ご愁傷さま二ノ宮くん 第4巻
鈴木大輔
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目次
其の一 その日を控えて
其のニ ネバーエバーランドの日 午前の部
其の三 ネバーエバーランドの日 午後の部
其の四 その日を終えて
あとがき
其の一 その日を控えて
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事例その一。於《おいて》、|二ノ宮《にのみや》家の居間。
「抱《だ》いて。お願い」
女は重ねて懇願《こんがん》する。それでも男は首を振《ふ》った。
「いけない、君にも僕《ぼく》にも家庭があるじゃないか。僕は妻を……子供たちを、裏切《うらぎ》ることはできない」
「そんなの親同士が勝手《かって》に決めた政略結婚《せいりゃくけっこん》でしょうッ? わたしとあなたはもう二十年も前から……!」
「すまない。それでも僕は……。鳴呼《ああ》、やっぱり――やっぱり再会すべきじゃなかったんだ、君と僕は」
「いいえ、そんなの許《ゆる》さない。わたしはそんなのが運命だなんて認《みと》めない。わたしは……あの女からあなたを、奪《うば》ってみせる」
緊迫《きんぱく》する空気。見詰《みつ》め合う二人。
やがて男は目を逸《そ》らし、女はそれに乗《じょう》じるように男へしなだれかかった。
冷たい床《ゆか》に添《そ》うた二人。女は濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》で男を見下ろす。男もまた目を逸らすのをやめ、女の眼差しを受け止める。
見詰め合う。
見詰め合う。
「…………」
「…………」
見諸め合――
「あの……月村《つきむら》さん? 次のセリフは……?」
男の問いに女は答えない。妖《あや》しく輝《かがや》く瞳で一心に男を縫《ぬ》い止めている。もはや言葉を交《か》わし合う時は過《す》ぎた、とでも言わんばかりに。
その瞳の前に男の自制心《じせいしん》など薄紙《うすがみ》も同然《どうぜん》。たちまち思考《しこう》は女の魅惑《みわく》に蕩《とろ》け、理性《りせい》は光年単位で男と距離《きょり》を置いた。
「二ノ宮、くん」
「つ、月村さん……」
馬乗りになった女を止めるものは最早《もはや》何もない。女はただ本能《ほんのう》のみに従《したが》い、男を我《わ》が物にせんとくちびるを近づけて――
「ちょっとお待ちなさいっっっっ!」
とうとう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》をブチ切れさせた麗華《れいか》が、狼藩《ろうぜき》を働かんとする二人をひっぺがした。
「黙《だま》って見ていれば好き勝手して……これは訓練《くんれん》なのでしょうッ? もっと真面目《まじめ》にやりなさい!」
「そんな、心外《しんがい》です!」
『特訓《とっくん》』を邪魔《じゃま》された真由《まゆ》が猛然《もうぜん》と抗議《こうぎ》を開始した。
「わたし真面目にやってます! 今の演技《えんぎ》のどこが不真面目だったと言うんですかっ」
「どうみたって行《い》き過《す》ぎでしょう今のは! そもそもあんなのどこにも台本《だいほん》に書いてなかったじゃないのッ!」
「アドリブです! 演技には必須《ひっす》の行為《こうい》です!」
「だったら途中《とちゅう》から『二ノ宮くん』とか呼んでたのは何なのです! 公私混同《こうしこんどう》にも程《ほど》がありますわ!」
「それだけ演技に熱が入っていたということです!」
「とにかく! わたくしが譲歩《じょうほ》するのはこの台本に書いてある行為までです! これでも妥協《だきょう》に妥協を重ねているのですから四《し》の五《ご》の言わず従いなさい!」
「〜〜〜〜っ。二ノ宮くん! 麗華さんが横暴《おうぼう》です! 何とか言ってあげてください!」
「月村さん落ち着いて。あんまり興奮《こうふん》するとまた鼻血が出るよ。ほら、最近多いんだから……」
「これが落ち着いていられますか! だいたい麗華さん、この程度《ていど》で騒《さわ》がれては困《こま》りますよっ。この先にはもっときわどい台本が控《ひか》えているんですからねっ!」
「なっ……こ、これ以上のことまでやるおつもりっ? だめです許《ゆる》しません認《みと》めませんよそんなことは! そもそもわたくし、この行為が男性|恐怖症《きょうふしょう》の克服《こくふく》に役立つかどうかすら認めては、」
「いいえ認めてもらいます認めてもらえなくたってやります! この後はどんどん過激《かげき》になっていって、さ、最終的にはお互《たが》いは、ハダカになって、う、上になったり下になったり、ぐるぐる回転したり、身体《からだ》の普段《ふだん》使わないところを使ったり、そ、それからそれから、……はうっ」
「ほら、言わんこっちゃない……さ、これで鼻血|拭《ふ》いて」
「|ず、ずびぼぜん《す、すみません》……|ほ、ほにはふっ《と、とにかくっ》」
出血を乱暴《らんぼう》にぬぐい、真由は必殺《ひっさつ》の一撃《いちげき》を放った。
「外野《がいや》からああだこうだいちゃもんをつけるだけの人に四の五の言われたくありません! この方法じゃいけないというなら、もっと有効《ゆうこう》なやり方を考えて、その実効性《じっこうせい》を証明《しょうめい》した上で提示《ていじ》してください!」
「くっ……」
道理《どうり》である。こと男性恐怖症克服|対策《たいさく》に関しては、長年男性恐怖症の克服を試《こころ》みている月村真由の言葉の方が説得力《せっとくりょく》を持つに決まっている。
門外漢《もんがいかん》の悲しさかな、そこを突《つ》かれると麗華としては返す言葉がない。歯噛《はが》みしつつ、渋々《しぶしぶ》と沈黙《ちんもく》を余儀《よぎ》なくされる。
*
事例その二。於、二ノ宮家の浴場《よくじょう》。
「二ノ宮くん、わたし気づきました」
「…………? 何に気づいたっていうんだ?」
「はい。わたし、こうして二ノ宮くんと一緒《いっしょ》にお風呂《ふろ》に入るようになってからもう何日も経《た》ちますけど……考えてみればわたしの方から身体を洗《あら》うばかりで、一度も二ノ宮くんに身体を洗ってもらったことがありません。ですから今日からは、」
「ちょっとお待ちなさい月村真由! まさかあなた、二ノ宮|峻護《しゅんご》に自分の身体を洗ってもらおうとか言うんじゃないでしょうね!」
「いけませんか?」
「こ、この破廉恥《はれんち》小娘《こむすめ》、いけしゃあしゃあと、」
「そう言いますけど麗華さん。わたしが二ノ宮くんの身体を洗うのと、二ノ宮くんがわたしの身体を洗うのと、それほど違《ちが》いがあるとは思えません」
「前提《ぜんてい》からして間違っています! そもそもわたくしは、あなたが二ノ宮峻護の身体を洗うことだって認めた記憶《きおく》はありません!」
「……じゃあ、お手本を見せてください」
「? なんですって?」
「お手本です。二ノ宮くんの身体を洗う時、どんなやり方までならセーフなのか。麗華さん自身が二ノ宮くんの身体を洗うことで、わたしに示《しめ》してください」
「ど、どうしてそうなるのよっ。わたくしはただ、」
「またそれですか。麗華さんはずるいです。いいですか、ただ単に浴室《よくしつ》を共にしているだけで男性恐怖症に効果《こうか》があるとは思えません。わ、わたしだって恥《は》ずかしいけど、すこしでも恐怖症克服に効果があればって思って、色々な方法を考えてきたんです。た、たとえばスポンジじゃなくて、じ、自分の身体を使って洗ったりとか。そ、それからう、上になったり下になったり、ぐるぐる回転したり、身体の普段使わないところを使ったり、そ、それからそれから、……はうっ」
「だから月村さん、興奮しすぎだって。ほら、このタオルで鼻血ふいて……」
「|ず、ずびぱぜん《す、すみません》二ノ宮くん。――|ほ、ほにはふっ《と、とにかくっ》」
ずずず、と鼻をすすり上げて、真由は難詰《なんきつ》する。
「麗華さんは口ばっかりです。だいたいにおいて麗華さん、わたしの特訓が行き過ぎないように監視《かんし》する、というお話でしたけど――代案《だいあん》は出さない、お手本は示《しめ》さないでは何のためにそこにいるのかわかりません。邪魔《じゃま》をしに来ただけなら特訓の場から出て行ってください」
「――――っ」
麗華、沈黙。
*
事例その三。於、二ノ宮家、峻護と真由と麗華の相部屋。
「二ノ宮くん、わたし気づきました」
「こ、今度は何?」
「わたしたち、ここしばらくは特訓のために一緒に寝《ね》ていましたけど……これまではお互い、パジャマを着たまま寝てましたよね。でも考えてみれば、特訓のためには服を着たままである必要なんてどこにもないんですよね?」
「…………! ちょっとお待ちなさいッ! あなたまさか、」
「はい、そのまさかです。そして麗華さんが次に何を言うかもわかってます。だから麗華さんもどうぞ一緒のベッドで休んでください。麗華さん確か言ってましたよね? 特訓を監視するためにわたしたちと同じベッドで寝るって。その条件付きだったら特訓を認めるって。わたし確かにこの耳で聞きました。だからどうぞ、麗華さんもご一緒に」
「…………」
*
先日――南の島のバカンスから帰ってきた翌々日の朝、月村真由と北条《ほうじょう》麗華がお互いに宣戦布告《せんせんふこく》して以来|勃発《ぼっぱつ》した紛争《ふんそう》の推移《すいい》は、およそ右の通りである。
あれ以来、真由の方は完全に火がついてしまったらしい。常《つね》に積極的《せっきょくてき》に行動し、常に先手《せんて》先手を打っている。普段《ふだん》おとなしい人間ほど一旦《いったん》肚《はら》を据《す》えると侮《あなど》れない、という見本であろう。これまでの方針《ほうしん》とは打って変わった猪突《ちょとつ》猛進《もうしん》っぷりをあらゆる局面《きょくめん》で発揮《はっき》しつつ、ライバルである麗華を圧倒《あっとう》している。
一方の麗華、こちらは対照的《たいしょうてき》である。清水《きよみず》の舞台《ぶたい》から飛び降りるつもりで月村真由と同じ土俵《どひょう》に立ったにもかかわらず、彼女はそこから先の一歩を一向《いっこう》に踏《ふ》み出せていなかった。
同情すべき点はもちろんある。男性恐怖症の克服という大義名分《たいぎめいぶん》のある真由の方がスタートラインが有利《ゆうり》なのは確かだ。が、麗華とてそんなことは先刻承知《せんこくしょうち》であり、そもそもそれを挽回《ばんかい》せんとする決意表明の宣戦布告だったはずである。にもかかわらず――ほとんど豹変《ひょうへん》といっていい変身ぶりを見せる真由にうろたえるばかりで為《な》す術《すべ》もない。どころかその怯《ひる》みに乗じられ、挑発的《ちょうはつてき》な言動《げんどう》すら許《ゆる》す始末《しまつ》である。
冷静《れいせい》に考えれば反論《はんろん》も対抗策《たいこうさく》も掃《は》いて捨てるほどあるはず。しかしそういったものを施《ほどこ》すべき状況《じょうきょう》は常に、麗華に冷静さを失わせる状況でもあるのだ。何しろ彼女の冷静さを狂《くる》わせる鬼門《きもん》・二ノ宮峻護と月村真由が常に彼女の相手となるのだから。結局《けっきょく》のところ麗華が取っている行動といえば、峻護と真由の間に割って入り、あれはダメだこれはダメだと喚《わめ》いているだけなのである。
よろしい。迂遠《うえん》な描写《びょうしゃ》はやめ、今の彼女にふさわしい評言《ひょうげん》をひとことで総括《そうかつ》してしまおうではないか。
すなわち『北条麗華はまったくもって口ほどにもなかった』――と。
*
麗華当人もそのことは痛《いた》いほど自覚《じかく》している。北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》、神宮寺《じんぐうじ》学園生徒会長、その他無数の肩書《かたが》きとそれに見合った実力・潜在能力《せんざいのうりょく》を有《ゆう》する麗華にしてみれば、身体《からだ》中の穴から血を噴《ふ》いて憤死《ふんし》しそうになるほど屈辱的《くつじょくてき》な事態《じたい》である。なによりもその屈辱的状況が自分の不甲斐《ふがい》なさから発しているという事実が、彼女を激《はげ》しく苛立《いらだ》たせていた。
もちろんわたくしにとって二ノ宮峻護などはミジンコ以下の存在|意義《いぎ》しか持たない男だけど――と、いつもの前置きをしてから麗華は考える。態勢挽回《たいせいばんかい》を期《き》した宣戦布告の結果がこのざまではお話にならない。どうにかして状況を打開《だかい》する必要がある。
でも、どうすれば状況を打開できるというのだろう……?
と、このあたりで早くも彼女の思考《しこう》は足踏《あしぶ》みしてしまう。他《ほか》のことはいざ知らず、色恋沙汰《いろこいざた》に関してだけは破滅的《はめつてき》に不器用《ぶきよう》な麗華である。さらには十年という長きにわたって峻護への想《おも》いを誰《だれ》にも口にせず胸に秘《ひ》めてきた彼女にとって、その想いを誰かに打ち明けて相談《そうだん》に乗ってもらう、という選択肢《せんたくし》も眼中《がんちゅう》にない。
こまった。
いったいどうすれば二ノ宮峻護を振《ふ》り向かせることができるのだろう?
考えても考えても妙案《みょうあん》は出ず、考えれば考えるほど泥沼《どろぬま》の深みに嵌《は》まっていく。そうする合間《あいま》にも月村真由は攻勢《こうせい》を強め、強引《ごういん》とも無茶《むちゃ》とも言えるやり方で、しかし確実に二ノ宮峻護との距離《きょり》を縮《ちぢ》めているように見える。それに対して麗華は負け犬の遠吠《とおぼ》えよろしく外野からキャンキャン吠え立てるだけ。何もできない不甲斐《ふがい》なさに苛立ち、その苛立ちが冷静な思考を奪《うば》っていく悪循環《あくじゅんかん》。苛立ちのあまり無意識《むいしき》のうちに親指の爪《つめ》を噛《か》むことが多くなった。
そんなこんなの期間が続き、そろそろ噛めるだけの爪もなくなってきたころ。ふと麗華の目に留まった書類《しょるい》がある。
それは彼女の執務机《しつむづくえ》に山のごとく積《つ》み重なった事業《じぎょう》計画書の一枚だった。それを何の気なく眺《なが》めているうち、彼女にしては起死回生《きしかいせい》の一策《いっさく》が脳裏《のうり》に浮《う》かび上がったのである。
*
季節はいよいよ真夏に差し掛かり、秋の気配はいまだ遠い夜。
「二ノ宮峻護、あなたに話があります。ちょっと顔をお貸《か》しなさい」
思い立ったが吉日《きちじつ》。各所への根回《ねまわ》しを終えると、麗華はその足でターゲットを呼びつけた。消灯前《しょうとうまえ》の二ノ宮家、台所でのことである。
「…………? お話、というのは?」
朝食の仕込《しこ》みをしていた峻護が振《ふ》り返り、首をかしげる。怪訝《けげん》そうな顔なのは、常に行動を共にしているはずの付き人・保坂《ほさか》少年の姿がないゆえだろうか。
麗華は素早《すばや》く周囲を確認《かくにん》する。折《お》りよく月村真由の姿はない。
「――喜びなさい二ノ宮峻護。今日はあなたに耳寄《みみよ》りな話を持ってきました」
いいアイデアを得《え》た時の勢《いきお》い、というものであろうか。普段であればひどく高いはずのハードルをあっさり飛び越《こ》え、麗華はすぐさま切り出した。
「明日の休日、あなたには何の予定もありませんでしたわね?」
「はあ、まあ。やっておきたい家事《かじ》はたくさんありますが」
「よろしい。暇《ひま》なのですわね」
こほん、と咳払《せきばら》いし、両手に腰《こし》を当てて。
令嬢《れいじょう》はその辞令《じれい》を申《もう》し渡《わた》した。
「二ノ宮峻護。明日一日、あなたにわたくしの随行《ずいこう》を命じます。心するように」
「……はい?」
「これを御覧《ごらん》なさい」
キョトンとする相手を黙殺《もくさつ》し、抱《かか》えていた書類《しよるい》を突《つ》き出す。
「都下にコンツェルン傘下《さんか》の娯楽施設《ごらくしせつ》がいくつかありますが、そのうちのひとつ『ネバーエバーランド』が現在、看過《かんか》できぬ赤字を計上《けいじょう》し続けています。可及的《かきゅうてき》すみやかにこれを黒字に転換《てんかん》、場合によっては閉鎖《へいさ》を視野《しや》に入れた経営|改善《かいぜん》を施《ほどこ》す必要あり、と下部から報告が上がってきました。そこでわたくし自らが現地に足を運び、そのための方策《ほうさく》を練《ね》ることとなったのです。またこの件はあくまで内々に進め、関係各所には一切通知《いっさいつうち》しない方針《ほうしん》です。ですが何分急な話であり、生《は》え抜《ぬ》きの部下に手空《てす》きの者がいません。随員《ずいいん》を最小限にとどめることは予定の範囲内《はんいない》ですが、わたくしをサポートする者がひとりもいないというのは差し障《さわ》りがあります。そこで――」
戸惑《とまど》いつつも書類に目を通している峻護を見据《みす》え、麗華はさらに続ける。
「年がら年中暇そうにしているあなたに白羽《しらは》の矢が立ったというわけです。まったく頼《たよ》りにならないことは百も承知《しょうち》ですが、まあ荷物持ち程度《ていど》には使えるでしょう。コンツェルンとは縁《えん》もゆかりもないあなたを連れて行くというのも、一種のカムフラージュにならなくはないでしょうし。薄暗《うすぐら》い家の中でちまちま家事をしているよりは外を出歩いた方が健康的《けんこうてき》だろう、というわたくしの温情《おんじょう》でもあります。理解できて?」
「…………」
「その書類は資料《しりょう》として渡しておきます。一通りは読み込んでおきなさい。役立たずなのは承知の上とはいえ、仮にもこのわたくしの随員として行動を共にするのです。くれぐれも恥《はじ》をかかせぬよう」
言い終えると両腕《りょううで》を組み、胸をいっぱいに反《そ》らせて、
「何か質問は?」
「……随員は最小限とのことですが、つまりおれと北条|先輩《せんぱい》の二人だけで行くということでしょうか?」
「何かご不満でも?」
ぷい、とそっぽを向き、そっぽを向いたままチラリと峻護を盗《ぬす》み見る。そういう質問《しつもん》が来ることは折《お》り込《こ》み済《ず》み、何を訊《き》かれたって答えられるよう何十通りもシミュレーションしてきたのだ。さあ、次はどんな問いかけが来るのかしら……?
峻護は書類に目を落とし、何ごとか考えているようだったが――思いのほかその時間は短かった。
「わかりました。明日の開園前《かいえんまえ》、現地《げんち》の正面ゲートで待ち合わせですね?」
「…………。え?」
「いえ、ですから。ここに書いてある通り、待ち合わせは明日の開園前、現地の正面ゲートでいいんですよね?」
「え? ええ、確かにそうですけど……」
「了解《りょうかい》です。じゃあ先輩、明日はよろしくお願いします。おれはもう少し仕事が残ってるので、それを済ませてから寝《ね》ることにします」
「そ、そう? じゃあ、ええ、うん。おやすみなさい」
仕込みの作業《さぎょう》を再開した峻護を残し、麗華は台所を後にする。
どことなくぼんやりした足取りで廊下《ろうか》を行きながら、彼女は今しがた起こった出来事《できごと》を検証《けんしょう》し始めた。
――ええと、つまり。これはどういうこと?
勢《いきお》いに任《まか》せて行動してしまったけど、上手《うま》くいくとは思ってなくて。だってあの男は月村真由の傍《そば》にずっといる義務《ぎむ》があるわけだし、この家の家事責任者だから実はけっこう仕事は忙《いそが》しいし、その仕事から離《はな》れるには姉である二ノ宮|涼子《りょうこ》の了解を取らなくてはいけないはずで、それを取るためには紆余曲折《うよきょくせつ》があるはずで、それに優柔不断《ゆうじゅうふだん》だし、急な話だったし、だから資料なんてのも半分|適当《てきとう》にでっちあげたもので、要《よう》するに二ノ宮峻護と少しでもコミュニケーションを取れればと思っていただけで、それ以上は望んでなくて、つまりつまりその先のことは何も考えてなくて――
静かに混乱を始めた頭で、令嬢《れいじょう》はようやく結論《けつろん》にたどり着く。
――ええと、ええと、つまり。要点《ようてん》を纏《まと》めると。
もちろんそれは自分で言い出したことだけど。
明日わたくしは、二ノ宮峻護と二人だけで遊園地に行く、ということ……?
*
「保坂! 保坂!」
「はいはい、何ですかお嬢さま」
「着ていくものはこのカクテルドレスでいい?」
「んー、やめたほうがいいと思いますよ」
「そ、そう? やっぱり和装《わそう》にするべきなのかしら。じゃあ振袖《ふりそで》の仕立《した》てを明日までに大至急《だいしきゅう》、」
「んー、別に新しいのを作る必要もないと思うなあ。というか振袖もやめときましょうね、そんなもの着ていけばかえって恥をかきますから。それにどの道お嬢さまの着ていける服というのは――」
が、もはや麗華は下僕《げぼく》の言葉を耳に入れていない。召《め》し物《もの》の選択《せんたく》をそっちのけにし、今度は明日|巡《めぐ》るべきアトラクションのコースを検討《けんとう》し始めたからだ。いやはや目まぐるしいことである。
(それにしてもまあ、お嬢さまにしてはなかなか思い切ったねえ)
部屋に戻《もど》ってくるなり右往左往《うおうさおう》し始めた主人を、保坂は先ほどからにこにこ見守っている。部屋、というのは二ノ宮峻護と月村真由と寝起きを共にする部屋でなく、元・麗華の個室であったスペースだ。『執務等の都合《つごう》から二部屋使用する必要あり』という口実《こうじつ》でこちらも併用《へいよう》しているのだが、それはまさしく口実でしかない。実情は二ノ宮峻護と同じ部屋にいても月村真由の独走《どくそう》を許すばかりで居《い》たたまれなくなったからだが――そんなしみったれた感傷《かんしょう》も今の彼女には無縁《むえん》であろう。
「それでお嬢さま」
「なんですの? わたくしは今いそがしいのです」
「当然、付き人であるぼくは明日もついていくわけですが。今回、ぼくはどういう役割《やくわり》を請《う》け負《お》えばいいんでしょう?」
ものすごい勢いでガイドブックをめくっていた麗華の手が止まった。
「お嬢さま?」
「――あなたは、」
沈黙《ちんもく》は一瞬《いっしゅん》。再びガイドブッグと首っ引きになりながら、令嬢はこう宣言《せんげん》した。
「あなたはついてこなくて結構《けっこう》。別の仕事を命じますから、そちらを果たすように」
おやあ? と保坂は片眉《かたまゆ》を上げた。どうやら彼の主人、今回はほんとうのほんとうに思い切ったようである。
「ぼくは付いていかなくてもいいんですか?」
「そう言ったでしょう」
「ほんとうに?」
「くどいですわよ。明日はあなたにわたくしの代理《だいり》を任《まか》せます。いかなる理由があろうとわたくしを呼び出したりはせぬよう、徹底《てってい》なさい」
「――なるほど、わかりました。まあそりゃあそうですよねえ、何しろお嬢さまの初デートなんだもの。ぼくなんかがついていったらお邪魔虫《じゃまむし》ですよねえ」
「保坂」
振《ふ》り返り、ぎろりとひと睨《にら》み。
「勘連《かんちが》いしているようだから確認《かくにん》しておきますが、これはデートなどと称《しよう》するものとは一線《いっせん》を画《かく》する、わたくしのれっきとした公務《こうむ》です。そして今回の公務は赤字|娯楽施設《ごらくしせつ》の経営《けいえい》再建であり、そのためには運営《うんえい》の実情《じつじょう》を知らねばならず、それを知るためには実際《じっさい》に運営されているサービスを体験《たいけん》することが必要|不可欠《ふかけつ》なのです。それを踏《ふ》まえた上で考えるに、こういった娯楽施設にとって家族連れと並《なら》んでもっとも集客《しゅうきゃく》を見込める対象は相思相愛《そうしそうあい》の関係にある男女である、と断言《だんげん》して差し支《つか》えないでしょう。もちろんわたくしと二ノ宮峻護がそういう関係にあるわけではありませんが、ここは便宜的《べんぎてき》に恋入《こいびと》同士であると仮定し――もちろんあくまで仮定の話ですわよ?――その通りにシミュレートした行動を取ることで、より顧客《こきゃく》に近い視点《してん》から運営を評価《ひょうか》することができるのです。理解できて?」
「なるほど。わかりました」
適当《てきとう》に生返事《なまへんじ》をしておき、保坂はなおも食い下がる。
「ん〜、でもほんとに付いてっちゃダメですか? ぜひとも見物《けんぶつ》したいんだけどなあ、お嬢さまの初デー」
追い出された。
「あいたたた……ひどいなあ」
けたたましい音を立てて閉じられた扉《とびら》に苦笑《にがわら》いしつつ、廊下につまみ出された保坂は次善《じぜん》の策《さく》を考える。
かたくなに同行を拒《こば》む麗華だが、そう簡単には彼女の傍《そば》を離れられないのが保坂の立場である。それにどう考えたって『あの』北条麗華がまともなデートをこなせるはずがない。なおかつこんなスペシャルイベントを見逃《みのが》すなど、北条麗華ウォッチャーの第一人者としての名折《なお》れ。とはいえ主人には念入《ねんい》りに釘《くぎ》を刺《さ》されてしまっている……
「ふむふむ」
状況《じょうきょう》を整理し終えた保坂は次の一手を打つべく携帯を取り出し、コールを始めた。
*
そのころ、峻護の姿はなおも台所にある。朝食の仕込みを終えた彼は調理道具《ちょうりどうぐ》の手入れに精《せい》を出していた。
クレンザーを適度《てきど》にまぶし、愛用《あいよう》の鍋《なぺ》を丹念《たんねん》に磨《みが》いていく。
何か胸のうちにわだかまりがある時。峻護はよくこの作業《さぎょう》をする。こうして一心に手を動かしていると次第《しだい》に心が平《たい》らかになっていく気がするのだ。あるいは彼にとってこれは、武道《ぶどう》の黙想《もくそう》にも似《に》た行為《こうい》なのかもしれない。
万難《ばんなん》を覚悟《かくご》の上で麗華の申し出を即座《そくざ》に受けたことには、もちろん理由がある。峻護にはある決意《けつい》があった。南の島でのバカンス以降《いこう》、彼を常に悩《なや》ませてきた問題に決着《けっちゃく》をつけることである。
現在、峻護を翻弄《ほんろう》する懸案事項《けんあんじこう》はいくつもあるが、彼の間違いはそれらすべてを纏《まと》めて解決しようとしたところにあった。そのことが却《かえ》って彼の行動に楔《くさび》を打ち、問題をずるずると先延《さきの》ばしにする主因《しゅいん》となっている。そのことに気づいた彼は考えた。解決に当たるべき問題をもっと絞《しぼ》らねばならない。では、現在|抱《かか》えている問題のうち最も根幹的《こんかんてき》な問題はどれなのか。最も優先《ゆうせん》せねばならない問題は何なのか。それは。
北条麗華が十年前の約束の少女であるか否《いな》か――これである。
もし、彼女が約束の少女でなければ? その場合は状況が振り出しに戻り、峻護は相変わらず問題が山積みされた苦悩《くのう》の日々を送ることになるだろう。だが。
もし、彼女が十年前の少女だったなら?
そしてもし、彼女が十年前と変わらぬ想《おも》いを抱《いだ》いててくれたのなら?
その場合、ほとんどの問題は瞬時《しゅんじ》に解決されることになるだろう。なぜなら二ノ宮峻護にとって約束とはそれほどに重いものだからである。真摯《しんし》に交《か》わされた約束であれば子供も大人もない。麗華がサキュバスであるらしいことも、あるいは月村真由に対するほのかな想いも、その他無数にある様々《さまざま》な問題も。この最優先事項に比《くら》べれば項末《さまつ》なことである。まして相手が十年の長きに亘《わた》って自分を待っていてくれたのであれば。
それはむろん、十六|歳《さい》の少年にとって小さからぬ意味を持つ。
そこまで深刻《しんこく》に考えなくても、とは言うまい。
彼は男の端《はし》くれであり。
男の交わした約束とは、果《は》たされるためにのみ存在するぺきなのだから。
だから、確かめなければならない。北条麗華と二人だけになれる明日はそのための絶好《ぜっこう》の機会《きかい》となろう。
「……覚悟、決めなきゃな」
優柔不断《ゆうじゆうふだん》な少年にしては破格《はかく》の決意を静かに練《ね》りながら。
峻護は一心に鍋を磨きつづけている。
*
さて、もうひとりの主役である。
この時、月村真由は別に外出していたわけではない。
より時刻《じこく》と場所に正確を期《き》せば――麗華が居丈高《いたけだか》にデートの申し出をしていた時、真由はそこから数メートルと離れていない物陰にいた。真由の名誉のために言い添えれば、彼女がそこに居合《いあ》わせたのは偶然《ぐうぜん》である。想い人と恋敵《こいがたき》との会話につい耳をそばだててしまったのは人情《にんじょう》というものであろう。
その内容が真由にもたらしたショックは、もちろん小さいものではない。
話を纏め終えた麗華がぼんやり部屋に戻《もど》っていくのと同じくして、真由も呆然《ぼうぜん》たる足取りで自室《じしつ》に向かった。
ぽす、と力なくベッドに腰《こし》を落とす。
こころなしか青ざめた顔で、瞬《まぱた》きもせず、膝《ひざ》の上においた両手にじっと視線《しせん》を置いている。
ここ数日、彼女なりに必死でやってきた。無我夢中《むがむちゅう》といっていい。乏《とぼ》しすぎる恋愛《れんあい》経験。あの北条麗華を相手に回す恐《おそ》れ。自分には時間がないという焦《あせ》り――それらの不安に押《お》しつぶされないためには、考える余裕《よゆう》や立ち止まる暇《ひま》を自分に与《あた》えず、ひたすら直感《ちよっかん》と本能を頼《たよ》りに駆《か》けずり回るしかなかった。スマートなやり方だったとは微塵《みじん》も思っていない。そんなやり方がかろうじてまかり通っていたのは、ひとえに北条麗華の足踏《あしぶ》みがあったゆえである。
だがついに。その風向《かざむ》きが変わった。
正直、気が滅入《めい》るのを抑《おさ》えられない。麗華は――あの凛冽《りんれつ》たる少女は、暴走《ぼうそう》と紙一重《かみひとえ》の疾走《しっそう》を続けるしかない真由とは根《ね》っから違《ちが》う。今でこそ迷走《めいそう》しているようだが、麗華には恋愛への不器用《ぶきよう》さを補《おぎな》いうるだけの人生経験がある。美しさだけでなくカリスマもある。そして何より洋々《ようよう》と広がる未来がある。あの麗人《れいじん》がわずかに一歩を踏み出しただけで――かろうじて真由が維持《いじ》しているかに見える有利など、波の前の砂城《さじょう》も同然《どうぜん》に脆《もろ》くも崩《くず》れ去《さ》るだろう。
どうして、よりにもよってあの人が敵に回るのか。
ここしばらく、真由は深刻《しんこく》にそのことを思っている。ライバルとして強大《きょうだい》すぎる、というだけではない。敵として同じ屋根《やね》の下に暮らしているにもかかわらず――かつては手ひどいことも言われ、殴《なぐ》り合いの喧嘩《けんか》をした相手にもかかわらず、真由は麗華に対してどうしても悪感情をもてずにいる。それどころかあの麗人が持つ不思議《ふしぎ》な魅力《みりょく》は、敵であるはずの真由をも捉《とら》え始めていたのである。
今はどうにか気力を奮《ふる》い立たせて立ち向かっているし、口では様々に否定的《ひていてき》な言葉も投げている。が、本心ではあの凜然《りんぜん》とした少女と対立《たいりつ》などしたくない。その気分が真由の気力をさらに萎《な》えさせていく。明らかに真由は、ひとりの人間としての麗華に好意《こうい》を抱き始めていた。
この戦い、どうしたって負けられないもののはずだった。ぜったいに諦《あきら》めない、と決意もした。だがその決意も、向きを変えて吹《ふ》き始めた風の前に為《な》す術《すぺ》なく散《ち》り去ろうとしている。
でも、たとえ為す術はないとしても――ただじっと終わりを迎《むか》えるのを待つのは、耐《た》えられそうにない。
「――見届《みとど》けるくらいなら、いいですよね……?」
再び鼻腔《びこう》から漏《も》れてきた血液《けつえき》を拭《ぬぐ》いながら。
迷いに迷った末《すえ》、真由はあることを決断《けつだん》していた。
*
時に、真由にさえ筒抜《つつぬ》けだった峻護と麗華の動向《どうこう》である。とすれば、よもやこの二人がそれを知ら頃はずもなく――
「動く時は動くものよね、状況《じょうきょう》っていうのは」
「うむ。運命の歯車《はぐるま》というものはそういう設計《せっけい》にできているらしいからね」
二ノ宮家の居間《いま》。シャンパンを酌《く》み交《か》わしながら、二ノ宮涼子と月村|美樹彦《みきひこ》が穏《おだ》やかに談話している。
「それで、わたしたちはどう動くべきかしらね」
「予定通りさ。僕《ぼく》らが脚本《きゃくほん》を書くのは第一|幕《まく》だけであり、その幕はすでにして下りている。これより先僕らは脚本家を廃業《はいぎょう》し、一出演者に立ち返るべきだろう」
「残念ね。こんな興味深いイベントなのに」
「若者にはしばしば冒険《ぼうけん》が必要なものだ。心配だからといって手取り足取り世話《せわ》を焼いては、育つものも育つまいさ。どちらにせよ運命をすべて支配《しはい》することなどできはしない。まして彼らのそれは僕らの手に余《あま》る」
「予定通りにいかないのも予定通りよね。匙《さじ》を投げてるだけともいうけど」
「残念なのは僕も同感《どうかん》だが、そう皮肉《ひにく》るものではないさ。バカンス中とはいえ、我々もただサボっているだけではつまるまい」
「そうね。これも役目と思って諦めるしかないか」
「そういうことだな。このイベントは録画《ろくが》での鑑賞《かんしょう》で我慢《がまん》することとしよう――」
*
再び、麗華の部屋。
部屋の主は四苦八苦《しくはっく》な右往左往《うおうさおう》をようやく一段落《いちだんらく》させ、就寝《しゅうしん》の支度《したく》を始めていた。そうせざるを得《え》ない。彼女には明日の早朝にも一仕事があるため、それを済ませた足で遊園地に向かい、峻護と待ち合わせすることになる。不安は尽《つ》きないが、ここらで明日のプランニングは切り上げ、床《とこ》につく必要があった。まさか寝不足《ねぶそく》の顔で大一番を迎《むか》えるわけにはいくまい。
ネグリジェに着替え、未《いま》だ混乱の余韻《よいん》が残る身体《からだ》を深呼吸でどうにか鎮《しず》めてから、麗華は執務机《しつむづくえ》に向かう。彼女には大勝負を前にした時に欠かさず行うおまじないがあるのだ。
細腕《ほそうで》が鍵付《かぎつ》きの引き出しに伸《の》びる。そこから取り出した箱の鍵を開け、さらにその中から出てきた箱の鍵を開け――
最後の小箱からそっと取り出したものが、夜光灯《やこうとう》の薄闇《うすやみ》の中に浮《う》かび上がる。
それは青い石をはめたブローチを金色の鎖《くさり》にくぐらせた、見るからに安っぽい、おもちゃじみたネックレスだった。
令嬢《れいじょう》はそれを手に載《の》せると、保坂ですら見たことのない、ひどくやわらかな眼差《まなざ》しを注《そそ》いだ。母が子に向けるような、あるいは子が母を見上げるような――どこか聖性《せいせい》さえ感じさせる光景が、ほのかな灯《あか》りに照《て》らし出される。
やがて少女は祈《いの》るように目蓋《まぶた》を閉じ、何ごとか短い言葉を呟《つぶや》いてから、生まれたばかりの小鳥を扱《あつか》うような丁寧《ていねい》さでそっとネックレスをしまおうと、
――そのみっともないクセ、いいかげんにやめたらどう?
その時。誰かが廟笑《ちょうしょう》まじりに囁《ささや》きかけた。
「……え?」
――思い出の品を失いたくないなら適当《てきとう》な金庫にでも保管《ほかん》しておけばいい。いつも傍《そば》に置いておきたいなら肌身《はだみ》離《はな》さず身に付けておけばいい。だけど万一のことを恐《おそ》れるあまりそのどちらも選べず、結局こんな中途半端《ちゅうとはんぱ》なところに仕舞《しま》っている。ましてそんなものを心のよりどころにしようなんて……ほんとう、あの男が絡《から》むとどうしてここまで弱くなるのかしらね、あなたは。
「そんな、別にわたくし、弱くなんか……それに、あの男のことなんてどうでも、」
――だったらこんな無意味なオモチャ、いっそ捨《す》ててしまったら?
