ご愁傷さま二ノ宮くん 第2巻
鈴木大輔
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目 次
其の一 彼女が虎穴《こけつ》に踏み入れば
其の二 彼女が水着に着替えれば
其の三 彼女が月夜に目覚めれば
あとがき
もはや逃《に》げ場はない。
背中《せなか》は昼間の熱を吸《す》った砂《すな》。両肩《りょうかた》と後頭部はゴツい岩場に退路《たいろ》を断《た》たれた。もう一ミリだって後ろに退《ひ》けやしない。
それ以上に、馬乗りになっている少女の瞳《ひとみ》が、朱唇《しゅしん》が、吐息《といさ》が、逃《のが》れることを許《ゆる》さない。
あるいは――と|二ノ宮峻護《にのみやしゅんご》は疑《うたが》う。逃れる気など、自分にはそもそもありはしないのか。
お互《たが》いの体温が、いや、心音すら絡《から》み合うほどの至近《しきん》で、妖《あや》しく濡《ぬ》れる瞳が真《ま》っ直《す》ぐに脳髄《のうずい》を射貫《いぬ》き、理性《りせい》の衣《ころも》を一枚一枚はぎ取ってゆく。
彼女は言葉を用いない。
だが言の葉など発せずとも、その微笑《ぴしょう》は雄弁《ゆうぺん》にささやきかける。
ほしいんでしょう?――と。
そして峻護は知っている。もはやその欲望《よくぼう》に抗する術《すぺ》がないことを。
無論《むろん》、少女も知っている。
だから彼女はただ、待つ。
自らも欲望に身を焦《こ》がしながら、焦《じ》らされる快楽《かいらく》に身をゆだねながら――峻護が禁断《きんだん》の果実をその手でもぎ取る瞬間《しゅんかん》を。
その瞳が、朱唇が、吐息が、甘美《かんび》に誘《いざな》う。
さあ。
はやく。
――もはや逃げ場はない。
抗《あらが》う気力が、川面《かわも》に撒《ま》いた粉のように淡《あわ》く、千々《ちぢ》に砕《くだ》け去ってゆく。
蕩《とろ》けつつある意識《いしき》の中で峻護は考える。
なぜ、こんなことになったのだろう。
いったい何があったのだ。いつもの彼女とは、いや、ついさっきまでの彼女と比《くら》べてさえ、まるで別人ではないか。
気力をつなぎとめようと、死に物狂《ぐる》いで思考を回転させる。
そして自問する。
いつ、歯車が狂ってしまったのだろう。どこから事は始まっていたのだろう――と。
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其の一 彼女が虎穴《こけつ》に踏み入れば
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が、いくら記憶《きおく》を遡《さかのぼ》ったところで思い出せるはずもないのである。
すべては、彼のあずかり知らぬところで始まったのだから。
*
前日、二ノ宮家での出来事である。
その日の夜、北条麗華《ほうじょうれいか》は二ノ宮家の廊下《ろうか》を大股《おおまた》歩きに歩いていた。
つややかな黒髪《くろかみ》を軽《かろ》やかになびかせた、すらりとした少女である。メイド服など着込んではいるが齢《よわい》は十七。れっきとした女子高生、それも北条コンツェルン次期|総帥《そうすい》にして神宮寺学園《じんぐうじがくえん》生徒会長という良血の令嬢《れいじょう》だ。目鼻立ちの整い具合にしたって、少々キツめであることを差し引いたとしても及第《きゅうだい》ラインをはるかに越《こ》えるだろう。まさに才色|兼備《けんび》、どこに出しても恥《は》ずかしくない英媛《えいえん》である。
が、その美貌《びぼう》も今は憤怒《ふんぬ》に染《そ》まり、『少々キツめ』と表現《ひょうげん》できるラインをもはるかに越えてしまっていた。
「お嬢さま、待ってくださいよう」
さらに、彼女のあとを小走りについてくる影《かげ》が一つ。こちらは麗華の付き人である保坂《ほさか》光流《みつる》。二ノ宮家のメイドをさせられている主人に付き従《したが》い、彼女と同じく住み込みでこの洋館に勤《つと》める少年である。
「よしましょうよお嬢さまー。どうせ無駄《むだ》に決まってるんですからあ」
人懐《ひとなつ》っこい童顔に苦笑《くしょう》を描《えが》いて主人を引きとめようとするが、麗華は取り付く島もなく完全|無視《むし》。廊下をゆく速度をさらに上げて居間《いま》の前までたどり着くと、叩《たた》き割《わ》りそうな勢《いきお》いでドアを開け、
「いったいどういうつもりですのっ!」
腹《はら》の底から怒鳴《どな》りちらした。
リビングでは一組の男女――目下、麗華の攻撃《こうげき》目標である――が、それぞれ思い思いの時間を過《す》ごしている。
かたや二ノ宮|涼子《りょうこ》。快活な色気を振《ふ》りまく妙齢《みょうれい》の美女で、この家の実質《じっしつ》的な主《あるじ》、つまりは麗華の雇用主《こようぬし》ということになる。
かたや月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》。こちらも男|盛《ざか》りの美丈夫《びじょうぶ》だが、身分は単なる居候《いそうろう》、そのくせ態度《たいど》は家主の涼子以上にデカいという、正体不明の奇人《きじん》である。
「どういうつもりかと言われてもねえ……」涼子が晩酌《ぱんしゃく》の杯《さかずき》を置き、困惑顔《こんわくがお》を作った。
「話が見えないんだけど。いったいなにをそんなに怒《おこ》っているのかしら」
「僕《ぼく》も涼子くんと同意見だな」
水晶球《すいしょうだま》を磨《みが》く手を止めて、美樹彦がやれやれと首を振る。
「何を問題にしているのかさっぱりわからない。当節、二ノ宮家は極《きわ》めて平穏《へいおん》。何らトラブルの元は抱《かか》えていないと思うんだが」
「よくも抜《ぬ》け抜けと……」麗華はこめかみの青筋《あおすじ》を太め、しらばっくれる二人を一層睨《いっそうにら》みつける。
「あなたたちが『特訓』と称《しょう》する愚行《ぐこう》のことに決まってますわ。月村|真由《まゆ》の男性|恐怖症克服《きょうふしょうこくふく》が目的にあるということですから多少は大目に見ましょう。ですが明らかにあれは行きすぎです。大大大大不本意とはいえわたくしが当家のメイドをしている以上、あのような不埒《ふらち》は許《ゆる》しません。即刻《そっこく》中止なさい」
――少々説明が必要だろう。
事は男性恐怖症の少女、月村真由に端《たん》を発する。一週間ほど前、彼女が恐怖症克服を目的として兄・美樹彦とともに二ノ宮家へやってきたことからすべてが始まった。
その真由のサポート役としてあてがわれたのが涼子の弟・二ノ宮峻護。彼らは二人三脚で現在も男性恐怖症を乗り越えようと努めている。麗華にとって、そこまではまだ、いい。
当の北条麗華はといえば、紆余曲折《うよきょくせつ》あって月村真由と対立し、さらには涼子の奸計《かんけい》に陥《お》ちた末、二ノ宮家のメイドとして働かされる羽目になっている。ちっともよくないが、麗華にとってそこまではまだ、堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》に切れ目を入れずにおける範囲《はんい》だ。
問題は、真由と峻護が取り組み始めた恐怖症克服|対策《たいさく》にある。彼らは『恐怖症克服には男性との接触《せっしょく》が必須《ひっす》である』ことを建前に、非行《ひこう》の限《かぎ》りを尽《つ》くし始めたのだ。
四六時中べったりなのは序《じよ》の口。接吻《せっぷん》のまねごとを所構《ところかま》わず演《えん》じるわ、あけっぴろげに入浴を共にするわ、挙句《あげく》の果ては同衾《どうきん》にまで手を染《そ》めるわ……
これらの放埒《ほうらつ》が麗華の留守《るす》中に始まった、ということがさらに彼女の感情《かんじょう》をややこしくした。先日来、麗華は涼子の承諾《しょうだく》を得てメイド業に暇《ひま》をもらい、トラブルの生じたコンツェルン関連|企業《きぎょう》の建て直しに掛《か》かりきりだったのである。その見通しがようやく立って二ノ宮家へ帰還《きかん》したのがつい先ほどのこと。そこで右の始末を保坂の報告《ほうこく》で耳にし、激務《げきむ》の疲《つか》れを癒《いや》す間もなく殴《なぐ》り込みをかけたというわけである。
「まったく、わたくしの不在《ふざい》に付け込んで好き勝手して。いいですこと? 何度でも繰《く》り返しますが、わたくしが起居《ききょ》する場所で公序良俗《こうじょりょうぞく》に反する真似《まね》は断《だん》じて認《みと》めません。まして健全な高校生にあるまじきみだらな行為《こうい》……このまま続ける気ならばわたくしにも考えがありますわよ」
呪《のろ》いでも乗せているような低声《こごえ》で宣告《せんこく》すると、ずい、と一歩踏《ふ》み出し、涼子と美樹彦に譲歩《じょうほ》を迫《せま》った。一連の『特訓』を企《くわだ》てた黒幕《くろまく》がこの二人であることは、すでに証拠《しょうこ》があがっている。
「なるほどね。あなたの主張《しゅちょう》はわかったわ。でも困《こま》ったわねえ。真由ちゃんも恐怖症克服のために頑張《がんば》っているわけだし……」
入差し指をあごに当てて涼子は思案顔をしていたが、やがてポンと膝《ひざ》を叩《たた》き、
「じゃ、こうしましょう。麗華ちゃん、あなたこの家で暮らすのやめなさい」
「……え?」
「そうね、それがいいわ。それだったら麗華ちゃんは不愉快《ふゆかい》な思いをせずに済《す》むし、真由ちゃんはこれまでどおり特訓を続けられる。でしょ?」
その言葉にしばし硬直《こうちょく》していた麗華だったが、すぐに立ち直って、
「ば、馬鹿《ばか》おっしゃい。できるわけないでしょう、そんなこと。だって、わたくしはあなたに弱みを握《にぎ》られてるんだもの」
そう。門外不出、とうてい衆目《しゅうもく》には晒《さら》せない『あの写真』が、不倶戴天《ふぐたいてん》の害敵《がいてき》に抑《おさ》えられている。屈辱《くつじょく》のメイド暮らしに甘《あま》んじているのは、そういうことなのだ。それ以外の理由など何ひとつないのだ、もちろん。
「あれがそちらの手にある以上、わたくしはこの家に居ざるを得ないのですわ。そう、そういうことなのです」
「じゃ、返したげる」
「え?」
「写真、あなたに返してあげるわよ」
「――そ、そんなこと言って、どうせコピーとか取ってあるのでしょう? そうしてそれをあとでバラまく気でいるんだわ。わたくし、だまされません」
「そういうこともしない。二ノ宮涼子の名にかけて誓《ちか》うわ。必要なら誓約書《せいやくしょ》でも血判状《けっぱんじょう》でも書いてあげる。それでも信じられない?」
「…………」
「どう?」
「わ、わたくしは、その、」
「はっはっは。涼子くん、そのくらいにしておこうではないか」
ふたたび水晶球を磨きだした美樹彦が茶々を入れた。
「あまり意地悪をするものではない。そのくらいにしておかないと麗華くんが泣いてしまうだろう?」
「……お待ちなさい。どうしてわたくしが泣かなければならないのです」
「それはともかくとして、僕にはひとつ理解不能《りかいふのう》な疑問《ぎもん》がある。答えてはもらえないだろうか」
麗華の反駁《はんばく》を耳に入れるそぶりもなく、美樹彦は疑義《ぎぎ》を呈《てい》する。
「どうして君はその抗議《こうぎ》を真由や峻護くんがいる場で申し立てないのかね? 問題の当事者が同席した上で事の是非《ぜひ》を質《ただ》すのが筋《すじ》だと、僕は思うのだが」
「そっ、それは、」
「なるほど、論戦《ろんせん》を張る相手は僕と涼子くんだ。当然敗北は覚悟《かくご》しないといけない。とすれば、できる限り真由や峻護くんの前で恥《はじ》をかきたくない。そう考えれぱ二人を同席させたくない心理もわかろうというものだが――しかしそれはあくまで凡俗《ぼんぞく》の思考。まさか次期北条コンツェルン総帥《そうすい》ともあろう者がその程度《ていど》で臆《おく》するはずもない、と僕は思うのだ。このあたり、麗華くん本人から正確《せいかく》な事情《じじょう》を聞いておきたい」
「くッ……」
「そのくらいにしといたら美樹彦」
ふたたび杯《さかずき》を手にして、涼子。
「人の痛《いた》いところを遠まわしに突《つ》っつくのはよくないわ。麗華ちゃんが涙《なみだ》ぐんでるじゃないの」
「……あなたたち、わたくしを虚仮《こけ》にするのもたいがいに、」
「とても簡単《かんたん》な方法があるわ麗華ちゃん」
怒《いか》りに震《ふる》える麗華の声を右から左にスルーさせて、涼子は提案《ていあん》する。
「あなた、真由ちゃんのことが嫌《きら》いなんでしょう?」
「……ふん、別にどうとも思ってませんわあんな女。眼中《がんちゅう》にありませんもの」
「でも気に食わないことは確《たし》かよね?」
「それは否定《ひてい》いたしません」
「だったら、真由ちゃんから峻護を奪《うば》っちゃえぱいいじゃない」
メインディッシュにローストチキンでも勧《すす》めているようなお気楽口調で、涼子は言った。
「……なんですって?」
「だから、峻護をあなたのものにしちゃいなさい、って言ったの」
「な、なにを馬鹿な、わたくし、あの男に興味《きょうみ》なんて、ぜんぜん、」
「まあお聞きなさいな」
涼子、なみなみと満たされた杯を一息に干《ほ》してから、
「興味の有無《うむ》はどうでもいいの。理由はなんであれ、あなた真由ちゃんが目障《めざわ》りなんでしょう。だったら手段《しゅだん》なんて選んでないでさっさと排除《はいじょ》しちゃいなさいな。峻護のサポートがなかったら真由ちゃん、また寄宿舎《きしゅくしゃ》生活に逆戻《ぎゃくもど》りするしかないんだから。峻護をあなたのものにすればそうさせることもわけないでしょ。敵と認識《にんしき》した相手は最大戦力でもって可及的速《かきゅうてきすみ》やかにこれを潰《つぶ》す――それが北条家の家訓だと聞いてるけど、どう?」
「ちょっとお待ちなさい。あなた、あれだけ月村真由に身びいきしておいて何を今さら。それにそこにいるあの女の保護者《ほごしゃ》だって、そんなことになったら黙《だま》ってないでしょうに」
「真由ちゃんびいきなのは今も変わらないわ。だけどわたしはね、そこらの耄碌《もうろく》ジジイが盲目《もうもく》的に孫を溺愛《できあい》するみたいにただ可愛《かわい》がるだけじゃないの。愛すべき者に涙を呑《の》んで試練を与《あた》えるのは愛する者の責務《せきむ》。わたしは心を鬼《おに》にして、真由ちゃんを千尋《せんじん》の谷へ突き落とそうとしているの。わかる?」
「わかる。そして僕はその意見に全面的な賛意を表する」
美樹彦が水晶球《すいしょうだま》磨《みが》きに勤《いそ》しみながら口を挟《はさ》む。
「昨今はまさに弱肉強食の世だ。この程度の障害《しょうがい》につまずいて大願成就《たいがんじょうじゆ》を逸《いつ》するなら、しょせん真由もそれまでのこと。僕に異存《いぞん》はない」
「……なんだかそれらしく聞こえますけど、そこはかとなく間違《まちが》っている気もいたします、わたくし」
「なに、気にすることはないさ。実際《じっさい》のところ、僕らの考えが間違っていようといまいと君には無縁《むえん》のはず。要は、真由に意趣《いしゅ》返しをするだけの気骨《きこつ》が君にあるかないかだけが問題なのだ」
「…………」
「ついでに念を押しておこう。君が峻護くんをとりこにし、真由から遠ざけるのであれば否《いな》やはない、と僕らは言った。だが、もし君がそれ以外の手段で恐怖症克服《きょうふしょうこくふく》の妨害《ぼうがい》を企《くわだ》てるつもりなら、僕と涼子くんは全力でそれを阻止するだろう。どちらの道を選ぶべきか、答えは明らかだと思うが?」
「…………」
「決まりね。そうとなれば話は早いほうがいいわ」
涼子がさらに畳《たた》み掛ける。
「明日の休日、南の島にコテージをとってあるの。わたしと美樹彦だけで行くつもりだったけど、真由ちゃんと峻護も連れていくことにするわ。麗華ちゃん、あなたも来なさい。そこで峻護を落とせばいいじゃない。真由ちゃんの目の前で奪い取ったほうが、あなたの報復《ほうふく》も一層効果《いっそうこうか》があがるでしょ」
「ちょっ、ちょっとお待ちなさい、なに勝手に話を、」
「おあつらえ向きの舞台《ぶたい》よ。きっと峻護も解放的になるわ。日常《にちじょう》を離《はな》れた場所でなら、あの堅物《かたぶつ》も少しは頭を柔《やわ》らかくする――いいえ、きっと大いに羽目を外したくなるでしょう。あいつってほとんど家を離れないし、そういうシチュエーションに慣《な》れてないから。骨抜《ほねぬ》きにする絶好《ぜっこう》の機会ね」
その言葉を聞いた麗華の瞳《ひとみ》がわずかに揺《ゆ》れる。
「熱く照りつける太陽。青い空。白い雲。さらさらの砂浜《すなはま》。熱帯魚の群《む》れ。珊瑚《さんご》の森。これだけ好条件《こうじょうけん》が揃《そろ》ってれば男と女の距離《きょり》は縮《ちぢ》まるわよね、普通《ふつう》。特に、一見仲が悪く見えた二人がこの手のイベントを境《さかい》に急に親密になった、なんて話はよく耳にするかも」
「…………」
すまし顔を保《たも》っている麗華。が、もし彼女の細い腰《こし》にふさふさの尻尾《しっぽ》が生えていれば、大いにそれを揺《ゆ》らしていたに違《ちが》いない。
「うむ、ナイス・アイデアだ。バカンスのほどよい余興《よきょう》になりそうだな。そうそう、不安だろうからあらかじめ確認《かくにん》もしておこうか。麗華くん、もし君がこのアトラクションを盛《も》り上げてくれるのであれぱ、僕と涼子くんは傍観者《ぼうかんしや》に徹《てっ》することを約束しよう。一切《いっさい》の手出しはせず、いかなる妨害《ぼうがい》も控《ひか》える。存分《ぞんぷん》に峻護くんを籠絡《ろうらく》してくれたまえ。いや、これは本当に楽しみになってきた」
さらに美樹彦がダメを押《お》す。
「ふん……」
麗華は鼻を鳴らし、そっぽを向く。が、見えない尻尾は激《はげ》しく左右に動き始めている。
そこへ涼子がとどめをさした。
「それに、解放的になるのは何も峻護だけじゃなくて真由ちゃんも同じなのよねえ」
尻尾の動きがはたりと止まる。
「いつもは引っ込み思案な真由ちゃんだけど、今回はどうかしら。もし彼女が積極的になるようなら――これは案外、本気で結納《ゆいのう》の段取《だんど》りを考えなきゃならないかもねえ。もしそうなったら報復どころじゃなくなっちゃうわねえ……」
麗華、それでも無言。
が、その内心は涼子も美樹彦もお見通しである。
「……まあ確かに、」
果たして、たっぷりと間を取ってから咳《せき》ばらいを一つ置き、麗華はぼそっと洩《も》らした。
「あの女に目にものを見せてやるのは、悪くない考えですわね」
「でしょう?」
「ただし、これだけはハッキリさせておきます。今回のことはあくまでも月村真由への意趣返しが目的。二ノ宮峻護をその、わたくしのものにしようとするのは、そのための手段でしかないのです。わたくしはあの男のことなんて何とも思っていないんだから」
「承知《しょうち》した。心に刻《きざ》んでおこう」
「それともうひとつ。今回のことと、月村真由の特訓とやらを続けるかどうかは別間題ですわ。この件《けん》に関してはいずれきっちりと始末をつけさせていただきます」
「歓迎《かんげい》するわ。いつでもいらっしゃい」
「――よろしい。ではわたくし、そろそろ失礼いたします。あとで保坂をやりますから、明日の詳細《しょうさい》はその時に」
言い置いて、返事も待たずに居間《いま》を辞す。その足取りは努めて泰然《たいぜん》を装《よそお》っていたが、人間、背中《せなか》は嘘《うそ》をつけないものである。
そのあとを、一連のやりとりの間ひとことも挟まず微苦笑《びくしょう》を続けていた保坂が追う。
と、思い出したように付き人少年は振り返り、やはり微苦笑のまま口を開いた。
「お気持ちはよくわかりますが――お二人とも、お嬢《じょう》さまをいじるのはほどほどにしてくださいよ。あの人ってその手の愛情表現《ひょうげん》には鈍《にぶ》いんですから」
「善処《ぜんしょ》するわ」
「嘘はもうすこし嘘っぼく言ってください。それじゃ」
善処とやらには半ミクロンも期待してない顔で保坂はドアを閉《し》める。
それを見送ると涼子はふっと息を吐《つ》き、お銚子《ちょうし》の残りを杯に注《つ》いだ。美樹彦はとっくに磨き終えている水晶球から目を離さない。
夏の盛りに差《さ》し掛《か》かりつつある、蒸《む》し暑い夜である。開け放ったテラスは風を呼ばず、庭の雑木林《ぞうきばやし》に棲《す》む虫たちは静まり返り、空気は粘《ねば》っこく澱《よど》んで重い。
糸のように細い月が西の空にある。
「……ま、こんなところかしらね」
お銚子を指先で弄《もてあそ》んだまま、涼子が独《ひと》り言《ごと》のように呟《つぶや》いた。
「うむ。こんなところだろう」
水晶球に視線《しせん》を落としながらどこも見ていない目で、美樹彦が応《おう》じる。
月に薄《うす》い雲の幕《まく》が引かれ、あとはただ鈍《にぶ》い沈黙《ちんもく》が降《お》りる。
*
廊下《ろうか》を往《ゆ》く麗華の背中に追いつくと、彼女はそれを見計らったように言葉を投げてきた。
「保坂。明日の予定はすべてキャンセルします。緊急《きんきゅう》を要する決済《けっさい》はなかったわね?」
「はい、今のところは」
「結構《けっこう》。いいこと保坂、これはわたくしの、いいえ、北条家の威信《いしん》を賭《か》けた戦いであると心得なさい。さんざん舐《な》めた真似《まね》をしてくれた月村真由の鼻を、今度こそあかしてやるのです」
「はあ、それはいいですけど。で、二ノ宮くんをモノにして、月村さんをへこませて、それからどうするんです。二ノ宮くんと付き合っちゃうんですか?」
「――ばっ、そっ、ちが、だからあの男のことなんて、わたくしは、」
「冗談《じょうだん》です。でもいいんですか?」
「な、何がよ」
「涼子さんと美樹彦さんの提案に乗ってしまっていいんですか、ということです」
「なによ、そんなこと。別に構《かま》いませんわ。あの二人のことだから何か企《たくら》んでいるのはわかり切っています。でもさしあたり利害が一致《いっち》しているうちは、連中が何を仕出かそうと放《ほう》っておけばよろしい。監視《かんし》等の判断《はんだん》は委細《いさい》、あなたに任《まか》せます」
「そういうことでしたら。ま、それはともかく今日は早めに休みましょうね。明日にそなえて英気を養わないと」
「そうね。そうするわ」
言いつつ主人は自室に入り、保坂もあとに続いた。
――それからもうずいぶんになるが。
まだ、麗華は床《とこ》につこうとしない。
メイド業務《ぎょうむ》にはとっくに区切りがついているというのに着替《きが》えもせず、教科書を広げてみたり、ボトムアップの企画書に目を通してみたり、生徒|総会演説《そうかいえんぜつ》の文案を起草したり。果ては遥《はる》か先の文化祭プログラムについてアイデア出しをしたり。
そしてそれらを半端《はんぱ》のまま放り出しては、部屋の隅《すみ》から隅を歩いて何|往復《おうふく》もしたり、気合を込めるように握りこぶしを作ったり、かと思えば気弱げなため息を洩らしたり、唐突に体操《たいそう》を始めたり。
ずっとこの調子である。
落ち着かない。
そして保坂は、やわらかい微笑でそれらの逐一《ちくいち》を見守っている。
――ふと、屈伸《くっしん》運動をしていた麗華が初めて気づいたように保坂のほうを向き、
「何をしてるの保坂。あなたは先に休みなさい。わたくしに付き合う必要はありません」
「いいんですか?」
「構いません。一人のほうがせいせいしますわ。さっさとお行きなさい」
「わかりました。それじゃ、おやすみなさい」
主人のややタイミングを外した気遣《きづか》いに大人しく従《したが》い、部屋を辞した。
ドアを閉《し》めきる直前、もう一度中の様子を目に入れてみる。麗華は再び室内往復運動に没入《ぼつにゅう》しつつあった。
(眠《ねむ》れるといいけど。ま、お嬢さまにとっては本当に覚悟《かくご》のいることだろうから)
心中で呟《つぶや》いたあともなお扉《とびら》の前で佇《たたず》み、その向こう側に思いを馳《は》せていたが――ようよう踵《きびす》を返すと、今度は口に出してひとりごちた。
「さあて、どちらに転ぶことかな……?」
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其の二 彼女が水着に着替えれば
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夜明け前に叩《たた》き起こされ、プライベートジェット&ヘリを乗り継《つ》いで四半日《しはんにち》。
たどり着いたのは、南洋に浮《う》かぶ宝石《ほうせき》のような島だった。
容赦《ようしゃ》なく照りつける太陽は、しかしどこまでも力強く。
空はラピスラズリを溶《と》かし込んだように鮮烈《せんれつ》な青。
尽《つ》きることなく湧《わ》き上がる雲は、手を伸《の》ばせぱ掴《つか》めてしまいそうな存在感《そんざいかん》。
白絹《しらぎぬ》の紗《しゃ》を敷《し》いたような砂浜《すなはま》は、一粒《ひとつぶ》一粒が金剛石《ダイヤモンド》のように光り輝《かがや》いて。
色とりどりの熱帯魚たちは互《たが》いに美を競《きそ》い合い。
珊瑚《さんご》の森は所狭《ところせま》しと生《お》い茂《しげ》って彩《いろど》りを添《そ》える。
――あらゆるものが原色で冴《さ》え渡《わた》る、この世の楽園。
冴えないのは、憮然《ぷぜん》と一人そこに佇《たたず》む二ノ宮峻護《にのみやしゅんご》くらいのものであった。
ただ同情《どうじょう》の余地《よち》はある。まず、今日のことを事前に何ひとつ知らされていなかった。出発の数分前に伝えるのも事前通告のうちに入るなら話は別だが、もちろん峻護はそんなもの認《みと》めるつもりはないし、そのことによって荷物をまとめるどころか顔を洗《あら》う時間すら取れなかったことも、計画的で規則《きそく》正しい暮《く》らしを重んじる彼の心証《しんしょう》を害する結果になっている。
家事もほったらかしである。明確に予定を組んでいたわけではないにせよ、やっておきたいことはいくらでもあったのに。家庭菜園の草むしりとか、漬《つ》け込《こ》んでおいた梅酒を湯《ゆ》煎《せん》したりとか。今では北条《ほうじょう》麗華《れいか》と保坂《ほさか》光流《みつる》という二人のお手伝いさんがいるのだが、何事も自分でやらなければ気がすまない峻護、けっきょく仕事量は以前とほとんど変わらないのだ。月に一度のペースで掃除《そうじ》していた場所を週に一度掃除するように変更《へんこう》したりするのだから、それも当然なのだが。
そもそもこのバカンス自体に疑念《ぎねん》を禁《きん》じえない。「普段《ふだん》からよく働いているあんたへのご褒美《ほうび》よ。今日は家事も『特訓』もなし。ゆっくり骨休《ほねやす》みをなさい」などとのたまう姉の言葉を額面《がくめん》どおり信じられるはずもないし、もしそれが単純《たんじゅん》に事実だったとしたら引きずってでも病院に連れて行くことになる。まあ後者に関しては百パーセントないと言い切れるわけで、そうなるとやっぱり予断《よだん》をもってのぞむしかない。ぜったい何か企んでいるはずだ。
ただ、ほんとうに姉や美樹彦《みきひこ》の干渉《かんしょう》がないのも事実。ここに到着《とうちゃく》するなりあの二人はさっさとコテージに引っ込んでしまい、それ以来動きらしい動きもない。峻護に何か言いつけるわけでもなく、現在《げんざい》のところ彼はまったくフリーの状態《じょうたい》である。
あらためて周囲を見回してみる。
確かに素晴《すぱ》らしい場所だ。
石灰《せっかい》岩質《がんしつ》の平たい皿に山盛《やまも》りの熱帯性植物を盛り付けたようなこの島は、環礁《かんしょう》――礁湖《ラグーン》を数珠《じゅず》で囲ったような小島の連なり――の一部をなしている。
外周を分厚《ぶあつ》く浅瀬《あさせ》が取り囲んでいるため、打ち寄《よ》せる波はどこまでも穏《おだ》やか。豊富《ほうふ》な生態|系《けい》を有しながら害獣《がいじゅう》、害虫の類《たぐい》は生息せず、裸《はだか》で一晩《ひとばん》過《す》ごしたところで危険《きけん》は皆無《かいむ》だという。
そんな奇跡《きせき》のようなスポットへ賛沢《ぜいたく》の上塗《うわぬ》りをするように、この島にある宿泊《しゅくはく》施設《しせつ》はコテージひとつきりである。利用は貸し切りのみの限定。島の設備《せつび》は最低|限度《げんど》に抑《おさ》えられて原初に近い形の自然が手厚く守られており、それでいて必要十分な快適《かいてき》さが保《たも》たれている。なおかつコテージには数人の使用人がいるきり。いずれもよく心得たプロフェッショナルであり、余計なおせっかいを焼くことはなく、その逆《ぎゃく》もまたない。
こんな聖域《せいいき》じみたリゾートをどこで見つけてきたのか、そもそもどうやって借りてくるのか、さらにはプライベートジェット&ヘリなんてものを平然と手配してくることも含《ふく》め、突っ込みたいところはいくらでもあるのだが、なにしろあの姉に加えて美樹彦も一枚《いちまい》噛《か》んでいるのだ。追及《ついきゅう》するだけカロリーの無駄《むだ》だろう。
ともあれ本日、この島は二ノ宮家|御一行《ごいっこう》の完全プライベート・エリア。命の洗濯《せんたく》をするのにこれほどふさわしいシチュエーションもあるまい。姉と美樹彦にどんな思惑《おもわく》があるにせよ、すでに向こうの手の内にある以上、いかに警戒《けいかい》したところでまんまと嵌《は》められるのがオチ。半強制《はんきょうせい》的に連れてこられたのは問題だが、薬を盛られて前後不覚にさせられ、本当に強制連行されるよりはいくらかマシだ。ここまできたら楽しまなけれぱ損《そん》というものではないか――峻護とて、そう思わないではない。
がしかし、である。
二ノ宮峻護という少年の人となりを考えてみょう。
まず、峻護を知る者が真っ先に口にする彼のイメージは『堅物《かたぶつ》』である。実際《じっさい》、彼はほとんどあらゆる意味でお堅い。彼女いない歴はそのまま彼の歩んできた人生の長さとイコールだし、しゃべり方も妙《みょう》に角張《かくば》っている。法律《ほうりつ》・校則《こうそく》等は常《つね》に遵守《じゅんしゅ》。予習復習を欠かさず、宿題を忘《わす》れたこともない。学校帰りに寄り道をしない。財布《さいふ》の紐《ひも》は固く、賛沢品の類を購入《こうにゅう》することなど滅多《めった》にない倹約《けんやく》家。十八禁製品を何ひとつ所有していないあたりは、感心するよりも気味の悪さが先に立つ。ある種、高校生よりも修行僧《しゅぎょうそう》でもやっていたほうがよほど似合《にあ》う男なのである。
必然的に二ノ宮峻護、ちょっと常識《じょうしき》では考えられないくらい遊び慣れていないのだ。
さらに、彼の普段の生活のことがある。
山師《やまし》ぞろいのうえ放浪癖《ほうろうへき》まである家族を持つゆえ、彼は丘《おか》の上の洋館、半《なか》ば俗世《ぞくせ》から隔絶《かくぜつ》された空間にあって多くの時間を一人、過《す》ごしてきた。
したがって、二ノ宮の家を管理して己《おのれ》を養っていくのは彼自身の役目である。
朝、決まった時間に起きて家事をこなし、学校へ行き、帰ってからまた家事、勉強。そしてやっぱり決まった時間に就寝《しゅうしん》する。休みの日は『学校へ行く』の部分が抜《ぬ》け、そこを平日に数倍する家事が埋《う》める。堅物ゆえの適性《てきせい》もあり、峻護はその生活を長く維持し続けてきた。ここしばらくで大きく様変わりしたとはいえ、その生活リズムは彼に深く根付き、その行動を強固《きょうこ》に律《りっ》している。
要するに何のことはないのだ。
楽園にあって一人、しかめっ面《つら》で立ち尽《つ》くしているのは。
好きに過ごせと言われてどうしていいかわからず、途方《とほう》に暮《く》れているだけなのである。
そんな峻護を離《はな》れた場所から見守る人影《ひとかげ》が二つ。
「お嬢《じょう》さま」
「…………」
「お嬢さまってば」
「なにようるさいわねっ」
遠くの波打ち際《ぎわ》で突っ立ったままの峻護を腕組《うでぐ》みして見ていた麗華が、苛立《いらだ》たしげに下僕《げぼく》を振《ふ》り返る。
「お嬢さま、今日の目的わかってます?」
「う、うるさいわねっ。わかってるわよちゃんと」
「じゃあ訊《き》きますけど。どうしてさっきからここを一歩も動かないんです?」
「それは――そう、今は作戦を練っているところなのよ」
保坂、『そういうのは昨日のうちに済《す》ませておきましょうよ』とは言わない。昨晩はべッドの中でさんざん頭を悩《なや》ませたに決まっているのだから。
くま[#「くま」に傍点]と白目の充血《じゅうけつ》がいまだにこびりついている顔で麗華は付き人を睨《にら》みつけ、
「だから今はちょっと黙《だま》ってなさい。気が散るじゃないの」
「はあ。でもこの調子だと行動に移《うつ》るまでに日が暮れちゃいます。こんなとこからいくら睨みつけたって二ノ宮くんは落とせませんよ。鉄砲《てっぽう》もって鴨《かも》を撃《う》ちに来てるんじゃないんですから、せめてもっと近づかないと」
「何度おなじことを言わせる気? しばらく口を閉じてなさい。それに何も考えがないわけじゃありませんのよ。ここでこうしているのは、数ある作戦の中から状況《じょうきょう》に応《おう》じた最善《さいぜん》の一手を模索《もさく》する意味もあるのです」
「はあ」
「……とはいえ、広く意見を求めること自体はわたくしの主義《しゅぎ》に反しません。あなたに何か意見があるのであれば聞かなくもないですわ」
「はあ。じゃ、こんなのはどうです?」
つつっと主人に近づき、ごにょごにょと耳うち。
「――そっ、」たちまち麗華の美貌《ぴぼう》が真紅《しんく》に染《そ》まった。
「そんな破廉恥《はれんち》なことできるわけないでしょこのばか!」
「ええー。これがベストだと思うけどなあ。この島はどこにいってもひとけがないし、暗がりにさえ誘《さそ》い込めば、」
「保坂。それ以上言うとその口を有刺《ゆうし》鉄線で縫《ぬ》い付けるわよ。もういいわ、おまえには頼《たよ》りません」
機嫌《きげん》をそこねてそっぽを向き、オブジェと化している本日のターゲットに再《ふたた》び視線《しせん》をやる。保坂は苦笑いで肩《かた》をすくめ、とりあえずは言いつけどおり沈黙《ちんもく》した。
それにつけてもまどろっこしいことである。気持ちはまあ、理解《りかい》できないでもないが。
実際、これがビジネスなり生徒会の職務《しょくむ》なりであれば、ここまで手段を問いはしないだろう。即断《そくだん》即行は北条麗華の数ある美点のうち、最たるものなのだから。
(ま、どっちにしてもお嬢さまが作戦とやらを実行に移せるかどうかは疑問《ぎもん》だけどね)
北条麗華という少女の人となりを考えてみる。
北条コンツェルン後継者《こうけいしゃ》たる彼女の日常は、言うまでもなく多忙《たぼう》を極《きわ》める。齢《よわい》十七にして十指に余《あま》る関連企業《きぎょう》の実質《じっしつ》的なCEOを任されているだけでも超人《ちょうじん》的だが、そこにお約束の習い事もひと通りこなし、なおかつ学業も大いに優秀《ゆうしゅう》で、経営《けいえい》学についてはすでにドクターコースを修了《しゅうりょう》している。さらには学園の生徒会長の座《ざ》にもつき、とどめとばかり二ノ宮家のメイドまで務《つと》めきっているとくれば、余暇《よか》に使う時間などほとんど取れないのが実情だ。
さらに彼女の父親である北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条|義宣《よしのぶ》の存在《そんざい》がある。帝王《ていおう》どころか皇帝の風格《ふうかく》さえ漂《ただよ》わせるこの世界的VIPは能力《のうりょく》・実績《じっせき》ともに文句《もんく》のつけようがない男だが、唯一《ゆいいつ》のアキレス腱《けん》といえるのが娘《むすめ》の麗華。この男、控《ひか》えめに表現しても常軌《じょうき》を逸《いっ》した子煩悩《こぼんのう》、過保護《かほご》、親バカで、一人娘に悪い虫が付くのを過剰《かじょう》に心配し、使用人はもちろん家庭|教師《きょうし》や出入りの庭師にいたるまですべて女性《じょせい》でそろえる、なんてことをやってしまう。
例外は保坂光流と、麗華自身が望んで入学した共学高校である神宮寺学園《じんぐうじがくえん》の男子生徒、あとは社交界の場で接《せつ》する紳士《しんし》たちくらいのものだが――保坂などは物の数に入らず、学園の男子生徒は麗華の傑出《けつしゅつ》ぶりにどこか距離《きょり》を置き、社交界で声をかけてくる紳士たちは北条義宣に遠慮《えんりょ》する。
つまるところ北条麗華、才色兼備《さいしょくけんぴ》であり、掃《は》いて捨《す》てるほどの財力《ざいりょく》はあれど、まるっきり遊び煩《な》れていないのだ。まして男をものにする手管《てくだ》など心得ていようはずもなく。
なんのことはない。麗華だって、この状況《じょうきょう》に途方《とほう》に暮れてしまっているのである。
とはいえいつまでもぐずぐずしていると――
(ほら、こういうことになっちゃう)
主人の表情が強張《こわば》ったのが、後ろ姿《すがた》からもわかった。
相変わらずぽつねんと浜辺に生えている二ノ宮峻護のもとに、緊張《きんちょう》の足取りで近づく一人の人物がある。
どれほどの時間、途方に暮れていたのか記憶《きおく》が定かでない。
ただ、よほど困《こう》じ果てていたのは確《たし》からしい。自分を呼ぶ声があることに峻護はしばし気づけなかった。
「――あの、二ノ宮くん? 聞こえてますか?」
「え?……うわっ」
振《ふ》り返ると、心配げに覗《のぞ》き込んでくる月村真由の顔が頭ひとつ低い位置にあった。
「何かあったんですか? すごくこわい顔してましたけど」
「ああ、いや、べつに何でもないんだ。気にしなくていい」
あわてて表情を取り繕《つくろ》い、真由に向き直る。
淡《あわ》いミントグリーンのワンピースに、砂浜《すなはま》の輝《かがや》きに溶《と》け込みそうな明るい白のサンダル。これ以上ないほどシンプルな召し物だが、彼女の魅力《みりょく》を申し分なく引き立てている。
「ええと、それで。何の用?」
「あの、用というか……」
言いかけてうつむき、しかし普段《ふだん》よりはずっと短い逡巡《しゅんじゅん》の後に顔をあげ、
「その、向こうの浜に、二人乗りのボートがあるんです。それで、その、一緒《いっしょ》に乗ってもらえないかと思って」
「――ああ、そんなことか。わかった。行こう」
何事かと思って身構《みがま》えていた峻護、内心でホッと一息つき、真由が指差す方向へ足を向けた。日常、彼女から声をかけてくることはそんなに多いことではない。かけられたとしてもその大半が涼子と美樹彦がらみであり、ロクなものではないのだ。この程度《ていど》のことならお安い御用《ごよう》である。
さっさと歩き出した峻護に半歩おくれて、真由があたふたとついてくる。
なるほど、向かう先に小さな桟橋《さんぱし》といくつかの小船があった。確かに二人で乗るにはおあつらえ向きのサイズである。
ふとそこで、今さらながらに思い至《いた》った。
男と女が二人っきりでボートに乗る。
(考えてみればそれって、けっこうそれっぽいことだよな……)
思い至った途端《とたん》、妙《みょう》に意識《いしき》してしまった。こうなるとどうにもよくない。全身を羽ペンで撫《な》でられているようなムズムズとした感覚に支配《しはい》される。背中越《せなかご》しの、真由が白砂《はくしゃ》を踏《ふ》みしめる音までもが何だかなまめかしく聞こえてきて。
気軽に承知《しょうち》してしまったが、彼の常識に照らし合わせるとこれは極《きわ》めて早い展開《てんかい》である。もっとも『二人きりでボート』など遥《はる》かにしのぐ経験《けいけん》を峻護は何度もしてきているはずなのだが。
ただ、親密《しんみつ》な関係を築《きず》くには時間が足りていないのも事実である。月村真由と出会ったあの日からまだ一週間しか経《た》っていないのだ。生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》の発症者つまりは男の精気《せいき》を糧《かて》として生きる『サキュバス』たる、彼女と出会ってから。
男性恐怖症で精気を吸《す》えないという悪癖《あくへき》、その克服《こくふく》を目的としてニノ宮家にやってきた月村真由。峻護は彼女の面倒《めんどう》をほとんど付きっきりで見なければならない羽目になり、彼女はサキュバスゆえの魅惑が半端じゃないだけに次から次へと男を虜にしては問題をおこして、だけど彼女がサキュバスであることは隠さなけれぱならなくて、そもそも峻護自身の理性が幾度《いくど》となく危機《きき》にさらされて――
なんだかもう、あれから何か月も過ぎているように錯覚《さっかく》する。ここしばらくは従来の人生と比しておそろしく密度の高い日々だったし、それも当然ではあろうが。
それに、そんな慌しい生活を通してひとつ悟れたことがある。
それは、月村真由という少女とはちゃんと順序《じゅんじょ》を踏《ふ》んで、段階《だんかい》を経て、関係を築いていきたいということ。
彼女に手を出せば即死《そくし》だとか、そういう俗《ぞく》な事情を超《こ》えたところで。
峻護はゆっくりじっくりと、月村真由と向き合っていきたいのだ。
理性を曲げて、煩悩《ぼんのう》に屈《くっ》して、手折《たお》りを急ぐような真似《まね》は許《ゆる》されないと思うのだ。相手が特別であればあるほど。
それが不肖《ふしょう》二ノ宮峻護、ささやかながら断《だん》じて踏み越えてはならぬ一線、己《おのれ》に課した誓約《せいやく》である。
その決意を再確認《さいかくにん》した頃《ころ》には件《くだん》のボートのもとにたどり着いていた。質朴《しつぼく》で少々くたびれてはいるが作りは確かだし、手入れもよく行き届《とど》いている。
先に乗り込んで真由を促《うなが》した。
「気をつけて。揺《ゆ》れるから」
言い、少し迷《まよ》ってから手を差し伸《の》べる。危険があることをほのめかしておいて手を貸《か》さないのは問題あるからな、うん――などといちいち理由をつけながら。
真由は目を丸くし、次いで口もとをほころばせ、それからおずおずと好意を受けた。
「なんだか――」
「?」
「なんだか、今日の二ノ宮くんは、やさしいです」
そうだろうか。峻護としては別にいつもと変わらないつもりなのだが。
とはいえ、嘘《うそ》が下手《へた》で裏表《うらおもて》のない真由の言うことである。彼女の語った印象は率直《そっちょく》な実感だろう。人間、こういう場所に来ると妙に解放的になるという噂《うわさ》は峻護も耳にしている。知らず知らずのうちにその影響《えいきょう》が出ているのだろうか。
もっとも彼に言わせれぱ真由の方がよほど普段とは印象がちがう。二ノ宮家を出る前からそうだった。
峻護と同じく、このバカンスは彼女にとっても唐突《とうとつ》な話だったはずである。隠し事が苦手なこの少女のこと、事前に知っていれば必ず顔に出ていたことだろう。
峻護と異なるのは、今日の予定を聞いた際の反応《はんのう》がひどく素直《すなお》だったことである。大人しい性格《せいかく》の彼女らしく控《ひか》えめなものではあったが、喜びが全身からあふれていた。ジェットに乗っている間などは遠足前夜の小学生みたいにそわそわしていて、見ているこっちが照れくさくなるほどだった。
それでもいざ見知らぬ土地に立ってみて、多少の硬《かた》さはあった真由だが――それも早《は》や過去のこととなった。ボートを漕《こ》ぎ出して一分と経《た》たないうちに、今度は峻護が思わず目を丸くしたほど真由が感情を爆発《ばくはつ》させ始めたのである。
ひたすら「すごい!」「きれい!」の連発。そしてそれら感嘆詞《かんたんし》の合間は、きゃーきゃーきゃーきゃーという嬬声《きょうせい》で隙間なく埋《う》め尽《つ》くされる。
半ば呆然《ぼうぜん》とそのありさまを眺《なが》めていると、その視線《しせん》に気づいた真由は急に借りてきた猫《ねこ》のように大人しくなって、
「あの、すいません。ひとりでさわいじゃって」
「――ああいや、ちょっとびっくりしただけだ。遠慮《えんりよ》しなくていい」
という峻護の勧《すす》めにもやはりしおらしいまま、だけどそれもやっぱり一分もたず、再《ふたた》び喜色を満面に浮《うか》かべて、
「ほら二ノ宮くん、あれ、あれってなんていう生き物ですか? ヒトデかな? 貝なのかな? あっ、ほらあっちにも!」
……なんだかもう、圧倒《あっとう》されてしまった。どこかネジが外れてしまったような大騒《おおさわ》ぎで――でも本当に、心から楽しそうで。その笑顔はこれまで見てきたどんな表情よりも明るくて、輝いていて、はじけていて。
気をつけなければ、と思っていた。
これは涼子と美樹彦がプロデュースした企画《きかく》。必ず何かあると思い、十分に警戒《けいかい》しなければと思い、真由にも何か心当たりがないか訊《き》いてみようとも思っていた。
馬鹿馬鹿《ばかばか》しくなった。もちろん、そんな些事《さじ》を思い煩《わずら》っている自分が。
真由の笑顔が、普段はそうお目にかかれない屈託《くったく》のない笑顔が、惜《お》しげもなく連続|披露《ひろう》されている。まずは、それでいいではないか。
ただ――
「あのさ、月村さん」
