ご愁傷さま二ノ宮くん 第7巻
鈴木大輔
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目次
其の一 狙《ねら》われるくちびる
其の二 迫《せま》られるくちびる
其の三 奪《うば》われるくちびる
其の四 贈《おく》られるくちびる
あとがき
某日《ぼうじつ》某所でのことである。
「――各々《おのおの》がた、今の話をどう思われる?」
長い長い沈黙《ちんもく》を破《やぶ》ってひとりの男が議論《ぎろん》の口火《くちび》を切った。
「私個人の感想を先に言わせてもらえば、まあ俄《にわ》かには信じられぬといったところだな。もっともほとんどの者が大同小異《だいどうしょうい》の感想を抱《いだ》いているはずだが……」
「然《しか》り。むしろ本来《ほんらい》なら、信じられぬどころか一笑《いっしょう》に付《ふ》して席を蹴立《けた》てているところだろう。しかし――」
別の男がしかめっ面《つら》で腕《うで》を組み、
「|鬼ノ宮《きのみや》と継群《つぎむら》の話、戯言《ざれごと》と片付けるにはいささか早計《そうけい》であるようにも思われる。リスクとリターンをもう少し検討《けんとう》してみる必要《ひつよう》はあるが、率直《そっちょく》に言って私は興味《きょうみ》を覚えた。乗ってみる価値《かち》はあるだろうな」
「貴様《きさま》正気《しょうき》か!? 『神精《しんせい》』だぞ!?」
さらに別の男が机《つくえ》を叩《たた》き.声を荒《あら》らげる。
「まったく馬鹿《ばか》げている、話にならぬ! こやつらの話などまるっきり夢物語《ゆめものがたり》ではないか! 文献《ぶんけん》の中にしか存在《そんざい》せぬものに前途《ぜんと》を託《たく》すなど、霞《かすみ》を食って生きようとするに等《ひと》しい愚考《ぐこう》。鬼ノ宮と継群のたっての肝《きも》いりと聞いて列席《れっせき》したが、どうやら時間の無駄《むだ》だったらしいな!」
――むやみに天井《てんじょう》の高く、やたらと広いフロアである。収容《しゅうよう》している人数がわずか十名であることを考えれば、普通人《ふつうじん》の感覚からはスペースの無駄としか思われぬ設計《せっけい》だ。壁《かべ》には吸音素材《きゅうおんそざい》でも使われているのか反響《はんきょう》というものがほとんどなく、すべての声が妙《みょう》にこもって聞こえる。
「時間の無駄と言うが、それを言うなら我《われ》らがこれまで没頭《ぼっとう》してきた内輪《うちわ》もめをこそ指弾《しだん》ずべきだろう。数百年にわたり同族相食《どうぞくあいは》んで、共に血族の体力を衰《おとろ》えさせた――それが神戎十氏族《かむいじゅっしぞく》の衰弱《すいじゃく》をここまで早めたのではないか。鬼ノ宮と継群の話の信憑性《しんぴょうせい》はひとまず置くとしても、まずは彼らの提案《ていあん》を呑《の》んで我らが手を携《たずさ》え、大同一致《だいどういっち》して血族全体の復権《ふっけん》にあたる。それこそが肝要《かんよう》なのではないか?」
「ふん、勝者の論理《ろんり》というわけか。ありがたすぎて涙《なみだ》が出る。この次は貴様《きさま》らの膝《ひざ》にすがって慈悲《じひ》を乞《こ》えばいいのか? 比較的《ひかくてき》力を温存《おんぞん》してきている連中《れんちゅう》はいい、だが闘争《とうそう》に敗れてみじめに零落《れいらく》していった側《がわ》はどうなる? 過去《かこ》の遺恨《いこん》は黙《だま》って忘れろ、水に流せとでも言うつもりか」
「もう少し現実を直視《ちょくし》なされてはどうだ? 遺恨を忘れるにせよ固執《こしつ》するにせよ、このまま時が流れれば十氏族という枠組《わくぐ》みそのものか消滅《しょうめつ》の憂《う》き目をみること、もはや疑《うたが》いない。しいて鬼ノ宮と継群の案《あん》に異《い》を唱《とな》えるのであれぱ代案《だいあん》を示《しめ》すべきだろう。もしそんなものがあるならば、だが」
「それが勝者の論理というのだ! 屈《くっ》した側がいつまでもそれに甘《あま》んじていると思うなよ、なんなら一族をあげて玉砕覚悟《ぎょくさいかくご》の果《はた》し合いに臨《のぞ》んでも構《かま》わんのだぞ、我らは!」
いちど発火《はっか》した議諭《ぎろん》は際限《さいげん》なく熱を帯《お》び、しかしそのエネルギーはなんら実《みの》りをもたらさないであろうことを、議論している当人たちがもっともよく知っていた。わざわざ指摘《してき》されるまでもない、神戎という種《しゅ》が斜陽《しゃよう》の坂を加速度《かそくど》的に転がり落ちていることを、誰もが頭ではなく肌《はだ》で感じ取っていたのだ。
不毛《ふもう》な論争《ろんそう》が徐々《じょじょ》に先細りしていったころ、座長格《ざちょうかく》の女が静かに口を開いた。
「みなさんの主張《しゅちょう》はそれぞれごもっとも。ですがわたしと美樹彦《みきひこ》――鬼ノ宮と継群の基本方針《きほんほうしん》はすでに決しています。ここにみなさんをお呼びしたのは、いわば投資話[#「投資話」に傍点]を持ちかけるためなのですよ。信じる信じないは各々がたの自由。判断《はんだん》すべき材料もすべて提示《ていじ》した」
言葉を切って一同を見回す。返答はただ沈黙があるのみ。
「つまりは乗るか乗らぬか、そのいずれかを聞かせていただければ結構《けっこう》なのです。みなさんのお答えは如何《いか》に?」
列席者《れっせきしや》の面々はお互《たが》いに顔を見合わせ、やがて旗幟鮮明《きしょくせんめい》だった数名が頷《うなず》いた。残りは目を閉じて、あるいはくちびるを噛《か》んで、沈黙の殻《から》になおも閉じこもる。
「如何に?」
女が重ねて問い、態度《たいど》を決めやらぬ数名の顔を視線で撫《な》でていくと、
「一族の――」
もっとも強固《きょうこ》に反対していた男が重い口を開き、苦い声を発した。
「一族全体の将来《しょうらい》に関わることだ。当主とはいえ一存《いちぞん》では決められぬ」
「結構。返答はもう少し待ちましょう。ですか悠長《ゆうちょう》に構《かま》えていられる時間がないこともお忘れなく」
頷いて、女は散会《さんかい》の言葉を口にした。
事実上《じじつじょう》の結論が出たことを、列席した者すべてが悟《さと》った。
――某日某所でのことである.
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其の一 狙《ねら》われるくちびる
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奥城《おくしら》いろり。十六歳。
十一月一日生まれのさそり座。一年A組出席番号十八番。修学《しゅうがく》旅行《りょこう》実行《じっこう》委員《いいん》。所属《しょぞく》クラブは帰宅部《きたくぶ》。
実家は京都《きょうと》の古い名門《めいもん》であるが、学業・課外活動《かがいかつどう》ともにごく平均《へいきん》で、賞罰《しょうばつ》ともになし。交友関係や素行《そこう》にも特に問題は見当たらず――率直《そっちょく》に言って学園内では目立たぬ存在《そんざい》だ。
唯一《ゆいいつ》彼女が校史の表舞台《おもてぶたい》に立ったのは今年度の初頭《しょとう》。桜の青葉もまだ初々《ういうい》しい春の盛《さか》りに起こった『五・一一事件』においてである。
学内|非《ひ》公認団体《こうにんだんたい》『神宮寺《じんぐうじ》学園|総合調査室《そうごうちょさしつ》』が発行する機関紙《きかんし》――通称《つうしょう》『美女ミシュラン』において、それまでまったく無名《むめい》の存在だった奥城いろりが三ツ星を獲得《かくとく》したことに抗議《こうぎ》が殺到《さっとう》。学園がほこる可憐《かれん》な花々をさしおいての『不当《ふとう》な評価《ひょうか》』を撤回《てっかい》するべしとの要求《ようきゅう》が幾度《いくど》もなされた。しかし推進室《すいしんしつ》側《がわ》は断固《だんこ》として自説《じせつ》を曲げず、激怒《げきど》した強硬派《きょうこうは》が推進室本部前に集結《しゅうけつ》、襲撃《しゅうげき》を企《くわだ》てた――というのが、動乱《どうらん》の大まかな顛末《てんまつ》である。
生徒会の迅速《じんそく》な処置《しょち》によって未発《みはつ》に終わったこともあり、多くの生徒には存在そのものすら知られることなく、ほどなくして時の流れの風化作用《ふうかさよう》にさらされるままになっていた事件であったが……。
「ああ、思い出しました。あの時の」
抜群《ばつぐん》の記億力の所有者《しょゆうしゃ》である生徒会長は、日々の激務《げきむ》にも関わらず瑣末《さまつ》な事件を覚えていたようである。
――修学旅行二日目。旅龍《はたご》『翠鳴館《すいめいかん》』大駐車場《だいちゅうしゃじょう》の片隅《かたすみ》。
「お嬢《じょう》さますごいなあ、あんな小さな事件よく覚えてましたね」
命じられた調査《ちょうさ》を五分で済ませてきた付き人少年・保坂光流《ほさかみつる》が、腹立《はらだ》たしいほどのニコニコ顔で主人の記憶力のよさを褒《ほ》め称《たた》えている。
「神宮寺学園じゃあもっと派手《はで》な事件が毎日のように起こってるし、当事者《とうじしゃ》でもなければ記憶の片隅にも残してないところですよ。さすがは北条《ほうじょう》コンツェルンの正当|後継者《こうけいしゃ》、それでこそぼくがお仕《つか》えする甲斐《かい》もあるってものです」
「別に褒められるようなことではありません。仮にもわたくしは生徒会長なのです、始末書《しまつしょ》の上がってくる事件ぐらいは覚えていて当然でしょう?」
わざとらしい追従《ついしょう》に令嬢は一片《いっぺん》の関心も示《しめ》さず、
「あの件の対処《たいしょ》は保坂、たしかあなたに任せたんでしたわよね? トラブル自体はささいなものだったし、その当時はわたくしも多忙《たぼう》だったし……『問題なし、適切《てきせつ》に処理《しょり》しました』という報告《ほうこく》だけ聞いた覚えがありますが。けっきょくあの件はどんな顛末になりましたの?」
「報告どおり適切に対処しましたよ。襲撃《しゅうげき》を企てた生徒たちに関しては譴責処分《けんせきしょぶん》ならびに二週間の校内|奉仕《ほうし》活動の従事。神宮寺学園総合調査室に対しては適正運用勧告と、向こう一年間は運営《うんえい》の詳細《しょうさい》を報告するよう義務《ぎむ》付けました」
「奥城いろりへの対処は?」
「もちろん無罪放免《むざいほうめん》でず。あの事件に鬨する限り、彼女にはなんらの落ち度もないですからね。いちおうの事情|聴取《ちょうしゅ》はしましたが、どれだけ叩《たた》いたってホコリのひとつも出てきません。なにしろ――」
と保坂は言葉を切り、視線《しせん》を駐車場の中央、多くの生徒が朝のミーティングに集まっている方向に目を向ける。
「あの時はまさか、こういう事態《じたい》になるとは思いませんでしたしねえ」
彼の視線の先には一組の男女がいる。奥城いろりと|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》。いま現在、北条《ほうじょう》麗華《れいか》がもっとも関心《かんしん》を寄せている少女と、今も昔も絶《た》えず北条麗華の関心を集めつづけている少年のコンビであった。
ミーティングが終わって修学旅行がお待ちかねの自由行動日に移《うつ》った今、彼らふたりは京都の町へ繰《く》り出すべく移動《いどう》を開始している。いろりが品《ひん》よく微笑《ほほえ》みながらぐいぐいと相手を引《ひ》っ張《ぱ》り、手を引かれている峻護はひどく狼狽《ろうばい》した様子で為《な》すがままになりながら。
「……というわけで、現時点《げんじてん》で報告できる奥城いろりの情報はこの程度《ていど》です。目をつけておくべき理由でもあればともかく、これまでまったくノーマークの生徒でしたから。これ以上の情報となると別途《べっと》の認査《ちょうさ》が必要だし、そうなると五分や十分で済む話じゃなくなりますよ」
「やむを得ませんわね。ともあれ、現時刻《げんじこく》より奥城いろりを要注意《ようちゅうい》人物と認定《にんてい》。すぐさま調査チームを編成《へんせい》してあの女の情報|解析《かいせき》にあたるよう。いつまでに新たな報告か聞けるかしら?」
「そうですねえ、二、三日中には」
「おそい。今日中に満足のいく成果《せいか》を上げなさい。その程度の手腕《しゅわん》はあなたに期待していいはずですわよ?」
「っえー、ちょっと期間短くないですかあ? どれだけ優秀《ゆうしゅう》な諜報網《ちょうほうもう》を持ってても、有効《ゆうこう》に活用《かつよう》するにはそれなりの時間をかけないと……」
「事態は緊急《きんきゅう》を要《よう》するのです。時機《じき》を逸《いっ》した情報がゴミ以下の価値《かち》しかないことを、今さらあなたに説明せねばならないのかしら? 多少|粗雑《そざつ》でも強引《ごういん》でも構《かま》いません、可及的速《かきゅうてきすみ》やかに処置しなさい」
「はーい、承知《しょうち》いたしましたお嬢さま。……やれやれ、愛《いと》しの二ノ宮くんが絡《から》むとすぐこれだからなあ。少なくとも形の上では生徒会の公務《こうむ》として行う調査なんだし、公私《こうし》混同《こんどう》はほどほどにしといてくださいね?」
「な、ちょ、ばか、誰が愛しの二ノ宮くんですか! わたくしは別にそんな――」
「はいはい、落ち着いて落ち着いて。まあお嬢さまの個人的な感情はともかくとしてですね、今日このあとの予定はどうしましょう? 昨日に引きつづいて『古都《こと》に立ち寄ったついでに見聞《けんぶん》と教養を育《はぐく》む』というスケジュールに、一応《いちおう》はなってますけど」
「…………」
付き人少年に問われ、令嬢《れいじょう》は口もとに手を当ててしばし思案《しあん》にくれていたが、
「――時に、月村《つきむら》真由《まゆ》のことについてですが」
「はいはい、二ノ宮くんに袖《そで》にされてしょんぼりしている月村真由さんが、何か?」
「あの小娘《こむすめ》のそばにいる男」
大駐車場にひしめく生徒たちの一角に向けて、形のいいあごをしゃくってみせる。
「たしか奥城たすく、といいましたか。学園で五指に入る優男《やきおとこ》ですわね」
「ええ、女の子にモテモテなことで有名な一年生ですね。傷心《しょうしん》を慰《なぐさ》めるそぶりで月村さんに近づいているようですが――おっと、どうやら首尾《しゅび》よくナンパに成功したみたいですよ」
下僕《げぼく》に言われるまでもなく麗華《れいか》の目にもその光景《こうけい》は映っている。奥城たすくは荘然《ぼうぜん》自失《じしつ》している風情《ふぜい》の真由を伴《ともな》い、こちらもまた京都の町へ繰り出そうとしている様子であった。
「……奥城いろりと奥城たすく、両者の間に血縁《けつえん》関係は?」
「あります。データによればあのふたりは兄妹ということになってますね。とはいえ本当の兄妹なのではなく、再従兄妹《はとこ》同士らしいですよ。何年か前にいろりさんの方が奥城家に養子《ようし》に入ったみたいでずね。どういう経緯《けいい》でそうなったのかまでは定《さだ》かじゃありませんが」
「つまり妹は二ノ宮峻護に娼《こび》を売り、兄は月村真由をたぶらかしているわけですわね。それもあの兄妹の出身地《しゅっしんち》であるこの京都の町で? 偶然《ぐうぜん》の一致《いっち》と考えるのは無理《むり》がありすぎるでしょう。いったい何を企《たくら》んでいるのか……」
「ふむふむなるほど。そうなるとこの事態《じたい》、どうやって対処したらいいでしょうね?」
「そうですわね。奥城いろりに奥城たすく、いずれにせよ注意を払《はら》っておくに越したことはありません。情報|収集《しゅうしゅう》と平行して監視《かんし》をつけておくべきでしょう」
「うーん、ところがですねお嬢さま」
保坂は笑顔のまま眉《まゆ》をハの字にして、
「なにぶん近ごろは多忙《たぼう》なものでして、信頼《しんらい》できる配下《はいか》に手空《てす》きの者がいないんですよう。奥城いろりの調査にも人員《じんいん》を割《さ》かないといけないし、応援《おうえん》を呼ぶにしたって時間はかかっちゃうし、今すぐお嬢さまの要求《ようきゅう》にこたえるのはちょいと難《むずか》しいかと」
「んまあ何ですって? 主《あるじ》であるわたくしの注文に即時即応《そくじそくおう》するべく人事《じんじ》を尽《つ》くすのがあなたの仕事でしょう? このような一大事に手空きの者がいないなどとは、怠慢《たいまん》のそしりを免《まぬか》れないのではなくて?」
「いやあ面目《めんもく》ありません、ハイ」
「まったく、仕方《しかた》ありませんわね」
と言いつつ、令嬢はその言葉をこそ待っていたようである。得《え》たり、という顔でコホンと咳払《せきばら》いして、
「いいでしょう、こうなれぱ背《せ》に腹《はら》は代えられません。このわたくし自《みずか》らが監視の任《にん》にあたることとします」
「お嬢さまが? でもいいんですか、今日は『古都に立ち寄ったついでに見聞と教養を育む』ことになってましたけど」
「人手《ひとで》が足りないのだから仕方ないでしょう。それに監視のついでに町を歩き回っていれば、ごく自然に見聞と教養は育まれるでしょうから。なにより――」
生徒会長はキュピーンと吊《つ》り目を光らせて、
「あの奥城兄妹は、神宮寺学園生徒としてあるべき風紀《ふうき》を著《いちじる》しく乱《みだ》す恐《おそ》れありと判断《はんだん》します。不穏《ふおん》の芽《め》は早めに摘《つ》みとっておかねばなりませんわ。修学旅行先において万が一にも不祥事《ふしょうじ》が発生《はっせい》することになれば、我《わ》が校の重大なる名誉失墜《めいよしっつい》ですからね」
「なるほどわかりました。じゃあとりあえず、補充《ほじゅう》の人員が来るまではぼくとお嬢さまのふたりで監視の任《にん》にあたることにしますか」
「そうするのが次善《じぜん》の策《さく》でしょう」
「では、ぼくは二ノ宮くんと奥城いろりの監視を担当《たんとう》しますね。お嬢さまは月村さんと奥城たすくのほうを――」
「なりません。わたくしが二ノ宮峻護と奥城いろりを担当しますから、あなたは月村真由と奥城たすくの監視にあたりなさい」
「え、なんでですか? どちらがどちらを担当してもいいような気がしますけど?」
「そ、それはつまり……つまりわたくしの鋭敏《えいびん》な直感が、奥城いろりのほうをより危険度《きけんど》の高い人物であると判定《はんてい》したのです。ゆえにこのわたくし自らが監視の任にあたるべきだと――」
「お言葉ですが、監視の任務ならお嬢さまよりぼくのほうがよっぽど慣《な》れてるし、上手《うま》いですよ。より危険度の高い人物だったら、なおさらぼくに任せて万全《ばんぜん》を期《き》したほうがいいんじゃないですか?」
「くどい。主人であるわたくしが決定を下したのだから、あなたは黙《だま》って従《したが》っていればいいのです」
「っえー、なーんか納得《なっとく》できないなあ。お嬢さまの理屈《りくつ》で言えば、ぼくが奥城いろりのほうを監視するのが自然でしょ? それとも何かぼくに言えないような理由が……」
「ああもううるさいわねっ! こんなところでぐずぐずしてたらターゲットを見失うじゃないの! わたくしはもう行きますから、あなたもよきに計《はか》らいなさい。よろしいですわね?」
言いつけておき、令嬢はそそくさと職分《しょくぶん》を果たしに向かった。
保坂はその後姿をニコニコ見送りながら、
「さあて、かわいいお嬢さまをいじって遊べたことだし、ぼくも仕事にとりかかろうかな、っと」
おおむね想定《そうてい》どおりに物事《ものごと》が動いていることに満足し、次なる一手を打つべく携帯電話を耳にあてた。
修学旅行二日目の京都は本日も晴天《せいてん》である。
天空は南国の海を逆《さか》さにしたみたいに青く澄《す》みわたり、まだ朝も早いというのに嵐山《あらしやま》のてっぺんには分厚《ぶあつ》い入道雲《にゅうどうぐも》が湧《わ》き始めている。陽《ひ》の光は黄玉に似た輝《かがや》きでもって地上を圧《あっ》し、この町のお盆型《ぼんがた》の土地を、鍋《なべ》を乾煎《からい》りするがごとく灼《や》いてまわる。夏の盛《さか》りのこの時期だけに、古都は全国|屈指《くっし》の不快指数《ふかいしすう》に悩《なや》まされるはずであった。
とはいえ、二ノ宮峻護の肌《はだ》を濡《ぬ》らす汗《あせ》は暑さのせいばかりでもないようである。
「あら峻護さん、すごい汗ですね.この町の気候《きこう》はお身体《からだ》に合いませんか?」
こちらは汗ひとつかかず涼《すず》しい顔の奥城いろりが、微笑《びしょう》ぶくみに問うてくる。峻護のとなりにぴったりくっついた体勢《たいせい》で。
「ああいや、暑いというかなんというか……確かに暑いことは暑いんだけど、汗の理由はそれ以外によるところが大というか……」
握《にぎ》っている吊り革《かわ》に視線を固定したまま、峻護はしどろもどろに返答《へんとう》した。嵐山にある旅龍《はたご》『翠鳴館《すいめいかん》』を発《た》った彼らは今、京福電鉄《けいふくでんてつ》嵐山本線――通称《つうしょう》『嵐電《らんでん》』、洛西《らくせい》に住む京都市民の足として親しまれている――に揺《ゆ》られ、町の中央に向かって東進《とうしん》している、
(いったいぜんたい、これからどうなるんだろう……?)
わずか一両編成の小さな車両に揺られながら、堅物《かたぶつ》の少年は昨夜《さくや》の出来事《できごと》を夢うつつのようにぼんやり思い返す。修学旅行一日目の夜、『夜会《やかい》』の最終盤《さいしゅうばん》。乱痴気《らんちき》さわぎの果て、彼は故《ゆえ》あって女子生徒たちが宿泊する別館に潜入《せんにゅう》し、そして――
「過《す》ごしにくいかもしれませんが、この気候にできるだけ早く慣《な》れてくださいね。なにしろ峻護さんにはいずれ、この町に住んでいただくことになるかもしれないのですから」
いかにも何気《なにげ》なく発された言葉にぎょっと身をすくませ、その言葉の意味を問う前にいろりが語をついで、
「さ、汗を拭《ふ》いてあげますから。こちらを向いてください」
「えっ? いや、いい、いいよ。自分で拭くから」
「ご遠慮《えんりょ》なさらずに。ほらこちらを向いて」
「いやホントにいいって。勘弁《かんべん》してくれ」
「…………。峻護さんは」
シュン、といろりはうつむいて、
「わたしにおせっかいを焼かれるのは、いやですか?」
「えっ? ああいや、そういうわけじゃ」
うつむいた瞳《ひとみ》に涙《なみだ》がにじんでいるのが垣間《かいま》見えて、峻護はあたふたと両手をさまよわせつつ、
「そう、そうだ。今日はおれ、ハンカチ持ってくるの忘れたんだっけ。うーん困ったな、これじゃあ自分で汗を拭けないなっ」
「あら。それだったらちょうどいいですね。謹《つつし》んでわたしが拭かせていただきます」
一転して笑顔になり、いそいそとハンカチで顔を拭くいろり。拭かれる側はぎこちない姿勢《しせい》でされるがまま、そんな様子を他の乗客たちが微笑《ほほえ》ましげに見守り、それがまた峻護にはいたたまれないのであった。
(うう……ほんとうに困ったことになってしまった……)
峻護は弱り果てていた。昨夜の出来事が彼の精神に重たい手かせ足かせをはめている。かなりの部分が不可効力的《ふかこうりょくてき》なものであり、情状《じょうじょう》 酌量《しゃくりょう》の余地《よち》は残されているとは思うが、それを最大限に考慮《こうりょ》したとしても――いま目の前にいる少女と不埒《ふらち》な行為《こうい》に及《およ》び、さらにはもっと不埒な行為に及びかけていたことは事実。品行方正《ひんこうほうせい》を座右《ざゆう》の銘《めい》とする少年にとってあり得《う》べからざる事実であり、彼としては全力で失地《しっち》を回復《かいふく》せねばならないのだった。
そして昨夜の出来事に関してひとつ、見過《みす》ごせない可能性《かのうせい》がある。
(奥城さんって、やっぱりサキュバスなんだろうか……?)
だとすれば昨夜の件もなにかと納得できる点が多いし、そうなれば峻護の今後の対応《たいおう》にも影響してくる。だがその疑問をどうやって確かめればいいのだろう。本人にズバリと訊ねてみればいいのか? しかしサキュバスという人種《じんしゅ》は自分がサキュバスであることに無自覚《むじかく》である場合も多いというから、その場含は訊ねてみるだけ無駄《むだ》ということにもなるわけで。
逆に自覚的であった場合は、それもそれで問題なのである。月村真由のように自分がサキュバスであることにコンプレックスを抱《いだ》いているケースもあるからだ。そうなると安易《あんい》に訊ねてみるのも憚《はばか》られるような気がしてくるし、ただでさえ優柔不断《ゆうじゅうふだん》のきらいがある峻護はなかなか決断をつけられずにいるのだった。
「――はい、拭き終わりました」
「ああ、どうも。ありがとう」
「どういたしまして。これからは毎日お世話することになるかもしれない[#「これからは毎日お世話することになるかもしれない」に傍点]のですから、その予行演習《よこうえんしゅう》です。……あら? また汗がにじんできましたね」
そういう微妙《びみょう》なニュアンスの発言が多いから冷や汗の源泉《げんせん》に事欠《ことか》かないのだ、と声を大にして言いたい。
「ところで、今日はこれからどちらへ行きましょう? ここはわたしの地元《きょうり》[#何と言うルビであることか。無理やりと言うか・・・]ですからどこへでも案内してあげられますけど、どこか行きたいところはありますか?」
小首をかしげつついろりが訊《き》いてくる。峻護としては案内|云々《うんぬん》より他にするべきことがあるのだが、とりあえず、
「いや、特に行きたいところというのもないから。行き先は君に任せるよ」
「あら、せっかく花の都に来ているのに。鞍馬《くらま》の霊峰《れいほう》でも先斗町《ぽんとちょう》の穴場《あなば》でも思いのままですよ? ちょうど今日は祗園会《ぎおんえ》の山鋒巡行《やまほこじゅんこう》の日ですし、知り合いに頼《たの》んで特等席で見物することもできますけど」
「うーん、ここだけはどうしても、という場所はないし……しいて言えばどこにでも興味《きょうみ》があるというか」
これまた優柔不断と言われても仕方ない態度《たいど》だが、いろりはとがめるそぶりもなく、
「では、わたしの行きたいところでも構いませんか?」
「ああ。いろりさんの行きたいところでいい」
「わかりました。そういうことであれば候補地《こうほち》がひとつありまず」
「ふむ、それはどこ?」
京都出身の少女は無邪気《むじやき》げに微笑んで、
「わたしの実家です。峻護さんをぜび、うちの両親に紹介《しょうかい》したいのですけれど」
……峻護が公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》で盛大《せいだい》にずっこける失態《しったい》を示《しめ》したのも、まあやむを得まい。
「うふ.竣護さんをからかうのは本当に楽しいですね」
「痛たたたた……え? 何か言った?」
「はい。『ほんの冗談《じょうだん》のつもりだったのに』と言いました。さ、早く起き上がってください。乗客の皆《みな》さんが笑いをかみ殺すのに大変そうですから」
差し出された手を断固《だんこ》として遠慮し、峻護は憮然《ぶぜん》たる顔で立ち上がった。
それにしてもこの奥城いろり、いったいどういうつもりなのだろう。なぜ彼女が自分に近づいてくるのか、峻護にはどうもピンとこなかった。自分に接近《せっきん》しても大して得《とく》するようなことはないと思うのだが……修学旅行実行委員同士のよしみで京都|観光《かんこう》に付き合ってやろう、ということなのだろうか?
それよりなにより気になるのは月村真由である。翠鳴館の大駐車場、いろりに引《ひ》っ張《ぱ》られて出発する前。遠目《とおめ》にちらりと振《ふ》り返った峻護が見たものは、別のクラスの男が真由に近づいて親しげに話しかけている場面だった。驚天《きょうてん》動地《どうち》と言っていい現象《げんしょう》である。自分以外にも男性|恐怖症《きょうふしょう》の真由に近づける男が現れた、という事実は決して軽いものではない。第一峻護とて、この修学旅行についてはそれなりのプランがあったのだ。真由を誘《さそ》って京都で遊ぶという、ごく平凡《へいぼん》ながら重要なブランが。しかしこの状況《じょうきょう》ではそれもご破算《わさん》にならざるを得《え》ないわけで――
とその時、天井《てんじょう》のスピーカーが次の停車駅《ていしゃえき》を告げた.この手のアナウンス特有《とくゆう》の力の抜けた声が『うずまさ』と発音したのが聞き取れる。
「あらちょうどいいですね。じゃあここで降りましょう。まずは京都観光の定番《ていばん》から、ということで」
アナウンスを聞いた乗客たちがぞろぞろと席を立ち、電車は年季《ねんき》の入った車両をガタゴトきしませつつ駅構内にゆっくりと侵入《しんにゅう》していく。
ともあれ、今日の自由行動の間に色んな問題を解決《かいけつ》しなきゃいけないな――あらためて自分の立ち位置を確認《かくにん》しながら、峻護はいろりのとなりに並んでドアが開くのを待つ。
さて、焦点《しょうてん》となるもう片方のペアはというと――
「この嵐山は京都を代表する観光地でね。特に桜の咲く春の時期と、紅葉《もみじ》のきれいな秋あたりは、観光に来るひとたちで毎年ごったがえすんだ。桜の穴場も紅葉の穴場も知ってるんだけど、さすがにちょっと時期はずれかな? でも夏の時期だって葉っぱの緑が鮮《あざ》やかで十分きれいだよ。これから行ってみようか?」
「…………」
「ほら、いま渡っている橋が渡月橋《とげつきょう》。夜になって、もう少し上流のほうからこの橋を見るとね、ちょうど橋の上を月が渡っていくように見えるってことで、渡月橋って名前がついてるらしい。といっても、この時間じゃあほんとにそんな風に見えるのかどうか確かめようがないけどさ、なんなら夜になってから宿を抜け出してふたりで行ってみる?」
「…………」
「それで.この渡月橋を渡った向かいにあるのが岩田山《いわたやま》自然公園.ここはね、猿《さる》がいるんだよ猿が。かわいいよ? 野生《やせい》の猿なんだけど餌付《えづ》けされてるから、うまくすれば触《さわ》れたりするかもしれないね。どこかで餌《えさ》を買って、ちょっと試《ため》しに行ってみようか?」
「…………」
(ああもうっ! ええ加減《かげん》にせんかい!)
何を言ってもウンともスンとも返さないターゲットに業《ごう》を煮《に》やし、奥城たすくは喉《のど》まで出かかった怒声《どせい》をかろうじて呑《の》み込んだ。旅龍『翠鳴館』が所在《しょざい》する景勝地《けいしょうち》、嵐山において、彼らは修学旅行の自由時間を満喫《まんきつ》している――べきところなのだが。
(なんやこの女、さっきから魂《たましい》ぬけたみたいにボーっとしくさって。ホンマうっとーしいわ……)
となりを歩いている(というか半《なか》ば引きずられている)本日のパートナーに、不平《ふへい》たらたらのたすくである。追っかけの女子生徒たち――常日頃からたすくがおいしくいただいている[#「おいしくいただいている」に傍点]女どもをようやく撒《ま》いて月村真由とふたりきりの時間を作ったというのに、こちらのアクションを全面スルーとはいったいどういう了見《りょうけん》か。どうやら二ノ宮峻護という油揚《あぶらあ》げを、奥城いろりというトンビによって目の前で掻《か》っ攫《さら》われたショックが、いまだに尾を引いているらしいが。
(デートそのものが目的ってわけやないけど、高貴《こうき》な血を引く超絶《ちょうぜつ》美男子のこの俺が貴重《きちょう》な時間を割《さ》いて付き含うたってるんや。もちっとキリキリ受け答えせえや、まったく)
本来《ほんらい》ならこんなすっとぼけ女、往復《おうふく》ピンタの五、六発も食らわせてから桂川《かつらがわ》に蹴《け》り落としてやるところだが、ここはぐっと我慢《がまん》である。月村真由を落とすという目的は、是《ぜ》が非《ひ》でも達成《たっせい》せねばならないのだ。
しかしこの女、簡単《かんたん》に落とせるだろうと高《たか》をくくっていたのだが(実際《じっさい》、新幹線《しんかんせん》や旅館《りょかん》内で接触《せっしょく》した時の手ごたえは悪くなかった。男性恐怖症という障壁《しょうへき》も、『気を掴《つか》む』仕手《して》でクリアできていたし)、どうやらとんでもない思い違いだったかもしれない.今の月村真由のように心を無《む》にし、外界との袈触《せっしょく》の一切《いっさい》を断《た》つことが最大の防御法《ぼうぎょほう》なのである――神戎《かむい》=淫魔《いんま》の仕手を防《ふせ》ぐための。かつては練達《れんたつ》の武芸者《ぶげいしゃ》や徳を積《つ》んだ高僧《こうそう》などがこれをよくしたというが、あるいは今の月村真由の状態《じょうたい》も、たすくの目的を見抜いて警戒態勢《けいかいたいせい》を敷《し》いているものだろうか。だとすればさすがは継群《つぎむら》の一族、と褒《ほ》めておかねばなるまいが……。
(ま、それはないか)
となりをよたよた歩く女の阿呆面《あほづら》を横目で見て、たすくは自分の買い被《かぶ》りを修正《しゅうせい》した。
ともあれ、神戎|十氏族《じゅっしぞく》のうちでも筆頭《ひっとう》と謳《うた》われた血族の直系《ちょっけい》であるこの央条《おうじょう》たすくが女ひとり落とせないとあっては、目的うんぬん以前に沽券《こけん》に関わる。たとえ相手が自分と同じく神戎十氏族が一、継群家の女であったとしてもだ。
(見とれよ継群の女。俺の落としのテクで、すぐにひいひい言わせたるからな)
心の中で舌《した》なめずりしつつ、面《つら》の皮一枚はあくまでも貴公子《きこうし》然とした顔に憂《うれ》いを乗せて、たすくは本日の獲物《えもの》にふたたび話しかける。
「月村さん、なんだか表情が冴《さ》えないね。ひょっとして体調が悪いところを無理《むり》に誘《さそ》ってしまったのかな……? だとしたらごめんね、ほんとうに」
「…………」
「歩きっぱなしじゃ疲れるよね。じゃ、ちょっとこのあたりで適当《てきとう》な場所を見つくろって休んでいこうか?」
景勝地だけにいかがわしいホテルは近くにないが、そこは京の都に根を張る奥城家=央条家の威光《いこう》がある、そこらの旅館に一声かければ部屋と布団《ふとん》を用意させることなどたやすい。今の月村真由が単に呆《ほう》けているだけなら無防備《むぼうび》についてくることだろう.そして、いったんシケ込んでしまえばこっちのものである。
「どうかな? このあたりは知り合いも多いし、雰囲気《ふんいき》のいいところを探せるんだけど」
「…………。京都……雰囲気……」
死んだ魚の目をしていた真由の瞳《ひとみ》に、ほのかな光がともった。だが「お、手ごたえありか?」とたすくが勢《いきお》い込んだ矢先《やさき》、
「京都……初めての京都で、初めての修学旅行だったんです。だからがんばって二ノ宮くんといい雰囲気になれたらなって、がんばらなきゃって、そう思ってたのに……なのにわたし、ぜんぜんがんばれなくて……あううう……」
うじうじと泣き始めた。
とたんに周囲《しゅうい》にいる観光客の視線が集中し、たすくはあわてて、
「いやあこんな天気のいい日に休むなんてもったいないよね! ささ、こっちに行こう。景色のいい穴場を知ってるんだ!」
早口で言いつのり、注目《ちゅうもく》から逃《のが》れるべく真由の背中を押してその場を離《はな》れる。
(くそ、失敗やったか)
ひそかに舌打《したう》ちするたすくである、どうやら不用意《ふようい》に心の傷に触《ふ》れてしまったらしい.
