ご愁傷さま二ノ宮くん
鈴木大輔
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)遥《はる》か未来に
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(例)単身|赴《ふ》任《にん》
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目 次
其の一 一大事だよ二ノ宮くん
其の二 サンドバッグな二ノ宮くん
其の三 それはまずいよ二ノ宮くん
其の四 男を見せよう二ノ宮くん
其の五 ご愁傷さま二ノ宮くん
あとがき
解 説
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場所はどこでもいいし、そうなった理由も問わない。
ちょっとこういう状況《じょうきょう》を思い浮《う》かべてみよう。
登場人物は二人。
発育良好な身体《からだ》をした年頃《としごろ》の少女と。
おなじく年頃で、心身とも至《いた》って健康な少年である。
その少女は力なくまぶたを閉《と》ざし、手足をぐったり床《ゆか》に投げ出しているとしよう。
かたや少年のほうは、血走った目をぎらつかせて四つんばいになり、少女の上におおいかぶさっている、とする。
さて、そんな光景を目《ま》の当たりにした時――
人はこれを、どんな場面と判断《はんだん》するだろうか?
*
女の子を押《お》し倒《たお》している。
どうやらそういう事になるらしい――と、|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》は冷静に考える。
困ったことではある。
が、彼はあくまでも冷静である。
なぜならこれは事故《じこ》なのだから。
不幸な偶然《ぐうぜん》が重なって、たまたまこんな状況になってしまった。それだけのこと。
どいてしまえばそれで済《す》む。床から手をはなして立ちあがり、服についた埃《ほこり》をはらう真似《まね》でもして、頭を掻《か》いてはははと苦笑いすればいい。
それだけのことだ。
それだけで、すべては丸くおさまる。
さあ。
「…………」
さあ。
「…………」
――なぜ、どかない?
彼はふたたび試みる。
床から手をはなして立ちあがり、服についた埃をはらう真似をして、頭を掻いてはははと苦笑いをしろ。
「…………」
なおも押し倒したまま。
もういちど、試みる。
床から手をはなして立ちあがり、服についた埃をはらう真似でもして――
「…………」
ついに、峻護は気づく。
彼がいまこうして巡《めぐ》らせている冷静な思考は、意識《いしき》の片隅《かたすみ》で細々と営《いとな》まれているそれでしかないことを。
意識の大部分では、理性《りせい》と煩悩《ぼんのう》が血みどろの抗争《こうそう》を繰《く》り広げていることを。
そして戦況は煩悩側の圧倒《あっとう》的|優勢《ゆうせい》で推移《すいい》しており、理性側はほどなく白旗をあげるであろうことを。
まずい。
ようやくあせりはじめる。
まずいまずいまずい。あせりが募《つの》る。
ああああああああこのままではおれは忌まわしきふとどきなケダモノああああああああ
おちつけ。おちつけおちつけ。
順序よくいこう。いいか、まずは考えてみるんだ。
なぜ、一体、どうして、こんなことになってしまったのか――
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其の一 一大事だよ二ノ宮くん
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事の起こりは数時間前、|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》の生活がまだ平穏《へいおん》だった頃《ころ》にまでさかのぼる。
*
ピーン……ポーン
事件《じけん》はチャイムとともにやってきた。
梅雨《つゆ》があけて最初の日曜日。まだセミの声もまばらな昼下がり。
階段《かいだん》と長い廊下《ろうか》を通って玄関《げんかん》から聞こえてきたかすかな音を耳でひろい、峻護は掃除機《そうじき》のスイッチを切って顔をあげた。
(――客?)
ピーン……ポーン。ふたたび階下から催促《さいそく》の音。
「はい、ただいま」
階下に向けて大声を返し、まだ強い日ざしの差してくる廊下を小走りに駆《か》け、階段を二段とばしでおりる。
前時代的な黒電話の横をぬけ、シャンデリアをかかげたホールを突《つ》っ切り、
「どちらさま?」
言いながら、玄関を押《お》しあけた。
同時、外の光とともに満面の笑《え》みをたたえた青年の姿《すがた》が目に映《うつ》り――
そう、この唐突《とうとつ》で機嫌《きげん》よさげなマシンガントークから、すべては始まったのだ。
「やあすまないすっかり遅《おそ》くなったいや仕事が長引いてしまってねところでこちらの家に来るのは初めてだがなかなかどうして悪くないじゃないか都心の一等地にこれだけ趣《おもむき》のある屋敷《やしき》と緑をのこしている場所はざらにないだろうしかしあれだね観光気分で見て楽しむだけならともかくこんなホテルみたいな建物に住んでいるとかえって不便なことのほうが多くはないかな丘《おか》の上に建っているからここまで毎日登ってくるのも面倒《めんどう》だろうでもうんなかなか気に入ったよ今日からここで厄介《やっかい》になるけれどこれから先の暮《く》らしが楽しみだそうそう君の姉さんはもう帰ってきているかな?」
「…………」
「ん? どうしたんだい?」
「いや、その」
面食らいつつ、やっとそれだけを返す。えらくフレンドリーにまくし立てるこの男に見覚えがあるか検索《けんさく》するラインと、その一方的な早口に追っつこうとするラインとが脳内で混線《こんせん》し、うまく機能《きのう》していない。
ともあれ、長広舌《ちょうこうぜつ》の断片《だんぺん》から察するにこの男、来客であることは確かなようだが――
峻護はこの素《す》っ頓狂《とんきょう》な訪問者を、上から下までながめ回した。
相当な優男《やさおとこ》である。『おとぎ話の中から飛び出してきたんです』と紹介されればすんなり信じてしまいそうなほどに。身なりもいい。身長も、大柄な峻護よりさらに高い。年齢《ねんれい》は二十代半ばといったところか。
手には馬鹿《ばか》でかいトランク。ちょっとした旅行、というのには大げさすぎる荷物である。
……そう、そういえば妙《みょう》なことを言っていた気がする。ここで厄介になるとかどうとか。
いや、その前にまず、こちらも何かしら応答《おうとう》しなくては。
気を呑《の》まれたままあれこれ考えた末、至極《しごく》まっとうな質問《しつもん》を峻護は口にした。
「あの、失礼ですが」
「なんだい?」
「あなたは、どなたですか?」
「おや」何が楽しいのか男はにこにこ笑いながら、「涼子《りょうこ》くんから話は聞いてないかい?」
「姉から?」
渋面《じゅうめん》をつくる。もうそのひとことで、だいたいの事情《じじょう》を察した峻護である。
姉さん、また何か勝手なことをやったな――
「いえ、何も聞いていません」
じわりと、この青年を見る峻護の目がうろんげになっていく。
「では自己《じこ》紹介をしておこうか」そんな彼の態度《たいど》にまるで動じた風もなく、
「僕《ぼく》は月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》という。よろしく」
峻護が何か言うより早く、にこにこ顔で手を握《にぎ》ってくる。
「はあ、どうも。僕は――」
「いや、いい。君のことはよく知っている」礼儀《れいぎ》としてこちらも名乗ろうとするのを制《せい》し、
「で、こっちの子が」うしろを振《ふ》り返った。
と、峻護はそこではじめて男――月村美樹彦に連れがいることに気づく。
青年の陰《かげ》に隠《かく》れるようになっていた人物が、おずおずとこちらに姿を見せた。
「妹の真由《まゆ》だ」
たぶん紹介されずともわかっただろう。細身なその少女は、一目でそれと知れるほど美樹彦によく似ていた。
「君と同じ高校一年生でね。僕ともども今日からこの家でお世話になる」
(お世話――やっぱりそうか)
聞きまちがいではなかったらしい。
(この家に住む、だって?)
「ほら、真由」
兄にうながされて、うつむいていた少女があわてて顔を上げる。
長い髪《かみ》。ピュアホワイトの袖《そで》なしワンピース。美樹彦のよりは小さい、だが彼女の体格《たいかく》からすればずいぶんと大きなトランクを、両手でさげている。
「あの……」
小声で少女。顔は上げたものの、目線は下に向けたままだ。
頬《ほお》が、はっきりそれとわかるほど上気している。
「その……」
口を開けたり閉《と》じたりして何か言おうとし、結局またうつむいてしまった。
「真由、」にこにこしながら美樹彦、
「この融通《ゆうずう》の利《き》かなそうな面構《つらがま》えの彼が峻護くんだ。これから何かと手間をかけることになる。ちゃんと挨拶《あいさつ》をしなければいけないよ」
「はい……」
かぽそい返事。それでもまだもじもじとためらっていたが、美樹彦からさらにうながされ、ようやくこちらを見た。
はじめて目が合った。
(――ん?)
ふと、心に何か引っかかった気がして、
「つ、月村真由です。あの……」
(なんだ?)
引っかかった部分をさぐりなおそうとした、その時。
ぢりりりりりん…… ぢりりりりりん……
黒電話のカン高い音が洋館の隅々《すみずみ》にまで鳴りひびいた。
「っと、ちょっと失礼します」
会釈《えしゃく》し、ホールへ取って返す。
(誰《だれ》だろう)
受話器を取ってやかましくがなる準骨董品《じゅんこっとうひん》を黙《だま》らせ、応答《おうとう》する。
「はい、もしもし。二ノ宮ですが」
返事はこうだった。
『ばうんばうん。ちゅいんちゅいん。だだだだだ、がしゃん、ちゅいん、ぼぐっ、どんどんどん、たすったすっ、きん、きん、ききききん、ばららららららららららららららら』
「…………」
峻護は受話器を耳から離《はな》し、まじまじとそれを見つめた。
首をかしげる。
自分のとぼしい知識《ちしき》から推測《すいそく》するに、今の音は各種の銃声《じゅうせい》、かつそれにともなう破壊《はかい》音だった気がするのだが。
「――もしもし?」
気を取りなおして再《ふたた》び受話器を耳にあてる。
今度は――相変わらず不穏《ふおん》な雑音《ざつおん》まじりだったが――ちゃんと人間の声が返ってきた。
『ああ峻護? わたしだけど』
姉の涼子だった。
『そういえば話すの忘《わす》れてたわ。今日から同居人がふえるわよ。ふたり』
いきなり本題。前フリなし。
「……姉さん、そういうことはおれにも事前に話を通してほしい。それと、もう少しまめに電話してくれっていつも言ってるだろう。今回も一か月ぶりじゃないか。いや、それより今、どこで何をしてるんだ?」
返事はこうだった。
『ちゅいん!』
思わず顔をしかめ、受話器を遠ざける。今度のはかなり近いところで聞こえたような。
「……もしもし?」
『今日あたり、そっちに着いてると思うけど』
何事もなかったように姉は話を続けている。
『わたしも夜までには帰るから――ああもうっ、うっとうしいわね。こっちは手がはなせないから、くわしいことは美樹彦にぶつっ』
「? もしもし? 姉さん?」
切れた。というより、むこうの電話にトラブルがあった――のか? 最後の一瞬《いっしゅん》、銃弾《じゅうだん》が受話器を撃ちぬく音を聞いたようにも思うが。
(まあいずれにせよ――)
ちいさく吐息《といき》し、峻護は受話器を置く。
面倒《めんどう》ごとに巻《ま》きこまれたにしても面倒ごとを巻きおこしているにしても、姉の心配はするだけ無駄《むだ》である。経験《けいけん》上、そのことはよく知っている。そろそろこちらに戻《もど》ってくるようだし、言いたいことはその時に言おう。そうそう、夕食は二人ぶん用意しないと。
そう結論《けつろん》づけ、ふたたび玄関先《げんかんさき》へ出た。
気をとりなおし、来客にむかって、
「えー、ちょうどいま姉から連絡《れんらく》がありまして」
咳《せき》ばらい、
「たしかにお二人の話は聞きました。美樹彦さんの名前も口にしていました。ただ――」
相変わらずにこにこしている青年と、また顔を伏《ふ》せてしまった少女を交互《こうご》に見てから、
「僕はこの件《けん》についてまったくの初耳なんです。こういう状況《じょうきよう》では何をするにも差しつかえがありますから、まず事情《じじょう》を説明」
ぴるるるるるるるる……
美樹彦のふところで鳴った携帯《けいたい》の着信音が話の腰《こし》を折った。
「おっと失礼」愛想《あいそ》よく峻護に断《ことわ》ってから、受話口を耳にあて、
「やあ、あなたですか。思ったよりも早かったですね、この番号が知れるのは――」
しかたなく、携帯と話す美樹彦を見守る。
ふと視線《しせん》を感じる。
少女が戸惑い気味の表情でこちらを見ている。目が合うと、あたふたとうつむく。
(?)
そのことについて何か思うより早く、峻護は右手の庭へ目をやった。干《ほ》してある洗濯物《せんたくもの》が強い風にあおられる音を聞いて少し気になったのだ。しかし気のせいだったか。視線の先にある衣類はただ、ゆらゆらと微風《びふう》にそよいでいるのみ。
「……こまりますね、そんな依頼《いらい》をされても。そちらにも回っているはずでしょう? 僕がしばらく休業する話は――」
が、おかしい。やっぱり聞こえてくる。ばたばたばたばたという音。しかもだんだん大きくなってくる。それでもやはり、洗濯物は水草のようにゆっくりとなびくばかりで――
「……日米安保改正の成否《せいひ》がかかっている? そんなことを言われてもですね……はいはいわかりましたよ、しかたない。この貸《か》しは高くつきますからね。え? 何を言ってるんですか白々しい。もう迎《むか》えがこっちにきているじゃないですか。軍事|衛星《えいせい》で民間人の行動を追うのは感心しませんよ。そういう真似《まね》をされれば今後はこちらも――」
いやちがう、急にはためき始めた。空からあおられるようにして、激《はげ》しく。
…………。
空?
首を上にむけた。
その刹那《せつな》である。視界の横合いから爆音《ばくおん》をとどろかせ、何かが突《つ》っこんできたのは。
「なっ――!」
息を呑《の》むより早く、その『何か』は、ブレーキでもかけたかのように上空で急停止。と認識《にんしき》した時には、突如《とつじょ》巻き起こった突風に全身を激しく打たれ、思わず身をすくめる。
音は、もはや耳を聾《ろう》するばかりの大|音声《おんじょう》となって周囲を圧《あっ》していた。
その中で平然とした声、
「やれやれ。相手が大統領令嬢《だいとうりょうれいじょう》じゃ、僕があたるしかないか。もう少しなりふりを構《かま》ってもらいたいものだが」
豪風《ごうふう》に躁躍《じゅうりん》されながら悠々《ゆうゆう》と携帯をしまい、
「すまないね峻護くん。急な仕事が入った」
と、笑いかけてくる美樹彦の手が何かをつかむ。
それの正体を理解《りかい》するのに数瞬《すうしゅん》かかった。
(……縄《なわ》ばしご?)
手の甲《こう》をかざして突風から目をかばいつつ、それの伸《の》びている元を視線でたどった。
そこにあったのは、どうみても民間用とは思えない黒一色の機体――ちかちかと赤色|燈《とう》を瞬《またた》かせ、空の王者の風格《ふうかく》で下界を脾睨《へいげい》している、見るも物騒《ぶっそう》なヘリだった。
手を伸ばせば触《ふ》れられそうな距離《きょり》。休日の都下に突如|描《えが》かれた、ひどくシュールな画《え》。
「僕はここで失礼させてもらうが、」
この轟音《ごうおん》の中、怒鳴《どな》っているわけでもないのに、美樹彦の声は不思議とよく届く。
「妹のこと、よろしく。また後ほど」
彼は上空にむかって何か合図をしてから、声もなくうずくまっていた妹にも笑いかけ、
「真由。僕は野暮《やぼ》用で出かけるが、ひとりでもしっかりやるんだよ」
「! そんな!」
途端《とたん》、顔をあげた少女の悲痛《ひつう》な叫《さけ》び。
「まって、まって兄さん! わたしひとりじゃ――」
懇願《こんがん》するその声も虚《むな》しく、人騒《ひとさわ》がせな白昼の来訪者《らいほうしゃ》たちは夏の青空の彼方《かなた》へと退場《たいじょう》してゆく。ばばばばばという重壮《じゅうそう》なローター音と、はっはっはという軽快《けいかい》かつ意味不明な笑声《しょうせい》を引きながら――
「…………」
「…………」
あとには。
へたれてしまった芝生《しばふ》。ちぎり飛ばされた庭木の葉。狼藉《ろうぜき》から解放《かいほう》されて伸び伸びとゆらめく洗濯物。
ふたたび鳴き出した、まばらなセミの声。
汗《あせ》ばむ陽気。
青い空と。
白い雲と。
呆然《ぼうぜん》とそれらに囲まれる、少年と少女――
どれほどの時間が流れたか。
とりあえず峻護は。
白昼夢《はくちゅうむ》を共有した少女に向きなおって。
「……どうも、はじめまして。二ノ宮峻護です」
自己《じこ》紹介《しょうかい》などしてみる。
「あ、はい、すいません。月村真由です」
鳥の巣になった頭をさげ、あわてて彼女も名乗りかえしてくる。
なんだか間抜《まぬ》けなやり取りと自覚はしていたが、そうでもする他《ほか》やりようがなかった。
はじまりは、およそこんなところであった。
*
しばし躊躇《ちゅうちょ》したのち、
「とにかくあがってください。そこじゃなんですから」
美樹彦の残したトランクを持ちあげながら、峻護は少女をうながした。
「あ、はい、おじゃまします!」
緊張《きんちょう》ゆえかちょっと音程《おんてい》の狂《くる》った返事。峻護はうなずき、洋館の奥《おく》へ。
が、数歩進んだところで足をとめた。
振《ふ》り返ると、少女は玄関先《げんかんさき》に立ったまま動こうとしていない。
「どうぞ。中へ」重ねてうながす。
「はい、おじゃまします」
と言いつつ、こちらに来る様子もなく。
(?)
遠慮《えんりょ》している――というより、尻込《しりご》みしているらしい。彼女の面持《おもも》ちは、幽霊屋敷《ゆうれいやしき》に潜入《せんにゅう》する時のそれに通じるものがある。
「――いや、入りたくなくなけれぱ、べつにそれでもい」
「いえ! 入ります! おじゃまします!」
やけっぱちとも受け取れる口調で宣言《せんげん》し、おぼつかない足取りでこちらへやってきた。
(……まあ、いいけど)
ふたたび歩きだし、
「月村さん」
うしろをついてくる少女に当然|訊《き》くべきことを訊いた。
「今回のこと、おれはまったく事情を飲みこめていないんだけど。君は、同居の話は前もってお兄さんから聞いていたのか?」
「いえ、わたしもおととい急に言われて。それで、ばたばたしているうちにこういうことに――」
となれば事情の説明を求めても無駄《むだ》、それ以上訊くのはやめる。どのみち深入りするつもりはない。風のように現れ、嵐《あらし》のように去った彼女の兄についても追及《ついきゅう》はしない。あの手の人物に峻護は慣《な》れている。
ホールから西へ伸びる廊下《ろうか》に入り、すぐ左手が応接室《おうせつしつ》である。ほとんど使った例《ため》しはないが、日々の掃除《そうじ》は欠かしてない。
「どうぞ」
ツヤ光りするオークの一|枚戸《まいど》を引きあけて室内を示《しめ》す。
「…………」
が、またしても彼女は動かない。やや離《はな》れた位置に立ったまま、開いた戸口と、そのすぐそばでドアをおさえている峻護とを見くらべている。その困《こま》り顔は、何事かひどく葛藤《かっとう》しているようにみえる。
一体なんだというのか。
しかたなくもう一度「どうぞ」と勧《すす》めると、いよいよ真由は身体《からだ》を強張《こわば》らせ、
「あの、えっと」
目を泳がせ、迷《まよ》い、迷い、迷った未、
「あの、その……」
意を決したように口を開いた。
「あの、すいません。言いにくいことなんですが」
「? 何か?」
「できれば、できればでいいんですが、もしよければ、その。そこを少し、どいてもらえませんか? そのほうが安全ですから……」
「は?」
意味がわからない。たしかに自分がいるために入り口はせまくなっているが、部屋に入るのに邪魔《じゃま》――というほどでもないと思う。……まさか、なにか臭《にお》うとか? 部屋の中と、ついでに自分の二の腕《うで》あたりにも鼻を近づける。だがこれもちがう。他にも思い当たりそうな理由を探《さが》してみるが、どれも不発。
やはり彼女の申し出の意味は解《わか》らないが、
「ああ、それじゃあ……」
望みとあらば強《し》いて拒否《きょひ》する理由も見つからない。すっと後ろにのくと、
「あっ。す、すいません」
ひどく恐縮《きょうしゅく》し、まるで峻護の視線《しせん》から逃《に》げるようにして応接間《おうせつま》に身体をすべりこませた。
――が、少々急ぎすぎたようである。
峻護の視界から彼女の姿《すがた》が消えた瞬間《しゅんかん》、
べたん
鈍《にぶ》く不吉《ふきつ》な音がひびき、思わず肩《かた》をすくめた。
そっと中をのぞいてみると案の定、バンザイをするような格好《かっこう》で床《ゆか》と接吻《せっぷん》している少女の姿があった。どこかで足をひっかけたらしい。
うわ痛《いた》そう、と思う間もなく、彼女は鼻の頭をおさえて跳《は》ね起きると、
「……!……!」
うずくまって無言でもだえはじめる。
(やれやれ……)
それをみて彼がとった行動に、責《せ》められるべき点はひとつもなかったはずである。
「大丈夫《だいじょうぶ》?」
すたすたと近づき、涙目《なみだめ》で鼻面《はなづら》をおさえている真由に腕をのばす。
手のひとつも貸《か》して助け起こしてやる。それだけのつもりだった。
腕をのばされたことに、彼女が気づいた。
はっ、とした表情。
そしていきなり、
「だめ! さわらないで!」
「えっ?」
面食らう。おとなしそうな彼女が大声を出したこともそうだが、それよりもその切羽《せっば》つまった口調が、
「いや、おれはそういうつもりじゃ……」
思わずしどろもどろになってしまう峻護だが、それもあべこべな話ではある。
真由も同じことを考えたようで、
「すっ、すいません、その、そういうことではなくて、その」
今度は彼女のほうがごにょごにょと言葉をにごす。
「…………」
「…………」
奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》。
「――とにかく」
強引《ごういん》に膠着状態《こうちゃくじょうたい》を破《やぶ》り、
「事情《じじょう》がはっきりするまでゆっくりしていてくれないか? うちの姉も君の兄さんもそのうち帰ってくるだろうから。おれは家のどこかにいるから何か用があったら呼《よ》んでくれ」
言いおいて、返事も待たず応接室を出る。
うしろ手に戸をしめて、吐息《といき》。
(なんなんだ、まったく)
峻護の心境《しんきよう》はそのひとことに尽《つ》きる。どうも先ほどから、何につけても避《さ》けられているような気がする。その必要がある男だと、思われているのだろうか。
心当たりを探してみるものの、どうにもそれらしいものは思いつかず、もう一歩踏《ふ》みこんで考えようとして――
そこまですることはないと思い直し、やめた。
なぜならあの月村真由とかいう少女との同居《どうきょ》を認《みと》めるつもりなど、これっぽっちもないからである。
たいがいは姉・涼子の意向に従《したが》う――というより実力の差から従わざるをえない峻護だが、こればかりは首を縦《たて》に振《ふ》るつもりがない。見ず知らずの若《わか》い異性《いせい》と同居するなど、彼の道徳律《どうとくりつ》においては最もあってはならない事態であった。
二ノ宮峻護という少年、今時ちょっとないほどかたい[#「かたい」に傍点]のである。
そしてこの彼の性格は、二ノ宮家においては異端《いたん》に属《ぞく》するものであった。
というのも、彼をのぞく二ノ宮家の面々は、彼とまったく正反対の性質を持ちあわせているのだ。
二ノ宮の家系《かけい》は、ひとくちに言えば山師《やまし》の血統《けっとう》である。
山師、とでも呼ぶよりしかたがない。とにかく変人で享楽《きようらく》的。いつも何かに目を輝《かがや》かせ、腹の底から快笑《かいしょう》しつつ世の中を闊歩《かっぽ》し、興味《きょうみ》が向けばあらゆる物事に首を突《つ》っこむ。加えてまた何につけても平均《へいきん》以上の才能《さいのう》を有しているから、それがまかり通ってしまう。
そういう人種である。
であるからしてたとえば、彼らは金銭《きんせん》感覚ひとつとっても恐《おそ》ろしく大|雑把《ざっぱ》だ。
一例は、都内の一等地にあるこの洋館である。
べつに二ノ宮家が代々ここに住んでいたわけではない。峻護がまだほんの子供《こども》のころ、ある日|突然《とつぜん》ここに引っ越《こ》すことになった。
急なことに戸惑《とまど》い、この新居をどうしたのか、と両親に聞いたところ、『もらった』とだけ返ってきた。参考までに付け加えると、ここに来る前に住んでいたのは六畳一間《ろくじょうひとま》のボロアパートである。
『おこづかい』というものの概念《がいねん》についても激《はげ》しくズレている。何しろ峻護はこれまでの生涯《しょうがい》でたった一度しかそれをもらっていない。その一度きりのこづかいは札束のつまった小包の形で送られてぎた。なぜかポンド札で、そして普通郵便《ふつうゆうびん》だった。
その時はさすがにひとこと言ってやろうとしたのだが、それすらままならないのである。
なにせ両親が今、この星のどこにいて、何をやっているのかもわからないのだ。ここ数年は家に顔すら出さない。それにくらべれば、それなりに連絡《れんらく》もよこし、気が向けば帰ってくる姉などは全然ましなほうである。たとえ峻護にとってその存在《そんざい》が災厄《さいやく》そのものだったとしても。
「……はぁ」
ため息をつく。
とにかく、事情を知る二人が帰ってこないことには話にならない。すべてはそれからだ。
『さわらないで』のショックを少しばかりあとに引きつつ、峻護は掃除《そうじ》の続きをするために階段《かいだん》をのぼった。
*
夕暮《ゆうぐ》れの色彩《しきさい》が丘《おか》の上の洋館を染《そ》めつつある。
今日中に済《す》ませるつもりだった範囲《はんい》の掃除を終え、峻護は一息ついて額《ひたい》の汗《あせ》をぬぐった。
窓《まど》の外を見やる。
見晴らしは悪くない。都下を一望、とまではいかないが、マンションを除《のぞ》けば近所でここより屋根が高い建物はない。入道雲の残滓《ざんし》が地平線の果てに落ちようとしている。矢尻《やじり》の形をした鳥の群《む》れがオレンジ色の空を渡《わた》ってゆく。
「…………」
ちょっと後悔《こうかい》している。月村真由のことだ。
あてがはずれた。用があれば彼女のほうから言ってくると思っていたし、少し待てば涼子か美樹彦から何かしら連絡があるだろうとも思っていた。そのタイミングで動けばいいと楽観しつつ家事にいそしんでいたら、こんな時間になってしまった。
つまりどういうことかといえば、客である真由を今の今までほったらかしにしてしまったのである。飲み物ひとつ出してない。由々《ゆゆ》しき事態であった。
遅《おそ》まきながらお茶を用意し、応接室《おうせつしつ》へ。
ノック。
「は、はいっ!」
跳《は》ね回るピンボールのような声を確認《かくにん》してからドアを開けた。
うす暗い。明かりもつけないままここに寵《こも》っていたらしい。
立ちあがり、緊張《きんちょう》の面持《おもも》ちでこちらを見ている少女と目が合う。
何か、ひどく悪いことをした気になる。
「粗茶《そちゃ》ですけど、どうぞ。遅くなって申し訳《わけ》ない」
あまり近寄らないほうがよさそうなので、テーブルの隅《すみ》っこに差し入れを置いた。
「いえ、そんな。おかまいなく」
あわてて彼女が手を振《ふ》る。両手で。社交辞令でなく本当に恐縮《きょうしゅく》しているようだが、恐縮するべきは長時間放置したこちらのほうであり、
「いいから」押《お》しつけるようにしてすすめ、部屋を出ていこうとし、
「あの」
呼びとめられて振り返る。
「あの、先ほどはすいませんでした。失礼なこと言って……」
塩をまぶした青菜のようになって詫《わ》びる。
「いや……気にしてない」
逃《に》げるようにドアを閉《し》めた。
足早に台所へ入り、大きく息をつく。
――薄暗《うすぐら》い部屋に女の子が一人。
(――ああ)
そうか。今この家に、彼女と二人きりなのか。
ようやく峻護はそのことを意識《いしき》した。
が、すぐにその『意識|過剰《かじょう》』を鼻で笑う。
くだらない。だから何だというのか。彼女は今日会ったばかりの他人。もう少したてば姉も帰ってくるのだ。くだらない。
「さて、夕食の用意でもするか」
ことさら大声でひとりごちてからまな板の前に立ち、黙考《もっこう》。
鶏肉《とりにく》がある。豚肉《ぶたにく》もある。キャベツは新しいうちに使いたいし、ジャガイモも芽が出ないうちに――
しばし献立《こんだて》を模索《もさく》したのち、食材を台所にならべて下ごしらえを始めた。
「?」
ふと気配を感じ、そちらを見る。
「あの、ごちそうさまでした。これ……」
ティーセットをのせた盆《ぼん》を手に、月村真由が入り口のところに立っていた。
「ああ、すまない、気が利《き》かなくて。あとで下げにいくつもりだったんだけど」
「いえ、わたしが勝手にしたことですから」
「そう。じゃあ、そこに置いといてもらえる?」
峻護が指し示《しめ》した流しの片隅に彼女はティーセットを置き、
「……いや、置いといてもらうだけでいい。洗《あら》うのはおれがやるから」
「す、すいません」
律儀《りちぎ》な子だな、と思いながら真由に代わってティーカップを洗い、用意していたキャベツとジャガイモもついでに洗い、さて、と包丁を握《にぎ》ったところで、
「…………」
まだ彼女はそこにいた。
「何か?」
「いえ、その」
物思いしているところに声をかけてしまったらしい。彼女はひどくあわて、
「その……」
台所にならべられた食材に目を向け、次いで逡巡《しゅんじゅん》するそぶりを見せ、かと思えば唐突《とうとつ》に玉砕戦《ぎょくさいせん》にした兵士のよう表情《ひょうじょう》になり、
「よろしければ料理、手伝わせてもらえませんか?」
その悲槍《ひそう》な様子に峻護はとまどう。
「おねがいします! ご迷惑《めいわく》ばかりかけていますし、せめて、お手伝いさせてください」
相手は来客である。手伝わせるのは失礼にあたるだろう。が、その顔つきを見せられれば断《ことわ》るのもどうかと思う。これまでの対応の不手際《ふてぎわ》にうしろめたさもあるし、じっとしている方がかえって退屈《たいくつ》かもしれないし、
「――わかった、お願いするよ」
「はい!」
彼女は力強くうなずき、峻護のとなりに――すこし離《はな》れて――立った。
「じゃ、そこのキャベツを千切りにしてもらえる?」
「わかりました」
峻護の渡す包丁を、聖剣《せいけん》でも授《さず》けられているような顔つきで受け取るや否《いな》や、彼女は目ざましく動いた。
洗っておいたキャベツの葉をさっと水切りし、流れるような所作でまな板に重ねると、
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
通販番組にでてくる電動スライサーも顔負けの正確なリズムで、きざみキャベツの山を作っていく。早く、無駄がなく、そして美しくさえある一連の動作。なにやら武術《ぶじゅつ》の演舞《えんぶ》でも披露《ひろう》しているような、そんな手さばき。
「はいっ、できました」
その技《わざ》に見入っているうちに、彼女は割《わ》り当てを終えてしまった。
「……すごいな」素直《すなお》に感心すると、
「いえ、そんな」彼女は頬《ほお》を染《そ》めて照れくさそうにうつむいてしまったが、まんざらでもなさそうである。
「じゃあ次は」これなら安心して任せられる、「このジャガイモの皮をむいて、角切りに」
「わかりました」
すぐに彼女は取りかかった。
さっさっさっさっさっ……ジャガイモの皮むきも、水際立った腕前《うでまえ》でこなされていく。
つい、また見入ってしまう。
真由の横顔に目を移《うつ》す。いまだに照れくさそうな、まんざらでもなさそうな顔をしているが、なんにせよ先ほどまでの緊張《きんちよう》はほぐれてきたようである。
ひとまず安心し、こちらも自分の仕事をしようとして――『あるもの』に目が留まり、固まった。
彼女は袖《そで》なしのワンピースを着ている。まな板に向かっているため、やや前かがみでもある。
ゆえに、肩口《かたぐち》が開いている。
とすれば、峻護のいる位置から何が見えるか、おのずと明らかであろう。
ワンピースとはちがう種類の白色が、ちらほらと、見えたり、見えなかったり。
あわてて目をそらし、そらしてから、なぜそんなことで一々あせる必要があるんだ、と思う。夏である。この手のことは珍《めずら》しくもなんともない。見られるほうだって、そのたびに気にされてはかえって迷惑だろう。
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
自らを戒《いまし》めつつ、真由がジャガイモに包丁を入れる音を聞きながら自分の作業をはじめようとし、
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
とんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとんとん
「――ちょ、ちょっと月村さん?」
「はい?」
いまだに照れくさそうな、まんざらでもなさそうな真由へ、
「何してるの、それ」
「なに、って――あっ!」
言われてようやく気づいたらしい。
彼女の手元には切り終えたジャガイモが山になっている。
ただし、角切りにではなく、千切りになったものが。
「すっ、すいませんすいませんぼおっとしてて――」
「………」
ためしに千切りになったブツを手にとってみる。
――切り口は、確かに見事なのだが。
「すいません……」
「いや、いいよ、これは別の料理にでも使おう」
うなだれる真由をフォローし、
「じゃ、これをぶつ切りにしておいて」
今度は鶏《とり》もも肉をわたす。
「おれは地下室に行って、代わりのジャガイモを取ってくるから」
「わかりました。次はちゃんとやります」
またしても悲槍《ひそう》な顔つき。
「……頼《たの》むね」
一抹《いちまつ》の不安は残るが、彼女の名誉《めいよ》のためにもここは任《まか》せるしかない。
ふたたび作業に取りかかる真由を見守りつつ、峻護は床《ゆか》にしゃがみこんだ。そこには蓋《ふた》の取っ手がしつらえてあり、引き開ければ地下|貯蔵庫《ちょぞうこ》へ続く入り口があらわれる。
(月村真由さん、か)
地下へ降《お》りてジャガイモの玉を選びながら、はじめてきちんと考えてみる。『さわらないで』の一|件《けん》から彼女に嫌《きら》われているのかと思ったが――どうやらそうでもないらしい。それなのに、何となく自分を避《さ》けているようなフシはある。おかしな話だ。
そもそも彼女は一体なにを思ってここにいるのだろう。同居、というのがどういう経緯《けいい》で決まったのか知らないが、彼女はそのことを納得《なっとく》しているように見える。寝耳《ねみみ》に水だったとは言っていたが、現《げん》に今もこうして二ノ宮家に留《とど》まっているし、料理の手伝いまで申し出ている。自分が逆《ぎゃく》の立場ならとてもそんな態度はとれない。よほどの理由があればともかく、
(――理由、ね)
いやよそう。どのみち同居に断固《だんこ》反対する立場に変わりはないのだ。若《わか》い男女がひとつ屋根の下で暮《く》らす、そういうのはふしだらのもとだ。彼女のためにもよくない。
選別したジャガイモと、ついでに目的以外の食材もいくつか、両手いっぱいにかかえて階段《かいだん》をのぼる。
「…………」
出口あたりで立ちどまった。
峻護の目線は今、床の高さと同じ位置にある。視界《しかい》は、まな板に向かう真由の姿《すがた》をとらえている。
彼女が着ているのは、膝上《ひざうえ》十センチの白いワンピースである。
となれば当然、彼の網膜《もうまく》に焼きつけられる対象はおのずと限《かぎ》られてくる。
ワンピースではないものの白色が。きっぱりと。
(――だから、)
峻護は自分にあきれる。
だから、何だというのか。白い布《ぬの》キレが見えたからといって何だというのか。夏である。
この手のことは珍《めずら》しくもなんともない。いや、それは主に上半身に言えることであって、
下半身についてはその限《かぎ》りにあらず、って、だから何だと、
おかしい。どうかしている。本当にどうかしている。いつもの自分はこんなだったか?
いやちがう、いつもならもっと行動に節度をもって――
「あ」
真由がこちらに気づいた。
ばっちり目が合う。
あせる、
「い、いや、ちがうんだ、これはそんなつもりじゃ、」
「はい?」
急いで弁解《ぺんかい》をはじめる峻護を不思議そうな目で見る真由。
が、すぐに「あっ」と息を呑《の》み、
「すまない、見るつもりは、」
「すいません、気づきませんでした。じゃがいも、わたしも持ちますね」
「――え? ああ」
助かった、勘違《かんちが》いしてくれたらしい、とほっとしたのも束《つか》の間《ま》、
「はい、どうぞ」
目の前に真由がしゃがみこみ、こちらにむかって両手を――ちょっとおっかなびっくりに――伸《の》ばす。
が、峻護はそれどころではない。
返す返すも彼の目線は今、床の高さと同じ位置にある。
その視野には。
ひざが。
ふとももが。
その奥《おく》に。
白が。
アップで。
「……月村さん」
「はい?」
「その」
真由が小首をかしげる。その仕草に、不覚にも頬《ほお》が熱くなる。
「……いや、いいんだ。ひとりで大丈夫《だいじょうぶ》」
そそくさと残りの階段を上がり、怪訝《けげん》そうな目を向けてくる彼女をごまかすように、
「ところで今ぶつ切りにしてもらった鶏肉だけど、それを――」
たちまち真由は申し訳《わけ》なさそうに縮《ちぢ》こまる。
「すいません、まだできてないんです」
「え? まだ?」
今度は峻護が怪誇な顔。
「すいません……」
「ああいや、いいよ、じゃあ続きをやっててくれ。おれはジャガイモの下ごしらえを終わらせとくから」
先ほど手渡《てわた》した鶏もも肉、たかだかひとパックである。てこずる相手ではないはずなのだが……。
真由が続きをはじめる。ジャガイモの皮をむきながらその手並みを眺《なが》める。
「…………」
なぜ?