ただ、喜びを全身で表現するのはともかく、もう少し慎《つつし》みは維持《いじ》してくれてもいいのではなかろうか。はしゃいで動き回る結果、胸《むな》もととか翻《ひるがえ》るスカートの間から白いものがちらほら見えたりすると、困《こま》ってしまうのだ。海の上で二人きりだから少しぐらい泣いたり喚《わめ》いたりしたところで……とか、考えてしまうではないか。
「月村さん、もうちょっと落ち着いてくれ。危《あぶ》ないよ。船も揺れるから」
煩悩から理性を守る魔法《まほう》のおまじない――九九を心中で唱えながら、真由に自制《じせい》を促《うなが》す。峻護とて馬鹿ではない。サキュバスの魅惑にも多少は慣れてきた――というより、慣れてきたと信じ込むことで一種の暗示《あんじ》をかけている面もあるが、ともかく、呼吸《こきゅう》するのと等しい無意識さで九九を唱えるようになったことだとか、成長の跡《あと》はあるのだ。
言い聞かせる。――この程度ならなんでもない。おれには鉄の意志《いし》がある。命の危険があることも知っている。普段の『特訓』ではもっと過酷《かこく》な誘惑にもさらされている。なんてことはない。こんなところで手を出す必要はない。手折《たお》りを急ぐことはない。
急がなくていい。急ぐのは嫌《きら》いだ。
ただし、今は別の意味で緊急《きんきゅう》を要する時である。
「月村さ―」
「二ノ宮くん! ほら、あれ! あそこ! ウミガメです! ウミガメですよ!」
聞いていない。身を乗り出して指をさし、「ほらあれですあれ」目を輝かせてこちらを向き、峻護がお目当てのものを視野に入れていないのがじれったくなったのか、さらに身を乗り出して――
言わぬことではない。船のへりに置かれ、真由の体重を支《ささ》えていた片手《かたて》が、勢《いきお》い余《あま》って外れた。「あ」と発音する形に口を開け、しかし音が出る前に彼女の身体は海面に向かって一直線――
「……だから落ち着いてくれって言ってるのに」
水柱を立てる前に、峻護がサルベ―ジしていた。真由の片手を取り、その腰《こし》を抱《かか》える格好で。
距離《きょり》が、近い。
「あ」と口にしようとしたままの小さな顔が目の前にある。さざなみひとつ船を揺らせばそれだけでお互《たが》い触《ふ》れ合ってしまいそうな位置に。
これだけの至近《しきん》で見てもやはり文句《もんく》のつけようがない造形《ぞうけい》。染《し》みはおろか黒子《ほくろ》ひとつない白哲《はくせき》に乗る眉《まゆ》、随毛《まつげ》、瞳《ひとみ》――顔を構成するありとあらゆる完壁《かんぺき》なパ―ツが組み上げる至高の美。そこヘサキュバスの魅惑《みわく》をアクセントに一振り。
掘《つ》んでいる手首も、抱えている腰も、どうしてこんなに細くて柔《やわ》らかくて温かくて――なんて、甘美《かんぴ》な。
まずい。また煩悩が疼《うず》き出し――
「すっ、すいません、ごめんなさい、はしゃぐなって言われてるのに、こんな、」
どこか熱に浮かされたような瞳で峻護と視線を絡《から》ませていた真由が、はっと我《われ》に返ってあわてふためき、そそくさと距離を置いた。途端《とたん》、峻護を支配していた轟惑《こわく》も霧散《むさん》する。
「ほんとにすいません。わたし―」
「ああ、いや」頭を下げる真由にどこかよそよそしさが垣間見《かいまみ》える気がして、わずかな違和《いわ》感を覚えながらも、
「……いや、いいんだ。そんな謝《あやま》ることじゃない」
「でも、」
「いいんだ。それだけ喜んでくれるならおれだって悪い気はしない。本当だ。むしろ楽しんでるところに水を差して申し訳《わけ》ないと思ってるくらいで」
「は……い」
峻護のフォローに頷《うなず》くものの、一旦《いったん》その顔に浮かんだ憂《うれ》いはなかなか晴れる気配がない。
その様子を見ていて不意に気づいたことがあった。彼女は自分がサキュバスであることを、思ったよりもずっと不本意としているのではあるまいか。
この想像《そうぞう》は以前美樹彦が指摘《してき》していたことでもあるが、ここしばらくの付き合いでそれを実証《じっしょう》する経験《けいけん》を何度かしている。それらを総括《そうかつ》したのち導《みちび》き出される結論《けつろん》は、真由は自分が発する魔性《ましょう》の魅惑にはかなり自覚的であり、また彼女なりにそれを抑《おさ》えるよう努力しているらしく、なおかつその努力は一定の効果《こうか》を発揮《はっき》しているということだ。
魅惑をコントロールできることについては美樹彦を見ていれぱわかる。あの淫魔《インキュバス》は確《たし》かに四六時中フェロモンを振りまいているが、強制力のあるそれではない。が、必要に応《おう》じて魔性の本領《ほんりょう》を発揮《はっき》し、女性を自家|薬籠中《やくろうちゅう》のものにできる――先だって学校の水泳《すいえい》授業《じゅぎょう》中、それを目《ま》の当たりにした。
だが残念ながら、魅惑の抑制に関して真由は兄ほどの巧者《こうしゃ》ではなく、というより明らかに不得手《ふえて》であるらしい。たとえぱ峻護と一対一で対時《たいじ》している時の彼女は問答無用で男を虜《とりこ》にする魅惑を発揮しないことが多い。しかし昏倒時《こんとうじ》や睡眠《すいみん》時をふくめ、一旦注意が峻護から逸《そ》れてしまうなどすると、たちまち淫魔《サキュバス》らしさが顔をのぞかせる。あるいは家を一歩外に出て大勢の男性の目にさらされた時なども、やはり彼女の本性《ほんしょう》が発揮されることになる。
真由の場合、何らかの理由で気が逸れている時――いわば意識のタガが外れている状態にある時こそが危険なのだ。おそらくそのことを彼女はよく理解しており、男性|恐怖症《きょうふしょう》と共にそれも克服《こくふく》しようとしているのだろう。たぶん、峻護が思っているよりずっと多くの努力でもって。
さらに想像してみる。ひょっとして彼女は、サキュバスの魔性の魅惑といういわば反則《はんそく》的なものを排《はい》した上で自分のアイデンティティを構築《こうちく》したいと、願っているのではあるまいか。混《ま》ぜ物なし、人間が本来あるべき天然素材だけの、ごく普通《ふつう》のどこにでもいる十六歳《さい》の少女として扱《あつか》ってもらいたいと――サキュバスであるという色眼鏡《いろめがね》を抜《ぬ》きにして見てもらいたいと――
「……あの、二ノ宮くん?」
不安げに呼びかける真由の声で我に返った。
「え? 何?」
「いえ、あの、用とかじゃなくて。難《むずか》しい顔してたから……」
考えごとに没入《ぼつにゅう》していたらしい。
苦笑いが唇《くちびる》の端《はし》に滲《にじ》む。
どうでもいいことだ、今はそんなこと。
少女の憂《うれ》いを含《ふく》んだ眼差《まなざ》しと、つい先ほどまで彼女が振りまいていた笑顔とを脳裏《のうり》で見比べながら、そう思う。
だから彼はこう言ったのだ。
「月村さん、提案《ていあん》があるんだけど」
「提案……ですか?」
何を思ったのか、一層《いっそう》表情を暗くする真由。
峻護はつとめて明るく笑い――といっても器用には遠い彼のことだから、変にぎこちない笑顔だが――告げる。
「今日は何でもあり、ってことにしないか?」
「何でも……?」
「せっかくこういう場所に来たんだ、無礼講《ぶれいこう》というやつでいこうじゃないか。細かい事をああだこうだと考えるのをやめる。怒《おこ》ったりとか悲しんだりとか、そういうのも抜きで。今日一日は、とにかく楽しむことだけに集中しよう」
「楽しむことだけ――」
ゆっくりと、真由の口もとがほぐれてくる。
そして。
「じゃあ――じゃあ、またお願いしてもいいですか?」
「聞くよ」
「あとで、泳ぎませんか? いっしょに。泳いだら、きっと、もっときれいだと思うんです、この海は。だから―」
「わかった。泳ごう」
即座《そくざ》に快諾《かいだく》する。
沈《しず》んでいた少女に、またあの笑顔が戻《もど》ってきた。
「――いい感じですねえ、あの二人」
感嘆《かんたん》の声と共に双眼鏡《そうがんきょう》から目を離《はな》し、保坂は主人の様子を窺《うかが》った。
が、北条麗華はレンズの向こうを食い入るように見つめたまま、無言である。ただしその感情の示《しめ》すところは、スワロフスキ―社|製《せい》のクリスタルレンズが早くも軋《きし》みを上げていることからも明らかであろう。二代目に代替《だいが》わりしたぼかりの特注品だが、今日一日もつかどうか。
「月村真由――どこまでもわたくしの邪魔《じゃま》をして……」
怨嵯《えんさ》のうめきを上げ、ようやく麗華は双眼鏡を下ろした。その拍子《ひょうし》に彼女の手もとから、ぴし、と亀裂音《きれつおん》が上がる。どうやら三代目を用意しなければならないらしい。
短命の高級品に黙薦《もくとう》を捧《ささ》げながら、保坂は主人を促《うなが》すことにした。
「ところでお嬢《じょう》さま」
「なによっ」
「二ノ宮くんを落とす作戦はまとまったんでしょうか。あれから大分たってますけど?」
「いっ、いちいちうるさいわねっ。そうやってあなたがせかすから、まとまるものもまとまらないのよ。焦《あせ》らせないで頂戴《ちょうだい》」
言い捨てて、気まずさをごまかすように再度《さいど》ひび割《わ》れたレンズを覗《のぞ》き込む。
「ま、いいですけど。でもこのままだと涼子さんと美樹彦さんになんて言われるかわかったものじゃありませんよ。しょせん麗華ちゃんもこの程度ね、とか軽く見られて、今よりもずっとひどい扱《あつか》いになりますよ、きっと。そうなってもぼく、知りませんからね」
釘《くぎ》を刺《さ》しながら、保坂も再度双眼鏡を両目に当てた。
「あっ、ほらお嬢さま、あの二人戻ってきますよ。どうするんです? 真由さんに意趣返《いしゅがえ》しするんじゃなかったんですか? ほらほら、お嬢さまってば」
麗華の苛立《いらだ》ちは頂点に達しつつあった。無意識《むいしき》のうちに親指の爪《つめ》をがじがじと噛《か》んでいる。優美《ゆうぴ》な眉間《みけん》には皺《しわ》が寄《よ》りっぱなし。はしたなくも貧乏《びんぽう》ゆすりまで開始する始末。
ここまで来たらもうひと押《お》し。
「このままいったら真由さん、本当に二ノ宮くんを持ってっちゃうでしょうねえ」
――保坂の胸《むな》もとに、役目を終えた双眼鏡が放《ほう》り投げられた。
「あ、行くんですかお嬢さま。作戦は決まったんですか?」
「…………」
「ひょっとして作戦なんてひとつも考えてなかった、なんてことはないですよね?」
「…………」
「一人じゃ不安ならぼくも一緒《いっしよ》についていきますけど? 保護者《ほごしゃ》同伴《どうはん》ってことで」
返事の代わりに麗華はくるっと振り向いた。ただ振り向いただけではない。利《き》き足が鞭《むち》のようにしなりながら弧《こ》を描《えが》いている――草むらから獲物《えもの》に襲《おそ》いかかる毒蛇《どくじゃ》のように地を這《は》いつつ、保坂の足を狙って。
ロ―キック。
「……いってらっしゃい」
笑顔にあぶら汗《あせ》を滲《にじ》ませてうずくまり、太ももを押さえながらやっとのことで声を絞《しぼ》り出す下僕《げぼく》を尻目《しりめ》に、勇躍《ゆうやく》、麗華は戦いの場へと赴《おもむ》く。
桟橋《さんばし》にボートを舫《もや》い、真由と連れ立って陸《おか》に上がってきた峻護を待っていたのは、聞き間違《まちが》えようのない特徴《とくちょう》的な高笑いだった。
相変わらず効《き》く。脳《のう》の奥《おく》を直《じか》に揺《ゆ》さぶるような、しかし決して不快《ふかい》ではない――むしろある種の中毒性さえある、不可思議な響《ひぴ》き。
北条麗華が悠然《ゆうぜん》と歩み寄ってきた。
二人の前で腕《うで》を組み、両足は肩幅《かたはば》に広げ、
「二ノ宮峻護、あなたに用があります。ちょっと時間をもらうわよ。よろしいですわね? 月村さん」
まなじりを吊り上げ、親の仇《かたき》でも見るような視線《しせん》で真由を貫《つらぬ》きながら、有無《うむ》を言わせぬ口調である。
峻護、麗華には気づかれぬように吐息《といき》した。『こまったひと』がどうやら本領《ほんりょう》を発揮《はっき》し始めたようである。
実のところ彼女と保坂までもがこのバカンスに随行《ずいこう》したことは、峻護にとって大いに意外だったのだ。涼子と美樹彦が面白《おもしろ》がって誘《さそ》うであろうことはともかく、この令嬢《れいじょう》がその誘いにやすやす乗ってくるとは考えにくい。彼女が本来|多忙《たぽう》であることは重々|承知《しょうち》している。峻護が自分負担の家事を減らさないのはそんな麗華の仕事を増《ふ》やさないよう気を遣《つか》っているから、というのもある。とすれば多くの家事から解放され、涼子と美樹彦も不在になるこの時は、まさに羽を伸《の》ぼす絶好《ぜっこう》の機会ではないか。喜んで居残《いのこ》ると思っていたのだが――こうなるとやはり何か裏があるのでは、と勘《かん》ぐってしまう。
それはともかくとして、今、目の前にある事態《じたい》である。はてさてどうしたものか。月村真由に敵意《てきい》を持っているこのお嬢さまのこと、おそらくそのあたりに絡《から》んでのことだろうが――
真由に目線をやる。
あの高笑いにも馴《な》れてきたのだろう、サキュバス少女は立ち直り早く峻護に笑みを向け、
「あ、わたしのことは気にせず行ってきてください。その間に着替《きが》えてきますから」
と言ってくれた。ありがたく気遣いを受け取っておく。
「わかった、そういうことなら。じゃ、また後で――」
「二ノ宮峻護!」
麗華が大声で呼ばわってくる。見ると、『こまったひと』は返事も待たず、せっかちにも一人でさっさと歩き出していた。峻護にひと睨《にら》みくれて人差し指をくいくいと曲げ、
「とっとと来なさい」のゼスチャ―。
やむなく後を追う。振り返ると、真由は笑みを向けたまま小さく手を振っていた。
その笑顔に目礼しながら、一つ年上の少女の背中《せなか》に声をかける。
「それで北条|先輩《せんぱい》、何の用です?」
が、無言。振り向きすらせず大股《おおまた》に進んでゆく。
どこへ行くのか――とは、だが考えるまでもなかった。向かっている方向にあるのは先ほどの桟橋なのである。
「先輩?」
やはりいらえはなく、麗華は先んじてボートへ乗り込み、どっかと腰掛《こしか》けた。
そのままついっとそっぽを向き、引き続いて無言。
「先輩、あの、」
「何をぐずぐずしてますの? さっさと漕《こ》ぎなさい!」
物わかりの悪さに苛立《いらだ》ったのか、声を荒《あら》らげるお嬢さま。
(……こまったひとだなあ)
この程度《ていど》の運動で疲弊《ひへい》するほどひ弱ではないし、さほど時間が押しているわけでもない。そのくらいはお安い御用《ごよう》なのだが、しかしまあ、なんというか。
何が目的なのかわからないが機嫌《きげん》をそこねたくはない。何も訊《き》かず言う通りにした。
ほんの少しボートを漕ぎ出せばたちどころに雄大なパノラマが展開する。刻々と移ろう千変《せんぺん》万化《ばんか》の自然であるし、先ほど見たばかりとはいえこの景色の価値《かち》が下がるわけではないが、しかしまあ、なんというか。
ほどほどのところまで沖《おき》に出て擢《かい》を動かす手を止めた。先《せん》だってから沈黙を続ける麗華からは何の指示《しじ》もないが、素人《しろうと》がこの先の波濤《はとう》に船を進めるのは危険が伴《ともな》う。
対面の令嬢は顔をそむけたまま目を合わそうともしない。ひどく強張《こわば》った横顔は声をかけるのもためらわせる。突き抜けた南洋の大気が一帯を満たしているはずだが、彼女の周りだけ負のオーラが陽炎《かげろう》になって揺《ゆ》らいでいるかのようだ。真由を敵視するあまりの悪感情が肚《はら》の底から湧《わ》きあがってくるのだろうか。
どうしてこの先輩がここまで真由を毛嫌いするかは不明だが、彼女がサキュバスであることから派生《はせい》するあれこれに一因《いちいん》があることは確かだろう。たとえば生徒会長を務《つと》める麗華にしてみれぽ、毎度毎度学園内でトラブルを起こす真由をこころよく思わないのも当然かもしれない。
なにせこの令嬢は真由が抱《かか》える特殊《とくしゅ》な事情を――彼女がサキュバスであることを知らないのである。それを秘匿《ひとく》している以上、事実関係を説明して理解《りかい》を求めるわけにもいかないわけで――
と、突如《とつじよ》として麗華の思い詰《つ》めたような瞳《ひとみ》がくわっと見開かれた。転瞬《てんしゅん》、令嬢は落ちそうになるほど船べりにその身を乗り出す。
そのまま急停止。
何事か、と思って見守っていた峻護だが、そこからはどういう変化もない。ちょっと指で突つけぽバランスを崩《くず》してまっさかさまになりそうな体勢《たいせい》のまま、突然の動きに揺れるボート上で、時間だけが無為《むい》に流れてゆく。
「? どうしたんです先輩。サメでもいたんですか?」
「……なんでもありません」
これまでより一層《いっそう》憮然《ぶぜん》とした顔で腰を下ろす。やっぱりこのひとはよくわからない。悪い人ではないし、まして嫌ってなどいない峻護だが、どうにも、こまる。
相変わらず目を合わそうとしないこの先輩の横顔をあらためて見る。
もとから少々|険《けん》のある顔立ちだし、今は少々どころか純度《じゅんど》百パーセントで険しか見当たらない表情をしているが――それでもなお、ものすごい美人である。堅物《かたぷつ》の峻護でさえそう思うのだから間違いない。美形が多い、ということで近隣《きんりん》高校の羨望《せんぽう》の的である神宮寺学園は不定期かつ突発的に、ミスコンが始まるお祭り好きな高校だが、峻護の知る限《かぎ》り麗華はその手の催《もよお》しで一度も首席を外したことがない。しかもその座《ざ》を射止《いと》めるたび彼女はひどく初心《うぶ》な様子で照れくさがり、なおかつそれをひけらかすところが欠片《かけら》もないため、いよいよ彼女の株は天井《てんじょう》知らずに上がっていく――という話である。現在《げんざい》は月村真由も在籍《ざいせき》している神宮寺学園だが、いま人気投票を実施《じつし》しても麗華の善戦は確実。もし真由にサキュバスゆえの魅惑《みわく》がなければ勝利の女神《めがみ》がどちらに微笑《ほほえ》むか、予想するのは極《きわ》めて困難《こんなん》だろう。
もったいない、と思う。この生徒会長の表情はマイナス方向のそればかり見ている気がするけれど、もしこのひとが素直《すなお》に笑ったらどんなにかわいいだろうか。
……いや、そういう意味ではなく。
どこにもいない誰かに言い訳しつつ、それにしたってこの格好はないよな、とも思う。
というのもこの北条麗華――なんとメイド服|姿《すがた》なのだ。
似合《にあ》ってないわけではないのだが、原色の海と空を背景《はいけい》にシックなエプロンドレス。なんともミスマッチである。
事情《じじょう》はわかる。『勤務中《きんむちゅう》は常《つね》にメイド服を着用すること』――そんな雇用《こよう》条件《じょうけん》を、彼女の雇《やと》い主である涼子が課しているのだ。この条件はかなり厳《きび》しく適用《てきよう》され、たとえば食材の買い出しに町へ出る時など当然着用である。それはあんまりだと思うのでそういう役はたいがい峻護が買って出るのだが、『勤務中』という言葉の指す状態《じょうたい》が姉の裁量《さいりょう》でいかようにも解釈《かいしゃく》されるため、かなり多様な局面で北条麗華はお手伝いさんルックを維持《いじ》しなければならない。
今も、そうなのだろう。いや、似合ってないわけではないのだが。
そんなことを考えているうちに、思わずまじまじと眺《なが》めてしまっていたらしい。
「――なによっ! こんなところまで来てこんな服を着てるのがそんなにおかしいんですのっ?」キッとこちらを睨《にら》みつけて麗華が喚《わめ》いた。「あなたのアホ姉がそうさせるんだからしょうがないじゃない!」
そのとおり。申し訳ない気持ちでいっぱいである。やはり相当にこの格好を気にしているらしい。
「いや、でも似合ってると思いますよ、それ。そんなに気にすることもないんじゃ?」
このシチュエーションに合っているかどうかは別の話だが、正直な感想である。
「……ほんとう?」
「はい」
探《さぐ》るような目でちらちらと発言主を窺《うかが》っていた麗華だが、やがてこほんと咳払《せきばら》いし、
「……わたくしは何を着ても似合うのです。そんなことは言われるまでもなくわかりきっているのですわ」
「はあ」
「でも参考までに、どんなタイプのメイド服が好きなのか訊《き》いておきましょう。勘違《かんちが》いなさらないでよ、これは世の殿方《とのがた》全般《ぜんぱん》の趣味《しゅみ》を知りたくて言っていること。別にあなた個人《こじん》のことをどうこういうわけじゃないんだから」
「はあ、どんなタイプが、と言われてもどんなタイプがあるのかよくわからないので。ただ、今のその服なら問題ないと思います」
「そう。そうなの。これでいいのですわね」
ちょっと表情が柔《やわ》らかくなった。ホッとする。そうしてもらえた方が峻護としてもやっぱり安心できる。
と、そこでようやく思い至《いた》った。このお嬢さまが今回のバカンスに付き合っている理由と、メイド服をいやいやながら着ている理由。
彼女は姉に弱みを握《にぎ》られているのだ。
そもそも麗華がメイドをさせられることになったのは、以前真由が絡《から》んだ事件《じけん》で賭《か》けに負けたからとかなんとか、峻護には詳《くわ》しく知らされていない事情によるものらしいが、その約束を違《たが》えさせぬために涼子が担保《たんぽ》として手に入れてきた写真がある。これまた峻護はその中身を知らないのだが、その写真にはよほど手痛《ていた》いものが写っているらしい。それを盾《たて》にとられているがゆえに彼女は不遇《ふぐう》の生活を余儀《よぎ》なくされている――
アイデアが閃《ひらめ》いた。
じつは峻護も姉に弱みを握られている。真由がやってきたその日に撮《と》られたデジカメの映像《えいぞう》とは別口で、『特訓』が始まった初日早々に握られたものだ。それによって巧《たく》みに牽制《けんせい》され、彼は姉に対してうまく立ち回れないでいる。
とすれば、利害が一致《いっち》するではないか。
「先輩、お話があるんですが」
「なんですの?」
先ほどまでとは大違いの、角の取れた声が返ってきた。いい感触《かんしょく》である。
「写真のことです」
「写真?」
「はい。先輩の弱みになっているらしい写真のことなんですが」
「ああ、あれのこと。それがどうかしまして?」
何を言いたいのかわからない、といった様子で首をかしげる。
「先輩はその写真を姉さんに握られているから、うちでメイドをせざるを得ないんですよね? だったらそれ、取り返しませんか? そうすれば先輩はうちにいる必要がなくなる。いつでも出て行くことができます。先輩もそうしたいだろうし、おれも先輩にそうしてもらったほうがうれしいです。実はおれも姉に弱みを握られていて――」
「…………」
「だから、二人で協力してですね、その、ええと」
彼が口にできたのはそこまでだった。
交渉《こうしょう》相手の眉間《みけん》に、これまでに数倍する険が浮《う》かび上がっていたからである。その視線は触《ふ》れれば凍《こお》るほどに温度を下げて峻護をメッタ刺《ざ》しにしていた。夏の、それも赤道近くの熱帯にいるというのに、全身から冷や汗《あせ》が一斉《いっせい》に噴《ふ》き出し始める。
「……言いたいことはそれだけですの?」
「あ――いや、」
「余計《よけい》なお世話を焼かないでいただけますこと? その件はわたくし個人の問題。自分の始末は自分でつけます。今後、二度とその話は聞きたくありません」
「す、すいません……」
「戻《もど》りなさい」
「え? もういいんですか? 用事は済《す》んだんですか?」
「戻りなさい、と言いました」
「……はい」
わからない。何がそこまで彼女の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れてしまったのだろう。あの写真にはそこまでタブーにしなければならないものが記録されているのだろうか。
桟橋《さんぱし》に引き返すと船を舫《もや》うのも待たず、麗華は砂《すな》を蹴立《けた》てて歩き去ってしまった。
いまだに噴き止《や》まない冷や汗にまみれたまま呆然《ぼうぜん》と見送る。今日のバカンスについてなにか心当たりがないか訊いてみようとも思っていたのだが、もうそういう雰囲気《ふんいき》でもなくなってしまった。
「ま、乙女心《おとめごころ》ってやつだよねー」
何の前ぶれもなく背後《はいご》から聞こえた声に、峻護は飛《と》び上がるほど驚《おどろ》いた。心臓《しんぞう》の爆発《ばくはつ》を顔に出さないようにしながら(実際《じっさい》に三センチくらい跳《は》ねてしまったので取り繕《つくろ》ってもあまり意味はないが)ゆっくりと振《ふ》り向く。
付き人少年・保坂光流が峻護と同じ方向、主《あるじ》の背中を目で追いながら、口もとに微苦笑《びくしょう》を浮かべていた。
「保坂先輩、気配を消して背後に立つのは――」
「いけないなあ、ぼく程度《ていど》に後ろを取られているようじゃ。お嬢さまを任《まか》せようかという人がそれではちょっと不安だよ。もっとしっかりしてくれないと」
誰かさんのようなことを言う。
「まあそれはともかく、あまり麗華お嬢さまがささくれ立たないようにしてほしいなあ。困《こま》るよ、ぼくだってとばっちりを食っちゃうんだから」
あまり困ってもなさそうな顔で苦言を呈《てい》してくる。
「すいません。でもおれ、そんなにあのひとを怒《おこ》らせるような真似《まね》をしたつもりはないんですが」
「そうかなあ。ほんとにそうかなあ」
「ほんとうですよ」
たしかに今思えば本題に入るのがせっかちすぎたかもしれない。が、それでも許容範囲《きょようはんい》を大きく超《こ》えているとは思わない。
拳《こぶし》を交えたことはあれど、保坂は彼にとって数少ない理解者であると峻護は信じている。疑《うたが》いをもたれることは極《きわ》めて遺憾《いかん》だった。
ゆえに力説する、
「こう言ってはなんですけど、北条先輩っておれに対してはきついんです。どうもあのひとに恨《うら》まれているみたいで。態度だって、他の人に対する場合とちがっておれと話している時は――」
「傲慢《ごうまん》で高飛車《たかびしゃ》だってこと?」
「いや、そこまでは」
「いいよ、ほんとうのことだし。ただね、お嬢さまがああいう態度をとるのは、君をふくめた二ノ宮家のひとたちだけだよ。ああ、それとぼくに対してもね。もっとも――」
いたずらっぼく覗《のぞ》き込《こ》んでくる。
「十年前だったら、傲慢と高飛車はお嬢さまの地だったけど」
「十年前? そのころからあのひとは変わった、ってことですか?」
「ん? ん〜、そうだねえ」
生返事で応《おう》じながら、なおも峻護を探《さぐ》るように見上げていたが、
「――ま、そういうこと。じゃ、ぼくはお嬢さまを追いかけなきゃいけないから」
言って、保坂は片手《かたて》を挙げる挨拶《あいさつ》を残し、見た目の無毒さからは連想できない快速《かいそく》で主人の後を追う。
「だめですよう、お嬢さま」
瞬《またた》く間に追いついた保坂、さっそく意見を具申《ぐしん》した。
「まず誘《さそ》い方からしてだめです。というかあれは誘いになってません。命令じゃないですか。もっとソフトにいきましょうよ、ソフトに」
が、麗華は全面|無視《むし》。柳眉《りゅうぴ》を吊《つ》り上げたまま、下僕《げぼく》を振り切ろうとするように歩みを止めない。
「それと、もっと笑顔《えがお》でいかなきゃダメです。緊張《きんちょう》するのはわかるけど、あんな怖《こわ》い顔してちゃ誰だって引きますよ。スマイルです、スマイル」
無視を継続《けいぞく》する麗華。
「ああそれにお嬢さま、ボートからわざと落ちて二ノ宮くんに助けてもらおうとしてたでしょう? ああいうのもダメです。真由さんのは天然でやってるから上手《うま》くいくんですよ。お嬢さまのへたくそすぎる演技《えんぎ》じゃあれを再現《さいげん》するのは無理です。というかお嬢さまのあれは演技として成立してません」
肩《かた》のあたりがぶるぶる震《ふる》え始めたが、それでもまだおしゃべりな下僕を捨《す》ておく麗華。
「というか、なんだか真由さんがやっていることの真似ばかりしているような気がするんですけど。ぼくの思い過ごしかなあ」
固く握《にぎ》りすぎた拳が血行不良に悲鳴を上げ始めたが、それでも頑《かたく》なに沈黙《ちんもく》を守りつづける麗華。
「ところで今どこに向かってるんです? さっきから同じ所をぐるぐる回っているように見受けられるんですけど。これにはどんな意味が――」
キレた。
振り向きざまにバックハンドブロー一閃《いっせん》。
「――このばかお黙《だま》りなさいさっきからぺちゃくちゃぺちゃくちゃと!」
鮮血《せんけつ》を噴《ふ》いて沈《しず》んでゆく付き人に麗華は怒鳴《どな》り散らした。
「さっきのはほんの小手調《こてしら》べです。前哨戦《ぜんしょうせん》に過《す》ぎません。多少の失敗だって計算のうちですわ。まだ始まったぼかりなんだからこれからいくらでも挽回《ばんかい》してみせるわよっ!」
「はあ、でも――」
保坂、鼻っ柱を押さえて立ち上がりながら微苦笑《びくしょう》し、
「真由さんの後追いじみたやり方は感心しないなあ。ひょっとしてそれも作戦のうちだったりするんですか?」
「もっ、もちろんよ。そう――そう、同じやり方をあえて追随《ついずい》し、その上であの女から二ノ宮峻護をその、わたくしが奪《うば》う。それでこそあの女により効果的な屈辱《くつじょく》を与《あた》えることができるのですわ」
「ははあ、なるほど」
困《こう》じ果てた末ワラにもすがる思いで真由さんのやり方に追随したんじゃないですかあ、とは口にせず、保坂はもっともらしく頷《うなず》いてみせる。ある種のリスクも伴うが、確かにそのやり方はアピ―ルにならないではないし。とはいえ、こういうことの機微《きぴ》には白痴《はくち》なほど疎《うと》い麗華である。そのあたりどこまで自覚していることか。
「とにかく、そろそろ機嫌《きげん》なおしてください。気持ちを切り替えましょう」
「ふん……」
「それに、はい、新しい双眼鏡《そうがんきょう》持って来ましたから」
「…………」
「あ、ほら見てください。真由さんがまた二ノ宮くんといい雰囲気《ふんいき》作ってますよ」
「…………」
無言で下僕が差し出す三代目をひったくり、ふたたび麗華はレンズ越しの光景に釘付《くぎづ》けとなる。
「すいません二ノ宮くん。おまたせしました」
保坂の後ろ姿《すがた》を見送っていた峻護の背中《せなか》に声が掛《か》かった。
「ああ、月村さん」
振《ふ》り向き、
「いや、べつに待ってはいないから。さっきまで先輩《せんばい》が――」
あとが続かなかった。
「……あの、ひょっとして変ですか? これ」
絶句《ぜっく》している峻護にたちまち不安げな顔をして、真由は自らの姿を見回した。
もちろん、これっぽっちも変などではない。
予告どおり、真由は水着に着替えていた。
それもビキニスタイルである。パステルカラーをベースに花びらをあしらった愛らしいデザインの生地《きじ》だが、カットはかなり大胆《だいたん》なもの。可憐《かれん》さと妖艶《ようえん》さが同居《どうきょ》した彼女にこれ以上ないほどふさわしく、またその魅力《みりょく》を存分《ぞんぷん》に引き立ててもいる。無論《むろん》、水着が包む肢体《したい》の見事さについては今さら言うまでもない。
パーフェクト。目の前に顕現《けんげん》した光景を表現するにはこの形容詞《けいようし》しかない、そう峻護は確信した。彼女のこの姿を見れば、美の女神《めがみ》でさえ嫉妬《しっと》に狂《くる》って呪《のろ》いのワラ人形に釘を打つだろう。
「あの、二ノ宮くん?」
「――ああ、いや、すまない。いや、変じゃないよ、ちっとも」
「ほんとですか? よかった。そう、あのコテージってすごいんですよ。かわいい水着がずらっと並《なら》んでいる部屋があって、まるでお店みたいで――」
考えてみればこうして彼女の水着姿をきちんと拝《おが》むのは初めてである。以前水泳の授業《じゅぎょう》があった際《さい》などは乱痴気《らんちき》騒《さわ》ぎでそれどころではなかった。よくよく考えてみれぱ水着すら装着《そうちゃく》していない状態《じょうたい》も目《ま》の当たりにしたことがあるのだが、これはそういう問題ではなく。
それにしても見事なボディバランスである。こんなところで惜《お》しげもなく晒《さら》していていいのだろうか。人間|国宝《こくほう》に指定して手厚《てあつ》く保護するべきではないのか。かすり傷《きず》ひとつでもつけてしまったらどうやって責任《せきにん》をとればいいのだろう。保険《ほけん》には入っているのだろうか。いや、保険などという小癪《こしゃく》なシステムではいずれ及《およ》ぱぬこと。この唯一《ゆいいつ》無二《むに》の美はそもそも評価額《ひょうかがく》算出|不能《ふのう》、金銭で購《あがな》えるほど手軽なものではなく、
「あの、二ノ宮くん?」
「……え? 何?」
「いえ、なんというか、その、あまり見ないでください。その、はずかしいです……」
「え?」
言われてようやく、呆然《ぽうぜん》と真由に見入っていた自分に気づいた。
いかんいかん、節度、節度……
「すまない、つい。そう、そうだな、失礼だよな、女性をこんなふうにじろじろ見るのは。本当にすまなかった」
「えっ? いえ、その、ちがうんです、ちょっとはずかしかっただけで、見られたくないわけじゃなくて、むしろ見てもらいたくて――」
「……え?」
「ああっ、ちがいます、ちがうんです、その……」
それ以上続けられず、真っ赤になってうつむいてしまった。
つられるように峻護もうつむく。何を言ったらいいのかわからず、足もとの砂の数を数えながら、頭をぽりぽり。
浜辺に打ち寄せては引いていく波の音だけが、ゆるやかなリズムを刻《きざ》んでいる。
――照れくさくはあるけれど。
悪くない。
うん、悪くない。
「――いやあ、まいったなあ。見てるこっちの方が赤面しちゃうよ」
度を超《こ》えた初々《ういうい》しさを放射《ほうしゃ》する二人から目線を外し、保坂は深々と嘆息《たんそく》した。いまどき小学生同士だってもう少しこなれたシ―ンを演出《えんしゅつ》するだろうに、と思う。
「ああいうことされるとなんだか当てられちゃいますねえ、お嬢さま?」
応《こた》えが返ってこないだろうことを知りつつ話を振る。
麗華はなおも双眼鏡から目を離《はな》さない。激情《げきじょう》のあまりか唇《くちびる》から血の気が引いている。
小刻みに震える手の甲《こう》にぶっとい血管が浮き出ているのを見て、保坂は忠告《ちゅうこく》した。
「お嬢さま、あまり力を入れすぎるとまた壊《こわ》れますよ。四代目は用意してませんからね……うわっ、と」
まだ無事なうちに投げつけられた三代目を受け止め、
「お嬢さま、どこ行くんです?」
訊くまでもない。主人が鬼女《きじょ》のごとき形相で足を向けた先にあるのは、この島唯一のコテ―ジ。
「――同じやり方をあえて追随する、でしたっけ?」
苦笑しつつひとり呟《つぶや》き、保坂もとことこ後に続く。
お互《たが》いにさんざん照れ合って沈黙《ちんもく》の時間を過ごしたのち、真由がやたらともじもじしながらこう切り出した。
「あの、それでですね、またひとつ二ノ宮くんにお願いがあるんですが」
「お願い? わかった、聞くよ」
二ノ宮峻護、常《つね》になく機嫌がいい。この島に来た当初と比《くら》べると雲泥《うんでい》の差である。真由のためらいが何を意味しているのかも深く考えず、気楽に請《う》け合っていた。
「ええと、これはですね、無礼講《ぶれいこう》だと言ってくれた二ノ宮くんのお言葉に甘《あま》えてお願いすることなんです」
「うん」
「無礼講ということにはわたしも大賛成《だいさんせい》です。わたし自分でも情《なさ》けないんですけど引っ込み思案だし、話すのも得意じゃないからお願いするのも苦手だし、それでも無礼講ということで、失敗しても断《ことわ》られてもそんなに気にしなくていいんだって思えれば、少しは思い切ったことしてもいいんじゃないかって」
「うん?」
「わたし紫外線《しがいせん》にはそんなに弱い方じゃないんですけど、かといって身体《からだ》が強いわけじゃないし、いつもとちがってここは南の島で太陽も近いから、用心に越したことはないと思うんです。それに水着もこういうのを選んじゃったから」
「? それで?」
「は、はい、それで、手の届《とど》くところは自分で塗《ぬ》ったんですけど、背中はどうしてもやりにくくて、工夫《くふう》すれば塗れなくもないんですけど、それだとムラになっちゃうし、わたし一人じゃなくて二ノ宮くんもいてくれることだし、」
どうも要領《ようりょう》を得ない。首をかしげながら黙って聞いている峻護だが、これも長年のカンというやつだろうか。彼の心象風景には黒々とした厚い雲がたちこめ、風はにわかに湿《しめ》り気を帯びてきた。つまり、嫌《いや》な予感がしてきた。
「それでですね、その、つまりわたしが言いたいのは――」
前振《まえふ》りもネタが尽きてきたらしい。目に見えて口ごもりだし、視線は合わせようとせず、内また気味の脚《あし》が膝《ひざ》をこすり合わせるようにしている様はトイレを我慢《がまん》していると見えなくもないが、まさかそれを言い出せずに困っているわけでもなし。
そこでようやく気づいた。月村真由、先ほどからずっと両手は腰の後ろに回したままである。どうやら何かを隠《かく》し持っているようだが。
「……二ノ宮くん!」
決然、やっとのことで峻護に正対し、
「これっ! お願いします!」
ラブレターでも差し出すような格好《かっこう》で両手をまっすぐ伸ばした。そのままぎゅっと目蓋《まぶた》を閉じて応《こた》えを待つ。
峻護、それをまじまじと眺《なが》めながら、
「……このポーチが何か?」
そう、ポーチである。ピンク地にホワイトのラインで縁取《ふちど》りした、ちょっと少女|趣味《しゅみ》の、だけどいかにも彼女らしい丸い小物入れ。
「プレゼント? ってこと? じゃないよな……」
「え?――ああっ、ちがうんですちがうんです、これっ、これです、こっちです」
失態《しったい》に気づいて真っ赤になりながらポーチをがさごそ探《さぐ》り、お目当てのものをあらためて差し出した。
やっと峻護は理解《りかい》した。
手のひらに収《おさ》まるサイズの小ビン、そこに貼《は》られたラベルは、それが日焼け止めロ―ションであることを如実《にょじつ》に示している。
だが――それはまずくないだろうか。
いや、大丈夫《だいじょうぶ》だ、と言い聞かせる。おれには鉄の意志がある。相手がサキュバスの月村真由であり、露出《ろしゅつ》の多い水着姿であり、なおかつそんな彼女に素手《すで》で触《ふ》れ、あまつさえローションを塗るのだとしても、ちゃんと耐《た》えられる。おれの理性《りせい》は難攻《なんこう》不落、そう信じろ。これまで幾度《いくど》となく訪《おとず》れた危機的《ききてき》状況《じょうきょう》もことごとく乗り切ってきたではないか。それに今日は無礼講、なんでもあり……
「わかった。やるよ」
「ほんとですか? ありがとうございます!」
見つめてくる真由の瞳《ひとみ》から憂《うれ》いが一掃《いっそう》され、晴れやかに笑《え》みこぼれる。
しみじみ実感する。彼女は変わった。かつては『さわらないで』とまで言われたことを思えば隔世《かくせい》の感がある。もちろんそれは彼女にとって恐怖感を覚えずに済《す》む数少ない男、二ノ宮峻護が相手だからであり、男性恐怖症の完治にはまだ程遠《ほどとお》いのであるが。
それはともかくとして、ひとつ問題がある。
「ええとそれで。どうすればいいんだ? おれ、こういうこと経験《けいけん》ないからよくわからないんだけど」
「あの、わたしも二ノ宮くんがはじめてだから――ええと、どうしましょう?」
両者、互《たが》いに相手ヘ一任しようとする構え。だがどちらも作法を知らないのであれば、協力し合って手さぐりに編《あ》み出していくしかない。
「まずはやっぽり、横になるんだろうな」
「そっ、そうですよね。じゃあええと……こうですか?」
「ああいや、おれの言い方が悪かった。背中に塗るんだから本当に横になられると困る。うつぶせで寝《ね》そべってくれないか」
「そっ、そうですよね、何か変だなと思ったんです。じゃ、こんな感じでしょうか?」
双方《そうほう》、できるだけ冷静でいようとしているのだろうが、緊張《きんちょう》でガチガチなのが丸わかりである。
真由がいそいそと腹《はら》ばいになる。
さっきからずっと頭に上りっぱなしだった血の気が限界《げんかい》を超《こ》え、一瞬《いつしゅん》意識《いしき》が遠くなりかけた。うなじから踵《かかと》の先まで至《いた》る優美《ゆうび》な曲線が視覚野を直撃《ちょくげき》し、煩悩《ぼんのう》をはげしく揺《ゆ》さぶる。正面から見るよりも、かえってこちらのアングルのほうが理性を軋《きし》ませるものがあるようだ。
いかんいかん、節度、節度。にいちがに、ににんがし、にさんがろく……
「――ええと、よし、じゃあ、塗ろう。準備《じゅんび》はいい?」
「あっ、待ってください、その前に水着を外したほうが」
「…………」
水着を外すということは。
もっと露出が増《ふ》える。
この上さらに彼を追い込もうというのか。
「な、なるほど。確かにそのほうがよりまんべんなく、ムラなく塗れるだろうな」
だが峻護、それも一理あると納得《なっとく》し、真由が水着を外すのを待つ。
が、いつまでたっても彼女は背中に手を回そうとしない。
嫌な予感がする。
「月村さん?」
「ええと、その、ですね、」
伏《ふ》せているから顔色はよく見えないが、絶対《ぜったい》ゆでだこになっていると確信《かくしん》できる――そんな声で告白してきた。
「あの、わたしってあまり身体がやわらかいほうじゃなくて。この姿勢《しせい》だと、ぜんぜん手が背中に届かないんです。それにわたし、そんなに器用でもないから、起き上がって水着を外したらたぶんそのまま落ちてしまって、その――」
「……その?」
口ごもりながら、だがはっきりと意志をこめて、
「ですからその、二ノ宮くんが、脱がせてくれませんか」
うわあ。
「だめ――ですか?」
「ああいや、その」
二ノ宮峻護、頼《たの》みごとをされると断り切れないお人よしである上に、真由の真摯《しんし》な『お願い』にはことさら甘《あま》い傾向《けいこう》がある。
大丈夫、大丈夫、と言い聞かせる。今日は無礼講、なんでもあり……
「わかった。やろう。用意はいい?」
「あ、はい、ありがとうございます。お願いします」
「よし、それじゃ――」
ごほん、と咳払《せきばら》いし、肩の力を抜《ぬ》いて両手を構えた。
蝶結《ちょうむす》びになっている標的を見据《みす》える。
深呼吸《しんこきゅう》。
くわっと目を見開いて一気に片付《かたづ》ける――かと思いきや、コマ送りのような動作で手を伸《の》ばす。さっさとやってしまえぱいいのに変に躍踏《ちゅうちょ》するから、真由のほうもその空気に感染《かんせん》して、注射《ちゅうしゃ》を待ち受ける幼児《ようじ》のように縮《ちぢ》こまってしまっている。
それでもどうにか、紐《ひも》に手をかけた。
そっと、引く。
――クリア。
成功率《せいこうりつ》一パーセントの大|手術《しゅじゅつ》を終えた後のように大きく息をつき、汗《あせ》をぬぐった。アホである。涼子がそぱにいたらその不甲斐《ふがい》なさに呆《あき》れ果て、しかるのち問答無用で蹴《け》たぐりまわしていることだろう。
(まずいな……)
彼とて己《おのれ》の不甲斐なさについては自覚がある。この段階《だんかい》でここまで苦戦していては、これから先の展開《てんかい》はどうなることやら。
けど今さら後には引けない。峻護は目を据えた。
「じゃ、いくよ。心の準備はいい?」
「はい、だいじょうぶです。いつでもきてください」
荒々《あらあら》しく日焼け止めの小ビンを掴《つか》むと中身を手のひらにぶちまけ、激《はげ》しく操《も》みしだいた。もはやためらいはない。一気に柔肌《やわはだ》へと攻《せ》め込む。
「あっ――」
真由が細い叫《さけ》びを上げた。
「あ、あの、もう少しやさしく……」
「ごっ、ごめん。痛かった?」
「いえ、だいじょうぶです」
「じゃ、このくらいでどう?」
「――あ、はい、そのくらいだったら。最初だったからちょっと痛かったけど、今ならもう少し強く動かしてもだいじょうぶです。――んっ」
「平気?」
「はい。続けてください」
……聞きようによってはまったく別の場面を連想させるやりとりだが、彼らにその自覚はない。
つつがなく、そのことは終わった。
「済んだよ月村さん」
大役を務《つと》めきり、張《は》り詰《つ》めていた神経《しんけい》がようやく緩和《かんわ》する。倫理《りんり》と貞操《ていそう》の危機に打ち勝ち、またひとつ彼の人生に輝《かがや》かしい戦歴が刻《きざ》まれた。
が、真由がいつまでたっても起き上がろうとしない。
「月村さん?」
「……あのう、とても言いにくいことなんですが」
「え?」
「ええとですね、さっきも言いましたけど、わたし身体《からだ》が硬《かた》くて不器用で、だからこの体勢《たいせい》だと手は背中に届かないし、でも起き上がっちゃうとたぶん落としちゃうことになって、それだともっとずっと迷惑《めいわく》をかけることになると思うんです」