(めんどい女やわ……まあええ、自由行動の時間はまだたっぷりあるんや。ゆっくりじっくり落としていくわい)
首尾《しゅび》よくいった暁《あかつき》には、この女にあんなことやこんなことをして、たっぷり可愛《かわい》がってやろうではないか。この月村真由、脳《のう》みそこそ沸《わ》いてるかもしれないが、神戎十氏族の出だけに一級の上玉《じょうだま》である。いじり甲斐《がい》のありそうなバストのボリュームといい、むしゃぶりつきたくなる腰《こし》のラインといい、まことにもってたすくの好みであった。
(ああいや、といっても別にこの女に惚《ほ》れとるわけやないで? いくら見た目が良くたって、こんなパッパラ女は俺の守備範囲《しゅびはんい》外や。俺にはちゃんと心に決めた女がおるんやからな……ああいや、かといってその女にベタ惚《ぼ》れかっちゅーとそうやなくて、あくまでもあいつとの関係の主導権《しゅどうけん》は俺にあるんやけど……)
誰に向けているとも知れぬ言《い》い訳《わけ》をぶつくさ繰《く》り返していることに気づき、たすくは空咳《からぜき》をして思考《しこう》を切り替《か》えた。幸いにして月村真由は彼の失態《しったい》に気づいていない。
ともあれ、ご褒美《ほうび》が待っているとなれば『仕事』にも力が入ろうというもの。そのシーンを想像して悦《えつ》に入り、勤労意欲《きんろういよく》を新たにしていると、折《お》りよく手ごろな茶店の前を通りかかった。非毛氈《ひもうせん》を敷《し》いた長|床几《しょうぎ》を並べ、渋《しぶ》い柿色《かきいろ》の和傘《わがさ》を立てて日陰《ひかげ》を演出した、なかなか雰囲気のいい店|構《がま》えである。
(ふむ……ベタな手やけど、食い物で釣《つ》ってみるか)
ひとり頷《うなず》き、ふたたびマネキンみたいに呆け始めた真由に、(並みの女子であればこれだけでいちころな)百万ドルの笑顔を向けて、
「月村さん、ここに寄っていかない? 何かご馳走《ちそう》するからさ。気分が晴れない時はおいしいものを食べるのが一番だよ」
ふらふらと足元のおぼつかない真由の背中を押し、床几の上に座らせる。
店員が持ってきたメニューを開いてみせ、
「ほら、おいしそうなのがたくさんある。好きなのを選んでいいからね」
言いながらさりげなくポジション移動《いどう》。腰と腰を完全に密着《みっちゃく》させ、顔と顔も目と鼻の先、腕《うで》は相手を抱きかかえんばかりの位置。好意《こうい》もあらわなこの大胆《だいたん》なスキンシップこそが勝利の秘訣《ひけつ》、端整《たんせい》なマスクに絶対《ぜったい》の自信があるたすくだからこそ可能なテクである。
「ほらほら、八《や》っ橋《はし》にお汁粉《しるこ》にお団子《だんご》に……月村さんは甘いものは嫌いかい?」
「…………甘い…………嫌い…………」
ガラス玉みたいに無機質《むきしつ》だった真由の瞳に、わずかな活力《かつりょく》がよみがえった。「お、反応ありか?」とたすくが期待《きたい》を寄せたのも束《つか》の間、
「……そう、わたしって何をやるにしても甘いんです……考えも甘いし詰めも甘いし……わたし、そんな甘々な自分が大嫌いで……でも、二ノ宮くんから見たらそんなわたしはもっともっと嫌《いや》な女ですよね……だって自分自身にさえ嫌われてるような子を、二ノ宮くんが好きになってくれるわけないですもん……しくしく」
さめざめと泣き始めた。たちまち店の客たちの白い眼差《まなぎ》しが背中を刺《さ》し、たすくは泡《あわ》を食って、
「いやあこれは迂闇《うかつ》だった! 女の子に甘いものを勧《すす》めるなんて、まるで君を太らせようとしているみたいだよね! でも月村さんはスタイル抜群《ばつぐん》だしぜんぜん気にすることなんてないんだよ! いやこれは本音《ほんね》で! というわけで店員さん、ちょっと急用ができたので失礼しますね! あっ、場所代ここに置いときます!」
財布《さいふ》に入っていた紙幣《しへい》を適当《てきとう》に掴《つか》んで置き、真由を連れてそそくさと店を出る。
(ああもうなんやねんこいつ! こっちが何を言うてもぜんぶ二ノ宮峻護に結び付けよってからに!)
隠《かく》そうとしてもつい舌打ちがもれてしまうたすくである。この女が二ノ宮峻護に気があることは承知《しょうち》しているが、だったらちゃんと自分のモノにして、魅惑《みわく》の首輪《くびわ》で縛《しば》り付けておけと思う。ライバルに――奥城いろりにちょっとばかり先手を取られたからといってこのようた人事不省《じんじふせい》におちいるとば、神戎《サキュバス》の風上《かざかみ》にも置けぬではないか。
(男を盗られてヘコんでる暇があったら、こんなところで油を売っとらずにさっさと取リ返しに行かんかい! そもそもコイツ、二ノ宮峻護とひとつ屋根の下で同棲《どうせい》しとるんやろ? それだけ有利《ゆうり》な条件が整《ととの》っとるにも関わらずいろりにしてやられるとは……情けないったらないわ)
いろりに愛の略奪人《りゃくだつにん》になるよう命じた張本人《ちょうほんにん》ながら、たすくは不甲斐《ふがい》ない獲物《えもの》への不平を抑《おさ》えることができない。
(そないショックを受けるくらいベタ惚れなんやったらなおさらやわ。おまえはホンマに神戎か? この国を裏側から動かしてきた一族の末商《まつえい》か? 『自覚ある神戎』やったら、籠絡《ろうらく》の仕手を駆使《くし》してきっちり男をモノにせんかい! ああくそ、コイツ見てるとホンマいらつくで……)
やや屈折してはいるものの、たすくの憤《いきどお》りは淫魔《いんま》の論理《ろんり》としては正論《せいろん》なのである。ただし、彼は真由のすべての事情[#「すべての事情」に傍点]を知っているわけではないのであった。
(くそう……『仕事』のことがなかったら、コイッのケツ蹴《け》り飛ばして説教してやりたいわ。こんなヘナチョコがこの俺と同格の血族やなんて、情けのうて涙が出るで)
だがまあよい。最終的にこの女の精気《せいき》さえ吸《す》うことができればいいのだ。すでにターゲットは手の内にある。急ぐ必要はあるが焦ってはいけない。確実に、磐石《ばんじゃく》に目的を遂行《すいこう》する。そしてその暁《あかつき》には『神精《しんせい》』を――
(……ふん。とにかく今は仕事や)
その先を呑《の》み込み、たすくは清廉《せいれん》な貴公子の微笑で打算《ださん》をめぐらせ始める……。
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其の二 迫《せま》られるくちびる
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某日《ぼうじつ》某所でのことである。
「――各々《おのおの》がた、先だっての話をどう思われる?」
集まった者たちを代表《だいひょう》し、年頭《としがしら》の男が本題《ほんだい》を切り出した。
「諭《ろん》ずるに足りん……と思う者は、この場に集《つど》ってはおらんだろう。また各々|思惑《おもわく》があるにせよ、長年にわたるわだかまりを呑《の》み込んで集まったからには一定以上の利害《りがい》の一致《いっち》が見込《みこ》めるはず。それを鑑《かんが》みた上で各人《かくじん》の率直《そっちょく》な考えをお聞きしたい」
「ふむ。率直に、とおっしゃるのであれば遠慮《えんりょ》なく言わせてもらうが……」
列席者《れっせきしゃ》のひとりが重々しく口を開く。
「ここに集まった者たちの狙《ねら》いは明らかだ。まずは歴史の塵《ちり》に埋《う》もれた神精《しんせい》の全容《ぜんよう》を解明《かいめい》し、その利益《りえき》をどの血族よりも多く享受《きょうじゅ》すること。第二に、十氏族《じゅっしぞく》の中で突出《とっしゅつ》した影響《えいきょう》力を持つに至った|鬼ノ宮《きのみや》と継群《つぎむら》の独走《どくそう》を何としてでも止めること。この解釈《かいしゃく》に間違《まちが》いはありませんかな?」
「間違いはない。いささか率直に過《す》ぎるとは思うがな」
別の男が注文をつけつつあとを引き継《つ》ぐ。
「付け加えるとすればひとつ。まず最大の目的とするべきは、見る影《かげ》もなく凋落《ちょうらく》した十氏族全体の復権《ふっけん》にあるということだ。この目的こそが他のすべてに優先する。その点は確認《かくにん》しておくべきだろうが、各々がたに異存《いぞん》は?」
男の確認に、場の全員が頷《うなず》いた。肚《はら》の中はどうであれ、ここはもっともらしく頷いておかねばなるまい。
「だが話を始める前に、根本的《こんぽんてき》な問題を解決《かいけつ》しておかねばならん」ある者が場を見渡しながら疑問《ぎもん》を口にする。「そもそも神精なるものは本当に実在《じつざい》するのか? そんなものはカビの生えた文献《ぶんけん》だけに登場する伝説に過ぎず、過去に存在した事実すらないというのがこれまでの常識《じょうしき》だったではないか」
その問いには誰もが即答《そくとう》し得《え》なかった。
業界[#「業界」に傍点]に数ある伝説のうちでも異色《いしょく》の存在たる神精とは、神戎《かむい》の血族のうちにごく稀《まれ》に現れるという特異《とくい》な性質を持つ者を指す。神精を発現《はつげん》した者は様々《さまざま》な意味において段違《だんちが》いの能力を得《え》、例外《れいがい》なく神戎たちの頂点《ちょうてん》に立ち、ほしいままに力を揮《ふる》ったというが――
「この際は実在する、と見るべきだろうな」
年頭の男が沈黙《ちんもく》を破《やぶ》った。
「鬼ノ宮と継群の本腰《ほんごし》の入れようからして、そう判断《はんだん》せざるを得ない。少なくとも実在すると前提《ぜんてい》した上で今後の指針《ししん》を決めねばならん、傭《そな》えあればなんとやら、でな」
「しかし、神精の伝説など与太話《よたばなし》同然のものばかりではないか.ひとりで一万の軍勢《ぐんぜい》に匹敵《ひってき》し得た、あるいはひと押しで山を一里《いちり》も動かせたなど……いずれも人の理を越《こ》える話ばかり。我《われ》らは常《つね》なる者どもより優《すぐ》れたれど、決して人外《じんがい》の存在ではありえぬ」
「伝説に尾《お》ひれはつきもの.話半分、いや話百分の一だとしても大したものだろう。神戎たちの頂点《ちょうてん》に、いや人類すべての頂点に立ち得《う》るだけの資格《しかく》はあるやもしれぬ。実在が疑われるからといって無視《むし》はできん。ともあれ――」
不毛《ふもう》な議論《ぎろん》におちいりかける場を、年頭の男が制《せい》して、
「いまさら神精の真偽《しんぎ》を論《ろん》じても始まらん。それよりもっと前向きな課題《かだい》について話し合おうではないか。いかにして鬼ノ宮と継群の裏をかくか、そして神精であるという二ノ宮峻護と神精の源であるという月村真由――このふたりをいかにして手中に収め、利用すべきか、という話をな」
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太秦《うずまさ》映画村。
テーマバークであると同時に撮影所《さつえいじょ》でもあるという、他に例の少ないこの施設《しせつ》もまた、京都《きょうと》を訪《おとず》れる観光客《かんこうきゃく》が好んで足を運ぶ場所である。凝《こ》ったつくりの長屋《ながや》横丁《よこちょう》、屋敷《やしき》町、大店《おおだな》街といった江戸風の建物が、現実的感覚とは無縁《むえん》の無秩序《むちつじょ》さで立ち並び、路地《ろじ》のそこかしこで町娘風《まちむすめふう》、あるいは侍《さむらい》風といった扮装《ふんそう》をした人々があっけらかんと行き交《か》い。ごく一般《いっばん》の観光客ともなじんでしまっているロケーションは、独特《どくとく》としか呼びようのない空気をかもし出していた。
「いかがですか峻護《しゅんご》さん、この場所は? お気に召《め》しましたか?」
「そうだな……うん、なんというか。なんだか不思議《ふしぎ》な感じだ」
いろりの問いにあいまいな答えで感想を述《の》べる峻護だが、べつに彼のボキャブラリーが不足しているわけではない。単に気分が上《うわ》の空であり、観光地の雰囲気《ふんいき》に身をゆだねるどころではないだけである。
むろんその原因《げんいん》は昨夜の出来事《できごと》であるが、そこに加えて月村《つきむら》真由《まゆ》のことが大きい。今朝の駐車場《ちゅうしゃじょう》での一件――峻護が半《なか》ば拉致《らち》の形で連れていかれる直前、彼女は飼《か》い主に捨《す》てられる子犬《こいぬ》のような顔をしていた。真由の保護者《ほごしゃ》をもって任《にん》じる峻護としては忸怩《じくじ》たるものを覚えざるを得《え》ない。おそらくは彼女にとって初めての経験《けいけん》であろう修学旅行であり、加えて見知らぬ土地であり、なおかつ自由|行動日《こうどうび》である。転校してまだ日も浅く、おまけに人付き合いも不得手《ふえて》な真由はたぶん、峻護に頼《たよ》って心細さを解《ほぐ》そうとしたはずで、なのに彼女に何もしてやることができていない。それにおそらくは、いろりと自分の関係も誤解《ごかい》されてしまったはず。その誤解もどうにかして解《と》かねば……。
「峻護さん?」
と、鋭《するど》い痛みが脳髄《のうずい》をキックし、峻護は我《われ》に返った。
「いま、他の女性のことを考えていましたね」
「えっ? ああいや……」
二の腕《うで》を手ひどくつねられた痛みもどこへやら、笑顔のままツノを生やしているいろりを見てあわてて弁解《べんかい》しようとするが、
「ところで峻護さん、昨今《さっこん》の国内|政治家《せいじか》の政治|信条《しんじょう》の脆弱《ぜいじゃく》さには、目に余《あま》るものがあると思いませんか?」
すぐにまったく別の話題を持ち出してきた。
「えっ? 政治信条?」
「はい、わたしは大変|悲《かな》しく思っているんです。たとえば過去《かこ》の大戦中、わが国がアジア諸国《しょこく》で起こした様々な問題に対する戦争責任[#「責任」に傍点]のありかたへの、あいまいな態度《たいど》とか」
「…………」
「あるいは先日など、わが国のある大臣が愛人間題を暴露《ばくろ》されて辞職《じしょく》に追い込まれましたが、その大臣を任命《にんめい》した首相《しゅしょう》が必死になって任命責任[#「責任」に傍点]を回避《かいひ》しようとする醜《みにく》い有様《ありさま》だとか」
「…………」
何かこう、いろりがセリフの特定《とくてい》の部位に微妙《びみょう》なアクセントをつけてくるたび、胃袋《いぶくろ》がキリキリと痛むのだが。
「この世の中、責任感《せきにんかん》のないひとほど悲しい存在はありません.ましてそれが男性であるならなおさらだと思うのです……」
ひどく悲しそうな顔でそんなことを言う。峻護としてはぎこちない動きでカクカク頷くより他ない。
「ところで峻護さん」一転ニコリと微笑《ほほえ》み、「首筋《くびずじ》のところにキスマークついてますよ。昨晩の」
「ええっ!?」
あわてて首筋を押さえつつ、けしからん跡《あと》のついた場所を確認しようとして自分の尻尾《しっぽ》を追いかける犬のようにぐるぐる回り、
「ど、どこ? どこについてるんだっ? 制服でちゃんと隠《かく》せそうなところ?」
「……うふ。峻護さんは本当にかわいいですね」
「えっ? なんだって? よく聞こえなかったんだけど!?」
「いえ。そんなに慌《あわ》てなくてもいいのに、と言いました。ごめんなさい、今のはほんの冗談《じょうだん》です」
「冗談……そ、そうか。よかった」
「あら。わたしにキスマークをつけられるのがそんなにお嫌《いや》ですか?」
あからさまに安堵《あんど》した峻護をとがめるようにロを尖《とが》らせ、
「では罰《ばつ》として――こうします」
すすっと寄《よ》り添《そ》い、峻護の腕に自分のそれを絡《から》め合わせてきた。
「い、いろりさんっ?」
「はい。なんでしょう?」
品よい微笑みで見上げてくる。むろん、この流れで無下《むげ》にできる峻護ではなかった。
その格好《かっこう》のまましばらく散策《さんさく》がつづいた。
すぐ横に目をやれば、一見おとなしそうな同級生の少女。あの建物はどうだ、この施設《しせつ》はああだと、ほとんど分刻《ふんぎざ》みでガイドを加えてくれている.そのたびに吐息《といき》が峻護の腕にかかり、そしてたったそれだけのことでも背筋《せすじ》にピンク色の電流が走るのだった。
このかすかな、しかし確かな存在感をともなって漂《ただよ》ってくる妖艶《ようえん》さ。
堅物《かたぶつ》の生きた標本《ひょうほん》である峻護をしても無視《むし》し得ぬ色香《いろか》。
やはり彼女は――。
(…………。よし)
いかに触《ふ》れにくい件であれいつまでも放ってはおけまい。意を決し、ひとつ咳払《せきばら》いしてから、
「いろりさん」
「はい」
「その、唐突《とうとつ》な質問で悪いんだけど、君はつまりその――サキュバスなのか?」
いろりは微笑みのまま小首をかしげ、
「サキュバスというのは?」
「ええとつまり」こういう答えが返ってくるということは、彼女は無自覚《むじかく》なサキュバスなのだろうか。峻護は言葉を選びつつ、「精気、つまりは生命《せいめい》エネルギーみたいなもの――ほら、中国|拳法《けんぽう》とかで出てくる『氣』みたいなものかな? そういうのを自分の身体《からだ》の中で作れなくて、他の人から分けてもらって生きている人間のことなんだけど」
「サキュバスと普通《ふつう》の人間との違いは、精気《せいき》に関する点だけなのですか?」
「え? うん、ああ、そうかな。基本的には普通の人間と変わらなくて、ごく当たり前に世間《せけん》に混《ま》じって暮らしているらしいよ。自分がサキュバスだと自覚《じかく》しているひとのほうがむしろ少ないのだとかどうとか……」
「では普通の人間とサキュバスとの見分けかたは?」
「ええと……サキュバスなひとの中には、並外れた美人が多いらしいんだ。精気を他人から分けてもらうには、異性《いせい》を誘惑《ゆうわく》して粘膜《ねんまく》接触《せっしょく》をしなくてはいけなくて、だからサキュバスは遺伝的《いでんてき》に美人になるよう生まれついていると……」
「あら。では『君はサキュバスなのか?』という問いは、『君はとても美人だ』と遠まわしに褒《ほ》めてくれているということですか? うれしいです」
「えっ? ああいやそういうことが言いたいわけじゃなくて」
「まあひどい。ではわたしが地味《じみ》でメガネでおでこの広い不美人だとでも?」
「えええっ? ちがうちがう、そんなつもりはこれっぽっちも――」
「ほんとうですか? でしたら」
言っていろりは立ち止まる。つられて峻護も。
日本橋《にほんばし》を模《も》したセットのたもとである。行き交《か》う観光客の流れの中、峻護といろりのふたりだけが河中の岩のように向き合って視線を交《まじ》え合う。
「でしたら、ちゃんと言葉にして言ってください」
「言葉にして……?」
「はい。『奥城いろりはどこのミスコンに出てもダントツで優勝をかっさらえる、この世にふたりといない超絶《ちょうぜつ》最強美人だよ』って、峻護さんの口からあらためてハッキリと聞かせてください。でないとわたし、うれしくありません」
「……いや、あらためてハッキリとって言われても……おれ、そんな大げさな表現を使った覚えは一度もないんだけど……というか君のことを美人と言った覚えすら……いやまあ確かによくよく見ればものすごい美人なんだけど……」
「言ってくださいますね?」
内心を読みにくい笑顔で、いろりは重ねて求めてくる。こうなれば心理的《しんりてき》に立場の弱い峻護としては拒否権《きょひけん》などあるはずもなく。
「あー……ええと……ゴホンゴホン。『奥城《おくしろ》いろりはどこのミスコンに出てもダントツ』」
「そうそう峻護さん。どうせなら真《ま》っ直《す》ぐわたしの目を見て、とびきり甘い声でお願いしますね」
そんなこと言われても。
とは思うものの、なるべく注文《ちゅうもん》に応《こた》えるべく表情をあれこれ動かしてみながら、
「ええと……『奥城いろりはどこのミスコンに出てもダントツで優勝をかっさらえる、この世にふたりといない超絶最強美人だよ』……これでいいかな?」
「もっと心をこめてお願いします」
「むう。……あーあー。『奥城いろりはどこのミスコンに出てもダソトツで優勝をかっさらえる、この世にふたりといない超絶最強美人だよ』……こんなんでどうだろう?」
「もっと大きな声で」
「お、大きな声で!? ええいくそ……『奥城いろりはどこのミスコンに出てもダントツで優勝をかっさらえる、この世にふたりといない超絶最強美人だよ』!……そ、そろそろいいんじゃないか……?」
「はい。たいへんよくできました」
ひときわ大きく微笑《ほほえ》んで、
「それではがんばった峻護さんに、ご褒美をあげることにします」
「ご褒美?……いや、なんとなく嫌な予感がするから遠慮《えんりょ》させてほし……」
「そうおっしゃらず。だって峻護さんご自身がさっき求めていたことですよ?」
「おれが?」
「はい。わたしがサキュバスかどうかすぐにわかってしまうご褒美です」
「なんだって……?」
峻護が己《おのれ》の無警戒《むけいかい》さを罵《ののし》ることになったのは、この直後だった。
「あ――」
すいっ、といろりが一歩前に出るのを、彼の視覚《しかく》は確かにとらえている。だがそのあとにつづくべき行動を逸してしまった。
とっさにのけぞって避《さ》けようとし、身体の自由が利《き》かないことに気づく。奥城いろりの一見なんの変哲もない、しかしその実けた外れの魅惑《みわく》を漂わせる笑顔に縛《しば》られた――つまりは淫魔《サキュバス》 の|蠱 惑 領 域《テンプテーションフィールド》に捕《と》らわれたと気づいたのはようやくこの瞬間《しゅんかん》。
「くちびるを重ねてみれば――わたしがサキュバスかどうか、はっきりしますよね?」
目と鼻の先に迫ったいろりがささやいてくる。指先で峻護のあご先をもてあそびながら、つやっぼく濡《ぬ》れた声で。強烈《きょうれつ》にまとわりついてくる少女の――否《いな》、雌《めす》の芳気《ほうき》が脳髄《のうずい》を愛撫《あいぶ》し、瞬《またた》く間に峻護の首から上が赤く染まる。
くすりと含《ふく》み笑ういろり。視線《しせん》を絡《から》ませ合ったまま、開きかけの赤い花弁《かべん》を思わせるくちびるがゆっくりと近づいてくる。峻護は指先ひとつ動かせない。
このまま白昼、公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》で、二度目の不覚《ふかく》に及《およ》ぶことになるのか――
「ちょっとお待ちなさいッ!」
その時、瞳騒《けんそう》の中でも凜《りん》として響《ひび》く声が大気を切《き》り裂《さ》き、魅惑《みわく》の呪縛《じゅばく》をも断《た》ち切った。
自由を取り戻《もど》し、あわてて距離《きょり》を取る峻護の視界《しかい》の端《はし》に、髪《かみ》を逆立ててずかずか歩み寄ってくる人物の姿《すがた》が映《うつ》る。
「そこのふたり! いったい今なにをやらかそうとしていましたのッ!?」
「あ。北条《ほうじょう》先輩《せんぱい》」
呪縛の解《と》けた峻護といろりの間に割《わ》って入ると、
「|二ノ宮《にのみや》峻護。修学旅行中《しゅうがくりょこうちゅう》の不適切《ふてきせつ》な異性交遊《いせいこうゆう》はこれを最大の罪《つみ》とする――わたくし確かにそう申《もう》し渡《わた》しましたよね?」
神宮寺学園《じんぐうじがくえん》の生徒会長さんは、普段《ふだん》より二オクターブ低い声でさっそく詰《つ》め寄《よ》ってきた。
「ええと……はい、聞いた覚えがあります。確かこの修学旅行の一週間前に」
「よろしい。では、わたくしの申し付けに背《そむ》いた者がいかなる運命をたどることになるかについても重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》しておりますわね? わたくしその点についても確かに言及《げんきゅう》したはずですわよ?」
「ええと……はい、確かに。違反《いはん》した場合は生徒会の総意《そうい》による厳罰《げんばつ》をもって対処《たいしょ》するというお話でした」
「結構《けっこう》。ところであらかじめ言っておきますが、わたくしがこの場所にいるのは視察《しさつ》の予定《よてい》の一環《いっかん》として立ち寄ったからであり、あなた方の不埒《ふらち》な現場に遭遇《そうぐう》したのも運命を司《つかさど》る神の気まぐれによるもの。それらの偶然《ぐうぜん》を取り上げてうがった見かたをし、わたくしがあなた方のあとをつけていた、などというけしからぬ妄想《もうそう》をたくましくさせることがあれば承知《しょうち》いたしま――」
「北条会長」
長セリフを断《た》ち切る声は、峻護と令嬢《れいじょう》の間にさらに割《わ》って入ったいろりのもの。
「峻護さんは今、わたしとデートしている途中《とちゅう》なのですが。どのようなご用件ですか?」
「…………。奥城いろりさん、ですわね?」
あくまでも穏《おだ》やかな物腰《ものごし》の問いかけに、生徒会長は刃《やいば》のような眼《まなざ》しで応《おう》じる。
「あなたさっき、二ノ宮峻護に何をしようとしていました? わたくしの視力《しりょく》に一時的な故障《こしょう》が発生したのでない限り、健全な高校生が衆人環視《しゅうじんかんし》の中で決してやってはいけない行為《こうい》に及ぼうとしていたように見えたのですけれど?」
盛夏《せいか》の陽射《ひざ》しの下、麗華の声は詩吟《しぎん》のごとく朗々《ろうろう》と響き、その言葉には発言の内容うんぬんを超《こ》えた重みと説得力《せっとくりょく》があった。
「わたくしは過日《かじつ》、修学旅行実行委員の方々の前で宣言《せんげん》したはずです、修学旅行中の不適切《ふてきせつ》な異性交遊《いせいこうゆう》はこれを厳《げん》にいましめると。申《もう》し渡《わた》した禁《きん》を破《やぶ》り、世間的《せけんてき》なごく最低限の倫理《りんり》を侵《おか》してまで不埒《ふらち》な行為《こうい》に及ぼうとしたことに正当《せいとう》な理由があるのであれば、ここで申《もう》し開きをなさい」
「ではお許しを得《え》て申し上げます」
いろりは春の薫風《くんぶう》のごとき柔和《にゅうわ》な表情で、
「わたしも修学旅行実行委員のひとりですから、生徒会長のおっしゃる『宣言』の場に居合《いあ》わせていますし、もちろんあなたがおっしゃった言葉の意味も理解しています。ですがその言い分に必ずしも納得したわけではありません。自主自立がわが校のモットーであることを持ち出すまでもなく、自己責任における自由恋愛は人の世の常。いいえ、人間の世界のみならず、生きとし生けるものすべてにとっての自然の摂理です。峻護さんがすでに婚姻《こんいん》を結《むす》んでいるわけでもなく、また特定の女性とお付き合いしているわけでもない以上、彼とどのような形で恋愛したとして、後ろ指を差されるどんな理由もないと思います。生徒会長のおっしゃりようは、まるで恋愛そのものを禁じているかのように聞こえるのですが……」
とうとうたるロ調で反論してきたメガネ女に、麗華は意表をつかれたようである。しかし心理的《しんりてき》な間隙《かんげき》を示《しめ》したのも一瞬《いっしゅん》、すぐに体勢《たいせい》を立て直し、
「あなたの言い分に一理《いちり》あることは認めます.ですがこの際間題にすべきはそのようなマクロの視点《してん》ではありません。加えてあなたは今、自由恋愛の権利《けんり》を持ち出してご自分の行為《こうい》を肯定《こうてい》なさろうとしていたようですが、それは自由と無節操《むせっそう》を取りちがえる典型《てんけい》的な過《あやま》ちであるとは思いませんの?」
「生徒会長のほうこそ、単調な論法《ろんぽう》で安易《あんい》にわたしを丸め込もうとしているのではありませんか? それに無節操よばわりされるのは心外《しんがい》です。わたしは時も場所も相手も選んで恋愛をしているつもりですから」
「このような公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》で殿方《とのがた》にくちづけを迫《せま》るのが、節操のあるやり方だというのですか。世界中の辞書《じしょ》を改訂《かいてい》する必要があるみたいですわね」
「生徒会長の言い分は、野外《やがい》で行うくちづけのずべてを一様《いちよう》に不埒と決め付けているかのように聞こえます。もう少し個々人による文化の差、価値観《かちかん》の差を考慮《こうりょ》に入れるべきではありませんか? 人前で愛を示《しめ》す行為《こうい》をむしろ積極《せっきょく》的に是《ぜ》とする文化と個人は、現実に少なからず存在します。あなたの判断基準《はんだんきじゅん》は狭小《きょうしょう》かつ、潔癖《けっぺき》に過ぎると言わざるを得ないのではないでしょうか」
呆気《あっけ》に取られたまま、峻護は少女ふたりのつばぜり合いを見守っている。麗華はともかくとしても、まさかいろりがこのような形で真《ま》っ向《こう》から反撃《はんげき》するとは……学校では成績も中の上、求められなければ口を開くことも少ない同級生の意外《いがい》な一面だった。どうやら奥城いろりに抱《いだ》いていた既戌概念《きせいがいねん》を根こそぎ刷新《さっしん》しなければいけないらしい。もっともここ最近の付き合いで、彼女が表面的な印象《いんしょう》どおりの少女でないことは徐々《じょじょ》にわかってきていたのだが。
「文化の差、価値観《かちかん》の差とあなたは口になさいますが。そのふたつこそ時と場合を選ぶべき最たるものでしょう。『郷《ごう》に入りては郷に従《したが》う』という至言《しげん》を持ち出すまでもありませんわ、あなたはもう少し状況を判断する能力を磨かれたほうがよいのではなくて?」
「残念ですが生徒会長。あなたの論法《ろんぼう》は恣意的《しいてき》な考えを一般論《いっぱんろん》にすりかえているものとしか思えません。もし生徒会長のおっしゃりようが『個人の価値観の差』から発しているものであれば、あなたこそもう少し状況を判断《はんだん》する能力を磨《みが》いたほうがいいのではありませんか?」
ふたりの論戦《ろんせん》はいよいよ激《はげ》しさを増《ま》している。両者一歩も引く気のない構えであり、戦況《せんきょう》もほぼ互角《ごかく》といっていいだろうが、いろりのほうが麗華の舌鋒《ぜっぽう》を上手にあしらっているように見受けられた。最初の段階で意表をつかれたことが、接戦《せっせん》の上では無視《むし》できない不利として働いているのかもしれない。
そのことを自覚《じかく》しているのか、麗華は冷静に論陣《ろんじん》を張《は》りながらも忌々《いまいま》しげにくちびるを引き曲げている。その彼女がふいに視線《しせん》を周囲へ走らせた。時ならぬ口論《こうろん》の始まりにギャラリーの注目が集まりつつある。令嬢は舌打ちしたげな表情を一瞬だけ作った。もうひとりの少女はその隙《すき》を見逃さず、
「ところで生徒会長は、峻護さんのことが好きなのですか?」
「はにゃあっ!?」
狙《ねら》い澄ましていたらしい一撃《いちげき》に、麗華はヘンな声を出して他愛《たあい》もなく動揺《どうよう》した。
「ななななななにをばかな、たちの悪い冗談《じょうだん》で根も葉もない邪推《じゃすい》で陰険《いんけん》な誹謗《ひぼう》中傷《ちゅうしょう》でわたくしをからかうのは許しませんよっ!」
「あらそうなのですか? わたしてっきり、生徒会長は峻護さんのことが好きで好きでたまらないのだと思っていましたが……困りました。この前提《ぜんてい》が間違っているとなると、これまでの議論《ぎろん》はぜんぶ空回りしてしまうように思えます」
「ふん、誰がこんな男など! 天地がひっくり返ってもありえませんわ!」
「まあそうだったのですか。では生徒会長は、峻護さんのことが好きで好きでたまらなくて、居ても立ってもいられなくなって追いかけてきて、峻護さんとデートしているわたしを妬《ねた》んで嫉《そね》んで難癖《せんくせ》をつけてやろうとしていたわけではないのですね?」
「断固《だんこ》として、露《つゆ》ほどもありえません!」
「わかりました。生徒会長のことを恋敵《こいがたき》だと勘違《かんちが》いしてつい意地を張《は》ってしまいましたが、そういうことであれば話は変わってきます」
いろりは晴れやかな笑顔で峻護を仰《あお》ぎ見て、
「峻護さん。北条麗華さんはあなたのことをびた一文《いちもん》、これっぽっちも、宇宙の果てまで行ってもナノミクロンたりとも、好きではないんだそうです」
「……はあ、まあ。前から薄々《うすうす》そんな気はしていたし……いや、そうだよな。北条先輩がおれのことを好きだなんてありえないよな」
その言葉を聞いた令嬢の顔がみるみるうちに絶望色《ぜつぼういろ》に彩《いろど》られていくのを、峻護は見ることができなかった。いろりがさりげなく立ち位置をずらし、彼と麗華の間の壁《かべ》になるように動いたので。
「生徒会長、数々の無礼《ぶれい》をお詫《わ》びします」
次いでいろりはあくまでも穏《おだ》やかな物腰《ものごし》で頭を下げ、
「聞き分けのない子供のようにいちいち反諭《はんろん》してしまいましたが、生徒会長の主張《しゅちょう》が正しいことを認《みと》めます。不適切《ふてきせつ》な点については改《あらた》めますので、どうかこの場はご容赦《ようしゃ》を」
あっさり非《ひ》を認めてしまった.激論《げきろん》した直後の劇的な撤収《てっしゅう》である。麗華としてはこの上なおも非《ひ》を鳴らすことはできない.『聞き分けのない子供のようにいちいち反論した』のは彼女も同じなのであるから。
「む……ぐ……わかりました、あなたがそう言うのであれば……」
「ありがとうございます。というわけで、わたしと峻護さんはデートのつづきをすることにしますね。生徒会長はデートそのものを非難なさってたわけではないはずですし、問題ないですよね?」
「…………っ」
令穣は、新たに登場したこの無毒《むどく》そうなライバルに、してやられたことを悟《さと》った。だが事が事だけに簡単《かんたん》に引き下がるわけにはいかない。
この苦境《くきょう》を一変させる言葉をさがして、敗北《はいぼく》の生徒会長は口をもごもごさせている。自慢《じまん》の頭脳《ずのう》が打開策《だかいさく》を求めて目まぐるしく回転し、思考《しこう》が迷走《めいそう》に迷走を重ねた果て、令嬢の頭上に電球が光った。
「そう、そうですわ! 栄養ドリンク!」
「はい?」
「栄養ドリンクの感想がまだでしたわ! 二ノ宮峻護!」
「はい?」とこれは峻護。
「あなたまさか忘れたわけではないでしょうね? 昨日わたくしが提供《ていきょう》した栄養ドリンクのことを」
言われて記憶をさかのぼってみると、さして苦労もなく思い出した。翠鳴館《すいめいかん》に投宿《とうしゅく》してほどなく、廊下《ろうか》でばったり出会った麗華にもらった小ビン。
「試飲《しいん》して効果《こうか》を吟味《ぎんみ》した後、迅速《じんそく》に報告《ほうこく》をよこしなさいと申し付けたにも関わらず、いまだ感想のひとかけらも聞けていないとはどういうことかしら? すでに話して聞かせたとおり、あれはこの世に数本しかない上に一本あたりの原価《げんか》が数十万は下らない初期段階《しょきだんかい》の試作品《しさくひん》なのです。そんな貴重《きちょう》な品をこのわたくしの慈悲《じひ》でさしあげたにも関わらず、最低限の義理《ぎり》さえ果たせないとは……忘恩《ぼうおん》の徒《と》を絵に描いたような男なのですわね、あなたというひとは」
「あ……はい、そうでした.すいません完全に忘れてた」
「まったく……じつを言えばわたくし、その件こそが現在の最重要《さいじゅうよう》懸案《けんあん》なのです。ここへは視察《しさつ》の予定で来たのですが、あなたとばったり出くわすことができたのは幸い――」
「だそうですよ峻護さん」
いろりがやんわりと、しかし抜群《ばつぐん》の呼吸で割《わ》って入った。
「生徒会長は今ここで感想を聞きたいようですから、言ってあげたらいかがですか? おそらくは二、三言で済むことですから」
「二.三言ですって? 冗談ではありません.あれは我がコンツェルンの重要ブロジェクトなのだから、事細かにレポートをもらわなければ割が合わないというものですわ。それも可及的速《かきゅうてきすみ》やかに」
令嬢は逆転《ぎゃくてん》を確信して優雅《ゆうが》に微笑み、艶《つや》やかな髪《かみ》をかき上げつつ、
「さあ二ノ宮峻護。悪いけれど今日のあなたの予定はすべてキャンセルしていただきますわよ? わたくしといっしょにこちらへ来て、栄養ドリンクの感想を存分《ぞんぶん》に話して聞かせなさ――」
「あの、すいません。その件なんですが」
ひどく恐縮《きょうしゅく》した様子で峻護が口を開き。
「じつはあの日、先輩にもらった栄養ドリンクのほかにも、その手の栄養剤的なものをいくつか複合《ふくごう》して飲んでまして……だから正直なところ、どの栄養剤にどの効果《こうか》があったのかはさっぱりわからないんです。ですから感想を言おうにもまるっきり大したことは言えないんですが……」
「んな」
まぶたもロもパックリ開けて呆然《ぼうぜん》とする麗華。まったくもって二ノ宮峻護、どうしてこの男はこんなに使えない男なのだろう! 毎度毎度いつもいつも!
