ご愁傷さま二ノ宮くん 第8巻
鈴木大輔
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目次
其の一 Strike――来襲《らいしゅう》――
其の二 Performance――試行錯誤――
其の三 Struggle――焦躁――
其の四 Passion――命――
あとがき
高々《たかだか》と舞《ま》い上がるいくつもの赤い粒《つぶ》。
もう何度《なんど》目になるか知《し》れぬその光景《こうけい》を視界《しかい》に入れながら、峻護《しゅんご》自身《じしん》もまた高々と中空《ちゅうくう》を滞空《たいくう》し、すぐさま地面に叩《たた》きつけられる。もはや受《う》け身《み》すら取れず、糸の切れた操《あやつ》り人形《にんぎょう》のような無様《ぷざま》さで横《よこ》たわる。
ぼつ、ぼつ、と音をたてて落ちてくる赤い粒が煩《ほほ》を濡《ぬ》らす。
通《とお》り雨のように降《ふ》るその生温《なまあたた》かい液体《えきたい》を――己《おのれ》の血潮《ちしお》の味《あじ》を舐《な》めさせられながら、峻護はぎりりと奥歯《おくば》を噛《か》み鳴《な》らした。
くそったれが――声にならぬ除《うな》りを上げながら、地面を掴《つか》み、肘《ひじ》を支《ささ》えにし、片膝《かたひざ》を立て、なおも立ち上がろうとする。
打撲《だぼく》無数《むすう》、骨折《こっせつ》多数《たすう》、その他もろもろの負傷《ふしょう》は数知れず。酷使《こくし》に悲鳴《ひめい》をあげる筋肉《きんにく》と関節《かんせつ》は峻護《しゅんご》のコントロールを半《なか》ば離《はな》れ、がくがくと断続的《だんぞくてき》に痙攣《けいれん》している。それでもまだ峻護の目は死んでいない。獣《けもの》のような輝《かがや》きを爛々《らんらん》と放《はな》ち、『敵《てき》』の姿をしっかり捉《とら》えている。
この身にはまだ、やるべきことがあるのだ。それを果《は》たすまで倒《たお》れるのも気《き》を失《うしな》うのも許《ゆる》されない。たとえ死んでも倒《たお》れず、死んでも気を失ってはならないのだ。
切れた口の中から湧《わ》いてくる鬱陶《うっとう》しい血液《けつえき》をぺっと吐《は》きだす。渾身《こんしん》の力を手足《てあし》に込《こ》める。
両足《りょうあし》を踏《ふ》みしめ、立ちあがった。
次の瞬間《しゅんかん》、ふたたび高々と舞い上がるいくつもの赤い粒。
空中を舞い飛びながら、手離しそうになる意識《いしき》を繋《つな》ぎ止《と》めながら――それでも峻護の目はまだ死んでいない。
みてろよ。
ぜったい、ぜったい、やってやるからな。お前をぜったいにこの手で、
ドサッ、と思いのほか軽《かる》い音を立てて落ちる身体《からだ》。
[#改ページ]
其の一 Strike――来襲《らいしゅう》――
[#改ページ]
――白翼城《はくよくじょう》の本丸《ほんまる》を、いよいよ指呼《しこ》の間に臨《のぞ》んでいる。
欧州《おうしゅう》某国《ぼうこく》。国境付近《こっきょうふきん》の森林地帯。
北条《ほうじょう》麗華《れいか》ひきいる強襲《きょうしゅう》部隊《ぶたい》はその実力を遺憾《いかん》なく発揮《はっき》し、堅牢《けんろう》無比《むひ》にして神聖《しんせい》不可侵《ふかしん》と謳《うた》われた白亜《はくあ》の要害《ようがい》を攻略《こうりゃく》するあと一歩のところまで迫《せま》っているのだ。
それでも華麗《かれい》なる令嬢《れいじょう》は鋭《するど》い表情を崩《くず》さぬまま、まるで反省の弁《べん》でもロにするようにこう慨嘆《がいたん》した。
「――ようやくここまで来ましたわね」
ようやく?
いやいやとんでもない。
京都《きょうと》は八坂神社《やさかじんじゃ》において、|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》が何者かにより拉致《らち》されてまだわずかに三日。その短期間《たんきかん》で奪還《だっかん》部隊を組織《そしき》し、異国《いこく》の地に送り込み、しかも被害《ひがい》らしい被害も出さずにチェックメイトを宣告《せんこく》したのだ。その経済力《けいざいりょく》と政治力《せいじりょく》と実行力《じっこうりょく》は十分すぎるほど賞賛《しょうさん》に値《あたい》するはずだった。
「お嬢さま〜」
「お嬢さまっ」
とその時、麗華を呼ぶ二種類の声。彼女の構想《こうそう》を大胆《だいたん》かつ緻密《ちみつ》に実施《じっし》したふたりりの部下《ぶか》のものである。
「城《しろ》の主要部《しゅようぶ》はおおむね制圧《せいあつ》完了です」いつも朗《ほが》らかな笑《え》みをくずさぬ付き人・保坂《ほさか》光流《みつる》が、今日も笑顔《えがお》で報告《ほうこく》する。「守備兵《しゅびへい》の残りがいまも散発的《さんぱつてき》な抵抗《ていこう》を続けてますが、これも長くはなさそうです。弾薬《だんやく》と気力が尽《つ》きればあとは勝手《かって》に逃《に》げ出してくれるんじゃないですかね〜」
「ご指示《しじ》どおり、戦意《せんい》を喪失《そうしつ》した敵兵《てきへい》は深追いせず放置《ほうち》しています」北条家《ほうじょうけ》のメイド長にして強襲《きょうしゅう》部隊《ぶたい》の指揮官《しきかん》でもある霧島《きりしま》しのぶが補足《ほそく》して、「掃討戦《そうとうせん》に移《うつ》る手もありますが、この城の占拠《せんきょ》が目的ではないですから放《ほう》っておいても問題ないでしょう。いずれにせよこれ以上の組織《そしき》的な抵抗はありません。あとは最後の仕上《しあ》げが残るだけです」
「そう。ふたりともご苦労さま」
短くねぎらいの言葉をかけ、麗華はなおも厳《きび》しい表情をゆるめない。
いやむしろ、いよいよもって鋭い視線《しせん》を城の本丸に向けている。
(どうも妙《みょう》な感じですわ……)
圧勝《あっしょう》、完勝《かんしょう》、といっていい結果を手にしながら、麗華は心のどこかに引っかかった小さな違和感《いわかん》をいまだ取り除《のぞ》けずにいた。
白翼城と呼ばれるこの、深い森の奥《おく》にひっそりとたたずむ広壮《こうそう》な石造《せきぞう》建築《けんちく》の女主人――『鮮血姫《せんけつひめ》』『白夜《びゃくや》の女王』などという大仰《おおぎょう》な二つ名をもつ謎《なぞ》の人物、裏《うら》の世界のそのまた裏に隠然《いんぜん》として吃立《きつりつ》する黒幕中《くろまくちゅう》の黒幕こそが、二ノ宮峻護をさらった張本人《ちょうほんにん》である。
少なくとも北条家の諜報部《ちょうほうぶ》はそう報告している。
それだけの大物でありながら、世界クラスのVIPと呼んで差《さ》し支《つか》えない麗華ですら耳にしたことのないその名――おそらくは生粋《きっすい》の裏世界の住人であり、同時に大立者《おおだてもの》であることは間違いない。峻護を拉致した際《さい》の手際《てぎわ》といい、情報的|優位《ゆうい》の確保《かくほ》ぶりといい、あるいは政府の最上層にまで圧力《あつりょく》をかけていたらしき形跡《けいせき》がみられることといい、いずれをとっても一筋縄《ひとすじなわ》で行かぬ相手であることは明白《めいはく》のはずである。
なのにそれだけの大物が、果たしてこれほどまで易々《やすやす》と自《みずか》らの本拠地に『敵』の侵入《しんにゅう》を許《ゆる》すものだろうか?
もちろんここに来るまでの道程《どうてい》は決して楽ではなかったし、電光石火《でんこうせっか》の奇襲《きしゅう》は教科書に載《の》せてもいいくらいの見事《みごと》さで図《ず》に当たった。むしろ現状《げんじょう》は順当《じゅんとう》と呼んでいいはずだ。不眠不休《ふみんふきゅう》で作戦《さくせん》を立案《りつあん》し、地球の裏側にまで乗り込んできた麗華の努力《どりょく》は正しく報《むく》われたといえる。
だがそれにしても妙に軽い、というか味気《あじけ》ないというか……。
「――九|分《ぶ》九|厘《りん》まで勝利は確実《かくじつ》と見ますが、あるいは何かしらの罠《わな》でも仕掛《しか》けてあるのかも知れません。くれぐれも油断《ゆだん》なきよう」
「ご心配なく。部下にはその旨《むね》、徹底《てってい》してあります」
しのぶが太鼓判《たいこばん》を押すのとほぼ同時に保坂の報告。
「各隊、突入準備できたとのことでーす。いつでもゴーサイン出せますよお嬢さま」
「よろしい」
頷《うなず》き、もういちど令嬢は本丸の方角に強い視線を向ける。
わずか三日――いや、彼女にとっては三日もの長きにわたって、であった。
三日ものあいだ、二ノ宮峻護と会えない時間がつづいて寂《さび》し――もとい、三日ものあいだあの男に対する『負債《ふさい》』の返済《へんさい》を請求《せいきゅう》する機会を逸《いっ》したことは、麗華にとって大いなる痛手《いたで》であった。債金を踏《ふ》み倒《たお》して逐電《ちくでん》するような真似《まね》は、彼女がもっとも忌《い》み嫌《きら》う行為《こうい》である。
「さあ、いよいよ最後の仕上げに入りますわよ。二ノ宮峻護を救出し、そして――」
ぐぐぐ、と令嬢は拳《こぷし》をにぎりしめ、
「そして是《ぜ》が非《ひ》でも二ノ宮峻護から聞き出すのです! わがコンツェルンの社運を賭《か》けた新商品である栄養《えいよう》ドリンクの感想を!」
「……わざわざヨーロッパくんだりまでやってきた主《おも》な目的がそれですか、お嬢さま」
保坂少年が笑顔のまま呆《あき》れた声で、
「ていうか二ノ宮くんだって、修学旅行《しゅうがくりょこう》で栄養ドリンクもらったことなんてもう忘れてますよ。それに彼って、いちおう栄養ドリンクの感想をお嬢さまに伝《つた》えてたって話じゃありませんでした? 実質的《じっしつてき》に感想らしい感想は何もなかったらしいですけど」
「あの栄養ドリンクは我《わ》がコンツェルンの社運をかけた商品の希少《きしょう》な試作品《しさくひん》であり、そのことをきちんと伝えた上であの男に渡し、さらにはあとで必《かなら》ず感想を聞かせるように念まで押したのです。それをおろそかにするなど不義理《ふぎり》にもほどがあるというものであり、同時にあの男はあまりにも重い負債を自《みずか》ら背負《せお》ったのですわ。わたくしはその負債を是が非でも取り立てねばならず、そのためには今あの男に消えてもらっては困《こま》るのであり、わたくしがこうして行動《こうどう》を起こしたのはひとえにそれゆえ――」
「はいはいわかりました、今は時間がないんですから。それでどうします? 突撃《とつげき》しますか? しないんですか?」
「もちろん突撃ですわ!」
声をふるって号令《ごうれい》し、振り上げた腕をまっすぐに振り下ろした。
同時に、本丸を固く閉ざしていた巨大《きょだい》な門扉《もんぴ》が派手《はで》に吹き飛ばされ、煙幕《えんまく》と閃光弾《せんこうだん》が撃ち込まれ、完全|武装《ぶそう》した北条家の私兵《しへい》が一気になだれ込み、さらには各所に配置《はいち》していた陽動《ようどう》部隊が複数同時に動き始め――堰《せき》を切った水の塊《かたまり》のようにあらゆる事象《じしょう》が一気に動き出す。
麗華も黙《だま》って見てはいない。戦闘《せんとう》行動《こうどう》にこそ参加していないものの、実戦部隊にまじって果敢《かかん》に前へ前へと進んでいく。いわば大将《たいしょう》格《かく》である彼女が自《みずか》ら前線《ぜんせん》に出て動き回ることが望《のぞ》ましくないのは承知《しょうち》しているが、居《い》ても立ってもいられないのだ。
先ほど保坂には栄養ドリンク云々《うんぬん》でごまかしたが、拉致された峻護の身を彼女が案《あん》じていないわけはなかった。あの京都の一日以来、食事は何も喉《のど》を通らなかった。不眠不休で働いたというのもより正確にいえば、心配のあまり軽度《けいど》の不眠症《ふみんしょう》におちいって仮眠《かみん》すら取るに取れず、頭と身体を動かすことに没頭《ぼっとう》するしかなかったのだ。
そして今この時点になっても『敵』の正体は不明瞭《ふめいりょう》なまま、峻護の安否《あんぴ》もいまだ知れず。麗華がつい焦《あせ》りがちになるのも無理のないことではあった。
保坂としのぶを両脇《りょうわき》に従《したが》えて、麗華は城の奥へ奥へと駆《か》ける。甲冑《かっちゅう》の居並ぶ回廊《かいろう》を駆け、大理石の柱が林立《りんりつ》するホールを突っ切り、豪奢《ごうしゃ》な調度《ちょうど》をそろえたサロンを横切り――部下たちが制圧《せいあつ》していく各フロアを次々と踏破《とうは》してゆき、
「抵抗は皆無《かいむ》ですね。みんな逃げちゃったのかな?」と保坂。
「それならそれで好都合《こうつごう》。二ノ宮峻護の所在《しょざい》は?」
「いまだ不明。ですが――」しのぶが耳元の無線機《むせんき》でやりとりしながら、「本丸の制圧はほぼ完了。残るは最上階の一室のみとのこと」
「ならばそこですわね」
両足を回転させる速度をさらに上げ、麗華は最上階に向かう。
階段を駆け上がった先、展望台《てんぼうだい》のようになっているらしき部屋の前に武装《ぶそう》した部下たちが集結《しゅうけつ》しているのが見え――直後、彼らが扉《とびら》を破って突入するのを見た。
一秒。
二秒。
三秒たっても交戦《こうせん》の気配《けはい》は皆無《かいむ》と見るや、最後の力を振り絞《しぼ》って麗華は扉の中に駆け込んで、
「二ノ宮峻護! いま助けに――」
そして一歩足を踏《ふ》み入れた途端《とたん》、目と口をまん丸にあけた。
「あら麗華ちゃん。ひさしぶりね」
「やあ麗華くん、ちゃんと息災《そくさい》にしていたかね? わざわざこんなところまで僕らに会いにきてくれるとは、いやいや実に喜《よろこ》ばしい。大いに歓迎《かんげい》するよ」
ひときわ贅《ぜい》を尽くした部屋で、日向《ひなた》ぼっこをする猫のように伸び伸びとくつろいでいたのは。
消息不明《しょうそくふめい》になっていたはずの、二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》であった。
「あ、あなたたちどうしてここに!?」
「客分として世話になっている――というのはまあ建前《たてまえ》かな。実質的に、僕らふたりはここに幽閉《ゆうへい》されていると思って差《さ》し支《つか》えない」
ひとりでチェスをしながら美樹彦が容易《ようい》ならぬことを口にする。
「幽閉ですって? いったいどういう――」
「そのまんまの意味よ」
ブランデーグラスを舐めていた涼子がいつものトーンで、「この城の主《あるじ》に『あること』を交渉《こうしょう》してたんだけど……その結果、ここでこうしているわけ。『あのひと』の機嫌《きげん》をそこねたわけでも、交渉が決裂《けつれつ》したわけでもないんだけどね」
「『あのひと』? 『あること』?」
状況《じょうきょう》が飲み込めない麗華を横目で見つつ、涼子はちいさく吐息《といき》して、
「麗華ちゃん。こういう作戦行動を起こす時はね、まずはターゲットの所在を明確にしないと。こんなのは初歩中の初歩、わたしに言われるまでもないことのはずだけど……峻護が絡《から》むとどうもいけないわね、ま、『あのひと』が所在《しょざい》を特定させないよう、いろいろ手を打っていたんでしょうけど」
「ちょ、ちょっとお待ちなさい。ちょっと状況の整理《せいり》を――」
したり顔で説教《せっきょう》する涼子を押しとどめ、拳《こぶし》でしばらくコメカミをグリグリしてから、
「――二ノ宮峻護は? 二ノ宮峻護はどこです?」
「いないわよもちろん。ここに来てすらいないわ。麗華ちゃん、あなたはまんまと嵌《は》められたわけ」
令嬢は、今度こそ愕然《がくぜん》とした。
「じゃあ――だったら二ノ宮峻護はどこに?」
「出国したと見せかけてそのまま留《とど》まっているんでしょうね。『あのひと』といっしょに。ま、彼女らしい一種の茶目《ちゃめ》っ気《け》よ。まんまと手玉に取られたわね麗華ちゃん……あーこら待ちなさい。今から戻っても意味ないわ」
きびすを返して駆け出そうとした令嬢を押しとどめ、
「意味もないし、変に手を出されて状況をややこしくされるのも困るわけ。『あのひと』をどうにかこうにかして引っ張り出したのはわたしたちなんだから」
「……どういうことなの? 状況を説明なさい」
「ええそのつもりよ。それだけの時間も十分にあるわ」
涼子は「よっこらせ」とらしくない声を出しながら立ち上がり、それとともに美樹彦もチェスを止めて身なりを整《ととの》え始める。
「…………」
その様子を見ながら麗華は戸惑いの感情を隠せないでいた。
二ノ宮涼子に月村美樹彦。
このふたりの男女はこんな角のない、丸い性質の人物だっただろうか? 今の彼らはまるで、深山幽谷《しんざんゆうこく》に隠遁《いんとん》して霞《かすみ》を食いながら暮《く》らす仙人《せんにん》のような、どこか達観《たっかん》した表情をしているような気がする。まるで人事《じんじ》を尽《つ》くして天命《てんめい》を待ってでもいるような……。
そもそもこの両名《りょうめい》、幽閉されたからといって大人しくされるがままになっているようなタマだったろうか。彼らは色々な意味で規格外《きかくがい》の人物であり、その気になればこんな城くらい鼻でもほじりながら脱出《だっしゅつ》し、海を泳《およ》いで渡って帰国するぐらいのことはやってのけるはずである。
「さ、それじゃそろそろ出発しようかしら。道々のんびり観光《かんこう》でもしながら帰国するとしましょう。麗華ちゃんもいろいろ訊きたいことがあるでしょうけど、それは家に戻るまでの間においおいね。わたしたちからもあなたに訊きたいこと、話さなきゃいけないこともあるし」
「なあに心配せずともいいさ麗華くん。帰国すれば峻護くんにはちゃんと再会できると思うよ。彼にはその程度の力量《りきりょう》は期待《きたい》してもいいはずだからね」
「……その前にひとつお聞かせなさい」
保坂としのぶ、そして並み居る部下たちを尻目《しりめ》に部屋を出ようとするふたりを、まるで睨《にら》みつけるように見据《みす》えながら、
「そもそも『あのひと』とは何者なのです? このわたくしをコケにし、あなたたちが一目《いちもく》置いているらしい人物――この城の主で裏世界の住人で、いかにもいわくありげなうさんくさい人物は?」
「ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタイン」
やや投げやり気味《ぎみ》に涼子が答え、さらに美樹彦がつづける。
「欧州《おうしゅう》血族《けつぞく》の盟主《めいしゅ》にしてもっとも傑出《けっしゅつ》した神戎《かむい》。この世をまるごとぶっ壊《こわ》せるくらいの影響力《えいきょうりょく》をもち、同時に僕たちが抱《かか》えている問題をまとめて解決《かいけつ》するカギになってくれるかもしれない女性《じょせい》だよ」
*          *          *
日が暮れる。
広い二ノ宮家にひとり残された月村|真由《まゆ》の足元《あしもと》に、夕闇《ゆうやみ》の気配が無遠慮《ぶえんりょ》に忍《しの》び寄《よ》りつつあった。
開け放《はな》したバルコニーにぼんやり立って、赤い太陽が落ちていく様子《ようす》をぼんやり眺めながら、真由は何をずるでもなくぼんやりとそこにいる。
ニュースでやっていた『世界のお天気』によれば、今日のヨーロッパはほぼ全域《ぜんいき》にわたって晴天《せいてん》だという。地球の裏側に飛んだ麗華もまた、かの地でこんなあざやかな夕焼けを眺めることになるのだろうか――そんな益体《やくたい》もないことを考えながら。
(…………なにもできなかったな)
京都は八坂神社のあの日から三日がたった。
豆粒《まめつぶ》のように小さくなりながら天に消えていった峻護の姿《すがた》が、今も目の奥《おく》に焼きついている。
(なにもできなかった)
無力《むりょく》だった。
でも麗華はそうではなかった。烈火《れっか》のごとく怒《いか》り、すぐさま行動を起こした。
もちろん真由は願い出た。自分も連れていって欲しい、峻護を助けにいきたい、と。
しかし麗華の反応《はんのう》はすげなかった。
べつに意地悪《いじわる》をされたわけではない。「足手まといですわ」という彼女の返答は至極《しごく》もっともで、真由は納得《なっとく》して引き下がるしかなかった。事実、足手まといどころかアキレス腱《けん》になりかねないことは自覚していたのだ。いましばらく前の自分であったら少しは働きらしいこともできたかもしれない。でももう無理《むり》だった。今の自分では[#「今の自分では」に傍点]。
(だめだなあ、わたし)
あたかも真由の心象風景を鏡映《かがみうつ》しにしたかのように、夏の風景は暗い茜色《あかねいろ》に黄昏《たそがれ》ていく。冷え切らない生ぬるい風が肌《はだ》をぬるりと撫《な》でる。迷《まよ》い込んできた小虫が顔の周りを飛び回り、しかしそれを払《はら》いのける気力もない。
(うう……だめだめ、こんなんじゃほんとにだめだ……)
ぶんぶん首を振り、どうにか気力を奮《ふる》いたてようと試《こころ》みる。ひとりでいるからなおさらダメなのだ、とは思う。こんな広い家にひとりで居ては気が滅入《めい》る一方だ。でもだからといって、綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》のような友人に頼ったところでやっぱりダメなのだとも思う。そういうことではこの状況は解決しない、その程度は真由もわかっているのだ。
(こんな時は――)
ふと思う。
こんな時、もし自分が呼べば『彼女』は現《あらわ》れてくれるのだろうか。
無理《むり》だろうな――と真由は自分の考えを言下《げんか》に否定《ひてい》する。真由の内にいる『彼女』は真由が呼ばないかぎり決して出てこないが、同時に真実《しんじつ》切迫《せっぱく》した状況でなければ出てきてくれないのである。たとえば以前、霧島しのぶによって二ノ宮家が襲撃《しゅうげき》された時のような、ああいう状況でもなければ。
『彼女』であればきっと、こんな情《なさ》けない自分にはできないことを、まるで麗華のように軽々とやってのけるだろうに――と思った時、ここ三日のあいだ真由の脳裏に根を張っていたとある疑問《ぎもん》がふたたびうずき出した。
自分が呼ばない限り決して表に出てくることのなかった『彼女』が、自らの意思《いし》で表に出てきたことについてである。
修学旅行の京都、峻護が上空より拉致《らち》されたあとの鴨川《かもがわ》河畔《かはん》。
麗華によって呼び出されて出向《でむ》いたあの場所で、初めて『彼女』が自らの意思で表に現れたのだった。
なぜだろう?
表に現れるどころか、呼びかけても答えることさえ滅多《めった》にない『彼女』が、、どうしてあの時だけ)細長い穴《あな》ぐらに住まう夜行性《やこうせい》の魚のように真由の中でじっと身を潜《ひそ》め、ともすれば気配《けはい》さえ感じさせない『彼女』がどうして?
――白昼夢《はくちゅうむ》のような出来事だった、と思う。
ひとつには、「彼女」が表に出て何をしていたかわからないからだ。『彼女』が表に出ている間、真由の時間はいわば停止しているも同然となり、一切の記憶《きおく》が空白《くうはく》状態《じょうたい》になるためである。
そしてもうひとつには、麗華が『彼女』のことを何ひとつ覚えていなかったことがある。真由の時間がふたたび回りだしたあとで何があったか訊いてみたのだが、麗華は「何をボケたこと言ってるのかしらこの小娘は」という顔をするばかりであり、むろん嘘《うそ》をついているとかはぐらかしているわけでもなさそうだった。まるで『彼女』が表に出ている間の記憶を真由が持ち合わせていないのと同様に、麗華もまたその間の記憶を喪《うしな》っているかのようだった。
むろん一連の事情《じじょう》を『彼女』に間い掛けても返答はない。深海《しんかい》に住まう貝みたいに沈黙《ちんもく》するのみである。
そもそも『彼女』は何者で、一体いつから真由の中にいたのか?
物心《ものごころ》ついたころから――というのはつまり真由の場合、十年前よりこちらの期間を指《さ》すわけだが、そのころから『彼女』はずっと居て、そして十年間ずっと心の片隅《かたすみ》で木石《ぼくせき》のように息を潜めていたのだ。
『彼女』についてわかっていることは多くない。ひどく控《ひか》えめな存在《そんざい》であり、害意《がいい》に類《るい》するものはまったく感じないこと。そして『彼女』がもうひとりの月村真由[#「もうひとりの月村真由」に傍点]であるらしいということ。
それともうひとつ。『彼女』と関わることを、美樹彦も涼子も可能《かのう》な限《かぎ》り避《さ》けたがるということ。
いずれにせよ『彼女』は謎《なぞ》めいた存在のまま真由の中に居つづけ、そしてここ最近になって急激《きゅうげき》に影響力を増してきている気がするのであった。
いや、『彼女』の影響力が増しているというよりも、今ここにいる月村真由の存在そのものが薄れてきているのか[#「今ここにいる月村真由の存在そのものが薄れてきているのか」に傍点]……?
ぞっとする、しかし十分すぎるほどあり得る[#「十分すぎるほどあり得る」に傍点]想像に身を震《ふる》わせて、真由が己《おのれ》の身を掻き抱《いだ》いたその時。
ふいに何かの音が聞こえた。
中庭からエントランスにかけてのあたり。バタン、というドアを閉じるような音。この音は車のドアを閉じる時のそれか。
(お客さん…………?)
物思いを中断して玄関《げんかん》に出ると、鏡のように磨《みが》きぬかれた白い高級車と、その脇《わき》に立つスーツ姿の男が目に入ってきた。四十半ばの眼光鋭《がんこうするど》い壮年《そうねん》である。
「…………ふん。月村真由か」
男は真由が玄関から出てきたのを見るや、苦々《にがにが》しく顔をゆがめ、
「顔も見たくはない相手だが、まあいい。邪魔《じゃま》さえしないのであればそこにいても構《かま》わん。おまえに用があるわけではないし、今の私は機嫌《きげん》がいいのでな」
「え…………?」
どうやらこの男、自分のことを知っているらしい。いったい誰《だれ》だろう? 記憶に間違いがなければ初対面《しょたいめん》のはずだが。
男は真由に一瞥《いちべつ》をくれただけであとは黙殺《もくさつ》し、
「私以外の十氏族《じゅっしぞく》は京都で自滅《じめつ》、二ノ宮涼子と月村美樹彦はもはや退場したも同然。この国の覇権《はけん》はほどなく掌握《しょうあく》することになるだろう。……それにしても麗華のやつめ、二ノ宮峻護が関わるとどうもおてんばになっていかん。止める間もなく勝手に動き回りおって……だからあれほど関わるなと警告《けいこく》したというのに……」
聞き取りにくい声でぶつぶつひとり呟《つぶやく》く男を、真由はきょとんとした顔で見つめるしかない。いったいこの男は何者なのか……その悠揚《ゆうよう》たる態度《たいど》といい、痩身《そうしん》ながら周囲を圧倒《あっとう》する貫禄《かんろく》といい、ひとかどの人物であろうことは一見して知れるのだが。
「む。来たな」
ひとりごちていた男が短く言って上空を見上げた。
釣《つ》られて首を上に向けた真由の耳に、急速に近づいてくる何かの音が耳に入る。
そしてその音が轟音《ごうおん》に類《るい》するものであることに気づいた時にはもう、轟音の源《みなもと》になっているそれ[#「それ」に傍点]は目の前に迫《せま》っていた。
「え――――」
ヘリである。
茜色《あかねいろ》から群青色《ぐんじょういろ》へと染《そ》め分けられつつある空から、夕闇《ゆうやみ》の中でもくっきり浮かびあがる鋼鉄《こうてつ》の巨体が、衝撃波《しょうげきは》にも似《に》た爆音《ばくおん》をとどろかせて、真《ま》っ直《す》ぐこちらにむかって下りてくるのだ。
初めてこの二ノ宮家にやってきた時も同じ光景を見たような、と暢気《のんき》に考える意識《いしき》と、なんだかわからないけどとにかくまずいことが起こり始めてるからなんとかしなくては、と焦《あせ》る意識と。ふたつがごっちゃになって混線《こんせん》し、結局はただ唖然《あぜん》と、真由は風を逆巻《さかま》いて近づいてくるヘリを見上げている。
耳をつんざく爆音に比《ひ》して、へリはひどくやわらかく、ふわりと庭の真ん中に着地した。
庭木を派手にしならせるプロペラを回転《かいてん》させたままヘリのハッチが開く。
中から姿を現したのは、ぞっとするほど目鼻立ちの整《ととの》った金髪《きんぱつ》の少女。
「…………っ」
胸騒《むなさわ》ぎが、した。
脳裏《のうり》にある警報《けいほう》装置《そうち》に真っ赤なシグナルが点《とも》る。この少女は只者《ただもの》ではなく、そして限りなく危険《きけん》な存在であると。
貴族《きぞく》風ドレスの裾《すそ》をプロペラの風になびかせながら、少女はつかつかと歩み寄ってくる。敵意《てきい》はない。だがいつ敵に回ってもおかしくなさそうな、そんな紙《かみ》一重《ひとえ》の雰囲気《ふんいき》がある。
「やあ、遠路《えんろ》はるばるようこそお越《こ》しくださいました、殿下《でんか》」
じわりと染《し》み出てくるような緊張《きんちょう》が場に満ち始める直前。
伸びやかな声を出したのは、いまだ何者とも知れぬ例の男であった。
男は客人《きゃくじん》を迎《むか》えるように少女のそばへ歩みより、優雅《ゆうが》に、そして自信に満《み》ち溢《あふ》れる挙措《きょそ》で一礼《いちれい》し、真由に見せたそれとは雲泥《うんでい》の差の愛想《あいそ》よさで笑いかけ、
「かねてからのお話どおり事は運び、現在この国の政治および経済はほぼ、私の手によって管轄《かんかつ》されております。殿下におかれましてはこのたびにおげる数々のご協力、まことに感謝《かんしゃ》の至り。つきましてはお疲れのところ恐縮《きょうしゅく》ではありますが、我々《われわれ》の今後に関しましていくつか打ち合わせておきたく――」
「下がれ下郎《げろう》」
高原の清水《しみず》のように澄《す》んだ高い声が朗々《ろうろう》と響き、男のセリフを両断した。
貴様《きさま》の思惑《おもわく》などに興味《きょうみ》はない。むろんこの国での覇権《はけん》とやらにもだ。折《おり》を見て沙汰《さた》するゆえ下がっておれ」
まるでそれ自体が音楽として成立しているかのような声は、ヘリの爆音をものともせずに響きわたり、同時に男の平常心《へいじょうしん》をよほど深刻《しんこく》にえぐり抜いたようだ。傑物《けつぶつ》には違いないはずの男がたちまち笑顔を硬直《こうちょく》させ、次の瞬間《しゅんかん》には愕然《がくぜん》たる面持《おもも》ちでくちびるをわななかせて、
「で、ですがそれでは……我々は仮にも同盟《どうめい》関係を結んだ間柄《あいだがら》であるはず、であればもう少しそれなりの対応を――」
「同盟?」
140センチにも満たぬ身《み》の丈《たけ》しかない少女の冷笑《れいしょう》が、自分の四倍ほども人生を経験《けいけん》していそうな男をふたたび圧倒する。
「もちろん働きには相応《そうおう》の報《むく》いをしよう。だがこの程度《ていど》のことで対等の同盟などと思い上がるな。貴様など駒《こま》のひとつに過ぎんことを、それもさして面白《おもしろ》みのない駒でしかないことを自覚せよ」
一種の貫禄、であったろう。
いまだ名前もわからぬスーツ姿の男など足元にも及《およ》ばぬ。遺伝子《いでんし》レベルから根本的《こんぽんてき》に次元が違うのだ、と思わせる何かを、この西洋人の少女は持っていた。
「あ……う……」
容赦《ようしゃ》ない喝破《かっぱ》に、男は茫然《ぼうぜん》自失《じしつ》として言葉もない。
少女はそのまま男の脇を通り過ぎ、展開《てんかい》についていけない真由の前に立つと、
「貴様がツキムラマユか?」
「えっ? あ、ええとはい、そうです、月村真由で――って、あああああああああっ!?」
最後の叫《さけ》び声は少女に対してのものではない。そのうしろ、ヘリの中から遅れて姿を現した人物に向けられたものである。
たった三日ぶりなのにひどく懐《なつ》かしく思える人。同時にまさかよもやこんなところで、こんなあっさりと再会できるとは露《つゆ》ほども思っていなかった少年。
「に、二ノ宮くんっ!?」
どことなく決まり悪そうな様子でこちらに向かってくるのはまさしく、京都において想像外の手段により拉致《らち》された二ノ宮峻護に間違《まちが》いなかった。
「ど、どうしたんですか? 今までどこに!? どうしてここに!? 何かひどい目にあったりしてま――」
「シュンゴの話はあとだ、ツキムラマユ。こちらを向け」
金髪の少女が無遠慮《ぶえんりょ》に真由の言葉をさえぎる。そのうしろに控《ひか》えた峻護が両手をあげて『だいじょうぶ。だいじょうぶだから』とでも言いたげなゼスチャーをしてみせ、その表情も顔色もさしてだいじょうぶなようには見えなかったものの、それでもひとまず彼の無事を確認《かくにん》した安堵《あんど》にほっと一息ついたところで。
峻護の両目が驚愕《きょうがく》に見開かれ、その口が馬鹿《ばか》みたいにあんぐりと開けられた。
そしてそれより一足先に、真由の全身は瞬間《しゅんかん》冷凍《れいとう》したように硬直している。
「ふむ、なるほど」
金髪の少女はあたかも学究のような冷徹《れいてつ》さをアイスブルーの瞳《ひとみ》に湛《たた》えて、
「貴様も奇妙《きみょう》な精気《せいき》をしているな、ツキムラマユ。これはいったい何だ? 神精《しんせい》ではない、とは思うが……いや、やはりそうなのか? どこかしらシュンゴに通じるものもあるような……ふうむ」
少女は何やら思案《しあん》しているようだが、真由はそれに反応することはできなかった。相手が思案に没頭《ぼっとう》しているから声をかけるのを遠慮《えんりょ》した、などということではない。もっと別の、きわめて深刻《しんこく》な理由が真由の全身の毛を逆立《さかだ》て、がんじがらめにしているのだ。
『深刻な理由』は今もなお、もぞもぞと動き回っている。
真由のスカートの中で。
いやもっと正確に言えばスカートの奥の布切《ぬのき》れの、そのまたさらに奥で。
「しかも貴様、処女ではないか。話には聞いていたが……おどろくというか呆れるというか。貴様も神戎《かむい》の端《はし》くれであろうに」
言いつつ、少女はさらに大胆《だいたん》な動きでまさぐりをかけた。自らの右手を真由の肌着《はだぎ》の奥の、言葉にするのが憚《はばか》られるような場所に突っ込んで。
あまりに唐突《とうとつ》な、あまりに無遠慮な行為《こうい》だった。
あまりにあんまりな事態《じたい》に、真由も峻護も反応らしい反応ができず、ただ無為《むい》無策に、少女の暴挙《ぼうきょ》にされるがままになっている。
「よかろう。興味が湧《わ》いた」
さんざん思うさまに蹂躙《じゅうりん》したあと、少女は表情を変えぬままひとつ頷《うなず》いて、
「しばしこの屋敷《やしき》に逗留《とうりゅう》する。ギュンターとシャルロッテはしばし遅れるゆえ、その間は諸事《しょじ》、貴様が取り仕切れ。よいなシュンゴ?」
言い置いて、返事も待たずに少女はつかつかと二ノ宮|邸《てい》の中へと歩いていく。何事もなかったかのように、どこまでも泰然《たいぜん》と。
それを見届けたヘリが相変わらずの爆音をとどろかせて上空に舞《ま》い去《さ》り――
そこでようやく真由はよろよろとくずおれ、しくしく泣き始める。硬直《こうちょく》の解けた峻護があわてて同居人《どうきょにん》に駆《か》け寄《よ》る。その横ではなにやら燃えつきた様子で、いまにも真《ま》っ白《しろ》な灰《はい》になって崩《くず》れ去りそうな様子の、いまだ名前も名乗れていない男。
――ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインはおよそこのような形で二ノ宮家に襲来《しゅうらい》し、あいさつ代わりの一撃《いちげき》をぶちかましたのであった。
とにかくこういう人なのだ――と、さめざめ落涙《らくるい》する真由をなだめながら峻護はあらためて理解を深めた気分だった。
ド派手《はで》かつまったく無益《むえき》な演出《えんしゅつ》こみで峻護をさらい、彼の精気を思うさまに味わい尽くしたサキュバスの姫君[#「彼の精気を思うさまに味わい尽くしたサキュバスの姫君」に傍点]は、まったくもってこういう人物なのである。
ここ数日のあいだに降りかかった災難《さいなん》の数々を、峻護は苦りきった気分で思い返す。
真っ先に浮かぶ映像はやはり、拉致された飛行船の内部にしつらえられた瀟洒《しょうしゃ》な部屋での出来事《できごと》。
否《いや》も応《おう》も無く、まったくの不意打《ふいう》ちで、強奪《ごうだつ》というより陵辱《りょうじょく》と呼ぶべきレベルで奪《うば》われた己《おのれ》のくちびるに残る、気《け》だるい甘《あま》さの感覚と共にそれは再生される……。
「――なるほど。確かに面白い」
ねっとりと半透明《はんとうめい》の糸を引きつつようやく峻護のくちびるを解放《かいほう》し、人形じみた容姿《ようし》の少女はほんのわずか頷《うなず》いて、
「極上《ごくじょう》のコンソメを思わせる精気だな。一流のシェフがつきっきりで仕上げた清澄《せいちょう》きわまるスープのような……シンプルで自己《じこ》主張《しゅちょう》せず、それでいてどこまでも奥深い。だがしかし……」
呆然《ぼうぜん》として言葉もない峻護には構《かま》わず、少女は細いあごに手を当てて、
「これが果たして神精《しんせい》かと言われれば疑問符《ぎもんふ》がつく。予《よ》自身、実際に神精を味わった経験《けいけん》があるわけではないが……至上《しじょう》無比《むひ》であるはずの神精にしてはどこか欠《か》けたものがあるような気がしてならぬ。しかしそれでいて神精と断《だん》ずるに足《た》る要素《ようそ》も確かにあるような……なるほど、リョウコやミキヒコも判断に悩むところであろうな」
「――――えっ」
聞きなじんだふたつの名に、峻護はようやく麻痺《まひ》状態《じょうたい》から解き放たれて、
「姉さんや美樹彦さんを知ってるのか? 君はいったい……」
「予はヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタイン。ニノミヤシュンゴよ、まずは無駄《むだ》な足掻《あが》きや無益《むえき》な抵抗《ていこう》をせぬよう、今のうちに貴様《きさま》を縛っておく[#「縛っておく」に傍点]」
床《ゆか》に座《すわ》り込んだままの峻護を蒼色の瞳で見下ろし、
「予はリョウコとミキヒコの依頼《いらい》を聞いてこの国へ来た。ツキムラマユなる娘《むすめ》の命を救うためにな」
「えっ!?」青天《せいてん》の霹靂《へきれき》な言葉に峻護は目を見開いて、「月村さんの? 姉さんと美樹彦さんの依頼で? どういうことだ!?」
「無用の反問《はんもん》をするな」
刃のような声で命じられ、ほとんど反射的に峻護は沈黙する。
「どうせ貴様にはまだ十分な判断を下すだけの情報がそろっておらんのだ。まずは黙《だま》って聞け。依頼は聞いたが引き受けると決めたわけではない、ツキムラマユとやらの命が惜《お》しいならもう少し注意深く行動することだな」
言い方こそ高圧的《こうあつてき》ではあったが、少女の言葉には一理《いちり》あった。そしてそれ以上に、彼女の言葉には相手を強引《ごういん》にでも頷《うなず》かせるだけの何かがあったのだ。
そうしていったん頭を冷やし、自分を見下ろしてくる少女をあらためて見直して――
途端《とたん》、全身が総毛立つ感覚に襲《おそ》われた。
(な……なんだ!? 何者だこの子……!?)
化《ば》け物《もの》だ、と思った。
すうっと血の気が引いていく感覚と、魂《たましい》の奥底から侵食してくるような戦慄《せんりつ》。
容姿《ようし》の幼《おさな》さに騙《だま》されていたのだろうか? 今の今まで気づかなかった自分を呪《のろ》うしかない。峻護が普段から頭の上がらない涼子や美樹彦と比《くら》べても雲泥《うんでい》の差だった。まさしく段違《だんちが》い、化け物としか言いようがない。そういうオーラを少女は纏《まと》っていた。たとえ腹を空《す》かせた猛獣《もうじゅう》と一緒に檻《おり》の中に居たとしてもこれほどの戦慄は味わえまい。
あるいはごく普通の人間からすれば、彼女のことを自我《じが》がやたらと肥大《ひだい》したワガママなお子さまとしか見なさないがもしれないが……それなりに修行を積んでいる峻護から見れば、まるで年|経《へ》た巨木か風雪に耐《た》えた巨岩と対峙《たいじ》しているかのようなプレッシャーを覚えるのだ。
もはや存在そのものの質からしてちがう。
ただひたすらに巨《おお》きく、畏《おそ》れ多い。
唯一《ゆいいつ》救いなのは、彼女が決して峻護に害意《がいい》や敵意《てきい》を向けているわけではないことである。
傲岸不遜《ごうがんふそん》にはちがいないがこの少女、芯《しん》の部分では残虐《ざんぎゃく》でも無慈悲《むじひ》でもなさそうであった。冷徹《れいてつ》さと同時にそのアイスブルーの瞳は極《きわ》めて理性的《りせいてき》な光をたたえ、少女の高い知性と自律心《じりつしん》に富《と》む精神を読み取ることができる。
とはいえ、ひとたび彼女の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れれば目も当てられぬ惨事《さんじ》になるのは必至《ひっし》だろう。注意深く行動せよと釘《くぎ》をさされたが、もはや言われるまでもなかった。彼女を無用に刺灘《しげき》するのは地雷原《じらいげん》を裸《はだか》で突っ切るよりも危険度《きけんど》が高い。
「さて、それでは手っ取り早い方法を採《と》ろうか」
沈黙《ちんもく》した峻護を見据《みす》え、少女は無造作《むぞうさ》に右手を伸ばした。
その小さな手を、峻護の額《ひたい》から頭頂部《とうちょうぶ》にかけて覆《おお》いをかけるように乗せる。
(…………?)
不可解《ふかかい》な行動に戸惑《とまど》ったのはしかし、ほんの一秒にも満たなかった。
「な――――!?」
転瞬《てんしゅん》、峻護の身体を異変《いへん》が襲《おそ》った。
もともと床に尻《しり》をつけていた姿勢が、それでも自重《じじゅう》を支えきれずにガクンと崩《くず》れる。少女の手が何らかの力をかけているわけではない、そもそも彼女の手はすでに峻護から離《はな》れている。にもかかわらず、あたかも歩いて地球を一周したあとのような脱力感《だつりょくかん》が彼を隅々《すみずみ》まで支配しているのだ。
「な、なに……を……?」
「どうだ? 精気をほとんど根《ね》こそぎ吸《す》い取られた気分は」
「!?」
ふたたび驚愕《きょうがく》が峻護を打《う》ち据《す》え、そして複数の事実に同時に気づかされた。
この少女もまた、サキュバスなのだ。
それもただのサキュバスではない。彼の知識《ちしき》によれば、異性の精気を吸い取ることのできるサキュバスであっても肌と肌が触れた程度ではそれも不可能であり、唯一《ゆいいつ》の例外が月村真由だったはずで、しかも真由は自らの能力をコントロールできず――
「さて、それでは返すぞ」
そう予告して、少女は先ほどと同じように峻護の頭へ手を乗せた。
「え――――」
再々度、峻護は息をのんだ。
少女の手が触れた途端、わずかに熱を伴《とも》った感触《かんしょく》があったとみるや、次の瞬間にはうそのように脱力感が消えうせていたのである。そればかりか一六歳の少年らしい活力が手の先足の先にまでみなぎっているではないか。
呆然と見上げてくる峻護に向かって少女はただひとこと、
「言ったであろう? 返すとな」
「…………」
今日はたぶん、何年分もの驚きをまとめて体験することになるんだろう――そんな予感を覚えながらも、峻護はナントカのひとつ覚えで驚愕していた。触れただけで精気を、生命エネルギーを根こそぎ吸い取り、それをふたたび元の持ち主に戻すなど……
「ど、どういうことです!?」
驚愕のショックから抜け出した拍子《ひょうし》に、峻護の口は底が抜けたバケツのように疑問を奔出《ほんしゅつ》していた。
「いったい何をどうやって!? サキュバスってそんな簡単《かんたん》に精気を抜いたり入れたりできるものでしたっけ? さっきあなたは月村さんの命を救うとか言ってたけど、そのことと何か関係がはぐうっ!?」
「貴様《きさま》は馬鹿か? それともマゾか?」
いまだかつて経験したことのない感覚が脳髄《のうずい》を直撃《ちょくげき》し、峻護に奇妙《きみょう》な声をあげさせた。
ドレスから伸びた少女の細い足が、彼の両足の付け根と付け根の間に押し付けられ、虫でも潰《つぶ》すようにぐりぐりと踏みにじっている。
「マゾならば遊んでやらぬこともないぞ? 警告したにもかかわらず予の手を無用に煩《わず》わせるからには、つまりそういうことなのであろう?」
ほとんど表情も声のトーンも変えず、傲慢《ごうまん》な少女は問《と》うてくる。絶対《ぜったい》零度《れいど》を宿《やど》すブルーアイは捕食者《ほしょくしゃ》の、あるいは絶対者のそれだった。
峻護は改《あらた》めて痛感《つうかん》する。この少女に逆らってはならないという極《きわ》めて単純なルールが、今の自分と彼女の間に横たわるすべてなのだと。
「……まあいい、貴様と遊ぶのは後回しだ」
嬲《なぶ》り倒《たお》していた足をのけて峻護にようやく一息つかせ、
「予の力は見ての通り。ここまで精気を自在《じざい》に扱《あつか》える者はこの地球上に何人もいまい。そこで先ほどの話のつづきだが……たとえば予がツキムラマユの師《し》となり、精気をあやつる方法を手ほどきできるとなれば、どうなるであろうな?」
「――――!」
ふたたびの驚愕であった。
もし事がそのように運べば、自らの力で精気を補給《ほきゅう》することのできない真由にひとすじの光明《こうみょう》が差すことになる。不自由な人生を強《し》いられている彼女は、今よりもっとずっと自由な人生を謳歌《おうか》することができるようになるだろう。
「まあツキムラマユを教うとして、実際にそういう手段を取るとは限らんがな。他にももっと有効な手段があるやもしれぬが、いずれにせよ手詰《てづ》まりになっているツキムラマユの現状を打破《だは》するためのきっかけぐらいは作れるであろう」
氷の瞳で無表情に峻護を見下ろしながら、
「予はかねてよりその件につき、リョウコとミキヒコより懇請《こんせい》を受けていた。とはいえ予は慈善《じぜん》活動家《かつどうか》にあらず、ましてツキムラマユとやらに何の義理《ぎり》も愛着《あいちゃく》もない。それゆえ予はリョウコとミキヒコに対価《たいか》を求めた。その対価として差し出されたのが貴様だ、ニノミヤシュンゴ」
「…………?」
「鈍《にぶ》い男だな。要《よう》するに売られたのだよ貴様は。ツキムラマユを救う治療費《ちりょうひ》の、いわば前金としてな」
これでとは別種の驚愕が峻護の脳髄を貫《つらぬ》く。
売られた?
