ご愁傷さま二ノ宮くん 第3巻
鈴木大輔
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目 次
其の一 気がはやる⇔気がしずむ
其の二 目がすわる⇔目がおよぐ
其の三 血がのぼる⇔血がさわぐ
其の四 そしてはじまる
あとがき
困る。
困るのだ。
いったい自分はどうすればいいのか――|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》は果てしなく悩《なや》んでいた。
思う。よくぞこの短期間《たんきかん》でこうも状況《じょうきょう》が変転《へんてん》したものだ、と。
ことの始まりはほんの一週間前。
月村《つきむら》真由《まゆ》という一人の少女が峻護の前に現れたあの瞬間《しゅんかん》から、彼の平穏《へいおん》な日々は怒濡《どとう》の勢《いきお》いで崩壊《ほうかい》していったのだ。
ごく普通《ふつう》の女の子だと思っていた彼女が、実は男性の精気《せいき》を糧《かて》に生きる夜の種族《しゅぞく》、サキュバスだったこと。おまけに彼女は男性|恐怖症《きょうふしょう》であり、自分ひとりでは精気を補給《ほきゅう》できないという問題を抱《かか》えていたこと。その悪癖《あくへき》を克服《こくふく》するプログラムの一環《いっかん》として二ノ宮家にやってきたこと。プログラムの実施《じっし》に当たり、峻護が多大《ただい》な責任《せきにん》を負わされたこと。彼の姉である涼子《りょうこ》、真由の兄である美樹彦《みきひこ》を始めとする、峻護の周囲《しゅうい》を跳梁《ちょうりょう》践扈《ばっこ》する面々が、彼の生活を散々《さんざん》に引《ひ》っ掻《か》き回してくれたこと。
色々あった。本当に。シートベルトなしでジェットコースターに振《ふ》り回されているような、生き
た心地《ここち》のしない毎日だった。
でも。
確かに油断《ゆだん》のならない、気の休まらない日々だったけれど。
そんな生活にも峻護は徐々《じょじょ》に適応《てきおう》し、あわただしく流れる時間の中にもそれなりの展望《てんぼう》を見出《みいだ》しつつあったのだ。
こと月村真由に関しては。
あの、真面目《まじめ》で控《ひか》えめで純情《じゅんじょう》なサキュバス少女に対しては。
共に暮《く》らすうち、ほのかな想《おも》いを抱《いだ》くまでになっていたのだ。
これから先まだまだ続くであろう彼女と過ごす時間のうちに、その想いを焦《あせ》らず、急がず、ゆっくりと育《はぐく》んでいきたい――そんな風に、漠然《ばくぜん》とながら考えるに至《いた》っていたのだ。
なのに。
その、ようやく手に入れたかに見えた平穏の予兆《よちょう》は――あっけなく消し飛んだ。まったく想像《そうぞう》もしなかった事態《じたい》によって。
峻護を見舞《みま》ったてんやわんやの日々、その騒動《そうどう》の一角を担《にな》った一人の少女がいる。
北条《ほうじょう》麗華《れいか》。峻護の通う神宮寺《じんぐうじ》学園高校の生徒会長であり、世界に名だたる北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》であり、つまりは生粋《きっすい》のお嬢《じょう》さまである。
そしてまた峻護の入学以来、常《つね》に彼に対して敵意《てきい》を向け続けてきた少女でもあった。
その、はずだった。
彼にとって当たり前になっていたその認識《にんしき》が一気に反転したのは、つい、ほんの先だってのこと――週末に出かけた南の島のバカンス、その二日目の昼のことだ。そこで峻護は麗華の発したあるひとことから、十年間|忘却《ぼうきゃく》していた記憶《きおく》を取り戻《もど》したのである。
そう十年前――既《すで》にその頃《ころ》から峻護は彼女と出会っており、しかも将来《しょうらい》の約束を交《か》わし合った仲だった。月村真由と出会う遥《はる》か前から麗華とは知り合っており、しかも彼女はその頃からずっと峻護のことを、今も峻護のことを、
いやそんなばかな。
――と、もう何百回目になるか知れない自問《じもん》を彼は繰《く》り返す。十年、十年だぞ。しかもほんの子供の時分の約束《やくそく》をちゃんと覚えていて、なおかつそれだけの長い間ずっと一途《いちず》に好意《こうい》を抱《いだ》き続けるなんて……そんなことありうるはずがない。大体において、彼女の自分に対する態度《たいど》からして好意とは程遠《ほどとお》いものではないか。
いやまて。保坂《ほさか》先輩《せんぱい》に――あのひとの付き人であり、あのひとを最もよく知る保坂先輩に、示唆《しさ》されたことではないか。北条先輩はおれに想いを寄《よ》せていると。
いやそんなばかな。やっぱりありえない。十年、十年だぞ。人生の半分以上、いや、人が自我《じが》をようやく獲得《かくとく》する時期《じき》から逆算《ぎゃくさん》すればそれよりもっと長い間、しかも気心が移りやすい幼少期《ようしょうき》のこと。ありえないだろう、どう考えたって。
……でも。でももし、もしそれが本当の本当だったら。その約束を忘れていたおれの責任はどうなる?
そもそもおれの気持ちはどうなんだ。北条先輩のことが嫌《きら》いなのか?……それこそ『そんなばかな』だ。美人で抜群《ばつぐん》のカリスマ性があって、それでいて驕《おご》ることなく、あくまで高潔《こうけつ》なあのひとを、誰《だれ》が嫌いになるものか。でもその好きとか嫌いとかはそういう好きとか嫌いとかじゃなくて――
そしてさらに彼を苛《さいな》ませる問題。それは、どうやら北条麗華がサキュバスであるらしいということ――いや、おそらくあの夜、バカンス一日目のあの夜、彼女はサキュバスとして覚醒[#「覚醒」に傍点]したのだ。峻護はその有様《ありさま》を目《ま》の当たりにし、しかも彼女が一筋縄《ひとすじなわ》でいかないサキュバスであるらしいことも知った。彼女は――あの夜見た北条麗華は、麗華であって麗華でなく、あれはどうみても別人で――とすれば人格《じんかく》障害《しょうがい》? しかも麗華自身はそれに気づいていない? でも、サキュバス化したとなれば異性から精気を摂取《せつしゅ》せねば生きていけないはずで、つまりは男性とそういうことをしなければいけないということで、だったらあのひとは一体誰と――誰と? バカな、忘れたのか? 昨夜《さくや》おれが彼女に何をしたか――
……と、このあたりで峻護の思考《しこう》は止まってしまう。ただでさえ話がややこしい上、この手の色気ある話に縁《えん》のなかった男である。事態《じたい》は軽々と彼の処理《しょり》能力《のうりょく》を超《こ》えてしまっていた。
もう、なにがなんだか。
そして峻護はもう一人の少女――すべての始まりとなった少女のことを考える。
月村真由。男性恐怖症のサキュバスであり、峻護の同居人であり、同時に彼の保護《ほご》対象者《たいしょうしゃ》でもある少女。
彼女は、おれのことをどう思っているのだろう。
嫌われてはいない、と思う。むしろ好意を持たれているのではないか、とさえ自惚《うぬぼ》れている。でもそれがどの程度《ていど》の好意なのか、どんな種類《しゅるい》の好意なのか、それがわからない。いや、それ以前に、好意を持たれているという考えからして思い上がりでないという保証はどこにもない。やはり、自惚れなのか。
そもそも。おれは彼女のことをどの程度知っているというのだろう。
おれと同じ十六|歳《さい》で、同じ学校に通っていて、料理の腕《うで》はなかなかのもので――
それらは事実《じじつ》であるし、それぞれが意味ある重みを持った、いわば彼女とおれとを結ぶ絆《きずな》の糸たちでもある。でもなぜだろう、それらの知識を一つ一つ指差し確認していくほどに、おれは彼女のことを何も知らないような気がしてくる。出会ってまだ一週間なんだからそれも当然――なのだけど、何かこう、そういう理由だけではないように思える。それはつまり、彼女と心が通じていないということなのか。彼女から寄せられていると思った好意はやはり自分の勘違《かんちが》いなのか。そう、好意といえば。北条先輩はおれのことを本当はどう思っているんだろう。保坂先輩の言う通りおれに好意を寄せてくれているのだろうか。いやそんなばかな。あのひとのおれに対する基本《きほん》態度《たいど》は『敵視《てきし》』そのものであり、あれを好意と受け取るなんておめでたいにも程《ほど》がある。だいたい年端《としは》もいかない子供がたったひとつの想いを十年も抱き続けるなんて、そんなことありえるはずが――
……と、このあたりで再び思考《しこう》がループし始めるのである。完膚《かんぷ》なきまでの泥沼《どろぬま》だった。
そして峻護は知らない。あの夜――麗華が死に瀕《ひん》していた夜。あそこに居合《いあ》わせたのが彼ら二人だけではなかったことを。
口づけを交わして彼女の命を救ったその場を、月村真由が目の当たりにしていたことを。
*
北条麗華もまた、悩《なや》める子羊の一人である。
二ノ宮峻護の態度《たいど》がどこかおかしい。そう、彼女は感じ取っていた。
もちろんわたくしにとってあの男などはどうでもいい存在なのだけど――と前置きしてから麗華は考える。いつから二ノ宮峻護の様子《ようす》に変化があったのか。
たぶん――あの時からだ。バカンスニ日目、つまりは今日。いいかげん真昼も近くなってからようやく起き出してきた二ノ宮峻護と出くわして、いくらか会話を交わした、あの時から。
でも、なぜ? もともとお礼を言うつもりであの男を捜《さが》していて、いざ会って話をしていたらなんだか途中《とちゅう》からカッとなってしまって、ゆえに何を話したのかよく覚えていないのだが――とりたてて変わった話はしなかった、と思う。それとも自分が忘れているだけで、やはりまずいことを言ってしまったのだろうか。
そう、お礼といえぱ。保坂に聞くところによれぱ自分は昨日の夜、二ノ宮峻護に助けられたらしい。浜辺で気を失って倒《たお》れていたところを担《かつ》いで運んできてくれたのだという。あの男におんぶされて二人きりで歩いている光景《こうけい》を想像《そうぞう》すると頬《ほお》が熱くなってくるのだが、そんなことはまったくもってどうでもいい話。問題はなぜそんな所で倒れていたかということと、そして昨日=バカンス初日の記憶《きおく》がどうも曖昧《あいまい》になってしまっていることにある。昨日の夜、いや夕方か――ともかく浜辺を一人で歩き始めた頃《ころ》から、ふっつりと記憶が途切《とぎ》れているのだ。一体どんな理由で自分は気を失っていたものだろうか。それ以前の記憶もかなりぼやけてしまっていて、それでもどうにか記憶の断片《だんぺん》をかき集めて判断《はんだん》するに、勝負の旗色《はたいろ》は最悪だったはずで――
そう、勝負。そもそも彼女が南の島くんだりまで出張《でば》った理由。『特訓《とっくん》』と称《しょう》して不埒《ふらち》な行為《こうい》を繰《く》り返す二ノ宮峻護と月村真由に制裁《せいさい》を下そうとして、だけど二ノ宮涼子と月村美樹彦が待ったをかけた上、『峻護をあなたが奪《うば》っちゃえぱ万事《ばんじ》解決《かいけつ》じゃない』などと言い出して。それで、二ノ宮峻護などという取るに足らない男を落とすために、したくもない努力をする羽目《はめ》になったのだ。つまりその勝負の最中に麗華は浜辺で惰眠《だみん》を貪《むさぼ》っていたことになる。結果《けっか》、彼女の目論見《もくろみ》はご破算《はさん》。まったくいい面《つら》の皮だ。
それもこれも元を正せば月村真由なのだ。あの女が現れてからすべてが狂《くる》い出した。二ノ宮家のメイドにさせられたのも、破廉恥《はれんち》な行為《こうい》に苛立《いらだ》たねばならないのも、ぜんぶあの女に端《たん》を発している……。
ふとそこで麗華は気づく。これほど自分に仇《あだ》なす存在だというのに――自分は一体どれほどあの女のことを知っているというのか。
以前、月村真由に関する調査《ちょうさ》を試《こころ》みたことはあるのだが、それが諸事情《しょじじょう》によって頓挫《とんざ》して以降《いこう》、あの小娘《こむすめ》に関する詳細《しょうさい》な情報を得る機会《きかい》から遠ざかっている。もとよりあの女が現れて一週間、多くを知るだけの時間はない。男性|恐怖症《きょうふしょう》を克服《こくふく》するためのプログラムの一環《いっかん》として二ノ宮家に居候《いそうろう》し、常にガーディアン役たる二ノ宮峻護にくっついている――大雑把《おおざっぱ》にその程度のプロフィールを把握《はあく》するだけにとどまっている。帰国《きこく》子女《しじょ》だというが、どんな事情で母国を離《はな》れていたのか。男性恐怖症を克服するために戻《もど》ってきたとして、なぜ、今この時期なのか。それに――二ノ宮峻護のことを、どう思っているのか。
そもそも、だ。男性恐怖症なのにどうして二ノ宮峻護だけは平気なのか。いくらなんでも都合《つごう》がよすぎるのではないか。何かそこには理由があるのか。
そしてあの女が発散《はっさん》する尋常《じんじょう》でない魅惑《みわく》。あれはなんなのだろう。男という男が、彼女を目にしただけでたちまち理性をとろけさせてしまう。どうみても普通《ふつう》ではない。そこには何か、自分がまだ知ることの叶《かな》わない情報があるはずなのだ。それは一体どういうものなのだろう。
目下《もっか》、最大の目の上のたんこぶであるはずの相手について、麗華はほとんど無知《むち》でいる。敵を知り、己《おのれ》を知ってこそ、百戦を交えて百勝できる。それを百も承知《しょうち》でいながら、ここに至《いた》るまで情報収集の精妙《せいみょう》さを欠《か》いていた。あの女を前にするとつい感情が高ぶり、冷静さを保てなくなるゆえである。
だいたいにおいて二ノ宮峻護がいけないのです――と、麗華は矛先《ほこさき》を転じる。あの女にくっつかれてへらへらしてばかりで、おまけにあの女にだけは甘々《あまあま》で。あの男は堅物《かたぶつ》が売りではなかったのですか。あの男がもっと倫理意識《りんりいしき》と公序《こうじょ》良俗《りょうぞく》を重んじてさえいれぱ、わたくしは破廉恥《はれんち》な真似《まね》を見て苛立つこともないし、余計《よけい》な気苦労《きぐろう》を背負《しょ》い込むこともなかったのです。なにもかもみんなあの男が悪いのですわ――
……と、これ以降は延々《えんえん》、うだうだな愚痴《ぐち》が続くのである。麗華が問題と認識《にんしき》している状況《じょうきょう》のほとんどは、彼女さえもっと適切《てきせつ》な行動を取っていれぱこじれずに済んだ代物《しろもの》だというのに。
そう、麗華は知らない。
『勝負』は、本来なら彼女の勝利に終わっていたであろうことを。
もう一人、自分の知らない自分が彼女の中に存在していることを。
自分が、天敵である月村真由と同じ夜の種族《しゅぞく》であることを。
そして――
二ノ宮峻護が、次第《しだい》に記憶《きおく》を取り戻しつつあることを。
*
そして月村真由は。
表立っては何の変化もない、かに見える。
バカンスからの帰途《きと》、多少の疲《つか》れを見せながらも、いつものやわらかい笑《え》みを絶《た》えず浮《う》かべている。疲れを微塵《みじん》も感じさせず普段《ふだん》どおり振舞《ふるま》う化け物二人組+1に付き合い、談笑《だんしょう》に合いの手を入れたりしている。
何も変わらない、かに見える。陽《ひ》が昇《のぼ》りまた沈《しず》んでいくのと同じく、その笑顔に揺《ゆ》るぎはないかに見える。
だがそんな彼女もまた、変わることを余儀《よぎ》なくされている者のひとりであった。
それも、三人のうち最も大きな変化を。
*
さて。
幸か不幸か、存分《ぞんぷん》に悩《なや》む余裕《よゆう》は彼らに与《あた》えられない。
一時|保留《ほりゅう》となっていたトラブルの種が、てぐすねを引いて彼らの帰宅《きたく》を待ち受けていた。
男の精気を吸《す》って生きるサキュバスでありながら男性恐怖症であるという、著《いちじる》しく不都合な性癖《せいへき》を持つ月村真由。それを克服するため、二ノ宮家では真由シフトとでも言うべき全面的なバックアップ体制が敷《し》かれている。
その男性恐怖症克服プログラムを支援《しえん》するべく二ノ宮家内で整備《せいび》した法を『月村真由の男性恐怖症克服を目的とした特別|措置《そち》に関する諸法度《しょはっと》(通称《つうしょう》ニノ宮家|特措法《とくそほう》)』と呼ぶ。
その中の一条に、こうある。
『二ノ宮峻護卜月村真由ハ、同衾《どうきん》ノ義務《ぎむ》ヲ負フ』。
夜も更《ふ》ける頃になって一行が二ノ宮家に帰還《きかん》し、あとは寝《ね》るばかりとそれぞれの部屋に引き取る段《だん》になって。
騒動《そうどう》の引き金を引いたのは、やっぱりあのひとだった。
*
「断《だん》じて認めません!」
ガラス窓《まど》に震《ふる》えが走るような大声。
「何度も言っているでしょう、わたくしが起居《ききょ》するこの屋敷《やしき》で不埒《ふらち》を働くのは許さないと。あなたたち、このわたくしの言葉を軽《かろ》んじてらっしゃるの? それともわたくしの単純《たんじゅん》明快《めいかい》な主張《しゅちょう》が理解《りかい》できないとでも? もし前者であるならば今すぐ北条麗華の何たるかをその身体《からだ》に叩《たた》き込んで差し上げます。それとも後者なのかしら? だったら紹介状《しょうかいじょう》を書いて差し上げますから幼稚園《ようちえん》まで戻って一から教育をやり直してきなさいっ!」
「先輩《せんぱい》、どうか落ち着いて」
場所は二ノ宮家の一隅《いちぐう》、十|畳《じょう》ほどの洋室である。
その部屋の住人たる峻護と真由の前で麗華が憤然《ふんぜん》と腕《うで》を組み、仁王立《におうだ》ちしていた。
そして彼女がこういう態度《たいど》を取る時に何が起こっているかといえば……もう相場《そうば》は決まっているといっていい。
「先輩、何度も言うようですが――」
麗華への複雑《ふくざつ》な感情は顔に出さぬようにして、言う。
「おれと月村さんが一緒《いっしょ》のベッドで寝るのは彼女の男性恐怖症克服プログラムの一環であって、決してやましいことは――」
「そんなお題目《だいもく》は聞き飽《あ》きましたわ!」
麗華、一刀《いっとう》両断《りょうだん》。
峻護への複雑な感情は顔に出さぬようにして、言う。
「だいたいあなた、この状況に何の疑問《ぎもん》も感じていないの? 深い関係にあるわけでもない男女がベッドを、臥所《ふしど》を共にする。これで平然としていられるのならわたくし、あなたの常識を疑《うたが》いますわよ?」
そこを突《つ》かれると弱い。いくら目的があることとはいえ明らかに常識外れな行為《こうい》だし、そもそもが堅物で通った二ノ宮峻護である。本音のところでは自身の行為にかなり首をひねっているのだ。
「しかしですね、これも姉や美樹彦さんに言われていることなので……あの二人の言い分を軽視《けいし》するというのもちょっと……」
「そこには一定の理解を示しましょう。あの二人は確かに反則みたいな連中《れんちゅう》ですから、下手に抵抗《ていこう》すればろくな目にあいません。それはわたくしも認めます。ですが、」
「うるさいわねえ。なあに? なにがあったの?」
「もう少し静かにしてもらえないかね。そう騒《さわ》がれてはおちおち眠《ねむ》ってもいられない」
噂《うわさ》をすればなんとやら。反則な二人のご登場《とうじょう》である。
「……。ああ、なるほどね」
場を一瞥《いちべつ》した涼子、すぐさま状況を察《さっ》したらしい。
「麗華ちゃん、あなたも案外《あんがい》しぶといわねえ。まだ納得《なっとく》してなかったの?」
「誰が納得などしますかッ!」
「そうは言うが麗華くん、」と、あくび交《ま》じりに美樹彦。「僕らとて譲歩《じょうほ》はしたつもりなのだが? 君の強硬《きょうこう》な主張を容《い》れ、君も合意《ごうい》の上で勝負の場を設《もう》けたではないか。その勝負に勝てぱ問題なく君の望《のぞ》みは叶《かな》えられたはずであり、そして力|及《およ》ばず君は仕損《しそん》じたのだ。その点を十分|考慮《こうリょ》に入れてもらいたい」
「? 美樹彦さん、それって何の話――」
「二ノ宮峻護! 人の会話に割り込まないで頂戴《ちょうだい》!」
首をかしげた峻護の注意をあわてて自分に向けさせてから、
「とにかく! わたくしは神宮寺学園の生徒会長として、神宮寺学園の生徒である二ノ宮峻護と月村真由の行状《ぎょうじょう》を監督《かんとく》する義務《ぎむ》があります。そして不本意《ふほんい》ながらこの家に起居する住人として、よりよい生活を送るための適切《てきせつ》な環境を整える権利があるのですわ。その義務と権利において、この二人が送る不埒|三味《ざんまい》な生活、その即刻《そっこく》中止を求めます」
そこで言葉を切って一堂を睨《にら》みつけ、
「満足のいく回答を得られるまでわたくし、一歩も退《ひ》きませんからねッ!」
鼻息も荒《あら》く大喝《だいかつ》した。今回ばかりは肚《はら》に据《す》えかねたのか、どうやらよほどの覚悟《かくご》を決めているらしい。命を張《は》っている者特有の顔で立ちはだかるその様は、言葉どおり挺子《てこ》でも動きそうにない。
「ま、麗華ちゃんの言うことにも一応|筋《すじ》は通ってるわね」
目をこすりこすり、気のない声で涼子。
「どうする? 美樹彦」
「ふむ、そうだな……」
夢の世界に片足を突っ込んでいる顔で、
「ここは傍観《ぼうかん》する、ということでどうだろう。我々が大上段《だいじょうだん》から方針《ほうしん》を示すばかりでなく、 時には彼らが自ら考え、行動する――それこそが独立《どくりつ》独歩《どっぽ》の気風を拓《ひら》く近道である。単に与えられたものよりも、自ら獲得《かくとく》したものの方が重みは増すというもの。大いに論《ろん》じさせ、彼らなりの結論を出させるのがよい」
理屈《りくつ》としては間違《まちが》ってないのだが、舟《ふね》をこぎながら語っては説得力《せつとくりよく》ゼロである。
「じゃ、そうしましょうか。……というわけで、」
もはやあくびを隠《かく》そうともせず、面倒《めんどう》くさげな口調《くちょう》で、
「問題は当事者《とうじしゃ》同士で解決《がいけつ》すること。ただし、これ以上うるさくしてもう一度わたしたちを起こしたらペナルティね。じゃ、おやすみなさい」
あっさり引き下がった。
思わぬ事態《じたい》にきょとんとする麗華と峻護。そして、
「あっ、あのっ」
そこで初めて真由が口を開き、
「これも試練《しれん》よ、真由ちゃん」
「そういうことだ。見事《みごと》、自分の望む結果を勝ち取ってみせなさい。いいね?」
しかし涼子も美樹彦もひらひらと手を振《ふ》り、そろって退室《たいしつ》していく。
「…………」
呆然《ぽうぜん》と、峻護はそれを見守った。展開が予想外すぎたこともあるが、それよりも問題の解決《かいけつ》が遠のいてしまったことのショックが大きい。涼子にせよ美樹彦にせよ暴君《ぼうくん》には違いないが、それと同時に強力|無比《むひ》な裁定者《さいていしゃ》でもある。彼らが出張《でば》ってくれぱ形はどうあれひとまず収《おさ》まりがつく。なのにこれでは――
「……うふ。うふふふふふ……」
笑いを堪《こら》えるのに苦労する、とでも言いたげな含《ふく》み笑いと、
「まったく、何事《なにごと》も言ってみるものですわ。……さて。わかってるわね、あなたたち」
勝利を確信《かくしん》した表情。
「わたくしの言い分はこれまで散々《さんざん》繰《く》り返してきた通りです。即刻《そっこく》、同衾《どうきん》などというばかげた真似《まね》は中止なさい」
「はあ、そうですね。ええと……」
「二ノ宮峻護」
何か言おうとする峻護を氷点下《ひょうてんか》の視線で縫《ぬ》いとめる。
「あなたまさか『続ける』などとは言いませんわよね? そもそもこれらのくだらない行為――あなた方に言わせれば特訓だそうですが、まったく冗談《じょうだん》じゃありませんわ……とにかく、その特訓とやらは二ノ宮涼子と月村美樹彦に言われてやむなくやっていること。あなたが望んだことではないと、そう聞いていますわよ?」
「はあ、確かに姉さんと美樹彦さんに言われたことですが……」
「ですが、何?」
「ええと………」
峻護、沈黙《ちんもく》。
その結果に満足げに頷《うなず》き、次なるターゲットに刃物《はもの》のような目を向ける。
「月村さん。何か言いたいことは?」
ヘビに睨まれたカエルのように身をすくませた真由、うつむいたまましばらく口をつぐんでいたが、やがて顔を上げ、
「あの、わたしは男性|恐怖症《きょうふしょう》を治すために二ノ宮くんと――」
「その話はもう聞き飽《あ》きましたわ。あなた、わたくしをアホな子だとでも思ってるの? 何度も言われなくたって承知《しょうち》してます」
「でも、そうしないとわたしの恐怖症は治らなくて、」
「では言わせてもらいましょう。ずっと疑問に思っていたのです。あなたにせよ、あの二人にせよ――『特訓』とやらが男性恐怖症に対して効果《こうか》があると、本気で思っていて?」
「そっ、それはもちろん――」
「もちろん何? それで確かにあなたの恐怖症が改善《かいぜん》に向かっていると? 本気でそう思っているならそれこそアホですわ。男が恐《こわ》い、だったら逆に男の傍《そば》にいれば治るだろう、なんて論法《ろんぽう》、根拠《こんきょ》のない民間《みんかん》療法《りょうほう》にも劣《おと》ります。なんたらキノコを食べれぱガンが治る、とでも言われたほうがまだ信じられますわ。短絡《たんらく》思考《しこう》にも程《ほど》があります。あなたたちの『特訓』に何らかの効果があるとすれば、あの二人を面白《おもしろ》がらせることくらいではありませんこと?」
「そんな、そんなこと、」
「そもそもあなた、もっと真《ま》っ当《とう》な方法は試《ため》してみたの? 専門家《せんもんか》に依頼《いらい》して、適正《てきせい》な治療《ちりょう》を受けたことがあって?」
「あります、もちろんです! でも何をやっても、どんなことを試してもだめで、」
「あら。だったらもう結論《けつろん》はハッキリしてるじゃない」
ふふん、と鼻で笑う。
「つまり、何をしても無駄《むだ》だということです。月村さん、あなたが男性恐怖症を克服《こくふく》する日が来ることなど未来永劫《みらいえいごう》ありえないのですわ」
「――――っ!」
真由の顔が、きゅうっ、と歪《ゆが》んだ。
「先輩《せんばい》、それはちょっと言い過《す》ぎじゃ――」
「お黙《だま》りなさい二ノ宮峻護。今日こそは白黒きっちりつけさせていただきます。――月村さん、よくお聞きなさい。百歩|譲《ゆず》って、藁《わら》にも縋《すが》る思いで論拠《ろんきょ》不明《ふめい》な治療法に頼《たよ》るというなら、それはそれでいいでしょう。ですがそれにしたってやり方は他《ほか》にいくらでもあるはず。こんなけしからぬ方法である必要などない、そうではなくて?」
「…………」
「反論《はんろん》があるなら聞きますわよ?」
「わ、わたしは――」
「わたしは?」
だが真由の口から続きは出てこない。状況《じょうきょう》の有利《ゆうり》に勢いづく麗華の前に、ただ力なく目を落とすだけ。
「……ふん。どうやら結論は出たようね」
数々の辛酸《しんさん》を舐《な》めさせられてきた天敵《てんてき》を論破《ろんぱ》し、会心《かいしん》の笑《え》み。
「さあ月村さん。わかったのならここを出て行きなさい。そうして廊下《ろうか》でも庭でも好きな場所で眠るがいいのですわ。幸い季節は夏ですからね、どこで寝たって凍死《とうし》だけは免《まぬが》れますことよ」
「…………」
「さあ」
言われて、真由がおずおずと動いた。
言いつけとは全く逆の方向に。
「……何をしてらっしゃるの、あなた」
そっと峻護に寄り添《そ》った小娘《こむすめ》に、麗華のまなじりがたちまち吊《つ》り上がる。
「っ、月村さん?」
峻護の慌《あわ》て声にもうつむいたまま。まるで聞き分けのない子供が親に甘《あま》えるように、傍を離《はな》れようとしない。
「月村真由。なんですかその反抗《はんこう》的な態度《たいど》は。離れなさい」
ずい、と一歩出た。
それに合わせ、真由がいっそう寄り添った。
「……仏《ほとけ》の顔も三度まで、といいますが、わたくしはそれほど寛容《かんよう》ではありません。今すぐおどきなさい」
「…………」
「無視《むし》する気? それはわたくしに対する挑戦《ちょうせん》? それともわたくしを虚仮《こけ》にしているのかしら? いい度胸《どきょう》ですわ、喧嘩《けんか》を売ってるならハッキリそうおっしゃい。わたくし、あなたとの喧嘩なら借金してでも買いますわよ?」
「…………」
「黙《だま》ってないでなんとかおっしゃい!」
「…………」
真由は。
無言のまま、行動でもって応《こた》えた。
べー
と。それこそ子供のように舌《した》を出すことで。
「なっ……」
そして麗華の反応もまた、子供じみていた。
「こンの小娘《こむすめ》!」
止める間もない。餓《う》えた肉食獣のように跳《と》びかかり、不届《ふとど》き者を引き剥《は》がそうとする。真由の反応も早い。麗華に掴《つか》[#ここは原本では旧字体]まれる寸前《すんぜん》、ぎゅっと峻護にしがみ付く。同時、峻護が全身を硬直《こうちょく》させた。ゆめゆめ忘れてはならない、彼女は夜の種族サキュバスであり、オトコを堪《たま》らなくさせるのがその生得的能力なのである。そんな少女に身体《からだ》を密着《みっちゃく》されればどうなるか。
あれよという間に煩悩《ぽんのう》サイクロンに巻き込まれた峻護を尻目《しりめ》に、少女二人は骨肉《こつにく》の争いを展開する。「今日という今日は勘弁《かんぺん》なりません! 二ノ宮峻護から離れなさい!」服を掴[#ここは原本では旧字体]んで思いっきり引っ張る麗華。いやですっ、とばかり首を振《ふ》り、いっそう腕《うで》にカを込める真由。肌着《はだぎ》のラインまではっきりわかるほどくっつかれた峻護は酸素《さんそ》不足の金魚のような顔。欲望《よくぼう》に抵抗《ていこう》するので手一杯《ていっぱい》、争いを止めるゆとりなどない。いよいよ激発《げきはつ》した麗華、「離れなさいと、言って、る、の、にっ!」電柱《でんちゅう》でも引っこ抜《ぬ》かんばかりに力を込めるが、真由はいやいやをしながら必死《ひっし》にしがみ付く。いやいやをする、ということはその動きがダイレクトに伝わってくるわけで、つまりは天国的にやわらかい感触《かんしょく》がふにふにと峻護を誘《さそ》ってくるわけで――
まずい、と峻護は虚《うつ》ろな意識《いしき》で思《おも》う。このまま事態が続けば理性が耐《た》えられなくなる、それももちろんだが――それよりも元から険悪《けんあく》だった少女二人の関係が修復《しゅうふく》不能《ふのう》なまでにひび割れてしまう。そもそもが平穏《へいおん》と調和を重《おも》んじる峻護である、ひとつ屋根の下に暮らす者同士が紛争《ふんそう》状態に陥《おちい》るのは望ましいことではない。それにこんな騒《さわ》ぎを続けていればまた姉さんと美樹彦さんが……
と、その時。
ぴるるるるるるるるるる
気の抜けるような電子音が部屋の中にこだました。さほど大きな音ではない、しかしひどく場違《ばちが》いなその響《ひび》きが一瞬《いっしゅん》、充満《じゅうまん》していた闘争《とうそう》の空気をかき乱す。
三人とも半《なか》ば反射的に、音の発信源へ目を向けた。
保坂《ほさか》光流《みつる》である。
それまで黙って成り行きを見守っていた――というか見ものとして楽しんでいた付き人少年が、「おや」という顔で懐《ふところ》から携帯《けいたい》電話を取り出し、何事《なにごと》か会話を始めた。いつもと全く変わらぬ、のほほんとした調子である。その平然《へいぜん》っぶりがまた、煮《に》えたぎった雰囲気《ふんいき》に薯《いちじる》しく水を差す。
彼は二、三の簡単《かんたん》なやり取りだけで電話を切り、
「お嬢《じょう》さま」
いつものニコニコ顔で告げた。
「仕事が入りましたよ〜 例の債務整理《さいむせいり》の件、あれの続きです。全役員が本社に集まってテンテコ舞《ま》いですので、お嬢さまもお早く」
麗華は、あからさまに不機嫌《ふきげん》な顔をした。
「あの件はあらかた片付いていたはずでしょう? まったく、今ごろになって何を……わたくしは忙《いそが》しい、そう伝えなさい」
「それがそうもいかないみたいで。お嬢さまが久々に休暇《きゅうか》を取った、ってことで、彼らも自分たちだけで踏《ふ》ん張《ぱ》ってたみたいですけど――それが手に負えなくなって、とうとうヘルプを求めてきた、と。まあアレですね、お嬢さまが二日間も遊びこけてたツケが回ってきたと、そう考えることもできますね」
「…………」
歯軋《はぎし》りして下僕《げぼく》を睨《にら》みつける麗華。
だがそれも数瞬。いったん冷静に立ち戻《もど》った彼女の判断《はんだん》は早い。
「……やむをえません。戻りましょう。ですが――」
乱れた襟《えり》もとを正しながら峻護と真由を睨《ね》め渡《わた》し、
「これを執行《しっこう》猶予《ゆうよ》などとは思わぬよう。この件、今日のところは保留《ほりゅう》としますが――用事を済ませ次第《しだい》すぐにでも決着をつけます。そのおつもりで」
きびすを返して大股《おおまた》歩きに部屋を出て行く。
「ま、そういうことで。ぼくもお嬢さまもたぶん今日は戻って来れないから、また明日の朝だね。おやすみなさ」
「言い忘れましたが!」
廊下の向こうから再度顔を出す麗華。
「わたくしの目がないからといって……わかりますわね? 決して羽目《はめ》を外すことのないように。諸事《しょじ》、あくまでも健全《けんぜん》な青少年として節度《せつど》ある行動を取るのです」
「はいはい、お嬢さまの言いたいことはわかりましたから。急いで急いで」
「健全と節度! わかってますわね? 確かに言い渡しましたわよ!」
「……だ、そうだよ。じゃ、また明日ね〜」
保坂、苦笑《くしょう》しつつ主人の背中を押《お》し、退室《たいしつ》した。
静かになった。
一連の騒動《そうどう》で意識の外に追いやられていた感覚が、引いていた潮《しお》が再び満ちてくるように蘇《よみがえ》ってくる。
もみくちゃにされて火照《ほて》った身体から立ち上る、かすかな汗《あせ》の匂《にお》い。
粘《ねば》り気の強い湿《しめ》った空気が肌《はだ》にまとわりつく感触《かんしょく》。
先々週あたりから鳴《な》き始めた虫の声が鼓膜《こまく》に触《ふ》れ、そして。
別の音も、届《とど》く。
てへ、という照《て》れ笑い、
「すいません、二ノ宮くん」
舌を出した真由が峻護を見上げている。
失敗失敗、とばかり、こつんと自分の頭を叩《たた》き、
「ちょっと悪ノリしちゃいました。兄さんと涼子さんに怒《おこ》られなくてよかったです」
「悪ノリ……?」
「ご迷惑《めいわく》でしたよね? わたしは、けっこう楽しんじゃいましたけど」
「ああ、いや」
少し戸惑《とまど》う。悪ノリをする、というキャラには見えないのだが。この家で暮らし始めていくらか経《た》ち、環境《かんきょう》に慣《な》れて硬《かた》さがほぐれてきたのだろうか。まあ確かに『べー』などとやってたくらいだし、ドタバタ騒ぎもどこ吹《ふ》く風でケロッとしているし。
「しかしまあ……」
もっと優先《ゆうせん》順位《じゅんい》の高い問題が彼らにはある。
「北条|先輩《せんばい》も言ってたけど……おれたちのやってる特訓って、どのくらい効果があるんだろう」
真由の男性恐怖症が一筋縄《ひとすじなわ》でいかないことは実証済《じっしょうず》みだし、これまでほとんどあらゆる治療法《ちりょうほう》を試みても効果がなかったことも知っている。それこそ麗華の言葉ではないが、藁《わら》にも縫《すが》るという側面《そくめん》もあるだろう。
「でもまあ、それにしても、だ」ラブシーンの真似《まね》ごとやら背中の洗いっこやら同じベッドで一夜を明かすことやらが、果たしてどこまで意味を持つものか。「おれもちょっと、こういうやりかたには疑問があるんだけど……」
「わたしは、」
微笑《ほほえ》み、
「兄さんと涼子さんを、信じてますから」
「……うん、そうか。そうだな。まあそれはそれとして、もう夜も遅《おそ》いわけで。おれたちはこれから寝《ね》るわけだけど」
「はい」
「先輩もああ言ってることだし、今日のところは別々に寝ようと思うんだけど……どうだろう?」
「そうですね。じゃあ今日は特訓はお休みですね」
あっさり承認《しょうにん》され、内心峻護は胸を撫《な》で下ろす。これ以上あの『こまったひと』の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れれば寿命《じゅみょう》が縮《ちぢ》む。第一、サキュバス少女と同衾《どうきん》して何事《なにごと》もなく朝を迎《むか》えるというのは半端《はんぱ》でない負担《ふたん》なのである。ただでさえ疲労《ひろう》しきって帰ってきたのだ、今日くらいは一息つかせて欲《ほ》しい。どうせまた明日から騒がしい日々が始まるのだから――それも、様々《さまざま》な困難《こんなん》を抱《かか》えたままで。
「じゃ、もう寝ようか。明日も早い」
「はい、そうしましょう」
「じゃあ、おれは床《ゆか》で寝るから。……いや、ここはおれの言う通りにしてもらうよ」
何か言おうとする真由をさえぎり、タオルケット一枚を抱えて部屋の隅《すみ》に寝転がる。すぐに睡魔《すいま》がやってくる。逆《さか》らう気はない。考えなければいけないことは山ほどあるが、こんなコンディションで難問《なんもん》解決《かいけつ》に挑《いど》んだっていい結果が出るはずない。だから今日のところは……今日のところは……
「…………」
同居人が寝息《ねいき》を立て始めたのを見届けて。
真由はベッドに入り、明かりを消した。
闇《やみ》が落ちる。
カーテンにさえぎられ、差し込む月明かりは鈍《にぶ》い。視界《しかい》が縛《しば》られ、輪郭《りんかく》は水に漬《つ》けたインクのように滲《にじ》む。
そんな部屋の中で。
真由は目蓋《まぶた》を閉《と》ざさない。
