もっとも厳密に言えば、『霧」や『狼』や『蝙蝠』などを使うための吸血鬼としての『力』と、幽霊たちを存在たらしめている『力』では、根本的に意味が異なる。前者は血を吸うことによって発生する、吸血鬼特有の言わば『血の力』であり、後者は神経を研ぎ澄ませることによって得られる『心の力』である。差し当たって今説明すべきなのは『心の力』のほうであり、ややこしくなるから吸血鬼云々は省こう―――と、亮史がそこまで思ったところで、おもむろに舞が口をはさんだ。
――なんかいんちき霊能力者みたいなセリフだね
「……真面目な話をしてるんだけど」
――うん。ごめん。で、続きは?
あまりにあっさり謝られたので拍子抜けをした。とっさに続く言葉が思い浮かばず、「あー」とか「えーと」とか意味をなさない声が口から出る。
「――ああ、うん、えっと。いま『その力がなんなのかは知らない』って言ったけど、正確には予測くらいはついている。いわゆる『精神力』とか『イメージ力』とか、そんな感じのが関係してくる、んだと思う。僕がそういう力を使うときは気持ちを落ち着けて精神を集中させてやらなくちゃうまくいかない。ツキも力を持ってるけど同じだって言ってる」
その証拠として、たとえば『心の力』が人の形をとったようなものである幽霊は、イメージに大きく左右される。現に舞とて、『傷を負った』というイメージに影響されて、昨日あれほど痛い苦しいと言っていたではないか。おそらくあの傷が直接の死因で、自分が死んだということを理解しないまま、ちょうどビデオの一時停止のように『死の瞬間』のイメージで固定されてしまっていたのだろう。亮史はわずかに顔をしかめた。顔をえぐられるほどの痛みを常に感じていて、よくこの子は気が狂わなかったものだと思った。
そこで亮史は、妙なことに気づいた。
あのとき、舞の顔はごっそりとえぐられていた。それが死因であることはほとんど間違いないものの、では、一体どんな状況で、そのような傷跡を負うのだろうか。舞の顔は、あの傷跡以外はいたってきれいなものだった。どんな変則的な事故だって、顔の肉の一部分だけが削げ落ちるというのは、ちょっと考えにくいのではないだろうか。
ひとり考え込む亮史に焦れたように、舞が声をあげた。
――ちょっとよくわかんない。精神力とか、イメージとか
亮史は舞に視線を向ける。まあ、今となっては舞の死因など、考えてもあまり意味のあることではない。亮史は舞の質問に答えた。
「例えば、人は夢や幻を見る。その夢や幻を見せているのは脳だっていうのが一般的だけど、突き詰めればそれは精神が見せているものなんだ。まあ精神自体脳が生み出したものだから、逆だろっていえばそうなんだけど。もしくは精神イコール意識と置き換えてもいい。ここでの意識っていうのは無意識を含めた全般意識のことで、夢には無意識の願望や欲求が表れる場合が多くあるし、幻だって見ようと思って見られるものじゃない。フロイトは……」
舞はきゅっと目をつぶり、人淺し指をこめかみにあて、一言一言区切るように、
――ねぇ、お願いだから、もう少し、わかりやすく話してくれないかな?
ああもう――と亮史は頭をばりばり掻く。突然ぞんざいな口調になり、
「だからもうぶっちやけた話、魔法だよ魔法。それならわかるでしょ」
――いや、ぶっちゃけすぎ
「原理はさておく。僕だって全部理解してるわけじゃないし、魔法っていうのが一番近い」
亮史はぴっと舞を指差し、それからその指先を自分にも向ける。
「人が霧になったり半透けになったり壁をすり抜けたりするっていうのは、もう物理学を完全に無視した話だ。猫が喋るっていうのもダーウィンにケンカ売ってるようなもん。そういう、実際には絶対にありえないことを実現する力が、僕の言っているカ」
ほうほうなるほど、と舞は頷き、それからはたと気づいたように、
――えっ、あたしも?
さっき言ったじゃないかと亮史は思った。が、表には出さず、改めて説明する。
「君に限らず人は誰でもそういう力を持っている。っていっても、実際になにか変化を起こせるっていうレベルにはほど遠いくらい微力だけどね。もちろん君だって持ってる力がほんのわずかっていうことには変わりないし、実際になにか――つまり、物に触ったり声を出したりっていうことはできない。今の君はわずかな力を使ってかろうじて存在を保っているっていう状態なんだ」
――つまり、その力ってのはあたしがいるための燃料みたいなものね
そのとおりとはかりに亮史は大きく頷く。舞は天井を見つめて何事か考え、おもむろに亮史に視線を戻して尋ねた。
――じゃあ、力を使ってれば、いつかなくなることもあるんじゃないの?
亮史はなんでもないことのように、
「うん」
沈黙。
――え。なに。力がなくなったらどうなるの? あたし
亮史はなんでもないことのように、
「力が消えれば幽霊も消滅する。この世から跡形もなく消え去ってそれでおしまい」
沈黙。
――え、ちょ、なに?え?なんで?ちょっと待ってよなにそれだめじゃん!やだよあたし消えたくないってどうすればいいのねぇねぇねぇねぇ月島さん月島さんってばねぇ!
「落ち着いて。大丈夫。なくなった力は補充すればいい」
――どうやって!?
「ゆっくり眠る」
舞はぴたりと静かになった。亮史は手を伸ばして湯飲みを取り、すっかりぬるくなった緑茶を喉に流し込む。舞が再起動し、
――え?
「だから、ゆっくり寝ること。睡眠。就寝」
――それだけ?
「それだけ。ていうか、その辺は普通の人間と変わらないと思うよ。普通の人だって寝なきゃ死ぬし。ただ君の場合、眠いのに無理していつまでも起きてるとどんどん力を使い果たして。知らず知らずのうちに消えてなくなっちゃうってこともあるから、眠くなったら我慢せずに眠るように。いいね」
舞は不満げな顔をしている。仕方あるまい。『寝るときはゆっくり眠りましょう』というのはまるで小学校のスローガンだ。しかし亮史の言葉に嘘はなく、眠いときには眠らなくては彼女は消滅してしまうのだ。じっくりと考えた挙句に理解したのか、やがて舞は素直に頷き、亮史は緊張に張り詰めた舞の顔を見てくすっと笑う。
「そんなに心配しなくてもいいよ。眠くなったら寝ればいいだけの話。それに、方法はあとで説明するけど力を蓄えるっていうことだってできるんだから。消えることなんて滅多にないよ」
その言葉に舞は、ずいと身を乗り出す。それに押されるように亮史は身を引いた。舞の目がきらきら輝いている。
――その、力を蓄えるってのをやれば、物に触れたり普通の人にも見えるようになれたりするの?
結局はそこに戻るのか、と亮史は少し笑い――
その笑みはすぐに凍りついた。
舞から視線をそらして、湯飲みを両手で抱えるように持つ。
「できるよ。物に触ったり声を出したり、そりゃ普通の人と同じにってわけにはいかないけど、それなりの努力を重ねればできると思う」
舞が嬉しそうに笑った。亮史は目をつぶり、息を吐き、気まずそうに「あのさ」と言葉をつなげる。
「やっぱり、その――それは、お別れを言うためなのかな」
舞の顔を見ることができない。恐らく彼女は、『なにを言っているのかわからない』という顔をしているはずだ。当たり前だ。こんな言い方があるか。もっと別の、気の利いた言い回しがあるはずであり、それを見つけ出そうと亮史は焦り、焦るほどに碩の中がこんがらがっていく。
長すぎる沈黙に耐え切れず、思ったままが次々に口をついて出た。
「君はさっき、幽霊もそんなに悪いことはっかりじゃないって言ったけど、やっぱりそれは違うと思う。だって、それは、君が死んじゃったってことなんだよ。生きていた頃に仲がよかった友達とか――家族に、二度と会えないってことだ。さっきも言ったけど、いくら努力をしたって、普通の人と同じように姿が見えて話ができて物に触れるっていう状態をずっと保ちつづけることははっきり言って不可能だ。どんなにがんばってもせいぜい一分か二分か――普通の人が、水中に潜るくらいの時間しか姿を現していることはできない。もし君が、幽霊になってもいつでも生前親しくしていた人と話ができるって思ってるなら、僕はそれは違うと言っておかなくちゃいけない」
あらかじめ言っておくべきだったのだ。そうすれば、舞に余計な期待を抱かせることもなく、こんなに直接的な言い方をすることもなかった。まだ子供と言ってもいいような年齢の少女が二度と家族に会えないなどと言われて、平然としていられるわけがない。外で風が吹いている。立て付けの悪い窓ががたがたと鳴り、静寂をいっそう引き立てる。亮史は急に、あまりの静けさに、隣に舞がいるのかどうか不安になった。今の舞の顔を見たくないという思いとその不安がぶつかり合い、ついに亮史は横目だけでちらりと隣を盗み見る。
舞は、笑っていた。今までに見せたような底なしに明るい女の子の笑顔ではない。諦めのような自嘲のような、彼女の歳にはまるで似合わない冷たい笑み。亮史の視線に気づいたのか、舞はふふっと顔を歪め、独り言のような口調でつぶやく。
――大丈夫よ
舞は亮史に視線を向ける。亮史はその視線に、無意識のうちに唾を飲み込んでいた。
――だってあたし、幽霊だもん
わけがわからなかった。疑問を口にする間もなく、舞の顔がころっと変わる。先ほどまでと同じ、人生が楽しくて仕方がないという笑顔で、元気いっぱいの声で、亮史に明るく語りかけた。
――ねぇ、それよりもさ! どうやればその力って蓄えられんの? やっぱり山にこもったり滝に打たれたり蛇口を針金でぐるぐるに縛って厚着を着込んでサウナに入らなくちゃだめ? 亮史はその顔もその言葉も、やせ我慢をしている子供のように感じる。
◆
風が強い。ブランコをこぐ気力もなくなり、レレナは風に揺らされるがままになる。風の冷たさに身を縮ませ、こすり合わせた両手に震える息を吐きかける。念のために言っておくが、まだ少し早いとはいえ今は春であり、凍えるほど寒いわけではない。レレナの息が震えているのは寒さよりもむしろ不安のせいだ。
誇るべきことに、まだ涙は流していない。が、それも時間の問題で、今のレレナはぼこぼこにやられながら気力だけでかろうじて立っているボクサーのようなものだ。あと一押しなにかがあったら、絶対に泣いてしまう。
どうしよう
ただそれだけしかレレナは考えることができない。『どうしよう』と思うだけで、実際にどうすればいいのかを考えられない。クルセイダルもガゼット大司教も今はもう夢のまた夢のようだ。と、慌ててレレナはその思考を打ち消す。空港に見送りに来てくれた母や父や友達やガゼット大司教の顔が思い浮かび、それが最後の一押しになりそうだったからだ。
どうしよう。
思考が何度目かのループを繰り返し始めたとき、ふとレレナは、右足に何かが触れるのを感じた。焦点の合わない瞳を足元に向け、驚きにレレナの漆黒の目が見開かれる。
猫がいる。真っ黒な猫だ。顔に三日月のような形の傷跡がある。レレナの靴をすんすんと嗅ぎ、その金色の瞳をふと上げて、臆することなくレレナの顔を真正面から見上げる。
逃げられるかもしれない。だが、レレナはもう、孤独に耐え切れそうもなかった。恐る恐る
腕を伸ばし、黒猫の背中を、ほんの少し、触れるように撫でる。黒猫は微塵の恐怖もない強い視線をレレナに投げかけたまま、ぴくりとも動かない。
あったかかった。
それが一押しになった。やばいと思ったときにはすでに遅く、幾条もの涙が頬をこぼれ落ちる。黒猫が見ているのが恥ずかしかったが、今となってはどうあがこうと止めることはできない。レレナは泣きながら何度も何度も黒猫の毛皮を撫でた。黒猫は動こうとしない。『しょうがないから泣き止むまで触らせてやるか』という倣岸不遜な態度で、あくびをしたりその場に座り込んだり、それでもレレナには、その黒猫がなによりも頼もしく感じられる。黒猫が動かないことで調子に乗ったのかもしれない。レレナはとんでもない暴挙に出た。
あろうことか黒猫を持ち上げて、自分の膝の上に乗せたのだ。これにはさすがの黒猫も、「なにしやがる」とはかりにレレナをにらんだ。が、泣く子に説教が効くはずもなく、レレナは殺した泣き声を上げながら一心不乱に黒猫を撫でる。呆れた黒猫は、撫でる手が尻まで流れたその一瞬をついて、余裕しゃくしゃくの動作でレレナの膝から跳躍した。
レレナの膝の上から温もりが消えた。レレナは呆然と、親に捨てられた子供の表情で、急ぎもせずに歩み去る黒猫の背中を見送る。空白の一瞬が過ぎ、あるひとつの思考が真っ白なレレナの頭の中へと流れ込む。
だめだ。行かせちゃだめだ。せっかく寂しくなくなったのに、せっかく心細くなくなったのに、あの子に、あの猫にまで見捨てられたら、もう私は――
立ち上がった。その衝撃でブランコががしゃんとたわみ、その音で黒猫が振り返った。黒猫の顔に浮かぶ驚愕は、恐らくレレナの放つ殺気によるものだ。
レレナと黒猫は同時に駆け出す。一方は逃げるため、一方は捕まえるため。黒猫はすぐ脇の茂みに入り、レレナは何の躊躇もなく茂みへと飛び込んだ。逃がすもんか――がさがさ茂みをかき分けて、黒猫の背中を見つけ出し、レレナは燃える闘志にそう誓う。
◆
なんだなんだなんだなんだなんだなんだなんだ。
ツキは後ろを振り向く。まだついて来ている。普通猫を追っかける人間はいないし、たまにガキどもに追っかけられることはあるがそれだってかなり離せばすぐ諦める。なのに、あいつはなんなのだ。
角を曲がり、直線に乗って一気に加速。ツキはただの猫ではない。はしくれとはいえ吸血鬼の、その血を受けたれっきとした化け猫なのである。そのツキの全力疾走ならば、ヒトのメスのガキの一匹や二匹、余裕で引き離せる――はずであった。ツキは後ろを振り向く。まだいる。なんだあいつは、とツキはもう一度思った。
ユキに対するいろいろな感情はあったものの、ひとまずは舞を連れて帰ってからにしようと思い、北湯ヶ崎公園まで足を運んだのがそもそもの間違いだった。
確かに、とツキは思う。ユキは嘘をついていない。そいつは『十五歳くらいで』『人間で』『メスで』『変な服を着て』いた。ただ髪の長さも色も舞とは違っていたし、わざわざ近くによって匂いを嗅いで確認までしたし、じっくり眺めて顔の達いも検証した。そのときにはまさか、こんなターミネーターみたいな奴だとは思わなかった。
角を曲がる。ツキはまた走りながら振り返り、メスがまだそこにいるという事実に目を丸くする。離れているどころか、近づいてさえ――
「えやっ!」
気合一閃、メスが跳びかかってきた。腕を伸ばし、あと一歩というところで惜しくもツキを逃し、着地に失敗してべちゃっと転ぶ。一気に距離が開くが、遠ざかっていくレレナを見ても、なおツキは背筋に冷たいものを感じていた。信じられん、あいつ今尻尾つかもうとしやがった。
風を切る音に混じって自動車のエンジン音が聞こえ出した。見れば目の前には歩道、その向こうに車道があり、仕事帰りの車が五秒に一回くらいの割合で、うなりを立てて走り抜けていく。ツキはにやりと笑い、スピードを緩めるどころかどんどん加速していった。
思いっきり地面を蹴った。ツキのしなやかな体躯が、毛皮と同じ色の夜空にまぎれるほど高く跳ぶ。歩道の人の頭を飛び越え、車道の車のボンネットを飛び越え、着地の衝撃に心の準備をし、そして、着地。
勢いを殺さずに、そのままどんどん走りつづける。ツキは勝ち誇った笑顔で後ろを振り返り、その笑顔は途端に引きつった。
ちょうど歩道を抜けるところだった。スピードは微塵も落ちていなかった。周りが見えているのかいないのか、必死の形相でメスは車道に飛び出し、心優しい自動車が一台、金切り声を上げながら芸術的なスピンをかまし、反対車線に躍り出てケツから電柱に激突して止まった。次々と玉突き式にブレーキ音が響き、ツキはその惨状を眺めながら呆然と思った。
そこまでするか。
メスは自分が巻き起こした大事故には見向きもせず、ただ一心にツキめがけて突撃してくる。すべての体力を速度につぎ込んだためかすでに遠目にもわかるほど青息吐息であり、それでもまだ執念の光が眼から消えてはいない。ツキはぞくっとする。なんだってそこまでするんだ。
ツキは前を向き、矢のように走り出した。出くわしたT字路を右に曲がり、走ること数秒、後ろを振り返ってゾンビの追撃を確認、そして確信。あいつはもう、絶対に、俺がどこに逃げようと隠れようと、見つけ出すまで地獄の果てまでだって追っかけて来るだろう。
――くそ!
ツキは頭の中で月島宅の位置を思い浮かべる。ここからそんなに離れてはいないはずだ。もうこうなったら、自宅にとんずらを決め込むしかない。あるいは主人に出会えば、あのメスも正気を取り戻すかもしれない。そう願いたい。
十字路を左。わずかな希望とともに振り返り、絶望を味わい、ツキはこう思う。
絶対今日は女難の日だ。
◆
頭が熱いし胸が苦しいし、動悸息切れだって半端じゃない。膝はさっきからけたけた笑いっぱなしで、門にすがり付いていなければ、恐らく立っていることもできないだろう。
レレナは粘っこい唾を飲み込む。恥も体裁もなく舌を丸出しにして、犬のようにぜーはーぜーはーと荒い呼吸を繰り返しているのに、ちっとも胸が楽にならない。が、それだけの犠牲を払った甲斐はあった。ついにあの猫を追い詰めたのだ。
レレナは門から手を離し、一歩踏み出してその場に膝をついた。まだ膝は爆笑中である。肩で息しながら、レレナは門を握っていた手を見る。サビだらけの鉄粉だらけ。ぱんぱんとシスター服のすそでその手を払いながら、レレナは目の前の建物を見上げた。
これって――
廃墟だ。それ以外に当てはまる言葉がない。もともとは木の外壁で覆われていたのだろうがところどころ剥げ落ちて、ひどいところでは内装が見えてしまっている。壁には木が倒れかかっているし、周りをよく見れば雑草だって伸び放題である。極めつけに、こんな夜中だというのに開いた窓からは明かりひとつ漏れていない。
風が吹いた。窓ががたがたと鳴る。倒れかかった木の先の、そこだけぽっかりと窓が開いている。そこに黒猫が入っていったのをレレナは確かに見たのだが、なにやら自分を待ち受ける罠のような気がしないでもない。そもそも黒猫というのがいかにも怪しい。古来より猫は魔性のものと相場が決まっており、しかも黒ときたらもう救いようがない。もしかしたらあのとき自分に近づいてきたのも、クルセイダルたる自分を陥れるための誘惑だったのかもしれない。現に自分は、こうしてのこのこついて来てしまった――まあ、自分から進んで追いかけ回したという見方もあるかもしれないが。
走っているときはそんなこと微塵も考えなかったくせに、一度立ち止まって余裕ができるともうだめだった。レレナはまた生唾を飲み込む。汗をかいたからかやけに肌寒い。風はそんなに冷たくは感じず、むしろ生ぬるいくらいで、そういえばあそこの木のうろはなんだか人の顔のようにも見える。
帰ろうかな、と一瞬だけ思った。しかし、自分には帰る場所などどこにもないという思考がすぐに浮かび上がり、レレナは自虐的に笑う。ここで一晩を明かし、明るくなってから交番に行くなり領事館に行くなりすればいいのだ――と、頭ではそうわかっているのだが、なかなか実行に移せない。ここから一歩でも前に進むと、目の前の木が突如として本性を現し木のうろが裂け真っ赤な眼が見開き根っこを足代わりにして小粋なステップで自分に襲いかかってくるかもしれない。そう思うと身がすくみ腰が引け、トイレを怖がる子供と同じ理屈で足が動かなくなってしまう。どうしようどうしよう、行かないといけないんだけどでも――怖い。
突然、レレナの首筋に冷たいものが走る。
「きゃっ!」
叫んでレレナは反射的にその場を飛びのき、背後に向かってバッグから取り出した十字架を突きつけた。神の敵ならこれで逃げるはずである。が、そこにはなにもない。レレナは不審さから眉をひそめ――
今度は耳に来た。転がるようにその場を離れ、自分の耳に触れた何かに向かって十字架をかざす。顔はもう半泣きだ。しかしやはりそこにもなにもなく、レレナは小さな声で「もうやだ」とついに泣き言を言いはじめた。そして今度は首筋、手の甲、頬の三つが同時に冷たさを感じ、 レレナはそこでようやく、雨が降り始めたことに気づいた。
◆
精神力向上のためのそのいちは、神経衰弱である。
嘘ではない。
が、舞はどうしても納得しなかった。馬鹿にされて怒っているような顔で、よしんば神経衰弱が効果ある方法だとしても、それで上がるのは記憶力ではないのかと主張した。確かに、と答えてから、亮史は精神力というのは必ずしもひとつの能力ではなく、思考力、記憶力、忍耐力など形而上《けいじじょう》の能力全般を含めた能力である旨を述べ、舞は形而上の意味がわからず、それについて亮史が説明を加えようとすると耳をふさいで断固としてそれを拒否する。知識量を増やすことも精神力向上の手段のひとつなのだけれど。
――とにかく
と、舞はぶーたれたまま言った。
――もっと説得力のある方法にして
ふうむ、と亮史は考え、おもむろに、
「舞くんは今何歳?」
舞は怪訴な顔になった。
――なんで?
「いいから」
――十五歳
「ああ、ちょうど中学三年生だ」
舞はなにが『ちょうど』なのかわからない。亮史はやけに嬉しそうに、
「じゃあ、受験勉強しようか」
舞の顔から表情が消えた。
―――え
「言ったでしょ? 思考力も精神力の一部。さ、なにがいい? 別に僕はなんだってできるよ。数学が思考力向上には一番いいと思うけど、僕が得意なのは歴史かな。日本史なら任せて」
無表情だった舞の顔に、だんだんと『ハメられた』という色が浮かびはじめる。なにか言おうと口を開き、やっぱりやめて顔を伏せる。ぼそぼそとした声で、
――すいませんやっぱり神経衰弱にします
亮史は、よろしい、と頷く。
トランプは確か自分の部屋にあったはずだ。亮史はソファから立ち上がり、居間をあとにして廊下を抜け一階ホールへと出る。手すりを越えようと足をかけたところで、後ろから舞の声が聞こえた。
――ね、月島さん
「よっ――と。なに?」
――なんかさ、ずいぶん暗いような気がするんだけど
亮史は顔を上げた。暗いのは当たり前である。なにせこの家には電灯というものがないのだ。亮史は吸血鬼で『夜目《よめ》』の能力が使えるし、それにツキは猫である。明かりがなくても困ることなどなにひとつなし、電灯など無用の長物だ。そう説明した。
――でも、こんな真っ暗なのにあたし見えるんだけど、これはどういうこと?
みしみしと音をたてながら階段を上がり、二階南側廊下に差しかかったところで舞がそう疑問を呈した。亮史は振り返り、あさっての方向を眺めて考えること数秒、ぽつりと言った。
「まあ、幽霊だって夜が専門領域だからね。暗闇の中でも見えないと話にならないってことなんじゃない? 詳しい原理は知らないけど」
自室のドアを開けて中に入り、机に近寄って引出しを開ける。あった。ほとんど空っぽの引出しの中の、隅っこのほうに申し訳なさそうに置かれていた。昔トランプが出はじめたばかりのころ、ツキと遊ぼうと思って買ってきたものだ。ツキが自分を蔑みの目で見はじめるようになったのは、確かあのあたりからだったような気がする。
浮遊しつつ部屋の中を物珍しそうに眺めていた舞が、ふと亮史に視線を向ける。
――そういえばさ、昨日月島さん、かなり派手に廊下に穴開けなかった?
トランプをポケットにしまっていた亮史は、思わず「あ」と声を上げた。そうだった。すっかり忘れていた。北側はあまり使わないとはいえ、早めに修繕しておかないと、またツキが不機嫌になる。あそこの廊下を使うのはもっぱらツキだけだ。
「あー、あれねぇ。どうしようかなあ。やっぱ板渡すだけじゃだめだよね」
――そりゃだめでしょ。ってゆーかね、人が乗っただけで穴が開くなんてどうかしてるよ。根っこのとこから腐ってるんじゃない? ここ築何年?
ドアを開け、部屋から出て、ドアを閉める。すり抜けてきた舞に、亮史は言いにくそうに、
「正確には覚えてないけど―――まだ幕府がなくなってからそんなに経ってなかったような」
舞は叫んだ。
――ばっ、ばくふ!?
「そんなに驚くことないじゃないか。僕は吸血鬼だよ?」
――そもそも月島さんって今何歳? いつから生きてるの?
その問いに、亮史は立ち止まって考える。考えなきゃわからんことかと言われそうだが、実際問題として亮史は自分が生まれたときのことをほとんど覚えていない。ツキに聞かれても正確に答えられないのは、実はそのためでもある。一番古い記憶は、そう、確か――
「うーん。平安京にいたのは覚えてるんだけど」
――ヘーあんきょー!
「あと、菅原道真も知ってる。直接知ってるわけじゃないけど噂話で聞いたことがある」
――すがわらのみちざね!!