「だ、だめ、そんな……!」
――まったく、この期《ご》に及《およ》んでどうしてこんなものに頼る必要があるのかしら。あなたが欲《ほ》しいものはすぐ目の前にある、そしてあなただったらいつでも欲しいものを奪《うば》うことができる、いつもそう言ってるでしょう? 困《こま》った子。わたしはあなたのことがとても好きだけど――あなたは時々、わたしをひどく苛立《いらだ》たせる。
「そんな……」
――ふふ、まあいいわ。どうせあなたには何を言ったって無駄《むだ》なんだもの。
「…………? どうして?」
――どうしてかって? それはね、
「目が覚めた時、どうせあなたはこのことを忘れているからよ」
ふふ、と目を細め、表に浮かび上がった少女がため息と共に呟《つぶや》いた。
「仕方のない子ね。いつまでもこんなものに縫《すが》って……」
指でつまんだネックレスをぶらぶら揺《ゆ》らしながら、独白《どくはく》する。
「そんなに自分に自信がないのかしら? それともこの臆病《おくびょう》さがあなたの本質《ほんしつ》なのかしらね? そんなあなたはかわいいけれど――だけどこれがわたしの一部でもあるなんて、ちょっと悲しくなるわ」
彼女にとってガラクタでしかないそれを机の上に放《ほう》り出し、優雅《ゆうが》に足を組《く》み替《か》える。それから身体をほぐすように伸《の》びをすると、今度は手の指を一本一本、確かめるように動かし始めた。
「だいぶ慣《な》れてきたわね。――ねえ、言っても無駄でしょうけどよくお聞きなさいな。この身体はあなたに任《まか》せるつもりだけど、でもわたし、気まぐれなのよね。だから」
髪《かみ》を指で梳《す》きつつ、少女は妖艶《ようえん》に微笑《ほほえ》んだ。
「あんまり弱いままだと――この身体、わたしが貰《もら》うことになるわよ……?」
*
出演者は出揃《でそろ》うも脚本家は不在。
季節はいよいよ真夏に差し掛《か》かり、秋の気配はいまだ遠い夜の日に。
事態《じたい》は目まぐるしく、慌《あわ》ただしく、そして陽気《ようき》に、騒乱《そうらん》のポルカを奏《かな》でようとしている――
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其の二 ネバーエバーランドの日 午前の部
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ネバーエバーランド――都市型|娯楽施設《ごらくしせつ》。従業員《じゅうぎょういん》 二百|余名《よめい》。敷地面積《しきちめんせき》およそ十万平方メートル。都市型のアミューズメントパークゆえ敷地の広さはさほどでもないが、テーマ不在のアトラクションがオモチャ箱をひっくり返したがごとく雑多《ざった》に、無数にひしめき合う、地域密着型《ちいきみっちゃくがた》の遊園地。
と、いうのが、本日の目的地について峻護《しゅんご》が事前《じぜん》に仕入《しい》れていた大まかな知識《ちしき》であった。
最寄《もよ》りの駅を降りると、遊園地|特有《とくゆう》の活発《かっぱつ》な空気がたちまち全身を包み込んでくる。ジェットコースターや観覧車《かんらんしゃ》の伽藍《がらん》が、乗っている客の笑顔《えがお》までつぶさに見えるほどの距離《きょり》に屹立《きつりつ》し、同じ駅を降りた利用客らしき人々が、心持ち小走りになってそちらに吸《す》い込まれていく。都内の住宅密集地に突如《とつじょ》として現れる、空想《くうそう》をそのまま建造物化したようなネバーエバーランドの姿《すがた》は、なかなかに感慨深《かんがいぶか》いものがあった。
……という感想を、さっそく峻護はメモに書き留《と》めている。律儀《りちぎ》な彼は本日の公的な目的である『遊園地の経営再建のための視察《しさつ》に訪《おとず》れる麗華《れいか》のアシスタント役』も、可能《かのう》な限《かぎ》り果たそうとしていた。
もちろん、より重要な目的のことも忘れてはいない。峻護にとって今日という日は人生の重大な節目《ふしめ》になるかもしれないのだ。
心持ち背すじを伸ばし気味《ぎみ》にして、遊園地入り口に向かう。待ち合わせの時間まではまだしばらくあるが、寄《よ》り道はせずに先着《せんちゃく》しているのが吉《きち》だろう。多忙《たぼう》なコンツェルン次期|総帥《そうすい》を待たせるわけには――
「ん……?」
進行方向、ゲートのあたりが騒《さわ》がしいようである。目を凝《こ》らせば、少々|錆《さび》の浮《う》いたゲートの前に人だかりができていた。人だかり――というか、表現に正確を期《き》せば子供だかり[#「子供だかり」に傍点]である。
近づくにつれ、雑音《ざつおん》に紛《まぎ》れていた声がはっきり耳に届《とど》いてくる。
「ねーねー。おねーちゃん、ここの遊園地のひと?」
「ちがいます。わたくしはあくまで一般客《いっばんきゃく》としてここに来たのです」
「でもおねーちゃん、ふつうじゃない服きてるよ」
「これは――仕方《しかた》ないのです。やむなき事情《じじょう》があって、わたくしはこれを着る義務《ぎむ》が……ほんとうはもっとちゃんとしたのを着たかったんだけど、けっきょく迷《まよ》って選べなかったし…………」
「あ、ぼくしってる。これ、こすぶれっていうんだよねー。おねーちゃんが自分で作ったの?」
「ですからちがうと言ってるでしょう。これはれっきとした仕事着で……といってメイド業はわたくしの本職《ほんしょく》ではなく……ああもう説明が面倒《めんどう》ですわっ。とにかく、」
「わー、でもこれ、すごくよくできてるー」
「やうっ……! ちょっとあなた! スカートをめくらないで頂戴《ちょうだい》!」
たかられているのは北条《ほうじょう》麗華であった。こんなところにまで着用《ちゃくよう》してきたメイド服を珍《めずら》しがられているらしい。
「ねえね、おねーちゃんもラブラブレンジャーみにきたの?」
「らぶら……? 何ですのそれは。わたくしそんなの知りません」
「ねーねーじゃあさ、おねーちゃんはここの遊園地のひとじゃないの?」
「ちがいます……って、あなたそれはさっきも訊《き》いたでしょう。質問は順番《じゅんばん》に、できるだけ脈絡《みゃくらく》ある内容になさい。……ああもうそうじゃなくて! わたくしはあなたたちの相手をしに来たのではないのです! わたくしに構《かま》ってないでさっさと中に入って遊んでくればいいでしょう!」
どうやら無邪気《むじゃき》にじゃれついてくるお子様たちをうまくあしらえていないようである。どころか、通りかかる子供たちが次々に包囲《ほうい》の輪《わ》に加わっている有様《ありさま》だ。助け――たほうがいいだろうか、やっぱり。
「北条|先輩《せんぱい》!」
真夏の陽《ひ》がそろそろ天辺《てっぺん》にかかろうとする中、駆《か》け足で現場に向かいながら声を上げると、すぐに令嬢《れいじょう》はこちらに気づいてほっとした顔。
しかしすぐにまなじりを吊《つ》り上げて、
「おそい! いつまで待たせるおつもりっ? あなたの遅刻《ちこく》のせいでわたくしはこんなざまになっているのです!」
「はあ、すいません。でもおれは一応《いちおう》時間前に……」
「お黙《だま》りなさい、言い訳は聞きたくありません。仮にもこのわたくしと待ち合わせをするのです、一時間や二時間は余裕《よゆう》をもって到着《とうちゃく》しているのが当然の、」
「わあ。このおにーちゃん、しりにしかれてるよ」
「かかあてんかだよね」
「うん、かかあてんかだ」
峻護と麗華のやり取りを見て、ひそひそ囁《ささや》き合うお子様たちである。
「ねえね、おねーちゃんおねーちゃん」
「ああもう何? わたくしは今いそがしのです。手短《てみじか》になさい」
「あのね、あのね、」
と、そのお子様は、いかにもお子様らしい爆弾《ばくだん》を投下《とうか》した。
「おねーちゃんとおにーちゃんは、ケッコンしてるの?」
「んな――!」
麗華は、他愛《たわい》もなく赤面《せきめん》した。
「あー、赤くなった赤くなった」
「やっぱりそうなんだー」
「おにーちゃん、けっこういいおとこじゃん。おねーちゃんやるねー」
「あ、あなたたち! 大人をからかうと承知しませんよっ。忙《いそが》しいんだから邪魔《じゃま》しないであっちいってなさい!」
「わあ、おこったおこったー」
「おこるのはね、ずぼしをさされたからなんだよね」
「こ、こンの……もう勘弁《かんぺん》なりません! あなたたち、全員そこに直りなさい!」
耳まで赤く染《そ》めてこぶしを振《ふ》り上げると、お子様たちはきゃいきゃい言いながらようやく散《ち》っていった。
「まったく……これだから子供は嫌《いや》だというのです。時に|二ノ宮《にのみや》峻護!」
「はい?」
「まさかとは思いますがあなた、子供の言うことを真《ま》に受けてよからぬ勘違《かんちが》いをしてはいないでしょうねっ?」
「はあ。いえ、特に真に受けるようなこともなかった気がしますが……?」
「そ、そう。それならばいいのです。とにかく、二度とわたくしを待たせることのないよう今後は心しなさい」
「はあ……」
「何? 何かわたくしの言い分に不満でも?」
「いえ、ただ……」
睨《にら》んでくる麗華をまじまじと見つめ、心底感心《しんそこかんしん》した声で言った。
「なんだかんだいっても先輩、あの子たちをそこまで邪険《じゃけん》にしてなかったですよね。一人一人きちんと相手をして……それで子供たちもみんな、先輩を慕《した》ってる感じでした。ああいう風に子供に好かれる人は、いい人です。先輩、将来《しょうらい》はいいお母さんになれると思います」
彼にはこういうところがある。普通《ふつう》なら口にしそうにないことを大真面目《おおまじめ》に言うのだ。大真面目だけに始末《しまつ》が悪く、そしてこれはいかにも麗華にとって刺激《しげき》が強すぎた。
「先輩?」
無言《むごん》で麗華が俯《うつむ》いてしまった理由がわからず、首をかしげる峻護。
「そ、そういうことを――どうして臆面《おくめん》もなくこの男は――」
「…………?」
「ああもうっ、なんでもないなんでもありません! さあもうとっとと行きますわよっ。あなたのせいでとんだ足止めを食《く》らってしまったのです、このロスを早く取り戻《もど》さなければいけないのですからねっ!」
こちらに顔を見せようとせず、きびすを返して大股《おおまた》に歩き出す麗華。
その後をなおも首をひねりひねり、峻護が駆け足でついていく。
*
そんなメイド服少女と長身の少年を、やや離《はな》れたところから見守っている二人組がいる。
「ん〜、もうちょっと苦労するかと思ったけど……あっさり見つかったわね」
「ああ」
「どこにいっても目立つからねー、あの二人。特に麗華さん。あんな服着てれば見つけてくださいって言ってるようなもんよねー」
「だな」
「……あのさー」
「んだよ姉貴《あねき》」
「いやその、なんというか」
頭をぽりぽり掻《か》きつつ、日奈子《ひなこ》は苦笑《にがわら》い含《ぶく》みで隣《となり》にいる連れ合いを見やる。
日奈子よりこぶしひとつ低い身長。襟足《えりあし》までの茶髪《ちゃばつ》に、深くかぶったサンバイザーとサングラス。だぶだぶの半袖《はんそで》パーカーから伸《の》びた白い腕《うで》は膝上《ひぎうえ》ショートパンツのポケットに無造作《むぞうさ》に突《つ》っ込まれている。うっとうしそうに顔を背《そむ》け日奈子と目を合わさないあたり、いかにも反抗期《はんこうき》を迎《むか》えたてのやんちゃな少年――といった雰囲気《ふんいき》が滲《にじ》み出ている。
が、この人物、少年に見えて少年にあらず。中学生になる日奈子の弟――という設定[#「設定」に傍点]になっている、少女[#「少女」に傍点]なのである。
「さっきから何回も感心してるけどさあ、真由[#「真由」に傍点]。うまいこと化けるねえあんた。あたしでもパッと見じゃわかんないよ。あんたにこんな隠《かく》し芸《げい》があったなんてすんごい意外《いがい》」
「? なんの話だよ? いいからさっさと行こうぜ姉貴。あの二人、もう中に入っちまうじゃんか」
さらに苦笑いの日奈子、
「あー、そのキャラだとちょっち話しにくいからさ。戻ってくんない? ハイ、いち、にの、さん」
声をかけ、パンと手を鳴らした。
途端《とたん》、ぱちぱちと目を瞬《またた》かせる真由《まゆ》、
「ああ……はい。すいません日奈子さん」
まったく同じ格好《かっこう》をしているにもかかわらず、『いかにも反抗期を迎えたてのやんちゃな少年』はたったそれだけで消し飛び、いつもの『真面目で控《ひか》えめでおとなしい少女』が戻ってくる。
ふうむ、と日奈子はあらためて感心した。昨夜《さくや》の電話で話を持ち掛《か》けられた時は半信半疑《はんしんはんぎ》だったが、ここまできれいにスイッチを切り替《か》えられるとは。同じ外見の人間がガラリと雰囲気を変えてしまう瞬間《しゅんかん》は、何度見ても鮮烈《せんれつ》な感動《かんどう》があった。
これが男性|恐怖症《きょうふしょう》の真由にとっての奥《おく》の手、ということらしい。一種《いつしゅ》の自己《じこ》催眠《さいみん》のようなものを用《もち》い、イメージトレーニングによって心理に刷《す》り込んだ人物像を任意《にんい》に表面化して自分の人格《じんかく》に置換《ちかん》する――のだとかどうとか。『キャラチェンジ』するためには基本的に何かしらきっかけになるキーワードないしはキーアクションの助けを借《か》りねばならないが、その間も『真由』の意識はきちんとあるのだとかどうとか。
つまりは『なりきり』の極端《きょくたん》なやつね――真由の長い説明を聞いた日奈子は、そんなふうに短く総括《そうかつ》したものである。そして日奈子の見る限り、これはちょっとした宴会芸《えんかいげい》を学ぶのとは訳《わけ》がちがう。相当に高度な専門訓練《せんもんくんれん》を長期間にわたって受け、初めて習得《しゅうとく》できる技術のはずであるし、そこにはただならぬ艱難辛苦《かんなんしんく》があったはずだが――その点について日奈子は一切《いっさい》立ち入ったことは訊《き》かなかった。どうせそこを突《つ》っ突《つ》いても誰も幸せにはなるまい。
しかしなるほど、これだけ身も心も見事《みごと》に『少年』に化けられれば、『少女』として男性から注視《ちゅうし》を浴《あ》びることはないだろう。極度《きょくど》の男性恐怖症である真由にとっては相当な負担減《ふたんげん》である。
が。
「すいません日奈子さん、今日は無理《むり》なお願いを聞いてもらって……」
「んー、まあ退屈《たいくつ》はしてないし、ぜんぜんおっけー。面白《おもしろ》い芸を見せてもらったしさ。また変装《へんそう》が必要な時があったらいつでも言いな」
「はい、それではお言葉に甘《あま》えさせてもらいます」
「でもねえ、そんなことよりあたしが気になるのはさー」
目をすがめ、友人の顔を覗《のぞ》き込む。
「あんた、二ノ宮くんのことはもう諦《あきら》めたわけ?」
「えっ? いえ、あの、」
「だってさー、こうやって二ノ宮くんと麗華さんの後を追っかけてきたのもさー、あたしゃてっきり二人のデートを妨害《ぼうがい》するためなんだと思ってたらさー、ただ見ているだけのつもりだって言うしさー」
そうなのである。これだけ面倒《めんどう》な真似《まね》をして出張《でぱ》ってきたというのに、真由は単にライバルの動向《どうこう》を見守るだけだというのだ。
峻護との間にホットラインのある日奈子は、真由と麗華のバトルの推移《すいい》をつぶさに聞き知っている。それを聞いて『おお、なかなかがんばってるではないか』と感心していたのに、このトーンダウンっぷりはどうであろう――と、真由の事情のすべてを知っているわけではない日奈子は少々|憤慨《ふんがい》ぎみであった。
「まあそのあたりの説教《せっきょう》はあとでたっぷりするとして――ん? あれ?」
「? どうしました?」
「いや、ほら。あそこにいるの。あれってウチの生徒会の副会長じゃない?」
少し離《はな》れた地点を指差して、
「わ、ていうか隣にいるの女の子じゃん。そっかー、あのびと付き合ってるひといたんだー。こりゃ新聞部にネタ売らないと」
「ええと、すいません。わたし、その副会長さんを知らないのでよくわからない……」
「んー、甲本陽一《こうもとよういち》さんっていってね。麗華さんの片腕《かたうで》で、ウチの女子連中にもけっこう人気あるんだけど……そうだそうだ、ちゃんと証拠《しょうこ》写真とっとかないと」
「あう……あの、日奈子さん。できればその……」
「ん? ああごめんごめん。二ノ宮くんと麗華さん見失っちゃうもんね。じゃ、そろそろあたしらも中入ろっか」
*
「……ふうん、ネバーエバーランドか。実際《じっさい》に来るのは初めてだけど、名前だけは子供のころから聞いていたな」
日奈子に激写《げきしゃ》されるのを免《まぬか》れた、神宮寺《じんぐうじ》学園生徒会副会長・甲本陽一は。
少々|錆《さび》の浮《う》いた入りロゲートを見上げながら、呟《つぶや》くともなく眩いていた。
「ええ、地味《じみ》ながら知名度《ちめいど》も低くはありませんよね」
と、日奈子の見立てによる『彼女』であるところの『女の子』が応《おう》じる。
「それに国内有数の歴史があるし、集客力も決して低くはありませんが――長きに亘《わた》る殿様《とのさま》商売が崇《たた》り、赤字経営に転落《てんらく》して十数年。何年か前の大型|買収劇《ばいしゅうげき》でオマケのようにくっついてコンツェルン傘下《さんか》に入った企業《きぎょう》です」
なかなかに可憐《かれん》な『美少女』である。丸眼鏡《まるめがね》にショートカットというスタイルは地味な印象を与《あた》えがちだが、常《つね》に絶《た》やさないほがらかな笑顔《えがお》はそのマイナスを帳消《ちょうけ》しにして有《あ》り余《あま》る。チビTにチェックのミニスカートという着合わせも、『彼女』の素軽《すがる》いイメージを後押《あとお》ししていた。
「まあ正直なところコンツェルンから見れば外様《とざま》もいいところだし、年商《ねんしょう》の規模《きぼ》から言っても、赤字が出ようが黒字が出ようがあんまり関心《かんしん》はない部門なんですけどねー」
「なるほど解説《かいせつ》ありがとう。しかしだな」
と、甲本は渋面《じゅうめん》を作る。
「いま現在、俺《おれ》が言いたいことはもっと別にあるんだけどな、保坂くん[#「保坂くん」に傍点]」
自分に腕を組んでくる少女――ならぬ少年を、困《こま》り顔で見下ろす副会長である。
「ん? 似合《にあ》いませんか、この格好?」
「いやまあ、似合うか似合わないかで言えば、性別を間違《まちが》えて生まれてきたんじゃないかってくらい似合ってるが。俺としてはいろいろな意味で複雑《ふくざつ》な気分だ。腕とか組まれると特に」
「擬態《ぎたい》ですよ、擬態」
ぎゅっと『彼氏』の腕を抱《かか》え、いよいよ密着《みっちゃく》する保坂《ほさか》。
「しかし保坂くん。君は擬態と言うが――そもそもこの状況《じょうきょう》で女装《じょそう》する意味がどれだけあるんだ? 今日一日北条さんの後を追うにしたって、別に彼女と接触《せっしょく》する必要があるわけでもなし、おまけに俺のほうはすっびんそのままだし……いや、まあそれはいい」
首を振《ふ》り振り、甲本は話の向きを変える。
「それより、君がこの場に俺を呼んだ理由と君の目的についてだが――」
「甲本さんを呼んだ理由ですか? そんなの決まってます。麗華お嬢《じょう》さまのこんな一世一代の大勝負、見逃《みのが》す手なんてないでしょう?」
「まあ確かに。北条さんのファンとしては、普段《ふだん》見られない彼女の姿を鑑賞《かんしょう》できるのは非常にありがたい。呼んでもらって感謝しているし、お返しとして君に協力することについてもやぶさかではない」
「ご協力、感謝してますよ。それとボクの目的ですが、これは訊くまでもないでしょ。ボクは麗華お嬢さまの付き人で、その行動は常に麗華お嬢さまに利《り》するものでなきゃいけないんですから」
「ううむ、しかしだな」
素直《すなお》には肯定《こうてい》の意を示《しめ》せない甲本である。
「だいたい君、この時間は北条さんの代理人を任されているんじゃなかったっけか?」
「手は打ってあります。替《か》え玉を立てましたから心配無用です」
「たとえその点はクリアしているにしても、だ。君の言い分では『二ノ宮くんと麗華お嬢さまがうまくくっつけるようなラブラブイベントを随所《ずいしょ》に用意して、お嬢さまが幸せをつかみ取るためのお手伝いをする』とのことだが――それ、どうみても余計《よけい》なお節介《せっかい》じゃないか? そりゃ北条さんが常軌《じょうき》を逸《いつ》して色恋沙汰《いろこいざた》に疎《うと》いのは知ってるが、彼女だって子供じゃないんだし……君の持っているコネクションでここの従業員は自在に動かせるというし、昨日のうちにいくつも仕込《しこ》みを済ませていたというけど、それでたとえ恋愛《れんあい》が成就《じょうじゅ》したとして、裏工作《うらこうさく》によって為《な》されたものであればその価値は、」
どうやら甲本少年、出歯亀行為《でばがめこうい》へのうしろめたさと抗《あらが》いきれぬ魅力《みりょく》との狭間《はざま》で苦悩《くのう》しているようだ。まだまだ麗華ウォッチャーとしては未熟《みじゅく》である。
なおもぶつぶつ呟きつづける副会長を捨て置き(どうせ最終的には落ちるに決まっている。心配要らない)、保坂少女[#「少女」に傍点]は別のことに思いを馳せる。
彼はもちろん甲本にとってさえ魅惑的《みわくてき》なこのイベントを、あの二人――二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村美樹彦《つきむらみきひこ》はみすみす見逃《みのが》す気のようだ。峻護、真由、麗華の三人の関係にほどよくちょっかいをかける=巧妙《こうみょう》に関係をコントロールしつつ、その保護《ほご》・監視《かんし》をついでのように行う――というのが従来《じゅうらい》の彼らのスタイルだったはずだが、どうやらこのあたりでその方針《ほうしん》を大幅《おおはば》に転換《てんかん》するつもりらしい。もとよりあの二人、本来こんなところで油を売っていられるような暇人《ひまじん》ではないのだが、ここは注意深く判断したいところだ。いまだ涼子&美樹彦組の描《えが》いた未来|絵図《えず》に到達《とうたつ》しえてない彼にとって、これは重要なヒントとなりうる。
いずれにせよあの二人が絡《から》んでこず、同盟者《どうめいしゃ》たる保坂に対して何のアクションもなかったということであれば、これはフリーハンドを得たも同義《どうぎ》。ここは存分に彼の手腕《しゅわん》を発揮《はっき》できるわけだ。はりきって麗華を弄《いじ》り倒《たお》し――もとい、付き人として真摯《しんし》に主《あるじ》のためを思い、最善《さいぜん》を尽《つ》くさねばならない。
「さて、じゃあそろそろいきますよ。さっきお嬢さまと二ノ宮くんがゲートに向かいましたから、すぐにらぶらぶイベントの第一|弾《だん》が発動《はつどう》します。特等席《とくとうせき》で鑑賞《かんしょう》しないと」
うきうき声で言うと、保坂はいまだにぐずっている甲本の腕を引っ張って――ーそれは煮《に》え切らないカレシを引っ張っていく積極的《せつきょくてき》なカノジョ、の図に見えた――勇躍《ゆうやく》、彼にとって何よりの娯楽《ごらく》を提供してくれる場所に足を向けるのだった。
*
あの、南の島での出来事以来。
峻護はことあるごとに失われた記憶《きおく》の再生を試《こころ》みている。
十年前に出会った少女の記憶。鮮烈《せんれつ》な映像《えいぞう》として残っていたはずのそれが、今では記憶していたという記憶ですら失われるほどに古ぼけてしまった。いや。古ぼけて失われたのではなく、記録された情報自体が削《けず》れ去っているのだろうか。傷の穿《うが》たれてしまったレコード盤《ばん》のように。
いずれにせよ、失われたもののサルベージ作業は芳《かんば》しくなかった。どれだけ記憶の穴倉《あなぐら》を這《は》い進んでいっても肝心《かんじん》なところで霜《もや》がかかる。黒マジックで要所《ようしょ》を塗《ぬ》りつぶされた内部文書にも似《に》て、拾い上げたわずかな端切《はぎ》れから全体像を探《さぐ》るのはいかにも困難《こんなん》だった。現状《げんじょう》ではこれ以上の記憶回復は見込めそうにない。何か、きっかけとなる刺激《しげき》が要《い》る。
「あらためて確認《かくにん》するまでもありませんが、」
ゲート前に並ぶ入場者の列に加わりながら、麗華が申し渡《わた》してくる。
「今日わたくしがあなたと行動を共にするのはあくまで公務《こうむ》によるものであり、それもやむにやまれぬ事情《じじょう》があってのことなのです。くれぐれも不埒《ふらち》な勘違《かんちが》いはなさらぬよう。そう、たとえばわたくしとあなたとの間に何か特別な関係でもあるかのような錯覚《さっかく》は、ゆめゆめ抱《いだ》かぬように」
「はあ、わかりました」
生真面目《きまじめ》にうなずく峻護に、令嬢は「――とはいえ、」とさらに付け加える。
「あくまで、あくまで仮定の話と限定するのであれば、ですわよ? 公務をより潤滑《じゅんかつ》に遂行《すいこう》するため、わたくしとあなたがあたかも恋人《こいびと》同士であるかのように振舞《ふるま》うのは許容《きょよう》できなくもありません。先ほども言いましたが、この施設《しせつ》のメインターゲットはカップルであり、その心理をシミュレートしつつこの施設を体験《たいけん》する方がより効率《こうりつ》よくリサーチを進められるからです。おわかりになりますわね?」
「はあ、たぶん。わかると思います」
「よろしい。ではまったくもってやむなき仕儀《しぎ》ながら、そういう振舞いを取ることにいたしましょう。……ああもうっ、保坂がいればこんな面倒《めんどう》は省《はぶ》けたというのに。突然《とつぜん》あの者にどうしても外《はず》せない急な仕事が入るとは、ままならないものですわ」
なおもぶつぶつ言っている本日限りの上司を見ながら思う。きっかけとなる刺激――それを得ることを期待している峻護だが、でも、ほんとうに麗華が十年前の少女だったとして。こういうつっけんどんな態度《たいど》を取る人が、あの約束を受け入れるなんてありうるだろうか? いや、そんなことは二の次か。まずは約束を果たすこと、それが最優先《さいゆうせん》だ。受け入れるかどうかはその少女が決めることである。
メイド服姿で周囲の目を集めつつ、ほどなく麗華に入場の順番《じゅんばん》が回ってきた。
その時である。
「ぉおめでとォォォォォ、ございまぁぁぁぁぁすッ!」
女声の絶叫《ぜっきょう》と共に、けたたましいファンファーレが峻護の耳をつんざいた。
「な、何だ何だ……?」
耳鳴りに目を瞬《しばたた》きつつ音の方向を見やれば、タイコやらラッパやらをかついだ楽隊《がくたい》がゲートの袖《そで》からぞろぞろ現れ、こちらに歩み寄ってくる。
「はい、そこのあなた! そこのかわいらしい服を着たお嬢《じょう》さん! あなたです!」
その先頭にいたスーツ姿の女性が、顔いっぱいのスマイルでマイクを差し伸《の》べてきた。
「わたくし……?」
峻護と同じく面食《めんく》らっていた麗華が自分を指差《ゆぴさ》した。スマイルの女性が指名している相手は、まさしく北条麗華その人である。
「そうあなた。ささ、どうぞどうぞこちらにいらしてくださいね。あら、こちらの彼もご一緒《いっしょ》なのかしら? ではあなたもどうぞこちらへ」
その一団によってあれよあれよと連れられていく麗華と峻護。
そこにはちょっとしたお立ち台のようなものが設《しつら》えられ、
『祝 百万人入場』
の垂《た》れ幕《まく》が、特大《とくだい》のくす玉とともにぶら下がっていた。
「さあご来場の皆様《みなさま》、どうぞこちらにご注目ください! 十年に一度のラッキーガールとラッキーボーイのお二人です! どうぞ盛大《せいだい》な拍手《はくしゅ》でお迎《むか》えくださいませ!」
マイクの女性(どうやら司会者らしい)の催促《さいそく》に、会場からノリのいい拍手が乱《みだ》れ飛ぶ。
「……先輩《せんぱい》。どうも、そういうことらしいですね」
「そう――みたいですわね。こういうこともあるのですわねえ……」
峻護の耳打ちに、物珍《ものめずら》しげな様子で麗華も応《おう》じてくる。
「さて。それでは本日、見事《みごと》幸運を射止《いと》めましたこちらの方にお話を伺《うかが》ってみましょう」
会場に向かって今回のイベントを催《もよお》すに至《いた》った経緯を解説していた司会者が、麗華にマイクを差し向けた。
「ネバーエバーランド開園以来、記念すべき百万人目の入場者となられましたあなた、お名前をどうぞ」
「北条麗華と申します。よろしくお見知り置きを」
さすがは先輩だ、と峻護が感心したことに、麗華はこの突発事態《とっぱつじたい》にもたちまち落ち着きを取り戻《もど》し、見物人の間からため息が漏《も》れるほど優雅《ゆうが》な一礼をしてみせた。
司会者はさらにインタビューを続ける。
「今回のこの幸運を射止められたご感想はいかがですか?」
「驚《おどろ》いたし、うれしくも思っていますわ。――とまあ、申し訳ないけどこんな感想しか出てきませんわね。こちらの遊園地に来るのは初めてですし、イベントの存在を知っていたわけではありませんもの」
「なるほど、初めてのご来園でこの幸運。実は相当な強運の持ち主でいらっしゃる?」
「いいえ、わたくしの人生でもここまでの運を引き当てたのは初めてではないかしら。このイベントを企画《きかく》なさった皆様《みなさま》に感謝いたしますわ。もちろん、あなたがたにも」
何ということのない受け答えなのだが、一挙手一投足《いっきょしゅいっとうそく》に匂《にお》い立つような気品《きひん》がある。つい耳目《じもく》を引きつけられ、入りロゲートのあたりで足を止める者が後を絶《た》たない。
「それではこのあたりで、ネバーエバーランド開園以来、百万人目の来場を記念した記念品の贈呈《ぞうてい》に移りたいと思います」
ほどのいいところでインタビューを切り上げ、司会者がお立ち台の袖《そで》を指し示した。
「本日、記念品の贈呈のためにわざわざ駆《か》けつけてくれたのはこちら! なんと、熱愛《ねつあい》戦隊ラブラブレンジャーの五人です!あのラブラブレンジャーの五人がこの会場まで駆けつけてくれました!」
一瞬《いっしゅん》の間を置き、ギャラリーの中からお子様たちの大歓声《だいかんせい》が沸《わ》き起こった。
何ごとかと思って見やれば、堂々《どうどう》たる歩みでこちらに向かってくる数人の人影《ひとかげ》。揃《そろ》いも揃って色とりどりのスウェットスーツとヘルメットで全身を覆《おお》った連中で、どうやらこれがラブラブレンジャーとやららしい。
お子様たちの歓声に手を振って応《こた》えつつ、五人組は主賓《しゅひん》の前に整列《せいれつ》した。
その中から首領格《しゅりょうかく》とおぽしき赤スーツが進み出て紳士的《しんしてき》に一礼し、麗華のメイド服のエプロンあたりに何かを取り付ける。それと同時にくす玉が二つに割れ、お立ち台に紙吹雪《かみふぶき》が激《はげ》しく舞《ま》いかかった。
「皆様ご覧《らん》ください!」と麗華の胸元《むなもと》を示して司会者。「こちらが百万人来場の記念品、ラブラブレンジャーエンブレムバッジです! 世界にひとつしかない特別製! その上なんと、このバッジはレンジャーの名誉《めいよ》隊員になった証《あかし》でもあるのです!」
おおお! と、ひときわ大きな歓声があがった。何だかよくわからないが、周囲の反応《はんのう》からしてかなりの大盤振舞《おおばんぶるま》いのようである。ラッキーを引き当てた麗華も、思わぬ歓待《かんたい》にご機嫌斜《きげんなな》めならぬ様子だ。
「いかがですか? この世で一人だけ、あなただけがレンジャーの名誉隊員になれたのですよ?」
「ありがとう。レンジャー云々《うんぬん》のことはよくわかりませんが……今日のこと、確かにいい思い出になりそうですわ」
麗華の答えに満足げに頷《うなず》き、司会者はさらにこう切り出した。
「それでは引き続きまして、副賞《ふくしょう》の贈呈です!」
司会者の声に応じ、今度はピンクのレンジャーが進み出て麗華に目録《もくろく》を手渡《てわた》す。
「…………? これは?」
「ネバーエバーランドに隣接《りんせつ》する高級ホテル『中央グランドパレス』のロイヤルスイートルーム宿泊券《しゅくはくけん》です! 当園のアトラクションを楽しんだ後はどうぞ、そちらでもたっぷりお楽しみくださいね! ムフ」
思わず峻護はずっこけ、麗華は目録を取り落としかけた。
「な、ななな、なんですのそれはっ!」
「そしてさらにこちら!」
わめく麗華をスルーし、司会者はさらに突《つ》っ走る。
「明るい家族生活を約束する、ゴム製《せい》の風船《ふうせん》によく似たものをどーんと一ダースプレゼント! でもたくさんあるからって、これを使い切るほど無茶《むちゃ》しちゃダメですよ?」
首をかしげるお子様たちをよそに、大人たちがどっと笑う。陽気な口笛《くちぶえ》が飛び交《か》い、そのたびに温度計の目盛《めもり》が上がるように麗華の全身が赤く染まっていく。
「ちょっとあなた! こんなところで口にする話題じゃないでしょそれは! そもそもにおいてわたくしとこの男はそういう関係では、」
「あら。お二人さん、カップルではなかったのかしら?」
「あたりまえです! どうしてわたくしがこの男と!」
「これはこれは失礼いたしました。ごめんなさいね、早とちりしてしまって」
「ええ、まったくもって失礼してしまいますわっ。とにかくこんな副賞わたくしには無用のもので、」
「まったくとんだ早とちりでしたねえ。まさかそのお若さでご夫婦《ふうふ》だったとは……でしたらゴム製の風船によく似たものなんて要《い》りませんよね。替《か》わりにおめでたかどうかが一目でわかる検査薬《けんさやく》的なものを一ダース用意させますので、いましばらくのお待ちを」
「ですから! どうしてそっちの方向にいくのです! あなたちゃんと頭蓋骨《ずがいこつ》の横に耳穴は開いてらっしゃる? 何度でも言って差し上げますからよくお聞きなさい、わたくしとこの男はあくまでもビジネスライクな目的でここへ来たのであって――」
思いがけず始まった漫才《まんざい》じみたやり取りに、見物人からはやんややんやの大喝采《だいかっさい》である。メイド服姿という麗華の出《い》で立《た》ちが見方によってはコメディチックに見えて、それがまたウケを取っている一因《いちいん》かもしれない。
とはいえ峻護としては放《ほう》っておくわけにもいかず、逆効果になるかもしれないけどそろそろ自分が出て行って先輩に矛《ほこ》を収《おさ》めてもらおうか、と思った時、
「いやあ、ノリのいいお嬢《じょう》さんで助かりました。わたしに付き合って場を盛り上げていただいて、司会者的にとても仕事が楽でしたよ。ありがとうございました」
もう一度|観衆《かんしゅう》を笑わせつつ、司会者の方から漫才を切り上げた。
「それでは皆様もう一度、もう一度|盛大《せいだい》な拍手をお願いいたします! 本日ナンバーワンのラッキーガール、北条麗華さんでした!」
なおも食ってかかろうとする麗華をかわし、セレモニーをお開きにしてしまった。
間を置かず群集《ぐんしゅう》が惜《お》しみなく手を打ち鳴らし、麗華は弁明《ぺんめい》の持って行き場を失い、
「――ああもうっ!」
赤外線ヒーターみたいな顔のまま、万雷《ばんらい》の拍手を受けて退場《たいじょう》した。
地響《じひび》きを立てんばかりの足取りで歩き去る令嬢の後をあわてて峻護がついていく。
「あの、先輩? 総合的《そうごうてき》に見れば結果は悪くないわけだし、どうか気を鎮《しず》めて――」
「二ノ宮峻護!」
峻護のとりなしを一蹴《いつしゅう》し、麗華は厳《きび》しく厳しく言い放った。
「あなたまさか、あのような司会者のたわごとを真に受けたりはしてないでしょうねっ? その、カップルだとか、夫婦だとかっ」
「はあ、いえ。実際《じっさい》にそういう関係というわけではないし、たとえ誤解《ごかい》を受けたとしても事実の証明はできる、と思います。その誤解が大問題に発展《はってん》することはないかと……」
「そ、そう……。ふ、ふん、まあそれならいいですわっ」
大股《おおまた》歩きを再開するメイド服姿。その後を追いながら、あらためて峻護は思う。
果たしてこんな調子で、削《けず》れてしまった記憶《きおく》を埋《う》めなおすことができるだろうか?
そのきっかけとなる刺激《しげき》を得ることができるだろうか?
「……こほん。まあ今現在はともかくとして、将来的《しょうらいてぎ》には家族として――めおと同士として訪《おとず》れる案《あん》も、必ずしも否定《ひてい》されるものではありません。ええ、あくまで数学的な確率論《かくりつろん》の話であって、実現する可能性《かのうせい》は皆無《かいむ》というべきではあるのですが」
「――はい? 何か言いましたか?」
「…………。なんでもありません。忘れなさい」
「すいません、少し考えごとをしてたので聞いてなかったです。もう一度言ってもらえませんか?」
「なんでもないと言ってるでしょう! さあ、さっさと行きますわよっ。先ほどから無駄足《むだあし》を食ってばかりなのですからねっ!」
間の悪い令嬢はほとんど駆け出さんばかりに先を行き、鈍《にぶ》すぎる少年はそれに遅《おく》れまいとさらに足を速《はや》める。
*
それからおよそ一時間。
「――あの、北条|先輩《せんぱい》?」
散々《さんざん》ためらった末《すえ》、ついに峻護はその話題を切り出した。なにしろ一時間である。もちろん北条麗華は凡俗《ぼんぞく》とは程遠《ほどとお》い存在であり、弱冠《じゃっかん》十七|歳《さい》にして北条コンツェルンの屋台骨《やたいぼね》を担《にな》う大立者《おおだてもの》であり、何十もの企業《きぎょう》の最高経営責任者を務《つと》める破格《はかく》の才女であり、それらを一糸の乱れもなく統括《とうかつ》しきっている実績《じっせき》にはケチのつけようもないわけであり、だから彼女のやる仕事に滅多《めった》な間違《まちが》いは無いはずである。とはいえ弘法《こうぼう》も筆《ふで》の誤《あやま》りという格言《かくげん》もある通り、いかなる偉人《いじん》も常に完壁《かんぺき》でいられるわけではないのであり、これはそのうちの稀有《けう》な例に属《ぞく》する可能性を否定しきれないのである。
「なによ……?」
競歩《きょうほ》でもしているような早足で前を行く麗華が、振《ふ》り返りもせずに問うてくる。
峻護はためらいがちにこう訊《たず》ねた。
「あの、北条先輩はさっきからどこのアトラクションに入ることもなく、一度も足を止めることさえなく、ずっと園内をぐるぐる回っているような気がするんですが――」
そうなのである。
このネバーエバーランドなる遊園地は都市部にあるゆえ、そこまで広々と敷地《しきち》を取っているわけでなし。三十分もあれば余裕《よゆう》で一回りできてしまう。そこを朝の通勤《つうきん》ラッシュのサラリーマンのような速度で歩いているわけだから、さっきから峻護の周囲を同じ光景が入れ代わり立ち代わり現れては消えていくわけである。
正直、まったく意図《いと》が見えなかった。そろそろ歩き回るのは飽《あ》きた、と言いたいわけではないが、麗華はこの遊園地の経営再建のためにやってきたはずで、しかも先ほど彼女自身の口から『仕事を果たすために今日は大いにアトラクションを回るべき』という意味のことを聞かされている。このままでは閉園《へいえん》時間までウォーキングを続けそうな勢《いきお》いだし、ここは念のため注意を喚起《かんき》しておくべきだろう。
「この行動はどういう意図をもってなされているんでしょうか? 一応、おれは先輩のアシスタント役としてここに来ているわけだし、できればその理由を聞いておきたいんですが……」
麗華の歩みがぴたりと止まった。それにつられて峻護も足を止める。
「先輩?」
「こっ、これは――そう、」
舌のもつれた声が華著《きゃしゃ》な背中|越《ご》しに届《とど》いてくる。
「そう、まずはこうして、この施設《しせつ》が醸《かも》し出す空気を肌《はだ》で感じ取っているのです。肌を通して直《じか》に得た直感というものは時に、理性的《りせいてき》に得た判断より貴重《きちょう》であるもの。特にこのような娯楽《ごらく》施設――快楽中枢《かいらくちゅうすう》を直に刺激《しげき》することをサーヴィスにしている場所では尊重《そんちょう》すべきものなのです。このように予断《よだん》をもって物事にあたることは確かに、半歩間違えば大変な失敗をもたらします。ですが適正《てきせい》に運用しさえすれば、えてして貴重な情報を得られるもの。わたくしはまず、こうしたリサーチで十分に地ならしをして、それから確実に順を追って成果《せいか》を手中にしようとしているのよ」
「なるほど、そういうことでしたか」
さすが、コンツェルンの陣頭《じんとう》に立って何万もの部下を指揮《しき》するひとのやることはちがう。おれみたいな凡俗《ぼんぞく》が彼女のやることに口を出すべきじゃないな――などと納得《なっとく》した峻護だが、こんな弁明《べんめい》で納得できるのは彼くらいのものである。この令嬢《れいじょう》にとっては峻護と並んで歩くという、ただそれだけのことが途方《とほう》もない難事業《なんじぎょう》であり、その壮挙《そうきょ》に出るだけの踏《ふ》ん切りがつかないゆえ、こうして背中を見せたまま当てどもなく歩きつづけているのだが――そのような事情、峻護は露《つゆ》ほどにも知らない。
麗華から別の指示が出るまで、黙《だま》って随行《ずいこう》することにした。
無言の園内|徘徊《はいかい》がしばし続いた。
そしてこの令嬢のすごいところは、単なる出任《でまか》せで口にしたことをそのまま現実にしてしまうことである。峻護に話したやり方で実際《じっさい》にリサーチを進め、ほぼ結論《けつろん》を得るところまで到達《とうたつ》していた。
「なるほど……だいたいの事情は掴《つか》めましたわ」
「はい? 何の事情ですか?」
「この遊園地の運営の理念《りねん》、運営の現状、それに対する顧審《こきゃく》の反応――その他もろもろ、資料《しりょう》には書かれてなかった数多《あまた》の情報についてです」
峻護の問いに公務《こうむ》バージョンの声が返ってくる。
「報告書にはひたすら赤字経営、赤字経営とありましたし、実際施設の老朽化《ろうきゅうか》をはじめ、そこかしこにその兆《きざ》しはあるのですが――それにしてはスタッフの質《しつ》が高いように見受けられます。モラールが高く、職務《しょくむ》に誇《ほこ》りを持ち、そしてなによりスタッフ全員がここでの仕事を楽しんでいるみたい。この点、こういった娯楽施設において最たる美点《びてん》といえます」
実のところ麗華、峻護と並んで歩くという難事業から逃避《とうひ》するため、かなり本腰《ほんごし》を入れてこの再建計画にのめりこんでいる。そしてのめりこむあまり話し相手が峻護であることを意識せず、まるでほんとうの付き人を相手にするような態度になっていた。
「それに見たところこの遊園地、決して集客能力が低いわけではありません。ただし、あまり収益《しゅうえき》の見込めない企画に多大な予算をつぎ込んでいるらしき傾向《けいこう》があります。おそらく収益|云々《うんぬん》よりもスタッフたちの趣味《しゅみ》を優先《ゆうせん》させているのではないかしら。ここにいると、遊園地というよりどこかの学園祭にでも来ているような気分になりますもの。わたくしとしてはこういう雰囲気《ふんいき》は嫌《きら》いではないし、この雰囲気ゆえのスタッフの質の高さなのでしょうが、やはり企業であるからには黒字を出してもらわないとね」
朗々《ろうろう》と語《かた》られる弁舌《べんぜつ》に、峻護はキツネにでも化《ば》かされているような気分である。本来の北条麗華の姿がこうであることは知っていたが、間近で目《ま》の当たりにするとここまで違うものだろうか。
「まあこれだけのスタッフが揃《そろ》っていれば、黒字|転換《てんかん》はそう難しくないでしょう。問題はむしろあの報告書を上げてきた連中にありますわね。予算の配分《はいぶん》に少し手を加えれば簡単に経営は上向《うわむ》くでしょうに、この程度《ていど》の問題をわたくしのところまで持ち越《こ》すとは……保坂、すぐに人事部に連絡《れんらく》。この遊園地のスタッフを精査《せいさ》すればコンツェルンの上部に引き抜《ぬ》きたくなる人材が何人か出てくるでしょう。それとこの件の査問《さもん》担当者と関連部署《かんれんぷしょ》については降格《こうかく》も視野《しや》に入れて――」