じっと、彼女が運命をゆだねる少年を見つめている。
ベッドの上で身体《からだ》を起こしたまま。
ぼんやりとした白光の中、どこか愁《うれ》いを帯《お》びた瞳《ひとみ》で。
身じろぎもせず、じっと、じっと
不意《ふい》に。
「が……っ」
その瞳が見開かれた。
びいん……と、音が鳴るほどの勢いで背中が反《そ》り返る。とみるや、その反動であるかのごとく今度は前かがみになり、癖《おこり》のように震《ふる》え、水中で空気を求めるかのように喘《あえ》ぎ、
「っ……あぅ……」
自らを縛《いまし》めるように腕《うで》を抱《かか》え、浅い呼吸《こきゅう》を繰《く》り返し、やがて。
ゆっくりと、収まっていく。
それでもなお爪《つめ》が食い込むほどに己《おのれ》を締《し》め付けながら、少女は独白する。
「そろそろ、かな……」
――カーテンにさえぎられ、差し込む月明かりは鈍い。
視界が縛られ、水に漬けたインクのように輪郭の滲む、そんな部屋の中で。
己のすべてを託《たく》す少年の寝顔を横目で見ながら。
少女はいつまでも、自らを掻《か》き抱《いだ》いている。
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其の一 気がはやる⇔気がしずむ
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|二ノ宮《にのみや》家の洋館が建《た》つ丘《おか》の一帯《いったい》を、若宮町《わかみやちょう》という。
坂があちこちに刻《きざ》まれ、曲がりくねった小道が綱《あみ》の目のように張りめぐり、その合間《あいま》を惜《お》しむようにして家々が隙間《すきま》なくひしめいている。都市部にありながら大規模《だいきぽ》な再開発を免《まぬか》れ、ともすれば山野と見まがうほどに多くの緑を残す、珍《めずら》しい土地だ。
その細い道を四苦《しく》八苦《はっく》しながら行く、一台の高級車がある。
「保坂《ほさか》」
「はい、お嬢《じょう》さま」
「これからはもう少し小回りの利《き》く車になさい。このあたりを走るのにこんな大型車を使っては不都合《ふつごう》ですわ」
「はあ。その点を考慮《こうリょ》していつものリムジンからセダンに代えてるんですけど。これより小さい車となると北条家《ほうじょうけ》の家格《かかく》にそぐいませんよ?」
「構《かま》いません。そんな見栄《みえ》で貴重《きちょう》な時間を削《けず》っていては本末転倒《ほんまつてんとう》です」
「なるほど、わかりました」
後部《こうぶ》座席《ざせき》に控《ひか》える保坂、隣《となり》に座《すわ》る主人の合理的《ごうりてき》な意見にニコニコ頷《うなず》いた。
北条|麗華《れいか》と保坂|光流《みつる》。彼ら二人は昨夜の呼び出しを受けて仕事を処理《しょり》した後、二ノ宮家に帰還《きかん》する途上《とじょう》だった。
早朝。人影《ひとかげ》はまばらである。
「それにしてもほんと、このあたりの道はごちゃごちゃしてますねえ」
某国《ぼうこく》王室|御用達《ごようたし》の白いセダンから窓の外を眺《なが》めつつ、保坂はいつものぼやぼやした声で独《ひと》り言をもらすが、彼の主《あるじ》は耳に入れてない。近ごろではもっぱら彼女の常服《じょうふく》となっている紺白《こんぱく》のエプロンドレスを纏《まと》い、さり気なく施《ほどこ》したメイクを入念《にゅうねん》にチェックしている。今年度になってから――つまりは高校二年生に進級してから――いや、もっと正確に言えば新一年生の入学式があった翌日《よくじつ》から始めた、彼女の新しい習慣《しゅうかん》である。『誰《だれ》に見せるためなんでしょうねえ』とでもからかってみたい所だが、自粛《じしゅく》する。そんなことを言えぱ首まで赤くなり、火のついたように暴《あば》れ出すに決まっている。その余波《よは》で事故られては敵《かな》わない。
珊瑚《さんご》のようにつややかなくちびるにリップを薄《うす》く引き、その度《たび》に手鏡《てかがみ》とにらめっこしては気に入らず、何度も何度もやり直している。その表情は硬《かた》く、真剣《しんけん》そのものだった。
多少の緊張《きんちょう》も、あるかもしれない。
なんとなれば事実上、北条麗華にとって今日がメイド業の初勤務《はつきんむ》なのである。二ノ宮家の使用人《しようにん》とさせられた先週来、実家の商務《しょうむ》に忙殺《ぼうさつ》されてこれまで大した仕事はしてこなかったのだ。その辺、彼女の雇用主《こようぬし》である二ノ宮|涼子《りょうこ》は意外にも寛容《かんよう》であり、住み込みが前提《ぜんてい》でありながらも麗華の本業が忙《いそが》しい際《さい》は気軽に暇《ひま》をくれる。無論《むろん》、令嬢《れいじょう》はそのことに感謝《かんしゃ》などしないが。
丘を登りきり、二ノ宮家に着いた。
車から降りた麗華、今日から彼女の戦場になる洋館を睨《にら》むように見渡《みわた》した。例によってほとんど不眠《ふみん》状態《じょうたい》だが、北条家は国内|屈指《くっし》の名門であり、彼女はその次期《じき》当主《とうしゅ》であるだけに、眠気《ねむけ》程度《ていど》で覇気《はき》を鈍《にぶ》らせることはない。その表情は見る者にため息をつかせるほど凜々《りリ》しく引き締《し》まっている。
朝露《あさつゆ》を吸《す》った庭の芝生《しばふ》を踏《ふ》みしめ、開け放しになっている玄関《げんかん》をくぐる。二ノ宮家の朝は早い。もう仕事は始まっているようだ。
まずはこの家の家事|責任者《せきにんしゃ》である少年――つまりは麗華に指示《しじ》を出すべき人物を探した。
すぐに見つかった。
台所である。
「…………」
麗華の足が止まった。
「おやおや」
背後に付き従《したが》う保坂が感嘆《かんたん》とも呆《あき》れともつかない声を上げた。
彼らの視線《しせん》の先に先客がいる。
二ノ宮|峻護《しゅんご》と月村《つきむら》真由《まゆ》が寄り添《そ》うように並んで朝食の用意をしている。そろってエプロンをつけ、時おり短い言葉を交《か》わしながら、小気味《こきみ》よく鍋《なぺ》や包丁《ほうちょう》を振《ふ》るっている。
その初々《ういうい》しくも自然な佇《たたず》まいは、まるで――
「何かあれですねお嬢さま。あの二人、まるで新婚《しんこん》さんの夫婦《ふうふ》みたいですねえ」
「…………」
麗華の倫理《りんり》基準《きじゅん》機構《きこう》は、自らの綱膜《もうまく》が映した映像を破廉恥《はれんち》であると判断《はんだん》した。このシステム、月村真由に対してのみ甚《はなは》だ厳《きび》しく作用《さよう》するのである。
すうっ、と。
令嬢は大きく息を吸い込んだ。
「そこの二人ッ!」
いきなりの大声に、峻護は飛び上がりつつ振り向いた。
「せ、先輩《せんぱい》? お、おはようございます、仕事の方は、もう?」
「あなたに心配されるような問題ではありません。そんなことより」
じろり、峻護と真由をねめつける。
「あなたたち、今なにをしていました?」
「なにって……朝食の用意をしてたんですが?」
「そんなことは見ればわかります。わたくしが問題にしているのはあなたたち二人の立ち位置についてですわ」
「立ち位置……?」
「あなたと月村さんの距離《きょり》が近すぎます」
有無《うむ》を言わせない口調で、断言《だんげん》。
「繰《く》り返しますが、わたくしは神宮寺《じんぐうじ》学園の生徒会長であり、あなたたちは神宮寺学園の生徒です。わたくしにはあなたたちの生活を指導《しどう》する義務《ぎむ》があります。理解《りかい》できて?」
「はあ、たぶん……」
「ただでさえあなたたちは一つ屋根の下で暮《く》らしているのです。そのように二人並んで行動することが高じた未、不道徳《ふどうとく》な間違《まちが》いが起きたら何としますか。不純《ふじゅん》異性《いせい》交遊《こうゆう》にも繋《つな》がる由々《ゆゆ》しき行為《こうい》です。綱紀《こうき》を正す意味からも、これは是正《ぜせい》されねばなりませんわ」
「はあ……」
峻護自身、お堅《かた》さに関しては他の追随《ついずい》を許さない男だが……これはそこまで目くじらを立てるようなことだろうか、
首をひねっている間に令嬢《れいじょう》は矛先《ほこさき》を変える。「月村さん、わたくしの言うことがおわかり? そもそも朝食の用意などはメイドであるわたくしと、それから……こほん、あとはこの家の家事《かじ》担当者である、二ノ宮峻護の仕事なのですわ。これらの雑務《ざつむ》はわたくしたち二人に任せ、あなたなどはリビングで朝のワイドショーでも見ながらみっともない大あくびをしているがいいのです」
言われた真由は黙《だま》ったまま視線《しせん》を落とし、峻護の後ろに隠《かく》れるようなそぶりを見せる。
彼女の控《ひか》えめな性格からして、こういう居丈高《いたけだか》な態度《たいど》に対しては満足に反論《はんろん》できまい。
代わりに弁護《ぺんご》する、
「そうは言いますが先輩、月村さんが家事を手伝うことについては姉の許可が出ています。それを下手《へた》に否定《ひてい》するのは得策《とくさく》じゃないかと……」
「……わかりました。月村さんが朝食の支度《したく》をするのは認めましょう。ただし行状《ぎょうじょう》の監督《かんとく》を兼《か》ねてわたくしも加わり、手伝いをします。何か異存《いぞん》は?」
「はあ……」
どうせなら別の仕事をやってもらった方がトータルの作業|効率《こうりつ》がいいのでは、と言おうとして、しかしそのセリフは半《なか》ばで呑《の》み込んだ。この麗人《れいじん》と正対すると否応《いやおう》なく南の島での出来事《できごと》が蘇《よみがえ》ってくる。その心の奥底《おくそこ》で煉《くすぶ》っている葛藤《かっとう》が彼の口を重くした。
保坂がにこにこ見守る中、三人並んでの調理《ちょうり》が始まった。
麗華が火と鍋《なべ》の面倒《めんどう》を見て、真由は包丁を振《ふ》るう担当。峻護はその間で主に中継《ちゅうけい》役をこなす。
誰も、ひとことも発しない。
菜箸《さいばし》を鳴らす音、包丁とまな板がタップする音だけが、広い厨房《ちゅうぼう》内を無意味に満たす。
微妙《びみょう》な空気である。
朝だというのに、峻護の額《ひたい》には早くも汗《あせ》が滲《にじ》み出ていた。とびきり粘《ねば》っこいやつが。
一方の麗華は、緊張《きんちょう》しすぎて逆に汗が引っ込んでしまっているクチである。すぐ隣《となり》に二ノ宮峻護がいる。かつてこの男とこれほどまでに接近し、なおかつその状態《じょうたい》を維持《いじ》し続けたことがあったろうか? いや、ない。
でも、だからといってどうしてわたくしがこんなに緊張しなければならないのです――と彼女は思う。そう、この男は図体《ずうたい》がバカでかいから、そんな男が隣に立っているから、わたくしは妙《みょう》な圧迫感《あっばくかん》を受けているのですわ。そう、そういうことなのです……。
ふと、麗華は視線を横に走らせた。峻護ではない。その向こうの真由、もっと言えばその手もとである。
見事《みごと》な手さばきだった。包丁を上下させるその動きは均一《きんいつ》にして表情豊かであり、また板の立てる音は音楽じみた響《ひび》きを持っている。平凡《へいぼん》な作業にある種の芸術性を持たせることができる、これは一流の証明だろう。腹立たしいが、それは認めねばなるまい。
しかし、その技巧《ぎこう》を惜《お》しみなく披露《ひろう》している当人は妙にぼんやりしているように見えた。手もとに目を落としながら、それでいて手もとではないどこかを、なんだか虚ろに見つめているようで……
「――痛っ」
案の定、と言うべきか。包丁が野菜と一緒《いっしょ》に指まで刻《きざ》んでしまった。
「ちょ、大丈夫《だいじょうぶ》か月村さん!」
「は、はい、だいじょうぶです。たいしたことないです」
「そんなわけないだろう、そんな出血して。……ちょっと待ってて」
言い残して台所を飛び出し、何秒も数えないうちに救急箱を抱《かか》えて舞《ま》い戻《もど》ってくると、
「さ、消毒《しょうどく》しよう。手を出して」
「い、いいですいいです、自分でやれますからっ」
「何を言ってるんだ、片手で満足にでぎるわけないだろう。いいから早く」
有無を言わせず怪我人《けがにん》の手を取り、治療《ちりょう》を始めた。
頬《ほお》に朱《しゅ》を乗せながら大人しく処置《しょち》を受ける真由。
「…………」
麗華、ひどく面白《おもしろ》くない。――さてはあの小娘《こむすめ》、先ほど見せたぽけーっとした様子《ようす》はこのための伏線《ふくせん》だったのですわね。まったく姑息《こそく》な手を……。
ふと、自分の手もとを見やる。
彼女の手はフライパンを握っていて、新鮮《しんせん》な肉と野菜を油炒《あぶらいた》めの刑《けい》に処している。
腕《うで》を翻《ひるがえ》すたび、熱々《あつあつ》の食材が踊《おど》るようにして宙《ちゅう》を舞《ま》っている。
「…………」
とても、熱そうである。
「…………」
『お嬢さまは演技《えんぎ》が下手ですからねえ』
――と後ろから囁《ささや》かれた気がして、あわてて振り返る。だが彼女の下僕《げぼく》はふわふわ笑いながらこちらを眺《なが》めているだけ。
頭に浮かんでいたアイデアを麗華は急いで打ち消す。
(わたくし、別に演技などするつもりはありませんわ。ええ、もちろん。第一そんな必要がどこにあるのです――)
首をぶんぶん振る。腕と一緒に。
炒め物をしながら。
「!」
気づいた時にはもう、フライパンから中身が飛び出していた。
腕にかかった。
「熱っ……!」
「うわっ、今度は先輩ですか? らしくないな……ちょっと見せてください」腕を取って一瞥《いちぺつ》し、「いけない、かなり広くやっちゃってますね。――さあ、こっちへ」
流し台まで引っ張っていく。麗華は何も言わない。いや、言えない。二ノ宮峻護に腕を取られたというただそれだけの事実が、早々と彼女を石にしている。
「どうですか? 痛みますか?」
水道水で患部《かんぶ》を冷やされながら訊《き》かれても、出来の悪い自動人形のようにこくこく頷《うなず》くのみ。
「ちょっと待っててくださいね先輩。ええと包帯《ほうたい》は……あ、月村さん」
「は、はいっ」
「先輩にそこの軟膏《なんこう》を塗《ぬ》ってあげて」
「わかりました!」
麗華、未《いま》だにぽおっとしている。峻護にかけられた言葉の一つ一つを反芻《はんすう》しながら、やばいクスリでもキメているみたいに目をとろんとさせている。天敵《てんてき》が自分に治療《ちりょう》を施《ほどこ》そうとしているのも見えていない。
だからその瞬間《しゅんかん》まで気づかなかった。動転した真由が『軟膏』を塗《ぬ》る、その瞬間まで。
「はひゃう!」
その、空の果てまでぶっ飛びそうな激痛《げきつう》に、麗華は尻《しり》に火のついたバッタのように飛び上がった。
「ちょっと月村真由! あなた一体なにを塗ったのです!」
「え?」
なじられて真由、自分の手が握っているものに視線を落とした。
練《ね》りカラシのチューブだった。
「――すっ、すいませんすいませんすいませんすいません!」
「こ、こンの大ボケ娘……わざとね? あなた絶対《ぜったい》わざとやりましたわね? もう容赦《ようしゃ》なりません、度重《たびかさ》なる無礼《ぶれい》、すべてわたくしに対する宣戦《せんせん》布告《ふこく》と断定《だんてい》いたします。ええ、もちろん受けて立ちますわ。ぎったんぎったんにして、骨という骨を粉々にして、スルメみたいに浜辺に干《ほ》して差し上げます。遺言《ゆいごん》の用意はよろしくて?」
こうなるともう止まらない、
「先輩、どうか冷静に。月村さんのこういうのはいつものことで……」
「いつものことなら尚更《なおさら》です! こんなことが毎度毎度つづくようでは堪《たま》ったもんじゃありませんわ! 今、この場で! この不調法《ぶちょうほう》な小娘を調教《ちょうきょう》せねばなりません!」
「先輩、そこをなんとか」
「おどきなさい二ノ宮峻護ッ! 庇《かば》いだてするとあなたも容赦しませんよ! わたくしは今日こそこの小娘と雌雄《しゆう》を決するのです!」
「そうそう二ノ宮くん、お嬢《じょう》さまは君とのラブラブシーンを邪魔《じゃま》されてご機嫌《きげん》斜《なな》めなんだから。おまけにそうして真由さんを庇うもんだからますます――」
「保坂! それ以上|寝言《ねごと》をほざくと永遠に寝言しか言えない身体《からだ》にしてやりますからね!」
「っえー、植物状態のままで一生ベッドで過ごすのは嫌だなあ。というわけで二ノ宮くん、ここは一度、この二人を思う存分《ぞんぶん》ケンカさせてみたらどう?」
「そんな先輩、無責任《むせきにん》な……」
「まあそう言わず。こういう場合は案外、感情の赴《おもむ》くまま爆発《ばくはつ》させてみるといい結果が出るんだから。ほら、ガス抜《ぬ》きってやつ? それにこのひとって武道にも心得《こころえ》があるからさ、君にちょっといいとこ見せたくてこんなことを――って、い、痛い、痛い、お嬢さま、やめ、目は、眼球《がんきゅう》だけは、」
「ちょっ、北条先輩落ち着いて! それ以上保坂先輩を壊《こわ》すのは――」
「……やれやれ。朝っぱらから何だね、騒々《そうぞう》しい」
「ちょっと峻護。朝食はまだなの?……って、何この臭《にお》い。鍋の中身がコゲてるじゃない。あんたまたやらかしたのね?」
「困ったものだ。峻護くん、君は食事の用意も満足にできないのかね? その程度《ていど》の器量の男に妹を預《あず》ける僕は広大《こうだい》無辺《むへん》な不安を禁《きん》じえないな」
「というかわかってるなら火を止めてくれよ姉さんも美樹彦《みきひこ》さんも! それと北条先輩も早く!」
「仕方《しかた》のない男だな。では涼子くん」
「このままじゃ朝食どころじゃないものねえ。――さ、麗華ちゃん、こっちへいらっしゃ……あらどうしたの。そんなふうに逃げることないじゃない」
「な、なに? なにをするつもりですのっ?」
「うふふ。それをわたしの口から言わせるつもり? あなたも結構なSねえ」
「や、やめ――ちょっ、お放しなさいこの無礼者《ぶれいもの》!」
「嫌よ嫌よも好きのうち――これはもう、わたしを誘《さそ》ってるとしか思えないわねえ。安心なさい、ちゃんと期待には応《こた》えてあげるから」
「どっ、どこからそのような解釈《かいしゃく》が出てくるのです! わたくしにそんな趣味《しゅみ》はないと何度も、」
「口ではそう言っても身体は正直なものよ。さ、いい子だから大人しく脱《ぬ》ぎ脱ぎしましょうねー」
「こっ、この変態《へんたい》! ド痴女《ちじょ》! ちょっと保坂っ! いつまで寝こけてますのっ! さっさと助けなさい!」
「自分で眠《ねむ》らせた相手に無茶《むちゃ》を言わない。ほらほら、朝は忙《いそが》しいんだから。あまりてこずらせるんじゃないの。手短に済ませるわよ」
「ひっ――だっ、だめ、わたくしほんとに、それは……や、やだっ、そんな、こんなところで、いっ、いやあああああああああああああああああああああああああああああっ!」
――要するに。
麗華と保坂が加わった二ノ宮家は、朝食ひとつ準備《じゅんぴ》するだけでこの騒《さわ》ぎなのだった。
峻護が深々と吐《つ》いた溜《た》め息は、同情に値《あたい》すると言わねばなるまい。
*
若宮町は住宅地であるだけに、人出は朝夕がピークとなる。
平日のその時間帯になれぱ通勤通学《つうきんつうがく》のスーツ姿《すがた》や学生服姿が町の主役。これはどこの住宅地でも代わり映《ば》えのない光景だが、若宮町|独特《どくとく》の風物《ふうぶつ》というのもある。もしこの町を少し高い位置から俯瞰《ふかん》できる者があれば、彼はこの町が人出に比して奇妙《きみょう》に静まっていることに気づくだろう。
それというのもこのあたり、前述《ぜんじゅつ》した通りやたら坂が多く、道は細く入り組んでいる。よって人々は起伏《きふく》の多いこの地区の坂を息も絶《た》え絶《だ》えに上り下りし、ミミズのようにくねった小道にうんざりしながらそれぞれ目的地を目指さねばならない。ましてや眠気を引きずった朝方、しかも早々とアスファルトに陽炎《かげろう》が立つ夏の日とあっては口数が少ないのも道理《どうり》。聞こえてくるのは喘《あえ》ぎ声と舌打《したう》ちばかり、という寸法《すんぽう》である。
当然、企業《きぎょう》戦士《せんし》や受験|闘士《とうし》たちの表情は気だるげであり、知り合いとすれ違《ちが》っても目すら合わさないものだが――何事《なにごと》にも例外はあるもの。町の一角で、二ノ宮峻護の周囲だけが騒然《そうぜん》としていた。
原因が誰にあるか、説明はもう必要あるまい。
隣《となり》を歩く真由を横目で見ながら思う。散々《さんざん》目《ま》の当たりにしてきたことだが、それにしてもサキュバスたる彼女の魅惑《みわく》は空恐《そらおそ》ろしいものがある。男性はもちろん女性にさえも素通《すどお》りを許さない、強制力を持った容姿《ようし》。サキュバスという存在がオカルトではないと知った今でも、やはり何か魔力《まりょく》じみたものを感じざるを得ない。
そして彼女の隣を歩く峻護には、もれなく殺気のダーツが投げられることになる。それが刺《さ》さる度《たび》に寿命《じゅみょう》が一日ずつ縮《ちぢ》んでいくように思うのだが、これにも慣《な》れないわけにはいかない。
「月村さん、大丈夫《だいじょうぶ》?」
下を向き、青い顔をしている男性恐怖症の少女を気遣《きづか》う。
「は、はい、なんとか」
無理《むり》に笑顔《えがお》を作りながら返してくる真由。少しでも油断《ゆだん》すればお花畑の向こうに行ってしまいそうな様子だが、これでも大分マシな方である。というのも男性が通りかかるたび、彼らが真由の魅惑に理性を狂わせる前に峻護がそちらに目を向け、その気の起こりを削《そ》いでいくからだ。もちろん口で言うほど簡単《かんたん》ではない。ボディーガードやSPが周囲にさりげなく気を配るのと根本的には大差《たいさ》ない行動だが、相応《そうおう》の鍛錬《たんれん》を姉から仕込《しこ》まれた峻護だからできる芸当《げいとう》だし、心身の負担も半端《はんぱ》ではない。
おまけに今朝は彼を一層《いっそう》磨耗《まもう》させる、従来《じゅうらい》とは一味ちがう要素《ようそ》があった。
背後からのプレッシャーである。
「ところでお嬢さま」
「なによ」
「どうして二ノ宮くんと真由さんの後をつけたりするんです?」
「決まっていますわ。あの二人が高校生にあるまじき破廉恥《はれんち》な真似《まね》をせぬよう、監督《かんとく》しているのです。これは神宮寺学園生徒会長であるわたくしの真っ当な務《つと》め。後をつけるなどという人聞きの悪い表現をしないで頂戴《ちょうだい》」
「はあ。でもあの二人、どう転んでもこんな外でそんな真似をするとは思えませんけど。せいぜいが手を繋《つな》ぐ程度じゃないかなあ」
「十分に破廉恥ですわ。そのような姿で町を出歩き、我《わ》が校の生徒は慎《つつし》みが無いと近隣《きんりん》に噂《うわさ》が広がればなんとします」
保坂、にこにこしながら聞いている。いつの時代の話ですか、とも、ウチの他の生徒はどうなるんですか、とも言わない。どうせならお嬢さまも彼と並んで歩けばいいのに、という茶々《ちゃちゃ》はちょっと入れてみたいのだが、これも自粛《じしゅく》する。ほんとうに実行して右手と右足を一緒《いっしょ》に出しながら歩いた末に派手《はで》にコケて醜態《しゅうたい》を晒《さら》すことになれぱ、本泣きされそうなので。
「ていうかお嬢さま、生徒会の仕事はどうするんです? いつも校門に立っているアレは今日はサボりですか?」
「そういう誤解《ごかい》を招くような言い方はおよしなさい。これは生徒会長たるわたくしのれっきとした公務《こうむ》、それも極《きわ》めて優先順位の高い公務なのです。他のことは後回しにするのも止《や》むを得《え》ませんわ。あの小娘《こむすめ》が周囲に撤《ま》き散らす影響《えいきょう》、よもや看過《かんか》はできないでしょう?」
それは確かに、と内心で呟《つぶや》いた。
前を向く。一組の男女の姿があり、そして通りがかる人々が例外なく、尋常《じんじょう》ならざる反応を彼らに向けていく。ある意味|壮観《そうかん》というか、外野から見ている分にはむしろちょっとした笑いを誘《さそ》うような、喜劇じみた光景である。もっともそのすぐ後に、保坂自身と彼の主人がほぼ同様の喜劇を再現することになるのだが。
「時に保坂」
前を行く二人に険《けん》のある視線を向けながら、その主人が問うてくる。
「先日のバカンスの際、二ノ宮峻護に何か変わったことはなかった? 何かこう、わたくしを避《さ》ける理由になるようなことが、わたくしの知らないところで……」
「別に何もありませんでしたよ、はい。ていうかお嬢さま、それ訊《き》くのもう十回目ですよ。何回同じ答えを聞けば満足なんですか」
「う、うるさいわねっ。あの男はわたくしに害《がい》を為《な》してきた敵対《てきたい》分子《ぶんし》、その正確な情報を逐次《ちくじ》認識《にんしき》しておくのは必要|不可欠《ふかけつ》な作業なのですわ。たとえばそう、大海原《おおうなばら》を航海《こうかい》する船舶《せんばく》が常に羅針盤《らしんばん》の確認《かくにん》を怠《おこた》らないのと、原理的《げんりてき》には同じことなのよ」
「ていうか、そもそも二ノ宮くんがお嬢さまに敵対したことなんてありましたっけ?」
「あったのですっ!」
「いつ? どこで?」
「あなたは知らなくていいの!」
望みどおりの反応が返ってくる。まさに打てば響《ひび》くというやつであり、保坂少年は幸せでしょうがない。これぞ北条麗華の付き人を務める醍醐味《だいごみ》である。なにしろ四六時中彼女の傍《そば》にいて、好きな時に好きなだけ遊べるのだから。しかも突《つ》っつくネタはほとんど無尽蔵《むじんぞう》にあるときている。
ほくそえみ、もうちょっといじってみようとした時、
「それから保坂」
令嬢が話題を変えた。
瞬間《しゅんかん》、保坂の背すじがピンと伸《の》びる。
「月村真由のことです」
声の質が変わっている。
「真由さんが、何か?」
「調べなさい」
世界を牛耳《ぎゅうじ》る血族の、冷徹《れいてつ》な実務者《じつむしゃ》のそれだ。
「――旦那《だんな》さまからストップがかかってますけど?」
「あの時とは状況《じょうきょう》が違《ちが》うわ。わたくしが許可します。存分に動きなさい」
「方針は?」
「時間と資金《しきん》は好きなだけ使って結構《けっこう》。ただし、目立たぬよう。その上であなたが納得《なっとく》するまで突き詰《つ》めなさい。あの女には必ず何かあります」
「承知《しょうち》しました」
一礼しながら、先ほどとは別の意味でほくそえんだ。
これが、北条麗華なのである。切り替《か》えの早さといい、声の響きそのものが持つ威令《いれい》といい――直属《ちょくぞく》の部下に限っても数万、齢《よわい》十七にして北条コンツェルンの屋台骨《やたいぼね》を担《にな》う大立者《おおだてもの》の、これぞ本領《ほんりょう》というべきだろう。もちろん彼女は内に秘《ひ》めた刃《やいば》をひっきりなしに抜いたりはしない。だがひとたび抜けば畢寛《ひっきょう》、北条麗華の前に立つ者はことごとくその威に打たれ、地にひれ伏《ふ》すことになろう。
いつでも抜ける。抜けば必ず斬《き》る。
ぞくぞくしてきた。まったく、これでこそ彼女に付き従う価値があるというものだ。
ただし、と保坂は付け加える。こんなところで抜き身をチラつかせるのは少々不用意というべきだろう。現に彼女が放つ威圧《いあつ》の余波《よは》を受けた通りすがりの連中が、猛禽《もうきん》に怯《おび》える小鳥のように萎縮《いしゅく》してしまっている。このひとは今後、商務や男女のことだけでなく、気息を自在に揮《ふる》うやり方も覚えていかねばなるまい。
(いずれにせよ月村真由さん、ってわけだね)
主人が睨《にら》みつけている先を保坂も追う。
肩《かた》を丸め、おぼつかない足取りで歩く少女に寄り添《そ》う長身の少年。
彼は今どんな顔をしているものやら、と思う。
お嬢さま、今はもう刃を収めてるけど――それでもこういう視線で扶《えぐ》られ続けるというのは、一体どんな気分なんだろうなあ。
背中に突き刺《さ》さったその感覚に、峻護は思わず疎《すく》みあがった。
反射的《はんしゃてき》に振《ふ》り返ろうとして思いとどまる。後ろに誰がいるか、家を出た時からわかっていることだ。今振り返れば何かこう、見てはいけないものを見てしまう気がする。
「? 二ノ宮くん?」
首を傾《かし》げてくる真由に「何でもない」と手を上げる。脂汗《あぶらあせ》を顔中に滴《したた》らせていては説得力もないが。
それにしても悪夢のような一瞬だった。まるで居合《いあい》の一刀で真っ二つにされるような、そんな光景を幻視《げんし》した気がする。こんな気分を味わうのは入学式のあの時以来だ。やはりあのひとは畏怖《いふ》すべき存在であり、本気で怒《おこ》らせてはいけないひとであり、そして、彼女を怒らせる十分な理由をおれは持って――
と、その時。
真由が胸を掻《か》き抱《いだ》くような仕草《しぐさ》をし、苦しげな吐息《といき》を洩《も》らした。
「どうした月村さん。調子、よくないのか?」
「す、すいません……昨日と一昨日の疲《つか》れが、残ってるみたいで」
「無理しない方がいい。どうする? 少し休んでいこうか?」
「いえ、だいじょうです。心配おかけしてすいません」
「いや、でも――」
どこか、いつもと真由の様子が違う気がするのだ。何がどう、と言われると首をひねるしかないし、異性《いせい》に舐《な》めるような視線を向けられて青くなるのは毎度のことだし、本人の言う通りバカンスの疲れもあるのだろうが……。
心配げな峻護に「それでしたら」と真由は笑い、
「もう少し急ぎませんか? 学校まで行けば、もう少し落ち着けると思いますから」
「そう? でも大丈夫《だいじょうぶ》? 速く歩ける?」
ぐっ、とガッツポーズを取ってみせる真由。
それに笑い返して――しかし峻護は内心、彼女の先行きに思いを馳《は》せざるを得ない。
昨晩、麗華が口にした……言葉が蘇《よみがえ》る。
『つまり、何をして無駄《むだ》だということです、月村さん、あなたが男性|恐怖症《きょうふしょう》を克服《こくふく》する日が来ることなど未来《みらい》永劫《えいごう》ありえないのですわ――』
正味《しょうみ》の話、月村真由の男性恐怖症克服にはどれほどの見込みがあるのだろう。彼女がニノ宮家に来てから一週間あまり。その間さまざまにリハビリを試みてきたわけだが、はたしてその効果《こうか》はどうか。自画自賛《じがじさん》するようではあるが、自分が傍《そば》にいるからこそどうにか日常生活を送れている、というのが実情である。もとより長期戦は覚悟《かくご》していたとはいえ、一体いつになれぱその日が来るのだろう。いや、そもそも本当にその日は来るのだろうか。
「――あの」
足を速めながら真由がぽつりと呟《つぶや》く。
「え? 何?」
「もしも、もしもよかったらでいいんですが」
うつむいたまま、消え入りそうな声で、
「手を、繋《つな》いでもらえませんか?」
「手?」
「二ノ宮くんが傍にいてくれても、それでもまだひとりでいるみたいで。心細くて、どうしようもなく不安で。だから」
ほとんど聞き取れない声で、なおも続ける。
「すいません、いつもお願いばかりして。でも、ご迷惑《めいわく》だと思いますけど、どうか……」
「あー、うん、ええと……」
頬《ほお》をぽりぽり掻く。
人目はちょっと、いやかなり気になるけど。特に後ろの方とか。
でも、それだけのことだ。
シャツの裾《すそ》でごしごし拭《ふ》き、黙《だま》って手を差し出した。
――それだけのことなのに。
月村真由は、なんだか泣きそうになっているように見えた。
「あンの……ッ!」
眼前で行われた不埒《ふらち》を目《ま》の当たりにした麗華は即座《そくざ》に激昂《げっこう》した。
そもそもこうして距離《きょり》を置き、手も口も出さず監視《かんし》するだけにとどまっていたのはなぜか。あの二人に保護者と被《ひ》保護者という関係があり、その関係に確かな正当性と実効性《じっこうせい》があったためである。それについては彼女も渋々《しぶしぶ》ながら認めざるをえず、妥協《だきょう》に次ぐ妥協を重ねてイライラしつつも現状に甘《あま》んじているというのに……これではほとんど暴発《ぼうはつ》の口実を与《あた》えているようなものだった。
「許しません!」
案の定まなじりを吊《つ》り上げ、今にも駆《か》け出さんとした時、
ぴるるるるるるるるるる
脱力《だつりょく》を誘発《ゆうはつ》する電子音がへろへろと流れた。
気勢《きせい》を削《そ》がれ、麗華は走り出そうとした格好《かっこう》のまま固まる。
「はいはいもしもし、ぼくですよ〜」
付き人少年がいつも通りのんきな声で携帯《けいたい》に話し掛《か》け、
「お嬢《じょう》さま、仕事ですよ。今朝方までやってたやつの続きです」
すぐに要点《ようてん》を伝えてきた。
「ちょっと、またなの! まったく……あの者たちは何をやって……」
「ま、風邪《かぜ》でいえぱ治りばな、ってとこでしたからねえ。どうも相場《そうば》に大幅《おおばば》な変動《へんどう》の兆候《ちょうこう》があるようです。たぶん対抗《たいこう》ファンドが糸引いてますね。現状の人員《じんいん》でも手に負えなくはないでしょうが、お嬢さまが現場で指揮《しき》を執《と》ったほうが確実でしょう。今回の買収には馬鹿《ばか》にならない投資《とうし》をしてますし――それにどうやら相手も手ごわそうだ」
「〜〜〜〜〜〜っ」
頭を掻《か》き毟《むし》らんばかりの顔つきをしていた令嬢だったが、
「――行きますわよっ。迎《むか》えはもう用意してあるのでしょうっ?」
「十秒以内に来ます。とりあえず電話で大雑把《おおざっぱ》な状況《じょうきょう》だけでも聞いといてください」
さっさと歩き出した主人に携帯を投げ渡《わた》してから、
(じゃ、今日も一日がんばってね、お二人さん)
手を取り合って先を急ぐ苦労人とサキュバス少女にウィンクを送る。
それと入れ替《か》わるようにして、大理石の宮殿《きゅうでん》を思わせる白いセダンが坂を登ってきた。
*
まずいことになった。
真由と連れ立って校門をくぐる頃《ころ》には、峻護はそのことを痛いほど自覚《じかく》していた。
言及《げんきゅう》するまでもなく、容姿《ようし》抜群《ばつぐん》の月村真由は学園のアイドルである。アイドルというか清純派《せいじゅんは》セクシードールとでもいうか――ともかく、彼女には無数のファンがいる。
その人気者が男と手を取り合って歩いているのだ。事件にならぬはずがない。
もちろんわかってはいた。彼女と手を繋《つな》いだまま学園内を練《ね》り歩くことになればどうなるか。ゆえに峻護とて学校まで来たら手を放すつもりでいたのだ。
しかしそのことを申し出ると真由は、はぐれた親をようやく見つけた迷子《まいご》のような瞳《ひとみ》で見上げてくるのである。もともと月村真由には甘い峻護のこと。こういう真似《まね》をされてなお毅然《きぜん》とした態度を取れるはずもなく、結局のところなし崩《くず》し的に泥沼《どろぬま》へ嵌《は》まっていくしかないのだった。
視線が、痛い。
二人を目撃《もくげき》した生徒たちはほとんど例外なく目を瞠《みは》り、次いで傍にいる者同士で何やらひそひそ囁《ささや》き合う。真由の、度が過ぎるほど控《ひか》えめで純情な性格は既《すで》に知れ渡っていること。その彼女が白昼《はくちゅう》堂々《どうどう》(というのは彼らの偏見《へんけん》で、実際には小人のように小さくなって)男性と手を繋いでいるのだ。大事件である。相手が彼女のガーディアン、二ノ宮峻護であることはこの際問題ではない。
だが、何かしらの実力|行使《こうし》に出る者が一人もいないのは不幸中の幸い――というべきかどうか。ギャラリーは反応に窮《きゅう》しているだけかもしれないが、なにかこう、まるで後ろ指をさされているかのようなこの状況は、彼をひどくそわそわさせる。お天道様《てんとうさま》の下を大手を振って歩ける人間たること、二ノ宮峻護はそれのみを信条にしているような男であり、直接|攻撃《こうげき》には耐性《たいせい》があってもこういう間接《かんせつ》攻撃には免疫《めんえき》がないのだ。
全身に矢を受けて大往生《だいおうじょう》した武蔵坊《むさしぼう》弁慶《ぺんけい》の気分で峻護は校内を進んでいく。
一年A組の教室に入った。
騒《さわ》がしかった空気が静まり返った。
「…………」
全員の視線が、登校した二人の手もとに注がれている。
目を泳がせながら席に向かう。
席が隣《となり》同士である真由と並んで、着席した。
「……きゃ――――――――――――――――――――――――――――――――っ!」
そこまできてようやく黄色い声が爆発《ばくはつ》した。
「ちょっとちょっとなに? なんなの? どうしちゃったわけ?」
「やだもーダイタンすぎ! どういうことよっ、話聞かせなさい! ほれほれっ」
たちまち女性|陣《じん》が真由を囲い込み、峻護はそのままお役御免《やくごめん》となった。
自然、安堵《あんど》の吐息《といき》が口をつく。
苦難《くなん》続きの峻護にとって、ここしばらくで唯一《ゆいいつ》楽をできるようになったのがこれである。転校初日から同級生女子による悪質《あくしつ》なジョークの洗礼《せんれい》に遭《あ》った真由だが、それも初日だけの話。一般人《いっぱんじん》からすれば何かと扱《あつか》いにくい面もあろう彼女であるが、今ではすっかり受け入れられていた。こうして女性陣の輪《わ》に入り込むことによって男どもから受ける圧迫《あっばく》も多少は軽減《けいげん》されるし、新入りの男性|恐怖症《きょうふしょう》を知っている彼女たちが何かとサポートに回ったりもしてくれるのだ。
だがそんな博愛《はくあい》主義《しゅぎ》も、あくまでクラスの半数のみが奉《ほう》ずる信条なわけで……。
気を抜《ぬ》きかけた峻護の元にヒソヒソ声が届いてくる。
(おい、どういうことだ……?)