「…………」
「ですからその。二ノ宮くんが、結び直してくれませんか?」
うわあ。
「――いやあ、まいったなあ、まいったなあ。まったくもう」
双眼鏡《そうがんきょう》を下ろし、保坂は身もだえしながら大いに慨嘆《がいたん》した。
「あんなの公衆《こうしゅう》の面前じゃあできないですよねえ。ほとんど人のいないこの島ならではだろうけど、いやあそれにしても、まいったなあ。ほんと、まいっちゃったよ。ね、お嬢さま?」
返答をまったく期待しない声をかけつつ、保坂は一流のスリでも舌《した》を巻《ま》くような手際《てぎわ》で主人から双眼鏡を取り上げた。
「……保坂」
ゆらあり、と振り返る麗華。
言語に絶する顔つきである。大の大人でもこの相貌《そうぼう》と正対すれば腰を抜かすだろう。気の弱い者なら下手《へた》をすると心臓麻痺《しんぞうまひ》コースではあるまいか。
「どういうつもり? お返しなさい」
手持ち無沙汰《ぶさた》になった指先をわななかせ、地獄《じごく》の底から響《ひび》いてくるような声を絞《しぼ》り出すが、保坂は涼《すず》しい顔である。
「だめです。このままだとまたスクラップにしちゃうのは目に見えてます。四代目は用意してないって言ったじゃないですか。……そんなことより訊きたいことがあります。まずはぼくの質問《しつもん》に答えてください」
「なっ、なによ……?」
質問とやらの中身は想像《そうぞう》つくのだろう。あれだけ濃厚《のうこう》に放散していた瘴気《しょうき》がたちまちしぼみ去り、令嬢は決まり悪そうに視線を逸《そ》らす。
「真由さんに対抗《たいこう》して水着に着替えたところまでは問題ないですが……でも、そのチョイスはいったいどういうつもりです?」
白目をもって主人の格好を見やった。
つやのない紺色《こんいろ》の厚ぼったい生地《きじ》。大胆《だいたん》さ、あるいは繊細《せんさい》さといった表現からは対極にある垢抜《あかぬ》けないカッティング。
学校指定の野暮《やぼ》ったい水着である。
「べっ、別にいいじゃない。これだったら着なれてるんだから。こういう時に変に慣《な》れないものを選ぶとかえって悪い結果を招《まね》くものよ。そうでしょう?」
「なるほど。つまりコテージに用意してあった選《よ》り取りみどりのハイデザイン・ウェアじやなくてそんな無味|乾燥《かんそう》なものをあえて選んだのは、露出《ろしゅつ》の多くなるのが恥《は》ずかしかったからでも、お嬢さまの幼児体形《ようじたいけい》を目立たなくするためでもないんですね?」
「……だれが幼児体形ですって?」
「だめですよそんな恐い顔しても。とにかく、それは着替えなきゃいけません。ただでさえ思いっきり真由さんにアドバンテージ取られてるんですから、ここで追い上げなくてどうするんです。もっと攻めの選択《せんたく》をしたいと」
この期《ご》に及《およ》んで差恥《しゅうち》に負けてどうするのかと思う。もっともこの選択もそれはそれで特定方面にはクリ―ンヒットなのだろうが、二ノ宮峻護にその趣味《しゅみ》はなさそうだ。
それに挑発《ちょうはつ》の必要上から幼児体形などとは言ったが、これは公正な表現ではない。確かにややスレンダ―に寄りすぎるきらいはあるものの、彼女のスタイルは月村真由と比《くら》べてさえ見劣《みおと》りするものではないのだ。ただ、水着を着てカメラの前に立てぱ即《そく》グラビアアイドルとして通用する真由とは違い、麗華はレオタ―ドを着てステージに立てぱ体操《たいそう》選手と見まがうタイプ――完全なバランス勝負型、陳腐《ちんぶ》だが『妖精《ようせい》のような』といった表現がしっくり来る系統《けいとう》である、というだけのこと。
が、せっかくの素材も残念ながらこの令嬢にとってはコンプレックスの種でしかないらしい。たとえば先ほどからずっと胸《むね》の前で腕《うで》を組んでいるのがその表《あらわ》れで、そんな風に隠《かく》すと余計《よけい》に目立つし、小さくたって形はいいんだから隠すのはもったいないんだけどなあ、などとしみじみ思う保坂だが、それについては口にする気がない。だってそのままのほうがかわいいから。
(――ま、どうであれ、うまく誘導《ゆうどう》してあげないとね)
「さ、お嬢さま、わかったら早くチェンジしましょう。ぐずぐずしてるともっと差が開いちゃいますよ」
「……わかったわよ。着替えればいいんでしょう、着替えれば」
「はい。着替えればいいんです。だけどただ着替えるだけではだめです。まず、水着は必ずビキニを選択するようにしてください」
従僕《じゅうぼく》の無情な宣告《せんこく》に、主《あるじ》の頬《ほお》が引きつった。
「ビっ、ビキニですって……!」
「当然でしょう。このあと二ノ宮くんに日焼け止めを塗《ぬ》ってもらうんですから。ワンピースだと邪魔《じゃま》になっちゃいます」
「な――!」
麗華の首から上をあっという間に朱色《しゅいろ》が占拠《せんきょ》する。
「ばっ、なっ、なに考えてるのよできるわけないでしょそんな破廉恥《はれんち》なこと!」
「でもお嬢さま言ったじゃないですか。『同じやり方をあえて追随《ついずい》し、その上であの女から二ノ宮峻護をその、わたくしが奪《うば》う。それでこそあの女により効果《こうか》的な屈辱《くつじょく》を与《あた》えることができるのですわ』って。ぼく、一字|一句《いっく》おぼえてますから。その伝でいけば、もちろん日焼け止めだって後追いしなくちゃだめですよね」
「そ、それは――」
「実際それって、うまくいけば確実に効果はあがりますから。もちろん、他にもっと効果的なアイデアの持ち合わせがお嬢さまにあるのなら話は別ですけど。どうです? なにかあるなら今のうちに聞いておきますよ?」
「……っ」
「それか、いっそのことやめちゃってもいいですけどね、こんなこと。もっともその場合はこれまでに数倍する噸笑《ちょうしょう》と虐待《ぎゃくたい》をあの二人から受けることになる上、二度と挽回《ばんかい》できない屈辱を背負うことになりそうですけど。どうします? ギブアップしちゃいますか?」
わなわなと震える麗華だが、もとはといえば彼女が蒔《ま》いた種、墓穴《ぼけつ》を掘《ほ》ったのも彼女自身である。
結局、明らかにヤケクソ入った声で喚《わめ》かざるを得なかった。
「――わかったわよっ! やるわよっ! やればいいんでしょっ!」
「はい。やればいいんです。さ、そうと決まったら急ぎましょう。あの二人が次の行動に移《うつ》らないうちに。さ、早く早く――」
内心で満足の笑《え》みをこしらえながら、しかつめらしい顔で保坂は主人の背中を押した。
外す時に数倍する労苦を重ね、理性のあげる悲鳴をなんとか乗り越えて水着を付け直したのち、自らも海パンに穿《は》き替え、「お返しに日焼け止めを塗ります」との真由の申し出を丁重《ていちょう》に断り、さてじゃあさっそく泳ごうか、などと考えているところへ。
例の高笑いが例によって、南の島の空気を激しくつんざいた。
ただし、今回のそれはひどく遠い場所から聞こえてくるようである。
「?」
声はすれど姿《すがた》は見えず、はてさてどこに『こまったひと』は居《い》るのやら、と首を回して捜《さが》してみると――百メ―トルほど離《はな》れたビーチにぽつんと人影《ひとかげ》。
「二ノ宮峻護!」
よく通る大声で呼《よ》ばわってくる。目を凝らしてみると令嬢《れいじょう》は左手を腰《こし》に当て、右手は胸の前でこちらに向け、人差し指をくいくいと曲げているご様子。
「あー……」
ばりばりと頭を掻《か》き、峻護はそっと連れ合いを窺《うかが》った。
「あっ、わたしのことは気にしないでください」胸の前で両手を振り、真由は笑顔《えがお》で応《こた》えてくれた。「それにわたし、ちょっと用事を思いつきました。だからその間に――」
「……すまない。できるだけ早く戻《もど》ってくる」
頭を下げ、呼び出し先へ急ぐ。
それにつけてもこまったひとである。北条麗華についてはその仕事振りを大いに買い、尊敬《そんけい》もしている峻護だが、今日はひとことくらい言っておくべきかもしれない。姉や美樹彦の干渉《かんしょう》に比べればどうということもないのだが、それでもこう事あるごとに絡《から》んでくるのは問題だ。何もそこまで疎《うと》んじ、嫌《いや》がらせをすることはないではないか。
でもおれ、昔からあのひとはどうも苦手なんだよな。どう言えぱ円満に済《す》ませられるんだろう――
などと思い悩んでいたが、遠目では判別できなかった麗華の姿をはっきり視認《しにん》するころにはそれもどこかへ吹《ふ》き飛んだ。
彼女は腕組みをし、顔を横にそむけながら峻護の到着《とうちゃく》を待っている。……いや、これは本当に待っているのだろうか。呼ばれたのは確かだが、泣いているような、怒《おこ》っているような顔を紅《くれない》に染《そ》めて唇《くちびる》を引き結んでる様子は、むしろ「こっちへ来ないで」と訴えかけているかに受け取れる。
その理由にも察しがついた。
彼女もまた水着に着替えている。そのこと自体は特に問題ではない。ここは南の島のビーチだし、麗華だってバカンスに来ているのだから海遊びくらいするだろう。メイド服を脱《ぬ》ぐに当たっては涼子の許可《きょか》をちゃんと取っているのだろうか、取らなければあとで厄介《やっかい》なことになりはしまいか、などと多少心配になるが、心配するまでもなくそのあたりはクリアしたに決まっている。この令嬢も姉の性格については嫌というほど思い知らされているはずだ。
問題は彼女が身につけている水着そのものにあった。
というかこれは水着と呼べるんだろうか、と思った。
ビキニ、それもほとんど究極《きゅうきょく》にまで無駄《むだ》な面積を殺《そ》ぎ落とした、ひどくきわどい、というよりキワモノじみた代物《しろもの》である。少なくとも峻護の判断《はんだん》基準《きじゅん》で言えば、麗華の身を包んでいるものは衣類というよりひも[#「ひも」に傍点]のたぐいに分類する方が正しい。
「……あのー、先輩?」
「みっ、見世物じゃないですわよっ! あまりじろじろ眺《なが》め回さないで頂戴《ちょうだい》!」
うわずった声で叱《しか》り付ける様子はやっぱり泣きそうになっているようにも受け取れたし、ということは自分の姿についても自覚はあるのだろうし、本来ならそっとしておいたほうがいいのだろうが――それでもこれだけは訊かずにおれなかった。
「先輩、なんでまた、どういうつもりでそんな格好を……?」
「や、やっぱり変なのですわね? これって。――もうっ、保坂のばか、だからいやだって言ったのに……!」
「ああいや、変というか――」
すでに峻護的にも評価が定まっている通り、このお嬢さまは特A級の麗人《れいじん》である。顔の造形《ぞうけい》は言うに及《およ》ぱず、プロポーションだって見事のひとことに尽《つ》きる。やや細身がちな点についてはマイナスをつける者もいそうだが、逆《ぎゃく》にプラス評価を下す者はそれ以上に多いはずだ。
そんな彼女の五体を、今は申し訳《わけ》程度《ていど》の布切れだけが覆《おお》っている。もし学校の連中がこの姿を目《ま》の当たりにしたら、こぞって悩殺《のうさつ》された後《のち》、ひとり残らず昇天《しょうてん》することだろう。そのうちの何|割《わり》かは、彼女をモノにするためなら法を逸脱《いつだつ》することさえ厭《いと》わないのではあるまいか。
ただ、相手は天下に鳴り響《ひび》いた堅物《かたぶつ》、二ノ宮峻護なのである。
「あー、べつに変というわけではないんですが、なんというかつまりその」
目のやり場に困《こま》りながら、しかし決して色香《いろか》に惑《まど》うこともなく、かといってフォローもできぬまま口ごもっていると、
「――もうっ、そんなことはどうでもいいのですっ。あなたに用があるのですわ二ノ宮峻護!」
組んでいた腕を片方だけ解《と》き、ぐい、と峻護に突《つ》き出した。
その手に握《にぎ》られた、どこかで見た覚えがあるような小ビンに視線《しせん》を落とし、峻護は「あー」と言った。
「か、勘違《かんちが》いなさらないでよ。保坂が逃《に》げ出したから仕方なくあなたに任《まか》せるのです。そうでなければあなたに頼《たの》む機会なんて一生なかったことなのですわ。それに――そう、わたくしは人一倍|紫外線《しがいせん》には弱いのです」
「はあ、初耳です。え―とですね……」
視線を泳がせ、頭を掻《か》きながら、
「ああそうだ、コテージのひとたちに頼むのはどうです? あのひとたちなら快《こころよ》く引き受けてくれると思うし、おれなんかよりずっと上手《うま》く塗《ぬ》ってくれますよ、きっと」
「却下《きゃっか》ですわ。あの方々はそれぞれ自分の務《つと》めをこなすため細心の注意と最大の労力を払《はら》い、そのうえ最少の人数でこのリゾートを維持《いじ》しています。その仕事は賞賛《しょうさん》に値《あたい》するものだし、邪魔《じゃま》になりたくはありません。こき使うにはあなたあたりが丁度《ちょうど》よいのです」
「姉さんとか美樹彦さんに――」
「死んでもイヤですわ」
こうなるともう断《ことわ》る口実がない峻護である。月村さんに、とはさすがに言えず、またメイド服に戻ればいいじゃないですか、とはもっと言えない。
さて、どうしたものか。
一度やるのも二度やるのも同じこと――というわけにはいかないが、先ほども経験していることだけに抵抗《ていこう》はやや少ない。またいかに魅力《みりょく》的とはいえ、麗華はサキュバスではない。真由と接《せっ》することによって鍛《きた》えぬかれたチタニウム製《せい》の意志があれば、危険《きけん》は無いに等しいだろう。それにこのひとの頼みというのは真由とは別の意味で断りにくいし、ここで我《が》を押して断ればのちのち厄介《やっかい》なことにもなりそうだ。
そう考えて峻護、さっさと度胸《どきょう》を決めてしまった。
「――わかりました。やりましょう」
「そ、そう?……ふん、最初から大人しくそう言えぱいいのです」
「じゃ、早速《さっそく》うつ伏《ぶ》せに寝《ね》そべってください」
「え? ちょ、ちょっとお待ちなさい、まだ心の準備《じゅんび》が、」
「おれに頼む時点でそういうのは済《す》ませておいてくださいよ。さ、早く」
ほらほら、と急《せ》かし、さっさとその体勢にする。
「はい、じゃあ次は水着を外してください」
「は、外すのっ?」
「当たり前です。そうじゃないとムラなく塗れないじゃないですか。さあ」
悲鳴じみた声をあげる麗華へ容赦《ようしゃ》なく告げる。二ノ宮峻護、一度|肚《はら》を据《す》えてしまうと案外図太い。
「手が背中に回らないのならおれが外しますけど? どうします?」
「そっ……外すわ、外すからちょっと待って――」
峻護が言葉どおりにする前に、あたふたと結び目を解除《かいじよ》した。真由よりはずっと柔軟性《じゅうなんせい》も器用さもあるらしい。
「さ、じゃあ行きますよ」
「! ま、だめ、まだ心の準備、」
「まだなんですか? 急いでください」
「そ、そうね、急ぎますわ、でももうちょっとだけ」
「仕方ないですね。少しだけですよ」
「え、ええ」
「…………」
「…………」
「さ、じゃあいきますよ」
「ええっ! まだ早」
「だめです。時間切れです」
問答無用、ローションをなじませた両手をきめの細かい肌《はだ》になすりつけた。
「んあっ……!」
弓なりに反《そ》らされる背中。構《かま》わず塗りつづける。
「ひあうっ」
構わず塗る。
「んっ……ああっ」
構わず……
「やっ、あっ、はうっ……んっ、やあっ、だめ、そっ、あっ、あっ――や、あっ……!」
赤らめた顔をそむけつつ手を止めた。
「……あのう、先輩《せんばい》?」
「な、なによっ……?」
「そろそろやめておきましょうか? あまり具合がよさそうじゃないですし」
「ぱかおっしゃい、まだぜんぜん終わってないじゃないの。続けなさい」
「というか『だめ』とか言ってませんでしたか? さっき」
「言ってません。早くなさい」
そうは言われても、選手の今後を考えればレフェリーストップにしたほうが無難《ぶなん》な気がするのだが。全工程《ぜんこうてい》の一割にも達していないうちからそんな切ない声を出されても弱るし。かといってここで中座すればまた難癖《なんくせ》つけられそうな気も。
続行か、それともタオル投入かの二者|択一《たくいつ》に迷っていると、「何してるの、さっさとなさい」荒《あら》い呼吸《こきゅう》で苛立《いらだ》ったような催促《さいそく》。
ままよ、と心中で呟き、再開《さいかい》した。
「やあ……んっ」
ぬりぬり。
「ひ……うんっ」
ぬりぬり。
「あっ、やっ、んっ、だめ、あうっ――あ、あ、あん、や、あ、やだ、やだあっ……!」
「……あの、先輩?」
「――つっ、続けなさい」
どうしろというのか。
普通《ふつう》に塗ってこれでは。――ならば、これならどうか。
「い、痛《いた》っ……ちょっと二ノ宮峻護! もうちょっとやりかたを考えなさい!」
だめか。やはり垢《あか》を落とすようにごしごしこするのは不味《まず》かったようだ。となれば残された道はゆっくりと、ソフトに。それしかない。
手のひらを使うのをやめ、指の腹《はら》でつつっと撫《な》ぜる。
「! んあ……んっ!」
これでもだめか。今度は指を立て、触《ふ》れるか触れないか程度《ていど》の接触《せっしょく》で撫でてみる。
「! ひうっ……ん、やっ、あっ、んっ、やっ、あっ」
いけない。さらに呼吸が速くなってしまった。
では動かすスピ―ドに緩急《かんきゅう》をつけてみてはどうか。
さらには指の腹と指先最小面積のコンビネーション、なおかつ曲線と直線を組み合わせてやれば……
「! や、ぁんっ……ってちょっと二ノ宮峻護! あなたわざとやってますのっ?」
がばっ、と勢いよく起き上がり、涙目《なみだめ》で麗華は抗議《こうぎ》した。
そう、起き上がってしまった。
彼女の水着は背中とうなじで結ぶタイプであり、後者はまだしっかりと結ばれたままではあったものの、二つの命綱《いのちづな》のうち片方を失ったひものような水着は起き上がった際の運動エネルギ―に抵抗できず左右にあられもなく揺《ゆ》れたわけであり、しかもその水着は布《ぬの》というよりはひもと形容したほうがふさわしいそれであり、あっと悲鳴をあげて持ち前の反射神経《はんしゃしんけい》で両腕をガ―ドに出したものの一足|遅《おそ》かったのは明らかであり――
ただでさえ湿《しめ》りがちのまなじりに、じわっと大粒《おおつぶ》の雫《しずく》が浮《う》いた。
「――大丈夫《だいじょうぶ》です、先輩」
が、峻護は泰然《たいぜん》と首を振った。
「ぎりぎりだったけど、セ―フでした。安心してください。見てません」
「……ほんとう?」
「はい」
一点の濁《にご》りもない目で頷《うなず》く。見たと知ったら殺される――その危機感が、不器用な彼にしては破格《はかく》の演技《えんぎ》を可能《かのう》とさせた。人間、土壇場《どたんぱ》になれぱ案外なんでもやれるものである。
「そ、そう? それだったら、いいのです」
頬《ほお》を掻《か》くふりをして目尻《めじり》を拭《ぬぐ》い、麗華はいつもの顔に戻る。
「とにかく、もっと普通におやりなさい。小細工を弄《ろう》さずとも結構です」
「はい、わかりました。すいません」
その言には素直《すなお》に従《したが》うことにした。信じがたいが、どうやらそのほうがまだしもマシらしい。
いそいそと麗華は伏せ直り、峻護も作業を再開する。
だが当然のごとく、
「――んっ……んっ、や……だ、ひんっ、やっ、にゃあっ、はぅ……あ、あっ……」
峻護、もはやあきらめた。見ざる、言わざる、聞かざるの三|原則《げんそく》を遵守《じゅんしゅ》し、ひたすら手を動かすことに専念《せんねん》する。
そして二ノ宮峻護、やはり堅物の看板《かんばん》は伊達《だて》ではない。
どこか壊《こわ》れ物じみた繊細《せんさい》さのある、まっさらなキャンバスを思わせる白い肌《はだ》。そこへ差恥《しゅうち》の朱色《しゅいろ》があざやかに乗り、さらには固く引き結ぽうとする唇《くちびる》の端《はし》からそれでも漏《も》れてしまう悩《なや》ましい音が加わって、そのあだっぽさは他に類を見ず――
断言できる。彼だからこそ顔を赤らめ、心音を高くする程度《ていど》で済《す》むのだ。並《なみ》の男ならとっくに人の道を外し、ケダモノと化していること疑《うたが》いなかろう。
任務《にんむ》は続く。麗華の、当初の目的から脱線《だっせん》しつつある苦難《くなん》も続く。
白砂《はくしや》を渡《わた》る南洋の風に混《ま》じり、峻護を素通《すどお》りしたなまめかしい声が長く長く尾《お》を引いていく――
憔悴《しょうすい》しきった様子の令嬢が付き人の肩《かた》を借りて退場《たいじょう》していくのを複雑《ふくざつ》な表情で見守っていた峻護の視界《しかい》の端《はし》に、「二ノ宮くーん!」と呼ばわりながら小走りで駆《か》け寄《よ》ってくる人影《ひとかげ》があった。
「ああ月村さん。用事は? もう済んだ?」
「はい、用意してきました」
わずかに息を切らせつつ、えへへとはにかむ。
「用意?――って、何の?」
「はい、こちらに来ていただければわかります。さ、行きましょう。早くしないとぬるくなっちゃいます」
「ぬるく?」
首をかしげる様子にむしろ満足げな笑みを作り、真由は峻護を先導《せんどう》する。
「――だいじょうぶですかお嬢さま? だめですよう、あんまり無理しちゃ」
いまだに全身を桜色《さくらいろ》に染めて浅い吐息《といき》をくりかえしている主人をうちわで扇《あお》ぎながら、保坂はやんわりとたしなめた。
「でもお嬢さま、よくがんばりましたよね。正直、さっきの光景はすごかったですよ。あれをやられて落ちないのは二ノ宮くんとか美樹彦さんとかぼくくらいのものです。あれ? それって多いのかな」
「…………」
「とにかくですね、ものすごく色っぽかったのは本当ですよ。学園の男子生徒が見てたら間違いなく全員がなびきます。だからそんなに気にすることはないです。正真|正銘《しょうめい》、疑《うたが》いの余地《よち》なくお嬢さまは魅力的ですから。うんと小さい頃からお嬢さまに付いてるぼくが言うんだから確かです。ただ、肝心《かんじん》の二ノ宮くんには通じなかった、っていうだけの話で」
「…………」
濡《ぬ》れタオルを目蓋《まぶた》の上に当ててあおむけに寝転《ねころ》がったまま、麗華は無言。下僕《げぼく》が口にすることはすべて耳に入れているはずだし、応《こた》えを返せる程度には回復《かいふく》しているはずだし、最後のセリフにぴくん、と肩を震《ふる》わせたりもしていたが。
保坂は、それと知りつつ気づかないふりをしている。
しかしまあ、感心するというか呆《あき》れるというか。重々|承知《しょうち》していたものの、ニノ宮峻護の融通《ゆうずう》のきかなさにはただただ目を瞠《みは》るしかない。先ほど麗華に伝えた言葉は掛《か》け値《ね》なしの本音である。あれだけの誘惑《ゆうわく》でも籠絡《ろうらく》できないとなれば――
(彼を手寵《てご》めにする――力押しでモノにするには、やっぱりあれしかないんだろうね)
そう遠くないうちにその機会は来るだろう。結末がどんなことになるにせよ。
いずれ、彼にできることはさほど多くない。彼は彼の主のため、彼の信じた道を、彼なりのやりかたで進むだけ。
(ま、今はただ見守るだけだね。――さあて、次はどう出るのかな?)
保坂、うちわを扇ぐ手はそのままに、空いた片手で双眼鏡《そうがんきょう》を覗く。
真由に連れられて向かった先はコテージ前のテラス。
そこにある卓《たく》のひとつに置かれたものを目に入れて、峻護は自分が呼ばれた訳を理解《りかい》し、あさっての方角を向いて頬《ほお》を掻《か》いた。そのかたわらで真由はえらく畏《かしこ》まりつつ、縮《ちぢ》こまりつつ、彼の反応《はんのう》を待っている。
最初は花瓶《かびん》かと思った。サイズ的にもそれに近いし、二人がけの丸テーブルの真ん中に、でん、と鎮座しているし、色とりどりな中身もまさに百花綴乱の様相を呈していたので。
しかしよくよく見れば、そいつはビールのジョッキを三つほど束ねたくらい大きなグラスであり、咲き乱れる花々と見えたのはクリアブルーのソーダ水の上にこんもりと盛られたフルーツの密林《みつりん》であり――
噂《うわさ》でこそ耳にしたことはあったが、実物は初めて見た。もちろん、ストローは二本差しの仕様である。
「あのー、ですね、二ノ宮くん、これはつまりその……」
反応に窮《きゅう》している峻護を見て焦《あせ》ったのか、つっかえつっかえの早口という器用なしゃべり方で真由は陳弁《ちんぺん》した。
「ここで雇《やと》われてる料理人さんというのはほんとうに何を作らせても一流の人だそうで、それにはカクテルとかも含《ふく》まれてて、ということはもちろんジュースを作っても一流で、こういうトロビカルドリンクだってもちろんおいしくて、あっ、でもこれはアルコールは入ってないから安心ですし、それにこのフルーツはぜんぶ無農薬の完熟《かんじゅく》だし、言うまでもなくフルーツはビタミンだってたくさんあって健康にもいいし、ですからつまり、わたしお料理も興味《きょうみ》あるし、今日の夕食は当然その料理人さんが作るんですけど、でもその前にまずこういうドリンクとかで小手調《こてしら》べっていうのもあながち的はずれではないと思うんですけど、どうでしょうか?」
「う―ん……」
真由の発言は日本語としての構造美《こうぞうぴ》に欠けるものがあって解読に苦しんだが、そもそも解読するまでもなく彼女の意図は明らかだった。
どうするべきか。
というのも峻護にとってこの行為《こうい》は、これまでのどんなニアミスよりも意味が大きいのである。
ひとつのドリンクを二本のストローで飲めばどうなるか。
当然顔が近くなる。至近《しきん》である。となれば、彼女の深く澄《す》んだ瞳《ひとみ》も近い。あざやかな桃色《ももいろ》をしたくちびるも近い。
それはとても覚悟《かくご》のいることだ。彼女の肌に直《じか》に触れることよりもずっと。
が、峻護はさほど迷《まよ》わなかった。
「……まあ、今日は無礼講《ぶれいこう》なんだよな」
「――はい! 今日は無礼講なんです!」
堅物男の遠まわしな承諾《しょうだく》にも一切《いっさい》拘泥《こうでい》することなく、真由は降《ふ》り注ぐ陽光にも似《に》たまぶしい笑顔を見せる。
「――うわあ、うわあ。べったべただなあ。でもそのべったべたがあの二人にはよく似合っちゃうんだよなあ」
双眼鏡を手に保坂は従来と大同小異の感慨《かんがい》を洩《も》らした。
「ほらほら見てくださいよお嬢さま。敵情《てきじょう》視察《しさつ》ですよ敵情視察。しっかり目に入れてシミュレーションしておかなくちゃ」
「…………」
だが麗華はあお向けに寝そべったまま。濡《ぬ》れタオルも目蓋《まぶた》の上にかけたまま。もちろん保坂は、起き上がって双眼鏡を握《にぎ》る気など起こさないだろうことを承知の上で言っている。
「――どうします? お嬢さま」
さらに一言、保坂はそれだけを彼の主人に訊《たず》ねた。もちろん、そう訊ねればどういう反応を見せるか承知の上で言っている。
「…………」
果たして、もはや後にはひけない令嬢は無言のままゾンビのように立ち上がり、時おり膝《ひざ》を笑わせながら、それでもまっすぐに歩き出した。
(意地になってるなあ。……ま、そう仕向けたんだけど)
多少の罪悪《ざいあく》感に胸を疼《うず》かせながらも彼は彼自身の選択を信じ、敬愛《けいあい》する主《あるじ》の後に続いた。
緊張《きんちょう》の面持《おももち》ちで真由が対面に座《すわ》った。一足先に席についていた峻護との彼我《ひが》の距離《きょり》、およそ七十センチ。
両者の中間距離に、デラックスな南国風飲料が鎮座《ちんざ》している。
お互いに完黙《かんもく》したまま、フルーツの山岳《さんがく》とそのふもとに広がるソ―ダの海を目視する。
「月村さん、」先に口を開いたのは峻護だった。
「ここはやはりレディファーストということで、君から先に」
「ええっ? でっ、でもこういうことは男の人がまず……」
どちらも同じことを考えていたらしい。つまり、顔を近づけられるより顔に近づくほうが大変。率直《そっちょく》に言ってどっちも変わらないような気もするのだが、彼らにとっては一大事である。
器《うつわ》の構造にも問題がある。よく考えてある、というか余計《よけい》なことを、というか――グラスの口はその体積に比《ひ》してひどく小さい構造になっていて、二人同時にストローを口にしようものならビン底|眼鏡《めがね》のド近眼《きんがん》が裸眼《らがん》で新聞を読む時みたいな有様《ありさま》になることは必定《ひつじょう》。おまけにストローだって妙《みょう》に短いときているから、お互いの虹彩《こうさい》の数まで数えられるほどに接近《せっきん》せざるを得ないときた。彼らのごときこの道の素人《しろうと》が二の足を踏《ふ》むのも無理からぬことであろう。
「……わかった。まずはおれが先に飲もう。よくよく考えたらそっちの方が気楽なように思えてきた」
「えええっ? そ、そうですか?……言われてみると、なんだかわたしもそんな気がしてきました」
「じゃ、やっぱり月村さんが先にする?」
「うっ……でもそれはそれできびしい気もしてきます……」
「わかった、じゃあこうしよう。やっぱりレディファーストだ。後でも先でもどちらでもいい、月村さんが好きな方を選んでくれ」
「はい、わかりました。ありがとうございます。選びます」
神妙に首肯《しゅこう》した真由、眉間《みけん》に可愛《かわい》らしい皺《しわ》を寄せてむむむとうなり始める。べつに二人同時ではなく時間差をつけて交互《こうご》に飲めばよさそうなものだが、今の彼らにはそこまで考える余裕《よゆう》はない。
「――決めました。わたしが最初にいきます」
「わかった。じゃあお先にどうぞ」
「はい。……いただきます」
はむ。
ごく上品に、そっとストローをくわえると、やがてかすかに白い喉《のど》が上下を始めた。
それを確認《かくにん》し、峻護も軽く咳《せき》ぱらいをする。
「じゃあおれも――いただきます」
上半身を前に乗り出そうとして、しかし途中《とちゅう》でその動きは止まった。
真由は組んだ両手にその細いおとがいを乗せ、ソ―ダ水の喉越しに身をゆだねている。
目蓋は、閉《と》じられている。
それもぎゅっと瞑《つむ》るのではなく、午睡《ごすい》にまどろんでいるような、ひどく叙情《じょじょう》的というか陶酔《とうすい》的というか夢想《むそう》的というか――とにかくそれはこの上なくノーガードな表情で、彼女は無意識の時が最も危険《きけん》で、その証拠《しょうこ》に峻護の頭蓋《ずがい》内にあるヒューズがあちこちで飛び始めていて、早くも脈拍《みゃくはく》は不整脈を起こしつつあって――つまり、どうにもこうにもやりづらく。
「すまない月村さん。目を瞑るのは止《よ》してくれないか。そんな風にされるとなんだか――こう、ちがう気分になってくる」
「えっ。あっ、はい、すいません。じゃあ……」
峻護の言う意味がわかっているのかいないのか、真由はあわてて口を離《はな》し、ふう、と一《ひと》呼吸《こきゅう》置いてから再《ふたた》びストローをついばんだ。
「すまない。じゃ、あらためて――」
峻護、もう一度身を乗り出し――そしてまた半ばにしてそれを止めた。
文字通り目と鼻の先に、真由の小さな顔がある。
言われたように目蓋を開けて、しかし峻護と目が合うと素早《すばや》くそれを逸《そ》らし、でも逸らした先に視線のやり場がないために落ち着きない様子で焦点《しょうてん》をさまよわせる。
その瞳は艶《つや》っぼく潤《うる》み、その頬はほんのりと上気して。
あらためて――まったく何度目になるのやら――思い知った。どちらにしたって、月村真由が恐《おそ》ろしく魅力《みりょく》的なことには変わりがないのだ。失敗だったろうか。やっぱり彼女には目を閉じてもらった方が――馬鹿な、できるかそんなこと。それともこちらが目を閉じてしまえば――ありえない、閉じるなと言っておいて自分だけそうするなんて。
前門の虎《とら》、後門の狼《おおかみ》。退《ひ》けど進めどいばらの道。
ええい、ままよ――
くわえ、吸った。
炭酸《たんさん》の刺激《しげき》が張《は》り詰《つ》めた神経を少しは緩和《かんわ》してくれるかと期待したが、無駄《むだ》だった。
真由に負けず劣《おと》らず首から上に血が昇《のぼ》っているのを自覚する。そのうち行き場を失った血液《けつえき》が逆流して変な穴《あな》から噴《ふ》き出してくるのではあるまいか。
比揄《ひゆ》でなく、真由の温度を肌で感じる。
視線は――どこにやればいい? どこでもいい、とにかく彼女以外。まったく、こんな位置ではとてもじゃないが相手の顔をまともに見れやしない。いったい誰がこんな馬鹿《ばか》げたドリンクの飲み方を発明したのだろう。これでは本来の狙《ねら》いと逆効果じゃないか。
彼女は――こちらを見ているのだろうか。それとも。こちらなど眼中《がんちゅう》にないだろうか。
誘惑《ゆうわく》に負け、ちらっと目をやった。まさしく同時、真由も瞳を峻護に向けていた。出会い頭《がしら》。コンマ一秒の交錯《こうさく》。はっきりと彼女を見た。こんな近くで、初めて。それを焼き付けて、最大速度で視線を外す。絶対見られた――おれが見ていたのを彼女に。また不整脈。いま自分がどんな顔色をしているか写真にとっておきたい。奥襟締《おくえりじ》めを食《く》らってオチる寸前《すんぜん》のような、無様で赤黒い色をしてるにちがいない。まったく情けない、なんだって、こんな、目が合っただけで……
相手をも巻《ま》き込《こ》む白縄《じじょう》自縛《じばく》。ソ―ダ水が喉を通る音だけが彼らの間を行き来する。
ペットボトル一本分はありそうな中身を干《ほ》すのにどれほどかかったものか。定かではないが、最後の一滴《いってき》まで飲み尽《つ》くしてようやくストローを解放した時には、トライアスロンを完遂《かんすい》したあとみたいに疲弊《ひへい》しきっていた。
濃密《のうみつ》な時間だった。おそろしく。
大げさに言えばボクシングの試合にも似《に》ていた――両者足を止め、額《ひたい》をつけあって一歩も退かぬ打ち合いを演《えん》じる展開《てんかい》の。というのもこの二人、ドリンクを飲み終えるまでお互いに一度もストローを口から離さなかったのである。おかしな話だが、魔法《まほう》でもかけられたみたいにあの状態から抜けられなかったのだ。ひとことも会話のないまま、ただ時おり視線を交え合って――
「…………」
真由は両手を頬に当て、いまだにぼおっとしている。先ほど共有した時間がどういうものであったか、それだけでも窺《うかが》い知れるだろう。
放《ほう》っておくといつまでも向こうに行ったまま帰ってきそうにない。重力から解放されたように浮《うわ》ついている己《おのれ》の身魂《しんこん》に活を入れるのを兼《か》ねて、峻護は大きく咳払いした。
「――ひゃっ?」
寝入りばなを叩き起こされたように身体《からだ》を跳《は》ねさせた真由、ようやく瞳の焦点を定め、
「あ、二ノ宮くん。ええと――あっ、す、すいません、ぼんやりしてて……」
「ああ、いや、いいんだ。うん」
その会話の間だけお互い顔を合わせ、だがすぐにまた目線はテーブルへと落ちる。
「……あー、月村さん」
「はっ、はいっ」
「まだフルーツが残っている」
「え? あっ、ほんとだ、全部残ってます」
「……食べようか?」
「え?」
「いや、残すのはよくない。それにこれは絶品《ぜっびん》のフルーツなんだろう?」
「あっ、はい、そうですそのとおりです。ぜんぶ無農薬の完熟《かんじゅく》だし、ビタミンだってたくさんあって健康にもいいんです。ぜひ残さず食べましょう!」
言って二人、それぞれ南国産果実に手を伸《の》ばした。
口と手だけを黙然《もくねん》と動かす。早くもなく遅《おそ》くもなく。
先ほどの続きであるようにひとつも言葉のやりとりのないまま、だけどそれは決して不快な時間などではなく。
目など合わせずとも相手の心が伝わってきそうな、そんな気分。
「――ごちそうさま」
完食し、ぺこりと辞儀《じぎ》をする。
「――ごちそうさまでした」
続いて真由も。
「たしかにうまかった。すすめてくれてありがとう、月村さん」
「ええっ? と、とんでもないです、わたしなんて何も――こちらこそお付き合いいただいてありがとうございました」
「うん。――よし、じゃあ喉《のど》も潤したことだし、そろそろ泳」
ごうか、と言いかけた峻護を、耳慣れた音声がタイミングよくさえぎった。
「二ノ宮峻護!」
高笑いに引き続いて凜然《りんぜん》と響《ひび》いた、しかしいつもよりどこか勢《いきお》いがない呼び声。
振り向けば、北条コンツェルン次期|総帥《そうすい》にして神宮寺学園生徒会長な人である。
麗華、峻護が振り向いたのを見て取ると、人差し指をくいくい。
「――あー、ええっと……」
頭を掻《か》こうとする前に真由はにっこりと笑い、
「わたし、器を片付《かたづ》けてきますから。気になさらず行ってきてください」
高笑い――奇跡《きせき》の音声に心を乱《みだ》すこともなく、しっかりした口調でそう言ってくれた。以前はあの高笑いを聞いたショックのあまりか不自然な言動を取ったこともある真由である。それがきっかけで麗華から睨《にら》まれるようになったわけだし、この変化は大変|結構《けっこう》なことであろう。
「すまない。できるだけ早く済《す》ませてくる」
頭を下げ、駆《か》け足。
と、そこで不意に気づいた。
どこぞの学者がその神秘《しんぴ》を研究したいと土下座《どげざ》して懇願《こんがん》したという北条麗華の高笑いは、ひどく刺激《しげき》が強い。真由ほどの影響《えいきょう》が出るのは珍《めずら》しいにしても、神宮寺学園の関係者なら誰《だれ》しも一度はその洗礼《せんれい》を受け、心身に障害《しょうがい》を来《き》たすもの。もちろんそれは一時的なものであり、二、三度も経験すれば適応《てきおう》してくるのだが――顧《かえり》みて、峻護はそうした体験をした覚えがないのである。もちろん例外がないわけではないし、自分はその稀《まれ》なケースに属《ぞく》するのだろうと、さしたる根拠《こんきょ》もなく信じてきたのだが。
それが今、妙に引っかかる。
唐突《とうとつ》に浮かんだその疑問《ぎもん》を検証《けんしょう》しようともう一度|記憶《きおく》を掘《ほ》り返そうとしたところへ、叱咤《しった》の声が飛んだ。
「遅い! いつまで待たせるつもり? 早くなさい」
「すいません。でも、ちゃんと走って来たんですが」
「言い訳《わけ》は聞きたくありません。このわたくしに呼ばれているのだから、一秒だって待たせるような真似《まね》はなさらないで頂《いただ》きたいものです。わたくしは北条コンツェルン総帥、北条義宣の一人娘《ひとりむすめ》で、神宮寺学園の生徒会長で、あなたよりずっとえらいんだから」
「はあ、すいません。それで用件は?」
麗華、それには応えずあごをしゃくり、「ついてきなさい」と促《うなが》す。
どこへ行くのだろうと思いつつ後に続くと、なんのことはなかった。
先ほどとは反対側、コテージの裏手《うらて》側にあるテラスなのである。
広さはほぼ同等。据《す》えてあるテーブルのデザインも同|系統《けいとう》。
「…………」
そして、テーブルの上に載《の》っているモノまで同じであった。
「か、勘違《かんちが》いなさらないでよ」
こほん、と咳払《せきばら》いし、お嬢《じょう》さまは弁明《べんめい》する。
「これまでひみつにしてきましたが、実はこのトロピカルドリンクというものはわたくしの大好物なのです。ですがこれだけの量をひとりで食すのは障《さわ》りがありますし、味も素《そ》っ気もありません。保坂はおなかの調子が悪いなどと言って逃《に》げ出すし、これもやむをえない処置《しょち》でしょう。極《きわ》めて不本意ですが別にあなたでも構いませんわ。このわたくしとテーブルを共にするのですから光栄に思いなさい」
「はあ。でもおれ、今は十分に水っ気は足りてるんですが」
「わたくしの温情が受けられないと?」
「もっと小さいサイズを頼《たの》むという手もあったと思うんですけど……」
「それではこの飲み物の醍醐味《だいごみ》が失われてしまいますわ」
「コテージの人たちと一緒《いっしょ》に飲むというのは――」
「あの方々は勤務《きんむ》中です」
「姉さんか美樹彦さんと一緒に――」
「本気でおっしゃってるの?」
どうやら諦《あきら》める以外にないらしい。
「……わかりました。じゃあ、ご相伴《しょうばん》に与《あずか》ることにします」
「ふん……最初からそう言えばいいのです」
「すいません。じゃ、ぬるくならないうちに早速《さっそく》飲みましょう」
「そ、そうね」
峻護が先に椅子《いす》を引き、麗華が硬《かた》い面持《おもも》ちでそれに倣《なら》う。
「じゃ、北条|先輩《せんぱい》からお先に」
「ええっ?――ふ、ふん、ここはあなたに譲《ゆず》って差し上げますわ。形としてはわたくしから願い出た筋《すじ》ですし、そのくらいの配慮《はいりょ》はいたしましょう」
「そうですか? じゃあ遠慮なく」
二本のストローのうちの片方に口をつける。
一口。
二口。
三口。
「ふう」
一息つき、目線だけで対面を促《うなが》す。
だが言い出しっぺであるところの麗華は肩《かた》をこわばらせたまま、ぴくりとも動こうとしない。
「?」
仕方なく、峻護は水っ腹《ぱら》をおして再《ふたた》びドリンクを吸い込みにかかる。
一口、二口、三口、四口、五口。
「ふう」
「…………」
「…………」
「…………」
「あの、先輩?」
いつまでたってもマネキンのように固まっている麗華に声をかけると、彼女はスタンガンでも当てられたように全身をバウンドさせて、
「なっ、何?」
「いや、何じゃなくて。飲まないんですか?」
「え、ええ、そうですわね」
「じゃ、どうぞ」
「うっ……」
「…………」
「…………」
「…………」
「……だ、だって、」
沈黙《ちんもく》に耐《た》えかねたのか俯《うつむ》きがちに視線《しせん》を逸《そ》らし、ごにょごにょと呟《つぶや》いた。「だってこれ、――じゃない……」
「え? すいません、よく聞こえなかったんですが」
「うっ、うるさいわねっ。べつに聞かなくたっていいのですっ」
『だってこれ、間接《かんせつ》キスじゃない』と言ったのだが、さすがの峻護もそこまでは想像《そうぞう》が及《およ》ばなかった。無理もない。いくら彼でも、この程度《ていど》の行為《こうい》をそこに分類するつもりはなかったのである。
どちらにせよ、この状況《じょうきょう》で彼の言いたいことはひとつしかなかった。
「あの、先輩?」
「な、何よっ」
「今のこれって、先輩が言うところの『ひとりで食すのは障りがあって味気も素っ気もないもの』を、おれが一人で始末している状況なんですが……」
「…………」
反論《はんろん》の余地《よち》なし。
「先輩?」
「…………」
「…………」
じっと反応《はんのう》を待つ。
麗華、スプーン曲げに銚《いど》む超能力者《ちょうのうりょくしゃ》のような顔で眉間《みけん》のあたりに念を凝《こ》らし、知恵熱《ちえねつ》で湯気が立ちそうなほど打開策《だかいさく》を探《さぐ》り、探り、探った果て、悟《さと》りを開いた修験者《しゅげんじゃ》のようにかっと目を見開き、封じ手を指す一流|棋士《きし》のごとき所作でその腕《うで》を伸《の》ばし――
グラスの上部に飾り立てられたパパイヤのカットを手に取ると、親の仇でも食らうような勢《いきお》いで丸呑《まるの》みにした。
さらに立て続けに腕を伸ばし、マンゴー、グァバ、ランブータン等々の熱帯産フルーツが次々と冒袋《いぶくろ》に収《おさ》められていく。
「…………」
「――なによ」
じろり、明らかに逆ギレっぽい目つきで峻護を睨《にら》みつけ、
「ソ―ダ水などはつまるところ単なる色つき水。本来、メインは華々《はなぱな》しくグラスを彩《いろど》るフルーツたちにあるのです。主役であるそれらはわたくしが口にし、刺身《さしみ》のツマであるところの色つき水はあなたが始末する。なにか不都合でもありまして?」
「いえ……ないです……」
こうなってはもはや是非《ぜひ》もない。
むくれた顔で黙然《もくねん》と果実類のみを口に入れる令嬢と、本来の役目を果たせぬまま一生を終えるであろうストローの片割れを相手に、ただただ腹を壊《こわ》さないことだけを祈《いの》りつつ、峻護はドリンク部分を無理やり飲み干すしかなかった。
「……ごちそうさまです」
かろうじてノルマ分を臓腑に収めきり、ゲップをこらえて頭を下げると、麗華は「ふん……」と鼻を鳴らしてそっぽを向く。
「じゃ、おれはこれで――」
立ち上がるが、やはり応答《おうとう》はない。やむなく再度一礼し、気持ち前かがみになりながらその場を後にした。
真由を捜《さが》す。
が、捜すまでもなく「二ノ宮くん」横手から声がかかる。
「ああ月村さん。すまない、待たせてしまって」
「いえ、とんでもないです」
首を振《ふ》り、自然な笑顔《えがお》で応《こた》えてくれる。
「うん、よし、それじゃあ――約束どおり、泳ごうか」
「えっ? そっ、そうですね、泳ぐんでしたね……じゃ、行きましょう!」
「?」
どこか焦《あせ》っているような、予習してないところを先生に当てられてあたふたしているような表情で真由は先を行く。
ビーチに出た。
風が涼気《りょうき》を帯び始め、太陽の色合いも黄から朱《しゅ》へ移《うつ》りつつある。黄昏《たそがれ》の先触《さきぶ》れ。もうそんな時間が経《た》っていたのかと思う。ひどく短かったような、やたら長かったような。