二ノ宮涼子と月村美樹彦に?
愕然とする峻護を面白《おもしろ》がるように眺《なが》めながら、少女が補足する。
「まああまり絶望《ぜつぼう》されても面倒《めんどう》だからな、少しは救いを与《あた》えてやろう。より正確に言えば、貴様は売られたというよりも売らされた[#「売らされた」に傍点]、という方が近い」
「売らされた……?」
「そうだ。予がそう仕向けた」
氷の瞳にひらめくサディスティックな微笑《びしょう》。
「いずれにせよリョウコもミキヒコも予に頼《たよ》るほかないゆえ、どんな無茶《むちゃ》な条件でも呑《の》まざるを得なかったであろう。まああのふたりの尽力《じんりょく》は認《みと》めてやれ、そもそも予との謁見《えっけん》を叶《かな》え、何かを願い出るに至《いた》ること自体が稀《まれ》なのだ。そのためにやつらが払った労力《ろうりょく》は並大抵《なみたいてい》のものではないはずだからな」
「……姉さんと美樹彦さんは、今どこに……?」
「我が居城にてしばし骨を休めている」
ひどくざっくりした返答だったが、言葉どおりの意味でないことは想像《そうぞう》できた。おそらくはこの少女によって拘束《こうそく》されているのだろう。あのふたりの自由を奪《うば》うなどよほどのことだが、どちらにせよあのふたりから細かな事情を聞き出すのは今は無理なようだ。
「さて、おおよそ自分の立場は理解できたか?」
そう問われれば、戸惑《とまど》いながらも頷《うなず》くしかない。
「ではせいぜい上手《うま》く立ち回ることだ、ニノミヤシュンゴ。貴様は売られはしたが、それは貴様の価値《かち》を軽視《けいし》しているゆえではなくむしろ正反対なのだからな。リョウコもミキヒコも貴様の力量に期待し、賭《か》けている節《ふし》がある」
「おれの……力量?」
「未来を賭けたすべてのチップが貴様の両肩に乗せられたのだ、と理解せよ。救済《きゅうさい》されるかそれとも破滅《はめつ》を迎《むか》えるか――いずれも貴様の心がけひとつだ」
「…………」
どうやらとんでもない重荷《おもに》を背負《せお》わされたらしい。
いまだ細かい状況《じょうきょう》までは飲み込めていない峻護だったが、そのことだけは漠然とながら理解できた。むろんこの時はまだ、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインの言葉が真に意味するところまではわからなかったのだが。
「では貴様をほどよく縛《しば》ったところで、コトの続きをするとしようか」
くくく……とくぐもった声を鳴らしながら床に膝《ひざ》をつく少女。冷徹《れいてつ》さが鳴りをひそめ、代わってぞくりとするような艶《つや》っぼさが少女の瞳に、あるいはくちびるに宿《やど》って、
「罪《つみ》な男よな。神精《しんせい》であるかどうかの判断は置くとして、予ですらかつて経験《けいけん》したことのない極上《ごくじょう》の味であることは確か。この味をしめた女は貴様のシモベになるか、あるいは貴様をシモベにするか、二つに一つしかないであろうよ」
ぺろり
と、ぬらぬらした赤い舌で見せつけるようにくちびるを濡《ぬ》らす。
まだ十の歳をいくつも越《こ》えてないと見える少女の、淫靡《いんび》きわまる仕草《しぐさ》だった。
さすがの峻護も少女が何を意図《いと》しているのか察《さっ》して、
「むろん、抵抗《ていこう》して構《かま》わぬぞ?」
先回りした少女がくぐもった笑声を洩《も》らした。
「たまには狩《か》りをする楽しを味わうのも一興《いっきょう》だ、せいぜい死《し》に物狂《ものぐる》いで足掻《あが》くがいい。どのみち結果は同じであろうが、な」
あわてて腰《こし》を浮かそうとした峻護の動きがぴたりと止まる。
彼の瞳にひらめいた逡巡《しゅんじゅん》と苦悩《くのう》を読み取って少女は満足《まんぞく》げに目を細め、そして――
……げっそりした顔で力なく峻護は首を振る。
そこから先は思い出したくもなかった。
粗略《そりゃく》に扱《あつか》われたかといえば必ずしもそうではない。見た目の印象《いんしょう》どおり、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインはよほどの名士《めいし》であるようで、与《あた》えられる食事も寝床も常に極上のものだった。ギュンターとシャルロッテというふたりの執事《しつじ》から受ける扱いも貴賓《きひん》に対するそれであり、その慇葱《いんぎん》さがかえって居心地《いごこち》悪く感じるほどだった。
が、それはただそれだけのことだ。
金髪《きんぱつ》の少女がいみじくも宣言《せんげん》した通りであった。彼女が提示《ていじ》したふたつの選択肢《せんたくし》のうち、当然のごとく彼女は後者を採《と》ったのである。
具体的《ぐたいてき》に唆護はどういう扱いを受けたのか?
『骨の髄まで、皿の底まで、徹底的《てっていてき》に味《あじ》わい尽《つ》くされた。ただし貞操《ていそう》以外』――ここではそう表現するのみにとどめよう。もっとも貞操については守り抜いたというよりも、ただ単に金髪の少女がおいしい料理を最後まで取っておくタイブだったらしい、というだけのことで、彼女がその気になれば峻護の貞操などたちまち手折《たお》られることだろうが。
(それにしても……)
いまだにさめざめと涙をこぼしている真由の背中をぎこちなくさすりながら、峻護は途方《とほう》に暮《く》れる気分で思う。
いったいこれから自分は、具体的にどうするべきなのか?
状況《じょうきょう》はだいたい飲み込めたが、しかしこれでは主体的に動きようがないではないか。
すべてのカギを握《にぎ》っているのは金髪の少女ということで、彼女が動かなければ何も始まらないということらしくて――ではこのまま大人しく彼女のシモベになっていれば、いずれ彼女の気が向いて真由を救ってくれるのか、といえば、どうもそれは期待できそうにない。この数日でよくわかったが、能力はともかくとして、彼女にはそういう意味の能動《のうどう》さも勤勉《きんべん》さも親切心《しんせつしん》もなさそうである。
では彼女の支配《しはい》に背《そむ》けばいいのか? 『抵抗して構わぬぞ?』と言った彼女の言葉は真実《しんじつ》であろうが、それで不興《ふきょう》を買えば元も子もなくなるのは必至《ひっし》だろう。そもそも支配に背いたところでそのあとどうすればいいのか。あべこべに彼女を支配して言うことを聞かせるとか? 馬鹿《ばか》らしい、性質《たち》の悪い冗談《じょうだん》にもならない――
「くそッ、話が違うではないか!」
突然の罵声《ばせい》に物思いを中断し、峻護は声の主を振り向いた。
たった今まで燃えカス同然の顔で呆然《ぼうぜん》としていたスーツ姿の男が、鋭《するど》い容貌《ようぼう》を朱色《しゅいろ》に染《そ》めて芝生《しばふ》を蹴《け》り、
「こうなると戦略《せんりゃく》を練《ね》り直さねばならんか……ええい、よもやこれほど話の通じん相手とは、欧州の小娘|盟主《めいしゅ》が! もういい、奴《やつ》などは頼りにせん!」
「あ、あの…………」
その剣幕《けんまく》に引き気味になりながらも、峻護が何かしら声をかけたほうがいいだろうかと迷《まよ》っているうち、男は「むっ!?」と峻護のほうを向いて、
「貴様《きさま》ッ!? 二ノ宮峻護!」
「えっ?」
誰だろう。自分のことを知っているようだが、峻護の記憶《きおく》が確かであれば初対面の男のはずである。
「ええと、どちら様で?」
「貴様などに名乗る名は持ち合わせておらん!」
男はくちびるをひん曲げてそっぼを向き、白い高級車のもとへずかずか歩み寄ったかと思いきや『ぎゅるん!』と振り返って、
「いいか! 私の目が黒いうちは貴様などに娘は渡さんぞ! 覚えておけッ!」
指をずびしっと突《つ》き刺《さ》すようにして宣言《せんげん》し、車に乗り込んで走り去ってしまった。
「ええと――――」
まったく事情が飲み込めずに戸惑《とまど》う峻護。ヒルデガルトとも緊《つな》がりがあるようだったし、娘がどうこうとか言っていたが……いったい誰だったのだろう?
まあいい。大事の前の小事というやつで、今はあの男のことに関《かか》わっている場合ではない――と、彼の記憶を頭の片隅に押しやった時。入《い》れ替《か》わるようにして銀色の高級車が二ノ宮家の敷地《しきち》に入ってきた。中から出てきたのはタキシード姿の男女一組。白髪をオールバックにした穏《おだ》やかな面貌《めんぼう》の老紳士《ろうしんし》、ギュンター・ローゼンハイム。赤みがかった金髪《きんばつ》をサイドテールにまとめた少女、シャルロッテ・ローゼンハイム。いずれもヒルデガルトに忠誠《ちゅうせい》を尽くす執事《しつじ》であり、ふたりはどうやら祖父《そふ》と孫《まご》の関係であるらしい。
「お待たせいたしましたシュンゴさま。入用《いりよう》のものを仕入れるのに少々手間取りまして」
ギュンターが年輪《ねんりん》の太さと熟成《じゅくせい》された深みを思わせる微笑《びしょう》で詫《わ》びた。彼も彼の主人もそうだが、実に流陽《りゅうちょう》に日本語をあやつる。聞けば十か国以上の言語に通じているとか――どちらにせよ京都において奇想《きそう》天外《てんがい》な手段で峻護を拉致《らち》した張本人とは思えない、温和《おんわ》な人物だった。
「して、ヒルダお嬢《じょう》さまはどちらに?」
「あ、はい」峻護はあわてて指をさして、「今は家の中に」
「おや、それはそれは」
老執事は軽く目を見開くことで驚《おどろき》きを表現《ひょうげん》して、
「あまりお嬢さまのそばを離《はな》れない方がようございますよ、シュンゴさま。私めもシャルロッテもついておらぬ今、いかなる拍子《ひょうし》にお嬢さまがつむじを曲げられるかわかりませんからな」
「そ、そうでした」
ヒルダが――ヒルデガルトが二ノ宮家に逗留《とうりゅう》するとなれば、この家の住人である峻護がホスト役に立つほうが具合がよかろう。ましてや先ほど『諸事、取り仕切れ』と命じられている峻護である。根っから染《し》み付《つ》いた主夫《しゅふ》根性《こんじょう》で部屋の確保《かくほ》や食事の用意などに気を回しながら、「ほら月村さん。立てる?」ショックがいまだ収まらない様子の真由に肩を貸して、ふたりの執事と共に邸内《ていない》に入る。
ヒルダは玄関《げんかん》ホールに佇《たたず》んでいた。
品定めをするように首をぐるりと回して、「リョウコの趣味は悪くないな」と頷《うなず》いてから、
「まだべそをかいておるのか貴様」
じめじめ泣いている真由を見て眉間《みけん》にしわを寄せた。
「つくづく同情《どうじょう》を誘《さそ》わん奴《やつ》だな。予はいちおう貴様を救うためにここへ来たはずだが、貴様のような軟弱者《なんじゃくもの》を救ったところで何になるのか甚《はなは》だ疑問だ。貴様も我《われ》らの眷属《けんぞく》であろう? あの程度《ていど》のことで乱《みだ》れるな。恥《はじ》を知れ」
「それは――」
それはちょっとあんまりだ、と思った峻護が自分の立場も忘れて反諭《はんろん》しようとした時。
思わぬところから声が上がった。
「殿下《でんか》。その娘に関しましてはわたしにお任《まか》せ願《ねが》えませんでしょうか?」
老執事・ギュンターの後ろに控《ひか》えていた赤髪《あかがみ》の娘、シャルロッテだった。
峻護や真由とほぼ同じ歳《とし》にみえる彼女は、立場としては祖父の補佐役《ほさやく》、あるいは見習いといったところのようである。どちらかといえば口数の少ない、目立たないタイブの少女で、ここ数日の間に彼女の声を聞いたのは数えるほどしかない。
「ほう? お前の知り合いなのかシャルロッテ」
「いささか」
やや興味《きょうみ》を抱《いだ》いた様子のヒルダに短く慇懃《いんぎん》に答え、主の沙汰《さた》を待つ赤髪の少女。
(知り合いだって……?)
意外な思いと共に興味を抱いたのは峻護も同様だった。ほんのしばらく前にこの国に帰国した真由である。国内の知り合いということはあるまい。とすれば必然的《ひつぜんてき》に――
「いいだろう、お前に任せる。今は別にその娘に用もないからな」
許《ゆる》しを与《あた》えてからヒルダは真由を一瞥《いちべつ》し、ほんのわずかな間だけ思案《しあん》する空気を挟《はさ》んでから、
「ただしあまり無理をさせぬよう。それ以外は好きにしていい」
「ありがとうございます。殿下《でんか》」
うやうやしく一礼してから真由に向き直り、
「そういう次第《しだい》ですツキムラマユさま。今後しばらくあなたの身柄《みがら》はわたしが預かることになりましたゆえ、お心得《こころえ》くださいませ」
「うう……ぐすっ……え?」
べとべとに濡《ぬ》らした手の甲で涙を拭《ふ》き、ようやく顔を上げて。
自分に声をかけてきた少女を赤く腫《は》らした瞳で見て、ぽかんと口を開けて。
そして真由は五体すべてを使って『びっくり仰天《ぎょうてん》』の心を表現した。
「しゃ、シャルロッテさ――あわわわわわ!?」
まずは舌《した》のもつれるセリフ。
つづいて腰《こし》を抜かしそうになってすんでのところで踏《ふ》みとどまり、膝《ひざ》の笑う足でどうにかバランスを取ったあと、右に駆《か》け出そうとしてそちらにヒルダが居《い》ることに気づき、左に駆け出そうとしてそちらがホールの袋小路に当たることに気づき、けっきょくは踵《きびす》を返して家の外に向かって一目散《いちもくさん》に駆け出そうとして、
「ぎゃうっ!?」
襟首《えりくび》を掴《つか》まれてあえなく逃亡《とうぼう》に失敗《しっぱい》した。
「殿下の御前《ごぜん》です。見苦しいところのないようお願い申し上げます」
「あわわわわうあうああうあうあう……」
白昼に百鬼夜行《ひゃっきやこう》にでも出くわしたように目を自黒させる真由と、あくまでも泰然自若《たいぜんじじゃく》とした態度《たいど》を崩《くず》さないシャルロッテ。その対比《たいひ》に好奇心《こうきしん》を刺激《しげぎ》される峻護だったが、
「さてシュンゴよ。それでは期限《きげん》を切ろうか」
唐突《とうとつ》なヒルダの言葉に、否応《いやおう》なく意識《いしき》をそちらに向けさせられる。
「期限……というのは?」
「そんなことまでいちいち予が説明してやらねばならんのか? いやはや……」
冷笑を一閃《いっせん》させてから、射抜《いぬく》くような視線《しせん》で峻護を見据《みす》え、
「たしかに興味も湧《わ》いたし、こんな極東《きょくとう》の国まで出向きもした。神精であるやも知れぬという貴様の至上《しじょう》なる精気を堪能《たんのう》もした。だがこのヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタイン自《みずか》らが手を差し伸べるには、いまだ値《あたい》せぬ」
「はあ、値しませんか」
「とうてい足《た》りぬわ馬鹿者《ばかもの》。予は退屈《たいくつ》に倦《う》んではいるが、価値を見出《みいだ》せぬことに労力《ろうりょく》を割《さ》くつもりもない」
「じゃあ……どうすれば動いてくれるんです?」
「貴様《きさま》だよシュンゴ」
にやりと、ひどく攻撃《こうげき》的で挑発《ちょうつ》的な笑《え》みをヒルダは閃《ひらめ》かせて、
「貴様自身がその価値《かち》を示《しめ》し、対価《たいか》を支払い、而《しか》して予を動かせ。リョウコとミキヒコがそうしたようにな」
「価値を示して対価を……」
「簡単《かんたん》なことだ。貴様が予に認《みと》められるだけの男であることを証明《しょうめい》するだけでよい。方法は問わぬ。さすれば予は喜《よろこ》んで貴様の願いを聞き届けてやろう。期限は明日より三日。それを過《す》ぎれば永久《えいきゅう》に予の助力は得られぬものと心せよ」
「…………」
いや、そんな漠然《ばくぜん》とした課題《かだい》を出しておいて『簡単なこと』とか言われても。
戸惑《とまど》う峻護を面白《おもしろ》そうに眺《なが》めながら、ヒルダはさらに決定的な一言を投げてくる。
「ゆめゆめ忘れるなよシュンゴ。ツキムラマユを救えるかどうかは貴様の一身に掛かっているのだからな」
それを持ち出されると峻護としては弱い。
しかしわずかに三日である。そのわずかな時間のあいだに一体どれほどのことができるというのだろう。
「ええとすいません、ひとつ訊《き》きたいんですが」
こうなると当然、ミッションを成功させられなかった場合のことも考えておかねばならない。
「もし三日の間にあなたの要求《ようきゅう》を満たせられなかったら……どうなるんでしょう?」
「知れたこと。ツキムラマユを救う話は白紙に戻《もど》す」即答《そくとう》し、「だがそれだけでは足《た》りぬな」
紅《あか》い舌《した》でくちびるを湿《しめ》し、サディスティックな欲情《よくじょう》に瞳《ひとみ》を濡《ぬ》らして。
金髪《きんぱつ》の姫君は次のようにのたまったのだった。
「シュンゴよ、その時は貴様をシモベから性的な奴隷《どれい》に格下げし、死ぬまで搾取《さくしゅ》してやることとしよう。予の手をここまで煩《わずら》わせておきながらすべてを無駄《むだ》にした報《むく》いと心得るがいい。よいな?」
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其の二 Performance――試行錯誤――
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フランスはパリの北西部、シャンゼリゼ通りは世界的な知名度《ちめいど》を誇《ほこ》る高級《こうきゅう》商店街《しょうてんがい》である。
いまや世界に冠《かん》たる北条《ほうじょう》家《け》の令嬢《れいじょう》である麗華《れいか》にとってもおなじみの場所であり、この地に彼女がプロデュースしたブランドが本店を構《かま》えていることもあって、いわば自分の庭のような地であるといっていい。
むろん相応《そうおう》の愛着《あいちゃく》があるし、余裕《よゆう》さえあればショッピングなりマーケティング調査なりに時間を割《さ》くのもやぶさかではないのだが――
「ですが今はこんなことやってる場合じゃないでしょうッ!?」
燦々《さんさん》とパリの太陽が降《ふ》り注《そそ》ぐカフェの店内に、テーブルを打《う》ち据《す》える音と麗華の怒号《どごう》とが同時にひびいた。
「落ち看きなさい麗華ちゃん。周りのお客に迷惑《めいわく》でしょ?」
「これが落ち着いていられますかッ!」
ふたたびテーブルを割《わ》らんばかりの衝撃音《しょうげきおん》と跳《は》ね回る食器類。
たまりにたまった不平不満《ふへいふまん》がとうとう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》を引きちぎり、質量ともに膨大《ぼうだい》な怒気《どき》が今にもまき散らされようとしていた。
無理《むり》もないことではあった。白翼城《はくよくじょう》にて『徒労《とろう》』という二文字の意味をかみ締《し》めてから丸一日、状況《じょうきょう》が一ミリも前に進んでないのである。
いや進んでないだけならまだいい。より大きな問題は、前に進むための努力を何ひとつできていないことにあった。いまだ拉致《らち》されたままの|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》――彼を救出するために帰国することはおろか、連絡《れんらく》を取ることまで禁じられているのである。
「いったい何を考えているのですあなたたちは!? 二ノ宮峻護のことなどどうでもいいとでもいうの!?」
麗華の声は怒《いか》りを通り越《こ》して悲痛《ひつう》の色さえ帯《お》び、しかしそれでも二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》は顔色を変えない。
「落ち着きたまえよ麗華くん。我々《われわれ》としてもそうとしか言いようがないのがつらいところではあるが」
苦情《くじょう》を言いに来たギャルソンに迷惑料《めいわくりょう》を札束《さつたば》で渡しながら、美樹彦は眉《まゆ》をハの字にして、
「あのひとが――ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインが動き出したということは、状況が否応《いやおう》なく動き出すということでもある。それこそ怒涛《どとう》のようにね。ほとんど大自然の驚異《きょうい》と同じ。我々が手出ししてもあまり意味がないんだ。彼女という怒涛を招《まね》き寄せたのはこちら側でもあるし……」
「そんな抽象論《ちゅうしょうろん》はもうたくさんです。わたくしが聞きたいのは――」
「率直《そっちょく》に言って手の出しようがないのよ」
美樹彦に代わって涼子が応《こた》えて、
「あなたが考えているよりもっとずっとデリケートな問題なのよ、これは。余計な手出しをあの人は嫌うでしょうし、こうなった以上は運を天に任せるしかないの。あのお姫さまがわたしたちを幽閉《ゆうへい》まがいにしたのは、そういう意味も込みなんでしょうし。思い違いしないでもらいたいのはね麗華ちゃん、あのひとは別に敵《てき》ではないということ。それと同時に決して敵には回しちゃいけない相手だということも忘れないでちょうだいね」
「ふん、昨日からアノヒトアノヒトと馬鹿《ばか》の一つ覚えに繰《く》り返して……あなたたちはそれほどヒルデガルトとかいう女が恐いんですの? その女はそれほど偉《えら》い存在《そんざい》なのかしら?」
「恐いとか偉いとかいうんじゃなくて、強いのよ。ただ単純《たんじゅん》に」
あえて挑発《ちょうはつ》するように言った麗華に淡々《たんたん》と応えて、
「たとえばあなたの部下たちが無傷《むきず》でいられるのも、あのひとがそう望んだからよ。もしあのひとが本気なら、北条家の私兵《しへい》部隊《ぶたい》なんて白翼城にたどり着く前に殱減《せんめつ》させられているでしょうよ。あそこは欧州《おうしゅう》の神戎《かむい》たちのいわば総本山《そうほんざん》なんだから。もちろんわたしと美樹彦が全力であそこから脱出《だっしゅつ》を試《こころ》みたところで、失敗《しっぱい》するのがオチだったでしょうね」
「…………っ」
麗華とて人物を見る目は人並み以上にある。涼子がごく当たり前に事実を告《つ》げているだけだということは疑《うたが》うまでもなく知れた。『あのひと』とやらはそれだけ畏怖《いふ》し、頼《たよ》るに値する存在であるということか。
少し冷静《れいせい》になって思う。ここシャンゼリゼに立《た》ち寄《よ》った涼子と美樹彦は、店ごと買い上げる勢いで短時間のあいだに散財《さんざい》し、現地ではちょっとした時の人になっていた。先ほどから周囲の視線《しせん》が、騒《さわ》ぎを起こした麗華よりも涼子と美樹彦に向けられているのはそういうことだ。手ぶらなのはむろん、買ったそばから品物を片《かた》っ端《ぱし》に郵送《ゆうそう》しているためである。
そして麗華は今になってその可能性《かのうせい》に気づくのだ。
ふたりの買《か》い物欲《ものよく》にひたすら呆《あき》れていた麗華だったが……ひょっとしてあれは、このふたりのストレス発散《はっさん》の手段だったとは考えられないだろうか? そもそもストレスなど存在するのだろうかと疑われるほど人間離《にんげんばな》れした男女だったはずなのだが……。
「――ところでずっと気になっていたのですが」
令嬢《れいじょう》はあえて話題を転じて、
「昨日から何度か耳にしている『カムイ』とかいう言葉ですが。それはいったい何を指《さ》す言葉なのです?」
「ええそうね、それも話さなきゃいけないわね。どちらかというとそっちがわたしたちにとっての本題なんだから」
涼子は注意して見なければそれとは気づかないほど小さなため息をつき、ギャルソンを呼《よ》んでワインをボトルごと注文してから、
「でもその前に。わたしたちの方からもあなたに訊いておきたいことがあるのよ」
「訊きたいこと? なんです、言ってごらんなさい」
「ああちがうちがう、そうじゃないの」
わずかに苦笑してから、
「あなたじゃなくて、もうひとりのほう[#「もうひとりのほう」に傍点]。出てきてもらえるかしらね?」
「もうひとり……? っていったい何のこと――」
疑問の言葉を口にできたのもそこまでだった。
ふいに麗華の全身が硬直《こうちょく》したかと思いきや瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》がぼやけ、そのまま気を失《うしな》うようにしてふらりと前のめりに倒れかけて。
「……いつ呼ばれるか、とは思っていたけれど」
麗華の口から別人の声が――世の中のすべてを斜《なな》めから見ているような、どこか皮肉《ひにく》げな声が流れてきた。麗華の声であって麗華の声でない、まるで同じ楽器《がっき》で別の曲を弾いているような……
「まさかシャンゼリゼ通りの小粋《こいき》なカフェで呼ばれることになるとは思わなかったわ。ひょっとして何かの演出《えんしゅつ》でも狙《ねら》っていたりする?」
「いいえ。たまたま話の流れでそうなっただけ」
涼子は軽く首を振《ふ》ってから、
「初めまして、と言うべきかしらね?」
「別にどうとでも。わたしはずっと前からあなたを見、声も聞いているのだから、そういう意味では初めましてと言うべきではないけど。あなたからすれば直接《ちょくせつ》わたしを見、声を聞くのは初めてなのでしょう?」
「ええそうね、言葉遊びはこのくらいにしておきましょう」
涼子は表情を変えずに正面の少女を見据《みす》え、対照的にもうひとりの麗華は優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》みながら、
「それで? わたしに何を訊きたいのかしら?」
「京都であなたが何を話したか――」
喜怒《きど》哀楽《あいらく》を一切《いっさい》見せぬ、二ュートラルな表情と声で、問うた。
「もうひとりの真由《まゆ》ちゃんを引っ張り出し、彼女に何を吹き込んだかについて」
*          *          *
不条理《ふじょうり》だ、と思う。
かつて道理《どうり》にあわない目にはさんざん遭《あ》わされてきたし、逆にそういう境遇《きょうぐう》にもある程度《ていど》耐性《たいせい》がついてきて、近頃《ちかごろ》ではちょっとやそっとのことがあっても凹《へこ》まない程度には頑丈《がんじょう》になってきた――と思っていた。
しかしどうだ、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインが峻護にもたらしたこの不条理っぶりは。あの少女は絶対的《ぜったいてき》な力をほしいままに振るい、虐待《ぎゃくたい》に屈《くっ》しざるを得《え》ないような状況《じょうきょう》を峻護に押し付けているのだ。
しかもこれだけの目に遭いながら誰《だれ》も手を差《さ》し伸《の》べてくれないときている。こういう時に頼《たよ》りになるはずの涼子もこの際に限っては力添《ちからぞ》えを望めない。むろん、法や国家に保護を訴《うった》えても無意味だろう。相手はどうやら法も国家も超越《ちょうえつ》しているらしい、規格《きかく》外《はず》れの少女なのだから。
不条理――そう、まったくもって不条理な状況だ。
何度でも何百回でも繰《く》り返し、声を高らかにして言おう。不条理、不条理、不条理、ああ何たる不条理不条理不条理不条理か。
だが。
そんな立場に立たされてもなお。
いや、そんな立場に立たされているからこそ。
峻護はやらねばならない。ヒルダの望みどおり、彼女に認《みと》められるだけの男であることを証明せねばならない。あるいは証明云々は置いておくにしても、とにかく彼女が動いてくれるような状況を作り出さねばならない。自分が性的な奴隷《どれい》の身分に落ちるかどうかの瀬戸際《せとぎわ》であるし、なにより真由の将来が掛《か》かっているのだ。
峻護は覚えず拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。
男の矜持《きょうじ》、意地《いじ》、根性《こんじょう》、いずれもしかと目に焼き付けてやろうではないか。そしてヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインをぎゃふんと言わせてやろうではないか。
「よおし、見てろよ…………」
心の中だけでなく、声にも出して言ってみた。表情もそれらしくしかめてみせ、誰《だれ》にともなくやる気をアピールする。
そう、モチベーションはあった。かつてないほどそれは高まり、峻護の中でメラメラと燃《も》えている。ああ、今すぐあの傲慢《ごうまん》な女に目にもの見せてやりたい――
でも。
でもだけど、しかしどうやって?
「残念ながら、シュンゴさまのご期待《きたい》に添《そ》うことはできません」
グレーの瞳《ひとみ》に憂《うれ》いの色をのせて、ギュンター・ローゼンハイムは謝意《しゃい》を表《ひょう》した。
「たとえばシュンゴさまへの無体《むたい》な扱《あつか》いをお止《や》めいただけるよう、私めが説得《せっとく》するといたしましょう。もちろんその際、私は理《ことわ》の限りを説《と》いてお嬢《じょう》さまをお諌《いさ》めいたします。ですがお嬢さまは決してお聞きいれなさいますまい。なぜならその程度の理屈《りくつ》、あの方はとっくに理解されておられるはずだからです。それを承知《しょうち》でなお、あの方はあえて無理を通そうとしておられる。である以上、私としましてはそれ以上なにも申し上げることはできません」
――いま自分が立たされている苦境《くきょう》を打開《だかい》する妙案《みょうあん》がどこかにないか?
真っ先に白羽《しらは》の矢《や》を立てたのは、ヒルダの厚《あつ》い信頼《しんらい》を受けていると見られるギュンターだったのだが、峻護の思惑《おもわく》はあっさり外れる結果となった。老《ろう》執事《しつじ》はひどく申し訳なさげに、それでいてノータイムの即答《そくおう》で、峻護の依頼《いらい》を拒《こば》んだのである。
「何か方法はないんでしょうか?」峻護はなおも食い下がり、「別に説得とかじゃなくて何でもいいんです。彼女の気を変えさせることのできる何か――」
しかし老執事はかぶりを振る。
「巧言《こうげん》を用《もち》いて従《したが》える。カずくで従える。罠《わな》にはめて従える。――いずれを試したところで徒労《とろう》に終わるばかりか、かえってお嬢さまの不興《ふきょう》を買うことでしょう。率直《そっちょく》に申し上げて、お嬢さまは我々《われわれ》にくらべてあまりに抜《ぬ》きん出ておられる。下手《へた》な小細工《こざいく》はあの方には通用しません」
「そう……ですか……うん、そうですよねえ……」
「あるいは私が何かしら正解を提示《ていじ》できたとしても、それでお嬢さまが動くということはないでしょう。そういうのはおそらくお嬢さまの心には響《ひび》きますまい。シュンゴさまが自ら考え、選択《せんたく》した結果でなければ」
「ですか……」
「私はヒルダお嬢さまがご幼少のころよりお仕えしておりますが、あの方が誰かの願いを聞き入れて動いたことなど数えるほどしかございませんよ。その点についてはあらかじめお覚悟《かくご》なさいますよう」
「あれ?」首を傾《かし》げて、「でもたしか、ヒルダさんは姉さんと美樹彦さんに頼《たの》まれてここに来たとかどうとか……」
「はい。リョウコさまとミキヒコさまはその数少ない例にございます。ちなみにあのお二方《ふたかた》は極《きわ》めて単純《たんじゅん》な方法を採《と》られましたよ」
「単純な方法?」
「はい。夜討《よう》ち朝駆《あさが》けです」
ギュンターは微笑を微苦笑に変えて、
「お嬢さまに沙汰《さた》を願う有象《うぞう》無象《むぞう》は後を絶《た》ちませんが、あそこまで単純で根気《こんき》の必要な手段を実践《じっせん》なされたのはあのお二方が初めてでございました。お二方はひたすら毎日、毎時、お嬢さまとの謁見《えっけん》が叶《かな》いますよう、あの手この手を尽《つ》くされたのです。それはもう、この私めが呆《あき》れるほどしつこく、しぶとく」
家を留守《るす》にすることが多く、どこで何をしているのかもイマイチ定《さだ》かでない姉だったが……ひょっとしていつもそんなことをやっていたのだろうか。
「あの手この手を尽くす、と簡単《かんたん》に申し上げましても、そもそもお嬢さまに拝謁《はいえつ》が叶うことからして稀《まれ》なのです。その点、お二方は上手くお嬢さまの気を引かれましたな。まずは夜討ち朝駆けを許《ゆる》すだけの価値がある、と認められねばなりませんから」
そのころを懐《なつ》かしむように目を細め、
「事の始めのころなどは、賊《ぞく》まがいの振《ふ》る舞《ま》いをして城に侵入《しんにゅう》を試みられたこともございまして。その際は私めと拳《こぷし》を交《まじ》えたこともございました」
「……まあ、あのふたりらしいというか……」
「それと比《くら》べれば、シュンゴさまはむしろ恵《めぐ》まれてございます。一日二十四時間、ずっと謁見が叶っている状態《じょうたい》なのですからな」
「はあ……」
シモベ状態の解釈《かいしゃく》としてはちょっと斬新《ざんしん》かもしれない。
ともあれこれで、峻護はさっそくひとつの選択肢《せんたくし》を失うことになりそうだった。根気よく頼み込んでヒルダを翻意《ほんい》させる、という手をわりと真剣《しんけん》に検討《けんとう》していたのだが、ギュンターの話を聞く限り見込みは薄《うす》そうである。姉と美樹彦がおそらくは長期間にわたって継続させてようやく成功させた手段が、たったの三日で達成《たっせい》されるとは思えない。
「いずれにせよ、事の成否《せいひ》はあなたさまおひとりに掛かっております。私めからお手伝いできることは何もないとお考えくださいませ。無体な話とは承知《しょうち》しておりますが……」
「わかりました。じゃあせめてヒルダさんのことを教えてもらえませんか? 話せる範囲《はんい》のことでいいです、でないと動きたくても動きようがない」
「いえ。それも私からどうこう言わぬほうがよろしいでしょう」
またしても老執事はかぶりを振る。
「おそらくそれでは無理《むり》なのです、これは私に言える最初で最後のヒントであるとお考えください」
……もっとも頼《たよ》りにしていたギュンターは不発《ふはつ》に終わった。
となればその次は孫娘の方に期待が寄せられることになるのだが、
「お答えできません」
こちらはにべもなかった。
「殿下はあなたさまに期待をかけておいでです。わたくしなどがしゃしゃり出れば殿下の勘気《かんき》に触《ふ》れるのは必至《ひっし》。どうぞお引き取りくださいませ」
にべもないどころか、ほとんど門前《もんぜん》払《ばら》いであった。
「そもそも殿下があなたさまにお目をかけておられる現状《げんじょう》は、天上人《てんじょうびと》がゴミ虫一|匹《ぴき》のためにわざわざ労をとっているようなもの。現在あなたさまが置かれている状況《じょうきょう》はむしろ、殿下の御慈悲《ごじひ》によるものなのです。その恩義《おんぎ》を自覚せぬばかりかあたかも根に持っているかのような言動をなさるとは、逆恨《さかうら》みにも等《ひと》しい行為《こうい》ではありませんか。よく御心得ください」
いや、門前払いの上に塩をまかれた。
(まいったな……)
すごすご引き下がりながら峻護は嘆息《たんそく》する。どうやら短絡的《たんらくてき》な選択肢はすべて漬《つぶ》されてしまうことになりそうだ。
こういう時、これまでであればいつも誰《だれ》かが指針《ししん》を示してくれた気がする。あるいは状況という名の激流《げきりゅう》が否応《いやおう》なく、躊躇《ちゅうちょ》も迷《まよ》いも押し流し、峻護に何かしらの行動を取らせた。しかし今回はそのいずれもない――
そんな彼にさらなる追い打ちをかけたのは、他ならぬヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインである。
「シュンゴよ、親切な予《よ》から貴様《きさま》にプレゼントだ」
「はい……?」
そろそろ知恵《ちえ》熱《ねつ》が出るのではないかと思えるほど悩《なや》みまくる峻護へ、金髪《きんぱつ》の姫君はおもむろにこう言ったのだった。
「貴様から言い訳の余地《よち》をなくしてやろう。今この時より、シモベとしての貴様の任《にん》を解《と》く。すなわち予のシモベであるという貴様の立場に変わりはないが、その責務《せきむ》からは解放《かいほう》するということだ。期限の日時まで存分にあがいてみせるがいい」
なるほど、プレゼントといえばプレゼントではあった。とても手放《てばな》しに喜べるものではないが。
「……ええとじゃあ、これからはギュンターさんがヒルダさんのそばについて、身の回りの世話をするとか、そういう感じなんでしょうか。もともとギュンターさんが本職の執事《しつじ》なんだから、当然と言えば当然ですけど……」
金髪の少女はアイスブルーの目を老獪《ろうかい》な猫のように細め、
「予は別に誰かに傅《かしず》かれねば生きていけぬわけではない。傅かれることによって自分の強権《きょうけん》を示そうとも思わぬ。身の回りの世話など不要、予は今日よりしばし、そこらの民草《たみくさ》と同じように過ごすとしよう。……ところで貴様、なぜそのようなことを問う?」
「えっ? いえ別に、特にこれといった理由はありませんが」
「もう少し表情を繕《つくろ》うことを覚えよ。身の回りの世話など不要、と言うた時、ずいぶん気落《きお》ちした顔をしていたぞ? よもや貴様、下僕《げぼく》として粉骨《ふんこつ》砕身《さいしん》することで予の歓心《かんしん》を、あるいは同情《どうじょう》を買《か》おうなどという浅《あさ》はかな策《さく》を練《ね》っているのではあるまいな?」
見抜《みぬ》かれた。
これでまたしてもひとつ、峻護の選択肢は潰されたことになりそうである。
「予は別に忠実な下僕が欲しいわけではない。それならギュンターひとりで事足《ことた》りる。何が楽しくて無能《むのう》な下僕見習いを新たに雇《やと》って調教《ちょうきょう》せねばならぬ? そのようなもの貴様に求めてはおらん、こんな段階《だんかい》から早々と予を失望《しつぼう》させるな」
返す言葉もなかった。
こうして峻護の『浅知恵《あさぢえ》』は実行する前に次々と潰されていき、やる気はあるのだが動きようがない、そんな悶々《もんもん》とした気分のまま最初の一日は無為《むい》に過ぎていって――
峻護の翌朝の目覚めは、ああでもないこうでもないとさんざん悩み倒して寝不足ぎみな割には、まずまず快適《かいてき》なものであった。
(…………もう朝か)
眠気《ねむけ》は全身にこびりついているものの、深い眠りを得られたという感触《かんしょく》はある。
峻護はベッドから上半身を起こし、両手を天に向けて目いっぱい伸《の》びをした。朝日に満ちた自室の空気を深々と吸い込み、ゆっくりと吐《は》く。
今日は何曜日だっけ、と血糖値《けっとうち》の足りてない頭でぼんやり考え、ふいに視界《しかい》に入った時計の針が指す時刻を見た瞬間《しゅんかん》。
彼の生活《せいかつ》習慣《しゅうかん》脳《のう》にスイッチが入った。
「うわっ、もうこんな時間……!」
あわてて寝巻《ねま》きを脱《ぬ》ぎ、最低限の身だしなみだけ整《ととの》えてバタバタと部屋を飛び出し、リビングに飛び込んで、
「おそいぞシュンゴ」
まだ暖気《だんき》運転《うんてん》状態《じょうたい》だった脳みそがエンストを起こした。
「任こそ解いたとはいえ、シモベが主人よりおそく起き出してくるとは何事か。貴様はいまだに自分の立場というものが理解できていないとみえるな?」
非難《ひなん》するヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインの声はしかし、ごく形式的《けいしきてき》なものであるように思えた。
それよりはむしろ、目を丸くしているシュンゴの反応を冷徹《れいてつ》な瞳で逐一《ちくいち》観察《かんさつ》し値踏《ねぶ》みしているかのような風情《ふぜい》がある。
「どうした? 貴様にとっては見慣《みな》れているもののはずであろう?」
「あ、いえ、それはそうなんですが……」
主人への朝のあいさつも忘れ、峻護はただ目の前の事態《じたい》に困惑《こんわく》している。
ヒルダは小柄《こがら》な身体《からだ》を優雅《ゆうが》にソファへ沈《しず》め、手にした長煙管《ながきせる》の煙《けむり》をくゆらせて尊大《そんだい》に足を組み、感情の動きが乏《とぼ》しい目を峻護に向けている。これらは彼女の常態的《じょうたいてき》なスタイルで、そこに特筆《とくひつ》すべき点はない。
問題は彼女のファッションにあった。
「な、何してるんですか、それ……?」
「何してるんですかとはごあいさつだな。似合わぬか?」
「あ、いえ、そんなことは……ぜんぜん似合ってますけど……」
こくこく頷《うなず》きながら改《あらた》めてヒルダの出で立ちを見やる。
普段は結《ゆ》わえている絹糸《きぬいと》のような金髪は、今は真《ま》っ直《す》ぐに下ろされて、華麗《かれい》かつ豪奢《ごうしゃ》に波打《なみう》っている。それだけでもパッと見の印象はガラリと変わったが、極めつきは彼女が身にまとっている衣装《いしょう》であった。
セーラー服なのである。
それも神宮寺学園《じんぐうじがくえん》女子生徒が常に着用するやつ。
『ヨーロッパ貴族のお姫さま』という先入観《せんにゅうかん》があるゆえに違和感《いわかん》は全開だが、たしかにひどく似合っていた、サキュバスということもあって元々ぞっとするほどの美少女ではあるのだが、それにしてもよく着こなしている。まるでヒルダが服に命じて自分にフィットするよう合わさせて[#「合わさせて」に傍点]いるような。
「ええと……それは何かのコスプレですか?」
思わず口にした、ともすれば礼《れい》を失《しっ》する峻護の言葉に、
「なるほどコスプレか」薄《うす》い笑《え》みを浮《うか》かべて、「確かにこの国で流行《りゅうこう》しているらしいコスプレとやらに類似はしているだろうがな、決定的に異《こと》なる点がある。予にとってこの服装《ふくそう》はごく実用的なものだということだ」
「? というと?」
「今日から予は貴様と同じ学《まな》び舎《や》に通う」
「――おはようございます。本日も良いお日よりでございますな……おや、どうされましたシュンゴさま?」
タキシードをきっちり身にまとってリビングに現《あらわ》れたギュンターが、二《に》の句《く》を継《つ》げずにいる峻護に微笑みかけてきた。
「えと、あの、その、ヒルダさんが……」
「ほう。これはこれは」
セーラー服美少女を指差す峻護を年長者《ねんちょうしゃ》のやわらかさで見つめ、次いで女主人の方を見やっていっそう目を細める。
「どうだギュンター。似合うか?」
「はい、とてもお似合いでございますよヒルダお嬢《じょう》さま」
「うむ。だがお嬢さまはよせ」
「失礼いたしました。ところで朝食はいかがなさいますか?」
「シュンゴに任せよう。リョウコたちが普段何を食《しょく》ているかも興味《きょうみ》があるしな」
「かしこまりました」
ごく自然体《しぜんたい》で、しかしそれでいて隅々《すみずみ》まで作法《さほう》にのっとった一礼《いちれい》をするギュンターに、峻護は内心で感嘆《かんたん》していた。当初《とうしょ》から思っていたことだがこの老紳士《ろうしんし》、あらゆる面で尊敬《そんけい》に値する人物であった。器《うつわ》に漆《うるし》を重《かさ》ね塗《ぬ》りしていくようにじっくりと熟成《じゅくせい》された深み、それでいて押し付けがましさや己《おのれ》の我《が》を張《は》るところのない丸み。人である限り決して避《さ》けては通れぬ『老い』というものの、これはひとつの理想形《りそうけい》ではあるまいか。
峻護をさらったいわば実行犯《じっこうはん》であり、なおかつ恐るべき使い手であろうことを承知《しょうち》しつつも、峻護がこの老紳士に何のわだかまりも抱《いだ》かずにいるのは、やはりそのあたりに理由があるのであろう。
と、リビングに新たな人物が入ってきた。シャルロッテと真由である。
「おはようございます」赤毛を揺らして少女|執事《しつじ》が一礼し、つづいて入ってきた真由が
「お、おはようござ……あうっ!?」ヒルダを一目《ひとめ》みてあっさり仰天《ぎょうてん》した。
「そ、その服って……え? え?」
「よくお似合いでございます、殿下《でんか》」
一方、一瞬《いっしゅん》の間を置いただけで礼にのっとった感想を述べるシャルロッテ。このあたりが経験《けいけん》の差というか教育の差というか……峻護もまったくひとのことは言えないのであるが。
「今日より予《よ》はシュンゴと同じ学び舎に通う」
ヒルダが同じ事をもういちど宣《せん》し、
「朝食ができるまで庭でも歩いているゆえ、あとは任せたぞシュンゴ」
「あ、はい。わかりました、じゃあさっそく」
「あっ、朝食の準備ですか? じゃあわたしも手伝います二ノ宮く――」
「その必要はない」
ソファから立ち上がりながらヒルダが釘《くぎ》を刺《さ》した。
「貴様《きさま》は手伝わずともよい。いいなツキムラマユ?」
「えっ? あ、えと……はい、すいません……」静かに、しかし強く断《だん》じられてしょんぼりし、「あ、じゃあわたしは朝食の準備以外の仕事を……」
「それも許《ゆる》さぬ」
ふたたび断じるヒルダ。
「仕事はせずともよい。それと学び舎にも通うな。この家でじっとしているがいい。――シャルロッテ」
「はい殿下」
「聞いての通りだ。あとは昨日も言った通り、お前に任せる」
「かしこまりました」
辞儀《じぎ》をする執事ふたりに見送られ、セーラー服をひるがえしてヒルダはリビングを出て行き、峻護と真由はお互いに顔を見合わせて目を瞬《まばた》かせる。
「――ふむ。悪くない」
急いで、それでいて丁寧《ていねい》に作った峻護の朝食を平《たい》らげて、小さなお姫さまは御感《ぎょかん》斜《なな》めならぬ様子であった。
「パンに紅茶に卵料理――オーソドックス極まるイングリッシュ・ブレックファーストだが、シンプルな中にも隅々にまで気配《きくば》りがされている。シモベとして使いものにならずとも、コック見習いとして雇《やと》ってやるくらいの使い道はありそうだな」
誉《ほ》めてるのかそうでないのか微妙《びみょう》なところではあったが、峻護としてはひとまず内心でガッツポーズである。見た目や味の豪華さを切り捨て、そこらの喫茶店《きっさてん》でも食べられそうな献立《こんだて》をあえて選《えら》び、そこに渾身《こんしん》の手間暇《てまひま》をかけた甲斐《かい》があったというものだ。
ひょっとしてこちらの方向から攻められるかもしれない――そんな淡《あわ》い期待を抱いたところで、お姫さまの冷徹《れいてつ》な言葉がそれを一刀《いっとう》両断《りょうだん》にする。
「一応釘を刺しておくが、料理程度で予を動かせるなどとは思ってはいまいな? 予は舌《した》も肥《こ》えているし美食も好むが、貴様より腕のいい料理人は掃《は》いて捨《す》てるほどいるし、そもそも料理など究極的《きゅうきょくてき》には必要な栄養素を必要なだけ摂取《せっしゅ》できればそれで足りるのだ。予が貴様に求めているのはそういうものではない」
またもや潰《つぶ》された選択肢《せんたくし》に峻護がくちびるの端《はし》をひきつらせていると、素知《そし》らぬ顔でヒルダは席を立ち、
「では学び舎にでも行くとするか」
ギュンターとシャルロッテに見送られ、ひとりでさっさと出発してしまった。昨日の宣言《せんげん》通り、供も連れずに単独行動《たんどくこうどう》するつもりらしい。
峻護もあわてて後を追う。下僕の任からは解放《かいほう》されたが、お姫さまの歓心《かんしん》を買わねばならない身としては行動を共にしないのもそれはそれでまずい。
身支度《みじたく》もそこそこに、靴《くつ》を引っ掛けて玄関《げんかん》を出ようとするところへ、
「あの、二ノ宮くんっ」
真由に呼び止められた。
「なに? 月村さん」
「あの、その……」
言いにくそうに、あるいは言葉を選ぶようにうつむく。なにか言おうとして顔をあげ、しかしまたすぐに下を向き、もじもじしている。
今はヒルダから出された『宿題』を解くためにも、すぐに彼女を追い、何かしらヒントを掴《つか》むべく行動したいところだ。引《ひ》き留《と》めておきながら話を切り出さない真由に苛立《いらだ》ったりなどしないが、ちょっとばかりもどかしいのも事実である。
「ええと……何か用? できればヒルダさんの後をすぐに追いかけたいんだけど」
「……あ」
真由はハッと気づいた顔をしてぺこぺこ頭を下げ、
「すっ、すいませんわたし、無神経《むしんけい》で……引きとめちゃってごめんなさい。わたしのことは気にせず学校ヘ――」
「ん? なにか言いたいことがあったんじゃ? ちょっとしたことなら今ここでも聞けるけど」
「あ、いえ、ほんと、気にしないでください。――あ、そうだ。日奈子《ひなこ》さんとかクラスのみなさんに、わたしが学校休むことを伝えてもらえたら、って。それだけで十分です」
「ああもちろん、それは伝えておくよ。なるべく本当の理由は隠《かく》して、ね」
峻護が苦笑してみせると、真由もほのかな笑《え》みで応《こた》えてくる。
「じゃ、行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてくださいね」
駆《か》け足で玄関を出る峻護に手を振る真由は、もういつもの真由だった。
同居人の少女に見送られながら、峻護の意識《いしき》はすでに、いかにして金髪《きんぱつ》の姫君へ対応《たいおう》すべきかに向けられている。
寂《さび》しそうな、悲《かな》しそうな、消え入りそうな。そんな顔をして峻護の背中を見送っている真由にも気づかずに。
そもそもどうして金髪の姫君が真由の行動を制限したのかも、むろん気づかぬまま。
「予はこの国の文化や風俗《ふうぞく》が嫌いではない」
朝の住宅街、まだやわらかい夏の陽射《ひざ》しを燦々《さんさん》と浴びる細い小道。
神宮寺学園への通学路をきびきび歩きなから、ヒルダはそんなことを口にする。
「たとえばこのセーラー服にしてもそうだ。元はといえば西洋の水兵の制服だったものを女学生の制服に転用《てんよう》し、流行させ、なおかつ近ごろではある種の性的なシンボルとして機能しているというではないか。西洋生まれの予《よ》などからみれば奇天烈《きてれつ》な発想としか思えぬ。貴様ら東洋人とは実にユニークな生き物だな」
「はあ。そういうものでしょうか」
「自覚《じかく》が足りんなシュンゴよ。だがそれもまた貴様らの奥《おく》ゆかしさかも知れぬ」
シモベの気合《きあ》い抜《ぬ》けした返答をとがめるでもなく、ヒルダは短い歩幅《ほはば》でどんどん歩き進んでいく。さしあたり彼女の機嫌《きげん》が斜《なな》めならぬことは峻護としても歓迎《かんげい》すべきことだった。少女の形をしたこの核弾頭《かくだんとう》を学園に持ち込まねばならないのは、今から胃の痛《いた》いことではあったが。
(それにしても――)
半歩《はんぽ》うしろに付き従いながら峻護はあらためて思う。
美人も美少女も見慣れているはずの峻護だが、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインの美しさは極め付きであった。
切れ長の目ときれいに通った鼻すじを収《おさ》める、小作りな卵形の顔。恐《こわ》いほどに白く透《す》ける肌は男ですら羨《うらや》みたくなるほどきめ細かく、黄金《おうごん》の粉でもまぶしたかのようにまばゆく輝《かがや》く金髪は否応《いやおう》なしに人目を引く。そして華やかで古風《こふう》なドレス姿もよかったが、シンプルなセーラー服姿がまた反則的《はんそくてき》に似合《にあ》っていた。
通りかかる人々はみな彼女を見るたび例外なくギョッとし、そのうちの半分は自分の頬《ほほ》をつねっていた。同じ人類とは思えぬほどヒルダの存在が突出《とっしゅつ》しすぎていて、白昼夢《はくちゅうむ》か幻覚《げんかく》でも見ているのだとカン違いしたものだろう。真由を連れて初めて登校した時も似たような経験《けいけん》をした峻護だが、だからといってこの手の妙にむず痒《がゆ》い気分に慣れることはなさそうである。
一方のヒルダは、そんな周囲の反応もまるでお構いなしの様子であった。周囲の人間をマネキンか書き割り程度にしか考えてないのかもしれない。
(…………ふむ?)