グラスのもう半数、男どもからである。
(わからん。なんか、あってはならないことが起きて、それを全員が目の当たりにしたように思うんだが……俺《おれ》の錯覚《さっかく》か?)
(いや、俺も見た。残念ながらマジっぽい。二ノ宮の野郎《やろう》が月村さんと手を繋《つな》いで登校した……この事実はもう動かしようがねえ)
(抜け駆《が》けだ……)
(裏切り行為《こうい》だ……)
(ウチのクラスにユダが現れたぞ……)
峻護を遠巻きにした男子たちが口々に呪誼《じゅそ》の言葉を連《つら》ねていく。月村真由の転入以来、ただでさえ風当たりの強かったものが、ここへきていよいよ逆風となりつつあるようだ。
(だがおかしい。いくらなんでも急に親密《しんみつ》になりすぎだろう)
(なにかあった、ってことか?)
(おいよく見ろ。二ノ宮のやつ、なんか妙《みよう》に日焼けしてないか?)
(そういえぱ月村さんも……肌《はだ》が白いからわかりにくいけど……)
(今は夏……夏といえぱ海……そして昨日と一昨日は休日だった……)
(おいちょっとまて、あの二人、ま、まさかヒトナツの経験をっ?)
「!」
冗談《じょうだん》じゃない――立ち上がってそう叫《さけ》ぼうとし、だが次の瞬間《しゅんかん》、彼の脳裏《のうり》を掠《かす》めたあることがその衝動《しょうどう》を押《お》しとどめた。
あの南の島の、月と星の夜。
おれは何をした?
あのひとに、おれは何を――
ちがう。ちがうんだ。あれはあくまで治療《ちりょう》行為《こうい》であって、緊急《きんきゅう》避難《ひなん》であって、おれはそんなつもりじゃ……
こりない葛藤《かっとう》に頭を抱《かか》え始めた峻護をよそに、クラスメイトたちはさらに想像をたくましくしている。
(そう言われてみると、なんか月村さんの様子はいつもと違う気がするな)
(ああ、確かに)
(違うって、具体的《ぐたいてき》にはどう違うんだ?)
(そうだな――なんかこう、これまでよりもさらに色っぽくなったような。そんな気がしないか?)
(うん、月村さんさっきからずっと、二ノ宮を潤《うる》んだような目で見てるんだよな。なんというか、自分のすべてを安心して預けきっているような)
(おい、じゃあやっぱり……)
ぴりぴりムードが一気に高まる。
(間違《まちが》いねえ。あの野郎、本当に月村さんを……)
(どうする? この場で殺《や》るか?)
(いや待て。ここは人目がある。見られるのはさすがにまずい。今は機《き》を窺《うかが》うんだ……)
物騒《ぶっそう》な会話が続く。どう見ても言いがかり、あるいは誇大《こだい》妄想《もうそう》の域《いき》を出ない論調《ろんちょう》なのだが、まったく事実《じじつ》無根《むこん》かといえば峻護の方に心当たりがある。その後ろめたさが彼から反論《はんろん》の気力を奪《うば》い取っていた。
針《はり》のムシロに正座させられたまま、のろのろと時間が過ぎてゆく。
予鈴《よれい》が鳴った。
ホッと一息つく。授業に入れば状況も少しはマシになるだろう――と考えたところで思い出した。教室に来る前、通りがかった教師に用事を言いつけられていたのである。『あとで資料室に来い。うんざりするほどのプリントの山があるからそれを運ぶのを手伝え』とのことだった。ご丁寧《ていねい》にも『一人で来るように。助太刀《すけだち》は許さん』との厳命《げんめい》を受けている。これも真由との仲を妬《ねた》んでの嫌《いや》がらせ――と考えるのは穿《うが》ちすぎだろうか。
どちらにせよ時間がない。急がないと。
席を立つと、真っ先に真由が反応した。
「あっ。二ノ宮くん、どこへ?」
「ああいや、プリント運びの手伝いをするように言われてるから。ちょっと行ってくる」
「あ、でしたらわたし、お手伝いします」
言って、すぐこちらへ駆《か》け寄ってきた。
が、そもそも峻護一人が指名された仕事である。それにここで真由と行動を共にし、血に飢《う》えた男どもを刺激《しげき》するのは避《さ》けたい。
「いや、いい。おれ一人で行く」
できるだけ素《そ》っ気《け》なく申し出を断《ことわ》った。
すぐさま、状況《じょうきょう》を食い入るように観察《かんさつ》していた男子たちがヒソヒソ話を再開する。
(おい、どういうことだ。月村さんの申し出を断《ことわ》ったぞ)
(だな。深い関係になった後にしては妙に冷たい気がするな)
(ああ。ということは俺たちの勘違《かんちが》いだったのか? 二ノ宮には悪いことをしたな)
(やっぱりあいつは俺たちの仲間だよな)
だんだん友好的な空気が戻《もど》ってくる。どうやら嫌疑《けんぎ》は晴れてくれたようだ。
「じゃあ、そういうことだから。行ってくる」
「そう――ですか……」
しょんぼりとうなだれる真由に頷《うなず》き、教室を出ようとした――のだが。
今度は逆の方向から囁《ささや》き声が聞こえた。
(ちょっとなにあれ。あの子がせっかく手伝おうって言ってるのに)
(二ノ宮くんって女の子の厚意《こうい》を無下《むげ》にするヒトだったわけ?)
(えー。なんかゲンメツー。イヤよね、そういうオトコって)
(二ノ宮くんって真由のことで大変だし、他《ほか》にもいろいろ苦労してるみたいだからさ、できるだけあたしたちが協力してあげようって思ってたけど――それとかもさ、ちょっと考え直した方がよくない?)
「…………」
峻護の歩みが止まる。
「…………」
教室中が彼を注視《ちゅうし》している。
「…………あー、」
いくばくかの沈黙《ちんもく》の後、もごもごと口を開いた。
「月村さん、やっぱりついてきてもらえるかな? おれだけでは荷《に》が重そうだ」
「えっ?」
「おれと一緒《いっしょ》に来て、手伝って欲《ほ》しい」
「はっ、はい、よろこんで!」
暗く澱《よど》んでいた真由の表情が、雲の晴れ間から陽《ひ》が覗《のぞ》いたように明るくなる。
(――なあんだ、心配して損《そん》した)
(ちゃんと上手《うま》くやってるじゃない、あの二人)
(意地悪《いじわる》せずに最初からああ言えばいいのにね、二ノ宮くんも)
うまいこと誤解《ごかい》は解けたようだ。
真由がすっと寄り添《そ》い、えへへとはにかみながら見上げてくる。
「さ、じゃあ行きましょう二ノ宮くん」
「ああ、そうしよう。あまり時間がないから急がないと」
頷き返し、今度こそ教室を出ようとして、
(――おい見たか、月村さんのあの嬉《うれ》しそうな顔)
(見た。信じたくはないが、あれは明らかに――二ノ宮の野郎《やろう》、やっぱり……)
(やっぱ殺るか?)
(だな)
(よし、ヒットマンの手配は俺に任せろ)
(なら俺は掃除屋《そうじや》の手配だ)
(決行はいつ?)
(もちろん今日中に)
「…………」
とんとん拍子《ぴょうし》に段取《だんど》りされていく暗殺計画に、峻護の足が再々度止まる。
「? 二ノ宮くん」
沈黙。
そして注視。
全員が、峻護の答えを待っている。
彼には知る由《よし》もない。一年A組の面々が、峻護をおもちゃにして遊ぶ技術にどれほど長《た》けているかを。彼が真由と手を繋《つな》ぎ合って教室に登場した瞬間、クラス全員の頭にどんなアイデアが閃《ひらめ》いたかを。そうして共有したインスピレーションの元、彼らが無言《むごん》のうちに結託《けったく》していたことを。その思惑《おもわく》にまんまと嵌《は》まっているがゆえに、今こうして苦悩《くのう》の渦《うず》に目を回していることを。
教室を出かかる格好《かっこう》のままの立ち尽《つ》くし、峻護は呆然《ぼうぜん》と運命の女神《めがみ》に問いかける。
(……………………おれに、どうしろと?)
今日も長い一日になりそうだ。
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其の二 目がすわる⇔目がおよぐ
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昼休み。
といえば、あらゆる学校生活において最も活気《かっき》ある時間帯である。
食堂でダベるもよし、グラウンドや体育館でスポーツに汗《あせ》するもよし、伝説の木の下で永遠の愛を誓《ちか》うもよし。写真部の暗室あたりでカード賭博《とばく》に興《きょう》じるのも、廊下《ろうか》で十八|禁物資《きんぶっし》の取引に応じるのも、気に食わない相手を校舎裏に呼び出して拳《こぶし》を交えるのもまた、青春の輝《かがや》かしき一ページだ。
そんな諸々《もろもろ》の人生|模様《もよう》が万華鏡《まんげきょう》のように繰《く》り広げられる神宮寺《じんぐうじ》学園にあって、今現在もっとも景気《けいき》の悪いツラを下げているのは|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》であったろう。
教員|棟《とう》の一隅《いちぐう》、用務員室である。峻護の駆《か》け込み寺のようになっているこの六畳間《ろくじょうま》の卓袱台《ちゃぶだい》に横顔を乗せ、彼は全身|全霊《ぜんれい》でもってへばっていた。
「峻護くん、君も相変わらずヘナっちょろいな。この程度《ていど》の試練《しれん》にくじけているようでは先が思いやられるよ」
「まったくね。あんたも二ノ宮家の男子でしょう、だらしなく死んでないでしゃきっとなさい」
学園の用務員として潜《もぐ》り込んでいる美樹彦《みきひこ》と、同じく保健医に成《な》りすましている涼子《りょうこ》が、それぞれお茶をすすりながら言いよこしてくる。それでも抗弁《こうぺん》する気力は起こらない。
ここまでの半日をひとことで表現すれぱ『精神力の耐久《たいきゅう》テスト』、これに尽《つ》きる。というのも、今朝クラス内で始まった究極《きゅうきょく》の二択《にたく》ゲームが、あれ以降|延々《えんえん》と続いていたのである。
真由《まゆ》の申し出を受ければ男子から殺気《さっき》。断《ことわ》れば女子から殺気。
板ばさみになりつつもどちらかを選ばなけれぱならない重圧《じゅうあつ》は、実際かなり効《き》いた。しかも月村《つきむら》真由、元からそうではあったが、今日はことさら峻護の世話《せわ》を焼こうとするのである。そのたびに再度の二択を迫《せま》られ、煩悶《はんもん》することになるのだ。
もっともこうして小休止しながら考えてみるに、ああいう状況《じょうきょう》でも上手《うま》く立ち回る方法はあったはずであり、そうすればここまでポンコツにならずとも済んだであろう。だが峻護の性格を知り尽くした悪友たちは、彼に立ち直りのきっかけを与《あた》えないよう、巧《たく》みに二の矢三の矢を繰り出してくるのだ。さして器用《きよう》でもない峻護には避《さ》けようもない連携《れんけい》である。しかもこの、一年A組の面々が発明した『二ノ宮峻護を使った新しい遊び方』が瞬《またた》く間に全校に伝播《でんぱ》し、彼が真由を連れて校内を歩くたびにそれが試《ため》され、おまけにただ試されるだけでなくちょっとした流行《りゅうこう》になる兆《きざ》しさえある。これが峻護の新たな頭痛の種となり、早くも彼の精神に深い根を張《は》っているのだった。まさしく『ご愁傷《しゅうしょう》さま』といったところである。
「ま、それもこれも人気者の宿命というやつさ。大いに悩《なや》むのが吉《きち》だろう」
「それに生ぬるいあんたには丁度《ちょうど》いい修行《しゅぎょう》になるわね。簡単《かんたん》に音《ね》を上げず、ここはきっちりと切り抜《ぬ》けてみせなさい」
気楽に言ってくれる。どうもこの二人、昨日の言葉どおり積極的《せっきょくてき》に傍観者《ぼうかんしゃ》の側に立つ気らしい。この超越者《ジョーカー》たちが介入《かいにゅう》しないというのは、それはそれで困りものなのだが。
「……思うんですけど」
つい、愚痴《ぐち》が出る。
「自分で言うのもなんですが、最近のおれってちょっと負担《ふたん》が多すぎませんか? 月村さんのことだけでも一杯《いっぱい》一杯なのに、そこへきて北条《ほうじょう》先輩《せんぱい》と保坂《ほさか》先輩も同居することになって。北条先輩はずっと月村さんのことを敵視《てきし》してるし、保坂先輩は丸く治めようという気がまったくなさそうだし――」
ただでさえ成立した瞬間《しゅんかん》から一触《いっしょく》即発《そくはつ》だった状況である。いずれどこかの時点で破綻《はたん》を見るに決まっている。
特に頭を悩ますのは北条|麗華《れいか》とのあれこれだが、これについては峻護、誰《だれ》にも相談できない問題だと考えている。南の島で起きたことを他言《たごん》する気にはとてもなれない。これはどうあっても自分で解決《かいけつ》しなければならない。
だがそれを措いたとしても――彼女のサキュバス化のことはどう扱えばいいのだろう。姉と美樹彦に話しても『心配ない』の一点張り。そう言われたって心配になるに決まっているのだが、それ以上|突《つ》っ込んで訊《き》くことは峻護も薦踏《ちゅうちょ》してしまう。下手《へた》を打てば藪《やぶ》をつついてヘビを起こすことにもなりかねない。
結局のところ効果《こうか》覿面《てきめん》な解決策《かいけつさく》などありそうになく、こうしてクダを巻く他《ほか》どうすることもできずにいる。
「月村さんと並んで歩けば知らない人間からも恨《うら》まれるし、クラスの連中は好き勝手なこと言うし、家に帰ったって気の休まる暇《ひま》はないし――おれはただ、静かで平和な暮らしができれぱそれでいいのに――」
我《われ》ながら情けない醜態《しゅうたい》だが、それでも涼子と美樹彦は彼の軟弱《なんじゃく》を糾弾《きゅうだん》しょうとしない。本当に傍観を決め込むつもりなのか。
ずずず、とお茶をすする音だけが部屋の中に澱《よど》んでいる。
日当たりの悪くて湿気《しっけ》くさい、薄暗《うすぐら》い部屋。梅雨《つゆ》の時期にはキノコが生えそうな畳《たたみ》の上に乗る、グラグラと安定の悪い卓袱台。チャンネルを回すタイプのテレビ。首を振《ふ》っている錆《さび》の浮《う》いた扇風機《せんぷうき》。なぜか置いてある炊飯器《すいはんき》にはデジタル表示がない。懐古《かいこ》趣味的《しゅみてき》な品が多いのは部屋の主の好みだろうか。
「峻護くん」
その美樹彦が湯飲みを置き、
「いまさらあらためて言うことでもないが――実際《じっさい》のところ、我々《われわれ》が期待を持てる人材というのは君くらいしかいないんだよ。真由を護《まも》るにせよ、彼女の男性|恐怖症《きょうふしょう》を改善《かいぜん》させるにせよね。僕らにとって最後のカードが君なんだ。そしてそれを切った選択《せんたく》は今のところ上手くいっていると信じている」
卓袱台に顔を預《あず》けたまま耳を傾《かたむ》ける。グラウンドから聞こえる歓声《かんせい》がひどく煩《わずら》わしい。
「麗華くんにしても、今の様子《ようす》なら放《ほう》っておいても大丈夫《だいじょうぶ》だろうが――それでもこの先どう転ぶかは未知数《みちすう》だ。できるだけ手元において様子を見た方がいい。まあ、そのことで君の周囲が騒《さわ》がしくなるのは不可避《ふかひ》にしても、少女二人があまり芳《かんば》しくない状況に置かれているのだ。存分《ぞんぷん》にヒロイズムを発揮《はっき》し、今のうちに功徳《くどく》を積《つ》んでおくのがよかろう。そうすれば閻魔帳《えんまちょう》のプラス査定《さてい》に少しは貢献《こうけん》できるだろうさ」
あまりこの男らしくない、淡《あわ》い笑《え》みで締《し》めくくる。正直言ってちょっと気味が悪い。
吐息《といき》する。もとより、今さら投げ出すつもりはなかった。
「ところで峻護」
飽《あ》きもせず茶を飲みながら、今度は涼子が口を開く。
「ここで油売るのは勝手だけど――真由ちゃんの安全は確保《かくほ》してるんでしょうね?」
「用事があるとかで、昼休みが始まってすぐにおれとは離《はな》れたよ。たぶんクラスの女子と何かやっているんだと思うから、問題ない」
現在の彼女たちは真由に対して大いに協力的だ。そのフォローには十分期待できるし、真由に普通《ふつう》の学校生活を送らせるという観点からもこれは望ましいといえる。もっとも最近は様々《さまざま》な悪知恵《わるぢえ》も仕込《しこ》んでいるようで、その点はちょっと心配なのだが、これは友人づきあいの一環《いっかん》として割り切るしかない。
グラウンドから届いてくる声がまばらになりつつあった。そろそろ授業が始まる。
(――よし)
気合《きあい》を入れなおし、立ち上がった。
「しっかりやりたまえ。何度も言うが、君には大いに期待しているのだ」
話半分に聞き流し、峻護は用務員室を後にした。
部屋に残った二人は、なおも湯飲みに口をつけている。
「甘《あま》いわねえ、美樹彦」
「そうかい?」
「そうよ」
「ふふ、君ほどではないさ」
「何の話?」
「さて?」
美樹彦は表情を変えない。その相棒《あいぼう》も、また。
お互《たが》いにお茶のお代わりを注ぎ、再びすすり始める。
「ところで真由ちゃんのことだけど」
「うむ」
「そろそろじゃない?」
「だな。ストレスもずいぶん溜まっているしね」
「大丈夫《だいじょうぶ》かしら」
「まあ、まだ大丈夫だろう。備《そな》えはしておくが、案ずることはあるまい」
「そうね」
ずずず、とお茶をすする音。
案じてもどうにもならないでしょうしね、という涼子の呟《つぶや》きは、玉露《ぎょくろ》の立てる湯気と共に溶けて消える。
*
「あ、いたいた。二ノ宮くーん」
教室に向かう途中《とちゅう》の廊下《ろうか》で、ショートカットの少女が手を振《ふ》り振り歩み寄ってきた。綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》。一年A組女子の中心人物であり、真由の面倒《めんどう》を何かと見てくれる世話《せわ》好きでもある。
「あれ? 真由は? 二ノ宮くんと一緒《いっしょ》じゃなかったの?」
開口《かいこう》一番、日奈子は不思議《ふしぎ》そうな顔をした。
「いやちがう。というか綾川さんと一緒じゃなかったのか? 昼休みに入ってすぐ、月村さんは君たちと――」
「それがさー、あのあとすぐに別れちゃったのよ。二ノ宮くんのとこに戻《もど》るって言ってさ。ひとりで大丈夫だって言うから、付き添《そ》ったりはしなかったんだけど」
「え? そうなのか?」
近ごろの峻護が昼を過ごす場所といえば用務員室か保健室であり、それは真由もよく知っている。そういうことなら真っ先に顔を出すはずだが。
「じゃあ、月村さんは今、ひとりで校内に……?」
「そうなるかも」
それは――まずい。手負いのガゼルがライオンの群れのど真ん中に放り込まれるようなものだ。
「すぐに探さないと……!」
「心配ないんじゃない? ほら」言って、ぐるりと校舎全体を見回す仕草《しぐさ》。「どこも騒《さわ》ぎになってないでしょ?」
なるほど、と思う。真由が単独《たんどく》で校内をうろついていれば学園内がこんなに平穏《へいおん》なはずもない。
「それに探すにしたって学園のどこにいるかわかんないしさ。ほら、ここってけっこう広いでしょ?」
「確かに……」
「それだったらまず教室に戻ってみない? そろそろ昼休みも終わるし、先に戻ってるかもよ? いなければ、その時あらためて探せばいいし」
「わかった。じゃあまずは教室に――」
「ああちょっと待って。ていうか二ノ宮くんに話あったから、ちょうどよかった」
「話?」
「そ。真面目《まじめ》な話、なんだけどさ」
彼女にしては珍《めずら》しい、改まった口調《くちょう》である。
「二ノ宮くん……真由と、何かあった?」
「なにか?」
南の島で色々あったのは確かだが、彼女の言う『何か』とはそういうことを指しているのではなさそうだ。
少し考えてから答える、
「いや、べつに何もないけど?」
「……それはどうかな……二ノ宮くん鈍《にぶ》いし……」
「え?」
「ううん、こっちの話」
「それで、なぜそんなことを?」
「なぜ、っていうかさ……あー、まあいいや、その話は」ひらひらと手を振り、「それからちょっと話変わるけど」
今度は何だろう。
「一度きっちり聞いておこうと思って。あのさ、真由って、どんな子なの?」
「いや、どんな子、と言われても……」
同居しているとはいえ出会ってからまだ間もないのだ。多くを知ることのできる状況《じょうきょう》ではない、それに真由自身があまり多くを語ろうとしない。知っていることについてもそうおいそれとは話せない。
それでも言える範囲《はんい》のことをかいつまんで伝えてみるが、伝えるほどに自分がいかに彼女について無知《むち》であるか自覚《じかく》せざるをえなかった。
その感想は日奈子も同様だったようだ。落胆《らくたん》と白眼《はくがん》を隠《かく》そうともせず、
「でもま、それも仕方《しかた》ないか。考えてみれば二ノ宮くんだってまだ一週間ちょっとだもんね、真由と会ってから。あたしらとほとんど変わんないし」
「……月村さんはそういうことあまり話さないんだな、綾川さんにも」
「いま聞いた以上のことは、ね。『訊《き》いて欲《ほ》しくないオーラ』みたいなの、わりと出してるし。無理に聞こうとはしてないんだけど」
うーむ、と腕組《うでぐ》みし、難《むずか》しい顔をする日奈子。
「例えば、さ」
手探《てさぐ》りするような声調子で再び口を開く。
「あの子ってかわいいじゃん。ちょっとシャレにならないくらいにさ。あの子自身はそれを鼻にかけたりしてないし、どっちかというとそのことをコンプレックスみたいに思ってるような感じだけど、でもさ、あそこま突《つ》き抜《ぬ》けちゃってるとさ、いろいろ悪《わる》目立《めだ》ちするわけよ、どうしたって」
「…………」
「そういうあたしも、あんまりエラソーなこと言える立場じゃないけど」
それだけ告げ、じっと覗《のぞ》き込んでくる。
「例えば、そういうことなわけ」
ん? とでも問いたげな眼差《まなざ》し。
「……たぶん、わかると思う。綾川さんの言いたいこと」
「そ」
半信《はんしん》半疑《はんぎ》のようだったが、ひとまず納得《なっとく》したようだ。
「じゃ、そろそろ戻ろっか。――ああ、それともういっこ」
まだあるのか。
「真由って今日、どこか体調とか悪かったりする? といっても頭痛とか腹痛とか、そういう感じじゃないんだけど」
「ああ。昨日一昨日と、ちょっと遠出していたから。その疲《つか》れが残ってるらしい」
「それはあたしも聞いたけど……」
「月村さんに、何か――」
「うーん……」
再び難しい顔をする。
「あまりそういうのは口にしないタイプだからな、月村さんは。無理はしないようにって、いつも言ってはいるんだけど」
「意外とガンコだもんね、あの子ってば。……まあとにかく、ちょっと気をつけてみることにするわ、真由のこと。二ノ宮くんもお願い」
「それはもちろん――」
と、その時。
昼休みの終わりを告げるチャイムが間延《まの》びした響《ひび》きで学園を満たした。
*
それより少しさかのぼった、神宮寺学園生徒会室。
CEOとしての急務《きゅうむ》を片付けた北条麗華はようやく遅《おそ》い登校を果《は》たした後、今度は溜《た》まっている生徒会の雑務《ざつむ》に追われていた。
せわしなく眼球を動かし、山のように積《つ》まれた書頃に目を通していく。短距離走《たんきょりそう》のピッチで駅伝をこなすようなペースだが、読み飛ばしているわけではない。それが証拠《しょうこ》にペンを握った彼女の右手も休みなく揮《ふる》われ、必要|事項《じこう》の追加や上申案《じょうしんあん》の添削《てんさく》を目まぐるしくこなしている。機械のような処理速度《しよりそくど》であり、それでいて有機《ゆうき》生物《せいぶつ》のダイナミズムを如何《いかん》なく発揮《はっき》した、多少の誇張《こちょう》を込めていえば宗教的《しゅうきょうてき》忘我《ぼうが》の域《いき》に達しているような、そんな仕事ぶり。
簡素《かんそ》な造りの生徒会室は、その主の存在感《そんざいかん》とは逆に華美《かび》さも豪奢《ごうしゃ》さもない。麗華の他に五人ほどの生徒会役員が詰《つ》め、各々《おのおの》の昼休みを割《さ》いて会に奉職《ほうしよく》している。
その中のひとり、セルなし眼鏡《めがね》の少年が席を離《はな》れた。
ファイルを片手に麗華の前に立つ。
「北条さん」
「? なにかしら甲本《こうもと》さん」
仕事の手を緩《ゆる》めぬまま、麗華。
「さっき北条さんから渡《わた》された、秋の体育祭と文化祭の企画《きかく》案についてだけど」
「それがどうかしまして?」
神宮寺学園三年生、副生徒会長の甲本|陽一《よういち》は、爆笑《ばくしょう》を噛《か》み殺しているような、むずむずした顔で、
「いや、本当にこれでいくのか、って思ってさ。一応本人に確認《かくにん》を」
片腕《かたうで》と頼《たよ》る男の遠回しな言い方に不審《ふしん》の目を向けつつ、その資料を受け取った。
その場にあるすべての目が向けられる中、紙面《しめん》に並ぶ文字列をざっと追う。
若宮町《わかみやちょう》の戦慄《せんりつ》! ウェルカム死後の世界 リアルお化け屋敷《やしき》
あなたを未知《みち》の世界へいざなうセンス・オブ・ワンダー 世界|大拷問《だいごうもん》展
合言葉は『流血《りゅうけつ》』! その時あなたは伝説の生き証人となる ザ・牙戦《きばせん》
大顰蹙《だいひんしゅく》! ルール無用の泥沼《どろぬま》ファイト 全生徒|対抗《たいこう》略奪《りゃくだつ》 借り物競争
「…………なんですの、これ」
「なんですの、というか、北条さんの出した案だけど。個人的にはとても面白《おもしろ》いと思うから、ぜひ一票入れたい」
「わたくしの案……?」
背後に控《ひか》える付き人少年を振り返り、もの問いたげな顔。
「お嬢《じょう》さまが一昨日考えたアイデアですよ、それ。間違《まちが》いなく」
「ほんとうに?」
目をぱちくりとさせていた麗華だが、
「――わたくしの仕事のチェックはあなたの役目でしょう。どうしてこんな案をそのまま回覧《かいらん》に出すのよ」
「いや、だって面白いですもん、その企画。ぼくも賛成《さんせい》に一票」
「……とにかく、その案は取り下げますわ。甲本さん、別の企画を考えますからその話はまた後日《ごじつ》」
『わたくし、ほんとうにこんなの考えたかしら』と呟《つぶやき》つつ麗華は仕事に戻り、周囲《しゅうい》もそれに倣《なら》う。
と、ふと思い出したように、
「ところで甲本さん」
「なんだい会長」
コホンと咳払《せきばら》い、
「先日わたくしが立案《りつあん》した、新しい校則についてですけど」
「学園|治安《ちあん》維持法《いじほう》、だっけ? 著《いちじる》しい混乱《こんらん》をもたらす恐《おそ》れのある生徒の行動を校則によって制限《せいげん》する、場合によっては退学《たいがく》もありうる、とかいう」
「ええ、それですわ。検討《けんとう》して頂《いただ》けましたこと?」
「うーん、まあネーミングの微妙《ぴみょう》さは措《お》いておくとしてもさ」
髪《かみ》をわしわしとかき回しながらその資料を手に取り、
「この、但《ただ》し書きのとこだけど」
法案《ほうあん》資料の備考欄《ぴこうらん》には『要注意人物の一例』とあり、続いて『以下に該当《がいとう》する者』という項目《こうもく》が並ぶ。
一、婦女子《ふじょし》たる者。一、容姿優《ようしすぐ》れたる者。一、帰国子女《きこくしじょ》たる者。一、みだりに異性《いせい》を誘惑《ゆうわく》する者(但《ただ》し当人におけるその意志の有無《うむ》は問わず)。一、一見おとなしい性向に見える者……。
「――これに該当する人物ってそんなにはいないと思うんだけど。というか俺《おれ》に思い当たる生徒はひとりしかいないんだけど」
「そうかしら? まあ、あなた個人の感想についてはこの際問題ではありません。昨今《さっこん》この学園の風紀《ふうき》が乱れつつあるのは事実《じじつ》であり、手遅《ておく》れになる前に対策《たいさく》を講《こう》じておく必要があるのです」
「まあどっちにしても、内容が内容だから。これだけ大規模《だいきぼ》な修正案《しゅうせいあん》を通そうっていうんだ、もう少し細部を詰《つ》める必要があるだろう。生徒総会にかけるのはもちろん、役員会に諮《はか》るのもまだ先のことじゃないかな」
「そう? わたくしは今すぐ可決《かけつ》してもいいと思うけれど……」
「それより北条さん、さっき見てもらった今月予算の試算だけど。こことここ、ハンコ押し忘れてるよ」
「え?」
書類を受け取って一瞥《いちぺつ》し、頬《ほお》に指を当てて小首をかしげ、
「本当ね……ごめんなさい、すぐに修正を、」
ぴるるるるるるるるるる
麗華の背後で鳴らされる、腑抜《ふぬ》けた呼び出し音。
保坂が電話に出て、すぐ、
「はーいお嬢《じょう》さまー、おっしごっとでーす」
「……ちょっと。またですの?」
しらけ顔の主人を気にも留《と》めず、
「いいえ、さっきまでのとは別口ですね。この間|買収《ぱいしゅう》したIT関連|企業《きぎょう》、乗り継《つ》ぎが上手《うま》くいってないみたいです。お嬢さまにご出馬《しゅつば》願いたいと」
「あのねえ……」
珍《めずら》しくため息をつき、
「いったい何のために中間《ちゅうかん》管理職《かんりしょく》が居るのです。手に負《お》えそうにないからって、なんでもかんでもわたくしに任せればいいという問題ではありませんわ。あの者たち、わたくしを打ち出の小槌《こづち》か何かだとでも思っているのかしら? それともランプから煙《けむり》と一緒《いっしょ》に出てくる伝説の魔神《まじん》だとでも? 保坂、あなたに任せますわ。良きように計らいなさい」
「っえー。ぼくじゃどう見ても役者不足ですよう」
「よく言いますわまったく。あなたの能力、わたくし過小《かしょう》評価《ひょうか》はしてませんわよ?」
「彼らが頼《たよ》りにしてるのはお嬢さまです。ぼくじゃありません。それにお嬢さま、こういう時はいつもなら自分でやるじゃないですか。そうしないと気が済まないくせに」
「……ここから指示を出すだけでは足りませんの?」
「足りません。というわけで、お早く」
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
「……仕方《しかた》ありませんわね、まったく」
ぶつくさ文句を垂《た》れながらも立ち上がる。
「車を表に回してありますから先に行っててください。ぼくもすぐに行きます」
手をひらひらと振り、部屋を出て行く麗華。他の生徒会役員たちも一人二人とそれに続いていく。
あとに、保坂が残った。
それともう一人。
「残ってくれた……ってことは、俺の話を聞いてくれるつもりなんだと思うが」
「聞きますよ〜」
ほわわんとした笑顔《えがお》を向けてくる保坂に、眼鏡の副会長は肩《かた》をすくめた。
甲本陽一。神宮寺学園副生徒会長であり、元[#「元」に傍点]生徒会長でもある。昨年、任期半《にんきなか》ばにして――つまり麗華が入学してしばらくの後、その座《ざ》を自ら進んで譲《ゆず》り渡《わた》した男だ。その際《さい》のコメント『俺は本来が参謀《さんぽう》タイプだし、それに彼女の下についていたほうが楽できるよ』というのは掛《か》け値《ね》なしの本音《ほんね》であり、客観的《きゃっかんてき》事実《じじつ》であろう。同時に現在彼が三年生であり、別に留年《りゅうねん》しているわけでもないこと――つまり二年生の時点で生徒会長に選ばれていた事実も忘れてはなるまい。
「今年の春、北条さんがああなった時は……みんなぶったまげたもんだよ」
と、そんな話から彼は切り出した。『ああなった時』というのは無論《むろん》、数か月前の入学式の際に起きた事件を指すのだろう。北条麗華が約束《やくそく》の少年と十年ぶりの再会を果たした、あの時のことを。
「それまではね、彼女を本気で狙《ねら》ってる勇者も少なからずいたんだよ。勇気ある者っていうよりもまあ、ほとんど蛮勇《ばんゆう》の類《たぐい》だと思うけど――でもあの日以来、そんな儚《はかな》い幻想《げんそう》を抱《いだ》く奴は一人もいなくなった。ま、当然だな。色恋《いろこい》沙汰《ざた》にはまったく興味《きょうみ》を示さなかった学園のスーパーアイドルが、まさかまさかのあれ[#「あれ」に傍点]だもんなあ」
甲本が遠い目で語るのもよくわかる。ほぼ事情《じじょう》を把握《はあく》していた保坂でさえ、あの瞬間《しゅんかん》の主《あるじ》の豹変《ひょうへん》ぶりには度肝《どぎも》を抜《ぬ》かれたのだから。あれを見せられてもなお蛮勇を揮《ふる》えるのであれば、それはむしろ哀《あわ》れというべきだろう。令嬢《れいじょう》の心を専有《せんゆう》しているのが誰であるか、それほどに一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》だった。
「代わりといっちゃなんだがファンは一気に増えたよな。あれだけ完壁《かんぺき》だったお嬢さまが、まさかあそこまでボロ出すなんて誰も想像してなかったし。意外性《いがいせい》の勝利、ってやつかな。遠ざかりつつも身近になった、みたいな。年齢相応《ねんれいそうおう》の女の子っぽい感じが出始めて……」
言って、甲本は手近な机《つくえ》に腰《こし》を下ろす。痩身《そうしん》で細目がちの眼鏡《めがね》姿。堅苦《かたくる》しく、とっつきにくそうな見た目だが、いったん口を開くと目もとに愛嬬《あいきょう》ある微笑《ぴしょう》が浮《う》き、奇妙《きみょう》に人を惹《ひ》きつける男だ。
「だけどホント、いい変化だとは思う。彼女個人としてはね。本当、いい顔するようになったよ北条さん。かくいう俺も彼女のファンだし、心から嬉《うれ》しく思える変化だ。ただ――彼女の場合、良くも悪くも公人としての立場が大きすぎる。そしてまたそれに応《こた》える能力がありすぎる。背中に乗せられた責任は十分以上に果たすことができてしまう[#「できてしまう」に傍点]」
外した眼鏡を磨《みが》きながら、さらに語を継《つ》ぐ。
「ファンを自認《じにん》する俺としてはジレンマだね。私人としての立場と公人としての立場が水と油なのは当然として、彼女の場合はその立ち位置の距離差《きょりさ》が極端《きょくたん》で、しかもどちらの彼女も魅力的《みりょくてき》なんだよなあ。それでまた問題なのは、彼女のファンにつく連中《れんちゅう》もまた極端になりがちなことでね。特にうちの生徒会の連中なんかは困りものだな。あいつら完全に公人としての北条さんに心酔《しんすい》しちゃって、なおかつ頼《たよ》り切ってるから、彼女がちょっとボロを出すだけですぐに動揺《どうよう》しちまう。特にここ一週間くらい、彼女が輪《わ》をかけて『普通《ふつう》』になっちまってからはひどいもんだ、おたおたしちまってまあ、みっともないったら。保坂くんもさっき見てただろう、北条さんがポカやったって知った時のあいつらの顔。ついでに言えば今朝なんかもそうだ。北条さん、いつもみたいに校門のとこに立たなかっただろう? 普通に考えたらそんなのはどうってこともないんだが……でも現状《げんじょう》じゃたったそれだけのことでも、普段《ふだん》は鉄壁《てっぺき》の連携《れんけい》を誇《ほこ》る生徒会が機能《きのう》しなくなる」
やれやれだ、とでも言いたげに肩《かた》をすくめる。
「専制《せんせい》君主制《くんしゅせい》の宿命的《しゅくめいてき》な弱みだな。名君《めいくん》が名君でいられるうちは最良の体制だろうけど、そのトップにわずかでも綻《ほころ》びがあれぱあっという間に全体が瓦解《がかい》しうる。そんな立場にいる北条さんにはちょっと気の毒になるんだが――まあ、彼女自身は苦労を苦労とも思っていないみたいだね。そこがまたすごいところでもあるし、ちょっと危《あや》ういところでもあるんだが。それにこれはこの学園に限った話じゃないだろう? 彼女のもうひとつの公務の方でもおそらく似たようなことが、」
「甲本さん」
やんわりとさえぎった。
「ここを卒業したら北条《ウチ》に来ませんか? 厚遇《こうぐう》しますよ」
「とりあえずは進学するつもりだから。その後でも気が変わらなかったら、よろしく」
保坂の露骨《ろこつ》な話題|替《が》えにあっさり乗りつつ、
「最後にもうひとつだけ言わせてくれ。責められるようなことではもちろんないんだが、北条さんは『只者《ただもの》ではないオーラ』を発散《はっさん》しすぎる。彼女は自分をハリネズミだなどとは感じていないかもしれないし、あるいは世界中でただ一人に寄り添《そ》えれば足りると思っているかも知れないが――それは、彼女の可能性《かのうせい》をひどく狭《せば》めてしまう結果になるとは思わないか?」
「甲本さん」
「ん?」
「大学出たあとは北条入りですからね?」
「――大学院に進むことも考えてるんだけど?」
「ダメです。今のうちにつば付けときますから、覚悟《かくご》しといてください」
「……じゃ、とりあえず仮《かり》予約ってことで」
にやりと笑って見せ、甲本は自ら話を切り上げた。
グラウンドから聞こえていた歓声《かんせい》は止《や》み、体育に臨《のぞ》む生徒たちの、炎天《えんてん》を恨《うら》む怨嵯《えんさ》のうめき声がそれに代わっている。
(――使える男だけど、ちょっと話の長いのが欠点といえぱ欠点かな。わざわざ生徒会役員が雁首《がんくび》並べた場所でお嬢さまのミスを指摘《してき》する狸《たぬき》っぶりとか、結構《けっこう》好きだけど)
生徒会室を辞《じ》す後ろ姿を見送りながら心の査定帳《さていちょう》にメモをつけつつ、さらに独白《どくはく》。
「わかってますよ、甲本さん。お嬢さま個人のケアはぼくの役目ですからね。なんとかしますよ」
*
表に回してあるという専用車《せんようしゃ》に向かい、麗華はひとり校舎を歩いている。
(それにしても、近ごろこんな呼び出しが多くなってますわね)
もともと生徒会室のある棟《むね》は特別教室、それも使用|頻度《ひんど》の低いそればかりが置かれている。予鈴《よれい》が鳴った後でもあるゆえ、廊下《ろうか》にはひどく閑寂《かんじゃく》な空気が満ち、彼女がリノリウムの床《ゆか》を蹴《け》る音だけが低くこだましている。
(部下はきちんと育ててきたつもりですけど――こうもわたくしに頼ってばかりでは、それも怪《あや》しいということかしら)
これでは学校も満足に行けないし、二ノ宮家にいる時間も少なくなってしまう。もちろんこれは生徒会の務めやメイド仕事を十全に果たすだけの時間が取れなくなることを憂慮《ゆうりょ》しているのであり、二ノ宮峻護と少しでも同じ時間を共有したいなどと思っているわけでは全くないのだけれど。
その二ノ宮峻護、登校した際《さい》に聞いた報告では今日もロクな目をみていないようだ。クラスメイトや月村真由のシンパから新手《あらて》の圧迫《あっぱく》を受け、相変わらず憔悴《しょうすい》しているらしい。そんな峻護の現状《げんじょう》を知っても、あの女のせいでそんな目に遭《あ》うのはかわいそうだと同情したり、やっぱりあの小娘《こむすめ》は二ノ宮峻護にふさわしくないと憤慨《ふんがい》したり、それよりそんな目に遭ってばかりで身体《からだ》を壊《こわ》したりしないかと心配したり、一度なにか栄養のある料理でも作ってあげようかなどと気遣《きづか》ったりすることなどは、もちろんこれっぽっちもないのだけれど、とりあえず彼女はこの状況《じょうきょう》に生徒会長|権限《けんげん》で介入《かいにゅう》するつもりはない。破天荒《はてんこう》なほどに生徒の自由が保障《ほしょう》され、それでいて不思議《ふしぎ》と調和《ちょうわ》を保っているのが神宮寺学園の校風であり、麗華はそんな雰囲気《ふんいき》にむしろ積極的な好意を持っている。その彼女自身が無闇《むやみ》に矩《のり》を超《こ》えるわけにはいかない。
そして目下《もっか》、彼女がもっとも問題|視《し》している女子生徒については、今日に限って言えばさしたる問題を起こしていないようだ。現在、二ノ宮峻護のいじり[#「いじり」に傍点]は月村真由を介さず直《じか》に行われている――ように見えてその実、月村真由が無自覚《むじかく》に媒介《ばいかい》しているようなのだが、この程度《ていど》の事実をもって即《そく》、その非《ひ》を鳴らすことは難《むずか》しい――
(……あら?)
