ご愁傷さま二ノ宮くん 第6巻
鈴木大輔
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目次
其の一 起
其の二 承
其の三 転
其の四 ふたたび転
あとがき
陽《ひ》が沈《しず》み星がまたたくこの時間になっても、真由《まゆ》の身体《からだ》にまとわりつく風は湿度《しつど》と温度《おんど》を十分すぎるほど保《たも》っている。冷や汗《あせ》はあとからあとからにじみ出て肌《はだ》をぬらし、そのくせ口の中はひどく乾《かわ》いて粘《ねば》つき、目の前にいる麗人《れいじん》はそんな真由を愉《たの》しげに観察《かんさつ》していた――瞳《ひとみ》の奥に昏《くら》い嗜虐《しぎゃく》の色をたたえて。
それは、常《つね》に王道を歩《あゆ》む北条麗華《ほうじょうれいか》なら決して見せないはずのもの。
ごくりと唾《つば》を呑《の》み、真由はふたたび問う。
「誰《だれ》なんですか、あなたは」
「北条麗華よ」
同じ答えをくりかえし、麗人はくちびるの端《はし》をつりあげる。その姿形《すがたかたち》は確かに北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》のもの。ほんの一分前まで真由が話していたのと同一《どういつ》の少女。そう、彼女は真由の前から一歩も動いてなどいない。目の前にいるのは確かに北条麗華。なのにどうしてこんな胸騒《むなさわ》ぎがするのだろう。
森でイタチに出くわしたリスのように身をかがめ、全身で警戒《けいかい》を示す真由を、少し前まで麗華であったはずの誰かが微笑《ほほえ》みながら見つめている。
「そんなに構《かま》えなくてもいいわ。わたし、今のあなたに興味《きょうみ》ないから」
優雅《ゆうが》に髪《かみ》をかきあげて、麗人は言葉どおりに視線《しせん》を外した。場《ぱ》に立ち込めていた奇妙《きみょう》な緊迫感《きんばくかん》はそれでほとんど霧消《むしょう》したが、真由はなおも警戒と不審《ふしん》の表情をゆるめない。
「ふふ、すっかり嫌《きら》われてしまったみたいね。無用《むよう》な血を流す前にさっさと退散《たいさん》することにしましょう――けど、そのまえにひとつだけ忠告《ちゅうこく》を」
もう一度|正面《しょうめん》から真由を見据《みす》え、麗人は妖《あや》しく微笑んだ。まるで数百年の生を経《へ》て妖気《ようき》を帯びた古狐《ふるぎつね》のように。
「京都には気をつけなさい。あそこは旧《ふる》い鬼《おに》どもの棲家《すみか》。取って食われないようにね」
「京都……?」
警戒しつつも真由は首をひねった。唐突《とうとつ》に目の前に現れた『誰か』と、彼女が発した脈絡《みゃくらく》もない忠告――事態《じたい》に取り残され気味《ぎみ》になるのはやむを得まい。
「……どういう意味ですか?」
と問い返してから気づいた。麗人のまとう雰囲気《ふんいき》がふたたび一変《いっぺん》している。
「どういう意味か、ですって?」
真由の発言は目の前の少女の神経《しんけい》を甚《はなは》だしくささくれ立たせたようだ。彼女は形のいい眉《まゆ》を跳《は》ね上げるとずかずか歩み寄り、真由の耳たぶを思いっきりつねり上げて、
「ひゃうわっ?――い、痛い痛い痛い痛い!」
「ここについている穴《あな》は何ですのっ? 耳アカを溜《た》めておくためのゴミ箱か何かなのっ? いいですことよくお聞きなさい、これまでの無礼非礼《ぶれいひれい》は水に流して差し上げますからわたくしの好敵手《こうてきしゅ》として恥《は》ずかしくないようもっとしゃきっとしなさいと言ったのです! おわかりになりましてっ?」
雷《かみなり》が落ちたかと思うような怒声《どせい》に鼓膜《こまく》をキックされ、真由は他愛《たあい》もなく目を回した。
(あ、あれれ?)
せわしなく瞬《まばた》きしながら状況《じょうきょう》を整理《せいり》する。両手を腰《こし》に当て、テラスの床《ゆか》に根を張《は》るように両足をしっかり広げ、激《はげ》しい炎《ほのお》を瞳に宿《やど》して挑《いど》むようにこちらを睨《にら》んでくる少女。まばゆく揺《ゆ》れるオーラが目に見えるような活力《かつりょく》あふれる姿。気高《けだか》さと繊細《せんさい》さの絶妙《ぜつみょう》なブレンドにして混《ま》じりけのない結晶《けっしょう》。
「ええと……」
「何?」
「麗華さん……ですよね?」
「……なるほど、まだ怒鳴《どな》られ足りないようですわね?」
いよいよ険悪《けんあく》に声を低《ひく》める麗華に、真由はあわてて首と手を振《ふ》る。
「よろしい。ではわたくしは残りの仕事を片付け、さっさと休むことにいたしますわ。あなたも今日は疲れたでしょう、早めにお休みなさい」
用は済んだ、とばかりに令嬢《れいじょう》はきびすを返し、|二ノ宮《にのみや》邸《てい》の中に姿を消した。
あとにはきょとんとした顔の真由だけが夜のテラスに取り残される。
(……あ、あれえ?)
じんじん痛む耳たぶをさすりながら、真由はまさしく狐につままれたような気分である。先ほど自分の前に現れた人物は誰だったのだろう。どう見ても北条麗華であり、そのくせ明らかに北条麗華ではなかったあの少女は。
(夢でも見てたのかな……)
『彼女』が現れていたのはわずかな間であったし、当の麗華自身もまったく何事《なにごと》もなかったかのように振《ふ》る舞《ま》っていた。現実《げんじつ》の出来事《できごと》と考えるより、昼間の騒動《そうどう》がもたらした疲労《ひろう》が見せた幻覚《げんかく》だとでも解釈《かいしゃく》した方がまだしも納得《なっとく》できそうではある。
だが。
(ううん、やっぱり夢《ゆめ》でも幻《まぼろし》でもない)
『彼女』と視線《しせん》を合わせた時に全身を走った、あの、えもいわれぬぞっとする感じ。あれが錯覚《さっかく》だったとは到底《とうてい》思えない――
(ううん、やっぱりよそう)
ざわつく心を押《お》さえ込み、真由はかぶりを振った。深入《ふかい》りはしない方がいい。本能《ほんのう》が激《はげ》しくそう警告している。幻だか現実だかはいざ知らず、正直なところ『彼女』にはこれ以上関わり合いたくなかった。それに根深《ねぶか》い疲労もある。つい先ほど起こしたばかりの発作《ほつさ》は真由の心身を深刻《しんこく》に痛めつけており、なにはなくともまずは休息《きゅうけい》する必要があった。麗華との間のギクシャクした関係を修正《しゅうせい》するという懸案《けんあん》をようやく片付けたばかりなのに、青天《せいてん》の霹靂《へきれき》のごとく降《ふ》って湧《わ》いた新たな懸案にこれ以上の体力は割《さ》けられない。対策《たいさく》を練《ね》るにしてもしばらくの猶予《ゆうよ》が欲しかった。真由はつとめて『彼女』のことを意識《いしき》の外に追いやり、あるいは記憶《きおく》の奥底深くに押し沈《しず》めようとした。
それでもひとつだけ、どうしても気になることがある。
(京都――って、やっぱり修学旅行《しゅうがくりょこう》のことかな)
神宮寺学園《じんぐうじがくえん》高校一年生にとって最大級《さいだいきゅう》のイベント、真夏の修学旅行は一週間後に迫《せま》っている。行き先はこの国でもっとも旧き都、伝統《でんとう》と因習《いんしゅう》が息づく街。
(気をつけるって、何をだろう……?)
京都など訪《おとず》れるのは初めてだし、気をつけなければならないものに心当たりはない。むしろ忠告をしてきた当人のほうにこそ注意を払《はら》うべきであるように思えるが。
「修学旅行かあ……」
その単語《たんご》を口にする時、真由の表情は抑《おさ》えきれぬ期待《きたい》と、それと等量《とうりょう》の不安との間で揺《ゆ》れ動く。普通《ふつう》とは言いがたい経歴《けいれき》をたどってきた彼女にとってこれは人生初の修学旅行であり、そして人生最後の修学旅行となるだろう。
「楽しくなるといいな」
西の夜空を見上げ、真由は偽《いつわ》らざる本音《ほんね》を呟《つぶや》いた。京都の夜空はどんな風に見えるのだろうとぼんやり考えながら――あるいは、『できれば二ノ宮くんといっしょに』というセリフを心の中だけで付け加えながら。
「……よし。がんばろう」
小さく握《にぎ》りこぶしを作って頷《うなず》くと、真由も麗華の後を追って洋館の中へと戻《もど》っていき、この夜起きた事件はすべて決着《けっちゃく》した――ように、思われたのだが。
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其の一 起
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霧島《きりしま》しのぶによる|二ノ宮《にのみや》家《け》襲撃《しゅうげき》事件《じけん》の翌日《よくじつ》、昼休み。
心身《しんしん》の疲労《ひろう》を癒《いや》しきる間もなく、あるいは事件への反省《はんせい》を満足に済《す》ませる間もなく峻護《しゅんご》は登校し、クラス内で与えられた『公務《こうむ》』を果たすため生徒会室《せいとかいしつ》に足を運んでいた。
開け放たれた生徒会室の窓《まど》からは真夏の猛暑《もうしょ》に炙《あぶ》られた風に乗って、グラウンドで遊ぶ生徒たちの歓声《かんせい》が遠く聞こえてくる。
そのさざめきを破《やぶ》るように、凜《りん》とした声が生徒会室の隅《すみずみ》々にまで響《ひび》き渡った。
「お忙《いそが》しいところをお集まりいただき恐縮《きょうしゅく》ですわ、修学《しゅうがく》旅行《りょこう》実行《じっこう》委員《いいん》のみなさん」
『生徒会長』と書かれた札《ふだ》の置かれた机《つくえ》から北条《ほうじょう》麗華《れいか》が立ち上がり、第一声を発した。
「出発を一週間後にひかえて準備《じゅんぴ》も追い込みの時期《じき》とは思いますが、毎年の慣例《かんれい》として、また当校の自治《じち》責任者《せきにんしゃ》たるわたくしの責務《せきむ》として、みなさんにいくつか念《ねん》を押しておかねばなりません」
そこで言葉を切り、生徒会長|殿《どの》は一同を見わたす。峻護を含《ふく》む十数名の男女たちは粛然《しゅくぜん》として次なる言葉を待った。
「周知《しゅうち》のとおり我《わ》が神宮寺学園《じんぐうじがくえん》は一世紀以上の歴史《れきし》を誇《ほこ》る伝統校《でんとうこう》であり、その伝統に見合った実績《じっせき》を重ねてきました。その栄誉《えいよ》は不断《ふだん》の努力をもって維持《いじ》されねばならず、言うまでもなくみなさんがたを初めとする一年生の方々にも、どこへ行っても恥《は》ずかしくないだけの振《ふ》る舞《ま》いをして頂《いただ》く必要があります。服装《ふくそう》、行動《こうどう》、言説《げんせつ》――万事《ばんじ》において節度《せつど》の十全たるを心がけること。お小遣《こづか》いは許可《きょか》された金額だけを持ち歩くこと。禁止《きんし》された物品《ぶっびん》の類《たぐい》を持ち込まないこと。引率《いんそつ》の先生がたのおっしゃることをよく守ること――」
延《えんえん》々とならべられる注意事項《ちゅういじこう》を実行委員たちは真面目《まじめ》くさって聞いている――といってもこれは表面上だけのこと。そもそも訓示《くんじ》を垂《た》れている麗華|当人《とうにん》からして声に熱がこもっていない。しかつめらしく注意をならべ立てる顔の裏《うら》に悪戯《いたずら》げな微笑《ほほえ》みすら透《す》けて見えそうである。その微笑《びしょう》が意味するところはこうだ。『羽目《はめ》を外すのも結構《けっこう》。ただし、うまくやる[#「うまくやる」に傍点]ように』。
つまるところ、この会見には形式《けいしき》以上の意味はないのであった。この手の官民談合《かんみんだんごう》のようなセレモニーはいわば、本音《ほんね》と建前《たてまえ》をカードマジックのように使い分ける神宮寺学園の校風というものであり、そして北条麗華はただ単《たん》に有能というだけでなく、生徒たちの心情を実によく心得《こころえ》た生徒会長なのである。
「……というわけで――修学旅行の成功はあなたがた実行委員の双肩《そうけん》に掛《か》かっています。悔《く》いを残さぬよう残りの一週間、準備に全力を注ぐように」
にこりと微笑み、麗華は話を締《し》めくくった。老若《ろうにゃく》男女《なんにょ》の区別《くぺつ》なく引き込まれる、天使のそれに喩《たと》えられるほどの魅惑的《みわくてき》な笑み。この笑顔ひとつあるだけで神宮寺学園における彼女の政権《せいけん》は磐石《ばんじゃく》といえるだろう。
旅行先での羽目外しを黙認《もくにん》され、はつらつとした激励《げきれい》に職務《しょくむ》への義務感《ぎむかん》を新たにし、実行委員の面《めんめん》々は一様《いちよう》にほくほくした表情で退室《たいしつ》しようとして、
「そうそう。ひとつ言い忘れてましたわ」
急転《きゅうてん》した声のトーンに全員が足を止める。まるで雷《かみなり》に打《う》たれたように。
「修学旅行中の不適切《ふてきせつ》な異性交遊《いせいこうゆう》は、これを最大の罪《つみ》とみなします。万一《まんいち》にもこれに背反《はいはん》した場合は生徒会の総意《そうい》による厳罰《げんばつ》をもって対処《たいしょ》いたしますので、ゆめゆめお忘れなきよう」
生徒会の総意とはすなわち、北条コンツェルン次期総師たる麗華個人の意思《いし》とイコール。普段《ふだん》は公正で公平な生徒会|運営《うんえい》をする彼女がここまで言うのだ、退学《たいがく》程度《ていど》の処罰で済むと考えるのは楽観《らっかん》に過《す》ぎるだろう。
「わたくしが同行しないからといって甘い考えは抱《いだ》かない方がいいと警告《けいこく》しておきます。たとえ修学旅行に同行せずとも、生徒たちの行状《ぎょうじょう》を知る手立《てだ》てはいくらでもあるということを肝《きも》に銘《めい》じておきなさい」
峻護は冷たいものが背中《せなか》を伝う感触《かんしょく》を覚えた。なぜって、令嬢の剣呑《けんのん》すぎる視線《しせん》はそのほとんどが彼ひとりの背中に注《そそ》がれているのが気配《けはい》でわかったから。
「――時間を取らせてしまいましたわね。話は以上です、ご苦労さま」
穏《おだ》やかな口調《くちょう》を取りもどした声が退出《たいしゅつ》をうながすが早いか、一同は先を争うようにして生徒会室をまろび出ることとなった。
峻護は生徒会室を出てすぐの廊下《ろうか》で大きく息をつき、冷《ひ》や汗《あせ》をぬぐう。同僚《どうりょう》たる実行委員たちの姿はすでにない。抜《ぬ》き身の青龍刀《せいりゅうとう》のように物騒《ぶっそう》な北条麗華の威圧《いあつ》に恐《おそ》れをなし、とっくに逃げ去ってしまっている。彼女の威圧は主《おも》に峻護に向けられたもののはずだが、常人《じょうじん》であれぱその余波《よは》を受けるだけでも精神的《せいしんてき》にきついのだろう。
「こわい人ですね、生徒会長さんって」
不意《ふい》に声をかけられ、峻護はややあわてた。自分以外は誰の姿もないと思っていた廊下に、いつの間にか人影《ひとかげ》がある。
「――ああ、奥城《おくしろ》さんか」
名を呼ぶとクラスメイトの少女は小首《こくび》をかしげ、黒縁《くろぶち》メガネの奥の瞳《ひとみ》で淡《あわ》く微笑んでみせた。
奥城いろり。峻護と同じく修学旅行実行委員である。落ち着いた物腰《ものごし》で大人びた印象《いんしょう》をもつ、何かと騒《さわ》がしい面子《メンツ》の多い一年A組の中では数少ない良識派《リょうしきは》。特に目立つ存在ではないが、たおやかで純和風《じゅんわふう》な雰囲気《ふんいき》をもった少女で、不本意《ふほんい》ながら実行委員を押し付けられた峻護とともに折《おり》につけて仕事を共にする間柄《あいだがら》だ。他の委員たちのように一目散《いちもくさん》に逃げたりせず、彼を待っていてくれたものらしい。
「いや、本来《ほんらい》そんなに怖い人でもないはずなんだけどね」
峻護は苦笑《くしょう》し、「教室に戻ろうか」と促《うなが》した。いろりはニコリと笑って応《おう》じ、ふたりは並んで廊下を歩き出す。
「怖い人じゃないというのは」歩きながらいろりがさらに問う。「生徒会長さんと起居《ききょ》を共にする同居入《どうきよにん》としての意見なのでしょうか?」
「え? ああいや……」
返答に詰《つ》まって口をもごもごさせる峻護。北条麗華が二ノ宮家で不本意な使用人生活を強《し》いられていることは周知《しゅうち》の事実《じじつ》である。
「うん、まあそんなとこ……かな? 北条先輩がああやって角《つの》を生《は》やす時はたいてい、何かおれがらみで気に食わないことがある時だから。さっきのこと、奥城さんはぜんぜん気にする必要なんてないよ」
「なるほど。わかりました」ニコリ、品《ひん》よく微笑んでみせるいろり。後に続いた「よほど慕《した》われているのですね」という呟《つぶや》きは、小さすぎて峻護の耳には届《とど》かない。
「ところで」
いろりが話題を変える。
「わたしたちの仕事ですが、残念《ざんねん》ながら順調にはかどっているとは言えません」
「そうなんだよな……」
困《こま》り顔で峻護は肯定《こうてい》する。この手の雑事《ざつじ》を押し付けられがちな彼はクラス代表の実行委員だけでなく、実行委員会の中でも『修学旅行のしおり』製作《せいさく》の責任者を拝命《はいめい》させられていた。同様《どうよう》に、奥城いろりも峻護と共にしおり製作の責任の半分を担《にな》っている。
「このペースのままですと、修学旅行当日までにしおりを完成させるのは難《むずか》しいと思われます」
「やっぱ居残《いのこ》りするしかないか……」
頭を掻《か》きながら峻護は嘆息《たんそく》。仕事をする能力がないわけではないが、仕事に精度《せいど》と完壁《かんぺき》さを求めすぎる傾向《けいこう》がある彼のことだ。私生活でのゴタゴタとあいまって、しおりの製作は遅々《ちち》として進んでいなかった。本来なら現時点でとっくに完成していなければならない代物《しろもの》である。
「すまないな奥城さん。君まで面倒《めんどう》ごとにつき合わせてしまって……」
と峻護が恐縮《きょうしゅく》するのは、彼が半《なか》ば無理《むり》やりしおり製作責任者にさせられた時、副責任者として名乗《なの》りをあげてくれたのがいろりだったからだが、
「いいえ」と、彼女は強くかぶりを振《ふ》る。「峻護さんが細部《さいぶ》にまでこだわりをもってしおりを作っているのはよくわかっています。どうか峻護さんが心から納得《なっとく》のできるものを作ってください。わたしもできる限りのお力添《ちからぞ》えをいたしますから」
「しかし、それだと奥城さんにも迷惑《めいわく》が――」
「わたしのことなどはお気になさらず。それよりも」
同僚《どうりょう》の少女は微笑みながらも咎《とが》めるような表情を作り、
「前々から申し上げていることですが――わたしのことはどうぞ、苗字《みょうじ》ではなく名前のほうで呼んでください」
「え? ああ、うん」
峻護は頬《ほお》をかきつつ、視線《しせん》を泳がせつつ、
「えーと……いろりさん」
「はい」
希望どおりに呼ぶと、いろりはすこし頬を染めるようにしてはにかんでくる。どうも近ごろ――といっても奥城いろりと実行委員としてペアを組むことになって以降《いこう》、つまり二か月も前からのことだが――彼女にはこういった峻護を戸惑《とまど》わせる言動《げんどう》が多い気がする。
「ええとじゃあ、今日は居残《いのこ》りして作業《さぎょう》を進めることにしょう。ああでも、いろりさんは用事があるようならそっちを優先してくれていいから」
「いいえ。ご一緒《いっしょ》します」
「そ、そう?」
「はい。では、放課後《ほうかご》になったらふたりで図書室に行くということで」
「ああっと、それなんだけど」
と、ふたたび峻護は恐縮《きょうしゅく》の態《てい》。
「じつは放課後に別の用事《ようじ》も入ってるんだ。それが終わってから図書室に行くということでいいだろうか」
「ええもちろん」いろりは快《こころよ》く頷《うなず》き、「どんなものであれ、男の人の『用事』に口を出すつもりはありません。どうぞごゆっくり『用事』を済ませてきてください。わたしは先に行って仕事を始めていますから」
「すまない、できるだけ早く用事を済ませて合流《ごうりゅう》するから……」
「峻護さん」
面倒《めんどう》な仕事をさせている峻護に嫌《いや》な顔ひとつせず、あるいは恐縮しきりの彼に恩《おん》を売るそぶりもなく、むしろその腰《こし》が低すぎるのをたしなめるような口調《くちょう》で、
「あなたをサポートするのはわたしにとって当然のこと、そんな平身低頭《へいしんていとう》されては困ってしまいます。むしろもっと遼慮《えんりょ》なくわたしを使ってほしいくらいなんですから。――さ、そろそろ授業《じゅぎょう》が始まりますよ。急ぎましょう」
くすりと微笑み、いろりは言葉どおりに歩を早める。
あわてて後を迫いながら、峻護はスラックスのポケットに手をやった。そこには授業中に回ってきた一枚の紙切れがおさめられ、朱書《しゅが》きの太文字でこう記されている。
【本日|放課後《ほうかご》『夜会《やかい》』に関する打ち合わせ。於《おいて》、特別|校舎《こうしゃ》第二|視聴覚室《しちょうかくしつ》。遅刻《ちこく》・欠席|不可《ふか》。クラスメイトの男子は全員集合のこと。尚《なお》、女子連中にはくれぐれもこの情報を漏《も》らさぬように】
「――というわけで、今日はいっしょに帰れそうにないんだ。すまない」
六時間目の授業が終わり、放課後とたった一年A組の教室。
慣例《かんれい》どおり下校《げこう》を共にしようと傍《そば》にやってきた月村《つきむら》真由《まゆ》に、峻護はうしろ頭を掻《か》きながら謝罪《しゃざい》した。
「いえそんな、気にしないでください」
いかにも申《もう》し訳《わけ》なさそうにする峻護に、真由はぶんぶんと首を横に振《ふ》る。
「ひとりじゃ満足に家にも帰れないわたしが、いつも無理《むり》言って下校につき合わせちゃってるんですから……まして用事がある二ノ宮くんまでわたしの都合《つごう》につき合わせるなんてできないです。気にせずゆっくり用事を済ませてきてください」
かえってぺこぺこ頭を下げてくる真由だが、男性|恐怖症《きょうふしょう》の彼女を護衛《ごえい》する任《にん》にあずかっている峻護としては忸怩《じくじ》たるものを覚えざるを得ない。姉の二ノ宮|涼子《りょうこ》、真由の兄である月村|美樹彦《みきひこ》の両名が前触《まえぶ》れもなく海外に出張《しゅっちょう》してしまった今となっては、なおさら責任の重大さが彼の双肩《そうけん》にのしかかってくるのである。
「まあまあ。あんたたちふたりともさ、そんな仰々《ぎょうぎょう》しくかしこまることないでしょうに」
と、クラスメイトの綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》が苦笑《くしょう》して、
「真由はあたしが責任もって送ってくからさ。二ノ宮くんは心置《お》きなく用事とやらを済ませてきなよ」
「すまない綾川さん、恩《おん》に着るよ。じゃあおれちょっと行ってくるから」
「あいよー、いってらっしゃーい……って、ああちょっと待った二ノ宮くん」
あわただしく荷物《にもつ》をまとめて教室を出ようとする峻護を呼び止め、
「その前に、真由の方から何か言いたいことがあるらしいんだけど?」
「え、ええっ?」
いきなり話を振《ふ》られて狼狽《ろうばい》する真由と、首をかしげる峻護。
「言いたいこと……というと?」
「ええと、それはつまりその……ちょ、ちょっと日奈子さん! いきなり話を振らないでくださいよっ!」
「なーによ、そんなあわてなくてもいいじゃん。切り出さたいことには始まらないんだし、だったら早い方がいいじゃない」
「そ、それでもこういう物事《ものごと》にはタイミングというものが――」
「…………?」
なにやら小声で言い争っているふたりの少女を峻護はいぶかしげに眺《なが》めていたが、不意《ふい》に彼は真由が大事《だいじ》そうに抱《かか》えているナップザックに気がついた。普段《ふだん》の彼女なら持ち歩かないものであり、中には何やら重そうな荷物が詰《つ》められている様子《ようす》である。
「月村さんそれは?」
「えっ? ええとこれは……」
真由はナップザックをすばやく背中《せなか》に隠《かく》して、
「べ、別に何でもないですよっ。単に教科書とか参考書《さんこうしょ》が入ってるだけで……あっ、ほら二ノ宮くん、用事があるんじゃなかったんですか? 早く行かないと遅刻《ちこく》とかしちゃうかもですよっ?」
その指摘《してき》はまったくもって道理《どうり》であったので、峻護は「じゃあ行ってくるよ」と言い残し、さして真由の不審《ふしん》さに気をとめることなく教室を走り出ていく。
「ふう……助かりました」
真由はホッと胸をなでおろし、一方の日奈子は呆《あき》れのため息。
「この根性なし。あれこれ悩《なや》んでないでさっさと切り出しちゃえぱいいのに」
両手を腰に当てて叱咤《しった》し、ナップザックを取り上げて中身を引《ひ》っ張《ぱ》り出した。ずらりと出てきたのは十冊にのぼる旅行ガイド。いずれも京都を専門《せんもん》に扱《あつか》った旅の本である。
「修学旅行の自由行動日、いっしょに京都を回らないかって二ノ宮くんを誘《さそ》う。でもってその本を読みながら、ふたりでどこを回るかいっしょに考える。そんなに難《むずか》しいことじゃないでしょうが?」
「で、でも」真由が消え入りそうな声で反論《はんろん》、「それってなんだかデートとかに誘ってるみたいで、なんだか緊張《きんちょう》しちゃって……」
「よく言うわよまったく。同居やら同衾《どうきん》やら、デートどころじゃないコトまでとっくに済ませてるでしょうに」
「そ、それはまた別の問題だと思いますっ。それに二ノ宮くんっていろいろ忙《いそが》しいひとだから、なんだか邪魔《じゃま》するみたいで誘いづらくて」
「ああもうまどろっこしいなあ。もういいわ、あたしから二ノ宮くんに言ってあげるから。それでいいわね?」
「だっ、だめですだめです!」
今にも教室を出て峻護のあとを追おうとする友人を必死《ひっし》で引き止め、
「わたしの口から言わないと意味ないですから、ちゃんと自分で言います! 明日、きっと明日は言いますから!」
「――ふうん? そういう筋《すじ》は案外《あんがい》ちゃんと通そうとするのね、あんたって」
ふむ、と鼻を鳴《な》らし、
「まあいいわ、どっちにしてもそろそろ修学旅行に必要なものとか買いに行かないとだし。二ノ宮くんがいないのはちょうどいいかもね……おし、今日は女の子の買い物しに行こっか? クラスの他の子も呼んでさ。うん、そうと決まったらさっそく行こ行こ」
今後の方針《ほうしん》をさっさと決めてしまうと、日奈子は早くも携帯《けいたい》を取り出してクラスメイトの招集《しょうしゅう》を始めながら教室を出、その後にナップザックを大事そうに抱えた真由があわててついていく。
「遅い。おまえがケツだぞ二ノ宮」
息切らせて第二視聴覚室に駆《か》け込んだ峻護を迎《むか》えたのは、同級生・吉田《よしだ》の叱責《しっせき》だった。
「遅刻は不可だと通達《つうたつ》しといただろう。もうみんなとっくにそろってんだぜ?」
「すまない、ちょっと手間取《てまど》った」
思い思いの場所に着席している面々に目線で謝罪《しゃざい》してから、
「というかいったい何なんだ、こんなところに呼び出して? クラスの男子は全員いるみたいだし、女子にはこのことを話すなとか書いてあったけど……」
「それも通達したじゃねーか。『夜会』の打ち合わせだっつの」
吉田に代わって同じく同級生の井上《いのうえ》が答えるが、峻護が頭上《ずじょう》に浮《う》かべる疑問符《ぎもんふ》の数を増やしただけだった。そもそも『夜会』というものが何なのかがわからない。
ともあれ空いた席をみつくろって腰をおろすと、どうやら座長格《ざちょうかく》らしい吉田と井上が教壇側《きょうだんがわ》に立ち、
「ではこれより修学旅行のメインイベント『夜会』についてのミーティングを行う。司会進行は一年A組裏実行委員、俺こと吉田|平介《へいすけ》と」
「おなじく裏実行委員、井上|太一《たいち》が務《つと》めさせてもらう。よろしく」
何やら神妙《しんみょう》に幕《まく》を開ける会議。クラスのおちゃらけ組|筆頭《ひっとう》たる吉田と井上がこんな生真面目《きまじめ》な顔をしているところをみると、『夜会』とはよほど重要《じゅうよう》な行事《ぎょうじ》であるらしい。
「とはいえここにいる人間のほとんどは、うわさくらいは聞いていても『夜会』についての詳細《しょうさい》は知らないだろう。よってまずは『夜会』の歴史と意義《いぎ》について説明する」
――その説明によれば。
『夜会』とは修学旅行中の夜間に行われる一大行事で、神宮寺学園に古くから伝わる伝統的かつ秘密《ひみつ》の催《もよお》し物《もの》であるそうだ。それも男子の間だけでひそやかに行われる女子|禁制《きんせい》のイベントであり、むろん学校側が介入《かいにゅう》することもない。
「運営|資金《しきん》についてはかつて『夜会』に参加《さんか》し、学園を巣立《すだ》っていったOB各位より多額《たがく》の寄付《きふ》を受けている。諸君《しょくん》のふところはわずかにも痛まないから、その点は気兼《きが》ねしなくていい」
「戦時中でさえ絶《た》えることなく盛大《せいだい》に行われてきたイベントだ。俺たちの代でも伝統にのっとり、ぱーっと派手《はで》にやってやろうじゃねえか」
吉田と井上の微《げき》に『うむうむ』と力強く頷きあう列席者《れっせきしゃ》たち。
「あーっと……」
ただひとり、いまいち話についていけない峻護が挙手《きょしゅ》をして、
「つまり夜会というのはお祭りみたいなものなのか? しかしおれは修学旅行実行委員だし、その立場から言わせてもらえば夜中にあまり派手なことをされるのは……」
「二ノ宮」
吉田の返答はこうである。
「おまえの担当《たんとう》している表の修学旅行を軽視《けいし》するわけじゃないが、しかし修学旅行の真髄《しんずい》とは、俺たち生徒が一から十まで運営する裏の修学旅行にこそある。これは自主自立《じしゅじりつ》を校是《こうぜ》とする学園の方針《ほうしん》にも適《かな》う。ちがうか?」
「それはそうかもだが、しかし羽目《はめ》を外しすぎて大問題になる可能性《かのうせい》はないのか?」
「そのための裏実行委員だ。夜会の運営は俺たちに任《まか》せて、おまえは心置きなく自分の仕事に励《はげ》んでくれればいい」
「そうそう。夜会は自主参加が基本《きほん》、何人たりとも強制《きょうせい》で参加させられることはねーわけだし。ただし不参加者については、夜会の情報を外部に漏《も》らさないよう確約《かくやく》してもらう必要があるが……ま、この場に不参加《ふさんか》を表明《ひょうめい》するような腰抜《こしぬ》けはいねーと思うけどよ」
にやりと笑う井上に、峻護をのぞく列席者全員がにやりと笑い返す。峻護としてはさしあたり沈黙《ちんもく》するほかない。
「では、これより本日の主題《しゅだい》に入る。みんなスクリーンに注目してくれ」
教室の照明《しょうめい》が落とされてスライドに電源が入ると、教壇側のスクリーン上に何かの静止画《せいしが》――顔写真を含《ふく》む各種データを記した履歴書《りれきしょ》のようなものの映像が、次々とスライドしていく。
(…………? 何だこれは?)
いぶかしがる峻護を尻目《しりめ》に、吉田が誇《ほこ》らしげにそいつの正体を明かした。
一年生女子全員のプロフィール……交友関係、スリーサイズ、男性|遍歴《へんれき》等、プライバシー保護法《ほごほう》違反《いはん》で訴《うった》えられない程度《ていど》の範囲《はんい》で可能《かのう》な限り調べ上げた。来《きた》るべき夜会に向けておおいに参考資料《さんこうしりょう》とされたし」
席上から「おおお!」とどよめきが起こった。同時、列席者のほとんど全員が我先《われさき》にと壇上に駆《か》け上がり、食い入るようにしてスライドの映像を吟味《ぎんみ》し始める。
「D組の藤本《ふじもと》にE組の川島《かわしま》……うお、B組の綾小路《あやのこうじ》の情報まで! すげえ、うわさには聞いてたけどここまで徹底《てってい》してるとは」
「裏実行委員の笑力、あなどれんな。こりゃあ夜会の当日が本格的《ほんかくてき》に楽しみになってきたぞ」
……一方、ただひとり蚊帳《かや》の外に置かれていた峻護は、スライドとそれに群《むら》がる亡者《もうじゃ》どもを阿呆《あほう》みたいに口をあけて凝視《ぎょうし》していたが、
「――待て! 待て待て待て待て! 何だこれはいったい!」
一瞬の空白を経《へ》て立ち直り、主催者《しゅさいしゃ》ふたりに詰《つ》め寄《よ》った。
「何って、説明しただろうが。一年生女子全員のプロフィールだよ。夜会の参考にするための」
「そういうことじゃない! まずいだろうこんなもの公開したら! そもそも何だってこんなものが必要になるんだ? こんなものが必要になる夜会ってのは何なんだ!」
「何って……なあ?」
顔を見合わせる吉田と井上.