セーラー服に包まれた細い肩と小さな背中を見ていて、ふと気づいた。
執事《しつじ》たるギュンターがいみじくも言った通り、年齢に見合わずあらゆる方面に冠絶《かんぜつ》した能力を持っているであろう、金髪の少女。飛行船の中で対面した時に感じた強烈《きょうれつ》なプレッシャーから逆算《ぎゃくさん》しても、峻護など及《およ》びもつかぬほどの戦闘《せんとう》能力《のうりょく》を持っているはずのヒルダだが――こうして見ている限りその片鱗《へんりん》はまるでうかがい知れない。
(というかスキだらけだよな、この背中……)
おそろしく美しいという点をのぞけば、斜め後ろから見たヒルダはまったくもって普通の少女である。せいぜいが冬眠《とうみん》に入った猛獣《もうじゅう》か、檻《おり》の中に入れられた動物園の猛獣か、その程度の怖《こわ》さしか感じない。
(ひょっとして……いけるか?)
あるアイデアが浮かんだ。おそらくヒルダとは天と地ほども実力差のある峻護だが、そんな彼が彼女の隙《すき》をついて見事、一本取ればどうなるだろう? 『たまにはわたしから一本取ってみなさい』という論法《ろんぼう》は姉の涼子がよく用いるものだが、ひょっとしてこの金髪のお姫さまにもそれは通用するのではあるまいか。
(試してみる価値《かち》は、あるな)
少なくとも見た目は年端もいかない少女であるヒルダに手を挙げるのはかなり気が引けたが、背に腹は代えられまい。選択肢も時間もチャンスも限られた今の状況《じょうきょう》、多少の拙速《せっそく》は覚悟の上で積極的に行動を起こしていくべきであろう。
呼吸も視線《しせん》も乱《みだ》さず、峻護は静かに好機《こうき》をうかがった。折よくこのまま真っすぐ進めば、突き当たりはL字形に右に折れるコースである。今はヒルダの斜め左後ろに立っている峻護だが、このままいけばごく自然な形でヒルダの完全なる死角《しかく》に入ることになる。もっとも確実《かくじつ》な機会はその瞬間《しゅんかん》に訪れるはず――
「予は歩き方にいくつか癖《くせ》があってな」
前を向いて歩くターゲットが不意《ふい》に口を開いた。
「たとえばああいう細い道を曲がる時、予は左右の歩幅をほとんど変えずに曲がる癖がある。自動車の競技《きょうぎ》でいうところの、いわゆるオーバーステア気味にコーナーを曲がる形になるな」
「…………はい?」
「結果、予の左半身はほぼ壁側にぴったり沿う形になる。そうなれば予の右側からしか襲《おそ》えぬゆえ、せいぜい心するがいい。あるいは襲いやすいタイミングなど計《はか》らず、まるで理に適《かな》わぬタイミングを適当《てきとう》に狙《ねら》ったほうがよいかも知れんな。意表《いひょう》を突《つ》く、という一点だけでも戦術的には価値があるというものだ」
「…………」
「強硬《きょうこう》手段《しゅだん》に出るのならせめて気配《けはい》を抑《おさ》えよ。まるで予告するがごとくに戦意《せんい》を漏《も》らされては、こちらも興ざめしてかなわぬ」
(……冗談じゃないぞ……)
冷や汗がにじむのを抑えられぬ峻護である。戦意を洩らすな、というが、彼とて素人《しろうと》ではない。そんなもの端《はな》から粒子《りゅうし》単位ですら洩らしたつもりはないのだ。むしろまったくの雑考《ざっこう》の流れで思いついたアイデアだったからこそ、戦意を悟《さと》られずに先手を取れると踏《ふ》み、実行を決意したのに。
いずれにしてもまたひとつ、選択肢《せんたくし》を潰《つぶ》されたことになりそうである。こんな少女を相手に戦闘能力の優劣《ゆうれつ》を競《きそ》っていては命がいくつあっても足りまい。
「あの、ところで……」
失態《しったい》をごまかすように峻護は別の話題を振《ふ》る。
「どうして月村さんは学校に行っちゃいけないんです? 何か理由があるんですか?」
「ほう、理由ときたか」
ヒルダは前を向いたままくくくと含《ふく》み笑い、
「そうか、貴様《きさま》は気づかぬか。まあそれならそれでよい、あの娘の処遇《しょぐう》は予に一任されているのだしな」
「はあ」
「リョウコとミキヒコの依頼《いらい》を果たすかどうかはともかく、あらゆる状況を見越《みこ》して一応は手を打っておかねばならぬ――つまりそういうことだ」
「? どういうことです?」
「――欲しがれば与えられると思うなよ、シュンゴ」
失笑《しっしょう》、あるいは苦笑《くしょう》の類《たぐい》が声に混《ま》じる。
「貴様が自立した一個の人間であり、家畜《かちく》の立場を良しとしないのであれば、欲しいものは自分の手足で稼《かせ》ぎ取《と》るがいい。それともこのまま家畜として予に飼《か》いならされることを良しとするか?」
「…………っ」
いちいちもっともな言い分であった。
というか口を開くごとに失点を重ねているこの状況はなんとかならないものか――とは思いつつも、何かしら弁明《べんめい》はしておかねば失点を取り戻すこともできないわけで。
「つまりおれが言いたいのは、できれば月村さんも学校に連れて行ってあげたいな、ということで。彼女だけひとりで家にいてはかわいそうというか……まあ正確《せいかく》にはギュンターさんもシャルロッテさんも一緒にいるわけですが……」
「シュンゴよ。貴様にとってツキムラマユとは何だ?」
「えっ?」
目が覚めたらいきなり喉元《のどもと》にナイフを突きつけられていたような、そんな問いだった。
峻護は口ごもり、視線をたっぷりさまよわせてからようやく、
「な、何だと言われても……」
「あの娘に恋をしているのか?」
「こ、恋ってそんな、別におれは……」
「それすらも自覚し得んのか。貴様はそれでも神戎《かむい》か? いやそれ以前に雄《ヘテロ》か?」
「……ええとその、前から気になってたんですが」
問いに背を向けたつもりはないが、これもまた今のうちに訊《き》いておかねばならないことだろう。
「時々ヒルダさんの会話の中に出てくるんですが、神戎《かむい》っていうのはどういう意味なんですか? それと神精《しんせい》っていうのもよくわからないんですが」
「…………。よもやとは思うが貴様」
峻護のペースなどお構いなしにきびきび前進していたヒルダがようやく振り返って、
「まさか自分がその神戎であることを、ツキムラマユの同類であることを知らぬわけではあるまいな?」
「…………ぇ」
ハトが豆鉄砲《まめでっぽう》を食らったような顔をするシモベの少年に、ヒルダはすべてを悟ったらしい。
「……いやはや、これほど呆《あき》れたのはどれだけぶりであろう。リョウコめ、いったい弟にどういう教育をしている」
「えっ? ど、どういうことです? おれが神戎……ってことはサキュバス? いやインキュバスってことですか?」
「そうだ。それ以上のことが知りたければいずれ姉にでも訊け。予《よ》が解説《かいせつ》してやる義理《ぎり》もない。それはただそれだけのことで、貴様が受け入れれば事足りる」
「いや、その、受け入れるといっても……」
「なにか問題があるのか? 貴様はこれまで普通に暮《く》らし、己《おのれ》の体質に何ら不自由はしてこなかったのであろう? どうやら貴様は外部から精気《せいき》を補給《ほきゅう》せずとも生きていられる、稀有《けう》な神戎らしいからな」
「補給なしで……」
「神精については説明してやる」
神精にまつわる曰《いわく》――強大かつ異数《いすう》の力を持ち、長きに亘《わた》って存在が確認《かくにん》されていないこと。かつては神そのものにも擬《ぎ》され、崇拝《すうはい》と信仰《しんこう》の対象になっていた国や地域《ちいき》もあるということ。極《きわ》めて美味《びみ》なる精気の持ち主であり、それをめぐって神戎同士で骨肉《こつにく》の争いが超きたこともあるということ。とはいえいずれも伝説《でんせつ》や伝承《でんしょう》の域を出ぬ逸話《いつわ》であり、実際《じっさい》には神精の実態《じったい》は謎《なぞ》のままであることetc――をざっくり話して聞かせ、
「貴様の精気の味を何度も試したが、普通の精気とは様々な意味で大きく異《こと》なっているのは間違《まちが》いない。貴様が神精である可能性《かのうせい》、あるいは何らかの形で神精に関《かか》わりをもっている可能性はかなり高いであろう」
「はあ……」
と言われても寝耳に水の話である。峻護としても反応の仕様がない。
「まあさしあたり、そんなことはどうでもいいのだ」
言って、ヒルダはすうっと目を細めた。
ぺろり、なぜか人さし指を舐《な》めながら峻護を上目《うわめ》遣《づか》いに見上げて、
「今はもっと差《さ》し迫《せま》った問題が発生したのでな」
「差し迫った問題?」
「うむ。すこしばかり小腹《こばら》が空《す》いた」
「はあ、お腹ですか。でもさっき朝食を食べたばかりじゃないですか? どうせならお昼まで待ってみては……どうしても我慢《がまん》できないということであれば、どこかそのあたりの店に入ってもいいですけど」
「くく……意図《いと》してはぐらかしているのであれば稚拙《ちせつ》に過ぎる。意図していないのであれば神戎の風上《かざかみ》にも置けぬほどの鈍感《どんかん》よな」
幼い顔立ちに妖艶《ようえん》な笑みを刻《きざ》みながら、
「貴様の味を思い出していたら催してきた[#「催してきた」に傍点]。元はといえば貴様に神精の説明などせねばならなんだことが原因《げんいん》なのだ。責任《せきにん》は取ってもらうぞ?」
「はい……?」
首をかしげ」考えること十数秒、
ようやく少女の意図を悟り、峻護の背に滝《たき》のような冷や汗がにじみ出てきた。
「ちょっ、いくらなんでもそれは……! こんな人前だし、せめてどこか物陰《ものかげ》で……いや、やっぱそれもだめだ、物陰でこっそりなんてのはむしろいっそういやらしくなる! だいたい男と女はそんな軽々しくそういうことをするものじゃなくて、ましてや女性《じょせい》からだなんてそんなはしたないこと!」
「予は予の欲する時に、欲するものを得る。異《い》を唱《とな》えたいのであれば実力をもってするがよい」
立ち止まって話し込むふたりを、通りかかる人々が怪評《けげん》そうに見やっていく。大通りというわけではないが人出は十分すぎるほどあり、中には神宮寺学園の生徒もちらほら見える。シチュエーションは極めてまずい。
「くく。自覚があるかどうかは知らんが、貴様はじつにいじり甲斐《がい》のあるシモベだ。他のことはともかく、オモチャとしては一級品《いっきゅひん》だな。末永《すえなが》く予のペットにしたいものだ」
将棋《しょうぎ》の感想戦にでも入っているような――つまりはすでに情勢《じょうせい》が決したことを確信《かくしん》した笑みでそんなことを言う。峻護の言う『物陰』などに移動《いどう》してくれそうな様子はない。公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》での行為《こうい》を強《し》いられた峻護の狼狽《ろうばい》ぶりを愉《たの》しんでいるのは明らかだった。むろん、金髪《きんぱつ》の姫君は冗談《じょうだん》や洒落《しゃれ》でこんなことは言わない。
「さあ。どうするのだ?」
「…………っ」
峻護は、屈服《くっぷく》した。
彼と主との間には四十センチ以上の身長差がある。
公道のど真ん中で、峻護は片膝《かたひざ》をつかねばならない。
この光景を『忠節《ちゅうせつ》の騎士《きし》が主筋《しゅうすじ》の姫君に傅《かしず》いている』と見る者があれば、節穴《ふしあな》よばわりをまぬがれないだろう。騎士役の少年の表情は苦渋《くじゅう》に満ち、姫君役の少女は嗜虐《しぎゃく》の興奮《こうふん》に淡《あわ》く頬《ほほ》を染《そ》めているのだから。
近づいてくる赤い小花のようなくちびるを見ながら、ひょっとして、と思う。
ひょっとしておれは、彼女の弁当がわりに連れてこられてるのかもしれないな、と。
習慣というのはなかなかに強固《きょうこ》なもので、普段やってることをある一時期だけやれないとなると、ひどく居心地《いごこち》が悪くなるものである。
この日の真由がまさにそれだった。
数多い二ノ宮家の家事の少なからぬ部分を担当《たんとう》している彼女にとって、『仕事をするな』と命じられるのは一種のイジメに近い。もともと真面目《まじめ》で律儀《りちぎ》な傾向《けいこう》があるだけに、やるべきことをやれない状態《じょうたい》というのはなんだかそわそわしてくるのである。
ましてギュンターとシャルロッテというふたりの執事《しつじ》がきびきびと立ち働く中、ひとりだけ無為《むい》にソファに座《すわ》らされているという状況《じょうきょう》に置かれると、もはやイジメどころか拷問《ごうもん》の色彩《しきさい》を帯《お》びてくるのであった。しかも真由の『現状』は、なんでもいいから身体を動かして気を紛《まぎ》らわせることを欲している。たとえそれが、長期的にみても短期的にみても彼女自身を食いつぶしていく行為だとわかっていても。
だが、
「あの、やっぱりわたしもお手伝いを……」
と申《もう》し出ようものなら、
「マユさまを働かせてはならぬと、ヒルダお嬢《じょう》さまから厳《きび》しく申し付かっておりますゆえ」
ギュンターがやわらかい微笑で、しかし断固《だんこ》として謝絶《しゃぜつ》し、
「どうぞごゆるりと。マユさまは殿下《でんか》の、ハーテンシュタイン家のお客人なのですから」
シャルロッテもまたそつなくダージリンをテーブルに置いて、ソファに座る以外の行動を封《ふう》じたりして、真由をいよいよ針《はり》のムシロの上に固定《こてい》するのだった。真由にとっては殊《こと》のほか、シャルロッテのこの手の応対[#「シャルロッテのこの手の応対」に傍点]がキツい。
「さて。それでは私はしばし外出せねばならん」
邸内《ていない》の庶務《しょむ》に一段落《いちだんらく》をつけたギュンターがもうひとりの執事に向かって、
「あとは任せたぞシャルロッテ。諸事《しょじ》、粗相《そそう》のないようにな」
「はい。わかりましたお祖父《じい》さま」
玄関《げんかん》に向かう老《ろう》紳士《しんし》に一礼し、主人にそうする時と劣《おと》らぬ丁寧《ていねい》さで見送る少女執事。
中庭でセルモーターが回る音と、タイヤがアスファルトを噛《か》む音、静かなエンジン音。
それらが遥《はる》か遠くに消え去り、たとえ野生動物なみの聴力《ちょうりょく》があったとしても聞き取れない距離《きょり》にまで遠ざかったあと。
シャルロッテはくるりと踵《きびす》を返し、びくっと身体《からだ》を縮《ちぢ》こまらせる真由に構わずズカズカ歩き、身を投げ出すようにしてソファに座り込んで足を組み、胸元のタイをゆるめて「ぶはー」と大きく息を吐き、懐《ふところ》からタバコを取り出して口にくわえて、
「火」
「えっ? あ、は、はい!」
あわてて立ち上がる真由。リビングを探し回り、キッチンを捜索《そうさく》し、物置《ものおき》を引《ひ》っ掻《か》き回してようやく湿気《しっけ》かかったマッチを探し出すと、
「ありました! 火――」
「もうつけた。おせーよ」
自前らしきライターを弄《もてあそ》びつつ煙《けむり》を吐《は》く少女執事に、あやうく空中ダイブしながらずっこけそうになるのだった。
シャルロッテ・ローゼンハイム。
まさしくこれが、真由のよく知った少女のありのままの姿であった。
「久しぶりだなマユ公」
ぽんぽん、と自分のとなりの席を手で叩《たた》きながら、どこかカの抜《ぬ》けた感じの声でシャルロッテが言った。ぜったい適性《てきせい》がないはずの執事仕事なんてやってることの反動なのかな……などと思いつつ言われた通りとなりに腰掛《こしか》けると、果たしてシャルロッテはため息をついて、
「それにしてもまったく、肩の凝《こ》る仕事だぜ。ウチの家の代々の仕事だし、跡継《あとつ》ぐ人間もいねーからしょうがねえけど。なあマユ公?」
「えっ? ええと……はい、そうですねっ」
「テキトーに返事すんじゃねえ。|ウ チ《ローぜンハイム》の事情《じじょう》なんて知らねえだろうがおめーはよ」
「あいた!?」
真由の頭をぺしっとはたいてから、
「ったく相変わらずだなおめーもよ。たいした脳みそもねえくせにひたすら周りに合わせようとするそのクセ、いい加減なんとかしろよ」
「うう、すいません……」
「ここにいるってことはお前、あそこ[#「あそこ」に傍点]から出てきたってことだろ? だったら少しはその性格《せいかく》もマシになったかと思いきや……」
「あっ、でもシャルロッテさんは変わりましたよね。最初みたとき、一瞬《いっしゅん》だれだかわからなかったですもん。すっかり猫をかぶるのが上手くなったというか……ぎゃうっ!?」
「ひとこと多い性格も変わってねーな。ていうかおめー、昨日会った時いきなり逃《に》げようとしやがったな? 恩知《おんし》らずな野郎《やろう》だ」
「す、すいません! あれはその、ちょっとびっくりしちゃって!」
「びっくりしたらとりあえず逃げるのかおめーは。どこの小動物だよ」
……かつて、真由が欧州《おうしゅう》の宗教《しゅうきょう》施設《しせつ》で寄宿舎《きしゅくしゃ》生活《せいかつ》を送っていたころ。
周囲とまったく馴染《なじ》めなかった彼女と唯一《ゆいいつ》話が通じたのが、このシャルロッテだった。
つまり、彼女とはかつての同窓生《どうそうせい》ということになる。
「ていうかマユ公、お前いつあそこを出たんだ? あの辛気《しんき》くせー場所に一生《いっしょう》居《い》つづけそうな勢《いきお》いだったけど」
「あ、シャルロッテさんが『卒業《そつぎょう》』してからしばらく経《た》ってです。いろいろ事情があって、『卒業』したというよりは連《つ》れ戻《もど》された感じというか」
「ふうん。まあ言ってみりゃ、あそこは矯正施設だからな。あたしら問題児《もんだいじ》の――神戎の中のはみ出し者[#「神戎の中のはみ出し者」に傍点]どもの。『卒業』してないってことは、まあ変わってないのも当然か」
シャルロッテはその『はみ出し者ども』の中でもひときわとんがったタイブで、『問題行動の万国博覧会』と呼ばれるほどあれやこれやの不始末《ふしまつ》を仕出《しで》かした少女である。どうしてそんな少女が真由のようなタイプと親交《しんこう》があったかといえば、これはもう一周まわってなんとなくウマが合ったとしか言いようがない。パシリとして使われていただけ、という説《せつ》もないではないが。
「ま、そんな思い出話はどうでもいい」
むはー、と煙を吹《ふ》かしながら、
「あたしの寄宿舎時代のことをしゃべったりするなよ、と釘《くぎ》さしたりするのも後回しだ。あたしが今いちばん気になってるのは――」
にまりと笑い、真由の首に腕《うで》を回して、
「あの男だ、ニノミヤシュンゴ。なんだお前、ついにコレができたのか? ん?」
親指を立てながらいよいよ下品《げひん》に笑う。
真由はあたふたして、
「ちっ、ちがいますちがいます、二ノ宮くんはそんなんじゃ――」
「もう食ったか?」
「食――――!?」
他愛《たわい》もなく赤面《せきめん》し、ぷんぷん首を振《ふ》る。
「なんだ。まだかよ」シャルロッテは肩をすくめ、「男性《だんせい》恐怖症《きょうふしょう》で精気《せいき》吸《す》えなくて死にぞこないのお前が、あの男には割と普通に接《せっ》してるみたいだったからさ。ようやく男を食えるようになったのかと……」
「だ、だって、わたし精気を吸引《きゅういん》する力が強すぎるし、コントロールできないし、それに吸引しても吸収はできないし……」
「だったらあの男で訓練《くんれん》すればいいんじゃねーの? そもそもお前、まともに男に近づくこともできなくて、それで精気吸収の訓練をすることもできなかったわけじゃん? あいつってぴったりの訓練相手じゃんか」
まさしくそのために、真由はこの二ノ宮家に留《とど》まっているはずだった。
「でもそんな、二ノ宮くんにそこまでしちゃうわけには……二ノ宮くんの身体《からだ》だってあぶないし、それに二ノ宮くんがわたしなんかでいいかどうかもわからないし……」
「ふうん?」
シャルロッテは眉をひそめ、新しいタバコに火をつけて、
「つまりお前は、あの男に惚《ほ》れてるわけだ。惚れた相手だから大事にしたい、そういうことだな」
「そ、そんな! わたし別に――」
「ちがうって?」
「ち、ちがうというわけじゃないけど、その……」
「でもよ、それってほんとに惚れてるって言えるんか?」
「……え? それってどういう……?」
真由から視線《しせん》を外《はず》し、ぷかあと煙を吐《は》いて、
「あの男以外に選択肢がなかっただけじゃねえか[#「あの男以外に選択肢がなかっただけじゃねえか」に傍点]、って言ってんだよ。お前はこれまで男がてんでダメだった。そこにたまたま平気な男が現《あらわ》れて、でもってたまたま妙《みょう》な感情《かんじょう》移入《いにゅう》をしただけじゃねえかってな」
穏和《おんわ》でおどおどしがちだった真由の瞳《ひとみ》に別種《べっしゅ》の色が混《ま》ざった。これはさすがに聞《き》き捨《ず》てならない。
「そんな、わたしは――」
「もしあたしがお前だったら」
真由の言葉を強くさえぎり、有無《うむ》を言わせぬ語調《ごちょう》で言う。
「もしあたしがお前だったら、無理《むり》だ。そんな男がもし現れたら、そいつはこの世が滅亡《めつぼう》する直前、後光《ごこう》と共に天から舞《ま》い降《お》りてくる救世主《きゅうせいしゅ》といっしょだ。あたしだったら泣いて縋《すが》りつく。どんな手段を使ってもそいつを縛《しば》って放さない。でもってそいつを公平な目で見るのは不可能だ。望むと望むまいとにかかわらず、ぜったい色眼鏡《いろめがね》をかけることになる。そいつのことをニュートラルに見ることができなくなる。錯覚《さっかく》の生まれる余地《よち》が必ずできる」
もともと意地《いじ》の悪いところのある旧知《きゅうち》ではあったが、今は別にいじめっ子の魂《たましい》がうずいているわけでもなさそうだった。真《ま》っ直《す》ぐ前を見据《みす》えて語るシャルロッテに、真由は口をつぐんで耳を傾《かたむ》ける。
「もともと神戎《かむい》ってやつは、いろんな異性からちょこちょこ精気をつまんでいかなきゃ生きていけない。そうでないといわゆる『栄養《えいよう》の偏《かたよ》り』が出てくるし、ひとりの相手から吸いつづけてりゃいずれそいつは衰弱《すいじゃく》するからな」
ひときわ深々と煙を吸う。代《か》えたばかりの煙草《たばこ》がもう根元近くまで減《へ》っている。
「あたしらは生まれつき一夫《いっぷ》多妻《たさい》、一妻《いっさい》多夫《たふ》の種族なわけよ。いろんな相手に気が移るよう、もとからできている。そのくらいお前も知ってたんじゃねえのか? 知ってなかったとしても想像《そうぜう》はついただろ? お前も神戎の端くれなんだったらさ」
「…………」
「じゃ、もっかい訊くぞ。お前、ほんとにニノミヤシュンゴのことが好きなのか?」
「……わ、わたしは……」
何か言おうとして口を開き、しかしすぐにつぐんでしまう。そのことに、他ならぬ真由自身がいちばん驚《おどろ》いた。
なぜ、何も言えない?
反論《はんろん》すればいいではないか。そんなことはない、そんなことはぜったい有り得ない、わたしは二ノ宮くんのことが好き――そう、言えばいいではないか。
が、言えなかった。
なぜなら旧友《きゅうゆう》の突きつけた仮説《かせつ》は、あまりにも有《あ》り得《え》る話でありすぎた。あまりにも理路《りろ》整然《せいぜん》としすぎていた。それに対して真由の気持ちは理屈《りくつ》で説明ができない。真由は自《みずか》らの気持ちを、理屈ではなく感情の大きさだけでしか証明《しょうめい》できない。
もちろん峻護の好きなところはたくさん挙《あ》げることができる。やさしいところとか、ちょっと優柔《ゆうじゅう》不断《ふだん》なところとか、頭はいいのに鈍感《どんかん》なところとか。腕《うで》っ節《ぷし》は強いけどピアニストのようにきれいで細い指だとか。献立《こんだて》の内容に悩む時に刻まれる眉間《みけん》のしわだとか。きりりとした顔立ちが眠っている時は子供《こども》のようにやわらかくなることだとか――それこそ、数限《かずかぎ》りなく。
でも、それは。錯覚《さっかく》でもなく、何かの間違《まちが》いでもなく、一時の気の迷《まよ》いでもないと、どうやって証明すればいいのだろう。錯覚であっても何かの間違いであっても一時の気の迷いであってもおかしくないだけの背景《はいけい》を持つ、この自分が。
おなかの底のあたりに、嫌《いや》な冷気《れいき》がぞわぞわと広がっていく。
もし、ほんとに、シャルロッテの言うとおりだったら?
この気持ちがただの錯覚で、何かの間違いで、一時の気の迷いだったら。月村真由は二ノ宮峻護を恋愛の対象としてではなく、精気を吸えるかもしれない相手としか見ていないのだとしたら――?
その想像を、仮説を、真由の心は躍起《やっき》になって否定《ひてい》する。なのに否定するそばから、否定の否定が黒い雨雲のように湧いてくる。知らず知らずのうちに拳《こぶし》を握《にぎ》りしめる。手のひらがひどく冷たく湿《しめ》っている。心臓は不整脈《ふせいみゃく》を起こしてデタラメな拍動《はくどう》を刻み、顔色は血の気を失って紙のようになる。
そんな真由をちらりとだけ視線で舐《な》め、おもむろにシャルロッテはだっはっはと笑い、
「なーんつってな! まあそんな深く考えるんじゃねーよ! とりあえずまともに相手にできる男が出てきただけでもめっけもんだ! 時間はあるんだ、ぼちぼちうまくやっていくようにすりゃいい!」
ばっしんばっしん背中を叩《たた》いて、
「あ、でも今シュンゴを食うのはやめとけよ? あれは今ヒルダさまのモンだしな、横から手え出したら消されンぞ? いやーしかしまあ、ヒルダさまもどうしてお前には甘いんだろな? お前だけは仕事しなくていいとか……学校行くな、ってのはどういうことかよくわからんけど」
話題を変えた旧友に、しかし真由は乗ることができなかった。シャルロッテが突き立てた刺《とげ》が抜《ぬ》けてなかったから、というだけではない。ヒルダの命令に思い当たることがあったから[#「ヒルダの命令に思い当たることがあったから」に傍点]である。ここで話に乗れば藪《やぶ》をつついて蛇《へび》を出す結果になりかねない。
内面の嵐《あらし》を必死で押さえこみながら、かわりに真由は別のことを訊いた。
「あの、ヒルダさんって、どういう人なんですか?」
「あん?」
いずれ誰かに訊きたいとは思っていたが、今この場のシャルロッテなら申し分ないだろう。初対面《しょたいめん》でいきなりトラウマ級のインパクトを残してくれた金髪《きんぱつ》の姫君だが、恨《うら》めしく思う気持ちよりも興味《きょうみ》の方が先に立つ。『問題行動の万国博覧会』とまで呼ばれた少女が、ヒルダのことを話す時だけは口調《くちょう》が改《あらた》まる、というだけでも驚嘆《きょうたん》ものであった。寄宿舎時代、誰にもなびかないアウトローだった旧友が主人に畏敬《いけい》と愛幕《あいぼ》の情を抱《いだ》くのは、ローゼンハイム家が代々|恩顧《おんこ》を受けているから、というだけではあるまい。
「ヒルダさまは――」
燃《も》えつきた煙草のフィルターをかじりながら。
驚《おどろ》いたことに、少し悲しげに、
「つらいお方だよ。あたしはお前みたいな立場に置かれるのもヤだが、ヒルダさまの立場に置かれるのはもっとゴメンだね」
「そんなに……? でもヒルダさんってそんな風には見えないというか……すごくきれいだし、強そうというか女王さまというか、だれもあのひとには敵《かな》わない気がするというか……」
「は、節穴《ふしあな》め。でもま、無理もないか、あたしも最初はわからなかった」
ぷかあ、と煙を吐き、
「無礼《ぶれい》非礼《ひれい》を承知《しょうち》で言うけど――あの方はな、一種の突然《とつぜん》変異《へんい》だ。この世に天才《てんさい》鬼才《きさい》はいくらでもいるが、あの方ほど人間離れしてるのは他にいないだろーよ。はるか昔、それこそ紀元前ぐらいまで遡《さかのぼ》ったころにはまだ存在《そんざい》してたっていう、神精《しんせい》って呼ばれる強力な神戎に、ひょっとしたらいちばん近い人かもしんねー。あの方がその気になればたいがいのことは叶《かな》っちまう。あたしらから見れば神サマみたいなもんだよ、あの方は」
「はあ、そんなに……」
「でもよ、あの方はやっぱりどこまでいっても『人間』なんだな。たぶんあの方からすれば、まるで猿《さる》の群《む》れの中にひとりだけ取り残されてる気分なんだろうよ。いっそ人間以外のモノに生まれてれば、もっと楽に生きられたろうにな」
なにか合いの手を入れようとして真由は口をつぐむ。シャルロッテの眼差《まなざ》しは相手を真由とみていない。おそらくは自分自身に言い聞かせるために語っているのだ。
「そうじゃなきゃたとえば、無慈悲《むじひ》で身勝手《みがって》な暴君《ぼうくん》に生まれつくとかすればよかったんだ。もしそうなったら、あたしらみたいな一般人はたまったもんじゃないけど」
「…………」
今でも十分に暴君な気がするのだが、シャルロッテの目からはそうは見えないのだろうか。峻護の自由を奪《うば》い、真由を辱《はずかし》めるがごとき振る舞いに及《およ》び……あれで暴君でないとするなら世界中の辞書《じしょ》に改訂《かいてい》が必要になりそうな気がする。
でももし、あの暴君っぷりが理性《りせい》を最大限に発揮《はっき》した結果であるなら。それは彼女の理性の貧《まず》しさを嘆《なげ》くべきなのか、それとも彼女が置かれた立場の方にこそ主な原因があるとするべきなのか。
「……おっと、ちとしゃべりすぎかな。おいマユ公、このことはシュンゴに言うなよ? 言ったらたぶん、誰にとっても幸せなことにならねーから。わかったな?」
「あ。はい、わかりました」
こくこく頷《うなず》く真由。シャルロッテの真剣な瞳に見つめられては頷くしかなかった、というのもあるが――なんとなく、真由にはわかったのである。ほんとうになんとなくだし、言葉で説明しろと言われれば戸惑《とまど》うだろうが……ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインという少女がいったい何を峻護に求めているかが。
「それにしても、ここ何日かのヒルダさまはどうにも妙《みょう》なんだよな。あたしはそんなに長く殿下《でんか》のそばにいるわけじゃないけど……正直この先|状況《じょうきょう》がどう転ぶか、あたしには想像つかないね」
「妙、というのは?」
「はしゃぎすぎ[#「はしゃぎすぎ」に傍点]なんだよ、ヒルダさまが。この国へ来てからずっとな」
その形容詞《けいようし》に、真由はふたたび違和感《いわかん》を抱かされる。
「ヒルダさん そんなにはしゃいでるようには見えないんですけど……」
「そりゃ素人《しろうと》考えだな。あたしとか祖父《じい》さんから見れば、コインの裏表《うらおもて》をひっくり返したくらいによくわかる。天変《てんぺん》地異《ちい》の前触《まえぶ》れか、ってくらいよく口をお開きになるし、何につけても積極的《せっきょくてき》に行動されてる。セーラー服着て学校行くなんて言った時にゃ、目ん玉が飛び出るのを抑《おさ》えるのに必死だったぜ」
残念ながら『素人』であるところの真由にはもうひとつピンとこない。いつも冷徹《れいてつ》で感情の起伏《きふく》も少なく、声を大きくすることもないヒルダである。あれではしゃいでいるとなれば、普段はいったいどれほど活動量が少ないのだろう?