とそこまで言いさして、相手が峻護であることを思い出したらしい。
こほん、と咳払《せきばら》いして、
「……まあ、そんなところですわ」
「すごい。すごいですよ先輩!」
やや興奮気味《こうふんぎみ》に峻護は応じた。
「聞いていて思わず引き込まれてしまいました。先輩の言っていることはすべて正論《せいろん》だし、何というかこう……正論であるという以上に説得力があるんです」
その興奮と同時に峻護は別のことも思っている。今回ここに来た真の目的――麗華が十年前の少女であるかどうか確かめること。かすかに残っている記憶《きおく》によれば、あの少女は何かと多才《たさい》な子で、大概《たいがい》のことは器用にこなすことができた。彼女が順当《じゅんとう》に成長していれば、北条麗華という傑出《けっしゅつ》した人物に至《いた》っていても何ら不自然はない。
「何というか……その説得力は理論とかで身につくものじゃなくて、日ごろから大勢《おおぜい》の人の上に立っている先輩ならではだと思います。すごいです。尊敬《そんけい》しました」
この竪物《かたぶつ》がここまで手放しで賞賛《しょうさん》するのも珍《めずら》しい。まったく思わぬ形で褒《ほ》めてもらった麗華も機嫌《きげん》の悪かろうはずがなく。
「そ、そうかしら? まあわたくしにかかればお茶の子さいさいですわ、この程度のこと。ふふん」
「はい、ほんとうにお見事《みごと》でした。快刀乱麻《かいとうらんま》を断《た》つ、これで万事解決《ぱんじかいけつ》ということになるんでしょうか?」
「まあそうですわね。だいたいの方向性は見えましたし、あとは下の者に適度《てきど》な指示を出しておけば大きく道が逸《そ》れることはないでしょう」
「なるほど、お仕事おつかれさまでした。それじゃあ――」
そこまで言って重要なことに気づいた。
「? どうしました?」
「はあ、いえ。その」
戸惑《とまど》いつつもその疑問を口にずる。
「ということはつまり、赤字|企業《きぎょう》に再建《さいけん》のめどをつける、という今日の目的は達成されたということじゃ……?」
誉《ほ》めそやされてニマニマ笑っていた顔が固まった。
「それにこんな簡単に解決するようなら、おれのアシストなんて要らなかったような気も……」
「…………」
麗華、返す言葉のないまま視線を逸らしている。
ややあって、
「――二ノ宮峻護」
「はい」
「先ほど申し上げた説にはわたくし、大いに自信がありますが――しかしそれもあくまで推測《すいそく》の域《いき》を出ない話。言ったでしょう、予断は有益《ゆうえき》であると同時に大きな危険《きけん》を伴《ともな》うと。推測の裏づけは念の上にも念を入れて行わねばならず、それを怠《おこた》って万一にも仕損《しそん》じれば迂闊《うかつ》のそしりを免れません。あなたはわたくしを稀代《きだい》の能無《のうな》しとしてさらし者にするおつもり?」
「はあ、いえ。決してそんなことは」
「ならば軽率《けいそつ》な発言は慎《つつし》むよう。百聞《ひゃくぶん》は一見にしかず、仮定を見出《みいだ》したのならば、次はそれを実地でもって証明せねばなりません。まだまだ今日の仕事は続きますわよ。今のうちに覚悟《かくご》を決めておきなさい」
「なるほどわかりました。それではこれからどこへ行きましょうか?」
「そ、そうね、とりあえず――」
急いであたりを見回し、目ぼしいものを検索《けんさく》する。
「……とりあえず、あそこを視察《しさつ》するといたしましょう」
と指名したのは、遊園地の売店コーナーである。
「ずいぶん歩いたから喉《のど》が渇《かわ》きました。時間的にも小腹《こばら》が空《す》いてきた頃合《ころあい》ですし、ちょうどいいですわ」
促《うなが》され、ギラつく太陽に照《て》らされて茄《ゆ》だっている売店に足を向けた。
プレハブと五十歩百歩なその建物はネバーエバーランドの施設《しせつ》に共通する通り、少々古めな造りである。ややマイナーな遊園地に必ずひとつはある売店、を想像すれば、その建物の概要《がいよう》は脳内《のうない》に再現可能であろう。ただし中に入ってみれば店内は意外《いがい》なほど手入れが行き届いていて、決して印象は悪くない。
販売物《はんばいぶつ》はお約束どおりのラインナッブ――各種おみやげ物に軽食、飲み物といったところだが、例の『熱愛戦隊ラブラブレンジャー』の関連グッズが妙《みょう》に目立つ。かなり強力にプッシュしているようだ。
が、そんなことよりずっと気になることがある。超《ちょう》のつくお嬢《じょう》さまである彼女は、いったいこういう場において何を購入《こうにゅう》し、何を飲食するのであろうか。フランス料理のフルコースを注文する、などということはさすがにないだろうが、小酒落《こじゃれ》たブランチくらいは当然出てくるものと期待しているかもしれない――
などという杷憂《きゆう》をよそに、令嬢はあっさりと買い物を済ませてしまった。
ヤキソバとラムネである。
スチロールの皿の上に載《の》ったソースヤキソバと、ビー玉入りのビンに入ったラムネ。
超絶《ちょうぜつ》お嬢さまとはいえ同じ学校に通っているわけだし、そこまで世間慣《せけんな》れしてないわけではないと思っていたが――ここまで庶民的《しょみんてき》なことに馴染《なじ》んでいるとは想定外《そうていがい》だった。ひょっとするとこれまで、この令嬢に対してとんでもない誤解《ごかい》をしていたのだろうか。しかし北条麗華にヤキソバとラムネ。なんだかシュールな光景である。
「…………? 何? 何ですの?」
「ああいえ、なんでもありません。あちらのテーブルが空いてるので、どうぞお先に」
取り繕《つくろ》いつつ峻護は急いで頭脳《ずのう》を回転させる。今見た光景に、記憶を刺激《しげき》する何かがあったのだ。
それは昔ながらの駄菓子屋《だがしや》での一場面。一人の女の子が店いっぱいに並べられた商品に目移《めうつ》りしているところを、峻護は後ろから見守っている。輪郭《りんかく》のぼやけたその女の子は散々《さんざん》迷《まよ》った末《すえ》、店主のおばちゃんが焼いているヤキソバを選ぶのだ。そうして背伸《せの》びをしながら紙皿を受け取り、ひとくち味見してぶるぶる肩《かた》を震《ふる》わせ、味の感想《かんそう》を述《の》べようとこちらを振《ふ》り返り――振り返りきる前に記憶は切断《せつだん》される。
頭を振り、その先を思い出そうと試《こころ》みるが、振れども振れども続きの映像《えいぞう》は見えてこない。だが、あれはやはり――北条麗華なのだろうか。
クリアにならない記憶に軽い苛立《いらだ》ちを覚《おぼ》えつつ買い物を済ませると、麗華の姿がない。
ざっと周囲を見回してみた。
みやげ物の棚《たな》の中に、ひどく賑《にぎ》やかしくて華《はな》やかな一隅《いちぐう》がある。色とりどりのプラスチックとガラスで作られた子供向けアクセサリの並ぶコーナーだった。リングにチョーカーにバングルなどが見栄《みぱ》えを競《きそ》っているが、やはりあくまで子供向けのもの。値段《ねだん》が手ごろで無意味に派手《はで》であること以外、特にとりえもない品々である。
そんな安っぽい売り物を、世界的VIPとして扱《あつか》われるべき令嬢が何やら熱心《ねっしん》に眺《なが》めている。高級品やら一級品やらを見慣《みな》れている彼女には物珍《ものめずら》しく映《うつ》るのだろうか。
その横顔を見るともなしに見ているうち、ふと気づいた。麗華の眼差《まなざ》しがどこか懐《なつ》かしそうに揺《ゆ》らいでいる気がするのだ。
アグセサリに注がれていた視線《しせん》がこちらに転じた。
わずかに動揺《どうよう》を見せつつ、
「な、なによっ。ひとの顔をそんなじろじろ見ないで頂戴《ちょうだい》!」
「あ、はい。すいません」
しかしヤキソバにしてもラムネにしてもこの令嬢、さっきからチープなものにばかり興味を示しているような。これらのどこに彼女をひきつけるものがあるのだろうか。ヤキソバとラムネ、それと安物アクセサリの共通項《きょうつうこう》。ヤキソバ、ラムネ、アクセサリ……だめだ、何も浮《う》かんできそうにない。
「なによ、そんな顔して……? 質問があるなら手短になさい。さっさと食事を済ませて、そのあとはまだまだ仕事が控《ひか》えているのですからね」
「はい、あの」すこし瞬踏《ためら》ってから、「北条|先輩《せんぱい》、こういうアクセサリとかに興味があるんですか? 先輩には縁《えん》のない安物ばかりですが、どうしてまた?」
麗華の表情に緊張《きんちょう》と期待が走った――ように見えたのは気のせいか。
「先輩?」
「……そう、安物ですわね。ええまったくもって。こんなもの何の役にも立ちませんわ」
俯《うつむ》き加減《かげん》に、ぼそぼそと声が漏《も》れてくる。
「まあ――あまり役には立たないですね、確かに」
「その通り。ですからそうね、もしこういうアクセサリをどうにか役立てるとするならば、例えば罠《わな》をしかけて、敵を嵌《は》めるために用いるとか」
「はあ。罠ですか?」
これらの安物をどう使えば罠《トラップ》を作れるというのだろう? もちろん工夫次第《くふうしだい》ではどうとでも利用は可能だろうが、罠を仕掛《しか》けるのにアクセサリを用いる必然性がわからない。どこかの特殊《とくしゅ》部隊が非常時に参考にするマニュアルの話でもしているのだろうか。
チラチラこちらを窺《うかが》いながら、麗華はなおもぼそぼそ声を並べる。
「こういった存在価値の薄《うす》そうなアクセサリでも適正《てきせい》に運用すれば、豚《ぶた》の親戚《しんせき》みたいないけ好かない無礼者《ぶれいもの》に一杯《いっばい》食わせるのも可能である――そんな応用力を、かってのわたくしは学んだものです」
「…………?」
何かの比喩《ひゆ》を用いているようだが、詩的《してき》素養《そよう》に乏《とぼ》しい峻護にはさっぱり理解できなかった。豚に真珠《しんじゅ》とか、そういうことを言いたいのだろうか。
「ええと……つまり先輩は、こういったアクセサリにとてもこだわりがあるということでしょうか?」
麗華の表情に微妙《ぴみょう》な変化。何かを期待するような色が浮き出ている。
「ええと、うーん……」
求められている答えをどうにかひねり出そうとして、
「ええとつまり先輩は、こういったアクセサリの市場に興味があるとか。こういった隙間産業《すきまさんぎょう》に新しい事業《じぎょう》の可能性を見出《みいだ》して、それで――」
「……ちがいます」
低い声の呟《つぶや》き。雲行《くもゆ》きが怪《あや》しくなってきた。さらにせわしなく知恵《ちえ》を絞《しぼ》る。
「ええとつまり先輩は、こういったものを好む子供たちの傾向《けいこう》を社会心理学的に分析《ぶんせき》しようとしている……とか?」
令嬢は、ひどく失望《しつぼう》したようだった。
その失望はすぐに怒《いか》りへと転じ、不心得者《ふこころえもの》に対して針《はり》の雨のごとく襲《おそ》い掛《か》かる。
「え?」
峻護の胸元《むなもと》に、ヤキソバとラムネが押《お》し付けられた。
反射的に受け取ってから、
「ええと、これは…………?」
「わたくし突然《とつぜん》、フォアグラのソテーのバケットサンドが食べたくなりました」
つん、とそっぽを向いたまま申し渡《わた》す。
「可及的速《かきゅうてきすみ》やかに手配するよう。なお、そのジャンクフードはあなたが責任もって処分《しょぷん》するように」
「ええっ? フォアグラのソテーですか? そういうものはこういう遊園地には売ってないんじゃ……」
「問答無用《もんどうむよう》!」
無能《むのう》なことをほざく一日|下僕《げぼく》をキッと睨《にら》みつけ、一喝《いっかつ》。
「あなたは現在わたくしの付き人も同然。そして付き人とは主《あるじ》の要望に全力で応《こた》えるものです。それを何ですあなたは? 全力どころか微力《びりょく》すら尽《つ》くさぬうちからそのような弱音《よわね》を吐《は》くなんて。つべこべ言わずとっとと行きなさい!」
雷《かみなり》を落とされ、峻護はほうほうの態《てい》で売店からまろび出る。
*
「うーん。まだまだ未熟《みじゅく》ですねえ、お嬢《じょう》さま」
さて、そのころの保坂少女[#「少女」に傍点]である。
「もし万が一にも、お嬢さまが自分の力だけで道を切り開けるなら手出しはしないでおくつもりでしたが――やっぱリボクがついてないとダメみたいですねえ」
「そうはいうが保坂くん」
と、こちらはなし崩し的に麗華ウォッチングに参加してしまっている甲本。
「あの百万人入場記念イベントとやらも君の仕込《しこ》みなんだろう? 既成事実《きせいじじつ》として、君はすでに手出しをしていると思うんだが」
「いえいえ、あんなのはほんの余興《よきょう》ですよ、余興。奥手《おくて》なお嬢さまでもちゃあんと二ノ宮くんとくっつけるよう、あのひとの心理を読みきった上で手を打ってあるんですから」
双眼鏡《そうがんきょう》をくるくる指で回しながらニコニコ顔で保坂は言う。心の底から愉《たの》しそうだ。
入園以降、彼ら二人はつかず離《はな》れず適度《てきど》な距離《きょり》を保《たも》ちつつ、麗華と峻護の動向の一部始終を余《あま》さず観察《かんさつ》している。保坂は隠密行動《おんみつこうどう》などお手の物だし、甲本もなかなか器用にそのあとに追随《ついずい》していた。
「まあ確かに、」と甲本は肩をすくめる。
「北条さん、まったくもって相変わらずだしな。あの分じゃ来世紀まで掛かっても進展《しんてん》がなさそうではある」
「そういうことです。お嬢さまにしてはがんばってる方だけど、ごく一般《いっばん》の採点基準《さいてんきじゅん》でいけば零点《れいてん》ですね。まあ主人の欠点を補《おぎな》うためにボクみたいな役目があるわけで。なあに、何の心配も要りませんよ。お嬢さまには今日中に二ノ宮くんとベッドを共にするとこまで行ってもらいます。先ほどの記念品の副賞『ロイヤルスイートの宿泊券』『風船と似《に》て非なるゴム製品』が役に立つという寸法《すんぽう》でして」
もちろん甲本を連れてきた真の理由は、そんな北条麗華のカワイイ姿をタダ見させてやるためではない。これはスカウト活動の一環《いっかん》でもあるのだ。なんとなればこの保坂、二ノ宮涼子と月村美樹彦の思惑《おもわく》を読みきれていない今、一人でも多くの有能《ゆうのう》な子飼《こが》いが欲《ほ》しいところ。甲本陽一の素質《そしつ》に疑いは持っていないが、こういう現場においてどんな働きをするか見極《みきわ》めておきたいのである。
「しかしちょっと意外だな。北条さんをストーキングすると聞いて、一体どういう方法を取るのかと思っていたが――こうしてただ後をつけるだけだったか。君のことだからもっとえぐいやり方をすると思ってた。盗聴器《とうちょうき》の類《たぐい》を仕掛けるとかね」
「仕掛けましたよ。だけどさすがお嬢さま、事前に察知《さっち》して取り外しちゃいましたね。取り付けには自信あったし、諜報部謹製《ちょうほうぶきんせい》の極小型《ごくしょうがた》だったんですが。それと遊園地に元から設置《せっち》してある監視《かんし》カメラについてはボクのコントロール下にありますし、それでは心許《こころもと》ないので新規《しんき》に数百台の高精度《こうせいど》カメラも追加《ついか》してあります。これでほぼ十割方、今日のお嬢さまの行動は映像に記録できますね。念のため衛星《えいせい》も手配してそちらからも映像を送らせてますし、滅多《めった》なことでは記録洩《きろくも》れは起こらないでしょう。残念ながら音声の録音《ろくおん》についてはほとんどあきらめることになりそうですが」
「――なるほど、俺の考えが間違《まちが》ってたみたいだ。余計《よけい》な口を出す必要もないみたいだし、今日一日、君のやることに大人しくついていくことにするさ。――ん?」
「どうしました?」
「ああいや、ちょっとね。見覚《みおぼ》えのある生徒がいたもんだから」
甲本は眼鏡《めがね》の奥の瞳《ひとみ》をやや細めて、
「あれは一年の綾川《あやかわ》日奈子さんだな」
「へええ」ぐるりとあたりを見回す保坂。経営が傾《かたむ》いているとはいえ休日の遊園地、人ごみができる程度には混雑《こんざつ》している。「この人出のなかでよく見つけましたね」
一年でも目立つ子だからね。たまたま目に留まっただけだよ。活発《かっぱつ》で面倒見《めんどうみ》もいいし見た目も上々だから、男女分け隔《へだ》てなく好かれているという話だ」
ふむふむ、と保坂は心の査定帳《さていちょう》にメモをつける。目立つとはいうが、神宮寺学園は個性的で耳目《じもく》を引く連中ばかり。その中の一下級生の顔を覚え、こんな遊園地でその姿をすぐに見出《みいだ》すというのはなかなかできることではないだろう。二年生の時点《じてん》で生徒会長に選ぱれていた実績《じっせき》は伊達《だて》ではないらしい。
「おや、どうやら二人連れらしい。もしも隣《となり》にいるのが彼氏だったら遺書《いしょ》を書くやつが何人か出てきそうだが……幸いあれは弟くんのようだな。ん? 彼女って弟いたっけか? じゃああれは従弟《いとこ》か何かなのかな」
「どれどれ――んん?」
そちらに目を眇《すが》めた保坂が怪許《けげん》そうな声を上げる。
「どうした?」
「ああ――いえ、気のせいです。何でもありません」
綾川日奈子の従弟だという少年、その後ろ姿に些細《ささい》な違和感《いわかん》を覚えたのだが――保坂はすぐにそれを留保《ほりゅう》する。今は重要なミッションの最中だ。その至上《しじょう》目的以外のことはまさしく些未事《さまつじ》にすぎない。
「しかしどうもあの二人……」甲本が首をかしげる。「さっきからずいぶんフラフラしてないか? 進んだり戻《もど》ったり、止まったり駆《か》け出したり。一体どこに行って何をしたいんだろうな」
「さあ? 昼間からアルコールでもやってるんじゃないですか?」
もはやそちらは眼中にない保坂、興味《きょうみ》なさげに答えてから、
「さて。それじゃあもう少し、お嬢さまに刺激《しげき》を与《あた》えてみるとしましょうかね」
携帯《けいたい》を取り出し、今もこの遊園地で日に陰《かげ》に活動している腹心に繋《つな》がるホットラインを手早くプッシュする。
*
一方、甲本と保坂に捕捉《ほそく》されつつも、なんらマークを受けることなく済《す》んだ真由と日奈子は。
甲本の見立ての通り、確かにフラフラしていた。別に酔《よ》っ払《ばら》って足もとがおぼつかないわけではなく、熱中症《ねっちゅうしょう》にかかって意識が朦朧《もうろう》としているわけでもない。ひとえにそれは真由の男性|恐怖症《きょうふしょう》ゆえだった。
そう、擬似的《ぎじてき》な二重人格とさえ呼べる深い自己《じこ》催眠《さいみん》で少年になりきっても、裏に隠《かく》れている真由は常に覚醒《かくせい》している。そして覚醒している真由は男性恐怖症のままであり、さらには休日の遊園地は人口の密集地《みつしゅうち》であり、人類の半数は男性であるという比率《ひりつ》は遊園地においても変わりないのである。
ほんと、難儀《なんぎ》な性質《たち》ねえ……と日奈子はため息をつく。手間暇《てまひま》かけた男装《だんそう》も、相当な訓練《くんれん》の末に習得《しゅうとく》したであろう自己催眠も、結局のところ気休め程度の役にしか立たないということになる。たしかにこれなら異性の目を引く機会《きかい》は格段《かくだん》に減るが、根本的《こんぽんてき》に中身が変わってないのであれば如何《いかん》ともしがたい。石を投げれば男に当たるような人ごみでは真《ま》っ直《す》ぐに進むことすらままならず、当然そんなことでは峻護と麗華の後を追うことなどできるはずもなく。
まったく、付き合いが長くなるほどに月村真由という少女の抱《かか》えた問題がいかに厄介《やっかい》であるか露《あら》わになってくる。面倒見がよく、ついでに浪花節《なにわぶし》気質《きしつ》もある日奈子としては、できるだけこの不器用《ぶきよう》な友人の助けになってやろうとも思えてくるのだ。
ともかく、こうして無策《むさく》のまま園内をジグザグ歩きしていても何《なん》ら益《えき》はない。方針を練《ね》り直す必要がある。
「ほら、こっち来て」
『弟』の手を引き、入通りの少ない建物の陰《かげ》まで連れて行く。
「なんだよ、痛《いて》えよバカ姉貴。手ェ放せよっ」
「ほれ、ここなら『弟』である必要ないんだから、替《か》わって替わって。ハイ、いち、にの、さん」
キーワードとともに手を鳴らすと、『真面目《まじめ》でひかえめで純情《じゅんじょう》な少女』がたちまち浮《う》かび上がってくる。
「ああ――、はい、すいません日奈子さん」
「ん。だいじょぶ? ちゃんと戻ってきた?」
目の前でひらひら手を振《ふ》る日奈子に、
「はい、すいません。お手数お掛《か》けしてます」
ぺこりと頭を下げた。
下げた拍子《ひょうし》に、鼻からぽたりと赤い雫《しずく》が落ちる。
「ありゃまたか。あんた最近多いねえ、それ」
「うー、すいません。もともと鼻の粘膜《ねんまく》が弱くて。こういう時期が時々くるんです」
「ふうん……」
目を細めて真由の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んでいたが、これといって突《つ》っ込むこともなく、
「まあ暑いしねえ、今日は」
天に掛かった太陽を見上げつつポケットを探《さぐ》った。
「ほれ、ハンカチあるよ。使う?」
「い、いいですいいです、そんな、汚《よご》れますから。ちょっと休めばだいじょうぶです」
「そか。じゃあとりあえずあたし麗華さん捜《さが》してくるわ。今のあんた連れてたら、追っかけるどころの話じゃないしさ。それで見つけてきてから、そっからもっかい麗華さん追っかける。そうしない?」
「すいません、ほんとうにご迷惑《めいわく》ばかりおかけして。このご恩《おん》はいずれ――」
「いいっていいって。そんな改《あらた》まられると逆に気持ち悪いじゃん。その間にあんたはトイレでも行って鼻拭《ふ》いてきなよ」
「うう、すいません……」
「だからいいってのに。じゃ、そこで待ってて」
気楽に請《う》け合《お》い、炎天下《えんてんか》の人ごみの中を悠々《ゆうゆう》と渡《わた》り歩いていく。
その背中を少しばかり羨望《せんぼう》の入った眼差《まなざ》しで見送ってから、真由は出血の始末《しまつ》に向かった。折《お》りよく、すぐ間近に手洗いがある。今は人通りも少ないようだ。
これで人心地《ひとごこち》つけられる、ほっと息をつき、中に入ろうとして――
ようやくその段になって気が付いた。
トイレに行く、と言うのは簡単《かんたん》だけど。
少年の格好《かっこう》をしている今の自分は、男子用と女子用のどちらに入ればいいのだろう?
中に入りかけていた足をあわてて引っ込め、真由のジレンマが始まった。
男子トイレに入るという案《あん》は真っ先に却下《きゃっか》だった。いくら男性になりきったところで、彼女にとって男子トイレなどアゥシュビッツのガス室にも等《ひと》しい。
あまり格好など気にせず、堂々と女子用を使う――という手にも躊躇《ためら》いがあった。いくら男装したところでそこはサキュバスたる真由、『少年』さえ引っ込めてしまえば十分に少女として通るのだが、そこまで踏《ふ》ん切りのいい性格は持ち合わせていない。
いっそのことバイザーもウィッグもサングラスも外してしまえばどうか。それなら誰《だれ》も疑いはしないだろうが――真由のロングヘアを目立たないよう収《おさ》めるには相当な手間が掛かる。それをもう一度収め直しているようでは、ますます今日の目的からは遠ざかってしまう。
手洗いに出入りする女性たちが、入り口前でうろうろしている少年姿を胡乱《うろん》げな目で舐《な》めていく。その視線がいよいよ真由を焦《あせ》らせる。何かと弱点の多い彼女だが、残念ながら突発事態《とっぱつじたい》にも強い方ではない。ちょっと落ち着いて考えれば次善策《じぜんさく》は出てくるはずだが、その『ちょっとの落ち着き』が今は遠い。
とはいえ、真由が女子トイレの前をうろうろしていたのはそう長い時間ではないのだ。
が、その短い間が命取りとなった。
「君」
野太《のぶと》い声と共に、真由の肩《かた》に手が置かれた。
声にならない悲鳴《ひめい》と共に振り向けば、そこにいるのはレスラーみたいな体格《たいかく》をした、いかにも屈強《くっきょう》そうな警備員《けいびいん》である。
「女子トイレの前で何をうろうろしているのかな? 知り合いでも待っているのかい?」
肩に手を置いたまま訊《たず》ねてくる。言葉|面《づら》こそ客に対するものだが、警帽《けいぼう》の下で光る両目はさにあらず。油断《ゆだん》なく容疑者《ようぎしゃ》の全身に福線を配《くば》り、逃亡《とうぼう》の可能性《かのうせい》を潰《つぶ》している。
男。それも好意《こうい》とは程遠《ほどとお》い眼差しを向けてくる、見上げるような大男。
この時点で気絶《きぜつ》しなかっただけ特筆《とくひつ》ものだろう。足が疎《すく》み、その疎みはたちまち全身に行き渡る。喉《のど》からは『ひっく』という変な音が漏《も》れるだけでまともな声が出せない。野次馬《やじうま》が足を止めて成り行きを見守っている。その注目がいっそう真由の自由を縛《しば》りつける。
そんな『少年』の挙動《きょどう》を、警俯員は不審《ふしん》と断定したらしい。
「君、済まないがちょっとこちらまで来てもらおうか」
声に威圧《いあつ》が込《こ》められる。動けない。矇朧《もうろう》とし始めた意識の中で思う。どうしてわたしはこうなんだろう。理不尽《りふじん》としか思えない男性恐怖症はどうやったって克服《こくふく》できず、男の子の格好をしなくちゃ、いいえ、そこまでしてさえ満足に外を歩けず、挙句《あげく》の果《は》てにこんな目にあっている。神さまはわたしに何をさせたいのだろう? わたしが生きている意味、生かされてる意味はどこにあるんだろう――
「さあ、こっちに来るんだ」
どこまでも後ろ向きな思考《しこう》に埋没《まいぼつ》し始めた真由を引っ立てようと、警備員が肩に置いた手に力を込め、
「お待ちなさい」
凜《りん》と響《ひび》く声が事の流れを断ち切った。
「どういう成り行きなのかは知りませんが、子供をそこまで追い詰《つ》めるものではないわ。その子、すっかり怯《おび》えているじゃないの」
衆目《しゅうもく》の中、その少女はまるで気後れすることなく歩み出てくると、警備員に咎《とが》める視線を投げた。真由は目を瞠《みは》った。誰もが惹《ひ》きつけられる美貌《びぼう》にメイド服。どうやったって見間違《みまちが》えようはない。
両手を腰《こし》に当て、令嬢《れいじょう》はさらに畳《たた》み掛《か》ける。
「興味があります。どんな事情《じじょう》でこんなことになっているのか、聞かせてはもらえないかしら」
「は、はい、事情というのはですね――」
唐突《とうとつ》に現れた少女に、三倍ほども体積《たいせき》のありそうな警備員の言葉が自然と丁寧《ていねい》になっている。そもそも閲入者《ちんにゅうしゃ》である彼女に事情を話す謂《いわ》れもないのだが、それすら疑問とは感じていないようだ。
事情を聞き終えると麗華はひとつ頷《うなず》き、
「なるほど、職務熱心《しょくむねっしん》で感心なこと。やはりここのスタッフは見所がありますわね――ですが、そう高圧的《こうあつてき》に出られては上手《うま》く弁明《ぺんめい》できない人間もいるでしょう。そちらで小さくなっている方などその典型《てんけい》でしょうし、もう少し気を配《くば》ってあげてもいいのではなくて? ましてやここにいる以上、その子もこの遊園地のお客なのですわよ?」
「は、確かに、それはその通りなのですが……」
「それに話を聞けばその少年、不審には違いありませんが、いきなりしょっ引かれるほどの罪があったとも思えません。よしんば罪に問われるようなことを目論《もくろ》んでいたとしても、未遂《みすい》の上に未成年《みせいねん》。下手《へた》をするとあなたの方が罪に問われることになりましてよ? 放しておあげなさいな」
「は、いえ、しかし……」
「それでもまだご不満だというなら、その子の身元はわたくしが責任を持ちましょう。万一|過失《かしつ》があってもあなたには決して迷惑《めいわく》が掛からぬよう処置《しょち》いたします。それでよろしくて?」
「はい、はあ、いえ。そこまでおっしゃるのでしたら」
「そう。ありがとう」
にっこり微笑《ほほえ》みかける麗華。それはもう、ただ極上《ごくじょう》としか呼びようのない、じつに艶然《えんぜん》たる微笑《ぴしょう》だった。警備員は年甲斐《としがい》もなく頬《ほお》を染《そ》め、ひっくり返らんばかりに胸板《むないた》を反らせて敬礼《けいれい》した。
カチコチに緊張《きんちょう》したままの足取りで去っていく警備員を真由は呆然《ぼうぜん》と見送り、次いで視線《しせん》を救世主に向けた。
「職務熱心も過《す》ぎれば毒《どく》――やはりこの施設《しせつ》、運用|次第《しだい》ですわね」
同じく警備員の背中を見つめ、麗華はひとり何ごとかを呟《つぶや》いている。いきなり登場して場を丸く収めたメイド姿の少女に興味を引かれた様子の野次馬《やじうま》たちも、ほどなく三々五々に散っていった。
「…………」
なおも呆然《ぼうぜん》としたまま真由は思う。これはどういう偶然《ぐうぜん》だろう。いや、それ以上に皮肉《ひにく》なのか。運命の悪戯《いたずら》、という言葉を思い出し、思い出すまでもなくそもそも運命というヤツとは昔から仲が悪かったことに気づき、そして呆然としている場合ではないことにようやく思い至《いた》った。
逃《に》げよう。
とっさにその衝動《しょうどう》が湧《わ》いた。同時、その機先《きせん》を制するかのように声が掛かった。
「時にあなた」
咎《とが》めるような、しかし怒《おこ》ってはいない目で、
「こんな場所で何をうろうろしていたのかしら? 子供とはいえ男性が長居すれば怪《あや》しまれて当然、その程度の分別《ふんべつ》はつく年頃《としごろ》でしょう?」
困ったひとね、と言わんばかりの苦笑《にがわら》い混《ま》じりである。真由は目をぱちくりとさせた。そんな自然な表情を麗華から向けられるのは初めてで、それは普段《ふだん》自分に向けられる苛烈《かれつ》なそれとはまるで別物《べつもの》で――
と、そこで真由はあわてて顔を伏《ふ》せ、バイザーを深くかぶりなおした。いくら上手《うま》く化けたところで、正面切って眺《なが》められればさすがに隠《かく》し通せまい。まして今は『少年』を引っ込めてしまっているのだから。
「成り行き上とはいえあなたはわたくしに救われた身。その程度の問いには答える義務《ぎむ》がおありでしょう? わたくしも方便《ほうべん》とはいえ、あなたの身元引受人を買って出てしまったことだし。何も事情を聞かぬままでは居心地《いごこち》が悪いというものですわ」
重ねて訊《たず》ねてくる麗華をちらりと見やり、ほっとする。まだ気づかれてはいない。
それにしても――この令嬢の口から発せられる声の、抗《あらが》いがたい不思議な魅力《みりょく》は何ごとだろう。心の内に鮮烈《せんれつ》といっていい驚《おどろ》きが湧《わ》く。北条麗華|元来《がんらい》の性質《せいしつ》がそうだということは聞き知っていたし、遠目にそういう姿を何度も見てきたが、現実にそれが自分に向けられると……なんというか、ひどく、戸惑《とまど》う。この魅力的な少女は毎日欠かさず紛争《ふんそう》し合っている相手、この世に二人とはいない不倶戴天《ふぐたいてん》の大敵なのだから。
「もう、黙《だま》っていてはわかりませんわ。なんとかおっしゃいなさいな」
しかもそんな大敵が今や、自分の窮地《きゅうち》を救ってくれた恩人となってしまった。ただでさえこの令嬢を嫌《きら》いになれないことに閉口《へいこう》していたのに。おまけに自分はその恩人と想《おも》い人との成り行きを気にするあまり、こんな格好をしてまでこの場に出張《でば》ってきて、そのことに麗華は気づいていなくて――
いかつい警備員の威圧《いあつ》に参っていたところへ、だめを押《お》すようにこのねじくれた状況《じょうきょう》。真由の思考《しこう》回路《かいろ》には重度《じゅうど》の負荷《ふか》が掛《か》かり、思考は際限《さいげん》なく混乱した。
その混乱が血圧を刺激《しげき》したのかもしれない。麗華から顔を隠《かく》そうと俯《うつむ》いていたのもよくなかっただろう。
「ちょ、ちょっとあなた、だいじょうぶ?」
ぽたぽたと滴《したた》り始めた赤い血に、さすがの令嬢も少なからず慌《あわ》てたようだ。が、慌てていても適切《てきせつ》な行動を取れるのが北条麗華である。迷わず懐《ふところ》からハンカチを取り出すと、真由が何か言うより早くそれを出血|箇所《かしょ》に当てた。
真っ白な布地《ぬのじ》が、みるみるうちに鮮《あざ》やかな赤に染まっていく。
「わたくしそんな、鼻血を吹《ふ》くほどにきついこと言ったかしら? こうなると余計《よけい》に責任感じるじゃないの……ほら、そんな俯いてないで上を向きなさい。それでは止まるものも止まりませんわよ」
『少年』を見る目にわずかに含《ふく》まれていた疑念《ぎねん》の成分が立ち消え、それこそ姉が弟にそうするように世話を焼く麗華。
一方の真由はさらなる混乱の極《きわ》みに達しようとしていた。普段からいがみ合っている相手にやさしくされるし、そんな近くに寄られて手当てとかされると次の瞬間《しゅんかん》にもバレてしまいそうだし――だがそれにもかかわらず不思議と、後も見ず一目散《いちもくさん》に逃げ出す、という選択肢《せんたくし》は浮《う》かんでこないのだ。
結局、麗華の勧《すす》めにもかかわらず下を向いたまま、ずるずると鼻をすすり、ハンカチの染《し》みを広げつつして、やっとのことで鼻血を止めた。
「止まった? まったく……世話の焼けるひとね、あなた」
苦味を交《まじ》え、しかしそれでも可笑《おか》しげに笑いながら、麗華は患者《かんじゃ》から離《はな》れる。
「まあいいですわ。あまりうろうろ動き回らないで、どこかの木陰《こかげ》なり医務室《いむしつ》に行くなりして横になっていなさい。でないとまた鼻血が出ますわよ」
「あ――」
「それではごきげんよう。わたくしはこう見えて忙《いそが》しいのです。――それにしてもあの男、いつまで待たせるつもりかしら。保坂だったらとっくに言いつけ通りにして戻《もど》ってきているでしょうに。付き人失格ですわね。もっともあの男の適性《てきせい》が付き人などに向いているのであれば、それはそれで困りものですが」
「あ、あの」
あっさり立ち去ろうとする麗華を、思わず呼び止めていた。
「? 何ですの?」
「あの、その――」
やはり俯いたまま、ほとんど聞き取れない声で。
「あ、ありがと……」
「――あら」
感謝の言葉に、麗華はとびきり上等に微笑《ほほえ》んだ。
「どういたしまして。別に大したことはしていませんが、気持ちはうれしく受け取っておきましょう。でもあなた、どうせ礼を言うならもっと早くなさい。機《き》を逸《いつ》するとかえって逆効果になることがありましてよ」
最後にもうひとつ世話を焼き、令嬢はきびきびした足取りで今度こそ去っていく。
小さくなっていくその姿を真由はぼんやり見つめている。けっきょく最初から最後までずっと呆然としていたように思う。じりじり肌《はだ》を焼く陽《ひ》の熱さが次第《しだい》に戻ってくる。遊園地に満ちていた様々《さまざま》な喧騒《けんそう》もまた、ゆっくりと耳によみがえってくる。
手元に残ったハンカチに目を落とす。散々に汚《よご》してしまった白い布。精緻《せいち》なレースがふんだんに入った、いかにも上等《じょうとう》そうな品だ。それにただ精緻なだけでなく、どこか工業製品にない温かみがあるように感じられる。ひょっとすると麗華自身が手ずから縫《ぬ》いこんだものかもしれない。
「どうしよう、これ――」
呟けど答える者はなく。
夢の続きのように心を浮遊《ふゆう》させたまま、真由はじっと手のひらのハンカチを見詰《みつ》め続けている。
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其の三 ネバーエバーランドの日 午後の部
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無茶《むちゃ》な話と土台《どだい》承知ではあったが、汗《あせ》だくになりつつ駆《か》けずり回ってもやっぱり結果は同じだった。フォアグラのソテーなどこの遊園地では用意できるはずもなく、峻護《しゅんご》は徒手空拳《としゅくうけん》のまま虚《むな》しく敗残《はいざん》の苦味を舐《な》めている。
しかし常々《つねづね》思うことだが、自分はどうしてこう北条麗華《ほうじょうれいか》の逆鱗《げぎりん》に触《ふ》れることが多いのだろう。先ほどのアクセサリの件も彼なりに論理《ろんり》だてて、もっともありえそうな解答《かいとう》を提示《ていじ》したつもりだったのに。こんな有様《ありさま》ではたとえ彼女が約束の少女だったとしても先が思いやられるではないか。
令嬢《れいじょう》が待つ売店の方角に向かいながら、生真面目《きまじめ》な彼は律儀《りちぎ》に反省する。果《は》たして今日一日で何回あのひとの機嫌《きげん》を損《そこ》ねることになるだろうか――そんな風に戦々《せんせん》恐々《きょうきょう》としつつ、売店付近まで来たところで。その光景が目に入ってきた。
オープンテラス、と呼ぶには垢抜《あかぬ》けなさすぎるテーブルの列――周囲で購入《こうにゅう》した飲食物を広げるためのものだろう――が並び、そのひとつにメイド姿の少女は腰《こし》を下ろしている。
周りに、また人だかりができていた。
今度もまた、彼女を囲む面々はすべてお子様連中である。
「うわすっげえ! レンジャーバッジだ!」
「ほんとだ、ラブラブレンジャーのエンブレム! こんなのどこにも売ってないよっ」
「いいなー、おねーちゃん。いいなー」
「まあ。そんなすごいものなのかしら、これ。わたくしはよくわからないけど――」
「ほしいっ。ちょうだいっ」
「だめ」
「っええ〜? どうして〜?」
「これは……その。わたくしにとって新しい、思い出の品になるかもしれないからなのです。ですから差し上げるわけにはいきませんわ」
「ふうん……あたらしい思い出ってことは、ふるい思い出もあるんだよね。それってどんな思い出?」
「あ、それ聞きたい聞きたーい」
「うん、聞きたい聞きたーい。おねーちゃんおはなしして〜」
「ふふ、悪いけどそれは内緒《ないしょ》ですわ。わたくし、それは誰《だれ》にも話したことがないの」
話し声が細く届いてくる。半分も聞き取れないが、内容などわからなくても空気は読める。至《いた》って和《なご》やかで、打《う》ち解《と》けた様子だった。
子供相手にはやわらかいひとだなあ、と思う。いや、北条麗華の本来の地はきっとあちらなのだろう。彼女の周りには彼女をささくれ立たせる事柄《ことがら》が多すぎるのだ。自分もその事柄のひとつにリストされているかと思うと伍泥《じくじ》たる思いだが――
と、不意《ふい》に。
既視感《きしかん》が脳裏《のうり》を走った。また、あの少女の映像。記憶《きおく》の最深部にあいまいな輪郭《りんかく》で存在する、大切な誰かの思い出。
間を置かずその手がかりにしがみ付く。手繰《たぐ》り寄《よ》せる。記憶にまとわりつく露《もや》を懸命《けんめい》に払《はら》う。見えてきた。どこかの公園。ジャングルジム。そのてっぺんに少女は腰掛《こしか》け、周囲を囲むようにして子供たちが少女を見上げている。少女は子供たちと何かの話をしているようだ。子供たちはふむふむと聞き、時に大きな笑い声が起こる。皆《みな》少女に好意的《こういてき》で一目《いちもく》置いているのがわかる。少女もまたそのやりとりを楽しんでいるらしく、その場は終始《しゅうし》、明るい雰囲気《ふんいき》に包まれて――
そこで、途切《とぎ》れた。
あわててもう一度|掴《つか》み直そうとするが、叶《かな》わない。傷もヒビも無数に入った記憶は蘇《よみがえ》りきることなく、すでに実体を失っていた。
失意《しつい》の吐息《といき》が洩《も》れる。もう幾度《いくど》めになるだろう、こうして機を逸《いっ》するのは。やはり傷《いた》みきった情報を完全に修復《しゅうふく》するのは望むべくもないのだろうか。確信を抱《いだ》かせるほどの何かは今回も得られずじまい。手元に残ったのは頼《たよ》りない印象だけ。
それでも確信をもって言えるのは、十年前のあの少女もまた、子供たちによく慕《した》われていたということである。そう、それに確か――峻護と暮《く》らし始めてすぐ、周囲には馴染《なじ》んでしまったのではなかったろうか。考えてみれば今の麗華も|二ノ宮《にのみや》家のメイドなどという無茶仕事を押《お》し付けられながら、よくその環境《かんきょう》に順応《じゅんのう》できているようだ。そういえば先ほどの入場ゲートでの一幕。あの時はいいように子供たちのオモチャにされていたのに、今回は上手《うま》いことあしらえている。このあたりも順応力の高さと言えるかもしれない。
やはり……あの少女は、北条麗華で間違《まちが》いないのだろうか。
「――あら」
麗華がこちらに気づき、席を立った。
「連れ合いが来たようです。わたくしそろそろ行きますわ」
「ええ〜、もういっちゃうの?」
「ばか、だめだよひきとめちゃ。あのひとって、おねーちゃんのかれしだよ、きっと。じゃましちゃ悪いよ」
「あ、そっか。それじゃあしょうがないよね。いってらっしゃい、おねーちゃん」
「ふふ、ありがとう。いってきますわ」
手を振《ふ》り合って別れ、歩み寄ってくる。
「――おそい。まったく、とうに承知していたことではありますが、あなたほんとうに使えませんわね。この程度の言いつけにどれほど時間を費《つい》やせば気が済むのです」
「はあ。すいません」
「それで? 首尾《しゅび》は?」
「すいません。やっぱりフォアグラのソテーというのはちょっと……」
「……まあ、そんなことだろうと思ってましたから今さら失望《しつぼう》はいたしません。食事はもう結構《けっこう》ですから、さっさと仕事の続きをいたしましょう。それからもうひとつ」
「はい?」
「先ほどあの子供たちが邪推《じゃすい》したわたくしたちの関係を否定《ひてい》しなかったのは、ひとえにその方が円滑《えんかつ》に話を収められると判断したからです。まさかとは思いますが、それをもってよからぬ勘違《かんちが》いなどはしていないでしょうね?」
「ええと……はい、たぶん。よくわかりませんが、先輩《せんぱい》を怒《おこ》らせるようなことはしていないと思います、はい」
「…………。なら結構。では行きますわよ」
「あ、先輩。ひとつお訊きしたいんですが、いいですか?」
ふと思いついたことがあり、きびすを返そうとした令嬢を呼び止めた。
「? なに?」
「先輩、子供に好かれますよね。それに先輩も子供のことが好きであるように見えます」
「――それで?」
「ええとそれで……つまり、それはどうしてなんでしょう?」
「どうしてか……そうですわね……」
訊きたいことがある、という割には焦点曖昧《しょうてんあいまい》な問いに、しかし令嬢は丁寧《ていねい》に言葉を選びながら、
「子供が好きというよりも、年下に甘《あま》いところはあるかもしれません。いえ、それとも少し違って……そうね、子供の立場というものに憧《あこが》れがあるのかしら。わたくしが生まれた環境《かんきょう》は、子供でいられる時間がとても短かったから」
「…………」
何でも言ってみるものだな――ふたたび思いがけないものを目の当たりにし、峻護はつくづくそう思った。かって、これほどに『普通《ふつう》』な彼女と正対したことが果たしてあっただろうか?
「昔はよくこう思いましたわ。もっと普通の家に生まれていれば、もっと普通に子供としての楽しい時間が過ごせたんじゃないかって。つまりわたくしは子供というものに、ひょっとしたら存在しえたかもしれない自分の姿を見出《みいだ》しているのかもしれません。それでつい、年下に甘くなってしまうところが出てくるのかも」
「なる――ほど」
やはり今回、彼女についてきた甲斐《かい》はあった。そう思う峻護である。どうせなら普段からこの態度でいてくれたらいいのに、とも思う。年下には甘いと自己|分析《ぶんせき》する麗華だが、峻護だって一応は彼女の後輩なのだから。
(…………?)