「……いちいち大声出さなくてもいいよ」
――いやだって、あまりにも意外で――
そこで舞の言葉が途切れた。亮史の少し後ろを驚いたような顔で見て、それからすぐにまぎれもない敵意にその顔が染まった。何事かと思い視線の先を追う。
「あれ、ツキ。どこ行ってたの?」
ツキはその言葉に答えられない。尋常ではない呼吸の荒さだ。なにか言おうとするたび苦しそうに息を飲み込み、次に口を開いたときにはぜえぜえと息をつくことしかできない。ついにツキは人目もはばからずその場にごろんと横になった。チャンスと見た舞が、ここぞとはかりにツキを罵倒する。
――ふん、どうせ他の猫とのケンカに負けて逃げて帰って来たんでしょ。あたしをあんなぞんざいに扱ったからバチが当たったのよいい気味よ自業自得よばーか
そういう威勢のいいセリフは、少なくとも自分より前に出て言ったらどうかと亮史は思う。舞の言葉にツキは無言の視線で反応し、後ろから「うっ」という声が聞こえた。それきり静かになる。
ツキは視線を亮史に戻し、どうにかして立ち上がった。が、それもつかの間のことで、すぐにその場にへたり込んでしまう。大丈夫、と声をかけようとした亮史を制して、ツキは途切れ途切れに言った。
「主人、かくまって、くれ」
亮史は目を丸くした。思わず声が高くなる。
「えっ、ツキ本当に負けたの? 他の猫に?」
ツキの顔が怒りに染まった。怒鳴られる、と亮史は思い身をすくませ、しかし口を開けたツキはまたぜえぜえと息をするのみだ。怒鳴る気力もないらしい。ちょっと安心した。
「――アホか。俺が普通の猫に負けるわけないだろう。追われてるのは、別の奴だ。人間だ。いやひょっとしたら人間でもないかもしれん。なんかのロボットかもしれん」
いまいちよくわからない。こんなツキははじめて見る。ともかくも、と亮史は足を踏み出し、二階ホール廊下を横切り北側廊下まで歩いて行った。亮史は振り向いて、まだへたばっているツキに尋ねた。
「こっち? まだいる?」
ツキはあいまいに頷く。多分まだいるということか――と亮史は解釈し、ふと、雨音が響いていることに気づいた。今日のバイトは中止だな、と心のどこかで喜びとともに考え、北側廊下をそっと覗き込んだ。
そのとき、雷が鳴った。
◆
雨が降ってきたとなればもう是も非もなかった。替えのシスター服はおろかパンツ一枚も持っていないレレナにとって、服が濡れるということは死を意味する。どんどん強くなる雨足に追い立てられるようにレレナは木に登り、あっという間に窓までたどり着いた。人間というのは時々その能力以上のことをなすことができる。
が、この期に及んで、レレナはまだ迷っていた。もう選択する余地はないというのに、一応ひさしはついているからここにいても雨は凌げるかな、などと考える始末だ。とはいえ、屋敷の中が一寸先も見えないほど真っ暗であることと、まだレレナが十五歳の女の子であることを考えれば、彼女の恐怖も無理からぬことなのかもしれない。
実際悩んだのはそんなに長い時間ではなかったはずだが、少なくとも自分では、決断するまでにかなりの時間を要したと思った。窓をまたいでそっと床に足を下ろす。
みしみしみしぎしぎしぎしぎし。
足を離した。やっぱ怖い。絶対ここは明日か明後日に取り壊される予定のところだと思う。きっと取り壊しやすいように骨組みの段階まで作業が済んでしまっているのだろう。でなければ、普通の建物がこんな音を出すわけがない。
雨がさらに強くなり、方向感覚の狂った雨滴がレレナの頬にかかった。引くも地獄行くも地獄、レレナはついに腹をくくり、思い切って両足を一気に床に下ろす。屋敷がきしんだ悲鳴をあげ、レレナは目をつぶってそれがやむのを待つ。
空がごろごろと鳴っているのが聞こえた。レレナはまず片目を開き、まだ自分が床に支えられていることを確認して、両目ともばっちり開けた。だんだん目が闇に慣れてきている。おぼろげながら周囲の輪郭もわかる。一歩を踏み出し、床の悲鳴に耐え、そろそろと歩き出そうとしてー
落ちそうになった。
完全な不意をつかれた。弄命が五年は縮んだ。片足を穴に飲み込まれ、それでもかろうじて両腕をついて落ちるのを免れた。四つん這いのまま足がぶらぶらと無重力を楽しんでるのがわかり、目の前には真っ黒に裂けた穴。心臓がまだどきどき言っている。危ないところだった。レレナは足を抜き、穴をひょいと飛び越えてふうと息を吐いた。
極度の緊張は、人の五感までもを鈍らせる。すぐそこの角を曲がったところで話し声がしていることに、結局レレナは最後まで気づかなかった。雨音が強かったせいもあるだろうし、不吉に空が鳴っているのも一因だったかもしれない。そしてなによりレレナはそのときどうしようもなく怯えきっていて、心の均衡を取り戻すのに全力を使っていたのだ。周りの音に気を払う余裕などこれっぽっちもなかった。
そして、ようやく混乱が一段落をついた、まさにそのときだった。
悪いことは重なる。
悪いことその一。レレナの心に隙があった。落とし穴という危機を乗り越えたちょうどそのときだったため、まさか次のびっくり箱に対する心構えなど微塵もできていなかった。
悪いことその二。亮史がそーっと覗き込むように顔を出した。この『そーっと』というのはあくまで主観的な擬音で、ハタから見れば『ぬうっと』としか言いようのない顔の出し方だった。
その三。雷が鳴った。救いようがない。
レレナの視点から見た、そのときの出来事を、一文でまとめよう。
落下の危機を免れてやれやれほっと一安心というところに突如雷鳴が轟き雷光に照らし出されたすぐ前の角から青白い男がぬうっと顔を出しこちらをじっと見て――
冗談でもなんでもなしに、心臓が止まった。
意識も失った。倒れたのが後ろだったのがよくなかった。そこにあるのはぱっくりと裂けた漆黒のクレバスの如き大穴。レレナはそこに、吸い込まれるように、頭から落ちていった。
死ななかった、とだけ言っておく。
幕間 彼の生態
彼は蜘蛛に似ている。外見も食性も。
彼が主に活動する時間帯は、夜の、それも人気もまばらな深夜のことだ。彼は日の光が大嫌いで、だけでなく日に当たるとひどい怪我を負うということを経験的に知っていた。だから彼は、まだ日が高いうちは自分の『巣』にもぐり込み、じっと息を潜めるのだ。
深夜になると、彼は綱を張る。別に本当の蜘蛛のように糸を出して綱を作るわけではない。ただ待ち構えるのだ。自分に適した獲物が来るまで。すなわち、女で、一人で、できれば運ぶのに易《たやす》そうな小柄な人間。それが彼のもっとも好む種類の餌だ。さらに言うなら若いほうがいいが、あまり賛沢も言っていられない。前回獲った餌は、もうすでに喰える状態ではなくなってしまった。多少トウが立っていても、この際頓着しないことにする。
彼は移動するときは四つん這いだ。この辺も蜘蛛に似ている。しかし、昔の癖が完全に抜けきっていないのか、たまに二本足で立つこともある。ひどく猫背で、まともに歩くことだってできないが、月を見上げるときだけは、彼は二つの足で立って見上げる。
今日は月は出ていなかった。雨が降っている。
きのうはきれいなまんげつだったのに――そんなことを思いながら、彼は待ちつづける。
きた。
ばしゃばしゃと響く足音から、体重の軽い種類であることがわかる。女かどうかはわからないが、この際男だって構いはしない。前回食べたのがいつだったのかはとっくに忘れたが、ただ抑えがたい檸猛な食欲だけが彼にはある。
獲物が彼の視界に入った。彼は狂喜する。女だ。一人だ。小柄だ。しかも若い。言うことはなにもない。
彼の巣の中に、向こうのほうから飛び込んできた。雨宿りをしているのだろう、不安そうにあたりを見回して、派手な服についた雨滴を払って、どこででも見かける茶色い髪で、ケバい化粧に水滴が弾けている。懐から携帯電話を取り出した。それを機に、彼は動き始める。
女は番号をプッシュし、耳に当てた。鼻歌を歌っている。よく聞く音楽。彼でさえ知っている。鼻歌が聞き取れるほどまで、すでに彼は近づいている。
「――あ、もしもしケンジ? いまどこ?まいったよお、雨降ってきちゃってさ……」
なにかを感じたのか、女がふと、視線を彼に向けた。目が合った。彼は笑う。女の顔が恐怖に歪み、声を上げようとした。
それより早く、彼の手が女の首を握りつぶしていた。悲鳴の代わりに肉の漬れる音と骨の砕ける音が女の口から漏れる。携帯電話にその音が入っただろうか。彼はそんなことを考えた。
女の身体がびくんと跳ね、携帯電話が宙に放り出された。放物線を描いて、携帯電話は彼の手の中に優しく受け止められる。携帯電話はもしもしと言い、彼は不思議そうにそれを見つめたあと、女のコートの内ポケットにそっと戻した。
女はまだ痙攣を続けている。その目は開かれているが、もうなにも見てはいない。女の唇の両端から血の泡が吹き出ている。彼はそれを見てもったいないと感じ、異常に長いその舌で、女の口を愛撫するようになめた。
甘美な味が口一杯に広がる。彼は嬉しそうに笑い、好物を目の前にした子供のように目を輝かせながら、ごちそうを肩に担ぎ、その場を後にした。
雨はまだ、しばらく止みそうにない。
彼は顔を上げた。ばさぼさの長い前髪が視界を邪魔するが、それを払いのけようともしない。猫のように虚空のある一点を見つめ、呼吸すら忘れたようにその方向にじっと魅入る。口が開き、顎の先を越えるほど長い舌をべろりと出し、口の周りの血をなめとった。
彼の足元には、だいぶ前は女だったものが転がっている。少し前は、女の形をした死体だった。今あるのはただの肉だ。彼の嗜好のおかげでまるまる残った顔だけが、これが昔立って歩いていたことを証明している。
彼は感じている。それがなんなのかはわからないが、それが自分がこの町に来ることになった原因であることはわかる。ただ感じるのだ。彼がまだまともな言葉を話せたときならば、『気配』とか『存在感』と表しただろう。目に見えない場所にあるなにかが、空気の流れ、音の流れ、光の流れを阻害しているような、そんな感じがする。ただそのなにかがあまりに遠いためか、正確な場所まではわからない。
そのなにかにあうために、おれはここにきたのだ――そう思う。
会ってなにをするのかは、わからない。いや、まったくわからないわけではない。予想はついている。そのなにかはあいつらにひどく似ているのだ。あいつらが自分にしたことを思えば、自分の中にある強烈な破壊衝動のことを思えば、容易に想像はついた。
だが、一向に会える気配がない。
当たり前だ。彼は夜中しか動けないし、蜘蛛のように待ちの一手しか知らないのだ。そのなにかの顔も形もなにも知らないのだ。会えるはずがない。
降り積もるような焦り。彼はふと、足元の肉に視線を降ろした。天啓が閃く。あるいは、これをもって、メッセージとできるかもしれない。そのなにかがあいつらと似ているということは、根本的には自分と似ているということだ。それともまったく同じなのかもしれない。そのなにかがこの女の残骸を見れば、もしかしたら向こうも自分の存在を知って、自分を探そうとするかもしれない。
すごいかんがえだ、と彼は思った。なるべく人目につくところにこの残骸を置いておこう。そうすれば間違いなくこのメッセージは相手に届く。残る問題は、相手がメッセージの存在に気づいてもその意味に気づかない危険性がある、ということだけだった。つまり、おれがいるということをいえばいいのだが――彼はそこまで思い、そして神に感謝した。
女の残骸には、まだ半分ではあるが、首が残っていた。
彼はぞろりと牙をむく。
第三幕 モザイクのチリソース
まったくふざけやがって、とモザイクは思った。
モザイクは毛繕いをしている。外は雨雨雨の降りどおしで、止む気配のかけらすらない。おかげでせっかく整えた毛並みがまた乱れてしまった。最近自慢の毛皮に不遇が統いているような気がする。
モザイクはふと、毛繕いをやめて顔を上げた。今モザイクがいるのは、真夜中のがらがらの駅の構内だ。湯ヶ崎は卑しくも東京都の1部だが、端の端に位置するため都会とは言い難く、ホームレスのひとりもいない。おかげでこうして野良であるモザイクも安心して雨宿りをすることができるのであるが、普段は人ごみであふれかえっている構内だけに、人がいなくなるとなんだかうそ寒いような気もしてくる。
モザイクは人のいない駅の中を闊歩する。首を伸ばし、尻尾を立て、興味津々の素振りであたりを見回す。猫は臆病な代わりに好奇心も強い生き物だ。普段は滅多に足を踏み入れることのない駅構内を、モザイクは少し見てまわりたい気持ちに駆られた。
意外にいろいろなものがあった。非常に狭いカウンターの付いた壁にはスイッチがいっぱい付いていた。猫のあいだでは物を知っているモザイクが予測するに、おそらくこのボタンを押せば任意の場所へと瞬時に移動することができるのだろう。
監視員付きのゲートはまるで門としての役割を果たしておらず、モザイクは思わず失笑した。開けっ放しの上にあんなおもちゃのようなゲートで敵の侵入を防げるわけがない。人間も存外頭が悪い。
駅構内に二つほど、鉄の小屋があるのが気になった。シャッターが下りているところから見て、多分これは緊急時のシェルターのようなものではないだろうかと思う。もしくは敵襲のあったときに臨時の小型要塞のような役割を務めるのかもしれない。
いろいろ見てまわっているうちに、雨が上がっていた。モザイクは壁のスイッチを鼻先で押すのをやめて、カウンターから飛び降りる。スイッチを押せば自分もどこかに行けると思ったのだが、どうやら故障しているらしい。それに戻って来れなくなっても困る。やっぱりやめておこう、とモザイクは思い、北口から出て行こうとした。
雨が二粒ほど、モザイクの頭の上に降ってきた。迷惑顔で空を見上げ、踵を返して構内へと戻る。止んだと思ったらまた降ってきた。まったく猫みたいな天気だ。
しかし、しばらく構内から外を眺めていても、雨が降っている気配はない。モザイクは不審に感じた。もしかしたら収束に向かっていった雨の、最後の二粒がたまたま降ってきただけなのかもしれない。そう思い、再び構内から出ようとした。
頬を流れる水滴が、つうと地面に落ちた。なんとはなしに、モザイクはそれを見る。赤い。
ぞっとした。
血だった。
一瞬頭の中が真っ白になる。頭に痛みはない。怪我をした覚えもない。では、なぜ血が自分の頭についているのか。答えはひとつだ。さっき自分に降ってきた雨は、実は雨ではなく、ということは、ということはあのとき自分の頭の上には
モザイクを走らせたのは、恐怖だったか好奇心だったか。恐らく両方だったのだろうし、あるいはまったく別のなにかだったのかもしれない。雨に濡れた地面を走りつづけ、南口に比べればやや小さめの北ロバスロータリーを中ほどまで行ったところで、こらえきれずモザイクは後ろを振り返った。
そして、モザイクは、見た。
◆
「冗談じゃないぞ主人」
ツキは険悪な表情で噛みつくように言い、亮史は困った顔でツキを見る。舞はツキに向かってあっかんベーをしている。これは放っておく。
亮史はため息をひとつついた。
「じゃあどうしろっていうのさ。外に放り出しておけとでも?」
「ああ、それで十分だこんな奴。外はもう春だ、死ぬことはあるまい」
ここは月島宅の居間である。小さな、背の低いテーブルに亮史は足を組んで座っていて、ツキはその足元に座り込んでじっと亮史をにらんでいる。舞はその辺にふよふよ浮かび、さっきからツキに無言の悪態をついている。
そして、ソファの上では、年の頃は舞と同じくらいの、暗い茶色の髪をした少女が眠っていた。端整な顔立ちからどこか欧米あたりの血が混じっているとわかる。いい気なもので、自分の運命が決まるというこの場の議論とはまるで無関係に、すやすやと気持ちよさそうに寝息を立てている。
「無茶言うなよ、女の子なんだよ? せめて一晩くらいは泊めてあげてもいいじゃないか」
「俺はごめんだ。なんだって散々自分を追いかけまわした人間を、この家に泊めてやらなくちゃならんのだ」
――じゃあ君が出て行けばいいじゃん
余計な口を挟んだ舞を、ツキは視線で一喝した。舞は顔だけは強気に装い、しかしそそくさと亮史の背後へと逃げ込んだ。亮史はまた深いため息をひとつ。
「きっとなにか理由があったんだよ、ツキを追っかけたのにも。目が賞めたらちゃんと僕が言って聞かせるから、それでいいでしょ?」
「あのな、俺が反対してるのがそれだけだと思ってるのか? そいつの服見てなにも思わないのか?」
亮史と舞は、そろってソファの上の少女を見た。まるでそれに気づいているように、「ん〜」と幸せそうに寝返りを打つ少女が着ているのは、誰が見てもわかるシスター服。
亮史は視線をツキに戻した。顔が少し青ざめている。ツキが追い討ちをかけるように、
「吸血鬼がキリスト教徒とひとつ屋根の下で暮らすのか? そいつのバッグ探ってみろ、面白いものが見られるから」
「……人の持ち物を覗き見する趣味はないよ」
――え、なに、やっぱり吸血鬼って十字架苦手なの?
全霊を尽くして思い浮かべまいとしていた単語を、舞はあっさりと言った。途端に脳裏にあの忌まわしきフォルムが浮かび、亮史は生唾を飲み込んで頭を抱える。
「ほら見ろ、そのザマじゃないか。別に外に放り出せとは言わん。警察に連絡して向こうに引き取ってもらえばいい。大方観光中に迷子になったんだろう。それでカタはつく」
――あー、やっぱだめなんだ。へえ〜
勝ち誇ったようにそう言うツキと、呑気そうな舞の口調が、なぜかそのとき無性に癇に障った。抱えていた頭を上げて、毅然とした態度で亮史は首を振る。
「いや、だめだ。少なくとも今日一日は面倒を見る。彼女の目が覚めたときに話し合って、その上で警察に行くということになったらそうしよう。でも、彼女の目が覚めるまではこの家に留めておく。うん。そうする。決めた」
「あのな、主人 」
「決めたんだよ、ツキ」
いつになく強い口調で、亮史はそう言った。
「この家の主人も、君の主人も、この僕だ。僕が決めたことには従ってもらう」
「…………」
――そうそう。ご主人様の言うことは聞かなきゃだめよツキくん
舞がふふんとせせら笑い、ツキはそれを完壁に無視した。舞が少なからずむっとしたが、ツキはじっと真剣な表憤て亮史を見つめている。その顔には怒りも呆れも浮かんでおらず、亮史はその視線に動揺する。
唐突に、ツキは亮史を見るのをやめて、後ろを向いた。すたすたと歩きながら、ぽつりと、「――勝手にしろ」
それきりなにも言わず、ホールへと抜けていく。亮史と舞はその後ろ姿を見送ったあと、ほぼ同時に互いの顔を見た。
「……怒っちゃったかな?」
――ふんだ。なにかっこつけてんのよ。きっとはっきり言い返せないから、ああいうふうにお茶を濁したんだよあいつ
舞はまだご立腹の様子だ。亮史は少し笑い、それからソファの上の少女に目を向けた。狭いソファの上が寝苦しいのか、先ほどからしきりに寝返りを打っている。可憐な美少女という言葉がぴたりと合う。と思っていると、耳元で怖い声が聞こえた。
――月島さん?
「はいっ」
なぜか背筋が伸びる。舞はどこかしら機嫌の悪そうな目で、少女と亮史を交互に見て、
――ね、なんでこの子そんなに泊めたがるの?血でも吸うの?
「ばっ、馬鹿なこと言わないでよ。そんなことするわけないじゃないか」
――じゃ、なんで?
強硬に問い詰める舞に、亮史はうろたえて目をそらした。もごもごと口の中でなにか数語を言い、答えて舞は「聞こえない」ときっぱり言う。
「――だからほら、いくらなんでもかわいそうでしょ?なにも知らないまま目が覚めたら警察っていうのはさすがに」
――ホントにそれだけ?
舞はまだ疑わしそうだ。なぜここまで追及されるのかわからない。亮史はこくりと頷き、
「そうだよ。他になにがあるっていうのさ?」
舞は唇を尖らせ、そっぽを向いてしまった。と、横を向いたままいきなり舞がふわあああとあくびをする。し終わってからはじめて気づいたように口に手を当て、びっくりしたような気まずいような視線を亮史に向ける。亮史は肩をすくめて笑い、
「ま、いろいろあったからね。練習は明日からだね」
舞はむきになって言った。
――まだ大丈夫だよ。今からでも、少しだけでもやろう
「忘れたの? 眠いのを我慢して起きてると消えちゃうんだって」
――う……
「だからほら、今日のところはまずゆっくり休みなさい。休息も立派な練習。さ、早く寝た寝た」
舞は不満たらたらの顔で、しかしさすがに消滅というリスクを背負う気概まではなかったようで、「絶対明日付き合ってよ」という言葉を残して天井をすり抜けていった。亮史はそれを見送ってから、ふうと大きなため息をついた。
一人になると、静けさが染み渡ってくるようだった。すでに雨も止んでしまったようで、聞こえるのは少女のおとなしい寝息だけ。床にぺたりと座り込み、テーブルに頬杖をつきながら、少女の寝顔をぼんやりと眺める。このまま朝を待つのも暇な話である。道路工事のバイトは再開しているだろうか、とふと思い、どのみち今からでは一時間も働くことはできないだろう、と考え直した。この子宛の置手紙を置いて、部屋に戻って本でも読むか――と、そこまで考えたとき、突然頭上から声がした。
――月島さんっ
見上げると、天井に生えた胸から上だけの舞がいた。亮史は呆れたように、
「なにしてんの。早く寝なよ」
――だから、そのっ
見る見るうちに舞の顔が赤くなっていく。何事が起こっているのか亮史にはまったくわからず、舞は叫ぶように言った。
――変なことしちゃだめですからねっ!
