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リリー・マルレーンを聴いたことがありますか
鈴木明
目 次
プロローグ
熱い夜 リリー・マルレーンは心の灯をともした
1 二十一時五十七分
ベオグラード放送にダイヤルを!
2 映画「ニュールンベルグ裁判」
3 彼女は毎夜
凍てつくロシア最前線を訪れた
4 ドイツは終戦記念日に
何をするのか?
5 ララ・アンデルセン
その一つの生涯と一つの歌
6 われ愛のために生の炎を捧げ
われ自由のためにその愛を捧げん
7 オリンピック・スタジアムは
ベルリンの暗黒の空の下に
8 東ベルリン・アレキサンダー広場の
「リリー・マルレーン」
9 パリ
おかしな おかしな パリ
10 イギリス第八軍が
リリー・マルレーンを捕虜にした
11 わがマレーネ・ディートリッヒ伝
12 北海の孤島に眠る
暗紅色のバラ
13 「貴女の名前はリリー・マルレーン?」
「いえ、リリーじゃないけれど……」
14 ユーゴスラヴィア
この陽気でふしぎな共産主義実験国
15 ベオグラード放送局への
細くて長い道
エピローグ
もう一度 リリー・マルレーンを!
あ と が き
リリー・マルレーン・レコード資料
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プロローグ
熱い夜 リリー・マルレーンは心の灯をともした
一九七〇年九月八日――。
昭和四十五年、というより、この夏ばかりはやはり「七〇年」としての記憶の方が、より鮮烈である。この夏は、格別に暑い、そして長い夏であった。少なくとも「万博会場」となった大阪千里の丘陵地帯は、人いきれと熱気が、文字通り渦を巻いていた。人々はこの渦の中で、辛抱強く、「未来と調和」を見るために待ち続けた。
九月八日は、万博が終る日から逆算して、一週間目の火曜である。この日、万博入場者の数は五十九万七千八十九人と記録されているが、マレーネ・ディートリッヒ来日に関する記事は、どの新聞にも一行もない。この日、何故か――少なくとも、僕にとっては「何故か」――ディートリッヒはこの万博会場にやってきたのである。そして、|その歌《ヽヽヽ》を歌った。僕は生れてはじめて、そこで、|この歌《ヽヽヽ》を聴いたのである。
「万博」といっても、あれから五年近く経ったいまはもう、多くの人たちには遠い昔の思い出のようにその記憶は消え失せているだろう。或いは人によっては、あの熱い夏と、長蛇の列と、こけおどしの建物と、民族衣裳をまとった美人のホステスぐらいは憶えているかも知れない。そしてことによると百人に一人ぐらいは、中央口の北の方に「お祭広場」というのがあって、更にその北の端に「万博ホール」というのがあったのを記憶しているかも知れない。「万博」のパビリオンはその後すべてとり壊されたが、この「万博ホール」だけは、今なお残されている数少ない建物の一つである。
ディートリッヒは、この「万博ホール」で行なわれていたショーのしめくくりのスターとして、「万博」にやってきた。このホールでは、サミー・デイビス・ジュニアや、セルジオ・メンデスや、スィングル・シンガーズや、フィフス・ディメンションや、とにかく数え切れないほどのスターがやってきて、そのステージを飾った。僕は仕事の関係もあって、それらのショーの殆んどを見たはずなのだが、今はディートリッヒ以外の「大スター」の記憶はもうぼんやりとした霧の彼方に霞んでしまっている。
だが僕はこの時、別にディートリッヒを待っていたわけでは決してない。それどころか、実はディートリッヒという人を、この時まで僕は全く知らなかった、といった方が正確だろう。無論、ディートリッヒがトーキー――こう書くと、何ともこれは古めかしい言葉だが――そのトーキー初期の頃「モロッコ」や「間諜X27」などという「名作」に主演した大女優だということは知っていたし、「嘆きの天使」の主題歌がレコードになっているぐらいのことは知っていたが、それから四十年も経ったいま、この「過去の大スター」が何をやるのか、全く想像もできなかった。
今考えると身のすくむような愚問なのだが、主催者側の一人に、
「ディートリッヒは、舞台で一体何をやるんですか?」
ときいたことがある。彼は僕の質問をまともに受けて、
「歌を歌うんですよ」
と、まじめに答えた。
「ほう、歌ねえ……」
この時、僕の頭の中に、一瞬ある残酷な想像がよぎった。よく計算してみたわけではないが、ディートリッヒはもう七十に手が届こうという|おばあさん《ヽヽヽヽヽ》ではないか。過去にどんな輝かしい名声があったにしても、一体それほどの老婦人に何が出来るというのか? いやむしろ、その過去の名声が偉大で輝かしいほど、その老残は傷ましいものではないのか。
「ディートリッヒは、アメリカやヨーロッパでは、今でも一流のエンターテイナーだそうですよ。日本でも、懐しがって見にくる人は結構いるんじゃないですかねえ……」
とその人は続けた。だが、そういったその人も、何となく不安気なものを抱いているように、僕には思えた。主催者側が、「万博ショー最後の大物」を連れてきたと、得意気に方々に招待券を配って歩いているのを、僕はむしろ恐ろしいものでも見る思いで、遠くから眺めていた。
九月八日午後七時十五分、マレーネ・ディートリッヒ・ショーは、予定通りの時間にはじまった。ショーは僕の危惧を嘲笑《あざわら》うように満員の盛況だった。僕は横の扉のところに立って、息をひそませるように幕の上がるのを待った。音楽がはじまり、ディートリッヒは舞台の下手(左方)から、純白の衣裳をまとって現われ、右手でさっとケープをまくり上げて、舞台の上でミエを切った。僕はその時、はじめて、おや、これは何かが違う、と思った。
その時の実感を、僕はどうもうまく表現できない。堂々としたベテランの貫禄、などという陳腐な言葉には、無論あてはまらない。強いていえば、この世のものでない何か、とでもいうのだろうが、これもどうも、うまい表現とはいえない。一言にしていえば、これはまさに|ディートリッヒ《ヽヽヽヽヽヽヽ》なのであった。老婦人でも、ベテランのタレントでもなく、まさに生きたディートリッヒそのものに他ならないのであった。
彼女は歌う、というより、むしろ一人一人の観客に語りかけるように、歌った。殆んどが僕の知らない曲だったが、知らず知らずのうちに、僕は彼女の歌う「ディートリッヒの世界」に引きずり込まれていた。そして、そろそろショーも終りに近づこうという頃、彼女は何やら低い声で、口の中でつぶやいた。僕にはわずかに、
「……ジャーマニイ・アンド・チェコスロヴァキア」
というような言葉だけがききとれた。そして、あの歌がはじまったのである。そこには、
「リリー・マルレーン、リリー・マルレーン」
という何回かのリフレーンがあったように思う。正確な記憶ではない。しかし、この歌がどうやら「リリー・マルレーン」という歌であるらしいことは推察できた。僕には、生れてはじめて聴いた歌だった。だが、何故かこの歌ばかりが、強く心に残った。
この時は無論、歌詞の意味も歌の意味も、僕には少しもわからなかった。単純な、甘い、悲しいメロディだが、同時に胸に沁みこむ何かがあった。僕はこの歌をドラマチックに歌いこなしてゆく魔法使いの妖女のような白い亡霊を、呆然としながら見守っていた。そして、奇蹟は更に、この一瞬後に起った。
客席を埋めた紳士、淑女たち――それは文字通り、こう表現するのにふさわしい中年の男女が主であったが――は、歓声をあげて舞台の方に殺到したのである。僕はこの同じホールで数多くの「一流」のショーに接したが、客が一斉に舞台に向って走り出したなどというのは、全く初めてのことだった。
一体これは、どういうことになっているのだろうか? マレーネ・ディートリッヒという妖婆は、どんな魔法の杖を持っているのか? そして、僕を呆然とさせた|あの曲《ヽヽヽ》、――ことによると、「リリー・マルレーン」と呼ぶらしいあの曲は、一体何を歌った歌なのだろうか?
僕は本来、音楽は決して嫌いな方ではない。「LP」という名前が初めて日本に出現して以来のレコード・ファンだし、クラシックもポピュラーもロックも、全く何の区別もなしに、いつも五百枚程度は雑多に積み重ねているという、ズボラな音楽愛好者である。だが、「リリー・マルレーン」という曲をきくのは初めてだった。友人の間のそれらしきポピュラー・ファンに、
「リリー・マルレーンっていう曲を知っているか?」
ときいてみたが、僕が尋ねる周辺では、この曲のことを知っている人はいなかった。
僕は改めて主催者側の一人に、
「ディートリッヒというのは、大した|おばはん《ヽヽヽヽ》ですね」
というと、彼は僕の無知を諭《さと》すように、こう説明した。
「今どきの連中は、ディートリッヒの値打ちが余りわかっていないようだけど、ロンドンやパリでは、それは大変なものなんですよ。ディートリッヒ・ショーというのは、あらゆるショーの中で最高の値打ちものです。そうですねえ、シナトラ・ショーと同じような値打ちといったらいいですかねえ。ええ、あの招待券を各国のパビリオンのえらい人に配った時も、皆びっくりするほど喜んでくれましてねえ。とにかく、彼女はドイツの誇る今世紀最大のエンターテイナーといっていいんじゃないでしょうか……」
そこで彼は、ちょっと首をかしげた。
「そういえば……ちょっと妙なことがありましたね。西ドイツ・パビリオンでのことですが……」
「何かいわれましたか?」
と僕はきいた。
「いえ、たった一人ですがね、ディートリッヒの話をすると、彼女の歌は素晴らしい。だけど、私は見にいかない。何故なら、彼女はトレイターだから≠ニいうんです。これには驚きました。何しろ、このお祭りの中で、突然トレイターという言葉が出てきたんですから……。いまどき、そんなことって、あるんでしょうか……」
トレイター。辞書には「反逆者、売国奴、裏切者」とある。これは恐らく、ある人間を評価する場合、最も痛烈な表現の一つであろう。あの、僕を興奮させ、ドラマを感じさせたディートリッヒのどこに、そしてあの歌の何に、このような生々しい表現をさせる「過去」が、そして謎が、潜んでいるのだろうか?
だが、それからわずか一週間後、「万博」は夢のように消えてしまった。そしてあの、長かった夏も同じように駈け足で僕の前から立ち去っていった。文字通り、「万博」は殆んどの人に、何も残さなかった。僕の頭の中に「リリー・マルレーン」という、わずかな痕跡は止めたが、それを掘り下げてみようなどと、その時思ったわけでは無論ない。
「万博」の頃の僕は、物を書いて世に問おうなどとは夢にも考えていなかった。この世が少しでも楽しければ、それでよかった。「万博」はその規準からいけば、充分過ぎるほど、楽しいお祭りだった。だが「万博」の建物が地上から消え去ってゆくように、その記憶も段々に薄れてゆき、「リリー・マルレーン」のことも、いつか忘れていた。或いはそのまま忘れ去ってしまっても、少しもおかしくはなかった――。
「リリー・マルレーン」という文字を再び思い出すきっかけを作ったのは、一昨年(昭和四十八年)秋のことである。その年の春、僕はあるきっかけで書いた『「南京大虐殺」のまぼろし』という本が思いがけず文藝春秋社から出版されるということになり、文筆の世界にはからずも片足をふみ込んだ頃であった。
ふと何げなしに、パラパラとめくっていた「週刊読売」に「私の好きな歌」というアンケートがあり、ここに評論家の青地晨さんが、次のような一文を寄せていたのである。
「歌は好きですが、題名や歌手の名前はてんで憶えていません。最近ではテレビで見たマレーネ・ディートリッヒの歌が実によかった。ことに、反戦を静かに歌ったものが、しみじみと心に沁みました。あれは何という歌なのでしょう。ご存知の方は教えて下さい」
彼が「教えて下さい」と訴えた|その歌《ヽヽヽ》は、恐らくその年の九月半ば頃、NHKテレビで放送された「マレーネ・ディートリッヒ・ショー」で歌われた「リリー・マルレーン」に間違いなかった。そして、この青地さんによって代表されるような思いをもった日本人は、恐らく何万、いや何十万もいたに違いなかった。
ディートリッヒには、そして|あの歌《ヽヽヽ》の中には、何故かわれわれの心に灯をともす、何かが潜んでいるのである。「万博」当時と違って、僕はその「何か」を文字に表現できる喜びを知りかけている時であった。僕は「リリー・マルレーン」の文字を、再び現実のものとして見つめてみようと思いだした。
この時から、僕の「リリー・マルレーンへの旅」ははじまった。最初は、実は隣りの家にいくような、気楽な散歩のつもりだったのである。だが、この旅は結果としては、途方もなく長い、そして曲りくねった旅になった。その旅は今日もまだ終っていない。
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1 二十一時五十七分
ベオグラード放送にダイヤルを!
僕の「リリー・マルレーン」へのアプローチは、まず改めてこの歌について、何かを知っている人を探すことからはじまった。友人関係で、ドイツに滞在、または旅行した数人の人たちに小当りにきいてみると、案外なことに一人、「知っているよ、有名な歌だよ」と答えた男がいた。
「とにかく、酒場などでよく歌っている歌のはずだね。たしかにミュンヘンのビアホールで聴いた記憶がある。くり返しくり返し、リリー・マルレーンと叫んでいたので、僕のような音痴でも憶えてしまった」
「歌の意味はわかるか?」
と尋ねると、
「意味って、どういうことだい? とにかく兵営の前のランタンの下に女がいる、オレたちも戦争から帰ってきたらランタンの下でまた会おうぜ、っていうような歌詞だね。ドイツ人なら、おそらく、誰でも知っているんじゃないのか。僕には何となく、ドイツ版のここはお国を何百里≠ンたいな気がしたけれどね」
と彼は答えた。
僕はその時、この歌が、かなり有名な歌であることを、はじめて知った。
もう一人の放送局の友人は、ふしぎな話をきかせてくれた。彼が仕事を兼ねてフィジー島に行った時のことだが、その島めぐりの小さな遊覧船の中で、たしかに|その歌《ヽヽヽ》を聴いたというのである。この船は定員二十名ぐらいの小さな船で、彼以外は全部「外人」だったそうだが、皆がそろそろ退屈しかかっている頃、一人のカナダ人が何げなしに口笛を吹いたのが、このメロディだったのである。
この時、奇妙なことが起きた。傍にいたオーストラリア人が、この口笛に合わせて、英語でこの歌を歌いはじめたのである。すると、そこに徐々に集まってきた各国の観光客たちは、ある者はドイツ語で、またある者は明らかにスペイン語で、この同じ歌を歌いはじめた。どういうわけか、これほど「有名らしい」と思われる曲の名を、音楽好きの彼は、知らなかった。
それは、美しいともふしぎとも思える、ある異様な光景であった。世界の政治や激動から全く隔絶したと思える南海の島で、同じメロディを、それぞれの国語で、皆がくり返しくり返し合唱し、ただ、最後の「リリー・マルレーン」のリフレーンだけは、同じ歌詞であった。それはあたかも、国も習慣も考えもそれぞれ違う人たちが、「リリー・マルレーン」というただの一言で、それぞれが結び合おうと必死に叫び合っているようでもあった。
「リリー・マルレーンというのは、ふしぎな曲ですよ」
と、彼はつけ加えた。
どんな趣味の世界にも「マニア」というものが存在しているが、とりわけ「レコード」とか「オーディオ」とかいうような分野に趣味をもつマニアは、一種独特な魔力めいたものをもっているらしい。僕がこの曲や、ディートリッヒに関する話をした友人は、「シュワン」という、その道では有名なレコードのカタログの古いものや、SP盤などを多数所有していて、ディートリッヒの一番古いLPは、LPの極めて初期に、――アメリカでのLPは、終戦後三年目、つまり一九四八年に開発された――出ているらしいことなどがわかった。
間もなく、僕の前に、アラジンのランプのように、ディートリッヒの数枚のLPが届けられてきた。日本版のものも一枚入っており、外国盤が三枚あった。このうち、外国盤の一枚は英語で、二枚はドイツ語で「リリー・マルレーン」が吹きこまれていたが、僕が注目したのは、その中で最も古い盤と思われる、昨今ではめったにお目にかかることの出来ない二十センチ型のLPである。恐らくこれは、日本に、ことによると一枚しか現存していないかも知れない珍品であろう。
僕が目を見はったのは、そのジャケットの表紙である。ここには、ディートリッヒが――あの、いつもきらびやかで、神秘的なポーズを絶対に崩したことのないディートリッヒが――何とアメリカのGIスーツにイカさない軍靴をはいて、それでも顔だけは何やら物憂げな表情で、写されており、バックに「OSS」という略号が記されてあった。
「リリー・マルレーン」は、このレコードの第一曲目に吹きこまれていた。だが早速針を下ろしたとたん、僕はふしぎなことに気がついた。表紙はアメリカのGIスタイルなのに、歌っている言葉は、英語ではなくドイツ語なのである。
アメリカのGIが何故ドイツ語で歌うのか? OSSとは一体何なのか? そのミステリーは、アメリカのレコードとしては珍しくジャケット裏に細かく書かれている解説を読んでゆくうちに、やっとわかってきた。「ドイツの芸術家」であるディートリッヒは、第二次大戦中、何故か連合軍に参加し、前線まで出かけていって、「祖国」に立ち向ったらしいのである。
ジャケットの解説を見よう。
「第二次世界大戦では、戦場が二つあった。一つは戦闘が実際に行なわれた前線であり、一つは後方の、宣伝のための戦いであった。そして、マレーネ・ディートリッヒは、その両方に身を捧げた、|数少ない芸術家の一人《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であった。グラマラスなミス・ディートリッヒは、その既に伝説とさえなっていたキャリアをかなぐり捨て、そのすべてを前線慰問に挺身しはじめた。その名が美と豪華さの代名詞となっていたこの女性が、実に三年もの間、昼夜をわかたず、前線をジープで、オートバイで、また時には徒歩で、それもしばしば銃火をかいくぐりながら、そのまばゆいばかりのパーソナリティを、前線のGIたちの前に披露したのである。
その頃、OSS(戦略司令部)では、連合軍の本当の目的、つまりデモクラシーの措置と意味とを説明したメッセージを敵領土内の人たちに伝える方法に悩んでいた。OSSはナチ支配下の人たちが危険を冒してまで米英からのアングラ・ラジオ≠ノダイヤルを合わせるには、余程の強いものがなければならないと思っていた。その時インスピレーションが浮んだ。ドイツ生れの世界的スターに、アメリカの歌をドイツ語で歌って聴かせたらどうだろうか? OSSはミス・ディートリッヒが前線慰問で忙しいことは承知の上で、このことを彼女に依頼した。彼女は、この申し出を快く承諾した。このレコードは、単なる一人の歌手の歌の記録ではなく、第二次大戦の一つのドキュメントであり、またその目的を考えるとき、彼女独特の味わいのある哀しみと、低音のフィーリングが、より深く、充分に生かされていることを、聴く人は感じとることができるだろう……」
さらに、「リリー・マルレーン」についての解説には、こういう文字が続く。
「恋人を故郷に残して、いま戦場にいる兵士の、悲しい歌。目の前には死の恐怖があり、愛する彼女は遥か遠くにいる。いや、ことによると、もう、ほかの誰かと一緒にいるかもしれない。兵士は今宵も、彼女との、初めての出会いの頃に、思いを馳《は》せる。あの、兵営の近くに灯っていたランタンの下。彼女は、のび上って、彼の唇を求める。二人の影は溶け合ったまま、闇に消えてゆく。あの昔みたいに、また逢おうよ、リリー・マルレーン。だが、再び彼等が逢うことはない……」
僕はこれを読みながら、その前線の兵士のように、さまざまな想像に、思いを馳せた。
マレーネ・ディートリッヒ――。この名前は、一九三〇年から四〇年代にかけて青春をもった人たちにとって、どれほど輝かしく、魅力的な存在だったのであろうか。ディートリッヒの映画を殆んど見たことのない僕にとって、無論それは想像でしかない。わずかに「万博ホール」での神秘的な姿を知っている僕には、おぼろげながら、その「神話」を推理することはできる。そして、このレコードの解説によると、彼女は何故か戦争中、突如その「神話」をかなぐり捨てて戦場にかけつけたのである。
このような場合、よく考えられるのは、彼女が「ユダヤ人」ではなかったかということである。祖国を追われたユダヤ人たちの亡命者特有の憎悪が、アメリカに原子爆弾を完成させたという俗説があるが、彼女の場合は実は違っていた。
僕が見たレコードのジャケットにのせられている解説によると、ディートリッヒの父は「ユダヤ人」でなかったばかりか、第一次世界大戦でドイツ軍の将校をつとめ、そして誇り高きプロイセン・ドイツの出身であった。幼くして父を失ったが、再婚した第二の父も、プロイセンの貴族であり軍人であったという。
一九三三年、ナチが政権をとると同時に、多くの自由を求めるユダヤ系の芸術家や学者は、次々に外国に亡命した。しかし、ディートリッヒは一九三〇年にはもう渡米し、アメリカで有名な「モロッコ」を撮っている。ディートリッヒのアメリカ行きと「ナチ」の誕生とには、少なくとも直接の相関関係はなさそうである。ナチからの亡命者については、みすず書房で出した『亡命の現代史』がくわしいが、有名な原子力科学者ローラ・フェルミの書いた長い本にも、残念ながらディートリッヒのことは一行も出ていない。或いは、高級な「知識人」の眼には、「芸術家」ではない「芸人」の存在など、はじめから頭になかったのかも知れない。
だが、僕が読んだ短いレコード解説の中にも、彼女はどうやらナチの希望した「祖国復帰」を敢然とハネつけたらしいことが書かれている。彼女が「前線と宣伝」のための二つの戦線で活躍した「数少ない芸術家」となるためには、恐らく並々ならぬ勇気と決断があったに違いない。
彼女はたしか「万博」のアンコール曲として「花はどこへ行った」を歌った。あの時僕は、「ディートリッヒは若い年齢層のファンを意識して、新しいレパートリーをとりあげているのではないか」と想像した。「花はどこへ行った」は、ジョーン・バエズやキングストン・トリオなどの歌として、僕は憶えていたに過ぎなかったからである。
しかし考えてみれば、これは全く皮相な誤解であった。後に気がついたことだが、「万博」の時より四年も以前に、当時まだ作家としての地位を確立していなかった頃の五木寛之氏は、ディートリッヒと歌のことを、こう書いているのである。
「コペンハーゲンのチボリでディートリッヒのステージを見ました。その時彼女がどんな服を着ていたか、どうしても全く思い出せないのです。そのくせ、スポット・ライトの中に立っている彼女の存在は、はっきりした手ごたえで鮮かに残っているのです。〈ハニサクル・ローズ〉だとか〈リメンバー・ダーリン・ドント・スモーク・イン・ザ・ベッド〉などという歌を、しんみり聞かせた後で、キッと顔をあげて何かに挑むように彼女は〈花はどこへ行った〉を歌いだしました。
ピート・シーガーは、ショーロホフの『静かなドン』を読み、ひどく心をうたれてこの曲を書いたのです。そして、その曲をいちばん最初に歌ったのがディートリッヒでした。歌の終りで前の席に坐っていたデンマークの制服の兵隊さんたちが、頭を膝の間に差しこんで泣きだしました。
ロシア民衆の物語を、アメリカ人が作曲し、ドイツ女が歌う。頭をたれたデンマークの若い兵士と、イタリア人のバンドマン。少女のように見えたマレーネ・ディートリッヒが、その晩どんな服を着ていたのか、ぼくには全く思い出すことができないのです」
ディートリッヒの歌う「リリー・マルレーン」は、なぐさめの歌でも嘆きの歌でもなく、文字通り「戦いの歌」なのであった。その「戦い」の決意が、青地氏を、或いは五木さんを、また僕を含めた数知れない日本人の胸を打ったのに違いない。だが、そのかんじんの「リリー・マルレーン」というのは、一体どういう歌なのか?
僕が入手した日本発売のレコードは、野口久光氏の解説によるものだが、それにはこう書かれている。
「第二次大戦中に連合軍兵士に最もよく歌われ愛された歌で、ディートリッヒは数百回の慰問の時、いつも兵士たちにリクエストされ、遂に彼女の第二の(第一は、彼女の出世作「嘆きの天使」の主題曲「フォーリング・イン・ラブ・アゲイン」を指す=著者註)トレード・マーク・ソングになった。ふしぎなことに、この歌はドイツの歌で、作者はハンス・ライプ、ノルバート・シュルツの二人。第二次大戦初期にドイツ軍が愛誦していた歌だが、いつの間にか連合軍兵士に伝わり、連合軍兵士の歌になってしまった。曲名にディートリッヒのファースト・ネームマレーネ≠ェ入っているのも奇縁といえよう。哀愁があって、それがディートリッヒにピッタリなのである――」
僕はこの解説をもとにして、この曲が入っている演奏だけのレコードを探してみた。これは意外にも沢山あった。つまり、この曲が世界的には有名な曲であることを、暗黙に物語っていた。しかし、その解説はまたいろいろで、「第二次大戦も終る頃、ドイツ軍に歌われ」とか、「一九三八年、ベルリンで生れた歌」「一九四二年のヒット・ソング」など、正確なところは何もわからなかった。
僕は止むなく、最もくわしい解説を書いておられる野口氏を訪ねた。氏はディートリッヒに関するさまざまな話を丁寧にきかせてくださり、レコードも見せてくださったが、「リリー・マルレーン」に関しては、書かれたもの以外に、特別の情報を持っておられるわけではなかった。
僕は無論、野口氏以外にも数人の音楽専門家の方に電話をしたり、お訪ねしたりした。特にこの中で、シャンソンの専門家である蘆原英了氏や、クラシック音楽の評論家である横溝亮一氏などから受けた好意は忘れない。横溝氏には、音楽というもののもつ階級性、政治性について教えられ、蘆原氏には「リリー・マルレーン」がシャンソンとしても存在していること、そしてディートリッヒのエンターテイナーとしての偉大さを、改めて知らされた。だが「リリー・マルレーン」自体に関する情報は、野口氏と同じようなものであった。
僕がある時、A氏という音楽評論家にお電話をした時のことである。氏は「リリー・マルレーン」の楽譜と歌詞をお持ちだというので、僕はそれを写させて頂けないかと頼むと、A氏は電話口でこういった。
「私もこのような仕事をプロとしてやっています。資料を手に入れるのには、それなりに苦労をし、手間ヒマかけています。それをただ、むやみに写さしてくれというのは、同業の者としてお断りします」
僕は猪突猛進をはじめると、全く相手の思わくなど考慮していられない方のタイプなので、A氏の話は最初は虚をつかれた感じであったが、考えてみれば、これはまことにもっともなことであった。プロの話をきいて、その通りを引き写すのだったら、そこには何ら「自分自身の」発見はない。
「リリー・マルレーン」への興味は、唯ひとつの音楽、歌というものに対する関心ではもとよりないはずだった。本来、その背後に流れている「何物か」に対する素朴な疑問と、歌そのものに対する感動から出てきたことであった。それは、どんな遠廻りをしても、僕自身の発見でなければ何の意味もないことを、遅まきながらその時確認した。僕は改めて、第二次大戦の記録や、ナチ関係の本にシラミつぶしに眼を通してみることにした。
ご存知のように、第二次大戦やナチに関する本は、それこそ積み上げればたちまち自分の背丈より高くなってしまう。僕が主としてマークしたのは、戦記や音楽関係、亡命者に関するもの、ヒトラーやゲッベルスの個人的伝記にまつわるものであったが、それでも五十冊ばかりのものが眼の前に並べられた。その中で数冊は、特に興味深いものであったが、そのことについてはまた、別に書く機会があるかも知れない。
丁度この作業をはじめた頃、日本は突如「石油パニック」に襲われ、トイレットペーパー騒ぎなどが新聞紙面を賑わしているときであった。このことは、僕に独特の連想から、三十年前の北アフリカの戦争を思い出させることになった。或いは、深夜テレビで見たいくつかの「アフリカ戦争もの」が、そのきっかけであったかも知れない。
アフリカの戦争というものは、映画人にとって異常なほどの興味を呼び起させるものらしい。「脱走もの」「スーパー・スターによる特別攻撃隊もの」という戦争映画で最も受けるパターンにまじって「アフリカもの」というジャンルが厳然とあるそうだ。荒涼たる砂原、眼を覆う砂塵、焼きつく太陽、異国情緒の女たち。どれをとっても、映画人たちが食指を動かさないはずはない。
だが何といっても「砂漠の戦争」をロマンチックなものにしているのは、ロンメル、後にモントゴメリーという独、英の強烈なキャラクターをもった将軍が、二年三カ月にわたって、行きつ戻りつの激しい死闘をくり返したことである。
この戦いが本格的にはじめられたのは一九四一年はじめ、つまり太平洋戦争がはじまる昭和十六年十二月から約一年ほど前のことである。当時リビアのトリポリを占領していたイタリア軍がイギリス軍の猛攻で危くなった時、ドイツのロンメルが登場した頃から、「砂漠の戦争」はにわかに本格化してくる。そして、モントゴメリーが登場して、イギリス軍に起死回生の名誉を与えるのは一九四二年八月のことである。
僕はこの「砂漠の戦争」に関する本として、リデル・ハート編『ロンメル戦記』、『モントゴメリー回想録』、アラン・ムーアヘッド『砂漠の戦争』、ケネス・マクセイ『ロンメル戦車軍団』、パウル・カレル『砂漠のキツネ』〈diewustenfuchse〉などを読んでいったが、この最後の『砂漠のキツネ』を数十ページ読み進んでいった時、僕は思わず「アッ」と声を立てた。待望の「リリー・マルレーン」が、そこにはじめて、実際に姿を見せたのである。
一九四一年六月十四日――と、この本には書かれている。この日はロンメルが――あのチャーチルが戦争中、名指しで当面の敵であるにもかかわらず、ただ一人その武勲を称えたという悲劇の将軍ロンメルが――トリポリに上陸してから四カ月目のことである。エジプトとリビアの国境近くにあるハルファヤ峠の近くに陣どるドイツ軍は、全員耳をこらして、イギリス、フランス、オーストラリア、インドなどによって編成されている、連合軍戦車のキャタピラの音が近づくのに、息をひそめていた。ハルファヤ峠の戦いは、「砂漠の戦争」の初期における、最も重要な戦いだった。
カレルの本はいう。
「――峠はしずまりかえっていた。暗闇をうかがうが、キャタピラ音はきこえない。アフリカの空は星がきらめき、月は砂漠を明るくてらして新聞でもよめるほどだ。しかし新聞がどこにある? 誰によむ気があるのか? 『二十一時五七分』ラジオがかすかになる。ベオグラードからのドイツ放送だ。それからリリー・マルレンが。どれほど多くのドイツ兵が、無電でまた戦車の受信機でいまこのセンチな歌をきいていることだろう。歌は全世界に流れているのだ」(松谷健二訳・フジ出版社)
兵営の前 営門のわきに
ラテルネ(街燈)が立っていた
それはいまでもまだ立っている
そこでまた君と逢おう
あの ラテルネの下で
もう一度 リリー・マルレーン
ぼくら二人の影は一つになって
愛しあっていることは
皆によくわかっていたことだ
そのラテルネの下で
皆にまた見せてやりたい
あのときのように リリー・マルレーン
歩哨が呼んでる 消燈ラッパだ
遅刻は 三日間の営倉だ
戦友たちよ いま行くよ
ぼくたちは さよならをいおう
だが 君と一緒に行きたい
君だけと リリー・マルレーン!
ラテルネは君の足音をおぼえている
あの 気どった歩き方を
ラテルネはいまも赤く燃えているが
でも ぼくのことは忘れてしまった
ラテルネの傍に 誰かが立っている
それが 私を悩ませる
君と共に誰がいるのか リリー・マルレーン?
静かな部屋の奥から 大地の暗い底から
君のやさしい唇が
私を夢のような気持にさせる
名残りの霧がひろがるとき
また ラテルネの下に立とうよ
あのときのように リリー・マルレーン(歌の部分はレコードからの著者訳)
「――彼らはすわってきいていた。フランスで、ポーランドで、ノルウェーで、潜水艦で、砂漠で。司令部、酒保、タコつぼの中で若い女の声をうっとりときいていた。素朴なナイーブな歌をうたう素朴でナイーブな声を。兵士たちのヒットソングだった。(中略)
この歌は、家を、平和を、許嫁《いいなずけ》、町、村を思いおこさせた。砂漠のキツネたちの目からも涙があふれた。ドイツ兵ばかりではない。イギリスの従軍記者アラン・ムーアヘッドはその『アフリカ三部作』でこういっている。『ドイツ兵のみならずイギリス兵もラジオをその波長にあわせ、毎晩耳を傾けた。砂漠じゅうでイギリス兵はそのメロディを口笛で吹いていた』。歌は戦線を越えたのである。兵営の街燈の歌はまことに強力で、イギリス司令部は将校たちに命じ、兵士がそれを歌ったり口笛で吹かないように、またドイツ放送をきかないようにさせなければならなかった」
更にこの本には、わずかではあるが、この歌がどうして誕生したかが書かれていた。一九三八年、あるキャバレーで|ラーレ《ヽヽヽ》・|アンデルセン《ヽヽヽヽヽヽ》という歌手がこの歌を歌っていたが、さっぱりヒットしなかった。「おセンチだ」「バカバカしい」と客は笑った。レコードも売れなかった。
それはまだ、ヒトラーがきっと平和を守ってくれるだろうと、かなり多くの人々が信じていた時代だった。それから一年後、ヒトラーはポーランドを武力でその手中に収めたのである。
ナチが戦争に突入してしばらくたった頃、この歌は、偶然、第二装甲中隊のある曹長が愛好する曲となった。彼はレコードを買ってきて、酒保でねばっている同僚に聞かせた。
「いいじゃないか」
中隊の仲間は、すぐこの歌が気に入った。あるいは戦争が、聴く人たちの気持を変えさせたのかも知れない。やがて動員令が下り、この曹長は少尉となってベオグラード放送局に転属し、中隊はアフリカ戦線へと向った。新しい少尉は、もと中隊の仲間に、心をこめたプレゼントとしてこの歌を放送した。たちまち反響があった。
「いいじゃないか、あの放送を、もう一度!」
リクエストが殺到した――と、カレルの本には書かれている。当時の日本の軍隊では「リクエスト」などということは考えも及ばなかったろうが、ドイツにはその習慣があったと、ここでは推察するほかはない。この反響に気をよくした少尉は、毎晩のように二十一時五十七分になると、この「ラテルネの歌」をかけるようになった。
前線ばかりでなく、ドイツ国内でも、「二十一時五十七分にはベオグラード放送にダイヤルを」が合言葉になった――。
この文章の発見に気をよくして、眼の前に積み重ねられた何十冊かの本を読み進むうちに、もう一冊、わずか数行だが、「リリー・マルレーン」について書かれている本を発見した。ハインツ・ウェルナー・シュミットが書いた『砂漠のロンメル将軍』(〈With Rommel in the Desert〉 by Heinz Werner Schmidt)である。砂漠の戦いの末期、ロンメルの側近として戦いに参加したシュミットが、一九四二年の出来ごととして書いている部分を要約すると、
「われわれは当時、エルアラメイン地域で、一日中起きていなければならなかった。敵の空軍は、昼も夜もわれわれを襲ってくるからであった。われわれの補給路は、夜中もパラシュートつきの照明弾で、昼間のようにされ、それを投下する敵機の爆音が、われわれを眠らせなかった。
たとえ命令違反になっても、われわれは敵軍のラジオ放送をきいていた。イギリス軍のニュースや音楽は興味があった。イギリス軍は、カイロやアテネに立派な放送局を作って、ドイツ軍に訴えていた。だが、敵軍の放送をきいているのはわれわれだけではなかった。イギリス第八軍の捕虜の話によれば、イギリス兵士たちもまた、ドイツ軍の放送をきいていた。特に、ベオグラードから放送されるリリー・マルレーン≠ヘ彼等のお気に入りだった。そのセンチメンタルなメロディは、われわれ戦う両軍のあらゆる人たちに、この世には爆弾や砂漠以外にたくさんのものがあることを、今さらのように思い出させていた――」
この文章は短いものだが、当時最前線に参加した人の生々しい実感として、「リリー・マルレーン」の歌のもつ意味を、巧まずに伝えているように思えた。だが、発見はこれだけだった。僕は、「戦記」というものが、実際に戦う人たちの心情を如何に無視して書かれているものが多いかを、改めて痛感した。そして、それと同時に、これら「ヨーロッパの戦い」を描いた戦史が、僕がかつて読んだことのある太平洋関係の「戦史」と、何か基本的に違うことにも気がついていた。
何よりも違うことは、そのスケールや武器の数や、その面積の広さである。そして、その強烈な力と力のぶつかり合いであり、相手に対する「憎悪」の質の違いである。
例えば、この二年間の「砂漠の戦い」で、ドイツ、イタリア軍の死傷者は約百万、二十五万人の捕虜を出したという。また独ソ戦の最初の三カ月で、ソ連軍が出した損害は、捕虜の数だけで、何と三百五十万人にも上ったと記録されている。イギリスの軍事評論家ジェフレー・ジュークスの記事によると、そのうち無事故国の土を踏めたのは、わずか五十万人だったという。ちなみに、昭和十二年から昭和二十年までの日本が行なったすべての軍事行動で失った総兵員数は約二百十二万人。うち、「抗戦八年」で中国大陸に散った日本軍人の数は四十五万五千人である。
数多くの本のうち、『ナチス狂気の内幕・シュペールの回想録』(品田豊治訳・読売新聞社)――これは、ナチの体制の中にあって、唯一人「狂気」とは無縁の人であったと定評のあるナチの経済相だったシュペールの有名な回想録だが――の中ほどに、彼が一九四二年一月、ウクライナの視察に行ったとき、雪でおおわれた前線の兵士たちの間で戦友の夕べが開かれ、そこで歌が歌われたという一節がある。彼はこの歌は故郷へのあこがれと平原の虚しさを歌っており、
「このような歌が部隊の愛唱歌になっている事実は、学ぶ点が多かった」
と、わずか数行で結んでいる。
シュペールの長い記録の中で、前線の兵が出てくる場面は、何とこの数行だけしかないのだが、僕は勝手に、この「歌」は「リリー・マルレーン」だったに違いないと想像した。そして改めていうのもおかしいが、ドイツ兵にもまた多くの日本兵と同じように――いや、日本兵以上に――一人一人の悲痛な戦いがあったのだということを、今更のように思い知らされた。
われわれは日頃テレビなどでよく放送する「第二次大戦もの」のドラマで、ドイツ兵たちが、日本の時代ものの「捕方」と同じように、無個性にバタバタと死んでゆく風景を、さしたる抵抗もなしに見馴れている。しかし、そのドイツの中に生きる一人一人がどのような「生き方」をしてきたかということは、余りにも僕らの視界から遠いところにある。
そういう意味で、深い興味をもって読んだ一冊が、兵士の話ではないが、クルト・リースの『フルトヴェングラー――音楽と政治――』である。クルト・リースは、ナチの政権掌握とともに国外に去った、生粋の「反ナチ主義者」であり、戦前はずっと、ニューヨークやパリで筆をふるったジャーナリストだが、彼は精魂をこめて、一九四五年一月まで、ナチス・ドイツに止まっていたフルトヴェングラーのために、弁護の筆をとっている。クルト・リースによれば、フルトヴェングラーは最後までヒトラーにもゲッベルスにも節を屈することはなく、しかし、「祖国」を愛するが故にドイツに止まったのである。「政治」というものが、この全く「無色」であった音楽家にどのように厳しくのしかかってきたかを、彼は怒りを叩きつけるように描いている。
このクルト・リースの同じ著作の中に『レコードの文化史』という本があるのに気がついたのも、その頃である。この本は、久しぶりに「リリー・マルレーン」の秘密の一端を、僕の前に披露してくれた。リースの語る「リリー・マルレーン」は、そのまま短い一つのドラマであった。
クルト・リースによると、この歌は一九三九年の暮頃、第一次世界大戦のとき従軍した詩人、ハンス・ライプが作ったものに、ノルベルト・シュルツェが作曲し、|ラーレ《ヽヽヽ》・|アンデルセン《ヽヽヽヽヽヽ》がエレクトローラ・レコードに吹きこんだものだという。エレクトローラは、グラモフォンやテレフンケンとともに、戦前のドイツでその勢力を三分していたレコード会社である。
だが、このレコードは売れなかった。ベルリンのライプツィッヒ街にあるエレクトローラ販売店には、この売れないレコードが山積みされていた。ところがそれからしばらくし、間抜けな前線慰問担当の将校が、ポンと大金を置いて、店員――マックス・イッテンバッハとクルト・リースはその名前まで書いている――に勝手に二百枚のレコードを選ばせるということがあった。店員はこれ幸いと、売れなかった「リリー・マルレーン」のレコードを、その中に二枚しのび込ませておいた。一九四〇年秋、ラジオ・ベオグラード二十一時四十分《ヽヽヽヽヽヽヽ》の放送が「リリー・マルレーン」を初めて電波に乗せた。
「≪リリー・マルレーン≫の成功は前線をこえて伝わっていった。この歌は敵軍の、イギリス兵の、フランス兵の、心をとらえた。ユーゴスラヴィアでも、アフリカでも、≪リリー・マルレーン≫が演奏されるところどこにおいても、敵軍の兵士の心をとらえた。もちろん、歌詞のわかる敵兵はごくわずかだった。実際、言葉の意味がわかるかどうかはさほど重要ではなかった。メロディが、雰囲気が、大事だった。(中略)このドイツ軍歌は戦争に反対する気持を呼びおこさずにはいなかったといってよかろう――」(佐藤牧夫訳・音楽之友社)
クルト・リースの記述は、前記カレルの記述と多くの点で異なっているが、――例えば、「ドイツ軍のベオグラード占領は一九四一年四月のはずだから、「一九四〇年秋」であるはずはない――僕を最も驚かせたのは、この「歴史的」ともいえる歌を作曲した男が、後にナチスの御用作曲家となって、「われらはイギリスに戦いにゆく!」などというような歌を作っていた人物だったということである。戦後、彼はドイツ国内での非ナチ化裁判にかけられ、もし平時なら、恐らく天文学的数字にまでなったと思われる音楽著作権料をすべて没収されたばかりか、さらにこの裁判によって、「リリー・マルレーン」を作曲した当時に支払われた作曲料の「少なくとも十倍」の罰金刑に処せられた、と書かれている。
この本によっても、「リリー・マルレーン」が、いつ、どこで、どのように、連合軍に伝わっていったかというミステリーは、具体的には明らかにされていないが、その終りの方に、素晴らしいエピローグが用意されていた。それは、連合軍がドイツを「解放」したときの、ドラマチックなこの歌のフィナーレであった。
ソ連兵もアメリカ兵もイギリス兵も、ドイツの各都市を占領するや、わき目もふらずに、レコード屋に飛び込んでいった。求めるたった一枚のレコード、それはいつもリリー・マルレーン≠ナあった。しかし連合軍の兵士たちは、いつも失望させられた。リリー・マルレーン≠ヘ品切れだったのである。このレコードは既に珍品として、べらぼうな高値がつけられていた、という。
それでは、というのだろうか。この歌を初めに歌ったラーレ・アンデルセンが連合軍によって探し出された。彼女はそれほど美しくもなかったし、若くもなかった。しかし、強引に引きずり出された劇場で――恐らくは空襲によって、ドームも、椅子席も、オーケストラ・ボックスすらなかったであろう初夏のベルリンで――彼女は、低いか細い声で、「リリー・マルレーン」を歌いはじめた。しかし彼女は恐らく、この歌の第二小節目以降を歌う必要はなかったろう。客席を埋めつくした連合軍の兵士たちは、それぞれの音程で、それぞれの国の言葉で、この歌を合唱して、彼女の歌をもりあげた。この時はじめて、「リリー・マルレーン」は平和の歌であることを、公然と明らかにしたのである。
「彼女《ラーレ》自身がリリー・マルレーンに他ならなかった」と、リースはこのエピソードを結んでいる。
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2 映画「ニュールンベルグ裁判」
いろいろな試行錯誤や、アクシデントはあったにせよ、僕の「リリー・マルレーン」への愛着は強まる一方であった。しかしこの当時、僕は無論「リリー・マルレーン」をテーマにして本を書こうなどという大それたことを考えていたわけではなかった。こんなことをしているうちに、昭和四十八年は暮れた。正月は、久しぶりにのんびりと、自分でも呆れるぐらい、繰り返し、繰り返し、「リリー・マルレーン」のレコードを聴いた。
実はこの頃になると、僕の手許にはかなりの数のLPや録音テープが集まっていたのである。これは主として、友人たちの好奇心と親切心によるものだった。友人たちに、僕が熱っぽく「リリー・マルレーン」の話をすると、それはまるで――「リリー・マルレーン」の五番の歌詞をそっくり使わせて頂ければ――「名残りの霧がひろがる」ように、その熱気がひろがっていった。
「いい歌じゃないか」
「どこかで聴いたことがあるようだが、やはり初めてかな……」
「その話は面白いねえ……」
そして、それぞれの知人をつてに、コレクターや放送局のライブラリーなどからこの曲を探してきては、新しい「リリー・マルレーン」を楽しんだ。レコードの数は、意外に沢山あった。この「意外」さは、同時に、この歌が実はかなり有名な歌であることを物語っていた。
日本で発売されたものだけでも、ディートリッヒの歌でドイツ語と英語のものが一枚ずつあった。それにウェルナー・ミューラーや、ディキシーで有名なケニー・ボールが日本に演奏旅行に来た時、日本のスタジオで「懐しのマーチ集」というタイトルで、かの「軍艦マーチ」――無論、日本の!――と一緒に「リリー・マルレーン・マーチ」を吹きこんでいることなども知った。
デ・ロス・マルチェロスというイタリア人らしいコーラス・グループが日本で録音した「銀座ブルース」というLPに、何故かイタリア語で「リリー・マルレーン」が入っていることも発見した。「第三の男」で有名なアントン・カラスも、ツィターで入れていた。今をときめくCTIのクリード・テイラーが吹きこんだレコードも、十二年も前に、日本で発売されていた。
この、クリード・テイラーのレコードの解説によると、テイラーは、かのニクソン前大統領の出身校として名高いデューク大学で、心理学を学んだらしい。一九五一年海兵隊員として朝鮮戦争に参加し、この時音楽ばかりやっていたのがきっかけで、彼はミュージシャンに転向したのである。このレコードは「戦争中、軍隊で愛唱された曲ばかりを集め、当時の回想を深めようと企画したものですが、単にその頃軍隊生活を送った人へのプレゼントであるだけではなく、そのロマンティックなバラードの数々は、若い人々にも大いにアッピールするでしょう」と、解説の鈴木道子氏は、そのジャケットに書いている。
正月に、数人の友人と熱心にこれらのレコードを聴き比べていたとき、僕たちは更にふしぎな発見をした。同じ英語の「リリー・マルレーン」のはずなのに、ディートリッヒの歌っているものと、クリード・テイラーのバンドの合唱とは、歌詞が違うのである。ここで両者の歌詞を、よく眺めて頂きたい。クリード・テイラーの方のものは後に正式に歌詞がわかったのでそれを使用したが、ディートリッヒの方は聴き写しなので、多少の誤りがあるかもしれない。
(ここで一言「リリー・マルレーン」の「マルレーン」と、「マレーネ・ディートリッヒ」の「マレーネ」を何故区別して表記しているかについて、ふれておきたい。
「リリー・マルレーン」のドイツ語綴りには Lili Marlen と Lili Marleen という二種類のものがある。また、マレーネ・ディートリッヒの綴りは Marlene Dietrich である。ディートリッヒは自分になじみ深い Marlene の綴りをそのまま使って、自分の歌う「リリー・マルレーン」はすべて Lili Marlene としている。
しかし、後に知ったことだが、「リリー・マルレーン」の一番古いレコードの綴りは、 Lilli Marlen である。これを最初に歌った|ララ《ヽヽ》・アンデルセンは、「マリーン」という風に e をのばして歌った。或いはそのために後にマルレーンを Marleen と綴るようになったのかもしれない。
一方、英語の中で最もスタンダード版といわれるものは Lilli Marlene という綴りになっている。また、フランス語のものは Lily Marlene イタリア語のものは Lilli Marlene である。いずれも、実際に発音される場合にはそれぞれに微妙な違いはあると思われるが、原作の発音は「マルレーン」が一番近いと考えられるので、この本では「リリー・マルレーン」と表記を統一し、ディートリッヒの場合は、映画界の通例に従って、「マレーネ」と表記した)
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Outside the barracks, by the corner light,
I'11 always stand and wait for you at night;
We will create a world for two.
I'11 wait for you the whole night through,
For you, Lili Marlene
For you, Lili Marlene.
You'11 glow tonight, don't pay a call too early;
I want another evening with her charms,
Then we will say good-bye and part;
I'11 always keep you in my heart,
With me, Lili Marlene
With me, Lili Marlene.
Leave me alone to show how much you care,
Tie to the stand a lock of golden hair;
Surely tomorrow you will feel blue
But then will come a love that's new,
For you, Lili Marlene
For you, Lili Marlene.
When we are marching in the mud and cold
And when my pack seems more than I can hold,
My love for you renews my might;
I'm warm again, my pack is light,
It's you, Lili Marlene
It's you, Lili Marlene.
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Underneath the lantern by the barrack gate,
Darling I remember the way you used to wait:
'Twas there that you whispered tenderly,
That you lov'd me, you'd always be
My Lilli of the lamplight,
My own LILLI MARLENE.
Time would come for roll call, time for us to part,
Darling I'd caress you; and press you to my heart;
And there 'neath that far off lantern light,
I'd hold you tight, we'd kissGood‐night,
My Lilli of the lamplight,
My own LILLI MARLENE.
Orders came for sailing somewhere over there,
A11 confined to barracks was more than I could bear;
I knew you were waiting in the street,
I heard your feet, but could not meet:
My Lilli of the lamplight,
My own LILLI MARLENE.
Resting in a billet just behind the line,
Even tho' we're parted, your lips are close to mine;
You wait where that lantern softly gleams,
Your sweet face seems, to haunt my dreams
My Lilli of the lamplight,
My own LILLI MARLENE.
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この二つの歌詞を見ただけでは、両者の違いはそれほどとは思われまい。然し、歌われたものを比較すると、まるでイメージが違うのである。クリード・テイラーのものが、明るく、ロマンチックに歌いあげているとすれば、ディートリッヒのものは血を吐くような烈々たる思いをこめて、悲しみを叩きつけている。そして歌詞そのものが、まことにそれにふさわしいのである。僕は特にこのディートリッヒの「四番」が好きだった。最後で I'm warm again, my pack is light という|くだり《ヽヽヽ》にくると、何十年も前の若者にかえったように血が騒いだ。
もっとも、この二つの英語の違いは、ウェルナー・ミューラーやロス・マルチェロスのものに比べれば、わずかな違いにすぎないかもしれない。デ・ロス・マルチェロスのものを最初にきいた時など、一緒にきいていた三人が皆で思わずふき出してしまったほどである。それは全く陽気で、影一つない南国そのものの「リリー・マルレーン」であった。
この時僕たちの間で「リリー・マルレーン」に関して、二つのことが話題の中心になった。一つは「一九七四年に、いま日本に生きているわれわれにとって、リリー・マルレーン≠ヘ一体何であるか?」ということであり、もう一つは、二度にわたって僕の前に出現して、尽きせぬ興味をそそった「ラーレ・アンデルセン」とは如何なる歌手であるか? ということについてであった。
最初のテーマは、僕が直接自分の体でふれたことがない「西欧」という社会へのアプローチ――それは同時に多くの日本人が、テレビ映画の上でしか接していない「第二次ヨーロッパ大戦」というものを、一九七四年の日本人の眼から見ることになるのかも知れなかった。そして、後者は音楽ファンとしての、僕の執念だった。正月明け早々、僕は目ぼしをつけたドイツ通の学者、留学者、ジャーナリスト数名の方に当ってみた。
しかし、どうもこの方法は、日本人に対しては、あまり即効的な効果がなさそうであった。無論、音楽関係の方やドイツ駐在などの経験のある方は、「リリー・マルレーン」の名前は知っていたが、それは「ドイツで聴いた」からであり、或いは「ディートリッヒのヒット曲だから」であり、「有名だから」であって、切実な人生体験としての何物かとは、つながっていなかった。一方、ラーレ・アンデルセンに至っては、「全く聴いたことがない」という答えがすべてで、さすが「マニア」を誇る友人も「この名前は、聴いたことがないなァ」と首をひねった。
日本人の中で、この曲に対して、最もアクティブな反応を伝えてくれたのは、淀川長治さんである。淀川さんは「リリー・マルレーン」というタイトルは憶えていなかったが、僕が持っていたテープレコーダーでそのメロディを流すと、即座に、
「あ、これはスタンリー・クレイマーのニュールンベルグ裁判≠ナ流れていたあの曲ですね」
といった。淀川さんは、かつて「日曜映画劇場」でこの映画を解説していたこともあり、このメロディを憶えていたのである。淀川さんの、あのテレビの解説でみせる絶妙な語りくちを、活字で示すことはとても不可能だが、それを原文に近く書くと、こういうことになる。
「私が感心しましたのはね、軍事裁判映画というから、カチッと裁判所が映って、皆がカチッと坐っていて、東条≠トなところから始まると思いましたね。違いましたね。ガランとしてまだ整理もされてない内部が映りますね。職員みたいなのが動いてて、一体どないなことするんかいと思ってると、電気の玉が映りますね。ボタンを押すと、玉がつきますね。翻訳がちゃんと通じるというテストですね、しかけがわかります。うまいですね。それを見せてからゾロゾロッと被告が入ってきて、最後に出てきた裁判長のスペンサー・トレイシーが、何とも悲しそうな表情で座につきますなァ。このスペンサー・トレイシーが最初に出てくるところのせりふがふるってますなァ。こんなの、引受けるんじゃなかった、くどかれて、イヤイヤ引受けました、というセリフから始まりますのや。ゴツンといいませんなァ。僕らが感じていた軍事裁判所のイカメシさがまるでありませんなァ。ああいいなァ、立派だなァと納得させましたなァ、文章書きはる方も、ああいきたいですなァ……」
この映画の制作者が、なぜ「リリー・マルレーン」をこの映画のテーマ曲として選んだか、彼は何の理屈もなしに、感動的に僕に教えてくれたのである。
ここで、しばらくの間、映画「ニュールンベルグ裁判」について語らせて頂きたい。実は淀川さんにこの話をきいた時、僕はこの映画をまだ見ていなかったのである。いやそれどころか、余り熱心な映画ファンではない僕は、ディートリッヒの映画というものに、恥しいが「モロッコ」を一本、それもテレビでお眼にかかっただけなのであった。
「リリー・マルレーン」がナチの戦犯を描いた映画とどのようにかかわりあっているのか、とにかくこの眼でたしかめてみたいという願いは、一挙に狂おしいまでに高まってしまった。幸い、この映画はユナイト配給の作品であり、ユナイトの日本支社の中に、好意的な友人がいた。僕のために、特別に試写をしてくれるという前日、僕は改めてこの映画の背景をたしかめ、それをガッチリと頭の中に叩きこんだ。少なくとも叩きこまなければ、この映画の面白味は半減すると、見終ったあとでも感じた。もう十四年も前に封切られた映画だから、ご覧になった方も大方はお忘れのことと思うが、この映画は戦後のドイツ史を絵に描いたようにドラマチックな背景の下で、公開されたのである。
改めて思い出して頂きたいが、東側からソ連を中心にした軍隊が、そして西側からは米、英、仏を中心にした連合軍がベルリンを完全にとりかこんだのが一九四五年四月半ばのことである。四月二十九日、ヒトラーは自殺し、三十日にはモスクワに亡命していたドイツ共産党の最高幹部のウルブリヒトなど十名が飛行機でオーデル河の近くに到着し、五月二日にはベルリンが陥落する。そして、ドイツが正式に降伏するのは五月七日である。
ニュールンベルグで、ゲーリングやヘス、リッベントロップ、デーニッツなど政府や軍の大物に対して起訴状が読み上げられたのが、その年の十月十八日。そして、有名な「ニュールンベルグ裁判」はそれから約一年たった四六年十月一日に判決が下る。降伏文書にサインしたデーニッツは懲役十年、前に「回想録」を引用したシュペールは懲役二十年の判決である。そして十二名が絞首刑、ヘスなど四名が終身刑となっている。
ソ連占領地区(いまのDDR――東ドイツ地区――)で、共産党が社民党を合併し、「東ドイツ社会主義統一党」を作ったのが四六年四月、そしてその頃から、ドイツは「東西」に分裂される予感を濃くしてゆく。四七年六月、アメリカがマーシャル・プランを発表すると、ソ連はコミンフォルムを結成してこれに対抗し、四八年六月にはソ連は東ドイツの中の孤島だったベルリンを封鎖することになる。そして四九年九月には(西)ドイツ連邦共和国が、同じく十月には(東)ドイツ民主共和国が誕生し、ドイツは正式に「東西」に分裂する。
映画の「ニュールンベルグ裁判」は、ゲーリングなど大物を裁いた「有名な」裁判を描いたものではなく、「有名な」裁判が終って、主として官僚や裁判官など「B級」を扱った裁判をテーマにしている。無論、フィクションである。映画の中には、くわしい年月の設定は明示されていないが、このドラマが四七年にはじめられることを想定しているのは間違いない。つまり、アメリカ側はいまや「東西」にわかれかけているドイツの「西」を応援しなければならず、そうかといって「ドイツ人」に対する裁判は厳正に行なわなければならないというジレンマを、最初から背負っているのである。はじめに、スペンサー・トレイシーが「喜んで引受けたわけではなかった」理由は、そこにある。
映画は、この裁判長をアメリカ側の主人公に、そして裁かれるドイツ側の主人公には元ドイツ司法大臣であったバート・ランカスターが当る。彼は有名な法律学者で、ヒューマニストとしても知られていたが、ナチ政権下にあって、ユダヤ人迫害の裁判でユダヤ人に有罪の判決を下し、罪に問われるのである。バート・ランカスターは、唯、眼だけの演技で、何もしゃべらない。他の被告と違って「自分は無罪」ともいわない。被が初めて口を開くのは、何と映画がはじまって二時間以上も経ってからである。
若き弁護士に扮するマクシミリアン・シェルは、かつてのバート・ランカスターの教え子である。彼は広島に原爆を投下したアメリカにドイツを裁く資格はないと訴え、検事側の出す証人を巧妙な反対尋問で追いつめてゆく。だが、かつてユダヤ人であったために自分の手で有罪判決をした時の証人が、証人台で自分の弁護士に逆に追いつめられた時、遂にバート・ランカスターは、はじめて口を開く。
「やめろ、お前の手口はナチのやり方と同じだ! 私は有罪なのだ!」
と彼は立ち上る。この映画のクライマックスである。
「あの時代、ドイツは国中が熱に浮かされていました。われわれは、ヒトラーを|たち《ヽヽ》の悪いごまかしと知りながら、片棒をかついだのです。われわれはそれを単に過渡期の現象とみていました。それより、祖国は危機に瀕していました。飢えとインフレがはびこっていました。我々は祖国を愛していました。とにかく前進しよう。ヒトラーも一時的なものだ。遠からず消えてゆくのだ。何よりも前進だ!