肩をすくめ、ふたりの不埒者《ふらちもの》は異口同音《いくどうおん》にこう言った。
「夜会のお楽しみっていったらおまえ、『夜這《よば》い』に決まってんだろうが」
「よ、よばい……っ?」
愕然《がくぜん》とする峻護を措《お》き、吉田と井上はふたたび一同に向けて説明をはじめる。
「この資料をもとに各自《かくじ》、誰をターゲットに定《さだ》めて夜這いを敢行《かんこう》するかよく考えておくように」
「誰が誰を狙《ねら》うかについては基本《きほん》、裏実行委員は関知《かんち》しないが、生徒同士でバッティングする可能性も当然あるだろう。その場合は当事者《とうじしゃ》同士の交渉次第《こうしょうしだい》ということにもなる。このミーティングはそれらの交渉を円滑《えんかつ》に行うための集まりだと言い換《か》えてもいい」
「それと、他クラスの連中との交渉は俺たち裏実行委員を通してもらった方が無難《ぶなん》だろうな。個々人の間での無秩序《むちつじょ》な交渉はかえって混乱《こんらん》をきたす恐《おそ》れがあるし、これは俺たち裏実行委員が学年全体にわたる交渉の状況《じょうきょう》を把握《はあく》する意味もある」
「談合《だんごう》、示談《じだん》、共謀《きょうばう》、買収《ばいしゅう》、抜《ぬ》け駆《が》け――よほど目に余《あま》るものでない限り、交渉の手段《しゅだん》は何でもありだ。お目当《めあ》ての女を手に入れたいなら下準備に手間《てま》を惜《お》しむなよ」
「あー……ちょっといいか?」
手を挙《あ》げて発言を求める峻護。
「なんだ二ノ宮? 質問は手短に頼《たの》むぞ、まだまだ今日中に済ませなきゃならん話がたっぷり残ってんだからよ」
「あー、よばいってのはあの夜這いのことか? 夜中に女性の部屋に忍《しの》び込み、不届《ふとど》きな行為《こうい》を働くあれのことか?」
「【よばい】で辞書《じしょ》を引いてみろ。該当《がいとう》する日本語はひとつしかない」
「それを修学旅行でやると? それもこれだけ計画的に、組織的に、大々《だいだい》的《てき》に?」
「うむ。それが夜会のメインディッシュ、ひいては修学旅行の最大のイベントだからな」
ばん! と机を叩《たた》き、倫理《りんり》の徒《と》と化した峻護は猛然《もうぜん》と立ち上がる。
「反対だ! 断固《だんこ》反対! 今すぐそんな計画は中止すべきだ! おれ個人としても修学旅行実行委員の立場からいってもぜったい認《みと》められない!」
がしかし、首謀者《しゅぼうしゃ》ふたりは彼の剣幕《けんまく》を予期《よき》していたかのように平然《へいぜん》たる顔。
「そうは言うがな二ノ宮、こうしてクラスのみんなも夜這い大会には期待してくれてるわけだ。裏実行委員会が身を削《けず》るような思いで東奔西走《とうほんせいそう》し、ここまでこぎつけた企画でもある。それを今になって中止するというのはあまりに無体《むたい》な話と思わんか?」
「前提《ぜんてい》からして間違《まちが》っている! イベントを企画《きかく》するにしたってもっと健全《けんぜん》なものにするべきだ!」
「阿呆、健全なイベントなんぞ企画したって面白《おもしろ》くも何ともねえだろうが。なあ吉田?」
「井上の言うとおりだ。それにこのイベントが長い伝統を持つ行事《ぎょうじ》だということも忘れてもらっちゃ困る。ウチの卒業生《そつぎょうせい》には政財界《せいぎいかい》の名士《めいし》がわんさかいるが、彼らはみた夜会の経験《けいけん》を糧《かて》として世界に羽《は》ばたいていった。これは神宮寺学園の男子にとって必要不可欠《ひつようふかけつ》な一種の通過儀礼《つうかぎれい》なんだ」
「そうそう。それに夜会を運営する寄付《きふ》はすべて、夜会を経験していった卒業生たちの懐《ふところ》から出ている。男になってこい、という先輩《せんぱい》方のメッセージをおまえは汲《く》むことができねーのか? ん?」
「論理《ろんり》のすり替《か》えだ。おれはそんなのに騙《だま》されないそ。それにたとえおれたち男子がよくてもだ、こんなのは女子のみんなにも迷惑だろう?」
「いやいや、女どもだってけっこう期待してるはずだぞ? むしろ修学旅行という美味《おい》しいシチュエーションで誰ひとり部屋にやってこなかったら拍子《ひょうし》抜けするってもんだろう。ここは是《ぜ》が非《ひ》でもやつらの期待に応《こた》えてやらねばなるまい」
「とにかく!」
ばん! ともう一度机を叩き、不届き千万《せんばん》なクラスメイトたちをねめまわし、
「おれはこの計画を認めるわけにはいかない。それどころか修学旅行実行委員の立場として、この計画を中止させる義務《ぎむ》さえある」
決然《けつだん》として己《おのれ》の所信《しょしん》を表明する。その両目には揺《ゆ》るぎない意志の強さがみなぎり、彼の意思を曲げることは何人にも不可能かと思われた。
が。一年A組の悪童《あくどう》どもが何の考えもなしに秘事《ひじ》を漏《も》らすわけはないのである。
「やれやれ、知ってるつもりではいたが想像《そうぞう》以上に頭の固い野郎《やろう》だな。わかった二ノ宮、そんなおまえにひとついいことを教えてやる」
吉田は腕を組んで教卓《きょうたく》にもたれかかり、余裕《よゆう》の笑みを浮かべて、
「夜会は一年生男子全員にとっての檜舞台《ひのきぶたい》。ターゲットは一年生女子全員であり、個々の力量《りきりょう》において誰をターゲットにしても可《か》。チャンスはやる気のある限りにおいて誰しも平等《びようどう》にある――ここまではわかるな?」
井上があとを引《ひ》き継《つ》いで、
「そして夜会には絶対的《ぜったいてき》なルールがひとつある。夜這いを敢行《かんこう》しようとしている勇者に対する妨害行為《ぼうがいこうい》はいかなるものであろうとこれを不可とする、というものだ。一般《いっばん》生徒はもちろん、俺たち裏実行委員でさえこのルールに背反することは許されない。背反した者は裏実行委員会と、数千数万を数える神宮寺学園OBすべての名において、相応《そうあう》の報《むく》いを受けることになるだろう。このことが何を意味するかわかるか?」
「…………?」
「鈍《にぶ》いやつだな。じゃあ例えばだ、この教室にいる誰かが月村さんに夜這いをかけることになったらどうする?」
「んな――」
事態《じたい》の深刻《しんこく》さにようやく気づき、峻護は蒼白《そうはく》となった。
「待った! それはいかん! それはいかんぞ! ぜったいだめ!」
冗談《じょうだん》ではない。月村真由は峻護にとって大事《だいじ》な預《あず》かり人《びと》、夜這いなどでキズモノにされたら立場がない。それに男性恐怖症たる真由に普通の男が夜這いを仕掛《しか》ければどうなる? 夜這いの本懐《ほんかい》を遂《と》げる前に彼女が卒倒《そっとう》してしまうのは目に見えているではないか。たとえ本懐を遂《と》げたとしても、月村真由は精気吸引能力《せいききゅういんのうりょく》をコントロールできないサキュバスであり、彼女に不埒《ふらち》な真似《まね》をした男は精気を吸《す》い尽《つ》くされて死線《しせん》をさまようことになるだろう。いやいやそれ以前にだ、峻護個人の感情からいっても――
「とにかく! 誰であろうと月村さんに夜這いなんてさせないからな! どんな手段を使ってでも止めてみせる!」
「ほほう? どんな手段を使ってでも?」
にやり、くちびるの端をつりあげる吉田。
「どんな手段を使ってでも、と言ったな? だったら二ノ宮よ、ひとつだけあるぞ。月村さんへの夜這いを円満《えんまん》に阻止《そし》する方法が」
「なに……?」
「手段は選ばない、とまで言ったおまえになら造作《ぞうさ》もないことのはずだ。知りたいか?」
口ごもった峻護をじらすように間を置いて。
『一年A組の悪知恵袋《わるぢえぶくろ》』と呼ばれる男は、とんでもない解決法《かいけつほう》を提示《ていじ》したのである。
「おまえ自身が月村さんに夜這いすればいい。他の生徒に先《さき》んじて見事《みごと》、夜這いに成功すれば、あえてそれ以上月村さんに手出ししようとするやつはいなくなるだろうさ」
峻護の頭上に落とされた爆弾《ばくだん》は、投下《とうか》した者の意図《いと》どおりに効果《こうか》を発揮《はっき》した。峻護にとってはあまりに突拍子《とっぴょうし》もなく、無法《むほう》この上ない解決法《かいけつほう》であったが、有効《ゆうこう》な手段であることも認めざるをえなかったのである。
「おまえが月村さんを毒牙《どくが》にかけるなんざ、本来《ほんらい》なら全身全霊《ぜんしんぜんれい》、深謀遠慮《しんぼうえんりょ》の限りをつくして妨害してやるところなんだがな」
と吉田は肩をすくめる。
「だが夜会における壮挙《そうきょ》として手を出すなら話は別だ。さっきも言ったが、夜這いを成功させて男になろうとしているやつの妨害をするのはご法度《はっと》。まさか裏実行委員たる俺たちがルールを破《やぶ》るわけにはいかんしな」
「それどころか二ノ宮よ、今回に限っては妨害どころか支援《しえん》を受けることができるんだぜ? 俺たち裏実行委員のな」
と井上がさらに付け加える。
「壮挙に挑《いど》む勇者|予備軍《よびぐん》を最大限にサポートするのが俺たちの役目だからよ。はっきり言ってこんな機会《きかい》は二度とねえ。またとないチャンスだろうが」
(そうは言うけどな……)
頬杖《ほおづえ》をつき、峻護は声に出さず嘆息《たんそく》した。
夜会のミーティングを終え、彼はいま図書室の隅《すみ》っこの席に陣取《じんど》っている。『表[#「表」に傍点]実行委員』として与《あた》えられた仕事、修学旅行のしおりの製作《せいさく》に苦闘《くとう》している最中だった。
机を挟《はさ》んだ正面には奥城いろりが姿勢《しせい》よく座《すわ》り、原稿用紙《げんこうようし》にすらすらとペンを走らせている。一方、峻護の仕事は遅々として進まず、まっさらな原稿は雪原《せつげん》のように白い。
(まったく、表の修学旅行の仕事はろくに手伝いもしないくせに)
先ほどスクリーンに映《うつ》し出されていた資料を思い出す。一年生女子全員分の詳細《しょうさい》な個人データには裏実行委員本部|算定《さんてい》と前書きした上で、予想される競争率《きょうそうりつ》、攻略難度《こうりゃくなんど》まで算出《さんしゅつ》してあった。そんな無駄《むだ》に凝《こ》った資料を作るひまがあったらそのエネルギーをもう少しましな方向に使えというのだ。
(しかしどうしたものかな、これは……)
馬鹿《ばか》どもが企《たくら》む集団的夜道い行為を中止させる方法、あるいは真由の安全だけでも確保《かくほ》する方法はあるだろうか。それもできれば円満なやりかたで。
「――峻護さん」
馬鹿らしいながらもあれだけの熱意をもって成功させようとしている企画だ、今さら説得など試《こころ》みても無駄《むだ》だろう。力ずくで止めるのも論外《ろんがい》。いかに峻護が武道《ぶどう》の達人《たつじん》であろうと、十数名のクラスメイト、あるいは百数十名の学年男子全員を相手にするのは無謀《むぼう》、というよりもはや愚劣《ぐれつ》なだけである。
「峻護さん。駿護さん?」
ならば方法はただひとつ。峻護が自ら真由に夜這いを仕掛《しか》けて成功させ、他の男子生徒たちを牽制《けんせい》する、それしかないのだろうか? いやいやいくらなんでもそれはない。誠実《せいじつ》と勤勉《きんぺん》の靴《くつ》をはいて石部金吉《いしべきんきち》の道を直進する男、それが二ノ宮峻護である。心情の面からみても信条からいっても、率先《そっせん》して不埒な真似《まね》に手を染めるなどありえない――
「しゅ・ん・ご・さ・ん?」
「えっ?――って、あ痛たたたたたた」
迫力《はくりょく》ある声が横から聞こえ、振り向こうとしたとたん耳たぶに激痛《げきつう》。
「お仕事をさぼって上《うわ》の空《そら》、そのうえわたしが何度呼んでも無視《むし》するなんて……いけないひとです」
見れば、微笑みの形を崩《くず》さぬまま角を生やしている奥城いろりの姿。いつの間にか正面の席を離《はな》れ、峻護の隣《となり》まで来ていたらしい。
「ご、ごめん、ちょっと考えごとをしていて……」
「何かお悩《なや》みごとですか?」
いろりは正面の席には戻《もど》らず、隣の席に腰を下ろしながら、
「それもどうやら、しおり製作《せいさく》についての悩みではなさそうですね」
「あー……いや……んー……」
頭を掻きながら言葉を濁《にご》す峻護をいろりはしばらく見つめていたが、やがていつもの淡《あわ》い微笑を浮かべると、
「――どうやら相談してはいただけないようなので、お仕事に戻りましょう。わたしはここに座って、峻護さんがきちんとお仕事を進められるかどうか見張《みは》ることにします」
「あーいや、ちょっと気が散っただけで、ちゃんと仕事はするから。別に奥城さんに見張られなくても――」
「どうぞ名前でお呼びを」
「あー……ええと、いろりさん」
「はい、よくできました」
にこ、と微笑み、しかしすぐに考え直すようなそぶりで入差し指を細いあごに当て、
「……やっぱり気が変わりました。『いろりさん』ではなく、どうぞ『いろり』と呼び捨てで呼んでください」
「えええっ? よ、呼び捨てで?」
「はい。お仕事をおろそかにし、わたしが呼んでも見向きもせず、何度言っても名前で呼んでくれない罰《ばつ》です」
「ば、罰なの……?」
「はい」
「ええと……ひょっとして怒ってる?」
「はい。ですからどうかお早く」
言葉とは裏腹《うらはら》にいろりはニコニコ微笑み、罰ゲームが執行《しっこう》されるのを待つ体勢《たいせい》。
峻護は観念《かんねん》して、
「……あー、ええと……いろりさ、じゃなくて、いろ……げふんげふん。あー……」
しばらく苦闘《くとう》していたが、やがてギブアップして頭を下げ、
「すまない、やっぱり呼び捨てというのはちょっと……なんというか、女性の名前を軽々しく呼び捨てにするのはどうかと……いやもちろん、いろりさんに隔意《かくい》があるわけじゃなくて、どんな女性に対してもそうなんだけど――」
「……峻護さんをからかうのは楽しいですね」
「えっ? なにか言った?」
「はい。『今日のところはこのくらいで堪忍《かんにん》してあげます』と言いました。さ、そろそろ仕事へ戻りましょう。このペースでは本当に終わらなくなってしまいます」
微笑んでメガネの位置を直し、いろりはふたたびペンを握《にぎ》って原稿用紙に向き直った。
(……変わった人だな、奥城さんって)
長い黒髪を耳の上あたりで押さえ、原稿にペンを走らせる少女の姿を横目で見ながら思う。
奥城いろり。跳《は》ね返《かえ》りぞろいのクラスメイトの中で峻護と並ぶ良識派かつ穏健派《おんけんは》。
(じつはすごい美人のはずなんだけどな……)
どうにも無骨《ぷこつ》な黒縁メガネのせいだろうか。粒《つぶ》ぞろいと言われる一年A組女子の中でも群《ぐん》を抜く容姿《ようし》を持っているはずなのに、いろりはやたらと存在感《そんざいかん》が薄《うす》いのである。まるで気配《けはい》を消しているかのように控《ひか》えめで、三十|余名《よめい》のクラスメイトの中で峻護がもっとも遅く名前を覚えたのが奥城いろりだった。かといってまったく目立たない生徒かといえばそうでもなく、たとえば峻護がクラスの九割以上の推薦《すいせん》を集めて修学旅行実行委員にさせられた時、もうひとりの委員として名乗りをあげてくれたのがいろりである。このパターンは、実行委員会の中で峻護が旅行のしおりの製作責任者にさせられた際《さい》にふたたび繰《く》り返されたものでもある。
おかげで今ではすっかり、奥城いろりは峻護の中で大きな位置を占《し》める人物となっていた。彼女の存在がなければおそらく、修学旅行実行委員の仕事を満足に果《は》たすことはできないだろう。
「……峻護さん」
不意《ふい》にいろりがペンを動かす手を止め、頬を染めてうつむき、
「そのようにじっと見つめられると――わたしも女ですからすこし、戸惑います」
「へっ?」
横目で見ているつもりが、いつの間にかまじまじと眺《なが》めていたらしい。
「ああいやすまない、そんなつもりじゃなくて。許してほしい」
「だめです。今度は堪忍してあげません。またも仕事を怠《なま》けていましたね? わたしにばかり仕事をさせておいて」
頬に桜色《さくらいろ》をのせたまま品《ひん》よく眉根《まゆね》を寄せ、
「ですからもういちど罰を与《あた》えます。峻護さんは明日もわたしといっしょに図書館で居残りをしてください」
「居残り……?」
「はい。しおりが完成するまで、毎日です」
「居残りかあ……」
たいして考えるまでもない。どのみちこのままの作業ペースではそうせざるをえないだろう。罰うんぬんに関わりなく、当分は残業《ざんぎょう》が続くであろうことは目に見えている。家に仕事を持ち帰る手もないではないが、相方と顔を突《つ》き合わせてやるほうが効率《こうりつ》がいいというものだ。
あるいはこの、懲罰《ちょうばつ》にかこつけた申し出は、いろりを時間外|労働《ろうどう》に付き合わせる立場になる峻護の罪悪感《ざいあくかん》を、少しでも軽くしようと気を使ってのことかもしれない。
「わかった。おとなしく罰を受け、居残りさせてもらうことにするよ」
「はい。では、それで許してさしあげます」
峻護の答えに満足し、いろりはほんのり微笑んだ。
――連日《れんじつ》の居残り作業にもかかわらず、修学旅行のしおりが完成を見たのは出発のわずか二日前である。
イベントの羅針盤《らしんばん》ともいうべきしおりの完成が遅れたことには当然、参加者一同から盛大《せいだい》なブーイングが出た。峻護が出発までに残されたわずかな時間の多くを各方面へのお詫《わ》び巡礼《じゅんれい》に費《つい》やさねばならなかったのは、ごく自然な成りゆきだろう。わずかに救いだったのは、しおりの内容に関しての苦情は一件たりとも寄せられなかったことと、巡礼の行程《こうてい》が孤独《こどく》な一人旅ではなかったこと、その二点のみであった。
そして修学旅行当日――。
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其の二 承
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その日の列島《れっとう》は夏季特有《かきとくゆう》の強い高気圧《こうきあつ》にすっぽり覆《おお》われ全国的に晴天《せいてん》、降水確率《こうすいかくりつ》はずばり0パーセント。少々|刺激《しげき》の強すぎる紫外線《しがいせん》と汗腺《かんせん》をフル稼働《かどう》させる熱気さえ気にしなければ、この上ない旅行日和《りょこうびより》であった。
恵まれた好天《こうてん》に刺激《しげき》されてか、神宮寺学園《じんぐうじがくえん》一年生たちのテンションは早くもレッドゾーンに入り、京都へ向かう新幹線《しんかんせん》のそこかしこで笑声や歓声《かんせい》が湧《わ》いている。
(元気なやつらだよまったく)
一方、修学《しゅうがく》旅行|実行委員《じっこういいん》の峻護《しゅんご》はといえぱ、早くも心身《しんしん》における疲労《ひろう》のピークに達《たっ》しつつあった。無闇《むやみ》に生真面目《きまじめ》な彼はしおり製作《せいさく》に全身全霊《ぜんしんぜんれい》を注《そそ》ぎ込み、本番が始まる前に燃え尽《つ》きた感すらある。朝早く校庭に集結《しゅうけつ》した同級生たちを引率《いんそつ》し、小学生のようにはしゃぐ彼らをどうにかまとめて電車に詰《つ》め込んだ時点で、あっさり峻護は灰《はい》になった。
(これじゃ身がもたないな……)
『他の乗客のみなさんの迷惑《めいわく》にならないよう』などという注意もいいかげん言い飽《あ》き、今の彼は半《なか》ばあきらめ気分で陽気《ようき》すぎる騒《さわ》ぎに身を任せている――手にした数枚のトランプの数字をぼんやり眺《なが》めながら。
「おい|二ノ宮《にのみや》、ボーっとしてるんじゃない。おまえの番だ」
同じシートに座《すわ》る吉田《よしだ》が普段《ふだん》より二割増しの高い声で催促《さいそく》してくる。
「ああ……悪い」
シートからのろのろと背を離《はな》し、正面に座る真由《まゆ》に向き直った。
「はい、二ノ宮くんどうぞ」
にこにこと差し出してくるカードの中から無造作《むぞうさ》に一枚を抜くと、真由の表情がいっそうにこやかになる。ジョーカーを見事《みごと》に引き当てた峻護はそのカードに現在の己《おのれ》の姿《すがた》を見、鉛《なまり》のようなため息をついた。
彼は現在、五人のクラスメイトとトランプゲームに興《きょう》じている。メンバーは修学旅行の日程《にってい》を共にする、同じ班《はん》の面々《めんめん》。峻護に吉田と井上《いのうえ》の男子三名プラス、真由に日奈子《ひなこ》――それと奥城《おくしろ》いろりの女子三名である。
「では一枚引きますね」
峻護のとなりに座るいろりがスペードのエースを引いていき、ペアになったハートのエースと共にカードを捨《す》てた。これで彼女のカードはのこり一枚。「やべえ、こりゃ奥城さんがまた一抜けか?」とあせる吉田と井上に、「ここらで一度くらい勝っとかなきゃね」と腕《うで》まくりする日奈子。ゲームの種目はありきたりなババ抜きであったが、クラス筆頭《ひっとう》のお祭り好きたちに煽《あお》り立てられて存外《ぞんがい》な盛《も》り上がりを見せている。男性|恐怖症《きょうふしょう》の真由も吉田と井上とは席が離れているゆえか、今のところは無事《ぶじ》に旅行を楽しめているようだ。
ただひとり、峻護だけが冴えない顔をぶら下げている。
単に疲れ果てているというだけでなく、彼には懸案《けんあん》が山積《やまづ》みなのだ。今の調子《ちょうし》で問題児《もんだいじ》だらけのクラスを旅の先々できちんとまとめていけるかどうか――何よりも『夜会《やかい》』の存在《そんざい》が、峻護の頭に絶《た》えず頭痛の種《たね》をまいていた。修学旅行直前の期間《きかん》はしおり製作《せいさく》の作業《さぎょう》にかかりきりで、けっきょく『夜会』を円満《えんまん》に中止させる算段《さんだん》を整えられなかったのである。
(どうしたもんかな……)
疲労感《ひろうかん》とテンションの低さでイマイチ働かない頭をどんより回転させているうちに、
「おし、一丁《いっちょう》あがりっと」
日奈子が弾《はず》んだ声でそろったカードをたたき捨て、逆転《ぎゃくてん》で一抜け。つづいていろりが順当に抜け、さらには激戦《げきせん》の末に吉田と井上が順に抜け、最後に残った真由との勝負でもあっさり負け、峻護は五度目のビリを引くことになった。
「おいおいまた二ノ宮かよ、しょうがねえな。あんまり負けまくるようなら何か罰ゲームでもやってもらうぜ?」
慣《な》れた手つきでカードを切りながら吉田が言い、次なる勝負を始めるべくカードを配ろうとして、
「あの、みなさんそろそろ休憩《きゅうけい》にしませんか?」
その前にいろりが控《ひか》えめに提案《ていあん》した。
自分のカバンの中から風呂敷包《ふろしきづつ》みを取り出しながら、
「お昼は京都についてからになると思いますが、その前に軽くつまめるものをと思って作ってきました。よろしければみなさんでどうぞ」
何が出てくるのかと注目を集める中、解《と》かれた風呂敷包みの中から出てきたのは、漆塗《うるしぬ》りに金箔《きんばく》を散《ち》らしたみごとな重箱《じゅうばこ》。中に詰められていたのは見目《みめ》鮮《あざ》やかな和菓子《わがし》の数々であった。
「うおっ、こりゃすげえな」
「それにすっごいカワイイね。これ食べちゃっていいの、奥城さん?」
「ええ、どうぞ召《め》し上がってください」
いろりが微笑《ほほえ》みながら頷《うなず》くが早いか、吉田と井上と日奈子の手が遠慮《えんりょ》なく重箱に伸《の》び、宝石のような和菓子をいくつもかっさらっていく。
「お、こりゃ見た目だけじゃねえぞ」
「ほんと、すっごいおいしい!」
次々とあがる賞賛《しょうさん》の声を、いろりは穏《おだ》やかな微笑で見守っていたが、
「さ、二ノ宮さんもどうぞ」
「ん……いや、おれはいいよ」
「二ノ宮さんも疲れでしょう? 疲れている時には甘いものが効《き》くんです。ぜひ、おひとつだけでも召し上がってください。おいしいお茶も淹《い》れてきましたから」
さして甘いものの好きではない峻護だったが強く勧《すす》めてくるのに折《お》れ、重箱に手を伸ばした。こしあんを色とりどりの粉砂糖《こなざとう》で化粧《けしょう》したお菓子を口にふくむと、ほどよい甘味が舌《した》の上でほどけるように広がっていく。
「ん……たしかにうまい」
「ほんとうですか? よかった。これ、わたしが作ったものなんです」
「君が? それはすごい。これだけ手の込んだものを作るのは大変だろうに」
「お菓子作りは得意《とくい》なんです。といっても家の方針《ほうしん》で、習ったのは和菓子の作り方ばかりなんですけど」
「へえ、おれとは逆だな.おれが作るのはたいがい洋菓子ばかりでさ、和菓子のほうはちよっと苦手《にがて》なんだ」
「あら。ではちょうどいいではありませんか。今度ぜひ、わたしに洋菓子の作り方を教えてください。かわりにわたしは和菓子の作り方を教えてさしあげますから」
「うん、そうだな、和菓子作りのノウハウを仕入《しい》れるいい機会《きかい》かもしれないな。ぜひお願いしようか」
「ええよろこんで。それより二ノ宮さん、気に入っていただけたのでしたらもっと召し上がってくださいね。それにはい、熱いお茶も」
「ん。ありがとう」
魔法瓶《まほうびん》のお茶を受け取り、うまそうにすする峻護。葉《は》の質《しつ》も淹れかたも申《もう》し分《ぶん》ない玉露《ぎょくろ》だった。自然、口元もほころぶ。冴《さ》えなかった表情にも精気《せいき》がよみがえってくる。
そんな彼をとなりに座るいろりがニコニコと見つめ、
「…………」
さらに残りの四人が、ふたりの様子《ようす》を少なからぬ驚《おどろ》きをもって眺《なが》めていた。二ノ宮峻護に奥城いろりという組み合わせはいつの間にこれほど親密《しんみつ》になったのだろう、という共通した感想が彼らの顔に浮《う》かんでいる。
「ちょっと真由」
日奈子がすかさず耳打ち。
「あんたも何かお菓子作ってきたんじゃなかったっけ? 新幹線の中でおやつにするんだって言ってさ」
「はい、クッキーとかをちょっと……でも、あんなすごいお菓子出されたあとには出せませんよう」
となりに座る日奈子に、やはり小声で真由。
「ていうかあんた、けっきょく二ノ宮くんを誘《さそ》ってないんでしょ? 明日の自由行動にさ」
「うう……だって二ノ宮くん、昨日まで毎日のように徹夜《てつや》だったし、つい言いそびれちゃって……」
「言い訳無用《わけむよう》。うかうかしてると意外な伏兵《ふくへい》にしてやられる、ってことになりかねないわよ?」
厳《きび》しく言い渡しておいてから改《あらた》めていろりを見やり、
「まあ……意外ってこともないか。似合《にあ》わないメガネかけてるし物静《ものしず》かだから普段目立《ふだんめだ》たないけど、奥城さんって実はすっこいキレイだしね。実行委員同士だから二ノ宮くんと何かと絡《から》むことも多かっただろうし。案外《あんがい》コロリと傾《かたむ》いちゃうかもね、ニノ宮くん」
「あう……」
友人の冷徹《れいてつ》な分析《ぶんせき》に縮《ちぢ》こまる真由。
「ほれほれ、そうならないうちにさ、誘っちゃいなって。ふたりきりのデートにさ」
「うう……」
「チャンスは今くらいしかないぞ? この先も二ノ宮くんの仕事はきっとヒマにならないぞー? おらおら、なけなしの度胸《どきょう》を振《ふ》り絞《しぼ》れー」
「あうう……」
「いけいけゴーゴー。さくっとキメて女になってこいっ」
「――あ、あのっ!」
急に大声を上げた真由に、和菓子を楽しんでいた面々がきょとんとした顔で注目する。
「何? 月村さんどうしたの?」
一同を代表《だいひょう》して首をかしげる峻護。吉田、井上、いろりの三人も不思議そうな顔で真由に視線を集めている。
「あ、あの、ええと……」
口ごもる。日奈子に背中をどやされる形で行動《こうどう》に出てみたものの、これだけ人目《ひとめ》がある中でデートのお誘いを決行《けっこう》するなど、真由には少々高すぎるハードルだった。
「ええとその…………………………………………ちょっとお手洗いに行きたいかな、と」
「ああ、そうか。窓際の席だと通路に出にくいものな」
得心《とくしん》した峻護が道を開けるよう頼《たの》み、真由はぺこぺこ頭を下げながら早足で席を後にする。『根性なしめ』と表情で非難《ひなん》してくる日奈子から逃げるように。
(うう……どうせ根性なしですよ、わたしは)
デッキに出て壁《かぺ》にもたれ、憂鬱《ゆううつ》なため息をつく。ただでさえ言い出しにくいことなのに、峻護といろりが仲良くしているのを見るとますます切り出しにくい空気になってしまう。
(月村真由の馬鹿。もっとしゃきっとしなさい)
言い聞かせてはみるが、自分の中にある勇気のカケラらしきものは眠りこけたまま。最近は多少なりともましになってきたと思った引っ込み思案《じあん》な性格が、今になってまた幅《はば》を利《き》かせてきたようである。まあもっとも、過去《かこ》の自分を捨てて変わってみせると決意《けつい》したところで、一朝一夕《いっちょういっせき》でそうそう変われるものでないことも事実《じじつ》ではあるが。
(とにかく早いうちに誘っちゃおう。明日までまだ時間はあるし、しばらくは班行動《はんこうどう》だから、二ノ宮くんと二人だけになる機会《きかい》もきっとあるし……)
清水寺《きよみずでら》の壮大《そうだい》な伽藍《がらん》、曼珠院《まんじゅいん》の隠《かく》れ家めいた静かな佇《たたず》まい、北山通りのこじゃれた店|並《な》み、夕暮れの祗園《ぎおん》をしずしずと歩く舞妓《まいこ》さんたち――けっきょくひとりで読破《どくは》してしまったガイドブックから仕入《しい》れた、まだ写真だけでしか知らない京都の文物が次々と思い浮かぶ。生まれて初めての、そしてたぶん人生最後の修学旅行。楽しめなければうそというものであり、その楽しみはぜひとも峻護と共有《きょうゆう》したかった。
ふう、とため息をつき、胸の前でぐっと拳《こぶし》をにぎる。いつまでもウジウジしたって仕方がない。まずは京都へ行くまでの道のりをしっかり楽しもう。その間に峻護を誘うタイミングを探せばいい。
そう心に決めてデッキを離れようとした時。
「きゃ――」
「うわっ、と」
客車のほうから歩いてきた誰かとぶつかり、真由は他愛《たあい》もなくしりもちをついた。
「うう……痛い……」
「ご、ごめん。だいじょうぶだった?」
加害者側《かがいしゃがわ》の少年が膝《ひざ》をつき、心配げに覗《のぞ》ぎ込んでくる。
目が合った。
怖《こわ》いほどきれいなその双眸《そうぼう》を至近距離《しきんきょり》で見た、瞬間《しゅんかん》。
(あ――)
ふっ、と軽いめまいにも似《に》た感覚が真由を襲《おそ》い、しかしほんの一瞬でその感覚は過《す》ぎ去った。あるいは単《たん》なる錯覚《さっかく》だったのかもしれない、と思わせるほどわずかな残滓《ざんし》だけを残して。
「ほんとにだいじょうぶ? どこか怪我《けが》とかしてない?」
ぼんやりと双眸を見つめ返してくる真由の様子《ようす》をどう受け取ったのか、少年はひどく心配そうに繰《く》り返してくる。
「あ、は、はい、だいじょうぶです、ほんとに」
「そう、それならよかった。立てる?」
安堵《あんど》の表情を浮かべてから、立ち上がろうとする真由の背中を支《ささ》えるようにして手伝い、
「ごめんね、僕の注意|不足《ぶそく》だった。あやまるよ」
「いえ、わたしの方こそ不注意で……」
とそこで気づいたのだが、相手の少年は神宮寺学園《じんぐうじがくえん》の制服《せいふく》を着ている。どうやら別クラスの生徒であるらしいが、真由の記憶《きおく》にはない生徒だった。まだ転校して間もないゆえに当然のことかもしれないが、しかし一度でも見かけていれば確実《かくじつ》に記憶に残っていたであろう。というのも、ちょっとびっくりするほどの美形なのである。
峻護ほどの長身ではなく、またいかにも運動のできそうな峻護とはちがってたくましい印象《いんしょう》はない。そのかわり峻護にはない、貴公子然《きこうしぜん》とした雰囲気《ふんいき》がある。淡《あわ》い肌《はだ》の色に穏《おだ》やかな表情、そして『ハンサム』というよりは『美貌《ぴぼう》』と呼びたくなる容姿《ようし》――いずれも貴族的《きぞくてき》と表現するにふさわしい要件《ようけん》を兼《か》ね備《そな》えている。この少年が白馬にでも乗って微笑みのひとつも振りまけば、その日のうちに壮大《そうだい》なハーレムが築《きず》けるに違いない。
(わあ、きれいな人だあ……)
いまだにぼんやりと美貌を眺めている真由を、少年もじっと見つめ返していたが、
「月村真由さん、だよね」
「え? あ、はい」
初対面《しょたいめん》の相手からいきなり名前を呼ばれて戸惑《とまど》う。
「あの、わたしのこと知ってるんですか?」
「知ってる。もっとも、話せる機会がこんな形でくるとは思わなかったけど」
微笑《ぴしょう》し、それから少し迷うように沈黙《ちんもく》して、
「……これも何かの運命かな。よし」
あらためて真由に向き直り、やや緊張《きんちょう》した声で、
「いきなりだってことは承知《しょうち》で言うんだけど――明日の自由行動日、僕といっしょに京都をまわらないか?」
「…………え?――えええええっ?」
まさしくいきなりの申《もう》し出《で》である。
「あの、でも、そんな、だってぜんぜん初対面だし、お互《たが》いのこともよく知らないし!」
「うん、わかってる。ほんとうはもっと前もって誘いたかったんだけど――クラスも別だし、君に話しかける機会がなくて。明日こそ話そう、明後日《あさって》こそ話そう、と思ってるうちに、けっきょくずるずると今日まできちゃって」
「あ――」
まさしく今の真由の状況《じょうきょう》と同じである。この少年もまた、自分と同じように悶々《もんもん》とする修学旅行前の日々を送っていたのだろうか。
「そんなに深く考えなくてもいいんだ。まずはお互いのことを少しでも知れたらな、ってことだと思ってくれれば」
「あ、はい、あの、でも」
「もちろん月村さんみたいに可愛《かわい》い子のことだから、明日の予定もいろいろあるかもしれない。けど、当日になるまでは逆転《ぎゃくてん》のトライを決めるチャンスはあると思ってる。どうだろう?」
「あ、う、はい、あの」
しどろもどろになる真由。こういう場合いつもの彼女なら無意識《むいしき》のうちに目を逸《そ》らし、あるいは一も二もなく回れ右して精神的《せいしんてき》な圧迫《あっばく》から逃《のが》れようとするのだが、どういうわけか今は少年の双眸から視線《しせん》を外すことができない。
「ちょっとたすくクーン? どこ行ったのー?」
その時、黄色い声と共に数人の少女――いずれも神宮寺学園の制服姿――がデッキに顔をのぞかせ、
「あ、いたいた。もお、どこ行ってるのかと思ったら……みんな待ってるんだよー?」
「って、ちょっと何? なんかあったの?」
「たすくクン、この子になんかされた?」
たちまち真由を取り囲み、お世辞《せじ》にも友好的とは言いがたい眼差《まなぎ》しで彼女を刺《さ》してくる少女たち。
「いや、月村さんは何もしてないよ。僕の不注意で彼女を転ばせてしまっただけ。で、今こうしてあやまっていたところ」
「なあんだ、そっか」
「じゃあ早く戻《もど》ろうよ。ゲームのつづき、みんな待ちくたびれてるんだから」
「あはは、わかったわかった、わかったからそんな引《ひ》っ張《ぱ》らないで」
少年は苦笑しつつ、
「――ごめんね月村さん、またあとで。いま言ったこと考えておいて」
申《もう》し訳《わけ》なさそうに素早《すばや》く耳打ちし、少女たちと共に客車へと戻っていった。
デッキにはひとり、真由だけが残される。
「び、びっくりしたあ……」
へなへなとその場にくずれかけ、どうにか気力だけで持ちこたえる。胸に手を当てると、ちょっと怖いくらいにどきどきしていた。いまだかつてこれほど心臓《しんぞう》を酷使《こくし》したことがあっただろうか、というほどに。
いやはや人生何が起こるかわからない。まさかこんな形でお誘いを受けるとは。サキュバスであるだけに無闇《むやみ》なほどモテる真由ではあるが、実のところこうした明確《めいかく》な形で意思表示《いしひょうじ》を受けるのは初めてなのである。もちろん明日は極《きわ》めて重要なプランがあるわけで、せっかくのお誘いも丁重《ていちょう》にお断《ことわ》りする他はないのだが。
「たすくさん……かあ」
それでも何か、あの少年のことは不思議《ふしぎ》と気になる真由であった。今まで彼女が目にしてきたどんな男性とも彼はタイプが異《こと》なる気がして――と、そこでようやく気づく。たすくよりも真由のほうが遥《はる》かに長い間デッキで時間をつぶしていることに。
「わわ、早く戻らないと」
班のみんなも心配しているかもしれない。いまだに跳《は》ね回っている心臓と火照《ほて》る頬をもてあましながら、真由はあわただしくデッキを出た。そのあわただしさゆえだろう。彼女が重大な事実に思い当たったのは、そろそろ列車が目的地《もくてきち》に着こうかというころになってからだったのである。
男性恐怖症の自分があの少年に対してはほとんど恐怖心を覚えることなく普通に接していたという、極《きわ》めて重大な事実に。
JR京都駅。ワールドワイドなコンペのもとに選《えら》ばれたデザイナーの設計《せっけい》により一九九七年に全面改装《ぜんめんかいそう》された、京都のランドマーク的|建築物《けんちくぶつ》の代表格《だいひょうかく》である。
古《ふる》き都《みやこ》の印象《いんしょう》からはやや浮いた、しかしひどくモダンな外観《がいかん》をもつこの駅のプラットフォームには、今まさに下りの新幹線が到着《とうちゃく》したぱかりであった。
ドアが開くと共に『のぞみ』の車両からは次々と威勢《いせい》のいい生徒たちが吐《は》き出され、点呼《てんこ》の声と共にわいわいがやがやと整列《せいれつ》していく。そんな若々しい制服姿の集団《しゅうだん》に向けられる周囲の視線は、微笑《ほほえ》ましげなものと迷惑《めいわく》げなものが半々であろうか。ようやく目的地にたどり着いて意気|軒昂《けんこう》な学生たちと、微妙《ぴみょう》に温度差のある眼差しで彼らを迎《むか》える地元民――これも修学旅行の一風物《いちふうぶつ》というものであろう。
時に、神宮寺学園のご一行に目を向ける人々の中にひとり、他とはやや異《こと》なった種類の視線《しせん》を放つ人物がいる。その少女はごくさりげなく物陰《ものかげ》に身を隠《かく》せる位置に陣取《じんど》りながら、騒《さわ》がしい一団を鋭《するど》く監視《かんし》、あるいは警戒《けいかい》するような目で見守っていた。
「いやあ初々《ういうい》しいですねえ、お嬢《じょう》さま」
彼女の隣《となり》にひかえる少年が中性的《ちゅうせいてき》な容貌《ようぼう》をにこやかに崩《くず》しながら、
「発散《はっさん》される時を待ちかねてうずく活力《かつりょく》、まだ見知らぬ土地への期待《きたい》に輝《かがや》く瞳――修学旅行に臨《のぞ》む生徒たちの実に正しい姿です。ぼくもお嬢さまも去年はあの中にいたわけで、やっぱり傍《はた》から見るとあんな感じだったんでしょうかねー?」
「…………」
神宮寺学園二年生、生徒会長《せいとかいちょう》の北条麗華《ほうじょうれいか》は、従者《じゅうしゃ》の問いにもこれといった反応《はんのう》は示《しめ》さず、黙《だま》って彼女の生徒たちの行状《ぎょうじょう》に視線を注《そそ》いでいる。
「いやあ、それにしてもすごい偶然《ぐうぜん》でした。朝一番の便《びん》で京都に到着して商談を済ませたところ、こうしてばったり彼らと鉢合《はちあ》わせするなんて。きわめて重要な商談相手を舐園《ぎおん》や先斗町《ぽんとちょう》の料亭《りょうてい》でもてなすわけでもなく、スケジュールが詰《つ》まっているという理由をつけて駅構内の喫茶店《きっさてん》なんかで打ち合わせを済ませちゃったのも、こうなってみれぱ悪い選択《せんたく》でもなかったかもしれませんねえ、結果的にみれば」
「…………」
何を問われても無言《むごん》を貫《つらぬ》く麗華。四方山話《よもやまぱなし》の形を借りた保坂《ほさか》の苦言《くげん》に、つとめて耳を貸《か》さないようにしている様子《ようす》だ。
「そういえばあれですねえ。そもそもまったく別の日取《ひど》りを希望してきた京都の商談相手に、どうしてもここじゃないと空けられない、って言って今日この日を指定《してい》したのはお嬢さまでしたっけ。それだったらこちらから出向きますよ、って言ってきたあちらさんの申し出を断ったのもお嬢さまでした。是《ぜ》が非《ひ》でも、どうあっても京都で、みたいな感じでしたよね」
「…………」
「そうまでして京都で商談をしたがる……お嬢さまってそんなに京都好きでしたっけ? ぼくの記憶が確かなら、むしろお嬢さまはどちらかというとこれまで京都を避《さ》けてきたような節《ふし》さえあった気がするんですけど、いつのまに宗旨《しゅうし》がえしたんですか? 本場の宇治茶《うじちゃ》で八《や》つ橋《はし》をたくさん食べたくなった――なんて理由じゃないですよね? お嬢さまってそんなに甘いもの好きじゃないし」
「…………」
「ところで今日、このあとの予定ですが。スケジュールによると……ふむ、古都《こと》に立ち寄ったついでに見聞《けんぷん》と教養《きょうよう》を育《はぐく》むということで、いくつかの観光名所《かんこうめいしょ》を視察《しさつ》することになっていますね。二条城《にじょうじょう》と東寺《とうじ》をまわって嵐山《あらしやま》を見物《けんぶつ》したあと、そのまま現地にて投宿《とうしゅく》――って、おやあ? これって奇《く》しくも今年の修学旅行と同じコースですねえ。おまけに予約《よやく》を取ってる宿までまったくいっしょ」
