ご愁傷さま二ノ宮くん 第5巻
鈴木大輔
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目 次
其の一 状況開始
其の二 状況展開
其の三 状況進行
其の四 状況急転
其の五 状況終了
其の六 状況開始
あとがき
暑い。
四リッターのエンジンで冷房《れいぼう》をフルにきかせても、真夏の炎天《えんてん》に晒《さら》されたミニバンの中は陽炎《かげろう》がのぼるほど茄《ゆ》で上述っている。大型の市販車《しはんしゃ》を改造《かいぞう》した指令車《しれいしゃ》とはいえ、十人からの頭数を許《つ》め込めば冷却《れいきゃく》もままならぬということだろうか。
もっとも部下たちの中に不平《ふへい》を漏《も》らす者はひとりもいない。黙々《もくもく》とそれぞれの作業《さぎょう》をこなしながら、その時が来るのを静かに待っている。
――作戦開始|時刻《じこく》まであと五分。
「隊長《たいちょう》」
ナビシートで無線《むせん》のやり取りをしていた部下が後部席を振《ふ》り返り、こちらを向いた。
「白虎《びゃっこ》、玄武《げんぶ》は配置《はいち》完了《かんりょう》。青龍《せいりゅう》はあと一分欲しいとのこと。――スケジュールには遅滞《ちたい》なし」
「わかった」
額《ひたい》の汗《あせ》を拭《ぬぐ》いながら言ってよこす部下に頷《うなず》き、隊長と呼ばれた人物はチェックを終えた愛用のオートマチックをボディスーツに差しこんだ。
それにしてもうんざりさせられる。何せ全身黒ずくめのこの装備《そうび》のうえに、完全|気密《きみつ》のガスマスクまで着用するのだ。むろん、鉛弾《なまりだま》をはじめとする金属製品《きんぞくせいひん》を満載《まんさい》したバックパックも洩れなくついてくる。有害ガスが散布されることはなく[#「有害ガスが散布されることはなく」に傍点]、また決して発砲許可を下すことはないと知っているにもかかわらず[#「また決して発砲許可を下すことはないと知っているにもかかわらず」に傍点]、だ。
「――作戦開始時刻を繰《く》り上げる。青龍が配置《はいち》を完了させ次第《しだい》始めるぞ」
「了解《りょうかい》です。……あの、隊長?」
「ん?」
「今回の作戦――」
こちらを振り返ったまま、部下が悲壮《ひそう》な眼差《まなざ》しを向けてくる。
「成功《せいこう》させましょう。必ず」
「ああ」
部下の短い言葉に、隊長もまた短い言葉で、
「無論《むろん》だ。成功させるさ」
頷き返した。その返答に含《ふく》まれていたわずかな逡巡《しゅんじゅん》に、幸いにも彼は気づかなかったらしい。自信あふれる表情で太鼓判《たいこばん》を押した上司に安堵《あんど》の表情を浮《う》かべ、無線交信《むせんこうしん》の場に戻《もど》っていく。
その背中を横目で見つつ、隊長は小さくため息をついた。わかっているのだ。うんざりしているのは無駄《むだ》な重装傭に対してではなく、まとわりつくような暑苦しさに対してでもない。このミッションの真の目的が、部下たちがそれと信じているものと同じではないことが問題なのだ。まったく、何が楽しくて全幅《ぜんぷく》の信頼《しんらい》を置いている彼らを欺《あざむ》かねばならないのか。ましてや『真の目的』とやらにどれほどの意味があるか、部隊の全責任を負うこの身にすら解《げ》しがたいというのに。
だがその点を論《ろん》ずる時期《じき》はすでにして過《す》ぎている。今はただ、目の前の仕事を確実《かくじつ》にこなすのみ。
「青龍、準備《じゅんび》よし。総員《そういん》配置完了」
ナビシートの部下が告げた。転瞬《てんしゅん》、澱《よど》んでいた空気がじわり、冬の日の朝の大気のように音を立てて張《は》り詰《つ》めていく。
隊長が立ち上がり、ゆっくりと一同を見回した。
「現時刻《げんじこく》よりミッションスタート。各員、最善《さいぜん》を尽《つ》くすように」
短い激励《げきれい》だが練磨《れんま》の部下たちにはそれで通じる。彼らが一様《いちよう》に力強く頷くのを待っていたかのように後部ハッチのロックが外れ、観音《かんのん》開《びら》きの扉《とびら》が勢《いきお》いよく開いた。途端《とたん》、粘《ねば》るような日差《ひざ》しと密度《みつど》の濃《こ》い空気が、礼儀を知らぬ野蛮人《やばんじん》のような荒々《あらあら》しさで車内のぬるい空気を駆逐《くちく》する。ひどく懐《なつ》かしく感じる極東《きょくとう》の島国の夏の中へひとり、またひとりと、剣呑《けんのん》な武装《ぷそう》に身を包《つつ》んだ部下たちが躍《おど》り出ていく。
――作戦終了予定時刻まであと三時間と四十五分。
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其の一 状況開始
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「抱《だ》いて。お願い」
女は髪《かみ》を振《ふ》り乱《みだ》し、哀切《あいせつ》を全身で表現しながら男に迫《せま》った。だが、
「まだそんなことを言っているのか君は」
男の口から吐《は》かれるのは容赦《ようしゃ》のない拒絶《きょぜつ》の言葉だけ。
「僕と君との関係はとっくの昔に清算《せいさん》されている――そのはずだろう? あの小切手《こぎって》の額では不満《ふまん》だとでも言うのかい?」
「清算? 清算ですって?」女の瞳《ひとみ》に鬼気《きき》迫るものが宿《やど》った。「あなた本気で言ってるの? お金でわたしたちの関係を無《な》かったことにしようだなんて――あなたの気持ちはその程度《ていど》のものだったの? あの時のあなたの言葉はうそだったの?」
「もう終わったことだ」駄《だだ》々っ子《こ》を諭《さと》すように男は女の肩《かた》に手を乗せる。「いい加減《かげん》忘れてくれ。君も僕も新しい人生を歩むべきなんだよ。そうは思わないか?」
しかし女はその手を払《はら》いのけて、
「嫌《いや》よ! わたしは終わらせてなんかない、終わらせるつもりもない! あなたはわたしのモノ……必ずあの女から取り返してみせる。あなたはわたしと結ばれる運命にあるのよ!」
「わかってくれ、僕には妻も子供もいる。次期《じき》社長の座《ざ》も約束されている。今さら君と関係することは――」
「いいえ、してもらうわ。嫌でもあなたはそうすることになる。そう、このテープがある限りね」
女が懐中《かいちゅう》から取り出した携帯《けいたい》レコーダーに、男は哀《あわ》れなほどの動揺《どうょう》を見せた。
「君は――君という人は!」
「うふふ、これがわたしの手にある以上、あなたはわたしの思うがまま……」
勝利を確信《かくしん》した優越感《ゆうえつかん》と共に歩み寄っていく女。後ずさる男。だが彼の背後《はいご》にはやわらかなマットと清潔《せいけつ》なシーツで飾《かざ》られたベッドが待ち受けているのだ。
男はそのまま倒れ込み、女は妖艶《ようえん》な微笑《びしょう》でもって罠《わな》にかかった獲物《えもの》にしなだれかかる。
「…………」
「…………」
そのまま視線《しせん》を交《か》わし合う。二人は言葉を忘れたかのように、言葉など初めからこの世に存在《そんざい》しなかったかのように、ただただ見つめ合い、そして――
「――――ええと月村《つきむら》さん? 次は君のセリフなんだけど」
「|二ノ宮《にのみや》、くん……」
男の困惑《こんわく》気味《ぎみ》な言葉にも、女は『セリフ』の続きを口にする気配《けはい》を見せない。ただ熱病《ねつびょう》に冒《おか》されたような瞳《ひとみ》で男を見つめるのみ。縫《ぬ》い止められた男はゴクリと生唾《なまつば》をのむばかりで逃れる術《すべ》を持たず、女は抵抗《ていこう》の叶《かな》わぬ男のくちびるに己《おのれ》のそれを近づけていき――
「いい加減《かげん》にしなさいこの破廉恥《はれんち》小娘《こむすめ》!」
小《こ》芝居《しばい》の監督《かんとく》役たる少女・北条《ほうじょう》麗華《れいか》が、度《ど》を超《こ》えた濡《ぬ》れ場を演《えん》じようとする二人を強制的《きょうせいてき》に引っぺがした。
「まったく何度言えばわかるのです! どうやらあなたの脳《のう》みそには単細胞生物《たんさいぼうせいぶつ》なみの学習《がくしゅう》機能《きのう》しかついていないようですわね? いくら訓練《くんれん》、お芝居であるとはいえ、物事《ものごと》には限度というものがあるという事実《じじつ》を何度説明すればあなたは理解《りかい》できるのかしら? これだからわたくしは初めから反対したのです、いかなる理由があれ、いかがわしさを伴《ともな》う行為《こうい》には断固《だんこ》として――」
「ええと北条|先輩《せんぱい》? 月村さんも決して悪気があってやったわけじゃ……彼女は何事《なにごと》にも生真面目《きまじめ》なところがあるんで、つい演技《えんぎ》に熱が入りすぎてしまったんだと……」
「あなたは引っ込んでなさい二ノ宮|峻護《しゅんご》!」
擁護《ようご》に回った峻護をぴしゃりと黙《だま》らせて、
「だいたいあなたという男は月村|真由《まゆ》に対して甘すぎるのです。男性|恐怖症《きょうふしょう》の克服《こくふく》という大義《たいぎ》名分《めいぶん》があるとのことですからこれまでは大目《おおめ》に見てきましたが、これ以上けしからぬ展開《てんかい》が続くようであればわたくしも黙っては――いいえ、いいえ! 本来《ほんらい》であればこのような議論《ぎろん》をすべき時はとうに過ぎ去っているのです! 結論《けつろん》は火を見るより明らか。今からでも遅くありませんわ、即刻《そっこく》、今すぐ、『特訓《とっくん》』と称《しょう》する馬鹿《ばか》げた取り組みを無期限《むきげん》に中止することをあらためてここに要求《ようきゅう》いたします!」
どん! と手近な壁《かべ》に拳《こぶし》をめり込ませ、怒《いか》れる令嬢《れいじょう》は吼《ほ》え猛《たけ》った。煉獄《れんごく》に住まう魔神《まじん》もかくやというその姿《すがた》に恐れおののきつつも、峻護は必死《ひっし》に知恵を絞《しぼ》る。どうにかしてこの場を収《おさ》めなけれぱ――だが麗華のこの様子では一定以上の譲歩《じょうほ》を引き出すまで矛《ほこ》を収めてくれそうになく、かといって真由の方もこのような『越権行為《えっけんこうい》』に大人しく従《したが》うはずもない。
状況《じょうきょう》は次の瞬間《しゅんかん》にもノーガードで殴《なぐ》りあうがごとき舌戦《ぜっせん》に移行《いこう》し、悪くすればそのまま流血《りゅうけつ》の惨事《さんじ》に発展する――かに見えたのだが。
「…………すいませんでした」
サキュバス少女の口から小さく洩《も》れたのは、意外な言葉だった。
「すいません。入り込みすぎて、ボーっとしちゃって、気づいたら行き過ぎたことをしちゃってました。反省《はんせい》してます。不快《ふかい》な思いをさせてしまってごめんなさい」
「……え? 月村さん?」
うつむき、水をやり忘れた観葉《かんょう》植物《しょくぶつ》のようにしおれて謝罪《しゃざい》する同居人《どうきょにん》に面食《めんく》らう峻護。いつもなら、最近の彼女なら、言われたことをきっちり倍にして返していただろうに、打って変わったこの転身《てんしん》はいったい何を意味しているのか?
ひょっとして従順《じゅうじゅん》さをアピールすることによって相手を油断《ゆだん》させ、その隙《すき》を見計らったところで強烈《きょうれつ》なカウンターを見舞《みま》う作戦なのではないか――などと疑《うたが》っていると。
そんな彼をさらに動転《どうてん》させる事態《じたい》が待ち受けていた。
「……わ、わかればいいのですわ、わかれば」
もうひとりの同居人の口からもまた、思いがけぬセリフが飛び出したのである。
「ええっ? ほ、北条先輩?」
「わたくしも――すこし言い過ぎたかもしれません。そう、そうね、いま受け持っている商談がうまくいかなくて気が立っていたのかも知れませんわ。お許しなさい」
まるで場違《ばちが》いに興奮《こうふん》してしまったことを恥《は》じるかのように麗華はそっぽを向き、くちびるをかんで後悔《こうかい》の態《てい》すら示《しめ》している。峻護はただもう呆気《あっけ》に取られるしかない。仇敵《きゅうてき》が恭順《きょうじゅん》といっていい態度《たいど》を示しているこの現状《げんじょう》、いつもの彼女であればこの機《き》を逃《のが》さず野生の肉食獣《にくしょくじゅう》のように追《お》い討《う》ちをかけ、真由を屠《ほふ》り去っていただろう。
そして峻護をいよいよ戸惑《とまど》わせることに、少女たちはそこから先を何も言わないのである。片方はうつむき、片方はそっぽを向いて、それぞれにお互《たが》いの出方《でかた》を待っているような……まるでディフェンダーしかいないサッカーの試合みたいにおそろしく消極的《しょうきょくてき》な姿勢《しせい》なのである。
(ど、どうすればいいんだ……?)
争い合っているのであれば止めようもあるのだが、彼女たちはすでに形としては和解《わかい》している。だがもちろん、現状は和解とは程遠《ほどとお》い、なんだか奇妙《きみょう》な空気であるわけで……果たしてこのまま一件|落着《らくちゃく》としていいものかどうか……
と、その時。
ぴるるるるるる……
麗華のメイド服のボケットで携帯電話《けいたいでんわ》の着信《ちゃくしん》が鳴った。
「ああ、保坂《ほさか》からの連絡《れんらく》ですわね」
携帯の持ち主はどこかホッとした顔で機体《きたい》を取り出すと、
「あの無能者《むのうもの》が、どうせ命じておいた仕事に行き詰《づ》まってわたくしに泣きついてきたのでしょう。……というわけでわたくし、急用《きゅうよう》ができました。今日のところはこれにて失礼を」
そう言い捨《す》てると渡りに船とばかり、逃げるように退場《たいじょう》していった。電話口に出た付き人少年を何かの身代《みが》わりのように罵《ののし》りながら。
「……あの、二ノ宮くん」
駆《か》け足に近い足取りで去っていく令嬢を無為《むい》に見送る峻護の背中に、もうひとりの少女からの声が掛《か》かる。
「今日のところは『特訓』、ここまでにしませんか? そろそろ家事に手をつけないとだし、他にもやっておきたいこととかあるし……」
「あ、そう? うん、そうだな、そうかも。じゃあ今日はこのあたりにしておこうか?」
「はい、そうさせてください。今日もありがとうございました」
両手を丁寧《ていねい》にそろえて頭を下げ、真由もまた早足で部屋を後にする。
「……あー」
その背中をやはりむなしく見守る峻護だが、彼とて暇人《ひまじん》ではない。誰もが敗者となったかのような歯切《はぎ》れの悪い感覚《かんかく》を味わいながら、彼もまたノルマとなっている雑事《ざつじ》の数々に従事《じゅうじ》せざるを得《え》ず、それらの職務《しょくむ》に追われていくうち、なんだか気にかかる少女二人の関係の変化についての対応もついつい伸《の》ばし伸ばしになっていくわけで――
先日|以来《いらい》、どうも妙《みょう》である。
峻護とて少女ふたりと伊達《だて》にひとつ屋根の下に暮らしているわけではない。月村真由と北条麗華の様子《ようす》がおかしいことには早い段階《だんかい》から気づいていた。
先日――というのはつまり、麗華に随行《ずいこう》を命じられ遊園地《ゆうえんち》で一日を過ごした休日のことであり、より正確に言えばあの日の夜、泥酔《でいすい》した真由が帰宅《きたく》したあたりから、まず麗華の態度に変化がみられた。何があったのかと首をひねっている間もあらばこそ、翌朝《よくちょう》になってベッドから這《は》い出してきた真由の様子もまた、様変《さまが》わりの兆《きざ》しを呈していたのである。
『変化』を具体的《ぐたいてき》に言えば、何よりもまず争いが減《へ》った。というより、お互《たが》いがお互いを避《さ》けるようになった。それも憎悪《ぞうお》や嫌悪《けんお》ゆえに避けるという感じではなく、何と言えばいいのか、そう、まるで腫《は》れ物《もの》に触《ふ》れるのを恐《おそ》れているかのような塩梅《あんばい》なのである。『特訓』の時などが顕著《けんちょ》な例で、男女の関係を演《えん》じる訓練においては右に挙《あ》げた通りだし、入浴《にゅうよく》を共にする訓練の際《さい》やベッドを共にする訓練の際もこれに類似《るいじ》した状況――お互いに対する妙な遠慮《えんりょ》――が頻繁《ひんぱん》に見られるようになった。
ともあれこれによって真由と麗華の間の紛争《ふんそう》は激減《げきげん》したわけであるが、それで峻護の心が安らかになったかといえばさにあらず。少女ふたりは懸案《けんあん》を解消《かいしょう》して和解したわけではなく、何らかの事情でそれを心の内に溜《た》め込んでいる様子なのである。何事《なにごと》も溜め込むのは身体に悪い。現にふたりの表情はここしばらく常にすぐれない。喧々《けんけん》囂々《ごうごう》とやり合っていたころの方がまだしも血色《けっしょく》がよかったように思われる。
慢性的《まんせいてき》に悄然《しょうぜん》としている真由と、ニコチンの切れた喫煙者《きつえんしゃ》のようにどこか苛立《いらだ》った麗華。
もちろんこれは、彼女たちの間に発生した火災《かさい》の鎮火《ちんか》を意味しているのではない。火種《ひだね》は灰の中に潜《もぐ》っただけで依然《いぜん》として燻《くすぶ》りつづけている。そして目には見えないだけで、火種に注《そそ》ぎ込む油にはいまだ事欠《ことかか》かないはずであった。
むろん、峻護は再燃《さいねん》を恐れて戦々《せんせん》恐々《きょうきょう》としていれば済むかといえばさにあらず。だがあの日、舞台《ぶたい》の裏側で二人の少女たちに何が起きていたのかすら知らぬ彼にとって、また男女の機微《きび》におそろしく疎《うと》い彼にとって、彼女たちの仲介《ちゅうかい》に立つのは至難《しなん》の業《わざ》である。
何より峻護は峻護で懸案《けんあん》を抱《かか》え、その解決策《かいけつさく》を見出《みいだ》すのに手《て》一杯《いっぱい》であったのだ。
そんな煮《に》え切らない日々がしばらくつづいた、ある日のことである。
暑い。
学校から帰宅《きたく》した午後四時半。峻護は芝生《しばふ》を敷《し》き詰《つ》めた庭の掃《は》き掃除《そうじ》に精《せい》を出しつつ、額《ひたい》に滲《にじ》む汗《あせ》をぬぐった。日が傾《かたむ》き始めても猛暑《もうしょ》は手を弛《ゆる》める気配《けはい》を見せず、ギラついた熱気をシャワーのように降《ふ》り注いでくる――鼓膜《こまく》にストレスをかけるセミの鳴き声と仲良く手をとりあって。
夏はいよいよ、これからが本番である。
「ふう……」
一息つき、オレンジ色の染《し》み込み始めた空を見上げる。そろそろ巣《す》が恋しくなったのか、黒いシルエットの群れが矢のかたちを成して天空を渡っていくのが目に鮮やかであった。
「…………」
が、空を見つめつつも峻護の思考《しこう》は別のところに飛んでいる。ここしばらく苦労人の少年を捉《とら》えつづけている難問《なんもん》に、彼の意識《いしき》は再び向き合おうとしていた。
難問とはすなわち彼、二ノ宮峻護の気持ちがいったいどこに向いているのか、ということである。
別の言葉で言い換《か》えれば――こうして言い換えること自体、彼に多大《ただい》な心的《しんてき》負担《ふたん》を背負《せお》わしめるのだが――二ノ宮峻護は月村真由と北条麗華のうち、いったいどちらを好きなのか、ということである。
何を今さら、とは言うまい。国宝級《こくほうきゅう》の堅物《かたぶつ》、修行僧《しゅぎょうそう》並《な》みの禁欲《きんよく》少年である峻護にとって――異性《いせい》に恋愛感情を抱《いだ》くことすら未経験《みけいけん》だった彼にとって、現在の状況《じょうきょう》は少々レベルが高すぎるのである。魅力的《みりょくてき》な少女ふたりとひとつ屋根の下に暮らし、しかもどうやらその両方から同居人であるという以上の親愛感を持たれているらしい、などという状況は。
……そう、ここしばらくの『激動《げきどう》』を経《へ》て、ようやく彼も現状を自覚《じかく》するようになっていたのである。
だがしかし、この時点で少年は早くも経験《けいけん》不足《ぶそく》を露《ろ》呈《てい》してしまう。まず峻護は、状況を理解《りかい》しても嬉《うれ》しいという感情が先に立たない。彼ですら手放《てばな》しで認める美少女たちから憎《にく》からず思われていると知っても、困惑《こんわく》や狼狽《ろうばい》といった感情が先行してしまうのである。
とはいえこの感情が彼の不誠実《ふせいじつ》に起因《きいん》しているわけでないことについては、当人《とうにん》の名誉《めいよ》ために申《もう》し添《そ》えておかねばならない。峻護の恋愛的|未成熟《みせいじゅく》さが状況を停滞《ていたい》させていることは疑《うたが》いないが、それをもって悪と断《だん》じてしまうのは少々|酷《こく》というものであろう。自動車教習所に入所《にゅうしょ》した初日にF1の本戦を走らされるようなもので、もし恨《うら》むとするならばド素人《しろうと》にこんな難役《なんやく》を回した神を恨むべきである。
もちろん峻護は女性に対して不感症《ふかんしょう》なわけではなく、無関心《むかんしん》なわけでもない。女性への好悪《こうお》の感情はちゃんと有《ゅう》しており、真由と麗華に対しても彼なりの見解《けんかい》は立てている。月村真由の純朴《じゅんぼく》さ、生真面目《きまじめ》さ、一本|筋《すじ》の通った芯《しん》の強さといった美徳《ぴとく》は愛《め》でられてしかるべきものだし、北条麗華の高潔《こうけつ》さ、聡明《そうめい》さ、高貴《こうき》なる者の果たすべき責務《せきむ》に対する積極的《せっきょくてき》な姿勢《しせい》といった美点は全面的に敬服《けいふく》するのが至当《しとう》というべきだろう。むろん彼女たちの見栄《みぱ》えのよさについては論《ろん》ずるを待たない。どこをどう見ても、彼女たちふたりは二ノ宮峻護には分不相応《ぷんふそうおう》なほどのお相手である。
(それはわかってる――んだけどなあ……)
ホウキにもたれかかるような姿勢《しせい》で峻護はため息をつく。贅沢《ぜいたく》な悩《なや》みであることは百も承知《しょうち》の上で声を大にして言いたい。なぜ、ふたり同時なのだろう? どちらか片方であれぱもっと事態《じたい》は単純《たんじゅん》であったろうに。
いやいや、それよりはるかに根本的《こんぽんてき》な問題がある。実のところ『自分が彼女たちに抱《いだ》いている感情をどう定義《ていぎ》づけるべきなのか』などという初歩《しょほ》中の初歩の地点において足踏《あしぶ》みしているのが峻護の現状なのであった。彼女たちへの好意、関心を恋愛感情と呼んでいいのかどうか、疑問《ぎもん》を覚えざるを得ないのである。それはなぜか?
(だって……月村さんも北条先輩も、『サキュバス』なんだろう……?)
そう、それこそが、彼が下すべき諸決断《しょけつだん》を麟踏《ちゅうちょ》させる主な原因となっているのである。
といって、サキュバス(主に真由)の強力な精気《せいき》吸引《きゅういん》能力《のうりょく》によって生命の危機《きき》に晒《さら》されることを恐れているのではない。峻護にとって、サキュバス相手に精気のやり取りを交わすがごとき行為《こうい》は無数《むすう》のステップを踏破《とうは》した先にある重大《じゅうだい》行事《ぎょうじ》であり、彼個人の感情としては当面《とうめん》考慮《こうりょ》に入れる必要のないことだ。
峻護の懸念《けねん》は『自分の感情はサキュバスの魅惑《みわく》によって知らぬうちに操作《そうさ》された結果としてあるものなのではないか』――つまり真由と麗華に向ける好意が、純粋《じゅんすい》に自分の意思によるものなのかどうか、自信を持てないでいる点にあるのだ。
何しろ相手は生存《せいぞん》本能《ほんのう》に従ってまったく無意識《むいしき》・無自覚《むじかく》のうちに男性を籠絡《ろうらく》することが可能《かのう》な人種、サキュバスなのである。確かに麗華に関して言えば少々|毛色《けいろ》の変わったタイプのサキュバスということもあり、その強制的|魅惑《みわく》を発揮《はっき》した事例《じれい》は過去《かこ》に一度しかないわけだが、それとてあくまで峻護が自覚《じかく》しえた事例の話である。いや、まさしく峻護が自覚しえないうちに彼を寵絡することを可能にする、常識離《じょうしきばな》れの魅惑を持つ存在こそがサキュバスと呼ばれるのではなかったか。現に、麗華のことを強烈《きょうれつ》に意識し始めたのはあの南の島での一日を境《さかい》にしてである。その『強烈な意識』がサキュバスゆえんのものではないと、誰が言い切れよう。
(ああだめだ、また混乱《こんらん》してきた……)
ぶんぶん頭を振《ふ》り、まとわりついてくる蚊柱《かばしら》もついでに払《はら》いながら、思考《しこう》をクリアにしようとする。自分は深く考えすぎなのだろうか? じゃあこういう考えはどうだろう、どちらも同じくらい魅力的な少女なんだから、どちらを選んでしまってもいいじゃないか、というのは。その日の気分で選んでしまっても、何ならくじ引きで選んでしまっても……いやいや、そもそも選ぶ必要すらないのかもしれない。両手に花ということでいいじゃないか……いやいやそんなばかな、そんな不誠実なことがあっていいはずがない。そんな、ふたりの女性を同時に……いや待て、この考え方は一夫《いっぷ》多妻制《たさいせい》の文化を否定《ひてい》することになるのか? ああ、もし北条先輩が『約束の少女』でありさえすれば、こんな風に悩むことはなかったかも知れないのに――
(……ん?)
ふと。
頭を抱えて煩悶《はんもん》していた峻護はその感覚に気づき、動きを止めた。
「――いかんいかん、悩んでる場合じゃないな。早いとこ庭の掃除を片付けないと」
口に出して言い、何気ない風を装《よそお》いつつホウキを握りなおして掃き掃除を再開する。
セミの合唱《がっしょう》は相変《あいか》わらずスコールのように空気を震《ふる》わせ、芝生《しばふ》を踏《ふ》みしめて移動《いどう》するたびに小さなバッタが迷惑《めいわく》そうに跳びはねる。ホウキと身体が自然とリズムを取り合い、くちびるはデタラメな鼻歌を低く刻《きざ》む。
「…………」
視線《しせん》を固定したまま、注意深く探《さぐ》る。
先ほどまでと何も変わらない、日の暮れ始めた夏の風景《ふうけい》が、のんべんだらりと二ノ宮家の洋館を取り巻いているだけである。気のせいか――いや、やはりちがう。
何だ? 何か変だ。肌《はだ》にまとわりついてくるこの、暑気《しょき》や湿気《しっけ》とは別の感覚。
「……よっ、と」
ホウキを動かす手を止めぬまま、敷地《しきち》を取り囲《かこ》む林にさり気なく身体を向けた。その瞬間。わずかだが確かに気配が揺《ゆ》れた。
(やっぱりか……)
十中八九、いやもう十中の十、間違《まちが》いない。
下生《したば》えの茂み、雑木林《ぞうきばやし》の木陰《こかげ》を始めとする、敷地のそこかしこに。
誰かいる。
――ほぼ同|時刻《じこく》。
煮えきらぬ三角関係の当事者《とうじしゃ》たちのうち、もっとも正確に状況を見渡すことのできる立場にいる少女――北条麗華は。
「ええい、このっ、しつこい、ですわ、ねっ」
二ノ宮家の台所で、拭《ふ》いても拭いても汚れの落ちない銀《ぎん》食器のガンコさに盛大《せいだい》な舌打《したう》ちを放《はな》っていた。
「このっ、細工《さいく》が彫《ほ》ってある部分にっ、布巾《ふきん》が、入らなくてっ……!」
ためつすがめつ角度を変え、あの手この手を試《ため》してみるも埒《らち》があかない。
「ああもうっ、知りませんわ!」
ほどなく根負《こんま》けしたメイド姿の令嬢は、仕事を放り出して流し台に腰を預《あず》け、休憩《きゅうけい》の体勢《たいせい》に入った。ふう、と息をつき、見るともなしに天井《てんじょう》を見上げながら、窓《まど》から入ってくる風に身を任《まか》せる。
「いい風……」
家主の意向《いこう》で滅多《めった》に空調《くうちょう》を効《き》かせない二ノ宮家は夏場、文字通りの蒸《む》し風呂《ぶろ》と化す。それでも風通しのいい設計《せっけい》にはなっているようで、日の傾《かたむ》くこの時刻になれば思いのほかいい涼気《りょうき》が染み込んでくるのだ。苛立ちで火照《ほて》った身体には天の恵みに等しい。
――そう、苛立ち。
「ああ、もおっ……」
麗華は顔をしかめ、長い髪を乱雑《らんざつ》にかきあげた。この苛立ちが気温の高さや銀製のカップに向いているわけでないことは理解していた。北条コンツェルンの次期|総帥《そうすい》は、自分の心理《しんり》の推移《すいい》を自覚できないほど愚鈍《ぐどん》ではないのだ。
目を閉じると、何かの呪《のろ》いのように目蓋《まぶた》の裏に映るフラッシュバック。白いレースのハンカチ。正体を無《な》くして帰宅した月村真由。遊園地で出会ったぶっきらぼうな少年。夕陽の中で語った過去《かこ》――
(……だったらどうだというのです?)
吐《は》き捨てるように麗華は独白《どくはく》する。
あの少年が月村真由だったからといって、だからどうしたというのです? あの日、あの女は恥知《はじし》らずにもわたくしと二ノ宮峻護を尾行《びこう》し、わたくしの過去を盗んだ[#「わたくしの過去を盗んだ」に傍点]のですわよ? おまけにわたくしに対して不敬《ふけい》にも宣戦《せんせん》を布告《ふこく》した罪人《ざいにん》ですらあるのですわ。誅《ちゅう》を下す理由こそあれ、情けをかける理由などどこにもない、そうではなくて?
さあ非情《ひじょう》になりなさい北条麗華。あなたはこれまで必要とあらばずっとそうしてきたでしょう? あの女のあさましい行為《こうい》を暴《あば》き、追い詰《つ》め、完膚《かんぶ》なきまでに叩《たた》き潰《つぶ》すのです。二度と刃向《はむ》かえないように――むろん、二ノ宮峻護の見ている前で。
さあ。
さあ北条麗華!
……これまでにもう、幾度《いくど》くり返した叱咤《しった》と鼓舞《こぶ》であったろうか。それは遊園地での一日を終えた夜、玄関先《げんかんさき》で眠りこける真由の懐《ふところ》から白いレースのハンカチがこぼれ落ちた時から始まった叱咤と鼓舞であり、その後の『特訓』において真由が一歩も二歩も引いた態度を見せるたびにくり返した叱咤と鼓舞でもある。だが結果として麗華は何も言わずにハンカチを真由の懐に戻《もど》し、真由が引けばそれに合わせるようにして自らも一歩二歩と譲歩《じょうほ》していったのだ。
(……なぜです? どうして?)
己《おのれ》の心理に、麗華は本気で当惑《とうわく》していた。敵を駆逐《くちく》するというただそれだけのことに、彼女にとっては呼吸《こきゅう》するも同然のルーチンワークに、どうしてこれほどのためらいを覚えなければならないのだろう。自らの行動に論理的《ろんりてき》な説明がつけられない、その事実が麗華の神経を否応《いやおう》なく刺激《しげき》し、そこから派生《はせい》した苛立ちの捌《は》け口は、ごく自然な流れとしてライバルの元へと向けられていく。
(まったく、あの小娘は何がどうあってもわたくしを不愉快にさせるように運命付けられているのですわね。はた迷惑《めいわく》なことこの上ありませんわ)
ぶつくさ文句《もんく》を並《なら》べつつ、真由のおどおどした顔を思い浮かべては眉間《みけん》にしわを寄せ、そのくせ彼女が時おり見せる強い眼差《まなざ》しを脳裏《のうり》に再生しては下くちびるを噛《か》み、かと思えば遊園地で自分の過去をぺらぺらしゃべってしまったことを不意《ふい》に思い出して、全身を掻《か》き毟《むし》りたくなるような得体《えたい》の知れない衝動《しょうどう》に襲《おそ》われる――
「ああもう、キリがありませんわっ!」
両手を子供のように振り回し、とめどもない思考《しこう》を止めた。
「ハァ……まったく、わたくしときたら……」
再度《さいど》、ためいきをつく。わからない。まったくわからない。ほれたはれたにまつわるあれこれは、どうしてこれほど不可解《ふかかい》な事象に満ちているのだろうか。世の人々はどうやってこの理不尽《りふじん》を切り抜けているのだろう。自慢《じまん》の頭脳《ずのう》はこういう肝心《かんじん》な時にまるで働いてくれない。
かといって、麗華には難問を相談できるような相手もいない。彼女は常に相談を受ける側の立場であり、その逆のパターンはほとんど皆無《かいむ》だったのである。ましてやこんな微妙《びみょう》な内容を含《ふく》む話題とあっては……それでもあえて選ぶとすればやはり保坂だろうか? いや、いくら保坂でもそれはない。では保護者《ほごしゃ》を僭称《せんしょう》する二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村|美樹彦《みきひこ》? 冗談《じょうだん》ではない、あの連中《れんちゅう》に話すくらいなら舌《した》を噛む。そうなると……ああ、『彼女』がいたか。保坂と並ぶ忠実《ちゅうじつ》な従者にして幼《おさな》なじみであるあの少女なら、どんな相談にも乗ってくれるだろう。だが彼女は長期の海外|視察《しさつ》に出ていて不在《ふざい》である。いない相手に期待《きたい》しても詮《せん》ないことだ。それに……やっぱり彼女にそういう役どころを振るのも何だか違う気がする。
「はぁ……」
はしたなくも両足をぶらぶら揺《ゆ》らしながら、麗華は再々度《さいさいど》のため息。
(月村真由。どうしてあなたは――)
わたくしを潰《つぶ》そうとしなかったのです?
もう数も覚えていないほど自問した問いを、令嬢は飽《あ》きもせずくり返す。
あの小娘にはいくらでも機会《きかい》はあったはずなのだ。だったら遠慮なくそうすればよかったではないか。そうすればこっちだってもっと気楽に非情になれただろうに。たったひとつの、決して譲《ゆず》れないものを取り合う間柄《あいだがら》なのだ、お互いにとってそのほうが都合《つごう》がいいというものではないか――
と、その時。
ことん、とかすかな音がして麗華はそちらを振り向き、たちまち柳眉《りゅうび》を険《けわ》しくした。
「……あの、すいません」
令嬢の感情を不安定《ふあんてい》にしているまさにその主要因《しゅよういん》が、台所《だいどころ》の入り口で背を丸めるようにして立っていた。
邸内《ていない》で別の家事に勤《いそ》しんでいたはずの月村真由は、学校帰りのセーラー服姿のまま、
「麗華さん、ちょっとお時間いいでしょうか?」
「お時間ですって?」
メイド少女はもたれかかっていた流し台から腰を離《はな》すと、腕《うで》を組んで両足を肩幅《かたはば》に広げ、
「できることならお断《ことわ》りしたいですわね。というより本心を言えばわたくし、あなたと接触《せっしょく》する機会は万難《ばんなん》を排《はい》して避けたいところです。あなたとなんて一秒だって顔を合わせていたくはありません」
「すいません……あの、でもほんとうに少しでいいですから。お願いします」
「ふん……」
鼻を鳴《な》らし、縮《ちぢ》こまっている宿敵《しゅくてき》を一瞥《いちべつ》する。
「まあいいですわ、少しばかり時間を割《さ》きましょう。いいですこと? あくまでもほんの少しですわよ? わたくしは多忙《たぼう》な身なのです、本来ならあなたごときにかかずらわっている暇はないのですからね」
「はい、ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる真由に、しぶしぶといった態《てい》で話を聞く体勢を作りながら、麗華は内心で首をひねっていた。こんな風に改《あらた》まっていったい何の用だろう? まあいずれにしても心楽しくなれる会話でないことは確かなのだ、用心しておくに越したことはあるまい。
「それで? 何のお話かしら?」
「はい、あの……」
促《うなが》すと、真由はうつむきがちにしていた顔をあげ、こちらを真《ま》っ直《す》ぐに見つめて。
何事かと身構《みがま》える麗華の警戒《けいかい》をあっさり突《つ》き破《やぶ》るセリフをその口から放った。
「わたし、『特訓』をやめようと思うんです」
五人を超《こ》えたあたりで気配を数えるのはやめた。ホウキを担《かつ》いで――むろん、こちらが気づいていることには気づかれないように――ざっと庭を一周してみたが、敷地を取り囲む不審者《ふしんしゃ》の人数は十ではきくまい。
すなわち。
現在二ノ宮家の年季《ねんき》の入った洋館は、不穏《ふおん》な連中によって完膚なきまでに包囲《ほうい》されていることになる。たおかつこういう時に最も頼《たよ》りになりそうな姉の涼子と居候《いそうろう》の美樹彦は不在。彼らの次に頼りになりそうな保坂少年もこれまた外出中。現在|屋敷《やしき》にいるのは峻護と月村真由、北条麗華の三名のみ。正面切って不審者たちと事《こと》を構《かま》えるのは無謀《むぼう》であり、かといって三人そろって脱出《だっしゅつ》するのも困難《こんなん》。
(さて、と……)
この段階《だんかい》で性急《せいきゅう》に動いてもいい結果は出まいし、下手《へた》に動くと連中を刺激《しげき》するおそれもある。ここは相手の出方をみながら迅速《じんそく》に、かつ冷静に事後《じご》の対応を考えねばならない。
(いったい何者かな……?)