これが成功したことは、歴史が示しています。ドイツは夢にも見なかった成功を収めたのです。ヒトラーはドイツだけでなく、世界中を催眠術にかけた。世界中がヒトラーをけしかけた。奪え! 進め! ワイマール時代には予想もしなかったようなものが急に手に入ったのです。ズデーテンランド、ラインランド、オーストリア……そしてある日気がついてみると、われわれはひどい状況の中にいることに気がついたのです。その昔、過渡期と思ったことが、日常になっていたのです。
われわれの中には、ユダヤ人が大量虐殺されたのを知らなかったという人がいる。たしかに、われわれはくわしいことは知らなかった。いや、知ろうとしなかった。しかし、ユダヤ人たちがドイツ中の町の鉄道から引きたてられていった時、われわれはどこにいたのか。われわれは、じっと、耳と目をふさいで、ドイツに生きていたのです――」
スペンサー・トレイシーは、常に公平で「善きアメリカ人」である立場を守り続ける。この彼が、宿舎としてあてられた邸の元の主人がマレーネ・ディートリッヒである。二人はふとしたきっかけで親しくなる。ディートリッヒは「大物」の「ニュールンベルグ裁判」で死刑になった将軍の未亡人である。彼女は、彼と瓦礫《がれき》の街となったニュールンベルグの下町を散歩しながらバート・ランカスターが本当はヒトラーに対して最も強く抵抗した勇気ある人であったことを伝え、ふと盛り場から流れてくるメロディに耳を傾ける。「リリー・マルレーン」である。ディートリッヒは、いう。
「ドイツ人は歌が好きなのです。わけても、この歌を――」
「私も気がついていました」
「貴方がもしドイツ語がわかったら、この歌の意味も、きっと判って頂けたでしょう。この歌のドイツ語の意味は、とても美しいけど、しかし、悲しいのです。英語の歌詞よりもずっと悲しいのです。これを歌うドイツの兵士たちは、彼の恋人が失われることを知っているのです。そして、やがて自分の命も……。ランタンの灯は夜毎にともり、彼の足音を知っている。やがてその下で、あなたとともに……」
ここで、ディートリッヒは、つぶやくようにいう。
「Lili Marlene……」
リリー・マルレーンのメロディは、二人の足音が消え去るまで、長く、か細く続けられる。
ドラマは最後で、ソ連の行なう「ベルリン封鎖」によって、大きく転回する。「西ドイツ」を味方にしなければならないアメリカ側は、検事側も含めて、被告たちの「無罪」を考えはじめる。特にアメリカ側の判事の一人は、スペンサー・トレイシーに向って、はげしく「祖国」の立場を考慮するように訴え、「この被告たちを有罪にすることは、アメリカの国益に反する」と露骨に主張する。
だが、この「善きアメリカ人」は、断固としてバート・ランカスターに「無期懲役」をいい渡す。
「被告人たちは、自分の行なった行為に責任がある。彼等は人間を殺すための法律や法令の執行に、明らかに加担した。
われわれのアメリカでも、最近、われわれが生き残るために決断を下せという声が上がっている。われわれが生き残るために、われわれも敵と同じような方法をとれというのだ。その声に、私はこう答えたい。生存がすべてである。国家は人間のエゴの延長ではない。最も困難な時にこそ、国家は高い威厳を保たなければならない。
私は被告に有罪の判決を下す。われわれにこの決意をさせたものは、正義と、真実と、人間一人一人の尊さである――」
ちなみに、この映画が作られたのは一九六一年。アメリカが本格的にヴェトナム戦争に介入したのは六〇年だが、この映画が「ヴェトナム戦争」を意識して作られたものだということを指摘した当時の映画批評を、僕は見たことがない。
この映画には、もう一つ重要なエピソードが残されている。プロデューサー兼監督をやったスタンリー・クレイマーは、当時ベルリン市長だったウィリー・ブラントの同意を得て、敢《あえ》てベルリンに全世界の記者三百人を集めて、特別試写会をやったのである。
この年――一九六一年八月十三日に、「東」側は、突如東西ベルリンに「壁」を作って、全世界を驚かせた。このことが、東西に住むドイツ人にとってどのくらいのショックであったかは、これを体験しない日本人には、恐らく想像を絶するものがあったに違いない。昨日まで、ドイツは「東西」に分裂していたとはいっても、ベルリンを通じて、自由に往復が出来たのである。戦後十五年間、東から西に「自由に」移り住んだ人の数は、三百万人にも上るといわれている。
映画「ニュールンベルグ裁判」は、この「壁」が出来てから僅か数カ月後に、文字通り「壁」を背景として、プレミア・ショーを行なったわけである。映画制作中は、恐らくこのような事態を想像もしていなかったスタンリー・クレイマーが、直ちにそのアクシデントを利用したところなど、映画の中で、突如「封鎖」が行なわれたことと関連して興味深い。だが、このプレミア・ショーに関する出来事で、僕が最も大きな関心を抱いたのは、あのマレーネ・ディートリッヒが、この時ベルリンに姿を現わさなかったということである。
このショーには、スペンサー・トレイシー、バート・ランカスターは無論のこと、主な出演者のすべてが出席した。だが、何故かディートリッヒ一人だけが、ポツンと抜けていた。彼女が何故ベルリンに来られなかったか、病気か、スケジュールのためか、それは知らない。当時のベルリンの新聞は、これに対して「マレーネ・ディートリッヒ、再びベルリンを放棄す」という明らかに悪意のある見出しでこれを飾った。映画の中でバート・ランカスターが扮する「勇気あるドイツ人」が有罪判決をうけたように、最も勇敢に「人間」のために戦ったドイツの女優が、映画の内容と同じように「祖国」のジャーナリストから「有罪」の判決を受けたのである。
スタンリー・クレイマーは、そこまで読んでいたのであろうか。だが、少なくともディートリッヒ自身は、それを知っていたに違いない。だからこそ「リリー・マルレーン」に寄せて、万感の想いをこめて、彼女は全世界の観客に、こう訴えたのである。
「ドイツのリリー・マルレーンは、美しい。しかしとても悲しい歌なのです――」
と。
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3 彼女は毎夜
凍てつくロシア最前線を訪れた
ラーレ・アンデルセンについては、二人の人が情報をもたらしてくれた。一人は僕の友人で、アメリカのレコードのカタログである「シュワン」やイギリス発行の「グラモフォン」など、その道の人ならよく知っているカタログ多数を所有している同志社大学の山本明教授だが、しらみつぶしに調べてくれた結果、「シュワン」の六〇年度版以降数年分のサプリメンタリ(補遺)輸入盤のところに、「ラーレ・アンデルセン」というタイトルのついたLPが出ているのを教えてくれた。少なくとも三種類の Folk Song & Sailor Song が出ていることはたしかだった。「グラモフォン」の方には、遂に見当らなかった。
「アンダー|ソ《ヽ》ン≠ネら、たくさんあるんだがなあ」
と、彼は嘆いた。だが、とにかくこの「アンデルセン」が戦後もLPをアメリカに輸出する程度に活躍をしていたことは、これで確認されたわけである。
それにしても、これらのレコードはすべて戦後のものらしかった。あの一九三九年に発売されたという「幻の初版」は、地球上のどこかに、今でも存在しているのであろうか? 記録によると、ベルリンは数度の大空襲をうけ、特に一九四三年十一月二十二日(二十三日という記録もある)の大空襲では、例のエレクトローラ販売店のあったライプツィッヒ街は、完全に焼け落ちてしまったと、リースの本には書いてある。
敗戦半年前の一九四四年末、エレクトローラ社は工場の八○パーセントを失い、三大会社(グラモフォン、テレフンケン、エレクトローラ)のうち、最初の休業を宣言するに至る。従業員たちは、せめて貴重な原盤だけでも保存しようとシェプレーヴァルトに隠すが、後にここはソ連軍の直撃をうけることになり、この原盤を発見したソ連軍は、再び使用できないように、完膚なきまでに原盤を破壊してしまう。
だいたい、戦前からのSP盤というのは、ガラスのように割れ易いものだし、おまけに重い。その上、ちょっとでもほこりの中におけば音はつぶれてしまうし、陽に当れば溶けてしまう。あのはげしい国内戦が行なわれたドイツの中で、このレコードを今でも持っている人がいようとは、どうも考えられなかった。
「アンデルセンの原盤は、かえって聴かない方がいいね。頭の中で想像しながら、かすかにそれらしき音が聞えてくる方がいい」
と僕が負け惜しみをいうと、山本氏は、
「残念ながら、そんなことはないね。必ず持っている人がいる。これはもう、絶対にいるものなのだ。そしてまた、聴くこともできる。だいたい、世の中の仕組みというものは、そういう風に出来ているものなんだ」
と、社会学教授らしい自信たっぷりの表情で、そういった。
もう一人、
「ラーレ・アンデルセンが出演している映画が、たしか一本だけあったはず」
という、飛び上がるような情報を知らせて下さったのは、映画評論家の清水晶氏である。氏の語られたところによると、カール・リッターが一九四二年八月に制作した「G・P・U(ソ連秘密警察)」という作品の中の、あるキャバレーの場面で、たしかにラーレ・アンデルセンが歌う場面があったはずだというのである。
カール・リッター。僕でも、少なくともその名前だけはよく知っているナチス・ドイツの巨匠である。調べたところによると、彼の映画は日本で「スパイ戦線を衝く」「祖国に告ぐ」「最後の一兵まで」「カプリチオ」「急降下爆撃隊」「世界に冠たり」の六本が封切られている。そして、彼の作った作品中でも名作といわれた「誓いの休暇」は、日本に輸入されながら、軍の横槍が入って上映出来なかったということが、記録に残されている。清水晶氏が戦後「キネマ旬報」に書いた「誓いの休暇」の梗概は、次のようになっている。
「Urlaub auf Ehrenwort 独*ウーファ37 ナチ時代のドイツの代表的監督であったカール・リッターの、『最後の一兵まで』『祖国に告ぐ』と並ぶ第一次大戦3部作のひとつ。18年、後方の病院から戦線に復帰する一小隊を乗せた列車がベルリンに着いた。戦線に向う列車への乗りかえには6時間の間があるが、自由行動は許されない。こんなとき自由行動を許したために、それっきり帰って来なかった兵士の例が今までに少なくないからだ。しかし、ベルリン育ちの多いこの小隊の兵士たちは黙っていなかった。発車までに必ず帰るという兵士たちの言葉を信じて、小隊長(ロルフ・メービウス)は独断で自由行動を許した。兵士たちの中には、妻と陽気に半日を楽しむ者もいれば、一片のパンを恋人に渡そうと市中をかけずりまわる者もいる。母校の音楽学校を訪ねて、自作のピアノ協奏曲を教授から絶讃される少壮音楽家もいれば、反戦運動の仲間にあい、脱走をそそのかされて、迷いに迷うインテリ兵(カール・ラダッツ)もいる。小隊長は看護婦となっている懐しい女性(インゲボルク・テーク)を呼んで語らいながら、駅で6時間も待ちつくした。かねてから心配していた恋人の変心を知って、ベルリンに何の執着もなくなった兵士が真先に戻ってきたのを初めとして、兵士たちは約束通り続々帰って来たが、発車までに戻らない者が3人いた。小隊長は軍法会議を覚悟したが、やがて1人はトラックで追いつき、2人は急行で次の駅に先まわりしていて、全員の顔が揃う。兵士各自の自由行動を通じて、当時のベルリンの窮迫した状態や、それぞれの階層の戦争に対する考え方を浮き彫りにするとともに、結局、全員復帰という点に祖国愛を盛りこんだ、ナチ時代の国策映画としては芸術性のきわめて高いものであったが、わが国では公開寸前に、小隊長の独断による自由行動ということが軍規に反するという軍部からの横槍で検閲不許可となった」
僕はこの「あらすじ」を読みながら、再び「ヨーロッパの戦い」と「日本の戦い」の違いを痛感しないわけにはいかなかった。ナチが「名作」とほめたたえたその部分こそが、日本ではタブーであったわけである。それは、「捕虜脱走もの」という分野が、戦争映画のテーマとして最も人気が高い欧米と、「死して虜囚の辱めを受けず」という日本との、基本的な違いでもあろう。僕ははじめに「リリー・マルレーン」という歌を「敵も味方も歌った」ということに、信じ難い疑問と興味を抱いたわけだが、これは或いは、極めて「日本人的」な疑問であるのかも知れない。
とにかく「G・P・U」は日本には来ていなかった。戦前の「ウーファ」の映画をすべて扱っていた東和映画の話によると、「制服の処女」や「会議は踊る」など戦前のドイツ映画の殆んどすべては、一九四五年ソ連軍に押えられ、現在はDDR(東ドイツ)の文化省が持っているはずだという。さすが物好きな僕も、ドイツ民主共和国の窓口に行って「ナチ映画のゲ・ペ・ウを見せて下さい」という勇気はなかった。それは月に行くよりも遠い距離のように思えた。
僕の頭の中で、再び「幻のラーレ・アンデルセンのリリー・マルレーン」が、微妙な音をたてて鳴りはじめた。その背景には、いつもランタンに煙るベルリンの夜があった。そこに佇む女性は、きわ立って美しくも、はち切れるように若々しくもない。だがそれは間違いなく「女性そのもの」に違いなかった。
「リリー・マルレーン」に関する取材で、東京にいる外人の反応をきいてみたらどうだろうかと考えはじめたのは、二月下旬の頃である。丁度その頃、日本中は「小野田少尉」の発見のニュースで沸き返っていたことを思い出す。事実、あのテレビでの中継で、小塚さんの墓の前に立って、思わず「友は野末の石の下」と小野田氏が語ったとき、歌のもつ迫力がこんな形で現われたことはかつてなかったとしみじみ感じたのを、昨日のことのように憶えている。
外国人、といっても、そうむやみに飛びこんでいってきけるものではないし、失敗もある。僕は赤坂に住んでおり、六本木に音楽好きの田代さんという親しい友人がいるが、彼が「ぼくの事務所のすぐ傍に、ユダヤ人のおばさんのレストランがある。彼女は世界を股にかけて歩き、数年前日本に来たといっていたから、何か知っているかもしれない」というので、「ユダヤ人なら何かあるかも知れないね」などと勝手な想像をたてて、話に入っていったときのことである。
まず店に入って食事を注文しながら、「ママと少し話が出来ないか?」というと、「わかりました」とボーイはいったが、食事の方はすぐ出たが、かんじんのママの方は、さっぱり姿を現わさない。
食事が終ると、ボーイはすぐ皿を下げてしまって、「お茶は何ですか?」という。仕方なく「コーヒー」といいながら「ママは?」というのだが、お茶はすぐ来るが、ママの方は来ない。コーヒーがなくなると、またすぐ「何かご注文は?」と来る。又もや仕方なしにケーキを注文する。「ママ」なるおばさんが現われたのは、ケーキと同時である。「リリー・マルレーンを知っているか?」ときくと、彼女は即座に、
「無論知っている」
と答えた。
「どんな歌だか知っているか?」
と再度たずねると、一寸首をひねって、
「ディートリッヒの歌だと思うが……どうしても知りたいか?」
というので、
「どうしても知りたい」
と答えると、彼女は立ち上がって、電話を手にとった。一分ほど会話をしていたが、すぐ席にもどってくると、
「これは第一次大戦の歌だ。そしてディートリッヒのデビュー曲でもある。それ以外に、何か知りたいか?」
と更にきく。僕は、
「この歌についてストーリーを書きたいので、くわしいことが知りたい。それで、いろいろな人に、リリー・マルレーンのことをきいて廻っている」
と答えると、彼女は自信満々に、こういった。
「誰にきいても同じだ。有名な歌だ。私が返事した以上のことは何もない」
「有名なのは知っている。あなたはこれを聴いて、どう思うか?」
「別に、どうも思わない。センチメンタルないい歌だ。あなたは、私以外にも、この歌のことを誰かにきくつもりか?」
「そうだ」
「何人位?」
「そう……恐らく、百人位……」
僕は真面目に答えたつもりなのだが、彼女は全く僕にからかわれたと思ったらしい。スックと立ち上がり、怒りの表情をみせながらボーイを呼ぶと、すぐ勘定書を持ってきて、僕につきつけた。この勘定は、僕が暗算した額より、少なくとも三〇パーセントは高かった。
「スターズ・アンド・ストライプス」の東京支社にきいてみたら……、というアイディアを出したのも友人の田代さんである。六本本のすぐ近くにあるので気がついたのである。早速電話をかけると、編集長らしき人が出てきて、
「それは面白い。いま、ここに、ベルリン攻防戦に参加したバルボアという男がいる。その男なら日本語もよく出来るし、面白い話がきけるかも知れない」
と親切に紹介してくれた。早速翌日訪ねてゆくと、アメリカ人記者というイメージからはおよそ遠い、物静かな学者風のバルボア氏が、僕を待っていてくれた。
僕ははじめに、
「どこの戦線で戦っていたのですか?」
ときくと、彼は、
「東の方です。ベルリンの東です。当時は私はまだ十四歳でした」
と答えた。
「東ですか? アメリカ軍は、西から攻めていったのではないのですか?」
と僕が当然の質問を発すると、彼は初めて僕の勘ちがいがわかったらしく、笑いながら、こういった。
「私は、ドイツ軍の兵隊として、東部戦線にいたのです。最後のベルリンの戦いでは、男でありさえすれば、少年でも老人でも前線にやられました。鉄砲もない。何もない。唯もう、かり出されて、必死に逃げただけです。戦後アメリカに渡り、大学を出て、星条旗紙につとめました。あなたがおききになりたいのは、リリー・マルレーン≠ノついてですか?」
「東」と「西」の謎はすぐにとけたが、僕にはやはり、仮りにも連合軍と戦ったことのあるドイツ軍兵士が、アメリカ軍の機関紙にいるということが、やはりふしぎだった。しかし、こんなことをふしぎと思う方が、実は彼等にとって、ふしぎなのかも知れなかった。
彼は語り続けた。
「リリー・マルレーンは、ドイツのラジオでいつも放送していました。私の記憶では十歳位の時からきいていたように思いますが、正確には憶えていません。誰かから、第一次大戦の時の軍歌だったと教えられたような気がします。ドイツのラジオには Wunsch-konzert 日本語にすると希望音楽会ですが、そういう人気番組があって、リリー・マルレーン≠ヘそのテーマ音楽でした。淋しい曲でしたが、ドイツ人は皆この曲を愛していました。戦後、ディートリッヒが歌ったので、私はよく憶えています。私の妻はマレーネというので、とても親しみをもっているのです」
「ラーレ・アンデルセンという歌手のことは知りませんか?」
「有名な人かも知れませんが、私はポピュラー音楽のことは知らないので、お答え出来ません。フルトヴェングラーのことならわかります。アメリカは、愚かにも、戦後フルトヴェングラーを追放したのです。アメリカはわかっていなかった。彼は偉大なヒューマニストだったのです……」
僕は最後に、ちょっぴりきいてみた。
「小野田さんをどう思いますか?」
「私なら、やめます。西洋では、全力を尽して、仕方がなければやめるのです。しかし、驚きました。えらいです……驚きました……」
彼は何回も自分にいいきかせるように、そういった。
バルボア氏は「リリー・マルレーン」に対して余り鮮烈なイメージをもっていないようだったが、「スターズ・アンド・ストライプス」というのは思いつきであった。考えてみれば東京には外国通信社の人が何百人といるし、誰に当っても、それなりの反応は得られるはずである。
朝日新聞の方の紹介で、はじめにAFPの記者の方にお会いし、それを手ががりとして、俗にいう芋づる式に、それらしき人を片っ端から当っていった。目標は「年配者で、ジャーナリスティックな感覚のある外人」ということだった。その中で、特に印象的だったイギリス人、フランス人、アメリカ人に、それぞれ一人ずつ登場して頂こう。最初は、K通信社のホーレス・アブラハム氏である。
アブラハム氏は「リリー・マルレーン」について「好きな歌というより、懐しい歌だ。英語で聴くより、意味はわからなくても、やはりドイツ語で聴きたい。今でも、リリー・マルレーンのレコードは持っている」と、イギリス人特有の表現で、実に雄弁に歌の背景を物語った。彼はどこかで、クルト・リースの本を読んでいたのだろうか。彼の語るリリーの物語は、ロンメル将軍と砂漠と、悲しい兵士と、そのベオグラード放送をドイツ兵と同じように、競って聴いたイギリス兵の話であった。
「日本の軍歌は皆悲しい歌だ。しかし、イギリスは陽気な(funny)軍歌を好む。大戦の初めの頃は≪ジークフリート・ラインで洗濯物を乾かそう≫とか≪ビヤダルをころがせ!≫なんていう歌がはやった。しかし、リリー・マルレーンが登場してからは、何といってもリリー≠ェ圧倒的だった。私は海軍だったが、船のラジオで、この歌を何回聴いたかわからない」
そして、彼の推定では、恐らくアフリカ戦線でドイツ軍の捕虜がこれを歌っていたことも、イギリス兵の興味をひく発端になったのではないか、ということであった。ただ、その時の歌手の名は記憶になかった。
「海軍では、何という船に乗っていたのですか?」
という問いに、彼は、
「レパルス」
という、あの有名すぎるほど有名な名前を事もなげに口にした。中年以上の日本人なら、誰一人として知らぬものはない、あの昭和十六年十二月十日、マレー半島クヮンタン沖で「轟沈」した、大英帝国の誇る戦艦であった。
「レパルスは七分、プリンス・オブ・ウェルズは四十分で沈んだ。レパルスは余りにも早く沈みすぎたために、八百八十二名という大量の死者を出した。私は六時間も海をさまよったが、幸運にも救助され、数少ない生存者の一人となった。シンガポールからジャカルタに移り、南アフリカを通って本国に帰った。この間、リリー・マルレーンはどこでも聞いた。あの歌は、私にとって大戦の思い出そのものにつながっている。戦後日本に来た時、レパルスを沈めたパイロットに出会った。無論、礼儀正しく、なごやかな出会いだった。戦争とはそういうものだ」
彼は終始淡々とした表情で、そう結んだ。
パリ・マッチの特派員であるアルフレード・スムラー氏の場合は、アブラハム氏とは大分違った。彼は「リリー・マルレーン」の話をはじめる前に、
「自分はフランス人だから、ドイツで作られた歌は歌わなかった」
と、沈鬱な表情で、まず、そういった。仏独戦がはじまった一九四○年、彼はフランス軍の兵士だった。戦いは、わずか六週間でドイツ軍の勝利となり、パリにはドイツ人が君臨することになった。彼はやがて抵抗運動に加わるようになり、サルトルやデスノスと一緒に働いた。
「この二人とは、思想を超えた仲よしだった。われわれは、おれ、お前と呼び合う中で、共に戦った」
と彼はいった。「リリー・マルレーン」は、ドイツがパリを占領してからしばらく経って、いつ頃からか、フランス全土で歌われるようになっていた。
「デスノスは自分よりずっと年上だが、この歌が好きだった。彼はフジタがデザインしてくれた|いれずみ《ヽヽヽヽ》が得意で、本当にいい男だったが、キャンプで死んだ。自分も、リリー・マルレーンはいい歌だと思ってはいたが、どうしても歌えなかった。――」
ロベール・デスノス。有名なアンドレ・ブルトンとポール・エリュアールが編集した『シュルレアリスム簡約辞典』によると、「シュルレアリスムの詩人。主著、≪喪のための喪肉体と幸福≫、一九四四年、チェコスロヴァキア、テレツィア強制収容所にて死亡」とある。そして、スムラー氏自身も一九四三年捕えられて強制収容所に入れられ、十四カ月を経て、やっと解放されたのである。
「キャンプでの非人間的な生活を、いまここでお話しする勇気はない。よく、生き残れた、と、ただそれだけだ。リリー・マルレーン≠ヘ、デスノスの死と、キャンプのイメージにそのままつながっている。しかし、戦争というものを、あれほど的確に表現した歌は、やはり第二次ヨーロッパ戦中に、なかったと思っている。
あの歌の特徴は、上から作られたものではなく、兵士たちの間で自然に歌われ、それがまた自然の形でフランスにまで拡がっていったということに大きな意義があると思う。あれは軍歌ではなかった。その点で、もし日本で比べるものがあるとしたら、支那の夜≠ナはないか。あれは朝鮮戦争の時、アメリカ兵の間で実によく歌われていた。兵士は独特の感覚で、軍歌でない自分の歌を発見するのだ。
戦後、反ナチを貫いたマレーネ・ディートリッヒがこの歌を歌っているのを知って、何かホッとした記憶がある。ラーレ・アンデルセン? きいたことがない――」
アメリカの代理店に勤務しているフランシス・フェーン氏は、一九四三年頃、ヴァージニア州、ノーフォークの捕虜収容所で、ドイツ兵たちが歌っていたのが、「リリー・マルレーン」の最も印象的な思い出だという。
「ドイツ兵はガンコだった。アメリカ兵が話しかけても返事もしない。そして夜になると一斉にあの歌を歌いはじめるのだ。私もドイツ語で憶えてしまった」
フェーン氏は一種の特別攻撃隊のような任務を帯びて、太平洋戦線に従軍した。キスカ島の戦いに加わり、後に、クェゼリン、パラオなど南方戦線に転戦した。日本軍に対する最も強いイメージは、勇敢、そしてゼロ戦であった。
彼は特に軍歌にくわしく、アメリカ軍歌は、殆んどが「Very poor」であるといった。
「気のきいたアメリカの兵隊は、いつの間にかイギリスの歌を憶えてきて、歌っていた。イギリスの歌は、ユーモアのセンスに富んでいる。俺は戦争になど行きたくない≠ニか、弱い奴にもいいことがありますように≠ニかいうようなのが、私は気に入っていた。リリー・マルレーンは特別の歌だったようだ。ドイツの歌というより、イギリスの歌という形で歌われていたようだ」
彼は僕が取材に行った時、「リリー・マルレーン」より「ミスター・オノダ」の方に、より深い関心をもっていて、「オノダ」のことばかり話したがった。アブラハム氏は、「イギリス兵なら十分と残らなかったろう」といい、スムラー氏は「命令を守り続けたということは、彼自身の問題」といったが、フェーン氏は、
「いま、世界が必要としているのはオノダだ。しかし、いま世界に沢山いるのはオノダを利用しようとしている者ばかりだ。日本では、オノダが羽田に降りた時、政治家たちが真先に出迎えたと非難されているが、アメリカでもそれは同じことだ。ベトナムから捕虜が帰ってきた時、真先に迎えたのは家族ではなく政治家だった。オノダは勝った。第二次大戦は、結局戦いはすべての人たちに敗北だけを与えるということを教えたが、オノダだけは勝ったのだ」
といった。「オノダ」に対するイメージも、「リリー・マルレーン」に対するのと同じように、それぞれの立場で、微妙に違っていた。
東京での取材も後半にさしかかった頃、――それは冷たい雨の降っている、ある夜だったが――僕はヤロシュ氏というドイツ人のお宅を訪ねた。氏は聖職に身をおいていたが、軍人としての体験をお持ちだというし、それに、ドイツ人としては珍しく日本語もかなりお上手とのことなので、とにかくお訪ねしたのである。
はじめのうち、僕も、氏の職業と、いかにもドイツ人を思わせる威風堂々たる体躯に気おくれして、「リリー・マルレーン」という言葉を、なかなか口に出せないでいた。
ややあって、僕は「有名なリリー・マルレーンという歌がありますが……」と遠慮勝ちに切り出すと、氏は突如眼を輝かせ、
「ああ、|ララ《ヽヽ》・アンデルセンのことですか、ちょっと、お待ち下さい」
と立ち上がり、程なくして一枚の新聞紙を持ってきた。そして、写真を見せながら、
「この人、この|ララ《ヽヽ》・アンデルセンが、リリー・マルレーンを歌ったのです」
といった。意外な事態の進展に、僕は一瞬信ぜられない思いで、その紙面にかなりの大きさで掲載されている、ララ・アンデルセンのクローズ・アップを見た。この時はじめて、彼女は「ラーレ」ではなくドイツ人には「ララ」と呼ばれていることを、僕は知った。
そのララ・アンデルセンに対して、僕はかなりふけこんだ、小太りのドイツ女性を想像していたのだが、僕のあらゆる予想を裏切って、彼女は若く、美しく、哀しく、そして優しかった。
「これが、ララ・アンデルセンですか。彼女は今、どうしていますか? この新聞記事は、なぜ出たのですか?」
僕はさすがに、やや興奮して、氏に尋ねた。すると氏は外人特有のたどたどしい日本語で、僕を教えさとすように、こう語りはじめた。
「ララは死にました。私はこのことに、深い関心がありました。だから、この記事をしまっておきました。この記事のお話をしましょう」
彼女の生い立ちを説明するのに一番端的な表現は、「二十歳になったばかりの時、彼女には既に三人の子供と、画家くずれの働かない夫がいた」という一行だろう。何となく、冷たい風を想像させる北部ブレーメンに生れた金髪の娘、父は船員だったということも、彼女の一生を何か暗示するかも知れない。彼女は船員相手のキャバレーで、ドイツ・シャンソンで少しずつ名前をあげていったのである。
何人かへの愛と、犠牲と、自己嫌悪の後に彼女を訪れたのは、降ってわいたような「リリー・マルレーン」の大ヒットであった。だが、この大ヒットは彼女に決して幸運をもたらさなかった。いや、ナチにとって、彼女の素晴らしい歌唱は、かえって敵としての役割を果してしまうことを、ナチはすぐ感づいていた。
「リリー・マルレーン」のメロディは全国を風靡《ふうび》したが、ナチは彼女に「彼女自身がリリーであることを匂わせたりするようなこと」を厳禁し、遂に彼女自身が「リリー・マルレーン」を歌うことにすら、あらゆる妨害を加えた。ゲシュタポは、いつも彼女の傍にいた。ただでさえ、ウォーターカントと呼ばれる北海地方独特の彼女のハスキーな声は、次第につぶれていった。争いやもめごとを嫌う彼女は、ますます孤独になり、その持ち歌の大ヒットにもかかわらず、収入は減るばかりだった。
戦後の彼女についての記述は、この記事にはない。しかし、僕が取材した多くの人の語るところでは、戦後「リリー・マルレーン」が本当に「お金」になったのはむしろ連合国側の方で、打ちひしがれ、疲れ果てたドイツが、ララ・アンデルセンのしわがれ声や、戦争を思い出させる「リリー・マルレーン」を必要としなかったことは想像に難くない。ドイツがララを必要としたのは戦後二十七年目、戦争が歴史の遠い彼方に忘れ去られた時だった。
一九七二年、彼女は『空には、たくさんの色がある』という自伝を書いたのである。それはまことに彼女らしく、ごくつつましやかな、スターらしい気どりもない、いわば平凡な記述の多い自伝だった、と、この記事の書評には書かれている。だが、出版社はそれだからこそ、この本の成功について確信をもった。リリー・マルレーンはララ・アンデルセンそのものであり、ララの歌の思い出は、そのまま、今はもう夢にしか過ぎない戦争の時代につながるのだ。
出版社は「ララ作戦」という販売計画を立て、その成功は目前にあった。そしてその一瞬前、何と彼女は運命に引きずり込まれるように、ウィーンで息を引きとったのである。
ララ・アンデルセンの話をしてゆくうちに、ヤロシュ氏の中には、三十数年前の思い出が怒濤《どとう》のように押し寄せてきたようだった。一九四一年六月二十二日、ドイツ国民とソ連国民にとっては、恐らく永遠に忘れることのないその日、ヒトラーは百二十九年前のナポレオンとまさに同じ日に、ロシアの大地に向って進撃を開始した。それは、ジュークスの表現によれば、「巨人と巨人との戦い」であった。
ソ連はそれから四年の間に、実に二千五百万人の血を流し、七万の農村が破壊されたという。だがドイツも同じように致命的な傷手を負った。この損害は、西部戦線のすべての損害を十倍しても、まだ上廻るほどのものだった。ヤロシュ下士官は、その最前線にいた。
戦史の伝えるところによると、ドイツ軍の最先鋒が最も深く突入したのは、モスクワ郊外わずか二十三キロの地点である。今でも、このレニングラード・ハイウェイの横にはモスクワを守った人々に捧げる≠ニいう記念碑が立っている。
だが、十月六日から降りはじめた雨と、十一月の寒波と、十二月からの雪がナポレオンと同じように、ヒトラーの足をとめた。一九四一年十二月五日は、ヒトラーがその版図《はんと》を最もひろげた極限の一日である。だが、この日を最後にして「ヒトラー・ドイツは戦争では敗けない」という「神話」は崩れる。十二月八日、ソ連第五十軍は、ドイツ軍に対して猛反撃を開始する。そしてこの同じ日、日本はアメリカ、イギリスに対して宣戦を布告するのである。
この時、ヤロシュ下士官は、アルタイ山脈のふもと、バゼルユフチーナで小さなタコつぼに入ったまま、進むことも退くことも出来ないままの状態でいたという。タコつぼの一歩外は、敵とも味方とも知れぬ、累々たる死体であった。やがてその上に雪がつもり、徐々に死体を隠していった。
外は零下十度にもなろうという穴の中で、それから数週間の「冬眠生活」がはじまった。同じタコつぼの仲間は、たった一人だった。降りしきる雪をかきわけて、空気穴を作り、やがて雪の深さだけで一メートルにもなった。頼みとなるのは、ベンジンによる暖房と、無線ラジオ機だけだった。
「敵とは、どのくらいの距離で向っていたのですか?」
という僕の問いに、氏は「八十メートル」といった。決して「八百」の間違いではなかった。その八十メートル先には、どのくらいのマシンガンを持った敵がいるかは、想像もできなかった。ラジオが唯一の情報源だったが、入って来るのはソ連の放送ばかりだった。ドイツ語が、ドイツの歌が、たとえかすかにでも、どこからか聴こえてこないか?
この時、天の啓示のようにキャッチしたのが、ベオグラード放送二十一時五十七分であったという。それから毎夜、「リリー・マルレーン」は決まってこのロシアの凍てついた小さなタコつぼを訪れた。
「この歌詞がわかりますか、ここです。これが私なのです」
といって、氏は「リリー・マルレーン」の五番の歌詞を指さした。
――静かな部屋の奥から、|大地の暗い底から《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、君のやさしい唇が、私を夢のような気持にさせる。名残りの霧がひろがるとき、またラテルネ(街燈)の下に立とうよ、あのときのように、リリー・マルレーン――
「大地の底から、ラテルネが見えるのです。そこに、リリー・マルレーンが居るのです。わかりますか。一歩外は、すべて死の世界です。リリー・マルレーンを、毎晩、毎晩、どんなに待っていたことでしょう。口では表現できません。ただ、戦いの終りを、平和を祈っていました……」
僕がその時、ディートリッヒが吹き込んだカセット・テープを持っているというと、氏は久しぶりに是非聞かせてくれ、といった。最初に英語のリリーが出てくると、氏は「ダメ」と手で制した。僕もすぐ気がついて、ドイツ語の方をかけ直した。
ヤロシュ氏は、さすがに感無量の思いで、この歌に聴き入っていた。途中何度か、テープに和して、小さな声でこの歌を歌った。そして、もう一度聴いた。黙って、じっときき耳をたてていた。そして、やがて僕の方を向いて、悲しげな表情で、こう、一言いった。
「違う。これはララの歌じゃない――」
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4 ドイツは終戦記念日に
何をするのか?