真っ先に浮《う》かんだ言葉はそれだった。
異様《いよう》に危《あぶ》なっかしい手つきである。利《き》き手でないほうの腕《うで》でやっているような、幼稚園児《ようちえんじ》が母親に言われてはじめて台所に立っているような。冗談《じょうだん》でやっているのか――とも思ったが、その顔つきはひたすら真面目《まじめ》である。千切りの時に見せた超絶《ちょうぜつ》の包丁さばきは何だったのだろう。肉を扱《あつか》うのは苦手なんだろうか。それにしたって、これはいくらなんでも……。
先ほどとは別の意味で見入っていると、
「あの、なにか?」
鶏肉と熱心に格闘《かくとう》しながら言いよこしてくる。
「いや、」思い浮かんだことをそのまま、「いや、月村さんって変わってるな、と思って。普通《ふつう》の人とはどこか違《ちが》うというか」
劇的《げきてき》な反応《はんのう》があった。
ぴたっ。と、そんな擬音《ぎおん》を聞いたようにも思う。
真由の動きの一切《いっさい》がとまった。
そのまま一秒。
二秒。
三秒目で、一時停止《ポーズ》を解除《かいじょ》したかのように再起動《さいきどう》し、
「あはは、ええとその、そんなことないですよ? あはは、ええ本当に」
機械のように平板な声。鶏肉を切るはずの包丁が、まな板の端《はし》をがりごり削《けず》っている。
「……………………ふうん」
峻護は話題を変えることにし、
「ああそうだ、忘《わす》れてた。さっき千切りにしたキャベツ、ちょっと水にさらしておいてくれないか?」
頼《たの》んでみるが、「ええ、わたしは普通の……」貼《は》ってつけたような表情でそんなことをつぶやいているばかり。
ちょっと声を大きくして、
「月村さん、聞こえてる?」
「え? あ、はい、すいません! すぐやります!」
が、これは峻護がよくない。上の空の相手に物を頼むほうがまちがっている。
はじかれたバネのように真由は動ぎ、蛇口《じゃぐち》を目いっぱいひねると――
何を思ったか、千切りキャベツをボウルに移《うつ》し、米でも磨《と》ぐようにしてざぶざぶと洗《あら》いだした。
「ちょ、ちょっと月村さん?」
「えっ? ああっ! す、すいません!」
火傷《やけど》でもしたみたいにばっと手を引っこめる。不幸は続く。勢《いきお》いよく蛇口から吐《は》き出される水が容赦《ようしゃ》なくボウルにそそぎこまれ、千切りキャベツがあとからあとから溢《あふ》れ出し、みるまに流しロへ吸《す》い込まれて、
「月村さん蛇口! 蛇口!」
これも峻護に責任《せきにん》の一端《いったん》がある。明《あき》らかにパニック状態におちいっている相手に急《せ》き立てるような言い方をしてはいけない。
すっかり度をうしなった真由、あわあわと狼狽《ろうばい》しつつ手を伸《の》ばした先は、蛇口の元栓《もとせん》ではなく水流ほとばしる水道口のほうで、
「! きゃ――――っ? きゃ――――っ!」
「どわっ」
盛大《せいだい》な放水がはじまった。
「とめてとめて!」水しぶきをよけながら叫《さけ》ぶが、きゃーきゃー言うばかりでラチがあかず、見かねて手を引きはなそうと近づくと、「だめ、さわっちゃ……!」、嫌《いや》だったら離《はな》れればいいものを、「だから手! 手!」、どういうつもりかますます力をこめて水道口をにぎりしめ、もはや救いようもなく恐慌《きょうこう》を来たしてきゃーきゃーきゃーきゃー言い募《つの》り、いよいよ放水は盛《さか》んになる一方で――
……時間にすればほんの十数秒だったのだろうが。
真由の手をひき剥《は》がし、ようやく元栓をしめた時には、台所一帯は土砂降《どしゃぶ》りにでも見舞《みま》われたかのような惨状《さんじょう》を呈《てい》していた。
「……………………すいません」
生まれてすいません、とでも言っているような口調で、真由。すっかりしょげかえり、おしおきを待つ子供《こども》みたいに縮《ちぢ》こまって、上目づかいでこちらを窺《うかが》っている。
「いや……」頭を掻《か》きながら状況《じょうきょう》を見回し、どう言ってフォローしようか、でもここまでくるとフォローのしようがないか、と思っていると、
「あの、だいじょうぶですか?」
「さすがにこの状況《じょうきょう》を大丈夫《だいじょうぶ》とは言えないけど」髪《かみ》からしたたり落ちてくる雫《しずく》を払《はら》いながら、峻護。
「いえ、そうじゃなくて、身体《からだ》……」
「? おれの身体が何か?」
「――いえ、なんでもないです」
安堵《あんど》と当惑《とうわく》が入りまじった表情をする真由。
峻護はしかし、そんな彼女の様子を目に入れてはいなかった。
元が白色というのがよくない。ワンピースは上も下も完全に水に透《す》けてしまっていて、下着と肌《はだ》は露出《ろしゅつ》しているも同然で、水にぬれて頬《ほほ》に張りついた髪が、上目づかいでこちらを見る姿の、頼りなさ、はかなさ。
脈拍《みゃくはく》が跳《は》ね上がる。
肩《かた》をつかんで抱《だ》きよせたい、という衝動《しょうどう》が突如《とつじょ》としてわきおこる。その感情に動揺《どうよう》する。動揺する間にもあとからあとから湧いてくる情動が急速に全身を満たし、
「た」
理性を総動員《そうどういん》、
「タオル取ってくる、ちょっと待ってて」
言い捨《す》てて台所を脱出《だっしゅつ》し、ホールを抜《ぬ》け、廊下《ろうか》を駆《か》け、タオルの置いてある浴室に飛びこみ、ようやく一息つく。大きく、深く。
危《あぶ》なかった。正直、今のは危なかった。
気をつけないといけない、本当に。これまでの経緯《けいい》からも明白だが月村真由という少女、おそろしく無防備《むぼうぴ》だ。このまま無自覚な挑発《ちょうはつ》を続けられれば笑って済《す》ませられない事態になるかもしれない。
そして、そのことから導《みちび》き出される結論《けつろん》。
彼女との同居はやはり不可《ふか》である。こんなことが毎日続くようでは身がもたない。
(それにしても)
身体の芯《しん》に響《ひび》くような疲労感《ひろうかん》に耐《た》えながら、峻護は思う。やはり、自分はどこかおかしい。異性《いせい》に対する意識《いしき》が過敏《かびん》になりすぎている。いつもなら――
いや、そういうことではないのか。
彼女が、普通《ふつう》ではないのか。
手のひらを広げ、見つめる。さっきこの手が彼女の肌に触《ふ》れた。じん、とにじむような、くすぐったいような感覚が、残り香《が》のようにそこにある。
が、そんなことよりも。
どうしたんだろう。本当に、ひどく疲《つか》れている。憂鬱《ゆううつ》だとかそういう精神《せいしん》的なものではなく、もっと物理的に。彼女のそばにいることはそれほど消耗《しょうもう》を強《し》いられることだったのか。体力にはそれなりの自信があるつもりだったのに。
(――考えても仕方ないか)
物思いを打ち切り、タオルを取って浴室を出る。
早く渡《わた》してやらないと。夏場とはいえ、いつまでも濡《ぬ》れたままでは身体《からだ》を冷やす。来客に風邪《かぜ》でもひかれれば一大事である。
床下|浸水《しんすい》したような台所にもどり、
「すまない、おそくなった。これ使っ」
言葉を失った。
倒《たお》れていた。
月村真由は、水びたしの床にあおむけになって、くずおれるように――
「ちょっ……」
一瞬《いっしゅん》の混乱《こんらん》、
「月村さん!」
峻護はすぐ立ち直り、少女に駆けよった。
十代半ばの少年としては上出来な危機《きき》対処《たいしょ》能力《のうりょく》である。
そのことを考慮《こうりょ》すれば、狼狽《ろうばい》ゆえにいつもほど注意が回らなかったことを強く責《せ》めるのは少々|酷《こく》というものだろう。
普段《ふだん》なら絶対《ぜったい》気づくはずのことに、彼はこのとき気づかなかった。
床は、水びたしであった。慌《あわ》てて駆け出すのに不向きな程度《ていど》には。
二歩目だった。
ほんの刹那《せつな》、重力方向が狂《くる》う錯覚《さっかく》があり、瞬《まばた》きひとつにも満たないあいだ空中を浮遊《ふゆう》し、とっさに突き出した両手に衝撃《しょうげき》と痛《いた》みが走り、声を押《お》し殺してそれに耐《た》え、そして気づいた時には、彼の目の前に――
*
……だから言ったんだ。同居なんてとんでもない。ひとつ屋根の下にいればちょっとした間違《まちが》いでこんな事になるのだ。
こんなふうに、台所で女性を押し倒してしまうような形にだって、なることもある。
まあいい。どこで生きていたって、どんなに注意していたって、事故《じこ》というのは起きてしまうものだ。この程度のこと、おたがいの理解《りかい》さえあれば無かったことにだってできるはず。
だから。さあ。
そこをどくんだ二ノ宮峻護。
言い聞かせる。
――言い聞かせるが、絶望的なまでに効果《こうか》があがらない。
二ノ宮峻護は、月村真由を押し倒した格好のままである。
もういちど落ちついて考えてみる。
要するに吊《つ》り橋効果の一種だ。倒れている彼女を見た時の緊張《きんちょう》を、異性に対する感情と取りちがえているのだ。単にそれだけの話であり、こんな風にあれこれと葛藤《かっとう》する必要など、少しも、これっぽっちもないのだ。
――無駄《むだ》だった。まったく説得力がない。
まぶたを力なく閉《と》じている真由を見る。
気づいていて、これまであえて気にしないようにしてきたのだが。
むちゃくちゃかわいい。
卵形の小ぶりな顔立ち。ほどよく通った鼻筋《はなすじ》。手入れなどせずとも完壁《かんぺき》なラインをかたどる眉《まゆ》。つやのある桜《さくら》色の唇《くちびる》。
そんな、トップアイドルでさえ剃刀《かみそり》入りの封筒《ふうとう》を送りつけたくなるような造形《ぞうけい》に加えて。
うすい生地《きじ》で仕立てられている夏物のワンピースは、水をふくんでぴたりと彼女に張《は》りつき、均整《きんせい》のとれたボディラインを際立《きわだ》たせている。それだけでも理性をふっとばすのに十分すぎる破壊力《はかいりょく》を有しているのに、とどめとばかり、下着にほどこされた刺繍《ししゅう》のパターンまで浮《う》き彫《ぼ》りになっているのだからたまらない。どちらかといえば清楚《せいそ》な印象をあたえる着衣と、思ったよりはるかに成熟《せいじゅく》した身体とのアンバランスさも、煩悩《ぼんのう》に激しく拍車《はくしゃ》をかけている。
むしろ、いまだに正気を保《たも》てていることは奇跡《きせき》とさえいえた。
そう、お前はいま、奇跡を起こしている――つぶやく。
それだけのことをできる男が、あと一歩を踏《ふ》み出せないはずがない。
このまま行けばどうなると思う?『無残! 十六|歳《さい》の凶行《きょうこう》! 踏みにじられた純潔《じゅんけつ》!』とかいう見出しがワイドショーのトップに躍《おど》る。モザイクと変声|処理済《しょりず》みの同級生たちのインタビューは、口をそろえて『そんなことをする人には見えませんでした』だ。耐えろ二ノ宮峻護。退《ひ》く勇気をもて。
大きくひとつ、深呼吸《しんこきゅう》。
――そうだ。彼女の状態《じょうたい》は大丈夫《だいじょうぶ》なんだろうか。何より重要なのはそれのはず。
あらためて真由を見る。
呼吸が安定しているのはすぐわかった。不届《ふとど》きな侵入《しんにゅう》者がいてそいつが彼女を昏倒《こんとう》させたとか、そういうことではなさそうである。貧血か極度《きょくど》の疲労か――いずれにしてもしばらく安静にしていれば回復《かいふく》するだろう。
……まてよ。考えてみれば、それは外から見ただけの判断《はんだん》だ。熱を計《はか》り、脈を取ってみなければ実際《じっさい》のところはわからない。
そっと頬《ほお》にふれてみる。額《ひたい》じゃないのかって? いいのだ、額だって頬だって変わりゃしない。すべすべしていてやわらかい――じゃなくて、うん、異状《いじょう》はなさそうだ。
しまった、うかつだった。こうして濡《ぬ》れたままでは結局風邪をひくじゃないか。夏だからといって油断《ゆだん》していてはいけないのだ。ぜったいそうに決まっているのだ。服を脱《ぬ》がすのは、あくまでも緊急避難《きんきゅうひなん》的な処置《しょち》であって、決して不純《ふじゅん》な動機から来るものではない。他意などこれっぽちもない。十六歳の凶行とか、そんなこととはまるで無関係なのだ。もし彼女が意識を取り戻《もど》したとしても、今は夜でここは雑木林《ぞうきばやし》の小高い丘《おか》。ちょっとやそっと泣いたり叫《さけ》んだりしたところでいやちがうそんなことは全然。
けど本当に静かだ。物音といえば冷蔵庫《れいぞうこ》のモーターが回る音に、かすかに届く虫の歌声、ハンディカメラが回る、ジー、というわずかなノイズ――
「…………」
ジー、というノイズ。
「…………」
押《お》し倒《たお》した格好のまま、そおっと振《ふ》りかえる。
台所の入り口のあたりでしゃがみこんでいる人物が、二人。
ひとりは月村美樹彦。なにが楽しいのか、にこにこ顔でこちらの様子を見守っている。
もうひとり、こちらは女性である。手帳サイズのデジカメを構《かま》えているのは彼女の方だ。セミロングの美人で年齢《ねんれい》は二十四、身長はたしか百七十五だったと記憶《きおく》している。 趣味《しゅみ》は弟いびりで、職業《しょくぎょう》は山師《やまし》。
美人の名を、二ノ宮涼子という。
「…………」
しばし、無言で二人を見くらべて、
「姉さん……」
「なに?」
「それと月村さん」
「僕のことはお義兄《にい》さんと呼《よ》んでくれたまえ」
無視し、
「そこで、なにを?」
「なにをって、見てのとおりだけど? ねえ美樹彦」
「うん、見てのとおりだな、涼子くん」
二人で頷《うなず》き合ってから、またこちらに向きなおる。夏休みの宿題にアサガオの観察日記でもつけているような格好で、じーっと興味津々《きょうみしんしん》の視線《しせん》。
「…………」
とりあえず峻護が理解《りかい》したのは。
これからどうなるにせよ、今日起きた一連の騒《さわ》ぎについての説明くらいはしてもらえるだろう、ということであった。
冷えた身体が今さらのようにくしゃみを吐《は》き出した。
*
「生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》、という言葉は聞いたことがあるかな?」
耳慣れない単語でいきなり美樹彦に機先《きせん》を制《せい》された。居間《いま》に戻《もど》ってきてすぐ、峻護が口を開く前に、である。
やむなく受ける、
「いや、初耳です」
「だと思う。まだ仮称《かしょう》にすぎないし、ほかにもいろいろロクでもない事情《じじょう》があって公《おおやけ》にはされていないからね。そもそも生命元素などという代物《しろもの》の明確《めいかく》な定義《ていぎ》づけも、その存在証明《そんざいしょうめい》もなされていないわけだから」
美樹彦はソファに浅く腰掛《こしか》けると、にこにことこちらに笑いかけてくる。
姉はそのとなりでビールを片手《かたて》に静観の構え。峻護は、二人とテーブルをはさんで向かいあう形になる。
真由は――どうなったか訊《き》く前に話を切り出されてしまったが、美樹彦が介抱《かいほう》して客間にでも寝《ね》かせているはずだった。
「そのナントカ症と」咳ばらいをしてから、「あなたたち兄妹《きょうだい》がうちで暮《く》らすことと、何の関係があるんです?」
「順を追って説明しよう。話は長くなるが、この件についてはよく理解《りかい》してもらう必要があるからね。まずは、そうだな――」
ふむ、と少し考え、
「峻護くん。人間が生命活動を維持《いじ》するのに最低限必要なものといえば、なんだい?」
「――酸素《さんそ》と水と、それに栄養と……」
「うん、そうだね。大まかにその三つをもって、我々《われわれ》は生きていく上で消費するエネルギーをまかなっているわけだが。実はもうひとつ、必要不可欠なものがある。想像《そうぞう》がつかないかな?」
いきなり謎《なぞ》かけ――試《ため》されているのか。考える。存在の証明がなされてない、定義づけがされていない、生命元素、
「ひょっとしてあれですか? 中国|拳法《けんぼう》とかに出てくる『氣《き》』とか。その類《たぐい》のものですか」
美樹彦は、出来のいい生徒をほめる先生の顔をした。
「そう、それ。もっとも、定義づけがされてないだけあって他《ほか》にもいろいろな呼称がある。西洋|魔道《まどう》では『オド』、インドのヨーガでは『プラーナ』……まあ僕《ぼく》としては、『精気《せいき》』という呼びかたが一番しっくりくるんだが。
いずれにしても意味するところはひとつ、『生命力の根源《こんげん》となっている何か』ということだ。具体的にどんな作用でもって人体に影響《えいきょう》するのかも、そもそもどの器官がその機能《きのう》をつかさどっているのかも不明だが――それが存在するということについては、これは間違《まちが》いない。たとえ現在の科学では証明不可能だとしてもね。また、人間がみずからの体内でそれを生成しているということ、それが不足すれば徐々《じょじょ》に衰弱《すいじゃく》し、最終的には死にいたることも、これまた事実だ。
さて、そこで最初の話にもどる。生命元素関連因子欠損症というのはつまり、生存に必要不可欠な生命エネルギーの生成・|供給《きょうきゅう》をつかさどる機能に生来的な欠陥《けっかん》をかかえている状態を指すわけだが。
じつを言うと僕と妹が、その生命元素関連因子欠損症というやつでね」
「あなたと妹さんが……?」
まだ話が見えないが、つまり、
「つまりあなたと妹さんは、普通《ふつう》の人間なら誰《だれ》でも持っている、人間が生きていく上でなくてはならない機能に支障《ししょう》があると?」
とすれば、
「じゃあ、どうやって生きてるんです?」
「そう、そこだよ」
美樹彦が身を乗り出す。
「生命元素関連因子欠損症と仮称されている症候《しょうこう》は、まあ名称から想像できるとは思うが、ある種の遺伝《いでん》的形質からくるものでね。とはいえどのような条件《じょうけん》を満たせばこの遺伝形質が発現《はつげん》するのか、そのあたりのことはいまだ不明のままだ。
確《たし》かなのは、この症候がアルビノなどの突然変異《とつぜんへんい》とは別物だということ。この遺伝子がヒトゲノムに組みこまれたのは千年や二千年程度の昔ではなく、ヒトがまだヒトではなかった数万年前、あるいはそれ以上の過去《かこ》にまでさかのぼる話であること。長いヒトの歴史の中で、この遺伝形質を発現していた者が少なからずいた、ということだ。
いうまでもなく、この遺伝形質を発現することは大きなハンデだ。度合いには個人差《こじんさ》があるにせよ、発現してしまえぱまず長生きはできなかっただろう。本来なら自然に淘汰《とうた》されていくところだったんだろうが――
時に、ヒトのカラダには適応《てきおう》能力というものがある。生命というやつは恐《おそ》ろしく意地汚《いじきたな》いもので、生存するという単純至上《たんじゅんしじょう》の目的のためにはいくらでも反則技《はんそくわざ》をやってのける。身体機能に多少のハンデがあってもどうにかしてしまうのだな。全盲《ぜんもう》の人間が常識《じょうしき》では考えられないほど聴覚《ちょうかく》を発達させているとか、よく聞く話だろう? そして生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしよう》は、何万年もの歴史をもつ由緒《ゆいしょ》正しいハンデだ」
美樹彦、生徒を試《ため》すような目。
「……つまり、進化したということですか。生命エネルギーの不足を補《おぎな》うための、何らかの手段をもつように」
出来のいい生徒をほめる、先生の顔。
「それで、どんなふうに進化したんです?」
「なに、ごくシンプルな発想だよ。自分のカラダの中で作れないのなら、外から補給《ほきゅう》するまでさ。他の人間から直接《ちょくせつ》、ね」
「直接、ですか」
眉《まゆ》をひそめる。なにやら、話の雲行きが怪《あや》しくなってきた気がする。
「だが発想するのは簡単《かんたん》だが、」美樹彦はさらに言葉を重ねる。
「なにしろ相手は精気《せいき》――生命エネルギーだ。目に見えるものでも手で触《ふ》れられるものでもなく、現代科学をもってしても解明できない代物《しろもの》。人体から人体へ、そうそう簡単に受け渡《わた》しができるわけじゃない」
「そう――でしょうね」
「いくつか条件を満たす必要がある。まず、精気の提供者《ドナー》は異性《いせい》であること。ほどほどに若《わか》く、できるだけ健康であることが望ましい」
「…………」
「そして受け渡しの方法。直接受け取るわけだから、当然相手との接触《せっしょく》を必要とする。また接触の箇所《かしょ》は送り出す側、受け取る側それぞれ、もっとも生命力に満ちあふれた器官をもちいる」
「…………」
「『生命力に満ちあふれた器官』とは、より人間の胎内《たいない》に近い部分、実際《じっさい》的には人体の粘膜《ねんまく》部分に相当する。従って必然的に、精気の授受《じゅじゅ》は人体の粘膜部分を介《かい》した交接によらざるをえない。そして特に送り出す側については、精気の授受を円滑《えんかつ》にとりおこなう必要性から、その際はある種の興奮《こうふん》状態――精気の循環《じゅんかん》が活発な状態にあることが望ましい」
「ちょ、ちょっと待ってください」
あわててさえぎる。異性であること、粘膜部分、交接、興奮状態、
「それはつまり――」
「君の想像しているとおりだよ、峻護くん」
にこにこと、美樹彦。
思わず生唾《なまつば》を飲みこむ。それはつまり、そういうことなのだろうか。しかしそれではまるで――
「そしてまた当然の帰結として、生命元素関連因子欠損症の人間は、精気の提供者《ていきょうしゃ》としての異性を確保《かくほ》する必要から、異性の関心を引くためのあらゆる要素を遺伝形質的に具《そな》えている。具体的には、異性をとりこにする容姿《ようし》、異性を悦《よろこ》ばせる各種の技巧《ぎこう》、異性を問答無用で魅惑《みわく》するフェロモン、といったところだ。加えて生命|維持《いじ》の観点からだろう、異性に対して極《きわ》めて強いモチベーションを保持しつづけるべく性格づけられている」
「…………」
「まあ有《あ》り体《てい》に言えば『女たらし』『男たらし』ということになるが。ちなみに僕はそういう自分の特質を有効に生かす仕事に就《つ》いている」
それも――想像がつく。
が、いま峻護が考えているのは別のことだ。
美樹彦の話を総合する。
生命エネルギーを異性から吸いとる者、どうあっても異性をひきつける、魔性《ましょう》ともいうべき魅惑。これまでの説明とぴったり合致する、空想上の存在がありはしなかったか。
「――あの、それっていわゆる『サキュバス』とか『淫魔《いんま》』とかいうやつじゃ……?」
「おお、なんだ、知っているのか。なら話は早い。もっともサキュバスというのは女性の『淫魔』のことを指す言葉でね。僕のような男性型の場合はインキュバスなどと呼んで区別するんだが――まあ呼びかたはどうでもいい。つまり、僕と妹はそれ[#「それ」に傍点]なんだ」
「いや、でも程度の差はあれ、そんな人間どこにでもいるでしょう? たらし[#「たらし」に傍点]で、異性にやたら好かれる人間なんて、ざらに……」
「そう、ざらにいるんだよ。そもそもこの症候《しょうこう》は、発症してもこれといった自覚をともなわない場合が多い。自分が『淫魔』であると気づかずに生きている連中はそこらにゴロゴロしている。基本《きほん》的に治療《ちりょう》を必要とするような症状ではないんだから、それも当然といえば当然だ。生命エネルギーの維持に必要なことは本能が知っている。その本能にしたがって生きていれば生命維持に支障《ししょう》をきたすこともない」
「なるほど……」
たらし[#「たらし」に傍点]の人間がやたらと異性を追っかけまわすのは、そういうわけか。
「それに生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》は、ある程度の年齢《ねんれい》に達しないと発症しないものでね。つまり、子供の時はそういうこと[#「そういうこと」に傍点]をしなくてもいいわけだ。逆に老境に至るようになると、生命維持に必要な精気の量が少なくなって、この場合もやはりそういうこと[#「そういうこと」に傍点]をしなくても済《す》むようになる」
おおよそ、わかってきた。
生命元素関連因子欠損症、生命エネルギー、サキュバス――キーワードが整然と思考のテーブルにならんでゆく。
月村真由のことを思う。
ということは、彼女もそういうこと[#「そういうこと」に傍点]をして不足する生命エネルギーを補《おぎな》っている、ということなのか? そうなのか?
彼女がサキュバスであるということは、ある意味では大いに納得《なっとく》できる。そのことは実体験から嫌《いや》というほど思い知った。たしかに彼女には、魔性としか言いようのない魅惑を漂《ただよ》わせる瞬間《しゅんかん》が何度もあった。
しかしどうも腑《ふ》に落ちない。
彼女がそういうこと[#「そういうこと」に傍点]をしているように見えるか? 否だ。
まして彼女が『サキュバス』だとすれば、当然『男たらし』という属性《ぞくせい》もついてくるはずなのだが――どうみてもそんな感じではない。
それどころか峻護の印象では、彼女は男たらしというよりむしろ――
「さて、ここからが本題、妹の話なんだが、」
空想上の存在だったはずの男はソファに座《すわ》りなおすと、
「その前に訊《き》いておきたい。今日一日、この家での真由の様子はどうだったかな?」
「妹さんの様子、ですか」
望まれるままに彼女の言動を話して聞かせると、美樹彦は機嫌《きげん》よさそうにあごをなで、
「なるほど料理の手伝いか。真由がそんなことを……どうやら早速《さっそく》いい影響《えいきょう》が出ているようだ」
ひとりで勝手に納得し、
「それともうひとつ訊いておこう。一応《いちおう》の確認《かくにん》なんだが、君は先ほど真由の肌《はだ》に触れていたね?」
できればうっちゃっておきたいことを突《つ》いてきた。
「……ええ。でもあれは、」
「いや、今は別に君の行為《こうい》そのものについてどうこう言うつもりじゃなくてね」
弁解《べんかい》をはじめようとする峻護を手で制《せい》し、意外なことをたずねてきた。
「君、身体《からだ》のほうは何ともないのかい?」
「は?」そういえば彼女も同じことを、「いえ、別に何ともありませんが」
「本当に、まったく何も?」
「はあ」そこまで言われて少し考え、
「まあ今日一日いろいろありましたから、それなりに疲《つか》れてはいますけど……?」
「ほう、これはおもしろい」美樹彦はますます機嫌をよくし、「どう思う? 涼子くん」
はじめて姉に話を振《ふ》った。
「まあ峻護も一応《いちおう》、二ノ宮の人間だから」
ビールをちびちびやりながら、涼子。
「ふむ。なるほど」
「……すいません、こっちにもわかるように話してください」
「いや、本来なら君がこうしてここに座っているのは不可能《ふかのう》だ、という話なんだがね。まあそう急《せ》かさずともこれから事情《じじょう》は聞かせるよ」
はっはっはと笑い、
「さっきも言った通り、妹は僕とおなじく生命元素関連因子欠損症の発症者――つまりはサキュバスなんだが」
一拍《いっぱく》、そこで美樹彦は間を置き、
「実を言うと真由は発症してから今日まで、自力で精気を補給《ほきゅう》したことは一度もない」
「……え?」
「というのも妹はちょっと風変わりなサキュバスでね。本来ありえないはずの事なんだが、彼女は」
にこにこ笑いながら、告げた。
「男性|恐怖症《きょうふしょう》なんだよ」
――ああ。
なるほど。
「しかも問題はそれだけじゃなくてね。僕の見立てでは、これは妹の男性恐怖症に大きく関連したことなんだが――
今も話したように、僕らは異性《いせい》から精気を吸引《きゅういん》する能力がある。ただしこれには様々な制約《せいやく》がかかる。また巷説《こうせつ》で言われるように、提供者の精気を根こそぎ奪《うば》うような真似《まね》はできない。そこまで相手に干渉《かんしょう》できる能力はないんだ。能力をコントロールして目一杯《めいっばい》吸引したとしても高が知れている。
ところが、妹はその常識《じょうしき》にあてはまらない。
まず第一に、彼女の能力にはほとんど制約らしい制約がかからない。唯一《ゆいいつ》『異性に対して接触《せっしょく》した時のみ能力を発揮《はっき》できる』という縛《しば》りがあるだけで、あとは粘膜経由《ねんまくけいゆ》がどうとか興奮状態がどうとかなんてお構いなしだ。眠《ねむ》っている時でさえ関係ない。おたがいの肌がちょっと触《ふ》れあっただけでも能力を発動させることができる。
第二に、彼女の吸引能力は常軌《じょうき》を逸《いっ》して高い。普通《ふつう》であれぱ最大限に吸引しても提供者に一週間程度の倦怠状態をもたらすのがせいぜいだが、妹の場合はケタが違う。相手の手を握《にぎ》っただけで失神させることもできる。
第三に、彼女は自分の能力をまったくコントロールすることができない。男性恐怖症が関係しているらしいというのはここなんだが――どうも吸引能力が、異性に対する過剰《かじょう》な防衛反応《ぼうえいはんのう》として機能しているフシがある。男が妹に触れた途端《とたん》、自動的に吸引能力が発動することになる寸法《すんぽう》だ」
「……ということはつまり――」
「真由に触れた男はその場で卒倒《そっとう》することになるな」
――ああ。
なるほど。
それで、『さわらないで』なのか。
「問題はまだあってね。説明した通り、妹は異性に触れただけで精気をほとんど際限なく吸引することができるんだが――ところが不都合なことに、これを吸収[#「吸収」に傍点]することがまったくできないんだ。まあ、もともと外皮というのはそういうことに用いるには不向きにできているようでね。こと真由の場合は、どれだけ吸引してもだだもれ[#「だだもれ」に傍点]になってしまう」
「それは……」
相当に厄介《やっかい》だ。美樹彦の言うとおりなら、たしかに自力で生命エネルギーを補給することなどできそうにない。
「でもそうなると――」峻護は疑問《ぎもん》を呈《てい》した。「妹さんはどうやって生命エネルギーの不足を補ってるんです?」
「うん、まあ全く方法がないわけでもなくてね。真由については、僕がみずから精気を分け与《あた》えている。肌《はだ》を重ねあうことでね」
「はあ、肌を、ですか」
肌を重ねる……肌を重ねる? 肌を……肌を――
「ちょっ、」
天啓《てんけい》のごとく、ある非倫理的《ひりんりてき》結論《けつろん》が峻護の意識野にひらめいた。
「そ、それってまさか近親相か」
最後まで言うことはできなかった。
いつのまにか――本当にいつのまにか間合いを詰《つ》めていた美樹彦のボディアッパーが、深々と峻護のみぞおちを扶《えぐ》っていたからである。
「やれやれ、困《こま》った男だな君も。そういう単語をみだりに口にしてはいけない。……わかるね?」
美樹彦のささやきをどこか遠いところで聞きつつ、必死でこくこくとうなずく。
「そう、それでいい」
言って、美樹彦はテーブルの外縁《がいえん》を悠々《ゆうゆう》と回り、ソファへと戻《もど》っていく。
飛びそうになる意識をかろうじて繋《つな》ぎとめながら、峻護は思った。
昼間の一件もあるし、ある程度想像はついていたが。確信した。
月村美樹彦という男――この事態にも平然とビールをなめている姉と、同じ人種だ。
「誤解《ごかい》のないように言っておくが」
何事もなかったように美樹彦は話を継《つ》ぐ。
「真由とは文字どおりの意味で肌を重ね合わせるだけだ。そうすることで彼女に生命エネルギーを分けあたえている。僕はインキュバスということもあって、生命エネルギーを扱《あつか》うすべに多少は長《た》けているから、まあそういう真似《まね》もできるわけだ。
だけどそれはしょせん対症療法《たいしょうりょうほう》でしかない。今日、真由が気をうしなって倒《たお》れたろう? あれは、はじめての家でしかも異性と二人きりという極度《きょくど》の緊張下《きんちょうか》におかれ、急激に精気を消費したことによるものだが――普通のサキュバスのようにちゃんとした手順で普段から精気を補給《ほきゅう》していれぱ、そんなことにはならないんだ」
「とまあそういう事情《じじょう》で、ここらでひとつ根本的な解決《かいけつ》をめざそう、ってことになったわけ」
はじめてそこで姉が口をはさみ、美樹彦が相づちをうつ。
「そのためにはつまるところ、男性|恐怖症《きょうふしょう》を克服する以外にない。ほかの手も八方|尽《つ》くしてみたんだが、どうも効果《こうか》があがらなくてね」
ふたたび姉、
「そして男性恐怖症を克服するための手段もただひとつ。できるだけ多くの男どもと関《かか》わりをもつことで、恐怖心を馴《な》らしてしまうこと。一種のリハビリね」
「もともと見込みは十分にあるんだ。ここを勘違《かんちが》いしてはいけないんだが――妹は男に恐怖心を抱いてはいるが、かといって男を嫌悪《けんお》しているわけではない。そのあたりはごく普通の女の子と変わらないんだよ。同じ年頃《としごろ》の子が異性に抱く関心はあの子も当然もっている。きっかけさえ掴《つか》めれば――」
「話を聞いた限りでもいい影響《えいきょう》が出始めてるみたいだし。しかも好都合なことに、あんたにはどうやら真由ちゃんの吸引能力に対する耐性《たいせい》があるみたいだから」
「そんなこんなの経緯《けいい》で、真由は箱入りで籠《こも》りがちの寄宿舎《きしゅくしゃ》生活をやめて――」
「保護者《ほごしゃ》の美樹彦ともどもウチに越《こ》してきたわけ。わかった? 峻護」
わかった。
自分はつまり、リハビリのための当て馬ということか。
そのことは、まあ、いい。月村真由の事情も同情に値《あたい》する。なにかしらの手助けをするのもやぶさかではない。
しかし、である。
そのために同居《どうきょ》、ということになれば話は別だ。
「事情はわかったよ。でも言っておくけど、おれは同居なんてことには絶対《ぜったい》」
「言っておくけど峻護、拒否《きょひ》できるなんて思わないことね」デジカメの液晶画面《えきしょうがめん》を弟に向け、「こういうことしておいて今さら、ねえ?」
その画面に再生《さいせい》されているのは他でもない。ひとりの少年が煩悩《ぼんのう》に屈《くっ》していくさまを克明に描《えが》き出した、ピュリッツァー賞もののドキュメンタリー映像である。
「そ、それは不可抗力《ふかこうりよく》だったんだ! おれは――」
「醜《みにく》い居直《いなお》りね。その不可抗力でキズモノにされた側は、あんたのそのセリフを聞いてどう思うのかしら。ねえ、美樹彦?」
「うむ。彼の心無い発言に、被害者《ひがいしゃ》の兄として深く傷《きず》ついた。彼には反省の色が皆無《かいむ》であるとみなさざるをえず、したがってこちらとしては法的|手段《しゅだん》に訴《うった》えるより他ないな。悪くとも無期にまでは持ちこむつもりだ」
「そんな、どうみたってそんな厳罰《げんばつ》には――」
「まあ君がどう考えるかは勝手だが、僕は僕の持てる力すべてでもって君の人生を台無しにしてあげよう。近ごろはちょうど僕も退屈していたところだ。暇《ひま》つぶしに丁度《ちょうど》いい。いや、話しているうちに段々そうしたくなってきたな。むしろ積極的に」
「美樹彦。この映像を真由ちゃんに見せる、っていう手もあるけど?」
「ううむ。グッド・アイデアだ。ああいう性格の妹だ。君が寝込《ねこ》みを襲《おそ》うような卑劣漢《ひれつかん》だと知れば、どんな反応《はんのう》をするだろうね?」
「だからあれは不可抗力で――」
「ここに映っているものがすべてだ。ちなみにもしそうなった場合、僕は可能な限り君の不利になるような証言《しょうげん》をするつもりだ。そこのところよろしく」
「あら、どうしたの峻護? 情《なさ》けない顔しちゃって」
「涼子くん、どうやら彼は快諾《かいだく》してくれたらしい。僕たちの誠意《せいい》ある|交 渉《ネゴシエーション》が実をむすんだようだ。
さて峻護くん。明日から妹は君と同じ高校に転入する運びとなる。クラスも同じになるよう、手配しておいた。多くは言わない。君の善処《ぜんしょ》に期待する。
そう、ひとつだけ補足《ほそく》しておこう。妹はサキュバスであるということに――『男たらし』であることが当然であるように生まれついたことに、ひどいコンプレックスを持っている。これもサキュバスとしてはちょっとありえない事なんだが、彼女はひどく純情《じゅんじょう》でね。その点にもよく配慮《はいりょ》しておいてくれたまえ」
「話はこれで終わりよ。……あーあ、もうこんな時間になっちゃった。峻護、おなかすいたわ。さっさとごはんにして」
「峻護くん。君の料理の腕《うで》、なかなかのものと聞いている。期待しているよ」
「さあて、じゃあわたしは久《ひさ》しぶりにウチのお風呂《ふろ》にでも入ってこよっかなー」
「それじゃあ僕は真由の様子を見てくることにしよう。いやいや、彼が話のわかる男でよかった」
がっくりと膝《ひぎ》をつく峻護を尻目《しりめ》に、ふたりの悪魔《あくま》は笑いさざめきつつ居間をあとにする。
――始まりの終わりは、およそこんなところであった。
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其のニ サンドバッグな二ノ宮くん
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追いかけっこをしている。
相手はまだ年端《としは》もいかない女の子であり、峻護《しゅんご》もまたチビすけのガキであるらしい。
峻護は無邪気《むじゃき》に笑っている己《おのれ》を自覚する。女の子もまた屈託《くったく》なくはしゃいでいるようだ。
追いついた。
つかまえたっ、と言って女の子の手首をつかむ。
すると力の入れかたを誤ったものか、女の子は大きくバランスをくずしてしまう。
とっさに手をひく。ふたりしてもつれあうように転がる。
痛《いた》みにうめきつつ目をあけると女の子が馬乗りになっている。
こちらをじっと見つめている。
その無事にほっとする間もない。
一瞬《いっしゅん》で魅入《みい》られる。
……ね、ちゅーしてもいい? と言ってくる。
――えっ、だ、だめだよ、そんなの、と言う。
どうして?
だ、だって。
わたしのこときらい?