そこまで言ったところで、神宮寺学園の一行が移動《いどう》を開始した。ぞろぞろと列を作って改札《かいさつ》を目指《めざ》す彼らの最後尾《さいこうび》から十分な距離《きょり》を置き、麗華もまた移動を開始する。
そのあとをついていきながら保坂はなおもニコニコと、
「そういえばこのコースって、去年の修学旅行でも行ったコースですよね。そうそう思い出した。ありましたよね、踏《ふ》みしめるとうぐいすの鳴《な》き声みたいなのがする板張《いたば》りの床《ゆか》とか、五重塔《ごじゅうのとう》とか。うーん、でもあれですねえ、一度行ったところに何度も行ったって、見聞と教養を広めることにはあまりならないと思いますけど。これってお嬢さまが希望して組み込んだスケジュールだけど、記憶力のいいお嬢さまでも一度行った場所を忘れるなんてことがあるんですねえ」
「…………」
嬉《うれ》しそうにチクチク言い募《つの》ってくるのを令嬢は根気《こんき》よく無視していたが、不敬《ふけい》な下僕《げぼく》は忍耐力《にんたいりょく》の限界《げんかい》に挑戦《ちょうせん》している主《あるじ》に無遼慮《ぶえんりょ》な、そして決定的な一撃《いちげき》を加えたのである。
「やっぱあれですよねえ、なにしろ修学旅行というのは特別なイベントで、生徒は誰しも普段は味わえない刺激を求めるわけです。ものめずらしい景色《けしき》、おいしい食べ物、そしてなにより男と女のあまーい関係とか。愛《いと》しの二ノ宮くんがそんな誘惑《ゆうわく》の多いイベントに参加するとなれば――しかもそこには月村さんもいっしょにいて、その反面《はんめん》お嬢さまの居場所《いばしょ》はどこにもないとくれば、これは多少|強引《ごういん》な口実《こうじつ》を用《もち》いてでも修学旅行に同行しようとするのは自然な」
保坂は最後までセリフをつづけることができなかった。
前を進んでいた麗華がくるりと小気味《こきみ》よく反転、そのままつかつかと歩み寄り、おもむろに無礼者《ぶれいもの》の股間《こかん》を蹴《け》り上げ、白目《しろめ》をむいて膝《ひざ》をつこうとする不埒者《ふらちもの》の無防備《むぼうび》な後頭部《こうとうぶ》に強烈《きょうれつ》な肘打《ひじう》ちをかまし、さらに返《かえ》す刀《かたな》の膝|蹴《げ》りを不心得者《ふこころえもの》のあご先に入れたからである。
「……ふん」
強烈な連続技《れんぞくわざ》を食らって高々と宙《ちゅう》に舞《ま》う保坂には目もくれず、麗華はふたたび反転。アスファルトを踏《ふ》み砕《くだ》かんばかりの大また歩きで彼女の生徒たちのあとを追う。
堪忍袋《かんにんぷくろ》の緒《お》を切ることのできた麗華はまだしも恵まれていたほうだったろう。かたや峻護はといえぱ、京都に到着|以降《いこう》は絶《た》え間《ま》ない体力と糟神力の消費《しょうひ》に耐《た》えねばならず、しかも修学旅行の実行委員である彼は音《ね》をあげることもできず――その様《さま》はほとんど我慢《がまん》大会にも似た様相《ようそう》を呈《てい》していたからである。
観光バスに乗りかえて二条城、東寺、嵐山見物とつづく旅程の最中《さなか》に発生したトラブルのごく一部をここに挙《あ》げてみょう。
他校の生徒にナンパされてそちらの修学旅行についていった者三名。お返しだと言って他校の生徒をバスに連《つ》れ込もうとする者二名。
財布《さいふ》を掏《す》られる者一名。財布を家に置き忘れていた者一名。
八つ橋の食いすぎで腹を壊《こわ》し、病院に担《かつ》ぎ込まれた者一名。
ベンチで昼寝していて置いていかれそうになった者二名。
バスガイドさんにセクハラする者多数。
バナナはおやつに入りますかとしつこくネタにしてくる者数名。
――といった具合《ぐあい》。
むろんこれらの案件《あんけん》の処理《しょり》は基本的《きほんてき》に引率《いんそつ》の教師の仕事なのだが、彼らは彼らで続発するトラブルに掛《か》かりきりであったり、あるいは生徒と一緒《いっしょ》に観光に夢中《むちゅう》になる不良教師などもいて、けっきょくは峻護もヘルプとして狩《か》り出されざるを得《え》ない。案件の中には瑣末《さまつ》なこともあるし、それらは大まかな処理《しょり》だけ指示《しじ》してあとはなるように任《まか》せればよかったりするのだが、無駄《むだ》に真面目《まじめ》で責任感《せきにんかん》の強い彼はそういったものにも細々《こまごま》と面倒《めんどう》をみてしまうのである。相棒《あいぼう》の奥城いろりがくれる助言《じょげん》や助力《じょりょく》がなければ、峻護は初日《しょにち》の前半でリタイヤを余儀《よぎ》なくされていたかもしれない。
ようやく一息つけたのは夕刻《ゆうこく》、横着《おうちゃく》なクラスメイトどもを本日の宿に押し込め、割り当てられた大部屋に入った時である。
「つ、疲れた……」
荷物《にもつ》を下ろし、峻護は前のめりにぶっ倒《たお》れる。そのままぴくりとも動かない。
「おいおい、こんな序盤戦《じょぱんせん》でへばってどうするよ二ノ宮」
同部屋の吉田がそばにしゃがみこみ、峻護の身体《からだ》をつんつん突付《つつ》いてくる。
「限《かぎ》りある修学旅行の時間をうだうだつぶしてる余裕《よゆう》はないはずだぜ? なにしろ修学旅行のメインイベントはこれから始まるんだからな」
その言葉で思い出した。昼間のうちに絶えずのしかかってきたどんな懸案《けんあん》より、峻護が最優先で処理《しより》しなければならない課題――『夜会《やかい》』の陰諜《いんぼう》をいかにして円満《えんまん》に中止させるか。あるいはいかにして真由の安全を確保《かくほ》するか。
「夜会の最終ミーティングは食事と入浴《にゅうよく》が済んだあと、就寝《しゅうしん》までの時間に行う。それまでに気合《きあい》入れなおせよ」
彼なりに激励《げきれい》しているのだろう、吉田が峻護の背中を力まかせにばしんと叩《たた》いた時、
「あのう……」
ノックの音と共に控《ひか》えめな声。声の主が誰であるかは部屋の中にいる全員がすぐに察した。声の主が誰に用があるのかも。
「おう、行ってこいや二ノ宮。今日だけは邪魔《じゃま》しないでおいてやる」
あわてて起き上がった峻護の背中を今度は井上が叩き、ドアに向けて押し出した。
神宮寺学園の一行が宿泊する宿は、名を『翠鳴館《すいめいかん》』という。京都市の西端《せいたん》に位置し、もとより山水の名所たる嵐山近辺でもとりわけ奥まった場所に建《た》つ大型|宿泊施設《しゅくはくしせつ》だ。
建物は本館と複数《ふくすう》の別館に分かれ、いずれも数十人から数百人までの宿泊客を収容《しゅうよう》することが可能《かのう》である。天然岩石《てんねんがんせき》とヒノキ材で囲んだ露天風呂《ろてんぶろ》、各種みやげ物や特産品《とくさんひん》を商《あきな》う売店コーナー、卓球《たっきゅう》やビリヤードが遊べる娯楽室《ごらくしつ》――観光旅館としてはごくオーソドックスな設備《せつぴ》内容ながら、行《ゆ》き届《とど》いた接客《せっきゃく》サービスに定評《ていひょう》がある。フロントに常駐《じょうちゅう》する正従業員《せいじゅうぎょういん》はもちろん、リネン担当《たんとう》のパートさんのような末端《まったん》従業員に至《いた》るまでの勤務態度《きんむたいど》の誠実《せいじつ》さは、家事《かじ》にうるさい峻護をして感嘆《かんたん》せしめるものがあった。
峻護の部屋があるのは別館『芳風《よしかぜ》』の二階であり、さしあたり真由を連れてきたのは館のフロント前ロビーである。
「ここでいいかな。――ええと、それで? おれに何か用だった?」
「あ、はい、あの、これなんですけど」
真由は持参《じさん》してきたナッブザックからタッパーを取り出し、
「よかったら食べてみてください。疲れた時は甘いものと、それに酸《す》っぱいものがよく効《き》くって聞きました」
「これは……レモンの蜂蜜漬《はちみつづ》け?」
「はい。ここに来る前に買ってきて、急いで作りました。二ノ宮くん昼間はたいへんそうだったから、すこしでも疲れが取れればと思って」
「そうか……」
差し出されたタッパーをまじまじ見つめる峻護。思いもよらぬ心遣《こころづか》いである。彼の方は雑務《ざつむ》に追われて真由を気にかけるどころではなかったのに、彼女の方は自分のことをしっかりと見てくれていたのだ。
「あの、ひょっとしてレモンが嫌《きら》いでした?」
「いや、そんなことはない。差し入れありがとう、よろこんでいただくよ」
「あ、はいっ。あ、それと、足りなくなったら遠慮《えんりょ》なく言ってくださいね? まだ材料はありますから」
「わかった。そうさせてもらうよ」
「えっと、あの、それともうひとつ、明日のことなんですが――」
「あら二ノ宮さん。こちらにいらっしゃいましたか」
真由が決意をにじませる顔で別の用件を切り出そうとした時、横から声が割《わ》って入った。
「お話し中のところ申《もう》し訳《わけ》ありません。今後の実行委員の仕事について二、三、打ち合わせをしたいのですが。よろしいでしょうか」
奥城《おくしろ》いろりがこちらに歩み寄《よ》りながら峻護に向けて微笑みかけてくる。
「ああ……打ち合わせ?」
「はい。打ち合わせ」
「ええと、それは今すぐ?」
「はい。今すぐ」
「ううん、そうか」
峻護は頭を掻《か》き掻き、
「すまない月村さん、ちょっと用事ができて――」
「あっ、はい、わかりましたっ。どうぞ行ってきてください」
「まだ話があるんだっけ? 手短《てみじか》に済むことなら今のうちに聞いておくけど」
「えっ? ああいえ、なんでもないです! たいしたことじゃないので、どうか気にしないでください!」
「そう? まあそれならいいけど」
「では二ノ宮さん、こちらへ」
ふたたびいろりが割って入り、峻護を先導《せんどう》するかたちで歩き出す。
「ああ待って――それじゃ月村さん、あとでまた」
「はい、お仕事がんばってください」
あわただしく去っていく峻護を笑顔で見送り、しかしその後姿《うしろすがた》が見えなくなったところで真由はがっくり肩を落とす。
(うう……また言えませんでした……)
差し入れをよろこんでもらえたところまではよかったのだが、なんとも間の悪いことだ。なけなしの勇気を振《ふ》り絞《しぼ》るのはエネルギーのいる作業である。ただでさえ消極的《しょうきょくてき》な真由にとって、こう連続《れんぞく》して機会《きかい》を逸《いっ》してしまうのは傍《はた》から見る以上にこたえるのだった。
(仕方《しかた》がないです、あとでまたタッパーを受け取りに行く時にでも……)
「月村さん?」
不意《ふい》に名前を呼ぽれ、真由は活力《かつりょく》にあふれているとは言いがたい動作《どうさ》でのろのろと振《ふ》り返る。
「ああやっぱり。どうしたのこんなところで?」
「あ」
新幹線のデッキで会った貴公子《きこうし》的少年、たすくクンであった。
「誰かに用事? ここって一般客のいない、神宮寺学園の男子の部屋ばかりが割り当てられている別館だけど」
「あう、はい、ちょっとした野暮《やぼ》用《よう》で」
「ふうん……?」
たすく少年は怪訝《けげん》そうに目を瞬《またた》かせていたが、
「ところで昼間の話なんだけど」
「えっ?」
「明日の、自由行動の話」
「あぅぐっ。ええとその……」
顔を赤くして縮《ちぢ》こまり、言葉に詰《つ》まってしまった真由を、たすくはじっと見つめている。
が、やがていたわりのこもった表情を作ると、
「いや、いいんだ。昼間も言ったけど、明日までに考えてもらえれば。答えを急がせるような真似《まね》をしてごめ――」
「たすくクーン? そっちにいるのー?」
セリフをさえぎって黄色い声。同時、複数《ふくすう》の足音がロビーに近づいてくるのが聞こえた。昼間と同じ、たすくの追っかけらしき少女たちである。
いやはや、とでも言いたげな苦笑をたすくは表情に混《ま》ぜ、
「それじゃ、また」
近づいてきた数人の少女のもとへ颯爽《さっそう》と駆けていった。
(……わあ。もてもてだあ)
たちまち少女たちに囲《かこ》まれるたすくを、真由は驚嘆《きょうたん》の眼差《まなざ》しで見る。そのもてもて男からデートを申し込まれているという事実《じじつ》にはまるで気が回らぬまま。
(きっと学校のなかでも有名人なんだろうな。わたしが知らないだけで)
転校して間もないということもあるが、真由の情報|収集《しゅうしゅう》アンテナは基本的《きほんてき》にひどく低い。同じ学校の同学年、それもおそらくは有名人なのであろうたすく少年に関する知識《ちしき》は、彼女のデータベースの中にかけらも収《おさ》められていなかった。
(それにしても――)
いまだに早鐘《はやがね》を打ちつづける心臓のあたりに手をやりながら、真由は初めて味わう感覚に戸惑っていた。新幹線のデッキで会った時から――より正確には、彼が真由の瞳をじっと覗《のぞ》きこんできた、あの時からであろうか。
(これって……何なんだろう?)
たすくの前に身をさらすと、峻護とふたりきりになった時でさえ感じぬ異様《いよう》な昂揚《こうよう》を覚えるのだ。それは真由自身の意思《いし》では制御《せいぎょ》できぬ衝動《しょうどう》。彼を目の前にすると、あたかも自分の心が見えない糸に縛《しば》られ、操《あやつ》り人形にでもなったように錯覚《さっかく》するほどなのである。それは男性恐怖症からくる拒絶反応《きょぜつはんのう》などよりはるかに強力な、一種の強制力《きょうせいりょく》を持った得体《えたい》の知れぬ感覚であった。
「うう……なんでだろ?」
首をひねりつつ真由はきびすを返し、自分の部屋がある本館の方に向けて歩き出した。
たすくの申し出にどうやって返事をしようか、と考えながら――『どうやって断ろうか』とはまるで考えてないことには気づかぬまま。
一方、いろりによって半ば強引に連れ去られた峻護は彼女と共に廊下《ろうか》を歩きながら、
「ええと奥城さん? 打ち合わせしたいってことだけど、具体的《ぐたいてき》に何を打ち合わせするんだろう?」
「…………」
無言《むごん》で先を進むいろり。
「おーい奥城さん。打ち合わせならそんなに遠くまで行かなくても、このあたりでできると思うんだけど」
「…………」
「奥城さん?」
何度呼んでも同僚《どうりょう》の少女は無反応《むはんのう》。呼びかけが耳に入ってないはずもないだろうに、峻護を置き去りにせんばかりの早足で先に進んでいく。よくよく見れぱその足取り、いつもどおりに姿勢《しせい》も品《ひん》もいいのだが、なんだか機嫌《きげん》を損《そこ》ねているような雰囲気《ふんいき》が見え隠《かく》れしないでもない。
と、そこで気づいた。
「ええと……いろりさん?」
「はい。なんでしょう」
即答《そくとう》し、足を止めて振《ふ》り返るいろり。その顔には彼女の標準《ひょうじゅん》表情であるしとやかな微笑が満面《まんめん》に花開いている。
「ああいや、ええと」
打って変わったその様子に戸惑いながら、
「打ち合わせってことだけど、何の打ち合わせをする予定だったの?」
「そうですね。何を打ち合わせしましょうか?」
「えっ?」
「独《ひと》り言です。ええ、じつは昼間のことについて少しお話ししておきたくて」
いろりの言いたいことに何となく思い当たり、峻護は無意識《むいしき》のうちに後頭部を掻きながら目を泳がせる。
「どうやらご自覚《じかく》があるようなのでくどくは言いませんが、峻護さんは少しばかり責任感が強すぎるようです。その責任感のあまり、背負《せお》う必要のないものまで背負っていらっしやいませんか?」
「ん……そうだろうか」
「はい。みなさんがそれぞれにお楽しみになっている修学旅行で峻護さんひとりがあくせくしている姿が、わたしはとても気になりました」
真《ま》っ直《す》ぐに見つめてくる同僚の言葉に峻護は何も言い返せない。彼自身、現状《げんじょう》に対してなんの問題|意識《いしき》も持ってないわけではなく、むしろ自分の要領《ようりょう》の悪さにはとことん頭を痛めているのである。
「どうか峻護さんも修学旅行をお楽しみくださいまし。お仕事の方は全力でわたしがサポートいたしますから」
「わかった。できるだけ楽しむことにするよ。ありがとう」
「それと、これもしつこいようですが改《あらた》めて。悩《なや》み事がおありであればどうかわたしにお話しください。ひとりで抱《かか》え込んだりせずに。よろしいですね?」
「ん……そうだな。そうする」
頷いてみせた峻護だが、いろりは必ずしも納得《なっとく》しなかったようだ。不平も不満もたっぷりです、という目でじっとり.峻護を見つめている。
「な、なに?」
「……まあいいでしょう。それよりも峻護さんにお渡ししたいものがあります」
スカートのボケットから小さな巾着袋《きんちゃくぶくろ》を取り出し、
「どうぞ、これをお飲みください」
「これは……?」
「『千癒丸《せんゆがん》』といって、我《わ》が家に伝わる秘伝《ひでん》の丸薬《がんやく》なのです。疲労回復《ひろうかいふく》に抜群《ばつぐん》の効果《こうか》があります」
紫《むらさき》の羅紗《らしゃ》でできた巾着袋の中を見ると、パチンコ玉大の丸い物体《ぶったい》がひしめいているのが見える。
「峻護さんお疲れでしょうから、少しでもお役に立てればと思って」
「そうか、ありがとう。よろこんでいただくよ」
「あ、できれば今ここで召《め》し上がってください。効果はごくゆっくりとしか現れませんので、お早めにお使いになった方が」
「ふむふむ」
「五、六粒《つぶ》を口の中でしっかり噛《か》みながら、少しずつ飲み下すようにしてください」
言われたとおりに丸薬をふくんで咀燭《そしゃく》すると、見る見る間に峻護の顔が渋《しぶ》いものになっていく。正露丸《せいろがん》みたいな見た目の丸薬だったが、味もまるっきりそれ系なのであった。
「良薬《りょうやく》は口に苦し、です。それではまた後ほど」
目を白黒させる峻護を見てくすくす笑いながら、いろりはいつもの微笑に戻って立ち去っていく。
(うぐぐ、せめて水とかお茶とかで飲みたかった……)
ひょっとして奥城さん、普通《ふつう》に飲めば済むものをわざわざ噛み砕《くだ》かせたんじゃないだろうな、などと埒《らち》もないことを考えながら峻護も自分の部屋に帰ろうとした時、
「あら? そこにいるのはまさか二ノ宮峻護ではないでしょうね?」
聞きなれた声に呼び止められ、驚きの顔で振り返る。
「え? 北条先輩《ほうじょうせんぱい》?」
「ええ。あなたの目が節穴《ふしあな》でなく、あるいはわたくしの正体が地球|侵略《しんりやく》を目論《もくろ》むエイリアンとかでない限り、わたくしは北条麗華に間違《まちが》いありません。あなたこそこんなところで何をしているのです」
「何って……修学旅行ですが」
「まあ、なんということでしょう。たまたま京都へ視察《しさつ》に来てみれぱ、よもや我が校の修学旅行組と投宿先が同じになるなんて……」
「はあ、確かにすごい偶然《ぐうぜん》ですね」
「まったく、どうして旅先に来てまであなたのアホ面《づら》を見なければならないのです。理不尽《りふじん》この上ありませんわ」
「いや、そんなこと言われても……」
「まあ不運を嘆《なげ》いても仕方《しかた》ありまぜん。宿を取った保坂はあとできつく折権《せっかん》しておくとして……二ノ宮峻護。あなた何だか疲れていらっしゃるようですわね?」
「あ、はい、ちょっと昼の間にトラブルがたくさんあって、その処理に迫われてたので」
「五年もまともに運動してない中年男性がいきなりホノルルマラソンを走らされたような顔をしてらっしゃいますわよあなた。まったく、引率の教職員に任せておけばいいような仕事も自分で抱《かか》え込むからそういうことになるのです。ことに二条城あたりでの右往左往《うおうさおう》ぶりは見ていて哀《あわ》れを催《もよお》すほどでしたわ。もう少し身のほどを知って、自分の実力で余裕《よゆう》を持って処理《しょり》できる懸案《けんあん》だけを担当《たんとう》するようになさい」
「はい、確かに。以後気をつけます。……ん? あれ? どうして北条先輩がそんなこと知ってるんです? おれが二条城で右往左往してた、なんてことまで」
「えっ? そ、それはその……そう、わたくしもたまたま二条城を視察《しさつ》していて、たまたまあなた方の一団と鉢合《はちあ》わせ、たまたまそういう場面を目撃《もくげき》したのです。物陰《ものかげ》からあなたの動向《どうごう》をうかがっていたなどと勘《かん》ぐられるのは心外《しんがい》というものですわ」
「はあ。なるほど」
「そんなことはどうでもいいのです。実はわたくし、産卵《さんらん》を終えた鮭《さけ》のようにへばっているあなたにぴったりなものを持っていましてよ」
大げさなアクションで両手をぽんと叩き、令嬢《れいじょう》は懐《ふところ》をごそごそ探り、
「さあ、これをお飲みになるがいいでしょう」
「……それは? 何かのドリンク剤のように見えますけど」
「我《わ》が北条コンツェルン傘下《さんか》の製薬《せいやく》会社が新開発した栄養《えいよう》ドリンクですわ。最先端《さいせんたん》技術《ぎじゅつ》の粋《すい》を結集《けっしゅう》し、高級|素材《そざい》を惜《お》しみなく投入《とうにゆう》した、コスト度外視《どがいし》の試作品《しさくひん》です。まず、効果は期待《きたい》してもいいでしょう」
「なるほど……わかりました、お気遣《きづか》いすいません。ありがたく飲ませてもらいます」
「ただし」
コホンと咳払《せさばら》いし、
「服用《ふくよう》するにあたってひとつ条件《じょうけん》がありますわ。なにしろそれは一本あたりの原価《げんか》が数十万は下らない、この世に数本しかない初期段階《しょきだんかい》の試作品なのです」
「え? いいんですか、そんなのもらって」
「ですから条件を出すのです。これを飲むからにはあなた、試作品のモニターになりなさい。これを飲んで、その印象《いんしょう》や効果を事細《ことこま》かにわたくしに報告するのです。よろしいですわね?」
「なるほどわかりました。じゃあ修学旅行が終わった後、北条先輩に時間の余裕がありそうな時を見繕《みつくら》って報告することにします」
「ばかを言ってはいけません。この栄養ドリンクは我がコンツェルンの重要プロジェクトのひとつ。試飲の報告は迅速《じんそく》に行ってもらわねば困ります」
「たるほど。ではどうすれば?」
令嬢はコホンコホンと咳払いし、なにやら頬を染め、視線を泳がせながら、
「わたくしは別館『泉水《せんすい》』の『朧《おぼろ》の間』に部屋を取っています。特別に来訪《らいほう》を許可しますから直接報告を聞かせるように。よろしいですわね? 保坂あたりに報告を伝言したりとかはなしですわよっ? 仕事にかまけて報告を忘れるとかもなしですからねッ!」
最後の方はひどく早口にまくしたて、返事も聞かずにきびすを返してしまう。
「あ――」
ほとんど走り去る勢《いきお》いで廊下の向こうに消えてしまった後姿を為《な》す術《すぺ》なく見送り、峻護はひとり取り残される。蜂蜜レモンと胃薬モドキとハイブリッド飲料――三者三様《さんしゃさんよう》の心遣《こころづか》いと共に。
「ううむ……」
手にした三種類の差《さ》し入れに視線を落としていると何だかこう、近い先の未来に待ちうける混沌《こんとん》と波乱《はらん》を暗示《あんじ》しているかのように思われて、峻護は知らずうめき声をあげるのだった。
そして悪いことにその想像は、鈍《にぶ》い彼にしては出色《しゅつしょく》に正確な予測だったのである。
大広間で催《もよお》された学年|総出《そうで》での夕食会も終わり、わずかな自由時間の空白を間に挟《はさ》むと、修学旅行のステージは共同|浴場《よくじょう》での集団|入浴《にゅうよく》に移行《いこう》する。
『翠鳴館』には大小八つもの浴場が設備《せつぴ》されているが、神宮寺学園の生徒たちに割り当てられているのは本館一階の『雅《みやび》ノ《の》湯《ゆ》』である。信楽焼《しがらきやき》の窯元《かまもと》で焼いたタイルを敷《し》き詰《つ》めた大浴場と、それに隣接《りんせつ》した天然岩露天風呂《てんねんいわろてんぶろ》を組み合わせた、修学旅行先の宿にしてはなかなか味のある風呂場で、この時間は男子たちの入浴時間に当てられていた。
「ふう――」
濡《ぬ》れタオルを頭に載《の》せながらゆっくり湯船に身体《からだ》を沈《しず》めていくと、峻護の口からごく自然に極楽《ごくらく》なため息が吐《は》き出される。お湯は残念《ざんねん》ながら天然温泉というわけにはいかないようだが、それでも疲労に凝《こ》り固まった心身に一時の癒《いや》しを与える効果は十分であり、ようやく人心地《ひとごこち》がついた気分になるのであった。
「よう、楽しんでるか?」
が、峻護の安寧《あんねい》の庭に土足で上がりこむ考が約一名。
「んー、やっぽりいい身体してやがるな二ノ宮」
均整の取れた峻護のボディを無遠慮に検分しながら、吉田が湯船に入ってきた。
「……湯船は広いんだから、何もおれのとなりに来ることはないだろう。風呂の時くらいひとりでゆっくりさせてくれないか」
「まあそう邪険《じゃけん》にするなよ。……ん? ほうほう、上半身もいい線いってるが……ソッチのほうはさらに立派《りっぱ》なモノもってるじゃないか。ええ?」
「…………」
吉田が湯面の下のほうにニヤニヤした視線を向けるのを見て、戸惑いと警戒《けいかい》の色を隠《かく》さない峻護。
「おいおい、そんなマジな顔で嫌《いや》そうにするな。俺にそういう趣味《しゅみ》はない。俺が言いたいのはな、そんだけいい身体してればさぞかし運動能力も高いだろう、ってことだ。もちろんそのことはこれまでに何度も証明されているわけだが」
「……何の話だ?」
「オーケー、本題に入ろう。――おおい、ちょっとみんな、こっちに集まってくれ!」
ひと声かけるや、浴場内にいた生徒のほとんどがぞろぞろ近寄ってきた。近寄ってこなかった者も、頭やら身体やらを洗いながらこちらに聞き耳を立てている。どういうベクトルにせよ、確かに人望らしきものは持っている吉田なのであった。
何事《なにごと》かと不審《ふしん》がる一同を身振《みぷ》りでおさえ、
「静粛《せいしゅく》に。これより皆《みな》に、極《きわ》めて魅力的《みりょくてぎ》かつリスキーな提案《ていあん》をする。一度しか説明する時間はないから聞き逃《のが》すなよ。――おい井上《いのうえ》! 首尾《しゅび》はどうだ? そろそろブリーフィング始めるぞ!」
「おう、いま行く!」
先ほどから何やら浴場内を不審《ふしん》にうろついていた井上が小走りに近寄って来、
「どうだった井上?」
「残念ながら予想どおりだ。集団での決行は無理《むり》だな」
「そうか、やはり次善《じぜん》の策《さく》しかないか。よし、状況報告を頼《たの》む」
「おう。――おおい、みんな聞いてくれ」
司会進行のバトンを渡された井上が一同を見回し、
「周知《しゅうち》のことだとは思うが、この浴場は俺たち神宮寺学園の貸《か》し切りで、一般人《いっばんじん》の邪魔は入らねえ。そして入浴時間は男女の交代制で、俺たちが入った後には女子たちがこの浴場を利用することになる。……ここまでくれば、何を言いたいかはわかるな?」
聴衆《ちょうしゅう》の間に緊張《きんちょう》のさざなみが走り、彼らはお互いの表情を横目で盗《ぬす》み見ることで自分の考えが正しいことを確認《かくにん》しあった.ただひとり、峻護をのぞいて。
「次に、侵入|目標《もくひょう》となるこの浴場の建築構造《けんちくこうぞう》について説明する。まず大浴場のほうだが、正規《せいき》の出入り口は更衣室《こういしつ》につながるドアがひとつと、露天風呂につながるドアがひとつ。つってもまあ、さすがにこの二|箇所《かしょ》からどうこうするのは無理《むり》だろうな。ほかに侵入が可能そうなのは、たとえば大浴場の天井《てんじょう》に設置《せっち》されている排気口《はいきこう》だが……いま調べてみたところ、どうも天井の構造が薄いっぽい。仮に侵入に成功しても足場の安全が確保《かくほ》できない可能性《かのうせい》は大《だい》だ。となると……」
井上は親指で外の方を指《さ》し示し、
「自動的にターゲットは露天風呂のほうに絞られることになる。しかしこいつがなかなかに難攻不落《なんこうふらく》でな。向かい側に高い建物はないし、それに自然の樹林《じゅりん》に囲《かこ》まれてるから、望遠手段《ぼうえんしゅだん》による目的|達成《たっせい》はまず不可能。となると露天風呂のゼロ距離《きより》まで肉薄《にくはく》し、至近《しきん》から目的を達成するしかないわけだが……悪いことにこの露天風呂、数十メートルにわたる直角の断崖絶壁《だんがいぜっぺき》の上に作られている。こいつを視界の悪い夜間にフリークライミングするなんざ、はっきり言って常人《じょうじん》には無理《むり》だ」
井上の断言《だんげん》に、一同のまなざしは失望《しつぽう》の色に沈んだ。
「なんだよ期待させやがって」
「やめやめ、しょせんは見果《みは》てぬ夢だったってことさ」
彼らは口々にテンションの下がったセリフを吐《は》き、集会は自然と解散《かいさん》の流れを示し、そしてこの期《こ》に及《およ》んでも峻護だけが話の内容についていけない。
「まあ待て、結論《けつろん》を急ぐんじゃない。なんの成算《せいさん》もない提案《ていあん》を俺たちがここでわざわざすると思うか?」
吉田が不敵《ふてき》な言葉で白けかけた一同の興味《きょうみ》を引き戻す。
「たしかにこれだけの悪条件《あくじょうけん》をクリアするのは常人じゃ無理だ。だがこの中に、常人よりはちょっとばかしスペックの高い男がひとりいるだろう?」
「――!」
その場のほぼ全員が、吉田の発言の意図《いと》を正確に悟《さと》った。彼らはそろって蒙《もう》を啓《ひら》かれたように目を見開き、視線をひとりの男に集中したのである。
「え?」
熱い注目を一身《いっしん》に集めた当《とう》の二ノ宮峻護だけが、いまだ流れに取り残されていた。
「そういうわけだ二ノ宮」
吉田がポン、と肩を叩き、井上も腕《うで》を首に巻きつけてくる。
「エデンの光景《こうけい》をデータに収《おさ》めてくる大役《たいやく》はおまえに任せる。男になってこい」
「いや、ちょっと待ってくれ。おまえたち何の話をしてるんだ? エデンとか大役とかいったい何のことを言ってる?」
一方的《いっぼうてき》に話を進められている上に、得体《えたい》の知れない責任《せきにん》を勝手に押し付けられているらしいことに気づいて、峻護は狼狽《ろうばい》した。しかし峻護以外の面々《めんめん》は、彼がいまだに状況を飲み込めていないことにむしろ困惑《こんわく》と呆《あき》れの態《てい》を示《しめ》している。
「何っておまえ」
吉田が一同を代表し、『何をわかりきったことを』という表情をありありと見せながら峻護の疑問《ぎもん》に答えた。
「女子どものお風呂シーンをどうやって覗《のぞ》くか、その相談をしてるに決まってるだろうが」
……水しぶきをあげて湯船に突《つ》っ伏《ぷ》した常識人は、残念ながら峻護ひとりであった。
「待て待て待て待て! 何だそれは! 聞いてないぞそんな話!」
「そりゃそうだろう。今ここで初めて提案したんだからな」
「そういう問題じゃない!」
「まあ落ち着け。確かに桃源郷《とうげんきょう》の光景を直接|肉眼《にくがん》で確認できないのは俺たちにとっても痛恨《つうこん》の極《きわ》みだ。だがそのことは桃源郷自体の価値《かち》をいささかも下げることにはならない。ちがうか?」
「そうそう、それにデジカメのことなら気にするな。俺たちが責任をもって高性能品を用意する。メモリーカードも十分に提供《ていきょう》しょう。おまえの感性が赴《おもむ》くままに、心置きなく楽園《らくえん》の景色を撮影《さつえい》してきてほしい」
「そして成功の暁《あかつき》には、男子全員でその成果を観賞《かんしょう》しようじゃないか。もちろん偉業《いぎょう》を達成したおまえの業績《ぎょうせき》は高く評価《ひょうか》され、その名誉《めいよ》は長く語り継《つ》がれるだろう」
「だからそういうことを問題にしてるんじゃない! 覗きという行為《こうい》の道義的《どうぎてき》な問題のことを言ってるんだ! しかも何だ? 今の話だとつまり、おれはおまえらのために覗きを働いて、おまえらのために不埒《ふらち》な写真を撮《と》ってこなきゃならないってことかっ?」
「まあ、ありていに言えぱそうなるな」
「いやだ! ぜったいにやらない! おれはぜったいにやらないぞ! 道義的にも、修学旅行実行委員の立場からも、おれ個人の節度《せつど》からいっても、ぜったいそんな真似《まね》はできない! いいか、何度でも言うぞ! おれはぜったいそんなことはやらないからな!」
……一時間後。
長躯《ちょうく》[#ここもまた原本では旧字体]を浴衣《ゆかた》に包《つつ》んだ峻護の姿は、『雅ノ湯』直下の断崖絶壁にあった。
(まったく、何だっておれがこんなことを……)
支給《しきゅう》されたデジカメを肩にかけなおし、峻護は己《おのれ》の運命を呪った。が、事態《じたい》がここに至《いた》った責任の半分は峻護にある。けっきょく彼は非情《ひじょう》に徹《てっ》することが、あるいは節度に殉《じゅん》じることができなかったのだ。
申《もう》し渡された指令《しれい》を断固《だんこ》として拒絶《きょぜつ》した峻護だが、吉田と井上は彼らの言うエデンを目にすることをあきらめなかった。言い出しっぺの責任と称《しょう》して自ら決死隊《けっしたい》に名乗り出、断崖絶壁の攻略《こうリゃく》作戦に当たることを表明したのである。
峻護の制止《せいし》をふりきってふたりは出動、崖《がけ》を上り始めた。だが直角以上にえぐれた崖を、普通の高校生が徒手《としゅ》空拳《くうけん》で征服《せいふく》しようとするのはやはり無謀《むぼう》すぎた。彼らは何度も足を踏《ふ》み外しかけ、しかしそれでも決してあきらめようとせず――その様子《ようす》をやきもきしながら下から見上げていた峻護はついに折《お》れ、任務《にんむ》に服《ふく》することを承諾《しょうだく》したのである。
浴場の光景をデジカメに収《おさ》めるのは一枚きりとする。そのデータは希望者に回覧《かいらん》させたあと、すぐさま永久|消去《しょうきょ》する――この二点は峻護がけしからん所業《しょぎょう》を引き受ける上でのぎりぎりの妥協点《だきょうてん》だった。吉田と井上は条件を呑《の》んで大人しく部屋に引き返し、峻護の戦果《せんか》を待つことになったのである。
目の前で鼻をつままれても気づかないような暗闇《くらやみ》の中、峻護は確実《かくじつ》に断崖を攻略していく――単独《たんどく》で、己の手足だけを使って。たしかにこれは並みの胆力《たんりょく》と体力では成しえない作業だった。むろん峻護としてはこの際、そのふたつを兼《か》ね備《そな》えて生まれたことになんの感慨《かんがい》も覚えない。
上方からはすでに浴場の明かりとシャンプーの香《かお》り、そして同学年の少女たちのみずみずしい歓声《かんせい》が届《とど》いてきている。それは堅物《かたぶつ》の峻護をしてある種《しゅ》の感興《かんきょう》を抱《いだ》かせずにはおれない、魔力に満ち満ちた何かだった。
(女子のみんな……この不埒な真似《まね》を許してくれとは言わない。だけどもし叶《かな》うなら少しだけ、少しだけでもおれの立場を察《さっ》してくれたら――いや、所詮《しょせん》は言い訳《わけ》か)
この期《ご》に及《およ》んで女々《めめ》しいことだ。かくなる上はこの十字架《じゅうじか》を一生|背負《せお》いつづけ、罪人《ざいにん》としての、日陰者《ひかげもの》としての人生を全《まっと》うするのみ――少々悲壮《ひそう》すぎるほどの覚悟《かくご》をもって、峻護は残りの隔《へだ》たりを一気に踏破《とうは》した。
闇《やみ》に慣《な》れた視力《しりょく》が光に一瞬|灼《や》かれ、そして。
彼は楽園を見た。
ルネッサンス期《き》の絵画《かいが》に描《えが》かれるような裸身《らしん》の群《む》れが無防備《むぼうび》に、奔放《ほんぽう》に、峻護の目の前にさらされている。はたして誰にとっての幸福であったか、神宮寺学園の女子は全体として『レベルが高い』ことで定評《ていひょう》があった。加えて露天の岩風呂というロヶーショソ、湯煙《ゆけむり》によって演出される神秘性《しんぴせい》、切り立った崖という障害《しょうがい》を乗り越《こ》えてきた心理的効果《しんりてきこうか》――いくつもの偶然《ぐうぜん》が、この場所こそが長年人類が追い求めてきた約束の地であるという甘美《かんび》な仮説《かせつ》を補強《ほきょう》する。
軽薄《けいはく》とは程《ほど》とおい峻護が思わず、眼前《がんぜん》の光景に見とれた。
数秒か、数十秒か。
はっと我《われ》に返り、あわてて峻護は首を引っ込めた。いけないいけない。こんな風に見とれていたら、自分に残ったわずかな大義名分《たいぎめいぶん》さえ塵《ちり》と消えるではないか。己《おのれ》の矜持《きょうじ》を曲げてまでして二ノ宮峻護がなぜここにいるか、あらためて自覚《じかく》せねばならない。
自戒《じかい》しつつ、慎重《しんちょう》に岩の間から顔を出す。
まず最初に気づいたのは、生まれたままの姿をしているにもかかわらず、少女たちの間に流れる空気がごく自然だったことである。身を隠すものはせいぜいタオル一枚であり、そのタオルですら身を隠す用途《ようと》に使っていない少女も多いのだが、別にそのことに差恥《しゅうち》を覚えるでもなく堂々《どうどう》としている。布切れ一枚でもって必苑に自分の主砲《しゅほう》を隠そうとする者の多かった男子の入浴風景とは対照的《たいしょうてき》であった。
そしてこの大胆《だいたん》さゆえに、女子生徒たちの入浴風景にはある種の健全《けんぜん》な雰囲気《ふんいき》が醸《かも》しだされ、峻護があまり罪悪感《ざいあくかん》を覚えずについ見入《みい》ってしまう一因《いちいん》になっている。これは単に神宮寺学園女子生徒の気風《きふう》なのか、それとも女子高生とは一般的にこういうものなのか。その疑問《ぎもん》は純粋《じゅんすい》に峻護の知的《ちてき》好奇心を刺激《しげき》するところだ。
いまひとつ気づいた点をあげるなら、浴場での女生徒たちの交流が非常《ひじょう》に和気謁々《わきあいあい》としている点だろう。お互いの髪《かみ》を洗いっこしたり、カラダのあれこれについて屈託《くったく》なく感想を述《の》べ合ったり――きゃいのきゃいのと陽気《ようき》この上ない。まるきり学校の水泳の授業の延長《えんちょう》のようであり、これもやはり健全な印象《いんしょう》を強める効果をもたらしているようだ。
その中でひとり、連れてきた子猫のように縮《ちぢ》こまっている女子がいる。
彼女は人目を避《さ》けるように肩をすくめ、露天風呂の片隅《かたすみ》で湯に身を沈めていたが、
「まーゆー?」
「ひゃうあっ」
くのいちのように気配《けはい》を消して背後《はいご》から襲撃《しゅうげき》してきた友人に、他愛《たあい》もなく悲鳴をあげた。
「な、なんですか日奈子《ひなこ》さんっ?」
「なんですかじゃないって。さっきから雰囲気暗いわよあんた。なんかあった?」
「な、なにもないですよっ。ただちょっとなんというか、みなさんのノリが大らかすぎて、なんだかわたしだけ浮いちゃってたから、大人しくしてたというか……」
「ふむ。わたしひとりは初心《うぶ》で純情な少女です、ってわけか。そういう可愛子《かわいこ》ぶったやつには……こうだっ」
「えっ?――きゃうっ!」
ふたたび悲鳴をあげる真由。背後|霊《れい》のようにとりついた日奈子が、両手で彼女の胸部をすくい上げたのだ。
「むう。ある[#「ある」に傍点]とは知ってたけど、まさかこれほどのサイズとは。あんたひょっとしてスリーサイズとか過少《かしょう》報告してない?」
「やっ、やだ、やめ――」
「しかもやわらかいくせに程よく張《は》りがあって……こりゃ理想的な肉のつきかただわ。あんたちょっとこれ、あたしにもよこしなさい」
「無茶《むちゃ》言わないでください……じゃなくて! いいかげんに放してくださいよっ! でないと本気で怒りますよっ?」
「ほうほう威勢《いせい》がいいのう。そういうおなごはワシの好みじゃて」
いったい脳内《のうない》でどういうキャラになっているのやら、日奈子は何やらオッサンくさい口調で執拗《しつよう》に迫《せま》りつづけ、
「いや、やめ、やだ――あ、んっ……はうっ」
べつの生き物のようにうごめく指が巧《たく》みにふたつのふくらみを愛撫《あいぶ》し、秒|刻《きざ》みに真由の声は甘く切なくなっていく。
「おっ、感じてきちゃった? よしよし、このままあたしのゴッドハンドで極楽《ごくらく》を見せてあげようじゃないの。ちゃんと最後までしてあげるからね〜」
「――!」
半分はのぼせて、残りの半分は別の意味で赤くなっていた真由の顔が、そのセリフを聞いていっぺんに青ざめた。
「に、逃げますっ!」
「あ、こら待ちなさい! 往生際《ぎうじょうぎわ》が悪いわよっ」
たまらず湯船から逃走する真由と、悪ガキみたいに目を輝《かがや》かせてすかさず追《お》う日奈子。露天風呂は時ならぬ鬼《おに》ごっこの場と化し、ギャラリーの少女たちの黄色い声が無邪気《むじゃき》な喝采《かっさい》となって夜の空に溶《と》けていく。
「…………」
一部|始終《しじゅう》を目撃《もくげき》していた峻護はそろりそろりと岩陰《いわかげ》に引っ込み、なんとも複雑《ふくざつ》な感情の入り混《ま》じった吐息《といき》をついた。部屋で待機《たいき》している男どもがこの光景を生で見ていたら、悶絶《もんぜつ》したあげく狂死《きょうし》するに違いない。
男の目にさらされていないという確信《かくしん》があるからこその、ひどく奔放《ほんぼう》な光景。
峻護は確かにこの時、禁断《きんだん》の果実をその手にしていたのである。
(おっといかん。任務《にんむ》任務……)
雑念《ざつねん》を振《ふ》り払《はら》い、デジカメを握りなおした。それにしても、今日の自分は少しばかりおかしいようだ。クラスメイトの無謀《むぼう》を止めるためとはいえ、覗き行為《こうい》などという不埒千万《ふらちせんばん》な所業《しょぎょう》に身をおくとは……いつもの自分ならありえないはずのことである。修学旅行の熱気にあてられでもしたのだろうか?