一九七四年四月二十日――。
この日の夕方、ヨーロッパ行きのジャンボ機の片すみで、膝小僧をかかえながら僕はアッという間に飛び散ってゆく日本を、上空から眺めていた。引きずりこまれるように、といってもいいかも知れない。とにかくジェット機の窓からみる暗くなった闇の彼方には、ベルリンの霧にともる、ラテルネの灯があった。
「ベルリンに行く」とはいって出かけてはみたものの、実は格別にヨーロッパに対する知識や関心があったわけではなかった。飛行機の旅は馴れてはいるが、知っているのは東南アジアの一部だけで、白人社会というのは昭和四十八年一度オーストラリアに行ったことがあるだけである。
その時の体験によれば、正直いってオーストラリアの風土は僕の肌には合わなかった。白人社会の間には僅か十日余り滞在したに過ぎないが、仕事の方はともかく、「生活」という点では、全くうんざりさせられたのを、身に沁みて覚えている。夜はあらゆる店がピタリとヨロイ戸を下してしまうし、夜食を食べる手軽な食堂もない。土、日となったら、もう手も足も出ない。石と緑の砂漠である。僕のような気ままな生活を楽しむものにとって、日本とは何もかも違う「西洋」は、決して「行きたい場所」ではなかった。
しかし、「リリー・マルレーン」の魅力は、その重い腰を上廻るほどのものだった、というほかはない。四月二十日、という日を選んだのは、「ドイツの五月は素晴らしい」というヨーロッパ体験者たちの言葉を鵜呑みにしたのがきっかけだが、一つには、「ベルリン陥落」の五月二日に、ベルリンの土の上に立ってみたい、という単純な発想にもよるものである。そして、出来れば、五月一日のメーデーを「東ベルリン」で見たかった。更に欲をいえば、五月八日――つまり、日本の「八月十五日」に当るドイツの「終戦記念日」――には、ドイツ人たちはどんな風に「戦争」を反省し、マスコミはそれにどう反応してきたかも、きいてみたいと思った。
出発前、どういうコースをどう辿れば「リリー・マルレーンの旅」になるのか、ヨーロッパ地図を眼の前に置いて、何回か考えてはみた。しかし、「西洋」に弱い僕としては、どう考えても具体的なイメージは浮ばなかった。結局のところ、出発までにやったことといえば、自動車の国際免許をとりにいったことと、ユーゴ大使館を訪れて、ユーゴに関するパンフレットを数枚もらってきたぐらいのことである。自動車は、オーストラリアの経験に基づいて、何かの時には必要ではないかと思ったし、ユーゴスラヴィアに関しては、出来ればベオグラード放送局を記念に一度訪れてみようと思ったからである。
「ユーゴ」という名前を出したとき、さすがに博学多識の僕の友人たちも、余り多くのことを知らなかった。品川にある在日大使館で、日本人の職員に、
「ベオグラード放送局というのは、よほど前から連絡しておかないと入れないのでしょうか?」
ときくと、彼は、
「さあ、何しろ私も実はまだユーゴには一度も行ったことがないので……。何なら向うのツーリストに連絡しておきましょうか? ベオグラードには、何日にお着きになるのですか?」
と、REVIJA編「ユーゴスラヴィア」という立派な単行本を僕に手渡して、何度も親切にそういってくれた。僕は、
「ええ、行くことは行くつもりなんですが、何しろ、まだ全くスケジュールが立っていなくって……」
とその好意すら受けることができなかった。事実、その時の心境では、本当にベオグラードまで辿りつくことができるのか、われながら半信半疑なのであった。
東京から北廻りでフランクフルトまでの旅は、予想外に長かった。周囲の多くの客たちは、よほど旅馴れているのか、うまい恰好をして寝ていたが、僕は二時間とは寝つかれなかった。頭の中では、絶えず例のディートリッヒの「pack is light」という「リリー・マルレーン」のメロディが鳴り続けていたが、実際には心は鉛のように重かった。三十分毎に窓から下を見ては、やがて現われるに違いないヨーロッパの大地を待ち侘びた。
出発してから十五時間目ぐらいに、ふとしたことから隣りの人と話をするようになった。彼は商社マンで、これからドイツに向うところだった。何回もヨーロッパを経験しているらしく、
「ドイツに行かれるのだったら、まずドイツの規則をお守りなさい。そうすれば、ドイツは必ずあなたを守ってくれます」
といった。この言葉は、あとで考えれば全くその通りだったのだが、日本の生活のルールすら守れない僕が、ドイツの規則を守れとは、何とも重苦しい話だった。第一、僕はドイツの生活なるものを、全く知る暇さえなしに、日本を飛び立っているのであった。すべてはフランクフルトに着いてから、ゆっくりヨーロッパ地図を眺めて、考えるつもりだった。
フランクフルトの上空近くにさしかかったとき、はじめて雲の合間から、ドイツの大地が見えはじめた。それは、強烈な第一印象からいわせて頂けば、日本とは全く比較のしようもないほど、豊かに緑色に拡がった、フラットな大地だった。オーストラリアほどの広大さではないにしても、ドイツと日本との「豊かさ」というもののケタは、完全に一ケタ違うことが、たった一眼見ただけでイヤというほど身に沁みた。その大地の中心を、細く、長く、無限に引かれた白い線のようなものが横ぎっているのが、否応なしに眼にとびこんできた。
「あれが、アウトバーンです」
商社マン氏は説明した。
「どこまで行っても、全部タダです」
タダ? タダとは知らなかった。日本の高速道路を全部タダにしたら、どのぐらいの車が路上に充ちあふれるだろうか? それよりも、道路公団のえらい人たちは、明日にも暖かい椅子を奪われて、地団駄をふむだろう。そのアウトバーンは、上空から見ると、何百メートルに一台位の感じで、オモチャのような自動車が、ゆっくり動いているのがみえるだけだった。彼は、僕の気持を見透すように、
「ドイツは何しろ、平地面積では、日本の六倍もありますからね」
と、僕に止めをさした。
フランクフルトの空港から市内まで、まるで森の中を抜けるような美しい道路がスイスイ走れるのを見て――無論、これは「高速」ではなく「普通」の道路である――僕は迷わず車を買おうと決心した。そうなると、矢もタテもたまらず買いたくなるのが人情というものであろう。日航のフランクフルト支店を訪れて、まずきいたのは「自動車はどこに売っているか?」である。自動車屋は、すぐ近くにあった。
フランクフルトの中古自動車屋の前に立って、僕は少なからず興奮していた。僕は自動車に乗りはじめて十五年位のキャリアがあるが、「外車」というものには、まだ一度も乗ったことがない。いま乗っているのも、コロンボ刑事並みの、グロリアのオンボロ車である。ここの「中古屋」には、胸をときめかすような「外車」が百台近くも魅力的に体を休めていた。かなり程度のいいベンツが百五十万円ぐらいで売っていた。「ワーゲン・ビートルズ」に至っては、三十万円も出せばピカピカのものが買えた。
「車でどの辺までゆくつもりですか?」
ときくので、
「ベルリン、パリ、ベオグラード……」
というと、
「それではビートルズではちょっと苦しいですね、もうちょっと上のがいい。KL70なんていうのはどうですか。これは割安ですよ。百七十キロまでなら、間違いなく出ます。それとも、ベンツにしますか? これなら、二百キロ出ても、安全運転です」
と、僕を連れていった人は、事もなげにいった。
「いや、百七十キロで充分です。売るときは、半値ぐらいですか?」
「半値なら、ここでも引きとるといっています」
KL70は、対人、対物二億円とかいう保険をかけさせられて、約八十万円位だった。これで、持っていった金の半分位がとんでしまったが、「外車」を手に入れた気持は、また格別だった。
「標識はわかりますね。それから、道路に右折の矢印のあるレーンに入ったら、たとえ直進したくても右折しなければいけませんよ。スピードは、この車なら百五十キロ厳守ですね。それから、駐車違反はわかりますね。ドイツ人は厳格な性格です。エチケットは守って下さい。ところで、これからのスケジュールはどうなっていますか?………」
初めて「外車」のギアを手にした僕に水をかけるように、彼はそういった。ジェット機は間違いなくドイツに僕を運んでくれたものの、僕はドイツの標識はおろか、ドイツ語の「ド」の字もわからず、あとのスケジュールなど、まだ何一つ手についていないのであった。
ホテルに帰って、車ごと人道に乗りあげる「ドイツ式駐車」(これが「違反」かどうか、今もって明白ではない)を終えると、買って来たヨーロッパ大地図をひろげながら、考えこんだ。日本を出発するとき、ドイツ・ポリドールのKさんという人への紹介状を一通もらってきたのだが、電話をかけたらいなかったし、第一、ポリドール本社のあるハンブルグまでは、「一センチ三十キロ」という地図によると、二十センチもある。つまり六百キロである。
一番最初に出来ることは、実に他愛のないことだが、いくらかでも|ゆかり《ヽヽヽ》のある日航フランクフルト支店に勤めているドイツの女性たちに「あなたはリリー・マルレーンを聴いたことがありますか?」と、日本でやったと同じことを繰り返すことだった。どんなに単純であろうとも、とにかく当っているうちに、自然に運がひらけてくるというのが、いわば僕の手口である。こうして、「リリー・マルレーンの旅」の第一歩は、極めて迫力のない取材からはじまった。
お嬢さん方たちの答えは、すべて簡単な「イエス」であった。「どんな風に知っているのか?」という僕の重ねての質問が理解できないほどに、それはドイツでよく知られた曲なのであった。逆にいえば、「リリー・マルレーンを知っているか?」という質問は、日本人に「軍艦マーチを知っているか?」ときくのと同じように、質問自体が意味をなしていなかった。
そこにいたドイツのお嬢さん方が、日本から「リリー・マルレーン」を質問に来た男をどういう眼で眺めていたかは、外人である僕には、とてもわからない。「そういうことなら、テレビ局にきいたら……」とか、中には、「たしか昨年だったかしら、テレビで誰かが歌っているのを聴いたことがある」という人もいた。
こんなとき、精一杯の協力をしてくれたのは、フォレスター夫人である。フォレスターさんは名前はドイツ人だが、大正生れの純然たる日本人だった。戦前日本でドイツ人と結婚し、戦後夫の母国に移ったのだが、数年前ご主人を亡くされたので、日本語とドイツ語の堪能さを買われて、日航に勤めていたのである。
僕は今でも、最初にこのフォレスターさんに出会うことがなかったら、ヨーロッパでの取材は惨々な結果であったろうと、しみじみ反省している。彼女は放送局に電話をかけてくれ、「リリー・マルレーンを扱った番組を放送したことはないか? この歌について、くわしい人はいないか?」を、丹念に問い合わせてくれた。返事はすぐにはなかったが、彼女は仕事の合間をみては、嫌がらずにこの面倒な注文を、何回も繰り返した。
フォレスターさんは、「リリー・マルレーン」を二十年位前、スイスで毎日のように聴かされたという。フォレスター氏がスイスでの仕事の時に雇ったお手伝いさんがドイツ人で、いつもこの歌を口ずさんでいたからである。
フォレスターさんは、僕がこの歌|だけ《ヽヽ》のためにドイツまでやって来たことを、信じてくれた最初の人だった。
「私はこの歌が、とても悲しい調子を帯びているのがとても気になっておりましたが、戦争中のドイツ人は、本当にこの歌を好んだようでございますね。でも、若いお嬢さんたちにおききになっても無理でございましょう。歌そのものは知っていても、それ以上のことはご存知ないと思いますね。この通りのレコード屋さんには、行ってご覧になりましたか?」
フォレスターさんのいう通りだった。僕がフランクフルトに降りて、本当は古自動車屋より先に行きたいと思っていたのは、レコード店だった。レコード店もまた、日航の事務所から二百メートルと行かないところに、一軒あった。
はじめに、レコード屋さんに入った時のことも、また忘れ難い。僕はひとわたり店内をぐるりと廻りながら、早まる胸を抑えるような気持で、
「リリー・マルレーンはありますか?」
ときいたのである。店員の中年婦人は、心得顔にうなずいて、すぐ一枚のLPを持ってきた。それは僕にはすでにおなじみの、ディートリッヒのレコードだった。僕が頼むまでもなく、彼女はプレイヤーにかけて、音を出しはじめた。ディートリッヒ吹きこみには、五種類の「リリー・マルレーン」があって、三種類は英語、二種類はドイツ語であることを、日本で調べて既に知っている。ここで試聴したのは、そのドイツ語の方の、ベルリン公演でのライブ・レコーディングのものであることが、僕にはすぐにわかった。
この時彼女は、
「モメント」
と僕を見て、別のレコード棚からもう一枚のレコードを持ってきた。そこには、僕があれほど探し廻った Lale Andersen の名前の入ったジャケットが、まるで魔法のように、何の苦労もなしに眼の前にあった。
「成程、これがララ・アンデルセンねえ……」
僕は思わず日本語で、そうつぶやいた。それほど、このレコードの出現は僕にとって劇的だった。僕はディートリッヒのかわりに、直ぐこのレコードをかけてくれるように、彼女に頼んだ。その時初めてあの長い間まぼろしにすぎなかった彼女の声を、現実に耳にしたわけである。
非常に意外だったが、それは極めて鮮明なステレオ録音だった。彼女は晩年にも「リリー・マルレーン」を吹きこみ直していたのだろうか。その声は僕が抱き続けていた想像より甘く、決して「しわがれ声」ではなかった。むしろ「優しい声」とでもいうのだろうか。そしてもし、ディートリッヒのものを「凄さ」という言葉で形容するならば、アンデルセンの歌は「親しみ」という形容で表現できるかも知れない。
「ディートリッヒのリリー・マルレーンはいい。しかし、ドイツ人は、アンデルセンのリリー・マルレーンがより好きなのです」
レコード店の婦人は、わかり易い英語で、そういった。僕は再度試聴を頼みながら、読めないドイツ語のジャケットを見つめているうちに、ふと1913という数字が眼に入った。
「ララ・アンデルセンは一九一三年の生れですか?」
「そうです。彼女はドイツでは有名な歌手です。然し、彼女はもう死にました」
僕はララ・アンデルセンが「リリー・マルレーン」を最初に吹きこんだ「歴史的な人物」ということで、すっかり錯覚していたのだが、実は彼女はディートリッヒより十二歳も若く、つい最近まで「現役」の一角を占めていたらしいのである。むしろ「歴史的」なのは、ディートリッヒそのものの方かも知れなかった。
僕はこの話をフォレスターさんにした。彼女は、
「そうでございましたか。そう……」
とうなずいて、しばらく考えていた。自分の戦後三十年近くのドイツ体験を、僕がレコード店で受けた体験にどうスライドして考えるか、言葉を探しているようでもあった。
やがて彼女は、やや遠慮勝ちに、「ディートリッヒよりもアンデルセン」といった言葉を、こう説明した。
「私は戦前の日本育ちの日本人として、こちらに参りまして、そういう憎悪と申しますか、はげしい感情と申しますか、そういうものが、こちらの方たちと私どもと全く違うということを最初に感じさせられました。しかし、それはドイツ人ということではなく、地続きの国境というものをもつ世界の大多数の国々と、単一民族、単一国家という世界でも稀な国に生れ育った私どもとの違いのようにも思えます。日本人は、よく水に流すと申します。世界の文明に対して開放的で、過去のものを、どんどん忘れていってしまいます。国と国との生存競争ということで、ヨーロッパのような烈しい戦いの歴史をもっておりませんね。しかし、例えばドイツの方たちは、まず自分を守る。自分を守るためには、自分の集団を守る。そして、勝ったことも敗けたことも、決して忘れません。自分を守るのに厳格だから、他人にも自分の社会のルールを守らせます。そのルールを冒した者に対しては、法律が罰するのではなく、社会が罰します。無論、アメリカの南部の劇にあるような、私的制裁はありませんが、それだけ社会のルールを守るということに対しては、子供の頃から、とても厳しい|しつけ《ヽヽヽ》が常識なのです」
例えば――と、彼女は自分のアパートでの生活を例に、こんな話をした。夜十時頃、扉を叩く音がするので外を見ると、パトロールの警官が立っている。「あなたの家では、|夜十時だというのに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》お風呂に入ったのではないか?」というのだ。そのような「一一〇番」が警察に入ったというのである。もし、日本人の貴方なら、こんなとき何と答えるだろうか? 少なくとも、|ドイツ人《ヽヽヽヽ》である彼女は、この警官に対して、まじめに、こう答えなくてはならない。
「それは何かのお間違いと思います。私はたしかに入っておりません。バスも、この通り、冷たくなっております」
日曜日は、教会の教えに従って「安息日」である。安息すべき日には、無論働いてはいけない。洗濯もいけない。もし日本のサラリーマン並みに、マイカーを洗ってなどいたら、周囲から笑われるだろう。アパートに入るとき、パーティは年一回とか二回とか決められる。それ以外の日に、夜中まで騒いでいてはいけない。パーティの日は、アパート中に招待状がくる。しかし、それをもらったからといって、ノコノコ素手で出かけるようでは、これまた物笑いの種になるだろう。この招待状は「今夜は騒ぎますが、今夜だけですからよろしく」というお詫びの意味なのである。僕はこの時、出発前読んだ犬養道子さんの『ラインの河辺にて』に「土曜日の午後や日曜日に用事の電話をかけることなどは、気狂いじみてばかげたこと」と書いてあった意味を、はじめて理解した。さしずめ、深夜や土曜、日曜だけを選んで仕事をしている僕などは――土、日は会社が休みだから、これは当然の結果なのだが――ドラキュラ並みの狂人ということになるのだろうか。
犬養さんのルポによると、商業都市ケルンの人口一人当りの緑地は六十平方メートルだそうである。フランクフルトは、西ドイツ中でも最も下種《げす》な街として知られ、日航支店のある駅前通りにはポルノ・ショップやいかがわしいバーが林立し、アメリカ駐留軍のおかげで「夜の女」もドイツ随一の数であるというのが通説なのだそうだが、それでも「一人当り六十平方メートルの緑地」は、恐らく充分に確保されているだろう。ドイツの街の美しさ、豊かさは、僕の想像を遥かに上廻っていた。
僕は買ったばかりの車を、恐る恐る運転しながら、「標識」とにらめっこで、アウトバーンを小走りし、レストハウスでソーセージをつまんだ。郊外の豊かな緑は、日本人の眼からみれば、夢としかいいようがない。そして、その完璧な「標識」は、初めてドイツの地上を走る、然もドイツ語を解さない僕ですら、行先を迷わせないほど、完璧なものだった。
唯、右側運転に馴れない僕にとって、「左折」は大変な難事だった。矢印通り、右へ右へと曲ってゆくと、何回行っても、またもとの道に出てしまう。エイとばかりに、強引に左折をすると、対向車の一台が、クラクションを鳴らして追いかけてきた。僕は車を降り、後から来た車に一礼し、「どうも馴れないもんですから、申しわけありません」と、|日本語で《ヽヽヽヽ》、謝った。後の車から降りてきた中年の婦人は、何やらドイツ語で注意し、僕の車のナンバーをうさん臭げに手帳に書きこむと、やがてUターンをして、|もときた道《ヽヽヽヽヽ》を引き返していった。
はじめの数日間は、とにかく|何か《ヽヽ》を体験するところからはじめなければならなかった。例えばベルリンに行くとしても、ベルリンに何かの|つて《ヽヽ》がなければどうしようもなかったし、その「行く方法」も教わらなければならなかった。そしてそれはまず「待つ」ということだった。
ベルリンの誰かに電話をする。いない。待つ。ボンの日本人新聞記者に電話をする。いない。待つ。電話をかけてもらう日本語とドイツ語の出来る人がいない。待つ。昼食時間が来る、待つ。そして、午後五時になれば、すべてが終りである。パン屋に、パン一切れすら売っていない。いかがわしいバーやビア・ホールのほかは、すべて閉まっている。人がいるから、散歩もするのだが、誰もいない石の砂漠を、歩こうという気もしない。
ビア・ホールも馴染めなかった。たしかにそこには、人がいた。しかし、狭いホールの中に親しげに話をしているグループをみていると、かえって孤独が身に沁みた。彼等は一切の「おつまみ」を口にせず、唯ひたすら話をし、ビールを飲んでいるのであった。
日本人の僕の眼からみると、どうしようもないほど整然と管理されたドイツ社会の中で、僕が最初に見つけたオアシスは、意外にも上野駅のように小汚ないフランクフルト駅であった。ここには夜十時になっても売店に灯がともり、終着駅らしく、夜行でどこかに行こうという男を見送る女の淋しい影があった。そして、どう見てもドイツ人とは思えない人相の男が寄ってきては、僕がブラ下げている小型のテープレコーダーを指さして「売るのか?」などと話しかけてきた。「何国人か?」ときくと、殆んどがトルコ人かユーゴ人か、或いはイタリア人であった。
僕はお上りさんらしく、罐入りのビールなどをあけながら、彼等を眺めていた。ドイツまで出稼ぎにきて、恐らくあの厳格なドイツの管理社会に入り切れない「ヨソ者」たちが、終着駅の構内でひそかに故郷に想いを馳せているのが、僕には痛いほどよくわかった。駅の売店には、イタリア語の「プレイ・ボーイ」や、ユーゴの大衆雑誌などが、ドイツ語の「プレイ・ボーイ」と同じぐらいの量でつみ重ねられていた。つまり、それほどの数の「外国人」が、ここでは働いているのである。
僕は「ビア・ホール」で感じた孤独感がここにはないことに気がついていた。それは、はじき出された「外国人同士」のもつ親しみかもしれなかった。中で、ユーゴ人と名乗る一人が、僕が日本人であることを知ると、「ウェルカム、ジャパニーズ」を日本語でどう書くか、正確に紙に書いてくれ、と僕にせがんだ。僕が「日本人の方、歓迎します」と日本語で書くと、彼は何度も「ダンケシェーン」をくり返し、その紙片を握って立ち去った。恐らくどこかのポルノ・ショップの入口に、この文字が張り出されるに違いなかった。
フランクフルト駅で気がついたもう一つのことは、改札口というものが一切ないことである。二十番線ぐらいの中に数台の列車が入っているが、誰でも自由に乗り込み、そして降りることができる。僕は最初ある人を郊外に訪ねたとき、「電車で来る方が、道に迷わないから」というので、指定された番号の電車に乗った。入口には何もないし、降りた郊外の駅にも、駅員は一人もいない。唯、不要の切符を入れる箱が置いてあるだけである。
駅前には何もない。唯、緑にかこまれた住宅がひろがっているだけで、ラーメン屋もなければ交番もない。数人降りた乗客はたちまち散ってしまって、唯一人無人の緑の中に取り残された僕は、訪ねる人の所番地を握ったまま、砂漠の中の一人のようであった。
「全く恥しいけど、その時、走ってきた自動車を、手を振って止めたんです」
数日後知り合いになった日本人留学生に、僕がそう報告した時、彼は、
「駅が無人であるという淋しさと厳しさと豊かさは、並立しているものなんです。日本には、その三つのどれもないんですね。その自動車は、親切にしてくれたでしょう」
と、すぐ推理した。彼がいう通りであった。その止ってくれた自動車は、僕を目的地まで運んでくれ、当然のことをしたように、|もときた道《ヽヽヽヽヽ》を引き返していった。「最初の体験」でいい忘れたが、ドイツ人は、全く心から親切なのであった。
「待っている」間、僕は映画を見たり、本屋をのぞいたり、若干心当りの人を訪ねてみたりして、日をすごした。ミュンヘンにも行ってみた。無論、至るところで、レコード店には入ってみた。この間受けたさまざまな感想を、うまく統一的には表現できない。
映画は二、三本みて、すぐ飽きてしまった。そういえば、戦後日本で「ドイツ映画」なるものに殆んどお眼にかかっていないが、僕が見た限りでは「日活ポルノ」の方が遥かにすぐれていた。ドイツは無論、ポルノ解禁だが、そんなこととは関係なしに、すぐれた映画を作り出す底力は、映画界にはないようだった。そのことをミュンヘンのある評論家に話したとき、彼は、
「ナチがすぐれた芸術家を大量に追放してしまったから……」
と苦しそうにいったが、僕は直観的に、この芸術的な創造力の衰退というものと、「素晴らしく管理された豊かな社会」とがどこかでつながっているような気がしてならなかった。
本屋で僕の眼を射たのは、何といっても派手な赤い「カギ十字」の表紙で人々をびっくりさせた雑誌「第三帝国」の創刊だろう。この雑誌のことは、ドイツでもいろいろな関心が払われていた。一九七四年になって、「今さらナチの回顧を……」という当惑と同時に、「今だからこそ、それを冷静に見つめることができる」という説がからみ合って、少なくとも、この雑誌が評判を呼んでいることは事実だった。
このことについては、帰国後、昭和四十九年九月十日の「読売新聞」に載った「ナチ再現の西独」という、ボンの小林特派員の記事が、よく核心に迫っていると思われるので、それを引用させて頂きたい。
西ドイツの書店や駅の売店では今年の春から、色刷りでヒトラーやゲーリングの写真を表紙にした雑誌「第三帝国」が派手に店頭を飾り、行きずりの市民がふと足を止めている光景をよく目にする。また分厚い伝記「ヒトラー」(フェスト著)もしばらくベストセラーのトップに立っていた。わずか十二年の間にドイツを絶望のどん底から、欧州を制覇する勢力に築き上げ、その後再び破局へ追い落としたこの男への関心は、最近また広がりつつあり、静かなブームを呼んでいる。
こうしたブームから、すぐさまナチズム再興の危険を推測するのは明らかに的外れだろう。雑誌「第三帝国」もナチ思想をおう歌しているわけでなく、内容は当時の記録をもとにした歴史的な記述ということになっている。その意味では西ドイツにおけるナチ物の流行は、世界的な歴史ブームの一環といえるかもしれない。
ハンブルクの中央駅近く、レンガ造りのビルの一角に陣取る「第三帝国」編集部にクリスチャン・ツェントナー編集長を訪ねると、「イギリスでは週刊第二次大戦史≠ェよく売れているし、フランスやオランダにも同様な雑誌が出ており、ドイツでも売れないはずがないと思った」と同誌出版の動機を説明してくれた。同編集長によると「ナチズムを賛美するのでもなく、けなすのでもなく、できるだけ客観的に記述する」のが雑誌のねらいだという。だから編集部員は、軍事問題の専門家一人を除いてみな戦争体験のない若い人たちばかり。そういうツェントナー氏も三十八歳で、戦争の記憶はほとんどない。戦争でゆがんでいない世代が、戦争後、永い間抑えられてきた十二年間の空白の史実≠ノ素朴な疑問をぶつけ、それと取っ組んでみようというわけだ。
ツェントナー氏によると第二次大戦後、ナチズムに対する評価は四つの段階を経ているという。第一期はだれもかれもがナチズムをけなした時代、第二期がナチにかかわりのあった人たちの回想録の時代だが、弁解じみたものが多かった。ついで第三期の学問的な研究の時代を迎えるが、発表されるのは厚くて高価な本ばかりで大衆には手がでない。そこで第四期の大衆化の時代が来る。
面白いのは、これまでヒトラーは気違い=Aそれに従ったドイツ人も愚鈍≠セ――といわれてきたドイツ人にとっては、客観的な叙述が一種の救い≠ナあり、これが同誌の人気の秘密だどいう。読者層は意外にもティーンエージャーから六十代まで、ほぼ均等に広がっているが、これは歴史ブームの幅広さを物語るものだろう。
ところで客観的な記述≠ネるものを拝見してみよう。「第三帝国」の最新号第十三号の巻頭は一九三七年から始められた第二次四カ年計画≠フ説明、「われに四年間の時間を与えよ」というヒトラーの言葉を表題にしたナチ時代の本が長々と引用されている。(中略)ルーズベルト大統領のニューディール≠ニヒトラーの四カ年計画≠比較した説明のなかに「総統と大統領は危機と闘い、それを克服しようとした点で似ている。二人は最初に取り組む課題を同じように決め、同じような手段を選んだ……こうした関連を十分に説明するのが、永い間タブーだったことはよくうなずける」というくだりがある。
ヒトラーとルーズベルトを同列に扱うのはいささか大胆すぎるのでは、とみるのは古い偏見だろうか。こうした説明にドイツ人が救い≠感ずるのはよくわかるが、アメリカ人が読んだらいい気持はしないだろう。同誌の真ん中ごろに強制収容所の報告があるが、当時のチェコの新聞を引用する形をとっており、判断の足がかりが与えられていないのはどこか物足りない。「ナチズムの再興はありえない」と断言するツェントナー編集長の論旨はわかるのだが、形式的な客観主義はかえって黒い歴史≠アク洗いし、奇妙なノスタルジアをかりたてるだけではないかとの疑問は残る。
事実「第三帝国」が発刊されてから同誌に対しては「あまりに国家主義的」だとの批判が絶えない。同誌に寄せられる投書のうち一〇%は左派からの批判だとツェントナー編集長は語っていた。もっとも左翼偏向という右派からの批判も二〇%ぐらいあるという。
こうした批判のせいか、最初三十六万部も売れた同誌だが、近ごろでは十二、三万部に落ちてきた。ツェントナー編集長によると売り上げ低落の理由として第一に考えられるのは、これまで内容がやや学問的にすぎ、難解だったこと。第二に同誌は年代を追ってナチズム発展を描き出しているが、いままではナチの政策、計画といった地味なテーマが多かった。そこで同編集長は当初二十五号からの予定だった戦争の記事を早めて十七号から掲載することにした。
「戦争物はよく読まれるから」とツェントナー氏は楽観的だっだが、どこまで読者に訴えるかが見ものだろう。
実は雑誌「第三帝国」について長い説明をさせて頂いたのには、わけがある。この「第一巻」には、「参考資料」としてソノシートがつけられており、ヒトラー、ゲッベルスの声は無論のこと、チャーチルやチェンバレンや、ルーズヴェルトの有名な演説などが数多く収録されているのだが、その中で「ナチ時代」の歌として、二つの曲が紹介されている。一つは「フォルスト・ヴェッセル」、もう一つが、何と「リリー・マルレーン」である。そして、どうもそのか細くきこえる古めかしい録音のものが、ララ・アンデルセンが初めに吹きこんだものではないかという疑問が湧いてきたからである。
だがそれにしても、かの悪名高き「フォルスト・ヴェッセル」と並んで|こ の 歌≪リリー・マルレーン≫が登場するとは、一体どういうことであろうか。ここで「フォルスト・ヴェッセル」という曲をご存知ない若い方たちのために、ごく簡単にこの曲の背景をご紹介してみたい。
一九三〇年二月、フォルスト・ヴェッセルという一人のドイツ人が死んだ。一九三〇年というのは、ワイマール共和国最後の時代で、ディートリッヒの有名な「|嘆きの天使《ブルー・エンジエル》」がこの前の年に作られているとご記憶頂きたい。
戦後の多くの史家の伝えるところによれば、フォルスト・ヴェッセルは「ポン引」で、仲間のアリ・ヘーラーという男と喧嘩をして殺された。だが、ヴェッセルはナチの党員であり、数年前に、小さな政治的な詩を、ナチの機関誌である「攻撃」に出したことがあった。
この詩は、当時若いコミュニストの間で歌われはじめていたある曲の|ふし《ヽヽ》とよく合った。当時のナチ党少壮幹部であるゲッベルスは、これを巧みに利用し、「ヴェッセルの死」を党葬として、自ら追悼講演を行ない、この歌を葬儀の式上で発表した。この歌はやがて、ナチ運動のテーマソングとなり、ナチ体制のあるところ、必ず歌われた。
(挿絵省略)
このメロディを日本人の中年以上の人なら、必ず知っているはずである。
一九三三年、ナチは政権を握る。この時、ドイツ人口五千万に対して全国のラジオ台数は「百万を越した」と記録されている。だが、日本の「テレビ」が「皇太子ご成婚」や「東京オリンピック」を大きなテコとして急成長したと同じように、「ベルリン・オリンピック」は、ドイツ国内に急速なラジオ普及率をもたらした。一九三八年には、ドイツにはもう一千万台からのラジオがあった。「フォルスト・ヴェッセル」はこの新しい機械から、毎日のように流された。歌は、立派な「武器」の一つであった。
僕はフランクフルトのレコード店で、若干冗談めかして、
「フォルスト・ヴェッセルはあるか?」
ときいたことがある。男の店員は、当然のことのように「ノー」といった。しかし、考えてみれば、これはおかしい。日本のレコード屋には、どこでも「さらばラバウル」も「海行かば」も売っているし、「軍艦マーチ」は、今でも「軍隊キャバレー」や「パチンコ屋」になくてはならぬ「隠れたるヒット曲」ではないか。
日本人は、過去のことはすべて「水に流して」きれいさっぱり忘れているのだろうか。それでは、毎年厳粛にくり返す「ああ八月六日、広島の悲劇」や「八月十五日の反省」のフェスティバルは一体何なのか。あれほど厳しいドイツ人は、「終戦記念日」である五月八日に、一体どんなフェスティバルをやるのか?
ドイツに着いた早々、現地で紹介された数人のドイツ人やフォレスター夫人などにそのことをきいてみたら、「さあ?……」と皆首をひねった。何もやらないのである。第一、ドイツは「終戦」したのではない。「カピツラツィオン」(降伏)したのである。そして、自分の手で「ナチ」のクリーニングを行なった。ナチで羽ぶりをきかしていた人たちにはいろいろな形で制裁が加えられ、SS(ナチ親衛隊)にいた、というだけで、若者も大学からしめ出された。同じ頃、日本の士官学校の生徒たちは、国立大学に再入学出来たはずである。
だがそれらのことと、僕がレコード店できいた「ディートリッヒよりアンデルセン」というニュアンスの発言とは、どう考えても大きく喰い違う。ディートリッヒの勇気ある行動は、「西欧的民主主義」の模範生となった西ドイツで高く評価されて当然である。事実、戦後亡命していた学者、芸術家、政治家は次々にドイツにカムバックし、「民主主義者」としての地位を確立した。
それにもかかわらず、フランクフルトのレコード店での僕の初体験は、決して偶然ではなかった。「ディートリッヒよりララ・アンデルセン」という一つの風潮――「風潮」という表現はおかしいが、これは「主張」でもなく、「押しつけ」でもない――は、南のミュンヘンでも、北のハンブルグでも同様だった。無論、インテリやジャーナリストなどは、ディートリッヒのあり方を絶賛する。だがそれでも、「ララ・アンデルセンは、決して無名≠ナはありませんよ」と、僕の無知をたしなめることも、決して忘れなかった。
ミュンヘンで、ルフトハンザの支店長のお父さんが「もと軍人」であるというので、お会いしたことがある。見るからに「よきドイツ人」で、優しさと親しみを終始忘れることなく、遠来の僕を迎えてくれた人だった。彼は海軍の下士官で、「ヒトラーが、やがて戦争が、こんな結果をもたらすとは、平凡な一市民である私など、想像もできなかった」と、まずありきたりの回顧からはじまった。
話が「リリー・マルレーン」に及ぶと、
「海軍でも、あの歌は、いつも聴いていましたよ、あの歌は、まだ私の人生が若く、理想につながっていた頃を思い出させるので、素晴らしいものだと思っています。ララ・アンデルセンも若かった。私も若かった」
と続けた。ところが、何げなしに僕が、
「マレーネ・ディートリッヒは……」
と誘いをかけると、彼はその時急に肩をすぼめて、
「フィー」
といったのである。
「フィー? それは、どういう意味ですか?」
と息子さんの方を見ると、この、若きドイツの知識人である彼は、困ったような顔をして、にが笑いしながら、「あとで、辞書を引いて下さい」といった。
「Pfui」辞書には「深い軽蔑の感情を現わし、ツバをはきかける時の擬声語」とある。僕は水をかけられたような気持になって、このことを、再度息子さんに尋ねてみた。
「あなたのお父さんは、もと軍人だから、ドイツに敵対したディートリッヒに対して、特別の感情を抱いているんですか? それとも、ドイツ人一般の中に、そういう感じがあるのですか?」
「むずかしい質問です」
彼は、この時も首をすくめた。
「世代や立場によって反応は違います。だから、そうだともいえるし、そうでないともいえるのです」
賢明で、慎重な答えだった。しかし、この話を日航の事務所に帰ってしてみると、ドイツ人のお嬢さんの中には「ディートリッヒがそういわれるのは当然ね」と、簡単にいってのける人もいた。他のお嬢さん方も、敢てこの代表意見に異をさしはさむ様子もなかった。
ディートリッヒもアンデルセンも、ともに「第二次ヨーロッパ大戦」を体ごと生き抜いてきた女性に違いない。そして、この二人によって戦後二人の「リリー・マルレーン」という双生児の姉妹を今日にまで残してきたようだ。僕は、一九七四年の平和なドイツに、いまなお生き続ける、全く異質な二人の「リリー・マルレーン」の素姓を、もう一度洗い直してみたいと思いはじめた。
数日のうちに、各方面への連絡は思いがけなく進展した。ドイツ・ポリドールのクラム氏からは「出来る限り資料を探してあげましょう」と返事があって、図書館や新聞社などを飛び歩いてくれたし、マインツ放送局には、「たしかにリリー・マルレーン≠フドキュメント・フィルムを見た記憶がある」という人も現われた。「待つ」時間は、急に短くなった。僕の前には、新聞の切り抜きや、レコードの解説や、ララ・アンデルセンの自伝『空にはたくさんの色がある』などが、たちまちつみ重ねられた。今まで神話的だったララ・アンデルセンの世界が、まるで朝霧が溶けるように、突如僕の眼の前に展開されることになった。
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5 ララ・アンデルセン
その一つの生涯と一つの歌
彼女の恐らく最後のLPと思われる二枚組の「永遠のララ・アンデルセン」のジャケットの書き出しは、こうなっている。
「一九六九年、ザ・タイムス≠ヘ、二十世紀の最も有名な人物の一人に、ララ・アンデルセンをリスト・アップしている。その、誰にも深い感銘を与える物悲しいトーンによって、彼女は数十年にわたり、全世界のファンを魅了してきた」
これは、いわば「惹句」であるが、それにしても彼女が戦後かなりの活躍をしていたことは事実であろう。僕がドイツで買うことのできたLPだけでも、合計十四枚にもなる。そしてこれは、かなりの人気歌手に対して与えられる枚数と思っていい。彼女のレコードには、すべて「海」がその背景になっているのが特徴的である。「解説」は続く。
「彼女の特徴は、その心の中に飾り気のない人間性と、正直な、燃えるような暖かさをもっていることである。彼女には、ブレーマーハーフェンの航海士の娘であるということが、一生涯離れなかった。そして、愛する海のように透き通った心≠ニいうのが、彼女の生涯を貫いた夢だった」
伝記の語るところによると、彼女の生れは一九一三年三月二十三日、北海に近い北ドイツに生れている。父は、いつも家にいなかった。一九三〇年、というから、たった十七歳で結婚したことになる。相手は、如何にも芸術家タイプといったドイツの画家。そこで、次々に子供を生む。十九歳で既に三児の母になった、とも書かれている。どうも、勘定が合わないが、それはまあどちらでもよい。
音楽家へのあこがれは、少女の頃から抱いていたようだ。結婚した頃は、ベルリンの「ドイツ劇場」の俳優学校に通っていた。そこで、小さな役ぐらいはもらったらしい。しかし、ベルリンでは芽は出なかった。二十歳の春、彼女は子供を夫の許においたまま、スイスのチューリッヒからの舞台の呼びかけに応じて出かけてしまう。
彼女は、スイスでは一九三三年から三七年の間に僅かではあるが、「成功」をかちとる。そして「第二の夫」まで一緒に得てしまう。スイス国籍のユダヤ人、メンデルソンである。ここで彼女は、置いてきた子供を引きとり、母も連れてくるが、生活は苦しい。
一九三七年になって、彼女は遂に夫をおいたまま、ミュンヘンに出てくる。ここでルドルフ・ツィンゲという「第三の男」が登場する。彼は、出版されたばかりの小さな詩集『港の小さなオルゴール』(ハンス・ライプ作)を愛していて、特にその中の「リリー・マルレーン」という可憐な詩に惹かれていた。ツィンゲはその詩にメランコリックな曲をつけ、ララに捧げた。ララはこの歌が気に入り、何かにつけてこの歌を舞台で紹介しようとしたが、歌の方も売れないし、彼女自身も一向にパッとしなかった。
一年たった一九三八年、今度はベルリンの「コミカー」というしゃれたキャバレーの仕事場に、「第四の男」が現われる。若き作曲家のノルベルト・シュルツェである。彼も偶然『港の小さなオルゴール』を手にしていて、そのいくつかを作曲していた。その中に「リリー・マルレーン」もあった。ララは、こちらの方の「リリー」にも、ちょっぴり興味を示した。
後年、彼女はこの時のことを思い出して、こう語っている。
「私はツィンゲさんのメランコリックなものと、シュルツェさんのマーチ風のものと、どちらがより大衆に受けるか、テストしてみたい衝動に駈られました。余り望ましい方法ではなかったのですが、その両方を同時に歌ってみたのです。私には、シュルツェさんのものの方が、よりアッピールするように感じました」
一九三九年二月、マネージャーの懸命の努力で「リリー・マルレーン」は、はじめてレコードになる。彼女はこの歌に期待を寄せるが、レコード会社のプロデューサーの方は、むしろ裏面の「三つの赤いバラ」の方が売れるのではないかと予想する。だが、これは両方ともはずれた。「六十枚しか売れなかった」という「伝説」があり、「いや、それは六百枚の間違いである」という説もあるが、どちらにしても、売れなかったことだけは間違いない。ララはここで、はじめて自分の限界を感ずるようになる。
「あせっても仕方がない」。彼女は何回ものチャンスを落し、もう疲れていた。「もう一回地味にやり直そう」と思い、子供をベルリンに呼びよせる。貧しく、つつましやかではあったが、愛情のふれあいのある生活、それでララは結構満足だった。外で何が起きているのか、さして関心もなかった。一日一日の生活が大切だった。しかし「歴史」は、そのような彼女の思いとは無関係に、一歩一歩、大きく足音を立てて、歩んでいた。
一九四一年秋のはじめ、彼女は突然、思ってもみないファンレターの洪水に見舞われた。それは全く、鉄砲水のように、物凄い勢いで、アッという間に彼女を呑みこんでしまった。宛名の名前には「ララ・アンデルセンさま」にまじって、それ以上の数で「リリー・マルレーン様」というのがあった。差出人はすべて前線の兵士たちで、差出地はアフリカが一番多かった。
――アフリカ? リリー・マルレーン? 一体何が起ったのだろう? 彼女が知らないうちに、この世の中に、どんな大事件が起きていたのか?
大事件は起きていたのだ。いや、それはもう、本当は一九三八年の「ミュンヘン会議」の時に、起きていたはずだった。この時点でヒトラーは横車を押して、チェコのズデーテン地方を割譲させたが、イギリスは「平和のために」と歯をくいしばった。ヒトラーは「領土的野心はない」といっていた。多くの人はそれを信じ、少なくとも信じようとした。
一九三九年八月二十三日、ヒトラーはスターリンと「独ソ不可侵条約」を結ぶと、それを待っていたように、九月一日ポーランドに、宣戦の予告もなしに、攻撃を開始する。英、仏はポーランドとの保障義務から、これをきっかけとして正式に「独・英仏戦」がはじまるわけだが、実際にはドイツに対して何の「戦い」も行なわない。以下、簡単にそれから二年間の「ヒトラーの年表」を追ってみる。
一九四〇年
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四月九日 デンマーク占領。
五月十四日 オランダを占領。
五月二十八日 ベルギー占領。
六月四日 三十三万の英仏将兵がダンケルクより撤退完了。
六月十日 イタリア参戦。
六月十四日 パリ無血入城。
八月十五日 イギリス本土空襲開始。
九月十五日 ロンドン上空でイギリス空軍の反撃をうける。
九月二十七日 日独伊三国軍事同盟成立。
十二月九日 イタリア、イギリスの間でアフリカで戦闘開始。
一九四一年
二月十二日 ロンメル将軍アフリカに登場、本格的な「砂漠の戦争」がはじまる。
三月一日 アメリカ、ルーズヴェルト大統領「武器貸与法」を成立させ「間接」の参戦へ。
四月六日 バルカンに進出。ベオグラード占領。ここにドイツの放送局を作る。
五月十日 副党首ルドルフ・ヘスが単身イギリスに飛び、対英和平を提案すれど、成立せず。
六月二十二日 ソ連を無警告で攻撃開始。
十二月八日 日本軍、ハワイ真珠湾を奇襲攻撃する。
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ドイツは一体、どうなってしまったのか。多くのドイツ国民と同じように、ララにはその現状が信じられなかった。多くのドイツ人は、その頃の多くの日本人と同じように、全く本当のことが知らされていなかった。昭和五十年のいま、当時のことをふりかえって、「あの時はこうだった」と判定するのは、いともたやすい。しかし、多くの日本人は、「学生も銃をとれ」といわれれば銃をとり、「焼夷弾には水をかけろ」といわれれば、自分が焼死することにも気がつかずに、水をかけた。後にいうことは簡単である。しかし、何も知らされていない当事者が的確な判断を下すということは不可能に近い。
ララは、自分の周囲で何が行なわれているのか、少しもわからなかった。彼女はヒトラーのような粗暴な男が嫌いだった。しかし、それは、イデオロギーや政治上の立場とは関係ない。多くのドイツ人と同じように、漠然と不安を感じ、嫌っていたに過ぎない。一九四一年までは、それで済んだ。しかし、それで済まない時が、やがてやってきた。ララは、自ら求めることなく、全く別の運命が、彼女の許を訪れるのである。
「鉄砲水」に呑まれたララは、呆然としながら、新聞記者や雑誌記者のインタビューをうけていた。彼女が二年半前に吹きこんで、もうとうの昔に忘れていた「リリー・マルレーン」が、何かの偶然でベオグラード放送局から番組に乗り、それが前線の兵士の熱狂的な歓迎をうけた、という事実を完全に了解するには、なお数十日かを必要とした。全く予期しないことから、予期しない時に、ララは、夢にも見たことのない「大スター」になっていたのである。
早速「軍」もとんで来た。「前線に慰問に行ってくれ」というわけだ。彼女は事情もわからぬまま、とにかく引き受けた。兵士たちは、熱狂的に彼女を迎えてくれた。ベルリンに帰ると「軍」が「大スター」にふさわしい新しいアパートを用意して待っていた。それは、彼女が「一度は住んでみたい」と思ったことのあるベルリンの目抜き通りにあり、その部屋にはグランド・ピアノまで置いてあった。そしてその頃、ヒトラーはモスクワに迫り、日本はアメリカとの戦いをはじめていた。
一九四二年はじめ、アフリカでは「ロンメルとモントゴメリー」が血みどろの戦いを続けていた。モスクワではソ連の大反攻があり、レニングラードもスターリングラードも激闘が続いていた。三月には、はじめてイギリス空軍によるドイツ爆撃があった。だが、ララの名声は日に日に上がる一方だった。巨匠カール・リッターの作品にも出演した。
幸福? たしかに、いくらかは幸福だったかもしれない。だが、彼女には大きな不安が一つあった。夫がスイスにいる。ユダヤ人の夫が。いつかはそれが「不幸」としてはね返ってくるかもしれない。その不安の中の幸せを噛みしめながら、やがて彼女にとって、ある宿命的な日がやって来る。一九四二年初夏に行なわれた大ドイツ放送局主催の「ヒット・コンサート」の夜である。
この番組は、全ドイツの兵士たちからのリクエストによるもので、観客の一番前列には、ナチの幹部が揃って坐っていた。ララは、このコンサートの今や一番のスターだった。あの「リリー・マルレーン」がはじまると、満場はどよめき、拍手は大きく長く続いた。だが、彼女のナチ時代における「栄光」は、この日を絶頂に、たった一年で終りを告げる。この夏、イタリアの演奏旅行に出かけたララは、突然ゲシュタポに逮捕されるのである。
「リリー・マルレーン」をナチ政府がどう見ていたか、という正確な記録は、残念ながらどうも無いらしい。だが大方の見るところ、「ゲッベルスの天才的な直観力が、この歌のもつ不吉な前途を予感した」という点では一致している。この年の秋、ゲッベルスはこの原盤をもつエレクトローラ社に、原盤を破壊するように命令を発している。幸い、もう一枚の原盤が一九三九年にロンドンに送られており、これが戦火をくぐり抜けて、三十数年後に再び「最初のリリー・マルレーン」として陽の目を見ることになる。
イタリアに行ったララは、スイスにいる夫に手紙を送る。ベルリンからも、秘密裡にイタリア経由でスイスと連絡はとっていたのである。こんな状態でローマにいたララの許に、ある日「スイスの友人」から手紙が届く。
――この手紙の指定通り、汽車にお乗りなさい。あなたをスイスに亡命させてあげます――
久しぶりに夫に会いたいという想いが、熱く彼女の胸にこみ上げる。彼女は指定された汽車に乗るが、それは実はゲシュタポのワナだった。
イタリアからドイツに「護送」されてくる途中、ミュンヘンでララはベルリンの自宅に電話をしてみた。電話口に出てきた親友のエリザベスが、涙声で、こう叫んだ。
「大変よ。状況がすべて変ったわ。リリー・マルレーンは放送が禁止になり、レコードはもう、どこの店でも売ってないわ!」
ベルリンに帰ってから、ララはゲシュタポに、いや味たっぷりにしぼられた。彼女の前には、イタリアを経由してスイスに着いているはずの彼女の手紙があった。
「ユダヤ人と通じることは、それが夫であろうと、スパイ罪を構成する」
と、ゲシュタポは強引に宣言する。逃げきれないと観念したララは、睡眠薬で自殺を図る。これをエリザベスが早期に発見して病院にかつぎ込み、一命だけはとりとめるが、彼女はなかなか意識を回復しない。
「気がついたのは、それから三週間もたったある日でした」
と、彼女は語る。
「私はたとえここで命をとりとめても、最後には銃殺だろうと覚悟をきめていました。ところが、ふしぎなことが起ったのです。イギリスからのラジオ・ニュースが、私の命を救ったのです……」
BBC放送はこの前後に、対独向け放送で、どこからキャッチしたのか、「最近のビッグ・ニュース」として「|あなたがたの《ヽヽヽヽヽヽ》あこがれのリリー・マルレーン≠歌ったララ・アンデルセンは、最近強制収容所に入れられて、そこで死んだ」と報道したのである。
幸か不幸か、ララ・アンデルセンはその時、間違いなく「大スター」だった。ナチ政府は、このBBC放送が「例によってデマ放送」であることを証明する恰好の材料として「ララ・アンデルセンは元気である」と、再び皆の前に立たせたのである。しかし、彼女の口から「リリー・マルレーン」を匂わすようなことを、一切禁止する。そして「芝居」をすることだけを許可する。
彼女の行動のうち、特に「兵士」に近づくことが、厳重に見張られる。兵士は彼女を見れば必ず「リリー・マルレーン」をリクエストするだろうし、それを歌わない彼女を見たら、一騒動起りかねないからである。やがて彼女は、本当に旅に病み、寝こんでしまう。旅先からベルリンに電話をかけると、エリザベスは涙声で、こう報告する。
「ララ、大変よ。ビョールンが兵隊にとられたわ!」
この時、長男のビョールンは、僅か十五歳である。
ララ・アンデルセンの悲しみと歩調を共にするように、ナチス・ドイツは徐々に追いつめられてゆく。一九四三年一月三十一日、スターリングラードでドイツ軍は決定的な打撃をうける。これをきっかけにして、ドイツは坂道をころげ落ちるように、破滅への道を歩み続ける。四三年五月、かつて「リリー・マルレーン」を歌いながら激しく戦ったアフリカ軍団も、遂に全面的に連合軍の前に投降する。そして十一月には有名なベルリン大空襲があり、ベルリンの少年兵の召集年齢は、遂に十四歳にまで下ってしまうのである。
一九四四年、ララは十四歳になった次男を抱きかかえるようにして、そっとベルリンを脱出する。彼女が行き着いた先は、「ランゲウォング島」と記されている。多くのドイツ人は、今でもこの島のことを余り知らないだろう。ベルリンの遥か北西、彼女の生地ブレーマーハーフェンを更に北上した北海の孤島が、このおかしな名前の島である。
そこで彼女は、じっと身をひそませながら、戦争の行き過ぎるのを待つ。戦争が終り、連合軍の将校が――後に僕がきいたところでは、カナダ軍の将校が――「有名なララ・アンデルセン」の消息を求めて、この孤島にやってくるまで、彼女は待ち続ける。
この間、戦史の伝えるところでは、ドイツ人として、戦争のために死んだ者は、最低にみて、六百五十万人になるという。この「六百五十万人」の内容が、この戦争の複雑さ、悲惨さ、残酷さを無言のうちに物語っている。
一九四六年十月までに戦死公報の出されたドイツ本土国防軍の正式戦死者は、このうち百六十五万にすぎない。だが、少なくともそれ以外に百四十万以上の兵士が、行方不明、もしくは捕虜としてそのまま死んだものと推定されている。また、ズデーテン・ドイツ人など他民族のドイツ人の戦死者は、少なくとも二十万以下ということはない。
ドイツ一般市民の死は、空襲による死、敵軍の攻撃による死のほか、東部地方からソ連奥地に連れ去られて死んだ行方不明者の数だけで、百五十万にも上るといわれている。空襲による死者数は約五十万である。これは第一次世界大戦における全世界の死亡推定者とほぼ同じである。それ以外にも、ドイツ人でありながら、人種的、宗教的、政治的理由で「第三帝国」に命を奪われた者は、ドイツ系ユダヤ人十七万人を含めて、三十万人にも上る。そして、いうまでもないことだが、その多くは「国家」にとって最も必要な青年たちだったのである。
幸い、ララは生き残った。いま「生き残っている」中年のドイツ人と同じように、幸いにも「生き残った」のである。彼女は、決して「恰好よく」生き残ったのではなかった。多くのドイツ人たちと同じように、押しよせる運命に翻弄されながら、何とか生きのびたに過ぎなかった。
僕は、
「リリー・マルレーンのレコードは、ララ・アンデルセンのを……」
といった多くのドイツ人たちの中に、彼女と同じように「運命に翻弄され、恰好悪く生き残った」同じドイツ人の心情が流れていることに、この時初めて気がついた。平凡で、誠実で、お人よしのララ・アンデルセンに、同じように被害者であった多くのドイツ人は、自分の影を見出しているに違いない。それはまた同時に、とり返しのつかぬ自分の青春への、或いは過去のドイツへの、悲痛な愛惜の情もこめられているかも知れなかった。
戦後のララ・アンデルセンに関しては、意外に具体的な資料に乏しい。彼女の「自伝」は、戦後に関してはすべて「未完」のままで終っているし、また「伝記」が出るほどの歌手でもなかった。僕はレコード関係のディレクターなど二氏にお会い出来たに過ぎないが、一般的な状況は述べられても、くわしいエピソードなどはきけなかった。わかっていることは、瓦礫の山と化したドイツの街々に、まともな劇場もなかったし、彼女のしめっぽい歌がもてはやされる時代でなかったことも事実である。
戦後間もなくして、彼女はイギリスをはじめ、アメリカ、カナダなどのツアーに出かけたことが記録に残されている。これは西ドイツ放送局の肝入りで行なわれたツアーであったらしい。シカゴからスタートしたツアーは大好評で、テレビにもしばしば出演した。彼女は求められるままに、かつての「敵兵」の前で、彼等が最も期待した「リリー・マルレーン」を精一杯に歌った。
僕は彼女が吹きこんだ五種類の「リリー・マルレーン」を持っているが、はじめ、その中の一枚が英語で歌われているのが不可解だった。しかし、これは恐らくアメリカでのツアーにちなんで、吹きこまれたものであろう。だいたい、「英語版・リリー・マルレーン」は、イギリスの作詞家トミー・コナーによって翻訳されたものを使用しているのが普通だが、唯一人、このララ・アンデルセンだけが、何故かマレーネ・ディートリッヒの作った英語訳を使用しているのも、ふしぎである。
前記のディレクター氏の説を総合すると、ララはその後、カナダ、イギリスなどを巡業し、やがてドイツに帰ってきて、改めて「民謡歌手」として再スタートすることになる。一九五〇年頃のことらしい。彼女はもともと「船乗りの歌」でスタートした歌手で、いわば古巣にもどってきたわけである。
「ララは、いつも用意よく、時間通りにスタジオに現われた。気さくというか、およそスターらしくない、気どらない女性だった。しかし、彼女がドイツの第一線でトップ歌手になるというチャンスは、もうなかった。五六年にはビート音楽が入ってきて、世界の音楽界は、一挙に若者たちのものとなってしまった」
ディレクター氏は、そう語った。そういえば、僕のもっているララのレコードは、すべて「海」と「北国」が背景になっており、その歌い方は決して巧妙ではないが、暖かさがそのまま肌に伝わってくるような彼女の人柄を、そのまま伝えている。
ララは、古いドイツのフォーク・ソングや、海にちなんだ曲を、特に好んで歌ったが、一九五七年には、ブレヒトとワイルの曲を総まとめに歌って、話題をよんだ。この平凡で穏やかな彼女が、ブレヒトを好んで歌ったということもまた興味深い。
ブレヒトは、いうまでもなく「三文オペラ」の作者として有名だが、一九三三年、ナチの国会放火事件の次の日にドイツを脱出し、各国を転々としながら、最も強力な「ドイツの敵」として活躍する。戦後、アメリカにあって「非米活動委員会」の呼び出しをうけたのをきっかけとして、東ベルリンに帰り、ドイツの東西分裂に際しては、東ベルリンに留まってしまう。しかし、五三年の「東ドイツ暴動」に際しては、ウルブリヒトに長文の親書を送っているし、ローゼンバーク夫妻の処刑に対しても、アーサー・ミラー、ヘミングウェイなどに熱っぽい手紙を書いている。一九五六年、「スターリン平和賞」を受けた二年後に、五十八歳の若さで、その天才の幕を閉じているが、その代表作の題名が、数年前日本でヒットしたテレビ・ドラマ「肝っ玉母さん」と同一題名であることをご存知の方も多いに違いない。
一九六〇年代の末頃のものと思われる「わが人生、わが歌」と題されたLPには、次のような彼女の手紙が、ジャケットに添えられている。
「――ゆっくりと歩む者は、長い距離をゆく。ゆっくりと歌うものは、長い時間、歌う――この知的で美しい言葉が、先日私の誕生日のパーティのカードに書きこんでありました。これは私のことかしら?℃рヘこのパーティを手伝ってくれた息子たちにききました。決っているじゃないか、ママのことだよ。友だちのジャーナリストが書いたんだよ≠ニミハイルはいいもうそろそろ自伝を書いてもいいね≠ニ笑いました。
私はいつも息子たちに感謝しています。息子たちは、人間として、また歌手として、私に対して最も厳しい批評家なのです。
自伝について、どうお考えですか?$箔後、私はレコード会社のボスに、溜め息まじりにきいてみました。彼はしばらく考え、そしてこういいました。単純であり、素朴であるということは、芸術において最もむずかしいことだ。しかし、あなたは自分のやり方を、すぐ流行にマッチさせるということをしなかった数少ない人間の一人だから、成功するかも知れないね。そして、そのようなレコードを作ったら、自伝と同じように、面白いものが出来上がると思うよ
私は彼の話をきいたとき、八月の太陽を浴びた野バラのように赤くなりました。それが喜びのためなのか、当惑のためなのかは、自分でもわかりません。そして、私たちはレコーディングをはじめました。もし皆さまが、私が感じた時と同じような喜びをこのレコードに持って頂けたら、私はとても幸福です。そして、この続編も、また聴いて頂くつもりです。
[#地付き]ララ・アンデルセン」
それからしばらくして、彼女は「一つの歌と一つの人生」というサブタイトルのついた「自伝」も発表した。それは彼女の予告通り「単純で素朴な」そして心温まる本であった。だが、彼女の最後の一行は「予告」通りにはいかなかった。一九七二年八月二十九日、この本のキャンペーン・ツアーの途中、彼女はウィーンで、突然魅入られるように、その「一つの人生」を、閉じてしまったのである。
その時の新聞は、ララの死を、こう報道している。
「ララ・アンデルセンは、死んだ。すべての兵士にとってリリー・マルレーン≠セった彼女は、今まで何千回もわれわれに別れを告げた。それは舞台の上からのあいさつであったり、別れの歌などであった。そして、われわれはいつでも、彼女とまた会うことができた。
しかし、彼女は、今度こそ本当に別れを告げた。あの哀愁のラッパ≠ニいわれた彼女の声を、われわれは二度ときくことはできない。つい先週の土曜日、彼女は自分の伝記をウィーンで紹介して、ミュンヘンに帰るところだった。彼女はまだ、沢山の計画をもっていた。新しいツアーのこと、自伝の続きのこと、そして大好きなランゲウォング島での休養のこと、そして第二の結婚生活にピリオドを打つこと、など……。
だが、たくさんの彩りのある計画も、今やすべてピリオドを打つことになった。彼女の生涯は、赤いランプ、青い港の夜、そしていつもちょっぴり涙を浮べている感傷がついてまわった。われわれの両親は、いつも彼女の話をする時、最も苦しかった時代――それはララ・アンデルセンとリリー・マルレーンが同居していた時代――を思い出す。
有名な多くの歌がそうであったように、リリー・マルレーンも最初はどこでも見向かれなかった。もし戦いがなかったら、もしベオグラード放送局が出来なかったら、彼女には単なる有能なキャバレー芸人か、もと歌手だったという記録しか残らなかったかもしれない。しかし、彼女は有名になった。それはヒトラーもゲッベルスも、この歌を止めることが出来ないほどのものだった。このブレーマーハーフェンの航海士の娘は、政治には何の興味もなかったが、たった一つの歌によって、最も悪い時代の記憶とつながりがもたれるようになった。それは間違いなく一つの歌と、一つの人生≠ナあった。
彼女は火葬され、彼女が愛した北海の島ランゲウォングに、静かに眠っている。そしてもし、彼女の名前が忘れられることはあっても、リリー・マルレーン≠ェ忘れられることは、決してないだろう――」
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6 われ愛のために生の炎を捧げ
われ自由のためにその愛を捧げん
ベルリンに行く途中、僕はボンに立ち寄った。朝日新聞のボン駐在員芳仲氏と、毎日新聞の同じくボン駐在員である柳原氏をお訪ねするためである。
ドイツに来てたった一週間なのに、僕はもう「日本人」に餓えていた。行く前は、ドイツに来たらなるべくドイツ人のところへ、などと空想していたのだが、来てみたら全くそんなことは文字通り「空想」でしかないことに、すぐ気づいた。最初のうちこそ、ドイツの人に会うことを「仕事」と割り切っていたが、たった一週間で「日本料理」や「日本人」に対する欲求は、麻薬の切れた中毒患者のように、狂おしいばかりに僕の中を占領していた。