玄関に足を向けながら、収拾《しゅうしゅう》したわずかな情報を手がかりにして状況をより正確に把握《はあく》するべく試《こころ》みる。
連中がドアをきちんとノックして訪《たず》ねてくるタイプの客でないことは明らかだが、ただならぬ空気と包囲を形成する手際《てぎわ》のよさからみて、単なるいたずら目的の愉快犯《ゆかいはん》であるという線もまずあるまい。高度な訓練を受けたプロの連中とみるべきだろう。目的は不明だが――まあ、普通《ふつう》に考えれぱ姉がらみか。
では包囲の始まった時聞はいつか? 気づくのが遅れたのは否《いな》めないが、それでもせいぜいここ五分程度の出来事《できごと》のはず。包囲が完成してから経過《けいか》した時間は一分半から二分とみた。襲撃《しゅうげき》するつもりならばゴーサインを出すのに十分な時間であるはずだが――それだけ慎重《しんちょう》に事を進めるつもりだということか? いや、むしろ連中がこちらの内情を正確に把握しきれていないことの現れ、それゆえの警戒ではあるまいか。
いずれにせよ相手の行動が遅滞しているのであれば、まだ付け入る余地《よち》はある。
(――よし)
有力|候補《こうほ》のひとつに挙《あ》げられていた『投降《とうこう》』の二文字を削除《さくじよ》しながら家に入る。将棋《しょうぎ》かチェスで言えば詰みの二、三手前まで迫《せま》られている状況だが、このまま座《ざ》して勝ちを譲《ゆず》ってやるのも癪《しゃく》な話であった。
正面ホールに向かい、そこに設《しつら》えてある黒電話に真っ直ぐ歩み寄った。普段は鳴りを潜《ひそ》めている反骨心《はんこつしん》、闘争心《とうそうしん》が、粘性《ねんせい》の溶岩《ようがん》みたいにどろりと熱く湧《わ》き上がってくるのを覚えながら、峻護はアナクロな電話機のダイヤルを回し、いくつかの番号をコールした。むろんダイヤル先は110番などではない。そもそも彼は受話器を取り上げてすらいなかった。
――数秒の間を置いて。
電話台のそばの壁《かべ》が音もなくせり出してきた。継《つ》ぎ目などどこにも見当《みあ》たらなかった白い漆喰《しっくい》の壁《かべ》を押し出して現れたのは、無線機《むせんき》とパソコンのマザーボードを足して二で割ったみたいな剥《む》き出しの機械。備《そな》え付けの無骨《ぶこつ》なヘッドホンを装着《そうちゃく》し、配線《はいせん》丸見えなそいつの主電源を入れると、機械は自動的にアクセスを開始した。二ノ宮家の現|責任者《せきにんしゃ》である姉・涼子につながるホットラインである。
(出てくれよ、姉さん……)
無機的《むきてき》なアクセス音に耳を澄《す》ませながら応答を待つ。弟の電話になど百回に一回も出てくれない姉と緊急《きんきゅう》に連絡を取りたければこれを使うしかないのだ。むやみな使用を厳《げん》に禁じられている装置《そうち》であり、峻護も実際《じっさい》に使うのは初めてだが、今の状況ならそれも許されるだろう。
が、ヘッドホンから聞こえてくるのは無情《むじょう》なビープ音のみ。峻護も通う神宮寺《じんぐうじ》学園高校の保健医《ほけんい》に成りすましている姉はこの時間、保健室で勤務中《きんむちゅう》のはずであり、緊急連絡に出られないほど忙《いそが》しいとも思えないのだが……まったく、いま出てくれなければこんな装置になんて何の意味もないではないか。外にいる連中はかなりの高確率《こうかくりつ》で姉の客だろうに。
(――おっと、まずいな)
応答を待ちながらも窓の外への注意を怠っていなかった峻護が眉根《まゆね》をよせる。全身を黒ずくめの重装備に包んだ襲撃者《しゅうげきしゃ》のひとりが、今まさに木立の陰《かげ》から躍《おど》り出てくるところだった。その後からさらにひとり、ふたりと、黒ずくめたちが屋敷に向かって急迫《きゅうはく》してくる。どうやら時間切れらしい.ここは自分の力だけで何とかするしかあるまい。
峻護はヘッドホンを置き、黒電話のダイヤルを何度か回した。
それに呼応《こおう》して怪《あや》しげな装置が再び音もなく壁に埋《う》まっていくのを見向きもせず、少年は彼が護《まも》るべき同居人たちの姿を求めて邸内を疾《はし》る。
「……なんですって?」
と言ったきり、麗華はむっつり口を閉じたままいよいよ眉間《みけん》のしわを深くし、それきりひとことも発さない。そんな令嬢に当惑していた真由だったが、
「あの、麗華さん?」
「…………」
「ええとその、わたしの話というのはそれだけです。お時間取らせてしまってすいませんでした」
やがて深々とお辞儀《じぎ》をすると、そのまま踵《きびず》を返そうとして、
「どういうおつもり?」
「え?」
夕立《ゆうだち》前の雨雲のような低い声に縫《ぬ》いとめられ、ふたたび振り返った。
「どういうおつもりかと訊《き》いているのです」
「ええと、あの、その」
低気圧《ていきあつ》が渦《うず》を巻き始めている令嬢の様子にあわてながら、
「麗華さんには、先に言っておきたくて。二ノ宮くんと涼子さんと兄にはこれから言うつもりです」
「そんなことは訊いていません」ぴしゃりと切り捨て、「……いいえ、その前にまずは確認しておかねばなりませんわね、空耳《そらみみ》の可能性がゼロでない限りは。あなた先ほどわたくしに何とおっしゃいました?」
「はい? ええと、その」
真由は、どうして相手を怒らせているのかわかっていない顔で、
「いつもやっている『特訓』をやめる、って言ったと思うんですけど……」
「なぜです?」
「なぜです、と言われても……」やはり困惑顔《こんわくがお》の真由、「麗華さん、特訓をいますぐ中止するべきだって、ずっと……」
そう、そのとおりだ。何度も何度も主張《しゅちょう》してきたことだ。特訓の名のもとに正当化されているいかがわしい行為を即刻《そっこく》中止するべきだと。それを当の真由自身から『やめる』と言って来ているのだ、『なぜです?』と問われるべきはむしろこちらなのだろう。
だがそれを百も承知《しょうち》の上で、麗華は感情がささくれ立つのを抑《おさ》えられない。
(だいたいにおいて何です、あなたは他人にそうせよと言われたからといって、必要と信じてきたことをあっさりやめるのですか。その根性がわたくしは気に食わないというのです。それに『特訓』をやめたとして、あなたの男性恐怖症の克服《こくふく》はどうなるのです? あらゆる方法を試《ため》しても効果《こうか》がなかったから、やむなく今の方法を試しているという建前《たてまえ》だったのではなくて? それはもちろん、特訓とやらの実効性《じっこうせい》についてはわたくし最初から疑《うたが》ってはいましたけれど)
「あの……」
黙り込んでいる麗華の機嫌《きげん》を、ひとつ年下の少女が視線をさまよわせつつ窺《うかが》っている。
なんだかよくわからない苛立ちをもてあましながら、令嬢はそんな真由をじっと睨《にら》みつけている。
(それになんですかあなた、先ほどの目は。『特訓をやめる』と言ってわたくしを見たあの無駄《むだ》に真《ま》っ直《す》ぐな目は。まるで一仕事おえて胸のつかえが下りたような、バトンを渡し終えたマラソン走者が次の走者にエールを送るような、大往生《だいおうじょう》しようとしている年寄りが今わの際《きわ》に見せるような……あなたほんとうにそれで満足ですの? それでほんとうに納得《なっとく》がいくわけ? それだったらどうして初めから――ああもうそうではなく! いえそうでないこともないのだけれど! もちろんそれも大事《だいじ》なのだけど!)
いよいよ雲行きが怪しくなっていく令嬢の感情を、真由はまるで汲《く》めていないようだった。無理《むり》もない、麗華当人からして自分が苛立っている理由を理解していなかった。ただただ激昂《げっこう》していく感情をもてあまし、言いたいことが後から後から押し寄せてきて、そしてまた嵐《あらし》のように乱《みだ》れる感情が『言いたいこと』を湧いてくるそぱから吹《ふ》き散《ち》らしてしまって、結果として何も口にすることができない。そしてまた捌《は》け口を失った感情が風船のようにふくらんでいくのである。
が、それもすぐに限界《げんかい》がきた。沸点《ふってん》に達した激情《げきじょう》が着地点《ちゃくちてん》も見出《みいだ》さぬままひとりでに言葉を紡《つむ》ぐ。
「月村真由! あなた――」
そのまま最大級の痛癪《かんしゃく》を爆発《ばくはつ》させるべく、大きく息を吸《す》い込んだ時、
「月村さん! 北条先輩! どこですかっ?――ああいた、ここでしたか」
低く鋭《するど》い声を発しながら二ノ宮峻護が躍り込んできた。
だけでなく、
「に、二ノ宮くん?」
「え、ちょっと何、二ノ宮峻護――ひゃうっ」
いきなりふたりの腕をひっつかむや、ものすごい力で引っ張っていくではないか。
「詳《くわ》しい話は後です。急いでこっちへ」
ちらりとだけ振り返り、有無《うむ》を言わさぬ声。その表情は普段まず見せない、きりりと引き締《し》まったそれだったものだから、麗華はついドキリとしてしまう。そうなのです、たまにはこのくらい強引《ごういん》に振舞《ふるま》ってくれた方が魅力的《みりょくてき》なのに――などと考えていた麗華の視界の端《はし》に、自分と同じように引《ひ》っ張《ぱ》られながら頬《ほお》を桜色に染めている真由の姿が映《うつ》った。なんとなくムッとすると同時に、自分もあんな腑抜《ふぬ》けた顔をしているのかと自覚して、あわてて表情を引き締《し》める。
磨《みが》きぬかれた杉板《すぎいた》の廊下《ろうか》を引きずられながら、コホンと咳払《せきばら》いして、
「二ノ宮峻護。急いでいるのはわかりましたが、有無を言わさず女性をモノのように引きずり回すとは何事です。 簡潔《かんけつ》で構《かま》いませんから理由を話しなさい」
「不審者に囲まれてます」
廊下に面したとある空き部屋のドアを開けながら、峻護が即答《そくとう》する。
「不審者ですって……?」
「人数は十人以上、たぶん全員がプロです。さ、入って」
戸惑《とまど》いつつ部屋に入りながら、麗華は素早《すばや》く頭を切り替えた。こんなことを冗談で言うような男ではあるまい。ここは黙って彼に従っておくのが吉のようだ。
「それで、どうするのです?」
「こっちに」
空き部屋は広さ十畳ほどの洋間、二ノ宮家においてはゲストルームの予備《よび》の予備、といった扱《あつか》いをされている部屋である。ベッドをはじめとする家具が数点に出窓がひとつ。上質だがごく質素《しっそ》な作りであり、装飾《そうしょく》らしい装飾は壁に掛《か》かった四号サイズの風景画のみ。
峻護はいくつか設《しつら》えてある家具のうち、ごくひかえめなサイズの衣装棚《いしょうだな》の扉を開けると、
「ここに入って。ふたりとも」
「入れって、こんなところに?」指し示された空間の狭《せま》さに思わず反駁《はんばく》の言葉が口をついた。「子供じゃあるまいし、ふたりも入れるようなスペースはありませんわよ?」
「すいませんがもうひとり、おれもそこに入ります。さあ急いで。連中、たぶんもう邸内に入り込んでます。時間がない」
「ですけど、」
と言いかけたその時、真由が麗華の脇《わき》をするりと披けて衣装棚に手をかけ、自らの身体を中に入れた。
「麗華さん早く」
「きゃ」
真由の伸ばした手に腕をつかまれ、思いのほか強い力で中に引き上げられる。もみ合うようにして納《おさ》まった上に覆《おお》い被《かぶ》さるようにして、すかさず峻護がその長身を押し込めてきた。強引に。
つぶれたカエルみたいな悲鳴《ひめい》をあげる麗華に構わず、そのまま扉を閉じる。
「に、二ノ宮峻護! この狭さはいくらなんでも無理《むり》がありましてよっ。それはたしかに、強引もたまにはいいかとは思いましたけど――」
「静かに」
暗闇の中で抗議《こうぎ》する令嬢に鋭く注意を与《あた》えておき、峻護は次の行動に出た。佳境《かきょう》に入ったツイスターゲームみたいな体勢で寿司《すし》づめになったまま手を伸ばし、あちこちをまさぐりだしたのである。
「ちょ――」
胸元を這《は》いまわり始めた無遠慮《ぶえんりょ》な感触《かんしょく》に、麗華の全身がたちまち硬直《こうちょく》した。
「ああくそ、あのスイッチってどこだっけ……すいません先輩、もっと奥に詰《つ》めて。あ、月村さんはもうちょっと右に」
そんな状況《じょうきょう》を気にも留《と》めず、堅物《かたぶつ》であるはずの少年は麗華の身体の『探索《たんさく》』をやめようとしない。胸部をまさぐっていた手がようやく離れたかと思うと、その不埒《ふらち》な手が今度は膝《ひざ》の間にさしこまれ、少女に声にならない悲鳴をあげさせる。しかもこれで終わりではない、いたずらな手はさらなる危険《きけん》地帯《ちたい》へと浸入《しんにゅう》すべく、膝の間を上へ上へとゆっくり移動《いどう》してきて――
「ににに二ノ宮峻護!」たまらず声が出た。「強引に迫るにしても限度というものがありましてよっ! よもやこのような痴漢《ちかん》行為をはたらく目的でここに連れ込んだのであれば、いくらあなたといえどもただでは済ましませんわよこのばか! ばかばかばかばか!」
「いや、決してそんなやましいこと考えてるんじゃなくて――というか今はそんなこと言ってる場合じゃないんですって。あとでどんなお詫《わ》びもしますから、今はどうか」
ぽかぽか殴《なぐ》りつけてくるメイド少女に閉口《へいこう》しつつ困り声で懇請《こんせい》する峻護だが、ほとんどパニック状態に陥《おちい》っている彼女の耳には届《とど》いていない。
「ああもうしょうがない、月村さんの方から先に調べよう――月村さん、ちょっとごめん」
『探索』の続行《ぞっこう》を断念《だんねん》した峻護の手が身体から離れ、ようやく麗華は抵抗《ていこう》をやめた。
(まったく……いきなり何ということをしてくれるのですっ)
はあはあ息を切らせながら涙目《なみだめ》で不埒者をにらみつけ、心の中でクレームをつける。
(いつもは木石みたいに不感症《ふかんしょう》男のくせに、いきなり人が変わったみたいになって。だいたい本当に不審者とやらはこの家に侵入してきているのかしら? そんな気配はまるで感じないけど――)
と、そこで気がついた。衣装棚のわずかな隙間《すきま》から差し込む光に照《て》らし出される光景《こうけい》。
麗華を撫《な》でまわすのをやめた峻護の手は今、次なる獲物《えもの》――月村真由の上を這いまわっている。
瞬間的《しゅんかんてき》に感情が沸騰し、その感情をぶちまけるべく口を開きかけ、しかしすぐに別のことに気づいて思いとどまった。月村真由は麗華と同じようにまさぐられ、差恥《しゅうち》で顔を真っ赤にしながらも、決して声はあげずにじっと耐《た》えているのだ。
(……。なによ、それ……)
むっつりと不機嫌《ふきげん》に沈黙《ちんもく》した麗華のすぐ脇《わき》で、峻護がじれったそうに舌打ちする。
「だめだ。やっぱりこっちじゃない」
「二ノ宮くん、見つかりませんでした……?」
「ああ、すまない。こんな無礼《ぶれい》なことまでしておいて申《もう》し訳《わけ》ないんだけど、普段はぜったい使わないものだし、というか姉さんに禁じられてるし……」
不安げな真由の問いと、焦燥《しょうそう》ぶくみの峻護の応答《おうとう》。衣装棚のむこうでは相変《あいか》わらず何の気配もなく、平和な夏の日暮れ時のひとコマがのんびり流れているだけとしか映らない、のではあるが。
「二ノ宮峻護」
「あ、はい、なんですか先輩? いま忙し――」
「お捜しなさい」
「え?」
間抜《まぬ》け顔で問い返してくる峻護へ苛立たしげに、
「何か捜し物があるのでしょう?」
「あ、はい、そうです、この衣装棚のどこかにスイッチが」
「だったらとっとと捜しなさい、と言っているのです。わたくしに対する無礼は特別に許可《きょか》いたしますわ」
「あ、はい。でも、いいんですか……?」
「早くなさい。わたくしの気が変わらないうちに」
つん、とそっぽを向いた令嬢に峻護もそれ以上は問わず、「失礼します」と一言だけ断ってから『探索』を再開した。たちまち「はうっ」という声が麗華の口から洩《も》れ、すぐにその声を必死でかみ殺す。ほんの数センチ、いやもうゼロ距離《きょり》と言っていい位置にある、二ノ宮峻護の息づかいと温度《おんど》。そして入念《にゅうねん》にあちこちを物色《ぶっしょく》する無作法《ぶさほう》な指先。まぶたを強く閉じ、全身をぎゅぅっと縮《ちぢ》めてその感触に耐《た》え、しかし涼子の言葉を借りれぱ『敏感《びんかん》なタイプ』であるところの少女は、びくん、びくん、と跳《は》ねるカラダを抑《おさ》えきれず、
「〜〜〜〜〜〜っ」
背すじがぎゅうっと弓なりにのけぞって痙攣《けいれん》し、やがて上気した全身からぐったりと力が抜けたところで、
がたん
と物音《ものおと》がした。食堂に面したテラスのあたりからだろうか?――ということはつまり、この部屋のすぐ近く。むろん、風やネズミが立てるような音では断《だん》じてない。
そして息も絶《た》え絶《だ》えな麗華がハッと音の方に目を向けるのと、峻護が「あった」と呟《つぶや》くのがほぼ同時。
さらに一瞬後、ガタンという音がもう一度。ただし今度はほんの目と鼻の先で。
「きゃ――」
転瞬《てんしゅん》、麗華の背中から板壁《いたかべ》の感触《かんしょく》が消えた。狭い空間に少年少女を押し込めていた支《ささ》えの一方を失い、三人は雪崩《なだれ》をうって壁の奥へと転げ落ちる。
「いたたた……」
反射的に目を閉じていた麗華が腰をさすりたがらまぶたを開くと、そこにあるのはまたしても闇《やみ》――いや、それよりも一体ここはどこなのか? 衣装棚は部屋の壁にぴったりくっ付いて位置していたから、こうして三人が潜《もぐ》り込めるような隙間《すきま》は存在しなかったはず……。
「二ノ宮峻護、ここは一体――?」
「声をもっと低く。まだ安全を職保《かくほ》できたわけじゃありません」
いましめる声に続いて、ピピッという電子音、次いでガシャンという鍵《かぎ》の掛《か》かるような物理《ぶつり》音《おん》が小さくひびく。
「とりあえずはこれでよし、と。連中がこの隠《かく》し扉の存在に気づいたとしても、破《やぶ》るのにはしぱらくかかるはずです」
闇に慣《な》れ始めた目をこらしてみると、なるほど自分たちが転げてきた方向、つまりは衣装棚に突如《とつじょ》として空いた『穴』があったはずのあたりに、いつのまにやら壁が出現《しゅつげん》している。しかしそれにしても――
「さあお聞かせなさい。何なのですこの仕掛《しか》けは? こんなのがこの家にあるなんて聞いてませんわよ?」
「それはまあ、おれも話して聞かせた記憶もないので。一応これ、秘密《ひみつ》ってことになってますし」峻護は説明に窮《きゅう》した様子で頬を掻《か》き、「要《よう》するに、いざという時のための避難経路《ひなんけいろ》、ということになる……んじゃないでしょうか?」
「質問《しつもん》に対して疑問《ぎもん》形《けい》で返さないでいただけますこと? あなたこの家の人間なのでしょう? そんなあやふやなことでどうするのです」
「はあ、すいません。でもこれ、この洋館に引っ越してきた後に姉がごちゃごちゃと改造《かいぞう》して取り付けた仕掛《しか》けの一環《いっかん》でして」
「あの女ですか……」
げっそり肩を落とす麗華。なるほど、二ノ宮家の女主人がいかにもやりそうなことだ。そしてこの人物の名が出てきたエピソードということになれぱ、顛末《てんまつ》は聞かずとも想像《そうぞう》がつく。
「なんだか相当《そうとう》にたくさん手を入れて、あちこちに仕掛けを作ったみたいなんですが、
『ぜったいこのことは口外するな』って厳命《げんめい》されてて、『緊急のとき以外は死んでも使うな』とも言われてて――」
「わかりました、もう結構《けっこう》です。だいたい事情《じじょう》は見えました」
VIPの居宅《きょたく》に万一のためのセキュリティ設備《せつび》が施《ほどこ》されているのは当然であり、そして二ノ宮涼子(と月村美樹彦)は、麗華の知らぬ裏の世界で相当に幅《はば》を利《き》かせているビッグネームであるらしい。とすればこの家に抜《ぬ》け穴《あな》・抜け壁の類《たぐい》が隠されていることはそう不自然でもあるまい。
頭を切り替《か》えて麗華は状況をざっとまとめた。先ほどの物音《ものおと》と堅物な少年の真剣な態度《たいど》からして、不審者の存在と侵入についてはもはや疑《うたが》いを持つべきではあるまい。である以上、とにかく細かいあれこれは措《お》いておき、今は身の安全の確保を最優先させるべきだろう。
「ともあれここは、二ノ宮家の緊急避難|経路《けいろ》の一部になっているというわけですわね? ここを辿《たど》っていけばこの屋敷を安全に出られる手はずである、と。それで問題ありませんわ、とっととこんな狭くて暗い場所からは移動《いどう》いたしましょう」
「そうですね。ええと……ではこちらへ」
やや逡巡《しゅんじゅん》した後、峻護は向かって右の方向を指し示した。
「先頭はおれが行きます。最後尾《さいこうび》は――」
「あ、わたしやります」
それまで黙っていた真由がすっと手を挙《あ》げる。
「じゃあ月村さん、お願いするよ。さ、行きましょう。できるだけ音を立てず、ゆっくりと」
異論《いうん》を挟む間もなく隊列《たいれつ》が決まり、峻護が先陣《せんじん》を切って前に進み始めた。真ん中に麗華を挟んで真由が位置どる――最後尾とはすなわち追手《おって》が掛かれば真っ先に危険に晒《さら》される、リスクの高いポジションだ。
(ふん、なによ……)
逆にもっとも安全であろう位置に収められながら、麗華はくちびるを尖《とが》らせる。なんだかいつにもまして口数の少ない小娘がおいしいところだけきっちり持っていったような気がして。
(普段は目立たぬよう控《ひか》えているくせに、すこぶる目立つタイミングだけを選んで普段は取らない行動に出る。わずかなアクションで最大限に耳目《じもく》を引こうとする、その根性があさましいというのです……)
どこかから明かりが洩れてくるらしく、闇に慣《な》れた目であれば十分に視界は利《き》く。その明かりの方角に向かって、一行は遅々《ちち》とした足取りで進んでいく。
それにしても狭い通路である。家の壁の中に仕込まれているのだから当たり前だが、かろうじて人ひとりが通れるかどうかの幅しかない。すれ違おうとすればかなりの窮屈《きゅうくつ》を覚悟《かくご》しなければならないし、サイズの大きい人間の通行は土台からして不可能だ。
「連中、家の中をうようようろついてますね」
ふと、前を行く峻護がきびしい声で囁《ささや》いた。
「……? そうかしら? わたくしにはわからないけど……」
「います。三……四……いや五人か。はっきり感じ取れるのはそれだけですけど、おそらくはもっと」
武道の達人《たつじん》でもある彼は、麗華よりはるかに感覚が鋭敏《えいびん》なようだ。
「あ、明かりが見えてきましたね」
峻護が指差した先、夜道に灯《とも》った常夜灯《じょうやとう》のようにポツンと薄明《うすあ》かりが差しているのが見える。あれがこの通絡にほのかな照明《しょうめい》をもたらしていた光源であるらしい。
さらに近づくと、四角い窓型に切り取られた光が壁の一方から差し込んできているらしいのがわかった。
光源にたどりついた峻護が明かりを覗《のぞ》き込む。同時、彼が眉をひそめるのがわかった。
「どうしたのです?」
「あ、先輩待って――」
峻護が止める間もなく麗華は光を覗き込み、
「――っ!」
声にならぬ悲鳴をあげて反射的に飛び退《の》いた麗華を峻護がすばやく支え、壁にぶつかって音が立つのを未然《みぜん》に防《ふせ》いだ。
想《おも》い人の腕に抱《だ》かれているという事実も忘れ、麗華は凝然《ぎょうぜん》とそいつ[#「そいつ」に傍点]に目を凝《こ》らす。
光の源は『窓』であった。図《はか》らずも先ほど形容《けいよう》したとおりの、四角いガラス窓である。ただしその窓の向こうに広がるのは青々とした庭の芝生でも、緑|生《お》い茂《しげ》る林でもない。脱衣籠《だついかご》にタオル一式、浴場《よくじょう》につながるヒノキの引き戸……麗華の記億が確かならそこは二ノ宮家の脱衣所であり、彼女に悲鳴をあげさせたのは窓を挟んでこちらを覗きこんでいるひとりの人物であった。
見るからに物騒《ぷっそう》な輩《やから》である。首から上を隙間《すきま》なく覆《おお》う黒いフルフェイスマスクに黒のゴーグルをかけ、全身をこれまた真っ黒な分厚《ぶあつ》い生地《きじ》の着衣で包《つつ》んでいる。全体としてはツナギを着込んだバイクレーサーのイメージに近いといえなくもないが、背中にしょったバックパックと両手に構えた自動|小 銃《しょうじゅう》がその想像の誤《あやま》りを否応《いやおう》なく正してくれた。
なるほど、こんな連中が邸内に侵入しているのであれば文句《もんく》の余地なくまずい状況だが……もうひとつ看過《かんか》できない問題がある。窓を挟んで対時《たいじ》するという至近《しきん》距離にお互い身を置いているはずなのに、黒ずくめはこちらに気づいてないらしいのだ。腰だめに銃を構《かま》えて油断《ゆだん》なく脱衣所をチェックしている様子なのに。
やがて男は十分にこの部屋を調べ終えたと判断《はんだん》したのか、一切の物音を立てずそれでいてすみやかな足取りで脱衣所をあとにした。目の前にいた麗華には気づかぬまま。
(つまりこれは――)
彼女の記憶に狂いがないのを前提にすれば、ここは二ノ宮家の脱衣所であり、内部に置かれたものの配置から推察《すいさつ》するに、いま目の前にある『窓』とは洗面台にはめ込まれているはずの鏡《かがみ》に相当《そうとう》するわけであり――
「マジックミラーみたいですね、これ」
うしろから覗き込んできた真由が代わりに解答《かいとう》を述《の》べた。
「こんなふうになってたんですね……ぜんぜん知らなかったです」
「ああ、おれもだ」と、こちらは峻護、「ちょっとひやっとしたよ、一瞬見つかったかと思って。マジックミラーになっててよかった」
なるほど、そういうことであれば黒ずくめが気づかなかったのも納得がいく。が、納得いかないことが新たにもうひとつ。
「ちょっとお待ちなさい。何を平然《へいぜん》と会話しているのです」
ふつふつと湧《わ》いてくる怒りをこらえつつも、麗華は声が高くなるのを抑えきれない。
「あなたたち、脱衣所にこんなものがあることの意味を本当に理解していらっしゃるの? ここは着替えをするところであり、つまりはわたくしたちのプライベートが筒抜《つつぬ》けになっていたわけであり、その事実をわざわざ説明しなけれぱわからないとでも?」
「先輩おちついて。もっと声を低く」
「承知しています。わたくしは可能な限り落ち着くべく最大限の努力を払っていますわ」
言葉どおりにすーはーすーはー呼吸《こきゅう》を整えながら、
「あのあばずれ女――二ノ宮涼子は、わたくしが入浴するたびにこの場所に陣取《じんど》り、ニヤニヤといやらしい笑いを浮かべていたに違いありません。この不祥事《ふしょうじ》に関しては後ほど正式に抗議《こうぎ》させていただきますわよ?」
「先輩、お怒りはごもっともですが――」
言いながら峻護、問題になっているマジックミラーに両手を添《そ》えて軽く力を込める。するとはめ込まれていたガラス板が意外なあっけなさで外れ、壁中の裏道から表世界に通じる道がいとも簡単《かんたん》に開けた。
「姉が実際に出歯亀《でばがめ》に使用してたかどうかはともかくとして、これは二ノ宮家の緊急避難システムの一部という側面《そくめん》もあるみたいですから。ここはどうかひとつ」
「……ですから承知《しょうち》していると言ったでしょう、こんな議論《ぎろん》をしている時間がないことは。承知の上でわたくしは我慢《がまん》できなかった、というだけのことです」
ぶい、とそっぽを向いて言い訳にもならぬ言い訳を傲然《ごうぜん》と放っておいてから、
「ともあれ、これで侵入者うんぬんの件《けん》について疑う余地がなくなったのは事実。こんなキナ臭《くさ》い家からはさっさと脱出いたしますわよ。で、『脱出経路』というのはここを通ればいいんですの?」
「いえ、ここはどちらかというと、脱出経路の出口というより入り口ですから。ここから外に出るのはよした方がいいでしょう。家の中では連中がうろうろしているはずですし」
「でしたらこんなところで油を売ってないで、出口とやらにさっさと案内なさい。あの黒ずくめたちの目的がわからない以上――」
そう、目的。あれほど、えぐい完全武装に身を包んだ者たちがこの家に侵入した目的は何なのか? 誰を、あるいは何を狙《ねら》いとしているのか? 静か過ぎる襲撃の意味は? 制圧《せいあつ》した後も不気味《ぷきみ》な無言《むごん》を統ける理由は? そもそも彼らの正体とは?
「……ともかく、わたくしたちに対して友好的でないことは確かなのです。さあ早く脱出いたしましょう。話はそれからですわ。で、ここでないとすれば脱出経路の順路《じゅんろ》はどちらになるのです?」
「ええと……それはやっぱりこの先、でしょうか?」
「ちょっと二ノ宮峻護」
あやふやな態度《たいど》で通路の先を指し示した少年に、令嬢は目を据える。
「先ほどからなんですあなた、いかにも自信なさそうに。わたくしも月村真由もこんな隠し通路があるとは知らされていなかったのです。この中でそれを知りうる立場にあるのはあなたひとり。癪なことながら、この場で唯一《ゆいいつ》頼りになるのもあなたひとりなのですわよ?」
「ええとその、非常《ひじょう》に言いにくいことなんですが」
言葉どおりに長身を小さく縮めながら、峻護は白状《はくじょう》した。
「実はおれも、この家の裏側にある仕掛けについてはよく知らされてないんです」
「……。なんですって?」
しばらくその意味を咀嚼《そしゃく》してから、麗華はできるだけおだやかに言った。が、急速《きゅうそく》に青ざめていく峻護の顔色を見るかぎり、うまく感情をコントロールできていたかどうかは定かではない。
「では、あなたの言っていた脱出経路とやらはどうなるのです。まさかそんなものは初めから存在しなかったとでも?」
「いえ、そんなことはありません。姉の口ぶりからいってもその類のものが存在することは確かです。ただ、おれには知らされていないというだけで」
それでもさして現状は変わらない。
「つまり――」令嬢は今現在三人が置かれている立場を総括《そうかつ》した。「わたくしたちは誰とも知れぬ不審者どもに追い立てられたこの状況で抜け道にたどり着くこともままならず、ここで袋《ふくろ》のネズミになるのを待つばかり、ということ?」
「…………」
「…………」
誰にともなく訊いたその問いに誰からの返答もなく、しかし確認するまでもなく答えは知れている。
「まったく――」
片手で顔を覆った麗華にさしあたりできることといえば、心の底からため息を吐き出すことくらいだった。
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其の二 状況展開
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(くだらん)
|二ノ宮《にのみや》家《け》の中心部、正面ロビー。
数名の部下とともに泰然《たいぜん》と報告《ほうこく》を待ちながら、『隊長《たいちょう》』は苦い顔をした。むろん、防塵《ぼうじん》・防毒《ぼうどく》処理《しょり》を施《ほどこ》したマスクの裏《うら》で、である。顔全面を覆《おお》うこのマスクと目の色すら隠《かく》しおおせる遮光《しゃこう》ゴーグルのおかげで、部下たちの視線《しせん》を気にせず如何《いか》ようにも表情を変えられる。実に素晴《すば》らしきことであり、泣きむせんで喜ぶべきだろう。くそったれ。
この装備|唯一《ゆいいつ》の利便性《りぺんせい》に毒づいているうちに、部下のひとりが駆《か》け寄《よ》ってきた。
敬礼《けいれい》もそこそこに、
「制圧《せいあつ》完了《かんりょう》しました。ですが、在宅《ざいたく》を確認《かくにん》した少年一名の身柄《みがら》をいまだ確保《かくほ》できていません。ターゲットの所在《しょざい》も不明《ふめい》」
「ご苦労。引き続き探索《たんさく》を頼《たの》む。必ず邸内にいるはずだ」
想定《そうてい》していた事態《じたい》だが、それをおくびにも出さずに命じる。
「指示《しじ》はミーティングで確認《かくにん》したとおり。隠密《おんみつ》行動《こうどう》を継続《けいぞく》し、我々《われわれ》が侵入《しんにゅう》した痕跡《こんせき》は可能《かのう》な限り残すな。いつ撤退《てったい》命令が出てもチリひとつ残さずこの場を離《はな》れられるようにな。また、家人は必ず無傷《むきず》で捕《と》らえるよう。許可《きょか》あるまで発砲《はっぽう》も許《ゆる》さん」
「了解《りょうかい》」
ふたたび敬礼して踵《きびす》を返す部下を見送ってから後ろを振《ふ》り返り、
「お前たちも行け。時間が惜《お》しい」
「ですが――」
「構《かま》わん。私などより任務《にんむ》優先《ゆうせん》だ」
やや躊躇《ちゅうちょ》をみせた部下たちに重ねて命じると、なおも逡巡《しゅんじゅん》していた彼らもそれ以上は異議《いぎ》を唱《とな》えず、それぞれに散《ち》っていった。
「――くだらん」
部下たちの姿《すがた》が消えるのを見届《みとど》けてから、今度は音に出して呟《つぶや》いた。百も承知《しょうち》でいたことながら、せめて独白《どくはく》でもして毒を吐《は》いておかねばめまいを起こして倒れそうになる。
「まったく、あの痴《し》れ者《もの》めが……」
よくぞこんな要請《ようせい》を持ってきてくれたものだ、と思う。いわばこれは汚《よご》れ仕事の究極《きゅうきょく》であろう。一蓮《いちれん》托生《たくしょう》と恃《たの》んできた一騎《いっき》当千《とうせん》の部下たちを欺《あざむ》き、おまけにそうまでして達成《たっせい》すべき目的というのが――
「ええい、くそっ」
何度考えてもはらわたが煮《に》えくり返る。本当にこれがベストの選択《せんたく》で、時がたてばこのストレスに見合う見返りが得《え》られるのだろうか。
「この貸《か》し、いずれたっぷり利子《りし》をつけて返してもらうからな……」
自分にこんな道化役《どうけやく》を割《わ》り振《ふ》ってきた相手を歯《は》ぎしりしながら呪《のろ》い、それでも癇癪《かんしゃく》を抑《おさ》えきれず、そばにあったマホガニーの椅子《いす》を思いっきり蹴《け》りつけた。むろん、あまり大きな音が出ない程度《ていど》に。
「先輩《せんぱい》の言うほど絶望的《ぜつぼうてき》な状況《じょうきょう》ではないはずです」と峻護《しゅんご》は力説《りきせつ》する。「脱出《だっしゅつ》経路《けいろ》があることは確《たし》かなんです。探せば必ずあります」
「つまり探さなければ見つからないわけでしょう」
と、麗華《れいか》は送りバントに失敗《しっぱい》した野球|選手《せんしゅ》を見る目で、
「この薄暗《うすぐら》い中、おそらく巧妙《こうみょう》に隠《かく》されているであろう出入り口を、不審者《ふしんしゃ》どもがわたくしたちを発見しない前に、という条件《じょうけん》付きで。そういうことですわね?」
「はあ、いえ、まあその」
ひたすら恐縮《きょうしゅく》の態《てい》を示《しめ》す峻護であるが、別に彼に咎《とが》があるわけではない。
麗華は長い長い吐息《といき》を吐《は》きながら首を振り、
「まあよしましょう。わたくしも前向きな会話をしているわけでないことは自覚《じかく》しています。とにかく対策《たいさく》を考えることですわ、幸いにも多少の時間的|猶予《ゆうよ》はあるようですから」
侵入者《しんにゅうしゃ》たちの目的はなおも不明《ふめい》であるが、いまだこの隠《かく》し通路《つうろ》には気づいてないようだ。いずれ追ってくるにせよある程度は時間を稼げるだろう。
「とはいえあの連中、行動が隠密に徹していますからね。派手《はで》に家《や》捜《さが》しでもしてくれれぱかえって向こうの状況もわかって助かるのですが……」
「あ、おれ、少しはわかります」
気配《けはい》に敏感《びんかん》な峻護が手を挙《あ》げる。
「そうでしたわね。で、あの黒ずくめたちは今なにをしているかおわかりになって?」
「はい、壁《かべ》を挟《はさ》んでるし、かなり大雑把《おおざっぱ》な気配の動きしかわかりませんが――」
耳をすますように一度目を閉じてから、
「家の中にいるのは十人くらい。何か探してる感じ――は、しますけど、単なる物盗《ものと》りってことはなさそうですね。何かを運び出している感じもしないし。ということは、連中の『探しもの』というのは……」
「なるほど。どうやらここでじっとしていても無駄《むだ》なようですわね。単なる物盗りであったほうが話が早くて助かるんですけれども」
「とにかくこの連中、妙《みょう》に静かなんですよね。で、静かなくせに速い。連中が真昼間に隣《となり》の部屋に泥棒《どろぼう》に入ったとしても普通《ふつう》ならまず気づきませんよ。かなり特殊《とくしゅ》な訓練《くんれん》をつんだプロに違いありません」
「感心している場合ですか。ですがそうなるとやはり、脱出口とやらを探し出すしか――」
「あの、その前に少し、いいですか?」
成《な》り行《ゆ》きを見守っていた真由《まゆ》が遼慮《えんりょ》がちに発言を求めた。
「なんですか月村《つきむら》真由」とたんに白目になる麗華。「今はあなたに構《かま》っている暇《ひま》はありません。役立たずは役立たずらしく大人しくしていなさい」
「あの少しだけ、少しだけでいいので」
「……まあいいでしょう。手短に、ですわよ?」
「あ、はい、すいません」
何度もぺこぺこしてから、真由はスカートのポケットに手を入れて、
「あのわたし、携帯《けいたい》もってます」
言葉どおりに折りたたみ型の携帯電話を取り出した。
「これで外と連絡を取ってみる、というのは、どうでしょうか……?」
「…………あ」
「…………う」
どちらからともなく顔を見合わせる麗華と峻護。
「あの……?」
「ああうん、それはいい、とてもいい考えだ。当たり前すぎてぜんぜん気づかなかった」
不機嫌《ふきげん》そうに黙《だま》り込んだ令嬢《れいじょう》の代わりにミスター苦労人があわててフォローする。
「さっそくお願いするよ、どこかにかけてみてくれ。姉さんでも美樹彦《みきひこ》さんでも警察《けいさつ》でも――どこでもいい、相手は任《まか》せる」
「あ、はい、わかりました」
ちょっとホッとした顔になりながら、お手柄《てがら》の少女はさっそく携帯電話を操作《そうさ》しようとディスプレイに目をやって、
「あ、あれ?」
すぐにその目を瞬《またた》かせた。
「どうした月村さん」
「あの、それが」困惑《こんわく》顔で、「電源が入らないんです。おかしいな、充電《じゅうでん》したばかりのはずなのに……」
「じゃあ連絡を取るのは無理《むり》?」
「うう……ごめんなさい。おかしいなあ……」
「ふん、やはり月村真由は月村真由ですわね」
と鼻を鳴らしたのは麗華である。
携帯を振《ふ》ってみたり、バッテリーを外してまた取り付けたりしているライバルに『それみたことか』と言わんばかりに、
「たまにファインプレーしても最後には詰《つ》めの甘《あま》くなる二軍選手、それがあなたなのですわ。真の一軍選手たるわたくしの活躍《かつやく》をそこで指をくわえて見ていなさい」
『携帯で連絡を取る』という選択肢《せんたくし》に気づかなかった凡《ぼん》ミスは棚《たな》に上げて、見せつけるように懐《ふところ》から携帯を取り出し、
「北条《ほうじょう》家《け》の保安部《ほあんぶ》を動かせば、あんな黒ずくめのゴキブリどもなんて一発で駆除《くじょ》することが可能――って、あ、あら?」
すぐにその目を瞬かせた。
「? どうしたんです先輩」
「いえその――どうやら故障《こしょう》のようですわ、この携帯。先ほどのごたごたで傷《いた》めてしまったのかも知れません」
「それは……ううむ、困りましたね」
残念そうにうなだれる峻護。その目から隠すようにしてそそくさと携帯をしまいながら、麗華は内心で首をひねった。
(おかしいですわね……バッテリーの残量《ざんりょう》はまだ十分だったはずですのに)
どちらにせよ、あれだけ大見得《おおみえ》を切っておいて電源が入らなかった、とはまさか言えない。突《つ》っ込《こ》まれる前にさっさと話題を変えるのが吉だろう。
「あのすいません。もういちどいいですか……?」
そう思って口を開こうとする前に、真由がふたたび発言を求めた。
「またですか月村真由」と、こちらもまたまた白眼視《はくがんし》の麗華。「どうせまた期待《きたい》はずれの提言《ていげん》なのでしょう。無駄《むだ》な時間を取らないでいただけますこと?」
「まあ先輩、そう言わず」
と、ほとんどルーチンワーク的にとりなしに入る峻護。
「さっきの月村さんの意見はいいところついてたし――というかおれたちが迂髑《うかつ》だっただけですけど――ともかくここは聞いてみましょう。月村さん、何か意見があるの?」
「あ、はい、この通路のどこかにあるはずの脱出口についてですけど」
虫の居所《いどころ》が悪そうな麗華をはばかりながら、真由は思うところを述《の》べた。
「この通路が外部からの襲撃《しゅうげき》を想定《そうてい》して作られているとするなら、通路から直接家の外に出るような出入り口はないと思うんです。そんなところから逃げ出しても、襲撃者が外で見張《みは》っていればすぐに見つかっちゃいますから」
「ふむ、それで?」先を促《うなが》す峻護。
「はい。ということは逆《ぎゃく》にいえぱ、脱出口はそこから脱出しても襲撃者から見つかりにくいところに作ってあるはずです。涼子《りょうこ》さんがあとから付け足したということならなおさらです」
「ふむふむ」
「きっと脱出口はこの屋敷《やしき》からかなり離れたところにあると思います。ここは丘の上の一軒家《いっけんや》だから、たぶん林の中のどこか。もちろん壁《かべ》の中にあるこの通路から直接林の中に出られるはずはなくて、そこに連絡している通路が――」
そこで言葉を切り、自分の足もとに目線《めせん》を落として、
「たぶん、地下にあると思います。そこに至《いた》るための抜け道が床下《ゆかした》にあるはず……だと思うんですけど」
「うん、なるほど。そうかそうか、考えてみればそれはそうだよな」
こくこく頷《うなず》いて峻護が賛意《さんい》を示《しめ》す。
「冴《さ》えてるな月村さん。助かるよ」
「いえそんな……それより早く抜け道を探しましょう」
「よし、じゃあ手分けして床を調べよう。おれは右、月村さんは左の方をたのむ。先輩は真ん中のこのあたりを」
隊列順《たいれつじゅん》に捜索《そうさく》範囲《はんい》を分担《ぶんたん》すると、峻護は早々《そうそう》に自分の受け持った場所に足を向け、真由もそれに倣《なら》った。
(ふん、なによ……)
しぶしぶその場にしゃがみ込む麗華だが、ご機嫌が麗《うるわ》しかろうはずはなく。
(月村真由の推測《すいそく》なんて、ちょっと考えれば誰でもわかることじゃない。得々《とくとく》と語るようなことではありませんわ)
その『ちょっとの考え』に至らなかったことは棚に上げ、令嬢は小娘《こむすめ》の推測《すいそく》が正しいことを証明するための作業《さぎょう》にかかった。
幅《はば》五十センチもない、薄暗くてホコリくさい床を漁《あさ》りながら、今回の件をあらためて整理《せいり》する。
(けっきょく、侵入者どもの目的はいったい何なのかしら……?)