「ではお話は済んだようですし、行きましょうか峻護さん」
いろりはこの事態《じたい》を予期《よき》していたかのごとく平然《へいぜん》と宣言《せんげん》して、
「そろそろ場所を変えましょう。次はどこがいいですか?」
「あ、いやその……」
使えないダメ男はそれでも令嬢のことを気にかけている様子ではあったが、いろりに引きずられてどんどん遠ざかっていく。麗華としてもこれ以上|難癖《なんくせ》をつけてゴネるのはさすがにためらわれ、そうして迷っているうちに男女ふたりはいずこかへ消えてしまった。
「…………」
残された令嬢はしばしの間、呆然としたままその場に突っ立っていたが、
「……くぅぅぅぅぅぅぅッ……!」
拳《こぶし》を握《にぎ》りしめ、ぶるぶると全身を震《ふる》わせて怨暖《えんさ》のうめきを漏《も》らした。
追わねばならない、と即座《そくざ》に決めた。理由は――理由は――そう、栄養ドリンクの感想を意地《いじ》でも聞き出すためだ。なぜならあの栄養ドリンクはコンツェルンの重要《じゅうよう》プロジェクト――いや、社運をかけた一世一代の大勝負に打って出るための基幹《きかん》商品なのだ。たった今そう決めた。だから二ノ宮峻護を追いかけて首根《くびね》っこを摘《つか》まえ、脳《のう》みそを洗ってでも記憶《きおく》をほじくり返し、有用な情報を聞き出すのだ。そうだそう決めた。
「見ていなさいよ……目にものを見せてくれますわ」
誰に向けているのか定かでない宣戦|布告《ふこく》の言葉を吐《は》き、憤然《ふんぜん》たる足取りで歩き始めつつ、しかし彼女の冷静な部分はしっかりとそろばんを弾いている。現状《げんじょう》、麗華の行動はかなりの不自由を強《し》いられていた。北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》たる彼女の手元《てもと》には豊富《ほうふ》な人材がそろっているが、彼らの多くはそれぞれの分野においてのスペシャリストであり、こういう事態《じたい》向けの人材は限られている上、保坂《ほさか》によればこの方面の人材は現在きわめて手薄《てうす》とのこと。なにしろ保坂ばかりか麗華自身までこうして現場で動かなければならないほどだ。むろん頭数だけならいくらでもそろえられるが、素人《しろうと》を集めたところで意味がない。この手の仕事に有能《ゆうのう》な人材がどこかにいないものか――
「あれ? そこにいるのは生徒会長じゃないですか」
「どうしたんすかこんなところで?」
その時、麗華の背後で怪訝《けげん》そうな声があがった。
京都の名所《めいレょ》といえば?
と聞かれて必ず名前の挙《あ》がるのは、清水寺《きよみずでら》・東山界降《ひがしやまかいわい》であろう。
たすくと真由のふたりは、誰もが一度は耳にしたことのあるこの定番《ていばん》スポットを、先ほどからあてどもなくうろついている。
「この三年坂はね、大同三年に作られたことからそう呼ばれてるんだけど、これとは別に産寧坂《さんねいざか》という呼び名もあるんだ。もともと清水坂の楼門側《ろうもんがわ》に子安観音《こやすかんのん》っていう安産祈願《あんざんきがん》の寺があってね、そこへの参道《さんどう》も兼《か》ねてたからそう呼ばれるようになったらしいよ?」
「…………」
「この先にあるお勧《すす》めの見所っていうと、やっぱり清水寺。それと地主《じしゅ》神社かな。この地主神社には恋占《こいうらな》いの石ってのがあってね、女性にとても人気《にんき》があるんだ。こう、注連縄《しめなわ》の巻《ま》かれた石がふたつあってね、その間を目を閉じたまま行き来できると恋愛が成就《じょうじゅ》されるって言われてる。どう? 面白《おもしろ》そうだし行ってみない?」
「…………」
「ちなみに清水寺にある有名な音羽《おとわ》の滝、これも縁結《えんむす》びのご利益《りやく》があるって言われてるね。ええと、三本ある滝のうちの、向かっていちばん左側だったかな? こっちは飲むだけで効果《こうか》があるらしいから、じゃあ先に清水寺のほうへ行ってみる?」
「…………」
「えーと…………」
「…………」
「…………」
(こ、こんのアマぁ……!)
貴公子的《きこうしてき》スマイルを絶《た》やさず浮《う》かべながらも、歯茎《はぐき》から血が滲《にじ》まんばかりに歯噛《はが》みするたすくである。場所を変え、手口を変えてもまだこの無反応《むはんのう》っぶり……この月村《つきむら》真由《まゆ》なる女、いつまで仏像《ぶつぞう》みたいに固まっているつもりなのか。京都出身であるという利点《りてん》を存分《ぞんぶん》に生《い》かし、豆知識《まめちしき》なども織《お》り交《ま》ぜて徐々《じょじょ》に関心を引いていくつもりだったが、これでは暖簾《のれん》に腕押《うずお》し糠《ぬか》に釘《くぎ》である。
(まさかとは思うけどこいつ……ほんまにわざと心を無《む》にして、俺の仕手《して》を防《ふせ》ごうとしてるんちゃうやろな?)
となりを歩くターゲットをあらためて観察《かんさつ》してみる。瞳の焦点《しょうてん》がぼやけてうつろ、足取りは酔《よ》っ払《ぱら》ったみたいにおぼつかず、どう考えても呆《ほう》けているだけにしか見えないのだが……だがそれこそが巧妙《こうみょう》なフェイクであり、たすくの油断《ゆだん》を誘《さそ》う罠《わな》ではないと、どうして言い切れるだろう。
(となると、俺の目的も正体も承知《しょうち》した上で、こうして俺についてきとるってことか? あかん、これは計画が一から狂《くる》うことになるで)
真由のあまりに極端《きょくたん》な木石《ぼくせき》っぷりにたすくの心理は動揺《どうよう》を示し、疑心暗鬼《ぎしんあんき》が生まれ始めていた。これまでの人生で、女性を落とすことにかけては髪《かみ》の先ほどの苦労も経験してこなかった少年のもろさが、図《はか》らずも露呈《ろてい》してしまった格好《かっこう》である。
(せやけどなんでや? 俺の仕手から逃《のが》れるためだけやったら、のこのこ俺についてくる必要はないやろ。俺の誘《さそ》いに乗《の》らず、距離《きょり》を取ってれば済むことやし……はっ、まさか!?)
ひとつの結論《けつろん》に至《いた》り、たすくの貴公子スマイルが驚樗《きょうがく》の色彩《しきさい》を帯《お》びた。
(まさかこいつ、すべてを承知の上で俺の誘《さそ》いに乗り、逆《ぎゃく》に俺を罠《わな》にはめようと……?)
これ以上ないほどの買い被《かぶ》りである。もしも彼が、真由の性格が案外《あんがい》浮《う》き沈《しず》みの激《はげ》しいことを知っていたら、回避《かいひ》できた勘違《かんちが》いであったかもしれない。あるいは彼女の人生の背景《はいけい》にもう少し詳《くわ》しければ――峻護にフラれるということが真由にとって何を意味するかを知っていれば、免《まぬか》れ得た誤解《ごかい》だったろう。
(くそったれ、上等やないか。俺は将来《しょうらい》の央条家《おうじょうけ》を背負《せお》って立つべき男、その挑戦《ちょうせん》受けて立ったろうやんけ!)
残念ながらすれ違いを修正《しゅうせい》することができぬまま、たすくは貴公子顔に新たな闘志《とうし》を燃やす。どのみち無茶《むちゃ》は承知の上での計画なのだ、この期《ご》に及《およ》んで虎穴《こけつ》に踏《ふ》み入ることをためらっていては、いかにして虎児《こじ》を得ようというのか。
だがどうする? 状況《じょうきょう》は一変したものの、仕手は今までと同じ路線《ろせん》で継続《けいぞく》すべきか? この女はこちらの仕掛《しか》けをこそ待っているのではないか? 仕掛けを待ち、合気道《あいきどう》の要領《ようりょう》でこちらの力をむしろ利用して、手痛い反撃《はんげき》を食らわそうとしているのかもしれない。では相手が仕掛けてくるのをこそ待つか? だがそれでは手詰《てづ》まりになってしまう可能性がある。こちらは今日中に片をつけたい反面、相手はただ時間が過《す》ぎるのを待つだけでよいのだ。
どうする? 後の先、先の後、それとも先の先、いずれを取るべきか。あるいはもっと別の打開策《だかいさく》を図《はか》るべきか――
たすくが静かで激しい、しかしまったく不毛《ふもう》な葛藤《かっとう》を繰り広げる間にも、ふたりの足は東山の地を形ばかりは悠然《ゆうぜん》と散策《さんさく》している.祗園会《ぎおんえ》が山場を迎《むか》えているからだろう、人通りは普段《ふだん》よりぐっと多い。その人ごみの中を、ごく普通のカップルのごとくふたりは割り進んでいく.真由の方はいよいよ足取りもあやしく、その美少女っぷりもあってひどく周囲の注目を集めてはいるが。
(よし決めた。迷うのは性《しょう》に合わん。手をこまねいとっても始まらんのやし、ここは攻めの一手《いって》や)
方針《ほうしん》を定めてターゲットに向き直る。どんどん症状《しょうじょう》の悪化《あっか》していく月村真由は海中を漂《ただよ》うクラゲのようにふらふらと上体を揺《ゆ》らし、半開きになった口からエクトプラズムの尾《お》を引き、控《ひか》えめに見ても末期《まっき》症状に達している。むろんこれは戦術上《せんじゅつじょう》の擬態《ぎたい》であろう。たすくは気にすることなく『落とし』の仕手を繰り出そうとして――
次の瞬間。
真由は道の脇《わき》を走る用水路《ようすいろ》で足を踏《ふ》み外し、他愛《たあい》もなくバランスを崩《くず》した。そのままむき出しのコンクリートへ頭から真ッ逆さま――
「うおっ!?」
たすくの反応も早い、あわてて手を伸ばして引っ張《ぱ》り上げ、だがその反作用《はんさよう》を殺しきれずに自《みずか》らもバランスを崩《くず》し、
(くそッ)
やむなくドジ女を抱きかかえ、自ら下になるような形で着地した。
受身《うけみ》を取れる体勢《たいせい》ではない。ズシンと重い衝撃《しょうげき》が背骨《せぼね》をきしませ、たすくの肺からえづき[#「えづき」に傍点]のような呼気《こき》がもれる。
「……痛っ――――たいやんけこのクソボケ女! フラフラしくさって何さらす――」
がばりと跳《は》ね起き、反射的に罵《ののし》ってしまってから失態《しったい》に気づき、
「……っていうのはほんの冗談で、だいじょうぶだったかい月村さん? どこか怪我《けが》とかしてな――」
クソボケ女と目が合った。
用水路に頭から突《つ》っ込《こ》もうとしていたことにようやく気づいたのか、月村真由は少しだけ瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》を回復《かいふく》し、たすくの目を下から覗《のぞ》き込むような格好《かっこう》で、
「あの、ありがとう……ございます」
こくん、と、かすかに頭を下げた。上目遣《うわめづか》いに、か細い声で、ひどく頼《たよ》りなげに。
心臓《しんぞう》にニ卜ロでも注入されたかのような一撃《いちげき》だった。庇護欲《ひごよく》、征服欲《せいふく》、所有欲《しょゆうよく》――男性的なあらゆる感情を刺激《しげき》してやまぬその仕草《しぐさ》、その表情。
鳴呼《ああ》――今すぐ、今すぐこの女を辱《はずかし》めたい.この女を力ずくで屈服《くっぷく》させ、忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》わせ、靴《くつ》の底をなめさせたい。そうして身も心も自分のモノにしたあとでゆっくりと――
(あかん! 惑《まど》わされるな俺!)
我《われ》ながら驚異的《きょういてき》な精神力で、たすくは暴走《ぼうそう》しようとする理性を抑《おさ》え切《き》った。
それでもなお手綱《たづな》を振《ふ》り切ろうとする欲望をどうにか鎮《しず》めるべく、たすくは必死《ひっし》で己《おのれ》に言い聞かせる。
(落ち着け俺、この程度《ていど》の試練《しれん》に耐《た》え切れんでどうする。俺は神戎《かむい》やから女を食い散《ち》らかすのはええ、せやけど心まで欲ボケしたらあかん。交われど溺《おぼ》れず、それが神戎たる者の鉄則《てっそく》やろ? それに俺には心に決めた女がおるんや、その女を泣かせるような真似《まね》は……ああいやまあ、実際には別の意味でわりかし泣かせとるけど……そやけどそれはまあ、愛情表現の一種っちゅーか俺の性癖《せいへき》がわりかしS気味《ぎみ》やからっちゅーか……というか別にあいつと正式に付き合ってるとかそういうわけでもないんやけど……)
なんとなくわびしい気分になってきたのと引きかえに、暴《あば》れ馬のような欲望《よくぼう》はおさまってきた。歯噛《はが》みしすぎて歯茎《はぐき》からにじみ出てきた鋳《さび》の味を飲み下しながら、たすくはクソボケ女を振《ふ》り返って、
「あはは……いやいや、礼には及《およ》ばないさ。君のお役に立てたのならこの奥城《おくしろ》たすく、背骨《せぼね》のひとつやふたつ折《お》れようとも本望《ほんもう》――」
巧言令色《こうげんれいしょく》はそこで止まった。
瞳の焦点が戻《もど》ってきたのも束《つか》の間、真由はまたしてもあちらの世界へ旅立ってしまったようだ。カビの生《は》えた魚の死体みたいに呆《ほう》けた面《つら》をさらし、ふやけたワカメみたいにふわふわしている――のだが、たすくの目にはそうは映らない。
(くッ。この女、ぜんぶわかってやっとるな!?)
彼の解釈《かいしゃく》によれば真由の行動は次のような意味を持つ。このクソボケ女は弱みを見抜いているのだ――たすくは真由に危害《きがい》を加えることができないという弱みを。その上でわざと自らに危険が及ぶような行為《こうい》=足を滑《すべ》らせて無防備《むぼうび》に用水路に突っ込むなどという真似《まね》をしてみせた。むろん、たすくが身を挺《てい》して自分を救いにくるだろうことを計算に入れてだ。そうして肉体的|接触《せっしょく》の機会《きかい》と、たすくの心理的な間隙《かんげき》とを同時に作り出し、神戎の魅惑《みわく》で龍絡《ろうらく》しようとした――
(くそっ、とんでもない女やで! しかし実際痛いところついてくるわ……打ち所を悪くしてほんまに死なれでもしたら元も子もないさけな。今のこいつって、ほんまにその程度のことで死にそうやし)
たすくは己の甘さを認めざるを得なかった。ボケた見た目にすっかりだまされていたが、この月村真由はれっきとした『自覚《じかく》ある神戎』であり、十氏族のひとつである継群の女なのだ。いかなる諜《はかりごと》をいだき、いかなる籠絡の技を繰り出してくるか知れたものではない。たすく自身もまたそうであるように。
(それにしても面倒《めんどう》な話やで……たとえこいつがとんでもない使い手やったとしても、これだけ無防傭《むぼうび》をさらしとるんや。カずくで組み敷《し》くだけならいつでもできるのに。ああくそ、さっさと一発やってまいたいわ……)
だがここで欲望に屈《くっ》してしまってもやはり元も子もないのである。この場合に限《かぎ》っては、精気《せいき》はあくまでも自然な流れで奪《うば》わなければならないのだから。たすくとしてはもともとさして多くもない忍耐力《にんたいりょく》を総動員《そうどういん》し、つとめて自制《じせい》しなければならない。
真由を籠絡する次の機会《きかい》を狙って東山近辺を散策《さんさく》しつつ、たすくは次第《しだい》にふくれ上がってくる焦《あせ》りと闘《たたか》っている。もっとも面倒な障害《しょうがい》である二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村|美樹彦《みきひこ》が国内不在であり、なおかつ地の利《り》がある京都にターゲットがいる今こそが千載一遇《せんざいいちぐう》のチャンスだというのに。
(くそっ、もっと楽にいくと思ってたんやけどな……)
たすくは是《ぜ》が非《ひ》でも目的《もくてき》を――『神精《しんせい》』になるという目的を達《たっ》しなければならないのだ。五人兄妹の末《すえ》っ子が当主《とうしゅ》に成り上がるには、一族郎党《いちぞくろうとう》の誰もが認《みと》める手柄《てがら》を立て、実績《じっせき》をあげなければならない。神精になりさえすれば、その条件を十分満たせるはずであった。そして次期当主に内定した暁《あかつさ》にはあいつを――
(そうや、弱気になるな俺。とっくに不可侵《ふかしん》協定《きょうてい》を破《やぶ》っとる今となってはもう後には退《ひ》けん。やるしかないんや、やるしか)
まなじりを決してひとつ頷き、決意も新たにターゲットを見やって、
「ほあっ!?」
ヘンな声が出た.となりを歩いていたはずの真由がふらふらと道をはずれ、階段の切れ目に向かってよたよた歩いていくではないか。そのまま真《ま》っ直《す》ぐ行けば十数メートルの高さを真ッ逆さま――
(あのボケ、ちょっと目を離《はな》した隙《すき》にまた!)
舌打ちする間もあればこそ、たすくは十氏族の直系にふさわしい身体能力《しんたいのうりょく》を発揮《はっき》し、わずか一歩の踏《ふ》み出しで真由がいる位置までの距離《きょり》を詰《つ》めて、
「!?」
同時、こちらに向かって疾走《しっそう》してくる不穏《ふおん》な気配《けはい》の存在に気づいた。
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其の三 奪《うば》われるくちびる
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某日《ぼうじつ》某所でのことである。
「神精《しんせい》に深く関わるとされるふたり――|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》と月村《つきむら》真由《まゆ》を有効《ゆうこう》活用《かつよう》する道をさぐる。その点はいい。だが……」
列席者《れっせきしゃ》のひとりがさっそく疑問《ぎもん》を呈《てい》した。
「いかにしてそれを成《な》す? 我《われ》らが成そうとしていることは、|鬼ノ宮《きのみや》と継群《つぎむら》にとっては手ひどい裏切りにはちがいない。露見《ろけん》すれば報復《ほうふく》を受けるのは必至《ひっし》だろう。やつらも馬鹿《ばか》ではない、これだけ神精に関する情報を明らかにしたからにはそれなりの警戒《けいかい》はするはずだ。まずはその警戒をかいくぐる算段《さんだん》が必要になるやと思われるが」
「然《しか》り。鬼ノ宮と継群が求め、我々《われわれ》も一応は同意《どうい》した不可侵協定《ふかレんきょうてい》に反するリスクを犯《おか》すのだ。事《こと》は慎重《しんちょう》に運ばねばならん」
「だが慎重に運ぶのは当然にしても、この際《さい》は拙速《せっそく》に徹《てっ》することも必要となろう。聞くところによれば鬼ノ宮と継群の若造《わかぞう》ども、神精にまつわるやつらの思惑《おもわく》を国外の血族《けつぞく》にも持ちかけるそうではないか。このままやつらの筋書《すじが》きどおりに事が運ぶようなら、我らは後手《ごて》後手に回った末《すえ》、ぶざまな道化《どうけ》を演じることになりかねんぞ?」
疑問《ぎもん》は反諭《はんろん》を、反論はさらなる反論を呼ぶ。議論はまるで闇夜《やみよ》の熾火《おきび》のように、薄暗く静かに熱を帯びた。
沈黙《ちんもく》していた年頭《としがしら》の男が、やがて議論《ぎろん》を総括《そうかつ》した。
「隙《すき》を見て拉致《らち》する。これがやはりもっとも手っ取り早く、確実《かくじつ》だろう。手中《しゅちゅう》に収めさえすればあとはどうにでもなる」
「同感だな。若造どもが言うには、神精となるために必要不可欠《ひつようふかけつ》なのは『愛』だそうだが……なに、愛とやらを錯覚《さっかく》させる方法などいくらでもあろう。まずは標的《ひょうてき》を手に入れる、それこそが肝要《かんよう》だ」
「折《お》りよく近々、標的のふたりは修学旅行に出かけるというではないか。おまけに信頼《しんらい》できる筋《すじ》の情報によれば、時を同じくして鬼ノ宮と継群が国内を留守《るす》にするという。この機を逃《のが》さず行動に出るべきだ」
「それはよいが、ひとつ提案《ていあん》がある.神精であると確認《かくにん》されたという二ノ宮竣護だが、現在のところ何らの力も持たぬという。鬼ノ宮と継群の話では何らかの原因《げんいん》によって力を封《ふう》じられているのではないかという話だったが、さしあたり無力《むりょく》なのであれば放っておいても大過《たいか》ないかと思える。使える手駒《てごま》は限られるし、気取《けど》られぬよう動きは最低限に抑《おさ》えねばならんことを考えれば、この際は無視《むし》してもいいのではあるまいか」
「賛成《さんせい》だ。優先順位は、神精の源と言われる月村真由にあるのは明らか。まずは全力をあげて月村真由を奪取《だっしゅ》するに如《し》かず」
「その点について異論《いろん》はないが、いまひとつ問題があるぞ。ここに集《つど》って手を結んだ者たちの他にも神精を狙《ねら》う輩《やから》が現れてもおかしくはない、ということだ。我らよりはるかに二ノ宮峻護と月村真由に近しい者もいよう.そやつらに先を越《こ》されては如何《いかん》とする?」
「そのためにも早急《そうきゅう》に行動を起こさねばならんのだ。少なくとも現時点においては、反鬼ノ宮・継群|枢軸《すうじく》の集団は我等が群を抜いて最大。今のうちであれば、他の連中がどう動こうと力でねじ伏《ふ》せることができるだろうさ――」
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(くそっ、どこの連中や? 神精を狙っとるのはやっぱり俺だけやなかったか!)
ごくあたりまえの観光客《かんこうきゃく》を装《よそおい》いながら突如《とつじょ》として牙《きば》をむいた曲者《くせもの》どもの初手《しよて》をどうにかしのぎ、たすくは声に出さず毒づいた。
刺客《しかく》は男女あわせて五名。初手をかわされたものの諦《あきら》める気配はなく、背後《はいご》に真由をかばうたすくに向かってじりじりとにじり寄ってくる。その構《かま》え、その間合《まあ》い、いずれも相当《そうとう》な手練《てだ》れと思われた.歩法のクセからして西条《さいじょう》、あるいは鎌足《かまたり》の一族か……どちらにせよ十氏族《じゅっしぞく》ゆかりの者であるには違いない。
何者か、と誰何《すいか》する間もなく、曲者《くせもり》のひとりが動いた。大きく踏《ふ》み込んでの上段蹴《じょうだんげ》り。鋭《するど》いが、しかし明らかな大振《おおぶ》りだった。難《なん》なくかわして反撃《はんげき》しようとして、たすくは気づいた。それこそが刺客の狙い、ことさら隙《すき》を作ってあえて反撃させることで逆にたすくに隙を作らせるための囮《おとり》。深追いを避《さ》けて踏みとどまると、案《あん》の定《じょう》側面から別の刺客が襲《おそ》い掛《か》かってきた.予測《よそく》していたゆえ避《よ》けることはできたが、それ以上のことはできない。相手の狙いが明らかである以上、さしあたり反攣をひかえて守りに徹《てっ》するしかあるまい。
(しかしそれやと時間の間題やな)
ジリ貧《ひん》になるであろうことを早々にたすくは予見《よけん》した。真由をかばいつつ巧妙《こうみょう》に観光客や建物を利用して死角《しかく》を消しているため、曲者どもも一斉《いっせい》には掛《か》かってこれない。だがしょせんは多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》である。このままではまずい。いきなり始まった喧嘩《けんか》に虚《むな》しく驚《おどろ》いているばかりの観光客たちが、気を利《き》かせて通報《つうほう》でもしてくれれば展開も変わってくるかもしれないが、
(! ミスった――)
展開の予測《よそく》に一瞬《いっしゅん》気を取られたのが災《わざわ》いした.それまで上手《うま》く立ち回って死角を消していたものが一瞬《いっしゅん》、左右同時に空白を作ってしまった.曲者どもはその隙《すき》を見逃さない、三人がかり、前方と左右から呼吸《こきゅう》をそろえて襲《おそ》い掛《か》かってくる。防《ふせ》げるのはひとり、よほど展開に恵まれてもふたりまで。このままでは残りひとりの仕掛けを防げない――
絶望的《ぜつぼうてき》な展開を予知《よち》してたすくのくちびるが引きつった、その時。
(!? なんや!?)
横合いから飛び出してきた影《かげ》が、たすくに引導《いんどう》を渡そうとした曲者に一撃《いちげき》。さらに後方から躍《おど》り出てきた別の影が残りの曲者どもを牽制《けんせい》し、間合《まあ》いを取らせた。
「な、なんやおまえら……?」
突如《とつじょ》として闖入《ちんにゅう》し、たすくの危機を救ったふたり.一方は翁《おきな》の面、もう片方は媼《おうな》の面をかぶって素顔《すがお》を隠している。むろん、たすくの知らぬ連中だ。
だがそのふたりによって形勢《けいせい》が一変したことは確かだった。数の上からもこれで三対五。
拮抗《きっこう》しているとまでは言えずとも極端《きょくたん》な戦力差ではなく、短期決戦《たんきけっせん》が必須《ひっす》の奇襲《きしゅう》はすでに失敗したと言える。おまけに異変《いへん》に気づいた観光客たちも騒《ざわ》ぎ始めつつあった。たとえ平均以下の脳みそしか持ち合わせていなくとも、もはや潮時だと判断できるはず――
「あっ、おいこら待たんかい!」
予想どおり、曲者どもはきびすを返して一目散《いちもくさん》に逃走した。すかさず翁と媼のふたりが追い、あとにはたすくだけが残される.むろん、彼まで追走者《ついそうしゃ》の一員に加わるわけにはいかない。
(くそ、いったいどうなってんねや……)
小競《こぜ》り合いの最中《さなか》に受けた軽い負傷の具合《ぐあい》を確かめつつ、突如として幕が降りたアクション活劇《かつげき》に呆気《あっけ》に取られている観光客たちへ適当《てきとう》な愛想《あいそ》笑いを振《ふ》りまきながら、
(それにしても、こうも強引なやりかたで来よるとはな。四の五の言わずとにかく神精の源を拉致《らち》ってまえ、っちゅーことか)
たすくよりもいっそう切羽詰《せっぱつ》まっている氏族の手の者だろうか。あるいは彼の想像しているよりもはるかに激《はげ》しく、月村真由の争奪戦《そうだつせん》が水面下で繰《く》り広げられているということか。
(ともあれ他の連中がこうもあからさまに動き出したとなると、こりゃうかうかしとれんで。早いとこ目的を果たさんと……ん? いや待てよ)
あることに気づき、たすくは瞳《ひとみ》の端《はし》をキラリと光らせた。
(これってひょっとしたらチャンスやないか? ようわからん助《すけ》っ人《と》が現れたにせよ、クソボケ女は曲者に襲われて、そいつらから救ってやったのはこの俺や。そして危機《きき》を救った男と危機を救われた女の間にはカンタンに特別な感情が芽生《めば》えるもの。この女も俺の実力を目《ま》の当たりにして、これまでの俺に対する印象《いんしょう》をガラっと変えてもおかしない。……くく、こりゃようやく風向きが変わってきたかもしれんな。クソうっとうしい武術《ぶじゅつ》修行《しゅぎょう》を我慢《がまん》してつづけた甲斐《かい》があったってもんやで)
図《はか》らずも好機《こうき》を作ってくれた曲者どもに感謝したい気分でほくそ笑みつつ、表面上は満面の貴公子《きこうし》スマイルで振《ふ》り返り、
「やあ月村さん、もうだいじょうぶだよ。君を狙ってきた悪いやつらはみんな僕がやっつけた――」
「――――(ぽわーん)」
あれだけの激戦《げきせん》で大騒ぎでギャラリーの注目を集めまくったにも関わらず、
月村真由はあっちの世界に旅立ったままだった。
(こっ、このクソボケ女……面倒《めんどう》なことはぜんぶ俺に任《まか》せて自分は高みの見物《けんぶつ》かい! なんちゅう性格わるい女や!)
段々《だんだん》わからなくなってきたたすくである。月村真由の度《ど》を越《こ》した呆《ほう》けっぶりを擬態《ぎたい》であると見抜いたつもりだったが、やっぱりただ単に呆けているだけなのではあるまいか? 刺客《しかく》が彼女を狙っていたのは明らかであり、正気であればいかに擬態が巧妙《こうみょう》でも自衛《じえい》行動に出るのは当然のはず――いやいや、自衛をすら放棄《ほうき》した捨て身の気迫《きはく》で擬態を徹底《てってい》しているのかもしれない.あるいはたすくの格闘能力《かくとうのうりょく》を正確に見抜き、自分に危険は及《およ》ばないと見切った上であえて無防備状態《むぼうびじょうたい》を押し通したとか……
(くそっ。フェイクなのかマジなのか、それすら読めんとは。今となっては十氏族|筆頭《ひっとう》との呼び声も高い継群《つぎむら》の、これが実力ってわけか……)
抜きん出て聡明《そうめい》ではないにしろべつに愚鈍《ぐどん》なわけでもないたすくだったが、先入観《せんにゅうかん》と買いかぶりが少々行き過《す》ぎたようである。疑心暗鬼《ぎしんあんき》が完全に深みにはまっていた。
(ええい畜生《ちくしょう》! 迷ってる場合やない! 何としてでも月村真由を落として、この俺も神精になるんや!)