軽い動悸《どうき》を覚《おぼ》え、胸を押さえた。どうしたことだろう? 初めて面と向かう『普通』な北条麗華は、何か、こう、やたらと彼の胸をざわつかせるのだ。
戸惑《とまど》う。まごつく。そのまごつきがさらなる戸惑いを呼ぶ。
そんな一日付き人の様子に首をかしげていた麗華だが、ハッと気づいたような顔をするやキリリと柳眉《りゅうび》を逆立て、
「二ノ宮峻護! 言いつけを果たせなかった分際《ぷんざい》でわたくしに質問とはどういう料簡《りょうけん》です! まったくわたくしとしたことが、立場をわきまえない役立たず者の問いに真面目《まじめ》に答えるなんて……とんだ馬鹿《ばか》を見ましたわっ。一人前に物を訊《たず》ねたいのであれば、せめてフォアグラの代わりにチキンの照《て》り焼《や》きでも持ってくる程度《ていど》の機転《きてん》を利《き》かせるようになってからになさい!」
そんなこと言われても、という感じの叱咤《しった》を叩《たた》きつけると、峻護をおいてずんずん先に行ってしまった。どうしていきなり態度が変わったのだろうか? やっぱりこのひとはよくわからない。
駆《か》け足行進で追いついてから、肩《かた》を怒《いか》らせている背中に声を掛ける。
「それで先輩、これからどこへ?」
「…………」
「先輩?」
重ねて問うと、いかにもしぶしぶ、といった返答が戻《もど》ってくる。
「これといった目的地はありませんわ。ツアー旅行ではないのですから、特に決まったルートを決めずとも気の向いたところで――」
「そこのアンタ」
あらぬ方向からの声が返答を遮《さえぎ》った。
峻護も麗華も歩みを止め、声の発信源に目を向ける。
見れば、道の脇《わき》に黒い布地を張《は》った天幕《てんまく》がある。いかにも砂漠《さばく》あたりの遊牧民族が用《もち》いてそうなデザインのそれはプレハブの物置小屋ほどのサイズ。正面に開いた狭《せま》い入り口からは、強い日差しにコントラストされて濃《こ》い影《かげ》を作る内部を垣間《かいま》見ることができる。
「そう。アンタのことだよ」
しわがれ声はその薄闇《うすやみ》の中から投げかけられていた。目を凝《こ》らせば、フードのついた長衣を纏《まと》った老婆《ろうば》が麗華に目線《めせん》を固定している。
「……わたくしのことかしら?」
麗華の反応に老婆はゆっくり頷《うなず》くと、骨ぼった手で手招《てまね》きをし、
「おいで。アンタの相《そう》に面白《おもしろ》い卦《け》が出てる。伝えておきたい」
「ふうん……?」
麗華は仔細《しさい》げにテントと老婆を観察《かんさつ》している。
峻護もあらためてテントに視線をやると、入り口上部に看板《かんばん》が掲《かか》げられているのが目に入った。アラビア文字が刻《きざ》まれている。遊園地という場所|柄《がら》、それにテントとその主人のスタイルから推測《すいそく》するに、おそらく『占《うらな》いの館《やかた》』とでも書いてあるのだろう。推測の表現になるのは、アラビア文字が並んでいるだけで邦訳《ほうやく》が添《そ》えられていないためである。雰囲気《ふんいき》作りのためのこだわりということだろうか。いずれ、アトラクションの一環《いっかん》であることには違いあるまい。
そんなメイド服少女と従者の反応に、老婆は苦笑《くしょう》したようだった。
「そうビクつきなさんな。聞いておいたほうがためになるさね。アンタ、過去に起きたある出来事《できごと》にずっと縛《しば》り付けられてるだろう? それに関することさ」
びくん、と、麗華の表情がわずかに動いた。
しばし逡巡《しゅんじゅん》するポーズを取ってから「ふん……」と鼻を鳴らし、
「まあ、こうして外側からの観察に終始するのもそろそろ頃合《ころあい》ですわね。占いや予言の類《たぐい》に興味はないけれど……たまにはそういうのも一興《いっきょう》でしょう」
お澄《す》まし顔で入り口を潜《くぐ》った。
「座《すわ》りな」
後に続いた峻護にも椅子《いす》を勧《すす》めると、老婆は卓上《たくじょう》の水晶球《すいしょうだま》を指ではじいてから、
「アンタたち、夫婦《ふうふ》だね?」
とたんに激《はげ》しく咳《せ》き込む麗華。
「どっ、どうしていきなりそうなるのです! この男は単なるあり合わせの下僕《げぼく》に過ぎませんことよっ!」
「フム、おかしいねえ。そういう相が出てたんだけど……まあいいさね。遅《おそ》くとも何年後かにはそういう関係になるだろうしね」
「そっ――」
反論しかけ、しかし一呼吸して自分を落ち着かせ、
「まあ結構。どうせ占いなど信じてはいませんし。それで? 伝えておきたいこととは何なのです」
「まあそう急《せ》かしなさんな。まずはアンタの来《こ》し方行《かたゆ》く末《すえ》をじっくり視《み》させてもらおうじゃないか。パッと見で読み取ったばかりじゃ行き届かないところも出てくるからねえ」
喉《のど》の奥《おく》からしゃっくりのような笑いを漏《も》らしつつ、老婆は仕事を始めた。
客をじっと見つめながらゆっくりとした動作で水晶球を撫《な》で始める。
麗華は姿勢《しせい》よく座ったまま、真《ま》っ直《す》ぐにその視線を見返している。
見立てが終わるのにさほど時間はかからなかった。
「アンタには――」
目を細め、託宣《たくせん》を紡《つむ》ぎ出す。
「もう何年も望み続けていることがあるね? そいつを実現させるためにアンタは血の滲《にじ》むような努力をしたはずだ。だが、それはいまだ叶《かな》わぬままでいる。それは運命の悪戯《いたずら》によるところも大きいが、それ以上にあんた自身の不甲斐《ふがい》なさによるところが大きい。そしてアンタ自身もそのことはよくわかっている」
令嬢《れいじょう》は表情を動かさない。だが峻護の目に、それはポーカーフェイスの一種と映《うつ》った。なんだかんだいってこの少女との付き合いは短くない。その程度はわかる。
「まず――アンタの願いごとは、いずれ必ず叶うだろう」
どくん、と。
横にいる麗華――の心臓の高鳴《たかな》りが確かに聞こえた気がした。
「ただし、それはまだ決定した未来じゃない。あんたにはこの先何度もチャンスがあり、そして何度もそれを逃《のが》す。幸運の女神《めがみ》はアンタを愛《め》でているが、その利益《りやく》に背《そむ》き続ければいずれ愛想《あいそ》を尽《つ》かすはずだ。さて、アンタが機会《きかい》を掴《つか》むのが先か、女神が機会を与《あた》えるのに飽《あ》きるのが先か……」
「…………」
「そしてアンタは今まさにこの瞬間《しゅんかん》も、人生最大の好機《こうき》の真っ只中《ただなか》にある。アタシが視《み》たのはそれさね。あまりに大きな卦だったから水晶球を介《かい》さずともわかったのさ」
麗華、やはり無言。
「どうだい? アタシの見立ては。万一アタシの言ったことが外《はず》れてるんなら――アタシがそんじょそこらの三流と一緒《いっしょ》と思うなら、出て行ってもらって構《かま》わないよ。お代も要《い》らない。ただ、ここが肝心《かんじん》なところなんだが……アンタ、このままじゃおそらく失敗するよ。そうならないために、アタシはこうしてアンタを招《まね》いたんだ」
この手の商売人が使う常套句《じょうとうく》ではある。が、その言い分に思い当たる節《ふし》があるとすれば、それと知りつつも誘惑《ゆうわく》を感じずにはいられないだろう。
「アンタには一|工夫《くふう》が必要なのさ。これまでのやり方で上手《うま》くいかなかったんだからね。お代はそれを伝えてから頂《いただ》くとしょう。ただし、安くはないよ」
再びしゃっくりのような笑声を上げる老婆。遊園地のアトラクションにしてはなかなか本格的な営業っぶりである。これだったら自分も視てもらいたいと峻護でさえ思ったほどだから、当の本人である麗華はなおさらだったろう。
案《あん》の定《じょう》、彼女は「ふん……」と再び鼻を鳴らすと、
「まあ、これも乗りかかった船というもの。最後までサービスを受けてみなければリサーチにもなりませんしね。ですがその前に」
じろり、とこちらに視線を向け、
「二ノ宮峻護。あなたは席を外していなさい」
この手の話は高度にプライベートな域《いき》に入り込むのが常《つね》。少々残念な気もしないではないが、その程度の分別《ふんぺつ》はわきまえるぺきだろう。
テントを出ると、娯楽施設特有《ごらくしせつとくゆう》のさざめきと真夏の太陽が遠慮会釈《えんりよえしゃく》なしに襲《おそ》い掛《か》かってくる。そういえばこのテント、さして通気《つうき》がいいとは思えないのに快適《かいてき》な居心地《いごこち》だった。あるいは砂漠の民《たみ》の知恵《ちえ》の結晶《けっしょう》がテントの見えざるところに織《お》り込まれ、暑気払《しょきばら》いに一役買っているのかもしれない。
――などと、手持ち無沙汰《ぶさた》に愚《ぐ》にもつかないことを考えながら待っていると、
『そんな破廉恥《はれんち》なことできるわけないでしょう!』
『何と言われようとわたくしそんなことできません! 大体どうしてわたくしがあの男にそんな真似《まね》を……わたくしあの男のことなんて眼中《がんちゅう》には、』
『う……そ、それは確かにそうですけれどもっ!』
占いの現場から時おり悲鳴じみた叫《さけ》びが洩《も》れ出てくる。
一体何を告げられているのだろうか――と想像しつつ、峻護は別の件でも首をひねる。どうもここしばらく、自分の周囲に妙《みょう》な臭《にお》いがするのだ。それは不幸の予兆《よちょう》と言い換《か》えてもいい。常日頃《つねひごろ》から幸運の女神に足蹴《あしげ》にされている彼はその手の感覚に極《きわ》めて鋭敏《えいびん》であった。第一このテント、一体いつから存在したのだろう? 入園からこの方ずっと園内を歩き回っているだけに、このあたりも確かに通った記憶《きおく》があるのだが――その時点ではこんなシロモノ目に入ってこなかったはず……
なおも疑念《ぎねん》の霧《きり》の中をさまよっていると、
「わかったわよっ! やりますわよっ! やればいいんでしょう!」
ひときわ捨《す》て鉢《ばち》な悲鳴が聞こえ、怒《いか》れる令嬢が天幕の薄闇《うすやみ》から姿を現した。大人の正論にやり込められた子供のような顔で「うう〜」と聡《うな》りながら、
「二ノ宮峻護!」
「はい?」
「本日の目的地はすべて定まりました。時間が足りません、さっさと行きますわよっ」
「? 先輩《せんぱい》、特にルートは決めていないと言ってませんでしたか? 気が向いたところへ寄ればいいとかどうとか……」
「状況《じょうきょう》は刻一刻《こくいっこく》と劇的《げきてき》に変移《へんい》するもの。その変化に鈍感《どんかん》では時代に取り残されますわよ。ごちゃごちゃ言わずについてきなさい」
「はあ、わかりました」
大股《おおまた》でテントから遠ざかっていく麗華を追いながら、
「ところで先輩、占《うらな》いはどんな感じでした? この遊園地の再建に役立つヒントは得られましたか?」
「…………」
「できればどんな具合《ぐあい》だったか聞いておきたいです。おれも一応、先輩のお手伝いのためにここにいるので。あの占い師のひとは何て言ってたんですか?」
「〜〜〜〜っ」
「先輩?」
「いいから! 黙《だま》ってついてきなさい!」
怒声《どせい》の鞭《むち》を入れられてカメのように首を縮め、峻護は粛々《しゅくしゅく》と令嬢に付き従う。
*
数分後。
麗華は目的のアトラクションの前で足を止め、その結構を見上げていた。
外観《がいかん》をひとことで述べれば『奇形《きけい》』である。草一本|生《は》えない溶岩流《ようがんりゅう》の跡《あと》のようなゴツゴツした外装《がいそう》を持ち、暗色《あんしょく》を基調《きちょう》にした造りは見る者に不吉《ふきつ》な印象のみを抱《いだ》かせる――そんな建物だ。外装のあちこちに様々な形状の模型《もけい》が付設されていて、それはたとえばひとつ目玉で長い舌を出した袈裟《けさ》姿《すがた》の小坊主《こぼうず》であり、肌色《はだいろ》のすぐれない顔から二本の牙《きば》を突《つ》き出したマント姿の紳士《しんし》であり、首がヘビのようにひょろりと伸《の》びた高《たか》島田《しまだ》の女である。
そして掲《かか》げられている看板に記《しる》されている文字はそのものズバリのストレート、
『お化け屋敷《やしき》』
だった。まったくもって実に古典的で正統派《せいとうは》な、異文化混交型のホラーハウスである。
「いいですこと二ノ宮峻護」
両手を腰《こし》に当てて曰《いわ》く、
「あらゆる遊園地においてこのアトラクションは基本中の基本というべきもの。まして季節は夏、このアトラクションの魅力如何《みりょくいかん》で遊園地の評価そのものが左右される、そういう事態《じたい》も大いにありうると言うべきでしょう。初期段階の印象調査を終えた今、赤字経営の遊園地を建て直すに粘いては手始めにここを攻略《こうりゃく》せねばなりません」
「はあ……」
しかし峻護の返答は、自分でも驚《おどろ》くほどに気が乗っていなかった。たちまち麗華の眉間《みけん》に険《けん》が浮《う》かび出る。
「何? わたくしの説と決定に何か文句《もんく》でもあるのかしら?」
「はあ、いえ。そういうわけでは」
「あなたなりの理屈《りくつ》があり、その理屈によってよりよい方策《ほうさく》を見出《みいだ》せるというのであればそれをおっしゃいなさい。容れるべき点があれば容れます。ですが万一、愚にもつかないような論説《ろんせつ》でわたくしの貴重《きちょう》な時間を割《さ》くようなことがあれば……おわかりになりますわよね?」
そんな理屈に持ち合わせはない。気乗りしない理由はあるが、それを伝えるのはいっそう気乗りしなかった。
「……いえ。特に反論はありません。だまって先輩についていくことにします」
「ふん。初めからそう言っていればいいのです。さあ行きますわよ」
すたすたと入場口を通過《つうか》する令嬢《れいじょう》の後に、軽快《けいかい》とは言いかねる歩みで続いた。
中に入ると、さっそくおどろおどろしい効果音が歓待《かんたい》してくれる。通路はあくまで細く、かつ曲がりくねっており、どこに何が潜《ひそ》んでいるか予断《よだん》を許さない。先行している客の悲鳴が断末魔《だんまつま》のように反響《はんきょう》して新たなる犠牲者《ぎせいしゃ》の不安をあおり、絶《た》えず足もとから湧《わ》くドライアイスの煙《けむり》がその心胆《しんたん》をも寒《さむ》からしめる。
外観もそうだったが、まったくもってオーソドックスな、そしてなかなかに本格的なお化け屋敷である。作り物には違《ちが》いないが決してチャチなそれではない。運営者側の気合の入れようが明確《めいかく》に伝わってくる。なるほど麗華の語った通り、こういう娯楽施設においてはこのアトラクション次第《しだい》で鼎《かなえ》の軽重が問われるのかもしれない。
とはいえ言うまでもなく、彼女がこのアトラクションを選んだのは峻護に語った通りの狙《ねら》いによるものではない。
峻護を従えて順路《じゅんろ》を進みながら、麗華は激しく緊張《きんちょう》していた。
なんとなればこの場において、彼女は恐《おそ》ろしく難易度《なんいど》の高い曲芸《きょくげい》に挑戦《ちょうせん》せねばならないからである。
お化け屋敷において二ノ宮峻護に対し、肉体的|接触《せっしよく》を敢行《かんこう》すべし――あの老婆《ろうば》がいくつか導《みちび》き出した託宣《たくせん》のうちのひとつがそれだった。お化けに怯《おび》えたふりをしてあの男にしなだれかかるといい、そうすれば必ず運が向く、場合によっては将来まみえるべきバラ色の道筋も確定する、ましてあの男が拒絶《きょぜつ》することはあるまいさね、と。
別にあのインチキ占《うらな》い師《し》の言葉を真《ま》に受けたわけではないが、もともと慢性的《まんせいてき》な恋愛《れんあい》度胸不足の麗華である。他に妙手《みょうしゅ》があるわけでなし、そこまで言われれば従うにしかず、と思われた。
とはいえやっぱり北条麗華は北条麗華であるわけで。
(お化けに怯えたふりをしてしなだれかかるといっても……これのどこを恐がれというのかしら……?)
次々と現れては消えていく仕掛《しか》けに何の感興も起こせないまま、彼女はぶちぶちと文句を連ねていた。麗華は基本、幽霊《ゆうれい》だとかUFOだとかのオカルトを信じない。というより存在の是非《ぜひ》はともかくとして、今のところそやつらは自分に対して何ら悪影響《あくえいきょう》を与《あた》えているとは思えない、ゆえに気にする必要はない、と考えるスタンスである。彼女にしてみればそんな実在不明の存在より、庭に湧《わ》く藪蚊《やぶか》の方がよほど恐るべき障害《しょうがい》なのだ。
相変わらず峻護を背後に従えたまま、順路もそろそろ半ばに達している。
井戸《いど》から恨《うら》めしげな絶叫《ぜっきょう》と共にぬうっと現れた女幽霊を軽くシカトして、麗華のぐずり[#「ぐずり」に傍点]はいよいよ募《つの》っていく。
(だいたいにおいてこのアトラクションのどこが面白《おもしろ》いのでしょう? この手の娯楽施設《ごらくしせつ》における基本中の基本とは言いましたけど……正直なところ、存在意義が理解不能《りかいふのう》ですわ……)
(そもそも料金を支払《しはら》ってまで恐怖《きょうふ》を味わいに来るというのはどういうこと? 現代人とはそこまで日常に倦《う》み、刺激《しげき》を求めているのでしょうか)
(ですがわたくしには理解できないその心理が世間にまかり通り、ビジネスの種になっているのは厳然《げんぜん》たる事実。この際《さい》ですからそれを分析《ぶんせき》し、今後の仕事に役立てるべきでしょう。そう、まずは音響《おんきょう》や照明がもたらす相乗効果《そうじょうこうか》、それから建築構造の狭《せま》さから来る心理的|圧迫《あっぱく》を考慮《こうりょ》に入れて――)
そこまで考えて現実|逃避《とうひ》しかけていることに気づき、あわてて気を引き締《し》める。もちろん彼女は理解している。別に本気で恐《こわ》がる必要などどこにもない。『しなだれかかる』ことが重要なのであり、そこに至るまでのプロセスなど問題ではないのだ。
そして今日、ここに来た目的は何であったか。月村真由《つきむらまゆ》に許《ゆる》したアドバンテージを奪《うば》い返すためではなかったか。
そのためにはまず、二ノ宮峻護を後ろに引き連れているこの位置関係、これを何とかしなければ。そう、並んでいっしょに歩くのだ、あの男の隣《となり》に寄り添《そ》って。
ことさらゆっくりルートを踏破《とうは》しながらそのタイミングを計《はか》る。おどろおどろしい効果音、前を行く客が上げる悲鳴――それら騒《さわ》がしい音がすべて遠くなってゆき、自分の足音と、後をついてくる峻護の足音だけが残される。過剰《かじょう》な運用に耐《た》えかねた心臓はストライキを起こし、喉《のビ》の奥《おく》までせり上がってきている。舌の根っこがその味を脳に伝えてくる。生きたままの臓器《ぞうき》はひどく生ぬるい味がして気持ち悪い。生唾《なまつば》と一緒《いっしょ》に飲み込んで元通り胸郭《きょうかく》の中に納める。
心拍数《しんぱくすう》が天井《てんじょう》知らずに上がっていく。
ついに、何の音も聞こえなくなった。キ―――――ン、という、耳鳴りにも似た無音の音だけが聞こえる。緊張のあまり張り詰《つ》めすぎた神経は、断末魔の際にこんな音を響《ひび》かせるのかもしれなかった。
ようやく覚悟《かくご》が決まった。
数十通りも作り上げた言い訳と大義名分《たいぎめいぶん》の群《む》れの中から最善の一手を選び出し、立ち止まった。
「二ノ宮峻護。これまであえて口にせず、あなたが自ら気づくのを待っていましたが……それにもいい加減《かげん》うんざりしてきました。ごらんなさい、この狭く、障害物《しょうがいぶつ》の多い空間を。わたくしを狙《ねら》う暴漢《ぼうかん》がいて、その者が不埒《ふらち》な行動に及《およ》ばんとすれば、今まさにこの時を狙うこと疑いありません。そうなった場合、そんな位置にいてあなたはわたくしを護《まも》れるの? 付き人が主《あるじ》の護衛《ごえい》を務《つと》めるのはあらためて口にするのも馬鹿《ばか》馬鹿しいほど当然のことであり、つまりこの状況《じょうきょう》においてあなたが取るべきベストのポジションはわたくしの左右いずれかの隣という必然的《ひつぜんてき》な結論が見出《みいだ》されるのです。おわかりになって?」
一気にセリフを吐《は》き出して振《ふ》り返り、
「さあ、わかったのならさっさとわたくしの隣に――」
長広舌《ちょうこうぜつ》も最後の段になったところで。麗華は目を瞬《しばたた》かせた。
「ど、どうしたの? あなた」
二ノ宮峻護は、ちょっと珍《めずら》しいことになっていた。
まず、瞳《ひとみ》の焦点《しょうてん》がうつろにさまよっている。次に、明日はぜったい筋肉痛だと思えるほど肩《かた》が強張《こわぱ》っている。さらに「はいっ、なんですか先輩《せんばい》っ?」と返ってきた返事も普段《ふだん》より一オクターブは高い。顔面を隙間《すきま》なく覆《おお》っている水滴《すいてき》は暗がりの中でも明らかにそれとわかる脂汗《あぶらあせ》だ。
「なんですか先輩、じゃありません。その有様《ありさま》はいったいどうしたことです?」
「はあ、いえ、その」
言い渋っている。これもあまりないことだ。
首をひねる。この男がここまで異常《いじょう》な兆候《ちょうこう》を来たしている理由とはなんだろう。最近は涼子《りょうこ》や美樹彦《みきひこ》に遊ばれっぱなしで見る影《かげ》もないが、基本的には余程《よほど》のことがなければ動じない男なのだ、二ノ宮峻護とは。それだけは十年経《た》った今も変わらなかったのに。
右に左に何度か首をひねり、思い当たる節《ふし》を探し――そして麗華はようやくひとつの仮説にたどり着いた。かなり意外な仮説に。
「え? うそ。ひょっとしてあなた……」
思わず指をさして、その信じがたい推論《すいろん》を披涯《ひれき》した。
「あなた、お化け屋敷《やしき》が恐《こわ》いの? その歳《とし》になって? こんな作り物が?」
「はあ、いえ。別にそんなことは、」
と言いかけた瞬間。
天井から、すさまじい咆哮《ほうこう》と共に血まみれの落ち武者が降ってきた。
転瞬《てんしゅん》、峻護は目を瞠《みは》るほど俊敏《しゅんびん》な反応でバックステップ、低く構《かま》えを入れて足腰《あしこし》をひねり、そのまま拳《こぶし》を打ち披《ぬ》こうと気合を込め――そしてようやく相手が無害《むがい》な存在と知ってホッと息をつく。同時、噴《ふ》き出るという形容《けいよう》がしっくり当てはまるほど大量の汗が顔いっぱいに表出する。
ケケケと笑い立てつつ天井に引き上げられていく落ち武者に、峻護は恨《うら》めしげな視線をやった。これだけ客=自分が反応してくれれば、妖怪《ようかい》どもに扮《ふん》している従業員《じゅうぎょういん》たちもさぞかしやりがいのあることだろう。
さて。
峻護は己《おのれ》の名誉《めいよ》のために弁明《ぺんめい》せねばなるまい。落ち武者の消えていった天井に視線を固定して麗華とは目を合わせないまま、彼はどんな言い方をすれば事情をわかってもらえるか知恵《ちえ》を絞《しぼ》っていた。
実際のところ彼は別段《ぺつだん》、お化けの類《たぐい》が恐いわけではない。暗い場所もそれ自体は平気であり、丑三《うしみ》つ時《どき》に心霊《しんれい》スポットをひとりで散歩することも余裕《よゆう》で可能だ。峻護のオカルト的なものに対するスタンスは奇しくも麗華とほぼ同じであり、実害を実感することがないものなど空気も同然の存在だと思っている。彼にしてみれば魑魅魍魎《ちみもうりよう》の類より姉の実在の方がよほど戦慄《せんりつ》すべき恐怖《きょうふ》であった。
そう、居るのか居ないのかも確認《かくにん》できないものは恐れる必要がない。彼が過剰《かじょう》に反応しているのは『視界の悪い場所で何かが唐突《とうとつ》に襲《おそ》い掛《か》かってくること』に対してなのである。
諸芸百般《しょげいひゃっばん》を姉に仕込《しこ》まれている峻護だが、いずれの芸についても姉ほどの妙境《みょうきょう》には達《たっ》していない。それは物事の気配を悟る技術についてもいえること。その技術が中途《ちゅうと》半端《はんぱ》に鍛《きた》えられているゆえに、自分に敵意《てきい》あるものとそうでないもの、それが生きて呼吸しているものなのかそれとも単なる無機物《むきぶつ》なのか、その程度の区別もつかないのである。ましてや狭《せま》い薄暗《うすくら》がりの中。峻護の気配|探知《たんち》レーダーと迎撃《げいげき》システムはほとんど無差別《むさぺつ》に発動し、事実上、用を成《な》さぬまでになっている――
……という意味のことを、正しく伝えたかったのだが。
「ふふ……」
その、こもったような笑い声を耳にした峻護は。
残念ながら弁明のきっかけを失うことになった。
「ふふ、うそでしょう? ふふ……」
北条麗華が。
口もとに手をやり、涙目《なみだめ》になって。
くすくすど忍《しの》び笑っていた。
「ああおかしい。ぜんぜん知らなかったわそんなの。あなた、こんなものが恐いのね?」
「え? いえ、そういうわけではなく……」
だが峻護の言葉を聞いているのかいないのか、麗華はなおも笑い続ける。遠慮《えんりょ》なく、それでいて上品に、そして何よりひどく自然に。
(…………)
わかってはいた。本来の彼女はひどく魅力的《みりょくてき》に笑うことのできる少女であると知っていたはずだった。だけどいま目の前にあるその笑顔《えがお》は、想像で、あるいは遠目《とおめ》に見ただけで知ったつもりになっていた笑顔に比べ、何と輝《かがや》いていることか。
それはまさに一度は見てみたいと望んでいた顔で、何度も想像の中に登場した顔で、そして峻護は今、自分の想像力がいかに貧困《ひんこん》だったかを思い知った。この笑顔を自らの手で断《た》ちたくなどなかった。令嬢《れいじょう》が笑いを収めるまで、じっと待った。
「――ああ、おかしかった。失礼、笑いすぎましたわね。けどあなたが悪いのですわよ? こんな子供だましにいちいち反応するなんて」
「はあ、いえ……」
ぼんやりと生返事する。彼は麗華の笑顔に免疫《めんえき》がない。その刺激《しげき》は習慣性《しゅうかんせい》の強い麻薬《まやく》のように峻護の精神《せいしん》を搦《から》め捕《と》っている。
反面《はんめん》、笑顔とは時に特効薬《とっこうやく》にも万能薬《ばんのうやく》になれるもの。髪《かみ》の毛が逆立《さかだ》つほど漲《みなぎ》っていた緊張《きんちょう》がうそのように消え、麗華はひどく気楽になっていた。
「それにしてもあなた、こんなところで消耗《しょうもう》し尽《つ》くしていては今後の仕事に差し支《つか》えますわよ? この先もまだアトラクションは続きますが、無事《ぶじ》に出口までたどり着くことができて?」
「ええ、まあ。どうにか」
「そうは思えませんわね。セオリー通りならこの先はもっと心臓《しんぞう》に悪い仕掛《しか》けが施《ほどこ》されているはず。それでもあなた耐《た》えられる?」
再びくすくす思い出し笑いする麗華。その笑顔がいっそう峻護の心を縛《しば》り付ける。
「いいですわ、ではこうしましょう」
やれやれとばかりに肩《かた》をすくめ、近づいてきた。
隣に並んだ。
「こうしていれば少しはあなたの負担《ふたん》も軽くなるのではなくて? こちら側から何かがあなたに襲《おそ》い掛《か》かることがあれば、わたくしがすべて防《ふせ》いであげてよ」
「はあ、いえ。ですが……」
「そのざまで無理《むり》をするものではありません。とはいえこれでは立場があべこべなのも確《たし》か。猛省《もうせい》を促《うなが》しますわ。あなたは今、仮にもこのわたくしの付き人を務《つと》めている身なのですからね」
文句《もんく》を並《なら》べる声はしかし、心なしか弾《はず》んでいるように聞こえる。
「さ、行きますわよ」
幼稚園児《ようちえんじ》を連れ歩く保育士のように引率《いんそつ》を始めた。
遅《おく》れぬよう、置いていかぬよう、峻護のもつれがちな歩調《ほちょう》に合わせ、麗華は進み始める。
いくらなんでもこの体勢《たいせい》は男としてどうか、と、もちろん峻護は思う。だがそんなことよりも。
なんだろう、こうして麗華に並ばれると。ひどく――ひどく、脈拍《みゃくはく》が高くなるのだ。
アトラクションへの緊張《きんちょう》よりも、彼女の隣にいるということがどうにも落ち着かない。
その落ち着かなさがこれまでとは質《しつ》の異なる緊張を呼ぶ。そんな硬《かた》い表情を見た麗華がもう一度笑い、「まるで子供みたいね」と言う。
おどろおどろしい効果音《こうかおん》と客たちの悲鳴《ひめい》の中、二人はゆっくりゆっくり進んでいく。
*
――太陽がまぶしい。
恐怖《きょうふ》に満ちた闇《やみ》の館《やかた》から脱出《だっしゅつ》して青空の下に帰還《きかん》した峻護は、ようやく人心地《ひとごこち》ついていた。もしも次にまたこういう機会《きかい》があれば、その時は妙《みょう》な見栄《みえ》を張《は》らず初めから自己《じこ》申告《しんこく》しておこうと思う。人には誰《だれ》しもどうしたって苦手《にがて》なものが存在《そんざい》するのだ。
「……さあ。次に行きますわよ」
お化け屋敷《やしき》を出ると麗華はさっさと峻護の傍《そば》を離《はな》れ、再び二、三歩を先行して進路を取った。一時はやわらかかった表情も出口に近づく頃にはすっかり厳しさを取り戻して、眉間《みけん》にはおなじみの険《けん》が浮《う》いている。仕事モードにチェンジしたということだろう。そのことが少なからず残念《ざんねん》に思えたことは口にしない峻護であるが、
(それにしても――)
先ほどのお化け屋敷。こうして落ち着いてから思い出してみるに、どうも不可解《ふかかい》な点がある。驚《おどろ》かせることが本分のアトラクションだし、いずれの仕掛けを見ても真《しん》に迫《せま》っていたし、他の利用客《りようきゃく》たちの悲鳴《ひめい》もあちこちから派手《はで》に上がっていたが……それにしても、だ。いくらなんでもあれはアグレッシブすぎる。機械《きかい》とコンピューターによるオートメーション化を拒絶《きょぜつ》し、あくまでも人力で運営《うんえい》されている熱の入れようではあったが、妖怪に扮して襲ってくる従業員からほとんど殺気すら感じる[#「妖怪に扮して襲ってくる従業員からほとんど殺気すら感じる」に傍点]アトラクションというのは、娯楽を提供《ていきょう》するための施設《しせつ》としてどんなものであろう。実のところ、峻護の緊張の半分はそのことに因《よ》っていたのだ。どうにか攻撃[#「攻撃」に傍点]を避《よ》けきってはいたものの、それらはほとんど紙一重《かみひとえ》。多少なりとも鍛《きた》えている峻護だからかわし切れたが、何の訓練《くんれん》も受けていない人間があれをかまされれば無傷《むきず》ではいられまい。
首をひねる峻護の一方で、麗華もまた思考《しこう》にのめり込んでいた。
(ちがうのです。これはちがうのですわ――)
現在、彼女の精神《せいしん》活動のほとんどは、どこに向けているのかもわからない弁解《ぺんかい》にそのほとんどが占《し》められている。
(わたくしがあの男の隣に並んで歩いたのは仕方《しかた》のないことだったのです。だってあの男、ああでもしなければ心臓発作《しんぞうほっさ》で死にそうな勢《いきお》いだったし。目の前で死なれたら寝覚《ねざ》めが悪いから、あくまでも緊急避難的《きんきゅうひなんてき》な措置《そち》としてわたくしはあの男の隣に並んだのよ。形としてはわたくしから願い出てここについてきてもらっているわけだから、極《きわ》めて不愉快《ふゆかい》なことながらわたくしにはあの男を無事《ぶじ》に家まで送り返す責任《せきにん》が発生しているのですもの。まったく、何をどうしたってあの男はわたくしに害《がい》を成《な》すのね。腹立たしいったらありませんわ……)
何だかんだ理由をつけて峻護を罵倒《ばとう》する作業は、彼女の精神|安定剤《あんていざい》として不可欠《ふかけつ》なものになりつつあるらしい。そしてその処方薬《しょほうやく》は適正《てきせい》に効果《こうか》し、不慣《ふな》れな行動を取ったことから来る自爆的《じばくてき》な動揺《どうよう》は徐々《じょじょ》に収《おさ》まりつつあった。
(そう、あれは仕方のないこと。なんだか普通《ふつう》のしゃべり方をしてしまった部分もあったけど、それだって自分を見失いかけていたあの男を安心させるためにやったこと。あの場面できつい物言《ものい》いをしてはあの男の混乱《こんらん》を増長《ぞうちょう》し、面倒《めんどう》なことになりかねませんからね。それだって別にあの男に対して含《ふく》むところがあったからではありませんわ。だってわたくしはあの男のことなんて何とも思ってないんだもの。それにそう、あの時のあの男ってまるで子供みたいだったでしょう? ですからつい仏心《ほとけごころ》を出してしまったのです。わたくし子供には甘《あま》いところがありますから。ええ、つまりそういうこと)
強引《ごういん》に結論《けつろん》をつけてようやく弁明《ぺんめい》を一段落《いちだんらく》させ、別の事柄《ことがら》に思考《しこう》の焦点《しょうてん》をシフトした。
あの占《うらな》い師《し》のお告げについてである。
けっきょく『しなだれかかる』ところまではクリアしなかったにせよ、現況《げんきょう》は良好であると言っていい。なにしろ二ノ宮峻護と並んで歩くことができたのだ。これならばこのまま助言《じょげん》に従《したが》ってみるに越《こ》したことはあるまい。
ようやくその結論に達《たっ》したところで、折《お》りよく目的地が見えてきた。
「着きましたわ。次はあそこを視察《しさつ》します」
と指差した先に、雪のように真っ白な建物がある。雪のように、という形容《けいよう》は夏場のこの時期《じき》にふさわしくないかといえばさにあらず。なんとなればこのアトラクション、その名もズバリ『白銀の国』なのである。事前情報によればここの内部は一種の巨大冷凍庫《きょだいれいとうこ》となっており、その豊富《ほうふ》な冷気を様々《さまざま》に工夫《くふう》して客を楽しませるのだという。
近づくにつれ、建物の外観《がいかん》が細部まで見えてくる。氷山、あるいは氷河を象《かたど》ったらしきデザインで、照りつける日差しの下にあって視覚《しかく》にわずかな慰《なぐさ》めを提供していた。
「いいですこと二ノ宮峻護」
麗華、両手を腰《こし》に当てて曰《いわ》く、
「この手のコンセプトに則《のっと》ったアトラクションはさして珍《めずら》しいものでもありません。ゆえに運営者側の創意工夫《そういくふう》が試《ため》されます。温度の低さというシンプルな道具をいかにアイデア豊富に駆使《くし》できているか……そのあたりの分析《ぶんせき》を念頭《ねんとう》において見学するよう」
「はい、わかりました」
エントランスをくぐると、手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》そうに立っていたコンパニオンがやけに嬉《うれ》しそうに出迎《でむか》えてくれた。氷をイメージしたのであろう、薄青《うすあお》いビニール地のコスチュームをてかてかと光らせて、「あなたたち運がいいわ」と言う。
聞けばこのアトラクションはストーリー仕立てになっており、そのストーリーに沿《そ》ったプログラムが十五分に一度ランされるシステムを採《と》っている。ところがどういうわけかこの数十分の間、ぱったりと客足が止まっているのだそうだ。
「プログラムはオート制御《せいぎょ》で一日中|稼動《かどう》する設定《せってい》になっててね、お客がこないからといって機械《きかい》を止めるわけにもいかなくて。このままだと無駄《むだ》に電気代を使ってプログラム流すだけだったから、あなたたちが来てくれてうれしいわ。ほら、この時期ってただでさえ節電《せつでん》節電ってうるさいじゃない? わたしも上司も、国のエライひとには睨《にら》まれたくないのよね」
つまりこのアトラクション、今だけは峻護と麗華の貸切《かしきり》となるらしい。
「さあどうぞお二人さん。ン十億かけたこのアトラクションが、この時間はあなたたちだけのもの。思いっきり楽しんでらっしゃいな。ああそれと、中はホントに寒いから、この防寒《ぼうかん》コートも持っていってね」
「ありがとう。お言葉どおりに楽しんで参《まい》りますわ」
コンパニオン嬢《じょう》の悪戯《いたずら》げなウインクに満開のバラのような笑顔《えがお》を返し、令嬢《れいじょう》はアトラクション内部に進み入っていく。
「……気さくなひとでしたね、あのコンパニオンさん」
続いて中に入りながら峻護、本日の公的《こうてき》な目的を全《まっと》うするため、遠慮《えんりょ》がちに進言《しんげん》した。
「ただ、ちょっと気さく過《す》ぎるようにも思います。あの手の職業《しょくぎょう》のひとって、むしろああいう個性《こせい》を出さないようにするのも職務《しょくむ》のうちなんじゃないでしょうか? あくまでもマニュアルどおりに動くことが求められている、というか」
「いいえ。あれはあれでいいのです」
と、麗華の見解《けんかい》は異《こと》なっていた。
「あの接客態度《せっきゃくたいど》はここの雰囲気《ふんいき》に合っています。この遊園地《ゆうえんち》は良くも悪くもああいうスタイルが持ち味なのでしょう。考えるべきはその殺し方でなく、生かし方ですわ」
「なるほど。わかりました」
臨時《りんじ》主人の背中に大きく頷《うなず》きかける。決断《けつだん》の早さ、物事《ものごと》に対する大らかさ――これらは北条麗華が持つ美点の筆頭《ひっとう》に数えるべきものだろう。わけても後者に関しては特筆《とくひつ》すべきである。途方《とほう》もない財力《ざいりょく》と権力を誇《ほこ》る家柄《いえがら》に生まれ育ちながら、それを笠《かさ》に着るところが微塵《みじん》もないのだ、この少女は。ごく一部の例外を除《のぞ》いて。
そう、そこが昔から不思議《ふしぎ》だったんだ――と、『ごく一部の例外』に含《ふく》まれる峻護は謎《なぞ》に思う。いったいどうやってこの人格《じんかく》が作り上げられたのだろう? 朱《しゅ》に交われば赤くなるというが、その論理《ろんり》に従えば、北条麗華を育てたものには『朱』ではない何かがあったはず……
と考えた時、峻護の頭脳《ずのう》はある仮説《かせつ》を容易《ようい》に導《みちび》き出す。生粋《きつすい》の上流《ブルジョワ》育ちであるはずの彼女だが、過去《かこ》に下流《プロレタリア》な環境《かんきょう》に身を置く機会《きかい》があったのではあるまいか。その経験《けいけん》で北条麗華という絶妙《ぜつみょう》にバランスの取れた、いわば傑作《けっさく》と言っていい人格を形成する土台となったのではあるまいか。
ここまでくると、お世辞《せじ》にもハイスペックとはいえない峻護の想像力《そうぞうりょく》でも数珠《じゅず》繋《つな》ぎに連想を引き出すことができる。記憶《きおく》の網《あみ》にかろうじて引っかかっている十年前の少女。彼女は確かに自分と一緒《いっしょ》に暮らしていたはずなのだ。そして当時の自分の生活|環境《かんきょう》は決して上流階級のそれではなかったはず。では、やはりあの少女が北条麗華……?
――などと峻護が頭を悩《なや》ませている一方で、麗華の側も口数が目に見えて少なくなっていた。加《くわ》えてその背中は一歩進むごとに強張《こわば》っていくのだが、考えごとにのめりこんでいる峻護は気づいていない。
そんな間にもアトラクションは着々《ちゃくちゃく》と進行している。氷山や氷河、氷原に氷窟《ひょうくつ》といった、考えるだにさぶいぼ[#「さぶいぼ」に傍点]ができそうな寒冷《かんれい》スポットをイメージしたオブジェが入れ代わり立ち代わりに現れては涼《りょう》を提供し、スピーカーから流れる軽妙《けいみょう》なアナウンスがそれをいっそう補完《ほかん》するぺく、ナレーション技術の粋《すい》を揮《ふる》う。なるほど、コンパニオンのお姉さんが誇《ほこ》らしげに語るのも頷ける出来栄《できば》えだが、今の二人には力エルの面《つら》に何とやら。目の玉が飛び出るような予算を費《つい》やしたであろう渾身《こんしん》の作も、今のところその実力を発揮《はっき》する機会に恵《めぐ》まれていなかった。
葬式《そうしさ》の列のように黙《だま》りこくったまま、峻護と麗華はアトラクションを進めていく。先ほどのお化け屋敷《やしき》とは対照的《たいしょうてき》にこの施設《しせつ》は徹底《てってい》した|自 動 化《オートメイション》が施《ほどこ》されているらしく、客どころか係員の姿《すがた》も見かけない。確かにこれ以上ないほどの貸切《かしきり》状態《じょうたい》であり、世間《せけん》一般《いっぱん》のカップルには福音《ふくいん》をもたらすべきシチュエーションであるが、彼らは二ノ宮峻護と北条麗華なのであった。
何ごともないまま、そろそろアトラクションもクライマックスかという頃《ころ》。ひときわ手の込んだ空間に二人はたどり着いた。
そこは大小様々な形に削《けず》り出された氷によってすべてを満たされた部屋。四方八方に置き巡《めぐ》らされた、クリスタルのごとく澄《す》み切った氷たちが、ほどよく抑《おさ》えられた照明によって静かに光を湛《たた》えている。まるで輝《かがや》く星々の潅に紛《まぎ》れ込んでしまったかのような……小人になってシャンデリアの真ん中に立てば、多少はこれに似た気分を味わえるだろうか。
「これは……すごいですね」
さすがの峻護もその光景《こうけい》には目を奪《うば》われ、思考《しこう》を放《ほう》り出して感嘆《かんたん》の息をついた。なるほどコンパニオン嬢の言ったことは正しい。このアトラクションを独占《どくせん》できるなら、それは僥倖《ぎょうこう》と呼んで差し支《つか》えあるまい。
相変わらず黙《だま》りこくったままの麗華を不審《ふしん》がるのも忘れ、氷と照明が織《お》り成《な》す幻想的《げんそうてき》な光景に見入っていたが、
(ん……?)
肌寒《はだざむ》さを覚えて峻護は腕《うで》をさすった。いや、この時点で肌寒いなどと言っているのがおかしいのはわかっている。何しろここは『白銀の国』、中に一歩踏《ふ》み入れた時から氷点下の世界。入り口でも防寒用《ぼうかんよう》のコートを渡《わた》されていたではないか。陽《ひ》に焦《こ》がされて火照《ほて》った肌でも、数分も経てば冷えきるのが道理……いやしかしそれにしても、この刺すような冷気は尋常《じんじょう》ではない……。
その疑問《ぎもん》を解決すべく、ごく最近の記憶を遡《さかのぼ》ってみる。すると先《せん》だって聞いた覚えのあるナレーションが思い出された。曰く、『この部屋では当アトラクションのハイライト、観測史上《かんそくしじょう》地球で最も低くまで下がった気温を体験していただぎます。空気すら凍《こお》る極寒《ごっかん》の世界、どうぞ存分にご堪能《たんのう》ください』。
なるほどそういうことかと納得《なっとく》し、意味を成さぬまま腕に抱《かか》えていたコートを着用する。そこでまた疑問が湧《わ》いた。体験する、というが……具体的《ぐたいてき》にどれほどの時間、ここに居なければならないのだろうか? すでに睫毛《まつげ》まで凍りつくほど温度は下がっているのだが。最低気温を体験するといったってほんの何十秒かこの冷気に晒《さら》されれば十分で、それ以上は娯楽《ごらく》ではなく単なる我慢《がまん》大会にしかならないような気がする。
「これって、ほんとうに酒落《しゃれ》にならないくらいの寒さなんですけど……いったい何分間これが続くんでしょうね? 先輩《せんぱい》」
そこまで疑惑《ぎわく》が深まったところで、ようやく連れ合いに話を振《ふ》った。
「先輩?」
その先輩は俯《うつむ》いたまま、なにやら悲壮《ひそう》な顔で沈黙《ちんもく》している。心なしか顔色も青いように見えるが……気のせいだろうか。確かにただ事じゃないくらい寒いし、さすがの北条麗華も閉口《へいこう》しているということか。
……と推測《すいそく》する峻護だが、もちろん麗華の顔色の悪さは寒さによるものだけではない。峻護の呼びかけがまったく聞こえないほどに、このお嬢さまは葛藤《かっとう》を続けていた。
それもそのはず、今回彼女に課《か》せられたミッションの正体は『寒さを口実《こうじつ》にしてニノ宮峻護を押《お》し倒《たお》す』なのである。
「? あの、先輩?」
思う。――確かにあの老占い師の助言は図に当たっているし、今後もその助言に従ってみる価値があることは認めますが。でもそれにしたって、これは性急《せいきゅう》の度が過《す》ぎるのではなくて? そもそもにおいて物事には順序《じゅんじょ》というものがあるのです。わたくしは必ずしも婚前交渉《こんぜんこうしょう》を否定《ひてい》しているわけではありませんが、かといってまだ手すら満足に握《にぎ》ったこともないうちからそういう行為《こうい》に走るのはどうかと……って別に、将来《しょうらい》わたくしとあの男がそういう関係になることを前提《ぜんてい》にしているわけではありませんが……とにかく、わたくしは誇り高き北条家の唯一《ゆいいつ》の直系として、そんな破廉恥《はれんち》な行為《こうい》に及《およ》ぶことはできません。ああでも……うう……今のところ占いは良い方向に出ているし、他にやり方も思いつきませんし、やっぱりやるしかないのかしら? でも、いったいどうやってすればいいの? 世の女性は殿方《とのがた》を誘惑《ゆうわく》する際にどのような手段《しゅだん》を用いるのです?
「……先輩? もしもし?」
じゃあ――たとえばこんなセリフはどうかしら。『いいですこと二ノ宮峻護。今までひた隠《かく》しにしてきましたが、実はわたくし極度《きょくど》の冷《ひ》え性《しょう》なのです。こんな場所にいてはのちのちの執務《しつむ》に差し支えますわ。主人の健康を良好に保つのも付き人の務《つと》め。よってあなたはわたくしと肌を合わせ、その体温を維持《いじ》する当然の義務《ぎむ》が発生するのです。おわかりになって?』……これはなんだか違《ちが》うような気がしますわね。ではこんなのはどう? 『これまであえて口にしてきませんでしたが、実はわたくし重度の低血圧で、気温の低い所にいるとたちまち睡魔《すいま》が襲《おそ》ってくるのです。当然いまも眠《ねむ》くてたまらず、すぐにでもこの場で横になりたい気持ちでいっぱいなの。とはいえここは場所が場所、まさかこのわたくしが床《ゆか》へ直《じか》に寝転《ねころ》がるわけにはいきません。そうなれば畢寛《ひっきょう》、あなたが布団《ふとん》の代わりにわたくしの下に敷《し》かれるのは、下僕《げぼく》としての当然の務めと断《だん》じて差し支えないでしょう?』……ああもう、ますますしっくりきませんわ。どうすればいいの……っ?