単なる物盗りではなさそうなこと、大げさとも言える武装《ぷそう》に身を固めていること、並々ならぬ訓練《くんれん》を積《つ》んだプロであること――確定《かくてい》できそうなのはそのくらいで、あまりにも不明《ふめい》な点が多い。実のところ連中が敵であるか否かもまだはっきりしていないのである。一度も接触《せっしょく》しておらず、具体的《ぐたいてき》なメッセージがあるわけでもない。ほんとうは友好的《ゆうこうてき》な相手である、という可能性も理論的《りろんてき》にありえないとまでは言い切れない。剣呑《けんのん》な相手であると判断《はんだん》し、もっとも安全な策《さく》として逃走を選択《せんたく》しているにすぎない。
(そうね、やはりいちばん可能性が高いのは――二ノ宮|涼子《りょうこ》あたりの『客』だという線かしらね)
裏では何やら怪《あや》しげな生業《なりわい》に手を染《そ》めているらしいあの女のことだ。こんな避難用《ひなんよう》の設備《せつび》を用意していたことからしても十分にありえる。その相棒《あいぼう》である月村|美樹彦《みきひこ》に用事《ようじ》がある、という可能性もこれまた高い。二ノ宮涼子に輪《わ》をかけて胡散《うさん》臭《くさ》い男であるし。
が、その次に可能性の高いのは――
(あるいはわたくしの『客』か)
北条麗華当人がどう評価《ひょうか》しているかはともかく、彼女は世界最大級の企業《きぎょう》複合体《ふくごうたい》の次期|総帥《そうすい》であり、齢《よわい》十七にしてその影響力《えいきょうりょく》は一国の政治を左右するに足る。物騒《ぶっそう》な連中が訪問《ほうもん》してくる理由としては十分だろう。これまでの人生で恨《うら》みを買ったことがない――などとは口が裂《さ》けても言えないし。
もし連中の目的が自分の身柄《みがら》であり、二ノ宮峻護がそのために危険に晒《さら》されるのであれば。その時は決断《けつだん》をためらうまい、と思う。
(それにしても暑苦しいですわね……)
バタバタしていたがために忘れていたが、狭《せま》い上に換気《かんき》の最悪なこの空間である。おまけに麗華はあまり夏向きとはいえない服装《ふくそう》。いったん自覚《じかく》すると、緊張感《きんちょうかん》から忘れていた暑苦しさがじわり、真綿《まわた》で首をしめるようにまとわりついてくる。そういえばあの黒ずくめたちは彼女に輪《わ》をかけてむさ苦しい格好《かっこう》をしているのだった。誰の命《めい》で動いているのか知らないが、まったくご苦労なことだ。
その点、視界の前方で床を撫《な》でている小娘などはお気楽なものである。半袖《はんそで》のセーラー服にミニスカートという格好で四つん這《ば》いになっている姿は、道ぱたに落とした十円玉を探している程度の緊張感しか伝わってこない――というのはまあ、麗華の偏見《へんけん》が多量にふくまれた見解《けんかい》ではあるが。
(月村真由が目的、という可能性は?)
ふいにそんな思考《しこう》がひらめいた。
月村真由。今回の『戦犯《せんぱん》』の最有力|候補《こうほ》たる、二ノ宮涼子と月村美樹彦が連れてきた少女。北条麗華にとって目下《もっか》最大の『敵』。
(いまだに無回答《むかいとう》、だなんてね……)
月村真由の調査《ちょうさ》が、である。麗華の秘書《ひしょ》役も務《つと》める付き人少年・保坂《ほさか》に、彼女に関する諸資料《しょしりょう》を作成するよう命じてあるのだが、いっこうに成果が上がらないのである。十分|信頼《しんらい》に足《た》る諜報《ちょうほう》能力《のうりょく》を有《ゆう》する彼に、ほぼフリーハンドと言っていい権限《けんげん》を与《あた》えているにもかかわらず、だ。この条件下において保坂を含《ふく》む北条家諜報部がただひとりの少女の実像《じつぞう》を掴《つか》みかねているなど、尋常《じんじょう》ではない。
(あらゆる意味で警戒《けいかい》すべき女ですわ。今回の件もあるいは――って、あら?)
床を物色《ぷっしょく》していた手が何かに触《ふ》れた。
薄暗がりに目を凝《こ》らしながら、積《つも》りに積もったホコリをゆっくり払《はら》っていくと、
「――二ノ宮峻護」
「はい?」
「こちらに来なさい」
「えっ?」
「二度は言いません」
「あ、はい」
背中から近寄ってくる気配。
気配が後ろに立ったのを確認してから、むっつり黙《だま》ったままそれを指し示した。
「あっ……ナイスです、先輩」
弾《はず》んだ声をあげる峻護だが、いっそ清々《すがすが》しいほどうれしくない。
そんな麗華の気分など露《つゆ》知《し》らぬ少年はさっそく膝《ひざ》を折《お》り、わずかな床の違和感《いわかん》を確かめながら、
「ええとこれは……ここを押しながら……よっ、こうか」
遅れて近寄ってきた真由と、はからずも彼女の正しさを証明してしまってむくれる麗華が見守る中、床の一部が音もなくゆっくりと沈《しず》み込み始めた。現れたのはマンホールのそれに似《に》た縦穴《たてあな》である。
「このハシゴを使って下に行けますね」
「ですわね。ではわたくしが先に行きます。その次に月村真由。最後に二ノ宮峻護。よろしいですわね?」
「えっ? でも先におれが行ったほうがいいんじゃ……暗いし足場も悪いし、この先にどんな危険があるかもわからないし……」
「罠《わな》とモンスターだらけのダンジョンが広がっているわけでなし、そこまで慎重《しんちょう》になることもありません」
「ですが先輩、」
「……しつこい。少しは神経《しんけい》を使いなさいこの痴《し》れ者《もの》」
なおも見当違《けんとうちが》いな紳士《しんし》ぶりを発揮《はっき》する峻護をひと睨《にら》みすると、貞淑《ていしゅく》を自認《じにん》する少女はメイド服のスカートを押さえながら縦穴に足を入れた。
ハシゴを垂直《すいちょく》に下りきると、どこかのセンサーにでも触《ふ》れたらしい。非常灯《ひじょうとう》のぼやけた光が足もとから浮《う》かび上がり、深夜《しんや》の高層《こうそう》ビルでもライトアップするように避難《ひなん》経路《けいろ》の利用者たちを照《て》らし出した。同じく彼らが降《お》り立ったのをどこかで感知《かんち》したのだろう、沈みこんだ床が今度は音もなくせり上がり、縦穴をきれいに塞《ふさ》いでいく。
「ずいぶん凝《こ》った仕掛《しか》けですわね」
麗華は感心《かんしん》とも呆《あき》れともつかない感想を述《の》べた。北条家のセキュリティシステムにも匹敵《ひってき》、あるいは凌駕《りょうが》するかも知れない資金《しきん》のつぎ込みようである。二ノ宮家といういかがわしい一族の、うさんくさい一端《いったん》を垣間《かいま》みた気がする。
「ですがそれにしても……」
ぐるりと周囲に視線をめぐらせてから、
「これ、どちらに行けばよろしいのです?」
「いや、そう言われても……おれもここから先のことは何もわからないし……」
指示《しじ》を求められた峻護が救いを乞《こ》うように真由に目を向け、しかし真由もまた柳眉《りゅうび》をハの字にして首を傾《かし》げるばかりだった。
というのも、ハシゴを下りたところから伸《の》びている通路が実《じつ》に五方向にも分かれているのである。かといって一般的《いっばんてき》な避難経路のように矢印《やじるし》で行く先を指示《しじ》してくれるわけでなし、もちろん案内図《あんないず》などが用意されているわけでもなし。
「まったく、不親切《ふしんせつ》な避難経路もあったものです。ぜったい消防法《しょうぼうほう》は通りませんわね、これ」
「はあ、すいません」
「謝《あやま》ったところでどうにもなりませんわ。別にあなたが作ったものでもないし。問題はこれらの道のどれを選ぶかですが――」
「あの、とにかく先に進んだ方がいいと思います」
と、ひかえめに具申《ぐしん》したのは真由であった。
「ここってさっきよりはずっと安全な場所だとは思いますけど、それでもいつあの黒ずくめのひとたちがやってくるかわからないし。それにどの道を選んでも正解かどうかはわからないと思うから、」
「ふん。あなたなんかに言われるまでもなくそうするつもりです」
セリフの続きをぴしゃりと遮《さえぎ》る。
「どうぜ何の手がかりもないのです、あてずっぽうに選んでとっとと進みますわよ。わたくしはこの道を支持《しじ》いたしますわ。異存《いぞん》はおありになって?」
矢継《やつぎ》ぎ早《ばや》に言うと返事もろくに待たず、令嬢は大股《おおまた》に歩き始めた。そのあとを残りの二人があわててついていく。
自然の成り行きというべきだろうか、いつの間にか麗華が一行のリーダー的立場に納《おさ》まりつつ、三人は地下通路の奥へと歩を進めた――のだが。
すぐにその内部|構造《こうぞう》の意外な広さに辟易《へきえき》することになった。
打ちっぱなしのコンクリートに鎧《よろ》われた通路は、ひとつとして真《ま》っ直《す》ぐに穿《うが》たれたものはなく、ヘビかミミズのように上下左右にうねくっている。さらには細かな分岐点《ぶんきてん》が無数《むすう》に存在《そんざい》し、上下に伸《の》びるハシゴもこれまた多数。おまけにのっぺらぽうで特徴《とくちょう》のない風景が続くため、見覚えがあるような無《な》いような場所に繰《く》り返し出ることも幾度《いくど》となくあった。
果《は》たして、そんな地下空間の中をどれだけの時間さまよったことだろうか。
「完全に迷路《めいろ》ですわね、これ……」
額《ひたい》に滲《にじ》んだ汗《あせ》をぬぐい、辟易《へきえき》とした口調《くちょう》を隠《かく》そうともせずに、麗華。二ノ宮家が立《た》つ丘はさして広くも大きくもないが、その容積《ようせき》いっぱいに通路が走っているとなれば、相当《そうとう》な迷路が構成《こうせい》されるであろうことは想像に難《かた》くない。おまけにアップダウンがかなりキツく、大した距離を歩かずともみるみるうちに体力が削《けず》られていくのだ。
「あなたたち、ちゃんと道を覚えながら進んでいるでしょうね?」
「はい、おれは一応《いちおう》。目印《めじるし》つけてきてますから」
「わたしも何とか」
「よろしい。とはいえこれだけ複雑《ふくざつ》な作りになると、そのうち絶対《ぜったい》こんがらがってきますわね……」
「あ、わたし持ってます。メモ帳《ちょう》」
「……ふん、如才《じょさい》ないですこと。そんなものがあるなら初めから出しておきなさい。今さらそんなもの出したところで、初めから地図をメモしておかなければ意味が――」
「あ、はい、メモしてます。最初から。大体の地図はもうできあがってます」
「……。お貸《か》しなさい」
ひったくるようにしてメモ帳を受け取り、一瞥《いちべつ》した。確かに大雑把《おおざっぱ》な走り書きではあるが、情報量は十分だ。複雑な地下迷路の構造が立体的《りったいてき》にわかるよう、工夫《くふう》されたまとめかたになっている。
「この地下空間って、体感しているよりもずっと広い造りになってるみたいです。途中《とちゅう》いくつもあったハシゴはあえて使わずにここまできましたけど、普通に通路を進んだだけでもかなり登ったり下ったりしているみたいで。ほら、こことここのハシゴって、どうも繋《つな》がってたりするみたいなんです。方向感覚がわからなくなってくるからぜんぜんそんな風にはみえないですけど」
「というとつまり?」と、横から地図を覗《のぞ》き込んできた峻護。
「ここっていくつもの階層《かいそう》があるみたいなんですけど、一階二階三階、って感じにきっちり分かれてるわけじゃなくて。曖味《あいまい》な中二階みたいな通路やフロアがいくつも繋がって、ひとつの空間を作ってる感じなんだと思います」
「へえ…………それは気づかなかったな。うん、大したものだよ月村さん。それにこれだけしっかりしてる地図があれば迷《まよ》うことはないな、うん」
こくこく頷《うなず》きながら峻護が手放しで褒《ほ》めちぎり、そのたびに麗華の眉間《みけん》に刻《きざ》まれたしわの数が一本また一本とふえていく。
「ふん……それで結局《けっきょく》、ここから抜け出る出口はどこにあるのかしら?」
「それはまだ、この迷路をぜんぶ見て回ったわけではないので何とも言えないです。ただひとつ気になることが」
と地図の一点を指し示し、
「迷路の真ん中に近いこのあたりに、通路の通ってない、わりと大きな空間があるみたいなんです」
「空間?」
「はい。何度か通った通路に囲まれるような形に……まるで避《さ》けてるみたいに。ひょっとしてここ、隠し部屋みたいなものがあるんじゃないでしょうか」
「隠し部屋――」
これまでの経緯《けいい》からして、十分ありうることだ。
「ただ、ここのそばを通った時にはそういう出入り口のようなものはなかったはずなので、たぶんそこに行くための、」
「隠し部屋に通じる隠し扉《とびら》がどこかにあるはず、ですか。ふん、二ノ宮涼子がやりそうなことですわね」
鼻を鳴らしてメモ帳を押し返し、
「いいでしょう、そこに行ってみようじゃないの。まったくあの女は……二ノ宮涼子は何を考えてこんなものを。設計《せっけい》思想《しそう》にぜったい道楽《どうらく》も混《ま》じってますわね」
苛立《いらだ》ちをここにいない人物にぶつけながら、ふたたび先頭《せんとう》に立って歩き出した。
真由の指摘《してき》した空間は、彼女の地図によれぱ、最初に下りてきた地点から意外なほど近距離《きんきょり》に位置していた。ついでに言えば、麗華が初めに選んだ通路は『空間』の真反対に向かって伸《の》びる通路だった。もちろん彼女はそれを自ら申告《しんこく》したりはしなかったが。
件《くだん》の隠《かく》し扉は意外なほどあっさり見つかった。明かりに不自由しなかった上、周囲がさしてホコリに侵《おか》されていなかったから、というのが一因《いちいん》であったろう。一行が二ノ宮家の脱出《だっしゅつ》経路《けいろ》のノリに慣《な》れてきた、ということもあったかもしれない。
目立たぬところに配置《はいち》してあった小さなハッチの中のスイッチを押すと、コンクリの壁《かべ》に四角く切れ目が入り、それはそのまま扉の形となって高い静粛性《せいしゅくせい》を保《たも》ちながらゆっくりと開いていく。
「これは――どういうこと?」
秘されていた二十|畳《じょう》ほどの空間の内部が三人の前に晒《さら》されて、真っ先に反応したのは麗華だった。
部屋の中に足を踏《ふ》み入れてぐるりと見回し、形のいい眉《まゆ》をはねあげてから、向かって正面の壁に視線《しせん》を据《す》える。そこに埋《う》め込まれた無数のモニター群《ぐん》がぼんやりした光を放ち、裾野《すその》に広がるコンソールバネルを照《て》らし下ろしていた。まるでテレビ局の放送室か、どこぞの軍隊の司令室《しれいしつ》のような塩梅《あんばい》である。
問題なのはモニターに映し出された映像であった。見覚えのある光景の数々――広い台所、瀟洒《しょうしゃ》な家具をそろえたリビング、分厚《ぶあつ》いハードカバーの並ぶ書斎《しょさい》。いずれも二ノ宮家の洋館を構成《こうせい》する部屋の数々だが、その中に見覚えがあるどころか普段《ふだん》から慣《な》れ親しんでいる調度類《ちょうどるい》が置かれた一角がある。紫檀《したん》の執務《しつむ》机《づくえ》、銀細工《ぎんざいく》に縁取《ふちど》られた姿《すがた》見《み》、アンティークのクローゼット。いずれも北条麗華|幼少《ようしょう》よりの愛用品であり、つまりそこは二ノ宮家における彼女の私室であった。
「あンの覗《のぞ》き魔《ま》……」
歯ぎしりしていることにも気づかず、視殺《しさつ》せんばかりの勢《いきお》いで睨《にら》みつける麗華を、覗き魔の弟が恐《おそ》る恐るとりなした。
「ええと、姉さんも決して覗きが目的でこういうのを作ったんじゃなくて……いやそれもあるかもしれないけど、とにかくここは落ちついて」
「わかっています。ここで感情を爆発《ばくはつ》させたりはしません。ええ、今この場では」
天変《てんぺん》地異《ちい》の前触《まえぶ》れを思わせる、呪《のろ》いの籠《こ》もった唸《うな》り声を吐きながらも、たしかに令嬢は冷静《れいせい》だった。
「なぜならわたくしたちは今、もっと留意《りゆうい》すべき情報を手にしているのですからね」
そう、モニターが映し出す光景は、二ノ宮家|敷地《しきち》内のほとんどすべてを網羅《もうら》するに至《いた》っている。これが果《は》たして何を意味しているか。
「無粋《ぷすい》な侵入者どもの動きがこれで筒抜《つつぬ》けですわ」
裏通路《うらつうろ》についてもそうだが、連中は巧妙《こうみょう》に隠《かく》された監視《かんし》カメラ網《もう》にもいまだ気づいていないようだ。邸内《ていない》のあちこちをうごめいている完全|武装《ぶそう》の黒ずくめたちの姿が、いくつものモニター上にあらゆる角度《かくど》から映し出されているのである。
「ふん……胸の悪くなる映像《えいぞう》ですこと」
『敵』の姿がこれでようやく白日《はくじつ》の下に晒《さら》されたことになる。『敵がいる』という実感がじわりと、本当の意味で、麗華の心の中に根を張《は》っていく。
「…………」
「…………」
モニターを静かに睨《にら》みつけている麗華に倣《なら》うかのごとく、残りのふたりもまた口を閉じて映像に目を注《そそ》いでいる。彼らもまたそれぞれの情動《じょうどう》にひたっているのだろう。
「――さて」
沈黙《ちんもく》を破《やぶ》って、麗華は同居人たちを振《ふ》り返った。
「これから先のことを考えなくてはなりませんわね。侵入者《しんにゅうしゃ》たちの動きを一方的に知ることができる現状《げんじょう》は、一面において相当《そうとう》なアドバンテージを得たことになりますが、かといって根本的《こんぽんてき》な状況は何も変わっていません。わたくしたちは自らの安全を完全には確保《かくほ》できぬまま。そこで今後とるべき行動|方針《ほうしん》について意見を募《つの》ります。忌憚《きたん》のない議論《ぎろん》が交わされることを望みますわ」
一同の年頭らしく、鷹揚《おうよう》に締めくくった。
「――ここのおかげで、連中の数と配置《はいち》はだいたいわかりました」
それに応じて峻護が思案《しあん》げに口を開く。
「連中が素人《しろうと》であればおれひとりで排除《はいじょ》できなくもなさそうなんですが――あいつら、武装《ぷそう》している上にどうみてもプロです。こちらから反撃《はんげき》して撃退《げきたい》するというのはさすがに無理《むり》ですね」
「わたしもそう思います」
と頷《うなず》く真由。
「というか相手がプロの人じゃなかったとしても、こちらから打って出るのは止めたほうがいいです。万一のことが起きる可能性は拭《ぬぐ》いきれませんから。それにあのひとたちがこのまま何もせずに出て行くという可能性《かのうせい》もまだ捨《す》てきれません。だって、いまだにあのひとたちの目的がわかっていないんですから――この家に入って何かを探しているみたいなんですけど、何かを盗《ぬす》んで運び出している様子もないし。どこも壊《こわ》したりしてないし、誰も怪我《けが》をしていないし」
「たしかに。でもさしあたり、連中がこのまま出て行くという可能性は捨てていいと思う。そうしてくれたらラッキー、ってくらいに考えておいて、こっちはこっちで対策《たいさく》を施《ほどこ》しておくべきだ」
「ですよね。基本的《きほんてき》には避難経路《ひなんけいろ》の出口を探すっていう、最初の方針《ほうしん》でいいと思うんですが……でも、地図まで取ってあれだけ迷路の中を歩き回ったのに、出口は見つからなかったんですよね。わたしの予想《よそう》だと、もう迷路の八割方は踏破《とうは》したはずなんですけど。丘の体積分《たいせきぶん》をほとんど一杯《いっぱい》一杯に歩き回ってる感じだったので」
「ふむ……じゃあ残りの二割の中に出口があるのか……それともやっぱあれか、例によって出口が隠《かく》し扉《とびら》になっているのかも。となると探し出すのは相当《そうとう》てこずりそうだな」
「ですね、時間さえあれば探し出すことはできそうですけど……今はその時間こそがないんですよね。できれば二手、三手に分かれたいところなんですけど。そうすれば探す場所を分担《ぶんたん》できるし、それにほんとはこの部屋にもひとり置いておきたいところです。家の中の動きを逐一《ちくいち》知ることができる有利《ゆうり》は確保《かくほ》しておきたいし。でもその場合、動きを知ることができたとしても連絡を取り合える手段《しゅだん》がないんですよね」
ふたりが意見を交《か》わし合う姿を、麗華は腕《うで》を組んでじっと眺《なが》めている。彼らの所見《しょけん》はいずれも妥当《だとう》なものだし、座長《ざちょう》役たる自分が横から口を出さずとも済む。
が、心中《しんちゅう》おだやかでないのもまた確かであった。
(昼行灯《ひるあんどん》転じて闇夜《やみよ》の灯台《とうだい》、とでもいうわけですか)
令嬢の視線の九割がたは、彼女にとって地上の敵よりよほど難物《なんぶつ》な敵手《てきしゅ》たる少女に向けられている。
先ほどからシャクに障《さわ》っていることだが、何だか今日は真由が目立つのだ。まず第一に、この状況《じょうきょう》に立たされながら妙《みょう》に落ち着いている。要人《ようじん》襲撃時《しゅうげきじ》の対応《たいおう》マニュアルを身に付けている自分や、姉から百芸を叩《たた》き込まれているらしい峻護などが比較的《ひかくてき》冷静なのは当然にしても、どうしてあの女までもが平然《へいぜん》としていられるのか。普段《ふだん》はおっちょこちょいばかりやっている、どうということのない小娘ではないか。単に事態《じたい》をのみ込めていないのか、それとも感覚が麻痺《まひ》しているだけなのか。
いや、そんなはずはない――と、麗華は自らの認識《にんしき》を否定《ひてい》する。
思い出すのは、不審者たちが侵入《しんにゅう》したことを知らされた後の最初の数分間だ。二ノ宮峻護に手を引かれて、クローゼットに押し込まれて、隠し通路にもんどりうったあたりの一連の出来事《できごと》。あの時、月村真由はどんな行動を取っていたか。
あの時点では突飛《とっぴ》だったはずの峻護の言動《げんどう》を一片《いっぺん》の疑《うたがい》もなく信じ、彼の意図《いと》を妨《さまた》げることのないよう最善《さいぜん》を尽《つ》くしていたように思う。麗華が峻護のやることなすことに一々《いちいち》異論《いろん》を唱《とな》え、疑念《ぎねん》を抱《いだ》いていたのとは対照的《たいしょうてき》に。
(……ふん、しょせんあの小娘は二ノ宮峻護の言葉に隷従《じゅうぞく》[#隷従は「れいじゅう」であって「従属」ではないのだけど原本に従う]、あるいは盲従《もうじゅう》していたというだけのことです。わたくしだって別に、あの男を信用していなかったわけじゃ……)
と言《い》い訳《わけ》してみるものの、月村真由がその後もひどく適確《てきかく》、適切《てきせつ》に行動し、脱出者三人の現状に大きく貢献《こうけん》していることは否《いな》めない。いてもいなくても大して変わらないポジションに堕《だ》していた自分と比《くら》べれば月とスッポンである。
(まったく、苛立《いらだ》たしい小娘ですわ)
本来なら目的を共にする者が有能ぶりを発揮《はっき》するのは喜ばしいことのはずだが、麗華の感情はすんなり納得《なっとく》できなかった。これでは立場がない。人生の先達《せんだつ》としても、神宮寺《じんぐうじ》学園の生徒会長としても、北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》としても、それ以外のもっと大事《だいじ》な意味でも。余人《よじん》であればさして気にならないのだろうが、相手が月村真由となれば話は別だった。
「じゃあやっぱり三人に分かれて、別々に行動したほうがいいでしょうか?」
「そうだな……いや、判断《はんだん》に苦しむところだな。あちらを立てればこちらが立たず、という感じで。いや、でもやっぱり三人に分かれたほうが無難《ぶなん》な気がするな……」
という言葉を最後に、ふたりして沈黙《ちんもく》する。
「…………」
やがて決断《けつだん》を求めるかのように、議論《ぎろん》を見守っていた麗華の様子をうかがってきた。
「おおむね意見は出尽《でつ》くしたようですわね」
要請《ようせい》に応《こた》えて口を開き、一呼吸《ひとこきゅう》おいてから、
「それで? あなたたちの案《あん》の骨子《こっし》は、この部屋を拠点《きょてん》にして三人|各個《かっこ》に動く、ということでよろしいのかしら?」
お互《たが》いに顔を見合わせてから、自信なさげに頷《うなず》くふたり。
「わかりました」
頷いてまぶたを閉じ、黙考《もっこう》する。
現在おかれているケースを勘案《かんあん》するに、不確定《ふかくてい》要素《ようそ》が多すぎる上、行動の自由も極《きわ》めて限られている。最善《さいぜん》と確信《かくしん》できる手はない、という状況だ。あえていうなら峻護と真由が採《と》った案――主に真由の考えであるようだが――が、もっとも無難《ぶなん》で安全な策《さく》ということになろうか。ただしそのぶんメリットは少なめで、また時間の経過《けいか》とともにリスクが高まる傾向《けいこう》があるとみた。逆に短い時間で成果《せいか》を得られる見込《みこ》みがあり、そのぶん少々リスクを伴《ともな》う案もあるのだが――さて、どうすべきか。
閉じていたまぶたを開けると、ふたりの仲間(とはあまり言いたくないが)は催促《さいそく》するでもなくじっと結論《けつろん》を待っている。麗華は峻護に強い視線を返して無意味《むいみ》にたじろがせておいてから、次《つ》いで真由に目を転じた。
いつもと変わらぬ、自信なさげな草食《そうしょく》動物のような瞳《ひとみ》。
「――では、わたくしの意見を述《の》べます」
その瞳と目が合った瞬間《しゅんかん》、公平たろうと努めていた判断力にこびりついていたわずかな対抗心《たいこうしん》が、麗華に決断《けつだん》を下させた。
「三手に分かれる案については一定以上の理解《りかい》を示《しめ》しますが、こちらが出口を見つけるよりあの連中が地下への入り口を見つけるのが先だった場合が間題ですわ。この場合、侵入《しんにゅう》者《しゃ》に対して各個に対処《たいしょ》しなければならなくなるリスクが生まれます。ただでさえ多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》おまけに相手は完全|武装《ぶそう》のプロ。こうなればもう状況は絶望的《ぜつぼうてき》言うほかありません。お互いに連絡を取り合うことができないという悪条件《あくじょうけん》も致命的《ちめいてき》となるでしょう。ここはやはり三人で行動を共《とも》にするのがベストと思われます」
多くの部下たちを前に威厳《いげん》を示《しめ》す時と同じ口調で、朗々《ろうろう》と語り上げる。
「さて次に、わたくしたち三人が採るべき行動|指針《ししん》です。この迷路の脱出口を探すのを第《だい》一義《いちぎ》とするのは賛成《さんせい》ですが、先ほどと同じように迷路内をさしたる当てもなくさまよって探索するのはいかにも非効率《ひこうりつ》。ですがこの部屋をごらんなさい」
と、隠し部屋の内部を指し示す。放送室や司令室のように、スイッチやらボタンやらが無数に並《なら》んだ一角を。
「この機材《きざい》の集中ぶり、迷路内における位置、そして隠《かく》し扉によって存在《そんざい》が秘《ひ》されていたこと――これらが示唆《しさ》している事実はひとつ。この部屋こそがこの迷路の、さらには二ノ宮家におけるセキュリティシステムの中心であるということです。であれば、おそらくはこの部屋から、わたくしたちの目的のものを探し当てることも可能でしょう」
ふたたび聴衆《ちょうしゅう》のふたりに視線を戻《もど》し、
「むろんリスクは伴います。なにしろこれらのゴチャゴチャした装置類《そうちるい》は、操作《そうさ》の仕方《しかた》がまったくわからないのですからね。それでもまあざっと見た限り、暗号《あんごう》を要求するような装置はないようですし、うっかりおかしな操作をして自爆《じばく》装置《そうち》が作動する、なんてことはさすがにないでしょう。であれば試《ため》してみるに如《し》かず、ですわ」
言うまでもなくこの三人で――と付け加えてから、
「わたくしの案は以上です。いかがかしら?」
「あ、はい――いいと思います。すごく」と、敬服《けいふく》した様子の峻護。「三人ばらばらに動く作戦も捨てがたいけど、いざという時を考えると三人で固まっているほうのメリットが大きい気がするな。月村さんはどう思う?」
「わたしもそれでいいと思います」と、真由も納得顔《なっとくがお》である。「何か問題が起きた時は、三人|一緒《いっしょ》にいたほうが心強いですもんね。それでいきましょう」
「決まりですわね」
会議の総意《そうい》を得て、麗華は大きく頷《うなず》いた。多少は面目《めんもく》を躍如《やくじょ》した気分である。実のところ彼女の提案《ていあん》は、峻護と真由によって検討《けんとう》済みの案《あん》に多少の修正を加えた程度《ていど》のシロモノなのだが、こねる理屈《りくつ》は同じでも説得力は段違《だんちが》い。何万もの部下を束ねるカリスマは伊達《だて》ではない。
「さあ、それではさっそく始めましょうか。話し合いにずいぶんと時間を食ってしまいましたからね」
自尊心《じそんしん》が満たされた心地《ここち》に酔《よ》うことなく、麗華はコンソールパネルとモニター群《ぐん》の前に立った。モニターに出ている映像をざっと眺《なが》め渡す。黒ずくめたちは静かに、粘《ねば》り強く、邸内のあちこちを物色《ぶっしょく》している様子だが、まだ隠《かく》し扉に気づいた様子はない。
(さて、と――)
自ら提案《ていあん》したものの、問題はコンソールパネルに並《なら》んだスイッチの数々である。家電《かでん》機器《きき》のように『電源』だとか『チャンネル』だとか記してあるわけではない。どれをどう動かしていいものやら。もとよりスイッチの操作《そうさ》を知る人材はおらず、責任はすべて操作した人物に帰《き》するだろう。
「これの操作ですが――複数人《ふくすうにん》でバラバラにいじってもかえって不具合《ふぐあい》です。異存《いぞん》がなけれぱわたくしひとりでやりますが、いかが?」
こういう際《さい》、ごく自然に損《そん》な役を引き受けられるのが北条麗華である。問われた二人は一瞬顔を見合わせてから、呼吸《こきゅう》を合わせたみたいにそろって頷《うなず》き、麗華はそれをほとんど確かめもせずにパネルへ向き直る。
(法則性《ほうそくせい》など簡単《かんたん》に見出せるわけでなし。これはもう、あてずっぽうにやっていく以外にありませんわね。どのスイッチがどんな動作を引き起こすのかわからないし……時間はかかるでしょうが慎重《しんちょう》にまいりましょう)
今も二ノ宮家内で物色を続けている侵入者が、いつ隠《かく》し通路を発見するか知れたものではない。大胆《だいたん》かつ慎重に――矛盾《むじゅん》した条件を満たしながらの作業になるだろう。
「ではいきますわよ。何が起きるかわかりませんから、心の準備《じゅんび》はしておきなさい」
宣告《せんこく》してから、まずは手近なビンレバーを選んで手前に引いた。
その、一発目である。
「あ」
「げっ」
「んな――」
固唾《かたず》をのんで成り行きを見守っていた面々《めんめん》が、それぞれに愕然《がくぜん》の表情を披露《ひろう》した。モニターに映し出される二ノ宮家内の各所――収納《しゅうのう》部屋《ぺや》、AVフロア、そしてもちろんゲストルームの衣装棚《いしょうだな》や脱衣所も含《ふく》む――に、巧妙《こうみょう》に隠蔽《いんぺい》されていた隠し扉の類《たぐい》が、一斉《いっせい》に口を開け始めたのである。
三人が唖然《あぜん》とした視線《しせん》を注《そそ》ぐ中、異変《いへん》に気づいた黒ずくめたちが急に慌《あわただ》しく動き出す姿が克明に映し出される。やがて彼らは、突然《とつぜん》ひらいた出入り口に警戒《けいかい》を払《はら》いつつも、その内部を調査《ちょうさ》しようとする構《かま》えを見せ、
「ちょっとお待ちなさい!」
災難《さいなん》の引き金を引いた張本人《ちょうほんにん》が、らしからぬ悲鳴《ひめい》を上げた。
「こ、こんなバカなことがありますかっ! 何もそんな、はなっから大ハズレを当てることはないでしょう! ああもうとにかく何とかしないと、あの連中はすぐにでもここにやってきて――」
「先輩おちついて! とにかくまずはレバーを戻《もど》して!」
「おちついてます! そしてとっくに戻してます! 戻してるけど元に戻らないのよっ!」
「麗華さんおちついて! とにかくスイッチをどんどん入れていきましょう! そうすればいい方向に動いてくれるかも!」
「だからおちついていると言ってるでしょう! じゃあとにかく弄《いじ》ってみますわよ……これでどうっ?」
「だめです! お風呂場《ふろば》のお湯がおまかせ設定《せってい》で張《は》られ始めたけど、それだけです!」
「ああもうっ……じゃあこれならどうですっ?」
「だめです! 脱衣所の洗濯《せんたく》機《き》がふんわり仕上《しあ》げで回り始めただけです!」
偶然《ぐうぜん》という名の奇襲《きしゅう》がもたらしたパニックに右往《うおう》左往《さおう》している間も、黒ずくめたちは整然《せいぜん》とした指揮《しき》系統《けいとう》のもとに動き、状況《じょうきょう》の把握《はあく》に努めているようだった。ほどなく彼らは、あちこちに口をあけた裏ルートの入り口の中から攻略《こうりゃく》目標をひとつに絞《しぼ》った。二ノ宮家の三人の住人が最初にくぐった入り口と奇《く》しくも同じ、ゲストルームの衣装棚《いしょうだな》の中である。
「まずいな」
その様子を視界の端《はし》に捉《とら》えていた峻護がうめき、目を据《す》えた。この少年はこうなると決断も行動も速い。
「――おれが上まで行って、食い止めてきます!」
てんやわんやの騒《さわ》ぎでコンソールをいじくり倒している少女二人へ言い捨てるや、間髪《かんぱつ》入れずに駆《か》け出した。
「えっ? ちょ、ちょっとお待ちなさい! ひとりで行くつもりなのっ?」
「はい、ひとりで! 先輩たちはその間に何とかしてください!」
「何とかって、どうすればいいんですのっ?」
「おれに訊《き》かれても困ります!」
と、ひどく正直な返答《へんとう》を残して、少年は風のように疾《はし》り出ていった。
「ああもおっ! そんなこと言われたって――」
「麗華さん、とにかく今はやれることをやりましょう! 何でもいいからスイッチを動かしてみて!」
「言われなくてもやってます! ええい、これでどうっ?」
「だめです! 正面ロビーのシャンデリアが意味もなく回転し始めただけです!」
「こンのっ――馬鹿にして! だからわたくしは二ノ宮涼子が嫌《きら》いなのです! じゃあこれはっ?」
「だめです! 食堂のテーブル周りが雰囲気《ふんいき》たっぷりにライトアップされただけです!」
――麗華と真由が喧々《けんけん》囂々《ごうごう》たる大騒動《おおそうどう》を繰《く》り広げる中。
壁《かべ》に埋《う》め込まれたモニターのひとつには、今まさに抜《ぬ》け穴《あな》へ突入《とつにゅう》しようとしていた黒ずくめに峻護が飛び蹴《げ》りをぶちかます瞬間《しゅんかん》が映し出されていた。
推測どおり、黒ずくめたちは一流のプロだった。一人目のアゴを蹴りぬいて床に足をつけた時には、二人目が奇襲《きしゅう》の動揺《どうよう》から早くも立ち直り、逆襲《ぎゃくしゅう》の構えを見せている。が、峻護の方が速い。着地《ちゃくち》の勢《いきお》いを腰のひねりに変えて、背後《はいご》から襲《おそ》ってきた二人目に振り向きざまの肘撃《ちゅうげき》をこめかみへ見舞《みま》い、崩《くず》れ落ちる二人目の後ろから躍《おど》りかかってきた三人目を返《かえ》す刀《かたな》の左カウンターで沈《しず》めると、呼吸《こきゅう》ひとつ乱さずにゲストルームを駆け抜ける。
(さて、この後どうする……?)