いや、これもまた雑念《ざつねん》か。己に許した一度きりのシャッターチャンス、さっさと撮影を終えてこの場を離《はな》れなけれぱ。
あらためて顔を覗かせ、ファインダー越《ご》しに浴場の光景を見やる。もとより『これってどこのミスコン会場?』と訊きたくなるような美少女がそろっているのだ、被写体《ひしゃたい》には事欠《ことか》かない。
とはいえそれだけの面子《メンツ》のそろった場でさえ、真っ先に目を引くターゲットは自《おの》ずと決まっていた。生命元素《せいめいげんそ》関連因子《かんれんいんし》欠損症《けっそんしょう》――サキュバスの少女が周囲《しゅうい》に先んじて異性《いせい》の目を引くのは、もはや磁石《じしゃく》のS極《きょく》とN極が互《たが》いに引き合うのと同等の次元《じげん》で真理《しんり》なのである。
月村真由はやはり、美しかった。
過去に何度か目撃《もくげき》してしまっている裸身《らしん》ではあるが、そのことはいささかも彼女の評価《ひょうか》を下げるものではない。透《す》けるように白く、それでいて決して無機的《むきてき》ではない肌艶《はだつや》。豊かな胸部からはじまり、腰《ニし》、腿《もも》、そしてきゅっと締《し》まった足首に至《いた》るなめらかなラインは初夏を迎《むか》えた丘陵地帯《きゅうりょうちたい》のようにみずみずしく、花|盛《ざか》りの色気《いろけ》が香《かお》り立つ。それらの成熟《せいじゆく》した肢体《したい》とは裏腹《うらばら》に、目鼻立ちにはまだ言葉も知らぬ童女《どうじょ》のような幼《おさな》さが残り、首から上と下とがそれぞれ与《あた》える印象の落差《らくさ》に鑑賞者《かんしょうしゃ》はある種の幻惑《げんわく》を催《もよお》さざるをえない。その幻惑に男どもを狂《くる》わす成分がたっぷり含《ふく》まれている事実は、一度でも彼女の裸身を見たことのある者なら誰しも納得するところだろう。
さて、真っ先に目を引くのは真由に違いないが、むろん楽園の花は一輪《いちりん》かぎりではない。
たとえば彼女を嬉々《きき》として追いまわしている綾川《あやかわ》日奈子なども傑出《けっしゅつ》したそれのひとつに数えられるだろう。
真由の肢体《したい》がもつような豊潤《ほうじゅん》さからはやや縁遠《えんどお》いが、高い身長と長い手足が組み合わされたスタイルと闊達《かったつ》さを絵に描いたような明るい顔立ちが印象《いんしょう》付ける健康美《けんこうび》は、見る者すべてに癒《いや》しを与えずにはおかない。その活力にあふれた全身が躍動《やくどう》する様《さま》は、若い野生の雌鹿《めじか》を連想《れんそう》させた。運動好きの彼女はこの季節、水泳部の練習に部外者参加でよく顔を出すようだが、よく焼けた肌とスクール水着の形にシルエットのついた白い肌とのコントラストなども、少なからぬ男性|諸氏《しょし》にめまいを起こさせることだろう。レベルの高いエデンの住人たちの中でもまず、第一等の上玉といえた。
(むう……どうするべきだ?)
が、その百花績乱《ひゃつかりょうらん》ぶりはむしろ峻護にとって不幸であった。道ならぬ願いとはいえ、数多《あまた》の男どもが彼の写真を待ち望んでいる。だがシャッターチャンスは一度きり。いったいどのような構図《こうず》で写真を撮るべきか――アップにして誰かひとりをフレームに収めるべきか? それとも全体を傭瞰《ふかん》した形で撮影して妥協《だきょう》するか? こんなところでも生真面目な峻護はつい悩んでしまうのである。
(…………ん?)
ファインダーを覗いたまま逡巡《しゅんじゅん》していた峻護だが、不意《ふい》にひとりの少女の存在に気がついた。途中《とちゅう》から現れたわけではなく初めから姿はあったはずなのに、その瞬間まで不思議なくらい意識の射程内《しゃていない》に入ってこなかった少女である。
彼の公務《こうむ》上の相方《あいかた》――奥城いろりだった。
途端《とたん》、峻護は心臓をわしづかみにされたような衝撃《しょうげき》を覚えた。抑《おさ》えきれなかったうめきが喉《のど》の奥で鳴り、カエルの断末魔《だんまつま》のような音が小さく漏《も》れた。彼女の放つ魅惑《みわく》があまりにも鮮烈《せんれつ》だったからである。
今しも様々《さまざま》な形の美を目撃《もくげき》してきたはずの峻護だが、いろりの持つ魅惑についてだけは表現の術《すべ》をもたなかった。それでもあえて叙述《じょじゅつ》を試みるなら――未成熟《みせいじゅく》な匂《にお》いを放つ青い果実と、熟《う》れきって今にも枝から落ちそうな果実の、過不足《かふそく》ない、しかもいずれも極北をきわめた並存《へいぞん》。あらゆる女性的美質の渾然一体《こんぜんいったい》とした煮《に》えたぎるスープ――いや、やはり彼女の凄艶《せいえん》さを言い表すのは不可能、あるいは無意味であろう。
豊満さでは真由に敵《かな》わず、しなやかさでは日奈子に及《およ》ぼない。しかし諸要素《しょようそ》を独立《どくりつ》したものとして見ず、奥城いろりという一個として見た場合、彼女は何者にも勝《まさ》る轟惑《こわく》を発散《はっさん》するのだ。
不思議なのはそれだけ目立ついろりに対し、周囲があまり関心を払《はら》ってないように見えることである。もともと彼女は控えめな性格で、他の同級生たちとは付かず離れずの距離を保とうとする傾向《けいこう》がある。また今は真由と日奈子が騒動《そうどう》を起こしているため、注目がそちらに向きがちということもあろう。どういうわけか気配の薄い少女でもあるし、そう考えれば大して不思議でもないかもしれないが――
と、不意《ふい》に。
身体を流し終え、湯船に向かおうとしていたいろりが、ついっと首を動かした。
斜《なな》めやや上方――すなわち、岩陰からデジカメを構えている峻護に向かって。
ファインダー越《ご》しに、目が合った。
(あ)
思わず峻護は硬直《こうちょく》、思考停止《しこうていし》。
「…………」
いろりは木の上にとまる平凡《へいぼん》なアブラゼミでも見るような、無感動《むかんどう》と無関心《むかんしん》を足して二乗《にじょう》したみたいな視線《しせん》で侵入者《しんにゅうしゃ》を縫《ぬ》いとめていたが、やがて『あら』とでも言いたげな顔になったかと思いきや、
(えっ?)
くすりと微笑み、峻護にウインクしてみせたのである。見事《みごと》な裸身《らしん》を隠そうともせずに。
不逞《ふてい》きなデバガメを発見したにしては意外な反応に、峻護は戸惑《とまど》った。その戸惑いが、足場の悪い岩場で微妙《びみょう》なバランスを保っていた重心《じゅうしん》を大きく崩すこととなった。
「あ」
我《われ》に返って致命的《ちめいてき》なミスに気づいた時にはすでに、彼の身体は支えるものもない空中に放り出されている。
「…………!」
無音《むおん》の悲鳴を引きずって、すべてを手にしかけていた少年は奈落《ならく》の闇《やみ》へとまっさかさまに吸《す》い込まれていく――
「…………それで?」
別館『芳風』の二階、『玄武《げんぶ》の間』。
一部始終《いちぶしじゅう》を報告した峻護に、待機組《たいきぐみ》を代表して吉田が訊《き》いた。
「おまえは俺たちの期待に応《こた》えて難攻不落《なんこうふらく》と思われた絶壁を攻略し、エデンの園の潜入《せんにゅう》に成功した。確かにこれは歴史に残る大成果だ」
大きく頷いて、
「だが拍手喝采《はくしゅかっさい》でおまえを出迎《でむか》えるためにはひとつ前提《ぜんてい》条件がある。奮闘《ふんとう》の成果はどうした?」
「…………」
木の枝にひっかかれた擦《す》り傷、ごつい岩にぶつかってできた打撲傷《だぼくしょう》――満身創痍《まんしんそうい》で帰還《きかん》した峻護は、言われたとおりに『成果』をさしだした。作戦|実施《じっし》にあたって貸与《たいよ》されたデジカメ――万有引力《ぱんゆういんりょく》の法則《ほうそく》にしたがって峻護と共に落下《らっか》し、たっぷり蓄《たくわ》えた位置エネルギーをぶちまけて大破《たいは》した彼の相棒と、けっきょくシャッターを切り損《そこ》ねたために一枚の写真も収められていない、ブランク状態《じょうたい》のメモリーカードを。
「つまり――」
吉田が状況を総括《そうかつ》する。
「作戦は最悪の結果に終わったわけだ。失敗するだけならまだよかったのに、作戦はもっとも悪《あ》しき成功に終わってしまった。楽園への潜入には成功したものの、その恩恵《おんけい》は俺たちに配分《はいぶん》されず、二ノ宮ひとりが禁断《きんだん》の果実を独占《どくせん》するという、許すまじき結果に。おまけにデジカメまでおしゃかになっている、と」
「……さて」
咳払《せきばら》いし、峻護は内心の焦燥《しょうそう》を悟られぬようできるだけ自然な振《ふ》る舞《ま》いで立ち上がり、
「そろそろ修学旅行実行委員の仕事があるから行かないとな。じゃ、そういうことで」
しゅたっ、と片手をあげてドアに向かおうとした峻護の肩に、空疎《くうそ》な笑みを浮かべた吉田が片手《かたて》を置いた。
「判決《はんけつ》。二ノ宮峻護をサンドバッグの刑《けい》に処《しょ》す」
――一分後。一年A組男子の部屋から、布団《ふとん》で賛巻《すま》きにされて人間サンドバッグと化した峻護が枕《まくら》でタコ殴《なぐ》りにされる悲鳴が聞こえてきた……。
其の三 転
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あまたの旅行客《りょこうきゃく》を自慢《じまん》のサービスでもてなしてきた由緒《ゆいしょ》ある旅寵《はたご》『翠鳴館《すいめいかん》』は、夜も更《ふ》けるにつれていよいよ活気《かっき》のほどを増している。その主因《しゅいん》はやはり、この旅館が受け入れた修学旅行の一団にあったろう。
娯楽室《ごらくしつ》、休憩室《きゅうけいしつ》、売店、廊下《ろうか》、ロビー、中庭――イベント好きの神宮寺学園生徒《じんぐうじがくえんせいと》たちは翠鳴館のいたるところに現れては、陽性《ようせい》のムードを派手《はで》に振《ふ》りまいていく。彼ら彼女らのエネルギーの発散《はっさん》は少々|騒《さわ》がしすぎる向きもなくはなかったが、今のところは他の宿泊者《しゅくはくしゃ》たちから苦笑混《くしょうま》じりの視線《しせん》を向けられる程度《ていど》で済んでいるようだ。むしろそのムードが周囲にも飛び火し、旅館全体がどことなく浮《うわ》ついている雰囲気《ふんいき》すらある。
むろんそのことは峻護《しゅんご》にとって、楽観《らっかん》とは逆の要素《ようそ》をもたらすことにしかならない。その活気の半分はこの後にひかえているメインイベントへの期待からきていること、疑《うたが》いないのだ。
「ん? どうした二ノ宮そのケガは」
一階の大食堂に現れた峻護を見て、学年副|主任《しゅにん》の山田《やまだ》が怪訝《けげん》そうな顔をした。
「いえ……ちょっと転んでしまっただけです」
「そうか。まあはしゃぐのも構《かま》わんがほどほどにしておけよ。実行委員まで羽目《はめ》を外したら他の連中《れんちゅう》のタガが外れるからな。……よし、各クラスの実行委員は全員そろったな? ミーティング始めるぞ」
まだ三十路《みそじ》をすこし越《こ》えたばかりの学年副主任の大声が客のいない食堂に響《ひび》き渡り、現時点から翌朝《よくちょう》に至るまでの予定を朗々《ろうろう》と説明しはじめ、しかしその説明は峻護の聴覚《ちょうかく》を刺激《しげき》することなく右から左へ通り抜けていく。彼の神経《しんけい》は今、となりにいるクラスメイトの少女に集中しているのだった。
その少女、奥城《おくしろ》いろりは峻護の横目に気づく様子《ようす》もなく、いつもの微笑《ぴしょう》で副主任の説明に耳を傾《かたむ》けていて、峻護としてはおそろしく居心地《いごこち》が悪かった。というのも先ほど露天風呂《ろてんぶろ》で目が合ったことについて、いろりのほうからただのひとこともないからである。
ひょっとしてあのデバガメ男が峻護だとは気づいてないのだろうか。だけど彼女はたしかに自分と目を合わせ、あまつさえウインクまでしてみせたというのに。そうだ、そういえば彼女はあの時メガネを外していた。ということはあの距離《きょり》からデバガメの正体を峻護だと判別するのは極《きわ》めて困難《こんなん》ということになるではないか。ということはやはり自分が覗《のぞ》きをしていたことには気づかれていないのだ。でもウインクまでしてたということはデバガメがいること自体には気づいていたわけで、だったらどうしてそのことを報告して犯人を究明《きゅうめい》しようとしないんだろう?
峻護の思考《しこう》は着地点《ちゃくちてん》のあてもなくさまよい、そうしているうちにミーティングは解散《かいさん》となった。
ミーティングに参加《さんか》した面々《めんめん》が三々《さんさん》五々《ごご》に散《ち》っていき、食堂には峻護といろりだけが残される。
「あー……じゃ、おれたちも戻《もど》ろうか、いろりさん」
「ええ。でも峻護さん、先生のお話ちゃんと聞いてらっしゃいました?」
「ん……いや、すまない。正直、かなり馬耳《ばじ》東風《とうふう》だった」
にこ、といろりは微笑《ほほえ》み、
「いくつかのお小言《こごと》があった以外は予定通りです。このあとしばらくは自習時間で、十一時までに点呼《てんこ》をとって担任《たんにん》に報告したあと、消灯《しょうとう》して就寝《しゅうしん》とのことです」
「ん、わかった。ありがとう」
「いいえ。では行きましょうか」
促《うなが》され、いろりと並んで食堂を出る。彼女の態度《たいど》は峻護と対照的《たいしょうてき》にまったく普段《ふだん》どおり。やはり峻護のデバガメ行為《ごうい》はバレなかったのだろう。
率直《そっちょく》にほっとしつつ、浴衣姿《ゆかたすがた》のいろりを盗《ぬす》み見る。乾《かわ》ききらない黒髪《くろかみ》、時おりのぞく白いうなじ、意外に豊《ゆた》かな胸元。奥城いろりはやはりよくよく見ると、ひどく色っぽい女の子であった。少々無粋《ぶすい》なメガネ姿にもどってしまっているゆえか、先ほど露天風呂で見た時ほどの強烈《きょうれつ》さはないけれど――
「ところで峻護さん」
「え? なに?」
「わたしのカラダ、お気に召《め》していただけたでしょうか?」
「――――!」
普段どおりの微笑から放たれた奇襲《きしゅう》に、峻護はあっさりぼろを出した。思わず口をつぐみ、廊下《ろうか》を行く歩みまで止まってしまう。何も言わずとも、これではデバガメ行為《こうい》を白状《はくじょう》したも同然《どうぜん》だった。
「わたしのカラダを見て峻護さんがどのように思われたか、とても気になります。これでもわたし、カラダにすこしは自信があったりするのですが」
「あ、いやその、ええと……」
「どうぞ、感想をお聞かせください」
「す、すまない、あれは全面的におれが悪い。何を言われても甘んじて受けるし、どんな謝罪《しゃざい》でもするよ。もちろん先生がたや警察《けいさつ》に通報《つうほう》してもらってかまわない。不快《ふかい》な思いをさせて申《もう》し訳《わけ》――」
「そうではなくて、感想をうかがっているのですけど」
「うえっ? か、感想と言われても……それはもちろん、すごくきれいだった、と思う」
「ありがとうございます。では次に、わたしのカラダのどのあたりがお気に召したのかお聞かせください。今後いろいろと参考《さんこう》にさせていただきますので」
「へっ? ど、どこって、そんな――」
「胸ですか? 腰《こし》ですか? お尻《しり》ですか? それとも――」
「いや、その、つまり、どこというかなんというか、ええと」
目を白黒させ、顔色を赤くしたり青くしたりして狼狽《ろうばい》する峻護を、いろりはいつもの微笑で眺《なが》めていたが、
「うふ。峻護さんをからかうのはとても楽しいですね」
「えっ? 何?」
「いえ、ただの独《ひと》り言《ごと》です。ところで勘違《かんちが》いされているようですが峻護さん、別にわたしはあなたの覗《のぞ》き行為を怒っているわけではありませんよ?」
「え、そうなの……?」
「峻護さんだって男性ですもの、その程度《ていど》にはわんぱくな方がかえって好ましいくらいです。もちろん告《つ》げ口などをするつもりはありませんからご安心ください」
「そう、なのか……でもしかし……」
「あの場で峻護さんに気づいていたのはわたしだけですから、気づいていなかった他の人たちにとってあの件はなかったも同じことでしょう」
「いやだけど――」
「むしろ許しを乞わねばならないのはわたしのほうです」
治療《ちりょう》の跡《あと》だらけの峻護を痛《いた》ましげに見やり、
「無用《むよう》に峻護さんを驚《おどろ》かせ、お怪我《けが》をさせてしまったようです……申し訳ありません」
「なに言ってるんだ、とんでもない! そんなことであやまられたらおれの立場がないじゃないか!」
「ではおあいこということにしませんか? わたしにとっても覗きの件などは『そんなこと』なのです。どうかお気になさいませんよう」
にこりと微笑み、反論《はんろん》を封《ふう》じるいろり。どうやら彼女の方が一枚|上手《うわて》らしい。
「……わかった。じゃあどっちもどっち、ってことだな」
「はい。どっちもどっちです。それに峻護さんは自分から望んで覗きをされたわけではないのでしょう? おそらく吉田《よしだ》さんや井上《いのうえ》さんあたりが、峻護さんが覗き行為をせざるをえないよう仕向《しむ》けたのではないかと想像《そうそう》しているのですが」
「ん……まあ……そういうことになるかな……」
「やはりそうでしたか」いろりはいっそう微笑を深くし、「峻護さんはいいご友人をお持ちですね」と言うった。
「いい友人だって? あいつらが?」
思わず素《す》っ頓狂《とんきょう》な声を出す峻護。
「冗談《じょうだん》じゃない、何がいい友人なもんか! なんだかんだ理由をつけていつもおれを面倒《めんどう》ごとに引《ひ》っ張《ば》り込んで……あいつらがいなかったらおれの人生はどれだけ平穏《へいおん》に過ごせることか! どうしてそんな結論《けつろん》添出てくるのかおれには理解《りかい》できないよ」
腹《はら》の底から力説《りきせつ》するが、いろりは肯定《こうてい》も否定《ひてい》もせずに微笑するばかり。
「ところで峻護さん」
それどころかあっさり話題を変えてきた。
「相変《あいか》わらず先ほどからお顔の色がすぐれませんね。悩《なや》み事《ごと》はまだ解決《かいけつ》しませんか?」
どうやらこの同僚《どうりょう》、人の心を読む特殊技能《とくしゅぎのう》でもそなえているらしい。それとも単に峻護が内心を表情に出しすぎているだけだろうか。
「先ほどわたし、『悩み事があればお話しください』と言いました。そして峻護さんは『わかったそうする』とお返事されたように記憶《きおく》しています」
「まあ……確かに」
「ではお話しいただけますね?」
いろりは簡単《かんたん》に言ってくれるが、悩みの内容が内容である。夜会《やかい》――男どもの狂乱《きょうらん》の宴《うたげ》の情報、おいそれとは口にできない。自分で抱《かか》え込んだ問題ゆえにできれば自分で解決《かいけつ》したい、という意地《いじ》もある。
「お話しいただけませんか?」
「…………」
「ガンコなひとですね。ではすこし意地悪をしましょうか」
いろりはむしろ嬉々《きき》として、
「わたし、前言を撤回《てっかい》することにします。峻護さんがデバガメしたことをみなさんにばらしてしまいましょう。共犯《きょうはん》の方々がいたことも含《ふく》めて、あることないこと針小棒大《しんしょうぽうだい》に。校内ならまだしもこういう公共の場での事件ですからよくて謹慎《きんしん》、悪ければ強制送還《きょうせいそうかん》の上に退学《たいがく》なんてこともありうるかも」
「うぐ……」
つまり、最初から選択肢《せんたくし》などなかったということである。
やむなく白旗《しろはた》を揚《あ》げた峻護は決して口外しないよう念《ねん》を押して、『夜会』の計画の知りうる限りをいろりに語った。
「まあ」
いろりの最初の反応は、ほころぶような笑顔。
「男の方というのはなんて可愛らしいのでしょう」
「かわいい……かあ?」
「ええ。とっても」
ころころ笑ういろり。どうやら物静《ものしず》かで整《ひか》えめな印象に似《に》ず、大らかなひとらしい。いや、『物静かで控えめ』だという彼女の一般的《いっばんてき》な評価《ひょうか》のほうをこそ根本的《こんぽんてき》に変える必要《ひつよう》があるんじゃないか――このごろの峻護はそう思い始めている。事実《じじつ》、いろりが彼の前で見せる言動《げんどう》はクラスの中で見せるそれとはまったく異《こと》なるではないか。しかも峻護がみるに、前者の方がいろりの地《じ》であるような気がする。
でも、だとしたらなぜ、彼女は普段《ふだん》からこういう地を出さないのだろう?