「北条先輩? 北条先輩っ」
「……え?――わひゃっ!」
目と鼻の先まで近づいて覗《のぞ》き込んできた峻護に、奇声《きせい》を発しつつ一歩飛び退《の》く。
「な、なにっ? なんですのっ?」
「え? いえその。先輩、顔色悪そうだったので。だいじょうぶかな、と」
「ふ、ふんっ。別にあなたなどに心配されるまでもなく、だいじょうぶに決まってますわ!」
ぶい、とそっぽを向く麗華だが――二ノ宮峻護、鈍感《どんかん》なれど気遣《きづか》いはできる男だ。顔色がすぐれないのは明らかだし、我慢はできるにせよこれだけの冷気が『だいじょうぶ』な訳《わけ》はない。
ゆえに彼は、迷わずその行動を取った。
「先輩。これどうぞ」
おもむろにコートを脱《ぬ》ぐと、麗華が『?』マークを浮《う》かべている間に後ろに回り、肩《かた》に羽織《はお》らせたのである。
「……え? あう?」
「どうぞ着ててください。ほら、女性は身体《からだ》を冷やさない方がいいと聞きますし」
行動を済ませてからさすがに気恥《きは》ずかしくなり、頬《ほお》を掻《か》く峻護。そんな見習い下僕の仕草《しぐさ》を、麗華はしきりに瞬《まばた》きしながら見つめている。
「でも――あなたはいいの? あなただって寒いのは一緒《いっしょ》でしょう?」
「こうみえてもそれなりに鍛《きた》えてますから。だいじょうぶです。それにしてもいつまでこの部屋にいればいいんでしょうね? さっきからナレーションも止まってるし……」
首をかしげる峻護だが、その言葉を令嬢《れいじょう》は耳に入れていない。自らのつま先あたりに視線を落として何やら口をもごもごさせている。
「先輩?」
「そ、その……」
「?」
「あ、ありがとう……ですわ」
コートの前をぎゅっと閉じ、消え入るような声で。
確かにそう眩《つぶや》いた。
峻護は今日何度目になるか知れない驚《おどろ》きに包《つつ》まれる。このひとから御礼《おれい》など言われるのは出会って以来初めてではあるまいか。
「な、なによっ……?」
「いえ、あの。なんというか」
やや唇《くちびる》を尖《とが》らせて、気持ち上目《うわめ》遣《づか》いに、そして少し頬を染めて――拗《す》ねるような声で咎《とが》めてくる姿は。
『北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》』を始めとする大層《たいそう》な肩書きなどとは無縁《むえん》な、なんだかどこにでもいる、ほんとうに普通《ふつう》の女の子に見えて。
それを意外に思うあまり、心に浮《う》かんだ感想を無加工《むかこう》そのままで口にしていた。
「なんというか……なんだか先輩、そうしていると……とても普通の女の子に見えたので。驚いてます」
「――――!」
顔色が変わった。まずい。またしても逆鱗《げきりん》に触《ふ》れてしまったらしい。すぐに怒声《どせい》の雨が降ってくる、そのダメージに備《そな》えようと心構えをして――
だが。降って来た怒声は、いつもと少し様子がちがっていた。
「な、何言ってるのよっ、当たり前じゃない!」
峻護をたじろがせるほどむきになって、言葉を叩《たた》きつける。
「普通よっ、わたくしは! それは確かに、普通じゃないところはたくさんあるけど、それだって別にわたくしが望んだことじゃないし――」
言葉を選ぼうとしてつまずき、結局は不器用《ぶきよう》なセリフになりながら、だけど必死に、切実に、何かを訴《うった》えかけるように、
「だからわたくしだって別に、特別なことは何もないんだからっ。みんなと変わらない人間で、十七|歳《さい》で、ミスだってするし、かっこ悪いところだってあって、完襞《かんぺき》でもなんでもなくて、それがわたくしで、あなたとだって何も変わらなくて……とにかく、とにかくそういうことなのよっ。文句あるっ?」
「…………」
なん――なんだろう。
今日という日は、ほんとうにどうしてしまったんだろう。
あの北条麗華が、彼女の言葉通りひどく普通に――自分と同じ場所に立ち、同じ目線を共有している、とても近しいひとに見える。
「そう……ですよね」
不意打《ふいう》ちに隙《すき》を突《つ》かれたまま、思った通りのことを言う。
「はい、そうです、その通りです。生徒会長だとか、北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》だとか、そういうのと関係なく――先輩だって、ひとりの女性なんですよね」
「……ふんっ」
答えず、頬を膨《ふく》らませるようにして麗華はそっぽを向いた。
サイズの余《あま》るコートに身を包み、肩を丸めて、そうしているともともと華著《きゃしゃ》な身体はとても小さく見えて――
唐突《とうとつ》に峻護は気づいた。恐《おそ》ろしく今さらなこと――誰かこいつを殴《なぐ》ってやれ、と言いたくなるほど、まったくもって救いようがないまでに今さらなことを。
(みんながそう言うし、それを否定したこともなかったけど……)
でも、思ってたよりも、ずっとずっとはるかに。
北条先輩ってじつは、めちゃくちゃかわいいひとなんじゃないだろうか……?
*
もしも北極《ほっきょく》と赤道直下《せきどうちよっか》を数歩でまたぐ経験をすることがあれば、誰だって目眩《めまい》がするほどの戸惑《とまど》いを覚えるはず。
峻護と麗華はまさに今、その経験をしている真《ま》っ最中《さいちゅう》であった。
骨《ほね》まで凍《こお》るほどの酷寒《こっかん》から這《は》い出た後、目玉焼きができそうなほどに焼けたアスファルトの上を二人は次の中継地《ちゅうけいち》目指して歩いている。『白銀の国』には気温差に順応《じゅんのう》するためのプロセスも用意されていたのだが、それを経《へ》てもなお強烈《きょうれつ》な違和感《いわかん》が肌《はだ》を躁躍《じゅうりん》していた。
『白銀の国』の狙《ねら》いはまさにその違和感にこそあるのだろう。
だがそんな温度差のマジックも今の二人にはどこ吹《ふ》く風。彼らはそれぞれに、それぞれの抱《かか》えた問題を処理することに忙殺《ぼうさつ》されていた。
(なに? なんなの? なんなんですの一体……?)
後ろをついてくる人影《ひとかげ》をチラチラ振《ふ》り返りながら、麗華はやけに心が騒《さわ》ぐのを感じている。というのも『白銀の国』を出てからこちら、二ノ宮峻護が妙《みょう》にそわそわしているのだ。それも麗華の方をチラチラ盗《ぬす》み見しながら、である。果たしてこれにはどのような意味があるのだろう?
わたくしの背中に、何か口では言えないものでもくっついているのかしら――でも別にそれらしき物はなさそうに思えます。では日ごろから厳しく指導《しどう》しているわたくしを厭《いと》い、暗殺の機会《きかい》を狙《ねら》っているとか――いいえ、いくらなんでもそこまでは嫌《きら》われていないはずよね。
いくつもの可能性《かのうせい》を自慢《じまん》の高回転|頭脳《ずのう》で潰《つぶ》していくと、最後にひとつだけ推論《すいろん》が残った。こうなるともうそれ以外の可能性は考えられず、だけどもそれは最もありえそうにない推論でもあった。
すなわち。
二ノ宮峻護は北条麗華のことを、ひとりの異性《いせい》として気にしている――
あわてて首を振る。いやまさか。これまでどんなアブローチをしょうとウンともスンとも言わなかったあの男が、どうしていきなり気のある素振《そぷ》りを示すというのか。まるで理由がわからない。でも理由が不明とはいえ、いくら考えてもそのくらいしか推論は思い浮《う》かばないのだ。
おちつけ。おちつきなさい北条麗華。そう、二ノ宮峻護なんて廃屋《はいおく》の屋根に生《は》えている雑草《ざっそう》ほどにも価値《かち》のない男なのだから。あの男が誰にどんな気持ちを持っていたところで気にすることはない、あせることなんてない、だいじょうぶ、だいじょうぶ……。
昂《たか》ぶりをどうにか鎮《しず》め、冷静を装《よそお》って再考《さいこう》する。とにかく春先に再会して以来数か月、一ミリも進んでいなかった二ノ宮峻護との関係に変化の兆《きざ》しが顕《あらわ》れていることは確かなようだ。何しろ二ノ宮峻護がコートを脱《ぬ》いで自分に着せてくれたのだ、今のところ占《うらな》いの効果《こうか》は覿面《てきめん》といえよう。もっとも与《あた》えられたミッションについてはいずれも達成《たっせい》できていないのだが、まあそれは横に置いておくことにする。
こうなると気になるのは今後の展開。次に用意された試練《しれん》はズバリ、『観覧車《かんらんしゃ》に乗って二人きりになり、どさくさに紛《まぎ》れて結婚《けっこん》を迫《せま》る』であった。無茶苦茶《むちゃくちゃ》である。常識《じょうしき》で考えてそんなもの上手《うま》くいくはずがないし、そもそも行動が飛躍《ひやく》しすぎているのだが、占いの結果がそう出ているのなら仕方《しかた》がない。やるしかあるまい。だがこれまでの任務《にんむ》ですら厚くて高い壁《かぺ》だったのだ。果たして成《な》し遂《と》げることができるのだろうか……?
一方の二ノ宮峻護。
確かに彼は麗華のことを妙に意識《いしき》するようになっている。そしてそのことに当惑《とうわく》してもいた。北条麗華という少女のことは以前から最大級の敬意《けいい》をもって接《せっ》していたつもりだし、魅力的《みりょくてき》な女性であることも十分にわかっていたはず。だがそういうものとはまた別に、峻護の心を騒《さわ》がす何かが芽生《めぱ》え始めているのだった。それは明らかに好意の一亜種《いちあしゅ》として分類《ぷんるい》されるべきものであり、そして他のどんな種類の好意よりも強い感情のように思われた。しかもこの令嬢、もしかすると十年前の約束の少女かもしれないのである。峻護の心のざわめきは否《いや》が応《おう》でも増していかざるをえない。
おまけに彼はそれとは別の懸念事《けねんごと》も抱《かか》えている。というのはこの遊園地に入って以来《いらい》、頭の片隅《かたすみ》でずっと警告灯《けいこくとう》が点滅《てんめつ》し続けているのだ。何をするにつけても妙な感じがするというか――もっといえば、人為的《じんいてき》な何かが色々なところに働いている気がするというか。ついさっきの『白銀の国』だって絶対《ぜったい》おかしい。十分に人出はあるのに他の客がひとりも来ないというのもおかしければ、あの殺人的な寒さの中にあれだけ長い時間とどめさせるプログラムもおかしい。まるで誰かが、麗華と自分を二人きりにしてくっつけるために暗躍《あんやく》しているみたいではないか。
が、危機察知《ききさっち》能力は高いものの決断《けつだん》能力に欠ける峻護は、それだけ気づいていてもまだ確信《かくしん》をもてずにいる。また彼が鋭敏《えいびん》であると信じている麗華が何も気にしていないらしいこともあって、その推論《すいろん》をいまだ言い出せずにいた。
「着きましたわよ」
硬《かた》い声に我《われ》に返り、立ち止まる。
目の前には半分に切った円盤《えんばん》を縦置きにしたような形の大きなドーム。耳目《じもく》を引くアトラクションがひしめく園内でもひときわ目立つ建造物である。
事前に仕入れていた知識を引っ張り出す。それによれば、このドームの中には観覧車《かんらんしゃ》が丸ごとすっぽり納まっているらしい。どうしてそんな手間《てま》をかけるのかといえば、このドームの中は一種のプラネタリウムになっているのだとか。つまりは視界いっぱいに散らばる星の海の中を、観覧車のゴンドラに乗って悠々《ゆうゆう》と回遊《かいゆう》する趣向《しゅこう》である。なかなか凝《こ》ったシロモノだが、ふとそこで思い出した。そういえば遊園地の最寄《もよリ》駅を出た時、観覧車の伽藍《がらん》を見たはず。となればこの遊園地、普通の観覧車と普通でない観覧車を併設《へいせつ》していることになる。赤字遊園地にしては羽振《はぶ》りのいい話であり、このあたりに経営陣《けいえいじん》の黒字への色気のなさが窺《うかが》えるのかもしれない。
『白銀の国』とは違《ちが》い、こちらは大勢《おおぜい》の利用客でにぎわっている。行列に並び、順番を待ってほどなく入場すると――そこに見事《みごと》な夜の世界が現出《げんしゅつ》した。
「なるほど。これは悪くありませんわね」
麗華が感嘆《かんたん》の声を上げる。峻護もまったく同感だった。天には宝石箱をひっくり返したかのように星々が散らばり、その静かな瞬《またた》きを殺さぬよう程《ほど》よく抑《おさ》えられたホログラムが人工の夜をさりげなく彩《いろど》っている。光を駆使《くし》するアトラクションなれど派手《はで》さは擦《ひか》えた、それでいて確かな存在感を主張《しゅちょう》する輝《かがや》きがそこにはあった。
「まったく、これだけの見物《みもの》があるなら業績《ぎょうせき》などすぐにでも回復するでしょうに……まあいいですわ。さ、乗りますわよ」
促《うなが》され、係員の誘導《ゆうどう》に従ってゴンドラに乗り込む。
乗ってみるとその設計の精妙《せいみょう》さがいよいよ知れた。ゴンドラが進むにつれて入れ代わり立ち代わりに星座が現れては消え、時には流星が空を裂《さ》き、あるいは遠くの銀河で星雲が胎動《たいどう》し――あの手この手で幻想的《げんそうてき》な空間を演出している。これはアイデアの勝利でもあるが、それ以上にアイデアを実現させた技術力の勝利であると思えた。末端《まったん》とはいえ北条コンツェルンの連枝《れんし》、あちこちのグループ企業《きぎょう》から高度な技術力の提供があるのだろうか。
……などと、窓の外を眺《なが》めつつもっともらしい感想を抱《いだ》いている峻護だが、これは緊迫感《きんばくかん》から逃《のが》れるための方便《ほうぺん》にすぎない。
ちらりと、対面《たいめん》に座《すわ》っている少女を見やる。
閉じた膝《ひざ》にぎゅっと握《にぎ》った両手を置き、その両手にじっと視線を落としている麗華。乗って以来一言もなく、ほとんど身じろぎすらしない。ただ、時おりこちらを上目《うわめ》遣《づか》いに見ることがある。そのたびに峻護は急いで視線を外す。
なんなんだろう、この状況《じょうきょう》は。よくわからないが、おそろしく緊張を強《し》いられているのだけは確かだ。ゴンドラの中がほとんど真っ暗だというのもよくない。人工の星とホログラムによっておぼろげに照らし出される麗華の姿は、なんだかとても儚《はかな》げで、いつもの凛《りん》とした強さもなくて――やっぱりとても普通の女の子に見えてしまう。それも、びっくりするほど魅力的な女の子に。
その時、またしても峻護の記憶《きおく》にデジャヴが舞《ま》い降りた。
すっかりその形で定着してしまった感のある、輪郭《りんかく》のぼやけた少女。彼女は峻護の前に仁王立《におうだ》ちになり、何かを言い募《つの》っている。えらく跳《は》ねっ返りな様子で峻護を見据《みす》え、唾《つば》を飛ばさんぽかりに言葉を叩《たた》きつける様子は、相当《そうとう》にご機嫌《きげん》ななめであると知れた。どうやら峻護の取った何らかの行動にいたく腹を立てているらしい。ただ、怒《いか》りの裏側で純粋《じゅんすい》に相手の身を心配しているのはよくわかった。セリフの内容自体は少女の姿と同じく靄《もや》が掛《か》かっていて判然《はんぜん》としなかったが、その感情だけはハッキリ読み取れる。
かっての自分も当然そのことはわかっている。だからおそらく、彼女を安心させようと何ごとかを言ったのだろう。するとたちまち少女は顔を真っ赤にして俯《うつむ》き、黙《だま》りこくってしまう。そうなるといつもの元気はどこへやら、その日一日はすっかりしおらしくなってしまうのだ。
それはひどく穏《おだ》やかで、そして幸福に満ちたフラッシュバックだった。自分には確かに少女と過ごした時間があり、それは間違いなく貴重《きちょう》な時間であり、かつまた失われて久しい時間なのだった。
そして――その記億の欠片《かけら》は、いま目の前にいる少女のイメージと、不思議なほど重なって見えるのだ。
もし。もしもほんとうに、彼女が約束の少女であるなら。
それはとても嬉《うれ》しいことだと思う。素直《すなお》に、何の混《ま》じりけもなく、そう思う。
ゴンドラの中は暗く、そしてとても静かだった。よほど高度な防音《ぼうおん》・防振《ぼうしん》加工が施《ほどこ》されているのか、観覧車の巨大《きょだい》な車輪《しゃりん》を回すエンジンの音も、その揺《ゆ》れすらもない。まさしく大宇宙の真空中に漂《ただよ》っているような疑似《ぎじ》体験をさえ与《あた》える、人工的な『無』。耳を澄ませば向かいに座る少女の呼気《こき》さえ拾《ひろ》えそうな。
ゴンドラがゆっくりと頂点《ちょうてん》に向かい、それにつれて峻護の緊張《きんちょう》も限界《げんかい》に達しようとしている。破裂寸前《はれつすんぜん》に心臓は収縮《しゅうしゅく》を繰《く》り返し、血管が別の生き物のように皮膚《ひふ》の下をのたくっている。耐《た》えかねて、何でもいいから声をかけようと思い、すぐにそれもためらってしまう。いま彼を押《お》し包《つつ》んでいる空気は、神経《しんけい》を削《けず》るような緊張と同時にとても居心地《いごこち》のいい感覚ももたらすのだ。
とはいえいつまでもだんまりは決めこめない。これでは麗華のアシスタントとして役に立たないし、そうでなくとも今日の彼には目的があるのだ。
乾《かわ》いたくちびるを舌で湿《しめ》らせ、まずは『今日はいい天気ですね』とでも言おうとして、
「そちらに――」
麗華が先に口を開いた。
閉じた膝にぎゅっと握った両手を置き、その両手にじっと視線を落としたまま、
「そちらの席にいっても、いいかしら……?」
「――え?」
「どうしてかというと、こちらの席は――そう、眺《なが》めがあまりよくないの。ほら、ゴンドラはずっと動いているから、眺めがよくないところも出てくるのですわ、きっと。だから、そちらの席に移《うつ》りたいと、思うのだけど。……だめ? かしら」
ごくり、と生唾《なまつば》を飲む音がした。自分の喉《のど》から。
「い、いえ、だめじゃないですよ、もちろん。どうぞ、その方が眺めがいいのであれば、どうぞ遠慮《えんりょ》なく」
「そ、そう? では遠慮はしませんわ。ええ、もちろん」
そう頷《うなず》ぎつつもすぐには動かない。
たっぷり数呼吸おいてから、ようやく立ち上がった。
地雷原《じらいげん》でも進むように、恐《おそ》る恐る近づいてくる。
ほとんど真っ暗闇《くらやみ》の中、峻護とは目を合わせず、その細身はむろん、ゴンドラを小揺《こゆ》るぎもさせず。何かの儀式《ぎしき》ででもあるかのように、少しずつ、少しずつ、二人の距離《きょり》を短くしていく。
隣《となり》にきた。
座った。
ふわ、と、なんだかいい香《かお》りがした。
この時点で峻護の意識は五割方トんでいた。
毎朝校門の前で顔を合わせていた時はもちろん、ひとつ屋根の下に暮らすようになってからでさえひどく遠くに感じていた少女が、今ではこんなに近くにいる。物理的《ぶつりてき》な距離だけの話ではない。『神富寺《じんぐうじ》学園生徒会長』『北条コンツェルン次期《じき》総帥《そうすい》』――かって畏怖《いふ》と敬意を抱《いだ》き、しかしそれだけの存在であった少女が、今は確かにひとりの異性として峻護の脳内《のうない》に認識《にんしき》されていた。
言語を忘却《ぼうきゃく》したかのように、峻護は貝になる。
麗華もまた彫像《ちょうぞう》と化したがごとく、彼の隣でびくりともしない。
ゴンドラがスローモーションじみた速度で下降していく。その速度がやたら遅《おそ》いような、苛立《いらだ》たしいほど速いような――
と。
いきなりだった。
微動《ぴどう》だにしなかったゴンドラが、何の前触《まえぶ》れもなく『がくん』と揺れた。
「うわ――」
「きゃ――」
まったくの不意打《ふいう》ちに、不覚《ふかく》にも峻護の体勢が崩《くず》れる。麗華の身体《からだ》もまた。
それは――どんな偶然《ぐうぜん》、何のいたずらだったろう。
揺れの余韻《よいん》はすぐに収まった。だが、収まった後には。
峻護の膝の上に、少女のやわらかい身体があった。
「――――!」
ただでさえ見苦しいほど乱れていた意識が、コインランドリーに突《つ》っ込まれた洗濯物《せんたくもの》のように掻《か》き回される。卒倒《そっとう》しそうになるくらい頭に血が上り、とっくに不自由になっていた言葉は完全に失われた。麗華の身体は細くて、やわらかくて、あたたかくて、そしてやっばりとてもいい匂《にお》いがする。彼女は隣に座っていた時とほとんど同じ格好のまま、彫像《ちょうぞう》のごとくカチコチに固まったまま、膝の上に身を横たえている。やわらかいのにカチコチに固まっているとはこれいかに――などという死ぬ程《ほど》どうでもいい思考《しこう》がよぎり、それを押《お》しのけて熱い震《ふる》えがゾクゾクと背すじを駆《か》け上がってくる。
何でもいい、何か言おう、と思った。その姿勢《しせい》のままでは疲《つか》れませんか、とか。今日はとてもいい天気ですね、とか。どんな下らないことでもいい、何か間をもたせるものが欲しい。だがその願いは叶《かな》えられない。いや、その願いを蹴《け》ったのはひょっとして彼自身だったのかもしれない。
「せ、先輩《せんばい》?」
どうにかこうにか絞《しぼ》り出した声はたったそれだけ。彼女がどんな顔をしているかすら峻護の位置からは窺《うかが》い知れない。彼女が彫像ではないという証拠《しょうこ》は、膝が感じるぬくもりと拍動《はくどう》だけ――
「わ、わたくしは――」
いらえが返ってくる。初めて聞いた時からずっときれいだと思っていた、金剛石《こんごうせき》の音叉《おんさ》を響《ひび》かせるような声で、
「わたくしは――」
ゴンドラは止まって見えるほどのろまに下っていく。
窓の外では星たちとホログラムの舞《まい》が何も知らぬげに躍動《やくどう》している。
*
「――そうですか。わかりました。追ってボクから別の指示《しじ》を出すことになると思います。
それまでは手はずどおりに。それじゃ」
通話を打ち切り、「ふむ」と保坂《ほさか》は頬《ほお》に指を当てた。
「まあお嬢《じょう》さまにしては破格《はかく》の健闘《けんとう》ぶりですが――あれだけボクらにお膳立《ぜんだて》てされてこの程度《ていど》では先が思いやられますね」
「どんな状況《じょうきょう》になってるんだ?」
と、これはなし崩《くず》し的に保坂に従っている甲本《こうもと》。
「配下《はいか》の報告によれば――」
保坂はリクエストに応《こた》え、いま得たばかりの情報を話して聞かせる。
「お化け屋敷《やしき》にしても『白銀の国』にしてもそうですが、決定打を繰《く》り出すには至《いた》らなかったみたいです。今回、二ノ宮くんにしなだれかかるところまではようやくいけたみたいですが」
「それだって君の部下が仕組んだものだろう? 暗闇に乗じてゴンドラを揺らして」
「そういうことです。まあもっとも、しなだれかかったところで行動が止まっちゃったみたいですから。大成功とまではいきませんねえ」
「とはいえ今のところ、ほぼ君の計算通りに事は運んでいる。ちがうかい?」
「二ノ宮くんがお化け屋敷が苦手《にがて》だったのも計算外だし、お化け役の配下が殺気を出しまくってたのも計算外ですよ。前者はともかく、後者は完全にボクの読み違《ちが》いですねえ。忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》うお嬢さまがどこの馬の骨とも知れない男に持っていかれる、ということで、どうしても感情的になる連中《れんちゅう》が出てくるみたいでして、ハイ」
「にしても君には驚《おどろ》かされっぱなしだよ。芸が多彩《たさい》というか懐《ふところ》が深いというか……占《うらな》い師《し》の老婆《ろうぱ》に化けた腕《うで》なんかは見事《みごと》だったよ。声なんかもう、老婆そのものだった」
「声帯模写《せいたいもしゃ》はボクの得意技《とくいわざ》でして」
「たいしたもんだ。で、一介《いっかい》の高校生でありながらそういう真似《まね》のできる君はいったい何者なんだ?」
「北条《ウチ》に来たら教えてあげます。とはいえ声だけならともかく、見た目やら身長差やらを技術で埋《う》めるのは限界がありますよ。あのシチュエーションは薄闇《うすやみ》の中だったしフードも被《かぶ》れましたからどうにかお嬢さまをだまくらかせましたが、いつもいつもそうはいきません。とはいえ状況が状況ですし……ここはやっぱりボク自ら出陣《しゅつじん》するしかないかなあ」
「君がわざわざ? やめた方がいい。すでに君は十分すぎるほどリスクを冒《おか》している、この先は部下に指示だけ出していれば安全に果実を得ることができるだろう?」
「まだまだお嬢さまビギナーですね、甲本さんは。お嬢さまのカワイイ姿は間接的《かんせつてき》に鑑賞《かんしょう》すると価値が激減《げきげん》します。それに甘《あま》んじているようではまだまだ。まあボクも本来なら要所《ようしょ》要所でのみ登場する予定でしたが……やはり部下に任せていては埒《らち》があきませんしね。お嬢さまを上手《うま》く弄《いじ》れるのはボクだけということで。まあもっとも、そうなることを見越《みこ》してすでに手は打ってあるわけですが」
「用意のいいことだ。ところで――」
咳払《せきばら》いをひとつすると、甲本はずっと気になっていたあることを口にした。
「俺たちは今、ここで、いったい何をやってるんだ?」
現状を顧《かえり》みて概嘆《がいたん》する。彼らは現在、のんびりと回転するメリーゴーランドに二人乗りをしている最中だった。甲本は相変わらず女装したままの保坂を腕に抱《かか》え、白い木馬の上で無為《むい》に揺《ゆ》られている。
「やだなあ甲本さん。デートに決まってるじゃないですか、デートに」
「どうして俺が君とデートしなければならないんだ?」
周囲から浴《あ》びる注目のこそばゆさに耐《た》えつつ激《はげ》しく疑念《ぎねん》を呈《てい》するが、恋人《こいびと》役は涼《ずず》しい顔である。
「もちろんカムフラージュですよ、カムフラージュ」
「部下に指令を出して北条さんの様子《ようす》を窺《うかが》うだけならもっと別のやり方があるだろう。第一俺は男とデートする趣味《しゅみ》はないし、ましてやこんなラブラブっぶりを演出する理由はどこにもない。というか君、要するに北条さんだけじゃ飽《あ》き足らず、俺を使って遊んでるだけだろう?」
「! ひどいっ、ひどいです甲本センパイ! わたしのこと疑《うたが》ってるんですかっ?」
「女言葉はやめてくれ。似合いすぎるから」
実際問題、木馬が揺れた抽子《ひょうし》に腕が胸に触《ふ》れたりするとつい、どぎまぎしてしまうのである。ちっこい身体《からだ》にふさわしい控《ひか》えめなバスト設定だが、その質感《しつかん》には驚愕《きょうがく》すべきものがあった。このあたりも北条コンツェルン技術部門の底力《そこぢから》なのだろうか。
(ったく……まさかとは思うけど彼、ほんとうに女性なんじゃないだろうな?)
男にしては細すぎる腰《こし》を複雑《ふくざつ》な気分で抱えつつ、耳もとに囁《ささや》く。
「とにかく乗りかかった船だし、できるだけの協力はする。君がリスクを承知《しょうち》で出張《でぱ》るというなら、おそらく俺にも出番が回ってくるんだろう?」
「もちろん。スペシャルシートをご用意してますから、じっくりお嬢さまの晴れ舞台《ぶたい》を堪能《たんのう》してくださいね」
「それはどうも。ただし北条さんに露見《ろけん》し次第《しだい》、俺は脇目《わきめ》も振《ふ》らずに逃《に》げさせてもらうことにするよ。彼女の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れるのはご免こうむりたいし、逃げ足の速さは数少ない俺の自慢《じまん》でね」
「その時は甲本さんの逃げっぶりをじっくり見させてもらいますよ。じゃ、そろそろ行きますか。部下に命じておいた準備《じゅんび》もそろそろ終わっているはずですから」
*
そのころ――保坂と甲本が密談《みつだん》を交《か》わしているメリーゴーランドからそう離《はな》れてもいない女子手洗いで。
利用者の女性たちの怪訝《けげん》な視線を集める中、とある個室から二種類の大声が響《ひび》いていた。
「ほれ、じっとしてな。暴れるんじゃないよっ」
「だ、だって、そんなこと言ってもくすぐったいんだから仕方な……ひゃうっ」
「ったく、この聞き分けのないデカチチは……サラシ巻いて平らにするのも一苦労だっつーの。ほれ、おとなしくしろっ。このチチはテキサスの暴れ馬か、まったく」
「日奈子《ひなこ》さん、そんな、大声ででかちちとか言わないで……」
「お黙《だま》りこの女の敵。デカチチ言われたくなかったら十分の一でいいからそいつをよこせ。さあいくよ、世の女の恨《うら》みを思い知れっ」
「! ひゃ……あ、ん……日奈子さ、そこ、だめ……」
「ええい、ヘンな声だすなっ。あたしまでヘンな気分になってくるでしょうが、このえろ娘《むすめ》っ」
「そ、そんなっ、えろくなんてないですわたしっ」
「黙れ黙れっ。こうなったら襲《おそ》ってやる。がおーっ」
「ひゃっ? ちょ、日奈子さん、やめ……や、やだ、冗談《じょうだん》もほどほどに――ちょ、ちょ、ちょっとそこはほんとにだめ、ひぅっ、ふぁ、や、いや、待って、待って、」
「ぐふふ、口では何を言ってもカラダは正直じゃのう。ほれほれ、こうしてやるっ」
「わわ、やめ、脱《ぬ》げちゃいます、だめ、だめだって………… あ………… ぁ」
切なげな吐息《といき》とともに声が途切《とぎ》れ――
ややあって、個室の扉《とびら》が開いた。
つやつやな顔をした日奈子の後に、さめざめと泣《な》き腫《は》らした真由が続いて、
「フウ。なかなか良かったよ、真由」
「うう……ひどい、ひどいです日奈子さん。こんなこと誰《だれ》にもされたことないのに……」
「まあまあ、そう言いなさんなって。けっこうあんたも楽しんでたじゃんさ」
「楽しんでません!」
「ほれほれ、あんま興奮《こうふん》するとまた鼻血出るよ。どうどう、どうどう」
ぶるぶる震《ふる》わせた拳《こぷし》を振《ふ》り上げる真由と、それを両手で抑《おさ》えるジェスチャーの日奈子とを見て、単《たん》なる茶番だと納得《なっとく》したらしい。何ごとかと集まっていた野次馬《やじうま》女性たちは呆《あき》れ顔でそれぞれ散《ち》っていく。
「さて」
無理《むり》やり空気を明るくしたところで、日奈子は胸の前で腕《うで》を組む。
「どうしたもんかしらね。結局のところ、当初の目的はまるで果たせていないのが現状なんだけど」
彼女の言う通りだった。女子トイレの前で警備員《けいびいん》に絡《から》まれているところを麗華に救われて以降《いこう》、何の成果《せいか》もない。相変わらず園内のジグザグ走行を続け、徒《いたずら》に力ロリーを消費《しょうひ》する時間を過ごしたのみである。
途端《とたん》にしゅんとなり、真由はうなだれた。
「すいません……」
「謝《あやま》んないでって。気にしてないし、あたしちゃんと協力するって言ったじゃん。はっきり言うけど、こうやっていちいちフォローする方がよっぽどめんどいんだからね? 今後この件で謝るのは禁止。わかった?」
「あ……う。はい」
何か言いかけ、すぐに口を閉ざし、弱々しく頷《うなず》く真由。
そんな友人の様子をため息混《ま》じりに眺《なが》めやり、
「それで一応|確認《かくにん》しとくけど。どうする? まだコレ、続ける気ある?」
「――すいません。日奈子さんさえよろしければ、ぜひ、お願いします」
「おっけ。しかしどうしたもんかしらね? これといってうまい方法も思い浮《う》かばないんだけど……ん〜、何度もやってきたけどさ、もっかいやってみる? アレ。あんたはじっとしてて、あたしだけ動いて麗華さんと二ノ宮くん捜《さが》してくる、っていう作戦」
「わかりました、それでお願いします。すいません他にいい方法思いつかなくて」
「ういうい。じゃ、ちょっと行ってくるね。あんたはここでじっとしてるもよし、行けるようだったら自分で捜しに行くもよし。トイレ周辺をぐるっと捜したら戻《もど》ってくるから、待ち合わせはこの付近ね」
「はい、わかりました。……あの、それで日奈子さん」
「ん? 何?」
「わたし、前から気になってたことがあるんです。何を今さら、と思われるかもなんですけど……」
「ふむ?」
さっそく捜索行《そうさくこう》に向かいかけていた足を止め、真由に向き直る。
「聞くよ。言ってみ?」
「はい、あの。麗華さんって、どうして二ノ宮くんのことが好きなんでしょう……?」
「んん? ああ……」
それは日奈子もかって気にし、今ではすっかり流してしまっている疑問《ぎもん》だった。
「そうねえ……」
本人がどの程度|自覚《じかく》しているか甚《はなは》だ疑問だが、二ノ宮峻護はかなりモテる部類《ぶるい》である。容姿《ようし》は文句ないし、運動神経|抜群《ばつぐん》で学業も優秀《ゆうしゅう》、おまけに家柄《いえがら》も良好らしいとくれば、本来なら引く手|数多《あまた》のはず。ただしこの少年、妙《みょう》に所帯《しょたい》じみていたり、やたらと弄《いじ》りやすい性格をしていることもあって、マスコットに対する好意以上のものを持たれにくいのも確かであった。そんな彼に、なぜ北条麗華はあれほど極端《きょくたん》な――普段《ふだん》の自分をごっそり見失うほどに一途《いちず》な感情を向けているのか。
日奈子は自分が知る限りの事情《じじょう》――今年度の入学式の日、全校中をひそかに震掘《しんかん》させた事件の顛末《てんまつ》をざっと伝えてから、こう意見を追加《ついか》する。
「あの日以来、麗華さんって二ノ宮くんの前じゃすっかり別人化するようになっちゃったんだけど。どうも聞いた情報じゃ、一目ぼれって感じでもなさそうなのよねー」
「そう……なんですか?」
「うん。だってそれだけじゃあ説明つかないもん、あそこまで極端な感情の変化はさ。それでさ、あたし密《ひそ》かにこう考えてるんだけど」
ずい、と顔を寄せ、人差し指を立てて、
「あの二人って、実は昔からの知り合いだったりするんじゃない?」
「ええええっ!」
これには真由も仰天《ぎょうてん》したらしく、ぐいぐいと身を乗り出し、
「そ、そうなんですか? ほんとうに? 確かなんですかっ?」
「こらこら。落ち着きなさいって」
「で、でも二ノ宮くんも麗華さんも、そんなことひとことも――」
「そう、そこなのよねー。あの二人ってそもそも接点《せってん》なさそうだし、接点あるんだったらもうちょっとこじれずに済むやり方あるよねえ、きっと」
それに、とさらに付け加える。
「特に二ノ宮くんなんてさ、ほんとに麗華さんのこと知ってたんなら顔に出るはずだもん。彼ってそういう隠《かく》し事《ごと》できるタイプじゃないし。……それよりもさあ、真由」
日奈子はなんとも微妙《びみょう》な表情で改《あらた》まり、
「あたしの方も今さらかもしれないけどさ、これだけは言っとく。あんたはどう思ってるか知らないけど――ものすごい強敵だよ、麗華さんって」
諭《さと》すように、いやむしろ宥《なだ》めるように、
「最初はやっぱさ、凄《すご》すぎてちょっととっつきにくいとこもあったんだよね、麗華さんって。偉《えら》ぶったところとかぜんぜんなかったけど、やっぱかなり人間|離《ばな》れしてるとこあるし。でもあの日――今年の入学式の事件以来はさ、全校生徒みいんな麗華さんにハートを撃《う》ち抜《ぬ》かれちゃった感じ。ずっきゅーん、ってさ。それだけ可愛《かわい》かったのよ。ウチら女子から見ても」
そして言葉どおりいとおしげに、日奈子は語る。
「人間って色んな意味でギャップには弱いもんだけどさ、あれは誰にとっても人生最大級のギャップだったって思う。だってさ、あの[#「あの」に傍点]北条麗華さんが、いきなりアレ[#「アレ」に傍点]だよ? びっくりしてこっちは隙《すき》だらけになっちゃって、そこに可愛さがどっかーん、って入ってくる。もうどうしようもないって。降参《こうさん》。ちょっとした反則よね、あれは」
まあ、あんたはあんたで反則みたいなとこあるんだけどさ――そう言いつつ探《さぐ》るような視線で真由を見やるが、男装《だんそう》の少女は曖昧《あいまい》に笑うだけ。
ふう、とため息をつき、
「とにかくそういうこと。あたしの言いたいこと、わかる?」
「はい……たぶん。ありがとうございます。いろいろお世話《せわ》になって、感謝《かんしゃ》してます」
「よし、説教終わり。じゃああたしは捜しに行ってくるから。あんたはあんたで適当《てきとう》にやってて」
「はい、何から何までありがとうございます」
「うむ。ああそうそう忘れてた。今のうちに『化け』とかないとね。準備いい? じゃあいくよー。ハイ、いち、にの、さん」
パン、と手を叩《たた》く小気味《こきみ》のいい音。
*
手をひらひら振《ふ》って出かける日奈子を、『少年』になった真由は『設定』どおり退屈《たいくつ》げに見送った。
炎天《えんてん》の下、パーカーのジッパーを首元まで締《し》めて身体《からだ》のラインを隠《かく》し、『姉』とは逆の方向に歩き出す。自分にできる範囲《はんい》で目的の二人を捜してみるつもりだったが――すぐに諦《あきら》めた。ひとりでジグザグ歩きしていてもかえって日奈子の迷惑《めいわく》になりそうだし、この猛暑《もうしょ》の中を下手《へた》にうろうろしていたらそれだけで鼻血が再発しそうだ。
木陰《こかげ》のベンチを見つけ、そこに腰掛《こしか》けた。幸いにも先客はいない。
生ぬるい風が気持ち悪く肌《はだ》を撫《な》でていく。こんな人工|施設《しせつ》のど真ん中なのにセミの声がやたらうるさい。
やっぱり今日ここに来たのは間違《まちが》いだったろうか、と思う。単なる自分のわがままで友人を付き合わせ、おまけに何の成果《せいか》も得られないときている。……いや、それも今さらな話だ。そんな弱っちい覚悟《かくご》なら初めから来なければいい。いや、初めから誰も好きにならなければいい、何も求めなければいい。あの、石と森に囲まれた館《やかた》にいた時と同じように。だけどそんな後ろ向きな自分とは決別《けつぺつ》しようと、そう思い定めたのではなかったのか。足りないのは覚悟だけではない、ほんとうに、びっくりするほど何もかもが、自分には足りていない――
自己嫌悪《じこけんお》の下方向スパイラルに陥《おちい》り始めた真由の背後に、誰かの気配が立った。背中合わせに並んでいるベンチに客が来たらしい。もちろんそんなのは今の真由にとってどうでもいいこと。『やんちゃな少年』らしくチッと舌打ちするだけの反応《はんのう》にとどめ、頭を掻《か》き毟《むし》ってさらなるネガティブ思考に邁進《まいしん》する。
べつに世界中で自分だけが不幸などとは思っていない、自分よりろくでもない状況《じょうきょう》にいる人間はいくらでもいるだろう。でも、明らかに自分は数千、いや数千万に一人という悪状況に生まれついている。そんな、全人類のうち一握《ひとにぎ》りしかいない枠《わく》にどうして自分が入らなければならないのか。そんなハンデのある枠に入ると知っていれば、この世に生まれてくることを全力で拒否《きょひ》しただろうに。そう、自分などはそもそも生まれてこなければよかったのだ――
悪い癖《くせ》で、一旦《いったん》そちらに傾《かたむ》くと際限《さいげん》なく考えが後ろ向きになっていく。自覚はあるのだが一向にやめることができない。その苛立《いらだ》ちがいよいよ彼女を責《せ》めたて、バイザー越《ご》しの頭に爪《つめ》を突《つ》き立てることになる。ばりばり、ばりばり、ばりばり……
(――――?)
掻《か》き毟《むし》る音は自分の頭部からだけでなく、背中からも聞こえていた.その音と一緒《いっしょ》に、ちがう、ちがう、と繰《く》り返し何ごとかを否定《ひてい》する声もする。
(…………?…………?)
自己嫌悪に傾注《けいちゅう》していた意識をいくらか引き戻《もど》し、そちらに向けてみる。
「ちがうのです、ちがうのですわ。わたくしはあの男のことなんかどうでもいいのです。あの男の動向《どうこう》など、地球の裏側の見知らぬ部族が食する夕鏑《ゆうげ》の献立《こんだて》ほどにも興味《きょうみ》がないことなのです。だから顔がこうして熱くなってるのは……そう、単なる急性日射病《きゅうせいにっしゃびょう》のせいで、ほら、今日は日差しが強いから、心臓がドキドキいってるのも気温の高さのあまり血圧《けつあつ》が上がっているだけの話で……」
「!」
振り返るまでもなくわかった。
逃《に》げよう、と咄嵯《とっさ》に思った。だが恋敵《こいがたき》の感覚は真由が想定《そうてい》するより遥《はる》かに鋭敏《えいびん》だった。
「おまちなさい」
腰を浮《う》かせようとするまさにそのタイミングで呼び止められた。何ごとか悩《なや》み抜いていたはずの意識が、もう別のものに切り替《か》わっている声だった。麗華は背中合わせに座《すわ》る『誰か』の気配の変化をたちどころに察知《さっち》し、それを逃亡《とうぼう》の気配であると反射的に分析《ぶんせき》し、とっさにその気の起こりを制《せい》さんと声をかけていた――のだが、真由にはそこまで知る由《よし》もない。
「あら……」
動くに動けなくなった『少年』の背中を見て意外そうな声が上がる。
「奇遇《きぐう》ですわねあなた。またお会いするなんて」
まったくだ、と思った。自分という人間は、どうやらこういう運にだけは恵《めぐ》まれているらしい。
「ふうん……またひとりなのね。ご家族といっしょに来ているわけではないの? それともご家族とは一緒に居たくない年頃《としごろ》なのかしら?」
どういうわけか嬉《うれ》しそうな様子《ようす》でそんなことを言う。真由はそれに答えるどころではない。お願いだからこっちにこないで、と真剣《しんけん》に祈《いの》った。こんな格好《かっこう》をしてまでここにいることを、この令嬢《れいじょう》にだけは知られたくなかった。こんな情けない、無様《ぶざま》な自分の姿を見られたくなかった。ライバルだとかそういうのは関係なく、ただ純粋《じゅんすい》にそう思った。
その祈願《きがん》が伝わったわけでもあるまいが。
麗華はベンチから立ち上がる気配もなく、逃亡こそ許さなかったものの無理《むり》に踏《ふ》み込んでこようとする気配もなく、それ以上は何かを訊《たず》ねてくることもなく、しかし視線だけはこちらに固定しているのがわかる。その視線とて、決して悪意あるものでも何かを強《し》いるものでもない、どこか親しみを含《ふく》んだやわらかいもので、
「あの、さ」
気が付けば、真由の中の『少年』がひとりでに口を開いていた。
「あんた、なんでおれに構《かま》うわけ? 遊園地なんだからさ、どこへでも遊びに行ってればいいじゃん」
「あら。初めてあなたから話してくれたわね」
機嫌《きげん》をよくした調子で、
「今は連れと離れてますし……その間の暇《ひま》つぶしですわよ、あくまでも」
暇つぶしとはっきり口にしながら、突《つ》き放したようにも嫌味《いやみ》な感じにも聞こえない。
「これ以上説教する気もありませんし、少し付き合いなさいな。仮にもわたくしはあなたの恩人《おんじん》なのです、そのくらいはしてくれてもいいのではなくて?」
「…………」
不思議なひとだ、と思う。彼女の傍《そば》にいると、『北条麗華』の間合《まあ》いにどんどん引き込まれてしまう。否応《いやおう》なく。
どうしてこのひとは二ノ宮くんのことが好きなのだろう――その疑問がいよいよ強く頭をもたげてきた。日奈子の言う通り同性から見たって魅力的《みりょくてき》なひとだし、その気になれば男性などダース単位で籠絡《ろうらく》できるだろうに、二ノ宮峻護だけが特別なのだ。そしてこれだけ万能《ばんのう》な人物であるくせに、二ノ宮峻護に対するアプローチだけが恐《おそ》ろしく拙《つたな》いのだ。
なぜ? どうして?