決意を新たにし、央条家《おうじょうけ》の末《すえ》っ子《こ》はよりいっそう完壁《かんぺき》な貴公子スマイルを作ると、
「さあ月村さん。この場所はケチがついてしまったし、新しい場所へ行ってデートをやり直すんだそうだそうしょう!」
抱《かか》え込むような形で真由を押しやりつつ、次なるデートスポットへ向かうのだった。
「ん。どうやら河岸《かし》を変えるみたいだね」翁の面《めん》を脱《ぬ》ぎながら少年が言う。
「そうだな。わたしたちも移動するとしよう」媼の面を脱ぎながら少女も言った。
高台にある東山界隈《ひがしやまかいわい》をさらに見下ろす位置のとある丘陵《きゅうりょう》で。
松の老木の枝に腰掛《こしか》けながら、 一組の男女が下界の動きを眺《なが》めている。
「しのぶ。刺客《しかく》さんたちの行方《ゆくえ》はどう?」
「部下たちが抜かりなく追跡《ついせき》している。牙《きば》の根元までがっちり食らいついた感触《かんしょく》はあるから心配は無用《むよう》だ。一度食いついたら決して放しはしない」
少年は北条《ほうじょう》麗摯《れいか》の付き人、保坂光流《ほさかみつる》。
少女は北条家における最年少のメイド長であり、北条家|保安部《ほあんぶ》の現場《げんば》責任者《せきにんしゃ》でもある霧島《きりしま》しのぶであった。
「それにしても大仰《おおぎょう》なことだな」すらりとした肢体《したい》を黒のパンツスーツに包《つつ》み、緋色《ひいろ》の刀袋を提げたしのぶが鼻を鳴らした。「こんな面をつけて町中をうろつくことになるとは……ひさしぶりに国に戻ってきて最初の仕事がこれか。おまえの下についてこれまでろくな目をみたことはなかったが、今回もまたずいぶんと振《ふ》るっているじゃないか。なあ光流?」
「しょうがないじゃない。真っ昼間に正体を隠す手段《しゅだん》って、そんなには多くないんだからさ。これでも雰囲気《ふんいき》重視《じゅうし》で選んだほうなんだから、文句《もんく》言わないの。それとも有名なアニメキャラとかのお面のほうがよかった? 夜店で売ってるようなやつ」
「くだらん戯言《ざれごと》に付き合ってるひまはない、さっさと奥城たすくと月村真由の後を追うぞ。またあのふたりを襲《おそ》ってくる連中が――我々《われわれ》の網《あみ》に飛び込んでくる連中がいるとも限らんからな」
古木の枝から飛び降り、耳に仕込んだ極小型《ごくしょうがた》トランシーバーで近辺に配置《はいち》した部下たちと連絡を取り合いながら先を行く幼《おさな》なじみの背中を、保坂は苦笑交じりについていく。
彼は現在霧島しのぶの協力を得て、とある仕事に取り組んでいた。主人である麗華からおおせつかった任務《にんむ》――月村真由と奥城たすくの監視《かんし》などよりはるかに難易度《なんいど》の高い仕事に、である。
「十氏族会議での決定――神精に関する協定に背《そむ》いて独走《どくそう》する不穏分子《ふおんぶんし》を、餌《えさ》を用いて誘い出し、これを一網打尽《いちもうだじん》にする。これまではおおむね、二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村|美樹彦《みきひこ》の筋書《すじが》きどおりではあるな」
「そうだねえ。あのひとたちの見通しは大概《たいがい》が図《ず》に当たるからねえ」
まんまと餌に――神精の源とされる月村真由に食いついてきた連中は、これで公然と協定に反したことになる。今後は涼子と美樹彦に生殺与奪《せいさつよだつ》の権を握《にぎ》られたも同然となろう。あのふたりの思惑《おもわく》のすべてを知っているわけではない保坂だが、どうやら彼らはこれを機会《きかい》に、停滞《ていたい》する現状に大鉈《おおなた》をふるうつもりらしい。その手始めとして膿《うみ》や悪血《おけつ》を一掃《いっそう》しようという心積《こころづ》もりなのだろう。その仕事の一環《いっかん》が、いやもっとも要《かなめ》となるべき部分が、保坂に任されているわけである。
「しかしいいのか? わたしたちがふたりとも麗華のそばを離《はな》れてしまって。わたしたちが最優先にすべきは麗華の護衛《ごえい》であり、麗華の安全であるはずだが」
「ま、今回に限って言えば、お嬢さまが身の危険にさらされるようなことはほとんどないはずだよ。神精に関わってるのは二ノ宮くんと真由さんのふたりってことになってるし。むしろヘンに首を突っ込んで話をややこしくしないか、そっちのほうが心配なくらい。それにしのぶの部下だってちゃんとお嬢さまの周りに配置《はいち》してるわけでしょ?」
「まあそれはそうだが……しかしわたしも光流もそばにいないとなると、正直いって不安にならざるを得ん」
「まあだいじょうぶだよ、念のために護衛兼舵取り役[#「護衛兼舵取り役」に傍点]をつけといたから。それだって万一の時の保険なんだからね。身を守るだけだったらお嬢さまには初めからこの上ないボディーガードがついてる[#「身を守るだけだったらお嬢さまには初めからこの上ないボディーガードがついてる」に傍点]」
太鼓判《たいこばん》を押したものの、しのぶは今ひとつ心情的に納得してない様子だった。だがひとまずは不満を呑《の》み込んだらしく、
「ところで光流、わたしはまだ神精に関する話を十分に理解《りかい》していないぞ。なにしろ急な話だったからな、かいつまんだ説明しか受けられぬまま、長年の付き合いのよしみだけでここまで従ってやっているのだ。もう少しわたしに対する誠意《せいい》の示しかたがあると思うのだが?」
「そりゃまあ、確かに。で、何を聞きたいわけ?」
「そうだな、まずは二ノ宮峻護が神精らしいということ――いや、そもそも奴《やつ》が神戎《かむい》だということにも驚《おどろ》いたが、それにしてもあの男はいつからそう[#「そう」に傍点]だったのだ? 生まれた時から神精だったのか? それとも人生を過ごすうちのどこかの時点でそう[#「そう」に傍点]なったのか? それにさっきの刺客《しかく》どもはどうして月村真由を襲う? 二ノ宮峻護が神精であるなら奴を狙えば済むのではないか? なぜ月村真由なのだ?」
「そうだねえ、まあ順を追って話すとね。すんごく仲の悪い十氏族の代表者たちが雁首《がんくび》そろえて集まってね、話し合いの末にまがりなりにも不可侵《ふかしん》協定と相互《そうご》協力関係なんてものが成立したのはね、これは涼子さんと美樹彦さんが神精っていうエサをちらつかせたからだね」
「ふむ……『神精の分け前は氏族すべてに分配《ぶんぱい》する。だからケンカなんぞやめてお前ら仲良くしろ。ついでに協力もしろ』とでも言ったのか」
「ま、大まかにはそんなとこ」
「しかし実際問題として、神精を手の内に入れているのは鬼ノ宮・継群枢軸のみなんだろう? そもそも神精の分け前などというものはどうやって分配すればいいのだ? まさか二ノ宮峻護の手足を一本ずつ引っこ抜いて配るわけにもいくまいに」
「それはつまりね、十氏族会議での提案《ていあん》は、より詳《くわ》しく言うとこんな感じだったわけだよ。『どうやら神精は現れたようだが、そもそも神精なるものの実態《じったい》はまだほとんど不明《ふめい》であり、究明《きゅうめい》には相応《そうおう》の研究を要する。よってこの研究が成果を上げるまでの期間《きかん》、氏族同士での敵対的《てきたいてき》接触《せっしょく》を自粛《じしゅく》するよう要請《ようせい》し、同時に積極的な協賛《きょうさん》を求む。その見返りとして、神精の研究によって得られた成果は広く兵族のすべてに分配する』って感じかな?」
「ふむ。研究の成果ときたか」
「語り継《つ》がれてる神精の伝説が百分の一でも事実として、そのおこぼれにいくらかでもあずかれるとしたら……ま、それなりに魅力《みりょく》のあるエサではあるだろうねえ。神戎十氏族の活力《かつりょく》と影響力《えいきょうりょく》は現代科学文明に押されてどんどん落ちてきてるし。その状況にこれといった打開策《だかいさく》も打ち出せずに手詰《てづ》まりになってるとこだし。一発《いっぱつ》逆転《ぎゃくてん》の芽があるなら、多少の不平不満は呑み込もうって思うんじゃないかな」
言って、保坂は丘陵《きゅうりょう》から見下ろす景色《けしき》に目を向けた。
時計の針《はリ》は正午を回り、古都《こと》の人いきれはいよいよ濃《こ》くなっている。ぶもとの八坂神社《やさかじんじゃ》に集まる人々の度騒《けんそう》、さらには遠く河原町《かわらまち》のあたりで湧《わ》いている山鉾巡行《やまほこじゅんこう》のお囃子《はやし》が、山肌《やまはだ》を這《は》い登ってうっすらと耳に届《とど》いてくる。
「わかった、その点はひとまずおこう。ともあれ二ノ宮峻護が神精だとすれば、当然奴は神戎だということにもなるわけだが。しかし奴には神戎らしさというものがまったくといっていいほど無《な》い。これはどういうことだ? 多少腕は立つようだが図抜《ずぬ》けたものではないし、何より奴は他者から精気を吸《す》って生きているようには見えん。そんな甲斐性《かいしょう》はなさそうだしな。いやそれ以前にだ、空想の世界の産物《さんぶつ》になりかけていた神精の存在を、頭の固そうな十氏族のお偉方にどうやって信じ込ませた? 奴が十氏族会議に出向いていって、何かパフォーマンスでも示してみせたのか?」
「さすがにそれはないけどね。でも、涼子さんと美樹彦さんがお偉方に対していくつかの傍証《ぼうしょう》と仮説《かせつ》を提示《ていじ》したのは確かだよ。それなりに説得力のあるやつをさ」
「その傍証と仮説というのは?」
「最初に示唆《しさ》したのは、幼少《ようしょう》のころの二ノ宮くんが示した神戎としての潜在能力《せんざいのうりょく》の高さだ。鬼ノ宮の嫡男《ちゃくなん》の神童《しんどう》っぶりは、当時の業界[#「業界」に傍点]ではちょっとした語り草になってたからね。今では往年《おうねん》の面影《おもかげ》はほとんど残ってないけど、順当《じゅんとう》に育っていれば彼、相当な大物に成長したはずだよ」
「ふむ。近年では十氏族の生まれだからといって、誰しもが神戎としての素質《そしつ》を持っているわけではないからな。その点を考慮《こうりょ》に入れればなおさら出色《しゅっしょく》の才能だったわけだ」
「そゆこと。それにさ、二ノ宮くんって真由さんに精気を根こそぎ吸われて、才能のほとんどを失ったことになってるけど。普通なら即死《そくし》してもおかしくないほどの精気の吸われっぶりだったらしいからね。五体満足に今も生きのびてること自体が、二ノ宮くんの潜在能力の証明だってことになるかな」
「だが結局のところ、その潜在能力も吸われつくしてしまったんだろう? なのに二ノ宮峻護が神戎だというのか?」
「そこなんだけどね。実際問題、十氏族出身の神戎と呼ぶには少々スケールが小さいかなって思うけど、淫魔《サッキュバス》としての条件はおおむね満たしてるんだ。見た目は上出来だし、本人は度《ど》を越した堅物《かたぶつ》ではあるけど相当《そうとう》にモテる.運動能力とか知能指数《ちのうしすう》の高さは、レベルこそ平凡だけどいかにも十氏族の神戎っぽいよね」
「しかし奴は精気を吸わないのだろう? ごく普通に世間《せけん》にまぎれている無自覚《むじかく》な淫魔にも、神戎と呼ばれるほどに強力で自覚ある淫魔にも例外なく共通するのは、『他者から精気を吸って生きている』という点にあるんじゃないのか?」
「うん、普通に考えたらそうだよね。けどさ、涼子さんと美樹彦さんはまったく逆の主張《しゅちょう》をするわけだよ。つまり二ノ宮くんは、精気を他者から吸わなくても生きていられる神戎なんじゃないか[#「精気を他者から吸わなくても生きていられる神戎なんじゃないか」に傍点]、ってね」
「なんだと……?」
思わぬ方向に話が逸《そ》れてきた。もし事実だとすれば従来《じゅうらい》の固定概念《こていがいねん》がくつがえることになる。
「だが光流、そんな神戎は存在し得《う》るのか? 国内のみならず、広く海外に目を広げてみても実例のない話だが」
「そお? そんなことないと思うけどな。わりと身近なところに前例がいるじゃない」
「なに……?」
「月村真由[#「月村真由」に傍点]さん。男性|恐怖症《きょうふしょう》であることをのぞけば、彼女ってこれ以上ないくらい淫魔《サキュバス》だよね? でも彼女、日常的《にちじょうてき》に精気を吸って生きてるわけじゃないでしょ? 精気を吸えなくて相当不便《そうとうふべん》してるし、禁断症状《きんだんしょうじょう》もひどい。でもちゃんと生きて、わりと普通に暮らしてる。本来なら生きてることが不思議なくらいなのにね[#「本来なら生きてることが不思議なくらいなのにね」に傍点]」
口をつぐむしのぶである。確かに月村真由は相当に特殊《とくしゅ》な神戎だ。そうなると、特殊だからという理由だけで『二ノ宮峻護は神戎にあらず』と断定《だんてい》するのはいささか早計《そうけい》と思えてくる。
「一万人の兵力にはとてもじゃないけど匹敵《ひってき》しないし、山どころか岩ひとつ動かせないだろうけど、でも二ノ宮くんは十分に特別な神戎と呼ぶに値《あたい》するよ。よしんば神精でなかったにしても研究の価値《かち》は大いにある」
「ふむ……だがしかし、現実問題として二ノ宮峻護個人に大した力はないのだろう? 疑り深いお偉方を食いつかせるほどのエサとは言えないのではないか?」
「そこでもうひとつ面白い話が出てくるんだよね。涼子さんと美樹彦さんの言い分によればさ、二ノ宮くんの潜在能力《せんざいのうりょく》は消えたんじゃたくて、封じられてる[#「封じられてる」に傍点]んじゃないか、っていうんだよ」
「封じられてる、だと……?」
そろそろ頭の整理が必要になってきたようである。しのぶはこめかみを指で探《も》み解《ほぐ》しつつ、これまで聞いてきた話を再構築《さいこうちく》しながら、
「いつ誰が、何のために奴の能力を封じたというのだ? そんなことをして誰の得になる? いや、わからないことはまだあるぞ。どうして月村真由が狙われるのだ? 刺客の連中が狙うべきは二ノ宮峻護なのではないか? 神精であるとされているのは奴のほうなのだろう?」
「理由のひとつは君が言ったとおりかな。刺客のみなさんから見て二ノ宮くんの優先順位が低いのは、『今の二ノ宮くんに大した力がない』からだよ.まあ当然だろうね、懐柔《かいじゅう》なり洗脳《せんのう》なりして彼の力を存分《ぞんぶん》に利用できるようになったとしても、潜在能力が封《ふう》じられてるなら意味がないもんね」
「もうひとつの理由は?」
「そうだね、じゃあヒントを出そうか。そもそも二ノ宮くんと真由さんが『特殊な神戎』になったきっかけって何だっけ?」
「むう……?」
出し惜《お》しみされてることも意に介《かい》せず、しのぶは懸命《けんめい》に頭をひねってから、
「そうか、そういうことか……いや、しかしそんなことがあり得るのか? 聞いたこともないぞそんな話……」
「でも可能性としては当然|浮上《ふじょう》してきてもいい仮説《かせつ》だよ。二ノ宮くんが神精になったきっかけは月村さんのキスにあったんじゃないか[#「二ノ宮くんが神精になったきっかけは月村さんのキスにあったんじゃないか」に傍点]、っていうのはね」
そもそも祗園会《ぎおんえ》とは、四条通《しじょうどおり》の東のどんづまり、八坂神社の祭礼のひとつである。一か月もの長きにわたって祭事《さいじ》を執《と》り行う異数《いすう》の祭りであり、その歴史の長さと広壮《こうそう》さは全国屈指のものだ。わけても絢爛《けんらん》可憐《かれん》な三十二の山鉾を引いて都の中心を練《ね》り歩く『山鉾巡行』は最大の見せ場。多くの観光客が通りのそこかしこにひしめき、京の都は一年でもっとも騒《さわ》がしい時期を迎《むか》えている。
「『注連縄《しめなわ》切り』とか『くじ改《あらた》め』とか、見せ場はいくつもありますが……今の時間に見られそうなのは『辻廻《つじまわ》し』ですね。巡行ルートの曲がり角にさしかかった時、重さが何トンもある山鉾を人の力だけで方向転換《ほうこうてんかん》するんです。なかなか壮観《そうかん》ですよ。喧嘩神輿《けんかみこし》みたいな勇壮《ゆうそう》さはありませんが、いかにも京風《きょうふう》な雅《みや》びがあるんです」
京都の中心街をいろりに運れられて歩きながら、彼女の解説《かいせつ》を峻護は半ばぼんやりと聞いている、日が中天《ちゅうてん》を過《す》ぎた今、人いきれは息苦しいほどに充満《じゅうまん》し、照《て》りつける陽光《ようこう》に灸《あぶ》られてチリチリと肌《はだ》の焼ける音まで聞こえてきそうだった。
その中にあって不思議と汗《あせ》ひとつかかぬいろりが、保坂みたいな朗《ほが》らか笑顔で峻護の腕を引きつつ、とめどなく会話をつなげている、
「三十二の山鉾が町を練り歩く順番は、毎年くじで決められます。ですがいくつか例外的な山鉾もあって、それらは毎年おなじ列の位置で巡行するんですよ。一番目の長刀鉾《なぎなたほこ》、五番目の函谷《かんこ》鉾、三十二番目の南観音山《みなみかんのんざん》などがそうですね。ほら、あそこに見えてるのが長刀鉾。少し下って函谷鉾――」
いろりが指差す方向へ、調教師《ちょうきょうし》に指図《さしず》される猿《さる》みたいな動作で首を向ける峻護。天を衝《つ》く山鉾が大通りにずらりと並ぶ景色《けしき》はなるほど壮観《そうかん》であり、京都人のいろりのロが滑《なめ》らかになるのも頷《うなず》ける。
しかし優柔《ゆうじゅう》不断《ふだん》の彼が考えているのは観光地のことではない。
「あの、いろりさん」
「はい。なんでしょう?」
「その、昨日の夜のことなんだけど……」
幾重《いくえ》にも煩悶《はんもん》を経《へ》て、ようやく峻護はそのことを口にした。
「あれはその……誤解《ごかい》なんだ.いや、何かの間違《まちが》いだったんだ。君にあんなことをしてしまうなんて、どうかしてた」
いろりは黙《だま》ってにこにこ聞いている。
「とはいえあんなことをしてしまったのは確かで、そのことについては言い逃《のが》れできない。ただなんというかその、必ずしもおれの意思だったわけじゃないんだ。いや、これは我《われ》ながら女々《めめ》しい言い訳かもしれないけど……でも、本当にそうなんだ」
実際のところ、昨夜の一件を主導《しゅどう》していたのはいろりの方であろう。にも関わらずそのことにはひとことも言及《げんきゅう》しないあたり、峻護の峻護たるゆえんかもしれない。
「あんなことがあったからには、妙《みょう》な思い違いを招《まね》いてしまったかもしれない。でもそれはおれの本意じゃなかった。とはいえ責任はおれにあると思う。でも君はとても魅力的《みりょくてき》だと思うし。べつにおれじゃなくても……いや、この言い方はおかしいな。ううむどう言ったらいいのか……」
まとまりがなくなってきた話を、いろりは黙《だま》ってにこにこ聞いている。怒っているわけではなさそうだが、なんとなく、恐《こわ》い。
「えーとその……」
さして弁《べん》の立たない峻護は、相手が黙ってしまうと会話がつづかなかった。
見た目に反してサディズムの気があるらしい少女は、言葉に窮《きゅう》して喘《あえ》いでいる少年をたっぷりじっくり見つめてから、
「お話はお終《しま》いですか?」
「あー……うん。とりあえずは」
「わかりました。ではデートをつづけましょう」
「えっ? いやその、無反応《むはんのう》というのはちょっと悲しいというか、何かしら返答をもらえるとありがたいんだけど……」
「必要ないですよ。だってわたし、峻護さんのこと信じてますから」
「信じてる……?」
「はい。峻護さんのことを信じています」
「…………」
何を信じているのか口にしないあたりも恐い。
どうやらこちらの方面では何を言っても芳《かんば》しい反応はもらえないらしい――そう悟り、まだ確認できていない問いをぶつけてみる。
「いろりさん。さっきはゴタゴタがあってけっきょくうやむやになったけど……やっぱり君は、サキュバスなのか?」
「うふ、それについては先ほど言ったとおりですよ。どうぞ峻護さんご自身で、お好きなように確かめてください」
「いや、確かめろと言われても……」
「だいじょうぶです。やさしくしてあげますから」
「いや、そういう問題じゃ……」
困惑《こんわく》する峻護をにこにこ見守っていたが、ふいに声の調子を変え、
「奥城《おくしろ》は隠《かく》し名を央条《おうじょう》と称《しょう》し、二千年にわたって都に根を張《は》る神戎の血族。わたしは央条家に二十ある傍流《ぼうりゅう》の出ですが、恩顧《おんこ》あって本家に入り、今では央条の名を戴《いただ》いております」
「え? おうじょう……かむい? なんの話?」
「…………。峻護さんはほんとうに何も知らないんですねえ」
わずかに柳眉《りゅうび》をハの字に下げ.燐憫《れんびん》と羨望《せんぼう》が入り混《ま》じったような視線を向けてくる。
「そんな峻護さんにはやっぱり.たまには苦労してもらわなければいけません。というわけでキスしてください」
「な、なんでそうなるんだ……?」
「一種のおしおきだと考えてください。やっぱり唆護さんはとてもずるい立場にいるみたいなので」
「……すまない。意味がわからない」
「べつにわからなくても問題ありません。さ、早くなさってくださいな.女をあまり待たせるものではありませんよ」
「いやいやちょっと待ってくれ.君は簡単《かんたん》に言ってくれるけど、それってこんなところでするようなことじゃ」
「あら、ではここでなければキスしてもらえるのですか?」
あたふたうろたえる峻護と対照的《たいしょうてき》に、いろりは涼《すず》しい笑顔である。
(ひょっとして彼女……単に冗談《じょうだん》を言っておれをからかっているだけで、本気で言ってるわけじゃないのか?)
だとすればとんだ道化《どうけ》というものであった。真面目《まじめ》に思い悩《なや》むのがこれほど馬鹿《ばか》らしいこともない。
「? どうしました峻護さん」
「べつに。なんでもない」
憮然として峻護は足を速め、そんな彼にいっそう目を細めながらいろりは半歩後ろをついてくる。
(それにしても――)
と峻護は思う。昨夜の出来事《できごと》といい、今日の積極的《せっきょくてき》なアプローチといい――こうまで意思《いし》表示《ひょうじ》がはっきりしていると、さすがの彼も思いを致さざるを得ない。
すなわち、奥城いろりは自分に好意《こうい》を向けてくれているのではあるまいか。
(普通に考えたら……うん、やっぱりそうだよなあ)
でなければ、せっかくの修学旅行をわざわざ自分といっしょに過ごそうとはしないだろう。また過去をさかのぼっていろりの言動を鑑《かんが》みても、自分に好意を寄せてくれていると考えればあっさり説明のついてしまうものが多い。では、やはりそうなのか?
(ううんでも……やっぱり何かちがうような気がする)
心の中で首を振る.べつにいろりの好意から逃げているわけではなく、事実何かちがうのだ。彼女の好意が偽物《にせもの》であるとはまったく思わないが、何かこう、めずらしく働いた峻護のカンが引っかかりを感じているのだ。自分とふたりでいる時の彼女の笑顔を見ていると、特にそれを強く思う。彼女の好意は、何かちがう。
(といってもまあ、彼女といっしょにいることが不快《ふかい》なわけではまったくないし、なんなら今日一日くらいは月村さんのことは放っておいて京都旅行を満喫《まんきつ》しても……いやいや、何を考えてるんだ、おれ!)
愕然《がくぜん》とした。一瞬、なんの違和感《いわかん》もなくそんな考えを肯定《こうてい》しそうになった。今度は現実に首を振り、気を確かに持つべく尽力《じんりょく》する。
いけない。今日の自分はどうかしている。どこか地に足がつかないというか、春風に吹かれるタンポポの種みたいにふわふわしているというか……修学旅行《しゅうがくりょこう》というシチュエーションに浮《うわ》ついているのか? いやいやそんなことはない、でもだったらどうして?
峻護の立場としてはむしろ、今すぐにでも真由の元へ駆けつけねばならないはず。なのにうっかりするとつい、そのことを忘れそうになり、代わりにいろりのことを考えてしまうのだ。
一時的な失調《しっちょう》をきたしているかと思えるほど不可解《ふかかい》な精神状態に戸惑《とまど》いながら、峻護はまるで嵐に翻弄《ほんろう》される小船のように頼《たよ》りなく、ごった返す人々の海の中を漂《ただよ》いつづける。
いろりはいよいよ目を細め、ただ黙《だま》って峻護の背中に従っている。
「いやあ重畳《ちょうじょう》、重畳。はるばる京都の地までやってきてこういうおいしい思いができるとは、正直言って想像してなかった」
「まったくだぜ。嵐山《あらしやま》を出てからたった一時間で二十回もナンパに失敗したのだって、今となっちゃあいい思い出だ。三分に一回失敗するって、我《われ》ながらありえねー数字だよホント」
古都《こと》の中心街、河原町《かわらまち》通り。
きらびやかに飾《かざ》り立てられた山鉾が悠揚《ゆうよう》と巡行する光景に観光客たちが歓声《かんせい》をあげる中、ひときわ大きい声がふたつ、デリカシーとか繊細《せんさい》さとは対極《たいきょく》にある調子で響いている。
「なんせ学園の元祖《がんそ》アイドル、神宮寺学園《じんぐうじがくえん》全校生徒のあこがれの的とデートできるんだからな。たとえ千回ナンパに失敗したって帳尻《ちょうじり》は合うだろうさ」
「おうよ。京都弁の芸妓《げいこ》さんとか、修学旅行に来てる他の学校の女子高生とかとさ、一度しっぽりアバンチュールしてみたかったけど――なあに、そんなのはしょせん大根よ。たぶん俺ら、今年の一年生の中じゃナンバーワンの勝ち組だぜ。ね、生徒会長?」
「……わたくしの知ったことではありませんわ」
神宮寺学園生徒会長・北条《ほうじょう》麗華《れいか》は人ごみの間を縫《ぬ》うように進みつつ、苦りきった顔で、
「あなたたち先ほどからぺちゃくちゃと囀《さえず》りすぎですわよ。わたくしは生徒会長の公務《こうむ》として不穏分予《ふおんぶんし》を取り締《し》まるべく、隠密行動《おんみつこうどう》を展開中なのです。これ以上わたくしの行動を妨害《ぼうがい》するおつもりなら、いずれ正式に生徒会に召喚《しょうかん》して査間《さもん》にかけることになりますが、よろしくて?」
「おっとこれは失敬《しっけい》。すいません北条先輩、喜びのあまりついつい浮かれちゃって」
「いやホント、勘弁《かんべん》してくださいッス。今の状況って言ってみりゃ宝くじに当たったようなもんスからね、俺らみたいな一般庶民《いっぱんしょみん》が舞《ま》い上がるのもしょうがないってもんで。このとおり、大目に見てやってくださいッス」
頭を掻《か》く少年と、手のひらを合わせて拝《おが》み倒す少年を横目で睨みながら、令嬢は己《おのれ》の判断《はんだん》を早くも後悔《こうかい》し始めていた。
太秦《うずまさ》映画村で奥城いろりにしてやられ、失地《しっち》の回復《かいふく》を誓《ちか》った直後に出くわしたのがこのふたりの生徒である。吉田《よしだ》平介《へいすけ》と井上《いのうえ》太一《たいち》。二ノ宮峻護や奥城いろりと同じく一年A組の一員。そして生徒会がマークするトラブルメーカー。彼らの随行《ずいこう》を許可したのはとんだ判断《はんだん》ちがいであったか。
(やむを得なかったのですわ……万一彼らがわたくしの行動を仲間に言いふらすようなことがあれば、今後の尾行《びこう》に重大な支障《ししょう》をきたす恐れがありました。事情を話し、生徒会の臨時《りんじ》スタッフ扱《あつか》いでそばに置き、監視《かんし》をかねて補佐役《ほさやく》をさせるほかなかったのです。保坂がわたくしの元を離《はな》れている今、補佐役が必要なのも確かでしたし。というか無視《むし》して放っておいても勝手についてきそうな雰囲気でしたし……)
しかし、彼らが補佐役として本気で役に立たないのは計算ちがいだった。どうでもいい方面に限っては異様《いよう》なリーダーシップを発揮《はっき》すると伝え聞くこのバカふたりだが、これまでやってくれた仕事といえば令嬢《れいじょう》のそばにぴったりくっついて賑《にぎ》やかしに徹《てっ》し、円滑《えんかつ》な尾行を妨害《ぼうがい》することのみである。役に立たないどころか邪魔《じゃま》にしかならないとあっては、一般《いっぱん》生徒に対して温厚《おんこう》で知られる生徒会長も遇《ぐう》する術《すべ》を知らぬ、
そんな麗華の内心を知ってか知らずか、吉田と井上はいよいよ上機嫌《じょうきげん》にくっちゃべっている。
「それにしても人出が多いな今日は。これじゃあうっかりすると二ノ宮と奥城さんを見失いそうだ。よくよく注意してないと」
「つーか二ノ宮の野郎《やろう》、月村さんじゃなくて奥城さんを引《ひ》っ掛《か》けてやがったとは予想外だぜ。最近いっしょにいることがやたら多いとは思ってたけどよ、それにしたってどえらい急展開じゃね? ひょっとして昨日の夜会《やかい》でなんかあったのかな?」
漫才《まんざい》コンビのようなテンションでしゃべりつづけるふたりに、すれちがう人々は誰もが奇異《きい》の視線《しせん》を向けてくる。こんな風に目立たれると尾行どころではない。率直《そっちょく》なところ、今すぐこのふたりをクピにして単独行動《たんどくこうどう》を取りたいのだが……
「いやあそれにしても今日はハッピーな日だ。こうして北条先輩と並んで街を歩けるなんてな」
「そのセリフはもう何度も聞いたっつーの。まあそう言いつつも、俺は何度だって心から頷《うなず》いてやるわけだが」
「ていうかこんなチャンスは二度と来ないかもしれないからな。やっぱ記念|撮影《さつえい》とかしておいたほうがいいだろうか」
「アホ、そんなせこいこと考えてんじゃねーよ。どうせならもっと夢を大きく持とうぜ、北条先輩と手をつないでもらうってのはどうだ?」
「おいおい井上、夢を大きく持とうなんて言う割《わり》には話が小さいじゃないか。どうせならこうしようぜ? 北条先輩の公務《こうむ》に貢献《こうけん》して、ごほうびとしてほっぺたにチューしてもらうんだ。これこそ男のロマンだろう」
「おめーこそ中途半端《ちゅうとはんぱ》に夢見てんじゃねーよ。そこまでいったら当然あれだろ、ほっぺただなんて生ぬるい場所じゃなくてよ、もっとオイシイ場所を狙《ねら》っていこうじゃねえか……ぐっふっふ」
「なるほど、確かにお前の言うとおりだ。ここで俺たちが華麗《かれい》な活躍《かつやく》を見せれば、北条先輩に新たな感情が芽生《めば》えることは疑《うたが》いない。そうなればチューのひとつやふたつは余裕《よゆう》だろう。いやいやチューだけでは済まないかもな、あるいは情熱の赴《おもむ》くままさらにその先へ駒《こま》を進めることも……ぬっふっふ」
(……真正のアホですわ、このふたり。やっぱり判断《はんだん》を間違《まちが》えましたわね……)
よこしまな野望を抱《いだ》かれていい迷惑《めいわく》の少女はウンザリするのも馬鹿《ばか》らしくなり、ひたすら黙って白けていると、
「そういうわけで.なかなかドリーミィな今の状況《じょうきょう》なわけだが……残念ながらたったひとつだけ不満な点がある」
「へえ、奇遇《きぐう》じゃねえか。じつは俺もひとつだけ気にくわねえことがあるんだ」
次第《しだい》に風向《かざむ》きが変わってきた。
「ほう、気が合うじゃないか井上。古来《こらい》、英雄はふたりと並び立たぬもの。栄光の頂《いただき》に到達《とうたつ》するのはこの世にたったひとりでいい。そうは思わんか?」
「俺たちって前世《ぜんせ》は双子《ふたご》だったのかもしれねえな、吉田。コンビを組んでもうずいぶんになるが、ここまで息がぴったりになっちまうと空恐《そらおそ》ろしいくらいだぜ」
ふたりの馬鹿はテンションの高い笑顔のまま、しかし面《つら》の皮一枚の裏に禍々《まがまが》しい妖気《ようき》を渦巻《うずま》かせて、
「なあ井上、俺は思うんだ。この世でもっとも美しい友情は、ひとりの女性を取り合った時、いかに自分の気持ちを殺して親友に報《むく》いてやれるかにかかっていると思う。おまえの意見はどうだ?」
「やっぱり俺たちは魂《たましい》の双子だな、百バーセントおまえの説に同意するぜ。でもって吉田よ、おまえのほうからわざわざそんな確認をしてくれるってことは、親友の俺に今回はゆずってくれるってことでいいんだな?」
「いや、今回は俺にゆずれ。次回はおまえがおいしいところを持ってっていいから」
「すっとぼけたこと言ってんじゃねえ。北条先輩のキスは、この井上太一がいただく」
「やはり両雄《りょうゆう》は並び立たんか……」
馬鹿ふたりは歩みを止め、人の流れの邪魔《じゃま》になるのも顧《かえり》みずに対時《たいじ》し合った。
「残念だよ井上。またおまえと拳《こぶし》を交えることになろうとはな」
「いずれこうなるとは思ってたぜ。やっぱ俺とおまえは宿命のライバル同士……そろそろ完全決着といこうじゃねえか」
「いいだろう。俺とおまえとの対戦《たいせん》成績はこれまで五百勝五百敗の五分。遠く京都の地で因縁《いんねん》にピリオドを打つのも悪くない」
「おい、せこくごまかしてんじゃねえよ。対戦成績は俺の五百勝四百九十九敗だろうが」
「いちど脳みそのメンテナンスでもしてもらったほうがいいぞ井上? 早めの対処《たいしょ》がボケ防止《ぼうし》の特効薬《とっこうやく》だからな。戦績は五百勝五百敗で間違いない」
「俺はおまえより九九を覚えるのが三日は早かったろーが? 記憶力なら俺に分《ぶ》があるんだ、五百勝四百九十九敗が正解だっつの」
「覚えた九九を一晩《ひとばん》で忘れたのはどこのどいつだ? 忘れっぽさもおまえのほうが上だろう、おとなしく五百勝五百敗にしておけ」
(……まごうかたなきアホですわね。今すぐ退学処分《たいがくしょぶん》にしたいくらいです)
低レペルな火花の散《ち》らし合いを白い目でながめていた麗華だったが、やがて無言《むごん》のまま抜き足差し足で後ずさり、そして次の瞬間《しゅんかん》。
(勝手《かって》にやってなさい。わたくしはもう知りません)
小規模《しょうきぼ》な竜巻《たつまき》ぐらいなら起こせそうな勢《いきお》いでハーフターンを決めると、そのまま一目散《いちもくさん》に駆け出した。
驚《おどろ》き目を見開く通行人の聞を縫《ぬ》い、馬鹿ふたりとの距離《きょり》を急速に引き離していく。そのフットワークはアメフトの選手《せんしゅ》のように力強く的確《てきかく》で、同時にバレエダンサーのように優雅《ゆうが》であった。元祖《がんそ》アイドルである以上に元祖|万能《ばんのう》選手たる北条麗華の面目《めんもく》躍如《やくじょ》であろう。
(ふう……このあたりでいいかしら?)
ジグザグ走行を繰り返して馬鹿ふたりを撒《ま》いた令嬢は、大きく息をついて額《ひたい》の汗《あせ》を拭ぐった。まったく、尻尾《しっぽ》を振ってエサをねだってくる野良犬《のらいぬ》みたいに能天気でしつこいのだから始末《しまつ》に終えない。あのふたりのサポート役としての能力に少しでも期待《きたい》した自分の見る目のなさは猛省《もうせい》に値するが、必要な時に必要なだけの人材を確保《かくほ》できなかった保坂も責任を免《まぬか》れないだろう。事が済んだら厳重《げんじゅう》に折檻《せっかん》してやらねば。
心の中の予定表にドクロマークを書き込んで、ひしめく雑踏《ざっとう》の間をふたたび歩き出そうとして、
「それにしても二ノ宮の奴どういうつもりなんでしょうね? 月村さんにお熱と思いきや、実際に手を出したのは奥城さんのほう……こりゃあ一年A組の恋愛|相関図《そうかんず》に大幅《おおはば》な変更《へんこう》を加えることになりそうだ」
「俺はむしろ月村さんの動向《どうこう》が気になるぜ。鉄板《てっぱん》だと思ってたあそこのカップルが破局《はきょく》ってことになりゃ、フリーになった月村さんにハイエナどもが群《むら》がることになんぞ? 俺らもうかうかしてらんねー」
そ知らぬ顔の馬鹿ふたりが背後《はいご》に並んで立っていた。
「…………」
もの問いたげに振り返った麗華の視線《しせん》に応《こた》え、吉田が瞳《ひとみ》をピュアに輝《かがや》かせて、
「ごほうびはふたりでもらうことに落ち着きました。幸せはみんなでシェアリングする、それが世界平和の秘訣《ひけつ》ですからね」
「いいこと言うじゃんか吉田。やっぱりおまえは俺の永遠の親友だぜ。ふたりで北条先輩のチューをもらえるよう誠心誠意、任務《にんむ》に取り組もうじゃねえか」
さっきまで欲望丸出しで噛《か》みつき合ってたのが、今では肩を組まんばかりにへらへら笑っている。どうにもつかみ所のない連中だった。
それにしてもこれだけの入ごみの中、麗華の動きにきっちりついてくるとは、賞賛《しょうさん》に値するホーミング能力の高さである.そういうセンスのよさをもう少し有効《ゆうこう》活用すれば、馬鹿っぽさも抜けてそこそこいい男になるだろうに。
まあもっとも、峻護といろりの尾行という大目的があるゆえに麗華の行動|範囲《はんい》は限られるわけで、彼女がどの位置に向かうかはある程度《ていど》先読みができるわけだが。
「おっ? これは意外な展開だな」
「へえ、こりゃ見ものになりそうだ.もうちょっと近づいてみたいな」
と、馬鹿ふたりが興味《きょうみ》深そうな顔で尾行|対象《たいしょう》を指差している。
指差した先を麗華の視線が追い、彼女の表情もまた少なからず感情の揺れを示した。
令嬢の視界《しかい》に入ってきた光景。それはこの修学旅行で成立した予想外のカッブルに、もう一組の意外なカップルが近づいていく場面であった。
前方からやってくるふたりの姿を視界に入れた峻護はむろん、驚《おどろ》きに全身を支配された者のひとりだった? おそらくはもっとも意表をつかれたのが彼だったろう。
「あら」
と声をあげて反応したのはいろりのみ。峻護はまぶたと口を最大限にオープンしたままひとことも発せずにいる。
「おや、いろりじゃないか? 偶然だね」
向こうもこちらに気づいたようだ。人の群れを割って近づいてくると、
「君も山鉾を見に?」
「ええ、せっかく京都に帰ったんですし、日程《につてい》もぴったり合うんですから。見ておこうと思って」
いろりと親しげに会話を始めたのは、峻護のよく知らぬ男であった。神宮寺学園の中で遠目に見かけた記憶はある――女子の人気が高いことで知られる生徒だった気もするが、世間にうとい峻護の知識であるから自信はない。
「紹介《しょうかい》しますね峻護さん。わたしの兄で、奥城たすくです」
「初めまして二ノ宮くん。君の話は妹からよく聞かされてるよ」
毒《どく》のない笑顔であいさつしてくる色男へ、無言《むごん》のままわずかな会釈《えしゃく》だけを返す。
「兄妹だけどあんまり似てないでしょう? 学年は同じだけど双子というわけじゃなくて、たすくさんとわたしはもともと再従兄妹《はとこ》同士なんです」
「理由《わけ》あっていろりには奥城の養子《ようし》に入ってもらうことになってね.まあ今ではその家元もいったん離れ、学園の近くでふたり暮しをしてるんだけど」
奥城兄妹が口夜にお家事情を説明してくるが、今の峻護には徹頭徹尾《てっとうてつび》どうでもいいことだった。彼の関心はたすくのとなりに立つ少女ただひとりに向けられている。
「月村さん……」
呆然《ぼうぜん》とその名を口にしていたことに、当の本人は気づいているかどうか。むろん、笑顔の裏にべつの表情を隠して峻護の反応を観察《かんさつ》している兄妹などには気のまわしようもなかった。
「今日の自由時間は月村さんに付き合ってもらってるんだ。京都の町をぜひ彼女に案内したくてね。おかげでとても楽しく過ごさせてもらってるよ。ね、月村さん?」
たすくの呼びかけを聞いているのかいないのか、真由はえらくリラックスした様子で突っ立っている。リラックスしすぎて雲の上を歩いているようにぽわーっとしてはいるが、驚くべきは彼女が異性《いせい》のとなりで平然《へいぜん》としていることだろう。極度《きょくど》の男性|恐怖症《きょうふしょう》であるはずの月村真由の、まさかまさかであった。いかなる方法で彼女は男性恐怖症をおさえ込んでいるのか? ひょっとして奥城たすくは峻護と同じく、真由が男性恐怖症を刺激《しげき》されずに済む数少ない例外にふくまれるのか? あるいは奥城たすくが何らかの手段《しゅだん》でもって男性恐飾症のガードをかいくぐっているのか?