「それで峻護さんは、『夜会』が行われるのを止めたいと、そうおっしゃるのですね」
「そうせざるを得《え》ないだろう? 集団での夜這《よば》い大会だなんていくらなんでも不埒《ふらち》すぎる。何とかしたいと……」
「ほんとうに止めたいとお思いですか?」
「? どういうこと?」
「だって、止めるだけなら簡単《かんたん》じゃありませんか。引率《いんそつ》の先生がたにその計画を明かせばいいのです。そうすれば先生がただって実力|行使《こうし》に出ざるを得なくなるでしょう?」
「そりゃそうだけど、でも」
「できれば円満《えんまん》な解決《かいけつ》を、ですか? でもね峻護さん。円満に収《おさ》められるかどうか、解決できるかどうか――初めからそんなことで悩んでいるわけではないように見えるのです、わたしには」
出来の悪い弟でも諭《さと》すように言葉をつむぐいろり。峻護は何か反論《はんろん》しょうと口を開きかけ、すぐにまた口を閉じる。
「峻護さん。峻護さんはとても真面目《まじめ》なかたで、そのことは確かに美点《びてん》です。でも、真面目であるということは常《つね》に美点であるわけではないのだと、わたしは思います」
「…………」
「わたしからアドバイスできることはひとつだけ――どうぞ、この修学旅行をお楽しみください。峻護さんなりのやりかたで」
「…………」
「それではわたしはここで。おやすみなさい、また明日」
雅《みやび》に一礼《いちれい》し、いろりは自分の部屋がある別館《ぺっかん》に戻っていった。
峻護は歩みを止め、無言《むごん》で同僚の背中を見送る。
「みんなそろってるか? よその部屋に行ってるやつ、便所《ぺんじょ》に行ってるやつはいないな? ……よし、誰かひとりドアのところで見張《みは》りに立ってくれ。残りは全員こっちに集まってほしい」
別館『芳風《よしかぜ》』の二階、『玄武《げんぷ》の間』にて、夜会前の最終ミーティングが始まろうとしている。司会進行は例によって吉田と井上だ。
「長らく待たせたな。ではこれより『夜会』における催《もよお》し物を発表する」
「なお、夜会に関する詳《くわ》しい資料《しりょう》は裏実行委員《うらじっこういいん》にしか所持《しょじ》が許されていない。これは夜会の証拠《しょうこ》が露見《ろけん》する危険を減《へ》らすための処置《しょち》だ。一度に聞いても覚えきれんだろうが、必要な情報はあとで個別《こぺつ》に申し出てくれれば提供《ていきょう》するぜ」
「では企画《きかく》の提出|順《じゅん》に発表する。『桔梗《ききょう》の間』にて裏実行委員|主催《しゅさい》、オカマバー。『朱雀《すざく》の間』にて一年D組主催、なんでもカジノ。『水仙《すいせん》の間』にて一年F組主催、秘蔵《ひぞう》AV上映《じょうえい》会《かい》。『富士《ふじ》の間』にて一年B組主催、利《き》きタバコ大会。『梵天《ぼんてん》の間』にてオカルト同好会主催、交霊《こうれい》パーティ。『夜叉《やしゃ》の間』にてサタニスト同盟《どうめい》主催、黒ミサ――」
次々と披露《ひろう》されていく、海のものとも山のものとも知れない企画の数々を、峻護はぼんやりと聞き流していた。けっきょく夜会を中止させるどころか、なあなあのうちにこうしてミーティングにまで出席している体《てい》たらくである。
(修学旅行を楽しめ、か)
いろりの言葉が爪《つめ》の根元に刺《さ》さったちいさなトゲのように心をうずかせ、峻護の意識《いしき》を支配《しはい》していた。
真面目であることが悪いとはもちろん思わない。真面目さという性質《せいしつ》は峻護の精神的《せいしんてき》よりどころとして、彼と長年の歩みを共にしてきた。己《おのれ》の信じる真面目さ――それは誠実さであり、純粋《じゅんすい》さであり、勤勉《きんぺん》さでもある――に殉《じゅん》ずることは峻護にとって誇《ほこ》りであり、喜びでもあった。だが今にして思うのだ。真面目であるゆえに失ったもの、手に入れられなかったもの――そういうものも数多《あまた》あったのではないか、と。
それより何よりまずいのは、もしかして自分は真面目であることを盾《たて》にこれまで様々《さまざま》なことから逃げてきたのではないか、という自覚《じかく》であった。ある種《しゅ》喜劇的《きげきてき》なことであったろうが、峻護はその真面目さゆえに、いったんそういうことに気づいてしまうと気づかないふりをすることができないのである。
「さて、こうして催し物を紹介《しょうかい》してきたわけだが……言うまでもなくこんなものは序《じょ》の口、あくまでも夜会に彩《いろど》りをそえる脇役《わきやく》に過《す》ぎない」
イントロダクションが一段落《ひとだんらく》したところで、吉田が不敵《ふてき》な笑《え》みで一座《いちざ》を見回し、
「ではお待ちかね、夜会の大本命《だいほんめい》について話をしょう」
言って、用意していた大判《おおばん》の用紙を床《ゆか》に広げた。参加者《さんかしゃ》の面々《めんめん》が勢《いきお》い込んで頭をならべ、円陣《えんじん》を組むような形で吉田と用紙に注目する。
「これは『翠鳴館《すいめいかん》』の全体|見取《みと》り図《ず》および建築設計図《けんちくせっけいず》だ。戦略《せんりゃく》を練《ね》るにはまず、地理《ちり》に精通《せいつう》してる必要があるからな」
「よく手に入れたなこんなもの……」
「ふ。俺たち裏実行委員の辞書《じしょ》に不可能《ふかのう》の三文字はない」
峻護のぼやきに対して誇《ほこ》らしげに答える吉田。
「こいつも全員に配りたいところだが、先ほど言った理由によりそれはできない。ここにある情報は今のうちに頭へ叩《たた》き込むか、あとで裏実行委員に聞くなりするように。……さて、夜会の大本命たる夜這いには参加するもしないも自由、いつどのように決行するかも自由だが、有効《ゆうこう》な攻略法《こうりゃくほう》というのは確かに存在する。これからする説明を参考《さんこう》に、各々《おのおの》で必勝の策《さく》を練《ね》ってほしい」
マップを指差し、吉田があれこれ解説《かいせつ》を始めた。
――夜這いを妨《さまた》げる最大の障害《しょうがい》は地理的条件である。なぜなら男子が詰《つ》め込まれている棟《とう》と女子のそれとは完全に分離《ぶんり》した形になっているからだ。しかも男子の別館『芳風』と女子の別館『泉水《せんすい》』は、お互《たが》いにもっとも離《はな》れた別館であり、彼我《ひが》の距離はおよそ二百メートル。夜這いに挑《いど》む勇者は、隠密行動《おんみつこうどう》のうちにこの距離の暴虐《ぼうぎゃく》を攻略する必要がある。
またどちらの別館にも言えることだが、正規《せいき》の出入り口には引率の教師が常《つね》に目を光らせている可能性が高い。勇者たちはこの出入り口をどうにか突破《とっば》するか、あるいは非《ひ》正規の出入り口から侵入を果たすか、いずれかのルートを選択《せんたく》することになろう。多少なりとも救いなのは、豊富《ほうふ》な緑のおかげで身を隠《かく》す場所には困らないこと、広い建物だけに監視《かんし》の目はすべてに行き届《とど》かず、その気になれば侵入ルートは多数|確保《かくほ》できそうなことであろうか。
いずれにせよこれは算数の問題とは違い、確実《かくじつ》に結果の出る公式などは存在しない。また戦術《せんじゅつ》を練《ね》るために必要な情報もすぺて出揃《でそろ》っているわけではなく、状況は時間の経遇《けいか》に応《おう》じて流動《りゅうどう》することが予想される。最終的には挑戦者《ちょうせんしゃ》個々人の才覚《さいかく》、そして何より運のよしあしが、冷徹《れいてつ》に勝者と敗者とを分けるだろう……。
「裏実行委員から言えることは以上だ。諸君《しょくん》らの創造性《そうぞうせい》あふれるプレーに期待《きたい》する」
「もう一度|確認《かくにん》しておくが、第一回目のミーティングでも言ったとおり、夜会への参加は各自《かくじ》の自由だ。企画《きかく》を遊び尽《つ》くすもよし、明日の自由行動に備《そな》えて身体《からだ》を休めるのもよし。好きなように時間を使ってくれや。俺たち裏実行委員は、おまえらが快適《かいてき》な夜を過《す》ごせるようできるだけのサポートをするぜ」
「夜会は消灯《しょうとう》時間と同時に開催《かいさい》とする。それまで各自、英気《えいき》を養ってくれ」
――時計の針《はり》が十一時を回る。
かつて様々《さまざま》な伝説の舞台《ぶたい》となった『夜会』はこうして、参加者たちの熱気《ねっき》とは裏腹《うらはら》な、ごく静かな始まりを迎えたのであった。
さて。当然のことではあるが、修学旅行の夜を楽しむ権利《けんり》は少年たちだけに与えられているわけではない。別館『泉水』の『白鶴《はくつる》の間』では今、一年A組の少女数名が枕《まくら》を並べ、こういう場ではお約束といえる話題で静かに盛《も》り上がっていた。
「これはね、三年生の先輩《せんぱい》から聞いた話なんだけど――」
綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》がペンライトで自分の顔を照《て》らしあげながら、トーンを落とした声で語り始める。
「ウチの放送部《ほうそうぶ》が何年か前にさ、恐怖体験《きょうふたいけん》特集とかいって有名な心霊《しんれい》スポットを取材に行ったことがあったんだけど。そのころも今みたいに夏の暑い時期《じき》でね――ほら、夏っていったらやっぱ怪談《かいだん》の季節じゃない? だから放送部の人たちもさ、まあそれっぽい記事を適当《てきとう》にでっちあげて視聴率《しちょうりつ》取ろうみたいな、その程度《ていど》の軽い企画だったの。最初はね」
効果を十分に期待《きたい》した上で言葉を切り、聴衆《ちょうしゅう》ひとりひとりに視線《しせん》をやる日奈子。
「でね、某《ぼう》県の某市にずっと放置《ほうち》されたままになってる廃《はい》病院があって、放送部のメンバー十二人がみんなでそこに行ったんだけど。レポーターとかカメラマンとか音声さんとか照明《しょうめい》さんとかがみんな勢《せい》ぞろいして、まあ心霊スポットの取材にしてはわいわいがやがやと騒《さわ》ぎながら建物の中をぐるぐる回って、それで取材は終了。カメラにはなーんも怪《あや》しいものは映ってなかったし、ラップ音とかもぜんぜん聞こえなかったしで、ちょっとはドキドキしてたスタッフも拍子《ひようし》抜け。『これじゃあ企画|倒《だお》れだなあ』とかなんとか笑いあって、帰りに寄ったファミレスで打ち上げしようってことになって――ここまでは、何事《なにごと》もないとみんな思ってたの」
話す速度《そくど》をゆっくり落としながら、徐々《じょじょ》に表情と語り口に陰影《いんえい》を加えていく日奈子。どうやら彼女、なかなかこの道の芸達者《げいたっしゃ》であるらしい。
「ところがさ、ファミレスの中でちょっと妙《みょう》なことが起きたのよ。放送部の十二人はウェイトレスさんに席を案内されたんだけど、案内されたテーブルに十三人分の椅子《いす》が用意されてるの。まあその程度《ていど》のミスなら放っておいてもよかったんだけど、かなり混《こ》み合ってる時間だったからさ。『ひとつ椅子多いですよ』ってウェイトレスさんに言ったのね。そしたらウェイトレスさんは首をかしげてさ、『あら? でも店に入られた時は十三人でしたよね? どなたかお帰りになられたんですか?』……なーんて言うのよ」
ネタが本題に入ったことを悟り、ギャラリーはそろって喉《のど》をごくりと鳴らした。
「奇妙《きみょう》なことが起《お》こるようになったのはそれからよ。放送部の連中《れんちゅう》が何人かで固まって移動《いどう》とかするとさ、決まってもうひとりの『誰か』がいっしょについて歩くようになったんだって。周りの人間から『あれ? 君たちさっきまで六人いたよね? ひとりは帰っちゃったの?』みたいに言われることが頻繁《ひんぱん》に起こるようになって。でも不思議なことに放送部の人間にはその『誰か』を見ることができなくて、周りの人だけが見ることができるの。でもその『誰か』を見た人に、そいつがどんな顔してどんな格好《かっこう》してたか聞いても、誰ひとりとして答えられないんだって」
「…………」
「そんなことが続いたからかな? 放送部のひとりがノイローゼになっちゃって、日に日に症状《しょうじょう》がひどくなっていって――とうとうそのひと、ある日|首《くび》を吊《つ》って自殺しちゃったの。そしたら不思議なことにね、ずっと放送部に付きまとっていた『誰か』の姿をそれ以後、周りのひとたちが見なくなったんだって.仲間のひとりが自殺しちゃったのは悲しいけど、得体《えたい》の知れない『誰か』が消えてくれたのは不幸中の幸いだ――って、放送部のひとたちは思ってたんだけど。でもすぐに、彼らは愕然《がくぜん》とすることになったの」
「…………」
「なぜならひとり死んで十一人に減《へ》ったはずの放送部員が、なぜか十二人いるの。明らかに誰かひとり、知らないやつが放送部に紛《まぎ》れ込んでいる――けど、当の放送部の面々にも、いったい誰が『新しく増えた』部員なのかはついぞ分からなかったんだって。そして結局、だれが死んだ部員と入れ替わったのか分からないまま[#「だれが死んだ部員と入れ替わったのか分からないまま」に傍点]、昔と変わらない十二人という人数のまま、今でも放送部は活動をつづけてるんだって。……どお? この話」
ペンライトのスイッチを切ってネタ終了の合図《あいず》を出すや『おお〜』と声があがり、まばらながら拍手《はくしゅ》も起こった。
「けっこうよかったんじゃない? なんかホントに起こってもおかしくなさそう」
「日奈子うまいよね〜そういう話」
「うんうんうまいうまい」
「うひ。照《て》れるなあ」
「でもさ、ちょっとオチの部分がわかりにくくない? 『それってどういう意味?』ってあたしちょっと考えちゃったよ。その詰めの部分がすんなりいってたら、けっこういい感じの余韻《よいん》があったのにな」
「そかなー? あたしは割《わり》とすんなりオチまで聞けちゃったかなー」
「いやいやそれより問題なのはさ――」
「待った! みんなちょっと静かに」
ネタの品評会《ひんぴょうかい》に突入《とつにゅう》した一同を日奈子がいったん抑《おさ》えた。
人さし指を口にあてて『しー』のポーズをしながら。
「…………?」
怪誑《けげん》そうな顔をしていた少女たちだが、すぐに日奈子の意図《いと》を了解《りょうかい》した。彼女が目配《めくば》せした先には、かまくらみたいに丸く膨《ふく》らんだ布団《ふとん》が一組。よく見るとそのかまくらは生まれたばかりの小鹿《こじか》のようにぷるぷる震《ふる》えている。
抜き足差し足でかまくらに近づいた日奈子が容赦《ようしゃ》なく、一気《いっき》に布団を剥《は》ぎ取った。
「うふふ……まーゆーちゃーん?」
中から出てきたのは両手でしっかり耳をふさぎ、力いっぱいまぶたを閉じた少女。
「チミはそこでなにしてるのかなl? うふふ」
「も、もう聞きたくないですっ! ギブアップですっ! 怖《こわ》い話はいやなんですっ!」
駄々《だだ》っ子《こ》のようにいやいやをする友人に、日奈子はドSの微笑み。
「わかったわかった、もう怪談ネタはやめるから.だからそんなに怖がらないで。ね?」
「ほ、ほんとですか……?」
「あ。そこの窓から誰かがこっち見てる」
「きゃ―――っ! きゃ―――っ! 日奈子さんのばか! おたんこなす!」
ふたたび布団をかぶって盛大《せいだい》に悲鳴《ひめい》をあげる真由《まゆ》。
「あはは、ごめんごめんうそうそ。あんたの反応が大げさだからつい、さー。ほら、布団から出てきなって」
「……も、もうほんとにやめてくださいね? わたしほんとにそういうの弱くて――」
「おや? そこの壁《かぺ》にべったり血糊《ちのり》のついた手形が」
「きゃっ―――! きゃっ―――! きゃ―――っ!」
「うひゃひゃひゃひゃ、かーわいいんだからもう、真由ってば……あ、こら、痛い痛い、うひゃひゃ、やめ、ちょっ、うひゃひゃ」
瞳に涙をにじませ、ほっぺたをフグみたいに膨らませた真由が報復を開始。いまだ笑いの衝動《しょうどう》から抜け出せない日奈子を枕でめった打ちにする。
「ちょ、こら真由――ええい、いい加減《かげん》に、しろっ」
かろうじて体勢《たいせい》を立て直した日奈子が手近にあった枕をつかみ、復讐《ふくしゅう》に酔《ょ》う真由に投げつけた。しかし枕は狙《ねら》いを外し、すぐそばでポーカーに熱中していたクラスメイトに命中。
「うぎゃー! あたしのフォーカードが! ちょっと何すんのさ!」
逆上《ぎゃくじょう》した被害者《ひがいしゃ》が眈を投げ返した持にはもう争いの火種《ひだね》は郭曇中に飛び火し、無責任に煽る声がぼやを大火事に変え、煽った側もたちまち戦火に巻き込まれ――
こうして『白鶴の間』における第一次枕投げ戦争が勃発《ぼっばつ》し、血で血を洗う醜《みにく》くも可憐《かれん》な闘《たたか》いが幕《まく》を開けたのである……。
ところ変わって別館『芳風』。
男どもの聖域《せいいき》、あるいは前線基地《ぜんせんきち》たるここもまた、大いに活況《かっきょう》を呈《てい》している。
わけても裏実行委員の詰《つ》め所であり、『夜会』を統合《とうごう》運営する司令室《しれいしつ》でもある『鳳凰《ほうおう》の間』は、オイルショック当日の証券取引所《しょうけんとりひきじょ》にも似た殺人的な多忙《たぼう》さに追われていた。
「『青竜《せいりゅう》の間』にてトラブル発生。一気飲みでぶっ倒れたバカがいるらしい。すぐに救護班《きゅうごはん》を向かわせろ」
「四階南|廊下《ろうか》に巡回《じゅんかい》の教師が湧《わ》いたとの情報あり。これに伴《ともな》い別館『芳風』における部屋間の移動《いどう》を当面禁止《とうめんきんし》する。全男子生徒は安全が確認されるまで現地点にて待機《たいき》。速《すみ》やかに各部屋|担当者《たんとうしゃ》に通達《つうたつ》を出すように」
「3−Bモニターの映像が切れたぞ。どうもバッテリーの接触不良《せっしょくふりょう》らしい。至急《しきゅう》、誰かを修繕《しゅうぜん》にやってくれ」
常駐《じょうちゅう》ずるオペレーターたちの鋭《するど》い声が飛び、そのたびに実働部隊《じつどうぶたい》が手足のように動いて、発生した問題を解決《かいけつ》していく。彼らは皆《みな》、裏実行委員の面々およびボランティアとして夜会運営に参加する有志《ゆうし》たちであった。
(よくやるよまったく……)
その光景を部屋の片隅から見るともなしに見ている峻護は、呆《あき》れるやら感心するやらである。わざわざ照明《しょうめい》を落として雰囲気《ふんいき》を演出《えんしゅつ》した部屋。何機《なんき》もの携帯《けいたい》電話と外部バッテリーを並べたお手製《てせい》モニター群《ぐん》とノートパソコンの簡易《かんい》サーバー。アングラ臭《しゅう》のぶんぶん漂《ただよ》ってくる延長《えんちょう》コードとタコ足配線が入り組んだ床上《ゆかうえ》。差し入れのジャンクフードと紫煙《しえん》の香り――
「よう|二ノ宮《にのみや》。調子はどうだ?」
「…………」
栄養ドリンクの小ビンを片手に近づいてきた吉田が声をかけてきたが、峻護はぼんやりと司令室内を眺《なが》めたまま沈黙《ちんもく》を保つ。
この時、彼は何もかもが中途半端《ちゅうとはんぱ》のどっちつかずであった。夜会を中止させようと躍起《やっき》になるでも、あるいは夜会の中止をあきらめるでもない。知らぬ存《ぞん》ぜぬを決め込んでひとり布団の中に潜《もぐ》るわけでもなく、開き直って夜会に参加するでもない。明確《めいかく》な目的も手段《しゅだん》もなく、宙《ちゅう》ぶらりんな立場のまま、状況に流されるままこの場所に身を置いているのだった。
むろん最悪なのは自覚《じかく》している。自覚はしているが、しかし……
「――おれの調子より、そっちの調子はどうなんだ吉田」
「調子? 調子というのは?」
「だからつまり、夜会の進行|具合《ぐあい》とか――例えば夜這いの状況とか」
「おう、少しはおまえも関心を持つようになったのか。よしよし教えてやる。――おーい井上! ちょっと来てくれ!」
吉田が声をかけると、スタッフたちの間を精力的《せいりょくてき》に動き回っていた井上がすぐに駆《か》け寄《よ》ってくる。「どうした?」
「おう、二ノ宮にちょっとばかし夜会の進行状況を教えてやってくれ」
「んー、そうだな……」井上は手元の資料をめくったり、携帯電話であちこちに連絡《れんらく》を取ってから、「どの部屋のイベントもトラブル続出《ぞくしゅつ》だけどよ、そのかわり盛り上がりっぷりはどこも文句《もんく》なしだぜ。まずは大成功ってとこだな」
「うむ、それは重畳《ちょうじょう》。それで肝心《かんじん》のメインイベント――夜這いのほうの調子は?」
「問題はそっちだな」井上はやや声のトーンを落として、「現時点で夜這いを決行した勇者は五人。だが残念ながら全員失敗に終わり、教師どもによって捕縛《ほばく》・収監《しゅうかん》されているのが現状だ」
「五人か」吉田もまた難《むずか》しい顔。「まだまだ夜会は序盤戦《じょばんせん》とはいえ、この成功|率《りつ》の低さは気になるな」
「ああ。今年は地理的な条件も厳《きび》しいし、教師どもの警戒網《けいかいもう》も相当《そうとう》キツいみたいだぜ? つってもまあ、まだ宵《よい》の口だしな。勝負はこれからよ」
「だな。――というわけだ二ノ宮。他にも聞きたいことはあるか?」
「いや。十分だ」
これなら心配するまでもなかったかもしれない、と思う峻護である。まったくもって、夜這いなどという大それた真似はそうそう簡単《かんたん》に成功するはずないのだ。もしこのまま夜這いを試《こころ》みる連中が全員失敗すれば、わざわざ峻護が阻止《そし》するまでもなく彼らの野望は潰《つい》えるだろう。
そう、峻護は何ら手を下《くだ》すことなく。
ただじっと傍観《ぼうかん》しているだけで、ただここで無為《むい》に時間を潰《つぶ》しているだけで。
(くそっ――)
知らず、峻護はかぶりを振《ふ》った。
いいではないか。何の問題がある? このまま状況が推移《すいい》すれぱ労《ろう》せずして目的を達成できる。ただ寝《ね》て待っていれぱ果報《かほう》が転がり込んでくるとすれば、これほどおいしいシチュエーションはない。そのはずだ。
なのに。なのにどうしてこう、気分がささくれ立つのか。
「なんだ? 雰囲気暗いじゃねえか二ノ宮。テンション上がらないならどこかの部屋に行って出し物でも見てこいよ。どの部屋も盛り上がってるぞ?」
「そうそう。プロレス部屋でもプラネタリウム部屋でも、好きなところに行って気分直してこいや。今この旅館の中で景気《けいき》の悪いツラ下げてるのはおまえくらいのもんだぜ?」
吉田と井上が口々に言い立ててくるが、峻護の反応《はんのう》は鈍《にぶ》い。
「仕方《しかた》のないやつだな。よし、そんなおまえにいいものをやろう」
吉田が部屋の隅《すみ》っこに放り出されていた差し入れの山からいくつかの品を取り出し、
「まずはそのだらけきった身体に活《かつ》を入れないとな。こいつを飲んでしゃきっとしろ」
「……それは?」
「栄養ドリンクだ。効果《こうか》は保証《ほしょう》するぜ?」
「…………」
どうも今日はその手の飲食物に縁《えん》のある日らしい。
いくつかの小ビンのキャップを取ってまとめて差し出してくるのを、峻護はぼんやりと受け取った。心身のいたるところがひどく疲れ、そろそろ正常《せいじょう》な思考《しこう》がおぼつかなくなりつつある。親鳥からエサを与えられる雛鳥《ひなどり》のように何も疑《うたが》わず、あるいは内心のくすぶりをぶつけるように小ビンの中身を一気に呷《あお》って、
「――っ? げほっ、げほっ」
呷ってからその刺激的《しげきてき》な液体の正体に気づいた。
「ちょ、これ酒じゃないか!」
「そうだが?」平然《へいぜん》と吉田。
「さっき栄養ドリンクだとか言ったじゃないか!」
「だから心の栄養ドリンクだよ。シケたツラした今のおまえにゃぴったりだ」
「ええいくそっ――!」
今さら吐《は》き出すわけにもいかず、峻護は苛立《いらだ》たしげにかぶりを振った。
吉田は自らも小ビンを口に運びながら、
「そう尖《とが》るんじゃねえよ。じゃあ酒の代わりにこっちをいっとくか?」
「……なんだ、それは?」
「マムシドリンクにすっぽんの粉末《ふんまつ》、それとイモリの黒焼きだ。気合《きあい》入るぜ?」
「……なんでそんなものがあるんだ?」
「阿呆《あほう》、夜這いを敢行《かんこう》する勇者たちへの饉別《せんぺつ》用に決まってるじゃないか。その手の店を経営してるOBからの差し入れだからな、効果の程《ほど》は保証するぞ。どうだ?」
「……いい。遠慮《えんりょ》する」
「だったらほれ、もう一杯《いっばい》どうだ? こんなビンに入っちゃいるが、これだってけっこうな値打《ねう》ちもんなんだぜ? 沖縄《おきなわ》で酒屋やってるOBが提供《ていきょう》してくれた、泡盛《あわもり》の二十年|古酒《こしゅ》だからな」
「…………」
「一杯も二杯も大差《たいさ》ない――とまでは言わんが、今さらアルコール摂取量《せっしゅりょう》の多寡《たか》を論《ろん》じても始まらんだろう。ほれ、いっとけ」
「…………」
差し出されたお代《か》わりを、峻護はまるで親の仇《かたき》のように睨《にら》みつけている。異様《いよう》な苛立ちが彼の中で渦《うず》を巻いていた。得体《えたい》の知れぬ、制御《せいぎょ》のしがたい苛立ち――あるいは衝動《しょうどう》と言い換《か》えてもいいかもしれない。それはやがて理性《リせい》の手を離れ、夜会司令室の熱気と共鳴《きょうめい》するかのように際限《さいげん》なく膨張《ぼうちょう》し、そして普段《ふだん》のこの少年にはとうてい似《に》つかわしくない行動をとらせた。
すすめられた酒をほとんどひったくるような勢《いきお》いで受け取り、一息で飲み干《ほ》したのだ。
「おおなんだ、いける口じゃないか。――おい井上、二ノ宮に栄養ドリンクのお代わりだ」
「おう任《まか》せろ。一番いいやつ持ってきてやる」
うれしそうに井上が腰《こし》を上げ、すぐにお代わりを持ってきた。峻護は差し出されるままに受け取り、水でも飲むような勢いで喉《のど》に流し込む。
「やるじゃねえか二ノ宮。これだったら飲み比《くら》べ大会にでも出させれぱよかったかな」
「吉田」
「ん?」
「お代わり」
「おう、エンジンかかってきたな?」
満面《まんめん》の笑みで吉田が応《おう》じ、峻護は靄《もや》のかかりはじめた頭で差し出されるままにアルコールを摂取していく。
再度、別館『泉水』。一年A組少女たちの砦《とりで》たる『白鶴の間』。
果《は》てしなく続くかと思われた第一次枕投げ戦争をどうにか玉虫色《たまむしいろ》の講和《こうわ》にまでこぎつけた彼女たちは今、二列に敷いた布団にもぐり込み、明かりを消してひそひそ話に興《きよう》じていた。消灯《しょうとう》時間からもう何時間も経過していることを思えば、ほとんど無尽蔵《むじんぞう》とも思えるエネルギッシュぶりである。
「……ところでさー、やっぱこういう時のお約束だと思うから訊《き》いてみるんだけど」
「お? なになに?」
「ウチの学校で一番イイ男っていったらさ、誰だと思う?」
満を持《じ》して提示《ていじ》されたその議題《ぎだい》に、少女たちは待ってましたとばかりに瞳《ひとみ》を輝かせる。
「そりゃやっぱ、三年の諸岡《もろおか》センパイっしょー?」
「えーうそー? あの人ってぜんぜん大したことなくない?」
「だよねー。なんか人気《にんき》先行って感じ? みんながカッコイイとか騒《さわ》ぐから、それに釣《つ》られちゃってる的なところあるよねー」
「そうそう。それに諸岡センパイってさ、髪形《かみがた》とかメイクとかでごまかしてるところ、かなりあるっぽいよ」
「だったらさ、だったらさ。二年の崎山《さきやま》センパイとかはどう?」
「あ、それならアリ。あのひといいよね、イタリア人かなんかのハーフなんだっけ?」
「そうそう。日本人ばなれした顔立ちだよね。あの雰囲気は黄色人種《おうしょくじんしゅ》には出せないわ」
「でもあたしはちょっと苦手かなー。あのひとってちょっとくどい感じあるっしょ?」
「あーあるある。なんかバタくさいっていうか? イイ男ではあるんだけどねー、ちょっと手を出しにくい感じもあるかな?」
「だったらさ、『王子様』なんてどう?」
「あーはいはい、たすくクンねー。あたし彼だったら一票《いっびよう》入れてもいいかな」
「あっ、あたしもあたしも」
口々に賛同《さんどう》の声が湧《わ》き、男性の話題だけにもうひとつ付いていけなかった真由もここでようやく反応《はんのう》することができた。
「あの、たすくクンっていうのは……?」
「おっ? 珍《めずら》しいねえ、あんたがこの手の話題に反応するなんてさ」
おずおずと質問した真由に日奈子がうんうん頷《うなず》きながら、
「神宮寺学園イケメンコンテスト上位|常連《じょうれん》、通称《つうしょう》『王子様』――一年E組の奥城《おくしろ》たすくクン。うわさくらいは聞いたことない?」
「すいません、あまり……」
「相変《あいか》わらず一般常識《いっばんじょうしき》に疎《うと》いやつめ。まあ要《よう》するに、女の子にモテモテの罪《つみ》作りな男が一年E組にいるってこと。ルックスは渾名《あだな》のとおり王子様っぼくて、それに雰囲気やわらかいし、誰に対してもやさしいみたいだし、おまけに家柄《いえがら》もいいらしいってことでさ、一年の女子の間ではまず一番人気じゃないかな」
「はあ、なるほど……」
王子様っぽい見た目に『たすく』というさほどメジャーとも思えぬ名前。いま話題に上っているのはやはり、新幹線《しんかんせん》の中で邂逅《かいこう》したあの少年のことだろうか。
「ま、確かにたすくクンなら『神宮寺学園で一番イイ男』の称号《しょうごう》にふさわしいかもねー」
「そうよね。彼ってさ、まんべんなく票を集めそうだよね。どこを取ってもほとんどカンペキだし、弱点ってほどのものもないからさ。今日だって一日中取り巻きの子が付いて回ってたよね」
「だよねー。あとさ、これってあたしだけかな? 彼を見てるとなんかこう……んー、なんていうのかな? わけもなくゾクゾクしてくることって、ない?」
「あーわかるわかるそれ! なんかさ、自分の中のオンナが刺激《しげき》されるっていうの?」
「うんうんそんな感じ。あーやっぱみんな同じこと感じてたんだ」
「そうそう、たすくクンっていえばさ――」
ふと、少女たちのひとりが思い出したように、
「ウチのクラスの奥城さんと従姉弟《いとこ》同士だとか双子《ふたご》だとかって話聞いたけど、ほんと?」
「え、マジ? そうなの?」
「いやまあ、あたしもウワサをちょっと聞いただけだからさ、わかんないけど」
「でも奥城さんとたすくクンって、あんまり似てなくない? それにおんなじ学校にいるってのにさ、話してるところも見たことないよ?」
「そうなのよねー。やっぱデマなのかな」
「ていうかさ、奥城さん本人がいるんだから直接|訊《き》いてみればいいじゃん」
「あ、そっか。おーい奥城さーん? 実際の話、そこんところどうなの――って、あれ? いない?」
「ありゃほんとだ、いつの間に。どこ行ったのかな?」
「奥城さんってさ、知らないうちに姿《すがた》が消えててもぜんぜん気づかないんだよねー。なんか影が薄いっていうか。べつに悪い子じゃないんだけどね」
「だよねー。今回の修学旅行だって、実行委員なんていう面倒《めんどう》な役やってくれてるしね。なんていうか、本人に目立つ意思《いし》がまったくないみたいな? いつも一歩引いたところにいるっていうか……変わってるよね」
奥城たすくと奥城いろりに関して交わされる談義《だんぎ》を、真由は興味《きょうみ》深く聞いていた。なるほど、真由の印象《いんしょう》からいっても、たすくといろりのふたりはあまり似ていない。共通しているのはふたりともどことなく和風《わふう》の雰囲気を持っている点と、あとは苗字《みょうじ》くらいのもので、彼らの目鼻立ちから遺伝的《いでんてき》共通|項《こう》を見出すには想像力以上に妄想力《もうそうりょく》が必要となるだろう。
ただ、それでもやっぱり、あのふたりはどこか似ているのである。どこがどう似ているのかと言われると、真由としても首をひねるしかないのだが――
「ところでさあ、これはウワサで聞いたことなんだけど」
奥城|姓《せい》をもつふたりの話題が一段落したところで、日奈子がトピックスを変更《へんこう》した。
「男子どもがさ、修学旅行で何か企《たくら》んでるらしいよ?」
「何かって、何さ?」
「んー、実を言うとこの話はさ、あたしのところにも必ずしも正確な情報が入ってきてるわけじゃないからさ、確かなことは言えないわけだけど――」
事情通《じじょうつう》をもって知られる日奈子がいったん言葉を切り、一同の注目が集まったのを確かめてから、
「集めた情報を総合《そうごう》するとさ、どうも毎年修学旅行になると、男子どもが必ず何かやらかすらしいのよね」
「だからあ、何かって何よ?」
「それがさ、神宮寺学園の男子の間でだけの秘密《ひみつ》の伝統《でんとう》らしくてさ、イマイチ情報が入ってこないのよね。この件に関してだけは妙に男子の口も固いらしくて……なんか、男子の間だけで独特《どくとく》の連帯感《れんたいかん》? というか仲間|意識《いしき》? みたいなものがあるのよ」
「つまり、実際に何をやってるかはわからないってわけ?」
「確かなことは、ね。今の時点《じてん》で言えるのは、修学旅行の夜になると必ず男子どもが何か悪巧《わるだく》みをするってこと」
「んー、それだけじゃあ……ねえ? まあちょっと気にはなるけどさ」
「でもま、だいたいは想像つくじゃん? 男子どもの悪巧みなんて」
「え、マジ? なになに? あいつら何しようとしてるわけ?」
ふふん、と日奈子は再び間を置いてから、
「そりゃあんた、アホでバカでスケベな男子どもが修学旅行の夜にやりそうなことっていったらさ――『夜這い』に決まってるじゃん」
「ええええええっ? 夜這い? うっそー!」
別館中に響《ひび》き渡りそうな勢《いきお》いで、黄色い歓声《かんせい》がいっせいに沸《わ》いた。
「やっだー、きもーい! 頭わるーい! 信じらんなーい!」
「でもさでもさ、あいつらバカだしさ、けっこうありえそうな話だよね!」
「だよねー、言われてみれば確かにありうる!」
「でもさ、やっぱ無理《むり》っぼくない? 男子の別館から女子の別館までけっこう離れてるしさ、それにぜったい先生の監視《かんし》とかもあるよ?」
「そうよねー、難しいよね.見つかったらお仕置《しお》きキツいだろうしねえ」
「いや、ウチの男子ならけっこうやるかもよ? なんせバカだから」
「だよね! なんせバカだし!」
「じゃあさじゃあさ、もしもだよ? もしもほんとに男子がこの部屋に入ってきたら……どうする?」
「えーっ! うっそー!」
ここで再びキャーキャーキャーと黄色い声の大合唱《だいがっしょう》。
「ありえなーい! うざーい! 意味わかんなーい!」
「もしほんとに入ってきたらあたしは蹴《け》り出す!」
「でもぉ……もしもほんとに来るんだったらぁ、ちょっとアリかもじゃない? あたしだったらちょっとぐらいご褒美《ほうび》あげてもいいかも」
「うっそマジっ?」
「でました大胆《だいたん》発言!」
「だってぇ、ここまでたどり着くってことは、先生たちの監視をかいくぐって来るわけでしょ? お仕置きも恐れずにさ。それってちょっと男らしいじゃん? バカだけど」
「まあね、バカだけどね」
「でもさ、あたしもその気持ちはちょっとわかるかも? たまにはバカ男子にサービスしてやってもいいよね」
「うーん、なんかそう言われるとあたしもそんな気してきたかも」
「まあ……たまにはいい、かな? なんたって修学旅行だしね」
「そうそう、なんたって修学旅行だし! たまにはね!」
以降《いこう》、座談《ざだん》は『どこまでご褒美してあげるか?』に焦点《しょうてん》が移《うつ》り、しかし移ったからといって真由にとっては付いていけるような話題でもなく、
「なーに真由? すっかり黙《だま》っちゃってさ。会話に積極的《せっきょくてき》に参加しないと置いてけぼりにされるよ?」
「あはは……すでに付いていけなくなってます、はい」
苦笑する真由だが、けっして孤独《こどく》を感じているわけでも退屈《たいくつ》なわけでもない。初めて体験《たいけん》する『修学旅行』の新鮮《しんせん》さを、これでも彼女なりに満喫《まんきつ》しているのである。
「ところで日奈子さん。男のひとたちが本当に部屋に来たら、その……みなさん本当に何かしちゃうんですか?」
「ん? 何かって何のこと?」
「えっ? それはつまりその……男性と女性の間でのゴニョゴニョといいますか何と言いいますか……」
「具体的《ぐたいてき》に言ってくれなきゃわかんなーい」
「えーとつまりその……え、えっちなこと?」
「うむ。えっちなことね」
小声になりながら縮《ちぢ》こまる真由をサドのまなざしでニヤニヤ眺《なが》めて、
「ま、実際にはそうそう滅多《めった》なことはないと思うけどさ。もしもノリでそういうことやっちゃうにしても、それは満足すべき相手が来た時の話であって。それ考えたらまあ、たいがいの男はここまで来たって門前払《もんぜんばら》いになるんじゃない? たとえば二ノ宮くんあたりが夜這いに来ない限りさ」
「二ノ宮くんがですか?」真由はやや余裕《よゆう》を取り戻して、「だったら平気ですよ。二ノ宮くんが夜這いなんてするはずないですもん」
「ほほう、安心しきった顔してるじゃん?」しかし日奈子は意地《いじ》悪《わる》げに、「そりゃまあ確かに彼のクソ真面目っぶりは証明《しょうめい》済みだけど……でも、シチュエーションの力を舐《な》めちゃいけないわね。修学旅行の魔力が二ノ宮くんを野獣《やじゅう》にする可能性だって、なきにしも非《あら》ずでしょ」
「いいえ。二ノ宮くんはそんなことしません」
「ふふん? ガンコに言い張《は》るじゃない。でもね、これだけは忘れないほうがいいよ? たとえ二ノ宮くんが夜這いをしなくたって、彼の貞操《ていそう》の安全は必ずしも保証《ほしょう》されてないってことをね」
「…………。どういう意味ですか?」
「そりゃあんた、決まってるじゃない」
たっぷり間を取ってから、積極性に欠《か》ける友人を煽《あお》る気満々の口調で、
「夜這いってのは何も、男子だけの専売特許《せんぱいとっきょ》ってわけじゃないでしょ?」
「なっ――!」
「ほら見てみ、この部屋だってさ」と日奈子は室内をぐるりと指して、「何人かこっそり抜け出してる子いるでしょ。あんた気づかなかった?」
よくよく見れば確かにその通りである。暗がりにまぎれてわかりづらいが、布団の数に比《ひ》して布団の主の数がいくぶん少ない。
「トイレ行ってる子とか他の部屋に行ってる子とか、カレシとこっそり会ってる子とかいると思うし、抜け出した子が必ずしも二ノ宮くんに夜這いをかける、ってわけじゃないけど……でもさ、ありえない話だとは思わないほうがいいんじゃない? それに神宮寺学園の女子はこの部屋にいる子たちばかりじゃないしね。他のクラスの子でこっそり二ノ宮くんをねらってて、この機会《きかい》にいただいちゃおうって子がいてもおかしくないでしょ」
「…………」
「もしも誰かが二ノ宮くんに夜這いをかけたら……うーん、彼って優柔不断《ゆうじゅうふだん》だし押しに弱いし、案外《あんがい》あっさり落ちちゃうかもねえ。ましてや修学旅行っていう特殊《とくしゅ》なシチュエーションでもあるわけだし」
「…………」
「でもって情に脆《もろ》い二ノ宮くんのことだから、一夜の関係を盾《たて》に迫《せま》られて、きっと修学旅行のあともその子と付き合っちゃうのね。『責任《せきにん》とって』とか言われてさ。でもって状況に流されやすい彼のことだから、卒業した後も関係を断《た》ち切れなくて、そのままゴールインってことも――」
「日奈子さん」
「ん? どした?」
「ちょっとわたし、お手洗いに行ってきます」
「おー。いってらっしゃーい」
煽動《せんどう》が成功したことに気をよくしつつ、日奈子はひらひら手を振《ふ》りながら友人の背中がドアの向こうに消えるのを見送って――
旅籠《はたご》『翠鳴館』全体を巻き込む大規模《だいきぼ》な停電《ていでん》が発生したのは、その瞬間《しゅんかん》であった。
時間をやや巻き戻し、ところ変わって別館『芳風』。
二ノ宮峻護の姿はいまだ、夜会を統合運営する司令室《しれいしつ》にある――
『あんた、何だってそんなつまらない男になっちゃったのかしらね?』
そういう意味《いみ》の言葉を初めて姉の口から聞いたのはいつの頃《ころ》だったか。記憶をたぐってみるに、それはちょうど十年ほど昔にさかのぼるように思われる。もっとも、峻護の過去を回想《かいそう》するレンズに忘却《ぼうきゃく》の曇《くも》りが入るのもぴったりその頃からで、十年前から先の記憶は猫《ねこ》と犬との区別《くべつ》もつかないくらいあいまいに霞《かす》んでしまうのだが。
ともあれ姉の言うつまらなさが弟の生真面目さ、あるいは融通《めうずう》の利《き》かなさに起因《きいん》しているのは確かであり、峻護は豪傑《ごうけつ》の姉にため息をつかせる程度《ていど》にはそっち系《けい》の男であった。だが姉からなんと言われようと、弟の方は自分の性格に不都合《ふつごう》を感じたことは一度もない。いやむしろ、自分という人間の一本気なありようを誇《ほこ》りにさえ思ってきた。自分のような人間が黙々《もくもく》と、謹直《きんちょく》に働いているからこそ社会は成り立つのだ。損《そん》な性格と呼ばれることもあるかもしれないが構《かま》いはしない。なぜなら自分の損はつまるところ、他人の利益《りえき》につながっているはずだから。
誰にも迷惑《めいわく》をかけず、社会全体に貢献《こうけん》し、一市民としての務《つと》めを全《まつと》うする人生――たとえつまらない男と呼ばれたところで何を恥《は》じることがあろう。
(……そう、思ってたんだけどな……)
自分の信奉《しんぽう》する生き方に揺《ゆ》らぎが生じていることを認《みと》めざるを得《え》ない峻護である。あの日――月村真由が二ノ宮家にやってきて以降《いこう》、彼を取り巻く環境《かんきょう》は大きく変わった。いや、今もめまぐるしく変わりつつある。そして環境の変化に伴《ともな》って峻護自身も、あるいは彼の運命もまた、変わらざるを得ないようである。
同居人《どうきょにん》の少女ふたりに対してどういう風に身を処《しょ》すべきか。緊急《きんきゅう》に結論《けつろん》を出すべきその問題のはるか手前《てまえ》の地点で、自分は壁《かぺ》に突《つ》き当たっているらしい――今、峻護はそのことをようやく実感《じっかん》し始めていた。いや、あるいは壁の存在《そんざい》そのものからこれまでは目を逸《そ》らしてきたのかもしれなかった。
その壁とはすなわち、自分という人間そのものについての根本的《こんぼんてき》な懐疑《かいぎ》である。
二ノ宮峻護という男は、果たしてこのままでいいのだろうか?