廊下《ろうか》を疾走《しっそう》しながら峻護は自問《じもん》した。
このまま不意《ふい》をついた利《り》を生かして侵入者たちを撃退《げきたい》できれば最上。そこまでは望まぬとも、連中の追跡《ついせき》を振り切って逃げおおせれば上出来《じょうでき》。悪くとも少女二人が再び隠し扉を塞《ふさ》ぐだけの時間は稼《かせ》ぎたい。もちろんその場合、峻護の退路《たいろ》は断《た》たれることになるが――もとより覚悟《かくこ》の上だ。
が、廊下《ろうか》の曲がり角で鉢合《はちあ》わせた四人目を投げ飛ばした時にはもう、邸内《ていない》のあちこちから鋭《するど》い声があがり始めていた。峻護の奇襲はすでに知れ渡り、ほどなく黒ずくめたちは秩序《ちつじょ》を取り戻すだろう。拳《こぶし》を合わせてみて改《あらた》めて確信《かくしん》したが、連中はプロの中でも一流に属《ぞく》する。隊伍《たいご》を組んで押し寄せられれば勝ち目はない。しかしこのまま撤退《てったい》しても十分な時間が稼《かせ》げない。
廊下のどん詰《づ》まり、東|階段《かいだん》を駆け上がりながら行動方針を修正《しゅうせい》する。最上の案は捨てるが、可能な限り侵入者は撃退すべし。地《ち》の利はまだこちらにある。ひと時も止まらずに邸内を駆《か》け巡《めぐ》り、遭遇《そうぐう》した敵を逐次《ちくじ》に排除《はいじょ》。地下のふたりが開いてしまった隠し扉を閉じるのを待つ。
二階に到達《とうたつ》、再び廊下を駆けながらモニターの画像《がぞう》を思い起こし、AVフロアへ。スピードをまったく落とさぬまま駆け過《す》ぎ、開け放しのドアの中を覗き込む。壁一面のスクリーンと巨岩のようなアンプに挟《はさ》まれて、壁に四角い穴がぽっかり開いているのが見えた。あんなところにも入り口があったのか、という感慨《かんがい》はない。隠し扉が閉じていないことに舌打《したう》ちしたのみで先を急ぎ、しかし廊下の先には黒ずくめがふたり、今まさに中央階段を上がってきたところだった。
すかさず方向|転換《てんかん》。やはり開け放しになっていたドアに飛び込み、物置《ものおき》になっているその部屋をまっすぐ駆け抜け、出窓《でまど》から身を乗り出して、
「いよっ」
数メートルの距離を軽々と跳《と》び、隣《となり》の部屋の出窓に飛びついた。間をおかず部屋の中にすべりこみ、再びドアを抜けて廊下に出た時、黒ずくめふたりの姿はすでに消えている。
だが峻護は反転して遁走《とんそう》を続けたりはしなかった。たったいま出てきたばかりの物置部屋にもういちど躍りこむと、峻護《ターゲット》を見失った黒ずくめふたりが泡《あわ》を食って振り返る。峻護は難《なん》なく懐《ふところ》に潜《もぐ》り込み、掌底《しょうてい》を突き上げた。
――これで六人。
峻護の疾走はまだ止まらない。あらためて廊下に出ると中央ホールに向かって吶喊《とっかん》を開始。目覚《めざま》しい速度で廊下を駆けきると、ホールを囲む手すりに足をかけて、なんの躊躇《ちゅうちょ》もなく跳躍《ちょうやく》した。
一階にいた黒ずくめたちが見上げる中、ホールの空間をムササビのように舞《ま》って横切り、着地。足の裏から這《は》い上がってくる衝撃《しょうげき》を強靱《きょうじん》なバネで殺し、不意《ふい》をつかれて一瞬の隙《すき》ができた黒ずくめのひとりを水面蹴りで転倒《てんとう》させた時、黒電話のそばの壁に空いていた穴《あな》が静かに閉じていくのが見えた。少女ふたりがパネルの操作《そうさ》に成功したのだろう。
(よし)
これ以上の長居《ながい》は無用《むよう》、黒ずくめが地下に侵入してないことを祈《いの》りつつ、峻護は夜走《やそう》獣《じゅう》のように低く駆《か》けた。一拍遅《いつばくおく》れて後を追ってくる黒ずくめたちに構わずホールを突《つ》っ切《き》り、正面玄関を飛び出して、
「!」
まるで逃走経路を読んでいたかのように、黒ずくめのひとりが待ち構えていた。
(やるしかないか……!)
背後から迫《せま》る複数の敵を相手にする愚《ぐ》を避《さ》け、スピードを緩《ゆる》めずに突進《とっしん》する。この位置取りなら同士《どうし》討《う》ちを恐《おそ》れて飛び道具は使えないはず。拳を交えながら巧妙《こうみょう》に黒ずくめを引き連れて盾《たて》にしつつ、林の中に駆《か》け込む思惑《おもわく》だったのだが、
(うおっ!)
峻護の予測《よそく》を遥《はる》かに上回る速度で上段回し蹴りが飛んできた。かわせるタイミングではない、とっさに腕をクロスさせて受ける。骨《ほね》が砕《くだ》けそうな衝撃《しょうげき》。
(まずい――)
後ろを気にしながら対処《たいしょ》できる相手ではないことを悟《さと》り、峻護は絶体《ぜったい》絶命《ぜつめい》の危機《きき》に晒《さら》されていることを知った。黒ずくめたちはその全員が高度な訓練と実戦経験の豊富《ほうふ》さを思わせる動きをしていたが、こいつは頭ひとつ抜けている。
南無三《なむさん》、と唱《とな》え、峻護は肝《はら》を決めた。右のフックで応《おう》じ、返す刀で左の裏拳《うらけん》、さらに右のローキック――と繰《く》り出した連携《れんけい》のすべてかわされたところで怒涛《どとう》の反撃がきた。
(強い)
波状《はじょう》攻撃《こうげき》をかろうじて防《ふせ》ぎながら峻護は舌打ちした。手足が驚《おどろ》くほどしなやかに動き、おまけに身体がおそろしくやわらかい。直角にまで曲がるスウェーや、膝《ひざ》が地につくほど深く沈《しず》むダッキング。変幻《へんげん》自在《じざい》の動きにおいてはテコンドーやカポエラに共通し、一撃《いちげき》の重さでそれらを遥かに凌駕《りょうが》する。姉や美樹彦《みきひこ》はともかく、保坂《ほさか》あたりには十分に比肩《ひけん》しうる腕だった。
そしてその事実《じじつ》が意味するところは。
(――よし!)
黒ずくめが後ろ向きに放ったかかとの蹴り上げに鼻先をはたかれながらも、すんでのところで致命傷《ちめいしょう》を避け、峻護は反撃に転じるべく一歩を踏み込んだ。不安定《ふあんてい》な体勢《たいせい》で放った大技のために黒ずくめの体は崩れきっている。顔面、脇腹《わきばら》、股間《こかん》、どこもかしこもガラ空き。どこでもいい、好きなところに正拳《せいけん》を一発振り下ろせばカタがつく。
(もらった!)
勝利を確信し、峻護は必中《ひっちゅう》の一撃を手加減《てかげん》抜きで打ち込んだ――死角《しかく》から鞭《むち》のような曲線《きょくせん》を描《えが》いて後頭部に襲《おそ》い掛《か》かるつま先に、最後まで気づかぬまま。
……はるか深部にある地下室で、少女たちがモニター越《ご》しに息をのむ中。
峻護の双眼《そうがん》が映し出す世界に漆黒《しっこく》の幕《まく》がおりた。
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其の三 状況進行
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(これが|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》か)
クラゲのように伸《の》びたまま部下たちに運《はこ》ばれる少年を一瞥《いちぺつ》し、『隊長』は鼻を鳴らした。
「目を覚まさせてから尋問《じんもん》を始める。拘束《こうそく》は念入りにな」
「了解。場所はどちらに?」
「そこのホールで構わん」
指示を出してから自らもあとに続き、たったいま打ち倒したばかりの相手に批評を下し始めた。
(奇襲《きしゅう》を仕掛けた際の手腕《しゅわん》はまあまあだったが……詰めが甘いな)
たったひとり徒手《としゅ》空拳《くうけん》で百戦《ひゃくせん》錬磨《れんま》の部下たちと渡り合い、うち六人までも撃退《げきたい》した少年に対する評価にしては辛口である。
〔いや詰めだけではない。何もかもが甘すぎる。手段を選べる状況ではないだろうに、道具も使わなければ急所も狙わない。長生きしないタイプだ)
ぼんぼん育ちゆえか、あるいはもともとの性格なのか――いずれにせよこれでは護《まも》るべきものも護れまい。能力の有無《うむ》はともかくとしても、なんとまあ頼り甲斐《がい》のない男であることか。
(結論。二ノ宮峻護なる者、取るに足らず)
フルフェイスマスクの下でしかつめらしく断定《だんてい》しながら玄関をくぐり、ホールに進んだ。
「そのあたりにでも転がしておけ」
隊長が指差した先の壁に捕虜《ほりょ》の少年はもたせかけられ、部下たちがその手足に手際よく縄《なわ》を打っていく。
(ふむ……見た目は悪くない)
少年のそばに屈《かが》みこみ、弱々しくまぶたを閉じた顔を覗き込む。シャープでスマートな輪郭、きりりとした線を描く眉《まゆ》、高く通った鼻筋《はなすじ》。なるほど、さぞかし多くの女を泣かせているのだろうが。
(……ふん、所詮《しょせん》は見てくれだけの男だ。大体なんだこの鼻の高さは。本当に生まれつきのものか? 整形でもしているのではあるまいな? 眉も不自然に整《ととの》いすぎているし、どうせ毎日鏡とにらめっこしながら眉毛をそろえているに決まっている。それに全体の形が鋭角的《えいかくてき》すぎるな。これでは初対面の相手に悪影響を与えかねまい。やはり大した男ではないな、器《うつわ》の小ささが人相にも出ている)
そう結論づけて納得し、隊長は大きく頷《うなず》いた。どうでもいい点をあげつらって難癖《なんくせ》をつける様は完全に小姑《こじゅうと》のそれだったが、当人に自覚はない。
「よし始めるぞ。水の用意を。目を覚まさせる」
「了解」
「――ああそうそう」
「はい」
指令を果たそうと台所に向かう部下を呼び止め、
「水の中に氷《こおり》をたっぷり入れるのを忘れるなよ。もしあるようなら氷の代わりに液体《えきたい》窒素《ちっそ》あたりをぶち込んでも構《かま》わん」
「……はい?」
戸惑《とまど》ったように立ち止まった部下にはもはや目もくれず、隊長はふたたび少年のあら[#「あら」に傍点]を探す作業に熱《ねつ》を入れはじめた。
――ただでさえ薄暗い部屋が、灯《ひ》の落ちたように消沈《しょうちん》している。
二ノ宮家地下迷路のコントロールフロア。
モニター上に映し出される峻護の奮戦《ふんせん》を息を詰めて見守っていた少女二人は、その結末を目の当たりにして凍《こお》りつき、重苦しい沈黙《ちんもく》の中に身を沈めていた。
(わたくしのミスですわ)
コンソール盤に両手をつき、悄然《しょうぜん》とうなだれて、麗華は己《おのれ》を責《せ》める。
選択自体は決して間違っていたわけではない。選択肢は限《かぎ》られ、いずれも長短の甲乙《こうおつ》はつけ難《がた》かった。だがその選択をさせた理由を自覚しているだけに彼女は自己嫌悪から逃《のが》れ得ないのである。
(状況をわきまえぬ対抗心にそそのかされて道を誤《あやま》るなど、なんたる失態……)
運が悪かった、では済《す》まされず、自分を納得させるのも不可能だった。怒りと屈辱《くつじょく》のあまり自分をめちゃくちゃにしてしまいたい衝動に駆《か》られる。
その衝動と同時に、立っていられないくらいの不安にも襲われるのだ。孤軍《こぐん》奮闘《ふんとう》も虚《むな》しく捕《と》らえられた二ノ宮峻護。自ら進んで死地《しち》に赴《おもむ》いた二ノ宮峻護。すさまじい蹴《け》りが後頭部にめり込んでいたが、だいじょうぶだろうか。後遺症《こういしょう》など残らなければいいが。それよりあんな物騒な連中に捕らわれた彼の身はどうなるのか。
感情が複雑《ふくざつ》にもつれ、わけもわからず涙が出そうになり、
「あの、そんなに自分を責めないでください麗華さん」
もうひとりの少女が重い沈黙を破った。
「麗華さんの案は適切だったし、わたしも二ノ宮くんも賛成しました。責任があるとすれば三人みんなの責任です」
努めて明るく語る真由《まゆ》を、麗華は昏《くら》い双眸《そうぼう》で見やる。
「それに二ノ宮くんをひとりで行かせたのも仕方のないことです。あのとき事態をどうにかできるかもしれなかったのは二ノ宮くんだけだったし、もしわたしたちが付いていってもかえって足手まといになるだけだったと思います。この部屋でスイッチを操作《そうさ》する人間も残しておかないとだめだったし――」
むろんそんなことは百も承知だったが、麗華は逆上して怒鳴りつけたりはしなかった。
令嬢《れいじょう》の曇《くも》った色の目が、獲物をみつけた爬虫類《はちゅうるい》のそれに変わっていく、怒鳴りつけるよりもずっと効率的に相手を痛めつける方法を、彼女の中の制御《せいぎょ》できない部分がひとりでに探しているのだ。月村《つきむら》真由は麗華の感情を刺激しないよう、下手《したて》に下手に出ている。やり場のない感情をもてあます彼女にとって絶好のカモ。純粋《じゅんすい》にいたわってくれているだけなのだと知りつつ、いや知っているからこそ、その好意に甘える欲求に耐《た》えられなかった。
「……あなたにお尋《たず》ねしたいことがありますわ、月村真由」
感情の捌《は》け口《ぐち》を見出した喜びに心のどこかが打ち震え、理性を振り切って舌が言葉を紡《つむ》いだ。
「あなた先ほど『特訓をやめる』とおっしゃいましたわね? あれはどういう意味です」
「えっ?」
ここで蒸し返されるとは思わなかったのだろう、真由は不意をつかれた顔をした。そこを逃さずに畳《たた》み掛《か》ける。
「あなた、かつてわたくしに宣戦《せんせん》を布告《ふこく》いたしましたわね? このわたくしが誰であるかを知りながら。その上であなたは特訓を継続《けいぞく》いたしましたわね? このわたくしが再三にわたって中止を要求したにもかかわらず」
「は……い」
「それをあなたはやめる、と言った。まったくもって今さらながらに。この事実に間違いはありませんわね?」
「…………」
縮こまってうつむく獲物《えもの》を鼻で覇《あざわら》う演出を挟《はさ》んでから、
「いくつもの点においてあなたを非難することが可能です。第一にあなたは己の初志《しょし》を貫徹《かんてつ》しなかった。第二にあなたは貫徹できるだけの初志を持ち得なかった。第三にあなたは初志を選ぶにあたっての判断力を致命的に欠いた。――これらについて異議はおありかしら?」
「いえ……でも、それは」
「いずれの事実も、あなたという人間がきわめて重篤《じゅうとく》な欠陥品であることを証明しています。そしてあなたの最大の罪は、あなたが取る無数の無意味的行動によってこのわたくしの貴重な時間をロスさせ続けていることなのです」
筋道《すじみち》立っているようでいて、その実相手を傷つけること以外は目的にない語り口だった。むろん、五割方が言いがかりであることは承知している。その上で相手に反論を許さない話術《わじゅつ》を麗華は心得ていた。
「まったく呆《あき》れ果《は》てますわ。ぜったい負けないだとか最後には自分が勝つだとか――大口を叩いておいてこのザマ。それへ応ずるためにわたくしが消費《しょうひ》した多大な力ロリーを、あなたはどうやって賠償《ばいしょう》するおつもりなのです」
そして何よりも麗華は、相手が抗弁《こうぺん》してこないであろうことをよく知っていた。
「月村真由、黙っていてはわかりませんわ。弁明《べんめい》なり反論なりしたらどうです」
「いえ……わたしは……」
「弁明も反論もしない理由を言いなさい。沈黙は許しません」
理由など聞かなくてもわかっているのだ本当は。遊園地の一日と、白いレースのハンカチ――『あの話』を聞いて、この小娘がこれまで通りでいられるはずがないのだ。麗華は狡猾《こうかつ》に、悪辣《あくらつ》に、そこをついた。
「ほんとう、あなたが現れて以降のわたくしの人生は、疫病神《やくびょうがみ》に取り付かれたがごとき運勢《うんせい》の転落《てんらく》ぶりを示していますわ。あなたに伝染《うつ》された厄《やく》を落《お》とすのにかかる時間、費用、その他もろもろの損失――ああ、考えただけでも悪寒《おかん》と頭痛《ずつう》を催しますわ。あなたは疫病神だけでなく死神も兼業《けんぎょう》しているのかしら。ストレスでわたくしを害し、魂を強奪《ごうだつ》する算段《さんだん》なの? ふん、ご苦労なことです」
もはや十割方が言いがかりの糾弾《きゅうだん》に、真由は黙《だま》って打たれている。うつむいてくちびるを噛みながら。今はこんなことに時間を費《つい》やしている場合でないと承知《しょうち》しているだろうに、ひとことも言い返すことなく。
その姿がまた癪《しゃく》にさわった。瞬間的に血が上り、麗華に最後の節度《せつど》をも捨てさせた。
「――いいでしょう。この際ですからはっきりと申し上げます」
嗜虐心《しぎやくしん》が満たされる感覚にぞくぞくしながら、ためらいなく言葉の暴力をふるった。
「わたくしは、あなたのことが、大嫌いですわ。姿を見、声を聞いただけでも怖気《おぞけ》がします。あなたというひとは存在そのものが害悪《がいあく》なのよ。お願いだからわたくしの前から消えてくださる?」
「……!」
まさしく殴《なぐ》られでもしたかのように真由はハッと顔を上げ、すぐにまたうつむいた。
肩を落として力なく――瞳には涙まで浮かべて。
(なにを――やってるの。わたくしは)
沸騰《ふっとう》していた感情が急速に冷《ひ》えていく。無抵抗《むていこう》の相手にいったい何をしていたのだ、自分は。こんなのは嬲《なぶ》り殺《ごろ》しにも等しい蛮行《ばんこう》ではないか。しかも真由には何ら非もないというのに。
(なんたる恥知《はじし》らずな……!)
真由には別に他意《たい》などなく、ただただ慰《なぐさ》めようとしてくれただけだったろうに。その親切を自分は土足で踏《ふ》みにじった。差し伸べられた手に噛《か》み付《つ》き、親身な厚意《こうい》を醜悪《しゅうあく》な敵意《てきい》で返した。罪なき相手を生ゴミ置き場のように扱って、薄汚《うすざたな》い感情の捌《は》け口《ぐち》にした。
最低だ。
(ばかみたい、わたくし――)
取るに足らぬ満足感と引き換えに得た特大の罪悪感《ざいあくかん》にのみ込まれ、今度こそ本当に泣き出したくなった時。
「――あ」
打ちひしがれていた真由が切迫《せっぱく》した呟きを漏《も》らし、顔を上げた。その声のただならぬ響《ひび》きに麗華も反応し、真由が視線を縫《ぬ》いとめられている先に目をやる。
「――!」
血の気が引いた。
あらゆる角度から二ノ宮家内部を映し出すモニター群《ぐん》、そのうちのひとつに映《うつ》っている映像――中央ホールの一角で。
両手両足を拘束《こうそく》された峻護が身体をくの字に折り、のたうちまわっていた。
矇朧《もうろう》とした意識の中で浮遊《ふゆう》していた峻護を現実に引っ張り戻したのは、ある意味この季節にふさわしい、冷水の感覚だった。
「っぷ……げほっ」
鼻に入った水に咳《せ》き込みつつまぶたをあけ、本能的に周囲を確認《かくにん》する。まず目に入ったのは、空《から》になったバケツを持って遠ざかっていく黒ずくめの後ろ姿。その背中を目線で追っていくと、自分をぐるりと取り囲んでいる数名の黒ずくめたちが目に入る。このあたりで現在地が自宅の中央ホールであることを知り、そして峻護は先ほどの戦いで自分が敗北《はいぼく》を喫《きっ》したことを悟《さと》った。
(北条先輩と月村さんは?)
左右に視線を走らせてみるが姿は確認できない。隠し扉《とびら》が閉《し》まり始めるのを確認した記憶があるから、おそらく無事《ぶじ》であろうとは思うが。
「お前ら――」
髪から垂《た》れてきた水滴《すいてき》を頭を振って跳《は》ね飛《と》ばしてから、侵略者《しんりゃくしゃ》たちを睨《にら》みつける。
「何者だ? 何が目的でこんな真似をした?」
普段は見せない堂々たる声と態度で糾弾《きゅうだん》したが、黒ずくめどもは完膚《かんぷ》なきまでに黙殺《もくさつ》。
自動小銃を構えたまま微動《ぴどう》だにせず、高度な統制《とうせい》と規律《きりつ》の正しさを見せつけている。
「この家に金目《かねめ》のものは置いてないんだがな、意外と。うちの姉はひどい浪費家《ろうひか》だけど、根本的なところでは節約家《せつやくか》なんでね。お前らが物盗《ものと》りだとすれば、とんだ骨折り損になるところなんだが」
軽く話を振ってみるも、やはり何の反応もみせなかった。なるほど、やはりこいつらはプロ――それも極《きわ》めて組織だった訓練《くんれん》を受けたエリートなのだろう。あくまで指揮《しき》系統《けいとう》の上下に殉《じゅん》じ、首領格《しゅりょうかく》の命令にのみ忠実に従《したが》い、それ以外の無駄《むだ》なことは一切しない、理想的な猟犬《りょうけん》。最悪《さいあく》に厄介《やっかい》な相手だった。
(さて、どうしたものか)
武装《ぶそう》した戦闘技能者たちに拘束《こうそく》されてはいても峻護は諦《あきら》めていない。策を練《ね》りつつあらためて状況を確認し始める。
さしあたり言えるのは、連中の目的が自分を含めた家人の殺害にあるわけではなさそうだということだろう。では何が目的かと問われると、これは首をひねらざるを得ない。有無を言わせぬ襲撃はもちろん暴挙《ぼうきょ》なのだが、それにしては上品に過ぎるとも思える。その気になればもっと簡単に制圧《せいあつ》できたはず――たとえば催涙弾《さいるいだん》を何発か打ち込めばそれで済んだ話ではないか。なのに連中はひどく丁寧《ていねい》に行動し、家捜《やさが》しするにしても壁紙一枚破いた形跡もない。騒ぎになるのを恐れているのか? だがここは丘の上の一軒家《いっけんや》、多少派手な真似《まね》をしても周辺住民に気づかれたりはしないだろうに。
連中の行動基準は未《いま》だ不明だが、ここまで近づいてじっくり見れぱ連中の姿《すがた》格好《かっこう》はよくわかる。彼らは身長も体型もバラバラ、全身を隙間《すきま》なく包《つつ》み込《こ》むスーツゆえに断定《だんてい》まではできないが、おそらくは国籍《こくせき》も人種もバラバラ。軍事関連にはまるっきり無知《むち》な峻護だが、装備しているのはいずれも最新かつ最上級の品――一歩間違えばSF映画のロケかと間違えられそうな、近未来的形状の武装が散見《さんけん》される。スーツの目に見えない内側にも様々なたね[#「たね」に傍点]を仕込んでいるのだろう。表立った武装だけに気を取られて戦えば痛い目を見そうだ。ついでに言えば峻護の手足を縛《いまし》めている縄《なわ》も、そんじょそこらの麻《あさ》縄などではない。ゴムと金属の中間のような肌触《はだざわ》りの黒いローブである。試しに腕を持ち上げてみると驚くほど軽く、力を込めてもまるでびくともしない。自力で解くには気の遠くなるような困難を覚悟《かくご》しなければなるまい。
時間は――どのくらい経過しただろう。窓の外を見ると束の空に藍色《あいいろ》が交《ま》じり始め、そろそろ明かりをつけねば不自由する頃合になっている。気絶していた時間は長くなかったはずだが、地下迷路を方向感覚もあいまいにさまよっていた時間が思いのほか長かったのかもしれない。
状況を逐一《ちくいち》クリアにしていくにつれ、全身をずぶ濡《ぬ》れにしてくれた冷水が身体に籠《こも》った熱を奪《うば》い、意識《いしき》を冴《さ》え渡《わた》らせていく。
冴え渡るついでに困ったことも思い出した。
(そもそもおれ、こんなことやってる場合じゃないんだけどな……)
考えるべきことがたくさんあったはずなのに、とんでもない闖入者《ちんにゅうしゃ》のおかげでそれも頓挫《とんざ》させられてしまった。同居人の少女ふたりとの関係に一定の定義づけをする、という難事業が否応《いやおう》なく先延《さきの》ばしになったことに安堵《あんど》を覚えるのは偽《いつわ》らざる本音だが、もはや先延ばしにしている場合でもないのに。
「――目を覚ましたか」
と、その時。黒ずくめたちの間を割ってひとりの人物が現れた。他の連中と同様、全身を隙間《すきま》なく包《つつ》む装備《そうび》に身を固めているため面相風体《めんそうふうてい》は判然《はんぜん》としないが、その身のこなしに覚えがある。まるで獲物《えもの》に忍《しの》び寄《よ》る山猫のような、シャープでどこか優雅《ゆうが》な足の運び――峻護を失神に追い込んだあの黒ずくめだ。
「尋問《じんもん》は私がやる。数名を残し、あとの者は別命あるまで引き続き任務を遂行《すいこう》せよ」
山猫が発した声の奇妙さに、峻護の眉《まゆ》がわずかに動く。やたらにカン高い、明らかに地声《じごえ》ではない電子音。
(変声装置か)
おそらくは全員がマスクの中に仕込んでいるのだろう。正体を隠《かく》すための処置《しょち》なのだろうが、大げさなまでの装備で全身を秘《ひ》していることといい、じつに徹底《てってい》している。なんとなれば、すでにこの家は彼らが制圧しているも同然なのに。プロ意識の表れゆえの慎重《しんちょう》さなのだろうか。
どうやら指揮官らしいその山猫の指示に従い、配下の黒ずくめたちはそれぞれに散《ち》っていく。
それを見届けてからそいつは床《ゆか》に転《ころ》がされている峻護の前に立ち、傲然《ごうぜん》と彼を見下ろしてきた。すらりとした体格ゆえ実際以上に高く感じる頭の位置から、例のカン高い声を降らせてくる。
「話してもらおう。この屋敷の構造、警備体制、警備を担当する人員――その他、洗いざらいすべてだ」
「…………」
「時間を稼《かせ》ぎたいのだろうが止めておけ。無用の抵抗は貴様の不利になるだけだ」
沈黙で応じた峻護に冷徹《れいてつ》な言葉が浴びせられる。機械を通しているゆえ少々|緊迫感《きんぱくかん》に欠ける声だが、そこに見え隠れする語気《ごき》の鋭《するど》さは抜き身の日本刀にも似ていた。
「もう一度|訊《き》く、この洋館について貴様が知っていることをすべて話せ」
「お前たち何が目的だ? この家には金目《かねめ》のものなんか――」
質問に質問で返した峻護への返答は、ごついブーツの一撃《いちげき》だった。
「あぐっ……!」
みぞおちにめり込んだ硬《かた》い感触に、身体が茹《ゆ》でたエビみたいに折れ曲がる。本気の一撃でこそなかったが、つま先が正確《せいかく》無比《むひ》に急所をえぐっていた。一瞬|息《いき》が止まり、視界《しかい》が白で塗りつぶされる。
「手間を取らせるな」
目尻に涙を浮かべて喘《あえ》ぐ捕虜に何らの感興《かんきょう》も催《もよお》していない声で、山猫は警告した。
「素直に吐《は》けば生命の安全は保障《ほしょう》する。言え」
(……くそっ)
完全に敵の支配下に置かれている以上、下手《へた》な抵抗《ていこう》は確かに逆効果《ぎゃくこうか》だった.ということはつまり、もっと上手に抵抗を試《こころ》みねばなるまい。
「わかった……話す」
尋問者の見抜いたとおり、とにかく今はできるだけ時間を稼ぎたいのだ。
山猫の忍耐力の量を読み、次の蹴《け》りが飛んできそうなぎりぎりまで待ち、いかにも重い口を開けるかのように装って、
「警備は……警備員なんて、ここにはいない」
まずはとっくに明らかであろうことから口にした。痛みに苦しむあまり発声に不自由している態《てい》を演じながら――まあ、これに関しては演技など不要だったが。
「それはつまり、この家に常駐《じょうちゅう》の警備要員がいないという意味か」
「そうだ」
「やはりいないのか……しかし俄《にわ》かには信じられんな」
呆れに近い響《ひび》きの電子音につづいて、すぐに次の間いが来る。
「警備の者がいないのはわかったが、機械的な警備システムは備《そな》えているだろう。それを聞かせてもらう」
「機械的な警備システム……」
考えどころだ。先だっても少女ふたりに言ったことだが、姉が敷設《ふせつ》した設備のほとんどを峻護は知らないのである。が、まったく知らないわけではなく、地下への隠し扉《とびら》もいくつかは知っており、そしてそれだけは口が裂けても言えないのだった。少女ふたりを危険《きけん》に晒《さら》す情報をいかにして言わずに済ますか。
「どうした? 言いたくないなら言いたくなるようにさせてやるが?」
「……そこに電話があるだろう」ホールの隅《すみ》の黒電話をあごで指し、「そのダイヤルがこの家の警傭システムの簡易的《かんいてき》なコントロールパネルを兼《か》ねている」
「操作方法は?」
峻護は操作の手順《てじゅん》を告げてから、
「そのやりかたでダイヤルを回すと、緊急時専用の回線に繋《つな》ぐことができる装置が壁《かべ》の中からせり出してくる」
「他には? コントロールパネル、というからには他にもコマンドがあるはずだが」
「いくつかある。換気《かんき》ダクトの開き方を調整するやつだとか、庭の散水装置を開けたり閉めたりするやつとか――」
「ふざけているのか?」
「ちがう。本当のことだし、おれは他のコマンドを知らないんだよ」
これは事実である。
「おれはこの家で高い権限《けんげん》を得られるような立場にないんだ。これ以上のことが聞きたいならもっと上の立場にいる人間に聞いてくれ」
「ふん――」
山猫がマスクの裏でせせら笑う。
「貴様、二ノ宮峻護だろう? ただの使用人であればいざ知らず、この家の係累《けいるい》でありながらそんなことも知らんというのか?」
「…………」
やはりバレていた。自分の素性《すじょう》が特定されるような発言は避《さ》けてきたのだが、どうやら骨折《ほねお》り損《ぞん》だったらしい。連中が行きずりの強盗である、という線もこれで完全に消えた。そうであればいい、そうであってくれ、という淡《あわ》い期待を多少なりとも抱《いだ》いていたのだが。
「――二ノ宮の人間であっても立場が低いのは事実なんだ。詳しいことが知りたいなら姉さんに聞いてくれ」
ふたたび山猫はせせら笑い、
「構わんさ、貴様が知っている範囲のことを話せばいい。たとえばそうだな――貴様が先ほど飛び出してきた隠《かく》し扉《とびら》の開けかた、なんていうのはどうだ?」
「…………」
時間|稼《かせ》ぎもここまでか。
「貴様はあそこから出てきたな? ならば入りかたを知らんとは言わせん。話してもらおうではないか」
「――お前たち、いったい何者だ? |二ノ宮家《うち》の事情をよく知ってるみたいじゃないか」
「質問は私がする。貴様からの質問は一切認めん。さっさと答えろ」
さあ、どうするか。手足を縛られたまま戦ったとしても五秒も持つまい。ならば沈黙をつづけるか、あるいはすぐに露見《ろけん》すると承知で誤《あやま》った情報を教えるか。まったく、こういう時ほど自分の口下手さが恨《うら》めしい時はない。姉や美樹彦《みきひこ》あたりなら、舌先三寸《したさきさんずん》のみを駆使《くし》してこの連中をあしらってしまうだろうに。
「答える気は無《な》し、か。ふむ……あまり気は進まんのだがな」
峻護の逡巡を拒絶《きょぜつ》の意思《いし》表示《ひょうじ》と断定したのか、山猫は納得《なっとく》したように頷《うなず》き、
「――!」
ふたたびブーツを峻護にめり込ませた。何の躊躇《ちゅうちょ》も遠慮《えんりょ》もなく、まったく予備《よび》動作なしで――股間《こかん》のど真ん中に。
「う……ぐぉ」
先ほどの比ではなかった。痛みとも悪寒《おかん》ともつかぬ壮絶な衝撃が下腹部《かふくぶ》を突き抜け、峻護をたちまち行動不能におとしめる。
「やれやれ、発狂せぬよう気を使いながら拷問《ごうもん》するのはけっこう疲《つか》れるんだが。まあ必要とあれぱ仕方がない。どうする? 手始めに男としての尊厳《そんげん》を失ってみるか? 種なしに堕《だ》する屈辱《くつじょく》というのは中々のものらしいぞ? ん?」
こいつならば言葉通りにやるだろう――矇朧《もうろう》とする意識の中で峻護は確信した。しかし彼の決意は固い。彼女たちは、二ノ宮峻護が大切に思うふたりの少女だけは、全身全霊《ぜんしんぜんれい》を尽《つ》くして護らなければならない。何をされようと、どんな悲惨《ひさん》な結末が未来に待っていようと、これだけは、この意地《いじ》だけは貫《つらぬ》き通さなければならなかった。
長身を丸め、うめきながら苦痛に耐える峻護を、黒ずくめたちは実験動物でも観察《かんさつ》するかのような無感動さで眺《なが》めている。
「どうだ? 言う気になったか?」
黒ずくめの親玉が片膝《かたひざ》をつき、顔を覗《のぞ》き込《こ》みながら訊《き》いてきた。
峻護はあくまで無言。
「――物分かりの悪い男だ」
今度もいきなりだった。
すっと伸びた山猫の手が峻護の右手の小指を握《にぎ》り、逆方向にねじまげたのである。
「ぐあっ――」
「まあ指の一本くらいは折《お》っても構わんか。貴様の態度をみるに、どうやらそれを望んでいるようにも見受けられるしな。なあに、きれいに折ってやるから心配はいらん。骨などすぐにくっ付く。拷問《ごうもん》の手始めとしては中々手ごろだろう?」
骨の強度ぎりぎりのところで手を止め、脂汗《あぶらあせ》を浮かべて顔をしかめる峻護を覗き込む。
「これが最後の警告だ。――言え」
「…………」
冷酷で無慈悲《むじひ》な瞳が真っ黒いゴーグル越しに見えるような、そんな声だった。峻護はしかし、あえぎながらもその見えざる瞳を睨《にら》みつける。
「そうか」
山猫は結論を出したようだった。
小指を握る手に力が込められ、次の瞬間にも襲《おそ》ってくるであろう激痛《げきつう》に耐えるべく峻護は歯を食いしばり、
ぢりりりりりん…… ぢりりりりりん……
小指の付け根が直角以上に折れ曲がる寸前、黒電話のアナクロなベル音が洋館の隅々《すみずみ》にまで響《ひび》き渡った。
山猫の手が止まり、黒ずくめたちの間に微量《びりょう》の動揺《どうよう》が走る。
「ふん――」
山猫は鼻を鳴らして指を放すと、その手で峻護の襟首《えりくび》をつかみ、起き上がらせた。
「出ろ。できる限り自然にだ」
催促《さいそく》するようにがなり続ける黒電話の元に引きずっていき、
「言うまでもないが妙な真似はするなよ。少しでも不審《ふしん》があった場合は――これもまあ、言うまでもあるまい?」
黒ずくめのひとりがナイフを抜きながら近づぎ、峻護の首にあてた。残りの黒ずくめが峻護を半円に囲み、マシソガンの照準《しょうじゅん》をつける。
「理解したか?」
「……わかった。あんたたちの気に障《さわ》ることはしない」
苦々しげに頷いた峻護だが、もちろん内心では小躍りしている。これ以上ないタイミングのコールだ。誰だか知らないが、抱きついて感謝のキスでも贈りたい気分である。もとより『妙な真似』ができるだけの仕込みもない。
峻護が頷《うなず》いたのを確認して、山猫が手ずから受話器を取った。疼痛《とうつう》のたっぶり残る股間《こかん》に辟易《へきえき》しつつ、耳に当てられる受話器に向かって、
「はいもしもし、二ノ宮ですが――」
「……ふう――――――っ」
モニターの向こうで峻護がとりあえずの事なきを得たのを確かめて、麗華の全身から一気に力が抜けた。大きな吐息《といき》を漏《も》らしながらへなへなとその場にへたり込む。
(よ、よかった……ほんとうによかった……)
二ノ宮峻護に何かあったら――自分の落ち度によって彼の身に万一のことが降《ふ》りかかったら。たぶんもう、自分は生きていけなかったと思う。誰からの電話か知らないが素晴らしいアシストだ。北条麗華の命を救ったこの栄誉《えいよ》は、北条家の総力をもって顕彰《けんしょう》しなければなるまい。相手が嫌がったとしても強制的に。
(それにしても――)
ひとしきり安堵した後には煮えたぎるような怒りがふつふつと湧《わ》き上《あ》がってくる。
あの黒ねずみども、二ノ宮峻護に何ということをしてくれるのだ。あんな痛そうなことをして――二ノ宮峻護にあんな苦しそうな顔をさせて――もしも怪我《けが》でもさせたら――ずっと消えないような傷をつけたら――それどころか後遺症が残ってしまったら――
「あの連中……ぜったい許さない」
声が漏《も》れているのにも気づかず、令嬢はモニターの向こうの罪人どもを火を噴《ふ》くような目で刺《さ》し貫《つらぬ》いた。いったいどんな罰をあたえてやろうか。北条麗華の意に背《そむ》いたらどうなるか、二ノ宮峻護に手を出したらどうなるか、したたかに教訓を叩《たた》き込《こ》んでやらねば。脆《ひざまず》いて許しを請《こ》うても決して赦《ゆる》してあげない。死よりも恐ろしい恐怖と絶望の底なし沼に全身を漬け込んでやる――骨の髄《ずい》に染み込むまで。そのためにはまず、ここを脱出して……そう、こんなところで油を売っている暇《ひま》はないのだ、早く彼を助けないと。
「月村真由、早くここを出――」
だが次の瞬間。麗華の中で毛細血管《もうさいけっかん》の先まで煮《に》えたぎっていたはずの怒りが一気に冷《ひ》え、代わりに氷のような戦傑《せんりつ》が這い上がってきた。
真由だった。
戦慄の源は、となりでじっとモニターを見つめている月村真由。
ぱっと見はむしろ、目の前で暴行を見せられたにしては冷淡《れいたん》なほど落ち着いているようにみえる。だが麗華の目は節穴《ふしあな》ではない。無表情に限りなく近い真由の表情の裏に何が潜《ひそ》んでいるか、正しく理解していた。どす黒いオーラが真由の周囲で揺れていると錯覚《さっかく》するほどに――いや、ひょっとするとそれは錯覚でも何でもなかったのかも知れない。
しかも、この感覚にはおぼえがある。
「ああ……すいません」
声も上げられずに凝視《ぎょうし》していた麗華に気づき、真由はモニターから視線を外《はず》した。
「ちょっとボーっとしてました」
ボーっとしてた? そんな可愛《かわい》げのあるものではない。膨張《ぼうちょう》しきった毒々しい殺意《さつい》が見境なくぶちまけられる寸前に見えた。そう、まるであの時のような――かつて殴りあいのケンカをした際に垣間見《かいまみ》た、月村真由のもうひとつの顔――
「ええと……何でしたっけ? 何か声とか掛《か》けられました? わたし」
酩酊《めいてい》から覚めたかのように視点が泳いでいる真由に、さっきまでの不穏《ふおん》さはない。負の感情の手綱を今はしっかり握れているようだ。麗華を金縛《かなしば》りにしていた戦慄もすでに消えている。
「いいえ――別に何も話し掛けてはおりませんわ」
「そうですか。いえ、それならいいんです。自分で言うのもあれですけど、わたしってかなり抜けたところがあるので。もし麗華さんを無視してるみたいなことになってたら申し訳ないと――あ」
つ、と。
弁明していた真由の鼻腔《ぴこう》から赤い雫《しずく》が滴《したた》った。それもふた筋《すじ》。
「…………またですか」
「す、すいません」
もう何度も目にしたこのパターンだが、いつ見ても脱力させてくれる光景だ。手の甲でごしごし鼻をこする真由を呆《あき》れ顔《がお》で見やりながら、麗華は肩の力を抜《ぬ》いた。まったく、こんな小娘に戦慄していた自分がばかばかしくなるではないか。
が、おかげで頭が冷《ひ》えた。
「麗華さん」
いまだ収まらぬ出血に鼻をすすりながら、真由がまっすぐこちらを向いた。
「二ノ宮くんを助けに行きましょう」
「……あなたに指図《さしず》されるまでもありません」
先に言われたことにちょっとへそを曲げながら、麗華はつと顔を背《そむ》けた。
「もちろん二ノ宮峻護は救出《きゅうしゅつ》いたします。あの男には先ほどの借《か》りがありますからね」
真由と目を合わせられない理由は明白だった。負債《ふさい》は峻護に対してのみ負っているわけではない。麗華は先ほどの汚点《おてん》を都合《つこう》よく忘却《ぼうきゃく》するつもりはなく、利子《りし》を繰《く》り越《こ》してより大きな負債を背負《せお》うがごとき愚《ぐ》を取るつもりもなかった。だけど、今はまだ――
(べつに後回しにしているわけじゃありませんわ。今はそれどころではないのです)
心の中で言い聞かせながら考える。峻護を救うのは当然にしても、ではどうやって?