いずれにしてもずっと黙《だま》り込んでいるわけにもいかなかった。今度は自分の意志で、はっきりと呼びかける。
「月村さん?」
反応があった。弛緩《しかん》ぎみに浮遊《ふゆう》していた真由の視点《してん》がようやく現実世界に焦点《しょうてん》をむすび、二、三度瞬《まばた》きすると、
「あ……はい。え? あれ? ここってどこだっけ……ああそうだ、京都に来てて修学旅行で……はうあっ!?」
目の前にいる峻護と目が含い、飛び上がらんばかりの勢いで奇声《きせい》を発して、
「に、二ノ宮くん? ええとわたし何をして……朝になって旅館《りょかん》の駐車場《ちゅうしゃじょう》で、そこで二ノ宮くんを誘《さそ》おうと……ひゃわうっ!?」
となりに立っている男を見て今度は本当に飛び上がり、
「奥城たすく……さん? どうしてわたしといっしょに? あ、あれ? そういえば今日一日ずっといっしょにいたような気も……ゆ、夢? わたし夢でも見てるとか? えーとこういう時はほっぺたをつねってみて、痛ければ現実で痛くなければ夢で……ああっ、びっくりしすぎてつねってみても痛いのか痛くないのかわからないっ!?」
「いや、なんというかとりあえず落ち着いて」
この世の狼狽《ろうばい》をまとめて引き受けているような真由をなだめつつ、峻護のほうはかえって落ち着きを取り戻しつつ、
「失礼、二ノ宮くん。まずは僕のほうから話をしてもいいかい?」
しかし場の主導権《しゅどうけん》を握《にぎ》ったのは奥城たすくであった。
「さっきも言ったけど君の話はいろりから詳《くわ》しく聞いている。日ごろから彼女によくしてくれてるみたいだね? まずはお礼を言わせてほしい」
「……いや、おれのほうこそいろりさんにはお世話《せわ》になっているから.お礼を言うのはむしろこっちのほうだ」
「そうかい? まあ僕が言うのもなんだけど、妹はよくできた子だからね.お役に立ててるみたいでうれしいよ。さて、そのいろりと君の関係について、兄としていくつか聞いておきたいことがあるんだけど」
どこぞの王侯貴族《おうこうきぞく》だと名乗《なの》っても違和感《いわかん》のない貴公子《きこうし》顔で峻護に笑いかけ、
「失礼ながら妹から聞かせてもらったよ。目ごろから彼女と仲良くしてくれてるようだが……昨日の夜は特別な夜になった[#「昨日の夜は特別な夜になった」に傍点]みたいだね?」
さらりと述べられたセリフに、峻護の五体がびくんと震える。
「いや、べつにとがめてるわけじゃないんだ。僕たちもいい年頃《としごろ》だし、自由な恋愛は大いに推奨《すいしょう》されるべきだと思う。ただし節度《せつど》と道義《どうぎ》は守るべきだ。その点については二ノ宮くんも同意してくれるかい?」
「あの……? それっていったいなんの話……」
遠慮《えんりょ》がちに、不安げに割《わ》って入ってきた真由へ貴公子的な笑顔を向けて、
「いや、妹から聞いた話なんだけどね.昨日の夜、彼女と峻護くんはめでたく初めての口づけを交わしたらしい」
「はあ、なるほどなるほど。めでたく初めてくちづけ……って、えええええええ?」
まだどこかぼんやりしていた真由だったが.いまの一撃《いちげき》で完全に覚醒《かくせい》したらしい。近所のおばちゃんに怒鳴《どな》りつけられた猫みたいに全身の毛を逆立《さかだ》てて、
「そそそそそんな、うそ、初めてのくちづけって、つまりはふぁーすときっす!? 昨日の夜ってそんな、だって……はうっ」
「わっ、月村さん!?」
気付け薬が効《き》きすぎたのか、その場でふらりと崩《くず》れ落ちそうになる真由を、あわてて峻護が抱《だ》き起こした。しかし今のショックでふたたび向こう側の世界に旅立ってしまったらしい。一応は立たせてやったものの、目つきは幽体離脱《ゆうたいりだつ》でもしたみたいにうつろであり、全身は真っ白に燃えつきた灰のように見える――むろん錯覚《さっかく》ではあろうが。
「……繊細《せんさい》な女の子だね月村さんは。悪いことをしてしまった」
リタイアした少女に困ったような視線《しせん》を向けながら、たすくは話をつづける。
「ともあれ、否定《ひてい》しないところを見ると妹の話は本当だったみたいだね。……いや、すまない。僕も彼女の兄として、これでもけっこう動揺《どうよう》してるんだ」
貴公子顔を少々|複雑《ふくざつ》げにしかめてから、
「まずは祝福《しゅくふく》させてほしい。おめでとう、君たちふたりの関係が順調《じゅんちょう》に進んでるみたいでうれしいよ、妹が君のそばにいて幸せそうなのは見ればわかる。これからも順調に愛を育《はぐく》んでくれ」
「いやちょっと待ってくれ」峻護は苦い顔で、「キスをした、と言われればそのとおりかもしれないけど、でもこの件はかなり間違《まちが》って伝わってるような気がする。こう言ってはなんだけど、昨日の夜のことはまったく思いもよらなかったことで、正直なところ事故としか言いようが――ああいや」
あわてて口をつぐんだのは、見上げてくるいろりの瞳《ひとみ》にジワリと滴《しずく》が浮くのを見たからである。
「二ノ宮くん」たすくはトゲのある声で、「まさかと思うが君、いろりの気持ちを弄《もてあそ》んでいるわけじゃないだろうな?」
「馬鹿《ばか》な、弄ぶだなんてそんな――おれは断《だん》じてそんなつもりはない!」
「うん、そうか。いやそれならいいんだ。疑《うたが》うようなことを言ってすまなかった。色んな知り合いに聞いてまわったんだけど、君はとても誠実《せいじつ》な人柄《ひとがら》だそうだね。品行《ひんこう》も方正《ほうせい》らしいし、まさか口づけまでしておいて今さらそしらぬ顔をするはずもない。安心していろりを任せられると思ってるんだ。妹のこと、ぜひともよろしくたのむ」
「ああいや……その……」
堅物《かたぶつ》男・二ノ宮峻護の泣きどころである。こういう出方《でかた》をされてはなかなか否定の言葉を舌に乗せにくい。
「さて、それともうひとつ話があるんだ。これもあくまで確認の話だから気を悪くしないでほしいんだけど、二ノ宮くんは月村さんと付き合っているのか?」
「……えっ?」
「ああいやすまない、ほんとうにこれはただ確認したいだけなんだ。もちろん付き合ってなんかいないよね? まあいろりとそこまで進んでいるのに.まさかそんな不義理《ふぎり》な真似《まね》をするはずないだろうけど」
これには少なからず返答に窮《きゅう》した。そもそも自分と真由の関係をどう表現すればいいのだろう。同居人《どうきょにん》であり、同級生であり、保護者《ほごしゃ》であり被《ひ》保護者であり――そういう既成《きせい》の言葉で言い表せないだけの複雑《ふくざつ》な感情のひだが、ふたりの間には存在するのだと思う。そこにはもちろん好意とか愛情とかも含《ふく》まれるし、だけどそれらですら単色のものではなく、ではあらためて考えてみると、いったい二ノ宮峻護と月村真由はなんなのだろう[#「なんなのだろう」に傍点]?
「二ノ宮くん……」
真由もこの問答には敏感《びんかん》に反応したようで、仮死状態《かしじょうたい》を一時的にやめてじっとこちらを見つめている。荒野の真ん中に見捨《みす》てられたウサギのような目で。
(月村さん……)
たすくの問いを否定《ひてい》したい気持ちはもちろんあった。たとえば今この時ではなく、昨日のどこかの時点で同じ問いを向けられれば、迷いつつもあるいは否定できていたかもしれない。だが『真由が自分以外の男と並んで立っている』という現実がもたらしたショックは、峻護にとって小さいものではなかった。まして彼は四角四面で融通《ゆうずう》の利《き》かない男である。事実を正確に認識《にんしき》し、伝えねばならないという意識が常《つね》に働く。
だから、彼が最終的に選んだのは次のようなセリフだった。
「いや。おれと月村さんは付き合ってないよ」
「あ――」
真由が肩を落としてうつむくのを見て、峻護は目を逸《そ》らした。ひょっとすると自分は取り返しのつかないことを言ってしまったのかもしれない、という思いが酸《さん》のように心を侵食《しんしょく》し、ゆっくりと全身の血の気が引いていく。
「うんうんそうか、いや安心したよ。そういうことなら快《こころよ》くいろりのことを任せられる。君の名誉《めいよ》を疑《うたが》うようなことを聞いて悪かった」
たすくは満面のさわやか笑顔で頭を下げ、
「ところでもうひとつ、二ノ宮くんにひとこと断《ことわ》りを入れておきたいことがあるんだ。さんざん君に注文をつけておきたがら、僕のほうが順序《じゅんじょ》が逆になってしまって申《もう》し訳《わけ》ないんだが……」
深くうつむいて表情の見えない真由の肩を抱き寄せるような格好《かっこう》で、
「今日一日、彼女を貸《か》してもらってるから。いや心配しないでほしい、月村さんの面倒《めんどう》は責任《せきにん》もって僕がみさせてもらうよ」
「…………そうか。わかったよ」
「認めてくれてありがとう。ちなみに明日|以降《いこう》もずっと彼女を貸してもらう予定でいるから、そのつもりでいてほしい」
「兄さんよかったですね。月村さんと円満《えんまん》にデートできて」
普段《ふだん》と変わらぬ穏《おだ》やかな笑顔で妹に祝福《しゅくふく》され、たすくも貴公子笑顔全開で応《おう》じ返す。
「事後承諸《じごしょうだく》の形だったからね、正直いって後ろめたい気持ちはあったんだけど、これですっきりした。いやあ、やっぱり男女の関係はこのくらいさわやかなほうがいい」
「お似合《にあ》いですよ、兄さんと月村さん」
「いろりと二ノ宮くんこそお似合いさ――おっと、こんな堅苦《かたくる》しい呼び方もおいおい改めていくことになるかもな」
「いずれ義理の兄と義理の弟の関係になるかもしれないから、ですか?」
「あっはっは。いろりは気が早いなあ.あっはっは」
愉《たの》しげに会話を交わす兄妹を横目に、峻護は黙《だま》って後悔《こうかい》と葛藤《かっとう》していた。ただのいちども話を向けられず、一方的に話を決められてしまった形の真由も反論《はんろん》の気力は湧《わ》かないらしく、打ちひしがれた様子でアスファルトに視線《しせん》を落としている。
「……じゃ、話もまとまったところでお互いデートをつづけようか、いろり」
「でずね、そうしましょう兄さん.……あら、顔色がすぐれませんよ峻護さん。だいじょうぶですか?」
「ああ……いや」
笑顔に心配げな色を乗せて見上げてくるいろりへ手を上げてみせ、
「うん、だいじょうぶだ。問題ない」
「そうですか? でもすごい汗《あせ》ですよ? 京都の夏は蒸《む》し暑いですから、慣《な》れないひとには厳しいかもしれませんね.どこか日陰に入りませんか?」
鉦《かね》や笙《しょう》の音色が雅びに響《ひび》く中、いろりの声はやけに艶《つや》っぼく耳にとどいた。しかし今の竣護にとっては呪《のろ》いをとなえる魔女の声にもひとしい。
黙《だま》ったまま答えない峻護にニコリと微笑《ほほえ》みかけ、いろりはふところからハンカチを取り出した。そのままつま先を立てて背伸びをし、甲斐甲斐《かいがい》しく汗を拭《ふ》き取ろうと――
「ふふ……上の空で隙《すき》だらけな悪いひとには、こうします」
「えっ?」
瞳の奥のいたずらげな光に気づいた時にはもうおそかった。
都合《つごう》三種類の息を呑む音がかすれて消えるころ、二ノ宮峻護は二度目のくちびるを奪《うば》われていた。
其の四 贈《おく》られるくちびる
[#改ページ]
七月十七日、某所《ぼうしょ》でのことである。
「――そうか、わかった。下《さ》がってよい」
部下からの報告を聞き、その男は満足げに頷《うなず》いた。
うやうやしく一礼して部下が退室するのを見届けると、男はマホガニーのデスクから立ち上がった。一面ガラス張りの向こうに見えるのは、ミニチュアのように小さく見える、陽に炙《あぶ》られた都会の風景。
懐《ふところ》からシガレットケースを取り出し、男はゆっくりと一服《いっぷく》くゆらせた。十氏族《じゅっしぞく》会議にも顔を連《つら》ね、要所《ようしょ》を押さえた発言で場をリードした年頭《としがしら》の男である。部下の報告――今日この日、古都《こと》において催《もよお》されている祗園《ぎおん》会での一幕《ひとまく》を聞き、彼は大《おお》いに満足していた。
「まんまと甘言《かんげん》に踊らされ、協定を破って神精《しんせい》にまつわる者どもに手を出し、そしてこちらの思惑《おもわく》どおり失敗したか。こうまで思いどおりに動いてくれると、あざけりを通り越していっそ哀《あわ》れを催してくるな」
神精の独占を目論《もくろ》む反|鬼ノ宮《きのみや》・継群《つぎむら》枢軸《すうじく》の急進派《きゅうしんは》たちの大半は、これでレースから脱落《だつらく》したとみていい。以後は鬼ノ宮と継群に睨《にら》まれ、頓挫《とんざ》なり失脚《しっきゃく》なりを余儀《よぎ》なくされるだろう。彼の障害となりうる有象無象《うぞうむぞう》がこれでまた、数を減らしたことになる。
「あとはいかにして我《われ》らの陣営《じんえい》が神精を手に入れるか、だが……」
それは彼の仕事ではなく、彼の新たな同盟者《どうめいしゃ》にゆだねられた仕事だった。いまの彼はただ、座《ざ》して結果を待つのみでいい。せいぜいお手並み拝見《はいけん》といこうではないか。
「ふふ……手を結ぶべき相手はなにも十氏族同士だけに限らん。事が終わった後に鬼ノ宮と継群がどんな顔をするか、見ものだな」
計画は順調に運んでいる.若造どもがほえ面をかく瞬間を心待ちにしつつ、男は冷徹《れいてつ》なまなざしで眼下《がんか》にひろがる眺望《ちょうぼう》を見下《みお》ろしている。
[#改ページ]
「――おいしい。やっぱり最高ですね峻護《しゅんご》さんは」
名残惜《なごりお》しげにゆっくりと離れて、いろりは艶《つや》っぼく頬《ほお》を上気《じょうき》させた。ふるふると細かく身を震《ふる》わせ、熱い吐息《といき》をそっと吐《は》き出して。
「困ったな。これ、クセになっちゃいそう」
ぺろりと舌を出し、上目遣いに見上げてくる。そのてらてらとぬめった舌は、獲物《えもの》を品定《しなさだ》めするようなくちびるは、いったい今何をした? こんな白昼《はくちゅう》の雑踏《ざっとう》で、なにより月村《つきむら》真由《まゆ》の見ている前で……。
「――――はう」
いろいろ限界を超えたらしい真由がふらりと倒《たお》れる姿が視界《しかい》の端《ほし》に映《うつ》った。だが錯乱《さくらん》の極地《きょくち》に達《たっ》した峻護の反応は鈍《にぶ》い.普段よりコンマ数秒も遅れて泡を食いつつ動いた時にはとっくに手遅れで、
「おっと。月村さんには刺激が強すぎたみたいだ」
代わりに彼女を支《ささ》えたのは奥城《おくしろ》たすくだった。本日何度目かに底る幽体離脱《ゆうたいりだつ》を敢行《かんこう》したデート相手をやさしく立たせてやり、
「いけないよいろり。こんな人前《ひとまえ》ではしたない」
親バカが娘を叱《しか》るような調子で妹をたしなめると、いろりは「ごめんなさい」と恥じ入るようにうなだれる。一見憎《いつけんにく》めないやりとりに思えるし、部外者であれば峻護もそう思えただろう。だが――
その時、群集《ぐんしゅう》のどこかで悲鳴《ひめい》とも怒声《どせい》ともつかない叫びが聞こえた。
「あああああああの無節操《むせっそう》女、厳重《げんじゅう》な警告《けいこく》にも関わらず公衆《こうしゅう》の面前《めんぜん》でなんたる真似を! に、に、に、二ノ宮峻護のく、く、くち、くちび――ああもう退学です! もはや退学以外にはありえません! いいえそんな生《なま》ぬるい処分ではおさまりませんわ、まずはわたくしのこの手であの不埒《ふらち》女の細《ほそ》ッ首《くび》を締《し》め上げて」
「はいはい落ち着いて先輩。そんたことやったら逆に先輩が捕《つか》まっちゃいますから」
「それに今ここで出てっても話がややこしくなるだけじゃないッスかね? ここはとりあえず抑《おさ》えておきましょーよ」
「お放《はな》しなさい無礼者《ぶれいもの》! これを黙《だま》って見過《みす》ごせますか! あの不道徳《ふどうとく》女にはすべからく天誅《てんちゅう》を下《くだ》すべきむぐぅ!?」
はて、聞き覚えのある声のような気がするのだが……全自動|洗濯機《せんたくき》のようにぐるぐる回る峻護の脳みそは正しい答えを検索《けんさく》してくれなかった。
「どうやら恐い人がやってきそうですね。では兄さん、わたしたちそろそろ行きます」
「ああ、しっかり楽しんでおいで。さて、僕たちも行こうか月村さん?」
貴公子《きこうし》スマイルに誘《いざな》われ、真由は催眠術《さいみんじゅつ》に掛《か》かったかのごとく従順《じゅうじゅん》に、しかし完全に抜け殻《がら》の動きでたすくの後をついていく。奪《うば》われたくちびるから麻痺毒《まひどく》でも流し込まれたようにぼんやりした峻護は、それをただ見送ることしかできない。
「ほら峻護さん。お早く」
そんな彼をいろりがやんわりと、しかしそれでいてぐいぐいと力強く引っ張っていく。
よって、鬼女《きじょ》のごとく髪を振《ふ》り乱《みだ》した『恐い人』が臨時《りんじ》付き人の制止《せいし》を振り切って躍《おど》り込んできた時にはもう、加害者《かがいしゃ》も被害者《ひがいしゃ》も証人《しょうにん》もことごとく現場から消え去っていた。
あとにはただ、祭りの喧騒《けんそう》だけが残される。
「いやはや.大した役者だねえ、あのいろりって子」
雑踏《ざっとう》の隙間《すきま》をすいすい抜けながら、保坂はいつもの朗《ほが》らか口調《くちょう》で感心している。後をつけている相手は先ほどと変わらず、奥城たすくと月村真由。
「央条《おうじょう》の傍流《ぼうりゅう》の出《で》だっていうけど、なかなかどうして。十氏族の中でももっともプライドが高くて頭が固いって言われる央条本家が、エゴをこらえて養子《ようし》に迎《むか》えるだけはあるよ。あの食えない曲者《くせもの》っぷり、どうせならぼくの下で働いてくれないかなあ」
「ふん、おまえとはさぞかし話が合うだろうな。曲者同士、好きなだけ策《さく》を弄《ろう》し合っているといい」
水草の間を泳ぐ魚みたいにすばしっこい保坂の歩みにぴったりついていくしのぶが、せせら笑うように鼻を鳴らした。が、すぐに毒を吐くのを止めて、
「それより話を整理したい。月村真由のくちづけによって二ノ宮峻護は神精となった――ということは、自ら神精になることを望む者は月村真由を欲《ほっ》することになるわけだ。それが奥城たすくであり、さきほど現《あらわ》れたどこぞの刺客《しかく》たち、ということだな?」
「だね。神精らしいってことになってる二ノ宮くんにも興味はあるだろうけど、優先順位《ゆうせんじゅんい》は神精の元《もと》とされている真由さんのほうが断然《だんぜん》上だろうから。神精としての二ノ宮くんの力はなぜだか上手く発揮《はっき》されずにいるわけで、そうなると利用するにしても脅威《きょうい》を覚えるにしても役者が足りないよね」
通りがかりの店で買った九条ねぎソフトをなめながら保坂が答え、しのぶは矢《や》継ぎ早《ばや》に問いを発する。
「くちづけが神精の発生条件だというが、この場合のくちづけとはどのようなモノを指《さ》すのだ? 単《たん》にくちびるとくちびるを接触《せっしょく》させるだけでいいなら、強引《ごういん》に奪《うば》う方法はいくらでもあるはずだが。まして木偶《でく》の坊同然《ぼうどうぜん》の今の月村真由相手だったらなおさらだろう」
「道理《どうり》だね。ただ、このあたりからは仮定とか推測《すいそく》の話が多くなっちゃうってことを前提《ぜんてい》にして聞いてもらいたいんだけど……とにかくキスさえしちゃえば神精になれるかっていえば、さすがにそれはないみたいだね。涼子《りょうこ》さんと美樹彦《みきひこ》さんによれば、必要|不可欠《ふかけつ》なのは『愛』だってことになってるけど」
「……愛ときたか.なんともあいまいな基準《きじゅん》だな、いったい何をもって愛とそうでないものを峻別《しゅんべつ》するのか。愛のあるくちづけと愛のないくちづけのいかなる差によって、神精とそうでないものが分《わ》かたれるというのか」
「正直言ってそのあたりはまだ研究中。どちらにしても神精を狙《ねら》う連中にとっては、真由さんさえ寵絡《ろうちく》して言いなりにしちゃえば、事態がどう転ぼうと対処《たいしょ》できるわけだよ。錦《にしき》の御旗《みはた》というか、どんな魔王でも一撃で倒《たお》せる聖剣《せいけん》みたいなものというか……一発逆転が可能な魔法のアイテムみたいなもの? なわけ」
「そんな大事なものをあんな風《ふう》に無防備《むぼうび》にさらしておいていいのか? 不穏《ふおん》分子《ぶんし》をおびき出すためのエサなどにしている場合ではないだろう。そればかりか何かの拍子《ひょうし》に奥城たすくあたりが神精になってしまっては困るのではないか」
「多少のリスクは承知《しょうち》してるよ。でもそのリスクはほとんど無視しちゃっていいものだと思う。それにこの件に関しては僕のボスは涼子さんと美樹彦さんで、僕の方針《ほうしん》はあのふたりの方針でもあるから。万が一のことが起こったらあのふたりの責任ってことで」
だからといって保坂が全面的に責任を免《まぬか》れ得《え》るはずもないのだが、そのことはいちいち口にせず、
「二ノ宮峻護の潜在《せんざい》能力は封《ふう》じられているのではないか、と言ったな? その潜在能力とは神精としての力であると解釈《かいしゃく》していいのか?」
「たぶんね」
「ではいつ誰が、何の目的で奴の力を封じた? そのあたりがよくわからん」
「これもたぶん、だけどね。その封印は意図的《いとてき》に施《ほどこ》されたものじゃないような気がするね。なんらかの偶然が引き起こした事故なんだと思うよ。ひょっとすると二ノ宮くん自身がきっかけを掴《つか》みあぐねてるだけかもしれないけど……そのあたりはまだわからないね」
ひょい、と肩をすくめ、それから前方にあごをしゃくって、
「それより注意しとこう。なに考えてるのか知らないけど、奥城たすくがひとけのない方ひとけのない方へ向かってるから」
むろんしのぶも気づいている。いつしか祗園会のざわめきは遠くなり、町屋《まちや》風の家々が立ち並ぶ閑静《かんせい》な地区に足を踏《ふ》み入れていた。前方を行くたすくと真由の思惑《おもわく》はどうであれ、なにかしらアクションがあるとすればここだろう。
「しのぶ。さっき襲《おそ》ってきた刺客さんたちの出所《でどころ》はつかめそう?」
「向こうも素人《しろうと》ではないからな、多少てこずってはいる。が、なんとかなるだろう」
「ごくろうさま。でもさっきの連中以外にも予備がいるかもしれないし、別口の刺客さんたちが機会を狙ってる可能性もかなり高いよ。これまでは人目もあったから仕掛けあぐねてた面もあっただろうしね」
「月村真由のガードがゆるすぎて、かえって罠の存在を警戒されていたかもしれんしな。奥城たすくの腕も思ったよりは立つようだから、そう迂閣《うかつ》には手も出せん。だが刺客の立場からすれば、これ以上手をこまねいているわけにもいくまい」
「だね、ちょっとくらい無理してでも何かやってくるかも。ところでしのぶ――」
食べ終えたソフトクリームのゴミをポケットに丸め込みながら、
「質問はもう十分かい? まだ何かあるなら聞くけど」
「そうだな、神精がらみについてはひととおり聞いたと思う。おまえに対して個人的に問いただしたいことなら十も二十もあるが……なんならそちらの方向で質問攻めにあってみるか?」
揶揄《やゆ》するしのぶに.保坂は『まだまだ甘いなあ』とでも言いたげに笑った.むろんメイド長の少女にとって、相棒《あいぼう》のそういう態度《たいど》がこの世でもっとも気に食わないわけである。
「ほう、何か言いたそうではないか? 言ってみるがいい、万一にも下《くだ》らないことだったらその長い舌をひっこぬいて尻《しり》の穴に突《つ》っ込んでやる」
「こらこら、女の子がそんなお下品なこと言うものじゃありません。でないと下の者に示《しめ》しがつかないでしょ? 北条《ほうじょう》家のメイドがみんな君の悪影響を受けて乱暴な口の聞き方をするようになったら、きっとお嬢《じょう》さまが悲しむよ」
痛いところをつつかれて舌打ちし、
「わたしはその気になればいくらでも格式《かくしき》ばった振る舞いはできるのだから、べつにいいのだ。それよりおまえがもったいぶって黙っていることを話せ」
「うん、これはほんとに仮説の上塗《うわぬ》りになっちゃうんだけど。でもこれまでの流れから導き出される仮説の中で、空想だとして切り捨てちゃうにはちょっと大きすぎる可能性が出てくるんだよね」
「だからそれはなんだというのだ? もったいぶらずにさっさと――」
「うん、あのね。不穏分子《ふおんぶんし》のみなさんはもちろん、涼子さんや美樹彦さんまでほぼ確信しているみたいなんだけど……ほんとに真由さんのキスが原因で二ノ宮くんが神精になったのかな[#「ほんとに真由さんのキスが原因で二ノ宮くんが神精になったのかな」に傍点]?」
「なんだと……?」
現在の状況《じょうきょう》にいたる大|前提《ぜんてい》を疑う発言である。
「月村真由が原因でなければ、いったい何が原因だというのだ? それともまさか、この期《ご》に及《およ》んで二ノ宮峻護が本当に神精であるかどうかを疑っているのか?」
「うん、それもある。でもいま間題にしてるのはそれじゃない。あくまで問題なのは原因のほう」
「要点《ようてん》を手短《てみじか》に話せ。わたしはあまり気が長くない」
「うん、あのね。月村さんのキスによって二ノ宮くんが神精になるきっかけを得た――つまりは月村さんが神戎《かむい》として目覚め、二ノ宮くんの精気を根こそぎ吸い尽くして瀕死《ひんし》の目にあわせたのが原因ってことになってるんだろうけど。それっていつの話[#「それっていつの話」に傍点]?」
「いつの話だと? わたしの聞き及んでいる限《かぎ》りでは十年前の」
そこまで言ってしのぶは口をつぐんだ.十年前、そうか十年前といえば――
「そうか、そういうことか。確かに十分あり得《う》るな。だがもしそうなると、これまでの神精に関する話が根本から覆《くつがえ》されることになるのではないか?」
「かもね。あ、でもそれ以上は口にしちゃいけないよ? どこで誰が聞いてるか知れたものじゃないからね」
「そのことに気づいてるのは光流《みつる》、おまえだけか?」
「しのぶを含《ふく》めてふたりきりだね、このことに気づける立場に居《い》るのは。どうやらこの件、思ったよりもややこしい話になりそうだから。今のうちに覚悟はしといたほうがいいかもよ?」
「……わかった。頭を使うのはおまえの役割だ、これまでどおり参謀《さんぼう》の役はおまえに任《まか》せる。だが今はそんなことよりも」
手に提げた刀袋《かたなぶくろ》を握り直し、
「目の前にある事態のほうがまず、ややこしいことになりそうだな」
「そうみたいだねえ」
周囲に多数の気配が湧《わ》きつつあるのを察知《さっち》し、幼馴染《おさななじ》みふたりはいかなる展開にも対処《たいしょ》できるよう心の備《そな》えをととのえ始めた。
作り笑いを消し忘れていたことに気づいたのは、いろりと峻護と別れてから三十分もたったころだった。
(ああくそ……うまいこと顔の形が元にもどらんやんけ)
より正確に言えば奥城たすくの顔はあれ以降、ずっと笑顔の形にひきつったままだったことになる。器用といえば器用だが、己《おのれ》の本心を自在《じざい》に偽《いつわ》ることは神戎たる者として、央条家の次期当主の座を狙う者として当然の技能。驚《おどろ》くには値《あたい》しないし自慢《じまん》するつもりもないが、
(それにしてもほんま腹立つで! いろりのやつ、俺の見とる前であそこまでやらんでもええやろ! 思いっきり舌まで入れとったやんか!)
『自分の女』がまるであてつけのように濃厚《のうこう》なラブシーンを見せつけてきたことに、たすくは大いに憤慨《ふんがい》していた.計画の進行が芳《かんば》しくない時はお互いに接触《せっしょく》して打開策《だかいさく》を図《はか》るのが当初《とうしょ》からの予定であり、真由と峻護の間に追い打ちのくさびを打ち込めたのは少なからぬ収穫なのだが、そんなことはどうでもいい。二ノ宮峻護を寵絡するよう命《めい》じたのはたすくだし、いろりの不実《ふじつ》に憤《いきどお》っているたすくのほうこそ一年を通じて両手に花なのだが、それはそれ、これはこれである。
(くそっ。計画がうまいこと運んだ時はいろりのやつ、覚えとけよ。とても口では言えんようなやりかたでたっぷり可愛がったるからな)
そのシーンをあれこれ妄想《もうそう》することで怒《いか》りをしずめつつ、ほどほど気が済《す》んだところでたすくは考えをあらためた。多夫多妻《たふたさい》はもとより神戎の宿業《しゅくごう》である。他人の精気を取り込んで生きている以上[#「他人の精気を取り込んで生きている以上」に傍点]、ただひとりの相手から精気を吸って生きつづけるわけにはいかないのだ[#「ただひとりの相手から精気を吸って生きつづけるわけにはいかないのだ」に傍点]。特定の相手から精気を吸いつづけていれば、いずれその相手の精気を吸い尽《つ》くして生命を危険にさらすことにもなる。まして相手が自分とおなじく神戎であればなおさらであった。その相手も他人の精気を吸って生きざるを得《え》ないのだから、誰かに精気をわけている余裕《よゆう》などない。
(まあええ、今はそんなこと考えとる場合やない)
個人的な感情はともかくとして、状況《じょうきょう》を動かすのには成功した。ああいうキスシーンを見せつけられたからにはもともと心の折《お》れやすそうな真由のことだ、大いに隙《すき》を見せるにちがいない。
ちらりと隣《となり》に視線を走らせた。案《あん》の定《じょう》、継群の娘はクリティカルな精神的ダメージを負った模様《もよう》で意気消沈《いきしょうちん》している。強烈きわまるショックを与《あた》えたのが一周まわって功《こう》を奏《そう》したのか、当初のころほど上の空という感じでもない。十分に意思の疎通《そつう》ができそうであり、であればたすくとしても籠絡の仕手《して》がいくらでも使えるというものである。
(間題は今のロケーションやが……)
頭に血が上っていたのと、それを作り笑いで覆《おお》い隠すのに全神経をつかっていたため、ふたりは思わぬ場所へ足を踏み入れていた。東山《ひがしやま》と山科《やましな》の境《さかい》あたりにある鬱蒼《うっそう》とした竹林である。周囲に人影はなく、ふたりきりになれる点は絶好のチャンスと言えた。だが視点を変えてみれば、真由を狙う刺客たちにとってもまたとない好機《こうき》と言える。図らずも刺客の襲撃《しゅうげき》を誘《さそ》い込むような状況におちいってしまったことに内心舌打ちしながらも、たすくの決断は早かった。勝負どころはここしかない。
「やあ、なかなか味のある場所だね」
『余所行《よそゆ》き用』の表情と口調で完全武装しつつ、
「源氏《げんじ》物語に出てくるような若い貴族たちも、ひょっとしたらこういう場所を選んで逢引《あいびき》してたのかもしれないな。観光地とはまったく外《はず》れるけど.こういう所こそ京都《きょうと》の穴場《あなば》だよ」
「はい……?」
朝の光を浴《あ》びて消え入る直前の幽霊みたいな足取りでついてきていた真由が、ぼんやりと顔を上げる。次いで居眠りから覚めた後みたいにゆっくり周りを見回して、やたらひとけの無い場所にふたりきりでいることを確認すると、
「はうあ!」
もともとつぶらな瞳をいよいよ大きく見開いて、手のひらを左右にぶんぶん振り、
「あっ、あの! わたしたちそういうのはまだ早いというか、いきなりこういう場所に連《つ》れ込むのはどうかと思うというか、わたしってそんな軽いタイブに見られてたのかと思うとちょっとショックだったりというか、せめて初めての時はこういう外じゃなくてもう少し別の意味での雰囲気《ふんいき》があるところがいいというか! あっ、でもこんなこと言うとちょっと期待してるんじゃないかとか勘違《かんちが》いされそうだけど、そんなことは本気の本当にこれっぽっちもないというか!」
「ああいや……とりあえず落ち着いて月村さん……」
「それにそれにわたし。そもそもたすくさんのことよく知らないというか、よく知らない人についていってはいけないって子どものころから耳にタコができるほど言われているからでも気づかないうちにこんなところまで来てしまったわたしってなんてバカなんだろうっていうか! あとこれは誰にも内緒で、ほんとにほんとにこれはぜったい内緒で誰にも気づかれてはいけないんだけど、わたしには心に決めた人が――」
べしっ、と。
気づいた時には無言で真由の頭をはたいていた。
「ひゃうっ!? あうう……痛いです……」
「ああごめん、そこにでっかい藪蚊《やぶか》がいたものだから。ほら、こんな竹林だしね。もしも蚊に血を吸われて月村さんにマラリアでも感染《うつ》ったら大変だ」
「うう……このあたりにそんな伝染病ありましたっけ……」
「ごめんごめん」
涙目になって頭をさする真由をなだめながら、たすくは内心で毒づいている。
(あかん。どうもこのボケ女に付きおうてると調子狂うわ)
本来ポーカーフェイスには自信があったのだ。末っ子の自分が血族《けつぞく》内で地歩《ちほ》を築《きず》いていくには周囲の顔色をうかがい、自分の顔色を悟《さと》らせない技術が不可欠だったから。しかしこの女を相手にしていると、精神的疲労のあまり自慢の仮面にひびが入るようである。早いところ決着をつけなければなるまい。
「とにかく僕は、決してやましいことを考えてここに来たわけじゃないんだよ。そこを誤解《ごかい》されてしまうのはとても悲しいな」
「そ、そうでしたか……すいません早とちりして。ええとじゃあ、ここに来たのはタケノコを掘るためとか?」
もういちど頭を叩たきたくなる衝動《しょうどう》を奇跡《きせき》の努力で抑《おさ》えつつ、
「いや、もちろんここに来た目的はひとつだよ。君とふたりきりになりたかったんだ」
ここからが勝負どころである。たすくは獲物の瞳をまっすぐ覗《のぞ》き込んだ。神戎の仕手、籠絡の基本は目線から。
「わ、わたしとふたりきりに、ですか……? え? でもどうして?」
「ずるいな君は。もう気づいてくれてもいいと思うんだけどな、僕の気持ちに」
神戎の仕手とはつまるところ、異性を自分のモノにするための技術の集約《しゅうやく》であり、奥義である。生まれつきすぐれた外見と濃密《のうみつ》なフェロモンという物的な面からのアプローチはもちろん、相手に対して心理的な優位《ゆうい》をととのえていく無数のスキルを、『自覚ある神戎』の一族は長年にわたって培《つちか》い、継承《けいしょう》してきた。
「いま君に、その気持ちを伝えようと思う」
呼吸を読み、瞳の動きを読み、相手がもっとも無防備《むぼうび》になる瞬間を狙って。
すうっと一歩踏み出し.真由のふところに入った。
「あっ……や……」
そのまま腰に手を回し、ぴったりと密着《みっちゃく》する。この間は瞬《まばた》きひとつの隙《すき》が命取り。いちど捉《とら》えた瞳は決して逸《そ》らさせてはならない。
真由は抵抗《ていこう》を試《こころ》みているようだが、その動きはどこか遠慮《えんりょ》がちである。当然だ、とたすくはほくそ笑《え》む。すでに仕手の初期段階は仕掛け終えた上、身体のツボを押さえて力を入れにくいよう細工しているのだ。もはや獲物は寵《かご》の中の小鳥も同然。勝利をより確実なものとするため、たすくは次なる手を繰り出すタイミングをはかる。
「あの、やめてください、放してくださ――」
「嫌がってなかったよね、二ノ宮くん」
「えっ?」
「さっきの話。いろりに『あんなこと』されても、二ノ宮くんは嫌がってなかった」
いかに頭の沸いた女とはいえ、たすくの言わんとするところは理解したようだ。びくんと身体を震わせ、弱々しい抵抗をぴたりと止める。そのまま目を逸らしそうになるところを、たすくの次なる言葉の刃《やいば》がすくい上げる。
「正直僕もびっくりしたんだけど……あのふたり、あそこまで親密になってたんだな。ひとが見ている前で堂々《どうどう》とくちづけとはね。ちょっとはしたないとは思うけど、まああれもふたりが信頼し合ってる証拠《しょうこ》だろう」
言葉の一句《いっく》一句が真由の心に穴をあけていく光景が幻視《げんし》できるほどだった。一秒おきに血の気《け》を失《うしな》い、くちびるの色が青くなっていく様《さま》はまるで早送りの映像のようで、存分《ぞんぶん》にたすくの嗜虐《しぎゃく》心を愉《たの》しませてくれる。
「いろりの気持ちはね、前々から聞いてたから知ってはいたんだ。でも肝心《かんじん》の二ノ宮くんの気持ちのほうがよくわからなくてね。ずっと気を揉《も》んでいたんだけど。今回のことではっきりした。二ノ宮くんの気持ちもいろりに向いている――二ノ宮くんの好きなひとは、いろりだ」
逃避《とうひ》のしようもないほど明快《めいかい》に指摘《してき》してやると、真由の瞳に滴《しずく》がにじんだ。しかしたすくの術中《じゅっちゅう》におちている真由は目を逸らすことができず、つまり彼女の世界に居るのはたすくだけ。救いを求められる相手もたすくだけ。
獲物が完全に罠にはまったことを確認し、最後の仕上げに入る。
「僕では代わりになれないかな?」
「……え?」
「僕だったら。少なくとも彼よりは、君のことを大事にしてあげられる。こんな風に」
腕に力をこめた。ふたりの距離がさらに縮まる。真由は抵抗しない。いや、できるはずはない。
「月村さん。僕は君が好きだ。初めて言葉を交《か》わすずっとずっと前から」
「――わたしを? ですか?」
「もちろん君をだよ、月村真由さん。僕の気持ちに応えてもらえるだろうか?」
真由はびっくりしているようだった。当然だろう。学園トップの超絶美男子たる奥城たすくから告白されたのだ。それも失恋の傷を埋められるよう、万全《ばんぜん》のお膳立《ぜんだ》てをした上で。誓《ちか》ってもいい、並の女なら一秒で落ちる。たとえ継群の女であれ、これだけ優位を整《ととの》えて一撃を繰り出したのだ。心がぐらつかないほずはない。
「あの、でも……」
真由が言いにくそうに口を開く。夢のような申し出がまるで信じられず、ほっぺたをつねって確認するような調子で.むろんこの流れは想定《そうてい》ずみである。ここから真由は様々な問いを発してくるだろうが、いかなる聞いかけにも答えられる自信はあった.いったい何を訊《き》いてくるか? 自分のどこが好きなのか、どういうきっかけで好きになったのか――セオリーどおりなら大体このあたりだろう。そしてたすくはうその答えをいくらでも語《かた》ることができるのだ、籠絡の毒を甘い甘い言葉に包《つつ》んで。
さあ、なんでも訊いてくるといい。異性を籠絡することに特化《とっか》してきた種族の真骨頂《しんこっちょう》、見せてやろうではないか。
「ええとその……」
真由はいちど開いた口を閉ざし、しばらく思い悩むように間を置き、そして意を決したようにふたたび口を開いて、
「でもたすくさんって、いろりさんのことが好きなんですよね……?」
遠慮《えんりょ》がちに、しかしひどく不思議そうに。
どうして相手がそんなうそを言うのかわからない、とでも言いたげに。
継群の女は小首をかしげ、央条の男の表情を凍《こお》らせることに成功したのである。
「ばっ――」
気づいた時にはたすくの首から上に全身の血が集まって、
「アホか、そんなわけあるかい! ――ああいや、そんなはずないじゃないか月村さん。いろりは僕の妹だし、そりゃあ実の妹ってわけじゃないけど、でもずっと小さいころからいっしょにいて、恋愛感情なんて今さら持ちようもないよ。勘繰《かんぐ》りたくなる気持ちはわかるけど――」
「でも、好きなんですよね?」
どうしてそんな言い訳をするのだろう、と本気で不思議がる口調。やわらかく、しかし揺るぎなく断定《だんてい》され、今度はたすくのほうが口をつぐむ番だった。
(アホな……なんでわかるんや? そんなそぶりはぜったい見せてへんはずやのに!)