そう問うとシャルロッテは「そうじゃない」と首を振り、
「活動量が少ないんじゃなくて、何をするにも最小の省力《しょうりょく》で間に合っちまうんだよ。あたしらが百の力でやることを、あの方は一とか二の力で済《す》ませちまう。言ったろ? あの方は端《はな》から出来《でき》が違うんだよ」
「出来が……」
「パッと見の雰囲気《ふんいき》だけでもわかるだろ? ああいう貫禄《かんろく》ってのは血筋の力だけじゃ作れねー、人生|経験《けいけん》の重みとか知識《ちしき》の厚《あつ》みってやつが必要になってくる。ヒルダさまはほんの十歳ちょっとで、それだけのモンを積《つ》んじまってるんだよ。頭の回転の土台《どだい》から違うんだ。あの方の中でだけ別次元の時間が流れてる、って言《い》い換《か》えてもいい」
「…………」
少しずつ、わかってきた気がする。ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインという少女が置かれている立場、そして彼女がどんな気持ちで生きているかが。
あるいはそれは、真由の立場ともほんのちょっぴりだけ、似通《にかよ》ったものかもしれない。
「……でも、じゃあどうしてヒルダさんは普段と違ってそんなにはしゃいでるんでしょう?」
「そりゃ決まってるさ」シャルロッテはひょいと肩をすくめ、「たぶん本気でニノミヤシュンゴに目をかけてるんだよ。期待してる、って言ってもいい。何をそんなに期待してるのかはまったくわかんねーけど」
それも真由には何となく察《さっ》しがついた。こちらは単なる女のカンである。カンだが、しかしほぼ間違いあるまい。
とその時、中庭からキュキュッ、というやや耳障《みみざわ》りな音。車のタイヤがアスファルトに削《けず》られる音だ。
「やべ、祖父さんもう帰ってきやがった。サボりはここまでだ」
不出来《ふでき》な孫娘があわてて煙草《たばこ》の後始末《あとしまつ》をし、タイを結《むす》びなおして立ち上がるのを見ながら、真由は神宮寺学園がある方角に目を向けた。
峻護とヒルダは、今ごろ学園でどんな騒《さわ》ぎを起こしていることだろう。
ふと、テーブルの上に置いていた携帯電話《けいたいでんわ》に目を向ける。
それを取り上げてしばらくじっと待ち受け画面に視線《しせん》を落としていたが、やがて真由の細い指がある番号をコールした。
修学旅行中に突如《とつじょ》として姿をくらました形になっていた峻護だったが、『親戚に不幸があったため急遽《きゅうきょ》帰京《ききょう》した』ということになっていたらしい。真由や麗華もその件について真実は語らなかったようで、ひょっこり教室に現《あらわ》れた峻護をみてもクラスメイトたちの反応はごくいつもどおりであった。
彼らが反応したのは、峻護といっしょに入ってきた少女に対してである。
金髪碧眼《きんぱつへきがん》もさることながら、中学生か小学生ていどしかない華著《きゃしゃ》な体躯《たいく》から発せられる異様《いよう》な存在感《そんざいかん》。クラスはたちまちその存在感に呑《の》まれ、しばし沈黙《ちんもく》し、その沈黙が解《と》ける前に「ほれー、席につけー」担任《たんにん》の教師が姿を現した。
昼寝《ひるね》マイスターとして名高《なだか》いグータラ女教師、仲丸《なかまる》由希衛《ゆきえ》は教壇《きょうだん》に立つと気だるそうな声で、
「あー、見ての通りウチのクラスに新入りが入った。自己《じこ》紹介《しょうかい》を」
「うむ。予《よ》はヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインである。しばしここで厄介《やっかい》になるぞ」
「……だ、そうだ。いちおう留学生ということになっている。あとはわたしも知らん。まあほどほどに上手くやってくれ、やりかたはお前らに任せる」
「はい、質問です」
クラスメイトのひとりが手を挙げた。といっても明らかに浮《う》いた雰囲気をもつヒルダには直接話し掛《か》けづらいようで、
「先生。なんで子供《こども》が高校に?」
「知らん」
別の生徒が手を挙げて、
「どうして日本語ぺらぺらなんですか?」
「知らん」
「なんで二ノ宮といっしょに学校に来るんですか?」
「知らん。というかわたしに訊《き》くな。でもまあ、彼女がただものでないことはわかる。言っても始まらんだろうが、それなりに覚悟《かくご》して接《せっ》するように」
と言って、あくびをしながらさっさと教室を出て行ってしまった。
「……いい教師だ。よく考え、よく判断し、よく処置《しょち》する。シュンゴよ、貴様《きさま》は学習|環境《かんきょう》に恵まれているようだな」
淡々《たんたん》と感想を洩《も》らしながら、ヒルダは空《あ》いてる席(欠席してる真由の席。峻護のとなり)に勝手に座り、座ったところでちょうど予鈴《よれい》が鳴った。
ヒルダを学園に連れてくるなど、信管《しんかん》のゆるい地雷《じらい》を持ち歩いてブレイクダンスを踊《おど》るようなものだ、と思っていた峻護だったが。
高貴《こうき》で傲慢《ごうまん》なお姫さまは想像以上に高い適応能力《てきおうのうりょく》を持っているようだった。
横着《おうちゃく》で物怖《ものお》じしない一年A組の連中も、さすがに始めのうちは留学生の異質《いしつ》っぷりに戸惑っているようだったが、クラスのリーダー格《かく》・綾川《あやかわ》日奈子が勇《ゆう》を鼓《こ》してヒルダに話し掛けたあたりから急速に風向《かざむ》きが変わった。
「えーとヒルデガルト……さん? ちょっといいかな?」
「うむ、苦しゅうない」
「あたし綾川日奈子。よろしくね」
「予はヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインである。ヒルダと呼ぶがいい」
「あ、じゃあヒルダさん。せっかくこうやっていっしょのクラスになったんだしさ、できれば仲良くなりたいなって思ってて。いろいろ聞いたりお話ししたりしたいんだけど、いいかな?」
「構わぬ、何でも話してみるがいい」
「ええとじゃあさ、ヒルダさんってどこの出身?」
「出身|地域《ちいき》をたずねる問いだと解釈《かいしゃく》するなら、欧州の出身と答えることになるな。あるいは帰属《きぞく》する国家についてたずねられているのであれば、どの国の国籍《こくせき》も持っていないと答えよう。予にとって国籍などさして意味を持たぬのでな」
「……ええとそれは、生まれた国がなくなっちゃった、ってこと?」
「否である。そもそも予は国を所有《しょゆう》する側であって国に所有される側ではないのだ。まあ便宜的《べんぎてき》に保持《ほじ》している国籍であればいくつもあるはずゆえ、それを逐一《ちくいち》あげていってもよい。ギュンターに訊いてみねば正確な国の名と数はわからんがな」
「……なんか複雑《ふくざつ》そうね。触《ふ》れないほうがよさそうな話なんでやめとくわ」
「それが賢明《けんめい》な判断であろうな」
「あ、じゃあさじゃあさ。ヒルダさんって、なんでそんなに上手くこっちの言葉話せるの? どこかで勉強したりした? それともこっちに住んでたとか」
「住んではいないが、この国の血族とはわりあい縁《えん》が多い。それを抜きにしても予はこの国の文化や風俗をまずまず贔屓《ひいき》にしている。それゆえ自然と覚えた」
「はあ、自然に。すごいなあ」
「さしてすごいことでもなかろう? 予の時間は売るほどあるゆえ、戯《たわむ》れに見知らぬ国の言語をたしなむこともある。欧州の言語は網羅《もうら》したし、アジア各国もほぼ制覇《せいは》した。アフリカ大陸についてはやや疎《うと》いし、少数民族の言語までは把握《はあく》しきれぬが――まあすごいと呼ぶなら、まだそちらの方がすごかろうて」
「言語学者でもそこまでいける人いないと思うんだけど……いや、参《まい》りました。ところでヒルダさんって二ノ宮くんとはどういう関係? 今日は二ノ宮くんといっしょに学校きてたみたいだけど」
「ああシュンゴか。シュンゴは予のシモベだな。今はその任《にん》を解《と》いているが、予はいまシュンゴの家に滞在《たいざい》しておるゆえ、何かと予の身の回りの世話をさせ――」
「二ノ宮くんの家に滞在!?」
「ってことは同棲中!?」
「月村さんに引きつづいてまたしてもか!」
「ていうか麗華さんも二ノ宮の家に住んでるんじゃなかったっけか!?」
「それよりシモベってどーゆーこと!? もうそんな関係まで進んじゃってるってこと!? 二ノ宮くんのフケツ!」
と、一斉《いっせい》にあがった声は日奈子のものではない。それまで聞き耳を立てていたクラスメイトたちのものである。
「で、実際二ノ宮くんとの生活はどんな感じなの? 月村さんと麗華さんとの兼ね合いは? やっぱ四角関係になるの?」
「ヒルダさんってまだ小学生か中学生に見えるけど、やっぱ飛び級とかなわけ?」
「その金髪マジきれいなんだけど。どうやってお手入れしてるの?」
「ヒルダさんってヨーロッパの貴族《きぞく》さまなのよね? 社交界《しゃこうかい》とか出たことある? あれってどんな感じなの?」
まるで、見知らぬ大人におびえていた子供がその無害《むがい》さに気づいてまとわりつくような感じだった。たまりにたまっていた好奇心《こうきしん》が機会《きかい》を得《え》、鉄砲水《てっぽうみず》のようにヒルダのもとに向かって流れ込むような、そんな光景を幻視《げんし》するほどである。
一方で『大人』のほうも、子供のあしらい方をよく心得ているようだった。ごく横柄《おうへい》に、しかし鷹揚《おうよう》に、ともすれば懇切《こんせつ》丁寧《ていねい》に、質問の雨あられにいちいち受け答えしている。
こうしてヒルダはアクの強すぎるキャラクターはそのままに、わりあい普通に一般人の中へ溶《と》け込んでしまったのであった。
けた外れに強力なサキュバスの姫君、という異物を受け入れた神宮寺学園は昼休みを迎《むか》えている。
「……ふう。思ったほどまずいことにはならずに済みそう、かな?」
一年A組の教室でひとり弁当を広げながら、峻護は疲労《ひろう》と安堵《あんど》の入り混じった吐息《といき》をついた。
ヒルダは現在、早くもできた取り巻きを引き連れ、学園内を見物しにあちこちを練《ね》り歩いているはずである。時おり聞こえてくる、歓声《かんせい》とか怒号《どごう》とかをないまぜにした生徒たちのざわめきは、すでに学園中の話題をかっさらっている金髪《きんぱつ》美少女が各所で巻き起こしている騒動《そうどう》のものだろう。
ただし騒動といっても峻護が想定《そうてい》していたような一日で頭が総白髪《そうしらが》になるような種類のものではない。現にこうして休憩《きゅうけい》の時間を取るだけの余裕《よゆう》がある。むろん本来なら弁当など広げているような場合ではないのだが、実のところ峻護はすでにして途方《とほう》に暮《く》れてしまっているのだ――。
「よお二ノ宮。調子はどうだ?」
来たか、と思った。
その声に振り向くと予想していた人物がふたり。
「ま、思ったほど調子が悪いわけでもなさそうだけどな」
と悪友その一、吉田《よしだ》平介《へいすけ》。
「棺桶《かんおけ》でくたばってるお前と再会するんじゃねーかと思ってたくらいだしな。こっちは」
と悪友その二、井上《いのうえ》太一《たいち》。
ヒルダの登場で何かと騒《さわ》がしかった一年A組の中でも思いのほか静かだった、お祭り好き筆頭《ひっとう》のふたりである。
「ちと話があるんだが、時間いいか二ノ宮?」
「場所はここでいいのか?」
「ああ、そんなに長い話でもないさ。クラスの連中もほとんど教室に残ってないしな」
軽く肩をすくめる吉田に代《か》わって今度は井上が口を開いて、
「あの金髪のこととか、それ以外にもいろいろ訊きたいことはあるけどよ。まあとりあえずやめとく。さしあたりお前が無事だっただけでもめっけもんだよ、二ノ宮」
何しろ吉田と井上はあの修学旅行での一日、峻護が天空へとさらわれていくのを目の当たりにしているのだ。『親戚に不幸があったため急遽帰京した』などという取《と》り繕《つくろ》いが通じるはずもない。
「……お前らには心配も迷惑《めいわく》もかけたし、世話にもなったな。まず礼を言わせてくれ」
「いや、こっちもこっちの都合で動いてたんだ。礼にはおよばない」
「そう言ってもらえると助かる。ところであの後はどうなった? あの京都の日の後は?」
「まあ問題はねえよ。うまいことやった、とだけ言っておく」
「そうか」
普段はただひたすら馬鹿《ばか》っぼい友人たちの度量《どりょう》にあらためて感謝《かんしゃ》しつつ、
「いや、ほんとにかなりの借《か》りを作ってしまったな。この借りは必ず返す。おれにできることがあったらなんでも言ってくれ」
「その点は心配するな。借りはいずれ倍返しで返してもらうから。なあ井上?」
「ま、そういうこったな」
へヘへ、とこの悪友達らしい笑みを作ってみせたところで、
「なにコソコソ話してんの? やーらしいわね」
綾川日奈子が割《わ》って入ってきた。
「いやー疲れた疲れた。ほんと、これまたどえらいキャラがウチに来たわね。何者なわけ? あのヒルダって子」
ぱたぱたと胸元に風を入れる仕草をしながら手近な椅子に座り込んで、
「二ノ宮くんの周りってあんなのばっかなわけ?」
「いや、そういうわけじゃないと思うけど……やっぱり迷惑だったかな、彼女は」
「迷惑ってゆーか……ああいうの連れてくる時は、前もってひとこと言ってもらえれば助かるけどね。いきなりだと心臓に悪いというかなんというか」
「いや、申し訳ない。詳《くわ》しいことは言えないけど、彼女についてはちょっとおれとしてもどうにもならないというか。……ところで」
日奈子、吉田、井上を順に見やって、
「みんなから見て、彼女ってどう思う?」
「どうって……ねえ?」
「……なあ?」
「だよなあ」
三人はそれぞれ顔を見合わせ、なにやら以心《いしん》伝心《でんしん》で通じているような、いないような。
「なんだか煮《に》え切《き》らないな、三人とも」
「ああいう生命体を連れてきた張本人《ちょうほんにん》に言われたくないんだけど?」
日奈子が少しばかり恨《うら》めしげな目で峻護を見、
「まあとにかくそういうことよ。なんかケタちがいで別モノっぼい感じだわ。彼女。なんでセーラー服なんて着てんのかしら、って感じ? 見た目はお子さまだけど、なんか幼稚園《ようちえん》のクラスにひとりだけ大学《だいがく》教授《きょうじゅ》が紛《まぎ》れ込《こ》んでるみたいな」
「あーそういうのわかるわ俺《おれ》も」
吉田が大いに頷《うなず》いて、
「俺が思ったのはさ、『あの子って珍しい動物を集めた襤の中で体験学習でもしてるんじゃないか』ってことだったけど。動物園にひとりだけ人間が混じってるみたいな」
「俺も似たような感想かなー」
井上もやはり同意《どうい》し、
「俺は授業中のあの子を見てて思ったんだけど。まるで教育委員会から派遣《はけん》されてきた監督官《かんとくかん》みてーだ、って思ったんだよな。授業を聞いてるってよりも、教師どもの授業ぶりを査定《さてい》してる、みたいな。授業中ずっと脂汗《あぶらあせ》流《なが》してる教師もいたよな」
「でもさー、不思議と見下《みくだ》してる感じじゃないのよね」
「あ、それわかるわ。すげーエラそーだし、実際《じっさい》頭とかいいんだろうけど、俺らを馬鹿にしてる感じはしないよな」
「わかるわかる。むしろうらやましそうじゃね?」
会話の流れの中で不意《ふい》に出てきたその言葉に峻護が反応する。
「うらやましそうって? ヒルダさんが? おれたちを、ってこと?」
「んあ? そんなこと言ったっけ?」
発言の主は井上だったが、当人は特に考えもなしに口にしたようで、
「ああまあ、言ったのかな? 言ったのか。うんまあ、なんとなく思いつきで言っただけだしな……考えてみりゃそれもおかしな話か、あの子が俺らをうらやましがる理由なんてなさそうだからなあ」
あっさり発言を撤回《てっかい》し、
「でもまあ、友達つくろうとか学園での暮《く》らしに打ち解けようとか、そういう意図があの子にあるわけじゃないのは確かだろうな」
「――わたしもそう思います」
と、別なところから声がした。
「おサルさんをペットや鑑賞物《かんしょうぶつ》にする人間――これはどこにでもいる普通の人です。でもどれほど遺伝的《いでんてき》に近い関係だからといって、おサルさんを自分の同類と見なす人間は変人《へんじん》|扱《あつか》いされるでしょう? それと同じことだと思います」
来たか、とふたたび峻護は思った。
黒縁《くろぶち》メガネがトレードマークの良識派《りょうしきは》少女、というのは過去の話。
その実体は『わりと悪女《あくじょ》っぼい』と当人も認《みと》めるところのサキュバス少女、奥城《おくしろ》いろりである。
「彼女って――ヒルダさんってたぶん、あれでも博愛主義《はくあいしゅぎ》なほうなんだと思いますよ。彼女の圧倒的《あっとうてき》に上位な立場からすれば」
「……あー。うん、なるほど。そうかも? ね」
大人しいイメージで通っているいろりの率直《そっちょく》かつ遠慮《えんりょ》のない発言に、日奈子は意外なものを見たような顔。
「…………」
一方、京都でいろりの本性を垣間《かいま》見ている吉田と井上はひどく微妙《びみょう》そうな顔をしている。
そんなクラスメイトには構《かま》わず、いろりは峻護にニッコリ笑いかけて、
「二ノ宮さん。ちょっとお時間よろしいでしょうか?」
連れだって教室を出ていくいろりと峻護の背中を見送り、残された三人は肩をすくめ合っていたが、
「おっと。着信《ちゃくしん》だ」ふいに日奈子がスカートのポケットを押さえて、「ちょいごめんねー」
ひとこと断ってから教室を出る。電話の相手は――
「いよーう真由、二ノ宮くんから聞いてるよー。なんか具合《ぐあい》悪いんだって?」
『あ、はい、すいません。ちょっといろいろありまして……』
電話口のむこうで恐縮《きょうしゅく》している姿がありありと見えるような友人の声。
日奈子はパタパタ手を振り、
「気にしなくていいって。なーんかいろいろ面倒《めんどう》なことになってるみたいだしね、あんたが学校休んでる間のことはぜんぶ上手くやっとくから、心配しなくていいよ」
『あ、はい、いえその……』
「はは、隠《かく》さなくってもいいって。あの金髪《きんぱつ》のお姫さまがご登場しただけでも何かありそーだって想像《そうぞう》つく上に、あんたのお兄さんも二ノ宮くんのお姉さんも生徒会長の北条さんまで学校に来てないってくれば、そりゃ、ねえ?」
『あ、う。はい。すいません……』
「謝らなくていいって。まあそういうわけで、フォローできることはしとくから。それ以外であたしにできそうなことはあんまなさそうだけど、なんかあったら頼りにしてよ? これでも一年A組の女ボスで通ってるんだからさ」
『あ、はい、わかりました。そうさせてもらいますね』
電話口の向こうでクスクス忍《しの》び笑《わら》う気配《けはい》。
日奈子もまたフフリ[#いったいこれは…「クスリ」か「フフっ」かだと思うけど原本に従う]と笑い、そのまま無言で間をおいた。
『…………』
真由もまた沈黙《ちんもく》をもって応じる。日奈子の無言が本題に入ることを促《うなが》すものであることは真由も悟《さと》ったはず。もとより彼女は単なる雑談《ざつだん》や雑用《ざつよう》で電話をかけてくるようなタイブではないのだ。
『……あ、あの、日奈子さん』
「ん?」
『その……』
「うん」
『……………………』
再度の沈黙に、日奈子もまた沈黙でもって応じる。
ややあってようやく紡《つむ》がれた真由の言葉は、
『…………その、二ノ宮くんが学校でいろいろ大変だと思うので。二ノ宮くんが困ってる時は、助けてあげてください。みたいな……』
「おう。任しとき」
見えない相手に、それでも最大限の笑顔で太鼓判《たいこばん》を押して、
「このあたしがちゃーんとまとめて面倒《めんどう》みたげるから。大船に乗った気でいな」
『はい、ありがとうございます。お礼はいずれ必ず……』
「あいよ。お代はいずれ、カラダの一括払《いっかつばら》いで頼《たの》むわ。二ノ宮くんの」
『ええっ? そ、それはわたしの一存《いちぞん》ではちょっと……』
「じゃ、あんたのカラダでもいいや。それならあんたの一存で判断できるでしょ?」
『もうっ……そんな冗談《じょうだん》ばっかり……』
「あはは、まあまあ」
そんな風にして、あとは多少《たしょう》の世間話《せけんばなし》をして通話を切った後。
明るかった日奈子の表情が、すうっと真剣《しんけん》な色を帯《お》びた。まるで昼と夜が反転したかのように。
(変だね)
そのことは疑間の余地なくわかる。問題はその原因。普通に考えれば、あの金髪のお姫さまを中心にして巻き起こっている、何かしらの顛末《てんまつ》に関《かか》わっていることなのだろうが……しかしそれともやや、趣《おもむき》が異なる気がする。いったい真由は何を伝え、何を相談したかったのだろう。
(直接会いに行ってみるか? んーでもなあ……)
いまいち現在の状況《じょうきょう》がわからず、わかったとしてもどうやら自分の力では及ばない事態《じたい》が展開しているらしいだけに、どう行動すべきか悩むところだ。
むろん、悩んでいる間は時間が止まってくれるというわけでもない。そうこうしてる間に日奈子は別のクラスメイトに呼ばれてそこでも相談を持ちかけられ、真由のことはいったん棚上《たなあ》げにせざるを得ず――そして結局、日奈子は何もしないまま、何もできないまま、ひとつの結末《けつまつ》を目にすることになるのだ。
「ずいぶんな方を連れてこられましたね、峻護さん」
廊下《ろうか》を先導《せんどう》して歩きながら、いろりは苦笑を含《ふく》んだ声で、
「心臓に悪いので、できればひとこと断ってからにしてほしいです。ほとんどホラーですからね、ああいう妖怪《ようかい》じみた人をいきなり見せられるのは」
日奈子と似た、しかしもっと過激《かげき》な内容の苦情《くじょう》はとりあえず置いといて、
「それよりあの後――修学旅行の後始末はどうなったんだ?」
「落ち着くところに落ち着いた、という感じでしょうか」
相変わらず品の良い話し方で、しかし淡々《たんたん》と、
「待にハッピーエンドということもバッドエンドということもありませんでしたね、ほとんど誰にとっても。高望《たかのぞ》みしなければ十分な結果と言えますよ。唯一《ゆいいつ》ひとり勝ちした人がいるとすれば、あの金髪のお姫さまだけでしょう。峻護さんをさらったのは彼女ですよね?」
「ん……まあ、そうなる、かな」
「ともあれご無事でなによりでした。お互い積もる話はあることと思いますが、まずはこちらへ」
案内されたのは空き教室のひとつだった。
中にはまたしても予想された人物。
「……ふん。消えてもろてせいせいした思たら、呼びもせんのにまた戻ってきよって」
奥城たすくが机の上に行儀《ぎょうぎ》悪《わる》く座り、口をひん曲げていた。
「おまけにひとりで戻ってくるならまだしも、おっそろしいバケモン連れてきよってからに。なんや疫病神《やくびょうがみ》かお前は」
「……京都ではいろいろ横着《おうちゃく》してくれたみたいだな、奥城たすく」
いきなリケンカ腰のたすくに、峻護もまた珍《めずら》しく眉間《みけん》にしわを寄せて、
「いろりさんにもいろいろ言いたいことはあるが、お前にはそれ以上だ。いくらおれでも何もかも黙《だま》って見過ごすと思ってもらってはこまる」
「ああ? やんのかコラ」
「ふたりとも、ケンカは無しですよ」
いろりがやんわり割って入り、
「峻護さん。たすくさんはこんな調子ですが、現在のわたしたちは差し当たりあなたの敵《てき》ではありません。もっとも単に悪だくみをしていたというだけで、もともと敵だったつもりもないのですが」
「……罪悪《ざいあく》の意識はともかくとしても、君たちのしていたことは十分すぎるほど非難《ひなん》に値すると思うんだが。それをいきなりぜんぶ水に流すというのは無茶な話じゃないか?」
「おっしゃる通りです。そこでわたしたちは、その罪滅《つみほろ》ぼしと今後の友好《ゆうこう》の証《あかし》として峻護さんにお力添《ちからぞ》えできればと考えているのです。いかがでしょう?」
「力添え?」
「はい。何かとお困りのことがおありでしょうから」
魅力《みりょく》のない話ではなかった、確かに今の峻護は手詰《てづ》まりの状態で、状況に流されるがままである。それに奥城兄妹であれば、『そちら側』の事情《じじょう》を峻護よりはるかによく知っているはずだ。
「今の話の諾否《だくひ》は別として、とりあえず訊《き》いてみたいんだけど」
「はい。何でしょう」
「力添え、っていうのがどのレベルのことを指すのか知っておきたいんだ。たとえばあのひとを――ヒルダさんをどうにかする、っていうのは可能《かのう》だろうか?」
「どうにかする、というのは具体的にはどういったことです?」
「たとえばそうだな、今のおれは完全にあのひとの支配下《しはいか》にあるような感じなんだけど、その支配をどうにかするというか、説得するのは難《むずか》しいと思うから、何かしら交渉《こうしょう》の糸口《いとぐち》を探るとか、もしくはちょっと力づくっぼい手段でもいいかなと思ってるんだけど――」
「力づくゥ? アホか、そんなんムリムリ」
何をボケたこと言っとんねん、とでも言いたげにたすくが手を振り、
「あんなバケモンとは関わるだけでも願い下げやっちゅうのに、ドンパチやらかすなんざ冗談にもならんわ。そもそも俺ら一応、表向きは蟄居《ちっきょ》謹慎《きんしん》ってことになっとるんやで? 上の意向《いこう》を無視《むし》して散々《さんざん》いろいろやらかしたからな……動くにしたって表立たん範囲《はんい》でしか動けん。そもそも俺はな――」
「つまりたすくさんは」
いろりが割って入り、
「最大の目的であったわたしを一応は手に入れることができたので、もうなにかと無理をする必要がなくなったということです」
「な、いろり!? おま……っ!」
「あら。ちがいましたか?」
「ちがうとかそういう問題やない! 俺はただ――」
あわてて言《い》い募《つの》ろうとする義兄を無視《むし》して峻護に向きなおり、
「どうやらたすくさんは気が乗らないようですが、わたしは峻護さんに借りも恩義《おんぎ》もありますので。たすくさんが手を貸《か》してくれなくてもきちんとお力添えいたします。ご安心くださいましね」
「待てコラいろり! 俺はただ現状を正しく把握《はあく》した上でベストの手段を模索《もさく》しようとしてるだけや! 手伝わんとは言っとらんやろ!」
「ええ。頼りにしてますよたすくさん。あなたがいなければ何事も前には進まないんですから」
「なっ!?……くっ……」
あっさり手のひらを返してにっこり微笑《ほほえ》むいろりと、ロをばくばく開け閉めしているたすく。なるほど、このふたりはこういう感じに落ち着いたらしい。
「とはいえたすくさんの言うことにも一理《いちり》あります」
義兄をあしらい終えたいろりは峻護に向きなおり、
「今のわたしたちはそれほど自由に動ける立場にはありません。協力といってもかなり限定的なものになるのは避《さ》けられないでしょう。その点はご理解いただけると幸いなのですが……」
「いや、いいよ。十分だ」
峻護は笑って手を振り、現在の状況《じょうきょう》を手短《てみじか》に説明した。
「それは……どうにも手ごわい難題《なんだい》を出されましたね。たった三日聞であの金髪《きんぱつ》のお姫さまを動かせ、と」
いろりは珍しく眉間にしわを刻んで、
「で、峻護さんなりにいくつか試してはみたけれどことごとく惨敗《ざんぱい》、ですか」
「面目《めんぼく》ない」
「いえ、結果としてはそれでよかったのかもしれません。ただし今後とも『数撃《かずう》ちゃ当たる』の方式で手当たりしだい試していては、すぐに不興《ふきょう》を買うことになりますよ」
「そうか……いや確かにそうだな……」
「生殺《せいさつ》与奪《よだつ》のすべてはあのお姫さまが握《にぎ》っていることをお忘れなく。むしろ短期間の間にそれだけ連続して失敗していながらいまだゲームオーバーを宣告《せんこく》されていないだけ、すでにちょっとした奇跡《きせき》と言えるかもしれまぜん」
そう言われるとぐうの音も出ない峻護である。
「これから先は迂闊《うかつ》に動かない方がいいですね。もっとも確実《かくじつ》と思える方法をひとつだけ、全力をもって試すべきです。期限までまだ多少の時間はありますからその間に策を練りましょう」
「わかった、君の言うとおりだ。そうしよう」
「それとひとつご忠告しておきますが、峻護さんはまだまだ認識《にんしき》が甘いですね。今ごろわたしに相談を持ちかけているようじゃ遅《おそ》すぎます。どうも峻護さんにはそういうところがおありですが、その呑気《のんき》さはこの場合あきらかにマイナスですよ?」
「う……そ、そうか、こんな風に学校なんかに来てる場合じゃないか」
「いえ、それについてはむしろ逆です。峻護さんはこれから可能な限りお姫さまのそばにいて、彼女を観察《かんさつ》してください。そこから突破口《とっぱこう》が見つかるかもしれません」
「なるほど、道理《どうり》だな。まずはあの人のことをよく知らないことには対策の立てようもないか」
「対応策は可能な限りこちらで練っておきます。あのお姫さまに関する情報《じょうほう》 収集《しゅうしゅう》もやっておきましょう。それと今後はできるだけ連絡を密《みつ》に取り合ったほうがいいですね」
「よしわかった、その方向でいこう。おれは早速ヒルダさんのところに行ってくる。協力ありがとう!」
礼もそこそこに、峻護は居《い》ても立ってもいられぬと言わんばかりの勢《いきお》いで空き教室を飛び出していった。
「……妬《や》けるなあ。真由さんやのうてウチがピンチになっても、ああいう風に動いてくれるもんやろか」
つぶやくいろりに、たすくが高々と舌打《したう》ちして、
「ったく。お前の考えることはようわからん……」
苛立《いらだ》ちを通り越《こ》して呆《あき》れるしかない、とでも言いたげに、
「他人のこと気にしてる余裕《よゆう》なんざ俺らにもないやろ? 十氏族《じゅっしぞく》の枠組《わくぐ》みそのものが崩壊《ほうかい》寸前になって、どこの氏族もてんやわんやの状況なんやで?」
「…………」
「おまけにあの金髪が乗り込んできて泣《な》きっ面《つら》に蜂《はち》、そっちの動向《どうこう》にも気《き》ィ遣《つか》わなあかんちゅーのに。お前ときたらその金髪女に、下手《へた》したらケンカ売ることになるかもしれん方向に足を突っ込もうとしとるんや。ついていけんわほんま」
「……今は様子見の時期、という考えはうちも賛成《さんせい》やけど。峻護はんに恩も借りもある。返すもんはきっちり返さんと」
このドサクサに紛《まぎ》れて上手《うま》く立ち回り、おいしいところを持っていこうとしている節がたすくにはあるが、いろりにはそういう方向の野心《やしん》はまるでなかった。
彼女の興味《きょうみ》といえば、少しばかりの自己《じこ》保身《ほしん》と自己満足、あとはかわいい男性に対するいささかのいたずら心だけである。
「それにあの金髪のお姫さん、ウワサに聞いてるような化け物とちがう思うわ。『鮮血姫《せんけつひめ》』やら『白夜《びゃくや》の女王《じょおう》』やら大仰《おおぎょう》な二つ名もつけられとるし、実際《じっさい》化け物には違いないんやろけど。なんやこう、ウチにはもうちょっと別なモンに見えるなあ」
「そんなもん理由になるかい。あの金髪のヤバさはガチやで? 好奇心《こうきしん》で火遊びできるような相手とちゃうぞ……っていろり、お前まさか」
たすくはたちまち両目を眇《すが》めて、
「まだあの男に未練《みれん》持っとるんとちゃうやろな?」
「あら」
その反応を待っていました、とばかりにニッコリ笑い、
「峻護はんは、そらもうええ男どすえ?」
「なんやてえ……?」
がるるる……としつけの悪い犬のような唸《うな》り声をあげるたすくと、ニッコリ笑顔を崩《くず》さないいろり。
さしあたり彼女の興味は、目の前の『かわいい男性』とじゃれ合うことに向けられるのだった……。
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其の三 Struggle――焦躁――
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「なぜです? どうしてなのです!?」
世界のあらゆる言語《げんご》が飛び交うここ、国際《こくさい》空港《くうこう》ド・ゴールのロビーに、ひときわ大きな日本語がひびき渡《わた》った。
「散々《さんざん》のらりくらりと寄《よ》り道《みち》して時間を浪費《ろうひ》したあげく、ようやく空港までやってきたと思ったらまたしても足止めとは……あなたたちはいったい何を考えているのですか!」
「落ち着きなさい麗華《れいか》ちゃん。まわりのお客さんに迷惑《めいわく》でしょ?」
と、今度はまた別の、冷静《れいせい》な日本語が諭《さと》すようなひびきで、
「それに焦《あせ》ったって仕方ないじゃない、まだ飛行機が来てないんだから。果報《かほう》は寝《ね》て待《ま》てっていう格言《かくげん》もあるし、ここは泰然自若《たいぜんじじゃく》として時が来るのを待ちましょう」
「そんな悠長《ゆうちょう》なこと言ってる場合ですか! というかご覧《らん》なさい。空席《くうせき》の便《びん》なんていくらでもあるじゃないの! ほら、五分後に出発するのも、二十分後に出発するのも!」
「そういうオープンな便は避《さ》けたいのよね。飛行機の中で大事な話をするつもりだし」
「でしたらそこらに停《と》まってるジェットを一機、北条《ほうじょう》家の力でまるごとチャーターいたしますわ! チャーターが無理なら買い上げても構《かま》いません! それなら文句《もんく》ないでしょう?」
「わたしの個人用ジェット呼んでるから。それまで大人しく待ってなさい」
「……いやはや、涼子《りょうこ》さんには感謝感謝だねえ。お嬢《じょう》さまのコントロールを一手に引き受けてもらっちゃって」
日本語での騒動《そうどう》を遠巻きに眺《なが》めていた保坂《ほさか》光流《みつる》が、ほがらかに苦笑しつつ謝意《しゃい》を表《あらわ》した。
「ああなっちゃったお嬢さまを――|二ノ宮《にのみや》くんモードになって視野《しや》が狭《せま》くなっちゃったお嬢さまをぼくが諌《いさ》めるとなると、骨の二、三本は覚悟《かくご》しなきゃいけなくなるからね。いっそ涼子さん、お嬢さまの付き人になってくれないかなあ」
「愚《ぐ》にもつかん戯《ざ》れ言《ごと》を……」
と、並び立つ格好《かっこう》の相棒《あいぼう》・霧島《きりしま》しのぶが渋《しぶ》い顔《かお》で応《おう》じる。
「お前の戯れ言はいつものことだが、今回のはとびきりの戯れっぷりだな。あの女が付き人などになるものか」
「そうかな? 今回涼子さんと美樹彦《みきひこ》さんが幽閉《ゆうへい》されてたのはイレギュラーなアクシデントだったし、こちら側としてはそれなりに恩《おん》は売れたはずだけど」
「よしんばその恩をふりかざしてあの女を付き人にしたところで、メリットよりもデメリットが増えるだけのことだ。……それにしてもヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインか。よもや現実に関《かか》わることになるとはな、予想だにしなかった」
「へえ、なんでまた?」
「てっきり空想《くうそう》の産物《さんぶつ》だと思ってたから」
「あはは、確かに。彼女のうわさってけっこうムチャなものばかりだからね」
国際空港での日本語を用いた押《お》し問答《もんどう》は、美樹彦も途中《とちゅう》参加《さんか》していよい収拾《しゅうしゅう》がつかなくなりつつある。通りかかる外国人たちは『ジャップがまた』という目で見ていくが、まああれで少しでも気が紛《まぎ》れるなら結構《けっこう》なことだろう。
「……でも神精《しんせい》にもっとも近いと言われる神戎《かむい》なら」
話をつづけて、
「そういう神話《しんわ》じみた伝説もあながち誇張《こちょう》じゃないのかもよ? なにしろこっちの業界[#「業界」に傍点]では黒幕中の黒幕で、その正体《しょうたい》を知ってる人間は限られた側近《そっきん》だけらしいし。国へ帰ったらその生きた伝説と会うことができるかもね」
「しかしなぜ今この時期《じき》に帰国《きこく》するんだ? わたしには妙《みょう》に中途半端《ちゅうとはんぱ》な時期に思えるんだが。二ノ宮涼子と月村《つきむら》美樹彦の言うとおり、麗華を帰国させて話をややこしくさせたくないのであれば、もっとこちらに長居《ながい》すればいいではないか」
「それはつまり今この時期に帰国すれば、国についたころには結果が出てる[#「国についたころには結果が出てる」に傍点]って当たりをつけてるんじゃない? 吉《きち》と出てるか凶《きょう》と出てるかは知らないけどね。ま、ヒルデガル卜・フォン・ハーテンシュタインの扱《あつか》いについては、あのふたりの管轄《かんかつ》だから。任《まか》せておけばいいんじゃないかな」
「ふむ。まあそれはそれとして――」
しのぶは容儀《ようぎ》をあらため、相棒《あいぼう》をまっすぐ見やる。
「麗華についてはどうする? いや、あそこで駄々《だだ》をこねている麗華じゃない。もうひとりの方[#「もうひとりの方」に傍点]だが」
言われて、保坂の意識《いしき》は先日のシャンゼリゼ通りへ飛んだ。
『わたしが何を吹き込んだか、ね――』
涼子の問いを受けてもうひとりの麗華は嫣然《えんぜん》と微笑《ほほえ》み、カップの紅茶《こうちゃ》に口をつける。
もったいをつけたような間にカフェの喧騒《けんそう》とパンの焼ける香りが交錯《こうさく》し、からかうような口詞で先に口を開いたのは涼子だった。
「若い女の子が、同じく若い女の子を呼びつけたあとにすることといえば……定番《ていばん》ならまあ、ヤキを入れるとか? 二、三発|殴《なぐ》ってやったとか、そういうことかしら』
『まさか』もうひとりの麗華は視線《しせん》だけで冷笑《れいしょう》し、『誰《だれ》がそんなやさしい真似[#「そんなやさしい真似」に傍点]』
『腹《はら》の探《さぐ》り合《あ》いみたいなやり口は好みじゃないの』涼子は表情を変えず、『あなたが表に出ていられる時間はそんなに長くないと聞くし、なるたけ手早《てばや》くいきましょう』
『ええ、手早く済《す》むのならわたしも歓迎《かんげい》するわ。ご質問をどうぞ、答えられる範囲《はんい》でなら答えてあげる』
『じゃあ訊くけれど。わたしたちは真由ちゃんの中にもうひとりの真由ちゃんがいるってことは前から知ってたわ。でも彼女が何者で、なぜ真由ちゃんの中にいるのかも未《いま》だわかってない。――あなたは知ってる? 彼女が何者かについて?
『ええ、知ってるわ。でも教えてはあげない』
涼子の眉《まゆ》が、それと注意していなければわからないほどごくわずかに、動く。もうひとりの麗華は表情をまったく崩《くず》さぬまま。
『どうしてあなたが呼んだ時、もうひとりの真由ちゃんはすんなり出てきたのかしら? 真由ちゃん自身もよほどのことがなければ呼び出せないって聞いてるけど。何か心当たりはある?』
『ええ、あるわ。でも教えてはあげない』
『なぜあの時、あの場でもうひとりの真由ちゃんを呼び出したのかしら。その気になれば呼び出せるのだとしたら、もっと別の機会でもよかったはずよね。それはなぜ?』
『たまたまよ』
『あなたの目的は何?』
『さあ』
ふたりの年齢《ねんれい》はかなり離れているはずだが、はた目からはその差はほとんど感じられない。涼子の静《しず》かな威圧《いあつ》を、もうひとりの麗華は平然《へいぜん》と受け流している。静電気《せいでんき》でも帯《お》びたようにぴりぴりとした空気が彼女たちを中心に広がり、いつしかカフェの喧騒は沈黙《ちんもく》に取って代わられていた。
この間、ふたりはお互《たが》いに一度も視線を外《はず》していない。
『――じゃあ最後にひとつだけ、もういちど訊くわ。あなたもうひとりの真由ちゃんに何をしたの?』
『何もしてないわ。ただひとこと伝《つた》えただけ』
『なんて言ったの?』
くちびるを吊《つ》り上げて麗華が笑う。
美しい花に含《ふく》まれる毒《どく》のように、白く濡《ぬ》れる八重歯《やえば》が一瞬《いっしゅん》のぞいた。
『わたしより先に死なないでね[#「わたしより先に死なないでね」に傍点]、って。ただそれだけよ』
『…………』
『わからないとは言ってたけど、どうやら薄々《うすうす》気づいてるみたいね? もうひとりの月村真由のことについても、そしてわたしが何者なのかについても』
毒をひらめかせたのは一瞬だけだった。
もうひとりの麗華はふたたび媽然《えんぜん》たる笑顔をまとって、
『じゃあ最後に、わたしからもひとつ訊かせてもらっていいかしら』
『…………なに?』
『あなたたちが救いたいのは今の月村真由[#「あなたたちが救いたいのは今の月村真由」に傍点]? それとももうひとりの月村真由のほうかしら[#「それとももうひとりの月村真由のほうかしら」に傍点]?』
――なかなか痛烈《つうれつ》だねえ、と保坂は思う。
まるで念入《ねんい》りにトゲを生やした刃《やいば》で内臓《ないぞう》をえぐるような、あれはそんな問いだった。
よほど虫の居所《いどころ》が悪くても表の麗華にはあんなセリフ口にできまい。これで裏《うら》の麗華のほうは大悪役に大決定だろう。
「どうしたものかなあ」
先ほどのしのぶの問いに答えて、
「表のお嬢《じょう》さまに比《くら》べると、裏のお嬢さまはやたらと扱いにくいしね。正直、ぼくにはどう転ぶかわからないよ」
「いや、そうじゃないんだ。わたしが訊いてるのは――」
しのぶは表情を変えない。まっすぐ相棒《あいぼう》を見つめたまま、固《かた》いつばを呑《の》み込む間だけをわずかに置いて、
「わたしが訊いてるのは、お前はどうしたいのか、ということだ」
「そうだねえ……」
なんだ、訊いちゃうのかい? と思う。君はこれまでずっと[#「君はこれまでずっと」に傍点]、その問いを胸の内に収めておいたはずなのに[#「その問いを胸の内に収めておいたはずなのに」に傍点]。こんなところでこんなタイミングで、その場の勢いに任せて訊いちゃっていいのかい?
だが、いずれは問われるとわかっていたことだ。
保坂はかねてから用意していた返答《へんとう》をすらすら読み上げた。
「お嬢さまに、つくよ。お嬢さまがしたいこと、やりたいこと、望《のぞ》むことを、ぼくは可能《かのう》な限りサポートする」
「……そうか」
確認《かくにん》の作業だった、と言っていい。
しのぶの返答は想像《そうぞう》していたよりずっとサバサバしたものだった。
「ではわたしはお前の方針《ほうしん》に従《したが》い、お前をサポートしよう。それがわたしの仕事だからな」
「助かるよ。よろしくお願いね」
しのぶの口調も表情も、もう元の通りに戻っている。
「しかし弱ったな」話題もさりげなく変わった。「旦那《だんな》さまが裏でいろいろ動いてるというのは想定してなかった。気づいてみれば十氏族《じゅっしぞく》の枠組《わくぐ》みは事実上|崩壊《ほうかい》し、旦那さまを中心に新たな枠組みを構築《こうちく》する方向で動いているとか。北条家の一員たる我々《われわれ》としては問題ないのだが、二ノ宮涼子と月村美樹彦と同盟《どうめい》を組《く》んでいる我々の立場からすれば、これは少々まずい」
「旦那さまの直属《ちょくぞく》と、お嬢さまの直属と――いまの北条コンツェルンは事実上、ふたつの独立《どくりつ》した組織《そしき》として動いてるからね。それは旦那さまがそれだけお嬢さまの実力《じつりょく》を認《みと》め、期待して業務《ぎょうむ》を任《まか》せているということでもあるし、お嬢さまがそれによく応《こた》えているという証左《しょうさ》でもあるけど……今回はそれが裏目に出ちゃったかな」
「旦那さまと麗華の立場が割《わ》れた場含は、どうする?」
この問いには即答《そくとう》できる保坂である。
「お嬢さまにつくよ。ぼくは旦那さまからお嬢さまの一切《いっさい》を任されてる身だからね。たとえ旦那さまと敵対《てきたい》することになってもお嬢さまを第一に考える、それが旦那さまからの信頼《しんらい》に応えることにもなるでしょ?」
「物は言いようだな。だがわたしも賛成《さんせい》だ。今はなんでもかんでも手を回せる状況《じょうきょう》じゃない、優先順位をつけて取捨《しゅしゃ》選択《せんたく》していくしかあるまい」
「旦那さまから連絡《れんらく》がきてもお嬢さまには取り次がない、もしくは改変《かいへん》した情報をお嬢さまに伝える……まあそういう方向になるね」
「越権《えっけん》行為《こうい》の極致《きょくち》だな。不忠《ふちゅう》のそしりは免《まぬが》れんぞ」
「大事の前の小事、だよ。――さて、それじゃぼくらも行こうか。お嬢さまの癇癪《かんしゃく》がそろそろ収拾《しゅうしゅう》つかなくなりそうだ」
「お前が出張っていくと余計《よけい》に収捨がつかなくなるのではないか?」
言いながら、それでもふたりは騒動《そうどう》の中心へと歩き進んでいく。
現場では麗華が特撮《とくさつ》の怪獣《かいじゅう》のように怪気炎《かいきえん》をあげ、見世物《みせもの》でも見るように空港の利用客たちがそれを取り囲《かこ》み、警備《けいび》の制服を着た男たちが遅まきながらに走ってくるところだった――。
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少女の形をした暴風雨《ぼうふうう》が二ノ宮家を襲来《しゅうらい》して、二度目の朝である。
(どういう人なんだろうな、ヒルダって人は……)
使い慣《な》れたキッチンで朝食の用意を整《ととの》えながら、峻護《しゅんご》は年端《としは》も行かぬ女主人の心のうちを推し測っている。
昨日のいろりとの打ち合わせ以降《いこう》、峻護は言われたとおりに金髪《きんぱつ》のお姫さまの傍《そば》につき従《したが》い、その動向《どうこう》を観察《かんさつ》した。
『シモベの任《にん》は解《と》いてやったのに、ご苦労《くろう》なことだ』
ヒルダから皮肉《ひにく》以上・冷笑《れいしょう》未満なお言葉を賜《たまわ》りつつもめげることなく、自分のすべき仕事に精《せい》を出した。食事につき従い、ティータイムにつき従い、時には湯あみの現場にまでついていこうとしてシャルロッテにつまみ出されたりしながらも、峻護は女王アリに随伴《ずいはん》する働きアリのようにヒルダの後を追った。
その有様《ありさま》はほとんどストーカーと紙一重《かみひとえ》だったが、峻護はそれと承知《しょうち》しつつ真剣《しんけん》に自分の仕事に取り組み、成果《せいか》を得《え》ようとしたのである。成果――ヒルダに自分を認《みと》めさせ、真由の手助けをさせるためのヒントを。
だが。
(まずいな……まるであの人のことがわからないぞ)
何時間にもわたってヒルダを『取材』した結果は、結局のところそれに尽《つ》きた。ヒルダもヒルダで、シモベの狙《ねら》いをおおよそ察《さっ》したのであろう。峻護の粘着《ねんちゃく》じみた随伴《ずいはん》を黙認《もくにん》しつつも彼をほとんど空気同然に扱い、『そう簡単に尻尾《しっぽ》は掴《つか》ませぬ』と言わんばかりに情報を遮断《しゃだん》する様子《ようす》が多々《たた》みられた。峻護の問いに答えなかったり、じっと目を閉じて動かなかったり、あるいはさっさと床《とこ》についてしまったり。見ようによってはえらく子供《こども》じみたやりかたで峻護を煙《けむ》に巻《ま》くのである。いやまあ、実際彼女は子供であるわけだが。
むろん、彼女がただの子供でないことは承知《しょうち》している。ド派手《はで》で大胆《だいたん》でその実まったく無意味な手段で峻護を拉致《らち》したり、他人の家を占拠《せんきょ》したり、かと思えば今度は真由の行動を縛《しば》り始めたり――一見《いっけん》するとヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインとは、強権《きょうけん》をやみくもに振り回すだけの幼児《ようじ》に見えなくもないのだが、しかし彼女がただそれだけの少女ではないことを、峻護はいくつもの経験《けいけん》により知っていた。
たとえば彼が捕《と》らわれの身になった直後のことである。
峻護は自分を縛る不当さに純粋《じゅんすい》な怒《いか》りを覚え、金髪の姫君に抗議《こうぎ》したことがあった。
あなたのしていることは人道《じんどう》にも倫理《りんり》にも反《はん》している。今すぐ自分の拘束《こうそく》を解いて自由にして欲しい――と。
それを聞いたヒルダは大いに頷《うなず》き、そしてこう言ったものだ。
「もっともな理屈《りくつ》だ。では、その主張《しゅちょう》を通したければ実力をもってするがよい」
……その痛烈《つうれつ》な言葉に、峻護は自分の置かれた立場と己《おのれ》の非力《ひりき》さを思い知ったものである。
そんな彼を見てヒルダは冷笑し、
「力とは、力の差とはつまりこういうものだ。力ある者が力のない者を支配する。それ以上でもそれ以下でもありえぬ」
真実《しんじつ》ではあった。というより、その真実を押し通すだけのまさしく『力』が彼女にはあった。おそらく彼女には実際のところ、『シュンゴをシモベにした』という実感《じっかん》すら乏《とぼ》しいであろう。たとえば畜産《ちくさん》業者《ぎょうしゃ》が乳牛《にゅうぎゅう》を飼《か》い、その乳《ちち》を搾《しぼ》るのと似たような感覚で峻護の首に縄《なわ》をかけているのではあるまいか。
人権を侵害《しんがい》していることを、理屈では承知していてもまるで歯牙《しが》にもかけてはいまい。
それだけの力の差が、ヒルダと自分との間には横たわっているのだ。
いや、力の差だけではない。おそらくはもっと深刻《しんこく》な、格の差が――
(まいったな……)
そう吐息《といき》するより他にない。現在のところ峻護はまったくのお手上げ状態《じょうたい》であった。
「――見事なお手前でございますな」
ふいにかけられた声に振り向くと、ロマンスグレーの執事《しつじ》が峻護の手並《てな》みを見て目を細《ほそ》めていた。
「お若いのに感心《かんしん》なことです。あなた様《さま》のお歳《とし》でそれだけの腕《うで》を持っておられる方は、欧州《おうしゅう》でも滅多《めった》にお目にかかれませんよ」
「いえ、そんな。とてもとても……」
ふいをつかれたことと、己の未熟《みじゅく》さ加減《かげん》を承知している峻護が赤面《せきめん》しつつ頭を掻《か》き、そんな彼にギュンターは昼かい微笑《びしょう》を向ける。若輩者《じゃくはいもの》の峻護にもはっきりそれとわかるくらい、彼の微笑にはまるで裏表がない。
「ヒルダお嬢さまは、シュンゴさまに朝食の用意をお任《まか》せになることをお望《のぞ》みのようではございますが……」
と言って、ギュンターは白く清潔《せいけつ》な木綿《もめん》の布地《ぬのじ》を取り出して身につけ始めた。
エプロンと三角巾《さんかくきん》である。
「下ごしらえ程度《ていど》は手をお貸ししても差し支えありますまい。お邪魔《じゃま》ではありませんかな?」
「えっ? ああいや」タキシードにおさんどん姿という微妙《びみょう》にシュールなスタイルに変身した執事に戸惑《とまど》いながら、「でもいいんですか? ヒルダさんの執事なんだから、彼女のそばについていたほうが……」
「お嬢《じょう》さまは四六時中《しろくじちゅう》傅《かしず》かれることを好まれませんゆえ。こちらのジャガイモの皮を剥いておけばよろしいですかな?」
「あ、はい、じゃあお願いします」
そこまで言われれば強《し》いて断《ことわ》る理由もない。
包丁《ほうちょう》とジャガイモを手に取ったギュンターと並んで峻護は料理のつづきを始め、そして。
十秒もたたぬうち、思わず息を呑《の》むほどの驚《おどろ》きを経験することになった。
いいかげん驚くことにも慣《な》れてきてよさそうなものだが、驚くべきことは驚かなければ仕方《しかた》がない。峻護の視線《しせん》は今や、ギュンターの手元《てもと》に吸《す》い付《つ》くように固定《こてい》されている。
やわらかく、無駄《むだ》なく込められる力加減《ちからかげん》。包丁とジャガイモの隙間《すきま》からどんどん伸《の》びていく、透《す》けるような薄《うす》さの皮。なんと見事な手さばきか――峻護とてそれなりの境地《きょうち》に達した料理人である。単純《たんじゅん》な皮むき作業の奥に透かし見える老執事の技量《ぎりょう》に、感嘆《かんたん》を禁《きん》じえなかった。
ひょっとしてこの老人、総合的《そうごうてき》な能力をみても涼子や美樹彦より上なのではあるまいか。
呆然《ぼうぜん》と、しかし食い入るように作業を見つめてその技を少しでも盗《ぬす》もうとしている峻護に、目線だけで微笑を投げかけて、
「手が止まっておりますぞ?」
「あ」
あわてて自分の仕事を再開する。ギュンターの助力《じょりょく》があったにも拘《かか》わらず万一にも朝食の準備が遅れることがあれば、お姫さまの不興《ふきょう》を買うこと必至《ひっし》であろう。
そうして何十歳も歳の離《はな》れたふたりが並んで作業を進めているうち、峻護はまた別のことに気づいた。
ひょっとしてこの老|紳士《しんし》は、自分の持てる技を無言のうちに伝えようとしてくれているのではあるまいか?