関《かか》われば関わるほど露見《ろけん》の危険が増すことも忘れ、こうして身をやつしている後ろめたさも忘れ、ただシンプルに興味《きょうみ》に駆《か》られる形で。
背中越しに、『少年』の中の真由は問い掛ける。
「あんたさ、連れがいるって言ったけどさ、そいつって男だろ」
「あ、あら? 見てたのあなた? いつ? どこで?」
「どこでっていうか――目立つもん、あんたらって。それであの男ってさ」
一呼吸《ひとこきゅう》ためて、
「やっぱあんたの彼氏か何かなわけ? あんた、あいつのこと好きなの?」
「――――!」
動揺《どうよう》の気配が湧《わ》く。だが。
「な、なにを、言うのよ」
否定する声は、
「……そんな関係じゃありませんわ、わたくしたち」
ごにょごにょとして、ひどく小さかった。
変だ。令嬢の変化を少年の中の少女は敏感《ぴんかん》に感じ取った。いつもの麗華ならこんな言い方はしない。何か――何かがあったのだ。何か? 何かってなに?
様々《さまざま》な想像が駆け巡《めぐ》り、さあっ、と音を立てて血の気が引いていく。純粋だった好奇心《こうきしん》が引っ込み、計箕高さが取って代わる。
自分の狡《ずる》さへの嫌悪感《けんおかん》を押《お》さえ込み、こう切り出した。
「あんた、今日は遊園地のどこを回ってきたの? どっか面白《おもしろ》いところとかあった? あれば、おれも行ってみたいんだけど」
「面白いところ? そう、そうね――」
質問の矛先《ほこさき》が変わったことに安堵《あんど》した口調《くちょう》で、
「回ってみたのは例えば、お化け屋敷《やしき》だとか、『白銀の国』だとか……いずれも悪くはありませんでしたわよ? この規模《きぼ》の施設《しせつ》にしては破格《はかく》の予算をつぎ込んでいるアトラクションもありますし、おそらくはどこに行っても料金分の楽しみは得られるでしょう。あなたもこんな所に座《すわ》ってないで、何なりとアトラクションを体験してごらんなさいな。もちろん楽しみ方というのは人それぞれですから、無理強《むりじ》いなどはしませんけれど」
「ふうん。じゃあ気が向いたら行ってみることにするよ。それで――」
真由の『計算高さ』は、自分で思っているほど狡猜《こうかつ》なものでもない。
彼女が聞きたいのは、ただこれだけのことだった。
「あんた……次は、どこへ行くつもり?」
「わたくし?」
少し怪訴《けげん》そうな気配の後、
「次は『ラブラブレンジャーショー』とやらに行くことになっていますわね。あれの何が面白いのかわかりませんが、今の流れを途切《とぎ》れさせないためにも占《うらな》いには従ってみるべき……ああいえごめんなさい、こちらの話ですわ。さて――」
ベンチから立ち上がる衣擦《きぬず》れと、スカートをぱたぱた払《はら》う音、
「そろそろ行きますわ、わたくし。あなたのおかげで少し気が落ち着きました。お礼を言わせてね」
「……別に。何もしてねえし。礼なんかいらねーよ」
「ふふ、素直《すなお》じゃないわね。それではごきげんよう」
あなたとはまた縁《えん》があるような気がしますわね――そう呟《つぶや》き残して、令嬢は歩き去った。
そのことを確かめてから真由もまた立ち上がる。
行こう。二人がどうなっているのか、今度こそ見てみたい。
自分の目で、確かめてみたい。
*
観覧車を降りた後、麗華が単独《たんどく》行動していた理由は何てこともない。もしもあの場の雰囲気《ふんいき》があと十秒も続けば自分がどうにかなってしまいそうだったのである。恋愛機能不全《れんあいきのうふぜん》の彼女にとって数段飛ばしで経験《けいけん》したあの空気はあまりに刺激《しげき》が強すぎた。甘ロ《あまくち》カレーしか食べたことのない子供がいきなり本場の激辛《げきから》を食わされたようなものである。精神《せいしん》が一時的にショック症状《しょうじょう》を起こし、それが防衛本能《ぼうえいほんのう》を蹴《け》り起こし、とにかくいったん二ノ宮峻護と離《はな》れるために適当《てきとう》な言い訳をして――何を口走ったかは覚えていない――気が付いたらベンチに座って頭を抱《かか》えていたという塩梅《あんばい》である。
さすがの彼女もそんな自分に対して忸怩《じくじ》たるものを覚えずにはいられないが――とにかく気を確かに、強く持たないと、ほんとうにどうにかなってしまいそうだったのだ。そうなったらもう自分が何を仕出《しで》かすかわからない。そんなざまになるよりは、いつも二ノ宮峻護に対する時と同じやり方で理性《りせい》を保《たも》っていた方が何十倍もましだった。
ベンチで冷静さを取り戻《もど》し、蓮《はす》っ葉《ば》なくせに何だか憎《にく》めない少年と別れると、麗華は歩きながらその作業《さぎょう》に入る。二ノ宮峻護が自分にとっていかにどうでもいい存在《そんざい》であるか、その理由を並べ立て、『高飛車《たかびしゃ》で身勝手《みがって》で傲慢《ごうまん》なお嬢《じょう》さま』を作り上げる作業だ。
一歩進むごとに、令嬢は凜然《りんぜん》としたオーラを一枚、また一枚と纏《まと》っていく。纏うたび、そのオーラに少しずつ険《けん》の成分を織《お》り交ぜていく。
やがて待ち合わせに指定していた広場に戻る頃《ころ》にはきっちり作業を終え、律儀《りちぎ》に直立して待っていた峻護と正対するのだ。
「まったく……」
『高飛車で身勝手で傲慢なお嬢さま』のセリフは、今にも舌打ちせんばかりのため息から始まる。
「やはりあなたなどを連れてきたのは失敗でしたわ。他にもっとましな選択肢《せんたくし》はいくらでもあり得たでしょうに……わたくしどうかしていたのかしら? きっと疲《つか》れていて、つい手近で済ませようとしてしまったのね」
「はあ……ええと、何の話でしょう?」
要領《ようりょう》を得ない峻護に指を突《つ》きつけ、
「ですから、あなたのような無愛想男《ぶあいそうおとこ》といると気詰《きづ》まりになって仕方がないと言っているのです。今日これまでずっと、あなたと二人だけでの行動を強《し》いられてきましたからね、それでわたくしはストレスのあまりやむなく仕事を一時|中断《ちゅうだん》し、気分|転換《てんかん》をしてきたのです。おわかりになって?」
「そう……なんですか? すいません……」
「謝《あやま》っても始まりませんわ。まあよろしい、どのみち今さら人員《じんいん》は代えられないのです。いま申《もう》し述《の》べたことを念頭《ねんとう》に置き、最後まで付き従うように」
言い捨てると、汚《けが》らわしいものから目を逸《そ》らすような勢《いきお》いでそっぽを向く。
(…………?)
先ほどまでの麗華との変わりぶりに、どうしてそこまで機嫌を損《そこ》ねてしまったのか首をひねりながら――その一方で、峻護はホッとしてもいた。
あのままいけば自分がどうにかなってしまいそうだった……麗華が抱《いだ》いたその恐れは、峻護の方とてまったく同じ。ゆえに麗華の方から距離《きょり》を置いてくれたことは、正直言ってありがたくもあったのである。
そして距離を置いたことで冷静になれたのもまた、峻護も同じであった。
その冷静になった頭であらためて考えてみたことがある。
(今日ってやっぱり、何だかおかしくないか?)
例えば先ほどのゴンドラの中。あの中はまったく照明《しょうめい》がついておらず、人工の星とホログラムの明かりだけを頼《たよ》りに物を見ていたが……他のゴンドラは、うっすらとながらきちんと内部照明がついていた。ほとんど真《ま》っ暗闇《くらやみ》だったのは峻護たちのゴンドラだけ。また途中《とちゅう》でゴンドラが大きく揺《ゆ》れ、それが麗華とのニアミスを引き起こすことになった件。あれもおかしい。というのも観覧車を降りた時、他の客の表情は至極平然《しごくへいぜん》たるもので、運営側からは何らアナウンスがなかったのである。そもそもにおいてあのゴンドラはどんな理由で揺れたというのか。あれだけ防音・防振《ぼうしん》加工の厳重《げんじゅう》だった重い鉄の箱が、風もないドームの中でどうやって?
おかしい。どうみても。
ここに至り、慎重《しんちょう》な峻護でもようやく確信《かくしん》が持てた。
すでに次の目的地に向かって動き始めている麗華へ、
「あの、先輩《せんぱい》? ちょっとお伝えしたいことがあるんですが」
「……なに? くだらないことだったら承知《しょうち》しませんわよ? ただでさえあなたはわたくしを不機嫌《ふきげん》にしていることを、ゆめゆめお忘れなきよう」
「はあ、その。ひょっとしたら単なる思い過《す》ごしかもしれませんが……」
「――まあいいわ、聞きましょう。言ってごらんなさい」
お言葉に甘《あま》えて、これまで不審《ふしん》に思ってきたことのすべてを余《あま》さず明かした。
そして峻護は、このとき体験したことを後々まで教訓《きょうくん》とすることになる。
「なんてこと……」
話を聞き終えた令嬢は、ややあってそう呟きを吐《は》いた。
「じゃあ……では……わたくしはまんまと踊《おど》らされていたというわけ? どうしてこんなミエミエな仕掛《しか》けを、今の今まで……わたくしとしたことが、なんてとんまな」
何度も繰《く》り返すが、夏である。太陽はエンジン全開、雲は地平線《ちへいせん》の果てに遁走《とんそう》し、風はドライヤーじみた熱を吐く真夏日である。だがそれでも峻護は確かに、己《おのれ》の背中に骨まで凍《こお》るほどの冷気が這《は》い登るのを覚えた。その怒《いか》りは自分に向けられたものではないはずなのに、それでいてこの有様《ありさま》である。もし真っ向からこの怒気《どき》を浴《あ》びたらどうなることか。
「二ノ宮峻護。一時、公務《こうむ》を中断《ちゅうだん》します」
ひどく静かな表情で麗華はそう告げた。極限《きょくげん》まで高まった怒りは爆発《ばくはつ》することなく内に溜《とど》まるのだ――ということを、峻護はこのとき初めて知った。
「全身全霊《ぜんしんぜんれい》をもって不敬《ふけい》なネズミを駆除《くじょ》せねばなりません。これは最優先|事項《じこう》です」
「はあ、ネズミ……ですか」
「そう、ネズミです。ネズミはそのうち尻尾《しっぼ》を出すでしょうが、その馬鹿者《ばかもの》はネズミのくせにトカゲみたいな尻尾を持っているのです。尻尾を掴《つか》んだところで逃《に》げられるのがオチ、捕《と》らえるにはそれなりの細工《さいく》が必要になりますわ」
そして、いったんきっかけさえ得られれば恐《おそ》ろしく冴《さ》えわたるのが北条麗華なのである。
「尻尾を出す場所もだいたい読めています。どうぜお祭り気分で面白《おもしろ》おかしく囃《はや》したてるつもりなのでしょう。よろしい、だったらお望みどおり、お祭り気分のうちに息の根を止めてやります。さあ行きますわよ」
触《ふ》れただけでショック死しそうな怒気《どき》を発する彼女に異議《いぎ》を唱《とな》えるつもりなど毛頭《もうとう》ない。ほどなく出るであろう犠牲者《ぎせいしゃ》の冥福《めいふく》を早くも祈《いの》りつつ、冷気を撤《ま》き散らしながら天誅行《てんちゅうこう》に向かう主人に付き従う。
*
愛と正義の味方ラブラブレンジャーは、宿敵《しゅくてき》である『大宇宙|生涯不婚同盟《しょうがいふこんどうめい》』の本部が地球に置かれているとの確かな情報を偵知《ていち》し、その発見・殲滅《せんめつ》の極秘任務《ごくひにんむ》を受けて密《ひそ》かに戦いを続けている、五人組の秘密戦士である。
「……本部のある場所がそこまで絞《しぼ》れてるんだったらさ、わざわざ五人だけで戦争しなくたって他にやりようあるでしょうにねえ」
大宇宙生涯不婚同盟はこの世のありとあらゆる愛、特に男女間のそれを激しく否定している。よって彼らの何よりの快楽《かいらく》はカップルの仲を裂《さ》くことであった。そうすることによって彼らは人類の子孫《しそん》を根絶《ねだ》やしにし、ゆくゆくは人類滅亡《めつぼう》を目論《もくろ》んでいるのだ。
「なんつー気の長い連中……つーかそのなんたら同盟ってさ、実はびっくりするくらいしょぼい組織なんじゃないの? それだから何たらレンジャーとかいうのも五人しか送られてこないのよ、きっと。というかそれ以前にさ、同盟の連中のやってることってつまりはモテない連中のやっかみってことじゃない?」
そして五人のレンジャーは今、大宇宙生涯不婚同盟の下部組織である太陽系|不倫《ふりん》推奨《すいしょう》協会のアジトをついに突き止めた。敵の大反撃《だいはんげき》に苦しみつつもその危機を愛の力で切り抜《ぬ》けた五人はとうとう敵の首領《しゅりょう》を追《お》い詰《つ》め、決死の戦いに臨《のぞ》もうとしている。
……というところまで、ステージ上の寸劇《すんげき》は駆《か》け足に進行していた。
ネバーエバーランド内|特設《とくせつ》会場の、ラブラブレンジャー特別ショー。
日奈子の容赦《ようしゃ》ない突っ込みもなんのその、物語はいよいよ佳境《かきょう》に入ろうとしている。
「しっかしさ、作ってる人には悪いけど……あたし、この手の特撮《とくさつ》モノだけは好きになれないわ、やっぱ。なーにが面白いんだろうね」
入り口で配られたパンフをぺしぺし叩《たた》きつつ批判《ひはん》の手を弛《ゆる》めない友人を、真由が困り笑いで窘《たしな》めた。
「日奈子さん、そんなこと言ったら悪いですよ。ここに居るお客さんたちはみんな好きで見に来てるんでしょうし……」
「だあってさあ。ほら、これなんか見てよ」
パンフに記載《きさい》されたある事項《じこう》を指さして、
「このショーでは出てこないらしいけどさ。なんたら同盟の連中って、秘密《ひみつ》研究所で巨大《きょだい》怪獣《かいじゅう》作ってレンジャーに対抗《たいこう》してるんだって。だったらその径獣使って人類|滅《ほろ》ぼせばいい、って話じゃん。つーか、カップルの仲を裂くことが連中の目的なんでしょ〜 なんでそれが巨大怪獣に飛躍《ひやく》するわけ?」
「日奈子さん、そういうところ突っ込んだら悪いですよ……」
「それにさ、ほらこれ。レンジャーの必殺技《ひっさつわざ》ってのがさ、『四人の女性レンジャーがリーダーのレッドレンジャーに愛のパワーを集め、レッドの中で数億倍にも膨《ふく》れ上がったラブラブパワーを敵めがけて打ち込む、フォーエバー・ラブ・バスター』らしいんだけど。どうもこのレッドってさ、自分以外の四人のレンジャー全員と付き合ってるみたいなのよね。こいつらって愛の戦士じゃなかったの? 愛の戦士の愛って、そういう意味の愛なわけ?」
「ええと……あ、ほら。このレンジャーのひとたちって、一夫多妻制《いつぶたさいせい》の星から来てるそうですよ。四人の女性と付き合うのも、このひとたち的にはセーフみたいですね」
日奈子に言いたい放題《ほうだい》言われているラブラブレンジャーだが、ショー自体は大盛況《だいせいきょう》である。ギャラリーのノリもよく、入場の際《さい》に配られたレンジャーのお面《めん》などもみんな喜んで被《かぶ》っていた。それは客だけでなく会場のそこかしこにいる運営スタッフにも言えることで、決して狭《せま》いわけではない会場内は、あたり一面の即席《そくせき》レンジャーで埋《う》め尽《つ》くされている。
「で、この場所でいいわけ?」
お面のゴムを指でくるくる回しながら日奈子、
「こんな最後列にいても、あたしは前の方がどうなってるかよく見えないし。まあ、あんたはどのみち、こういう人の少ないところじゃないとダメだろうけど……」
「だいじょうぶです、わたし、目だけはいいですから。だいじょうぶ、ここからでも十分見えます」
「ん。あの二人はどうしてる?」
「はい、居ます。さっきからずっと最前列です」
レンジャーショーが展開されている舞台《ぶたい》の目と鼻の先、中央のベストポジションに、居る。ようやく捕捉《ほそく》することのできた二人が。
こうして見てみると、峻護にしても麗華にしても別段《べつだん》いつもと変わったところはないかと思える。先ほど麗華から感じた嫌《いや》な予感のする何かは、今の二人からは感じ取ることができない。
でも、それにしても――と真由は自問《じもん》する。自分はここで何をしているのだろう。峻護と麗華がどうなるか見届《みとど》ける、という口実《こうじつ》でここまで来た。だけど、ほんとうに二人がそういう関係になる段《だん》になったら、自分は一体どうするつもりなのだろう。ほんとうにただ見守るだけで済ますつもりなのか。この戦いは絶対譲《ゆず》れないものではなかったのか。
わたしは――月村真由は、その時どんな道を選べばいいんだろう……?
峻護の生真面目《きまじめ》な顔と、麗華の笑顔《えがお》を交互《こうご》に思い浮《う》かべながら。
真由は何度も何度も自問する。
そんなサキュバス少女の深刻《しんこく》さには及《およ》ばぬながら、二ノ宮峻護もまた会場最前列にて自間を繰り返していた。
議題《ぎだい》はもっぱら、本日の彼の目的についてである。
すなわち、北条麗華は十年前の約束の少女なのか否《いな》か。
太陽はまだ高いものの、時間的にはそろそろ夕刻《ゆうこく》に差しかかろうとしている。昼前にこのネバーエバーランドに到着《とうちゃく》して小半日が経《た》った計算であり、その間にいくつかの手がかりも得た。にもかかわらず、何ごとにつけても慎重《しんちょう》で色恋沙汰《いろこいざた》に関しては特にそれが強く発揮《はっき》される峻護は未《いま》だ結論を出せず、また本人に対していかなる確認《かくにん》作業をとるにも至っていない。
軟弱《なんじゃく》のそしりを免《まぬか》れない体《てい》たらくだが、これをもって臆病《おくびょう》と罵《ののし》るのは少々|酷《こく》であろう。生真面目《きまじめ》すぎる彼は、約束というものをそれほどに重く考えているのだから。彼の倫理基準《りんりきじゅん》によれば、もし麗華が約束の少女だった場合、それはすなわち即座《そくざ》に婚約《こんやく》であり、ほどなく結納《ゆいのう》であり、数年後には男の子が二人、女の子が一人という未来が確定《かくてい》するのだ。十六|歳《さい》の少年が腰砕《こしくだ》けになるのも無理《むり》はあるまい。
ステージ上で展開《てんかい》するレンジャーショーを見るともなく眺《なが》めながら、隣《となり》に座《すわ》る北条麗華の様子を窺《うかが》う。彼女は至って落ち着いた表情でステージを見物《けんぶつ》している。先ほど見たものは幻《まぼろし》かと疑《うたが》いたくなるほど見事に勘気《かんき》を包《つつ》み隠《かく》し、しかしそれはまさしく包み隠しているだけなのだと峻護は知っている。ひとたび封《ふう》を解《と》けば溜《た》めに溜めた怒《いか》りは怒涛《どとう》と化して荒《あ》れ狂《くる》い、憐《あわ》れな犠牲者《ぎせいしゃ》をひと呑《の》みにすることだろう。
しかしネズミを捕《と》らえるというが――ネズミの正体はさすがに峻護も想像がつく――果たして彼女はどのような手段《しゅだん》でもってその害獣《がいじゅう》に縄《なわ》を掛《か》けるつもりだろう。峻護が候補《こうほ》に上げるネズミは、いずれもハイスペックを極《きわ》めたネズミである。やすやすと捕《つか》まりはしないだろうし、麗華もそのことは承知《しょうち》しているはずだが……。
そんなことに思考《しこう》を費《つい》やしているうち、レンジャーショーはいよいよ佳境《かきょう》に差し掛かりつつあった。シナリオはちょうど、レンジャーの五人が悪役の首魁《しゅかい》とその取り巻きを追い詰《つ》めたところまで進んでいる。
「さあ、ようやく追い詰めたぞ悪者ども!」
レンジャーのリーダーらしき赤色が、敵役《かたきやく》の黒色タイツたちに指を突《つ》きつけて宣告《せんこく》する。
「お前たちの野望《やぼう》は潰《つい》えた。覚悟《かくご》するがいい!」
「ぬうう、おのれレンジャーども……!」
敵役の中でもひときわ目立つ、頭に角を生やした黒マントが歯軋《はぎし》りし、その他の取り巻きたちも動揺《どうよう》の素振《そぷ》りを示す。そこへさらに赤色が追い討《う》ちを掛ける。
「この世は愛がすべて……愛ある限り、我々《われわれ》ラブラブレンジャーはお前たちなどに負けはせん! 愛を否定《ひてい》するお前たちに勝利はないのだ!」
「なあにをほざくか、レンジャーどもが!」
必死のゼスチャーで反論する黒マント。
「愛だ愛だと言うが……レッドよ、貴様《きさま》の周りにいる四人は何だ? 貴様以外のレンジャーのメンバーは、四人が四人とも貴様の妻だというではないか。そんな浮気者《うわきもの》が愛を語るとはちゃんちゃらおかしい。いやそれどころか、貴様ほどわが不倫推奨協会のメンバーにふさわしい者はいないではないか。どうだ、今ならば幹部《かんぶ》待遇《たいぐう》で貴様を協会に迎《むか》え入れてやる。我々と手を組む気はないか?」
「馬鹿《ばか》野郎《やろう》!」
峻護には至極《しごく》もっともに思える論《ろん》を、レッドは言下《げんか》に否定《ひてい》した。
「この俺を律《りつ》する崇高《すうこう》な思想《しそう》と、癒前たちの下劣《げれつ》な空論《くうろん》とを一緒《いつしょ》にするんじゃない。一夫多妻は俺たちの星の憲法《けんぼう》に明文化《めいぶんか》されている当然の義務《ぎむ》と権利《けんり》、そしてそれもすべては愛の成《な》せる業《わざ》なのだ。そう、すべては愛ゆえ……」
そうだそうだ、と妻子《さいし》持ちらしき男性客から声援《せいえん》(?)が飛ぶ。観客席から笑いが起こる。
「俺の愛は地球を、いや宇宙をも包み込むほど広く、深く、そして熱い。愛を否定するお前たちの企《たくら》みには決して屈《くつ》しない!」
「いいや、この世に愛などありはしない。愛なき交際《こうさい》こそが自然な姿、すなわち不倫《ふりん》こそがあるべき形!」
「否《いな》! 愛こそがすべて! 不倫などはまやかしに過ぎん!」
「ちがう! 不倫は文化だ!」
お互《たが》いの勧告《かんこく》は踏《ふ》みにじられ、最後の戦いの火蓋《ひぶた》が切って落とされた。後方の席から「無茶苦茶《むちゃくちゃ》よ!」という声がして、峻護はまったくその通りだと思うが、正論《せいろん》はたちまち観客の歓声《かんせい》に打ち消される。
舞台上では五色のレンジャーたちと黒色タイツたちが入り乱《みだ》れ、爆発《ばくはつ》あり、ワイヤーアクションありの激戦《げきせん》が展開されていた。お子様たちは待ってましたとばかりの大喝釆《だいかっさい》。レッドと黒マントの会話の意味をどの程度|理解《りかい》しているかはともかく、なるほどこのアクションシーンは彼らが喜ぶのもよくわかる出来だった。峻護ですらつい見入ってしまいそうになり、しかし彼はのんびりとショーを楽しんでいられる立場でもない。
ちらりと隣に目をやる。令嬢《れいじょう》は機嫌《きげん》よさげに舞台を堪能《たんのう》している――ように見える。だが峻護のカンは、麗華の姿に通り一遍《いっぺん》の印象とはちがう何かがあることを訴《うつた》えている。その違和感《いわかん》は今日一日ずっと麗華の傍《そば》にいた峻護にしかわかるまい。彼女は確かに何かを狙《ねら》い、何かを待っている。
大盛況《だいせいきょう》だったアクションシーンも、勇ましく響《ひび》いていたBGMと効果音《こうかおん》がフェードアウトするとともに一段落《いちだんらく》。レンジャー五人は全員|健在《けんざい》であり、その反面、悪玉側は首領の黒マントほか数名を残すのみとなっていた。
「く……なんてことだ」
黒マントが絶望《ぜつぼう》あふれる仕草《しぐさ》で首を振る。
「レンジャーどもめ、まさかこれほどの強さとは……だがおかしい、この強さは明らかにデータと違《ちが》う。くそう、何か手はないのか……」
そう言って、黒マントは禍々《まがまが》しい仮面《かめん》に覆《おお》われた顔をあちこちに向け始めた。レンジャーたち、舞台裏、観客席の大向こう、と次々に目線を移《うつ》し、そして。
最後にその視線は観客席最前列――峻護と麗華のもとに止まる。
黒マントは仮面の下で、ニヤリと笑ったようだった。
「……え?」
峻護の疑問符《ぎもんふ》を黙殺《もくさつ》し、黒マントは部下を呼びつける。
「おいお前たち。あそこの二人をここに連れてこい」
部下の黒タイツたちは甲高《かんだか》い声で敬礼《けいれい》し、観客席に降りてくると、二人の腕《うで》をがっちり脇《わき》に抱《かか》えた。
「ちょ、ちょっと何を……」
峻護の抗議《こうぎ》をやはり黙殺《もくさつ》、ギャラリーがどよめく中、強引《ごういん》に舞台《ぶたい》へと上げてしまう。
「お前たち! いったいその人たちに何をするつもりだ!」
「おおっと、動くなよレッド。この人質《ひとじち》二人がどうなってもいいのか?」
黒マントが鋭《するど》い爪《つめ》を峻護の喉元《のどもと》に押《お》し付けると、身を乗り出しかけていた赤レンジャーが悔《くや》しげに一歩下がった。峻護は困り果てながらも大人しくしている。どうやらこれはショーにおけるひとつの趣向《しゅこう》らしく、幸か不幸か自分たちはそのゲスト役に選ばれてしまったようだ。
動きを封《ふう》じられたレンジャーたちは為《な》す術《すぺ》もない。四人のレンジャーたちはお互いに顔を見合わせ、最後にリーダーであるレッドに視線を集めた。判断《はんだん》のすべてを彼に委《ゆだ》ねた、ということらしい。
観客が息を詰《つ》めて見守る中、赤レンジャーはなおも逡巡《しゅんじゅん》していたが、やがて、
「――みんな、フォーエバー・ラブ・バスターの準備《じゅんぴ》を。必殺技《ひっさつわざ》で一気にけりをつける」
「!」
リーダーの言葉に、会場全体がどよめきに揺《ゆ》れた。
「何を考えてるのレッド! それじゃあ人質の二人が……!」
「心配いらない」抗議《こうぎ》の悲鳴《ひめい》を上げたピンクを振り返り、「フォーエバー・ラブ・バスターは愛の力を集めて敵をたおす技。そしてほんとうに純粋《じゅんすい》な愛の力は悪者にしか効《き》かないんだ。だいじょうぶ、俺たちならできる」
力強く頷《うなず》くレッドに、「なるほど……」「わたしたちならきっとできるわ」口々に納得《なっとく》の言葉を連《つら》ねるレンジャーたち。
「わかったわレッド。わたしたち四人の愛の力、しっかり受け止めて!」
「まかせてくれ! さあ行くそ、フォーエバー・ラブ・バスター、チャージスタート!」
なにやら五人で組み立て体操《たいそう》のようなポーズを取り、気合《きあい》を込め始めた。悪の一団は哀《あわ》れなほどにうろたえ、ギャラリーは手に汗握《あせにぎ》って成り行きを見つめ、そして峻護はまったくの置いてけぼりである。
おまけに、
「くッ……」
レヅドは苦しげなうめきを漏《も》らし、
「だめだ、これじゃあまだ愛が足りない……会場のみんな、どうか俺たちに愛の力を分けてくれ! みんなのカで悪者をやっつけるんだ!」
観客席に向かって激《げき》を飛ばした。するとギャラリーはたちどころに反応し、よく訓練《くんれん》されたマスゲームのようにそろって両手を天に掲《かか》げ、一斉《いっせい》に唸《うな》り始める。どうやらこれも『ラブラブレンジャー』視聴者《しちょうしゃ》には周知《しゅうち》の行動らしいが、どこぞの新興宗教《しんこうしゅうきょう》でやりそうな怪《あや》しい儀式《ぎしき》に見えなくもない。
いよいよついていけない峻護を尻目《しりめ》に、レッドはまたもやうめき声を上げた。
「だ、だめだ……みんなすまない、これでもまだ足りない……!」
「そ、そんな……!」
レンジャーのメンバーに動揺《どうよう》が走り、観客からも悲鳴が上がる。
「ククク……どうやら打つ手がなくなったようだな、ラブラブレンジャーよ」
その逆に生気《せいき》を取り戻《もど》した黒マント、
「貴様《きさま》たちの命もここまでよ。レンジャーさえ消えれば恐《おそ》れるものは何もない、すぐにでも人類滅亡《じんるいめつぼう》計画が発動《はつどう》できるというものだ。うはははは!」
客席に絶望の空気が沈殿《ちんでん》していく中、黒マントの悪役の笑いが高らかに響き渡《わた》る。
そんな宿敵をレッドが悔《くや》しげに睨《ほら》みつけ、
「…………」
その時、彼はこれまでとは異《こと》なる種類の動揺を見せた。
「そんな、まさか……」
レッドの視線は、峻護と同じく捕《と》らわれの身になっている麗華へ向けられている。
「ど、どうしたのレッド?」
「あれは……あの少女が胸につけているバッジは……レンジャー名誉《めいよ》隊員の証《あかし》!」
今度は残りの四人が動揺する番だった。
「そんな、うそっ?」
「で、でも確かにあのバッジは……」
「そう、彼女こそはラブラブレンジャー六人目のスペシャルメンバー」
鷹揚《おうよう》に頷くレッド。そういえば入園の際《さい》、そんな話もあったような気がする。
「彼女の協力さえ得られれば俺たちは勝てる!」
「だけどレッド、どうすればいいの? スペシャルメンバーとはいえ、彼女はあくまでも普通《ふつう》の人間……」
「心配いらない、彼女には潜在能力《せんざいのうりょく》がある――そう、愛の潜在能力が。見ろ。捕らわれているのは彼女はひとりではない、恋人《こいびと》も一緒《いっしょ》にいるだろう?」
「ええ、確かに。それで?」
「簡単《かんたん》なことだ。フォーエバー・ラブ・バスターに究極《きゅうきょく》の力を与《あた》えるのは大いなる愛であり、六人目のメンバーである彼女はそれにふさわしいだけの愛を秘《ひ》めている。そして彼女が愛を高めるためには――」
うむ、と頷き、レッドはあっさり爆弾発言《ばくだんはつげん》を吐《は》いた。
「恋人の少年とキスをすればいい.今、この場で」
「――ちょっとちょっと。まじ?」
意外すぎる展開《てんかい》に日奈子が思わず身を乗り出した。同じく唐突《とうとつ》な展開に面食《めんく》らっていた観客だが、こちらは早々《はやばや》とストーリーに乗っかかり、地球を救ってくれるはずの若いカップルを様々《さまざま》に雛《はや》したてている。
「こりゃ見物《みもの》だわ。初めっからこういうシナリオになってたの? あの二人、まさかほんとにやるんじゃないでしょうね?」
レンジャーショーに散々けちをつけていた彼女は一転して瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせ、しかしすぐに口をつぐんだ。不用意《ふようい》な発言を悔《く》いた顔で友人を覗《のぞ》き見る。
だがそんな日奈子の挙動《きょどう》も、今の真由にはまるで映《うつ》っていない。
――絶対に勝てるはずがないと思った。
あの万能な令嬢がちょっとでも本気を出せばすぐにでも負けると思い、実際に令嬢は動き出し、案《あん》の定《じょう》たちまち劣勢《れっせい》が明らかになった。そもそもあのひとと争いたくなどなかったし、だったらできるだけ早く身を引くべきだとも思った。
けど。
これはぜったい譲《ゆず》れない戦いでもあったはずだ。ぜったい譲れない戦いとは、そんなに早々と諦《あきら》めていいものなのか――
強く握りこんだ手のひらに爪《つめ》が食い込んでいるのにも気づかず、ふたたび鼻から血が伝っているのも気づかぬまま。
真由は瞬《またた》き一つせず、喧騒《けんそう》のステージ上をじっと見つめている。
いつの間にか面倒《めんどう》ごとに巻き込まれているのが彼の特技《とくぎ》であるが、その中でもこれは傑作《けっさく》の部類《ぶるい》に入るはずだった。遊園地に来て、アトラクションのショーを見て――ただそれだけのはずが、どういう偶然《ぐうぜん》が重なればこういう結果になるのだろう。
様々な種類の『キスしろコール』にせっつかれながら、峻護はステージ上で半《なか》ば現実逃避《げんじつとうひ》しかけていた。
彼の倫理《りんり》意識は公衆の面前《めんぜん》でプライベートな行為《こうい》を晒《さら》すことに激《はげ》しいNOを突《つ》きつけている。結論は考えるまでもなく明らかだったが、期待《きたい》の眼差《まなぎ》し――しかもその多くが純真《じゅんしん》な子供たちのそれ――が集められているこの状況《じょうきょう》では峻護の性格上、即座《そくざ》に拒絶《きょぜつ》するのも忍《しの》びない。それにここで拒絶すれば、せっかく盛《も》り上がっている舞台《ぶたい》が頓挫《とんざ》するのではあるまいか。別にショーを円滑《えんかつ》に進める義理《ぎり》などないのだが、お人よしなこの少年はそこまで気を遣《つか》ってしまう。
レンジャーたちはさっきからしきりに『地球の平和のためだ、よろしく頼《たの》む』を連呼《れんこ》している。不倫推奨《ふりんすいしょう》協会の連中は「なんということだ!」「ここまでレンジャーを追い詰《つ》めたというのに!」などと口走りつつ、手を変え品を変えて狼狽《ろうばい》している。しかしそれもだんだんネタ切れになりつつあるのだろうか、『間が持たないんだからさっさとやっちまえ』的な視線がさっきから寄せられている気がする。
こまった。
すべてが丸く収まる手立てはないものか、うんうん喰《うな》りながら考えていると、
「二ノ宮峻護」
この会場に来て以来ずっと沈黙《ちんもく》していた令嬢が初めて口を開いた。
あまりに静かだったのですっかりこのひとのことを失念《しつねん》していた。もちろん北条麗華がこんな状況《じょうきょう》を容認《ようにん》するはずもなし。であれば、彼女は一体どうやってこの場を切り抜《ぬ》けるつもりでいるのだろう……?
「ふたつ、約束しなさい」
峻護と並《なら》んで捕らわれたまま、さらに令嬢は呟《つぶや》く。峻護にしか届《とど》かないような声で。
「はい……?」
約束とやらをよく聞こうとして、麗華に向き直った。
息を呑《の》んだ。
彼女の瞳《ひとみ》は、これまで見たこともない色をしていた。それは獲物《えもの》に飛び掛《か》かる直前の肉食獣《にくしょくじゅう》の瞳であり、狩《か》り以外は何も頭にない瞳だった。押さえ込んでいた怒《いか》りが蓋《ふた》の隙間《すきま》からちろちろ舌を出している瞳だった。目的のためならどんな手段をも厭《いと》わない瞳だった。
「ひとつ。決して勘違《かんちが》いをしないこと。ひとつ。どんなことがあっても動かないこと」
要するに――それは、キレる寸前《すんぜん》の瞳だった。
そして返答を待たず、麗華は行動《ハント》に移《うつ》った。
す、と峻護の前に立つ。
ずい、と一歩前に出る。
どよめきが沸《わ》き、どよめきが沸ききる前に麗華は踵《かかと》を上げる。
「まじっ?」
日奈子はずり落ちんばかりに身を乗り出した。
観客が息を呑《の》む音が美しくひとつにそろった。
――絶対《ぜつたい》に勝てるはずがないと思った。
でも、だけれども。
びくりとも動かない想《おも》い人に、恋敵《こいがたき》のくちびるが寄せられ、
「だめ、やめてー」
立ち上がった真由が制止《せいし》の叫《さけ》びを上げかけ、
その瞬間《しゅんかん》。
麗華は独楽《こま》のように身を翻《ひるがえ》し、疾風《しっぶう》のごとく動いていた。
黒髪《くろかみ》の残《のこ》り香《が》を鼻先に振《ふ》りまいて、目の前まで迫《せま》っていた令嬢は姿を消した。
あまりにテンポよく切り替《か》わる状況《じょうきょう》に、峻護の意識《いしき》はまるで追《お》っつかない。
「え?」
ようやく間《ま》の抜《ぬ》けた声が喉《のど》からまろび出て、次いで麗華のくちびるが自分のそれに触《ふ》れかけたことに対して「わわっ?」と驚愕《きょうがく》し、ここまできてやっと彼の現実|認識《にんしき》能力は現在|時刻《じこく》と同期《どうき》する。
「え?」
そして峻護はもういちど間の抜けた声を上げることになった。
会場は、しん、と静まり返っている。
観審も、不倫推奨協会の面々《めんめん》も、レンジャーの五人も、ぴくりとも動かない。
いや、ひとりだけ。
動かないのではなく、動けない[#「動けない」に傍点]人間がいる。
「あはは……ばれちゃいましたか」
動けない人間――赤レンジャーのマスクの隙間から、聞き覚えのある声が洩《も》れた。
「う〜ん、擬態《ざたい》にはけっこう自信あったんですけど……」
「露見《ろけん》しないとでも思っていたのかしら? 大甘《おおあま》ですわね」
いらえを返したのは、レッドの片腕《かたうで》を背中にひねり、空いた手で赤スーツの喉元を締《し》め上げている――北条麗華だった。
「スーツを着込み、手足の長さをカバーし、声を自在《じざい》に変えたところで……少しばかり注意してみればあなたのクセはすぐにわかりますわ。何年あなたとの腐《くさ》れ縁《えん》が続いていると思って?」
いや違う――と峻護は認識《にんしき》を改《あらた》める。少なくとも舞台《ぶたい》上には動かない[#「動かない」に傍点]人間はひとりもいない。麗華の眼光《がんこう》はステージの隅々《すみずみ》にまで配《くば》られて、運営《うんえい》スタッフ全員の行動の自由を殺しているのだ。
かろうじて舞台上にだけ届く程度の小声で、令嬢はさらに続ける。
「あなたのことだから、この事《こと》に及《およ》ぶに至って証拠《しょうこ》はひとつも残していないのでしょう? だったら安全なところから指示《しじ》だけ出してればいいものを、すぐにしゃしゃり出たがる――目的と手段が逆転《ぎゃくてん》しているあたりがあなたらしいですわね。もっともわたくしにとってはそちらの方が助かるけど。あなただけは現行犯で押《お》さえておく必要がありますから。どうせ逃げ道はいくつも用意してたでしょうしね」
「二ノ宮くんとキスするフリしたのも、ボクを油断《ゆだん》させるためですよねえ……まいりました。降参《こうさん》です。ばれれば大罪《たいざい》、ばれなければ大手柄《おおてがら》。とっくに覚悟《かくご》はできて……って、あれれ?」
赤レンジャーがこちらを見て驚《おどろ》きの声を上げる。いや、正確には峻護ではない、もう少し後方――
そこで遅《おそ》まきながら気づいた。峻護を拘束《こうそく》していた黒マントの姿が消えている。
「すごい、ぜんぜん気づかなかった。ほんとに逃げ足は速いんだなあ。声はボクが無線《むせん》で代役してたとはいえ、ぶっつけ本番の演技も上々《じょうじょう》だったし。こりゃいよいよ本格的にスカウトを――」
「自分の立場がわかっていないようね? 私語は慎《つつし》みなさい」
「はい。ごめんなさい」
「よろしい。それではこれから折濫《せっかん》に移《うつ》ります。この場では主犯《しゅはん》のみの処罰《しょばつ》といたしますが、残りの共犯者にも追って沙汰《さた》しますから覚悟するよう。家族との別れは両日中に済ませておくように」
びくん、と震《ふる》えたのは、ステージ上にいるスタッフのほとんどだった。観客席の間にも何人かいたように思う。
「ふん、安心なさい。このショーはわたくしがきちんと進行して差し上げます。何も知らずに観《み》に来た方々に悪いですからね」
そう告げて客席を振《ふ》り返った時、令嬢の表情はコインを裏返したみたいに一転していた。
神宮寺学園の全生徒、いや北条コンツェルンの全配下を魅了《みりょう》する笑顔《えがお》で、
「みなさんお聞きになって。ここにいるレンジャーたちは、実はすべて偽者《にせもの》なのです。わたくしはレンジャーの名誉《めいよ》メンバーとして本物のレンジャーから命《めい》を受け、偽者を懲《こ》らしめにきたの!」
弁舌《べんぜつ》が始まり、北条麗華のカリスマはここでも正しく発揮《はっき》された。朗々《ろうろう》たる声をマイクも用《もち》いず会場に響《ひび》かせ、豊かな表情を交えて語る即席《そくせき》のストーリーはあくまで淀《よど》みなく。かなり強引《ごういん》な理屈《りくつ》にも観客たちは次第《しだい》に納得顔《なっとくがお》になっていき、やがては割《わ》れんばかりの拍手《はくしゅ》と口笛《くちぷえ》でもって新たなるヒーローを迎《むか》えるに至った。
「……さあ、これでゆっくり公開 |調教《ちょうきょう》ができるというものですわ。使用人《しようにん》の躾《しつけ》は主《あるじ》の務《つと》め。ここぱきっちりみっちり教え込んで差し上げる必要があるでしょう。二度と愚《おろ》かな真似《まね》ができないように……いいえ、むしろ二度と立ち直れないほどに。その調教の結果、不幸な事故が発生したとしても、それは天運として諦《あきら》め」るしかありませんわね?」
悪者をやっつけて! というお子様たちのピュアな声援《せいえん》を受け、麗華は満面の笑みを形作った。それは満面の笑みでありながら見る者をまったく心安らかにさせない、この世で最も恐《おそ》ろしい表情のひとつであった。
「ええとあの。お嬢《じょう》さま、本気で怒《おこ》ってます? 本気の本気で」
ぺきぽきぼきぺき。指の骨を楽器のように鳴らすことで麗華は返答とする。
「あははは……あ〜……ええと。できればお手柔《てやわ》らかに」
「残念ね。あなたには今日から長期|休暇《きゅうか》を与《あた》えますから、病院のベッドでゆっくり骨休《ほねやす》みをしなさいな。いったい何本の骨が折れることになるかわかりませんけれど」
笑顔と共に振り上げた拳《こぶし》が電光の速さで落ちた。
*
「わ、わけわかんない……何がどうなってんの?」
レンジャーショーの顛末《てんまつ》をすべて見届けて会場を後にする日奈子の頭上《ずじょう》には、無数《むすう》のクエスチョンマークが浮《う》かんでいた。
「いきなり麗華さんがステージジャックしちゃうし……あれ、やっぱどうみても最初からシナリオに入ってたよね? でもそれにしては麗華さん、なんだかものすご〜く怒ってるように見えたんだけど。あのレッドの中の人、だいじょうぶかな? ちゃんと救急車呼んでもらってるかな? ああもうとにかく、観《み》てて疲《つか》れたというかなんというか……まるっきり意味わかんなかった」
しかし日奈子の感想とは裏腹《うらはら》に、会場から出てくる観客たちの表情はおしなべて満足げであった。やはりこの手の特撮《とくさつ》ものは、とことん彼女の肌《はだ》に合わないらしい。
「まあいいわ。とにかくやっと麗華さんと二ノ宮くん見つけたんだから、今度こそ見失わないようにしないとね。真由、ちゃんとあの二人は追えてる?」
「はい、だいじょうぶです。見えてます」
日奈子より一歩前を行く真由の返答は、珍《めずら》しく力強い。
やっと今日の目的《もくてき》が果たせそうで、やる気が出てるのかしらね――うむうむ頷《うなず》きつつ、日奈子も足早に後を追う。閉園《へいえん》時間は刻々《こくこく》と近づき、人出もまばらになりつつあった。今ならそれほどジグザグしなくても園内を歩き回れる。入園以降、ようやく巡《めぐ》ってきた好機《こうき》だった。
朱色《しゅいろ》を混《ま》じえ始めた太陽と、かすかに冷えつつある風を受け、少女二人は念願《ねんがん》の追跡行《ついせきこう》を開始する。
*
「まったくあのバカは……どうしてああもバカなのでしょう!」
ショー会場においては衆人《しゅうじん》環視《かんし》の中、ということで、上《うわ》っ面《つら》だけは冷静さを保《たも》っていた麗華だが。
溜《た》めに溜めたフラストレーションを、ここにきてまったく遠慮《えんりょ》なしに爆発《ばくばつ》させていた。
「わたくしもわたくしですわ、あのバカがくだらないことを考えるのは当然|視野《しや》に入れておくべきなのに、あんな段階《だんかい》になるまで気づかなかったなんて……!」
峻護はできるだけ麗華を刺激《しげき》しないよう、足音ひとつにまで気を遣《つか》いながら後続している。怒《いか》れる麗華というのは彼にとってさほど珍《めずら》しいものでもないが、しかしここまで感情を爆発させる姿を見せるのも稀《まれ》だろう。
「あれもこれもどれもそれも! ぜんぶあの者の仕業《しわざ》だったのです! ああもうほんっっっとに、腹立たしい!」
もちろん麗華にだって言い分はある。ようやく――ようやく今日はちょこっとだけ、いい感じになれたと思ったのだ。名目はともあれ二ノ富峻護と遊園地に、それも二人だけで来て(乗り物に乗って、色んなところを見て回って、たくさんのことを話して……十年間待ち望んでいたものが、ようやく少しだけ得られたと思ったのだ。ずっとずっと努力してきたことに比《くら》べれば何億分の一にも満たないちっぽけなものだけど、それでも彼女にとってはこの上なく貴重《きちょう》な時間だったのだ。その時間のすべてが仕組《しく》まれたもので、作られたものなのだとしたら――そう考えると麗華はたまらない気持ちになる。悲しくなる。苦しくなる。泣きたくなる。あのお調子者《ちょうしもの》だって単なる趣味《しゅみ》でやったわけじゃなく、あの者なりに主人を気遣《きづか》ってのことだろう、と頭ではわかっていても、後から後から湧《わ》いてくる感情を抑《おさ》えきれない。そのごちゃ混《ま》ぜの感情を怒りという形にひっくるめて今、身体《からだ》の中から叩《たた》き出しているのだ。そうしないとどうにかなってしまいそうなのだ。
だから麗華は、無我夢中《むがむちゅう》で怒り狂《くる》っているのだった。
「あんな程度の折檻では物足りませんわ! 今から病院に乗り込んで追《お》い討《う》ちを掛《か》けてやろうかしら! いいえそれでもまだ不足です、やっぱりあの者は一度、冥府《めいふ》というものが
どんなところか社会見学に出すべきなのです!」
もちろん峻護にはそんな心の機微《きび》はわからない。ただただ令嬢の怒気《どき》に戦々《せんせん》恐々《きょうきょう》として首をすくめ、そして一方では別のことを考えていた。
先ほどのレンジャーショーの一幕。
不忠者《ふちゅうもの》を油断《ゆだん》させるために麗華が取った大胆《だいたん》な行動。あの場面だ。
どうやら当人は目的のみを見据《みす》えるあまり、手段については用いた記憶《きおく》すら頭に残していないような様子だが、もちろん峻護はハッキリ覚えている。彼女がくちびるを寄せてくるシーンを、コマ送りにできるほど明確《めいかく》に。
そしてそのシーンが、今日何度目になるかわからないデジャヴを呼び起こしていた。
そう、確かに。十年前の少女にも、同じことをされた記憶がある。無いも同然の同意のもとになる、不意打《ふいう》ちのくちづけ。あれはどんな状況《じょうきょう》だったか。ひどく驚《おどろ》いた覚えは鮮明《せんめい》にあるのだが――とにかく、まったく予測《よそく》できない、文字通りの不意打ちだったように思う。そう、先ほどのそれと同じく。
やはり、十年前の少女と北条麗華とは重なって見える部分が多すぎる。では、それではやっぱり彼女が……?