これまで誰も見抜けなかったことを、こんなトロそうな女が看破《かんぱ》したというのか。いつ気がついた? 先ほどの河原町で四人がそろった時か? いやそんな馬鹿な。あの時のいろりの言動にカチンときていたのは確かだが、しかし表面上はきっちり取り繕《つくろ》っていたはず。ましてやここまで断言されるほどの隙はぜったい見せてないはずだ。なのになぜ? 青天《せいてん》の霹靂《へきれき》とも言うべき一撃を見舞われ、たすくの仮面は音を立ててポロポロと崩《くず》れ始めた。顔を真っ赤にし、口元を覆《おお》うように手を当て、あろうことか彼のほうから視線を外してしまう。神戎的な価値観からみて敗北《はいぼく》にも等《ひと》しい行為《こうい》であった。
「あの、その。元気出してください。だいじょうぶです、たすくさんはまだいろりさんに振られたわけじゃありませんから」
「二ノ宮に振られて俺を振ったおまえに言われたないわ!」
「あいた!?」
思わず張り倒してしまってからはっと気づいた。まずい、とどめとばかりに本性をさらしてしまった。これではもう寵絡どころの話ではない。
(くそっ、完壁ミスったわ。これまでの努力がぜんぶパアやんけ……)
涙ぐんで子ウサギのように震えながら見上げてくる真由を睨《にら》みつけ、たすくは貴公子顔台なしの仏頂面《ぶっちょうづら》を作る。それにしてもこの女、あれだけ丁寧《ていねい》に手順を踏《ふ》んだにも関《かか》わらず神戎の術中にはまらなかったというのか。あるいは最後の選択肢を誤《あやま》ったばかりにしらふに戻してしまったのか。
「あの、たすくさん」
はたかれた頭をさすりながら、真由がおずおずと、
「『好き』っていう言葉、ものすごく大事だと思うんです.だから、いい加減な気持ちで口にしちゃいけないと思います。もっと大事な人に、もっともっと真剣に、言ってあげなきゃだめです」
「……俺が言った『好き』って言葉に、何も感じんかったっていうんか……?」
「だって、本気で言ってるように聞こえないです……。というよりたすくさん、これまで『好き』って言葉をいちども本気で言ったことないんじゃないか、って――」
鋭い、というか痛いことを言ってくれる。だんだんヤケクソになってきて、とにかくムカつくからもういっぺんはたいてやろうかとウズウズしてきて、
(あかん、まだや。まだ終わらせるわけにはいかん)
協定にそむいて行動に出た今となっては二者択一しかないのだ。栄達か、転落か。むろんいずれの場合もたすくひとりで済む話ではない。
そう思い直し、どうにか失地を回復する手段はないかと頭を回転させ始めて――
「…………。ちっ、時間切れか」
周囲を取り囲んだ不穏の空気を察《さっ》し、盛大《せいだい》な舌打ちをした.どうやら招《まね》かれざる客が大挙《たいきょ》してやってきたらしい。
「おい継群の女」
「えっ?…………わたし?」
「おまえ以外に誰もおらんわ.どこの氏族《しぞく》の連中か知らんが、こいつら神精の源のおまえを狙ってきた連中やで。面倒な目に遭いたなかったらおまえも手え貸せ」
「しぞく……? しんせい……?」
どうやらこの脳みそプリン女、そのあたりの事情にはうといらしい。
そうしてる間にもひとりふたりと、竹やぶの間から曲者どもが姿を現した。たすくが驚き呆《あき》れたことに、全員がそろいもそろって足袋《たび》に覆面《ふくめん》に黒装束《くろしょうぞく》という古式《こしき》ゆかしいファッションに身を包んでいる。映画の中から飛び出してきたようなジャパニーズ・ニンジャのスタイルだ。
「なんかのアトラクションでもやるつもりかこいつら……どうせなら街中行って観光の目玉にでもなってこんかい。外国のミナサンどもが大喜びしてくれるで? まあええ、おい継群の女」
「は、はいっ?」
「おまえに右の半分任せるわ。俺が左をやる」
「え、ええと……何を任されればいいのか、よろしければ教えていただけると……あっ、やっぱりタケノコ掘りですか?」
なんたることであろう。このボケ倒した様子からして月村真由、戦力としてもまるで勘定《かんじょう》に入れられないらしい。十氏族の女のくせに恥《は》ずべき無様《ぶざま》さである。
(どこまでいっても使えん女やで……ん? 待てよ)
もう一度はたいてやろうかとウズウズしている手を押さえつつ、たすくはあることに気づいて目を輝かせた。一見ピンチなこの状況、ひょっとすると降って湧いた起死回生の大チャンスなのではないか.無念にも一度は龍絡に失敗したが……ここでたすくが獅子奮迅《ししふんじん》の活躍を見せ、真由を悪漢《あっかん》どもの凶手から救えばどうなる? 一転してたすくは真由にとってのヒーローとなり、ヒーローとヒロインとの間《あいだ》には新たな恋が芽生えるのが定番なわけで……。
「おい継群の女」
「は、はい、なんでしょう?」
「予定変更や。おまえはとにかくじっとしとれ。指一本手出しするな。瞬《まばた》きもするな。屁《へ》もこくな。でもってこの俺、奥城たすくの活躍っぶりをしっかり目に焼き付けとけ。ええな?」
「よ、よくわかりませんけど……はい、じっとしてます」
満足げに頷《うなず》き、たすくは無言で包囲の輪を縮めてくる刺客たちに向き直る。
ふいに落ち葉を巻き上げたつむじ風が乾《かわ》いた音を竹林《ちくりん》一帯に満《み》たし、まるでそれを合図としたかのように。
ひとりと十数人の影がいっせいに疾走《しっそう》を開始した。
通《とお》されたのは.見事な数寄屋《すきや》造《づく》りの離《はな》れだった。
京畳《きょうだたみ》の十|畳間《じょうま》で、離れというよりはむしろ茶室の趣《おもむき》に近い。床《とこ》の間にぽつんと生けられた時期はずれのあじさいが、いかにもそれ風にほどよい侘《わ》びを演出している。開け放たれた縁側の向こうにはよく手入れされた坪庭《つぼにわ》が一望《いちぼう》でき、萩《はぎ》の生垣《いけがき》の向こうから祭りの喧騒《けんそう》がとぎれとぎれに耳をくすぐった。
峻護は部屋の真ん中に正座し、庭であそぶ雀たちをぼんやり眺めている。
(なんだか……遠いところまで来てしまった気がするなあ……)
彼のぼやきはむろん、物理的な距離のことを指しているわけではない。貞操観念《ていそうかんねん》が服を着て歩いていると言われたこの自分が、わずか二日にして二度までも接吻《せっぷん》行為を経験することになるとは……あたかも一瀉千里《いっしゃせんリ》の速さで物事が進んでしまった感がある。堅物《かたぶつ》の彼にとってはなにやら、異次元の空間に迷い込んでしまった気さえする。あるいは今ここにいる自分は自分ではないまったく別の人間で、自分はこの身体に間借《まが》りしている意識の切れ端なのではないか、とも思う。ほんとうの自分はどこか別の場所にいて、意識を手放した身体をどこかの病院のベッドにでも横たえているのではないか。
そんならしくない妄想に身を浸《ひた》すほど、峻護は現実に取り残されていた。心の大黒柱にひびでも入ってしまったのか、事態を打開する気力を失ったまま、いろりに導《みちび》かれるままここに通されてしまった。
そしてまたもうひとつ、喉にひっかかった小骨のようにしくしくと痛みつづける後悔がある。先ほど月村真由との関係を問われ、無粋《ぶすい》にも事実の一側面だけを口にしてしまったこと。あの時の真由の様子が視界の裏にこびりつき、峻護の心を責めたてている――
「お待たせいたしました」
ふすまの向こうから声がした。軽い虚脱《きょだつ》状態におちいっていた意識が覚醒《かくせい》し、「どうぞ」と声の主を招き入れる。
「失礼いたします」
まったく音を立てずにふすまが開き、しずしずとひざを進めてきた和服の少女がひとり。
目を丸くしている峻護の前で三つ指をつき、艶《つや》やかに髪を結《ゆ》い上げた頭を雅《みやび》に下げると、
「突然の申し出にも関わらずようこそおいでくださいました。手前上手《てまえじょうず》ながらこの離れは数百年の年月を閲《けみ》し、京の都の歴史と共にあった由緒《ゆいしょ》あるもの。古都《こと》の風雅《ふうが》を感じていただくにはあつらえ向きの結構《けっこう》と存じます。のちほどささやかながら酒肴《しゅこう》の用意もございますので、どうぞごゆるりとおくつろぎくださいませ」
朗々《ろうろう》と口上《こうじょう》を述《の》べあげた.
「ああいや、どうもごていねいに。こちらこそどうぞよろしく。……いや、というか」
見開いていた目を激しく瞬きさせ、ひとつふたつ咳払《せきばら》いしてから、
「ごめん、一瞬誰だかわからなかった。いやびっくりした」
「うふ、よかった。それでしたら気合を入れた甲斐《かい》があったというものです」
下げていた頭をあげ、和装の少女はいつものように穏やかに微笑《ほほ》んだ。すっかり『女』に化《ば》けた奥城いろりである。
普段見慣れている神宮寺《じんぐうじ》学園の制服が、まるで世《よ》をしのぶ仮の姿であったかと思えるほど、着物姿のいろりは堂に入っていた。おさえた色柄《いろがら》の千鳥《ちどり》格子《こうし》には華美《かび》さこそないものの、品のよいきらびやかさがあって、まるで彼女のために生まれた模様であるかと錯覚するくらいぴたりと嵌《はま》っている。トレードマークの黒ぶちメガネを外した面立ちは思ったとおりのすごい美貌《びぼう》で、数秒目を合わせただけで酪酊《めいてい》をおこしそうだ.月村真由とも北条麗華ともタイプのちがう、しかしまったく引けを取らぬ佳人《かじん》――
「せっかくですからちょっと格式ばってみたんですが、驚かせてしまったみたいですね。うふ、大成功です」
典雅《てんが》な仕草《しぐさ》から一転、ぺろりと舌を出すいろり。その落差の魅惑《みわく》に心動かさない男はこの世に存在しないのではあるまいか。
「どうですかこの着物? 迷いに迷って選んだ一着なんですけど」
「ん。ああうん、とてもいい着物だね。さすがは京都だな、って感じがする。そんないい和服がふつうに売ってるんだな」
「もう。そうではなくて、似合うか似合わないかと聞いてるんですよ?」
「え? ああそうか、いやすまなかった。だって、似合ってるかどうかなんてのは当たり前すぎて、わざわざ答えるまでもないと思ってて……」
「まあ。峻護さんもお上手になられましたね.そんなにわたしをおだててどうなさるおつもりです?」
「へっ? いやどうするも何も、ただ率直な感想を述べただけ……」
「うふふ」
艶っぼく微笑み、じっと見つめてくるいろり。なにやら精神的なプレッシャーを覚え、峻護は坪庭を見るふりをしながら胸元に風を送りつつ、
「ここは……いろりさんのご実家なのか?」
「ええ。実家といえば実家ですね。ここは奥城の本家ではなく、別邸のひとつです」
「立派な家だ。京都広しといっても、これだけ立派な家はそうそうないんじゃないかな」
「ええ、そうかもしれません」
「…………あー…………」
会話が途切れる。何かしゃべることはないかとあれこれ迷う峻護とちがい、いろりのほうは強いて話題を持ち出すつもりもないようだ。ひたすらにこにこと、しかしまっすぐ峻護を見つめてくる。見つめられるほうとしては居心地《いごこち》わるいことこの上ないのだが、どうもいろりのそぶりには獲物にじゃれついて遊ぶ猫のような趣がないでもなく、いよいよ峻護は萎縮《いしゅく》してしまう.黙っている場合ではなく、いくらでも聞くべきこと、言うべきことがあるはずなのに。
けっきょくは何も口に出せず、峻護はそろそろ見飽きてきた坪庭に相変わらず視線を固定している。日は傾《かたむ》き始めたものの陽光の照りつけはまだまだ盛んであり、若々しい楓《かえで》の葉をじりじり灼《や》いていた。これだけ夏の盛《さか》りでありながら、空調も利かせていない庵《いおり》の中は意外に過ごしやすく、あるいはどこかでこまめに遣《や》り水でもして涼《りょう》を送っているのかもしれない。
汗はかかないが喉は渇《かわ》く。青い玻璃《はり》の湯飲みへ無意識に手を伸ばして、中身がとっくに空になっていることに気づいた。
「あら、お茶を切らしていますね。失礼いたしました」
いろりがふすまの向こうに声をかけると、すぐさま使用人《しようにん》らしき老女《ろうじょ》が急須《きゅうす》を持って現れた。
湯飲みとおそろいの青い玻璃でできた急須をいろりに渡すと、いかにも『婆や』といった感じの老女はすぐに退出し、
「はい、どうぞ峻護さん。お口に合うといいのですが」
いろりがすすっとひざを寄せ、手ずからお茶をいれてくれた。こういう一連の流れに隠しようもなく優美《ゆうび》さがにじみ出ているのが、あるいは京者《きょうもの》の粋《いき》なのであろうか。
「……いただきます」
ひとくち含《ふく》むとたちまち豊潤《ほうじゅん》な香りが広がった。極上《ごくじょう》の宇治茶《うじちゃ》。ほどよい温度のこの舌ざわりは、井戸水でじっくり冷やしたゆえか。
「……うまい」
「それはようございました」
にこりと笑い、そしてそのままである。つまりお茶をそそいでくれた位置、吐息《といき》が掛かるほど近い距離のまま。
心拍数《しんばくすう》が倍に跳ね上がった。しかし嵐の気配は身体の中にとどまり、実際の峻護は微動だにしない。いや、できない。
「峻護さんは、やっぱりいいひとですね」
いろりがしどけなくひざを崩《くず》した。寄りかかる方向が峻護のほうでなければ少しはホッとできたのだろうが、
「我《が》を押して拒絶することはできないんですもの。もっとも、拒絶しようにも今さら無理だとは思いますが」
「――いや、そういうわけじゃない。待ってくれ。というか何をするつもりなんだ?」
いろりは答えない。わかりきっている答えなど口にする必要はない、とでも言いたげに目を細めるのみ。
「侍ってくれ、まだ君には聞かなければならないことがあるんだ。まだぜんぜん話は終わってない。いや話を始めてもいない」
「ええ.なんでも聞いてくださいね。することをしながらであれば、いくらでもどうぞ」
「いやいや、そうじゃないだろう、そうじゃ――」
「残念ながら」
笑顔で、しかし判決を下す裁判官のような声で、いろりは断じた。
「残念ながらもう、あなたはわたしの手の内にいます。うそだと思うなら抵抗していただいても構いませんよ? 無駄な努力だとは思いますけど」
事実だった。抵抗どころか、理性をかなぐり捨てていろりにのしかかろうとずる欲求を抑えるのに精一杯。いまの峻護は心理的に両手両足を縛《しば》られた、あわれな虜囚《りょしゅう》に等《ひと》しい。
着物の襟《えり》をゆっくりはだけながら、熱い吐息とともにいろりは言葉をつづける。
「だって、わたしは念入りに、念入りに、峻護さんを龍絡してきたんですもの。どれだけあなたがお堅いひとでも、もう手遅れ」
「君は――君はいったい……?」
「神戎十氏族が一、央条の者。どうやら峻護さんは何もご存知ないみたいですが……それが裏目に出ましたね。二ノ宮涼子さんは鬼のように恐れられていますが、弟のあなたにはひどく甘いようで。あまりあなたをこちら側[#「こちら側」に傍点]に巻き込みたくなかったのでしょうけど」
はだけた襟から白い肩をのぞかせ、さらに距離をつめてくる。峻護にできたことといえば、見えない手に押されるようにのけぞっただけ。のけぞった先には青い香りがする畳の感触が待っている。
「何度も訊《き》かれた質問にいま答えますが、わたしサキュバスです。いまさら確認するようなことでもないと思いますけど。そうそう、神戎というのはサキュバスの別の言い方だと考えてもらって差し支えありません」
「そうか、やっぱり……」
いろりがサキュバスであることには、確かにいまさら驚きはない。峻護が驚くのは、たとえば月村真由ほどの強力なサキュバスと同居していてすらリビドーを自制できるのに、いろりに対してはそれがまるで叶《かな》わないことである。むしろ普段のいろりはごく普通のどこにでもいる少女に見えるのに.なぜ自分はここまで彼女に対して無抵抗に堕《だ》してしまうのか。
峻護の顔色から考えていることを読み取ったようにいろりは目じりを下げ、
「種明かしをしますと、峻護さんにちょっと小細工をさせてもらってます」
「小細工……?」
「フェロモンという言葉はご存知ですね?」
生物が体内で生成《せいせい》する、生理的変化を誘発《ゆうはつ》する刺激《しげき》物質のうち、体外に分泌《ぶんぴつ》されて影響するものの総称《そうしょう》。いわゆるサキュバスたちは、異性を魅惑する効果を持つフェロモンを多量に分泌しているらしい。真由などはこのフェロモンが相当に濃厚《のうこう》で、周囲の男どもに多大な影響を与える様はほとんど無差別爆撃のごとくであるとか。
「わたしたちのような『自覚ある神戎』たちは長い歴史の中で、そういったフェロモンを自在に使いこなすための技術を磨いてきたのです。自分の意志でフェロモンを大量に生成したり、その逆に生成をゼロに抑えたり。あるいはフェロモンの効果を調整したりすることもできるんです。たとえば特定の相手に対してフェロモンを嗅がせることとか[#「特定の相手に対してフェロモンを嗅がせることとか」に傍点]」
「…………。そういうことか」
「はい。でも峻護さんはとてもお堅いひとなので、注意深くやる必要がありました。毎日毎日、少しずつ少しずつ、決して気づかれないように侵食させていただきました」
ついに押し倒された。馬乗りの形になって、この期に及《およ》んでも品のよい微笑を崩《くず》さないサキュバス少女の頼にはしかし、はっきりと興奮を示す朱がさしている.一方の峻護は筋弛緩剤《きんしかんざい》でも注射されたかのように手足が自由にならない。
「もちろん、それ以外にも細々《こまごま》と抜かりなくやらせていただきましたよ。峻護さんを落とすためには手を惜しみませんでした。その結果はほら、このとおり」
「く……いったい君の目的はなんだ? おれにこんなことして、君になんの得がある?」
「ひとつには、神精だと言われるあなたの身柄《みがら》をおさえること。あ、神精と言われてもわかりませんか? でもまあ、いまは別にわからなくても構いませんよね?」
くす、と忍び笑い、峻護の煩から喉笛《のどぶえ》にかけてのラインを指でなぞった。彼の問いが、意識を正常に保つための足掻《あが》きであることを見抜いている。
「もうひとつは月村真由さんをあなたから引き離すため。こちらはどうやら成功しそうですね。あなたがわたしのものになったと知れば、いくらでも彼女に付け入る隙はできそうですし」
「な、そんな――!」
「でも、わりと今はどうでもいいんです、そんな目的」
きゅぅっ、と。
峻護の胴を押さえ込んでいる腰を、妖《あや》しくうごめかせてきた。途端、彼の全身に稲光を思わせる刺激が走り、あやうくあえぎ声が漏れかける。
「ただ、あなたがほしいから。だからこういうことをしています」
峻護の瞳を覗き込み、うふふと笑う。その様はまさしく生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》の者、サキュバスのみに可能な媚態《びたい》。
「峻護さんは、わたしがほしくありませんか?」
「おれは――おれは……」
「でもずるいですよね、こんな言い方は。望んでいる答えが返ってくる状況に追い込んでから質間してるんですものね。ずるい女ですよね」
脂汗《あぶらあせ》を謬《にじ》ませながら、絶体絶命の状況に追い込まれながら、それでも峻護は懸命《けんめい》に抗《あらが》っていた。どうすればいい? どうすればこの危機から抜け出せる?……だめだ、もう心がくじけそうだ。おれの限界のぎりぎりまで自分の煩悩《ぼんのう》と戦っている、昨日の夜からずっとだ。もう十分なんじゃないか.もう、自分の思うまま、欲望のままに彼女を貪《むさぼ》ってしまえばいいのではないか。彼女だってそれを望んでいるじゃないか。いったい何をためらうことがある。さあ、おまえの好きなように、欲《ほつ》するままにこの女を――いやいや馬鹿な、何を考えている? あきらめたらそこで終わり、気を強く保て! こんなことで、こんな望みもしないやりかたで――
「あの」
この期に及んでもまだぎりぎりのところで踏みとどまっている峻護の耳に、か細い声が届いた。誰の声かと一瞬耳を疑ったほどの、それは弱々しい声。
「どうも峻護さんから見たら悪女《あくじょ》みたいなことばかりやってるわたしですが、その言葉を口にするのはこれでも勇気がいるのです。わたしはあなたの心を神戎の技で捉えていることに自覚がありますし、自分の生の魅力だけであなたの心をつかんでないことに負い目もあります。だから、恥ずかしくてとてもその言葉[#「その言葉」に傍点]を言えないんです」
いろりがおずおずと目を逸らす。峻護の記憶にあるかぎり、彼女のそんな仕草を見るのは初めてのことだった。
そしてこれも初めてのことだったろう。秋の夕日みたいに顔を赤く染めて、身をよじるようにして訥々《とつとつ》と、神戎を名乗る少女は懸命に口を動かそうとしている。普段は物静かで控《ひか》えめで、しかし何か話すときはハッキリとものを言う少女だったのに。
「わたしはもう、ぜんぶやりました。わたしなりに言葉もつくしました。気持ちを伝える行動にも出ました。だから、だからあとは――」
間があった。
広壮《こうそう》といっていい広さのあるこの奥城家別邸は、まるで無人であるかのようにひとけがない。聞こえる音はお互いの呼吸だけ。あとはただ、無粋な沈黙と静寂《せいじゃく》だけが離れを踊りまわり、耳がツンとなるほどの緊張がゆっくりと通り過ぎて、そして。
耳まで赤くしてうつむき、かろうじて聞き取れるだけの声で、言った。
「あとは峻護さんが、して」
「――――っ」
火がついた。
ものも言わず跳ね起き、その勢いで倒れかけるいろりの腕を力強くつかんだ。
「しゅ、峻護さん?――きゃ」
小さな悲鳴をあげるのも聞き流し、畳の上に組み敷《し》く。あるいはすべてがいろりの巧妙《こうみょう》な演技かもしれない、という疑念《ぎねん》を理性が訴《うった》え、しかしすぐ直感によって否定された。むしろかつてない彼女の素顔を垣間《かいま》見た気さえした。表の顔は目立たぬ優等生、裏の顔は妖艶な男殺し。だが虚飾《きょしょく》を一切|廃《はい》した彼女のありのままの姿は、無垢《むく》であどけない、ごくごくあたりまえの少女なのではないか。
とはいえ。もはやその想像の真偽《しんぎ》は関係ない。理性のタガが星雲《せいうん》の彼方《かなた》まで飛び去ってしまった今となってはただ、目の前にある獲物を骨まで貪り尽《つ》くすのみ、
「や――あ――」
組み敷かれたいろりは、サキュバスと名乗るにしてはひどく初心《うぶ》なようずで戸惑《とまど》い、動揺《どうよう》し、ひっきりなしにまぶたを開け閉めしている。しかし抵抗や嫌悪の意思表示は見られない。すべてを受け入れる用意があることを、身体全体で表明《ひょうめい》している。
手始めに、押し倒した勢いであられもなくめくれてしまった太ももから狙うことにした。
ぞくぞくするほど生々しい白い肌に指を置くと、ほんのわずかに触れただけで、びくん、びくん、と敏感に反応する。さらに指先をゆっくり腰に向けてなぞっていくと、おもしろいほど動揺と遂恥《しゅうち》の態《てい》を示した。身体を固くして身をよじるいろりの姿が、峻護の心理に秘められていた性質――嗜虐《しぎゃく》心を心地よく刺激してくれる。
峻護はじっくりと獲物の快楽をほじくり出す作業をすすめた。頭の中は興奮で真っ白になっているはずなのに、手足は爬虫類《はちゅうるい》のように冷静に、的確に動いてくれる。彼自身びっくりしたことだが、まるで女を悦《よろこ》ばせる方法を身体が知っているようだった。ならばいよいよ話は早い、ただただ興《きょう》のおもむくままに事を運べばよい。
わずかな責めだけで獲物の吐息を存分に荒くした峻護の本能は、大いに自尊心《じそんしん》をくすぐられた。だがまだまだ満たされてはいない。次なる責めの方法を彼のDNAは自動的に検索し、すぐに結論を出した。この女には自分をいいように弄んでくれた借りがある。その借りを借にして返してやらねばなるまい。
「あ――」
肌から指先を放すと、いろりの喉が不満げなあえぎを発した――まだ足りない、もっとして、とでも言いたげに.そうして無意識に『おねだり』してしまったことに、いろりの頬がさらなる羞恥に染まり、黒瞳《こくどう》がさらなる潤《うるお》いを帯《お》びる。
その瞳にぐいっとせまった。いろりが息を呑む。虹彩《こうさい》の数まで数えられそうな至近《しきん》。
竣護の次なる狙いは明らかだった。朝露《あさつゆ》に濡れたさくらんぼのように瑞々《みずみず》しいくちびる。甘い甘いその果実を、思う存分に躁躍《じゅうりん》してやる。
相手も機敏《きびん》に意図を察《さっ》したようだ。こくん、と候を上下させ、まぶたをいったんぎゅっと閉じ、しかしすぐ思い直したように目を開き、賂奪《りゃくだつ》者をじっと見つめて。
そしてかすかに頷《うなず》いた。完全なる肯定《こうてい》と受容《じゅよう》の意思表示。
峻護も目だけで頷き、ゆっくりと、焦《じ》らすように近づいていって――
瞬間、何かが引っかかった。
何が?
いろりの瞳が、だ。
それは、彼女と接している時にいつも引っかかっていたものと同質の何かだった。
少年時代の終焉《しゅうえん》へ、ひとりの男に脱皮《だっぴ》を果たすその時へ、淀《よど》みなく遭進《まいしん》していた峻護に、わずかな躊躇《ちゅうちょ》が生まれた。何だ? なにを自分はためらっている? いろりの瞳の何に引っかかっている? すべてを許し、心を預けきっているはずの彼女の瞳に、おれはどんな引っかかりを感じているというんだ?
「…………?」
前進を止めた男に、いろりに怪訝《けげん》そうな瞬《まばた》きをする。その表情、その鼓動、その体温。どれをとっても前進を止めるような要素はなく、むしろ背中を後押しする要素ばかりのはずなのに――。
……数秒か数十秒か?
戸惑う目の前の女を文字通り穴のあくほど見つめて。
そしてようやく峻護は自分を踏みとどまらせているものの正体を知った。
こちらに向いている瞳が、自分を見ていないのだ。
いや確かに視線はこちらを向いている。目と目も確かに合っている。
なのにいろりの瞳は自分の姿を透過《とうか》して、別の何かを、別の誰かを見ているのだった。
(ああ――)
沸騰《ふっとう》していた情動が急速に冷却《れいきゃく》されていく。理知的な思考を取り戻した頭が真っ先に覚えた感情は、安堵《あんど》だった.あやうく取り返しのつかないことをするところだった。自分にとってではなく、彼女にとって。
「峻護、さん……?」
電池でも切れたようにぴたりと手を止めてしまった峻護へ、不安を帯びた声が掛かる。
何かまずいことでも、気に入らないことでもしてしまったのだろうか、とでも言いたげに、いろりのまぶたが瞬きを繰り返す。
上になっていた峻護が彼女の拘束《こうそく》を完全に解くに至《いた》り、戸惑いが呆然にまで進化した。のろのろと上半身を起こし、いまだ乱れる動悸《どうき》を整えるべく深呼吸を繰り返す峻護にうつろな目を向けてくる。『どうして?』とでも問いたげに見つめ、すぐ悲しげにまつげを伏《ふ》せてしまう。
演技でないことはわかっている。単にいろりは自分のことをわかっていないだけだ。峻護は、彼女に気づかせてやらねばならない。
(でも、どうやって言ってあげればいいんだ……?)