そ、そんなことないよ。
じゃあ、しようよ。
そ、そういうのはおとなになってからすることで。
「でも|二ノ宮《にのみや》くんはきのう、わたしを押《お》し倒《たお》したじゃない」
「え?」
女の子が月村《つきむら》真由《まゆ》のかたちをとった。
水にすけたワンピース姿《すがた》、うるんだ瞳《ひとみ》、ほんのりと染《そ》まった頬《ほほ》。
「ち、ちがう、あれは仕方なかったんだ、そもそもあれは――」
「だから、こんどはわたしが押し倒す番」
頬に添《そ》えられるやわらかい掌《てのひら》の感触《かんしょく》が、うすく閉《と》じたまぶたが、近づいてくる桜《さくら》色の唇が――
*
自らの絶叫《ぜっきょう》で峻護は目をさました。
布団《ふとん》をかなぐりすてて跳《は》ね起き、顔をぺたぺた撫《な》でまわして無事を確認《かくにん》、首をぎゅんぎゅんまわして周囲を確認《かくにん》。
丘《おか》の上に建つ洋館の、見慣《みな》れたわが部屋である。スチールの机《つくえ》、飴色《あめいろ》の古箪笥《ふるだんす》、天井《てんじょう》近くまである書棚《しょだな》。
それらの調度を順に見やり、ようやく峻護は長々と吐息《といき》した。
(……夢《ゆめ》にまで出てくるか)
よくない傾向《けいこう》だった。月村真由という少女を意識《いしき》しすぎている。
肌着《はだぎ》に触《ふ》れると、じっとり湿《しめ》り気を帯びていた。窓《まど》を見れば夏の朝日がカーテンの隙間《すきま》から差しこんできている。とはいえ、この汗の量はそのせいばかりでもない。
ふう、ともういちど息をつき、気を引きしめる。
同い年の女の子と一つ屋根の下になろうと。
その子がいかに魅力的で無防備《むぼうぴ》だろうと。
自分が自分であることに変わりはない。
二ノ宮峻護は、男子として節度ある行動をとる。それだけだ。
あらためて自分のあるべき姿を確認すると峻護は満足げにひとつ頷《うなず》き、朝の仕事に取りかかる。
布団の片《かた》づけ、着替《きが》え、洗面《せんめん》――よどみなくてきぱきとこなしてゆく。
廊下《ろうか》を往《ゆ》きながら伸《の》びた庭の芝生《しばふ》を見やって、そろそろ手入れしようと心に決める。
玄関《げんかん》を開け放ってあたりをざっと掃《は》き清め、ポストから朝刊《ちょうかん》を抜《ぬ》いて居間《いま》のテーブルの上に投げおくと、せっかちなセミが早くも庭先でがなり声を上げはじめた。
それをBGMに、愛用のエプロンを着込《きこ》んで台所に立つ。炊飯器《すいはんき》がいい香《かお》りをあげる中、煮干《にぼし》と削《けず》り節を鍋《なべ》にかけ、豆腐《とうふ》の賽《さい》の目切りとネギの小口切りをそれぞれ十秒で済《す》ませ、グリルにアジの干物《ひもの》をならべて第一|段階終了《だんかいしゅうりょう》。
あとは朝食の準備《じゅんび》を火の機嫌《きげん》にゆだね、食堂のテーブルに食器をそろえ、それが終われば板張り部分の床《ゆか》をモップがけ。
部屋数二十を超《こ》す屋敷《やしき》を普段《ふだん》から一人で切り盛《も》りしているだけに、その手並《てな》みには職人のそれを髣髴《ほうふつ》させるものがある。
モップで集めたチリを片づけるついでにゴミ籍の中身を集めてまわり、台所にもどってアジの干物を裏返《うらがえ》し、だしがらを取り出した鍋に具を入れて、次いで浴室に足をのばし、脱衣《だつい》かごをかかえて洗《あら》い場に向かい、洗濯機《せんたくき》のスイッチを入れて水をためつつ、かごに手を入れて洗濯物を放《ほう》りこみ、放りこみ、
流れるように作業をこなしていた峻護の動きがとまった。
注意不足だった。
彼の手は触れるべきでないものに触れていた。いや、しっかりと握《にざ》りしめていた。
白い布《ぬの》キレである。
たかが布キレではあった。しかし、されど布キレでもある。
そして重要ないくつかの事実。
まず、デザインが控《ひか》えめでおとなしい。姉はこんな生ぬるいものを着用しない。
次いで発見時の状況《じょうきょう》、しわの具合から、『使用後』であることは明らかだ。
そしてたしかに昨日、彼は見た。夏の雲のように目にあざやかな白だったはずだ。そう、今まさに彼が手にしているような――
おちつけ。うろたえるな。峻護は自分に言い聞かせる。
節度を忘《わす》れるな、節度、節度……
これは、そう、やはり姉のものだろう。月村真由は精気《せいき》を消耗《しょうもう》しすぎた影響《えいきょう》か、昨晩《ゆうべ》はずっと臥《ふ》せっていたはず。今朝もまだ姿《すがた》を見ていない。とすれば、彼女に着替えをする時間はなかったことになる。
大きく、安堵《あんど》の吐息をつく。
うん、やはりこれは姉のものであると推定《すいてい》するのが自然――
「わたしのじゃないわよ、それ」
唐突《とうとつ》な声。うしろから。
「――い、いきなりしゃべりかけるなよ姉さん!」
「さっきからずっと見てたわよ」
「だ、だったら――いつも言ってるだろう、気配を消して背後《はいご》に立つのはやめてくれ!」
「気づかないあんたが未熟《みじゅく》なんでしょ」
「それになんでおれの考えてることがわかったんだ!」
「ぶつぶつ声に出してたくせに勝手なこと言ってんじゃないの」
やれやれ、とわざとらしく嘆息し、峻護の手元を見、
「……真由ちゃんのを盗《と》るのはやめなさいね? 欲《ほ》しいのなら、わたしのをあげるから」
「誰《だれ》が!」
声の限《かぎ》りに叫《さけ》ぶが、どうやら涼子《りょうこ》には届《とど》いてないようだった。
踵《きびす》を返す姉を見送り、舌打《したう》ちしてから、ふと疑問《ぎもん》が生じる。
(まてよ。これが姉さんのではなく、月村真由のものだとして。なら、いったい誰がこれをここへ? 美樹彦さんか? 彼女が寝ているあいだに着替えさせて……ありえない話ではないが。しかしいくら兄妹《きょうだい》とはいえそこまでやるだろうか……)
彼は失敗を犯《おか》した。くだらないことを考える前に危険物《きけんぶつ》から手を離すべきだった。
(だが他《ほか》に可能性《かのうせい》はない。よし、認定《にんてい》しよう。この物件はたしかに――って、だからどうした。だからなんだというんだ二ノ宮峻護。男子としての節度はどこへいった。おちつけ。中身が入ってるわけじゃない。ただの布キレなんだ。綿八十%、ポリエステルニ十%の繊維製品《せんいせいひん》にすぎない。質素《しっそ》なものだ。いや、質素かどうかはどうでもいい。問題は――)
不意に。
第六感に近い部分がある感覚を捉《とら》える。
背後に、また人が立つ気配。
心臓《しんぞう》がロデオをはじめる。
「――ち、」振《ふ》り返りつつ、「ちがうんだ、これは、姉さ――」
弁明を試みようとして固まった。
ロングヘア。パジャマ姿。
真由だった。
最悪だった。
ああやっぱり着替えていたんだ彼女、などと思う余裕《よゆう》はない。
「ご、誤解《ごかい》なんだ。これは下着を構成《こうせい》する素材のチョイスがどのようなフィット感をもたらすかを使用後の形状から判断《ばんだん》しようとするリサーチであって、純粋《じゅんすい》な学術的|好奇心《こうきしん》からとった行動であって――」
舌《した》が回転するのにまかせた、言い訳《わけ》と呼ぶのもおこがましい単語の羅列《られつ》。
切腹《せっぷく》でもしたい気分だった。
が、神は彼に慈悲《じひ》を与《あた》えたもうた。
遅《おそ》まきながらそれを知り、峻護は拍子抜《ひょうしぬ》けする。
あらためて真由を見る。
半開きのまぶた。焦点《しょうてん》のあやしい瞳《ひとみ》。
両足で立ってはいるものの、どこか宙《ちゅう》に浮《う》いているような――
どこからどうみても、完膚《かんぷ》なきまでに寝ぼけている。峻護の所業を見ていた様子も、その弁解を聞いていた様子はない。
ほっと胸《むね》をなでおろす――のはまだ早かった。
あらためて彼女の格好《かっこう》を視認《しにん》し、ぎくりとする。
パジャマの上着は、みぞおちのあたりが見えそうなところまでボタンが外れている。おまけにそこからのぞく胸元《むなもと》と、着崩《きくず》れしてあらわになった右|肩《かた》から、『つけていない』ことは明らか。
また心臓がロデオ。
しかも。
ぽえー、と峻護を見つめていた真由、その顔が徐々《じょじょ》に笑《え》みこぼれていったかと思うと、
「……あー、しゅんごくんだあ」
「は? って、うわっ」
いきなり抱《だ》きついてきた。
「ちょちょちょちょちょっと月村さん?」
「えへへー」
ごろごろとノドを鳴らしている。頬《ほお》を胸元にあてがってすりすりしてくる。やわらかくて、そのくせ不思議な張《は》りのあるカタマリがふたつ、みぞおちのあたり過激《かげき》な挑発《ちょうはつ》をしかけてくる。酷使《こくし》に耐《た》えかねた心臓が悲鳴をあげる。あえなく理性が焼き切れかけ、すんでのところで踏《ふ》みとどまる。
が、長くは保《も》たなかった。
腰《こし》に回された真由の腕《うで》に力がこめられる。強く、それでいて優《やさ》しく。異性《いせい》を悦《よろこ》ばせる各種の技巧《ぎこう》、という誰かのセリフが一瞬《いっしゅん》だけ頭の片隅《かたすみ》をよぎり、ふにふにであたたかな感覚がすぐにそれを呑《の》みこんで、
気づいた時には、
手が、
勝手に、
彼女へ、
「ちょっと峻護。アジの干物《ひもの》焦《こ》げてるじゃない」
背中から声。
ぴし、と音をたてて彼の世界は石化。
「鍋《なぺ》の出汁《だし》もそろそろ蒸発《じょうはつ》するわよ。それともあれって、新作の煮込《にこ》み料理かなにか?」
弟のおいた[#「おいた」に傍点]なぞまるで気にとめた風もなく、姉はなおも言い立てる。
「そうじゃないんならさっさと仕事の続きをしなさい。ったく、いくつになってもトロいんだから」
やれやれ、と大げさにため息をつき、背を向ける。
かと思ったら、
「そうそう。結納《ゆいのう》なんかの段取《だんど》りもあるんだから、そのつもりがあるなら早めに言いなさいよね」
「誰《だれ》が!」
石化が解《と》けて反射《はんしゃ》的にさけぶが――
姉は見向きもせず、今度こそスタスタと行ってしまった。
ちがうんだ姉さん、さっきのはともかく今回のは彼女のほうから――と言いたいところをぐっとこらえる。現場《げんば》を押《お》さえられてしまっては何を言ってもむなしい。それに、姉によって結果的に救われたのは事実である。
「ふう……」
どうにか正気を取り戻《もど》せた。知らず、吐息《といき》がもれる。
と、不意に。
猫《ねこ》に顔をすり寄《よ》せられているような感触《かんしょく》が、ぴたりと止まった。
目線を胸元に向ける。
つむじがそこにある。ほおずりする途中《とちゅう》のまま、横向きに固定されている。長い髪《かみ》の間からうなじが覗《のぞ》いていて、冷や汗《あせ》らしきものがひとすじ流れたのが見えた気がする。
おそるおそる、といった感じで顔が上に向けられる。
まだ状況《じょうきょう》を理解《りかい》していないような――というよりすべてを悟《さと》った上で、現実逃避《げんじつとうひ》を試みているような瞳《ひとみ》。
心を鬼《おに》にして声をかける。
「おはよう」
「…………」
現実を突《つ》きつけられたのか、表情が凍結《とうけつ》。
「そろそろ、離《はな》してもらえないか」
「…………」
ぽっ、と顔に火がつく。
「月村さん?」
「……すっ」
ぱっと跳《と》びすさって、
「すいませんすいませんすいませんすいません!」
二秒間できっかり四度、起き上がりこぼしの早送りのように頭を下げると、脱兎《だっと》のごとく走り去る。
ごづん、ごづんと、どこかにぶつかる鈍《にぶ》い音が立て続けに聞こえ、それもすぐに消えた。
あとには、なんとも微妙な空気とセミの声。
「…………」
ひたいに手をやる。十分な睡眠《すいみん》をとったはずの体が、早くも疲労《ひろう》感を訴《うった》えはじめていた。
*
「ふむ、うまい」
おみおつけの椀《わん》に口をつけた美樹彦が感嘆《かんたん》の声をあげた。
「ちゃんと手間をかけてダシをとってある。味噌《みそ》も由緒《ゆいしょ》ある蔵元《くらもと》の手仕込みものと見た。若《わか》いのになかなか感心なことじゃないか」
「……どうも」
「真由はどう思う? 峻護くんの料理」
「え?」早くもこの家の空気に溶《と》けこんでいる兄とは対照的に、ガチガチな所作で箸《はし》を動かしていた真由、あわてて、
「はい、ほんと、すごくおいしいです。わたしこんなの作れません。すごいと思います」
「……どうも」
つとめてそっけなく返事をする。真由のほうも彼と目を合わせようとしない。ただでさえ男性|恐怖症《きょうふしょう》なのだし、さきほどの『ニアミス』の件《けん》がある。当然の反応《はんのう》だろう。
峻護とて彼女を正視《せいし》する気にはなれない。不幸な偶然《ぐうぜん》が積み重なった結果とはいえ、寝込《ねこ》みを襲《おそ》うような形になってしまった相手なのだ。
いや、もののたとえにしても『寝込みを襲った』などというべきではないか。あくまでもあれは事故《じこ》なのだから――
「涼子くん」美樹彦、次は姉に向かって、「君はどう見る?」
「どう見るって、何が」
「料理の腕前《うでまえ》さ。峻護くんの」
「未熟《みじゅく》ね」
ただのひと言。
「はっはっは、君も手厳《てきび》しいねえ」
「だって本当なんだもの。何年|修行《しゅぎよう》してもこの程度《ていど》。こまったものだわ」
「…………」
事実であり、また相手が姉であるにしても。
そこまで言われれば面白《おもしろ》くない。
焼き海苔《のり》にご飯をつつんで口に運びながら、
「だったら自分で作ればいいじゃないか。姉さんの料理なんてもう何年食べてないことやら。どうせ腕だって鈍《なま》ってるだろうに」
つい、愚痴《ぐち》が出た。
報復《ほうふく》は迅速《じんそく》だった。
「ねえ真由ちゃん」
「はい、なんですか」
「唐突《とうとつ》なことを聞くようだけど」
満面の笑《え》みをたたえて、
「寝込みを襲う男って、どう思う?」
ぶっ。
「……はい?」
「もしも、よ? もしもの話なんだけど」
米粒《こめつぶ》を鼻から逆流《ぎゃくりゅう》させている弟を尻目《しりめ》に、
「あなたが眠《ねむ》っている時とか、そうね、あとは気を失っている時とかに――心無い男に襲われて、手ごめにされちゃうの」
「ううむ。その輩《やから》、男の風上にも置けないな。断《だん》じて」
「でしょう?」合いの手を入れる美樹彦にしみじみと同意し、
「真由ちゃん、あなたはそいつに無理やリモノにされるの。煩悩《ぼんのう》に屈《くっ》したそいつの欲望《よくぼう》のはけ口にされるの。あなたの知らないうちに、同意もなにも無しで。横たわっているあなたの上に、そいつは四つん這《ば》いになって覆《おお》いかぶさって――」
抑揚《よくよう》たっぷりの語り口で綿々《めんめん》と続くそのささやきは、脳裏《のうり》にありありとその情景を思い描かせる。そう、まるで本当にあったこと[#「本当にあったこと」に傍点]だと錯覚《さっかく》してしまうほどに――
真由は箸を止め、テーブルの上に視線を固定したまま、涼子の話術《わじゅつ》に搦《から》め捕《と》られている。
「目がさめた時にはあとの祭り。あなたは身も心も汚《けが》されているの。失ってはいけないものを永遠《えいえん》に失っているの。もしもそんなことになったら――どう思う?」
冷や汗と脂汗《あぶらあせ》が入りまじって、峻護の背中を伝ってゆく。
「わたしが――」
消え入りそうなつぶやき、
「わたしが、もしそんなふうに――」
ちら、と声の主をうかがう。
首を吊《つ》りたくなった。
純情《じゅんじょう》すぎるサキュバスは今にもこぼれそうなほどに涙《なみだ》をため、と思ったらくしゃくしゃに顔を崩《くず》し、
「あらら、ごめんね、ごめんね、へんなこと聞いちゃって。そうよねえ、女のコがそんなことされたらねえ」
肩《かた》を抱《だ》き、おおよしよしと頭を撫《な》でる涼子。
「す、すいません、変なところお見せしちゃって」すん、と洟《はな》をすすり上げ、「想像《そうぞう》したら、つい……」
「いいのいいの、こっちこそごめんなさいね。ところで、」
姉はデジカメを取り出して――持ち歩いているらしい――真由に示《しめ》し、
「こんな面白《おもしろ》い映像があるんだけど、ちょっと見てみない?」
「待った。ストップ」
峻護はあえなくタップした。
「姉さん、おれが悪かった」
「は? 悪かった、って何が? あんた何かしたの? だったらここで言ってみたら? 洗《あら》いざらい全部。そのほうがすっきりするかも知れないわよ?」
「……勘弁《かんぺん》してください」
「あら、そう? まあ無理強《むりじ》いはしないけど」
「…………」
二ノ宮涼子に逆《さか》らった者の末路は、かくのごとしである。
「あの、ところで」真由が目元をぬぐいながら、努めたふうに明るく、
「この朝食って、ぜんぶ二ノ宮くんが作ってるんですよね……?」
「そうよ」と涼子。
「朝食だけじゃなくて、家事|全般《ぜんぱん》は峻護の仕事。十六にもなってタダメシ食らいの居候《いそうろう》なんだから、そのくらい当然。ああ真由ちゃん、あなたはいいの。あなたは別」
「でも、」めずらしく食い下がり、
「わたしたち兄妹《きょうだい》がお世話になると、仕事の量がぜんぜんちがってくると思うし――」
「あーいいのいいの、そんなのぜんぶコイツにやらせとけば。むしろ女王様にでもなった気で、好きなだけこき使ってやって」
「そ、そんな、とんでもないです」ぶんぶん首をふり、
「何かしてないとかえって心苦しいですし、ぜひお手伝いさせてもらえませんか? あの、二ノ宮くんの迷惑《めいわく》じゃなければ、ですけど」
「――だ、そうだけど。どうするの? 峻護」
「それは――」
反対である。ここで彼女に家事を任《まか》せれぱ、同居《どうきょ》の事実がいよいよ確定《かくてい》してしまう。峻護はまだこの状況《じょうきょう》の打破《だは》をあきらめたわけではない。
といって無下《むげ》に断《ことわ》るのはどうか。真由の好意を無駄《むだ》にするということになれば、また色々うるさいことになりそうである。彼女は家事全般を自分ひとりに任せてしまっていることを気にしているのだから、その点をフォローした応答をしなければ……
「――じゃあ、お手伝いさんを雇《やと》う、というのは?」
言ってみてから、これは悪くない提案《ていあん》かもしれない、と思う。
「たしかに月村さんの言う通りこれから家事がふえるだろうから、どうしてもおれひとりじゃ行き届かないところも出てくると思う。だからといってお客さん[#「お客さん」に傍点]である月村さんに手間をかけさせるのは悪い」
それに、自分と真由との間の緩衝材《かんしょうざい》となってくれるものが欲《ほ》しい、という事情《じじょう》もある。昨日といい今日といい、正直なところ自分の理性《りせい》に自信を失い始めているのだ。今のままでは同居の事実どころか、婚前交渉《こんぜんこうしょう》の事実まで確定しそうな気がする。
「どう? 姉さん」
内心の思惑《おもわく》はおくびにも出さず、承認《しょうにん》を求める。
涼子は浅漬《あさづ》けをポリポリかみながら、ごくあっさりとした調子で言った。
「ふうん、まあそれも面白《おもしろ》いかもね。じゃ、考えとくわ。そういうことでいい? 真由ちゃん」
「……はい。わかりました」
どうやらこの場は乗り切ったようである。
と、美樹彦が腕時計《うでどけい》を確認《かくにん》し、
「おっと、もうこんな時間か。涼子くん、そろそろ」
「そうね、じゃあ一緒《いっしょ》に出ましょ」
ふたりそろって席を立つ。
姉はブラウスとタイトスカートに身をつつみ、メイクも隙《すき》なし。美樹彦は品のいいサマースーツを涼《すず》しげに着こなして、こちらも手抜《てぬ》かりはない。
「じゃあ峻護、わたしたちは仕事だから」
「夜までには戻《もど》る。妹のエスコートはよろしく頼《たの》むよ。真由、峻護くんがついててくれるから何も心配はいらない。しっかりがんばりなさい」
「もし弟に不手際《ふてぎわ》があったらどんどんチクってね。遠慮《えんりょ》しなくていいから」
口々に勝手なことを言いのこし、悪鬼《あっき》どもは連れだって出かけていった。
「……はあ」
ふたりが家を出るのを確認し、峻護はぐったりと椅子《いす》にもたれかかった。
これから毎日こんなやり取りが続くのだろうか。まったく、先が思いやられる。
――開け放ったテラスから、ぶうんと羽虫が迷《まよ》いこみ、またいずこへともなく消えた。
屋敷《やしき》をつつむ蝉《せみ》しぐれは、すでに真昼のものと変わらない。
「…………」
「…………」
テーブルの上にだけ、沈黙《ちんもく》が凝《こご》っている。
「あの……」
おずおずと、真由がそれを破《やぶ》った。
「すいません、その、ああいう兄で――」
「いや――」
『ああいう姉』をもつ身としては何も言えない。
「あの、それで、」
小さくなりながら、聞きとれないような声で、
「わたしの体質《たいしつ》のことはもう知っていると思いますけど……」
そう口にするなり、耳まで朱《しゅ》に染《そ》まる。そんなふうにされると、かえってこっちまで妙《みょう》に意識《いしき》してしまうのだが。
ふたたび、蝉しぐれと沈黙。
口ごもり、指をからませ、何か言いかけてふたたび口ごもり、視線をさまよわせ、
「ええと、それで、その――たくさんご迷惑をおかけすると思いますが、がんばります! よろしくおねがいしますっ!」
やっとのことでそれだけ言うと、がばっ、と立ち上がり、テーブルを真っ二つにしそうな勢《いきお》いで頭をさげた。
「……こちらこそ」
胸のうちで、嘆息《たんそく》。
悪い子じゃないから、かえってやりにくいこともある。
そう、思う。
*
午前八時。登校する時間として、遅《おそ》くも早くもない時間帯である。
峻護はいつもの通学路を歩いている。
坂の多い、入り組んだ小道。ひしめく住宅《じゅうたく》。妻《つま》に見送られる夫。庭先で体操《たいそう》をする老人、ゴミ捨《す》て場に顔を近づけている猫《ねこ》――流れていく風景は、多様でありつつも単調である。
いつもと変わりはない。
ただひとつ、通りかかる人々がこちらを見たときの反応《はんのう》を除《のぞ》いては。
原因《げんいん》はもちろん、すこし離《はな》れてついてくる少女、月村真由である。
白地に紺襟《こんえり》、夏仕様の真新しいセーラー服に、朝の陽光を含《ふく》んでゆれるさらさらの髪《かみ》。
それに加え、遺伝《いでん》的実用性に裏付《うらづ》けられたスーパースタイルの保持者《ほじしゃ》である。
人目を引きまくっていた。
老若男女《ろうにゃくなんにょ》を問わず、真由が通ったあとは十人中十人が振《ふ》り返る。
程度《ていど》の差こそあれ、その表情にはいずれも羨望《せんぽう》と嫉妬《しっと》の成分がにじんでいた。露骨《ろこつ》なのになると真由にはふやけた視線、峻護には殺気のこもった視線を、それぞれ遠慮なく送りつけてくる。
「……とりあえず、」
まだそう暑くもないのにカッターシャツをつまんで風を入れながら、峻護。
「ウチの学校がどんなところか、話しておこうか」
「はい、おねがいします」
真由の返事。周囲の視線が恐怖症《きょうふしょう》を刺激《しげき》するのか、それともこれからはじまる新しい学校生活への不安ゆえか、声が硬《かた》い。
緊張《きんちょう》でロクに聞こえてないかもしれないが、ともかく峻護は説明した。
神宮寺学園《じんぐうじがくえん》、私立《しりつ》高校である。
校風をひとことでまとめれば『雑種《ざっしゅ》的』。
大学以上に設備《せつび》が整っていることもあり、この学《まな》び舎《や》の門をくぐる者には目玉の飛び出るような良家の子女が多い。同時に独自《どくじ》の奨学金制度《しょうがくきんせいど》が充実《じゅうじつ》しているため、赤貧洗《せきひんあら》うがごとき家庭からも多くの生徒が通ってくる。
進学校でもないくせに毎年有名大学の合格者《ごうかくしや》がごろごろ出る。その一方で進学|率《りつ》は全国|平均《へいきん》を下回る。
超《ちょう》高校級のスポーツ選手を輩出《はいしゅつ》する一方で、部員の数が片手《かたて》で足りるクラブがリストラされることなくでかい顔をしている。
大国の王族が留学《りゅうがく》している一方で、虫眼鏡《むしめがね》で地図を探《さが》さなければ見つからないような国からの留学生もいる。
「放任《ほうにん》にかぎりなく近いリベラル、という感じかな。生徒も教師《きょうし》も好き勝手やってて、それでいて全体としてのバランスは保《たも》っている。奇妙《きみょう》なところだよ」
現代《げんだい》教育界の鬼子《おにご》、あるいは特異点《とくいてん》。
ある意味、月村真由という人物にこれほどふさわしい居場所《いばしょ》もない。
「それから学校に着いたあとの手順だけど、まずは職員室《しょくいんしつ》に顔を出す。そこまではおれもついていくから、あとのことは担任《たんにん》に訊《き》いてくれ。女の人だからだいじょうぶだろう。まあこういう場合のお約束どおり、朝のホームルームで自己紹介《じこしょうかい》、という手筈《てはず》になると思うけど、おれたちが一緒《いっしょ》に住んでいることは初めから隠《かく》さないことにする。どうせすぐにばれるだろうから。ただし、おれと月村さんは長いこと会っていなかった従兄妹《いとこ》同士ということにしておく。そのあとはもう、状況《じょうきょう》に合わせて臨機応変《りんきおうへん》にいくしかないな」
「はい、わかりました」
「それとあらかじめ心の準備《じゅんび》はしておいてほしい。ウチのクラスの連中はその、ちょっとあれだから」
「? あれ、というのは?」
「ん、まあ」やや言いよどみ、「お調子者でお祭り好きなのがそろっている。そのことはウチのクラスに限ったことじゃなくて学校全体で言えることだけど――連中、転校生が来ると知ったらどんな反応をするか」
しかも、と峻護は内心で付け加える。彼女のこの容姿《ようし》である。男どもがどんな態度をとるか、火を見るより明らかであろう。
「最悪、君を見た途端《とたん》ハイエナのように群《むら》がってくる可能性《かのうせい》もある。いや、十中八九そうなる」
「……!」
あからさまな動揺が伝わってきたが、すぐに覚悟を決めたような声調子で、
「はい、ちゃんと心の準備をしておきます。ご迷惑《めいわく》は、おかけしません」
「じゃ、頼《たの》むよ」
あとはもう大過ないことを祈《いの》るしかない。
――いや、まだ言っておくことがあった。
間近に迫《せま》ってきた学園を見据《みす》え、付け足す。
「それともうひとつ。これから校門のところで恒例《こうれい》の行事がある」
「行事、ですか?」
「いや、行事、というか――いつもの通過儀礼《つうかぎれい》というか」
適当《てきとう》な表現が見当たらない。
「さっきの話でだいたい想像《そうぞう》できると思うけど、うちの学校は変わった人間が多くて……まあ見てみればわかる。実害はないはずだから、心配はいらない」
「は……い」
真由が怪訝《けげん》そうにつぶやくのを聞きたがら、校門の内へと足を踏《ふ》み入れた。
その瞬間《しゅんかん》。
朝のけだるい空気を切り裂《さ》いて、カン高い笑声《しょうせい》が響《ひび》き渡《わた》った。
そう、笑声、である。だが初めてそれを聞く人間は、決してそうは思うまい。白昼にタップダンスを踊《おど》る骸骨《がいこつ》でも目撃《もくげき》したような顔できょとん、としている真由を見れぱ、おのずと知れる。
響き自体は、プラチナ細工の鈴《すず》が鳴るようなそれである。が、発声学上、その笑い声は奇天烈《きてれつ》のきわみ――というより有りえない代物《しろもの》だった。
あえて、あえて文字表記すれば、『おーっほっほっほ』という感じにでもなるのだろうか――しかしいずれにせよ、世界中のいかなる言語にもその音響《おんきょう》を表現する機能はないであろうと思われる。
不可能を可能にしたその人物は、校門をやや入ったところ、往来《おうらい》のど真ん中にいた。
素軽《すがる》い黒髪《くろかみ》が目を引く、すらりとした少女である。
ややきつめの顔立ちをしている。が、美人であることにはケチのつけようがない。勁《つよ》い意思を秘《ひ》めて輝《かがや》く瞳《ひとみ》などはまず、ひとたび見たらまたと忘れられないだろう。
少女は左手を腰《こし》、右手の甲《こう》を口もとにあて、まだなお名状しがたい音声を発しつつ、挑《いど》むような目つきでこちらを向いている。その背後《はいご》には、彼女を取り巻《ま》くようにして並ぶ十人ほどの生徒たち――いずれも神宮寺学園生徒会の腕章《わんしょう》をつけている。
笑声が止《や》み、青空の彼方《かなた》へと尾《お》をひいて消える。
『ああ、今日も始まった』という目でこちらに一瞥《いちべつ》をくれつつ、それぞれの教室へ急ぐ生徒たち。
その間を割《わ》るようにして少女は進み出てくると、
「今朝も会いましたわね、二ノ宮峻護」
「はあ、どうも」
毎日こうして校門の前に立っているわけだから顔を合わせない筈《はず》はないですよ――とは、口に出さない。
「おはようございます、北条先輩《ほうじょうせんぱい》」
「ごきげんよう」
つん、とそっぽを向くようにして、奇跡《きせき》の発声器官をもつ少女は返してきた。
世界に冠《かん》たる北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条|義宣《よしのぶ》が一人娘《ひとりむすめ》にして神宮寺学園生徒会会長。
彼女が北条|麗華《れいか》、その人である。
――以上。
「じゃあ先輩、おれは用事がありますから、これで」
「おまちなさい」
襟首《えりくび》をつかまれた。
「このわたくしに声をかけられておいて、たったそれだけのあいさつで済《す》ますおつもり?」
「はあ。ですが」
「この学園を統治《とうち》しているのはこのわたくしなんですからね。ちゃんと言うことをおききなさい。あなたなんかよりこのわたくしのほうがずっと偉《えら》いんだから」
「はあ……」
「ところでわたくし、昨日は別荘《べっそう》で音楽会を開いておりましたの。各界から人士をお招《まね》きしてそれぞれ得意の楽器を持ち寄り、即興《そっきょう》の曲を奏《かな》でますのよ。もちろんわたくしもストラディヴァリウスを弾《ひ》きましたわ。時に、あなたはどのように週末をすごされて?」
「はあ」月村|兄妹《きょうだい》のあれこれは、もちろん伏《ふ》せておく。「おれは、普段《ふだん》できない掃除《そうじ》とか片付《かたづ》けとかをまとめて」
「まあ……」麗華、大げさに眉《まゆ》をひそめ、
「そんなことでせっかくの休日を浪費《ろうひ》するなんて信じられませんわ。メイドにでもやらせたらいかが? そんな雑用《ざつよう》。何なら一人、うちからお貸《か》ししますわよ」
「はあ。でも、自分でやったほうが落ちつくというか」
「これだから庶民《しょみん》は。掃除も片付けも一生わたくしには縁《えん》がありませんもの。コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》として生きるよう運命づけられたわたくしは、」
「おっと、もうこんな時間か。じゃあ先輩、おれはそろそろ」
「おまちなさい。わたくしに呼び止められておいて、たったこれだけの会話で済ますおつもり? いいですこと、わたくしは――」
『行事』とは、つまりこれのことである。
登校時間と下校時間、北条麗華は決まって校門のところに立つ。それ自体は、生徒の行状を見守るという生徒会長としての公務《こうむ》らしいのだが――そのたびにこうして彼個人にからんでくる。
そしてその態度はひどく身勝手で高圧《こうあつ》的。公人としての彼女は理知的かつ有能で、生徒達から慕《した》われているというのに。
よほど自分のことが気に食わないらしい――彼女の態度《たいど》を、峻護はそう受け取っている。
今のところ彼はその考えを疑《うたが》っていない。
いずれにせよ相手は先輩で生徒会長。目上には相応《そうおう》の礼を尽《つ》くす峻護であるから、あまり素《そ》っ気《け》なくもできない。それに二ノ宮涼子を姉にもつ彼としては、この程度《ていど》はむしろ可愛《かわい》いくらいのものだ。ワガママなお子様をあやしているくらいの気分にしかならないのである。
とはいえ、いつまでも付き合っていられるわけではない。
さて、今日はどうやってこの『困ったひと』をやり過ごそうか――
ほとんど一方的に続く話へ適当《てきとう》な相づちを打ちながら考えていると、
「やあ、二ノ宮くん。おはよう」
麗華の背後《はいご》から助け舟《ぶね》がでた。
取り巻き達のうち、もっとも麗華の近くにいた小柄《こがら》な男子生徒である。
「どうも、おはようございます保坂《ほさか》先輩」
あいさつを返すと、まるっこい微笑《ぴしょう》で応じてくる。その仕草といい、瞳の大きな童顔といい、どことなく豆柴《まめしば》のような小型犬を思わせる少年だ。
彼は「うーん……」と手足をのばすと、
「今日もいい天気だねえ」
「はあ、また暑くなりそうですね」
「こんな天気の日には、すずしい木陰《こかげ》に入ってお弁当《べんとう》でもひろげたいなあ」
「はあ」
「ぼくね、ピクニックがすきなんだ。山でも川でも海でもいいよ。あ、でも今の時期ならキャンプのほうだよね。バーベキューして、花火して、テントを立てぐえ」
カエルが車に轢《ひ》かれる時のような音が少年のロから漏《も》れた。
その首を、麗華が右手ひとつでぎりぎりと絞《し》め上げている。
「保坂。わたくしを差しおいて何をくっちゃべっていますの?」
「ず、ずみまぜん、麗華お嬢《じょう》ざま」
保坂|光流《みつる》。峻護とはもうすっかり顔なじみである。
取り巻き達のなかで彼のみは腕章《わんしょう》をつけていない。生徒会の一員ではなく、北条麗華の個人的なスタッフなのである。
といえば聞こえはいいが、その実態はただの『付き人』。峻護もよくは知らないが、なんでも北条家で代々そういう役目についている家柄なのだそうだ。
その仕事は主人である麗華の身の回りに関する雑務《ざつむ》一切《いっさい》であり、ゆえに四六時中彼女のそばに控《ひか》え、そして当然の帰結というべきか、常《つね》に彼女に振《ふ》り回されている。生まれた時から姉に翻弄《ほんろう》されてきた峻護にとって、なにやら他人とは思えない先輩《せんばい》であった。
保坂のほうでも峻護と似《に》たようた感情《かんじょう》を抱《いだ》いているのか、折につけてよくしてくれる。が、その結果はたいてい麗華の逆鱗《げきりん》にふれて終わることになるのだった。
今もまた峻護に救いの手をさし伸《の》べたばかりに、主人に絞め落とされようとしている。
――いや、たったいま絞め落とされた。
「ところで」
麗華がこちらに向きなおる。ほがらかな笑顔《えがお》のまま土気色をしてぶっ倒《たお》れる下僕《げぼく》には目もくれない。
「その女は誰《だれ》ですの」
峻護の後ろにチラリと視線《しせん》を走らせた。
忘《わす》れていた。
振り返ると、いまだに真由は呆《ほう》けたまま。奇跡《きせき》の音声は彼女の精神《せいしん》に深刻《しんこく》な影響《えいきょう》を与《あた》えたらしい。慣《な》れない人間はしばしばこうなる。
「ええ、彼女は」
あらかじめ用意しておいたウソをならべた。
「いとこ?」
麗華、「ふん、たいしたことありませんわね」などとうそぶきつつ、うろんげに真由を眺《なが》め回している。
「ほら」真由をつついて、うながした。
「ああ……はい」
うつろな声。微妙《ぴみょう》に焦点《しょうてん》のあわない瞳《ひとみ》。
「すいません、ええと、なんでしたっけ?」
「紹介《しょうかい》するよ。こちらがこの学校の生徒会長で、北条麗華さん」
「北条麗華……わあ、たしか三十年くらい前の売れない少女|漫画《まんが》に出てきました、その名前。そういう名前って、お話の中にしか出てこないものだと思ってました」
ぴく、と麗華の眉《まゆ》が動く。
(ちょ、ちょっと月村さん?)