これまでの生き方を誇りに思う気持ちは今も変わらない。だが、それだけでほんとうにいいのだろうか?
……峻護がアルコールの靄のかかった頭で哲学《てつがく》っぽいことを考え始めた一方で、『夜会』司令部の空気は徐々《じょじょ》に変化の兆《さざ》しを見せつつあった。
「おかしい……なぜだ? なぜこれほどまでに失敗する? 夜這いに成功どころか女子の部屋に誰ひとり潜入《せんにゅう》することすらできないとはどういうことだ?」
「前線《ぜんせん》と本国との距離、これがやはり最大の問題だろう。今年の修学旅行は、与えられた状況がいかにも悪すぎる」
「そんなことは初めから分かってたことだ。その不利《ふり》をカバーするために俺たち裏実行委員は入念《にゅうねん》な事前《じぜん》準備を整えてきた。そうだろう?」
「するとあれか、夜這いに挑戦《ちょうせん》する勇者《ゆうしゃ》たちの質に間題があるということか?」
「それも確かにあるかもしれん。彼らは度胸《どきょう》も士気《しき》も十分だが、別にこれといった訓練《くんれん》を受けているわけでもないしな。夜這いの経験があるやつなんざほとんどいないだろうし、ましてや夜間の隠密《おんみつ》行動に習熟《しゅうじゅく》してる高校生なんざ普通はいるもんじゃないさ」
「だがそれこそ初めから分かっていたことだろう? やる気はあれど素人《しろうと》同然の勇者たちを、それでも成功に導《みちび》くこと。それが俺たち裏実行委員の仕事じゃなかったのか?」
次第《しだい》に口調《くちょう》が翳《かげ》りを帯《お》びていく裏実行委員たち。一致団結《いつちだんけつ》したチームワークを誇ってきた彼らの間に、ささやかながら不協和音《ふきょうわおん》のひびが入り始めたかに見えた時。
「みんな落ち着け」
吉田の沈着《ちんちゃく》な声が一同《いちどう》を静まらせた。
「指揮官《しきかん》たる俺たちがこんな調子では夜会全体に悪影響《あくえいきょう》を及《およ》ぼすぞ。今は責任の所在《しょざい》をとやかくしても始まらん。この状況を立て直してひとりでも多くの勇者たちを男にしてやる――それが俺たちのなすべきことのはずだ。ちがうか?」
「確かに吉田の言うとおりだけどよ……」
相方の井上が同意《どうい》しつつも、
「しかしどうする? 夜這い志願者《しがんしゃ》のうちすでに八割が戦死《せんし》しているからな、どうしたって残った連中の士気は下がる。下がるだけならまだしも、辞退者《じたいしゃ》さえ何名も出始めている始未《しまつ》だ。おまけに夜会の終了予定|時刻《じこく》もすぐそこまで迫《せま》ってきている……この状況をどう立て直す?」
「……まず、脱落者《だつらくしゃ》の名誉《めいよ》が正しく保護《ほご》されるよう手配してくれ。内申点《ないしんてん》の低下や保護者への報告、補導《ほどう》の恐れ……いくつものリスクを承知《しょうち》の上で彼らは壮挙《そうきょ》に志願《しがん》した。それだけでも十分に勇者と呼ぶに値《あたい》するんだからな」
「わかった、その点は任せろ。で、夜這い部隊の今後の方針《ほうしん》はどうする? 待機《たいき》している志願者の中には逆に今の状況に奮《ふる》い立って、すぐにでも出撃《しゅつげき》したいと申し出ているやつもいるが」
「ふむ……できれば俺たちが戦術《せんじゅつ》を練《ね》り直すまで待ってもらいたいところだが……まあこういうのは勢《いきおい》いが肝心《かんじん》だからな。行きたいやつには行かせてやろう。華々《はなばな》しく玉砕《ぎょくさい》するのもまた夜会の本懐《ほんかい》、人生の良き一ページだ」
「了解《りょうかい》。じゃあ、俺たち裏実行委員はこれからどうする?」
「まずは状況を整理《せいり》し直すことだな。これまで試《ため》した侵入ルート、教師たちの巡回《じゅんかい》パターン、志願者たち個々《ここ》の士気の程度や夜道い実行者としての能力……あらゆる情報を集められるだけ集めてくれ。大至急《だいしきゅう》だ。それを元に改《あらた》めて作戦を立案《りつあん》する――」
深刻《しんこく》な面《おもて》を並べて話し合う裏実行委員たちを眺《なが》めるともなしに眺めながら、峻護は自問自答を友として、次から次へとアルコールの小ビンを空けていく。
……そうしてどれほどの時間が経《た》っただろうか。酒漬《さけづ》けになった峻護の体内時計はとっくに機能《きのう》を放棄《ほうき》していたし、そもそも疲れきっていた身体は自覚《じかく》せぬうちに意識朦朧《いしきもうろう》としていたかもしれず、時間の経過などはヤスリで表面を削ったCDほどにも読み取れないのだが――ともかく峻護がふと気づいた時、即席《そくせき》の指令室内にはいっそう重い暗雲《あんうん》が立ち込めていた。
「………………なぜだ」
つい先ほどは瓦解《がかい》一歩手前の司令部を非凡《ひぼん》なリーダーシップでまとめなおした吉田の口から、固形化《こけいか》された絶望《ぜつぼう》の言葉が吐《は》き出される。
「なぜこうまで失敗する? 教師たちはなぜ、こうも的確《てきかく》に勇者たちが行く先々に現れるんだ? 交代《こうたい》で巡回にあたっている教師はひとりかふたりだし、『翠鳴館』の敷地《しきち》にせよ建物にせよ、それだけの人数でカバーできるほど狭《せま》くはないはずだ……なのになぜ?」
「まさか……ひょっとして」
司令部の優秀な副官として手腕《しゅわん》を縦横にふるってきた井上がひどく陰鬱《いんうつ》な顔で、
「俺たち裏実行委員の中に内通者《ないつうしゃ》がいるとか? そうでもなけれぱこれだけ計画が狂《くる》う現《げん》状《じょう》に説明がつかな――」
「馬鹿《ばか》を言うな」
吉田の声がこの時ばかりは鋭《するど》い。
「極秘《ごくひ》に裏実行委員会が発足《ほっそく》して以降《いこう》、俺たちは今日という日のために苦楽《くらく》を共にしてきた。企画の立案《りつあん》、それを実行するための情報と資金《しきん》集めに奔走《ほんそう》した日々……よほどの伊達《だて》と酔狂《すいきょう》がなけりゃやってられん重責《じゅうせき》だということは、井上もわかっているだろう? そんな裏実行委員の同志《どうし》が、今さら内申表の些細《ささい》な加点《かてん》に目がくらんで教師側に与《くみ》するなんて、あるはずがない」
「……そうだな、すまん、軽率《けいそつ》な発言だった。しかしどうする? 俺たちの想定《そうてい》を遥《はる》かに上回って教師たちの警戒能力が高いのは確かだ。しかもそのことに気づくのが、あるいは注意を喚起《かんき》するのが、どうやら遅すぎたらしいぜ」
「…………。井上、夜会の状況全体をもう一度報告してくれ」
吉田の求めに応《おう》じ、相方は手元の資料――五分おきに更新《こうしん》される最新の情報が彼の手には集まってくる――に素早《すばや》く目を走らせた。
「事実上、滞《とどこお》っているのは夜這い計画だけだ。それ以外の夜会のイベントは順調《じゅんちよう》に進んでいる。もちろんトラブルはほとんど分刻《ふんきざ》みで発生してるけどよ、まあそのへんは折込済《おりこみず》みだしな」
「そうか。その点だけは何よりだな」
「だが夜会の花形イベントである夜這いについては――」
井上は痛恨《つうこん》の面持《おもも》ちで首を振り、
「現在のところ成功者はゼロ。数十名を数えた勇者たちはほんの数名にまで打ち滅《ほろ》ぼされた。俺たち裏実行委員によって戦術《せんじゅつ》の練《ね》り直しが図《はか》られたものの効果は虚《むな》しく……いや、ちょっと待て」
ボケットから携帯を取り出し、鋭い声でやり取りを始める。その顔がみるみる険しくなったと思いきや、日の経《た》った風船のようにしぼんでゆき、
「……今、最新の報告が入った。最後に残った数名の勇者が二階トイレの窓から侵入《しんにゅう》を試みるも、失敗。教師に捕縛《ほぼく》されて捕虜《ほりょ》の身となったそうだ……」
井上の搾《しぼ》り出す言葉のひとつひとつが裏実行委員たちの心胆《しんたん》に鉛《なまり》のごとく沈殿《ちんでん》し、ある二文字が部屋中を埋《う》め尽《つ》くしていく――すなわち、『敗北』の二文字が。
長い長い沈黙の果て、吉田はそれでも毅然《きぜん》としたまなざしで一同《いちどう》を見回した。
「トータルとしてみれば夜会は成功した。これは負け惜しみでも何でもなく、客観的《きゃっかんてき》な事実だと俺は確信する。だが――同時に我々《われわれ》は敗北した。教師たちの監視能力を軽視《けいし》し、しかもそれを自覚するのが遅れたこと。あるいはそれらを見越《みこ》した作戦を立案できなかったこと――これは明らかに裏実行委員会の落ち度。勇者たちをいたずらに死地《しち》へ送り、教師たちをして誇らしめた最終的な責任はなべて、夜会実行委員長たる俺ひとりにある」
「吉田……」
「終わりあってこその祭りだ、かねての予定通り撤収《てっしゅう》計画を実行に移《うつ》す。諸君《しょくん》は最後の一瞬まで各自の職務《しょくむ》を全《まっと》うされたし」
「それはわかったが吉田。おまえはどうするつもりだ?」
「俺か?」
このとき裏実行委員長が浮かべた笑みは、ひどく透明《とうめい》なものだった。
「指揮《しき》するべき一兵すらない指揮官に残された道はひとつだ。撤収作業が軌道《きどう》に乗るのを確かめたら、俺は俺なりのやり方で責任を取る」
「おい、まさか玉砕するつもりか? 新たな戦術があるわけでもなく、ましてや司令部のサポートもない――勝算《しょうさん》はゼロだぞ」
「むろん承知《しょうち》の上だ。最高責任者であるこの俺、吉田|平介《へいすけ》の殉職《じゅんしょく》をもって、無念《むねん》にも捕《と》らわれの身となった勇者たちへの手向《たむ》けとする。このままおめおめと生き残って恥《は》じぬほど、俺の面《つら》の皮《かわ》は厚《あつ》くないからな」
「ふん。最後の部分だけは俺も賛成《さんせい》だぜ」
井上がくちびるの端《はし》を吊《つ》り上げて笑った。敗軍の幹部《かんぶ》とはとうてい思えぬ、それはひどく不敵《ふてき》な笑いだった。
「このまま京都を去ったところで、どの面下げて神宮寺学園の敷地《しきち》を歩ける? 俺だって男の端くれだ、責任の取り方くらい承知しているさ」
「まさか……俺に付き合うつもりじゃないだろうな?」眉間《みけん》を険しくする吉田。「馬鹿な、散《ち》るのは俺ひとりで十分だ。お前まで玉砕することは――」
「おいおい勘違《かんちが》いするんじゃねーよ。誰が玉砕するなんて言った?」
井上は声を低める指揮官《しきかん》を鼻で笑い、
「俺たち裏実行委員の面目《めんもく》は、夜這いが見事《みごと》成功してこそ初めて保《たも》てるってもんだ。それに散っていった勇者たちだって、俺たちが同じ運命をたどるのを望んじゃいないだろう。ちがうか?」
「それは……そうかもしれんが……」
「それによ、今回の道連れは俺たちふたりきりってわけじゃなさそうだぜ?」
井上があごで指した先には、部屋に詰《つ》めている裏実行委員の面々が雁首《がんくび》を並《なら》べている。彼らの表情はそれぞれ違えど、等《ひと》しく『水臭《みずくさ》いじゃねえか、ええおい?』と雄弁《ゆうぺん》に語っていた。
「何週間もの間にわたって苦楽を共にしてきた仲だろうが。今さらおいしいところをひとりで持っていこうたって、誰も納得《なっとく》しねえよ」
「おまえら……」
「イベントに参加《さんか》している生徒たちの引き上げは、ボランティアのスタッフに任《まか》せれば事足《ことた》りる。部屋の現状|復旧《ふっきゅう》については旅館側にすでに話をつけてある。俺たち裏実行委員がもう一旗《ひとはた》あげる時間は十分にある――そうだろう?」
「…………」
しばしきょとんとしていた吉田が、やがてくっくっと笑い出した。
「まったく、救いようがないな。難攻不落《なんこうふらく》の別館と、鉄壁《てっぺき》の監視|網《もう》を張っている教師たちを相手にしょうとしてるのに……お前らときたらそろいもそろって、作戦を終えて帰ってきた後に飲むバーボンの銘柄《めいがら》を気にする顔してやがる。能天気《のうてんき》もここに極《きわ》まれり、だな」
「へっ、何しろ指揮官が指揮官なんでね」
「ふん……よし、まずは一般生徒たちが安全に撤収できるようサポートを。二目酔《よ》いの薬やら栄養剤やらもちゃんと飲ませておけよ、修学旅行は明日もあるんだからな。撤収の見通しが立ち次第《しだい》、すべての裏実行委員は最後の決戦に向けた準備に入る」
峻護が部屋の片隅からぼんやりと見守る中、裏実行委員たちはあわただしく、しかし整然《せいぜん》と立ち回って夜会の撤収を指揮し、それが済んだあとは短くも内容の濃《こ》いミーティングの末《すえ》に作戦を決定し、
「おい二ノ宮。起きてるか?」
出撃《しゅつげき》直前の昂揚《こうよう》の中、吉田がふいに声をかけてきた。
「なんだ、相当酔《そうとうよ》っ払《ぱら》ってやがるな……ひとりで部屋まで戻れるか? なんなら誰かスタッフをつけて送らせてやるが」
「いや。だいじょうぶだ」
「とてもそうは見えないけどな……まあいい、夜会の原則はあらゆる行動を白己《じこ》責任においてすること、だからな。ところで――」
吉田はやや改まった表情で、
「どうだ、楽しめたか夜会は?」
「…………。わからん」
「わからん? 楽しめたか楽しめなかったか、自分の心に聞いてみるだけだろうに……仕方のないやつだな。ま、お前らしいといえぱお前らしいが」
ふふん、とあごを持ち上げて笑い、
「これから俺たち裏実行委員は最後のパーティに出かけるが……二ノ宮よ、まだ部屋に戻る気がないんだったら、ちいとばかし生き証人《しょうにん》になってくれないか。俺たちが最後の最後に一発キメてくる名場面のな」
「夜這いか……?」
「まあな。俺たち裏方もそろそろ自分たちの夜を楽しみに行ってくる。お前も最後のぎりぎりまでたっぷり楽しんでくれや」
じゃあな、と言って片目《かため》をつむり、吉田はぐいっと親指を突き出してみせた。いい笑顔だった。写真にとって遺影《いえい》にすればぴったりはまるんじゃないかと思うくらいに、いい笑顔だった。
峻護はその笑顔に釣《つ》り込まれるように、問いを投げかけていた。
「ちょっと聞いていいか?」
「お? なんだ?」
「さっき――おれが女子の風呂場《ふろば》を覗《のぞ》きに行かされた時。お前はおれの身体《しんたい》能力でなければあの崖《がけ》を登れないと言った。たしかにあの崖はそうおいそれと登れるものじゃなかった。けど、あらかじめザイルとかの登山道具《とざんどうぐ》さえ用意しておけばさして厳《きぴ》しいコースでもなかった」
「ほう。それで?」
「女子の風呂場を覗くことは今日この旅館に来て初めて思いついたことじゃなく、おそらく最初からおまえのプランにあったはず。とすれば、裏実行委員のおまえならあの崖を簡単《かんたん》に登る方法をいくらでも用意できたはずだ。なぜそれを用意しなかった? 用意してさえいればクラスの大半《たいはん》が覗けた女子風呂を、なぜおれひとりに覗かせた?」
「そりゃおまえ、大勢《おおぜい》で覗きに行ったってどうせ気配《けはい》でばれるのがオチだろう。ばれるくらいならクラスの中の最精鋭《さいせいえい》――つまり二ノ宮ひとりを行かせたほうが成功の確率《かくりつ》は高いし、だったら生のお風呂シーンは我慢《がまん》して映像だけでも持ち帰らせるべきだと考えた。なんかおかしいか?」
「…………。じゃあ、もうひとつ訊く」
視線《しせん》は手にしている酒ビンに落としたまま、
「なぜおれに夜会のことを話した? おれの性格からして夜会に反対することは読めてたはず。なのになぜ、わざわざおれに話した? おれに黙《だま》ってこっそり夜会をやればそれで済んだはずだろう?」
「たしかに、おまえが眠ってる間に部屋を抜け出して夜会を開催《かいさい》する手もあったかもしれんな。だがそれだって、おまえが途中《とちゅう》で起きだしてこないという保証《ほしょう》はない。だったら初めから夜会の計画を明かしておいて、その上でおまえの行動を牽制《けんせい》しておいた方がより安全だ。実際その作戦は功《こう》を奏《そう》して、おまえは夜会の妨害《ぼうがい》を企《くわだ》てることはなかったじゃないか」
「それはおかしいだろう。だったら――」
「まあ質問はそのくらいにしておいてくれや」
なおも峻護が言いかけるのを、井上が横から笑って制《せい》し、
「こっちはこれからひと華咲《はなさ》かせようってところなんだからよ、どうせなら激励《げきれい》の言葉のひとつもかけてほしいもんだ」
「井上の言うとおりだな。二ノ宮よ、おまえはもう少し決死の覚悟《かくご》を決めた男たちへのいたわりの気持ちを持て。……よし、そろそろ出発するぞ。全員準備はいいか?」
応《おう》! という威勢《いせい》のいい声があちこちからあがり、司令室内はみるみるうちに出陣《しゅつじん》前の空気に満たされる。
「伝統《でんとう》ある夜会の歴史《れきし》に、俺たちの代で泥《どろ》を塗《ぬ》るわけにはいかない。いいか、やるからにはおまえら無様《ぶざま》な姿をさらすなよ? みごと夜這いに成功し、後世《こうせい》に語り継《つ》がれる伝説を俺たち自身の手で作ってやろうじゃないか!」
応! と、ふたたび気炎《きえん》を上げた十数名の戦士たちは、そろって門出《かどで》の杯《さかずき》を飲み干《ほ》し、マムシドリンクとすっぽんの粉末《ふんまつ》とイモリの黒焼きをちゃんぽんに口に入れてから、意気《いき》揚々《ようよう》と出撃していった。
かける言葉もなく、峻護は彼らの後姿をじっと見送った。
夜に沈《しず》む翠鳴館の敷地内《しきちない》を、決死隊《けっしたい》の面々が音もなく疾走《しつそう》している。
「なあ吉田よ」
「なんだ井上」
「二ノ宮のやつ、これを機会《きかい》にちったあ面白《おもしろ》みのある男になってくれりゃいいがな」
「ま、できるだけのことはやったさ。あとはあいつ次第《しだい》――今は作戦のことだけを考えるとしよう」
相棒《あいぼう》だけでなく自らにも言い聞かせ、吉田は今後の展開《てんかい》に思いを馳《は》せる。
敵戦力《てきせんりょく》の算定《さんてい》に修正を重ね、諸《しょ》状況と現有《げんゆう》戦力を最大限に生《い》かした最後の作戦は、十分に成算《せいさん》を見込んだつもりだ。だが夜会運営責任者として最前線《さいぜんせん》に立ちつづけてきた者として培《つちか》ってきた勘《かん》は、明確《めいかく》に彼らの未来絵図《みらいえず》を伝えてくる。この作戦がむなしくも失敗に終わるであろうという、歓迎《かんげい》すべからざる未来図を。
だがそれでいい。自分たちはもう十分に楽しみ、今からさらなる楽しみを味わおうとしている。パーティに供《きょう》された料理の中で唯一《ゆいいつ》のこったメインディッシュは、不器用《ぶきよう》な後進のために譲《ゆず》ってやるべきだろう。であれば、これから実行する作戦は派手《はで》であればあるほど陽動《ようどう》の効果《こうか》を発揮《はっき》する。おそらく裏実行委員の同志《どうし》たちは、吉田が意図《いと》したその目的も暗黙《あんもく》のうちに了解《りょうかい》しているはずだった。あとは最後の切《き》り札《ふだ》の心のうちひとつ――
ターゲットたる別館『泉水』の黒々とした威容《いよう》が見えてきた。
「――散会《ブレイク》!」
吉田が鋭く指を鳴《な》らすと、決死隊の面々は打ち合わせどおりに各自の持ち場に散っていく。最後の戦いの火蓋《ひぶた》が切って落とされる――
司令室内にとどまった峻護は、吉田の望みどおりに歴史の生き証人《しょうにん》となった。
何|機《き》もの携帯電話と外部バッテリーを並べたお手製《てせい》モニター群《ぐん》とノートパソコンの簡易《かんい》サーバーが、逐一《ちくいち》とはいかないまでもおおよその戦況《せんきょう》を伝えてくれた。逆転のトライを狙《ねら》う裏実行委員たちは雨どいを伝い、あるいは壁をよじ登って、宣言《せんげん》どおりの勇戦《ゆうせん》ぶりを示《しめ》した。だが監視者たる教師たちの行動もまたうわさどおりだった。彼らは迅速《じんそく》に、的確《てきかく》に、不逞《ふてい》な侵入《しんにゅう》を試みる生徒たちの前に立ちはだかり、ひとりまたひとりとお縄《なわ》にかけていった。
最後の最後までしぶとく生き残った吉田と井上も抵抗《ていこう》むなしく捕《と》らわれの身となり――
その瞬間、夜の修学旅行の主役《しゅやく》であった夜会の司令部は名実《めいじつ》ともに崩壊《ほうかい》し、静かに始まって大いに沸《わ》いた夜会は、始まりと同じく静かに終わりの幕《まく》を下ろした。
「…………」
峻護はひとり、主《あるじ》のいなくなった司令室の壁《かぺ》にもたれ、今もなお黙々《もくもく》と酒盃《しゅはい》を重ねている。一度勢いがつくとペースが落ちないのは姉ゆずりだろうか。矇朧《もうろう》としていようと意識を半《なか》ば手放しかけていようと、峻護が胃に流し込むアルコールの量は常《つね》に一定に保《たも》たれていた。
ずっと考えているのは、先ほどは口にできなかった反論《はんろん》である。
『最精鋭の峻護だけを行かせる』必要は、やはりなかったと思う。大勢で行けば気配を悟《さと》られるということであれば、たとえば吉田が単身《たんしん》で行ってもよかったはずだ。夜会の首魁《しゅかい》であり、玉砕覚悟の特攻《とっこう》まで仕掛《しか》けるやつが、覗き行為が露見《ろけん》することを恐れていたとも思えないし、崖を登る事前《じぜん》準備だって吉田ならいくらでもできただろう。だが彼のやったことといえば、崖の攻略が困難《こんなん》であることを言い立て、攻略可能な人材が峻護ひとりであることを喧伝《けんでん》し、クラス中の期待《きたい》を峻護の一身《いっしん》に集めただけではないか。
あるいはまた、峻護に夜会の情報を漏《も》らす必要はなかったと思う。吉田はむしろ積極的に夜会の存在を明らかにすることで峻護を牽制したと言う――確かに早々《はやばや》と夜会反対の立場を明確《めいかく》にした峻護は、真由が夜這いされる可能性のあること、ただし彼自身が先んじて真由に夜這いを仕掛ければ他の男子生徒は真由に手を出さないであろうことを示唆《しさ》され、夜会反対の声をトーンダウンさせた。そして結果として、峻護は夜会の実施《じっし》をなんら妨害することはなかった。だが結果的に用《もち》いなかったというだけで、峻護の手には学校側に密告《みっこく》するという、もっとも簡単で確実に真由を護るカードは残されたままだったのだ。結局のところ吉田は峻護を牽制したというより、むしろ真由への夜這いをそそのかしただけなのではないか――
『峻護さんはいいご友人をお持ちです』
誰かの声が脳裏《のうり》をゆさぶり、峻護は知らず吐息《といき》をもらした。
べつに『つまらない男』のままでよかったのだ。朝の決まった時間に起き、家事《かじ》をこなして登校し、早弁《はやベん》も内職《ないしょく》もせずに授業《じゅぎょう》を受け、休み時間は予習復習《よしゅうふくしゅう》にあて、授業が終われば寄《よ》り道などせず真《ま》っ直《す》ぐ家に帰る――そんな自分に何ひとつ不都合は感じていなかったのだ。
だがあらゆる状況は、彼を『つまらない男』のままでいさせないよう、激流《げきりゅう》の速さを伴《ともな》って動き始めているようである。公私《こうし》を問わず、時と場所とを問わず。
「ったく……」
もうひとつ吐息《といき》をはき、峻護は仰々《ぎょうぎょう》しく立《た》ち上がった。彼自身の指向《しこう》や嗜好《しこう》はともかく、二ノ宮峻護は男のはしくれであり、であるからには人様《ひとさま》から受けた厚意《こうい》に応《こた》える道は知っているのだ。
峻護は司令室に残された『翠鳴館』の見取《みと》り図《ず》、夜会の進行にともなって集められた報告書などを手当たり次第にかき集め、酔いの回った、しかし冷静な頭でそれらとにらめっこを開始する。
やがて名実《めいじつ》ともに最後の挑戦者《ちょうせんしゃ》になるであろう少年の両目に勝算の目処《めど》がきらめくと、ひとりで門出《かどで》の杯を干《ほ》し、マムシドリンクとすっぽんの粉末とイモリの黒焼きをちゃんぽんに口に入れてから、部屋の扉《とびら》に手をかける。
頭の中にあるのは、夜会が盛《も》り上がっている間も、深刻《しんこく》げなやりとりを交わしている間も、司令室を出て行く瞬間も――どんな時もやたら楽しげな面構《つらがま》えをしていた、裏実行委員の面々の顔だ。
――さて。
あいつらみたいに楽しめるかどうかは知らないが。
一丁《いっちょう》、やってみるとするか。
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其の四 ふたたび転
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そのころ別館《ぺっかん》『泉水《せんすい》』の警備《けいび》を担当《たんとう》していたのは、神宮寺学園《じんぐうじがくえん》一年C組担任、現文教諭《げんぶんきょうゆ》の水島修一《みずしましゅういち》(30)である。ひょろりと細長い身体《からだ》とこけた頬《ほお》から受ける印象《いんしょう》とは裏腹《うらはら》に、隠《かく》れたスポーツマンとして知られる若手《わかて》教諭のひとりだ。
『こちら中央|警備室《けいびしつ》。こちら中央警備室――』
薄闇《うすやみ》に包《つつ》まれた別館入り口|付近《ふきん》を重点的《じゅうてんてき》に巡回《じゅんかい》する彼の胸ボケットから、ふいにクリアな音声が響《ひび》いた。巡回役の教師たち全員に支給《しきゅう》されている小型|無線機《むせんき》である。
『水島先生聞こえますか? どうぞ』
「こちら水島。現在A−1地点を巡回中。特に異常はありません、どうぞ」
『了解《りょうかい》。引きつづき交代時間まで、任務《にんむ》の励行《れいこう》をお願いします――もっとも、さすがにもうこれ以上は組織的な侵攻《しんこう》もないでしょうが』
無線機の向こうの声が勝者の優越感《ゆうえつかん》をふくみ、水島教諭もまた口もとをほころばせた。
「同感です。さっきの大攻勢《だいこうせい》で『夜会《やかい》』の首謀者《しゅぽうしゃ》になりそうな悪ガキどもはほとんどひっ捕らえましたからね。それにあと一時間もすれば日が昇《のぼ》り始める――今年も我々《われわれ》の完全勝利でしょう」
『とはいえ散発的《さんばつてき》な侵攻くらいはあるかもしれません。ご油断《ゆだん》なきように』
「わかってますよ。それでは巡回をつづけます。オーバー」
通信を切り、水島教諭は大きく伸《の》びをする。視界《しかい》の端《はし》に映る男子生徒たちの居城《きょじょう》『芳風《よしかぜ》』はその巨躯《きょく》[#原本では旧字体]を闇《やみ》に横たえ、まるで老衰《ろうすい》した白亜紀《はくあき》の恐竜《きょうりゅう》が死《し》に体《たい》をもてあましているかに見えた。
生徒たちはどこまで知り得《え》ているだろうか。修学旅行の夜を闊歩《かっぽ》しているのは何も彼らだけでなく、教師たちもまたそうであることを。裏実行委員会よりさらに豊富《ほうふ》な資金力《しきんりょく》と、旅籠《はたご》『翠鳴館《すいめいかん》』との太いコネクションを生かして、教師たちが極《きわ》めて強力な監視《かんし》システムを構築《こうちく》し、密《みつ》に連携《れんけい》して不埒《ふらち》な生徒たちを能率的《のうりつてき》に取り締《し》まっていることを。神宮寺学園に勤務《きんむ》する教師の何割《なんわり》かは学園のOBであり、彼らもまた高校生の頃《ころ》には『夜会』に参加した身であることを。
生徒たちは知るまい――いや、注意深く読みを働かせればたどり着《つ》けない答えではないはずなのだが、今年の一年生男子たちにそこまでの能力《のうりょく》はなかったようだ。彼らには自らの能力にふさわしい結果がもたらされた、それだけのことである。
おまえたちには悪いが――と、優越感《ゆうえつかん》の中に多少の憐憫《れんびん》を混《ま》ぜて思う。夜会における精勤《せいきん》ぶりは、非公式《ひこうしき》ながらボーナスの査定《さてい》に大きく影響《えいきょう》するのだ。水島教諭自身、十数年前は夜這いに志願《しがん》し、あえなくお縄について厳しい折檻《せっかん》を受けた身である。生徒たちに多少の手心《てごころ》を加えてやりたい気持ちもなくはないのだが、なにしろボーナスが懸《か》かっているのだ。ここはまあ、世の中そんなに甘くはないということを生徒たちの身体《からだ》に教え込んでやるということで。簡単《かんたん》に成功するようではためにならないし、であればせいぜい彼らにとっての高い壁《かぺ》になってやるとしよう……。
「おやまあ。朝から精《せい》が出はりますなあ、先生」
と、本館の方角から作業着姿《さぎょうぎすがた》の中年女性がやってきて、方言《ほうげん》まるだしで水島教諭に声をかけた。リネン担当《たんとう》のスタッフらしく、白いシーツを満載《まんさい》した大きなワゴンを押してきている。
「生徒さんの監視おすか?」
「ええまあ。悪ガキどもの面倒《めんどう》を見るのもこれでなかなか大変でして」
「上のほうから聞いとりますけど、えろうご苦労さんなことおすな。花の都まで来て生徒さんたちのお守り……心中お察ししますわ」
「いやいや、これも給料のうちですから」
「あれまあ、ウチの旦那《だんな》にも聞かせてやりたい言葉やわあ。ウチの旦那ときたら、仕事から帰ってきたら飯くうて風呂はいって寝るだけ、洗《あら》い物《もの》のひとつも手伝おうとしいひん。そりゃあんた、毎日|残業《ざんぎょう》して疲れて帰ってくるんなら分かりますえ? 旦那ときたら勤務《きんむ》中《ちゅう》もほんまに仕事しとるかどうかわからんくらいヒマな公団勤《こうだんづと》めで、毎日|定時《ていじ》に帰ってきよるんですわ。それやったら少しくらい嫁《よめ》の仕事も手伝ったらええと思いまへん? ウチなんかこうして朝からパートにまで出とるいうのに」
「はあ……」
「そういやあんさん知っとります? ここの旅館の婿養子《むこようし》と小姑《こじゅうと》の話。養子の嫁いうのが経営者《けいえいしゃ》一家の長女で、小姑いうんが次女なんやけど。この小姑がな、いつもいつも婿養子に対してつらく当たることで有名《ゆうめい》やったんおすわ。ところがどっこい、この婿養子と小姑というのが実は――」
「いやまあ、そのあたりの話も興味がなくはないんですが」
だんだん口調《くちょう》が熱を帯《お》びてきたパート女性を、水島教諭はあわてて制《せい》した。このまま放っておけば朝っぱらから井戸端《いどぱた》会議《かいぎ》が始まりかねない。
「私もまだ仕事が残ってますので、そのお話はまた今度聞かせてもらうことにしますよ。では私、あちらの方を巡回に行ってきます」
あいさつもそこそこに、すたこらさっさと敷地《しきち》の裏手《うらて》の方に足を向けた。仮眠《かみん》は間に挟《はさ》んでいるものの、夜通しの警備《けいび》は三十路《みそじ》に突入《とつにゅう》した身体《からだ》にはつらい。名にし負《お》う『関西のおばちゃん』の世間話《せけんばなし》にお義理《ぎり》で付き合うだけの気力も、水島教諭には残っていなかったのだ……。
残されたパート従業員《じゅうぎょういん》は「ほなまたあとで〜」などと手を振《ふ》って若手教諭の背中を見送り、すぐにワゴンを押して別館の中に入ると、
「もうええで、あんさん」
山盛《やまも》りのシーツに顔を寄せてささやきかける。すると白い布《ぬの》の山がもぞもぞと動き始め、
「ぶはあっ! い、息苦しかった……」
中からモグラのように顔をつき出した少年がひとり。|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》である。
何十枚ものシーツに潰《つぶ》されてよほど呼吸《こきゅう》が困難《こんなん》だったのだろう。薄闇《うすやみ》にもはっきりとわかるほど顔面を鬱血《うっけつ》させ、しかし息を整《ととの》える間も惜《お》しんでワゴンから這《は》い出すと、
「すいません、無理《むり》を頼《たの》んでしまって。助かりました」
「ええよええよ。せっかくの色男《いろおとこ》の頼みや、聞いてやらなバチが当たるわ。あんたの言うとおり演技《えんぎ》したつもりやけど……あんな感じでかまへんかった?」
「ええ、完壁《かんぺき》です。ありがとうございました」
「かまへんかまへん。せやけど若いってのはええもんやねえ。うちも昔を思い出すわ……あ、くれぐれもうちが手助けしたことは内緒《ないしょ》にしといてな?」
「もちろん。ほんとうにお世話《せわ》になりました」
「ほな、がんばりや〜」
人のいい笑顔でワゴンを押していく協力者に深々《ふかぶか》と頭を下げてから、峻護は素早《すばや》く行動を開始した。
フクロウ並《な》みに利《き》く夜目《よめ》で監視カメラの類《たぐい》を慎重《しんちょう》に探りながら、安全なルート、あるいは死角《しかく》に入るルートを手探りしつつ進んでいく。酒がたっぷり入っているとはとうてい思えない、俊敏《しゅんびん》で繊細《せんさい》な行動だった。最精鋭《さいせいえい》とまで評価《ひょうか》された男の面目躍如《めんもくやくじょ》といったところだろう。
ひょっとすると――と峻護は考える。これもまた、吉田や井上が立案《りつあん》した作戦の一部だったのではあるまいか。トロイの木馬《もくば》の又従姉弟《またいとこ》のような峻護の策《さく》は、べつにそれ自体は奇想《きそう》でもなんでもなく、むしろ悪知恵《わるぢえ》の働く裏実行委員の連中なら当然|選択肢《せんたくし》に入れていいもののはずだ。なのになぜ彼らがこの策を採《と》らなかったかといえば、策を成功させるための諸条件《しょじょうけん》が満たされなかったからでしかない。教師たちが通常《つうじょう》の警備|体制《たいせい》を敷《し》いている時であれば必ず検問《けんもん》を受け、あっさり露見《ろけん》していたはずだ。彼らの疲労《ひろう》がもっとも濃《こ》い時間|帯《たい》であったこと、そして司令部《しれいぶ》の面々が自ら特攻《とっこう》を仕掛《しか》けて敗滅《はいめつ》し、『もうこれ以上は組織的《そしきてき》な侵攻はないだろう』と教師たちに思わせ、油断《ゆだん》を誘《さそ》ったこと。これらの条件がそろって初めて、単純でありふれた策は効果《こうか》を発揮《はっき》したのだ。
付け加えるなら、吉田や井上のような悪ガキどもがパートのおばちゃんに頼《たの》み込んだとしても、引き受けてくれたかどうかはかなりあやしい。峻護のような少年が誰に強制《きょうせい》されるでもなく自主的に、真剣に頼んだからこそ、あのおばちゃんも快《こころよ》く引き受けてくれたのではあるまいか――
(これはひょっとすると、あいつらに踊《おど》らされたかな……?)