いかに優柔不断《ゆうじゅうふだん》で慎重《しんちょう》でも、そろそろ行動に出るべき時だった。陽《ひ》はすでに色づき始めているし、雲がなかっただけに空気が熱を失うのも早い。今日という日はもう、否応《いやおう》なく畳《たた》まれようとしている。
行動に出るべき時だった。
別のことを訊いた。
「あの、先輩《せんばい》。次の目的地はどこでしょうか? さっきからずっと、あてもなく歩いているように見えるんですが……」
「だいたいあの者は昔からああだったのです! やっぱり調教の仕方《しかた》が間違《まちが》っていたのですわ! 昔はあの見た目にだまされてずいぶん手心を加えてしまいましたからね、ええ今からでも遅《おそ》くありませんわ、これからはもっと、」
「そろそろ日も暮れてきます。もし見るべきアトラクションがいくつも残っているのなら、優先順位を決めましょう。でないと――」
峻護もわかっている、これは明らかな先延《さきの》ばしだと。それでも彼は踏《ふ》ん切《ぎ》りをつけられない。できるだけ彼女を刺激しないように、という戒《いまし》めを破《やぶ》ってまで、するべきことから逃《のが》れようとしている。
「あの者の部下も部下ですわ! いくら直属《ちよくぞく》でないとはいえ、彼らの主《あるじ》はわたくしなのですよ? それをないがしろにするとは、」
「先輩、聞いてますか? そろそろ家に戻《もど》る時間も考えておかないと――」
「ああもう、お黙《だま》りなさい! さっきからごちゃごちゃごちゃごちゃと!」
当然のごとく逆鱗《げきりん》に触《ふ》れた。そして。
「あなたにうだうだ正論《せいろん》を吐《は》かれるとわたくしはイライラしてくるのよっ、この――」
思いがけず、決定打を放たれることになった。
「この、ネギ男!」
ああ――と、峻護の内に不思議《ふしぎ》なほど穏《おだ》やかな気持ちが湧《わ》いた。
そう、そうだ。その言葉があったんだ。
では、やっぱりそうだったんですね。
あなたが、そうだったんですね……?
「先輩。お話があります」
呼びかけを無視《むし》し、少女は肩《かた》を怒《いか》らせたまま先に進む。
「とても大事《だいじ》なことです。聞いてもらえませんか」
無言の拒絶《きょぜつ》。ついてくるなとでも言いたげに、さらに歩みを速める。
小走りに追う。
もう、迷いはない。
「十年前の、ことですが」
少女の歩みが止まった。
*
「なんだか――変です」
道の真ん中で足を止めた二人の様子を物陰《ものかげ》から窺《うかが》い始めてしばし。
ぽつん、と。不意《ふい》に真由が呟《つぶや》いた。
「え? なになに? なにが? どこが?」
手のひらを額《ひたい》にかざして目を細める日奈子だが、彼女の視力《しりょく》ではどうにもおぼつかない。
「ったく、あんたって本気で目はいいのね……で、どんな状況《じょうきょう》なわけ?」
「はい。なんだか――とにかく、変です」
「それじゃわかんないわよ。他になんかないの?」
「ええと、いきなり二人が立ち止まって、そこから動かなくなって……背中を向けてる麗華さんに二ノ宮くんが何か話してるみたいだけど、それ以上どこがどうとは――」
「ああもうまどろっこしい、盗聴器《とうちょうき》とか何かなかったわけ? 今からどうにかならないかなあっ、もうっ」
騒《さわ》ぎ始めた友人を尻目《しりめ》に、狙撃銃《そげきじゅう》を撃《う》つ兵士のような真剣《しんけん》さで、真由は立ち止まった少年少女に視線《しせん》を注《そそ》いでいる。
*
「十年前――おれは、ある女の子と一緒《いっしょ》に暮《く》らしていました」
言葉を選びながら、ひとことひとこと噛《か》み締《し》めるように、峻護は語り始めた。
「その頃《ころ》は姉さんも父さんも母さんも家を離《はな》れがちで。だから家にはおれひとりがいて、おれひとりで暮らしていました」
語りながら記憶《きおく》を掘《ほ》り返し、磨《あが》きなおし、あらためて全体の形を整えていく。土に埋《う》もれた宝物《ほうもつ》庫《こ》から輝《かがや》ける遺物《いぶつ》を発掘《はっくつ》するような丁寧《ていねい》さで、そしてひどくいとおしげに。
「ウチの教育|方針《ほうしん》って変なところで厳《きび》しいところがあって。仕送《しおく》りなんてものはなかったから、生活に必要なものも全部、自分でまかなってました。十年前だからまだ六|歳《さい》の頃なんですけど」
それでも記憶はまだ、電波状態の悪いテレビ画面みたいにぼやけたまま。しかもそれらはすべてバラバラの断片《だんぺん》だ。それでも話そう、今思い出しているすべてのことを。顔どころか名前すら思い出せない、だけどとても大切な女の子のことを。
そしてもしもほんとうに、あなたがあの少女であるのなら。その上でなお、あの時の気持ちのままでいてくれるなら――
「その女の子はそんな頃、いきなりウチにやってきました。何の前触《まえぶ》れもなし。転がり込んできた、といってもいいかもしれません」
麗華はまだ立ち止まったまま。こちらを振《ふ》り返ろうとはせず、華著《きゃしゃ》な背中でただ静かに言葉を受け止めている。
――というのはあくまで峻護の主観《しゅかん》、あるいは客観的《きゃっかんてき》に見た外観《がいかん》の話である。
実際《じっさい》、麗華の内実《ないじつ》は静かでも落ち着いてもいなかった。
(な、なぜっ? どうしてっ? どうしていきなりそんな話をし出すのっ?)
それどころか恐慌《きょうこう》一歩手前のパニック状態に陥《おちい》っていた。奇行《きこう》に走ることがなかったのは偏《ひとえ》に、常に泰然《たいぜん》たれと己《おのれ》を律《りっ》してきたことの賜物《たまもの》だろう。
(い、いきなりそんなこと言われても、わたくしまだ心の準備が――)
ついでに言えば『立ち止まっている』というのも適確《てきかく》な表現ではない。混乱のあまり進むことも引くことも叶《かな》わず、今にも笑い出しそうな膝《ひざ》を精神力だけでどうにか固定しているのが実情だった。
(おちつけ、おちつきなさいわたくし――)
気づかれないように深呼吸し、暴動《ぼうどう》を起こしていた心臓をどうにか押《お》さえつける。
そう、落ち着かねば。奇襲《きしゅう》もいいところだったけど、これは紛《まぎ》れもなく、ずっとずっとずっとずっと待ち望んでいた瞬間《しゅんかん》でもあったのだ。そう、今日こそは言おう。今日ならきっと言える。二ノ宮峻護が確かめてきたら――十年前に出会ったあの少女はあなたではないですか、と尋《たず》ねてきたら――
ずくん、と。押さえつける力を振り切り、心臓が別の生き物のように高鳴《たかな》った。
そう、もしもそうなったら……その時、ほんとうのほんとうに望みが叶えられるのだ。
十年間ずっと大事にしてきた夢が、もう半ば諦《あきら》めかけていた願いが。
二ノ宮峻護はこのうえなく真摯《しんし》な口調《くちょう》で、なおも昔語りを続けている。
「とても活発《かっぱつ》な子でした。逆に言えばとても手のかかる子で、何かと苦労させられたように思います」
手のかかるですって? ま、まあ、たしかにあの頃のわたくしはちょっとあれでしたけど。でも、そんなこと今さら掘り返さなくたっていいじゃないの。
「もっと言えばとても手の早い子で。近所のガキ大将みたいなのともよく喧嘩《けんか》してました。その度《たび》におれが仲裁《ちゅうさい》に出てたんです」
しました。ええ確かにしましたわ。でもあれはあの豚男《ぶたおとこ》が悪いのです。今のわたくしがあの男に会ったとしてもやっぱり鉄拳《てっけん》をお見舞《みま》いしていることでしょうね。ああもうっ、どうしてそんな、みっともないことばかり覚えてるのよっ。
「けど、なんだかんだ言ってもその子には何かと助けられました。六歳での一人暮らしは楽じゃなかったから、二人暮らしになったってだけでずいぶん違《ちが》ったし」
そう、そういう話を待っていたのです。といっても、実際のわたくしはむしろあなたの足手まといだったのだけど……でもまあ、あなたがそう思ってるのでしたら気にする必要もありませんでしたわねっ。高貴《こうき》な生まれであるこのわたくしがあなたという下僕《げぼく》に手間《てま》をかけさせるのは当然だったのですけれども!
「始めから家事も抜群《ばつぐん》にできたし……物覚《ものおぼ》えのいい子だったから、できないことでもすぐに覚えてくれたし」
そ、それは褒《ほ》めすぎではなくて? まあ確かにわたくしの才能《さいのう》をもってすれば家事なんて造作《ぞうさ》もないことですけれど、あのレベルで抜群にできたとか言われるとさすがにこそばゆいですわ!
麗華は幸福だった。バカみたいに上がっている心拍数を押さえる苦労すら楽しい。今だったら箸が転げただけでも笑い死ねるはずだった。入学式の日に味わった絶望など、一円玉をドブに落とした程度《ていど》にも感じない。十年間ほったらかしにされてきた怒りなど、もはやその残滓《ざんし》すらない。
ああ、一体どんな顔をして振り向こう。振り向いたらどんな言葉をかけよう。そうね、今さらどうでもいいことですが、やっぱり文句《もんく》のひとつも言っておきましょうか。今後またこのような思いをすることがあればたまったものじゃありませんからね。きちんと釘《くぎ》を刺《さ》しておく必要があります。でもあまりきつく言い過ぎないように注意しなければ。済んだことをほじくり返したって、今後の関係に支障《ししょう》を来たすだけですもの。けど、やっぱり思い出すのが遅《おそ》すぎなのです。忘れていたことは百歩|譲《ゆず》って許してあげるにしても、せめてあの入学式の時に思い出していればよかったのに。そうすれば多少はロマンある再会が果たせたでしょうに……いいえ、やめましょう、そんな過ぎたことを考えるのは。どうも昔のことを考える癖《くせ》がついていていけませんわ。わたくしはほんとうに、あなたが思い出してくれたという、ただそれだけで、それだけで――
不意にこみ上げてくるものがあって、麗華はあわてて顔を上に向けた。いけないいけない。もう泣かないと決めたのに、こんなところでそれを破《やぶ》っては笑い話だ。きっと二ノ宮峻護にだって笑われる。立派《りっぱ》になって、強くなって、それから再会すると約束したのだから……いいえ、いいえ。わたくしにはそんなことすらもうどうだっていいのです。今わたくしが欲《ほ》しいものは、たったひとつだけ――
「そう、洋館《ようかん》というやつになかなか慣《な》れなくて。やっぱり土足というのが落ち着かないらしいんですよね」
…………。ええと、何の話だったかしら。途中《とちゅう》から聞いてなかったけれど。住んでいた家の話? 洋館……だったかしら? あのボロアパート。外観はまあ、洋風といえば洋風だったけれど。廃墟同然《はいきょどうぜん》だったし、あそこまでいけばもう洋風だろうと和風だろうと関係ないのではなくて? ああもう、そんなことを聞きたいのではないのです。もっと早く言うべき言葉があるでしょう? 思い出話はあとでゆっくりできますわ、もう怒《おこ》ってなどいないし、謝罪《しゃざい》も賠償《ばいしょう》も求めるつもりはないのだから、それほど慎重《しんちょう》になることも――
「適応能力《てきおうのうりょく》は高い子でしたけど、やっぱり預《あず》けられた家は勝手が違《ちが》いますから。その子はずっと和風の家に住んでいたらしくて――」
すうっ、と。
全身から脂汗《あぶらあせ》が噴《ふ》き出るほどの悪寒《おかん》が背すじを這《は》い登ってきた。無数の修羅場《しゅらぱ》を切り抜《ぬ》けてきた麗華にはわかる。間違いない。そいつは十中の十、とんでもなくイヤなものを連れてくる。
それでも彼女は必死に否定《ひてい》した。
預けられた? どうしてそうなるのです。二ノ宮峻護、あなたさっき言ったじゃないの。その女の子は転がり込んできたのだと。確かにあれは転がり込んだとしか呼びようのない状況《じょうきょう》でしたわ。それでいいのです。転がり込んだ、それでいいのです。わたくしは預けられたのではありません、あの時わたくしは家出していた……そうでしょう? それにわたくしは和風の家ではなく、生まれた時からずっと洋館育ちですわ。少しくらい記憶《きおく》に誤《あやま》りがあるのは仕方《しかた》ないけど、その程度のことは覚えておくべきですわよ?
「最初は学校にも行ってなくて――学校に行くよりも遊んでいる方が好きだったんですね。けどそこをどうにか説得《せっとく》して、一緒《いっしょ》に学校に行くようになって」
そうじゃない。そうじゃないでしょう? わたくしはあの時、学校になんて一度も――
膝がまた笑い出す。意地だけでこらえる。冷静《れいせい》に考えてみればおかしいところはいくらでもある。家事が抜群にできたなんてお世辞《せじ》にしたっておかしいし、二ノ宮峻護はこんなところで世辞を言う男ではない。活発な子だったというが、それも表現が少々ずれてはいないか。あの頃の自分は単に世間知らずで傲慢《ごうまん》だっただけではないか。
「ショートヘアーがよく似合う子でした。長く伸《の》ばさないのかって訊《き》いたら、遊びの邪魔《じゃま》になるから嫌《いや》なんだって、これまで髪《かみ》を伸ばしたことは一度もないって――」
ちがう。ちがうちがうちがう。もっと、もっとよく考えて、思い出して。あの頃のわたくしの髪はショートヘアーと呼べるものだった? わたくし、これまで一度も髪を短くしたことなんてないのよ……?
ねえ、あなたはいったい何の話をしているの?
あなたの心には、いったい誰《だれ》が住んでいるの……?
「ええと、それから、その」
麗華を襲《おそ》う嵐《あらし》のことなど露知《つゆし》らず、峻護は背中の向こうで咳払《せきばら》いをして、照《て》れくさげにこう続けた。
「その子とおれは、えー、つまりその。キスとかも、していたような気が」
暗雲《あんうん》にまみれた心にひとすじの希望が差した。そう、それは大切な思い出。約束の証《あかし》。あの時わたくしとあなたは――
「ええと、野原で遊んでる時だったかな、キスしたのは。も、もちろんそれは事故《じこ》みたいなものというか、子供のやることだからいたずら半分というか……」
――ゆっくりと。
昏《くら》いものが麗華を満たしていく。指の先から髪の毛の一本一本に至るまで、余《あま》さず、隙間《すきま》なく、この上なく濃密《のうみつ》に。
事故? いたずら?
何を――言ってるの? それは忘れない。ぜったいわたくしは忘れない。自分の名前を忘れることがあったってそれだけは忘れない。記憶違いなんて有り得ない。なのに、なのに、この男は。
……そう。ちがうのね。
二ノ宮峻護、あなたの心の中に居る誰か、それは――
わたくしでは、ないのね……?
手がかりになりそうな記憶はすべて伝えた。
カラカラになった喉《のど》に唾液《だえき》を送る。できることは全部やった、と思う。これが今の彼にできるすべて、あとは彼女の応《こた》えを、
「何を――」
一度も振《ふ》り向かず、ひとことも語らず、ずっと背中を見せていた麗華が。
初めて反応を見せた。
「何を寝《ね》ぼけたことを仰《おっしゃ》っているのかしら?」
侮蔑混《ぶべつま》じりの言葉で。
「まさかその女の子とやらがわたくしだとでも言いたいの? それはわたくしを侮辱《ぷじょく》する意図《いと》を持ち、故意《こい》に発言しているものと受け取っていいのかしら? このわたくし北条麗華がどうしてそのようなみすぼらしい暮らしを送る道理があって?」
振り向かず、一瞥《いちべつ》すらくれずに。
「そもそもあなた何か勘違《かんちが》いしていらっしゃらない? 今日はあくまで視察《しさつ》のために来ているのであって、あなたを連れてきたのは他に適当《てきとう》な人間がいなかったから、それ以外にどんな理由もありません。もしそのことについてくだらぬ勘違いをして、わたくしを口説いているのであれば――噴飯《ふんばん》ものの極《きわ》みと言わざるを得ませんわね。とんだ自意識過剰《じいしきかじょう》の道化《どうけ》ですわ。まったく、その点についてはあれほど念《ねん》を押《お》したのに……ひょっとしてあなた、日本語に不自由な方なのかしら?」
そこには怒《いか》りすらない。ただ徹底《てってい》した卑下《ひげ》と嘲弄《ちょうろう》あるのみ。
「不愉快《ふゆかい》です。もうけっこう、あなたはどこへなりと消えなさい。わたくしひとりでいる方がよほど仕事がはかどりますわ」
「すい――ません」
おそらくその謝罪《しゃざい》すら耳に入れてなかっただろう。
穢《けが》らわしいものでも打ち捨てるように鼻を鳴らし、最後まで一度も振り向かぬまま、誇《ほこ》り高き令嬢《れいじょう》は夕闇《ゆうやみ》の満ち始めた園内に消えていった。
ため息をつく。
どうやら完全に的外れだったらしい。落ち着いて考えてみればおかしいところはたくさんあったのだ。例えば、北条麗華をどうして二ノ宮家が預かることがある? 二ノ宮家と北条家にそのころから接点があったとでも? ましてや大切な一粒種《ひとつぶだね》である彼女をわざわざ下々の家に預けるはずがない。バカなことを言った。次から次へと蘇《よみがえ》る記憶に、知らず興奮《こうふん》していたのだろうか。
もういちど吐息《といき》する。これでまた――振り出しに戻《もど》ってしまった。麗華の二重人格とサキュバス化の問題は一ミリも先に進まず、自分の気持ちは宙《ちゅう》ぶらりんのまま……。
でも、白状《はくじょう》すれば少しだけホッとした。なんにしても結論《けつろん》を出すのは早すぎる。律儀《りちぎ》で生真面目《きまじめ》で所帯《しょたい》じみていても、彼はまだ十六|歳《さい》の少年なのだ。ゆっくり考える時間が欲《ほ》しい。一人前になるための猶予《ゆうよ》が欲しい。
とはいえ、彼にはまだ休息の時は与《あた》えられなかった。その前に、新たに発生した問題への対応を検討《けんとう》しなければならない。
さて。どうすれば、北条麗華の機嫌《きげん》を修復《しゅうふく》することができるだろう?
難問《なんもん》である。峻護は未《いま》だかってこの手の問題に取り組んで成功した試《ため》しがない。いったん発生した災害《さいがい》――むろん人災だが――は、自然に収《おさ》まるのを待つしかないのだ。
それでも峻護は考えてみる。どうせ無駄《むだ》だろうという徒労感《とろうかん》に手足を捕《と》らわれつつ、なにか知恵《ちえ》はないかと頭をひねり――すると彼自身おどろいたことに、あっさり解決策《かいけつさく》を思いついてしまったのである。
天啓《てんけい》のように降りてきたそれを、しかし峻護の理性は一笑《いっしょう》に付した。こんなやりかたで機嫌を取れるはずがない、それどころか一層《いっそう》の不興《ふきょう》を買うのがオチである、と。ところがその一方で、彼の感性《かんせい》は自らの案《あん》を全|肯定《こうてい》しているのである。
何かにつけて鈍《にぶ》いところのある峻護は、直感に従って良い目を見た記憶がない。だがどういうわけか、今回ばかりは不思議とその案を試してみたい欲求に駆《か》られた。しばし迷《まよ》い、そしてこれもまた彼にしては珍《めずら》しく、わずかに逡巡《しゅんじゅん》しただけで結論を下した。
やってみよう。駄目《だめ》だったらまた別のやり方を試せばいい。
目的地への道のりを脳内検索《のうないけんさく》し、麗華の去った方向とは反対側に歩き出した。
(ところで――)
人出のまばらになってきた園内を進んでいるうち、峻護の脳裏《のうり》に当然の疑問が湧《わ》き上がってくる。
記憶にある『約束の少女』が北条麗華でないのはよくわかった。でも。
だったら十年前のあの女の子は、いったいどこの誰だったんだろう……?
*
「真由。ちょっと真由ってば」
相変わらず状況《じょうきょう》を視認《しにん》できない日奈子は、地団太《じだんだ》を踏《ふ》まんばかりに友人を急《せ》かした。さほど出歯亀《でばがめ》趣味《しゅみ》があるわけでもないが、こんなおいしそうな場面を見逃《みのが》すのはいかにも忍《しの》びない。
「状況はどうなってんのよ、状況は。丸一日|駆《か》けずり回ったってのに肝心《かんじん》な時にこれじゃあ意味ないじゃないっ。ああもうっ、帰ったらぜったいもっとよく見えるコンタクト買うんだからね!」
これだけ催促《さいそく》しても沈黙《ちんもく》していた真由だったが、やがて言葉を選び選び、
「――細かいことはよくわかりませんけど、なんだか二ノ宮くんがひとりで話してて、麗華さんは後ろを向いたまま聞いてて。それで話が終わったら麗華さんはそのまま行ってしまって、そしたら二ノ宮くんは逆の方向に行ってしまいました」
「おお? なんか微妙《びみょう》に修羅場《しゅらば》っぼくない? ふうん、なんか怒《おこ》らせることでもしたのかな、二ノ宮くん。それでどうすんの真由、あのふたり二手に分かれちゃったけど……今ってちょっとチャンスかもよ? 二ノ宮くん落とすなら今すぐ着替えて――」
問いを言い終える前に真由は動き出していた。足を向けたのはライバルが去った先。
「……あ〜。そっちに行くわけね……」
ま、あんたらしいけどさ、と呟《つぶや》き、日奈子はちょっと嬉《うれ》しそうな顔で後に続く。
*
もう自分の姿は見えないだろう、というところまで距離《きょり》をとっても、麗華はまだ歩き続けている。背すじを伸《の》ぱし、まっすぐに前を見据《みす》えて。二ノ宮峻護が後を追ってきていないことは知っているけど、それでも同じ園内にいるのだ。ひょっとしたらどこかで見ていないとも限らない。その可能性がある以上、無様《ぶざま》な姿を晒《さら》すわけにはいかないのだ。
なぜなら彼女は北条麗華であるから。ただひとつの願いのため、己《おのれ》へ課《か》した誓《ちか》いを十年もの長きにわたって守り抜《ぬ》いている少女だから。
だから彼女は歩き続ける。背すじを伸ばし、まっすぐに前を見据えて。
しかし――睨《にら》むような眼差《まなざ》しはその実、何も映していなかった。
いや視覚だけではない、五感のすべてが何も感じてはいなかった。
心の中に、何もなかった。
そのくせ身体《からだ》に染《し》み付いた条件反射は、主《あるじ》の心など知らぬげに外見だけを取り繕《つくろ》っている。今の麗華はハリボテ以外の何物でもない。存在しているのかどうかもあやふやな、北条麗華という記号が服を着て歩いているだけの、歯そろしく空虚《くうきょ》な存在だった。
(もう、いいじゃない――)
そんな自動的な機能《きのう》すらもそろそろ限界《げんかい》だった。手近なベンチに引き寄せられるように歩みより、腰《こし》を下ろした。空っぽになるあまり体重すら失ってしまったのだろうか? 色のあせたベンチは軋《きし》みのひとつもあげなかった。
(もういい。もういいのです――)
どうして。
どうしてあの男は忘れてしまったのだろう。どうしてあの男は思い出してくれないのだろう。わたくしの存在ってそんなに軽いものだったの? 子供同士で交《か》わした約束だったから、どうせ子供の時のことだから、それだからあなたは忘れてしまったの? 十年前のあの短い日々は、短かったけれど何物にも代えがたく輝《かがや》いていた時間だった、そう思っていたのはわたくしだけだったの?
(もうよしましょう――)
わたくしがんばってきたはずですわ。色んなものを諦《あきら》めて、捨て去って、踏みにじって、悪罵《あくば》に耐《た》えて、仇《かたき》となるに甘《あま》んじて――それでも立派《りっぱ》な人間に、あなたの傍《そば》にいても恥《は》ずかしくない人間になれるように、血の滲《にじ》むような努力をしてきました。知っていまして? わたくしほんとうに命を狙《ねら》われることもあるんですのよ? ふふ、血の滲むような努力というのはあながち物の揄《たと》えではないの。北条家ほどにもなると、その家名を維持《いじ》するためには汚《よご》れたこともしなければならないから。それでもわたくしは迷いませんでしたわ。北条家の後継者《こうけいしゃ》になるべく生まれたわたくしが立派な人間になるには、立派な北条家の後継者になる以外に道はなかったんだもの。
(こんなにつらい思いをするくらいなら、もう――)
ねえ、もう十分ではなくて? わたくし、誰にだって認めてもらえるだけの人間になりましたわよ? それなのにあなただけが認めないなんてことはありませんわよね?
だったらもう、これ以上意地悪しないで。まだ何か足りないものがあるというのなら補《おぎな》います。もし気に入らないところがあるのなら直しますわ。だから――だから、お願いだから、思い出して。わたくしを無かったことにしないで――
肩《かた》が震《ふる》えている。どうして震えているかといえば、『白銀の国』の寒さがまだ残っているから。あそこはほんとうに身体《からだ》の芯《しん》まで凍《こお》る寒さで閉口《へいこう》しましたからね。あと二、三分もいれば冷凍《れいとう》マグロみたいになるところでした。まったく、少しは温度調節に手加減《てかげん》を加えなさいというのです。
景色《けしき》が滲む。膝《ひざ》の上で握《にぎ》り締《し》めた両こぶしの肌色《はだいろ》が、水に溶《と》かした絵の具のようにぼやけ、形を失っていく。これは白昼夢《はくちゅうむ》でも見ているのかしら? それとも自覚がないだけで、わたくしはとっくに眠《ねむ》り込んでしまっているの? そうね、どちらにしても仕事仕事の毎日で疲《つか》れがたまっているのね。きっとこれは身体が発しているシグナルなのでしょう。たまには心置きなく骨を休める時間を取らなくては。
鳴咽《おえつ》が洩《も》れる。これは――そう、きっとおなかが空いているからですわ。けっきょく今日はろくなものを口に入れていませんし、そのくせ一日中歩き回ったし、だからもうおなかがぺこぺこなのです。空腹は確か横隔膜《おうかくまく》の運動にも影響《えいきょう》しますわよね? 消化器官と横隔膜はとても近い位置にありますから。ええ、きっとそうです。間違《まちが》いありませんわ。
雫《しずく》が手の甲《こう》にぽたぽたと落ちる。まあ雨かしら。困《こま》ったわ、今日は傘《かさ》を持ってきていないじゃないの。夕立だったらすぐに雨脚《あまあし》が激《はげ》しくなるでしょうから、早く雨宿りできる場所に移動しなければいけませんわね。さっきまで雲ひとつなかったのに、まったく気まぐれな天気で困りますわ。
雫の感触《かんしょく》が頬《ほお》を伝い、くちびるに塩の味を運んでくる。もう、これだから空気の悪い場所は嫌《いや》だというのです。ゴミが目に入って、生理反応的《せいりはんのうてき》に涙《なみだ》が出てくるじゃないの。遊園地は小さな子供たちも大勢《おおぜい》来るのですからね、できればよい環境《かんきょう》を整えたいものです。そうね、経営再建の暁《あかつき》にはもっと園内の緑化を推進《すいしん》するよう手配しましょう。都内に鬱蒼《うっそう》と茂《しげ》る森の中の遊園地。実現すれば十分に集客が見込めますわ。
そう、わたくしは泣いてなんかいない。
だって、わたくしは泣いたりなんてしないもの。そう決めたんだもの。一生懸命頑張《いっしょうけんめいがんば》って、強くなって、泣く必要なんかない人間になれたんだもの。だから、わたくしは泣いてなんかいない。ぜったいに泣いてなんか、泣いてなんか……
*
「ぐあ〜、まどろっこしいっ。見えないっ。眼《め》が疲《っか》れるかもと思って度の弱いコンタクトにしたあたしのバカっ。ていうかコンタクトより先に双眼鏡《そうがんきょう》よ、双眼鏡。バードウォッチング同好会に行って借りてくればよかったっ」
麗華を追ってきたものの大して距離《きょり》は詰《つ》められず、またしても地団太を踏む日奈子である。おまけにひたひたと夕闇《ゆうやみ》の足音が迫《せま》っているこの時刻《じこく》、彼女の視力には一層《いっそう》のハンデがのしかかっていた。
「ねえ、麗華さん何してんの? もちっと近づいてみない? バレるの覚悟《かくご》で」
――肩《かた》をゆすらんばかりに催促《さいそく》するが、真由は先ほどから沈痛《ちんつう》な表情で黙《だま》りこくっている。
「ちょっとぉ、あたしにも状況教えなさいよこの恩知らずっ。スパイごっこもどきがこんなワクワクするなんて初めて知ったじゃないのよどうしてくれるっ。ええい、仲間外れじゃつまらん、こうなったらあたしひとりで特攻《とっこう》を――」
「日奈子さん」
ようやく振《ふ》り向いた友人を見て日奈子は口をつぐんだ。
真由はこれまで見たこともないほど真剣《しんけん》な顔をしていた。
「お願いがあります。あれ[#「あれ」に傍点]、やってもらえませんか?」
*
もちろん麗華だってこう考えることはある。
別にいいではないか、と。
二ノ宮峻護が思い出さなくたって、また一から関係を作り直せばいいではないか、と。
そのほうがずっとずっと前向きな選択《せんなく》だとはわかっている。でもそんな風に気軽にリセットするには、彼女の十年間はあまりに長く、重すぎるのだ。
それにしても皮肉《ひにく》だった。あの男に近づくために努力し、成長したつもりだったというのに――あの男に近づくにつれ、恐怖《きょうふ》もまたつがいのように育っていったのだ。『こんなに努力して成長しているのに、あの男に迫いつけなかったら』『こんなに努力して成長しているのに、あの男に嫌《きら》われてしまったら』。その恐怖が彼女にさらなる努力と成長を強《し》いた。そして努力と成長を重ねるほどに、不安もまた雪だるま式に体積《たいせき》を増していった。おまけにそうした十年に耐《た》えたのちに再会したあの男は、あの頃《ころ》に比べれば見る影《かげ》もない凡人《ぼんじん》に堕《だ》していたのだ。二ノ宮峻護への接《せっ》し方がひねくれてしまうのも無理はなかった。
約束は彼女を二重三重に縛《しば》っていた。そして麗華にはその縛《いまし》めを振りほどく術《すべ》はない。
どうしてこう、臆病《おくびよう》なのだろう。麗華は絶望的《ぜつぼうてき》な気持ちでそれを思う。
ここへたどり着くまでに様々なものを失ってきた。友情、睡眠《すいみん》、娯楽《ごらく》、健康、安泰《あんたい》――だけどそんなものはいくら失っても構《かま》わない.それに彼女は失ったものの何倍も様々なものを手に入れてきたのだ。信頼《しんらい》、名誉《めいよ》、地位、財産《ざいさん》、実力――ほんとうに色々なものを手に入れてきた。だから失うことなど恐《こわ》くない。失ったものの代償《だいしょう》が必ず手に入るから。
そのはずなのに。
ただひとつ、二ノ宮峻護を失うことだけが、恐い。
この世でただそれだけが、恐い。
どうしても手に入れなければならないもの。決して失敗できないこと。そういうものがあることが、こんなにも恐い。どうにかなりそうなくらい恐《おそ》ろしい。好きな人ができるというのは、こんなにも恐いことなのか。こんなことなら出会わない方がよかった。こんな、つらくて情けない思いをするくらいなら。
…………。
もう、忘れてしまおうか。きれいさっぱりと。
そして何か新しいことを始めるのだ。どんなことでもいい。こんな思いをすることでなければ、なんだっていい。
そうだ、もうよそう。きっと元から縁《えん》がなかったのだ。もう諦《あきら》めてしまおう。その方がきっと楽に、
――影。
細長い影が、麗華の膝の上に掛《か》かっていた。
二ノ宮峻護――?
こまる。こんなときに。
目じりをあわててぬぐい、顔を上げた。
夕暮《ゆうぐ》れの茜色《あかねいろ》を背景にして、人影がひとつ。
麗華は目を細め、そして少しだけ目じりを下げた。
「……なんとなくそんな気がしてましたわ。やっぱりまた縁《えん》がありましたわね、あなた」
バイザーを目深《まどか》にかぶったやんちゃそうな少年が、そっぽを向いて立っていた。
「またひとりなのね? そろそろ閉園時間も近づいているでしょう、早めに帰った方がいいですわよ」
「…………」
無言のまま、少年はバイザーをさらに深くかぶり直す。もともと夕陽《ゆうひ》を背負っているため、こうなるとほとんど表情が見えなくなる。
もういちど目を細め、みたび出会った少年を眺《なが》めやる。
斜《しゃ》に構《かま》えているし言葉|遣《づか》いも投げやりな感じはあるが、育ちはいいはずだ。乱雑《らんざつ》を演出《えんしゅつ》しようとしてその実、挙措《きょそ》のひとつひとつにどこか角の取れたやわらかさがある。きちんと躾《しつけ》を受けている証拠《しょうこ》だろう――鍛《きた》えられた麗華の観察眼《かんさつがん》は、無意識のうちにそこまで見取っていた。そんな自分が今はひどく気鬱《きうつ》だった。徒労感《とろうかん》を覚え、ため息をついた。
「元気出せ」
「え?」
「え、じゃねえ。元気だよ、元気」
「どうしたの、いきなり……? 別にわたくしは――」
「うるせえな。元気出せっつってんだから、その通りにしとけばいいんだよ」
チ、と舌打ちしながら、かったるそうに首を回した。
よくわからないが、どうやら励《はげ》まそうとしてくれているらしい。わずかな縁があったきりの自分を。
やっぱり変な子ね――ちょっとだけ気分が軽くなるのを覚えながら、
「ふふ、意外と律儀《りちぎ》なひとだったのねえ、あなた。さっきの借りを返しに来てくれたのかしら?」
「……ああ、そうだよ。それで貸し借りなしになるからな。借りっぱなしじゃ気分が悪いんだよ。だから、あんたが元気になるまでは帰れねえんだ。さっさと元気になれ」
「無茶《むちゃ》を言うわね。『元気を出せ』って唱《とな》えるだけでほんとうに元気が出るんなら誰も苦労はしませんことよ」
チ、と再び舌打ち。
「じゃあどうすれば元気出すんだよ。言えよ。それ、やってやるから」
「ふうん?……そうね、こうして話していれば、少しは楽になるかも」
「だったらテキトーに話してろよ。聞いといてやるから。それでいいだろ?」
「何を話そうかしら?」
「テキトーでいいだろ、それも」
「そう? そうね、じゃあ――」
少しだけ、考える間があった。
「……では、ちょっとしたおとぎ話を聞いてくれる?」
「おとぎ話?」
「そう、おとぎ話。ただの冗話《じょうわ》、時間|潰《つぶ》しのデマカセ、作り話ということですわ」
「……好きにすれば? こっちはただ聞いてるだけだし」
「ありがとう。そう、それはもう十年も前になる話ですわ――」
……誰にも話したことのない物語を、麗華はどうして話す気になったのだろう。溜《た》め込《こ》んでおくことに疲れたから? 自分の素性《すじょう》を知らない相手だったから? あるいはほんとうにおとぎ話のつもりだったのかもしれないし、もっと単純《たんじゅん》に、ただの気まぐれであったのかもしれない。
いずれにしてもこの時、彼女はそれを語ることについて何の覚悟《かくご》も持っていなかった。
物語を聞かされる側も、また。
そして物語は語られる。
それは、血を吐《は》き命を削《けず》るような研鎖《けんさん》の物語。
それは、たったひとつだけの慎《つつ》ましやかな願いの物語。
それは、かって確かに在《あ》った絆《きずな》と無自覚《むじかく》な裏切りの物語。
すべての物語が今、明かされた。
「――いやですわ」
少年の様子に気づき、麗華は困《こま》り笑いで首をかしげる。
「ですからおとぎ話だと言ったでしょう、いちばん初めに。たかがフィクションでそこまでショックを受けてどうするのです。こんなものにいちいち反応していたら映画も小説も見られなくなりますわよ?」
「…………」
棒立ちになったまま、少年は応《こた》えない。夕陽《ゆうひ》を背に逆光《ぎゃうこう》になっているというのに、それでいてさえ顔色が青ざめて見える。
今度はやや本気混《ま》じりの声で、
「ねえあなた、ちゃんと聞こえてる? だいじょうぶ? ねえ?」
それだけしつこく繰り返してようやく、「……ああ」と返してきた。
「もう、そんな風にされるとなんだか悪いことしたみたいじゃない。――けどありがとう。話していたらずいぶん楽になりましたわ。ええほんとう、こんなに楽になるものなのね。話す相手があなただったからよかったのかしら」
「…………」
「ともかく、これで貸しは帳消《ちょうけ》しですわね。むしろ返済過多《へんさいかた》でわたくしの方に借りができてしまった気がします。いずれお返しすることになるでしょう」
少年は「いい」と小さく首を振った。
「そうは参りません。あなたと同じく、わたくしも物事《ものごと》の貸し借りにはうるさいのです。――あら?」
視線《しせん》を少年の肩越《かたご》しに向けて、
「……どうやら連れが来たようですわ。いいえ、正確にはもう連れではないのですけれども。先ほどわたくしがクビにした男ですから」
ぴくん、と少年の肩が跳《は》ねる。
「ふん、まあ元|下僕《げぼく》がどこで路頭《ろとう》に迷おうと知ったことではありませんが、それもなんだかいじめをしているようで多少気が咎《とが》めます。あの者を連れてきたのはわたくしだし、連れてきたからには家まで無事《ぶじ》に送り届ける責任《せきにん》はありますものね。ほんとう、わたくしの人の好《よ》さにも困ったものですわ」
いつもの調子が戻《もど》っている。言葉通り復活《ふっかつ》を果たしたようだ。
「では行きますわ。この借りはいずれ必ず」
「……いい。いらねえ。もう会わないし」
「そうかしら? わたくし、あなたとはまた会えるような気がしていますけれど?」
「…………」
「女のカンは馬鹿《ばか》にならないものですわ、よく覚えておきなさい。たとえカンが外れてもきっちり捜し出しますからね? 首を洗《あら》って待っているように」
応えず、少年はきびすを返した。
「ごきげんよう。帰り道には気をつけて」
やはり少年は応じず、覇気《はき》のない足取りで夕暮れの色に溶《と》けていき――
十歩ほども離《はな》れたところでいきなり振り返った。
「がんばれよ」
「…………?」
「別に、応援《おうえん》なんかはしないけど。でも、がんばれよ」
「――ええ、がんばりますわ。『応援』ありがとう」
くすりと笑って切り返す。少年はバイザーをかぶり直しただけで応じず、今度こそ歩み去っていく。
入れ替《か》わりに、役立たず男がおっかなびっくりに近づいてきた。
元主人の前で直立不動《ちょくりつふどう》になり、
「ええと……その。すいませんでした、さっきは。また何か無神経なことを言ったみたいで。忘れてください」
「ふん……」
麗華は眉根《まゆね》を寄せて鼻を鳴らし、腕《うで》を組んでそっぽを向く。
――そんな、いつものスタイルを取りつつも。
彼女は内心、ほとんど途方《とほう》にくれていた。
あの少年の前では元通りに振舞《ふるま》えたけど……実際《じっさい》の話、これから自分は二ノ宮峻護に対してどんな立場を取っていけばいいのだろう?