「じゃあ月村さん、まずは準備《じゅんび》運動から始めようか」
「えっ? あ、はい、そうですね、そうしましょう」
胃袋の充填《じゅうてん》量が限界値《げんかいち》に達しているため、強くは身体《からだ》を曲げられない。手首足首のストレッチが中心である。
生真面目《きまじめ》に身体をほぐし出す峻護のやり方を見ながら、真由も律儀《りちぎ》に真似《まね》をする。
「ところで海で泳ぐに際《さい》しての注意点だけど、とにかく浜辺《はまぺ》から遠い場所や深い場所には入らないこと。一見|穏《おだ》やかに見えても、水面下の海流がどうなっているかわからないから。それとむやみに海の生き物には触《さわ》らないこと。足をつける時は特に注意すること。あと万一|溺《おぼ》れた時はパニックにならないこと――」
したり顔でポイントを並べていく峻護だが、実のところ海で泳いだ経験など数えるほどもない。すべて聞きかじりの知識《ちしき》である。
それゆえだろうか。説得力のない講義《こうぎ》を聞かされている真由はどこか上の空。スピ―チの出番を前に必死でコメントを考えている時みたいに、ひどく気もそぞろな様子である。
ほどよく身体も温まってきたところで、
「さ、じゃあ泳ごうか月村さん」
「あ――ええと、……はい」
どこか煮《に》えきらないままの真由を連れ、水に入る。
が、足もとに気をつけながら浅瀬を進んでいるうちに思い至《いた》った。
『泳ぐ』という真由の言葉を額面《がくめん》どおり受け取り、本当にただ泳ぐだけのつもりでいたのだが――どういう泳ぎをすればいいのだろう。
彼女はどんな泳ぎを望んでいるのか。どちらが速く泳げるか競争――そんなことがしたいわけではあるまい。沖《おき》まで、あるいは隣《となり》の島まで遠出するというのは――何の用意もないままでは危険が多すぎる。できるだけ深いところまで潜《もぐ》ってみたいとか――だったらシュノーケルなり何なりを装備《そうぴ》してダイビングした方がいい。
そのあたり訊《き》いておいたほうがいいな、と思ったところへ「あのう、すいません」真由が呼びかけてぎた。
「あの、さっきわたし『泳ぎましょう』とは言ったんですけど、実はあまり泳ぐの得意じゃないんです。それで――」
「そうだっけ? でもこの間の水泳の授業《じゅぎょう》では普通《ふつう》に泳いでいたような……」
「ええとその、プールとかの、足のつくところはだいじょうぶなんです」
「そう? じゃあ深いところへ行くのは止《よ》そう。その方が安全だと思っていたところだし。このあたりだったら浅瀬《あさせ》ばかりだ、ちゃんと足もつく」
「あの、でもですね、さんご礁《しょう》って結構とげとげしてるし、足に刺《さ》さったらケガしちゃうかもだし……」
「ああ、それは確《たし》かに。じゃあどうしょうか――そう、だったら浮き輪を借りてこよう。それなら足をつける必要もないし、溺れることだってない。一石二鳥だ」
「あう……あの、でもその、やっぱり海はあぶないです。うみへびとかに噛《か》まれるかもしれないし、大王イカにつかまって引きずり込まれるかもしれないし……」
察しの悪い峻護だがここまで来ればさすがに感づいた。月村真由、どうやらさほど泳ぎたいわけでもないらしい。というより、もっと他《ほか》にやりたいことがあるようだ。
そもそも彼女の言葉を額面どおり受け取った時点で間違っている気がしてきた。『泳ぎたい』というのはこの場合、おそらく海遊び全般《ぜんぱん》を指しているのだろう。ましてこんなところまで来て競泳やら遠泳やら素潜《すもぐ》りやらを望んでいるとは考えにくい。
峻護、まったくもって今さらながら納得《なっとく》し、頭を切り替《か》えることにした。
「わかった。泳ぐのは中止にしよう。たしかに海は危険だよな。甘《あま》く見てはいけない」
「そうです、そうなんです。万一のこともありますからっ」
「じゃあ他にやりたいことはある? あるんなら遠慮なく言ってほしい。今日は無礼講なんだから」
「で、ですよね、今日は無礼講でした。じゃあですね、あのですね、ええと……」
「うん」
「ええと、その……」
なかなか切り出してこない。
「だったらスイカ割りとかはどう? これだったら危険もない。ああ、でもスイカなんてこの島にあるかな……なかったら、椰子《やし》の実とかで代用しても構わない?」
「あの、それもすごく魅力的なんですけど、割った後はスイカを食べないといけないし、でもさっき果物はたくさん食べたぱっかりだし……」
「なるほど、確かにそれは言えてる。じゃあ流しそうめんとかは? ああでもこんなところじゃ竹筒《たけづつ》とかは無さそうだし……そうめん自体もあるかどうか微妙《びみょう》だな。よし、ちょっと訊いてこよう」
「あの、そろそろ夕食になると思いますし、この時間におそうめんというのは……」
「なるほど一理ある。じゃあ島の奥《おく》に入ってカブトムシでも探《さが》すっていうのは? こういう熱帯だし、珍《めずら》しいやつが見つかりそうな気がするけど」
「あの、わたし昆虫《こんちゅう》はちょっと……」
だんだん路線がずれていく提案《ていあん》を困《こま》り笑いで遠慮していく真由。峻護は峻護で自分なりに良かれと思って示したアイデアをことごとく否決《ひけつ》され、弱り顔である。
「う―ん、だったらやっぱり、ここは月村さんに任《まか》せたほうが無難《ぶなん》だな。こういうことって、おれはよくわからないから」
「あっ、はいすいません、ありがとうございます。実はひとつ、やってみたいことがあります」
「何? 言ってみて」
「はい、ええと、その……」
うつむき加減《かげん》にもじもじしている。そこまで薦踏《ためら》うようなことなのだろうか。よほどの危険が伴《ともな》うとか。
「ええとですね、今日は無礼講ということでいいんですよね?」
「うん? ああ、そうだな、今日は無礼講ということでいいと思う」
「ありがとうございます。じゃあですね、ちょっとあちらの方を向いててもらえないでしょうか?」
「あちら?――これでいい?」
言われたとおり真由に背を向ける。
浅瀬の向こう、珊瑚礁《リ―フ》の切れ目のあたり。寄《よ》せては砕《くだ》け、白いしぶきを上げる波。そのさらに向こう。傾《かたむ》きも顕著《けんちょ》となり、あざやかに色づきつつある太陽。そしてどこからか湧《わ》いては吹《ふ》き過《す》ぎてゆく甘《あま》い潮風《しおかぜ》。
――経緯には確かに問題があった。ここに連れてこられた後も、必ずしも乗り気だったわけではない。
では後悔《こうかい》しているのか、と今だれかに間われたら? 彼はこの、目の前に広がる壮大《そうだい》なパノラマを示してこう言うだろう。すなわち「これが答えだ」――と。
心を洗《あら》う光景に不覚にも酔《よ》いしれているところへ、「二ノ宮くん」と声がかかった。
我《われ》に返り、あわてて振り向き、
「ああ、すまない、ちょっとぼんやり」
してて――と最後まで言うことはできなかった。
視界《しかい》を覆《おお》った水しぶきに目を閉《と》じる間すらなく、陽《ひ》に温められたぬるい潮が顔面を通り過ぎ、塩辛《しおから》い味覚を舌に残して再《ふたた》び海に還《かえ》ってゆく。
何が起こったのかわからず、鳩《はと》が豆鉄砲《まめでっぽう》を食《く》らったみたいにきょとんとする峻護。
「……えへへ」
海水を彼の顔にかけた張本人《ちょうほんにん》が、両手を水を掬《すく》う形にしたまま照れくさそうに笑った。
峻護、それでもまだ事態を把握《はあく》できない。
それを見た真由は子犬のように首をかしげると、「えい」もう一度水しぶきの洗礼《せんれい》を浴びせる。――ストライク。
再度顔面にシャワーを浴び、しかし峻護はそれでもまだ間抜《まぬ》け面《づら》を崩《くず》さない。
それを見た真由がはじめて不安げな顔を作り、「ええと……えい」だがなおも水かけ攻撃《こうげき》を敢行《かんこう》する。クリーンヒット。
「…………っ」
三度海水を舐《な》めさせられて、きょとんとしていた峻護の様相が一変した。仏の顔も三度まで、とでもいうつもりか、まるで怒《いか》りに耐えかねるがごとく顔をうつむけ、肩を震《ふる》わせ始める。
真由は、気の毒なほどうろたえた。
「すっ、すいません、あの、これはですね、わたし一度はやってみたかったというか、大げさに言えば夢《ゆめ》だったというか、まさか二ノ宮くんがそこまで怒《おこ》るとは思わなかったし、無礼講だって言ってくれたからつい調子に乗って、でもそうですよね、だれだって海の水をかけられたら嫌ですよね、塩辛いですもんね、すいません、もっと配慮するべきでした、こういうことはせめてプールでやるべきできゃっ」
その口が強制的に塞《ふさ》がれた。
峻護がかけた、お返しの一撃によって。
機関銃《きかんじゅう》の掃射《そうしゃ》を食らった鳩みたいにきょとんとする真由。したたる塩水。
峻護が、うつむけていた顔をゆっくりと上げる――にやり、と唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げながら。
「……あは」
ほころんでゆく。それを見た真由の口もとも。
それが、史上まれに見る激戦《げきせん》の幕開《まくあ》けであった。
「あーあー、なんだかもう、びっくりするのも馬鹿馬鹿しくなってきたなあ」
子供《こども》のように浅瀬《あさせ》ではしゃぎまわる二人を観察する保坂、もはや苦笑《くしょう》する他ない。
「真由さん、ぎっとああいうの好きなんだろうなあ。それともああいうやり方しか知らないのかな? でもってそれに付き合う二ノ宮くんも初々《ういうい》しいというかなんというか――ああもう、ぼく、さぶいぼ立ってきちゃった。ね、お嬢《じょう》さま? お嬢さまもそう思いますよね?」
応答《おうとう》をまったく期待しない同意を求めると、案の定麗華は沈黙《ちんもく》でもって報いてくる。
ちらりと、隣《となり》にいる主人を盗《ぬす》み見た。
こわい顔をしている。だが保坂にはわかる――その下に本当はどんな顔が隠《かく》れているか。わざわざ暴《あぱ》かずとも、彼にはちゃんと見えている。
「ぼく、思うんですけど。真由さんってもちろん美人だし、性格《せいかく》もいいんだけど、でもそれだけじゃない気がするんですよね。彼女って、もっと別の何かがあるんですよ」
「…………」
「なんていうのかな――オトコを力ずくでひきつけて離《はな》さない、人情とか感情とかの理屈《りくつ》を超《こ》えたところで影響《えいきょう》する妖気《ようき》みたいなもの、とでもいうのかなあ。二ノ宮くんみたいに半端《はんぱ》でなくお堅《かた》い人を落とすには、そういうプラスアルファが必要なのかも、ですね」
麗華、くちびるを引き結んだまま前方を睨《にら》みつけている。
その手に双眼鏡《そうがんきょう》はなく、さして視力がいいわけでもない彼女の裸眼《らがん》では、豆粒大《まめつぶだい》のコガネムシがバケツに張った水の上をもがいている光景と大差ないものしか映《うつ》っていないだろうに、それでも麗華は目に映る何かを睨み続けている。
大いに戯《たわむ》れ合った。まったく、どうかしてしまったんじゃないかと我《われ》ながら疑《うたが》うくらい、羽目を外しに外した。
ひたすら水をかけ合う。基本《きほん》は左右の手を交互《こうご》、あるいは同時に繰《く》り出しての弾数《たまかず》重視。あるいは両手合わせの大砲《たいほう》で一発|狙《ねら》い。時には足で水面を蹴《け》り上げて博打《ばくち》をうつ。真由が矯声《きょうせい》を放つ。こちらも何だか意味のわからない大声をあげる。まったく、これだけストレートに感情を表に出すのはどのくらいぶりだろう。
猛攻《もうこう》に閉口《へいこう》したかのように踵《きびす》を返し、駆《か》け出す真由――もちろん満面の笑《え》みをたたえたまま。毛頭|逃《に》がすつもりはない。すぐに追いつき、バックアタックをかける。悲鳴の形を借りた黄色い声と、背中を向けたまま健気《けなげ》にも繰《く》り出してくる反撃。それをものともせず攻勢を強めるとあっさり抵抗《ていこう》を放棄《ほうき》し、再度|逃走《とうそう》を開始。ここで手を緩《ゆる》めてはならない。すぐさま追撃戦を展開《てんかい》する。
楽しい、と素直《すなお》に思えた。なんの苦もなく頭をからっぽにできた。先日来――真由が二ノ宮家に来てからの一週間。納得したつもりでも、湯飲みの底に沈殿《ちんでん》した茶渋《ちゃしぶ》のようにこびりついていた微量《びりょう》な負の感情。それがことごとく払拭《ふっしょく》された。|心の洗濯《リフレッシュ》? いや、それ以上。新生《リボ―ン》とさえいえる魂《たましい》の、存在《そんざい》の再生産。
ここへ来てよかった。本当に。
真由が足を止めて振り返り、乱打戦《らんだせん》に応じてきた。頑是《がんぜ》ない子供のように精《せい》いっぱい腕を回転させ、峻護に一矢報《いつしむく》いようとする――はじけるような笑顔は変わらぬまま。おそらくこちらも彼女と似たり寄ったりの顔をしているのだろう。それを自覚しつつ、その爆発する感情を生のまま全身に伝え、激しく応射する。
「きゃっ……もうっ、こうなったら――奥《おく》の手ですっ!」劣勢《れっせい》の真由がひときわ大きく身をかがめた。 一発逆転、特大の一撃をお見舞《みま》いするつもりだろう。
「うわ、ちょっと待って――」
「待ちません! そお―――――――れっ!」
掛け声と共に、予想に違《たが》わぬ盛大《せいだい》な波が来た。思わずひるみ、もろにそれを浴びる。目蓋《まぶた》と口は閉《と》じたもののタイミング悪く息を吸《す》ってしまった。
鼻に入る。咳《せ》き込む。目の裏までツンとくる。
「げほっ……待った、わかった月村さん、おれの負け……」
なおも咳き込みながら両手を振り、降参《こうさん》の意を示《しめ》すが――何の反応もない。
「?」
潮の刺激《しげき》をこらえつつ目を開け、加害者を見た。
しりもちをついていた。
大技《おおわざ》を繰り出す際に勢い余ってひっくり返り、頭から浅瀬に突《つ》っ込んだらしい。どこぞの地縛霊《じばくれい》のように濡《ぬ》れそぼった髪を顔に張り付かせ、自分に何が起ったのか把握《はあく》してないのか今なお目を丸くしている。
ぶっ
噴《ふ》き出した。そのあとに来る笑いの波に備《そな》えようとして、一秒ももたなかった。
「あはははははははははははははははははははははははははははははははははははは!」
爆笑《ばくしょう》。
その馬鹿笑いを聞いた真由がようやく我に返り、頬《ほお》を膨《ふく》らまし、
「ひ、ひどいですっ。笑いすぎです!」
「す、すまない、確かに笑いすぎだ。あやまる」
涙《なみだ》を堪《こら》え、呼吸《こきゅう》困難《こんなん》に苦しみつつ、神妙《しんみょう》に謝罪《しゃざい》した。
それにもかかわらず河豚《ふぐ》みたいになった顔に朱《しゅ》をのぼらせ、大いに睨んでくる真由。
その頭の上に。
カニ。カニがいた。
何の偶然《ぐうぜん》か、頭の上にカニが乗っていた。
それもハサミを振り上げ、こちらを威嚇《いかく》しながら。
家主である真由とおそろいで。
「――なっ、なにがおかしいんですかっ!」
再《ふたた》び腹《はら》をよじり始めた峻護に抗議《こうぎ》の声が降りかかるが、ただでさえ笑いを堪えるのが至難《しなん》だった状況、そこへきてこれでは――
これまでのむっつり人生に帳尻《ちょうじり》を合わせるかのように笑いつづける。なおも不服を申し立てていた真由もやがてあきらめ顔になり、すると今度は彼女にもおかしみが込み上げてきたのか、口もとに手を当ててくすくすと笑い始める。
真昼に比《ひ》してやや温度を下げた風が、二人の間をやさしくすり抜《ぬ》けてゆく。
「……ふう。いや、すまない。本当に笑いすぎた」
「いえ、わたしだって逆《ぎゃく》の立場だったら笑いますから」
ようやく腹筋と横隔膜の痙攣を収めた峻護が頭を下げ、真由が微笑《びしょう》でそれに応える。
「……ああ、いつの間にかこんなところまで来ていたのか」
顧《かえり》みれば、けっこう沖《おき》の方まで出てしまっていた。
「ちょっと遠くまで来すぎたな。少し戻ろう。ここだと何かあった時に対応がしにくい」
「あっ、はい、そうですね。戻りましょう」
しりもちをついたままの真由が腰を上げようとして。
その動作を途中《とちゅう》で止めた。
なにやら意趣《いしゅ》ありげな顔をしている。
「月村さん?」
「……あの、ですね」
視線《しせん》の先が落ち着きなく行き場を変えている。
「なに? ひょっとしてケガでもしているとか」
「え―とその、ケガとかはないんですけど、ちょっと足首をひねってしまったような、そうでもないような。立てないわけでも歩けないわけでもないけど、大事を取った方が無難な気がしなくもないというか。実際に痛《いた》いのかと言われれぱそうでもないんだけど、重ねて痛いのかと言われれば何となくそんな気がしてくることも有り得なくはないというか。だからなんというか、」
「…………」
「す、すいません、やっぱり起きます、はい、おまたせしてすいませ――」
「月村さん」
差し出された手に、真由は口を閉《と》ざす。
「ええと、その、」
見上げてくる瞳《ひとみ》から目線を逸《そ》らしつつ、
「すまない、おれも鈍《にぶ》いというか気が利《き》かないというか。確かに身体《からだ》の不具合というのは自分で気づかないものもあるわけで、こういう場合は大事を取った方がいいに決まっているわけで。たとえそんな気がするというだけでも、まだ痛むんだったらこうすれば少しは支えになるかもしれないというか、また足を滑《すぺ》らせたりしないための予防《よぼう》というか転ばぬ先の杖《つえ》というか同じ轍《てつ》を踏《ふ》んではいけないというか」
「…………」
「つまりその、あ―、……よかったらこの手、使ってくれ」
「あーあーもう、見ちゃいられないですよう……あれって目に毒ですよね、ある意味」
双眼鏡を下ろした保坂、諦観《ていかん》じみた色をまじえて長々と吐息《といき》する。
「で、どうしますお嬢《じょう》さま? やっぱり水、かけます?」
「……やるわよ」
「ただ先に言っておきますけど――水かけのほうはまだしも、二ノ宮くんの見てる前でわざと転んで助けてもらおうとすると失敗しますよ、ボートの時と同じで。でもやっぱりそっちもやりますか?」
「…………」
「お嬢さま?」
おもむろに屈《かが》み込み、麗華は砂浜《すなはま》に何かを探《さが》しはじめた。
「お嬢さま、なにをやってるんです?」
やがて拾い上げた小さな貝殻《かいがら》は、半分に割《わ》れてちょっとした刃物《はもの》のように尖《とが》っていて、麗華は無言のままそれを己《おのれ》の指先に持っていって――
「あ。ずるした」
下僕《げぼく》の肯定《こうてい》的とはいえない感想には耳を貸《か》さず、マチ針大の血だまを指に乗っけたまま、もはや戦略《せんりゃく》的勝算どころか戦術《せんじゅつ》的なそれさえない、意地だけに支《ささ》えられた特攻《とっこう》へと令嬢は赴《おもむ》く。
高笑いが届《とど》いては来たが、それを聞くまでもなかった。前方のビーチに『こまったひと』が待ち構えているのはとうにわかっている。
ここまで来ると真由も心得たもので、
「あ、わたし先にあがってますね。もうそろそろ陽《ひ》も暮《く》れてきますし」
峻護がなんのアクションも起こさぬうちからそう申し出てくれた。
「……何度もすまない。おれもできるだけ早くあがるから」
足早に離《はな》れていく後ろ姿《すがた》に頭を下げ、こちらも駆《か》け足で呼《よ》び出し先へ向かう。
「――遅《おそ》い。いい加減《かげん》待たされるのにも飽《あ》きましたわ、わたくし」
「はあ、すいません。これでも走って来たんですが」
「お黙《だま》りなさい。口ごたえは許《ゆる》しませんよ」
「はあ、すいません。それで、用件《ようけん》は?」
それには応《こた》えず、麗華はただあごをしゃくり、先に歩き出す。
おとなしくついていくが――しかしよくよく考えるまでもなく、そのルートはつい今しがた峻護が通ってきたものと同じ。つまり、浅瀬《あさせ》に向かっている。
膝裏《ひざうら》のあたりまで海に浸《つ》かったところで止まった。
そのまま動かない。腕組《うでぐ》みをし、背《せ》を向けて、両足は肩幅《かたはば》に広げたまま。
「先輩《せんぱい》?」
いらえもない。色を深めた陽の光に照りかがやく海原《うなばら》――金色《こんじき》の麦畑に佇《たたず》んでいるような細いシルエットの肩に緊張が凝《こ》り固まっているのが見える。
「先輩?」
再度の呼びかけに、その緊張が弾けるのが見えた。
振《ふ》り向く。
背後《はいご》に立った痴漢《ちかん》に平手打ちをかますような勢《いきお》いで腕を振り上げながら――
しかしその手は峻護の頬《ほお》ではなく海面に向かって伸《の》ぼされて――
次の瞬間《しゅんかん》、見事な弧《こ》を描《えが》いて塩水の散弾《さんだん》が放たれた。
本物の散弾なら原形も止《とど》めぬ肉片《にくへん》と成さしめたであろう速度と精度《せいど》で、それは峻護の全身を舐《な》めつくす。
想定外の威力《いりょく》に思わずたたらを踏《ふ》んだ。鏡があれぱ、主人に石を投げられたチワワみたいな顔をしている己の姿を彼は見たことだろう。
麗華は麗華で、まさかそこまで高威力の一撃を繰り出すことになるとは思わなかったらしい。むしろ自分が被害者《ひがいしや》であるかような面持《おもも》ちで、気まずそうに顔をそむける。
「……こっ、これは、」
目を泳がせたがら言い繕《つくろ》う、
「これは――そう、北条家に代々伝えられている独自《どくじ》のおまじない。これを浴びた者はその一年間、無病|息災《そくさい》を得られるとか。たった今それを思い出して、なんとなくやってみたくなったのです。感謝《かんしゃ》なさい」
どこかの銭《ぜに》ゲバ神社のようにご利益《りやく》の押し売りをしつつ、さらに声を大きくする。
「そんなことはどうでもいいのです。あなたに用があるのですわ二ノ宮峻護」
言って、ぐい、と片手《かたて》を突《つ》き出した。
「? 手が、どうかしましたか?」
「あなた、その眉《まゆ》の下についてるものはガラス玉なの? よく御覧《ごらん》なさい」
その通りにする。
白魚《しらうお》のような、という比揄《ひゆ》が誇張《こちょう》にならない、美しい指。ゴツゴツしにところがまるでない――冬の北国、雪に覆《おお》われた丘《おか》の稜線《りょうせん》みたいになめらかなライン。
さらに目を凝らすと、人差し指の先に鮮《あざ》やかな赤が滲《にじ》んでいるのが見えた。
「ケガをしていますね」
「そうですわね」
といってもほんのわずか皮膚《ひふ》に切れ目が入っているだけ。蚊《か》に食われたのと大差ない。せいぜいが注射針を刺《さ》された程度《ていど》の傷《きず》である。
「ええと、それで?」
「それで、ですって?」
お嬢《じょう》さまはまなじりをいからせ、
「あなたの頭蓋骨にはスポンジでも詰まってるのかしら? 何をすればいいかなんて、考えるまでもないでしょう」
「はあ。ですが……」
そもそもほとんど出血の止まっている裂傷《れつしょう》に対してできることなどそう多くはない。確《たし》かに海水に晒《さら》していてはいい影響《えいきょう》があるはずもないが、しかし問題は――
判断《はんだん》に窮《きゅう》しているところへ、さらに苛立《いらだ》ちを募《つの》らせた声、
「さっさとなさい二ノ宮峻護。待たされるのには飽きたと言ったはずよ」
やむをえない。
「わかりました。では、失礼して――」
観念して、麗華の指を口にくわえた。
「――ひゃわっ?」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な悲鳴を耳にしつつ、傷口を消毒する。舌《した》で。丹念《たんねん》に。
「なっ、そっ、やっ、なっ、」
錆《さ》びた鉄の味を余韻《よいん》に残しつつ、指を解放《かいほう》した。
「――! ――!」
麗華、顔を耳まで紅潮《こうちょう》させ、治療《ちりょう》の終わった指を抱《だ》きかかえるようにして一歩後ずさり、口をぱくぱくと開け閉《し》めし、まともな言語どころかろくに音声さえ出せない始宋で、
「……あの、先輩? やっぱりまずかったですか?」
何の医用品も手もとにない状況《じょうきょう》ではこれ以外に方法がなかったし、彼女もてっきりそれは承知《しょうち》していると思ったのだが……
「ば、ばかっ。も、もういいですわっ、わたくし、失礼いたします!」
ばしゃばしゃと飛沫《しぶき》を上げ、時おり足をもつれさせながら走り去ったところをみると、そうではなかったのだろうか。
「――ま、お嬢さまのあれは天然だろうけどね。でもこの状況でそれを出してもねえ」
背後《はいご》から能天気《のうてんき》な声。
あっさり背中を取られることに馴《な》れ始めた自分に悲しいものを覚えつつも、努めてそれを表に出さないよう振り返る。
「……保坂先輩、何度も言いますが――」
「とはいえ君もイイ性格《せいかく》してるなあ」
「? 何がです?」
「いや、いいんだよ。今はまだね」
にこやかな微笑《ぴしょう》を崩《くず》さぬまま、付き人少年は峻護の横を通り過《す》ぎる。
「二ノ宮くんもそろそろあがったほうがいいよ。潮も満ちてきたし、風も強くなってきたから」
確かに。膝《ひざ》の裏程度《うらていど》までしか掛からなかった小波《さざなみ》は今では腿《もも》に届きそうだし、潮風はまだなお熱気を含《ふく》んでいるものの、濡《ぬ》れた肌《はだ》には少々つらくなってきた。
「それじゃお先に」
手をひらひら振って保坂、水の抵抗《ていこう》を感じさせない足取りですたすたと遠ざかってゆく。
それを手持ち無沙汰《ぶさた》に見送りつつ、峻護はなおも動かない。
自問する。
――イイ性格だって? おれが?
それは、おれの周りでおれの平穏《へいおん》を引っ掻《か》き回す連中にこそ言ってやりたい。
「まったく……」
ひとりごち、潮でねばりを帯びはじめた髪《かみ》をかきむしる。
海面を走る風がまとわりつき、ぬるい感触《かんしょく》を残して吹《ふ》き去ってゆく――
海遊びを切り上げて潮を洗い落とすために風呂《ふろ》へ向かった峻護は、その浴場を目に入れるや思わず歓喜《かんき》の口笛を吹いていた。
露天《ろてん》の岩風呂である。
年経《としへ》た珊瑚《さんご》で出来た石灰岩《せっかいがん》を切り出して浴槽《よくそう》とし、いきれ[#「いきれ」に傍点]が立《た》つほど濃厚《のうこう》な熱帯の緑がそれを囲み、見目|鮮《あざ》やかに咲《さ》き乱《みだ》れる花々がアクセントを加えている。
なるほど、姉がここを選んだ理由がよくわかった。このあふれる野趣《やしゅ》、一級の湯を楽しめること請《う》け合いである。先日来、入浴の面白《おもしろ》さに急激《きゅうげき》に目覚め始めた彼にとって、これはなによりの馳走《ちそう》だった。
さっそく足を入れる。すっかり陽《ひ》に焼けた肌《はだ》には少々刺激が強すぎるきらいもあるが、それもまた心地《ここち》よい。
さらに峻護を喜ばせたことに、どうやらこの湯は温泉《おんせん》らしいのである。無色|透明《とうめい》で特有の香《かお》りもないが、つるつると皮膚《ひふ》を磨《みが》き上げるようなこの感触。間違《まちが》いない。
首まで浸《つ》かって大きく息をつき、満足の意を示《しめ》す。見上げれば茜色《あかねいろ》に滲《にじ》みつつある空。気の早い一番星が早くも名乗りをあげ、それをさえぎるように森から鳥の群《む》れが飛び立っていく。
目を閉じれば海を渡る風の息吹《いぶき》。木々に潜《ひそ》む、生あるものたちの呼吸《こきゅう》。
太平楽である。
もっとも、その穏和《おんわ》な時間も大して長続きはしないのだろうが――
「……あのう、二ノ宮くん」
予想に違《たが》わず、さっそくそれは破《やぶ》られることとなった。
「あの、わたしもご一緒《いつしよ》して構《かま》いませんか?」
岩に背中を預《あず》けたその後ろから、遼慮《えんりょ》がちな申し出。
「ええとですね、このコテージって、お風呂はここ一つしかないそうなんです」
そう。驚《おどろ》くべきことに、どう考えても一級セレブ向けであるはずのこのコテージには、入浴可能な設備《せつぴ》がここしかないというのだ。まったく、涼子がここを選んだ理由がよくわかる。
「それでですね、今日は無礼講《ぶれいこう》ということですし、できることならご一緒したいと――」
「月村さん。まずは確認《かくにん》しておきたい」
振り返らずに問う。
「月村さんは今、水着? それとも――」
「みっ、水着です! もちろんです!」
「わかった。じゃあ今度はおれたちの置かれた状況《じょうきょう》も確認しておきたい」
ごく冷静な口調で、
「確かにおれたちは普段《ふだん》から一緒に風呂に入っている」
問題発言だが、事実である。
「ただしそれは君の男性《だんせい》恐怖症《きょうふしょう》を治すための特訓、という名目でやっていることだし、それにちゃんとお互《たが》いに水着をつけた上でのことだ」
これも事実。
「月村さんはいま水着をしているからこれはいいとして、問題は、だ。ここは南の島で、バカンス中で、なおかつ今日のおれは『特訓』から解放されているということだ。そのことについては姉さんの許可《きょか》も下りている。ということは――」
一呼吸《ひとこきゅう》置き、断固《だんこ》として告げる。
「おれに、君と一緒に風呂に入る義務《ぎむ》はないということだ」
「……そ、そうですか――そっ、そうですよね、よく考えたらおかしいですもんね、男の人とお風呂に入るなんて。普段から一緒だったから、ついその頭で変なこと言っちゃいました。すいませんごめんなさい、わたしお風呂はやめてタオルで身体《からだ》ふいてきますからこれで、」
「――と、本来なら言うところだけど」
「え?」
「月村さんが望むなら、今日に限《かぎ》っては構わないと思う。というのも、今日は無礼講ということになっているから。しかも提案《ていあん》したのはおれだ。それに反する行動を取るのは節義《せつぎ》に悖《もと》ることになる」
まどろっこしい男である。そもそも真由の登場は予想の範囲《はんい》内であり、その証拠《しょうこ》に二ノ宮峻護、下は海パンのままなのだ。
「そういうことだ、月村さん。どうぞ中へ。いくら南の島でもそろそろ冷えてくるから。早く温まったほうがいい」
「二ノ宮くん……」
大げさにも感極《かんきわ》まったように、真由。次いでひどく照れくさがる気配が伝わってきて、
「すいません、ええと、それではお言葉に甘《あま》えて――」
視界《しかい》の端《はし》、すぐ隣《となり》にスリムな脚《あし》が伸びてきて、
「ちょっとお待ちなさいッ!」
島中に響くような怒声《どせい》が空気を震《ふる》わせた。
確かめるまでもない。怒気もあらわにずかずかと介入《かいにゅう》してきたのは、メイド服に着替《きが》えた北条麗華。そのうしろから「よしましょうよー。オチが見えてるじゃないですかぁ」と忠言《ちゅうげん》に及《およ》びつつ保坂が追ってくる。
だが令嬢は下僕《げぼく》の忠告など一顧《いっこ》だにしない。怨敵《おんてき》の目と鼻の先まで顔を近づけると噛《か》み付かんばかりの勢《いきお》いで、
「月村真由! 『お言葉に甘えて』じゃないでしょあなたっ。なに考えてるの、こんな、二ノ宮峻護と――男と一緒に入浴するなんて!」
「あの、でも、この島にお風呂はここしかないし……」
「時間をずらすとか、いくらでもやり方はありますでしょう!」
「あのね月村さん。お嬢さまはね、ここのお風呂が混浴《こんよく》だって聞いてね、今はタオルで身体を拭《ふ》くだけで我慢《がまん》してるの。あとでこっそり一人で入るつもりだったみたい」
「保坂! 今度|余計《よけい》な口を利《き》いたらその唇《くちびる》をホッチキスで留めてやりますからねッ。いいこと月村さん、これは最後通告よ。わたくしが冷静でいられるうちにここを出なさい! 今、すぐ!」
「でっ、でも、わたしも二ノ宮くんも水着だし……」
「デモもテロもありません。ここはプールでも海水浴場でもないの、浴場なのよ! 男女が共にあることなど許されざる無体《むたい》です。わたくし断《だん》じて、断じて認《みと》めませんから!」
「――あらあら、ひどい暴言《ぽうげん》ねえ」
「まったくだ。混浴を全否定するがごとき発言……到底《とうてい》、聞《き》き捨《ず》てならないな」
げっ、と峻護、思わずうめいていた。出た。涼子&美樹彦。今日一日はおとなしくしているかと思ったのに。
「まだ麗華ちゃんには話してなかったかしら? 二ノ宮家ではね、混浴が奨励《しょうれい》されているの。もちろん二ノ宮家の住人である真由ちゃんにも、そして麗華ちゃん、あなたにもそのことは適用《てきよう》されるわ」
「そ、そんなこと――!」
何食わぬ顔でのたまう姉だが、十六年間二ノ宮家の住人をやっている峻護でさえ初耳である。麗華が知るはずもない。
「そう、浴場とは本来それがあるべき姿。男女が性別の垣根《かきね》を取り払《はら》い、互《たが》いに胸襟《きょうきん》を開き合う神聖《しんせい》なる場所――それがアカシックレコードにも刻《きざ》まれている人類共通の良識《りょうしき》であり、入浴の真髄《しんずい》である。人知の結晶《けっしょう》たるこの文化を尊《とうと》び、欣《よろこ》んで準《じゅん》じるのが地球市民としての筋《すじ》ではないかね?」
さらに美樹彦が詭弁《きべん》を弄《ろう》し、涼子の即席方針《そくせきほうしん》を補強《ほきょう》・支援《しえん》する。
「それにね、麗華ちゃん」
さらにさらに涼子、麗華が反論《はんろん》する前にするすると近づき、そっと耳うち。
「あなた、まさか約束を忘《わす》れたわけじゃないでしょうねえ……?」
「約束?」
「わたし、峻護を落とすことで真由ちゃんの邪魔《じゃま》をするのは認《みと》める、とは言ったわ、確かに。でもあなたの今の行動、それとはちょっと外れるんじゃないかしら」
「こ、これは、だって、あの小娘《こむすめ》があんまり破廉恥《はれんち》なことをするから……」
「言い訳《わけ》無用。おまけにその着衣は何? ちゃんと言いつけどおりメイド服を着てるのは感心だけど、お風呂場でその格好《かっこう》は頂《いただ》けないわねえ。腰抜《こしぬ》けの峻護に免じて水着の着用だけは認めてあげたけど、本来入浴に繊維製品《せんいせいひん》は不用のもの。一糸まとわぬ姿こそがあるべき礼儀《れいぎ》。それを知りながらこんな厚着《あつぎ》をしてきて……」
「ちょ、聞いてないですわよそんなこと! それにわたくしはお風呂に入るつもりでここに来たんじゃ、」
「だーめ。おしおきが必要ね」
そう言うや否《いな》や涼子、獲物《えもの》にからみつくニシキヘビの動きで麗華の動きを封《ふう》じつつ、その肩《かた》にしなだれかかる。
「やっ……な、何を、」
「そうねえ、ちょっといたずらしてあげようかな、ってね」
涼子の手がもぞもぞと動きはじめた。
「ひゃんっ! ちょ、あなたどこさわって……!」
「うふふ。感度いいわねえ。今からこれではこの先どうなるやら。楽しみだわ」
「ひっ……あ、あなた、まさかそういう趣味《しゅみ》が――」
「うふふ。さあどうかしらねえ」
「い、いやああああああああああああっ! いやですわたくしいや、やだってば、ちょ、そんなとこ、きたな、」
「ま。いい反応《はんのう》ねえ。かわいいわ。ほんとに食べちゃおうかしら」
「――っ! ちょっと保坂! なに指くわえて見てるのよっ。とっとと助けなさい!」
「えーとごめんなさいお嬢《じょう》さま。ぼく、その人に勝つのは無理なので。自力で何とか」
「こ、この無能者! あんたたんか、あんたなんか、」
「めくるめく薔薇《ばら》と百合《ゆり》の世界へようこそ、麗華ちゃん。この味を一度知ったらクセになるわよお。ふふ、わたしも久々《ひさびさ》だから燃《も》えてきたわ」
「じょ、冗談《じょうだん》よね? 冗談ですわよね?――ちょ、本気? 本気なの? だっ、だめ、や、ボタンが、無理、破《やぶ》れる、ほんとに、外れ、」
「…………」
あられもない様相を呈《てい》してくる麗華に心の中で十字を切る峻護だが、知らぬ存《ぞん》ぜぬを決め込んでいる彼にも災厄《さいやく》は襲《おそ》いかかってきた。
「あっはっは。楽しそうだなあ、涼子くんも麗華くんも」
美樹彦である。
「どうだい峻護くん。僕《ぼく》たち二人も」
「……………何がです?」
「なあに、別段大したことではない。我々も彼女たちを見習ってしっぽりやろうではないか、という提案なんだが」
「冗談は休み休み言ってください」
「まあそう言わず」
「近寄らないでください」
「ふふふ、みんな最初はそう言うのさ。君と同じ反応を示した者のうち実に十割が、ことの前と後とでは真逆《まぎゃく》の態度をとったものだ。どうだい? 君も僕の撃墜《げきつい》記録|更新《こうしん》に協力してみては」
「寝言《ねごと》は寝て言ってください」
「まあそう言わず」
「じりじりと近寄らないでください」
もはやのんびり湯に浸《つ》かってなどおれず、虎《とら》に狙《ねら》われた猫《ねこ》のように後退《こうたい》する峻護。決定的な実力差のある美樹彦が相手である。もし本気でこられたら――さぞかし無残な未来が彼の肩《かた》を叩《たた》くことになるだろう。
最悪の結末はできるだけ考えないようにしつつ、彼は己《おのれ》の貞操《ていそう》のための闘争《とうそう》、あるいは逃走《とうそう》に身を投じる覚悟《かくご》を決める。
「楽しそうだねえ」
と呼びかけた保坂の言葉を、自分に向けられたものとは思わなかったのだろう。数テンポ遅《おく》れてようやく真由の反応が返ってきた。
「え? な、なんですか?」
「いや、楽しそうだな、って思ってさ。あのひとたち」
真由の恐怖症《きょうふしょう》に配慮《はいりょ》して五メ―トル離《はな》れた位置から、再度《さいど》話しかける。
「……あの、その、二ノ宮くんと麗華さんは、あまり楽しんでいないように見えます」
それでも彼女の感情を刺激《しげき》するらしい。かなりびくついた声調子《こわちょうし》でそう応じてきた。
「うん、なるほど。真由さんにはそう見えるのかな」
頷《うなず》いておき、この、主人にとって最大の障害《しょうがい》を横目で観察する。
はらはらおろおろ、憂《うれ》い顔の弱り顔で、眼前《がんぜん》に展開《てんかい》する阿鼻叫喚《あびきょうかん》な状況を見守っている。
そこに本音以外の成分は分子ひとつ紛《まぎ》れてはいないのだろうが。
(読みにくいんだよねー、このひとって)
まあいい。種を蒔《ま》き、芽も出始めた。あとは水をやって、雑草《ざっそう》を抜いて、陽に当てて。
でも、収穫《しゅうかく》をどれほど皮算用したところで結局は――
(なるようにしかならないんだよねー)
いずれ、彼にできることはそう多くないのだ。それもまたわかりきったこと。
今はただ月村真由と同じく、馬鹿さわぎの光景を苦笑《くしょう》をもって見守るだけ――
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其の三 彼女が月夜に目覚めれば
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コテージの一隅《いちぐう》、ゲストル―ムの一室で。
息も絶《た》え絶《だ》えに死地を脱《だつ》した麗華がベッドに突《つ》っ伏《ぷ》していた。砂浜《すなはま》に打ち上げられたクラゲの死体みたいに手足を投げ出し、陽《ひ》にあたって溶《と》け出した雪だるまのごとくシーツの上でへばっている。
名家の令嬢《れいじょう》にあるまじき醜態《しゅうたい》だが同情《どうじょう》の余地《よち》はある――と、保坂は先ほどの濡《ぬ》れ場を反拐《はんすう》しながら思う。あれだけ苛烈《かれつ》な責《せ》めを受け続ければ、さぞかし精《せい》も魂《こん》も尽《つ》き果てるというものだろう。
「だめですよ、あまり無茶しちゃ」
額《ひたい》に載《の》せた濡《ぬ》れタオルを取り替《か》えてやりながら毎度の忠告をした。
「…………」
主《あるじ》からのいらえは無い。ちらりと下僕《げぼく》を一瞥《いちぺつ》しただけで、うるさそうにタオルで目もとを覆《おお》い隠《かく》してしまう。疲労《ひろう》して口を利《き》くのも億劫《おっくう》なのだろうが――だが、理由がそれだけでないことは保坂の目に明らかだった。
そろそろ頃合《ころあい》だろう。そう見て取り、まずはこう切り出した。
「――お嬢さま、ひとつ訊《き》きますけど。さっきお風呂場《ふろば》で真由さんにああだこうだと注文をつけましたよね。なぜです?」
「…………」
「約束|破《やぶ》りになることはわかってたでしょう? そうなれば涼子さんや美樹彦さんが黙《だま》っていないだろうことも。なのにどうしてあの場に出て行ったんですか?」
「……あの小娘《こむすめ》が度を過《す》ぎて破廉恥《はれんち》な真似《まね》をするからですわ。約束破りだろうとなんだろうとあれを見過ごすわけにはいきません」
「それだけですか理由は」
「ほかに何があるというの」
「ありますよ。たとえば焦《あせ》りだとか。このまま行ったら確実《かくじつ》に真由さんが二ノ宮くんをもっていきますからね。現状、真由さんに大きく水をあけられているのは誰《だれ》が見たってわかります。それでつい、ああいう行動に出てしまった、と」
「旗色がよくないのは認《みと》めましょう。ですが、勝負などは最後の段階《だんかい》で一歩先んじていれば済《す》むのです。ここで焦る必要なんてどこにもありませんわ」
(――意地っ張りだなあ、ほんと)
呆《あき》れ混《ま》じりの苦笑《くしょう》を口もとで噛《か》み殺しつつ、なおも弱みを衝《つ》いていく。
「じゃあ、焦ってなかったとします。だとしても八つ当たりの要素はありますよね。だって、二ノ宮くんとお風呂に入るなんてお嬢さまにはできないもの。それができる真由さんに嫉妬《しっと》したんじゃないですか?」
「八つ当たり? 嫉妬? 冗談《じょうだん》じゃないわ。言いがかりもほどほどになさい」
「ちがうんですか?」
「当たり前です。そもそも前提からして間違っているわ。何度も言ってるでしょう、わたくしは二ノ宮峻護に何の感情も持ち合わせていないの。あの男とあの小娘がどこでなにをしようと知ったことではありません。だから月村真由に八つ当たりのしようも嫉妬のしようもない。そうでしょう」
「なんだかよくわからなくなってきたなあ。そもそもどうしてこの勝負を――二ノ宮くんをお嬢さまのモノにする勝負を受けたんでしたっけ?」
「そのほうがより効果《こうか》的な精神《せいしん》的ダメ―ジをあの女に与《あた》えられるからです」
「それで、お嬢さまはその勝負に勝つ気があるんですか」
「答えるまでもないでしょうそんなこと。――もちろん、あの男のことなんてほんとうはどうでもいいのだけれど」
「なるほど。で、そのための戦略《せんりゃく》が、真由さんのやりかたを追随《ついずい》することだったんですよね。そのほうがより効果的な屈辱《くつじょく》を与えられるとかどうとかで」
「その通りですわ」
「今日一日、いろいろやってきましたよねえ」
しみじみと呟《つぶや》いて一呼吸《ひとこきゅう》置き、なおも続ける。
「でもお嬢さま。よくよく考えてみればですね、真由さんのこと破廉恥、破廉恥、って言いますけど――お嬢さまだってけっこうすごいことやってたじゃないですか」
「そ、それはそういう戦略があったからで、」
「戦略のためなら破廉恥なこともする、っていうことですよね。じゃあどうしてさっきのお風呂場では真由さんの後追いをしなかったんですか?」
「だってそれは、あの小娘があんまり破廉恥なことをするから、」
「やっぱりよくわからないなあ。実際《じっさい》のところ水着での混浴なんて、お嬢さまが言うほどきわどいことでもないですよ。それはたしかに、若《わか》い男女が毎日家で、ということならまた話は違《ちが》いますけど」
「そんな、そんなのはあなたの価値《かち》基準《きじゅん》じゃない。わたくしの考えはそうではないという、それだけのことでしょう」
「――らしくないですよ、お嬢さま。いつものお嬢さまらしくない。どうしたんです」
「う、うるさいわねっ。わたくしは疲《つか》れているのです。これ以上あなたの戯《ざ》れ言は聞きたくありません」
そう言い捨てると麗華は寝返《ねがえ》りをうち、シーツにくるまって背《せ》を向ける。
保坂は手を緩《ゆる》めない、
「ほんと、らしくないですねえ。北条コンツェルン次期|総帥《そうすい》で神宮寺学園生徒会長の麗華お嬢さまはどこへいったんです。冷静|沈着《ちんちゃく》、深謀遠慮《しんぼうえんりょ》、即断《そくだん》即行の北条麗華お嬢さまは。下の者が今のお嬢さまをみたら腰を抜かしますよ。方針《ほうしん》は行き当たりばったりで行動は矛盾《むじゅん》だらけな上に、全局面に埼いて連戦連敗、突っ込まれれぱ言い訳《わけ》ぱかり。ひょっとしてあれですか、ぼくの知らないうちに別の誰かと入れ替わったりしてますか。本物のお嬢さまは宇宙人《うちゅうじん》にでも連れ去られて怪《あや》しい実験の真っ最中ですか」
「…………」
麗華は応《こた》えない。