フランクフルト、ミュンヘン、マインツなどの周辺をうろついているうちに、僕は思ってもみない二つの「大ニュース」にありついた。フォレスターさんが「テレビ・ドキュメントリリー・マルレーン=vのプロデューサーを見つけてくれたのである。はじめ彼女は、
「その人の名前は、ノバート・シューツというような方らしいですよ」
といった。何か、きいたことのある名前だった。たしか、リリー・マルレーンの作曲者は「ノルベルト・シュルツェ」のはずである。しかし、三十数年前、「ナチの作曲家」として大活躍したはずの人が、いまテレビ局でプロデューサーをやっているとは、とても思えなかった。「何か、ゆかりの人かも知れませんね」と、彼女も首をかしげた。
そのうち、本人との連絡がついた。|その人《ヽヽヽ》は、何と、間違いなく「ノルベルト・シュルツェ」であった。そして、自ら「リリー・マルレーンの作曲家の息子である」と名乗った。彼は如何なる意図で、どんなフィルムを作ったかはわからないが、とにかく現にテレビ番組のプロデューサーをしており、然《しか》もいま、ベルリンに住んでいることがわかった。
「一刻も早く、ベルリンに行こう」
これからのドイツで、一体どういう取材をしていったらいいのか、途方に暮れていた時であっただけに、このニュースに僕はふるい立った。そんなとき、ボンの朝日と毎日の方たちとも、連絡がついたのである。しかも、電話の様子では、朝日の芳仲氏は、日本人としては全く珍しく、
「リリー・マルレーンについて、お話ししたいことがある」
といってくれた。思ってもみない幸運に、僕はハンドルを握る腕にも熱がこもり、アウトバーンを疾走してボンに向った。
ここで、車や道路のことに若干でも興味のある方に短いご報告をしたい。フランクフルト・ボン間は距離にして約二百キロほど。その間、東西に殆んど平行して二本のアウトバーンが通じている。つまり、二本の「東名」が走っているわけである。到るところに入口と出口があり、ボンにも東西両方から入ることができる。
途中、ところどころ「工事中」の個所があって、そこでは当然「片側通行」になるのだが、この「片側」で、往復四車線が走れるのである。つまり、彼等の「二車線」とは、実際には四台の車が並んで走れる広さなのだ。
はじめのうち、長い間「百キロ以上」のタブーに馴らされていた僕は、スピードという感覚が、まるでわからなかった。しかし、道路と自動車の能力ということを冷静に判断すれば、スピードそのものは少しも怖ろしくはないのだということがやがてわかってきた。何よりも心強いのは、「スピード違反がない」という安定感である。それぞれのドライバーは、自分の運転能力と車の性能に応じて、自分の考えで自分のスピードを決めればよい。この、一見簡単なことが、実はどんなに素晴らしく爽快なことか、常に「パトカー」との戦いを続けている日本のドライバー諸氏には、恐らく想像もできないだろう。
僕はだいたい、日本人らしい「つつましさ」で、百三十キロぐらいでノコノコ走っていたが、ベンツやBMWは軽々と二百キロで僕を抜いてゆく。更にこのベンツを、オートバイに乗った若者がクラクションを鳴らして追い抜いていったのを見た時、さすがの僕も唖然としたまま声も出なかったのを思い出す。しかしそれは、ふしぎに日本の「オートバイ族」を見るときのような、不快な感じではなかった。
ボン、人口三十万の首都。日本の常識でいえば、吹けば飛ぶような小都市だが、豊かなライン川が流れ、深い森があり、美しい寺院があり、ベートーヴェンの生家があり……。だが、実はもう一週間で僕は「ドイツの美しさ」には、いい加減うんざりしていた。「もうわかった」といいたかった。癪《しやく》だが、それほどボンもまた、美しい街であった。
ただ、その「美しいライン川」の橋が一方通行で、どうやったら対岸まで辿りつけるのか、途中で降りては、何回も土手に上って、遥か彼方を見渡さなければならなかった。「プレス・クラブ」の所在地が、またわからなかった。途中、数人の警官が|たむろ《ヽヽヽ》している場所があったので、門前に車を突っこんできいてみた。警官は、びっくりして、地図まで書いて教えてくれた。あとできいてみると、それはブラント首相の官邸だった。その二、三日前、ブラントは直属の補佐官に東ドイツのスパイがいたことが発覚し、世界の注目をあびているその真最中に、僕は怖れ気もなくとびこんだことになる。
ボン駐在の朝日新聞の芳仲氏は、お話をきいてびっくりしたが、日本で唯一人の――と信じて間違いあるまい――ララ・アンデルセンが戦前に出した初めのSP盤の所有者なのであった。ことによると、世界でも数少ない、この珍品レコードの所有者かも知れない。彼はこれを、昭和十八年、父とともに、ヨーロッパから日本に持ち帰り、空襲を切り抜けて、今日まで所有していたのである。
芳仲氏のお父さんは軍人であり、昭和十五年から十七年暮までハンガリーの駐在武官をやっていたため、彼もこの三年間をハンガリーの首都ブダペストで過した。当時中学生だった彼は、ハンガリー人をはじめ、ドイツ人も交った教室で、くり返し、くり返し「リリー・マルレーン」を歌った記憶があった。特に音楽の自由時間が、最大の楽しみだった。ハンガリーの少年たちが、
「リリー・マルレーン」
と叫ぶと、ドイツの少年たちがそれに応じた。ハンガリー語――正式には、ハンガリー人の使うマジャール語、というべきだろうが――とドイツ語が、そこでは自然に溶け合った。
「子供たちは、特に三番の消燈ラッパが鳴った。兵舎に帰ろう――≠ニいうところを、子供ながらに感傷的に歌ったのを、決して忘れません。いつ帰れるかわからない、という悲しさを、子供ながらに、本能的にわかっていたのでしょう……」
その時「リリー・マルレーン」を歌った中学生たちは、皆、|赤い表紙《ヽヽヽヽ》の本を一冊もっていた。中に「リリー・マルレーン」の歌詞が全部掲載されているのである。その表紙には、ドイツ兵たちが略帽をかぶって歌を歌いながら行進してゆく写真がつけられていた。
「ドイツ語の歌詞の最初のところに、フォアデァカゼルネという文句がありますね、あそこを、ララ・アンデルセンはフォーと、実に優しく歌うんです。われわれも、それを真似して歌いました。それが、この歌をとても悲しいものにしていたのです。ハンガリーの少年たちも、それをよく知っていました」
ハンガリー。この言葉をきいたとき、僕ははじめて、東欧の人たちが、或いは現在共産圏に属している人たちが、この歌に対してどう反応するか、全く考えていなかったことに気がついた。ディートリッヒの歌の前置きに、たしか「ジャーマニイ・アンド・チェコスロヴァキア」という文句があったはすだった。しかし、僕は何となく、東欧圏を取材の対象から外していた。そして、あの時、芳仲氏と一緒に「リリー・マルレーン」を歌った少年たちが、三十数年後のいま、どういう思いでこの歌をふりかえるのか、想像もつきかねている自分を発見した。いや僕ばかりではなく、一般的に日本人は、東ヨーロッパというものに、殆んど関心を持っていないことも確かだった。
思えば芳仲氏は「ハンガリーやドイツの少年と一緒に歌った」といったが、ドイツはこの時、決してハンガリーを「占領」していたわけではなかった。西洋史をお忘れの方にいくらか注釈を加えるならば、ハンガリーは、第一次大戦の時も、ドイツ側についたのである。そしてドイツは敗れ、ハンガリー兵は、常に最前線を受けもって、多くの犠牲者を出した。講和会議の結果、ハンガリーは領土の三分の二と、人口の半数を「戦勝国」である隣国のユーゴスラヴィアやルーマニアやチェコスロヴァキアなどにとられ、これが長い間のしこりとなって残った。
ヒトラーが誕生した頃のハンガリーの政権は、「ハンガリー人によるハンガリーの政治を」と叫ぶ強い民族主義者たちの集りだった。ヒトラーが、これを見のがすわけはなかった。オーストリアを合併したドイツは、自然の勢いとして一九三九年二月にハンガリーと防共協定を結ぶことになり、翌一九四〇年(昭和十五年)十一月には、「日独伊三国協定」の一員として加わるようになる。芳仲氏がブダペストに行かれた「昭和十五年」は、そのような背景の下にあったわけである。
ハンガリーというと、僕などもそうだが、まずはじめに、リストの「ハンガリー狂詩曲」を思い出す。次にブラームスの「ハンガリアン・ダンス」を、ジプシー音楽を――、そして、しばらくたって、やっとあの悲劇的な「一九五六年十月二十三日」のハンガリー動乱に気がつく。多くの日本人の思考は、だいたいそんなところだろう。なかには例の「田中金脈追及」の火つけ役となった東京・丸の内での「外人ジャーナリスト記者会見」で、司会役をつとめた人が、ハンガリーのジャーナリストであることを憶えている人もいるかも知れない。
しかし、多くのハンガリー人は、例えば『ハンガリー語四週間』の著者今岡十一郎氏は、その著書『ハンガリー革命』(日洪文化協会)の中で、少なくとも日本人がハンガリー人に抱いているよりも遥かに大きい親近感を日本人に抱いていることを指摘している。彼等の使用する「マジャール語」は、東ヨーロッパで唯一つの「ウラルアルタイ系」つまり、日本語と多少でも親戚関係にあると信じられている言葉である。彼等はその祖先が東洋から来た遊牧の民であることを知っており、アジアへの親しみは、ゲルマン、スラブ、ラテンなどの異民族の大海中にあって常に自由と独立のために戦ってきたことで、よけいに強く感じられる。今岡氏はある村に行ったとき、
「東洋の兄弟よ、ツランの姉妹よ、ようこそ遠方から来られた。あなたは汽車で来たのか? それとも歩いてきたのか?」
という片田舎の農民の、心温まるエピソードを伝えている。
芳仲氏のお父さんは三年間の任期を終えて、昭和十七年暮にブダペストを発って日本に帰国したそうだが、ソ連軍がハンガリーの南東、ルーマニア方面から入ってきたのは、昭和十九年十二月である。そして暮の二十三日には新しい臨時政府が作られ、直ちにドイツに対して改めて宣戦を布告する。ソ連が全ハンガリーを押えるのは、それから四カ月後である。
すべての戦いが終って六カ月後の十一月四日に連合国の管理委員会の下で、ハンガリーに初の自由な総選挙が行なわれる。共産党は議席の一七パーセントを占め、第二党となる。だがそれからたった三年で、ソ連の圧力下に新しい選拳法が生れ、共産党は実質的に単一政党となり、ライク外相は処刑され、四九年八月、正式に「人民共和国」が誕生する。
そのあとについては、加藤雅彦氏の書いた『ドキュメント現代史・東欧の動乱』(平凡社)から引用させて頂こう。
一九五三年―五六年[#「一九五三年―五六年」はゴシック体]
しかし国民を恐怖政治によって支配しようとしたラコシのスターリン体制は、国民の激しい反感を買った。(中略)五六年に入ると、「非スターリン化」が東欧各国で支配的傾向となった。ハンガリーでは三月ライクの名誉回復が行なわれ、知識人のクラブ「ペトフィ・サークル」が結成された。七月にはついにラコシが第一書記から追放され、ゲレが彼に代った。一〇月二〇日ポーランドで自由化のスローガンをかかげるゴムルカ政権成立というニュースが伝わると、事態は急速に展開していった。二二日ブダペスト工科大学で開かれた学生集会で、政府に対する一六項目の要求が打ち出された。それは、(1)ソ連軍撤退、(2)ナジ前首相の復帰、(3)複数政党制下の総選挙、(4)政治犯の釈放、(5)言論の自由、(6)スターリン像の撤去、などの要求をふくんでいた。
一九五六年一〇月―一一月[#「一九五六年一〇月―一一月」はゴシック体]
一〇月二三日はハンガリー動乱の発端の日である。この日から一一月四日まで、一三日間にわたるハンガリーの激動にみちた情勢は、世紀の大事件として全世界に強烈な衝撃を与えた。以下日を追って事件の経過をたどってみる。
[#この行1字下げ] 一〇月二三日 学生デモ。午後三時前ハンガリー革命詩人シャンドル・ペトフィの像の前で 学生集会。学生たちはこのあとドナウ川を渡り、対岸のベム将軍の像に向かって行進、一般市民もこれに参加。(中略)九時三〇分、英雄広場のスターリン像にロープがかけられ引き倒される。
[#この行1字下げ] 二四日 午前二時ソ連戦車がブダペストに姿を現わす。戒厳令が布告される。(中略)蜂起は全国にひろがり、全国の主要都市でデモ。夜ミコヤンとスースロフが事態収拾のためモスクワからブダペストに到着。
[#この行1字下げ] 二五日 ハンガリー議会前広場で治安警察隊が民衆に発砲、二〇〇人以上の死者を出す。ゲレ第一書記が解任され、代ってカダルがその職につく。
[#この行1字下げ] 二六日 各地で民衆と治安警察隊が衝突し流血事件を引き起す。労働者評議会が工場や鉱山で組織され、ゼネストを呼びかけ。
[#この行1字下げ] 二八日 ハンガリー政府、軍および治安警察隊に発砲中止を命令。ナジ首相、労働者評議会の樹立の承認、治安警察の改組を発表、また政府がソ連軍のブダペスト即時撤退についてソ連政府と合意に達したことを明らかにする。地方で権力を掌握した国民評議会がしだいに急進化。
[#この行1字下げ] 二九日 ハンガリー党機関紙『サバド・ネプ』が、『プラウダ』の非難に対してハンガリー蜂起を擁護。ソ連軍のプダペスト撤退はじまる。深夜イスラエル軍がエジプトを攻撃し、スエズ戦争勃発。ハンガリーとスエズの両大事件に世界中が衝撃。
[#この行1字下げ] 三〇日 (前略)ナジ首相、ラジオを通じ、共産党の独裁を廃止して複数政党による連立政権を樹立すると声明し、ハンガリー政府はソ連政府に対し、ハンガリー全土からソ連軍を撤退させるようただちに交渉すると発表。
[#この行1字下げ] 三一日 プダペストのソ連軍撤退完了。しかし他方で、ソ連軍がふたたびハンガリー領に侵人中とのニュース入る。
[#この行1字下げ] 一一月一日 ソ連戦車東部国境から続々侵入。ナジ首相、ハンガリーのワルシャワ条約脱退と中立宣言を発表。ナジ首相とカダル第一書記、ソ連大使アンドロポフと会見。そのさいカダルは、アンドロポフ大使に、必要とあらば「私は街へ出てあなた方の戦車と素手で闘いますぞ」と強硬な発言。しかし同日夜カダルはブダペストから忽然と姿を消す。
[#この行1字下げ] 二日 ソ連軍ハンガリーの軍用空港を包囲。ナジ首相ソ連軍の侵入に抗議。
[#この行1字下げ] 三日 ソ連軍ブダペストを包囲。夜、マレテル将軍がハンガリー代表として、ブダペストを貫流するドナウ川のチャペル島のソ連軍本部におもむき、ソ連軍の撤退交渉をはじめたが、交渉中ソ連治安警察のセーロフ将軍に逮捕され、ふたたび帰らず。
[#この行1字下げ] 四日 午前三時ごろソ連軍ブダペスト市内に侵入、砲撃を開始。午前五時一九分、ナジ首相のハンガリー国民および世界にあてた悲痛な演説。八時七分ブダペスト放送沈黙。ソ連軍ハンガリー議会を占領。ナジ首相、ブダペスト駐在ユーゴスラヴィア大使館に亡命。ハンガリー東部から発信地不明の電波が、カダル首班の下に「革命労働者農民政府」が樹立されたことを告げる。(後略)
*
そしてこの動乱は、「ハンガリーを助けて下さい。作家、学者、農民、労働者を助けて下さい。助けを! 助けを!」という、有名なハンガリー作家同盟による十一月四日八時二十五分の自由コシュート放送で、終りを告げる。この動乱でハンガリー人は三万人が死に、二十万人が海外に亡命する。
ブダペストのドナウ河畔には、いまも愛国詩人であるペトフィの像が立っているはずである。
「愛よ 自由よ
地上における最愛のものよ
われ 愛のために
生の炎を捧げ
われ 自由のために
その愛を捧げん」 (今岡十一郎訳)
この有名なペトフィの詩は、ハンガリーに行った人なら、誰でも教えられるそうだ。僕はこの詩を、出発前読んだ『東欧の新しい波』(広瀬嘉夫著・鹿島出版会)によって知った。だから、芳仲氏から「ハンガリーのリリー・マルレーン」の話をきいたとき、それらのイメージが交錯して、何ともいえぬふしぎな気持だった。
芳仲氏は一九六二年か三年頃、仕事でブダペストに立ち寄ったとき、戦争中の中学校の友人だった人を訪ねたそうである。そのハンガリーの友人は、その時昔使っていた例の|赤い表紙《ヽヽヽヽ》の本を、そっと彼に見せたという。その行為の中に含まれているものが何なのか、彼は言葉でいわなくても、すべてわかっていただろう。僕はこの芳仲氏の貴重なエピソードを、この本を読む方に僕と同じような実感をもってわかって頂きたいために、長々とハンガリーの背景を綴ったのである。
芳仲氏は、ヨーロッパ初体験の僕に、長い時間貴重なレクチュアをしてくれただけでなく、実はララ・アンデルセンのことも、「第三帝国」のソノシートのことも、彼に教えられたのが僕が素材を集めることの出来たきっかけだった。そして最後にボンでドイツ銀行の幹部をやっているクライン氏に紹介してくれた。
氏は一九三九年にドイツ陸軍に応召になり、大戦初期の東部戦線から従軍していた。僕はドイツにいる時、約十名位の方から「従軍談」をきいたが、その中ではこのクライン氏の話が最も説得力があり、迫力に富んでいた。
氏は通信隊の下士官だったので、早くから情報には恵まれていた。「リリー・マルレーン」は「西部戦線で、この歌がまだ流行していない頃にラジオで聴いた記憶がある」といったが、これはことによると、彼の記憶違いかも知れない。或いは、本当にそういうこともあったのかも知れない。どちらにしても「リリー・マルレーン」が有名になったのは、一九四一年夏からのことであることだけは間違いない。
彼は、
「戦いは、常に悲しい。だが美しい歌が残される」
といった。フランスへの進撃がはじまるとき、セダンの町を通った。この町には美しいカーネーションの咲き乱れる小高い丘の上に無名戦士の墓があり、そこに「遥か遠くセダンの街にいて」という歌が彫り刻まれた碑があった。次に通過したアルゴンヌの町には、その森を背景にして「アルゴンヌの星の下に、少年がいた、彼が森の守りについていた」という美しい歌があった。これらの歌は、今も恐らく誰かに歌いつがれて、その土地の人たちの魂を支えているだろう。百の説明をきくよりも、たった一つの歌が、多くのことを語ってくれることを、われわれは日本民謡でもしばしば見ることができる。
クライン氏がポツダムに帰り、そこで再編成されたロンメル将軍の麾下《きか》となって、アフリカ戦線に配属されたのは、一九四一年二月のことである。その頃、イギリス軍はキレナイカからトリポリに向って進撃をはじめていた。トリポリに立てこもったイタリア軍は、全滅寸前だった。
この時から「ロンメルの奇蹟」がはじまる。トリポリに上陸したロンメルはイギリス軍を一挙にエジプトにまで追いつめ、はじめにカレルが書いた「ハルファヤ峠」の激戦となる。「ロンメル・モントゴメリーの対決」ということが俗にいわれるが、モントゴメリーが初めてカイロに到着するのは一九四二年八月のことで、この時はもうドイツ軍の窮状は眼にみえているときであった。
クライン下士官の「エジプトでの想い出」は、「リリー・マルレーン」と、そして「戦車」である。イギリス軍の戦車は「マチルダ」と呼ばれて有名なものだったが、ドイツ軍はそれを「マックス」と呼んだ。当時ドイツで流行していたいたずら小僧二人を描いた有名なマンガ「マックスとモーリス」をもじって、イギリスの無線車には「モーリス」というニックネームがつけられた。ロンメルの最も有力な武器は、このイギリスから巻き上げた「マックスとモーリス」だった。ドイツ兵たちは「モーリス」の中に炊事ができるような設備があるのにびっくりした。
「あいつら、いいものを食ってるなァ」
それがドイツ兵たちの連合軍に対する一番強い印象だった。
クライン下士官には、もう一つ強烈な思い出がある。彼がトリポリから前線に向う途中、遭遇した自由フランス軍の五台の戦車の中に、ドゴールと名乗る大佐がいたのである。情報をキャッチして彼等はすぐ出かけたが、一瞬の差で、この五台の戦車は暗闇に姿を消した。
「砂漠にたそがれはないのです。唯、夜と昼があるだけです。朝眼がさめてみると、敵と味方が十メートルと離れずに眠っていたというようなこともありました」
「捕虜になった日は?」
という僕の質問に対して、彼は全く考えることなく「一九四一年十一月二十三日」と、すぐに答えた。それから一九四七年一月十八日までの約五年余り、彼は連合軍の捕虜として生きることになる。スエズ運河の近く、いま「イスラエルの戦い」の中心になっているあたりのところから、ケープタウンを廻って、カナダに送られた。そこで彼は、眼を見はるばかりの、連合軍の大量の「物資」を見せつけられた。
「アフリカでのドイツと連合軍との戦いは、一対六五〇の戦いでした」
と彼はしみじみといった。六五〇という根拠がどこにあるのか、僕はくわしくは知らない。しかし、かつて読んだことのある阿川弘之氏と会田雄次氏の対談の中に、「百対三の戦い」というタイトルがあったのを記憶している。つまり、日本軍百の戦死者に対して、アメリカは三であるという意味であったと思う。クライン氏が、連合軍の厖大《ぼうだい》な物資を見て「一対六五〇」という表現をとったことは、よくわかる。
「その時、どう思いましたか?」
という僕の問いに対して、クライン氏は、
「戦友たちに、何とか、生きていてくれ! と心の中で叫びました」
と答えた。船の中では、ドイツの捕虜たちが、うつろな眼で、淋しく「リリー・マルレーン」を歌っていた。
カナダの収容所では、唯一つの楽しみとして「歌謡大会」があった。クライン氏の表現を借りれば「イタリア兵は、戦うのは嫌いだが、歌うのは大好き」だった。「リリー・マルレーン」がはじまると、連合軍の守備隊員も「これなら、おれたちも知ってる」と、英語で歌いはじめた。カナダの空に、ドイツ語とイタリア語と英語の「リリー・マルレーン」が谺《こだま》した。
「私はその時、敵側が自分たちの歌を歌ったことに、ささやかな誇りを感じました。捕虜生活中、絶望的な中にも、卑屈な思いをせずに済んだのは、或いはこの歌のせいだったかも知れません。イキリス兵は、無論、この歌の意味は知っていました。或いは、これは彼等の敵の歌でも歌うんだ≠ニいう優越感であったかも知れません。しかし、彼等にこの歌をリクエストされた時、我々は堂々と歌ったものです。そして、数人の仲間が集まったとき、わたしたちは小さな声で、別の歌を歌いました。それは『モントリオールからケルンまで、歩いてゆきたい』という、淋しい歌でした」
戦後、「リリー・マルレーン」はクライン氏にもう一つのドラマを与えた。十年前、オーストリアで仕事をしていた時、隣りにいたイギリス人の女の子が英語で話しかけてきたのがきっかけとなって、そのイギリス人の家を訪問したのである。何かの話の拍子に、「リリー・マルレーン」のことが話に出た。この歌だけが、二人が共通して知っている唯一つの歌だった。いい年をした大人が、奥さんのギター伴奏で、この歌を合唱した。その時、しみじみといまが「平和」であることを痛感したという。僕らもこの日、クライン夫人のギター伴奏で「リリー・マルレーン」を合唱した。歌を終って何故か皆は大笑いをした。それはまた一つの「平和」の象徴でもあったようである。
最後に僕は「ディートリッヒとララ・アンデルセン」について、クライン氏ご夫妻の意見をきいてみた。奥さんは、ややテレ臭そうに、
「ディートリッヒは、とても素晴らしい人です。私は偏見はないと思っておりますが、どちらが好きかといわれれば、やはりララ・アンデルセンではないかと思います」
と、控え目にいった。クライン氏はこれに続けて、笑いながら、
「私にとっては、ユンカース52が、マレーネ・ディートリッヒ以上のスターでした」
と、この話に、ピリオドを打った。
毎日新聞の柳原氏とは、ライン川沿いの、ハイネゆかりのレストランだという、絵に描いたように美しい背景で話をきいた。彼は「リリー・マルレーン」については知らなかったが、僕にとって同じように興味を起させた「ララのテーマ」について、熱っぽく語ってくれた。
ここで「ララ」と書いたのは「ララ・アンデルセン」の「ララ」ではない。今から十年前、ソ連の「自由主義者」パステルナークの原作によって、ハリウッドが作った映画「ドクトル・ジバゴ」――これなら、大方の日本人の記憶に新しい話であろう――の主題曲であった「ララのテーマ」についてである。彼は僕が提起した「リリー・マルレーンのテーマ」に対して、
「リリー・マルレーンも成程面白いかも知れないが、私は残念ながら、この歌のことは知らない。しかし、このララの曲≠ェ、東ヨーロッパでどう反応したかという新しいテーマを、貴方に提出したい」
と、話しはじめたのである。
柳原氏は、一九六八年のチェコ事件以降、東欧各地を取材して歩いた。そして東欧各国に二つの象徴的な歌が存在していることに気がついた。一つは「ララのテーマ」、そして、もう一つが「カチューシャの歌」である。無論、この二つの歌については、多くの方がご存知であろう。「カチューシャの歌」は、今でも日本の「労働歌」の中に入っているし、「進歩的」な中年の方たちも、若かりし日、この歌を「同志」と肩を組んで歌った記憶がおありだろう。
一方「ララのテーマ」は、日本では喫茶店のムード音楽である。ほろ苦い恋の思い出として憶えている方もいるかも知れないし、主演のオマー・シャリフとジュリー・クリスティの顔を思い出す人もいるかも知れない。無論「進歩的」とは特に何の関連もない。
だが、チェコでは決して、この「二つの歌」は、日本のように受けとられていなかった。いわば「カチューシャ」を|右翼の歌《ヽヽヽヽ》とすれば、ララのテーマは「|進歩と解放《ヽヽヽヽヽ》」の歌なのであった。「ララのテーマ」は、公式の場所で公式に演奏されることはない。しかし、何故か誰もが知っていた。これを歌いながら、泣き出した人も何人かいた。
ポーランドでも、彼は同じ体験をした。ハンガリーも同じだった。高級なナイトクラブなどでは、この曲を伴奏に、ストリッパーたちが一枚一枚衣裳を脱いでいった。いつの間にか、柳原氏自身が泣いていた。彼の間違いのない記憶では、「モスクワのあるホテルでこれを聴いたことがある」といった。恐らくこれは、レコード係のささやかな「ジョーク」であったのだろう。
「カチューシャ」について、彼はもう一つの「有名な」話をきかせてくれた。ブダペストの有名なナイトクラブに行った時のことだ。ブダペストのこの種のショーには、一時間のうち必ず十五分は「ソ連アワー」がある。そして、ここでは決って「カチューシャ」が演奏される。
この夜、ソ連の大使が平服でここへ来ていた。バンドは、それに合わせるかのように、「カチューシャ」を演奏しはじめた。大使はご機嫌で拍手をしはじめ、そして中途でけげんそうな顔をして、拍手をやめた。何とその「カチューシャ」は、英語《ヽヽ》で歌われていたのだ!
この種のアネクドートは、東欧には数え切れないほどである。しかし、それが「歌」という鮮烈な情緒できかされたのは、僕は初めてである。
「ユーゴではどうなんでしょう。やはりカチューシャは嫌われますか?」
僕はユーゴ行きの目的があるので、きいてみた。彼は、長いユーゴ駐在の体験から、
「それはまた一つのテーマだなァ」
と、こう答えた。
「僕のみるところ、このユーゴだけが東欧の中でカチューシャ≠普通に歌える国ではないかと考えてますね。つまり、ユーゴは一九四八年以来、ソ連というものを民衆が直接意識せずに生活できた唯一つの国ですからね。その背景には、東欧の中で、本当に自国のパルチザンの手で解放したのは、ユーゴだけだという自信の裏づけがあります。だから、屈折感なしに、ロシア民謡としてカチューシャが歌えるのです」
東ヨーロッパには、もう一人の「ララ」がいた。そして彼女もまた「アンデルセンのララ」と同じように、複雑な背景を担いながら、健気にも人々の胸の底に生き続けているのであった。
[#改ページ]
7 オリンピック・スタジアムは
ベルリンの暗黒の空の下に
ボンからベルリンまで、約五百五十キロほどある。その間、約百五十キロほどが「東ドイツ」である。この「東ドイツを如何に通過するか」について、「西ドイツ」でがっちりと講義をきいた。
それは、何の用意もなしに、ブラリとフランクフルトに降りたち、衝動的に車を買いこんだ一旅行者には、一つ一つ新しいことだった。第一、「東ドイツ」という呼び方からして間違っている。「東側にあるドイツ」は「DDR」であって、断じて「東ドイツ」ではない。そして、両者の間には、当然「国境」がある。東側の国境地帯には、至るところに監視塔があって、電流を通じた有刺鉄線があり、まず数十メートルの地雷原があり、もう一本の有刺鉄線があって、更に数十メートルの地雷原がある。つまり三重の有刺鉄線にかこまれた二筋地雷原に、更に川をへだててやっと本当の国境があり、森は見通しをよくするために、すべて切り開かれているという。
僕はまじめな話、はじめはそれを僕をこわがらせるためのジョークだと思っていた。「冷戦」時代ならいざしらず、昨年は「東西ドイツ共存」の基本条約も発効しているし、第一、国連にさえ同時加盟しているほどの間柄ではないか。そんな「現代」にそのような「神話」が存在していようとは考えられないし、考えたくもなかった。現に僕でも、ヴィザも何も持たずに「DDR」に入れるではないか。
だが、彼――デュッセルドルフの日本人商社員――は、真顔でそんな僕をたしなめた。
「タカをくくってはいけませんよ。たしかにアウトバーンを走ってベルリンに入るのは簡単ですけど、最近ブラントのスパイ事件が起きて、そのために東西の通商協定がもめているし、また西ドイツの環境庁をベルリンに置くということでも東ドイツは刺激をうけています。三月中頃でしたか、ハノーバー・ベルリン間で三回の検問をやって、西ドイツが正式に東に抗議したほどですよ、トランクに英語の新聞が入っていたといって、裸にされた日本人もいるほどです。あなたの車には、よもやポルノ雑誌は積んでいないでしょうね」
彼は真剣であった。そして、事に当っては多少不満はあっても決して反抗的態度はとらないこと。何かきかれたとき、すべて身ぶり手ぶりで説明すること。西を離れる前に、充分「用」を足しておいて、途中で「おしっこ」など余計なことはしないこと。ベルリン・リングに入ったら間違いなく「OST(東)」ではなく「WEST(西)」の方向にゆくこと。更に「これだけは絶対に」と、「百キロ以上のスピードは出してはいけません」
と念を入れた。僕は真剣にうなずいた。
しかし、実際に「東西」の国境まで行ってみると、さほどのことはなかった。たしかにラッシュアワー並みに車の列が出来ていて、特に僕の車は「外人ナンバー」だったから、あれこれと手続きで三十分ほどかかったが、トランクをあけて荷物を調べられることもなかったし、途中で止められることもなかった。唯、初めて千五百円近くの「通行料」をとられたことと、路面が「西」に比べて、眼にみえてデコボコなのが気になった。或いは意識的にスピードを落させるために、デコボコにしてあるのかもしれない。それまで時速二百キロで音もなく僕の車を抜いていったベンツも、ここでは牙を抜かれたライオンのように、大人しく僕の車についてきた。
だがそれにしても、アウトバーンから見渡す限り、唯一人の人影も、唯一軒の家も見えないというのは、どういうことであろうか。たしかに西ドイツでも、見渡す限りの緑を見馴れてきたが、それでも五分か十分も走れば教会の尖塔がみえ、橋があり、時には工場地帯の真中を抜けることもあった。
だが「DDR」のアウトバーンからは、何も見えない。或いは見えそうなところは深い林で遮断され、その何メートルか何十メートルかの先は、想像のしようもない。だから、ベルリン・リング(アウトバーンは、ベルリン近くのポツダムのあたりから環状になり、いろいろなところに下りることができる)に入ったとたん、林の間から少年がチョロッと顔を出した時は、妖精が飛び出てきたのではないかという錯覚に捉われたほどである。その林のすぐ向うには、恐らく「西」と違った別の世界があるはずであった。僕はこの時「東」のヴィザをとってこなかった迂闊さを後悔した。
西ベルリンに入ってすぐ、この街は西ドイツのどこの市街とも、どこか違っていることに気がついた。建物もたしかに堂々としているし、郊外の緑も素晴らしく、有名なウィルヘルム皇帝記念教会も、ベルリン陥落当時をしのばせるように、なまなましく厳粛にそのまま姿を残しているのだが、それがまた妙に白々しく、何かがアンバランスなのだ。だが、その白々しさが、実はかえって僕をホッとさせた。ベルリンは一見して「安っぽい」街なのであった。
ベルリンに着いたその夜、前もって電話をしておいたT君と早速街を散歩した。T君は二年ほど前からベルリンに住んでいる日本青年で、本人は「ドイツ語の勉強のためにここにいる」といっていたが、本当は何が目的だかわからない。世界のどこの都市にいっても、T君のような「無目的」な滞在者はいるらしい。いや「無目的」といっては失礼かも知れない。彼はベルリンでアルバイトをして稼いだ金と、習い憶えたドイツ語とで「今度はポルトガルに行きたい」といっていた。彼自身或いは「来年は課長になりたい」と思って働いているサラリーマンより「目的」ははっきりしていると確信しているのかも知れない。
ベルリンの夜の街頭には、T君のような「目的」をもった種々雑多な人間が、夜遅くまでウロウロしていた。これも僕が見た他の西ドイツの諸都市では余り見られない光景であった。僕のような観光客もおり、もっとお金持らしいアメリカ人もおり、そして学生もヒッピーもトルコ人もギリシャ人も、「駅」だけではなく、街頭にいた。
その街頭に、路面にチョークで絵を描く「大道芸術家」がいるのも珍しかった。いや「芸術家」は、彼だけではない。その傍ではミュージック・マイナス・ワン・レコード(伴奏だけのレコード)をかけながらベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトを弾く辻音楽師すらいた。僕はボンに行ってすら、ベートーヴェンの家も訪れないほどの「無風流」だが、この時は思わず立ち止って、第一楽章全部をきいた。ヨーロッパに来て、初めての「旅情」が僕の胸をよぎった。
しばらく行くと、百円か二百円位の小間物を売る小さな屋台店が並んでいた。そしてその傍のおみやげ店には、奇妙な観光絵葉書が売られていた。どこの街でも、その街の飛び切り美しい風景がカードになって売られているのが常識であろう。だが、ベルリンだけはその美しいカラー写真にまじって、白黒の汚い写真が並べられていた。
それは恐らく、一九四五年頃のものであろう。一枚は無残な廃墟の中で、マキを担いで歩いている疲れ果てた主婦の写真であり、また別のものは、ドラム罐に腰をかけて、呆然と虚空《こくう》を見つめる絶望的な失業者の写真であった。世界のどこの街に、こんな「観光写真」を売っている街があるだろうか。T君は、やたらに気分を出している僕に向って、
「ベルリンで一番見たいと思っているのは、どこですか?」
ときいた。僕は躊躇なく「オリンピック・スタジアム」と答えた。僕の頭の中にある「ベルリン・オリンピック」は、前畑の金メダルでもなく、田島の世界新記録でもなく、何故か「村社《むらこそ》」だった。村社が大男――たしか、フィンランドの――三人にかこまれて、第二コーナーから第三コーナーを必死に駈け抜けてゆくその場面だけが、この夜の僕のイメージだった。そのオリンピック・スタジアムは、再び「民族の祭典」として使用されることもなく、暗黒の中に、いやが上にも無気味な静けさで、眠っていた。
次の日、僕はT君の知っている観光関係の日本人に、この夜の感想を率直に告げてみた。彼は、ニッコリ笑って、僕に、こういった。
「いや、どうも。あなたみたいな、そういう純情な観光客ばかりだったら、われわれは嬉しいですなァ。いや、本当です。ベルリンは、そういうお客を待っているんですよ。しかしまあ、われわれの眼からみると、ベルリンは悲しいどころか、ニコニコしてるんじゃないでしょうかなァ。あなたもそのうちご覧になると思いますが、あの東西の壁ですなァ、あの壁が出来て、壁をめぐる悲劇は、われわれが宣伝しなくったって、世界の人が知っていますなァ。ベルリンに来るお客さんの大部分は、あの壁の向うに何があるか? という興味で来るんですよ。昔のことをいっちゃ、ミもフタもないけど、六一年以前はパスポート見せただけで、無論何の検査もなしに自由に往来出来たわけですから、何のスリルもなかった。それがですね、突然壁が出来たんですよ。見られないものを覗いてみようというのは、人間の本能でしょう。東ベルリンは突如悪者になってくれた。そいつを一つ見てやろうというわけで、お客も来てくれる。ところがどっこい、東ベルリンだって、ころんでもタダじゃ起きない。見物料をとるわけですよ。団体客は一人五マルク。これは返してくれないんですよ。個人で行けば十マルクとられる。これは向うで使えるんですが、大抵の人は何も使わずに金は出口のゲートで捨てて帰ってくる。この額はバカになりませんよ。両方で、適当に稼いでいる。いや、あなたがベルリンが気に入られたのは、私も大変嬉しいです。しかし、余り気分を出して、立ちん棒なんかに引っかからないように、一度そういうクールな眼で見直すと、ベルリンはまた、一段と興味ある場所ですよ……」
成程、そんなものかも知れない。そのあとは、T君がひきとった。
「僕は、他の西ドイツの都市で暮したわけじゃないから、まあ感じですけど、ベルリンはたしかに住み易いですよ。郊外はとも角、街の中に住んでいる分には、他のところみたいに、ガッチリ自分の世界だけを作って、他人を寄せつけないみたいなところがない。ベルリン市民は、だいたい老人が圧倒的に多いんですよ。だから、街でみるヒッピーみたいな奴とか、イタリア、トルコ、ユーゴなんてところから来た連中が実際には働いてるんです。ドイツ人の若いのといっても、結構徴兵逃れで来ているのもいるし、我々だって、気楽にいられるわけですよ」
いわれるまで気がつかなかったが、ここは「西ドイツ」ではなく「西ベルリン」なのであった。だから、ここに籍を移した人たちは「西ドイツ青年」のように、徴兵の義務はない。「占領区」は米英仏の三カ所にわかれ、エア・フランスは今でもフランス地区の飛行場を使っているし、イギリス地区には終身戦犯のヘスが収容されているシュパンダウ刑務所があって、ここはイギリスの軍隊によって、警備がなされている。
ヘスといえば、僕がベルリンに着く数日前に、ヘスの釈放を要求するデモが行なわれ、そのことが新聞に出ていたと、ここで教えられた。四月二十六日はヘスの八十回目の誕生日なのである。
「ヘスねえ……。そういえば、ヘスはまだ生きているんですかねえ……」
僕はかつて読んだ「シュペールの回想録」のことを思い出した。シュペールは「ニュールンベルグ裁判」で、たしか二十年の刑をいい渡され、二十一年間(未決期間を含む)シュパンダウ刑務所にいたはずである。ヘスは「終身」だから、まだ刑務所にいておかしいはずはない。しかし、ナチの戦犯がとにかく今でもベルリンの刑務所にいて、それに対して釈放要求のデモがあるということは、日本の「戦犯」の例から考えてもやはり僕の常識とはかけ離れていた。
「そのデモをやったのは、右翼ですか?」
「いえ、普通の市民団体です。主催者はたしか、もと司法大臣じゃありませんか」
T君は答えた。これもまたふしぎだった。しかし、この「ヘス」に関しては、もっとふしぎな話がある。
いま、この巨大な刑務所には、囚人はヘスが唯一人、というから、この所長は世にも気楽な職場と思われるが、この所長をやっていた男が、閑にまかせてひそかに八ミリでヘスの姿をとり、更に所長の「地位利用」をしてインタビューなどをやったのである。これが明るみに出て、彼は当然クビになった。ところが彼は、これをイギリスのBBCテレビに売り、これが戦後初の、ヘスに関するスクープとして話題になったというのである。売った方も売った方だが、買ったBBCもさすが大国のテレビ局である。
「ヘスねえ……」
僕は再び考えこんだ。
そういえば、僕がボンで芳仲氏から受けたレクチュアの中に、「シュタウフェンベルクは、今でも西ドイツでは英雄である」という言葉があったことを思い出す。シュタウフェンベルクとは、日本では余り馴染みのない名前だが、ドイツ人なら無論誰でも知っている。敗戦の前年である一九四四年七月二十日、「ヒトラー暗殺計画」をたてて、これが紙一重の奇蹟的な偶然から失敗に終った、その事件の張本人である。
シュタウフェンベルクは大佐で、処刑された四四年に三十七歳だったのだから、並々ならぬエリートといっていいだろう。伯爵、長身、恐れを知らぬ理想主義者で、心の底からナチを憎んでいた。ナチを憎んでいる軍人は沢山いたし、何回もヒトラーに対する抵抗運動はあったが、いずれも実を結ばなかった。彼等の共通点は、とにかくヒトラーを倒して、少しでも少ない犠牲で、この戦争を終らせることだった。
一九四三年はじめ、シュタウフェンベルクは潰滅寸前のアフリカ前線にいた。乗っていた車が連合軍の急襲をうけ、右手は根元からなくなり、左眼を失くし、わずかに左手に三本の指が残った。しかし、彼はなおかつ現役を希望した。彼には「ヒトラーを殺す」という不退転の決意があったからである。
彼の仲間たちは、スイスやスウェーデンからひそかに米英との接触をはかっていた。しかし、連合軍はこの危険な冒険に手を貸さなかった。彼はコミュニストとも連絡をもとうとし、あらゆる工作をする一方、ヒトラー暗殺の特攻隊を養成した。三月にも、六月にもチャンスを逃した。六月六日、連合軍はノルマンディーに上陸した。ソ連の大軍はヒタヒタと東から迫ってきた。ヒトラーは狂気のように、東欧のユダヤ人や連合軍の捕虜を殺していった。だが、近い将来それ以上に大きい「ドイツ人」の犠牲者が出ることは眼にみえていた。
「もし――」と多くのドイツ人は、今でも考える。「歴史にもし≠ヘないが、それでももし、あの七月二十日にヒトラーが殺されていたら、ヨーローパの破壊はあれほど絶望的ではなかったかもしれないし、ドイツは第二次大戦で、自らの手で、自分の国の処理をした≠ニいう歴史を書くことが出来たかも知れない――」
一九四四年(昭和十九年)七月。太平洋戦線では、サイパン島で日本軍が孤立し、婦女子を含む最後の数千人が、手榴弾で自決し、それすら出来ないものは、百五十メートルの断崖から身を投じて死んだ。そして、ここを基地にして「東京大空襲」がはじまる。「フィリピン五十万」「沖縄三十五万」「ニューギニア十三万」「ビルマ十六万」「東京十万」、これは戦争最後の一年間で死亡したと推定される日本人の数の一部である。日本には、もとよりドイツにおけるような、組織的な、意図的な「終戦運動」はなかった。日本には、シュタウフェンベルク大佐の影もない。
シュタウフェンベルクは、事件の直後捕えられ、
「わが聖なるドイツ万歳!」
と叫んで、四人の同志とともに一斉射撃の銃声の下に倒れた。そして、この事件がきっかけとなって、同じくアフリカで戦ったロンメル将軍も、三カ月後、ヒトラーによって強制的に「自殺」を強いられ、その栄光の幕を閉じる。シュタウフェンベルクがアフリカ戦線で「リリー・マルレーン」をどう聴いたか、無論、われわれは知ることは出来ない。
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8 東ベルリン・アレキサンダー広場の
「リリー・マルレーン」
五月一日朝午前六時。僕とT君はまだ肌寒い朝の空気を吸いながら、西ベルリン「ツォー駅」から電車に乗って、東べルリンのメーデーを見に出かけた。電車が一番簡単に行けるし、二十四時間以内なら、東ベルリン滞在にはヴィザは要らない。ツォー駅から二分も乗ると、電車は「壁」の間を通り抜ける。この幅数百メートルにも及ぶ地雷原の無人地帯は、観光客たちに否応なしに 特別の緊張感を強いることになる。
だが、入境の手続きは予想外に簡単だった。駅には、メーデーを見るための西側からの客が百人ほど順番を待っていたが、十マルク払うと十五分位で、もうウンター・デン・リンデンの淋しい通りに出ていた。そこから会場までは、歩いて十五分ぐらい。会場附近はさすがにかなりの人出で、パレード寸前の雰囲気がただよっていた。
少しブラブラしていると、三、四人の日本人とすれ違った。何となく話しかけながら、雑談をしているうちに、行進がはじまった。中の一人はもう東独の生活を二年も送っているそうで、ライプツィッヒから、わざわざここまでパレードを見にきた技術者だった。もう一人は西ベルリン在住の人で、十五年もベルリンにいるというベテランだった。彼はさすがに「メーデー」にはくわしく、
「いまどき、軍人パレードなんて時代離れしたことをやっているのは、ここだけでしょう。しかし、これがあるから、見にくる甲斐があるわけですよ」
と、極めてクールに、パレードを楽しんでいるようだった。彼の「解説」によれば、このパレードに参加した武器のうち、特に興味深いのは小型ミサイルと小型戦車なのだそうで、特に、昔流のキャタピラがタイヤ車輪に変ってきた部分を、
「もし戦争が起きたらですね、この軽量戦車が圧倒的に有利なんですよ。第二次大戦の時はソ連の大型戦車にドイツは敗けたが、今はスピードの時代です。それに、ドイツの風土をご覧なさい。山がないでしょう。国土はすべて丘と平原ですよ。いざ開戦となったら、いまアメリカが持っている重戦車なぞ、この小型ミサイルで一コロですよ」
と、さかんに「さすがは東ドイツ」を連発していた。その「東ドイツ」から来た技術者は、
「どうですか、こちらの生活は?」という僕の問いに、
「そりゃまあ、たまにいらっしゃる観光客ならいいでしょうが、日本からこちらに住んだんじゃ、退屈で、とにかくどうしようもないですねえ。一刻も早く、あのゴミゴミした日本に帰りたいですよ」
と、うらやましそうに僕を見ていた。
おきまりの、赤いネッカチーフをつけた労働者たちが行進する頃になると、見物人たちも思い思いの方向に散っていった。僕とT君は、すいよせられるように、アレキサンダー広場の方に向った。ここは有名な「東ベルリンのショー・ウィンドウ」と呼ばれているところで、大きな店は「メーデー」のためお休みだが、小さな露店がたくさん出ていて、少年少女たちが、これに群がっている。
ここで食べたフランクフルト・ソーセージは、安くておいしかった。或いは朝から何も食べていなかったせいかも知れない。やっと空腹を充たして、ジュースを飲んで、しばらくそこに坐っていた。若い兵士がおり、学生風がおり、少女がいた。ふしぎなのは、美しく可愛いお嬢さんが、よそ眼にも西ベルリンに比べて――或いは西ドイツに比べても――歴然と多いことであった。
「このお嬢さんたちは、東側のコ?」
思わずT君に、そうきいてみると、彼は言下に、
「勿論です。これはベルリンの常識です」
と答えた。T君の「解説」によれば、ベルリンに出稼ぎに来ている外国人は、何といっても決して恵まれてはいない。特にT君など日本人の眼からみると、西ベルリンの女性など、威圧的で、厚化粧で、大の苦手である。
ところが、「東側」の女性は、大体農業地帯が中心であったし、小柄で清純な上に、共産圏独特の清々しさがあり、「人種的偏見が少ないですからね」ともいう。たしかに、僕の側に坐ってアイスクリームを食べていた少女は、僕がそれまで見たあらゆる「ドイツ娘」を思い浮べても、なお抜群の美しさだった。
T君は、その女子高校生位と思われる少女と話のきっかけをつかもうと必死だった。どうもその語学力は、かなり覚束《おぼつか》ないものだったが、それがかえって相手に物珍しさを与えたのかも知れない。その少女のボーイ・フレンドとおぼしき数人の少年――やはり、十六、七歳位の高校生――が、「ヤパン、ヤパン」といいながら、僕たちの間に集まってきて、その周りに十数人の渦ができた。T君は、かねて計画的に用意してきたらしく、自然にアメリカ煙草をとり出しながら、
「年はいくつ? どこに住んでるの?」
という、最も原始的な質問からはじめた。
僕がびっくりしたのは、たちまち手が出て、二十本入りの「キャメル」が、一瞬にしてカラになってしまったことである。僕も二箱の「キャメル」を持っていたが、これもやがて残り少なになった。少年たちの一人が、悪いと思ったのか「ソ連製だよ」といって、僕等にお返しをした。成程それは、明らかに紙くさくて、まずい煙草だった。
数十分ガヤガヤやっているうちに、少年の一人が、僕の持っているテープレコーダーを発見した。この極めて小型で高性能な日本製のテレコ(テープレコーダーの略)は、著しく彼等の興味をそそったようだった。すっとんきょうな声を出す陽気な少年が、「借りてもいいか?」と動作でたずね、僕が「OK」とこれまた動作で示すと、それをもって、活躍をはじめた。
しばらく、二、三の友人に声を出さしては楽しんでいたが、そのうち「おい、歌を歌おう」というようなことをいったらしい。それに応じたのは、少女たちの方だった。そして、それはたしかに、僕もかなり何度かきいたことのある曲だった。「ロック・ロック・ロックンロール」というリフレーンがあるので、やっと思い出した。それは十何年か前に、アメリカ映画「暴力教室」のテーマ曲として有名になった、あのロックの古典だった。
そのうち僕のテレコは、どこかにいってしまった。T君は「連中、どこに持っていってしまったのかなァ」と心配したが、僕はほんの座興に持っていったので、別段気にもしなかった。テレコは他にもまだ二台が健在だった。
三十分も経った頃、この小型のテレコは、無事僕の手許に戻ってきた。僕はその時は別段それも気にもせず、むしろT君がその美少女とデートの約束が出来るかどうかの方が心配だった。少女はT君に住所を渡し、何か話しているようだったが、T君は急に「あ、いけねえ」と、手を頭にあげた。お父さんの職業は? と少女にきいた時、彼女は「ポリス」といったのだ。或いはそれも少女の冗談だったかも知れない。
三時頃、東ベルリンを離れた。何となく、楽しい半日だった。陽気な少年少女たちの姿が、東ベルリンの陰うつな空気とダブって、何とも奇妙だった。西ベルリンに着き、テレコを動かしてみて、初めてアッといった。そのテープの中には、少年少女たちの生々しい声が、そのままスッポリと収められていたのである。
後に、ボンで僕は三十半ばのドイツ人の知識層に属する人から、このテープの解読をしてもらった。彼は初め、ゲラゲラ笑いながらこのテープを聴いていたが、やがて深刻な顔つきになり、そして「これは本当に東ベルリンでとったものか?」と念を押した。
「私が念を押したのは、これはふしぎなテープだからだ。我々は同じドイツ人だが、東の人たちのナマの声をきく機会はめったにない。まして若者の声がきけることなど、殆んど考えられない。西側の記者で、東独で買物に並んでいる主婦に近づいたというだけのことで、勝手な取材をした、とひどく怒られた例があるほどだ。恐らくメーデー当日という特殊な条件と、あなたがドイツ語がわからないという気安さが、これを可能にしたのだろう――」
彼が訳してくれた内容は、いわばとりとめのない若者のいたずらである。しかし、そのとりとめのなさの中に、僕はいくつかの胸を打たれるものを発見した。それはまさに、一九七四年五月の、僕の「リリー・マルレーン」であった。
テープの中で、若者たちは、こういっていた。
――「ヤパンのテープレコーダーだ。インタビューごっこをしよう。最初の問題はセックスだ。君はセックスについて、どう思うか?」「オレはまだ何もないさ」「セックスとは学校で教えてくれないことであります」(女)「あなたはセックス以外のことがきけないの?」
「それでは恋についてきこう。恋とは何か?」「恋とはスポーツである」「デブにとっても、愛はいいものである」「デブにとっては、愛よりスポーツの方がいいものである」「恋は労働と一緒に出来ないものである」
「それじゃ、女についてはどうか?」「女は必要《ヽヽ》である」「夜にとっても、女は必要である」「夜だけのものさ」(女の声で)「女のことばかりいってるけど、男なんて何さ」(ここで合唱が入る。メロディは、ロックン・ロールの最大の古典といわれるアメリカ映画「暴力教室」のテーマ曲である。但しこの歌詞は映画とは何の関係もない)
歌詞「我々が年をとると、老人ホームがある。そこは余り面白いところじゃないが、看護婦がいる。足をなくしたら、人は義足をつける。もし歩けなければ、肩で踊るんだ」「じゃ、もう一度歌おう」(この歌詞がここでだけのアドリブのものか、いつも歌われているものかは、全くわからない。ロック・ロック・ロックンロールというリフレーンのところだけは、華やかな合唱になる)
「一番好きな歌手は誰だ?」「決っているさ。スージー・クワトロだ」「あいつは何しろ四、五キロのギターを持ってるんだ」「あいつは、息をしないんだ」(この辺のところは意味不明。スラングが多く、ガヤガヤしていて訳せない。スージー・クワトロは、今年の春頃から日本でもベストテンに登場した新人で、体にピッタリついたセクシーな黒いレザーを着たイギリスのロック歌手。「ステージでは皮ジャンの下に何もつけてないの」と公言し、西ドイツでも抜群の人気がある)
「それでは、お前のおばあさんをどう思うか?」「オレのバアさんは汚い。曲った足をしている。フットボールは好きだが、ロックは嫌いだ」「気にすることはないさ、もうじき、いなくなる」
「それでは青少年保護法に移ろう。あれはどうだ?」「いいところもあり、悪いところもある」「ガンコで窮屈だ」「最低だ」「読んだこともないのに、答えられるか」
「それでは、いまの政治を信じているのは誰だ、手を上げろ」「それは私だ!」(どっと笑い声があがる。「やめろよ」というような声が入る)
「それでは、アジェンデについてきこう。あの大統領について、どう思うか?」「あれは女医さんじゃないのか」「はい、右翼につぶされて、自殺しました」「アジェンデは|ふたなり《ヽヽヽヽ》じゃないのか」「お前も|ふたなり《ヽヽヽヽ》に興味があるのか?」「|ふたなり《ヽヽヽヽ》は女医で直せるか」「おれは、|ふたなり《ヽヽヽヽ》にも女医にも興味はない」――
細かくきいてゆくと、このテープにはまだまだ色々の声が入っている。「どうしても訳すことのできない少年のスラング」といわれた部分もあるし、何しろ広場の混雑の中でハプニング的にジョークに次ぐジョークを収録したものだから意味不明瞭な部分が多いし、いろいろなところで、プツンと切れている。ここに訳出できたのは、比較的明瞭なほんの一部である。
この解読に協力してくれたそのドイツ人は、
「東の少年たちが、共産主義の神話に出てくる化物でなく、普通の少年たちなので安心した。人間は、基本的に、どんな政治体制にあっても、同じものなのだ」
と語ったが、僕はこれをきいていて、日本の同世代の少年少女たちよりも、むしろ高度な「政治性」を感じないわけにはいかなかった。日本の高校生が日常のジョークの中で「チリのアジェンデ大統領」をもち出すようなことは、よもやあるまい。だがそれ以上に僕を驚かせたのは「スージー・クワトロ」である。クワトロは、五月といえば、ロックの最先端をゆく日本でも、やっと名前が知られはじめた新進歌手である。無論DDRで、このセクシーなロック歌手のレコードが売られていると考えることは、不可能である。
つまり、歌は「簡単に国境を越えた」のである。この時集まっていた高校生は、ベルリン周辺の学生らしいが、たとえベルリン周辺でなくても、ベルリンから放送される「西側のラジオ」は、普通に全東ドイツに流れてしまう。ラジオだけでなく、テレビでさえも、西側の説明によれば、「東ドイツ人口の約八○パーセントが西側のテレビを見ることが出来る」という。どんな壁を作っても、「鎖国」を強いても、電波は簡単に壁をつき抜けてゆく。そしてそこから人の心に流れる「歌」までも「政治」がとり上げてしまうことはできない。
思えば、日本は「電波」でもまた孤島である。今でこそ日本の上を強力な外国の電波が走っているが、戦争中の日本は、電波の僻地であった。Far East という言葉は、世界地図をひろげた時、そのまま当てはまる実感であろう。
その日は、夕方からホテルのロビーでテレビを見ていた。夕方から、ドイツとスウェーデンのサッカーの試合があり、どうやらドイツ人の関心は、「メーデー」よりサッカーの方に遥かに大きく傾いているようだった。あの冷静さを看板にしているようなドイツ人たちが、女性もまじって、球の動きに大きな嘆息と拍手とを送っていた。八時から、やっとメーデーのニュースがはじまった。東ドイツのニュースも、ちゃんと入っていた。残念ながら、何をいっているのかわからない。唯、ニュースで見る西ベルリンのメーデーは、お祭りでもなく、華やかでもなく、装甲車と警官と新左翼らしい若者がやたらに目立つデモだった。
ベルリンの新聞によると、メーデーといっても大分国によって雰囲気が違うらしい。ベルリンの「武装メーデー」に対しては、この日、西側三国(米、英、仏)の司令官たちが、「ベルリンの非軍事化された地位を侵害するもの」と抗議したらしいが、無論「東側」は知らん顔である。一方、他の東欧共産圏はすっかり「メーデー」に対する情熱をなくしてしまって、ルーマニアの如きは、「メーデー」を全然やらずに、普通に働いていたらしい。メーデーをやらなかったもう一つの国は、韓国である。
この日、世界で最も感動的な「メーデー」をやったのは、恐らくリスボンであろう。四十八年にわたる右翼独裁政権から解放されたこの日のポルトガルには、赤いカーネーションとVサインと「自由」の文字が街を埋めつくしたという。ある雑誌の見出しには、「兵士たちに花を! 花瓶に銃を! リスボンの赤い五月!」とあった。僕はこの美しい見出しをみながら、この「自由」が、いつの日か左右の激突にあって、再び失われる日が来ないよう、祈らずにはいられなかった。
ドイツのメーデーに関しては、もう一つ書きたいことがある。西ベルリンで買った「ウェルト」紙に掲載されていた北京のメーデーの記事についてである。「ウェルト」はキリスト教民主党系、いわば北京の側からみれば「帝国主義者」の側に当るわけだろうが、ちゃんと北京に特派員を置いているものとみえ、こんな記事が載せられている。
「五月一日、この国民的な祭典の日、北京の街は多彩な紙のデコレーションで飾られ、大きなアーチは赤旗にかこまれ、少女たちは白いブラウスの下に、色あざやかなアンダーシャツを着ていた。然し、北京の市民たちは、街頭に出るや、一様に驚きの表情を見せた。彼等はこの日から、解放軍の水兵服のモードが一変したことを知らなかったからである。水兵たちは青いズボンに白いシャツ、赤い肩章、それに広い明るい青色をした襟をつけており、更に白い水兵帽は鮮やかな濃紺のストライプで巻かれていた。彼等はポリティカルな足どりで、市民の前を行進していった。
中国の軍服は、それまで階級によって違いがないというのが特徴だった。例えば陸軍のユニフォームは、皆同じような緑で、将校と兵隊を区別するのは、上衣のポケットが二つ多いか少ないかというだけだった。つまり将校は二つのポケットしかつけていなかったのである。然し、今回の水兵に関するユニフォームの特徴は、将校がきわ立った別の服装になったということだった。この日、警官も陸軍も空軍もユニフォームに関する規定をかえたが、海軍ほど目立ったものではなかった。
最もきわ立った変化が見られたのは女性兵士のユニフォームについてである。解放帽といわれていた帽子はバレット(ベレー帽のこと?)にかわり、ズボンの替りにスカートが採用された。道をゆく人たちは一様にその姿に驚きの色を示したが、暗黙のうちにこれを喜んで迎え入れるような気配が感ぜられた。
すべての北京市民が街頭や公園に充ちあふれているようにみえた。彼等はメーデーに一番近い最後の日曜日に給料をうけとっているのであった。一日、二日と続く休みに、喜び合う市民の行事と平行して、政治もまた大きな役割を果していた。孔子と林彪を批判する大きなスローガンとマオの写真が同時にのせられ、そこにはマオがいったプロレタリアートの独裁を強化し、資本主義復活の陰謀を叩きつぶし、社会主義を建設しよう≠ニいう言葉が大きく掲げられていた」
僕はこの記事を見ながら、ボンのドイツ人が「東ベルリンのメーデー」における少年少女たちの録音をききながら「人間の自然の欲求は、たとえ置かれた環境は異なっても、全世界の人類すべて、同じものである」といった言葉を、暖かく思い出していた。そして、「メーデーとユニフォーム」という簡単なポイントを捉えて、このことを活き活きと描写した西ドイツの記者のセンスに脱帽した。後に日本に帰って、「北京のメーデー」に関する日本の新聞の記事を精読したが、これに関する記事は一行もなかった。そして、この日北京に集まった若者たちが、どんなジョークを飛ばし合っていたかを報道した記事もまた、どこにもなかった。
西ベルリンでは、例の「リリー・マルレーン」の作曲家ノルベルト・シュルツェ氏や、そのドキュメンタリー映画を作ったジュニア氏とも連絡はとれたが、いずれもタイミングが合わず、三週間後に改めて会おうということになった。それから数日間、僕は久しぶりに何の目的もなく、西ベルリンをブラブラして廻った。
僕ははじめに「ベルリンは安っぽい」と書いたが、誤解のないようにいい直すならば、それは僕がそう感じたからで――それは僕の場合、気に入ったからこそ、そういう表現を用いたので――客観的にはその描写は決して正しくはない。市内には、ヨットが数百隻も浮ぶ湖が二つもあり、深い緑は他のドイツと同じように、人々に安らぎを与えていた。建物はすべてドイツ風――或いはヨーロッパ風――に堂々と建てられており、クーダム(西ベルリンの銀座通り)の道路につき出たカフェテラスでのんびりと午後の日を浴びたときには、初めてヨーロッパの旅を満喫した気になった。
ゴーゴー・バーやサイケデリック・バーなども覗いてみた。入場料は五百円程度。どこからこれだけの若者が集まるのか、数百人の男女が、息もできないほどの人いきれの中で、物凄いヴォリュームのロックの下に、踊り狂っていた。その上、時々スモークをたく。目の前一メートルも見えない狂騒の中で、ここの若者たちは一体、何を考えているのだろうか。ぼんやりビールを飲んでいる僕のところにも、何人かの若者が話しかけてきた。|それらしき《ヽヽヽヽヽ》女性も、その中にはまじっていたようだった。それは、T君の言葉を借りれば、「飢えた白い雌牛」のように僕には思えた。
そういえば、ベルリンの夕刊紙には、ふしぎな広告が載っている。「ライブ・ショー」からはじまって、「トルコ風呂」「カインドリー・サービスを、フィルムとご一緒に、飲物つき四〇マルク」「ホテルまで出張サービスを致します、優しいマッサージです」「私とダンスをやりませんか、出かけてゆきます」、中には「こちらは、プチ・フラウ・フラウです」というのまであった。最後の広告は「一対二で楽しませよう」というのだろうか。
ご存知とは思うが、西ドイツには売春禁止法がないのである。ハンブルグの例の「飾り窓」をはじめとして、どこの都市にもそれに類したものがあり、ミュンヘンなどでは「託児所、デラックス・プールつき」の、市営の「世界一健康な」遊廓まであるというのが、いかにも「管理好き」の合理主義的ドイツらしいが、ベルリンにはそれがない。きくところによると、一八七一年一月、ビスマルクがベルリンを首都としたとき、「首都に遊廓を置いてはいけない」と定めた条例が今でも生きている、というのだが、そんなことが本当にあるのだろうか?