この部屋から二ノ宮家の様々《さまざま》な機械的《きかいてき》装置《そうち》をコントロール可能《かのう》なのは間違《まちが》いなく、脱出《だっしゅつ》口《ぐち》[#原本のまま]の操作《そうさ》もまた可能であろうことは想像に難《かた》くない。あらゆる手順《てじゅん》で操作をほどこし、可能性をつぶしていけぱ、いずれ望ましい成果が得られるだろう。バクチ要素《ようそ》は相変《あいか》わらず高いが、すぐさま効果《こうか》が出る望みもあるというメリットは捨てがたい。何せ峻護の救出は一刻《いっこく》を争うのだ。
ではもう一方の案――一度は却下《きゃっか》した案はどうか。迷路内にあるはずの出口を直接探しに行くという、主に真由が推《お》した案。こちらはとにかくリスクが少ないという点が魅力的《みりょくてき》だったが、今は状況が変わった。峻護が切迫《せっぱく》した危機《きき》にさらされている現状、悠長《ゆうちょう》に出口を探している余裕はない。
ならば。一度は失敗したが、今こそ麗華の提示《ていじ》した案が最善《さいぜん》なのではあるまいか。
(でも――)
数秒でこれだけのことを考えて結論《けつろん》を出しながら、いざそれを口にして実行に移《うつ》そうとすると身体が動かなかった。怖気《おじけ》づいているのではない。直感《ちょっかん》がストップをかけるのだ。麗華がもっとも頼《たよ》りにする己《おのれ》のひらめきが、自身のしようとしていることに引《ひ》っ掛《か》かりを感じているらしい。
(どうする? どうするのわたくし?)
口もとに手を当て、眉間《みけん》にしわを寄《よ》せて思考《しこう》に没頭《ぼっとう》する麗華を、真由がじっと見守っている。急《せ》かすでもなく、不安がるでもなく、ただじっと。あたかもすべてを託《たく》しきっているかのように。
(ふん、気楽なものですわね。頭脳《ずのう》労働はわたくしに任せきりで、自分はただボーっとしているだけですか。いいご身分《みぷん》ですこと)
が、非難《ひなん》はしてみるものの、不思議《ふしぎ》なくらい悪意は湧《わ》かなかった。すでにしくじっている自分を、理不尽《りふじん》にひどいことを言った自分を、それでも真由は恃《たの》もうというのだ。こそばゆいくらいの期待の寄せかたであり、それはすなわち信頼《しんらい》とか信用とかいう類《たぐい》のものであり、どんな経緯であれ頼られれば応《こた》えるのが北条麗華であるべきだった。
麗華はあるべき姿の自分のためにあえて貴重《きちょう》な時間を割《さ》き、決断の時間に当てる。過去の経験を総《そう》ざらいし、応用《おうよう》できる記憶、参考《さんこう》になる見聞がないか懸命《けんめい》に探した。
(先人いわく、兵は拙速《せっそく》を尊《たっと》ぶ――)
ふいに耳によみがえったのは懐《なつ》かしい声。麗華の師《し》であり、従者《じゅうしゃ》であり、何より気のおけない友人でもある『彼女』の声だった。
(時には勢《いきお》いに任せて行動するのもよろしいでしょう。何事《なにごと》も何人《なんぴと》も、時流《じりゅう》を得た勢いというものには敵《かな》わぬものですから。もちろん、平時《へいじ》においては巧遅《こうち》に徹《てっ》するのも肝要《かんよう》になりますが)
(使い分けが求められるというわけですか……難《むずか》しいものですわね)
(いいえ難しくはありません。お嬢《じょう》さま、あなたにとっては)
そう言うと、『彼女』はまぶしく微笑《ほほえ》んでこう続けるのだ。
(お嬢さまには物事《ものごと》の流れをつかむ才能《さいのう》があります。物質《ぶっしつ》・非《ひ》物質を間《と》わず、あらゆるエントロピーの複雑《ふくざつ》な交錯《こうさく》を瞬時《しゅんじ》にして見抜く直感と、常《つね》にその交錯の中心に位置することのできる強運を備《そな》えている。あなたにかかれぱ拙速も巧遅も飼《か》いならされた家禽《かきん》と同じ。いずれも意のままに使い分けることが可能でしょう)
(……そこまで誉《ほ》められるとかえって居心地《いごこち》が悪いのだけれど)
(あなたのおそばにお仕《つか》えする私が言うのだから確かですよ。極論《きょくろん》すれば、あなたは何も考えず、適当《てきとう》に日々を過ごしているだけでも人生を何とかしてしまう気がする。それほどあなたの頭上にある『星』は強い)
(……やっぱり素直《すなお》に喜んでいいかどうか迷いますわね……)
(運も実力のうち、という言葉の信憑性《しんぴょうせい》をここで力説《りきせつ》せねばなりませんか?)
(いいえ。他ならぬあなたが言うことですもの。今の言葉、肝《きも》に銘《めい》じておきます)
(お嬢さま、どうかお忘れなきよう。あなたはあなたの信じる道をお行きください。道はあなたの進まんとする先におのずと拓《ひら》かれるのですから)
「――わたくしの信じる道、ですか」
声に出してつぶやき、音に出して息を吐《は》いた。
通り一遍《いっぺん》の理屈《りくつ》で選ぶなら、多少の無茶《むちゃ》は承知《しょうち》の上でこのコントロールルームにとどまり、賭《か》けに出るべきだろう。だが麗華のカンはさらたる大博打《おおばくち》を推奨《すいしょう》している。
いいだろう。ならば『彼女』お墨付《すみつ》きの直感が、本来|経《ヘ》るべき無数の考察《こうさつ》をショートカットして出した結論に、従《したが》ってみようではないか。
「ここを出ましょう」
真由とようやく目を合わせて、令嬢は決断《けつだん》を告げた。
「理由を説明している時間はありません。それでもよければわたくしに従いなさい。もっとも、あなたが云《うん》と言わなくてもわたくしはひとりで――」
「行きます」
即答《そくとう》だった。
「麗華さんの判断に従おうと決めてました。考えるのは麗華さんのほうが上手《うま》いから」
迷いのない、澄《す》んだ、強い瞳だった。この少女が時おり見せる芯《しん》の強さだ。
「ほんとうによろしいの? 結果の責任はすべてわたくしが負いますが、賠償《ばいしょう》を要求されても生きて応《おう》じられる保証《ほしょう》はありませんわよ?」
「いいえ、賠償なんて要りません。これはわたしたちふたりが責任を負うべき問題です。だってこれはわたしたちふたりの結論なんですから」
「……。議論《ぎろん》をしている時間はありませんでしたわね」
きびすを返してドアに手をかけながら、麗華はかつてないほどに気分が高揚《こうよう》している自分を知った。
「目的はただひとつ、二ノ宮峻護の救出のみ。それ以外はすべて切り捨てます」
「はい。それと行き先ですが」地図を記したメモを示し、「この部屋を出て右の通路を道なりに左へ。その先にまだ地図になっていない個所《かしょ》があります。方角的に見て迷路の『外側』に近いはずだし、当たりの確率《かくりつ》は高いです」
「その案、採《と》りましょう」
「はい。じゃあわたしが先に行きます。急ぎましょう」
返事も聞かず真由は部屋を飛び出した。すぐさま麗華も後を追う。
(早いですわね)
複雑《ふくざつ》に曲がりくねった、薄暗くて狭《せま》い道を曲芸《きょくげい》のように突っ切っていく真由の姿に、麗華は内心で舌を巻いた。中々どうして、抜けているように見えていざという時の運動能力は高いのだ、この小娘は。火事場《かじぱ》の馬鹿力というより普段《ふだん》が手を抜きすぎのように見えてならない。たぶんまったくの無自覚《むじかく》なのだろうが。
(いずれにせよ、未踏査《みとうさ》区域《くいき》には思いのほか早くたどり着けそうですわね)
こうして駆《か》け過《す》ぎていく通路にも例によって隠しスイッチが埋《う》もれている可能性は大だが、まだ足を踏み入れていない地区に活路《かつろ》を見出すほうに麗華は賭《か》けた。
(もう十分に時間はロスしています、一秒でも早く目的のポイントに――)
かちっ
(え?)
何か聞こえた気がして駆けながら振り返る。空耳として処理《しょり》してもいいくらいのわずかな音だったが――妙《みょう》に嫌《いや》な予感がする。踏《ふ》み出した自分の右足が床《ゆか》を蹴《け》ったあたりで音が鳴《な》った気がする、ってところが特に。
「今――」と、前を行く真由が振り返って、「何か音がしませんでしたか? さっきのとこを通り過ぎた時ですけど」
空耳ではなかったようだ。
「ええ、確かに音がしましたわ。ですが状況には変わりありません。時間を秒単位で惜《お》しみ、目的を達成《たっせい》せねばならない――わたくしたちに過去を振り返っている暇《ひま》はないのです。さあ、前だけを向いて進みなさい」
正論でまとめて話を打ち切り、まだ何か言いたそうな真由をあえて無視《むし》。心の片隅《かたすみ》で後ろめたさが疼《うず》いているのは気のせいだということで処理する。だって、ただ単に何かしらのスイッチを押してしまったような感触《かんしょく》がしなくもない、というだけのことで、実際《じっさい》に災《わざわ》いが降りかかってくる確率《かくりつ》は低いはずで、背後から聞こえてく重量感《じゅうりょうかん》たっぶりな『ごろごろごろごろ』という音も所詮《しょせん》は焦燥感《しょうそうかん》が生み出した幻聴《げんちょう》に違いなく、
「麗華さん後ろ! 後ろ!」
真由がしきりに注意を促《うなが》してくる。駆ける足をあわてて速め、薄暗い中でもはっきりわかる青ざめた顔で。
「ちょっと月村真由。そんなに興奮《こうふん》するとまた鼻血を噴《ふ》きますわよ――って、ほら言わないことじゃない。また赤いのが滴《したた》ってきてるじゃないの」
泰然《たいぜん》とした態度《たいど》を取《と》り繕《つくろ》ってたしなめるが、真由は大げさなまでの身振りで注意を喚起《かんき》しようとするのをやめようとしない。まがまがしい音響《おんきょう》はいよいよ臨場感《りんじょうかん》を伴《ともな》って背後に迫ってきている。麗華はしぶしぶ現実逃避の中断に踏《ふ》み切り、足を回転させるギアをトップに入れてから後ろを振り向いた。
笑えた。
丸くてどでかい塊《かたまり》が――端的《たんてき》に言えばビルをぶち壊《こわ》すときに大型クレーンでぶん回すような凶悪《きょうあく》な鉄球が、何かの冗談みたいに追いかけてくるのである。
「ちょっと! いくらなんでもこれはないでしょうこれは!」
ひきつった笑みのまま麗華は心底《しんそこ》の悲鳴をあげた。
「最初に来た時はこんなのなかったじゃないのよっ!」
「あっ、ひょっとするとさっきスイッチをめちゃくちゃにいじってた時に、何かまずい操作《そうさ》をしちゃったのかも……」
「あああああもおおおおおっ!」
決断した行動を開始してほんの数十秒でこれか。まるでさっきの悪夢の再現《さいげん》ではないか。一歩を踏み出した先の床が抜け落ちる――そんな仕打《しう》ちは一度きりにしてほしかった。
「しのぶのばか! これのどこが強運なのよ!」
「ええっ? しのぶって、わたしのことですか? わたしはしのぶじゃなくて真由、」
「いいから黙《だま》って走りなさい! しゃべってると舌《した》を噛《か》み――」
「あああああああああああっ!」
「な、なに? 今度は何ですのっ?」
「今なにか、床にあったスイッチ的なものを踏んでしまったような気がします!」
「な、ちょ、このばかああああああ!」
「ず、すいません! でも仕方なかったんです、気づいた時にはもう足が床に下りる直前で、」
「真由! 前!」
「えっ? きゃ――」
両側の壁《かぺ》を割《わ》って何か巨大なものがぶっ飛んできたのを、ふたり仲良く腰をかがめて回避《かいひ》する。避《よ》けきれずに髪《かみ》の毛が数十本単位で持ってかれた感触《かんしょく》がしたのは風圧《ふうあつ》ゆえの気のせいか。
「ああもう一体なんなのですこれは!」
「ええと、なんだかとても大きい刃物《はもの》が壁からいきなり出てきたように見えました!」
「そういうことを言ってるんじゃなくて! このふざけきった罠《わな》だらけの迷路について言ってるのです! なんでこんなものが地下にあるのよっ!」
「ええとそれはたぶん、涼子さんが、」
「そんなことはわかってます! ああもうとにかく! 今はこの危機を脱《だっ》することに神経を集中しますわよ!」
「は、はいっ!」
少女ふたりは最優先|事項《じこう》を確認しあうと、足元にぽっかり口をあけた大穴をきれいに並んで跳び越《こ》えた」
「――はいもしもし、二ノ宮ですが」
耳に当てられた受話器にお決まりの応答《おうとう》をした峻護の鼓膜《こまく》を震《ふる》わせたのは、聞きなれた朗《ほが》らかな声だった。
『ああ二ノ宮くん? ボクだよボク。よかった出てくれて』
「保坂先輩《ほさかせんばい》?」
ひとつ年上の上級生の名を、峻護は意外な思いでもって呼び、同時に期待が胸のうちで膨《ふく》らむのを覚えた。保坂|光流《みつる》――北条麗華の付き人であり、副官《ふくかん》であり、秘書《ひしょ》でもあり、何より優秀である小柄《こがら》な少年。これはひょっとするとビンゴかもしれない。彼ならばあるいは、会話の端々《はしばし》に見え隠《かく》れするわずかな違和感《いわかん》をも鋭敏《えいびん》に察《さっ》し、何か手を打ってくれるかもしれない。
が、下手に会話の中で不自然さを出せばたちどころにナイフが頸動脈《けいどうみゃく》を裂《さ》き、銃弾《じゅうだん》が全身に風穴を開けることになるだろう。ここは変にあせらず、まずは時間|稼《かせ》ぎだ。
「どうしたんですか? 珍《めずら》しいですね、こっちの電話にかけてくるなんて」
『いやあ、それがさ』
保坂はアハハと笑いながら弱ってみせるという器用《きよう》なしゃべり方で、
『お嬢さまに大至急《だいしきゅう》伝えなきゃいけないことができちゃって。なのにお嬢さまったら、ちっとも携帯《けいたい》に出てくれなくてさ』
まあ、今の状況では出たくても出られまい。携帯の調子も悪かったようだし。
「なるほど、それは災難《さいなん》というか何というか」
『ホントまったくだよ。それでさ、今お嬢さまはそっちにいると思うんだけど』
きた、と思った。
『ちょっと替《か》わってくれないかな? 緊急《きんきゅう》の用事でボクが呼んでるって』
大きな分かれ道だった。ここでの選択《せんたく》が決定的な意味を持ちうる。いかに保坂が主人との連絡を求めていても替わってやるのは不可能であり、申《もう》し出《で》は断《ことわ》る以外にない。しかし今の時間帯、麗華が二ノ宮家にいることは保坂も承知《しょうち》済みのはず。いるはずの麗華と電話を替われないということに、彼が不自然さを感じてくれれば――そのためにはどんな応《こた》えかたをすれば――
峻護の躊躇《ちゅうちょ》に目ざとく反応し、ナイフの黒ずくめがわずかに手を動かした。呼吸《こきゅう》しただけでも皮膚《ひふ》が裂《さ》けかねないほどに刃が密着《みっちゃく》する。これ以上不自然な反応をすれば皮膚どころか血管に鋼《はがね》が入るだろう。
もうコンマ一秒の逡巡《しゅんじゅん》も許されず、峻護はとっさに口を開いた。
「ああ……すいません保坂先輩。麗華[#「麗華」に傍点]は今、ちょっと外に出かけていて」
これは我《われ》ながらファインプレーかもしれない――言ってみてからそう思った。最大級の敬意《けいい》を払《はら》っている少女を峻護が呼び捨てにするのはこれが生まれて初めてである。間違いなく保坂も違和感を持ったはず。その違和憾が、彼の非凡《ひぼん》な頭脳《ずのう》にピンポイントの刺激《しげき》を与えてくれれば――
『あはは、どうしたの二ノ宮くん? お嬢さまを呼び捨てになんかしちゃってさ』
が、少年の期待は無邪気《むじゃき》に裏切られた。
『二ノ宮くんさあ。それ、お嬢さまに直接言ってあげるといいと思うよ。きっと見ものの反応をするから』
「……そうですか……ええ、では機会《きかい》があれば……」
保坂先輩のアホ。ホームラン級の当たりを心ないギャラリーに邪魔《じゃま》されて外野フライにされてしまったような気分でののしりながら、しかしすぐに峻護は頭を切り替《か》える。保坂に気づかせるのが無理《むり》ならば、ここは最低限の仕事――時間稼ぎに精《せい》を出さねば。
「ところで保坂先輩、そっちで何があったんですか? コンツェルンの仕事で何かトラブルでもあったとか」
『ああうん、ちょっとまずいことになっちゃったかも知れなくてねえ……もっともこれは、コンツェルンの業務《ぎょうむ》とは関係ないことなんだけど』
「あ、関係ないんですか? てっきりそっちの話だと思ったんですけど。だったらなおさら珍しいですね、この電話にかけてくるのは。てことはプライベートなことで問題が起きたんですか?」
できるだけ会話を引き延《の》ばせるよう、綱渡《つなわた》りの気分で問いをつなげていく。相手はそれを知ってか知らずかのんきな口調で、
『うーんそうだねえ、プライベートといえぱプライベートになるのかなあ。でも公務《こうむ》といえぱ公務だし……とにかく今回はちょっと調子に乗りすぎちゃったみたいで……』
歯切《はぎ》れの悪い保坂だが、その煮《に》え切らない態度《たいど》が今はありがたい。このままこちらが手間をかけることもなく、放っておいても牛歩《ぎゅうほ》戦術《せんじゅつ》を展開してくれるなら――と思いきや。
『おっといけない、無駄《むだ》話をしてる場合じゃなかった。じゃあボクは急いでるからこれで。まだまだ関係各所への報告やら情報収集やらが残ってるからね』
「えっ? あ、ちょ、保坂せんぱ――」
『お嬢さまが帰ってきたらボクに折《お》り返し連絡してもらえるよう言付《ことづ》けておいてよ。それじゃね〜』
ピッ、という無情《むじょう》な音と、つーつーつーという物悲《ものかな》しげな音。
切れた。
「…………」
とりあえず峻護は思った。今日の保坂は0点。
「終わったか?」
落胆《らくたん》を隠《かく》すのに一苦労《ひとくろう》の峻護へ山猫が確認《かくにん》してくる。そんなの見ればわかるだろうに。
手足を拘束《こうそく》された峻護の耳元に受話器を当てていたのは他ならぬこいつなのだ。会話の内容を聞いてなかったのか? 峻護の声はともかく、電話の声は小さくて届《とど》かなかったということなのだろうか。
「ああ。終わった」
「気取《けど》られなかっただろうな?」
「ああ。そのはずだ」
ぜひとも気取ってほしかったのだが、あの様子では望み薄《うす》だろう。
だがおかげでひとつ、気づいたことがあった。
「よかろう。では拷問のつづきを始めようか。それとも気が変わって話す気になったか?」
「なぜ電話線を切らない?」
「何?」
峻護の奇襲《きしゅう》に、山猫の声がわずかに揺《ゆ》れた気がした。
「ウチの電話の回線《かいせん》を切れば済む話だろう。侵入《しんにゅう》したときに真っ先にコードを外してよかったはずだし、お前たちなら外部からでも回線くらい弄《いじ》れたはずだ。そうすればこの家をより確実《かくじつ》に孤立《こりつ》させることができるはずなのに、」
「貴様《きさま》からの質問は認めんと言ったはずだ」
あるかなしかの沈黙《ちんもく》の後、山猫は低い声で――変声《へんせい》装置《そうち》を通してもそれとわかる低い声で告げた。次の瞬間、峻護の長身は高《たかだか》々と宙《ちゅう》を舞《ま》い上がっている。
「ぐあっ――!」
床に叩きつけられて初めて、峻護は自分が投げ技《わざ》を食らったのだと知った。鍛《きた》えられた彼の目でさえ残像《ざんぞう》しか捉《とら》えられない、神速《しんそく》の背負《せお》い投げ。両手両足を縛《しば》られて受身《うけみ》が上手《うま》く取れず、峻護のうめきは長く尾を引いた。
「――さあ、お楽しみのつづきだ」
歯を食いしばって痛みに耐える獲物の小指を握り、もう片方の手で股間《こかん》をわしづかみにして、
「骨折《こっせつ》と種《たね》なし、どちらがご希望だ? その程度《ていど》は選ばせて」
ぢりりりりりん…… ぢりりりりりん……
再び鳴り響く、黒電話のアナクロベル。
「ちっ――」山猫が舌打ちし、峻護を乱暴《らんぼう》に立ち上がらせた。
「出ろ」
山猫をにらみつけ、腰の痛みに顔をしかめながら、再度峻護は黒電話の前に立った。山猫の態度《たいど》は腹立たしいが、しかしまたしても吹いた神風《かみかぜ》である。誰からの電話か知らないがこれを利用しない手はない。新聞の押し売りだろうと新興《しんこう》宗教《しゅうきょう》の勧誘《かんゆう》だろうと、今は最上級の愛想《あいそ》でもって対応《たいおう》できる自信があった。徹底的に会話を引き延ばし、次こそはたっぷりと時間を稼がねば。
山猫が受話器を取り、峻護は第一声を発した。
「はいもしもし、二ノ宮ですが」
『ああ峻護? わたしだけど』
ぶっきらぼうなその声を聞いた峻護の心拍数《しんばくすう》が、急激《きゅうげき》に跳ね上がる。
「ね、姉さん?」
二ノ宮|涼子《りょうこ》。出てほしい時に出てくれなかった姉、峻護に対してべらぼうな強権《きょうけん》を振るう絶対的《ぜったいてき》な上位者である。先ほどのエマージェンシーコールにようやく気づき、折り返しの電話をかけてくれたのだろうか。しかし――
「や、やあ、めずらしいね。姉さんが電話かけてくるなんて」
『なに言ってるの。あんたさっき、ウチの緊急回線《きんきゅうかいせん》からわたしに連絡してきたでしょう』
しかし今となっては、もっとも電話してきてほしくない相手なのだった――新聞や新興宗教などとは比《くら》べものにならないほど。姉とのアクセスは不審者《ふしんしゃ》どもに屋敷が制圧《せいあつ》される前でこそ有意義《ゆういぎ》だったのであって、今となってはその意味が逆転するのである。
「ああ、うん。連絡したよ、たしかに。緊急回線を使って」
『で? 何があったわけ? あの回線を使ったからには余程《よほど》のことなんでしょうね?』
「ああいや、その――」
たぶん、黒ずくめどもの圧力《あつりょく》がなかったとしてもこう答えただろう。
「いや、何でもないんだ。うん」
不審者どもに遅れをとり、ぶざまに捕《と》らえられていることを知ればどんな反応をすることやら。今はただただ、姉の勘気《かんき》を回避《かいひ》することが先決であった。いずれ時間がたてば彼女の知るところになるのだとしても。
『何でもないですって?』
弟の返答を聞いた涼子の声が雷気《らいき》を帯《お》びる。
「ええとつまりその――点検《てんけん》だったんだよ、緊急回線の。ちゃんと動くかどうかのさ。ほら、あれってずっと使ってないから」
『そんな理由であれを使ったっての? むやみな使用は禁《きん》じるって言ったはずよねえ?』
「ご、ごめん、でも――」
『まあいいわ、それはあとで。それより今はもっと緊急の用件があるんだけど』
「緊急の?」
いったい何ごとか、と身構《みがま》えた峻護の耳に聞こえたのはこんな言葉だった。
『わたし、今日はとてもおなかがすいたの。だからわたしが家に帰るまでにとびきりのごちそうを作っておきなさい』
「ご、ごちそう?」
もとより食事の用意は九分《くぶ》九厘《くりん》がた峻護の仕事である。べつに否《いな》やはないのだが、それは状況がもっと通常《つうじょう》どおりである場合の話であった。
「ま、待ってくれ姉さん!」
峻護はこの日一番の悲鳴をあげた。涼子の言葉の意味するところはほどなく彼女が帰宅するということであり、姉さえ戻ってくれば今現在二ノ宮家を見舞《みま》っている事件は解決《かいけつ》に向かって動く――とは、峻護は考えない。その場合、たとえ事件が解決したとしてもそのあとに降《ふ》るのは血の雨であろう。むろん、その出血を強《し》いられるのは峻護である。不審者どもに遅れをとった罪《つみ》と、時間までに食事を用意できなかった罪。どちらか片方だけでも彼を生命の危機にさらすには十分だった。
『そうね、バターとシーフードたっぷりのグラタンがいいわ。それとパスタ、こっちはぺンネの手打ちをトマトベースのあっさり風味《ふうみ》で。肉料理は仔牛《こうし》の頬肉《ほほにく》をソテーで、デザートは――』
「いやその、姉さん? 今日はちょっとその」
『なに? 調理法にもっと別の提案《ていあん》でもあるの?』
「いや、そうじゃなくて……その、言いにくいんだけど。今日はちょっと、料理を作るのは不可能かもしれない……」
『一時間もすれば家につけると思うから。それだけあれば十分に仕事を果たせるわね? くれぐれも手抜きはしないように』
「姉さん待った、話を聞いて――」
『峻護』
抑揚《よくよう》のない声が、ツキに見放された少年の懇願《こんがん》を断《た》ち切った。
『激務《げきむ》に疲れて帰ってくる姉の頼みを邪険《じゃけん》にするような教育を、わたしはあんたにしていないはず。そうよね?』
「は、はい。確かに」
『それじゃ切るわね。期待してるわ』
がちゃん。つーっ、つーっ、つーっ……。
「…………」
「切れたか? こちらのことは気取られてはいまいな?」
山猫が間うてくるが、峻護は無反応《むはんのう》。
「おい。聞いているのか?」
山猫が声を荒《あら》げて肩をつかみ、
「――要求《ようきゅう》がある」
振り向いた峻護をみて一瞬《いっしゅん》たじろいだ。それほどに彼の眼は血走《ちばし》り、切迫《せっばく》していた。
「キッチンを自由に使わせてくれ。さもないと未曾有《みぞう》の天災《てんさい》が発生する」
「……貴様《きさま》の脳《のう》みそはトリ頭か? 状況をみて物を言え。要求など認めるわけが、」
「馬鹿野郎《ばかやろう》!」
今度は峻護が声を荒げる番だった。
「お前たちはウチの姉の怖さを知らないからそんな悠長《ゆうちょう》なことを言っていられるんだ! あのひとの空腹時の恐ろしさがどういうものか……納得のいく食事で空腹を満たせない時のホラーぶりがどういうものか……だいたいお前たちだって他人事《ひとごと》じゃないだろう? こんな真似《まね》をしたお前たちを姉さんがただで帰すはずが、」
「脅《おど》すつもりか? 無駄《むだ》な努力だな。脅すにして憩もう少しマシな論法《ろんぼう》でやれ」
だめだ、こいつらまったくわかってない――まあ無理もないが。姉の反則的な存在力を常人《じょうじん》に理解しろというほうが不条理《ふじょうり》な話なのだろう。
「そもそも何をそんなに恐れている? 貴様の姉なのだろう?」
「だから姉だとか弟だとか、血がつながってるかどうかは問題じゃなくて、」
「もういい。ちょっと黙れ」
手をひらひらと振り、
「興《きょう》が削《そ》がれた。どうせ隠《かく》し扉《とびら》の開け方などすぐにわかるし、わからなければ壁《かべ》を破《やぶ》るだけのことだ。場所はわかっているんだからな。貴様を無傷で拘束《こうそく》しておくことに意味を見出すのもいい。拷問は中止する」
が、それを聞いても峻護には安堵《あんど》する間も歓喜《かんき》する間もなかった。次にこんなセリフがつづいたゆえに。
「ただし貴様の要求は呑《の》めん。事が終わるまでそこでおとなしく転がっていろ」
「な――馬鹿、ちゃんと人の話を聞いて、」
「うるさい。おい、ちょっとこいつを黙らせておけ」
黒ずくめどもの行動は迅速《じんそく》だった。たちまち捕虜に猿ぐつわをかけ、さらにその上から何重にも縄《なわ》を巻いて、念入《ねんい》りに言論《げんろん》と行動の自由を封殺《ふうさつ》する。
(なんてこった――)
ただでさえ姉が要求した料理をこなすには時間が足りないというのに、これではカップラーメンひとつ作るのもおぼつかないではないか。
幾度《いくど》も危機的状況に見舞《みま》われたこの日、中央ホールの床に芋虫《いもむし》のように転がされながら。
峻護は本日初めて味わう絶望《ぜつぼう》に打ちひしがれていた。
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其の四 状況急転
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――陽《ひ》が落ちる。
空を侵食《しんしょく》した闇《やみ》がいよいよ下界《げかい》にも忍《しの》び寄り、丘の上の洋館を黄昏色《たそがれいろ》に染《そ》めようとしていた。作戦開始からすでに三時間。
(奇襲《きしゅう》には絶好《ぜつこう》のシチュエーションだ)
ホールの片隅《かたすみ》にたたずみながら隊長《たいちょう》はひとり頷《うなず》く。黒一色に身を包《つつ》んだ部下《ぶか》たちの姿《すがた》はもとより、中央ホール内は調度類《ちょうどるい》の輪郭《りんかく》すら定かでない。捕虜《ほりょ》たる|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》もまた闇の底に身を沈《しず》め、暴《あば》れるでも抵抗《ていこう》するでもなく捕虜としての本分を果《は》たしている――というより、必死《ひっし》に何事《なにごと》かを考えているらしい。必死なあまり考えごとをぶつぶつと洩《も》らしているのにも気づかぬほどに。
猿《さる》ぐつわの下から洩れてくる聞き取りにくい声の大半は、現在の状況《じょうきょう》から脱却《だつきゃく》を試《こころ》みる作戦案らしいのだが、それらのほとんどは夢物語と大差《たいさ》ない、宝くじで一年間毎日一等を引きつづけるくらいの運がなければ実現《じつげん》不能《ふのう》な空論《くうろん》であった。どうやらこの少年、姉が帰宅《きたく》する恐怖から心を護《まも》るための現実《げんじつ》逃避《とうひ》に奔走《ほんそう》しているらしい。
(弟に対する二ノ宮|涼子《りょうこ》の愛情表現が過激《かげき》であるとは聞いていたが……それもここまでくると燐《あわ》れを催《もよお》すな)
悪辣《あくらつ》な曲者《くせもの》たち――自分たちのことだ――の暴行《ぼうこう》に何度もさらされながら一度もひるまなかった男が、姉からの電話一本ですっかり消沈《しょうちん》している様《きま》を目《ま》の当たりにすると、なんだか悪質《あくしつ》な詐欺《さぎ》にでも遭《あ》ったような気分になる。
(まあ……暴力《ぼうりょく》に屈《くつ》せず、拷問《ごうもん》を恐《おそ》れず、最後まで屈しなかったあたりは評価《ひょうか》しよう。実際《じっさい》には何ひとつ拷問は行わず、痛めつけた個所《かしょ》も傷ひとつ残らぬのだがな)
わずかに匙加減《さじかげん》が狂《くる》ったのは最初に手合《てあ》わせした時に後頭部へ叩《たた》き込んだ回し蹴《げ》り、あれくらいだろうか。この男ほどによく鍛《きた》えていない者があれを受ければ多少の後遺症《こういしょう》は残ったかもしれない。
(それに時間稼《かせ》ぎのやりかたも稚拙《ちせつ》だ。こいつは身体《からだ》よりも先に舌《した》を鍛《きた》えるぺきだろう。それ以上にもっとずる賢《がしこ》さを覚えねばいずれ必ず痛い目を見る)
だがその潜在《せんざい》能力《のうりょく》や人柄《ひとがら》その他もろもろを考え合わせれば。
(赤点スレスレながら及第点《きゅうだいてん》をやれなくもない、か)
よかろう。これで今日の個人的な目的は達《たっ》した。
隊長《たいちょう》はひとり頷《うなず》くと、部下を呼んで新たな命《めい》を下した。
「邸内《ていない》の照明《しょうめい》をつけろ」
「はっ。ですが――」
部下が戸惑《とまど》うのもわかる。部隊の全員が装備《そうぴ》しているゴーグルは暗視機能《あんしきのう》も内蔵《ないぞう》しており、この程度《ていど》の暗さであれば真昼と変わらぬ行動の自由を確保《かくほ》できるのだ。だが家の中に明かりがあったほうが奇襲には何かと都合がよかろう[#「家の中に明かりがあったほうが奇襲には何かと都合がよかろう」に傍点]。
重ねて命じると部下もそれ以上は何も言わず、任務《にんむ》の遂行《すいこう》に向かった。下される命令に疑問《ぎもん》があり、その疑問に何らの説明も与《あた》えられずとも、彼らは自分を信じて従《したが》ってくれる。いずれ正しく報《むく》いてやらねばなるまい――普段《ふだん》の恩《おん》にも、今日の借《か》りにも。
ホールのシャンデリアに灯《ひ》が入り、つづいて邸内のいたるところから明かりが湧《わ》いた。
おそらくはこの明かりが茶番に終止符を打つ呼び水になる。
作戦終了予定|時刻《じこく》まであと四十五分。
十六歳女子の身体《からだ》が世間《せけん》一般《いっばん》で言われているほど軽いものではないとは知っていたが、それにしてもここまで重量感《じゅうりょうかん》たっぷりであるとは思わなかった。少なくとも十七歳の女子ひとりが片腕《かたうで》一本で支えるのに適《てき》したウェイトではあるまい。
「月村《つきむら》真由《まゆ》!」
「な、なんですかっ?」
「ここから出られたら真っ先にすべきことができました! あなたのダイエット指導《しどう》です! 容赦《ようしゃ》なく脂肪分《しぼうぶん》を削《そ》ぎ落としてやりますから覚悟《かくこ》なさい!」
「そんな! わたしの体脂肪率は適正《てきせい》のはずです!」
地下空間に穿《うが》たれた断崖絶壁《だんがいぜっぺき》で宙吊《ちゅうづ》りになりたがら抗議《こうぎ》してくるが、麗華《れいか》は聞く耳持たない。ジャンプの着地《ちゃくち》にミスって足を踏《ふ》み外し、麗華の腕にちぎれるほどの負担《ふたん》をかけている間抜《まぬ》けが相手とあらばなおさらだ。だいたい月村真由と自分はほとんど身長が変わらないはずで、手足の長さやウエストの細さも互角《ごかく》のはず。にもかかわらずこんなに重いのは胸にくっついたふたつのこぶ[#「こぶ」に傍点]のせいに決まっている。無理《むり》にでもダイエットして少しくらいは減《へ》らせというのだ。
「さあ、あなたの無駄《むだ》にでかい胸を支《ささ》えつづけるだけの馬鹿力《ばかぢから》はわたくしの細腕にはありません。一気に引き上げますわよ。呼吸《こきゅう》を合わせなさい」
「は、はいっ」
「いきますわよ。せーのっ!」
腕のすじがちぎれるかと思うほどに渾身《こんしん》の力をこめ、真由もそれに合わせて身体を跳《は》ねさせた。結果《けっか》、出来《でき》すぎなほどにタッグプレーは完成《かんせい》。真由の身体は羽毛《うもう》のようにふわりと宙《ちゅう》を舞《ま》い、十点満点の着地に成功。その成功をよろこぶ時間に一秒も割《さ》かず、少女ふたりの足は迷路《めいろ》の更《さら》なる奥へと向かって駆《か》け出している。
「まったく! あなたは何度わたくしの手を煩《わずら》わせれぱ気が済むのです! 崖《がけ》には落ちるわ吊《つ》り天井《てんじょう》に潰《つぶ》されかけるわ騙《だま》し鏡《かがみ》にひっかかって剣の林に突《つ》っ込《こ》みかけるわ!」
「そんな! ぜんぶ合計すればわたしが麗華さんを助けたのが四回、麗華さんがわたしを助けたのが三回です! 麗華さんのほうがわたしの手を煩わせてます!」
「ばかおっしゃい―― ダミーの扉《とびら》に引っかかった時のがあるでしょう!」
「あれをカウントするのはおかしくないですかっ? あれって元はといえぱ麗華さんのミスがあったから――」
ここまで無傷《むきず》で済んでいるのは神の奇跡《きせき》か悪魔のいたずらか。
麗華と真由は迷路の至《いた》るところに仕掛《しか》けられたトラップの嵐《あらし》に見舞《みま》われながら、それらをことごとく突破《とっぱ》し、最深部《さいしんぶ》を目指して疾走《しっそう》をつづけていた。
現在、迷路は無機質《むきしつ》なコンクリートの通路ではなく、ちょっとした地底《ちてい》洞窟《どうくつ》の様相《ようそう》を呈《てい》している。どこからか漏《も》れてくる薄暗い照明《しょうめい》に照《て》らし出される地下|水脈《すいみゃく》、石灰岩《せっかいがん》のつららが並《なら》ぶ天井、名前のよくわからない生き物たち――もともと存在《そんざい》していたものを利用してはいるのだろうが、それにしても馬鹿げた作りこみだった。もうありとあらゆる意味で。
岩の間からばね仕掛けで跳ねてきた何だかよくわからないものをかわしながら、麗華は腹の底から叫《さけ》びあげる。
「ワンパターンですわね! この程度《ていど》ではわたくしをハメることなどできませんわよ!」
次から次へと襲ってくるトラップ、そもそもこんなスタントをこなす羽目《はめ》になった地上での事件――神経《しんけい》を逆《さか》なでする様《さまざま》々なアクシデントにもみくちゃにされ、麗華のテンションは上がりきっていた。
「月村真由! まだ目的の場所にはたどり着きませんのっ?」
「わかりません! もう地図を書いてる余裕《よゆう》も見てる余裕もないですから! ひたすら先へ先へ特攻《とっこう》するだけです!」
真由のほうも変なテンションになっているのだろう。普段《ふだん》にないアクティブさで、むしろ麗華を引《ひ》っ張《ぱ》っていくほどの勢《いきお》いで迷路の攻略《こうりゃく》に挑《いど》んでゆき、麗華も負けじとそのあとにつづく。いかに小山ひとつ分の体積《たいせき》を目いっぱいに使ったところで地下通路の全長は高が知れている、むやみに駆け回っていてもいずれ終着点《しゅうちゃくてん》にはたどり着くはずだった。
予想外に息の合ったコンビネーションでふたりは地下に張《は》りめぐらされた迷路を少しずつ踏破《とうは》していき、そして。
息を切らせて駆けこんだそのスペースで彼女たちはようやく立ち止まった。
「ここは――」
ひざに手をついて呼吸《こきゅう》を整《ととの》えながら、麗華は周囲を見回した。いつのまにか石灰質の洞窟《どうくつ》を抜け、再びコンクリートの通路に出ており、そこはその通路ぞいにある部屋だった。いや、正確には部屋というほどにきっちり区切《くぎ》られたものではない。窪《くぼ》みとか凹《へこ》みといった程度《ていど》の、工事の際《さい》にできてしまった余剰《よじょう》空間《くうかん》と判断《はんだん》するのがふさわしいスポットなのだが。
「あやしいですわねあからさまに。いかにもあやしげに思わせて、また例によって罠《わな》でも仕掛けてあるのかもしれませんが――あなたはどう思います?」
と振り返った麗華の目に、ふらりと力を失って倒れこむ少女の姿が映った。
「! ちょっと!」
あわてて手を差し伸《の》べて床《ゆか》と激突《げきとつ》するのを防《ふせ》ぎ、小刻《こきざ》みにあえいでいる真由を叱咤《しった》する。
「こんなところで倒れられては困《こま》ります! 二ノ宮峻護を救出するという目的を達するどころか、そのための行動にさえ出られていない状況《じょうきょう》なのですわよ、今は!」
「すいません――ちょっと、動きすぎちゃったみたいで」
またしても鼻から噴《ふ》き出してきた鮮血《せんけつ》をぬぐいもせず、弱々しい苦笑をうかべて詫《わ》びを入れてくるが、麗華はそんな逃げ口上《こうじょう》を認めない。
「さっきまでの火事場《かじぱ》の馬鹿力《ばかぢから》はどうしたのです! こんたところでリタイヤして、わたくしひとりに残りの仕事を背負《せお》わせるおつもり? そんなずる[#「ずる」に傍点]はぜったい許《ゆる》しません!」
「だいじょうぶです、少しだけ休めば、なんとか、少しだけ……」
声を出すのも苦しそうな真由に、麗華は不条理《ふじょうり》と知りつつ舌打ちした。もちろん理屈《りくつ》ではわかっている。へばった彼女をこき使ったところでかえって足手まといであり、いかに危急《ききゅう》の際《さい》であろうとも休息を取らせるに若《し》くはない。潜在《せんざい》能力《のうりょく》は高くても頑健《がんけん》さからは程遠《ほどとお》い真由がここまでもったことからして上出来《じょうでき》なのだ。
でも、わかってはいても。
ここで彼女に退場《たいじょう》されるのはなんだか――そう、なんだか気持ち悪いではないか。
「……わかりました。もともとあなたなど当てにはしていませんでしたし、言ってみればこれこそがあるべき形なのですわね。あとはわたくしひとりでやります。あなたはそこでだらしなく寝転《ねころ》んでいるのがよろしいでしょう」
そっと寝かせてから立ち上がり、故障者《こしょうしゃ》リストに入った役立たずに背を向ける。
「……ですが。しばらく休んできちんと回復《かいふく》して、なおかつあなたの気が向いたのなら。その時はまたわたくしを手伝いなさい」
「はい……すいません、肝心《かんじん》な時に。必ず回復して、お手伝いしますから」
「ふん、どうでもいいですわ別に。あなたなど当てにはしていません」
言い捨《す》てると、あとは見向きもせずに作業《さぎょう》を始めた。
(ここに違いありません。必ずここに何かあるはずですわ)
コンクリ壁《かべ》を端《はし》っこから丁寧《ていねい》に調べながら、麗華は自分に言い聞かせる。ここでなければ困るのだ。ただでさえ余裕《よゆう》で絶望的《ぜつぼうてき》になれるだけの時間をロスしている。いったいどれほどの間かけずり回っていたのか、感覚がまるで定かでないが、その気になった黒ずくめどもが峻護を害《がい》するには十分すぎる猶予《ゆうよ》があったはずだ。彼の無事《ぷじ》はもはや祈るほかはなく、無事を信じてやれることをやるしかない。
(間に合って――お願いだから――)
『もしも』のことを考えて泣きそうになりながらも懸命《けんめい》に感情を抑《おさ》え、湿《しめ》った薄暗い空間を這いずり回る。脳内物質《のうないぶっしつ》が分泌《ぶんぴつ》されまくっていた先ほどまでの高揚《こうとう》はうそみたいに消え、最悪な気分の中での唯一《ゆいいつ》の救いは地下|空間《くうかん》であるだけに地上の暑苦しさとは無縁《むえん》であることか――
と。
手のひらに、かすかな違和感《いわかん》。
ぱっと見ではぜったい網膜《もうまく》が映さない、何気《なにげ》なく触《ふ》れただけでは決して触《さわ》ったことに気づかない、コンクリートに刻《きざ》まれた継《つ》ぎ目の感触《かんしょく》。
「……あった」
むしろ呆然とした声でつぶやき、次いで自分の得《え》た成果の意味に激《はげ》しい興奮《こうふん》が湧《わ》き起こり、罠《わな》ではないかとささやく疑心《ぎしん》を押しのけながら、あらためてそこに手を当てる。
ゆっくり力をこめて、押し込んだ。
わずかな間《ま》。そして。
コンクリ壁の一面が、まるで天岩戸《あまのいわと》のように開き始めた。例によって音もなく。
「あ……」
土と枯葉《かれは》と木々のにおい、そして夜の空気をともなって。
ようやく探し当てた迷路の出口が、希望への道筋をひっそりと開いていた.