あわててたしなめるが、相変わらずぼやあ、とした瞳。
「はじめまして、月村真由です。よろしくおねがいします」
「――ふん、気安く口をきかないでいただけますこと? わたくしは北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条義宣の一人娘《ひとりむすめ》にして、」
「わあ、すごい。『お嬢さましゃべり』ですね。わたし、はじめて聞きました。三十年くらい前の売れない少女漫画にでてきた女の子もそんなしゃべりかたでしたよ。その子って、とても威張《いば》っていて、おばかさんなんです」
ぴくぴくっ、と麗華の眉が動く。
まずい。どうやら彼女、まともではない。
「さ、じゃあそろそろ行こうか。もう時間が」
強引《ごういん》にこの場を切り上げようとした。
手遅《ておく》れだった。
「……月村さん、とおっしゃいましたわね。あなたわたくしにケンカ売ってるんですの?」
真由、聞いていない、
「それでですね、その女の子はヒロインにちょっかいばかり出してるんですけど、かならず最後はしっぺがえしにあうんです。だっておばかさんで、実力も運もないから。毎回毎回その子はページの最後に『きいいいいいいい!』とか『くやしいいいいい!』とか『おぼえてらっしゃい!』とか言って、」
「保坂」
主人のひとことで、のびていた少年が何事もなかったように起き上がる。
「はい、お嬢さま」
「この小娘、どこかに埋《う》めてきなさい」
「お嬢さま、ぼく、それはちょっと……」
「この不忠者《ふちゅうもの》! いいからさっさとやりなさい!」
「あの、北条先輩? 彼女、今ちょっと普通《ふつう》じゃないみたいなんで今回は大目に――」
「あなたは黙《だま》ってなさい二ノ宮峻護!」
「お嬢さまぁ、落ちついてくださいよう。そんな乱暴《らんぽう》はよしましょうよ。ね? ね?」
「保坂。わたくしの言うことが聞けませんの?」
「だって……」
「そう。お前がやらないのならわたくしがやるわ」
「わっ、待ってください落ちついてくださいお嬢さまお嬢さま!」
「きゃ、ちょっとどこさわって、」
「二ノ宮くん、いまのうちに――いた、痛《いた》い痛い、お嬢さま、やめ――」
「すいません、恩《おん》に着ます。――月村さん!」
「はい――って、あれ? ここ、どこでしたっけ? あ、二ノ宮くん、わたしは何を」
「いいから早く!」
「この無礼者! ばか保坂! 死になさい、死んで詫《わ》びなさい!――ちょっとあなたたち、どこへ行くおつもり? まだ話は終わって」
その瞬間《しゅんかん》、下僕をボロ切れにしていた麗華の動きが凍《こお》った。
視線の先に、足早に駆《か》けていく姿《すがた》がふたつ。
そして彼女は見た。二ノ宮峻護、あの堅物《かたぶつ》で知られた男が、公衆《こうしゅう》の面前で月村とかいう小娘の手をしっかりと握《にぎ》り、校舎《こうしゃ》の方へ駆《か》け去っていくのを。
目を疑《うたが》う光景だった。
いや、それよりもあの無礼な小娘。
遠目にもはっきりわかった。
戸惑《とまど》ってはいるようだったが。
二ノ宮峻護に手をつながれて――
頬《ほお》を染《そ》めて、目を伏《ふ》せていた。
明らかに手をつないだ相手を意識《いしき》していた。
「……なによ」
気に食わない。なぜだかわからないけど、無性《むしょう》に、気に食わない。
「なんなのよあれはッ!」
「はあ、何がですか、お嬢さま」
「お黙りっ!」
振り向きざまに上段回し蹴《げ》り。吸《す》いこまれるように首筋《くびすじ》ヘヒット。
白目をむき、ふたたび地に沈《しず》む保坂。
それを見届けもせず、麗華はあらためて拳《こぶし》に力をこめる。
「あの小娘……このままでは済《す》ませませんわよ」
決意を胸《むね》に秘《ひ》める麗華。
あとも見ず校舎に駆け込む峻護と真由。
そのいずれも。
一連の光景を隠《かく》れ見てほくそえむ二人の人物に、最後まで気づくことはなかった。
今日も今日とて、神宮寺学園の一日は騒々《そうぞう》しくはじまる。
*
さて。
あらかじめ予想されたことではあったが。
朝のホームルームを終えた一年A組の教室は、いきなり修羅場《しゅらば》だった。
「二ノ宮、そこをどけ」
峻護の正面で身構えている同級生がささくれだった声をあげた。色|抜《ぬ》けにムラのある茶髪《ちゃぱつ》の少年――悪友その一、吉田《よしだ》である。
「ひとり占《じ》めしようたって、そうはいかねーぜ?」
と、こちらは吉田のとなりで静かに殺気を放っている同級生。中途半端《ちゅうとはんぱ》なロン毛の少年――悪友その二、井上《いのうえ》だ。
「もういちど言うぞ二ノ宮」
「そこを、どけ」
「ことわる」
断乎《だんこ》として峻護は宣言《せんげん》した。悪友二人に向けて――いや、彼らふたりを旗手として峻護と真由を取り囲む、二十人からなる男子生徒たちに向けて。
事がここに至《いた》る経緯《けいい》はこうである。
休み明けで弛《ゆる》みきった教室に担任《たんにん》が登場。かったるい空気のまま始まるホームルーム。
転校生の存在《そんざい》を告げられるや、たちまち張《は》りつめた雰囲気《ふんいき》が教室を支配《しはい》。
転校生が女子であることを知って軽い失望のため息をつく女性陣《じょせいじん》とは対照的に、男子どものボルテージは早くもレッドゾーンへ。
担任に呼ばれ、おずおずと登場する真由。
数瞬の、沈黙《ちんもく》。
そして爆発《ばくばつ》する歓声《かんせい》、怒号《どごう》、悲鳴。必死に制《せい》しようとする担任、何事かと駆けこんでくるとなりのクラスの教師《きょうし》と生徒たち。
それがまた火に油をそそぐ結果となり、いよいよ混迷《こんめい》の度合いを深める教室。踏《ふ》み鳴らされる床《ゆか》。手拍子《てぴょうし》。口笛。
真由に自己紹介《じこしょうかい》させるのもままならず、半ばヤケクソでホームルームを切り上げる担任。
待ってましたとばかり、我先《われさき》にと壇上《だんじょう》の真由に駆けよるハイエナども。
そうなることを見越《みこ》し、誰《だれ》よりも早く行動をおこして真由の前に立ちふさがり、彼女をかばう峻護。
その尋常《じんじょう》でない気迫《きはく》にたじろぎ、動きをとめた男子|勢《ぜい》だったが、すぐさま無言の連携《れんけい》で包囲綱《ほういもう》を形づくって邪魔者《じゃまもの》を排除《はいじょ》するスキをうかがい、一方の峻護はそれを眼光《がんこう》で牽制《けんせい》しつつ脱出《だつしゅつ》の手立てを探《さぐ》り――
なんてわかりやすいやつらだ、と思う。この事態、真由にも言ったとおりおおよそ想像《そうぞう》はついていたが――しかしまさか、ここまでお約束どおりとは。
「おい二ノ宮。なんだってお前、そんなマジになって邪魔するわけ? 俺達《おれたち》ただ、その子と仲良くなりたいと思ってるだけじゃんよ」
「お前がそう聞き分けないようだと、ムダに血を見ることになんぜ?」
吉田と井上が口々に責めてくる。
「断《ことわ》っとくが、これは親切で言ってやってんだ。けっして、この学校でもトップクラスでガタイと運動|神経《しんけい》のいいお前とやりあうのは遠慮《えんりょ》したいな、と思ってるからじゃないぞ」
「そうそう。俺達は親友の身を案じているのであって、なんか命がけっぽい感じのお前の目にビビってるわけじゃないんだ」
「…………」
命がけは当然である。真由の身の安全をあの二人[#「あの二人」に傍点]から任されているのだ。万が一にも不手際《てぎわ》があれば、五体満足ではいられまい。
悪友どもの言い分には応《こた》えず、ちら、と峻護はクラスの女性陣に目をやり、ショートカットの姿《すがた》を探《さが》した。が、一年A組女子のリーダー格《かく》、綾川日奈子《あやかわひなこ》は峻護と目が合っても「はぁい」とニコニコ笑いながら手を振《ふ》ってくるばかり。他の女子も似《に》たり寄《よ》ったりで救援《きゅうえん》は望めそうにない。男子達とは対立関係にある彼女らに事態解決の望みを託《たく》す青写真だったのだが――どうやら女性陣は、敵《てき》を難詰《なんきつ》して騒《さわ》ぎを収拾《しゅうしゅう》するよりも、峻護が四苦八苦する姿を観賞して楽しむほうに興味《きょうみ》があるらしい。常日頃《つねひごろ》から峻護をいじり倒《たお》して遊んでいる彼女らに期待するのは、端《はな》から無謀《むぼう》というべきだったか。
「いいかおまえら」
援軍をあきらめ、峻護は反論《はんろん》を試みる。
「おれがこういう真似《まね》をするのは、事情があるんだ」
言いつつ、取り囲む男どもに油断《ゆだん》なく目を配る。よくよく見ると、なぜか別のクラスの男子までもが何食わぬ顔で包囲網に加わっていたりする。頭痛《ずつう》がしてきた。そういう校風なのだといえばそれまでだが、この学園は心底この手の連中に事欠かない。
「彼女は男性|恐怖症《きょうふしょう》なんだ。それをこんなふうに押しよせてきたら――わかるだろう?」
「男性恐怖症? そうはみえねーけどな。ほれ、カノジョ、こっち見て笑ってるじゃん。べつに嫌《いや》がってなんかなさそうだぜ?」
「なんだと。嘘《うそ》をつくな」
「ほんとだって。ウソだと思うんならよ、自分の目で確かめてみれぱ?」
「遠慮しておく」
真由に注意をそらした隙《すき》をついて総攻撃《そうこうげき》を仕掛《しか》ける魂胆《こんたん》だろう。その手には乗らない。
「男性恐怖症ってのがマジだったとしても」
こんどは井上が別の方向から攻《せ》めてきた。
「なんでお前がそんなことを知ってる? そもそもおまえ、その子とどういう関係だ?」
「彼女はおれの従兄妹《いとこ》だ。こっちに引っ越《こ》してくることになって、たまたまこの高校に転校することになって、おれがいろいろ面倒《めんどう》をみることになった。それだけだ」
その返答に井上の眉《まゆ》が動いた。
「まさか――おまえ、その子とひとつ屋根の下に暮らしてる、ってことはないよな」
「……いや、そのまさかだが――まて、話をきけ」
血相をかえた男どもに、言える範囲《はんい》で事情を説明する。
が、当然と言うべきか、彼らはさほど得心した様子もなかった。
「どっちにしたって同居《どうきょ》はしてるわけか」半眼になって、井上。「てことは色々おいしい思いをしてるんだろが。白状《はくじょう》しろ」
「おいしい思い?」
「たとえば、脱衣所《だついじょ》に置いてあった彼女の下着を目にしたりとか」
「…………」
「あまつさえ何かの拍子《ひょうし》で彼女の身体《からだ》に触《さわ》ってしまったりとか」
「…………」
「そういう展開《てんかい》にはならなかったか、と訊《き》いている」
「…………」
「もしそんな羨《うらや》ましすぎることをしてるんなら……そのときはどうする? 吉田くん」
「そうだな、井上くん。そのときは」にやり、「二ノ宮、おまえには生き地獄《じごく》って言葉の意味を、たっぷりその身体に教えこんでやる。なあ、そうだろみんな」
うしろに首を曲げ、同意を求める吉田。
居並《いなら》ぶ男どもはその言葉に、それはそれは力強くうなずき返す。
「――と、いうわけだ。どうなんだ? やったのか? やってないのか?」
「……やっていない」
吉田、す、と細目になり、
「二ノ宮――お前なにか隠《かく》してんな……?」
「……なにも隠していない」
「じゃあ、男性恐怖症、ってやつをもうすこし詳《くわ》しく話せ。おまえはその子の男性恐怖症についてかなりよく知っていて、それでそんなふうに必死こいて守ろうとしてるんだろ? 知ってるんなら、聞かせろ。俺達《おれたち》とその子は、これからクラスメイトとして長い時間を共にするんだ。それを知る権利《けんり》がある」
厳《きび》しいところをついてくる。普段《ふだん》はバカやってるくせに、こういうときに限《かぎ》っては頭が働くらしい。
真由の男性恐怖症について詳しく話そうとすれぱ、芋《いも》づる式に情報《じょうほう》を引き出されていくことになるだろう。そういう流れになってくると、彼女の『体質《たいしつ》』を隠しとおす自信がない。そして万が一、彼女とあやうく一線を越《こ》えそうになったことがバレたら――
(生き地獄、か)
それにしても理不尽《りふじん》である。そもそもこうして峻護が身体を張《は》っているのは彼らのためでもあるのだ。なんの耐性《たいせい》もない男が真由に触《ふ》れれば無事ではすまないのだから。さすがの連中も初対面でそこまでぶしつけな真似をするとは思えないが、なにしろ相手はサキュバスである。 どのように事態《じたい》が転ぶか予断《よだん》を許《ゆる》さない。
と、その時。
吉田と井上が不敵《ふてき》な笑《え》みを浮《う》かべた。
「なんだ?」と峻護が眉《まゆ》をひそめた瞬間《しゅんかん》。
いきなり天地がひっくり返った。
思いっきりしりもちをつく。
激痛《げきつう》に顔をしかめたのと同時、いつのまにか足に絡《から》まっているロープが目に入り、それまでの対話が陽動だったこと、どうやら一杯《いっばい》食わされたらしいことに気づき、
そして気づいた時にはもみくちゃにされていた。鬨《とき》の声をあげて跳《と》びかかってきた奇襲《きしゅう》兵どもによって。
「わーっはっはっは! おまえは腕《うで》っぷしもあるし頭もいいけどバカ正直だからな。こんな単純《たんじゅん》なワナにあっさり引っかかってくれてありがとう!」
高笑いする吉田に何を言う間もなく、あっさり峻護は捕縛《ほばく》された。不意をつかれた上、この人数に一斉《いっせい》にかかられては、さすがにどうにもならない。
「召《め》しとった!」急造部隊を手際《てぎわ》よく指揮《しき》していた井上が、勝利|宣言《せんげん》。
「ふっふっふ、気分はどうだい? 二ノ宮くん」
敗北者を屈辱《くつじょく》にまみれさせようという腹積もりか、床《ゆか》にひれ伏《ふ》す峻護に顔を近づけ、
「――って、ああっ! おい、おまえら抜《ぬ》け駆《が》けすんな!」
すでに真由の周りは黒山の人だかりになっていた。
「なんてこった。――吉田!」
「おう! おいてめーら、きたねーぞ!」
「押《お》すな、こら、先着順だろう!」
「ばかやろ、早いもの勝ちだ!」
「おい、おさわりはナシだぞ、おさわりは!」
「好きな男性のタイプは?」「スリーサイズをどうぞ!」「携帯《けいたい》の番号は?」「メールしようよメール。アドレス教えて!」「写真とっていいですか? フィギュア作りたいんですけど」「放課後ヒマ? カラオケいこ、カラオケ」「ねえ、入るクラブとか決めてる? 米国|製通販《せいつうはん》番組同好会ってのがあるんだけど興味は――」「僕を犬と呼んでください」「ていうかつきあって! いや、むしろ結婚《けっこん》してください! 一両日中に!」
(くそ、好き勝手なことを)
峻護はあせっていた。即席《そくせき》のくせに縛《いまし》めはやけに巧妙《こうみょう》で、足掻《あが》いても足掻いてもなかなか外れてくれない。
(大丈夫《だいじょうぶ》か彼女――)
必死に手を動かしながら、人だかりの隙間《すきま》から真由を見た。
意外だった。
吉田の言ったとおり、その顔はひどくにこやかだったのである。
が、なるほどそうかもしれない。
こうなることはあらかじめ言い含《ふく》めておいたことだし、心の準備《じゅんぴ》が云々《うんぬん》とも言っていた彼女である。もともとそれなりの覚悟《かくご》をもって恐怖症《きょうふしょう》の克服《こくふく》にのぞんでいたはず。これならそう心配することも――
とんでもない早とちりに気づいたのはその直後だった。
全身|全霊《ぜんれい》をこめて縛めを引きちぎり、人だかりに頭からつっこむ。
そのころにはお調子者たちも気づいたようだった。
ざわめきが止《や》み、峻護は人の壁《かぺ》を突《つ》っ切って真由の前に立つ。
彼女はなお、ひどくにこやかである。
そう、にこやかなまま、まったく変化がない。そして男どもに何を聞かれても、これまで一言たりと返していない。よくよく見れば顔のあちこちが細かく痙攣《けいれん》していたりもする。
つまり彼女は顔面の筋肉《きんにく》を引きつらせており、その引きつれが、たまたま微笑《びしょう》のかたちをとって固まっていただけであり――
峻護は、月村真由という少女がある意味とても器用であることを知った。
彼女は立ったまま失神していた。
*
「初日の、それも朝一番からこれだ……」
一時間目の授業《じゅぎょう》がはじまり、ひとけのない静かな廊下《ろうか》。
真由を連れて保健室《ほけんしつ》に向かいながら、峻護は盛大《せいだい》なため息をつく。
「ろくなことがない」
ただ、タイミングよく始業ベルが嶋り、それと同時に一時間目の英語|教師《きょうし》が入ってきたのは幸いだった。峻護は機を逃さず、立てつづけの出来事にクラス中が虚《きょ》をつかれている隙に、真由を教室から連れ出すことに成功した。
「とはいえ、その程度《ていど》の幸運は焼け石に水だな……」
精気《せいき》を急激《きゅうげき》に消耗《しょうもう》した彼女である。すぐに目を覚まし、自分で歩いてくれる訳《わけ》ではない。
したがって、峻護が手ずから運んでいくことになる。
搬送手段《はんそうしゅだん》は『おんぶ』である。
「で、結局こうなるのか……」
こうして否応なく、峻護はまたしてもひとりで悶々《もんもん》とする羽目になっているのだ。
なぜなら彼の両手には、すべすべできめの細かいふとももの感覚がある。
さらに彼の背中には約ふたつ、弾力《だんりよく》があるくせにやたらと柔《やわ》らかい感覚もある。
いつになく独《ひと》り言が多いのは勿論《もちろん》、これらの危険《きけん》な刺激《しげき》から意識《いしき》をそらすためである。
「それにしても」
どうにか煩悩《ぼうのう》[#ぼんのうが正しいが原本のまま]をやり過《す》ごしながら考える。
男性恐怖症とやらの程度がこれでようやく飲みこめた。これまでの状況《じょうきょう》からある程度高を括《くく》っていたのだが――おっかなびっくりながら昨日はちゃんと峻護に接していた――このぶんだと一筋縄《ひとすじなわ》ではいきそうにない。
それでいて魅力《みりょく》だけは『サキュバス』なのだ。どうあっても男をひきつけてしまう……。
と、そこで峻護の歩みが止まった。
「ん……」
なにやら切なげな吐息《といき》をついて、真由が身体《からだ》をうごめかせる。二つのふくらみが刻一刻《こくいっこく》と形を変えてゆく。背中《せなか》の触覚《しょっかく》すべてがそれをトレースする。
一気に血圧《けつあつ》が上がる。
「ん……あ……」
追い打ち。
首筋に、息が。
――魅力は、文句《もんく》なしに『サキュバス』なのである。異性《いせい》をとりこにする容姿《ようし》、異性を悦《よろこ》ばせる各種の技巧《ぎこう》、異性を問答無用で籠絡《ろうらく》するフェロモン、
一瞬《いっしゅん》、意識がホワイトアウト。
すぐさま気合で回復《かいふく》。
間をおかず、平常心《へいじょうしん》を保《たも》つための呪文《じゅもん》を詠唱《えいしょう》。
(にいちがに! ににんがし! にさんがろく!)
真由をあまり刺激しないようにゆっくり歩いていたのだが、もうそんな余裕《よゆう》はない。
(にしがはち! にごじゅう! にろくじゅうに!)
ほとんど競歩のような体勢で一直線に保健室をめざし、だがその影響《えいきょう》で背中の感触《かんしょく》はいよいよビビッドになり、
(にしちじゅうし! にはちじゅうろく! にくじゅうはち!)
めざす引き戸、両手はふさがっている、やむなく足を使い、がらり、行儀《ぎょうぎ》悪くひき開け、
「失礼します(さいちがさん)!」
奥まったところにあるデスクでなにか書き物をしていた保健医には一瞥《いちべつ》もくれず、
「すいません(さにがろく)! 彼女、ちょっと具合が悪くなったらしくて(さざんがく)! すこし休ませたいんですけど(さんしじゅうに)!」
了解《りようかい》もとらずベッドへ。
「あーあー。もう、しょうがないわねえ」
椅子《いす》をきしませて保健医が立つ気配、
「すいません(さんごじゅうご)」
背中の荷をそっと台に乗せ、
「ほんっと、役に立たないんだから、あんたは」
「すいません(さぶろくじゅうはち)」
布団《ふとん》をかけて、ほっ、ようやく人心地《ひとごこち》つく。
保健医が横にならび、
「ごめんねえ真由ちゃん。このバカが使えないばっかりにつらい思いさせて」
「はあ、すいません……って、おい!」
愕然《がくぜん》と峻護はその人物を凝視《ぎょうし》した。
「なにしてるんだ姉さん!」
まさしく、そこにいたのは二ノ宮涼子である。
「なにって」涼子、着ている白衣を示《しめ》し、「保健の先生をやってるんだけど」さも当然のごとく、「今日から」
「どうして!」
「もちろん真由ちゃんを見守るためよ。あとは、あんたが役目をサボってないか監視《かんし》するためね」
「夜まで仕事だって言ってたじゃないか!」
「夜まで、この保健室で仕事だけど?」
「じゃあこの間までいた保健の先生は!」
「前任者? いまごろ南の島でバカンスじゃない? 退職金《たいしょくきん》は弾《はず》んであげたし」
「だあああああああああああああああもおおおおおおおおおおおおおおおっ!」
頭をかかえ、煩悶《はんもん》。
が、峻護はそれ以上の追及《ついきゅう》を断念《だんねん》した。保健医の資格《しかく》など持っていても不思議はないし、持っていなくてもどうとでもするだろう。この姉なら。
「じゃ、わたしはちょっと席を外すから」
ぐったりする弟をよそに、涼子はどこかへ行こうとする。
「ちょっと姉さん、看病《かんびょう》は……」
「戻《もど》ってくるまであんたが責任《せきにん》もって看《み》なさい。わかってるわね峻護。この状況はもう、十分ペナルティに値《あたい》するのよ?」
否《いな》やを言わせぬ声調子。
「ま、もしあんた以外の人間が真由ちゃんを連れてくるようなことがあったら『おしおき』決定だったでしょうけど。命拾いしたわね」
にたあ、と涼子は笑った。悪魔《あくま》の笑《え》みそのものだった。峻護は心底ふるえあがった。
「……くそ、なに考えてるんだ」
廊下《ろうか》へ出た姉の足音が消えるのを確《たし》かめてから、悪態《あくたい》をつく。
ここへきて疲労《ひろう》が一気にきた。ずっと真由に触《ふ》れていたことの影響だろう。
鉛《なまり》の身体に鞭打《むちう》って動く。そこらにあったタオルを水に濡《ぬ》らして真由の額《ひたい》にあてがい、手近にあったスチール椅子《いす》を引っぱってきてベッドのかたわらに腰《こし》をすえる。
(さて、)
この状況でもっとも重視すべきは、だ。
姉が、どうやら当分の間この学校に居座《いすわ》るつもりらしい、ということだ。
そのことは取りも直さず、二ノ宮の家に長期|滞在《たいざい》するつもりだということである。『山師』の仕事を休業して。
なんてことだ。月イチ帰りの今だっていいように嬲《なぶ》られているのに、あの姉が四六時中だって?
そこに加えて月村美樹彦だ。あの男が姉と同じ人種だということはすでに証明されている。ということは姉とのダブルキャストで嬲られるのか?
とどめは月村真由。あの悪意のないサキュバスがついてまわり、健全で清潔《せいけつ》な高校生活を望む自分を煩悩《ぽんのう》でさいなむ。
無茶だ。完全に精神《せいしん》力のキャパを超《こ》えている。このままでは――
「あ」
いつのまにか。
横たわっていた真由が弱々しくまぶたを開け、こちらを見ていた。
「ああ、――気づいた?」
こく、とわずかにうなずく。
どこかまだ、夢《ゆめ》でも見ているような面持《おもも》ちである。顔色こそ目立って悪いわけではないが、すぐに動くのは無理がありそうだ。
「あの……」
「何?」
「二ノ宮くんがここまで運んでくれたんですよね。おんぶして、廊下を――ぼんやりとだけど、覚えてます」
「……ああ」
手のひらと背中の感覚がよみがえる。
「それに、教室で庇《かば》ってくれたのも覚えてます。すぐに意識がなくなっちゃいましたけど」ほ、と吐息《といき》。「……わたしなりに、頑張《がんば》ってはみたんですけど――でもまだ、全然、だめみたいです。ごめんなさい」
生真面目《きまじめ》だな、と峻護から見てさえ思う。
「とにかく、気絶《きぜつ》するまで我慢《がまん》しなくてもいい。もちそうになかったらちゃんと言ってくれ。そのときは何とかするから。それと、クラスの連中については勘弁《かんぺん》してやってほしい。あいつらも悪気は……まあ、あったと思うけど、それはおれに対してであって、月村さんにじゃないから。おれも事前にあいつらに話を――月村さん、聞いてる?」
ぽおっ、と、潤《うる》んだ目でこちらを見ている真由に声をかけると、あわてて彼女は目をそらした。
「月村さん?」
「い、いえ、なんでもないです、なんでも」
ずいぶん遠慮しているようだが、その目の色を読み取るに、どうやら何かを欲しがっているらしい。
「なに? 要《い》るものがあるなら言ってくれ。水? 暑いなら、なにかで扇《あお》ごうか?」
「いえ、なにもないです、はい、なにも」
「…………」
もうだいぶ前からわかっていたことだが。
月村真由、嘘《うそ》をつくのがほとんど病的に下手である。
「ちゃんと言ってくれないと困《こま》るんだ、月村さん」
なにしろあの二人からの頼《たの》まれごとである。
が、彼女は頑《かたく》なだった。どれだけ訊《き》いても首を横に振《ふ》るばかり。
「あのね」しかたなく、かなり強い口調で諭《さと》す。
「できるだけ月村さんのことをよく知っておかないと、おれも満足に動けないんだよ。さっきだってそうだ。おれは君の男性|恐怖症《きょうふしょう》がそこまでひどいとは知らなかったから、甘く考えていた。知っていればもっと他《ほか》にやりようもあった。
だから、いま欲しいものがあるのならちゃんと言ってくれ。そうすれば君の体質《たいしつ》をより良く理解《りかい》できる。今後の対策《たいさく》を考えるのにも役立つ。わかるだろう?」
真由は、泣きそうな顔をした。
言い過《す》ぎたか。後悔《こうかい》の念がよぎり、あやまろうとしたとき、
「わたしは、その……」
目もとまで布団《ふとん》をよせ、視線をそらしたまま、
「わたし、男の人は苦手だけどサキュバスだし、今みたいに精気が足りないときは、ふと気をぬいた瞬間《しゅんかん》とかに、その……」
「その……なに?」
「その、欲しくなることが、あって」
「――は?」
「す、すいません、めいわくですよね、そんな目でみられたら、誰《だれ》だって」
口を閉《と》ざす。
「……ええと」
……………。
「ほ、欲しくなるって、な、なにが?」
答えない。ゆでだこになり、消え入りそうな様子で目をぎゅっと瞑《つむ》っている。
なにが欲しいか?
決まっている。彼女は生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》であり、他者、それも異性から精気を吸《す》わねば生きていけないのであり、つまりはサキュバスなのだから。
おちつけ。あせるな。たいしたことではない。彼女からこういう発言が出たところで不思議ではない。変に意識するのは失礼だろう。個性《こせい》、アイデンティティーというものを尊重《そんちょう》しなければ。いやそういう問題じゃないか。ああもうなんでもいいとにかくおちつけ。
「月村さん、その、おれは」
ともかく口を開き、なにも考え無しだから後が続かず、途方《とほう》にくれ、
「――? 月村さん?」
そんな彼をよそに、真由は静かに寝息《ねいき》を立てていた。
考えてみれば無理もない。ついさっきも教室で気を失ったばかりである。もともと弱っていたところを、今ので気力を使い果たしたのだろう。
今度こそ深い眠《ねむ》りについているはずだ。ちょっとやそっとでは目を覚まさないにちがいない。
峻護はほっと一息ついた。
――いや、つこうとして、できなかった。
いま現在《げんざい》自分が置かれている状況《じょうきょう》を、はっきり認識《にんしき》してしまったのである。
保健室にいる人間は二人きりで、なおかつ男と女。
こちらのステータスはオールグリーン。
相手は完全ノーガード状態。
しかも『欲しくなった』である。
「…………」
ごくり、と喉《のど》が鳴る。
これは、世間|一般《いっぱん》でいうところの『据《す》え膳《ぜん》』というやつなのではないか。
いやまて。それは早とちりかもしれない。彼女のなんてこともない言動を、都合よく解釈《かいしゃく》しているだけではないのか。
そうか? ほんとうにそうか? いまの一連の発言、他に解釈のしようがあるのか?
そうだとすれば――ここで何もしないのは、彼女に対して恥《はじ》をかかせることになりはすまいか。
まてまて。短気を起こしてはならない。彼女は、はっきり『くれ』と言ったわけではない。軽率《けいそつ》な行動はつつしむべきだ。間違《まちが》いのない確証《かくしょう》を得《う》るまでは――
いやいや、それはいくらなんでも優柔不断《ゆうじゅうふだん》が過《す》ぎるというものだろう。彼女の言葉と態度がすべてを物語っている。この状況で必要以上の躊躇《ちゅうちょ》は――
……峻護は、すでにアリ地獄《じごく》に搦《から》め捕《と》られている自分に気づかない。
なにしろ彼女はサキュバスなのである。男の理性の天敵《てんてき》、姿《すがた》を見せただけでクラスの男子どもに乱痴気《らんちき》さわぎを起こさせる少女なのだ。二人きりでいればどういうことになるか。
あまつさえ峻護は、そんな彼女とのニアミスを繰り返してきた。そこに加えての『欲しくなった』である。
(いいか、二ノ宮峻護。時と場合を考えろ)
それでも彼の理性は最後の抵抗《ていこう》をこころみる。
(ここは学校の保健室《ほけんしつ》で、いまは授業中《じゅぎょうちゅう》だ。ほかの生徒が真面目《まじめ》に授業している時にそんな背徳的なこと……その背徳がいいんじゃないか……って、ちがう、いかん、卑劣だぞ、二ノ宮峻護。寝込みを襲《おそ》うようなまねを彼女がどう思うか、お前はもう知っているはずだ。さあ、もうわかったろう。ここにいるのは危険《きけん》だ。はやくここを離《はな》れ――って、待て。何をするつもりだ、おれ。なぜ彼女に近づいているんだ、おれ)
抵抗は無意味に終わった。
真由を見下ろす。
波をうって広がる長い髪《かみ》。すべてをゆだねたように伏《ふ》せられたまぶた。かすかに開いた朱唇《しゅしん》は綻《ほころ》びかけた蕾《つぼみ》のごとく、まるでくちづけを要求しているかとも見える。
そっと布団《ふとん》をのける。ふわり、と、女の子のにおいがする。一瞬《いっしゅん》、気が遠くなる。生唾《なまつば》を嚥下《えんか》しようとして、できない。口の中はとっくに渇《かわ》ききっている。
彼女の頬《ほお》に手をのばす。
触れる。存在をたしかめるように、そっと手のひらを滑らせる。
なんの抵抗もない。
「…………」
顔を近づける。
理性の残りかすが、あらんかぎりの悲鳴をあげる。
ああ、おれは今なにをしているんだっけ
夢《ゆめ》うつつ、矇朧《もうろう》としたまま思う。
そう、ここは学校で、保健室で。そうそう、授業中だったよな。陽《ひ》が高くなってきたのか、暑い。セミの鳴き声が途切《とぎ》れることなく続く。あっちの木から、つぎはそっちの木から。プールで泳ぐ音も聞こえる。体育教師がとばす激《げき》、それに応《おう》じる生徒たちの不平。ああそれに、かすかな電子音も混《ま》じっている。じー、という、聞き覚えのある、セミの鳴き声とはべつの、
「…………」
あまりにも不注意だった。
こうなることは予測《よそく》しておくべきだったのだ。
深い悔恨《かいこん》のにじむ動作で、峻護はゆっくりと振《ふ》り向いた。
姉がそこにいた。
「――まったく、さかりのついたガキはこれだから。でもま、」
じー、と音を立てるデジカメから目を離した彼女は、満足げにうなずく。
「これで裁判所《さいばんしょ》に提出《ていしゅつ》する証拠《しょうこ》が、またひとつ……」
こちらについてはすぐに諦《あきら》め、峻護はもうひとりの人物へ視線《しせん》をやる。
「美樹彦さん」
「なんだい?」
「なぜここにいるんです?」
「なぜ、って、見てわからないかな?」美樹彦は、着込んでいる草臥《くたび》れた作業服を示し、
「このとおり、今日から僕はこの学校の用務員《ようむいん》だ。理由かい? もちろん妹の様子を見守るためさ。前任者? 今ごろベガスあたりで豪遊《ごうゆう》してるんじゃないかな」
「あ……う」
何を言っても無駄《むだ》だと理解したか、がっくりとうなだれる峻護。
それには見向きもせず、美樹彦はべッドに近寄ると、
「うん、休眠《きゅうみん》状態に入っているね。こうなれば僕が精気を分け与《あた》えないかぎり目を覚まさない――さて涼子くん。手を貸《か》してくれ」
「ええ。さ、真由ちゃん、ちょっとごめんね」
「! ってちょっと! なにやってるんだ二人とも!」
真由の制服《せいふく》を脱《ぬ》がせはじめている姉と、なぜか作業着を脱ぎはじめている美樹彦を見て、あわてて叫《さけ》ぶ。
「なにって」怪評《けげん》そうに美樹彦、「これから妹に僕の精気を分け与えようとしているんだが。このままじゃ残りの授業に出られないだろう?」
言っている間にも、美樹彦と真由は生まれたままの姿に近づいてゆく。
「だったら! なぜ裸《はだか》になる必要があるんです! 妹さんとはそういうことはしないって、言ってたじゃないですか!」
「峻護くん、君は何か心得ちがいをしているようだ。僕はただ、妹と肌《はだ》を重ねるだけだよ」
「だから、そういうことはしないって、昨日――」
「どうも話が噛《か》み合わないな。僕は文字通りに、妹と肌を重ねるだけなんだが」
「……?」
「ああ、なるほど。君は、僕が妹の手でも握《にぎ》るだけで精気の受け渡《わた》しができると思っていたんだな。その程度じゃ焼け石に水だよ。肌と肌の触れあう面積がもっと大きくないと。ただでさえ皮膚組織《ひふそしき》というのはそういう用途《ようと》には向いていないんだ。そのことも昨日ちゃんと話したろう?」
「どうせあらぬことでも想像《そうぞう》してたんでしょ。これだから思春期のマセガキは。第一これからしようとしているのは、れっきとした治療行為《ちりょうこうい》なのよ? たとえあんたの考えているような事をするのだとしても、そういう変な目で見られれば迷惑《めいわく》というものだわ」
白い目で肩《かた》をすくめる涼子。
「でも、だからって――」顔に朱《しゅ》が差すのを自覚しながら、
「それだって、やっぱりまずいでしょう! 実の兄妹《きようだい》だといっても、裸でそんな――もっと他《ほか》の方法はないんですか!」
「ふむ」美樹彦はあごを撫《な》で、「実は、裏技《うらわざ》がないこともない。直接《ちょくせつ》飲ませる方法なんだが」
「飲ませる? 薬か何かですか?」
「まあ、ある意味では薬といえないこともない。時と場合によっては、普通《ふつう》の人間も薬効のあるものとして用いる向きがあるからね」
「だったらそのやりかたで――」
「だがこの方法には倫理《りんり》的な問題があってね」
美樹彦は沈痛《ちんつう》な表情《ひょうじょう》をつくってみせた。
「倫理的な問題って――いったい何を飲ませるんです?」
「なに、単純《たんじゅん》なことだよ。要するに、男性の生命エネルギーを凝縮《ぎょうしゅく》したものさえ用意できればいいわけだ。べつに特殊《とくしゅ》な生成法も必要としない。僕らはずいぶん昔から、自分の意思とは関《かか》わりないところでそれを生成し続けているのだから。その気になれば、君も僕も、すぐにそれを取り出して真由に与えることができる」
「わからないかな? 人間に限《かぎ》らず、あらゆる雌雄《しゆう》異体生物の雄《おす》はその能力をもっている。自分の生命エネルギーをたっぷり詰《つ》め込んで放出する能力を、だ」
考える。
飲ませる――ということは、固体、もしくは液体《えきたい》か。しかも自分の身体《からだ》で生成できるもの? 倫理的な問題、意思とは関わりなく生成、その気になれば取り出せる、雄の持っている能力、生命エネルギーを凝縮したもの、生命エネルギー、つまり精気、
「!」
天啓《てんけい》のごとく、ひとつの不道徳的|結論《けつろん》がひらめいた。
「ちょっ、それってまさか精え」
最後まで言うことはできなかった。
瞬息《しゅんそく》の挙動で間合いを詰《つ》めてきた美樹彦の拳《こぶし》が、峻護のわき腹《ばら》に突《つ》き刺《さ》さっていたからである。あばらをへし折る勢《いきお》いで打ちこまれたそれは、彼の肝臓《レパー》に深刻《しんこく》な機能障害《きのうしょうがい》を与えていた。
ものも言わず崩《くず》れおちる峻護の上に、加害者のあきれ声が降《ふ》りかかる。
「やれやれ。そういう単語を軽々しく口にしてはいけないと、きのう君の身体に教えてあげたばかりなんだがな。困《こま》ったものだ」
「いいわ美樹彦。バカは放《ほう》っておいて早く済《す》ませましょう。二時間目には間に合うようにしてあげたいし。――あら。やっぱり真由ちゃん、キレイな身体してるわねー」
「うむ。近頃《ちかごろ》いよいよ魅力《みりょく》に磨《みが》きがかかっているようだ。わが妹ながら見事な成熟《せいじゅく》ぶりだよ――」
治療行為と言いつつやけに楽しそうな二人の声と、いろいろな想像をさせる衣擦《きぬず》れの音を聞きつつ、峻護の意識は薄《うす》れてゆく……。
*
失神状態を姉に蹴《け》り起こされ、回復《かいふく》した真由を連れて教室に戻《もど》った峻護が見たものは、奇妙《きみょう》な態度をとるクラスメイト達の姿《すがた》だった。
(ぜったいおかしい)
真由の傍《かたわ》らに仁王立《におうだ》ちして周囲を警戒《けいかい》しつつも、彼は戸惑《とまど》いを隠《かく》せずにいた。
一時間目|終了後《しゅうりょうご》、小|休憩《きゅうけい》の時間である。
まず解《げ》せないのは男子連中の様子だった。なにしろ真由が戻ってきたというのに近寄ってくる素振《そぶ》りがない。といって峻護の警戒ぶりに辟易《へきえき》しているわけでもなさそうであり、まして真由への興味《きょうみ》を失った様子でもない。
それでは彼らが何をしているのかといえぼ、例えばある者は円陣《えんじん》を組み、応援団《おうえんだん》もかくやの気勢をあげている。またある者は肩を組み合って『We Will Rock You』を放歌し、またある者は感涙《かんるい》にむせび泣いては床《ゆか》を濡《ぬ》らし、そしてまたある者はそいつの肩をたたきながら自らも号泣《ごうきゅう》している、といった具合である。
いったい何があったのだろう。国家|存亡《そんぼう》の戦いに勝利した後のお祭り騒《さわ》ぎのようでもあり、あるいはそういった決戦を前にして必死の覚悟《かくご》を新たにしているようにも見える。最も不気味なのはやはり吉田と井上。異様な熱気を放つ男子どもの中心で常《つね》に似合《にあ》わず泰然《たいぜん》と構《かま》え、勝者の余裕《よゆう》じみた雰囲気《ふんいき》を漂《ただよ》わせつつ、峻護の視線に気づくと含《ふく》みのある笑《え》みを口唇《こうしん》に貼《は》りつかせてくる。不気味すぎる。
次に、女子の様子もこれまたおかしい。といって、彼女らは男子のように騒ぎ立てているわけではない。仲良し同士で談笑《だんしょう》したり、朝食代わりのお菓子《かし》をつまんだり、鏡とにらめっこしながら眉《まゆ》を整形したりと、こちらはいつも通りの振舞《ふるま》いである。だがどうしたことだろう、彼女達を見ているうちに油然《ゆうぜん》と湧《わ》き起こってくる、この胸騒ぎは。
そう、これは嵐《あらし》の前の静けさ、というやつだろうか。彼女らのたたずまいには、熱意を裡《うち》に秘《ひ》めて淡々《たんたん》と心気を練る、仕事人のそれに通じるものがある――ような、気がする。 綾川日奈子の様子をそれとなく探《さぐ》ってみる。目が合うと、彼女は「はぁい」とニコニコ笑いながら手を振ってきた。漠然とした不安は確信に転じた。彼女があれをする時は必ず一悶着《ひともんちやく》ある。過去《かこ》の豊富《ほうふ》な事例がそれを証明《しょうめい》している。
と、その綾川がおもむろに立ち上がり、女子に向かって「じゃ、そろそろ移動《いどう》しよっか」と声をかける。それに応じて順次、彼女らは和気《わき》藹々《あいあい》と教室を出ていく。
「では戦士諸君、」「我々《われわれ》もいざ向かおうではないか、約束の地へと」次いで吉田と井上が号令すると、男子どもは思い思いの雄《お》たけびを上げ、競うようにして廊下《ろうか》へ殺到《さっとう》した。
ぽつねんと、峻護と真由だけが取り残される。
(……何だったんだ?)
ともかくも真由の安全を確保《かくほ》できたことにほっとし、警戒を解いたのも束《つか》の間《ま》、
「あの、わたしたちも移動しなくていいんですか?」
その真由から遠慮《えんりょ》がちに促《うなが》された。
「移動?」
彼の脳《のう》は特Aレベルでの警戒態勢に伴《ともな》う心身の消耗《しようもう》ゆえか、彼女の言葉をすんなりとは消化してくれなかったが――
ややあってそのことに思い至り、峻護は全身の血の気が引いてゆく音を聞いた。
敵《てき》に背後を取られた時のような勢いで振り返り、窓《まど》の外を見る。
大盛《おおも》りの入道雲。遠慮|会釈《えしゃく》のない陽光。
夏である。
次の授業《じゅぎょう》は、体育である。
転校初日の真由に水着の用意があるはずもない、などと楽観しかけた峻護だったが、それも教室にやってきた姉の姿を見た途端《とたん》、もろくも崩《くず》れ去った。そういう点、涼子に抜《ぬ》かりはないのである。
とはいえこれは暴挙《ぼうきょ》というべきだった。峻護は反対した。猛《もう》反対した。しかし『これも男性|恐怖症克服《きょうふしょうこくふく》プログラムの一環』と説明され、覚悟《かくご》を決めた様子の真由がそれを受け入れた上、わざとらしく口笛を吹《ふ》きながらデジカメをいじり始める姉の姿を見せ付けられては、口をつぐむ他《ほか》なかった。
すでに授業は始まっている。
この時間帯、プールを使っているのは女子である。男子は水からあがり、体育|教師《きょうし》から平泳ぎの手さばきについて説明を受けている。
が、当然のごとく誰《だれ》も聞いていない。乱反射《らんはんしゃ》する青い水面に群《む》れをなし、歓声《かんせい》をあげつつしぶきを立てる少女達に、彼らの目は一対《いっつい》残らず向けられている。いや、この表現《ひょうげん》は正確ではあるまい。彼らの熱視線は、ただ一人の標的に注がれているのだから。
無理もないか、と峻護、その点については諦《あきら》めている。女性の身体バランスに黄金|比《ひ》があるとすれば、その生きた見本がすぐそこで肌《はだ》をさらしているのだ。見るなというほうが酷《こく》な話であろう。
それにつけても恐《おそ》るべきは月村真由である。学校指定の野暮《やぼ》ったい水着に包まれていても、そのボディラインにはいささかの曇りもない。清流に躍《おど》る若魚を思わせる涼《すず》やかさと、仄暗《ほのぐら》い洞穴《どうけつ》に咲《さ》く真紅《しんく》の毒花にも似《に》た妖艶《ようえん》さを兼《か》ね備《そな》えた肢体《したい》は、彼女がサキュバスであるという事実を声高らかに主張《しゅちょう》してやまず、ともすれば体育教師までもが視線をうつろにする体《てい》たらくであり、さらにどうかすれば峻護ですら、少しでも気を抜くといつの間にか彼女の姿を目で追っている、という始末であった。
その真由はといえば終始、ほがらかな微笑《びしょう》で授業に参加している。むろん峻護はそれで安心したりしない。あの表情は、顔面の筋肉《きんにく》が引きつると笑顔《えがお》の形になるという特異体質が存分に表れた結果と見ていいだろう。とはいえ今のところリタイヤする兆候《ちょうこう》は見られない。婦女暴行罪《ふじょぼうこうざい》が適用《てきよう》されそうな視線を集中され、さび付いたブリキ人形のようにぎこちない動きを余儀《よぎ》なくされながら、それでも懸命《けんめい》に振《ふ》る舞《ま》っている様子が見て取れる。さしあたり、こちらは問題なさそうだ。
問題あるのはクラスメイト達のほうである。
まずは男子。R指定すれすれの目つきで真由を舐《な》めまわしているのは考えものだが、実は峻護、むしろ感心している。なにしろあの水着姿を見せ付けられてただの一人も暴発《ぼうはつ》する者が出ていないのだから、これは拍手《はくしゅ》のひとつも送ってやるべきだろう。しかし、である。そのことによって峻護の不安はかえって増《ま》すのだ。これほどまでに足並《あしな》みが揃《そろ》っているということは、男子組がそれだけ組織《そしき》としてよく機能《きのう》しているということである。おそらく彼らは、ある種の統一《とういつ》された目的意識のもとに己《おのれ》を律《りっ》しているのであろうが、では、彼らにそこまでさせる目的とは果たしていかなるものか。決まっている。真由にちょっかいを出すことだ。ならぱそのための手段《しゅだん》とは? 彼らが一致団結《いっちだんけつ》して事に当たり、必遂《ひっすい》を期しているであろう作戦とは?