「だいたいですね、勝負に勝つ気はあるって言ってましたけど、そこからしてぼくは疑問《ぎもん》です。普段《ふだん》のお嬢さまなら必要とあればいくらでも冷徹《れいてつ》になれるはずですよね。たとえば一昨日の債務処理《さいむしょり》、あれなんて見事な豪腕《ごうわん》でしたよ。軋轢《あつれき》が生じるのを承知《しょうち》で最短|距離《きょり》を突っ走って――遺恨《いこん》や批判《ひはん》も多く買いましたが、それをはるかに上回る黒字と恩義《おんぎ》を買った。それでいいんです。勝つつもりなら勝負に徹すればいいんです。余計《よけい》な感情や、唯一《ゆいいつ》絶対の目的以外のものはどんどん排除《はいじょ》していけばいいんです。今回に限《かぎ》ってなぜ、そうしようとしないんです」
「…………」
「そもそもこの勝負を受けたことからして変です。いつものお嬢さまならきっちり勝つ算段を見出《みいだ》してから勝負に臨《のぞ》むのに、今回は相手の出した条件《じょうけん》をほとんど鵜呑《うの》みにしただけ。こんなばかな話はありませんよ。不利なスタ―トラインに立って当然です。こんな勝負は初めから受けないのが最善だし、受けるにしても日を改めるとか、別のやり方がいくらでもあったでしょうに」
「…………」
「それでも他ならぬお嬢さまのことですから。受けたからには何かしら勝算があるにちがいないと思ったし、なかったとしてもそれを見出せるだけの当てはあるんだろうと思ってたら――なんのことはない、どちらもまったく無かったんですからね。そうでしょう? それは、今ここでだらしなく溶《と》けているお嬢さまを見れば一目|瞭然《りょうぜん》です」
「…………」
「まさかとは思うけどやめてくださいよ? この期《こ》に及《およ》んで弁解《べんかい》じみた真似《まね》をするのは。勝負は結果がすべてだし、これまでのお嬢さまは勝負へ臨《のぞ》むに当たっては必ず勝算を携《たずさ》えていたし、実際すべての勝負で勝ちを拾ってきました。そのお嬢さまをして『勝算はちゃんとあったけど今回は失敗しちゃいました。てへ』なんて言うことがあったらぼく、泣いちゃいますからね」
「…………」
主人はぴくりとも動かぬままなおも応えない。
すこしだけ語調を変えて、保坂は続ける。
「そもそもどうして今回、真由さんの後追いで行こうと決めたんです。ほんとうにそれがお嬢さまにとってベストの選択《せんたく》だったんですか?」
「…………」
応えない。
が、今度は保坂も待つ。
「…………」
待つ。
「……仕方ないじゃない」
シーツの中から音が洩《も》れた。
「だって、わからないんだもの」
北条コンツェルン次期総帥でも、神宮寺学園生徒会長のものでもない、声が。
「どうしていいか、わからないんだもの……」
(――おやおや)
そのひどくしょげかえった、どこにでもいる女の子のような声を聞いて、思う。
そういう無防備《むぼうぴ》なところをちょっと見せるだけでいちころなんですけどねえ。二ノ宮くんなんか特に。彼って情に脆《もろ》そうだし。もちろん教えてあげないけど。
「ま、いいんですけどね。コンツェルン次期総帥としての麗華お嬢さまや生徒会長としての麗華お嬢さまと、プライベートな麗華お嬢さま個人《こじん》とが同じ資質《ししつ》を持つ必要はないんですから。いろいろ言いましたけど、強くないお嬢さまというのもけっこう嫌《きら》いじゃないですよ、ぼく。いいんじゃないですか、そういうお嬢さまがいても」
「…………」
「今後どうされるかはお嬢さま次第《しだい》です。ただ、どうせなら後悔《こうかい》のないやり方を選びましょうね。だってこれ、北条家の威信《いしん》を賭《か》けた戦いでしたよね、確か」
「…………」
応えない。
けどもう十分だよね――そう見て取り、保坂は口をつぐむ。
開け放した窓《まど》からゆるやかに空気が流れてくる。風鳴りはやみ、潮騒《しおさい》のみが遠くに響《ひび》いている。
そして茜色《あかねいろ》。燃《も》えるような陽光がここちよい温度で室内を、シーツにくるまった背中を、その背中を見守る眼差《まなざ》しを、ただ一色《いっしょく》に染《そ》め抜《ぬ》いている。
もぞり、とシーツが動き、巣穴《すあな》にもぐる子リスのようにいっそう丸くなった。
「星が――」
母リスの機嫌《きげん》を窺《うかが》うような声、
「星が、きっときれいだと思うの。ここは空気が澄《す》んでいるから。星座《せいざ》だっていつもと違う形で見えるわ。もちろん、高山地帯だったら空気も薄《うす》くてもっとよかったでしょうけど、海の星には海の星のよさがちゃんとあるはずなの」
「…………」
「だからね、だから――」
「いいですねえ、それ。いいんじゃないですか」
保坂、大きく頷《うなず》く――もとより主《あるじ》からは見えていないだろうが、気配は伝わるだろう。
「今日は雲も少ないみたいですし、きっといい星空になりますよ。星座が違えばそこから話題を広げていくこともできるでしょうし。もちろん山の星空にはない海の星空のよさもたくさんあるでしょう。おまけに今日は満月だそうですから。海も空気もきらきら光ってきれいでしょうね。これ以上ないシチュエーションです。ナイスです。絶対いけますよ」
「……ほんとう?」
「ばっちりです」
「うそじゃない?」
「確実に落とせます」
「…………」
もぞもぞと、シ―ッの中身がさらに小さくなる。恥《は》じらいを覚えた童女のように。
「ま、もっともですね、」
と、保坂は釘《くぎ》を刺《さ》すのを忘《わず》れない。
「時機を逸《いっ》すればそれもどうなるかわかりませんけどね。チャンスは常《つね》に同じ時、同じ場所に転がっているわけではない――なんてこと、わざわざぼくの口から言うまでもないことだし。ましてやレ―スに参加しているのはお嬢さまひとりじゃありませんから」
――効果|覿面《てきめん》。
安穏《あんのん》と澱《よど》む空気を蹴立《けたて》ててバネ仕掛《じか》けのように勢《いきお》いよく跳《は》ね起きると、シーツが床《ゆか》に落ちるより早く、主《あるじ》はもうドアに向かっていた。
「身づくろいをしてきます。その間に服を用意しておきなさい」
「服を着替えるんですか? でもいいんですか、そんなことして」
「構《かま》いません。言う通りになさい。それと保坂、あなた未《いま》だに勘違いしているようだけど――わたくしはあの男に特別な感情を抱《いだ》いているわけじゃないわ。今回のことはあくまでも月村真由への意趣返《いしゅがえ》しを目的としているもの。その点、取り違えることのないように」
「――わかりました」
今日一番の笑顔で保坂は応じ、それを一瞥《いちぺつ》した令嬢は鼻を一つ鳴らしただけで下僕《げぼく》に背を向ける。
颯爽《さっそう》と黒髪《くろかみ》をひるがえして部屋を出て行った残像《ざんぞう》を目蓋《まぶた》の裏に再生《さいせい》しながら、思う。
あのひとは、やっぱりあれが一番いい。
たとえこの後、その美貌《ぴぼう》が失意に彩《いろど》られることになるのだとしても。
風呂場《ふろば》での騒動《そうどう》をどうにか切り抜けた峻護は自室に戻《もど》り、ようやく人心地《ひとごこち》ついていた。相部屋ではない。今日はすべての雑務《ざつむ》から解放《かいほう》される日であるというのが建前であり、事実そういう扱《あつか》いを受けている。ゆえに男性|恐怖症克服《きょうふしょうこくふく》プログラムが課せられることもなく――つまるところこの部屋に月村真由はいない。
これこそが本来あるべき姿《すがた》だ――ベッドに寝転がりながら心中で呟く。年若《としわか》い男女が一つ屋根の下で暮《く》らすだけでも差し障《さわ》りがあるのに、あろうことか同じ部屋で起居《ききょ》していたこれまでこそ問題なのである。ようやく、ほんの一時にせよ、あるべき状態《じょうたい》に回帰できた。慶賀《けいが》に値《あたい》する出来事ではないか。これが健全な青少年の望ましい関係であり、ほんの一週間前まではひとりでいることが当たり前だったのだ。
と、言い聞かせてみるが――どうやら本心を偽《いつわ》れそうにはなかった。
たぶん、一週間は長すぎたのだ。遠い年月を経《へ》て培《つちか》ってきた価値観《かちかん》をことごとく打ち砕《くだ》くには十分すぎる期間だったのだ。月村真由という少女の存在《そんぎい》を前にしては。
「…………」
寝返りを打った。
広く取った窓の向こうに黄昏時《たそがれどき》の景色がある。
浜辺《はまべ》を少女がひとり、歩いているのが見えた。
コテージを一歩出るとそこはもう見慣《みな》れたはずの島。だけどそれは峻護が初めて訪《おとず》れる世界。
比絶《そうぜつ》なほど美しいタ暮れ。
朱色《しゅいろ》と金色との幸福な交合がすべての空間を、いや時間をすらその一色で満たし、染め上げている。
その輝《かがや》き、その煌《きらめ》き。
空も雲も太陽でさえも、手を伸《の》ばせば容易《ようい》に触《ふ》れてしまいそうた、圧倒《あっとう》的な質感《しつかん》。マクロとミクロの垣根《かきね》もなく、遠近感の概念《がいねん》をも蹴散《けち》らして、ただそれは、視覚《しかく》の捉《とら》えたそのままの姿でそこにある。
その光景に打たれ、しばし立ちすくんでから、噛《か》みしめるようにして落陽の中を歩く。
別に足音を消していたつもりはないが、真由がこちらに気づくのはかなり遅《おく》れた。
「――わ、二ノ宮くん。どうしたんですか」
うたたねを揺《ゆ》り起こされた時のように軽く目を見開き、首を傾《かし》げてくる。
「いや。これといって用があったわけじゃない。月村さんがひとりで歩いてたから、少し気になって」
「あ、すいません。気を遣《つか》わせちゃいましたか」
「いや、おれが勝手にやってることだから」
かすかに微笑《ほほえ》み、真由は再《ふたた》び顔を戻す。視線の先には海に潜《もぐ》りつつある太陽がその頭をのぞかせていた。
隣《となり》に並《なら》んだ。
真由は、驚《おどろ》いたようだった。今度ははっきりと目を丸くし、こちらを見上げ――すぐに逸《そ》らして顔をうつむける。峻護はすべてを横目で見ながらそ知らぬふりをする。
お互《たが》い、黙《だま》った。
寄《よ》せては返す小波《さざなみ》の音だけが二人の間を流れてゆく。
「……夢《ゆめ》だったんです」
そっと、真由が口を開いた。
「夢?」
「はい。わたし、今日みたいな時間を過ごすのがずっと夢でした」
照れくさそうに間を置いて、続ける。
「ずっと小さい頃《ころ》から男性恐怖症で、物心つく頃にはもう寄宿舎《きしゅくしゃ》生活で、まわりは女の子ばかりで。そこはすごい山奥《やまおく》にあるところで、歴史も古くて。それに宗教《しゅうきょう》の学校だったから、いろいろ厳《きび》しくて、遊びに行くどころか外出だってほとんどできなくて」
うつむいたまま、足もとに向かって話し掛けるように続ける。
「ほんと言うと、今でも信じられないくらいです。こんなきれいな島で、ボートに乗ったり、かわいい水着を着たり――今までできなかったこと、やってみたかったことをたくさん――それも、ぜんぶ男の人と――二ノ宮くんと一緒《いっしょ》に。こんな幸せでいいんでしょうか。こんな、どんどん夢が叶《かな》ってしまって、ほんと、うそみたい……」
「月村さん?」
急に声を詰《つ》まらせた真由にうろたえ、だがこういう時に気の利《き》いた反応《はんのう》のできる峻護ではなく。
「ごっ、ごめんなさい。変ですよね、こんなの。でもほんとうに、うれしくて……」
「…………」
――何も言葉をかけられなかった。
そして、ここへきてようやく信じることができた。できれば信じたくはなかったことを。
以前、美樹彦から聞かされた話である。
想像《そうぞう》する。
幼少期《ようしょうき》。サキュバス化した果てに好きだった少年の精気《せいき》を吸《す》い尽《つ》くし、その命を奪《うば》った真由は、ショックのあまり心を閉《と》ざして自らの記憶《きおく》を無意識《むいしき》のうちに塗《ぬ》り替《か》えた。あとに残ったのは、消しきれなかった記憶から誘発《ゆうはつ》された異性《いせい》に対する拒絶《きょぜつ》反応と、触れた異性から見境《みさかい》なく精気を吸い取ってしまう悪癖《あくへき》。
彼女はその悪癖を克服しようと努力しただろう――彼女らしい誠実《せいじつ》さと真摯《しんし》さでもって。その上で悟《さと》ったのだろう――もう普通《ふつう》には暮らせない、これ以上周りに迷惑《めいわく》はかけられない、と。
そして彼女はすべての未来を自ら閉ざしたのだ。ただ一つを除《のぞ》いて――外界から隔絶《かくぜつ》された世界で一生を送るという、緩慢《かんまん》な自死へと向かう道のみを残して。
想像する。
森と石に閉ざされた寄宿舎で、彼女はきっと模範《もはん》的な生活を送っていただろう。だけどおそらく、そこでの暮らしには馴染《なじ》めなかっただろう。ミッション系《けい》を名乗り、形ばかりの聖堂とお題目のみがある学校法人とは違う。そこは神にすべてを捧《ささ》げる場所。真実の、あるいは頑迷《がんめい》なほどの信仰《しんこう》があらゆるものを律《りつ》する神域《しんいき》。
見ていればわかる。どれだけ真面目《まじめ》で純真《じゅんしん》であっても、そういう暮らしは彼女の根に合わなかったはずだ。彼女は宗教にすら救いの道を、逃《に》げ込《こ》む場所を、求めることはできなかったのだろう。
だから彼女にとって、夢を見ることだけが心の慰《なぐさ》みだったのだろう。
重苦しい暮らしの合間を縫《ぬ》って、おとぎ話のような空想が育《はぐく》まれてきたのだろう。
頑是《がんぜ》ない少女が抱《いだ》くような他愛《たあい》もない夢想《むそう》に、せつないほど憧《あこが》れていたのだろう。
ジェットに乗っている間は遠足前夜の小学生みたいにそわそわし、ボートに乗って海に出れば勢い余って真《ま》っ逆《さか》さまになるほどはしゃぐのも、彼女にとっては控《ひか》えめすぎるほどの感情表現だったのだろう。
想像である。だが、おそらくそう外れてはいまい。
その想像にかまけていた沈黙《ちんもく》を、真由は何か別の意味に受け取ったらしい。「あ、あの、」あたふたと目を泳がせ、「その、二ノ宮くんって――」話題を急いで探《さが》すようなそぶりを見せ、拾ってきた話題を吟味《ぎんみ》した様子もないまま口にしてきた。
「二ノ宮くんって、麗華さんと仲、いいですよね」
「へっ?」
そのやぶからぼうすぎる発言に面食《めんく》らい、つい奇声《きせい》をあげる。
「おれと先輩《せんぱい》が? あれで?」
「いえっ、その、深く考えて言ったことじゃなくて。たまたまふと思っただけで、その」
あわてふためき、両手と首を振って前言|撤回《てっかい》の意を示《しめ》し――その激《はげ》しい動きが次第《しだい》にしぼんでいく。
「……変なこと言ってばかりですね、わたし。本当、迷惑ばかりかけて」
弱々しい苦笑いを見せ、しかしすぐに居住《いず》まいを正し、ぺこりとお辞儀《じぎ》。
「今日一日、ありがとうございました。わたしのわがままを全部きいてもらって。二ノ宮くんがいてくれたから、こんな楽しい日を過ごせました。ほんとうに感謝《かんしゃ》してます」
「…………」
ちがうんだ――丁寧《ていねい》に下げられた頭のつむじを見ながらそう思った。
礼を言うようなことじゃないんだと、そう言いたかった。むしろ礼を言うのはおれの方だ。君が引っぱってくれたから、遊び慣《な》れていないおれでも退屈《たいくつ》にならずに済《ず》んだ。
それに、君は自分の人生に帳尻《ちょうじり》を合わせる権利《けんり》と義務《ぎむ》がある。これまで君はずっと耐《た》えてきたじゃないか。これっぽっちでその埋《う》め合わせができるものか。もっともっと、今日のことがちっぽけに思えるくらい、君はこれから幸せになれるはずなんだ。
たとえぱ、君はまだ自由に外に出ることができないだろう。男性《だんせい》恐怖症《きょうふしょう》はまだまだ完治には程遠《ほどとお》い。今日だってこれだけプライベートに使えるリゾートだったからこそ君は来られた。でも、世の中にはもっと素敵《すてき》な場所がいくらでもある。恐怖症が治ればそんな場所に好きなだけ行けるんだ。もっともっと楽しいことをいくらでもできるんだ。
正直に言えば君のことを望んで引き受けたわけじゃない。でも乗りかかった船だ、こうなったら最後まで付き合おう。約束する。いつか君の恐怖症が解消《かいしょう》されるよう、可能《かのう》な限《かぎ》りの協力をしよう。そして念願叶ったその時。もし君が望むなら、おれは君をできるだけたくさんの世界に連れて行こう。君の人生の帳尻合わせを見届けるために。それが君に関《かか》わった者として、おれがおれ自身に課《か》す責務《せきむ》……いや、このおれの望みでもあるんだ――
そう、言いたかった。
別のことを言った。
「まだ気が早いんじゃないか、月村さん」
「えっ?」
つむじが持ち上がり、上目づかいにこちらをうかがってくる。
「だって、そうだろう。今日一日ありがとうございました、って言うけど――今日はまだ終わっていないじゃないか」
「それは――そうですね、言われてみればそうでした」
頷《うなず》きながらも、やや得心のいかぬ様子である。普段《ふだん》に似合《にあ》わず揚《あ》げ足取りじみた物言いをする峻護の意図がわからず、戸惑《とまど》いを覚えたのかもしれない。
構《かま》わず語を継《つ》ぐ、
「そう、今日はまだ終わっていない。だから本日|限定《げんてい》で交《か》わした約束だってまだ無効にはなっていない。ちがうかい?」
「やくそく?」
「今日は無礼講《ぶれいこう》、なんでもあり……だったろう」
「そう――でした。はい、たしかに」
「考えてみれぱ、せっかく交わしたこの約束をおれはぜんぜん有効活用していない。今日一日、月村さんの頼《たの》みをいろいろ聞いてきたけど――でもおれの方からは何も頼みごとをしていない。そこでひとつ、月村さんにもおれの要望を聞いてもらえないかと思うんだけど、どうだろう」
ようやく合点《がてん》がいったらしい。
真由は神妙《しんみょう》に表情を引きしめ、
「二ノ宮くんの言う通りです。わたし、お願いを聞いてもらう一方で――ほんと、だめですね、ぜんぜん気が回らなくて。わかりました、なんでも言ってください。ご恩返《おんがえ》しにどんなことでもします」
「ありがとう。じゃあ、遠慮《えんりょ》なく」
咳払《せきばら》い、
「今夜、星を見に行かないか」
「…………」
その申し出が想定外すぎて脳《のう》が発言の内容《ないよう》を理解していないのだろうか。それともまだお願いの途中《とちゅう》だとでも思っているのだろうか。
真由は神妙に表情を引きしめたまま、
「――はい?」
「今日は天気もいいし、それにどうやら満月らしい。これだけ遠い場所に来れば星座《せいざ》の見え方も違《ちが》うだろうし。悪くないと思うんだけど」
ようやく怪評《けげん》そうな顔になってきた。
「星――ですか?」
「そう。星」
「わたしと? いっしょに?」
「夜中に女性を連れ出す無礼を許《ゆる》してもらえるのであれば、ぜひ、君と」
視線をさまよわせながら頬《ほお》を掻《か》く峻護を、目に入れているのかどうか。
「星を――いっしょに――」
うわごとのように、岨礒《そしゃく》するように繰《く》り返し、そして。
茜色《あかねいろ》に染《そ》まったその顔が、ゆっくりと、笑《え》み崩《くず》れてゆく。
寄《よ》り添《そ》っている――と表現できるほど近くはない。だが、余人が入り込めるほどその隙間《すきま》は広くない。
そのことを見て取っているからには、そう気軽に感想を述《の》べられるものではなかった。
陽炎《かげろう》をなびかせて燃《も》える落日にシルエットを刻《きざ》む二つの影《かげ》。あれを目《ま》の当たりにしてなおも戦意を高揚《こうよう》させることができるのであれぱ、それはむしろ不幸というべきだろう。それは道化《どうけ》と変わらない。ましてあそこに割《わ》り込もうとするようなことがあれぱ、もはや道化にすらなれまい。
「……画《え》になるなあ」
保坂は結局、もっとも短く、もっとも的確《てきかく》な評言だけを口にした。およそ最悪の比瞼《ひゆ》だろうが、『映画《えいが》のような』と表現したくなる欲求《よっきゅう》に駆《か》られてしまう。典型《てんけい》過《す》ぎて安っぽさは拭《ぬぐ》えないかもしれないが、物語の最大の見せ場に持ってくるカットとして、その役割を十分に果たしてくれるだろう。
「…………」
麗華はひとことも発さない。主《あるじ》から一歩引いて控《ひか》える保坂にはもとよりその表情をうかがい知ることはできないが、わざわざ覗《のぞ》いてみるまでもない。お気に入りのサマ―ニットに包まれた背中は、口よりよほど雄弁《ゆうぺん》にすべてを物語る。
時宜《じぎ》を逸《いっ》した――いや、すでに巻《ま》き返しの利かぬ状況まで追い込まれたことは明らかだった。二人のやり取りを知ることのできたのは唇《くちびる》の動きを読める保坂だけであり、彼はそれを伝えたわけではないが、もはや趨勢《すうせい》が決したことをわざわざ言語化することはない。
「――お嬢《じょう》さま?」
踵《きびす》を返した令嬢に呼びかけるが、やはり応《こた》えはない。心情を雄弁《ゆうべん》に語りながらも決してその背中を丸めることなく、肩《かた》を落とすことなく、足取り確かに歩き去ってゆく。それでいい、と思う。あえて最後の最後まで足掻《あが》く道もあるだろうが、それは北条麗華のやり方ではない。保坂の読み通り節を汚《よご》すことなく引き、少なくとも余人の前では堂々たる姿を崩《くず》さなかった主人を、彼は誇《ほこ》らしく、いとおしく思う。
「さて――」
後を追わず行方《ゆくえ》だけを見定めてから、絵になる二人に再度向き直る。
この先はあまりに不確定要素が多い。下手《へた》に予断《よだん》をもち、そろばんを弾《はじ》けば、かえって足もとを掬《すく》われることになるだろう。臨機《りんき》応変――紙一重《かみひとえ》と背中合わせの綱渡《つなわた》りで場を繋《つな》いでいくしかない。
迷《まよ》いがないかといえば嘘《うそ》になる。己《おのれ》の判断《はんだん》に確信を持てないままでいる。だがそれを論《ろん》ずる段階はとうに過ぎ去った。もはや前に進むしかない。迷いをねじ伏《ふ》せ、不信を確信に変えて。
彼にとって、勝負はむしろこれからなのだから。
夕食まで少々の時間がある。
いい機会だと思い、峻護は無理を言って厨房《ちゅうぼう》の見学を許可《きょか》してもらったのだが――
すべてが驚《おどろ》きの連続だった。
三人いるシェフはどう見ても全員が特級の技能者《ぎのうしゃ》であり、誰を選んでも宮廷《きゅうてい》料理人の長が勤《つと》まると思えるほどの逸材《いつざい》だった。それだけでも特筆ものだが、さらに驚嘆《きょうたん》すべきはその呼吸《こきゅう》。彼らはまるで、一分《いちぶ》の隙《すき》もない脚本《きゃくほん》に沿《そ》って演《えん》じる俳優《はいゆう》たちのように見事な連携《れんけい》で動くのだ。
三者三様のテクニックが、ただ極上《ごくじょう》の美味を生み出すというひとつの目的のために個々《ここ》人《じん》の垣根《かきね》を越え、最大|効率《こうりつ》で駆使《くし》されていく――その様はとうに芸術《げいじゅつ》の域に達しており、ともすれば前人《ぜんじん》未到《みとう》の境地《きょうち》にすら足を踏み入れているかに見えた。なるほど、姉がここを選んだ理由がよくわかる。
見させてもらえたのは下ごしらえの仕上げの部分だけだったが、ほとんど独学でもって進境した峻護にとって学ぶべきことは無数にあった。同席した真由も料理には心得がある。峻護以上に感嘆《かんたん》していた彼女だから、少なくとも退屈《たいくつ》することはなかっただろう。
もちろん、このコテージのただならぬ質の高さはシェフに限《かぎ》ったことではない。この際だからと普段にない積極さでメイドのひとりを捕《つか》まえ、無理を言って時間を取ってもらった。彼女は嫌《いや》な顔ひとつせず、もてなしの心構えや接待《せったい》におけるちょっとしたコツまで、峻護の求めるままに教えてくれ、隣に座った真由もメモを取らんばかりの勢いで聞き入ったものである。
ほどほどにして礼を述《の》べ、食堂に顔を出すと、頃合よくディナーの皿が並び始めるところだった。料理は大皿形式、先ほど厨房で覗いた食材から想像した通り、優美《ゆうび》かつ異国《いこく》情緒《じょうちょ》あふれる逸品が次々と卓上《たくじょう》にあふれていく。
真由と並んで席についた。
涼子と美樹彦は一足先に陣取《じんど》り、すでに杯《さかずき》を交《か》わし合って談笑《だんしょう》を始めている。保坂がその隣で相伴《しょうばん》に与《あずか》りつつ、いつも通りの微笑《びしょう》を振りまいていた。
ただ、麗華の姿がない。
「……北条|先輩《せんぱい》は?」
「お嬢さま? 後で来ると思うけど」
「いいわ、先に始めてましょう」
涼子の一声で、美樹彦と保坂がそれぞれ料理を取り皿に盛《も》り付け出した。峻護と真由は「どうしょう?」とでもいうように目配せしあったが、結局は二人ともナイフとフォ―クをとることにした。
料理はいずれも見かけ倒れ――などということはなく、どの皿も見た印象どおりの美味だった。つい食も進み、会話にも花が咲《さ》く。
おちょくる涼子、反論する峻護、蒸《む》し返す美樹彦、話を振られてはおたおたする真由、にこにこしつつ時おり微妙《びみょう》な合いの手を入れる保坂――佳肴《かこう》に舌鼓《したつづみ》を打つ悦《よろこ》びに乗り、晩餐《ばんさん》の時間は思わぬ速さで流れてゆく。
ただ、麗華がまだ来ない。
「――保坂先輩」
皿をテーブルに下ろし、改めて間う。
「北条先輩がまだ来ないみたいですが」
「うーん、そうだねえ」
「呼びに行った方がいいんじゃないですか?」
「といってもねー。呼びに行くにもどこへ行ったのかわからないし」
「……え」
数瞬《すうしゅん》、保坂の言った意味が飲み込めなかった。
「わからないって――部屋にいるんじゃないんですか」
「んーん、ちがうよ。どこかに出かけたみたい」
「出かけたって、この島のどこに行くっていうんです」
「さあ。どこだろうなあ」
「さあ、って――保坂先輩は北条先輩の付き人なんでしょう」
やや声を荒《あら》らげた峻護に、歓談《かんだん》の空気が不意に霧散《むさん》する。
そのことに戸惑《とまど》いつつも、
「とにかく、どこに行ったかわからない、この時間になっても戻《もど》ってこない、というのは問題です。捜《さが》したほうがいいんじゃないですか?」
「うーん、心配ないと思うけど。だってあのひとは北条麗華お嬢《じょう》さまだよ? それにあのひとだって、たまには一人になりたい時もあるだろうしね」
「ですが――」
「だいじょうぶだって。ぼくはあのひとの付き人なんだから。ほんとうに危険《きけん》があるなら放《ほう》っておいたりしない。おなかが空《す》けばそのうち帰ってくるよ」
「彼の言う通りね」
海老《えび》のバナナ葉蒸《む》しを頬張《ほおば》りながら涼子が割《わ》り込《こ》んでくる。
「子供《こども》じゃないんだから捨てておけばいいわ。たとえ一晩中外で過ごしたって、せいぜいが蚊《か》に刺《さ》されるか、ヤドカリに指を挟《はさ》まれるか、その程度《ていど》でしょうよ」
「姉さん、そう言うけど……」
「いいのよ、ここのスタッフはそういう面も抜《ぬ》かりないんだから。島の設備《せつぴ》もね」
「その通り、なにも不安がることはない」
マンゴスチンソースをクエのソテーにからめながら、美樹彦も同意する。
「ここに施《ほどご》された安全|対策《たいさく》は峻護くん、おそらく君の想像《そうぞう》をはるかに超《こ》えているはずだよ。全地球|規模《きぼ》の核戦争やバイオハザードが今この瞬間に起きたとしても、この島にいれば数年は持ちこたえられる。むろん、もっとはるかにスケールの小さい危機についても対策は万全《ばんぜん》だ。人知の及《およ》ぶおよそすべてのケースについてはシミュレートしてある。問題ないさ」
「…………」
「まあそこまで心配するのであれば、ここのスタッフを一人やればいい。彼らはここのスペシャリストだ、僕らよりはよほど適切《てきせつ》な対応を取ってくれるだろう。どうする? そうしてみるかい?」
「……いえ、そういうことであれば」
「まったく、あんたが余計なこと言うから興が殺《そ》がれたわ。峻護、責任《せきにん》取りなさい」有無《うむ》を言わせぬ語調で涼子はテーブルの酒樽《さかだる》を指差すと、「まずは座興《ざきょう》に、あのヤシ酒を五秒以内に飲み干《ほ》すこと。一滴《いってき》でも零《こぼ》したらやり直しよ」
「待て。どうしてそうなるんだ。だいたいおれは未成年だ、アルコールは飲めない」
「ここではどこの国の法律も適用されないの。ただ良識のみが唯一《ゆいいつ》絶対《ぜったい》のル―ル。とすれば、アルコールを飲まない良識と、場の空気を乱《みだ》した責任を取る良識――どちらが優先《ゆうせん》されるべきか、わざわざ確認《かくにん》するまでもないでしょう」
「どうしてそうなるんだ。とにかく、おれは飲まない」
「こまった男だな、君も」さらに美樹彦が話をややこしくする。「どうあっても責任|逃《のが》れをするつもりかい? なんとまあ、見苦しい。ここは愛の鞭《むち》でもって君の捻《ね》じ曲がった根性《こんじょう》を矯正《きょうせい》せねばなるまい。――というわけで、こちらのココナッツ酒も追加だな」
「……一度じっくりと話し合ったほうがよさそうですね。いいですか、まず第一に――」
律儀《りちぎ》に峻護が反論をはじめ、涼子と美樹彦が面白《おもしろ》がって揚《あ》げ足を取り、そんないつものやりとりを真由はおろおろしつつ、保坂はほどほどに茶々を入れながら見守る。
宴《うたげ》の空気が戻ってきた。
窓《まど》の外に目を転じれば月は天に高く、大洋は眩《まぶ》しいほどに青い光を映《うつ》して輝《かがや》く。風はさざなみの調べとともに涼気《りょうき》を運び、談笑《だんしょう》のさざめきを載《の》せてまたいずこかへ吹《ふ》きすぎる。
この島に来た目的にふさわしい時が、まろうどにふさわしい騒々《そうぞう》しさで、されどあくまでもゆるやかに、安逸《あんいつ》に、過ぎてゆく。
ただ峻護だけが一人、心のどこかにあるうずきを消しきれないでいる。
料理があらかた片付《かたづ》いた。
腹《はら》ごしらえも終わっていよいよ夜はこれから――とばかり、さらに杯《さかずき》を重ねる涼子と美構彦を横目に、
「やっぱり――ちょっと様子を見てきます」
言い残して、誰の返事も待たず食堂を後にした。
「あ――」
真由が立ち上がりかけ、窺《うかが》うように涼子と美樹彦を見る。
涼子は肩をすくめ、美樹彦も「ま、好きにさせておけばいいさ」と言うだけにとどまり、再び美酒を舐《な》め始める。次いで保坂と目をあわせたが、こちらは料理の残りをもぐもぐやるのみで反応《はんのう》すらよこさない。
「…………」
うつむきがちに席につきなおした真由だが、もう料理に手を伸《の》ばすことはなかった。卓上《たくじょう》を行き交《か》う会話を聞いているのかいないのか、ただ手もとに目を落としたまま。時おり救いを求めるように兄を見るが、美樹彦がそれに気づかないでいると結局何も言わぬまま視線《しせん》を戻す。
そんな逡巡《しゅんじゅん》もさほど長くは続かなかった。
「あの、やっぱりわたしも様子、見てきます」
場の歓談《かんだん》に埋《う》もれるような声で呟《つぶや》き、席を辞して小走りに駆《か》けてゆく。
「……さて、と」
それを見て保坂も立ち上がり、挨拶《あいさつ》も残さず部屋を出た。
入れ替わりに使用人たちが入室してくる。料理の残りが片付けられていく中、話を切り上げた涼子と美樹彦がいつにない顔つきで物思いにふけり、さらに入れ替わりでやってきた使用人たちが、持ち込んだ機材類をテーブルに並べ始める。
当てがあるわけではない。ただ、一時間もあれぱ一周できる小さな島のこと。しらみつぶしに歩くだけでも効果はあるだろうという読みはあった。
海岸線から捜《さが》し始めたことにもさほどの意味はない。歩きやすく、視界も広い。それだけの理由である。
湿《しめ》った砂《すな》を踏みしめる、哭《な》き声にも似《に》た弱々しい音だけが潮騒《しおさい》に混《ま》じる。灯《あか》りの類《たぐい》は必要なかった。スモッグとは無縁《むえん》の澄《す》んだ空気と相まって、青白い月光に満ちた周囲は不自由なく明るい。
ビロードを敷《し》いたように輝く渚《なぎさ》を早足に歩く。
「…………」
自分のものとは別の足音がしばらく前からついてきているのを、むろん峻護はわかっていた。歩幅《ほはば》からも、足の運びそのものからも、うしろにいるのが誰かは労せず知れる。――隠《かく》すつもりはないのだろう。
峻護は無言で歩きつづける。背後《はいご》の招《まね》かざる道連れもそれに付き合うかのごとくひとことも発せぬまま――ただ、心のひだを読みとろうとするかのように視線で背中をなぞってきているのはわかる。
「二ノ宮くん」気楽な声がこれという前触《まえぶ》れもなく投げかけられた。
「いま君は何をしているの?」
「何って、」歩調を変えぬまま、前を見たまま、「北条|先輩《せんばい》を捜してるんですが」
「うん、たぶんそうなんだろうけど。だけど、さっきからただ歩いているだけに見えるから。ちょっと訊《き》いてみただけ」
「保坂先輩こそどうしたんです。北条先輩のことは放っておくんでしょう?」
「うん、そのつもり。だからぼくの用事は君向けのだよ」
「…………?」
「ところで君、ほんとうにお嬢《じょう》さまを見つけたいと思ってるの?」
「どういう意味です? そのために今こうしているんですが」
「いやあ、それにしては効率《こうりつ》が悪いな、って思ってさ。例えばさ、ただ歩くだけじゃなくて呼《よ》んで回ってみたらどう? こんな狭《せま》い島だし、お嬢さまにそのつもりがあればすぐに返事は返ってくるよ」
「べつに遭難《そうなん》したわけでもないし、そこまでするのは大げさでしょう。見つかったとしてもそういう扱《あつか》いをしたということでまた先輩の機嫌《きげん》をそこねてしまうかもしれませんし。それに、おれが呼びかけても返事は返ってこないかも知れない」
「言い訳《わけ》は勝算を弾《はじ》き出してから口にするほうがいいよ。すぐに足もとを掬《すく》われちゃうから。……君は必要と判断《はんだん》したことを為《な》す効率を、そんなくだらない理由で大きく下げるのを良しとする人間じゃないでしょ? もし本気でそう思ってるなら、同じことを涼子さんの前で言ってみてほしいな」
「言い訳をしているつもりはありませんよ」
「もちろん。それは君の本音だと思うよ。一方のね。だけどフクザツだねえ、君も。見つけたくはないけど捜さないわけにはいかない。君はずるいけど、いいひとだもん」
「言っている意味がわかりません」
歩きつつ短く返す。いつもと同じ語調なのに妙《みょう》な圧迫《あっばく》感のある保坂に戸惑《とまど》いながら。
「ところで――」話の向きが変わる、
「二ノ宮くんはどうしてお嬢さまを捜しているの?」
「語るほどの理由が要ることですか? それって」
「ぜひ聞きたいな。もし差しつかえがないのならさ」
「――夕食の席に姿を見せず、その所在《しょざい》もわからない。心配にもなるじゃないですか」
「それは心配するようなことじゃないって、君ももうわかってるでしょ。お嬢さまには万にひとつの危険《きけん》もないよ。億にひとつの『まさか』くらいはあるかもしれないけど――それは生きている限《かぎ》り、誰がどこにいても晒《さら》されるリスクだもん。躍起《やっき》になって気にするほどのことじゃないから。もし気にするのだとしても、君がそうする義理《ぎり》はどこにもない。なにしろ付き人のぼくでさえ気にしていないんだからさ」
「冷たいんですよみんな。保坂先輩も、姉さんも美樹彦さんも」
「冷たい? そう受け取る心当たりが君にはあるのかな」
「何が言いたいんです」
「いろいろだよ。そうだね、たとえば――お嬢さまが涼子さんに握《にぎ》られている写真。あれにどんなものが写《うつ》っているか教えてあげよっか。寝顔《ねがお》だよ」
ひどく淡白《たんぱく》に保坂はそれを明かした。
「寝顔ね、ひとが眠《ねむ》っている時の顔。びっくりした? それともあきれた? あれが涼子さんの手に渡《わた》ったって知った時のお嬢さまって大騒ぎしてたもんね。もっととんでもないものが写ってると思ったかもしれないけど――なんてことはない、それだけなんだよね、ほんとうに。そりゃ確かに、自分の寝顔なんて進んで他人に見せるようなものじゃないだろうし、女性にとっては特にそうかもしれないけど。でもかわいい写真だよー。お嬢さまの寝顔を写真集で出したら百万部は堅《かた》いんじゃないかな。普段君に見せている顔とは別人みたいに素敵《すてき》だから。ああもちろん、つんつんしてる時のお嬢さまも最高なんだけどね」
「……そうですか。初耳です」
「で、肝心《かんじん》なのはね。確かにあの写真は人には見られたくないものだろうけど、でもそれを誰かに握られたからといって、望まない使用人生活を黙《だま》って受け入れるほど嫌《いや》なものか、ってこと。でなけれぱこう考えてみてもいいよ。もしそれほど嫌なものだとして、あるいはもっと危機的に重大な写真だったとして――じゃあなぜお嬢さまほどの人がそれを取り戻すための行動を何も起こさないんだろう、ってね」
「それはおれも疑問《ぎもん》に思います」
「じゃ、試《ため》しに訊いてみるといいよ。あの写真を取り戻すのに協力するけどどうだろう、って。お嬢さま、それはもう火がついたみたいに怒《おこ》るだろうから。そしてきっと、その理由は口が裂《さ》けても言わないはずだから」
「そう――ですか」
「それともこういう話はどうかな。周知のことだろうと思うけど、麗華お嬢さまにはズバ披けた才能《さいのう》がある。多面的かつ極《きわ》めて次元の高い才能がね。超人《ちょうじん》だよね、はっきり言って。それはちょっとでもお嬢さまに関わった人ならすぐにわかること。もちろん君も知ってるだろうけど――でも、お嬢さまの凄《すご》みをきちんとはわかってないでしょ。人間|離《ばな》れしてるんだからほんとうに。試《ため》しにぼくの代わりに付き人をやってみるといいよ。三日もすれば超人どころかバケモノに見えてくるから。一度見せてあげたいなあ、為替《かわせ》相場の大立物《おおだてもの》と斬《き》り合いみたいな仕手戦《してせん》くりひろげてる姿《すがた》とかさ。人生変わるよきっと」
「想像《そうぞう》は、つきますよ」
「でも、あのひともやっぱり人間だから。いつも完壁《かんぺき》でいられるわけじゃない。なのにあのひとは完壁でいようとするんだよね。どんなヒーローにだって休息はあるけど、あのひとにはそれだってないんだ――真の意味ではさ。変なところで不器用なんだよ、心に体がついていってないというか。もっとも最近はそうでもなくなってきたかな。そう、ここ何か月かはスキだらけだもんね。あのひとがそれを望んでいるかどうか、あのひとにとってそれがプラスなのかどうかはともかくとして」
「おれにはよくわかりません」
「わからない?」
「わかりません。先輩の言うことは遠まわしすぎます」
「じゃ、リクエストにお応《こた》えしてはっきり言っちゃおう。二ノ宮くん、君は――」
にこにこ無毒に笑いながら――気配でわかる――保坂は爆弾《ばくだん》を投げつけてきた。
「ほんとうにお嬢さまの気持ちに気づいていないの?」
――いつの間にか足を止めていたことに、峻護はその時はじめて気づいた。
「胸《むね》に手を当ててようく考えて、それから応えてほしいな。君らしく誠実《せいじつ》にさ」
声はなおも背中越《せなかご》しに襲《おそ》いかかる。
「君が相当に鈍《にぶ》いのはわかってる。でも、今日一日を経《へ》てもまだ気づかないと言えるのかな。もしそうだったら救いようのないバカだよ。鈍いかどうかなんてことは通り越してるもん。でも君はバカじゃない。それどころかたぶん、周りが思ってるよりもはるかにクレバーな人間だろうし。だとしたらもう答えはひとつしかないよね」
「……。おれは――」
「だめだよ二ノ宮くん。今日は逃がしてあげない」
退路《たいろ》を断《た》ち、さらに攻《せ》め立てる。
「……答えられない? じゃ、もうちょっと追い詰《つ》めてあげよっか。人格者《じんかくしゃ》として信望を集めているお嬢さまだけど、君に対してはひどく風当たりが強い。どうしてだと思う?」
「……わかりません。心当たりがない」
「でも、あのひとは何の理由もなく誰かに粗忽《そこつ》な態度《たいど》をとるような人かな?」
「…………」
「お嬢《じょう》さまは真由さんをいつも目の仇《かたき》にしてるよね。どうしてだろう?」
「それは、最初に会った時に月村さんが挑発《ちょうはつ》するような態度を取ったから、」
「たったその一度きりで目の仇にするようになったって? 冗談《じょうだん》じゃない、お嬢さまが本来そんな狭量《きょうりょう》な人じゃないことは知ってるはずだよね。でなきゃあれだけの人望は得られない。血筋《ちすじ》と実務《じつむ》能力《のうりょく》だけであの位置に立ってるわけじゃないんだよ、あのひとは」
「それはそうですが、」
「いま挙げたのは状況証拠《じょうきょうしょうこ》のほんの一部。君はこの何倍、何十倍もの傍証《ぼうしょう》を検討《けんとう》できるだけの立場にあったはずだよね」
「そんなことおれには――」
「でもね、二ノ宮くん。ほんとはもっともっと重要なことがあるんだ。それはね、君がお嬢さまのことをどう思ってるのか、ってこと」
「おれが? 北条先輩を?」
「そう。お嬢さまに対する君の気持ち」
「気持ちって言ったって、おれはずっとあの人が苦手で――」
「お嬢さまを苦手に思う理由、考えたことある? もし言えるようなら聞くよ?」
「そんな急に言われても、」
「君はどうしてお嬢さまを拒絶《きょぜつ》しないんだろう。正直、あのひとのすることは君にとって相当な負担《ふたん》になってるはずだよね。告訴《こくそ》でもされたらどんな有能な弁護団《ぺんごだん》を組んでもお嬢さまの負けじゃないかな、ってくらいにさ。それなのにどうして君はあのひとのしたいようにさせてるんだろう」
「別に、大した迷惑《めいわく》じゃなかったから――姉さんに比《くら》べたらぜんぜんどうってこともなかったし――」
「ありえないね。君はそんな大雑把《おおざっぱ》な計算をしない。君の性格《せいかく》はそれを許《ゆる》さない。その君が、一人殺すのも二人殺すのも同じだとか、右の頬《ほお》を打たれたら左の頬も差し出せとか、その手の馬鹿《ばか》げた論法と大差ない理屈《りくつ》を捏《こ》ねるつもり? 左の頬まで打たれれぱ痛《いた》みは二倍だし、二人殺せば死体の数はやっぱり二倍だもの。たとえ乗算されなくても、君のこうむる『大したことじゃない迷惑』は確実《かくじつ》に加算されちゃう。なのにどうして君は『こまったひと』なお嬢さまを何の対処《たいしょ》もなしに放《ほう》っておくんだろう」
そんなのは――知らない。考えさせないでくれ。急ぐのは――嫌いなんだ――
「君はいつまでお嬢さまの不器用さに寄《よ》りかかっているつもりなの?」
何を言ってるんですか、先輩。
「真由さんは――君にとってとても都合のいい人だよね。男性《だんせい》恐怖症《きょうふしょう》を治すために君は彼女のそばにいる。そばにいれば情が移《うつ》るし、そうなったからにはあとは男と女だもの。何があってもおかしくない。ありきたりだけどストーリーとしては十分だよね。堅物《かたぶつ》で通している君にとっても十分|納得《なっとく》できる手続きだ」
何の話をしているんです。
「それとも――君はお嬢さまをからかって楽しんでるのかな。その気持ちはとてもよくわかるけどね。あのひとほどからかってて楽しい人はいないし。でも、だとしたらやっぱり君はずるいな。お嬢さまだけじゃなくて自分自身もだましてるんだからさ。それはちょっとやりすぎなんじゃない?」
わからない。
「君は何をそんなに恐《おそ》れているの?」
おれにはわからない。
「――そう。ま、今はこのくらいにしとこっか」
告げて、保坂は世話女房《せわにょうぼう》じみた吐息《といき》をついた。
両手を腰《こし》に当て――やはり見ずともわかる――子供《こども》に説教するような声で最後に付け足す。
「けどさ、あんまり逃《に》げてちゃダメだよ? 三十六計逃げるに如《し》かず、とは言うけど――ま、それもほどほどに、ね? それとお嬢さまについては、きみの方からもうちょっとフォローしてあげてもバチは当たらないんじゃないかなあ、色っぽい話は別にしてもさ。あのひとはとても強いけれど、でもそれ以上に天然記念物なみの意地っ張りで、照れ屋で、そして何より人一倍|臆病《おくびょう》なんだ。かけがえなく大切なものの前では特に、ね」
言い終えるのと、砂《すな》を撥《は》ねる音が立つのとは同時。
尾《お》を引く間もなく、気配はすぐに風と流れた。
冷や汗《あせ》か、それともあぶら汗なのだろうか――握《にぎ》り締《し》めた掌《てのひら》に水気がたまり、いやに粘《ねば》ついた感触《かんしょく》を伝えてくる。
立ち尽《つ》くしたまま、唇《くちびる》をかんだまま、峻護は動かない。
月は他人の顔で中天にあり、星はあくまで沈黙《ちんもく》を保《たも》ち続ける。
保坂の言ったとおり、夜空のてっぺんには満月があった。敷《し》き詰《つ》めたように広がる満天の星もまた彼の言ったとおり、異国《いこく》ならではの輝きを地上に降《ふ》らせている。
どちらも嫌《いや》になるくらいきれいだった。
だから麗華は上を見ない。
月と星が象《かたど》る影《かげ》を踏《ふ》む、その足先だけを見て、夜の渚《なぎさ》を歩いている。
――歩く?