意味がわからない。
「……なに、変なことって――あ」
亮史の言葉に耳の端も貸さず、舞は光の速さで天井に引っ込んでいった。亮史は頭を掻く。難しい年頃なのかもしれない。自分が十五歳のときはどんなだっただろうか、とオヤジくさいことを考え、すぐに諦めた。十世紀以上昔のことだ。覚えているほうがおかしい。
亮史は紙とペンを捜すために立ち上がった。確か自分の部屋にあったと思う。ふと、寝ている少女の顔に一瞥を投げかけ、こんなことを考える。
英語じゃなきゃだめだよな、やっぱり。
◆
もうそろそろ夜が明ける。薄青くなりはじめた空を見るのをやめて、ツキは歩き出した。
別に怒ったわけでも、呆れたわけでもなかった。ツキがあのメスを家に泊めるのを反対したのは、なにも自分が追っかけまわされた恨みだけではない。それもあったのだが、それ以上に亮史のことを心配して言ったことだ。なにしろコンビニの規則正しく敷き詰められた正方形の床タイルを見るだけで少し気分が悪くなるのだ、本格的な十字架を目の前にしたら一体どうなることやら。
が、亮史は、それでもメスを家に泊めると主張した。それならそれでいいと、ツキは思う。
本音を言えば、少し嬉しかった。久々に亮史がツキの主人らしいところを示してくれたからだ。ツキは自分のことを猫である前に使い魔だと思っている。使い魔は主人に命令をされてこそ存在する意義がある。今日のような断固とした態度を、いつも自分に対して持ちつづけてくれればありがたいが、それはありえないことをツキは誰よりもよく知っていた。
スズメが鳴き、どこか遠くで車が走る音がする。朝の匂いがあたりに満ちる。ツキは伸びをひとつして、さてこれからどうしようと考える。どこか日の当たらないところを探して、朝寝でも決め込むか
ふと、見覚えのある模様が、ツキの祝界の端を横切った。
ツキの目の前にあるのはよく見かける十字路。小走りで交差点まで向かい、そこにモザイクの後ろ姿を見かける。
「モザイク」
モザイクの耳がぴくりと動いた。彼らしくない鈍重な仕草で振り向き、ツキの姿を認めてぺこりと頭を下げた。なんだか腹でも痛いような、そんな顔をしている。ツキはモザイクに近寄り、彼の顔をじっくりと見て、なんだそんなことかと笑った。
「どうしたそんな顔をして、腹でも下したか? まったくそんな辛いもんをぽんぽん食ってるからそうなるんだ」
顔にチリソースをくっつけたままのモザイクは、一瞬怪訴そうな顔をして、それからふと思い当たり、暗い笑顔を浮かべた。ツキはその笑顔に怯む。こんなモザイクははじめて見た。
「――なんだ? どうしたんだ」
「違いますよボス、今日はまだ食ってません。――知りたいですか?」
「……なにが」
「俺が『どう』したのか」
ツキはなにも言わずにモザイクを見る。モザイクもなにも言わない。と、唐突にモザイクが歩き出した。ツキの脇を通り抜けて、元来た方向へと、無言のまま歩いて行く。ツキもそれに従った。なにか変だ。いつものモザイクではない。なんだかよくわからないが、今ひとりにしてはまずいような気がした。
駅前は結構な騒ぎだった。まだ夜も明けきらないというのに、パトカーが何台も北口バスロータリーを占拠し、数人の警官が物も言わずにあたりを調べ回っている。野次馬が出てくるほどの時刻でもないためか、警官以外の人影はまばらで、それが逆に朝の空気に似合っていた。
そして、なによりも目につくのは、駅の入り口の左脇に、まるでなにかのバーゲンセールののはりのように掛けられた大きな青いビニールシートだった。警察が人目やマスコミの目を阻むためによく使うあれである。モザイクはそれに向かって、相変わらずの無言で歩いて行く。
警官の何人かがモザイクとツキにふと視線を留めて、それから「なんだ猫か」という顔でまた自分の仕事へと戻っていった。モザイクは人間を恐れもせずに、まっすぐにビニールシートへと向かう。ツキがはらはらするような大胆な動作で、ビニールシートのほんの少しできた隙間へと身を滑り込ませた。ツキは一瞬躊躇したあと、モザイクにならって中へと踏み込む。
異様な空間だった。
青く大きなビニールシートに切り取られた駅前の一角がそこにはある。パイプでできた簡易な足場がいくつか組み立てられており、ツキはそれを物珍しそうに眺め、仇を見るような目で上方の一点を見ているモザイクに気づき、彼と同じ場所へと視線を向ける。
死体があった。普通の死体ではなかった。ところどころ噛みちぎられたような跡があり、いや、むしろこうなってしまっては残っている身体のほうが少ない。腕も足も一本しか残っておらず、そして、なにより異様なことに、その残っているわずかな身体を埋め尽くすような勢いで、その死体は数多の杭のようなものに縫いつけられていた。目を凝らせば、それがねじくれた形をした鉄パイプであることに気づいただろう。即席の足場に乗った警官たちが必死になってその杭を抜こうとしているが、よほど強く打ち付けられているのかそれとも死体のこれ以上の損壊を恐れてのことか、作業ははかばかしく進まない。彼らの顔は、みな一様に暗く歪んでいる。無理もあるまい。あんな無残な死体が――それも、まだ年端も行かぬ少女の死体が、日常に見上げる湯ヶ崎駅の駅名の『湯』の字のすぐ脇に礁されている光景を見れば、誰だってあんな顔をする。
そしてツキは、その死体の顔に見覚えがあった。とっさに浮かんでこなかった。見覚えがあるのだが誰かがわからない。そんなによく知っている顔ではないはずだ。湯ヶ崎にツキの知り合いの人間などいはしない。ちらりと見ただけか、一言二言交わすかしただけの――
思い出した。
一昨日、見回りの途中、モザイクの毛皮を撫でたメスだ。
思わずツキは、モザイクの後ろ姿を見る。モザイクはじっと、彫刻のように、みじろぎひとつせずメスの死体を見上げていた。
「どういうつもりだ」
東西に伸びるレールに沿って駅前から少し歩くと、見るも寂れた飲み屋街がぽつりとひとつある。その名も『湯ヶ崎銀座』というその飲み屋街は、外界とは異なる時間軸を持っており、もう朝だというのにたった今眠ったばかりである。そんな静かな湯ヶ崎銀座に、さらに静かなツキの声が響いた。
モザイクは何も言わない。振り向きもしない。じれたツキが口を開きかけ、それを制するようにモザイクが言った。
「なにがですか?」
ツキは言葉に詰まり、
「――どうするつもりだ」
「別に」
「モザイク――」
「別に、どうもしませんよ」
モザイクは振り向く。顔に『チリソース』をくっつけて。その口元を凄絶に歪めて。まるでツキがあのメスを喰った犯人だと言わんばかりの目つきで。ツキは冷静な視線でモザイクを真正面に見据えながら、静かに言う。
「あれは、俺たちには関係ないことだぞ」
「……わかってますよ」
モザイクは目を伏せた。ツキはそれを見て、確信する。こいつは、やる気だ。
「いいか、念のために言っておくぞ。あのメスは、俺たちとは、何の関係もない。わかってるな? だから、俺たちがそれを気にかける必要はどこにもないし、ましてやお前が――」
モザイクが顔を上げ、ちらりとツキを見た。
「――仇を討つ必要もない」
「だから、わかってますって」
言ってからモザイクは、ふっと笑った。そこだけは、いつものモザイクだった。
「ボス、なにか勘違いしてゃしませんか? 別に俺は、あのメスの仇をどうこうなんて古臭いことは考えちゃいませんよ。ただその、さすがに俺も、朝っぱらからあんなの見せられてちょっとへこんでただけです。だからボスも道連れにしようと、まあそういう次第でして」
嘘だ、と思った。
一見モザイクは、ツキに輪をかけてシニカルで飄々《ひょうひょ》うとした性格のように思える。実際そう捉えている猫も少なくないのだが、しかし、それは見せかけだけのものだ。一度こうと決めたら絶対にそれを曲げない、どんな無茶でもやってのけるような鉄の意志が、モザイクという猫の本質なのである。
ツキは確信する。こいつは、やる気だ。
もはやどんな言葉も通じまい。それにそもそも、ツキには他の猫の行動を決定する権限などありはしない。彼はただのボスであり、他の猫からの幾分かの敬意と畏怖を受けるだけの存在であって、彼らの支配者では決してないのだから。
モザイクはなにも言わないツキに向かい、わざとらしくあくびしてから、一礼をした。
「それじゃ、俺はこれで失礼します。なんだか眠くなっちまいましてね」
「……ああ」
ツキにはそれしか言えない。後ろ姿を見送りながら、心の中でお前が今やろうとしていることはとんでもなく無意味なことだと叫ぶ。どうやって見つけるつもりだ。見つけてどうするつもりだ。見つけてどうにかできるつもりなのか。
モザイクの姿が、角の向こうに消えた。ツキは重い気分を振り払うように息を吐き、それから、なにかが自分の頭の中に引っかかっていることに気づく。後ろを振り向き、じょじょに喧騒を取り戻しつつある駅前へと視線を向けた。
頭の中にメスの死骸を思い浮かべる。青ざめ、どす黒い血がこびりついた肌。輪郭の大半が歯形でできているような身体。そこだけ驚くほど綺麗な顔。そして――
ツキは電気が走ったように硬直する。しばらくその体勢で固まったあと、疾風のごとく走り出した。目指すは先ほどの死体遺棄現場。もしかしたら思い違いかもしれない、もう一度確認する必要がある――そう考え、湯ヶ崎銀座を矢のように駆け抜けて行く。
◆
レレナは目を開けた。半分以上寝ぼけているような目で、枕もとの時計を見ようと顔を左に向ける。今何時だろう、そう思いながら、レレナの網膜に映るのは壁のような布のようななんともいえない質感の物体だった。
触ってみる。
ざらっとしていた。外は硬く中はやわらかい。ぐにぐにとその感触を楽しんでいると、じわじわと記臆が蘇ってきた。
跳ね起きた。あたりを見回す。自分が寝かされていたのは古ぼけたソファで、自分が見ていたのは古ぼけたソファの背もたれであり、自分の右手方向には古ぼけたテーブルの上で古ぼけたランプが淡い光を放っている。
後頭部に痛みが走る。思わず押さえて、失神してからの記憶がないことに気づく。おかしい。あの場で倒れたはずの自分が、なぜここにいるのか。
レレナの首筋に鳥肌が立つ。決まっている。他の誰かが、自分を、ここまで運んで来たのだ。
しばしの時間が経過。レレナの首から鳥肌が引いていった。別にぞっとすることではない。この家はボロっちいけど実は誰かが住んでいて、その誰かが倒れていた自分をここまで運んで来たのだ。いや、運んで来てくださったのだ。と、レレナの頬に赤味が差す。私ったらなんてことを。無断で人の家に上がり込んで、しかも介抱までしてもらうなんて。とにかく、早く家の人を探してお礼とお詫びを言わなくちゃ。
レレナは立ち上がり、ランプに押さえられるようにしてテーブルの上に紙が置いてあるのを見つけた。手に取り、あまりの暗さに目を細めながら文字を読む。そこには文法もスペルもめちゃくちゃな英語で、『私はこの家の主人でありあなたを歓迎する、少し席を外すが夜になれば戻るのでどうか待っていて欲しい』という旨の文が記されていた。へたくそな英語が逆に幸いした。学校の成績は良いとはいえ、レレナはまだ普通の英文が理解できるほどには、英語が上達していなかったからだ。ちなみにローマの公用語は、イタリア語である。
ともかくも、レレナはその文に、全身の力が抜けるほど安堵した。よかった、この家の主人は、とてもいい人のようだ。
唐突に、『夜になれば』という言葉がものすごく気になった。
悪魔は安心させてから人の心につけ込むという。
なにを失礼なことを、せっかく助けてくれた人を疑うつもりかというまっとうな思考のほかに、もうひとつ、まったく別のことを考える思考があった。なるほど助けてくれたらしい、だが、それすらも悪魔の計略としたらどうだ? あの黒猫も、あの大穴も、あまりに都合が良すぎるような気もする。そもそもなぜクルセイダルの前線基地であるべき教会が駐車場になっていたのだ? 悪魔の恐るべき力で破壊され駐車場にされてしまったのではないのか? そしてその悪魔がいるのは――
レレナは緊張した面持ちで背筋をぴんと伸ばした。きょろきょろとあたりを見回す。もしかしたら自分は知らず知らずのうちに敵の本拠地に乗り込んでしまったのかもしれない。なぜか視線を下に向けようとはせず、手探りで自分のバッグを捜す。ソファに立てかけるように置いてあったバッグをひったくるようにつかみ、中から十字架を取り出した。これさえあれば安心だ。神の敵は十字架を見れば逃げ出す。あのクルセイダルのおとぎ話でも、最後に主人公を救うのは母の形見の十字架だった。
一方で、まともなほうの思考が声を上げる。待て待て、そんな一方的に決め付けて、もし違ったら大変なことになる。ただでさえ家に勝手に上がり込んで、それを大目に見てもらったばかりだというのに、いきなり悪魔扱いではどんなにいい人だって気分を悪くするに決まっている。もっと慎重になって、とりあえずその人と会って話をしてから判断をすればいい。
「主人っ!! 主人はいるか!!」
喉から心臓が飛び出るかと思った。最近こんなことはかりしているような気がする。この数日間で寿命が七年は間違いなく縮んだだろう。
もはや考える余裕もなかった。汗ばむ手に十字架を握り締め、音を出さないように部屋のドアへと足を忍ばせる。薄暗くてよくわからないが、ドアの向こうは玄関を兼ねたホールのようになっており、「主人主人」と叫ぶ声は二階のほうから聞こえてくる。レレナはドアの陰に身を潜ませ、そうとも知らずに階段を下り、こちらへと近づいてくる声の主に向かって、十字架を突きつける心の準備をし、声がどんどん大きくなり、ホールを抜けてこちらへ向かって来たところで――
レレナはドアの陰から飛び出し、目をつぶって十字架を突き出した。
静寂。
レレナは片目をちらりと開け、それから両目を開けた。眉をひそめる。目の前には誰もいない。では今の声はなんだったのか、とそこまで考えが至ったときに、足元に例の黒猫の姿を見つけた。こころなしか怯えているような表情で、じりじりと後ずさりをしている。無理もない。あれだけ追っかけまわしたのだから。
この猫が?自分で思ってから自分で笑った。そんなことあるはずがない。しゃがんで撫でようとすると、一目散に駆けていった。レレナは残念なような怒っているような表情で立ち上がる。なにもあんなに怯えなくてもいいのに、これじゃまるで私が悪者みたいじゃ――
「ふあっああああ…………なんだよツキ、一体どうしたって――」
そして、視線が合った。
「あ」
同時に声を上げ、同時にまばたきをし、同時に互いの姿を指差した。男は階段の上から身わ乗り出すように、レレナは階段の脇で見上げるように。
そして男は、屈託のない笑顔を顔に浮かべた。
「よかった、目が覚めたんだね」
自分は救いようのない馬鹿だと、そう思った。
こんなぼんやりした顔の悪魔が、いるわけないではないか。
◆
この家には湯飲みがひとつしかない。
亮史はレレナの前にひとつきりの湯飲みをごとりと置いた。それを見たレレナは慌てて立去上がり、つむじが見えるほど深々とお辞儀をする。亮史はそれを見て少し戸惑った。
「あの、レレナ――さん。そんなにかしこまらなくてもいいから」
「はいっ。あ、いえっ」
どっちだ。
「その、お母さんに、日本は礼儀を重んじる国だとお聞きした次第でありまして」
「いやまあ、そういうわけでもないんだけど」
亮史は煩をぽりぽりと掻く。日本語がやけに上手――というより、ほとんど完壁なのは、そのお母さんの影響なのだろうか。
「もっと気を楽にして。そんなに硬くなられると、こっちまで緊張しちゃうよ」
「ぜっ、善処します」
「…………」
亮史は苦笑して、壁にもたれかかった。この家は亮史ひとりが住むことのみを目的に作られているため、ほとんどの家具雑貨が一人分しかない。客を立たせるのもおかしな話なので。三人掛けのソファはレレナに譲っただけの話なのだが、レレナは亮史が立ち尽くすのを見て一瞬の空白、それから大変な失礼を犯してしまったという顔になって腰を浮かしかけた。亮史はそれを手で制し、
「あ、いいからいいから。それで、レレナさん。ローマから日本に来て、それから?」
「あ――はい。あの、日本での滞在先は教会だったはずなんですけど、実際来てみたら教会がなくなっちやってて、それで、その……」
ごにょごにょと口ごもる。が、亮史にはそれから先のことはなんとなく予想がついた。それからツキに会って、寂しさと絶望で覆われていた彼女の心はツキの見せかけのかわいらしさにあっさり騙され、思わず追いかけ回しているうちにこの家に着いたのだろう。難儀なことだ。
と、舞が天井からすり抜けて来た。寝癖がついている。幽霊だって寝癖くらいつく。寝ぼけまなごで亮史に片手を上げて挨拶し、ひとつ大きなあくびをして、それからレレナの存在に気づいた。まだ寝ているような声でのんびりと言った。
――あれ。起きたんだ。ねぇ月島さん、やっぱこの子にはあたし見えないの?
亮史は舞とレレナを焦ったように見比べた。レレナの気がそれた瞬間に舞に向かって人差し指を唇にあて、不意に視線を元に戻したレレナはそれをばっちり見てしまった。思わず視線を追いかけ、それから「?」という顔で亮史を見る。亮史は乾いた笑い声を上げ、「ところで」と半ば強引に話を元に戻した。
「これから先のことは考えてるの? ほら、警察行ったり大使館行ったり――」
レレナはこくりと頷く。舞はテーブルの上に降り立ち、まじまじとレレナを見つめる。
「一応、そのことは考えてますけど――でも、あの、ちょっとした事情があって、まだ帰るわけにはいかないんです。あの、よろしかったらお電話お貸しいただいて構いませんでしょうか?」
ちょっと変な敬語だ。舞はまだレレナを見つめている。何事かと思いそれとなく亮史が見ていると、おもむろにレレナの目の前で正気を確かめるように手を振り始めた。無論レレナが気づくはずもなく、調子に乗った舞は鼻先五センチでべろべろばー。
「――あの、月島、さん?」
知らず知らずのうちに顔が硬直していたらしい。レレナはおずおずと声をかけ、亮史はそれに作り笑いで答える。舞は亮史を振り向いてにやりと笑った。
――へー結構面白いねこれ。よし月島さん勝負だ、どこまで耐えられるか
やめてくれと顔で笑って心で叫ぶ。叫びは届かず、舞は亮史によく見えるようにテーブルの上から飛びのき、レレナの背後に回った。亮史は神に祈る気持ちで話を続ける。
「ああどうぞ電話なんていくらでも使って。そこの――」
ドアを指差し、電話の場所を説明しようとしたところで、舞は「あはははは」と笑いつつレレナの頭に手刀をすかすかと通り抜けさせる。レレナは怯えきった顔と声で、
「あの……」
しまった、と思った。また顔に出ていたらしい。舞はへらへら笑いながらレレナの頭に両手を突っ込み、二つの人差し指を頭のてっぺんからにゅっと突き出して「鬼」とほざき、レレナはますます怯え『鬼』のまま停止している舞の指を残して立ち上がった。うなじが見えるほどの礼。
「本っっ当に申し訳ありませんでした! お怒りはごもっともです、勝手に家に上がり込んでしかも土足で挙句の果てに電話貸せなんて、自分でもあつかましいにもほどがあると思うんですけどあのそのもうホントになんて言ったらいいのか……」
別に怒っているわけではないのだが、ひきつった顔をレレナは『抑えきれない怒り』と認識したらしい。慰めようとしてぎょっとした。頭を下げたままのレレナが、瞳からぽろぽろと涙
をこぼしている。泣くほどのことかと思ったが、舞は先ほどとは打って変わったじっとりした目で亮史を見ている。自分を指差し無言で尋ねた。え、僕のせい?
舞はこっくりと領いた。なにか非常に理不尽なものを感じる。
散々迷った末、亮史は片手をレレナの肩にぽんと置いた。びくりと震え、恐る恐るぐじゅぐじゅの顔を上げる。ハンカチがあれば顔を拭いてあげたところだが、そんな気の利いたものはぉろかティッシュすらもこの家にはない。とりあえず亮史は、人差し指でレレナの涙を拭った。自分でもかなり似合わないと思う。多分舞は笑っている。
「大丈夫、気にしてないよ、そんなこと」
にっこりと笑った。ああこれで爆笑されるなと半ば自虐的に思い、それとなく舞に視線を向けると、爆笑どころか眉根を寄せて思い切りこちらをにらんでいた。今にも『なんだやんのかこの野郎』と言い出しそうな雰囲気である。かなり怖い。
「ほ、ほら、ソデ振り合うも他生の縁っていうかさ、別に土足でもなんでもこの家古いからあんまり関係ないし、そう、そうだ、困ったときはお互いさまっていうし、えーとなんだつまりその」舞の顔が気になって言葉をまとめることができない。レレナは「ぐしゅ」という音を出してシスター服の袖で顔を拭いて、亮史の顔を見上げて数秒経過、泣き止んだかと安心したのもつかの間、なにが気に食わなかったのかまたわっと泣き出した。亮史はただうろたえるばかりだ。舞は怖いわレレナは泣くわ、どこか遠くへ逃げ出したくなってくる。
「どっ、どしたの? なんかまずいこと言った?」
これは両者に言った言葉だ。それに対し舞は無言、レレナはぐしゅぐしゅ言いながら、泣き声をようやくという感じで言葉にする。
「ありっ、ありがとっ、ござっ、うっ、ひぐっ――」
最近女の子によく泣かれる。
亮史は小さく息を吐いた。立ち尽くし、顔を伏せ、涙が床に落ちてしまっては申し訳ないとでもいうように両手の甲で何度も何度も顔を拭っているレレナの頭をぽんぽんと撫でた。その優しい笑顔に、舞の顔がどんどん険悪の色合いを増していっていることに、彼は気づいていない。「すいません、あの――すいません、すいません」
「いいって。気にしないで」
ひたすら謝るレレナを、亮史は笑いながらなだめる。と、レレナの腹がきゅうと鳴った。びくっとレレナは泣き顔を上げ、亮史と一瞬見つめあい、火でもついたのかと思うくらいの勢いで赤くなった。亮史はくすくす笑いながら、キッチンを指差す。
「ろくなものないけど、朝ご飯にしよっか。パンでいい?」
レレナは自分が泣いているのか照れているのかすらわからないほど混乱しており、とにかくただ必死に顔を伏せたままこくこくと頷いた。舞はまだ亮史をにらんでいたが、ぽつりと、
――あたしにはお茶も出してくれなかったくせに
なにを言い出すのかと亮史は舞の顔を見る。舞は頬を膨らませてそっぽを向き、亮史の「向こうで話そう」という意味合いのジェスチャーも無視。やがて舞は膨れっ面のまま、なにも言わずに部屋から出て行った。
◆
ドアが開き、眠そうな顔の亮史が入ってきた。亮史は机の上のツキを見て少し驚いた顔になり、それからすぐに眠そうな顔へと戻って棺桶へ歩いて行く。と、ふと机の前で立ち止まり思案すること数秒、なにを思ったか机をずらし、ドアを半分ほど塞いでしまった。
「――主人」
「いやね、寝てる途中にレレナさんが入ってきたら困るでしょ? ……レレナさん。うーん。レレナさんか」
「主人」
「やっぱりレレナくんのほうが呼び方としてはしつくりくるかなツキどう思う?」
「主人!」
やや語気を強めると、亮更は黙り込んだ。情けない顔でツキの顔を見下ろし、それからとぼとぼとした歩調で棺桶まで歩き、その上に腰を下ろす。
「――なんかあるとは思ってたけどね。ツキが僕の部屋に自分から入ってくるなんて珍しい。なにがあったの?」
「モザイクを知っているか?」
一瞬、亮史は虚を突かれたような表情を浮かべた。
「確か……ツキの友達の猫だっけ?」
「まあ、そんなようなものだ。そいつが一昨日、俺と見回りをしている途中、ある人間のメスと意気投合して――早い話かわいがられた。変な意味じゃないぞ。撫でられて顎の下を掻いてもらった」
亮史はなにを言っているのかわからないという顔をする。ツキは無表情に言葉を続けた。
「そのメスの死体が、今朝、駅前で見つかった」
間。
「モザイクは仇を取るつもりだ。メスはモザイクの飼い主でもなんでもないし、関係と呼べるほどの関係もないが、モザイクは今、メスをやった犯人を捜している」
ツキはそこで、いったん喋るのをやめ、亮史の顔を見つめた。亮史はため息。
「――それで? それが?」
当然だとツキは頷く。
「確かに、ここまでだったら主人とはなんの関係もない話だ。ここからだ。俺もその死体を見た。まず最初にこれをやった奴は人間ではありえないと思った。とにかく死体の損壊が激しい――いや、はっきり言おう、メスは喰い殺されていた」
亮史は組んだ足の上に肘をつき、さらにその上に顎を乗せて、つまらなそうに聞いている。
「誰が――なにがやったんだと思う? ライオンか? 熊か? それともサメか?」
亮史は答えない。ツキは構わずに、答えを言った。
「恐らく、わざと残したのだろうな。首が半分以上喰われていたのを見る限り、とっさの思いつきだったのかもしれない。あったんだよ。首筋に。俺も主人が人の血を吸うところくらい見たことがある。あれは、なんと言ったか――」
「吸血痕《きゅうけつこん》」
ぽつりと、疲れたように言った。立ち上がり、首の関節をこきこきと鳴らし、強い視線でツキをにらみつけた。
「それが、なに?」
「あの吸血痕は恐らくメッセージだ。意味はたったひとつだけ――『俺はこの町にいる』。深読みすれば、こういうふうにも取れるかもしれない。『出て来い』とな」
亮史は唇の端だけを歪めて笑った。
「考えすぎだよ」
「では、主人はどう思うのだ? それ以外の解釈があるなら聞かせてもらおうか」
亮史はツキから視線をそらし、
「吸血鬼マニアの猟奇殺人犯ってのは?」
ツキは笑いもしない。
「真面目な話をしている」
「――だから、それで僕にどうしろというのさ」
ツキは立ち上がり、亮史の顔をにらみつけるように見る。
「簡単だ。主人は吸血鬼、相手も吸血鬼、ならばこの町のナワバリの主は誰なのかをはっきりさせておく必要があるだろう。主人の『感知』の能力ならば、労せず相手の場所を特定できるはずだ。遠慮することはない。相手はもう人を――」
「ツキ」
亮史は深く深く息を吐いた。へたり込むように棺桶に腰をおろす。
「やめてくれよ。僕はそんなことをするつもりはない」
「しかし――」
「僕はもう人間なんだ。少なくとも表面上は。なんだってそんなトラブルに自分から巻き込まれに行かなくちゃいけないんだ?」
「…………」
亮史は目をつぶる。彼の見ている闇の深さは、ツキなどには到底及びもつかない。
そうだ、とツキは思った。考えてみれば、俺はほとんどなにもと言っていいくらい主人のことを知らない。なぜ主人が輸血パックから血を飲むのか。なぜ主人が日々のバイトなどに身をやつしているのか。なぜ主人が『月島亮史』という名前まで得て、人間社会に溶け込んで暮らしていこうとするのか。
尋ねても答えがないのはわかっていた。無理を承知で、ツキは言ってみた。
「しかし、主人が相手を倒せばこれ以上の犠牲がなくなる。主人の力なら相手を倒すなんて造作もないことだろう」
変化が起こった。
亮史は目を開けてツキを見た。ただそれだけのことで、ツキは背中の毛が立つのを感じる。怒りではなく恐怖。あまりに長いあいだ縁がなかったその感情に戸惑い、それが恐怖だと認めるまでにずいぶんかかった。
ああ、と思う。そうだ、この目だ。大昔、まだツキが亮史に会ったばかりのころの、まだ亮史が『月島』ではなかったころの、まだ亮史が身も心も吸血鬼だったころの目。氷のように冷たく、ガラス玉のように色がない。
「犠牲?」
亮史が静かな口調で言った。
「猫はネズミを狩る。ライオンはガゼルを狩る。吸血鬼が人を狩ってなにがおかしい。それは犠牲でもなんでもない、当たり前のことだ」
「…………」
「いいことを教えてあげよう。ツキが散々聞きたがっていた吸血鬼のことだ。吸血鬼の能力に『感染《かんせん》』というものがある。これは噛んだ人間を吸血鬼に変えてしまう能力のことだけど、もちろん噛んだら即吸血鬼というわけじゃない。エボラウイルスじゃあるまいし、そんなルールだったら世の中はあっという間に吸血鬼だらけに。なってしまう。『感染』が適用されるケースは、『吸血行為によりその人間が衰弱死した場合』に限るんだ。だから仲間を作ってやろうと思わなければ、吸血鬼が『感染』することはまずない」
亮史はにやりと笑う。二本の牙がちらりと見えた。
「昔、僕もやったことがある。それも戯れに。その結果わかったことも教えよう。『感染』は回を重ねるごとにその質が落ちていく。落ちていくというよりも変化していくといったほうが適切かもしれない。キーワードは三つ、『主人』と『従者』と『亡者』だ。僕のようにはじめから吸血鬼だったものを『主人』と呼ぶ。『主人』はただの人間を『感染』の能力によって『従者』に変える。『従者』は吸血鬼の能力をほとんど使えないが、『感染』の能力だけは持っている。しかしこれも『主人』のそれとは質が違う。『従者』はただの人間を『感染』の能力によって『亡者』へと変える。『亡者』は吸血鬼の能力なんてレベルじゃない、ただ人を喰うためにさ迷い歩くだけの化け物だ」
亮史はあおぐように天井を見上げた。
「だけど、ただの化け物に成り果てようと、それは人間なんだよ。僕がいくら人間として生きようとしても吸血鬼であるように。ツキ、君は言ったね。『首筋の吸血痕はメッセージ』だと。なら、そいつはまだそれだけの知能と記憶を持っているということだ。まだ頭のどこかに愛する人や両親の顔を持っているかもしれないということだ。僕はそんな奴を、安っぽい正義感で殺すことなんてできないね。そいつは悪気もなんにもなく、ただ食欲を満たそうとしているだけに過ぎないんだから」
喋り疲れたように息を吐いた。
「ライオンと同じだよ。放っておけば、そのうち警察なり自衛隊なりが終わらせてくれる。僕が出て行く必要はどこにもない。僕はただの人として生きているんだ。変なことに巻き込まないでくれ」
しばらくのあいだ、双方ともなにも言わなかった。亮史の目からは冷たさが消え、またいつものぼんやりとした亮史へと戻っていった。亮史はあいまいな笑いを浮かべ、
「――なんか、変なこと言っちゃったかな。ごめん。でも、やっぱり僕の出番じゃないと思う。その、モザイクくんには、ツキから言っておけばいい。それでも諦めないと言うなら、それはもう仕方ないんじゃないかな。気の済むまでやらせてあげるしか」
「……ああ」
ようやくツキは、それだけ言った。
それを聞いて、亮史は肩の荷が下りたような顔をした。「それじゃあ」と言い捨て、棺桶のふたを開け、中に入り込み、ふたを閉める前に思い出したように、
「そうだ、今日バイト早番だから、夕方六時になったら起こして」
「…………ああ」
亮史は満足そうに頷いて、棺桶のふたを閉めた。
亮史が寝てからも、ツキはその場を微動だにしなかった。なにかを考えているような顔で、机の上に伏せたまま、じっと虚空の一点を見つめつづける。
◆
「よしっ」
レレナはぴっぴっと水を切り、蛇口を閉め、念入りにタオルで手を拭いた。が、見ればタオルは雑巾と見まごうほどの汚さで、拭いた手のほうが逆に汚れてしまった。むーんと唸り、レレナは腕まくりしたシスター服を元には戻さず、タオルを洗うために再び水を出す。ボウルにたたえられた水が水流を受け止めてゆらめき、沈められた食器がかちゃかちゃと騒ぐ。朝食は食パンに目玉焼きという実に普遍的な内容であった。作ったのも配膳したのもレレナで、今こうして後片づけもやっている。亮史はしきりに恐縮していたがなにを言う、このくらいやらなくては地獄に落ちてしまうと無理矢理説き伏せたのだ。
朝食のときに、この家と亮史に関することをいろいろ教えてもらった。
月島亮史さんというらしい。
『同居』している黒猫はツキくんというらしい。
夜起きて朝寝る生活をしているらしい。そして今から寝るらしい。あの置手紙はそういう意味だったのだと、いまさらながらレレナは赤面した。
この家は築百年以上のオバケ屋敷で、こんなに暗いのは当時まだ電灯が普及していなかったかららしい。現代においてもなお、お金がないので電灯の設置もままならぬらしい。
そして、自分は望む限り、ここにいていいらしい。
なんていい人だろうと思う。きっとこの人は神様の生まれ変わりだ。絶対そうだ。
食器洗い用の洗剤をタオルにたっぷりとつけ、食器を避難させてから、ごしごしと洗濯ばーさんのようにボウルの中でタオルを洗う。これでも家庭科は5だ。それでなくとも家では手伝いもかなりやっているし、そもそもレレナは家事全般が好きな性分であるらしい。汚れが落ちていくのを確認するたびに、爽快感に似た喜びが湧きあがる。
レレナは水流に手をかざし、綺麗になった右手で洗剤を持って定位置にごとりと置いた。やはり男性の一人暮らし、食器洗い用の洗剤ひとつきりしか流しにはなく、だがなぜかゴム手袋がぽつりと置いてある。ぱっと見、腕が置いてあるようでちょっと怖い。
タオルをぎりぎりと絞ってどこかに干そうとして、この家には極端に窓が少ないことに気づく。台所と居間はつながっているのであるが、双方合わせても窓はひとつしかなく、しかも監視用かと疑いたくなるほど狭い。北側に配置されているため日光もまったく入ってこない。これでは干すことができない。とりあえずタオルを干すのは保留にし、洗剤が混じったボウルの水をすべて入れ替え再び食器を沈めた。タオルは広げてテーブルの上に置いておくことにしたのだが、乾くかどうかは怪しいものだ。
一区切りついて、レレナはふうと息をついた。ソファに身体を沈め、うちから湧いてくる安心感に身も心も浸りきる。帰る場所があるというのは、やるべきことがあるというのは、なんと素晴らしいことか。レレナはソファに沈み込んだまま、うっすらと目を開けて、見慣れぬ木目の天井を見るともなく見る。
――そうだ、なにかお礼をしよう。それぐらいしなくちゃ。でもなにを
ふと思いつき、ソファから立うて冷蔵庫まで行く。取っ手をつかみ、他人の家の冷蔵庫を勝手に開けるのは失礼だろうかと少し迷ったが、すぐにまあいいかと思い直して扉を開けた。
ウーロン茶とヨーグルトという奇妙な取り合わせがまず目についた。あとは申し訳程度に卵が二、三個と、中身のよくわからないパックがひとつに温めタイプの即席ごはん数個。それだけ。およそ主食として食卓を飾るべきものが欠落している。やっぱり、とレレナは思い、冷蔵庫の扉を閉めた。
ソファまで戻り、バッグを開け、財布を取り出し中身を確認する。事前に両替えしておいた円がまだかなりあった。レレナはうきうきした顔で財布をポケットに入れた。そうだこれにしようそうしよう。レレナ・パプリカ・ツォルドルフによる特製手作り料理。こんなものですべてのお礼が返せるわけではないけれど、料理の腕にはそれなりの自信を持っているし、なにもしないよりはずっとずっとましだ。
確か月島さんは昼食抜きで夜起きると言っていたから、とりあえず買い物をするのは後回しにしようと決める。なにはともあれ、まずは本国へと連絡を入れなくてはならない。と、レレナは自分の顔が引き締まるのを感じた。そうだ。今まで気づかなかったが、これは結構な非常事態なのではあるまいか。なにせクルセイダルの前線基地である教会がなくなっていたのだ。まずこれを連絡することも、クルセイダルの第一歩であるだろう。
意気込んで居間を出た。電話はすぐに見つかった。階段のすぐ脇、先ほどツキくんと遭遇した場所に、これまた真っ黒な電話が台に載せられてちょこんと置いてある。少し変わったスタイルの電話だ。受話器があるのでかろうじて電話だとわかるのだが、ダイヤルボタンの配置がなにやら丸いので斬新な印象を受ける。
レレナは受話器を取り耳に当てた。「つー」という通信可能を示す音を聞いてから、ダイヤルボタンを指で押す。
無音。
あれ。
指を離して、受話器をがちゃりと置き、レレナはそのままの姿勢でじんわり考える。それからまたおもむろに受話器を取り上げ、耳に当て、ダイヤルボタンをプッシュ。
無音。
あれれれ。
無音どころか手ごたえすら感じない。なにかの故障かしらいやでも音は鳴ってるし、そう考えるとやはりこれは日本独特の新式電話で、なにか特殊な使い方があるのではないかと思えてくる。レレナは一通り、電話を叩いてみたり、顔を近づけて「よん! ろく! ご!」と叫んでみたりしたのだが、一向に電話がかかる気配はない。
やがてレレナは、がっくり肩を落として諦めた。しょうがない、あとで月島さんに使い方を教えてもらおう。
レレナはとぼとぼと居間に戻りかけ、思い直し、踵を返して玄関へと向かった。財布はポケットの中だ、ならばこのまま買い物に行っても構わないだろう。どうせなにかやらなくてはいけないことが他にあるわけでもないし。
非常識なまでに狭い玄関ホールを、身を滑り込ませるようにして抜けた。玄関扉を開け、歩道に出て朝の呼吸を吸い込む。夜までは自由時間なんだし、昨日は見る余裕のなかった日本の町を、今日はゆっくり回ってもいいかなーそんなことを考えながら、レレナは歩き出した。
◆
案の定、ツキは例の渡り橋付きの窓から出てきた。目の前にふわりと浮かび、舞はできるだけ表情を作らずに声をかける。
――ツキくん
無視されるかとも思ったが。ツキは橋に降ろしかけた足をひっこめて窓に座り込み、「なんの用だ」という目で舞を見た。怯んではならない。言葉に詰まった瞬間、この猫は自分を見捨ててさっさと行ってしまうだろう。なんとなくそういう気がする。
――あのさ、月島さんのことなんだけど
ツキは無言。舞の顔を見ているのか、舞の顔の後ろにあるなにかを見ているのか、判別のつかないような視線をじっと送っている。怯んではならない、とわかってはいるのだが、やはりどこか気後れするものを感じた。
――あのね、月島さんってさ、その……
やっぱり言えない。こんなことを聞いてなにを詮索しているのだなどと言われたら生きていけない、と思い、しかしツキは舞のことなどどこ吹く風で後ろ足で耳を掻いている。人が話しているのにと頭に血が上り、ついでに昨日の怒りもぶりかえしてくるが、耳の後ろを掻き終わってまたこちらに強い視線を送りはじめたツキを見ているうちに、へなへなと怒りが抜けていった。要するに、この猫はこういう猫なのだと、無理矢理納得するしかない。
――だから、その、ね。別にそんなに知りたいわけじゃないんだけどほらちょっと気になったっていうか、月島さんってさ、結構どんな人にでもいい顔しちゃうタイプ?