次に女子。こちらは依然《いぜん》、比較《ひかく》的|平穏《へいおん》に見える。新参者の真由に対する態度は付かず離《はな》れず、といったところ。彼女に向けられる男子の視圧に対しては「こら男子ーっ! えろい目で見てんなーっ!」などと日奈子あたりが時おり野次《やじ》を放っているが、それだけ。波低く、風おだやか、といった塩梅《あんばい》である。
が、どうにもこうにも不安だった。いつもの彼女達ならもっと真由をいじってもいいはずだし、あるいはピンク色のオーラを澱《よど》ませる男子どもに、より痛烈《つうれつ》なリアクションがあってもいい。
さらに不安を加速させる要素がある。女性|陣《じん》の目が自分に集中している気がするのだ。あからさまにではない。あくまでそれとなくであり、峻護が視線の元を探《さぐ》ろうとしても気配が半ばにして途切れてしまう程度の、微細《びさい》な感覚である。が、間違《まちが》いない。彼女達はこちらを見ている。それもどういうわけか、悪寒《おかん》を催《もよお》すような目つきで。その理由はといえば、やはり何かを仕掛《しか》ける呼吸《こきゅう》を計《はか》っているゆえ、とみるべきだろう。寸瞬《すんしゅん》の油断《ゆだん》もならない。
では男子にせよ女子にせよ一体なにを狙《ねら》っているのか? 残念ながらそれはわからない。が、自分にできることはわかっている。男どもの監視《かんし》と牽制《けんせい》だ。最優先事項《さいゆうせんじこう》は真由の安全|確保《かくほ》であり、奴等《やつら》が彼女を餌食《えじき》にしようとしていることは疑《うたが》う余地がないのだから。位置関係からしても、彼我《ひが》の戦力関係からしても、峻護の取りうる道はそれしかない。
真由があんなことになったばかりである。連中とて気にしてないわけではないだろうが、そのことは到底抑止力《とうていよくしりょく》になり得ないだろう。アホ騒《さわ》ぎ愛好家のお調子者どもが、最高の獲物《えもの》を前にしてそうあっさり引き下がるものか。だがこちらとてもう後がないのだ。涼子のテラースマイルが脳裏《のうり》にちらつく。二度目の失敗はすなわち死。今度はもう手加減《てかげん》できない。万一のことがあれぱ実力行使あるのみ――峻護は覚悟《かくご》を新たにし、知らず拳《こぶし》を握《にぎ》った。
がしかし、である。峻護には悪いが、ここで彼の大きな誤算《ごさん》について指摘《してき》しなければならない。
そもそものボタンの掛け違いは、彼が一年A組においていかなるポジションを占《し》めているかについて自覚していないことにある。彼は、一年A組の玩具《アイドル》なのだ。文武《ぷんぶ》両道で見てくれもいいが、くそ真面目《まじめ》でからかいやすく、普段《ふだん》から姉の理不尽《りふじん》にさらされているゆえに滅多なことではキレない男――これほどいじり易《やす》い相手もないだろう。おまけに峻護本人にその認識《にんしき》が希薄《きはく》なため、そのことがクラスメイトのいじり[#「いじり」に傍点]に一層拍車《いっそうはくしゃ》をかける、という仕組みである。
自覚の温《ぬる》さはそれだけに止まらない。彼は身長百八十五センチ、体重七十キロ、体|脂肪率《しぼうりつ》十パーセントの体格《たいかく》を持つ意味も、二ノ宮涼子と同じ遺伝子《いでんし》を受け継《つ》いでいることの意味も、てんでわかっちゃいない。ゆえに彼は、先ほど覚えた悪寒の意味も、女性陣が彼に注いでくる視線が、男子どもが真由に向けているそれと五十歩百歩であることにも、一向に気づかないのである。
授業終了間際《じゅぎょうしゅうりょうまぎわ》、それは起こるべくして起こった。
こういう場合の慣例《かんれい》通り、女子は男子よりも早めに授業を切り上げる。真由を含《ふく》む女子生徒たちが無事に更衣室《こういしつ》へ退避《たいひ》したのを見届《みとど》け、峻護はようやく安堵《あんど》した。こうなればさすがに手出しはできまい。一触即発《いつしょくそくはつ》の気配に満ち満ちていたこの授業も、これでどうにか乗り切れそうだ。
首の皮一枚《かわいちまい》で生きながらえた――そんな心境《しんきょう》で一息入れた時である。更衣室からすさまじい悲鳴が上がったのは。
絹《きぬ》を裂《さ》くような、などという生易《なまやさ》しいものではない。生きたまま五体を裂かれてもこうはなるまいと思えるような阿鼻叫喚《あびきょうかん》の大合唱が、一斉《いっせい》に巻《ま》き起こったのである。
峻護の危機《きき》対処能力《たいしょのうりょく》は賞賛《しょうさん》に値《あたい》する。このケースでも彼はそれを証明《しょうめい》した。この世のものとも思えぬ絶叫《ぜっきょう》に鳥肌《とりはだ》を立たせたのも一瞬《いっしゅん》、何が起こったか考えるよりも早く、彼は酸鼻渦巻《さんびうずま》く地獄《じごく》絵図が展開《てんかい》しているであろう更衣室へ、ただちにその俊足《しゅんそく》を向けた。
が、それはほんの数歩で止まった。
行く手に吉田と井上が、いや、一年A組男子の全員が立ちはだかり、峻護の動きを封《ふう》じているのだ。
すぐに察した。この連携《れんけい》、明らかに何かしでかそうとしている。だが何を? 真由を狙うにしたって、男どもはすべてここに面子《メンツ》を揃えているではないか。
迷《まよ》いが生じた。その間に、数テンポ遅《おく》れて我《われ》に返った体育|教師《きょうし》が血相を変えて更衣室へ走る。悲鳴はいまだ止《や》まず続いている。
「――お前ら、何を企《たくら》んでいる?」
横目で更衣室を窺《うかが》いながら問い質《ただ》す峻護だが、男どもはニヤニヤ笑うばかりで答えようとしない。
なおも言い募《つの》ろうとした時、体育教師が更衣室へ躍《おど》り込《こ》むのが見えた。悲鳴はなおも続いている。いや、むしろその音はより一層《いっそう》大きさを増《ま》し、よりクリアに耳へ届《とど》くようになってきて――
と、そこで峻護は目を丸くした。悲鳴がよく聞こえてくるのも当然であった。体育教師が入っていったのとは反対側、南口の扉《とびら》が開き、そこから女子生徒たちがぞろぞろと出てくるのだから。無論《むろん》、悲鳴をあげながら、である。だがそれは真実救いをもとめる声ではない。彼女らは断末魔《だんまつま》のごとき絶叫を、鼻歌を口ずさむのと同等の気軽さで発しているのだ。しかも更衣室から列をなして出てくるその動きたるや、バッキンガム宮殿《きゅうでん》の衛兵《えいへい》が臍《ほぞ》をかむほどの整然さであり、そして彼女らは瞬《またた》く間に脱出《だっしゅつ》を完遂《かんすい》すると、そばにあったモップで扉に封《ふう》をほどこした。さらにはいつの間にか分隊行動を取っていた吉田と井上が北口の扉に取り付き、同じくモップでロックをかける。
更衣室に、体育教師だけが取り残された。
してやったり、とばかりにバカ二人がこちらを振《ふ》り向き、唇《くちびる》を笑《え》みの形にひん曲げる。
成り行きの意外さに呆然《ぼうぜん》としていた峻護、それで覚醒《かくせい》した。
やられた。男子組、女子組、それぞれ何か仕掛《しか》けてくるだろうとは思ったが、まさか手を組むとは。いや違《ちが》う、これは認識の甘《あま》さというべきか。そう、こういうことが大好きなのは何も男子に限ったことではないのだ。そのことは重々|承知《しょうち》していたはずなのに。不覚。今後、二度と同じ手は食わない。
峻護は手際《てぎわ》よく反省を済《す》ませると、目まぐるしく頭脳《ずのう》を回転させ、敵《てき》の次なる行動を予測《よそく》し始める。
予測しつつ、一方では時間|稼《かせ》ぎを忘《わす》れない。
「何をするつもりか知らないが――」
体育教師の怒声《どせい》を遠くに聞きながら、悠々《ゆうゆう》と戻《もど》ってきたバカ二人をにらみつける。
「今の行動、どうやって先生に弁解《べんかい》する気だ?」
「弁解? 何の話をしてんだお前?」肩《かた》をすくめながら、吉田。「女子の着替《きが》え中、更衣室にチャバネゴキブリが発生。彼女たちは一時的なパニックに見舞《みま》われるも、すぐに冷静さを取り戻して脱出。害虫の襲撃《しゅうげき》から無事に逃《のが》れた。が、救出に向かった勇気ある先生は、たまたま倒《たお》れかかってきたモップによって出口をふさがれて、憐《あわ》れ、更衣室に一時|捕《とら》われの身になっている。――この状況《じょうきょう》のどこに弁解が必要なわけ?」
「まったくだ。何を言ってやがんだろうな、コイツは」と、井上があとを引き取る。「見ての通り、すべて偶然《ぐうぜん》の産物じゃねえか。おまえも見てただろう?」
そういうシナリオか、と舌打ちする。いくら峻護が声高《こわだか》に真実を叫《さけ》んだところで、男子組と女子組が連携してシラを切り通せば煙に巻ける――その自信があるのだろう。普段はいがみ合っていても、いざ団結すればその程度の手管《てくだ》は発揮《はっき》する連中だ。
「……それで? その憐れな先生を助けようとしない理由は、どうやってでっち上げるつもりだ?」
重ねて問い詰《つ》める間にもさりげなく周囲に目を配り、状況を確認する。
左手にプール、右手に金網《かなあみ》のフェンス。前方、数メートルの距離《きょり》を置き、男子|総員《そういん》が密集《みっしゅう》する壁《かべ》。その後ろ、さらに数メートルを置いて女子がひと塊《かたまり》になっている。真由の姿を探す。壁が邪魔になって見づらいが、居る。女子集団の中心、おしくら饅頭《まんじゅう》されているような格好《かっこう》で、状況の急展開に目を白黒させている。
「べっつにィ。言い訳なんざ、いっくらでもひねり出せるっての」
「ふん、そうはいくか。毎度毎度バカ騒《さわ》ぎばかり起こして。今回こそは、お前らの思惑《おもわく》通りにはいかない」
真由に事態の打破《だは》を期待するのは――あの様子では無理か。どうする? 強行|突破《とっぱ》して彼女の身柄《みがら》を奪回《だっかい》するか。いや、いくらなんでもそれは手荒《てあら》にすぎる。それにバカ男どもはともかく、できるだけ女子には手をあげたくない。だが小細工の利《き》く場面でないのも確か。確実に真由を護《まも》るには、やはり彼女を手近に置いておく必要がある。
「思惑通りにはいかない? ふん、強気じゃねえか。勝算でもあんのか?」
「勝算はない。だが、屈《くっ》するわけにもいかない。こっちだって命を張っているんだ」
とはいえこの状況――真由が女性|陣《じん》に囲まれている状態であれば、今のところ彼女の安全は確保されていると判断していい。でもそれも妙《みょう》な話だ。男子と女子は手を組んだのではないのか? 男子の目的が依然《いぜん》として真由にあり、なおかつ女子と同盟《どうめい》関係を結んだのであれば、なぜ彼女は今も女子の手の内にある? そもそも男子と手を組んで女子に何の得があるのか?
それに、どうして連中はこちらの時間稼ぎにむざむざと付き合っている? 状況は向こうが有利のはずなのに、何も仕掛けてこないのはどういうわけだ?
わからない。あせる。その動揺《どうよう》を悟《さと》られないよう、立ちふさがる吉田と井上を一層《いっそう》強くにらみつけた。
それに応じるかのように、バカ二人が思わせぶりな笑みを口辺に浮《う》かび上がらせる。
次の瞬間《しゅんかん》、峻護の背後に殺気が湧《わ》いた。
反射的に振り向いた。
振り向きつつ、彼は頭上から何かが急襲《きゅうしゅう》してくるのを見た。かわしようもなくそれを受けた。受けた時には、すでに彼の両腕《りょううで》は封《ふう》じられている。
封じられてから、ようやく峻護は己《おのれ》を捕縛《ほばく》したものの正体を知った。
浮き輪である。水泳場ならばどこにでも常備されている、救命用の赤くて白いやつ。人を救うために存在するはずのそれが、まるで測《はか》ったかのように峻護の身体にフィットしている。まったく身動きが取れない。
それにしてもこれほどタイトなサイズの浮き輪を、寸分《すんぷん》の狂《くる》いなく峻護に嵌《は》めこんだ者……それも、誰《だれ》もいなかったはずの背後にいつの間にか回りこみ、ワンチャンスを見事ものにした人物とは一体――
「はぁい」
峻護の視線を受け、綾川日奈子がニコニコ笑いながら手を振ってきた。
「ごめんね二ノ宮くん。ま、これも人生だから。ね?」
ちっとも申し訳なさそうでない日奈子のセリフが終らないうちに、機をみた男子どもが一斉《いっせい》に峻護へ襲《おそ》いかかった。
やられた、またしても陽動――時間稼ぎをされていたのはおれの方――いつのまに綾川さんは後ろに――髪《かみ》から水が滴《したた》っていた、そうか、プールの中を潜行《せんこう》して――月村さんも黙《だま》ってないで教えてくれればいいのに――壁に隠《かく》れていたし、おれが気づかなかっただけか――というか女子の誰かが口を塞《ふさ》いでいたんだろうけど――連中、そういうことは抜《ぬ》かりないし――
もみくちゃにされつつ敗北の苦味を舐《な》めさせられているうち、さらに浮き輪の桎梏《しっこく》を多数追加され、いも虫と大差ない姿に成り果ててしまう。もはや指先ひとつ動かすのもままならない。すべては峻護の性質を読みきった、一年A組お調子者連合の作戦勝ちだった。
ものの見事に捕縛された峻護、白洲《しらす》に引き出された罪人《ざいにん》のごとくプールサイドに脆《ひざまず》かせられる。
「ホント、お前は罠《わな》に弱いねえ」
勝利を誇《ほこ》っているというより、むしろ呆《あき》れたような口調で吉田が言いよこしてくる。
「まったくだぜ。そうそう、お前|訊《き》いてたよな二ノ宮。先生を救《たす》けない理由をどうやってでっち上げるか、って。俺らの基本方針《きほんほうしん》としては、あの手この手でお前にすべての責任《せきにん》をおっ被《かぶ》せて保身を図る予定でいるから。よろしく頼《たの》むぜ」
と、さらに井上。
「くっ……お前ら、おれをどうするつもりだ」
ここにきてもまだ、なぜ女子が男子に協力し、自分の身柄を押《お》さえるのかがわからない。
彼の疑問には答えぬまま、バカ二人は不気味に笑いつつ、虜囚《りょしゅう》の両脇《りょうわき》を抱《かか》えて一歩前に出た。
「おい女ども! 約束のブツ、二ノ宮峻護だ!」
「そっちも契約《けいやく》を果たせ!」
(――何だ? 何のことを言っている?)
成り行きの意味がわからず、峻護はひたすらされるがまま。
「言われなくたって、こっちも用意できてるわよ」
呼《よ》びかけに応《おう》じたのは綾川日奈子。そして彼女に付き従《したが》うようにして数人の女子、その中心にいるのは未《いま》だ目を白黒させている月村真由。その様相は、峻護と同じく囚《とら》われの捕虜《ほりょ》のようで――
捕虜?
その考えに至《いた》った時、峻護は思わず目をむいた。敵の目的をようやく悟ったのである。
叫ぶ、
「見損《みそこ》なったぞ綾川さん! おれだけならともかく――」
「ま、これも人生だから」
「今ならまだ間に合う。よせ。考え直すんだ。君たちのしている行為《こうい》は人道に対する重大な背反《はいはん》だぞ。こんなことが許《ゆる》されていいはずがない」
「ふふふ、何とでもおっしゃいな。所詮《しょせん》は負け犬の遠吠《とおぼ》えよ」
悪役っぽい声をつくって言い放ち、北条麗華顔負けの高笑いをあげる日奈子。だめだ。のりのりだ。
それぞれの陣地から、それぞれが確保《かくほ》する捕虜が引き出されたこの態勢《たいせい》。教室における彼らの不審《ふしん》な態度。
もはや疑《うたが》う余地《よち》はない。人質|交換《こうかん》――よもや、かくも非道な密約《みつやく》が取り交《か》わされていようとは。これでは人身売買と大差ないではないか。
先ほど真由が守られているようだ、といったが、それはそうだろう。人質の安全確保は誘拐《ゆうかい》産業における基本《きほん》中の基本なのだから。
「総員、二ノ宮三等兵の尊《とうと》い犠牲《ぎせい》に対し、哀悼《あいとう》の意を表すべし!」
見事な敬礼《けいれい》で男子一同に見送られながらケツを蹴《け》られた峻護、たたらを踏《ふ》みつつ女子の許へ。
「悪く思わないでね月村さん。あなたの立派《りっぱ》な献身《けんしん》、あたし達は決して忘《わす》れない。忘れないから」
真由は「え? え? え?」と未だに事態を飲み込めてないまま、見事な泣き真似《まね》を見せる女子一同にぐいぐい背中《せなか》を押され、男子の許へ。
なおも抗議《こうぎ》の声を上げ続ける峻護には構《かま》わず、取り引きは円滑《えんかつ》のうちに完了《かんりょう》した。
女性陣が、じわりと生贄《いけにえ》を取り囲む。いろいろな意味で身の危険《きけん》を感じるその目つきに、彼は沈黙《ちんもく》を強《し》いられる。
「――何をする気、……ですか?」
思わず敬語。
一斉に『にまあ』と笑う小|悪魔《あくま》たち。
「――やっちまいな!」日奈子の号令一下、ピラニアと化した少女の大群《たいぐん》が黄色い歓声《かんせい》をあげて獲物《えもの》に襲《おそ》いかかる。悪夢の始まりだった。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺたぺた触《さわ》りまくる。「剥《む》いちゃえ剥いちゃえ!」きわどい声も飛ぶ。なにも峻護をオモチャにするのは姉だけでないのだ。あわれな子羊は容赦《ようしゃ》のないセクハラの洗礼《せんれい》を浴び、ただただ悲鳴をあげるのみ。案外フェミニストである彼は女性に手荒《てあら》なことができないだけに、展開《てんかい》は一方的なものとなっていく。
それでも抵抗《ていこう》をやめたわけではない。かろうじて海パンだけは死守しつつ、なおも脱出《だっしゅつ》の機会をうかがいながら、護《まも》るべき者の姿《すがた》を視界《しかい》に捉《とら》えるのを忘れない。
だが状況《じょうきょう》は絶望《ぜつぼう》的だった。真由は一分の隙《すき》もなく包囲され、逃《に》げるどころか身動きさえままならないでいる。餓狼《がろう》どもの顔つきはもはや救いようがない。目を血走らせ、鼻息を荒くし、よだれをすすっている輩《やから》までいるのが遠目にも視認できる。次の瞬間《しゅんかん》にも理性のヒューズを飛ばそうとしている様子が手に取るようにわかった。
終わった――すべては手遅れになったことを知り、峻護は三途《さんず》の川を渡《わた》る覚悟《かくご》をした。
その時である。す、と気配もなく現《あらわ》れて真由の傍《かたわ》らに立った人影《ひとかげ》があった。
黒のセパレートに白いブラウスをラフに引っかけただけの水着姿――その扇情《せんじょう》的なスタイルに、男どもの視線がたちまち釘付《くぎづ》けとなる。
峻護の血の気が引いてゆく。真由と並んでも引けを取らない、というかどっちがサキュバスだかわからない容姿を誇《ほこ》るその女性が、彼を冷ややかに見据《みす》える。
その瞳《ひとみ》は雄弁《ゆうべん》にこう語っていた。
『ほんと、感動的に使えないわねこのバカは。真由ちゃんはわたしが救《たす》けるけど、あんたはそこで無様に嬲《なぶ》られてなさい』
姉の断罪に戦慄《せんりつ》する暇《いとま》もない。峻護は、己を見舞《みま》ったセクハラの嵐《あらし》が不意に途絶《とだ》えたことに気づく。
動きを止めた少女達の視線を追う。
そこに屹立《きつりつ》するは、ミケランジェロのダビデ像《ぞう》も裸足《はだし》で逃《に》げ出すような肉体美――モザイク入れたほうがよさそうな際《きわ》どいビキニウェアただ一切れを身につけた、同性の峻護から見ても惚《ほ》れこむしかない、男性体における一つの極致《きょくち》。誰かが生つばを飲み下す音に、なるほどインキュバスとはこういうものか、と否応《いやおう》なく納得《なっとく》させられる。
『涼子くんはああ言っているが、今回は手を貸《か》そう。なに、気にすることはない。この貸しはいずれ利子込みで返してもらうさ』
一癖《ひとくせ》も二癖《ふたくせ》もある少女たちを刹那《せつな》の間に魅了《みりょう》し尽《つ》くした用務員《ようむいん》は目線だけでさわやかにそう語ると、フェロモンの奴隷《どれい》と化した子猫《こねこ》らに『さあ、おいで』とばかり両手を広げ、極上の微笑《ぴしょう》を投げかけた。途端《とたん》、彼女らは先ほどに数倍する嬬声《きょうせい》を上げ、たちまち新たなターゲットを取り囲む。
一方、辛《から》くも責《せ》め苦から逃《のが》れ得た峻護はプールの中にいた。女性|陣《じん》が美樹彦に殺到《さっとう》する際《さい》、無情にも突《つ》き飛ばされたのである。身動きのままならないゆえ、彼は無抵抗に水中へ放《ほう》り込まれ、そのまま岸に辿《たど》り着くこともできず、土左衛門《どざえもん》同然に浮遊《ふゆう》している。
視界の隅《すみ》で、またしても乱痴気《らんちき》騒《さわ》ぎが展開しているのが見える。涼子は一線を越《こ》えようとしてくる生徒に当て身を食らわせながら、美樹彦は寛闊《かんかつ》な態度で激烈《げきれつ》なセクハラを受け止めながら、色欲《しきよく》の亡者《もうじゃ》どもをそれぞれあしらっている。二人とも、さてはあらかじめこの事態を予測してスタンバイしていたものか。
「あの――だいじょうぶ、ですか?」
無事に難《なん》を逃れた真由が駆《か》けてきて心配げに覗《のぞ》き込んでくる。だが峻護にはそれに応《こた》える気力もない。腹《はら》の立つほど晴れ渡《わた》っている空を、ただうつろに見つめるだけ。
長い長い一日は、まだ始まったばかりである。
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其の三 それはまずいよ二ノ宮くん
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夕刻。
大小の悲喜《ひき》交々《こもごも》を呑《の》みこみ、私立|神宮寺学園《じんぐうじがくえん》は今日も放課後をむかえる。
それぞれのクラスでホームルームが終わり、校舎《こうしゃ》がざわつきはじめ、玄関先《げんかんさき》に人影《ひとかげ》がちらほら目につくようになるころ、いち早く校門前に立つ生徒たちの姿があった。
北条麗華《ほうじょうれいか》とその取り巻きである。
彼女は、今日一日で起きた学園の動きを簡潔《かんけつ》にまとめた報告《ほうこく》に耳をかたむけていた。
「……というわけで、今日の神宮寺学園はすべて|二ノ宮《にのみや》くんがらみで動いたと、そう言っていいと思います。麗華お嬢《じょう》さま」
報告書をめくりながら、保坂《ほさか》がおっとり口調で見解《けんかい》をのべる。
「次に、騒《さわ》ぎの中心となった人物のうち二ノ宮くんをのぞく三人――新しく赴任《ふにん》した養護教諭《ようごきょうゆ》の二ノ宮|涼子《りょうこ》先生、用務員の月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》氏、それに転校生の月村|真由《まゆ》さんについての個別報告ですが――」
その合間にも教程《カリキュラム》を終えた学《まな》び舎《や》は、帰途《きと》につく生徒の影を吐《は》き出し続けている。
彼らは麗華のかたわらを通る時、決まって何かしら声をかけていく。
「うっす、麗華さん、おつとめご苦労さんです」
「麗華さーん、今日も生徒会のお仕事? がんばってねー」
そのたびに、彼女は必ず笑顔《えがお》であいさつを返した。
時には、
「ああ、あなた。このあいだ都展で入選していたわね。おめでとう。これからも頑張《がんば》って」
そんな声もかける。
絶《た》え間なく繰《く》り返されるそんなやり取りの中、保坂の報告は続く。
「月村美樹彦氏と月村真由さんは実の兄妹《きょうだい》、二ノ宮涼子先生は二ノ宮くんの実の姉、ということで間違《まちが》いないようです。裏《うら》もとりました。なぜ急にこの三人がこの学園にくることになったか、詳細《しょうさい》はわかってません。ただ、これは未確認《みかくにん》の情報なんですけど――月村真由さんは重度の男性|恐怖症《きょうふしょう》らしいですね。で、彼女が学園生活を送る上でのフォローをするために、月村氏と二ノ宮先生は赴任してきたのだとか」
さらに報告は続く。新顔三人の人気ぶり――保健室、用務員室、一年A組に出現した人だかり、授業をサボっておしかける生徒が続出、ケンカ騒ぎも続出、保健室での怪我《けが》人がいちばん多かったというあべこべ、
「――とにかく相当な騒ぎだったみたいです。生徒会も教師連も鎮静化《ちんせいか》に乗り出したみたいですが、あまり効果《こうか》はなかったようですね。お嬢さまは商務で本家に戻《もど》られてましたし……」
同じく麗華について北条家に戻っていた保坂が言い、自らの失態に恐縮《きょうしゅく》した取り巻きの生徒会メンバーたちが頭《こうべ》をたれる。
それを手で制《せい》し、
「かまいませんわ。みな、ただのお祭り気分なんでしょう。この学園にはよくあること。しばらく放《ほう》っておけばよろしいですわ。当学園は徹底《てってい》して生徒の自主性を重んじる校風です。いずれ、収《おさ》まるべきところに収まるでしょう。今回にかぎって生徒たちの興《きょう》をそぐような処置《しょち》をとるのは、わたくしの本意ではありません。
それよりも皆《みな》さん、下校する生徒はおおかた校舎を出たようですわ。おつかれさま、あとはわたくしひとりで十分です」
麗華の言葉に取り巻きたちは敬愛をこめて一礼し、それぞれの放課後へと散っていった。
それを見届けてから、
「保坂。こまかい調査《ちょうさ》は別途行いますわ。さしあたりは二ノ宮|峻護《しゅんご》に関する報告だけよこしなさい」
「はあ。ええと――二ノ宮くんの今回の役割《やくわリ》はですね、ひとことで言えぱ騎士《ナイト》ですね」
「ナイト?」
「そうなんです。お姫《ひめ》さまを護《まも》るナイト。一連の騒ぎにおいて、彼の役どころというのは判《はん》で押《お》したように決まっていて。二ノ宮くんは一日じゅう月村真由さんについてまわり、むらがる男子生徒から彼女をかばう行動にでています。報告書を見るかぎりでは、ほとんど決死の覚悟《かくご》で立ち回っていますね。彼女には指一本ふれさせないぞ、みたいな」
ぴく、と麗華の表情が動く。
「おかげで二ノ宮くん、心身ともにぼろぼろみたいですよ。月村真由を専有《せんゆう》している、ということで、ずいぶんと突《つ》きあげを食らったみたいだし。だけどそれでいてなお、彼はナイト役をやめなかったみたいです。一体なにが彼をそこまでさせるのかなあ」
「…………」
「こうなるとやっぱりあれですか、お嬢さま」
「なによ」
「二ノ宮くんに会ったら、厳重《げんじゅう》注意とか、訓告処分《くんこくしょぷん》とか、そういうことですか」
「馬鹿《ばか》おっしゃい」
麗華は緑なす黒髪《くろかみ》をかきあげ、ぴしゃりと言い放つ。
「この件はあの男ではなく、その周囲がおこした騒動《そうどう》。二ノ宮峻護|個人《こじん》を罪《つみ》に問うことはありませんわ。責任の所在をとりちがえないで」
「はあ、そうですか」
その返答を聞き、保坂少年は好も[#「ま」の間違い?原本のまま残す]しげに主人を見やるが、
「ただし、」
麗華は棘《とげ》だらけの口調で付け加えた。
「あの小娘《こむすめ》については別よ。月村真由とやら、要するに騒動の元凶《げんきょう》なのでしょう? 今朝の無礼もありますし、ただで済《す》ますわけには――」
そこで言葉を切り、校舎の方へ視線をやる。
帰宅《きたく》する生徒の姿《すがた》が、あらかた尽《つ》きたかと思えた頃《ころ》である。玄関口から、ぽつん、と出てきた人影《ひとかげ》があった。
普通《ふつう》ならそれが誰《だれ》なのか、まだ視認《しにん》できないような距離《きょり》である。
だが。
気に食わない女のことを考えていたために柳眉《りゅうび》を険《けわ》しくしていた麗華は、その人影を認めるとたちまち聖女のごとく表情《ひょうじょう》をやわらげる。しかしそれもほんの一瞬《いっしゅん》、すぐに険しい顔を作りなおし、と見るや、遠目にもげっそり疲労《ひろう》しきった人影の様子に気づいて表情を翳《かげ》らせ、だがその心配そうな顔も、人影のうしろをついてくるもうひとつのシルエットに気づいた瞬間ふくれっつらになり、
さんざん顔を変えた末、『おーっほっほっほ』と高笑い。
『身勝手で高圧的な態度の麗華お嬢さま』の姿におちついて、その人物をむかえた。
「また会いましたわね、二ノ宮峻護!」
両手を腰《こし》にあて、両足は肩幅《かたはば》に開き、
「あなたに言っておくことがありますわ二ノ宮峻護。ほかでもない、今日あなたの周りでおこった一連の騒《さわ》ぎのことよ。多少のことならともかくこれだけ学園内の風紀を乱《みだ》されては、わたくしも生徒会長として見すごすわけには、」
「え? お嬢さま、さっきは二ノ宮くんの罪は問わないって……」
「保坂、おまえは黙《だま》ってなさい。いいこと二ノ宮峻護。今後は――」
「北条|先輩《せんぱい》、ちょっと」
麗華の論難を、峻護が無遠慮《ぷえんりょ》にさえぎった。生気というものが全く欠けた、それでいてどこか鬼気《きき》せまるような口調だった。
それは麗華の知らない峻護だった。彼女は戸惑《とまど》い、押《お》し黙った。
「すいません。今日は勘弁《かんべん》してください。彼女、疲《つか》れてますから」
ぼやくように言い、背後《はいこ》を示《しめ》す。
その先に月村真由がいる。たしかに顔色はよくない。なぜか疲労とは別の理由で放心しているらしいのが不可解《ふかかい》ではあるが。
「はやく帰してやりたいので。すいません」
頭をさげ、呆然《ぼうぜん》とする麗華の脇《わき》を通り過ぎる。
それにやや遅れて、時間の止まっていた小娘が、はっ、と気づいたように瞬《まばた》き。
去ってゆく背中と麗華を交互《こうご》に見やっておろおろしていたが、やがて、ぺこ、とおじぎをし、小走りに騎士のあとを追った。
呆然としたまま麗華は考える。
二ノ宮峻護はこれまで、自分に対してあんな言い方をしたことはなかった。
それに。
彼はたしかに、報告にあった通りの満身創痍《まんしんそうい》に見えた。
なのになぜ、『彼女、疲れてますから』なのだろう。『はやく帰してやりたいので』なのだろう。
『おれ[#「おれ」に傍点]、疲れてますから』でも、『はやく帰りたいので[#「帰りたいので」に傍点]』でもなく。
どうみても小娘より、彼のほうが休息を必要としているはずなのに。
まるで……あれではまるで――
「なんかあれですねお嬢《じょう》さま。あのふたり、まるで恋人《こいぴと》同士み」
保坂は最後まで言うことができなかった。
「…………」
麗華はぼんやりと二人の姿を見送りつつ、無意識のうちに繰り出した自らの右ストレートによって失神した下僕《げぼく》が地に倒《たお》れる音を聞く。
「生徒会長!」
誰かが呼《よ》ぶ声で麗華は我《われ》に返り、あわてて表情を取り繕《つくろ》った。
見ると、先ほど散っていった生徒会メンバーのひとりが駆《か》け寄《よ》ってくる。
「生徒会室にこのようなものが」
差し出されたそれは、どうやら彼女あての投書のようであった。
封《ふう》を切って一読した。
「なっ……」
すでに平常《へいじょう》を取り戻していたはずの表情が、見る見るうちに度を失っていく。
「なんですってぇ……」
こめかみに青筋を浮き立たせ、麗華はそれを破りすてた。
*
もつわけがない。
重い足取りで帰路をたどりながら、峻護はあらためて確信《かくしん》する。
もつわけがないのだ、こんな生活をしていたら。
今日一日の素敵《すてき》な学園ライフを思い返す。
月村真由をめぐる騒動《そうどう》の数々。
新聞部の取材、各種クラブ活動の勧誘《かんゆう》などは序の口。うわさの転校生をひとめ見ようと押しかけてくる生徒たちを仕切り、彼らから見物料をとろうとする吉田《よしだ》と井上《いのうえ》を張り飛ばし、早々と発足したファンクラブに注文をつけ、そうこうしているうちに真由のマネージャーのような位置におさまってしまい、次から次へと舞《ま》いこんでくる案件《あんけん》のすべてに首を突《つ》っこむ羽目になり、さらには姉と美樹彦が絡《から》んできて――
それ以上は思い出すのをやめた。精神衛生《せいしんえいせい》に深刻《しんこく》な影響《えいきょう》をあたえかねない。
二ノ宮家へ続く坂をのろのろ進んでゆく。太陽が黄色い。日差しはいまだ激《はげ》しく、これでもかと峻護の五体を責《せ》め苛《さいな》む。蝉時雨《せみしぐれ》はどこまでも耳障《みみざわ》りだ。
(土台、無理な話だったんだ)
本来なら何もかも放《ほう》り出すところだ。どんなペナルティが待っているとしてもそうするべきだ。 それに値《あたい》する動機も十分なはずだ。
(ただ、)
のぞき見るようにして、峻護は肩越《かたこ》しに目をやる。
月村真由。
すっかりしょげ返った様子で、うつむきながらとぼとぼついてくる。むしろ峻護より彼女のほうが沈《しず》んでいるように見える。
学校でのあれこれを思い出す。
峻護がトラブルに巻《ま》きこまれるたび、彼女は立位《りつい》体前屈《たいぜんくつ》でもするような格好であやまるのだ。今日だけで彼女の謝罪《しゃざい》を何度うけただろう。
そして彼女は最後まで音《ね》を上げなかった。どれだけフラフラになっても倒れなかった。
そういう姿を見せられては、峻護としてもあまり多くは言えなくなるのだ。
だがもうこれ以上は。
「…………」
玄関《げんかん》を開ける。
わき目も振《ふ》らず台所へ直行し、冷蔵庫《れいぞうこ》から栄養ドリンクを取り出す。姉の相手をするのは何かと心身をすり減らすため、この手の品をつねに備蓄《ぴちく》しているのだ。彼女が家にいる間は、これと胃薬から手がはなせたい。
一本あけただけでは足りた気がせず、二本、三本と飲み干《ほ》していく。
べつに即効性《そっこうせい》があるわけではないが多少は生き返った気持ちになる。
と、そこでようやく、所在なげに突っ立っている真由に気づいた。部屋に戻《もど》っていると思いきや、なぜかここまでついてきたらしい。
「何?」
声をかけると、細い身体《からだ》をますます縮《ちぢ》こまらせる。
(…………?)
疲労《ひろう》のためか、峻護の頭は普段《ふだん》ほど回っていない。
オイル切れのギアボックスのように重い思考をめぐらす。
彼女は慣《な》れない学校で一日をすごし、しかも一度はぶっ倒れている。
当然、疲《つか》れている。
空になった手の中のビンを見る。
何か言いたげな真由に視線を転じる。
もう一度ビンを見、ふたたび真由へ視線。
(ああ、なるほど)
理解《りかい》した。
四たび冷蔵庫を開けて、
「ん、これ」
愛飲《あいいん》の栄養ドリンクを差し出した。
「え?」
真由はきょとんと目を瞬《しばたた》かせる。
どうやらハズレだったらしい。
よくよく考えてみれば、栄養ドリンクが欲《ほ》しい、欲しくない、なんてことでわざわざここまでついて来たはずもない。おねだりする小学生でもあるまいし。
遅《おそ》まきながらそこに思い至ったものの、こうなっては峻護としても引っこみがつかず、ドリンクを握《にぎ》った手をさらに突き出すようにして、
「おれがいつも飲んでいるやつなんだ。これで、すこしは疲れが取れると思う」
当惑《とうわく》したまま、真由はおずおずとそれを受け取る。
その表情に、ゆっくりと理解《りかい》の色が浮《う》かんでくる。
そして――変化は起こった。
春の陽《ひ》をうけて雪が溶《と》け出すように――
口もとがほころび、双眸《そうぽう》が穏《おだ》やかなカーブを描《えが》いてゆく。
大したことは何もやってない。峻護の主観でもそうだし、客観的にもそうである。態度もいたって無愛想《ぶあいそう》だった。あげたものは、味も素《そ》っ気《け》もない栄養ドリンクにすぎない。
それでも彼女は。
「……ありがとう」
笑顔《えがお》を咲《さ》かせた。
草原で風にゆれるカスミソウのような、控《ひか》えめで、けれども可憐《かれん》な――
老若男女《ろうにゃくなんにょ》、古今東西《ここんとうざい》、いかなる人間の心をも蕩《とろ》かすような――
「あ……いや」
みとれた。
そして彼女の笑顔をはじめて見たことに気づく。これまでは、申し訳《わけ》なさそうな顔だとか、あわてている顔だとか、緊張《きんちょう》している顔だとか、そんなのしか見ることができなかったけど。
思いがけず目《ま》の当たりにしたそれは、なんというか、なんといえばいいのか、思ったよりもずっとずっと、はるかに、
「よかった――ほんとうによかった……」
真由が続ける声を、なかば陶然《とうぜん》と聞く。
「二ノ宮くん、きっと怒《おこ》ってると思ってたから、もう嫌《きら》われたと思ってたから、迷惑《めいわく》ばかりかけてたから、それが、ずっと心配で」
ほとんど涙《なみだ》ぐむようにして、心からうれしそうに――
「…………」
たしかに。
学校で身体を張《は》り始めてからこのかた、ろくに会話はしていない。疲労《ひろう》ゆえに不機嫌《ふきげん》な顔をしていたろうし、あまつさえ帰り道では一言も声をかけなかった。それが彼女を不安にさせていたのだろう。
悪いことをした。
彼女との同居《どうきょ》には、なるほど反対している。彼女のおかげで散々な目にもあっている。
とはいえ、それを理由に彼女を無視《むし》するとか、そんなつもりは全くなかったのに。
そもそも――と峻護は思う。おれは何で彼女の同居に反対していたのか。
公序《こうじょ》良俗《りょうぞく》に反する。それもある。が、もっとほかに、何かあるのだ。ことさら彼女については、心のどこかが警鐘《けいしょう》を鳴らすのだ。
では彼女のことを嫌っているのか? なるほど、いま自分に降《ふ》りかかっている災厄《さいやく》の元凶《げんきょう》は彼女だ。けど、だからといって彼女という人間を嫌いなわけじゃない。というより、素直《すなお》で真面目《まじめ》でひかえめな彼女の性格《せいかく》はむしろ――うおっ、ちがう、いまのは無し!