そう、そうね。歩いてるんだったわね、わたくし。
たったいま長い夢《ゆめ》から覚《さ》めたようた心地《ここち》でそれを自覚した。
そういえぱ足が痛い。慣《な》れないサンダルの緒《お》が擦《こす》れて血が出ているかもしれない。足首は半ば揮《しぴ》れ出しているし、ちょっとでも油断《ゆだん》したら膝《ひざ》は落ちそうだし、ふとももは弾けそうなくらい張《は》っているし。
でも止まる気にはなれなかった。止まったら、もう二度と動けない気がする。
ここはどこだろう、と思った。
しばらくぶりに顔をあげて周りを見た。
砂浜と、まぼらな岩場と、黒々とした森。見覚えはない。――当たり前だ、大して代わり映《ば》えのしない景色だし、ずっとうつむいて歩いてきたのだから。
ただ、ずっと砂浜だけを歩いてきた気がする。とすれば、おそらく島の周りをぐるぐると回っているのだろう――
「っ……!」
不意に景色がゆらぎ、激《はげ》しく上下に動いた――とみえたが、実際《じっさい》によろめいたのは彼女の方だった。上体からふらりと前に倒《たお》れこむ。
手足を砂浜につけてから肩越しに振り返ると、そう小さくもない岩の頭が砂の下から突《つ》き出ていた。笑ってしまう。足もとも見ずに歩いてればこうなるに決まっている。もしここに保坂がいれぽ『下の者がこの姿《すがた》を見たら云《うんぬん》々』などとまた小言を並《なら》べることだろう。
事実、無様《ぶざま》だった。だが湧《わ》き上がった己《おのれ》への怒《いか》りは膨《ふく》らむ間もなくしぼみ、感情の発露《はつろ》はただ、力ない息を吐くだけにとどまる。
こうなるともういけなかった。危惧《きぐ》した通りどうしても足に力が入らない。気力を奮《ふる》おうにもそのとっかかりになる意志すら掘《ほ》り起こせない始末だった。
再度、吐息する。
手近な岩くれに這《は》うようにして寄りかかり、背を預《あず》けた。
見たくもない夜空が目に映る。視線を外すのさえ億劫《おっくう》で、差し込むまま網膜《もうまく》をやさしい光に晒《さら》す。
足の先が腫《は》れぼったく熱を持ち、じくじくと痛む。
ふと、その感情を吐露《とろ》してみたい誘惑《ゆうわく》に駆《か》られた。逆《さか》らわず口にしてみる。
「痛いな……」
もっと。
「痛いよ……」
途端《とたん》、鼻の奥《おく》がつんとした。あわてて息を止めた。ぎゅっと目蓋《まぶた》を閉《と》じ、決壊《けっかい》を必死で防《ふせ》ぐ。
それだけは嫌だった。そこまで弱くなってしまうのだけは。
最後に残った意地のかけらにしがみつきながら、麗華は耐《た》える。怒《いか》りには届《とど》かぬやるせなさはそれでも湧きつづける。
情《なさ》けない。これではあの頃《ころ》と同じ――いや、それ以下ではないか。
がんぱってきたはずだ。あの日、心に決めてからずっと、ずっと。なのにどうしてこんな思いをしているのだろう。どうして。
わからない。
――ほんとうに?
もちろん。ちっともわからない。
――ほんとうにそうかしらね。
そうに決まってる。だって、わたくしは二ノ宮峻護のことなんてどうでもいいんだから。
あの日出会ってからずっと、あの男のことなんてほんとうは眼中《がんちゅう》になかったんだから。
うずくまり、膝《ひぎ》を抱《かか》える。
うねる感情に耐えるため閉じた目蓋《まぶた》は、いつしかその暗幕《あんまく》に過去《かこ》の光景を映し出す。もう何度目になるかもしれぬ回想。あの日以来、毎日のように思い起こしていたことだ。色も匂《にお》いも手触《てざわ》りも、労せず、忠実《ちゅうじつ》に、今なおくっきりと再現《さいげん》できる。
そう、十年前。はじめて他人に手を上げられたあの時の場面からそれは始まる――
殴《なぐ》られた瞬間《しゅんかん》は痛いというよりも熱い。
そんな発見があったからといって馬鹿《ばか》正直《しょうじき》に感心することはなかったし、ましてしおらしく項垂《うなだ》れるような可愛《かわい》げも持ち合わせてはいなかった。
すぐに跳《は》ね起きた。
切れたくちびるから染《し》み出す錆《さ》びた味への驚《おどろ》きも、ガラの悪い土地に足を踏み入れた後悔《こうかい》も即座《そくざ》に蹴《け》り出し、天に唾吐《つばは》くがごとき無礼を働いた下郎《げろう》どもを睨《にら》み据《す》える。
その火を噴《ふ》くような眼光に相手がひるんだのは、だが一瞬のことだった。無理もない。彼らは五人が五人、蒙古斑《もうこはん》が消えてるかどうかも怪《あや》しい子供《こども》だが、こちらはそれに輪をかけたガキなのだから。
「なんだぁ、テメエ、その目つきは。さんざん舐《な》めたマネしてくれやがってよお。生きて帰れると思ってんじゃねえだろな、コラ」
麗華の頬《ほお》を殴《なぐ》り飛ぱした豚鼻《ぶたばな》のデブが一歩進み出て凄《すご》んでくる。なるほど、これも土地|柄《がら》だろうか。毛も生えそろわない茶坊主《ちゃぼうず》にしてはなかなかドスが利《き》いている。
が、幼少期《ようしょうき》とはいえその程度《ていど》の圧力《あつりょく》で意気をしぼませる北条麗華ではない。
「あなたここの生まれ? ふん、やはり下賤《げせん》の血は争えませんわね。下種《げす》どもは高貴《こうき》な者に対する礼というものを知らないのだから嫌になるわ。いいこと、まずはその醜《みにく》い豚面《ぶたづら》をわたくしに近づけないで頂戴《ちょうだい》。変な病気をわたくしにうつすようなことがあればどう責任《せきにん》を取るつもりです。それとその品性の欠片《かけら》もない話し方をやめなさい。耳が腐《くさ》りますわ。そして何よりも優先《ゆうせん》して己《おのれ》の分際《ぷんざい》をわきまえるように。そもそもが名家の血を引くこのわたくしと対等に会話しようと試みることからして噴飯《ふんぱん》ものなのです。身のほど知らずとはこのことですわ。さしずめ白百合《しらゆり》の鉢《はち》から図々《ずうずう》しくも芽を出してその風情《ふぜい》を損《そこ》なおうとするペンペン草のようなものでしょうか。本来ならあなたなどとっくに我《わ》が北条家の保安部《ほあんぶ》が拘束《こうそく》してその不具合だらけの思考回路を矯正《きょうせい》して差し上げているところです。そうならなかった僥倖《ぎょうこう》をせいぜい感謝《かんしゃ》することね」
歳《とし》不相応《ふそうおう》によく回る舌《した》で、存分にまくしたててやった。
その効果《こうか》は適正に発揮《はっき》されたらしい。五|匹《ひき》の猿人《えんじん》どもは目を血走らせ、獲物《えもの》を輪に囲みながら迫ってきた――油断なく、確実に。ゴミ処理場《しょりじょう》と大差ないスラム同然の地区に住まうゆえか、ケンカ慣れはしているようだ。
気組みだけはくじけぬよう心を保ちながら、しかし麗華はじりじりと後退してゆく。徒手《としゅ》格闘《かくとう》の心得がないわけではないが――この人数相手に通じるかと問われれぱ聞こえないふりを決め込むしかない。
もとより、ここへ来たのは保安部の追跡《ついせき》を撒《ま》くためである。家出先として長居《ながい》するつもりはなかったが、場所が場所だけに危機《きき》感や警戒心《けいかいしん》がなかったわけではない。ただ、長年にわたって培《つちか》われた傲慢《ごうまん》さがそれを上回っただけで。
まったく、彼女にとっては到底《とうてい》理解《りかい》の及《およ》ばぬ事態《じたい》だった。――ちょっと道を尋《たず》ねただけなのに、どうしていきなり殴《なぐ》りかかってくることがあるのでしょう。下々の行動|律《りつ》はどうも奇天烈《きてれつ》でいけませんわ。カルシウム不足なのかしら。
だが麗華にすれぽ不条理な展開《てんかい》であるにせよ、状況が切迫《せっぱく》していることはもはや覆《おお》い隠しようがない。背中に硬《かた》い感触が当たった。ちらりと見やれぱコンクリートブロックの壁《かべ》。彼女の脚力《きゃくりょく》なら飛び越せない高さではない――が、その選択肢《せんたくし》には見向きもしなかった。引くことなど思いもよらない。過去に引いたことなど一度もない。
わたくしの名は北条麗華。北条義宣の一人娘《ひとりむすめ》にして北条コンツェルン唯一《ゆいいつ》の後継者《こうけいしゃ》。かしずかれるのが当然、余人に屈《くっ》するなど、ましてこんな泡沫《ほうまつ》どもに後《おく》れをとることなんて、この世にあり得て良いことではないのだから。
痛烈《つうれつ》な過信に自身を奮《ふる》い立たせ、逆にこちらから一歩前に踏み出して――
不思議と耳に心地《ここち》よい声が届《とと》いたのは、その時だった。
「そのくらいにしとこーぜ」
いつからそこにいたのだろう。見やると、豚鼻のすぐ後ろに少年がひとり佇《たたず》んでいる。
「っ……!」豚鼻は狼狽《ろうばい》しつつ振《ふ》り向くと闖入者《ちんにゅうしゃ》の姿を認め、「……てめえか」わずかに舌打《したう》ちを洩《も》らしたようだった。
その少年を目にした麗華は一瞬《いっしゅん》、彼女の忠実な下僕《げぼく》がここまで追ってきたのかと思った。が、ちがう。似《に》ても似つかぬ別人である。ただ唯一、その毒気のない笑顔《えがお》だけは彼を鬚繋《ほうふつ》とさせるものがなくもない。
背は高い。ただし、それほど歳《とし》が離《はな》れているわけでもないだろう。顔はまあ、及第点《きゅうだいてん》かしらね――と、美醜《びしゅう》にはうるさい麗華が認める程度《ていど》には整っていた。
右手に中身を満載《まんさい》した買い物|袋《ぶくろ》を持ち、十分に鈍器《どんき》として成立しそうなそれを軽々と下げている。袋に収《おさ》まりきらない青ネギが何本かはみ出して頭《こうぺ》を垂《た》れているのが妙に間抜《まぬ》けで場違《ばちが》いだった。
「何があったか知らないけど」
そいつは空《あ》いた左手で頬《ほお》を掻《か》きながら後を続けてくる。
「けんかはやめよう」
「すっこんでろ」
豚面はにべもない。
「てめえには関係ねえ。途中《とちゅう》からしゃしゃり出てきてボケたこと言ってんじゃねえよ」
「その通りだけど、ほっとくわけにもいかないじゃん。五対一だし」
「うるせえ。消えろ」
言い放つ。が、その語調に先ほどまでの勢いはない。
「う―ん……じゃ、こうしようぜ。僕が」
言いつつ、青ネギの少年はするすると猿《さる》どもの間を抜けて近づいてきた。
そのあっけらかんとした動きに意表をつかれたのか、五人は棒《ぼう》のように突っ立ったまま。それを尻目《しりめ》に少年は麗華の隣《となり》に立ち、
「僕が彼女を手助けするってのはどう? これなら五対二だし」
五人はあからさまに腰を引いた。ボス格《かく》らしい豚面が忌々《いまいま》しげにうめく。
「……そいつ、てめえのツレか何かかよ」
「ううん、今日はじめて会った」
「だったら邪魔《じゃま》すんな」
「そういうわけにもいかないって。ここは退《ひ》いといてよ」
「ざけんな。どけっつってんだろ」
「だめ」
「どけよ」
「どかない」
「どけ」
「どかな――」
「その口を閉《と》じなさい無礼者どもッ!」
いきなり割り込んだ麗華をその場にいた全員が顧《かえり》みる。
心底うんざりした、という口調で、令嬢は傲然《こうぜん》と言い放った。
「このわたくしを差し置いて勝手に話を進めないでいただけますこと? まったく、これだから育ちの悪い連中を相手にするのは嫌なのですわ。生まれながらにして定められた絶対的な優先《ゆうせん》順位というものをまったく理解《りかい》していないのだから。いいですこと、あなたたち民草《たみくさ》がわたくしに対して取れる唯一の態度は『絶対|服従《ふくじゅう》』、それのみなのです。この単純《たんじゅん》な事実がその知能指数の低さゆえに飲み込めないというのであれぱそこに直りなさい。今回に限《かぎ》って特別に、このわたくしが直《じきじき》々に調教して差し上げます。……ああもうっ、それにつけても下界というのはどうしてこう、ストレスが溜《た》まるものなのかしら。わたくし、今すぐにでも屋敷に戻ってシャワ―を浴びたい気持ちでいっぱいです。こんな穢《けが》れたところにあと三分もいたら、わたくしのように清らかな存在《そんざい》は下賤《げせん》菌《きん》に冒《おか》され尽《つ》くした末、隣《あわ》れにも霞《かすみ》のごとくこの世から消え去ってしまうことでしょう。あなたたちはこのわたくしを不愉快《ふゆかい》にさせるだけでは飽《あ》き足らず、殺人の罪《つみ》にまで手を染めようというの?」
「……………あ―…………」
隣で青ネギの少年があさっての方角を向き、納得顔《なっとくがお》で呟くのが聞こえた。
「何があったのか、大体わかっちゃったなあ……」
が、努めて黙殺《もくさつ》する。
そうせざるを得なかった。彼女の慈悲深《じひぶか》い言葉をどう曲解したものか、類人猿どもは完全に目を据《す》えてしまっている。
さすがにちょっとまずいだろうか――麗華の秀眉《しゅうぴ》に初めて憂《うれ》いがにじんだ時、またしても青ネギ少年がしゃしゃり出てきた。
立ちふさがるようにして麗華の正面に立ち、なおも説得する。
「どうしても引く気はない?」
「…………」
無言の返答。
「わかった。じゃあ――これでもまだダメかな」
「! てめ、それは……」
豚鼻の顔が驚《おどろ》きに彩《いろど》られる。彼の両目は、青ネギ男が首から外して差し出したネックレスへ釘付《くぎづ》けになっていた。
「これを預《あず》ける代わりに見逃《みのが》してもらう、っていうのは?」
「……へえ、いいのかよ」
「仕方ないじゃん。悪いのはどうも君たちだけじゃなさそうだしさ」
「何でそこまですんだ? そんなクソ女のためによ」
「クソ女かどうかは僕が決める。それにま、ここまできて引くのもヤだしね」
「嫌だと言ったら?」
「これでもだめならしょうがない。闘《や》ろう」
「………へっ」
鼻を鳴らし、豚面は間を取った。が、その顔色を見れば結論《けつろん》は知れていた。
「いいぜ、しょうがねえ。今日のところは見逃しといてやる」
案の定、すぐに下卑《げび》た笑《え》みを貼《は》り付け、
「そのかわりこいつは俺《おれ》が借りておく。そのアマはおまえからきっちり教育しとけ」
手下どもを引き連れてその場――錆《さ》びた資材《しざい》と雑草《ざっそう》に埋《う》もれた空き地だ――を悠々《ゆうゆう》とあとにする。
「……やれやれ、まあこんなところかな。さて、と。それじゃあ君――」
吐息《といき》をつきながらこちらを向いたネギ男が、うっ、と少しだけ身を引いた。
無礼な豚が放った去り際《ぎわ》の暴言《ぼうげん》を、麗華は聞いていなかった。感情の矛先《ほこさき》はすでにこのおせっかい男に向いている。
まったく、余計な手出しを。これからいよいよ目の覚めるような大|活劇《かつげき》の幕《まく》が切って落とされようという時に、すべてを台無しにしてくれた。これだから下賤の者は困《こま》るというのだ。
だが――無用の手出しであったとはいえ、助力を得たことについては認《みと》めないわけにはいかない。
一方的に叱《しか》り付けるのも躊躇《ためら》われ、かといって感謝《かんしゃ》の言葉を述《の》べられるはずもなく。
口の中をもごもごさせた末、結局言い放った科白《せりふ》はこうだった。
「――礼なんて、言いませんわよっ!」
「いや、そんなのはいいからさ」
不条理《ふじょうり》な怒《いか》りを向けられた少年は、しかしそれを大して気にするでもなく、
「ケガ。手当てしないと」
「ケガ?」
言われて初めて、ひりひりと腫《は》れてきた頬《ほお》の熱さを知った。
「ウチ、このすぐそばなんだ。行こう」
看ネギ男が背中《せなか》を向けて歩き出す。
何を言っているのだ、と思った。いきなり現《あらわ》れて、余計《よけい》なおせっかいを焼いて、その上ケガの手当てをするですって?
苛立《いらだ》ちが湧《わ》いた。――何もかも、このわたくしの意思がないがしろじゃない。まったく何様《なにさま》のつもりかしら。必要があったからとはいえこんな土地に足を入れたことすら後悔《こうかい》しているのに、こんな忌々《いまいま》しい所にはもう一秒だって長居《ながい》するつもりはないのに、その上あなたのようないけすかない男に誰《だれ》がついていくもんですか。
「ほら、早く。応急処置《おうきゅうしょち》は急いだほうがいいぜ?」
――なのに。
どうしてだろう。彼女は今でもわからない。
踵《きびす》を返し、不浄《ふじょう》の世界に永遠《とわ》の別れを告げるつもりだったのに――気づいた時には、足がひとりでに彼の姿《すがた》を追っていた。
それが北条麗華の、血筋《ちすじ》のよさと多彩《たさい》な才能の上にあぐらをかき、驕慢《きょうまん》の限《かぎ》りを尽《つ》くしてきた令嬢《れいじょう》のすべてを変えた転機となったことを、この時の彼女はまだ知る由《よし》もない。
『家』とやらに連れてこられた麗華は。
有り体《てい》に言えぱ絶句《ぜっく》していた。
この世には下々が住まう『アパート』なる集合|住宅《じゅうたく》が存在《そんざい》することは知っていた。これはたぶんそれなのだろう。
が。
まず、屋根に穴《あな》が開いている。ガラス窓《まど》は割れていないものの方が少ない。錆《さ》び腐《くさ》ったドアはちゃんと出入り口として機能《きのう》するのか疑問《ぎもん》だ。雨どいからは草が伸《の》び、板切れの壁《かペ》には苔《こけ》がむし、そもそも建物の基礎自体《きそじたい》が傾《かたむ》いてしまっている。
控《ひかえ》えめに言っても廃屋《はいおく》、順当に言えば単なる廃材《はいざい》の山にしか見えない。もとからガタのきているこの地区でも頭二つ抜《ぬ》けた朽《く》ちっぶりであった。
「ほら、あがって」
ドアを開けて(ちゃんと開いた)ネギ男が促《うなが》してくる。
が、不覚ながら麗華は怖気《おじけ》づいてしまっていた。――本当にだいじょうぶかしら。もし天井《てんじょう》が崩《くず》れてきたら、いくらわたくしでもどうにもなりませんし。それにまさかとは思うけどこの男、わたくしの身分を知り、監禁《かんきん》して身代金《みのしろきん》でも取ろうというのではないでしょうね?
そんな心情が顔に出ていたのかもしれない。
こちらを見てくるネギ男が、くす、と笑った。――気がした。
刹那《せつな》、無性《むしょう》に腹《はら》が立ち、それと同時、得体の知れない強烈《きょうれつ》な情動が湧き上がった。
弱みを見せたくなかった。不安になっているところを、心細くなっているところを悟《さと》られたくなくて――
とっさの行動だった。麗華は胸《むね》を反らし、思いっきり高笑いをした。
「――び、びっくりしたあ」その音声を浴びてネギ男はよほどたまげたらしく、またたびを吸《す》った猫《ねこ》みたいに目を白黒させ、
「でも、すごくきれいだ。いい声を出すんだな、君って」
「なっ――」かあっ、といっぺんに血が上る。
「なんですのそれっ。わたくしを馬鹿にしてるんですのっ?」
「えっ? ちがうちがう。本当にそう思ったんだよ。ただの本音。ほめてるんだ」
「そ、そう。ふん、ならいいのですわっ」
ぷいっとそっぽを向きながら、しかし早くも自覚していた。この男を相手にすると、どうも調子が狂《くる》う。
苛立ちついでに勇を鼓《こ》し、肩《かた》をいからせて玄関《げんかん》をあがった。
なるほど、外観に比せば案外なことだが、中はちゃんと住居の体を成していた。物置にしか見えないのはご愛婚《あいきょう》だが、狭いながらも家財道具はよく整理されている。貧相ではあるものの不潔《ふけつ》な印象はない。
ネギ男が冷蔵庫《れいぞうこ》――だろう、たぶん。小物入れか何かにしか見えなかったが――を開けて氷を取り出し、麗華の頬に当てようとする。その氷をひったくり、「自分でやります。余計な世話を焼かないで頂戴《ちょうだい》」と言った。いつもならメイドにでもやらせておくことなのに。
にこ、と笑い、ネギ男が問うてくる。
「まだ訊いてなかったね。君の名前は?」
「ふん――北条麗華よ。覚えておきなさい。そう遠くない将来《しょうらい》、世界を制《せい》することになる名前でしょうから」
「なるほど。僕《ぼく》の名前は――」
「聞きたくないわ。呼《よ》ぶつもりもないから」
また、にこ、と笑う。たちまち頬が打撲《だぼく》とは別の熱を持った。感情がざわざわと揺《ゆ》れる。
「こ、このっ――」その波立ちをごまかすように、思考野からまろび出た科白《せりふ》をそのまま口にしていた。
「へらへら笑ってるんじゃないわよこのネギ男!」
「? ねぎ……? って、僕?」
「あなた以外だれがいますのっ」
「ねぎ、って、またなんで? あ、さっき持ってたからか……でもそうだとしてもやっぱわかんないなあ。何がどうなったらそうなるわけ? 変なやつだな、君って」
「なによ文句《もんく》があるの? あなたの名前などそれで十分です。――とにかくっ」
妙なネーミングを施《ほどこ》した気まずさに声を荒《あら》ら[#らが多い?原文のまま]げながら、
「あなたのその、知ったような笑い顔を見ていると気分が悪いのよ。目障《めざわ》りですわ、どこへなりと消えなさい!」
無茶《むちゃ》を言う。が、当然というべきか、この部屋の住人たる少年に場を去る気配はなく、むしろ一層《いっそう》その笑《え》みを深くしているように見える。
麗華はますますくちびるをひん曲げた。やはりこの男はよくない。何か変な磁場《じぱ》をもっていて、こちらの冷静な部分をやたらと引っかき回してくるのだ。これ以上口を利《き》いているとそのうち自分のどこかがおかしくたってしまう予感がある。もう相手をするのはやめたほうがよさそうだ――
にこにこ見つめてくるネギ男から目いっぱいに顔をそむけ、そう心に誓《ちか》った。
が、五分ももたなかった。どこにも行こうとせず、標準《ひょうじゅん》固定《こてい》された笑顔のまま黙《だま》ってそばにいる少年の視線《しせん》に間がもたず、結局は麗華の方から口を開いてしまう。
「あなた、どうして――」
「ん?」
「どうしてわたくしを助けようとしたの?」
「みんな同じこと訊《き》くなあ。それって、そんなに理由が要《い》ること?」
「答えなさい」
「う―ん……要するにさ、君の未来をこんなところでダメにしたくなかったから、かな。あのまま行くと、ひょっとするとそういうことになってたかも知れないし――ひと目見て思ったんだ、君はそのうちぜったいすごい人になるって」
「そんなことはわかり切っています」
「あはは、君も言うなあ。じゃあこういうことにしよう。僕が君のことを気に入ったから――そういう理由じゃだめ?」
麗華に言わせればこの男の方がよほど物をほざく。自身の天性《てんせい》については強烈《きょうれつ》な自負を持つ彼女だが、こう面と向かって言われると居心地《いごこち》が悪くなってしまう。おまけにあけすけな口調で『気に入った』などと――
「……あなたさっき、あの豚男《ぶたおとこ》にネックレスみたいなものを渡《わた》していましたわね? あれは何?」
「ああ、あれ。いや、たいしたものじゃないよ」
「そんなはずないでしょう。あいつがあんなにあっさり退《ひ》いたんだから。言いなさい、あなたに借りを作りたくありません」
「いや、ほんとにたいしたものじゃないんだって。まいったなあ、あれについてはあんまり言いたくないんだよ……」
どうやら初めて弱点を衝《つ》けたらしい。いけすかない男が心底|困《こま》った顔で頭を掻《か》くのを見て、麗華はちょこっとだけ満足した。
ただ、さらに畳《たた》み掛《か》けて意地悪する気には不思議となれず、
「ところであなた、ご家族はいつ戻《もど》ってらっしゃるの? あなたのことはどうでもいいけど、ご両親には義理《ぎり》を果たさねばなりません。ひとことご挨拶《あいさつ》したいわ」
「う―ん……いや、父さんも母さんも戻ってくることはないよ」
「――え?」
「ここには僕ひとりで住んでるし。たまに姉さんは顔を見せるけどね。でも挨拶できるかどうかっていったら、微妙《びみょう》だろうなあ」
舌打《したう》ちしたい気分だった。まずいところに触《ふ》れてしまったらしい。しかし、
「ひとりで住んでるって、だいたいあなた今いくつなのよ?」
「僕? 六|歳《さい》だけど」
「ろ」
六歳! ひとつ違いとはいえ年下ではないか。もっと上かと睨《にら》んでいたのに。驚いている麗華自身だって相当なものだが、この少年もまったく年齢《ねんれい》には見合わない。
「ひとりで住むって――」どうも想像《そうぞう》がつかなかった。
「メイドなどはどうしてますの? 住み込みは無理でも、ひとりくらいは雇《やと》っているのでしょう?」
「あはは、無理無理、雇ってるわけないって」
「じゃあ、じゃあ朝はどうやって起きるんですの? 服の着替《きが》えは? お風呂《ふろ》で身体《からだ》を洗《あら》う時は?」
「……いやあ、そうだろうとは思ってたけど、ほんとにお嬢《じょう》さまなんだなあ君って。そういうのもぜんぶ僕ひとりでやってるよ。ほかに誰もやってくれないから。姉さんに言わせるとこれも修行《しゅぎょう》のうちだそうだけど。ていうか君、よくここまでひとりで来れたよね」
「…………」
「それで、どうするの?」
「? 何がですの?」
「いや、君ってたぶん家出してきたんだろ? もどるつもりなら送っていくけど」
――あるいはこの瞬間《しゅんかん》だったかもしれない。この少年に対する明確な対抗《たいこう》意識《いしき》が心の奥《おく》に根を張《は》ったのは。
にこにこ笑ってくる彼と目を合わせた時、家出の事情までをも見抜《みぬ》かれていると直感した。その刹那《せつな》、激《はげ》しい屈辱《くつじょく》と差恥《しゅうち》が全身を支配《しはい》し、めまいがするほどの激情を覚えた。
誓《ちか》った。このまま終わらせるわけにはいかない。ぜったいに。北条麗華の何たるかを叩《たた》き込んでやらない限り、死んでも引くわけにはいかない。
「それともここにいる? 住んでるのは僕だけだし、そうしたいなら好きなだけどうぞ。狭いところだし、そう余裕があるわけでもないから、もてなしは何もできないけどね」
だから、彼女は迷《まよ》わなかった。
人間、背中《せなか》は嘘《うそ》をつけないものだという。普段《ふだん》目にすることのない身体の裏側《うらがわ》はひどく無防備《むぼうび》で無頓着《むとんちゃく》になる場所ゆえ、どうしてもケアは行き届かなくなる。内面がそこに最も濃《こ》く滲《にじ》み出ていたとしても鏡がなければそれに気づきもしない。『世界』という言葉の意味する範囲《はんい》がごく限られている幼年期であればなおさらのこと。
だが、時の流れとはやはり偉大《いだい》なものなのだろう。悲哀《ひあい》の棘《とげ》を丸く削《けず》り、幸福を永遠《とわ》の幻想《げんそう》に書き換《か》え――そして過去の自分を他人も同然に変質《へんしつ》させる。
他人の背中ならば見るのに苦労はない。今の麗華には、あの当時の自分がいかに滑稽《こっけい》な存在だったかよくわかる。
いや。あの頃にでさえもう、わかっていたのだ。ほんとうは。
青ネギ少年と一時の共同生活を始めたものの、後悔《こうかい》はすぐにやってきた。
彼は麗華を甘《あま》やかさなかった。こうなった以上立場は対等だ、であるからには暮《く》らしていく上で必要な作業はすべて二人で分担《ぶんたん》しなければならない――というのである。つまり、君も家事をやってね、と。
冗談ではない、と突っぱねた麗華だったが、ネギ男が素人《しろうと》目《め》にも鮮《あざ》やかな手さばきで家事をこなしている姿を見せられればそうも言っていられなかった。この相手にだけは何を競《きそ》っても負けたくはなかったのだ。見様《みよう》見真似《みまね》で、何倍も劣《おと》る効率《こうりつ》で、それでも四苦八苦しながらやるしかなかった。
まったくの手ぶらだったために、身の回りのものをそろえるのも一苦労だった。軍資金《ぐんしきん》の都合はともかく、狭《せま》い部屋の中に多くのものは持ち込めない。普段《ふだん》使う品の何百分の一という数で我慢《がまん》しなければならなかった。そもそも自《みずか》ら商店に赴《おもむ》いて日用品を手に入れてくるなどは初めての経験《けいけん》である。おまけにそれらの店舖《てんぽ》に置いてある商品は、いつも使っているのとは勝手の違うものばかり。ことに新しく仕入れた肌着《はだぎ》の妙《みょう》にごわついた感触《かんしょく》が難儀《なんぎ》で、自慢《じまん》の柔肌《やわはだ》が粗布《あらぬの》に犯《おか》されてささくれ立つのは時間の問題かと思われた。
トラブルは想像を超《こ》えた頻度《ひんど》で襲《おそ》い掛《か》かってきた。お風呂《ふろ》は家の外にあるし、共用トイレが放つ怪奇《かいき》ぶりには本気でくじけそうになったし、腐《くさ》った廊下《ろうか》の板を踏み抜いた時は三途《さんず》の川を渡る覚悟《かくご》をした。
それらのことがどうでもよく思えてくるほどの難事《なんじ》もすぐにやってきた。ネギ男の住まいは六畳《ろくじょう》一間《ひとま》、その広さは彼女が日常《にちじょう》使っているベッドにも劣る。そこに家財《かざい》道具を詰《つ》め込んでいるとなれば、男女二人が安全な距離《きょり》を保《たも》って就寝《しゅうしん》するスペースなどあろうはずもないのだ。
が、麗華もこの件に関してだけは強硬《きょうこう》な姿勢《しせい》を崩《くず》さなかった。男女たるもの、およそ二本の足で立つようにもなれば床《とこ》を異《こと》にするのは常識《じょうしき》であり、むろんその場合、女性から身を引くのはもってのほかである――と。もっとも、相手の方でもこの主張《しゅちょう》については大した異論《いろん》も挟《はさ》まず、むしろ自ら進んで布団《ふとん》を抱《かか》えて廊下に出たものだったが。
時は濁流《だくりゅう》のように流れた。
麗華自身意外に思ったことだが、彼女には存外な適応《てきおう》能力が備《そな》わっていたらしい。ぶつぶつと文句《もんく》を垂《た》れながらも、三日もたつ頃にはこの生活なりの面白《おもしろ》さを見出《みいだ》すようになっていた。
まず家事に楽しさを発見した。学校に行くのはネギ男だけであり、麗華は留守番《るすぱん》である。暇は売るほどある。
計画はこうである。手はじめにネギ男の仕事ぶりを観察し、その動きを徹底《てってい》的に頭へ叩《たた》き込む。そして家主がいない間に記憶《きおく》を引き出しながら、ああでもないこうでもないとそれを再現する。
タ―ゲットが帰ってくる頃には炊事《すいじ》、洗濯《せんたく》、掃除《そうじ》、すべてが完璧《かんぺき》にこなされているという寸法《すんぽう》である。そして目を丸くする少年に向かって『どうだ』と言わんばかりの顔でふんぞり返るのだ。すると奴《やつ》は例の笑顔で、同居人の手柄《てがら》に見合った賞賛《しょうさん》の言葉を並《なら》べ立てる。悪い気はしなかった。
もっとも彼女の教科書はネギ男ひとりであり、その仕事は彼の寸分|違《たが》わぬコピーであり、つまり彼の作った朝食をそのまま真似《まね》たものが夕餉《ゆうげ》に並ぶことになったりするのだが、いいのである。『わたくしにだってこのくらい、お茶の子さいさいですわ』ということが言いたいのだから、一日二食、まったく同じ献立《こんだて》を平らげることになっても平気なのである。
暇に飽《あ》かせて住居《じゅうきょ》の改造《かいぞう》にも乗り出した。といっても口座《こうざ》の預金《よきん》やカ―ドは使えず、運用できる現金は限られている。が、そのやりくりがまた麗華の功名心《こうみょうしん》をくすぐったし、厳《きび》しい予算で想定以上の成果を導《みちび》き出した時の達成感は、かつて経験したことのない種類の喜びを感じさせてくれた。ことに、最たる攻略《こうりゃく》目標であったトイレなどリフォ―ム後にはほとんど別物と化し、それを見せられたネギ男は半ぱ呆《あき》れ混《ま》じりに、しかしそれでも大いに施工者《せこうしゃ》の仕事ぶりを褒《ほ》め上げたものである。
はじめは戸惑《とまど》ったものにも慣れ、かつてなら自らの目で確《たし》かめもせず拒絶《きょぜつ》していたであろうことにも積極的に関《かか》わるようになった。銭湯《せんとう》で風呂上《ふろあ》がりに飲むコーヒー牛乳《ぎゅうにゅう》なるものの味は格別《かくべつ》であったし、駄菓子屋《だがしや》に並ぶ商品類は、味はともかくとしてもその万華鏡《まんげきょう》のような多彩《たさい》さは目を瞠《みは》るものがあった。
毎日が、すべての経験が冒険《ぽうけん》に等しかった。
一週間が過《す》ぎると、もうこの地区の住人であることにそれほどの不都合は覚えなくなっていた。蝶《ちょう》よ花よと可愛《かわい》がられ、右のものを左にも置かない暮《く》らしに首まで浸《つ》かってきた少女にしては破格の順応《じゅんのう》だったろう。
すると、かつての自分の姿を一歩引いたところから見られるようになる。
見えなかった自分の背中があらわになってくる。
ネギ男は底が知れなかった。
彼の言ったことに嘘《うそ》はなかった――つまりこの少年はほんとうに六畳一間のアパートにひとりで暮らし、生活のすべてを自分だけで賄《まかな》っていた。家事だけではない、食い扶持《ぶち》まできっちり稼《かせ》いでくるのである。それは社会的にいろいろ問題だろう、と麗華でさえそう思ったが、当の彼は全く頓着《とんちゃく》しておらず、彼の周囲もそれは同様だった。というよりその周囲が彼に仕事の口を与《あた》え、なおかつ労働力として頼《たよ》りにしていたのである。そこはそういう土地|柄《がら》だった。例えば件《くだん》の豚面《ぶたづら》だって父親と屋台を引いていて、なおかつ十分物の役に立っている様子だった。その姿を見かけるたび、麗華は自分から目を逸《そ》らした。
家事では一つも勝てるものがなかった。いくら忠実《ちゅうじつ》に再現しても、しょせん付《つ》け焼刃《やきば》のコピーには限界《げんかい》がある。工夫《くふう》の仕方で補《おぎな》おうとしたところで経験の差は一朝《いっちょう》一夕《いっせき》に埋《う》まるものではない。
知識の量もその使いこなし方も、すべて向こうが上に思えた。一体どこから仕入れてくるのか、記憶力《きおくりょく》のよさでは人後に落ちない麗華が舌《した》を巻《ま》くほどこの少年は物を知り、それを自分なりの解釈《かいしゃく》で咀嚼《そしゃく》していた。試《ため》しに議論《ぎろん》を吹っかけると、それの数枚上を行く論説を返されて応答に詰まるのが常だった。
もちろん勝《まさ》っているものがないわけではない。ピアノもバイオリンも、茶道《さどう》も華道《かどう》も、相手は嗜《たしな》んだことがない。それらの分野でいかに自分が秀《ひい》でているかを自慢《じまん》し、胸《むね》を張《は》った。ネギ男はそのたびに大いにおどろき、素直《すなお》に恐《おそ》れ入った。麗華はそのつど優越《ゆうえつ》感を得た。でも問題はそういうことではないのだ、ということも薄々《うすうす》わかり始めていた。
さらに時が過《す》ぎた。
ネギ男に自分のすごさを思い知らせてやるという当初の目的は、達成されるどころかいよいよ遠ざかっていくかにみえた。それと反比例《はんぴれい》するようにして自分の背中《せなか》はより近く、はっきりと見えるようになってくる。日を重ねるごとに居心地《いごこち》の悪さは増《ま》してゆき、強く麗華をせき立てるようになっていった。
だから必然だったのだろう。彼女がその行動に出たのは。
きっかけは偶然《ぐうぜん》で実行は即断《そくだん》だった。
先日の空き地を通りかかった時、豚面《ぶたづら》が仲間と共にたむろしているのが見えた。
逡巡《しゅんじゅん》する間も勝算を見出《みいだ》す間もない。足がひとりでに向きを変えていた。
「?――なんだ、てめえかよ」
足音に気づいて五人が一斉《いっせい》にこちらを向いた。豚面が片眉《かたまゆ》をあげる。
「さっさと消えな。約束だからな、お前には手を出さねえ」
たわごとは聞き流し、麗華は足を肩幅に広げ、両手を腰《こし》に当てて言い放った。
「あれをお返しなさい」
「はあん?」
「この間、あの男があなたに渡《わた》していたネックレスよ。あれをお返しなさい」
「……へえ。なるほどねえ」豚面が意趣《いしゅ》ありげに唇《くちびる》の端《はし》を吊《つ》り上げ、ポケットに入れた手を抜いた。「これのことかよ」じゃらり、とぶら下げてみせる。
青い石をはめたブローチを金色の鎖《くさり》にくぐらせたネックレスだ。安物なのは見るまでもなくわかる。それこそ駄菓子《だがし》屋あたりで売っていても違和《いわ》感はあるまい。
「で、こいつをどうしろって?」
「お返しなさい」
「バカかお前。そう簡単《かんたん》に渡すわけねえだろ」
せせら笑い、
「ところでお前、あいつんトコで暮《く》らしてんだって? 物好きだよなあ、あいつもお前もよ。なんだよ、いつからそんな関係になったんだ。聞かせてくれよ」
「…………」
「このあたりはけっこうムチャクチャなトコだけどな、それでもお前らみたいなチビが二人だけで暮らしてるってのはさすがに聞いたことねえぜ。どうだ、おままごとは楽しいか? まさかその歳《とし》でよがってんじゃねえだろうな、おい」
毒舌《どくぜつ》にはしっかり錠《じょう》をかけた。
「……どうすれば返してもらえるのかしら」
「けっ、最初からそう言えばいいんだ。まあオレらとしてもよ、あの野郎《やろう》に免《めん》じてお前には関《かか》わらないでおくつもりだったけどよ――でもこういうことなら話は別だよなあ?」
取り巻きに同意を求める。手下どもが返してきた笑みは予想した通りに品がなかった。
つい、苛立《いらだ》った。
「遠まわしなやり方は好みません。さっさと条件《じょうけん》を言いなさい」
「つーかよ、オレの気のせいか? それともオレの耳がどっかおかしいのか? さっきから場違《ばちが》いなセリフがずっと聞こえてきてんだけどよ。人に頼《たの》みごとをする時の口の利《き》き方ってのはそんなもんなのか? ええ?」
「……悪かったわ」
「何か言ったか?」
「――ごめんなさい。わたくしが悪かったわ」
「わかってんじゃねえか」
絶対的優位を確信《かくしん》した声でいっそう図に乗ってくる。
「ま、返してやらないこともねえぜ。お前の態度次第《たいどしだい》だけどよ」
「どうすればいいの」
「どうすればいいと思うんだよ」
「もう謝《あやま》ったはずですわ」
「それで謝ったうちに入ると思ってんのか?」
ぎり、と奥歯《おくば》をかむ。
もうやめてしまったら?――と誰《だれ》かが囁《ささや》く。言いたいことをぶちまけて、ついでに鉄拳《てっけん》のひとつもお見舞《みま》いして、あの豚《ぶた》っ鼻《ぱな》をもっとへこませてやればいいじゃない。
迷《まよ》う。衝動《しょうどう》に従《したが》いたくなる。こんなこと、わたくしがやるべきことじゃない。放っておけばいいことじゃないの――
「どうした黙《だま》っちまって。それでお終《しま》いか? だったらやっぱりこの話はナシだ。なにしろあの野郎のおふくろの形見だからな、こいつさえ持っとけばあのガキも下手《へた》な真似《まね》はできねえ。そう簡単に渡すわけにはいかねえよ」
「――なんですって?」
「? 何だお前、それも知らずに取り戻《もど》しに来たってか? こいつはあの野郎が肌身離《はだみはな》さず持ってやがったもんでよ、奴《やつ》のおふくろがたった一つだけこの世に残したもんなんだとさ。ま、オレもよくは知らねえけど……これまでは手放すどころか、他人に見せることも滅多《めった》になかったんだけどな」
「…………」
どうして。
どうして自分はこんなところにいて、こんなことをしているのだろう。
もともとこんなに長居《ながい》するつもりはなかった。家出したところでどうせすぐに保安部《ほあんぶ》が迎《むか》えにくる。それは予測《よそく》ではない、単なる未来の事実だ。今も彼らはこちらを見ているだろう。これだけの長期間、保安部が主人の行方《ゆくえ》を突《つ》き止められぬとは考えられない。どこか近くで気配を消して令嬢《れいじょう》の身の安全に心を砕《くだ》いているはずだ。なのにどうしてこの場に、彼女の窮地《きゅうち》を救いに出てこないのだろう。それともまさか、いまだ自分のことを探索《たんさく》できていないのか。
何を言ってるのかしら――と自嘲《じちょう》する。こうしてこの場に立っているのは、彼らの助力を当てにしていたゆえか。ちがう。
自分の背中が見えた今、麗華は変わらなければならなかった。
他人に依存《いぞん》しきった性根《しょうね》を、叩《たた》き直さなければならなかった。
もう、彼女は嫌《いや》というほど自覚していたのだ。己《おのれ》がいかに甘《あま》ったれた子供《こども》であったかを。
父の溺愛《できあい》は言い訳《わけ》にならない。最愛の連れ合いを早くに亡《な》くしたゆえ、たった一人の忘《わす》れ形見に歯止めの利かぬ愛情を注いだからといって、己の弱さの責任《せきにん》をすべて父に帰《き》すことはできない。父の危《あや》うさに気づきながらそれを受け入れつづけてきたのは、彼女自身なのだから。
母のいない寂《さび》しさも言い訳にならない。自分よりもっと寂しい人間がいくらでもいることはとっくにわかっていたし、事実寂しさを感じてはいても、写真でしか見たことのない母に思慕《しぼ》を募《つの》らせるには彼女はまだ幼《おさな》すぎた。お母さまがいなくてお寂しいでしょう、と同情をもって接《せっ》してくる周囲に、それと知りつつ寄《よ》りかかっていただけだ。
そもそも家出の理由からしてふるっているのだ。なにしろ理由と呼べるような理由がないのだから。なんとなく退屈《たいくつ》で、ちょっとだけ気に食わないことがあった。それだけのこと。半日も経《た》てば連れ戻されて、父の前でしおらしく謝ってみせればそれでおしまい――
それだけのつもりだった。
なんて、幼稚《ようち》な。
「――おっ?」
片膝《かたひざ》をついた麗華に豚面が意外そうな声をあげた。
「へえ、そこまでやるかよ。いいぜ。それだったら文句《もんく》はねえ」
――そんな自分に、あの少年は手を差し伸《の》べてくれた。危ういところを助けてもらったし、何も訊《き》かずに家に置いてくれたし、たくさんのことを教えてもらった。
「どうした? 返してもらいたいんじゃねえのか?」
おまけに彼は自分と対極にある人間だった。誰にも甘えず、自前の二本の足だけでしっかりと立っていた。
その姿《すがた》は、とてもまぶしく映《うつ》ったのだ。
せめて対等になりたかった。
借りを作ったままではいたくなかった。
借りの大きさを知った今となっては、なおさら。
「――ごめんなさい」両膝をついた。「お願いだから、返して」
口笛。
「こいつマジでやりやがった。――でもな」
頭《こうべ》を垂《た》れたままでも下卑《げぴ》た笑《え》みを向けられたのがわかった。
「悪いがそれじゃ足りねえんだ。土下座《どげざ》ってやつはよ、もっとこう、額《ひたい》を地面にこすりつけて――」
「それじゃ話が違う」
と、麗華の心情を口にしたのは彼女自身ではなかった。
えっ? と首を上げた令嬢が見たものは。
横ざまに吹っ飛んでいく豚面《ぶたづら》の丸い身体《からだ》だった。
「――大げさだなあ。そんなに強くは殴《なぐ》ってないはずだよ」
ネギ男。
「丸く収《おさ》まるようなら黙ってるつもりだったけど。こうなっちゃしょうがないよね」
いつの聞に。いや、いつから。
「……てめえ、やってくれたじゃねえか」
豚面がふらふらと、しかし激《はげ》しく怒気《どき》を滾《たぎ》らせながら起き上がる。
「それは僕《ぼく》のセリフだぜ。彼女を見逃《みのが》してもらうって約束には、こういうことをしないってことも入ってたはずだけど?」
「けっ、だったらその契約書《けいやくしょ》でもここに持ってこいや。そうすりゃ納得《なっとく》してやる」
「……ふうん、まだわかってないんだ」
その声を聞いた時の身震《みぶる》いを麗華は今も忘れることができない。
「あのね、僕は、とても怒《おこ》ってるんだけど……?」
彼の顔は背になって見えなかったけど、見なくてよかったのだろうと思う――五人の、憐《あわ》れを催《もよお》すほど引きつった表情を鮮明《せんめい》に覚えているだけに。
「――ま、いいや。さっきの一発は彼女が受けた屈辱《くつじょく》の分。それでこの件《けん》はチャラにしよう。納得してくれる?」
続いた言葉に彼らは一も二もなく頷《うなず》き返す。
「そう。よかった」
笑い、仲裁者《ちゅうさいしゃ》はポンとひとつ手を叩《たた》いた。するとたったそれだけで、場に張《は》り詰《つ》めていた刃物《はもの》のような気配が、何かの幻術《げんじゅつ》のように立ち消える。
やっぱりこの男は底が知れない――なおも呆然《ぼうぜん》としたまま、そう思った時。
「ところでさ、その間題が解決《かいけつ》したところでもうひとつ提案《ていあん》があるんだけど」
「な、何だよ」
「僕を殴ってみない? 君たちの好きなだけさ」
「はあ?」
突拍子《とつぴょうし》もない提案の内容《ないよう》に、当人以外の誰もが怪認《けげん》な顔をした。
「好きなように、飽《あ》きるまで殴ってくれていいぜ。そのかわり――それとひきかえに、ネックレスを返してもらう」
「ちょっ――」ようやく口が動いた。
「ちょっとあなた、なに考えてるのよ、そんな、」
「君は黙ってて」
思いのほか強い言いざまに、つい押《お》し黙る。
「どう? 悪い話じゃないと思うけど。君たちってたぶん、一度は僕をぶっ飛ばしてみたくてしょうがないんだろうしさ。いいよ、思う存分《ぞんぷん》やってくれて。もちろん僕のほうからは手を出さない。約束する」
冗談《じょうだん》を言っているわけではなさそうだ、と判断《はんだん》したのだろう。五人は雁首《がんくび》ならべて二言三言|交《か》わしていたが――結論《けつろん》はすぐに出たようだった。