ふとツキが舞の顔から視線をそらし、右手方向、舞の斜め後ろあたりに顔を向けた。何事かと舞も振り向き、しかしそこにはなにもなく、視線を戻すとツキは平然として舞の顔を見ていた。 なんだこいつ。
「――まあ、そうだな」
うん、と自分で頷き、
「そうだ。まったくそうだ。主人めトラブルは避けたいとか言ってたくせに、だったらなんでこいっらを引っ張り込んだんだ」
突然なにを言い出すのかと舞は少し驚き、それ以上にむっとしてツキに詰め寄る。
――ちょっとこいつらってなによこいつらって
「どうもこうもあるか、なんで俺たちがお前らの面倒を見なくてはならんのだ。耳元でぎやあぎゃあわめかれるわ追っかけまわされるわ、最近ろくに寝てないぞ俺は」
――君は面倒見てないじゃない、なに言ってんのよ。それにそれを言うなら君だって月島さんの居候みたいなものでしょ。お互いさまよ
ツキはびっくりしたように舞を見つめ、それから小さく笑った。
「違いない」
舞は顔を曇らせる。なんだか昨日とはずいぶん違っているような気がした。こんなにしおらしい猫だっただろうか。いや絶対違う。昨日のあれはひどかった。
――ちょっと、どうしたの。なんかあったの
「別に」
投げやりな口調でそう言って、すたすたと歩き始める。橋をでんとさえぎっていた舞の身体を易々とすり抜け、振り返りもせず歩いていくツキの背中に、舞は不満気な声を投げかけた。
――なによそれ、せっかく心配してあげたのに
「それはどうも」
地面近くまで進み、木を蹴って飛び降りたツキは、ふと舞を見上げて、
「ところで、なんでそんなことを聞くんだ?」
いきなりだった。聞かれたときの言い訳はもちろん用意していたものの、とっさに手の届く場所においていなかった。「う」という声を出して黙り込む舞を見て、ツキは不審そうに眉を寄せ、それから「ああそうか」とはかりに納得顔になった。
「あのシスターの小娘だな」
舞は口を開く。
「つまりお前は、あとから来たあの娘を主人がちやほやするのを見て、なんとなく気に入らないと」
開いたものの、なにも言う言葉がない。バレたときの準備も当然のごとくしてあって、あはははなに言ってるのよツキくん、そんなわけないじゃない、ちょっと気になっただけよそれだけ。そして『準備ができている』と『それが成功する』は悲しくなるほど違う。舞は顔を真っ赤にして黙り込み、そこにツキはトドメを刺した。
「バカじゃないのかお前」
静寂は一瞬だった。
頭の中が沸騰した。気がついたときには、自分でもよくわからないわめき声を上げながら、ツキをとっちめようと突進していた。ツキは冷めた目でそれを見ながらよけようともしない。例によって舞はツキの身体はおろか地面にも愛想をつかされ、実にスムーズに地球へと吸い込まれていった。
◆
非常階段の踊り場で、モザイクは空を見上げる。雲ひとつない青空で、いつものモザイクなら十分も二十分も見上げているところだが、今日ばかりはすぐに前を向きゆっくりと歩き出す。
ボスには少し悪いことをしてしまったかな、と思う。
なにもわざわざ見せることはなかったのだ。余計な心配をかけてしまった。基本的に猫はひとりきりで生きていく動物で、だがボスはそのことを忘れている節がある。見回りだってそうだ。普通の猫は決してそんなことをしない。だからと言って余計なおせっかいを焼くわけでもないし、保健所の野良猫狩りから助けてもらった猫も結構いて、いろいろと感謝されているのは確かだ。しかし、やはりボスはただの猫ではないとモザイクは思う。
もっとも、自分も、彼のそんなところを慕ってくっつき回っているわけだけれど。
非常階段を駆け上がって、屋上まで一気に登りつめる。風が強い。青空がいっそう広くなりしかしモザイクはわき目も振らずに、屋上の床に鼻先を突きつけるようにしてかぎまわる。
やがてモザイクは、目的のものを見つけた。
ツキは「どうするつもりだ」と言った。確かに。モザイクにはどうすることもできはしないだからモザイクはあの死体をはじめて見たとき、ほとんどなにも考えられずに、その周辺をうろうろすることしかできなかった。やがて警察が来て、猫である自分は追っ払われ、塀の上に座り込んでじっと現場を見守っていることしかできなくなった。
そしてモザイクは、奇妙なものを発見した。
血の染みだ。
塀の上に、ぽつりと、生乾きの血の染みがあった。
それを見ても、最初のうちはなんの感慨も湧かなかった。あの死体と結び付けて考えることができなかった。どこかの猫がケンカして、その跡が残ったのだろう――そう考えた。そう考え、再びモザイクは現場に視線を戻した。
遠くに駅の姿と、それを覆う青いビニールシートが見えた。その青いシートと、自分のいる場所を直線で結んだその上に、二つの人だかりができているのが見えた。博識のモザイクにはあれがなんなのかすぐに予想がついた。警察の鑑識だ。どんな些細なものでも持ち帰って調べ上げる我慢強い奴ら。それを見て、モザイクの頭に閃くものがあった。
もしかしたら、あそこにもここと同じ、血の染みがあったのではないか?
三つの血の染みがあり、それを結んだ直線のその先に死体がある。モザイクはそれなりに回る頭を持っている。彼は、地面に染み付いた血は犯人が死体を運ぶ際に垂れたものなのではないかという仮説を立てた。なかばヤケクソのような仮説ではあったが、一見して無理のないようにも感じられた。モザイクは大雑把に血の染みを結ぶ直線を想像し、それに従ってまっすぐ歩き出した。特になにかを期待していたわけではなく、他にすることがなかったからという理由のほうが強かったように思う。
同じものが三つも見つかった。ひとつは民家の屋根にあって、触れば足につくほど濡れていた。ひとつは横断歩道の白い部分にあり、すぐに目につくほど赤く残っていた。ひとつは今ここに、広い青空の真下のビルの屋上に残っていた。風が強いためかすでに乾ききってしまっている。だがこれで、モザイクは確信した。
今自分が追っているものは、人間でもなければ動物でもない。人間は死体を抱えてビルを飛び越えることなどできない。動物は死体を杭で打ち付けたりしない。だが、モザイクにはそんなことは関係なかった。突き止めてそれでどうするのかはわからないし、どうにかできるのかどうかもわからないが、引っ掻き傷のひとつやふたつつけてやれると思う。
ツキは「お前とあのメスはなんの関係もない」と言った。確かに。自分とあのメスは驚くほど薄い縁でつながっている。が、そんなことはモザイクにはどうでもいいことだ。実はモザイクにも、なぜ自分が犯人を追っているかよくわからないのだ。ただ許せないのである。
それに。
もしかしたら、あのメスは、昔自分を育ててくれたあの娘であるかもしれない。だから自分の毛皮を褒めてくれたのかもしれない。撫でてくれたのかもしれない。年齢的にもぴったりくるし、馬鹿馬鹿しくなるほど少ない可能性だが決してないわけではない。
もしそうなら――
自分は命に代えてでも、あんなことをした奴を許すわけにはいかない。
◆
もう昼だ。
家を出たのが午前十時くらいであったので、都合二時間はほっつき歩いていたことになる。もちろん月島宅が目的地から歩いて二時間という極地に存在しているわけではなく、ただ迷っただけである。よく考えれば別段不思議なことでもなんでもなく、そもそも昨日今日迷いとおしたばかりであるのに懲りもせず買い物に行こうなどと考えるほうがおかしい。
が、さすがにレレナも馬鹿ではなかった。散々歩き回ったあとで、ふと買い物袋を下げたそれっぽいおばさんの姿が目につき、なんとなくその人の後をついて行ったら十分でショッピングセンターに着いた。では今までの一時間五十分は一体なんだったのか、などとは微塵も思ったりしないのがレレナのいいところであり悪いところである。
ショッピングセンターの中は驚くほど広く、しかもこれが八階建てであるらしい。一階だけでも空港のように広いのにさらにこれがあと七個。考えただけでもめまいがする。ぽかんと口を開けて物珍しそうにあたりを見回す外国人を見る人々の視線にすぐ気づき、レレナは赤面して何事もなかったかのように買い物を始めた。
頭の中ではもうメニューができている。野菜と魚介類のパエリアといういかにもそれらしい名前の料理だが、実はレレナのレパートリーにはこれくらいしかなかったりするのだ。他にも作れないわけではないけれど、どうしたってレシピと首っ引きでやらなくてはならず、そらで覚えているのはこれしかない。まあ一番得意なのもこれだし、とレレナは自分を納得させ、取
り付けの赤い買い物カゴを下げて売り場へと歩み出した。
ひとつの材料が目移りするほどたくさんあった。にんじんひとつ取ってもばら売りだったり袋売りだったり、魚では国産と外国産と養殖とに別れていたし、貝のコーナーではアサリと。シジミの違いがありそれぞれに三種類くらいのパックが売られていた。米に至っては十種類くらいの銘柄がありしかも最低でもニキロというとんでもない重さだったので、泣く泣くレレナは月島宅の冷蔵庫にあったのと同じ、即席のごはんパックを使うことにした。そのごはんパックも四種類くらいあった。恐るべし日本。
しかしなによりも驚いたのはバターの豊富さだ。なぜかひとつの棚をバターが占めていて、しかもそれが両手の数では数え切れないほどの種類がある。なぜこんなにバターが必要なのか、地元のスーパーには精々三つくらいしかバターを売っていないレレナにはまったくわからない。まあ選べるのはいいことだと見回してみても、本場直送北の国からとろーりとろけるふんわりまろやか農場シェフもオススメのロイヤル帝国一撃必殺バター。
農場シュフ?
めんどくさくなったので適当に決めた。『ふんわり』というやわらかそうな語感に惹かれ、青色をしたパックを手に取り、じっくりと眺めてみる。材料で味が変わるわけでもなし、まあこれでいいか――
と、なにかが上からぽたぽたと垂れてきた。パックの青に、水滴が映える。
「?」
レレナは顔を上げる。そこには通風口があり、目を凝らすときらりと光る水滴が見える。なにかの冷却液が漏れたのかと思い、とりあえず主婦根性を出してパックを元の場所に戻した。同じものを取るのも芸のない話だ。『帝国』という高級感あふれる語感に魅了され、今度は赤と金のパックを手に取った。通風口を少し見上げ、すぐに買い物カゴに放り込む。また汚されてはかなわない。
会計を済ませ。時計を見ると、まだ昼の1時にもなっていなかった。これから帰っても別にやることがあるわけではなし、月島さんは夕方六時に起きてくると言っていたからそれまでに作ればいい。鼻歌を歌いつつショッピングセンターの見取り図を眺める。あ、五階に本屋さんがある。ちょっと見てこようかな。
唐突に気づいた。
帰り道。
行きは人のあとについて行ってたどり着くことができたが、では帰りはどうなのか。自分はちゃんと覚えているのか。というかここはどこなのか。湯ヶ崎のどこかであることは間違いないものの、そんなことを言い出したら日本のどこかであることも間違いなく、地球のどこかであることも間違いない。一体どうやって帰ったらいいというのか。
さあ大変だ。レレナは血相を変えてショッピングセンターから飛び出し、右を見て、左を見て、ここがまるで見覚えのない場所であることを今さらながら認識する。じわじわと背中から焦燥が這い上がって来るのがわかった。昨日と同じだ元の木阿弥だ、私はなんてバカなのだろうとひたすら自分を責める。もうすでに涙目である。
レレナは横断歩道まで呆然と歩いて行く。顔が青い。信号が青になるのと同時に駆け出し、あっという間に渡りきって闇雲に走り回るが、そんなことをしても事態はますます悪化するだけであるということにすぐ気づいた。落ち着いて、ゆっくり考えて、まず対策を考えなくては。
電撃的に思いついた。公園だ。昨日ツキくんと会った公園。あそこまで行けばなんとかなるのではないか。確かあそこからそんなに遠くなかったような気がする、そうだあそこまで行けばきっと道順を思い出す。藁の代わりにその考えに縋りつき、公園の場所を特定するためには地図地図のあるところは交番交番のあるところは駅前で駅前はどこかで見たあれは確か
レレナは走り出した。ダッシュである。そんなに急ぐ必要もあるまいに、帰る場所がわからなくなるかもしれないという恐怖にレレナは耐えられなかった。それでなくともあれだけの寂しさを昨日散々味わったばかりだ、もう当分、というかできれば一生無縁でいたい。
レレナは坂を猛烈な勢いで駆け上りはじめた。シスター服の外国人の女の子の猛ダッシュに道行く人の大半が振り返るが、そんなことを気にしている余裕はレレナの身体のどこにもない。登りきったところで案の定、行きに見た駅前が目についた。駅前がなにやら騒がしいがそんなもの勝手に騒がせておけばいいのだ。光の速さでレレナは交番にたどり着き、食い入るように地図を見る。
あったあったあったあったあったあったあったあった!!ぱっと見ただけで公園が見つかった。自分は天才だと思う。しかもよく見れば五つもあるではないか。すごいすごい、これだけあればもう一生安泰―――
レレナはその場に膝から崩れ落ちた。
恐るべし日本。
幕間 彼は覗《のぞ》く
ヒマだった。
やるべきことをやったあとは、なにもすることがない時間が続いた。存分に喰いだめをしたためか、まだまだ腹は減りそうにない。彼は自分の巣の中で、『メッセージ』のその前の獲物の骨をかじりながら無聊《ぶりょう》を慰めている。
と、人の足音が聞こえた。彼は本能的に、その場から隠れようとした。なぜかはわからないが、自分の姿を人に見られてはいけないような気がするのだ。彼は頭をめぐらせて隠れ場所を探す。幸か不幸か、そのときには適当な物陰が見当たらなかった。
だから彼は、たまたま空いていたダクトの中に、自分の身体を折りたたむようにして滑り込ませた。
ごうごうと空気が動く音の中で、彼はじっと人がいなくなるのを待った。しかし、なんの仕事をしているものか、一向に彼の巣から人が立ち去る気配はない。やがて待つのにも飽き、彼はふとした思いつきから、ダクトの中を進みはじめた。
暇つぶしには確かに最適だった。ダクトの下からは人々の喧騒が聞こえてきた。遠い昔の記憶を揺り動かされるようなその音は、彼にとって決して不快なものではなかった。彼は強すぎる光と、若干の懐かしさに目を細めながら、順繰りにダクトに開いた網目状の穴を覗いていった。
三番目か、四番目か、そろそろ戻ろうと思いはじめたころに、ふと彼の目に、深い茶色の髪の少女が映った。それが目についたのは、おそらく『メッセージ』と同じような髪の色だったからだろう。存分に喰いだめをしたからか、腹はそんなに減っていなかったが、それでも喰えないほどではなかった。彼はいっそう目を細めて、今が夜でないことを悔やんだ。
そして彼は、その『匂い』に気づいた。
あいつらの匂い。
にわかには信じがたかった。彼は強い光に目が痛むのも構わず、大きく見開いて少女を見つめた。ショーケースの前でなにやら考え込むその少女からは、間違いなくあいつらの匂いがした。といってもこの少女があいつらの仲間だというのではない。実際に近くで住み暮らしたような、気配の移り香のようなものが、確かに少女の身体から匂ってきたのだ。
彼は知らないうちに、だらだらと唾液を流していた。
こいつをとれば、あいつは出て来るかもしれない。
彼は目を細め、唸るように笑った。「メッセージ」に続き、今度はあいつと直接|係累《けいるい》のあるものが出て来るとは、実に好都合なことだと思った。
彼は睡液をたらしながら、じっくりと少女の外見を記憶し始めた。
第四幕 雪村《ゆきむら》
ユキはむっつりと塀の上に座り込んでいる。ツキの姿をその目に認めた途端、見るからに不機嫌になりあさっての方向を向いてしまった。まだ機嫌を損ねているようである。ツキはユキがいる塀のすぐ下に座り、こちらを見ようともしない彼女に声をかけた。
「ユキ」 。
返事はもちろんない。
「モザイクを見なかったか?」
「…………」
「重要なことなんだが」
ユキがちらりとツキを見た。その目は驚くほど冷たく、一瞥が終わるとすぐに立ち上がり歩いて行こうとする。ツキはひょいと塀の上に飛び上がり、歩み去るユキの尻尾を軽く噛んだ。
驚いてユキが振り向く。ツキは笑いもせず、
「あのときのお返しだ。あれは痛かったぞ」
不審そうに、ユキはツキを見ている。ツキはおもむろに頭を下げ、
「それと、悪かったな、あのときは。真面目に答えるべきだった。あいつは俺の飼い主でもなんでもない、ただの居候だ。好きなわけがない。むしろウザい」
ユキはまだ不審そうだ。それはそうだろう、とツキは思う。突然自分がこんなことを言い出したら、主人だって妙な顔をするに決まっている。ツキは小さく笑って、こう言った。
「それと、だ。あいつとお前を比べたら、別にあいつのほうが好きだということはない。お前のほうが好きだな、どちらかと言ったら」
ユキは一瞬びっくりしたように目を見開き、それから突然そわそわしだした。意味もなく毛繕いをしたりその場に座ったかと思うと急に立って耳の後ろを掻いたり、なにがあってもツキのほうに視線を向けまいとする強固な意志が感じられた。
「それでユキ、モザイクを見なかったか?」
胸の毛繕いをしていたユキは、ちらりと目だけでツキを見て、慌ててすぐに目を伏せて、再び毛繕いを再開する。と、ふと気づいたようにツキに視線を向けた。忙しい奴だ。
「――ツキさん、もしかして、適当なこと言って私の機嫌とって許してもらおうとか考えてませんか?」
バレた。
が、これでもツキは一世紀の永きを生き抜いてきた老獪な化け猫であり、感情を表に出すようなヘマは踏まなかった。ツキは微笑を浮かべて首を振り、「なに言ってるんだ」とさらりと流す。しかしツキの演技がまずかったのかそれまでの経緯があざとすぎたのか、ユキはことさらにじっとりした目でツキを見て、いきなり猫パンチでツキの横っ面をはたいた。
あまり痛くはなかったが、少し驚いた。
「まあ、いいです別に。これで許してあげます」
ユキは不満たらたらの顔で、しかしどこかしら嬉しそうにそう言った。ツキは気まずく思う。やはりなにか、裏切ったような気がしないでもない。
ユキは鼻先を左方向に向けて、目だけでツキを見た。
「モザイクさんなら、さっきあっちで見ました。|泉野《いずみの》商店街の柳青果《やなぎせいか》店のとこの角を曲がった先のところ。なんか地面の匂いかいでましたけど」
ふむ、とツキは考える。
「どのくらいまえだ? どっちの方向へ行っていた?」
「えと……ついさっきです、十分くらい。方向は、ちょっとわかりません。ちらっと見かけただけですから」
「――わかった。呼び止めて悪かったな」
そう言い捨てて塀から飛び降りようとするツキの尻尾を、ユキはがぶりと噛んだ。この前に比べればなんてことはなかったが、それでも首筋がぞわりとするほど痛い。なんだなんだと振り返り、
「なんですかそれ。やっぱり私のことなんてどうでもいいんじゃないですか」
「――いや、そういうわけでもないのだが、あのな、今急いでるんだ」
「わかりましたもういいですツキさんなんて。勝手にしてください」
ぷいとそっぽを向いてしまうのに、なぜか歩み去ろうとはしない。これだからメスは。ツキは弁解するために口を開き、ユキはそんなツキを横目で見てくすっと笑う。
「嘘ですよ、別に怒ってません。それより急いでるんでしょ? 行かなくていいんですか?」
ツキは少なからず驚き、まじまじとユキの顔を眺めた。ユキはもう普段と変わらぬにこにこの笑顔だ。
「ツキさんがそんな性格なのは今に限ったことじゃありませんし、ね。別にもう腹も立ちませんよ。私だってそこまで子供じゃないんですから」
ツキはくすくす笑うユキをひととおり眺め、それから真剣な声で言った。
「すまん」
「? なにがですか?」
「なにが、というわけでもないのだが、謝っておかなくてはならないような気がした。すまん」
なんだか居たたまれなくなった。それだけ言って、ツキは塀から飛び降りた。数歩行ったところでなんとなく気になり、後ろを振り返ると、まだユキはにこにこ笑いながらツキを見ていた。形容しがたい感情がツキを通りすぎ、思わずこんなことを言ってしまった。
「お前はきっと、大人になったらいい女になるな」
ユキは一瞬びっくりしたような表情になり、それからすぐに照れた笑顔を浮かべた。その照れを隠すように、ユキは冗談めかして言う。
「あら、それじゃあ大人になったら、ツキさんのお嫁さんにしてくれますか?」
ツキはユキを見上げるその目を和らげ、唇の端を歪めて、実に彼らしく笑った。
「考えておこう」
それきりツキは前を向き、人気のない路地を駆けて行く。
◆
見つけた。
これで都合七つの血痕を見つけたことになる。駅前、民家の屋根、横断歩道、ビルの屋上、柳青果店、そしてここ、ショッピングセンターの資材搬入口。
モザイクはショッピングセンターを見上げる。ここが当たりかもしれない。ショッピングセンターといえば夜は警備員以外誰もいなくなるし、もし並外れた運動能力を持つなにかが潜むとしたら、ここほど適切な場所はないようにも思える。人をさらって喰ったとしても、冷凍室に隠しておけば、そう簡単に見つかることはないのではないだろうか。
だが、まだ決めつけるのには早すぎる。ここもまた通過点に過ぎないのかもしれない。そう思い、ショッピングセンターをまわった先へ向かおうとした。
歌が聞こえた。
―――ー?