ぶんぶんぶんと首を振《ふ》り、あとに続く思考を打ち消す。
そんな峻護をよそに、
「あの、二ノ宮くん。やっぱりお手伝いさせてください」
「え?」
唐突《とうとつ》な言葉に、とまどう。
「この家でのお仕事です。迷惑ばっかりかけてるし、二ノ宮くんの身体《からだ》がもたないし、わたし自身、何もしていないのは……」
「あ」
言いたいのはそっちのほうだったか。
「いや、それはちょっとまずいというか、さしつかえがあるというか、」
そんなことになれば今度こそ同居の事実が、
「迷惑――ですか?」
「いや、その」
真摯《しんし》なまなざしに口ごもり、視線を逸《そ》らせ、
「とにかく、だ」
結局、見栄《みえ》も外聞もないやりかたで問題を先送りにした。
「おたがいに、まずは休むことにしよう。おれはしばらく動く気になれないから、ちょっとひと眠《ねむ》りする。月村さんも疲れただろう? さあ」
返事も待たず足早に二階へ。
「うん、ここが月村さんの部屋だったな」真由の部屋の前で立ちどまり、わざとらしくひと声。「ゆっくり休んでくれ。じゃあ、おれの部屋はこの廊下《ろうか》の奥《おく》だから」
「あの――」
「じゃあ、またあとで」
「……はい」
露骨《ろこつ》に話題を打ち切り、踵《きびす》を返す。
真由の視線が追ってくるのを感じつつ、ともかくも安堵《あんど》。
どうであれ、これで一息つける。ようやく。
今となってはただ自室のみが、峻護に残された安息の地である。
まだ間はあるが、陽《ひ》が沈《しず》む頃《ころ》にはあのふたりが帰ってくるはず。このあとも延々と展開するであろう戦いに備《そな》え、おおいに羽を休めなければならない。
背中についた視線が逸れるのを感じる。真由は自分の部屋に入っていったのだろう。
これで本当に一息つける――気を緩《ゆる》めつつ、峻護も自室のドアを引き開けた。
「…………」
固まった。
ない。
部屋がない。
いやちがう、部屋しか[#「しか」に傍点]ない。
スチールの机《つくえ》、飴色《あめいろ》の古箆笥《ふるだんす》、天井《てんじょう》近くまである書棚《しょだな》――この部屋を峻護の部屋たらしめていた家財《かざい》道具一式が、きれいさっぱり消え失《う》せていた。
陽のあたる具合でやや色落ちした壁《かべ》だけが、かつてそれらがあったことを示《しめ》す痕跡《こんせき》を残している。ホコリ一つ落ちていない。まるで借金取りにすべて毟《むし》り取られた後のようで、ここまでくるといっそすがすがしいほどだ。
「何が一体……」
どうなって、と呟《つぶや》きかけ、やめた。決まっている。容疑者《ようぎしゃ》はふたりしかいない。
だが、まさか質《しち》に入れたわけでもないだろう。捨《す》てる――などと芸《げい》のない真似《まね》もするまい。では家具たちはどこへいった?
「あ」
ひらめいた。
ダッシュ。廊下を駆《か》け、ドアが開いたままの部屋へ。
「月村さん!」
部屋に一歩入ったまま呆然《ぼうぜん》としていた真由がこちらを向いた。
「あの、これ……」
困惑《こんわく》顔で室内を示《しめ》す。
見慣《みな》れない調度類がならんでいる。落ちついた雰囲気《ふんいき》のものが多い。今日とどいた、真由の私物だろう。すでにおおかたは梱包《こんぽう》が解《と》かれ、配置が終わっている。
見慣れた調度類もならんでいる。スチールの机、飴色の古顰笥、天井近くまである書棚――実用性重視で飾《かざ》り気のないそれらはいずれも、たしかに今朝までは峻護の部屋にあったものだ。
奇妙《きみょう》なことに寝具《しんぐ》はひとつきりしかない。部屋の中央に鎮座《ちんざ》しているのは、一人で使用するには余剰《よじょう》面積が多すぎるであろう、堂々たるダブルベッドである。
枕《まくら》もとには、何の冗談《じょうだん》かティッシュの箱。
「くッ……」
思わずうめく。
別|系統《けいとう》の家具が並存《へいぞん》する違和《いわ》感といい、その配置の微妙《びみょう》なぎこちなさといい、まるっきり『同棲《どうせい》をはじめて間もない二人の部屋』のニュアンスではないか。
峻護はこの馬鹿《ばか》げた室内を、火のつくほどに睨《にら》みつけ、
(畜生《ちくしょう》、なんてことしやがるあのバ)
「今、『畜生、なんてことしやがるあのバカ姉』って思ったでしょう、峻護」
いきなり耳もとでささやかれた。
「――!」
思わぬ奇襲《きしゅう》に珍妙《ちんみょう》なダンスを踊《おど》りながら、声にならない声をあげる峻護。
そんな弟を見て涼子は肩《かた》をすくめ、
「面白《おもしろ》いステップね、それ。創作舞踏《そうさくぶとう》か何か?」
「――だから姉さん、気配を消してうしろに立つのは――いや、それよりまず心の中を読むのをやめてくれ! というか学校は? まだ仕事あるだろうこの時間! いや、そんなのはいい、聞かせてもらう。この部屋は一体なんのつもりだ!」
「この程度《ていど》の隠形《おんぎょう》を見破れないのはあんたの注意力不足。心を読むも何もそんなわかりやすい顔してたら口に出してるのと同じことじゃない。放課後なんて大した仕事ないんだからさっさと抜《ぬ》けてきたわよ」
峻護の問いに逐一《ちくいち》答え、最後に、
「この部屋は見てのとおり。あんたは今日から真由ちゃんと同じ部屋で暮《く》らすの。わかった?」
「なぜだ!」
「ばかだなあ。そんなの決まっているじゃないか」
いきなり耳もとでささやかれた。
「おや峻護くん。そのオリジナリティあふれるステップは創作舞踏か何かかい?」
「みっ、美樹彦さん!――って、いつの間に? 廊下にいた姉さんはともかく、部屋の中にはさっきまで誰《だれ》も」
「涼子くんの言うとおり、君は注意力が散漫《さんまん》すぎる。これだけあっさり背後を取られていては、妹をまかせている身として心配だ。もっとしっかりしてくれないと」
空気のように忽然《こつぜん》と現《あらわ》れておきながら美樹彦は無茶な注文をつけ、
「さて峻護くん。君が妹と同じ部屋で暮らすのは、これも男性|恐怖症克服《きょうふしょうこくふく》プログラムの一環《いっかん》だからだ。可能《かのう》なかぎり、真由は君と行動を共にするほうがいい。よろしくたのむよ」
「そんな、それならせめて、カーテンか何かで部屋を仕切って――」
「却下《きゃっか》だ。プログラムを阻害《そがい》する可能性を有する要求については、いかなるものにも応じられない」
「そんな馬鹿な!」
強権をもっての一方的な決定に抗議《こうぎ》すべく、猛然《もうぜん》と身を乗り出した時、
「ねえ真由ちゃん」
「え? はい」
事の成り行きについていけないのか、オロオロするばかりの真由に、涼子がおもむろに近づき、
いつのまにか取り出していたデジカメを示し、
「今朝見せてあげるつもりだった、とっても面白い映像《えいぞう》だけどね。なんなら今ここで見てみる? 実はまた新しくネタを仕入れて、より興味深《きょうみぶか》い出来になってるんだけど――」
「待った姉さん。ストップ」
峻護は泣きを入れた。
(抵抗《ていこう》は無意味、ってことか)
こうなれば――
最後の砦《とりで》、月村真由を祈《いの》るような思いで見た。
彼女|次第《しだい》だ。
彼女のモラルに訴《うった》えて、この巫山戯《ふざけ》たプランの中止を――
「真由、事情《じじょう》はわかったね? 今日から彼と同じ部屋で過《す》ごすんだよ」
「そんな、兄さん――」
「真由ちゃん、がんばらなきゃ。これくらいの事でくじけてたら、いつまでたっても今のままよ」
「でも、」
「涼子くんの言う通りだ。真由は自分を変えると決心したんだろう?」
「そうだけど、」
「真由ちゃん。いちど決めたことはきちんとやり通さなきゃいけないわ。設定《せってい》した目的は、あらゆる手を尽《つ》くして、可能な限《かぎ》り速《すみ》やかに達成しないと。わたしたちもできるだけのことをするから」
「けれど、それじゃ二ノ宮くんに迷惑《めいわく》が、」
「案ずることはない。幸い彼はきわめて協力的だ。真由のためになる処置について、まさか反対することはあるまい。真由は自分を変えることだけ考えていればいいんだよ」
美樹彦と涼子が代わる代わるにそそのかす。真由に考える間を与《あた》えない。まるでマルチ商法の熟練勧誘員《じゅくれんかんゆういん》のような手並《てな》みである。
どうにかしようにも、何か言おうとするたび涼子が巧《たく》みにデジカメをちらつかせるため、峻護は身動きが取れない。
そして真由は、人の口を疑《うたが》うということを知らない。
「――わかりました」
峻護が悪戦苦闘《あくせんくとう》しているうちに案の定、彼女はあっさりおち[#「おち」に傍点]た。
むしろふたりの口車に乗り、決意を新たにした模様《もよう》である。
「わたし、やります。がんばって自分を変えます。これからもどうかよろしくおねがいします」
「えらいわ真由ちゃん。じゃあご褒美《ほうび》に、今日はわたしが夕食を作ろうかしら」
「おお、涼子くんが腕《うで》を揮《ふる》うのか。これは楽しみだ。真由は運がいいな、早くも彼女の作品を味わえるとは」
「真由ちゃん、手伝ってもらっていい?」
「はい、ぜひ。あの、でも二ノ宮くんが――」
「峻護? あんなの放《ほう》っておいていいわ。どうせ、しばらくは呆《ほう》けてまともに動けないでしょうから。さ、行きましょ」
涼子と美樹彦は、たったいま屈服《くっぷく》させた相手のことなどすっかり忘《わす》れ去ったような賑《にぎ》やかさで、真由はそんな二人に背中を押《お》される格好で、それぞれ部屋をあとにした。
ばたん、とドアが閉《と》じる。
それを合図にどっと疲労《ひろう》が押しよせ――
放心からそのまま失神へ移行《いこう》するようにして、峻護の意識《いしき》は闇《やみ》に沈《しず》んだ。
*
二ノ宮家の浴場は総《そう》ヒノキ貼《ば》り、かつ二十四時間入浴可能なハイテク・バスである。
設計は涼子の手によるものだ。年|経《へ》た天然ヒノキ材と銘石《めいせき》をふんだんにほどこした造《つく》りは、知る人ぞ知る老舗《しにせ》温泉旅館の名物|風呂《ぶろ》、といった趣《おもむき》がある。
とはいえ峻護にとっては掃除《そうじ》をするのに一苦労の、無駄《むだ》に広い浴室でしかない。実用に耐《た》えさえすればいいのだから、彼にしてみればドラム缶《かん》風呂でも十分なのである。
が、今日ばかりは事情がちがった。
峻護は今、大浴場がもたらす開放感のありがたみを深く深く噛《か》みしめている。広々とした湯船を一人|占有《せんゆう》し、誰はばかることなく寛《くつろ》ぐことが、身体《からだ》の芯《しん》からくる疲労にどれほど効果《こうか》を顕《あらわ》すか――そのことをはじめて実感する思いだった。これならば姉の凝《こ》りようもうなずけるというものである。
「ああ――」
覚えず幸せのため息をもらしつつ、先ほどの晩餐《ばんさん》の席を思い出す。
やはりというべきか、ここでもロクな目にあわなかった。
口ほどにもある姉の料理に凹《へこ》まされた。その料理の腕に真由はますます姉に傾倒《けいとう》し、悩《なや》みの種がまた増える格好となった。デザートにさくらんぼが出され、そのへたで結び目をつくる大会がはじまった。真由がダントツの優勝《ゆうしょう》だった。これがサキュバスの能力だよ、と美樹彦が余計《よけい》なことを耳打ちしてきたものだから、いろいろな想像をしてしまった。調子にのった姉がバナナを持ち出してきたため、必死でノーコンテストにした。
本来|癒《いや》しの場であってしかるべき食卓《しょくたく》は、今や神経《しんけい》をヤスリで削《けず》るがごとき戦場と化した感がある。もはやこの浴室のみが唯一残《ゆいいつのこ》されたプライベートエリアだった。ここを除《のぞ》けば、あとはもう手洗《てあら》いくらいしか寄《よ》る辺《べ》がない。
「ふう」
もういちど長|嘆息《たんそく》。
両手で湯をすくい、ざぶ、と顔を流す。
鼻歌のひとつも物し、頭にのせたタオルに手を添《そ》えれば、いよいよ気分は上々である。
といっても物理的に疲《つか》れが消えてくれるわけではない。
ゆっくりと、底なし沼のような眠気《ねむけ》が襲《おそ》ってくる。
いけない、と思いつつも誘惑《ゆうわく》に負け、目をとじる。
うとうとする。
夢《ゆめ》とうつつの境《さかい》にたゆたいながら、浴場――最後の聖域《せいいき》――で繰《く》り広げられる音景色を堪能《たんのう》する。
結露《けつろ》した水滴《すいてき》が湯船におちる音。
湯面の波紋《はもん》が重なりあって奏《かな》でる音。
水蒸気《すいじょうき》がたちこめる音なき音。
そして、
「はっはっは、真由と風呂に入るのは久《ひさ》しぶりだなあ。よし、今日は背中の洗《あら》いっこをしよう」
「でも中に二ノ宮くんが……」
「お酒、真由ちゃんも飲むでしょう? 秘蔵《ひぞう》の吟醸酒《ぎんじょうしゅ》なのよこれ」
「あの、わたし未成年……」
一発で目がさめた。
「――ちょっ、冗談《じょうだん》だろ!」
あわてて湯船から立ち上がる。
それが失敗だった。
ほとんど同時に、がらがらと引き戸が開いた。
ふたりに挟《はさ》まれるようにして、真由が真正面にいた。
「うおわっ!」
可及《かきゅう》的すみやかにタオルで前を隠《かく》したが――いまにも火を噴《ふ》きそうな顔で目をそらした真由の様子からして、たぶん見られたと思う。
「ふ、ふたりともいいかげんにしてくれ! 何を考えてるんだ、男と女がならんで風呂に入ってくるなんて!」
声を荒《あら》げ、この狼藷《ろうぜき》の首謀者《しゅぼうしゃ》たち――だろう、どうせ――をなじる。
「いいかげんにしろ、と言われてもねえ」
姉は困惑《こんわく》した表情を作り、そして告げた。
「混浴《こんよく》よ、ここ。知らなかったの?」
「自家用の風呂に混浴も何もあるか!」
「どちらにせよそんなことは問題じゃないよ峻護くん」
と、今度は美樹彦。
「これは純然《じゅんぜん》たるリハビリ行為《こうい》だ。何かそれ以外の意図でもあると思うかい?」
たしかに三人ともバスタオルを巻いてはいる。が、『風呂は裸《はだか》で』を信念とする姉を同伴《どうはん》していることからして、その下に水着をつけているなどということはよもやあるまい。
「君が変に気をまわすと、かえって妹もやりにくくなるだろう。いつもやっているように堂々と入浴を楽しんでくれればいい」
「結構《けっこう》です。おれはもう上がらせてもらいますから」
もはや聞く耳もたず、峻護は湯船からあがり、ずかずかと出ロへ大股《おおまた》歩き。
それを見て涼子と美樹彦は左右に分かれ、道を空ける。
その先に腰《こし》のひけている真由がいる。そのきわどいバスタオル姿から目をそらしつつ、歩を速める。
この時の彼に、隙《すき》がなかったとはいえない。
が、それ以上に敵方《てきがた》のコンビネーションが絶妙《ぜつみょう》だった事については、彼の潔白《けっぱく》を証明《しょうめい》する意味からも特記しておく。
涼子と美樹彦を結ぶ直線上に、足を踏《ふ》み入れたのと同時。
まず涼子の足払《あしばら》いが、柔道《じゅうどう》の金メダリストでも軽々と倒《たお》せるタイミングで峻護の軸足《じくあし》を刈《か》った。
次いで、致命《ちめい》的にバランスをくずした彼の肩《かた》を美樹彦が、とん、と軽く突《つ》き、巧妙《こうみょう》に方向|修正《しゅうせい》。
いずれも最小限の挙動でなされた神速の早業《はやわざ》だった。果たして真由には、その動きを捉《とら》えることができたかどうか。
峻護は自分の身に何がおこったかを理解《りかい》していたものの、それによってもたらされる運命を回避《かいひ》する術《すべ》をもたなかった。
声をあげる間もなく、前のめりにすっ転ぶ。
いきおい、身体《からだ》全体が伸《の》びるような格好になる。それにともなって彼の右|腕《うで》も目一杯《めいっぱい》に伸ばされる。
その先に真由がいた。
より正確には、胸元《むなもと》で留《と》められた彼女のバスタオルがそこにあった。伸ばされた峻護の指先がちょうど引っかかる位置に。
もんどり打つようにして峻護は浴室に転がる。反射《はんしゃ》神経の賜物《たまもの》でそれでも受身だけは取ったが、衝撃《しょうげき》を殺しきるには到《いた》らず、痛《いた》みに顔をしかめる。
うめきつつ、右手に何かを握《にぎ》っていることに気づく。その厚手《あつで》の布《ぬの》の正体にもすぐに気づく。
思わずその持ち主を見上げる。
彼女はいまだに何が起こったか理解できてないらしく、ただきょとんとしている。
その柔肌《やわはだ》を包んでいたものは、今はもう、ない。
ゆえに、鴇色《ときいろ》のあれとか、比揄《ひゆ》表現を用いてすら表記が悼《はばか》られるそれだとかが、否《いや》が応《おう》にも目の奥《おく》に焼きつく。
そ知らぬ顔をしている黒幕《くろまく》どもの姿が視界の片隅《かたすみ》にある。
そして峻護は、生まれてはじめての現象を二つまとめて経験《けいけん》した。
ひとつ、物理的衝撃以外の要因《よういん》によっても鼻血が出るということ。
ひとつ、あまりにショッキングな出来事を目《ま》の当たりにすると、体感時間が停止するということ。
後者については、おそらく先方も体験を共有したはずである。
……時がまた、動き出した。
同時、二人分の悲鳴が洋館の隅々にまでひびき渡《わた》った。
*
長かった一日がようやく終わろうとしている。
開け放した窓《まど》から風が入ってくる。
湿気《しっけ》の多い空気ではあるが、湯上りには十分|心地《ここち》よい。へとへとの心身にささやかな慰《なぐさ》めを与えてくれる。ついその気分のまま、泥《どろ》のように眠《ねむ》りたい衝動《しょうどう》に駆《か》られるが――まだ手を休めるわけにはいかない。
真由の個室《こしつ》になるはずで、不本意ながら峻護の部屋ともなった一室。
ときどき痙攣《けいれん》したりする身体をはげまして、彼は室内をくまなく調べまわっていた。
盗聴器《とうちょう》、もしくは隠しカメラが仕掛《しか》けられてないかチェックしているのである。まさか、とは思うのだが、あの二人ならやりかねない。念を入れておくに越《こ》したことはなかった。
そんな彼をよそに、真由は壁際《かべぎわ》にしつらえられた机に向かっている。先ほどからずっとだ。パジャマ姿に濡《ぬ》れ髪《がみ》のまま、何をするでもなく大人しくしている。
それぞれ、無言。微妙《びみょう》な空気である。
当然といえば当然だ。
つい先ほど、おたがいのすべてを目《ま》の当たりにした。
部屋の真ん中にはこれ見よがしなダブルベッド。
意識《いしき》しないはずがない。
それでも峻護のほうは作業に集中することでどうにか泰然自若《たいぜんじじゃく》を装《よそお》っているのだが、真由のほうはそうもいかないようだった。
彼女がしきりにこちらの様子を気にしているのを、峻護は背中でひしと感じ取っている。
それに耐《た》えかねて振《ふ》り向くと、ささっと視線をそらす。
「…………」
「…………」
特に言うべきことも見つからず、また作業にもどる。
しばらくするとまた同じ気配を感じる。
振り向くと、素早《すばや》くそしらぬ振りをする。
「…………」
「…………」
しかたなく、作業を再開《さいかい》する。
と見せかけて、予備《よび》動作なしで振り向く。
ばっちり目が合い、一瞬固《いっしゅんかた》まり、それからあたふたし出し、
……なんだか気の毒になってきて、
「月村さん、」
「あのっ!」
目を合わせないまま、切迫《せっぱく》した声。
もじもじとためらい、何度か口を開け閉《し》めしてから、
「あの、わたし、気にしてませんから、さっきのこと」
大嘘《おおうそ》をつく。
次いで、
「兄のは、見慣《みな》れてますから」
「いや、そういう問題じゃないと思う」
それに、それはそれで問題だと思う。
「いいよ、おれも気にしていない」
これも大嘘だが、とりあえずそう言っておく。
真由は、ほっとした様子だった。
「…………」
気にするべきはこちらでなく、そちらのほうだろうに。
「さて、」
ようやく満足いくまで部屋を調べ終え、峻護はつとめて普段《ふだん》どおりの声を出した。
「まだ宵《よい》の口だけど、おれは先に寝《ね》かせてもらうよ。月村さんはまだ起きててくれていいから」
「あ、いえ――それじゃ、わたしももう休みます」
「そう。それならベッドは月村さんが使ってくれ。おれは床《ゆか》でいい」
そう告げると、真由が何か言うより先にタオルケットにくるまり、寝転《ねころ》がった。
わずか、彼女は迷《まよ》っていたようだが、
「……それじゃ電気、消しますね」
ややあって明かりが落ち、もぞもぞと布団《ふとん》にもぐりこむ音がする。
視力がだんだんと闇に慣れ、周囲をうすぼんやりと浮かび上がらせる。
二人分の暮らし道具を詰《つ》めこんで窮屈《きゅうくつ》になった部屋。それでもなお高い天井《てんじょう》。
静寂《せいじゃく》。
いや、洋館を囲む雑木林《ぞうきばやし》から、有るか無しかの微音《ぴおん》。無数の生き物たちがそれぞれの夜を謳歌《おうか》する息づかい。
夏のにおい。
(…………)
寝付けない。指一本うごかすのも億劫《おっくう》なのに、どこかで意識が冴《さ》えてしまっている。
煩悩《ぽんのう》のせいではない。
月村真由という少女についての、純粋《じゅんすい》な興味《きょうみ》からである。
何がどう間違《まちが》ったものか、出会ったばかりだというのに一つの部屋で寝ることになってしまった少女。自分と同じくあれよという間にこんな状況《じょうきよう》になったはずなのに、不平ひとつ漏《も》らさない。どれほど真面目《まじめ》な性格《せいかく》が過《す》ぎるにしても、いくらあのふたりの舌先三寸《したさきさんずん》で丸めこまれたにしても、ここまでできるものだろうか。
一体どういう子で、何を考えているのだろう。
「……月村さん、起きてる?」
遠慮《えんりょ》がちに声をかけるとすぐに、
「はい、起きてます」
ちいさいが、はっきりした答《こた》えが返ってきた。
「月村さんは――」
なにから訊《き》こう、いくつかの候補《こうほ》があがり、まずは、
「どういう経緯《けいい》でここに来ることに? 急な話だった、ということは聞いたけど。二日前、だったか」
「はい。いきなり兄に言われて。いつものことなんですけど、本当に唐突《とうとつ》な話で。『男性|恐怖症《きょうふしょう》を治すための最終手段だ』とだけ言われて、後はもうあれよあれよと」
「よく納得《なっとく》できたな、その状況で」
皮肉ではなくそう思う。
ああいう人ですから、と真由は笑い、
「ただ兄は、詳《くわ》しいことを何も教えてくれませんでした。何がどう最終手段なのかとか、御世話になる先の家のこととか――二ノ宮くんのことも会うまでは何も知らなかったんです。それを教えることを、兄はためらっていたみたいで。あのひとがそういうそぶりを見せるのは、めったにないことなんですけど」
美樹彦がためらう姿。確《たし》かに想像《そうぞう》しにくい。
「でも、今はもうわかりました。最終手段というのは二ノ宮くんのことだったんですね。わたしに触《さわ》っても大丈夫《だいじょうぶ》な人がいる、っていう」
「いや――それはちがう。美樹彦さんはそのことを知らなかった」
「えっ? そうなんですか? じゃあどういう意味だったんだろう……」
峻護にもわからない。ただあの二人のことである。隠《かく》し事があってもおかしくはない。
別のことを訊く。
「月村さんはいつからその、男性恐怖症に?」
「もう、ずっと昔からです。でも――」
くすくす、忍《しの》び笑いが漏《も》れ聞こえてくる。そのことに少しおどろく。
「でも、どうしてそうなったのかは覚えてないんです。おかしいですよね、そんな大事なことなのに」
ちら、と真由のほうを窺《うかが》う。が、ただでさえ闇の中。おまけに床からではベッド上の様子は判別しにくい。
(それにしても――)
なぜ男性恐怖症になったのかわからない、と彼女は言う。
そんなことがあるのか、とも思うが――なるほどそういうケースもあるかもしれない。あれだけ重度の男性恐怖症になるような精神的外傷を負えば、その記憶《きおく》を無意識《むいしき》の底に沈《しず》めてしまうほうがむしろ自然な気もする。ずっと昔から、というから幼少期《ようしょうき》の出来事であったろうし、それならいよいよ忘れてしまっても不思議ではない。
(昔から、か)
そういうことなら――
これまでずっと、男との縁《えん》はなかったわけだ。
ほっとした。
と同時に、峻護は狼狽《ろうばい》する。
(どうしておれがほっとするんだ?)
「でも、そういうわたしでも――」
ベッドからの声があとを続けた。
「好きな男の子とかは、ちゃんといたんですよ?」
「えっ?」
「ううん、そうじゃなくて、いまも好き――なのかな?」
どこかが――身体《からだ》の奥《おく》にある何かが、締《し》めつけられた気がした。
「けれど可笑《おか》しいんですよ? わたし、大好きだったはずのその人のこと、ぜんぜん記憶にないんです。どういう男の子だったかも、どこの誰《だれ》だったかも、どうして離《はな》れ離《ばな》れになったかも――ただ、好きだったという気持ちだけが、心の中にぽつんとあるんです」
「……そう」
そうか、そうだろうな。そういうのがいても、当然だろうな。
「馬鹿《ばか》みたいですよね。その子と一緒《いっしょ》にいて幸せだったことは覚えてるのに、何をして遊んだか、どんなことを話したか、そういうことは全部|抜《ぬ》け落ちてるなんて――」
ひどく生々しい感覚が峻護の感情をゆさぶっている。真由の声が水の中で聞くように遠い。弾《はず》んだ口調が無性《むしょう》に神経を逆《さか》なでする。
彼女が見せてくれた笑顔《えがお》を思い出す。あの表情はいま、誰に向けられているのだろう。
「でも、その男の子だってきっと、わたしのことなんてもう忘れていますよね」
えヘへ、と、照れくさそうな声。
「……ああ」
峻護は答えた。
「そう思うよ」
「そう――ですよね、やっぱり」
「というより、そいつは月村さんのことをあまり大切に思ってなかったんじゃないか」
「えっ?」
「少なくとも今はそうだろうね。君に何の連絡《れんらく》もよこしていないんだろう? そいつは」
「……はい」
「いや、そもそも存在《そんざい》したと思いこんでいるだけかもしれないな、その彼のこと。話を聞いているかぎり、具体性がまったくない」
「そんな……」
「君の身体は常に異性《いせい》を必要としている。だけど、君は男性|恐怖症《きょうふしょう》で異性に近づけない。矛盾《むじゅん》が生まれる。心と身体のバランスが取れなくなる。その人物は、それを解消《かいしょう》するために無意識が作り出した架空《かくう》の存在《そんざい》――そう考えたほうがまだしも自然だな」
感情と行動のコントロールがうまく利《き》かない。口先だけが、ちがう生き物みたいに言葉をつむいでゆく。
「そもそも月村さん、君は本当に男性恐怖症なのか?」
「えっ?」
「今、好きな男の子がいると君は言った。でも好きな男がいるのに男性恐怖症というのはおかしくないか?」
「それは――」
「しかも君はサキュバス――男がいなければ生きていけない体質なんだろう?」
「……はい」
「昨日と今日でそれはよくわかった。ただ突《つ》っ立っているだけで、君は際限《さいげん》なく男を惹《ひ》きつけるんだからな。ハエ取り紙を誘蛾灯《ゆうがとう》にぶら下げておくようなものだね。五分もすれば虫だらけだ」
もうよせ、という声が芽生え、次から次へと湧《わ》き出す感情にたちまち呑《の》みこまれる。
壁《かべ》に向かって独《ひと》りごとを言うように、峻護は続ける。
「おかげでずいぶん苦労させてもらった。だいたいどうかしてるんだ。風呂《ふろ》にだって平気で入ってくる。おれと一緒《いっしょ》に寝起《ねお》きすることだって簡単《かんたん》に受け入れる。男性恐怖症の克服《こくふく》という目的があるにしたって、物事には限度があるだろう。姉さんと美樹彦さんの言うことばかり聞いて。今日の保健室《ほけんしつ》でのことだって、なに考えてるんだ。あんなのは女性の口から言うべきことじゃない」
「……ごめんなさい」
「結局サキュバスっていうのは――」
そして、彼の言葉はとうとう少女の心をえぐり抜いた。
「男なら誰だっていい、ってことなんだろ?」
……後になっても、このあたりで自分が何を言っていたのか峻護は思い出せなかった。
ただ、筋《すじ》が通っているようで脈絡《みゃくらく》のない、愚痴《ぐち》とも恨《うら》み言ともつかないものを、延々《えんえん》と垂《た》れ流していたように思う。
そうしてようやく彼は、場の空気が変わっていることに気づいた。
やたら饒舌《じょうぜつ》になっていた口を閉《と》ざす。
その時にはもちろん、絶望的なまでに手遅《ておく》れだった。
冬のくもり空のように暗く沈んでいる雰囲気に、すーっと肝が冷えていく。
雰囲気の源《みなもと》になっている少女の気配を探《さぐ》る。
「わたしは――」
明るい声が出た。
「わたしはサキュバスです。男の人から精気《せいき》をもらわなければ生きていけません。生きていくために、たくさんの男の人とそういうことができるよう、身体《からだ》ができています。そういうことをしなけれぽ生きていけない身体にできています。
兄はわたしと同じ体質《たいしつ》で、インキュバスです。でも兄は、自分の体質を楽しんでいるみたいです。それはたぶん、わたしよりずっと前向きなことで、生まれ持ったものをできるだけ活かしていくのはいいことで、兄自身もそう言っています」
「…………」
そっと、峻護は半身を起こした。
闇《やみ》の中、こちらに背を向けて横になっているシルエットがある。
夏のにおいがする。
「でも、わたしは兄のようにはできません。わたしは、たくさんの男の人と関係をもつのは嫌《いや》です。そういうことをする相手は、一人だけがいいです。誰か、たった一人だけを好きでいられたら、とても素敵《すてき》だと思います。その人も同じようにわたしの事を思ってくれたら、もっと素敵だと思います。そんな人と出会って、死ぬまで一緒《いっしょ》に暮《く》らしたいです」
「…………」
「そういうサキュバスって、変ですか? 男の人に見境《みさかい》がないのはよくないって思うのは、おかしいですか? 本当に大切だと思える人に出会って、その人のことだけを好きになりたいって思うのは、馬鹿《ばか》みたいですか?」
影《かげ》の肩《かた》が小刻《こきざ》みに震《ふる》えているのを、峻護は確かに見た。
「わたしはサキュバスです。
でも、男の人なら誰でもいいとか、そういう女だとは、思われたくありません」
そして少女はとどめを刺《さ》す。
「二ノ宮くんには、そんな風に思われたくなかったです」
「…………」
「――ごめんなさい、こんなこと言える立場じゃないですよね、わたし。すいません、変なことばかり言って、また迷惑《めいわく》かけて」
「…………」
「二ノ宮くんがはじめていろいろ訊いてくれたから、ちょっと浮かれてました」
「…………」
「わたしに触《さわ》ってもだいじょうぶな男のひとは初めてだったし、最初に会った時から不思議なくらい恐《こわ》くなかったし、今日だって何があってもずっと守ってくれたし、だから――」
「…………」
「あは、なに言ってるんでしょうね、わたし。ごめんなさい、もう寝ますね。うるさくしてすいません。おやすみなさい」
影は頭から布団《ふとん》をかぶる。
――夏のにおいがする。
*
ほんの少しだけ時間はさかのぼり、二ノ宮家を囲む雑木林《ぞうきばやし》の一角――
「お嬢《じょう》さまぁ、もうやめましょうよ、こんなこと。よくないですよぅ」
楡《にれ》の木の根元から上を見あげ、保坂はすがるようにして主人を諫《いさ》めた。
が、太枝《ふとえだ》にまたがって双眼鏡《そうがんきょう》をのぞきこむ麗華は、「あの投書に書いてあった通りですわ……」などと呟《つぶや》くばかりで、下僕《げぼく》の進言に耳を貸《か》そうとはしない。
「ああ、旦那《だんな》さまになんて言えば……」
おろおろする保坂をよそに、
「おなじ部屋で寝起きするとはなんて破廉恥《はれんち》な。もう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れましたわよ、月村真由……」
スワロフスキー社|製《せい》のクリスタルレンズは、よそよそしく何かの作業をしている峻護と、ひどく緊張《きんちょう》した様子で黙《だま》りこくっている真由の姿《すがた》を映《うつ》し出している。
「……っ」
新婚《しんこん》初夜のような初々《ういうい》しさを見せるふたり――と、彼女は解釈《かいしゃく》した――を目《ま》の当たりにし、麗華は双眼鏡を握《にぎ》る手に力をこめた。
ばき、という音と共にレンズ越《ご》しの光景が割《わ》れる。
「お嬢さま、北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》がこんなまねしてちゃ、下の者に示しがつきませんよぉ。はやく帰りましょ、ね? ね?」
とうとう木の上まで登ってきた保坂が、主人のすそをくいくいと引く。
麗華は、逆《ぎゃく》ギレした。
「おだまりなさい! 保坂のくせに、生意気よっ」
「そんな無茶な――ぐえ、おじょうざま、やめ、げいどうみゃぐが……」
*
ほぼ同刻《どうこく》、二ノ宮家の居間――
「あらあら、こういう展開《てんかい》になるのねえ」
ハンディ・モニターを手にソファでくつろいでいた涼子がころころ笑った。
「雨|降《ふ》って地固まる、というし、こういう刺激《しげき》を与《あた》えてみるのもいいかもしれないな」
ソファのうしろからそれをのぞきこんで、美樹彦。
モニターに映っている画《え》は、峻護の厳重《げんじゅう》なチェックをあっさりかいくぐった特注マイクロカメラから、リアルタイムで送られてくるものだ。
「いずれにしろ、これで面白《おもしろ》くなってくるな」
「そういうことね。わたしたちの賭《か》けが吉《きち》と出るか凶《きょう》と出るか。それに――」涼子はモニターの映像を何度か切りかえて、
「こういうのもあるわよ?」
「ふむ」
雑木林で、少年と少女がもみ合っている画だった。一方的に攻《せ》め立てているのは少女のほうで、少年のほうは首を絞《し》め上げられたまま、糸の切れたマリオネットのようにがくがくと揺すられている。
「なるほど、こういう展開になるか」と美樹彦。
「面白くなってきたでしょ?」と涼子。
*
長かった一日が終わる。それぞれの思惑《おもわく》をのせ、夜はただ更《ふ》けてゆく。
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其の四 男を見せよう二ノ宮くん
[#改ページ]
翌日《よくじつ》の朝食の席は――
静かに、修羅場《しゅらば》だった。
「ふむ、うまい」
三種類の雑穀《ざっこく》を混ぜたはちみつパンをひと齧《かじ》りした美樹彦《みきひこ》が、満足げに舌鼓《したつづみ》を打った。
「ちゃんと焼きたてのパンを出してくるとは君も見上げたものだな、峻護《しゅんご》くん。はちみつの甘味《あまみ》は適度《てきど》だし、それにこれは――粗挽《あらびき》きした胡麻《ごま》と黒豆、えんどう豆か。香《こう》ばしさが引き立つし、栄養|価《か》も期待できる。大したものだ」
「…………どうも」
「真由《まゆ》は、どう思う?」
「…………」
「真由、聞こえているかい?」
「――えっ? あ、うん」
ゆで卵《たまご》にジャムをぬっていた真由、あわてて、
「ええと、何?」
「峻護くんの料理のことさ。どう思う?」
「あ、うん――とてもおいしいです、本当に」
美樹彦はうんうんとうなずき、
「それにこのコーンポタージュもインスタントではないね。ちゃんと生のトウモロコシをつぶして作ってある。どうだい涼子《りょうこ》くん? 愛弟の料理の出来|栄《ば》えは。一流どころのホテルでも中々これだけの朝食は出せないものだが」
「そうねえ……ま、ギリギリ及第点《きゅうだいてん》、ってとこかしらね」
「はっはっは、君も手厳《てきび》しいねえ」
「決め手に欠けてるのよ。素人根性《しろうとこんじょう》が抜《ぬ》けないというか。……あら真由ちゃん。もういいの?」
真由は、ジャム卵を半分だけ食べ終えたところで席を立とうとしていた。
「はい、ごちそうさまです」
「駄目《だめ》よ真由ちゃん。どれだけ不味《まず》くても朝はちゃんと食べなきゃ」
「すいません。のこりは冷蔵庫《れいぞうこ》に入れておいて、あとでいただきますから」
ぺこりとお辞儀《じぎ》して残り物の皿を手に取ると、幽体離脱《ゆうたいりだつ》でもしているような表情《ひょうじょう》で食堂を出ていく。
「…………」
「…………」
「…………」
残された三人は、無言で手と口を動かしている。
おのおの、食事に集中しているだけのようにも、見える。
ただひとり峻護のみが、暑いと感じた時に出るものとは別の汗《あせ》をだらだら流している。
この際《さい》、沈黙《ちんもく》は針《はり》のムシロだった。
言い逃《のが》れできないことはわかっていた。
『夜通し泣き明かす』以外ではこうはならないだろう、と思われるほど目を赤く腫《は》らした真由を見ただけでもバレバレなのである。朝食の席での彼女の言動と考え合わせれぱ、幼稚園児《ようちえんじ》でも事情は察する。
「…………」
「…………」
「…………」
汗という汗をしぼり尽《つ》くして、脱水|症状《しょうじょう》になるかと思われるころになって、
「さて。そろそろ出ようか涼子くん」
「そうね」
無言の威圧《いあつ》、その発生|源《げん》が揃《そろ》って立ち上がった。
つい、気を抜いたところへ、
「さて峻護くん」
不意打ちで美樹彦が切り出した。
す、とその目が細まり、峻護はただのそれだけで凍《こお》りつく。
凄《すさ》まじいプレッシャーだった。殺気、と言ってもよい。視線《しせん》が峻護を刺《さ》してくる。刺す、というのはもはや比揄《ひゆ》ではない。彼の脳《のう》は確《たし》かに、物理的な感触《かんしょく》をもつ何かが自分を串刺《くしざ》しにするのを知覚していた。
「多くは言わないでおこう。だが、もしまたこういう事があれば」
美樹彦のあとを、やはり視線だけで弟をえぐっていた涼子が、引き取る。
「その時は、わかってるでしょうね……?」
心臓《しんぞう》が凍る。おれはここで死ぬ――本気でそう思った。
が、峻護とていつもいつも圧力《あつりょく》に屈《くつ》しているわけにはいかないのだ。過去に味わってきた数々の仕打ちを脳裏《のうり》に再生し、それをエネルギーに変える。
気力を奮《ふる》い、言った。
「おれは――おれだって、好きでこんなことに付き合っているわけじゃない。初対面の女の子と無理やり同居《どうきょ》させられるわ、その女の子を命がけで守らせられるわ、文句《もんく》のひとつも言えば妙《みょう》な映像《えいぞう》を盾にとられて脅迫《きょうはく》されるわ。――どうしておれがこんな目に遭わなきゃいけないんだ? 大体おれに何の責任《せきにん》がある? 彼女の男性|恐怖症《きょうふしょう》はおれには何の関係もないことだろ? もうたくさんだ。もうおれは降《お》りる。何と言われようと、もうおれは降りるからな。あとはあんたたちだけで勝手にやってくれ!」
一息にぶちまけた。
気づけばいつの間にか椅子《いす》を蹴《け》たてて立ち上がっている。テーブルを叩《たた》きつけていたものか両手がじんじん痛《いた》む。フルマラソンを全力|疾走《しっそう》したあとのように呼吸《こきゅう》が荒《あら》い。
言った。ついに言った。難《なん》事業を達成した爽快《そうかい》感が全身を満たし、そして一瀉千里《いっしゃせんり》に退《ひ》いてゆく。感情の赴《おもむ》くまま、とうとうやってしまったが――この二人相手にこんな真似《まね》をしてただで済《す》むわけがない。
反撃《はんげき》に備《そな》え――備えたところで無駄《むだ》だが――二人の様子を窺《うかが》った。
(……あれ?)