「こっ、このばか! おやめなさい、そんな、そんなばかげたこと――だいたいこれはわたくしが蒔《ま》いた種で、だからわたくしが――」
「いいんだ。君は手を出さないで。絶対《ぜったい》にね」
制《せい》しても、彼の断固《だんこ》とした声に身を打たれると、またしても動けなくなってしまう。
一度もこちらを見ぬまま少年は麗華の元を離《はな》れた。なす術《すべ》もなくその後ろ姿《すがた》を見送った。立て続けの出来事にすっかり混乱《こんらん》していた。どうしたらいいのかわからない。とにかく何かしなければと思っても、『君は手を出さないで』の呪縛《じゅばく》に捉《とら》えられ、へたり込んだまま一歩も動けない。相手よりずっと体重の軽い少年が無抵抗《むていこう》に宙《ちゅう》を舞《ま》うたび、見栄《みえ》も外聞もなく悲鳴をあげていたように思う。途中《とちゅう》からは目も耳も塞《ふさ》いでしまっていたかもしれない。そういう自分の無様さを気に留《と》めるゆとりさえなかった。もう何がなんだかわからなかった。決壊《けっかい》した感情の奔流《ほんりゅう》に飲み込まれ、訳《わけ》もわからずぽろぽろ涙《なみだ》をこぼしていた。
ひときわ景気よく少年の身体《からだ》が吹《ふ》き飛び、ようやくそこで彼はサンドバッグ役から解放された。上機嫌《じょうきげん》で去っていく五人には目もくれず、一散に駆《か》け寄《よ》った。
「だいじょうぶ? ねえ、だいじょうぶ?」
身体中|泥《どろ》まみれ、顔は特殊《とくしゅ》メイクでも施《ほどこ》されたように腫《は》れあがっている。ただ、手にはしっかりとネックレスが握《にぎ》られていた。それを見ていっそう感情があふれてくる。
「ごめんなさいっ。わたくしが、こんな、わたくしのせいで……」
「あー、いや、ね」
思いのほかしっかりした声が返ってきて、少年はなぜか気まずそうに目を逸《そ》らし、
「そんな風に君に泣かれると、今度こそ僕の立つ瀬《せ》がないんだけど……ところでさ、もう行った? あいつら」
「ええ、もういないわ。だからもう心配しなくて――」
「――よし」
ひょい、と気軽に起き上がる。それだけではない。麗華が目を丸くする中、少年は飛ぶような勢《いきお》いで駆《か》け、空き地を後にした。到底《とうてい》、何十発も殴られた人間の動きではない。
「ちょ、ちょっと!」
あわてて追いかけると、向かった先は例のボロアパートである。
少年は洗面所《せんめんじょ》で蛇口《じゃぐち》を全開にひねり、水を顔いっぱいに浴びせていた。もちろん見た目のまま、殴《なぐ》られた部分を冷やしているのだろうが――どうしてこう、ぴんぴんしているのか。
あまりにも怪我入《けがにん》の印象からは遠い様子《ようす》に戸惑《とまど》っていると、
「見た目はひどいだろうけど、この手の腫れはどうってことない。ただ早く冷やさないと治りが遅《おそ》いから。いつまでも傷《きず》を残しとくと姉さんが帰ってきたとき雷《かみなり》が落ちるしね」
口に入る水流に苦慮《くりょ》しながら言いよこしてくる。
「彼に一発いれてチャラ、ってことにしたけど――あんなものじゃ君の気は済《す》みそうにないし。だからとりあえず、こんな感じに決着をつけてみたんだけど、どうだろう。今回の件《けん》、これで水に流してもらえないかな……?」
首をあげて、にこ、と笑いかけてくる。
その顔はずいぶん変形していたけど、どうやら大事はなさそうで。
ようやくほっとして、同時に抑《おさ》えていた気持ちが急にあふれてきて。
「ばっ、ばかっ! あなたのその、へらへらした顔を見てるとわたくしは腹《はら》が立ってくるのよっ、このネギ男!」
だめだ。また泣けてきてしまう。
「――うわあ。だめなんだよ、僕、そんなふうに泣かれると。ほら、頼《たの》むから泣きやんで。だめ? う―んそっか……あー、やっぱり隠《かく》しとくわけにはいかないのかなあ」
両手で顔を覆《おお》っているから見えるわけではないけど、彼が困《こま》り果てた表情をしているのがわかる。たぶん頭も掻《か》いているだろう。
「だめだ。やっぱ黙っておけそうにない。言おう。うん」
何事か自分自身に言い聞かせ、そしてひどく恐縮《きょうしゅく》した声で告げてきた。
「あー、ところで。生きてるから。僕の母さん。それに父さんもね」
よく聞こえなかった。
「……へっ?」
「いや、だから。生きてるよ、僕の母さん」
「で、でもあなた、たしか……」
「父さんも母さんも戻ってくることはない、とは言ったけどね。実際《じっさい》その通りだし。もちろん、あの二人がいま地球のどこにいるのか知らないから確実《かくじつ》なことは言えないんだけど――でも死んでる、ってことはまずありえないから」
「ちょ、でもあのネックレスはお母さまの形見だって――」
「って、あいつらがそう言ってたんでしょ。でも、僕は言ってないと思う」
「だ、だけどあれは大切なものなんじゃ、」
「う―ん……やっぱり僕の口からは一度も言っていないと思うぜ、そういう意味のこと。そうするように気をつけていたはずだから」
「…………」
確《たし》かに――自慢《じまん》の記憶力《きおくりょく》を総《そう》動員して丁寧《ていねい》に思い返していくと彼の言うことが正しいような。だけどそう誤解《ごかい》をしてもおかしくない言い方をしていたような。それに、だとすればあのネックレスはいったい何だったのだろう。
「いや、単なるガラクタだよ、正真|正銘《しょうめい》の。まあつまりね、ああいう時の取引材料というか切り札というか――ほら、ここってこういう土地だからさ、どうしても色んなことに保険《ほけん》をかけておく必要が出てくるんだよね。だから、あれをいかにも大事なものみたいに思わせておいてさ。実際それってちゃんと成功してたでしょ?」
「な……」
「ついでに言うとね、殴られてる時の僕ってけっこう派手《はで》に飛んでたでしょ? あれはね、演出《えんしゅつ》だから。ああしてたほうが殴ってる側は気分いいし、拳《こぶし》も痛《いた》まないし、こっちだってケガが少なくて済《す》むし」
「そ……」
「つまりね、君が泣く理由はどこにも――」
「ちょっと! じゃあ何だったのよわたくしがしてきたことは!」
「うん、ごめん。基本《きほん》的に、まったくの無駄《むだ》」
とっさに二の句《く》が継《つ》げない。
「こっ……だ、だったらあいつらにそう言えばよかったじゃない! あれはほんとはガラクタなんだって! いいえその必要もないわ、だってニセモノなら取り返さなくたってよかったんですからね!」
「それだと君に申し訳が立たないだろ。それに君がそこまで思い詰めていたことに気づかなかった僕も悪い。あとはちょっとだけ、彼らをだましていたことの罪滅《つみほろ》ぼしもあるかな。だから、僕がこういう目にあってるのはまったく当然のことなんだ」
「どうして――どうして最初からそう言わなかったのよっ! わたくしに!」
「……だってさ、」
そう呟《つぶや》いて。
少年はその時、初めて年齢《ねんれい》相応《そうおう》の子供《こども》らしい表情を見せた。
拗《す》ねるようにくちびるを尖《とが》らせ、そっぽを向いて、
「かっこ悪いじゃんか。そんなちんけな手を使ってるなんてさ」
「かっこ悪いとか、そんなのは問題にすることじゃないでしょ!」
「大問題だよ。だって僕は、君にそういうところ見せたくないもの」
「えっ――?」
不意に鼓動《こどう》が跳ね上がった。
同時に、意識《いしき》を覆っていた憤《いきどお》りのもや[#「もや」に傍点]が掻《か》き消えて――
興奮《こうふん》のあまり気づかなかったことが次第《しだい》に見えてきた。
容赦《ようしゃ》のない青タン。半ばふさがった目蓋《まぶた》。餌《えさ》を口いっぱいに詰め込んだハムスターみたいにふくらんだ頬《ほお》。
ひどい顔だった。
高まっていた感情が、予定とは違う方向に爆発《ばくはつ》した。
「……ちぇ」
憮然《ぶぜん》として、少年がいっそう拗ねてしまう。
「そこまで笑うことないじゃんか」
「だ、だって、その顔、」
つつしみも忘れ、腹《はら》を抱《かか》えて悶絶《もんぜつ》した。その笑い声と共に心の隅《すみ》に残っていたわだかまりが、ほこりくさい物置の窓《まど》を開け放ったようにすうっと空に溶《と》けていって、
「……! げほっ、ごほっ」
笑いすぎて気管支《きかんし》に何か入った。
「もう、だから言わんこっちゃない。――でもうん、安心した」
「……?」
背中をさすってくれる少年を見上げる。
不細工で、だけどひどくいい笑顔がそこにあった。
「ちゃんとそんなふうに笑えるなら、君はもうだいじょうぶだよ」
「…………」
ああ――
その瞬間《しゅんかん》、理解《りかい》してしまった。
ぜんぶ、すべて彼はわかっていたんだろうな、と。
そして自分はこの少年に、たぶんずっと敵《かな》わないのだろうな、と。
それを意識した時、胸の奥《おく》にぽつんと温かいものが点じた。それはすぐに温度を増し、やがてせつないほど熱くなった。
「? どうしたの?」彼の顔がすぐ近くにあった。「? ねえってぱ」くちびるもまた、そこに。
身体《からだ》は自然に動いた。
「――え?」
そっと、重ねた。
「……え?」
さすがの彼もあっけに取られたようだった。魂《たましい》の抜《ぬ》けたようにぴくりとも動かない。
動揺《どうよう》は遅《おく》れてやってきた。
「えっ? えっ?……えええええええっ!」
が、求めた麗華の方がもっと動揺していた。行為《こうい》に及《およ》んではじめて自分のしたことに気づき、
「か、かんちがいしないでよっ」
思考が白一色に塗《ぬ》り潰《つぶ》される。舌《した》の先がもつれて上手《うま》く動いてくれない。
「今のは――そう、ちょっとしたあいさつのようなものですわ。朝登校してクラスメイトに『ごきげんよう』ってひとこと言うのと何ら変わりないのです」
言わなきゃ、何か言わなくちゃ、
「そうね、いわば今回のは、一応《いちおう》とはいえ主人を救った下僕《げぼく》に対する、そう、ごほうびみたいなものよ。どのようなものでも、たとえ望んだものでなくても、わたくしは受けた義理《ぎり》は必ず返すのです」
言わなくちゃ、
「大したことじゃないんだから。こんなのは外国じゃ当たり前なんだから」
ちゃんと、言わなくちゃ。
「……でも、初めてだったんだから」
言わなくちゃ、
「あいさつだったとしても、ごほうびだったとしても、外国では当たり前でも――わたくしにとっては、初めてだったんだから」
まともに顔を見られないけど、
「だから、ちゃんと責任《せきにん》はとってもらうんだから。言い逃《のが》れは許《ゆる》さないんだから」
見苦しくて、支離《しり》滅裂《めつれつ》だけど。でも。
言わなくちゃ。
伝えなくちゃ。
「い、いやだとは、言わせないんだからねっ!」
「…………」
「い、言わせないんだから……」
「…………」
「あ、あの、ほんとにいやだった? あの、だったらその、ごめ」
人差し指がその先をさえぎった。
「ええとね、いやじゃないよ。べつに」
ぽりぽりと頭を掻《か》きながら。照れくさそうに明後日《あさって》の方を向いて。
「――ほんとうに?」
「う、うん」
「ほんとにほんと?」
「うん。ほんとのほんと」
「そ、そう。それだったら、いいのです」
会話が途切《とぎ》れた。
うなじまで赤くしてこちらと目を合わそうとしない少年を見ていると――いまさらながらに差恥《しゅうち》の波がやってくる。
それを振《ふ》り払《はら》うように、叫《さけ》んだ。
「――今は!」
彼の胸《むな》もとあたりに視線《しせん》を固定して、
「今のわたくしは、あなたにぜんぜん敵わないけど、でも! いつか必ず追いついてみせるから! がんばって、追いついて、あなたをぎゃふんといわせて――そうして、あなたの隣《となり》に立てるだけの人間になるから!」
「……うん。楽しみにしてる」
「さっきのあなたの言葉、わたくしはぜったい忘れませんからね! 次に――次に会う時まで、わたくしがあなたなんて及《およ》びもつかないほどすごくなる時まで、ぜったい忘れないんだから! だからあなたも忘れたらいけないんだから! 忘れてたら承知《しょうち》しないんだから! ぜったい、ぜったい、承知しないんだから!」
「うん。忘れない。約束する」
頷《うなず》いて、彼はまたあの笑顔《えがお》を見せた。ひとたまりもなかった。風邪《かぜ》をひいたみたいに頭の中がぼおっとなって、心が痛《いた》いほど息苦しくなって、そして。
「待ってるよ、僕。その時まで」
今度は彼から顔を寄《よ》せてきた。
麗華は、拒《こぱ》まなかった。
それからの暮らしは一変した。
屋敷《やしき》に戻《もど》ったその日から睡眠《すいみん》時間は半分に減《へ》り、ほどなくそのまた半分に減った。勉強もした。習い事もした。周りがよく見えるようになり、人の上に立つ者としての自覚も芽生えるようになった。
お嬢《じょう》さまは見違《みちが》えた、と誰もが言った。でもまだ足りなかった。努力すればするほど、進境《しんきょう》すればするほど、不安と恐《おそ》れが湧《わ》いた。こうしているうちにも彼はもっと先に進んでいるかもしれない。その焦燥《しょうそう》感と持ち前の負けん気が彼女を支《ささ》えた。どんなつらいことがあってもあの日|交《か》わした約束を思えば耐《た》えられた。
中等部にあがる頃にはグル―プ企業《きぎょう》の一端《いったん》を任《まか》せられるようになった。それでもまだ足りなかった。彼と肩《かた》を並《なら》べても恥《は》ずかしくないだけの人間になれたと自分で納得《なっとく》するまで会うつもりはなかった。北条家の情報《じょうほう》 収集《しゅうしゅう》 能力《のうりょく》をもってすればあの少年についての詳細《しょうさい》なレポート数十|枚《まい》が半日で集められる。彼女はその誘惑《ゆうわく》にも封《ふう》をして、ただひたすら前だけを見て走りつづけた。
そして、その日が予期せずやってきた。
私立神宮寺学園に入学して丸一年。早咲《はやざ》きの桜《さくら》が舞《ま》い散り始めた入学式の日。
着慣《きな》れぬ制服《せいふく》に袖《そで》を通し、初々《ういうい》しく校内をそぞろ歩く新入生たちの中に。
誰とも群《む》れず独《ひと》りたたずむ、ひときわ背《せ》の高い少年の姿《すがた》があった。
一目でわかった。
うそだ、と思った。
そんな偶然《ぐうぜん》があるわけないと思った。でも間違いなかった。十年経《た》っても――いや、たとえ百年経っていたって、あの日の少年を見まちがえはしない。
視界《しかい》が霞《かす》むほど頭に血が上った。会うなんて思ってなかったのに、まだ会おうとも思ってなかったのに――でも足はひとりでに動いていて、口は勝手に彼に呼びかけていて、こちらを向いた少年の顔はもう疑《うたが》いようもなく彼のもので、感情の嵐《あらし》に翻弄《ほんろう》されて何がなんだかわからなくなって、そして――
天蓋《てんがい》には相変わらず一片《いっぺん》の雲もない。なんら遮《さえぎ》るものなく、満月は星明かりを従《したが》えて地上を見渡《みわた》している。
その中を峻護は歩く。
保坂に突き立てられた言葉の数々が遅効性《ちこうせい》の毒のようにゆっくりと、細胞《さいぼう》ひとつ余《あま》さず全身を巡《めぐ》り、それに誘発《ゆうはつ》された自問がいくつも何度も繰《く》り返される。
あのひとはどうして、おれに対して尖《とが》った態度《たいど》を取るのか。
あのひとはどうして、月村さんを目の仇《かたき》にするのか。
あのひとはどうして、姉さんに握《にぎ》られた写真を取り戻《もど》そうとしないのか。
あのひとはどうして、今も二ノ宮家に留《とど》まっているのか。
あのひとはどうして、いつも校門の前でおれを捕《つか》まえて一方的な長話をするのか。
あのひとはどうして、おれといる時は普段《ふだん》の完壁《かんぺき》さで振舞《ふるま》わないのか。
あのひとはどうして、おれの前でよく顔を赤くするのか。
あのひとはどうして、おれと話す時なかなか目を合わそうとしないのか。
あのひとはどうして、この島にまでついてきたのか。
あのひとはどうして、月村さんと張《は》り合うような真似《まね》を今日一日し続けていたのか。
自問がいくつも、何度も繰り返される。
そして峻護は、その問いのどれひとつとして満足に答えることができない。
では――保坂|先輩《せんぱい》の言う通りだというのか。
でも、だとしたらどうして先輩はおれのことを?
あの日のことを思い出す。
あの日――もう数か月前になる入学式、北条麗華と初めて出会った時のことだ。
呼びかけられる前から気づいてはいた。他を寄《よ》せ付けない雰囲気《ふんいき》をまとった、思わず見とれるほどきれいな先輩がこちらに歩いてきていたことは。
そのひとは見ず知らずの新入生である峻護のもとに真《ま》っ直《す》ぐ向かってきた。ただし、真っ直ぐではあったけど『一歩進んで二歩下がる』みたいな足取りだったのをよく覚えている。ひょっとすると右手と右足が同時に出ていたかもしれない。
もっともそこでどんな会話があったのかは忘れてしまった。というよりそのあとの出来事の印象が強すぎて、そちらの記憶《きおく》しか残らなかった、というべきか。
話しているうちに、あのひとの顔色は見る見る変わっていった――世にも戦慄《せんりつ》すべき、凄惨《せいさん》な表情に。そのあまりの剣幕《けんまく》に半ば腰《こし》が披《ぬ》けかけてしまった記憶《きおく》は、もはやほとんどトラウマに近い形で脳裏《のうり》に刻《ぎざ》まれている。たぶん、あれでもってあのひとにたいする微妙《ぴみょう》な苦手意識が形成されてしまったのだろう。あれだけ激しい感情を叩きつけられたことは、十六年の入生で後にも先にもあの一度きりだ。
以来、あのひととの奇妙《きみょう》な関係が始まった――いや、関係と呼べるのかどうか。登校時と下校時にほとんど一方的な会話を交えるだけ。それがほんの一週間前まで、あのひとと自分との関《かか》わりのすべてだったのだ。
でも、なぜ?
どうして、いつから先輩はおれを?
そう、そういえば会話の最初の時。あのひとは決して今のようにつっけんどんな態度ではなく、むしろその正反対だった。初々しくて、どこかとても期待に満ちた目で――それこそ月村真由のようにしおらしかった気がする。
それが、どうしてあんな風に変わってしまったんだろう。
どうして。
わからない。
わからない。
二ノ宮峻護が何も覚えていないと知ったあの瞬間《しゅんかん》の感情を、一体どう言えば上手《うま》く表現できるだろう。
目の前が真っ暗になった――いや、真っ白になったのだろうか。とにかく、立っていられなくなるくらいのショックを受けたことだけは記憶している。
でも、すぐに思い直した。
だって、もともとあの男のことなんてどうでもよかったではないか。かつて自分が甘《あま》えた子供《こども》だったのは事実。その性根《しょうね》を叩《たた》きなおすために、コンツェルン後継者《こうけいしゃ》としてふさわしい人物になるために、あの男を利用したのだ。努力するのは億劫《おっくう》だった。でも努力をしなくてはいけなかった。その面倒《めんどう》をどうにか乗り越えるために、あの男を仮想敵《かそうてき》に想定して、あの男に追いつかなければならないと思い込むことで、自分の務《つと》めをまっとうしてきたのだ。
あの男なんて北条麗華という類《たぐ》い稀《まれ》な才能《さいのう》を開花させるための道具でしかなかったのだ。この位置まで到達《とうたつ》するための踏《ふ》み台、ただそれだけの価値《かち》しかなかったのだ。単なるステップのひとつ、それもこの先無数に越《こ》えていかねばならないそれらのうちの、ほんのちっぽけなひとつでしかなかったのだ。
だからもちろん、あの男とあの女がどうなろうと知ったことではない。どこで何をしようと勝手にすればいいのだ。関係ない。関係ない。
――あきれた。ほんと、どうしょうもないわねあなた。
抱《かか》えた膝《ひざ》に顔をうずめる麗華に、誰かが侮蔑《ぶべつ》まじりに囁《ささや》きかける。
――そうまでして、あなたの唯一《ゆいいつ》の拠《よ》り所だったはずのものを捻《ね》じ曲げてまで、現実《げんじつ》から目を背《そむ》けるつもり?
うるさい。
――恐《こわ》いんでしょう、認《みと》めてしまうのが。二ノ宮峻護がほんとうにあなたのことを覚えてなかったら、あの時の約束がただの口約束だったら……十年間ずっと彼のことを想って必死になってきたあなたの人生はぜんぶ水泡《すいほう》に帰《き》すんだもの。いいえ、もしそうなったらあなたの存在《そんざい》意義《いぎ》そのものが無意味になる。それが恐いんでしょう?
ちがう。
――ちがわない。だったらどうしてきちんと確《たし》かめないの。あの男に面と向かって、はっきりした言葉で、確かめてみたことがあった? ないでしょう? ろくに確かめもせず、彼にだけいつも無茶な態度を取ることで遠まわしに探《さぐ》りを入れるだけで。下手に近づいて事実を思い知らされるのが恐いから距離《きょり》を置いて、あの男に関心がないふりを装《よそお》っては悪夢《あくむ》に晒《さら》された時の予防線《よぼうせん》を張ろうとする。そのくせ彼には近づきたくて仕方がない。ほんと、臆病《おくびよう》なんだから。わかってる? あなたの目って、エサは欲《ほ》しいけど人間が恐くて近づけずにずっとびくびくしている捨《す》て犬みたいよ? ほんと、みじめね。
ちがう。
ちがうの。
二ノ宮峻護のことなんてほんとにどうでもいいの。だから彼が忘れていてもつらくはない。振り向いてくれなくても悲しくはない。
だからわたくしはへいき。あの男がいなくてもちゃんとやっていける。
つらくなんてない。悲しくなんてない――
北条|先輩《せんばい》の考えている真実のところはわからない。
じゃあ、おれ自身のことについては?
おれは保坂先輩が言った通りの人間なのか?
いいや、ちがう。
だって、あのひとの言う通りなら、おれはまるっきりただの卑怯者《ひきょうもの》じゃないか。
たしかに、これまで何の矛盾《むじゅん》も感じていなかったわけではない。
毎朝校門に立っておれにだけは欠かさず話し掛《か》けてきたこととか。
おれにだけは接《せっ》してくる態度《たいど》が普段《ふだん》とは違っていたこととか。
おれの前に出たときの一挙手一投足のぎこちなさとか。
話し掛けてくる時に視線《しせん》をちらちらとしか合わさず、そのうえいつもほのかに頬《ほお》が上気していることだとか。
妙《みょう》だとは思っていた。
ただ単純《たんじゅん》に嫌《きら》われている、というだけでは上手く説明がつけられなかった。
でも、だからといって即、好意に結びつけるのは早計じゃないか。もし単なる早とちりだったら滑稽《こっけい》の極《きわ》みだ。自意識《じいしき》過剰《かじょう》の、最悪なピエロだ。事が事だけに慎重《しんちょう》になるのは当たり前、それをもって卑怯だとか狡《ずる》いとか言われては立場がない。そういう人間にだけはならないよう肝《きも》に銘《めい》じて今日まで生きてきたのに。
…………。
だけど。
もしほんとうにそれらが好意の表れだとしたら。
おれはどうすればいいんだ?
月村真由の顔が脳裏《のうり》をよぎる。
今日一日のことを、夕焼けの渚《なぎさ》でのことを思い返す。
もし――もしそうだとしたって、おれはもう――
と、その時。
不意に彼は足を止めた。半ば以上、第六感によるものだったろう。
視界の端《はし》が捉《とら》えたものに、何か引っかかりを覚えていた。
目を凝《こら》らすと。
月明かりから隠《かく》れるようにして、岩場に抱《いだ》かれた人影《ひとかげ》がある。
――ほんとあきれるわ。自分でもとっくに知っていることをどうしてわたしには言えないのかしら。
…………。
――ねえ、ほんとうにあの男のことなんてどうでもいい?
…………。
――ねえ?
そうよッ!
心の中であらんかぎりに叫《さけ》んだ。
わたくしは二ノ宮峻護に振《ふ》り向いてもらいたくなんかないし、二ノ宮峻護ともっとたくさん話をしたいなんて思わないし、二ノ宮峻護のそばにいつも居《い》たいなんてこれっぽっちも考えないし、二ノ宮峻護にずっと自分だけを見ていてもらいたいなんて想像《そうぞう》しただけで吐《は》き気がするわよッ! わたくしはあの男のことなんて心底、どうでもいいの!
――やれやれ、だわ。処置《しょち》なしね。
ため息の気配がして、麗華はいっそう丸くうずくまる。
考える。
もし、ほんとうのほんとうに彼が自分のことを覚えていなかったら? どうしても自分のことを思い出すことがなかったら?
それだけじゃない。もし彼に嫌《きら》われていたとしたら? 邪魔者《じゃまもの》に思われてたとしたら?
その事実を目の前で見せ付けられたら?
ぜったい立ち直れない。それを思い知らされたら、たぶん自分は壊《こわ》れてしまうだろう。想像するだけでも耐《た》えられない。こわい。こわくてこわくて仕方がない。
――残念ね。あの男が思い出さなくたって、忘《わす》れていたって関係ない。ほんとうのあなただったら簡単《かんたん》にできることなのに。
簡単に……?
――ええそうよ。過去《かこ》の約束にすがる必要なんてない。そんなことしなくたって、あなたならあの男を自分の思うままにできるわ。
思うまま……?
――ええ。でも、今のあなたには無理。今のあなたはとても弱く、そして弱さを克服《こくふく》している時間もないから。その理由はわかるわね?
理由……わかる。
――そうよ、あの女がいる。あの男とあの女、もうほとんどくっつきかけちゃってるもの。それにこれもわかってるでしょう? あの女が普通じゃないということも。
そう、わかっている。いやというほど。
保坂に指摘《してき》されるまでもなかった。あの女、月村真由には何か、そう、得体の知れないものがある。以前からなんとなく感じ取ってはいたけど今日一日でそれを確信した。
確《たし》かに容姿《ようし》は抜群《ばつぐん》に秀《ひい》でているし、内面だってそう悪くはない――認《みと》めざるを得ないことに。けど、だからといってあそこまで強く異性《いせい》を引き付けるものだろうか。いや、常識《じょうしき》では考えられない。でも、常識では考えられないものがあの女にはあるのだ。まさに――そう、魔性《ましょう》とでも呼《よ》ぶしかないようなものが。
だけど、もしそんなものがあるとしたら。
そんなの端《はな》から勝てるわけがない。
――そうね、あなたならそうでしょう。でもわたしならできる。
あなたなら……?
――そうよ。わたしならあの男を手に入れられる。あの女なんかよりずっとうまく。もちろん、あなたよりもね。
あの女より……わたくしよりも……
――だからもうおやすみなさいな。あなた疲《つか》れ切っているもの。これ以上無理をしたらほんとうに壊れてしまう。
疲れて……
――あら、わざわざ勧《すす》めるまでもなかったわね。
……?
――だってあなた、もう眠《ねむ》ってるわよ。ほら、自分が自分でないみたいでしょう。とても身体《からだ》が軽くて、浮《う》いてるみたいな、沈《しず》んでいるような。
ほんとだ……なんだか……水の中で揺《ゆ》られてる……みたい……
――よき夢《ゆめ》、よき旅を。でも次に会う時は、もう少し強くなっていてね……?
とくん、と。
心が、まるで重力から解《と》き放たれたような、感覚。意識に、霞《かずみ》がかかって。
「先輩《せんぱい》?」
その声を最後に記憶《きおく》は途切《とぎ》れた。
「先輩?」
近づきながら、岩を背《せ》にうずくまっている影《かげ》に呼びかける。が、いらえはない。
見まちがいか――とも思ったが、月明かりでは確かめにくかった闇《やみ》も、ここまで来れば不自由ない程度《ていど》には晴れる。やはり北条麗華その人だった。膝《ひざ》の間に頭を埋《うず》めているため顔を見ることはできないが、毎日見ている姿《すがた》である。いまさら取り違《ちが》えることはない。
「先輩、捜《さが》しましたよ」
まずは首尾《しゅび》よく見つけられたことに一息つきながら、言葉を重ねる。
「こんなところで潮風《しおかぜ》に当たっていたら身体《からだ》に障《さわ》ります。戻《もど》りましょう。みんな心配していますから」
すぐ前に立ち、まだ膝を抱えたままこちらを見ようとしない麗華を促《うなが》したが――
その科白《せりふ》に、自分らしからぬ硬《かた》さがあるのを認めないわけにはいかなかった。
もし、先輩の態度が好意の表れなのだとしたら?――その可能性《かのうせい》に気づきながら何食わぬ顔をできる峻護ではない。
そしてまた彼は、いま目の前にいる麗華の姿を見て軽からぬ衝撃《しょうげき》を受けてもいた。
あの北条麗華が。
あの誇《ほこ》り高く比類《ひるい》なき才媛《さいえん》が、こんな島のはずれの闇だまりでひとり、捨《す》てられた仔猫《こねこ》みたいに小さくなっている。
こんな、みじめな姿を晒《さら》している。
なぜ。一体このひとに何があったんだ?
いや待て。もし先輩がほんとうにおれに好意を持っていたとして。
今日一日の出来事とその結果に、その要素を加えて分析《ぷんせき》すれば。
先輩が、こんなふうに打ちひしがれている理由は――
いや、ありえない。相手はあの北条先輩だぞ? やはり考えすぎだ。
かぶりを振り、思い直す。どちらにせよそんなことは後回しにすべきだった。このひとをいつまでもこんなところに置いてはおけない。
「さあ先輩。立ってください。――それとも先輩、もしかして寝《ね》てるんですか?」
かすかに首が振られる。
「じゃ、早く行きましょう。よくないです、こんなところにいては。先輩のような人がこんなところにいるのは、よくないです。さ、行きましょう」
少し迷《まよ》ってから、手を差し出した。
それを察したのだろう。膝を抱えていた腕《うで》を解き、こちらに伸《の》ばしてきた。そのことにほっとしながら手を握《にぎ》り、引く。
立ち上がりながら、麗華が顔をあげる。
「……え?」
知らず声が洩《も》れていた。
たしかに北条先輩だ。
なのに、ちがう。
その戸惑《とまど》いの間を縫《ぬ》うようにして、すっ、と彼女がふところに入ってきた。なんの迷いも細工もなく、ただ、真《ま》っ直《す》ぐに。
その明け透《す》けで開けっ広げな行動はあまりに自然で、ゆえに峻護の知る麗華のものとはあまりにかけ離《はな》れていて――彼の動体|視力《しりょく》からすればスローモーション同然の動き、そのはずが。いつの間にか間合いを盗《ぬす》まれていた。
目の前にある彼女の顔が、くす、とほころぶ。
そこからまだ、近づいてくる。
「わ――」
軽い混乱《こんらん》に揺《ゆ》られたまま、一歩引いた。
足場は悪い。
踵《かかと》が砂《すな》に埋《うず》まり、バランスを崩《くず》した。なす術《すべ》もなく背中から倒《たお》れこむ。
受身を取るまでもない、柔らかな衝撃。反射でまぶたを閉じたのは一瞬。
目をあけた。
月。そして。
馬乗りになり、こちらをのぞきこんでくる少女。
じっと、やはりただ真っ直ぐに、見つめてきて――
その時にはもう、魅入《みい》られていた。後戻りできないところまで。
――やはりわからない。
いつ歯車が狂《くる》い、どこから事が始まって。
そして、どうしてこんなことになっているのか。
どうしてこんな――北条麗華と一線を超《こ》える半歩手前にまで、追い詰《つ》められているのか。
いつからなんだ?
桜《さくら》の舞《ま》い散る春の日、この名前どおりに華《はな》やかな麗人《れいじん》と出会った、あの時からなのか?
あるいはもっと近く、彼女が二ノ宮家に住み込むようになったあの時からか?
それとも、到底《とうてい》自分には想像《そうぞう》も及ばぬような時と場所で、すべては始まっていたことだったのか?
わからない。
わかっているのは、すべてが後の祭りということだけ。
それでも、峻護はなおも足掻《あが》く。
灼熱《しゃくねつ》するあまりコマ落ちのフィルムのように途切《とぎ》れ始めた意識で、思う。
一体このひとはどうしてしまったんだろう。
あるかなしかの――だが背筋が震《ふる》えるほど艶《つや》めいた微笑《びしょう》を口辺に漂《ただよ》わせ、いまや二ノ宮峻護のすべてを握っている少女。
体重のかけ方も、体重そのものも、彼にとって物の数ではない。なのに振り払えない。
彼女はわかっているのだろう。峻護にはもはや逃《のが》れる術も抗《あらが》う術もないことを。わかっているからこそ焦《じ》らしているのだろう。さしずめ獲物《えもの》をもてあそぶ猫《ねこ》のように、峻護の理性が焼き切れるその時を待っているのだろう。
だが、なぜ動かない? いかようであれ峻護もまた男のはしくれ、男女がこのような位相を見せているからには彼女もまた求めてきていることはわかる。なのになぜ、動かない。どうしてこちらが限界《げんかい》を迎《むか》える時をただ待っている?
いや、そもそも。
彼女は一体だれなんだ[#「彼女は一体だれなんだ」に傍点]?
たしかに、もともと凄《すさ》まじいほどきれいなひとではあった。でもこの抗いがたさは一体なにごとだろう。きれいなだけの人ならこれまで何度も見てきたし、おれは異性に対しては慎《つつし》み深くあれ、という自戒《じかい》をずっと課してきた人間だ。いくら魅力的な女性が相手でも無闇《むやみ》に心惑《こころまど》わせることはないはず。第一、このひととこれまで数かぞえ切れぬほど接してきて、一度でも理性を損《そこ》なったことがあったか? ないだろう? なのに、どうしてこんな、理屈《りくつ》では説明できないことが――
いや待て。
なぜ気づかなかった。
そう、おれは知っているぞ、この感覚。どんな男でも膝《ひざ》を屈《くっ》する、強制力《きょうせいりょく》を持った魅惑。理性をひしぎ、本能《ほんのう》を蕩《とろ》かす、回避《かいひ》も脱出《だつしゅつ》もあたわぬ魔性《ましょう》の陥穿《かんせい》。これじゃあまるで――
「だめよ」
初めて言葉が降《ふ》ってくる。静かで、しかし絶対《ぜったい》的な圧力《あつりょく》を内包した声。
「あなた今、他の女のことを考えたでしょう」
きゅ、と腰をうごめかせる。抗いがたい刺激《しげき》が脊髄《せきずい》を貫《つらぬ》く。うめきをかろうじて噛《か》み殺す。見下ろしてくる瞳《ひとみ》が廟笑《ちょうしょう》の色をなし、さらに告げてくる。
「どうしてだろう、って思ってるわね。いつでもわたしはあなたを奪《うば》えるのにどうしてそうしないのだろう、って」
応《おう》じられない。いや、答えがない。
「本能に克《か》てるのはあなただけじゃないわ。それに――」
さらに笑みが深くなる。
「わたしはあなたを許《ゆる》してあげないもの。ずっと逃《に》げ回ってきたあなたをわたしは認《みと》めてあげないもの。ずるくて卑怯《ひきょう》でわたしよりずっと臆病《おくびょう》なあなたを、わたしは受け入れてあげないもの。だから――わたしはあなたを奪ってあげない」
「そんな――ことは――」
「さあ、わたしを奪いなさい。奪って、あなた自身に屈しなさい。節を曲げ、操《みさお》を汚《けが》しなさい。あなたにとってそれはまたとない屈辱《くつじょく》でしょう?」
「おれ――は――」
「目を逸《そ》らさないで。逸らしたらあなた、一生クズのままよ」
「あなたは――」かろうじて声を絞《しぼ》り出す。
「あなたは、だれです」
「わたし?」いたずらげな微笑《ぴしょう》。「わたしはわたし。あなたの知らないわたし。あなたのことがきらいなわたし。だれでもないわたし。どこにもいないわたし。――それが、わたし」
わからない。
おれにはわからないんです、先輩。
「がんばるわね。そんたに怖いことなのかしら。でもね、がんばればがんばるほど蝕まれていくわよ? 二度と立ち直れないくらいにね。屈辱に甘《あま》んじていられるうちがまだしも華《はな》なんじゃないかしら?」
「…………」
「ねえ。わたしはね、あなたを壊《こわ》してしまってもいいのよ? 今のあなたはわたしに操《あやつ》り糸を握られた木偶《でく》でしかない。わたしの言葉にあなたは逆《さか》らえない――なんならこう命じてあげましょうか? 決してわたしに手を出さないで、って。想像してみなさい、指一本|触《ふ》れることすら禁《きん》じられたままこの状態《じょうたい》が――情欲《じょうよく》の炎《ほのお》に心を炙《あぶ》られた状態がずっと続けばどうなるか。そうしたら、いくらあなたでもすぐに廃人《はいじん》の仲間入りでしょうね。今だってもう、とてもつらそうだもの。あなた、いま自分がどんな顔をしてるか自覚がある?」
――わからない。
どうすればいい。
おれはどう動けばいい。
くそ、こんなのは嫌《きら》いなのに。急ぎたくはないのに。何も変わらなくていいのに。
満月を背負い、こちらを見下ろしてくる少女――見知ったはずの他人の顔から目を離《はな》せぬまま、峻護は死《し》に物狂《ものぐる》いでもがき続ける。
おれが今もっともやってはならないことは何だ。煩悩《ぼんのう》に負けて彼女を自分のものにすることだ。じゃあ、おれが今もっともやりたいことは何だ。――煩悩に負けて彼女を自分のものにすることだ、畜生《ちくしょう》、落ち着け、惑《まど》うな、もっとよく状況を整理しろ。
おれがいま最|優先《ゆうせん》にすべきことは何だ。煩悩に負けず、おれ自身の矜持《きょうじ》を保《たも》ち、このひとには決して手を出さないことだ。――そう、それでいい。先輩とは、まだ早すぎる。ましてやこんな状況で、事実上強制された状態で。そう、強制。なぜなら。
彼女は――北条先輩は、サキュバスだ。
信じられないが、そうとしか考えられない。この蠱惑《こわく》、この妖艶《ようえん》さは、男の理性を根こそぎ毟《むし》り取っていくこの絶対的優位性は、それ以外のどんな理由でもありえない。でもサキュバスとは、生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》の発症者とは、そんなあちこちにいるものなのか。自分の周りに、それも立て続けに現れるなんてことがあるのか。しかも彼女は、北条先輩は、少なくとも遺伝形質《いでんけいしつ》の発現においてはごく普通の人だったはずだ――ついさっきまでは。それにこの豹変《ひょうへん》ぶりはなんなんだ。人格《じんかく》的にまったく別人としか思えない。サキュバス化したこと以上に不可解《ふかかい》だ。それともサキュバス化とは元来がそういうものなのか。だめだ、わかりようがない、おれの知識ではどうしようもない。
そして到底無視しようのないひとつの可能性がある。先輩はさっきからずっとおれの肌《はだ》に触れている。なのにおれには何の変化もない。これはどういうことなのか。
月村さんが相手ならこうはいかない。今日だって顔には出さなかったが、彼女に触れている時は常《つね》に違和《いわ》感が付きまとっていたのだ。注射器《ちゅうしゃき》で血を抜《ぬ》いているような脱力《だつりょく》感、あるいは喪失《そうしつ》感、つまりは精気《せいき》を吸《す》われている感覚に。
彼女は自らの能力、精気を吸引《きゅういん》する能力をコントロールできない。それはサキュバスにとって致命《ちめい》的ともいえる問題だ。ゆえに彼女は異性に触れただけでその精気を見境《みさかい》なく吸い取ってしまう。もちろんそれはおれに対しても同じ――ただ、おれはたまたま彼女の吸引能力に耐性《たいせい》があったために、多少彼女に触れたところでさしたる実害はないというだけのこと。ただし、それはあくまで外皮を経由《けいゆ》した接触《せっしょく》にのみいえることだ。それ以上の接触、サキュバスにとって本来必要不可欠な行為《こうい》にまで及《およ》べば、たとえおれだって無事ではいられない。
だけど北条先輩はちがう。彼女は月村さんと違い能力をコントロールできる。あるいは月村さんと比べて精気吸引能力が格段に低い――というより、サキュバスの平均値《へいきんち》により近いのだろう。肌と肌が接触しても精気を吸われている感触がない、というのはそういうことだ。
つまり月村さんと接する際には常に働いていた理性が、北条先輩と接する際には意味を無くしてしまう。
北条先輩と何をしようと、精気を吸われ尽くして死ぬことはないのだ。
くそっ、そんなことが証明《しょうめい》されたからといって何の意味がある。死の危険《きけん》がついて回るから月村さんとは何もせず、それがないから北条先輩とは何をしてもいいというのか。馬鹿《ばか》げている。そんなことをおれの理性はおれ自身に決して許《ゆる》さない。でも本能はちがう。事実を知った以上、欲求《よっきゅう》にだけ忠実《ちゅうじつ》に従ってしまう……
「――ほんと、ここまで強情《ごうじょう》とはね。窒息《ちっそく》したヒキガエルみたいな顔して、せっかくのいい男が台無し。あなた、冗談《じょうだん》ではなくこのままだと手遅《ておく》れになるわよ?」
「…………」
「仕方ないわね。――楽にさせてあげる」
また、うごめいた。先ほどの比ではなかった。もはや疑《うたが》いようもない。それはただ淫魔《サキュバス》にのみ可能な嬬動《ぜんどう》だった。今の彼に耐えられるはずもなかった。
心を支《ささ》えてきた柱がもろくも崩《くず》れ去ってゆく。右手が意思に反して持ち上がる。左手も。意思に反しているくせに何をしようとしているかはわかる。右手は胴《どう》に、左手は頬《ほお》に添《そ》える気だろう。そしてそのあとは――
少女は勝者の、あるいは絶対者の微笑《びしょう》でそれを迎《むか》える。
手は遅々《ちち》として進む。激《はげ》しく小刻《こきざ》みに震《ふる》えている。峻護の意思ではない。彼の意識は、もはや消えかけのロウソクのごとく儚《はかな》くなっている。無意識の抵抗《ていこう》だろう。
それを見た少女の瞳《ひとみ》がいっそう細められる。憫笑《びんしょう》と、それに倍する慈《いつく》しみと労《いたわ》りの色をもって。『あなたを壊してあげる』とまで言った少女が、むしろいとおしげな眼差《まなざ》しで己《おのれ》の隷僕《れいぼく》に心を注ぎ、小刻みに震える手を自ら取ろうとして――
わずかに、その秀麗《しゅうれい》な眉目《びもく》がゆがめられた。
「……だめか。ここまでね」
うめく。同時、峻護を支配していた蠱惑がゆるんだ。
「ほんと、あきれたわ今日は。でもここまで弱い男というのもかえって貴重《きちょう》かもしれないわね。――いいわ。それに免《めん》じて、今日のところは手心を加えることにしましょう」
独《ひと》り言《ごと》に近い色合いの科白《せりふ》が少女の口をつく。それへ、峻護は喘《あえ》ぎ喘ぎにも怪認《けげん》の眼差しを向けた。が、望んだ応《こた》えはない。
代わりに彼女はくすりと笑った。
はっとなる。
それは、これまでに見せた麻薬《まやく》じみたものとは違う、まるで陰《いん》に籠《こも》ったところのない、むしろ快活とさえいえる笑みだった――いたずらを仕掛《しか》けるときの子供《こども》にも、似《に》た。
「ねえ、二ノ宮峻護」
「は……い」
「やさしくしてね?」
そして。
静かに目を閉《と》じ、しなだれかかって――いや、ふらりと倒れ掛かってきた。
すでに呪縛《じゅばく》は解《と》けている。あわてて起き上がり、身体《からだ》を支《ささ》えた。
「先輩《せんぱい》?」
ちょうど幼子《おさなご》を抱《だ》きかかえるような格好《かっこう》になる。胸《むな》もとにある顔を覗《のぞ》き込《こ》む。やはり目蓋《まぶた》は閉《と》じられたまま。囁《ささや》き終えたそのままの形に、わずか、朱唇《しゅしん》がほころんでいる。
眠《ねむ》って――いるのか。
しばし、その事実が呑《の》み込めなかった。
「――ぷはぁ」
ややあって、大きく、大きく、息をつく。心底からの実感を乗せた、むこう十年分の疲労《ひろう》を詰《つ》め込んだような嘆息《たんそく》だった。
どうやら切り抜《ぬ》けたらしい。
「……まったく」
散々な目にあった。ほとんどあらゆる意味で。
思い知らされたこと、気づかされたこと、突《つ》きつけられたこと、はじめて明らかになったこと――
だが疲れきっていた。今はもう何も考えたくない。後回しにしよう。今日は骨休めにここへ来たはずだ。それがこんなへとへとになっていては笑い話にもならない。戻《もど》って早く休もう。せめて今日この日くらいは、それが許されていいはずだ……。
「先輩、起きてください。戻りましょう」
抱《かか》えたままの麗華を軽くゆする。
「先輩、こんなところで寝《ね》たら本当に風邪《かぜ》をひきますよ。先輩」
目覚める様子はない。無理もないだろう。疲れているのは何も自分だけではないのだろうから。
「先輩、起きて。先輩」
もう一度ゆすってみて、あきらめた。半ば覚悟《かくご》していたことだが、やはり自分が運ぶことになるようだ。
抱え直し、動きをできるだけ与《あた》えないようにそっと立ち上がろうとして。
「……え?」
ようやく気づいた。
肌《はだ》の白さが、月明かりのせいばかりではないことに。掌《てのひら》に伝わる脈拍《みゃくはく》が、ひどくか細く頼《たよ》りないことに。その温《ぬく》もりが、背筋《せすじ》の寒くなるほど失われてしまっていることに。
今度こそ本気で戦慄《せんりつ》した。
「え? え?」
どうして? なんでこんな、なんだ、なにが、どうして。
こんな、まるで、死――
「先輩? 先輩!」
やめるべきだとわかっていながら衝動《しょうどう》に打ち克《か》てない。激しくゆさぶる。反応《はんのう》はない。
くそ、おちつけ二ノ宮峻護。うろたえている場合か。考えるんだ。早く、正確《せいかく》に。
北条先輩に何か持病の類《たぐい》はあったか――おそらくないだろう、あれば保坂先輩から何らかの注意を促《うなが》されるはず。なら発作《ほっさ》については? それも考えにくい。理由は前者と同じ。付け加えるなら、今の北条先輩には多くの発作症状に付随《ふずい》する動悸《どうき》や息切れや痙攣《けいれん》といったものが見られない。でも、だったら何が原因《げんいん》でこんなことに?