東ベルリンにも、また行ってみた。再度行こうというとき、例の「観光関係」の人に、メーデーの日のことを話したら、さすがに彼は顔色をかえて、
「そんな無茶なことは、もうお止めなさい」
といった。僕は「東ベルリンを甘くみている」というのだ。
「それは、メーデー当日という特別の日なので、見物人も沢山いたし、入境手続きもイージーだったので、そういうことになったのです。第一、テープレコーダーはいけません。まあためしに自動車で一度、東ベルリンまで行ってご覧なさい」
彼の語るところでは、例の「国境のトラブル」というのは、今でも決して終ってはいない。六一年に壁が出来て、それから十三年、壁をめぐるドラマチックな悲劇の数々は「八月十三日委員会」(八月十三日は、壁の作られた日)が五年前に編集した「これが壁で起った」などによって、われわれにもよく知られているが、それは「東西協定」が出来た今でも、基本的には状況は変っていないというのである。
現に、昨年も「西ドイツ学生、引っぱられ事件」というのが起きている。事の起りはやはり昨年、事もあろうに東ドイツ側の国境監視員の一人が、仲間の一人に自動小銃をつきつけ、それを人質として西側への逃亡を計ったのである。この男は、あと十メートルというところで、一瞬の隙をとらえられ、東側の一斉射撃にあって、全身蜂の巣となって死んだ。この流れ弾で、西側のゲートの小屋には、たくさんの弾痕が残ったほどである。
それから数日経って、西ドイツのある学生が、この「壁」にやってきた。彼は東西の境のギリギリのところまで出かけてゆくと、メガフォンをとり出して東側の警備員たちに、「この人殺し野郎ども!」とののしり続けた。この時、脱兎のように躍り出た「東」の兵隊が、アッという間にこの学生の手を捕えて、そのまま「東」の方に引きずりこんでしまった。それは全く、一瞬の出来事だった。
国境を守る「米英仏の軍隊」も、呆然として、手の下しようもなかった。或いはこんなことで、自分が「蜂の巣」にされてはかなわないという判断があったのかも知れない。「西側にいたからといって、決して油断は出来ませんよ」と、彼は重ねていった。そういえば、東西の境を流れるシュプレー川の「西側」には、今でも「この川に落ちた者は、誰でも助けることが出来ない」という看板が、どこにでも立っている。
僕はさすがに用心深く、車の客席もトランクも全く空にして、外国人専用の東西ベルリン通過所に向った。カメラの他は、一冊だけテストに「カラー版ベルリン案内」という西ベルリンで買った本をシートに置いておいた。これはドイツ語と英語の説明の入ったもので、東西ベルリンの名所が、五十ページにわたって、写されている。
僕は現場に着くまで、ベルリンに来る時の国境の時も、メーデーの日も、案外簡単に入れたので、実は内心「今どきそんなことが……」とタカをくくっていたのだが、ここの境界線にきて、彼等のいう「神話」が現実のものであることを、初めて体験した。
入る時は約四十分。そして出るときは、実に一時間もの時間がかかった。トランクは無論のこと、シートを外し、車の下をガラスで映して見せ、ガソリンの入れ口から竿を入れて「二重タンクでないことをたしかめる」というのも、決して誇張した表現でないことを改めて知った。僕の「本」は一ページ一ページ点検され、胡散《うさん》臭そうな顔で何回か僕を見直して、やがて通してくれた。
順番を待つ人の中に、東洋人が一人いた。眼鏡をかけ、長髪のジーパンで、皆何となく手もち無沙汰で待っているのに、彼だけは一切の周囲にかまわず、一心不乱にドイツ語の本と取り組んでいた。僕は「日本人留学生はさすがに違うのか」と思って、彼の受けとったパスポートを見たら、中華人民共和国の表紙だった。
そういえば、東ベルリンには以前「中国製」の安いタバコが沢山あったというが、「中ソ論争」以来「ソ連の優等生」である東ドイツからは、「中国製」は姿を消してしまった。いまあるのは、「ブルガリア製」の、目の玉がとび出るほど高い――一箱五百円近い――然も紙くさい煙草である。そして、かつては東ベルリンのメーデーの日には、沢山の「人民服」姿を見かけたそうだが、今はいない。それにしても、あの近眼の中国青年は、祖国に帰るとき「ジーパンと長髪」をどう始末するのであろうか。或いはその頃は中国もまた「長髪とジーパン」の時代となっているのだろうか――。
数日後、一旦ベルリンを後にした僕は、車をパリに向って走らせていた。快適な高速道路をさまたげるものは、何もなかった。ベルリン・パリ間、約一千キロ。朝ベルリンをたった車は、夜半にはもう、パリ郊外に到着していた。
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9 パリ
おかしな おかしな パリ
パリに着く前、僕はフランスの詩集の中に一行だけだが「リリー・マルレーン」という文字が出てくる本を持っていた。出発前、あるお嬢さんが『ジャック・プレヴェール詩集』(嶋岡晨訳)というのを持ってきて、その中の「新体制」という詩の中に「リリー・マルレーン」が出ているというのである。
僕は早速、その詩を穴のあくほど何回も熟読したが、実はその意味が全くわからなかった。訳者の方には全く申しわけないが、元来余り詩的情緒というものを持ち合わせない僕にとって、この「訳詩」は余りに難解なのである。それに「解説」を見ても、この詩が何年に作られ、如何なる背景の下に発表されたかということは、全く出ていなかった。
ジャック・プレヴェールその人については、僕にも若干の知識はある。例のロベール・デスノスの時に紹介した『シュルレアリスム簡約辞典』によれば、ジャック・プレヴェールはデスノスと同じく一九〇〇年の生れで、「詩人。代表作は≪心臓|で《ヽ》赤くなる男≫、本来の意味でのシュルレアリストとしての活動は、一九二六年から二九年までである。それ以後は、破壊的な傾向の喜劇映画の製作に参加している」と書かれている。
プレヴェールは、われわれには「詩人」としてよりも、映画のシナリオ作家として有名である。マルセル・カルネの「霧の波止場」(一九三八年)をはじめとして「悪魔が夜来る」(一九四二年)「天井桟敷の人々」(一九四四年)「夜の門」(一九四六年)など、映画史に残る数々の名作を手がけているが、「詩」の方となると「元シュルレアリスト」だけあって、そう易しいものではなく、その抽象的な単語が一体何を意味するのか、途方にくれた。
幸い、パリに友人がいたので、この詩集がもし手に入るものだったら、ぜひ手に入れてほしい、もし無ければ、図書館に行って、原文をコピーしてでも送ってくれと依頼した。返事はすぐに来た。
「この本はどこにでも売っています。有名なベスト・セラーです。初版は一九四六年に出たものですが、文庫本に入っていて、いつでも買うことができます。今でもプレヴェールは、|ルイ《ヽヽ》・|アラゴン《ヽヽヽヽ》と同じぐらい有名です」
という手紙と一緒に、「Jacquesprevert〈Paroles〉(言葉)」が僕の手許に届いた。この本によって、僕は "L'ordre Nouveau"(この単語は多くの本が「新秩序」と訳しているので、僕もそれに従うことにする)の作られたのが一九四二年らしいこと。そして詩の内容は、次のようなものであることがわかった。極めて散文的、且つ即物的な訳であるが、数人がかりでまとめた大意は、こういうものである。
「たそがれどき、砕けた赤ぶどう酒の瓶、戦火で崩れ落ち、ポーチだけ残されている街の一角に、若い女が倒れている。
男は膝をつき、そのくたばりかけた女をもう一度刺そうとする。そのとき男はバカバカしい妙な声をあげ、ヤケクソになり、絶望的な声で≪ハイル・ヒトラー!≫と叫ぶ。
その男の眼の前には、青ざめた老人の肖像画がある。この絵の軍服につけられた星。子供たちのためにモミの木で作ったクリスマスのような星。この肖像画を前にして、男は急に自分の家にいるような気楽な気持になり、短剣を鞘におさめ、(女を刺さずに)行ってしまう。
ホームシックで頭がおかしくなった新ヨーロッパのロボット。
≪アデューアデューリリー・マルレーン≫
足音は闇に消え、青ざめた老人の肖像画は、廃墟の中で、変に自信たっぷりに微笑している――」
僕は詩のことはよくわからないが、これはいわば映画でいえば一種のフラッシュ・バックの手法であろう。いろいろなイメージをつみ重ねてゆくことによって、感覚的にある一つの強烈な焦点を絞り出すようにしたものであろう。
一九四二年といえば、ドイツがパリを占領して二年目である。プレヴェール自身は、そのドイツ占領下に於て「悪魔が夜来る」という作品を作っている。このラストシーンで、二人の愛の復活を見た悪魔がこの男女を石にしてしまうが、この石は怒る悪魔のむちの下で、なお生の鼓動を続ける。この「命の音」は、石となってもなお鼓動を続ける男と女(フランス人)の自由と解放への願いを象徴したシーンとして、映画史上に今なお光彩を放っていることは、大方の映画ファンならご存知であろう。
プレヴェールがここで「リリー・マルレーン」に何を象徴させようとしたのかは、僕が解説する役目ではあるまい。この頃ルイ・アラゴンは「神を信ずるものも、信じないものも」という有名な詩を書いて、フランスの為に戦っていた。「とめどなく流れる赤い血は、同じ色、同じ輝き、神を信じたものも、神を信じなかったものも、彼らの血は流れ、彼らの愛した土に交わる――」
フランスの「レジスタンス」については沢山の参考書が出ているので、僕などが今更書くまでもないが、これは一九四〇年、ドイツがたった六週間でパリを「無血占領」した直後から起ったものでは決してない。ドイツはパリを占領したからといって、フランス全土を占領してしまったわけではなかった。フランス人たちは、ナチがフランスに対してどういう態度に出るか、はじめのうちわからなかった。そしてナチは、少なくともポーランドやチェコなど東欧諸国に対してとったような強圧的な態度をフランスに対してはとらなかった。ナチのパリ占領直後、共産党機関誌「ユマニテ」は、ドイツ占領当局に対して「ユマニテ」の刊行許可願いを出しているほどである。
フランスには最初から、意識的な「対独協力《コラボラシオン》」と「日和見」と「徹底抗戦」(これが後に、レジスタンスに発展する)とがいた。一九四一年頃は、レジスタンスはまだほんの少数だった。フランス軍の多数はドイツの捕虜となり、いくらかはダンケルクからイギリスにのがれ、いくらかは「非占領地帯」にのがれ、いくらかはアフリカ戦線の連合軍に加わり、またいくらかはパリに「敗残兵」として空しく日を過していた。ほんの少数だが「枢軸軍」に加わって、ドイツ兵と共に東部戦線にソ連と戦いに行った兵士もいた。
だが、一九四二年、東部戦線はソ連の強烈な抵抗に出会って、進むことも退くこともできず、アフリカ戦線で明らかに連合軍の勝利が見えてきた頃から、「レジスタンス」は徐々に、顕在的な力として、フランスの中に現われるようになった。プレヴェールが「アデュー・リリー・マルレーン」と詠んだその時は、いま思えばフランスの気持が大きく乱れ、いわば「コラボラシオン」と「日和見」と「レジスタンス」の三者が、三すくみの状態で、複雑な様相をみせていた時期であるということがいえるだろう。四三年には、この地図は明らかに「レジスタンス」の圧倒的優位にぬりかえられる。
このフランスで、「リリー・マルレーン」が何時、誰によって初めて歌われたか、ということについて、確証はない。帰国後、シャンソンの権威である蘆原英了氏に教えて頂いたところによると、一番古いカタログに出ている「シャンソンのリリー・マルレーン」を歌っているのは、スージー・ソリドールという歌手で、シャンゼリゼーに店をかまえ、男まさりといわれた女性だそうだが、僕がパリに着いた時、まだそのことを知らなかった。僕を迎えたパリは、何年来だかの寒波の襲来だそうで、五月上旬だというのに、人々はぶ厚いオーヴァー・コートの襟をたて、夏仕度で出かけていった僕などは、着られるだけの下着を着こんで、日航パリ支店の待合室の椅子でふるえていた。
人間はちょっとしたことがもとで、必要以上の感情を相手に抱くことがよくあるだろう。僕にとって、パリは正にそれだった。前夜、パリ郊外で泊ったとき、ホテルで百ドルをフランにかえた。四二〇フランだった。いくら何でも安いと思ったがどうしようもなかった。その上、如何にも「ドル」を見下しているようなキャッシャーの女性の態度に、二重に腹が立った。
それから、かねて手紙を出して、映画関係の取材を頼んでおいた二人の在パリ日本人女性に電話をした。二人とも、在仏十年という人たちであった。二人の電話口での口調は、申し合わせたように同じもので、「電話番号を教えますから、あとはご自分でなさい」という、極めて簡単、クール、且つ正確なものであった。ドイツ人の、或いは在独日本人の温情に馴れてしまった僕には、「これがパリというものかな」という教訓が、まず頭に刻みこまれた。パリは、すべてを「自主的に」行動しなければならない街らしいのであった。
道路とて同じである。ドイツの道路は、標識に従い、道路に書かれたレーンに乗れば、心配は要らない。しかし、パリの道路にはレーンはおろか、標識も見えず、中心線すらない。成程、よく見ると目立たないように、ビルの横に街の名を書いたプレートがはりつけてあるが、止ってそれをしげしげと眺められるほどパリの道路は余裕はない。車を降りて道をきいてもドイツの街で経験した親切さは、ここにはない。いや、それは「親切」というものではなく、「自主的に考えろ」ということなのであろう。そして、パリに永く住んだ日本人たちは、知らず知らず、その風習を身につけてしまっているのであろう。
僕はパリの日航支店で、意地の悪い実験をしたことがある。カウンターにいる日本人の若い女性に「両替はどこでやってくれますか?」ときいてみたのだ。お嬢さん(或いは奥さんかも知れないが――)は、「この店の並びで、行けばスグ判ります」と答えた。僕は、もう少しくわしく尋ねようと思ったが、「スグ判ります」という返事を一応信頼することにして、外に出てみた。
少なくとも僕の判断力では「スグ」には判らなかった。五百メートル以上も寒風の中を歩き、また戻ってきた。「何という名前のビルの何階で、どういう窓口に行ったらいいのですか?」と僕は改めてきいた。両替所は二軒おいた隣のビルだった。だがそこには英語で「銀行」とも「両替」とも書かれてなかった。ちなみにそこで両替した百ドルは四八二フランである。
もう一人の日本人受付の女性にも、同じようなことをやってみた。「電話は何処でかけられますか?」ときいてみたのだ。たまたま、日航の電話は故障だった。パリの電話はよく故障するのだそうである。そのお嬢さんはニコリともせずにこう答えた。「スグそこに郵便局があります」
成程、スグ傍に郵便局はあった。だが、何フラン玉を入れて、どういう風に電話をかけていいのか、さっぱり判らない。小銭がコイン入れに入らないのである。しばらく周囲を眺めているうちに、ここの公衆電話は、電話ボックス用のコインを別に窓口で買わなければならないことに、やっと気がついた。更に順番を待ち、ダイヤルを廻したが、それでもうまくかからない。後の順番の人が、見かねて代りにダイヤルを廻してくれ、妙なボタンを押すと、魔法のように話は通じた。パリは何でも「自主的に」物事を行なわなければならない|らしい《ヽヽヽ》のである。
「いや、それは、あなたの偏見だし、パリには親切な人も沢山います。フランスの地方に行ってご覧なさい。標識は完備しているし、ドイツと違った意味で、フランスもまた合理主義なのです」
そう僕をたしなめたのは、その時電話が通じた鍋島さんである。彼はパリで長年調査関係の仕事をやっている日本人である。
「一般的に」と彼は続けた。「ドイツから入ってきた人は、はじめパリに対して、あなたのようなイメージを抱き勝ちなのです。逆に、しばらくフランスに住んでドイツに行くと、ドイツは野暮ったくて、規則ずくめで耐えられなく思える。唯、パリに来ている日本人や、パリに馴れかかった日本人女性が、そういう傾向があることは、たしかですね。それは、こう解釈すべきだと私は思います。パリが、その人たちをそういう風にしたのではなく、そういう傾向をもった日本の女たちが、パリに来たがる、或いは来てしまった、ということです。僕の友人のフランス人は、よくいいますよ。日本女性は世界で一番美しいはずなのに、パリにいる日本のお嬢さんで、美しい日本ムスメに会ったことは一度もないって……」
僕は一応鍋島さんの説明をおききした。しかし、寒さと飢えで――日本ソバと、日本の煙草と日本の水が、どんなに恋しかったことか――僕の心には鍋島さんの理論を納得するほどの余裕はとてもなかった。最初の一日で、まずこの恐るべき街での車の運転を「自主的に」諦めた。
頼りにしたパリのタクシーはまた、「自主的」であった。夕方のラッシュ・アワーなどでは、手をあげるぐらいでは見向きもしてくれない。僕はテープレコーダーとカメラと沢山のノートの入った重いバッグをぶら下げて途方に暮れた。お蔭でたちまちのうちに地下鉄のコースを憶え、パリの地図が頭に叩きこまれた。パリは大統領選挙の真最中だったらしいが、僕には関係なかった。
何回か乗ったタクシーの運転手の中に、驚嘆すべきユニークな人物が一人いた。車内に愛犬を同伴しているのである。その「愛犬」も、ペット並みの仔犬ならまだご愛嬌ということもあるだろうが、運転席横のシートに居坐った愛犬は、体重二十キロはあると思われる、巨大なシェパードであった。この愛犬氏は、乗った途端に、長い舌をベロンと出して、客である僕を、じっと睨みつけた。
ドイツでも、愛犬を連れて自動車に乗ったり、レストランに入ってきたりする人はいくらでも見た。「家畜」に対するヨーローパ人とわれわれとの感覚の違いは、会田雄次氏の『アーロン収容所』以来、よく認識はしているつもりだったが、このパリの運転手の如き存在を許す「自主的な」社会までは、さすがに予想していなかった。その「犬畜生」は明らかに後方の僕のシートより上等な毛布が敷かれた上で、胡散《うさん》臭げに時々僕を横目で睨み、主人の愛撫を受けては満足げであった。
僕は三流のホテルに泊りこみ、大量のカゼ薬を飲んで、街で大量に買いこんできた雑誌類をパラパラとめくっているうちに、ふとふしぎな写真集に目が止った。それは表紙が映画「エマニエル夫人」の載っているカメラ雑誌で、写真集の題名は、「ドイツ占領下のパリ」であった。
ドイツ流の道路標識のついたパリ。輪タクを運転するパリッ子。ストリップに見入るドイツ将校、「星」のマークをつけたユダヤ人。エッフェル塔をバックに、ドイツ兵とデートをするパリジェンヌ――。その間にまじって、ある映画館の前で、ドイツ兵同士がお互いに敬礼し合いながら行き交う一枚の写真がある。場所は、シャンゼリゼーからそれほど遠くはない「イタリア通り」のインペリアル劇場の前。バックには映画のポスターが出ており、看板の題名は「Bel Ami」とあるが、よくよく見ると監督の名はウィリー・フォルストである。戦前のドイツ・ウーファの代表作「未完成交響楽」や「ブルグ劇場」の巨匠として名高い。そして、その写真説明には、こんな解説がつけられている。
「一九四二年、パリの映画館はドイツに占領され、また多くのドイツに協力的なフランス人によって守られていた。この写真にあるベラミ≠フ歌はリリー・マルレーン≠ニ同じようにヒットした――」
一九四二年、パリではたしかに多くの人たちによって「リリー・マルレーン」が歌われていたのである。デスノスはそれを歌いながら死に、プレヴェールは「アデュー」と彼女に告げた。スージー・ソリドールは、恐らくドイツの将校たちの前で、それを歌ったに違いない。だが、どんな歌詞で、どんな風に……?
僕は、薬で気だるくなっている体をふるい立たせるようにして、寒いパリの街を、レコード屋を探し求めて歩いた。全く意外にも一九七四年五月のパリには、たくさんの「リリー・マルレーン」があった。ディートリッヒは無論のこと、あの有名なシャンソンの女王エディット・ピアフをはじめとしてコレット・ルナール、マリー・ラフォレ、更に男性歌手のジャン・クロード・パスカルなどという人まで歌っていた。マリー・ラフォレは「太陽がいっぱい」で憶えていたし、ジャン・クロード・パスカルはたしか十年ほど前、NHKの招きで来日し、日本で岸恵子とテレビ映画を作っているはずである。このジャン・クロード・パスカルの歌った「リリー・マルレーン」が、僕が聴いた初めての、男性がソロで歌った「リリー・マルレーン」である。然も彼は、この歌を十年前と一年前に、二度もレコードに入れていた。
僕はフランス版の「リリー・マルレーン」を試聴してみて、再度心の中でアッといった。まるで違うのである。ディートリッヒのものともララ・アンデルセンのものとも、その他日本で集めたさまざまなレコード(主としてアメリカ人の演奏による歌のない演奏)のどれとも、全く違う。それはまさにフランス人だけがわかる「シャンソンのリリー・マルレーン」であった。
「暗い夜二人が闇の中で抱き合うとき、からまり合う二人の体が、一つの影になって溶け合う……」という歌詞からして、ドイツのものともイギリスのものとも、まるで違う。フランス人は、もとの|ふし《ヽヽ》だけを頂いて、チャッカリ自分自身の歌を作ってしまったのである。
いや、正確にいえば、それも違うだろう。フランス人たちは、ドイツの歌を受け入れたのではなかったのである。「リリー・マルレーン」という歌そのものは、たしかにフランス人が自然に愛好するものとなったが、フランスは「自分たちは、ドイツとは違うんだよ」ということを、この同じ歌を使って、ドイツ自身に、或いは全世界に誇示しようとしたのかも知れない。更にいうならば、フランスの素晴らしい創造的なエネルギーは、丁度第二次大戦でパリをアッサリ明け渡したようにみえながら、結局は無傷のままでそれをとり返したように、巧妙にリリー・マルレーンをフランスのものにしてしまったのかも知れない。
パリの「リリー・マルレーン」を発見した夕方、いつも駐車で満員のシャンゼリゼーの大通りは交通規制が行なわれ、全面駐車禁止となっていた。「何かあるのですか?」という僕の問いに、同行してくれた鍋島さん(彼|だけ《ヽヽ》が、パリで親切な日本人だった)が、「今日は、戦勝記念日なので、凱旋門で式典があるんですよ」と教えてくれた。成程、その日は五月八日なのであった。
日本人が八月十五日や八月六日を忘れないように、いや、恐らくそれとは全く違った意味で、フランス人は五月八日を決して忘れてはいなかったのである。そして恐らく、ドイツもまた、この「五月八日」を余りにも生々しく記憶しているからこそ、「終戦記念日」などというお芝居染みた式典はやらないのだろう。僕はこのパレードを見ながら、ふと、数時間前見た写真集の中の、エッフェル塔をバックにドイツ兵と一緒に写っているパリジェンヌのことを思い出した。パリでは、戦争中「ドイツ兵とつき合っていた」パリの女たちを、戦後、丸坊主にして、シャンゼリゼーを行進させたのである。
僕は、フランクフルトで、フォレスターさんが「憎悪」といった言葉の意味を、この時も思い出した。日本人は、そのような憎悪の歴史を、まだ持ったことがない、と僕は思っている。思えば、フランス革命も、トルストイの『戦争と平和』も、「第一次世界大戦」も、「第二次世界大戦」も、憎悪と憎悪とのぶつかり合いだったが、国民性としての日本は、有史以来ヨーロッパ人のもつような意味での「憎悪」の感情をもったことがなく、第二次大戦中といえども、心の中では決して米英を「鬼畜」とは思っていなかった。だからこそ、アメリカの進駐は彼等が意外とするほどスムーズに行なわれたのだろう。
だが、ヨーロッパは違う。或いは、それほど、生きるための戦いの歴史が激しかったのであろうか。僕がシャンゼリゼーの通りに立って、ひそかに、写真集に載ったパリジェンヌに同情したからといって、フランスは水爆の実験をやめようとはしないだろう。そして、この行為が国民の支持を受けているからこそ、政府もまたそれを続けるのだろう。
夜、凱旋門の周囲は五色のサーチライトが交錯し、その中で旧軍人らしいフランス人たちが、ブドウ酒片手に軍歌を合唱していた。同じ夜、モンパルナッス附近のバーは、おきまりのポルノ・ショップの客引きで賑わい、更にそこから一寸行った小さなバーでは、無名の若い女性歌手がギターの伴奏に合わせて「リリー・マルレーン」を歌っていた。
それは、かすれるようにか細く、フランスの詩を口ずさむような、僕がこれまで聴いたどの「リリー・マルレーン」とも全く無縁な、一九七四年のシャンソンであった。そして、その傍の映画館では、≪Portierdenuit≫という映画が、大ヒットしていた。「夜の番人」と訳すのであろうか(後に「愛の嵐」という題名で日本で公開された)。ウィーンを舞台に、もとナチの党員でアウシュヴィツの役人が、戦後自分がいじめたユダヤの貴婦人とウィーンでめぐり合うという話で、いわばサド・マゾものの新手という内容だろうか。主演はイギリス人のダーク・ボガード、監督はイタリアの女流新人だそうで、入口には、もっともらしく「十八歳未満はお断り」と、大きくはり紙がしてあった。パリは僕にとって、唯ひたすらに不可解な街であった。
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10 イギリス第八軍が
リリー・マルレーンを捕虜にした
ドイツ以外の国で、「リリー・マルレーン」を最初に積極的に歌ったのは、多くの文献の伝えるところ、間違いなくイギリスである。イギリスというのはふしぎな国で、第一次ヨーロッパ大戦のときも、ドイツが作った「イギリスをやっつけろ」という歌を皆が高らかに合唱したと、トレーバー・レゲットの本に出ている。
「憎むべきは一つ、夜となく昼となく
憎め イギリスを――。
イギリス兵は、この歌をよく歌った。これを知ったドイツ軍は、わけがわからなくなった。ある者はイギリスは革命前夜にあり、反乱を起こそうとしているのだと思った。ドイツ人には、このようなイギリス式のユーモアはわからない。大戦の初期にカイゼルは、イギリス軍をとるにも足らぬちっぽけな軍隊≠ニ呼んだ。イギリス軍は、この名前を採用した。第一次大戦参加者は、今でもとるに足らぬ老兵≠ニ呼ばれている。イギリス人は、とるに足らぬ≠ニいう言葉を名誉≠ノ変えてしまった」(『紳士道と武士道』・サイマル出版会)
「リリー・マルレーン」をイギリスに持ち帰ったのは、アフリカの最前線にいた第八軍の兵士たちだが、初めのうちは、イギリスの司令官たちも、そのことを知らなかった。自然にこの歌を覚えてしまった兵士たちも、この歌のもつ意味については、全くわかっていなかった。この歌のもつ本来の意味に注目し、それを最初に連合軍の家族たちに伝えたのは、僕がいろいろ取材した限りでは、アメリカの後のノーベル賞作家、ジョン・スタインベックである。僕はそのことを、ララ・アンデルセンのレコードのジャケットから知った。
そのレコードの裏にはこんな一行があった。「彼女の歌ったリリー・マルレーンについで、ジョン・スタインベックはエッセイを書いている」。僕はスタインベックの著作にくわしい人からいろいろきいた結果、彼が一九四三年に、ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンの記者として、イギリスやアフリカ、イタリア戦線などに出かけたこと、そして、戦後十三年たった一九五八年、このレポートは一冊の本にまとめられ、「〈Once there was a war〉(『かつて戦争があった』角邦雄訳・弘文堂新社)」という題で出版されていることを知った。
このスタインベックのレポートには、「作戦」の面白さや、将軍たちの「手柄話」は、唯の一行も出てこない。そこに登場するのは、いつも最前線にいる名もなき兵士たちである。彼等はいつも、普通の人間である。そして、その人間に対する限りなく、だが静かな愛が、この本を、僕が読んだ最も感動的な「第二次ヨーロッパ大戦記録」にしている。
一九四三年六月のある日、スタインベックは船の上にいる。潜水艦と空襲が、いつこの船を沈めるかも知れないという恐怖が、皆の中にある。闇の甲板の上は、黒人兵で一杯だ。彼等は静かに、腰を下している。やがて、低音のすばらしい声が、「聖者が町にやってくる」の一小節を、小さな声で歌う。「もっと歌ってくれ」と、声がかかる。
歌は続く。何回も何回も「聖者の行進」が。五回目には、歌は低いハミングとなって消えてゆき、甲板は再び、もとの静けさに戻る。エンジンの震動と、海水のあわ立つ音だけが、兵士たちの心を、重く包んでゆく。
「これは一つの軍歌だ。これこそ素晴らしい軍歌というものだろう。電燈がまたつくとか、青い鳥がやってくるとかいう、感傷的なくだらない歌ではない」
スタインベックは書き綴る。
「われわれにはまだ歌う軍隊も、歌う軍隊のための歌もない。つくられた感激や郷愁は兵隊たちの心をとらえない。兵隊たちは、それがまやかしものだということを本能的に知っているから。真のホームシック、真の恐怖、それに、戦争の真の残虐性を言葉とメロディーに表現したものはまだ一人もいない」
それから約一カ月後の七月十二日のレポートに、まるで前章の暗示を実現するかのように、「リリー・マルレーン」の話が、突如登場する。話はこうである。(傍点著者)
――今日は歌の話である。題名はリリー・マルレーン(Lilli Marlene)。一九三八年に、|スウェーデン《ヽヽヽヽヽヽ》の少女歌手|ララ《ヽヽ》・|アンダーソン《ヽヽヽヽヽヽ》(Lala Anderson)が歌った。歌の内容は至って単純で、彼女ははじめ下士官が好きだったが、あとで将校が好きになり、最後に准将にめぐり合う。このような軍人をからかった歌は他にもある。
この歌ははじめ流行《はや》らなかったが、ベオグラードのドイツ放送がロンメル将軍のアフリカ軍団向けにこれを放送したら、その翌日にはもうアフリカ軍団のドイツ兵が口ずさんでいるという有様だった。兵士からのリクエストは殺到した。
この話がベルリンに伝わると、かつてオペラ歌手だったゲーリング夫人まで、この|浮気娘の歌《ヽヽヽヽヽ》を歌うという始末だった。当のゲーリングが嫌になるほど、この歌はラジオで放送された。だが浮気≠ヘ一部のナチの高官に気に入らなかった。ひそかにこの娘を暗殺しようという計画も練られたが、もう、リリーは手に負えないほどの兵隊の恋人≠ノなってしまった。
ここまでは、ドイツの問題である。ところが、イギリスの第八軍は、沢山の戦利品と一緒に、この娘を手に入れてしまった。第八軍だけではなく、オーストラリア兵も鼻歌で歌い、勝手な歌詞がつけられた。イギリス軍の幹部は、このふしだらなドイツ娘をどうしようかと迷っているうちに、アメリカ兵はもう、ジャズのリズムに乗せて、オフ・ビートで歌っていた。
軍幹部は、賢明にも、この歌には手をつけないことにした。第八軍は公然とリリーを捕虜にし、アメリカも大っぴらでこれを歌うことになった。戦時情報部は、リリーのメロディをそのままにして、|新しく反独的な歌詞をつける《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ことにしたようだが、これが果してうまくゆくだろうか? リリーはもう、すっかり国際的な娘になっているのだ。
リリーは軍歌ではないが、事実戦争を歌った軍歌の方が稀なのである。第一次大戦のマドロン≠熈ティペラリー≠焉A戦争とは関係のないものだった。アメリカの|一部のグループ《ヽヽヽヽヽヽヽ》はリリー≠ェ敵国の女だというので、気を悪くするかも知れないが、こんなことを非難しても、余り意味はない。リリーは不滅である。政治は国家に独占されることはあっても、歌は国境をこえてしまう。
ナチは、あれほどの個人崇拝のから騒ぎ、威嚇、侵略、天下りの教育をやったが、結局世界に貢献できたものは、たった一つ、このリリー・マルレーン≠フ歌だったわけである――
スタインベックの記事は、今読んでみると、いくらかの事実と違う点もある。ララ・アンデルセンは、無論スウェーデン娘ではないし、第一 Lala Anderson ではなく Lale Andersen である。然し、この誤認は、彼がイギリスの最前線で語られていた彼女の名前を、そのまま英語に書き写したということで、かえって同時代記録としての迫真力をもっている。ゲーリング夫人|云々《うんぬん》のくだりも、電波が同時にどこにでも飛び交っているヨーロッパでは、恐らく常識とされていた事実であろう。
何よりも驚くべきことは、彼の天才的な洞察力は、この歌が当時、イギリス兵やアメリカ兵の間で歌われているということの「本当の意味」を、この歌をきいて瞬間に見抜いていた、ということである。「兵士たちのもつ|真の郷愁《ヽヽヽヽ》、|真の恐怖《ヽヽヽヽ》、そして|真の戦争の残虐性《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》」を、全く皮肉な形で表現した歌が、ここにあった。そして、スタインベックは更にイギリス当局が「新しく反独的な歌詞をつけるというが、うまくゆくだろうか?」と疑問を投げている。戦時下の報道という強い制限下にあっては、恐らくこのような疑問を投げかける程度のことが「当局」に対する精一杯の抵抗ではなかったかと思われる。
この頃、イギリス兵たちが歌っていた歌詞は、後に僕がロンドンで手に入れた「Scrap Book of BBC」という記録レコードなどによると、「今夜はまた、ひでえところに寝に行くよ。軟膏こすってべッドに入りゃ、やって来るのは、蚊の野郎さ、ああ、リリー・マルレーン」といった調子の、余りお上品なものではなかったらしい。イギリス軍上層部は、スタインベックの予想した通り、皆が歌えば士気が高まるような「立派な」反独的な歌詞をつけて、皆に発表した。
僕は好運にも、ある機会にリリー・マルレーンに関する記録映画を見ることが出来、その録音を持ち帰ったが、その時歌っているのは、イギリスに亡命中のルツィ・マナンという女性歌手で、ユダヤ系のドイツ人であった。何しろ、大変音質の悪い録音なので、ところどころききとり不能な個所もあるが、その大意は次のようなものである。
「私は兵士にならなければいけない。しかしそんなことは、何の役にも立たない。ヒトラーは、お前らはロシアの雪の下で死んでしまえという。しかし、もし、もう一度会えるなら、恥辱と戦争のない国、自由な国で、二人で会おう、リリー・マルレーン!
総統よ! お前は頭がいい。我々にすべての苦しさをなすりつけ、我々はすべての罪をかぶるのだ、万歳、ヒトラー! 血と恐怖の人! ヒトラーの首をしめろ! ヒトラーをランタンに吊るせ! ああ、リリー・マルレーン……」
これは僕が聴くことの出来た五十種類以上の「リリー・マルレーン」の中でも、最も迫力のある「リリー・マルレーン」である。ルツィ・マナンは怒りをぶちまけるように、絶叫し、慟哭《どうこく》する。その気迫は凄まじいが、一九四三年の「戦う兵士」たちには、これは受けなかった。兵士たちの求めていたものは、安らぎと平和だった。イギリス当局は、すぐそのことに気がついた。
その頃、ロンドンにピーター・モーリスという音楽出版社に勤めているジミー・フィリップスという男がいた。彼はある日、自宅の近くにあるバーで、アフリカ戦線帰りの日焼けした兵隊たちが、例の「やってくるのは蚊の野郎さ」という歌詞で、魅力的なメロディを合唱しているのをきいた。
「その歌は、何かね?」
彼は職業的なカンを働かせてきいてみた。兵隊たちがそのアウトラインをきかせると、彼は注意深く、この敵国の音楽に対しては、イギリスは音楽著作権料を払う必要がないことをたしかめ、イギリス国営放送に渡りをつけて、この歌の大々的な販売計画を実行に移した。この時、歌詞を依頼したのが、「私はママがサンタクロースにキッスするのを見ちゃった」という曲で、イギリス中、知らぬものとてないヒット・メーカーとなっていたトミー・コナーであった。
トミー・コナーは、大衆に何が受けるかをちゃんと知っているベテランだったから、「ヒトラーを吊るせ」などという歌詞は作らなかった。「兵舎の横のランタンの下で、ダーリン! 私は二人でいたことを忘れない」という、甘い文句だった。この歌を歌ったのは、アン・シェルトンとヴェラ・リンという二人の女性歌手だったという。
ジミー・フィリップスは、万全を期して、多角的なパブリシティまで展開した。最初に使われた映画は「The Courtneys of Curzon Street」という映画だそうだが、無論僕は、この映画のことは知らないし、これを歌ったアン・シェルトンとヴェラ・リンという歌手のことも知らなかった。とにかく、このコンビはよほど理想的なコンビであったらしい。
実はあとで考えれば、ジミー・フィリップスの「心配」などは、全く無用だったのである。この、イギリス版「リリー・マルレーン」は、アフリカ戦線におけるドイツ兵たちの反響と同じように、燎原《りようげん》の火の手のように、イギリス兵の間に拡がっていった。それは当然、兵士たちばかりではなく、「銃後」の人たちも、いや全連合軍のあらゆる階層の人たちが、この唯一の権威ある楽譜を、ロンドンに注文するようになった。
僕が見たこの「リリー・マルレーン」の楽譜には、著作権の年号が一九四四年となっているから、これが出版されたのは四四年の初め頃かも知れない。とにかくジミー・フィリップスの証言によると、それからたった四年の間に、ピーター・モーリス楽譜出版社は、この楽譜を六十四万四千七百六十二枚も売ったのである。イギリスは「ユーモアを解した」だけではなく、この戦争をもとでに、立派に稼いだわけである。
ロンドンに行ったことのある旅行者なら、必ずあの箱形の、クラシックなタクシーに驚嘆するに違いない。特にパリから出かけていった僕には――ロンドンには、さすがに飛行機で行った――まるで昔の馬車に乗るような、豊かなあのスタイルに満足した。このオースチン製のタクシーは、あくまでタクシー専用のもので、一般の人には絶対に売らないのだそうだが、日本のある「物好き」が、何百万円だかをタクシー協会に寄附し、かわりに中古車一台をプレゼントしてもらったという話も、成程とうなずけるほどの、それは素晴らしいものだった。
ロンドンに着いた次の日、僕は五十年配の目のくりくりした陽気なタクシーの運ちゃんに、何げなしに、
「リリー・マルレーンを知っているか?」
と尋ねてみた。この僕の質問をきいた時の運ちゃんの喜びようを、どう伝えたらいいだろうか。彼は、「失礼だが……」と一旦、道の横に車をとめ、
「どうして日本人の貴方が、私にそのことをきくのか?」
と僕に尋ねた。僕は「リリー・マルレーンに興味をもっているから――」と答えると、彼は、
「あなたは時間があるか?」
ときき、「イエス」という僕の返事に、まるで凱旋兵士のようにリリー・マルレーンの口笛を吹きながら、下町の、小さな食堂に連れていった。
そこはどうやら、運転手仲間がいつも集まってくる溜りのようなところらしかった。注文をとりに来る太ったおばさんに「この人は、私の仲間だ」と紹介し、やおら立ち上がると、インタビューをするアナウンサーのように、食堂に集まっている仲間に向って、
「あなたはリリー・マルレーンを知っているか?」
ときいて廻った。
ある人は「イエス」といった。ある人は「オブ・コース」といい、また「イエス・サア」とおどけてみせる仲間もいた。中には「それはおじいさんの歌さ」「ビートルズは歌ってないぜ」とジョークを飛ばす若者もいた。それは、僕が漠然と「イギリス・ロンドン」というものに抱いていたクラシックなイメージとは、およそ違っていた。
「私はチャーチルの息子と同じ落下傘部隊にいたのだ。チャーチルだよ」
と、彼はくり返し、僕に強調した。時々何か演説口調のせりふをいったが、それはどうやらチャーチルの演説の一部分らしかった。
「私に、ロンドンのガイドをさせないか?」
と彼はいった。僕はボンに行っても、ベートーヴェンの家も見ないほどの「名所無関心派」だが、この日は彼に任せようという気になった。彼は絵葉書でおなじみの「名所」やチャーチルの家の前に僕を連れてゆき、最後に「戦争博物館」に僕を案内した。
ここでも、彼は数名の館員に「リリー・マルレーンを知っているか?」をくり返した。「スエズで聴いた」という人もいたし、「この間、元軍人の集りで、皆で歌った」「昨年、マレーネ・ディートリッヒ・ショーのラスト・ナンバーで聴いた」という人もいた。館内には、スピット・ファイアーやメッサーシュミットにまじって、「ゼロ戦」の写真も飾られていた。「MITSUBISHI」と書かれているその写真を見つけて、彼は「日本は小さい国だけど、強い。イギリスと同じだ」と、うなずいて見せた。結局、僕はこの運ちゃんに、「気持よく」七千円ばかりを払わされることになった。別れるとき、念のために、
「イギリスのリリー・マルレーンは誰が歌ったのか?」
ときいてみた。彼は、
「ヴェラ・リンだ。彼女は、すべての兵士たちの恋人だったのさ」
と、胸を張って答えた。
ヴェラ・リン――この美しい名前をもつイギリスの大歌手を、僕はロンドンに着くまで全く知らなかった。ロンドン駐在約七年というヴェテラン記者であるTBSの長谷川氏に彼女のことをきくと、
「レコード・ファンで、ヴェラ・リンを知らないとは……」
とびっくりしてみせた。あとで調べてみると、たしかに日本でも、数枚の彼女のレコードが出ていた。だが長谷川氏は、むしろ日本のレコード界の「片寄り」に対する抗議の意味も含めて、そう表現したに違いない。たしかに、そう表現したくなるほど、彼女は有名なのであった。
ロンドンのレコード屋のケースには、マレーネ・ディートリッヒと同じように、或いはそれ以上のスペースで、彼女のレコードは売られていた。そして、長谷川氏の説明では、イギリス人はヴェラ・リンを「愛している」だけではなく「尊敬」していた。ヴェラ・リンのレコードのジャケットには、こんな風に書かれている。
――戦争中のイギリス人は、皆信じていた。ウィンストン・チャーチルとヴェラ・リンが居るんだから、われわれがこれ以上悪くなるなんて、あり得ないさ――
ヴェラ・リンは空襲下のロンドンで、「再びロンドンに灯りがともるまで」を歌って、市民を勇気づけた。時に二十五歳。丁度ディートリッヒと同じように、その魅力のすべてを、前線の兵士たちに捧げることになった。彼女も北アフリカに、イラクに、そして日本軍と戦うビルマの最前線まで出かけていった。
「Sincerely Yours(敬具)」という戦争中イギリスで最も人気のあったラジオ番組を作り出したのも、彼女である。そこで歌われた「ドーバーの白い壁」は「リリー・マルレーン」と同じように大ヒットした。そして、あの一九四五年五月八日の勝利の日、ロンドンっ子の気持を誘い出すように「さあ、灯りをつけよう」を歌って、皆の歓呼に応えた。
僕が本当に驚いたのは、ヴェラ・リンのその活躍ぶりではなく、彼女が現在もなお最高の「現役」として、変りない親しみを皆に持ち続けられているということである。クリスマスなどに放送される彼女のテレビ番組は、依然として人気番組の一つであった。買ってきた彼女の「リリー・マルレーン」を早速きいてみたが、それはララのものともディートリッヒのものとも全く違う、少しの翳《かげ》りもない、大英帝国にふさわしい「リリー・マルレーン」なのであった。
イギリス版「リリー・マルレーン」の歌詞を作ったトミー・コナーを訪ねることができたのは、それから二日後である。彼はロンドン郊外のケントという素晴らしく美しい街に悠々自適の生活を送っていた。電話番号がわからなかったので、無遠慮にも抜き打ち訪問ということになったが、折よく庭の芝刈りに出ていた彼は、快く僕を迎えてくれた。彼は、
「私がこの歌詞を作る前、このメロディには、恐らく一万近くの勝手な歌詞がつけられていただろう」
という話からはじめた。
「私は当時、反ナチのプロパガンダの責任者の一人だった。もし、ナチがロンドンにやってきたら、私は真先に殺されたろう。リリー・マルレーンの仕事は、非常に急がされてやった仕事だった。私は、今でも憶えている。その日は、物凄い空襲だった。私は仕事をしなければならないと思いながら、庭の防空壕に潜んでいた。その時、あるインスピレーションがひらめいた。私は三十分で、この作詞を完成してしまった」
「どういう趣旨で、この詞を翻訳したのですか?」
という僕の問いに、彼は手でさえぎり、
「ノット・トランスレイト」
と強くいった。
「私がドイツの歌詞を見て一番驚いたのは、これが恐怖の歌であり、リリーが娼婦であったことだ。私はイギリス人たちに、それを歌わすことはできなかった。私はリリーが、母であり妻であり、妹であり恋人でなくてはならないと思った。彼女は兵士たちが生きて帰ってくるのを待つ女性でなくてはならない。私がこの仕事を誇りに思うのは、戦う兵士たちをハッピーにしたことだ。だが、この仕事を成功させたのは、ヴェラ・リンとアン・シェルトンという二人のすぐれた歌手がいたからだと思う。二人は、すぐれたテイラーが客の注文通りの服を作るように、すべて寸法通りに仕事をなしとげた。彼女たちこそ、真のプロフェッショナルだと私は信じている」
「この歌をドイツで歌ったララ・アンデルセンのことを、どう考えますか?」
「戦争が終ってから三年目に、彼女は私に連絡をくれ、ロンドンのホテルで会った。私と彼女は、イギリス人とドイツ人ということではなく、作詞家と歌手という立場で会った。その時、歌は平和のつながりというものに、どんなに大きな力をもっているかということを感じた。一つの歌が憎しみを取り除き、お互いの中に喜びを生むことができる、と二人は話をした。私は平和とお互いの理解のためにこの詞を作ったので、決して金のために作ったのではない」
この痩せた幸せそうな老人の顔は、あのタクシーの運転手の顔と共に、ロンドンで出逢った最も印象的な表情の一つである。
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11 わがマレーネ・ディートリッヒ伝
ロンドンでは沢山のレコードのほか、大量の本も買いこんだ。主として、戦争映画に関する本と、マレーネ・ディートリッヒに関する本である。ロンドンには、この種の本ばかり専門に売っている本屋があって、全部買い占めたいほど魅力的な題名がズラリと並んでいた。
実はこの本を見るまで、僕は何となくマレーネ・ディートリッヒのことを忘れていた。彼女の映画を殆んど見たことがない、ということもあるかも知れない。ララ・アンデルセンというドラマチックな主人公の登場によって、ディートリッヒという存在が、僕の中で次第に薄れていたせいかも知れない。日本のオールド・ファンにいわせると、ディートリッヒは「ハリウッドが生んだきらめく不滅の妖星」なのだそうだが、ファンの方には申しわけないが、テレビで見た「モロッコ」などを見ても、どう考えても僕があこがれるタイプとは、大分イメージが違う。
しかし、僕が聴いた歌の彼女は、間違いなく「今世紀の最も偉大な歌手」の一人であった。あの迫力、あの説得力は、一体、何時何処で培《つちか》われたものなのだろうか? 僕に絶え間なく、My love for you renews my might, I'm warm again, my pack is light と歌わせたあの|やさしさ《ヽヽヽヽ》は、一体どこから来るのであろうか?