カンである。だがおそらく正しかったはずだ。あらためて見るまでもなく、この時の峻護の作業量はさして多くはなかったし、ギュンターほどの玄人《くろうと》から見ればなおさらわざわざ手伝うまでもないことがわかったにちがいないのだ。
そして峻護のこの想像《そうぞう》はほどなく証明《しょうめい》されることになる。
「よし、これで完成、っと……」
やがてキッチンにはいつもよりはやや簡単《かんたん》な、それでも十分に手の込んだ献立《こんだて》が並《なら》び、
「お見事でございました。つきましては対価《たいか》を求《もと》めるというわけではございませんが」
三角巾を外し、容儀《ようぎ》を整えて、ギュンターは峻護に向き直る。
「シュンゴさま」
「はい……? なんでしょう?」
「ヒルダお嬢さまのこと、どうぞよろしくお頼《たの》み申《もう》し上げます」
深々と銀色の頭を下げて最敬礼《さいけいれい》した。
「え……あの……?」
当惑《とうわく》する峻護と、頭を下げたまま微動《びどう》だにしない老執事。
いったい何をどう頼まれればいいのか。むしろ頼みたいのはこちらのほうではないのか。あの傍若《ぼうじゃく》無人《ぶじん》なお姫さまを執事の忠言《ちゅうげん》でなんとかしてもらえないだろうか、とか。それにつけてもまあ、なんとも今さらな願い事ではないか……。
「はあ、まあ。なんとか」
けっきょくは煮《に》え切らない返事をするくらいしかできなかった峻護だが。
この時の彼にはまだわからなかったのだ。老執事の言葉の真に意味するところが。
朝食を終えると、ヒルダはひとりですたすたと出かけてしまった。
むろんそのお召《め》し物はセーラー服であり、であれば行先《いきさき》はひとつしかない。彼女にとっておそらくあらゆる意味で学校に通うことなど無意味《むいみ》であろうが……一度やろうとしたことはやり通そうという意外な律儀《りちぎ》さの表れなのか、それとも無駄《むだ》な行為に身を置く諧譫《かいひゃく》を楽しんででもいるのだろうか。
ともあれ峻護としては、金魚のフンよろしく女主人の後をついていくしかない。
「あの、二ノ宮くん」
玄関《げんかん》先であわただしく靴をはく峻護の後ろから声が掛《か》かった。
「忘れ物です、これ。お弁当《べんとう》……」
「っと。ほんとだ、忘れてた。急いでたからな……ありがとう月村さん」
手提《てさ》げ袋《ぶくろ》に入った漆《うるし》塗《ぬ》りの弁当箱を受け取り、峻護は礼を言った。真由はいつもと変わらぬ朗《ほが》らかな笑顔。
「それじゃ、行ってきます」
「あ、二ノ宮くんっ」
駆け出そうとしたところを引きとめられて、
「ん? なに?」
「あ、はい、その……」
言うべきか言わぬべきか逡巡《しゅんじゅん》するように目を泳がせ、口ごもっている。
昨日もこんなことがあったなあ、と内心《ないしん》で苦笑《くしょう》しつつも、今度はそれほど長くは待たされなかった。
「……あの、あまり無理しないでくださいね。二ノ宮くんちょっと寝不足《ねぶそく》気味《ぎみ》みたいだし」
「ん? そうかな?」
頬《ほほ》に手を当てながらやや首をかしげる。たしかに状況《じょうきょう》が状況だけに安眠《あんみん》を満喫《まんきつ》するとまではいかないが、睡眠《すいみん》は一日の活動源《かつどうげん》減《へ》らしこそすれ省《はぶ》くことはない。活力《かつりょく》のチャージは十分に済《す》ませている。
だいじょうぶ、問題ないよ――そう答えようとしてふと気づいた。こちらを見つめてくる真由の瞳《ひとみ》に揺《ゆ》れている、何かの感情の色に。
刹那《せつな》、その色を眺《なが》めて――峻護は納得《なっとく》した。
そう、真由の臆の中にあるのは不安《ふあん》の色。
それはそうだろう。彼女は今、未来の分岐点《ぶんきてん》に差し掛かっているのだ。男性|恐怖症《きょうふしょう》で精気《せいき》を吸えない半人前《はんにんまえ》のサキュバスだった彼女だが、ヒルダの助力を得ることができればひょっとすると生まれ変わることができるかも知れないのだから。しかもそんな大事な分かれ道に立っていながら、ヒルダによって行動《こうどう》を制限《せいげん》されている真由は自分から動くことができず、ただ峻護にのみ己《おのれ》の命運《めいうん》を託《たく》さねばならない。もし峻護が彼女の立場に立たされたなら、やはり居《い》ても立ってもいられないような不安に襲《おそ》われるだろう。そのじれったさ、まどろっこしさは、察《さっ》するに余《あま》りある。
そう。真由の命運を握《にぎ》っているのは、この二ノ宮峻護なのだ。
「……あ、あの? わ、わたしの顔、なにかついてますかっ?」
じっと見つめてくる峻護に、真由はあたふたと狼狽《ろうばい》している。峻護は覚《おぼ》えず口もとに微笑を浮かべた。そうだ、このおれがやらなきゃ、いったい他に誰《だれ》がやるっていうんだ?
「だいじょうぶだよ月村さん」
「えっ?」
「だいじょうぶ、任《まか》せてくれ。必ずおれがヒルダさんを動かして、君に協力させてみせる。だから安心して家で待っててくれ」
「あ――あ、はい、わかりましたっ。安心して待ってます!」
いくぶん戸惑《とまど》っていたようだが、それでも最後には真由は明るく笑ってくれた。峻護もまたその笑顔に向けて力強く頷《うなず》いてみせる。
「じゃ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい。どうか気をつけて」
手を振《ふ》り合い、峻護はダッシュで女主人の後を追った。
オーケー、やる気はチャージできた。あとはとにかく行動して、結果を出すのみだ。
……颯爽《さっそう》と駆《か》けていく同居人のうしろ姿を見送りながら、真由はそっと安堵《あんど》の息をついていた。いっしゅん気付かれたか、と思ってひやりとしたが、どうやら勘違《かんちが》いしてくれたようだ。気弱《きよわ》になっている自分に活《かつ》を入れるべく、自分のほっぺたを何度か叩《たた》く。そう、がんばっている彼に自分の都合《つごう》で水を差すべきではない。やはり、いま自分を責《せ》め苛《さいな》んでいる不安と恐れのことなど、ひとことたりとも口にしてはならないのだ。
いっそのこと彼との接触《せっしょく》を極力《きょくりょく》さけたほうがいいのかもしれないが、それは逆に彼を不審《ふしん》がらせる恐れがあった。それに正直なところを言えば……もし彼との接触を完全に断《た》ってしまえば、おそらく自分は不安と恐れに耐《た》えきれず、押《お》しつぶされてしまうだろう。申《もう》し訳《わけ》ないけれど少しだけ、彼を頼《たよ》らせてもらうしかない。
(頼る……そう、わたし頼ってるんだ、やっぱり)
頼ること――依存《いぞん》すること、寄《よ》りかかること。
それは好意《こうい》の一表現であり、行為《こうい》なのだろうか?
それとも。
『他に選択肢《せんたくし》がなかっただけ』なのだろうか? 旧友《きゅうゆう》が無遠慮《ぶえんりょ》に示唆《しさ》したように。
ぎゅっと、真由は己の二の腕《うで》に爪《つめ》を立てる。
シャルロッテに言葉《ことば》の剣《けん》を突《つ》き立《た》てられて以来、真由はずっと考えている。
自分は二ノ宮峻護という少年に恋《こい》をしているのだろうか。
それともすべては錯覚《さっかく》に過ぎないのだろうか。
そもそも惚《ほ》れた腫《は》れた一切《いっさい》がしょせんは脳内《のうない》麻薬《まやく》のみせる幻影《げんえい》なのだ――言ってしまえばそのひとことで済むのかもしれない。でも、これはそういう問題ではないはずなのだ。何がどう、と問われれば答えに窮《きゅう》するのだが。
峻護の姿がとっくに見えなくなっても、真由の笑顔は解けない。今しも彼が忘れ物でもして戻ってくるかも、という妄想《もうそう》にでも囚《とら》われているかのように。あるいはもう嘘《うそ》でもいいから笑顔のままでいないと、負《ふ》の感情《かんじょう》が自分を食《く》い尽《つ》くしてしまうかもしれないと恐れているように。
(二ノ宮くんは、わたしのことどう思ってるんだろう……)
いやちがう。そんなのは関係ない。逃《に》げ言葉だ。問われるべきは、自分がいったいどう思っているのか、ただそれだけでいいはず。彼が自分のことをどう思っているか、あるいは彼が自分に何を与《あだ》えてくれるのか――そんなのはどうでもいい。
自分は彼のことをどう思っているのか。
自分は彼に何を与えてあげられるのか。
答えを出すのであれば、期限《きげん》はもう目の前まで迫《せま》っている。
……ぎゅっと、真由は己の二の腕に爪を立てる。じわりと赤い血がにじむほどに。
その行為《こうい》がもはや自罰《じばつ》にも自戒《じかい》にもならぬことを知る者は、まだふたりを数えるのみ。
「ねえねえヒルダさん、お菓子《かし》たべる?」
「うむ。さして腹《はら》が空《す》いているわけでもないが、好意《こうい》はありがたく受けよう。どのような菓子があるのだ?」
「んーとね、ポッキーとポテチ。どっちがいい?」
「ではそちらの甘そうな菓子を。……ふむ、安っぼいが愛嬌《あいきょう》のある味だ。駄菓子《だがし》ならではのこの適当《てきとう》さがよい」
「じゃ、今度はお茶飲む?」
「いただこう。……ほう、煎茶《せんちゃ》でも抹茶《まっちゃ》でもないのか。ハーブやら豆やらも入ってるようだが、これは貴様《きさま》が淹《い》れたのか?」
「んーん、普通にコンビニで売ってる市販品《しはんひん》。ダイエット系なんだけど」
「ふむ。この国の人間はいろいろなことを考えるな。……ううむ、味の方は美味《うま》いといえば美味いし、不味《まず》いといえば不味い……なんとも面妖《めんよう》な」
「ところでヒルダさんのお父さんって、どんな仕事してるの? 家族構成は何人?」
「問われれば可能な限り答えるようにはする。だが不躾《ぶしつけ》な問いについてはその限りではないな」
「あっ、ごめーん。そんなつもりじゃなかったんだけど」
「なに、予も別に糾弾《きゅうだん》したいわけではない。わかればそれでよい」
(……なるほど。言葉通りというか有言《ゆうげん》実行《じっこう》というか)
金髪《きんぱつ》の姫君を受け入れた神宮寺学園《じんぐうじがくえん》は二日目を迎《むか》え、峻護は軽からぬ驚《おどろ》きをもって女主人の学園生活ぶりを見せつけられている。
休み時間ともなれば周《まわ》りには生徒たちが群《むら》がり、話し方や態度《たいど》こそずいぶん上から見下ろしている感じではあるが、ヒルダは案外《あんがい》ふつうに学園の生徒として馴染《なじ》んでしまっているのだった。
周囲《しゅうい》にあれやこれやと命《めい》じて身の回りの世話《せわ》をさせる、などということもない。自分のことは自分でやり、基本的に誰の手も借りない。
その強烈な個性はそのままに、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインは単独《たんどく》でも十分に自立した個人として成り立っている。峻護が心配していたような問題行動も特にはない。せいぜいが教壇《きょうだん》に立つ教師たちのまずい授業《じゅぎょう》に冷笑《れいしょう》をもって報《むく》いたり、「小腹《こばら》が空《す》いてきたな」などと呟《つぶや》きながら峻護に流し目を送って彼の反応《はんのう》を楽しんだりする程度《ていど》である。
見た目と年齢《ねんれい》と立場にそぐわぬ、ひどく成熟《せいじゅく》した自我《じが》を備《そな》えていることを、金髪の姫君は証明《しょうめい》してみせたといえた。
「…………意外《いがい》と解《と》け込《こ》みましたね」
と同意《どうい》するのは奥城《おくしろ》いろりである。
「正直、何をしでかすか戦々《せんせん》恐々《きょうきょう》としていた部分はあるのですが、これならさしあたり必要以上に警戒《けいかい》することもなさそうです。歓迎《かんげい》すべき状況ですね」
昼休み。
例によって空き教室を拝借《はいしゃく》し、峻護といろりは情報《じょうほう》交換《こうかん》と作戦《さくせん》会議《かいぎ》の場を持っていた。
「しかし弱《よわ》ったな……ずっとヒルダさんに張り付いていたけど、けっきょくこれといって糸口《いとぐち》になりそうなものはなし。いったい何をどうすれば彼女を一発で納得《なっとく》させることができるんだか……」
「はっ。そんな方法そう簡単《かんたん》に出てくるかいボケ」
と横から茶々《ちゃちゃ》を入れてきたのは、呼ばれもしないのにこの場についてきた奥城たすくである。
「何べんも言うてるやろ? あの女は常識外《じょうしきがい》の規格外《きかくがい》のバケモノなんや。俺《おれ》らみたいな並の神戎《かむい》――普通より多少すぐれてる程度の人間がどうこうできるタマやないわ。頭冷やせ」
「彼女が並じゃないことはわかってる。本来ならおれの手に負《お》えそうにないことも。でもそれでもなんとかしなきゃいけない。月村さんの将来《しょうらい》も掛かってるし」
「ふん、別にええやないか、あの金髪の奴隷《どれい》にでもなっとれば。案外《あんがい》なにもかも諦《あきら》めていいなりになってみるのもええかも知れんで? なにしろ相手は神戎の頂点に立つ女や、ソッチ方面のテクも期待できるし……って、あ痛ッ!? 何すんねんいろり!」
「たすくさんはちょっと黙《だま》っててくださいな。話が先に進まないでしょう?」
拳《こぶし》を握《にぎ》り、笑ったまま怖《こわ》い顔で言ういろりに、
「なんやねん、そんな悪い案《あん》とちゃうやろに……奴隷《どれい》の立場から入って徐々《じょじょ》に取り入って、あの女のお気に入りになったところで折《おり》を見てまた頼《たの》み込《こ》めばええやんけ。長期戦や長期戦」
ちいさな声でぶつぶつ不平《ふへい》をもらす義兄を相手にせず、
「さて峻護さん。とりあえず現状でわたしからできるご報告から始めましょう。といっても昨日お話ししたとおり、こちらも満足に動ける状況ではないわけですが……」
「ああ、それは承知《しょうち》の上だ。とにかくまずは聞かせてくれるかい?」
「わかりました。そうですね、たとえば……」指先をくちびるに当て、ちょっと天井《てんじょう》を見上げるそぶりをしてから、「峻護さん、彼女って今いくつに見えますか?」
「年齢《ねんれい》のこと? そうだな、十二歳ぐらい……かな。中身も言動《げんどう》も大人《おとな》びてるから、ひょっとしたらおれたちと同じくらいの年齢は行ってるかもしれないけど。よほど成長が遅《おそ》くて幼《おさな》く見えるタイプだったとしても、まず二十は超《こ》えてないと思う」
「はずれです。五百歳だそうですよ、彼女」
「…………はい?」
呆《ほう》けた顔で反問《はんもん》してくる峻護の反応に満足《まんぞく》げに額《うなず》いて、
「もちろん実際《じっさい》にあのお姫さまが五百年生きてるなんてことはありません。いくら人間離れしてるからって、それじゃあ本当に人間以外の別の生物ということになってしまいます。五百年という数字は彼女の精神的《せいしんてき》な年齢、あるいは彼女の精神活動の主観的《しゅかんてき》な期間、ということらしいですよ」
「……どういうことだ?」
「要《よう》するに頭の回転の速さが異常《いじょう》、ってことなんでしょうね。彼女の実際の年齢はおおむね峻護さんの見立てたとおりのようですが、十年ちょっと生きただけでも五百年ぶんの人生を送れるくらいの経験やら知識《ちしき》を身につけている、ということらしいです。正直自分で言っててもいまいち想像《そうぞう》がつかないんですけどね」
「…………」
どうにも突拍子《とっぴょうし》もない話で、峻護としてはアホのように目を瞬《まばた》かせるしかないのだが……いったいこれは本当の話と受け取るべきか、与太話《よたばなし》として流すべきなのか。
「基本、[#ここの「、」は不要と思えるが原本に従う]事実として捉《とら》えていただいて結構《けっこう》です。まあ五百年というのは大げさにしても、奇妙《きみょう》なくらいに老成《ろうせい》した彼女の雰囲気《ふんいき》からして話半分《はなしはんぶん》くらいには信用《しんよう》していいでしょう。ともかく彼女が桁《けた》はずれなのは間違いないわけで、それはたぶん峻護さんの方が間近《まぢか》にご覧《らん》になってきたこととは思いますが」
その点について異論《いろん》をはさむ余地《よち》はない。
「とにかくヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインという人物は、こんな話がまことしやかに噂《うわき》され、しかもそれがまるっきりのデマでもないという、そういう人物なんです。こっちの業界[#「業界」に傍点]では紛《まぎ》れもなくトップに立つ人ですからね。『アイツにだけは手を出すな』なんて言われてる不 可 触《アンタッチャブル》な人を、峻護さんはいわば手なずけなければならない、と」
「そうか。まいったな……」
自分の立たされた苦境《くきょう》がどうやら想像以上のものであるらしいことを、いよいよ自覚《じかく》する峻護である。知れば知るほど壁《かべ》の高さが見えてくるというか。
「そんな相手にいったい何を示《しめ》せっていうんだ? なんか自信なくなってきたぞ……もともと自信があったわけでもないけど」
「いえ、そう悲観《ひかん》したものでもないですよ」
勇気《ゆうき》づけるようにいろりはにこりと笑う。
「そういう生《い》ける伝説《でんせつ》みたいな人のもっとも近《ちか》い位置《いち》に、峻護さんは居《い》るんです。きっかけをつかめるチャンスはきっとあります。いいえ、きっとヒントは彼女のそばにいくらでも転がってるんじゃないかと思うんです」
わたしは彼女の半径十メートル以内に近づきたくありませんけどね、と付け足してから、
「それに彼女はあの年で生ける伝説ではありますけど……峻護さんだって『神精《しんせい》』かも知れない人なんですから。むしろ格《かく》でいえば峻護さんの方が上ですよ」
「いや、そうは言ってもな……」
いろりは励《はげ》ましてくれてるつもりなのかもしれないが、圧倒的《あっとうてき》な『カ』を現実に発揮《はっき》できるヒルダと、仮説《かせつ》の域《いき》を出ない『神精』であるところの峻護とでは比較《ひかく》の対象《たいしょう》にならない。そもそも自分が神戎だということからして頭が痛《いた》いというか、今はなるべく考えないようにしていることなのに。
「とにかくこちらとしては」
やや姿勢《しせい》を正して、いろり。
「先日もお話しした通り、できるだけの協力《きょうりょく》はします。とはいえこちらも立場《たちば》が立場ですので、全面的な協力というわけにはいきません。その点についてはご理解ください」
「ああ、わかってる。でも頼《たよ》りにはさせてくれ」
「はい。ですがこれは相当にリスクの高い一件です。なにしろ相手が相手ですから、正直これまでの借《か》りと恩義《おんぎ》だけで贖《あがな》うにはちょっと足りないかなと。収支《しゅうし》の折り合いをつかせるために別途《べっと》、何かしら報酬《ほうしゅう》をいただきたいと思うのですが」
それは確かにその通りだろう。ただ借りを返すだけでリターンは何もなし、ときては誰《だれ》だってモチベーションは下がるだろうし。
「わかった。何か報酬は考えよう。おれにできることなら何でもする」
「そのひとことを聞いて安心しました。事が成った暁《あかつき》には峻護さんの身体でもって報酬と代えさせていただきますので、あらかじめお覚悟《かくご》を――あらそんな、逃げなくてもいいじゃありませんか」
席を立とうとした峻護の襟首《えりくび》をがっちり掴《つか》むいろり。
「おいこら! 待てやいろり!」
いらいらしつつもそれまで大人しくしていたたすくが青筋を立てて、
「黙《だま》って聞いてりゃ調子に乗りよって! お前は俺の女なんや、浮気《うわき》は許《ゆる》さんで! それも二ノ宮峻護が相手やなんて、俺はぜったい認《みと》めん!」
「だあってぇ」
いろりはわざとらしくしなを作り、
「峻護さんの精気《せいき》って、ほんまほんまに美味《おい》しいんやもん。あれを一度味わった女は峻護さんの虜《とりこ》にならざるを得《え》えへん、まさしく魔性《ましょう》の味わい……他《ほか》の男性の精気を一万人ぶん集めたって、峻護さんの精気には遠く及ばへんわ」
「なんやと!? 俺の精気かて捨てたもんやないで! 俺の精気やったらなんぼでも吸わせたる、それで我慢《がまん》せんかい!」
「あかんあかん。たすくはんの精気では三百六十五日ずっと毎日吸いつくしたかて、峻護はんのキス一回分の精気にも足りへん。……ああそうや、こないだはキスしかできへんかったしなあ。今度はもっともっとやらしいことして、骨の髄《ずい》まで精気を吸いつくしてみなあかんなあ」
「もっともっと――!?」
ほわわーん、と夢見る乙女《おとめ》のような顔をするいろりに、たすくはますますいきり立つ。
「あかん、許さん! ぜったいあかんで!」
「せやかてたすくはん、あんさんも色んな女の子と色んなことしてはるやん。せやのにうちだけおあずけさせるいうんは、そら殺生《せっしょう》やわ。それにうちら神戎は一夫《いっぷ》多妻《たさい》・一妻《いっさい》多夫《たふ》が基本、せやないと精気のバランスが悪なるし、相手にも負担《ふたん》をかけることになる。そのくらいたすくはんもわかってはるやろ?」
「――よおしわかった、なら●×▽▲までならしたる! それなら文句《もんく》ないやろ!?」
「あかん。峻護はんの精気と引き換えにするにはあまりにしょぼすぎるわ。せめて×■●△まではしてもらわんと」
「それはボッタクリすぎやで! せめて¥@%$#までで!」
「あかん。話にならん。それやったら峻護はんの精気のほうがええ」
ていうかおれはサプリメント扱いか。
心の中でツッコミを入れつつ、あられもない会話に赤面《せきめん》していると、
「まあいいでしょう」
いろりが先に痴話喧嘩《ちわげんか》を切り上げて、
「満場の一致《いっち》をみて峻護さんの精気《せいき》を報酬《ほうしゅう》としていただくということで、話を先に進めます」
「ってなんでやねん!?」
「さしあたりは情報の共有《きょうゆう》から。といっても繰《く》り返し申し上げてる通り時間が足《た》りなさ過ぎて、十分な情報は提供《ていきょう》できないのですが」
「おれの精気を報酬にするかどうかは保留《ほりゅう》しておくとして……そうだな、まずはいろりさんの持ってる情報をありったけ欲《ほ》しい。具体的《ぐたいてき》な対策《たいさく》を話し合うのはそのあとで」
「ってか無視《むし》かい!」
ほんとうに無視しつつ、峻護といろりは今後の展望《てんぼう》について打ち合わせを進めていく。
そのころ二ノ宮家では。
「あーめんどくせえ……掃除《そうじ》なんてのはメイドにでもやらせときゃいいのに。本来、ハーテンシュタイン家つきの執事《しつじ》たるあたしがやるような仕事じゃないんだけどな」
はたきでリビングの埃《ほこり》を落としながらシャルロッテがぼやいていた。
「白翼城《はくよくじょう》だったらいくらでも下働《したばたら》きがいるし、そいつらに指示《しじ》出しとくだけでいいのに。あーやだやだ」
「あの、やっぱりわたし手伝いましょうか……?」
することもなくソファに座《すわ》っていた真由が遠慮《えんりょ》がちに申し出た。ほとんど何をするのも禁じられている彼女は何を仕様《しよう》もなく、お目付《めつ》け役《やく》になっているシャルロッテの目の届く範囲《はんい》で大人しくしているしかないのだ。
「いらね」
が、シャルロッテの返答《へんとう》はそっけなかった。
「殿下《でんか》から言われてるからな、お前には何もさせるなって。ヒマでヒマでしょうがないってんなら、本でも読むかあやとりでもしてろ。そのくらいなら許《ゆる》してやる」
「うう、でも……」
「しつけーな、あたしだってできるものならお前をパシらせてーよ。でも殿下のご命令じゃ仕方ない、お前はマネキンみたいにひたすらじっとしてりゃいいんだ。なんなら寝《ね》ててもいいぞ」
「いえ、あまり眠くは……」
「睡眠薬《すいみんやく》でも飲んどくか? なんなら頚動脈《けいどうみゃく》しめてオトしてやってもいいぜ、そうすりゃイヤでも寝れるし」
「どっちも遠慮《えんりょ》します」
「ぜいたくな野郎《やろう》だ。……にしても退屈《たいくつ》でしょうがねえなオイ。あーヤダヤダこんな雑用《ざつよう》すんの。もうちょっと骨のある仕事してーなー」
ぶつくさ言いながらも掃除を進める手は止めないシャルロッテ。寄宿舎《きしゅくしゃ》時代《じだい》ならとっくに仕事を放《ほう》り出して煙草《たばこ》でも一服してるところだろう。彼女もずいぶん丸くなったものだ、とは思う。あるいはヒルダという絶対者の下についているゆえだろうか。だれにも馴《な》れない一匹狼《いっぴきおおかみ》だった問題児《もんだいじ》でさえ従順《じゅうじゅん》にしてしまう力が、あのお姫さまにはあるのかもしれない。
「うお、なんかいい匂《にお》いしてきた」
シャルロッテが厨房《ちゅうぼう》の方を向いて鼻をくんくん鳴らしながら、
「祖父《じい》さんなんかメシ作ってんな? でもあたしらが食うもん作ってるにしては凝《こ》った料理の匂《にお》いがするな……あーそれにしてもめんどくせ。こんな仕事、ほんとならニノミヤシュンゴにでもやらせときゃいいんだ。ここはあいつの家なんだし」
その峻護はきっと、自分のために四方八方に駆けまわってくれているのだろう。それを思うとふたたび真由の自間自答が始まるのである。残り少ない時間で自分は彼に何をしてあげられるだろうか。この八方ふさがりの状況《じょうきょう》で、自分に何が――
……結論《けつろん》は出ず、考えも進まず、じっとしてなければいけないからなおさら気が塞《ふさ》ぐ。元来《がんらい》が働き者にできている真由だけになおさらである。
「あの、シャルロッテさん」
真由はもういちど申し出た。今度はさっきよりももう少し頭を使って。
「やっぱりわたし、お手伝いします。なにかやらせてください」
「……案外《あんがい》しつけーなお前。昔はもっと聞きわけがよかったじゃねーか。あんまあたしの手を煩《わずら》わせんな、ダメっつったらダメなんだよ」
「でもほら、簡単《かんたん》な仕事ならきっとだいじょうぶですよ、たとえば棚《たな》のグラスを磨《みが》くとかなら、座っててもできるし。シャルロッテさんの仕事も少しは減《へ》って楽になるし」
「ふうん?」
「それに正直、ただじっとしてるのは苦痛《くつう》なんです。人助けだと思って、なにかさせてください」
「ふうむ……」
さして上手《うま》いものでもなかったが、真由の搦《から》め手からの攻《せ》めに少女執事は心を動かされたようだ。
「……まあ今は殿下《でんか》も留守《るす》だし、祖父さんはいったん料理始めると掛かりっきりだし。少しぐらいならいいか。じゃあお前の言ったグラス磨き、任《まか》せてやっから。せいぜいしっかり――」
「ほう? 予の言葉は存外《ぞんがい》軽く扱《あつか》われているとみえるな? これほどあっさり禁《きん》を破《やぶ》られるとは思わなんだ」
「――――!?」
いつの間にか、であった。
リビングのドアに軽くもたれかかったヒルダがアイスブルーの目を細《ほそ》め、真由とシャルロッテのやり取りを眺《なが》めている。
「で、殿下!? いつお戻《もど》りに!?」
「今しがたな」
「も、申し訳ございません! 殿下の厳命《げんめい》を破り、勝手《かって》な振《ふ》る舞《ま》いにに及《およ》ぼうとしましたことは万死《ばんし》に値《あたい》する罪《つみ》! いかようにも罪に服《ふく》しますれば、ここはどうか――」
雷に打たれるように恐縮《きょうしゅく》して直立《ちょくりつ》不動《ふどう》の執事の前を素通《すどお》りし、金髪《きんぱつ》の姫君は真由の前に立った。
「ええとその……あはは、が、学校はどうされたんですかっ?」
「早引けしてきた」
「な、なるほど……ええと、二ノ宮くんは?」
「予は別にシュンゴの保護者《ほごしゃ》ではない。やつの行動の逐一《ちくいち》まで把握《はあく》しておらん。……さて、言い分を聞こうか」
眼光《がんこう》するどく真由を射抜《いぬ》いてくるヒルダ。意外にもその碧眼《へきがん》から禁を破られた怒《いか》りは感じられなかったが、かといって無条件《むじょうけん》に放免《ほうめん》されたはずもない。
「あのわたし、じっとしてるのが苦手で、それでシャルロッテさんに頼《たの》みこんで……簡単《かんたん》な仕事だし、あまり動いてるうちには入らないと思ったから……」
「恐れながら殿下!」
主人の命に背《そむ》いたシャルロッテが顔を青ざめさせながら、それでも口添《くちぞ》えしてくれる。
「殿下の御意《ぎょい》に背いたのはわたしの責《せき》、お咎《とが》めはいかようにもお受けします。されどこのツキムラマユは手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》を倦《う》み、かえって気を病《や》みつつあった由《よし》。それでは結果として殿下の御意に添《そ》わぬと判断し――」
「シャルロッテよ、そう弁明《べんめい》せずともよい。お前に罪があるとすれば予もまた徹底《てってい》を欠《か》いたのだ。マユに何もさせたくないのであればどこぞの牢《ろう》にでも放り込んで手足を縛《しば》り、意識《いしき》も奪《うば》って拘束《こうそく》しておくべきであった」
ふたたび真由を見据《みす》え、
「自覚《じかく》はあると思っていたがどうやら予の思い違《ちが》いだったようだな? 救《すく》いを望《のぞ》まぬ者に手を差《さ》し伸《の》べても無意味《むいみ》だ。貴様《きさま》は予の計《はか》らいを徒労《とろう》に終わらせるつもりか」
問いただす声にはしかし、糾弾《きゅうだん》している調子はない。むしろ真由の行動に興味《きょうみ》を抱《いだ》いているかのような口ぶりだった。
「貴様は一体どうしたいのだ? ツキムラマユ」
簡潔《かんけつ》な問いに真由は沈黙《ちんもく》を強《し》いられた。ヒルダの命の意図《いと》を十分に理解しながら、さしたる覚悟《かくご》もなくそれに背いた自覚が真由にはある。
「――よかろう。貴様の禁《きん》を解《と》く」
その沈黙をどう受け取ったものか、金髪の姫君は朗々《ろうろう》と宣告《せんこく》した。
「貴様の人生だ、貴様が自由に使うといい。リョウコやミキヒコの意向《いこう》は無論《むろん》、予の意向に背くのもまたよし。計らいをないがしろにされたことは愉快《ゆかい》ではないが、かといってそれで予が困《こま》ることは何もないしな」
そう言うともはや真由への興味を失《うしな》ったのか、厨房《ちゅうぼう》の方を向いて、
「ギュンター!」
「はい、ヒルダお嬢《じょう》さま」
「お嬢さまはよせ。……ところで相変《あいか》わらず如才《じょさい》ないな」
厨房から芳《かぐわ》しい香りをまとわせながら現《あらわ》れた老執事《ろうしつじ》は微笑しつつ一礼して、
「恐れ入ります。昼食の用意はすでに整《ととの》いましてございますれば……オードブルに鴨肉《かもにく》とフォアグラのパテ、メインにオマール海老のポワレ、デザートにカシスゼリーのシャンパン仕立てなど用意いたしましたが、御意に添《そ》いますでしょうか」
「パーフェクトだギュンターお前の先読みぶりは未《いま》だ健在《けんざい》だな」
「命を受けてから動くようではハーテンシュタイン家の執事は務《つと》まりかねますゆえ。昼食をお召しになった後は学《まな》び舎《や》にお戻りになりますか?」
「そのつもりだ。――ところでギュンターよ」
食堂に向かいながら、ついでの用事を思い出したように、
「シャルロッテが民草《たみくさ》のような言葉づかいで自《みずか》らの扱《あつか》いに対《たい》する不満《ふまん》を述《の》べた揚句《あげく》、予の命に背いておったぞ」
「ほう。それはそれは……」
微笑する老執事の目がいっそう細くなり、シャルロッテがびくりと身体《からだ》を震《ふる》わせる。
「いまだ昔の悪い癖《くせ》が抜けきっておらぬようですな。あとで厳《きび》しく申し聞かせておきますゆえ、どうかこの度《たび》はご容赦《ようしゃ》を」
「まあ予は礼儀《れいぎ》作法《さほう》など大《たい》して気にせぬがな。しかしお前の孫娘に対する折檻《せっかん》ぶりは時々むしょうに見たくなるのだ」
「御意にございます。ではお食事の余興《よきょう》がてら、孫娘を教育しなおすことといたしましょう。……シャルロッテ、こちらへ来なさい」
「お、お祖父《じい》さま、後生《ごしょう》ですからどうか……!」
「こちらへ来なさい」
絵に描いたような顔面《がんめん》蒼白《そうはく》でいやいやをするシャルロッテを、ギュンターが引きずるように連れていく。
「い、嫌……あれだけはぜったい……おいマユ公! 助けろ! いや助けて! お願いします! 助け」
バタンとドアが無情《むじょう》にも閉《と》じられ、死《し》に物狂《ものぐる》いであがくシャルロッテの姿がドアの向こうに消える。
あわあわと為《な》す術《すべ》なくそれを見送っていた真由だが、ひとりになるとたちまち心に重い雲《くも》が垂《た》れこめた。
またしても変転《へんてん》した状況を自覚する。
ヒルダによる禁を解かれた真由は自由を得《え》、それと同時に可及的《かきゅうてき》速《すみ》やかに決断《けつだん》するべき責《せき》を負ったのだ。自分の意志で、自分の未来を決めるべく。
時間はもう残り少ない。
昼休み中、金髪のお騒《さわ》がせ少女がいつの間にか姿を消してしばし。
泡《あわ》を食って学園中を探すも見つからず、ようやく思い至《いた》って自宅に電話を入れてみると、
「ヒルダお嬢さまはすでにお食事を終え、おひとりで学園にお戻《もど》りになりました」
とのギュンターからの返答《へんとう》を得てがっくりの峻護である。
「ほんと人騒がせな……何をするのもいいけどせめてひとこと言ってからにしてくれればいいのに」
「おっしゃるとおりではありますが」
老執事《ろうしつじ》はやんわりと峻護を諌《いさ》める。
「ヒルダお嬢さまが諸事《しょじ》、普通とは異なっておられますこと、シュンゴさまもすでに重重《じゅうじゅう》[#何で「重々」じゃないのか? 原本に従う]ご承知《しょうち》でございましょう。それを考えれば昼食をとるために学校を抜け出す程度《ていど》は、さして奇矯《ききょう》でもありますまい。予想してしかるべきとまでは申しませんが、反応してしかるべきとは申せましょう」
「はあ、まあ……それはそうかも知れませんが……」
「ましてやシュンゴさまはお嬢さまに対して明日までに『何か』を示さねばならぬ身。その策《さく》を練るためにもお嬢さまに対しては常時《じょうじ》、気を配《くば》っておいでのことと思い込んでおりましたが……そういうわけでもなかったのでございましょうか。あるいはシュンゴさまにおかれましては、すでに勝算《しょうさん》が立っておいでなのでしょうか」
そう問われれば返答に窮《きゅう》する峻護である。
(おれはまだ自覚が足りないんだろうか……?)
二ノ宮家から神宮寺学園への途上《とじょう》にあるというヒルダを探し、峻護は町中を駆《か》けていた。 ギュンターの言うとおり彼女には常時気を配っておくべきだし、そもそもあのお姫さまは放《ほう》っておけば何を仕出かすかわからない。いろりとの会合《かいごう》があったとはいえ、もっと様々な角度から方策《ほうさく》を練っておくべきではなかったか。
(危機《きき》意識《いしき》が薄《うす》い……のか? おれは。だめだだめだ、こんなんじゃ……)
言い聞かせる。自分が相手にしているのはあのヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインなのだ。峻護などでは足元にも及《およ》ばず、涼子や美樹彦にとってすら上位の存在《そんざい》である、雲の上の人物。そしてこの件《けん》には月村真由の将来が掛かっている。エンジンがなかなか掛からないなどとぼやいている場合ではない。
と、前方に見間違《みまちが》えようのない姿が見えた。小柄《こがら》なセーラー服姿に豪奢《ごうしゃ》な黄金の髪。
「探しましたよヒルダさん! ここにいたんですか!?」
「ほう? 探したとな」
息を切らせて追いついてきた峻護に冷笑《れいしょう》の刃《やいば》を一閃《いっせん》。
「なんだ貴様、まだ予の出した条件に挑《いど》む気があったのか。期限を切ってやったにも拘《かか》わらずさしてやる気もないように見えたのでな、てっきり予の奴隷《どれい》になることを受け入れたのだとばかり思っておったぞ?  予としてはそれはそれで構《かま》わなかったのだがな」
「いえそんな、そんなことは。これでもおれなりに色々と……」
「くく、冗談《じょうだん》だ」
ふたたび前を向いて歩き始め、
「ところで予のことはどの程度わかったのだ?」
「えっ? 何がです?」
「まさかそれで隠《かく》しているつもりではあるまいな?」姫君は面白《おもしろ》くもなさそうに、「その程度は凡俗《ぼんぞく》でも察《さっ》する。何しろこのヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインと事を構えようというのだ。よほどの愚鈍《ぐどん》でない限り、まずは可能な範囲《はんい》で予のことを知ろうとするであろうし、事実貴様はそうしていたではないか」
隠したつもりは毛頭《もうとう》なかったが、なるほど、この少女に隠し事をするのは相当に困難《こんなん》な事業になりそうだった。峻護の心理《しんり》と動向《どうこう》を正確に見抜《みぬ》いている。
「それでどうだ? 予のことは何かわかったか?」
「はあ、いえ。それがほとんど……」
「さもあらん。ギュンターは知恵者《ちえもの》ゆえ語らず、シャルロッテは未熟《みじゅく》ゆえ語るまいし、予とてそう簡単に尻尾を掴ませてやるつもりもない。シュンゴよ、ほかに予のことを知るツテはあるのか?」
「ええ、まあ、どうにかなくもないというか……」
「何ならリョウコとミキヒコあたりに連絡《れんらく》を取ってみてはどうだ? やつらおそらく今頃《いまごろ》、ニューヨークかホンコンあたりで豪遊《ごうゆう》しているであろうからな、探せば見つからぬこともないぞ? あるいは手近なところでパリあたりをうろついているかも知れんが……くく、ストレス解消《かいしょう》のための浪費《ろうひ》、ヤケ買いというやつだ」
手のひらの上で小動物を弄《もてあそ》ぶような声でヒルダは笑う。
峻護は口をつぐんだ。千里眼《せんりがん》の持ち主であるかのように、それをまるで既定《きてい》の事実であるかのように語るヒルダ。まさか本当に彼女の言うとおりに……?
「ほう?」
嫌《いや》な汗《あせ》が浮いてくる感覚に耐《た》えていた峻護の耳に、興《きょう》そそられたらしい声がとどく。
「思わぬ余興《よきょう》に巡《めぐ》り含わせたようだ。大して面白くもなさそうだが見物していくか」
くるりと方向を変え、すたすたと歩いていく。むろん何の説明もない。峻護としてはただ後をついていくしかない。
向かった先はとある陸橋《りっきょう》だった。スーツ姿の人々が忙《いそが》しく行き交《か》うところを掻《か》き分けるようにして、陸橋の中ほどまで歩を進める。
ひとりの男がいた。
中年と呼ぶにはまだ若く、かといって壮年《そうねん》と呼ぶにはとうが立ちすぎている、そんな男である。
男は上着のスーツを脱《ぬ》ぎ、ネクタイも外し、手すりに肘《ひじ》を乗せて眼下《がんか》の光景を眺《なが》めている様子だった。
濃《こ》い無精《ぶしょう》ひげと乱《みだ》れた頭髪《とうはつ》を見るまでもなく彼の疲労《ひろう》の度合いは知れる。下はひっきりなしに車両が行き交う国道。男は血走った眼で、まばたきもせず、そんな光景をじっと見下ろしているのだ。
「まさか自殺《じさつ》……ってことはないですよね?」
「なんなら賭《か》けてみるか? まあ賭けとして成立せんだろうがな」
ヒルダのセリフが終わる前に峻護は駆け出し、
「待て。なんの故《ゆえ》あって止める?」
静かな、しかし有無《うむ》を言わせぬ声が峻護の足を止めた。
「余興の邪魔《じゃま》をするな、などとケチくさいことは言わぬ。だが横やりを入れられる形になることは事実だ。相応《そうおう》の理由は聞かせてもらうのが筋《すじ》であろう?」
「理由? 理由なんてそんな、人が死のうとしてるのに――!」
「あの男が飛び込むことによって交通|事情《じじょう》に狂《くる》いが出、無関係の人間にあまたの迷惑《めいわく》をかける、というならそれもよかろう。理にかなっている」
言い募《つの》ろうとする峻護に構わず、金髪《きんぱつ》の少女はなおも続ける。
「あるいはあの男が死ぬことによって、あの男の縁者親類《えんじゃしんるい》が何かしらの被害をこうむる可能性《かのうせい》を憂慮《ゆうりょ》しているというならば、まあそれもよい。その場合はあの男をあそこまで追い詰めた責任の一端《いったん》を縁者親類どもに問わねば割が合わぬがな。しかしそういう理由があるでもなく、『人が死のうとしているから』というだけであの男の命を救おうとしているのであれば、それは余計《よけい》なお世話《せわ》というものだ」
「あなたは……あなたは人の命をなんだと思ってるんです? そんな軽くみていいものじゃないでしょう、命ってのは!」
「軽く見ていないからこそ、わざわざ予がこうして足を止めているのではないか。あの男が何かしら己《おのれ》の命の価値《かち》にふさわしいものを、死の間際《まぎわ》に見せてくれるのではないかとな」
仕事|優先《ゆうせん》で忙しく行き交う人々も、せまい陸橋でこんな問答《もんどう》を繰《く》り返《かえ》していれば騒《さわ》ぎに気づく。ひとりふたりと足を止め、やがて思いつめていた様子の自殺|志願者《しがんしゃ》らしき男も唆護とヒルダに気がついた。
「やれやれ、これでは奴も不幸であろうに。これではまさしく見世物《みせもの》ではないか。予はせいぜい礼節《れいせつ》を守って沈黙《ちんもく》のうちに見物を決め込もうとしておったのだが。……おい、そこな男!」
「な、なんだ……!?」
年端《としは》もいかぬセーラー服の金髪少女にいきなり居丈高《いたけだか》に呼びつけられ、男も相当に戸惑《とまど》っているようだ。
「図《はか》らずも邪魔《じゃま》をする形になった、その点は詫《わ》びよう。ついてはその補償《ほしょう》というわけでもないが、外野《がいや》がこれ以上|貴様《きさま》を邪魔立てするようなら予が責任を持って止めてやる。だから安心して死ね」
「なんだ? 何を言ってるんだお前……そうか、そうかわかったぞ! 『死ね』みたいなことをわざと言っておいて、逆に俺を止めるつもりだな!? くそっ、止めるな! 俺はもうこれ以上この世で生きていくのは無理なんだ!」
「心得ちがいをするな。予は別に福祉家《ふくしか》でも聖職者《せいしょくしゃ》でもない。貴様が死のうと生きようと興味《きょうみ》などないわ。……しかしこの様子ではやはり無駄骨《むだぼね》だったようだな。貴様からは何ひとつ有益《ゆうえき》なものは得られんようだ」
「なんだと……?」
男の血走った眼に危険な光が宿《やど》る。
「何をもって自らの命を絶《た》とうとするのか知らんが、どうせ取るに足りぬ理由であろう? 金か、女か、あるいは精神的な薄弱《はくじゃく》さゆえか……いずれも矮小《わいしょう》かつ卑俗《ひぞく》きわまる。どうせなら矮小に卑俗に生《せい》を全《まっと》うしてみてはどうだ? それこそ虫けらのように地べたを這《は》いずりまわって。さもしく、哀《あわ》れにな」
「こっ、このっ……なにも、なにも知らないくせに!」
「知らずともわかる。もしも取るに『足る』理由があるのであれば深刻《しんこく》な顔をして悩《なや》むまでもない、予などに構《かま》わずさっさとそこから飛び下りればよいのだからな。……それで? どうするのだ? 死ぬのか? 死なぬのか?」
「くッ……!」
子供《こども》にしか見えぬ相手にやりこめられ、足を止めた人々から望まぬ注目を浴《あ》び……男がどんどん追《お》い詰《つ》められていく様子が手に取るようにわかる。峻護もまたヒルダの痛烈《つうれつ》な言葉の弾丸《だんがん》をただ受け止めるしかない。まるで自分に向けられたそれのように。
「……このっ……」
男の心の均衡《きんこう》を保《たも》っていた細い糸が、もろい音をたてて切れた。
「このおおおおおおおおおおおおおッ!」
男の感情の矛先《ほこさき》は陸橋の下の国道ではなく、目の前の華著《きゃしゃ》な少女に向けられた。口から泡《あわ》を飛ばし、拳《こぶし》を不恰好《ぶかっこう》にふりあげ、両足でドタバタと駆け――まるでケンカ慣《な》れしていないのが丸わかりな、しかし鬼気《きき》迫《せま》る形相《ぎょうそう》で襲《おそ》いかかる。
男を除《のぞ》くその場の誰《だれ》もが動かなかった。ギャラリーたちはもちろん、言葉の弾丸を浴びて硬直《こうちょく》していた峻護さえも。
そして襲い来る男を氷の瞳で眺《なが》めていたヒルダも、また。
――彼女は動かなかった。
文字どおり微動《びどう》だにしなかった。眉《まゆ》ひとつ動かさず、瞬きひとつしなかった。
しわだらけで灰色にくすんだ拳が、少女の白くて小ぶりな美貌《びぼう》に吸い込まれた。
がぎっ、という鈍《にぶ》すぎる音。
素人《しろうと》とはいえ成年男性の、体重の乗った一撃《いちげき》だった。
だが。
「やはり何もなかったな」
金髪の少女は。
男の拳を頬《ほほ》にめりこませたまま、ただひとことだけ言い放った。氷の瞳でまっすぐ男を眺めたまま。
小ゆるぎもしなかった。
峻護の目にはまるで、男が巨岩か大木にでも拳を打ち込んでいるかのように見えた。殴《なぐ》られる前も、殴られている時も、殴られた後も。ヒルダは文字通り、微動だにしなかったのだ。
「う……? あ?」
信じがたいものを見た顔で呆然《ぼうぜん》としていた男が意味を持たぬ声を発し、その直後。
「うああああああああっ!? 手が、くそっ、手が折れ……!」
「……いやはや。道化《どうけ》だな、まさしく。貴様も予《よ》も」
ようやく視線《しせん》を外し、黄金の髪をなびかせてヒルダは腫《きびす》を返した。男を除《のぞ》いたギャラリーたちは目の前で起きた出来事《できごと》に声もなく、峻護だけがワンテンポ遅《おく》れて事件の主役の後をついていく。
「これで満足か、シュンゴ?」
「えっ?」
「貴様の望みどおり、あやつの命を保留《ほりゅう》にしてやったではないか」
峻護は目を点にしてきょとんとするばかり。その呆《ほう》け面《づら》を確認《かくにん》してヒルダは双眸《そうぼう》を猫のように細め、
「やれやれ、これでは本当に福祉家《ふくしか》か聖職者《せいしょくしゃ》ではないか。まったく道化にもほどがある」
後ろを振り返れば、手を押さえて呻《うめ》いている男の周囲を数人の見物人が取《と》り囲《かこ》んでいた。あの状況ではもはや気勢《きせい》をそがれ、さしあたっては自殺など考えまい。
「それでシュンゴよ。あやつの命を保留にして、そのあとどうするのだ?」
「えっ?」
「あの男の話を懇切《こんせつ》丁寧《ていねい》に逐一《ちくいち》聞き、事情を汲《く》み取《と》り、すべてを理解した上で援助《えんじょ》なり協力なりをしてやるのか? あるいは貴様だけが知る何か別の手段があるのか? 奴の寿命《じゅみょう》を全うさせるだけの妙案《みょうあん》が。もしそうであるならぜひ聞いておきたいものだが」
「…………」
峻護は押《お》し黙《だま》る。答えられない問いであり、答える必要のない問いであった。ヒルダの表情は、峻護に何らの考えも持ち合わせがないことを見抜《みぬ》いている時のそれだったから。
だが理屈《りくつ》は通っているとはいえ、これが十歳そこそこの少女が考えることだろうか? 死生観《しせいかん》に対する達観《たっかん》というか、情緒《じょうちょ》の欠落《けつらく》というか……どういう人生を送ればこのように老成《ろうせい》、あるいは早熟《そうじゅく》するのだろう。
「そんな顔をするな、端《はな》から貴様に期待《きたい》はしておらぬ。……それよりシュンゴよ、貴様の任は解かれているとはいえ、あまりにも怠慢《たいまん》が過ぎるのではないか?」
「…………なにがです?」
「あのような下郎《げろう》が予に手を挙《あ》げたのだぞ? それにも拘《かか》わらずなんら防《ふせ》ぎの手を講《こう》じぬとは。この国の流儀《りゅうぎ》でいくならハラキリものの失態《しったい》だ」
それについては反論《はんろん》の余地《よち》なし――と自省《じせい》したのは一瞬だった。この時になってようやく峻護は気づいたのだ。
まったくの素人《しろうと》だった男の拳。峻護の目から見てすら、ハエがとまるほどのスローモーションに見えた一撃である。
であれば、あのヒルダに見えなかったはずはないではないか。見えていたのならいくらでもかわすことができたはずではないか。なぜわざわざ拳を受ける必要があったのだ?