「……やった」
ふたたび呆然とつぶやき、そして今度は湧き起こる興奮《こうふん》に思う存分《ぞんぷん》全身を躍動《やくどう》させて、
「やりましたわ! やりましたわよ月村真由! ほら見てこれ――」
振り向いた麗華の笑顔が凍《こお》りついた。
「――すいません。なんか、だめっぽいです」
背中を胎児《たいじ》のように丸め、両腕で胴《どう》を掻《か》き抱《いだ》き、ひたいを床《ゆか》にこすりつけてがくがくと震えながら真由がかすれた声を出すのを、麗華はどこか遠くで聞いた。
あれ[#「あれ」に傍点]だ、と思った。
先日――もうずいぶん昔に思える――目の前で起きた、あれ[#「あれ」に傍点]。
「離《はな》れたほうがいいです。たぶん、今度はもっとひどいから」
搾《しぼ》り出すようにもういちど真由が声を出し、そしてそれが合図《あいず》になった。
かはぁ、と、まるで腹をすかせた大鰐《おおわに》が苛立《いらだ》ちまぎれに呼気《こき》を吐《は》くような音が少女の口から吐き出される。丸めていた背が今度は弓を引き絞《しぼ》るように反《そ》り返っていき、哀《あわ》れなほど歪《ゆが》みきった顔を天井《てんじょう》に上向かせ、そこからなおも後ろへ反り返っていく。
硬直《こうちよく》して身動きできない麗華の目の前で、それ[#「それ」に傍点]はゆっくり狂《くる》い始めていた。五体から、毛穴という毛穴からあふれ出し、周囲の空気を腐食《ふしょく》していく得体《えたい》の知れない何か――鬼気《きき》? 障気《しょうき》?――焦点《しょうてん》を失い、やがて裏返って白目を見せる瞳、底なしに鼻から滴《したた》る血液の赤、食いしばった歯の間に滲《にじ》む赤、涙《なみだ》にかわって流れ出した赤。
死ぬ、と思った。たぶん、このまま放っておいたらぜったい。フラッシュバックが起こる。はがれた生爪《なまづめ》、肉ごと抜けた毛髪《もうはつ》、破《やぶ》れた皮膚とそこから覗《のぞ》く筋組織《きんそしき》、そしてどす黒い血だまり。それでも麗華の身体は動かない。あれ[#「あれ」に傍点]の悪寒《おかん》が伝染《でんせん》し、鬼気と痺気を足してデタラメに数字を掛《か》けたような気持ち悪い何かがその悪寒を増幅《ぞうふく》し、増幅された悪寒は精神まで侵《おか》し、自分の正気を支えるのがやっとのありさまだった。
そもそも動けたとして、あれ[#「あれ」に傍点]をどうしたらいいのか。
でもそう思う一方で、このまま回れ右して後ろも見ずに逃げ出そうという考えは、不思議《ふしぎ》なくらい浮《う》かばないのだった。
それ[#「それ」に傍点]の背が脊椎《せきつい》動物にはありえないほどの角度で反りきって、震《ふる》えも呼気《こき》も出血も、一瞬すべてが止まったように見えた。始まる、と、なんとなく直感した。
次の瞬間。
鼓膜《こまく》を突《つ》き破《やぶ》って神経をずたずたに引き裂《さ》くかのような絶叫《ぜっきょう》が爆発《ばくはつ》し、そう思った時には麗華の身体はひとりでに動き、月村真由[#「月村真由」に傍点]に飛びついていた。
「――ふざけないでよッ!」
胴に組み付いた両手をすかさずフックする。だが間髪《かんばつ》入れずに引き倒そうとした力を軽々と振り切って真由の身体が跳《は》ね、逆に組み付いてきた麗華をプン回して強烈《きょうれつ》なGを浴《あ》びせる。
「なによばかこのッ!」
フックした両手に爪を立て、振り落とされるのをギリギリでこらえた。ブン回した動きの大きさが仇《あだ》になり、真由の動きがわずかに停滞《ていたい》したのを見逃さない。両手のみならず今度は両足までも真由の胴に巻きつけ、再度振り回される前に両足もがっちリフックする。そこまでしても真由の自壊《じかい》には歯止めがかからない。背中に麗華をくっつけたまま軽々とのた打ち回る。そのたびに麗華の身体は床《ゆか》と真由の間にはさまれて悲鳴をあげる。息が止まり、まぶたの裏《うら》に星が瞬《またた》き、骨《ほね》がきしんだ。それでも麗華は腕も足もはずさない。
真由の胞哮《ほうこう》は絶《た》え間《ま》なくつづき、麗華もまた意味のわからぬ言葉をわめきつづけた。そうでもして己《おのれ》を奮《ふる》い立たせていなければ足が勝手に逃げ出してしまいそうだった。
己を破壊《はかい》しようと暴《あば》れ狂う真由の四肢《しし》にいよいよ凶暴《きょうぼう》なエネルギーがみなぎっていく。コバンザメのように背中にへばりつきながら、真由をどうにか引き倒して押さえ込むべく、腕を羽交《はが》い締《じ》めにし、足を引っ掛け、麗華は自分の知る格闘技《かくとうぎ》の限りを尽《つ》くした。しかしタガの外れた馬鹿力《ばかぢから》と、並みの腕力の差は技術で埋《う》まるものではなかった。幾度《いくど》も幾度も麗華は振《ふ》り切られ、跳ね飛ばされ、叩《たた》きつけられた。それでも麗華は真由に組み付くのをやめようとしない。
もはや声帯《せいたい》をふるわせる余裕もなく、麗華は心の中だけで絶叫していた。
(はん! 力任せに暴れているだけの小娘が、柔道《じゅうどう》やら柔術《じゅうじゅつ》やらをさんざん叩き込まれたわたくしに敵《かな》うと思うんじゃないわよ! ぜったいあなたを組み伏《ふ》せて止めてみせます! だいたい何よあなた、またあれ[#「あれ」に傍点]をやる気? 生爪はがして肉をかきむしって血の池でのたうちまわって――イカれて自分をぶっ壊して! 真性《しんせい》のSM愛好者《あいこうしゃ》もドン引きするようなスプラッタをわたくしに見せつけてどうしようってのよ! 貴重《きちょう》な血液や体組織をそんな無駄なことに費《つい》やすくらいなら今すぐ赤十字にでも行って献血《けんけつ》なりドナー登録《とうろく》なりしてきなさい!)
無我夢中《むがむちゅう》だった。どうしてここまで必死になっているのか、自分でもまったくわからなかった。麗華はただ忠実《ちゅうじつ》に従っただけだった。己の心の奥底から聞こえる声――目の前で死に向かって突進《とっしん》する月村真由の姿にノーを叫ぶ声に。
その無心《むしん》さが報《むく》われたのかどうか。
ふいに訪《おとず》れた終わりは、事が始まる前に麗華が直感したものではなかった。
意識はしっかりしていたはずなのに記憶が飛んだのは、生まれて初めてだったかもしれない。気づいた時、麗華は壁に背を預《あず》けて四肢を投げ出し、せわしなく息を切らせている自分の姿を見出していた。
すぐ傍《かたわ》らには大の字になって天井を仰ぎ、同じく息を切らせている真由がいる。
どうやら無事に済んだらしい、と頭が事実を認識《にんしき》するまでさらに数秒。
「また――」
柳眉《りゅうび》をハの字にして笑いながら、真由が沈黙《ちんもく》を破《やぶ》った。
「また、見られちゃいましたね」
それも『テヘッ』とか言って頭をコツンとやりそうな軽薄《けいはく》さで。力を使い果たして汗《あせ》まみれになり、激《はげ》しく息を切らせていなければ、この女はほんとうにそれをやっただろう。
麗華にはその『ふざけた態度《たいど》』を怒鳴りつける気力が残っていない。そもそも何かを口にする気力からしてほとんど残っていなかった。
だからただ短く、これだけを言った。
「お話しなさい」
短く、ただし有無《うむ》を言わせず強く。月村真由が時どき見せるような一歩も引かない目で、真《ま》っ直《す》ぐに見つめながら。
真由が笑みを引っ込め、表情を消した。
「……話す、というのは、何を?」
「すべて」
間をおかず応《こた》える。
「あなたが何者なのか。どこから来て、何を考え、これまでどんな道を歩み、これからどんな道を歩むのか。――ひとつ残らずとは言いません。ですが、話せることはすべて」
「…………」
天井を向いたまま、再び真由は沈黙した。
ぽっかり口をあけた迷路の出口からぬるい夜の風が吹き込み、肌《はだ》に浮《う》いた汗をのろのろと持ち去っていく。風に揺《ゆ》れる木々の間から月が静かに光をそそぎ、ライトアップされた森の虫たちが勝手《かって》気ままに夏の曲を奏《かな》でる。
ふらふら迷い込んできたやぶ蚊《か》が麗華の頬《ほお》にとまり、やがてその腹が黒く膨《ふく》らみ、そいつの飛び立った跡《あと》が赤く腫《は》れ始めても、彼女は視線を揺るがせない。瞬きすらせず、じっと応えを待った。
根負《こんま》けしたかのように真由がもそもそと口を開く。
「……聞いても楽しい話じゃないと思います」
「構《かま》いません」
これも即答。自分には聞く権利《けんり》と義務《ぎむ》がある、そう思った。二度も当事者《とうじしゃ》にしておきながらだんまりを決め込ませるつもりもなかった。ここでの時間のロスがどういう意味を持つかも承知《しょうち》している。それでも麗華は聞かねばならなかった。
真由が次に口を開くまで、長い長い間があった。
――こうして秘事《ひじ》は語られる。
転校生の正体。男性恐怖症の理由。コンプレックスの塊《かたまり》。欠落《けつらく》した過去。今でも鼻腔《びこう》に染み付いた包帯《ほうたい》と消毒液《しょうどくえき》のにおい。血の赤で汚《よご》された病室の白。完治《かんち》してもまだそこにある気がする傷。気が触《ふ》れそうになるほどの渇望《かつぼう》。底なし沼に似た絶望《ぜつぼう》。石の館で暮らすうそ寒さ。遠く見知らぬ異国《いこく》で過ごす孤独《こどく》。為《な》すことなく無益《むえき》に時を送る無念《むねん》。
ふいに差した、一筋《ひとすじ》の希望。
それは峻護でさえ知らぬ過去。
涼子や美樹彦ですら見通せぬ未来。
月村真由という少女の、偽《いつわ》らざる実像――
(……聞くんじゃありませんでしたわ)
すべてを理解した麗華は素直《すなお》に感想をもらし、天を仰《あお》いだ。
(ほんと、聞くんじゃなかった……)
これではさっきの立場がまるで逆になるではないか。遊園地で麗華の過去を知ったお人よしの小娘は北条麗華に対して遠慮を覚えずにはいられないはずであり、そして今度は麗華が真由の立場に立つ順番だった。自己への客観的《きゃっかんてき》な視点を常《つね》に維持《いじ》している彼女は、自分が本質的にお人よしであることをよく知っていたのだ――あるいは真由をも上回るほどのお人よしであることを。
その真由は今もまだ、大の字になったまま天井を見つめている。語っている間も決して目を合わそうとしなかったし、今もそれは変わらなかった。何を言っていいのか、どんな声をかけたらいいのか、麗華にはわからなかった。でも、今は彼女の順番なのだった。たいがいのことは小器用《こぎよう》にこなすくせにこんな時にはひどく不器用になる自分を、麗華は始めて知った。
「――二ノ宮くん、だいじょうぶでしょうか」
結局、先に口を開いたのは真由だった。彼が無事かどうか、今はもう祈るしかない。本来ならそれを確かめるためにも直《ただ》ちに行動するべきだった。使い果たした体力を回復させる意味もあったさっきまでとは事情がちがう。一応は身体を動かせる程度に回復した今、これ以上の時間のロスは許されない。
それでも麗華は。
今だけ――ほんの少しだけ、優先順位を変えた。
「……痛っ!」
急に痛みを訴《うった》えてうずくまった麗華に、真由があわてて起き上がる。
「だ、だいじょうぶですかっ? どこが痛むんですかっ?」
「う、腕が……」
我慢《がまん》できないほどではない痛みに大げさな顔でうめきつつ、腕を差し出して真由をにらみつける。
「ご覧《らん》なさいこの傷を。先ほどあなたに噛《か》み付かれてできた傷です」
「わ、わたしが? す、すいません……」
「まったくですわ。ああなんてことでしょう、日々手入れを怠《おこた》らぬわたくしの自慢《じまん》の柔肌《やわはだ》に、こんな醜《みにく》い歯型《はがた》が」
二の腕にくっきり並んだギザギザと、そこから滲《にじ》んだ出血をまざまざと見せつけて、
「きっと跡《あと》が残ることでしょう。おまけにきれいな歯形ならまだしも、なんだか歯並びが悪い気がしますわ。まるで生まれてこのかた一度も歯を磨《みが》いたことがないような、しつけの悪い野良犬にも似た歯並び……ああ、なんて恐ろしい。きっと歯と歯の間で繁殖《はんしょく》した得体《えたい》の知れないバイキンが傷口から入り込み、今もわたくしの身体を蝕《むしば》んでいるのでしょう。もしわたくしが狂犬病《きょうけんぴょう》にでも罹患《りかん》したらどう責任を取ってくれるのです」
「そ、それは言いがかりだと思います。ちゃんと食後には歯を磨いてるし、それにわたし歯の健康だけは自信があって、これまで一度も虫歯とかになったこともなくて、」
「お黙りなさい。そんな言い訳より先にやることがあるでしょう?」
「えっ?」
「言われなけれぱわからないのですかこの愚図《ぐず》。あなたがつけた傷なのです、あなたが治療《ちりょう》してしかるべきですわ。さっさとなさい」
「は、はいっ。ええと消毒液はないし……と、とりあえず、傷口を縛《しば》ります」
「任せましょう。くれぐれも丁寧にやるように」
つん、とそっぽを向き、あらためてぐいっと腕を突《つ》き出す.真由があわててセーラー服のスカーフを外し、傷口に巻きつけていくのを横目で見ながら、
「まったくあなたのあごの筋肉ときたら、大型の肉食獣《にくしょくじゅう》も顔負けの鍛《きた》えっぶりなのだから始末《しまつ》に負えません。骨《ほね》ごと食いちぎられるかと思いましたわ。あの時の痛かったことといったらもう……」
その時の様子を麗華は大げさにゼスチャーしてみせた。国民的美少女に選ばれても不思議でない麗人が再現したその顔ときたらひどくこっけいで、生真面目《きまじめ》に治療していた真由が思わず吹き出し、肩を震《ふる》わせてうつむいたほどである。
「なによ。そんなに笑うことないじゃない」
「す、すいません。だって……ぷっ」
「ふん、笑っていられるのも今のうちです。あの時のあなたの形相《ぎょうそう》ときたら、わたくしなどの比《ひ》ではありませんことよ? こんな顔でしたわ――ほら」
「! うそです! そんな顔してません!」
「してないも何も、あの時あなたの顔を見ることができたのはわたくしだけですのよ? そのわたくしが言うのだから間違いありません。ほら、こんな顔もしていました」
「ひどい! 創作《そうさく》にもほどがあります!」
「ひどくはありませんわ、ほんとうのことだもの。ほらほら、こんな顔も」
「そんなひょっとこみたいな顔するわけないでしょ! いくらなんでもそれは許せません!」
言うなり、顔を真っ赤にした真由が掴《つか》みかかってきた。身のほど知らずな女の無謀《むぼう》なる挑戦《ちょうせん》に麗華は堂々《どうどう》と応戦《おうせん》する。
「愚《おろ》かなり月村真由、あなたごときがわたくしに敵うとでも? いい機会《きかい》だから凡人《ぼんじん》が決して超《こ》えられぬ壁というものを教えてあげますわ、かかってらっしゃい!」
「麗華さんこそ! そうやってひとを見下してると足元をすくわれるってことを教えてあげます! えいっ」
「ひゃ! そ、そこはわたくし弱……あはははははは、こ、このっ、やりましたわね!」
「きゃうっ! 麗華さんひどい! そっちがそうくるならこっちだって――それっ」
「ちょ! ばか、そこは反則……や、ちょ、ひゃ、ひぅ、んあうっ」
固い地べたの上で、ふたりは子猫《こねこ》同士がじゃれ合うように転げまわる。言葉をもたぬ動物たちが取っ組み合うことで何かを伝え合い、確かめ合うように。愛すべき敵意《てきい》と微笑《ほほえ》ましい対抗心《たいこうしん》だけを胸に、あどけなく、いじらしく、少女たちは心と心を交えていく。
やがて。
勝負は痛みわけに終わり、ふたりは仲良く大の字になってへたばっていた。
「不覚《ふかく》……せっかく回復した体力を無駄に使ってしまいました……」
「わ、わたしも……」
「ふん。馬鹿げてますわ、まったく」
細かく息を刻《きぎ》みながら麗華はくすりと笑う。
隣《となり》の真由も、同じように笑った気がした。
肌をなでる生ぬるい夜風がさっきよりずっと心地《ここち》よかった。
世の中にはこんな気持ちがあるのだな、と、胸に手を当てながら麗華は思った。
「月村真由」
自然に言葉が出た。
「わたくしはあなたと馴《な》れ合う気はありません」
「――麗華さん?」
「聞きなさい。いいですこと? わたくしには欲しいものがあるのです。決して誰にも譲《ゆず》れない、ぜったい手に入れなければならないものが。そして月村真由、あなたにもそういうものがあるはずです」
闇《やみ》に浸《おか》されて色も定かでない天井に真《ま》っ直《す》ぐ視線を向けたまま、麗華はつづける。
「またわたくしはどんな理由があろうと、己の最も欲するものを他人に譲ろうとする人間に共感を覚えません。欲しいものがあるならばあくまでも勝ち取るべき。何をおいても、どんな手を使っても、目的に向かって邁進《まいしん》するべきなのです。一度きりしかない人生でその程度の気概《きがい》も持ちえない落伍者《らくごしゃ》は、わたくしのもっとも忌《い》み嫌《きら》うところ。共感どころか嫌悪感《けんおかん》すら覚えますわ。ましてや――」
ひとりしかいない聞き手を一顧《いっこ》だにせぬまま、語り口はいよいよ熱を帯《お》びていく。
「ましてや敵に情けをかけるなど愚《ぐ》の骨頂《こっちょう》。唯一|無二《むに》の目的のために死力を尽くせず、それどころか己の目的を冒漬《ぼうとく》するがごとき真似《まね》をする愚《おろ》か者は、およそ他のいかなる目的も叶《かな》えられぬことでしょう.そのことをよく覚えておきなさい」
「…………」
いくばくかの沈黙《ちんもく》を経て、聞き手の少女は演説者の意図を正しく理解したようだった。
「そうなるとわたしは、『特訓』をやめてはいけないことになりますね」
「あなたの解釈《かいしゃく》など関知《かんち》するところではありません。――さて」
すっくと立ち上がり、ホコリとほつれだらけで二度と着れそうにないメイド服をそれでも丁寧に払《はら》いながら、
「時間を潰《つぶ》しすぎましたわ。行きましょう、これ以上のタイムロスは許されません。幸いにも陽が落ちていますし、ここは余計なことを考えず真っ直ぐに館まで――」
「あ、待ってください。わたしに考えがあります」
つづいて腰をあげた真由が作戦を提示《ていじ》した。
「二手に分かれましょう。わたしが敵を引き付けますから、その隙《すき》をみて麗華さんは二ノ宮くんを助け出してください」
「正気で言ってるの?」眉間《みけん》にしわを寄せて、「ただでさえふたりしかいないのに、この上さらに戦力を分散《ぷんさん》するおつもり? おまけにこちらは徒手《としゅ》空拳《くうけん》で、相手は完全|武装《ぶそう》のプロ。少しでも確率《かくりつ》を上げるためにはふたりで――」
「だいじょうぶです」
かつて聞いた記憶のない、月村真由の確信に満ちた大言《たいげん》だった。
一定の時間、敵を引き付けられることだけは保証《ほしょう》します。あとの対応《たいおう》は麗華さんの考え次第《しだい》で」
意表をつかれてきょとんとしながらも、麗華の身体にしみついた習癖《しゅうへき》が発言者の目の色を正確に読んでいる。うそはもちろん、やけくそを言っている目でもない。うぬぼれも過信も思い上がりもそこにはない。あるのはただ、確かな根拠《こんきょ》に基《もと》づいた自信のみ。
「……議論《ぎろん》している時間はない、ですわね」
腹をくくった。
「あなたに任せますわ。自在《じざい》におやりなさい」
「ありがとうです。わたしは正面から行きますから、麗華さんは裏側から。合図《あいず》はありませんから、成功したかどうかは敵の様子をみて判断《はんだん》してください」
「いいでしょう。五分あれば配置《はいち》につけるかしら?」
「三分あれば」
頷《うなず》いて麗華はきびすを返し、
「連中が林の中を哨戒《しょうかい》している可能性《かのうせい》は十分あります。くれぐれも気をつけるよう。相手が手練《てだ》れだということを忘れずに」
「忠告ありがとうです。でも」
稀有《けう》というべきだろう。背中の向こうで、どうやら真由は不敵《ふてき》に笑ったらしい。
「麗華さんこそ途中で見つからないでくださいね。見つかって捕《つか》まっても、麗華さんを助けるだけの余裕はありませんから」
「――誰に向かってものを言ってるのかしら?」
たっぷり間をためて振り返り、令嬢は不敵《ふてき》な笑いというものの見本を示《しめ》してやった。
「わたくしの名は北条麗華。国内|屈指《くっし》の名門・北条家の嗣子《せいし》にして、世界に冠《かん》たる北条コンツェルンの次期《じき》総帥《そうすい》。あらゆる状況《じょうきょう》に対処《たいしょ》する術《すぺ》は心得《こころえ》ていますし、似たような危機《きき》は何度も経験してきました。あなたの言は仏陀《ぶっだ》に教えを説《と》くも同然。無用の心配を焼くヒマがあったら無様《ぶざま》に失敗した時の言い訳でも考えておきなさい」
傲然《ごうぜん》と言い放ち、ふたたび前を向いて一歩を踏《ふ》み出そうとして、
「そうそう。ひとつ、あらためてあなたに言っておくことがあります」
今度は振り返らぬまま、麗華は言い放った。ひとことひとことに力をこめて。
「わたくしは、あなたのことが、大ッッッッッッ――――――――――ッ嫌い、ですわ」
「――奇遇《きぐう》ですね」
返答を口にする前にあったわずかな間は、忍《しの》び笑いをこらえていたゆえらしい。
「じつはわたしも、けっこう麗華さんのことが嫌いなんです」
「ふん。上等ですわ」
やはり振り向きもせずに鼻を鳴らすと、誇《ほこ》り高き少女は静かに森の闇へと消えていく。
(……敵わないなあ)
残された真由は、いわく言いがたい気分でその後ろ姿を見送った。
うれしいような、くやしいような。
数限りない面において、自分は一生あの少女に敵いはすまいと思う。しかもそれだけの敗北感《はいぼくかん》を味わわせながら、あの少女は敗北者を落ち込ませるよりもむしろどこか温かい気持ちにさせるのである。この奇妙《きみょう》なねじれ[#「ねじれ」に傍点]こそが、北条麗華を唯一無二たらしめている要因《よういん》なのだろう。
第一あれほど矛盾《むじゅん》だらけの人物なのに、それでも親しみを覚えずにはいられないというのが反則すぎる。これでいったい誰があの少女を嫌いになれるというのか? そしてまた笑ってしまうことに、これだけベタ誉めしている北条麗華は真由にとって不倶戴天《ふぐたいてん》の敵なのである。何の利害《りがい》関係もなくあの少女と出会えなかったことは痛恨《つうこん》の不幸事《ふこうじ》というべきだろう。
(――あ)
ようやくその粘《ねば》っこい感触《かんしょく》に気づき、真由は口もとをごしごしぬぐう。いつの間にかまた鼻から出血していた。最近はこれといった原因がなくてもこうなる。
(やだなあ)
手の甲《こう》にべっとりこびり付いた血液に難儀《なんぎ》しながら、真由はこれから先の些事[#「些事」に傍点]――単独で囮《おとり》となって突入し、敵を殲滅する[#「殲滅する」に傍点]手順を考えた。
ほんとうはひとりでやれることだった。ただ、それは決して使ってはいけないと兄の美樹彦から念を押されている手段《しゅだん》だった。さきほど麗華を相手に数多くの事実を告白した時、最後まで言わなかった二つの秘密《ひみつ》のうちのひとつ。その切り札を使えば簡単な話だったが、兄との約束があったゆえにできるだけ人目《ひとめ》に触《ふ》れるのを避《さ》けたかった。麗華と二手に分かれたのは戦術上の目的よりもむしろ、彼女に見られたくないという理由があったからである。麗華には感謝《かんしゃ》したい。根拠《こんきょ》を何も提示《ていじ》しない申し出を、何も言わずに受け入れてくれたのだから。
すう――っと。
深く大きく呼吸を整《ととの》え、真由は準備《じゅんび》を始めた。
両目を閉じ、手足から無駄《むだ》な力を抜き、心の中で眠っている誰かを揺り起こすようにささやきかける。
「――eine《いち》」
(麗華さんにはぜったい敵わないと思う。でも)
だからといって黙《だま》って譲るつもりはない。奇《く》しくも麗華そのひとが喝破《かっぱ》したように、欲しいものがあるならあくまでそれを獲得《かくとく》するべく全身《ぜんしん》全霊《ぜんれい》を尽くすべきなのだ。特訓をやめるなどと申し出るのはうぬぼれか自己|陶酔《とうすい》の類だったと今は思う。
もちろん真由にだって意地《いじ》はある。『譲ろう』と思ったことはあっても、『譲ってもらおう』と思ったことはただの一度もなかったのだ。
最後まで言わなかった二つの秘密のうちのひとつ。それはこのまま男性恐怖症を克服できず、サキュバス本来の精気《せいき》吸収《きゅうしゅう》 能力が発揮《はっき》できなければ、月村真由の命の火はほどなく燃え尽きるであろうということ。
「――zwei《にの》」
(お情けで譲ってもらおうなんて、ぜったい思わない)
それは月村真由にとって最後の、そしてぜったい譲れない意地だった。意地を張《は》り通してよかったと思う。あの高潔《こうけつ》な少女に軽蔑《けいぺつ》されずに済んだのだから。
(これが終わったら、ちゃんと向き合わなきゃいけない。いろいろなことに)
そのためにも今ここで、喜んで禁《きん》を破ろう。
「――drei《さん》」
魔法の呪文《じゅもん》を唱《とな》え終え、ゆっくりとまぶたを開けた時。
出来の悪い妹に苦笑するような顔で、『彼女』が表に浮かび上がった。
峻護を我《われ》に返らせたのは、三度鳴《みたびな》り響いた黒電話の耳障《みみざわ》りなベルだった。
床《ゆか》に固定《こてい》していた焦点《しょうてん》のあやしい瞳をハッと上げ、寝入《ねい》りばなを叩き起こされたハムスターのように周囲を見回す。ついさっきまで自分の手足の輪郭《リんかく》もぼやけて見えるような薄闇《うすやみ》に沈《しず》んでいた中央ホールが、今はあたかも昼のように明るい――と思ったら、単に天井から吊《つ》るされたシャンデリアに明かりが灯《とも》っていただけだった。そんなことにも気づかないほど考えごとに没頭《ぽっとう》していたのか。
結局いい案《あん》が何も思い浮かばなかった役立たずの頭を振り、峻護は状況を確認する。ホールにいるのは手足どころか口まで封《ふう》じられて片隅《かたすみ》の壁にへたりこんでいる自分と、例の山猫。それに黒ずくめがひとり……いやふたり。体感時間がどうも当てにならないが、窓の外に目をやればすでに陽は暮れきり、どこからどうみても夜間の様相《ようそう》を呈《てい》している。いったいどれほどの時間を無駄にしたのか――ふたりの少女はどうなったのか、それと姉さんは? 料理は一体――
現状を把握《はあく》していくにつれ血の気をなくしていく峻護の前に、山猫が立った。猿ぐつわを外すと黒電話に向けてあごをしゃくり、「出ろ」と促《うなが》してくる。
まるで催眠術《さいみんじゅつ》にでもかけられたかのように峻護はフラフラと立ち上がった。山猫が差し出すままに受話器を耳に当て、自動プログラムのように声を出す。
「はい……もしもし……二ノ宮ですが……」
『あ、二ノ宮くん? ボクだよボク。どうしたのさ、そんな暗い声して』
ふたたび保坂光流からの電話だった。その声に反応《はんのう》し、少しずつ意識のもやが晴れ渡っていく。ええと……何をすればいいんだ? そう、時間。まずは時間稼ぎだ。
「どうしたんですか? 珍しいですね、こっちの電話にかけてくるなんて」
『そのセリフさっきも聞いたよ二ノ宮くん。で、ボクの用件もやっぱりさっきと同じなんだけどさ』
用件? 何だっけか。そう、何かしら保坂のもとでトラブルが起きたという話だった。コンツェルンがらみではなくて、かといって完全にプライベートな問題でもなくて、結局いまいち煮え切らない説明をしていたっけ。それでともかく北条先輩と緊急《まんきゅう》に連絡がとりたいと。
『そうそう。で、戻ってきた? お嬢さま』
「はい、それは――」
まだ頭がクリアになりきってはいないが、それでも断言《だんげん》できる。この電話を麗華に替われる可能性はゼロだ。手足を縛《しば》られてナイフと銃《じゅう》で脅《おど》されている現状では、真実を伝えられる可能性もやっぱりゼロ。
「……北条先輩はまだ帰ってきてなくて。残念ですが」
『あっちゃー、まだ戻ってないの? それは……まずいなあ。うん。まずいよ』
まずいまずいと言いつつちっとも困ってなさそうな声で保坂はアハハと笑う。もちろん峻護に愛想笑いを返す余裕はなく、彼はさび付いた頭を必死で取り回していた。今度こそできるだけ保坂を引き止められるような会話を振らなければなるまい。
「ところで保坂先輩、さっきは聞きそびれちゃったんですけど。けっきょくトラブルっていうのは何だったんですか? よかったら教えてください。内容によってはおれから北条先輩に伝えておくこともできると思うので」
『あー……うん、そうねえ、そうかもねえ。うーん……』
少なくとも見た目上は天真燭漫《てんしんらんまん》な少年である彼がここまでためらうのは珍しい。いつもなら頼《たの》まれもしないことまでぺらぺらしゃべってくれるのだが。
「よっぽどのことが起きたみたいですね、先輩がそこまで悩《なや》むなんて」
『よっぽどのこと……そうだねえ、そうなるはずはなかったんだけどねえ。どうも羽目《はめ》を外しすぎちゃったみたいで、かなーり高い確率《かくりつ》でよっぽどのことが起きそうなんだよねえ……困ったなあ、言いにくいなあ。まあでも仕方ないかあ』
うじうじと弱り果てていた保坂だが、ようやく踏《ふ》ん切りをつけたようだ。
『うーん、あのさ、二ノ宮くん』
「はい」
『あのさ、ひょっとしてひょっとするとだけど』
なおも渋《しぶ》りながら、ようよう重い口を開いた。
『二ノ宮くん、誰かに襲われたりしてない[#「誰かに襲われたりしてない」に傍点]?』
「――え」
峻護が反問《はんもん》しょうとした、その時。
「隊長」
石像のように直立していた黒ずくめのひとりが突然警告《とつぜんけいこく》を発した。
「ポイント丙に侵入者《しんにゅうしゃ》。寅《とら》ノ一がやられました。卯《う》ノニと巳《み》ノ一が応戦中《おうせんちゅう》」
「そのようだな」
山猫はフルフェイスマスクの耳のあたりを何やら操作《そうさ》しながら、
「卯の一と三、巳の二と三を応援《おうえん》に向かわせろ。申《さる》の二と酉《とり》の三は遊撃《ゆうげき》としてポイント甲に待機《たいき》。寅ノ二と三は――」
もはや峻護の電話などは捨《す》て置き、黒ずくめどもが突如《とつじょ》としてあわただしく動き出した。マスクの中に通信機能も内蔵《ないぞう》しているのだろう、この場にいない仲間と短いやり取りを繰《く》り返し、何ごとか矢継《やつ》ぎ早《ばや》に指示《しじ》を出している。
(侵入者だって――?)