そう思わなくもない。だが峻護を踊らせるために裏実行委員の連中《れんちゅう》が自らを犠牲《ぎせい》にしたことは疑《うたが》いの余地《よち》はない。であれば、それに応《こた》える道はやはりひとつだった。
侵入者《しんにゅうしゃ》は猫《ねこ》のようなしなやかさで、音もなく館内を移動《いどう》する。館内にある気配《けはい》は立ち並ぶドアの向こうにある寝静《ねしず》まった人々のものばかり。裏実行委員たちも洞察《どうさつ》していたように、実際《じっさい》に巡視《じゅんし》に出ている教師の数はかなり少ないようであった。おそらく教師たちは裏実行委員のそれよりも遥《はる》かに撤密《ちみつ》な監視《かんし》カメラ網《もう》を構築《こうちく》し、ごく少数の人員で広い範囲をカバーしているのだろう。であれば、理論上《りろんじょう》は難《むずか》しい話ではない。いくつ監視カメラを設置《せっち》したところで死角は必ず生まれるのだから、そこを選んで進んでいけばいいのだ。
もっとも、それは本来|机上《きじょう》の空論《くうろん》と呼ぶべきものである。薄暗い建物の中に数多く設置された監視カメラをすべて探知《たんち》し、その撮影範囲《さつえいはんい》を誤《あやま》りなく見極《みきわ》めるなど、普通の人間にできる芸当《げいとう》ではなかった。教師たちの張《は》った監視網は完壁《かんぺき》に近いものだったが、彼らは普通でない人間の侵入についてまでは考慮《こうりょ》にいれなかったのである。
これ見よがしに設置された、おそらくは囮《おとり》用なのであろう大型カメラも、巧《たく》みに隠された本命の小型カメラも、峻護は驚嘆《きょうたん》すべき視力《しりょく》と直感で分け隔《へだ》てなく探り当て、正確に死角を算出し、その間を縫《ぬ》って別館を侵略《しんりゃく》していく。ターゲットは一年A組女子たちにあてがわれた『白鶴《はくつる》の間』。順調《じゅんちょう》に行けば、ほどなくして目的を達《たっ》するかに見えた。
が、十分に警戒していたつもりでも穴があった。監視カメラを警戒するあまり、足元に仕掛《しか》けられた原始的な罠《わな》を見落としていたのである。
ちりん……と、すぐそばで鈴《すず》の音が鳴った。はっと足元を見やると、ほとんど透明《とうめい》なテグス糸が一本、廊下《ろうか》に張《は》られ、小さな鈴と連結《れんけつ》されているのが見えた。ここに到達《とうたつ》するまでのしばらくの間、監視カメラはすべて天井《てんじょう》近くに設置されていた。つまりそれは侵入者の注意を上方に向けさせるための細工《さいく》だったのだろう。単純だが、きわめて狡猜《こうかつ》で効果の高い罠だった。
鳴《な》り響《ひび》いた音は決して大きなものではない。だが罠を仕掛《しか》けた側にとってはそれで十分のはずだった。侵入前後の状況を通して、峻護は初めて緊張《きんちょう》を覚えた。まずい。ここは廊下のど真ん中で、身を隠《かく》せるようなスペースはわずかもない。駆《か》け足で近づいてくる気配がふたつ。ちょうど廊下の端《はし》と端を抑《おさ》える位置に、今にも誰かが現れようとしている。足音の主が旅館のスタッフのものだと考えるほど、峻護は楽観的《らっかんてき》になれなかった。
絶体絶命《ぜったいぜつめい》。
――が、神はまだ彼を見捨《みす》てなかった。あわてて視線《しせん》をめぐらせた先にあった、部屋の名を記す札。その名に聞き覚えがあったのだ。
峻護の決断《けつだん》は早かった。
「お願いします、開けてください! おれです! お願いします!」
ドアに縫《すが》りつくようにして鋭《するど》いノックを繰《く》り返す。こんな時間に部屋の主《あるじ》が起きている可能性《かのうせい》は低いし、いきなりの訪間者《ぼうもんしゃ》を招《まね》き入れる可能性はもっと低い。だがこの時、峻護はよほど幸運の女神に気に入られていたのだろう。ほんの十秒ほどで、寝ぼけ気味《ぎみ》の声がドアの向こうから近づいてくるのがわかった。
「ちょっと保坂《ほさか》、なんですのこんな時間に。今日明日は休暇《きゅうか》を取っているのですから、仕事の話であれぱ現場の責任者に――」
がちゃり、無防備《むぼうぴ》にドアが開いた。事情《じじょう》を説明しているヒマはない、ネグリジェ姿《すがた》で目をこすっている生徒会長《せいとかいちょう》の脇《わき》をすりぬけて部屋に侵入し、静かにドアを閉めた。
ほとんど間一髪《かんいっばつ》の差で、ドアの向こうから声が聞こえてくる……。
「おかしいな……たしかにこのフロアだったはずだけど。誰もいませんね」
「ですな。女子生徒の誰かがトイレにでも行って、寝ぼけてこのフロアに入ってきたのかもしれませんな」
「この別館は九割以上ウチの生徒が使ってますけど、一般《いっばん》の宿泊客《しゅくはくきゃく》もいないわけじゃないですからね。そっちの線もあるかもしれません。……まあしばらく様子をみましょうか。寝ぼけている生徒がいるなら部屋に戻《もど》してやらないと」
お互いに肩をすくめ合っている姿が目に見えるような、男性|教諭《きょうゆ》ふたりの声。しぱらく廊下に留《とど》まるつもりのようだし、このままここでやり過《す》ごすしかない――のだが。
「…………」
ドアに背をもたせ掛《か》けた姿勢《しせい》のまま、峻護はそっと部屋の主を見やる。
「…………」
北条《ほうじょう》麗華《れいか》はゆっくりと瞬《まばた》きしながら状況を飲み込もうとしているようだったが、やがてその表情に一気に理解《りかい》の色が広がると、
「にっ、二ノ宮峻、どっ、どうし――むぐぅ!」
反応《はんのう》を予期《よき》していた峻護は素早《すばや》く令嬢《れいじょう》の口をふさぎ、非礼《ひれい》とは思いつつも細い両手首まで固定《こてい》して動きを封《ふう》じる。
てっきり抵抗《ていこう》して暴《あば》れると思い、その勢《いきお》いに備《そな》えていた峻護だが――令嬢の全身はその瞬間、液体窒素《えきたいちっそ》に漬け込んだみたいに硬直《こうちょく》。出来《でき》の悪いセルロイド人形のようにぴくりとも動かなくなってしまった。むろん彼女の心臓はサンバとワルツとポルカを同時に踊《おど》って大変なことになっているのだが、そこまでは峻護も気づかない。
「先輩《せんぱい》……?」
「…………」
「ええと、今から手を放しますが、勝手《かって》ながらお願いさせてください。先輩に危害《きがい》を加えるつもりとかはこれっぽっちもないので、大声とかは出さないでほしいんです。お願いします」
こくこくこく。
峻護がセリフを言い終えないうちから激《はげ》しく首を上下させる麗華。この調子だと『リオのカーニバルの格好《かっこう》で社交界《しゃこうかい》に出席してください』と要求《ようきゅう》してもすんなり頷いてくれそうである。
少々不安ではあったが、そろりそろりと手を放す。麗華はロボットの動きでカクカクと峻護から離《はな》れ、「あ……う? え? うあ?」意味不明《いみふめい》な音声をくちびるから漏《も》らしつつ彼に向き直った。
あんまり刺激《しげき》しない方がいいかもしれない……そう判断《はんだん》して口をつぐむ峻護を尻目《しりめ》に、部屋の主は頬《ほお》をつねったり、何やら聞き取れない声でぶつぶつ呟《つぶや》いて首をひねったりしていたが、どうやら彼女なりに状況《じょうきょう》を把握《はあく》したらしい。暗がりの中でもはっきりわかるほど顔を真っ赤にして、
「そ、そんな、だって、こんな時間に来るなんて思わないから、せっかく勇気を出して部屋の場所も教えたのに、ずっと待っててもちっとも来ないから、腹立《はらだ》ち紛《まぎ》れにベッドで暴《あば》れてたらいつの間にか寝《ね》てしまってて、こっ、このネグリジェだって急遽《きゅうきょ》手に入れてきたフランス製《せい》で――あああっ? わたくしったらこんなはしたない格好《かっこう》で男性の前に――って、ああでもいいんですわよね、本来《ほんらい》見せるために着ているんですものね、で、でもっ、もう来ないと思ってたからわたくし、心の準備がまだ――」
弁解《べんかい》したいのか糾弾《きゅうだん》したいのか歓迎《かんげい》したいのか判然《はんぜん》としない言葉を無秩序《むちつじょ》にならべ立てる令嬢《れいじょう》だが、実のところ峻護の耳にはノイズとしてしか聞こえていない。彼の神経《しんけい》はいま、ドアの向こうにいる教師たちの動向《どうこう》に集中しているのだ。それに加え大量に摂取《せつしゅ》したアルコールのために、機能《きのう》している神経|自体《じたい》が普段《ふだん》より大幅《おおはぱ》に減退《げんたい》していたりもする。でなければいかに緊急《きんきゅう》事態《じたい》とはいえ、こんな時間に女性の部屋を訪問《ほうもん》するなど彼にできたはずもない。
「誰も来ませんね……我々が来る前に部屋に戻ったのかな?」
「そのようですな……まあ戻るとしますか。そろそろ交代《こうたい》の時間だし、いいかげんゆっくり休みたいものですよ」
「同感です。いくらボーナスのためとはいえ、この超過勤務《ちょうかきんむ》は正直きついですよ……」
笑いあう教師たちの気配が次第《しだい》に遠ざかっていく。どうやら最大のピンチを切り抜けることができたようだ。
「ふう……助かった」
「ですからつまりわたくしは、あなたがどうしてもと望むのならここで契《ちぎ》りを結ぶことも決してやぶさかでは……って、え? 何が助かったんですの?」
「恩《おん》に着ます先輩。あやうく男を下げるところでした。では先を急ぐので、これで失礼します」
「えっ? ちょ、ちょっとあなた、それじゃあいったいここまで何をしに――」
呆気《あっけ》にとられる令嬢などほとんど目に入っていないかのように峻護は深々とお辞儀《じぎ》をし、ごく礼儀《れいぎ》正しく部屋を辞去《じきょ》した。自分の行動が令嬢にどんな期待《きたい》を抱《いだ》かせるものであるかまるで気づかず、あるいはあまりにいつもどおりに振《ふ》る舞《ま》ったがゆえに酔《よ》っ払《ぱら》っているなどとは露知《つゆし》られぬまま、そして夜這《よば》いが目的であれば別にこの部屋を終着点《しゅうちゃくてん》にしてもいいのではないか、などという考え方には思いも及《およ》ばぬまま。
「こっ――」
同情に値《あたい》する少女の魂《たましい》の叫《さけ》びが、旅館全体を震《ふる》わせるがごとくに響《ひび》き渡った。
「この時間に女性の部屋を訪《たず》ねておいてそれだけですかあの朴念仁《ぼくねんじん》――――――っ!」
「…………?」
長々と尾《お》を引いたヒステリックな叫《さけ》びを耳に入れてもわずかに首を傾《かし》げたのみで、峻護は己《おのれ》に課《か》した任務《にんむ》を黙々《もくもく》と続行した。ひどい男ではあるが、責任《せきにん》の半分は彼の体内を浸《ひた》すアルコールにある。多少は情状《じょうじょう》 酌量《しゃくりょう》の余地《よち》もあろう。
ともあれ、彼の大任《たいにん》も終わりが近づいていた。目指す『白鶴の間』は、彼の記憶が確かであればもう目と鼻の先にまで迫《せま》っている。
(よし、もう一息だ……)
慎重《しんちょう》な前進を続けつつも峻護の血は沸《わ》き、肉は躍《おど》った。
――この時の彼は気づいてなかったのだ。いつにない情熱をもって本来|不埒《ふらち》であるはずの行為《こうい》に没頭《ぼっとう》している理由は、友人たちのそそのかしや酒の勢いのせいだけではないことを。それとは別の要素《ようそ》が彼の中に入り込み、彼をここまで駆《か》り立ててきたことを。
三階から四階につながる階段を登りきり、壁《かべ》から注意深く廊下に顔を出すと、いよいよ『白鶴の間』は視界《しかい》に入るはず。
峻護はそのシミュレーションどおりに行動しようとして――
旅寵《はたご》『翠鳴館《すいめいかん》』全体を巻き込む大規模《だいきぼ》な停電《ていでん》が発生したのは、その瞬間《しゅんかん》であった。
(て、停電――っ?)
部屋を出てそう何歩も行かないうちに突然《とつぜん》視界《しかい》が闇《やみ》に覆《おお》われ、月村《つきむら》真由《まゆ》は他愛《たあい》もなく動揺《どうよう》した。
(わわ、懐中電灯《かいちゅうでんとう》はどこに――って、そんなものないですよね、ええと消火器《しょうかき》はどこでしたっけ? じゃなくて、防災《ぼうさい》セットはどこにしまってあるんだっけ――)
お世辞《せじ》にも突発《とっぱつ》事態《じたい》に強いとはいえないサキュバス娘《むすめ》は混乱《こんらん》のままに右往《うおう》左往《さおう》、だがほどなくして冷静さを欠《か》く行動の愚《ぐ》を悟《さと》り、
(落ち着いて、落ち着いて。明かりがなくたって今すぐどうこうってわけじゃないんだから)
深呼吸《しんこきゅう》数回の後、さしあたりの立ち直りに成功した。
こうして突然の停電に水を差されて落ち着いてみると、自分が何をするつもりだったかに思い至《いた》って赤面《せきめん》する。日奈子《ひなこ》に煽《あお》られて居《い》ても立ってもいられず部屋を出てきたが……
まったく、はしたないにもほどがある。よもや女性のほうから男性の部屋に押しかけようとするなんて!
自戒《じかい》の言葉を何度か呟《つぶや》いてから、真由は改《あらた》めて自分の置かれた状況《じょうきょう》に思いを巡《めぐ》らせ、すぐに血圧《けつあつ》が低下するのを自覚《じかく》した。いったい自分は今、どこにいるのだろう? 北を向いてるのか南を向いてるのかもわからず、それどころか階段を何階上がって何階下りたのかもわからない……自分の現在地《げんざいち》がものの見事《みごと》にわからなくなってしまっている。
(うう……な、情けない……)
ひかえめに言ってもひどい方向音痴《ほうこうおんち》で、ひとたび位置《いち》感覚を手放してしまうともうお手上げな真由である。まして目の前でナイフを突き出されても気づかないほどの暗闇の中とあっては。
(ひょっとしてわたし……旅館の中で遭難《そうなん》してる?)
我《われ》ながら情けなさすぎる話である。深山幽谷《しんざんゆうこく》の中で道を失ったとかいうならともかく、これでは恥《は》ずかしすぎて助けも呼べない。おまけに草木も眠るこんな夜更《よふ》けだし、助けなど呼べば周囲《しゅうい》に迷惑《めいわく》をかけること大であろう。
(仕方《しかた》ないです、なんとか自力で部屋に戻るしか……)
残念ながら夜目もあまり利《き》かない真由は文字通りの手探りで壁《かべ》を伝いながら、ふらふらと頼《たよ》ない足取りで廊下を歩き始める。
(停電か――?)
一方、二ノ宮峻護は酔っ払っていても反応《はんのう》が早い。視界が真っ暗になったコンマ数秒後には全身をこれすべてセンサーのように研《と》ぎ澄《す》ませ、周囲の気配に走査《そうさ》の触手《しょくしゅ》をのばしつつ地を這《は》うような体勢《たいせい》を整《ととの》え、あらゆる危機《きき》に対処《たいしょ》できるよう備《そな》えている。姉から受けた多岐《たき》にわたる特訓《とっくん》の成果《せいか》であり、彼のこの行動《こうどう》を見ていれぱグリーンベレーの精鋭《せいえい》も舌《した》を巻くことだろう。
もっとも、物陰《ものかげ》から正体|不明《ふめい》の敵が躍《おど》り出てくるようなことはなかった。見た目どおりに単《たん》なる停電らしい。
(だが――どうする?)
状況の急転は峻護に選択を強《し》いる。これだけ大規模《だいきぼ》な停電となれば、巡回《じゅんかい》の教師たちは今まで以上の警戒をもって仕事にあたるだろう。仮眠《かみん》を取っている教師たちも起きだしてくる可能性が高く、いま行動を起こすのは危険かもしれない。だが同時にこの状況はチャンスでもあった。峻護の目でもまったく視界の利かないこの惣闇《つつやみ》、教師たちにとってはなおさら行動の自由を奪《うば》われるはず。電源が回復《かいふく》するか、あるいは懐中電灯などを用意するまでに、軽い混乱《こんらん》も発生するだろう。そして何よりこれだけ真っ暗であれば監視カメラも用を為《な》さない。
短い逡巡《しゅんじゅん》の末、峻護は決断《けつだん》した。
改めて周囲をさぐり、動くものの気配がないことを確認してから移動《いどう》再開。目的の部屋はすぐ手の届《とど》く位置にある、小細工《こざいく》なしに一直線に突《つ》っ切《き》って――
「うおっ……!」
数歩も行かないうちに障害物《しょうがいぶつ》に激突《げきとつ》、バランスを崩《くず》して障害物もろとも床にもんどりうって倒れこんだ。廊下の柱《はしら》にぶつかったとかではない、明らかに生身の人間の感触《かんしょく》。一瞬聞こえた小さな悲鳴《ひめい》から察《さっ》するに、この階に部屋を割り当てられている女子生徒のひとりか。停電の異常《いじょう》を察《さっ》して廊下に出てきたものかもしれない。
ほぼ同時、廊下の向こうから教師たちの声が複数《ふくすう》聞こえた。電源がどうのブレーカーがどうのとささやき合いながらこちらに近づいてくる。
(くそっ――)
己《おのれ》の気配|察知《さっち》能力をののしりつつも迷っているヒマはない、目の前に倒れている(のであろう)女子生徒に腕《うで》を伸《の》ばして腰《こし》のあたり(と思われる部位)に回し入れ、軽々と抱《かか》えて壁際《かべぎわ》に身体を滑《すべ》り込ませた。停電前に確認していたところによればそのあたりは清掃用具《せいそうようぐ》の置き場所になっていて、わずかながらスペースが空いていたはずだ。
果《は》たして峻護の目算《もくさん》どおり、そこはちょっとしたくぼみになっており、かろうじて人間ふたりを収《おさ》めるだけの容積《ようせき》は確保《かくほ》されていた。だが一息つくのはまだ早い、峻護は無礼《ぶれい》を承知《しょうち》で腕の中の少女の口(があると思われる場所)に手を伸ばし、言論《げんろん》の自由を封《ふう》じた。
そして彼女が暴れだす前に素早《すばや》く告げる。
「お願いだ、声を出さないで。頼む」
声に滲《にじ》み出る必死《ひっし》さが通じたのだろうか。相手はわずかに身をよじっただけでひとことも発せず、そのまま借りてきた猫のように大入しくなった。物分《ものわ》かりのいい少女で助かった。この子が誰だかは知らないが、あとはこのまま教師たちをやりすごして――
「…………。え?」
次の瞬間、峻護の心臓が動きを止めた。自分の首筋《くびすじ》に温かい感触《かんしょく》が絡《から》み付いてきたからである。視界《しかい》がまったく利《き》かない暗闇の中でも、それが人間の腕の感触であることは明らかだった。
「ちょ、え? う?」
狼狽《ろうばい》を示《しめ》す峻護を制《せい》するかのように「シー……」っという音が聞こえた。おそらくは目の前の少女が発した音、たぶん人さし指をくちびるの前に立てて『静かに』のゼスチャーでもしているのだろう。
声を立てるべきでない状況であることはわかりきっていたので、相変《あいか》わらず狼狽しつつも峻護は口を閉じた。だが一体なぜ? どうして彼女の腕が自分の首に回されている? というかそもそもこの子は誰?
頭の中が無数のハテナマークで埋《う》め尽《つ》くされている峻護を放置《ほうち》して、状況はさらに進行する。首を拘束《こうそく》する二本の腕は艶《なま》めかしく動作《どうさ》し、まるで峻護を愛撫《あいぶ》しようとしているかのよう――いや、『まるで』ではなく、どうみても愛撫していた。これだけでも峻護の頭をパンクさせるのに十分なのに、少女の片手は彼の首を拘束する役を解《と》かれ、はだけた浴衣《ゆかた》の間から胸元に侵入《しんにゅう》してくる。細くやわらかい指先が引き締《し》まった厚《あつ》い胸板《むないた》をいたずらげになぞった。触《ふ》れるか触れないかのぎりぎりの力|加減《かげん》、それでいて決してくすぐったくはなく、あくまでも快楽《かいらく》をほじくり出そうと意図《いと》した動き――ぞくぞくと鳥肌《とりはだ》の立つ、えもいわれぬ感触《かんしょく》が峻護の全身を支配《しはい》する。さらに追い打ちをかけるがごとく、彼の首筋に温かい吐息《といき》がかかった。少女が紡《つむ》ぎだすひどく甘い吐息。男の理性《りせい》をてろてろ[#「てろてろ」に傍点]に蕩《とろ》かす、甘い甘い毒《どく》の吐息だ。しかも少女はそれだけで飽《あ》き足らず、ぬめった感触を首筋にあてがってくる。そのひどくやわらかくて湿《しめ》り気《け》を帯《お》びた感触は峻護の知る限り、くちびる以外のものではありえない。紅色《ぺにいろ》の食虫花《しょくちゅうか》を思わせる感触が首筋を上下し、まるで挑発《ちょうはつ》するかのように嬲《なぶ》り、いたぶってくる。
(おかしい。変だ――)
峻護は少女の行為にまったく抵抗《ていこう》できない自分を知り、ようやくそんな自分をいぶかしみ始めた。いつもの自分ならこんなみだらな行為に身をゆだねるなどありえない。無礼非礼《ぶれいひれい》を承知《しょうち》で自分の貞操《ていそう》を守りきるべく、突き飛ばしてでも相手を拒絶《きょぜつ》するはずだ。
いや、おかしいといえばそもそも、こんなところにまで夜這いをしにきている自分こそがおかしい。吉田《よしだ》や井上《いのうえ》たちの無念《むねん》を晴らすという目的を果たすためだけなら、警戒網をかいくぐってここまで侵入を果たせただけでも十分のはずだ。それ以上のことまで付き合う必要はない。なのにどうしてこんなところまで――『白鶴の間』のすぐそばまでやってきている?
明らかに何か一枚、得体《えたい》の知れない薄《うす》い靄《もや》が、峻護の意図《いと》とは別に彼の理性を覆《おお》っている。その靄が理性の働きを鈍《にぶ》らせ、堅物《かたぶつ》の少年に常《つね》にない行動を取らせているのだ。決して酔いのせいなどではない。この、酸に漬《つ》け込んだ物体がゆっくり溶解《ようかい》していくように理性が蕩かされていく感覚は――
宇宙《うちゅう》の深遠《しんえん》と同等の暗闇の中、混線《こんせん》しまくった頭がようやく結論《けつろん》をはじき出した。そうだ、この感覚をおれはよく知ってるぞ。かつてこの感覚に幾度《いくど》も理性を絡《から》め取られ、おれはモラルとインモラルの狭間《はざま》をさんざん彷徨《さまよ》ってきたんだ。
間違《まちが》いない。
いま目の前にいる少女は、生命元素《せいめいげんそ》関連因子《かんれんいんし》欠損症《けっつそんしょう》――異性《いせい》の精気《せいき》を吸《す》うことで生命を維持《いじ》している人種、サキュバス。
ということは、暗闇《くらやみ》に沈《しず》んで判然《はんぜん》としないこの少女の正体は――まさか――
次の瞬間。
二ノ宮峻護は、彼の記憶にかつてない事象《じしょう》を、彼の意思によらず経験することとなった。
『くちびる以外のものではありえない』、ひどくやわらかくて湿り気を帯びた感触が――
彼自身のそれの上に、そっと重ねられていた。
「あのう……」
ひかえめなノックとともに自信のなさげな声が聞こえる。
「ここは一年A組女子の部屋、『白鶴の間』でよろしいでしょうか……?」
「おっ、真由? 帰ってきた?」
いまだ明かりの戻らぬ部屋を手探《てさぐ》りで横切り、日奈子は友人のためにドアを開けてやった。むろん開けたところでこの暗闇っぶりである、ドアの向こうに誰が居《い》るのか肉眼《にくがん》で確認《かくにん》することなど不可能だが、
「あっ、日奈子さんですか? よかった、間違えてたらどうしようと思いました」
安堵《あんど》の声は確かに月村真由のものだった。
「いきなりの停電だからねえ……まあとにかく入った入った」帰還《きかん》を果たした友人に手を差し伸《の》べ、部屋に迎《むか》え入れてから、「で? 首尾《しゅぴ》はどうだった?」
「えっ? ええと……首尾というのはっ? 何のことですかっ?」
「今さらごまかしたってバレバレだっつーの。トイレに行くとかなんとか言って、ほんとは二ノ宮くんの部屋に行ってみるつもりだったんでしょーに」
「あう……バレバレですか……」
「うむ。で、どうだったん? ちゃんと二ノ宮くんの部屋に行ってえっちぃことしてきた?」
「そっ、そんなことしませんよ! わたしはただその、心配というかなんというか、居ても立ってもいられなくなって、それで――」
「はいはいわかったわかった。で、行けたわけ? 行けなかったわけ?」
「うう……それは……」
闇の中ながら落胆《らくたん》の様子《ようす》が目に見えるような声で、
「なにしろ部屋を出てすぐ停電で真っ暗闇だったし、旅館の中で遭難しかけるし、どうにかここまで戻ってくるのが精一杯《せいいつばい》で、それだってわたしにしては奇跡的《きせきてき》に早く戻ってこれたほうだと思ってて――」
「そりゃまあ、そうか。あんたが出てってから何分も経《た》ってないしねえ。けっきょく二ノ宮くんとなーんにもできなかったどころか、会うことさえできなかったってわけね」
「ハイ……」
がっくり肩を落とす落伍者《らくごしゃ》の頭を「おーよしよし」と撫《な》でながら、日奈子は一転して眉間《みけん》にしわをよせ、
「それにしてもつまらん。もうそろそろ朝になるってのに、誰ひとりとして男子が遊びにこないじゃんか。まったくフニャチンどもめ。ええいこうなったら――」
がさごそと自分のカバンをあさり始めた。いまだ睡魔《すいま》に身をゆだねる気のない同部屋の面々《めんめん》が「なんだなんだ」と注目する中(といっても闇夜《やみよ》にカラス状態《じょうたい》だが)、日奈子は部屋の真ん中で仁王立《におうだ》ちになり、
「静まれ静まれぃ! ここにおわすお方をどなたと心得《こころえ》る! 恐《おそ》れ多くも先の副将軍《ふくしょうぐん》、伏見《ふしみ》で醸造《じょうぞう》した純米大吟醸酒《じゅんまいだいぎんじょうしゅ》にあらせられるぞ! ひかえおろう!」
おお〜、とどよめきが起こり、下々《しもじも》の民は支配者《しはいしゃ》の周りに平伏《へいふく》した。どういうノリなのかいまいちわかってない真由ほしばらくきょとんとしていたが、数テンポ遅れてあわてて周囲《しゅうい》にならう。
日奈子はこほんと咳払《せきばら》いし、
「えーと、このままじゃなんか不完全燃焼《ふかんぜんねんしょう》な気がするので、お土産《みやげ》にするつもりだったこのお酒を提供《ていきょう》します。みんたでガツンと飲んでフテ寝しちゃおーぜ?」
「おっけー! そうしよそうしよ!」
「あ、それだったらあたし、お土産にするつもりだった京都|限定《げんてい》のおっとっとを提供するよん!」
「じゃ、あたしはさっき買った八《や》つ橋《はし》をおつまみに出す!」
「いや、ていうか八っ橋でお酒とかありえなくない?」
「もう何でもいいから飲んじゃえ飲んじゃえ! 今のうちに験直《げんなお》しして、明日また思いっきり楽しみましょっ!」
おおう! と鬨《とき》の声があがり、あわあわとうろたえる真由の前にも美酒を満たしたコップが回され、『白鶴の間』は時ならぬ夜明け前の大宴会《だいえんかい》へとなだれこんで――
転瞬《てんしゅん》、まるで宴《うたげ》の始まりを告げるかのように電源が回復《かいふく》し、部屋の中に絞《しぼ》った明かりが戻ってくる。
それ自体が生き物であるかのように動く舌が、ぬるり、とくちびるの間を割《わ》って侵入してきたその瞬間。峻護のすべてがトんだ。
いや、かろうじてこらえた。目の前にいる女[#「女」に傍点]をかき抱《いだ》こうと、精根果《せいこんは》てるまで味《あじ》わい尽くそうと伸《の》ばした両腕は、相手の肩にそえられたところでなんとか止まってくれた――否《いな》、むしろ止まってしまったというべきか。本来ならそのまま彼女を引き離《はな》すべく動かねばならない二本の腕は、石になってしまったかのようにぴくりともしない。その間にも少女の舌はやさしく、しかし執拗《しつよう》に――あるいはまた甘美《かんび》に、それでいて毒の味をもって、峻護のそれを蹂躙《じゅうりん》してくる。
もはや立て直しようのないほどに峻護は混乱《こんらん》していた。今の彼はただ必死に、反射《はんしゃ》に近い心理的作用《しんりてきさよう》で、最後の一線《いっせん》を越《こ》えぬよう踏《ふ》みとどまることしかできぬ木偶《でく》にすぎない。淫魔《サキュバス》の魅惑《みわく》に指の先まで絡《から》め取られた今となっては、もはや抗《あらが》う術《すべ》など皆無《かいむ》だった。
と、不意《ふい》に。半透明《はんとうめい》の糸を引いてくちびるが離れた。わずか、峻護の理性のはたらきを阻害《そがい》していた靄が晴れる。だがそれは獲物《えもの》を解放《かいほう》するための行動ではなかった。ひび割れた貞操《ていそう》の堤防《ていぼう》に決壊《けっかい》をうながすための予備《よび》行動に過ぎなかったことを、彼はすぐに知ることとなる。
ふたたび両腕が首の裏に絡められ、少女が甘い香《かお》りを漂《ただよ》わせながら顔を寄せてくるのがわかった。
そして峻護の耳元でぴたりと停止《ていし》。
か細く、それでいて情欲《じょうよく》に濡《ぬ》れそぼった熱い声で、少女はとどめのひとことを放った。
おねがい
と。
「――――!」
効果《こうか》は絶大《ぜつだい》だった。ひとこと、たったのひとことで、死に物狂《ものぐる》いでしがみついていた理性の切《き》れ端《はし》も塵《ちり》となって消えた。理性どころか意識すら吹き飛びそうな勢いで何かのタガがはずれ、峻護は獲物を抱《だ》き寄せた。相手が小さな悲鳴《ひめい》をあげるほどの力強さで。
そのまま少女の哀願《あいがん》に応《こた》えるべく、一切《いっさい》の迷いなく、先ほど少女がしてきたのと同じように、自分の意志をくちびると舌で表現するべく顔を近づけて――
刹那《せつな》。暗黒一色に塗《ぬ》りつぶされていた視界に、彩《いろど》りがよみがえった。
「あ――」
廊下に明かりが戻っている。ようやく停電が直ったのか、などとのんきに感想を漏《も》らすことはむろん不可能《ふかのう》。黒から白へ、無から有ヘ――唐突《とうとつ》なその変化が冷や水をあびせる役を果たし、峻護を一気《いっき》に青ざめさせた。おれは――おれはいったい今、なにをしようとしていた?
現実感覚がよみがえってくるにつれ、峻護は窒息寸前《ちっそくすんぜん》の金魚のように呼吸《こきゅう》をつまらせる。だが少年の受難《じゅなん》はそれだけにとどまらない。つ、と抱きかかえている少女に視線を落とした時、彼の世界は音を立てて凍《こお》りついた。
「そんな――」
混乱を極《きわ》めていたはずの意識がさらに輪《わ》をかけて混乱する.