階段を下りていた麗華、ふとその音に気づいた。
どこからか水の流れる音が聞こえてきていた。
その細い音を彼女の意識が捉《とら》えたのは偶然《ぐうぜん》だったろう。そもそもがひとけの少ない一角であり、この時間も近辺で授業が行われている気配《けはい》はない。そうでなけれぱ見過ごしていたはずだ。
(どこからかしら)
なんとなく気になったものの、仕事へ向かう途中《とちゅう》である。すぐに止まった歩みを再開し、
(…………)
何歩も行かないうちに方向を変えた。何か予感があったのかも知れない。
探し回るまでもなく音源は見つかった。
様々《さまざま》な資料室が並ぶ階層《かいそう》にある、手洗いからであった。職員室からも教室からも遠い、おそらくは全校中で最も使われない場所のひとつであろう。
その音から察《さっ》するに、どうやら流しの水が出しっぱなしになっているらしい。それも水音の大きさからして、ほとんど蛇口《じゃぐち》を全開にして水を放出《ほうしゅつ》しているようだ。
(誰かが蛇口を閉《し》め忘れたのかしら。まったく行儀《ぎょうぎ》の悪い)
嘆息《たんそく》してそちらに向かううち、麗華の鼓膜《こまく》はもうひとつの音を捉えた。水音の中に水音よりもさらに細い音が混《ま》じっている。人の声――のように思えるが、それにしては何かこう、違和感《いわかん》がある。
だがそちらの音はすぐに途絶《とだ》え、激《はげ》しい水音だけが近づいてくる。
入り口の前まで来た。
ひょい、と覗《のぞ》いた。
人がいた。
女子生徒がひとり。水流 |迸《ほとばし》る蛇口に頭を突《つ》っ込むようにして流し台の縁《ふち》にしなだれかかっている。急流の岩場に引っかかった枯《か》れ枝《えだ》を思わせる、弱々しい格好《かっこう》だ。
よく見知った姿だった。
「……月村真由?」
枯れ枝がはっと顔を上げた。
「麗華さん……どうして……」
やはり、あの不倶戴天《ふぐたいてん》の怨敵《おんてき》である。
「なにをやっていますの、あなた……」
と言ったところで口をつぐむ。こちらを見上げてくる顔に生気がない。学園すべての男性が虜《とりこ》になる大きな瞳《ひとみ》には輝《かがや》きも力強さもない。麗華ですら認めざるを得ない整《ととの》った容貌《ようぼう》は青白く色落ち、幽鬼《ゆうき》じみて翳《かげ》っている。
「体調が悪いの? あなた」
声に若干《じやっかん》の動揺《どうよう》が混《ま》じるのを自覚《じかく》する。
「気分が悪い? おなかが痛むの? それとも頭痛?――いいえ、そんなの後回しね、とにかくすぐ保健室へ」
「いえ、だいじょうぶです、もう治りました。だいじょうぶです」
立ち上がろうとして、ふらりと足がぐらつく。
「馬鹿《ばか》、なにがだいじょうぶなものですか。そこで待ってなさい、すぐに人を呼」
「やめてください!」
思わぬ大声だった。
大人しい少女が初めて声を荒《あら》らげる姿に麗華はたじろぐ。そしてそれは相手の方も同じだったようで、
「す、すいません、でも、ほんとうにだいじょうぶです。ちょっと疲《つか》れが出て気分が悪かっただけですから。もうだいじょうぶです」
「……そう」
奇襲《きしゅう》を受けた驚《おどろ》きの後にやってくるのは、御《ぎょ》しきれないほどの苛立《いらだ》ち。
「ところで月村さん、ひとつ伺《うかが》いますけど」
「は、はい」
「あなたの家の家訓《かくん》には、人の善意《ぜんい》に怒声《どせい》で応《こた》えるよう奨励《しょうれい》する項目《こうもく》でもあるのですか」
「え? いえ、あの、そういうのは……」
「ないのですわね? まあ不思議なこと。そんな不条理《ふじょうり》な理由でもなけれぱ、心配して声をかけた人間に罵声《ばせい》をもって報《むく》いることなど有《あ》り得《え》ないと思ってましたのに。それではわたくし、一体どんな理由でこのような無礼《ぶれい》を受けたのかしら? もしよろしけれぱ後学《こうがく》のため、その訳《わけ》をお聞かせ願えませんこと?」
「すいません……」
「謝罪《しゃざい》の言葉を求めているのではありません。どうしてあのような行動に及《およ》んだか、その理由を訊《き》いているのです」
「あの……」
「あの?」
「…………」
「――まあ驚《おどろ》きですわ。つまりわたくしの想像を遥《はるか》かに超えて有り得ないことが起こったということなのですわね? なんら正当な理由もなくあのような無礼を働いた、と。なんということかしら、わが校にこのような礼儀知らずが在籍《ざいせき》していたなんて。わたくしこの学園の生徒会長として、居《い》たたまれない気持ちでいっぱいです」
「すいません……」
「まったく、心配などして大損《おおぞん》しましたわ。このわたくしの貴重《きちょう》な時間とカロリーの無駄《むだ》をどう償《つぐな》っていただけるのです。仕事へ向かう途中でありながら、この学園を真摯《しんし》に想《おも》う一心でもって、わざわざ労をとってこんな場所まで見回りに来たというのに……骨折《ほねお》り損《ぞん》の無礼儲《ぶれいもう》けとでも呼ぶのでしょうか、これは。第一こんな場所で何をしていたというのです。体調が悪いのなら初めから保健室に行っていれば――」
そこまで言ってようやく思い至《いた》った。
なぜ、月村真由はこんな場所にいたのだろう。
ほとんど使われることのない、予算の無駄遣《むだづか》いのような手洗い。一年生の教室がある棟とも正反対の位置だ。今は足もともしっかりしているし、血色《けっしょく》が戻《もど》りつつあるように見えるものの――先ほどまでの様子では相当に体調が優《すぐ》れなかったはず。なのにこんなところに、ひとりで。どうして保健室に行かなかったのか? 保健医は当然二ノ宮涼子で、この小娘《こむすめ》が最も頼《たよ》りにしている人物で、むしろ真っ先に頼っていいはずの相手で――なのに、体調が悪いというのにあえてひとりでいたのはなぜ――そうか、水の音に混《ま》じって聞こえてきた音は苦悶《くもん》のうめきなのか――誰かに気取《けど》られるリスクを承知《しょうち》で水を盛大《せいだい》に流していたのはその音を消すため――だとしてもまだ足りない、なぜ、なぜこの小娘は――
と、しかし思考《しこう》の閃《ひらめ》きはそこまでだった。今は負《ふ》の感情の働きの方が遥《はる》かに強い。不可解《ふかかい》な状況《じょうきょう》に対する違和感《いわかん》が釣《つ》り上げた推察《すいさつ》は一瞬《いっしゅん》にして弾《はじ》け、自分でも説明がつかないほどの癇癪《かんしゃく》が頭の中を塗《ぬ》りつぶしていく。
「――保健室に行っていれぱそれで済むではありませんか。あなたにはその程度の常識《じょうしき》もないの。帰国子女だそうだけど、あちらの学校には保健室が無かったとでも? 第一あなた、ここで何をしていたのか知りませんけど……いつまでそうじゃんじゃん水を出しっぱなしにしておくつもり? 水風呂《みずぶろ》にでも入ろうとしていたのかしら? それとも校内で灌概《かんがい》農業でも始めようと?」
言われ、あわてて蛇口《じゃぐち》を締《し》める真由。
「ふん、水道代だってタダではないのです。仮にタダだったとしても、水資源《みずしげん》を浪費《ろうひ》することに何の痛痒《つうよう》も感じないというのですか、あなたは。これはお茶碗《ちゃわん》のご飯粒《はんつぶ》を残してはいけないのと同じことであり、つまるところあなたには物を大切にする真心が欠けているのですわ。人間としてのレベルが低いと言わざるを得ませんわね」
言い過《す》ぎている、という自覚はあった。敵は持てる力のすべてで以《も》って速《すみ》やかに排除《はいじょ》すベきとはいえ、相手はいわぱ手負いである。そのうえ謝罪《しゃざい》も反省もし、しかも抵抗《ていこう》の意志はない。これを一方的に攻撃《こうげき》するなど、とうてい麗華の趣味《しゅみ》ではなかった。
なのに、自分でも驚《おどろ》くほど歯止《はど》めが利《き》かない。
「その程度のモラルで二ノ宮家の家事をやろうとしてるのですからちゃんちゃらおかしいですわ。それもメイドであるこのわたくしを差し置いて。もちろんあの家でメイドなど務めるのはわたくしの本意ではないし、機会《きかい》があれぱいつでも出て行くつもりですが、当分の間あそこで暮らさねばならないのはやむなき事実。となれぱわたくし自身がより良い生活を送るためにも、このような粗忽者《そこつもの》たるあなたには今後どんな仕事も任せられない――そういうことになりますわね?」
「ごめん、なさい……」
「謝罪など聞きたくないと言っているでしょう。まったく、何度同じことを言わせるのですか。やはりあなた、どうにもなりませんわね。男性|恐怖症《きょうふしょう》だか何だか存じませんが、あなたという人間の存在は不都合《ふつごう》で未熟《みじゅく》で救いがないのです。何を成すこともできはしません。あなたに振《ふ》り回されている二ノ宮峻護もさぞいい迷惑《めいわく》でしょうね、見込みもない男性恐怖症|克服《こくふく》プランとやらに付き合わされて。もちろん、わたくしがあの男に同情する義理などどこにもありませんが、今回に限ってはそれもやぶさかではありません。場合によっては、もちろん極《きわ》めて不本意《ふほんい》ではありますが、あの男と手を組んで状況の打破《だは》のために共闘《きょうとう》するという選択肢もあながちありえない選択肢とも言い切れまぜんわね。そうすることがわたくしの生活空間の秩序《ちつじょ》を護《まも》る近道だと――」
野放図《のほうず》に回転していた舌《した》がそこで止まった。
月村真由の、丸めた紙を広げたみたいなくしゃくしゃの顔。
血の気がなくなるほどくちびるを噛《か》み、今にも泣き出しそうな――
「……授業、出なくちゃ。すいませんでした麗華さん、また、あとで」
そう声を絞《しぼ》り出すや長髪《ちょうはつ》を翻《ひるがえ》し、駆《か》け去るようにしてその場から消えた。
声をかける間もない。黙《だま》って見送るしかなかった。
閑散《かんさん》とした、まるで無人の廃墟《はいきょ》ででもあるかのような空気が、たちまち麗華を包《つつ》み込む。
(なぜ――)
と思う。
どうしてこんな気分にならなければいけないのか。
こんな、まるで雨に濡《ぬ》れた宿無《やどな》しの仔犬《こいぬ》に石を投げているみたいな気分に。
多少口が過ぎたことはあったかもしれない。重箱《じゅうばこ》の隅《すみ》をつつくようなことも言いはした。そういう自覚もあった。でもそれにしたって、吐《は》いた言葉の多くは正論《せいろん》であったはずではないか。なのにどうしてこんな嫌《いや》な気持ちになる?
もちろん悪いのは月村真由だ。ぜんぶあの小娘が悪い。あんな顔をしたりせず、いつものようにぺこぺこ頭を下げて終わればそれで済むではないか。でなければ口ごたえのひとつもすればいいのだ。無茶《むちゃ》な言い分を交ぜていたことはこちらも承知《しょうち》しているのだから。
本当に腹が立つ。結局、あの女がどこで何をしたってこちらの気分を害《がい》する結果になるのだ。まさしく天敵以外の何者でもない。今日だってこんな場所で鉢合《はちあ》わせるし――
「まったくなんですの、あんな、『自分だけが不幸』みたいな顔してッ!……あら?」
あるものが目にとまった。
やり場のない怒《いか》りをひとまず納《おさ》め、そちらに意識《いしき》を向ける。
流し台。ついさっきまで月村真由が寄りかかっていた。
「…………?」
ステンレス製《せい》の、無骨《ぶこつ》な流しである。飾《かざ》り気のない実用一点|張《ば》りの設備《せつび》だが、無骨なだけに頑丈《がんじょう》さは折り紙つき……の、はずだ。
それが凹《へこ》んでいる。ぺっこりと。まるでアルミ缶《かん》でも潰《つぶ》したかのように。
しかもこれは――この、深くひしゃげた箇所《かしょ》にずらりと並んだ、銃痕《じゅうこん》のような形は――
ぴるるるるるるるるるる
懐《ふところ》に納めた直通の携帯《けいたい》から、慌《あわただ》しい呼び出し音。
怒気《どき》も疑念《ぎねん》も瞬時に消し飛ぶ。ようやく自分の置かれた状況を思い出した。
そう、今は仕事へ向かう途中。
相手を確認《かくにん》してから電話に出る、
「保坂? ええ今そちらに向かってるわ――わかっています、すぐに――ああもう五月蝿《うるさ》いわねッ、小言《こごと》など聞きたくありません、すぐに行くからもう少し――」
……こうして彼女もまた足早に、忌々《いまいま》しい場所を後にする。
矢継《やつ》ぎ早に仕事の指示《しじ》を出していく中、流し台のひしゃげた部分が『まるで素手《すで》で握《にぎ》りつぶした跡《あと》のように見えた』という錯覚《さっかく》は、ほどなく意識の片隅《かたすみ》に追いやられ、その後も立て続けに入力される情報の海にやがて埋《う》もれていった。
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其の三 血がのぼる⇔血がさわぐ
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坂と小路《こみち》の町・若宮町《わかみやちょう》は、早《は》や夕闇《ゆうやみ》の色に沈《しず》もうとしている。
群青《ぐんじょう》と共に天へと昇華《しょうか》していく、昼間の熱気《ねっき》。それに誘《さそ》われるようにして空にはひとつ、またひとつと星が顔を出し、地の家々には温かな明かりが灯《とも》り始める。耳を澄《す》ませば夕餉《ゆうげ》の支度《したく》をするどこかやさしい音と、あちこちの草地から夜の始まりを歌う虫の音が、和をなしてひとつの合奏《がっそう》を謳《うた》い上げるのが聞こえてくる。
鳥たちは隊列《たいれつ》を組んで茜空《あかねぞら》を行き、帰路《きろ》につく人々は細く入り組んだ道を急ぐ。
そして暮色に滲《にじ》んだ一台の小型車もまた、出力不足のエンジンをどやしつけながら急坂をよじ登りつつあった。
「保坂《ほさか》」
使い込んだエンジンの振動《しんどう》に揺《ゆ》られつつ、麗華《れいか》は下僕《げぼく》へ問いかける。
「わたくし、確かにもっと小さな車にしなさいとは言いました」
「はい、ぼくも確かに聞きました」
にこにこ同意する保坂に白い目を向け、さらに訊《き》く。
「ですが、ひとくちに小さい車と言ったって選択肢《せんたくし》はいくらでもあるでしょう。どうしてわざわざこういう車を選《えら》ぶのです」
小ぢんまりした後部|座席《ざせき》で、文字通り肩身《かたみ》の狭《せま》い思いをしつつぼやく。
「そうは言いますけどお嬢《じょう》さま。この車、某国《ぼうこく》で半世紀近くも作られ続けた伝統ある大衆《たいしゅう》車《しゃ》ですよ。北条家《ほうじょうけ》の格式と比べても決して見劣《みおと》りしない名作です」
「否定《ひてい》はしませんが、あなたの選択にはどうして中庸《ちゅうよう》というものがないのです。この車、ほとんど解体《かいたい》工場行き寸前《すんぜん》じゃないの。おしりは痛いし肩《かた》は凝《こ》るし――それにいつタイヤが外れてエンジンが火を噴《ふ》くか、気が気じゃありませんわ」
「実用性より骨董品《こっとうひん》としての価値《かち》を重視《じゅうし》しました。ぼく的にこのあたりがギリギリの妥協《だきょう》点《てん》です。ほら、クーラーもついてないんですよ、この車」
「……そう。よかったわね」
それ以上は追及《ついきゅう》せず話題を変える。
「それにしても今日は緊急《きんきゅう》の仕事が多かったですわね。それもわたくしが出張《でば》る必要があったとは思えないものがほとんど……コンツェルン傘下企業《さんかきぎよう》の業績《ぎょうせき》は押《お》しなべて順風《じゅんぶう》ですし、皆《みな》に甘《あま》えや油断《ゆだん》が出始めているということでしょうか。少し前まではこんなこと滅多《めった》になかったのですけど――」
「トップの心の揺れはダイレクトに下へ伝わる、ってことですよ。トップに求心力があればあるほどその傾向《けいこう》は顕著《けんちょ》です」
「心の揺れ、とはどういうことです」
「さあ?」
保坂、にこにこしたまま応《こた》えない。
ふん、と鼻を鳴《な》らし、麗華はそっぽを向いた。
最後の坂をエンスト寸前の勢《いきお》いで上り、|二ノ宮《にのみや》家の敷地《しきち》に入った。
メイド姿《すがた》の麗人《れいじん》はスクラップ同然のオンボロから颯爽《さっそう》と降り立ち、懐《ふところ》から手鏡《てかがみ》を出して身だしなみの最終チェック。
軽く呼吸《こきゅう》を整える。
この先は彼女にとってあらゆる意味での戦場である。一寸先にどんな試練《しれん》が待ち構えているか、知れたものではないのだ。
「――行きますわよ、北条麗華」
己《おのれ》に言い聞かせ、昂然《こうぜん》と胸を張《は》りつつ玄関《げんかん》を開けた。
二ノ宮|峻護《しゅんご》が月村《つきむら》真由《まゆ》を押し倒《たお》していた。
「…………」
玄関を入ったすぐそこのホールで。堂々《どうどう》と。人目も揮《はばか》らず。誇《ほこ》り高き北条家の唯一《ゆいいつ》の直系である北条麗華の前で。
「…………あ」
不埒者《ふらちもの》二人がこちらを振《ふ》り向き、ぎくっとした顔のまま固まった。
三人の目が、合う。
「――お、落ち着いてください北条|先輩《せんぱい》、こ、これはその、例の特訓《とっくん》で、いえ、その特訓も本来は一時|中断《ちゅうだん》で、先輩との話し合いの末に今後のことは決めようって話に落ち着いたのは重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》してるんですが、ほら、状況《じょうきょう》を見ての通りこれはやむを得ないことでっ」
「…………」
問答《もんどう》無用《むよう》だった。
無言のままずかずかと歩み寄り、今日こそは容赦《ようしゃ》ない制裁《せいさい》を加えてやろうとして、
「カット! カ―――ット!」
鋭《するど》い叱声《しっせい》が麗華の身をすくませた。
「まったくもう……せっかくいいところだったのに邪魔《じゃま》をして。相変わらずの粗忽者《そこつもの》ねえ、麗華ちゃんは」
「同意だな。君もこの家のメイドであるからにはもう少し邸内《ていない》の機微《きび》に気を配ってはどうかね。こうたびたび水を差されては興《きょう》ざめも甚《はなは》だしい」
声の方を振り向く。頭に血が上って見落としていたが、その場にはもう二人、おなじみの顔ぶれもあった。反則者《ジョーカー》・二ノ宮|涼子《りょうこ》と月村|美樹彦《みきひこ》。
「……あなたたち、これはどういうことかキチンと説明していただきますわよ?」
「どういうことかも何も、ねえ」耳にしただけで心臓《しんぞう》が潰《つぶ》れそうな麗華の低声にも、この家の主人は涼《すず》しい顔。「いつもの特訓だけど? それがどうかした?」
二ノ宮家|特措法《とくそほう》にはこうある。
いわく、『二ノ宮峻護卜月村真由ハ、男女ノ関係ヲ宜《よろ》シク演習ス可《ぺ》シ』。
――要するに男女のことを実際に演じてみせることで、男性|恐怖症《きょうふしょう》の改善《かいぜん》を図《はか》ろうというものである。
「……………………」
すーはーすーはーと深呼吸《しんこきゅう》を繰《く》り返し、かろうじて暴発《ぼうはつ》を抑《おさ》えてから、
「――いろいろ言いたいことはありますが、順序《じゅんじょ》よくいきましょう。まずはそこの二人」
居心地《いごこち》悪げに床《ゆか》に正座している峻護と真由を指差す。
「なぜ今もなお、論《ろん》ずるに足りない特訓とやらを続けているのです。そもそもこの件の解決《かいけつ》は当事者《とうじしゃ》同士にゆだねるという言質《げんち》をあなた方から得《え》、そしてわたくしは昨晩《さくばん》の時点でこの二人に申し付けたのです。この件は一時|保留《ほりゅう》としますが、それはあくまで一時的なものであり、勝手な再開《さいかい》は許さないと。――あなた方は自らの言を違《たが》え、その上このわたくしの最大限の譲歩《じょうほ》をも軽《かろ》んじるというのですか」
「うーん……残念だけど麗華ちゃん、あなたがいま主張《しゅちょう》した前提《ぜんてい》に重大な錯誤《さくご》があるわ」
ちっちっちと指を振り、涼子。
「あなたが言ってるのはあくまで昨日までの話。この件に関するあらゆる権限《けんげん》を全面的に委任《いにん》したわけじゃないんだから。昨日のことは昨日のこと、今日は今日の風が吹《ふ》く。それが二ノ宮家のルールよ」
「もっとも、君たちに一定の決議権《けつぎけん》があることについては今もこれを保証しよう」と、さらに美樹彦。「君たち三人が納得《なっとく》する結論《けつろん》が出せたというのならそれを報告してくれたまえ。尊重《そんちょう》する。ただしそれが決まるまでは従来《じゅうらい》どおり、この件についての裁量《さいりょう》は僕と涼子くんが請《う》け負《お》う。理解《りかい》してもらえたかな」
「…………」
麗華は、よく耐《た》えた。
すーはーすーはーすーはーすーはーと深呼吸を繰り返し、眉間《みけん》を操《も》みほぐしてから、
「――ではもうひとつお訊《き》きします。その特訓とやらに立ち会っていたあなたたちは、いったいそこで何をしていたのです」
「何って――見ての通りだけど? ねえ、美樹彦」
「うむ、見ての通りだな。そんな一目《いちもく》瞭然《りょうぜん》のことをわざわざ訊《たず》ねるということは麗華くん、ひょっとして君は視力《しりょく》に重大な問題でも抱《かか》えているのかね? 僕はいい眼科を知っている、なんなら紹介状《しょうかいじょう》を書いてもいいが」
「わたくしの視力は極《きわ》めて正常ですが、いま目の前で見せられている光景《こうけい》を前にすればそれも疑《うたが》わしくなってきますわね。――それではもっと具体的《ぐたいてき》に訊きましょう。あなたたちがその手にもっているのは一体なんなのです」
「これ?」と涼子は右手を掲《かか》げ、「デジカメだけど? コンパクトで多機能《たきのう》でなおかつハイスペック。いい画《え》が撮《と》れるわよ」
「僕のこれは集音《しゅうおん》マイクだな」と美樹彦も手にしている物を示し、「市販《しはん》計画のない試作品《しさくひん》をちょっと借りてきたものでね。先端《せんたん》技術《ぎじゅつ》の粋《すい》を集めているだけに性能は文句《もんく》なしだ」
深呼吸、
「――それで? そんなものを使ってあなたたちは何をしていたというのです?」
「変なことを訊く子ねえ。デジカメと集音マイクを持ってどじょう掬《すく》いでもやると思う? 真由ちゃんの特訓の様子を余《あま》さず記録していたに決まってるじゃない」
「その通り。これは今後、男性恐怖症|克服《こくふく》プログラムの内容を調整《ちょうせい》していくためにも必須《ひっす》の行為《こうい》だ。別にこのデータによからぬ編集《へんしゅう》を加え、不埒《ふらち》な映像を組み上げようというわけではないよ。うむ、決して」
ドガッ!