事態《じたい》の急変《きゅうへん》に反応して、日和《ひよ》っていた峻護の頭が急速《きゅうそく》に脳内物質《のうないぶっしつ》を分泌《ぶんぴつ》し始める。いったい誰が侵入したというのか? 連中にとっての侵入者ということであれぱ峻護にとっては味方になるということか? ひょっとして姉が帰ってきたとか……?
忙しく推測《すいそく》と仮定《かてい》をひねり出し、このドサクサの間に自分にできることはないか探り、さらに次の瞬間、ふいにシャンデリアの灯《ひ》が落ち――いや、家中を煌々《こうこう》と照らし上げていた照明がすべて、いっせいに消えた。
(ブレーカーが落ちた……?)
いや、落とされた[#「落とされた」に傍点]。光《ひかり》に慣《な》れた目を真の闇が包《つつ》み込み、峻護はあわてて視力《しりょく》に頼るのをやめて神経を研《と》ぎ澄《す》まし、それと同時、誰かがホールに躍《おど》りこんでくる気配を察《さっ》した。
(ほんとうにやってのけましたわね)
どうやら月村真由が成功したらしいことに驚嘆《きょうたん》しつつも、麗華が行動に移《うつ》るのは早かった。二ノ宮家の裏手《うらて》、雑木《ぞうき》の繁《しげ》みが作る影と閣の中に潜《ひそ》めていた身体に命じ、開いている窓のひとつヘ一直線に向かう。哨戒《しょうかい》に立っていた黒ずくめふたりが別の場所に駆けていった姿はすでに確認《かくにん》している。全身のバネを目いっぱいに使ってトップスピードに乗せ、三秒で目標《もくひょう》の窓に到達《とうたつ》。勢《いきお》いを殺さず跳躍《ちょうやく》し、猫科の動物がそうするように着地音《ちゃくちおん》を殺しながら邸内《ていない》に『帰還《きかん》』した。
流れる水のごとく彼女の行動は次の段階《だんかい》に進み、黒ずくめたちが消えた屋敷の中を静かに移動しながら浴室へ、ブレーカーのある場所をめざす。裸《ら》眼で3.0の視力を誇る麗華は館をはるか遠巻きに偵察《ていさつ》し、峻護が中央ホールに捕《と》らわれていることも確認《かくにん》済《ず》み。どうやら黒ずくめどもがホールを司令室《しれいしつ》代《が》わりに使い、連中の親玉らしき人物と取り巻き数名がそこに常駐《じょうちゅう》しているらしいことをも偵知《ていち》していた。おそらくそいつらは峻護の元を離れまい。
どうあっても一戦《いっせん》交《ま》じえねばならず、何人ものプロを相手に勝ちを収めるには奇襲《きしゅう》しかなく、その奇襲も夜襲《やしゅう》しか選択肢はなかった。
遭遇戦《そうぐうせん》をやらかすことも覚悟《かくご》していたが、浴室までは黒ずくめに出くわすこともなく、拍子《ひょうし》抜《ぬ》けなほどあっさりたどり着いた.すぐさま配電盤《はいでんばん》にかじりつき、何の迷《まよ》いもなくすべてのブレーカーを叩《たた》き落とす.
瞬時にして丘の上の洋館を漆黒《しっこく》が支配した。麗華は別行動をとった時からずっと瞑《つむ》っていた片目を開ける。遠近感《えんきんかん》はあやしいが八割方の行動を確保《かくほ》するには十分な視界だ。
ホールに向かって疾駆《しっく》を開始。丘の上という場所|柄《がら》だけに外部から入口の光は差さず、闇は深い。ただし今日は月がある。黒ずくめたちの目もやがてこの状況に慣《な》れるはずであり、すべてのケリはその間につけねばならないだろう。その猶予《ゆうよ》もせいぜいが数十秒、加えてこれは連中が暗視《あんし》機能を備えていないことが前提《ぜんてい》である。が、もはやそのバクチを云々している段階ではない。どうやったのかは知らないが、相方がおそらくは命がけでもぎ取った隙だ。死んでも生かさねばならない。
ホールには五秒でついた。黒ずくめの数は三人。もちろんこの後に及《およ》んで迷いはない。
勢いを殺さずに突っ込みながら、浴室を出るときに引っつかんできた風呂《ふろ》桶《おけ》をいちばん手近な黒ずくめの顔面めがけて思いっぎり投げつけた。闖入者《ちんにゅうしゃ》の登場にも動ぜず、ほとんどノータイムで反撃《はんげき》に移ろうとしていた黒ずくめたちだったが、さすがにこれには不意《ふい》をつかれたようだ。風呂桶をよけた黒ずくめにわずかな遅滞《ちたい》が生まれ、麗華はその隙を見逃さない。一気に間合《まあ》いを詰《つ》めてそいつの股間《こかん》を思いっきり蹴《け》り上げ、そのまま踏み込んでのど仏に掌底《しょうてい》を見舞《みま》った。
崩れ落ちる獲物《えもの》には目もくれず次に取りかかる。奇襲の貯金《ちょきん》は早くも使い切り、二人目もまとめて打ち倒すというわけにはいかなかったが、銃器が利点《りてん》を失う接近戦《クロスレンジ》に持ち込むのは成功した。だが敵もさるもの、判断よく銃を捨ててナイフを抜き、麗華に襲い掛かろうとして、
「――え」
顔を合わせた途端《とたん》、変な声を出して動きを止めた。『えっ?』と言いたいのはこちらのほうだったが、その隙を見逃してやるつもりも毛頭《もうとう》ない。もういちど股間蹴りからのど仏への掌底へ連携《れんけい》し、二人目を予想外のあっけなさで床に這《は》わせた。
ブレーカーが落ちてからここまでに十五秒。
「――!」
背後から叩き付けられた殺気《さっき》の強烈《きょうれつ》さに、麗華はあわてて身をかがめた。今しがたまで首から上があった位置を重くて速い何かが通り過《す》ぎ、彼女の自慢《じまん》の長髪をいくらか引きちぎっていく。今日はよく髪の毛を持っていかれる日だ、などとぼやいている余裕はやっぱりなく、反転しつつバックステップ。距離を取って体勢を立て直そうとするが相手もそれを許してはくれない。麗華が後ろに引いたのと同じだけの距離を詰《つ》め、前蹴り、正拳、くるりと腰をひねって中段《ちゅうだん》後ろ回し蹴り。
(……強い!)
辛《から》くも防ぎながら、ほんの二、三秒の間に麗華は悟《さと》った。奇襲の有利《ゆうり》を失ったこともあるが、最後に残ったひとり――どうやら連中の親玉か――は最悪に厄介《やっかい》な相手だったらしい。峻護との立ち合いを見てその実力は十分|承知《しょうち》していたつもりだったが、実際に拳《こぶし》を合わせてみて見通しが甘かったことを思い知った。峻護との勝負はほぼ五分に見えたが、おそらくはそれでも相当に手加減《てかげん》していたのだろう。
だがしかし――この拳筋《けんすじ》は、どこかで……?
(馬鹿。迷っているヒマはないでしょう!)
真由が作ったチャンスを生かし、峻護を救い出すという至上《しじょう》目的に殉《じゅん》じなければ。いや、それ以前に迷えばこちらが殺《や》られる…………
麗華の目の色が変わった。握りこんだ両手の拳を貫《ぬ》き手に変え、黒ずくめが放ったアッパー気味《ぎみ》のフックにカウンターを合わせる。槌《つち》から剣へと転じた右手が、ゴーグルで覆われた黒ずくめの両目を一直線に狙《ねら》った。しかし必中と見えたその一撃も軽々とかわされ、大振りになった隙を黒ずくめが冷酷《れいこく》につく。
伸びきった麗華の右腕に、黒ずくめの両腕が絡《から》みついた。
――避《よ》けられない。
ぞっ、と背中を蟻走感《ぎそうかん》が這いのぼり、間もなく襲いくるであろう激痛《げきつう》に備《そな》えて歯を食いしばり、だが次の瞬間。
いきなり視界の端《はし》から現れた黒い影が体当たりをかまし、黒ずくめをよろめかせた。
(! 二ノ宮峻護!)
不意打《ふいう》ちを食らわせて麗華を救った同居人が勢いあまって倒れこみ、
「先輩、今だ!」
両手両足を縛られたまま叫ぶのを、しかし麗華は半分も聞いていない。千載一遇《せんざいいちぐう》のこの好機《こうき》、生かさねば二度と勝利の女神は微笑《ほほえ》むまい。
たたらを踏んだ黒ずくめに貫き手。黒ずくめは無理《むり》な体勢で、しかし器用《きよう》に身体をひねってかわす。それでも麗華の優位《ゆうい》は動かない、立て続けに蹴り、膝《ひざ》、そしてまた貫き手。黒ずくめは床に手をついて胴を持ち上げ、あるいはバク転に近いアクロバットまで披露《ひろう》して連撃《れんげき》を避けつづけ、麗華に舌を巻かせた。それでもなお優位は動かない。猛攻《もうこう》を避けるたび、黒ずくめの体は見る間にくずれていく。
そして麗華の下段突きを受け流した時、とうとう黒ずくめに致命的《ちめいてき》な隙ができた。
顔面、脇腹、股間、どこもかしこもガラ空き。どこをどう殴り、どう蹴っても、一撃で決着がつく。
(もらいましたわ!)
麗華が選んだのは、たっぷりと腰をひねった右肘《みぎひじ》の一撃。これがこめかみに入れば昏倒《こんとう》は確実《かくじつ》。強敵との戦いに勝利し、峻護を救い、真由に顔向けができる。麗華の全身は武者震いに沸《わ》いた。
でも。
だけど。
この光景にはどこかで見覚えがあるような――
そう思った瞬間、身体が反射的に動いてくれた。あわてすぎたために亀《かめ》が首を引っ込めるような無様《ぷざま》さではあったが、きっちりとダッキングして腰を沈《しず》める。次の瞬間、コンマ一秒前まで頭部が位置していたところをすさまじい回し蹴りが通過《つうか》し、またしても麗華自慢の髪を何本か持っていった。しかし今回はぼやく必要がない。無理な体勢から繰り出した二の矢――渾身《こんしん》の回し蹴りによって、今度こそ黒ずくめの体《たい》は死んだ。麗華は改めて勝利の確信をいだき、もういちど右肘の一撃を、
(んな――)
黒ずくめが曲芸師《きょくげいし》の動きでふたたび一回転――それも空中で――さっきを上回る三の矢が――こっちが本命――
とっさに右肘の軌道《きどう》を変えてガードに出せたのはほとんど奇跡だったろう。が、不完全なガードでは回し蹴りの重い一撃は受け止めきれない。肘の防御《ぼうぎょ》を突き破って強烈な衝撃《しょうげき》がきた。
効《き》いた。まぶたの裏に星が舞《ま》ったのは一秒にも満たない時間だが、十分すぎた。
(ごめんなさい月村真由)
奇跡は二度も起こらない。ノイズの入った視界に黒ずくめが懐にもぐりこんでくる姿が見え、間髪おかずに投げ技の構えに入るのが見え、フルフェイスのマスクと至近《しきん》距離で視線が合って、そう思った時には麗華の身体は宙《ちゅう》を舞って、
(あなたに報《むく》いることができませんでした)
硬《かた》い板張りの床へしたたかに叩き付けられ――なかった。
勢いを途中《とちゅう》で殺した背負い投げは麗華の肋骨《ろっこつ》を粉々にすることもなく、むしろ壊れ物を扱《あつか》うような繊細《せんさい》さで、ふわりと背中から床に着地させる。
「……え?」
存外《ぞんがい》にも二度目の奇跡が起きたのか? 思いがけぬジェントルな応接に、麗華は反撃も忘れて目を瞬かせた。
ところが思いがけぬことがあったのは黒ずくめのほうも同じであったらしい。麗華を着地させた格好のまま、じっと至近距離で彼女に視線を落とし、
「あ……」
機械|処理《しょり》された声で呆然とした声をあげる。
次いで黒ずくめが発した言葉が、麗華の目を見開かせた。
「……お嬢さま?」
「へっ?」
まったく予期《よき》していなかった言葉にヘンな声を出し、だが麗華には黒ずくめの声のトーンに聞き覚えがある。たとえ電子的に歪《いびつ》にされた声でも、はっきりとわかる。
「あなた……しのぶなの?」
「…………」
無言《むごん》の驚愕《きょうがく》が令嬢の問いを明確《めいかく》に肯定《こうてい》していた。
不意《ふい》に目の前がまぶしくなり、麗華はまぶたを細める.天井のシャンデリアにふたたび明かりが灯り、ホールに視界の自由を取り戻していた。
すべてが明るみになった中、ふたりの旧知《きゅうち》は事態を上手く把握《はあく》できずにお互いの反応を待ち、ホールのすみっこでは彼女たちに輪《わ》をかけて成り行きについていけない陵護が、メイド服の少女と山猫に物問《ものと》いたげな視線を送っている。
この日の喜劇に終わりを告げたのは、そんな光景だった。
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其の五 状況終了
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女だった。それもとびきりの美入。
「数々のご無礼《ぶれい》、重ねてお詫《わ》びいたします。どうかご容赦《ようしゃ》を、峻護《しゅんご》様」
いまだに状況《じょうきょう》をのみ込みきってない峻護の前にその美人は立ち、慇葱《いんぎん》に頭を下げていた。まだ少女といっていい年頃《としごろ》でモデル顔負けの長い手足と長身を持つ彼女は、名前を霧島《きりしま》しのぶというそうだ。黒ずくめたちの領袖、峻護を圧倒《あっとう》した格闘技術《かくとうぎじゅつ》の持ち主。
『山猫』である。
なるほど、分厚《ぶあつ》い黒スーツに隠《かく》れてわかりにくかったが、言われてみればいかにも線は細い。声は変声《へんせい》装置《そうち》で変えていたし、しゃべり方がひどく荒っぽかったから女性だとは気つかなかったが、これは峻護の不覚《ふかく》だろう。ただしフルフェイスのマスクを外した今でも彼女の印象《いんしょう》はあまり変わらない。それこそ猫科の動物のような鋭《するど》い目鼻だちがむしろその印象《いんしょう》を補強《ほきょう》している。
もっとも、この山猫の挙措《きょそ》はひどく典雅《てんが》だった。それもそのはず、本来《ほんらい》は麗華《れいか》付きの侍女《じじょ》であり、北条家《ほうじょうけ》のメイド長のひとりなのだという。ただしそのプロフィールだけでは説明できない、温室育ちにはありえない躍動感《やくどうかん》が彼女の仕草《しぐさ》の端々《はしばし》にまで滲《にじ》み出ていた。まるで『うっかり人の世に出てきたら思いのほか上手《うま》く慣《な》れてしまった』ような、野性味《やせいみ》と洗練《せんれん》味の同居《どうきょ》した魅力《みりよく》が、この霧島しのぶにはあふれている。
「さて、ともかくまずは」
と、最初に口火を切ったのは麗華だった。こういう時にはいちばん頼りになるまとめ役である。
「お互いに事情《じじょう》を把握《はあく》せねばなりませんわね。正確に」
同意《どうい》を求めるように一同を見回した。真っ先に頷いたのは霧島しのぶであり、次いで「まずはそれですよね」と賛成《さんせい》したのが真由。集められた黒ずくめたち――ざっと十人弱――はマスクを外した顔に戸惑《とまど》いを消しきれずにいたものの、それぞれに賛意《さんい》を表明した。もちろん峻護にも異存《いぞん》はない。
「よろしい。では最初に、この茶番劇《ちゃばんげき》に登場させられた主要《しゅよう》人物のプロフィールを確定《かくてい》していくことにいたしましょうか。まずはそちらの男」
と峻護を指《さ》し示し、
「名前は|二ノ宮《にのみや》峻護。この家の主・二ノ宮|涼子《りょうこ》の弟。本来ならばこの場の座頭《ざがしら》になるべき男ですが、まあ見てのとおりの役立たずですわね。次にそちらの月村真由《つきむらまゆ》は、とある事情でこの家にいる居候《いそうろう》――以上のふたりはどうやら、今回に関してはとばっちりを食っただけのようです」
真由の紹介《しょうかい》も簡単《かんたん》に済ませてから、
「さて。どうやら今回の騒《さわ》ぎの原因になっているらしいわたくし、北条麗華ですが。北条本家の一子にして北条コンツェルンの次期《じき》総帥《そうすい》であり、その他にも様々《さまざま》な肩書《かたがき》きを背負《せお》っていることはこの場で確認《かくにん》するまでもないでしょうが――それらとは別に、今は不本意《ふほんい》な肩書きも背負っております。すなわち当二ノ宮家の被雇用人《ひこようにん》、ハウスメイドであるという肩書きを」
極力《きょくりょく》表情を殺している様子《ようす》の霧島しのぶが、不快《ふかい》げに眉《まめ》をひそめるのが見えた。ごくわずかではあったが。
「わたくしが今の立場に身を落とした経緯《けいい》は省《はぶ》きますが、極《きわ》めて遺憾《いかん》ながら事実であることは確かです。またこの家でわたくしが受けている仕打《しう》ちは犯罪《はんざい》スレスレで非人道的《ひじんどうてき》ではありますが、こうして五体満足に生活しており、契約《けいやく》を逸脱《いつだつ》した拘束《こうそく》は受けていないのもまた偽《いつわ》らざる実情。その点について異議《いぎ》はありませんわね?」
確認した麗華に、一同から無言《むごん》の、消極的な肯定《こうてい》。
「ではもうひとりの主要《しゅよう》当事者《とうじしゃ》を紹介いたしましょう。――しのぶ」
麗華に呼ばれると山猫少女は一礼《いちれい》して進み出、主人の傍《かたわ》らに控《ひか》えた。
「こちらの霧島しのぶは我《わ》が北条家のメイド頭のひとり。とはいえその権能《けんのう》はメイド仕事のみにとどまりません。諜報部《ちょうほうぶ》や保安部《ほあんぶ》にも深く関わりを持ち、北条家を陽《ひ》に影《かげ》に支える極《きわ》めて優秀な人材です。わたくしにとっては信頼に足る側近《そっきん》であり、同時に格闘《かくとう》技術《ぎじゅつ》と兵法《ひょうほう》の師でもあり、幼少《ようしょう》のころよりお互いを知る友人でもあります。歳《とし》もわたくしと同じでしたし、わたくしにとってはもっとも近しい人間のひとりといえるでしょう」
しのぶのことを語る麗華の顔は誇《ほこ》りと喜びに満ち、しのぶが主人にそそぐ視線にもまた親愛の情があふれていた。麗華に解説《かいせつ》されずとも彼女たちの関係を読み取るにはそれで十分だった。
「ですが――」と、令嬢《れいじょう》の表情がわずかに曇《くも》る。「しのぶはしばらく前に暇《いとま》を願い出て許され、子飼《こが》いの部下たちを引き連れて北条家を離れ、ここ何年かは欧州《おうしゅう》と北米を中心に長期の視察《しさつ》に務め見聞《けんぶん》を広めていました。わたくしもこうして会うのはほんとうに久しぶりなのです」
『子飼いの部下たち』というのが、ホールに固まって窮屈《きゅうくつ》そうに、しかし整然《せいぜん》と列を作っている黒ずくめたちなのだろう。
「そうね、あなたがわたくしの元を離れてもうどのくらいになるかしら?」
「三年と二か月と十日です、お嬢さま」
「そう。もうそんなになるのね」
遠い目をする麗華。持ち前の責任感《せきにんかん》から司会《しかい》役を買って出てはいるが、ほんとうは幼なじみの少女と久闊《きゅうかつ》を叙《じょ》したくてたまらないのだろう。
「ともあれ、わたくしが知るのはそこまでです。どうしてしのぶが突然《とつぜん》帰国し、二ノ宮家を襲撃《しゅうげき》する次第《しだい》になったのか――」
言葉を切り、旧友に視線を送る。しのぶが頷《うなず》ぎ、一同を見回した。
「今のお嬢さまの話で、私の方はおおむねの事情が見えてきました。それをこれからお話しします」
努めて維持《いじ》しているらしい無表情に、今はハッキリそれとわかる呆《あき》れと怒りの色があった。彼女にそんな感情を抱《いだ》かせる事情とは一体なんなのだろう?
「今回の不祥事《ふしょうじ》の原因は、結局のところ私の認識《にんしき》に誤解《ごかい》があったことに尽《つ》きます。私の知る情報と実情との間に、致命的《ちめいてき》な誤差《ごさ》がありました」
「誤差というと? そもそもあなたの知る情報というのは?」と麗華。
「はい。つい先ほどまでの私の認識はこうです」
怒りを抑《おさ》えるかのように目を閉じて、
「この丘の上に居《きょ》を構《かま》える二ノ宮なる一門は、裏の世界のそのまた裏で隠然《いんぜん》たる勢力《せいりょく》を張《は》る悪辣《あくらつ》非道《ひどう》な血族。その性《さが》は残虐《ざんぎゃく》無比《むひ》であり、人々の悲鳴《ひめい》と怨嗟《えんさ》を極上《ごくじょう》の音楽とし、その苦痛《くつう》と苦悶《くもん》を観賞《かんしょう》することを唯一《ゆいいつ》の快楽《かいらく》とする鬼畜《きちく》どもです。ことに一門の女主人たる二ノ宮涼子は人の皮をかぶった悪魔であり、かどわかした乙女たちの生き血をすすって日々の糧《かて》とし、彼女たちを拷問《ごうもん》することのみに生きがいを見出す人でなしであるとか」
おいおい――という空気が当の二ノ宮家に住む三人の間に広がる。たしかにご近所さんからは変わり者|扱《あつか》いされているし、二ノ宮涼子が人より鬼《おに》の性質をもって生まれてきたのも事実だが、しのぶが語るほどにはひどくはない。うわさに尾《お》ひれがつく、という慣用句《かんようく》の典型《てんけい》であろうか、これは。
「間題は、二ノ宮の者どもがかどわかした乙女の中に麗華お嬢さまが含《ふく》まれているということでした。二ノ宮涼子はお嬢さまの弱みを握《にぎ》り、その弱みを巧みにちらつかせ、お嬢さまを拘束することに成功。二ノ宮家の地下に広がる奴隷《どれい》部屋に監禁《かんきん》し、夜な夜ないかがわしい拷問を与えて破廉恥《はれんち》と淫蕩《いんとう》の限りを尽《つ》くし始めたのです。その拷間の内容とは――」
以下、北条家のコンバットメイドが語り始めた内容はあられもない卑狼《ひわい》表現の連続であった。公共の電波に乗せればそのセリフのすべてに『ピー』が入りそうな猥談《わいだん》を彼女は眉《まゆ》ひとつ動かさずに語るのだが、聞かされる立場の峻護や真由などは顔を赤くして視線《しせん》のやりどころに難儀《なんぎ》した。彼らでさえそうなのである、ましてや猥談のモデルにされた麗華はたまったものではない。
「しししししししのぶ! ちょっとあなた! それ以上へんな妄想《もうそう》をたくましくさせてわたくしにセクハラするといくらあなたでも承知《しょうち》しませんわよ!」
「妄想ではありません。私が事実と思っていた情報を正確にお伝えしているだけです」
涙目《なみだめ》で抗議《こうぎ》する主人に涼《すず》しい顔で切り返してから、
「これらの話に多少の誇張《こちょう》があり、また私が大げさに受け取りすぎた可能性を考慮《こうりょ》に入れても、お嬢さまが二ノ宮家に拘束されていると判断《はんだん》する材料には事欠《ことか》きませんでした。私が独自《どくじ》に調査《ちょうさ》した結果、ここ最近のお嬢さまが生活の基盤《きばん》を北条の本家に置いていないのは事実でしたし、他にも様々《さまざま》な裏づけがありました。お嬢さまがメイドの格好《かっこう》などをさせられていること、毎夜のようにお嬢さまのあられもない悲鳴がこの館に響《ひび》き渡っていることなど――」
重ねて抗議しようとしていた麗華が『むぐ』と口をつぐむ。今現在の彼女の出《い》で立ちもまさしくメイド服であったし、二ノ宮涼子が好《この》んで彼女に性的いたずらを施《ほどこ》してくるのも確かであった(しのぶの創作話[#「創作話」に傍点]ほどひどくはないにしても)。
「そ、それにしたって」と麗華は頬《ほお》をふくらませる。「あなたほどのひとがそんなたわごとを真に受けるなんて、信じられませんわ」
「確かに調査が甘かったのは反省《はんせい》すべき点です。遠い異国《いこく》にあって情報収集が満足にいかなかったこともあります。ですがお嬢さまが不当《ふとう》に拘束されているらしいことが確定《かくてい》しただけでも十分でしたから、すぐさま救出《きゅうしゅつ》作戦を立案《りつあん》し、実行《じっこう》しました。緊急《きんきゅう》を要《よう》すると判断《はんだん》したため作戦立案に時間をかけられなかったのも反省点です。作戦自体を気取《けど》られぬよう、即座《そくざ》に実行に移したのもマイナスに働きました。二ノ宮家は極《きわ》めて危険な要塞《ようさい》と化しており、お嬢さまはその奥深くに囚《とら》われているという情報もありましたから、用意しうるすべての武装《ぶそう》をそろえて臨《のぞ》んだのですが……そのこともお互いが真実を知るのを阻害《そがい》する原因になってしまったようです」
「そうでしたか……つまりは小さな誤解《ごかい》が大きな過《あやま》ちを生む結果になっていた、と」
まったく、わかってみれば馬鹿《ばか》馬鹿しい話である。襲撃に至《いた》った経緯《けいい》もさることながら、お互《たが》いの正体がわかっていればこんな苦労をするまでもなく誤解は解《と》けただろうに。黒ずくめたちが素顔《すがお》をさらしていれば誤解は解け、最初から彼らが目的を言ってくれれば誤解は解け、麗華が彼らの前にもっと早く姿を現していれば誤解は解けた。すれ違いを埋《う》める機会《きかい》が、ことごとく当事者《とうじしゃ》たちの背中のすぐうしろを通り過ぎていったことになる。霧島しのぶの率《ひき》いるレスキュー部隊が筋金《すじがね》入りのプロぞろいだったことが、かえって仇《あだ》になってしまったのか。
「ともあれ、ご無事《ぶじ》でなによりでした」
事情を語り終えたしのぶがホッと息をついて麗華に向き直り、
「無《む》駄な紆余《うよ》曲折《きょくせつ》はありましたが――お嬢さまの元気なお顔をふたたび見ることができた。それだけで私は十分に満足です」
やさしいまなざしで微笑《びしょう》した。主筋《しゅすじ》の人間を見る目ではなく、幼なじみの少女を見る時のそれだった。そういう顔をすると、山猫の険《けん》がぬけてひどく親しみやすい印象になった。
「……ありがとう」
令嬢は照《て》れくさそうに笑い、すぐに表情を元に戻して、
「それでは、今回の件に関してもっとも重要となる点についてですが」
ああ、これはあれだ――と峻護は思った。麗華のあの表情。あれは激怒《げきど》のあまり怒りのピークを通り越して、その巨大すぎる感情の奔流《ほんりゅう》を表現する方法がわからないでいる顔だ。
間違《まちが》いない。きっかけさえ得ればすぐにでも彼女は爆発《ばくはつ》する。
「しのぶ。あなたは先ほど『独白の調査』という言い回しを使いましたわね? つまり自ら調査をして事実確認をする前の、いかがわしさ満載《まんさい》の誤情報をあなたに伝えた人物がいるはずです。あなたにその情報を伝えたのは――」
ぢりりりりりん…… ぢりりりりりん……
本日四度目であろうか、黒電話がアナクロなベルをがなり立てるのは。
ホールに会した面《めんめん》々は、何かを予感《よかん》したようにお互い顔を見合わせ、やがて彼らの視線は一様《いちよう》に峻護の姿《すがた》へ固定《こてい》される。
「……電話、出ますね」
峻護もまた確《たし》かな予感に背中を押されつつ、黒電話の元へ歩み寄った。
「はいもしもし、二ノ宮ですが」
『お、二ノ宮くん? ボクだよボク、保坂だけど』
「……ああ。保坂|先輩《せんぱい》」
声を聞けばわかる相手の名前を、あえて口に出して言った。とたん、峻護の背中で明らかに空気の変わった気配《けはい》がふたつ。
『どうしたのさっきは? いきなり返事《へんじ》してくれなくなっちゃってさー。何度もしもしって言っても反応なかったから、あきらめて切っちゃったんだけど。回線《かいせん》のトラブルだったのかな?』
「そう――ですね、トラブルといえばトラブルでしょうか」
『ふうん? まあいいや。それでさっきの続きなんだけどさ。二ノ宮くん、誰かに襲われたりしてない? 猫っぼくて背の高くておっかない感じの女の子がさ、二ノ宮の家にきて暴《あば》れてるとか、そういう感じのこと。ちゃんと無事でいる?』
「はあ……」
峻護は背後《はいご》を振り返り、『被害者《ひがいしゃ》の会』の主な三人を見た。
北条麗華は炎のオーラを身にまとい、突き立てた親指を逆《さか》さまにしていた。
霧島しのぶは表情を動かさぬまま、しかしその瞳《ひとみ》に氷の温度を宿《やど》していた。
月村真由までもが柳眉《りゅうび》を逆《ぎゃく》ハの字にして、小刻《こきざ》みにこくこくと頷いていた。
残念。賛成《さんせい》四人、反対ゼロの多数決によって、保坂少年の命運《めいうん》は確定《かくてい》した。
「――ええ、さしあたり無事です。今は」
『ああほんと? よかったよかった。いやあ、ついつい調子《ちょうし》に乗りすぎて真《しん》に迫《せま》った冗談《じょうだん》を言っちゃってさ。あの子ってお嬢さまのことになると見境《みさかい》がなくなる時があるし、やばいなーとか思ってたら案《あん》の定《じょう》連絡が取れなくなっちゃうし、彼女が連絡を絶《た》つ時ってたいてい何かしらの作戦行動に出る時だしさー。それでまあお嬢さまに何とかしてもらおうかと思ったんだけど、そのお嬢さまはもう帰ってきた?』
「いいえ。まだ外出したままです」
『そっかあ……それじゃあま、ボクのほうでもこれからいろいろ手を打《う》ってみようと思うけど、二ノ宮くんも油断《ゆだん》しないでね。何だかヘンな連中に襲われた場合は、今ボクが言った事情を話してくれれば何とかなる……といいなあ、うん』
「そうですか、わかりました。でもまあだいじょうぶだと思いますよ、たぶん。保坂先輩もあまり気にしたりせず、安心して戻ってきてください」
『ふむふむ、そうだね、それもそうだよね。冗談を真に受けてお嬢さまの救出部隊を引き連れて二ノ宮家を襲撃、なんてことはありえないよね。きっと彼女も別の用事で連絡が取れなくなってるんだね。うん、よしよし。それじゃ、ボクの用事はそんな感じだから。またあとでね〜』
納得《なっとく》して気分が晴れやかになったらしく、さわやかな声で保坂は別れを告げた。これが永遠の別れということにならなければいいのだが。
「さて、愚《おろ》か者の制裁《せいさい》はあとでじっくり執《と》り行うとして――」
麗華はすでに制裁《せいさい》を下《くだ》し終わっているかのようなさわやかな声で、
「しのぶ、あなたはこれからどうするのです?」
「どうする、とは?」
「またこの国を離《はな》れ、視察《しさつ》に戻るの?」
令嬢の瞳には、今まさに親兄弟と生き別れようとしている子供のような不安と、その不安を必死に見せまいとする気丈《きじょう》さが揺《ゆ》れている。
「――いいえ」山猫少女は妹を安心させるように微笑した。
「長期のお暇《ひま》をいただき、多くの収穫《しゅうかく》を得ることができました。反面《はんめん》、私のいない間にお嬢さまの周りで厄介《やっかい》ごとが増えたようです。今後は私の第一義《だいいちぎ》を果たすことに専念《せんねん》し、可能な限りお嬢さまのそばでお仕《つか》えいたします」
「そう。そうなの」
自然と表情がやわらかくなる主へ、
「お嬢さま。私からもお尋《たず》ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「あら。何かしら?」
霧島しのぶは微笑を消して、
「『二ノ宮家に侵入《しんにゅう》した不審者《ふしんしゃ》』が我々《われわれ》であると初めから知っていれば、あなたは矛《ほこ》を収めてくれましたか?」
「えっ」
「我々が正体をひた隠しにしたのは結果としてミスになりましたが――ですが我々がお嬢さまの忠実《ちゅうじつ》な部下であり、お嬢さまを救い出すのが目的で行動を起こしたことをお嬢さまが初めから知ってたとして。その場合、お嬢さまはどういう行動を取られたでしょうか」
「な、なによ藪《やぶ》から棒《ぼう》に。それはもちろん、」
「お嬢さま。私が先ほどあなたと拳《こぶし》を交えた際《さい》の率直《そっちょく》な見解《けんかい》を述《の》べます。お嬢さまは、『得体《えたい》の知れない敵に抵抗《ていこう》するため』に戦っていたようには見えませんでした。むしろ『この家の住人であるという身分を護《まも》るため』に戦っていたように見受《みう》けられました」
「ばかね、そんなはずないでしょう、どうしてわたくしがそんな、この家で召使《めしつか》いとしてこき使われている現状《げんじょう》を喜ぶと――」
「では問《と》います。いま私がお嬢さまに『北条の本家にお戻りください』と言えば、あなたはどうなさいますか?」
霧島しのぶは透明《とうめい》なまなざしを主人にじっと注《そそ》いだ。麗華の目は視線のやりどころを探してさまよい、峻護と真由はそれぞれの想いで彼女の言葉を待つ。ことに目の色を変えたのは居並《いなら》ぶ黒ずくめたちで、彼らはそろって固唾《かたず》をのみ、主の言葉をひとことも聞き漏《も》らすまいと耳を澄ませている。
しばし、張《は》り詰《つ》めた沈黙《ちんもく》がつづいて。
「――訊《き》くまでもありませんでしたね」
黒ずくめたちを率いる少女は、ふ、と微笑を浮かべ直した。
「お嬢さまが望んでここにいるわけはありませんでしたね。お嬢さまは不当《ふとう》ともいえる契約《けいやく》をもあえてお守りになり、この屋敷に留《とど》まっていらっしゃるのでしょう。北条麗華に二言がないことを自ら証明なさるために」
「――そ、そう。その通りですわ」
麗華が我《わ》が意《い》をえたように飛びついて、しのぶは優美《ゆうび》に一礼した。
「愚問《ぐもん》でした。申《もう》し訳《わけ》ありません」
「そんな――あなたが謝《あやま》ることなど何もないでしょう」
「恐縮《きょうしゅく》です。それではお嬢さま、我々はこれでいったん引き上げます。部下たちと共に帰国するには様々《さまざま》な手続きやら準備《じゅんぴ》やらが必要となりますから。お嬢さまのおそばに戻るにはしばらくかかるかも知れませんが、ご容赦《ようしゃ》を」
「そう……残念だけど仕方ありませんわね。再会を祝《いわ》うくらいの時間は欲しかったのだけれど、それも後の楽しみに取っておきましょう。必ず帰ってらっしゃいね」
「はい、必ず。――それでは峻護様」
二ノ宮家の現時点での責任者《せきにんしゃ》に向き直り、慇轍《いんぎん》に辞儀《じぎ》をする。
「無作法《ぶさほう》の数々、重ね重ねにも謝罪《しゃざい》いたします。正式なお詫《わ》びはいずれまた。それと今回の件により発生したもろもろの損害《そんがい》は賠償《ばいしょう》いたしますので、後《のち》ほど請求書《せいきゅうしょ》をわたし宛《あて》に送ってください」
「そうですか。わかりました」
さしあたり、頷く他にない。
(だけど……なんだか……)
矢継《やつ》ぎ早に撤収《てっしゅう》の指示《しじ》を出す長身の少女を見るともなしに眺《なが》めながら、峻護はぼんやりと考える。
今回の件、なんだかきれいすぎないか[#「きれいすぎないか」に傍点]? メイン舞台となったこの中央ホールをざっと見回しただけでもそれはわかる。霧島しのぶは損害賠償を申し出はしたものの、実のところ破損《はそん》した家具などの調度《ちょうど》はざっと見た限りひとつもないのだ。おまけにあれだけの乱闘《らんとう》を展開《てんかい》しながら、二ノ宮家の側で怪我《けが》らしい怪我を負った者はひとりもいない。ただひとり直接の暴行《ぼうこう》を受けた峻護も今はすっかり痛みが引き、暴行の痕跡《こんせき》は記憶の中に残るのみだ。ここで黒ずくめたちが去《さ》ってしまえぱ何ごともなかったようにいつもの二ノ宮家が戻ってくることだろう。麗華の救出が至上《しじょう》目的だったのであれば下手な破壊|行為《こうい》、暴力《ぼうりよく》行為を極力《きょくりょく》避《さ》けていたのはわかるが――
『きれい』というのは物理的な話だけではない。なんだかこう、丸く収まりすぎる。自業《じごう》自得《じとく》とはいえ事件の全責任を負う羽目《はめ》になり、このあとに言語《げんご》を絶《ぜっ》する懲罰《ちょうばつ》が待ち受けているであろう保坂少年は気の毒《どく》だが、それにしたっていつものことという気がするのだ。まるでよくできた映画でも見た後のような、そんな気分を拭《ぬぐ》いきれない。
妙《みょう》なことは事件の顛末《てんまつ》に直接関わることばかりではない。聞けば最後の奇襲《きしゅう》の際《さい》、月村真由が囮《おとり》の役を担《にな》い、麗華が付け入る隙《すき》を作ったのだという。だがしかし、そんな大仕事をあの大人しい少女がどうやってこなしたのか。その件に関して訊《たず》ねても真由は困ったように笑うばかりであり、麗華はいっさい何も問わず、黒ずくめたちも黙《もく》して語らぬまま、結果として峻護も事実を知らずにいる。サキュバスの魅惑《みわく》を用いて黒ずくめたちを虜《とりこ》にでもしたとか? しかし暗闇《くらやみ》の中、二ノ宮家の敷地内《しきちない》の広範囲《こうはんい》に点在《てんざい》していたであろう黒ずくめたちの注意を、サキュバスの魅惑《みわく》で一手《いって》に引くことなど可能なのか? 相手が黒ずくめだから彼女も男性|恐怖症《きょうふしょう》を催《もよお》すことなくサキュバスの能力を存分《ぞんぶん》に発揮《はっき》できた――という理由をつけたところで不十分《ふじゅうぶん》である。黒ずくめたちの中には霧島しのぶをはじめ、女性も何名か含《ふく》まれていたことが判明《はんめい》しているのだから。いや、そもそもこの場にいる黒ずくめたち――ちょっと数が少なすぎやしまいか? 最初に襲撃に気づいた時、彼らの気配の数は十ではきかないと峻護は判断《はんだん》した。二ノ宮家の敷地《しきち》全体に人員を隙《すき》なく配備《はいび》するとすればその三倍は頭数をそろえていたはずである。にもかかわらず、今いる黒ずくめの数は十にも満たない。残りの二十人は今どうしているのだ? すべてが終わった今となっては、このホールに雁首並《がんくびなら》べていてもいいはずなのに。
だがしかし、峻護にはそれよりもずっと優先《ゆうせん》して考えねばならぬことがある。とんだ道化《どうけ》を演《えん》じることになった北条麗華救出部隊の闖入《ちんにゅう》によって停滞《ていたい》させられていた問題、同居人の少女ふたりとの関係をどう形作るかについて。峻護はいよいよ重い腰《こし》をあげ、何かしらのアクションに出なけれぱならない――
「ところで峻護様」
部隊をまとめて今しも邸内を辞《じ》そうとしていたしのぶが、不意《ふい》に声をかけてきた。
「はい。なんでしょう」
「そんなにのんびりしてらしてよろしいのですか?」