最後まで踏みとどまっていた理性的|思考《しこう》で、自分はこう判断《はんだん》していたはずだ。貞操意識の固さでは人後《じんご》に落ちないこの二ノ宮峻護を籠絡《ろうらく》しうるのは、サキュバス以外にありえないと。だが彼の周囲に存在《そんざい》するサキュバスなど、片手の指でも余裕《よゆう》で足りるほどの数しかおらず、ましてや今この場に存在しうるサキュバスといえば二人しかありえず――
なのに。そのはずなのに。
自分が間半[#「半」に傍点]髪のところで不埒な行為に及《およ》ぼうとしていたのは――彼の貞操意識を不可抗力《ふかこうりょく》の魅惑で蕩けさせ、誘惑の陥穿《かんせい》におとしいれたのは――
「残念です。もう少しだったのに」
一年A組のクラスメイトにして修学旅行実行委員《しゅうがくりょこうじっこういいん》の相棒《あいぼう》である少女が。
ぺろりと舌を出し、メガネの奥の瞳《ひとみ》を無邪気《むじゃき》に、そして妖艶《ようえん》に揺《ゆ》らしていた。
「お、奥城《おくしろ》さん……? え? あれ? で、でもサキュバスのはずで……えええ?」
「峻護さん」
ふたたび惑乱《わくらん》のどん底に落ち込もうとする峻護をたしなめるように、
「停電の後に電源が回復したとなれば、何事《なにごと》か異常《いじょう》が残っていないか確かめるためにも先生方が各階を巡回にくるでしょう。お部屋に戻るのであれば今のうちに」
「うあ……た、確かにそうかもだけど……あ、あれ? 奥城さん……だよな? あれ? なんで? どうして?」
「峻護さん。迷っている時間はありませんよ?」
峻護のよく知る奥城いろりの顔と声で目の前の少女がたしなめ、同時に廊下の端《はし》で誰かの気配が湧《わ》くのを感じた。確かに迷っている場合ではない。状況が急転した今、夜這《よば》いの現行犯《げんこうはん》でひっ捕《と》らえられたくなければ長居《ながい》は無用《むよう》。すぐにこの場を離れなければ。
ひらひら手を振《ふ》ってくるいろりにどんな声をかけるゆとりもなく、峻護は一散《いっさん》に駆け出した。いったい何が起こり、これから何が起ころうとしているのか、何ひとつ自覚《じかく》しえないまま。
この夜、別館『泉水』に侵入を果《は》たした唯一の少年の姿が暗がりに消えるのを見届《みとど》けると、奥城いろりは掃除用具入れのスペースから抜け出し、浴衣《ゆかた》についたほこりを払《はら》った。
「うふ……かわいいひと」
先ほど思う存分《ぞんぶん》に吸《す》い尽《つ》くした味を反芻《はんすう》するかのように指を下唇《したくちびる》に当て、淫靡《いんび》な、それでいてあどけない微笑《ぴしょう》を浮かべる。しかしすぐにわずらわしげな、苛立たしげな仕草《しぐさ》で長い黒髪をかきあげて、いろりは廊下を歩き出した。
巡回に出ている教師たちの気配を避《さ》けて彼女が向かうのは、一年A組女子の寝所《しんじょ》たる『白鶴の間』ではない。別館『泉水《せんすい》』のエントランスを出て本館に入り、間接照明《かんせつしょうめい》のともる館内を進んで地階フロアに向かう。一歩ごとに表情から喜怒哀楽《きどあいらく》を消しながら。
「…………。誰?」
途中《とちゅう》、人影があった。
その人物の姿と固有名詞《こゆうめいし》を合致《がっち》させても、いろりは表面上つとめて平静《へいせい》をよそおった。
「はじめまして――でいいわよね? こっち[#「こっち」に傍点]で会うのは初めてだし」
廊下の壁にもたれる格好《かっこう》で、その少女が先に口を開いた。
華著《きゃしゃ》でしなやかな手足、釣《つ》り目がちで強い光を放つ瞳《ひとみ》。
北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》にして神宮寺学園生徒会長、北条麗華。
――と、呼ばれるはずの人物だ。
「…………」
つかみどころのない、どこか退廃的《たいはいてき》なものを思わせるそのまなざしと視線を交わしあった数瞬の間に、いろりはいくつもの事実を悟《さと》った。
「……なるほど、やはりあなたも神戎《かむい》ですか。二ノ宮|涼子《りょうこ》さんと月村|美樹彦《みきひこ》さんのあなたへの扱《あつか》いからして、そうだろうとは想像してましたが――それにしても奇妙《きみょう》な発現《はつげん》の仕方《しかた》ですね。神戎と呼べそうなのは裏のほうのみ、と」
麗華の姿をした誰かは人を食った微笑を作り、肩をすくめるのみ。
「それで? 何の御用《ごよう》ですか、北条麗華さん」
「単にあいさつがしたかっただけよ、奥城いろりさん――ああ、央条《おうじょう》の末裔《まつえい》、と呼んだほうがいいのかしら?」
「お好きに。用がそれだけならこれで失礼します」
会釈《えしゃく》すらせず、今は関わる気のないご同類《どうるい》のそばを通り過ぎようとして、
「じゃあひとことだけ。奥城さん、あなたがたの狙《ねら》いは北条麗華ではなく二ノ宮峻護と月村真由でしょうから、わたしは今のところ傍観《ぼうかん》するだけ。せいぜい楽しませて頂戴《ちょうだい》ね」
「…………。あなたは二ノ宮と月村の立場に近いと思っていましたが」
「いちおう忠告《ちゅうこく》はしたわよ、縁《えん》も義理《ぎり》もない相手というわけではないし。でもその後のことまでは知らないわ。わたしはわたしの好きなようにやる――それじゃあね、おやすみなさい」
言い残し、つかみどころのない北条の末窩は壁から背《せ》を離した。それを見届けもせず、いろりもまた先を急ぐ。
たどり着いたのは、CLOSEDの札《ふだ》が掛《か》かったナイトラウンジ。薄明《うすあ》かりの漏《も》れてくる奥に進むと、バーカウンターに座っていた少年が来客に目を向けた。
「どうやった? 首尾《しゅび》は」
いろりはチェアに腰をおろそうとせず、少年からいくらか距離を置いたまま、
「ほんの少しやけど、二ノ宮峻護の精《せい》を吸《す》いました。確信《かくしん》は持てんけど……『神精《しんせい》』の可能性は高い思います」
「ほうか……くく……」
少年――奥城たすくは、貴公子然《きこうしぜん》とした面立《おもだ》ちに似あわないくぐもった笑声を立てると、
「ようやっと隙《すき》を見せよったか。媚薬《ぴやく》がうまいこと効《き》いたようやな」
「『千癒丸《せんゆがん》』おすか? 央条に代々伝わる秘薬《ひやく》やなんや知らんけど、あんなもん大して当てになりまへん。二ノ宮峻護を落とせたのは、小細工《こざいく》がたまたま当たって、運も味方《みかた》したから。それだけのことやおまへんか?」
「ふん……まあええ。これでいよいよ逆転の目が見えてきたんやしな。鬼《きの》ノ宮《みや》と継群《つぎむら》がほえ面《づら》かく姿が目に浮かぶで……くく……」
「…………。ほな、うちはもう寝さしてもらいますわ」
「待ちィや。ちと付き合え」
「…………」
いろりは無言《むごん》のまま命《めい》に従《したが》い、チェアに腰を下ろした。
たすくは少女の肩を抱《だ》き寄せ、下からのぞきこむようにして、
「そんで? 二ノ宮峻護の味はどうやった? うまかったか?」
「別に。普通やったわ」
「ふうん?……いろり、まさかおまえあの男に気ィあるんとちゃうやろな?」
「ありまへん」
即答《そくとう》した.声も表情も、いつもどおりに振《ふ》る舞《ま》えたと思う。
「……そんなことより月村真由のほうはどうなっとりますの? ちゃんと明日までに確かめられるん?」
「言われんでもわかっとる。もうすぐや」
たすくは忌々《いまいま》しげに手にしたグラスの中身を一気《いっき》に飲み干《ほ》し、
「それにしてもあの女、妙《みょう》な気の外し方しよる。俺の『煽《あお》り』をなかなか受け付けよらん。わざとなのか天然《てんねん》なのかしらんが……あるいは継群|独特《どくとく》の仕手《して》なんかもしれんな。神戎のくせに男性|恐怖症《きょうふしょう》とかいうし、なかなか一筋縄《ひとすじなわ》ではいかんわ」
「ふん。口ほどにもない――」
つい、言葉にトゲが混《ま》じった。反応は激烈《げきれつ》だった。
「あぅ――!」
髪《かみ》をつかまれてチェアから引きずり下ろされ、そのまま片手一本で宙吊《ちゅうづ》りにされる。まるで人形でも扱《あつか》うように軽々と。
「いろり。いまだに自分の立場がわかっとらんようやな」
見た目に似合わぬ膂力《りょりょく》を見せ付けながら、たすくがくちびるの端《はし》をつりあげる。零落《れいらく》したとはいえこれが神戎|十氏族《じゅつしぞく》の一、京都に本家を置く央条家|直系《ちょつけい》の、常人《じょうじん》離れした力。彼らの恐るべきは何も、このラウンジから部外者《ぶがいしゃ》を締《し》め出したり、好きな時に全館のブレーカーを落とさせることのできる影響力《えいきょうりょく》だけにとどまらないのだ。
「一族の末席《まっせき》にかろうじてぶら下がっとったおまえを本家の養子《ようし》にまで取り立て、奥城《おうじょう》[#奥城と央城は別なのか間違いなのか?]を名乗らせたっとるのは誰や? 乞食《こじき》も恥《はじ》らうような貧乏暮《びんぽうぐ》らしをしてたおまえをここまで救ってやったのは誰や?」
「…………っ」
「答えんかい」
たすくが手首をひねると、ぶちぶちと音を立てていろりの頭髪が千切《ちぎ》れていく。その激痛に彼女は屈《くっ》した。
「た、たすく……様、です」
「そのとおりや。もう一度訊くで? おまえの主人は誰や? おまえが絶対的《ぜったいてき》に従うべき唯一の男は誰や?」
「あ、あなたです、たすく様……っ」
「くく……そうや。ええ子やで、いろり」
たすくの顔には舌なめずりせんばかりの喜悦《きえつ》があふれ、逆にいろりの表情は、暴力《ぼうりょく》と権カにひざを折《お》った屈辱《くつじょく》にまみれてゆがんだ。その姿は十分に支配者《しはいしゃ》の嗜虐心《しぎゃくしん》を満たし、それ以上に彼の中の獣《けもの》を煽《あお》った。
片手で行われている虐待《ぎゃくたい》とは裏腹《うらはら》なやさしさで、たすくのくちびるがいろりのそれをついばみ、すぐにそれ以上のことを激《はげ》しく求めてきた。いろりは、抗《あらが》わなかった。
この日、列島《れっとう》は夏季特有《かきとくゆう》の強い高気圧《こうきあつ》にすっぽり覆《おお》われ全国的に晴天《せいてん》、降水確率《こうすいかくりつ》はずばり0パーセント。誰《だれ》のご利益《りやく》なのかはさておき、修学旅行《しゅうがくりょこう》二日目も引きつづき絶好《ぜっこう》のロケーションに恵まれそうである。
老舗旅籠《しにせはたご》『翠鳴館《すいめいかん》』をぐるりと囲む林には早朝の清浄《せいじょう》な大気が満ち、朝日が差し込む木立の間を野鳥《やちょう》たちが恩い思いにさえずりながら渡り――こんなすがすがしい朝には滝《い》れたての紅茶と焼きたてのパンをテラスに並べ、優雅《ゆうが》に|朝 食《プレックファースト》としゃれ込むことができるなら最高なのだろうが、むろん神宮寺学園《じんぐうじがくえん》のさわがしい生徒たちはそんなエレガントさと無縁《むえん》である。
寝不足《ねぶぞく》のところを叩《たお》き起こされ、連行《れんこう》された食堂で味噌汁《みそしる》と白米の朝食《あさめし》をブロイラーのように流し込んだ彼らは今、最低限《さいていげん》の手荷物《てにもつ》だけを持ってぞろぞろと大駐車場《だいちゅうしゃじょう》に向かっているところだ。そこでの全体ミーティングを済ませた後は各自散会《かくじさんかい》。本日夕方六時まで、神宮寺学園の一年生たちは晴れて自由の身となる。
「……俺は大食堂で一晩中正座《ひとばんじゅうせいざ》だったよ」
「……こっちは反省文《はんせいぶん》を原稿用紙《げんこうようし》に二十枚だ。二十枚も何を書けっていうんだよ」
「……俺なんて旅館の便所掃除《ぺんじょそうじ》だぜ? 意味わかんねえ!」
大駐車場に向かう列のあちこちから聞こえてくるそんな声は、夜這《よば》いの成功を夢見てあえなく散《ち》っていった勇者たちの懲罰自慢《ちょうばつじまん》(?)であろう。彼らの表情は一様《いちよう》に疲労《ひろう》の色を濃《こ》く浮《う》かび上がらせながらも、己《おの》が全力を尽《つ》くした充実感《じゅうじつかん》と達成感《たっせいかん》に満ち満ちていた。
「よう、調子《ちょうし》はどうだ|二ノ宮《にのみや》?」
となりに並んできた吉田《よしだ》が峻護《しゅんご》の肩に腕《うで》を回しながら、にやりと笑う。
「ちなみに俺は最悪だ。夜這いを主導《しゅどう》した罪《つみ》は重いとかなんとか言われて、別館《べっかん》の廊下《ろうか》をぜんぶモップがけしたうえにワックスまでかけろとか言われた。ぜったい無理《むり》だと思ったから適当《てまとう》に手抜きしといたけどな」
「俺だって負けちゃいねーぞ」
と、吉田とは反対側から肩を組んでくる井上《いのうえ》。
「厨房《ちゅうぼう》のコックを手伝って、自分たちが食う朝食の仕込《しこ》みをしてこいとか言われた。教師ども、罰《ばつ》ゲーム考えるのがめんどくなったのかしらねーけどさ、最後の方は適当《てきとう》なこと言ってなかったか? おかげでジャガイモの皮の剥《む》きすぎで手首が痛《いて》え」
「そうか。大変だったな」
峻護は簡潔《かんけつ》ながら気持ちのこもったねぎらいの言葉をかけてやった。このはた迷惑《めいわく》な同級生たちの気づかいが、今なら少しはわかる。
「それで二ノ宮よ」吉田がコホンと咳払《ぜきばら》いして、「夜会は楽しめたか?」
「そうだな……」
イエスかノーではなく、峻護は別の表現で答えを口にした。
「監視《かんし》の目を出し抜いて別館『泉水《せんすい》』の潜入《せんにゅう》に成功した。そのあとはいくつかのアクシデントがあって思うようにはいかなかったが――『白鶴《はくつる》の間』の前にまではたどりついた、とだけ言っておく」
「おおう?」
吉田と井上はお互《たが》いに顔を見合わせ、やがて百点満点をとってきた落第生《らくだいせい》を前にした教師のように破顔《はがん》すると、
「よくやった。どうやら俺たちの意図《いと》を正確に汲《く》んでくれたようだな」
「いやはやまったくだ。おまえのあげた戦果《せんか》は英雄の名に値《あたい》する。あとで裏実行委員から顕彰《けんしょう》してやるからな」
「いいよ、やめてくれ。そんな誇《ほこ》れるようなことは何もしていない」
事実《じじつ》、褒《ほ》められるようなことをしたとは思っていない峻護だった。潜入の成功はあくまでも吉田や井上をはじめとする裏実行委員たちの、身を捨《す》てたお膳立《ぜんだ》てがあったからこそである。そもそも夜這いという行為《こうい》自体が、世聞一般《せけんいっばん》の常識《じょうしき》に照《て》らして大きく逸脱《いつだつ》していることは言うまでもなく、たとえ一夜限りのこととはいえ顕彰などされるわけにはいかないだろう。
そしてそれ以上に、吉田と井上には話さなかった昨夜《さくや》の出来事《できごと》が彼の心理を製肘《せいちゅう》しているのだ――
「あの、二ノ宮くんっ」
と、その時。背後から峻護を呼び止める聞きなれた声。
吉田と井上が「おっ?」という顔をつくるや、峻護の肩に回した腕をぐいっと引き寄せて、
「おまえの戦果に免《めん》じてここは引いてやろう。せいぜいうまくやれ」
「うまくいったら報告くらいしろよ」
短く激励《げきれい》し、別の話題の輪《わ》の中に入っていった。
峻護は同居人《どうきょにん》が追いついてくるのを待ちつつ、表情が不自然にならないよう入念《にゅうねん》に確かめてから後ろを振《ふ》り向き、
「やあ月村《つきむら》さん。おはよう」
「おはようございます! 今日もいい天気ですねっ」
にっこり、今まさに東の空に昇《のぼ》っている朝日のような笑顔をみせる真由《まゆ》。その笑顔は常であれば百万ドルの価値《かち》をもつそれとなって峻護のハートに一直線《いっちょくせん》だったのだろうが、残念《ざんねん》ながら彼女の目元は所有者《しょゆうしゃ》の意思《いし》を大きく裏切《うらぎ》っていた。
「月村さん、隈《くま》ができてるけど……寝不足なの?」
「あうっ。や、やっぱりわかりますか……できるだけ隠してはきたんですけど……」
目元に手を当ててしょんぼりしながら、
「けっきょく朝まで騒《さわ》いでたから、ほとんど寝てないんです。日奈子《ひなこ》さんたちは完全な徹夜《てつや》だったから、もっとひどいことになってると思いますけど……」
言われて周囲に目をやってみればなるほど、日奈子をはじめとする一年A組女子の面々《めんめん》は、朝を迎《むか》えて墓場《はかば》に戻《もど》るゾソピのような様相《ようそう》で列に混《ま》じっている。お疲れさま、と心から言いたい。
「あ、あのっ、ところで! 今日の自由行動のことなんですけどっ!」
うつむいていた真由が不意《ふい》に声のトーンをかき乱《みだ》して、
「もしも他に予定がなかったら、ぜひわたしと――」
「あら二ノ宮さん。おはようございます」
絶妙《ぜつみょう》のタイミングでさえぎったのは、いつの間にか近づいてきていた黒髪《くろかみ》の少女。
「今日もいい天気ですね。楽しい修学旅行になりそうです」
「あ、ああ、うん、楽しい修学旅行になりそうだ。おはよう奥城《おくしろ》さん」
気を抜いていたところの奇襲《きしゅう》にあえなく狼狽《ろうばい》する峻護。彼女に会ったらつとめて普段《ふだん》どおりに振《ふ》る舞《ま》うつもりだったのだが、彼の顔面神経《がんめんしんけい》は最悪のタイミングでサボタージュに突入《とつにゅう》したらしい。表情をできるだけ笑顔に近づけようとするのだが、目じりもくちびるの端《はし》も細かく痙攣《けいれん》して言うことを聞かず、結果《けつか》として便意《ぺんい》を何時間もこらえているかのような顔にしかなってくれない。
「全体ミーティングが終わったら」いろりは峻護の不審者《ふしんしゃ》っぷりにもまるで動《どう》ぜず、「わたしたち修学旅行実行委員は学年|主任《しゅにん》のところに集合して、緊急時《きんきゅうじ》の連絡綱《れんらくもう》の確認。その後はわたしたちも自由行動となります」
「ああそうか、うん、そうだな。よろしくたのむよ」
「ところでその自由行動ですが。二ノ宮さん、よろしければわたしといっしょに京都を回りませんか?」
真由が乗り越《こ》えるのにさんざん苦労した壁《かぺ》を、いろりは紙でも破《やぶ》るように易々《やすやす》と突破《とっぱ》してのけた。
「じ、自由行動を、い、いっしょにっ?」
「はい。わたしと二ノ宮さんのふたりきりで。じつはわたし、実家が京都なのです。穴場《あなば》をたくさん案内してあげられると思いますけど」
「実家が京都? そ、そうなのか――いやそうじゃなくて! 自由行動をふたりきりでとか言われてもおれのほうにもいろいろ都合《つごう》というものが――」
「もちろん」
絶妙《ぜつみょう》の呼吸《こきゅう》で峻護の言葉をさえぎり、いろりは彼の耳元にすいっと口をよせて、
「昨日の夜はあのようなこと[#「あのようなこと」に傍点]までなさったんですもの。まさかお断《ことわ》りにはならないと思いますけど……ね?」
『あのようなこと』のあたりで思わずくちもとに手をやってしまう峻護。単なる思い過《す》ごし、あるいは幻覚《げんかく》の類《たぐい》であればいいと希望《きぼう》していたものが、たったひとことで粉々《こなごな》に打ち砕《くだ》かれた瞬間である。
「二ノ宮さん。このようなところで立ち止まっていては他のみなさんの迷惑になりますよ? ミーティングにも遅れますし、先を急ぎましょう」
言って、自然な所作で峻護の腕に自分のそれを絡《から》めてくる。
「わっ、ちょ。奥城さん! 人前でそういう真似《まね》は――いや、人前じゃなくてもだけど、とにかくもっと離《はな》れて――」
「どうぞ、いろりとお呼びください」
「い、いや、しかし――」
いろりはにこにこと、しかし有無《うむ》を言わせぬ口調《くちょう》で、
「どうぞ、いろり、と。せっかくですから呼《よ》び捨《す》てで」
「………………………………。い、いろり」
「はい。よくできました。では参《まい》りましょうか、峻護さん[#「峻護さん」に傍点]」
ほがらかな笑顔でうなずくと、ほとんど茫然自失《ぼうぜんじしつ》の峻護をつれて悠々《ゆうゆう》と歩き始める。すぐそばにいる真由を路傍《ろぼう》の小石のように黙殺《もくさつ》して。
「…………」
あとには完全無比《かんぜんむひ》に茫然自失の真由が取り残され、
「やあ月村さん、おはよう」
後ろから貴公子然《きこうしぜん》とした少年・奥城たすくが話し掛《か》けてくるのにも気づかない。
「昨日の話、考えてくれたかな?」
「…………」
「? おーい、月村さん?」
「…………」
ややあって振《ふ》り向いた彼女の顔は青白く、ほとんど泣き出す寸前《すんぜん》の子供のように見えて
――それはたすくをして同情させるほどの、敗北者《はいぼくしゃ》の顔だった。
「――。ちょっと。なんなのあれ。どういうこと? 聞いてませんわよ」
翠鳴館《すいめいかん》の敷地内《しきちない》、神宮寺学園の生徒たちの列からはやや離れたところの柱《はしら》の陰《かげ》で。
この場にいる神宮寺学園の生徒の中で唯一《ゆいいつ》、修学旅行に参加していない少女が、双眼鏡片手《そうがんきょうかたて》にうめき声をあげていた。
「月村真由が袖《そで》にされるだけならいい気味《きみ》ですが……いったい何者なのですあの女? なぜ二ノ宮峻護とべったりくっついていますの?」
「さあ……誰でしたっけねえ?」
「誰でしたっけね、じゃありません」
燗漫《らんまん》な笑顔でそばに控《ひか》えている付き人少年・保坂《ほさか》にぴしゃりと言い放ち、
「分からないのならさっさと調べなさい。あらゆる意味で不本意《ふほんい》ながら二ノ宮峻護はわたくしの職務上《しょくむじょう》の同僚《どうりょう》でもあり、その身に何か異変《いへん》があるのは不都合なのです。むろんこれはあくまでも同僚としての気づかいであることは言うまでもなく、本来であれば二ノ宮峻護などはわたくしにとって――」
「はいはいわかりました。じゃ、ぼくは言われたとおり調べものしてきますから」
不敬《ふけい》ともいえるざっくばらんな態度《たいど》で身を翻《ひるがえ》した保坂を咎《とが》めるのも忘れ、令嬢《れいじょう》は『得体《えたい》の知れぬ女』に鋭《するど》い視線《しせん》を向ける。
「なんだか……妙《みょう》な感じですわね。胸騒《むなさわ》ぎというかなんというか……何事《なにごと》もなければいいのだけど」
付き人がそばにいたとしても聞こえなかっただろうほどのちいさな声で、令嬢は呟《つぶや》いた。彼女にしてはめずらしく、幾重《いくえ》もの陰影《いんえい》に彩《いろど》られたまなざしで。
こうして波乱含《はらんぶく》みの修学旅行二日目が、不吉《ふきつ》な音色《ねいろ》で開幕《かいまく》のベルを鳴らした――
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あとがき
作者「はいっ、というわけで始まりました、『ご愁傷《しゅうしょう》さま二ノ宮《にのみや》くん』第六巻のあとがきです。ほらほら君たち、自己紹介《じこしょうかい》して」
真由《まゆ》「えっ? あ、はい、わかりましたっ。――は、初めまして、月村真由《つきむらまゆ》です、よろしくお願いしますっ」
麗華《れいか》「北条《ほうじょう》麗華ですわ。どうぞよろしく。……って、言われるままに自己紹介いたしましたが、いったいこれはどういうことか説明《せつめい》していただけるかしら?」
作者「ん? いったい何を説明せよというのかね?」
麗華「いきなり呼《よ》び出されて来てみれば、ここは本編《ほんぺん》ではなくあとがきのページなのでしょう? どうしてわたくしや月村真由が出張《でば》ってこなければならないのです?」
真由「麗華さんの言うとおりですよっ。そもそも『二ノ宮くん』シリーズのあとがきって、毎回おなじパターンで始まってましたよね? そのほうが楽できるからって言って。なのに、せっかくのパターンをここで崩《くず》しちゃっていいんですか?」
作者「ぜんぜんオッケー。というか、毎回おなじパターンで始めるのはかえって不自由《ふじゆう》だったりする、ということに気づいた」
真由「あう……」
作者「それに加えて、今回はひどく深刻《しんこく》な事情《じじょう》があってね……」
真由「その事情というのは?」
作者「うん。実は今回、『ページが余ったからあとがきを最低でも十ぺージ以上は書け』という、担当様《たんとうさま》からのきつーいお達《たっ》しがきてるんだ。元々《もともと》あとがきを書くのが苦手な私のことだ、普通《ふつう》にあとがきを警いてたらとてもじゃないけど十ぺージ分も文字を埋《う》められない。そこで君たちの出番《でぱん》となったわけさ」
真由「? 作者があとがきを書くのが苦手なことと、わたしたちがあとがきに出てくることと、どんな関係があるんです?」
作者「ばかだな君は。君たちふたりと会話のやり取りをしていれば何かと間《ま》が持つし、現《げん》にこうして着々《ちゃくちゃく》とあとがきのぺージが埋《う》まっていってるじゃないか。それにこの小説のダブルヒロインたる君たちがあとがきに出演《しゅつえん》していれば、読者様としても決して悪い気はしないはずだろう、という綴密《ちみつ》な計算もある」
麗華「つまりわたくしたちは、あなたの極《きわ》めて個人的な都合《つごう》によってこの場に登場《とうじょう》させられているというわけですか……職権乱用《しょつけんらんよう》もここに極《きわ》まれり、ですわね」
作者「まあそう言わないでくれたまえ。この業界《ぎょうかい》においては自キャラをあとがきに出すのはひとつのお約束《やくそく》である以上に、ある種《しゅ》の通過儀礼《つうかぎれい》でもあるんだ。この儀式を済ませねば私はライトノベル作家になったとは胸《むね》を張《は》って言えないし、ひいては私によって生み出された君たちもまた、キャラクターとしての存在意義《そんざいいぎ》を完全《かんぜん》に確立《かくりつ》したとは言えないという理屈《りくつ》になる。納得《なっとく》したかね?」
真由「……すいません、あまり納得できないです……」
麗華「詭弁《きべん》にすらなってなっていませんわね。……けどまあよろしいですわ。こんな男でも生みの親、救いを求められれば手を差《さ》し伸《の》べてあげるのもやぶさかではありません」
作者「おお、さすがは私の脳内《のうない》より生誕《せいたん》したキャラクターだけのことはある。たいへん物分《ものわか》りがよくて助かるというものだ」
麗華「それはどうも。ですがわたくし、何も無償《むしょう》であなたを助けてあげようとしているのではなくてよ? あなたには言いたいことが山ほどあるのです。これを機会《きかい》に正式な抗議《こうぎ》をさせていただきたいと思いますわ」
作者「むう、抗議とはいったい……?」
麗華「知れたこと。ドラゴンマガジン本誌《ほんし》の連載《れんさい》にわたくしの出番が一切《いっさい》回ってこないことについて、納得のいく説明を聞かせていただこうじゃありませんか」
作者「うっ。そ、それは……」
麗華「さあどうなのです? あなたの言う『ダブルヒロイン』の片割《かたわ》れたるわたくしを連載に一度も登場させず、月村真由ばかりを出すのはなぜ? この不条理《ふじょうり》について納得のいく理由を聞けるのであれぱおとなしく引き下がりましょう。ですが万一《まんいち》にも納得いくだけの理由がなければ……わたくしにも考えがありましてよ?」
真由「ここで、ドラゴンマガジンのことについて知らない読者の方にご説明させていただきます♪ 『ドラゴンマガジン』はファンタジア文庫《ぶんこ》でおなじみの富士見書房《ふじみしょぼう》が発行《はっこう》している、月刊の小説誌です。『ご愁傷さま二ノ宮くん』はもちろん、富士見書房が誇《ほこ》る人気《にんき》シリーズの連載も充実《じゅうじつ》しています。発売日は毎月の月末。みなさんぜひお手に取ってみてくださいね(はぁと)」
麗華「……ちょっと月村真由。唐突《とうとつ》で必然性《ひつぜんせい》のない宣伝《せんでん》などで貴重《きちょう》なページを埋めないでいただけますこと?」
真由「うう……だって、作者さんから『ここでドラゴンマガジンの宣伝をして場を取り持て。できるだけ可愛《かわい》らしく、読者様に媚《こび》を売りつつ、だ。言うこときかなければお前の出番を減《へ》らす』というブロックサインが……」
麗華「アホな作者のアホな妄言《もうげん》に盲従《もうじゅう》するのはおよしなさい。この男、甘《あま》やかすと際限《きいげん》なくつけあがりますわよ?」
作者「あっはっは、生みの親に向かってひどい言《い》い草《ぐさ》だなあ」
麗華「敬意《けいい》を払《はら》ってもらいたければ、それに見合《みあ》うだけの何かを行動《こうどう》で示《しめ》しなさい。……それで? わたくしの質問《しつもん》に対する答えはどうなのです?」
作者「うーん、どうしても答えを聞きたいかい?」
麗華「むろんですわ」
作者「……実は、君よりも真由のほうがはるかに人気《にんき》があって……ゴニョゴニョ」
麗華「……! そ、それは事実《じじつ》ですのっ? 月村真由よりは読者受けはいいだろうと、わたくし自負《じふ》しておりましたのに! どうしてこんな、胸の大きさだけが取《と》り得《え》の能無《のうな》し小娘《こむすめ》にわたくしが人気の点で劣らなければならないのです!」
真由「……麗華さん、何気《なにげ》にひどいこと言ってませんか?」
作者「まあまあ落ち着きたまえ、今のはほんの冗談《じょうだん》だ。本当の理由はね、ファンタジア文庫の編集部内での君の評判《ひょうばん》がすこぶる悪くて……ゲフンゲフン」
麗華「えええっ? そ、そんな――わたくし、編集部の方々に何かイメージ悪くなるようなことしたかしら……!」
作者「まあ今のもほんの冗談だ。真実のところはだね、作者であるこの私が麗華を書《か》くことに飽《あ》き始めて――」
麗華「な、なんですってこの薄情者《はくじょうもの》! 自分で生み出したキャラに対してなんて無責任《むせきにん》な――この! この!」
作者「あっはっは、やめたまえよ麗華くん。そんなにものすごい力で首をしめられたら、うっかり死んでしまうではないか」
真由「麗華さん……いいようにもてあそばれてますね……」
作者「まあ冗談は本当にこのくらいにして。北条麗華よ、ドラゴンマガジン本誌に登場したくば、君が取りうる手段《しゅだん》はたったひとつしかない」
麗華「……その手段というのは?」
作者「決まっている。君をドラゴンマガジン本誌に登場させて欲《ほ》しいという旨《むね》をアンケート葉書《はがき》に記して編集部《へんしゅうぶ》に送ってもらうよう、読者様におねがいするのだ」
麗華「なんですって……?」
作者「心得《こころえ》ちがいをしてはいけない。あくまで読者様あっての『ご愁傷さま二ノ宮くん』なのだ。作者の私にいくら出演を依頼《いらい》しても詮無《せんな》いこと。読者様がそれを望み、その望みが編集部に届《とど》いて初めて、君がドラゴンマガジンに出演《しゅつえん》する道は開《ひら》けることだろう」
真由「うう……事実かもしれないけど生々《なまなま》しい話です……」
作者「麗華の人気が目に見える形で示《しめ》されれぱ、私も編集部も君を出さざるをえなくなるさ。どんな無茶《むちや》をしてでも、どんな横車《よこぐるま》を押し通してでもな」
麗華「確かに……それはそうかもしれませんが……」
作者「さあ麗華よ、この場で読者様に脆《ひざまづ》いて懇願《こんがん》するがいい。どうか自分をドラゴンマガジンに出させてもらえるようアンケートを送ってください、と」
麗華「くっ、背《せ》に腹《はら》は替《か》えられませんわね……いいでしょう、目的《もくてき》を達《たっ》するためであれば手段《しゅだん》を選ぶなというのが北条家の家訓《かくん》です。あなたの言うとおりここで読者様に――」
作者「ああそうそう、肝心《かんじんん》なことを忘れてた。ふつうにお願いしただけでは効果《こうか》が薄《うす》いからね、ここに用意したコスチュームを着用《ちゃくよう》の上でお願いするように」
麗華「ちょ、なんですのこれ……!」
作者「スクール水着(ネコミミ&ネコシッポつき)だ。胸《むね》の名札《なふだ》にはあえて平仮名《ひらがな》で『ほうじょうれいか』と書いた、こだわりの一品だぞ? もっと喜びたまえ」
麗華「どうしてわたくしがこんなもの着なければならないのです!」
作者「そんなもの読者サービスに決まっているじゃないか。これを着て語尾《ごぴ》にハートマークをつけつつお願いすれば効果《こうか》は倍増《ばいぞう》する、ということも忘れずにな。さあ、さっさとやりたまえ」
麗華「嫌《いや》です! ぜったい嫌! いくら目的のためとはいえこんな珍妙《ちんみょう》な格好《かつこう》……わたくしぜったい嫌ですからね!」
作者「ほう、嫌なのかい? まあ私は別にかまわないがね。ここで断《ことわ》ったとしても、ドラゴンマガジン本誌登場《ほんしとうじょう》という君の輝《かがや》かしい未来《みらい》が永久《えいきゅう》に閉ざされるだけの話……しょせん、君の代わりなんていくらでもいるのだ。私はちっとも困らないよ?」
真由「……悪徳《あくとく》アイドル事務所《じむしょ》のマネージャーみたいなキャラっぶりですね……」
作者「さあ、時間を浪費《ろうひ》させないでくれたまえよ麗華くん。三秒でマンガっぼく着替えを済ませ、とっとと君の成《な》すべきことを果たすんだ」
麗華「くっ……わ、わかったわよ、やりますわよ! やればいいんでしょう!」
作者「そうだ、ちゃんと自分の立場がわかってるじゃないか……くくく」
麗華「この悪党《あくとう》作者……いつか目《め》に物《もの》見せてあげますからね。――えー、コホンコホン。読者の皆様がた、わたくし北条麗華はどうしてもドラゴンマガジン本誌で活躍《かつやく》の場を得《え》たいのです。どうかわたくしが連載でも登場できるよう、どしどしアンケート葉書を送ってくださいましね。麗華からの一生のお願いですわ(はぁと)」
作者「うわほんとにやったよこの子」
真由「麗華さん……根性《こんじょう》あります……」
作者「ううむ、イラストで見せられないのが惜しいが、麗華くんはよくやった。ほめてつかわす。――さあ、麗華の出番が少ないとお嘆《なげ》きのあなた! あなたの一票《いっぴょう》が『ニノ宮くん』を動かします! アンケート葉書はホントにもう、じゃんじゃん送っちゃってくださいね! ドラゴンマガジン本誌のアンケートでも、ファンタジア文庫の間《あいだ》に挟《はさ》まってるアンケートでもかまいません! 麗華出演|希望《きぼう》の旨を記したお便りを作者や編集部に直接《ちょくせつ》送っていただいてもOK! 彼女がドラゴンマガジンに登場できた暁《あかつき》には、もっとおいしいコスチュームを着させることをお約束しますよっ!」
麗華「ちょ――これよりもっと恥《は》ずかしい格好《かっこう》させられるんですのっ! ていうか勝手《かって》に重要《じゅうよう》なこと決めるんじゃありませんわよこのド外道《げどう》!」
真由「でも……麗華さんって出番少ないとか言いつつ、けっこうおいしいシーンは持っていってますよね。この六巻だって、わたしは二ノ宮くんとのお色気《いろけ》シーンはひとつもないのに、麗華さんにはちゃんと用意されてるし」
麗華「……よく言いますわ。あなたはまだいいですわよ、全編《ぜんぺん》とおしてポジションがきちんと与えられてるではありませんか」
真由「でも振り返ってみれば、このあとがきだっておいしいところ持っていってるのは麗華さんじゃないですか」
麗華「おいしいところとか言いますけど、要《よう》するにわたくしなんて周りから単《たん》にもてあそばれてるだけじゃない。まったく、このままいじられキャラに落ち着くなんて冗談じゃありませんわ。というか、連載での出番を独占《どくせん》しているあなたに羨望される筋合《すじあ》いはありませんことよ」
真由「量《りょう》より質《しつ》が大事《だいじ》なんです。麗華さんは自分の幸せがわかってないんです」
麗華「あなたこそ目先の小さな幸せに捕《と》らわれて、隣《となり》の芝生《しばふ》がやたらと青く見えているのではなくて?」
作者「ふふ……願ってもない展開《てんかい》だ。このふたりが延々《えんえん》と口論《こうろん》してくれれば、私が何もせずともあとがきのぺージが埋まっていく……ふふ、これも思惑《おもわく》どおりというわけさ」
真由「……麗華さん。作者さんが何かこっそりつぶやいてますよ?」
麗華「ええ、聞こえてますわ。なんだか異様に癪《かん》に障《さわ》ることをほざいてますわね」
真由「考えてみれば、そもそも諸悪《しょあく》の元凶《げんきょう》はこの人なんですよね……」
作者「むうしまった。私としたことが、内心の思惑をつい口に出してしまっていたらしい。……えー、というわけで『ご愁傷さま二ノ宮くん』第六巻のあとがきでしたが、お楽しみいただけましたでしょうか? 次巻もまた波乱含《はらんぶく》みの展開を予定していますので、よろしければそちらもぜひぜひお手に取っていただければ幸い――うおおっ?」
麗華「残念ながら、こんなところでエンディングを迎《むか》えるわけにはいきませんわね。あなたにはもうしばしお付き合いを願いますわよ?」
作者「あはは……これこれ麗華くん、せっかく学んだ体術《たいじゅつ》を悪用《あくよう》するのはよくないよ? ましてや親同然《おやどうぜん》の作者を地べたに押し付けて不当《ふとう》に拘束《こうそく》するなどもってのほかだ。いい子だからねじりあげている私の手を放しておくれ。ね?」
麗華「ええ、成すべきことを果《は》たした暁にはちゃんと解放《かいほう》さしあげてよ。……時に、あなたはご存知《ぞんじ》でいらっしゃるかしら? 自キャラと共に作者が登場するあとがきでは、作者の死をもって幕《まく》が下りる形式《けいしき》が最も多いという統計上《とうけいじょう》の事実《じじつ》を」
作者「…………!」
真由「れ、麗華さん、それはさすがにまずいんじゃ――」
麗華「かまうもんですか。こういうお調子者《ちょうしもの》には少々お灸《きゅう》を据《す》えてやるのがいいのです」
真由「死なせちゃったら少々も何もないと思うんですけど……」
作者「ま、待ちたまえ麗華くん。君の言う『統計上の事実』については確かに私も承知《しょうち》しているが、しかしなにも君までがそんな悪しき前例主義《ぜんれいしゅぎ》に染まることはないだろう? ここはあくまでも美しく、さわやかにエンドマークをつけようではないか。この作品に血なまぐさいシーンは似合《にあ》わないよ。ね?」
麗華「ふふ……わたくしが学んだ体術の中には、禁《きん》じ手《て》とされる技も数多《あまた》ありましたが……それらの技を生身《なまみ》の人体に試《ため》す機会《きかい》がなくて困っていたのです。ちょうどいい機会ですわ」
作者「ま、待つんだそんな、やる気満々の顔で手の指をぽきぽき鳴らさなくても――わ、わかった、私が悪かった。謝《あやま》る。前言《ぜんげん》も撤回《てっかい》する。麗華くんがドラゴンマガジン本誌に進出を果たした暁には裸《はだか》エプロンの格好で出演させようと思っていたけど、それも取りやめよう。だからほら、そんな血に飢《う》えた肉食獣《にくしょくじゅう》みたいな笑みを浮かべないで、いつものかわいい君に戻っておく――うぎゃあああああああああああっ!」
*枯《か》れた小枝の折《お》れるような音が鳴《な》り響《ひび》き、すべての照明《しょうめい》が落ちると同時に舞台《ぶたい》の幕《まく》がおりる。
[#以下省略]
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TEXT変換者です。
これで10本目です。日曜の朝から夜で出来ました。
しかし、このアニメって見たことないんですよね。今更ですが。