『ええ、まったくもって無神経の極《きわ》みでしたわ。わたくしに与《あた》えられた仕事だけを果たしていればいいものを、何を血迷《ちまよ》ったのか自分の昔語りをし出して、おまけにその内容は名誉《めいよ》の血を引くこのわたくしを甚《はなば》だしく侮辱《ぷじょく》するものだったのですからね。まったくあなたというひとはほとほと救いようのない男なのね。あれだけの罪を犯《おか》したからには本来、あらゆる法的手続きを省略《しょうりゃく》して極刑《きょっけい》に処《しょ》すべきところですが、まああなたが普段慣《ふだんな》れない仕事で精神 |薄弱状態《はくじゃくじょうたい》にあったであろうことを酌《く》みましょう。今回に限り特別に赦《ゆる》してさしあげます』
……とでも、いつもだったらまくし立てていることだろう。でも。
それではまさにいつも通りだ。これまでと何も変わらない。
でも、だからといって、すぐに変われるだけの勇気なんて――
「あの、それで。これはほんのお詫《わ》びの気持ちなんですが」
「え?」
その声に視線を戻す麗華。
「ご迷惑《めいわく》をかけてしまったので……お詫びのつもりです、これ。ろくにお役に立てなかったばかりか先輩《せんぱい》を怒《おこ》らせてしまって――」
居心地《いごごち》悪げに頭を掻《か》きながら、もう片方の手に小さな紙の袋《ふくろ》を載《の》せている。
動揺《どうよう》を顔に出さずに済ますのは一苦労だった。ブレゼント? 贈《おく》り物? この男が? わたくしに?
悩《なや》みごとなどは半強制的《はんきょうせいてき》に後回しになり、手にしている『お詫びの気持ち』とやらに目を走らせる。
(…………? なによ、これ)
昂《たか》ぶりかけた気持ちがたちまちしぼんでいく。ネバーエバーランドのロゴを。プリントした紙袋。いかにもたった今そこで買ってきました、という雰囲気《ふんいき》がありありの包装《ほうそう》である。おまけに悲しいくらい安っぽい。たとえ袋の中身が安全ピンだったとしてもまったく驚《おどろ》きはしないだろうと思えるほどしみったれていた。
しぼんだ気持ちが失望《しつぼう》に変わっていく。ひょっとしてずっと前から用意してくれたものだろうか、などと一瞬《いっしゅん》でも考えたのが浅はかだった。そもそも今日のことは昨日の夜、初めて自分の口から告げたことではないか。
「どうぞ、開けてみてもらえませんか? いや正直、これがお詫びになるかどうかは自分でもかなり疑問《ぎもん》なんですが」
もはや拒絶《きょぜつ》するだけの気力もない。ほとんど惰性《だせい》で袋を受け取り、テープで留《と》めただけの封《ふう》を切った。
中身を取り出して、
「――――!」
息を呑《の》んだ。思わず声を上げるところだった。
「いえ、その。いい年齢《ねんれい》の女性に対する贈り物じゃないとは思うんですが。けど、そのくらいしか思いつかなくて」
弁解《ぺんかい》をどこか遠くに聞きながらそれを手に取り、広げてみる。
ネックレスだった。
青い石をはめたブローチを金色の鎖《くさり》にくぐらせた――見るからに安っぽい、おもちゃじみたネックレス。
(うそ、どうして……っ?)
引出しにはちゃんとカギをかけたはずだ。出かける前にしっかり確認《かくにん》もしてきた。では、そのカギを破ってこれを引っ張り出してきたというの――?
……と本気で考え込んでしまうほどに、それは瓜二《うりふた》つだった。十年前の、あの思い出のネックレスに。とはいえ二ノ宮峻護に空《あ》き巣《す》まがいの真似《まね》ができるはずもなく、それはあくまでよく似ているというだけの、ごく真新しい品だった。
だが、あまりに似すぎている。
(まさか――覚《おぼ》えているの?)
「その、こういうアクセサリを、さっき先輩が売店で熱心《ねっしん》に見ていたこともあって。興味はないみたいなこと言ってましたけど、やっぱり気にしてるんじゃないか、とか。こんな安物、北条先輩みたいなひとが身につけるようなものじゃないとは思うんですけど、どういうわけだか、これは先輩によく似合うような気がして。いや、こんなものじゃどうにもならないと、理性ではそう思うんですが本能が、」
かすかに灯《とも》った希望はすぐに吹《ふ》き消えた。でも、その明かりの代わりに麗華の心を満たしたのは暗闇《くややみ》ではなかった。
「……三つ子の魂百《たましい》まで、ということかしらね」
「本能がどうもいうことをきかなくてそれで――え?」
すっかり忘れていても、はっきりと記億《きおく》には残っていなくても。ひょっとするとあの十年前の出来事がまだ、残像《ざんぞう》として脳裏《のうり》に残っているのかもしれない。その印象が、二ノ宮峻護にこのネックレスを選ばせたのかもしれない。
いや、そうでなくてもいいのだ。
「…………。ええと、すいません。やっぱりやめておきます。こんなものじゃお詫びにならないですよね? 今回の償《つぐな》いはまた、別の機会《きかい》に別の方法で――」
「ありがとう。受け取りますわ」
「……え?」
「これ、わたくしにくれるのでしょう? いただきますわ」
そう、ネックレスのことを覚えていたかどうかなんて関係ない。たとえ十年前のことを忘れていたって問題じゃない。
「つけてみますわね。よろしくて?」
「えっ? あ、はい、もちろん」
なぜなら。
目の前にいるこの男は、二ノ宮峻護なのだから。
間違《まちが》いなく、十年前のあの少年なのだから。
「どう? 似合うかしら?」
「えっ? どっ……どうなんでしょう……?」
「ばかね。そういう時はとりあえず肯定《こうてい》しておきなさい。たとえ本心でなくともそういう嘘《うそ》は許《ゆる》されてよ」
笑った。
笑いながら思った。
今はまだ、無理《むり》かもしれないけれど。
だいじょうぶ。わたくしはちゃんと変われる。
だから、さあ。少しだけ。ほんの少しだけ。一歩、いやたったの半歩でいいから。
踏み出す勇気を――
そのまぶしい笑顔《えがお》を向けられて、峻護は他愛《たわい》もなく硬直《こうちょく》した。まただ。今日何度目になるだろう、こういう無防備《むぼうび》な顔を目《ま》の当たりにするのは。こんなの反則《はんそく》だと思う。これまでこの令嬢《れいじょう》から向けられる感情は、そのうちの99・9パーセントが負の感情で占《し》められていた。それがたった一日のうちにそれを帳消《ちょうけ》しにするだけの笑顔を示《しめ》されれば――こんな風に戸惑《とまど》うのだって、仕方《しかた》がないではないか。
「さあ、視察《しさつ》はもう十分に済《す》ませました。そろそろわたくしたちも帰途《きと》につきますわよ」
ぐるりを見回しながら、臨時《りんじ》の上司は職務《しょくむ》の終わりを告げた。
家路《いえじ》を急ぐ客たちが入場ゲートに向かってまばらな流れを作っている。大気には朱色《しゅいろ》を押しのけて深い紺色が混じり始めた。そろそろ閉園のアナウンスでも流れてきそうな頃合だろう。
コホン、という咳払《せきばら》いが聞こえた。
す、と白い手が差し出された。
「……はい?」
「本日最後の仕事ですわ。わたくしを無事《ぶじ》に家まで送り届けるよう」
駆《か》け足でゲートに向かう家族連れに視線を固定したまま、令嬢はそのように申し付けた。
「…………? ええと、」
家まで送り届けることはわかる。初めからそのつもりだったし。でも、こうして差し出されている手というのは何を意味するのだろう? 今日一日で掛《か》けてしまった迷惑《めいわく》に対する慰謝料《いしゃリょう》でも請求《せいきゅう》しているのだろうか?
「そんなわけないでしょう。いいですこと二ノ宮峻護、わたくしもあまり暇ではありませんのよ? 昼間の時間をビジネスに費《つい》やした分、家に帰ったらたっぷりと家事を押し付けられることになるのですから」
ですからさっさとしなさい、と言わんばかりに、いまだに意図《いと》を読めない峻護を難詰《なんきつ》してくる。だがその難詰もこれまでのような激《はげ》しい調子ではない。諭《さと》して聞かせるような、噛《か》んで含《ふく》めるような――そんな口調《くちょう》だった。
「いつだったかも申し上げたはずよ。このわたくしは北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》ゆえ、常《つね》に身の安全を脅《おびや》かされているのだと。お忍《しの》びでやってきた今日なども、本来であればポディガードの一ダースもつけねば覚束《おぼつか》ないところを、あえてアシスタント役であるあなたひとりに兼任《けんにん》させているのです。よってあなたには、万策《ぱんさく》を尽《つ》くしてわたくしを護《まも》る義務《ぎむ》があります」
ここまで言っても不得要領《ふとくようりょう》な朴念仁《ぼくねんじん》に、麗華は手を差し出したまま、根気《こんき》よく、
「例えばこの場で暴漢《ぼうかん》に襲《おそ》われたとします。状況次第《じょうきょうしだい》では逃《に》げることも必要になるでしょう。その場合あなたはどういう方法で暴漢から逃《のが》れますの? 護衛役はあなたひとりですわよ? 想像して御覧《ごらん》なさい」
そういう方向の考え方ならばまだしも守備範囲内《しゅびはんいない》である。言われた通りに想像してみる。最重要なのは護衛が自分ひとりという点だろう。護衛の職分《しょくぷん》は雇用主《こようぬし》を護ることであり、そのためには常に雇用主の傍《そば》にいる必要がある。なおかつ護衛がひとりしかいないのであれば、自分は片時も離《はな》れず雇用主に寄《よ》り添《そ》っていなければならない。
さて、暴漢に襲われて逃走《とうそう》を余儀《よぎ》なくされるとなれば、当然走ることになる。走ることになれば、峻護と麗華に足の差がでる。その差を埋《う》め、常に彼女を自分の傍に置いておくためには――
ここまで考察《こうさつ》を進めて気づかないとすれば、それは天下無双《てんかむそう》、極上《ごくじょう》のド阿呆《あほう》であろう。
とっくにいなくなった家族連れに、麗華は家だ視線を圃定している。
駿護は難し出されたままの手をあらためて見やる。
*
想《おも》い人の手はひどく火照《ほて》っていた。脂汗《あぶらあせ》でかなり湿《しめ》ってもいた。だけど緊張《きんちょう》で汗ばんでいるのは自分とて同じ、気にすることもないだろう、と麗華は思う。
お互《たが》い俯《うつむ》きがちに、帰路《きろ》を行く。
峻謹の拍動《はくどう》を手のひら越《ご》しに感じながら、なおも思う。いよいよ始めなければいけない。これまで始められなかったことを。未練《みれん》に引きずられてどうしても踏《ふ》ん切りがつかなかったことを。
二ノ宮峻護との関係を、一から作り直すことを。
もういい。過去のいきさつなど忘れられたままでいい。今日から踏み直そう、ゼロから出発しよう。あの時だって何もないところから始まったのだ。もう一度くらいそんなスタートラインから始めたって、何の不都合《ふつごう》がある?
そう、この男は間違いなくあの少年なのだから。こうしてここにいて、逃げ隠《かく》れもしないのだから。いや、たとえ逃げ出したって地の果てまでも追いかけていくだけ。ほら、やっぱり何の問題もない。
時間だってたくさんある。足りないものはゆっくり足していけばいい。なにしろ十年も我慢《がまん》したのだ、その間に培《つちか》った根性《こんじょう》を甘《あま》く見てもらっては困る。こうなったら二十年でも三十年でもいい、どれだけ時間をかけたって、必ず欲《ほ》しいものを手に入れてみせる。
自分にならそれができる。
なぜならこのわたくしの名は北条麗華。誇《ほこ》り高き北条家の唯一《ゆいいつ》の直系、世界をさえ動かしうる北条コンツェルンの次期《じき》総帥《そうすい》。そのわたくしがどうして、たったひとりの男を手に入れられないことがあるでしょう。
――ふうん、少しは成長したじゃない? だったらもう少し時間をあげてもいいかしら。
「…………え?」
どこからか声が聞こえた気がして麗華は顔を上げた。
見回す。あたりには誰の姿もなく、二ノ宮峻護だけが傍にいる。その峻護は気の毒なほど肩《かた》を強張《こわぱ》らせて、交互《こうご》に出されるつま先の動きに視線を固定させている。何かを口にしたようには見えない。
(気のせい、よね――?)
もっとも妥当《だとう》な結論《けつろん》に落ち着くと、『空耳』のことはすぐに忘却《ぼうきゃく》し、ようやく手に入れたひと時の幸福を麗華はゆっくり噛《か》み締める。
*
こんなの反則《はんそく》だと思う。
あんな言い方をされて手を差し出されれば拒否《きょひ》などありえないし、承諾《しょうだく》したら承諾したで、相手はあの北条麗華なのだ。しかも今日の彼女はいつになく峻護のリズムを狂《くる》わせる。一度も見せたことのない表情しかり、普段《ふだん》ならありえない行動しかり。
隣《となり》を盗《ぬす》み見る。
頬《ほお》が朱色《しゅいろ》に染まっているのは夕陽《ゆうひ》のせいだとするにしても、このどこか憂《うれ》いを含《ふく》んだような、それでいてひどく安心しきったような瞳《ひとみ》の色はいったい何事《なにごと》だろう。こんなのはありえない。北条麗華が自分の傍でこんな顔をしてるなんて、狐《きつね》に化かされているとしか思えない。
でも、どれだけ疑心暗鬼《ぎしんあんき》に駆《か》られたって動かしようもなく確かなことがある。それは手のひらに伝わってくる彼女の熱さと心拍《しんぱく》の速さ。自分も相当に体温は上昇《じょうしょう》しているはずだが、彼女の温度はそれを上回って熱い。今にも破れそうなほど収縮《しゅうしゅく》を繰《く》り返す心臓のリズムを、彼女の手から伝わってくるそれは悠々《ゆうゆう》と追い越していく。
こんなの反則だ、と思う。
今日は覚悟《かくご》を決めてここに来た。大げさに言えば腹を切るくらいの気持ちでこの日に臨《のぞ》んでいたのだ。十中八九、彼女が約束の少女であろうという予感はあった。十年間|忘却《ぼうきゃく》していた罪に慄《おのの》き、土下座を始めとする謝罪《しゃざい》の数々も準備してきた。北条家と二ノ宮家とでは家格《かかく》が釣《つ》りあわないのではないか、彼女は北条家の次期当主だからやっぱり自分が婿養子《むこようし》として北条家に入るのだろうか、さしあたりは婚約《こんやく》だけ済ませ、十八|歳《さい》になるまで待ってもらうということで了承《りょうしょう》してもらえるだろうか――そんなことまで考えた。冗談《じょうだん》でも伊達《だて》でも酔狂《すいきょう》でもない、すべて本気の大真面目《おおまじめ》である。今日は事実の最終的な確認《かくにん》と、心の整理をつけるためだけに来た、そのつもりだった。
それが物の見事に肩透《かたす》かしを食《く》らった。
呆然《ぼうぜん》とした。
呆然とするだけだったらまだよかった。弱ってしまうのは、そうしてできた心の空白《くうはく》に北条麗華が入ってくることだ。それも、これまで見たことも聞いたこともない様子を示す北条麗華が。今もまさに隣にいて、秒刻《ぴょうきざ》みにどんどん彼の心を埋《う》め立てていく。こんな状況にどうやって抵抗《ていこう》すればいいのか。もともと彼女に対する評価《ひょうか》は著《いちじる》しく高かったのだし、おまけに彼女はサキュバスでもある。普段はその強制力を伴《ともな》う魅惑《みわく》は発揮《はっき》されていないものの、北条麗華がひとたびその気になれば男など掴《つか》み取りも同然《どうぜん》に籠絡《ろうらく》することができるのだ。そう、まるで彼女のように――
(…………!)
愕然《がくぜん》とした。ようやく彼は気づいたのだ。
何がって――どこにもいなかったのだ。今日一日、心の中のどこにも。
名前を舌に乗せることなく、まぶたの裏に姿を思い浮《う》かべることさえなく。
その影《かげ》すら、あるいは気配すら。峻護の想《おも》いに触《ふ》れることはなかったのだ。
彼がほのかな想いを寄せていたはずの、もうひとりのサキュバス少女は――。
*
「雨降って地固まる……ってことになるわよね。これってやっぱ」
夕暮れの朱色《しゅいろ》に溶《と》けていく二人を見送り、日奈子は複雑《ふくざつ》な気持ちで呟《つぶや》きを漏《も》らした。
フウ、と吐息《といき》する。一日が終わり、ミッションも終わって。そしてひょっとすると、ひとつの恋《こい》もまた終わりを迎《むか》えることになるかもしれない。
隣を見る。
なにやってんだろーなーこいつは、と思う。
日奈子の目にはもはや見えなくなった二人の姿を、友人はなおも追っている。風のない日の湖面のように静かな瞳で。
この少女が何やらいろいろ訳ありらしいことは薄々《うすうす》察《さっ》している。詳《くわ》しいことを自分から何も話さないということは、おそらくそれなりに深刻《しんこく》な『訳あり』なのだろう、とも理解している。そのことが月村真由の桎梏《しっこく》となり、彼女から行動の自由を様々《さまざま》に奪《うば》っているんだろうということも、実例《じつれい》込みで知っている。
もっといえば不肖《ふしょう》綾川《あやかわ》日奈子、これは神宮寺学園生徒の常《つね》ではあるのだが――北条麗華の熱烈なファンでもある。あの一風変わった憎《にく》めないお嬢《じょう》さまを応援《おうえん》したい気持ちというのは、こうして友人に肩入れしている今だって変わらないのだ。日奈子は4・06事件――あの入学式、桜の舞《ま》い散る校庭《こうてい》での一幕《ひとまく》とその後の顛末《てんまつ》を聞き知っている身であり、その一方で月村真由との付き合いは実のところ二週間に満たないのである。
それでも思う。
「あんたさあ、ほんとにこれでいいわけ?」
奪ってしまえ。そう言いたくなる。なにしろこの少女、地は半端《はんぱ》でなく上等なのだ。容姿《ようし》の整いぶりは神のえこひいき[#「えこひいき」に傍点]を呪《のろ》いたくなるほどだし、蠱惑的《こわくてき》としか言いようのない色香《いろか》は男の理性を溶《と》かしてやまない。おまけに峻護の気持ちが真由に傾《かたむ》きつつあったことも日奈子の目に明らかだった。これだけお膳立《ぜんだ》てが整っていて、どうして行動に出ないのか――おそらく口には出せない事情を抱《かか》えているのだろうと知りつつも、そう叱咤《しった》したい欲求に何度も駆《か》られた。
あんたなら望むままにオトコを手に入れられる。もちろん二ノ宮くんだって。しかも彼だったら男性|恐怖症《きょうふしょう》のあんたでも平気なんでしょ? なのにどうしてそれをしないの?
何度もそんなセリフが口を滑《すべ》りかけた。
でもその一方で、よくわかりもするのだ。
この少女は、そういうヤツなのだ。
潔癖《けっぺき》で、生真面目で、見た目よりも遥《はる》かに意地《いじ》っ張《ぱ》りで、そして見かけどおりに臆病《おくびょう》で。己《おのれ》の心の痛《いた》みに苦しんでいるだけに他人の痛みにやさしい。それがこの二週間で日奈子が見抜《みぬ》いた、月村真由の生の姿だった。
そりゃそうだ、と思う。そんな少女にできはすまい。日奈子が彼女に望んでいるような真似《まね》などは。
それでも日奈子は言わずにいられないのだ。
「これでいいわけ? ねえ、真由」
答えない。
答えず、友人はまるで別のことを言った。
「――わたし、そんなことぜんぜん知らなかったんです。だってそんなこと誰も言ってくれなかったもの。言ってくれなければ、そんなこと知るはずないじゃないですか」
夕陽《ゆうひ》を眩《まぶ》しがるように目を細めて、
「でも、もし知っていたとしても、どうしょうもないじゃないですか。知っていたって、気持ちとか、抑《おさ》えられるものじゃないじゃないですか。これじゃわたしって、ほんとうに、どうしょうもない、ただの邪魔者《じゃまもの》で、でも、そんなのしょうがないじゃないですか」
力なく微笑《ほほえ》んでいた。
「だいたいずるいんです麗華さんは。だってわたしから見たって、麗華さんって応援したくなりますもん。でも、それでも、わたしだって――」
「…………?」
何の話をしているのかはわからなかった。真由の眼差《まなざ》しは相手を日奈子とみていない。
「あ」
不意《ふい》に短い声を上げて、真由はポケットを探《さぐ》った。
丁寧《ていねい》に洗って乾《かわ》かした、真っ白なレースのハンカチ。
「結局返しそびれちゃいました、これ。お礼もちゃんと言えなかったな……」
その横顔を見て、日奈子はたまらない気持ちになった。そこに垣間見《かいまみ》えたのはすさまじいまでの孤独《こどく》と虚無《きょむ》だった。厄介《やっかい》な体質《たいしつ》を持っているだけではない。きっと、おそろしく損《そん》な性格をしているのだ、この友人は。
まったく……月村真由とは、どこまでツキのない役回りに生まれついているのか。こんな有様《ありさま》ではさぞかしこの世は生きにくいことだろう。
よろしい。だったらせめて自分だけは彼女の支えになってやろうではないか。ひとりぐらいこの少女にもそんな味方がいたっていいはずだ。
「――よし! 今日の仕事はおしまいおしまい!」
バンバン、と手を叩《たた》き、日奈子はミッションの終わりを宣告《せんこく》した。
「さ、そうとなったらこんなとこは早く出ちゃってさ、次行くよ、次」
「……え? 行くって……どこへ?」
キョトンとする真由の前で指を振《ふ》り、
「ばかね。仕事の後は一杯《いっぱい》ひっかけるもの、って相場《そうぱ》は決まってるのよこの国じゃ。あんた外国行ってる間にそんなことも忘れちゃった? でもってもち、飲み代はあんたのオゴリね」
ニヤリ、と思わせぶりに笑う。
「ちょ、ちょっとだめですよ日奈子さん、そんな、高校生が……」
「なーによー。今日一日付き合ったんだからさ、オゴリくらいは当然《とうぜん》じゃん?」
「それはもちろん、そのくらいのお礼《れい》は喜んで――って、ですからそうじゃなくて、」
「よしよし、今日はあんたに大人の階段というヤツを上らせてやろうじゃないの。安心しな、背中はあたしが押《お》してあげる。あんたはただボーっと突《つ》っ立ってればいいの。さ、急いで急いで。今夜はパーっとやるよっ!」
言葉どおりに背中をぐいぐい押し、享楽《きょうらく》の夜へ向かう片道特急列車に乗せようとする。
「もうっ。……わかりました、じゃあちょっとだけ。ちょっとだけですよ……?」
そんな友人の気遣《きづか》いに対して真由は――
かなり無理をして、だけど少しだけ、笑った。
――それは幸福であったろうか、あるいはその真逆《まぎゃく》であったろうか。
日奈子はもちろん当の真由でさえ、このときはまだ気づいていなかったのだ。
己《おのれ》が犯《おか》した罪の、その真実のところを。
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其の四 その日を終えて
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――さて。
紐余曲折《うよきょくせつ》を経《へ》た末《すえ》に催《もよお》された峻護《しゅんご》と麗華《れいか》の帰還行《きかんこう》に、さほどの物語はない。
握《にぎ》り合った手のひらがすっかり汗《あせ》ばんで滑《すぺ》りやすくなり、途中《とちゅう》何度も手が離《はな》れてしまったこと。
二人とも手足の動きが常時《じょうじ》ちぐはぐであり、階段などの段差で都合五回、仲良く蹴《け》つまずいたこと。
お互《たが》い自分の行動に対する弁解《ぺんかい》、正当化、あるいは心の中でそれを復唱《ふくしょう》することに忙《いそが》しく、道中まったく会話がなかったこと。
それら多少のハプニングを重ねつつも最後まで『護衛《ごえい》役ひとりで雇用主《こようぬし》を護《まも》り抜《ぬ》く最善《さいぜん》の方法』を貫《つらぬ》き通したこと。
その程度である。
もちろんそれは、当の二人にとっては天地がひっくり返るほどの一大事なのだが……やはりそれは、あえて語るべきほどのことでもなかろう。
ただしひとつだけ、その後に起きたある願末《てんまつ》についてだけは記《しる》しておかねばなるまい。
帰宅後ずいぶん経《た》ち、もういい加減《かげん》夜も更《ふ》けるかという頃《ころ》――
(まったく……あの反則変態女《はんそくへんたいおんな》は手加減《てかげん》というものを知らないのですかっ)
正面ホールのモップがけをこなしながら、麗華は雇用主の所業《しょぎょう》に対していつものように呪《のろ》いを下していた。遊園地での大一番を、まずまずの結果に切り抜けて帰還を果たした後。彼女と峻護を待っていたのは、とうてい一日や二日では終わりそうにない量の家事《かじ》の山だった。この家の主《あるじ》|二ノ宮《にのみや》涼子《りょうこ》は二人が帰宅するや否《いな》や、因果応報《いんがおうほう》だとか信賞必罰《しんしょうひつばつ》だとかリスク&リターンだとかなんとか、いつもの詭弁《きべん》を弄《ろう》した末、『一日中遊んできたんだからそれに見合った仕事をするように』などとほざいてペナルティを科《か》したのである。
一定の想像はしていたもののそれを遥《はる》かに超《こ》えるタスクの量に、麗華は当然|猛反発《もうはんばつ》した。第一あれは公務《こうむ》の一環《いっかん》であり、外出の許可についてはあらかじめ涼子自身に許可を取ってあったではないか――と主張したものの、それとこれとは別の話だとかよくわからない理屈《りくつ》を捏《こ》ねられて、結局は大量の雑務《ざつむ》を押《お》し付けられることになったのである。
(初めも終わりもすべてよし――そういうわけにはなかなかいかないものですわね)
怒《いか》りに任せてモップを床《ゆか》にぐいぐい押し付けつつ、まだ半分以上も残っている仕事にうんざりしていると。
目と鼻の先の玄関《げんかん》でチャイムが鳴った。(さては――あの小娘《こむすめ》、ようやく帰ってきたのかしら)
作業《さぎょう》を中断《ちゅうだん》し、玄関ドアに白い目を向ける。
極《きわ》めて珍《めずら》しいことであるが、月村《つきむら》真由《まゆ》は今日、外出していて不在である。そしてまた意外なことというのは続けて起こるものらしく、外出したままこんな時間になるまで帰宅していない。門限があるわけでもないのに夕暮れ時にはきちんと家の中にいるのがあの小娘本来の生態《せいたい》なのに。
ただし小娘の外出については早くから家主の承知《しょうち》するところだったらしく、また日暮れ前には『今日は帰りが遅《おそ》くなる』という意の一報《いっぼう》があったそうだ。そうでもなければあの欠陥《けっかん》娘のこと、どこかで立ち往生《おうじょう》しているのではないかと大騒《おおさわ》ぎになっていたことだろう。
(まったく、あの小娘はどこで何をしてもわたくしに仇《あだ》をなすのね。どうして今日に限って出かけるのです。おとなしく家にこもっていればいいじゃないの……)
と麗華が愚痴《ぐち》るのは、月村真由が家に残っていれば家事のほとんどを済ませていただろうという計算があるためだ。基本的にこの家の雑務《ざつむ》は二ノ宮峻護と北条麗華、それに月村真由が担《にな》うことになっている。平均《へいきん》以上の労働意欲《ろうどういよく》を持つ真由のことだから、家に居残《いのこ》っていれば麗華が任された家事も勝手《かって》に済ませていたにちがいない。
(ふん、帰ってきたのなら好都合《こうつごう》ですわ。残りの分の作業はさっそく小娘に押し付けてやりましょう。遊び歩いていたのはあの小娘も同じなのだから、当然の報《むく》いですわね)
モップを壁《かべ》に立てかけドアに向かった。二ノ宮峻護は何がしか手の離《はな》せない作業中か、それともチャイムの聞こえない場所にいるのだろうか。来客《らいきゃく》があれば真っ先に飛んで行って取り次ぐ彼だが、廊下《ろうか》を走ってくるような気配もない。
(まずは、二ノ宮峻護とわたくしに負担《ふたん》を背負わせしめた責任を追及《ついきゅう》せねばなりません。その後は高校生の分際《ぶんざい》でこんな時間まで遊び呆《ほう》けていた件についての説教《せつきょう》ですわね。むろんこれは、神宮寺《じんぐうじ》学園の生徒会長として当然の義務《ぎむ》と権利《けんり》というべきもの。もしこれを行使しなければ職務怠慢《しょくむたいまん》のそしりを免《まぬか》れないのです)
いつまでたっても家人が出てこないことに焦《じ》れたか、再びチャイムが鳴らされた。
よろしい。催促上等《さいそくじょうとう》である。
その挑発的《ちょうはつてぎ》な(と麗華は受け取った)チャイムに、腕《うで》まくりせんばかりの威勢《いせい》でノブに手をかけ、一気に押し開けた。
「ちょっと月村さん。あなたこんな時間までどこをほっつき歩いていたのです。健全《けんぜん》な高校生たるものが外出していい時刻《じこく》ではありませんことよ。それとも何? あなたは時計の針《はり》が視認《しにん》できないほど視力《しりょく》が弱いとでもいうのですか? それとももっと重症《じゅうしょう》で、昼と夜の区別がつかないほど認知《にんち》能力が低いとでも? そうでなければ心を入れ替《か》え、きちんと日没《にちぽつ》までには戻《もど》ってくるようになさい」
――と、口にする予定だったセリフは。
最初の『ち』の部分すら発音されぬまま、日の目を見ることなく終わった。
代わりに口をついたのは、
「な――」
これだけ。
そして次の瞬間《しゅんかん》には、ドアの向こうから覆《おお》い被《かぶ》さってきた何かによって、麗華は玄関前のカーペットに押し倒されていた。
ぴったりタイミングの合った不意打《ふいう》ち。呼吸さえ合えばどんな巨漢《きょかん》をも制しうる技《わざ》はこの世に数多《あまた》あるが、まさしくそういった呼吸で、それ[#「それ」に傍点]は自重《じじゅう》を預《あず》けてきたのである。
(な、なにっ? なんですのっ?)
軽いパニックに見舞《みま》われつつもすぐさま態勢《たいせい》を立て直し、それ[#「それ」に傍点]をどけて立《た》ち上がる。
「ああっ! すいません麗華さん、だいじょうぶですか? んもー、この子ったら……!」
次いでドアの向こうから登場した人物が床《ゆか》に屈《かが》みこみ、それ[#「それ」に傍点]を抱《かか》え上げた。
「ったく、世話《せわ》焼かせて……ほれっ、起きろっ。家だよっ」
その人物には少なからず見覚《みおぼ》えがある。瞬《またた》きひとつの間に検索《けんさく》は完了《かんりょう》した。一年生の綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》。月村真由がもっとも頼《たよ》りにしている友人。何かと面倒見《めんどうみ》がよく、真由に対してもその性格は如何《いかん》なく発揮《はっき》されているという。
やや落ち着きを取り戻しつつ、日奈子が抱えているそれ[#「それ」に傍点]に視線をやった。
そこまでして、麗華はようやくそれ[#「それ」に傍点]が何であるかを知った。
「あーもう、まさかここまで正体なくすなんて……こら真由! 家だっつってんでしょ! 起きろ! おーきーろー!」
呆気《あっけ》に取られた。
あまりにも従来の印象とかけ離《はな》れすぎていた。
(月村真由? これが?)
むにゃむにゃと眩《つぶや》きながら眠《ねむ》りこける人物を、麗華はUMAでも眺《なが》めるような目で見下ろした。
服装《ふくそう》からしてひどい。着衣《ちゃくい》自体は派手《はで》さを抑《おさ》えた、それでいて品のあるワンピースだが、このつつましい少女にはありえないほどそれが着崩《きくず》れている。白い肩《かた》は丸出し、裾《すそ》もすっかり捲れあがり、あまつさえ所々が破れてほつれまで出来ている始末。長い髪は猫に遊び飽《あ》きられたあとの毛糸玉のようにグシャグシャ。五体は指先ひとつに至《いた》るまで脱力《だつりょく》しており、水揚《みずあ》げされたばかりのタコの死体みたいにフニャフニャしている。
「……いったい何事なのですか、これは」
基本的には品行方正《ひんこうほうせい》と呼んでいい少女のいつにない姿に、すっかり毒気《どくけ》を抜《ぬ》かれた格好《かっこう》で問う。
「いえ、それがですね」
笑ってごまかしつつ、日奈子は言葉を選び選び説明した。それによれば、今日は日ごろから家に閉じこもりがちな真由を引っ張《ぱ》り出して、とことんまで気晴らしをさせようという計画だったのだとか。計画は順調《じゅんちょう》に進み、遠慮《えんりょ》がちながらも楽しんでいた真由だったが、『ある飲み物』を飲み始めたところから状況が変わったのだという。
「いや、ほんとうのお酒は一滴《いってき》も飲んでないんですよ? あくまで気分だけ出そうと思って、ノンアルコールビールを頼《たの》んだんですけど……そしたらこの子が」
あっという間に出来上がってしまい、そこからは目を覆《おお》うばかりのご乱行《らんこう》が始まったのだ。おまけにこの少女、すぐ酔《よ》っ払《ばら》うくせにその酔態《すいたい》が太く長く続くタイプらしい。さんざん気分よく暴《あぱ》れ、やがては店を追い出される形で帰途《きと》につき、しかし二足歩行もままならぬ状態だったために、日奈子が必死こいてここまで引きずってきたらしい。
「名前とは裏腹にちょっとだけアルコール入ってますからね、あの手の飲み物って。でもまさかここまで酔っ払うとは……すいません、あたしの責任です」
「そう、そういうことでしたの」
麗華は頷《うなず》いてみせた。だが心中では必ずしも納得《なっとく》していない。
(それだけでこの小娘《こむすめ》がこれほどの醜態《しゅうたい》を? そういうところだけは身持ちの固い者だと思ってましたけど)
「……とにかくご苦労さま。わざわざ連れてきていただいて感謝《かんしゃ》いたしますわ。立場上わたくしはここの使用人で、この者も一応《いちおう》とはいえこの家の家人。あとのことはわたくしが処置《しょち》いたします。礼は後日、あらためて」
「いえ、そんなことは。友達だし。じゃ、すいません、あとはよろしくお願いします。またあとで連絡《れんらく》するって、この子にも伝えておいてください」
やや頬《ほお》を染《そ》めて頭を下げ、日奈子の姿はドアの向こうに消える。
「さて、と……」
両手を腰《こし》に当て、軟体動物《なんたいどうぶつ》と化している物体に目を落とす。かすかな寝息《ねいき》はあくまで深く、これっぽっちも目を覚《さ》ます気配はない。
「とにかく運ばないことには始まりませんわね」
バカ下僕《げぼく》にでも任せたいところだが彼は現在、長期の休暇《きゅうか》を取っている。二ノ宮峻護を呼ぼうかとも思ったが、あの男にわざわざ手間《てま》をかけさせるのは忍《しの》びなく、それ以上にあの男の手が小娘に触《ふ》れるのかと思うと腹が立つ。本音《ほんね》を言えばこのまま放置《ほうち》してやりたいところなのだが、いくら気分の悪い小娘が相手とはいえそれもあんまりな話だ。
「まったく……どうしてこのわたくしが天敵である小娘のために骨を折らねばならないのです。運賃代《うんちんが》わりに二、三発蹴《け》っ飛ばしてやろうかしら」
ぶつぶつ言いながらも令嬢《れいじょう》は膝《ひざ》を折り、
「ちょっとあなた。起きなさい。こんなところで寝《ね》ていては身体《からだ》を壊《こわ》しますわよ。あなたが風邪《かぜ》をひこうが肺炎《はいえん》にかかろうが知ったことではありませんが、ここであなたに体調《たいちょう》を崩《くず》されたりでもすればわたくしの責任問題に発展《はってん》するのです。……まさかとは思いますが寝たふりをしているわけじゃないでしょうね? そうして油断《ゆだん》させておいてわたくしに牙《きば》を向けるつもりであれば、骨折り損のくたびれ儲《もう》けというものですわよ? わたくし、あなたに対してだけはこのさき一生スキなどは見せませんからね」
などと言ってはみるが、もちろん真由が麗華の暗殺《あんさつ》を目論《もくろ》んでいるはずもなく。彼女はただ邪気《じゃき》のない顔で寝息を刻《きざ》んでいる。
思う。寝顔だけならまったく無毒《むどく》な存在なのに。別に邪魔《じゃま》でも何でもないのに。いっそのことずっと寝ていればいいのだ、この小娘は。そうすれば自分だってこの小娘といちいち対立せずに済むのだから……
腕の下に首を入れ、呼吸を込めて一息に担《かつ》ぎ上げようとした。
その時だった。
持ち上げかけた拍子《ひょうし》に、真由のワンピースのどこかから何かが落ちた。
いったん真由を下ろし、それを拾《ひろ》い上げる。
最初は破れた服の切《き》れ端《ばし》か何かかと思い、だけどそう思ったのは本当に一瞬《いつしゅん》だけだった。
「!」
ハンカチ。南国の砂浜のように白い布地《ぬのじ》。凝《こ》ったレース編み。
「……うそ。なに、これ」
見間違《みまちが》えようはない。なんとなれば、それは麗華自らがデザインし、刺繍《ししゅう》を施《ほどこ》したものだったから。
この世に一枚しかないもので、そして今日それは麗華の手から離《はな》れたはずで――
たちまち混乱の渦《うず》に叩《たた》き込まれる。なぜ? どうしてこれを月村真由が? これは確かにあの少年に、
瞬間的に感情が沸点《ふってん》に達した。何て愚《おろ》かな。どうして気づかなかった? 声は確かに上手《うま》く変えていたけど、声帯《せいたい》をまるごと入れ替えたほどの変声《へんせい》ではなかった。体型も小器用に隠《かく》していたけど、中性っぽくまとめるのが精一杯《せいいっぱい》、いくらでも女性の匂《にお》いはかぎつけられたはず。それにそう、あの鼻血。あれだけでも十二分に月村真由を連想《れんそう》するに足りたではないか。
沸点に遼した感情はたちどころに怒《いか》りへと転《てん》じ、気づけばほとんど反射的に拳《こぶし》を振《ふ》り上げていた。鼻っ面《つら》に叩きつけて二度と止まらないほどの出血を見舞《みま》わせてやる、と怒った。
だが次の瞬問、不安定な感情がまたしても麗華を揺《ゆ》さぶる。どうして? わたくしはあなたの敵ではないの? わたくしを完全に欺《あざむ》けていたのだから、いくらでも策《さく》を弄《ろう》すことができたはず。妨害《ぼうがい》することだってできたでしょう。いいえ止《とど》めを刺《さ》すことだってできたかもしれない。なのになぜ――
そしてさらに次の瞬間。最大の揺らぎが来た。
じゃあ――あの少年の正体が月村真由だったというのなら。
聞かれ――たの? 十年前のいきさつを。わたくしと二ノ宮峻護のことを――
最悪。最悪だ。聞かれてしまった。頭の中が真っ白になる。自分の気持ちを、心の最も深いところにしまってある過去を知られてしまったということが、しかもその相手が他《ほか》でもない月村真由であったことが、自分の生な部分を晒《さら》してしまったことが、とてつもなく、どうしようもなく、もう立っていられないほど――
いつのまにか壁《かぺ》にもたれかかっていた。それでも身体《からだ》を支えきれず、ずるずる壁をずり落ちて、ぺたりと腰をつけた。顔は夕陽の色を写し取ったみたいに赤く、誰も見ていないというのに、それを隠すみたいに両手で覆《おお》う。
待ってほしい。意味がわからない。そもそも三度目に会った時、明らかにあの少年は自分を励《はげ》まそうとしてくれていたではないか。そう、ではつまり、こうして月村真由が酔態《すいたい》を呈《てい》しているのは、つまり――
わからない。自分の気持ちも、月村真由が何を考えているのかも。ここしばらくの間、麗華を惑乱《わくらん》の急流《きゅうりゅう》に叩き込むような出来事は何度もあって、それら以上に自分を途方《とほう》にくれさせる状況《じょうきょう》はありえないだろうと思っていた。それが、どうだ、今。得体《えたい》の知れない何かが、魂《たましい》ごと破砕《はさい》せんぼかりに心を躁踊《じゅうりん》している。
手に握《にぎ》り締《し》めたままのハンカチに目をやる。丁寧《ていねい》に洗い、皺《しわ》まできちんと伸ばしてある。血液の色はどうしても落ちきらなかったらしく、薄《うす》い錆色《さびいろ》が所々に点在《てんざい》している。バカじゃないかと思う。こんなもの捨ててしまうべきだったろうに。いや、ぜったい捨てなければいけないのだ、こんなのは。それが何? 何をこんな、後生大事《ごしょうだいじ》に持って――
「……なんなのよぉ、もぉっ……」
自分でも何を意図《いと》しているのかわからないうめきが洩《も》れる。
消え入りたいとでも願っているかのように、膝《ひざ》の間にまで顔をうずめこむ。
何も知らぬげに、月村真由はひと時の安眠《あんみん》を貪《むさぼ》っている。
夜はうだる熱さを引きずりつつ、苛立《いらだ》たしいほどのろまに流れていく。
秋の気配はまだ、遠い。
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あとがき
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです――という定番《ていばん》のあいさつを定番とすることに成功しつつある、作者の鈴木《すずき》です。『ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん』第四|弾《だん》をここにお届《とど》け致《いた》します。
時に小説家なる稼業《かぎよう》は仕事の管理《かんり》を自分ひとりでまかなうために、その気になればいくらでもサボれます。家にひとりで居ると正直、あまり仕事しません。
ということでワタクシこの四巻を書くにあたり、生まれて初めて『カンヅメ』なるものを経験《けいけん》してまいりました。筆《ふで》の遅《おそ》い作家が執筆《しっぴつ》に集中するためにホテルやら編集部《へんしゅうぶ》やらに閉《と》じこもるアレです。行き先は某県《ぼうけん》の某|温泉地帯《おんせんちたい》にあるコンドミニアム。ひとりじゃ寂《さび》しいので、ファンタジア文庫でご活躍《かつやく》の風見《かざみ》周《めぐる》ちゃんも誘《さそ》い合わせての二人旅でした。部屋は二人部屋を共同《きょうどう》使用であります。
さてそうなると当然、周ちゃんと起居《ききょ》を共にするわけであり、そして二人きりで日々を過《す》ごせばうれしはずかしな出来事《できごと》が様々《さまざま》に起こるわけです。例えば着替《さが》えなんかも見せ合うことになるし、同じ洗濯機《せんたくき》でお互《たが》いの衣類《いるい》を一緒《いっしょ》に洗うことにもなります。洗濯物を干《ほ》すのも無諭《むちん》同じ場所。洗濯物の中には赤裸々《せきらら》な衣類ももちろん含《ふく》まれます。そう、周ちゃんの肌着なんかも……。
どうです、うらやましいでしょう? こんな暮らしを送っていれば二人の距離《きょり》は徐々《じょじょ》に縮《ちぢ》まり、やがてはねんごろな仲に進展《しんてん》していくというもの。さらには毎晩杯《まいばんさかずき》を重ね合い、現地で道具|一式《いっしき》を買ってトンコツスープを煮込《にこ》んだりという素敵《すてき》イベントを経《へ》た未《すえ》、私たち二人は将来《しょうらい》を約束し合う関係になっていったのです。――あのコンドミニアムでの日々はほんとうに有意義《ゆういぎ》だったよ。これからもよろしくね、周ちゃん。
ああそうそう。言い忘れてましたか、風見周ちゃんは男性です。
……さて、右の文章にはいくつの突《つ》っ込みどころがあったでしょう?
*
そんなこんなで今回も最後になってしまいましたが、イラストの高苗《たかなえ》氏、担当のS氏をはじめ、この本に関《かか》わって頂《いただ》いた全ての人たちに満腔《まんこう》の謝意《しゃい》を。そしてこの本を手に取ってくださった皆様《みなさま》に、私から愛の訪問販売《ほうもんばんぱい》を。ありがとうございました、どうぞこの次もよろしくお願い致《いた》します。
余談《よだん》ですが、『将来の約束』とは『お互いがんばって売れる作家になろうね』という友情に満《み》ち溢《あふ》れた誓《ちか》いでありましたとさ。どっとはらい。
[#以下省略]
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これで8本目です。火曜の夜と水曜の早朝、夜で出来ました。
OCR処理は、「SmartOCR Lite Edition 1.0」
1回目の校正はメモ帳のみで行い、
2回目の校正で、「smoopy」と「Picture Viewer」と「メモ帳」を同時に開いて行っています。