と、これは麗華が手近にあった壁《かぺ》を殴《なぐ》りつけた音。
怒髪天《どはつてん》をつく形相《ぎょうそう》で、
「何か申し開きがあるというなら今のうちに聞いておきますわよ?」
「うーん……時々あなたはおかしなことを言うわねえ。わたしたちは決まりごとに従《したが》って、真由ちゃんのために最善《さいぜん》を尽《つ》くしてるだけなんだけど。そんなに怒《おこ》らなくったって、ちゃんと後であなたにも見せてあげるわよ?」
「ではこの上なく単刀《たんとう》直入《ちょくにゅう》に申し上げます! いいからさっさとアホったれた真似《まね》をやめなさい! 今すぐ! そして永久に!」
「ははあん……わかったぞ。つまり君は我々の書いた台本が気に入らないというのだな。むう、しかし困ったな、これでも自信作のつもりだったのだが――おおそうだ、それでは麗華くん、君がシナリオを書いてみてはどうかね? うむ、ここまで手厚《てあつ》い待遇《たいぐう》をもってすれば君も文句はあるまい?」
「こっ、このおたんちんども、ひっ、ひとの話、聞き、さっき、から、なん、ども、」
怒《いか》りのあまり呂律《ろれつ》が回ってない。
「……ねえ、美構彦」
「うむ」
「なんだか麗華ちゃん、ほんとに怒ってるみたい」
「いわゆる逆ギレというやつだな。昨今《さっこん》の若者にも困ったものだ」
「わたし悲しいわ。麗華ちゃんがわたしたちの努力を無駄《むだ》にしょうというの」
「おお涼子くん、君の悲哀《ひあい》に僕は多大なシンパシーを覚えるぞ」
よよよとくずおれる涼子と、両手を広げて天を仰《あお》ぐ美樹彦。
三文《さんもん》芝居《しばい》以下の茶番《ちゃばん》を始めるおたんちん二人に、
「い、い、か、ら! その撮影《さつえい》を中止するのかどうか、はっきりなさい!」
「中止、というか、なんだか興《きょう》ざめしちゃったわね……」
「ああ、ほんとうにそうだ。麗華くんはことあるごとに我々《われわれ》の熱意を砕《くだ》こうとする。僕はもう疲《つか》れてしまったよ……」
しょんぼりしている。
そして、ここまでもったいぶった涼子がようやく|切り札《ジョーカー》を切った。
「ああ、どうしてなのかしら。写真の中のあなたはこんなに可愛《かわい》い顔をしてるのに!」
大げさな仕草《しぐさ》で涼子が懐《ふところ》から取り出したものを見て、麗華は目を剥《む》いた。
「そっ、その写真は! あっ、あなた、まっ、まだそれを引《ひ》っ張《ぱ》るおつもりなのッ?」
「ああ、悲しみのあまり、めまいが」
悲鳴を聞き流し、わざとらしい動作でふらふらとよろめきつつ写真を手放した。
麗華にとって最も見られたくない恥部《ちぶ》が木の葉のように軽やかに舞《ま》い、最も見られたくない人物たちのもとへ測《はか》ったかのように――
「いやあああああああああああああああ!」
ゴキブリに飛びつく猫《ねこ》のような動きで危険物《きけんぶつ》をキャッチ。
写真の正体を知れる位置にいた峻護と真由を『フーッ!』と威嚇《いかく》してから、
「こっ、この冷血女! あなたには人の情けというものが、」
涙《なみだ》ながらに睨《にら》みつけた瞳《ひとみ》が再び凍《こお》りつく。
にやにやしながら涼子が再び懐から取り出したものは――
「ああ、持病の貧血《ひんけつ》がこんな時に」
わざとらしい動作でふらふらとよろめきつつ、二枚目の写真を手放そうと、
「だめえええええええええええええええ!」
その前に必死の形相でしがみ付いた。
「この人でなし! あなたの血は何色ですか! こんな、人の弱みを弄《もてあそ》んで、」
なおも難詰《なんきつ》しようとしたその表情が、あるものに気づいて蒼白《そうはく》になった。
月村美樹彦が。
懐から取り出した四角い紙質のものをにやにやしながら見せびらかし、
「おっといけない、持病の腸捻転《ちょうねんてん》で意識が霞《かす》んで」
人体工学的に極《きわ》めて不自然な挙動《きょどう》でふらふらとよろめいた。
「やめてええええええええええええええ!」
……二ノ宮涼子と月村美樹彦に逆《さか》らった者の末路《まつろ》はかくの如《ごと》し。さすがの北条麗華もこうなっては観念《かんねん》せざるを得なかった。
「わかったわよっ、わたくしが悪かったですわよこの鬼畜生《おにちくしょう》ども!」
「あら、わかってもらえたのね?」
「ええ、もうイヤっていうほどわかりましたわ、あなた方にはどんな話も通じないという見下げ果てた事実が! もう勝手になさい、これ以上わたくしは関知《かんち》いたしません!」
「なあんだ。やっぱりあなた、ちっともわかってないじゃない」
舌《した》なめずりをする。麗華の背筋《せすじ》に悪寒《おかん》が走った。
「なっ、なに?」
「信賞《しんしょう》必罰《ひつばつ》こそが二ノ宮家における至高《しこう》の掟《おきて》であり、ひとつ屋根の下に暮らす他人同士の絆《きずな》を繋《つな》ぐ最良の法。粗相《そそう》をした子に対しては、きちんとお仕置《しお》きをしないとねえ」
涼子の瞳が見慣《みな》れた光を放っている。妖《あや》しく艶《つや》っぽい、狩人《かりゅうど》の光を。
「――ちょ、な、なにをする気?」
「あら、それをわたしの口から言わせるつもり? あなたってやっぱりドSなのねえ」
「や、やめて、近寄らないでっ」
あとじさる。その分だけ近づいてくる。
南の島の露天風呂《ろてんぶろ》での惨劇《さんげき》――この家の女主《おんなあるじ》の性癖《せいへき》と業師《わざし》ぶりを身をもって知らされて以来、麗華には涼子に対する強烈《きょうれつ》な苦手意識が植え付けられている。足がすくんで自由にならない。
「あの時よりも、もっとイイコトして、あ、げ、る」
にまあ、と笑いかけてきた。「ひっ――!」このままでは本気でヤられる。その危機感《ききかん》が麗華のくびきを解《と》き放った。
身を翻《ひるがえ》し、地の果てまでも逃《に》げてやろうとして、
「…………!」
保坂が退路《たいろ》を断《た》っていた。
「な、なにしてるのこのばかおどきなさい! 主人の危機に何をして、」
「ごめんなさいお嬢《じょう》さま、涼子さんから『逃がすな』っていうアイコンタクトがありまして。あきらめてください」
「う、裏切り者! あなた、これまで受けてきた恩《おん》を仇《あだ》で返すつもりなのッ?」
「お嬢さま、命の危険はありませんからどうか堪《こら》えて……」
「あんな破廉恥《はれんち》な目にまた遭《あ》うくらいなら死んだ方がマシです!」
「まあまあ麗華ちゃん、そう言わず」
背後から迫《せま》った涼子がやさしく、それでいて万力《まんりき》みたいな力で獲物《えもの》を拘束《こうそく》した。
ゲームオーバー。
「自害《じがい》するのは天国に行ってからでも遅《おそ》くないと思うわ麗華ちゃん。死ぬ前に彼岸《ひがん》を見せてあげるっていうんだから、なかなか乙《おつ》なものでしょ?」
「なにが乙なものですかこの無礼者《ぶれいもの》! わたくしに何かしたら承知《しょうち》しませんわよっ。この、放しなさい! 放してっ!」
「だーめ。ささ、おとなしく寝室《しんしつ》まで来て頂戴《ちょうだい》ね。暴れれば暴れるほどおしおきの責めは過激《かげき》になるわよお。それとも何? わざと暴れてもっともっとイイコトしてもらおうとしてるわけ? まあ大変、麗華ちゃんって実はMだったのかしら。その方がうれしいかも」
「――っ! ちょっと保坂! あなたいいかげんにしなさいよっ… 冗談《じょうだん》はやめて早く助けないと後でひどいわよっ!」
「お嬢さま。ぼくもこの家の住人である以上、この人たちに逆らえないんです。お嬢さまの付き人として痛恨《つうこん》の極《きわ》みですが……」
「あなたそう言いながら目が笑ってるじゃないのッ! 覚えてなさいよ保坂、ぜったい後でものすごい目に遭《あ》わせてやりますからねッ!」
「はっはっは、相変わらず麗華くんは元気がいいなあ。大変|結構《けっこう》なことである。おおそうだ、麗華くんと涼子くんのあられもない姿、その撮影は僕が担当しようではないか。任せたまえ、今年の映画賞を総《そう》なめできる映像を必ずや激撮《げきさつ》してみせよう」
「あ、じゃあぼくがマイクを持ちますよ。だってぼく、お嬢さまの付き人だし」
「うむ、君に託《たく》そう。この機会《きかい》を逃《のが》さず傑作《けっさく》を物し、ともに映画界の新星として燦然《さんぜん》と輝《かがや》こうではないか!」
「こっ、この底なし馬鹿《ばか》ども――もっ、もうイヤですわたくしこんな家! 実家に帰らせていただきますからお願いだから放して! はーなーしーてえええええぇぇぇぇ……!」
……死地へ引きずられてゆく令嬢《れいじょう》メイドを、峻護は成《な》す術《すぺ》もなく見送った。こうなってはもう誰にも止められない。本気で凹《へこ》んでしまうことのないよう、祈《いの》るしかたい。まあ姉にしろ美樹疹にしろ保坂にしろ、そのあたりはちゃんと心得ている連中ではあるが。
(しかし先輩《せんぱい》も懲《こ》りないひとだなあ……)
懲りない、というより、これも化物《ジョーカー》たちが発する一種の神通力《じんつうりき》なのだろうか。あの連中を相手にすると、北条麗華ほどの傑物《けつぶつ》ですら調子を狂《くる》わせてしまうようだ。
(助け舟《ぷね》を出すチャンスもなかったわけじゃないけど……)
本来|冷静沈着《れいせいちんちゃく》な麗華が、チラつかせられるだけで身も世もなく騒《さわ》ぎ出すあの写真。あれに写っているものの種明《たねあ》かしをとっくにされてしまっていることを、ちゃんと伝えておくべきだろうか。だが見られてもいないうちからあれだけ取り乱すのだ、その情報を伝えるのはかなり疇踏《ためら》われる。知っていることを知らないで済ませられるなら、それに越《こ》したことはないとも思えた。
(それにしてもおれ、いったい何をやってるんだろうな……)
あらためて己《おのれ》の越し方行く末に思いを馳《は》せると、大いに嘆息《たんそく》せざるを得ない。
必要に迫られていることとはいえ、月村さんと毎日きわどいことばかりして。北条先輩の言じゃないけどそれがどこまで効果のあることかわからなくて、道のりが険しいことはもちろん、ゴールがほんとうにあるのかどうかすらもわからなくて。そしてその先輩はひょっとしたらあの約束の少女かもしれなくて――ああ、また深みに嵌《は》まろうとしている。こんな、出題《しゅつだい》意図《いと》自体がねじれ曲がっているような問題、考えたところでそう簡単《かんたん》に結論の出ることではないのに――
そうとわかっていながら、峻護は思考ループの沼底《どろぬま》へ沈《しず》み込みつつある。自らの保護|対象者《たいしょうしゃ》が不安に揺《ゆ》れる瞳で見上げていることには気づかない。
その真由がおずおずと口を開いた。
「……すごいひとですよね、麗華さんって」
「ん? ああ、そう、そうだな。あのひとは本当に大したものだと思う」唐突《とうとつ》ともいうべき発言にも、峻護はそれと気づかない。「でもちょっと前まではもっとすごかったらしいよ。すごかった、って言われても、さっきみたいにいいように弄ばれてるところを見るとちょっと想像つかないけど」
「わたし、すごくうらやましく思ってるんです」
「うらやましい?」
「きれいで、みんなに慕《した》われてて、頭もよくて、とても強くて……あのひとが持っているものは、わたしにはないものばかりで。それにたぶん、わたしには一生|届《とど》かないものばかりで。なんだか世の中不公平だなって、自分でも情けないと思うんですけど、そんな風に考えちゃいます」
「そう――だろうか」
「そうですよ」
力なく微笑《ほほえ》み、
「――やっぱり無理《むり》、ですよね。わたしがあのひとに勝てるわけ、ないですよね」
「いや、それは了見《りょうけん》が違《ちが》う」
そこはすぐさま断《だん》じた。
「そもそも勝つ必要なんてないんだ。月村さんは北条先輩と自分を比《くら》べて落ち込んでいるのかもしれないけど、それはちょっと後ろ向きすぎる。傍《そば》に凄《すご》いひとがいるんだから、むしろ先輩を師匠《ししょう》だと思って積極的《せっきょくてき》に学べばいい。すごさを学べる機会がいくらでもあるんだって考えれば、今の状況《じょうきょう》だって捨てたものじゃないだろ?」
本音《ほんね》である。
「だいたいそんなこと言ったらおれなんてどうなるんだ。姉さんやら美構彦さんやらに囲まれて、いつもどやされてばかりで。月村さんみたいにがんばってるひとにそんなこと言われたら、おれの立場がないよ」
肩《かた》をすくめてみせると、真由もぎこちないながら笑《え》みを返し、
「そうですよね、わたしってなんだか弱音ばかり吐《は》いてますよね。そういうのは直さなくちゃと思ってるのに、思うばっかりでいつもいつも直せなくて、今だって――」
「ほら。それも弱音だろう?」
「……そうですね。ほんとうに、そのとおりです」
ぽかりと自分の頭を叩《たた》き、さっきよりは少しだけ笑顔らしい笑顔になって、
「わたし、がんばりますから、特訓。せっかくこの国に戻《もど》ってきて、この家に居候《いそうろう》までして、たくさんの人に迷惑《めいわく》をかけて、そうやって続けさせてもらってることですから。ぜったい、恐怖症《きょうふしょう》をなおしますから。どんなことをしてもなおしますから、だから――」
「うん、そうだな。がんばろう」
もちろんそのための努力を惜《お》しむつもりはない。それはあの日、あの浜辺で自らに誓《ちか》ったことだ。
誓いは、果たさねばならない。二ノ宮峻護は男の端《はし》くれであり、その誓いが軽いものであってはならない。まして相手は月村真由、小さい頃《ころ》からの男性恐怖症でずっと不自由してきた少女――好きだった少年の精気を吸《す》い尽《つ》くして死に至らしめ、自らの記憶《きおく》まで塗《ぬ》り替《か》えざるを得ないほどの心の傷を背負った少女だ。そんな彼女の傍にいて何もしてやれないのであれば――まして唯一《ゆいいつ》彼女の力になってやれるかもしれない自分が何ら救いを与《あた》えてやれないのであれば。それは、男ではない。それでは男である意味がない。
でも――ああ、また考え始めている――だったら北条先輩のことはどうなるんだ。十年間、ずっとおれを待ち続けてくれたあのひとは――いや、もちろんそうだと決まったわけではない、でも本当だとして、だったらどの面《つら》さげてあの人と話せばいい。おれがあのひとにしてきた仕打《しう》ちは、とてもじゃないが許されるものじゃないだろう。もし先輩がおれを許してくれたって、おれ自身がおれを許せない。
それに、そういう問題を全部乗り越えて十年前の誓いを果たしたとして。じゃあ月村さんのことはどうなるんだ。いくら男性恐怖症|克服《こくふく》という建前《たてまえ》があるにしたって、あるいは姉さんや美樹彦さんの圧力《あつりょく》があるにしたって、何の感情も抱《いだ》いてない女性を相手にこんなきわどい行為《こうい》を甘《あま》んじて続ける、そんな節操《せっそう》のない男なのか、おれは。否《いな》、それは断《だん》じて否だ。じゃあどうする。おれは何を、誰を選べばいい。いやそもそも選ばなければならないのか、選びようがないものを天秤《てんびん》にかけろというのか――
……もともとが素直《すなお》で、表裏がない峻護である。葛藤《かっとう》に揺れる内心が如実《にょじつ》に表情に浮《う》き出て、その眉目《みけん》を険しくしている。
そんな横顔を、こちらもまた嘘《うそ》の不得手《ふえて》な少女が、曇《くも》りがちな眼差《まなざ》しで見守っている。
*
足先から、ゆっくりと。
麗華は熱いお湯《ゆ》の中に沈《しず》みこんでいく。
わずかに肌《はだ》を刺《さ》すぴりぴりした刺激《しげき》。まさか天然《てんねん》の温泉ではなかろうが、やや白濁《はくだく》したお湯の中に、一日の疲《つか》れが心地《ここち》よく溶《と》け出していくのがわかる。その悦楽《えつらく》に思わず漏《も》れる吐息《といき》は普段《ふだん》の苛烈《かれつ》な印象《いんしょう》に似ず、思いのほか可愛《かわい》らしい。
二ノ宮家の、麗華ですら目を見張《みは》るほど造りのいい浴室《よくしつ》である。削《けず》り出した木の香《かお》りもまだ初々《ういうい》しいヒノキ風呂《ぶろ》。この国の伝統美《でんとうぴ》を余《あま》すところなく表現し、なおかつあくまでモダンたることをやめない、ある種の到達点《とうたつてん》を示すデザイン。ほんと、北条の本家にもひとつ欲《ほ》しいくらいですわ――としみじみ思う麗華だが、この浴室の設計《せっけい》を担《にな》ったのが二ノ宮家の女主人であることを思い出し、顔をしかめた。
それにしてもまったく、あの二ノ宮涼子はとんでもないスキモノ百合《ゆり》女《おんな》であると断言《だんげん》せざるを得ない。今のところ最後の一線だけはかろうじて超《こ》えずに逃《のが》れているが、それも大した慰《なぐさ》めにはならなかった。すでに貞操《ていそう》以外は残らず躁躍《じゅうりん》されたと言ってよく、隅々《すみずみ》まで発掘《はっくつ》されたり、あるいは言葉で嬲《なぶ》られたり――いや、よそう。せっかく気分よく身体《からだ》と心をほぐしているのだ。花街《はなまち》に俗世《ぞくせ》のあく[#「あく」に傍点]を持ち込むがごとき無粋《ぶすい》は、良家の令嬢《れいじょう》の採《と》らざるところである。
広い浴室を緩《ゆる》やかにたゆたう湯煙《ゆけむり》をぼんやり見上げる。
今日もクタクタだった。仕事から帰ってくればすぐに破廉恥《はれんち》女の相手をさせられ、そのあとは折檻《せっかん》の一環《いっかん》と称《しょう》して山ほどの家事《かじ》を押《お》し付けられ――それを息も絶《た》え絶《だ》えに済ませた今、ようやく訪《おとず》れた憩《いこ》いの時を満喫《まんきつ》しているのである。
ふう、と再度|吐息《といき》し、片手でゆっくりお湯を撹拌《かくはん》する。
その動きのまま自分の身体をなぞってみる。
そう捨てたものではないはずだ、と思う。細身ながら均整《きんせい》は取れているし、シミはおろかホクロひとつ探すのも苦労するような白くて滑《なめ》らかな肌は、触《ふ》れているだけで幸せな気分になれそうだし……中等部までは女子校育ちだったこともあり、実のところこれまでいわゆる『告白』というものをされたことがないのだけど、それでも自分の容姿《ようし》は異性《いせい》の気を引くに足るもののはずだ。保坂もそう言うし、少しは自負《じふ》もある。
だけどそれも、二ノ宮峻護に対してはあまり効果《こうか》を発揮《はっき》していないように思える。仕事仕事で家を空けてばかりだから同じ時間を共有《きょうゆう》することは多くないけれど、それでもひとつ屋根の下に暮らしているのだ。普通《ふつう》ならもっとこう、なにか色々あってもいいというか許容《きょよう》できなくもないというか。もちろんそれを期待しているなどということは、物理法則が捻《ね》じ曲がったとしてもありえない話だけど。
そうね、例えば――と麗華は想像を広げてみる。いつも自分に反抗的《はんこうてき》な態度《たいど》を取るあの男を、わたくしのこの魅力《みりょく》で虜《とりこ》にして、思うがままにするとか。……でもよくよく考えたらあの男にそういう姿は似合《にあ》わないですわね。というより似合ってもらっては困ります。ですからそうね、もう少し手加減《てかげん》してあげて――そう、最初はわたくしの付き人見習いにするのがいいでしょう。べつに厳《きび》しく仕込《しこ》む必要はありません、仕事とか何もしなくていいから、ただずっとわたくしの傍にいてくれればそれでよくて――って、そんなはずありますかっ! あんな男に四六時中《しろくじちゅう》くっつかれているなんてこと、考えただけで――考えただけで――
ぶくぶくぶくぶく、と。
麗華の顔が湯面の下に沈んでいく。まだのぼせるほど湯には浸《つ》かってないだろうに、完熟《かんじゅく》トマトのように赤くなって。もちろんこれは、二ノ宮峻護などという忌々《いまいま》しい男の姿がコンマ一秒でも自分の脳内《のうない》に投影《とうえい》されてしまったことへの怒《いか》りがそうさせたのである。それ以外にどんな理由もありえない。
でも――と、少し冷静になって考える。
結局のところ、いかに想像や空想《くうそう》や妄想《もうそう》を働かせようと、無意味《むいみ》だ。
あの男の傍には、麗華ではない別の人間がいる。
あの男がいつも隣《となり》にいるのは月村真由。あの男がいつも肩《かた》を持つのは月村真由。あの男がやさしいことをするのはいつも月村真由。真由、真由、月村真由ばかり。
そしてあの男が好きな相手もきっと――
(……言うまでもなく!)
あわてていつもの呪文《じゅもん》を唱《とな》える。――わたくしはあの男を利用したのであって、あんな男はしょせん踏《ふ》み台でしかなくて、だから今も昔もあんな男は睫毛《まつげ》の一本ほども眼中《がんちゅう》にないのだけど! それは確かに、顔はそこそこだし、背もまあまあ高いし、細身に見えて脱《ぬ》ぐとけっこう筋肉質《きんにくしつ》だし、無愛想《ぶあいそう》だけど真《ま》っ直《す》ぐで曲がったことが嫌《きら》いだし、割《わり》とモテるくせにチャラチャラしたりしないけど、でも! だからといってこのわたくし、神宮寺《じんぐうじ》学園の生徒会長であり北条コンツェルンの次期《じき》総帥《そうすい》であるこの北条麗華と釣《つ》り合うほどの相手では、断《だん》じてないのです! よって論理的《ろんりてき》な帰結《きけつ》として、あの男がどこの誰とくっつこうとこのわたくしが痛痒《つうよう》を感じることなどありえないのですわ!
――と、心を鎧《よろ》う儀式《ぎしき》を済ませてから、さらに考える。
結局は――月村真由なのだ。あの女にすべて行き着くのだ。あの女が現れる前は――もちろん満足とは程遠《ほどとお》い日々だったけど、でも、それでも希望は持てた。あの男がすべてを忘れているならいるで、それだったら一から新しい関係を築《きず》き直してもよかったのだ。そう思って、スケジュールに調整《ちょうせい》をつけては毎日毎日校門の前に立ったりして、できるだけあの男の傍《そば》にいようとしたのだ。遠い道のりで、カタツムリみたいな歩みだったかもしれないけど、でもいつか、いつかあの十年前に戻《もど》れるんじゃないかと、そう信じることができた。それなのに――
あの女が、横からすべてを掻《か》っ擢《さら》っていった。
「…………」
そろそろのぼせ上がってきた頭で、なおも考える。
本当に腹が立つ。男性恐怖症だか何だか知らないが、ひとの想《おも》いをぶち壊《こわ》しにして。あの小娘《こむすめ》さえいなかったら、ひょっとしたら何もかもが上手《うま》くいっていたかもしれないのに。
あの頃《ころ》は――あのおんぼろアパートで暮らした日々は、よかった。ほんとうに。悲しみ、怒《いか》り、喜び、笑い――すべてが、毎日が輝《かがや》いていた。まるで陽光《ようこう》を受けて湧《わ》く森の泉のようにきらびやかだった。今はなんというか、頼《たよ》りないというか弱っちい感じになってしまったあの男だけど、あの頃はほんとうにすごかったし。
そいつの姿を目の前に幻視《げんし》しながら思いを馳《は》せる。
黙ってニコニコしているだけでもこちらがつい身構えてしまうような威圧感――というとちょっと違うけど、とにかく、この北条麗華をも圧倒するような何かがあったのだ。どうしようもなく自分を上回る人間がいると思うと腹が立ったが、でも、素敵《すてき》だった。かっこよかった。あのころのあの男はなんでもできて、けっこう容赦《ようしゃ》なかったけどその何倍もやさしくて、それでもっていつもさりげなく自分のことを心配してくれて――それにそう、こんなマヌケな顔を決して見せなかったし、こんなに背は高くなかったし、もっとかわいい顔をしていたし――
……熱いお湯と乙女心《おとめこごろ》に霞《かす》んだ意識で、ようやく何かおかしいと感じ始める。
視線の先に、先ほどから幻視している二ノ宮峻護がいる。
ひどくリアリティのある姿だった。遠近感《えんきんかん》もばっちりで、手を伸《の》ばせぱ触《ふ》れられそうな存在感《そんざいかん》がある。おまけに自分の頭の中で見ている幻像《げんぞう》のはずなのに、ちっとも思い通りにならないし、だいたいわたくしが見ようとしていたのは十年前の姿のはずで――
きっと夢でも見ているのだ、と思い、それだったらと目を閉じた。
三つ数え、目を開けた。幻像は消えてくれなかった。
もう一度目を閉じ、開けてみた。
呆気《あっけ》に取られた顔の二ノ宮峻護が、やっぱりそこにいた。
しかも裸《はだか》で。
一糸纏《いつしまと》わぬ姿で麗華が入浴している浴場に。
「――――!」
一瞬《いっしゅん》でパニックに陥《おちい》った。コインランドリーに入れた洗濯物《せんたくもの》のように心がしっちゃかめっちゃかになり、動転のあまり口も利けない。
なぜ! どうしてこの男がここに!
口をぱくぱく開け閉めするばかりの麗華の前で、月村真由を引き連れた二ノ宮峻護はようやく事態《じたい》を呑《の》み込んだらしい。
「――どっ、どうして先輩《せんばい》がここに、って、そんな、うわ、どうなって、だって脱衣所《だついじょ》には誰の服も、」
「なあに、どうしたの峻護。――あら麗華ちゃんじゃない。先に入ってたのね」
「おお本当だ。涼子くんに山ほど押し付けられた仕事はもう終わったのかね?」
例の二人までぞろぞろと続いてくる。
「な、な、な、なぜ、どうして、」
「麗華ちゃん。あなたもようやくわかってきたようね、我《わ》が家のルールが」
「いやまったく。この家の規律《きりつ》に定められている混浴《こんよく》奨励《しょうれい》の趣旨《しゅし》を、ようやく彼女も理解してくれたらしい。麗華くん、君と入浴を共にするのは初めてだな。お互《たが》い同じ湯に身をゆだね、胸襟《きょうきん》を開き合って隔意《かくい》を除《のぞ》こうではないか」
きっちりかけ湯までしてから見事《みごと》な裸身《らしん》を連ね、麗華にとってプライベートなはずの領域《りょういき》を侵犯《しんばん》してくる。湯面が揺《ゆ》らいで波を立たせ、硬直《こうちょく》している麗華の身体《からだ》をちゃぷちゃぷとくすぐっている。
「ふう、きょうもいいお湯ね。麗華ちゃんと一緒《いっしょ》というのも嬉《うれ》しいことだし」
「しかも見たまえ。彼女、感心なことに水着などという無粋《ぶすい》なものを着用していない。さすがに北条家の令嬢《れいじょう》、しつけが行き届いている。あの二人にも見習わせたいものだ」
と、浴室を入ったあたりで立ち尽《つ》くしている少年少女に目を向ける。
「ほらほらあなたたち、いつまでボーっとしてるの。早く始めなさい」
どうしたものかとお互いに顔を見合わせていた二人――さっきは裸と見えたが、ちゃんと水着を着ていた――だったが、結局は涼子の言葉に従って動き出した。
「――ちょっとお待ちなさいッ!」
それを見た麗華の呪縛《じゅばく》がようやく解《と》ける。
「そこの二人! いったい何を始めるおつもりですの!」
「何を、と言ってもねえ」
代わりに涼子が答える、
「見ての通りの『特訓』だけど? あなたも知らないことじゃないでしょう」
そう。二ノ宮家|特措法《とくそほう》にはこう明記してある。
いわく、『二ノ宮峻護ト月村真由ノ入浴ハ、コレヲ別ニスル可《ぺ》カラズ』。
つまりいま麗華の眼前で繰《く》り広げられている光景――二ノ宮峻護と月村真由が身体の洗いっこをするというけしからぬ行為《こうい》は、この家においてはあくまでも合法的なそれということになる。
「許しません!」
が、だからといって納得《なっとく》できるはずもない。
「認めません! そんな、健全《けんぜん》な青少年にあるまじき不届《ふとど》きな真似《まね》、わたくしぜったい認めませんわよ!」
「あらあら。一足先にハダカで待ち受けていたあなたがそのセリフを吐《は》くわけ?」
「まったくだ。君の価値観《かちかん》に従えば、水着を着ている二人よりも君のほうがよほど破廉恥《はれんち》であるように思えるが?」
「そ、それはあくまでも事故というもので――と、とにかく! 何と言われようとこんなみだらな行為は到底《とうてい》許容できません! 今すぐ中止なさい!」
「わがままねえ。じゃあ自分で止めてみせなさいな。わたしたちは邪魔《じゃま》しないから」
「そ、そんなこと……!」
できるはずがない。今の麗華は生まれたままの姿であり、それを隠《かく》すものは糸くず一本持ち合わせておらず、そしてすぐそこには二ノ宮峻護がいるのだ。止めるどころか、この場を逃《に》げ出すことだって彼女には考えられない。もし二ノ宮峻護に見られたら――もう、一生まともに顔を合わせられないと思う。
「あの、先輩? バスタオルとかでよければおれが持ってきますから、それで……」
「峻護、余計《よけい》なおせっかいを焼かない」ぴしゃりと涼子。
「あんたにはあんたの役目があるでしょう、それを全うしなさい。下手《へた》な手出しは麗華ちゃんのためにならないわ。人は痛みを知って成長するものよ」
口出しした弟を叱《しか》りつけてから、優雅《ゆうが》に笑ってみせる。
「さ、わかったらゆっくりと愉《たの》しんでいきなさいな。せっかくのお湯なんだから」
「――っ!」
歯軋《はぎし》りする。まったく、なんたる不覚《ふかく》か。この家の住人はこういう連中なのだと骨身《ほねみ》に泌《し》みているはずなのに。いくら疲《つか》れていたとはいえそんなことにも頭が回らず、のこのこ虎口《ここう》に飛び込む羽目《はめ》になるとは。
「――ちょっと保坂! 保坂はどこッ? 主人の危機に何をしてるのです、とっとと助けに来なさい!」
「保坂くんならあなたに『ものすごい目』に遭《あ》わされて伸《の》びてるわよ。あんまり無茶《むちゃ》なことを言わないの」
「麗華くん、そう硬《かた》くならずもっとリラックスしたまえよ。本来そのための入浴なのだ、そうつんつんしていては本末《ほんまつ》転倒《てんとう》だと思わないかね?」
「う、うるさいっ、こんな状況《じょうきょう》で誰が落ち着けますか! あなたたちみたいな非常識人《ひじょうしきじん》と一緒《いっしょ》にしないで頂戴《ちょうだい》!」
「そうはいうが麗華くん、俗《ぞく》に『郷《ごう》に入りては郷に従え』という俚諺《りげん》もある。まして君はすでに郷の中にあり、なおかつその郷において最も神聖というべき場所に身を置いているのだ。もはや事態《じたい》は既成《きせい》事実化しているといっていい。であるからにはそう物事《ものごと》を否定《ひてい》ばかりせず、肚《はら》を括《くく》って状況を受け入れてもよかろう。もう少し悠然《ゆうぜん》と構え、あの二人が特訓に励《はげ》む姿を見ものにするくらいの心の余裕《よゆう》を持ってはどうかね」
「お黙《だま》りなさい、そんな詭弁《きぺん》はもう沢山《たくさん》です! とにかくわたくしは認めません! 認めないったら認めません! ぜったいぜったいぜっっっっっったいに、認めないんだから! あなたたち、これ以上わたくしを怒《おこ》らせるとわたくしほんとに怒りますわよ!」
「ああもううるさいわねえ。あなたはもっと風雅《ふうが》というものを理解していると思ったけど――どうも場所|柄《がら》をわきまえていないようね」
「同感だな。せっかく感心したのに損《そん》した気分だ。そればかりかあくまでも我々の最大の愉《たの》しみを否定・妨害《ぼうがい》しようとするとは――この不心得《ふこころえ》、相応の責任を取ってもらわねば収まるまい」
びくん、と麗華の全身がすくんだ。
学習能力の欠如《けつじょ》というなかれ。この珍人類《ジヨーカー》どもの一挙手《いっきょしゅ》一投足《いっとうそく》には、人心を惑《まど》わす妙《みよう》な作用があるのだ。
「な、なに? まさか――まさかよね? 今日はもういいですわよね? 今日はもう二回もしましたものね? ね?」
「あら、それって遠回しな催促《さいそく》かしら。だったら期待には応《こた》えてあげないとねえ」
冗談《じょうだん》ではない。ただちに色ボケ女の射程《しゃてい》圏内《けんない》から脱出《だっしゅつ》しようとして、しかしすぐそこには二ノ宮峻護がいて、今の麗華は文明人にあるまじき姿であり、そうしている間にも敵はニタニタ笑いながら近づいてきて、
「まったくもう、一日三回だなんて。あなたもタフというか貪欲《どんよく》というか……でも安心なさい、わたしだったら一日四回でも五回でも、あなたが求めるだけ応えてあげるから。ほんと、食べ甲斐《がい》のある子ねえ」
「や、やめて、近寄らないで――それ以上近づくとわたくし、泣きますわよ? ほ、ほんとに泣くんだから!――ひゃうっ」
「ま、相変わらずいい感度《かんど》。けど麗華ちゃんって、どうも自分を解放《かいほう》しようとしないのよねえ。いいわ、カラダの欲求に素直《すなお》になれるよう、きっちり目覚めさせてあげましょう。住人の人生観を広げてあげるのも家主としての責任だものね」
「余計《よけい》なお世話《せわ》です! わたくしそんなの知りたくな、」
「そう言わずこっちの世界にいらっしゃいな。いい夢見させてあげるから。――こら暴れない、手間《てま》をかけさせない」
「ま、またなの? またこのパターンですの? だ、だめ、そこはわたくし弱、い、いや、そんないじっちゃ、やっ、やだやだやだやだ、ほんとに、やめ、わたくし、そっちの世界には行きたくな、あっ、あっ、やっ、やあっ、やだっ、やだあっ、いやああああああああああああああ……っ!」
――すぐ横で行われていることのすべてを見なかったことにしつつ、峻護は黙々《もくもく》と自分の勤《つと》めを果たす。
そんな保護者《パートナー》を心細げに見守りながら、真由もまた自分にできることをこなしていく。
下界の騒《さわ》がしさをものともせず、夜は他人の顔で更《ふ》けていく……。
*
ちょっと悪ふざけが過ぎるのではないかと思う。
まあ確《たし》かに、北条麗華はあれだけ散々《さんざん》な目に遭《あ》っても簡単《かんたん》にへこたれない、強いひとではあるけれど。
――いまだオモチャにされたままの麗華に合掌《がっしょう》しつつ浴場を出、峻護は自分の部屋に向かっている。さすがに着替《きが》えは真由と別々であり、現在は彼女を脱衣所《だついじょ》に残しての単独《たんどく》行動だ。
あまり適切《てきせつ》な例ではないかもしれないけど、とさらに峻護は考える。これが月村さんだったらこうはいかないだろうなあ。あれほど無残《むざん》な仕打《しう》ちを受けたら、きっと今ごろは深《しん》刻な顔で遺書をしたためているに違いない。
ふぁ、とあくびが出る。一日の疲れが湯上がりの影響《えいきょう》で一気に表面化したものだろうか。いけないいけない、まだやっておかねばならない家事《かじ》が残っているのに。
目を瞬《しばた》かせて眠気《ねむけ》を追い払《はら》いつつ階段を上ろうとして、
「や、二ノ宮くん。お疲れさま」
二階から下りてきた保坂に声をかけられた。
「どうだった? お嬢《じょう》さま。たっぷりお風呂《ふろ》を楽しんでた?」
「……保坂先輩、」苦い顔で、
「知ってたんでしょう、北条先輩が先に入ってたこと。だったらあらかじめちゃんと伝えておいてくださいよ」
「いやいや。涼子さんの言い分じゃないけどあれも修行《しゅぎょう》のうちだよ。ミスしたら痛い目を見るってこと、ちゃんとカラダでわかってもらわなきゃ。あのひとの仕事にはコンツェルンの運命が掛《か》かってる。本来ミスは許されないんだから」
「というか、脱衣所に北条先輩の服らしきものは見当たらなかったんですが。あのひとと湯船でかちあったもそのせいです」
「へえ、そうなんだ」
「……先輩の仕業《しわざ》ですよね?」
「なんのこと?」