それともひょっとして、ほんとうに見えなかったとか? 圧倒的《あっとうてき》上位者であるはずのヒルダだが、あるいはひょっとして、そういう方向の能力には欠けているところがあるとか……?
峻護の思考は一瞬《いっしゅん》、楽観《らっかん》に傾《かたむ》いた。
だがそれはまさしく一瞬のことだった。
次の瞬間、峻護の目は俄《にわ》かに信じがたいものを見たからである。
ヒルデガルト・フォンオン・ハーテンシュタイン――完全無欠《かんぜんむけつ》であることが当たり前すぎて、まるで気付かなかったのだが。
殴《なぐ》られたはずの頬《ほお》に傷ひとつなかったのだ。
殴った方の手が折れるほどの一撃だったにも拘《かか》わらず、まっさらな氷原の新雪を思わせるような彼女の頬には、傷ひとつ、腫《は》れひとつ、跡《あと》ひとつ、残ってなかったのだ。
「何をおどろく?」
峻護が視線《しせん》をくぎ付けにしている頬を、指で『ちょんちょん』と突きながら。
少女は犬歯《けんし》を剥《む》いて、笑った。
「貴様が向こうに回しているのは、このヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインなのだぞ――?」
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其の四 Passion――命――
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|二ノ宮《にのみや》涼子《りょうこ》の個人用ジェット、とやらはなるほど、多少の時間を割《さ》いてでも到着《とうちゃく》を待つのにふさわしい機体《きたい》ではあった。
大型|貨客機《かきゃくき》と同等のサイズを持つ機体は、ほんの数名の人員を乗せて飛ぶにはあまりに贅沢《ぜいたく》なキャビンを備《そな》えている。乗客ひとりひとりにフライトアテンダントがつくのはもちろん、厨房《ちゅうぼう》に詰《つ》めるコックや娯楽施設《ごらくしせつ》の従業員《じゅうぎょういん》、その他もろもろのスタッフの総勢は乗客の十倍を数える。調度は贅《ぜい》をつくし、食事は趣向《しゅこう》を凝《こ》らし、至《いた》れり尽《つ》くせりのサービスは空を飛ぶ三つ星ホテルと呼ぶにふさわしい。
言うまでもなく防音|性《せい》は抜群《ばつぐん》であり、化粧室《けしょうしつ》の鏡の前に立つ麗華《れいか》の耳にはタービンが回る音も、翼《つばさ》が風を切る音も聞こえてはこない。
(訊《き》きたいこと、話さなきゃいけないことがある――ときましたか)
蛇口《じゃぐち》をひねり、冷たい水で顔をすすぐ。徹夜《てつや》つづきの身体《からだ》に活《かつ》を入れ、数分後には始まる戦い――そう、彼女にとって一種の戦《いくさ》になる予感がある――に備《そな》えるためだ。白翼城《はくよくじょう》からここに至るまで散々《さんざん》もったいぶられたが、帰国《きこく》の途《と》に就《つ》くこの機上でようやくその本題の核心《かくしん》に迫《せま》れそうである。
ほのかに香水を染《し》み込ませたタオルで顔を拭《ぬぐ》い、鏡に映る自分を見た。
十七年の付き含いになる見慣れた顔。
二ノ宮涼子と月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》からどんな話を持ち出されるか、なんとなく察《さっ》しはつく。
(もうひとりのわたくし、ですか)
違和感《いわかん》そのものは古くからあった。だがその原因が自分の中にいるもうひとりの自分にあるらしい、と薄々《うすうす》気づくようになったのは、ごくごく最近のことである。違和感に気づいたのは十年前から、もうひとりの自分の気配《けはい》に気づいたのは――そう、月村|真由《まゆ》が現《あらわ》れるのと前後してだろうか。
(二重人格《にじゅうじんかく》――ということになるのかしらね、こういうのも)
その単語を口にしてみても、麗華はあくまで冷静《れいせい》だった。もうひとりの存在をほぼ確信した瞬間《しゅんかん》から現在に至るまで、麗華は常《つね》に冷静だった。
実感が足《た》りないのではない。むしろ『ああやっぱり』という感覚があった。
北条《ほうじょう》麗華は昔から、自分はなんとなく周りの人間とはちがうらしいという、微細《びさい》な、しかし確かな手触《てざわ》りを感じていた。なにがどう、というわけではない。湿気《しっけ》の多い日に髪《かみ》が重い感じになって『今日は雨かな』と思ったらほんとに雨になった、というような、そんな曖昧《あいまい》で不確かでいちいち記憶《きおく》に残らない感覚だ。
それでもあえて例を出すなら――そう、たとえば子煩悩《こぼんのう》な麗華の父が、娘である自分に対して常に何か隠《かく》しているような、そんな雰囲気《ふんいき》を肌《はだ》に感じる時とか。付き人の保坂《ほさか》がいつもかぶっている天真《てんしん》爛漫《らんまん》な笑顔《えがお》の仮面《かめん》にわずかな綻《ほころ》びができる瞬間《しゅんかん》とか。そういう時、麗華の鋭敏《えいびん》な第六感、あるいは経験《けいけん》に裏打《うらう》ちされた直感が何かをささやくのである。
そのささやきはあまりに小さく、これまではちょっとした違和感《いわかん》として、無視《むし》しても差し支えのないノイズとして、あまり重要視《じゅうようし》もされずに処理されてきた。それがここへ来て急速に束《たば》ねられ、太く明瞭《めいりょう》な声として耳に届くようになってきたのである。
ほらね、だから前から言ってたじゃない、と。
そしてまた彼女の信頼《しんらい》する直感はこうも言っている、この問題を解決《かいけつ》しない限りあなたの未来はない、と。
(いいでしょう。鬼《おに》が出るか蛇《じゃ》が出るかは知りませんが、立ちふさがる障害《しょうがい》があるのだとすれば――どのみちそれを取り除くより他ないのですから)
ばし、ばし、と。
気合いをこめて両頼《りようほほ》をたたく。
おそらくは衝撃的《しょうげきてき》な話になるのだろう。世界が滅亡《めつぼう》する予定日を聞きにいく、くらいのつもりでいかねばおぼつくまい。
よし、ともういちど気合いをこめ、鏡の中の自分を見た。柳眉《りゅうび》はきりりと引き締まって覇気《はき》にみなぎっている。あんまり自分では気に入っていない吊《つ》り目がちな瞳《ひとみ》もこういう場合は頼《たの》もしい。よし、これなら万全《ばんぜん》ですわ。何事もまずは形から。
くるりと踵《きびす》を返しかけ、ふと思い立ったようにもういちど鏡を見る。
うしろを振り向きかけた格好《かっこう》で、やや斜《なな》めに鏡を向いた、十七年の付き合いになる見慣れた顔。
「……できることならいちど会ってみたいものですわね。もうひとりの自分と話すなんて、そう誰《だれ》にでもできる経験じゃないでしょうし」
自分の顔をじっと見つめ、語りかける。
耳を澄《す》ます。
タービンが回る音も、翼が風を切る音も聞こえてはこない。
ふっ、と口元を綻ばせたのは他でもない、今ここにいる北条麗華自身。
「いずれ機会があるかも知れません。その時にまた、いずれ」
すでに幾度《いくど》も会話を交わしていることを知る由《よし》もなく、麗華は今度こそ踵を返した。
彼女の人生とって、おそらくただならぬ転機《てんき》になるであろう局面《きょくめん》と臨《のぞ》むために。
*          *          *
てんやわんやの学園生活を終え、この日も峻護は自宅での夜を迎《むか》えた。ヒルダが切った三日の期限のうち、二日目の夜である。
帰宅した峻護が始めたのは、彼の日々の職務《しょくむ》であるところの家事であった。
期限は明日一杯。こんなことしてる場合かと思わなくはない。焦《あせ》りがないわけでもないし、自覚が足りないわけでもない。明日中に『何か』を示《しめ》さなければ、二ノ宮峻護の人生は明かりもなく出口も見えない洞穴《どうけつ》に迷い込み、月村真由の人生もまた明かりを失って路頭《ろとう》に迷うことになる。だが、むしろこんな時だからこそ生活習慣が先に立つ。
「すいませんお祖父《じい》さま、すいません、すいません、もう反省しましたからどうかあの罰《ばつ》だけは……」
なぜかリビングの片隅《かたすみ》で膝《ひざ》を抱《かか》え、ぶつぶつ独《ひと》り言を繰《く》り返しているシャルロッテに気味《きみ》の悪さを感じながらも深くは突っ込まず、掃除《そうじ》、洗濯《せんたく》、料理、と仕事を進めていく。
今の峻護にできるのはふたつだけ。考えることと待つことだけなのだ。
やがて夜も更《ふ》け始めてきたころ、後者のほうに成果《せいか》が出た。奥城《おくしろ》いろりから連絡《れんらく》が入ったのである。
『こんばんは峻護さん。今お時間よろしいですか?』
「ああ、だいじょうぶ。何かあった?」
『ご依頼《いらい》の件です。ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインに関する調査についてですが』
電話口の向こうの同級生の声はごく普段通りのものだったが、吉報《きっぼう》をもたらす声というわけでもなさそうだった。
『くどいようですが、調査をするにはあまりに時間が乏《とぼ》しく、またわたしの現在の立場からしても大っぴらに動くことができないのは先日お話しした通り。とはいえ明日一杯が期限ということですので、どんな些細《ささい》な情報でも速《すみ》やかにお知らせした方がいいと判断しまして、こうしてお電話さし上げた次第《しだい》です』
「ああ、そうか。無茶《むちゃ》な頼《たの》みをして申《もう》し訳《わけ》ないんだけど、そう言ってくれると助かる。それで? 何かわかった?」
『残念ながら”わからないことがわかった”とお知らせするのが精いっぱいです。予測《よそく》はしてましたが金髪のお姫さまに関する情報のガードは恐ろしく固い。現状《げんじょう》の条件下でそのガードを突破《とっぱ》するのは、不可能《ふかのう》とまでは言いませんがいくつもの奇跡《きせき》が必要になりますね』
「そうか……いや、おれもある程度《ていど》予想はしてたんだけど……」
『気落ちしている場含ではありませんよ、と言いたいんですが、峻護さんをもっと気落ちさせる話をしなければいけません。今こうしてお電話しているのは、新たな情報を提供するというよりも、あらためて注意を喚起《かんき》するためなのです』
「注意を喚起……?」
『ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインは、わたしが想定《そうてい》していた最悪のレベルをさらに上回る化《ば》け物《もの》でした』
「……どうしてそう思う? 具体的《ぐたいてき》で新しい情報が得られたわけでもないんだろう?」
『具体的な情報は得られずとも、ひとりの人物の周囲を探っていけば朧《おぼろ》げにもその輪郭《りんかく》が見えてくるものです。この言い方でわからなければ女のカンと言い換《か》えても構《かま》いません』
曖昧《あいまい》すぎる判断|基準《きじゅん》を、いろりはクスリとも笑わずに言う。
『そこから導《みちび》き出される結論《けつろん》は、彼女には関わるな、関わるのであれば逆《さか》らうな、ということです。今の峻護さんの実力や立場を総合的に判断したアドバイスをしましょう。彼女に支配《しはい》されない方法を考えるより、彼女に支配された後いかによりよく人生を送れるかを考えるべきです』
「……忠告《ちゅうこく》ありがとう。でも、そういうわけにもいかないんだ」
『うふ。そうですよね』
ようやくいろりは彼女らしい笑い声を洩《も》らす。
『峻護さん、どうぞ存分に足掻《あが》いてください。それがあなたにとって当然の権利であり、義務《ぎむ》でもあるのですから。ですが十分に気をつけて。あらゆる事態《じたい》、あらゆる展開《てんかい》に備《そな》えておいた方がいいでしょう。彼女を相手にする際は、あり得《え》ないと思えることがいくらでも起こり得るはずです。まあ注意を促《うなが》したところで、そういったことが実際に起こってしまえばほとんど対処《たいしょ》のしようはないと思いますが』
「……なんだかほんとうにバケモノっぼいな」
『はい。その比喩《ひゆ》表現は百パーセント、言葉通りの意味だと考えてください』
ほとんど死刑《しけい》宣告《せんこく》にも等しい断言《だんげん》をした後、しかしいろりは思いがけなく軽い口調で、
『まあいろいろ不吉《ふきつ》なことを言いましたが、じつは期待もしてるんです。峻護さんなら何かやってくれるかもしれない、って』
「どうかな? いよいよ状況《じょうきょう》は絶望的《ぜつぼうてき》になってきた感じだけど」
『ふふ、どうぞお忘《わす》れなく。峻護さんはこのわたしが見込んだひとなんですよ?』
そりゃ買いかぶりだよ――そう返す前にいろりは電話を切った。
「そんな見込まれてもな……」
吐息《といき》をつく。実のところかなり頼りにしていた奥城いろりの線も、これでほぼ不発とみていいだろう。
しばしあごに手を当てて考えた峻護は厨房《ちゅうぼう》へと足を向けた。頭を悩《なや》ますにしても手を動かしながらの方がしっくりくる男である。
包丁《ほうちょう》を握《にぎ》って調理を始めた。野菜を洗い、肉を切り、鍋《なべ》を火にかけ――特定の料理を想定しているのではない、ほとんど反射《はんしゃ》で手を動かしているだけである。考え事をする時に貧乏《びんぼう》ゆすりをするのと同じ、無意識《むいしき》の行動に近い。出来上がる料理の味は峻護にも想像《そうぞう》がつかない、福袋《ふくぶくろ》を開けてみるような料理の仕方《しかた》だった。
ほとんど気配《けはい》のしない二ノ宮家に、調理器具が立てる音だけが低くひびく。朝が早くて眠りの長いヒルダはすでに床《とこ》に就《つ》き、執事《しつじ》ふたりも主人にならって休息《きゅうそく》を取っている。誰《だれ》に食べさせるわけでもない料理が次々と完成し、並んでいく。
「あの…………」
耳に細くとどいた声に振り向くと、月村真由が調理場のドアから遠慮《えんりょ》がちに顔だけ出してこちらを向いていた。
「夜食《やしょく》、作ってるんですか?」
「うん、まあ。そんなとこかな」
「わたし、何かお手伝いしましょうか? あ、ヒルダさんからは許可《きょか》もらってます」
「ん、いや……夜食といっても食べるのが目的というわけでもなくて」
考えごとをしてるんだ、と言いかけてやめた。
「うん、じゃあ手伝ってもらおうかな」
「あ、はいっ」
真由はこのところずっとそうであるところのあまりすぐれない表情を、それでもほわんと笑み綻《ほころ》ばせ、こちらに小走りで近寄ってきて、
「あうっ」
途中《とちゅう》の何もないところでコケた。
「だ、だいじょうぶ?」
「す、すいません、ちょっと足がもつれちゃって……あはは、バカですよねわたし。ええと、何をお手伝いしましょうっ」
ぱたぱたと服に付いたほこりを払う仕草《しぐさ》をしてからにこりと笑う。
峻護も苦笑を返して、
「ええとじゃあ、そこのジャガイモの皮をむいてくれるかな?」
「はい、わかりましたっ」
峻護のとなりに並んで立ち、いそいそとジャガイモを手に取った。
夜の調理場に静かな時間が訪《おとず》れる。包丁《ほうちょう》や鍋《なべ》をふるう音があたか通好みのジャズバーの生演奏《なまえんそう》のように流れ、ある種の調和《ちょうわ》とくつろぎを演出《えんしゅつ》した。ふたりの少年少女にとって、並んで厨房《ちゅうぼう》に立つのはまさにそういうことだった。
ちらりと横を見る。真由は「んしょ、んしょ」と不器用《ぶきよう》にジャガイモを手で回し、スピードよりは丁寧《ていねい》さ重視《じゅうし》で仕事を進めているようだ。ここしばらくずっと元気のないようにみえた彼女だが、今この時はそういう重苦しさからも解放《かいほう》されているらしい。何かしていた方が気が紛《まぎ》れるあたり、峻護と性格はよく似ているかもしれない。
「…………ふふ」
ふいに真由が含《ふく》み笑《わら》いを洩《も》らした。
「なに? なにかおかしいことでもあった?」
「いえ、そういうわけじゃないです。ただこう、最初にわたしがこの家に来た時もこんな風にふたりで料理したなあ、って思い出して」
「ああ……そうだったな」
その時のことを思い出して、今度は峻護の方が笑みを洩らした。
「えっ? なにか面白《おもしろ》いことありました?」
「いや、ちがうんだ。おれもちょっと思い出しててさ、月村さんがウチに初めて来た日のこと」
「…………?」
「いやほら、インパクト強かったなあ、って。千切りにしたキャベツをシンクに流したり、蛇口《じゃぐち》を壊《こわ》して台所を水浸《みずびた》しにしたり……」
「わっ、わわわっ! だめですよそういうのを思い出しちゃ! あれはだってあの時はわたしも緊張《きんちょう》してたというかなんというか――」
「ほら。手が止まってるよ」
「わわっ、すいません!」
あわてる真由を見てくすくす笑う峻護だが、彼もひとのことは言えない。あの時さんざん失態《しったい》を繰《く》り返したのは峻護も同じなのだ。墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》って自分の恥《はじ》をさらす前に話題を変えた方がいいだろう。
「あんまりしゃべっててもいけないかな。ほら、まだジャガイモの皮むきが終わってないし。いつもの月村さんならあっという間に終わらせる仕事なのに」
「そ、そうですねっ。すいません!」
あわてた様子でペースを上げようとする真由だが、過去を掘り返された動揺《どうよう》が大きいのだろうか。ジャガイモを落っことしそうになったり、皮だけでなく実の部分まで分厚く削《けず》り取ってしまったりで、あまり作業効率《さぎょうこうりつ》が上がってるようには見えない。
「いやごめん月村さん。おれが悪かった。急ぐ仕事じゃないんだし、もっとのんびりやろう」
「すっ、すいませんっ。ほんとバカですよねわたし!」
手をぱたぱた振り、何かをごまかすように笑って、
「……でもなんだかこう、あの日からもう何年もたった気がします。わたしがここに来たのはまだ夏の初めで、同じ夏がまだ終わってないのに」
「そうだな。おれもそんな気がするよ。短い日にちの間にいろいろあったからな」
「ですよね。いろいろありました」
不思議《ふしぎ》なものだと思う。『いろいろなこと』の多くは、苦い味とともに思い出される記憶のはずなのに、自然と笑みがこぼれるのだ。過ぎ去ってしまえば大抵《たいてい》の記憶は郷愁《きょうしゅう》の波にもまれ、毒《どく》も角《かど》も洗《あら》い流されていくのだろうか。
見れば、真由もまた懐《なつ》かしそうな笑みを口もとに浮かべていた。これほどリラックスした様子の彼女を見るのは久《ひさ》しぶりな気がする。ヒルダという名の嵐《あらし》の襲来《しゅうらい》を受けて以降、真由の表情はずっと曇《くも》りがちだった。峻護の状況《じょうきょう》も抜《ぬ》き差《さ》しならないが、真由の状況もまた大変なのだ。自分がさらわれたことで心配をかけただろうし、戻《もど》ってきた後も何ひとつ彼女をケアしてやれてない。
「……ところで月村さん。何か悩《なや》みごとはある?」
「悩みごとですか?」手を止めずに、「いえ。だいじょうぶです」
「そうかな? 最近はぼんやり考えごとをしてることが多いみたいだけど」
指摘《してき》すると、さすがにごまかせる範囲《はんい》ではないと悟《さと》ったのか。
真由は柳眉《りゅうび》をハの字にして、
「それはやっぱり、こういう状況ですから。悩みごとはいろいろあります。でもそれは二ノ宮くんも同じことです。だから二ノ宮くんは気にしちゃだめです」
「ん。そうか」
悩みがあるならおれに相談してくれれば――と言おうとして、やめた。おそらく真由も自分に同じようなことを言いたいのではないか、と気づいたからだ。問題をひとりで抱《かか》え込み、自分だけで解決《かいけつ》しようとするあたり、やっぱり峻護も真由も似ているのかも知れない。決して褒《ほ》められたことではないのだろうけど――
「こうしてるとわたし、落ち着きます。こうやって二ノ宮くんとふたりでいると」
ふいに真由がどきりとするセリフを口にした。眼をしばたたかせながら真由を見ると、彼女の方は特別なにかを意識《いしき》して口にしたつもりもないようで、
「それだけでもとてもありがたいです。もう十分、わたしは二ノ宮くんによくしてもらってるんですよね」
言葉どおり一切の緊張《きんちょう》を解いた風情《ふぜい》でジャガイモの皮むきにいそしんでいる。
思えばあの修学旅行の日以来、ここまでリラックスできたのは峻護も久《ひさ》しぶりだった。
真由とこうしてふたりの時間を持つのもえらくご無沙汰《ぶさた》な気がする。
「でもそうですね、できれば――」
一瞬《いっしゅん》の沈黙《ちんもく》を縫《ぬ》って真由がつづける。
「こういう時間が、もう少し長く続けばな、って。わたしは、こういうのがいいです。もう少しこういう時間が持てればな、って思います。……なんて」
さすがに照れたらしい。どこかもじもじした仕草でジャガイモの皮をむいている真由をみて、峻護のくちびるは自然に笑みを形作《かたちづく》った。
「そうか。うん。そうかもな」
なんだろう。
なんだかひどく活力《かつりょく》がみなぎってきた気がする。残る時間はわずか、有効《ゆうこう》な手はほとんどなにも思いついてない状況だけど、なのに、今ならなんとかなりそうな、そんな予感《よかん》。
自分のためではなく真由のために。二ノ宮峻護はきっと、何かをしてやれる。たとえ状況が八方ふさがりであっても、たとえ相手があのヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインであっても。
まさか訪《おとず》れるとは思わなかった楽観《らっかん》に、峻護がもう一段階《いちだんかい》心の鎧《よろい》を脱《ぬ》いで気分をほぐそうとした時。
視界《しかい》の端《はし》に赤いものが見えた。
(赤――――?)
今この場には存在《そんざい》しないはずの色を認識《にんしき》した脳《のう》がわずかに戸惑《とまど》い、当然ながら視覚《しかく》に命《めい》じてもういちど確認をさせる。
下方向。床。真由の足元。
「…………? どうしたんですか二ノ宮くん?」
峻護の様子に気づいた真由が首を傾《かし》げてくる。まるで平然と、何事もなかったように。
血だまりの上に立ちながら[#「血だまりの上に立ちながら」に傍点]。
「月村さん…………」
なんだかおかしい気はしていたのだ。短くも浅《あさ》からぬ付き合いだからこそわかる、月村真由の違和感《いわかん》。
たとえば考えごとをしていたというだけでは説明のつかない、ぼんやりとした――いや、矇朧とした[#「矇朧とした」に傍点]様子《ようす》。ドジだとか粗忽《そこつ》だとかいう理由では説明のつかない注意力の散漫《さんまん》さ――何もないところで転ぶとか、おっちょこちょいではあっても手先は決して不器用《ぶきよう》でない真由がジャガイモの皮をむくだけの仕事をいつまでも終わらせられないことだとか。
すべて、説明がついてしまいそうな気がするのだ。
真由のスカートからのぞく膝《ひざ》のすこし下。
傷というよりは亀裂《きれつ》と呼ぶにふさわしいほどの大きさでぱっくりと口を開けた裂傷《れっしょう》から、心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》に合わせてどくどくとあふれている大量の出血《しゅっけつ》。それだけの大けがを負《お》っているにもかかわらず、あくまできょとんとしているだけの月村真由――。
「二ノ宮くん……?」
絶句《ぜっく》している峻護を不審《ふしん》げに見やり、その視線《しせん》の先を追って、
「あ」
今度は真由が言葉を失《うしな》う番だった。
峻護とちがったのは、まるで瀕死《ひんし》のケガ人を見慣れてい救急《きゅうきゅう》 病棟《びょうとう》の看護師《かんごし》のようにケガに対して鈍感《どんかん》だったこと。
「やだっ、もう――っ」
悲鳴《ひめい》ではなかった。神経がむき出しになりそうなほどの傷を見て、ぶちまけたような血だまりを見て、それでも真由が発したのは、自分のペットに粗相《そそう》をさせてしまった飼い主が発するような、その程度の声だった。
「さ、さっき転んだ時かなっ? や、やだなあもう、ほんとドジでっ」
傷と血だまりを隠《かく》すようにスカートを広げて座《すわ》り込《こ》み、あははと明るく笑った声はすぐに尻《しり》すぼみになり、
「あは、馬鹿《ばか》だわたし。ふつうに痛《いた》がってればごまかせたかもなのに……ほんと嫌《いや》になる……」
ほとんど泣き笑いの顔をうつむけ、肩《かた》を落とす。
「…………見せて。傷」
声までもが青ざめているのを自覚しながらも、峻護は言った。カなくかぶりを振る真由に構わずしゃがみ込み、ケガの箇所を覗《のぞ》き込《こ》む。
「――だっ、だいじょうぶですよこのくらいの傷。止血《しけつ》と消毒《しょうどく》をして、あとは包帯《ほうたい》をぎゅって巻いておくだけで、縫《ぬ》ったりする必要もぜんぜんないです。経験的にわかります、だいじょうぶです、ほんとに。サキュバスってそういうのは割と頑丈《がんじょう》だったりするので」
真由の声を半《なか》ば聞き流し、黙々《もくもく》と処置《しょち》を施《ほどこ》した。言われたとおりに止血、消毒、包帯。
床の血だまりを拭《ふ》き取り始めたころ、促《うなが》すまでもなくぽつりぽつりと、真由の方から話し始めた。
「感覚《かんかく》が、ないんです」
「…………」
「痛《いた》いとか、かゆいとか、冷たいとか熱いとか、何かを触《さわ》ってるとか……そういうのが、ぜんぶ。自覚し始めたのは、この家が霧島《きりしま》しのぶさんに襲《おそ》われた時あたりからで、ひどくなったのは修学旅行あたりからです。それと目が覚めてる時はずっと、意識《いしき》がぼうっとするようになりました。ちょっと油断すると、いつの間にか一時間ぐらい時間が経《た》ってたりします。なので、最近は意識をしっかり保《たも》つようにしてます。あと、身体《からだ》の組織《そしき》がそもそも弱くなってるのかもです。ちょっと打ち付けたりしただけでも、皮膚《ひふ》が切れたりします。……あの、すいませんでした。黙《だま》ってて」
顔をあげてえいやっと笑い、ぐいっとガッツポーズ。
「でも、だいじょうぶです。このぐらいならまだまだいけます。気をつけてれば転んだりしないし……それがだめでもじっとしてれば平気です。だからそんな顔しないでください二ノ宮くん。ほら、ほんとにだいじょうぶでしょう? ほらほら」
えいっ、えいっ、とパンチを打つ真似《まね》をしてみせる。
作り笑いをしようとして峻護は失敗《しっぱい》した。その血の気のない青白い手のぞっとするほどの温度のなさを、今は知っているから。
砂に水が広がるように様々《さまざま》な事柄《ことがら》が繋《つな》がっていく。精気《せいき》を吸《す》えないサキュバスである真由の、それゆえに起こる禁断《きんだん》症状《しょうじょう》と様々な健康上の問題。それがまさか、ここまで。それもこんな時に。
「……すまない月村さん」
絞《しぼ》り出すように言った。
「おれは馬鹿《ばか》だ。ぜんぜん気づいてやれなかった」
まったく呆《あき》れ果てる。こんな大馬鹿野郎、世界のどこを探したってどこにも居やしない。過去と未来をぜんぶひっくるめたっておれ以上の馬鹿は存在しない。
『月村さんのため』だ? 『彼女のためにがんばる』だって? いったいどの口でそんな寝言《ねごと》をほざぎやがる。おれは、この死んでも直らない大馬鹿野郎は、彼女がいったい何に悩《なや》んでいるか、怯《おび》えているか、恐怖《きょうふ》しているか、そんなことにも気付いてやれなかったくせに。
くそったれ――今すぐこの馬鹿頭をかち割って中身を引きずり出し、ぐちゃぐちゃにかき回してやりたい衝動《しょうどう》に襲《おそ》われる。喉《のど》が嗄《か》れるまで吠《ほ》えたぎり、拳《こぶし》を振りまわして目に映る何もかもをぶち壊《こわ》したい。そのまま拳を潰《つぶ》し、骨と肉片に分解してやりたい。拳が消滅《しょうめつ》したら腕《うで》を、腕が消滅したら肩《かた》を、そのまま全身を消し飛ばし、この世から失《う》せて無くなってしまいたい。
「――――っ」
衝動《しょうどう》はしかし、全身全霊《ぜんしんぜんれい》をもって押《お》さえつけた。今はちがう、今はまだ駄目《だめ》だ。この身体にはまだ使い道がある。
深呼吸《しんこきゅう》をひとつ、ふたつして、ようやく峻護は意味ある言葉を吐《は》き捨《す》てる。
「くそっ。気づかなくたって、ちょっと考えればわかってよさそうなことなのに。そうじゃなくたっておれは月村さんを守らなきゃいけない役目《やくめ》で……くそっ、ほんとにおれってやつは……」
「だめですよ二ノ宮くん」
かつてないほど強い口調――ほんとうに月村真由の口から出た言葉かと疑《うたが》うような声に、峻護はハッと顔を上げる。
「ひとつだけお願いさせてください。わたしはもう、二ノ宮くんに十分すぎるほど負担《ふたん》をかけてきました。だからこれ以上、わたしを二ノ宮くんの重荷《おもに》にしないでください。無理《むり》なことはしないでください」
「…………」
「それでも、どうしても二ノ宮くんの重荷になるようなら、何か重荷にならない方法を考えます。だから――」
宝石《ほうせき》のようだ、と思った。
目の前の少女の瞳の輝《かがや》きが。
まったく場違いであることを自覚しつつも――ひどく美しいと思ったのだ。弱さをねじ伏《ふ》せたその強さを。燐光《りんこう》を纏《まと》っているかと錯覚《さっかく》するような、あるいは燃えつきかけているからこそ放てる、まばゆい生命の煌《きらめ》きを。
「…………はは、まいったな」
思わず見とれかける自分を叱咤《しった》しつつ、峻護はおどけた声を出す。
そして己《おのれ》に向かってこう命じるのだ。
――オーケーそれでいい二ノ宮峻護。頭を冷やせ、為《な》すべきことを為すために。頭はクールに、心は熱いままでいけ。
「そういう風に言われる方が、おれとしてはよっぼど重荷に感じるよ月村さん。いや、これはまいったな。まるで強迫《きょうはく》でもされてるみたいだ。これっていわゆる反語《はんご》表現ってヤツなのかい?」
「は、反語……って?」
「つまり、口で言ってることとはまったく逆のことを実際《じっさい》には言ってるんじゃないか、ってことだよ。『わたしはこんなに大変でとても苦労《くろう》している。だから何が何でもわたしを助けなさい。もしもわたしのことを重荷になんて思ったら承矩《しょうち》しないわよ』……みたいな感じで」
「ええええっ!?」
凛々《りり》しいとさえ表現しえた真由の表情が、たちまち驚愕《きょうがく》に崩《くず》れた。
「す、すいませ……わたしそんなつもりじゃ、ただわたし、二ノ宮くんに負担《ふたん》を掛けたくないって、それだけで――」
「はは、いや心配しないでくれ月村さん。君を重荷として背負《せお》うつもりはないから。君の言うとおり、おれは無理をしないようにする。その点は安心してくれ」
「そ、そうですか? よかった、それなら安心です」
言葉通りにホッと安堵《あんど》した真由へさらに笑いかけて、
「さ、もう夜も遅くなってきたから、料理はこのくらいにしてそろそろ寝《ね》るとしよう。いくら頑丈《がんじょう》だっていってもそれだけの傷《きず》だ、身体を休めなければ治るものも治らない。そうだろう?」
「あ、はい、そうですねっ」
「いい具合《ぐあい》にたくさん料理も作ったから、それを食べてからね。今の月村さんには休息と同じくらい栄養《えいよう》も必要なはずだから」
「はい、じゃあ二ノ宮くんもいっしょにいただきましょう!」
思いのほか豪華《ごうか》になった夜食会。
真由と他愛《たわい》もない話をしながら箸《はし》を進める峻護には静かな決意《けつい》があった。
そう、真由を重荷として背負うつもりなどない。無理をしたりもしない。真由は何も心配しなくていい。
そう――女の子ひとりぷんも背負えずして、その程度《ていど》を重荷にして、何のための男か?
その程度で無理だ無茶《むちゃ》だと弱音を吐《は》いて、男たるものの存在《そんざい》意義《いぎ》はどこにある?
月村真由というたったひとりの女の子くらい軽いものだ。ふたりでも三人でも背負ってやろうじゃないか。
未来は二ノ宮峻護の、この両手で、切りひらいてみせる。
翌朝。
夏のこの時期《じき》には珍《めずら》しく、二ノ宮家の建つ丘《おか》の上に乳白《にゅうはく》色の靄《もや》が掛かっていた。
(――――霧《きり》か)
邸内の一室でまんじりともせず一夜を明かした峻護の目に、ぼうっとした明るさの窓《まど》の外の光景《こうけい》が映《うつ》る。晴れの日であればぎらつく白光《はっこう》を大地に突き立ててくる太陽も、今は分厚く細《こま》かい水の粒《つぶ》にさえぎられ、いささか辟易《へきえき》しているかのような薄《うす》ぼんやりした輪郭《りんかく》を天空《てんくう》にかけている。
(よし。行くか)
ベッドから起き上がって部屋を出た。ほとんど一睡《いっすい》もしなかった峻護だが、疲労《ひろう》の色はない。一夜をかけて精神《せいしん》を、あるいは覚悟《かくご》を研《と》ぎ澄《す》ませていたのだ。士気《しき》はむしろ自分でもおどろくほどに高揚《こうよう》し、それでいてひどくクリアでもある。この上ないコンディションといっていい。
玄関《げんかん》を出ると、霧の具合《ぐあい》は想像《そうぞう》以上だった。濃厚《のうこう》な雲の胎内《たいない》に包《つつ》まれているようで、少し手を伸ばせば綿菓子《わたがし》のよう塊《かたまり》がつかみ取れてしまいそうである。視界《しかい》は十メートルほどがようやく利《き》くかどうか。
露《つゆ》に濡《ぬ》れる芝生《しばふ》を踏《ふ》みながら庭の中央へ進むと、やがて霧の中にふたり分の背中《せなか》が見えてきた。
テラスの白|椅子《いす》を持ち出して腰掛《こしか》け、二ノ宮家をぐるりと囲《かこ》む雑木林《ぞうきばやし》に視線《しせん》を向けているヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインと。
その斜《なな》め後ろに直立《ちょくりつ》し、いつものタキシードをいつもどおり品よく着こなしているギュンター・ローゼンハイムである。
「――――ほう」
峻護の気配《けはい》に気づいたヒルダがちらりと目線だけで振《ふ》り返り、
「いささか男らしい面構《つらがま》えになってきたな。マユのことに気づきでもしたか」
「ヒルダさん。お話があります」
「ほう」
大儀《たいぎ》そうに椅子ごと峻護の方を向き、
「約束《やくそく》の期限《きげん》まではまだ時間があるぞ? ぎりぎりまで足掻《あが》いてはみんのか?」
「いえ。もう十分です」
「くく、十分とな?」
まっすぐな眼差《まなざ》しで答える峻護に、金髪《きんぱつ》の姫君も多少の興味《きょうみ》を覚えたようだ。
「はったりか、自暴《じぼう》自棄《じき》か、はたまた正真《しょうしん》な自信の表《あらわ》れか。それが自惚《うぬぼ》れや心得《こころえ》ちがいでないことを願いたいものだ」
「さあ、おれにはわかりません。おれはただ、おれにできる最善《さいぜん》を尽《つ》くすだけです。譲《ゆず》れないもののために」
「ふむ。どうやら何かを掴《つか》んだようだが……」
ゆっくりと足を組み、片肘《かたひじ》で煩杖《ほおづえ》をついて、
「よかろう。予《よ》の出した『宿題』を解《と》いたというのであればしかと見届けてやる。さあ見せてみるがいい」
「……べつに宿題を解いたとか、何かを掴んだとか、そういうわけじゃありません。ただおれは、あなたと交渉《こうしょう》したくて」
揺《ゆ》るぎない氷の瞳をまっすぐ向けてくるヒルダに負けず劣らず、峻護はひどく落ち着いていた。
「おれの要求《ようきゅう》は前も言った通りです。有形《ゆうけい》無形《むけい》のおれの拘束《こうそく》を解いて、おれを自由にしてください。そして月村さんを救《すく》うためにあなたの全知全能《ぜんちぜんのう》を尽くしてください」
「その要求はすでに予の知るところ。予の提示《ていじ》した条件が満《み》たされたなら――貴様《きさま》が予を動かすに足《た》る何かを示《しめ》すことができたなら、貴様の望みは叶《かな》えてやろう。その旨《むね》ここにあらためて約束する。……ところで交渉と言ったな? 交渉というからには、貴様から何かしらの提案《ていあん》なり提示なり提供《ていきょう》なりがあるはずだが」
「ええ。いろいろ考えたんですが――」
そう、いろいろ考えた。ここ数日の峻護の精神《せいしん》的、肉体的な活動の一切はつまるところ、すべてその一点に集約《しゅうやく》されるといっていい。
ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインという強大《きょうだい》な相手との交渉へ臨《のぞ》むに際《さい》して、二ノ宮峻護はいったい何を取引の材料としてテーブルの上に乗《の》せられるか。
ヒルダに比して、峻護はあらゆる意味であまりにもちっぼけな存在《そんざい》である。塵芥《ちりあくた》に等しいだろう。ヒルダに比《くら》べればまだしもスケールは小さいはずの涼子や美樹彦と比べてすら、峻護はあまりにも無力《むりょく》だ。ほかの大多数の者に比べれば多少は鍛《きた》えられているか、という程度《ていど》の若造《わかぞう》にすぎない。テーブルの上に乗せられそうなものなど、本来《ほんらい》なら逆立《さかだ》ちしたって出てこない。
だが、たったひとつだけ。
「取引の材料になりそうなのは、どうもこれぐらいしかなさそうで」
そう前置きしてボケットに差しこんだ峻護の手元の動きに合わせ、ヒルダの目線が動く。
「おれが提示《ていじ》するのは、このおれ自身です[#「このおれ自身です」に傍点]」
交渉《こうしょう》相手を不動《ふどう》の眼差《まなざ》しで見つめ、手に握《にぎ》ったべーバーナイフを頸動脈《けいどうみゃく》にあてて。
峻護はたった一枚の切り札を切った。
――そう、これしかなかったのだ。二ノ宮峻護の命しか。
「ヒルダさん。あなたに比《くら》べればおれなんてゴミみたいな存在でしょう。人間としての器《うつわ》というか、能力《のうりょく》というか、そういうのでいえばおれは確かにちっぼけだ。でも、あなたがひとつだけおれに目をかけているものがある。それがおれの精気《せいき》です」
かつてヒルダはこう言った。峻護の精気の味をしめた者は、彼の奴隷《どれい》になるか彼を奴隷にするかふたつにひとつしかないと。
もうひとり、峻護の精気を吸ったことのある奥城いろりもまた証言している。峻護の精気の味には一種の麻薬《まやく》的な魅力《みりょく》があることを。
神精《しんせい》という存在についての知識は、すでにある程度以上は仕入れている。普通《ふつう》の人間よりも格段《かくだん》に高い能力を発揮《はっき》することのできる神戎《かむい》の中でも、図抜《ずぬ》けて法外《ほうがい》な力を発揮することができるという『神精』。はるか千古《せんこ》の昔以来その存在が確認《かくにん》されていない、神戎の血族《けつぞく》たちの権力闘争《けんりょくとうそう》の種になっていた――云々《うんぬん》。
だがさしあたりそのあたりはどうでもいい。峻護がその神精かもしれないという可能性《かのうせい》の是非《ぜひ》もまたしかり。
その神精かも知れないと言われる峻護の精気の味を、ヒルダが無視《むし》できないということ。
唯一《ゆいいつ》無二《むに》に重要なのはその一点だ。
「不当なあつかいは受けてきたけど、あなたはおれを完全な奴隷、完全な所有物《しょゆうぶつ》としてはあつかわなかった。そのことには感謝《かんしゃ》しています。おれが今していることは、いわばその恩《おん》に背《そむ》くことになると言えなくもないんですが」
首筋《くびすじ》にあてがった小型の刃物《はもの》に力をこめて、
「こんなオモチャみたいなペーパーバイフですが、致命傷《ちめいしょう》は十分に作れます。そしておれが死ねば、あなたの好きなおれの精気もこの世から消える」
賭《か》けではあった。
ヒルダにとって峻護の精気とは、せいぜいが酒やタバコのような嗜好品《しこうひん》に属《ぞく》するものであろう。ぜったい手放したくないものであっても、無ければ生命の維持《いじ》に関《かか》わるというような類《たぐい》のものでもあるまい。人質[#「人質」に傍点]に取ったところで彼女の心を動かすことができるかどうか、正直なところ確信はなかった。まして峻護は昨日の一件を一部始終《いちぶしじゅう》目にしている。ヒルダが自殺《じさつ》志願《しがん》の男に対《たい》してどのような態度《たいど》を取ったか――生死に対しておそろしく冷徹《れいてつ》な彼女に、この種《しゅ》の手法が果たしてどこまで通じるか。
賭《か》けどころではない。とんでもない大バクチ、無謀《むぼう》紙一重《かみひとえ》の大勝負だろう。
だがそれでも、峻護にはこれしかない。ヒルダの態度《たいど》から見て、峻護の精気が替《か》えのきかない、オンリーワンな存在であることは疑《うたが》いない。やはり交渉のタネにするべきものはこれしかないのだ。あとはこちらの本気がどれだけ伝《つた》わるか――つまりは峻護の交渉術の腕《うで》にかかっている。
さあ、ともあれ戦端《せんたん》は開いた。金髪の姫君はどんな対応《たいおう》を取ってくるか――。
「…………くくく」
アイスブルーの瞳《ひとみ》を冷たく輝《かがや》かせて峻護の『回答』を待っていたヒルダは、ゆっくりと、深く椅子《いす》に腰《こし》を沈《しず》めて。
次《つ》いで背中《せなか》をかがめ、肩《かた》を震《ふる》わせて、くぐもった声で――笑った。
「そうか、くく……それが貴様の答えか……くくく……」
顔は伏《ふ》せられて表情まではうかがい知れない。あるいは、こうして間を取ることで考える時間を稼《かせ》いでいるのだろうか。
ならば、と峻護は積極的《せっきょくてき》に攻勢《こうせい》に出る。
「本気で言ってるわけじゃないと、ひょっとしてそう思ってますか?」
じわり、手に力を入れた。
ぶつんと皮膚《ひふ》が破《やぶ》れる感触《かんしょく》と、つつっと生ぬるい液体《えきたい》が肌《はだ》を伝《つか》う感触。
「おれだって命は惜《お》しいけど、でもそう簡単《かんたん》にあなたの奴隷《どれい》になる気もないので。ああ、確かに今のおれは、おれひとりのものじゃないですけどね。おれには月村さんの来来も掛《か》かってる。おれは月村さんのためにもこの命を有効《ゆうこう》に便わなきゃいけない」
ぐっ、と交渉相手を睨《にら》みつけ、
「でも――でも何もかもが、おれの肩に乗ったいろんな重荷《おもに》が、今この瞬間《しゅんかん》にどうしようもなくわずらわしくなって、ついうっかりこの手が滑《すべ》ってしまうとか。そういう可能性も、なくはないとおもうんですよ」
交渉術の一環《いっかん》としてかなりのハッタリはかましている。だがすべてが冗談《じょうだん》というわけでもなかった。峻護の言葉には少なからず彼の本心がブレンドされている。虚実《きょじつ》織《お》り交《ま》ぜた中の『実』の部分をいかに抽出《ちゅうしゅつ》し、誇大化《こだいか》して示《しめ》せるかどうかが勝負の分かれ目。
「くく……いやいやシュンゴよ、予《よ》は別に貴様が冗談で言ってるなどとは思っておらぬぞ? いやはや弱った。貴様に死なれると、予は極上《ごくじょう》の精気を今後味わうことができなくなるな。かつてない珍味《ちんみ》にして至上《しじょう》の美味《びみ》、この地上から消え失《う》せてしまってはいかにもさびしいことよな……くくく」
ヒルダの様子は変わらない。相変《あいか》わらずくぐもった笑いを絶《た》え間なく漏《も》らし、その表情はうかがい知れず。内心はどうあれ、峻護の交渉にもさして動揺《どうよう》を見せていないようにみえる。
なにが足りないのだろう? 今のヒルダはまだ交渉の席《せき》にすらついていないようにみえる。それほどに余裕《よゆう》があるのか、あるいは余裕があるように見せかけているだけなのか。それともすでに勝算を見込んでいるのか。いや、ひょっとするとすでに峻護を封《ふう》じ込めるべく動いているのか。
そう、それは現在もっとも考えうる事態《じたい》だった。峻護の身柄《みがら》を拘束《こうそく》し、ナイフを取り上げてしまえばすべてが振り出しに戻《もど》るのである。そうなってしまえばゲームオーバーだ、ヒルダは彼の自由を今度こそ完全に奪《うば》い、名実《めいじつ》ともに隷属《れいぞく》させることだろう。
さりげなく目を配《くば》って確認する。ヒルダは椅子に座《すわ》ってくつくつ笑っているまま。ギュンターはその斜《なな》め後ろで穏《おだ》やかな無表情で立っているのみ。峻護の拘束に動くとすればどちらか。ヒルダは椅子に座っているだけに何かしらアクションを起こそうとすればワンテンポ遅《おく》れるはず、注意さえしていればしのげなくはない。ギュンターはその気になればいつでも動けそうだが距離《きょり》がある。あるいは今は姿の見えないシャルロッテが主の意を汲《く》んで動こうとしているとか?