「……え? 何が?」
「いえ、よろしいのでしたら構《かま》わないのですが――一応ご忠告《ちゅうこく》を、と」
「はあ。ええと、忠告というのは何を?」
「料理。作らなくてもよろしいのですか?」
「…………………………………………あ」
転瞬《てんしゅん》。
峻護の血の気が、津波《つなみ》がやってくる前の海岸線のごとく一斉《いっせい》に引いていった。
「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
いきなりほとばしった頓狂《とんきょう》な絶叫《ぜっきょう》に、その場にいた全員が数十センチ単位《たんい》で跳び上がり、峻護は己《おのれ》を呪《のろ》った。愚鈍《ぐどん》にもほどがある。目下《もっか》、もっとも己の生命をおびやかしている危機《きき》について失念《しつねん》するとは――
「ど、どうしたんですか二ノ宮くん――」真由が目をまん丸にして問い、
「料理! 料理作らないと!」
「料理ですって? それはまあ確かに、そろそろ夕食の頃合《ころあい》ですが……そんな素っ頓狂な声を上げるほどのことですの? それ」
のどから飛び出そうな心臓を抑《おさ》えるかのように胸へ手を当てながら、麗華が非難《ひなん》してくるのへ、
「姉さんの言いつけなんです! さっき電話があって! 自分が帰るまでに必ず料理を用意しておくようにって、いろいろリクエストされてて! や、やばい、そろそろ帰ってくる時間じゃないか!」
「そ、それは……」
「な、なんてこと……」
絶望《ぜつぼう》を身体《からだ》全体で表現し、今にも膝《ひざ》をつきそうになっている峻護を見て。
真由と麗華が同時に顔を見合わせた。
「――それでは、我々はこれにて失礼いたします」
押《お》し合い圧《へ》し合いしながら台所に駆け込んでいく三人の後ろ姿に一礼し、霧島しのぶとその一党《いっとう》は丘の上の洋館をあとにした。
部下たちを数台の改造《かいぞう》ワゴンに分乗《ぶんじょう》させたあと、しのぶはひとり、丘の坂の中ほどで月明かりに鮮らされている指令車《しれいしゃ》へと向かった。ドアを力まかせに開けてナビシートに身体を滑《すぺ》り込ませると、アイドリングしていたワゴンが静かに前進を開始する。
シートをもたせかけて両足をフロントボードに投げ出すと、ドライバーズシートの黒ずくめがのんきな声をかけてきた。
「や、おつかれさま。首尾《しゅぴ》はどうだった?」
「予定通りだ」
「もう、そんな機嫌《きげん》悪い声ださないでよー」
窮屈《きゅうくつ》なフルフェイスマスクを外した保坂|光流《みつる》がにこにこ顔でたしなめる。
「それにお行儀《ぎょうぎ》も悪いよ。ほら足」
「黙《だま》れ」
目を合わせようともせず、にべもなく言い捨てて、
「それより貴様《きさま》、この私にあろうことか麗華お嬢さまを欺《あざむ》かせるなど……おまけに私の部下たち二十数名があの女[#「あの女」に傍点]にやられて病院送りになる有様《ありさま》だ。これだけの犠牲《ぎせい》を支払《しはら》わされるだけの対価《たいか》がこの作戦にはあるのだろうな?」
「うーん、といってもあのお嬢さまのことだからさ、たぶん今回のことも半分くらいは気づいてると思うけどね。まあでも見返りについては期待してて。ぼくの味方でいる限り、君には必ずそれがある。味方でいてくれる点については心配しなくていいよね?」
「知らん」
ぷい、としのぶはそっぽを向き、ウィンドウの向こうで流れ過《す》ぎる景色《けしき》に目をやった。
「君だってお嬢さまの『お相手』がどんな男か、直接確かめておきたかったでしょ?」
「ふん、三十分あれば余裕《よゆう》で済む作戦をあれだけ引き伸《の》ばした手間《てま》には見合わん見返りだ。貴様《きさま》こそ、我《われわれ》々が稼《かせ》いだ時間を有効《ゆうこう》に使ったのだろうな?」
「使ったよー、もう感謝《かんしゃ》感謝。あの家の構造《こうぞう》をぼく自身の目で知ることができたし、これでいろいろと『保険』が利《き》く。取り越《こ》し苦労になればいいとは思うけど、備《そな》えはしておかないとね。それよりぼくは、君がお嬢さまをどうにかしちゃわないかと心配で心配で、そっちのほうがよっぽどはらはらしちゃった。君の部下に紛《まぎ》れこんで素知《そし》らぬ顔してるよりもずっとね」
「間違いなど起こすものか」ふん、と鼻を鳴らし、「どんな暗闇《くらやみ》であれ、立ち合えばお嬢さまだとすぐにわかる。お嬢さまに稽古《けいこ》をつけたのは私なのだからな。奇襲のセオリーを教えたのも私だ、あの状況なら必ずお嬢さまが私を狙《ねら》ってくることは読める」
「だって、君ってば演技《えんぎ》が上手いんだもん。二ノ宮くんを拷問してる時なんて真《しん》に迫《せま》りすぎててさ、ほんとヒヤヒヤしちゃった。種無《たねな》しにするとか言った時は特に」
「ふん」
半分以上は本気だった、とわざわざ言ってやる必要もあるまい。
「それにお嬢さまと真由さんがそこそこ和解《わかい》できたのもよかったね。少なくとも今の時点であのふたりがいがみ合うのは得策《とくさく》じゃないもの」
「さして狙《ねら》ってもいなかったことを鬼《おに》の首を取ったように言うな」
「あはは。でもさ、君だって思いがけず見ることができてよかったじゃない? 『神戎《かむい》』ってものの一端《いったん》をさ」
神戎――か。保坂に気づかれぬよう、しのぶはその単語を口の中だけで転がした。彼女にすらも遠いその言葉が意味するところの真実の意味。練磨《れんま》の部下たち二十数名を瞬《またた》く間に戦闘不能《せんとうふのう》にした超人的《ちょうじんてき》な身体《しんたい》能力ですらも、その一端《いったん》でしかないのだろう。不用意《ふようい》に首を突《つ》っ込《こ》み、はたして吉と出るのか凶と出るのか。
「――ところで今回の作戦の事後《じご》処理《しょり》だが。私のほうは問題ないが、貴様の施《ほどこ》した小細工《こざいく》は貴様自身で処理できるのだろうな?」
「だいじょうぶ、そんなところでヘマはしないよ。お嬢さまと真由さんの携帯《けいたい》に仕掛《しか》けておいた細工はあとできっちり外しておくから心配しないで。それよりさ、君の部下たちはどう思ってるの? 今回の作戦について」
「もちろん、ひとり残らず疑念《ぎねん》を持っているさ。私の部下は優秀な者たちばかりだからな。それでも何も言わずついてきてくれたのだ」
今回の作戦は完全に極秘《ごくひ》裏《り》に進めた。万一の漏洩《ろうえい》を恐れ、作戦の全体像をあらかじめ知っていたのは霧島しのぶのみ。部下たちは作戦開始数十分前にミッションの全容を知った――その全容ですら、作戦の真の意味は含まれていない。いかな二ノ宮涼子と月村|美樹彦《みきひこ》でも、作戦を事前《じぜん》に察知《さっち》することは不可能《ふかのう》だったろう。
「とはいえ、相手はあの[#「あの」に傍点]二ノ宮涼子と月村美樹彦だ。我々がいかに行動したかなどは、そのほとんどをとっくに知るところではあるだろう」
「でも、ぼくがここにいたことを涼子さんも美樹彦さんも知らない。もうひとりのぼくは確かに別の場所にいて[#「もうひとりのぼくは確かに別の場所にいて」に傍点]、あのふたりの監視網の下にいるはずだからね[#「あのふたりの監視網の下にいるはずだからね」に傍点]。これはぼくらにとって数少ないアドバンテージのひとつなんだ。大事《だいじ》にしないと」
「それはいいとしよう。だが、いかにも独断専行《どくだんせんこう》がすぎるのではないか? お嬢さまのために働くべき我々が、そのお嬢さまをないがしろにしているみたいではないか、こんなやりかたでは」
「問題ない問題ない。『どんな手を使っても』っていうお嬢さまの言質《げんち》も取ってあることだしね。だいぶ前に」
「それは貴様お得意の詭弁《きぺん》で引き出した言質か?」
「疑《うたが》いすぎだよー。ぼくはお嬢さまにほんとうにそう言われたんだ。それとも――」
相変わらずのにこにこ顔で、しかし目だけは剣呑《けんのん》な色に光らせて、保坂は言った。
「しのぶはさ、お嬢さまに対するぼくの忠誠《ちゅうせい》まで疑《うたが》うつもり?」
「疑わない」
ドライバーズシートに顔を向け、燭《らん》と光る猫の目で強い視線《しせん》を放つ。
「お嬢さまのために生き、お嬢さまのために命を捨てる。光流、おまえと私はそのために在《あ》る。ちがうか?」
「だよね。これからもぼくたちでしっかり彼女を支えていこうね」
「当然だ。麗華は私が護《まも》る」
ふたたび視線《しせん》を外して、しのぶは己《おのれ》の志《こころざし》をあらためて告《つ》げた。表に出すぎた決意のために、まるで怒っているような顔で。主従《しゅじゅう》の関係とは無縁《むえん》の、物心《ものごころ》つくころから一緒《いっしょ》に育った幼《おさな》なじみに対する無数《むすう》の想いが、そのひとことに集約《しゅうやく》されていた。
「――もっとも光流、おまえなんぞには期待《きたい》していないがな。麗華の面倒《めんどう》は私と部下たちだけで事足《ことた》りる」
「あ、ひどいなあ。自分だけでどうにかしようとするのって、しのぶの悪いくせだよ?」
主人よりもさらに付き合いの古い幼なじみの少年が忠告《ちゅうこく》した。
「ふん、貴様こそ事あるごとに小細工に走ろうとする悪癖《あくへき》を何とかしたらどうだ? 策士《さくし》は策に溺《おぼ》れる、という至言《しげん》もあるぞ?」
「あれれ? 心配してくれてるのかな?」
「ばか、誰が貴様の心配など……」
首をほとんど関節《かんせつ》の限界《げんかい》まで横に向けて、ごにょごにょと毒《どく》づくしのぶ。保坂はそんな少女に忍び笑いを洩《も》らしてから、
「さて。それじゃあ今日はちょっとゆっくり走ってさ、ふたりでドライブデートとでもしゃれ込もうか?」
「ば、ばか者! 私は忙《いそが》しいのだ―― 貴様などに付き合っている時間など――」
「まあまあそう言わず。だってほら、このあとのぼくってさ、お嬢さまのきっつーいお仕置《しお》きを受けなきゃならないんだよ? その前に少しくらいは楽しいことをしたっていいんじゃない?」
「貴様が立案《りつあん》した作戦で、貴様自身が自分にその役を振《ふ》ったのだろうが。……ところでほんとうにだいじょうぶなのか? 麗華のやつ、かなり本気でキレていたが」
「だいじょうぶだいじょうぶ。病院はもう手配してるから。あ、そうだ、ラジオつけていい? これって仕事用の車だからさ、他に音楽聞けそうなのないんだよねー」
「……。マゾめ」
勝手《かって》にしろ、と付け加えてもう一度そっぽを向き直した時、ラジオの時報《じほう》が作戦終了予定時刻ちょうどを告げた。
「――終わったようね」
太平洋上空、高度およそ三万フィート。
プライペートジェットのラウンジでテキーラのグラスを舐《な》めながら、二ノ宮涼子が呟《つぶや》くともなく呟いた。
「保坂くん、彼なりのやりかたでいろいろ動き回ってるみたいねえ。あんまりわたしたちの邪魔《じゃま》にならなければいいけど」
「心配ないさ。ああ見えて彼は節度《せつど》を心得《こころえ》ている少年だ」
と、こちらは着流《きなが》し姿《すがた》で刺身《さしみ》を肴《さかな》に焼酎《しょうちゅう》をやっている月村美樹彦。
「僕たちを敵に回す無意味《むいみ》さもよく知っているし、妙な真似《まね》はするまい。よしんば妙な真似ができたとしてもその時に警告《けいこく》すれば事足りるだろう。彼はまだ僕たちのいる場所からは遠い」
「だといいけど」
気だるげに窓の外へ視線を向ける涼子に微《び》苦笑《くしょう》して、
「君は放任《ほうにん》主義に見えて、その実は極《きわ》めて繊細《せんさい》な人材教育のプランを立てるひとだからね。気苦労《きぐろう》も多いだろうな」
「そうかしら」
「ほんとうは彼らの成長していくさまを誰よりも近くにいて見守りたいだろうに」
「都合《つごう》よくわたしが登場して救いの手を差し延《の》べていたら成長がないでしょう? わたしは『かわいい子には旅をさせろ』という格言《かくげん》の意味を正しく理解しているの」
「つまり自分の世話焼《せわや》きな性格は自覚《じかく》しているわけだね?」
「うっさいわね」
テキーラを一気にあおり、涼子は目を据《す》える。
「あんたこそどうなのよ? 少しは心配にならないわけ?」
「僕は自分の手の届かないところにある事象《じしょう》を指をくわえて眺《なが》めていることに慣《な》れているんだ。君より少しだけね。それより僕の気になるのはむしろ、僕らが二ノ宮家とその敷地《しきち》すべてを使って設計《せっけい》したアトラクションを彼らが楽しんでくれたかどうかの方なんだが。あれは一発芸だからね、初回でウケを取れないと苦労した甲斐《かい》がない」
「まあ成功なんじゃない? あそこまでスリル万点なうえに安全も完壁《かんべき》に配慮《はいりょ》したアスレチックコースなんて、百年|経《た》ったってふたつと現れないわよ。思いがけず、真由ちゃんと麗華ちゃんが打ち解《と》けるきっかけにもなってくれたし」
「ふむ、そうだといいんだが。ところで涼子くん、そろそろ峻護くんに与えた懲罰《ちょうばつ》を解除《かいじょ》してやってはどうだい? 今ごろヘンな汗《あせ》を流しながら君のリクエストに応《こた》えるべく、背水《はいすい》の陣《じん》を敷《し》いて奮戦《ふんせん》しているころだろう。僕らが今日は家に戻《もど》らないことをそろそろ教えてあげないと気の毒だ」
「いいのよ。間抜《まぬ》けにもあの程度《ていど》の連中に遅れをとったんだから。このくらいの罰は与えられて当然」
「今の彼にしては大健闘《だいけんとう》だったと思うんだがね……というより君、心配のあまりこらえきれたくなって電話したはずなのに、あべこべに罰を与えて電話を切ってしまうんだから。そのひねくれっぷりにも困ったものだなあ」
「うっさい。汗水たらしてご馳走《ちそう》作って、わたしが帰らないと知ればそのご馳走はあの子が食べ放題《ほうだい》なんだからいいでしょ。わたしたちの分までたっぷり楽しめるわ」
「神経《しんけい》のすり減《へ》らしすぎで食欲を失ってなければいいんだがね。彼に必要なのはおそらく、栄養たっぷりの美食《ぴしょく》よりも口に苦い胃薬《いぐすり》のほうだろう」
「うっさい。うっさいうっさいうっさーい」
両手をバンザイさせて会話を放棄すると、涼子はそのままビロード張《ば》りのソファに寝転がる。少々|酔《よ》ったのだろう、しばらくするとそのまま静かに寝息《ねいき》を立て始めた。
「――麗《うるわ》しの欧州に到着《とうちゃく》するまで、しばしの休息《きゅうそく》を」
子供のように寝こけている相棒《あいぼう》に毛布《もうふ》をかけてやってから、美樹彦は焼酎のグラスに新しい中身を注《そそ》ぐ。
「それでは僕も、君に倣《なら》ってフテ寝するとしようかな」
夢の世界をたゆたう涼子に乾杯《かんぱい》の仕草《しぐさ》をしてから、グラスの中身を一口で飲み干《ほ》した。
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其の六 状況開始
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食堂からテラスに出ると、涼気《りょうき》を増《ま》した空気の清冽《せいれつ》さをいっそう強く肌《はだ》に感じた。昼の太陽に炙《あぶ》り出された洋館はどうしても熱がこもる。ありったけの窓《まど》を開け放しても、|二ノ宮《にのみや》家の中にいると多少なりとも息苦しさを覚えずにはいられないのだ。
この家に来てからずっと聞こえている気がする虫の声が、今日も雑木林《ぞうきぱやし》の全方位から届《とど》いてくる。月明かりに照《て》らされて思い思いの音楽を披露《ひろう》する彼らの存在が、遠い異国《いこく》ではなく生まれた国にいるんだな、という実感《じっかん》を月村《つきむら》真由《まゆ》の内に湧《わ》かせた。
人生の中でもっとも長い記憶をつづってきた、あの石の館では聞かれなかった音と調子《ちょうし》。
(ここにくることができて、ほんとうによかった)
心から真由はそう思う。
そして、もっともっとそう思えるようになりたいと思う。
そのために、やるべきことが彼女には無数にあった。いくつもいくつも。
そのうちのひとつを、これからやろうと思う。
(ちゃんとした自分にならなきゃ)
握《にぎ》りこぶしを固め、深呼吸《しんこきゅう》をひとつした。大きく、だけど静かに。緊張《きんちょう》している自分を目の前にいる相手に証明してしまうのは、なんだか悔《くや》しいので。
テラスを囲《かこ》む白い手すりの前に立っているメイド服|姿《すがた》が、雑木林の向こうにかかる月にじっと視線《しせん》を向け、真由に形のいい背中のラインをさらしている。ひょっとすると待っていたのかもしれない、と思う。いやたぶん待っていたはず。このひとはそういうひとだ。きっと真由が一歩を踏《ふ》み出す気になるまで、いつまでも待っていたにちがいない。この場所を選んだのも彼女の思いやりだろう。姉がいつ帰ってきてもいいだけの準備《じゅんび》をし終えた後、峻護《しゅんご》は過労《かろう》により自室で寝込《ねこ》んでしまっている。彼が横になっている部屋からは、ここでの話し声は聞こえないはずだった。
そこまでしてもらって、まさか応《こた》えないわけにはいかない。もとより配慮《はいりょ》をされなかったとしても覚悟《かくご》はできている。
もういちど真由は大きく深呼吸した。風はなく、しかし空気は涼《すず》しい。胸いっぱいにそれを吸い込んでまぶたを閉じ、気持ちを整えてから名前を呼んだ。
「麗華《れいか》さん」
呼ばれた少女がゆっくりと振《ふ》り返る。
「何かしら」
と彼女は言った。何の気負《きお》いもなく。年齢《ねんれい》に似合《にあ》わない知性と理性をたたえた瞳《ひとみ》で。
令嬢《れいじょう》にはいくつもの心当たりがあるだろう。だが真由の用件がそのうちの『どれ』かま
ではわかるまい。それだけ真由の抱《かか》えてしまった懸案《けんあん》は多い。
真由は黙《だま》ってポケットに手を入れ、『用件』を取り出した。
「これ、お返しします」
両手に乗せて差し出したのは、白いレースのハンカチ。何度洗っても落ちない薄茶色《うすちゃいろ》い血痕《けっこん》のついた、月村真由の罪《つみ》。そして罰《ばつ》。
「――どういうことかしら?」
麗華が訊《き》いた。ただ静かに。
「言い訳《わけ》はしません。何を言われても仕方《しかた》ありません。ただこれをお返しして、お礼をしたかったんです。それと、あやまりたくて」
ハソカチを差し出したまま、真由は深く頭を下げた。
「やさしくしてくれてありがとうございました。それと、みっともない真似《まね》をしてごめんなさい」
頭を下げたままぎゅっと目を瞑《つむ》り、返答を待つ。
だが判決《はんけつ》を下すべき少女からは何らの反応《はんのう》もない。
「あの、わたし……」
焦燥《しょうそう》が芽生《めば》え、一秒ごとに倍々ゲームの要領《ようりょう》でふくらんでいく。額《ひたい》に汗《あせ》が浮《う》き。風のない空気に見限《みかぎ》られ、うっすらと粒《つぶ》になって肌《はだ》を伝う。
「あの、わたし、麗華さんのことをどうしても敵としては見られないし、それよりもすごい尊敬《そんけい》してて」
沈黙に耐えられず、頭を下げたまま思いついたままに言葉を並《なら》べる。
「麗華さんってきれいだし、何でもできるし、実家もすごいし、みんなに慕《した》われてるし、あの、自分でも何を言ってるのかわからないんですけど、もともと麗華さんに刃向《はむ》かったのはわたしみたいな感じなんですけど、でも」
それでも返答はなく、真由はいよいよ固く目を閉じて、
「あの、だからわたし――ふえっ?」
いきなりだった。
頭の両側をはさまれ、ぐいっと持ち上げられる感覚。
角度の上がった視線《しせん》が捉《とら》えたものは、糸みたいな目つきでじっとこちらをにらみ付けている麗華の顔。
そして。
「いひゃ、いひゃひゃひゃひゃひゃ!」
側頭部《そくとうぶ》を支《ささ》えていた両手がほっぺたをつまみ、そのままひねり上げていた。思いっきり。
それはもう、肉が引きちぎられるかと思うような強烈《きょうれつ》な痛みだった。おまけにほっぺたを拘束《こうそく》されているために舌《した》の回転がおぼつかず、『痛い』とすら訴《うった》えられない始末《しまつ》。
そんな涙目《なみだめ》の真由に鼻先をくっつけると、北条《ほうじょう》麗華は大きく息を吸《す》い込んで、
「この大ばか者!」
鼓膜《こまく》がキーンとなるほどの怒声《どせい》を発した。
大声に真由が目を回しても、麗華はなおも容赦《ようしゃ》がない。つねり上げたほっぺたを上下左右に、念入《ねんい》りに、ぐにぐにとこねくり回し、真由にあわれな悲鳴《ひめい》をさえずらせる。
「あなたそれでも女ですか! かつてわたくしをも恐れさせた底力《そこぢから》はどこへやったのです! このくそ暑《あつ》い季節に冬眠《とうみん》でも始めてしまったのっ?」
「れいかひゃん、いひゃい……」
「あなた、自分のやっていることの意味がおわかり? あなたの人間的|価値《かち》が下がるということはすなわち、あなたに恐れをなしたわたくしの評価《ひょうか》をも激減《げきげん》させるのですわよ! その事実《じじつ》をちゃんと認識《にんしき》していらっしゃる? あなた、そうやって自分を貶《おとし》めることによってわたくしをも道連れにしょうという魂胆《こんたん》なのかしら!」
「ひょ、ひょんな……ちがいみゃふ……」
「だったら!」
ひときわ思いっきりつねり上げてからようやく手を離《はな》し、
「もっとしゃきっとなさい。あなたがそんな情けないようだと、あなたをライバルとしてきたこのわたくしの立場がないじゃないの」
「ら……らいぼる……?」
跡《あと》になりそうなほど腫《は》れたほっぺたをさすりながら、真由が問い返した。
「何? このわたくしがあなたのライバルでは不足だとでも?」
たちまち険《けん》を増した麗華の目に射抜《いぬ》かれ、あわててぶんぶん首を振る。
「よろしい。それではわたくしの結論《けつろん》を申《もう》し上げます」
大して身長の変わらない真由を、それでもはっきりと見下ろす視線で、
「『貸《か》しを捨《す》て置き、恩《おん》を重んじよ』――それが我《わ》が北条家の家訓《かくん》のひとつ。このハンカチは謝罪《しゃざい》の証《あかし》として受け取り、過去《かこ》のことは水に流しましょう。ただし! それはあくまでも一時的な処置《しょち》と心得《こころえ》なさい。あなたが少しでもわたくしの好敵手《こうてきしゅ》としての価値《かち》を損《そこ》ねれば、たちどころにあなたの罪状《ざいじょう》はよみがえり、あなたに災《わざわ》いを為《な》すことでしょう」
そう締《し》めくくると麗華は「どうだわかったか」と言わんばかりにふんぞり返り、真由の応答《おうとう》を待つ体勢《たいせい》に入った。
「ええと……」
まだほっぺたをさすりながら真由は考える。
なんだかよくわからない理屈《りくつ》をこねられたような気がするが、要《よう》するに。
自分はこの少女に、何がしかの存在意議《そんざいいぎ》を認められたということなのだろうか。
「ええと……わたしは、麗華さんの、ライバル?」
「なにか文句《もんく》でも?」
「それで、わたしのしたことは許してくれる、と……」
「あくまで暫定的《ざんていてき》な処置《しょち》であることをお忘れなきよう」
「――あは」
ようやく、真由のくちびるがほころんだ。なんだかとてもうれしい気がした。ライバルというからには敵同士には違いないのだろうけど、それでも以前《いぜん》と比《くら》べれば格段《かくだん》にいい感じだ。北条麗華と出会ってもうずいぶん経《た》つような気がするけど、その間ずっともやもやしていたものが、台風《たいふう》の後の青空のように晴れ渡ったように思う。
これでようやく、問題がひとつ解決《かいけつ》だ。
「麗華さん、わたしうれしいです。わたし麗華さんのことほんとうに尊敬してたから、だからたとえ敵同士だったとしても、もっとお互《たが》いにいろいろ知ることができたら――」
「……うふ」
と。
興奮《こうふん》気味《ぎみ》に語る真由に水を差すような笑いが、どこかから聞こえた。
「うふふ……ふふ、あははははははははははは! ああおかしい!」
きょとんとする真由の目の前で。
北条麗華が、腹を抱《かか》えて笑っていた。
「あはははは……うふ、ごめんなさいね。でもほんとう、おかしくて……ああ誤解《ごかい》しないでね、嫌いなわけじゃなくて、むしろ可愛《かわい》らしいと思うのだけど。でもほんとう、どうにもならないくらい甘《あま》いわね、あなたも、この子[#「この子」に傍点]も」
――なんだろう。
なんだか、ざわざわした予感《よかん》がする。
「ふふ、ほんとおかしい……ごめんなさいね、あらためて謝罪《しゃざい》するわ」
放埒《ほうらつ》に笑い転げていたそのひと[#「そのひと」に傍点]が、ひどく大人びた微笑《びしょう》をもって真由を見つめてくる。
「わかってるの。あなたたちふたりの関係のなあなあ[#「なあなあ」に傍点]ぶりは非難《ひなん》されるべきものじゃない。非難されるべきはきっとわたしの方なのね。女同士の美しい親愛の情を見せられて失笑《しっしょう》せずにはいられないというのは、感覚がスレきっている証拠《しょうこ》だもの」
心のざわつぎがますます強くなる。この微笑は北条麗華には決して作れないはずのもの――もっとこう、世間《せけん》の何もかもを知り尽《つ》くしたような、艶《あで》やかだけど退廃的《たいはいてき》で虚無《きょむ》的《てき》な、そんな微笑。
いま目の前にいる『彼女』は、真由の知っている北条麗華とは、明らかに違う。
「けど、あまりにおかしすぎてつい外に出てきちゃったわ[#「つい外に出てきちゃったわ」に傍点]。まあタイミングとしては決して悪くはないんだけど」
これは[#「これは」に傍点]、いったい誰なのだ[#「いったい誰なのだ」に傍点]?
「あの……麗華さん、ですよね?」
「ええそうよ[#「ええそうよ」に傍点]。初めまして[#「初めまして」に傍点]、月村真由さん」
矛盾《むじゅん》した肯定《こうてい》を返して、『彼女』はあやうい微笑をいっそう深くした。
あとがき
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです。作者の鈴木《すずき》です。拙著《せっちょ》『ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん』の第五|弾《だん》をここにお届《とど》け致《いた》します。――うん、あとがきの書き出しをこのパターンで始めるのは完全《かんぜん》に定着《ていちゃく》しました。よき哉《かな》よき哉。
それにつけてもこのあとがきなるシロモノ、じつに厄介《やっかい》なものであります。変に生真面目《きまじめ》なことを書けばダメ出しをもらい、かといってウケねらいに走ればたいがいスベり、その両者の間でどうにかバランスを取ろうと悩《なや》んでいるうちに刻一刻《こくいっこく》と絶《し》め切りは迫《せま》ってくる。まるで河豚《ふぐ》の卵巣《らんそう》のように料理のしにくい難物《なんぶつ》であり、現代《げんだい》を生きる作家たち(主に私)にとって常《つね》に頭痛《ずつう》の種《たね》となっているのです。おまけに今回、担当《たんとう》編集《へんしゅう》S氏より『あとがきはたっぷり書いておくれよベイビー』という意の天の声が下されており、相当《そうとう》な枚数の原稿《げんこう》をあとがきで埋《う》める必要《ひつよう》が生《しょう》じました。
というわけで、この稿《こう》はダメ出しとスベりの狭間《はざま》で四苦《しく》八苦《はっく》しつつ原稿用紙のマスに文字を連ねていくという、少々アクロバティックなものとなることが予想されます。とりとめのない話がつづく可能性《かのうせい》が大ですが、お付き合いいただければ幸いです。
カンヅメしてた時の話。基本的《きほんてき》にものぐさにできている私は家にいると仕事をしないため、今回もまた行ってまいりました執筆《しっぴつ》合宿《がっしゅく》。場所は前回と同じ山梨《やまなし》の某《ぼう》温泉町にあるコンドミニアム.相棒《あいぼう》もまた前回と同じ、ファンタジア文庫でご活躍《かつやく》中の風見《かざみ》周《めぐる》ちゃんであります。
ところでこの風見周なるペンネームを持つ可憐《かれん》な美青年《ぴせいねん》ですが。前回の合宿の時もしみじみ思いましたが、これがまあ大した健啖家《けんたんか》でありまして、それはもうよくお食べになります。一例をあげると、我《われわれ》々ふたりはカンヅメ初日に近所のスーパーへ買出しに行ったのですが、そこで風見周ちゃんは三パックもの牛肉をお買い上げになりました。重量《じゅうりょう》で言えばおよそ一キロ……ステーキの一人前がだいたい二百グラムであることを考えれば、その量《りょう》がいかほどであったかは想像《そうぞう》がつくと思います。ですからてっきり私は『冷凍庫《れいとうこ》にでも入れて何日かぶんの食料にするのだな。まったくもって牛肉の好きな男であることだなあ』などとのんきに頷《うなず》いていたものですが、いやはやどうしてどうして。風見周ちゃんは宿に戻《もど》ったその場で買い込んだすべてのビーフをジューシイに焼き上げ、ぺろりと平《たい》らげてしまったのであります。ドンブリ二杯ぶんの米飯といっしょに。
いやあアレは驚《おどろ》いた。誇張《こちょう》なしで私の四倍くらいは平気で食べますからねあの男。いったいカラダのどこにあれだけの量《りょう》を詰《つ》め込んでいるのか、そもそも彼はほんとうに私と同じ地球人なのか……神秘《しんぴ》というものはあんがい身近《みじか》に潜《ひそ》んでいるものです。
そういえば食《く》い物《もの》の話をしてて思い出したのですが、今回の合宿ではトンコツラーメンを作ることができませんでした。前回は寸胴鍋《ずんどうなべ》やら豚《ぶた》の骨《ほね》やらを買ってきて、スープから煮出《にだ》してラーメンを作ったりしていたのです。私も風見周ちゃんもちょっとしたラーメンマニアを自認《じにん》しているだけに(もちろん摂食料《せっしょくりょう》は段違《だんちが》いですが。彼は平気で替《か》え玉みっつぐらい注文します)、これは非常《ひじょう》に残念《ざんねん》な事態《じたい》でした。
ちなみに前回の手作りトンコツラーメンの出来栄《できば》えですが、試食《ししょく》した我々《われわれ》ふたりの結論《けつろん》は『ラーメンって奥が深いよね』というところに落ち着きました。トンコツを鍋にかけた初めのころは『俺ら、ラーメン屋やっても食っていけるんじゃね?』などと大口《おおぐち》叩いていたんですけれどね……まあ、批評家《ひひょうか》としての能力《のうりょく》は必ずしも創作者《そうさくしゃ》としての能力とイコールではない、ということで。
あとひとつ、無用《むよう》とは思いつつ一応《いちおう》確認《かくにん》しておきますが、私と風見周ちゃんは決してアヤシイ関係のふたりではありませんよ? いっしょのベッドで眠ったりとかお風呂《ふろ》にいっしょに入ったりなんてことは、神に誓《ちか》ってありませんから。ええほんとに。
まあもっとも、風見周ちゃんの担当編集であるK女史などは、むしろ積極的《せっきょくてき》に彼と私を『そういう関係』に仕立《した》てたがっているというウワサもちらほら聞き及《およ》びますが、まったく困《こま》ったものです。共にしているのはベッドではなくお布団《ふとん》だし、お風呂にいっしょに入るなんてことはまったくのデマで、せいぜいがシャワーをいっしょに浴《あ》びる程度《ていど》なんですけどね……おっといけない口が滑った。(……いや、ホントに冗談ですよ? 冗談ですからね?)
旅行の話。かつて私が原付《げんつき》での野宿《のじゅく》旅行によく出かけていたことは三巻のあとがきに書いたとおりですが、その中でもっとも死にそうな目にあった体験《たいけん》ベストワン。
北陸《ほくりく》あたりをうろついていた時のことです。基本的《きほんてき》に私の旅行は常に無計画《むけいかく》なのですが、その日も適当《てきとう》に原付《げんつき》を走らせて距離《きょり》を稼《かせ》ぎ、そろそろ日も暮れるかという頃合《ころあい》になりました。さて今日の宿を見繕《みつくろ》わねばならないな、と地図を広げたところ、小京都で知られる某市《ぼうし》が目に止まり、そこで一泊《いっばく》することに。意気《いき》揚々《ようよう》と原付を某市に向けたまではよかったのですが……。
時に、地図というやつには常《つね》に落とし穴《あな》が潜《ひそ》んでいます。紙面《しめん》で見ると目的地《もくてきち》がとても近い距離に見えたり、ごく普通《ふつう》に見える道路《どうろ》が実はとんでもない悪路《あくろ》だったり。
この時がまさにその典型《てんけい》でした。某市にたどり着くまでに峠《とうげ》をひとつ越《こ》えなければならないことは地図を見た時点でわかっていたのですが、ぱっと見はまったく何てことのない平凡《へいぼん》なルートであり、しかもれっきとした国道。せいぜい三十分もあれば抜けられるだろう……と高《たか》をくくっていたらところがどっこい。
仮にも国道なんだからそれなりに広い道だろうと思いきや、田んぼのあぜ道|並《な》みの細い道路。さらには地図で見た限りではぜったいに想像《そうぞう》がつかないほど左右にうねりまくったワインディングロード。おまけにあちこちで崖崩《がけくず》れが発生してそこかしこにこぶし大の岩っころが散乱《さんらん》しているときたもんだ。
道を進むにつれて次第《しだい》に不安《ふあん》を増《ま》していった私ですが、『今さら引き返すのもどうよ? まあこの程度《ていど》なら決して通れない道でもないし、このまま行っちまえー』と旅程を強行《きょうこう》しました。しかしこの判断《はんだん》がまた大ハズレ。悪路《あくろ》に四苦八苦しつつ進んでいるうちに日は暮れ始め、そしてこれは日が暮れ始めてから気づいたのですが、その国道には街灯《がいとう》というものがまったくなく、照明《しょうめい》といえば原付の頼《たよ》りないヘッドライトただひとつ。加《くわ》えて折悪《おりあ》しく雨雲《あまぐも》が垂《た》れ込めてきて雷《かみなり》が鳴《な》り始め、さらには垂《た》れ込めた雨雲が峠をすっぽり覆《おお》ってしまう始末《しまつ》。つまりは視界《しかい》が最悪《さいあく》な上に雷まで発生《はっせい》しているスポットのど真ん中を走行《そうこう》しなければならないわけで。
さすがに『これはいかん』と原付を止め、一時|非難《ひなん》しようとしたのですが……その国道|沿《ぞ》いというのが、立ち寄《よ》れるような店はおろか民家ひとつ、自動《じどう》販売機《はんばいき》ひとつない、『ここってほんとに日本なの?』と疑《うたが》うようなひとけのなさっぷり。むろん、私の原付の他にはただの一台とて通行車両はありません。
どうしたものかと弱り果てていた私をトドメの災難《さいなん》が襲《おそ》いました。ふと耳を澄《す》ませれば、どこからともなく響いてくるけたたましい吠え声……私は戦慄《せんりつ》を覚えました。こちらに向かって一直線《いっちょくせん》に襲《おそ》い掛《か》かってくるのはなんと、よだれを撤《ま》き散らし、目を真っ赤に血走らせた、凶暴《きょうぼう》な野犬《やけん》どもの群れではありませんか。
もはや躊躇《ちゅうちょ》している場合ではありませんでした。やつらが発しているのは明らかに肉食《にくしょく》獣《じゅう》の殺気《さっき》であり、やつらは確かに先祖《せんぞ》である狼《おおかみ》の本性を取り戻《もど》していました。『食われる』とマジで思いました。私はすぐさま原付のスターターをキックし、そこが視界《しかい》の最悪な悪路であることも顧《かえり》みず、全速力で逃走《とうそう》していました。
いやあ、あれは怖《こわ》かった。こうして書いてみると大して怖さは感じられないかと思いますが、あの時は実際死と隣《とな》り合わせでしたよ? 野犬に迫いつかれればアウト、道に転がっている石に引っかかれば事故《じこ》ってアウト、万一《まんいち》にも雷が落ちてくればもちろんアウト。最終的には命からがら峠を抜け、無事《ぶじ》に目的地《もくてきち》にたどり着いたわけですが……まさか現代日本であんなピンチに遭うとは思ってなかった。一寸先は闇、とはよく言ったものです。
読者の皆様《みなさま》もどうぞ、日々の暮らしにご油断《ゆだん》なきよう(無難《ぶなん》っぼくまとめた)。
さて、与太話《よたぱなし》を書いているうちにほどよくぺージが埋《う》まってきたようです。私の個人史上、最長のあとがきとなりました。なんだか大仕事《おおしごと》を果たしたような錯覚《さっかく》に陥《おちい》りつつ、気分よく締《し》めに入ることができます。よき哉よき哉。
今回も最後になってしまいましたが、イラストの高苗《たかなえ》氏、担当のS氏をはじめ、この本に関わって頂いた全ての入たちに満腔《まんこう》の謝意《しゃい》を。そしてこの本を手に取ってくださった皆様に、私から愛の抱《だ》き合わせ販売《はんばい》を。ありがとうございました、どうぞこの次もよろしくお願い致《いた》します。
[#以下省略]
[#改ページ]
TEXT変換者です。
これで9本目です。土曜の朝から夜で出来ました。
ネットラジオやドラマCDを聴きながらやってます。
・・・動画を見ながらというのはたぶん無理です。