心から不思議そうに首をかしげる。麗華から『ものすごい目』に遭わされたらしく、ちよっと描写《びょうしゃ》をしづらい様子《ようす》になっている付き人少年だが、まったく懲《こ》りていそうにない。それこそMっ気があるとしか思えないのだが。
「で、助けに行かなくてもいいんですか、北条先輩のこと。あの二人、一応の節度はわきまえてるはずですけど、それでもやりすぎないという保証は――」
答えず、代わりに少年は手を差し出した。
「……? これは?」
「栄養ドリンク」
握《にぎ》った小ビンのキャップを開けつつ、
「コンツェルン傘下《さんか》の製薬《せいやく》会社が持ってきたサンプル。ほら、二ノ宮くんってこういうの好きでしょ?」
「はあ、確かによく飲みますが……これを、おれに?」
「よかったら感想きかせてよ。これくれた人に報告するから」
見れば、峻護が愛飲《あいいん》しているメーカーの品らしい。風呂上がりにはおあつらえ向きだ。
好意に甘《あま》え、さっそく飲み干《ほ》した。
「どう?」
「――いいと思います。薬っぽさがあまりなくて。この手のドリンクって、有効成分《ゆうこうせいぶん》のえぐみを甘味料《かんみりょう》や香料《こうりょう》でごまかすのが定石なんですが、これは味も香《かお》りも抑《おさ》えて無味《むみ》無臭《むしゅう》に近づけようとしているみたいです。難《むずか》しい技術のはずですが、かなり成功しているようですね」
「なんかホントに玄人《くろうと》はだしな意見だなあ……うんわかった、伝えておくよ。また機会があったらよろしく。あ、それとそのサンプル、まだ一ダースくらいあるから。よかったらあとでそれもあげるよ」
「あ、はい、ありがとうございます。でも――」
「じゃ、ぼくはお嬢さまに叱《しか》られてくるから。おやすみなさい〜」
「いや、おれはまだ仕事がありますから……」
「いい夢見てね〜」
話を聞かず、すったかと下りていく。
(なんだか……おれの回りの人間って、こういう一方的なひとばかりのような……)
今さらな話であることは峻護もよくわかっている.軽くため息をつくだけにとどめ、再び階段に足をかけた。
峻護の部屋、というのはつまり真由の部屋でもある。
だが二人で使う部屋にしては、この十|畳《じょう》ほどの洋室はひどく殺風景《さっぶうけい》な印象《いんしょう》があった。やせた灌木《かんぼく》のみが疎《まば》らに生える岩|砂漠《さばく》のよう……というとやや誇張《こちょう》があるが、おおむねそういうイメージで当たっている。もともとの部屋主である峻護が質実剛健《しつじつごうけん》を旨《むね》とし、装飾物《そうしょくぶつ》の類《たぐい》を一切《いっさい》置かない上に、家具も最低限の数しか用いない。そして後発の住人である月村真由もまた峻護でさえ驚《おどろ》いたほど質素《しっそ》な少女であり、ここに引《ひ》っ越《こ》すに当たってもなんだか気《き》の毒《どく》になるほど少量の私物しか持ち込まなかった。
唯一《ゆいいつ》の例外が、部屋の中央に腰《こし》を据《す》えた豪華《ごうか》なダブルベッドである。涼子と美樹彦があつらえた、この悪趣味《あくしゅみ》な冗談のようなデカブツは、残念ながら悪夢ならぬ現実である。若い男女が暮らす部屋にこんな代物《しろもの》のあることが何を意味するか、そして峻護にとって稀代《きだい》の悪法というべき二ノ宮家特措法がこのベッドで何をすることを定めているか……めまいがしてくるのは睡魔《すいま》のせいぱかりではあるまい。
「――っと」
なんだか本当にくらくらしてきた。目蓋《まぶた》が重く、足もとがおぼつかない。
まだ寝《ね》るわけにはいかない。今日中にやっておかねばならない仕事が残っているし、それにこの後、どうせ『特訓』が待っているのだ。これまでの流れからするとどうもそういうことになりそうであり、しかし本当ならこの問題は北条先輩との話し合いで解決《かいけつ》するはずで、あのひとはどんな結論を出すのだろうか、このままなし崩《くず》しに特訓を始めたら潔癖症《けっぺきしょう》のあのひとがまた暴れることになるのだろうか。
いけない、冗談ではなく耐《た》えられなくなってきた。夜ごと峻護の理性を切り刻《きざ》む舞台《ぶたい》となるベッドが、いつもは処刑台《しょけいだい》のように見えているダブルベッドが、今日はやさしく手招きしているように見える。だめだだめだ、今日はまだやることがあるんだ、明日の朝食の仕込みをしないといけないし、学校の宿題も手をつけていないし、軽くでいいからこの部屋の掃除《そうじ》もしたいし、とりあえず明日の朝は洋食にするつもりで、パンは何にしようか、たまにはクロワッサンを焼こうか、スープは、最近はとうもろこしが出回るようになったから、ああでもこの間もコーンスープだったし、じゃあコンソメに、でもさすがに一から作るのは無理《むり》だな、前作ったやつの残りが冷凍してあるから、でもきっと姉さん、そんなのじゃ納得《なっとく》しないだろうな――
……むにゃむにゃ呟《つぶや》く声もやがてかすれ、庭から届く虫の声の向こうに消えていく。
いつしか誘惑《ゆうわく》に耐《た》え切れず、ベッドに倒《たお》れこんでいたことにも気づかぬまま。
峻護は夢すら見ない深い眠りに落ちていった。
しばしの後。
「――二ノ宮くん?」
ベッドに崩《くず》れかかった同居人を見て、遅《おく》れて戻《もど》ってきた真由がそっと声をかけた。
「寝てしまったんですか?」
半乾《はんがわ》きの髪《かみ》を手で押《お》さえながら顔を寄せる。
「まだ仕事、残ってますよ? 涼子さんに怒《おこ》られますよ?」
軽く揺《ゆ》すってみるが目を覚ます気配はなく、安らかに寝息を立てている。うとうとしているという様子ではなく、本当に寝入ってしまったようだ。
緊張《きんちょう》が解《と》け、ひとりでに表情がやわらかくなるのを真由は自覚する。眠っている相手には自分が苦労をかけることもないので。
「よい、しょ……と」
だらしなく横たわっていた少年の姿勢を直し、布団をかける。身じろぎ一つせず為すがままになる少年はなんだか、遊び疲れた果てに舟《ふね》をこぎ始めたやんちゃな弟のようだった。自然と笑《え》みがこぼれる。世に数多《あまた》いる姉弟の関係はこんな感じなのだろうか。あの涼子もこんな気持ちになることがあるのだろうか。
ベッドの端《はし》に腰をかけ、『弟』を見やった。
整った顔立ちながらいつもむっつりしているような少年。こうして休んでいても、そんな彼の性向が寝顔《ねがお》に浮《う》き出ているように見える。規則《きそく》正しい呼吸と、窓《まど》から入ってくる虫の声。ここの虫の声は豊かだ、と思う。森に囲まれていたはずのあの石の館《やかた》ではこんな合唱《がっしょう》を耳にすることはなかった。――いや、あのころは気づかなかっただけだろうか。それだけのゆとりを持てなかっただけだろうか。
(……仕事、しなくちゃ)
朝食の仕込みだけは済ませておかねばなるまい。他の家事については彼なりの思惑《おもわく》があるだろうから、下手なことはしないでおこう。彼の邪魔になってはいけない。
(明日は洋風ですよね、たぶん)
これまでのローテーションと用意してある食材と峻護の性格から、そう判断《はんだん》した。洋食は得意だし丁度《ちょうど》いい。――せっかくだから腕《うで》によりをかけて、二ノ宮くんがびっくりするくらいの料理を作ろう。そうすれば少しは恩返《おんがえ》しができた気になれるかも知れないし。あ、でも夜更《よふ》かしして怒られないようにしないと。
明朝になって起き出してきた峻護の驚いた顔を想像して嬉《うれ》しい気持ちになりながら、真由は部屋を後にした。
*
わたくしって案外辛抱《あんがいしんぼう》強くできてますのね――と、麗華はひとり感心している。
ガラス窓を磨きながら、である。
もちろんこんな夜中にこんな作業をさせられているのは、あの暴君《ぼうくん》の指図《さしず》による。ニノ宮涼子はあれだけ麗華のカラダを苛《さいな》んでもまだ罰《ばつ》が足りないとほざき、この仕事を押し付けてきたのだ。磨くよりもむしろ家中のガラス窓を叩《たた》き割《わ》ってやりたい気分である。そもそもこれは何の折檻《せっかん》だというのだ。『浴場の風雅《ふうが》を損《そこ》なった罪《つみ》』などと抜《ぬ》かしていたが、それでは先客のいる浴室に後から押しかけてきた無礼《ぶれい》はどう落とし前をつけるつもりなのか。
まったく、ここまで不当《ふとう》な扱《あつか》いを受けてもなおこの洋館に留《とど》まっているのだから、我《われ》ながら付き合いがいいというかなんというか。それもこれも一週間前、軽率《けいそつ》にも二ノ宮涼子が仕掛《しか》けた勝負に乗り、敗北したがゆえである。あれは一生の不覚《ふかく》というべきだった。あの時交《か》わした契約《けいやく》があるゆえに、彼女は己《おのれ》の身柄《みがら》をこの独裁《どくさい》国家《こっか》に置かねばならないのである。契約は神聖なものであり、たとえそれが法的に無効《むこう》であっても、北条麗華が納得済みで交わしたものであれば尊重《そんちょう》せねばならない。北条家の次期当主の言が軽《かろ》んじられてはならず、まして当の麗華自身がおろそかにするわけにはいかないのだ。忍耐《にんたい》に忍耐を重ねて踏《ふ》みとどまっているのはただその理由があるためであり、二ノ宮峻護の存在がそこに何らの影響《えいきょう》も及《およ》ぼしていないことは、ことさら言及《げんきゅう》するまでもない。
やっとの思いで一階|廊下《ろうか》の窓を磨き終えた。
急がねばならない。この後も『特訓』が――二ノ宮峻護と月村真由の同衾《どうきん》などという不埒《ふらち》千万《せんばん》の愚行《ぐこう》が控《ひか》えている。なし崩《くず》し的に淫行《いんこう》の再開と是認《ぜにん》の流れが確定する前に、きっちり白黒つけねばならないのだ。
清掃《せいそう》用具を提《さ》げて移動《いどう》する。
彼女の忠実《ちゅうじつ》な下僕《げぼく》は先ほどから姿を現さない。あるいは彼も主人と同じく、何か仕事を押し付けられたか。それとも助太刀《すけだち》するのを禁じられでもしたか。もしかすると麗華の代理として商務《しょうむ》をこなしているのかもしれない。
他の住人はもう床についているのだろうか。就寝の時間にはまだ早いように思うが、邸内《ていない》には麗華の他《ほか》に動く気配は何もない――
いや。
通りかかった台所から物音が聞こえた。
覗《のぞ》いてみた。
月村真由がいた。ひとり。二ノ宮峻護の姿はない。
「あ――」
向こうもこちらに気づき、おどおどと頭を下げた。
「ふん――」
近づき、真由が作業していたものを一瞥《いちぺつ》した。まな板、包丁《ほうちょう》、刻《きぎ》んだ野菜、寸胴鍋《ずんどうなべ》……。
「朝食の用意かしら。ひとりで感心ですこと」
「あ、はい、このくらいしか、わたしにできることはありませんから」
笑《え》みを見せる。いつものように気弱げで、自信なさげで、儚《はかな》げな微笑《びしょう》。
「確かに。あなたがこの家に貢献《こうけん》できることなど高《たか》が知れていますわね。ところで――これは二ノ宮峻護に言われてやっていることなのかしら」
「あ、いえ、二ノ宮くんは先に休んでしまってて、それでわたしが代わりに」
「――そう」
つまり。
ここには二ノ宮峻護がいない。
口うるさい付き人もいない。
茶々《ちゃちゃ》を入れる変人どももいない。
「――つまり勝手にやっているということね。いいのかしら? 居候《いそうろう》の無駄飯《むだめし》食らいの分際《ぶんざい》で、二ノ宮峻護や二ノ宮涼子の許可《きょか》もなくそんなお節介《せっかい》をして」
「あの、でもそうしないと、あした二ノ宮くんが怒《おこ》られて――」
「浅知恵《あさぢえ》ですわね。あなた、あの二ノ宮涼子がどういう思考回路《しこうかいろ》を持っているか想像できないの? 割《わ》り振《ふ》られた仕事も済まさないで寝《ね》るとは何事か、などと言って弟に罰《ばつ》を与《あた》えるのがオチではなくて?」
誰も止める者はない。
麗華は自分を抑《おさ》えきれない。抑えるつもりもない。
「その場合は言うまでもなく、二ノ宮峻護に余計《よけい》な負損《ふたん》をかけたのはあなたということになるでしょう。ほんとうにあの男のためを思うなら、叩《たた》き起こしてでもここへ引っ張ってきてその勤《つと》めを果たさせるべきではなくて?……別にこれはあの男のためを思って言うのではなく、あくまで一般論《いっばんろん》として言うのですが」
いちど白黒つけねば収まりはつかない――
これまで、何度も主張《しゅちょう》してきたことだ。
「まあもっとも? どれだけミスを犯したところであなたにとっては痛くも痒《かゆ》くもないでしょうけどね。過保護《かほご》としか言いようがないほど甘《あま》やかされているあなたのことですもの、何をしたって笑って済ませられることでしょうよ」
「そんな、そんなこと――」
「そんなことはないとでもおっしゃるつもり? 呆《あき》れ果てた人ねえ。視野《しや》狭窄《きょうさく》というか身の程《ほど》を知らないというか……要するにまったく自分のことが見えてないのね。では問いましょう。あなたがこの家に来てから今日までの間、あなたには何かひとつでも、自ら勝ち取ったと誇《ほこ》れるものがあって? わたくし、転校生であるあなたや自らの住居であるこの家のことは一通り把握《はあく》しているつもりですけど……その立場から断言《だんげん》いたしましょう。そのようなものは半カケラとて存在しません」
「そんな――」
「あるというならこの場で挙《あ》げて御覧《ごらん》なさい。あたたはいつも、なにもかも、ただ与えられるだけ。ヒナ鳥と同じです。親鳥が運んでくるエサを待ってただマヌケに口を開けているだけじゃない。まったくいいご身分ですこと」
「…………」
答えられず、真由は俯《うつむ》く。
すぐこれですわ――と麗華は鼻を鳴らした。風向きが悪くなればたちまちダンゴムシのように丸くなり、あとはただ嵐《あらし》が過ぎるのを待つばかり。そういつもいつもそんな手が通じると思わないでいただきたいものね。保護者が誰も傍《そば》にいない今、自分ひとりだけでどう切りぬけるつもりかしら。見ものですわ。
「ところであなた、明日の朝は洋食だと勝手に決め付けているようだけど。二ノ宮峻護には他の思惑《おもわく》があるのではなくて?」
「……たぶん、これでだいじょうぶだと思います。今日は和食だったし、冷蔵庫《れいぞうこ》の残りを見ても、あと二ノ宮くんの性格からいっても、」
「たいした自信ですこと。まるであの男の妻ででもあるかのような口ぶりですわね。自分だけはすべてを知っているとでも言いたげですが――あなた、あの男とどれほどの付き合いがあるといいますの? せいぜいが一週間かそこらじゃない。その程度の時間を共有しただけでどうしてそんな口が利《き》けるのでしょう。信じがたいことです。わたくし、新種の珍《ちん》生物でも発見したような気分ですわ。すべてを知った気になって一方的な世話を焼き、矮小《わいしょう》な白己満足を得て悦《えつ》に入る。これぞ甘ったれて依存《いぞん》しきった気分が生んだ傲慢《ごうまん》の表れと言うべきであり、その証明と言うべきでしょう。せっかくの機会《きかい》ですわ、どうしたらそこまで面《つら》の皮が厚くなれるのか、よろしければお教え願えませんこと? この世にいかにしてこれほど笑止《しょうし》な人間が存在し得たか、その貴重《きちょう》なサンプルの証言を是非《ぜひ》とも何らかの形で留《とど》めておきたいですからね」
わかっている。
こんな理屈《りくつ》、控《ひか》えめに表現しても言いがかりの域《いき》を出ない。絡《から》んでいるだけだ。チンピラと大差ないタチの悪さだ。格式《かくしき》高い北条家の、それも直系の一子が取るべき態度《たいど》ではない。だが麗華は今、自分を抑制《よくせい》するつもりは毛頭《もうとう》ない。
「月村さん。黙《だま》ってないで何とか言ったらどうです。わたくし、あなたに訊《き》いているのですわよ?」
「は、い……」
「答えられないのですか。ふん、まあ初めからわかってはいましたけどね。あなたの脳みそは、何を問われたところで満足に答えるだけの出力を持ち合わせていないという、そんな一目《いちもく》瞭然《りようぜん》の事実は」
「…………」
「結局のところ、すべてはあなたという人間の至《いた》らなさゆえ、という一点に収束《しゅうそく》されるのです。二ノ宮峻護にせよあの変態二人にせよ――どうして皆《みな》、あなたのように不具合《ふぐあい》だらけな未熟児《みじゅくじ》の肩《かた》を持つのでしょう。わたくしとんと理解できませんわ」
……確かに抑《おさ》えるつもりはない。だけど。
どうしてこうまで突《つ》っかかるのか、麗華自身説明がつかなかった。
これまで彼女が吐《は》いてきた悪口雑言《あつこうぞうごん》は相応の事実を含《ふく》んでいるにせよ、突き詰《つ》めれば恣意的《しいてき》な解釈《かいしゃく》にまみれた偏見《へんけん》である。いや、実のところ偏見ですらない。多くの部下や生徒の上に立つ彼女の人物眼は、月村真由が本質的に『いい子』なのだということを初見《しょけん》の時から見抜いていた。そういう少女に、それも無抵抗《むていこう》といっていいか弱い後輩《こうはい》相手に、どうしてここまで噛《か》み付こうとするのか。二ノ宮峻護のことがあるから? いや、万歩譲《まんぽゆず》ってそうだとしても、それだけでは説明がつかない。なぜ。
「まったく、こんな小娘《こむすめ》に付きまとわれて二ノ宮竣護もさぞかし迷惑《めいわく》なことでしょう。このわたくしに敵対するあの男が苦心《くしん》惨憺《さんたん》する様《さま》は、本来わたくしにとって甘露《かんろ》というべき見ものですが――ここまで憐《あわ》れむべき状況《じょうきょう》ですと、さすがに少しばかり気の毒になりますわね。これも親切と思って申し上げますけど、はっきり言って足手まといなのよ、あなた。二ノ宮峻護にせよ、その姉にせよ、あなたの兄にせよ――あなたに助力《じょりょく》する、誰にとっても、あなたは足枷《あしかせ》にしかならないのです」
「…………」
俯いたまま、真由は口をつぐんでいる。
黙って、辛辣《しんらつ》な言葉に打たれ続けている。
「そう、いいことを思いつきましたわ。あなたがこの世界に対してもっとも貢献《こうけん》できる方法です。しかもあなたの場合、一度きりで一生分の孝行を済ませられますわよ。ええ、簡単《かんたん》なことです。あなたここに来る前はどこか外国の、宗教《しゅうきょう》関係の施設《しせつ》に居たそうですわね? なんでもそこは男子|禁制《きんせい》の施設だったとか。あなた、せっかくですからそこに一生閉じこもっていればどうです。そうすれば少なくとも今ほどは周囲に災《わざわ》いを撒《ま》き散《ち》らすこともないでしょうよ。そうは思いませんこと? これでしたら男性|恐怖症《きょうふしょう》で具合《ぐあい》が悪くなることもありませんし――」
ふと、あることを思い出した。
「そういえばあなた……今日の昼休み、お手洗いで何をしてたのかしら? あんな誰も来ないような場所に、わざわざひとりでいたのはなぜ?」
びくん、と肩《かた》が揺《ゆ》れたのを、麗華は見逃《みのが》さなかった。
「ひょっとしてあなた、どこか身体《からだ》でも悪いのではなくて? ええ、もちろん一過性《いっかせい》の頭痛や腹痛ですとか、そういうことを言っているのではなく。何か持病でも抱《かか》えているのではないかしら。それも、よほど重いものを」
「…………」
「まあ大変。あなたは極度《きょくど》の男性恐怖症だけでなく、そんな不具合まで患《わずら》っていらしゃるのね。でしたら尚更《なおさら》じゃないの。あなたは二ノ宮峻護から距離《きょり》を置くぺきなのです。このままあなたが負担をかけ続けるとあの男、いつかほんとうに潰《つぶ》れますわよ? あの男、今だって大変そうなのに、この上あなたの持病がさらにあの男の背中にのしかかるようなら……どうなるか、おわかりになりますわよね? そうなる前に男性恐怖症の克服《こくふく》などは諦《あきら》め、きれいさっぱりと身を引くのがよろしいのです。それがあなたの採《と》るべき唯一《ゆいいつ》の道ですわ。むろん、わたくしにとってあの男なんてどうでもいい存在なのですから、わざわざあの男のためにこんなこと言う必要もないのだけれど」
「…………」
「いつまでだんまりを決め込むおつもり?」
「……わたし、は」
俯いたまま、真由は無理《むり》に笑ったようだった。
「わたし、がんばりますから。できることをひとつひとつ、がんばっていきますから。至らないところはたくさんあると思うけど、がんばってぜんぶ、直していきますから。ですからどうか、長い目で、大目に見てくれたら――なんて」
「がんばるがんばるって、あなたそれしか言葉を知らないのですか。念仏《ねんぶつ》ではないのだからたくさん唱《とな》えればいいというものではなくてよ。そうして悲劇《ひげき》ぶった顔で『健気《けなげ》な子』を演じていればすべて済まされると思って? その安易《あんい》で事なかれな態度が気に食わないのです」
「そんな、そんなつもりじゃ……」
「わたくし、二ノ宮峻護にすべてを伝えることに致《いた》しますわ。その様子ではどうせあの男は知らないのでしょう、あなたの不具合が男性恐怖症だけでないことを。そういう隠《かく》し事をしていたと知れば、あなたが二ノ宮峻護に対していかに不義《ふぎ》であったか、ようやくあの男も知ることになるでしょうね。わたくし、いつかあなたのいい子ぶった優等生の皮を引っぺがしてやりたいと思っていたのです。最初からあなたのことは気に食わなかったのよ、いつもヘラヘラ笑って常に衝突《しょうとつ》は避《さ》けて――あなた、世の中それでいつも丸く収まるとでも思って、」
「じゃあこれで満足ですか」
ぱんっ、
という、乾《かわ》いた音がした。どこで鳴った音なのか、すぐには飲み込めなかった。
「あなたに……あなたなんかに、そんなこと言われたくない」
じわり、と。頬《ほお》が熱を帯《お》びていく。
そう。殴《なぐ》られた瞬間《しゅんかん》は、痛いというよりも熱い。
「あなたみたいな恵《めぐ》まれた人に、そんなこと言われたくないッ!」
「…………」
あっそう、と思った。
恵まれているですって? ふうん、だったらあなた、わたくしと立場を替《か》わってみる? 十七歳《さい》でコンツェルンの屋台骨《やたいぼね》を担《にな》うことがどんな重圧《じゅうあつ》か、あなた考えたことがあって? この十年間、わたくしがどんな思いで日々を送ってきたか、あなたにこそ何がわかるというのよ? 恵まれているなんて軽々しく口にしないでよ。
――などと、親切にも前置きをしてやることはなかった。
乾いた音。
今度は二度。
小娘が頬を押《お》さえて無様《ぶざま》に倒《たお》れこんだ。いい気味《きみ》だ。
目には目と歯を。歯には歯と目を――右の頬を打たれたら右と左の頬を打ち返せ。それが北条家の家訓《かくん》である。
小娘がこちらを見上げた。
その瞳《ひとみ》に猛《たけ》っているのは、この大人しい少女が初めて見せる、火のような怒《いか》りだった。
もう言葉は要らなかった。
ありったけの侮蔑《ぷぺつ》を込めて見下ろしてやった。
わあっ、と小娘が叫《さけ》んだ。
飛び掛《か》かってきた。
すべて予測《よそく》のうちで、すべて余裕《よゆう》で対処可能《たいしょかのう》なリアクションだった。
身体を相手に対して縦《たて》に向け、受け流した。ついでに足も引っかけてやった。再び無様に倒れこんだ。すぐに起き上がり、意味を成《な》さない叫びを遊《ほとばし》らせて突っ込んでくる。これも簡単にかわす。それでもなお突っかかってくる。それも簡単にかわす。
かわすたび、指の先から髪《かみ》の毛の一本一本にまで熱が漠《たぎ》り、同時に頭蓋骨《ずがいこつ》の中身が恐《こわ》いほどに冷えていく。北条家に生まれた者が真っ先に叩《たた》き込まれるのは帝王学《ていおうがく》でも礼節《れいせつ》でもない、己《おのれ》の五体を使った敵の壊し方[#「敵の壊し方」に傍点]だ。柔術《じゅうじゅつ》、拳法《けんぼう》、合気道《あいきどう》――その他、公式に名称《めいしょう》のない戦闘術の諸々《もろもろ》を学んでいく過程《かてい》で体得《たいとく》するのは、己の精神と身体を厳然《げんぜん》と切り離《はな》す技術。自らを他人と見なすほどの、いや、己を血の通わぬカラクリ人形と捉《とら》えるほどの冷徹《れいてつ》さが、この血族に生まれついた者には求められるのだ。
いかなる状況においても決して心を乱さぬこと。
命|尽《つ》き、呼吸が止まるその瞬間まで自らを鼻歌交じりに観察《かんさつ》できるような、そんな精神のありよう。
その程度も身に付けずして北条家の連枝《れんし》たることは許されない。まして次期当主たることなど到底叶《とうていかな》わない。
だから北条麗華は冷静だった。冷静すぎてかえって我を忘れそうになるほどに意識が研《と》ぎ澄《す》まされていた。自分の中にもう一人の自分がいて、その自分が高い位置から自分を見下ろしているような、そんな気分。怒りに我を失い、感情のままに暴力を叩きつけてくるド素人《しろうと》など物の数ではなかった。こんな小娘|壊《こわ》すまでもない、徹底的《てっていてき》に実力差を見せ付け、完膚《かんぷ》なきまでに叩き潰し、二度と歯向《はむ》かえないよう心を挫《くじ》いてやるつもりだった。
為《な》す術《すべ》もなくあしらわれながら、小娘はなおも諦《あきら》めない。
冷静な北条麗華は自らと、そして相手とを、仔細《しさい》に観察している。そう長くもない時間のうちに、彼女は様々な情報を敵から読み取っていた。
真っ先に見抜《みぬ》いたのは、この小娘の敵意の表現がおそろしく稚拙《ちせつ》だということだった。何度あしらわれてもまったく怒気《どき》を衰《おとろ》えさせることなく立ち向かってくるのだが、普通《ふつう》、よほど怒りに己を見失っていてもこうはならない。元から短気な性格というわけでもないのだし、ここまで圧倒的《あっとうてき》に差をつけられれば尚更である。加えて場所は台所であり、その気になればいくらでもエモノを使えるというのに、そちらには見向きもしない。まるで気の違《ちが》った野生の動物か、あるいは頑是《がんぜ》ない赤子のようだった。ひょっとして、と麗華は類推《るいすい》する。信じがたいことだが――この月村真由、誰かに敵意を向けるのが、つまりは誰かを憎むのが、生まれて初めてなのではないか。
休火山が溜《た》めに溜めた溶岩《ようがん》をぶちまけるように、月村真由は叫び、手足を振《ふ》り回す。そのたびに麗華は苦もなくそれをかわしていく。
もうひとつ気づいたことがある。
月村真由の、激しい感情に揺《ゆ》らめく瞳の裏にあるもの。
そこにあるのは紛《まざ》れもなく、羨望《せんぼう》と嫉妬《しっと》の色だった。
冷静なまま、麗華は肚《はら》の底から激《はげ》しい苛立《いらだ》ちが湧《わ》いてくるのを覚えた。冗談《じょうだん》ではない、だったらほんとうに代わってもらいたい。反則みたいな魅力《みりょく》でもって二ノ宮峻護を惹《ひ》きつけ、おまけに大義《たいぎ》名分《めいぶん》を与《あた》えられて何の努力もなしで二ノ宮峻護の傍《そば》にいられる月村真由。それに引き換《か》えこの十年間、こちらがどんな気持ちでいたと思っているのだ。耐《た》えて耐えて耐えて耐えて縋《つくろ》って縋って縋って縋って、それもすべて一瞬で水の泡になって。その気持ち、こんな小娘には百万分の一だってわかるものか――
一発、かすられた。
冷静なまま心の底から驚《おどろ》いた。
本気ですべて避《よ》けるつもりだった。それが、かすっただけとはいえ確かに触《ふ》れられたのだ。自らの技術に麗華は相当な自負《じふ》がある。ましてや一対一だ、よほどの化物が相手でない限り――その化物の数が妙《みょう》に多いのが問題だが――自分には指一本触れられないはずである。冷静なつもりでも心の乱れを抑《おさ》えきれず、それが体捌《たいさば》きにも影響《えいきょう》したものだろうか。油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》、心技体《しんぎたい》いずれの綻《ほころ》びも容易《ようい》に敗北を招く。麗華は改めて心を平らかにし、もう二度とミスは犯すまいと、
もう一発、かすられた。
冷静なまま、今度こそほんとうに驚いた。心は安定しているし動きも鈍《にぶ》っていない、とすれば――だが月村真由の技術が上がっているわけではない、ただその動きの精度《せいど》そのものが、いやちがう、もっと単純に、力強さと速度が、
また、かすられた。
もう偶然《ぐうぜん》では済まされなかった。それでもあくまで冷静なままこれまでと同じように月村真由を捌いた。上体が泳いだ、足も引っかけてやった――なのに、これまでならあっさり床《ゆか》と接吻《せっぷん》していたのに、今度は倒れなかった。それだけではない、月村真由は筋が切れそうなほど足を伸《の》ぱして踏《ふ》ん張《ば》り、煙《けむり》が出そうなほどに床を踏みにじり、みちみちと肉が音を立てそうな勢《いきお》いで腰《こし》をひねった。
つり上がったまなじりと、視線が交錯《こうさく》した。
そのとき確かに麗華は見た。
月村真由の瞳に、怒りでも羨望でも嫉妬でもない何かがあったのを。
得体《えたい》の知れない、背すじを凍《こお》らせるような何かが蠢《うごめ》いていたのを。
一撃《いちげき》が、ほとんどありえないような角度から伸びてきた。平手でも拳《こぶし》でもない、剣のように鋭《するど》い抜き手が、喉《のど》もとを狙《ねら》って。
首を逸《そ》らしてかろうじて避けた。かすった、と表現するには際《きわ》どすぎるタイミングだった。次の瞬間麗華を動かしたのは紛れもない危機感だった。月村真由が振りぬいた腕《うで》をそのまま取る。力の方向に逆らわず、引く。その時点で倒れなかったことからして驚きだが、今回はそれも計算のうち、踏みとどまろうとして力を入れた機《き》を逃《のが》さず、今度は自らの身体全体を叩きつけるようにして、押し込んだ。
そのまま手加減《てかげん》なしで背中から床に叩きつけた。
板張《いたば》りの床と骨《ほね》が軋《きし》む音、そして肺から絞《しぼ》り出される苦鳴《くめい》。
海老《えび》のように背を反《そ》らして痙攣《けいれん》する月村真由の上にすかさず腰を乗せ、動きを封《ふう》じた。
冷静なまま、麗華は敗者を見下ろす。
けほ、けほ、と、月村真由は繰《く》り返し咳《せ》き込んでいる。
(――らしくないですわ。こんなの)
ほんとうにらしくない、と思った。こんなのは北条麗華らしくない。何もかも。勝利の快感《かいかん》などかけらもない。ただ虚《むな》しさと、徒労感《とろうかん》と、罪悪感《ざいあくかん》だけがあった。
緊張《きんちょう》を解き、自らのコンディションを確認《かくにん》した。ケガというほどのものはないが大して動いたつもりもないのに息が切れている。それほどに気の抜けないものだったのか、今の立ち合いは。
「……わたし、だって……」
不意《ふい》に声が聞こえた。もう一度見下ろすと、月村真由のものすごい目つきと視線が合った。その瞳からあふれる激情《げきじょう》の、渦巻《うずま》く炎《ほのお》にも似た美しさに、ちょっとだけ見とれた。
「わたしだって……わたしだって!」
それだけ叫ぶと絶句《ぜっく》し、あとはぽろぽろ涙《なみだ》を流すだけだった。
「…………」
自らに白けきった気分でぼんやり考えた。
やっぱり卑怯《ひきょう》ですわこの女。こんな喧嘩《けんか》、先に泣いた方の勝ちに決まってるじゃないの。
「……つまらないですわね、まったく……」
泣きじゃくる月村真由を、馬乗りになったまま無力に見つめる。
ほんとうにこの女、いったいなんなのだろう。
これまで麗華が見知り、聞き知ってきた、どんな人間とも違《ちが》うように思えた。その異常《いじよう》な魅惑《みわく》といい、度を越《こ》して自己を殺している風に見えるところといい、いったん爆発《ばくはつ》した時の激しさといい……ついさっきの喧嘩だって、なんだか人間とやりあっているような気がしなかった。それこそまるで野生の動物や赤子を相手にしているような――いや、何かもっと別の――
唐突《とうとつ》に鳴咽《おえつ》が止《や》んだ。
「…………?」
涙で赤く腫《は》れた月村真由の瞳《ひとみ》が、飛び出んばかりに見開かれていた。喉に餅《もち》でも詰《つ》まらせているような、一見すると笑いを誘《さそ》うような表情だったが……実際はそれどころではないことを、麗華はすぐに知ることとなった。
どうしたのか、と怪訝《けげん》に思う前に、視界が横に流れた。
いや、すさまじい勢いで真横にすっとんでいった。
「――――!」
そう気づいた次の瞬間、肩口《かたぐち》に火箸《ひばし》でも突《つ》っ込まれたような激痛《げきつう》が走った。そうして初めて麗華は己が壁《かべ》に叩きつけられたことを自覚し、さらにもう一呼吸《ひとこきゅう》おいてようやく、月村真由が片腕一本で彼女を吹《ふ》き飛ばしたらしいことを知った。
「んな――!」
痛覚《つうかく》を、激しい狼狽《ろうばい》が覆《おお》い隠していく。――何? なんなの? 何が起こったの?
跳《は》ね起きた月村真由が自らを抱《だき》きかかえ、今度はゆっくりと前のめりに倒れていく。がくがく震《ふる》えている。二の腕を掴《つか》[#原本では旧字体]んでいる手の甲《こう》にぶっとい血管が浮《う》き出ているのが見える。額《ひたい》が床につく。見開かれた眼球《がんきゅう》が赤く血走っている。かば、と口を開ける。さらに開ける。まだ開ける。よだれがひとすじ床に落ちる。あごが外れるほどに開かれた口腔《こうこう》から獣《けもの》じみた浅い呼吸がひっきりなしに吐《は》き出されている。
「ど、どうしたのよ、あなた――」
そこまで呟《つぶや》いてから口をつぐんだ。
(笑っているの? この子−)
いや、むしろ笑い出すのを堪《こら》えているのだろうか。まるで、いちど笑い出したら気が狂ったまま二度と戻《もど》れないのではないかと、恐《おそ》れているように。
発狂者のそれを予感させる何かを孕《はら》んだまま、月村真由は痙攣《けいれん》しつづける。麗華はなす術《すべ》なく呆然《ぽうぜん》とその様を見守っている。
鳴咽――いや、まるで吐き気に耐えるかのようなえづき[#「えづき」に傍点]を繰り返し、それはやがて内臓《ないぞう》すべてをぶちまけるような苦鳴に変わり、それに耐えかねたかのように背骨を反り返らせ、そして。
絶叫《ぜっきょう》がすべてを侵蝕《しんしょく》した。
*
「――美樹彦《みきひこ》」
「大丈夫《だいじょうぶ》。見守ろう」
*
その狂った音程《おんてい》は、主人の商務を代行《だいこう》している保坂の耳にも届いた。
「あれえ、これは……」
人差し指をあごにやり、首をかしげる。
「うーん、こんなタイミングで始まるなんてねえ」
なにかありましたか?――と、電話の向こうから質《ただ》す声。
「いや、なんでもないです。こっちの話で。じゃあ方針《ほうしん》はいま示したとおりだから、あとは現場|判断《はんだん》でお願いします。え?……だめですよそれは。あまり頼《たよ》りないこと言ってると、今度こそお嬢《じょう》さまの雷《かみなり》が落ちますからね? じゃ、お任せしましたから」
返事を待たず通話を切った。
相手は今日、麗華に泣きついて労《ろう》を取らせた取締役《とりしまりやく》のひとりである。
つまりは話の内容も、本物の仕事[#「本物の仕事」に傍点]に関することである。
(さて――今日入った緊急の仕事のうち[#「今日入った緊急の仕事のうち」に傍点]、どれとどれが仕込みだったか[#「どれとどれが仕込みだったか」に傍点]、あのひとはどこまで気づいてるかな?)