拍子《ひょうし》抜けする。涼子も美樹彦も、至《いた》って平静なままだ。
いや、少々空気が変わっている。ただし一触|即発《そくはつ》の危険《きけん》なそれではない。
この二人にはまるで似つかわしくない、今にもため息の出そうな、失望の色がにじむ、鈍《にぶ》い空気だった。
「……あまり真面目《まじめ》な事はやりたくないんだがね」
事実ため息をつきながら、美樹彦が億劫《おっくう》そうに口を開く。
「少し、真由の話をしようか」
「美樹彦」
「いやいいんだ。話しておきたい」
たしなめるような口調の姉を制《せい》し、美樹彦は言葉を継《つ》いだ。
「もう十年も前のことになる。そのころの真由はまだ、本当にごく普通《ふつう》の女の子だった。今と同じくらい優《やさ》しくて、今よりもずっとよく笑う子だった」
「そう――ですか」
「僕らは早くに両親を亡《な》くしてね。おまけに当時、僕はもう仕事で世界中を飛びまわっていたから あまり彼女の面倒《めんどう》をみてやれなかった。甘《あま》えたい盛《さか》りの年頃《としごろ》だ、さぞ寂《さぴ》しかっただろうと思う。でもそれを決して顔には出さなかった。もっとも、真由が養子同然に預《あず》けられていた家族は、彼女にひどくよくしてくれたがね。だけどあの通り、周囲に気をつかいすぎる性格《せいかく》だし、自分のことよりも他人のことを心配する子だから。表面上はともかく、決して気楽な日々ではなかったはずだ」
いつもの、仄《ほの》かな笑《え》みを絶《た》やさない表情《ひょうじょう》で美樹彦は語る。口調もまるっきり普段《ふだん》どおりだ。なのに、なぜか、次第《しだい》に口をはさめるような雰囲気《ふんいき》ではなくなっていく。
「その家に一人の少年がいた。彼は真由の境遇《きょうぐう》にいたく同情して、こまごまと面倒をみてくれていた。そして自然の成り行きだろう、真由は彼に好意を寄《よ》せるようになっていった。だが、それがきっかけになってしまったのさ」
「…………」
「生命|元素《げんそ》関連|因子欠損症《いんしけっそんしょう》の発症は、年齢《ねんれい》的条件を除《のぞ》けば、恋愛《れんあい》感情に端《たん》を発することが多い。かといって因子|保持《ほじ》者すべてにそれが当て嵌《はま》るわけじゃない。幼年期であればなおさらだ。が、残念ながら真由は該当してしまった。そして彼女は本能の命ずるままに、恋する少年の精気《せいき》を吸《す》った。そこにもう一つ不運が重なる。言ったろう? 彼女は自分のカを制御することができないんだよ。では、そんな彼女に精気を吸い尽くされた少年がどんな運命をたどったか。――説明が必要かな?」
息をのむ。絶句《ぜっく》のあまり何も返せない。美樹彦の話が事実なら、彼女はかつて一人の少年の命を――
「その時の真由の心情は察するに余《あま》りある。彼女は自らのしでかしたことに打ちひしがれ、心を閉《と》ざした。それからしばらくのことは――すまないね、話せない。あの頃の事は思い出すのも厭《いや》でね。十年たった今でも、僕《ぼく》の唯一《ゆいいつ》のトラウマだ」
「…………」
「それでも尽力《じんりょく》の甲斐《かい》あって数年後、真由は一時のどん底から立ち直ることができた。性格は随分《ずいぶん》変わってしまったし、当時の記憶《きおく》はかなり曖味《あいまい》になってはいたがね。かろうじて、かつて恋した少年がいたことは覚えているようだが、自分が彼に何をしたか、その結果彼がどうなったかは、綺麗《きれい》に深層《しんそう》心理が覆《おおい》い隠してしまった。残ったのは男性に対する拒絶《きょぜつ》反応と、そこから転じた極度《きょくど》の恐怖心だけ。そしてほどなく彼女はこの国を離《はな》れ、ある修道院直轄《しゅうどういんちょっかつ》の寄宿《きしゅく》学校に入り、僕以外の異性《いせい》との接触《せっしょく》を例外なく断《た》った。以来ほんの数日前に至るまで、妹はそこから一歩も出なかった。僕が強引《ごういん》に引っ張り出さなければ、おそらく死ぬまであそこに閉じこもっていたことだろう」
「…………」
「だが考えてもみたまえ。異国の地でただ一人、年端《としは》も行かない少女が外界と隔離《かくり》された環境《かんきょう》で生きるとはどういうことか。おまけに彼女は敬虔《けいけん》な信徒でもなんでもない、それどころか宗教《しゅうきょう》とは一切関《いっさいかか》わりない人生を送っていたんだよ、それまでは。
それと、これはまだ話していなかったことだけどね。生命元素関連因子欠損症には禁断症状《きんだんしょうじょう》がある。これは症状の周期、程度《ていど》、どちらにもかなり個人差《こじんさ》はあるが――妹はそういうことを決して顔に出さないからね。僕にも真由の禁断症状がどれほどのものか、正確《せいかく》なところはわからない。参考までに、彼女と類似した遺伝子《いでんし》を持つ僕の場合を例に出そう。好奇心《こうきしん》から、かつて一度だけ試《ため》してみたことがあるんだが――五分と保《も》たなかったよ。僕が妹を掛《か》け値なしに尊敬している点は、僕と大差ないだろう禁断症状に、発狂《はっきょう》することなく耐え切っていることだ。僕が分けてあげられる精気程度では、禁断症状を抑《おさ》えることなんてできやしないんだからね。さらに告白しておこう、僕は何度も妹に忠告した。相手がどうなるかなんて考えるな、食事をするのと同じだと思って、誰《だれ》でもいい、男の精気を吸え、罪《つみ》は僕が背負《せお》う、とね。でもその種のことを言うたび、真由は否定《ひてい》も肯定《こうてい》もせず、ただいつも、ひどく哀《かな》しそうな顔をしたものだよ。もっと白状しようか? 僕は妹のためならいくらでも畜生道《ちくしょうどう》を往《ゆ》けるんだ。僕は以前――」
「もういいわ美樹彦」
静かに、涼子。
そのひとことで美樹彦は収まった。
姉はそれ以上何も言わず、無表情のまま食堂を去る。
「――ふむ。少し冗談《じょうだん》が過ぎたかな」
苦笑いした美樹彦、あごを撫《な》でながら峻護に向き直り、
「おや、その様子だと君もすっかり信じ込んでしまったみたいだね。まあ信じてくれるなら、それはそれで上々なんだが。どうだい? なんともかわいそうな女の子じゃないか、僕の妹は。さあ同情したね? 同情したろう? ならば、ぜひともそれを形で示してほしいものだ。期待しているよ」
一方的に切り上げ、美樹彦も姉のあとに続く。
椅子《いす》から立ち上がり、両手をテーブルに叩きつけた姿勢《しせい》のまま、峻護は狐《きつね》にでも化かされたような気分でそれを見送る。
*
理不尽だと思う。
昨日からこのかた、法治国家に対する挑戦ともいうべき、むごたらしい児童虐待《じどうぎゃくたい》の数々を受け続けてきた。百歩|譲《ゆず》ろうと千歩譲ろうと、たとえ天地がひっくり返り、地球の磁場《じば》が反転しようと、自分は憐《あわ》れみを受けて然《しか》るべき被害者《ひがいしゃ》のはずである。
なのにどうして、こんな気分にならなければいけないのか。
先を行く真由から十メートル離れて通学路を歩きながら、峻護は『こんな気分』――悔恨《かいこん》と罪悪《ざいあく》感を後味の悪さで煮込《にこ》み、自己嫌悪《じこけんお》をトッピングしたような気持ちに、苛《さいな》まれ続けている。
理不尽。そう、どう考えたって理不尽だ。おれは不当な扱《あつか》いに対して怒《おこ》っていい。無茶《むちゃ》な要求は拒絶《きょぜつ》していいはずだ――己《おのれ》に対して為《な》された数多《あまた》の仕打ちを思い返し、峻護は自らの正当|性《せい》を補強《ほきょう》する。しようとする。先ほどから何度もそうしている。だけど上手《うま》くいかずにいる。
嘆息《たんそく》し、彼は認めた。つくづく損《そん》な性格《せいかく》である。
(確《たし》かに昨日のはまずかった)
真由は逃げるようにして先をいそぐ。
といっても女の子の足だから、普通《ふつう》に歩いていてもすぐに追いついてしまう。
もちろん峻護は、追いつかないように気をつかって歩いている。
追いつくことができるほど彼は器用ではない。
(まずかったな……)
男なら誰でもいい、だって?
ばかげている。相手は寝込《ねこ》みを襲《おそ》われるところを想像《そうぞう》しただけで泣くような少女である。そのことがなくても、ここ二日のつきあいだけで十分知れる。彼女がそんな人間であるものか。まして、彼女の性格については美樹彦から念を押されていたのに。
ひょっとして――いやひょっとしなくても、あれは彼女に対する最大の侮辱《ぶじょく》だったのではないか。
(まずいよな……)
さらに痛《いた》いのは、
『|二ノ宮《にのみや》くんには、そんな風に思われたくなかったです』
である。
なんたる不用意、無神経《むしんけい》。
彼女にとって二ノ宮峻護という人間の存在《そんざい》がどういう意味を持つか、考えてみる。
彼女は男性|恐怖症《きょうふしょう》である。それを治すために二ノ宮家へ来た。そのリハビリのための当て馬が、自分である。しかも行く先々で彼女は自分に守られている。
自分がいなければ彼女のリハビリは頓挫《とんざ》する。
彼女にとって自分は、運命をゆだねている相手である。
さらに、だ。
自分は、彼女に触《ふ》れてもさほどの影響《えいきょう》がないという、めずらしい男である。触れた異性《いせい》をすべて卒倒《そっとう》させてしまう彼女にとって、ある種特別な存在だったことは疑いない。
そしてまた自分は、彼女がさほど恐怖心を抱《いだ》かないですむという、稀有《けう》な男でもある。はじめの頃《ころ》ならとてもそうは思えなかったろうが、一連の出来事を見てきた今ならわかる。自分は確かに、あまり恐《こわ》がられていない。
彼女にとってそんな人間は、自分一人しかいない。
自分以上に適任《てきにん》なリハビリの相手はいない。
自分しか頼《たよ》る相手がいないのである。
そういう相手に、彼女はいちばん言われたくないことを言われた。拒絶、否定《ひてい》された。
(まずいぞ……)
そうでなくとも彼女はよく頑張《がんば》っている。男性恐怖症の身で、おまけに社交的なほうでもないだろうに、見知らぬ他人の家へ連れてこられて、会ったばかりの男と同じ部屋に住まわされて、それでも文句《もんく》のひとつも言わない。
そこへきて先ほどご丁寧《ていねい》にとどめをさしてくれたのが、美樹彦の吐露《とろ》である。
頭をかきむしる。
冗談、であるとは思う。相手はあの月村美樹彦だし、当人もタネ明かしをした。第一、あんなのが事実であってたまるか。
(…………)
冗談だとしよう。それでも、あれは正直、効《き》いた。卑怯《ひきょう》だ。作り話にしたって、今さらあんなこと。これでは完全に自分が悪役ではないか。いやちがう。そんなことはない。なぜならこっちだって被害者なのだ。理不尽《りふじん》。そう、どう考えたって理不尽だ。おれは不当な扱《あつか》いに対して怒《おこ》っていい。無茶な要求は拒絶して――
……自己|弁護《ペんご》の永久《えいきゅう》サイクルに嵌《はま》りはじめた頃、神宮寺学園《じんぐうじがくえん》の校門が見えてきた。
さらに峻護はげっそりする。
今度はここで、毎日|恒例《こうれい》となった行事の洗礼《せんれい》を受けねぱならない。
真由のうしろについたまま、覚悟《かくご》をきめて校門をくぐる。
…………。
(ん?)
例の『あれ』がない。
めずらしく今日は欠席でもしているのか、と思って見れば――ちゃんと北条麗華《ほうじょうれいか》はいつものところにいる。生徒会メンバーの顔ぶれに変わりはないし、はにかんでいる保坂《ほさか》も主人のそばに控《ひか》えている。
それでもやはり、あの発声学上の奇跡《きせき》は披露《ひろう》されない。
(?)
当惑《とうわく》しながらも、
「どうも、おはようございます北条|先輩《せんぱい》」
「……あら、ごきげんよう」
…………。
(あれ?)
あいさつを交《か》わしただけで、ぷい、とそっぽを向いてしまった。今日はこれだけで解放してくれるらしい。どういうわけかチクチクと針《はり》で刺《さ》すような視線《しせん》で見られはしたが――
それだけだ。
問題なのはそっぽを向いた先だった。
麗華は、峻護が思わずたじろぐほどの激《はげ》しい目つきで真由を射抜《いぬ》いている。まともに目をあわせればそれこそ石化でもしかねないような眼力《がんりき》で。
ところが次の瞬間《しゅんかん》には、気を取りなおしたように余裕《よゆう》の表情《ひょうじょう》。ふふん、と鼻で笑いながら、傍《かたわ》らを通りすぎていく真由を見送る。もっとも、当の相手のほうは心ここにあらずであいさつも忘《わす》れ、そんな麗華の変化にまるで気づいてないようだったが。
(……どうなってるんです?)
という目で保坂を見やるが、どうとでも取れるはにかみが返ってくるだけ。
……たとえ迷惑《めいわく》なものであっても、当たり前であるべきことが起こらないのはいい事ではない。
(何かよくないことの前兆《ぜんちょう》だとか――いや)
湧《わ》き起こりかけた胸騒《むなさわ》ぎをあわてて打ち消す。これ以上|厄介《やっかい》ごとが重なってはたまらない。何か起こるにしても雨が降《ふ》るとか、せめて槍《やり》が降る程度《ていど》であってくれればいい――そう願いながら真由のあとを追った。
教室に入るや否《いな》や、待ちかまえていた吉田《よしだ》と井上《いのうえ》が歓声《かんせい》をあげて駆《か》けより、すぐに怪訝《けげん》な表情をこちらに向けてくる。一目見て真由にまつわる雰囲気《ふんいき》のちがいに気づいたか、他《ほか》のクラスメイト達も騒ぎたてようとはせず、日奈子《ひなこ》あたりも珍《めずら》しく困惑《こんわく》顔である。
うつむき、無言のまま真由は席につく。
昨日のお祭り騒ぎだけでは飽《あ》き足りない連中や、ファンクラブの会員たちがぞろぞろとやってくる。が、いずれも教室から漏《も》れ出す空気に呑《の》まれて戸惑《とまど》っているようで、中に入ってこようとはしない。
*
そのころ――
学園の中庭を、肩《かた》をそびやかして歩くひとりの人物がある。
砂漠化《さばくか》の激しい頭頂部《とうちょうぶ》、脂《あぶら》ぎった肌《はだ》、突《つ》き出たビール腹《ばら》。この国において典型的とされる嫌《オ》中年《ヤ》男性《ジ》の特徴《とくちょう》をすべて満たした男。
私立神宮寺学園の校長である。
うしろに倒《たお》れるんじゃないかと心配になるくらいふんぞり返り、周囲を脾睨《へいげい》するようにして、彼は彼の庭をゆく。もっとも、背《せ》が低いのであまり様になってはいないが。
昨日以来、彼はいたって不機嫌《ふきげん》であった。
原因《げんいん》は彼の部下となった二人の新米である。
まったく、けしからんことであった。あの二人には、ボスである自分を敬《うやま》うとする意思がハナクソほどもない。この学園において神ともいうべき校長の存在《そんざい》を一体なんだと思っているのか。給料とボーナスの査定《さてい》も、いや、その首を切ったり付けたりするのでさえ、自分の口|利《き》きひとつだというのに。
さらに気に食わないことに、連中はこれまで見たこともないような美男、美女である。自然、生徒に非常《ひじょう》な人気がある。あまりの人気ぶりに昨日は暴動《ぼうどう》まがいの騒ぎが起こる始末だ。まったく、校長であるこの自分を差しおいて!
第一、理事会からは自分になんの相談もなかったのだ。朝、気づいてみたら辞令がとどいていて、何食わぬ顔でやつらは着任《ちゃくにん》していたのである。
たしかにこの学園は教育界の特異点である。どんな不思議、不可解が起こってもおかしくはない。だが、校長である自分をないがしろにする事態《じたい》は、いかなる理由があっても許《ゆる》されないはずである。
まあいい。時間はたっぷりある。額を地面にこすりつけてかしずくべき相手が誰なのか、これからじっくりと連中に教えこんでやらねば。
と、その時、彼の眉間《みけん》に深いしわが刻《きざ》まれた。
噂《うわさ》をすれば何とやら、新人の用務員《ようむいん》である。
どういう工夫《くふう》があるのか、よれよれの作業服を小粋《こいき》に着こなし、周囲を取り巻く女子生徒たちと談笑《だんしょう》している。竹箒《たけぼうき》を持っているところを見ると、どうやらこのあたりの掃《は》き掃除《そうじ》をしていたようだが――小娘《こむすめ》どもにまとわり付かれてはかどった様子はない。
どうやらさっそく失点をつかむことができたらしい。校長は舌《した》なめずりをした。
先方もこちらに気づいたようだ。
「おや、校長先生」
「月村《つきむら》君、どういうつもりかね」
あからさまに嫌そうな顔をしてくる女子生徒たちを睨《ね》めまわし、
「こういうことをさせるために給料を払《はら》っているわけじゃないんだがね? くびになりたくなければ、さっさと自分の仕事をすることだ」
はっはっはと用務員は快活に笑い、
「さあみんな、僕《ぼく》はそろそろ掃除の続きをしないと。これ以上話していると校長先生にいじめられてしまうからね」
ええー、という不満の声が一斉《いっせい》にあがる。なによハゲのくせに、オヤジのくせに、というひそひそ声も聞こえる。
「きさまらもさっさと教室にもどらんか! こんなところで油を売っているヒマがあったら自習でもしていろ!」
頭にツノを生やして怒鳴《どなり》りちらすときゃーきゃー悲鳴をあげ、口々に不平を爆撃《ばくげき》しながら逃げ散っていく。
はっはっはと笑いながらそれを見送る用務員に、
「君もさっさと仕事をしろ。そんなふうに他《ほか》ごとに関《かか》わっているから――見たまえ」
校長はおもむろに屈《かが》みこんで目を凝《こ》らし、地面を指でなぞると、
「こんなにホコリがたまっている。サボっている証拠《しょうこ》だ。こんな仕事が続くようなら給料は出さん。さあ早くやりたまえ。ここと、そこと、あそこの掃除もだ。手を抜《ぬ》くんじゃないぞ」
山盛《やまも》りの作業を押しつけてやる。明らかに一個人の手にあまる量だ。
これで多少は溜飲《りゅういん》を下げられる――かと思いきや、
「はっはっは、いいでしょう」
あっさり承知《しようち》。
とみるや、用務員は竹篝を曲芸のように操《あやつ》り、てきぱきと仕事を進めはじめた。あっという間に掃除が片付いてゆく。そのうえ過剰労働にまるでこたえた様子もなく、至って涼しげな表情《ひょうじょう》だ。
「ふ、ふん、手を抜くんじゃないぞ」
芸のない捨《す》て台詞《ぜりふ》をのこし、校長はその場をあとにした。
あれだけの手際《てぎわ》を見せ付けられては何も言えない。せっかくのいびり[#「いびり」に傍点]が台無しだ。気分が悪い。じつに、気分が悪い。
かっかかっかしながら大股《おおまた》で校舎《こうしゃ》に入る。
と、そこで違和《いわ》感を覚える。
心臓《しんぞう》の動悸《どうき》が、なんだか調子っぱずれになっている。
校長はかなりの高血圧《こうけつあつ》である。何度も医者に注意を促《うなが》されてはいたのだが、こうはっきりと自覚|症状《しょうじょう》が出るのは初めてだった。これもあの忌々《いまいま》しい用務員のせいだ。
いらいらしながら考える。とにかく経験《けいけん》のないことだから対処法《たいしょほう》がわからない。しかたがない、とりあえず保健室《ほけんしつ》へ――
と、そこで彼はいやな顔をした。だが背《せ》に腹《はら》は代《か》えられない。渋々《しぶしぶ》ながら足を運ぶ。
「おい、二ノ宮君」
引き戸を開けた途端《とたん》、陽気な騒《さわ》ぎ声が保健室から溢《あふ》れ出した。
人垣が、すぐ入り口のところまで迫っている。どう見ても収容人数オーバー、飽和状態《ほうわじょうたい》になった男子生徒たちの熱気で中はむせ返っていた。
校長はさっそく彼の本領《ほんりょう》を発揮《はっき》した。
「きさまら、保健室は騒ぐ場所じゃない! そろそろホームルームが始まるだろう! 教室にもどっていろ!」
男子生徒たちからも速攻《そっこう》で不平があがる。えー、んだよハゲのくせに、オヤジのくせに。横暴《おうぼう》だ、職権乱用《しよつけんらんよう》だ、ねー二ノ宮センセ、何とか言ってやってよ。
「はいはいあんたたち、そのくらいにしときなさい。こっちも忙《いそが》しいんだから」
ええーっ、そんなあー。
「恨《うら》むんなら校長さんを恨みなさいね。ほらほら、早く行きなさい。ほらあんたも、いつまでベッドで寝《ね》てるの。何?――頭が痛い? 下手な芝居打ってないでさっさと出る!」
小僧《こぞう》どもは代わる代わる校長に悪態をつきながら、名残惜《なごりお》しそうに保健室を後にした。
「さて校長さん、どんな御用《ごよう》?」
保健医はデスクに腰掛《こしか》けて、タイトスカートからのびた長い足を組んだ。
一瞬《いっしゅん》その脚線美《きゃくせんぴ》に鼻の下を伸《の》ばした校長だったが、すぐに咳払《せきばら》いし、事情をのべる。
「ふうん、なるほどねえ。校長さん、血圧の上はいくつ?」
「む。だいたい160ほどだ」
「高すぎ。よくこれまでもったわね」
あきれ顔で保健医は立ちあがった。
「校長さん、今の症状はどんな感じ? 我慢《がまん》できそうにない?」
「いや、それほどではないんだが――そんなことより君、わしは校長だぞ。もっと言葉づかいを」
「まあ、それならとりあえずは利尿《りにょう》薬で様子を見ようか。校長さん、抗《こう》アルドステロン系《けい》とサイアザイド系と、どっちがいい?」
「いや、わしはそういうことは……」
「じゃ、抗アルドステロン系ね。ええと、ウチの保健室には確《たし》かその手の薬もあったはずだけど……ああ、あった」
薬棚《くすりだな》から小ビンを取り出してきて、
「はい、これね」
「う、うむ、すまんな」
が、保健医はビンを手の上にかざし、おあずけをした。
「校長さん。あなた、煙草《たばこ》とお酒は止《や》めてるでしょうね?」
「む……いや」
「だめねえ。それじゃあ薬で血圧下げたって焼け石に水じゃない。そうね、アルコールは一日に日本酒で半合まで。煙草は厳禁《げんきん》。食事|制限《せいげん》もガイドに従《したが》ってきちんとする。それが守れないなら無駄《むだ》。薬はあげない。どうする?」
「君、わしは校長――」
「守れるの? 守れないの?」
「う、うむ、わかった。そうする」
ぐい、と鼻先まで迫《せま》って目をすがめる保健医の迫力《はくりょく》に、校長は首を縦《たて》に振《ふ》った。
「そ。じゃ、あげる」
にこりと笑い、薬を渡《わた》し、
「ほら、用が済《す》んだら突《つ》っ立ってんじゃないの。さっさと行った行った。あ、学校終わったらちゃんと病院行きなさいね」
廊下《ろうか》に追い出され、ぴしゃりと戸を閉《し》められた。
「…………」
すっかりペースに乗せられた校長、薬ビンを片手《かたて》にとぼとぼ保健室をあとにする。
が、軽くあしらわれたことの不快《ふかい》感がじわじわとせりあがってくる。動悸がまた不協和音を奏《かな》ではじめる。さっそく小ビンの薬が役に立った。それがまた気に入らない。
錠剤《じょうざい》を飲み下しながら、あらためて思う。
やはり許《ゆる》すまじ。あの二人、もはや天敵《てんてき》だ。
やつらを押しつけた理事長は『くれぐれも粗相《そそう》のないように』などと言っていたが、もはや知ったことではなかった。それに理事長とは言っても、別にこの学園の所有者なのではない。実情《じつじょう》は雇《やと》われ者の管理者にすぎないのである。そのことを校長はよく知っていた。
さて、そうと決まれば一刻《いっこく》も早く不敬《ふけい》な新米どもの欠点をあげつらって、連中をくびに追いこまなければ――
どのようにいびり、難癖《なんくせ》をつけていくか思案しつつ、彼は自らの執務室《しつむしつ》へ向かう。
*
ときに。
北条麗華という少女の人となりについてである。
まず、規格《きかく》はずれのお嬢様《じょうさま》である。何しろ北条コンツェルンの跡《あと》とり娘《むすめ》だ。北条コンツェルンといえばこの国を、いやこの地球をも牛耳《ぎゅうじ》っているといわれる企業複合体《きぎょうふくごうたい》である。
自然、彼女はみずからの身分に誇《ほこ》りをもっている。
ただし、彼女はそれをひけらかさない。その身分が相対的なものにすぎず、未来|永劫《えいごう》不変なわけでもなく、自分の手で獲得《かくとく》したものですらないことを理解《りかい》しているからである。
ゆえに彼女は、その身分がもたらす力をみだりに用いない。そういう力の脆《もろ》さを承知《しょうち》しているからである。
その自律《じりつ》と自制こそが、彼女が慕《した》われる理由の一つである。だからこそ曲者《くせもの》ぞろいのこの学園にあって、生徒会長として彼らをまとめてもいける。
ただし。
彼女は同時に、己《おのれ》の身分がもたらす力の有用さをも熟知《じゅくち》している。
そしてまた自律と自制のほかに、火のような気性《きしょう》もあわせ持っているのだった。
こうして彼女の果断速攻《かだんそっこう》が、校長の前にかたちとなって現《あらわ》れることとなる。
*
校長室では思わぬ来客が彼を待っていた。
「そう硬《かた》くならなくても結構《けっこう》ですよ、校長先生」
対面のソファに浅く腰《こし》をかけ、その男は鷹揚《おうよう》な笑《え》みを浮《う》かべた。
「は、いえ、その」
しきりにハンカチで顔をぬぐいつつ、校長の返事は要領《ようりょう》を得ない。
それも無理はないのだ――彼は自分を庇《かば》いながら、目の前の男を上目づかいに見る。
悠然《ゆうぜん》たるオーラをまとった、壮年《そうねん》の紳士《しんし》である。
痩身《そうしん》ながら周囲を圧《あつ》する貫禄《かんろく》といい、眼光鋭《がんこうするど》い相貌《そうぽう》といい、いかにも切れ者の風がある。
身にまとっているスーツなどは目にするだけでも稀有《けう》な眼福だと思えるような逸品《いっぴん》で、校長の薄給《はっきゅう》ではそのボタンの部分だけでも賄《まかな》えるかどうか疑《うたが》わしい。
「ああ」紳士は微苦笑《びくしょう》し、
「これはうかつだった、自己紹介《じこしょうかい》がまだでしたな。失礼をした」
「い、いえ、とんでもない」
あわてて首と手を振《ふ》った。紹介などされずとも、世界に名だたる北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条|義宣《よしのぶ》の顔を知らない者はない。
「それで北条先生」居住《いず》まいを正し、
「本日、このように朝早くからご光来いただきましたるは、一体いかなるご用向きでございましょう」
「ははは、先生ですか。これはいい。先生であるのは本来あなたであって、私ではないだろうに」
「は、いえ、その」
質問《しつもん》の答えを聞けず、救いをもとめるように来客の背後《はいご》にひかえる二人の男を見た。
一見、秘書《ひしよ》風の男たちである。
そう、秘書には違《ちが》いないだろう。だがそれ以上に、彼らは最精鋭《さいせいえい》のボディーガードでもあるはずだった。屈強《くっきょう》、というには遠いが、見た目のおだやかさとは裏腹《うらはら》な剣呑《けんのん》さを、鋼《はがね》の意志《いし》によって何重にも押《お》しつつんでいる――校長の小動物的なカンはそのことを敏感《びんかん》に感じ取っていた。
それにしても一体なんの用件《ようけん》だろう。一人娘が通っているというのに、北条家はこれまで学園に対してまったくの不干渉《ふかんしょう》であった。その事情について、一説には北条麗華自身がそれを峻拒《しゅんきょ》しているからだともいうが、真偽《しんぎ》のほどは定かでない。いずれにしろ神宮寺学園は、北条家の強大な力とは関《かか》わりなく運営されてきた。
それが突然《とつぜん》、北条義宣総帥みずからの来校だ。果たして何を言い出すつもりか――
「娘から話は聞いています」
そう、北条義宣は切り出した。
「貴校《きこう》は良き学《まな》び舎《や》のようですな。麗華は、ここをいたく気に入っているらしい」
「は……万端《ばんたん》、ご承知とは思われますが、当校は徹底《てってい》して生徒たちの自主性《じしゅせい》を尊重《そんちょう》する校風でありまして。それゆえ大いに風通しもよく、生徒の成長にも良好に影響《えいきょう》しております。もちろんそのことについてはご令嬢《れいじょう》――麗華さんの運営《うんえい》する生徒会の優秀《ゆうしゅう》さによるところが大でありまして……」
総帥は校長の世辞に感じ入った様子もなく、
「じつを申し上げれば、娘が貴校に通うことについて、私はあまり感心しなかったのだが――結果としてはここを選んだ娘の選別眼が正しかったらしい。貴校に通うようになって、コンツェルン後継者《こうけいしゃ》としての風格《ふうかく》がいよいよ具《そな》わってきた。あたた方には感謝《かんしゃ》していますよ」
「お、おそれいります」
「そこで今日は他《ほか》でもない。微力ながら貴校の手助けになれれば、と思いまして」
そう言うと北条義宣はふところから何かを取り出し、テーブルの上に置いた。
一枚の紙切れである。
校長の目はそれを、零《ゼロ》がたくさん書かれている紙、とだけ認識《にんしき》した。
「貴校を運営する資金《しきん》の足しにしてください」
顔に「?」マークを浮かべ、もう一度テーブルに目を戻《もど》し、そして彼はそれが小切手であることにようやく気づいた。しかもそこに書きこまれている額《がく》は、運営資金の足しどころか、この学園を土地ごと買いなおしてもお釣《つ》りがくるだけの大金である。
身もふたもなく目の色を変えた校長だったが、きわどいところで自制心《じせいしん》を振《ふ》り絞《しぼ》った。
ことさら謹直《きんちょく》な顔を作り、
「御申し出は大変ありがたいのですが、当学園は運営資金に不足をきたしてはございません。必要な分はそのつど、私どもの理事会が十分に用意しておりますので……」
「ふむ」総帥はあごをひと撫《な》でし、「では、これはあなたの物だ」
「は?」
「聞こえませんでしたか? この小切手は、あなたの物です」
「…………」
「ああ、税金《ぜいきん》のことが気になるのですか。ご心配なく。配慮《はいりょ》しておきます。その他《ほか》にも法的な問題があれば、解決《かいけつ》しておきましょう」
「…………」
本当に?
本当にこれだけの金が自分のものに?