すっかり不器用な少年に戻ってしまった峻護は悩みに悩んだあげく、やっぱり言葉足らずのセリフを吐いてしまった。
「彼、かい?」
「え?」
迷ったわりにはひどく自然に口をついたその言葉に、彼自身が驚《おどろ》いた.が、同時にひどく納得もした。なるほどそういうことだったのか、と。まるで色恋《いろこい》のイロハを知らぬ峻護だったが、近ごろ活発に働いている直感がみごとに核心《かくしん》をついたらしい。
「ああいや――」
急いでセリフを軌道《きどう》修正する、
「たすく、だっけ? 君のお兄さんの」
「兄が何か……?」
「つまり――いま君が見ていたひと。その、行為《こうい》の最中《さいちゅう》に」
いろりはきょとん。とした。やはり自覚はなかったらしい。
「わたしが? 兄を?」
徐々《じょじょ》に落ち着きを取り戻してきたのか、いろりはいつもの品のよい微笑を(といってもかなりぎこちなかったが)目元に浮かべて、
「それはないと思います。どうしてこんな時に、ここにいもしない兄を見てなければいけないんですか? わたし、峻護さんだけを見てました。ほんとうです」
おそらく彼女の言ってることは真実なのだろう。ただ.事実が異なるだけで。
「ひどいです峻護さん。そんなやりかたでごまかそうとするなんてひどい。わたし、確かに悪女っぽかったかもだけど、こういう最中に他の男のひとのこと考えたりしません。それもよりによってたすくさんのことだなんて……峻護さんのばか。いーだ。もう知らない。女のわたしからあそこまでしたのに」
ツンとそっぽを向き、着崩れた襟元を直しつつ背中を向けてしまった。
それでも峻護としては、感じたままの事実を告げるしかない。
「でも本当なんだいろりさん。でなければいくらおれだって、こんな風に君に恥をかかせるようなことはしない。そりゃ、堅物《かたぶつ》な上に優柔不断《ゆうじゅうふだん》だってことは自覚があるけどさ、でもおれだって男だから、やる時はやる.たぶん。だから、ごまかしとか言い訳とかでこんなこと言ってるわけじゃないんだ」
「…………」
いろりもまた峻護の誠実《せいじつ》さ、馬鹿正直さは承知している.優美な曲線を描く背中がふたたび戸惑いの色を帯び始めていた。
「わたしが――たすくさんを?」
自ら発した言葉の意味を咀嚼《そしゃく》するかのような、沈黙。
そしていろりはゆっくりとかぶりを振る。
「いいえ、それはありませんよ。兄だとか再従兄妹《はとこ》だとかいう話じゃなくて、そんなのはぜんぜん飛び越えて、わたしあのひとが嫌いですから」
こうも不器用なものなのか――と、峻護はひどく新鮮な思いだった。あるいは人は誰しも、他ならぬ自分の気持ちに対してこそ無自覚でつたないものなのかもしれない、と思った。
奥城たすくと奥城いろりのふたりは一見、仲むつまじい兄妹に見える。初めて兄妹が会話を交わしている場面を見て峻譲が抱いた感想がそうだった。が、よくよく考えてみるとその第一印象に違和感を覚えることに気づき、一見しただけではわからない、兄妹の間にある微妙な齟齬《そご》を嗅《か》ぎ取ることができる。
だが、兄妹がお互いを本心から敬遠しているかといえば、やっばりそうではないような気がするのだ。そして様々な感情の濁《にご》り、混《ま》じりけ、不純物を取り除いたあとに残るのは――何があっても消えない、どんなものでも消せない、たったひとかけらの、だけどとてもまぶしく輝いて光る、お互いを想う心であるような気がするのだ。
「兄妹だといっても、わたしとあのひとの立場はまるで違うんです。あのひとは末っ子とはいえ本家の直系。わたしは分家の籍《せき》さえ弾《はじ》かれかけている末席《まっせき》の下っ端。その立場の差を笠《かさ》に着て、あのひとがわたしにどんなことをしてきたか。あのひとがわたしにやさしくしてくれたことなんていちども……」
「でも、そうなんだよいろりさん。君がいちばん気にかけているのは、いつも気にかけているのは、奥城たすくなんだ。間違いなく」
「そんな……」
のろのろといろりが振り向いた。まるで親に救いを求める幼子のような顔だった。その顔を見て峻護は確信した。二ノ宮峻護は彼女にとっての『男』ではない、と。
――ふたたび沈黙が降りる。
庭にあそんでいた雀たちは、屋根の下で繰り広げられる人間どもの悲喜劇《ひきげき》に遠慮したものか、さえずりを止めていずこかへ飛び去っていた。代わりに佳境《かきょう》に入った祭離子《まつりばやし》が可聴域《かちょういき》ぎりぎりのあわい[#「あたり」の間違い?]で届いたり途切れたりを繰り返し、ひどくひとけのない屋敷に生きた気配を差し入れている。
「峻護さんの言うことには納得できません。でも……」
静かに張り詰めた空気をおだやかに破ったのは、いろりの小さな吐息だった。
「今のわたしがやるべきことは、峻護さんをもういちど魅惑し直して、押し倒してしまうことです。でも、今のわたしにはそれができないみたいです、もう」
「いろりさん……?」
「ひとつだけわかったことがあります。わたし、意地悪はできても悪役にはなれないんですね。自分でも意外だけど……もっと、ひどい女が似合うと思ってたのに」
虚空を見つめてぽつりぽつりと語る様は、相手を峻護と見ていない。彼女が見ているのはあるいは、彼女がこれまで気づかなかった自分自身か。
「真由さんのところに行ってあげてください」
「えっ?」
「彼女にはあなたが必要なはずでずから。わたしなんかよりもずっと。だから、行ってあげてください」
「いや、だけど」
「もし同情をされてるなら願い下げです。それにわたしのことなんかを気にかけている暇はないはずですよ」
いろりは、彼女とたすくが企《たくら》んでいることをかいつまんで語った。
日を丸くする峻護にもういちど背を向け、
「こう見えてもわたし、けっこうへこんでるんです。もうそっとしておいてください」
「いや、だめだよいろりさん。そんなんじゃ――」
「峻護さん。やさしさって、誰にでもわけてあげていいものじゃないんですよ?」
静かで、しかし断固《だんこ》たる拒絶《きょぜつ》の声に、峻護はひるんだ。
だが。
「男ってさ」
「……はい?」
「たまには強引になったって、いいよな?」
「え?――きゃ」
意を決して立ち上がり、いろりの腕を乱暴に引いて彼女も立ち上がらせる。
その一瞬後には、いろりをセルロイドの人形か何かみたいに軽々と引きずって、空を飛ぶように疾駆《しっく》していた。
萩小路《はぎこうじ》いろりは耐《た》える女だった。昔から。
――奥城たすくがあの辛気《しんき》臭い女を初めて見たのは、四歳になった年の元日だったと記憶している。分家の萩小路のひとり娘が分別のつく年齢になったということで、血族一同にお披露目《ひろめ》することになったのだ.奥城の血統においては年初《としはじめ》の恒例行事《こうれいぎょうじ》のようなものであり、たすくもその年にお披露目される御稚児衆《おちごしゅう》のひとりだった。
種の活力が年を経《へ》るごとに衰《おとろ》えている事情は十氏族のどの血脈をとっても同じで、その年のお披露目の列に加わった稚児はふたりしかいなかった。下座にひざをついて挨拶《あいさつ》の口上《こうじょう》を終え、ふたり並んで畳に頭をつけた時、たすくは初めてとなりの女の顔を見た。長いまつげを伏せ、きれいに切りそろえたかむろ髪を畳にたらしている姿は、まるっきり生身の市松《いちまつ》人形みたいで、きれいというよりはなんだか気持ち悪いな、と思った気がする。
血族の主《おも》だった者は三箇日《さんがにち》の間は本家に留まるのが慣わしで、いろりの萩小路もその中に含まれていた。兄たちとは歳の離れていたたすくは彼らの輪に交われないことが多く、自然、歳がいっしょのいろりといっしょに居るようになった――と当時は思っていたのだが、今にしてみればいろりは、両親に言い含められてたすくに近づいたのだろう。
そのいろりの両親、萩小路の当主夫妻は、四歳のガキから見てもひどい小者《こもの》だった。目上の者には媚《こ》びへつらい、目下の者には尊大《そんだい》で、気に入らないことがあればひとり娘にすぐ当たり散らした。そんな時、いろりは理不尽《りふじん》な親から何を言われても何をされても黙って耐え、時おり勘気《かんき》をなだめるように愛想《あいそ》笑いをしていた.親のほうは単に失笑《しっしょう》を大安売りするだけの存在であり、元からたすくの眼中になかったが、娘のほうは無性に虫が好かなかった。『親があんなやと、そら子供のおまえも大したことないわな』と、羽根《はね》つきなどやりながらとりあえず悪口を言っておいた。言われたいろりは反論せず、ただ困ったように愛想笑いをしていた。
それからの数年、たすくといろりの関係はそれだけのものだった。この間、元日になるたびに萩小路の当主夫妻は欠かさず娘を連れてやってきたが、彼らの一族内での席次《せきじ》は年ごとに落ちぶれていった。珍《めずら》しいことではない、名門一族の出だという肩書きにあぐらをかき、先祖伝来の身代《しんだい》を食いつぶす分家は毎年のように出る.萩小路夫妻の小者ぶりは金銭感覚においても顕著《けんちょ》で、本家に顔を出すたびに誰彼かまわず無心《むしん》をする体《てい》たらくだった。
一方のいろりは、そんな不出来な両親をフォローするかのように、一族内での評判を上げていった。穏《おだ》やかな人当たりで常に相手を立て、自分は一歩引いたところにひかえる。一昔前の理想的な女性像。すえた異臭《いしゅう》をたてるほど古い血族にとっては、いずれ重宝《ちょうほう》きわまる女になるはずであり、たとえ萩小路がつぶれても娘だけは引く手あまたであろうと思われた。たすくはいろりのそういうところも気に食わなかった。
いろりへの嫌悪が長《ちょう》じ、ある時たすくは彼女を道場にひっぱっていって組み手の相手をさせた。日ごろから癪《しゃく》にさわるこの女を合法的に叩きのめすのが目的であり、それはあっさり達《たっ》せられた。一方的に打ち込まれ、いろりは何度も何度もぶざまに板床をなめた。据《す》え物を相手にするより簡単だった。たすくは存分に鬱債《うっぷん》を晴らしていろりを解放した。
『これ以上|生意気《なまいき》やと承知《しょうち》せんで』といった稚気《ちき》まるだしの脅迫《きょうはく》を言外《げんがい》にこめたつもりだったが、ぼろきれみたいにされたいろりはひとことも言い返すことなく道場を後にしようとした。それがかえってたすくの逆鱗《げきりん》にふれた。頭に血の上った彼は、背中を向けたいろりに手加減なしで襲い掛かり――そして次の瞬間、ぶざまに板床をなめている自分の姿を見出すことになったのである。何が起こったのかさえわからないことが、自分といろりとの力の差を証明していた。ひたすらオロオロとあやまるいろりを呆然と眺めやりながら、たすくはこの女が表向きの印象どおりの子供ではないことを初めて知った。
長じるにつれ、たすくは央条家の当主である父や兄たちの固陋《ころう》さにうんざりするようになっていった。そしてまた、央条の直系の中で自分だけは出来がちがうと確信するようにもなっていく。
実際、文武いかなる習い事も、神戎としての修行も、ほとんど前例のない速さで上達していくたすくは、末っ子ながら将来の登極《とうきょく》に含みを持てるだけの評価を着実に積み重ねていった。自分こそが次の当主になるべきであり、腐りかけた血族に活を入れる役目も自分が担《にな》うべきである。その暁《あかつき》には十氏族|筆頭《ひっとう》の地位を回復し、ふたたびこの国の実質的な主《あるじ》になる道もさぐることができるだろう。
だがそんな将来設計を口外《こうがい》するのは愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》であり、開きかけている道を自ら閉ざすにも等しい。たすくは野心を巧妙に隠し、猫の皮を何重にもかぶって周囲を欺《あざむ》きながら、チャンスを気長にうかがう戦略をとった。
その戦略で成果をあげる自信はあった。ただしひとつだけ不安要素があった。萩小路いろり。誰もが無毒だと思っているあの女を、たすくはむしろ最大の危険人物とみなしていた。あの女は自分の本性を知っている。万一にもあの女が自分の野心の存在を漏《も》らすようなことがあれば、甚《はなは》だまずい。早めに手を打っておく必要があった。
折よくひとつの話が舞い込んできた。急坂を転げ落ちるように没落の一本道を直進していた萩小路家が、いよいよにっちもさっちもいかなくなり、本家に泣きついてきたというのである。この頃になるとたすくは、若輩《じゃくはい》ながら日ごろの努力もあって、本家内で相応の発言力を持つに至っていた。彼は一計《いっけい》を案じ、実行に移した。
それから何週間も経たぬうち、萩小路いろりは奥城いろりに昇格[#「昇格」に傍点]し、その『手柄《てがら》』に報《むく》いる形で萩小路家は身代を安堵《あんど》されることとなった。潜在《せんざい》的な敵は懐柔《かいじゅう》なり脅迫するなりして味方に取り込んだほうが得策《とくさく》であり、また目の届く範囲に置いて監視するに越したことはない。たすくは、いろりを養子とするよう口添《くちぞ》えしたのが自分であり、その意にそむけば萩小路への『恩賞《おんしょう》』が反故《ほご》になるだろうことを匂わせ、それとなくいろりの耳に入るように仕向けた。いろりは彼にとって、首に縄をつけた犬も同然となった。
いろりが奥城家に入って初めてふたりきりになった時、獲物を生きたまま火あぶりにするような酷薄さですべてのいきさつを話してやった。いろりがいかにして両親に売られた[#「売られた」に傍点]のかを。彼らがいかに卑屈《ひくつ》に土下座《どげざ》し、娘の商品価値を力説し、娘に対してなんらの未練もないことを主張したか、微《び》に入《い》り細《さい》に入《い》り聞かせてやった。じつのところ彼らにそうさせるよう仕向けたのはたすくであったが、彼はことさらいろりの両親が自分の意志でそうしたように聞こえるよう心がけたのである。実際、あのごくつぶしたちはいずれ、唆《そそのか》されるまでもなくそうしたにちがいなかった。
いろりは困ったように微笑《びしょう》したまま、たすくの話を黙って聞いていた。話し終えた後、たすくはもう一度はっきり言ってやった。おまえは売られたのだと、とびきり辛辣《しんらつ》に、むごたらしく、事実を指摘してやった。じっと耐えていたいろりが初めて泣いた――困ったような微笑のまま、ぽろぼろと涙だけ流して。
無性に腹が立った。気づいた時には手を上げていた。何度も何度も何度もいろりを打った。いろりは涙を流したまま、はかなげに微笑したまま、少しだけ背を丸めて、やっぱりじっと耐えていた。そんないろりの態度こそがもっともたすくの神経を逆なでするのだ。いよいよ怒りを募《つの》らせてさらなる打擲《ちょうちゃく》を加えようとして――唐突に、気づいた。自分がこれほどまでに苛立《いちだ》ち、本性をむき出しにする相手は、いろりただひとりだということに。他の連中に対してはいくらでも冷徹に仮面をかぶれるはずの自分が、いろりにだけはすっかり調子を狂わされるということに。
こうして彼は、認めたくもない自分の気持ちにも気づかされることになったのだ……。
「――ああもうホンマ、京都《きょうと》に戻ってから腹の立つことばかりやな!」
くだらない過去のことをうっかり思い出してしまったことに舌打ちしながら、横合いから打ち込まれた刺客の凶手《きょうしゅ》を捌《さば》き、返す刀のまわし蹴りで吹き飛ばしてやった。
道沿いの犬矢来《いぬやらい》を派手《はで》に巻き込みながらもんどりうつ刺客には目もくれず、真由を引き連れたたすくは疾走をつづける。高速移動しながらのアクロバティックな離れ業に、並走するニンジャスタイルの刺客どもからうめきが漏れるが、手を綬《ゆる》めてくれる気配はない。
「おいこら継群の女、遅れとるやんけボケ! きっちりついてこんかい!」
「す、すいませ……で、でももう息が苦し……」
「ああそうかい。せやったらいっそのことそのまま気ィ失っとけや。そのほうが足手まといにならんで助かるさけ。安心せえ、ちゃんと引きずって安全なとこまで連れてったるわ」
「ひ、引きずられるのはちょっと……がりがりアスファルトに身体をけずられるのはいやです……」
「せやったらぶつくさ文句言わずにキリキリ走らんかい!」
いちど狂った歯車はそう簡単には元のように回らぬということか。こんな調子では月村真由を籠絡するなど夢のまた夢、一秒おきに、口を開くごとに野望が遠ざかっていくではないか。
事態がここまで沸騰《ふっとう》してしまっては、もはやたすくの一存《いちぞん》でコントロールしきれるものではない。こうなってはいろりや血族の者に支援《しえん》を求める余裕もなく、たすくはただひたすら己《おのれ》の不運を呪いながら、人の多いほうへ多いほうへと足を進める――流れる水が低いほうへ低いほうへと向かうように。
「どうも話がちがうのではないか?」
街中で派手な立ち回りを演じつつ移動する集団を追いながら、しのぶがぼそりとつぶやいた。
「協定に従《したが》わぬ不穏《ふおん》分子がエサに食いつくのは当然にしても……こうまで大人数で、組織だって襲ってくるとは。おまえに聞いていた話から想定《そうてい》される事態《じたい》より、大幅《おおはば》に外《はず》れるように思えるが」
「うーん結託《けったく》したのかなあ、不穏分子同士で」と、これはしのぶと共に集団を追う保坂。
「手詰まりになって仕方なく手を結んだ、みたいな。でも当然それはインスタントな同盟《どうめい》で、だからこそこれだけ行動が大雑把《おおざっぱ》になるわけで。だとしてもまあ、そこまでは予想の範囲内なんだけど……」
首をひねり、
「にしてもどうもキナ臭いというか、なーんか気に食わないね。あのニンジャたちの動き、即席のチームにしては連携《れんけい》がよく取れてる気がするんだなあ」
「おまえの言ってることは矛盾しているぞ光流。行動が大雑把なのに連携がよく取れていると? 本当に連携の取れた手練《てだ》れの集団であれば、今ごろとっくに決着がついているだろうに」
「つまり、わざと連携が取れてないように見せかけてるんじゃないか[#「わざと連携が取れてないように見せかけてるんじゃないか」に傍点]ってことだよ。高度な連携でもって、連携が取れてないみたいに見せかけるっていう……なんだか言葉遊びみたいだけど、とにかくそういうこと」
「ふむ、わたしにはそうは見えんが……事実とすれば事情はまるで変わってくるな」
「ほんと、冗談じゃないよね。それとこれはカンだけどさ、いまの事態にはいろいろイレギュラーな要素が絡《から》んでる気がするんだ。困るなあ、そうなるといろいろ予定が狂ってくるんだけど」
「おい、戦略《せんりゃく》立案はおまえの役割なんだからな。戦術《せんじゅつ》担当のわたしにいまさらそんなこと言われても困るぞ」
「うんだいじょうぶ、君が陰謀《いんぼう》向きじゃないことは承知《しょうち》してるよ。ま、連中は拉致《らち》を目論《もくろ》んでるにしても、それ以上の危害は月村さんに加えないはずだから。その絶対的な縛りがある限り、どんなイレギュラーが起きても対処《たいしょ》は可能だよ」
「まあそれならいいが……」
「とにかくいま張ってる罠は綬めないでね。まずは不穏分子の尻尾《しっぽ》をきっちりつかむことだけ考えよう」
「承知」
頷き、目を丸くする通行人たちを尻目にさらなる快速で小路小路を駆け抜ける。
人出がいよいよ増えてきた。この先にあるのは――祗園会の山場《やまば》、神輿渡御《みこしとぎょ》の出発する八坂《やさか》神社か。
人目につく場所に出れば連中もあきらめるかもしれない、という淡い目論見は儚《はかな》くも崩れさった。
八坂神社の真正面、四条通のどんづまりの広場。
ひしめく群集《ぐんしゅう》を割《わ》って突っ切ろうとしたたすくは中途で足を止めた。この日の古都でもっとも人目があるであろうこの場所に至っても刺客どもが退《ひ》かないのであれば、もはや詮方《せんかた》なし。ここを決戦場と定《さだ》めるしかなさそうだ。
異常を察した人々は、何事かと騒ぎつつも面倒《めんどう》ごとを避《さ》けてすばやく場所をあけ、たすくと刺客たちの周囲はちょっとした空白地帯を形成《けいせい》している。ギャラリーの奇異《きい》の視線にぐるりを取り囲まれている状況は、ローマ時代の円形闘技場《えんけいとうぎじょう》で死闘《しとう》を強《し》いられる剣奴《けんど》にでもなったかのような気分を味わわせてくれた。
(ほんま、今日は気に食わんことばっかやで……)
男性恐怖症などという己の神戎を全否定するような性質を持つ真由は、大量の視線を浴《あ》びて立ちすくんでいる。いよいよ本格的に役には立たず、浅い呼吸を繰り返す姿からして体力的にもとっくに限界。しかしここに留《とど》まって騒ぎを起こしていれば官憲《かんけん》が黙ってはいないはず。わずかな時間を稼《かせ》げればそれでいいのだ。
もっともその場合、自分の離反行為《りはんこうい》が央条本家に知られることになり、甚だまずいことになるわけで……。
(どっちへ転んでも最悪か……いや)
冷や汗の海でおぼれかけるたすくの目に一本の藁《わら》が映る。月村真由。神精の源と言われるこの女を抑えている限り、逆転の目はいくらでもあるはずだ。
「――ふん、まだ終わりやないわ。おら掛かってこんかいニンジャモドキども! 央条が末子、この奥城たすくがまとめて畳《たた》んだる!」
挑発されるまでもなく、刺客どもはいっせいに襲い掛かってきた。この広々とした場所で多人数を相手にせねばならない上、月村真由を守りながらという絶対条件がつく。せいぜい一分もつかどうかだろう。
正面から躍りかかってきた刺客を、当てるつもりのない回し蹴りで牽制《けんせい》。その勢いのまま真由の服を掴《つか》んで引き寄せつつ、背後から迫ってきた刺客の足元を水面蹴《すいめんげ》りの要領《ようりょう》で刈《か》り取り、蹴りの硬直《こうちょく》を狙って飛び込んできた数人を真由を引っ張ったまま飛び退《すさ》ってかわし、待ち構えていた刺客の一撃は背筋で受け止め、お返しに勢いのついた頭突きで吹き飛ばし――
敵はいずれも油断ならぬ手練れだったが、集団戦のプロというわけではないらしいことが不幸中の幸いだった。これだけの人数に囲まれて完壁《かんぺき》に連携を取られたら対処のしようもないところだったが、まずは邪魔者のたすくを始末するのか、それとも本命の真由だけを狙うのか、その意思統一さえも明瞭《めいりょう》ではなかった。月村真由に配慮《はいりょ》してか武器の類《たぐい》を使ってこないこともプラス材料。これなら想定していたよりも時間は稼げる。
が、必ずしも連携が取れているわけではないにせよ、間断《かんだん》ない立ち回りの連続であることは確かであり、この間のたすくは文字通り息つく間も与えられていないのだ。いかに鍛えられた人間でも無呼吸で動きつづけるのは限界がある、次第にたすくの動きが目に見えて鈍《にぶ》ってきた.反撃の手数が減り、打撃をかわすのではなく受け止める事が多くなり、ほどなく真由をかばうのだけが精一杯になっていく。それでもかろうじて致命的な一撃を避けて立ち回る姿は、もはや格闘技というよりもサーカスに近い。呆然と事の成り行きを見守っていた群衆《ぐんしゅう》は、たすくの活躍にいつしか歓声をもって報《むく》いるようになっていた。むろん彼にとっては煩《わずら》わしいだけでしかなく、余裕さえあれば『見世物とちゃうわボケども、すっこんどれ!』とでも罵声を浴びせかけたことだろうが……。
「!」
だましだましの立ち回りにもとうとう限界がきた。
跳躍《ちょうやく》の目測《もくそく》を見あやまり、着地した瞬間わずかにバランスが崩れ、
(まずっ――)
冷たいものを背に感じた時にはもうおそい。体勢を立て直すコンマ数秒の間に、刺客たちが一斉に襲い掛かってきた。かわしょうのない必中必殺のタイミングで。
くちびるを噛《か》み、次の瞬間にも襲ってくるであろう痛みと敗北の屈辱に耐えるべく覚悟を決め――
たすくにとどめを刺すはずだった刺客数名が、木《こ》っ端《ぱ》か何かのように横ざまに吹き飛んでいった。
「な」
思いもよらぬ事態に息を呑《の》み、さらに目を見開いて、
「二ノ宮くん!」
真由の声によって、自分が目にしている人物が別人でも幻覚でもないことを知った。
「二ノ宮唆護やて……? なんでおまえがここに……いや、それよりおまえがここにおるってことは……」
厳しい視線でこちらを見下ろしている峻護から視線を外すと、探すまでもなくそこにいた。峻護の背後。ややうつむき加減に。
「な、おま、いろり! なんでここにー」
「うるさい黙れ。おれが連れてきた」
「なにィ!?」
いろりに諸め寄ろうとするたすくをさえぎり、峻護が鋭い表情に当惑をおりまぜて周囲を見渡しながら、
「……こういう事態になってるとは思わなかった。騒ぎの起こってるほうへ行こうって言ういろりさんの言葉に従《したが》っておいて正解だったけど、正直どういう事情でこうなってるのか……いや、今はそんな場合じゃないか」
闖入者《ちんにゅうしゃ》の登場に一時は足踏みした刺客たちだったが、ふたたびじりじりと距離をつめてきている。峻護は油断なく目を配りながら真由を背後にかばって、
「月村さんだいじょうぶ? ケガはない?」
「はっ、はい! だいじょうぶです! なんともないです!」
いつになく真剣で厳しく、つまりはひどく凛々《りり》しい峻護の姿に、真由の声が半オクターブほど上ずっている。たすくは苦りきった顔をした。これではいよいよ籠絡どころの話ではない。
「とにかく、この状況をなんとかしよう。手伝ってもらうぞ奥城たすく。そのうち警察も来るだろうから、それまで月村さんといろりさんを守るんだ」
「おまえが指図《さしず》すんなや!」
怒声と同時、刺客どもがいっせいに身をたわめた。迎え撃つべく峻護とたすくもそれぞれに構えをとって、
「みいいいいいいつけましたわよおおおおおおおおお!」
緊迫《きんぱく》した空気を切り裂いてひどく通りのいい、赫怒《かくど》にみちた声が響きわたった。
驚いて振り返れば、群集の頭を飛び石にみたてて飛び越えてくる[#「群集の頭を飛び石にみたてて飛び越えてくる」に傍点]人影がひとつ。
「奥城いろり! 覚悟なさいッ!」
義経《よしつね》の八艘《はっそう》跳《と》びよろしく人々の海を渡りきった少女はその勢いのまま驚くべき跳躍力で宙を舞い、まったく情け容赦のない抜き手を繰り出した。
がぎっ! 骨と骨が交差してきしむ音が無気味に鳴り、打ち込んだ少女と防《ふせ》いだ少女のふたりはせめぎあいつつ対時する。
「……わたし、今そういう気分ではないんですけど? 生徒会長」
「お黙りなさい! あなたわたくしの再三《さいさん》の警告にも関わらずよくもよくもよくもよくも! 査問《さもん》も裁判もすっとばして死罪に処《しょ》してあげますからおとなしく誅《ちゅう》に伏《ふく》すのです!」
「申し訳ありませんが、いくら落ち込んでいても命まで捨てるほどには厭世《えんせい》気分になれませんので」
「ええと……北条先輩?」
と、これは場の空気に水を差されて当惑気味の峻護。
「とにかく今は状況が状況なので……できればもう少し空気を読んでもらえると助かるというか。その上でもしよろしければ手を貸していただけると……」
「その口を閉じなさいこの恥知らず! 公衆の面前であのような真似に及ぶなど言語道断! 主導《しゅどう》したのがあなたではないにせよ、だらしなく隙をさらして共犯《きょうはん》に堕した罪は免《まぬか》れうるものではありませんわ! あとでたっぷりと絞り上げてやりますからそのつもりでいなさい!」
と、そこでさらに別の声が。
「あーあーやっちまった。キレると見境ないなあ北条先輩って」
「まったくだぜ。できるだけ面倒にならないように、って涙ぐましくがんばってきた俺らの努力もこれでパア」
群集の間を割って第三の闖入者が現れた。まるで機嫌の悪い猫に引っかかれまくったかのようなズタボロ姿の少年ふたり。
「でも俺たち、けっこう善戦したよな?」
「おうよ。むしろ拍手されてもいいくらいだぜ? ブチ切れてハンニャみたいになった生徒会長をあれだけ長時間おさえ込めたんだから」
「吉田に井上……おまえら……」
「よお二ノ宮。派手にやってるみたいだな。俺たちも混ぜてもらっていいか?」
「花の都の晴れの日にこれだけの大|喧嘩《げんか》だ、ただ見物してるだけじゃあ男がすたるってもんだしな」
このふたり、相当に図太《ずぶと》い性格をしているらしい。何百もの視線を集めながら平然と、まるで出番を得た舞台俳優みたいに悠然《ゆうぜん》と歩《あゆ》み寄ってきて峻護の左右に陣取ると、
「さて、これで人数的なハンデはなくなってきたぜ?」
「どうするよニンジャさんたち。こうなっちゃあアンタらのほうが不利なんじゃね? おとなしく引き下がるなら見逃して――」
調子よく舌を動かしていた馬鹿ふたりの顔が引きつった。これまで素手《すで》だった黒装束《くろしょうぞく》どもがおもむろに懐《ふところ》や背中に手を入れるや、一斉に得物《えもの》を引き出して身構えたのである。トンファーやらメリケンサックやら――果ては手弓《てゆみ》や手裏剣《しゅりけん》などという飛び道具まで。
「うへえ」
「聞いてないぜそりゃ」
馬鹿ふたりのぼやきと同時。
武装した刺客どもは、今度こそいっせいに襲い掛かってきた。
「……やっぱり話がちがうのではないか?」
八坂神社の西楼門《せいろうもん》の上に身を潜《ひそ》めながら、霧島《きりしま》しのぶは白い目で相方を串刺《くしざ》しにした。
「連中が得物を、それも飛び道具まで出してくるとなると、おまえの前提もまるっきり崩れてくるぞ。まかり間違って流れ矢が月村真由に当たりでもしたら本末転倒ではないか。やつらとうとう捨て鉢《ばち》にでもなったか?」
「うーん……」
あごに手を当てて難しい顔をする保坂に、しのぶはさらに言い募る。
「まあ連中、得物を出したところで戦況を一変させたわけではないがな。連携を取るどころか功《こう》を競い合って、いよいよバラバラに動いているだけだ。お互いの得物の間合いには下手に入れんから動きも硬くなる.むしろ得物がマイナスに働いているのではないか。愚劣《ぐれつ》な連中だ」
「そうだね。でも……うーん……」
保坂がひどく真剣な目つきで下界の活劇《かつげき》を見下ろし、考え込んでいる.ちゃらんぽらんに見える少年がごくまれに見せる素顔。
その顔に少しドキリとしながらも、
「とにかくこうなっては収捨がつかん。わたしも出るぞ? 麗華に万一の危害が及ぶ恐れもある。まったく麗華のやつ、常に冷静でいろと口を酸っぱくして言ってるのに……どうも二ノ宮峻護が絡むといかんな」
「そうだね。でもたぶん、君が出て行く必要はないと思うよ。あれ、たぶんわざとだから[#「たぶんわざとだから」に傍点]」
「わざと? 何が?」
「あの刺客の連中の動きの拙《つたな》さだよ。まいったな……どうもとんでもない思いちがいをしてる気がしてきた。でも自分の名誉のために弁解させてもらうけど、これってぼくの権限《けんげん》以上のことが起こってるよ。たぶん」
「おまえの不手際についての追及はあとでまとめてやる。ともかく出るぞ、麗華の安全が我々の最優先のはずだ」
「まあそれはだいじょうぶでしょ。お嬢さまには『ボディーガード』がいるし。それに……どのみち助けには行けないみたいだよ」
「なに……?」
問い返そうとして、しのぶは一瞬遅れで相方の言葉の意味を悟《さと》った。
楼門の上、保坂としのぶを包囲する形でじわりと気配が湧き、わずかに遅れて新たな黒装束どもが姿を現したのだ。これほどの接近を許すまで気配を消しきっていたことからみて、腕利きの連中なのは間違いない。
直後、髪の下のトランシーバーに通信が入った。
短いやリとりを交わすうち、しのぶの眉間のしわがいよいよ険しくなる。
「……光流」
「なに?」
「わたしの部下たちも今、我々と同様の憂《う》き目にあっているようだ」
「むむ.それもやっぱり想定外。こりゃどうも、ハメられたのはぼくらのほうだったかもしれないね」
しのぶは刀袋の封《ふう》を悠然と解《と》きながら、
「おまえの頭脳にはそれなりの評価をしていたつもりだが、今回はハズレっぱなしだな」
「うーん。ごめん」
「まあいい、これでむしろ事態がすっきりした。頭を動かすより手足を動かす方がわたしの性に合っているしな」
「隠密《おんみつ》行動を主任務《しゅにんむ》とするひとの発言とも思えないけど?」
「言ってろ」
刀袋を捨てて愛刀《あいとう》の鯉口《こいくち》を切ると、傾き始めた陽光を映《うつ》してみごとに輝く刀身が姿を現した。宗則《むねのり》の作《さく》と伝わるが銘《めい》に興味はない。必要なのは切れ味だけであり、そして愛刀はかつて幾度もそれを証明している。
「状況はきわめてクリアーだ。妨害者、散対者、不審者は、これを徹底して排除する」
「斬《き》っちゃダメだよ?」
「それは敵に訊いてくれ。向こうがどういう出方をするかによる」
『山猫《やまねこ》』の異名にふさわしく剣呑《けんのん》に、それでいて優雅に笑う相棒に、保坂としても苦笑するほかない。
「やれやれ、じゃあぼくも動くとしますか――」
言い終えるか終えないかのタイミングで、黒装束どもはいっせいに襲い掛かってきた。
解放されたダムの水は、みなぎらせたエネルギーを発散しきるまで止まりはしない。
完全にコントロールを離れた状況に自らも呑《の》み込まれて四苦八苦しながら、たすくはひたすらあらゆるものを呪《のろ》っていた。
(くそっ、いったいどこから計算が狂ったんや……?)
何もかも放り出してブチ切れてしまいたい衝動《しょうどう》を必死でこらえながら、次々と手を出してくる刺客どもをどうにか捌《さば》きつつ、周囲の状況をすばやく確認する。
たすくに並ぶ働きを見せているのはやはり二ノ宮峻護か。多人数を相手にする場数は踏んできているようで、体格を生かした堂々たる立ち回りは、腹立たしいながらも一定の信頼がおける。必然《ひつぜん》的にこの瞳嘩は彼とたすくを中心に組み立てていくことになるわけで、目下のところ最大の障害と手を組んで共通の敵にあたらねばならないとくれば、たすくとしてはいよいよ舌打ちの回数も増えるというものであった。
同じく放っておいても心配ないのがいろりである。普段の印象からは想像しがたいが、かつてはたすくをしのぎ、現在でもたすくに引けを取らぬ腕の持ち主だ.ただし今日のいろりはひどく浮かぬ様子である。二ノ宮峻護と何があったものか、まるで戦いへのモチベーションが上がらぬようで、ごく最低限にしか状況には関わってこない。相手が手を出してくるから仕方なく応じている、という気分が透けて見えた。
「何なのよこの状況は! わたくしこんなことしに来たんじゃありませんのに!」
ひとりで喚《わめ》き散らしながらもそれなりに役立っているのが北条麗華。神戎《かむい》の血を発現《はつげん》しているのかどうかさえいまいち分からぬ女だが、十氏族《じゅっしぞく》の人間だけにひと通りの武芸は仕込まれているようだ。半人前の技量ながらそこそこ戦況《せんきょう》に寄与《きよ》してはいる。とはいえ本人も言うとおり状況がいまひとつ掴めてないようで、あくまでもその行動はいろりと同じく『やられたらやり返す』というスタンス。むしろ隙あらばいろりに天誅《てんちゅう》とやらを下そうと狙っているようで、どちらかというとそちらのほうに気を揉《も》まねばならない。
一方もっとも意外だったのが、いかにも馬鹿っぽいふたりの男子生徒である。学園内でのトラブルメーカーとして有名なふたりだったと思うが、単なる賑《にぎ》やかしではなく、この場に限定すればいろりあたりよりも遥《はる》かによく働いている。特筆するような腕達者《うでだっしゃ》ではないのだが、場数という点ではここにいる誰よりも勝っているかもしれない。そしてコンビネーションの点では完全に群を抜いていた。喧嘩のやりかたは格闘技《かくとうぎ》などという上等なものではなく、まさしく喧嘩そのもの。目潰《めつぶ》しするわ後ろから襲うわ足を引っかけるわ噛みつくわ……それもふたりで完全に連動して繰り出すものだから、刺客どももかなりうんざりしているようだ。例をあげるならジャッキーとサモハンみたいなノリで敵を徹底しておちょくり、翻弄《ほんろう》している。ただし決して見た目ほど余裕があるわけではない。この場にいる誰よりも多く汗をかいていることからもそれは見て取れる。
残るは月村真由だが、これはもう見るまでもない。ひたすらおろおろするだけ、周囲に守られるだけ。『おまえもちったあ働け!』とばかりに一発二発殴ってやりたいが、この女は守られるべき立場であり、下手に動かれるほうがかえってややこしい。それはわかっているのだが、この女の草食動物的な面構《つらがま》えを見ていると、憂《う》さ晴らしに手を上げたくなる欲求がうずうずしてきて始末に悪い。
(ともあれ、さしあたり現状は維持《いじ》できそうやが……)
得物を持ち出したわりにはもたついている刺客どもの無様さに助けられ、致命的な展開――月村真由を奪取されるという事態だけは避け得ている。ちらりと目をやれば、思わぬ活劇の始まりに歓声をあげる群集の合間合間に、警官や警備員も集まりつつあるようだ。しかし事態の大きさに戸惑い、あるいは人ごみの多さに阻害《そがい》され、あるいは場の熱狂にあおられて、ひたすら右往左往する有様。事が済《す》んだら警察署長はクビやな、と心に決めながらもたすくの心境は複雑だ.彼らが有能さを発揮し、この場をあっさり沈静《ちんせい》化してしまっても困る。この状況を利用して失地を回復し、次につなげるようもっていかねば――
わずか、物思いに気を逸らしてしまったらしい。右側面から打ち込まれた刺客の一撃に対応しきれず、ガードを超えて側頭部に手痛い一撃。戦闘中に犯《おか》す最悪のミス――視界も脳も一瞬ゆれる。追い打ちの蹴りはどうにか避けきったが次の手に対処しきれない、視界の端に拳か脚か得物かもわからぬ阿かがうなりをあげて迫り、
「せいっ!」
横合いから割って入った人影が凶手を弾き飛ばした。
その勢いで反撃も繰り出し――しかしこれは惜《お》しくもかわされた。刺客は小刻《こきざ》みなバックステッブで引き下がり、乱戦を演じる駒《こま》のひとつに立ち返る。
「油断するな。次は助けんぞ」
人影――二ノ宮峻護の冷静な声。
「言われんでも!」
反射的に言い返すと同時、たすくの眉間《みけん》のしわがまた一本数を増やした。敵対者と共闘《きょうとう》するばかりでなく恩を売られるとは、失態にもほどがある。
(なんつー茶番や……最悪。ほんま最悪やわ)
まったくどこから計算が狂ったのか。月村真由を手に入れ、神精となり、誰もが認める影響力を手に入れ、当主の座につき、さらには十氏族の盟主たる地位を狙うはずが、結果を焦りすぎたのか? ではなぜ結果を焦ることになったのか。末子の生まれというハンデを、長子《ちょうし》相続という古い血族の旧幣《きゅうへい》さを、才能と努力だけでは克服《こくふく》できなかったからか?
と、ふいに。
ピィ――……っ、という耳ざわりな笛の音がした。見れば、制服警官どもが遅まきながら実力行使に出ようとしているところだった。「全員逮捕!」の怒号とともに人垣を掻《か》き分けて、まなじりを吊り上げた強面の公僕《こうぼく》どもがいっせいに躍りかかってくる。
状況の急転に、当事者たちが一瞬足を止めた。刺客どもは言うまでもなく、襲われているほうにしてもなるべく面倒は避けたいところである。
空白の一瞬ができた。
それを初めから狙っていたのか、あるいはもはやこれまでと自暴自棄《じぼうじき》にでもなったのか。
乱戦の接近戦ゆえ活躍の場がなかった数人の弓手が、弓に矢をつがえるのが見えた。
(ちっ――!)
危険を察し、刹那《せつな》にも似た瞬間にたすくのスイッチが切り替わる。
すばやく状況を確認。二ノ宮唆護の大馬鹿者は警察がやってきたことでかえって安心したらしく、早々《そうそう》と緊張を解《と》いた様子がありありとわかる。危険に対応するどころか察してすらいない。月村真由は論外。北条の娘と馬鹿コンビも追る危機には気づいていない。
唯一たすくと同じものを見ていたのは、いろりだけだった。いろりは自分の身を自分で守れる。となれば、たすくに必要なのは月村真由を守ることのみ。残りはどうなろうと知ったことではない――
だが。
ひとまずホッとしたたすくの背筋を悪寒が走りぬけた。いろりが――危険に気づいているはずのいろりが、まったく反応していない。今にも放たれようとしている矢を目の当たりにしているはずなのに、なぜ?