もっとも彼女のことだから案外すべてお見通しの上で乗ってくれたのかも知れないが、それならそれでいい。望ましくない状況《じょうきょう》での過度《かど》の衝突《しょうとつ》を回避《かいひ》する、その結果さえ得られればいいのだから。
椅子《いす》に背を預《あず》け、伸ばした足を机《つくえ》にのせる。
鼓膜《こまく》を腐《くさ》らせるような凶声《きょうせい》は今なお邸内《ていない》にこだまし続けている。
くわばらくわばら……と、いつものニコニコ顔で保坂はおまじないを呟く。サキュバスの禁断《きんだん》症状《しょうじょう》が相当《そうとう》に凶悪らしいことは聞いていたが、まさかこれほどとは思わなかった。人体にあの軋《きし》み声を上げさせるだけの負担《ふたん》がもし自分の身に降りかかったら、と思うとぞっとしない。おぞましい、などというものではない。心の弱い者が聞けばただそれだけで狂気《きょうき》が揺《ゆ》り起こされそうな、いかれきった音階。神戎《かむい》――おっと、サキュバスと呼ばなきゃ怒《おこ》られるか――としての力が強ければ強いほど、禁断症状も耐えがたくなるとはいうが……これほどとなると、さすがに月村真由への同情を禁じ得ない。
いつしか、庭の雑木林《ぞうきばやし》は死に絶《た》えたように静まり返っていた。真空中に放《ほう》り出されたような、ただただ無機質《むきしつ》な静寂《せいじゃく》。ひょっとするとこの不協和音《ふきょうわおん》に侵《おか》されて、庭の虫たちはすべて狂死したのかもしれない。それほどにこの音響《おんきょう》は禍々《まがまが》しい。
(お嬢さまはどうなったかなあ――)
と、保坂は福袋《ふくぶくろ》を開けるような楽しみでもって想像する。一度気の済むまでやらせたほうがいい、と思い、彼の主人と月村真由を二人きりにさせる状況を作ったが、さて結果はどう出たか。まあ悪くとも一定のガス抜《ぬ》きにはなるだろうし、これを機《き》にうやむや状態に一定の決着がつけば仕事にも身が入るようになるだろう。甲本《こうもと》副会長にも催促《さいそく》されたことだし、早いうちにそれなりの成果《せいか》を得たいところだ。こういう極端《きよくたん》なやり方はそう何度も試《ため》せることではなく、しかしこの手のやり方でないとあの極端なひとには効果が薄《うす》いのだから。
(それにしてもまあ、これほど測《はか》ったようなタイミングで禁断症状が始まるとはねえ)
保坂でさえ思わず肝《きも》が縮《ちぢ》んだほどだ、間近《まぢか》でその様《さま》を目にしているであろう主人が過剰《かじょう》に反応していなければいいが。トラウマになるくらいはやむを得ないとして……うーん、ま、だいじょうぶだよね、強い人だし。これもいい経験ってことで。ていうかこの音を聞かずに済んだ二ノ宮くんには感謝してもらわなきゃ。薬は明日の朝まできっちり効《き》いてるはずだからね。
(だけど月村さん、だいじょうぶかなあ。心配だなあ)
と、保坂は心にもないことまで考える。月村真由に同情はしても心配する義理《ぎり》などなく、そもそも心配自体がまったくの無用だ。あのサキュバスには二ノ宮涼子と月村美樹彦がついている。むろん、この状況もすべて把握《はあく》しているだろう。彼らのバックアップがあってもなお駄目《だめ》ならば、それはもう誰がついていてもフォロー不可能《ふかのう》ということである。しかしあの二人もよくやる。毎日ほとんど不眠不休《ふみんふきゅう》で月村真由を陰《かげ》から支援《しえん》しているはずだが、その疲《つか》れをこれっぽっちも顔には出さない。
背を預けた椅子をぎこぎこ揺らしながら、保坂はさらに思いを馳《は》せる。
当然ながら保坂の取った行動もその思惑《おもわく》も、すべてあの二人は把握していると見ていい。それでいて何ら介入《かいにゅう》してこないということは、彼らの思惑と保坂のそれとが合致《がっち》しているということだ。このあたりは彼にとって重要な情報である。もちろん今回の動きが悟《さと》られたところで支障はない。悟られてもいい動きをあえて露出《ろしゅつ》し、あの二人の洞察力《どうさつりょく》の程度を把握する意味もあるからだ。また彼らにとってどこまでがセーフでどこからがアウトなのか、そのファウルラインをきっちり見極《みきわ》めておく狙《ねら》いもある……。
思惑を手繰《たぐ》り、想像を張《は》り巡《めぐ》らせながら、保坂は着々と個人的な企《たくら》みを転がしていく。
声は、なおも続いている。
*
いったい何が起きているのか。
腰《こし》が抜けてへたり込んだまま――麗華は眼前の光景から目を離《はな》せずにいた。
わからない。自分がいま見せられているものが何なのか。
月村真由が、壊《こわ》れていた。
のた打ち回っていた。
分解《ぷんかい》しそうになる自分を押《お》しとどめるかのように、細い両腕《うで》で身体《からだ》を締《し》め付けていた。
指が二の腕の肌《はだ》を食い破《やぶ》り、黒い血液がどくどくあふれていた。
瞳《ひとみ》が焦点《しょうてん》を失っていた。
瞳孔《どうこう》も開いているように見えた。
ヒビが入るほどに歯を食いしばっていた。
その隙間《すきま》から泡《あわ》と、人間が発するものとは思えない変な音が、絶《た》えず漏《も》れ続けていた。
何が、起きているんだろう。
月村真由は、何かに耐《た》えているようだった。
だけど、とても耐え切れないように見えた。
時に拳《こぶし》が、まったく力の加減《かげん》なしに床《ゆか》を殴《なぐ》りつけていた。そのたびにどうして床が抜けないのか不思議に思えるほどの衝撃《しょうげき》が走った。たぶん建物全体も揺《ゆ》れていた。
あるいは五本の指が、殴りつけた同じ床を掻《か》き毟《むし》っていた。ばりばりと、ほんとうに木の板が削《けず》れていた。何度か指から白いものが跳《は》ね飛んだ。肉のついた生爪《なまづめ》だった。それでも床を穿《うが》つのをやめなかった。まるで血文字でも描《えが》くように赤黒い痕《あと》が引かれ、やがてそれはただの血だまりになった。
これだけ自分を痛めつけても足りず、やがて血まみれの床に額を打ちつけ始めた。拳で殴りつけた時よりさらに輪《わ》をかけて強烈《きょうれつ》な衝撃が床をひしいだ。脊椎《せきつい》がどうにかなるのではないかと思えるほど背骨を反り返らせ、金槌《かなづち》でも揮《ふる》うように頭突《ずつ》きを繰《く》り返した。狂うことが許されないならせめて意識を手放したい、とでも思っているのかもしれなかった。そしてそれでもまだ気を失うことができないでいるのだった。
何が、起きているんだろう。
わからない。
ただ、これ[#「これ」に傍点]が悪夢だということだけがわかる。
まともな見ものではなかった。ほんとうに現実に起きていることなのだろうか、これは。
気づかぬうちにどこかヘンな場所に紛《まぎ》れ込んでしまったのだろうか。それともひょっとして、狂ってしまったのはこちらの方なのだろうか。
無力な小動物のように、麗華はただ震《ふる》えているしかなかった。
いつの間にか、この世の法則が一斉《いっせい》に書き換《か》わってしまったのかも知れない、と思った。だから今この場に起きていることもきっと、これまでの常識《じょうしき》からは計り知れないのだ。だからいつ、目の前にいるあれ[#「あれ」に傍点]が得体《えたい》の知れない化物に姿を変えたとしても不思議はないだろうと思った。月光を浴《あ》びて変化する獣人《じゅうじん》みたいに。そういえば今日は満月だったか。
そしてやはり、こうして見せられていたものは悪夢の類《たぐい》だったらしい。
夢ならば必ず覚める時がやってくる。文字通りの七転八倒《しちてんばっとう》だった断末魔《だんまつま》が、次第《しだい》に収まりつつあった。耳を塞《ふさ》ぎたくなるような苦鳴《くめい》が呼吸困難《こきゅうこんなん》の喘《あえ》ぎに。見るも無残《むざん》だった悶絶《もんぜつ》がただの痙攣《けいれん》に――それぞれ転じていく。
咳《せ》き込みながら、月村真由は貪《むさぼ》るように空気を肺に入れている。汗《あせ》が滴《したた》り、涙《なみだ》がこぼれ、鼻水が糸を引き――まるで身体中の穴の元栓《もとせん》が緩《ゆる》んでしまったように、あらゆる体液にまみれていた。その様子《ようす》はオイル漏《も》れを起こしている廃棄寸前《はいきすんぜん》の機械《きかい》を思わせた。
麗華は瞬《まばた》きすらできぬまま、息を殺してその様子を見つめている。あたかも物音ひとつ立てればたちどころに食い殺されるとでも信じているかのように。
噛《か》み残しのガムを引き伸《の》ばしたような、長い長い時間が過ぎた。
ようやく月村真由が立ち上がった。
憔悴《しょうすい》しきった顔だった。呼吸もまだ早い。
「…………」
うつろな目で惨状《さんじょう》を見渡《みわた》してから、のろのろと動き出した。
台所という場所|柄《がら》が幸いしたようだった。水も雑巾《ぞうきん》もすぐ手近にあり、後片付けをするには至って便利《べんり》だった。ざっと顔を洗い、タオルで汚液まみれの身体を拭《ふ》いた。次に濡《ぬ》れ雑巾で床を丁寧にぬぐった。それを流しで絞《しぼ》るたび、吐《は》き気を催《もよお》すような色の汁《しる》が滴《したた》った。剥《は》がれて散らばった爪はポケットに入れた。あらかたの始末が終わった後、削《けず》れてひしゃげた床を困り顔で見つめていたが、これについてばその場で復旧《ふっきゅう》のしようもない。ほどなく諦《あきら》めたようだった。
「……あの、」
気づくと、目の前に月村真由が立っていた。
「あの、お願いがあります」
いつもと変わらない、気弱げで、自信なさげで、儚《はかな》げな顔で、
「このことは、誰にも言わないでもらえませんか?」
そのひとことがようやく麗華を解《と》き放った。
「――ばッ、馬鹿《ばか》じゃないの、あなた!」
怒鳴《どな》りつける、
「あんな風になってまで何言ってるのよッ! ええ、今度という今度は文句など言わせませんわ、医者に連れて行きます、よろしいですわねッ?」
真由はかぶりを振《ふ》った。麗華はさらに激昂《げっこう》した。
「このわからず屋! いいから行きますわよッ!」
行く、と言いつつ、令嬢《れいじょう》はいまだ腰が抜けたまま立てないでいる。なんたる無様――それがまた一層《いっそう》彼女を苛立《いらだ》たせる。
「ああもうこのッ――とにかくいいですわね月村真由! わたくし確かに申し付けましたわよッ! ちゃんと言うことを聞くのです!」
「あの麗華さん、お願いします。このことは誰にも――わたしならだいじょうぶですから」
「ばかっ、そんな、平気なはず――」
だが言われてみると、なるほどあれだけ痛めつけていた割にはひどく傷は浅いように思えた。出血はとっくに止まり、散々《さんざん》打ちつけていた身体のあちこちも軽い青あざができている程度だ。
「だからといって! このまま済ませていいはずないでしょう! とにかく、聞き分けのないのは許しませんからね!」
首を振る。
「この……いい加減《かげん》に、」
「お願いします麗華さん。誰にも言わないで――」
「は。そんな、誰が黙《だま》っているものですか。わたくしの言うことを聞かない限り――」
「お願いします」
「月村真由ッ!」
「お願い、します」
「――――っ」
真《ま》っ直《す》ぐに、じっと、見つめてくる。
その眼差《まなざ》しが、麗華にそれ以上を言わせなかった。
「……あの、ぶったりしてごめんなさい。ほんとうにすいませんでした。それと今日のことは、どうか忘れてください」
ぺこり、と。
丁寧にお辞儀《じぎ》し、きびすを返した。
思いのほかしっかりした足取りで台所を出て行った。
「〜〜〜〜っ」
見送るしかなかった。
麗華はまだ、台所の隅《すみ》で立ち上がれずにいる。
*
――十年間、だましだましで持たせてきた。
汚《よご》れた身体《からだ》を清め終え、ケガに応急処置《おうきゅうしょち》を施《ほど》してから真由は部屋に戻《もど》った。
明かりも点《つ》けず一直線にベッドに向かい、そのまま突《つ》っ伏《ぶ》した。
へとへとだった。今回のは特にひどかった。たぶんこれまでで一番だろう。まだ少し気分が悪い。歯を食いしばりすぎたのか、あごがばかになってしまっている。気絶《きぜつ》すらできなかったくせに、いっちょまえに頭がくらくらする。あれだけ打ちつけた額がバンソーコーを貼《は》るだけで済んでいるのは我ながらすごいと思うけど、腕に開いた穴はどうしようもなく痒《かゆ》くて痛い。包帯《ほうたい》を巻いた指の先も火がついたようにじんじんする。
それでも、今日も狂わずに済んだ。よかったと思う。
布団《ふとん》にうずめていた顔を横に向けた。
薄《うす》い月光に照《て》らされて、二ノ宮峻護は相変わらず規則正しい寝息《ねいき》を立てていた。ぐっすり眠《ねむ》っているようで、火事があっても地震《じしん》があっても目を覚ましそうにない。くす、と笑《え》みがこぼれる。この寝顔を独《ひと》り占《じ》めするのが真由のお気に入りだった。こうしていれば赤くなった顔を見られることなく好きなだけ眺《なが》めていられるし、もちろん誰にも迷惑《めいわく》をかけることはない。
(……十年、か)
ぽつん、とそのことを思う。
もう十年になるのか。いや、やっと十年、と言うべきなのか。
ままならないこの身体と付き合い始めてから、十年。
月村真由という欠陥品《けっかんひん》の人生が始まってから、十年。
真由には、六|歳《さい》より以前の記憶《きおく》がない。
一番古い記憶は――と思い返す。自分のことながらその場面はとても印象的《いんしょうてき》だっただけに、さほど苦労なく掘《ほ》り起こせる。
最初に見えたのは、くすんだクリーム色の天井《てんじょう》だった。
それをしぼらくぼんやり眺めたあと最初に疑問《ぎもん》に思ったのは、どうしてここにはクリーム色しかないんだろう、ということだった。次の疑問はここはどこだろうということで、それを確かめようとした時に浮《う》かんだ疑問はどうして身体が動かないんだろうということで、そこになってようやく気づいたのは、クリーム色しか見えないのは身体が固定されていてそこにしか視点《してん》が行かないからだ、ということだった。
その後もずっとぼんやりしたまま、湧《わ》き続ける疑問を検証《けんしょう》する作業が続いた。身体は本格的に固定されていて声も満足に出せず、自由に動かせるのは眼球くらいのものだということ。その独特《どくとく》の臭《にお》いから、ここがどうやら病院であるらしいということ。自分はそこのベッドに寝かしつけられているようだということ。白くてはっきりしない明かりはどうやら蛍光灯《けいこうとう》のものらしくて、ここにはひとすじの陽《ひ》の光も入ってきていないらしいこと……そして灯台下暗《とうだいもとくら》しというやつだろう。その後いくつもの疑問が続いた後、最後になってようやく思い浮かんだ疑問が、そもそも自分はいったい誰なのだろう、ということだった。
あまりに行動が制限されていて何をする気にもなれなかったのか、それとも単に鎮静剤《ちんせいざい》でも効《き》いていたためか。そこまで奇怪《きかい》な状況《じょうきょう》に気づいても彼女はパニックに陥《おちい》ることなく、ただただぽけーっと途方《とほう》にくれ、『おなかがすいたな』みたいなことを考えていた気がする。じっと、誰かがこの状況をどうにかしてくれるのを、ひたすら待つしかなかった。
最初の看護士《かんごし》はまるで気づいてくれなかった。次の看護士はどうやら気づいたらしかったものの、よほど暢気《のんき》な性格だったらしく、結局は放置《ほうち》された。
三人目になってようやく気づいてもらえ、あっという間に大騒《おおさわ》ぎになった。そこから先のことはひどく目まぐるしくてよく覚えていない。あわてて拘束具《こうそくぐ》を外されたり、次から次へと問診《もんしん》されたり……なすがままになっているうちにようやく少し落ち着いたのは十歳ばかり年上の少年が病室に飛び込んできてからだ。その少年はこちらを一目見るや、膝《ひざ》に縋《すが》りつくようにして泣いた。わけのわからなさはこのあたりでピークに達した。とにかく誰でもいいから、何がどうなってるのか自分にもわかるように説明して欲《ほ》しい、と思った。
これら一連の出来事《できごと》の際、落ち着いているように見えていかに自分が動転していたかについては、ただひとつの事実をもって明確《めいかく》に証明できる。何しろその時自分の周りにいたのは男性ばかりだったにも拘《かかわ》らず、男性|恐怖症《きょうふしょう》で気絶《きぜつ》するのさえ忘れていたのだから。だから自分がそういう性質《せいしつ》を持っていることを知るのにはもう少し時間が要《い》ったし、その他にも|生命元素関連因子欠損症《サキュバス》という舌を噛《か》みそうな名前の症状《しょうじょう》を抱《かか》えているということも、半年間もの間ひどい発狂状態にあって二度と回復の見込みはないと診断《しんだん》されていたことも、名前だけでなくそれまでの人生の記億をほとんど失っていたことも、くしゃくしゃになって涙《なみだ》を流していた少年が自分の兄であることも、兄が人前でそんな姿を見せるのがとんでもないレアケースだと知るのも、もうちょっとだけ後の話になる。そして、月村真由という人間がいかに不都合な存在であるかを思い知るのも。
実際、すぐにこう思うようになった。自分は正気に戻らない方がよかったのではないか、と。なにしろまともな日常《にちじょう》生活を送りようがないのだ。それほどに男性恐怖症は甚《はなは》だしかった。誰にも信じてもらえそうにないので口にしたことはないが、今現在の状態だって随《ずい》分マシになった方なのである。一時の混乱状態が落ち着いてから初めて男性を目にした際など、あっという間に白目を剥《む》いて泡《あわ》を吹《ふ》き、失神《しつしん》したまま痙攣《けいれん》が何時間も止まらなかったものだ。無論《むろん》、さまざまなリハビリは試みた。だがその効果はすぐ頭打ちになった。病院の庭を一回りするだけで、その日の残りはベッドの上で過ごさねばならないような有様《ありさま》だった。外の世界で生活するなど夢のまた夢、そんなのは食人鬼《しょくじんき》の群れの中で暮らすのと変わりない。失意《しつい》に打ちひしがれた。これだったら何も知らないまま狂っていた方が幸せだ、と何度も思った。
初めてあの禁断症状に襲《おそ》われた跨、その思いは確信に変わった。異性《いせい》との交渉《こうしょう》を生存の必須条件《ひっすじょうけん》とするサキュバスでありながら男性恐怖症であるという、本来ありえない性質が、禁断症状を凄惨《せいさん》で複雑怪奇《ふくざつかいき》なものにした。たびたび訪《おとず》れるそれにもがき苦しむたび、どうして自分だけがこんな目に遭《あ》わなけれぱいけないのだろう、と思った。
きっと記憶を失う前、自分はとんでもなく悪いことをしてしまったのだろうと思った。そうでなければこれだけつらい目に遭うことに説明がつかないと思った。記憶を失った理由はそのあたりにあるに違《ちが》いなく、兄がそのことを一切《いつさい》語ろうとしないのも、やっぱりそういうことなのだろうと思った。悪いのは自分なのだ。すべては自分のせいなのだ。だから誰も恨《うら》んではいけないのだ。ただじっと、耐《た》え続けているしかないのだ。
だけど。
それだけ悪いことをした自分が、どうしてまだ生きているのだろう。
正直なところ、自分が生きていることに何の意味も見出《みいだ》せなかった。それだけ悪いことをして、周りに迷惑《めいわく》をかけて――おまけにそうまでして生き続けることがひどく億劫《おっくう》ときている。意味不明《いみふめい》だった。だけど、だからといって自ら命を絶《た》つには、あるいは再び狂気の淵《ふち》に沈《レず》みこむには、あまりに借りを作りすぎてしまっていた。少なくとも兄をまたあんな風に泣かせることだけはできないと思った。生きる以外の道はなかった。何かの拍子《ひょうし》に正気に戻ってしまった自分がやっぱり疎《うと》ましかった。
これ以上の男性恐怖症|改善《かいぜん》は見込み薄《うす》、と断《だん》じられるまで、結構な時間が掛《か》かった。それと同時に、病院暮らしを続ける理由もまた希薄《きはく》になった。こうなるといつまでも兄の手を煩《わずら》わせるのは心苦しい。不都合な身体《からだ》のままでも、ある程度以上に自立して生活していく必要があった。
まず、外国に行こうと思った。どういうわけかこの国から離《はな》れたくてたまらなかった。きっとこの土地には自分の罪がこびりついていて、心のどこかでそれを居心地《いごこち》悪く思っているからだろう、と思った。
外国で、こんな自分でも暮らせる場所。
いまだに何をしている人なのかわからない兄が、さまざまな選択肢《せんたくし》を提案《ていあん》してくれた。その中のひとつをあまり迷うこともなく選んだ。人里離れた宗教関係の学校。寄宿舎《きしゅくしゃ》生活が必須《ひっす》。生徒と教師は女性ばかり。
兄は首をかしげた。そんな暮らしにくい所を選ぱずとも、もっと快適《かいてき》に暮らせる環境《かんきょう》など他にいくらでも作ってやれる、と言った。それでもその場所を選んだ。兄は溜《た》め息をつき、『きっと償《つぐな》いがしたいんだろうね』と言った。なるほどそういうことだったのか、と、そのとき初めて合点《がてん》がいった。つまりこうして生き長らえているのは、ただ罰《ばつ》を受け、償いをするためなのだ。悟《さと》りを開いた気分だった。そういうことならちゃんと生きていく理由は見出せる。満足だった。
話はとんとん拍子《びょうし》に進み、数日後にはあの鬱蒼《うっそう》とした森に囲まれた石の館《やかた》の前に立っていた。
新しい生活が始まった。そして想像した通り、三日と経《た》たないうちに孤立《こりつ》した。当然だろう。極度《きょくど》に保守的《ほしゅてき》な社会に闖入《ちんにゅう》してきた、見た目も考え方も何もかもが違う異邦入《いほうじん》。おまけに人間そのものとしても異端《いたん》ときている。これで何の排斥《はいせき》も受けないようならそちらの方がよほど異常《いじょう》だ。しかもその病院暮らししか知らない新入りは、お世辞《せじ》にも世渡《よわた》りの上手《うま》い人間ではなかったのだから。
そうして送り始めた陰鬱《いんうつ》な日々の中で唯一好《ゆいいつ》きになれたのは、神さまのことだった。理由は簡単《かんたん》。なぜなら、神さまはこの世に存在しないから。そのことはすぐにわかった。なにしろ教師たちが説《と》くような慈悲《じひ》深く全能な神さまが本当に居るのなら、自分はこんな人生を送るはずもないのだから。不在の証明が簡単なのもまた、神さまのいいところだった。
だからいくらでも憎めた。神さまはこの世で唯一、自分が憎んでいいものだった。なにせ存在しないのだから、自由自在に憎むことができる。不幸はすべて神さまのせいにしてしまえばいい。それはもっとも素朴《そぼく》で原始的な信仰《しんこう》と言えたかもしれず、だとすればあの場所で一番信心深かったのは自分だったに違いない、と思う。いくらでも憎まれてくれる神さまのことが、心の底から好きだった。
周囲の迫害《はくがい》に甘《あま》んじ、時おり襲《おそ》ってくる、まるで神罰《しんばつ》であるかのような禁断症状に耐え、そして絶えず神さまに呪《のろ》いを捧《ささ》げる――そんな贖罪《しょくざい》の暮らしを送り続けた。
石になろう、と思った。雨に打たれても風に吹かれてもびくともしない石に。何も感じず、誰にも顧《かえり》みられることたく荒野《こうや》に打ち捨てられた、無意味《むいみ》な小石に。そしてただ一念のみを抱《いだ》きながら存在するのだ。ただ神さまを憎むという、それだけを心に抱いて。
それはとても自分にふさわしい人生だと思った。そう、それでこそ石の館の住人にふさわしい。月村真由という欠陥品《けっかんひん》の命は何も成すことのないまま、贖罪の名のもと無為《むい》に命脈《めいみゃく》を消費《しょうひ》して、そう遠くない先に潰《つい》えることになるだろう。
――そう、信じて疑わなかった。
それなのに今、ここにいる。二度と土を踏《ふ》むことはないと思っていた故国《ここく》に舞《ま》い戻り、石ころとは程遠《ほどとお》い日々を送っている。
ほんの一週間前までは、まだ石ころでいたのだ。たったの一週間である。よくぞここまで変転したものだと思う。
変転の理由は言うまでもない。
ひとりの少年がすべてを変えた。
二ノ宮峻護。
男性恐怖症の月村真由が、ただひとり恐怖を覚えることなく接《せつ》することのできる異性。
彼女にとって唯一の可能性。
そしてそれよりも何よりも。
はじめて――はじめて好きになれた、男の人。
まったく現金なものだ、と我ながら思う。なんだかんだ理由をつけて緩慢《かんまん》な自死《じし》を選んだ人間が、彼と会った瞬間《しゅんかん》けろりと反転してしまった。
でも、それも当然なのだ。あの館で暮らしていた間、どれだけ石になろうとしても、希望を持つほどにつらくなるだけだとわかっていても、空想だけはどうしても捨てられなかった。寸暇《すんか》を惜《お》しんで夢をみた。もしこんな自分でも好きになることができる男の人がいたら。もしこんな自分でも好きになってくれる男の人がいたら。もしそんな人と、男性恐怖症やサキュバスであることを気にすることなく、共に歩んでいくことができたら――。想《おも》いを自由に羽ばたかせては悦《えつ》に入り、しかしそれは一生|叶《かな》うことはないと信じていたのだ。それが、ひょっとしてひょっとすると、現実のものになるかも知れないのだ。心が浮《う》き立った。自ら命を絶《た》ったりせず本当によかったと思った。
そう、思っていたのに。
「…………」
ベッドに突《つ》っ伏《ぷ》したまま、真由は想い人の寝顔《ねがお》を見つめ続けている。ああ今日もだ、と思う。今日もこんなことを考えてばかり。ちっとも眠《ねむ》れそうにない。
なおも考える。彼が、二ノ宮峻護が、真由にとってただひとつの幸せの形だとして――では自分は彼に、いったい何をしてあげられるというのか。毎日毎日迷惑のかけ通し。恩返しをしようにも自分にできることは取るに足らないことばかり。そもそも彼との関係は、保護者と被《ひ》保護者という、端《はな》から対等《たいとう》とは程遠《ほどとお》いそれであり、おまけにその距離《きょり》はちっとも縮まっていないときている。
しかも、だ。もしその距離が縮まったとしても、望みが叶って彼と寄り添《そ》いあえる関係になれたとしても――自分は精気の吸引《きゅういん》能力すらコントロールできない最悪のサキュバス。たとえ自分は幸せになれても、彼を幸せにすることなどできはしない。まさしくハリネズミのジレンマだ。世界中でただひとり寄り添っていたい男性であるからこそ、決して一線を超《こ》えることができない。
ひょっとして、と思う。いないと思っていた神さまは、実はちゃんといるのではないか、と。そしてその神さまは、とんでもなく根性《こんじょう》がひねくれているのではないか、と。だとするととても困る。これまでさんざん神さまを罵《ののし》ってきたのだ、天罰《てんばつ》があるとすれば真っ先に自分のところへ下るに決まっている。
そして、その心当たりも十分すぎるほどあるのだ。
例えば、彼のことを好きになったのが自分ひとりではなかったこと。
北条麗華。ものすごい美人で、お嬢《じょう》さまで、あらゆる方面で大人顔負けの手腕《しゅわん》を発揮《はっき》する才媛《さいえん》で、万人を惹《ひ》きつける人望があって――そしてなによりも普通の人間[#「普通の人間」に傍点]だ。ずるい、と思う。こんなの初めから勝負にならないではないか。事実あの南の島の夜、月夜の浜辺で、あの二人は……。
泣きたくなる。何かの間違いだ、と思いたい。けど、もしもそうだったとしても、決してホッとしたりはできないだろう。なぜならあの時、確かに彼は、とてもやさしそうだったのだ。それはぜったいに見間違いなどではない。たった一週間とはいえ、ずっと彼の傍《そば》にいたのだ。見間違いなんかじゃない、確かに彼には、北条麗華へのやさしさがぬくもりが思いやりが、たくさんたくさんあったのだ。それは、単なる学校の先輩《せんぱい》に対して向ける感情ではありえなかったのだ。ほんとうに泣きたくなってくる。意地悪《いじわる》するにも程があると思う。
そして極《きわ》めつけの天罰。
それは文字通りに致命的《ちめいてき》なこと。
禁断症状の、こと。
十年間だましだましで持たせてきて。
ようやく希望を見つけた時、もうさほどの時間は残されていなかった。
発作の間隔《かんかく》が、短くなっている。
そして確実《かくじつ》に、その症状はひどくなってきている。
おまけにここへ来て明らかにその悪化の度合《どあ》いが加速していた。
まったく、神さまはほんとうに底意地が悪い。あいつはぜったい手が届かないとわかっているところに、決まってとびきりうまそうなニンジンをぶらさげるのだ。
兄があの石の館からほとんど拉致《らち》同然に妹を引っ張り出し、こんな勝算《しょうさん》の不確かな賭《か》けに出るのも――見込みがないと言われた男性恐怖症の改善になりふり構《かま》わない手段《しゅだん》に出るのも、無理はないと思う。
このまま症状が進行すれば――
そう遠くない先、月村真由という生命《いのち》は確実にこの世から消えるのだから。
*
負けた。
完膚《かんぷ》なきまでに敗北した。
台所の片隅《かたすみ》に座《すわ》り込んだまま、
麗華は立ち直れないほどに打ちひしがれていた。
頬《ほお》を張《は》られたらお返しに二発張ってやった。掴《つか》[#原本は旧字体]みかかられるたびにそのすべてを受け流してやった。床《ゆか》に叩《たた》きつけ、実力の差を思い知らせてやった。
なのに。
あの、最後の瞬間。お互《たが》いにお互いを従わせようと眼光で斬《き》り結んだあの時。
麗華は本気だった。
本気で従わせるつもりだったのだ。
己《おのれ》をひとつの機械《きかい》とみなし、どんな状況《じょうきょう》においても徹底《てってい》した自己客観性を失わないこと。それが北条の血族たる者の大前提《だいぜんてい》である。ゆえに麗華は自分が本気になったときの恐《こわ》さをきわめて客観的に知っている。心を奮《ふる》わせ、背水《はいすい》の意気でもって、相手を噛《か》み殺すつもりで睨《にら》みつける。それだけで大概《たいがい》はケリがつく。その程度もできなければ北条家の跡取《あとと》りたる資格《しかく》はないし、実際に幾度《いくど》も幾度もそれで勝ちを制してきた。彼女の眼力をかわせた者など、過去《かこ》を総《そう》ざらえしても五指に満たない。
――本気で、従わせるつもりだったのだ。
普段《ふだん》は押《お》し隠《かく》している刃《やいば》を、あの時たしかに抜《ぬ》いたのだ。
なのに、一歩も引かなかったのだ、あの小娘《こむすめ》は。
いや、それどころか逆にこちらを圧倒《あっとう》してみせたのだ。
爪《つめ》を噛む。
月村真由と相対《あいたい》したあの瞬間――まるで月村美樹彦と二ノ宮涼子を二人同時に相手にしているような錯覚《さっかく》さえ覚えた。あの連中《れんちゅう》も気息を自在《じざい》に揮《ふる》う術《すべ》には恐ろしく長《た》けているが、もうそういうレベルの問題ですらなかった。あの小娘は睨んでいたわけでさえない、ただただ真《ま》っ直《す》ぐに見つめてきた、それだけだったのに。
勝負など、最後の最後に一歩先んじていればそれで済む。そしてあの女は確かに、最後の最後で、自分を遥《はる》か後ろへ置き去りにしていったのだ。
気で、完全に呑《の》まれていた。
一歩も動けなかった。
負けたのだ。北条麗華は、取るに足らないと断《だん》じていた小娘に遅《おく》れをとったのだ。
事象の表面をなぞるだけならどうということもない。互いに我《が》を通しあい、片方が根負けして折れた。口論《こうろん》のうちにさえ入らないだろう。だが、一見するだけでは知りえないせめぎ合いがそこには確かにあり、麗華はそれに負けたのだ。生まれて初めてといっていいほどの衝撃《しょうげき》だった。
これまで月村真由に対して抱き続けていた正体不明の苛立《いらだ》ちが何だったのか、今はハッキリとわかる。
恐《おそ》れていたのだ。初めて会った瞬間からわかっていたのだ。ぜったい敵《かな》わないと知っていたのだ。あの、木《こ》っ端《ぱ》も同然と信じ込んできた小娘がひとたび本気になれぱ、その前に脆《ひざまず》くしかないのだと、心のどこかでわかっていたのだ。あの、弱々しく頼《たよ》りなげな姿の裏に、北条麗華などたちどころに丸呑《まるの》みにできるあぎと[#「あぎと」に傍点]が潜《ひそ》んでいることを肌《はだ》で感じて、ずっとおびえてきたのだ。いじめているような気分? 冗談《じょうだん》ではない。見えない威圧《いあつ》をずっと浴び続けていたのはこちらの方だ。あばらの浮いた痩《や》せ犬が狼《おおかみ》に向げて精一杯《せいいっばい》意地《いじ》を張るように、きゃんきゃんと吠え立てていただけだ。
なんて、無様《ぶざま》な。
どうしようもなく感情が騒《さわ》ぐ。抑《おさ》えようもなく苛立たしい。常《つね》に冷静でいられるはずの少女が、際限なく湧き上がる負の感情を制御《せいぎょ》できないでいる。噛んだ爪から血が滲《にじ》んでいることにすら気づかない。
でも、だったら――と、麗華は必死《ひっし》に考える。
では、自分はどうすればいいというのか。魅惑《みわく》では逆立ちしても敵わない。置かれた立場ですら拮抗《きっこう》し得ない。そのうえ力押しですら最後にはあしらわれる。
ほんとうに、あの小娘は何者なのか。どうしてあれほど異性を惹《ひ》きつける? さっき見たあの常軌《じょうき》を逸《いっ》した発作《ほっさ》は何なのか? 体術《たいじゅつ》でさえあのわずかな瞬間に追いつかれつつあった、どうして何の訓練《くんれん》もつんでいない人間があんなに動ける? あの女の兄は月村美樹彦、つまりはそういうことだというの? あの、このわたくしを制《せい》した眼差《まなざ》しは――幾《いく》度も死線《しせん》をくぐり抜けた者の目? とっくに覚悟《かくご》を決めてしまっている人間|特有《とくゆう》の? いやそれだけじゃない、じゃあ何? 結局あの女は何なの?
わからない。何もわからない。
でも、たったひとつ確かなことがある。
それは、たとえぜったい勝てない相手であっても、ぜったい負けられないということ。
これだけはどうあっても、何が何でも譲《ゆず》れないのだ。そのためにこの十年間、わき目もふらずにずっとがんばってきたのだ。それをこんなところで譲るくらいなら死んだ方がましだ。
だったら、やるしかない。
ましてまだ始まってさえいないうちから気迫《きはく》で劣《おと》るなど笑止《しょうし》だ。結果が出る前に引くなどあってはならない。いや、麗華の基準《きじゅん》でいえばまだ戦ってさえいないのだ。まだようやくたった一戦まじえただけ、こんなのは戦ったうちに入らない。まさしく前哨戦《ぜんしょうせん》、ほんの小手調《こてしら》べの、そのまた手始めを、ようやく済ませたばかりなのだ。そう。勝負など、最後の最後に一歩先んじていればそれで済む。最後に勝つのは、この北条麗華だ。
まだできることがあるはずだ。いくらでも。まだ何もしていない。何かしたとはとても言えない。やらねば。こんなところで引いたら後悔《こうかい》が残るだけだ。一生後悔する。この先の人生ずっと、未練《みれん》を残すことになる。きっと墓石《はかいし》の下までも自身を呪《のろ》うだろう。この歳《とし》で一生負け犬でいることが決まる? ふざけるな。
何かしなければ。何かしないと何もしないまま負ける。ずるずる負けていく。何か手を打たないと……月村真由という対等以上の敵を、二ノ宮涼子や月村美樹彦も納得《なっとく》する決着で破る方法を、何か……何か……
麗華は考える。
台所の片隅《かたすみ》で膝《ひざ》を抱《かか》え、爪を噛《か》みながら、必死に考える。
*
ベッドに横になったまま真由は腕《うで》を掲《かか》げた。
もともと目立たないし、この薄闇《うすやみ》の中では尚更《なおさら》だし、毎日見ている自分にしか見分けがつかないくらいうっすらとだけど――今も、身体《からだ》のあちこちに痕《きずあと》が残っている。その多くが爪でえぐったり歯で噛み千切《ちぎ》ったりしたものであり、本来なら目も背《そむ》けたくなるようなぐちゃぐちゃで赤黒い痕跡《こんせき》が無数に重ねられているはずだ。それがぱっと見わからないくらい元通りになっているのは、これもサキュバスゆえということらしい。恒常性維持《こうじょうせいいじ》能力が普通人《ふつうじん》より強いらしいのだ。もっともその影響《えいきょう》か、薬などもすぐに効かなくなるのだが――先ほど傷つけたばかりの身体も、一時の激しい痛みはもう引いている。爪が生え変わるのはさすがに時間が掛《か》かるだろうが。
ため息をつく。発作《ほっさ》の周期が激的に短くなっている。いつもの計算で行けば今日あたりに始まるはずはなかったのに――ほんとうに近くなればどこかにひとりで籠《こも》るつもりでいたのに。油断だと言われれば否定はできない。これからはもっと心構《こころがま》えをしておかねばならない。環境《かんきょう》が激変し、消耗《しょうもう》する機会《きかい》も多くなっている。今後もこれまでの常識《じょうしき》ではありえなかった事態《じたい》がいくらでも起こりうるだろう。しっかりしなければ。
それにしても――と真由は自廟《じちょう》する。これでは彼に好きになってもらうどころではない。
こうして症状《しょうじょう》が進行していくということは、日増《ひま》しに彼の足枷《あしかせ》に重みを加えていくということではないか。もはや笑い話だ。もっとも迷惑《めいわく》をかけたくないひとにこそ、これからいよいよ憂欝《ゆううつ》な負担《ふたん》をかけていくことになるのだから。
それでもまだツキはある。今回、禁断症状が彼の前で起こらなかった。あんな姿を見られなくてほんとうによかったと思う。まだ彼には知られたくない。自分がいかに危うい存在であるか知られたくない。第一、あんな汚《きたな》いところを見られたら恥《は》ずかしすぎて死んでしまう。そうならなくてほんとうによかった。
なによりも彼をあやめてしまわずに済んだことに心から安堵《あんど》する。サキュバスの禁断症状とはつまるところ、精気《せいき》を吸《す》いたいという欲求が満たされないことに対する本能の反発だ。そうして暴走した本能が、真由の身体を徹底的《てっていてき》に苛《いじ》め抜くのである。従え、と本能が喚《わめ》き、それへ真由の理性と、さらには男性|恐怖症《きょうふしょう》の拒否《きょひ》反応が抵抗《ていこう》する――そのせめぎ合いがあの苦しみを呼ぶ。
今はまだ大丈夫《だいじょうぶ》。でももしこの先、本能がすべてを支配することがあれば? そのとき自分のそばに二ノ宮峻護がいたら? 男性恐怖症を覚えずに済むあのひとが手の届くところにいたら? そうなったらきっとがまんできない。精気を渇望《かつぼう》した果て、彼のすべてを奪《うば》い尽くすことになるだろう。しかももしそうなったとしても、それでも本能は満たされることはない。月村真由という欠陥品《けっかんひん》のサキュバスは、自分でも制御《せいぎょ》できないほど強大な精気吸引[#「吸引」に傍点]能力を有しながら、それを吸収[#「吸収」に傍点]することがまったくできないのだから。
そんながんじがらめの状況《じょうきょう》でもまだ、運はついている。一度発作が起きればその後しばらく禁断症状は潜伏《せんぶく》するから、この先いくらかの日数は稼《かせ》げるだろう。その執行猶予《しっこうゆうよ》のうちに、なんとかしなければ。
反省《はんせい》すべきことは多い。彼の傍《そば》にいると時々、手綱《たずな》を抑《おさ》えきれなくなる。彼を求めてしまうことがある。たとえば、この家に来て三日目の時だとか。あるいは、南の島でボートに乗っていた時だとか。彼にはどれほど自覚《じかく》があるだろう、自身の命が何度も何度も危険に晒《さら》されていることに。本気で泣きそうになる。傍にいたいのに、傍にいるしかないのに、傍にいればいるほど大切なひとを傷つけてしまうかもしれない。いや、いずれきっとそうなる。
それでも、彼は唯一《ゆいいつ》の可能性なのだ。彼しかいないのだ。
傷つけると知りながらそれでも傍に居たいと願うのはエゴだろうか? 自分勝手《じぷんかって》だろうか? でも、それでも、傍に居ずにはいられないのだ。だってもう、今は石ころに戻《もど》ることなんて考えられない。もっともっと生きたい。たくさん楽しいことがしたい。誰よりも幸せになりたい。
だけど――と彼女は思う。わたしに幸せになる権利《けんり》なんてあるのだろうか、と。誰かを好きになる資格《しかく》があるんだろうか、と。
とっくに繰てた人生だった。まだ、間に合うだろうか。まだそれを拾い直せるだろうか。
たまらない恐怖もある。失うことが、こわい。初めて手の届くところに見つけた幸せの可能性を失うことが、こわくてたまらない。
逃げようとしている自分もいる。そのほうが楽になれるから、手に入れようとしなければ失敗することもないから――これまで何度も繰《く》り返してきた臆病《おくびょう》と諦《あきら》めを、また繰り返そうとしている……。
「――だめ」
呟《つぶや》く。
「変わらなきゃ」
目を閉じる。流れていくさまざまな光景。記憶《きおく》。想《おも》い。
迷《まよ》い、怒《いか》り、恐《おそ》れ、喜び、不安、希望、絶望、虚無《きよむ》、そして、光。
「――二ノ宮くん」
目を開ける、
「わたし、今でも迷っています」
捨てきれない弱さ、
「わたしはたぶん、これから二ノ宮くんをたくさん傷つけると思います。どうせなら何もしないほうがいい、そう思う気持ちもあります。それでもわたしは――あなたのそばにいても、いいでしょうか」
『わたしはあなたを好きでいてもいいでしょうか?』その言葉は心にしまった。それはまだ、言えない。たとえ耳にする者が誰もいなくとも。
だけどいつかは、いつかはちゃんと、胸を張《は》って伝えられるように――
「わたし、変わります。今日から――たった今から。もっともっと強くなって、男性恐怖症なんてすぐに治してみせます」
医者が匙《さじ》を投げたからといって何だというのだ。ぜったい治してみせる。時間はあまり残されてないだろうけど、でも、必ず。
「わたしはもう、負けませんから。誰にも、どんなことにも」
恋敵《こいがたき》にも、どこか高いところで見物している意地悪な誰かさんにも――ぜったいに負けてなんかやらない。
幸せに、なるのだ。見苦しくしがみ付いてしがみ付いて……その果てに、勝ち取るのだ。
「だから――見てて、くださいね。わたし、がんばりますから」
あなたはがんぱるとしか言えないのか――そう、北条麗華は詰《なじ》った。でもほんとうにそれしかないのだ。自分にはもう、迷っている暇《ひま》も立ち止まっている余裕《よゆう》もない、ただひたすら、がんばるしかないのだ。
そう、がんばろう。今日よりも明日よりもずっとがんばろう。あんなひとには二度とケチをつけられないくらいがんばってみせよう。
そして変えよう。何もしないことを、引きも進みもしないことを、捨ても掴《つか》[#原本では旧字体]みもしないことを選んできた自分を。
生きないことを選んできた自分を、違う色に塗《ぬ》り替えてみせよう。
俯《うつむ》いてはいけない。目を逸《そ》らしてはいけない。背を向けてはいけない。
歩んで行くのだ。まっすぐ、力強く、前を向いて。
そして未来を、生を――いや、死ですらも。自分のこの手で掴[#原本では旧字体]み取ってやる。
「おやすみなさい二ノ宮くん。明日からも、どうかよろしくお願いしますね」
いったん肚《はら》を据《す》えてしまえばなんてことはなかった。
今夜は少し、眠《ねむ》れそうだ。
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其の四 そしてはじまる
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翌朝《よくちょう》。
生きとし生けるものすべての父たる太陽は誰《だれ》の上にも等《ひと》しく昇《のぼ》る。
無論《むろん》、一服盛《いっぷくも》られて寝《ね》こけていた峻護《しゅんご》にも。
薬はそれを仕込《しこ》んだ者の計算した通りに切れ始め、夢すら見なかった彼の眠りにもようやく覚醒《かくせい》の先触《さきぶ》れが訪《おとず》れつつあった。
うつらうつら、まどろみの揺《ゆ》り籠《かご》に身を預《あず》けつつ、彼の意識《いしき》は何かの音を耳にしている。
何の音だろう?