いや、こんな素人《しろうと》診断《しんだん》などお呼びではない。早く人を呼ぶべきだ。この島には姉さんも美樹彦さんもいる。あの二人が太鼓判《たいこばん》を押《お》すだけの設備《せつぴ》と人材もそろっている。何とかなる。じゃあどうする、おれがひとりで人を呼びにいくか、それとも先輩も一緒《いつしょ》に連れて行くか。コテージまで行ってまた戻ってくるのでは二度手間。先輩を抱えていけばどうしたって揺《ゆ》れることになる。この状態の彼女に望ましいこととはいえない。どちらを選んでもリスクはある。が。
少しだけ冷静を取り戻した頭でそれだけ考え、すぐに決断した。
連れて行こう。先輩を、彼女をこんなところにひとりで残しておくわけにはいかない。
一刻《いっこく》を争う。
麗華を抱えたまま立ち上がる。
――いや、立ち上がりかけて、止まった。
気づいたのだ。
あったのだ、彼女の症状にぴったりと当てはまる推測《すいそく》が。
でも、まさか。いやしかし。
考える。
彼女の症状の特徴《とくちょう》はその突発性《とっばつせい》に加え、動悸や息切れや痙攣といった発作的症状が見られないことにある。言い換《か》えれば、身体的|危機《きき》に際《さい》して生命力の抵抗《ていこう》がないということ。
そう生命力。それが決定的に欠けている。なぜ? どうして、そこまで生命力を減退《げんたい》させた? そうさせるきっかけが何かあったのか?
ある。なぜなら彼女はサキュバスなのだから。
サキュバス――生命元素関連因子欠損症の発症者とは、精気《せいき》、すなわち生命エネルギーとでも呼ぶべきものを体内で生成する機能に欠陥《けっかん》をもつ人々を指す。サキュバスである以上、生命エネルギーの補給《ほきゅう》は他者に依存《いぞん》せざるをえない。
そして見るところ、彼女の症状は今日はじめて発現した節がある。いや、それについては間違いない。そうでもなけれぱあの豹変《ひょうへん》ぶりは説明できない。
であるならば。今、彼女は精気を不足させ得る状況にあるということになる。これで彼女の症状の唐突性《とうとつせい》、そして生命力の抵抗が見られないことにも説明がつく。
だが。そうだとするなら。
彼女の危機を救う道は。
彼女を死の淵《ふち》から引きずり上げる手立ては。
ひとつしかないじゃないか。
サキュバスに精気を分け与《あた》える方法なんて、ひとつしかないじゃないか。
「おいおい――」
待て。ちょっと待て。本当に、本当にそうなのか。サキュバスであることに疑《うたが》いの余地《よち》はないのか。精気不足ゆえに彼女がこの危機的状況にあるという誰論《すいろん》を導《みちび》き出した理屈《りくつ》に穴《あな》はないのか。
たとえば、精気不足にしたってあまりに唐突すぎるのではないか。いくらなりたて[#「なりたて」に傍点]とはいえ、サキュバスのすべてがここまで急激に精気を減《へ》らすようであれば長期の生存《せいぞん》など到底不可能。欠陥なんてものじゃない、それでは|プログラムされた自死《アポト―シス》にも等しい。ではやはり、彼女の症状にはもっと別の原因があるとみるべきなのか。
――畜生《ちくしょう》、本物のバカかおれは。ぐずぐずしている場合じゃない、死にかけてるんだぞこのひとは。
こうなれば優秀《ゆうしゅう》なスタッフも設備《せつぴ》も無意味。時間もない。やるしかない。
上げかけた腰《こし》をようやく下ろす。
肌の色合い、脈拍《みゃくはく》、体温。どれもぞっとするほど頼《たよ》りない。だが、ある。まだ間に合うだろう。――確証《かくしょう》はなく、そう信じるしかなかっただけだが。
最後の一線だけは越《こ》えずとも済《す》む、と見当をつけた。だからといってその一歩手前までなら構《かま》わないのかといえぱ、そんな理屈を彼が採用《さいよう》するはずもなかったが。
膝をつき、抱え起こすような格好《かっこう》で、峻護はもういちど麗華を覗《のぞ》き込《こ》む。
満月が闇《やみ》を払《はら》い、その名にふさわしい麗人《れいじん》の面差《おもざ》しをあらわにしている。
細く小さな輪郭《りんかく》に乗る眉目《びもく》も、筋《すじ》の通った鼻も、薄《うす》いくちびるも。すべて、美神《ぴしん》の寵《ちょう》を受けてこの世に存在を許されているのだろう。わけても北条麗華の孤高《ここう》を象徴《しょうちょう》するのは、ひとたび見れば二度と忘れない、強く激しく輝く切れ長の瞳。しかしそれも今はカなく閉ざされて、穏《おだ》やかすぎる様相をみせている――死の影《かげ》に暗く彩《いろど》られて。
怖《こわ》いくらいに、きれいだった。
――やるのか、本当に。
そう、やるんだ。
これはれっきとした治療行為《ちりょうこうい》。赤チン塗《ぬ》るのと同じ、そのはずだろう?
馬鹿《ばか》、そんな単純《たんじゅん》に割《わ》り切れるものか。しかもこんな急な状況《じょうきょう》で。
でも。おれはそんなに嫌《いや》なのか。先輩《せんぱい》とそうすることを、そんなに避《さ》けたがっているのか?――ああ、また考えている。後回しにするはずだったのに。今日はもうゆっくり眠《ねむ》ってしまいたかったのに。
おれは、先輩のことをどう思っているんだ。
美人であることは間違《まちが》いない。まさしく今さらだが。人間的な大きさも申し分ない。才能は売って歩くほど持ち合わせている。その発揮《はっき》の仕方も半端《はんぱ》じゃない。良家の令嬢《れいじょう》にありがちなひ弱さはなく、なおかつ人の上に立つ者のあるべき姿《すがた》を知り、実践《じっせん》している。常《つね》に誇《ほこ》り高く、下々を慈《いつく》しむ、王道をまっすぐに往《ゆ》ける資質《ししつ》を持った人だ。掛《か》け値《ね》なしの尊敬《そんけい》に値《あたい》する。
じゃあ、おれに対する態度《たいど》については? 普段《ふだん》に似《に》ず、敵意《てきい》じみた感情をずっと向けられていたこと。事実それによって幾度《いくど》も実際《じっさい》的な迷惑《めいわく》をこうむってぎたこと。それらについてはどう思っている?――たいした問題じゃない。姉に比《くら》べればどうということもない、というのは単なる方便じゃないのだ。むしろ普段の完壁《かんぺき》さからは想像《そうぞう》もつかないその行動は、意外性とともに魅力《みりょく》的に映《うつ》っていたくらいで――
なんてこった、くそ。嫌《きら》いになる理由なんてひとつもないじゃないか。いや待て。嫌いではないからといって逆も《ぎゃく》また真なり、というわけにはいかない。そんなに気安いものじゃないんだこれは。ああもう畜生《ちくしょう》、なんでこんなことになってるんだ。今日はバカンスで、骨休《ほねやす》めなんじゃなかったのか。どうしてこんな――
動きがあった。
腕《うで》の中にある身体《からだ》が、すうっ、とゆっくり、大きく息をついた。そしてついたきり、微動《びどう》だにしない。
しない。
心臓を握りつぶされたかと思った。あわてて確かめる。脈は――ある。ほんとうにかろうじて。でももうだめだ本当に時間がない。悩《なや》んでる場合じゃない。彼女を救えるのはおれしかいないんだ。よし決めた。やる。やるぞ。ほんとうにやるぞ。そうこれは緊急避難《きんきゅうひなん》的な行為、非常《ひじょう》事態における非常の手段、回避不能な義務、やむを得ないこと――
空に、今夜はじめて雲がなびいた。
刷《は》いたように薄く伸びる柔絹《やわぎぬ》のようなそれは風に乗って流れ流れ、月を覆《おお》い隠《かく》す。あたかも人生の先達《せんだつ》が無遠慮《ぶえんりょ》な後輩を窘《たしな》めるように。
ちらりと、もう一人のサキュバスの笑顔《えがお》が脳裏《のうり》をよぎった。
そっと、重ねた。
雲は去り、再《ふたた》び輝きを降《ふ》らせ始めた月だけが彼らを見守っている。
彼ら――生命《いのち》を交《か》わし合う二人と。
そして二人の姿を見て駆《か》け去った、もうひとつの人影とを――
いや、月だけではなかった。まだ三人いる。
「……人格《じんかく》障害《しょうがい》との同時|発現《はつげん》か。これはまた――なんともまあ、風変わりなサキュバスになったものね」
釘付けになっていたモニター群《ぐん》からようやく目を離《はな》し、涼子《りょうこ》が吐息《といき》を洩《も》らした。眉間《みけん》にしわを寄せ、頭を掻《か》く。「どうしたものかしら」
困惑《こんわく》の際に示《しめ》すこの癖《くせ》は、あるいは姉弟《きょうだい》そろってのものなのだろうか――知恵熱《ちえねつ》を上げる涼子を見ながら、保坂《ほさか》はさして意味もない感想を心中につぶやく。
「たしかに想定外ではある。が、我《われわれ》々の手に負えないというほどでもないさ」
涼子に応じて、美樹彦《みきひこ》がそんなふうに後を引き取った。
「ともかくもこれでひとまずの安定は見られそうだ。よしとすべきではないか。いずれ他のどんなパタ―ンで発現をみたにせよ、我々には次善策《じぜんさく》を採《と》るしか――ただ見守ることを選択《せんたく》する以外には道がないのだから」
コテージの食堂である。
暑い。十分に空調は利《き》かせているはずだが――そう広くもない部屋に保坂ら三人、それに各種の機材類と待機しているスタッフたちが放つ熱を足せば、それも当然というべきなのだろう。
美樹彦が片手《かたて》を挙げる合図をし、それに従《したが》ってスタッフたちが機材を撤収《てっしゅう》していく。涼子がさらにいくつか事後|処理《しょり》を指示《しじ》するのを見届《みとど》けてから、保坂は口を開いた。
「では涼子さんに美樹彦さん。ご両人にお訊きします」
無言で促《うなが》され、語を継《つ》ぐ。
「まずはこの状況《じょうきょう》を受けた上で予想される以降《いこう》の展望《てんぼう》と、今後ぼくたちの採《と》るべき行動|指針《ししん》を、改めて確認《かくにん》しておきたいんですが」
「予定通りだよ、保坂くん」と、美樹彦が受けた。
「麗華くんの発現型だけは多少想定外ではあったが、どちらにしてもこればかりは蓋《ふた》を開けてみないとわからなかったことだ。やむをえない。あとはさっきも言ったように、ただ見守るだけだよ。細心のケアを施《ほどこ》した上で、なおかつ一切《いっさい》の手は下さずに、ね。それと麗華くん本人にはまだこのことを告げないほうがいいだろう。知らずにいられるならそのほうが幸福なんだ、何事もなく安定するならば伝える必要はない」
「わかりました。では、今ならうかがってもいいですね。あなたがたの目的は何です? どうしてお嬢《じょう》さまの『神戎《かむい》』を引き出そうとするんですか?」
「その呼び方は好きじゃないな。サキュバス、でいい。そうは思わないかい?」
「失礼。ではあらためてうかがいます。何を目的に、お嬢さまをサキュバスに仕立てようとするんです?」
「わたしたちの目的、ねえ」今度は涼子。
「まあひとことで言えば『すべてが上手《うま》くいくようにすること』かしらね」
「意味が広すぎます」
「でもそれでいいのよ。あのね、わたしたちがあなたに知っておいてもらいたいのはひとつだけ――わたしたちはあの三人の味方だということ。何があってもね。それだけを信じ、覚えていてくれればいいの」
「なるほど」
保坂はそれ以上|追及《ついきゅう》しなかった。どうせ多くは語るまい、ということはわかっていたし、もとより期待していたわけでもない。それに彼女の言葉に嘘《うそ》がないのは確信できる。人の裏面《りめん》を盗《ぬす》む技術《ぎじゅつ》はさんざん叩《たた》き込まれてきたのだ、その程度《ていど》の判断《はんだん》は利く。物心つく前から課せられた血ヘドを吐《は》くような鍛錬《たんれん》の見返りとしては、些少《さしょう》すぎるが。
「本当は――」
涼子が両手の指を絡《から》めながら、つぶやく。
「本当はわたしたちがしゃしゃり出ることなく、すべてが丸く収《おさ》まればいいんだけどね。今でもそう願っているし、結果をそれに近づけたいとも思うけど……」
その目は保坂を相手と見ていない。受け取った印象どおり、独白《どくはく》なのだろう。
「保坂くん。あなたは後悔《こうかい》しているのかしら」
逆《ぎゃく》に問うてきた。即答《そくとう》した。
「していません。ベストだと判断したことですから。どんな形であれ、今ここでガス抜《ぬ》きをしておかなければ早晩《そうばん》、お嬢さまは潰《つぶ》れていたでしょう。ガス抜きのやり方も、そう多くの選択肢《せんたくし》は残されていなかった」
あれだけの多才を発揮《はっき》するにはそれだけの代償《だいしょう》が要《い》るということなのだろう。二ノ宮|峻護《しゅんご》への頑《かたく》なすぎる想《おも》いが北条《ほうじょう》麗華《れいか》にそれを可能とさせた。だが有と無、1と0しかあの令嬢にはない。アクセルとブレーキを使い分けることが彼女にはできない。二ノ宮峻護の存在《そんざい》を切り離しては、もはや北条麗華というパーソナルは成立しないのだ。中庸《ちゅうよう》で安定させようにも叶《かな》わず、薬物|洗脳《せんのう》を試みても効果《こうか》がなかったあたりで一度は覚悟《かくご》を決めた。燃《も》え尽《つ》きるまで、張《は》り詰《つ》めたものがぶつんと切れるまで、指をくわえて見ているしかなかった。まったく、あのひとはどうしてこう、肝心《かんじん》なところが不器用なのだろう。あの時――十年前、社会見学のつもりであのひとを外に出したのが、やはりすべての間違いだったのだろうか。だがあの後あのひとはまるで見違えた姿で戻ってきたではないか。あの経験《けいけん》があるからこそお嬢さまの今がある――
「そう、多くは望めなかったのだ。であればともかくも、安定に向かう兆候《ちょうこう》のその尻尾《しっぽ》だけでも掴《つか》めたことに、まずは満足すべきだ」
物思いに逸《そ》れた保坂の後《あと》を引き取り、美樹彦が言葉を連ねる。
「五条家《ごじょうけ》の血を色濃《いろこ》く受け継ぐ麗華くんが峻護くんにあれだけ強い好意を抱《いだ》き、そしてその好意を発露《はつろ》できないままでいた以上、そう遠くない将来《しょうらい》サキュバス化することは予測《よそく》の範囲《はんい》内。そして真由の例でも明らかなように、サキュバス化には歓迎《かんげい》すべからざる不確定|要素《ようそ》がついて回る。そのことは今回も証明《しょうめい》されたわけだが――だがあの程度ならまだマシな方だろう。分裂《ぷんれつ》した人格とのバランスが上手く取れるようならぱ問題はない。そしてそれはつまるところ、麗華くん個人《こじん》の問題として帰結せざるを得ないことだ。僕《ぼく》らにできることは多くない。なにより今回の最たる収穫《しゅうかく》として様々なデータを得られた。これは今後にも大いに生かしていける。やはり満足すべきだろう」
その語調は保坂に聞かせるというよりも、どこか美樹彦自身に向けられているような響《ひぴ》きがあった。妙《みょう》な安堵《あんど》を覚える。やはり不安は消しきれないのだろう。この男でさえ。
「ところで保坂くん、こちらからも確認《かくにん》しておこう。この先も僕らは君の協力を得つづけられると解釈《かいしゃく》していいのかな?」
「情報《じょうほう》をもらう以上、協力はします」
「確かかい?」
「|鬼ノ宮《きのみや》と継群《つぎむら》を相手に約束を違《たが》えようなんて思いませんよ。ぼくも命が惜《お》しい」
とはいえ核心《かくしん》の情報を彼らはまず洩《も》らすまい。よって、これを取っ掛かりにしてさらなる知識を集める必要がある。彼一個の必要による事業はその動機にふさわしく、彼ひとりで進めていくことになるだろう。
(それよりなにより――)
と、保坂は思考回路を切り替《か》え、普段のおっとりした頭で思い悩《なや》む。
ひとつ、やきもきして仕方がないことがあった。
もっとも、これについてはもう頭を抱えるしかないのだが。
「ところで……二ノ宮くんの過去《かこ》の記憶《きおく》が消えているのは真由さんに原因《げんいん》があるんでしたよね? サキュバス化した際《さい》に精気《せいき》を吸《す》いすぎて、瀕死《ひんし》に追い込んで――」
「消えたかどうかは定かでないけどね。消去《デリート》したはずの記憶《データ》が脳《メモリ―》のどこかに引っかかって残っていた、なんてことはよくある話だし。何かがきっかけで思い出すこともあるかもしれないわね」
その方がなおさらややこしい。
「で、その過去の記憶というのは、二ノ宮くんがお嬢さまと出会った頃《ころ》の記憶も当然ふくまれてるわけですよね。あの後すぐだった、って聞きましたから。二ノ宮くんと真由さんが出会ったのは」
「ええ、そうなるわね」
何の屈託《くったく》もなく涼子が頷《うなず》く。
この人ほんとにわかってるんだろうか――激《はげ》しく疑問《ぎもん》に思いながら、保坂は大|規模《きぼ》な火薬庫の位置と、そこへ放物線を描《えが》いて投げ込まれつつある火種の存在《そんざい》を明示する。
「それじゃあ、二ノ宮くんの記憶を消したのが真由さんだと、お嬢さまが知ったらどうします? もしくは、真由さんが二ノ宮くんとお嬢さまの事情を知ったら?」
考えるだに空恐《そらおそ》ろしい。なので、保坂は考えたことがない。
「今のところあのひとたちがそれを知りうる機会はなさそうですが――そんなのはどう転ぶかわかりません」
「でしょうね」
「でしょうね、じゃないですよ。どんな事態《じたい》になるか、ぼくからは何も保証《ほしょう》できないですよ?」
「それはそうでしょう。わたしだって何の保証もできないわ」
「そんな悠長《ゆうちょう》な……何か手を打つとか、しないんですか」
「どうして? 別にどうもしないわよ?」
首をかしげ、不思議そうな顔をする。
「それはあの子たちが自ら背負《せお》った偶然《ぐうぜん》と必然。それによってもたらされる幸いも災《わざわ》いも、ひとつ残らずあの子たちのものよ。それを取り上げるなんて――そんな無粋《ぶすい》な真似《まね》、するはずないでしょう?」
ねえ? と美樹彦に同意を求める。それを受けて淫魔《インキュバス》はごくシンプルに点頭し、保坂に異星人《エイリアン》を見る目を向けた。
「……なるほど」
どうにかそれだけを言う。
(つまり、それが彼らの強さってことか)
納得《なっとく》し、保坂はシャツの襟《えり》をつまんで風を入れながら、今度こそすべての緊張《きんちょう》を解《と》く。
いっもの笑顔《えがお》で言う、
「後悔《こうかい》はしていない、ってさっきは言いましたけど……じつはひとつ、残念に思っていることがあります」
「ほう、なんだい?」
「お嬢《じょう》さまをいじる人間がずいぶん増《ふ》えてしまったことです。今回のことでそれがなおさら確定してしまいました。本来ぼくだけの特権《とっけん》だったんですよ?.あのひとで遊ぶのは」
「寡占《ひとりじめ》はよくないぞ、保坂くん」
はっはっはと哄笑《こうしょう》し、美樹彦もおどけてみせる。
「オアシスを占有《せんゆう》してよそ者を締《し》め出すようなものだ。清例《せいれつ》な泉《いずみ》は渇《かわ》けるすべての旅人にとっての共有|財産《ざいさん》――それはこの文明|砂漠《さばく》における鉄の掟《おきて》である。背《そむ》けばたちどころに神罰《しんばつ》が下されることになるだろう。まあ主に僕が下すんだが」
「そういうことね。ま、あの子についてはいろいろあるけど――それとこれとは別の話。あんなかわいい子を遊ばずに放っておくなんて、それこそ天誅《てんちゅう》ものよ。バチがあたるわ」
艶《つや》っぽく涼子も微笑《びしょう》して場を見渡《みわた》し、そして伸《の》びやかな声で宣言《せんげん》した。
「ま、みんなで仲良く楽しむことにしましょう。時間の許《ゆる》す限《かぎ》りは、ゆっくりとね。わたしたちにとっての夏《バカンス》は、まだ始まったばかりなんだもの――」
[#改ページ]
息を吹《ふ》き返したものの目を覚まさなかった麗華《れいか》を背負《せお》ってコテージに戻《もど》った。
疲《つか》れ果てていた。冗談《じょうだん》ではなく今|眠《ねむ》ったら二度と起きられないだろうと思った。それでも眠りたかった。そもそもここまで意識《いしき》を保《たも》ったままたどり着いたことが奇跡《きせき》なのだ。正直に言えば途中《とちゅう》の記憶《きおく》がほとんどない。九|割《わり》がた夢《ゆめ》の世界に浸《つ》かりながらコテージまで歩いてきたのだろう。
とにかくベッドが恋《こい》しかった。シーツと心中したかった。が、その前に二つだけはやっておかねばならなかった。
ひとつは達成できた。麗華の安全|確保《かくほ》である。見たところもう大事はなさそうだったがそれでも状況《じょうきょう》が状況だ、予断《よだん》は許されない。涼子《りょうこ》と美樹彦《みきひこ》のもとへ行って後を託《たく》し、自身の素人《しろうと》診断《しんだん》――彼女がおそらくサキュバス化したであろうこと――も余《あま》さず話した。二人は彼ららしくほとんど表情《ひょうじょう》を変えず、気軽に請《う》け合った。
もうひとつは達成できなかった。約束を果たせそうにないことを真由《まゆ》にひとこと謝《あやま》っておきたかったのだが――彼女は自室にはおらず、というよりそもそもコテージにその姿《すがた》がないようだった。
礼を失するとはわかっていたがそのあたりが限界《げんかい》だった。部屋に戻って着替《きが》えもせずにベッドへ飛び込み、シーツと溶《と》け合うように眠った。
目を覚ますと既《すで》に陽《ひ》は高く、南国の熱気が部屋に充満《じゅうまん》していた。着衣だけでなくベッドまで汗《あせ》まみれになっている。たまらず寝床《ねどこ》から這《は》い出した。
めずらしく寝起き悪げに目を瞬《しばたた》かせ、ぼんやりと頭蓋骨《ずがいこつ》の中身を撹拌《かくはん》する。
いつもなら家人の誰《だれ》よりも先に起き出す峻護《しゅんご》だが今回はあべこべになったようだ。だがこんな時間まで叩《たた》き起こされなかったということは、特別|休暇《きゅうか》はまだ継続中ということに相違《そうい》ない。何か仕事があるわけでもないのだ、もう一度寝てしまおうか。バカンスは今日いっぱいとなっているはずだが正確な予定はどうなっているのだろう。他のみんなは何をしているのか。
目が覚めてきた。
寝ぼけてる場合じゃないことに気づいた。
洗面《せんめん》も着替《きがえ》えもそこそこに部屋を飛び出た。捜《さが》さないといけない。誰を? 決まっている。両方だ。
やはりまだ覚醒《かくせい》しきっていないのだろう、捜した後どうするかはまったく考えがないまま、コテージをざっと見渡した。が、どちらの姿も見当たらない。使用人をつかまえて聞いてみる。姉と美樹彦はクルーザーでトローリングに出かけたらしいが、目的の二人はそう遠くへは行っていないようだ。
ビーチに出た。早くも砂《すな》は陽光に焼け、足の裏《うら》に熱を伝えてくる。今日も快晴《かいせい》だった。
歩きながら首をめぐらせると桟橋《さんばし》のほうに人影《ひとかげ》がある。
板べりに屈《かが》み込《こ》んで、月村《つきむら》真由がコバルトブルーの海面に視線《しせん》を落としていた。声をかけるまでもなくこちらの姿《すがた》を認《みと》め、あたふたと立ち上がる。
「おっ、おはようございます、二ノ宮くん」
「ああ。おはよう……と言うには遅《おそ》すぎるかもしれないけど。何をしていたんだ?」
「いえ、その、べつに――いえ、海を見ていました。魚を……」
「そう、魚を。きれいだしね」
意味に乏《とぼ》しい会話が途切《とぎ》れ、ようやく昨日一日の出来事が脳裏《のうり》にはっきり蘇《よみがえ》ってきた。
照れくさく、でも掛《か》け値《ね》たしに楽しかった昼。決意の夕暮《ゆうぐ》れ。そして――
あれはやむをえない処置《しょち》だったんだ、と言い聞かせる。十人に訊《き》けば十人がこう答えるはずだ、あの場面なら仕方ないと。どんな裁判《さいばん》になっても勝てる白信がある。後ろめたいことなど何もない。あれは正当で適確《てきかく》な行為《こうい》だったはずだ……。
沈黙《ちんもく》を破《やぶ》ったのは真由だった。
「あの、昨日はほんとうにありがとうございました。いろいろわがままをきいてもらって――」
うつむけていた顔を上げた彼女の声は熱帯の陽気にふさわしく、底抜《そこぬ》けに明るかった。
「ほんとうに楽しかったです。よろしければまた、いっしょに遊んでくださいね」
そう言ってほころばせた笑顔は、やっぱりとびきりに魅力《みりょく》的で。
「――うん、もちろん。おれだって昨日は楽しかったし、君には感謝《かんしゃ》している。それと昨晩はすまなかった。おれから申し出た約束を、星を見に行く約束を、守れなかった」
「いえ、だいじょうぶです、気にしてないです。麗華さんのことはわたしも心配だったし、捜しに行くのは当然です。それにわたし、昨日ははしゃぎすぎてちょっと疲れちゃって、二ノ宮くんがコテージを出たあとすぐ寝ちゃいましたから。どのみち星を見には行けなかったかもしれません」
「そう。いや、それならいいんだ」
怒《おこ》らせてはいないらしい。とりあえずは安堵《あんど》する。
だが――
「? 二ノ宮くん?」
ふたたび黙り込んでしまったらしい。真由が首を傾《かたむ》けながら覗《のぞ》き込んでくる。
「ああ、いや――」雑念《ざつねん》はむりやり押《お》し消した。
「月村さん、もし、よかったらだけど。今日も一日おれに付き合ってくれないか? 昨日の約束の代わり、っていうのもなんだけど、埋《う》め合わせをしたい」
「えっ?」ひどく意外そうに目を見開く。
「で、でもいいんですか、わたしなんかと、その」
「ああ、君さえよけれぱ」
「わ、わたしはもちろん――あの、でも、わたしなんかに付き合って時間を潰《つぶ》させちゃって、ほんとにご迷惑《めいわく》ではありませんか? 埋め合わせだったらわたし、ほんとに気にしてませんから、他にすることがあるんでしたらあまり無理しないでも――」
「いや、いいんだ。無理なんてしていない。むしろこっちからお願いしてるんだ」
「……ほんとに?」
「ああ」
「うそなんかじゃ、ないですよね……?」
「? どうして? こんなことで嘘《うそ》を言っても仕方ないだろう」
「……ありがとう! うれしいですっ」
笑った。ひまわりの大輪みたいに鮮《あぎ》やかで華《はな》やかな、たぶんこれまでで一番の笑顔。どんな男だってこれを前にしたら白旗を揚《あ》げるしかないだろう。
峻護も例外ではなかった。顔にこそ出さなかったが、控《ひか》えめにみてもかなり舞《ま》い上がっていた。
やっぱり――やっぱりおれは、彼女のことを……
恥《は》ずかしそうにはにかみながら、でも喜びを隠《かく》そうともしない真由の高揚《こうよう》が、こちらにも乗り移《うつ》ってくる。それによくよく考えれば先ほどの科白《せりふ》、自分にしてはかなり大胆《だいたん》なものだった。思い出して赤面する。真由の顔をまともに見られない。
間を持たせるために、思いつくまま口を開いた。
「ところで月村さん。疲れたからずっと寝てたって、さっき言ってたけど。でも昨晩おれが戻った時、コテージのどこを捜しても月村さんはいなかったよ?」
「……え?」
さほど疑問《ぎもん》に思っていた矛盾《むじゅん》でもない。だが。
たちまち真由の顔から笑みが掻《か》き消え、無残なほどの狼狽《ろうばい》がそれに取って代わる。
「わ、わたし、そんなこと言って――昨日は、その、わたし、ええと」
どうとでも言い訳《わけ》すればいいのだ。『ずっと部屋で寝てましたよ。二ノ宮くんが何か勘違《かんちが》いしてるんじゃないですか?』でもいい。「お手洗いに行った時にすれ違いになったのかもしれないですね』でもいい。なんならそ知らぬ顔で『わたしそんなこと言いましたっけ?』でもいい。
だが真由にはそれだけのことができない。あらかじめ心構《こころがま》えをしていたことならまだしも、この手の不意打ちに晒《さら》されればなおさらのこと。
この時点まで隠しおおせていたことが、彼女にすれば上等すぎたのだ。
「――み、見てません! わたし、なにも見てませんから!」
「へっ?」
いきなり踵《きびす》を返して駆《か》け去っていく後ろ姿に、峻護はただ呆然《ぼうぜん》とするしかない。
彼は事実に気づかない。唐突《とうとつ》すぎた露見《ろけん》が真由にはかえって味方した――と言っていいものかどうか。
「……何だったんだ?」
何が起こったのかまるで意味がわからず、目を瞬《しぱたた》かせながら立ち尽《つ》くすしかなかった。
真由とのことが曖味《あいまい》に終わったまま、しかし峻護にはそれ以上の厄介事《やっかいごと》が手ぐすねをひいて待ち構えている。彼も無論《むろん》それは自覚していた。
コテージに戻ると、今度は苦もなく見つかった。
峻護の部屋、そのドアの前。
北条《ほうじょう》麗華がいた。
右へ左へ行ったり来たりしつつ、時おり仇敵《きゅうてき》を殴《なぐ》り飛ばそうとするかのような格好《かっこう》でドアに向かって拳《こぶし》を振《ふ》り上げ、すぐにまた下ろしては右往《うおう》左往《さおう》。
その動きの奇矯《ききょう》さについ声をかけそびれていると、向こうから気づいてくれた。
一瞬《いっしゅん》きょとん、となり、次いで耳まで赤みが差し、さらにはそこへ憤激《ふんげき》の色を重ね塗《ぬ》りして、ずかずかとこちらに肉薄《にくはく》してくる。
「なにをじろじろ見てますのっ! 見世物《みせもの》じゃありませんわよ!」
「はあ、すいません。それで、おれの部屋の前で何を?」
「べ、べつに――ただ、このコテージのドアは腕《うで》のいい職人《しょくにん》の手による作品だったみたいだから、それをじっくりと鑑賞《かんしょう》していただけです。何か文句《もんく》でも?」
「はあ。いえ、特には」
いつもの様子にこちらもつい普段《ふだん》の調子で返していたが、峻護の心中は穏《おだ》やかでない。
昨晩あれだけのことがあったのだ。そう冷静でいられるものか。
ただ、ひとつだけ安心したことが――いや、うれしかったことがある。
今、目の前にいるこのひとは、間違いなくあの北条先輩だ。昨夜の彼女ではない。
「ところで――」
頬《ほお》を桃色《ももいろ》に染《そ》めたまま、目を合わさず、麗華がたずねてくる。
「今、あの二人がどこにいるかご存じ?」
「あの二人?――ああ、姉さんと美樹彦さん。あの二人なら海に遊びに出ているみたいです。それが何か?」
「そう。……じゃあ、結局勝負はどういうことになったのかしら……」
「はい?」
「な、なんでもありません。忘《わす》れなさい」
「はあ、そうですか。ところで先輩《せんぱい》――」
本題に入る。
「昨晩の、ことですが」
できれば触《ふ》れたくない。だが見て見ぬふりもできない。
「わ、わかってるわよっ」視線《しせん》を泳がせながら、麗華が早口に言う。
「話はすべて保坂から聞いたわ。あなたに迷惑《めいわく》をかけたことは承知しています」
「迷惑――」そんなことはどうでもいい。「そんなことより先輩、昨日――」
「わかってるって言ってるでしょう! 悪かったわよわたくしが悪かったわよっ。ひとりで夜中にさんざん出歩いて、挙句《あげく》の果てに疲《つか》れて眠《ねむ》ってしまって、しかもずっと目を覚まさなくて――あなたが捜《さが》し歩いてわたくしを見つけて、ここに連れて戻ったのでしょう? 完膚《かんぷ》なきまでに、弁解《ぺんかい》の余地《よち》なくわたくしが悪いわよっ。でも――わたくしだって、ひとりでそういうことがしたい時もあるんだもの、仕方ないじゃない!」
「はあ……」
話が噛《か》み合わない。
「それだけ、ですか?」
「そ、それだけって……わ、わたくし、まだ他にも何かしましたのっ?」
忘れて――いる? 記憶《きおく》にないのか?
脱力《だつりょく》と、それに連れ立って深い安堵《あんど》が訪《おとず》れる。
変わらない。何も変わらない。何ひとつこれまでと変わらない。
そのことが峻護にはうれしかった。ほんとうに、うれしかったのだ。うれしいと感じる理由など今は知ったことではなかった。そんなものはすべて横に置いて、今はとにかく、変わらぬ彼の世界を喜びたかった。
解決《かいけつ》していない問題はまだまだある――というより、ほとんどすべてが未解決のままだ。北条麗華の身に起きた昨晩のサキュバス化は何だったのか? その別人としか思えない豹変《ひょうへん》ぶりは何だったのか? それが今後彼女にもたらす影響《えいきょう》は? 麗華が峻護に向ける想《おも》いの真実のところは? そしてそれに対して峻護はどう身を処《しょ》していけばいいのか?
でもいいのだ。それらをまだ、今は、考えずに済《す》ませられる。
「――だ、だから、わたくしほんとは、あなたにお礼を言いに……って、ちょっと。あなた人の話を聞いてますの?」
ひとりで話を進めていた麗華が、峻護の様子を見て眉根《まゆね》を寄《よ》せる。
「……なによあなた、そんなうれしそうに。何か、あなたがそんな風に喜ぶようなことってあったかしら……?」
普段の無愛想面《ぶあいそうづら》とは別人のように笑《え》みこぼれている峻護を、戸惑《とまど》いながら――しかしなぜかいっそう顔を紅潮《こうちょう》させながら、見上げてくる。
「ああいえ、何でもありません。ところで先輩、身体《からだ》は大丈夫《だいじょうぶ》ですか?痛《いた》いところとか、苦しいところとかはありませんか?」
「身体? べつになんともありません。あなたになんか心配されるまでもないわ」
それば――なおさらめでたい。世はすべて事もなし。
心から、ほっとした。
「そうですか――よかった」
そして。
その表情が、自然とこぼれ出る。
「なっ――」
にこ、と笑った峻護に、麗華が身も世もなく動揺《どうよう》した。
皮膚から血が噴出《ふんしゅつ》するんじゃないかと思うくらい顔が赤くなる。口もとをわななかせ、肩《かた》をこわばらせ、握《にぎ》り締《し》めた拳《こぶし》は小刻《こきざ》みに震《ふる》えている。差恥《しゅうち》のあまりの激情なのか、激情のあまりの差恥なのか――どちらともつかない、あるいはどちらでもない何かもっとべつの、ただひどく大きいことだけはわかる、感情の渦《うず》。
「わっ、わたくしはッ!」
戸惑う峻護に、雷《かみなり》のような大喝《だいかつ》が落ちた。
「わたくしはあなたのその、へらへらした顔を見てると腹《はら》が立ってくるのよッ、この――このネギ男ッ!」
「――は?」
その罵声《ぱせい》の頓狂《とんきょう》さにポカンと口を開けた峻護だったが、脳裏《のうり》に浮《う》かんだクエスチョンマ―クが回答を得ることはなかった。問おうにも発言主はすでに黒髪《くろかみ》を翻《ひるがえ》し、廊下《ろうか》の向こうへと姿を消している。
「何だったんだ……?」
さっぱりわからない。そんなに自分の笑い顔が気に食わなかったんだろうか。――確《たし》かにおれは滅多《めった》に笑わないし、たぶん先輩がおれの笑うところを見るのは初めてだったんだろうけど。初見でそこまで嫌悪《けんお》感を抱《いだ》かせる顔なのだろうか。だとしたらやっぱり、あまり笑わない方がいいのかも……
まあいい、と峻護は思い直す。とにかく今は難《むずか》しいことを考えるのはよそう。せっかく姉さん公認《こうにん》の休暇《きゅうか》をもらっているんだ、面倒《めんどう》なことは後回しでいいじゃないか。今回の休暇が終わったら次はいつ息抜《いきぬ》きができるかわからない。今のうちにたっぷり骨休《ほねやす》めをしておくべきだ。
それにしても何だったんだろう、さっきのは。ときどき突拍子《とっぴょうし》もないことをする北条先輩だけど、あれもその部類に入るのだろうか。しかし人のことをネギはないよな、ネギは。罵《ののし》るにしたって何の脈絡《みゃくらく》も――
「え?」
かちっ、と。
どこかで何かがはまった気がした。まったく見えない場所――でも確かに、手の届《とど》く場所で。
峻護の感覚で言えば、それは箱だった。古くて小さな、他人が見たらゴミと間違えて捨《す》ててしまうような箱。でも、とても大切なものを入れておいた箱。そんな箱を、普段は見向きもしない物置部屋の押入《おしい》れの奥《おく》に、仕舞《しま》っていたような気がする。もうずっとずっと昔に。
つい今しがたの何かがその部屋の鍵《かぎ》を開け――
そして気づいたときにはもう、峻護はそこに足を踏《ふ》み入れていて――
ずいぶん長いこと放置していた、容量《ようりょう》いっぱいに詰《つ》め込んだ押入れ。戸を引き開けると雪崩《なだれ》を打って中身が溢《あふ》れ出す。そのガラクタの山を引っ掻《か》き回すと確かにある手ごたえ。色あせた箱、置き忘れていた記憶の感触《かんしょく》。
予感がする。なんだかわからないけど、良いのか悪いのかもわからないけど、とにかくとてつもなくばかでかい予感が。
震える手で――現実に彼の手は震えていた――箱を開ける。
そして。
「おいおい――」
待てよ。待ってくれよ。
滝《たき》のような汗《あせ》が全身を這《は》いまわる。
遠い日の残像《ざんぞう》。少女との出会い、ボロアパートでの暮《く》らし、腫《は》らした顔で交《か》わした約束と、その誓《ちか》いと――
じゃあ、あのひとは、あのころからずっとおれを……?
十年間も、ずっと?
でもなぜだ。なぜそんな大事なことを、今の今まで忘《わす》れて――
まわる。ぐるぐると視界《しかい》がまわる。天地が逆《さか》さになり、夏と冬がめまぐるしく入れ替《か》わる。船酔《ふなよ》いで吐《は》きそうな気分と、ほろ酔いで歌いだしそうな気分。茄《ゆ》で上がりそうな灼熱《しゃくねつ》と、心まで凍《い》てつきそうな酷寒《こっかん》。泣きたいのかそれとも笑いたいのか。悲しみたいのかあるいは喜びたいのか。
こまる。
こまるんだ。
そんなこと、いまさら言われたってこまるんだ。
昨日の夕暮れ、おれは月村さんへ心ひそかに誓い――
でも北条先輩は十年前のあの時の少女で――
じゃあ。だったら。
おれの気持ちはどこへ行けばいい? おれはどの誓いを守ればいい?
わからない。今度こそ、ほんとうにわからない。
「どうしろってんだ……」
呆然《ぼうぜん》としたまま、峻護は一歩も動けない。
途方《とほう》にくれ、天を見上げる。
だがいかに風へ問おうと、いかに太陽に縫《すが》ろうと。
彼らはただ吹《ふ》き過ぎ、ただ照りつけるのみ。
少年と少女たちを焦《こ》がす夏の日々は、まだ始まったばかりなのだ――
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あとがき
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです―という定番《ていばん》のあいさつから入る、作者の鈴木《すずき》です。『ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん』第二弾をここにお届け致《いた》します。
さて、この稿《こう》では前回のあとがきで中途《ちゅうと》のまま頓挫《とんざ》していた『私の執筆暦《しっぴつれき》』の続きを書きたいと思います。ンなもんにページ割《さ》くな、という正論は耳に入れません。あらかじめご了解《りょうかい》ください。
それまでの執筆|経験《けいけん》(合わせて四枚くらい)から『俺に小説は無理《むり》だぜ!』と悟《さと》った私、鈴木大輔《だいすけ》。その強固な納得《なっとく》――己《おのれ》の執筆能力への諦念《ていねん》――を払拭《ふっしょく》したのは、しかし実に浅薄《せんぱく》で不謹慎《ふきんしん》な理由によりました。時は大学三回生の末期、そろそろ就職《しゅうしょく》活動《かつどう》に重い腰《こし》を上げねぱならない時期です。
賢明《けんめい》な読者|諸氏《しょし》にはもうおわかりですよね? そう、私の脳裏《のうり》に天啓《てんけい》がひらめいたのです。すなわち『就職なんてめんどくせー、俺は小説でも書いて印税《いんぜい》がっぽがっぽのモテモテ生活を送るぜ! なあに、この俺が本気になれば小説なんて児戯《じぎ》も同然よ!』――と。
――ハイ、そこ呆《あき》れない。石を投げない。
無論《むろん》、こんな動機《どうき》で始めた小説修行が上手《うま》くいくはずもありません。案《あん》の定《じょう》、その後の私に無数《むすう》のツケが回ってくることになるのですが――残りページが少なくなって参りました。その話はまた次の機会《きかい》に。ンな話を引《ひ》っ張《ば》るな、という正論には聞こえないフリを致します。あらかじめご承知《しょうち》ください。
そうそう、折角《せっかく》ですから三巻の予告をしておきましょう。次回、怨念《おんねん》に駆《か》られた真由《まゆ》が復讐《ふくしゅう》の女コマンドーと化し、ロケットランチャーひっ担《かつ》いで暴れ回る予定です。誇大《こだい》予告への苦情は公共●告|機構《きこう》まで。
さて、今回も最後になってしまいましたが、イラストの高苗《たかなえ》氏、担当《たんとう》のS氏をはじめ、この本に関わって頂《いただ》いた全ての入たちに満腔《まんこう》の謝意《しゃい》を。そしてこの本を手に取ってくださった皆様《みなさま》に、私から愛の押し売りを。ありがとうございました、どうぞこの次もよろしくお願い致します。
[#以下省略]
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TEXT変換者です。
これで6本目です。日曜の昼夜と月曜の早朝で出来ました。
いままでの最速かと……10時間くらい?
IRCで「ーー」と「――」が違う事を指摘されたので、
今回は全部「――」で統一しました。
途中でその作業を行ったので………わかりますよね?
置換のしすぎで大変なことになりました。