すぐにその理由を悟り、愕然《がくぜん》とした。
いろりの目、どうして気づかなかったのか――生きている者の、未来ある者の目ではない。『相手が手を出してくるから仕方なく応じている』などという上等な反応ではなかったのだ。単なる情性《だせい》で、血の通わぬ機械と同じレベルの反応で、あいつは。
いろりがほんの少し首を傾けた。
その拍子《ひょうし》、全身を粟立《あわだ》たせていたたすくと、目が合った。
(な――)
今度こそ血の気が引いた。
いろりは。
ほんの少し、たすくにだけわかるように。
微笑《わら》ったのだ。
その意味を直感で察し、怖気《おぞけ》が、わけのわからぬ震えが、こいつ、死――
矢が放たれた。それより先にたすくの足は動いた。
いわゆる走馬灯《そうまとう》というやつを見ているのだ、と思った。世界のすべてが緩慢《かんまん》に肱り、矢が向かう先も、放ち終えた弓の弦がぶよぶよとうねっているのも、はっきり捉えることができた。ただし自分の動きもまた、水の中をかきわけて進むように緩慢。唯一頭の中だけが冴《さ》え渡り、敬しく警鐘《けいしょう》を鳴らしている。
矢が空気を切り裂いて進む先は、この乱痴気《らんちき》騒ぎの中心、月村真由。
そしてたまたま真由のもっとも近くにいた、奥城いろり。
全力を振りしぼってのろのろと駆けつつ、たすくは本日何度目かになる舌打ちをした。
よりによってこのふたりとは……どちらか片方であれば事は簡単であったろうに。
胸くそ悪い選択を追られていることを自覚しつつ、それでもたすくは二兎《と》を得るべく可能性をさぐる。矢の数は四本、すべて異なる方向から飛来《ひらい》している。このぎりぎりの状況で防げるのは二本が限度と目測《もくそく》した。最大限にリスクを犯しても三本まで、それでも残り一本を防げない上、わずかでも狂いが生じれば四本すべてが標的に向かって殺到《さっとう》することになる。
矢が放たれていったいどれほど経過したのか――百分の三秒くらいか?――ようやく峻護が目を見開き、事態の異変に気づいた。だめだおそすぎる、いま頭が気づいても身体がついてこない。残りの連中はのほほんとしたまま、矢を防げるのはやはりたすくのみ。
必死に手を伸ばしつつ、たすくは信じがたいスピードの体感時間で苦悩した。どちらか片方しか救えないのは確実。未来へつながるふたつの道、いずれかをこの手で掴み取り、残りを漬さねばならない。
片方は栄達につながる道。
片方は栄達につながる道を閉ざす道。
(ほんま、ろくな日やないわー)
この一瞬で十年分は働いてるのではないかと思われるほど酷使《こくし》している脳みそは、月村真由のほうがよりリスクの少ない形で矢を防げることを知っていた。むろん、こちらこそが栄達につながる道であることも。彼我《ひが》の距離はわずかに真由のほうが近い、こちらなら比較的余裕をもって――百分の五秒くらいか?――おそらくは両手でもってがっちりと、矢を防ぐことができる。
だがもう片方の選択肢は? いろりは真由よりわずかながら遠い位置におり、おまけにいろりを狙う矢はたすくの真向かいから飛んでくる形になる。間に合わせるだけでも手一杯、それどころか真由を狙う矢に身をさらすタイミングになるはずだった.微細な誤差が生じればいろりも助けられず、真由も助けられず、おまけに文字通りたすくが矢面に立たされることに――
(あーあ)
最後の一歩を踏み出しながら、たすくは心の中でぼやいた。
(俺、こんなアホな男やったっけ)
異変に気づいてから二秒と百分の三十五が経過していた。
矢じりが生きた肉にめり込む小さな、しかし不気味な音が、した。
「…………? あれ?」
全身を貫く痛みを覚悟したたすくを襲ったのはしかし、想像の百分の一にも満たぬ刺激だった。
背中を貫き、彼に致命的な負傷を与えるはずの矢が、ぽとりと力なく地面に落ちる。
貫くどころか爪の先ほど肉にめり込んだのみで、皮膚《ひふ》を破ることさえなく、凶弾となるべき矢は運動エネルギーを失っていた。
「にせ……もの?」
遅まきながら状況の推移《すいい》に追いついてきた、その場に居る全員が息を呑む中、たすくの声だけが脱力気味に響く。矢じりは一見、鈍い光を放つ鋼《はがね》にしか見えないが……巧妙《こうみょう》に加工されたゴムか何かでできている?
「助けて、くれはったんですね」
声がした。下から。
彼が押し倒している女――つまりは身を挺《てい》して守った女の声が。
奥城いろり。
「ほんまはうち、あんさんのくちびるも嫌いやないんおす」
身に起こったことに比してずいぶん落ち着いた、いや、心なしか弾《はず》み気味ですらある声が耳朶《じだ》をくすぐり。
そして伸ばされた両腕に煩を固定されて。
「――! んなっ!」
温かくてやわらかい感触を反射的に拒絶してしまい、たすくは思いっきり身をのけぞらせ、救った女から距離を取る。
「あら。こういうの、お嫌やった?」
いたずらっぼく微笑むいろり。たすくには初めて見せる表情。
その表情に刺激され、たすくの頭は徐々に事態を理解し始めた。
「おま、わざと――あの矢がニセもんやと知ってて――?」
「いえ。全然」
あっけらかんと首を振る。するとこの女は死を賭《と》して俺を試《ため》したと?
瞬間、たすく自身思いもよらず顔が熱くなった。そうだ、危険を承知で賭けに出たのは、協定を破って神精に手を出したのは、振り向かせたかったから、認めさせたかったから。屈折してるのほ承知している、でもそれは仕方ないのだ、なぜならとっくに自分はこの女にいかれていて――
「勘違いされてはあきまへんえ? 別にあんさんを愛してあげると決めたわけやない。ただ、チャンスはあげます。せやからがんばってうちを惚《ほ》れさせとくれやすね」
「なっ、こっ、いろりおまえなに勝手なこと――」
「お嫌なん?」
不思議そうに、こてんと首をかしげるいろり。それを見たたすくの顔がさらに真っ赤になる。ほんとうに、いったいどうしたことだろう? どこかタガが外れてしまったのか、それともさっき脳みそを使いすぎてどこか悪くしてしまったのか。
もういちど微笑《ほほえ》み、いろりがまた顔を寄せてきた。
今度は、たすくも逃げなかった。石のように固まって動けなかっただけではあるが――
さんざん女転がしには慣れきっていたはずの神戎がたどり着いた、あっけない結末であったとは言えるかもしれない。
激流《げきりゅう》のごとき展開の推移についていけないのは峻護も同じだった。いや、むしろついていけない組の筆頭だった。まったく……いったい今日はなんという日か。濃密は濃密かもしれないが、修学旅行の思い出とするにはアクが強すぎるのではあるまいか。
(やれやれ……)
疲労のこびりついた吐息をつきながらかぶりを振った時、たすくと夫婦漫才《めおとまんざい》じみたやりとりをしているいろりと目が合った。
次はあなたが決める番ですよ。
そう言ってる気がした。奥城姓を持つふたりが収まるべきところに収まったことを祝福しつつも、思わぬ宿題を突きつけられた気がして内心で苦笑し、とはいえ状況がすべて丸く収まったわけではない。場に居る全員が毒気を抜かれ、一瞬の時間的空白が生じたものの、ニンジャモドキがあきらめた様子はなく、集まってきた官憲のみなさんにも事情を説明せねばならず――
と、そこでふいに、首筋をぴりぴりした感覚が走った。これは――悪寒《おかん》か?
無意識に首筋へ手をやり、急いで周囲に視線を走らせる。しかし不吉の元はどこにも見当たらない、とはいえこれだけの群集が集まれるような開けた場所、何かあれば目に入ってもいいはず。
…………。
上?
何気なく首を空に向けた峻護の視界に、黒い影が飛び込んできた。真っ逆さまに水面《すいめん》へ飛び込むカワセミさながらの動きで。
「――!」
抵抗するどころか悲鳴をあげる間すらなかった。
化鳥《けちょう》のように舞い降りた影が峻護の胴をがっちり掴み、次の刹那、首がムチウチになるほどのGが脊椎《せきつい》にかかり、そして地上の光景が見る見るうちに遠ざかっていく。
地上の光景?
その言葉の意味を理解した時、峻護は己がはるか数十メートルの上空に浮き上がり、さらに猛スピードで上昇しつづけていることを活り、ようやく長い長い悲鳴をあげた。
その場に居た者のうち、何が起こったかを理解し得るものは皆無《かいむ》だった。ただ、発生した現象がいかなるものだったかのみを、彼らは知ることができた。
まず、突然なにか上空から降ってきた。そしてそいつは騒動の中心地に垂直落下《すいちょくらっか》にちかい要領で飛び込み、ひとりの少年を掻《か》っ捜《さら》ってふたたび空に消えていった。
消えていった先を見上げると.上空に一隻《いっせき》の飛行船のシルエットが見える、豆粒のように小さい人影と、人影と飛行船をつなぐ細い糸のようなものも。
おそらく――と、比較的冷静で見る目のある者はこう考えた。弾性《だんせい》のあるロープのようなものを縛り付けた何者かがあの飛行船から飛び降り、驚嘆《きょうたん》すべき胆力《たんりょく》と正確さで目的の落下地点までダイブし、ひとりの人聞を拉致《らち》していったのだ、と。まともな人間なら思いついても実行はしないであろう、トチ狂ったバンジージャンプ。
急展開に次ぐ急展開に、誰もがいよいよ度肝《どぎも》を抜かれて言葉もなく――
いや、ほんの一握りの例外がいた。
事態の推移を確認したかのようにニンジャモドキたちが頷《うなず》き合い、いっせいに懐へ手を差し入れ、取り出したものを地面に叩きつけたのである。
彼らが何をしたのかは誰にもわからなかったが、何が起こったのかはすぐに誰もが知ることになった。広場のあちこちから大量の煙が湧き、それはすぐに煙塊《えんかい》とでも呼ぶべき分厚《ぶあつ》さと密度で周囲に広がった。だけでなく、煙をあびた人々は眼球や鼻腔《びこう》に強烈な刺激を受け、至るところから咳《せ》き込む苦鳴が上がりはじめる。
パニックになった。人々は煙を避けてあちこち逃げ惑い、事態を沈静に導くべき警官たちもまた煙に襲われて満足に動けない。無秩序な混乱は瞬く間に周囲へ拡大し、騒ぎは八坂神社のみならず鴨川《かもがわ》の近くにまで達した。
変事を察して駆けつけた応援の警官たちによってパニックは収束《しゅうそく》に向かい、やがて完全に鎮火《ちんか》を見るに至ったが……その時にはもう、事態の原因となった騒ぎの当事者たちの姿はひとり残らず、あとかたもなく消え失せていた。
[#改ページ]
黒曜石《こくようせき》の器に星の群《む》れを盛《も》ったかのような夜景《やけい》。
いわゆる盆地型《ぼんちがた》の土地である京の都を日が落ちた後に高台《たかだい》から見下ろすと、まるでジキルとハイドを思わせる二面性の片割《かたわ》れがその顔をのぞかせる.古い息遣《いきづか》いの残る町の景色は舞台の袖に退き、あとには人類最大の発明――人工の灯火だけが取り残されるのだ。
「きれいだねえ」
涙《なみだ》をこぼすように瞬《またた》く光の海を眺《なが》めながら.保坂《ほさか》がのほほんとつぶやいた。だらしなくあぐらをかいてカを抜いた背中からは、その表情まではうかがい知れない。
東山《ひがしやま》は清水寺《きよみずでら》の大伽藍《だいがらん》、その桧皮葺《ひのきがわぶき》の屋根の上である。むろん不法侵入《ふほうしんにゅう》だが、保坂はここを羽体めの場に選んだ。相棒《あいぼう》のしのぶとしては黙《だま》って付き合うのみである。
「やられたなあ、今日は.まあ不可効力的《ふかこうりょくてき》な面はあったにしてもさ、こりゃどうにも失態《しったい》だねえ」
ふたたび保坂がつぶやき、わしわしと片手で頭をかき回した。どう返していいものか迷うところだが、この幼馴染《おさななじみ》は今この場での沈黙《ちんもく》をさして歓迎《かんげい》せぬであろう。しのぶは言葉を選びつつ、人ではなく壁《かべ》でも相手にするような口調で、
「あの黒装束《くろしょうぞく》ども――我々《われわれ》が想定《そうてい》していた『敵』ではなかったようだな」
「うんそうだね。不穏分子《ふおんぶんし》は当然十氏族のうちから出ると思ってたけど……うーんそれにしても」
もう一度わしわしと頭をかき回す保坂。
「海外《よそ》の血族がね、ここで手を出してくるとはね、思わなかった。そこは涼子《リょうこ》さんと美樹彦《みきひこ》さんの担当《たんとう》だからなあ……北条家《ほうじょうけ》の付き人の身分じゃどうにもならないよ」
「海外――やはり西洋の血族か?」
「うん。あの黒装束さんたち、ちょっと東洋系の骨格《こっかく》とは違ってたね。目はカラーコンタクトで隠《かく》してたけど、覆面《ふくめん》の隙間《すきま》から見えた肌《はだ》はこっちの人間のじゃなかったし」
「だな」
楼門の上で交戦した際にそれはしのぶも確認《かくにん》した。もっとも戦果《せんか》らしいものと言えばそれだけで、まんまと足止めを食ったあげく、誰ひとり捕《と》らえることもできずに逃走を許したわけだが。
「それにしても派手《はで》にやられちゃったねえ……わざわざあんな大仕掛《おおじか》けで……いや、ぜんぶ承知《しょうち》の上であんな手段《しゅだん》に? それとも単なる趣味《しゅみ》とか? いやそれはないか……うーん、少なくとも途中《とちゅう》までは国内の血族を相手にしてたはずなんだけどな……」
「最初に月村《つきむら》真由《まゆ》と奥城《おくしろ》たすくを襲《おそ》った連中の尻尾《しっぼ》はつかめているんだ.そう悲観《ひかん》したものではないと思うが」
「でもねえ。今にしてみると、それすらぼくらを油断《ゆだん》させる|オトリ《ようどう》だったんじゃないかって気がしてくるんだよね。それに肝心《かんじん》な欧州《おうしゅう》血統の連中については完全に取り逃がしちゃってるわけで……」
つまりは拉致《らち》された|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》の行方《ゆくえ》も杳《よう》として知れないということだ。本来《ほんらい》ふてぶてしいはずのこの男が頭を抱《かか》えるのも無理《むり》はないか。
「ともあれ、人的|資源《しげん》をありったけ投入《とうにゅう》して調査《ちょうさ》を進めているところだ。今はその成果を待つしかあるまい」
「それはそうなんだけどさ……でもねえ、なにしろあのふたりとの連絡さえつかない現状《げんじょう》だからねえ……」
欧州に出向き、国内と同様の調停《ちょうてい》――神精《しんせい》に関する諸協定《しょきょうてい》を結ぶために出張《しゅっちょう》している二ノ宮涼子と月村美樹彦との連絡《れんらく》が、峻護の拉致に前後して取れなくなっているのである。見た目は適当《てきとう》でも仕事は十人なみにこなすあのふたりが、ささいな理由で連絡をおろそかにするとは考えられない。何かのっぴきならぬアクシデントが発生したと見るべきだろうし、このふたつが独立《どくりつ》した事件であると考えるのは楽観《らっかん》の度《ど》を越す。状況《じょうきょう》は黄信号から赤信号へと変わりつつある。
「まあ手の届《とど》かないものを指をくわえて眺《なが》めるより、手の届く範囲《はんい》にある事案《じあん》を解決《かいけつ》するのが先決《せんけつ》だ。そうだろう光流《みつる》?」
「そりゃまあ、ねえ……」
「なにぜ花の都のど真ん中であれだけの大立ち回りを演じたんだ。治安《ちあん》担当者は上を下への大騒《おおさわ》ぎだろうが……事後処理《じごしょり》の状況はどうなっている?」
「面倒事《めんどうごと》が持ち上がれば揉《も》み潰《つぶ》すだけだよ。ぼくらだけじゃなくて央条《おうじょう》も火消しに動くだろうし、まあ適当な理由をつけて始末書《しまつしょ》なり報告書《ほうこくしょ》なりをでっち上げてそれでおしまいなんじゃない? 誰か留置場《りゅうちじょう》にでも入れられてれば話は別だけど、あの場にいた人間は煙幕《えんまく》にまぎれてみんな逃げ切ったし」
「とはいえ奥城《おくしろ》たすくと奥城いろりはまったく不問《ふもん》に付すというわけにもいくまい.独断《どくだん》で面倒《めんどう》を起こしたんだ、央条本家が黙《だま》ってはいないだろう」
「そのくらいはあのふたりの器量《きりょう》でなんとかするでしょ……あのふたりは涼子さんと美樹彦さんの『人材リスト』にも入ってるし、ぼくらもほどほどにサポートする予定だし。せいぜいが謹慎《きんしん》処分《しょぶん》程度《ていど》で済むんじゃないかな。叩《たた》けばホコリが出るのは央条本家も同じだろうしね……奥城たすくと奥城いろりの行動をある程度|承知《しょうち》していながら黙認《もくにん》してた節《ふし》もあるし」
「おまえの『人材リスト』に入っているあのふたりは? 吉田《よしだ》平介《へいすけ》と井上《いのうえ》太一《たいち》」
「そ知らぬ顔で修学旅行の残りの日程《にってい》をこなすだろうね。そこそこ顔の皮膚《ひふ》も分厚《ぶあつ》くできてるみたいだし、今日のことで何か問題が起きればうまいこと処理してくれるでしょ。お嬢《じょう》さまのガード役も十分こなしてくれたみたいだし」
「ふん。麗華《れいか》の護衛《ごえい》としてはぜんぜん力不足だ。適当に安全な場所を連れ回して京都見物でもさせてればいいものを、けっきょく八坂神社での大喧嘩《おおげんか》にも巻き込んでしまったではないか」
保坂の依頼《いらい》を受けて麗華の一日付き人をつとめたふたりに、しのぶはあまり好意を持っていない。自分を差し置いて大切な友人のそばにいた少年たちをやっかんでいるだけではあるが。
「あのふたり、今後も使うつもりか?」
「さあね……今回は協力してくれたけど、あのふたりって副生徒会長の甲本《こうもと》さんあたりよりまだ使いにくいよ。お嬢さまのキャラが気に入ってるからって理由で今回は手を組んでくれたげど、他人に使われるより風来坊《ふうらいぼう》やってたほうが性《しょう》に合ってるんじゃないかな。まあ適材適所《てきざいてきしょ》、利用できる機会《きかい》があればまたお互い利用しあうでしょ」
目に見えて応答《おうとう》がぞんざいになってきている保坂である。精神面で疲労《ひろう》しきっているのであろう。しのぶは意地《いじ》悪く笑った。
「やはり策士《さくし》は策に溺《おぼ》れるようにできているらしいな、光流。何もかもがおまえの手のひらでほしいままに動くと思わないほうがいいぞ?」
「そりゃあんまりな言い草だよ。今回の場合、ぼくに背負わされた荷物が初めから重量オーバーだったんだからさ。それに策をめぐらすのはそのほうが効率《こうりつ》よく物事《ものごと》をすすめられるからだし、そもそもぼくの権限《けんげん》じゃあやれることも限られるわけでー」
「そうむきになるな。べつに責めているのではない。正直言って、おまえが凹《へこ》んでいる姿《すがた》を見るのは楽しいしな」
「ひどくない? それって」
「まあなんというか……」コホンと咳払《せきばら》い。「何がどうあれ、わたしはおまえの味方だ。だからもう少しわたしに頼《たよ》れ。失敗すればわたしがフォローしてやる。悩み事があれば相談《そうだん》にも乗る。いいな、相棒《あいぼう》で幼馴染《おさななじ》みのわたしにもっと頼るんだ。いったい何年の付き合いだと思っている。こう見えてもわたしはずっとずっとおまえの隣《となり》にいたのだ、おまえのことなら誰よりよく知っているんだぞ。それともそんなにわたしはおまえにとって頼《たよ》りがいのない女か?」
「しのぶ……?」
珍《めずら》しく口数の多いメイド長の少女に、保坂が振り向いてきょとんと見つめてくる。
「ああいや……」
つい赴《おもむ》くままに感情を吐露《とろ》してしまったことに気づぎ、しのぶはハッと口をつぐんだ。それもこれも光流のヤツがらしくもなく弱音を見せるからだ、と他人のせいにしておいてから、
「ともかく、わたしはおまえの味方だ。そのことを忘れるな。まあもっとも、あくまでも目的が一致《いっち》している限りは、だがな」
「うん。ありがと」
「目的が一致している限りは、だぞ? いいな?」
ニコニコ笑顔を取り戻した保坂に念を押し、ついっとそっぽを向く.せっかく心理的《しんりてき》に幼馴染みの上位に立っていたのに、自分からそれをふいにしてしまった気がする。もったいない、もう少し優越《ゆうえつ》気分を味わっておけばよかった。
「ところで――」
やや間を置いてから、しのぶは最後の懸案《けんあん》を口にした。
「麗華と月村真由だが」
「うん。でも、あのふたりの間にはちょっと入り込めないね。まあなるようになるさ」
ひどくそっけない返答。だが、そうとでも答えるしかないことを、しのぶもまた知っている。
「そうだな。なるように任《まか》せるしかないか」
自分に言い聞かせるようにつぶやき、はるか下界《げかい》で渦巻《うずま》く光の海を見やった。
いまだ祭礼《さいれい》もたけなわな古都《こと》の宵《よい》。
あのふたりもこの夜のいずこかに身をおいて、灯火の瞬きを眺《なが》めているのだろうか。
あるいは灯火の下にこそ身をおいて、黒々とした闇《やみ》を見上げているのだろうか――
「鬼《おに》は大したことなかったけれど、かわりに悪魔《デーモン》が現れたみたいね」
上京区《かみきょうく》、鴨川《かもがわ》の河畔《かはん》。
三条《さんじょう》のあたりとちがって日が落ちるとほとんどひとけの消えるこの場所で、北条麗華は小石を川に投げ入れて遊んでいる。
「欧州血族か――まあどのあたりの連中かは想像つくけど、どちらにせよ面倒《めんどう》なことにはなりそうね。二ノ宮峻護も攫《さら》われちゃって、この子が黙《だま》って指をくわえてるはずないものね」
艶《つや》っぼく、しかしどこか気だるげな微笑《びしょう》。麗華ではない、もうひとりの方[#「もうひとりの方」に傍点]だ。
「ところで……いつわたしが見ている前で出てきてくれるかな、って期待してたんだけど、あなたちっとも出てきてくれなかったわね? わたしがずっと待ってたの知ってるくせに。ほんとうにひどい人」
川下から流れてくる祭りの浮《う》いた空気を鼻腔《びこう》に含《ふく》みながら、『もうひとりの令嬢《れいじょう》』はさらに言い募《つの》る。
「けど、命が危なくなればさすがに出てこざるを得なかったわね。あの八坂神社での茶番《ちゃばん》――弓の射線上にあなたはいて、放っておけば避《よ》けようもなかった。だけどあなたが現れて、そしてあなたは矢が弓から放たれる前に避けていた[#「矢が弓から放たれる前に避けていた」に傍点]。奥城たすくの動きまで計算に入れてね。彼の動きもいい線いってたけど、半ばはあなたに利用された形になるかしら? 彼が先んじて動くまで待ち、周囲《しゅうい》の目がその動きを追った瞬間に――といっても、それと知って目に捉えていたのは刺客《しかく》の中でも手練《てだ》れの者だけ、あとはひょっとすると奥城いろりも気づいていたかも、ってところでしょうけど。ともあれあなたは全員の目があなたから逸《そ》れた一瞬に、身体《からだ》をちょっとだけずらした。流れの中での自然な動きを装《よそお》ってたからまず誰も気づいてないわね。そもそも矢があなたに向いていたなんてこと、二ノ宮峻護あたりは知りもしないでしょうよ。ああわたしは別よ? だってずっとあなたのことばかり見てたんだから」
いらえはない。まるで石壁《いしかべ》を相手に話しているかのような沈黙のみが返ってくる。
それでも苛立《いらだ》つ様子ひとつ見せず、声を荒立てることもなく、もうひとりの令嬢はゆっくりと振り返り、
「ねえ、わたしはもう世捨て人のようなものだけど――それでも未練なくこの世を捨てきれるかといえば、まだひとつ心残りがあるのよね。そろそろちゃんと話さない?」
令嬢が語りかけるその少女は、うつむきがちにただじっと立っている。立ったまま眠っているのではないかとさえ思えるほどの静謐《せいひつ》さで。
もうひとりの麗華は、辛抱《しんぼう》つよく待った。
やがて。
視線《しせん》をこちらに向けた少女の顔に、別の女が浮き上がるのを見出して――
神にすら気づかれないほどわずかに、令嬢はくちびるの端《はし》を吊《つ》り上げた.
意識を取り戻した時、峻護は広い部屋にいた。
真っ先に飛び込んできたのは毛足の長い、真紅《しんく》のカーペット。ぼんやり左右に視線《しせん》をさまよわせると、ベッドや書棚《しょだな》、黒檀《こくたん》の執務《しつむ》机《づくえ》、精徴《せいち》なピスクドールといった洋風の調度《ちょうど》が目に飛び込んでくる。誰かの私室《ししつ》であろうか。それにしてもひとめ見てわかる調度類の豪著《ごうしゃ》さからいって、部屋の主は並みの身分ではあるまい。
ごぉ……ん、ごぉ……ん、という、何かの動力|機関《きかん》らしきものが上げるうなり声が、ほんのかすかに耳に届く。なんの音かと首をひねった途端《とたん》に軽いめまいを覚え、峻護は顔をしかめた。気を失っていた影響《えいきょう》か、とも思ったが、心なしか空気が薄いような気もする。あるいはそのせいかもしれない。
(それで……ここはどこだ?)
多少の混乱《こんらん》を来たした記憶が整理《せいり》されていくにつれ、状況《じょうきょう》が徐々《じょじょ》にクリアになってきた。広いとはいえ、いま居る部屋は二十|畳《じょう》ほどもあるかどうか。調度類は豪著にせよ、やや詰《つ》め込みすぎた窮屈《きゅうくつ》な感が否《いな》めない。必要なものを限度《げんど》ぎりぎりまで取捨選択《しゅしゃせんたく》したものの、結局は部屋がモノであふれてしまったという印象《いんしょう》だ。
壁《かべ》の何箇所《なんかしょ》かにうがたれた丸窓《まるまど》からは、深い闇といくらかの星の瞬《またた》き、そして黄金に輝く月が虚空《こくう》に浮いているのが見える。
その月が、見慣れている位置よりやたら低いところにあることに気づいて――息を呑んだ。そうだ、おれは京都のど真ん中で、空から拉致されて[#「空から拉致されて」に傍点]、そして、
「くッ――!?」
立ち上がろうとしてようやく気づいた。手足を厳重《げんじゅう》に拘束《こうそく》され、床《ゆか》に脆《ひざまず》かされている自分の姿に。そして拘束を解《と》くべく足掻《あが》こうとした自分の肩をがっちりと押さえた、ふたりの人物の姿に。左右を見上げると、ひとりは白髪《はくはつ》の老紳士《ろうしんし》、もうひとりはやや赤色の混《ま》じった金髪の少女。いずれも隙《すき》なくタキシードを着こなした執事風《しつじふう》の人物である。
「よい。放してやれ」
声はそのふたりからではなく、正面から聞こえた。
驚《おどろ》いて顔を上げる。さきほど見回した時、そこには誰もいなかったはず――と思った峻護の目に飛び込んできたのは、椅子《いす》に置かれたビスクドール、いや、まるっきり人形としか思えないほど整った美貌《びぼう》の少女だった。あるいは少女というより幼女《ようじょ》と表現すべきか。きらびやかなひらひら[#「ひらひら」に傍点]のたくさんついた服に包まれたその肢体は、どう水増ししても十の歳をいくつも越《こ》えているとは思えず、
「その者とふたりになりたい。下がってよい」
金髪碧眼《きんぱつへきがん》のその少女が流暢《りゅうちょう》に日本語を口にしていることに、ふたたび驚かされた。
典雅に。礼して執事風のふたりが退出し、あとには呆然《ぼうぜん》たる面持《おもも》ちの峻護と人形少女だけが残される。
「貴様《きさま》が神精《エーテル》か」
椅子《いす》から降り、ゆっくりと歩み寄ってきた。
峻護の前でひざをつき、指であごを持ち上げる。
そうしてまったく無造作《むぞうさ》に。
峻護に目を丸くする暇《いとま》すら与えずに。
くちびるを奪《うば》っていた。
わずか二日にして三度目の、甘くて苦い味であった――。
[#改ページ]
あとがき
作者「はいっ、というわけで始まりました、『ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん』第七巻のあとがきです。ほらほら君たち、自己《じこ》紹介《しょうかい》し――」
麗華《れいか》「北条流《ほうじょうりゅう》古武術《こぶじゅつ》奥義《おうぎ》、飛燕鏖殺蹴撃《ひえんおうさつしゅうげき》っ!」
作者「ぎゃああああああああああああああ!?」
真由《まゆ》「ああっ? 麗華さんが突如《とつじょ》として目をくわっと見開《みひら》いたかと思うや否《いな》や、作者の鈴木大輔《すずきだいすけ》さんの顔面《がんめん》にスピンキックを食《く》らわせて、彼《かれ》を夜空《よぞら》のお星様《ほしさま》にしてしまいました! 麗華さん、いったいどうしてこんな真似《まね》を!?」
麗華「ふん。前巻《ぜんかん》のあとがきのラストで息《いき》の根《ね》を止《と》めてあげたにも関《かか》わらず、またずうずうしく再登場《さいとうじょう》してあとがきを仕切《しき》ろうとするからですわ。それにこの男の横暴《おうぼう》についてはわたくし、常日頃《つねひごろ》から腹《はら》に据《す》えかねるものがありましたし。こういう機会《きかい》にでもなるたけ復讐《ふくしゅう》を遂《と》げておかねば帳尻《ちょうじり》が合《あ》わないというものです」
真由「うう……麗華さん、生《う》みの親《おや》に対《たい》して容赦《ようしゃ》ないです……」
麗華「自業自得《じごうじとく》ですわ。愚劣《ぐれつ》な作者に対して何《なん》ら同情《どうじょう》する必要はありませんことよ」
真由「でも司会|進行役《しんこうやく》の人がいないと、あとがきのページの間《ま》が持《も》ちませんよう」
麗華「心配無用《しんぱいむよう》。先《さき》ほど作者がこう呟《つぶや》いていたのを耳にしましたわ。『今回のあとがきは五ぺージ分書けばいいだけだから楽勝だぜグへへ』と。その程度であればわたくしたちふたりが適当《てきとう》に雑談《ざつだん》しているだけでも事足《ことた》ります。なんなら二ページくらいであとがきを切り上げてしまっても構《かま》いませんし」
真由「たったの二ページ……そ、それはあんまりなのでわ……?」
麗華「よくよく考えてもごらんなさい。わたくしたちがここで高いパフォーマンスを発揮《はっき》し、あとがきのぺージを面白《おもしろ》おかしい文章《ぶんしょう》で埋《う》めて読者《どくしゃ》さまを満足《まんぞく》させるということは、忌々《いまいま》しきあの作者を大いに利《り》することになるのですわよ? 真面目にやる必要《ひつよう》はありません、去年《きょねん》の天気予報《てんきよほう》でも読み上げていれば十分《じゅうぶん》です」
真由「そ、そうかなあ? うーんあんまりそんな気はしませんけど……」
麗華「それにわたくしとしては、あとがきに登場する目的《もくてき》はもう果《は》たしてしまったことですしね。わたくしの涙《なみだ》ぐましい営業努力《えいぎょうどりょく》により、ようやくドラゴンマガジン本誌《ほんし》(二〇〇七年四月号)にも登場することができましたし、今後《こんご》もわたくしはドラゴンマガジンの紙面《しめん》を華々《はなばな》しく彩《いろど》ることでしょう。もはやあくせくとご機嫌取《きげんと》りやら根回《ねまわ》しやらに奔走《ほんそう》する必要もないのですわ」
真由「ここで、ドラゴンマガジンのことについて知らない読者の方《かた》にご説明《せつめい》させていただきます♪ 『ドラゴンマガジン』はファンタジア文庫《ぶんこ》でおなじみの富士見書房《ふじみしょぼう》が発行《はっこう》している、月刊の小説誌です。『ご愁傷さま二ノ宮くん』はもちろん、富士見書房が誇る人気シリーズの連載《れんさい》も充実《じゅうじつ》しています。発売日《はつばいび》は毎月の月末《げつまつ》。みなさんぜひお手に取ってみてくださいね(はぁと)」
麗華「……ちょっと月村真由。あなたまたそのようなベタベタな宣伝文句《せんでんもんく》を。しかもそれ、前巻のセリフをまんまコピペしただけじゃないの」
真由「えっ? いえあのその、ちがうんです、そんなこと言うつもりじゃなくて、口が勝手《かって》に動いて……あれえ? おかしいなあ、なんだか身体《からだ》の調子《ちょうし》が……」
麗華「しっかりなさい。あなたを脅《おど》して言いなりにしていた作者はもうこの世《よ》にいないのですわよ? これから先、わたくしたちはアホ作者の身勝手《みがって》に踊《おど》らされることなく、自《みずか》らの意思《いし》によって独立独歩《どくりつどっぽ》の道《みち》を歩《あゆ》んでいかねば――」
真由「ふふ……それはどうかな?」
麗華「えっ?」
真由「麗華くん、神《かみ》ともいうべき作者の私に対する君の不忠《ふちゅう》はしかと見せてもらったよ。むろん、神に逆《さか》らうからには相応《そうおう》の覚悟《かくご》はしているのだろうね?」
麗摯「なっ……月村真由の口からアホ作者の声が!?」
真由「うむ。さくっと真由くんの身体を乗《の》っ取《と》らせてもらった。神|権限《けんげん》で」
麗華「な、なんたるご都合主義《つごうしゅぎ》……肉体《にくたい》は滅《ほろ》びれど魂《たましい》は永久《えいきゅう》に不滅《ふめつ》、とでもおっしゃるつもり? あとがきとはいえ安直《あんちょく》にも程《ほど》があるのではなくて?」
真由「なんとでも言うがいいさ、所詮《しょせん》は負《ま》け犬《いね》の遠吠《とおぼ》えにすぎん。それより前述《ぜんじゅつ》の通《とお》り残《のこ》りページが少《すく》ないのだ、さっそく本題《ほんだい》に入るとしようか。とりあえず――脱《ぬ》げ」
麗摯「はあっ!? 何ですって!?」
真由「君が身《み》にまとっているセーラー服《ふく》を脱ぎたまえと言ったのだ。上だけを半《はん》脱ぎにして肩《かた》のあたりを露出《ろしゅつ》するだけでいい。そして煩《ほお》を桜色《さくらいろ》に染《そ》め、ややうつむき加減《かげん》に視線《しせん》をさまよわせつつこう言うのだ。『アンケート送ってくださいましね(はぁと)』とな」
麗華「なっ――なぜわたくしがそのような真似をしなければいけないのです!」
真由「何か勘違《かんちが》いしているようだから正《ただ》しておこう。一度《いちど》ドラゴンマガジンに登場したからといって、君の出番《でばん》が今後《こんご》も回ってくると確定《かくてい》したわけではない。君の登場を希望《きぼう》する多《おお》くの声が編集部《へんしゅうぶ》に届《とど》き、そこでようやく私も筆《ふで》をとることができるという仕組《しく》みになっているのだ。こういう大人《おとな》の事情《じじょう》の中で出番《でばん》を確保《かくほ》したくば、引き続き相応《そうおう》の努力を継続《けいぞく》したまえ」
麗華「そ、そんな……前巻であんな恥《は》ずかしい格好《かっこう》までしたというのに、わたくしまたこのような仕打ちを受《う》けねばなりませんの……?」
真由「――というわけで少々駆《か》け足になりましたが、七巻のあとがきをこれにて終了させていただきたく存《ぞん》じます。次回の八巻はヨーロッパが舞台《ぶたい》。七巻のラストでちょっとだけ登場した新《しん》キャラの正体《しょうたい》も判明《はんめい》する上、オールスターキャラクターズが総出演《そうしゅつえん》する予定! どうぞご期待《きたい》ください!」
麗摯「ちょ、ちょっと! 勝手に締《し》めるんじゃありませんわよっ! このままじゃまたわたくしがあられもない格好をしなきゃいけないじゃないの――あっ、こら待ちなさい! こうなったらあとがきのページを増量《ぞうりょう》してわたくしの主張を――」
*必死《ひっし》の訴《うった》えも虚《むな》しく次々と照明《しょうめい》が落ちてゆき、無情《むじょう》にも舞台《ぶたい》の募《まく》がおりる。
[#以下省略]
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これで11本目です。日曜の夜と月曜の早朝で出来ました。
次の8巻ですが、画像がおかしいのか何なのか、
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それだと全部手打ちした方がはるかに速いと言うか何と言うか……
見た目は他の巻のと大差ないんですけどね?
あー、ページに右側と左側のピントが狂ってるっぽい感じ。