歌声の主はメスのように聞こえた。綺麗なソプラノだが、どことなく投げやりな感じもする。モザイクは不審に思い、歌の聞こえる方向、資材搬入口に置いてあるトラックの陰へと向かう。
いた。
まだ十五歳くらいの、人間のメスだった。変な服を着ている。コンクリートの段差になっている場所に座り込んでいる。野菜のつまったビニール袋が置いてある。その顔には表情というものがなく、綺麗で虚ろな歌声で聖歌を口ずさんでいた。どう見ても正気を保っているようには見えない。
触らぬ神にたたりなし。モザイクはくるりと踵を返し、調査を再開しようとする。
その動きにメスは敏感に反応した。後ろを向いていてもわかった。恐る恐る振り向くと、メスはすさまじく真剣なまなざしで自分を見つめている。走って逃げようかとも思ったが、メスはそれより早く、モザイクに向かって手を差し伸べてきた。救いを求めるように、ゆっくりと。
―――はあ。
性分なのだ。仕方がない。モザイクはため息をつき、メスに向かってとことこと歩き出す。
メスは一瞬驚いた表情になり、見ているこっちまでほっとしてしまいそうな安堵の表情をもらした。なんだってこんなところにいるのかは知らないが、よほど寂しかったらしい。膝の上に乗ってやると、それはもう艇りつくような手つきでモザイクを撫でまわしはじ働た。幼稚園児だってもう少し遠慮するような乱暴さである。自慢の毛皮が乱れるのが嫌で、モザイクは身をよじって無言の抗議をする。
頭の上に、ぽたぽたと垂れるものがあった。
記憶がよみがえった。ぞくりとして見上げると、そこには死体はなく、ただメスの泣き顔があった。固くつぶった目の端からとめどなく涙があふれ、引き結んだ口からはソプラノの泣き声が漏れる。
――そういや、あの子も、泣き虫だったな。
モザイクは膝の上で立ち上がり、メスの頬をぺろりとなめた。
しょっぱかった。
メスは驚いたように目を開け、流れる涙もそのままに、モザイクの顔をじっと見つめる。モザイクはなんだか照れくさくなって前足で顔を洗い、その前足ごと、メスはモザイクを抱きしめた。
人間の中では非力な女の子でも、猫にとっては怪力の化け物だ。息ができないほど苦しく、よほど逃げてやろうかと思ったが、すでに堰を切ってあふれ出しているメスの泣き声と涙が、モザイクの身体から力を奪う。とんだ災難だ、とモザイクは思ったが、存外まんざらでもなかった。
「モザイク」
突然名前を呼ばれて、ぎくっとしてモザイクはメスの顔を見た。メスがモザイクの名前を知っているわけがないし、そもそもその声は猫言語であったのだが、なぜかそのときモザイクは
「メスが自分を呼んだ」と思った。見上げたその先には、こちらもやはりびっくりしたような表情を前に向けているメスの顔があり、つられてモザイクもそちらに目を向けた。
ツキは声を立てて笑った。
「またやってるのかお前は。まったくこの女たらしめ」
◆
なんでツキくんがここに。
レレナは涙に濡れた顔を、ツキと膝の上のまだら猫に交互に向ける。と、まだら猫が立ち上がり、一瞬だけレレナの顔を、「悪いな」という表情で見て、膝からふわりと飛び降りる。昨日のような焦燥はなぜか湧いてこない。まだら猫はツキに数歩近づき、ツキが「にゃあ」と一声鳴いた。まだら猫はそれに「なあお」と答え、ツキは小さく「にい」、対してまだら猫は顔を伏せて「ふるるる」。レレナは彼らが声を出すたびに、双方の顔を見比べるように見る。
やがて鳴き声がやみ、まだら猫は唐突にてくてくと歩き出した。ツキの脇を通り過ぎ、その際にツキが「みゃあ」と鳴いた。しかしまだら猫はそれには答えず、振り向きもしないで歩いて行く。レレナにはなにがなにやらわからない。
ツキはまだら猫の背中が角に消えるまで見送り、それからレレナの顔をちらりと見た。呆れているような馬鹿にしているような、人間だったら肩をすくめてため息をつきそうな、そんな雰囲気の視線である。レレナはその視線にぎくりとして、なんだかすまないような気持ちになってきた。と、ツキは突然後ろを向くと、ゆっくりと歩き出した。
「あー」
う、と自分でもよくわからない声を出す。まだ尻はコンクリートの上だ。どうすればいいのかまったくわからず、ただおろおろとツキの背中と自分の膝を交互に見ることしかできない。五メートルほど行ったところでツキが振り向き、まだ座り込んでいるレレナを見て、『なああお!』とかなり強い声で鳴いた。猫の言葉のわからないレレナでも、こればかりははっきりと「さっさと来いこのボケナス」という意味だとわかり、慌てて立ち上がり走り出そうとしてべしゃっとこけた。その拍子にビニール袋の中身が一切合財ぶちまけられた。
「……うう」
痛みに耐えて立ち上がろうとすると、ツキが心底うんざりした顔で無様なレレナの姿を眺めていた。ぷいと前を向き、俺はもう知らんから勝手について来いとはかりに歩き出す。レレナはばっと起き上がり足を踏み出してたまねぎを蹴っ飛ばした。ころころと転がっていくたまねぎを見て、そうだ早く拾わなきゃと思うものの、ツキはすたすたとかなりの速度で遠ざかっていく。パニクったレレナは、散乱したにんじんやピーマンをつかんではビニール袋に放り投げつつ、ツキの背中に必死に呼びかけた。
「ちょ、ちょっと待って!待ってください今片づけますから!」
猫相手に敬語を使う自分の姿を客観的に見る余裕はどこにもなく、しっちゃかめっちゃかになったビニール袋を持ち上げて、ツキのあとを転げるように追いかける。
◆
――月島さーん。つーきーしーまー……
そこでいったん切り、息を吸い込み、月が割れるほどの大声で、
――さあああああああああああああああああああん!!
突然棺桶が「がごん」と鳴り、舞は驚いて跳び退る。と、今度は棺桶の中から染み渡るような声で「っだー」と聞こえてきた。ああ痛がってる痛がってる。
棺桶のふたが開かれ、中から涙目の亮史が這い出てきた。潤んだ瞳で舞を見て、「あれ」という声を上げる。舞は机の上の時計を指差した。
――もう夜だよ。いつまでも寝てないでさっさと起きなさい
「……あー。うん。はい。どうも」
おでこをさすりながら亮史は立ち上がった。周囲をくるりと見回す。
「あれツキは? あいつに頼んでおいたんだけどな」
途端、舞の顔が見るからに不機嫌になった。亮史はぎょっとして、
「ど、どしたの?」
――どうもこうもないわよまったくあのバカ猫。聞いてよ月島さんひどいんだから
舞は一部分を省いて今朝のいきさつを説明した。地面にめり込んでから数時間もの間、真っ暗な闇の中をさ迷っていたのだ。シャレにならないほど怖かった。なにしろまったくの無音ではなく、どこからか低い喰り声が絶えず聞こえてくるのだ。ああ地面はちゃんと音を伝えるのだなあ、と恐怖のあまり逆に感心してしまったほどである。
――だから月島さん、早く
と、びしっと机の上のトランプケースを指差し、
――練習しよう練習!猛特訓!もうなにがなんでもツキくんぶん殴ってやんなきゃ気が済まないんだから!
亮史は苦笑して机の上に視線を送り、ふと真面目な顔になってまた舞を見た。
「でもちょっとしかできないけどいいかな。あと三十分くらいでバイト行かなくちゃならないんだけど」
吸血鬼のくせにバイトなんかするなよと舞は思うが、今言っても仕方がない。渋々領き、亮史はのそのそと歩いてトランプを手に取る。棺桶をどかして、トランプをよく切り、ぱらぱらと地面にばら撒いた。舞はなんとも苦々しげな顔になる。
――ホントにこれ効果あるの?すっごくうそ臭いんだけど
「まあ初歩的な奴だから。効果的なのがいいなら受験勉強」
――わかりましたやりましょう
じゃんけんで先攻後攻を決める。舞の勝利。と、亮史は舞をびしっと指差し、
「君がカードめくることができないから僕が手伝うけど、君は僕に絶対勝たなくちゃいけないんだよ。血管が破裂するくらいの気合いでカードを覚えること。遊びじゃなくて練習なんだから、気を抜いてやってたらまるで意味ないからね」
舞は「むっ」と唇を尖らせる。
――わかってるよそんなこと。早くやろ。まず、これとこれ
亮史は指定されたカードをめくる。驚くべきことにいきなりの大当たり、両方ともジャック。おおおおおと驚きかつ喜ぶ舞を冷めた目で見て、亮史は言う。
「あのね、いきなり当たっても仕方ないんだから覚えることのほうがメインなんだから」
舞は喜びに水を差され、たちまち不機嫌な表情になった。
――はいはいわかってますよ。まったくもう月島さんは
亮史は小さく笑い、自分の分のカードをめくる。あっさりはずれ。ハートの3とダイヤの7。舞はそれを網膜に焼き付けるように見て、亮史は元に戻し、また舞の番。めくる。まったく関係のないクローバーのキングにハートの2、それを殺したいのかと思うほどの目つきでにらみ、
――っていうかこれホントに神経衰弱なんだけどあたしの場合
「いいことじゃないか。身体のトレーニングすれば身体が疲れる。心のトレーニングすれば心が疲れる。疲れるっていうのは効き目がある証拠だ」
――そんなものかなあ。あたしまだ力ってのよくわかってないんだけど
「んー、集中力でもなんでもいいけど、まあそんな感じの力だよ。一生懸命勉強したあとは疲れるでしょ?」
舞は一生懸命勉強したことがない。
「ああ……そっか……」
沈んだ声で言う亮史に、舞は噛みつくように反論した。
――なにそれ!? あたしちゃんとやってたよ成績だって、その、そんなに悪くないもん!
「いやまあ別に僕はいいんだけどね、舞くんが落ちこぼれだろうとなんだろうと」
――おっ、だっ、違うって!
そんなことをしゃべりつつ、ゲームは進んでいく。が、一番最初の大当たり以降はまったくもってかすりもせず、舞はうーんと唸ってカードをにらむ。覚えようとはしているのだがまるで頭に入らないのはなぜだろうか。
ふと舞は、亮史が自分をちらちらと見ていることに気づいた。なんだろうと思い視線を向けると、亮史は顔を伏せ、「ああ僕の番だ」などと言ってカードに目を落としてしまう。めくる。はずれ。舞の番だが舞は指示しようとしない。亮史はうろたえたように舞を見て、カードを見て、もう一度舞を見て、
――なに?
「え」
――いまあたしのこと見てたでしょ? なに? なんかあるの?
亮史は舞から目をそらす。舞は亮史が答えるまでいくらでも待つ構えだ。じんわりと嫌な空気が広がり、亮史は追い詰められたように挙動が細かくなる。舞は少し意地悪な喜びを感じ、不意に上げた亮史の驚くほど真剣なまなざしに逆に心を突かれた。
「この前のこと。気になってたから」
――この前?
「だから、その、この前の……」
思い出した。自分の顔が硬くなっていくのがわかるが、自分ではどうすることもできない。まるで他人のような声が口から出た。
――それで?
亮史は言葉に詰まり、下を向き、そのままの体勢でぼそぼそと言う。
「気になってたんだ。なにか様子が変だなとは思ってた」
舞の顔を見ようとして、気がくじけ、長い前髪が亮史の顔を覆う。
「目的があるかないかということは非常に重要なことなんだ。その目的をどうしてもやり遂げたいというなら、集中力はいやでも高まるし、実体化もできるようになる。でも、大した目的もないのに実体化しようっていうのはちょっと無理がある。君が、その――」
――わかった。もういい
亮史が驚いて顔を上げるが、今度は舞のほうが下を向いてしまっている。亮史はなにか声をかけようとして失敗し、黙り込んでやはりうつむいてしまった。
亮史の言いたいことは嫌になるほどよくわかった。だからこそ、その先を聞きたくなかつた。要するに、やる気がなければまるで意味がないということだ。ようやく舞にも『力』の意味がわかりはじめてきた。
それは、『思い入れ』だ。
なにかをしたいと願う力のことなのだ、きっと。
神経衰弱や受験勉強は、それを補助するための二次的なものに過ぎないのだろう。実体化をなすために、どれだけの苦労をいとわずにやれることができるかという、その『思い入れ』を試すテストのようなものだ。苦労を経て自分が実体化したいと願うほど、自分は実体化に近づいていく。そして亮史は、今、君にはその思い入れがあるのかと言っているのだ。
ゼロになにをかけてもゼロだ。種の埋まっていない土に水をかけても、芽が出ることはない。
つまりは、そういうことだ。
そして、自分にそれがあるかどうかは、他の誰でもない、自分が一番よくわかっていた。
舞は笑った。自虐的な笑いだった。亮史を見て、口を開きかけた。
ドアがこんこんと鳴った。
「あの、月島さん? 起きてらっしゃいますか?」
舞と亮史は、同時にドアを見る。亮史は舞を目だけで見て、それからドアに戻し、
「うん。なに?」
「あの、そのですね、えと、お忙しいのでしたら別にいいのですけど、もし、もしおなかが空いていましたらですね、不肖わたくし、パエリアを作らせて頂きましたので、お召し上がりいただければ恐悦至極《きょうえつしごく》」
変な敬語である。亮史は少し笑い、舞はつまらなそうにドアを見ている。
「うん、わかった。ありがたくいただくよ」
ドアの向こうから、安堵の気配が漏れてくる。舞は亮史を見て、独り言のように、
――いいね、パエリア。あたしも食べたいな
亮史は困ったように舞を見た。あまりに予想通りなその反応と、甘っちょろい期待を抱いていた自分に、舞は思わず笑う。当たり前だとも思った。昔から、自分はそうだったのだ。なにも言わずにまわりが世話を焼いてくれるのは、赤ん坊ぐらいなものだ。
――じゃ、お開き
それだけ言って、舞は部屋からふわりと飛び出た。一瞬の壁の闇、そののちに、真っ黒に広がる夜空と煌々《こうこう》と灯る満月の光。舞はちらりと後ろを振り返り、きっと今ごろ、月島さんはさらに困っていることだろうと思った。そのことに少しだけすまないと感じる。できれば帰って一言謝りたいが、もう誰とも顔を合わせたくなかった。
いろいろ教えてくれてありがとう、と、舞は心の中で、亮史に向かって言った。
実体化はできないけれど、消えることなら、いつでもできる。
◆
ひとつきりの大皿にパエリアを山盛りに盛りつける。朝ご飯のときはこの大皿にパンと目玉焼きをそれぞれふたつずつ載っけることができたのだが、夕飯ではそうもいかない。それにスプーンも一個だけだ。パエリアはまだ少し残っているから、亮史が食べ終えたあとに自分もこの皿で食べようと思う。残飯みたいでちょっと気が引けるけど。
今日のはなかなかの出来だと自分でも思う。味見してみてもばっちり美味しかったし、メインの魚介類のネックである生臭さはまったく残っていなかった。野菜にもすべて均一に火が通っていて、たまねぎにすら焦げ目ひとつない。
なのだが。
ほのかなランプの光の中、亮史の顔をちらちらと見つめていたレレナは、ついに我慢しきれずに声を上げた。
「あの、月島さん、美味しくない、ですか?」
味見したときには十分美味しかったのだが、日本人の口には合わなかったのかもしれない。先ほどから亮史は、土を食っているような顔で、スコップで砂をすくうように無造作にパエリアを口に運んでいる。
「ん」
と亮史は顔を上げ、レレナの顔をじっと見、それからようやく言葉を理解したように、
「ううんそんなことない、すっごく美味しいよ」
心がこもっていないのが丸わかりである。レレナは、そうですか、と明るく答え、しかし落胆の表情までは隠し切れない。亮史はそれを見て慌て、
「あ、いや、うん。美味しいのは本当だけど、ちょっとさっきからおなかが痛くて」
「えっ? だ、大丈夫ですか?」
人を疑うことを知らない娘である。亮史はうんまあ、とあいまいに言葉を濁しているのだが、しかし確かにその顔は、どこか痛いのを我慢しているようでもある。レレナがさらに心配しようとすると、亮史はそれを制するように、無理のある笑みを作って言った。
「それよりさ、この焼き飯《めし》美味しいねぇ。米がばらばらでよく火が通ってて」
パエリアのことを焼き飯、というのが実にオヤジくさいが、日本語に慣れきっていないレレナにはその辺の徹妙なニュアンスがわからず、素直にこくりと頷く。心配なのは心配なのだが、やはり褒められれば嬉しいのは当たり前でそれが顔にきちんと出ている。
「魚介類の生臭さを野菜で消しました。私の得意料理です――っていっても、ごはんを炊くだけでいちばん簡単だから、これしかできないんですけどね」
「うん、美味しいよ。こんなに美味しいものを食べたの久しぶり。ていうか生まれてはじめてかも」
「――あははは、やだなあ月島さんったら」
とはいうものの口元はしっかりにやけている。それを悟られまいと、いやもうとっくにバレているのだが自分では笑っていないつもりで、口元に手をやったりむにむにと唇の形を変えたりしている。それを見て、亮史は一瞬顔を和ませ、それからまた例の思案顔へ戻っていった。
「まあ、自信はあります。家庭科5ですし。それにですね、そのパエリアにはいわゆる私のオリジナルというか、隠し味が込められているのですよ」
いかにも「聞いてくれ」と言わんばかりの口調に、亮史は微笑む。ひとすくいパエリアをロに運び、飲み下してから、何気なく尋ねた。
「へええ、なにそれ? なにかの調味料?」
レレナは鼻の下をこすって、それは自慢気にこう言った。
「にんにくです」
◆
ツキが向こうから歩いて来る。
舞は声をかけまいと思った。もう誰とも顔を合わせたくなかったし、向こうも自分のことなど視界に入れないだろう、そう思っていた。
だから、ツキが舞を呼び止めたとき、舞はかなり驚いて振り返った。
――なに?
「こんな時間にどこへ行くんだ?」
――ツキくんには関係ないでしょ
ふむ、とツキは頷く。
「まあ、そうだな」
――……それじゃ。あたしはこの辺で
「待て」
前を向きかけた舞は、まだなにか用かという顔でツキを見る。もう一刻も早くこの場を、いや、この町を去りたかった。どこか静かなところで、ずっと月を見上げて、なにもかもなくなるまで見上げていようと思っていたのに。
「伝言を頼まれてくれ。俺はモザイクを手伝う。あいつの決意は揺るぎないことがわかったし、それに、『痕《きずあと》』の持ち主がモザイクを襲っても困るから、俺があいつを見張っている、だから当分帰らない、とな」
舞は面食らった。
――なんであたしに頼むのよ
「今から俺はモザイクのところへ行かなくてはならん。だからだ」
――モザイクって誰よっていうかあたしには関係ないわよそんなの。自分でやったらいいじゃない
ツキはその言葉に構わずに、じっと舞を見ている。今までなら舞がこんなことを言えばなんらかのリアクションがあったものなのに、舞はなんでもないその視線に、急に居心地の悪さを覚えた。
「俺は百年生きている」
舞は驚き、それ以上に何を言い出すのかと思った。ツキは構わず言葉を続ける。
「百年も生きてりゃ死ぬかと思ったことのひとつやふたつあるもんだが、今までで一番やばかったのはあれだな。東京大空襲。大空襲のときは、まあ俺は化け猫だし、素早く逃げられるか
ら死ぬ危険性は少なかったんだが、問題はそのあとだ。焼け跡で餌を探してうろうろしてると、人間が俺を餌にしようと襲いかかって来るんだな。俺だってただの猫じゃないから一人や二人なら撃退はできる。が、集団でこられるとこっちもヤバくなる」
ツキは舞の顔を静かな目で眺めながら、舞の表情を気にする様子もない。
「で、だ。そのうちに俺は人間の前に姿を出すのは危ないということを学んだ。物陰でネズミ取ったり変な虫取ったりしてたんだが、物陰にいると、空襲で焼け出された奴らの顔をじっくりと観察することができた。生きる希望も気力もなくなっちまったような顔だった」
一息つき、ずばりと言う。
「今のお前みたいな顔だ」
ツキは鼻から息を抜いた。鋭い視線で舞を刺す。
「なにがあったのかは知らんし別に知りたくもないが、そんな顔でいられるとな、なんかいらいらしてくるんだよ。主人は俺よりもずっとずっと長く生きてるから、まあたいていのことには答えてくれるだろ。どうせお前のことだ、大したことで悩んでるわけじゃあるまい」
頭にかっと血が上った。あなたになにがわかるのよ――そう言いたかったが、口を開きかけたところでちょうどツキが大きなあくびをした。
「さっさと行って説教のひとつやふたつでもされてこい。あと俺の伝言も伝えとけ。いいな」
それだけ言うと、舞の言い分などお構いなしにツキは歩き出した。舞は怒っていいのか呆れていいのか、憮然とした顔で、ツキの背中を見えなくなるまで見つめていた。
頭の中に、亮史の顔とツキの言葉が浮かんだ。
まあ伝言なら仕方ないか、と思う。
◆
そのころ亮史は、ソファの上で「ひゅーひゅー」という呼吸をしていた。口の端に拭き残した泡がまだついていて、なにかをつかむような形で硬直した右手はぶるぶる震えている。目は開いているが瞳孔も開いている。これでも落ち着いたほうだ。
この事態の張本人であるレレナは、最初の五分はそれこそ死ぬほど慌てふためき、救急箱を探したりバッグの中を漁ったり食べ残しのパエリアを口に含んだりしていた。朦朧とした意識の中でも、リスみたいにあちこちをうろつきまわるレレナの姿を見るのは少し面白かった。そのレレナも数分前、「病院」という言葉を残して家から飛び出して行ってしまった。救急車呼べばいいのに。いや呼ばれたらそれはそれで困るんだけど。
冷静に思考しているように見えるが、さっきから目は霞むわ頭は痛むわ腹は鳴るわで実際にはこのまま死ぬんじゃないかと思う。吸血鬼のご多分に漏れず、亮史はにんにくを見るだけで
もめまいがする。その上食ってしまったというのだから、隠し味が「青酸カリでした」と言われたほうがまだマシだった。
こみ上げる吐き気を唾を飲んで我慢する。ぼんやりとした眠気が次第に意識を侵食しはじめる。天井が歪んで見え、その天井に、誰かの顔が割り込んできた。舞だ。
――なにやってんの月島さん。食中毒?
「……みたいなもん、かな」
亮史は、はは、と笑い、
「にんにく、食べちゃった」
舞は笑わない。ちらりと食べかけのパエリアを見て、嫌悪感に顔を歪ませた。
――またあの子? ツキくんの言うとおり、放っておけばいいのにあんなの
亮史は目を見開いて舞のその顔を見る。舞はそれに気づき、気まずそうに顔をそむけた。
「あのさーさっきは、いきなりどうしたの?」
――……………
「なにか僕、まずいこと言ったかな?」
舞は顔をそむけたまま、ぽつりと言った。
――別に。ただもう、この家にお邪魔するのはやめにしようかなって思って
亮史は上体を起こしかけ、電撃のように走る腹痛に再びうずくまる。舞は「うわっ」と小さく叫んで飛びのき、それから心配そうに、苦痛に歪む亮史の顔を覗き込んだ。
――だいじよぶ? 生きてる?
「 だっ、どっ、なんでっ?」
――え、いや、かなりキツそうだから
亮史は再び起き上がり、激痛が走り、うずくまりかけてどうにかこらえきる。ソファの上に座る形になり、必死な口調で、
「そうじゃなくてっ! なんで、出て行くなんて、言うの?」
舞は暗い笑みを浮かべた。表情とは対照的な明るい声で言う。
――だって、邪魔でしょ? あたし。さっきもそうだったじゃない、ほら、レレナが来たとき。月島さん、あたしとは人前で話すことできないもんね。ごめんなさい。今まで気づかなかったけど、よく考えたらあたし転がり込んで来ただけだもんねお邪魔虫だもんね。だから
舞は強気な笑みを顔に浮かべているが、それはあの時と同じ、やせ我慢をしている子供のものだった。亮史は混乱する。
「そんな――なんで、そんな、邪魔なんて思ったことなんて一度もないよ。出て行く必要なんて、どこにもないじゃないか」
舞は笑みを消し、今まで一度も見たことのない冷たい表情を浮かべた。
――別に月島さんのためを思って、っていうわけでもないのよ。あたしだって、自分が無視されるのなんて嫌だもの。だから。だから出て行くの。なんか悪い?
それを聞いて、亮史は安堵の笑みをこばす。なんだ、要するに、さっき無視してしまったからそれでへそを曲げているだけか。よく考えればまだたったの十五歳なのだ。すねることもあるのかもしれない。舞が感情を消した声で言った。
――なに笑ってるの?