そのいずれの兆候《ちょうこう》も今はみられない。だが何かしらの手段で峻護の拘束に動く可能性は大いにありうる。
そのあたりいちど牽制《けんせい》しておくべきか、と口を開きかけた時。
「つまらぬ」
ヒルダがすっと顔をあげた。
「じつにつまらぬ」
ぞっ……と、悪寒《おかん》に似《に》た感覚が峻護の背筋《せすじ》を這《は》い上がっていく。
永久《えいきゅう》凍土《とうど》を閉じ込めたようなブルーアイ。人形のように整《ととの》った、それでいてひどく表情に乏《とぼ》しい面立《おもだ》ち。
それ自体は彼女がいつも見せるものだ、いまさら特筆《とくひつ》すべきことはない。
でも、だけど、なのに。
確かに変わった。
今この瞬間、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインは、峻護の知る彼女とはまったくの別物に、裏返った[#「裏返った」に傍点]。
「シュンゴよ、この数日で貴様《きさま》が得《え》た結論《けつろん》はその程度のものか? それで打ち止めか? もう出し惜《お》しみはないか? それでもう店じまいか?」
これまで聞いたことのない種類の嘲笑《ちょうしょう》だった。『ゴミのような存在』を相手にしているのではなく、まるで『ゴミそのもの』を相手にしているような。
「では、次は予《よ》の番だな」
瞳に絶対零度《ぜったいれいど》の酷薄《こくはく》さを乗せて、
「手本を見せてやる」
繊手《せんしゅ》を手刀《しゅとう》の形にかかげ、さくっと振り下ろした。
自らの首筋に向けて[#「自らの首筋に向けて」に傍点]。
「な――――」
鮮血《せんけつ》が噴《ふ》きあがった。あたかも噴水《ふんすい》のように。あるいは壊《こわ》れた水道管のように。
真紅《しんく》の液体が高く高く舞《ま》い散り不吉《ふきつ》な雨を降らせる。たちまち錆《さ》びたような生ぐさい臭《にお》いがあたりに充満し、乳白《にゅうはく》色の霧《きり》の朝はまるで処刑場《しょけいじょう》のごとき様相《ようそう》に姿を一変させた。
「さあどうするシュンゴよ」
己《おのれ》の鮮血でシャワーを浴びたようになりながらもヒルダは表情を変えない。ただアイスブルーの瞳のみが冷たい炎《ほのお》を宿《やど》して爛々《らんらん》と輝き、峻護を昆虫《こんちゅう》の標本《ひょうほん》のように縫《ぬ》いとめている。
「いかに予とて、このまま出血《しゅっけつ》をつづければ間もなく死に到《いた》るであろう。さあどうするのだ? 貴様を名実《めいじつ》ともに奴隷に貶《おとし》めようとしている相手にして、ツキムラマユを唯一《ゆいいつ》救ってやれるかも知れぬ相手は、今ここで無為《むい》に果てようとしているぞ?」
すでにリッター単位で失血《しっけつ》しているはずだが、ヒルダの声に震《ふる》えはない。肌《はだ》の色こそ幽鬼《ゆうき》じみて青白く褪《さ》めつつあるものの、小柄《こがら》な身体から発せられる覇気《はき》はむしろいよいよ眩《まばゆ》く激しいきらめきを放っている。
「『茫然《ぼうぜん》と突《つ》っ立っていたらいつの間にか何もかも終わっていた』というのが貴様の望《のぞ》む結末か? 自ら何も選び取ることなく、時の流れるままに解決をゆだねるか? まあそれもよかろう。そこで力カシのように醜態《しゅうたい》をさらしているがいい」
嘲弄《ちょうろう》され、峻護はようやく我《われ》に返る。何を考えてるんだこいつは、と叫《さけ》びたくなる感情は頭の隅《すみ》に蹴《け》りやった。
一秒にも満《み》たぬ刹那《せつな》に状況《じょうきょう》確認《かくにん》、いみじくも当人の語るとおり、このまま放置《ほうち》すればほどなくヒルダの命の火は消える。血しぶきはなおも留《とど》まるところを知らぬ勢《いきお》いで頚動脈《けいどうみゃく》から噴出《ふんしゅつ》し、主を守《まも》るはずの執事《しつじ》は直立したまま表情を変えず、それこそカカシのように状況を見守っているだけ。当の主人にいたっては血流《けつりゅう》を止めるどころかまるで気にすらとめておらず、この期《ご》に及《およ》んでも冷徹《れいてつ》に峻護の恐慌《きょうこう》ぶりを観賞している風情《ふぜい》だった。
もはや交渉どころではなかった。
硬直している両足を叱咤《しった》して駆《か》け出す。ファウルラインぎりぎりに飛んだ外野《がいや》フライを追いかけるような恰好《かっこう》で手を伸ばし、ヒルダの首筋へ。
たちまち峻護も血まみれになった。濃厚《のうこう》すぎる血臭《けっしゅう》にむせながら、命そのものの奔流《ほんりゅう》を必死《ひっし》に食い止める。
「ふん……」
今や全身を赤一色に染《そ》めた少女が、そんな峻護を見やって鼻を鳴《な》らした。それが当然だとばかりに――いや、そんなことはどうでもいいと言わんばかりに[#「そんなことはどうでもいいと言わんばかりに」に傍点]。
「貴様の自害《じがい》を止めた上、予《よ》は何ら労《ろう》するところなくして命をひろう……ずいぶんな差の出ることよな? 予は確か貴様に脅《おど》されていたのではなかったか?」
「そんなことはどうでもいい! 早く病院へ! 手当てしないと!」
「その必要はない」
膝《ひざ》でもすりむいたか、あるいは打《う》ち身《み》でも作ってしまったか。あくまでその程度の気軽《きがる》さでヒルダは言った。
「止血《しけつ》さえすればそれで足りる」
馬鹿《ばか》か、と叫びそうになった。昨夜の真由の傷《きず》とは訳《わけ》がちがう。誰《だれ》が見たってこの首の傷は致命傷《ちめいしょう》ではないか。早急な動脈の縫合《ほうごう》と輸血《ゆけつ》を今この瞬間に施《ほどこ》したところで、この出血量では生死は五分。たとえ病院に担《かつ》ぎ込んだところで間に合うかどうか――
「…………え?」
峻護は目を見開いた。
止血する手を押しのけて外に湧《わ》き出ようとする血流――心臓《しんぞう》の鼓動《こどう》も生々しく脈打《みゃくう》っていたその抵抗《ていこう》が、今はすっかり止《や》んでいる。どれだけ強く押しとどめても完全には止めきれず、ほんのさっきまで指の隙間《すきま》からじわじわと鮮血《せんけつ》が染《し》み出ていたのに。
「どうした? 何をおどろく? 猶予《ゆうよ》を与《あた》えた間、多少なりとも予のことについて調べていたのではないのか?」
大量失血で病的に肌を青白くしながら、しかしいよいよ得体のしれない輝きの増す瞳で、姫君はあざ笑う。
「貴様が相手にしているのはこの、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインなのだぞ――?」
絶句《ぜっく》して、峻護はふらりと後ずさった。
首を押さえていた手が離れる。
もはや止血すら必要ではなかった。雨を降らせるほど大量に血しぶいていた出血が、今や閉めそこねた蛇口《じゃぐち》から漏《も》れる水か何かのように細くなり、それすらもやがてぴたりと止まったのだ。
ぱっくりと口を開けたままの裂傷《れっしょう》と、そこらじゅうを手当たりしだいに赤く染めた血だまりだけが、そこで起きるはずだった惨劇《さんげき》の名残《なごり》をとどめている。
「さてシュンゴよ。清算《せいさん》の時だ」
全身すべてを隈《くま》なく真紅《しんく》に染めた姫君がすっくと立ち上がる。失神《しっしん》どころか十分にショック死できるだけの流血《りゅうけつ》をしながら、その両足は緋色《ひいろ》にぬかるんだ芝生《しばふ》をしっかりと噛《か》み、少女の細身を支《ささ》えた。
「予は貴様に対してじつに寛大《かんだい》だったはずだ」
一歩、足を踏み出した。それに押されるように一歩、逆に峻護は後ずさる。
「無能を笑って赦《ゆる》し、蒙昧《もうまい》を嗤《わら》って赦し、愚劣《ぐれつ》を哂《わら》って赦した。時間を与《あた》え、機会も与え、示唆《しさ》をも与えた。虫けら同然の貴様に対して、このヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインが、だ」
また一歩、近づく。また一歩、後ずさる。
「挙句《あげく》に出した答えがそれか。全知《ぜんち》全能《ぜんのう》を尽《つ》くした最善《さいぜん》がそれか」
脂汗《あぶらあせ》がほほを伝ってぽたりと足もとに落ちる。
なんだこれは?
だれだこれは?
峻護の全神経にかつてない戦漂《せんりつ》が走り、彼の手足を思うように動かせてくれない。本能はさっきからずっと警告《けいこく》を発しているのだ、今すぐ踵《きびす》を返して一目散《いちもくさん》に走り出せと。どこへ向かってもいい、とにかくこの危険すぎる女から距離《きょり》を取れと。
「つまらぬ。じつに、つまらぬ」
――化《ば》け物《もの》だ、と思ったことがある。
飛行船の中で初めてこの少女とまみえた時。常人《じょうじん》とはまさしく別次元《べつじげん》の何かを、この少女から感じ取ったことがある。戦慄と共に思い起こさざるを得ない、自己ワーストワンと言っていいほどの苦い記憶。
あの時の自分を笑ってやらねばなるまい。お前の感じた恐怖も戦標もしょせんは子供《こども》だましだ、本当の化け物は今、ここに、目の前にいると。
「予は期待しておったのだ。貴様という男が予に何を示《しめ》してくれるのかとな。初めのうちは悪くなかった。期待をかけるに足《た》りるだけの片鱗《へんりん》を貴様は示した。予はそれに応《こた》え、貴様の可能性にふさわしいだけの投資《とうし》をした」
氷の眼差《まなざ》しで峻護を射抜《いぬ》いてくる金髪の少女は今、気を抜けば失神しそうになるほどのプレッシャーをまき散らしていた。その様《さま》はまさしく暴風雨《ぼうふうう》。もし彼女の発する覇気《はき》に物理的な力が備わっていれば、彼女を中心に発生した竜巻《たつまき》が周囲のすべてを巻き込み、粉々《こなごな》に噛《か》み砕《くだ》いたことだろう。
「時間、知恵《ちえ》、手間《てま》――予が貴様にかけたあらゆるコストを金額に換算《かんさん》すれば、果たしていかほどになるであろうな? 貴様ら凡俗《ぼんぞく》がよく単位として用《もち》いる時給《じきゅう》に換算すれば、予のそれは考えうる限《かぎ》り低《ひく》い評価《ひょうか》で試算《しさん》したとしても億《おく》は下《くだ》らぬ。……いや、これはしょせん言葉遊びか。ふふ、まあ聞き流して構《かま》わぬ。予がいかに失望《しつぼう》しているか、少しでもわかりやすく貴様に伝えたかったのだ」
水の中を泳ぐように深い霧《きり》をかき分けて、ゆっくりと、血まみれの少女は近づいてくる。
そして峻護は唐突《とうとつ》に気づいた。彼女の蒼色の瞳からどうして今、この瞬間《しゅんかん》だけ、これほどの威圧《いあつ》を受けているのか。
とん、と。
背中に硬い感触《かんしょく》。
振り向けば、庭をぐるりと囲む楡《にれ》の木の幹《みき》が峻護の退路《たいろ》をふさいでいる。
「見ての通り、予は子供だ」
――そう。
つむじを曲《ま》げることはあった。不快《ふかい》を示すこともあった。傲慢《ごうまん》で気難《きむずか》しくて気分屋《きぶんや》で、触れれば切れそうな雰囲気《ふんいき》を持つ、研《と》ぎ澄《す》まされた刃《やいば》のような少女ではあった。
だが彼女は同時に、己《おのれ》の危険さをよく承知《しょうち》していた。強大な力をもち、その気になれば勝手気ままにそれを揮《ふる》うことができる立場にありながら、きわめて理性《りせい》的で自律《じりつ》の精神に富《と》んでいた。無軌道《むきどう》なほど自由《じゆう》奔放《ほんぽう》に振《ふ》る舞《ま》っているようにみえてその実、彼女は決して刃たる自《みずか》らを抜くことはなかったのだ。
そう。
アイスブルーの瞳に揺《ゆ》らいでいる炎は、彼女が初めてみせる怒《いか》りの感情――。
「オモチャに飽《あ》きた子供はそいつをどうすると思う?」
転瞬《てんしゅん》。
ダンプにでも撥《は》ねられたかのような衝撃《しょうげき》が峻護を襲《おそ》い、70キロある彼の身体を木《こ》っ端《ぱ》のように吹き飛ばしていた。
虫の知らせを聞いたか、あるいは異様《いよう》な気配《けはい》を肌《はだ》が察《さっ》したのか。
緩慢《かんまん》に蝕《むしば》まれていく身体が欲《ほっ》する深い眠りを押しのけ、真由は目を覚ますや否《いな》やベッドから飛び起きていた。
半分も覚醒《かくせい》していない頭でそのまま窓辺《まどべ》に駆《か》け寄る。ピンボケした意識《いしき》でも嫌《いや》というほどそのことは直感《ちょっかん》できる。彼女をたたき起こした原因《げんいん》はそこにあるはず――
息をのんだ。
遠目にもわかるどす黒い血だまりだらけの庭。
それと同じ色に染《そ》まった少女がハエでも払うように腕《うで》を払い、ただそれだけのことで軽々《かるがる》と吹き飛ばされたのは真由の大事《だいじ》な同居人《どうきょにん》で。
その時にはもう走り出していた。
普段は日和見《ひよりみ》しがちな頭が、今は目まぐるしいほどに回転している。錯乱《さくらん》と紙一重《かみひとえ》の頭が理解したのは、何かが起こったということと、その何かが峻護を致命的《ちめいてき》な危機《きき》にさらしているということで、だから真由はあれを止めねばならない。あのもめごとを止めて、峻護を救い出さねばならない。
でもどうやって? どうすればあの金髪《きんぱつ》の少女を止めることができる?
――迷ってるヒマも考えてるヒマもない。がむしゃらに階段《かいだん》を駆け下り、玄関《げんかん》のドアをぶち破るようにして開けながら庭へ飛び出そうとして、
「待ちな」
静かな、しかし聞き流しがたい声が真由の足を止めた。
「何をする気だ、マユ公」
エントランスの柱の陰《かげ》からゆっくり歩み寄って立ちふさがったのは、タキシード姿に身を包んだ赤毛の旧友《きゅうゆう》。
「何をする気って――決まってます。二ノ宮くんを助けます」
「ほう。そうかい」
「そこをどいてください、シャルロッテさん」
真由の呼び掛けには答えず、赤毛の少女は懐《ふところ》からゆっくり煙草《たばこ》を取り出し、のんびり火をつけて、まったり紫煙《しえん》をふかした。その様子からは敵意《てきい》も戦意《せんい》も感じ取れない。だが簡単《かんたん》には通してくれそうにないこともまた明らかだった。
寄宿舎《きしゅくしゃ》時代、教師や上級生にさんざん目をつけられながらも『問題行動の万国博覧会《ばんこくはくらんかい》』であり続けることができたのは、ひとえに彼女の腕《うで》っ節《ぷし》の強さの賜物《たまもの》であることを、真由は誰《だれ》よりよく知っている。
「助けるって言ったけどよマユ公。おめーどうやってあいつを助けるつもりだ」
「それは――」
口ごもった真由の耳に鈍《にぶ》い音が届く。肉と骨がへしゃげる、なるべくなら人生のうちでそう何度もは聞きたくないタイブの音だ。ことにそれが二ノ宮峻護の身体から発されているとなればなおさら。
「二ノ宮く――」
反射的に飛び出そうとして、しかしシャルロッテの眼光《がんこう》に足を止められる。
「力ずくで止めようったって無理《むり》だし、それ以外の手でどうにかするのはもっと無理だ。鈍《にぶ》いお前にだってわかるだろ? あの方が――ヒルダお嬢《じょう》さまかどういう人なのかは」
「…………。シャルロッテさんは」
あせる心を押さえこみ、旧友に問う。
「シャルロッテさんは、止めようとしないんですか? あなたの主人のヒルダさんがあんなことしてるのを」
「…………」
「ヒルダさんが別格《べっかく》としか言いようのない人だってことは、わたしにもわかります。とにかくあの人には力がある。だから、二ノ宮くんをどうにでもする権利《けんり》が、ある意味ではあるかもしれません。でもだけど、ヒルダさん自身がそもそもそれを望《のぞ》んでるんですか。あれが彼女のしたかったことなんですか」
真由の問いに赤毛の少女は即答《そくとう》しなかった。どこか中空《ちゅうくう》に視線《しせん》を泳がせ、無言で紫煙《しえん》をくゆらせている。その揺《ゆ》れない表情の向こうにはしかし、無数の感情が渦《うず》を巻《ま》いて千々に心を乱《みだ》しているのが透《す》かし見えた。
「あたしには、無理だよ」
ややあってシャルロッテはぽつんとこぼした。
「あの方の心を動かすのは、あたしじゃ無理だ。あたしはお呼びじゃないんだよ。あたしだけじゃなく祖父《じい》さんですらな」
言ってシャルロッテは視線を動かす。
その先に、もうひとりのタキシード姿がいた。
ロマンスグレーの老執事《ろうしつじ》は直立したまま、表情を変えず、目の前で執行《しっこう》されている私刑《しけい》を――そう、まさしく私刑としか呼びようがない――じっと見つめている。そこにいるのはギュンター・ローゼンハイムという個人ではない。ただ謹厳《きんげん》で忠実《ちゅうじつ》な老執事がいるのみであり、それゆえにむしろ彼の単純《たんじゅん》ならぬ心の内が読み取れるようだった。
「なんとかできるやつがいるとしたら……それは他の誰でもない、ニノミヤシュンゴだけだ。あの男は自分で自分を救う以外に道がないだろうさ。……ところであたしの質問に答えてなかったな、マユ公」
煙草《たばこ》入れにしつらえた灰皿《はいざら》に吸殻《すいがら》をねじ込んで、ふたたびシャルロッテが問う。
「お前、どうやってあいつを助けるつもりだ?」
「…………」
今度は逆に沈黙《ちんもく》を強《し》いられた真由に、旧友はあくまでも静かに問う。
「ひょっとして『もうひとり』を使うつもりなんだったら――それを止めるのはあたしの役目《やくめ》ってことになるだろうな? マユ公」
丸太《まるた》で殴《なぐ》られるような衝撃《しょうげき》をいったい幾度《いくど》味《あじ》わっただろうか。
十回を超《こ》えたあたりで数えるのを放棄《ほうき》したから、これでたぶん――十四回目ぐらい。
ガードに出した両腕《りょううで》に悲鳴《ひめい》を上げさせつつ、峻護は紙人形のように吹き飛んだ。
かろうじて背中から着地《ちゃくち》して受《う》け身《み》を取りつつ、霧《きり》に濡《ぬ》れた芝生《しばふ》の上を十メートルも滑《すべ》ってようやく止まり、走った激痛《げきつう》に顔をしかめる。何度も致命的《ちめいてき》な衝撃を和《やわ》らげてくれた腕の骨にとうとうひびが入ったらしい。
「……さすがに思うようには動かんな」
血まみれの少女があくまで冷徹《れいてつ》に感想を述《の》べつつ、ゆっくりと近づいてくる。
手の指を握《にぎ》ったり開いたりしながら、
「慣《な》れ親《した》しんだ身体《からだ》のはずだが、まるで錆《さ》びついたブリキ人形にでも乗り移ったかのような感覚だ。百年の眠りから覚めたあとのように意識《いしき》が矇朧《もうろう》としている。あるいはワインの樽《たる》をひと飲みに空けた時のように酩酊《めいてい》しているとでも言おうか。さすがの予《よ》もここまで青息《あおいき》吐息《といき》になる経験は初めてだ。いくつもの通り名をつけられて畏怖《いふ》される存在にしては、なんとも脆《もろ》きものよな」
当たり前だ。普通ならショック死していなければならない出血量である。何も事情《じじょう》を知らない人間がこの光景《こうけい》を目《ま》の当たりにすれば、十人中十人がゾンビもののホラー映画の撮影だと勘違いすることだろう。
だがそんな半死人を相手にしてすら、峻護は手も足も出ないのだった。桁違《けたちが》いなどというものではない、幻覚《げんかく》でも見ているのかと疑《うたが》うほどのヒルダの異常《いじょう》ぶり――おそらく十分の一も本来の能力を発揮《はっき》してはいまいに、それでも涼子や美樹彦を遥《はる》かに上回る身体能力。しかもそれでいて、まだ金髪の姫君はお遊び程度のつもりでいるのだ。
「くそっ……あなた人間ですか? ほんとうに」
「ああ、これでも人間なのだ。残念ながらな[#「残念ながらな」に傍点]」
死人めいて色あせながらなおも美しい肌《はだ》色をみせる細い足が、軽く振りあげられ、振り下ろされた。
途端《とたん》、またしてもすさまじい衝撃。度重《たびかさ》なる酷使《こくし》に抗議《こうぎ》の声を上げる両腕をそれでもガードに出したが、それだけで衝撃を吸収《きゅうしゅう》しきれるはずもなく、またしても峻護は宙《ちゅう》を舞い、芝生に転がった。
「見ての通り、予は強力な『生き物』だ」
瞳に蒼い炎《ほのお》を宿《やど》して、緋色《ひいろ》に染まった少女は近づいてくる。その動きは緩慢《かんまん》と呼んでよいほどのスローモーション。今すぐ踵《きびす》を返して一目散《いちもくさん》に逃《に》げ出せばこの危機《きき》を脱《だっ》することができるかにみえる。
が、ひとたび背中を見せればたちまち少女はあぎとをむき出しにし、峻護をひとのみに食い殺すはずだった。この期《ご》に及《およ》んでも彼女は本気を出していない。いま峻護が命ながらえているのは単なるヒルダの気まぐれゆえ。飢《う》えた猫がいざ食事を始める前に、ネズミを嬲《なぶ》って余興《よきょう》を味わっているのと何ら変わりないのだ。
「生命体としての総合的な能力では、おそらく予がこの地球上でもっとも優《すぐ》れていよう。だが――」
まさしく猫のように喉《のど》を鳴らしてヒルダはつづける。
「膂力《りょりょく》では象に及《およ》ばず、飛ぶ能力では雀《すずめ》にも劣《おと》り、泳ぐ能力では鰯《いわし》にも劣る。べつに彼らの得意分野で雌雄《しゆう》を決する必要などないのは承知《しょうち》しているが、そういう状況《じょうきょう》に立たされた時、予が彼らの後塵《こうじん》を拝《はい》することになるのは紛《まぎ》れもない事実だ」
「…………?」
「動植物に限ったことではない。人間が相手だとしても予の優位性《ゆういせい》など高《たか》が知れている。優れた指揮《しき》のもとで十万程度も兵を動かせば、予ひとりでは太刀打《たちう》ちできぬ。ミサイルのひとつやふたつなら何とでも対処《たいしょ》の仕様《しよう》はあろうが、核兵器《かくへいき》などを持ち出されればどうにもならぬ」
駿護には、ヒルダが何を語《かた》り始めたのかわからない。
だがよくよくみれば、眼光《がんこう》するどい姫君の瞳はアルコールに浸《ひた》されているような靄《もや》が掛《か》かっているようにもみえた。ただそれだけで芸術として成立していた凜《りん》とひびく声も、今はやや調律の狂《くる》ったピアノの演奏のように聞こえる。
「あるいはこう考えてもよい。予の優位性などはしょせんこの小さな星の上でのことに過《す》ぎぬと。宇宙《うちゅう》のどこかにおそらくは数多《あまた》いるであろう生命体には、予よりも優れた者がいくらでもいようことは確率《かくりつ》的に明らか。予の、王者の優位性などはその程度のものだと。――わかるかシュンゴ?」
またしても衝撃。苦鳴を上げる肉と骨、宙を舞う身体。
「わかるかシュンゴよ? いやわかるまいな。たとえ知ることはできても、真実理解できる者はこの地上に存在すまい」
その声はしかし、ぴんと背筋《せすじ》は張っていてもどこか酩酊《めいてい》していた。足取りは確かで、それでいて雲の上を歩くように頼《たよ》りなく、ヒルダは近づいてくる。
「予はな、退屈なのだ[#「退屈なのだ」に傍点]。文字どおり――そうまさしく文字どおり、死ぬほどな[#「死ぬほどな」に傍点]」
またしても衝撃《しょうげき》。
「あたしはお前のすべてを知ってるわけじゃない。それでもあたしはお前のことを他の連中より多少はよく知っている側の人間だ」
新しい煙草《たばこ》に火をつけ、ゆっくり言葉を選ぶようにしてシャルロッテは語る。
「お前、ずいぶん嘘《うそ》が上手《うま》くなりやがったな? ったく、そんなのばっかり上手くなりやがって……もっと他に上手くならなきゃいけないことがいくらでもあるだろうによ」
「…………」
真由は無言《むごん》。旧友のロ調《くちょう》は決して責《せ》める風《ふう》でもなじる風でもなかったが、真由は自責《じせき》の念にさいなまれるように視線《しせん》を伏《ふ》せている。
「最初はあたしも気づかなかったよ。お前を知ってるつもりのあたしでさえ気づかなかったんだ、殿下《でんか》はともかくとして、他のどんなやつだってお前のポーカーフェイスには気づかなかっただろうさ」
ひときわ大きく煙《けむり》を吐《は》き、静かに真由を見据《みす》えて、
「昔からずっとくたばりそこないだったけど……お前ほんとに死にかけてやがるな?」
「…………」
「それも普通に命の火を燃やしてたらとうとう燃料《ねんりょう》切れになっちまった、って感じでもねえ。あいつ[#「あいつ」に傍点]を表に出しただろう、お前」
シャルロッテは『もうひとりの真由』の存在を知る、この世に数人しかいないうちのひとりだった。
「言うまでもねえけどあえて言う。あいつが出てくるたびにお前は減っていく[#「減っていく」に傍点]。今のお前があいつを使えばどうなるか、まあだいたい想像《そうぞう》はつくはずだよな?」
まさしく言われるまでもない。そのリスクは重々《じゅうじゅう》に承知《しょうち》している。だが今ここで何もしなければ峻護は――
ぐしゃ、っと。
もう何度目になるかわからない嫌《いや》な音がした。
息を呑《の》みつつそちらを向けば、庭木の幹《みき》に吹《ふ》き飛《と》ばされた竣護の身体がずるずると落下《らっか》し、根元《ねもと》にくずおれるところだった。
喉《のど》があやうく悲鳴《ひめい》を上げかける。脚《あし》がひとりでに駆《か》け出そうとするが、シャルロッテの眼光がそれを許《ゆる》さない。
無力《むりょく》に見守るしかない真由の前で、峻護がふらふらになりながらも立ち上がった。ほっと安堵《あんど》の息をつく。あれだけボロキレのようにされながら立ち上がれるのはさすがというか――だがこのまま事態《じたい》が推移《すいい》すればどういう結末《けつまつ》になるかは火を見るよりも明らか。
シャルロッテに視線を戻すと、彼女は峻護と主の方を見向きもせず、真由から目線を外《はず》さず、値踏《ねぶ》みするようにじっと見つめている。そう簡単《かんたん》に道を譲《ゆず》ってくれる気はないようだ。
おそらく『もうひとり』を出さない限《かぎ》りシャルロッテを排除《はいじょ》することはできないだろう。今の真由はおっちょこちょいでドジばかりの小娘《こむすめ》で、なおかつあちこちガタがきている。正面からぶつかったところで勝ち目はないし、かといって小細工《こざいく》を弄《ろう》したり搦《から》め手から攻《せ》めたりしても覚束《おぼつか》ない。
「なあマユ公」
不意《ふい》に旧友が声を和《やわ》らげた。声だけでなく表情も丸くなり、そうなるとこの赤毛の少女は思いのほか可憐《かれん》な地顔をさらけ出す。
「考え直さねえか? ここで命をかける必要なんてない、もっと自分を大事にしな」
言葉そのものより、シャルロッテがそんなセリフを口にしたことに真由は驚《おどろ》いた。かつてこの友人がこれほど親身《しんみ》になってくれたことがあったろうか。
「ここでぐっと我慢《がまん》すりゃ、お前は未来への可能性《かのうせい》を手に入れる。そうなるようにあたしが段取りしてやる。殿下《でんか》にはお前を救うだけの公算《こうさん》があるらしいし、あの人がそう言うならそれは事実なんだ。お前にはハッピーエンドの結末がちゃんと用意されてるんだぜ?」
シャルロッテの言葉には嘘《うそ》も演技《えんぎ》もない。
ただ事実を伝えようとする真摯《しんし》さのみがある。
「お前がその気なら、あたしから殿下に頼《たの》んでやる。あたしゃこれでも殿下からの信頼《しんらい》は厚いんだ。時々あの人のサドっぶりの餌食《えじき》になるけど……それでもあたしは、あの人の人徳《じんとく》ってやつを知ってる。そう簡単に引き受けてくれるとも思わねえけど、なんとかする。どういう手を使ってでも殿下をロ説《くど》き落としてみせる。そうすればお前はきっと助かる。……どうだ?」
じわっ、と涙《なみだ》ぐみそうになった。友人の申し出が素直《すなお》にありがたかった。
でも、この土壇場《どたんば》になってよくわかったのだ。
自分の望みは驚くほどクリアで、何の迷いもなく、ただ一つの方角だけを向いていることを。
旧友から突き付けられた問いの答えを、今ここに出そう。
誇《ほこ》らしげに真由は微笑《びしょう》し、口を開いた。
「死んでも嫌《いや》です」
簡潔《かんけつ》で強烈《きょうれつ》な否定《ひてい》の言葉にも旧友は顔色を変えない。シャルロッテは友人の真意《しんい》を測《はか》るようにじっと真由を見つめている。
「もしシャルロッテさんじゃなくて二ノ宮くんに同じことを言われても、だんぜんお断《ことわ》りです。もし二ノ宮くんが泣いて土下座《どげざ》して頼んでも、うんとは言ってあげません」
「……マジで言ってんのか?」
「はい。大マジです」
「あたしがこれほど言ってんのに?」
「はい。シャルロッテさんからどれだけ言われてもです」
「自分がバカだって自覚《じかく》はあるか?」
「バカって言うほうがバカだと思います」
「…………。くくく」
赤毛の少女は獰猛《どうもう》に口もとを綻《ほころ》ばせる。まるで機嫌《きげん》のよい肉食獣《にくしょくじゅう》のように。
「そういうタイブのバカってのはたまにいるけど……どうやらお前もそのバカの仲間《なかま》だったらしいな」
「そうですか? どちらかというとわたし、根っからこういうバカだったような気がしてますよ、今では」
「けっ。口の方もずいぶん達者《たっしゃ》になりやがって」
旧友は寄宿舎時代と変わらぬ不敵《ふてき》な笑みで身体を横にずらし、
「あそこはガチの場所だ。シュンゴはもちろん、殿下ですら命を張ってる鉄火場《てっかば》――半端《はんぱ》な覚悟で関《かか》わるつもりなら今ここでぶっ殺してやんぜ?」
「ご心配《しんぱい》なく。なんなら二、三発、ビンタでもかましてください」
「オーケーわかった。骨はあたしが拾ってやるから心配すんな」
くいっ、と顎《あご》を中庭にしゃくり、
「行け。女の花道《はなみち》飾《かざ》ってこい」
――脇《わき》を通り過ぎる瞬間《しゅんかん》旧友は「じゃあな」と小さく言った。
真由もまた、「ありがとう」と小さく言った。
これでもう何ひとつ迷《まよ》いはない。
霧《きり》の庭を、もつれそうになる足を必死《ひっし》に動かして駆けながら、真由は魔法《まほう》の呪文《じゅもん》を唱《とな》えた。なんのためらいもなく、固く固く禁じられた言葉を、eine《いち》、zwei《にの》、drei《さん》、と。
そしてすぐに彼女は青ざめることになる。
「たとえば、予《よ》がこの世に生まれおちて十余年の時が経《た》つ」
さすがに目の前がチカチカしてきた。
いかに勢《いきおい》いを殺《ころ》し、いかに受《う》け身《み》を取ったところで、雷撃《らいげき》のような衝撃《しょうげき》は身体《からだ》の隅々《すみずみ》まで幾度《いくど》も幾度も走り抜けているのだ。ダメージの蓄積《ちくせき》は覆《おお》い隠《かく》しようがないほどのレベルまで達しつつある。このままではほどなくして、ガードの上からの打撃《だげき》のみで何もかもを削り取られることになるだろう。まさしく嬲《なぶ》り殺しというわけだ。
「十余年、それが客観的《きゃっかんてき》にみた予の人生のすべてだ。しかし予が『主観的に生きた期間』は何十年にも何百年にも及《およ》ぶ。どういうカラクリかはわかるな? 多少なりとも予のことを調べたのであれば」
もう何度目になるかも知れぬ衝撃。
とっくに何箇所《なんかしょ》か折《お》れている両腕《りょううで》でのガードはかろうじて成功したが、ふらふらに疲弊《ひへい》した身体で受け身を取るのは無理だった。右ひざが関節《かんせつ》の許容《きょよう》する範囲《はんい》を超《こ》えてねじれ、激痛《げきつう》が走る。脱臼《だっきゅう》は免《まぬが》れたが何本か筋《すじ》を伸《の》ばしてしまった。次からはさらに受け身を取りづらくなる。どうにもならぬジリ貧《ひん》状態《じょうたい》。
「生まれ落ちて数週間にして予は我《わ》が足で立ち、言葉を操《あやつ》った。それからさらに数週間ののち、予は予の何たるかを知った。いわゆる自我《じが》の獲得《かくとく》というやつだな。まあそれだけでも普通の人間とは呼べまいが、その後も予は常人《じょうじん》とは比較《ひかく》にならぬ速度で世界を学習し、己《おのれ》を育て上げていった。初めのころは父も母もそんな予をずいぶん喜んだものだ――まあほどなくしてあまりに人間離れした実の娘《むすめ》を恐れるようになり、処分《しょぶん》しようとして逆に予の手で放逐《ほうちく》されることになるのだがな」
何かヒルダが語っているようだが半分も聞こえてこない。思うように働かない頭を必死《ひっし》に回して打開策《だかいさく》を探し、そして徒労《とろう》に終わるというサイクルをウロボロスの蛇《へび》のように繰《く》り返す。それが今の峻護にできる精一杯だ。
「予の非常識《ひじょうしき》さは成長の速度だけに留《とど》まらなかった。自我を獲得して幾許《いくばく》も経《た》たぬうち、予は普通の人間が意識的にできぬことをいくつもできることを発見した。たとえば心臓《しんぞう》の運動を自律的に調節できる。たとえば複数の領域《りょういき》に分かれた脳《のう》の分野を自在に活動させたり休ませることができる」
一歩、二歩と、まるで渇《かわ》いた旅人が砂漢《さばく》をさまようようなのろまさで、少女は近づいてくる。
くそ、どうすればいい――歯噛《はが》みしながら、回らぬ頭で、それでも峻護は考えるのをやめない。彼の双肩《そうけん》に掛かっているのは未来、可能性そのもの。それこそ死んでも諦《あきら》められないのだ。
「これらはほんの一例に過《す》ぎぬ。予は常人にはとうてい及《およ》ばぬことをいくらでも為《な》すことができるのだ。予は遺伝的《いでんてき》には確かにヒトであるようだが、その実像《じつぞう》はとてもヒトとは呼べまい。ヒトの定義《ていぎ》から外《はず》れたモノ――そう、予を恐《おそ》れ蔑《さげす》む者どもが呼ぶように、まさしく化け物だ。だがそのことはそれでよい。そう生まれついたのなら、それはそれとして受け入れよう。だがこの身体に、この器《うつわ》に入れられたのは、結局のところまったく普通なヒトの魂《たましい》だった。神とやらが実在するのであれば見識《けんしき》を疑《うたが》わねばならんな。まったく中途半端《ちゅうとはんぱ》なことよ……いっそ神そのものに生まれておれば、このようなジレンマからは逃《のが》れ得《え》たかも知れぬのに。時に人の世では神のごとく振《ふ》る舞《ま》える予とて、神そのものにはなり得ぬ。まこと、これを半端と呼ばずしてなんと呼ぶ?」
少女はいつもと変わらぬ冷徹《れいてつ》な表情のまま、しかしひどく饒舌《じょうぜつ》だった。口調《くちょう》こそしっかりしているが、おそらくはかなり矇朧《もうろう》とした状態で口を利いているのだろう。彼女からすれば半《なか》ば夢《ゆめ》でも見ているような、うわごとでも口にしているような感覚なのではあるまいか。
「予は様々なことを考え、実行した。予は何者なのか、予は何を為《な》すべきなのか――ふふ、それこそ青臭《あおくさ》い若造《わかぞう》のようなことを、何分[#「分」に傍点]も何時間[#「時間」に傍点]もな。考える頭と暇《ひま》は腐《くさ》るほどあったし、考える材料となる知識《ちしき》を得る手段にも事欠かなかった。たとえばひとりの民草《たみくさ》として市井《しせい》に暮《く》らすことを己に課したこともあった。あるいは世界の支配者として地上に君臨《くんりん》することも試《こころ》みた。俗世《ぞくせ》から離れて完全な傍観者《ぼうかんしゃ》たらんとしたこともあった。だがいずれも予を満《み》たすことはなかった。そして予は気づいた。予にとって人生とは、最初のわずか数年で足りたのだとな。残りの人生は余生《よせい》以下の、単なる消化試合にすぎなかったのだ。予という個をただただ現世につなぎとめるだけの、エネルギーの浪費《ろうひ》にすぎなかったのだ」
そろそろ痛《いた》みにも飽《あ》きてきた、数十発目の衝撃《しょうげき》。
意識が飛んだ。眼《め》の前で星が散り、方向感覚も上下感覚も失う。
「そのことに気づいた予がまっ先に考えたのはむろん、自《みずか》ら命を絶《た》つことだった。だがほとんど同時に予はそれを否定《ひてい》した。なぜならつまるところ、予が死を選ぶのは人類《じんるい》に冠絶《かんぜつ》するあまりであって、そんな理由で自害《じがい》するなどこの世で最も失笑《しっしょう》すべき死《し》に様《ざま》だと思えたからだ。無為に生きつづけるよりも無為に死ぬほうがよほど虚《むな》しい。生きとし生ける者は皆《みな》、一分一秒でも生を長らえさせるべく全知《ぜんち》全能《ぜんのう》を尽くすもの。予もまた命あるものなれば、そのくびきからは逃《のが》れられぬ」
まずい――ノイズの入った意識で峻護はあせる。こちらからは指一本手出しできないありさまだというのに、気力体力ともにガス欠《けつ》状態。この状態でいったい何ができる? 何をすべきだ?
あせる気持ちだけが空回《からまわ》りし、一秒ごとに闘志《とうし》も気骨も萎《な》えていくのがわかってますますあせり、もはやマイナス方面への螺旋的《らせんてき》奈落《ならく》状態。
だが。
その一方でムクリと鎌首《かまくび》をもたげつつあるこの感情は、いったいなんなのだろう……?
「予は己の命をよりよく全《まっと》うしようとした。あるいは予が出した結論《けつろん》が何かの考えちがいかもしれぬという、一縷《いちる》の希望《きぼう》もあった。十余年――人の身にとってはあるいは短い、しかし予にとっては気の遠くなるほど長い年月を、予は耐《た》え抜《ぬ》いてきた。何かがきっとあるはずだと足掻《あが》きつづけてきた。その結果はまったくの空白《くうはく》――まったくの空漠《くうばく》、まったくの空疎《くうそ》。……なにも、ありはしなかった」
もとより酩酊《めいてい》じみてとりとめもなく、また霞《かすみ》を掴《つか》むように現実離れした話だった。おまけにクラクラふらふらする頭で聞く話である。おそらく自分は、彼女が語る話の数パーセントも理解できてはいまい。
それでもいくつかのことがわかった。
あの陸橋《りっきょう》で飛び降りようとしていた男へ向けた冷笑《れいしょう》にどんな意味が込められていたかを。そして表情には決して出さぬ心のうちで、怒《いか》りを込めた羨望《せんぼう》を覚えていたにちがいないことを。
彼女は根本《こんぽん》的に、誰《だれ》にも、何も、期待していないのだということを。そうせざるを得《え》ない空虚《くうきょ》さの只中《ただなか》に、たったひとり孤独《こどく》にさまよい続けていたのだということを。そうしてさまよい続けた果てに出会った峻護に、どうやらほんとうに何かを期待していたのだということを。
退屈《たいくつ》、という簡単な二文字にどんな叫びが込められているかということを。
あまりに異端《いたん》であり、しかしそれでいて誇《ほこ》り高き王者であり、ギュンターやシャルロッテがごく自然《しぜん》にそうしているように、敬意《けいい》を表《ひょう》するに値《あたい》する人物であることを。
ほかにも、うまく言葉にできないことを、いくつもいくつも。
……でも。
だけど、やっぱり心の片隅《かたすみ》に、あるのだ。なんだかよくわからないささくれ立った気持ちが――今この瞬間も、得体のしれないエネルギーを孕《はら》んで、みるみるうちに大きくなっている何かが。
「さあ。清算《せいさん》の時だ」
かろうじて片膝《かたひざ》で立つ峻護の前に、少女が来た。
その瞳に揺《ゆ》らぐ蒼《あお》い炎はどこまでも美しく――そして、哀《かな》しく。
「そろそろ終われ」
頚動脈《けいどうみゃく》を簡単に切《き》り裂《さ》いた手刀《しゅとう》が、今度は明確《めいかく》な害意《がいい》をこめて振りあげられる。
想定外《そうていがい》の事態《じたい》に、真由はパニック手前の混乱《こんらん》に陥《おちい》っていた。
(なぜ!? どうして!?)
峻護を救《すく》うには今の真由はあまりに無力。すべてを覚悟の上で『彼女』を呼ぶしかない。
なのに、『彼女』は真由の嘆願《たんがん》に応《おう》じなかったのである。
――いや、これは正確な表現ではない。
そもそも『彼女』は呼べばいつでも出てきてくれるような、無料相談所の職員《しょくいん》みたいに便利《べんり》な存在《そんざい》ではない。『彼女』が重い腰《こし》を上げるのはよほど切羽《せっぱ》詰《つ》った時のみ。それどころか呼びかけても返事すらくれないことの方がはるかに多いくらいだ。
いつも無口《むくち》で、まったく自己《じこ》主張《しゅちょう》というものをせず、ほとんど存在そのものを消すようにして真由の片隅に存在する誰か。
そんな相手だったからこそ、真由も想定はしていたのだ。こちらの呼びかけに応じてくれない可能性は。ゆえに真由は『彼女』を説得《せっとく》するための方策《ほうさく》もいくつか用意していたのだ。いつもならそれで十分だったはずだ。『彼女』は理に明るく、本当に必要な時であれば必ず表に出てきてくれたのだ。
だが『彼女』の反応は真由の想定をはるかに逸脱《いつだつ》した。『彼女』は真由の嘆頭に対してただかぶりを振っただけではない。あまりに強烈《きょうれつ》で明確な拒絶《きょぜつ》の意志《いし》を示《しめ》したのである。
(そんな――どうして――?)
それはほとんど悲鳴《ひめい》に近かった。もとより『彼女』は実体のある存在ではないが、真由の申《もう》し出《で》を否定《ひてい》する時はただ静かに、無言で首を振る――映像のイメージとしては常《つね》にそういう感じだったのに。
そして真由が混乱したのはそれだけではない。『彼女』が口にした理由である。
まず第一に、『彼女』は真由の存在そのものの危機《きき》をあげた。だがそんなのはとっくに承知《しょうち》の上だ。今ここでリスクにおびえて選択《せんたく》を誤《あやま》れば、この先どんな顔をして生きていけばいいというのか。
だから、真由が息を呑《の》んだのはもうひとつの理由のほうだった。『彼女』は『彼』がいるから出ていけない、と言ったのである。彼――つまりは二ノ宮峻護がいるから、と。
その言葉の意味がじわりと浸透《しんとう》していくにつれ、まるで真冬の冷気《れいき》に抱《だ》かれるような冷たさが真由の背中を撫《な》でていった。
怖《こわ》いほど大事なことに、世界がひっくりかえるような何かに、今、手が届きそうな――
(ねえ。どうして二ノ宮くんがいると出てこれないの?)