ロンドンの長谷川さんは、
「ヴェラ・リンはエレガンスという言葉そのままの人だけど、ディートリッヒはそれを上廻る何かを持っている人ですね。実は昨年、テレビで彼女のショーが放送されたのですが、イギリスでは素晴らしい反響でしたよ」
と教えてくれた。それは、僕たちが日本で見たNHKから放送されたものと、ことによると同じものかも知れなかった。たしかに、あの歌のもつ迫真力は、普通の歌手の持つうまさでもなく、美しさでもなかった。強いていえば、今世紀を生き抜き、戦い抜いてきた人が、最後にわれわれに問いかける、人間の悲しさとでもいうものかも知れない。
ロンドンで手に入れたディートリッヒに関する資料は、いろいろなことを僕に教えてくれた。いま僕の知っているディートリッヒに関する資料は、ホーマー・ディケンズの「全集」、レスリー・フレーウィンの「伝記」、W・ノアの「伝記」、リチャード・グリフィスの「伝記」、ディートリッヒ自身が書いたしゃれた随筆集『ディートリッヒのABC』、それに、一九四九年、何故かフランスの男性雑誌「リュイ」に掲載されたスタンバーグの「わが青春のディートリッヒ」などである。スタンバーグは一九六五年『中国の洗濯屋のお遊び』という奇妙な題の自伝を書いているが、その内容と「リュイ」のものとが同じかどうかは知らない。
これらの資料が、ディートリッヒの「真実」をどの程度伝えているのか、僕には想像のしようもない。唯僕は僕なりに、これらのものを読んで発見した「僕の真実」を、ここでお伝えしようと思う。それは、数多く存在している「日本のディートリッヒ・ファン」の期待を、或いは裏切るものであるかも知れない。然し僕の中に一たび宿った「わが心のディートリッヒ」は、こういう風に表現する以外、どうしようもない。
とにかく、大方の見るところ、ディートリッヒは一九〇一年か四年頃、ベルリンかワイマールか、とにかくプロイセン地方のどこかで生れた。そんなことは僕にとってどちらでもよい。唯、父が格調高きプロシャの士官だったこと、この父は彼女が幼い頃に亡くなり、二番目の父もまた軍人であったことは記憶されてもいいかも知れない。この二番目の父は、第一次大戦の末期、ロシア戦線で戦死した。この青春時代の環境が彼女の精神形成にどう影響したかは、どの本にも書かれてない。
彼女はベルリンで、最も評判の高かったマックス・ラインハルト演劇学校に学び、そこから舞台を踏んだ。いわば、新劇女優のタマゴである。そのかたわら、一九二三年から、映画にもボチボチ出演している。七年間に十七本といえば、随分多いようだが、殆んどはほんの端役である。その間、ルドルフ・ジベールと結婚して、一女をもうける。そして、やがて運命の一九二九年暮を迎える。
ジョセフ・フォン・スタンバーグは、一九二九年のベルリンの秋を、「街はいつも雨だった。すべてがうっとうしく、そして狂っていた。私が出そうとする手紙には、八千万マルクの切手を貼らなければならなかった」と書き出している。スタンバーグは後に、ディートリッヒとは気まずい別れをした仲だから、彼女を決して好意的には書いてないが、初めて彼女が彼のオフィスを訪れたくだりの部分は、次のようなものである。
「部屋に入ってきた彼女は、関心を示すためのどんな動作もしなかった。彼女はむしろ恥しげにひかえ目で、帽子をかぶったまま椅子に坐っていた。感じはよくなかった。プロデューサーのエーリッヒ・ポマーは、立って歩く動作をするようにいったが、それはみっともない恰好だった。ポマーは、ルーシー・マンハイムもテストし、大変彼女が気に入ってマンハイムと契約しようとしたが、私はディートリッヒの中に、あるパーソナリティを発見していた。私はディートリッヒを選んだ。彼女に支払った五千ドルという額は、彼女のそれまでの月収の百倍だった」
フレーウィンの「伝記」では、この部分は、スタンバーグが、ディートリッヒの出演している舞台を見て、感動の余りマックス・ラインハルト劇場の楽屋に出かけてゆくことになるのだが、まあ、これもどちらでもいいだろう。とにかく、ハリウッドは強引にディートリッヒをドイツからアメリカに引きずり込み、「神話」を作りあげるのである。「謎めいた、思わせぶりの動作」「心のつかみかねるヨーロッパ女性」「神秘的なまでの美しさ」、ディートリッヒのスチールのポーズはいつも決っている。それは決して生きた人間ではない。しかし、或いは、人間が作り出すことの極限に挑んだ、美の象徴であったのかも知れない。
もっとも、「生きた人間」にしか興味のない僕にとって、この頃のディートリッヒには、さして関心はない。例の「モロッコ」にしても、この映画がパリで封切られた際、フランスのお客さんはあのラスト・シーンを、口笛を吹いて非難したと、蘆原英了さんに教えられたが(つまり、女が追いかけてゆくというシチュエーションと、ハダシで砂漠を歩いてゆくという非現実性に対して、と思われるが――)僕はそれほどとは思わないにしても、アミイ・ジョリーみたいな女に追いかけてこられたら大変だと、妙に白けた思いがあったことは事実である。スタンバーグはこの映画で、ディートリッヒが初めてアドルフ・マンジュウと出逢う場面で "I don't need any help" というせりふのところを、彼女はどうしても「help」が発音出来ず、何回やっても「ヘロープ」となってしまうので、とうとうマンジュウは怒ってセットを出てしまったと記している。そして叫ぶ。「いくら金を稼ぐためにだって、もうこんな女と仕事をするのは、まっぴらごめんだ!」
だがスタンバーグは「間諜X27」「上海特急」「ブロンド・ヴィナス」と彼女の作品を撮り続け、舐めるようにその「人工美」を追求する。
一九三四年、ディートリッヒは、彼女の「第二の人生」を予感させるような最初の人物に出逢う。アーネスト・ヘミングウェイ、三十五歳。第一次ヨーロッパ大戦に参戦した体験をもとに、三十歳にして『武器よさらば』を発表し、ロスト・ジェネレーションの旗手となった行動派の作家である。
彼等はフランスのあるパーティで、ディートリッヒが偶然十三番目の席に坐らせられそうになったとき、十四番目の席をあけてくれたのが、ヘミングウェイだということになっている。ハリウッドのバカバカしいコマーシャリズムと、虚飾に充ちた生活の中で、ヘミングウェイの精悍で知的な風貌が、どれほど彼女を魅《ひ》きつけたかは、想像に難くない。ヘミングウェイは彼女を、
「勇敢で美しく、誠実で優雅だ。彼女は何よりも、愛についてよく知っている女性だ」
といい、彼女はヘミングウェイを、
「私を完全に飽きさせなかった人」
という。二人の友情は、ヘミングウェイがその生命を自ら絶ちきるまで、続くことになる。
翌年彼女は、スタンバーグとの最後の作品「スペイン狂想曲」を撮り、これがスペイン政府の逆鱗《げきりん》にふれて、パラマウント社はそのネガを、スペイン大使立ち合いの下に、焼いてしまうという事件に遭遇する。ディートリッヒはこの作品を愛していた、と書いてある本もあるが、或いはそんなこともあるのだろうか。彼女の夫ルドルフ・ジベールは、この作品で「恋仇」といわれたスタンバーグのアシスタントをつとめているのである。
スタンバーグは、例の回想録の中で、この「アシスタント」を「素晴らしく有能な男」と賞めている。ちなみに、写真で見る夫のジベールは、「若きハンサムなドイツ士官」といった感じの、キリッとした男性で、一緒に写っているスタンバーグの疲れた印象とは、ひどく対蹠的《たいせきてき》である。スタンバーグはそれから十数年後、戦後の荒廃した日本に「アナタハン」という映画を撮るために現われ、惨めな老残を晒《さら》して、人々の視界から空しく消えていった。亡くなったのは、一九六九年である。
スタンバーグがアメリカから去った一九三五年から七年にかけて、彼女は四本の映画に主演し、パラマウントと七年契約を結ぶが、その二年目で自由契約、つまりクビになってしまう。「高いギャラが払えないので、どうぞご勝手に」というわけである。それから一年半、彼女は全く何も仕事をしないで、もっぱらヨーロッパを旅行して廻る。ロンドン、パリ、リビエラ、カンヌ、モンテカルロ……。そこで彼女が話し合う相手は、ノエル・カワードであり、サマセット・モームであり、エーリッヒ・マリア・レマルクであり……、つまり著名な文学者や芸術家ばかりである。そんなとき、ある夜ロンドンで、彼女はドイツ大使リッベントロップと食事を共にする。
ヒトラーがアメリカにおけるディートリッヒの名声に眼をつけ、「是非祖国に帰るように」と要請したのは、有名な話である。日本でもよく知られているリッベントロップ大使は、「もし貴女がドイツに帰るなら、総統はベルリンに出迎えに行くだろう」とまでいったと、フレーウィンの本には書いてある。ディケンズは「ヒトラー自身嘆きの天使≠フ大ファンであった」と註をつけていて、僕が読んだ日本版の「ディートリッヒ伝」を書いた人もそのことを信じているようだが、これはどんなものだろうか。
「嘆きの天使」の原作者はユダヤ人のハインリッヒ・マンで、一九三三年、ナチが政権をとると同時に、アメリカに亡命し、市民権を剥奪されている。一九三三年のメーデーの翌日、ゲッベルスによって、有名な「焚書の儀式」が、|フォルスト《ヽヽヽヽヽ》・|ヴェッセル《ヽヽヽヽヽ》の大合唱の下で行なわれるが、この時「野蛮人」たちの槍玉に上がったナンバーワンが「ハインリッヒ・マンを焼け!」で、以下シュテファン・ツヴァイク、エーリッヒ・ケストナー、カール・マルクス、ジークムント・フロイト、そしてハインリッヒ・ハイネと続く。ナチの大親分が、このような原作者の、しかもみじめな中年男を描いた映画に感激するわけがない。
ヒトラーは多分、ディートリッヒを呼び戻すことによって、ナチの威信を示したいのと、ドイツに西欧に通じる国際的な女優を加えたいという二つの目的があったのだろう。当時ヒトラーは、ベルリン・オリンピックを成功させて得意の絶頂にあった。欲しいものは、何でも手に入るように思えたのも当然だったろう。こんな時、大使の要請にもかかわらず「たかがディートリッヒごとき」に肘鉄を喰わされたヒトラーの怒りが、眼にみえるような気がする。
一九三八年オーストリア併合、ズデーテン地方占領、一九三九年三月プラハ占領、九月ポーランド侵攻。その年の六月、ディートリッヒはアメリカに正式に帰化している。ドイツの新聞は一斉に「ディートリッヒはハリウッドのユダヤ人に騙《だま》された!」と非難をあびせ、彼女をののしるが、彼女は少しも動じない。それをあざ笑うかのように「アメリカ人」になったのをきっかけに、ディートリッヒは思い切ったイメージ・チェンジを行なう。「砂塵」(一九三九年)では、コメディあり、アクションありの西部劇で善良な悪女≠演じてみせ、「妖花」ではカフェーで派手なとっ組み合いの喧嘩をしてみせ、新しいヒットを飛ばす。彼女が「どんな決意」でアメリカ人になったかは「伝記」の上では知る由もない。唯その「随筆」の中の「国籍」(nationality)という項目に、こう書いてあるのをわれわれは見ることが出来る。
「――あなたの国籍を変えようというとき、たとえその属している国の考え方や動き方が気に入らないとしても、そう簡単に変えることはできない。しかし、だからといって、祖国に自分の心を偽って、心にもない同調を見せることが、祖国に対する忠誠とはいえない。国に対する愛と誠実は、見せかけのものではなく、心の底から出たものでなければ、意味はない――」
念のために書き添えると、アメリカでは一九三七年頃から、いわゆる「反ナチ映画」が出はじめ、それは一九四〇年に作られたチャップリンの「独裁者」で頂上に上りつめるが、この間ディートリッヒは、この種の映画には出ていない。「伝記」によると四〇年には星占いに凝って、ドイツ軍のパリ占領を予見し、パリにいたレマルクに電話をかけ、お蔭でレマルクは危くナチの手を逃れたというエピソードもある。
この時、同じようにパリを逃れてきたフランスの映画人に、ルネ・クレールやジャン・ギャバンがいる。ルネ・クレールは早速ディートリッヒを主演に「焔の女」をとり(これも戦争とは関係のない、軽いタッチのもの)、ジャン・ギャバンとは特に親しい関係をもつが、「戦争」とはかかわり合わない。「スポイラース」「男性都市」「キスメット」、これが太平洋戦争がはじまってから一九四三年までに作った彼女の映画の題名である。そして、一九四三年春、彼女は突如宣言する。
「私は映画はやめた。戦場にゆくのだ!」
時にディートリッヒは四十一歳。だが彼女の心は、恐らくは少女のように、赤く燃えていた。
「前線慰問」というのは、日本では時局迎合的な嫌な言葉だが、アメリカではかなり事情が違っていたことを、ここで知って頂きたい。AFM、つまり「全アメリカ音楽家組合」が、レコード会社の低賃金を不当として、敢然とストライキに突入したのは、「真珠湾攻撃」から数えて僅か九カ月目の、一九四二年八月のことである。しかもこのストライキは、「労使」ともにがんばり続けて、解決には何と二年近くもかかっている。そのために、ロジャース、ハマースタイン二世の大ヒット作「オクラホマ」の録音すらできないほどだったのである。
ディートリッヒの「参戦」は、決して「当り前」のことではなかった。前に引用したスタインベックの『かつて戦争があった』には、前線を訪れる芸能人たちが如何に厳しい試練の下に晒されているかを、数々のエピソードをもって描いている。例えば、ボッブ・ホープだ。孤独感と死の恐怖とで顔がこわばっている病院の患者を笑わすことが、どんなに困難なことであるか、スタインベックはある日の野戦病院でのボッブ・ホープの姿を、感銘深く描いている。「兵隊たちは、もししようと思えば不愉快な顔をすることも出来る。然し、彼はどんな状態の患者も必ず笑わせなければならない。そして放送があるから、同じジョークを二度使うことも出来ないのだ。この男は皆に追いたてられて働き、自分で自分を追いたてた。彼は本当に、いい男だ」
ディートリッヒがまず出かけたのは、北アフリカ戦線である。はじめに、コメディアンが出てきて、「ミス・ディートリッヒは、いま参謀とお食事で――」という。兵士の間からブーイングが起る。その時、後の方から、「嘘! 私はここよ!」とディートリッヒが軍服姿で登場する。客席を駈け抜け、持っていたケースからイヴニングコートをとり出してスッポリと頭からかぶる。「砂塵」の主題歌が歌われる、という見事な演出である。
この最初の夜、彼女は生れて初めての空襲を体験する。サイレンが鳴り、爆弾が落され、ドイツの飛行機が花火のように砕け散ってゆくのを、その眼で見た。翌日、小さな記者会見があった。
「どうですか、戦場は?」
彼女は答えた。
「あと三カ月はアルジェリアにいるつもりです」
事実、彼女は戦場にがんばった。ディケンズの「伝記」には、「彼女は将軍たちの招きには眼もくれず、いつも兵士とともにいた。だからこそ、兵士たちは彼女を愛したのだ」とあり、フレーウィンは「彼女は兵士たちと同じような水で顔を洗い、煤《すす》だらけになってジープで駈けずり廻った。唯、鼠に荒された小屋の中で兵士と共に生活したという|いい伝え《ヽヽヽヽ》はオーヴァーだと、後に彼女自身語っている」と書いている。
ディートリッヒは、その随筆集の中で「アメリカの兵士」と題して、こう書いている。
「――孤独な男たちは、故国を離れて戦った。ヨーロッパ戦線の上には、人間の心を持ち続ける手段は、何も残されていなかった。目を射ち抜かれ脳が飛び出し、肉体が焼けこげる。そのことからのがれるために、彼等は戦った。彼等は祖国を守るために大変な代価を払った。彼等は勇敢だった――」
ディートリッヒが「リリー・マルレーン」をアフリカの戦場のどこで、いつ、初めてきいたかは、どの伝記にもない。彼女自身の随筆集にも "Lili Marlene" の項目は、残念ながらない。しかし、彼女がヨーロッパ戦線に出かけていったのは、スタインベックと丁度同じ頃であるし、スタインベックが気がついたと同じような動機で、彼女もこの歌を「発見」したに違いない。彼女が自分自身の作った歌詞を最後まで使っているのは、トミー・コナーが作詞した以前に、この歌が彼女自身のものになっていたせいかも知れない。
ディートリッヒは、北アフリカ戦線を皮切りに、シシリー、イタリア、フランス、オランダ、グリーンランドと戦場を廻った。グラマラスなガウンをつけたこともあったが、多くの場合、彼女は軍服であった。ある時は五十人の前で、ある時は二万二千人の野外ステージで、彼女は歌い、泣き、そしておどけて見せた。それまで誰にも見せたことのない、隠し芸の「のこぎりのヴァイオリン」までやってみせた。
それは驚くべき体力と勇気と忍耐力だった。事実、ツアーが終るころ、彼女の体力は限界に達していた。肺炎の発作で、何度もペニシリンを打ち続けた。そして、彼女はどこの戦場でも兵士たちが必ず要求する歌――既にその頃、連合軍自身の歌となっていた「リリー・マルレーン」を、必ず歌った。戦争が終った時、彼女はこのツアーをかえりみて、一言だけ、こういった。
「私は今まで、いろいろな仕事をしてきました。しかし、その中で、今度やったこのことだけが、本当に大切なことでした――」
ディートリッヒ・ファンならば、「嘆きの天使」以来の彼女の「蠱惑的《こわくてき》」とでも表現したいような数々のスチールを、よく憶えているに違いない。彼女は決して笑わない。唯、ひたすらに神秘的に、美の象徴としてのポーズを、決して崩しはしない。
そのディートリッヒが、生涯で唯一度だけ、臆面もなく笑い、はしゃぎ廻っている写真がディケンズの写真集には出ている。兵士と共に腕を組んで、ぬかるみの中を歩いてゆくディートリッヒの写真である。別の写真には、アメリカ兵とソ連兵にかこまれたディートリッヒのにこやかな顔がある。こんな笑顔は、その前にも後にも、彼女のどの写真集にも出現しない。
彼女を撮ったあらゆるスチールの中で、最大の感動を呼ぶのは、「ニュールンベルグ・五月・一九四五年」と題されたグリフィスの「伝記」に出ている三枚の写真であろう。僕は第二次大戦が終ったその瞬間の興奮を、これほど劇的に撮った写真を、ほかに知らない。彼女は戦場で、兵士たちにキスをせがまれるのを、決して嫌がらなかった。「戦う兵士たちに、私は沢山の女性たちにかわって、慰めのキスをする義務がある」と彼女はいっていた。しかし、この「ニュールンベルグ五月のキス」ほど「平和」のもつ生々しい喜びを伝えたものはあるまい。これを撮った報道カメラマンの勝れたセンスも或いは戦争というものが生んだ巧まざる本能なのであろうか――。
ディートリッヒの戦場ツアーを描いている「伝記」の中には、数カ所だが、ふしぎに歯切れの悪い個所がある。ディートリッヒが、ドイツの軍人たちに遭遇する場面である。「彼女は連合軍の兵士たちの前だけではなく、ドイツ軍捕虜たちのいるところでも、恐れることなく真心をこめてドイツの歌を歌った。ある一人の若いドイツの捕虜が『何故貴女がリリー・マルレーンを?』ときいた。彼女は一瞬、とまどった」とある。また別の本は、連合軍の捕虜となったドイツ将校たちを移送するある大型バスに、彼女が乗り合わせてしまった場面をスケッチしている。
「ディートリッヒを案内している陸軍の憲兵は、ドイツ士官に会釈をし、それとなく彼女を紹介した。士官たちは立ち上がり、ロシア風の敬礼をして彼女を見守った。彼女は当惑した様子だった。それに対して、どういう風に応対してよいか決心しかねる様でもあった。ごきげんよう≠ニ、彼女は低い声でつぶやいた。彼女の長い生涯の中で、珍しく生の自分を見せてしまった、一瞬の出来ごとだった――」
戦争からすでに三十年を経たいま、日本人である僕がディートリッヒの戦争中のこの行為に対して「英雄的」とか、或いは逆に「亡命者特有の逆憎悪の心理」とか推察することは、いとも容易である。然し、四十を越えた、いわば女優として最も危険な曲り角に立っていたと推定できる立場の女性が、なりふりかまわず前線にとび込んでいった裏には、単なる愛国とか憎悪とかをこえた何物かがなくてはなるまい。
いうまでもなく、ドイツは彼女の母国である。「よくも悪くも、わが祖国」という有名な言葉がある。彼女が銃口を向けたその前方には、彼女の友が、親戚が、死の恐怖にさらされながら、ふるえていたかも知れない。いや現に、戦い終えたベルリンには、彼女の母が辛くも生きのびていて、戦後やっと再会することができたのである。妹のエリザベスに至ってはベルセンの抑留キャンプからやっと発見されたほどだった。彼女の行為は、客観的に見ても、大きな「賭け」であった。
それはことによると、彼女が遂に味わうことなく過した本当の「青春」へのノスタルジアではなかったか、とも僕は考える。どんな栄光に包まれていても、女優は所詮、プロデューサーと監督の作り出す幻影に過ぎない。多くのタレントたちは、己の幻と実像とのギャップに耐えられなくなって、ふとした際に最も弱い自分の一面を大衆の前にさらしてしまうことがよくある。こうして、あの戦後の「神話」を作り出したマリリン・モンローも、自滅した。
しかしディートリッヒはそれを逆手にとって、本当の自分をこういう形でぶつけていったのかも知れない。いや或いは、それすらも「ディートリッヒ神話」の一つの部分に過ぎないのかも知れない。とにかく、この三年間の彼女の行為に対して与えられたのは、アメリカ市民として最高の名誉といわれる「メダル・オブ・フリーダム」と、フランス政府が贈った「レジオン・ドヌール」、それにベルギー政府が贈った「レオポルド・オーデル」の三つの輝かしい勲章であった。
ディートリッヒは戦後三本の「ナチス」に関する映画に出演した。その最初が、ビリー・ワイルダーの「外国の事情」で、一九四八年のことである。この時ビリー・ワイルダーはディートリッヒより五歳年下の四十一歳。「失われた週末」を撮った新進監督として、ハリウッドの新しい注目を集めていた。当時の写真をみると、チロルハットをかぶった軽装の、如何にも才気あふれるシナトラばりの風貌である。
ワイルダーは大学を出てベルリンで新聞記者をしていた時、やたら映画が好きだった。それも、当時のウーファの重厚な感じのものではなく、アメリカの連続ものみたいな映画の大ファンだった。一九三三年、というからワイルダー二十七歳の時ということになる。ヒトラーが政権についたのをきっかけに、ユダヤ人であった彼はアッサリ「祖国」を捨ててしまった。ハリウッドに行って、何とか職を見つけようとブラブラしていたが、まだ英語もロクにしゃべれなかった。
食いつめて公園のベンチで寝ていた時声をかけてくれたのが、ドイツ人として既に名声を得ていたピーター・ローレである。ローレが彼を連れてハリウッドの食堂の中で飯を食わせてやっている時、興奮した男が「あんなバカな脚本で撮れるか」とどなりながら入ってきた。当時の巨匠エルンスト・ルビッチであった。ルビッチは「青髯《あおひげ》八人目の妻」の撮影をはじめるところだったが、台本のことでスタッフともめていた。つまりファーストシーンが気に入らなかったのである。
その台本では、ある美女が大きな買物の箱を山のように積み上げてデパートから出てくる出会いがしらに、青髯とバッタリ出会って買物の箱がバラバラになってしまうというところからはじまっていた。「こんな平凡な出会いで青髯の映画が作れると思うかね?」、ルビッチはなおもまくしたてた。その時、傍にいたワイルダーが、ピーター・ローレにそっとささやいた。
「同じデパートのパジャマ売場に、どうしても上の方だけくれというわがままな女の客と、下しか要らないという勝手な男とを登場させてみたらどうでしょう」
ピーター・ローレの伝言をきいたルビッチは、「すぐこの男と契約しよう」といった。ローレが「この男は英語が出来ません」というと、ルビッチは「英語の出来る奴は何億もいる。然し、アイディアを持った奴は、たった一人しかいないんだ」といった。ワイルダーはそれから引き続いて、ルビッチの脚本を三本書いた。ちなみに、このエピソードはいつだったか、淀川長治さんとの茶のみ話の時、彼が話してくれたことを僕がふと思い出したものである。
ワイルダーは、「外国の事情」を撮るに当って、典型的なヤンキー・マダムにジーン・アーサーを、そしてもと|ナチの党員《ヽヽヽヽヽ》で、今はブランデンブルグ門近くの闇市にあるナイトクラブの歌手をしているドイツ女の役として、ディートリッヒを指名した。ディートリッヒは若干のためらいの後に、この役を断った。然し、ワイルダーはもとよりそのことを予期していた。音楽監督に、「嘆きの天使」以来のディートリッヒの友人のフレドリック・ホレンダーを起用し、カメラマンには、彼女の「新しい神秘」を「真珠の頸飾」で見事に撮し出したチャールス・ラングを引っぱってきて、説得につとめた。彼女は遂に陥落し、映画は完成した。当時の「ライフ」は、その映画評で「この映画で、ディートリッヒは、十八年前の嘆きの天使≠ナ演じたあのセクシーなキャラクターを、エンジョイしている」と述べている。
なお一言つけ加えるならば、この映画は何故か日本では公開されなかった。ワイルダーがこの次に作った作品が、グロリア・スワンソンを引きずり出してきた、あの問題作「サンセット大通り」である。
ディートリッヒはそれから四九年、五〇年、五一年、五二年と年一本ずつ映画に出るが、日本で公開されたものは一本しかないし、僕はそれも見ていない。どちらにしても、これらの映画に対して、僕は全く関心がない。そして一九五三年、遂に五十歳の坂をこえた彼女は、ここでまたまた突如、
「私は歌手になる」
と宣告する。たしかに、女優から歌手に転向した例はなくはないが――その逆なら、いくらでもある――五十の坂をこえてそれを成しとげた例は、世界でも恐らく空前絶後であろう。彼女は、他の媒体を借りずに、自分自身で客に問いかけるという「芸人」の最もプリミティブな形を、この年になって初めて選んだのである。それはもはや「賭け」というよりも、自分自身に対する挑戦でもあった。
第一回目のラスヴェガスで行なわれたショーは大成功をした。それに気をよくして、彼女は自分の好きなフランスや、イギリスなどを廻りはじめた。この間、一九五七年にデ・シーカの「モンテカルロ物語」に出演し、五八年には再びビリー・ワイルダーの「情婦」に出演しているが、少なくとも「モンテカルロ物語」は余り気分がよくなかったらしい。
「デ・シーカは、魅力的な人だから――」
といって出たものの、最後はほうほうの体で、イタリアから逃げ帰ってきた。彼女の気分は、パリのエトワール劇場での、ショーの大成功で、やっと和らいでいた。「私は知性的な男性が好き。彼らの年なんか、問題にしたことはない。好きになった人だけで、この部屋が一杯になるほどいる」と、彼女は楽屋におしかけた記者たちを煙にまいた。
一九六〇年。僕が聴いた彼女の沢山のレコードなどから総合して、恐らくこの年が歌手としての最も円熟した時期を迎えた時であろう。普通なら、とうの昔に引退している「グランド・マザー」である。この年、彼女は、遂に本当の「祖国」であるドイツへの演奏旅行へと立ち上がる。
この、彼女の生涯で第二のドラマともいうべきスリリングなツアーについて、どの伝記作者も、故意に避けたとしか思われないほど、ひかえ目にしか表現していない。全部の記事を総合してみても、「時のベルリン市長ブラントが、自ら出迎えた」「六十二回ものカーテンコールに応えた」「時に明らかな敵意を見せるものもいたが、それは彼女のショーの成功によって打ち消された」「十七歳の少女から、何故あなたは戦争中、ドイツを敵に回したの?≠ニきかれたりした――」「彼女は東ドイツから巨額のギャラを提示されたにもかかわらず、それを断った」という程度の文字を散見出来る程度である。
彼女が訪れた一九六〇年のベルリン。僕がメーデー見物に訪れたときに、古くから住んでいた人の話によると、十五年前のベルリンは、まだ戦後の荒廃は生々しく残り、今の街とは比べものにならぬほど貧しく汚なかったが、しかし妙な活気と明るさが、街全体に漲《みなぎ》っていたという。その丁度一九六〇年に発売されたアメリカのレコード「Berlin with Love」と題されたレコードの解説には、当時の様子が、こう書かれている。ちなみに、この時はまだ「東西の壁」などというのがなかった、自由通行の時代であったことを思い出して頂きたい。
――ベルリン。いつ水浸しになるかわからないサスペンスにかこまれた島のような都市。三百三十七万五千の市民はいま東西に区別されて暮しており、この街はヒトラー時代とは比べようのないほど、精彩を欠いているようにみえる。
しかしそれでも、貴方がもし共産区域の方を訪れて、かつてのウンター・デン・リンデンを歩いてみれば、そこにはかつてエリート族でごった返したクラブやレストランが、ありし日を偲ばせてくれるに違いない。そして更に北に足をのばせば、「また恋におちてしまった」と、かのマレーネ・ディートリッヒが歌ったフリードリッヒ通りを歩くことも出来るだろう。ここで皆さんは、「マック・ザ・ナイフ」発祥の地を見ることもできる。
ベルリンっ子はいうだろう。「いまのベルリンなんて、単なるシンボルに過ぎない。いやナチ以前だって、実はベルリンは真のドイツの首都だったことはなかった」と。しかし、彼等は自分の町の美しさや文化を、心から誇りに思っている。更に、自分たちの町が他の都市よりソフィスティケートされ、ウィットに富み、いいものを見きわめる眼が高いことを、堅く信じている。
西ベルリンに眼を向けると、派手な新建築の裏になお残る第二次大戦の残骸にまじって、人々が生き生きと生活していることを見ることができよう。たしかに戦争のあとはあるが、クーダムには華やかな店が並び、ブルドーザーの音が響き、復興の槌音がなり渡る。この国際的な街は、一つ一つのテーブルに、それぞれの個性が宿っているのだ――。
そして、このLPは第一曲「リリー・マルレーン」第二曲「さようなら、いとしい人」と続く。
ディートリッヒはこの街に二十九年ぶりに足をふみ入れて、一体何を感じたろう。それを直接に語る資料は何もない。僕は想像を逞しくして、その時の情景を自分の頭で再現してみるより他に方法はない。
ディートリッヒはこの時「Wiedersehen mit Marlene(マレーネとの再会)」という実況録音盤のレコードを残している。彼女のレコードは、いつも「語り」からはじまる。このレコードも、彼女の代表的なナツメロである「また恋におちたの」(「嘆きの天使」の主題歌)を聴衆たちに懐しく思い出させ、次に「またブルー・エンジェル(嘆きの天使)の歌です。でも、さっきの歌じゃありません」という。客から「ローラ、ローラ」と声がかかる。「そうです、ローラです」といって、「ローラ」を歌いはじめる。すべての曲が、そういう調子で歌い継がれてゆく。
ところが、十三曲歌われるこのLPの中で、たった一曲だけ、何の語りもなしに歌いはじめる曲がある。「リリー・マルレーン」である。既にはじめにもご紹介したように、この歌を歌うとき、彼女は必ず「戦争中、シシリー、イタリア、ドイツ、チェコで、すべての兵士が愛した歌」という決まり文句を入れる。すべての演奏で、すべてのレコードで、このせりふは入っている。唯一枚、この「祖国」で歌われた「リリー・マルレーン」だけを除いては――。
一九六一年に書かれた彼女の随筆集の "Germany" の項目に書いた彼女の短い文章をどう見るかは、読む方々のご判断に任せたい。
「――私がドイツに注いだたくさんの涙は、もう涸《か》れてしまった。私はその涙の顔を、すべて洗い流した――」
一九六一年の映画「ニュールンベルグ裁判」については、既にふれたので、ここではふれない。彼女が三番目に手がけた「ドイツに関する仕事」は、一九六二年に封切られた「黒いキツネ」(アメリカでは、ヒトラーは Black fox と綽名《あだな》されていた)である。これは彼女が出演した唯一のドキュメンタリー映画であり、ここではナレーションの役を買って出た。この映画はこの年のアカデミー賞ドキュメンタリー部門の賞をうけ、彼女の語りは批評家の絶讃するところとなった。そして、この映画は事実上、彼女の映画界に遺した最後の仕事にもなった。
「ロサンゼルス・ヘラルド・エキザミナー」紙は、次のような評をのせた。
「ドイツ生れのアメリカ市民ミス・ディートリッヒは、敵意や、明らさまな感情を決して表に現わすことなく、殆んど医学者の分析のような冷静な姿勢で、この心うたれるドキュメンタリー映画の語りをつとめた――」
なおこの映画もまた、残念ながら日本では公開されていない。
彼女が行なったツアーのうち、もう一つ書きとめておきたいのは、一九六四年行なわれたソ連での公演だろう。モスクワのエストラディ劇場は、はち切れるほどの超満員だった。一時間のショーが終り、何回かのアンコールがあっても、聴衆は客席から立ち去らなかった。
一度控え室に帰ったディートリッヒのところに、勇敢な数人の兵士がバラの花束をもってやって来た。「こんな素晴らしいショーを見たのは初めてです」と兵士はいった。彼女はそのバラの花束を抱いて、再び舞台に戻った。はいていた靴を、舞台の上からほうり投げ、四十分にわたる第二のショーが再開された。彼女は、
「ロシアの人々は、何回もの苦しい戦いをくぐり抜け、悲しみも、幸せへの道もよく知っている。私がロシア文学で読んだ美しいロシアは、そのまま、ここにある。私にも、スラブの魂がある」
といった。
同じ年、彼女は売り出したばかりのビートルズとも共演し、彼等に古い考えで苦々しく接していた多くの人たちを驚かせている。
「ビートルズって、すてきな子じゃないの」
と、彼女は公然といってのけた。だがわれわれは、これらの貴重な実況録音を、誰も持っていない。
僕の「ディートリッヒ伝」の最後の章は、七〇年EXPOのディートリッヒである。この年の九月六日、遂に彼女は日本までやって来る。暑い、唯やたらにムシ暑かったあの万博会場に。恐らく、四年前の「モントリオール博」での成功をきいた日本のプロデューサーが、巧妙に彼女を口説いたのだろう。この時彼女はもう六十八歳のはずである。
この時のディートリッヒ側の出した契約条項は、今でも関係者の間で語り草になっている。一番頭を痛めたのは、如何なる条件ででも写真を絶対撮らせないこと。このため、もし心なきカメラマンが何げなしにフラッシュでもたこうものなら、主催者側は何万ドルかのペナルティをとられることになっていた。主催者側は、ハイジャック防止の監視員のような眼つきで、カメラを押えこんだ。
記者会見はOKしたが、その時の光量、スポットの場所、数までが契約書に明示されていた。空港を降りてからホテル、そして万博会場までのパブリック・ロードの指定。その状態も決められていた。他に特殊なものとしてはシャンペンのブランドの指定があった。「ドンペリニオン」というレーベルである。ところが、これが大阪中を探してもない。使いが東京へ飛び、最後に高級レストラン「マキシム」で二本だけ発見された。彼は落さないように、割れないように、その二本を宝石のように抱きかかえながら、大阪に帰ってきた。
また契約書には「階段のない楽屋」「歩かずに下手から登場」「等身大の鏡」「楽屋のシャワー」などすべて万博ホールに無いものが書きこまれていた。主催者側はやむなく「ホールを作り直した」。むろん、緞帳《どんちよう》もとりかえた。
僕は、それらの主催者側の動きを、多くの外部スタッフなどと同じように、実は冷やかに見ていた。
「どんなにえらいか知れないが、何せ六十八のバアさんだよ。本当に声が出るのかねえ……」
セットの用意をしながら、そうつぶやく若者もいた。事実、やがて現われたディートリッヒの「本物」は、今にも倒れるんじゃないだろうかと思われるようなおばあちゃんだった。ただ「尊大だろう」という予想は全く外れた。舞台稽古に現われた彼女は、薄いコットン・デニムのような普段着のスラックスで、オーケストラやマイクを手ぎわよく指示する気さくなおばあちゃんであった。
この時のステージ・マネージャーをつとめた酒井さんは、女性同士という特権を活用して、垣間見《かいまみ》たディートリッヒの私生活を僕に教えてくれた。彼女は日本滞在六日の間、京都はおろか、ホテルの廊下にすら姿を現わさなかった。ある時呼ばれて入ってゆくと、彼女はガウンについてしまった白い毛を、一本一本つまんでは、吹いて捨てていた。
「こんなバカなこと、誰にも頼めないから……」
とディートリッヒは酒井さんを見て笑った。それは、いいようのない「栄光の孤独」だったと、後に酒井さんはいっている。
同行したイギリス人を中心としたスタッフのディートリッヒに対する尊敬ぶりは大変なものだった。「ミス・ディートリッヒは、私の入院費を全部出してくれた」「これは彼女からもらった時計だ」。いろいろな人が、それぞれ彼女の「偉大さ」を語った。
彼女の数少ない日本における言行録のうち、僕が心にとめたのはヴェトナム戦争に対する発言だった。彼女のお孫さんのご主人が、その時ヴェトナムに従軍していた。
「皆で、一生懸命地球を汚くしようとして戦っているのね」
この言葉は消え入るように力なかった。
ディートリッヒは、彼女の随筆集の中で日本に関して唯一つの項目として「ヒロシマ」に関するハーマン・ヘーグドーンの詩を引用している。
「――ヒロシマに落ちた原爆は、アメリカにも同じように落ちた。アメリカに落ちた原爆は、町も、教会も、ビルも、軍需工場も破壊はしなかった。しかし、間違いなく、それはわれわれの上にも落ちた。
神よ、われわれの子を哀れみ給え!
神よ、アメリカに慈悲を与え給え!
[#地付き]1946年」
酒井さんのディートリッヒに対する感想は、一言にしていえば「孤独な、だが可愛い仙人」であった、という。
ショーは無事に続けられた。ディートリッヒは出演十五分くらい前になると、あの神秘的なシャンペン「ドンペリニオン」をグイと呷《あお》る。
「お酒を飲まないと、ドキドキして舞台に出る勇気が出ない」
というのがその理由である。「あれほどのキャリアの人でも、一回一回の舞台に賭ける執念が物凄いんですね」と酒井さんはいった。ほんのり顔に赤味がさしてきたと思われる頃、舞台の下手から、例の純白のケープをまとって登場する。右手でそのケープをハネのけるのだ。その「ミエを切る」のが、第一の見せ場である。
それからあとの「リリー・マルレーン」と僕との「出逢い」については、はじめに書いた通りである。あの「六十八のバアさん」といっていた若者たちも、アッケにとられてその「実力」を見守るばかりだった。そこで聴衆への歓呼に応えていた女性は「神秘」でも「六十八歳」でも、リチャード・バートンがいったという「世界で一番美しい骨」でもなかった。自分のつとめ終えた舞台に賞讃を送ってくれる人に対して素直に喜ぶタレントの顔であり、あえていうならば、恐らくは素顔からは想像もできぬ美しい顔であった。
ここまで書き綴ってきた「わがディートリッヒ伝」をお読みになった方は、これらの文章の空間に、雲のような沢山の疑問を抱かれたに違いない。
「どんな気持で祖国を――」
「ヘミングウェイから何を――」
「何故サハラ砂漠に――」
「東ベルリンを何故――」
「ロシアへの愛情は今も――」そして、
「リリー・マルレーンをどんな気持で――」
ディートリッヒが日本にいた間、たった一度だけだが、われわれは彼女に自由にものをきくことのできる「記者会見」の時間をもった。これはいま考えれば、全く天から与えられた奇蹟の時間ともいうべき千載一遇のチャンスであった。
この時つめかけた十数人の記者団は、手をひろげて待っていたディートリッヒに、二つの「重要な質問」をしたと、酒井さんからきいた。一つは、
「貴女は何故そのような若さをいつまでも保っていられるのか?」
そして、もう一つ、その時の記者団の最も関心を集めた質問は、
「今度のショーで、貴方はその百万ドルの脚を見せるのか?」
であった。
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12 北海の孤島に眠る
暗紅色のバラ
ロンドンからパリへ、そして再びベルリンへと、僕の「リリー・マルレーンの旅」も、もう最後のコーナーにかかろうとしていた。その途中、ブレーメンから北に折れて、ララ・アンデルセンの眠る北海の島、ランゲウォングに足をのばしてみようと思いついた。
北ドイツもこの辺までくると、木々は目立って低くなり、初めに感じた威圧的なドイツの面影はどこかに消えていた。そして細い田舎道を何時間か走り続けたあと、突如眼前に展けた北海を見た時のあの淋しい風景を、僕にはとても描写する力はない。
とにかく見渡す限り荒涼たる干潟《ひがた》があるだけで、何もないのだ。海岸といえば、日本人なら誰しもが岩に砕け散る波を、白い砂浜を、そして碧い海を思い出すだろう。ところが、ここには本当に何もない。何もないという淋しさ、怖ろしさを、これほど身に迫って感じさせられたのは、かつて上空から、オーストラリアの数千キロにも及ぶ砂漠を見た時だけである。
しばらく行くと、可愛い、ひなびた港があった。そこがランゲウォング島に行くベンゼルジールという小さな村の船つき場だった。港には、白い小さな船がとまっていて、その胴体には何と「LILI MARLEEN」と書かれてあった。僕は無理をしてでも、島まで行ってみようと交渉した。
定期便は一日一便らしいのだが、船は僕だけを乗せて気だるい音をたてて出発した。島の船つき場には、一軒の小屋もなく、無論タクシーなどもなかった。見渡すと、遥か数キロの彼方に町らしきものが見えた。そこまで、三十分ぐらいの道のりを、ノコノコと歩かなければならなかった。
途中、野生のリスが道にとび出し、馬がのんびりと草をはんでいた。どうやらこの島は、夏のレクリエーションのための保養地らしかった。島々には、救急用兼警察用の車が一台ある以外、モーターバイクすら一台もなかった。運搬の動力は、すべて馬車なのであった。
町の目抜き通り――といっても、わずか百メートルにも足りぬ一角だが――には、小さなホテルや別荘の案内所があり、小さいながら、スーパーマーケットもあった。その店で僕は、思いをこめて、ララ・アンデルセンのレコードを買った。
「ララは、気さくな人でしたよ。スターらしい感じなんか、少しもありませんでした。ララのためにここまで来たなんて、珍しいお客さんだ」
と、店の人はいった。
僕はララの墓が、そして北海が見下ろせる小高い丘に上って、一時間以上も、じっとしていた。頬に当る五月の風はまだ冷たかったが、それでもそれは優しい風だった。「リリー・マルレーン」を最初に歌ったララ・アンデルセンは、この果てしなく広漠とした北の果てを、自ら永久の地と選んだのである。ここにはたしかに戦いはない。いや、平和すらないかも知れない。唯あるのは、生きていく淋しさに耐えるということだけだろう。ララはその淋しさを一人で背負って、そして死んだ。やがて北海に冬が来るとき、この島には恐らくそれを感じる人影すら、なくなっているだろう。
この丘に立って、僕はララを象徴するような、一輪のバラの花を思い出していた。そのバラに「リリー・マルレーン(Lilli Marleen)」という名がつけられていることを教えてくれたのは、英米文学者の角邦雄氏である。
バラの花の世界というのは大変なものだそうで、すべてのバラはサラブレッドと同じように、わずかな数の有名な先祖に辿りつくのである。世界には十名近くの偉大な「バラ師」がいるが、その中でも、特に個性的な第一人者として知られているのがW・コルデスである。
コルデスは一九五九年、精魂を傾けて作った自分の傑作に「リリー・マルレーン」という名前をつけた。この「リリー」は、六六年、オランダのハーグで行なわれた「世界バラ・フェスティバル」で、ゴールデン・ローズ、つまりグラン・プリをとり、そのことがこのバラを世界的に著名なものにした。
バラを扱った人ならば誰でも知っているように、血統正しい品種にはそれぞれ魅力的な名前がつけられている。有名な王様の名前、歴史的な地名、ギリシャ神話の登場人物、文豪などがよくつけられるが、日本名としては数年前「ミチコ」が加わって話題となった。バラの色系は、燃えるような真紅や飛びはねるような黄色が基調で、その混合のものも多い。
だが、この「リリー・マルレーン」は、他の如何なるバラの色調に比べても独特である。強いていえば、濃い暗紅色とでもいえるだろうか。一見して「リリー・マルレーン」には、バラのもつ華やかさはない。しかし、しばらく眺めてゆくうちに、このバラが如何に悲しく、美しく、そして深い思いをただよわせているかがわかってくる。思い切って開いた大輪、その中にこめられた孤独の美しさを、バラという媒体を使って、このように美事に表現することのできたコルデスは、やはり世界の第一人者といっていいのだろう。ここで、この作品に、敢て「リリー・マルレーン」という名をつけた作者の気持には、もはや説明の要もないだろう。
コルデスのバラのカタログは「リリー・マルレーン」を、こう説明している。
「暗紅色のフロリバンダ種で、最高のヒット作。花は大きく、強く、つぼみの形は高貴である。その色彩は独特のものとしか形容できない。ビロード状、火焔紅色で、メルヘン風のものであり、他に類例がない。バラ中のバラであり、ファンタスティックでもある。一本、三・四マルク」
ララ・アンデルセンは、一見偉大でも華やかでもなかった。しかし、しばらく見つめてゆくうちに、彼女はいろいろなものを、われわれに投げかける。それがひかえ目で、純粋なものであるほど、それは更に深く鋭く、われわれの胸を打つ。彼女は死してなお、人々の眼にふれることのない北海の島を敢て選んだ。この島が脚光をあびることは、過去も現在も、そして未来も恐らくはあるまい。やがては僕を島に運んだ「リリー・マルレーン号」も朽ち果て、その名前も消えてゆくだろう。だが、ピラミッドを作ったエジプトの王様とは逆に、彼女は自ら消え去ることを望んだのである。だからこそ、ドイツの新聞記者は、「ララ・アンデルセンが忘れられることはあっても、リリー・マルレーンが消え去ることはないだろう――」と、彼女の追悼記事を結んだのである。
二十日ぶりに再度訪れたベルリンは、たった数日しか滞在したことがないはずなのに、以前何回も来たことがあるような、懐しい街となっていた。すでに習い憶えた街中や郊外の道を、僕はなめるようにドライブして廻った。ベルリン市内には、大きな湖が二つある。そこには何百隻ものヨットが帆を連ね、その数キロ横のもう一つの湖では、始まりかけたベルリンの夏を、裸の男女が精一杯に楽しんでいた。
生れて初めて、ヌーディスト・ビーチなるところにも行ってみた。出入りは全く自由。こちらは別に裸にならなくても、とがめられはしない。しかし、ヨーロッパの太陽はどうしても浴びずにはいられなくなるような貴重な自然の恵みなのであった。ヌードはわいせつどころか、むしろ彼等の太陽への痛ましいほどの願いをこめた、つかの間の幸せなのであった。
五月下旬のベルリンの夜は短い。十時過ぎやっと暗くなった街は、午前三時頃ディスコティークから出てくると、もう明るくなっている。「ヨーロッパを感じようと思ったら、冬から春にかけて数カ月間居なければ、その心情はわからない」と、ロンドンの長谷川さんもいっていた。夏とは逆に、冬の長い夜、何カ月も太陽の射さない北ヨーロッパの大地。それが春のある一日、突如太陽が訪れる。その喜びや解放感を、一年中太陽を知っているわれわれは理解することができない。理解するということは、口や言葉だけでは所詮無理なことなのかも知れない。
そのベルリンで、僕は予定通り、ノルベルト・シュルツェ・ジュニアの好意で、一時間にわたるドキュメンタリー・フィルム「リリー・マルレーン」を見た。シュルツェ・ジュニアはテレビ人間らしく「土曜も日曜も、仕事のことなら気にしない」といい、「私はドイツ人でもなくヨーロッパ人でもなく、唯の人間だ。私がドイツ人なら、あのキッシンジャーというおかしな奴も、やっぱりドイツ人か?」とジョークを飛ばした。自分から「デブ・チビ」と紹介するほどの気さくな男だったが、奥さんは彼よりも十センチも背が高いファッション雑誌から抜け出てきたような美人だった。
「名残りの霧がひろがるとき」と題された「リリー・マルレーン」のドキュメンタリー・フィルムを作るのに、彼は三年間で四千万円の制作費をかけたといった。作品の内容は、リリー・マルレーンゆかりの人たち、作詞家、作曲家、ベオグラード放送局にいたハインツ・レントゲン、リチャード・キストマン、イギリス第八軍の将校、トミー・コナー、それに生前のララ・アンデルセンなど、この歌にゆかりの人たちの談話を中心に、第二次ヨーロッパ大戦のフィルム、それに戦後、この歌がどのように歌いつがれていったかを綴ったもので、僕の知っていることもあり、また初耳のこともあった。
この中で、特に僕が関心をもったのは、そのベオグラード放送局生き残りの五人が、全部元気であり、いまも現に、現役の放送局編成部長や第一線新聞記者として活躍していること、第二に、シュルツェ・ジュニアは日本でも「リリー・マルレーン」がかなりよく知られていると信じていること、第三に、この歌は戦後朝鮮戦争でも歌われ、ディエンビエンフーの戦いでも歌われ、イスラエルの戦いでも歌われ、ヴェトナム戦争でも歌われ、また、ヴェトナム戦争反対のデモでも歌われた、ということである。
彼はこのフィルムを撮るために、一九七二年日本に来たという。「ナナ・キノミ」という「少女歌手」が日本でこの歌を歌ってヒットしたという話をきき、日本までやって来たのである。あとで僕が調べたところによると、木の実ナナは「悲しい道」という題で、昭和四十二年にたしかにこれをレコード化している。メロディはたしかに「リリー・マルレーン」なのだが、歌詞の中にも題名にも「リリー・マルレーン」という文字は一度も出てこない。シュルツェ・ジュニアがそのことに気がついていたかどうかもわからない。
とにかく、この気さくな若きドイツ・プロデューサーの眼には、日本という国はよほど「神秘的」に映ったらしい。羽田で降りると、彼は(無謀にも!)ドイツ流にレンタカーを借りたらしい。羽田からホテル・ニューオータニまで、どう走ったらいいのか、まるでわからない。二時間も迷ったあげく、やっとのことでホテルにたどりついたが、訪ねる「ミサ・ワタナベ」らしき人物は、一向にわからない。彼の前に現われたのは、「二十歳を過ぎたぐらいの日本女性」である。
「私はミサ・ワタナベに会いたい」
「はい、私がその、ミサ・ワタナベです」
彼は、ミサが女性名前であることも知らなかった。
「その小さなミサがプロダクションのボスで、娘だと思っていたら、何とミセスだった」
と彼は何回も大声で笑いながら、僕に話し続けた。無論、彼の話にはベルリンっ子独特のジョークとユーモアがまじっていたろう。彼は「日本は何もかもファンタスティック」をくり返した。
ナナ・キノミとは三十分間、ラヴリイーでカインドリーな時間をもてた、といった。「何しろ、判って頂けるだろうか。ナナは日本語が得意で、私はドイツ語と英語が得意なんだ」横から奥さんが「本当にファンタスティックな時間だったんでしょうね」といった。彼は、「真にファンタスティックなのは、日本のテレビだ」と続けた。
「チャンネルの数がドイツの倍もあって、それが全部朝から夜中まで放送している。私はナナの歌番組を見に行ったが、本番十分前だというのに、スタジオには誰もいないんだ。ドイツなら、三時間前からウロウロしているよ。これは放送中止かと思ったら、時間には全員が集まって、素晴らしい歌番組になっていた。あれは真にミラクルだ!」
ことによると、彼はヨーロッパで電波が簡単に国境をこえてゆくように「リリー・マルレーン」が日本にも押しかけていったと誤解していたかも知れない。日本人である僕は、この歌のことを全く知らなかったから、その一つ一つを「発見」してゆかなければならなかった。しかし、日本人でない彼は、この歌の「意味」を説明すればよかった。
「何故この歌は、戦いと共に歌われるのだろう?」
と彼は考える。それはことによると、このメロディの中に、人間を死に対して免疫的な心境にさせる、麻薬的な効果があるのかもしれない。だからこそ彼はいう。
「この歌が歌われない世の中が来なくてはならない。今日も世界のどこかで、この歌を歌いながら死んでゆく人がいるかも知れないのだから……」
彼はそのあとで「たとえ、おやじの収入が減ってもね」と、ジョークでつけ加えたが、それは如何にも若いドイツ人らしい、理屈っぽい結論だった。僕は、この歌によって知り得たディートリッヒとララ・アンデルセンのドラマに最も強い執念を燃やしたが、それは日本人である僕の発見であって、彼にはとりたてていうほどの事ではなかったのかも知れない。現に、彼は途中で、ディートリッヒへのインタビューを諦めている。
「ニューヨークとスイスとパリに彼女の家があって、どこに電話をかけても連絡がとれない。やっとエージェンシーに連絡がとれたら、フィルム・インタビューは、五万ドルくれといわれた。冗談じゃない。その後、パリで偶然彼女と出会うことが出来た。シュルツェの息子ということで、喜んで会ってくれ、|英語で《ヽヽヽ》話をした。五万ドルの話をすると、私にはそんな優秀なマネージャーがついているのかしら。いつでも体があいていれば、タダで結構です≠ニ彼女はいったが、それ以後、遂に彼女とは連絡がとれなかった」
と、彼はその経過を語った。僕が、
「それでは、僕がトライ・アゲインしてみようか?」
というと、彼は大きく手を振って、「オー・ノー・ドント・トライ!」といった。それは、日本の素人に対する、彼の精一杯の忠告なのであった。
ベルリンで最後に訪ねた人、作曲家のノルベルト・シュルツェは、深い緑にかこまれた西ベルリン郊外に、瀟洒《しようしや》な邸宅を構えていた。彼は僕の来るのを待ちかねたように、日本の古い勲章や、明治一ケタ時代の手紙や資料などを持ってきて、僕を驚かせた。彼の祖父は明治初年、日本にはじめて医学校が開設されたとき、あの有名な「ベルツ博士」などと一緒に、ドイツから日本に派遣された医官の一人だったそうで、
「|ロシア軍《ヽヽヽヽ》の来る前の、古い私の東ドイツの家では、日本の家具や食器や本など、日本にかこまれて育った。しかし、本当の日本人に会うのは、今日が初めてだ」
と、何度もワインの乾杯をさせられた。この地球上は、やはりとんでもないところで、何かの縁が結び合わされているのであった。
彼はララ・アンデルセンのことを「私の初恋の人」といった。「歌は上手《うま》いと思わなかったが、素晴らしく魅力的だった。彼女に私のリリー・マルレーン≠歌いたいといわれたとき、私はこれで、|この歌の運命も終り《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》だと観念した」。このジョークの半分はどうも本音らしかった。
彼の妻は「イヴァ・ヴァンニア」といって、ブルガリア系のドイツ女優である。彼女は、すでに紹介した「誓いの休暇」で、娼婦の役となって出演している。若い兵士が、彼女の許を去るときに、「君のことは決して忘れないよ」というと、彼女は笑って、「大丈夫、すぐに忘れるから……」と答える。
いま東ドイツ当局に押えられているこの映画を、シュルツェ夫妻は見ることはできない。皮肉にも、われわれ日本人は京橋のフィルム・ライブラリーで、今でもこの「戦時中上映禁止」の力作に、接することができるのである。
僕はノルベルト・シュルツェは「リリー・マルレーン」によってドイツの音楽界に出てきた人だと思っていたが、実際はそうではなかった。一九三九年、ナチスのポーランド侵攻作戦を描いたドキュメンタリー映画「火の洗礼」の伴奏音楽は彼の作曲になるものだし、「総統命令」「われらはイギリスに戦いにゆく」などの有名作品は、一九四一年までに作られている。「リリー・マルレーン」は偶然過去の作品が浮び出たのに過ぎない。
事実、彼はこの歌が前線でヒットしていることを、かなり後まで知らなかった。ドイツ政府は、イギリス政府やアメリカ政府と同じように、「リリー・マルレーン」の放送料を、彼に一文も払わなかった。彼は、この歌が連合軍で歌われていたことすら、戦後まで知らなかった。彼は唯ひたすらに、自分の仕事に専念していた。一九四五年、遂に彼は尊敬する巨匠、カール・リッターと組んで仕事をすることにした。題名は「人生は行ってしまった」である。しかし、この映画は完成されず、戦争の方が「行ってしまった」のである。
戦争中と同じように、戦後も「リリー・マルレーン」は世界的に歌われたが、シュルツェがこの曲によって得た収入は、最初レコードに吹きこんだ時の作曲料だけである。その著作権料はすべて敵国財産管理局によって押えられ、一九六〇年には、遂にその総額は六億円の巨額にも上っていた。六一年、凍結は解除され、初めて彼の許に「リリー・マルレーン」の作曲料が入るようになったが、無論、六億円は返してくれなかった。これは公的な機関の決定に従って、連合軍の老兵たちのための厚生施設に使われた。
「私は、たしかに戦争中、仕事をした。沢山の民衆に、私の作ったメロディを歌ってほしかった。幸い、私の歌は皆に歌われ、私は作曲の仕事をしていたお蔭で、この手で銃を持って、人を殺すこともなく済んだ。しかし、その時代は、たまたまナチの時代だったのだ」
彼は戦後「非ナチ化裁判」をうけたこともあり、これは長く、苦い体験として残っているのであろう。本人のいいにくいところを、同席したジュニアが、助太刀に入った。
「だいたい、メロディに、軍国主義のメロディとか民主主義のメロディとかいうものがあるだろうか。父は政治的に無色だった。無色ということは、その時に支配した色に染まるかもしれない。しかし、過去の人間の殆んどは、皆無色だったのだ。兵士たちは殆んど誰のためでもなく、仕方なしに死んだ。或いは、国を守ると信じて死んだ。この死に、父のメロディが役立ったのだろうか? リリー・マルレーンは軍歌だろうか? 仮にそうだったとしても、父に何が出来ただろうか? この歌は作られた時からもう、父の許を離れて、勝手に独り歩きしていたのだ――」
この時、ノルベルト・シュルツェは、僕のために、といって、「リリー・マルレーン」を自分のピアノで演奏してくれた。それは意外にも、僕がこれまで聴いたどの演奏よりも軽快で明るい、マーチ風のものであった。恐らくは、これが本当の「リリー・マルレーンの原点」だったに違いない。
だが、歌は戦争とともに動き出し、作曲者を無視し国境をこえて、フランケンシュタインのように、勝手に歩みはじめた。誰も止めることは出来なかった。ヒトラーもチャーチルも、こればかりはできなかった。そして作曲家自身も、またこの歌の犠牲者の一人なのであった。
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13 「貴女の名前はリリー・マルレーン?」
「いえ、リリーじゃないけれど……」
日本を出発する時から、ベオグラードだけは是非行きたいと思っていた。率直な気持をいえば、ベルリンとベオグラードの春をのんびり満喫して帰れれば、それでいいと思っていた。ノルベルト・シュルツェが出現したのも全く予期していなかったことだし、まして「わがディートリッヒ伝」を書く結果になるとは、全く考えてもいなかった。何人かの「リリー・マルレーン」が、それぞれの個性豊かな顔で、四十日間僕を翻弄した。
ベオグラードに就いて、僕は格別に思いがあったわけではない。それどころか、ユーゴスラヴィアという共産主義国について僕は出発前、殆んど何も知らなかった。僕の頭にあったのは、「リリー・マルレーン」を初めて放送した局が、そこにあった、ということだけである。しかし、フランクフルトで見た妙に人なつこいユーゴ人のことは、ずっと憶えていた。そこには必ず何かがある、と、僕は一方的に確信することにした。どの日本人にきいても殆んどユーゴについて知っていないということが、むしろ魅力だった。
五月末、僕は「リリー・マルレーン」の妖しい魅力から解放されたような気になって、ベルリンを出発した。地図をひろげて測ったところによると、南ドイツ、西オーストリア、北イタリアを抜けてベオグラードに到達する道は、距離にして約二千三百キロぐらい。決して短い距離ではない。しかし、何故かその心は軽かった。
日本にいた時、友人の映画評論家・斎藤正治氏が、ユーゴスラヴィア人について教えてくれた名前が、「ドウシャン・マカベエフ」である。
「これは面白い男だよ。妙な映画を作ってるんだ。訪ねていったら、きっとネタになるよ」
と、彼はいった。斎藤氏はミュンヘン・オリンピックの開かれた年、ベオグラードで開かれた「国際演劇祭」に参加した寺山修司の「劇団・天井桟敷」にくっついてユーゴを廻ったとき、この映画監督と親しくなったという。しかし、のんびり屋の彼は住所はおろか、電話番号も憶えていなかった。
「だいたい、行けば判る国なんだ。小さな町だもの」
と、彼はあわてずにいった。ユーゴで手がかりがあるのは、山崎さんという日本人留学生だけであった。
フランクフルトに着いた時、ベオグラードの山崎さんには、無論電話をした。連絡は案外簡単についたが、僕が「マカベエフ」氏のことをきくと、
「マカベエフさん……。ええ、知っています。しかし、あの人は、いまユーゴに居ません。それに、去年、共産党を除名になりましてね、いま、パリで仕事をしているはずです。電話番号ねえ……。わかりませんねえ……」
という、やや心細い返事であった。僕はこの時、この「マカベエフ氏」なる人物に、ぜひ会ってみようと強く思った。
パリに出かけていった一つの理由は、この「マカベエフ氏」に会ってみたいということでもあった。そのパリで、ユーゴのマカベエフ氏の消息は、意外に簡単に知れた。映画関係の日本人が教えてくれたのである。もっとも、本人に連絡をとり、そして逢えるまでには四日間かかった。
僕は何となくこの「亡命」のユーゴ人に対してソルジェニツィンのような、憂愁を帯びたやや尊大なヒゲの二枚目を想像した。彼が訥々《とつとつ》と語る「亡命の悲しさ」みたいなものが或いは僕の「ユーゴ紀行」のプロローグになるのではないかと思ったりした。
ところが、ヒゲ以外の予想はすべて外れた。現われたのは体重は八十キロぐらい、やたらに陽気な逞しい男で、「いま特別に忙しい時なので、遅くなって申しわけない」と大きな身ぶりで詫びをいい、卓上のジュースを一気にのみほした。
僕はのっけから「共産党を除名になったそうだが――」といって、彼の様子をうかがった。しかし彼は「そのことか――」といった調子で、全く陽気な調子を変えることなく、まくし立てるような英語で、しゃべりはじめた。
「ユーゴ共産党は、いま統一を必要としている。彼等は、フィルムをカットするように、音楽を止めるように、芸術家の自由な活動を停止してしまった。多くのジャーナリストや学者が党を除名された。それはユーゴにとって損失であるが、同時に止むを得ないことでもあった。彼等はより多くの自由を恐れ、私の作品を上映禁止処分にした。仕方なしに私はいま、パリで仕事をしている」
余りペラペラと陽気にしゃべるので、何となく僕の方がおかしくなってしまい、
「あなたはユーゴに帰ることが出来るのか?」
ときき直すと、彼はふしぎそうな顔をして、
「ユーゴヘ? 私が? 無論、いつでも自由に帰れるし、自由に党を批判することも出来る。ただ、ユーゴにいい仕事がないだけだ」
といった。
「然し、貴方の映画は上映禁止になった。禁止になるような映画を、どうやってユーゴ国内で制作したのか?」
「作ることに、何の干渉もない」
彼は巨体をゆすりながら、説明口調になった。
「ユーゴでは、われわれ自身の組織が、自主管理によって、われわれ自身の映画を作るのだ。予算内でのわれわれは、完全に自由である。芸術を制作する場合、どうしても時間が問題になるが、ユーゴでは我々制作者同士が同意すれば、時間外でも協力してくれる。フランスなどでは、労働組合の規則だといって、夕方の五時には皆帰ってしまう。本当の芸術は、こんな不自由なところでは作れない」
彼の熱っぽい意見は際限なく続く。
「資本主義国では、人間性が経済性に吹きとばされている。社会主義国に於て、働く者の権利が確立し、経済的な問題から独立することによって、初めてヒューマニズムの問題を考えることができるのだ。これが一番エキサイティングな問題なのだが、ロシア・タイプの社会主義は、これらの問題をすべて除外した社会主義である。社会主義者にとって最も名誉なことは、多くの矛盾をもち、これと戦うことだ。社会主義の中に矛盾をもつことを恥かしいと思ってはいけない。これをさらけ出し、これに勝つ戦いをすることが、真の社会主義者だ。ソルジェニツィン? あれは、貧しい女性が自分の生んだ父なし子を恐れて、金持の家の前に、そっと置いたというのが私のイメージだ。ロシアは巨大だが貧しい。だが、いつの日かロシアが彼を招かなければならない時が来るだろう。モスクワが他の国を幼稚園の生徒と思わなくなった日に……」
僕が「ユーゴを愛しているか?」と誘いをかけると、彼は待ってましたとばかりに、
「私に自由が尊いということを教え、私を本当の共産主義者に育ててくれたのはユーゴだ。だから、私はユーゴを愛している。私たちの国の仲間はかつて山で戦いがあれば山で血を流し、谷で戦友が倒れれば、谷にかけつけた。私は祖国に失望していない――」
といい、ユーゴの旅に関する数々の助言をしてくれた。彼はそれまでに四本の映画をユーゴで作ったそうだが、「最後に上映禁止になった映画の題名は?」という問いに、
「|オルガスムスの神秘《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という作品だ。彼等はセクシーなものを政治的な言葉で攻撃した。セックスは、実はポリティックなものなのだ。彼等は保守的で、ピューリタンで臆病なのだ」
と答えた。
ミュンヘンから東に一時間位走ると、遥か右方の行手に、白い雲を頂いたアルプスが見えはじめた。ヨーロッパにも山がある、というのが、最初の実感であった。この数十日、走っても走っても、丘はあっても「山」はなかった。山がかくも威圧的に、雄大であることに、僕は日本で気づいたことがない。
アルプス越えの快適なハイウェーを抜けて、車が北イタリアに入ると、ヨーロッパの風物は明らかに一変した。ドイツやフランスで見る濃い緑が、やや赤茶け、ところどころ土の肌が眼に入るようになった。小まめに景色が変り、スケールが急に小さくなる。人間の顔つきも、どこか中央ヨーロッパと違う。
最初に入ったガソリン・スタンドで、僕はひどく気をよくした。イタリアはよく旅行者などの俗説で「写真をとってもらおうとしてカメラを渡したら、十秒後にはその人はいなかった」などというのがあるが、そのガソリン・スタンドの如何にも調子のよさそうなボーイは、僕が差し出した「百マルク」の紙幣をしげしげと手にとって、何やら紙に書き出した。
お互いに全く言葉はわからないが、それは明らかに「公定レートなら、百マルクは二千五百リラであるが、ここはガソリン・スタンドなので二千二百リラである。おつりは五十マルクはドイツ紙幣で払うが、あとはリラである。それでよいか?」という意味のことであった。僕はフランスでのフランとの苦い「初体験」のことを思い出し、すっかり嬉しくなっておつりの二百リラ余りを、チップにあげてしまった。
カー・ラジオから流れてくるのは、例のイタリア調のカンツォーネやイタリア・オペラばかりになった。僕はドイツで集めた「リリー・マルレーン」の資料の中で、如何にも「イタリア的」なものが一つあったことを思い出した。それは一九四二年四月三十日附の「ローマ発」のニュースで、ドイツ人記者によってこんなことが書かれていた。
「私がドイツを出発する時、人々は皆リリー・マルレーンを歌っていたが、ローマでも事情は全く同じだった。私の泊っている下宿の娘は、今日も私の顔を見るとドイツ語のリリー・マルレーンを歌って≠ニ頼み、私は二百四十六回目《ヽヽヽヽヽヽヽ》のリリー・マルレーンを歌わなければならなかった。どこの広場でも、一人が歌い出すと、皆がそれに合わせる。イタリア語のリリー・マルレーンが夕闇の中にこだまする。ここで最近見た、ちょっとしたエピソードをご紹介しよう。サン・シルベストロ郵便局の近くに、イカス若い女性が一人立っていた。まもなく、一目でアフリカ戦線帰りとわかる若者がやってきて、彼女に話しかけた。貴女の名前はリリー・マルレーン?¥翌ヘちょっと笑っていえ、リリーじゃないけれど……=B数分後、二人は近くのカフェで、もう親しげに話し合っていた――」
この記事の中には、どことなく重苦しいドイツ社会からイタリアに行ったドイツ記者の解放感が、言外にあふれているような気がする。僕には車に乗っているだけでも、それが肌でわかった。
出発前、僕は二枚のイタリア語によるリリー・マルレーンのLPを手に入れたが、その中の一枚は "When we were in Italy" というタイトルのアメリカのレコードである。このジャケットの解説が如何にもイタリアのフィーリングを偲ばせるので、ついでにご紹介したい。
「いまアメリカ人観光客は大挙してヨーロッパに押しかけているが、思えば一九四五年ほど多くのアメリカ人がイタリアに渡ってきたことは、史上なかった。
多くのアメリカ人は、イタリアの各地で女の子とダンスをし、友達をつくり、イタリアの歌は、彼等にエトランジェであることを忘れさせた。そして歌は、彼等が間違いなく故郷に持ち帰ることのできた、唯一のものであった。
GIたちは、どこでもビストロ(一杯飲み屋)を見つけては、日頃口にしないカンパリとかヴェルモットを注文したものだ。そして、大合唱に加わったり、隣の女の子のハミングに耳を傾けたりした。彼等の中には、再び故国の土を踏めなかった者もいるし、帰れても、ひどく状況の違っていた人もいる。唯、ここでおきかせすることの出来るイタリアの歌は、きっとあれからの二十年間のあなたの人生を、暖かく思い出させてくれることになるだろう――」
この中で歌っているティナ・アローリという女性歌手の「リリー・マルレーン」は、何ともいえない、明るく、屈託のないものである。その歌詞も「私の胸に赤いバラを――。黄金に輝く君のやさしい髪を――」という南国の情熱を歌いこんだもので、独、仏、英のいずれの歌詞とも、全く違う。
僕の車はヴェロナを抜け、ベネチアを見物し、そこからしばらく行った街道の小さな食堂に入った。
「コーヒーと水」
と僕がいうと、ボーイはニヤリと笑って、「水はダブルか? ここはドイツじゃないからね」と、二本指を出した。ドイツやフランスは、どこのレストランでも「水」をくれないのが常識である。頼むと、こちらが嫌がるのを承知で(多分!)、ミネラル・ウォーターをもってくる。イタリアのボーイは、それを承知で、ささやかに「中欧」に対して、皮肉をいったのである。
ユーゴに入る前の晩、僕はトリエステに泊って、国境入りの準備をととのえた。入国にヴィザが要らないことは無論前からきいていた。然し、ユーゴの国内事情のことになると、ヨーロッパでも知っている人は意外に少なかった。僕の予想によれば、如何に「西欧化」され「自由」であったとしても、ユーゴもやはり共産圏には違いない。土曜日の午後のガソリン・スタンドなどは閉まっているかも知れないし、煙草も高いかも知れない。ユーゴに来る途中、僕は東ベルリンでの体験を生々しく憶えていたし、そこではブルガリアのカビくさい二十本入り煙草が五百円近くもすることを知っていたから、無論ユーゴはそんなことはないとは思うものの、トリエステでガソリンを満タンにし、荷物を整理する程度の用意はした。一つには、最近の新聞で、トリエステに近い半島の帰属をめぐって、ユーゴとイタリアの間が緊張し、軍隊が出動しているという話もきかされていたからである。
国境でパスポートを見せると、体のいいユーゴの役人が「おお、ヤポンスカ」とびっくりしたジェスチュアをみせた。車でノコノコとユーゴ入りをする日本人観光客など、極めて珍しいのだろう。だが、国境での調べはそれだけだった。厳密にいえば、「十秒で済んだ」というべきだろう。無論、何一つ荷物を調べることもなく、強制的に金を取りかえられることもなかった。国境を越して最初にタバコを買った。西ドイツでは二百五十円した同じアメリカ・タバコが百七十円、そしてユーゴのタバコは、八十円だった。
ガソリン・スタンドは、土曜日の午後でもどこも開いていた。イタリアはヨーロッパ一ガソリンが高く、ユーゴはリッター当り三十円も安いので、日曜日にはイタリア人はバケツまで持ってユーゴにガソリンを買いに来るのが常識だと次の日きかされた。
しかし、イタリアで「おつり」にもらった大量の「リラ」をそのままにしておいたのは失敗だった。イタリアとユーゴは国境を接しているのだから「リラ」を持っていれば安心と思っていたのだが、これはとんでもない勘違いだった、経済不安国の「リラ」はどこでも、見向きもされなかった。そのくせ遠く離れた「マルク」は、小銭でも通用した。「人情」と「経済」は、どうやら別物らしかった。
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14 ユーゴスラヴィア
この陽気でふしぎな共産主義実験国
ユーゴに入って最初の目標にしたのは、リュビアナという町である。地図をひろげればすぐわかるが、ユーゴの一番西北に当るところで黒二重丸がついている。つまり、スロベニアの首府ということになる。
もっとも僕は別に、スロベニアを見たいと思って、ここに行く気になったわけではない。パリで人づてに、「リュビアナには日本人レストランがある」ということをきいたからである。その土地の手ががりを掴むためには、現地に住んでいる日本人に聞くのが一番手っとり早い。それに、日本人レストランがあるということは、つまり日本人がかなり住んでいるのだろうと想像したのである。リュビアナまでの道は山また山の連続で、国土一面平野という感じのフランスやドイツに比べると、久しぶりのスリルにあふれたドライブになった。
途中、若い女性二人連れのヒッチハイクを拾った。柄は大きいが、二人とも女子高校生だった。習い始めて二年目という英語を結構巧みにしゃべり、カー・ラジオのロックに合わせてリズムをとり、煙草を喫った。
「煙草は学校でも喫うのか?」
ときくと、
「先生がうるさいから喫わない。然し、誰でも煙草は喫う」
といい、僕の「何国人だと思う?」という問いにはしげしげと見ながら、恐る恐る「ヤポンスカ?」と答えた。その表情は、それまでの西欧諸国では出会ったことのない、親しみと田舎くささがあった。
若干交した会話の中で、一番興味があったのは、「好きな国の順位」であった。彼女たちは躊躇なく第一位にフランスをあげた。「パリはステキだ」と一人の少女がいった。去年家族でパリ見物に出かけたのだという。「イタリアとドイツはどちらが好きか」という問いには二人とも「ドイツ」と答えた。「リリー・マルレーン」の名前は知らなかった。少女たちの中には、既にユーゴ・パルチザンの残滓《ざんし》は少しも無いようだった。
リュビアナの町はイタリアの古い町のように美しく、その古い教会の塔や古城の跡にかこまれた街のあらゆる場所に、眼にしみるような赤旗が、僕を迎えるように垂れ下がっていた。「今日はお祭?」ときくと、少女は誇らしげに、
「チトーの誕生日」
と答えた。そしてその街の真中の、古い壁と石畳みにかこまれた一角に、訪ねる日本レストランはあった。
日本レストラン、と書いたが、この店は Japanese Restaurant ではなく、文字通り日本語で「日本レストラン」と横書きに書いてある他は、現地の文字すら一語も書いてない、ふしぎなレストランだった。僕は一瞬、経営者は大和魂あふれる中年の日本男児だと確信した。中に入ると、和服の日本のお嬢さんがびっくりしたような顔で僕を見つめ、そして、
「いらっしゃいませ」
と丁寧に頭を下げた。店の中は、箸を包んだ紙袋が、すべて日の丸が見えるように折りたたんであり、その紙にはローマ字でNIPPONと書いた下に、「串カツ、魚の姿焼」という日本文字が、デザイン風に書き込まれていた。BG音楽で流れているのは、つい最近日本で流行していた「神田川」である。
僕は注文をとりに来たお嬢さんに「串カツ」や「カレーライス」を頼みながら、「ここの経営者の人と会いたいんですけど――」と言うと、彼女はけげんそうな顔をしながら、
「さあ、経営者って……、マネージャーのことかしら、それともチーフのことかしら……。通訳の方はいらっしゃいますか?」
ときいた。それで僕ははじめて、僕自身が根本的な勘違いをしているのに、やっと気がついた。
ユーゴは共産主義国だから、当然のことながら、すべての企業は公営である。ユーゴ共産党史をちょっとでも読んだ人なら誰でも知っていることだが、ユーゴは一九四八年コミンフォルム批判をきっかけとして、「国営」をすべて「公営」へと切りかえる大胆な作業を敢行した。むずかしい共産主義理論はともかく、ユーゴはマルクス・レーニン主義のもとに「国営」と呼ばれる一切の企業をなくしてしまったわけである。そして、構成している六つの共和国に、それぞれ大幅な権力の移譲を行ない、同時に「共産主義体制化に於て、言論の自由を許した場合、どういう事態が発生するのか?」という、地球上で初めての勇気ある実験にとりかかったのである。
「日本レストラン」のお嬢さんが「経営者?」と首をかしげたのは当然のことで、共産主義国の各企業には、日本でいうような資本を代表する意味での経営者というのは、無論いるはずがない。経営体はすべて、労働者が構成する「自主管理制度」によって運営されるわけだから、僕の質問は基本的に勘違いのわけである。僕は改めてこれらの文献を頭に思い浮かべながら、
「この町には何人の日本人が住んでいるのですか?」
ときき直した。
「四人です、だけど今日は三人です」
「三人? それで、このレストランに勤めている日本人は何人ですか?」
「三人です」
彼女は即座に答えた。つまり、この、人口三十万の町に、日本人の客はたった一人なのであった。無論、このレストランを作ったのも運営しているのもユーゴ共産党員であり、日本人の客などということは頭から念頭になく、なぜか日本文字による「日本レストラン」が誕生したのだった。
そういわれてみると、メニューのところどころに日本文字が逆さまになっていたり、妙な日本語が使われたりしていて、日本人なら絶対に間違えるはずがないおかしさがあるのも納得できた。
しかし、これが「ドイツ・レストラン」なり「トルコ・レストラン」ならまだわかる。遠い東洋の、恐らく市民の九九・九九パーセントまで、見たことも馴染みもない、「日本」という名前のレストランが、なぜこのユーゴの西北の町に、突如として出現したのだろうか?