亮史は笑いながら首を振り、
「なんでもないよ。ごめん、謝る、無視したりして。でもさ、そんなことで――」
一瞬だった。よける暇もなかった。舞は息を吐いたかと思うと、渾身の力を込めた右手で、亮史の頬に真っ赤なあとが残るほどの平手打ちを喰らわせた。爽快な音が響き渡り、亮史は痛みよりも驚きで頬を押さえ、舞は自分が今実体化しているなどということにすら気づかず、上気した顔を怒りに歪めてまくしたてた。
「そんなこと!? そんなことって言った!? あんたに、あんたなんかになにがわかるのよ!! 親に邪険に扱われたことは!? いつもいつも邪魔者みたいな目で見られたことは!? 三日間誰とも喋らずに、顔もあわせずに、帰ってきても一言も声をかけられなかったことは!? だだっ広いだけの部屋でインスタントの夕食を一週間続けたことはあるの!? 実際にそういう経験してから『そんなこと』って言いなさいよあたしと同じ目に遭ったこともないくせに!!」
ようやく、という感じで、張り詰めた舞の瞳から涙があふれた。泣きながらも、舞は凄絶な笑顔を浮かべ、投げやりな口調で続ける。
「あなたの言うとおりよ。あたしには、ろくな目的なんてないんだから。ホントはね、あたしを除け者にしたあいつらのまえに化けて出てやるつもりだったの。それだけよ。バカみたいでしょ?でも、もういいや。そんなんじゃ実体化できないらしいし、だからもう――」
震える息を吐き、「ひくっ」と鳴咽を漏らす。亮史は凍りついたように動かない。ただ舞の頬を流れる涙を、くしゃくしゃに歪んだその顔を、パジャマのすそを握り締めるその手を、なすすべもなく見つめる。
「――ごめん。嘘。それもあるけど、でも、違うの。あたしね、あたし、幽霊だから、生きてるときも幽霊だったから、いてもいなくてもおんなじだったから、あたしね、居場所が欲しかったの。実体化したいっていえば、月島さんと一緒にいられるって思ったから、だからあたし、あた、あたし」
腕に顔をうずめた。涙が頬を伝い、流れ落ち、しかし所詮それはかりそめの涙であり、舞の身体を離れればたちまち消えてしまう運命だ。次々と消えゆく涙を流しながら、舞はただ、ひたすら謝りつづける。
「ごめんなさい、月島さん、ごめんなさい。嘘ついて、ごめんなさい。変なこと言って、ごめんなさい。叩いたりして、ごめんなさい」
耐え切れなかった。目の前で震える舞の黒い髪に、亮史は片手だけでそっと触れた。舞はわずかに首を振り、しかし嫌がる素振りも見せず、懸命に顔を拭っていた手を亮史の手に重ねる。
「――なんて言ったらいいのか、わかんないんだけど――」
髪を撫でていた手を、肩へとまわした。
「ここにいたかったら、いくらでもいていい。――ううん、そうじゃないな、だからつまり、まだちょっとのつき合いだけど、僕だって舞くんがいなくなったら寂しい。僕も君には、まだここにいて欲しいんだ」
舞は顔を上げた。驚いた顔でしばしのあいだ亮史を見つめ、それからその顔が一気に崩れる。ゆっくりと、舞の頭が亮史の胸によりかかり、埋めた顔はくぐもった泣き声をあげつづける。亮史はわずかにためらったあと、舞の小さな頭を、子供をあやすように優しく撫でた。舞の涙の熱く湿った感触がシャツを通して感じられた。
なにも言うことはできず、これ以上なにも言うべきではないと思った。
しばしの時が経過し、舞の鳴咽は次第に収束していった。今はもう涙も流さず、泣き声もあげずに、亮史の胸に頭を預けたままになっている。実に居心地が悪かった。ただ舞に寄りかかられているというだけではなく、いつの間にかソ
ファに座る亮史のそのまた膝の上に舞が座ってしまっている。身体全体を預げるようにべったりとひっつき、最初は胸だった頭の位置は肩へと繰り上げられ、舞が「ぐしゅ」という音を立てて亮史のシャツで涙を拭うたびに顎に髪の毛が触れるのがものすごく気になる。
「――落ち着いた?」
居心地の悪さを紛らわせるために、亮史は精一杯明るい声を作って言った。それに対して舞は、ただ「ん」と答えたきり。
「あのさ、さっきのことだけど、その、化けて出てやるっていうやつ」
本当についさっきのことだ。早すぎたかもしれない、と亮史はさっそく後悔する。今はまだそっとしておくべきなのかもしれない。舞は無言だ。焦る。
「だから、その、目的としては悪くないと思うよ。うん。そういうのもアリだと思う。恨みつらみは感心しないけど、とりあえずはさ、この家に好きなだけいて好きなだけ練習しなよ。僕には、時間はいくらでもあるんだから、できるかぎり付き合うから」
亮史の肩に預けた頭を、わずかに動かした。『肯定』か『否定』か、あまりにわずかな動きのために判断できない。亮史は「舞くん?」と呼びかけ、舞はそれに対しまた「ん」と答える。亮史はそっと、顎を引くように舞の顔を覗き込んだ。
舞は寝ていた。まだ涙のあとが色濃く残る顔で、しかしどこか安心したような表情て、肩にまわした亮史の片手を固く握り締めたまま、舞はすうすうと気持ちの良さそうな寝息を立てる。
音が出ないように注意して。深く息を吐いた。
わざわざ動いて、舞を起こすような真似はしたくなかった。舞の手を軽く握り返し、亮史はソファにさらに身体を沈め、斜め上の虚空を見るともなく見る。
「主人」
ちらりと視線だけを向けると、ツキがドアのすぐそばに立っていた。小さく肩が上下している。亮史は笑い、
「どうしたの? またレレナくんに追っかけられた?」
「――そんなことより、なにしてるんだ」
言われてはじめて気づいた。これはどこからどう見ても、親密な状態にある関係の男女がより親密になろうとしているようにしか見えない。亮史は「あーいやこれは」と慌てて弁解しかけるが、ツキは首を横に振った。
「いや、違う。そんなこともどうでもいい。主人、あのな、説明しにくいんだが――」
そう言って、思案するような間、やがて再び口を開き、
「レレナがさらわれた」
まったく次から次へと。
第五幕 その奥に潜むもの
時間を戻す。時刻にすれば午後六時半、亮史がにんにくにもがき苦しみ、舞とツキが道端ではったり出くわしていたときのこと。
そのころレレナは、罪悪感と後悔を必死に飲み下しながら、夜の闇の中をひた走りに走っていた。
◆
目に浮かぶ。パエリアをこぼしながらゆっくりと落ちていくスプーン。凍りついたような亮史のまなざし。突然始まった恐ろしいまでの身体の震え。一体なにが起こったのか知る由《よし》もなく、ただひたすらおろおろしてあたふたして、気がつけば今こうして病院を探している真っ最中だった。焦りのあまり泣きたくなる。今ごろもう心臓が止まりかけてるかもしれない、きっとなにかのアレルギーだったのだ、私はなんという愚か者なのだそんなことぐらい作る前に確認しておくべきだったのに!
すぐに思い浮かんだのは、駅前のあの交番の地図だった。今度は公園とは違う、病院がいくつあったって構いはしない、一刻も早く救急車を呼ばなくてはとレレナは駆ける。月島宅の電話はレレナには使えず、こんなときに限って公衆電話が見つからない。魂の力で駅前までの道のりを思い出し、神速の速さで夜の湯ヶ崎を走って行く。
ところで、レレナは『駅前への道のり』を、昼にツキに連れて帰ってもらった道のりとして記憶している。当たり前だ。それ以外のルートをレレナは知らない。だから『駅前への道のり』は正確には『駅前への最短距離』ではないし、より厳密に言えば『ショッピングセンターを経由した駅前への道のり』であった。
それがどんな意味かも知らず、レレナはまっすぐに、ショッピングセンターへと駆けて行く。
◆
夜のショッピングセンターを見上げる。まだ夜もそんなに更けていないのに、ほとんどの明かりが消えていた。今日は早く終わる日なのかもしれない。そのためか人通りもほとんどなく、車以外の人影といえば、資材搬入口にうずくまる浮浪者くらいのものだ。捕まって喰われてはかなわない。モザイクは浮浪者から身を隠すように、資材搬入口からショッピングセンターの入り口がある表通りに移動する。
ここが奴の『巣』であることはもう間違いない。あれから数時間、それこそ足の肉球がめくれるほど調査し尽くした。隣町と、このショッピングセンターのあいだを三回も往復した。もちろん相手はたかだか一センチ四方の血の染みであるし、見逃したのかもしれないが、それでもここが怪しいのには変わりない。モザイクは用心深くショッピングセンターの周りを見てまわる。どこか入り込む場所がないか、要塞ではあるまいし、猫一匹くぐりぬける隙間くらいあるだろう――
ふとモザイクの視界を、なにか猛烈な速度で動くものが横切った。顔を向け、モザイクは眉をひそめる。
――なにやってんだあいつは。
あのメスだ。今日の昼見た、変な服着たヒトのメスのガキ。ついさっき迷子になったばかりだというのに、もう元気に走り回っている。いい気なものだ。が、人間のメスはそんなものだろう、とも思った。あの子だって、泣いたその五分後にはもう笑っていた。
気づかれるかなと思ったが、どんどん近づいて来るメスの顔には、わき目を振っている余裕はまったくなかった。なにかに追われているような切羽詰った表情で、ハタから見てもそれとわかるほど息が切れている。と、モザイクのいる場所を通り過ぎてかなり行ったところ、資材搬入口へと続く曲がり角のところでついにへばった。壁に手をつき、下を向いて激しく肩が上下し、ついにその場に座り込んでしまった。まったくなにやってるんだこんなところで。
こんなところで。
モザイクはショッピングセンターを見上げる。そうだ。ここはどこだ。
再びメスに目を向け、メスが顔を上げているのを見た。その視線の先、資材搬入口へと続く道と歩道の交わるその場所に、浮浪者が立っているのが見えた。
ぼろぼろの、マントのような一枚布を着ていた。顔は伏せているのでよく見えない。猫であるモザイクが驚くほどの猫背で、あれではメスよりも頭の位置が低いのではないか。と、浮浪者が顔を上げ、長い前髪のためにどんな顔をしているのかまでは見えない。
しかし、そいつが裂けるような笑みを浮かべているのは、いやでも目についた。
突然、浮浪者が消えた。――いや、違う、地面付近、モザイクとほとんど変わらない高さまで、落ちるような勢いで身体を這いつくばらせ、四肢が大きくたわみ、全身をバネのようにして跳躍。
「え?」
メスがそんな声を上げるのが聞こえた。その一瞬あとにはもう、奴はその蜘蛛のように細長い右腕で、メスの身体を地面に叩きつけていた。
◆
横に大きく開いた口から、だらだらと唾液が垂れるのがわかる。彼はその手に捕らえた獲物を見ながら、押さえつけた喉を握りつぶしてしまいたい衝動と必死に戦う。こいつは今までの獲物とは違う。できることなら生かしておかなくてはならない。
手間が省けた、と彼は思う。向こうからこちらの手の中に飛び込んで来てくれた。あとは、巣に帰ってゆっくり考えればいい。あいつと繋がる点を見つけたのだ。ごく近いうち、自分はあいつに、会うことができるだろう。
彼は喜びの声を上げて、右手につかんだ標的を胸元へと抱き寄せた。標的が苦しげな息を漏らし、彼はほんの少しだけ力を緩める。死んでしまったのでは元も子もない。持ち帰って、じっくりと聞き出さなくては。
左腕に、痒みに似た痛みが走った。首をだらんと垂らして、彼は不思議そうに左腕を見る。まだら色の、ちっぽけな猫が左肘のあたりに噛み付いていた。
少し考えてから、彼は怒った。喜びに水を差され、遊びを邪魔された子供のように激怒した。標的をつかんだままの右手を、猫に向かって叩きつける。狭い歩道の中では、逃げ場など限られていた。が、猫は寸前でひらりと身をかわし、すぐ脇のガードレールの上に着地。と、標的が空気の抜けたゴム人形のようなぐにやりとした動きでガードレールにぶつかった。派手な音が出て――そして、猫の動きが、なぜか止まった。
蹴った。
大した力もこめてないのに、猫はゴムマリのように、車道の中央へと吹っ飛んで行った。彼は蜘蛛のような動きでガードレールから身を乗り上げ、そして笑う。向こうから車が走って来るのが見える。
ざまあみろ、そこでひきにくになるがいい。
車のライトに目を細めながら、車輪が猫をミンチに変える一瞬前、黒い影が光の中を横切ったのを、彼は確かに見た。
影の動きに合わせて顔を動かす。影はガードレールを易々と飛び越え、ショッピングセンターの入り口のあたりに着地した。彼は再び車道に視線を戻し、そこになにもないことを確認、不機嫌な顔で影をにらみつける。影の足元には、ぐったりと横たわるまだら猫の姿。
影の正体も猫だった。本物の影のように真っ黒な毛皮を持つその猫は、おもむろに口を開き、あろうことか人間の言葉で言った。
「お前が――」
彼は驚き、目を見開き、そしてあたりに充満するあいつの匂いがさらに濃くなっていることに気づく。しばし呆然とし、それから彼は亀裂のような笑みを浮かべる。
あみにかかったそれもにひきも、きょうはなんといいひなのだろう。
どうしようか、と一瞬だけ考え、すぐにいいアイデアが浮かんだ。
こいつは、およがせて、ほんにんにしらせるやくにしよう。
黒猫を指差し、彼はおぼつかない口取りでそのことを告げた。黒猫は険しい顔で頷く。よろしい、というつもりで、彼も頷く。
けいやくせいりつ。
彼は右手に標的を握り締めたまま、一本の腕と二本の脚を巧みに使い、資材搬入口へと、
彼の巣の中へと滑るような速度で這い進んで行く。開きっぱなしの口から、ぬらねらと薄光る唾液を垂れ流しにしながら。
◆
亮史はまだソファの上に座っている。その膝の上に眠る舞を乗せ、まるで恋人のようにくっつきながら、しかしその顔にはそんな色っぽい気配は微塵もない。深くため息をつき、疲れたように
「――それで、モザイクくんは?」
「一本か二本、骨がいってるかもしれないが、命に別状はない。ショッピングセンターで休ませている」
「そう……」
亮史はゆっくりと身体をずらし、今まで自分が座っていたところに、舞を代わりに横たえた。そのまま立ち上がろうとするが、舞の右手は亮史の手をしっかとつかんでいて、親を縋《すが》る子供のように決して離そうとはしない。亮史はふと優しく笑い、親指で舞の手を小さくさすった。舞はわずかに身じろぎをし、ゆっくりと、名残惜しそうに右手から力を抜いていった。
ツキはそんな亮史の背中に向かって、低い声で言った。
「行くのか?」
亮史は意外そうにツキを見た。
「当たり前じゃないか」
それから亮史は、苦笑を浮かべて言った。
「――ほんとは行きたくないけどね、バイト二日連続で休むことになっちゃうし」
もちろんツキもレレナを見捨てるつもりはない。ウザい奴ではあるがどこか放っておけない雰囲気を持っているし、それにここでレレナを見捨てたらモザイクに殺されるかもしれない。しかし、とツキは思う。
「君子危うきに近寄らず、じゃなかったのか?」
亮史はツキから視線をそらし、居間のドアへと歩いて行く。ドア付近で歩みを止め、顔を上げ、振り返りもせずに背中を向けたまま言った。
「別に戦いに行くわけじゃない。話を聞きに行くんだ。僕を連れて来いって言っただけだろ?」
なにを今さら。ツキは段々いらいらしてきた。
「そんな穏やかな奴には見えなかったけどな」
亮史は無言。ツキはさらに畳みかけるように、
「矛盾しているぞ、主人。あいつは、あの『亡者』は、ただ自分の本能に従って狩りをしているだけじゃないのか? 主人にはあいつを殺す気はないんじゃないのか? それなのに、他の女が殺されても知らん顔をするくせに、レレナが殺されそうになったら助けに行くのか?」
亮史は顔だけで振り向き、ちらりと微笑んだ。その笑みが気に入らず、ツキがさらに言おうとすると、亮史がさえぎった。
「だから、殺しに行くわけじゃない。話し合いだよ」
「いい加減にしろ、主人。あんたが言ったことだろう。あいつはライオンと一緒だ。けだものと話し合いができると思うのか?」
「君は彼と話したんだろう?ならできるさ」
振り向き、ドアの脇の壁にもたれかかった。にやりと笑う。
「それにね、別に話し合いといっても成功させる必要はない。要はレレナくんを助ければいいんだろ? 彼を殺す必要はどこにもない」
バカなことを――と、ツキは言いかけ、亮史の顔が、いつにまして青いことに気づいた。その笑顔はよく見れば引きつっていて、肩はかすかに震えており、その震えを抑えるように両腕で自分の身体を抱いている。
「だいいち、僕に彼を殺すことなんてできないよ。そこの――」
と、目だけでテーブルの上を示し、
「パエリアを食べる前だったら、まだなんとかなったかもしれないけど」
ツキはごくりと唾を飲む。
「なにか――あったのか?」
「うん、ちょっとね、レレナくんが作ったんだけどね、入ってたんだよあれが」
その名を口にしたくないのか、亮史は非常にあいまいに物を言う。が、ここまで来ればツキにとて亮史がなにを食ったのかくらいは察することができた。ツキの顔から、だんだんと表情が消えていった。
「……どうするんだ」
「どうするって、行くよ。行かなきゃ話にならない」
吸血鬼がにんにくを食えばどうなるのかは、ツキも正確には知らない。使い魔のツキにとって、吸血鬼の感覚は実感としてはわからないのだ。が、にんにくの匂いをかいだだけで亮史がもどしたことが以前あり、そんなものを見れば吸血鬼にとってのにんにくがどういうものなのか、おぼろげながらも見当はつく。恐らくは劇薬に近いものなのではあるまいか。死なないまでも、食べればしばらくは動けなくなるほどの。
ツキは世界の終わりを予言するときのような声で、
「…………なにか、考えくらい、あるんだろうな?」
亮史はこくりと頷き、それからじっとツキを見つめた。何事かとツキは思い、突然亮史が口元を手で覆うのを見てびくっと身構えた。喉元がなにかを飲み込むように大きく上下した。
「だっ、本当に大丈夫かっ? やばいなら吐いたほうがいいぞ絶対」
「――だいじょぶ。ほんと。いけっ、ぐ。る。いける」
口元を覆っていた手を離し、土気色の顔で亮史はそう言った。それからまた慌てて口に手を当て、離し、荒い息を吐き出し、顔が震えるように笑う。無理するな、とツキは言いたい。
「『作戦』を考えた。聞いて。うまくいけば、誰も傷つかずにすむ」
すでに主人がかなりのダメージを負っているではないか、とツキは思った。
◆
息を吸うたびに肺に走る、刺すような痛みでレレナは目覚めた。意識が水面上に浮上してくると、たちまち全身にまとわりつくような寒さが襲ってきて、レレナは思わず、
「っくし」
ずるるるる、と鼻に手を当て、薄暗さに目を凝らし、あたりを見回して考える。どこだろうここは。と、左手方向にパイプのようなものが見えた。思わず指先で触れ、電流が走ったようにばっと引き離す。恐ろしく冷たい。早速指先がひりひりし始め、レレナは痛む指先を口に含みながらさらに視線をめぐらせる。
前方向の少し離れたところに、変なのがいた。
よく見ると人間だった。変な人がいる、とレレナは頭の中で訂正。ぼろぼろのコートのような服を着て、頭だけがひょこりと出てじっとこちらを見つめている。いまいちその意味がつかめず、レレナは指をしゃぶったままほけーっとその目を見つめ返した。
突然、変な人の服から、にょきにょきと手足が生えた。
異常に長い手足だった。普通の人間の一・五倍ほどもあるそれらは、蜘蛛のように地面につくと、腹ばい寸前まで身体を低い位置に落とし、のそのそとこちらに近づいてきた。この寒さに感覚が麻痺しているのか、レレナはそれを見てもなにも思わず、ああそうだ人前だから指をしゃぶるのはやめにしなくちゃはしたないと思い、口から指を離した。
内緒話をするくらいの距離まで近づいたとき、変な人の前髪がぱらりと動き、隠れていた顔が見えた。
そのときはじめて、レレナの背筋に、なにかがぞわりと走った。
レレナの友達に、「人形が怖い」という女の子がいる。ローマではレレナくらいの年頃の女の子はみな人形を持っているもので、他の友達はその子のその感覚を「絶対ヘン」と決めつけ、よく笑っていたものだ。あるときレレナはその子に、人形のなにが怖いのかと尋ねてみたことがある。その子は眉をひそめて、こう言った。
「だって、そうじゃない。人間じゃないのに人間の顔を持ってるなんて、気味が悪くて仕方ないわ」
レレナはその言葉を思い出し、はじめてそれの意味するところを理解した。
そいつは無表情にレレナを見つめ、おもむろに、口が、ぱっくりと、人間では絶対にありえない大きさで開いた。レレナの頭の中が真っ白になる。そいつは垂れ下がるように開いた口の中から、顎の先をはるかに越えるほどの長い舌を出し、レレナの頬をぞろりとなめた。
空白の思考に、その舌のぬらりとした感触が刻み込まれる。
レレナはようやく、悲鳴をあげた。
◆
亮史とツキは同時に顔を上げる。顔を見合わせ、頷きあい、そして亮史は地を蹴った。
上のほう、と大雑把な場所はつかめたが、これだけ離れていては正確にはわからない。しかしとにかくも上のほうであり、亮史は空中で大きく身体をしならせて、ショッピングセンター三階のガラスに拳を叩きつけた。派手に割れる音が静かな館内に響き渡る。跳躍の勢いがついたまま亮史とツキはショッピングセンターのフロアの上をすべり、商品陳列棚にがしゃんと当たって止まった。ツキが亮史の肩から飛び降り、騒音を一瞬にして飲み込んだ静寂に、もう一度耳を澄ませる。こと聴覚に関して、猫、それも使い魔として能力を特化された猫に勝るものはそうはいない。
と、ツキの耳がぴくりと動いた。亮史を顔だけで振り返り、
「この下の階の――奥のほうだ。もう一度、確かに聞こえた。早く――おい主人寝るな起きろ生きてるか」
「……だいじょう。ぶ。ぐえ」
へろへろになりながらもどうにか立ち上がり、商品陳列棚に手をつき、棚ごと倒れて再び盛大な音がこだまする。ツキは呆れたような心配しているような声で言った。
「あまり騒がしい音を立てるな。まだ警備員に来られては困る」
「わかっ、た。ぐぶ」
語尾に変な音を出さねば気がすまないのか。ツキはこれ以上の会話を無駄と判断し、さっさと駆け出した。階段を一気に飛び降りて、踊り場で上を見上げるとふらふらではあるが亮史もついて釆ていた。よし、と頷き、またひらりと宙に舞う。矢のようにフロア内を駆け、悲鳴がしたと思しきドアに見当をつける。鈍く重い、牢獄へ続いているような両開きの扉。プレートには『冷凍室』とある。
後ろからがらごろという音が聞こえ、振り返ると亮史は頭から缶詰が並べられた棚に突っ込んでいた。頭を棚から抜き、その勢いで今度は後頭部からスナック菓子の棚に激突。こんなんで大丈夫か、とツキは思った。
そのとき、冷凍室の扉がはじけるように開いた。チップスナックの袋の山に埋もれていた亮史も、そんな亮史を呆れ顔で見ていたツキも、同時に扉のほうに顔を向ける。
なにもいない。冷凍室の白い煙がもうもうとあふれ出てくるばかりで、その中にいるはずのものも、この扉を開けたはずのものも誰もいなかった。冷凍肉を載せた鉄の網棚が規則正しく配置されているが、それぞれの間隔が広いので人が隠れるには使えない。亮史がどうにかして立ち上がり、ゆっくりと、用心深く冷凍室の入り口に近づく。ツキもそれに従い、足元を這うように立ち込める自煙をかき分けながら、冷凍室の中へと入って行った。
すぐに見つかった。冷凍室の一番奥の壁にもたれかかるように、小柄な身体が、小刻みに震えていた。
「主人――」
「うん」
寒さのためだけではない。明らかにその表情もまなざしも、恐怖の色に凍りついていた。レレナは亮史を見ても、「はっはっ」と周期の短い白い呼吸を繰り返すだけだ。亮史はやわらかく笑い、レレナに向かって手を差し伸べた。
「ほら、もう大丈夫だよ。早く帰ろう。こんなとこにいたら、風邪引いちゃうよ」
レレナは亮史の言葉を聞いても、首を振るばかりで一向に恐怖が抜ける気配がない、それどころかますます恐慌をきたし、亮史から逃げるように床の上を這い、差し伸べた手を震える指で差し、いやいやをするように激しく首を振った。紫色の唇が開き、
「うえっ、うええっ!!」
ツキと亮史は顔を見合わせた。視線をレレナに戻し、亮史は心配そうに、
「!どうしたの? 気持ち悪いの?」
レレナの呼吸はどんどん速くなる。目の端から涙が一筋こぼれおち、見るものすべてが恐ろしくてたまらないとはかりに目をつぶり、レレナは叫んだ。
「ちがうのっ! うえにいるのっ!!」
天井近くから伸びた腕が、亮史の首筋の肉をえぐった。
◆
とっさの判断でその場にしゃがみ込み、そのバネを利用して後ろへと弾丸のように跳躍した。
『その場から離れること』のみに気を使っていたため、亮史は着地に見事に失敗し、背中から床に激突した。タイル張りの床の上を滑りながら、亮史はうつ伏せから腹ばいの格好になり、四肢をふんばって速度を殺した。まだ冷凍室にいるはずのツキに目で合図しようと思ったが、すでにツキの姿はどこにも見当たらなかった。すでにどこか物陰に隠れてしまったのだろう
『作戦』どおりに。
危ないところだった。亮史はかすかに痛む首筋を押さえ、その手を目の前にかざした。それほどの出血ではない。もう一度触ると、すでに傷は消えていた。もう少し深かったら、やばかったかもしれない。『再生』の能力にも限度というものがある。筋肉組織ならまだしも、緻密な構造を持つ神経組織を傷つけられれば。吸血鬼といえど治るまでかなりの時間がかかるのだ。首や頭は、吸血鬼にとってもまた急所なのである。
亮史は立ち上がり、微妙な感情を顔に浮かべて、『それ』を見た。
冷凍室の入り口に、突然変異のテナガザルのような生き物がいた。
尋常でなく長い片腕で、天井のどこかから入り口をふさぐようにぶら下がっている。その顔には表情というものがまるでなく、亮史がいることを気づいているのかどうかも定かではない。
なんの感情も浮かばない顔で、それは自分の左手を不思議そうに眺め、おもむろにその左手に付着した赤い肉を口に含む。
それの顔に、明らかな感情が浮かび上がった。小さな子供が見たことも聞いたこともないごちそうを口にしたときのような、純粋な喜び。それが逆に、亮史の背筋に悪寒を走らせた。
絶対無駄だとは思ったが、とりあえず亮史は、明るく声をかけた。
「やあ、呼ばれたから一応来たけど、なにか用かな?」
精一杯フレンドリーに言ったのが効果的だったのか、驚くべきことにそれも笑みを浮かべた。亮史に長い長い左腕を向け、これまたすらりと長い指を、亮史に向けて、
「うまい」
とだけ言った。
とだけ言って、いきなりそれは地面に落下した。両手両足でふわりとほとんど音を立てずに着地し、ぞっとするような速度でこちらに向かってきた。亮史はなにも言わずに後ろを振り向き全速力でダッシュ。顔はがちがちに強張っている。感覚としては、人間大のゴキブリが一目散に自分に向かって這ってくるというのが一番近い。怖いというよりも気持ち悪かった。とりあえずこれのことは『蜘蛛』と呼ぶことにする。