目が覚《さ》めかけているということは今は朝のはずで――朝に聞こえてくる音といえば、何はなくとも鳥たちのさえずりだ。|二ノ宮《にのみや》家の敷地《しきち》には生態系《せいたいけい》豊《ゆた》かな森がほとんど野ざらしに枝を茂《しげ》らせ、野鳥たちの格好《かっこう》の棲家《すみか》・餌場《えさば》となっている。ハトやスズメやカラスはもちろん、メジロ、ヒヨドリ、ホトトギスまで、なんでもござれの大所帯《おおじょたい》。目覚ましなどなくとも彼らが演じる早朝の一幕《ひとまく》は、峻護にとって寝坊《ねぼう》をしたくともできないようなやかましさなのだが……しかしどうも、今朝のそれはいつもと勝手が違《ちが》うようだ。
第一、庭先の小さな住人たちの騒《さわ》ぎにしては音が近すぎる。そして音そのものも大きい。しかも大きいだけでなく、音と共に時折《ときおり》かすかな揺《ゆ》れまで発生《はっせい》している。
「お嬢《じょう》さま、これはどこに置いたらいいですか?」
「そうね、それはとりあえず部屋の隅《すみ》にでもやって頂戴《ちょうだい》」
おまけに明らかに人の声っぽいものも聞こえてくる。
(……なんだなんだ……)
睡魔《すいま》をねじ伏《ふ》せ、目をこすりながら身体《からだ》を起こした。
「お嬢さま、このティーセットはどこに置いたらいいでしょう」
「そうね……じゃあ、それも部屋の隅に」
「ええー、またですかあ? さっきから端《はし》っこばかりに荷物《にもつ》が溜《た》まっちゃってますよ」
「仕方《しかた》ないでしょう、とりあえず持ち込んでみないことには……持ち込んだものが必要かどうかの取捨選択《しゅしゃせんたく》はその後にいたします」
どうやら騒音《そうおん》の源は二ノ宮家の住み込みメイドとその付き人であるらしい。峻護の目の前で言葉をやり取りしながら、せわしなく部屋を出たり入ったりしている。
「あ、起きた? おはよう二ノ宮くん、お邪魔《じゃま》してるよ」
保坂《ほさか》少年が朝日のようにまぶしい笑顔《えがお》であいさつしてきた。一方の麗華《れいか》は峻護に一瞥《いちぺつ》もくれず、怒《おこ》ったような顔で無言《むごん》のまま動き回っている。
「はあ、どうも。おはようございます」
半分以上寝ぼけたままあいさつを返し、緩慢《かんまん》に記憶《きおく》をたぐる。昨夜《さくや》は部屋に戻《もど》ってきた後――ああそうだ、あまりの眠気に逆らえずベッドに倒《たお》れこんで――というところまでは覚えているが、そのままほんとうに寝てしまったのか。
ぐるりと周囲を見渡《みわた》した。
当たり前だが、自分の部屋である。だが妙《みょう》な点もある。見慣《みな》れたはずの部屋の中に、どうも見慣れないものがいくつも置いてある気がするのだ。
「お、重いっ……ちょっと保坂、ちゃんと気張《きば》って持ちなさい!」
「えー、ぼくはちゃんと自分の役目を果たしてますよう。明らかにお嬢さまの力不足ですって。ほら、傾《かたむ》いてるの、どうみてもそっちじゃないですか」
「お黙《だま》りなさい、口ごたえは許しませんよ。いいから気合い入れて持ちなさい」
どうやらこの二人が運び込んでいるものらしい。今もまた二人がかりで小さからぬ箪笥《たんす》を搬入《はんにゅう》してきた。よくよく見ると他にも椅子《いす》やら机《つくえ》といった家具類《かぐるい》や、あるいは衣類や書類などの生活用品が、そう広くもない部屋に所狭《ところせま》しと並《なら》べられている。
「…………」
意味がわからない。まったく脈絡《みゃくらく》がない。どうしてこの二人が引《ひ》っ越《こ》しじみたことを、それも先住人のいる部屋で行わねばならないのだ? 理解不能《りかいふのう》だ――と思ったところで、ああなるほどと合点《がてん》した。意味もわからず、脈絡もなく、理解も及《およ》ばない。ということはつまり、これは夢の続きということではないか。
一安心し、では心置きなくもう一眠りしょう、と思った時、
「……? どうしたんですか、二ノ宮くん?」
隣《となり》で寝ていた真由《まゆ》がごそごそ起き上がった。
峻護の呆《ほう》け顔に首をかしげ、次いで騒《さわ》がしい部屋内を見回す。
「…………」
目を瞬《しばたた》いている。彼女も夢の続きに驚《おどろ》いているのだろうか。
「お嬢さま、とりあえずこれであらかたは運び終わりましたよ〜」
「よろしい。ご苦労さま」
夢の中の二人はどうやら目的を果たしたようだった。
ごほん、とせき払《ばら》いし、麗華が一歩前に出る。
「そこの両名、よくお聞きなさい」
ベッド上で成《な》り行きを見守っている峻護と真由を脾睨《へいげい》する。かなり寝不足《ねぶそく》のようで、目もとにくま[#「くま」に傍点]があった。この様子《ようす》だとひょっとすると徹夜《てつや》したのかもしれない。そこまで夜更《よふ》かしして何をやっていたのか。また仕事の呼び出しでもかかったのだろうか。
「先日より一時|保留《ほりゅう》としていた月村《つきむら》真由の『特訓《とっくん》』について、わたくしの結論《けつろん》が出ました。それを今から申《もう》し述《の》べます」
こほんこほんと再度《さいど》せき払いして、
「月村真由の事情《じじょう》も鑑《かんが》み、諸《しょ》特訓の施行《しこう》の一切《いっさい》は一応の現状《げんじょう》維持《いじ》といたします。その特訓とやらの内容と効果については甚《はなは》だ疑問《ぎもん》ですが……さしあたりは継続《けいぞく》を認めましょう。ただしこれらは極《きわ》めて高度《こうど》な倫理《りんり》的問題を含《ふく》む行動《こうどう》であり、その点に疑問の余地《よち》はなく、よってこれらを施行するにおいては従来《じゅうらい》の監視《かんし》・指導《しどう》体制《たいせい》に不具合《ふぐあい》があると言わざるを得ず、したがってこれを大幅《おおはば》に強化する要《よう》ありと認めます。つまり、今回の処置《しょち》はそのために必要|不可欠《ふかけつ》なものなのです。おわかりですわね?」
「…………」
無反応《むはんのう》。
「お嬢《じょう》さま、それじゃなんだかどこかの国会|答弁《とうべん》みたいですよ。寝起きの二人には通じませんから、もっと具体的《ぐたいてき》に」
「そ、そう? そうね、例えば――ええ、これはあくまで一例ではありますが」
こほんこほんこほんと咳払いを繰り返してから、
「あなたがたの特訓には、同衾《どうきん》などという不道徳《ふどうとく》この上ない乱行《らんこう》も含《ふく》まれていましたわね。本来ならそのような行為《こうい》は到底《とうてい》許されることではありませんが……今回に限り、条件付きでそれも認めましょう。その条件とは言うまでもなく、このわたくしの監視下に置かれている場合のみにおいて、ということなのです。もちろん監視と一口に言ってもそれは細心の慎重《しんちょう》さをもってせねばならず、あなたたちがほんの少しでも一線を超《こ》えようとする予兆《よちょう》を見て取れば、たちどころにこれを物理的《ぶつりてき》に阻止《そレ》せねばなりません。すなわち至近《しきん》を極《きわ》めた距離《きょり》において監視行動を取る必要があることは論《ろん》ずるを待たず、となれば必然《ひつぜん》、このわたくしもあなたたち二人が枕《まくら》を並べている場所に身を横たえざるを得ないのです。幸いそのダブルベッドはキングサイズですから、もうひとり分わたくしの細身が加わったとて、さしたる問題はないでしょう?」
「…………」
再びの無反応。
「……お嬢さま、墓穴掘《ぼけつほ》ってますよ。そんなの言わずもがなじゃないですか。っていうか論理が飛躍《ひやく》してるし。しかも結局《けつきょく》わかりにくいし」
「う、うるさいわねっ、ごちゃごちゃと揚《あ》げ足取りばかりして! だったらあなたが説明してごらんなさい!」
「はあ、それじゃあ。……あのね、要《よう》するにこういうことだよお二人さん。お嬢さまは今日から君たち二人と同じベッドで寝ます、っていうこと」
「ちょっ、保坂! そんな直裁的《ちよくさいてき》な表現を用《もち》いないで頂戴《ちょうだい》!」
「今さら何言ってるんですか、これからその直裁的な行動を取ろうとしてる当人が」
「と、とにかくっ!」
あらためてベッドの二人に向き直り、真っ赤になって睨《にら》みつけ、
「もうこれ以上の譲歩《じょうほ》はぜったいぜったいありませんからねッ! この先まだ特訓を続けたいのであれば言うことを聞くのです!」
「…………」
「わかったら返事《へんじ》ッ!」
わめく。
だがそれでも反応がないと見るや、上気《じょうき》した首から上をこれ以上ないほど明後日《あさって》の方角に曲げ、つんとそっぽを向いた。
「……あの、すいません。言ってる意味がよくわからないんですが……」
峻護はようやく口を開き、
「まあもう一回フォローするとね、」
保坂が主人の代理《だいり》で応答し、
「君たちの特訓は認《みと》める、ただしその監視を強化する必要がある、その監視はお嬢さまが担当《たんとう》する、でもって監視を強化・日常化《にちじょうか》するために――」
百万ドルの笑顔とともに爆弾《ばくだん》を投下《とうか》した。
「お嬢さまは今日から君たちのこの部屋で一緒《いっしょ》に暮らす、ってこと」
「…………」
さすがは夢の世界だ、と思った。登場人物がみんなおかしなことばかり言う。もっとも、現実のこのひとたちも結構《けっこう》おかしなことを言ってばかりな気もするけど。
「これからは原則《げんそく》、お嬢さまのいないところでの特訓は禁止《きんし》になるから。それと現状では特訓と指定《してい》されていない君たちの行動についても、今後はお嬢さまが付きっきりで監視することになるよ。例えばそうだね、今日からお嬢さまは君たちと一緒《いっしょ》にお風呂に入ったりすることになるね。監視のために」
「はあ……」
「荷物についてはとりあえず入れるだけ入れてみたけど、あとでもうちょっと整理《せいり》するから。しばらくはごちゃごちゃしてて狭《せま》いと思うけど、がまんしてね? まあ、いったん整理しちゃえば、決して狭い部屋でもないし。三人一緒に暮らすくらいなら別に問題ないよね?」
「いえ、その……」
「ここは北条家《ほうじょうけ》の跡取《あとと》りである麗華お嬢さまの部屋になるわけだから、ほんとうはもっと格式《かくしき》を整《ととの》えるべきなんだけど……お嬢さまってそういうの嫌《きら》うから。基本的《きほんてき》にこの部屋は現状《げんじょう》のままにするね。あ、そうそう。君たちはこれからお嬢さまと同じ部屋に暮らすってことで、つまり北条家にとって並々《なみなみ》ならぬ意味をもつひとたちになる、ってことだから。北条家はあらゆる面で君たちをサポートするよ。必要なものがあれぱいくらでも用立てするから、遠慮《えんりょ》なく言ってね?」
「いや、というか……」
「ま、そういうわけで。これからもお嬢さまをよろしくね、二ノ宮くんも真由さんも」
夢にしてはよくしゃべる保坂だ。
「まあいろいろ言ったけどさ、」その上ウインクまでしてみせ、「要するにこのひとってほら、こういうことには世界選手権レベルで不器用《ぶきよう》だから。ま、この程度《ていど》については大目にみてあげてよ」
「保坂。余計《よけい》な口は叩《たた》かないよう」
麗華のこめかみに青筋《あおすじ》が浮《う》くが、保坂は気づかないふりをする。
「ぼくも朝っぱらから叩き起こされてさー。さっき君たちに話した百倍くらいの言い訳《わけ》を聞かされてさー。さんざん遠回りした挙句《あげく》の結論がこれってわけでー。ほんと、二ノ宮くんと同じ部屋に住みたいならもっと素直《すなお》にそう言えばいいのにねえ」
「保坂。あることないこと言ってると今朝の生ゴミと一緒に回収車《かいしゅうしゃ》に放《ほう》り込むわよ?」
令嬢《れいじょう》の声が怒気《どき》を孕《はら》むが、下僕《げぼく》は聞こえないふり。
「だいたいお嬢さまって、何だかんだで真由さんにも突《つ》っかかるけどさー。それだってぶっちゃけ、真由さんの立場とかやってることが羨《うらや》ましかっただ」
最後まで言うことはできなかった。
鬼神《きじん》もかくやという顔でおしゃべりな付き人に向き直った麗華がその首根っこを両手で掴《つか》[#原本では旧字体]み、同時に形のいい太ももを跳《は》ね上げ、丸太でもへし折りそうな膝蹴《ひざげ》りをみぞおちにめり込ませたからである。
「ふん……」
ひとたまりもなく白目を剥《む》いたチクリ魔《ま》に鼻を鳴らしてから、
「話はわかりましたわね、月村真由?」
目の敵《かたき》にする少女を睨《にら》み下ろす。
「あなたから受けた無礼《ぶれい》の数々、わたくし決して忘れはしません。また北条家の次期《じき》当主たる者、なんぴとにも遅《おく》れを取ることは許されないのです。ましてあなたごときに先を制せられるなどもってのほか。それゆえに今回の処置《しょち》と相成《あいな》ったのです」
その声には、万人《ばんにん》をひれ伏《ふ》せさせる威風《いふう》がみなぎっていた。
北条麗華の『本気』だ。
「昨日はつい不覚《ふかく》を取りましたが……わたくし、これより先二度とあなたの後塵《こうじん》を拝《はい》することはないとここに誓約《せいやく》いたします。覚えておきなさい、何でもかんでもあなたの思い通りに行くと思ったら大間違《おおまちが》いなのです。今後は常《つね》にあなたの動向《どうこう》を牽制《けんせい》し、その都度《つど》ことごとくあなたを上回って差し上げますわ。わたくしにはあなたに譲《ゆず》れるものなど何ひとつありはしないのですから。ええ、たとえコンビニ弁当に入っている付けあわせのパセリだってあなたになんか譲ってやるもんですか。さあ、覚悟《かくご》はよろしくて?」
どうにも今日の夢は目まぐるしい――と、峻護は肝《きも》を冷やしながら思った。ここまでぴりぴりした北条麗華は久しぶりに見た。あの、入学式の日以来だろうか。
それにしてもタチの悪い夢だ。北条|先輩《せんぱい》がこの部屋に引《ひ》っ越《こ》してくるなどという茶番《ちゃばん》はもちろん、触《ふ》れただけで切り刻《きざ》まれそうな気迫《きはく》を纏《まと》うこのひとの威容《いよう》まで見せられることになるとは。心臓《しんぞう》に悪いことの連続《れんぞく》ではないか。
ゆえに峻護は、こんな馬鹿《ばか》げた映像を見せている自分の脳《のう》ヘクレームする意味を込め、抗弁《こうぺん》することにした。
「あの、北条先輩? これはどういう……」
「あなたは黙《だま》ってなさい二ノ宮峻護! これはわたくしと月村真由の問題です!」
「す、すいません……」
すごすご引き下がった。とても無理《むり》だった。今のこのひとにこんな剣幕《けんまく》で噛《か》み付かれては、彼ごときでは手も足も出ない。
ましてこの眼光《がんこう》を直《じか》に向けられている月村さんなんてひとたまりも――
「……お話はわかりました」
「え?」
ゆらり、と。
真由が――峻護のひ弱な被《ひ》保護者《ほごしゃ》であるはずの少女が立ち上がり、令嬢の目と鼻の先まで歩み進んだ。
そのままにらみ合う。
(……にらみ合う?)
あの月村さんが?
この北条先輩と?
「…………」
なあんだ、と思った。こんな光景《こうけい》現実にはありえない。やっぱり夢なのだ、これは。
ゆえに峻護は場の空気も読まず、気軽に仲裁《ちゅうさい》に入ることにした。
「あはは、月村さんそう尖《とが》ったりしないで。先輩は単にジョークを言ってるだけ、」
「二ノ宮くんは引っ込んでてください! これはわたしと麗華さんの問題です!」
「ご、ごめんなさい……」
あっさり尻尾《しっぽ》を巻いた。
(ど、どうなってるんだ……?)
つい反射的《はんしゃてき》に謝《あやま》ってしまったが……まさか、あの大人しい月村真由までこんな風になってしまうとは。
まあしかし――と、峻護はいよいよ安心する。ここまでありえないことが続けば、これはもう夢以外にありえないではないか。こんな悪夢めいた幻像《げんぞう》をみせる自分の脳には困ったものだが、なあに、夢だけにいずれは覚《さ》めるのだ。何が起ころうと大過《たいか》ない。世はすべて事もなし。
「これもきっと試練《しれん》なんですね」
夢の中では『強気な少女』という設定になっているらしい真由が――なんだかあちこちケガをしている彼女だが、まあそれも夢で見ている姿《すがた》だし――改《あらた》めて敵に向き直る。
「ええ、わかってるんです、欲《ほ》しいものが簡単《かんたん》には手に入らないことも、運命というやつがどのくらい性悪《しょうわる》かも。ええわかってましたよ、でも、だからって諦《あきら》めるもんですか。くそくらえな神さまなんかに、ぜったいぜったい負けてやるもんですか」
まるで別人のように凛《りん》とした声で、
「麗華さんの提案《ていあん》、わたし呑《の》みますから。だって、何があってもわたしはぜったい負けないから。それにきっとその方がお互《たが》いにとってフェアですもんね。でも――最後に勝つのは、わたしです。その覚悟はしておいてください」
「……ふん、あなたの言っている意味はさっぱりわかりませんが……そう言われたならこう返しましょう。このわたくし北条麗華は、あなたとの喧嘩《けんか》なら闇金《やみきん》で内臓《ないぞう》を担保《たんぽ》に借金してでも買って差し上げると。そして断言《だんげん》いたしましょう、最後に勝つのはあなたではなく、このわたくしであると。コテンパンに叩《たた》きのめして返り討《う》ちにして差し上げますから、玉砕《ぎょくさい》した際《さい》のコメントでも今のうちに考えておきなさい」
お互いの鼻《はな》っ面《つら》に噛《か》み付かんばかりに火花《ひばな》を散《ち》らしあう。
一触《いっしょく》即発《そくはつ》。
夢を見ているのは重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》しているが、それでもこれは精神衛生《せいしんえいせい》に悪すぎる。
「あの、北条先輩も月村さんもまずは落ち着いて。どちらにせよこういうことはあの二人の許可《きょか》を取らないと……」
「その必要はないぞ峻護くん!」
ナチュラルにテンションの高い声がドアを蹴《け》り開けて乱入《らんにゅう》してきた。
「話はすべて聞かせてもらった。その上で麗華くんの提案《ていあん》は大変|興味《きょうみ》深い内容を含《ふく》んでいたと判断《はんだん》する。またこの提案を実施《じっし》することによって得られるであろう貴重《きちょう》な経験《けいけん》は、両名にとって将来《しょうらい》の大成《たいせい》を促《うなが》す良き肥《こ》やしとなること、疑問《ぎもん》の余地《よち》はないとみた。そうだろう、涼子《りょうこ》くん」
「そうね美樹彦《みきひこ》、面白《おもしろ》そうだと思うわ。というわけで即決《そっけつ》。この状況《じょうきょう》を家主として許可します。過酷《かこく》な条件下において大いに切硅琢磨《せっさたくま》し、それをもって青春の輝《かがや》ける一ページとしなさい。わかったわね? あなたたち」
「…………」
また面倒《めんどう》な登場人物が現《あらわ》れた、と峻護は嘆息《たんそく》した。それにつけてもまったく、今日の夢はひどくいそがしい。こうせわしなくてはおちおち寝《ね》てもいられないではないか。まあもっとも、この二人は素《す》の状態でも悪夢を体現《たいげん》しているような連中ではあるが。
「ちょっと峻護。いつまでボケっとした顔してるの? 話はちゃんと聞いてたわね?」
呆《ほう》けたツラで急展開《きゅうてんかい》に取り残されていた弟の頬《ほお》を、姉がぺしりと叩《はた》いた。
痛い。
「あの……姉さん?」
「何?」
「今の、痛かったんだけど」
「当たり前じゃない。叩いたんだから」
「……念《ねん》のため、ひとつ確認《かくにん》しておきたいんだけど」
「聞くわ」
「今おれが見ているこれって……夢、だよな?」
「峻護、あんたいつまで寝ぼけてるつもり? さっさと顔を洗ってきなさい。それとも本気で頬っツラを殴《なぐ》られたいの?」
「…………」
「ところであんた。朝食の仕込《しこ》みを途中《とちゅう》のまま放《ほう》り出してあるみたいだけど、あれはどういうつもりかしら? その程度の義務《ぎむ》も満足に果《は》たさず、いぎたなくこんな時間まで寝こけてたって言うんなら……その時は、わかってるでしょうね?」
「あの、涼子さん。それはわたしのせいなんです。わたしが仕込みの途中のまま、つい眠《ねむ》ってしまって……ですから罰《ばつ》は、わたしも連帯責任《れんたいせきにん》で受けます」
「あらそうなの? でもいいのよ真由ちゃん、あなたの監督《かんとく》責任は峻護にあるんだから、この件の責任も峻護ひとりのもの。あなたが罰を受ける必要なんてないのよ?」
「いえ、これは、わたしの不始末《ふしまつ》ですから」
「……ふうん?……どう思う、美樹彦?」
「うむ。当人がこう言うのであれば、たとえ兄であるこの僕であってもこれ以上口を挟《はさ》めるものではない。この家の法に照《て》らし、心置きなく彼女を折檻《せっかん》してくれたまえ」
「でもいいの真由ちゃん? この罪状《ざいじょう》に対する刑《けい》って結構《けっこう》きついわよ? 『素手《すで》で草むしりしながらウサギ跳《と》びで庭を百周』の刑なんだけど……やめるなら今のうちよ?」
「やります。いえ、ぜひやらせてください!」
「そう……わかったわ。あなたの心意気《こころいき》、確かに受け取った。それに応《こた》えてわたしも心を鬼《おに》にして、あなたを徹底的《てっていてき》にしごくことにしましょう」
「はい、お願いします涼子さん!」
「真由ちゃん……いいえ、月村真由。こうなればわたしとあなたの関係は師匠《ししょう》とその弟子《でし》も同然。これからはわたしのことをコーチと呼び、その指示には絶対服従すること。わかったわね?」
「はい、 コーチ!」
「……あなたたち、ひょっとしてバカですの? いいえ、ひょっとしなくても大バカですわね。そうやってスポ根みたいな展開でさわやかに纏《まと》めようとしているようだけど……まったくもって愚劣《ぐれつ》という他《ほか》ありませんわ。なんだかんだ粉飾《ふんしょく》してますけど、要するに月村真由がさっそく失点《しってん》しているというだけのことじゃない。いくらオブラートで包《つつ》んだところで、この小娘《こむすめ》が初歩的《しょほてき》で無様《ぶざま》で見苦しいミスを犯《おか》したという事実に変わりはないのです。それ見たことか、というやつですわ。しょせん月村真由などという存在は本質的《ほんしつてき》に小物であり、つまるところわたくしの敵では、」
「麗華ちゃん、ずいぶん余裕《よゆう》があるみたいだけど……あなたにとっても他人事《ひとごと》じゃないわよ。何か大事《だいじ》なことを忘れてないかしら?」
「大事なこと?」
「昨日言いつけておいた窓拭《まどふ》きの仕事。まだぜんぜん途中《とちゅう》みたいだけど?」
「え?……あ」
「まったく仕方《しかた》のない子ね。窓拭きだって元はといえぱ粗相《そそう》のおしおきだったのに、その上にまた不手際《ふてぎわ》の重ね塗《ぬ》りをするなんて……これはもう、よっぽどキツいおしおきを望んでいるとしか解釈《かいしゃく》の仕様《しよう》がないわねえ」
「そ、そんな、だって、昨日の夜はちょっと事情《じじょう》が、」
「初歩的で無様で見苦しいミスを犯しておいて、そのうえ言い訳《わけ》をしない」
「はっはっは、どうやら墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》ったようだね麗華くん。君を救うべき忠実《ちゅうじつ》な少年は君自身が悶絶《もんぜつ》させたまま復帰《ふっき》する気配《けはい》もないし、まあこれも運命というやつだろう、潔《いさぎよ》く刑に服《ふく》すのが吉《きち》であると薦《すす》めておく。ところで涼子くん。彼女の罪《つみ》に対する刑は、この家の法に照《て》らし合わせると一体《いつたい》どうなるんだい?」
「そうねえ、これだけの重罪《じゅうざい》となると……やっぱりあれ[#「あれ」に傍点]かしらねえ」
「あれ[#「あれ」に傍点]って……な、なに? ま、まさか――まさかのまさかですわよね? 昨日は三回もしましたものね? ね?」
「ほんと、麗華ちゃんったら。あえてこれだけ初歩的で無様で見苦しいミスを犯すということは……これはもう、あの罰[#「あの罰」に傍点]を受けたくてわざとやってるとしか思えないわねえ。そんな風に遠回しに誘《さそ》わなくたって、ひとこと言ってくれればいつでも相手したげるのに。でもそういうシャイな子ってわたしの好みよ」
「ま、待って、ちょっと待って――そ、そう、二ノ宮峻護と月村真由が一緒《いっしょ》に罰を受けるというなら、そこにはわたくしも居合《いあ》わせなけれぱなりませんわ。ね? そうでしょう? それは先ほど決まったばかりのことで、それにあなたも承認《しょうにん》したことですものね? ですからわたくしの罰も『素手で草むしりしながらウサギ跳びで庭を百周』ってことでいいですわよね?」
「ああ、悲しいわ。わたしの思いやりが麗華ちゃんにはわかってもらえないなんて。『素手で草むしりしながらウサギ跳びで庭を百周』と『あれ』、どちらが厳《きび》しい罰かは一目瞭然《いちもくりょうぜん》で、せっかくわたしは軽い方の罰を選んであげてるっていうのに……」
「なにが思いやりなものですか! そんなのあなたが自分の趣味《しゅみ》で選んでるだけじゃないのよっ!――ちょ、やめて、こっちに来ないで、まだわたくしの話は終わってな……そ、それ以上近づいたらわたくし、わたくし――ふにゃうっ!」
「うふ、あなたの感度《かんど》はいよいよ磨《みが》ぎが掛《か》かっているようね。それにしても驚《おどろ》きだわ、あなたのタフさには。おまけにこんな朝から、それもわざわざ人前で求めてくるなんて。麗華ちゃんってSでもMでもなくて露出《ろしゅつ》趣味だったのね。気が合うわ。さ、楽しみましょ」
「わ、わたくし、自分のアホさ加減《かげん》に絶望《ぜつぼう》いたしますわ、どうしてこういつもいつもこのあばずれの毒牙《どくが》に……ああもうっ、もうこうなったらヤケですわっ! 四回でも五回でもいくらでも相手して差し上げますから好きなだけかかってらっしゃいこんちくしょう! ――や、やだ、待って、今のは冗談《じょうだん》ですから、だから、だからせめて他の場所で……も、もうほんとにイヤですわたくしこんな生活……や、ちょ、ほんとに、ほんとに、や、や、だめ、だめだったら、いや、いや、いっ、いやああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……!」
……目の前で展開する、悪夢とも喜劇《きげき》ともつかない騒《さわ》ぎを呆然《ぼうぜん》と見守りながら。
そろそろ現実《げんじつ》逃避《とうひ》をやめるべきか、それとももう一眠りしてすべては夢幻《ゆめまぼろし》だったと安心する夢オチに一綾《いちる》の望みを託《たく》すべきか――真剣《しんけん》に悩《なや》む、二ノ宮峻護であった。
[#改ページ]
あとがき
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです――という定番《ていばん》のあいさつを私も定番にしたいなあ、と企《たくら》む、作者の鈴木《すずき》です。『ご愁傷《しゅうしょう》さま二ノ宮くん』第三弾をここにお届け致《いた》します。
さて、一巻二巻と『私の執筆暦《しっぴつれき》』なるお題で稿《こう》を埋《う》めてきた私ですが、このテーマ、かなりこっ恥《ぱ》ずかしくなって参《まい》りました。よってこの三巻にて一時|中断《ちゅうだん》したいと思います。ご了承《りょうしょう》ください。あとがきのネタがなくなったら、いずれまた続きを書くかもしれません。もしくは再開|希望《きぼう》のファンレターが千通くらい届いたら、とか。……ありえませんね。ええ、わかってるんです。
ふむ、それではどんなお題でいきましょうか。今回、いつもより多めにあとがきが欲しいと言われておるので、でぎるだけ長く引《ひ》っ張《ぱ》れそうなのを……。
*
ワタクシ、割《わり》と旅行好きであります。二|泊《はく》三日とかじゃなくて、二週間くらい時間を取ってじっくりゆっくり国内各地を巡《めぐ》るようなのが好みです。
この手の旅行は大学時代から始めました。大学時代なのでお金はありません。なのでホテルとかは取れないし、足の速《はや》い乗り物も使えません。よって移動《いどう》は原付《げんつき》、宿泊はテントで野宿《のじゅく》となります。でもって、こういう計画性《けいかくせい》のない旅行では何かとハプニングが起きるものであります。
というわけで、今回のあとがきではそういったエピソードを適当《てきとう》にピックアップしてお茶を濁《にご》すことに決めました。時間に余裕《よゆう》のある方はお付き合いください。
貧乏《びんぼう》旅行|初心者《しょしんしゃ》だったころの話。
テントで野宿、と簡単《かんたん》に言いましたが、コレ、けっこう手間《てま》の掛《か》かるものです。第一に場所を探すのが大変《たいへん》。私にとって理想的《りそうてき》な野営地《やえいち》とは、まず屋根があること(雨に濡《ぬ》れないから楽)。照明《しょうめい》があること(あるとないとでは大違い。ランタンとか使うのはコストかかるしめんどい)。水道があること(あると何かと便利《ぺんり》)。コンビニに近いこと(言うまでもなく便利)。そこにテントを張《は》っても迷惑《めいわく》にならないこと(大前提《だいぜんてい》)……等等《などなど》。できればこれらの条件《じょうけん》の揃《そろ》った物件《ぶっけん》で夜を明かしたいわけで、しかしこんな都合《つごう》のいい物件となるとなかなか見つからないわけで、悪くすると野営地《やえいち》をさがして二時間くらいさまよったりもします。ただでさえ昼間は原付に乗りっぱなしなので(これがまた想像《そうぞう》以上に疲れる)、ようやく安息《あんそく》の地を見つけた時は疲労困憊《ひろうこんぱい》していたりもします。よって、そういう時はもうテントを組み立てる気力がありません。ウレタンシート一枚敷《し》くだけでバタンキューです。
その日も原付乗りっぱ&野営地探しでクタクタになり、テント張《は》りをサボって寝入《ねい》ってしまいました。当時は割と恐《こわ》いもの知らずで、そういう無茶《むちゃ》も平気でやっていて、そしてこの時まではそんな無謀《むぼう》をしてもこれといった問題は起こらなかったのですが……翌朝《よくちょう》、異変《いへん》が起きていました。
すぐには気づきませんでした。気づいたのは寝ぼけた頭で撤収《てっしゅう》の作業をしている最中《さいちゅう》です。まず、自分の視界《しかい》がおかしいことに気づきました。妙《みょう》に、目に見える範囲が狭《せま》い。それからくちびるがやたら厚《あつ》ぼったい。いやそれだけじゃなく、顔全体がやたら張《は》り詰《つ》めた感じになっている。
そのあたりでようやく意識《いしき》がクリアになり始め、そして私は自分の血の気が引いていく音を聞きました。
視界が狭いのは、まぶたが思いっきり腫《は》れあがってるから……?
ていうか俺、顔のカタチ変わってる……?
慌《あわ》てて私は鏡《かがみ》を見、そして悲鳴《ひめい》をあげました。ていうか誰《だれ》コレ? と思いました。まぶただけでなく、試合後《しあいご》のボクサーもかくやというほどに私の顔は膨張《ぼうちょう》しておりました。コワイですよ〜? 試合後のボクサーには顔が腫《は》れる理由がありますが、私の場合はまったく身に覚えのない異常《いじょう》が己の身に降《ふ》りかかっていたのですから。
まあもっともパニくったのは一瞬《いっしゅん》で、すぐ原因《げんいん》には気づきました。それだけ腫れているにもかかわらず大して痛みはなかったのです。その代わり、ひどく痒《かゆ》い。要するにアレです、蚊《か》です。ちょっと考えられないくらい大量の蚊に、私の顔は刺《さ》されまくっておったのです。
いやはや油断《ゆだん》でありました。夏場ということで蚊取り線香《せんこう》はちゃんと焚《た》いていたし、実際《じっさい》それまではその程度《ていど》の対策《たいさく》で問題なかったのですが……その日は運が悪かった。折《おり》しも大型|台風《たいふう》が近づいて強風|吹《ふ》き荒《あ》れ、蚊取り線香の煙《けむり》は用を為《な》さなかったのです。
しかしそれにしてもまあ、奴《やつ》らも遠慮《えんりょ》なく吸血《きゅうけつ》してくれたものです。既《すで》に先客《せんきゃく》が血を吸《す》った場所に、さらに追《お》い討《う》ちをかけて刺しやがるのですよ。血も涙《なみだ》もないとはこのことですな。ひどい顔になるのも道理《どうり》です。
でもってそれだけの物量《ぶつりょう》作戦で来られると、たかが蚊に刺された程度とはいえ一向に腫れが引いてくれません。とはいえ腫れが引くまで時間を潰《つぶ》すのも嫌《いや》なので、そのまま出発することにしました。幸いフルフェイスのヘルメットを被《かぶ》っていたので他人様《ひとさま》にヤバい顔を見られることはありませんでしたが、店に入る時が難儀《なんぎ》でした。ホラーと化した顔を見られるのはちょっと嫌《いや》、しかれども店には入りたい……。
結局私の選んだ道は、メットを被《かぶ》ったまま店に入ることでした。すいません傍迷惑《はためいわく》な奴で。私が訪《おとず》れた店のスタッフはみんな笑顔で接客《せっきゃく》してくれましたが、カウンターの下では警報装置《けいほうそうち》のスイッチに手が掛《か》かっていたに違いありません。石川《いしかわ》県|輪島《わじま》市で土産物屋《みやげものや》を経営《けいえい》する皆様《みなさま》には深くお詫《わ》び申し上げます。
*
さて、大して面白《おもしろ》くもない話で程《ほど》よくページが埋まってきたところで四巻の予告です。今回は割とシリアスな展開《てんかい》もあった『二ノ宮くん』ですが、そっちの方向はここらで一段《ひとだん》落《らく》。次回は麗華お嬢《じょう》さまがカワイイことになりそうです。
そして今回も最後になってしまいましたが、イラストの高苗《たかなえ》氏、担当《たんとう》のS氏をはじめ、この本に関わって頂《いただ》いた全ての人たちに満腔《まんこう》の謝意《しゃい》を。そしてこの本を手に取ってくださった皆様《みなさま》に、私から愛の訪問販売《ほうもんばんぱい》を。ありがとうございました、どうぞこの次もよろしくお願い致します。
[#以下省略]
[#改ページ]
TEXT変換者です。
これで7本目です。月曜の夜と火曜の早朝で出来ました。
一連の作業で一番面倒なのは画像一枚からOCRでTEXT一ページにするあたり。
校正も面倒なんですけど、そちらは「読む」楽しさがありますからね。
文字化けしているのを直すのに原本を見ないでやると、推理も必要だし。