ウェイトレスをしている二人のお嬢さんと、コックをしている若い男性にそのことを尋ねてみたが、「私たちにもわからないんです」という返事だった。三人は去年の春ごろ、友人に「ユーゴで働いてみないか?」と相談を持ちかけられたのである。一年に一度は一カ月日本行きの休暇がもらえるというし、三食、住居つきで五万円の収入も悪くはなかった。二十五歳のコック君は、八万円の月給だといった。とにかく「外国を見てやろう」という気持で三人はやってきた。町に住んでいる日本人は、二十七歳の空手の先生ただ一人だった。
「日本、というエキゾチズムを狙って、誰かがアイディアを出したのが、スッと通ってしまったんでしょうね」
というのが、彼等の推察だった。このレストランは大きいホテルの子会社で、主任をやっているのは二十五歳の共産党員だという話であった。
僕はチーフなる人物にインタビューを頼もうと思ったが、彼は約束があるというので、そのまま出かけてしまった。外でブルブルンという、外車特有のエンジン音がするので、のぞいてみると、彼が乗り込んだ車は、アルファ・ロメオ一五〇〇CCクラスのしゃれた車だった。
僕は仕事を終えた三人に、湧き起ってくる疑問を次々にぶつけていった。
「あのチーフは、いくらぐらいの月給をもらっているんですか?」
「さあ、十万はいってないでしょうね」
「自動車は日本より高いですか?」
「物凄く高いです。ユーゴは食料とかタバコとかホテル代は日本よりずっと安いけど、自動車はバカ高いですよ。外を軽自動車が走っているでしょう。ザツタバといって七五〇CCの国民車ですが、これが六十万以上ですよ」
「それじゃ、十万円以下の月給の人が、なぜアルファ・ロメオに乗れるんですか?」
この質問に、三人は思わず顔を見合わせた。
「ふしぎな国です。月給は安いはずだけど、皆、かなりいい家に住んでいて、別荘なんか結構持ってるんですよ。何かうまい手があるんじゃないですかねえ」
「考えられることが二つあります。一つは、いい企業に勤めていると、住宅はタダ同様。老後は年金によって完全に保障されているし、医者や学校がタダだから、貯めようなんてことをする必要がない。安い月給でも全部使えるということがありますね。それに、小規模なら、個人経営が許されるんです。五人までかな、人を使ってもいいんです。自分の商売となったら、時間をかまわずに夜まで働くから、この儲けもバカにならない。それに住宅のマタ貸し、別荘を貸す、内職の時間がある、何しろ、会社は午後二時でお終いですからね。あとの時間、別の方法で働こうと思えば、いろいろ手がある。月給の二重どりも出来る。われわれ日本人には、細かい手口はわかりませんがねえ、とにかく、何かウマイことをやってるんでしょうね、なぜか豊かにやってますよ――」
午後二時で休み、ときいて、僕は「それは昼休みか?」ときいたが、やはり「午後二時まで」が正解であった。厳密にいえば、ユーゴの一般勤労者は、朝六時から七時には出社する。多くの人の語るところでは、出社して一時間ぐらいはお茶をのみ、新聞を読み、昨日の話をし、さてと仕事にかかったところで、十時頃にコーヒー・ブレークがある。これが簡単な「朝食」になるわけだ。
「朝食」が終って午後二時まで(所によっては三時まで)仕事にかかる。だが「その日の仕事はその日のうちに」式の、日本的「勤労精神」はない。時間が来たら、ピタリとやめる。そして、家に帰って昼食をとり、改めて自由な「新しい一日」が開始される。
ユーゴは朝が早いから夜も早いと思うと、これが全く違う。ドイツなどでは、午後九時ぐらいになると、スレ違う人が恐ろしいほど街は閑散となるが、ユーゴは夜中でも人々は騒いでいる。少なくとも、騒いでいる人がいても、ドイツ流に周囲から苦情が出るようなことはない。
「日本レストラン」では、僕たちが話をしている間中、二組の客があるきりだった。隅の方では、二十歳位の粋なスタイルのお嬢さんが二人、お銚子にお猪口《ちよこ》でさしつさされつ日本酒を傾け、かなりいい調子だった。
「こんなお客の数じゃつぶれるんじゃないの?」
と僕がきくと、
「そうですねえ、日本ならとうにつぶれてるでしょうけどねえ。この店は値段が高すぎるんですねえ。然し、共産国で会社がつぶれると、どういうことになるんですかねえ。その赤字は国家が背負うのかな、いや、国家はおかしいな、銀行から金を借りているとしたら、銀行が損をする。その銀行は民営で、どこに貸しつけるかはコミューンが決めるのかな、いや、労働者自身がこれを決める、と憲法にあるから、赤字企業には金を貸さないのかな。そうすると我々の給料は……」
口の中でブツブツいっているうちに、色々わからないことがあるらしく、「つまり、細かい法律が沢山あるわけですよ」と頭をかかえこんだ。僕はその店を出るとき、
「生活の実感として、日本とユーゴと、どちらが暮しいいですか?」
ときくと、三人とも口を揃えて、
「そりゃ、ここがいいです。のんびり暮すには、ここはいいところですよ」
と答えた。
日曜日、リュビアナの郊外にある湖を訪れてみた。東京を例にとれば、相模湖といったところだろうか。相模湖の駐車場よろしく、数百台の車が所狭しと駐車しており、車から降りると、いつの間にか小学生の子供が駐車券をもってすっ飛んできた。二ディナール(約三十五円)。目を見張るほど可愛い女の子だった。
細かいことのようだが、この駐車場は、どこが経営しているのだろうか? 土地は国有だろうか? 使用人に小学生を使うのは、児童福祉法みたいなものにふれるのではなかろうか?
だが、そんなバカバカしい疑問をもつのは、どうやら僕一人だけらしかった。湖は澄んだ水をたたえて抜けるように美しく、若者たちはステージに上って昼間からチークダンスを踊り、僕の眼からみると、どう考えてもさして冴えたところのない男が、飛び切りの美女を連れて、余裕ありげに歩いているのであった。
リュビアナに住むもう一人の日本人、空手の先生であるTさんは奥さんがユーゴ人|だった《ヽヽヽ》ということなので、どうしてユーゴ美人を手に入れたのか、きいてみた。
「つまり、愛し合ったのです」
当り前といえばそれまでだが、愛し合うということと結婚とは必ずしも同じではない。然し、当時二十三歳だったTさんはたちまちにして愛し合い、そして結婚し、そして二年後に別れた。別れてからも、同じ街に住み、同じ人達とつき合い、二十七歳の今もこの街にいる。
「ここの女性は、というより、ヨーロッパ全体の女性がそうでしょうね。要するに個≠ニいうものが確立されている。特に、ユーゴでいえば、男女共働きは常識だし、イヤになった男女が一緒にいる必要はありません。従って、どうしても離婚が多くなる。然し、別に別れたからといって敵同士になったわけじゃないから、今も同じ連中とつき合っていられるわけです」
Tさんは空手の先生だけで生活している。どのぐらいの収入があるかは聞かなかったが、小型ながらイギリス車を乗り廻し、月千ディナール(一万七千円)のアパートに住み、スロベニア語にもかなり通じている。
「僕はフランスもドイツもイタリアも空手の仕事でしょっちゅう行きますけど、これらの国で意外≠ニ思ったことは何もありませんでした。然し、ユーゴは意外≠フ連続でしたね。つまりこの国は権力を地方に分散するということと、ユーゴの国力を強めるということとの矛盾と、けなげにも戦い、そして現在も戦っているということですね。世界の権力者は、一たびその権力を手中に収めると、その権力を守ることに全精神を集中する。更に強めるために他を切り棄ててゆく。権力が集中すればするほど、人民の自由がなくなる、というパターンを描いていったと思うんです」
「僕もそう思います」
僕は相槌を打った。
「然し、チトーは大胆不敵に一度手に入れた力を放棄した。その結果を恐れなかった。これは勇気のあることだと思います。ここは、これだけ自由だけど、殺人もないし、火事もない。夜中に女のコが歩いていれば、男はよく声をかけるけど、決してこわくはない。事件にならない。基本的には個人主義だけど、何かの時には結束する。それでなければ、あのチトーの解放戦争が戦い抜けたはずがありません。ユーゴは、自分自身の力でナチと戦い、これを追い出したのは、ユーゴ人だけだったという断乎たるプライドがあるんですね。だからスターリンをハネつけることが出来たんですよ。ユーゴ人の血で奪いとった自由を、再び権力のために失ってはならないという気持が強いわけです。自由は、たしかに為政者にとっては大変やっかいなものでしょう。ここにはロック・パーティもあればヒッピーもいれば、マリファナもある。然し、それを強権で根だやしにするのではなく、自由を認めた段階で徐々に押えてゆこうというのでしょうね。先日もロック・パーティでマリファナがあげられ、責任者が捕まった。然し、ロックを無くすことは出来ません。セックスの問題も政府は頭が痛いでしょう。然し、人間からセックスを奪うことは、誰も出来ません――」
僕は彼の結婚について質問してみた。
「結婚式は簡単です。皆普通の服で小さなパーティなんかやって、届けを出せばお終いです。然し、離婚はもっと簡単です。離婚にパーティは要りませんからね」
「じゃ、何故再婚しないんですか?」
彼は至極当り前のことを、当り前に答えた。
「男女が愛し合うのに、届け出は要りません」
リュビアナからザグレブへの道は高速のなかった頃の日本の道路を思わせる曲りくねった街道で、途中何人ものヒッチハイカーを乗せた。ヒッチハイクはユーゴでは老若男女を問わず、つまり車を持たない者の、持つ者への権利のように公然と行なわれているようだった。
峠のあたりで、パトカーに捕まった。スピード違反かと思ったが、パスポートを見せると、「カラテ?」と笑って通してくれた。リュビアナを出発する時、「スピード違反は、きっとやられますよ」とイヤな予言をされたが、たしかに町中五十キロ制限のところもつい八十キロぐらい出てしまったり、平坦な道にくると、アッという間に百キロを越えてしまうのだ。捕まるのは、つまりは「運が悪い」ということなのである。
ユーゴのスピード違反は、三百五十円から九百円ぐらいまでの段階にわかれているらしい。後に、本当に罰金をとられたこともあったが、その時は三十キロオーバーで三百五十円であった。警官は、日本流に慇懃《いんぎん》無礼にのそりとやってくるのではなく、しめたとばかりに張り切って、罰金カードをちらつかせて飛んでくる。こちらもかねてからきいているから「OK」と金を出すと、あとは「ダンケ、アウフ・ビダゼン」と――なぜが、外国人とみると、ドイツ語を使うのだが――ニコヤカに笑って別れる。日本のように高額でなく、ドライバーと警官との間に陰湿な怨念めいたものがこもっていないから、あとには何も残らない。
ザグレブに着いた直後にも、警官に止められた。十字路で、左にゆくか右にゆくか迷っているうちに、信号が赤になってしまい、ええいとばかりに直進したトタンに、ピピッと笛が鳴ったのである。交通整理に当っていた警官は二十を過ぎたばかりの東欧系を思わせる小柄な美人であった。僕は謝る前に、思わずその可憐なユニフォーム姿に見とれてしまった。彼女は「信号は赤ですよ」と一言だけいい、日本人の無遠慮な視線に一瞬の恥じらいすらみせて、またもとの地点に戻っていった。
ザグレブで泊ったホテルは、市の中心から外れた二流のホテルで、ツインルームで三千円ほどだったが、カウンターの男は僕のパスポートを見ると、「クロサワとミフネを自分は知っている」と話しかけてきた。僕は「他にも知っている名前はあるか?」ときいてみると、彼はしばらく考えて、
「ヒロヒト、ミゾグチ、ソニ(ソニー?)……」
とここまできて、あとが思い出せないらしく、頭を叩いてピンポンの真似をし、「忘れた」と笑った。僕はその時まで余り気づかずにいたが、少なくとも日本人がユーゴを知っている以上にユーゴ人は日本を知っているのだということに思い当った。
カウンターのところにおいてあった「スタルト」という雑誌をパラパラとめくっていると、何と六ページにわたり「ボーボワールの見た日本」という特集がカラーで組みこまれているのが眼に入った。相撲から高速道路、パチンコ、ストリップ、トルコ、ロック・コンサート、ゲバ棒対警官から盆踊りまで、内容は無論判読のしようもないユーゴ文字(セルボ・クロアチア語)だが、少なくとも、日本人がユーゴを知る数倍、或いは数十倍の量で、ユーゴ人が「ある種の日本」を理解していることだけは間違いなかった。
この「スタルト」はその後にも新しいのを買ったが、その号には「ユリ・ゲラー」なる男が、日本とドイツのテレビで「奇蹟」を演じて話題を呼んだことが、これまた三ページにわたってくわしく書かれていた。
ザグレブでは、留学生であるFさんを訪ねてみることにした。だいたいユーゴにいる日本人というのは、リュビアナに四名、ザグレブにはエレクトロニクス関係のF社の駐在員が八名、学生一名、ヒヨコのオスメスの鑑定士一名、柔道の先生一名、ユーゴ人と結婚した日本女性一名、ベオグラードには大使館員、商社員、学生合わせて何名と、とにかく全日本人がスグに数えられるほど、本当に少数なのである。
Fさんがザグレブにいるというのは、ベオグラードの山崎さんに電話で教えてもらった。そこは郊外に近い学生団地の一角で、八畳ぐらいの部屋には訪ねるFさんはおらず、同室のスポーツマンタイプの若者と、その恋人らしい女子学生と、ヒゲの男が三人で雑談を交していた。
とにかく坐れというので、空いている椅子に腰を下ろし、部屋の中を眺め廻した。壁には、ブリジット・バルドーの等身大の写真、ギター。だがFさんのベッドのわきには、日本人の留学生らしく、律義に書きかけの設計図が丁寧に置かれていた。
同室の学生に、「君は何のコースを勉強しているのか?」ときくと、彼は「サッカーだ」といった。僕は、「サッカーをやっているのはわかったが、専門は何であるか?」と重ねてきくと、やはり「サッカーだ」という。どうも意味がよく通じないらしいので、問答はそれでやめてしまった。
彼は恋人らしき女性と平然と体をつけ合い、冗談をとばし続けた。そのうち、ヒゲの男が立ち上がって、「とにかく、一緒に行こう」というゼスチュアを見せた。どうやら、Fさんの教室にまで、僕を連れていってくれるということらしい。
僕は日本を出発する前、斎藤正治氏に「ユーゴ人は親切だよ」といわれたことを、ここで思い出した。汽車のホームがわからないでウロウロしていると、何となく誰かがやって来て、切符を見て、ホームに連れていってくれる。だが、汽車は仲々来ない。ユーゴでは、始発ですら三十分も遅れるのはザラだときいていたから、悠然と待っていると、まるで違うホームに列車が止っていたりする。
「とにかく、親切はたしかなんだが、トンチンカンなんだなァ。然し、腹は立たない。タクシーも雲助が多いけど、愛敬があるね。日本人は金持だと思っているから、金持から金をとるのは当然と思ってるんだろうなァ……」
Fさんのところまで連れていってくれるというヒゲの学生を見ながら、僕はなぜこの男はこんなに親切なんだろうと考えた。然し、彼は僕の思わくなど全く関係なしに、おぼつかない手ぶりで、行く先を指示した。ずい分グルグル、同じところを廻ったような気がするが、とにかく目的とする学校までたどりついた。そして、結果からお伝えするならば、このヒゲ君は、僕とFさんが学校で話をしている二時間近くを、ただ黙ってわけのわからぬ日本語に耳を傾け、おまけにFさんの通訳で僕にユーゴの旅に関する細々としたアドバイスまでしてくれたのである。
ザグレブは、いうまでもなく、クロアチア共和国の首都になっている。僕がこの「クロアチア」という名前を初めて見たのは、第二次世界大戦史の中で、ナチが一九四一年四月、突如ユーゴに侵攻し、強引にユーゴを分断して、「クロアチア独立国」を作りあげ、その「民族感情」を利用して、他民族に血の弾圧を行なったということからである。
日本でも「東京と大阪」とか「薩摩と長州」とか「江戸っ子とカッペ」とかいろいろな表現で地域対立の感情をいい現わすことがあるが、その感情で他県を誹謗《ひぼう》、弾圧するなどということは考えられないだろう。然し、ヨーロッパの民族感情の歴史は、長く単一民族、単一国家であった日本人などが考えても及ばないほど複雑なものであるということが、よく指摘される。
例えば、出発前のアドバイスの中に、「ユーゴというのは、本当に人種差別のない国だよ」という言葉があった。これらのことと、ナチが利用したという「クロアチアの民族感情」という言葉の中には、どういうつながりがあるのだろうか?
ユーゴに人種差別がない、という意味のことは、リュビアナでも「日本レストラン」の人たちから熱っぽく聞かされた。つまり、ユーゴ人対外人という意味では、アメリカ人もドイツ人も日本人も黒人も全く同じだというのだ。
例えば、あるユーゴ人は、「黒人は嫌いだ」といった。その理由は「あいつらは、金持だと思って威張っているから」なのであった。また、レストランに勤める共産党員は、「学校ではドイツ人は悪い奴だったと教えられたが、自分にとっては、店で食べてくれる人は、すべていい人」だといった。最初に出会った女子高校生が「イタリアよりドイツ」といったのも、彼女たちの若い眼には、ドイツの方がより清潔で「先進的」にみえたからということだろう。
僕はユーゴに行く前、しばらく西ヨーロッパにいて、見えざる「差別」を絶えず感じ続けた。誤解のないようにいうが、「リリー・マルレーン」の取材中、僕は特に外国人から「差別」めいた不愉快な扱いをうけたことはない。それどころか、多くの「西欧人」は、特にドイツ人は飛び切り親切であり、外国不案内の僕が、まがりなりにも多くの取材ができたのは、ひとえに彼等の「親切」のお蔭である。
しかし、見えざるある一つの「壁」が、いつも眼の前に立ちはだかっているのを意識したことも、また事実である。それは、言葉ではうまくいい現わせない何物かである。端的な例をひけば、平均的なパリ人たちとのふれ合いだ。それは「差別」というより「江戸っ子とカッペ」に似たものかも知れない。僕は、パリが世界で最初に「人種差別」をなくした進歩的な街だという神話をどうも信用できない。そしてその感情は、大なり小なり、どこの西欧諸国でも否応なしに味わわされるものであった。
ユーゴには、たしかに西欧で味わわされたそれがなかった。僕は「日本人」であることによって珍しがられることはあっても、「意地悪」されることは絶対になかった。だが、そのユーゴで、最も熾烈《しれつ》な「民族感情」の話をきかされたのも、また事実である。
四年前ザグレブ大学は、「クロアチアの利益」を旗印にストライキを敢行した。共産主義体制下に於て、ストライキをやるということがどのくらいの「壮挙」であることかは、ストにアキアキしている日本社会では想像もつくまい。そしてその原因となったのが「われらに自由を」でもなく、「もっと高賃金を」でもなく、「クロアチア共和国により利益を」ということなのだから、このへんが僕にはよく理解しかねるところなのだ。
山と海にかこまれたユーゴ内の六つの共和国のうち、北部のスロベニアと、中部のクロアチアが豊かであることは、地図を見ただけでも見当がつく。クロアチアは観光資源の大半を引受けているアドリア海沿岸をすべて手中に持ち、また海外への出稼ぎ人口も、他の地域に比べて多い。ユーゴ貿易の収支は建国以来慢性的な赤字で、それを補って余りあるのがアドリア海を中心とした観光収入と、海外に出稼ぎに出ている労働者からの送金である。そのためにユーゴでは、外貨で(例えばマルクで)そのまま銀行に貯金することが出来るという特別制度まで出来ている。つまり、こうしないとタンス預金者がふえて、折角稼いだ外貨を国家が活用できないからである。
ところが、これほど稼ぎのいいクロアチアの収入が、そのまま全部クロアチアに還元されるということには当然ならない。「ユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国」としては、クロアチアの稼ぎで後進地域であるマケドニアやモンテネグロを援助しなければならないだろうし、軽工業を重視している産業構造からいっても、原料の輸入に巨額の外貨を必要とするし、第一、地域エゴ的な民族感情は、建国のタテマエからいっても、当然排除しなければならない。そこで、「金持共和国」の方に不満が起ってくる。
然し「連邦共和国」という立場に立てば、クロアチアは少数勢力である。そこで、圧力の方法として、クロアチア共産党幹部は「大衆運動路線」をとり、まず学生に目をつけた。たまたまザグレブ大学は「大学民主化」の一環として、副総長に学生を入れるという規定が出来上がり、その選挙戦たけなわの時期であった。「民族感情派」の候補者が立候補し、対立候補をせり落して「副総長」に収まり、時の勢いで学生同盟の執行部を半ばクーデタ的に抑えこみ、ザグレブ大学は「民族派」によって占領されることになった。かなり多くの「日和見派」は、これは一体どうなることかと、半ば腰を浮かしながら見守った。
一九七一年十一月二十九日、これはナチ占領下のユーゴで、チトーが華々しくユーゴ解放を宣言した「独立記念日」となっている日だが、ザグレブ大学は、事もあろうに、この日を期してストライキに突入したのである。
その日掲げたスローガンは「外貨制度の改革」であった。連邦政府は、これは「ユーゴの体制そのものへの明らかな挑戦」と受けとった。軍隊が介入し、ストは鎮圧され、この問題をめぐって、ベオグラードで四十八時間、ぶっ続けの有名な「マラソン会議」が行なわれた。政府幹部だけでなく、党、組合、軍、文化人グループのあらゆる関係者がこれに加わった。
この会議では「あらゆる人に、あらゆる発言の自由」が許されたと記録には残されている。そして、最後にはクロアチア共産党幹部のうち、「民族派、大衆路線派」の幹部が辞表を提出することになった。「除名、更迭」の動議も出たが、これは却下された。クロアチア共産党首だった古い女性党員は、一大学教授へと転進し、ストライキを指導した学生グループの幹部は投獄された。後にきいた話だが、この投獄された四人の刑期は、懲役三年だったそうである。
この話を最初にきいたとき、僕にはどうしても理解できない点が一つだけあった。それは「クロアチアの利益」ということである。いかに「連邦共和国」といっても、クロアチアはユーゴという一つの国の一地方ではないか。たまたま自分の地域に金がころげ込むといっても、それが同じ国内で使われるのが、それほど不満なのであろうか。また、たとえ不満であることは認めても、それが生死を賭けた「ストライキ」にまで発展するほど高揚した「大衆運動」にまで展がり得るものなのだろうか?
この問いに対して、正直いって、いままで僕を完全に納得させるだけの解答をしてくれた人はいない。ただ、僕らは「二千万ユーゴ人」と漠然と呼んでいるが、それを構成する人種は実際にはセルビア人八百万、クロアチア人四百三十万、スロベニア人百六十万、マケドニア人百二十万、モンテネグロ人五十万、アルバニア人百十万、ハンガリー人五十五万、ジプシー三十五万、スラブ系回教徒百十万などである。そして国外だけで二百万近くの「国民」がいる。僕は「ユーゴ人」である「ハンガリー人」がユーゴ対ハンガリーのサッカー試合のとき、どちらを応援するのかは、まだ知らない。
使われる言葉も、大きくわけても四つあるといわれ、細かくわけていえば、恐らく数え切れない言語構造、方言があるのだろう。それを結びつけているのは、多くの人の語るところでは「ユーゴ」ではなく「チトー」である。チトーはスロベニア語の話されているクロアチア地区に生れ、現在セルビアにいる。セルビア人は、最も激しくナチと戦った人たちである。僕に解説が出来るのは、そこまでである。
Fさんが学んでいるのはザグレブ大学ではなく、工科専門学校で、校内はさまざまな自動車とオートバイが所狭しと駐車していた。ヒゲ君はどこをどう探して来たのか五分位でFさんをキャンパスに連れて来た。
「時間になっても先生が来ないんです」
とFさんはいった。
「時間通り先生が来ないなんて、だれも気にしません。先生も遅れてすまないなんていいません。学生もガリ勉はしません。ただ、入学は楽だけど、卒業は大変です。ヨーロッパはみんなそうですね」
僕はFさんにも大学騒動のことをきいてみた。彼は当時大学に居たわけではないからくわしくは知らないが、「セルビアのことは、皆よくいわない」といった。
「例えばサッカーでクロアチアとセルビアのチームが対戦しますね。そりゃ、ジャイアンツとタイガースなんてもんじゃありません。物凄い興奮と対抗意識ですね。然し、ユーゴのナショナル・チームが海外に行けば、これは国民全体一つになって、気狂いのように応援します。今年はユーゴが世界選手権への出場権を得たことはご存知ですか。恐らくこの中継の日は、全国仕事はお休みでしょうね。この日は全共和国民全出稼ぎが、一つのユーゴ≠ニいう旗の下に、黙っていても集まるのです。だから、政府はサッカーを意識的に民族統一の道具に使っているんじゃないでしょうか」
サッカー・ファンなら知っているだろうが、ワールド・リーグに出てきたペトコヴィッチやジャイッチは、長嶋と同じような人気選手である。そして、ユーゴ・サッカーチームは、「東ヨーロッパのアーチスト」と呼ばれている。これは「出来、不出来の差がはげしい」というところからも由来しているらしい。二十八歳になると、外国に出てプロになることも許されており、そうなれば大臣より遥かに高額のサラリーが得られる。
僕は同室の青年が「サッカーをやっている」と答えたことを話すと、
「そうです、彼はサッカーで食おうとしているわけだからそう答えておかしくないでしょうね。有名なサッカー選手はプロだし、当然所得は国民水準からいっても最高のはずですよ」
僕はまたしても迂闊《うかつ》だったが、共産主義国に「プロのスポーツ選手」がいるということを見落していた。オリンピックでソ連や東独が目ざましい活躍をするのは、「ステート・アマチュアだから」ということがよくいわれる。彼等は優秀なスポーツマンだから、国家が特に保護しているが、然しタテマエはあくまでも「アマチュア」である。ユーゴも、ローマ・オリンピックの時まではそうだった。
然し、「サッカーだけをやって生活し、現にそのために収入を得ている者がアマチュアであるということはおかしい」という、いわばスジ論が、ユーゴ国内で起った。何回かの検討の後、彼等は「プロフェッショナルである」ということになり、その貢献度、技術に応じて協会が正式に給料を払うということになった。然し、これにともなうさまざまな問題が派生した。
「それでは、バスケットボールのオリンピック選手はどうなるのか?」「百メートルで金メダルをとったら、どう遇するべきか?」、いやもっと切実な問題として、「現に人気のあるサッカー選手と、それを育てた先輩たちとは、どちらがより多くの報酬を受けるべきか?」など……。
「ユーゴはたくさんの問題をかかえています」
Fさんは若い学生の立場からユーゴをみていた。
「たとえば企業で主流を占めている人たちの中には、パルチザンを生き抜いた古い党員たちがまだ沢山います。彼等の過去の功績は認めるとしても、現在の社会を見きわめ、リードし建設する力という意味では、新しい学問を身につけた人たちには敵いません。然し、実際には彼等はやめないし、上がつかえている。若い人は不満だし、社会的に動脈硬化の現象があります。例えば学校出のエンジニアは海外に出稼ぎが出来ないのですが、そのくせ、国内に職場がない。クビということがないから、シビアに働かない。日本のお役所を考えてみればわかります。国全体が、まあいいじゃないか、そのことは明日にしよう、という雰囲気です。無論このことは僕ら日本のネコの眼のように敏感なエコノミック・アニマル的生き方にくらべて、とても素晴らしいことだとは思うけど、社会的発展という面から考えると、当然スローテンポが障害になります。このことは国も気づいているのでしょうが、何といってもこの国の気持がいいところは、その矛盾を矛盾として話し合えるということです。チトーも、むずかしい哲学的なことより、自動車や別荘はこういう形なら持っていいとか、具体的にいうんですね。それに対して国民がそれぞれに反応する。それがオープンに行なわれるところが面白いですね。学生は本当に自由で恵まれてますよ。先生ですか? さあ、余り尊敬されているようにもみえないし、まあ日本程度じゃありませんか。若い連中が一番いやがっているのは兵役義務ですよ。学生は十一カ月、一般は十五カ月の兵役ですがね、これが泣きの涙で、僕など羨ましがられていますよ。しかし、僕は兵役が嫌だといえる国は、いい国だと思います。そういう自由がなければ、その国を守ろうという気にならないんじゃないんですか」
Fさんの授業の先生はそのまま来なかったとみえ、ヒゲの青年と一緒に町に出かけることになった。楽しみは? ときいたとき、「映画とかディスコティークとか日本と同じですが、男女関係だけは、日本とはケタ違いに自由ですね、僕はまあ別ですが……」と少し照れて、弁解した。十八歳以上の男女は自由にピルが買えるし、堕胎の公定価格(?)は七百ディナール(約一万二千円)だとヒゲ君が説明した。別れるとき、ヒゲ君は僕の車に無造作に積んである数台のカメラとテープレコーダーを指さして、
「南の方に行くなら隠しておいた方がいい。向うはこちらと違って民度が低く泥棒がいるから」
といった。僕は素直に、それらの荷物をトランクにしまい直した。
[#改ページ]
15 ベオグラード放送局への
細くて長い道
ザグレブからベオグラードまで、二車線四百五十キロの道は、さすがに長かった。
そして、街道の標識に「Beograd」の名前が頻繁に見えるようになると、僕の心には再び「リリー・マルレーン」への思いが熱くこみ上げてきた。唯それはふしぎに、ドイツで感じ続けた「リリー・マルレーン」とは何故か違うものだった。もし歌詞がつけられるとすれば、それは極めてのどかな牧歌的なもので、戦場で兵士が孤独を歌うものとは、全く違っていた。この頃になると大分ユーゴ馴れしてきて、ホテルはどんな真夜中に着いても泊れること、レストランも開いていること、リラは通用しないがマルクなら小銭でも通用すること、タバコは「?印」の二十本入りが安くて口に合うことなどがわかってきた。
だが、ベオグラードの街に入って、赤旗やスローガンが街のどこにもベタベタに貼られているのが目についた。丁度第十回の党大会が開かれている最中で、世界各国から集まったお客さんで街中のホテルがキリキリ舞いをしており、フリの客の僕などとっても相手にもならなかった。また街道を引っ返し、パトカーを止めて泊れるところをきいてみた。警官の教えてくれたところは、郊外十五キロ位のところにある三千円位の立派なモーテルだった。
翌朝十一時頃起きて車の前まで来てみると、なぜか車がピカピカに磨いてあった。ドアをあけるとどこからか少年が走ってきて、更にナンバー・プレートを磨きはじめた。僕がその少年に三十ディナール渡すと、少年は仲間を呼び集めて、「ヤパン、ヤパン」といいながら、わけのわからぬ言葉でやたらに話しかけてきた。あとで、この少年に渡した金額は常識の五倍位の渡し過ぎだと山崎さんにたしなめられた。南部では、この後でも、モーテルのレストランに入る隙をみては、車を|磨かれた《ヽヽヽヽ》。だがそれは、決して不愉快ではなかった。
ベオグラードに着いて、山崎さんに電話をしたけど居らず、ふと思いついて日本大使館を訪ねてみることにした。こういう時は警官にきいてみるに限ると尋ねてみたが、教えてくれた番地は昔のものであった。近くの銀行に飛び込んで改めてきいてみると、その銀行員は数カ所に電話で問い合わせ、最後には日本大使館を電話口まで呼び出してくれた。
ベオグラード日本大使館は、GNP世界第何位だかのわが祖国の大使館とはとても信じられない、貧弱な建物であった。少なくとも日航のヨーロッパ各地にある支店の方が、遥かに立派であろう。
僕は予告もなしにここに飛びこんで、「ベオグラードのテレビ局を見学させてもらいたい」と頼んだ。この狙いは、放送局や新聞社はどこでも余り人を入れたがらないところだし、それにユーゴのお役所のスローモーションぶりを、この眼でたしかめてみたいという、意地の悪い下心があったからである。
ところが、このもくろみは、見事に外れた。ものの三十分と経たぬうちに、「いま党大会で大変忙しいが、大会の終った翌金曜日なら、何時でも来てくれ」という返事がかえってきたのである。放送局にはこの四日後に訪ねたのだが、受付にはもう手際よく話が通っているとみえ、「ジュードー二段」と自称するヒゲのおじさんが迎えに出ていてくれて、スタジオは無論のこと、ライブラリーからマスターまで自由に入れてくれた。テレビ局のマスターは文字通り放送の心臓部に当るところで、東京の民放局でも外来の人を入れるなどということは恐らくあり得ないだろう。そこでは、前日の党大会でチトーが演説をしているVTRが廻っている最中だった。
ここで無智なる(無論僕を含めて)日本のテレビ視聴者に一言申し伝えるならば、この「マルクス・レーニン」の看板を高く掲げるテレビ放送局は「CMつき」である。いや、それどころか一日数本は「提供番組」すらある。「コカコーラ」も出てくるし、日本の化学調味料のCMすらある。物すごく健康そうな日本人が出てきて、モリモリ料理を食べる。「何故日本人は、かくも食欲があるのか?」というところで、日本製の調味料が出てくる。
残念ながら、この「CM」は僕にいわせれば若干サギ的である。ユーゴ人は何もかけなくてもモリモリ食べる。信じられない食欲である。そして、よく飲む。
八時からのニュースが「視聴率八〇パーセント」で最重要の番組でもある。八時半からはじまるテレビ・ドラマ、ないし長篇劇映画などがそれに続く看板番組となる。これには外国映画(ソ連、アメリカを含めて)も沢山出てくる。日本映画もある。かつて放映された日本映画のうち最も高い評価をうけたのは、クロサワの「生きる」だそうで、映画館では今でも「七人の侍」などがかかると、長蛇の列ができるほどの人気がある。
もっとも、テレビの一番の人気番組のシチュエーションをきいたら、これは日本の「怪物番組」といわれたTBSの「ありがとう」とまるで同じような連続ホーム・ドラマだった。テレビというメディアは、あるいは人間を極めて平俗化する強力な本能をもっているのかも知れない。
テレビについての話をきいていた時、僕がどうしようもなく心に残ったのは、第二次大戦のドキュメント・シリーズを放送した際、「連合軍」であるイギリスの空軍将校がゲスト出演して「われわれの戦いは死を賭けたゲームであった」と発言したときの反響である。
ここでのニュアンスは、イギリス人特有の妙にシニカルで皮肉な表現の一つとして「ゲーム」という言葉を使ったに違いないのだが――何しろ、「おれは戦争なんざ行きたくない」という歌を戦争中に大流行させた国なのだから――然しユーゴ人はこの「ゲーム」という言葉を見のがさなかった。ドイツはイギリス人やフランス人など「西欧人」をつかまえた時は、ユーゴ人を捕えた時と違って「人間」として扱ったという敏感な反応があったのである。アメリカ映画に「捕虜収容所もの」というカテゴリーがあるのをみてもわかる通り、彼等は全力を出して戦い、捕えられれば、いかにして脱走するかというのが、次なる「ゲーム」であった。
然し、多くの東ヨーロッパ人にとってナチと戦うことは百歩を譲っても「ゲーム」ではあり得なかった。独ソ戦における戦死者や捕虜の虐殺数をみると、西ヨーロッパの戦線にくらべて東のそれがケタ違いに多いことがわかる。例えば一九四一年から四五年まで、ユーゴ解放軍及びユーゴ人民がナチによって殺された数は(ユーゴの歴史書の伝えるところによると)百七十万人であるといわれている。これは実に、当時のユーゴ全人口の一〇パーセントにも当るのである。僕はこの話の中に、西欧で僕が感じ続けた「見えざる|何か《ヽヽ》」の匂いをかぎとった。ただ、それが沖縄戦における米軍の攻撃ぶりや、広島や長崎に対する原爆投下につながるのかどうか、そこまでは僕には何ともいえない。
もっとも、この話とは別に、ユーゴ人たちは、僕のきいたかぎりでは「ドイツ」全体に対して陰湿な恨みを抱いているとはとても思えなかった。まして「謝り方が悪い」などという妙な議論もないようだった。ヨーロッパの外交関係というのは、日本の、例えば対中国におけるようなウエットな外交関係からみると、全く信じられないぐらいドライなものらしく、西ドイツを例にとれば、一九五七年、ユーゴが東ドイツと外交関係を結んだという理由で、西ドイツは簡単にユーゴと「国交断絶」し、その状態が十一年も続くのである。そのくせ西ドイツとの貿易高は第一位という奇妙さであるし、西ドイツでは逆に対ユーゴパルチザン戦でドイツが散々やられる映画などを悠然とテレビで放送している。この辺の感覚は、八月十五日に必ず「神聖なる終戦記念番組」を放送しなければいられない日本人には、簡単に体でわかるものではないらしいのである。
ベオグラードの街をぶらついて、リュビアナなどで売っているイタリア語やフランス語の男性用雑誌が置いてないことに気がついた。念のために書き添えるが、ユーゴでは女性の例のヘアーが写っているから発禁などというバカげたことは無論ない。ザグレブの代表的な新聞社が発行している週刊誌「スタルト」のカラー・グラビアの何枚かは、必ず「ヘアーつき」だし、「プレイ・ボーイ」や「リュイ」など外国の男性用雑誌も、無論「マジック消し」などという珍無類な「発明」なしに売られている。しかし、最初に会ったマカベエフの「オルガスムスの神秘」は、ユーゴでは上映出来なかったのである。そして、リュビアナでは見たはずの「リュイ」も、ベオグラードにはなかった。
ユーゴの街々に、いわゆる「余りまじめでない男性雑誌」が見られるようになったのは、一九六六年、長い間国家保安警察を握っていたランコヴィッチが解任された頃からだという。僕などは長い間、共産主義の裏切りものの代名詞として「チトー・ランコヴィッチ一味」という言葉で、その名前を微かに記憶していたが、ランコヴィッチの方はその後新しいスターリニストとして、失脚のうき目をみていたわけである。
一九六八年は、ユーゴの大衆運動が最ももり上がった年として、人々の脳裡に刻みこまれている。ベオグラード大学を中心にして「大学制度の改革」や「社会的平等の推進」が叫ばれ、学生たちは「赤いブルジョア反対」のプラカードを掲げてデモ行進した。これらの動きと並行するように、雑誌や映画の「自由化」も進み、七〇年頃から、ボツボツ「ヘアー」が現われるようになった。
ユーゴの企業は「のんびり」といったが、金儲けに対して決して鈍感なわけではない。むしろ、思い切ったアイディアが思い切って実行されるという点では、資本主義国以上かもしれない。
例えば僕が愛好した「?印」の煙草だが、この奇妙なデザインの煙草が発売になったのは、この煙草会社(いうまでもなく煙草会社は沢山あり、それぞれ競争している)のアイディアマンが、一般からすぐれたデザインを募集しようと、まず「?」つまり、「どういうデザインにしましょうか?」と問いかけたデザインの煙草を売り出したのである。
ところが、これが面白いというので、たちまちベストセラーになった。もう一つの会社は「LARA」というグラマラスな女性の写真をそのままデザインにして売り出し、これも成功したが、世界で女性の写真をそのまま包装に使ったタバコは、恐らくこれが最初であろう。
一九七一年ベオグラードで開催された国際演劇祭に、日本からは寺山修司の「天井桟敷」が「邪宗門」という作品で参加し、グランプリを獲得している。この作品は真暗な中に客が自分の席を見つけようとライターやマッチをつけると、それを棍棒をふりかざした黒子が妨害するというところから始まる「前衛劇」で、そのために客の一人が頭に七針も縫うほどのケガをしたというほどのものだが、この文字通りオールヌードの芸術が「グランプリ」をもって迎え入れられる下地が、ベオグラードにはあったのである。
この気運に乗じて男性雑誌の内容もだんだんにエスカレートしてきた。そして軒並みキオスクの表面に女性のヌードが飾られるようになって、遂に社会的な反動がきた。或いは、これら一連の動きの中には、七二年に出たチトーの「引き締め」に関する書簡も影響していたかも知れない。然し、直接のきっかけとなったのは、映画アカデミーの学生たちが七二年に作った卒業作品「プラスティックのジーザス(キリスト)」だといわれている。
この作品は前衛的なドキュメンタリー作品で、パルチザン戦のフィルムとナチのドキュメントが交互に出てきたり、チトーの演説を揶揄《やゆ》風に扱ったりした極めて大胆なものであったらしい。無論一般公開はされなかったので、噂を総合しての話だが、これが政府幹部の逆鱗《げきりん》にふれた。「アカデミーの教師どもは、一体学生をどう指導しているのか?」というわけだ。スタジオを貸した責任者は、「中で何をとっていたか知らなかった」とシラを切り、先生たちは「最初のシナリオはこうじゃなかった」と弁解したが、つまりは映画界全体が、こういう傾向にあるのだということが問題になりはじめた。この「傾向」の連中は「黒い波」と呼ばれていたが、この事件をきっかけにして、「黒い波」と体制側との本格的な戦いがはじまった。
僕の推察するところ、どうもマカベエフの「オルガスムスの神秘」あたりがその最右(左?)翼の象徴的作品ということになるらしい。僕はこの作品を見ていないので具体的イメージを伝えることは困難だが、この作品を紹介した「キネマ旬報」発行の『世界の映画作家』によると、
「この作品はライヒ思想のアメリカにおけるセックス解放のドキュメントに始まり、やがて現代の自由な若い女の話になる。その自由さのために彼女はソ連のスケート選手を殺す。作者は荒々しく、然もユーモアをもって社会主義体制の画一主義とピューリタニズムを攻撃し、社会主義のパルチザンであることを宣言する」
というもので、ファックシーンを背景に、高級官僚の高級車を先頭に二百台の車が渋滞しているところによっぱらいが放水したり、北京の広場にアリのように蝟集《いしゆう》する群衆に手をふる毛沢東とモスクワの大ホールで市民に演説するスターリンとに重なって、「フリー・ラブなしの共産主義なんて、墓地のお通夜だわ」と女が叫んだりするそうだから、これはユーゴでなくても物議を醸《かも》すのはまあ止むを得ないともいえるだろう。
ともあれこの作品は、西欧各地ではかなりの評価を得て、マカベエフやそれを作ったユーゴのプロダクションの仲間は、それによって生計をたてているのだから、これまたふしぎといえばふしぎな話である。
僕がユーゴを訪れた時期は、いわばその「ゆりかえし」が頂点に達したと思える第十回党大会の真最中だったわけである。ナイトクラブでもこの時期は「全スト」を「自己規制」し、怪しげな女性たちはアパートで休息し、「いかがわしい」雑誌は街から姿を消していた。然し、それにしても「ラストタンゴ・イン・パリ」を|ボカシ《ヽヽヽ》で上映するというような見っともないことは、さすがにユーゴではなかった。この映画上映に当って、若干の論議がたたかわされた結果、ユーゴ初の「十八歳未満お断り」映画として、無論ノーカットで一般公開された。
僕は山崎さんの家でこの党大会のテレビ中継を見ながら、しみじみとチトーのクローズアップに眺めいった。八十二歳。思ったより遥かに若々しく、何よりも神秘的でも尊大でもないのが印象的だったが、それよりもとにかくこの弱小な国を導いて、よくもまあここまで頑張ったものだというのが、そのテレビを見ての実感であった。
僕は別にユーゴに住んだわけでもないし、くわしい取材が出来たわけでもないから、ユーゴ人民がどのような喜怒哀楽で暮しているかは想像の域を出ない。然し、間違いなく信じていることは、すべての地上の人間は豊かな生活を営み、自由にあらゆる人とふれ合うことができ、愛する自由をもち、そして愛さない自由をも同時に持ち得ることを願っているに違いない、ということである。
ユーゴは一九四八年、信じられぬほどの物凄い勇気をもって、「あなたと違う考えを持った者もこの世の中にいる」ということを世界最大の権力者であったスターリンに告げた。その時チトーの手中にあった力は、二つの文字と三つの宗教と四つの言語と五つの民族と六つの共和国と七つの国境をもつ二千万人の人民だけであった。僕は終身党首に推された喜びを隠しながら、共にインターを歌い続けるチトーの姿をみながら、ゼロの国境、一つの民族、一つの国語、一億の人口、世界第二位のGNPをもつ日本の首相や外相の卑屈さを同時に思わずにはいられなかった。僕は本来政治や党大会などと称するものは大嫌いなのだが、この偶然にめぐり合ったことを、初めて幸運だと思った。
ベオグラードに着いて三、四日の間、僕はわざと「ベオグラード放送局」の取材をしなかった。ベオグラード放送局における「リリー・マルレーン」の取材は、僕の予定によれば、すべての旅の終りであった。そして僕の予想によれば、それは余りドラマチックな終りにはなりそうもなかった。
ユーゴスラヴィアに入ってから、僕は若干の人に「リリー・マルレーンという曲を知っているか?」ときいてみた。若干というのは、ホテルのカウンターやレストランなどでたまたま口をきいた人だが、反応は殆んどゼロであった。中には「ディートリッヒの歌で」といった人が一人か二人いたが、それは反応といえるほどのものではなかった。旅の終りでベオグラード放送局に行き、何の反応もなく帰ってきたのでは、何となく空気の入っていない風船をブラ下げて歩いているような心境で、「やっとの思いでベオグラードまできたのに――」という内心の気持に、何かそぐわなかった。いわば、ベオグラード放送局を「敬遠」していたのである。
実は、ユーゴに関する文献の中に「リリー・マルレーン」という文字が一行だけ出てくる場面がある。橋本明氏の書いた『チトー伝』の中の一節で、一九四一年九月、ドイツ軍に占領されたベオグラードに潜入したチトーが、同志ランコヴィッチとともに敢然と「ベオグラード放送局を爆破しよう」という計画をたてる|くだり《ヽヽヽ》である。
「ナチは、ドイツ兵一人が殺されれば、人質百人を殺すといっておどかすが、ベオグラード放送局は、パルチザンの士気を高める上にも、重要な計画だった。この作戦が成功すれば、ドイツは重要な宣伝機能を失うことになるし、レジスタンス運動をベオグラードに展開することも可能であった。そして占領地区のドイツ兵たちに甘い声を送り続けていたリリー・マルレーン≠焉A沈黙せざるを得なくなるだろう」
これを書いた橋本氏は、てっきりこのリリー・マルレーン≠東京ローズ≠フような、有名なドイツ側のアナウンサーだと誤解していたそうだ。
ベオグラード・テレビ局を訪れた際、僕は外交部長のような立場に当る人に、「リリー・マルレーン」について尋ねてみた。彼はかすかにこの曲の名前を憶えていたようだったが、「そういうことなら、適任者がいる。古いベオグラード放送に勤めていた人だから、いろいろなことを知っているかも知れない」と、直ちに電話をかけて、紹介してくれた。僕が「ラジオ局」を訪ねたのは、ベオグラード滞在の、最後の日のことであった。
僕がお訪ねしたのは、日本流にいえば、ラジオ資料部長といったような地位にいる人だろうか。
「あなたは、戦争中、何をしていたのですか?」
という僕の問いに、彼は深い苦悩を刻みながら、
「私は、ナチ占領下のベオグラード放送局に勤めていました。無論、ナチに協力する気は全然なかったけれど、技術要員として、無理矢理引きずり出されてしまったのです。如何なる理由があっても、そのような立場に立たされたとき、われわれはそれを拒絶することはできませんでした」
と答えた。
僕の訪れたベオグラード放送局は、ナチ占領下のものとは、場所も違っていた。ナチの悪夢を思わせるものは、もはや周囲のどこにもなかった。唯、この老部長の心の中にだけ、癒されることのない古傷は、いつまでもうずき続けているのであった。
六十歳ぐらいと思われる温厚でやせたタイプのこのユーゴ人は、僕が「リリー・マルレーンという曲を知っていますか?」という質問をすると、遠い昔を思い出すように、
「リリー・マルレーン? ずい分昔の話になります。無論、知っています。ドイツ軍の靴音とともに、あの歌のことを忘れることは決してありません。あの歌とともに、百万のユーゴ人が殺されたのです。ベオグラード解放戦の弾丸のあとは、いまでもこの周囲の建物に、そのまま残っています」
といい、のぞきこむように僕をみて、
「それにしても、何故あなたは、リリー・マルレーンのことをおききになるのですか?」
と逆に尋ねた。
僕はこの歌が第二次世界大戦中、敵も味方も歌った唯一つのものであること、また僕がこの歌を追い求めて遠くベオグラードまでやってきたことについて、彼に語った。
「本当ですか? 信じられない」
僕の話をきくと、彼は立ち上がり、隣の部屋にいき、誰かにそのことを問い合わせているようであった。やがて部屋に帰り、再度僕に尋ねた。
「いま、二、三の人にきいてみたが、誰もそのことは知らないといっていました。何故そういうことになったのですか、もう一度きかせて下さい」
僕は、今度のヨーロッパ旅行のあらましを彼に語った。彼は僕の細かい説明に何度か首をふり、またうなずいた。僕の話が終ったとき、最後に彼は、またもう一度、同じことをいった。
「そうですか……。でも、やはり信じられない……」
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エピローグ
もう一度リリー・マルレーンを!