絶対に後ろを振り向くまいと神に誓う。目の前に壁が迫り、亮史は棚に手をかけて曲がり、駆け抜けざまに揮身の力を込めて棚を引き倒した。轟音。ちらりと見ればそこは調味料を満載した棚で、もうもうと立ち込める粉末の煙のどこにも蜘蛛の影はなかった。亮史は前を向く。
表情のない顔がすぐそこにあった。
「うわああああああああああああ!!」
叫んで亮史は思わずその顔を殴り飛ばしていた。長い手足を振り回し、蜘蛛は床に何回かバウンドしてからショーケースに当たって止まる。亮史は一瞬だけ立ち止まり、すぐに横の陳列棚へと身を隠した。あれが起き上がってくるところは絶対に見たくない。
息を殺して、身を低くする。静かにしていると忘れかけていた頭痛と腹痛がよみがえり、なぜか腰まで痛くなってきた。生唾を飲み込み、ともすれば痛みのために散漫になりがちな気を集中させ、蜘蛛の襲来に備えて上下左右への警戒を怠らないようにする。
耳が痛くなるほどの静寂。
片膝をつき、探るように左右に視線を走らせる。前後は商品陳列棚でふさがれているため、必然的に蜘蛛が来るのは左右上方のいずれかということになる。耳を澄ませてもなにも聞こえず、『感知』の能力は端から当てにしていなかった。あれは大雑把な位置を探るもので近距離索敵には向いていないし、そもそも現在の体調でうまく使いこなす自信はない。
亮史はふと、冷凍室のあった方向に目を向けた。棚が邪魔になってよく見えないが、白い冷気がまだ湧き込めてきているのはわかる。それから階段のほうを見て、ツキはうまくやっただろうかと思う。もう少し時間を稼いでおくべきだろうか。亮史は視線を戻し――
棚の向こうにいる蜘蛛と、目が合った。
その目が笑った。
お茶漬け海苔のお徳用パックを吹き飛ばして、棚から蜘蛛の腕が生え、亮史の首を捉えた。みりみりという音が身体の奥から聞こえる。首を締められるだけなら、本来はどうということはない。吸血鬼の身体はほとんど死体と同じであり、呼吸や血液で生命を維持しているわけではないのだから。しかし――どうやら向こうも、ただ首を締めているわけではないらしい。
このまま、首の肉をえぐりとる気だ。
「―――ッ!」
本能的な恐怖から、亮史は身もだえするように身体をよじった。が、そうするたびにさらに指が喉にくい込んでいく。亮史は絞るような息を吐きつつ、目の前の棚に思い切り蹴りを叩き込んだ。棚は大きく傾き、向こう側に倒れ込む。
逆効果だった。さらに締まった。蜘蛛の爪がどんどん首に食い込んでいき、それでかえって度胸がついた。右腕を変換、『狼』の能力を行使。手の甲に赤く光る瞳が生まれ、たちまちのうちに指が牙へと変化を遂げていく。子犬ほどの大きさのその狼は凶暴な捻り声をひとつあげると、蜘蛛の腕にその鋭い牙を突きたてた。
血が吹き出て、蜘蛛の力が緩んだ。すかさず亮史は身体を浮かせてその傷口に膝蹴りを叩き込み、返す刀でもう一度棚を蹴り飛ばして上体をそらす。蜘蛛の手が完全に引き剥がされ、亮史は背中からまともに床に落ちた。呼吸が一瞬止まるがそんなことには構っていられない。立ち上がり、一気に駆け出し、後ろから気を抜けば聞き逃してしまいそうなひたひたという音。亮史は振り返らずに、じょじょにスピードを落としながら、前方の冷凍室へと滑り込む。
ひたひたという音が、消えた。かわりにほんのわずかな、空を切るような音が聞こえた。
蜘蛛の指が再び亮史の首をえぐる一瞬前、亮史は『霧』の能力を発動させる。
◆
「早く来い!」
ツキは階段を一足跳びに飛び降りた。レレナはやっとこさ二段抜かしで階段を下り、それでもバランスを崩して手すりにしがみついたりする。その度にツキはいらいらしてレレナを怒鳴りつけるのだ。
が、レレナがバランスを崩すのは別に彼女の運動神経が悪いからではなく、猫が喋っているからである。ところが当のツキはそのことがわかっていないらしく、何の遠慮もなしにレレナに向かって声を張り上げる。レレナはなにがなにやらわからない。驚きのあまり表情の消えた顔で、ただツキの怒鳴り声にこくこくと頷く。
ツキは踊り場からまた一気に一階へと飛翔。レレナはようやく踊り場までたどり着き、自分をじれたような目でにらみつける黒猫に意見|具申《ぐしん》。
「あの、つ、ツキ、さん」
猫相手にさん付けである。ツキは怒ったように、大声で答えた。
「なんだ!」
その大声にレレナは萎縮し、思っていたこととは別の言葉が出た。
「いえっ、あの、な、なんで、喋ってるんです、か?」
いや、思っていたことと完全に別だったわけではない。頭の片隅で、やはりこんなのんびりとした思考も産声を上げていた。ツキの鳴き声はいつも意味を持っているように響いていたから、もしかしたら、自分は混乱しすぎて幻聴を聞いているのかもしれない、とも思っていた。
が――
ツキは苛立たしげに鼻から息を抜いた。低いがよく通る、明らかに人間の男の声で、怒りを抑えているように言った。
「そんなことはあとで説明するから、とっととついて来い。死にたいのか」
「――でも……」
キレた。ツキはぎろりと牙をむき、言うことを聞かなければ噛み殺しそうな勢いで、
「いいから、さっさと、階段を下りろ!!」
「はっ、はいっ!!」
あまり人に怒られるという経験をしたことのないレレナは、例え相手が猫でも、その恐ろしげな大声に逆らうことができなかった。ただ頭の隅で、先ほど声にできなかった疑問がぐるぐると渦を巻く。
一階はシャッター閉まってると思うけど、いいのかなあ。
◆
『霧』を解除し、亮史は急いで扉を閉めにかかった。手加減する必要などどこにもない。吸血鬼の腕力を存分に使い、重々しい鉄の扉をばしんと閉める。火花が舞った。
風を切る音。
考えるより先に横に跳んでいた。一瞬遅れて、攻撃するというよりただ突っ込んでいるような感じで飛来した蜘蛛の身体が、鉄の扉に激突した。扉の前でしばらくもがいてから、蜘蛛は壊れた人形のような動きでのろのろと立ち上がり、首をめぐらせて亮史の姿を捜す。亮史は姿勢を低くしながら、音もなく蜘蛛から離れた。
それほど狭くはない冷凍室の中には、しかし隠れる場所はほとんどない。亮史は視線をめぐらせる。この蜘蛛は、少なくとも扉を開けるくらいの知恵は持っている。それならば
蜘蛛が亮史の姿を見つけた。迷うことなく跳躍。亮史はかろうじてそれをかわしながら、手近な鉄の網棚に手をかけた。渾身の力を込めて、片手だけでそれを扉に向かってぶん投げる。凍りついた肉をばら撒きながら、網棚は冷凍室の床の上を滑るように飛んでいき、派手な音をたてて扉にぶつかり、止まった。が、まだ足りない。亮史は次の網棚に手をかける。
油断していた。蜘蛛のことを侮っていたのかもしれない。蜘蛛のほうに視線を向けようとして、再び身体ごとぶつかってきた蜘蛛に捕らえられた。長い腕と指が亮史の身体を巻くように抱きすくめ、異常に大きく開いた顎の関節がごきごきと悲鳴をあげる音が、ごく至近から亮史の耳に聞こえてきた。
喰われる、と思った。
亮史は舌打ちをして。『霧』を発動。三つある変身能力のうちでも、『霧』が一番力を食う。できることなら使いたくはなかったが、仕方がない。今の亮史では、蜘蛛の腕から力任せに逃れることはできそうになかった。
霧になったまますばやく移動し、蜘蛛からかなり離れたダクト脇で解除した。蜘蛛は不思議そうに、自分の身体を抱くような格好のまま、膝立ちでじっと地面を見つめている。亮史は構わずに一番手ごろな網棚を手につかみ、扉に向かって投げつけた。あやまたずに網棚は扉に激突し、景気よく音を鳴らしながら、すでに横倒しになっている先ほど投げた網棚の上に覆い被さった。蜘蛛はその音にも反応せず、まだ地面に視線を向けたまま、ぴくりとも動かない。
あとひとつ――と、亮史の手が網棚に伸びかけ、まさかそれに気づいたわけではないのだろうが、蜘蛛の顔が弾かれたように亮史のほうを向いた。ぎくりとして亮史は手を止め、一瞬の間のあと、またもや蜘蛛は身体ごと亮史に向かって飛びかかってきた。が、今度は逃げない。さっき捕まったのは死角から襲われたからだ。亮史はその手に鉄の網棚のパイプをつかみ、飛来する蜘蛛の身体に向けて、横殴りに叩きつけた。
ひとたまりもなかった。ただでさえひょろ長い蜘蛛の身体は、数十キロを超える鉄の一撃で颶風《ぐふう》に吹かれる紙切れのように弾き返された。ビンボールを思わせる動きで冷凍室の壁に激突し、しかしまるでこたえた様子もなく起き上がろうとする蜘蛛の身体に、亮史は手にした網棚を思い切り投げつける。空中に肉をばら撒き、ゆっくりと回転しながら、網棚は蜘蛛の身体を押し潰した。亮史はそれを横目で見ながら、一気に扉に向かって駆け出した。
横目なのがいけなかった。思いっきりけっつまずいた。
ヘッドスライディングみたいな格好で亮史は顔面から地面に着地し、そのまま勢いあまって仰向けに倒れ込んだ。顔が痛いというよりは熱かった。亮史は身を起こして逃げるより早く、ほとんど反射的に、なににつまずいたのかを確認しようと視線を巡らせた。
赤黒い切断面が見えた。
一抱え以上もある、肉の塊だった。
なんだ、と思いかけた思考が、消し飛んだ。
その肉の塊の下に敷かれるように、黒いものが流れていた。それが髪の毛であることを理解するのとほぼ同時に、肉の表面に、浮き出るように五本の指がくっついているのが見えた。
だまし絵の理論で、それまで百グラムで特価百九十八円だったものが、あっという間に人間の上半身に化けた。蝋のように白いその肌も、細長いその指も、十五、六歳の女の子のものだった。
パジャマ姿だった。
柄に見覚えがあった。
仰向けのその子の凍りついた唇は、半分しかなかった。前歯が見えていた。左眼から顎にかけての肉がごっそりとこそげおちていて、左の眼窩にわだかまる闇は、今まで亮史が見たどんな闇より黒く右にまだ残っている瞳は、あれほど泣き、笑い、見つめ、にらみつけた舞のものとは思えないほど、どんよりと濁って虚空に向けられていた。
なにも考えられなかった。逃げなくては、という思考すら忘れた。亮史は呆然と、這うようにその肉塊に近づいた。
白い手に触れる。ぞっとするほど冷たい。つい先ほど、彼女に向かってそうしたように、亮史はその手を握り締めて、わずかに親指で手の甲をさすった。
「そいつは、まずかった」
目を向けると、鉄の網棚の下から這い出した塩蛛が、弓のように背筋を曲げてこちらを見ていた。蜘蛛の長すぎる腕がすっと伸び、亮史の前の肉塊を指差す。
「かおだ。かおはまずい。そいつでわかった。ほかはうまかった。そいつでわかった」
蜘蛛は無邪気に笑った。
「おまえは、どうだ。おまえは、かおもうまいか」
亮史は手を離し、立ち上がり、深く深く息を吐いた。その顔には怒りも悲しみも浮かんでいない。あるのはただ果てしない疲労感だけだ。
この世にはどうしようもならないことがいくらでもある。自分がいかに嘆こうと怒ろうと、彼女の命は戻ってこない。さりとて亡者を責めることもできない。彼が人を襲うのは本能であるのだし、彼もまた、望んで亡者になったのではないのだから。主人や従者と違い、なんの知能もない化け物である亡者に、進んでなろうとするものなどいはしない。
だから、これはどうしようもないことだったのだ、と思った。
本当にそうか?
では問う。仮にお前が嘆き悲しめば舞が生き返るのだとしたら、お前はそれをすることができるのか? そんな上等な感情がお前に備わっているのか? 見栄を張るのはやめろ、お前は化け物なんだ。化け物は人間とは違う。どうあがこうと違うものは違う。人間は大事なものを失えば、怒り、嘆き、悲しむ。化け物は違う。化け物にそんな感情はない。そのことは、何よりも誰よりも、お前の今の静まり返った心が証明しているだろう。わずかな悲しみ、かすかな怒り、そんなものは表面上のものにすぎない。心が割れるほどの、身が裂かれるほどの思いをお前がすることは絶対にありえない。なぜならお前は吸血鬼だから、人間とは違うから―― 蜘蛛が不思議そうに見ている。亮史は疲れきったまなざしを蜘蛛に向け、息を吐くように笑った。そう。嘘はいけない。なにも確かめずにどうしようもないことだったなどと、口が裂けても言ってはいけない。
わかりきっていても、聞くしかなかった。
「君は、どこから来た?」
蜘蛛はまだ不思議そうに亮史を見ている。
「一体どうしてこの町にやって来たんだ?」
蜘蛛はその言葉の意味を咀嚼するように、ゆっくりとまばたきをした。やがて呆けたように口を開き、そのままじっと停止する。爬虫類によく似た感情の動き。かつて亡者を何度も見てきた亮史には、その反応が手にとるようにわかる。
「おれは――」
爬虫類というよりは、昆虫といったほうが近いかもしれない。誘蛾灯に群がる羽虫と同じ。たとえ自分の命を落とすことになっても、自分の本能にのみ従う。
そう。
『力』と『力』は――
「おまえの――におい、あいつとおなじ、においがした。だから、きた」
引き寄せあう。
あえて無視し、考えまいとしていた結論が、ようやく亮史にのしかかってきた。目の前の薄皮一枚を隔てたところに存在していたそれをいまさら突きつけられても、やはり衝撃は襲ってこなかった。
こいつをここに呼び寄せたのは、僕だ。
亮史はなおも尋ねた。
「あいつというのは、誰のことだ? 君をそうした者か?」
余罪を自分で追及しているような気分。蜘蛛はまたもやじっと考えている。不思議と蜘蛛はこの間に襲ってこようとはしない。与えられた質問に答えるのが精一杯で、そこまで頭が回らないのだと言ってしまえばそれまでだが。
やがて蜘蛛が、口を開いた。判決の瞬間。
「じょうげん――」
意外といえば意外であった。が、それほどの衝撃を受けなかったことを考えれば、やはり頭のどこかで、その答えをも思い浮かべていたのだろう。
いずれにしろ、と、亮史は思う。彼に対する始末をつけるのは僕ではない。
亮史はその場にしゃがみ込み、かつて雪村舞の名で呼ばれていた塊に口を近づけ、ささやいた。
必ず、あとで迎えに来る。
再び立ち上がり、亮史は蜘蛛に目線を据える。蜘蛛は相変わらず呆けたような表情で、亮史を――いや、亮史のいる方向をじっと見つめている。唐突に、蜘蛛のことが哀れになった。彼とて望んでこうなったわけではないのに、人間であることを奪われ、知性を奪われ、いずれは言葉を奪われて、日の光に減することになるのだろう。そして、それは
亮史は首を振った。自分ではどうすることもできないが、せめて、声をかけてやりたかった。
「言っておく。僕には、君を助けることはできない。それをするのは僕の役目じゃない――上弦《じょうげん》のところに戻るといい。そして、彼女に教えてやるんだ。いかに自分が苦しんでいるかを。そうすれば、きっと彼女は、君のことを救ってくれる――」
そこまで言って、口を閉じた。なにを言っても、蜘蛛がその言葉に従うとは思えなかった。理解しているのかどうかも怪しいものだ。それでも、言わずにいられなかった。あるいはそれは口先だけのものなのかもしれない。だが、蜘蛛をこうしたものの一族として、言っておかなければならないと思った。
「――ごめん」
亮史は扉に向かって駆け出す。蜘蛛はそれに反応しない。亮史は極力蜘蛛のほうを見ないようにしながら、扉にぶつかる直前、霧となってその向こうへとすり抜けた。
◆
蜘蛛の頭の中で、男の言葉がぐるぐると渦を巻く。
ぼくはたすけることはできない。じょうげん。もどるといい。たすけることができない。かのじょにおしえる。いかにくるしんでいるかを。くるしんでいるかを。くるしんで
くるしい。
そう、自分が今感じている感覚は、『くるしい』というものだ。蜘蛛はそう気づく。否。思い出すといったほうが正しい。蜘蛛は愕然となった。『くるしい』という初歩的なことすら、自分は思い出さなくては知覚することができない――そういった意味のことを、もっとぼんやりとした思考で蜘蛛は思った。
寒い。
蜘蛛は自分の身体を自分で抱きすくめ、再び愕然となった。長い。なぜこんなにも腕が長いのだ。腕だけではない、脚も、指も、身体全体がひょろりと細長くなってしまっている。いつの間にこんなことになってしまったんだ。なんでこんなことになってしまったんだ。
混濁する蜘蛛の思考の中で、ただひとつ、男の声だけが、はっきりとこだまする。
ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。ごめん。
蜘蛛は弾かれたように扉に向けて飛びかかった。
◆
亮史は扉に背を預け、ふう、と息を吐いた。
どっと疲れが出た。『霧』を使ったからか、精神的なものからかはわからない。多分両方のような気がする。亮史は扉から背を離して、一瞬だけ振り向くと、すぐによろよろと走り出した。
どう言っても、あるいは通じないかもしれない。上弦のもとに戻れなど、そんな複雑な思考ができるのならば最初からあんな真似はしないだろう。おそらく――いや、間違いなく、蜘蛛は自分を追ってくる。網棚をバリケードとしたが、その効果のほどはまるで期待できない。身体能力だけならば、蜘蛛は自分よりも数段上なのだ。自分に持ち上げることができた網棚など、発泡スチロールでできたお城のようなものだ。何の苦もなく取り除かれてしまうだろう。そこまで考えて、亮史は頭を切り替えた。今はとにかく、ここから逃げることだ。考えるのは自宅に戻ってからでいい。
陳列棚がずらりと並ぶフロアの上を、亮史は駆けていく。目の前に突き当たりの壁。あの角を曲がった先に階段があるはずだった。姿は見ていないがどうせもう警備員にバレていることだろう。警察もこちらに向かっているかもしれない。顔を見られては何かとまずい、ひとまずは屋上まで行って、そこから『蝙蠣』の能力で逃げるとしよう。
角を曲がったところで、なにかにぶつかった。
「きやっ!」
そのなにかは、レレナの声でそう叫んだ。
そのなにかは、レレナの姿で後ろに吹っ飛び、あろうことか階段から転げ落ち、踊り場の壁に頭を打って「ご」という音を発して止まった。
亮史は真っ白になる。意味がわからなかった。なぜまだレレナがここにいるのか、とっくに外に行ったはずではなかったのか、もしかしたらツキとはぐれたのかもしれない―――と思いかけたところで、ツキが踊り場にひょっこり姿を現した。レレナの顔をくんくんと嗅ぎ、亮史を見上げていつもと変わらぬ冷静な口調で言った。
「大丈夫だ、息はある」
亮史は叫んだ。
「ちょっ、なんでこんなところにツキがいるんだよ!僕が時間稼いでるあいだに外に脱出するって『作戦』だっただろ!?」
ツキも牙を剥きほとんどヤケクソに近い大声で、
「悪かったな間違えて一階に降りちまったんだよシャッター閉まってるなんて思わなかったんだよ!!」
逆ギレだ。最悪だ。こんな初歩的なミスを犯すなんて。確かにどこから逃げろとは指定しなかったけど、まさかこんな。混乱が落ち着く暇もなく、後ろから、聞きたくもない咆哮が聞こえた。亮史は階段を転げるように降り、レレナのちっぽけな身体を肩に担ぐ。
「と、とにかく、逃げよう。どこかに非常口があるはずだ」
「――ちょっとあいつのことを侮りすぎてたみたいだな、俺たちは」
「――?」
「非常口のな、ノブのところがな、ちぎりとられてた」
「…………いいんだよっ! ここにいるよりはマシだろそれともツキがあいつとやるの!?」
ツキは沈黙。と、後ろから、それもかなり近いところから、最近よく聞く商品陳列棚が根こそぎ倒れたような音が聞こえてきた。亮史はわき目も振らずに踊り場から飛び降り、ツキもそれに従う。
ショッピングセンター一階は、絶望的に広いように見えた。階段が出入り口付近にあるためか、隠れるための棚がどこにもなく、ともかくも亮史は走り出し――背中に衝撃を感じた。
早すぎる。吹っ飛びながら亮史はそう思う。反射的にレレナを胸にかき抱き、よく磨かれたフロアの上をどこまでも滑り、やがてレジスターにぶつかって止まった。痛みに耐えて立ち上がり、そのときにはもう、蜘蛛が目のまえまで迫っていた。
やられる。
霧も蝙蝠も使えない。レレナを置いていくわけにはいかない。亮史はただその場に立ちすくみ、呆然と蜘蛛の顔を見ることしかできず――
そしてその顔に、まぎれもない苦悶の色を見て取る。
蜘蛛は爪を使わなかった。あの万力の如き握力を誇る指も使わずに、苦しげな顔で、食いしばった歯のあいだから唾液を垂らし、苦痛に耐えかねて暴れているような動きで亮史を殴った。
亮史は宙を舞う。今度は商品陳列棚に頭から突っ込み、キャンディーとチョコレートの祝福を頭から受ける。とっさにレレナをかばい、追撃を警戒して身構えた。
蜘蛛はうずくまっていた。あの腹這いのような四つん這いではなく、まるで人間のように、異常に長い手足を縮こまらせて、寒さに耐えかねるように。
蜘蛛が顔を上げた。苦しげに歪むその顔の、悲しげに細められたその瞳から涙が一筋だけこぼれおち、痛々しげに食いしばられたその歯が開き、そして蜘蛛は言う。
「た、す、け、て、く、れ」
なんで僕が、と亮史は思う。なんで僕がこんなことをしなくちゃいけない。彼を亡者にしたのは僕ではない、僕の眷属でもないだろう。僕の眷属はこんな真似をしないし、それになにより、彼が言ったことではないか。上弦、と。
方法がないわけではなかった。実行に移すことが別段難しいわけでもない。簡単なことだ。あのとき、冷凍室で、レレナの姿を見たときから、あくまで非常手段としてではあるが、頭の隅にその考えは浮かんでいた。吸血鬼に噛まれただけで吸血鬼になるのだったら、今ごろ自分など世界の王になっている。しかも都合のいいことにレレナは今自分の腕の中にいて、さらに気を失っていて、とどめとはかりに蜘蛛はまだこっちに来る様子はなかった。お膳立てもいいところだ。やるなら今しかない。
レレナの細く白い首筋が目のまえにある。喉がごくりと鳴った。まさかこの歳で、あの性格で、処女でないということなどはあるまい。清らかな乙女の生き血とどす黒く濁った血液パックでは、味も、得られる『力』も桁外れに違う。
もう一度、多分に自分をごまかすために、これしかないのだ、と思った。牙を剥き、その牙がレレナの首に触れるか触れないかというところで、ぴたりと止まった。頭の中に上弦の顔が現れ、最後に別れたときの、強く非難するような目で亮史を見つめて、静かな声で言った。人間として生きていくのではなかったのか、と。
――知ったことか。
◆
立ち上がる。服についた汚れを払い取り、蜘蛛に目を向ける。口角泡を飛ばし、縋るような視線で自分を見る彼を、亮史は見下すような目で一瞥した。
足を踏み出す。
ゆっくりと、気軽に散歩するような歩調で、蜘蛛に近づいて行く。蜘蛛は呆然と自分を見上げるだけで、攻撃をしようともしない。亡者にはそういうところがある。予想外のことが起こると硬直して動かなくなってしまうのだ。
亮史は蜘蛛の、それこそ目のまえまで近づき、左を見て、右を見て、「ああ」という声を上げる。『生鮮食品コーナー』というのぼりの掲げられたそのショーケースに、目的のものが見えた。彼はそこに視線を貼り付けたまま、左手で無造作に蜘蛛を張り飛ばした。
文字どおり、飛んだ。あやまたず蜘蛛は『生鮮食品コーナー』に落下し、派手な音を立てる。亮史はつまらなそうに首をかしげながら、またゆっくりと歩き出した。
と、蜘蛛が起き上がり、地を蹴って猛然とこちらへ向かって来た。亮史は鼻から息を抜く。今から望みどおり助けてやろうというのに、往生際の悪い。
両腕を使うことにした。自律精神を二つ与え、黒雲のように膨らんだそれらの手の甲の部分
に、赤い光が灯る。先ほど見せたものと基本的には同じだが、与える力が段違い、ということは総合的な力も段違いということだ。二つの『狼』は亮史の肩からちぎれ、それぞれがそれぞれの意志を持って蜘蛛へ向かって行く。
狩りにもならなかった。長い割に細すぎたからかもしれない。狼たちと一瞬だけ交差した蜘蛛は、ただそれだけで両足を喰いちぎられ、亮史は軽く身をひねって飛んできた蜘蛛をよけた。蜘蛛は着地もままならず、飛んできた勢いをそのままに、床の上を滑っていった。亮史はそれを振り返りもしない。うまそうにそれぞれの獲物を喰っている狼のうちの片方に口笛を吹き、戻るように指示する。狼は不満そうに喉を鳴らしたが、亮史が優しく微笑むと、渋々ながらも腕に戻ってきた。もう片方はそれを見て餌が増えたと喜び、しかし亮史はその狼にも、蜘蛛を連れてくるように命じる。
右手を確認するようにわきわきと動かしながら、亮史は『生鮮食品コーナー』の木の枠組みを足で踏み潰した。湿った音が響き、あたりに木のかけらが散乱し、亮史はそのうちの手ごろな一本を手に取った。顔を上げると、ちょうど狼が蜘蛛の襟首をくわえ、こちらに持って来ているところだった。狼は低く捻って「たべてもいい?」と視線で催促した。亮史は苦笑して首を横に振る。狼はそれでもなお短く吼えて『せめてあれだけでも』と鼻先でちぎれとんだ蜘蛛の足を示し、亮史はそれにも首を振って戻るように指示する。狼はふてくされながらも、亮史の左腕に戻っていった。
うつ伏せになって痙攣する蜘蛛を、足で仰向けにした。亮史のその目には決められた作業をこなしているような冷たい色しか浮かんでいない。対照的に、蜘蛛の顔には、今までの狂乱が嘘のような安らぎが浮かんでいた。亮史はため息をつき、言った。
「なんで『上弦』が、お前みたいなのを亡者にしたのか、まったくわからない。亡者はもともと迷いもためらいもないただの化け物だ。それがこうなるということは、素材に問題があったということかな」
蜘蛛は夢見るような表情をしている。最初から話が通じるなどとは思っていない。亮史はまたため息をつき、右手に握った木の棒を握り締めた。
蜘蛛が、なにかを言った。亮史は冷めた目で見下ろしながらそれを聞く。
「こわかった」
と、蜘蛛は言う。
「こわかった――くるしくて、こわかった。わすれていくのが。くうのが。ころすのが。だから、おまえを――おまえに――おまえが――」
亮史は左腕だけで肩をすくめた。やっぱりな、とでもいうように首を振り、
「まったくだ。死ぬのも生きるのも怖いような奴が、長い夜に住むべきでは――」
そこで亮史は気づいたように顔を上げた。天井に向かって、馬鹿にするような笑いを浮かべた。左手で目を覆い、耐え切れないように笑いはじめた。
「――僕が言えたことでも、ないか」
笑いながら、亮史は右手に握り締めた木の棒を――『杭』を、なんの躊躇もなく蜘蛛の胸に突き刺した。
蜘蛛は最後に、「ありがとう」と言った。
突き刺してから思う。
言ったはずだ、上弦。互いの眷属の始末は互いでつけると。決して相手にハネを飛ばさないと。それは、今になっても同じのはずだ。それなのに、これはなんだ?