その問いに『彼女』は死体《したい》のように沈黙《ちんもく》している。沈黙には、これ以上は訊《き》かないでほしいと哀願《あいがん》する雰囲気《ふんいき》があった。そのことがまた真由を愕然《がくぜん》とさせた。哀願だなんて、これまでの『彼女』にはまるで似《に》つかわしくない単語だったはずなのに。『彼女』はもっと冷静で知的でそつがなくて頼りになって、とてもじゃないけど真由の中にいるもうひとりの真由だとは思えないほどだったのに。
ああ――一体これは誰なのだ[#「一体これは誰なのだ」に傍点]?
(……ひょっとして……)
長年の疑問《ぎもん》に答えを出すある仮説《かせつ》が浮《う》かび、いよいよ真由の背筋《せすじ》を凍《こお》らせる。だが、もしそうならすべてが繋《つな》がるような気がするのだ。自分に過去の記憶《きおく》がないことも、男性に対する拒絶反応《きょぜつはんのう》が出ることも。そして『彼女』がそもそも自分の中に存在することすらも。
(――ねえ。そうなの?)
『彼女』は首を振る。
(そうなのね?)
『彼女』は首を振り、ちがう、と言う。頑是《がんぜ》ない子供のようにいやいやをし、ちがうそれはちがうとひたすら言いつづける。
そっか、と真由は肩《かた》のカを抜いた。
胸《むね》のつかえが下りた気がした。
一切のしがらみが抜《ぬ》け落ちた気がした。
そうだ。そうなのだ。そういうことだったのだ。
今ここにいる月村真由という存在は――記憶のある期間、十年間にわたって自我《じが》を維持《いじ》してきたこの自分は、そういう存在だったのだ。
ショックはなかった。恐怖《きょうふ》もなかった。いや、ないわけではないが、それよりももっとずっと、納得《なっとく》のいく気持ちが強かった。つまりこれから自分は、この月村真由は、あるべき形に戻《もど》ろうとしているだけなのだから。
むしろありがたいと思う気持ちの方が強いのだ。だって、こうなればなおさら憂《うれ》うべきことはないのだから。為すべきことを本当に迷いなく、一点の曇《くも》りもなく、まっすぐに為し通すことができる。
ねえ、と真由は語りかける。
今しかないの。今いかないと二ノ宮くんが危《あぶ》ないの。今なにかを惜《お》しんだら、今なにかをためらったら、いちばん大事なものが手のひらからこぼれ落ちちゃうの。わかるでしょう? だからお願い。
子供にもわかる単純《たんじゅん》な理屈《りくつ》を、それこそ赤子《あかご》にでもわかるように説《と》く。それでも『彼女』は頑固《がんこ》に首を振る。真由は丁寧《ていねい》に根気《こんき》よく説きつづける。
――わたしは今までどうして自分がここにいるのかわからなかった。何もかもに絶望《ぜつぼう》してたこともあった。神さまを恨《うら》んだこともあった。でも、それもぜんぷ、今は問題じゃなくなったよ、だって今のわたしには、かけがえのないものがある。
何度も何度もボロキレのように宙《ちゅう》を舞《ま》っていた峻護が、ひときわ大きく吹き飛ばされた。芝生《しばふ》の上に転がされてもなお立ち上がろうとしているが、心身ともに限界《げんかい》を迎《むか》えていることは遠目にもわかる。金髪《きんぱつ》の少女が峻護に歩み寄り、お遊戯《ゆうぎ》に幕引《まくひ》きをするべく手を振り上げるのが見えた。
――このままいっても結局は時間切れ。何かをしても、何もしなくても結末《けつまつ》は同じ。
だったらお願い。
最後に、わたしを生きさせて[#「生きさせて」に傍点]。
……その言葉が引《ひ》き金《がね》になった。
『彼女』の感情の堰《せき》が切れた。ごめんなさいごめんなさいと『彼女』は何度もあやまった。真由はかぶりを振った。自分はもともとこういう存在だったのだ。今この場に至って存在する価値《かち》を自分自身の中に見出《みいだ》せただけでも儲《もう》けものだと思う。それだけでも十分すぎるほどだ。
でもひとつだけ、もしも望めるのなら――と真由は願う。
あなたも生きて、と。
胸を張って、誇《ほこ》り高く。
きっとあなたにならそれができるはずだから。
……その願いに対する返答《へんとう》は得《え》られなかった。でもきっと『彼女』なら応《こた》えてくれると信《しん》じた。もうひとりの自分に、そのくらいは期待《きたい》していいはずだった。
『彼女』が浮《う》かび上がってくる。水の底からゆっくりと浮上《ふじょう》する泡《あわ》のように。それにつれて真由の意識はパズルのピースが一枚一枚欠け落ちていくように、ぽろぽろとこぼれて沈んでいく。
歯を食いしばって金髪の少女を睨《にら》みつけている少年の姿が目に映った。
えヘへ、と真由はわんぱくな子供《こども》のように鼻の下を指でこする。
胸を張って、誇り高く。
もはや声に出せぬ言葉を語りかける。
さよなら二ノ宮くん。
やっぱりわたし、あなたのことが大好きでした。
あとは『彼女』に――
そこで真由の意識《いしき》は途切《とぎ》れた。
最後のその瞬間までまぶたは閉じない。
それが峻護にできる、せめてもの男気《おとこぎ》の示《しめ》し方だった。だから峻護は逐一《ちくいち》を見ることができたのだ――文字どおり刀に等しい切れ味を持つであろう手刀《しゅとう》が、振り下ろされるその中途《ちゅうと》で頓挫《とんざ》を余儀《よぎ》なくされたのを。血まみれの少女がわずかな驚《おどろ》きをもって視線《しせん》を側方《そくほう》に向けたのを。そしてその直後に朝霧《あさぎり》を巻いて突進《とっしん》してきた影《かげ》の姿を。
「む――――」
わずかに眉をひそめてヒルダは半歩下がり、そこにできたスペースに影が割《わ》り込《こ》む。影はそのまま前|蹴《げ》り、踏《ふ》み込んだ勢《いきお》いで後ろ回し蹴りと連続して繰《く》り出し、いずれもヒルダにはかすりもぜず、しかしこの王者《おうじゃ》をして距離《きょり》を取らしめることに成功する。
「ほう……」
ヒルダのアイスブルーの瞳《ひとみ》が細められ、峻護はようやくそのうしろ姿が誰《だれ》のものであるかに気がついた。
「つ、月村さん……? ってばか、何してるんだ、下がって――」
「おもしろい」
これが貫禄《かんろく》のちがいか。峻護の制止《せいし》を何の変哲《へんてつ》もないただのひとことで断ち、ヒルダは興味《きょうみ》深《ぶか》げな視線で真由の頭の上から足の先までを見やると、
「数多くの神戎《かむい》を見てきたが貴様《きさま》のような型は初めてだ。同じ身体を使いながらここまで極端《きょくたん》に変わるものか……ふむ? これまではさして気にも留《と》めなんだが……」
峻護と真由を交互《こうご》に見やり、
「貴様らふたり、思ったより似ているな? 表に出てきてより顕著《けんちょ》になったにしても、似すぎている。ふむ。なるほどそういうことか……まったくありえぬ話でもない、か。とすればいろいろ説明もつきそうだな」
ひとりで何やら納得したらしい。ロもとをわずかに笑《え》みの形に曲げて、
「それはそれとしてマユよ、どちらにしても貴様のガス欠《けつ》状態《じょうたい》には変わりあるまい? その身体でどれほど動けるというのか」
「…………」
「まあよかろう。せっかく捨《す》て身で来たのだ。予《よ》が直々《じきじき》に遊んでやる価値《かち》はあると認《みと》める。かかってくるがいい。……ところで貴様」
眉間《みけん》に微《かす》かなしわを刻んで、
「いったい何を泣いている?」
泣いて……?
おどろき、峻護は自分の前に立ちふさがってくれている少女を見上げる。しかし彼の位置から見えるのは真由の背中だけ。その表情まではうかがい知れない。
「どうしたマユよ? 涙《なみだ》に濡《ぬ》れて前が見えぬか? それともここまできて臆病風《おくびょうかぜ》にでも吹かれたか?」
「…………」
「ふむ、冷静《れいせい》だな。時間を稼《かせ》ぐことに目的を絞《しぼ》り、その目的からつま先たりともはみ出すことがない。――よかろう。能動的に[#「能動的に」に傍点]遊んでやる」
言い終わる前にもう動いていた。
ゆったりとしたように見えてその実《じつ》すさまじいエネルギーを解放《かいほう》した猛進《もうしん》。
それでいてスローモーションで見れば舞踏《ぶとう》のように優雅《ゆうが》であろう、他に類を見ない動き。
文字どおり人間離れしたヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインにのみ可能《かのう》な身のこなしであり、事前《じぜん》にくるとわかっていてなおかつ気力体力十分であったとしても、果たして竣護に対応《たいおう》できたかどうか――
ごすっ、と。
鈍《にぶ》く、しかし力強い音。
「ほう?」
スピードに乗せて繰《く》り出したヒルダの一撃《いちげき》を、真由は真正面から受け止めていた。
「ふむ。思ったよりは遊べそうだ」
ぐるんっ、と残像《ざんぞう》すら追いつかぬほどの回転で腰をひねり、ヒルダは鉄骨《てっこつ》でも折り曲げそうな裏拳《うらけん》を放《はな》った。衝撃《しょうげき》に上体を揺《ゆ》らしながらもそれを防《ふせ》ぐ真由のふところに間髪《かんはつ》入れず踏《ふ》み込んで、肘《ひじ》の一撃。だが真由はひるむどころか逆に一歩踏み込んでそれを受け止めつつ、クロスレンジで果敢《かかん》にも肘の打ち下ろしを返して――
(これが月村さん……?)
夢《ゆめ》でも見ているのかと思った。あの月村真由が、本調子でないとはいえ、あのヒルダを相手に対等《たいとう》に渡り合っているのだ。
いったい何がどうなっているのか……唖然《あぜん》茫然《ぼうぜん》と目を点にするしかない峻護の心の片隅《かたすみ》で、またあの感覚がうごめいた。夕立《ゆうだち》前の黒い雨雲のように、むくむくと、かつて彼の味わったことのない感覚が。
いや、もう心の片隅とはいえまい。今や心の領域《りょういき》の大部分を占《し》めるほどに、そいつは峻護を侵食《しんしょく》しつつある。
「存外《ぞんがい》よな。どつき合いでよもやこれだけ予についてこれようとは。ギュンターあたりでもなかなかこうはいかぬぞ?」
拳《こぶし》も蹴《け》りも間断《かんだん》なく繰《く》り出しながら、ヒルダは息も切らさず、声すら乱《みだ》さずに、
「とはいえもとから虫の息だったところに、シュンゴを庇《かば》いながら立ち回るのだ。いい加減《かげん》ムリもガタも来よう」
その言葉に反応し、むくりと再び膨《ふく》れ上がる謎《なぞ》めいた感覚。知らず峻護はくちびるを噛《か》みしめ、奥歯《おくば》にひびが入るほどに歯ぎしりする。
「…………」
一方の真由はあくまで無言。峻護とヒルダの間に立ちふさがり、黙々《もくもく》と拳を交えている。頑固《がんこ》というか、一念岩をも通すというか……とにかく頑《がん》として退《ひ》こうとはしない。幾度《いきど》も劣勢《れっせい》になりながらそのたびに驚異《きょうい》的な粘《ねば》りで立て直し、持ちこたえてはいるが、
「――そろそろ限界だな。だが見事だった」
揶揄《やゆ》も偽《いつわ》りもない賞賛《しょうさん》を声に混《ま》ぜて、ヒルダ。
「褒美《ほうび》だ。受け取れ」
次の瞬間、金髪の姫君のギアが一段階あがった。
急激な速度の変化にガードが間に合わない。
軽く振った――とみえてその実すさまじい勢いで振りぬかれた拳が、真由のあご先に入った。頭蓋《ずがい》の中で脳《のう》が揺《ゆ》れる光景を幻視《げんし》できそうな、タイミングも角度も何もかもが完璧《かんぺき》な一撃だった。
「――――っ」
瞳の焦点《しょうてん》を失った真由がひざからくずおれ、そのままうつぶせにに芝生《しばふ》へ倒《たお》れこんだ。あれを食らってまだ立ち上がれるなら、それはもう脊椎《せきつい》動物の同胞《どうほう》ではあるまい。
「……ツキムラマユとは、貴様が守らねばならぬ相手ではなかったか?」
片膝《かたひざ》立ちのまま成り行きを見守るしかなかった峻護の前に、細い二本の足が立ちふさがる。
「まあなかなか健気《けなげ》ではあったがな。やつも満身《まんしん》創痍《そうい》であったろうに、よくぞあそこまで働《はたら》いたものよ。……それに引きかえ無様《ぷざま》なものよな、シュンゴ」
――ああ。まったくその通りだ。
むくりと、またあの感覚が膨《ふく》らむ。今度のは爆発《ばくほつ》的な膨張《ぼうちょう》だった。たちまちそいつに心を埋《う》め尽《つ》くされる。それでもまだ飽《あ》き足《た》らず、じわじわと、さらに心の外側にまで広がろうとしている。
ああ、なんていうんだろうな、この感じ。なんかこう、今の気分にぴったりくる言葉があったはずなんだけど……。
「思わぬ邪魔が入ったが、お楽しみのつづきだ。マユの手並《てな》みに免《めん》じて遺言《ゆいごん》くらいは聞いてやる。何か言い残すことは――ん?」
ふらり、おぼつかない両足を踏《ふ》みしめて立ち上がった峻護に、ヒルダは眉根《まゆね》に品よくしわを寄せた。
「ほう。まだ立てるのか」
感嘆《かんたん》の色が混じった声を、しかし峻護は完全《かんぜん》無視《むし》ふらふらと歩き進んで、倒《たお》れ伏《ふ》した真由のそばにしゃがみ込む。
「……ごめんな、月村さん、おれ、ほんとにどうしようもなくて、情《なさ》けない野郎《やろう》で」
乱れた髪をそっと撫《な》で、整《ととの》えてやる。力なく閉じられたまぶたの向こうの瞳をじっと見つめ、静かに、だけど強く語りかける。
「でも、おれだってこれでも、男の端《はし》くれだから。だからちょっとだけ、ちょっとだけここで――」
「別れのあいさつか?」
言いさした言葉は中途《ちゅうと》でさえぎられた。
「下らぬ感傷《かんしょう》だが、まあよかろう。ツキムラマユは思いがけず気骨を示した。その勲《いさお》に報《むく》いる程度の」
今度は逆に、ヒルダの言葉が中途でさえぎられた。
ほとんど無意識《むいしき》の行動だったと言っていい。立ち上がるや否《いな》や峻護は拳をスイングし、ヒルダに向かって打ち下ろしたのだ。
しかし虫の息の峻護が繰《く》り出した一撃である。ヒルダはほんのわずかに首をひねってそれをかわすと、お返しにとばかりに重い重い一発を見舞ってきた。
吹き飛ぶ身体。流れる景色《けしき》。地べたに突《つ》っ伏《ぷ》す気持ち悪い音。
「……まだそんな気力が残っていたか。だが――」
またしてもヒルダの言葉はさえぎられた。
地に叩《たた》き伏せられた峻護がすぐさま起き上がったのだ。痙攣《けいれん》する手足をそれこそ死にぞこないのように無様《ぶざま》に動かし、緩慢《かんまん》に、だが倒《たお》れた瞬間《しゅんかん》から間をおかずに、すぐさま。
そのままふらふらと近づいてくる峻護を見て、ヒルダの眉間《みけん》に今度は深いしわが走る。
「なんだ? なにがしたいのだ?」
問いには答えず、ゆらゆらと峻護はなおも近づいていく。ヒルダは不審《ふしん》げに目を細め、しかし間合いに入ってきた峻護を容赦《ようしゃ》なく殴《なぐ》りつける、
吹き飛ぶ身体。流れる景色。地べたに突っ伏す気持ち悪い音。
そしてすぐさま立ち上がる峻護。
「…………なんなのだ? 貴様《きさま》」
さしものヒルダがひどく嫌《いや》そうな顔をした。
多量の出血《しゅっけつ》のせいで本来のカには及《およ》ぶべくもないが、それでも大の男を軽々と宙に舞わせるだけの拳撃《けんげき》である。そいつを何十発も食らいながら不死人のようにすぐさま起き上がり、とうてい届《とど》き得《え》ぬ、けっして敵《てき》しえぬ動きで何度も立ち向かってくるのだ。策《さく》も何もあったものではない、ただひたすら、立ち向かってくるだけなのである。
「自暴《じぼう》自棄《じき》か? それとも単に脳《のう》みそが回らなくなって自分が何をしているのかもわかっていないのか? あるいは――」
「うるさい」
「なに……?」
「うるさいって言ったんだよ。いやむしろ黙《だま》れ」
姫君の眉間に、両肩に、危険な低気圧《ていきあつ》が漂《ただよ》い始めた。電荷《でんか》をおびて今にも雷を放ちそうなほどにそれはふくらみ、周囲を圧《あっ》する覇気《はき》、あるいは闘気《とうき》となってヒルダの周りに渦《うず》を成していく。
だがそんなものはまるでお構いなし[#「まるでお構いなし」に傍点]に、峻護はずるずると近づいていく。
「あー」
霧《きリ》にけぶる空を見上げ、不意《ふい》に峻護は納得《なっとく》したような瞼《うな》り声をあげた。
「そうかわかった、思い出した。やっと出てきたよこの言葉。普段まったく使わないからなあ、すっかり度忘《どわす》れしてた」
首をおろし、少女を見おろして、
「むかつく」
「……なんだと?」
「むかつくって言ったんだよ。むかつくんだ何もかも全部」
ふいに意識《いしき》が飛びかけた。
雪景色のように真っ白になる視界《しかい》。それと同時にもろくも膝《ひざ》がくずれかけ、だが気合いで目を見開き、持ち直す。膝に置いた手に力を入れる。甲《こう》に浮き出た血管《けっかん》から血が噴《ふ》き出すかと思えるほど強く握《にぎ》りしめ、爪《つめ》を食いこませる。
「――おれはガキだし、何もわかってないし、面倒《めんどう》なことからもすぐ逃げる。頭も悪いし、考え足らずだし、多少は腕《うで》っ節《ぷし》があったってこのザマで、頼《たよ》られたって頼りなくて、期待《きたい》にもろくに応《こた》えてやれない。ああ、まずは何より真っ先に、そういう自分がとんでもなくむかつくな」
真由が稼《かせ》いでくれた時間が、峻護を支《ささ》えている。回復《かいふく》した体力はほんのわずか、スズメの涙《なみだ》ほどにすぎない。でもそのわずかな量で十分だ。峻護が今やりたいこと、やらなければならないことをやるためには、それだけで十分。
「でももっとむかつくのはあんただヒルダ。なんだ不幸面《ふこうづら》して延々《えんえん》と長話しやがって。あんたはなんでもできるじゃないか。それだけの能力があればなんでもできるし、実際《じっさい》すごいし、たぶんあんたの生きてきた人生は尊敬《そんけい》に値《あたい》すると思うし、あれだけ血を流しても死なないし、おれは小指一本で遊ばれるよりもっとひどい扱《あつか》いだし、あんたすごいよ、実際超人だと思うよ、十年そこそこしか生きてないのにもう仙人《せんにん》みたいなツラしてやがって、それも伊達《だて》やお飾《かざ》りでってわけじゃなくて、ほんとにそうなんだよなあんたの場合は。ああくそむかつく」
「……少々頭を殴《なぐ》りすぎたか?」
もはや露骨《ろこつ》に眉《まゆ》をひそめ、
「まともに会話もできんやつを相手にしても始まらんか……まったく我《われ》ながらとんだ茶番《ちゃばん》を演《えん》じたもの――」
「うるさい。わかってんだよそんなことは」
たしかに殴られすぎていた。ほとんど頭が働《はたら》いていないのも事実だ。いまこの自分がどれだけ無様をさらしているかもよくよく承知《しょうち》しているつもりだ。
でもたとえば峻護は、こういうことが言いたかったのだ。
理不尽《りふじん》さとか。
弱さとか。
あるいは強さとか。
醜《みにく》さとか、美しさとか、可能性《かのうせい》とか、光についてとか。
反逆《はんぎゃく》とか、怒《いか》りとか、絶望《ぜつぼう》とか、希望《きぼう》とか。
真っ青な空だとか、夜の森の木の洞《ほら》でじっと目をあけているフクロウのことだとか。
悲《かな》しさとか。
ぬくもりとか。
――考えてることが感情といっしょにぐるぐる渦巻《うずま》いて、断片《だんぺん》しかすくい取れないけど。
――たぶん、まともな頭でしゃべったとしても、口下手《くちべた》な彼では言いたいことの百分の一も伝わらなかったろうけど。
それでもひとつだけ分かっていることがある。
たぶんいま、自分は天に向かって唾《つばき》しているのだ。
「あーくそ、ほんとむかつく。ぜんぶむかつく。何もかもむかつく」
もつれる舌《した》で峻護は吐《は》き捨《す》てる。一歩足を前に踏み出すだけで何秒もかかりながら、関節《かんせつ》という関節、筋《すじ》という筋をきしませながら、目だけはギラギラと、脂《あぶら》ぎったどろどろのスープのような光をためて、むかつきの原因を睨《にら》みつけている。
「だからおれは、あんたを殴ることにした」
まったく、おそろしく無様な醜態《しゅうたい》だ。真由が見せたスマートさには申《もう》し訳《わけ》ないほど遠く及ばない。
でも、これだけはやらなければならないのだ。
こいつを一発ぶん殴ってやらねば気が済《す》まない。
こいつを一発ぶん殴らないと一歩も先へは進めないし、一歩も後へは引けない。
とにかく殴る。
死んでもこいつを殴る。殴れなきゃ化けて出て殴る。
「女だからって関係あるか。どんなエライやつだって関係あるか。姉さんや美樹彦さんでも頭の上がらない相手だって知ったことじゃない。あんたがこの世界の王様だって、いいやあんたがたとえ神さまだって遠慮《えんりょ》するか」
目の前に立った。
ちいさな、しかし大きな少女を、矇臆《もうろう》とする頭で見おろす。
「これがおれの答えだ」
天高く、拳《こぶし》を掲《かか》げる。
「ぶっ飛ばしてやるから幸せになれ[#「ぶっ飛ばしてやるから幸せになれ」に傍点]」
がぎっ、という鈍《にぶ》すぎる音。
――はっと我《われ》に返った時にはもう、やってしまった後だった。
未《いま》だ晴れぬ濃厚《のうこう》な朝霧《あさぎり》の中、頭の中身だけはようやくクリアになり、そして遅まきながら状況《じょうきょう》を認識《にんしき》する。
触《ふ》れれば掴《つか》めそうなほどに濃《こ》い霧。間接《かんせつ》照明《しょうめい》のようにぼんやりした陽光《ようこう》。あたりの空気にこびりついた血臭。医者に見せたら雷を落とされそうなほど酷使《こくし》した自分の身体。
そして。
伸ばした腕《うで》と、その先で握《にぎ》った拳と、拳が殴りつけているモノ。
「じつに幼稚《ようち》だ」
峻護の拳を頬《ほほ》にめりこませたまま、彼女はぽつりと言った。
「主張《しゅちょう》などというものではない。まして答えなどというものではない。赤子《あかご》が泣きわめくのと何ら変わらぬ。理も論もあったものではない、あまりにつたない感情の発露《はつろ》だ」
小ゆるぎもしなかった。
まるで巨岩か大木にでも拳を打ち込んでいるかのような気分だった。
殴られる前も、殴られている時も、殴られた後も。彼女は文字通り、微動《びどう》だにしなかった。拳を振るう相手をまっすぐ見据《みす》えたまま、瞬《まばた》きすらせず、大地のごとき懐《ふところ》の広さで、正面から小細工《こざいく》なしで受け止めきってみせたのだ。
「――だがしかし」
つ、と薔薇《ばら》のようなくちびるから一筋《ひとすじ》の赤いものが流れ、その同じ口からなおも言葉が紡《つむ》がれる。
「怒《いか》りがある。哀《かな》しみがある。真摯《しんし》さがあり、元気があり、気迫《きはく》があり、情熱《じょうねつ》がある。そしてなにより――」
にやり、真珠のように白い歯を見せて笑う。そのアイスブルーの瞳はすでに明晰《めいせき》さと理性を完膚《かんぷ》なきまでに取り戻し、王者の威厳《いげん》を放って静かに輝いている。
「なにより貴様の拳には愛があった。いまだ神精《しんせい》目覚《めざ》めぬとて、貴様は持てるカと意気で十二分に己《おのれ》を示《しめ》した。貴様の答え、しかと受け取ったぞ」
「あ――あの……」
「ん? なんだ?」
ようやく硬直《こうちょく》を解いて一歩下がり、顔を青ざめさせて、
「すっ、すいませんおれ、思わず……女性《じょせい》に手を上げるなんて何を考えて……とにかく本当にすいませんでした! お怪我《けが》はないですか?」
「んんっ? くくく……あははははははははははははははははははははははははは!」
快活《かいかつ》な大笑が朝|靄《もや》を切り裂《さ》いて響《ひび》き渡る。
「今さらそのようなこと気にしてなんとする! 貴様が働いた無礼《ぶれい》非礼《ひれい》、逐一《ちくいち》罪《つみ》に問うていたら百度|死罪《しざい》にしてもまだ足りぬわ!」
「はあ。いえ。その、まあ」
「そんなことより己の拳の心配をせよ! さすがに粉々《こなごな》にはなっておらんようだが、指の二、三本は折れているはずだ!」
「え」
冷徹《れいてつ》な姫君が初めて見せる、屈託《くったく》なく笑う姿――ふいに見せられた意外なものに呆然《ぼうぜん》としていた峻護は、言われて初めてそのことに気づく。のたうち回りたくなるような激痛《げきつう》と、倍ほどに膨《ふく》れ上がっている拳、そして全身くまなくありとあらゆる場所から上がっている悲鳴《ひめい》と苦情《くじょう》に、今度は別の意味で青ざめる。
「あ痛、いっ痛――っ」
「くはは、当たり前であろう! その痛みは命ある証《あかし》! 予と渡り合って生きながらえたことを感謝《かんしゃ》しつつ、せいぜいもだえ苦しむがいい!」
「〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
涙目《なみだめ》で身体のあちこちを押さえてうずくまる峻護を見おろして、金髪《きんぱつ》の姫君はふたたび快活に笑った。
自分をボロクズにした張本人《ちょうほんにん》を恨《うら》めしげに見上げ、峻護は心のうちでぼやく。
いったいこのお姫さまはとんな身体の構造《こうぞう》をしているのか――弱っていたとはいえ、峻護の拳打《けんだ》はありったけの体力をかき集め、まったく無防備《むぼうび》の相手に放ったもの。ちょっとした角材《かくざい》ぐらいなら一ダースまとめてへし折れるくらいの威力はあったはずである。それをまともに食らってぴんぴんしているなど正気《しょうき》の沙汰《さた》ではない。いやぴんぴんしているどころか、ヒルダの柔肌《やわはだ》には腫《は》れひとつ、かすり傷《きず》ひとつできていないのだ。唯一《ゆいいつ》まともだったのはくちびるから流れたひとすじの赤色だけで、あれがなければ本当に生身のイキモノなのかどうか本気で疑うところである。まったく、青タンのひとつもこさえていないとはどういうことか。陶磁器《とうじき》のような白い頬《ほほ》は、作り物じみているようでいて生き生きと血色もよく――
(…………。いやちょっと待て)
血色がいい[#「血色がいい」に傍点]だって?
そんなバカな。いったい彼女がどれだけ出血したと思っている。もちろんあれが偽物《にせもの》の血液《けつえき》だったなどというドッキリオチもないし、今も彼女は乾《かわ》きかけた血のりで全身を染《そ》め抜《ぬ》き、峻護とてたっぷり返り血を浴びてその血潮《ちしお》の熱さにじかに触《ふ》れているのだ。それについさっきまでの彼女は確かに顔面《がんめん》蒼白《そうはく》で土気色《つちけいろ》で、大量出血の影響《えいきょう》を匂《にお》わせていたはずなのに。
「どうした… 血色が悪いなシュンゴよ?」
まるで峻護の心の内をすべて見透《みす》かしているような声。冷徹《れいてつ》一辺倒《いっぺんとう》だったアイスブルーの瞳には今、わずかばかり揶揄《やゆ》の色がさしているようにも見える。
まさか――と峻護は思う。
あの状態《じょうたい》でそんなことが可能ならば、の話だが。
ひょっとして、一芝居《ひとしばい》うたれたのか?
朦朧《もうろう》とした意識でらしくないことを様々《さまざま》に語《かた》っていたような気がするヒルダだが。それもすべて計算ずくだったのか? 峻護もまた朦朧としていたわけだし……でもだとしても、あれがすべて演技《えんぎ》だったなどとはとても思えないし、思いたくもないわけで、じゃあいったいどこからどこまでが演技だったのか――
「シュンゴよ。何を考えているかは知らんが驚《おどろ》くには値《あたい》せぬ」
赤く濡《ぬ》れた髪《かみ》をかきあげて目を細め、不適《ふてき》に笑って彼女は言う。
「貴様《きさま》が向こうに回した相手はこの、ヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインなのだからな」
「…………」
返す言葉がなかった。
まったくもってその通り、と恐《おそ》れ入るしかない。
「そう呆《ほう》けた顔をするな。みごと己《おのれ》の器《うつわ》を示《しめ》した貴様はいずれ、予《よ》の夫となってもらわねばならんのだ。この程度でいちいち驚いていては身が持たぬぞ?」
「はあ……すいません……」
…………。
「はい?」
「『はい?』とは何だ? 質問の意図《いと》が見えぬぞ? 燃え残りの灰のことを指しているのか、それとも臓器の肺のことを言っているのか。いずれにせよ今この場で予に問うても詮《せん》なきことであろう」
「そうじゃなくて! 今おれが夫になるとかどうとか――」
「ああそのことか」
いともあっさり頷《うなず》き、
「貴様は晴れて予の花婿《はなむこ》候補《こうほ》筆頭《ひっとう》となったのだ。うむ、喜んでいいぞ?」
「って何ですかそれ!? 初耳ですよ!?」
「当たり前だ、初めてロにするのだからな。いやむしろ、そうとは気づかれぬよう細心《さいしん》の注意を払ってすらいたのだ。それと知っていれば日和見《ひよりみ》でお気楽《きらく》な貴様のことだ、おそらくいかに焚《た》き付《つ》けたところで尻《しり》に火はつかず、気骨の断片《だんぺん》すら示すことは叶《かな》わなかったであろう」
さらりと言って、
「リョウコやミキヒコはむろん、シャルロッテもこのことは知るまい。ただギュンターのみは予《よ》の心の内をうすうす察していたようだがな」
「いや……その……」
「予がなんのためにこんな極東《きょくとう》の地に乗り込み、何のために貴様を試《ため》したと思っている。リョウコとミキヒコの依頼《いらい》などはもののついでに過ぎぬ」
「そ、そんな――いやちょっと待って、ちょっと……」
混乱《こんらん》する頭を整理《せいり》するべく、峻護は髪《かみ》の毛《け》をかきむしる。
「それ、ほんとなんですか? ということはつまり、あなたがここにやってきたのはただ単に結婚《けっこん》相手を探すためだけ? それだけのためにこんな無茶《むちゃ》なことを?」
「無茶? 無茶とはなんだ? こうして血みどろになり、命のやり取りをしてまで貴様を試したことか?」
当然|過《す》ぎる疑問《ぎもん》を口にする峻護を、ヒルダはむしろ不思議《ふしぎ》なものを見る目で見て、こんなことを言うのだ。
「生涯《しょうがい》を添《そ》い遂《と》げる相手を探すのだ、命をかけるのは当たり前であろう? あらゆるものをかなぐり捨《す》て、あるいはつぎ込《こ》むに値《あたい》する、この世で唯一《ゆいいつ》の営《いとな》みではないか」
「いや、理屈《りくつ》ではそうかもしれませんが……」
「いかに他者より優《すぐ》れようと、予もまた生あるものの軛《くびき》からは逃《のが》れられぬ。そして生あるものはすべからくつがいとなり、命を残《のこ》すものだ。それこそが生き飽《あ》きたこの世に予が果たすべき唯一《ゆいいつ》無二《むに》の務め、たったひとつだけ残った義務《ぎむ》である。予に課せられた宿題、と言ってもよい。あるいは、希望、と言おうか」
「いや、ですからそうじゃなくて……」
「そしてこのヒルデガルト・フォン・ハーテンシュタインにふさわしかるべきは、伝説の神精《しんせい》か、あるいはそれに匹敵《ひってき》するだけの男をおいて他にありえぬ。貴様は神精としての片鱗《へんりん》をみせ、予はそこに期待《きたい》をかけ、そして貴様は見事に応《こた》えた。つまり、そういうことだ」
「いや、応えたとか言われても……別にそういうつもりじゃ……」
「まあ実際《じっさい》には及第点《きゅうだいてん》ギリギリではあったがな。潜在《せんざい》能力の片鱗程度ですらここまで挑発《ちょうはつ》し、追い詰めてやらねば発揮《はっき》できぬ、というのでは困《こま》る。貴様が真に神精として覚醒《かくせい》するにせよ、あるいは中途《ちゅうと》半端《はんぱ》な紛《まが》いもので終わるにせよ、いずれこの予と並び立つだけの男になってもらわねばならんのだから」
「いや、だから……」
「シュンゴよ」
それは、初めて聞く声だった。
いや声だけではない。初めて見る表情、初めて見る瞳で――金髪の少女は峻護をじっと見つめ、こう言ったのだ。
「予は、さびしいのだ」
「え…………?」
峻護はその瞳に縫《ぬ》いとめられて言葉を失《うしな》う。
「予はヒトの世にあっては異端《いたん》すぎる。真に理解《りかい》しあえる者がどこにもおらぬ。予は、この世界でひとりぼっちだ。だが、もしかすると貴様となら、と思うのだ。わずか十年で生き飽きたこの世も、貴様と共に歩めばあるいは、と」
そこには桁《けた》はずれの力を揮《ふる》う神戎《かむい》も、気高《けだか》くて怜悧《れいり》で横紙《よこがみ》破《やぶ》りな姫君もいない。
ただひとりの女の子だけが、いる。
「予と共に、生涯《しょうがい》を連れ添《そ》ってはくれまいか……?」
「…………っ」
まっすぐ、じっと見つめてくる蒼い瞳に魂《たましい》を奪《うば》われそうになりながら、峻護はぼんやりと思いだす。
完璧《かんぺき》な作法《さほう》に則《のっと》って一礼し、老執事《ろうしつじ》が峻護に言った言葉。
『ヒルダお嬢《じょう》さまのこと、どうぞよろしくお頼《たの》み申《もう》し上げます』
あれはまさかよもや、そういう意味だったのか?
「…………予では不足か?」
不安げに首をかしげた仕草《しぐさ》に、不覚《ふかく》にも心臓《しんぞう》が跳《は》ね上がった。
「ああいえ、その」
「知っての通り予には有《あ》り余《あま》る権力《けんりょく》と財力《ざいりょく》がある。おまけにこの世のものとも思えぬほど美人だし、しかも頭がいい。この国の流儀《りゅうぎ》でいうところの逆玉《ぎゃくたま》、それもこれ以上は望めぬほどの逆玉だぞ? 予は貴様を世界一の夫にする自信があるぞ?」
「ええとその……例《たと》えばまだヒルダさんは子供《こども》だし、この国には条例《じょうれい》とかそれ以外にもいろいろな障害《しょうがい》が……」
「この国のローカルな法制度など予にとっては何ら意味を持たぬ。また予の見た目についても問題にならん。ほんの数年後には可憐《かれん》で妖艶《ようえん》で絢爛《けんらん》たる麗人《れいじん》になってみせよう。そのことは遺伝《いでん》的にも保証《ほしょう》する」
「はあ……」
不覚にもその未来図を想像《そうぞう》してしまい、あわてて首を振《ふ》り、
「それにさっき貴様はこう言ったではないか。『ぶっ飛ばしてやるから幸せになれ』と。ぶっ飛ばされるのは無理だったが、予はちゃんと殴《なぐ》られてやったし、しかしまだ予は幸せにはなっておらぬ。ひょっとしてあの言葉はウソだったのか?」
「いや、あれは言葉のアヤというかなんというか……」
「それとも他に好いた女がいるか? それもべつに構《かま》わんぞ?」
さらりと言ってのけ、
「妻《つま》たる予のほかにも望むだけ情人を作るがいい。多情《たじょう》漁色《ぎょしょく》は男の本能《ほんのう》であり、甲斐性《かいしょう》であり、それ以前に神戎たる者の生存条件だ。むしろ神戎の男にとって、より多くの女を侍《はべ》らすのは勲章《くんしょう》ですらある。予は貴様の妻としてそれを誇《ほこ》りに思うであろう」
「ええと……」
「予は必要であればいくらでも融通《ゆうずう》を利かせられるし、寛容《かんよう》にもなれるのだ。夫のすべてを許容《きょよう》し、支《ささ》え、ともに歩む女――どうだ? 予はこの世でもっとも良き妻になる自信があるぞ?」
「…………っ」
劣勢《れっせい》に立たされていることを、峻護は自覚《じかく》した。こんな風にすがるような目を、それも見た目はまだまだ幼《おさな》い少女から向けられると、お人好《ひとよ》しな性格だけに弱い。ましてあのヒルダがこうコロリと態度《たいど》を一変させてくるとなれば、なおさら弱い。
「だめか? これでもまだ足りぬか? ではどうすればいい? 予はなんでもするぞ?」
ずいっと一歩前に出てくる。アイスブルーの瞳に宿るのは冷気ではなく、真剣《しんけん》さと必死《ひっし》さの色。
峻護は、追い詰められた。藁《わら》にもすがる気持ちで何かこの場を切り抜ける方法はないかと探した。そして幸運《こううん》にも、彼の手は頼《たよ》りない一本の藁を掴《つか》むことに成功した。
「ちょ――」
「ちょ?」
「……ちょっと待った! まずは約束《やくそく》を!」
「約束?」
「おれがあなたを納得させるだけの『何か』を示すことができたら、状況《じょうきょう》の解決《かいけつ》に全力を尽《つ》くしてくれるって! そう言ってましたよね!?」
「確かに言ったな。だがそんなもの別に後回しでよかろう?」
「いやだめです、物事には順序《じゅんじょ》があります! おれに何かを求《もと》める前に、まずは自分自身の言葉を守ってくださいヒルダさん!」
「…………むう」
ヒルダは恨《うら》めしそうに峻護を見て、
「確かにそれを言われると予も弱い。貴様の理屈《りくつ》を理屈でねじ伏《ふ》せることもできるし、物理的《ぶつりてき》にねじ伏せることもできるが、予は良《よ》き妻とならねばならんしな」
いかにも未練《みれん》たっぷりに峻護から半歩下がり、
「よかろう。一仕事終えた後の一杯のワインは格別《かくべつ》なものだし、記念すべき初夜《しょや》を迎《むか》えるにあたって最良《さいりょう》の雰囲気《ふんいき》を整えておくのも良き妻としての役割《やくわリ》。一切の障害《しょうがい》は取《と》り除《のぞ》いておくに如《し》くは無し。もともとこうなることを見越《みこ》して貴様の味見はほどほどにしておいたのだし、楽しみは後に取っておけばおくほどその喜びも増すというものだろう」
かなり飛躍《ひやく》したことを言ってから後ろを振り返り、
「さて、件《くだん》のツキムラマユだが」
言われてハッとなった。自称《じしょう》・将来の妻からもたらされたあれこれに対応《たいおう》するのが精いっぱいで、それ以外のことに割《さ》く精神《せいしん》活動《かつどう》の領域《りょういき》は髪《かみ》の毛一本分もなかったのだが……何よりも真っ先に彼女のことを考えねばならないではないか。峻護を救《すく》ってくれた、そして峻護が救うべき少女のことを――。
「!」
ヒルダの視線《しせん》の向こう、いよいよ濃《こ》くなる霧《きり》に紛《まぎ》れて。
真由がひっそりと立ちあがるのが見えた。
「月村さん! だいじょうぶ――」
あわてて駆《か》け寄ろうとして、しかしすぐに峻護は足を止める。心の片隅《かたすみ》に点減《てんめつ》した違和感《いわかん》の警告灯《けいこくとう》が彼にためらいを覚えさせたのだ。
(…………なんだ?)
違和感の正体を探るべく、目を細めて霧の向こうを透《す》かし見る。
立ちあがった月村真由のその姿が、ひどく小さく見える。
距離《きょり》の問題ではない。姿勢《しせい》の問題でもない。なのに、まるで一回りも二回りも縮《ちぢ》んでしまったかのような――そんな錯覚《さっかく》に捉《とら》われるのだ。あたかもこの世界に存在するそのこと自体が罪《つみ》であるとでも思っているかのように。
「もともと話題にもならなかったゆえ、わざわざ問うこともなかったが」
冷徹《れいてつ》な姫君の姿に戻《もど》ったヒルダが、確認《かくにん》するように訊《き》いてくる。
「どちらを救うか[#「どちらを救うか」に傍点]について、リョウコからもミキヒコからも何ら意思表示は受けておらぬ。その点は予の裁量《さいりょう》に任《まか》されているとみてよいのであろうな?」
「え――――」
何の話ですか、と問い返そうとして押《お》し黙《だま》る。警告灯《けいこくとう》ばかりでなくけたたましいサイレンまでもが頭の中で鳴り響く。
もういちど真由を見る。
霧の中、彼女はうつむきがちに顔を伏せ、視線《しせん》をそらしている。こころもち、くちびるを噛《か》んでいるようにもみえる。
瞬《まばた》きしながらその姿を見ていて、なぜか、ふと、思ったのだ。
これはいったい誰だったろう[#「これはいったい誰だったろう」に傍点]、と。
でもやっぱり自分は彼女のことを知ってる気がする[#「でもやっぱり自分は彼女のことを知ってる気がする」に傍点]、と。
その気分のまま、どこか呆然《ぼうぜん》と、峻護は問うた。
「君は――――誰だ?」
「…………。あたしは[#「あたしは」に傍点]」
少女がわずかに顔を上げる。
顔をあげても視線はそらしたまま、眉間《みけん》に苦渋《くじゅう》をにじませ、濃霧《のうむ》に消え入りそうな声で。
彼女は言った。
「あたしは月村真由です。ひとりめの」
あとがき
作者《さくしゃ》「唐突《とうとつ》だが、今回のあとがきは割《わ》り当《あ》てられたページが少ない」
真由《まゆ》「……ほんとに唐突ですねえ」
麗華《れいか》「あいさつもなしにいきなりそこから始めますか」
作者「いや、本当にページが少ないのだよ。何しろ三ページしかない。これは『|二ノ宮《にのみや》くん』シリーズ最短《さいたん》記録《きろく》だ。そこで今回のあとがきはいっそのこと、行数《ぎょうすう》的にも最短記録を狙《ねら》ってみたいと思うのだが、どうだろう?」
真由「最短記録ですか……? ええとその、ベージ数が少ないのはわかりますけど、読者のみなさんとしてはたぶん、少しでもあとがきの内容の多い方が、お買《か》い得感《どくかん》もあっていいと思うというか……それに『いっそ最短記録を狙う』と言いつつも、さっき作者さんが楽屋裏《がくやうら》で『ククク、今回のあとがきはページ数が少なくて楽勝《らくしょう》だぜ。いっそのこと一ページにつき一文字|埋《う》めるだけであとがきを済《す》ませちまうか? ククク』ってこっそりひとりごとを言ってたのが聞こえ――」
作者「ええいこの大馬鹿者《おおばかもの》! ページ数が少ないと言ってるのにグダグダと長ゼリフを! いいからさっさとCMへいきたまえ、CMへ!」
真由「ひゃわっ!? す、すいません、ただいま……ええとええと、『ご愁傷《しゅうしょう》さま二ノ宮くん』のTVアニメは現在、全国U局系|他《ほか》13局で絶賛《ぜっさん》放映中《ほうえいちゅう》! それに合わせて『二ノ宮くん』シリーズの小説とマンガの本が毎月発売される予定ですので、ぜひぜひみなさんお手に取《と》ってみてください! 毎月末に発売される富士見《ふじみ》書房《しょぼう》の小説誌『ドラゴンマガジン』にも『二ノ宮くん』が連載《れんさい》されてますので、そちらもどうかお忘れなくぅぅぅぅっ!」
作者「よし、CM終わり。じゃあ次、麗華くん例のアレを」
麗華「……その件についてはわたくし、あなたに言いたいことが山ほどありましてよ? わたくしに毎度《まいど》毎度ハレンチな真似《まね》をさせるセクハラ行為《こうい》については現在、訴訟《そしょう》を申《もう》し立てることを検討《けんとう》していますし、アンケートを盾《たて》に取って脅迫《きょうはく》にも等《ひと》しい行為をあまた働《はたら》いた問題については刑事《けいじ》告発《こくはつ》も考えて――」
作者「ええいこの大馬鹿者! ページがないと言ってるのに真由くんともどもグダグダと……罰《ばつ》として今回は衣装《いしょう》もボーズも考えてやらん… 読者様に受けるものを自分で何か考えて実行したまえ! 三十秒以内だ!」
麗華「な、なんでそんな、わたくし自《みずか》らそのような――」
作者「早くしないとページが足りなくなって君のセリフが見切《みき》れるぞ? そうなればいつものアレをするより、もっとずっとミジメな思いをすることになるだろうが、それでも構《かま》わないのかね?」
麗華「くッ……わ、わかりましたわよっ、やりますわよっ!……ええと、どんな格好《かっこう》でどんなポーズをすればいいのかしら……セーラー服のままではありきたりだし、メイド服でも今さら新鮮味《しんせんみ》が……ああもう時間が、とにかくまずは着替《きが》えを……」
作者「――はい、時間切れ。ということで、今現在の麗華くんの姿《すがた》を巻末《かんまつ》恒例《こうれい》のアレとすることに決定」
麗華「って、ちょ――わたくしまだ着替え中――!」
作者「……というわけで、いつにもまして駆《か》け足でお送りしたあとがきではありましたが、いかがでしたでしょうか? 北条麗華の生着替えシーンをご覧《らん》になりつつ、次回は来月発売の『おあいにくさま二ノ宮くん4』にてお会い致《いた》しましょう。それでは再見《ツァイツェン》!」
[#以下省略]
TEXT変換者です。
これで12本目です。長かった〜。火水木金とかかりました。
次はどれをやろうかと探しています。