(挿絵省略)
一九七四年十二月九日――。
この日、マレーネ・ディートリッヒは、|何故か《ヽヽヽ》再び日本を訪れた。僕は、「羽田でヤクルトの松岡投手が日給四千円でガードマンとしてやとわれ、カメラマンにディートリッヒの顔を映させないように、大きく彼女をコートで防御した」という記事を、何とも奇妙な感じで眺めていた。
四月から六月にかけて、約二カ月にわたり、僕は八千キロも「リリー・マルレーン」を求めてさまよったが、その果ては、ベオグラード放送局員の「信じられない」が最後の言葉であった。追いかければ追いかけるほど、「リリー・マルレーン」はその魅力的な正体をはぐらかし、こちらが諦めた頃になると、また奇妙に「名残りの霧の中に」その姿を現わすのであった。僕はベオグラードを離れてからの数日間、本当に気楽な「ユーゴの旅」を送った。それは心から楽しむことの出来た初めての気楽なヨーロッパの旅であった。僕はユーゴの田舎を、飽きもせずグルグル廻って歩いた。どんな片田舎でも僕は声をかけられ、日本人であることの楽しさを満喫した。
しかし、このルポの最後に、四年前のディートリッヒが再び僕の前に姿を現わすとは夢にも考えていなかった。「何故か――」と僕は書いたが、それは僕の心の中に発生した、自然の実感であった。
無論、ディートリッヒを日本に呼び寄せたプロダクションの当事者にとってみれば、「何故か」も何もないだろう。四年前、万博ホールの関係者が必死に口説き落したように、今回もまた日本の巧妙な「呼び屋」は、最大の努力を払って彼女を呼び寄せたのだろう。
だが、僕がやはり「何故か――」と書いたのには、もう一つの理由がある。人間が一つの行動を起すとき、それも七十を過ぎ、あり余る名声と富と、優雅なヨーロッパでの生活を満喫できる立場の女性が、東洋の果てまで演奏旅行をやろうというとき、それを納得づける、強烈な「何か」がなければおかしいだろう。だが僕が想像したところ、そこには彼女を立ち上がらせる「何も」なかった。
万博における彼女から推定するに、ディートリッヒが特に日本を好んだという積極的な証拠は何もない。彼女は、仙女のように、唯ひたすらに京王プラザ・ホテルの一角にこもっているだけであった。強いていえば、ホテルで食べたスキヤキが特に気に入ったという「特徴」があげられるかも知れない。だが、スキヤキのために、地球を半周してやって来ることはあるまい。僕は勝手に「ディートリッヒは、僕のために、リリー・マルレーンを歌いに日本にやってくるのだ」と思いこんだ。「貴方のリリー・マルレーンへの|オカルト《ヽヽヽヽ》が、ディートリッヒを寄び呼せたのかも知れないね」と真顔でいってくれた友人が、少なくとも二人はいた。
来日してから三日目に、ディートリッヒ「歓迎パーティ」なるものが開かれた。これがまた、ふしぎなパーティだった。第一、招待状に、ホテルの名前が書いてなかった。僕はてっきり「帝国ホテル」と思いこんでいたが、実は品川のホテルパシフィック東京の間違いだった。行ってみると、一方に佐々木更三氏がおり、一方に参議院副議長と名乗る政治家がおり、竹中労氏が司会をし、全く脈絡のない各界の人たちが雑然と所在なげに点在しているという、何ともアンバランスな雰囲気であった。その中に、ミス・ディートリッヒは飄然という形容詞そのままに、ブラリと入ってきて、椅子に坐った。
数人が、意味のないスピーチを行なったように思う。森繁久彌氏はディートリッヒのブロマイドを抱いて寝たそうだし、参議院副議長氏は、彼女のスチールを見ながら発奮して勉強したお蔭で、今日の地位を築くことができたといった。政治を志す多くの人たちは、真面目に「今日の地位」を「えらい」ものだと確信しているらしい。
驚いたのは、CBSソニー・レコードの社長であるO氏が、ドイツ語であいさつを述べたことである。ディートリッヒははじめキョトンとし、やがて通訳を通じて、「あなたのおっしゃることがよくわからないので、日本語でお話しになるように――」と、やんわりとたしなめた。O氏が、ディートリッヒという人物に対して全く無智であったのか、それとも「皮肉」のつもりでドイツ語を使ったのかは定かでない。「私は彼女がドイツ人だときいていたのでドイツ語で話しかけたのですが、どうも通じなかったようで……」とO氏はテレもせずにいい、日本語で適当なスピーチを述べた。僕は、体中がすくむ思いがし、その場を逃げ出したい衝動を必死に抑えた。
パーティも半ばを過ぎた頃、手持ちぶさたなディートリッヒの近くに、数人で近よっていった。小中陽太郎氏や中山千夏さんや松田政男氏、それに、「週刊読売」の佐野編集長などが一緒だったように思う。近くで見るディートリッヒは、僕の印象では四年前から、また少し年をとっていたようだった。僕の心の中には、あれほどききたかった彼女に対するさまざまな質問は、奇妙なほどに、あとかたもなく消えていた。
彼女は何故日本に来たのか? 日本で、ちょっと歌ってみたかったのだ。彼女の考える「エンターテイナー」という職業に「引退」はないのだろう。松田政男氏が、彼女と何か一言二言、会話を交していた。それを見ながら、「これが僕のリリー・マルレーンの、本当の旅の終りかもしれない」と、思っていた。
彼女の公演は二度聴いた。一度は東京の「中野サンプラザ」の公演、もう一度は、文字通り彼女の最後の公演であった十二月二十五日のホテルパシフィック東京でのショーである。僕は「中野サンプラザ」における公演の模様を「報知新聞」に、こう書いた。
「――四年半ぶりに、ディートリッヒの声をきいた。四年半前、万博会場で見た観客は、文字通り昔を懐しむ紳士《ヽヽ》、淑女諸君《ヽヽヽヽ》≠ェ多かった記憶があるが、今夜の客は、七割以上が若い層であることが特徴的だった。その若い人たちに向かって、彼女はまず昔のヒットナンバーから歌いはじめた。
声は少しも哀えておらず、むしろ技巧が年齢を上回っている感じさえうけた。しっとりと聴かせる『世界が若くなるとき』あたりから、会場のムードは次第に高まってきた。そしてドイツ語の『何故と訊かないで』、フランス語の『マリー・マリー』、ひときわ拍手の高かった英語の『リリー・マルレーン』と最後のクライマックスを迎えるころになると、若い数人の観客が、遠慮がちに舞台に近づいていった。
いつも必ずアンコール曲の第一として歌う『花はどこへ行った』がこの夜は特にすばらしい出来のようだった。このころになると、その数人の若者につり出されるように、どっと人々が舞台の方に駆けよりはじめた。四年前と違うことは、その大部分は若者たちであることだった。普通は『嘆きの天使』で必ず幕となるのだが、ディートリッヒは舞台の下に押しかけたたくさんの若者に気をよくしてさらに二曲のアンコール曲を歌った。
僕のそばにいたお嬢さんは、ディートリッヒを見て『かわいい』といった。僕は長い間、ディートリッヒを|凄い《ヽヽ》と思っていたが、凄いだけでは、ディートリッヒが今日までスターの座を確保することは出来なかったろう。『凄い』と思っていた彼女の半面は、実は『永遠の童女』なのであった。――」
この公演に終始彼女と行動を共にした竹中労氏が「キネマ旬報」に書いた記事によると、最も成功を収めたショーは、札幌での公演であったらしい。
「――『リリー・マルレーン』『花はどこへ行った』の反戦歌から、一転してセクシーな『ハニー・サックル・ローズ』、最後にご存知『嘆きの天使』の『フォーリング・イン・ラブ・アゲイン』。一時間余りを息もつかずに出ずっぱりでうたい了《おわ》ると、指揮者スタンリー・フリーマンと手をつなぎ、深々と日本ふうの辞儀をする。舞台の袖にいて、私はそのとき、おかしなことに気がついた。
腰をかがめてうつむいたまま、何やら焦《じ》れったそうに、彼女が言っているのである。拍手の嵐の中で、口のうごきから私はその言葉を聴きとった、――|マイ《ヽヽ》・|フラワー《ヽヽヽヽ》、|フラワー《ヽヽヽヽ》! 花束を催促しているのだった。涙と笑いがこみあげてきた、通訳の加藤タキさん(勘十・静枝夫妻の娘さんである)に合図して、かのタイヤキの花束をはじめ、山と用意した花々を、居あわせた人々に手当り次第に舞台に運んでもらった。
とりどりの花に埋もれて、彼女は笑みこぼれ、それからまさに|信じ難い情景が展開されたのである《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。ピアノの上に花を置くと、ディートリッヒは舞台の端に、まっすぐに歩みよって、差しのべられる掌を、|一人びとり握りしめた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。上手《かみて》から下手《しもて》へ何度も往復して――
総立ちになった一階席の聴衆は、文字通りなだれをうって、ステージの真前につめかけた。その大半は若者だったが、『ディートリッヒ最高だわ!』と、涙で顔をくしゃくしゃにしている老婦人も、我を忘れてブラボー、ブラボー!! と絶叫している六十がらみの紳士もいたのである。『凄いねえ、お婆ちゃんのロックコンサートだよこれは』と、舞台監督の川名卓がつぶやいた。じっさい、この夜十二月十九日、札幌における公演ほど、感動的な成功をおさめた舞台は、彼女の長い歌手生活の中でも、稀だったのではあるまいか?――」
僕は、竹中氏の文中にも出てくる加藤タキさんから、来日中のディートリッヒについて若干のお話をきいた。その生活ぶりは、四年前万博の時、同じようにディートリッヒの世話をした酒井さんの話と殆んどすべて同じであった。彼女は来日中、公演会場と飛行場の往復の他は、全くホテルの廊下にも出なかった。唯ひたすらに部屋にこもり、自らのアイロンで衣裳をのばし、電話をかけ、スキヤキを食べ、ごろりと横になっては本を読んでいたらしい。
「気さくなおばあちゃんで、淋しがりやですね。とてもいい人」
と、加藤さんは何回もくり返していった。加藤さんの話のうち、一番面白かったのは、お別れパーティをやろうという話が出たとき彼女は、「着て出る衣裳がないからダメ」といったということである。ディートリッヒは十五個のトランクに一杯衣裳をつめてやって来たが、その中には「お別れパーティ用」の服は入っていなかったのである。
「かわいい」とある女性がいみじくもいった意味を、僕はこの時初めて理解した。ディートリッヒは――恐らくリリー・マルレーンと同じように――何よりもまず「おんな」なのであった。ディートリッヒは「パーティ」の話が出ると、パリにいる友人に電話をし、そのパーティに着てゆくための服を、来日する友人を通じて届けてもらった。加藤さんの話では、その服は、来日の時羽田で着ていたのと一見同じようにみえる、黒いパンタロン・スーツであったという。
お別れパーティについて、加藤さんが伝えてくれた話の中で、僕には印象に残ることが一つある。お客の中で、長くドイツに留学の経験のある弁護士をやっていた陽気な中年の日本人が、流暢《りゆうちよう》なベルリンなまりのドイツ語で「お話をしてもかまいませんか?」と話しかけたところ、彼女は大喜びで応じたというのである。このパーティは、リラックスしたいい雰囲気だったらしい。珍しく彼女は大笑いし、ジョークを出し合ってご機嫌だった。パーティの中頃、羽仁五郎氏が「ファッシズムと闘ったあなたに」と、ドイツ語で乾盃すると、彼女はそれを受けて、こう答えた。
「いえ、闘いは、いまも続いています」
僕は加藤さんを通じて、小さなメモによる質問を、彼女にしておいた。「もし機会があったら、彼女に渡しておいて下さい」と、遠慮勝ちに頼んだ。ディートリッヒは無論記者会見もやらず、誰とのインタビューにも応ぜず、公演以外に一切の外部との接触を拒絶していた。正直いって、返事がくるとは思っていなかった。
ディートリッヒから、思いもかけず「Dear Mr. Suzuki」という手紙をもらったのは、彼女が日本を去る前日のことである。帝国ホテルの便箋二枚にタイプで打ったもので、内容はこういうものである。
「私が初めてリリー・マルレーン≠聴いたのは、アフリカ戦線でイギリスの兵士たちが歌っていたときのことです。それはロンメル・アーミーの歌ったものでしたが、ドイツ兵が歌ったのを聴いたわけではありません。私は唯、イギリス軍の歌として、それを聴いたのでした。
アフリカのアメリカ軍団は、自分たちの War Song として、それを歌っていました。このように外国の歌を自分の歌にしてしまうことは、第一次大戦のときも、同じようにあったことでした。
私は戦時中の二度目のツアーからアメリカに帰ったとき、この歌を初めてレコーディングしました。そのことは "OSS Marlene Dietrich" というタイトルのレコードに吹きこまれています。これはドイツ語で歌われ、ルクセンブルグ放送局から放送されましたが、同じ歌はナチのシンガーによっても放送されていました。
レスリー・フレーウィンの本について、私は大変不満をもっています。あの内容は、嘘が一杯です。私は東ドイツヘのツアーを拒絶したことなど、一度もありません。今まで東ドイツに行っていないのは、単にチャンスがなかったからに過ぎません。私はロシアにもポーランドにもイスラエルにもツアーを行ない、それらのショーは、いずれも成功を収めたと信じています。
リヒテルについてのお尋ねですが、彼は私の友人の中で最も偉大な人の一人であることを申し上げたいと思います。彼は同時に、最も尊敬する、すぐれたピアニストでもあると思います。私のこのお答えが、あなたの質問へのお答えになっていることを、私は希望しております。
[#地付き]マレーネ・ディートリッヒ」
僕はこの手紙を読みながら、ホテルの一室で、見知らぬ日本のルポライターのために、孤独にタイプを打ち続ける七十歳の老女の姿に思いを馳せた。「フレーウィンの本はウソです」という|くだり《ヽヽヽ》に、特に鉛筆で「!」のマークがついているのもおかしかった。ディートリッヒが、夫のジベールと既に別れていると書いているのはフレーウィンだが、ことによると、彼女は今でも密かに(!?)夫と仲むつまじくやっているのかも知れない。そうあっても、少しもふしぎではない。竹中氏のルポは、彼女がおみやげを買ったとき、「これはハズバンドヘのプレゼントよ」といったというエピソードを伝えている。
だが結局のところ、ディートリッヒは四年前と同じように、決定的な痕跡は何も残さずに、本質的には僕らと何の交りをもつことも出来ずに、われわれの前から立ち去ってしまった。「リリー・マルレーン」の生証人は、たった二回だけ、僕の眼の前でこの歌を歌い、その残響をかすかに僕の中に止めただけだったのである。それは、どうしようもなく越え難い、僕と西欧というものの壁であったのかも知れない。或いは、世代の違い、男と女の違い、置かれた立場の違いなのかもしれない。捉えようとして捉えられなかった「リリー・マルレーン」は、かくして、すべて、僕の眼前から消えた。
「リリー・マルレーン」は、いま何歳で、何国人で何処に住んでいて、どんな顔をしているのか? 僕は長い距離と長い時間をかけて、「リリー・マルレーンの旅」をやってきたが、彼女の正体について、一体何がわかったというのだろうか?
強いていえば、いま僕の手許には、唯一つの「実像」である一枚の彼女の肖像画がある。彼女の正体を明らかにしようという手がかりについて、僕はいま、かなり多くのことを既にお伝えした。最後に、この肖像画のカット(扉参照)とともに、ここにつけられた記事をご紹介して、長い「リリー・マルレーンの旅」の終りとしよう。この新聞記事は一九四一年十月十八日のドイツの新聞の切り抜きで、この日付は「リリー・マルレーン」がはじめてベオグラード放送局から全世界に向って放送されてから、約三カ月ほど経ったと思われる時期のものである。
「もう一度、リリー・マルレーンを!
素敵なリリー・マルレーン! あなたのことが、もう一度話題になる時がやってきた。可愛いあなたは、ずっと孤独で、誰も知ってくれる人がいなかった。あなたのことを知っていたのは、レコードを作ったスタッフと、それを贈られた、ほんのわずかな人たちだった。
だが偶然、それらのうちの一人が、数メートルのケーブル線と放送器具を担いで、ベオグラードに出発した。あなたはその中に、ひっそりと息をしずめて潜んでいた。
あなたのことが紹介されると、たちまちあなたは人々の心を捉え、守護神となった。人々はあなたの名前を胸に、戦った。だけど、あなたは知っている。男の心は変り易い。いつの日かまた別の女性が現われて、あなたの座を奪う日があるかも知れないことを……。
しかし、リリー・マルレーン! 私は、そうは思わない、私だけはあなたの名前を、決して忘れることはないだろう……」
[#地付き]〈了〉
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あ と が き
昨年(昭和四十九年)、「文藝春秋」の五月号に、僕は「リリー・マルレーンを聴いたことがありますか」という小文を書いた。その最初の部分は、こうである。
「リリー・マルレーン≠ニいう歌を、お聴きになったことがあるだろうか? 少なくとも日本では、さほど有名な歌ではない。あるいは、ほとんど知られていない歌だといってもいい。僕は|その歌《ヽヽヽ》を、四年前の万博の、むせ返るように暑かったある夜、初めて耳にした――」
この小文を書いた当初、無論この歌に関するルポルタージュが、このような一冊の本になることを予想していたわけではなかった。なにしろ、歌えばわずか一分足らずの、可愛い単純な曲である。だが、一年経って気がついた時、僕はこの一年の間、「リリー・マルレーン」に関すること以外、殆んど何も書かなかった。いや、実質的に他のことを書く余裕がなかった。
この文藝春秋の小文が発表されてから、いくつかの反応があった。例えば、TBSの人気ドラマ「寺内貫太郎一家」のある回で、この「リリー・マルレーン」をテーマとしてとりあげてくれたことなどである。僕はヨーロッパに行く前夜、脚本家である向田邦子さんの訪問をうけた。
「リリー・マルレーン」は、素人の僕が考えても「寺内貫太郎一家」の雰囲気とはいささかそぐわないのではないかという危惧があったが、向田さんは「こういう日常的なドラマの中に、異色な今日的なテーマを注入することによって、従来からあるパターンに、刺激を与えたい」と、僕に語った。僕は帰国後この録画を見せて頂いたが、|この歌《ヽヽヽ》が、日本のホーム・ドラマの中にこんな形で見事に開花しようとは、これまた想像の外のできごとだった。僕はこのドラマを見ながら、少なくとも、二度泣いた。
この番組の放送終了後、TBSテレビの制作部には、この曲についての問い合わせの電話が鳴り続けたそうである。人気テレビ・ドラマの威力はまことに絶大で、僕の周辺にも「あの曲を聴いたよ」という人たちがだんだんと現われるようになった。全国各地にあるかなりのコーラス・グループから「この曲をレパートリーに加えました」というお便りも頂いた。そのテープを、わざわざ送り届けて下さった熱心な方もいた。
秋頃になると、「たしかフジテレビで、梓みちよがこの歌を歌っていたよ」と教えてくれる人が現われた。人伝てにきいたところでは、梓みちよさんは僕の「文春」の五月号を読んで、ぜひ歌ってみたいといってくれたそうである。また、暮にはNHKの音楽番組「ビッグ・ショー」で、倍賞千恵子さんが、「リリー・マルレーン」を素晴らしい歌唱力で自分の歌にしているのを聴いて、びっくりした。彼女が久世光彦氏(「寺内貫太郎一家」のプロデューサー)の歌詞で歌っているのも嬉しかった。久世氏は、この日本語の歌詞を、番組に間に合わせるために、原詞の意味と無関係に、わずか三十分で作ってしまったそうだが、トミー・コナーも僕に同じことをいった。この歌は本来、皆がそれぞれの思いを勝手に綴って歌えばいいものなのである。
あるコーラス・グループでは、ドイツ系の会社のあるパーティで、これを歌ったそうである。ドイツ人の社長はこれを聴いていたく感激し、大いに面目をほどこしたというお便りも頂いた。これらの反応の中で、僕が一番注目したのは、諸井昭二さんのひきいるコーラス・グループが、チェコ大使館の主催で行なわれた「スメタナ生誕百五十年祭」で、この曲を歌ったという話をきいた時である。
多くの聴衆は、この美しい曲に対して好感をもってくれたという。僕は大変無理なお願いとは思ったが、人を介して「チェコ高官がこの曲に対してどういう感じをもっているか、もし機会があったらきいて頂けないか」というお願いをした。
一週間ほどして返事は帰ってきた。「これは全く私個人の意見だが」と彼は前おきして、「チェコの人たちは、この曲に対して二つの反応をもっているように思う。一つは、ナチの暗い影をこの曲の中に思い出す型と、やはりいい曲にはそれ自体に好感をもつという型ではないだろうか。この二つの型は、ことによると一人の人間の中に共存しているかも知れない。但し、私が質問した人は、この曲について、しばらく考えてやはり、ノー・コメントだ≠ニいった。しかし、それは決して悪意のあるノー・コメント≠ナはなかったように思う」ということであった。僕のこのルポは、「東ヨーロッパ」に関しては、殆んどふれていない。僕が一番知りたいと思い、「リリー・マルレーンの旅」の最も興味あると思われる部分は、実はまだ未完のままである。
「リリー・マルレーン」についての思い出を持つ方からも、十数通のお手紙を頂いた。沢山ご紹介をしたいのだが、その中で最も印象的であったものを、一つだけ掲載させて頂きたい。
「終戦後、私たちは小さな学園をはじめました。湘南の海辺近く、米軍のキャンプがあり、駅の周辺にはアメリカ兵たちが沢山いました。
私は学園の生徒たちとよく歌を楽しんでいましたが、そんな折、友人がハイカーさんというアメリカ兵を連れてきて、言葉が通じないため、お互いに知っている歌を交換しましたが、その時ハイカーさんが歌ったのがリリー・マルレーン≠セったのです。――これは静かに悲しく歌わなければいけません――といわれて、弟がそのように口笛で吹いてみせますと、ハイカーさんは、突然ワーワーと泣き出しました。びっくりした私たちは、おぼつかない英語で一所懸命わけをききますと――耳の下に弾丸が当って怪我をしたので、口笛が吹けない……――あとはよく判りませんでしたが、その号泣する姿はただごとでなく、困り果てて近くの神父さんのところに連れてゆきました。道すがらも、神父さんの前でも、大声で泣き通し、鼻をかむ紙がないので、百円札で鼻をかんで捨ててしまいました。
今度リリー・マルレーン≠フ記事を読んで、このことが改めて思い出され、得心致しました。今さらのように、戦争のみじめさを思い知らされました。ハイカーさんは船大工だといっていましたが、今もお元気でしょうか。幸せを祈らずにはいられません(神奈川県 牧野光子)」
もうじき、戦後三十回目の「五月八日」がやってくる。思えば、一年半ほど前までは、僕は五月初めにヨーロッパの戦火が熄《や》んだことすら、忘れていた。夜毎にテレビのブラウン管に映し出される「第二次ヨーロッパ大戦もの」で「憎いドイツ兵」が虫ケラのように殺されてゆくのを、さしたる抵抗もなしに眺めている日々であった。しかし、ヨーロッパには「太平洋」と全く違った、また別の戦争があった。僕は余りにも日本的な感覚でこれを捉えすぎたかも知れない。しかし、僕にはこれより他に方法がなかった。スタインベックは、今から十年も前に自分の従軍記録に『かつて戦争があった』という題をつけた。そしてその序文に「もしこれから戦争が起きても誰もそれを記述することはできない。何故なら、その時地上には、もう記述する人も読む人も残っていないだろうから――」と書いた。しかし、今でも、この地上から砲火は決して熄んでいない。そして「リリー・マルレーン」もまた、幸か不幸か、人々の心の中から、決して消え去ってはいない。
最後に、この本に実名で登場させて頂いた方々をはじめ、多くの方たちのご協力に対し、心からお礼を申し上げたい。毎度のことながら失礼をもかえりみず、歩いて、その方をお訪ねするだけが僕のルポの方法であった。唯、今回は不馴れな横文字のため、多くの友人たちにご迷惑をかける結果となった。また取材の初めから終りまで僕の我ままな仕事をフォローして下さった文藝春秋の田中健五編集長、出版部の新井信さん、そしてヨーロッパ旅行に際して、過分のご協力を頂いた日本航空に、重ねてお礼を申し上げたいと思う。
一九七五年三月
[#地付き]鈴木 明
[#改ページ]
「リリー・マルレーン」レコード資料[#「「リリー・マルレーン」レコード資料」はゴシック体]
「リリー・マルレーン」は、最初のレコードが発売されてから現在まで、恐らく百種類近くがレコード化されたと推定されるが、残念ながら完全な資料を作成することはできなかった。しかもその中で、現在でも購入できるレコードの数は、更に少ない。
次に掲げるリストは、僕が昨年(1974年)一年間で購入したもの、ないしは見せて頂いたものである。所在がわかりながら、この眼で見ることのできなかったものは、このリストから除いてある。また、同じLPの中に含まれている他の曲を一部掲載したのは、「リリー・マルレーン」がどのように位置づけられているかを、ご参考にして頂きたいためである。
リストのうち、*印のついたものが、現在(1978年)でも購入(外国も含めて)可能なものである。
1 ララ・アンデルセンのもの[#「1 ララ・アンデルセンのもの」はゴシック体]
* Lili Marlen
Lale Andersen mit Orchester, Electrola E20058
1 Lili Marlen 2 Drei Rote Rosen
昨年夏、新譜のSP盤としてドイツで発売されたもので、1939年、ララ・アンデルセンが初めてレコード化したものの復刻盤である。この原盤は、永く「幻のレコード」として話題をよんでいたが、ララの生前には、遂に陽の目をみることがなかった。
A Voice to Remember
EMI EMS75
Lili Marlen by Lale Andersen, Recorded in 1939 (Note; Recording data destroyed in World War U. After Alistair Cooke's commentary was recorded, it was determined that this selection dates from 1939 not 1941.)
EMIが、自社の傘下にある過去、現在のアーチスト53人を選んで2枚組LPにダイジェストした記念レコード。ここには、カルーソー、ニキッシュ、クライスラー、カザルス、メルバ、シャリアピンなど歴史的な大芸術家と並んで、ララの「リリー・マルレーン」が収められている。
* Wie einst Lili Marleen
Lale Andersen, Decca ND631
Lili Marleen, In Montana, Golden Earring, Twilight Time, etc.
戦後最初に吹きこんだものと思われる。アメリカの曲が4曲収められている。
* Wie einst Lili Marlen
Lale Andersen, Karussell st. 635 148
Lili Marlen, Der Leichtmatrose,Fernweh, etc.
戦後吹きこみ直した「リリー・マルレーン」の中では、この盤が最も原曲のイメージに近く、他の曲の出来も大変良い。
* Lale Andersen, Ihre Grossen Erfolge
Karussell-Gold-Serie/st 2415 045
Blaue Nacht am Hafen, Fernweh, Hafen und Machen, Lili Marleen, etc.
鮮明な録音で、晩年に吹きこんだものと思われる。初期のものより、スローテンポになっている。
Mein Leben Meine Lieder
Lale Andersen, EMI Columbia 6229-482
一番を英語で、二番をフランス語で、三番をドイツ語で歌った珍しいもの。英語はディートリッヒ作詞のものを使っている。
Portrait In Musik
Lale Andersen Vocal with Orchestra, Electrola ste 83505
Lili Marlene, On the Banks of Sacramento, Blue Pacific Blues, etc.
2 マレーネ・ディートリッヒのもの[#「2 マレーネ・ディートリッヒのもの」はゴシック体]
* The Magic of MARLENE(A) 永遠の名花/マレーネ・ディートリッヒは歌う[#「永遠の名花/マレーネ・ディートリッヒは歌う」はゴシック体](日本盤)
東芝 EMI Odeon st. OP-80027
A1 フォーリング・イン・ラブ・アゲイン、2兵士、3ブロンド・ベイビー、4パフ、5ひとり寂しく、6リトル・ドラマー・ボーイ、7バラはいずこに、8花はどこへ行った、B1 粋なローラ、2風に吹かれて、3ジョニー、4兵舎にて、5何も知らない私、6リリー・マレーネ、7ペーター、8花はどこへ行った
「リリー・マルレーン」は1960年ドイツでの実況録音のもの。素晴らしい出来ばえで「花はどこへ行った」が英、独語で歌われているのもうれしい。
* Marlene Dietrich(B)(日本盤)
日本フォノグラム、Philips st. FDX-108
A1捧ぐるは愛のみ、2町の浮気女、3シール・ハタン、4バラ色の人生、5ジョニー、6窓からとび出せ、7ただひとり、B1リリー・マルレーヌ、2わけはきかないで、3ローラ、4残されし恋には、5ハニーサックル・ローズ、6また恋をした
1964年12月ロンドンで吹きこまれたもの。「万博」で歌われたイメージに最も近い。英語版。
* Marlene Dietrich(C)(日本盤)
ビクターMCA-7160(MAP/S 1259)
A1リリー・マルレーヌ、2シンフォニー、3前から恋をしているの、4ユー・ドゥー・サムシング・トゥ・ミー、5イリュージョン、B1ユーヴ・ゴット・ザット・ルック、2ユー・ゴー・トゥ・マイ・ヘッド、3ブラック・マーケット、4また恋してしまったの、5ボーイズ・イン・ザ・バックルーム
正確な吹きこみの年代は不明だが、SPから起したものらしく、1950年以前のものと推定される。英語で歌われているが、伴奏がいまのバート・バカラック編曲のものと違い、小唄調に、淡々と歌っている。
* Wiedersehen mit Marlene
Marlene Dietrich(vocal), Capitol-T 10282
(A)と「リリー・マルレーン」は同じだが、他の選曲が違っている。
* Wiedersehen mit Marlene, Marlene Dietrich in Deutschland
Electrola, EMI IC 062-28473M
前掲のものに二曲加わっている。内容は同じ。
Marlene Dietrich recorded in London
Fontana special 6444 101
(B)と同じ。
* Lili Marlene
Marlene Dietrich, Columbia, CL1275
A1Lili Marlene, 2Mean to Me, 3The Hobellied, 4Annie Doesn't Live Here Anymore, 5You Have My Heart, 6The Surrey with the Fringe on Top, B1Time on My Hands, 2Taking a Chance on Love, 3Must I go, 4Miss Otis Regrets, 5You Have Taken My Soul, 6I Couldn't Sleep a Wink Last Night.
これは、日本では未発表だが、「シュワン」のカタログには、今でも載っている。本文に出てきた「軍服を着たディートリッヒの20cmLP」を主体に後に吹きこんだ四曲を加えたもので、1945年の吹きこみと推定される。ドイツ語版で,録音も意外によく、日本発売が望まれる。
Marlene Dietrich
Marlene Dietrich, Decca, DL 8465
(C)と同じ。
* Die Besten Von Marlene Dietrich
EMI Columbia st 5C 054-28498
Ich bin von Kopf bis Fuss auf Liebe eingestellt, Wenn die Soldaten, Mein blondes Baby, Paff der Zauberdrachen, Allein in einer grossen Stadt, Der Trommelmann, Cherche la rose, Where have all the flowers gone, etc.
(A)の原盤となったもの。
* The Best of Marlene Dietrich
Columbia C 32245
The boys in the backroom, Lili Marlene, The laziest gal in town, Go way from my window, Lola, La Vie en rose, I wish you love, Falling in love again, Jonny, etc.
日本未発売。はじめにノエル・カワードのしゃれた司会が入っており、ロンドンの「カフェ・ド・パリ」での公演の実況録音盤。1952年の吹き込みと推定される。
3 日本で発売されたもの[#「3 日本で発売されたもの」はゴシック体]
* Germany
Werner Muller and His Orch., London, SLC 4464
乾杯の歌、ローレライ、フォーリング・イン・ラブ・アゲイン、リリー・マルレーヌ、ワルキューレの騎行、マック・ザ・ナイフ、アウフヴィーダーゼン・スウィートハート、他。
The Best of Romantic Ballads
Creed Taylor orch. and chorus, ABC Paramount PY16
時のたつまま、ジョニー、ピカデリーのばら、ひとり淋しく、センチメンタル・ジャーニー、君とでなければ、リリー・マルレーヌ、他。
Around the World on a Carillon
John Klein, Columbia ZL 1034
サンタルチア、黒い瞳、カミン・スルー・ザ・ライ、ゆれるよ幌馬車、ムス・イ・デン、リリィ・マルレーヌ、他。
Romantic Germany
Kermit Leslie and his Orch., Time-YS 2123-T
リリー・マルレーヌ、オー・マイン・パパ、嘆きの天使、いつわりの君、最後のバラ、さらば故郷、恋人よさようなら、他。
Ginza Blues
Los Marcellos in Japan, Globe, SJET-7849
銀座ブルース、慕情、愛の讃歌、リリー・マルレーヌ(イタリア語)、マイ・スペシャル・エンジェル、アリベデルチ東京、ベラ・チャオ、他。
デラックス版ポピュラー音楽大全集第5巻ホームミュージック、マーチ編その2[#「デラックス版ポピュラー音楽大全集第5巻ホームミュージック、マーチ編その2」はゴシック体]
Richard Hayman and The Manhattan Pops orch. PSS146
黒い瞳、サンタルチア、二つのギター、オーソレミオ、リリー・マルレーン、グリーン・スリーヴス、星条旗よ永遠に、他。
ケニー・ボール 軍艦マーチ・デラックス[#「ケニー・ボール 軍艦マーチ・デラックス」はゴシック体]
Kenny Ball(Trp) and his Jazzmen, パイ XS 93
A1軍艦マーチ、2トロイカ、3ドミニク、4ボーギー大佐、5ワシントン・ポスト・マーチ、6双頭の鷲の下に、B1戦友、2錨をあげて、3ディキシー、4草競馬、5リリー・マルレーン、6史上最大の作戦
ドイツのロマンス 珠玉のホームコンサート[#「ドイツのロマンス 珠玉のホームコンサート」はゴシック体]
Kermit Leslie and his orch. (L4), Columbia YS2123
いついつまでも、ワルツの中の二つの心、リリーマルレーヌ、オーマイパパ、嘆きの天使、いつわりの君、さらば故郷、恋人よさようなら、他。
ウィンチェスターの鐘 /ニューボードビルサウンド30[#「ウィンチェスターの鐘 /ニューボードビルサウンド30」はゴシック体]
The New Vaudeville Band (L4), Philips SFL-7321
ウィンチェスターの鐘、バークレイスクウェアーのナイチンゲール、アイキャントゴーロング、オードンナクララ、リリーマルレーヌ、色あせし恋、他。
大閲兵式[#「大閲兵式」はゴシック体]
Bob Sharples orch., London, SLC-4560
イギリス国歌、マチルダ、マルセイェーズ、ポルシカ・ポーレ、リリー・マルレーン、黄色いリボン、聖者の行進、見よや十字架の旗たかし、錨をあげて、星条旗よ永遠なれ、他。
101ストリングス世界旅行[#「101ストリングス世界旅行」はゴシック体]
101 Strings orch., Columbia, XS-151
リリー・マルレーヌ、他。
4 外国発売による歌のレコード[#「4 外国発売による歌のレコード」はゴシック体]
Lili Marlene I've been everywhere
Hank Snow vocal, RCA victor, LSP 2675
I've been everywhere, When it's spring time in Alaska, It's a little more like heaven, On that old Hawaiian shore with you, Lili Marlene, Geisha girls, My Filipino rose, etc.
ウェスタンの大御所ハンク・スノウが歌っている。アメリカでは、男性歌手のものが多いが、これはその代表的なものの一つである。
Connie Francis sings German Favorite
Connie Francis (vocal) with Orch., MGM, E/SE 4124
Wenn du gehst, Tu mir nicht weh..., Barcarole in der Nacht, Nino, Colombino, Gondola d'amore, Lili Marlene, etc.
同じドイツ語でも、コニー・フランシスが歌うとこうも違うものかと驚かされる。
Jean Claud Pascal
J. Claud Pascal, der Botho Luces Chor orch., unter der Leitung von Ferdy Klein, Odeon, SMO 74134
Nous les amoureux, Et maintenant, Les feuilles mortes, Wo sind die felder, Lili Marlene, etc.
ジャン・クロード・パスカルは「歌の大使」というニックネームでドイツを訪れ、フランス語で二回にわたって「リリー・マルレーン」を吹きこんでいる。
* Pascal International U
Decca-SLK 16785-P
Les moulins de mon coeur, When I fall in love, Rue de rivoli, Lily Marlene, So leb's dein leben, etc.
パスカルの二度目のもの。五曲目に入っているのがシナトラの代表曲「マイ・ウェイ」のフランス版である。
* Drei Lilien, drei Lilien...
24 beliebte Marschlieder, 24 Gesungen und Geblasen, DECCA SLK 16141-P
西ドイツ国防軍音楽隊の演奏によるドイツの軍歌集で、「リリー・マルレーン」はラストナンバーになっている。
When we were in Itary
sung Tina Alori, London TW 91333
明るく情熱的なイタリア調の「リリー・マルレーン」でアメリカ発売だが「イタリア録音」と明示してある。
* ICH HAB' MEIN HERZ IN HELD
ELBERG VERLOREN, TELE FUN KEN-NT 656
Sie ist zu fett fur mich, Eine Schwarzwaldfahrt, Lili Marlene, So ein Tag, so wunderscho wie heute, Auf Wiedersehen, etc.
男性コーラスによるマーチ風の演奏。ドイツで歌われる「リリー・マルレーン」の代表的なもの。
Teresa Brewer Songs for our Fighting men
Teresa Brewer (vocal) with Orch., Philips-PHS 600-200
The white cliffs of Dover, When Johnny comes marching home, Lili Marlene, Till we meet again, I'm making believe, etc.
一風変わった味の英語の歌となっている。
The Incomparable Hildegarde
Hildegarde (vocal), Design, DLP77
Lili Marlene, I love you in any language, Cheek to cheek, Mademoiselle de Paris,Tristesse, Toujours Tristesse, September song, etc.
英語とドイツ語の両方を使い、英語の歌詞も違うものを使っている。
* Marie Laforet
Polydor 2473015 (B)
La madeleine, Mary Hamilton, Mon pays est ici, Lili Marlene, etc.
エディット・ピアフやコレット・ルナールと同じような歌い方をしている。かすれるように、ささやくように歌う典型的なシャンソンの「リリー・マルレーン」になっている。
There's a star-spangled banner waving somewhere
Dave Dudley (vocal) with orch., Mercury SR 61057
Geisha girl, Soldier's last letter, Hello Vietnam, Lilli Marleen, At Mail call today, Vietnam blues, Then I'll come home again, etc.
ヴェトナム戦争を意識して作られたもの、ダドリーは有名なウェスタン系の歌手である。
* Hits of the Blitz
Vera Lynn with Tony Osborne and His Orchestra, HIS MASTER'S VOICE CSD 1457
Lilli Marlene, When the lights go on again, A nightingale sang in berkeley square, Bless'em all, You'll never know, I don't want to set the world on fire, etc.
ヴェラ・リンが吹きこんだ最も新しいLP。
Salute to the Western Stars
Stu Davis vocal with Erwin Wall and Junny Piere Richmond B 20090
Let's say goodbye, Lilli Marlene, Wedding bells, There's a star-spangled banner, You are my sunshine, Cool water, etc.
5 外国発売による楽団演奏のレコード[#「5 外国発売による楽団演奏のレコード」はゴシック体]
Anton Karas〃ienna city of Dreams
Anton Karas (Zither) London LL 3319
The Harry Lime Theme, Nothing Doing!, Drink Brothers Drink, Ottakringer-March, In Grinzing, Lili Marlene, Zither Man, etc.
Original Motion Picture Hit Themes
Ralph Marterie and His Orch., U. A. UAL 3197
Moon River, Guns of Navarone, King of Kings, Flower Drum Song, Pocketful of Miracles, Tonight from West Side Story, Blue Hawaii, El cid, Fanny, Lili Marlene, etc.
The Wonderful World of De Los Rios
De Los Rios and His Orch., Columbia WL 124
Lili Marlene, Dark Eyes, April in Paris, Waltzing Matilda, Lullaby of Broadway, Brazil, etc.
Exciting Sounds from Romantic Places
Leo Diamond's orch., ABC Paramount ABC 268
La Vie En Rose, The River Seine, Arrivederci Roma, Domani, Strange Enchantment, Sleepy Lagoon, Lili Marlene, etc.
Tonight
Ferrante and Teicher (Piano Duo) with Orch., U. A. UAL 3171
Tonight, Lili Marlene, 1001 nights, Moon river, La strada, King of kings, Shalon, etc.
Welcome to Zitherland
Ruth Welcome (Zither), Capitol-T 1471
Summertime in Venice, The girls of Rome, Autumn leaves, Lili Marlene, Symphony, etc.
German Sing-Along
Will Glahe and His Orch., chorus, London-TW 91237
* Franck Pourcel Girls
EMI, Columbia TWO 381
Laura, Hello Dolly, Lili Marlene, Maria, I want to be happy, Mrs. Robinson, Delilah, etc.
Berlin with Love
Jo Basile, his Accordion and Orch., Audio Fidelity, AFLP 1944
Lili Marlene, Liebe War Es Nie, Auf Wiederseh'n Sweetheart, Macki Messer, Bel Ami, etc.
Anton Karas Zither Magic
SURREY S-1001
Third Man Theme, Hi-Lili Hi-Lo, Terrys Theme, I Kiss Your Hand Madame, Zither March, Lili Marlene, etc.
Party dancing made easy
Slim Jackson and the promenaders, Epic L. N 3773
Come Travel with Me
Mat Mathews accordion and his Orch., ABC Paramount PC 32
Estrellita, Catari Catari, Pasodoble, Lili Marlene, Dark eyes, Londonderry air, Brazil, Green sleeves, etc.
Frank Hubbell and The Stompers
Penny Candy and other orch.
Penny Candy, Stranger on the shore, Lili Marlene, Flowers on the wall, Now I'm blue, Yesterday, etc.
San Francisco Moods
Frank Gazis symbalom, Capitol st 2206
Two guitars, Lili Marlene, Autumn leaves, Claire de lune, Beyond the reef, September song, etc.
International guitars
Dick Dia and his orch., Audio Fidelity AFSD6129
Guadalajara, More, La Seine, Malaguenia, Granada, Lili Marlene, etc.
The Roy Clark guitar spectacular!
Roy Clark guitar, Capitol, st 2425
* Roy Etzel ji Silenzio and Andere Trompeten Hits
Fontana special 6434145
Lili Marlen, La Mamma, Sweet Lorraine, Lara's Theme, Stardust, Save the last Dance for Me, etc.
Piano Party
Booby Crush 36titles, Philips standard 6308174
Schlager Die Man Nie Vergisst, Folge 3
Philips st. 844320 PY
* The World of Military Bands
Decca, PA/SPA18
Colonel bogey, Grand march Aida, Semper fidelis, Lilli Marlene, Guns of Navarone, Birdcage walk, Scipio, Thunder birds, The thin red line, etc.
German hits by Cameo
The Rhinelanders, SJET-7315
In the world of old time I sequence dancing
Ray McVay and his Orch., Philips 6308193
The world at war
The London Festival Orch., Decca SPA 325
6 記録のためのレコード[#「6 記録のためのレコード」はゴシック体]
BBC 1922-1972
BBC record 50 A-B
チャーチル、ヒトラー、ゲッベルスなどの声に交って、ヴェラ・リンの「ドーバーの白い壁」、ララ・アンデルセンの「リリー・マルレーン」などが入っている。
The BBC Scrap Book 1945
Philips 6382-044
イギリス兵が前線で歌った「替え歌」の「リリー・マルレーン」が中途で出てくる。
7 本書刊行後に出たレコード[#「7 本書刊行後に出たレコード」はゴシック体]
* Marlene Dietrich sung in German Lili Marlene
CBSソニー、SOPO-86
ディートリッヒが最初にOSSで歌ったもの。
* Wiedersehen mit Marlene
(Marlene Dietrich in Deutchland 1960)
東芝オデオン EOS-80262
ディートリッヒがドイツに公演旅行した時の実況録音盤。
* Marlene Dietrich リリー・マルレーン[#「リリー・マルレーン」はゴシック体]
指揮バート・バカラック フォノグラム フィリップス FDX-108
ロンドンで公演した時の実況録音盤。
* Marlene Dietrich リリー・マルレーン[#「リリー・マルレーン」はゴシック体]
ビクター MCA-7160
MCAのためにアメリカで吹き込まれたもの。
* The Magic of Marlene 永遠の名花マレーネ・ディートリッヒは歌う[#「永遠の名花マレーネ・ディートリッヒは歌う」はゴシック体]
東芝オデオン OP-80027
EMIが持っているディートリッヒの録音を編集・再生したもので、「リリー・マルレーン」は1960年録音のものを、そのまま使用している。
* Lili Marlene 永遠のララ・アンデルセン[#「永遠のララ・アンデルセン」はゴシック体]
東芝オデオン EOS-86289
アンデルセンが、戦後EMIのために吹き込んだもの。英語・ドイツ語・フランス語の順に歌われている。
* Lili Marlene リリー・マルレーン[#「リリー・マルレーン」はゴシック体](シングル盤)
フォンタナ SFL-2032
原テープは不明だが、終戦直後に吹き込まれたものと思われる。
* Vera Lynn イギリス第八軍のリリー・マルレーン[#「イギリス第八軍のリリー・マルレーン」はゴシック体]
東芝 EMS-80290
* Paul Mauriat リリー・マルレーン/巴里にひとり[#「リリー・マルレーン/巴里にひとり」はゴシック体]
フィリップス FDX-175
* 梓みちよ グラスにうつる愛の詩[#「* 梓みちよ グラスにうつる愛の詩」はゴシック体]
キング SKA-105
* 戸川昌子 失くした愛[#「* 戸川昌子 失くした愛」はゴシック体]
東芝 TP-72039
* 高島忠夫 僕にも歌わせて下さい[#「* 高島忠夫 僕にも歌わせて下さい」はゴシック体]
ビクター SJX-219
〈底 本〉文春文庫 昭和五十三年四月二十五日刊