亮史は杭から手を離し、ぽつりとつぶやいた。
「貸しにしておこう。――いずれ返してもらうぞ」
◆
分かたれた足が白い煙を放ちはじめている。亡者も同様だ。胸に杭を打ち付けられ、亮史の退屈そうな視線に見送られ、亡者が夜の闇へと帰っていく。
「主人」
ツキは声をかけた。誰何《すいか》の色も混じっていたかもしれない。たった今、残酷とさえいえるほどの圧倒的な力で亡者をねじ伏せた目のまえの吸血鬼が、『あの』月島亮史であるとは、どうしてもツキには思えなかった。
亮史はツキの声に振り向き、少しだけ笑った。
「終わったよ」
そう言って、ゆったりとした動作で歩きはじめる。ツキの見ているまえを、悠然とも優雅とも取れる動きで横切り、まだお菓子の山にうずもれて夢を見ているレレナを抱き起こした。疲れたようなため息ののち、亮史はツキを振り返って言った。
「帰ろう、ツキ」
「――ああ」
ツキの中に、ふつふつと喜びが湧き上がってきた。孤高の表情も、先ほど見せた冷酷さも、そしてその圧倒的な力も、どれもが夜の王たる吸血鬼の、自分が尊敬し憧憬した吸血鬼のそれに間違いがなかった。戻ったのだ、とツキははちきれんばかりの喜びの中で思う。これこそが、この俺の主人だ。
ツキは尻尾を振り立てて亮史のあとに従う。こんなことに子猫のように喜んでいる自分が情けなくもあったが、そんなことはどうでもいい。これからは、俺も月島亮史の使い魔であることを恥じずに生きていけるのだという思いのほうが強かった。
「あれ」
唐突に、亮史が変な声を出した。ツキはぎくりとして立ち止まる。なんだか知らないが、今の声にものすごく嫌な予感を感じた。
亮史はレレナをそっと床に横たえた。そこではじめてツキも気づく。やけにぐにやりとしている。人間の身体というものはたとえ失神していても無意識のうちに力が込もってしまうものなのに、今のレレナからはそのわずかな力さえも感じられない。亮史はレレナの口の上に手を当て、表情の抜けた顔をツキに向けて言った。
「……息、してない」
嫌な空気が立ち込めた。亮史は手を上げ、じっくりとレレナを観察し、もう一度口元に手をかざし、泣きそうな顔でツキを見た。
「どっ、どうしようどうしよう! レレナくんが死んじゃったよねぇツキどうしよう!?」
ツキは確かに、がらがらという音を聞いた。
泣きたいのはこっちだ。そう思いながらも、レレナを放っておくわけにもいかなかった。がっくりと肩を落としてレレナに歩み寄り、ツキは前足でレレナの唇を「むに」とめくった。
「見ろ主人、犬歯が生えはじめている」
「だっ、そっ――」
「落ち着け。まだ完全に生えそろったわけではない。まだ手はある」
ツキは顔を上げ、亮史はツキに縋るような顔つきである。ツキはふっと笑う。そんなうまい話があるわけないと思っていた。ま、今回は、あんな主人がまだ残っていたのを確認できただけでも良しとするか。
「よし、手首を切れ主人」
◆
まぶしい。
あまりのまぶしさにレレナは薄目で目を開ける。頭ががんがんした。なんでこんなに明かりをつけているんだろう、と寝起きの思考で不機嫌に思う。
上体だけ起こし、そこが月島宅居間であることを知る。奇妙に思った。いつの間にこんなに明るくなったんだろう。ついに電灯の取り付け工事をしたのだろうか。しかし天井のどこにも電灯は見当たらず、光源といえばテーブルの上のランプだけだ。変なの。
それにしても、とレレナは深く息を吐いた。とんでもない夢を見た。自分が悪魔にさらわれる夢だ。やけにリアリティのある夢だったが所詮夢は夢、猫が喋るわ月島さんが助けに来てくれるわ、現実ではまずありえない光景のオンパレードだった。しかしツキが話すときの尊大な口調などいかにもあの黒猫らしく、目が覚めた今でもまだレレナの耳についているようで
「起きたか」
レレナは凍った。凍りながらも、ぎりぎりと音の出そうな動きで首をめぐらせ、居間のドアの足元にツキがいるのが見える。そしてツキは、やけに早口に『言った』。
「どこから覚えてるのかわからんが、まあお前が気を失ったところから話そう。まずお前が失神したあと、主人がお前を抱きかかえてあいつから逃げたもののすぐに追いつかれて絶体絶命のピンチに陥った。ここは重要なのでよく覚えておけよ。絶体絶命だったんだ、もし主人がお前の血を吸わなければ二人ともあいつに喰われていただろう」
血?
「まあいくら吸血鬼といっても噛んですぐに吸血鬼になるわけではない。主人によれば、『吸血行為によってその人間が死んだ場合にのみ』とのことだ。だから、悪気があったわけではないし、やろうと思ってやったわけでもない」
吸血鬼? 「やった」って、なにを?
「お前の血を吸ってあいつを撃退したのはいいものの、まあ、要するに、あまりに久々の生き血だったのでつい吸いすぎてしまったんだそうだ。その辺は本人も反省しているらしいから許してやってくれ。で、その結果お前は大量失血のために仮死状態になってしまった。だが安心しろ、主人が手首を切ってかろうじてというところでお前に血を飲ませてやったから、どうにかお前は吸血鬼になりきらずに済んだ」
………………「なりきらずに」?
「だからつまりだな、早い話が、半分吸血鬼半分人間、ということになったわけだ。――まあ、信じられんのも無理はない。無理はないと思うから、そこに――」
と、ツキはテーブルの上をくいと示した。見ればそこにはぴかぴかの手鏡が天井に向けてランプの光を反射している。
「主人がダッシュで買ってきた鏡があるからそれで確認しろ」
そこまで言って、ツキは長いセリフをどうにか間違えずに言えて一安心というような息をついた。そそくさと踵を返し部屋から出て行こうとして、ふと気がついたように顔だけで振り返る。
「あーそうだ、主人からの伝言を忘れていた。『本当にごめん』だそうだ。――ま、あんまり気にするなよ。人生いろいろだからな」
ツキはそれきり、すたすたと軽快な足取りで出て行った。レレナはまだ固まったまま。やがてレレナの小さな手が、震えながら手鏡を取り、自分の顔を映した。
半透明の見慣れた顔があった。最初わけがわからず、次の瞬間思い当たった。吸血鬼は鏡に映らないという。ああなるほど半吸血鬼だから半スケ状態になっているのかこれはうまくできているなああっはっはっは、と笑ったところで尖った犬歯が目に入り、
いやあああああああああああああああああああああああああああああああああ。
◆
――へえ、そんなことがあったんだ
頬杖をつき、うつぶせに浮遊しながら、舞はそう言った。それに対して亮史は、あたかも飲んだくれの親父の如く、棺桶に突っ伏したまま動かない。舞がぱっと姿勢を解いて、興味深そうに亮史の後頭部を見つめた。
――どしたの?なんか悲しいことでもあったの?
亮史はそれにも無言。舞は少なからずむっとしつつ、それでも言葉をつなげる。実際、なにかしゃべっていないと落ち着かなかった。あれだけ自分をさらけ出したのは、生まれてはじめてのことだったと思う。多分亮史にそのことを指摘されれば、自分はあまりの恥ずかしさに蒸発してこの世から消えてしまうに違いない。もう死んでるけど。
――当ててみよっか。えっとね……『レレナを吸血鬼にしちゃったから、あとあとどう言われるかを想像すると怖くて仕方ない』。どう? あってる?
激烈な反応が起こった。亮吏は「ああああああ…っ」と叫びつつ顔を上げ両手で頭をかかえ、絶望の表情で天井を見つめながらハムレットのように嘆く。
「そうだ……それもあった…………忘れてた………」
――あれ、ハズレ? そんじゃねー、『バイトを無断でサボっちゃったからクビ間違いなし』。これでしょ
今度は声もなく突っ伏してしまった。「それも……」と小声でつぶゃいたところを見ると、これもハズレらしい。むむむ、と舞は考え、次なる答えを口にしようとしたところで亮史がまた顔を上げた。
「とっ、ところでさ、舞くんはこのあとどうするの?」
これ以上現実を直視することに耐えかね、強引に話題を変えただけだったのであろう。が、舞はそれにあられもなく緊張し、わずかに顔も赤くなった。先ほどまでの調子はどこへやら、舞は恐る恐る亮史に尋ねる。
――どうする、って?
「え、だから――ほら。成仏するとか。そういう予定は?」
あまりといえばあまりの言葉に舞はしばし言葉を失い、それから噛みつくような表情で亮史に詰め寄った。
――なにそれ! 月島さんそんなにあたしに成仏してほしいわけ!?
「いや、そういうわけじゃないけど、あくまでひとつの例として」
――もうちょっと別の例出しなさいよ……
呆れたように舞は言った。と、くすりと笑う。いつの間にか、緊張がどこかへ吹き飛んでしまっていた。もしかしてそれを狙ってあんなこと言ったのだろうか、と舞は頭の隅でちらりと考え、情けなく悩む亮史の顔に即座にその考えは否定される。
――あのね、よく考えたんだけど、やっぱりあれにするわ
「……どれ?」
舞はここぞとはかりに握りこぶしを固め、ぐいと亮史に突きつけて叫ぶように言った。
――あたしを見捨てたあのバカ親どもに化けて出る! 恨みはらさでおくべきか!
「……どこでそんな台詞拾ってくるんだよ。いやそれよりも、そんなに恨んでるの? 自分の親を」
舞は信じられないものを見るような目で亮史を見、それから深く深く嘆息した。
――わかってない。まったくわかってないなあ月島さんは。あのね、あいつらのあたしに対する仕打ちをひとつでも聞いたら、もうそんな余裕顔できなくなっちゃうよ。ひどかったんだから実際自分でも驚くくらいに、舞は素直に雪村の家のことを話すことができた。以前ならば、あの家にまつわる様々な暗い思い出に囚われて、思い出すだけで黙り込んでしまっただろうが、しかし――『ここ』では違う。舞は目を細めて、部屋の中の光景を見た。
机の上に灯るやわらかなランプの灯と、その照り返しを受ける古ぼけた木目の調子と、そしてなにより、棺桶の上に突っ伏してだらしなくへたり込でいる亮史の姿。
そう、と思う。ここは『家』だ。雪村のあの家のような形ばかりの家ではない、本当の、心から安らぐことのできる『家』がここなのだと、舞は改めて思った。今まで経験がないからわからなかったが、きっと『家』というものは人を饒舌にさせるものなのだろう。そして、あたしは今、その『家』の中にいるー
亮史がちらりと目を上げて、なにも言わなくなった舞を見た。それから至ってのんきな口調で、
「――へえ。どんなことされたの?」
舞は『よくぞ聞いてくれました』とはかりに頷き、
――そうね、いろいろあるけど一番きつかったのはね……ちょっと待って思い出すから……ああっ、そうそうそうそう聞いて月島さん聞いて、あのね、あたし昔猫飼ってたんだよ猫!
「猫? ツキみたいな?」
――違う違う、あんなかわいげのないのじゃなくて、もっとまるまっちーくてかわいーいやつ。あーもー今思い出しても腹立つわー、あいつらね、その猫をね、あたしになーんにも言わずにどっか捨ててきちゃったんだよ!信じられる!?普通の神経してたら絶対そんなことできないわよ頭どうかしてるんだわ、あんなかわいい、まだら色の毛並みの猫なんてめったにいないのにさ
と、そこで舞は、部屋の片隅にうずくまる白いものを見つけた。ぎくりとするが、よく見るとそれは真っ白な布の袋だった。一抱え以上もあるその袋を、思わず舞はじっと見つめた。なぜかすごく気になった。亮史がそれに気づいたように視線を向け、再び舞の顔を見た。変わらずの笑顔が浮かんでいる。
「ああ、あれね。ちょっとした――そう、預かりものだよ」
――預かりもの? だれから?
「僕の知り合い」
なんとなく、それ以上聞くのは悼られた。亮史の顔はそれまでと変わらない微笑のままだったが、なにか、どこかしら、違うような気がした。これ以上突っ込んで尋ねると、その相違がどんどん広がっていくような気がした。そのことを舞は恐れた。
さりげなく、話題を変えるように亮史が言った。
「それじゃあさ、明日からは特訓しなくちゃね。化けて出るんなら、それ相応の演出もいるでしょ?」
舞は一瞬戸惑い、そしてすぐに顔を輝かせた。
――演出!そんなのできるの?
「できるさ。幽霊はイメージの産物だから、慣れればどうとでも好きな姿に変身することができる。お岩さんでもメアリー=スチュワートでも思いのまま。練習すれば、の話だけどね」
――マジで!
「マジで。もしよければ――」
そこで言葉を区切り、ふと真面目な顔になって苑史は言った。
「僕がみっちり稽古をつけてあげるよ。……ううん、僕に、つけさせてほしい」
そうするだけの、理由があるから。
その言葉は、舞の耳には届かなかった。あるいは、届いていたとしても、その言葉の持つ意味を舞が理解することはなかっただろう。
ただ舞は、亮史の言葉に他愛もなく喜び、子供のように無邪気な笑顔を浮かべて、大きく頷いた。
「うんっ!」
◆
箱の中にいた五匹の猫たちは、ツキが入ってきた途端に石像の如くその場に凍りついてしまった。すでにこんな反応にも慣れたツキではあるが、ここまで激烈なリアクションをされるとさすがに戸惑う。密閉空間の中ゆえに逃げ場がないからなのだろうが、別に取って喰うわけじゃなし、緊張こそすれそんなに怯えなくてもいいだろう、とツキはやや不満げに思う。
と、ダンボールの隅が、耐えかねたように笑い声を漏らした。
「だめですよボス、みんなめちやくちゃビビってるじゃないですか。ちゃんとあいさつくらいしなくちゃあ」
「――そうか? こういうところははじめてなもんでな……」
そう言いつつツキは、またもやダンボールの中の猫たちを見回した。かちこちに固まっている彼らを見て、モザイクの言うとおりかもしれない、とツキは思い直した。要するに相手がなんだかわからないから怖いのである。こちらからコミュニケーションを取れば、自然と緊張もほぐれるはずだ。ツキは口を開いた。
「突然で悪かったな。モザイクのためにスペースを空けてもらって、感謝している。この場にいない奴らにも伝えておいてくれ。俺が『ありがとう』と言っていた、と」
石になった猫たちは、その言葉にも反応しない。自分ではごく自然に言ったつもりだっただけに、ツキは怪訴そうに眉をひそめ、それを見た一匹の猫が、ツキが機嫌を損ねたとでも思ったのであろうか、いきなりひっくり返って腹を見せた。それを見た他の猫たちも、ばたばたと音まで立てて降伏の合図をツキに送る。ツキはややうんざりした面持ちでモザイクを見て、首を横に振った。
「だめだなこりゃ――お、おい!」
その光景に身を震わせて笑っていたモザイクが、突如として顔を歪ませてその場に小さく縮こまった。ツキは焦ったようにモザイクに顔を近づける。
「だ。大丈夫か? 骨がいくつかいってるんだろ?」
「――っ、いえ、大したことは、ないんです。ただ、あんまりおかしかったもんで、ちょっと笑いすぎちゃったみたいで――っつ――」
「……やはり、主人に頼んで、獣医に連れて行ってもらったほうが――」
モザイクは痛みに歪んだ顔を上げ、非難めいた視線でツキを見た。
「馬鹿言わないでくださいよ。俺は野良猫ですよ?人間の世話になんてなれるもんですか。それにね――」
ニヒルに笑う。
「よしんば世話になるとしても、あの子以外の人間に抱かれる気なんざありませんね」
「…………」
ツキは呆れたように鼻から息を抜いた。まったく、見上げた忠誠心だ。もっとも、そのおかげでレレナは助かったのだが――と、そういえば、家のほうで今どうなっているのか、あまり気にせず出て来てしまった。亮史にどうしてもと頼まれたため、レレナに事実を告げる役はツキになったのだが、「そのあとのフォローをしろ」とは一言も言われてない。あくまでツキは、端的に、事実のみをレレナに伝えただけである。レレナがどう亮史を責めているか、興味がないといえば嘘になる。
ツキはもう一度モザイクに顔を近づけ、大事はないことを確認した。くるりと踵を返し、箱の外へと顔を出す。風はまだまだ冷たく、こういうふうなダンボール箱でもなければ、とてもやり過ごせたものではない。無論自然の産物ではなく、人間が置いていったものだ。だが、それに対して、ツキはもちろんのこと実際利用しているモザイクたちも、なんらかの恩義を感じることはない。ただそこにあったから利用するまでである。猫は現実主義者なのだ。
「あれ、もう帰るんすか。くつろいでいけばいいのに」
後ろからの声に、箱からくぐり出ながら答えた。
「俺がいたら、お前はともかく他の奴らがくつろげないだろうが。――それに、今ごろ主人がレレナに締め上げくらってるころだろうしな、それを見物するのも悪くない」
それを聞いて、モザイクの顔に、わずかに真剣な色合いが表れた。
「――そういえば、あのメスは無事に助け出すことができたんですよね?」
「……ああ」
「ボスの主人に助けられたんですか?」
「…………そうだ」
どうやって、『あいつ』のことをボスの主人に伝えることができたんです?
とは、モザイクは聞かなかった。ただ物問いたげな視線でツキの顔を見て、それから大きなあくびをしただけだ。猫は個人主義のカタマリである。話はそれで終わり、モザイクはダンボールの隅で丸くなり、ツキは吹きつける風にわずかに身体を強張らせた。
ふと歩いている途中に、これから先、ずっとあの二人は居座るのだろうか、と考えた。舞のほうは絶対に残るだろう。幽霊の寿命(存在期間)は、その精神の続く限り無限だ。あの娘に他に行くところがあるとは思われない――が、それを言うならレレナも同じだ。半吸血鬼になったとはいえ、いや、それだからこそなおさら、亮史のもとを離れるわけにはいかないだろう。感情面ではどうあれ、今の社会は基本的に吸血鬼を受け入れるようにはできていない。
『同族』である亮史のもとにいるのが、レレナにとって一番安全なことなのだ。
ふとツキは、あの二人と共に生活するのを嫌がっていない自分に気づいた。目を細める。
猫は静寂を好む動物であるが、しかし、いささか今までが静かすぎた。百年も静けさの中で暮らしていれば、猫とてたまには騒がしいところに出たくなるものだ。猫は落ち着きのない動物である。多少騒がしくとも、そちらのほうが面白そうだ――と、ツキはひとり、路地裏を歩きながら「くるるる」と喉を鳴らした。
終幕 ローマにて
修道士が持ってきた紅茶を、ガゼットは一気に半分ほど飲み干す。ようやく一息ついた、という感じで息を吐き出し、軋む長椅子の上でゆっくりと手足を伸ばした。中央礼拝堂の、高級な黴のような匂いとほどよい冷気は、休憩するのには実にちょうどいい。執務室の、ただそこにいるだけで疲れ果ててしまうような堅苦しい空気とは大違いである。
頭をそらし、ぼんやりと天井を見つめる。さかさまになった視界に映る歪んだ壁画。ガゼットの表情に苦いものが走る。
「……はー」
ため息をついて身を起こす。疲れたような視線を前に向けると、修道士が祭壇脇の本棚でなにやら調べものをしている。ガゼットは机の上に両腕を乗せ。さらにその上に顎を乗せ、優等生に絡む不良のように言った。
「おーい、なにしてんだお前。仕事はいいのか。まだ溜まってるんだろ」
修道士は振り向きもせずに言った。
「あなたが仕事をしない限り私の仕事は進みませんから」
「――なんだおい、嫌味な奴だな。……で、なにしてんだ?」
その手に本を持ったまま、ようやく修道士は肩越しにガゼットを振り向いた。上司を見る眼とは思えない、非常に温度の低い視線。
「日本の教会の電話番号を調べているんです。レレナさんがちゃんとたどり着いたかどうか」
「………」
ばたん、と本を閉じて、棚に戻してから、修道士はガゼットに近寄ってきた。ガゼットはあからさまに顔をしかめる。話の流れからして、待っているのは長い説教だ。
「だいたい、なんだってクルセイダルが出てくるんですか。あんなおとぎ話」
そこから始めるか。ガゼットは苦しい言い訳を口にする。
「失敬な奴だな。俺はクルセイダルなんて一言も言ってないぞ。ただ単にあいつが勘違いしただけだ」
『あいつ』というのはレレナのことである。が、その強気な言葉とは裏腹に、『あいつ』という単語を口にするとき。ガゼットの顔が罪悪感で翳った。修道士はそれを見逃さない。
「いつもいつも言ってたじゃないですか。『レレナは本当に素直だから、悪い男に騙されないか心配だ』って。あなたが騙してどうするんですか。しかも大司教という地位にありながら」
「しょうがねぇだろ。ああでも言わんと絶対に行かなかっただろうし」
「あのね、そこまでして日本に行かせる必要性がどこにあるんですか? あなたの性格だ、どうせ途中から意地になっただけでしょう」
図星。黙り込んだガゼットに追い討ちをかけるように、修道士は言葉をつなぐ。
「あなたはいつもそうだ。考えがなさすぎる。ツォルドルフ卿に言われて私がついていなかったら、今ごろとっくに破門になっていますよ。嘘はつく肉は食う女は抱く、挙句の果てにクルセイダルですか」
「だから、それは 」
「だから、じゃないでしょう。フォローする私の身にもなってくださいよ。日本に行かせたはいいものの、こまごまとした雑用は全部私だ。あのね、私はあなたの秘書なんですよ。ツアコンじゃありません。なんだって私が、あなたの姪御さんの観光ガイドをせにゃならんのですかーカトリックの日本支部に予約取り付けるだけでも大変だったんですからね。まさか本当のことを言うわけにもいかないし――」
レレナはガゼットの姪ではない。が、そっちのほうが話が早いので、ガゼットはあえて訂正しないでいる。修道士の言っていることは間違いだ。自分は嘘はついていない。ただ本当のことを言っていないだけである。沈黙は金、とはよく言ったものだと思う。
まだまだ続く修道士の小言をさえぎって、ガゼットは言った。
「ああもう、わかったわかった。俺が全部悪かった。ついでにご苦労様だった。あとで酒でもおごってやろう」
「私は下戸です。第一、聖職者が――」
「かたいこと言うな。キリストだってぶどう酒飲んでただろうが。キリストの下僕である俺らがブランデー飲んでなにが悪い」
立ち上がり、背筋を伸ばした。まだ少し休んでいたかったが、このまま修道士の説教を聞いていたのでは休憩もなにもあったものではない。
「さ、仕事仕事。溜まりに溜まってるからなあ、重要書類。こりゃ今日は徹夜だな。がんばってくれたまえ、若い才能」
「…………誰のせいだと思ってるんですか」
こきこきと首を鳴らしながら立ち上がり、ガゼットは歩き出す。不承不承《ふしょうぶしょう》、修道士もそれに従う。行く手にあるは執務室、その机の上の書類の数は徹夜で片づくほど生易しくはない。書類のことを考えただけでげっそりとやつれ果てる修道士の表情が、なによりもその事実を如実に物語っている。すでに彼の頭の中には、日本に行ったガゼットの姪のことも彼女の宿泊先への確認のことも、微塵も残ってはいない。
二人が祭壇脇の廊下の奥へと消えると、再び中央礼拝堂に静寂が訪れた。もはやレレナの日本での現況が早期に明るみに出る可能性は、万にひとつの露と消えた。ここローマにてただひとりそのことを知るものは、なんの悩みもなさそうに、本棚の片隅に古ぼけた背表紙をさらしていた。
終
あとがき
ある日僕は、吸血鬼モノの小説を手にしました。特に吸血鬼モノが読みたかったわけではなく、まあ言ってしまえば暇つぶしだったわけです。その本についてのアレやソレはいろいろあるので省略しますが、出てくる吸血鬼がみんな、「これでもか」と言わんばかりの超人なんですね。吸血鬼だから当たり前なんですけど。
しかし僕は、「本当にそうか?」と思ってしまいました。
確かにファンタジックな世界観においては、吸血鬼というのは無敵の怪物でしょう。しかし、現代日本においては? というところに着目しました。日光浴びちゃだめだから夜間バイトで糊口をしのぎ、警察に捕まるから血液の直接摂取もだめーと、こんな具合でどんどん進んでいき、はいできました月島亮史の一丁上がりです。
ここに「俺猫好きだし」の念が加わりツキが生まれ、「女いないと色気ないし」舞とレレナが生まれ、「敵いないと話が始まらん」敵を設定しました。当時は犬でした。「ガルム」という、発生理由も安直ならネーミングも安直なかわいそうな奴でした。
それをもとにとんとんと書き上げて、締め切り日が終わる五時間前に『第八回電撃ゲーム小説大賞』に郵送しました。僕自身、紙にしてどこかに送るのははじめてのことですし、書き上げたのがギリギリだったこともあって、「やることに意義がある」というオリンピックの建前みたいな心境になっていました。実際、チェックしたのは第一次通過作品だけで、それに僕のが載っているのを見つけたときにはそりゃもう嬉しいのなんの、それだけで満足して、あとはきっぱり忘れてしまいました。一次通過したんだから見込みはあるぞ、次はもっとがんばろう、という具合で。
さて、すっかり忘れ去って次のを書きはじめていたある日、兄が妙なことを言い出しました。共用パソコンのメールチェックはもっぱら彼しかしないわけですが、突然「あれ?」と素っ頓狂な声を上げるなり、
「なんかお前にメール来てるぞ。最終選考だって」
ええ、鼻で笑いましたよ。だって一次選考通過だけでも御の字だったわけですから。二次と三次はどこ行った、てなもんです。しかしどうもしつこく言ってくる。半信半疑のままパソコンを見に行ったら、ありましたよ編集さんからのメールが。しかしそれを見たときも半信半疑でした。電話したときも半信半疑。打ち合わせも半信半疑。授賞式に出たときもそれから先の数多くの打ち合わせも、いえあとがきを書いてる今この瞬間も、みーんな半信半疑にこなしているような気がします。
しかし――字を、物語を書くのは大好きです。大好きなことで食っていけるのならば、半信半疑とはいえ、これに勝るシアワセ人生はそうはないでしょう。まだまだ至らない点は星の数より多くありますし、作家としての未熟さでいえば世界一を狙える自信があります。決して慢心することなく(それまで生き延びることができればの話ですが)、ただひたすら「いいもの」を書いていけたらいいなと、そう思うわけであります。どうぞ笑って見ていてやってください。
さて、最後になりましたが、あとがきの常識『お礼』を述べたいと思います。
まずだれをさておいても、担当の徳田さん。なにも知らぬ僕に基本をイチから叩き込んでくださり、ありがとうございます。いつも締め切りぎりぎりでごめんなさい。これからもぎりぎりは続くと思いますが、どうぞお見捨てにならないようお願いします。なあに、ぎりぎりはぎりぎりですが、破りはしませんよ――多分。
途中から打ち合わせに参戦した編集の八木さん。僕と同じ『新人オーラ』が出ていました。なんだかわかりませんが安心しました。ありがとうございます。
あの吸血鬼の本を書いてくださった作家さん。あなたのおかげで僕の本が生まれ落ちました。アレやソレは省略しますが、ありがとうございました。
授賞式でお世話になった有沢さん、高橋さん、うえおさん、田村さん。いろいろ話しかけてくださってありがとう。めちゃくちゃ人見知りする僕ですが、どうにか授賞式をさびしくすごすことなく終えることができました。
そう、授賞式といえば|円山《まるやま》|夢久《むく》先生。がきがきに固まってる僕に話しかけてくださり、あまつさえメールアドレスを教えてくださり、ありがとうございました。チャイナドレスが素敵でした。
家族のみんな――は、特にないけど、まあ育ててくれてありがとう。
猫たち。モチーフとして実に参考になった。ありがとう。でも書いてる途中に膝に乗ってくるのは重いし邪魔だし足がしびれるからやめてくれ。
そして最後に――読者の皆様方。読んでいただき、まことにありがとうございました。
|鈴木《すずき》|鈴《すず》
発行 二○〇二午四月二十五日
初版発行 二〇〇二年六月二十五日 四版発行
発行者 佐藤辰男
発行所 株式会社メディアワークス