喉《のど》がごくりと鳴り、口の中が干上《ひあ》がって何も飲み下せないことに気づき、何か飲み物を、と思った瞬間《しゅんかん》、テーブルの上に茶の一つも出ていないという粗相《そそう》に青くなり、
「こっ、これは失礼いたしました、ただいまお飲み物をお持ちいたしますので」
ぎくしゃくと立ち上がり、執務机《しつむづくえ》の内線をとった。
つながるのを待つ合間にも明るい人生計画が際限なく湧《わ》き上がり、校長のテンションは否《いや》が上にも高まってゆく。
十回目のコールでようやく出ると、相手の確認《かくにん》もせず押し殺した声で叱《しか》り付けた。
「気のまわらん馬鹿《ばか》者め! 誰《だれ》でもいいからお茶をお持ちしろ! 今すぐにだ!」
声が答《こた》える、
「おや校長先生。どうしました」
用務員《ようむいん》だった。
たちまちバラ色の妄想《もうそう》がしぼんでゆく。
「なんだ。なぜ、君が出る。他に手の空いている者はおらんのか」
「あいにくと」
「……ええい、やむをえん」気はすすまないが、四の五の言っている場合ではない。
「君、校長室までお茶を持ってくるんだ」
「ほう、お茶くみですか。面白《おもしろ》そうですね」
「何を言っている。いいから早くしたまえ。玉露《ぎょくろ》だぞ」
言い捨《す》てておき、探《も》み手をせんばかりの愛想《あいそ》笑いで席にもどる。
「たいへん失礼いたしました。すぐに、すぐにお茶がまいりますので」
「ところで――」来客は校長の媚態《びたい》など鼻にもかけず、
「昨日付けで、貴校に転入生が就学《しゅうがく》したそうだね」
「はあ……転入生、ですか」校長は総帥《そうすい》の言葉よりも、彼がテーブルから取り上げた小切手のほうに意識《いしき》を注いでいる。「確《たし》かにそのような者が一名、おりますが」
その転入生は新米|職員《しょくいん》ふたりと同じく、理事長に『くれぐれも粗相のないように』と押しつけられたのである。たしか用務員の妹だったはずだ。
「その者が、何か」
「辞《や》めさせたほうがいいでしょうな」
小切手をひらひらさせながら、北条義宣は唐突《とうとつ》に告げた。
「は……?」
「聞こえませんでしたか? 辞めさせたほうがいい、と申し上げた」
「それは――どういう……」
「困《こま》りましたな」
わずかに眉《まゆ》を寄せ、
「私はすでに言うべき事を申し上げた。それ以上、あなたは何を聞きたいというのです?」
「…………」
校長は素早《すばや》く打算をめぐらせた。めぐらせるまでもなく、結論《けつろん》は出た。
「いやはや、これはとんだご無礼をいたしました。理由など、なんでもよろしゅうございますな。ではさっそくその生徒に退学《たいがく》の」
その時。
「失礼しますよ」
ノックと共に、お茶を盆《ぼん》に載《の》せた用務員が姿《すがた》をあらわした。
「君、遅《おそ》いだろう。いつまでお待たせする気だ。――申し訳《わけ》ございません、なにぶん使えぬ男でございまして。おい、早くしたまえ」
さりげなく責任《せきにん》をなすり付けつつ、用務員をまねきよせる。
「はっはっは、申し訳ない。いいお茶を淹《い》れるには、どうしても時間がかかるもので」
「言い訳はいい、さっさとお出ししたまえ。――北条先生、粗茶ではございますが……北条先生?」
校長は怪評《けげん》な顔をした。
そこには別人のごとく血相を変えている北条コンツェルン総帥の姿があった。世界を牛耳《ぎゅうじ》るとさえいわれる男が、悠揚《おうよう》さも貫禄《かんろく》もどこかへ置きわすれ、ただ愕然《がくぜん》の二文字だけを五体すべてで表現《ひょうげん》している。
それだけではない。謹直《きんちょく》に控《ひか》えていた二人の秘書《ひしょ》までもが似《に》たり寄《よ》ったりの姿を呈《てい》していた――いや、こちらはさらにひどく、ほとんど恐慌状態《きょうこうじょうたい》というに近い。
彼らの視線《しせん》の先には、用務員がいた。
ふと気づいたようにそいつが片眉《かたまゆ》を上げた。
「おや北条氏。奇遇《きぐう》ですね、こんなところで会うとは」
「…………つっ」
「さあ、お茶をどうぞ」
「つっ、つっ、つっ、つっ」
がくがく震《ふる》え、奇妙《きみょう》な発声を繰《く》り返しつつも、北条義宣は反射《はんしゃ》的に湯飲みを受け取った。
展開《てんかい》についていけない校長を尻目《しりめ》に、
「お元気でしたか北条氏。……おっと失礼。あなたを死にそうな目に遭《あ》わせたのは僕《ぼく》でした。元気かも何もありませんね。あっはっは、これはうかつだった」
「つ、月村美樹彦――い、いや、月村さん、い、い、い、一体なぜ、ここに?」
「なに、ちょっとばかり転職しましてね。今はこの学園で用務員をやっています。ところで北条氏――」
「は、はい、なんでしょう?」
「熱くないんですか? お茶があなたの太ももにこぼれて湯気を立てていますが」
「え」
総帥は言われた箇所《かしょ》をみた。
数瞬《すうしゅん》の間。
そして絶叫《ぜっきょう》。
「あっはっは、愉快《ゆかい》な人だな。ですがそのままだと日常《にちじょう》生活に支障が出るでしょう。保健室《ほけんしつ》に行ってきたらどうです?」
奇声をあげてぴょんぴょん跳《と》びまわる火傷患者《やけどかんじゃ》と、度を失ってオロオロするだけの秘書たちに、用務員《ようむいん》はもっともなことを勧《すす》める。
状況《じょうきょう》を把握《はあく》できずにいた校長だったが、ようやく彼なりにこの場の判断《はんだん》を下した。
「と、とにかく北条先生、まずはお怪我《けが》のお手当てを。保健室までご案内いたします」
進言し、秘書たちと共に世界を牛耳る男を搬送《はんそう》する。痛《いた》みのためか、精神《せいしん》的ショックのためか、総帥の顔色は紙のように白く、一言も発さない。
保健室の戸を、張《は》りたおすようにして開けた。
「おい、二ノ宮君!」
「なあに、どうしたの校長さん」
デスクワークをしていた保健医《ほけんい》が手を止めて、
「さっきの薬のこと? あれは即効性《そっこうせい》のあるものじゃないからすぐには効《き》かないわよ」
「わしではない、このお方が火傷をされた。二ノ宮君、君も知っているだろう。この御方は北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条義宣氏であらせられる。粗相《そそう》があれば許《ゆる》さんぞ。さあ北条先生、こちらへ。北条先生?」
校長は怪認な顔をした。
彼に輝《かがや》ける未来をもたらしてくれるはずの男と、その秘書たちの顔色は。
白いのを通りこして、透明《とうめい》になっていた。
「あら北条さん。ひさしぶりね」
保健医がにっこり笑う。
「――にっ、にの、にのみ、にのみ」
「あたたがここに居るってことは――ああはいはい、そういうことか」
ひとり合点し、
「ところであなたの娘《むすめ》さんだけど。この学園に通っているわよねえ?」
途端《とたん》、雷撃《らいげき》に打たれたようになる総帥。
「なかなか面白《おもしろ》い子ね。気に入ってるわ」
「待っ、ご、後生です、娘《むすめ》だけは――」
「さ、じゃあ治療《ちりょう》しましょうか。ほら北条さん、ぼんやりしてないで、早く怪我したところを出しなさい」
「けけけけ結構《けっこう》です! 失礼いたしました!」
素《す》っ頓狂《とんきょう》な声をあげると、北条義宣は怪我人とは思えない俊敏さで、転がるようにして保健室を飛び出した。秘書《ひしょ》二人もそれにならう。つられるように、校長も続く。
「くそ、なんてことだ、なんということだ! 麗華の転校先をさがせ! この学校から連れもどすんだ! いいか、最優先事項《さいゆうせんじこう》だぞ! それと祈薦師《きとうし》、いや除霊師《じょれいし》を呼《よ》べ!」
「ほ、北条先生、いったい何事です?」追いすがり、ようやくそれだけを訊《き》く校長だが、
「なぜあの男とあの女がここにいる!」
逆《ぎゃく》にすさまじい表情《ひょうじょう》で詰《つ》めよられた。
「は? いえ、それは」
「まてよ……校長、先ほど話した転入生。名前はなんといった?」
「え?ええ、たしか、月村真由とか」
「月村……くそ、なんたるうかつだ。いいか校長。私がその転入生について話したこと、あれは無しだ。取り消す。それに私は金輪際《こんりんざい》、この学園には関《かか》わらん。よろしいですな」
「は? あの、それでは先ほどの小切手は――」
が、もはや北条氏は聞く耳をもたなかった。校長を振《ふ》りはらい、いっそすがすがしいほどの全力|疾走《しっそう》で校舎《こうしゃ》の外へと消える。
校長は、唖然呆然《あぜんぼうぜん》とそのうしろ姿を見送るしかない。
と、彼の背後《はいご》に誰《だれ》かが立つ気配があった。
「おやおや、あわただしい人だな。もう少しゆっくりしていけばいいのに」
「そうねえ。せっかくだから、いろいろ遊んであげてもよかったんだけど」
校長はジャンク品のロボットのような動作で振り返る。
「ん? どうしました校長先生? 顔面神経痛になったみたいに顔を引きつらせて」
「あら困《こま》ったわ。そういう症状《しょうじょう》に効く薬って、何かあったかしら」
新米ふたりは、ひどくほのぼのとした口調でそんなことを言った。
校長はただ、青白い顔で自らの部下たちを見くらべている。
ーこの学園は教育界の特異点《とくいてん》である。どんな不思議、不可解《ふかかい》が起こってもおかしくないのだ。
*
午前中の授業《じゅぎょう》を終え、昼休みを迎《むか》えた神宮寺学園の生徒会長室では――
「どういうことですのっ!」
北条麗華が魂《たましい》の叫《さけ》びをあげていた。
割《わ》れんばかりに机《つくえ》を叩《たた》き、地団駄《じだんだ》をふみ、さらに「きいいいいいい」と甲高い声をあげ、
「これでは話があべこべじゃない!」
(お嬢《じょう》さま、ささくれ立ってるなあ……)
その勘気《かんき》に保坂はただ首をすくめるばかり。
が、主人の不機嫌《ふきげん》と不可解も無理からぬことではあった。
北条コンツェルン総帥である父、義宣に依頼《いらい》し、月村真由を僻地《へきち》の三流校にでも飛ばす手筈《てはず》だった。獅子《しし》はネズミ一匹《いっぴき》を狩《か》るのにも全力を傾《かたむ》けるという。麗華も、小娘ひとりを排除《はいじょ》するのに力の出し惜《お》しみはしなかった。害敵《がいてき》と判断《はんだん》した以上、最大戦力でもって速《すみ》やかにこれをつぶす。理にかなう行動だったはずだ。
ところが結果はこのとおり、麗華自身が父から退学《たいがく》を命ぜられてしまった。月村真由の周囲に関する調査《ちょうさ》も差し止められた。最強の切り札だったものが、今では最悪の障害に転じてしまっている。たしかにあべこべである。
『そこにいると危険《きけん》だ、今すぐ帰ってこい』という言いつけこそ突《つ》っぱねて、まだ学園に居残《いのこ》ってはいるが――それもむなしい抵抗《ていこう》に終わることだろう。
(でもそのほうがいいですよ、お嬢さま)
大荒《おおあ》れに荒れる麗華を尻目《しりめ》に、保坂はそっとつぶやく。
彼としては敬愛《けいあい》する主人に、これ以上この件《けん》に関わってほしくない。相手が悪すぎる。
抜き差しならなくなる前に手を引かせてあげたいのだが――
残念ながら、彼のささやかな願いは届《とど》かなかった。
ほどなく現《あらわ》れた生徒会メンバーのひとりが、麗華に面会を希望している人物がいることを告げたのである。
その人物の名を聞かされて首をひねった麗華だったが、すぐ部屋へ通すように言い、保坂には人払《ひとばら》いを命じた。
どういう結末を迎《むか》えるにしろ、これですべては手遅《ておく》れになった――面会希望者が誰《だれ》であるかを知って保坂はそう確信《かくしん》し、そっと嘆息《たんそく》した。
命令どおり、保坂は人払いをした。
が、たとえ人払いを命じられてもそばを離《はな》れる訳《わけ》にはいかないのが彼の職掌《しょくしょう》である。
生徒会長室の外でひかえる保坂のもとに、会話の断片《だんぺん》が漏《も》れ聞こえてくる……
(……ゲーム、ですって?)
(……二ノ宮峻護の秘密《ひみつ》をいろいろ教えてやる? 二ノ宮峻護との仲を取りもつ? なにを勘《かん》ちがいしてらっしゃるの、あなた。わたくしは……お待ちなさい。誰もいらないとは言ってませんわよ)
(……ふん、あなたの提示《ていじ》する条件《じょうけん》にはこれっぽっちも魅力《みりょく》がないけれど、まあいいでしょう。それで、あなたの要求は?――えっ? 月村真由を?)
(……いいえ、その条件で構《かま》いませんわ。わたくしとしても、今は手詰《てづ》まりになっているところですし……いいえ、こっちの話です)
(……けれども、そんなことをしてあなたに何の得が……まあいいですわ。聞かないでおきましょう)
(……は? わたくしが失敗したら? ふん、そんなこと万に一つも……ええ、いいでしょう。もしそうなったら、あなたの言うことを何でも聞いてさしあげてよ)
(……ちょっ、冗談《じょうだん》じゃありませんわ! どうしてわたくしがそんな……お待ちなさい。人の話を最後まで聞かないと、人生|損《そん》をしますわよ)
(……ええ、失敗なんてありえませんわ、もちろん。赤子の手をひねるより簡単《かんたん》なこと)
(……結構《けっこう》。その条件、呑《の》みましょう。もしそうなれば、あなたのお望みどおりにしてさしあげますわ)
(止めても無駄《むだ》……だろうなあ)
保坂少年の気苦労はいよいよ絶えない。他《ほか》のことならいざ知らず、この件に関してはどれだけ軽率《けいそつ》を諫《いさ》めても徒労《とろう》だろう。
二ノ宮峻護。
月村真由。
このふたり、彼の主人にとっては徹底《てってい》的に鬼門《きもん》であるらしい。
*
大小の悲喜《ひき》交々《こもごも》を呑みこみ、私立神宮寺学園は今日も放課後をむかえる。
(ひどい一日だった……)
逃げるように一人で教室を出る真由を追いつつ、峻護は深く深くため息をついた。
今日は、昨日のようなお祭り騒《さわ》ぎはなかった。むろんその原因は、重力場の異常《いじょう》でも起きているのではないかと思えるほど重苦しい空気を終始|纏《まと》っていた真由に起因している。
おかげで峻護の周囲は打って変わったような静けさだったが、必ずしもそのことは彼の平穏を意味しない。会話どころか目すら合わせようとしない真由。その原因が峻護にあるらしいことを次第《しだい》に察し、温度の低い眼差《まなざ》しを送りつけてくる生徒たち。
昨日とはちがう意味で最悪だった。
この状況《じょうきょう》を何とかしたい、と切に願うのだが、きっかけが上手《うま》くつかめない。あるいは、それを作り出すことができない。
しかも彼には迷《まよ》いがあった。
これでいいのではないか、と思うのだ。
もともと彼女との同居《どうきょ》など望んではいなかった。彼女と良い関係を築こうなどとは考えてもいなかった。だったらこれでいいのではないか。このままいけば、嫌気《いやけ》の差した彼女は二ノ宮家を出ていくことになるのではないか。男性|恐怖症《きょうふしょう》の克服《こくふく》など棚上《たなあ》げになって、自分はまた本来の生活に戻《もど》れるのではないか――
ぼんやりそんなことを考えていると、だれかが呼《よ》びとめる声がした。
見れば、声の主は顔見知りの男子生徒である。
ちょっと手伝ってほしいことがある。そう言って彼は峻護に手を合わせた。
断《ことわ》ろうとして、しかしすぐ思い直す。足早に遠ざかる真由の後ろ姿《すがた》に目をやる。
(…………)
そう、これでいいのではないか――
*
その生徒は、自分の行動がどのような意味を持つのか知らなかった。
そして峻護は、その生徒が北条麗華に依頼《いらい》された者であることを知らない。
*
校舎を出たところで、月村真由が背後《はいご》を振り返った。
「…………」
きょろきょろとあたりを見回している。そこにいるのはみな、靴《くつ》を履《は》きかえて家路につく生徒ばかりだ。男子も女子もどこか彼女を避《さ》けるように遠巻《とおま》きにしている。おい、お前がいけよ、バカヤロお前こそ――などと優先権《ゆうせんけん》を押《お》しつけあっている少年達もちらほらいるが、度胸《どきょう》を決められぬままでいる。
「…………」
真由はなおもきょろきょろとしていたが、やがて諦《あきら》めたように肩《かた》をおとし、重い足取りで学校をあとにする。
ひとり、彼女は帰路を行く。
二ノ宮家までは、住宅街《じゅうたくがい》の真ん中をぬける細く入り組んだ小道が続く。
一分もたたないうちに同じ制服姿は彼女だけになる。中途半端な時間帯だけに人通りはほとんどない。
ひとり、真由は帰路を行く。
行きながら、絶《た》えずうしろを気にするそぶりを見せている。
――不意に、少しだけその顔が明るさを取り戻した。
しきりにうしろを気にしだす。そして。
何かの誘惑《ゆうわく》に負けたように、彼女はそっと背後を窺《うかが》う。
その顔がたちまちこわばった。
彼女の後ろに一人の男がついてきている。
髪を赤く染めた、顔中ピアスだらけのその男は、口の中でくちゃくちゃと何かを咀噛《そしゃく》し、へらへら笑いながら彼女を見ている。
真由は顔を青くし、足を速めた。
すぐにその歩みが止まった。
道を塞《ふさ》ぐようにして数人の男が並んでいる。いずれも赤い髪の男と似《に》たような年恰好《としかっこう》だ。
足を疎《すく》ませた真由だったが、もうすぐそこまで赤髪が迫《せま》ってきている。泣きそうな顔で残された週げ場――車一台がようやく通れるかどうかのせまい路地へと駆《か》け出す。
が、何十歩も行かないうちに彼女は行き止まりに突《つ》き当たった。
愕然《がくぜん》と振り返る。
十数人に膨《ふく》れ上がった男たちがニヤニヤと彼女を見ている。そのうしろからやってきたフルスモークのミニバンが、道全体をふさぐようにして停車した。
もはや逃げ場はない。
救いをもとめるように真由は男たちを見た。
その彼らの間を割《わ》って、細身の人影《ひとかげ》が姿をあらわす。
「――ごきげんよう、月村さん」
北条麗華である。
身体を震わせて声さえ出せない様子の真由を一瞥《いちべつ》し、鼻を鳴らした彼女は、
「ちょっと顔をお貸《か》しなさい」
言って、金で雇《やと》ったゴロツキたちへあごをしゃくった。
数人が下卑《げび》た笑いを浮《う》かべて獲物《えもの》に近づく。
そこが限界《げんかい》だったらしい。
真由は眠《ねむ》るようにまぶたを閉《と》じると、ゆっくりその場にくずおれた。
(……話に聞いていた、そのままね)
男性|恐怖症《きょうふしょう》とやらの度合いに麗華は半ば呆《あき》れつつ、
「さあ、お運びなさい」
うーす、というたるんだ返事とともに、数人が真由へとかがみこむ。
(ふん、他愛《たあい》もありませんわ)
ひとり、そう呟《つぶや》いてきびすを返した時。
背後――小娘《こむすめ》のいたあたりで、どさ、どさ、と鈍《にぶ》い音がした。
振《ふ》り向く。
「……何をやっていますの?」
眉間《みけん》にしわを寄《よ》せ、ゴロツキどもに睨《にら》みをくれる。が、知らない、わからないとでもいうように彼らは首を振るばかりで、さっぱり要領《ようりょう》を得ない。
麗華はあらためてその光景を見回した。
小娘が倒《たお》れている。長い髪をアスファルトに広げ、気を失ったままである。指一本、眉《まゆ》ひとすじ動かさない。
ゴロツキどもが倒れている。生気のない蒼白《そうはく》な顔をし、思い思いのぶざまな格好《かっこう》で転がっている。みな、小娘を運ぼうとしていた連中のようだ。
「だれか、状況《じょうきょう》を見ていた者は?」
ひとりが当惑《とうわく》した様子で説明した。よくは見ていない、女を運ぼうとしてあいつらが持ちあげたら、いきなり顔色が悪くなってブッ倒れた、ねえなんかヤバくないっすか、霊《れい》とか何かに呪《のろ》われたんじゃないすか、ヤバいっすよ、普通《ふつう》じゃなかったっすよ。
「……とにかく、やるべきことに変わりはないわ。残りの人数で倒れているのを運びなさい。まずは小娘からよ」
再度《さいど》の言いつけに、ゴロツキどもはおっかなびっくり真由に近づく。
近づいたものの、おたがいに目配せしあってなかなか動こうとしない彼らだったが、ふたたび麗華にひと睨みされると、しぶしぶ真由の腕《うで》やら足やら首筋《くびすじ》やらに手をかけて、 せーの、と声をかけ合い、
――持ちあげる前に卒倒《そっとう》した。
「…………」
「…………」
生き残ったゴロツキどもは、微妙《びみょう》な目つきでそれぞれ顔を見あわせる。
次いで彼らは無言のまま、揃《そろ》って雇用主《こようぬし》を見た。
「…………」
結局、麗華が度胸試《どきょうだめ》しをすることになった。
*
そのメモは下駄箱《げたばこ》に入っていた。
(……?)
何ということもなく、峻護は折り畳《たた》まれたそれを開く。
――思考が急速に回転しはじめる。
このメモの真偽《しんぎ》について素早《すばや》く検討《けんとう》。北条麗華の署名《しょめい》入り。筆跡《ひっせき》に記憶《きおく》がある、校内|報《ほう》の記事か何かだったか。まず本物。ならば内容《ないよう》は。月村真由を拘束《こうそく》している場所、必ずひとりで来るように、そこで何をするか、要約すればその三点。またずいぶんな真似《まね》をしてくれた。これだけ堂々とした拉致《らち》というのも奇妙《きみょう》だが、あのひとのする事なら成《な》る程《ほど》とも思う。しかしそれにしても解《げ》せないことが多い。何か裏《うら》がありそうだが――くそ、そんなことはどうでもいい。また大失態《だいしったい》だ。このことを知ったらあの二人は……。拉致、拉致か。相手は複数《ふくすう》、最少でも実行|班《はん》とサポート班の二手に分かれるだろう。すると人数はまず十人以上、その倍はいるかもしれない。まずい。陣容《じんよう》は男が多数を占《し》めるはず、拉致する際《さい》に彼女の身体《からだ》にふれる可能性《かのうせい》も高い。彼女の体質《たいしつ》までばれたら、
(彼女の体質までばれたら――)
ふと、我《われ》にかえる。
自分のことばかりだ。自分のことばかり考えている。サキュバスである彼女の体質が明るみに出ることで、彼女がどうなるかを心配しているのではない。そのことによって自分に課せられるペナルティを心配しているだけだ。拉致された彼女がどういう気持ちでいるか、少しでも考えていたか?
今だけの話ではない。これまで彼女のことを本気で心配したことなどあったか。
もしこれが逆《ぎゃく》の立場ならどうだろう。
あの真面目《まじめ》で素直《すなお》で純情《じゅんじょう》な少女は、自らの安全、保身《ほしん》、平穏《へいおん》、そういうことばかりに脳《のう》ミソを使うだろうか。
「…………」
もともと、彼女との同居《どうきょ》など望んではいなかった。
彼女と良い関係を築こうなどとは、考えてもいなかった。
それで?
今は、どうなんだ?
ちょっとしたことでヘッドバットみたいなお辞儀《じぎ》をするような――
寝込《ねこ》みを襲《おそ》われるところを想像《そうぞう》しただけで泣くような――
栄養ドリングをもらっただけであんな嬉《うれ》しそうな笑顔《えがお》を見せるような――
男なら誰《だれ》でもいいんだろうと言われただけであれだけ傷《きず》つくような――
そんな彼女に、自分は何をしてやれた?
何をしてやれる?
*
神宮寺学園からそう離《はな》れているわけでもない。
住宅街《じゅうたくがい》のはずれ。工業|団地《だんち》のならぶ区域と侵食《しんしょく》しあう、どっちつかずの土地柄である。
コンクリで固められた凹状《おうじょう》の人工|河川《かせん》が干《ひ》からびたまま横たわり、そのほとりには年代物のあばら家が雑然《ざつぜん》と列をなす。
うらぶれた空気が澱《おり》のように淀《よど》んでいるそんな場所に、その赤錆《あかさ》びた廃《はい》工場はあった。
「じゃあお嬢《じょう》さま、もういちど手筈《てはず》を確認《かくにん》しますね」
工作用機械があちこちに放置されたその内部では、保坂の気楽な声がひびいている。
「外に配置した人数は二十人。彼らが二ノ宮くんを迎《むか》えうちます。全員弱みを握《にぎ》っている人たちですし、心づけも十分|与《あた》えてますから、彼らなりの働きはしてくれるでしょう」
付き人の説明を、麗華は腕組《うでぐ》み立ちで聞いている。
そのうしろに真由がいた。縛《いまし》めは受けていない。乱暴《らんぼう》をされた様子もない。失神|状態《じょうたい》からも回復《かいふく》している。が、暗い顔のままうなだれている。
さらに彼女を挟《はさ》みこむようにして男がふたり。どうやら用心棒《バウンサー》のようなものらしいが、雇《やと》われのゴロツキどもとは見た目からしてちがう。抜《ぬ》き身の刃《やいば》を思わせる凄味《すごみ》。求道者にも似《に》た孤高《ここう》と峻厳《しゅんげん》。彫像《ちょうぞう》のごとき沈黙《ちんもく》を保《たも》ったまま、身じろぎひとつせずにいる。
「旦那《だんな》さまの目がありますので、動かせるのはこのあたりが限界《げんかい》です。各方面への根回しはそれぞれ可能《かのう》な範囲《はんい》で済《す》ませておきました。――こんな感じでよろしいですか、お嬢さま?」
「結構《けっこう》。それで十分ですわ」
「月村さんを二ノ宮くんが取りかえせば彼の勝ち。取られなけれぱお嬢さまの勝ち。そういう条件《じょうけん》なんですよね?」
「そうよ」
「これもいい勉強になると思います。くじけないでがんばってくださいね、お嬢さま」
「……奥歯《おくば》に物がはさまったような言いかたね」
「お嬢さまに話せないこととか色々あるんですよ、ぼくも」
「なに訳《わけ》のわからないこと言って」
「――あのっ、麗華さん!」
それまで口を閉《と》ざしていた真由が差し迫《せま》った声をあげた。
「二ノ宮くんに――何を、するつもりなんですか」
「ふん、たいした事じゃありませんわ」
人質に向き直り、両手を腰《こし》にあてる。
「あなたを助けにのこのこ現《あらわ》れた二ノ宮峻護を、たっぷりと痛《いた》い目にあわせる。ただそれだけのこと」
「…………」
「あの男のわたくしに対する態度、普段《ふだん》から目に余るものがあります。いつか矯正《きょうせい》してさしあげる必要があると考えていましたから、今回のことはむしろ渡《わた》りに船。これであの男もわたくしの素晴《すば》らしさを理解《りかい》するでしょう。せいぜい思い知るがいいんですわ」
そう言うと麗華、満足げにうんうんと頷《うなず》く。
が、すぐに心配げな表情になり、保坂にそっと耳打ち。
「ちゃんと手加減《てかげん》するように言ってあるんでしょうね?」
「言ってあります。でもそんな気づかいはしない方がいいと思うなあ」
付き人のぼやきを皆《みな》まで聞かず、ほっと安堵《あんど》した息をつき、
「そういうことですわ。理解できて?」
「……それだったら、二ノ宮くんは来ないです」
しょんぼりと、真由。
「来ない? ふん、まあそうかも知れませんわね。それにこの際《さい》、わたくしとしては不戦勝でもかまいませんし」
「…………」
「二ノ宮峻護も、あなたのような小娘《こむすめ》のためにリスクを背負《せお》うこともないでしょう。あの男は、あなたのことなんて何とも思ってないにきまってるんだから」
「そのとおりです……」
さらにしゅんとなって、ひとりごちるように言葉を繋《つな》げる。
「わたしは――わたしは、ただのお荷物です。二ノ宮くんに迷惑《めいわく》ばかりかけてるんです。わたし馬鹿《ばか》だし、のろまだし、気が利《き》かないし、おっちょこちょいだし、」
「あら。あなた、ちゃんとわかってるじゃない」
麗華、うんうんと頷く。
「昨日も一昨日も迷惑のかけ通しでした。台所は水びたしにしちゃうし――」
「まあ。度しがたい失態ね。やっぱりあなた、あの男と同居《どうきょ》する資格《しかく》なんて、」
「それに、寝《ね》ぼけて二ノ宮くんに抱《だ》きついたりもしました……」
「――は? なんですって?」
「気を失って、二ノ宮くんに保健室《ほけんしつ》までおんぶしてもらったりとか……」
「なっ……」
「お風呂《ふろ》でわたしのバスタオルが外れたのだって、ぼおっとしていたわたしが悪いんです。そもそもわたしが、二ノ宮くんといっしょにお風呂に入ろうなんてするから……」
「…………」
「これじゃ、嫌《きら》われたってしかたないです。助けにきてくれるわけ、ありません……」
とうとうべそをかきだした。
麗華の決断《けつだん》は早かった。
「保坂」
「はい」
「この小娘、バラして海にでも撒《ま》いてきなさい」
「……お嬢《じょう》さま、彼女には手をださない、っていう約束だったんじゃ」
「そんなのどうでもいいですわっ! この小娘、もう絶対《ぜったい》絶対絶対、絶っっっっっ対に、許《ゆる》さないんだからッ!」
「でも北条コンツェルンの次期|総帥《そうすい》が約束を守らないようじゃ、下の者に示《しめ》しがつきませんよう」
「保坂っ、あなたわたくしの付き人なんだから、そんな約束くらいどうとでもしなさい!」
「そんなムチャな……そもそも約束したのはぼくじゃなくてお嬢さまであって――わっ、待ってください、早まらないでください、お嬢さまみずから手をよごすのは、」
「あの、取りこみ中のところすいませんが」
あらぬところから声。
皆、一斉《いっせい》にそちらを向く。
――廃《はい》工場の入り口に、逆光《ぎゃっこう》を背負った人影《ひとかげ》。
「月村さんを返してもらいにきました」
至極《しごく》あっさりと、二ノ宮峻護はそこに現れた。
「え。うそ」と麗華。
「うーん、早かったなー」と保坂。
「………」彫像《ちょうぞう》なままの用心|棒《ぼう》ふたり。
そして真由は。
めまぐるしく表情《ひょうじょう》を変えている。
おどろきの顔、ぱあっと明るくなる顔――そして何を思い出したものか、再《ふたた》び沈《しず》む顔。
麗華がわめく、
「ちょっと保坂! ほんとうに二十人、それなりにちゃんとしたのを配置してたんでしょうね!」
「きちんと言いつけ通りにしました、はい」
「だったらどうして! ぜんぜん無傷《むきず》じゃないあの男!」
「いいえ、額《ひたい》にすり傷、腕《うで》のところにはアザがありますよ。けっこう痛《いた》そうですよ」
「このばか保坂――|揚《あ》げ足とりをして!」
「そんなあ、状況《じょうきょう》の分析《ぷんせき》はきちんとしないと――あっ、痛い、痛い、お嬢さま、やめ、」
――不毛なやり取りを展開《てんかい》する主従《しゅじゅう》をよそに、肝心《かんじん》の二人は別の世界をつくっている。
峻護が真由に向き直る。
途端《とたん》、「あ……」とつぶやいて真由は目をそらす。
峻護は迷《まよ》っていた。
話を切り出さねばならない。彼の頭にはいくつもの選択肢《せんたくし》がある。その中には歯の浮《う》くようなセリフも、なあなあ[#「なあなあ」に傍点]にお茶をにごす言葉もある。よりどりみどりだ。
が、そんな器用に立ち回れるなら初めから苦労はしない。
けっきょく彼は、もっともスマートでないやり方を選んだ。
いきなり、ななめ四十五度で頭を下げた。
「月村さん。昨日は言いすぎた。すまない」
それだけ。
そのままの姿勢《しせい》で微動《びどう》だにしない。
真由はたっぷり数秒、ぽかんとした。
それからあわあわと、
「そっ、そんな、とんでもないです。わたし、ずっと迷惑《めいわく》かけてて、怒《おこ》られるのも嫌われるのも当然で、もうこれ以上|避《さ》けられるのがいやで、だから――と、とにかく、こちらこそすいませんでしたっ」
「いや、あれはおれが悪かった。あやまる」
「いいえ、あれはわたしが――」
「ちがうんだ、あれはおれが無神経《むしんけい》で――」
「ちょっとあなたたち! わたくしを差しおいてなに勝手に話を進めてますのっ!」
声を張《は》りあげる麗華。
「まだ勝負は終わっていませんわ! 月村真由は、まだこちらの手にあるんですからね。――保坂! そこの無愛想《ぶあいそう》な連中、さっさと使いなさい!」
「はあ、わかりました。それじゃあ――」
保坂が目配せし、鉄面皮《てつめんぴ》の男たちが初めて動いた。
やはりただ者ではなかった。
真由が目を丸くし、麗華でさえ思わず声をあげた。
速い。
風のように疾《はし》り、竣護に左右から迫《せま》る。どうみても手練《てだ》れの動き――それもある種の壁《かぺ》を乗りこえた者のみがなしえる動きだ。
右に回った男が拳《こぶし》を、左に回った男が蹴《け》りを放った。
それぞれが、鮮《あざ》やかな弧《こ》をえがいて標的を襲《おそ》った。
見事な動きだった。
が、峻護の動きはもっと見事だった。
すべては瞬《まばた》き一つのうちに始まり、終わった。
三人の姿《すがた》が交錯《こうさく》した――真由と麗華が理解《りかい》できたのはそれだけだった。そして、その交錯がもたらした結果だけを彼女たちは知った。
鈍《にぶ》い音を響《ひび》かせて地に伏《ふ》したのは二人の手練れのほうであり、そして彼らだけであった。
「うそ……」
麗華の口から吐息《といき》に似た音が漏《も》れる。次いで峻護を注視《ちゅうし》するその顔にぽっと赤みがさし、かと思えば反射《はんしゃ》的にかぶりを振《ふ》り、さらにはっと気づいたように真由を顧《かえり》みて、
「ちょっとあなた! なに少女マンガみたいに目をキラキラさせてますの! おやめなさい、そんな夢見《ゆめみ》る乙女《おとめ》みたいな顔は!」
自分のことは棚《たな》に上げて釘《くぎ》をさしてから、
「二ノ宮峻護!」
「なんですか、北条|先輩《せんぱい》」
「あ、あなた、何かそっち方面の心得って、ありましたっけ?」
倒《たお》れていた二人の呼吸《こきゅう》を診《み》ていた峻護、立ち上がって、
「いえ、べつに」
「じゃあどうしてそんなに強いんですのっ! 聞いてませんわよそういう話は!」
(……二ノ宮涼子の弟をやっていれば嫌《いや》でもこうなりますよ)
とは口にせず、
「そんなことより、これでおれの勝ちになるんですよね、北条先輩?」
う、と後じさる麗華。そして。
よぜばいいものを、本来の彼女なら決して取らない行動にでた。
「こ、こちらには人質《ひとじち》がいますのよ! この小娘《こむすめ》がどうなっても――」
「お嬢《じょう》さま、それじゃまるっきり三下《さんした》の悪役ですよ。というか趣旨《しゅし》が最初とぜんぜんちがってます。それに彼女に手をだしちゃだめですって」
「おだまりっ!」
「きゃっ」
麗華が手を上げ、真由がちいさく悲鳴をあげた。
本気ではなかった。第一その手は保坂に上げたもので、真由に向けたのではなかった。
だが、峻護の目はそう受け取らなかった。
あわてて制《せい》する、
「待った先輩。彼女には傷《きず》ひとつ付けさせませんよ。彼女の事はおれが護《まも》るんですから」
涼子と美構彦にそう言われたのだ――峻護としては言外にそういう意味をこめたつもりだったが、そう思っているのは彼だけだった。彼以外は順当に、それを『月村真由はおれの女』宣言《せんげん》と解釈した。
「二ノ宮くん……」真由は顔を真っ赤にして、うつむく。
麗華もまた頬《ほお》を紅《くれない》に染《そ》めた。ただし、こちらのは意味あいが異《こと》なる。
「――保坂! 保坂ッ!」
「はい」
「何とかしなさい!」
「お嬢さま、往生際《おうじょうぎわ》が悪いですよ。お嬢さまが納得《なっとく》して受けた勝負でお嬢さまが負けたんですから――もう、こまったなあ。彼が絡《から》むとこれだもんなあ」
「いいから何とかなさい! 命令よっ!」
「ほんとうに、諦《あきら》める気はありませんか?」
「いやよっ! ぜっっっっっっったいに、いやっ! 何があっても、どんなことをしても、ぜったい、必ず、何とかなさいッ!」
地団太《じだんだ》をふむ主人に、保坂はため息。
「――どんなことをしても、ですか?」
「そうよっ!」
「お嬢さま、いちど決めたからには取り消しはききませんよ?」
「かまいませんわっ!」
「こまったひとだなあ――じゃあ二ノ宮くん」
「はい?」
「しょうがないよね、あとはぼくしか残ってないんだから。相手になってもらえる?」
そう言って、とことこ近寄ってきた。
どうやら彼がやる気らしい。
峻護、戸惑《とまど》いつつも迷いはなかった。
できるだけ痛《いた》みを与《あた》えないように、首筋《くびすじ》への一撃《いちげき》。それで終わらせる。
無造作《むぞうさ》に保坂が間合いに入った。同時、遠慮《えんりょ》なく峻護は動く。
縫《よ》りをもどすゴムの動きをイメージしつつ、軸足《じくあし》、腰《こし》、上半身の順に気合をこめ、高々と右足を舞《ま》わせようとして、
ぞ、と寒気が全身を駆《か》けぬけた。
次の瞬間、保坂は間合いからはるか離《はな》れたところいた。
いや、そうではない。逆《ぎゃく》だ。吹《ふ》っ飛ばされて間合いの外にはじき出されたのはこちらで、それだけの距離《きょり》をとってもなお安心できず、さらに数歩うしろに跳《と》びすさったのもこちらだった。
かろうじてガードに出した左腕《ひだりうで》が、じん、と熱をおびている。
「よくないな二ノ宮くん」保坂は掌抵《しょうてい》を放った体勢《たいせい》のまま苦言を呈《てい》する。「油断してると、そこで倒《たお》れてる彼らの二の舞《まい》になっちゃうよ」
峻護がたずねる、
「……保坂|先輩《せんばい》。何かそっち方面の心得って、ありましたっけ?」
「彼らも分家の分家とはいえ保坂の血族なんだけどね。たとえ君が相手だとしても、二人がかりであの様ではこまっちゃうなあ」
問いには答えず、保坂はトホホと苦笑いした。そのしぐさは普段《ふだん》とまったく変わるところがない。だが峻護の左腕をしびれさせた一撃は、たしかに彼が放ったものだ。
峻護は呆気《あっけ》に取られていた。真由も呆気に取られている。
麗華は、さらに輪をかけて呆気に取られている。
(くそ――)
雑念《ざつねん》を断《た》ち切る。余計《よけい》なことを考えながら渡《わた》りあえる相手ではなさそうだった。しのいだとはいえ先ほどの一撃、姉や美樹彦に比肩《ひけん》する。
ほう、と呼吸《こきゅう》をととのえる。意識《いしき》は、ただ闘争《とうそう》の一事にのみ収束《しゅうそく》される。
保坂がまた、すたすたと歩いてきた。どこもかしこもガラ空き。そのはずなのに、まったく付け入る隙《すき》がないのはどういうわけか。
再度、掌抵がきた。
半円を描《えが》くようにして受け流し、手刀を首筋へ――いや、このまま落とせば左|甲《こう》で払われ、勢《いきお》いにのせた右がくる。落とさなければ左甲はそのままあごを捉《とら》える。すべて承知《しょうち》の上で手刀を落とし、背《せ》をそらして左甲をかわし、その腕を絡《から》めとる――読まれていた。バランスを崩《くず》しているはずの右がもうこちらを狙《ねら》っている。もう一度あごだ。打点をずらし、額《ひたい》で受ける。思ったより腰の入った一撃、脳《のう》がすこし揺《ゆ》れた。つぎは喉元《のどもと》に抜《ぬ》き手。かすった。肘打《ひじう》ち。左手で防ぐ。さらに抜き手――
あとは、ほとんど一方的だった。
すぐに呼吸が乱《みだ》れた。体《たい》が見苦しいほどに崩されてゆく。今度は間合いを離すゆとりもない。
苦しまぎれの正拳《せいけん》を難《なん》なくさばかれ、上体が泳ぐ。それを見逃《みのが》す保坂ではなかった。
次の瞬間《しゅんかん》、突《つ》きだした腕をつかまれ、軸足を払われた。そのまま全身の骨《ほね》にガタがくるような勢いで地に叩《たた》きつけられる。
後頭部を庇《かば》いながら反射《はんしゃ》的に目を閉じ、肋骨《ろっこつ》が悲鳴をあげつつ肺《はい》を圧迫《あっぱく》し、涙《なみだ》が出るほどせきこみ、ふたたび目を開けたときには。
手刀を首にあてがわれていた。
勝負あった。
「……保坂先輩」
「ん?」
「何者なんです、あなた」
「北条家の付き人だよ」にこ、と笑い、「ところで二ノ宮くん」その笑《え》みのまま続ける。
「こういう力は、必要でない限《かぎ》りできるだけ出さないようにするものだよね? でもやむをえない状況《じょうきょう》になれば出さないといけない。もちろん、出すからには勝たないといけない。そして――」
いつもと変わらない口調で言った。
「その力を知られた相手は、できれば始末しておきたいところだよね?」
息を呑《の》む音が、ふたつ。
「ちょ、ちょっと。保坂?」
「だめですよお嬢《じょう》さま。ぼく、ちゃんと聞きましたから。『どんなことをしても』ですよね。取り消しはききませんよ、とも言いましたよね」
むぐ、と口をつぐむ麗華。普段《ふだん》通りでいてどこか別物の下僕《げぼく》に気おくれしている様子だ。
それでもさらに言い募《つの》ろうとする主人をさえぎり、
「二ノ宮くん、ぼくも二ノ宮の人間には手を出したくなかったけど、これもお嬢さまの言いつけだから。目の前で保坂が負けた以上、何もしないのも気がひけるしね」
(くそ……)
意味のわからないことを言ってくる保坂をにらみつけ、峻護は打開策《だかいさく》を探《さぐ》る。
何か手はないか?
相手は完壁《かんぺき》な体重のかけ方でこちらの自由を殺している。動けない。下手なまねをすれば即座《そくざ》に手刀が喉をつぶすだろう。
(どうする……)
「さあ、どうしようか。お嬢さまの見ている前だし手荒《てあら》なことはしたくないんだけど、手荒なやりかたしかぼくは知らないし」
決めた。向こうが動くタイミングに合わせて、動く。そこに活路《かつろ》を見出《みいだ》すしかない。居合《いあい》と同じ要領《ようりょう》だ。集中しろ。呼吸を計れ。目の色と動きを見逃すな――
「そう、これは言っとかなきゃ。二ノ宮くん、君はぼくが思っていたよりもずっと強かったよ。やっぱり底力があるんだろうなあ。それと、――ん?」
保坂がちらりと横に目をやった。もちろんこちらへの注意は逸《そ》らさぬまま。
峻護もそちらを見た。
真由だった。すぐそこに立っている。
「? 何?」と無警戒《むけいかい》に保坂。
「…………」
目が泳いでいる。顔色が青い。いや、白くなりつつある。膝《ひざ》、腕《うで》、肩《かた》、どこもかしこも小刻《こきざ》みにふるえている。
「?」首をかしげる保坂。
「月村さん?」峻護も当惑《とうわく》する。
なんだ? 何がしたい?
ふるえているのは――何を恐《こわ》がっている? 保坂|先輩《せんぱい》か。それはそうか、あのおっとりした先輩が、今はこれだ。女の子だし恐がるのも当たり前か。いや、彼女の場合はそれだけではない、男性《だんせい》としての保坂先輩が恐いんだろう。女物の服を着ても違和感《いわかん》なさそうな外見だが、先輩も彼女にとって男には違《ちが》いないはず。それを無理して近づいて。……助けて――くれるつもりなのか? でも。
どうやって?
「…………あ」
わかった。
それと同時、真由の瞳《ひとみ》に決意が湧《わ》いた。
ぎゅっと目をつぶった。
えい、とばかりに手をのばし――
保坂の腕をしっかりとつかむ。
つかまれたほうは、ただきょとんとしている。
「……ええと」頬《ほお》をぽりぽりと掻《か》き、
「何? どいてくれ、ってこと? だめだよ、これはそういう勝負――って、あれ?」
そこまで言えただけでも見上げたものだろう。
「なに、こ……れ……」
だが、あれだけの実力者である彼でもそれが限界《げんかい》だった。
ほとんど事切れるようにして保坂が倒《たお》れ、あとを追うように、気力を使い果たした真由がくずれおちた。
その時、峻護はたしかに見た。
気を失うまぎわのサキュバスは――
ちょっとだけ誇《ほこ》らしげなはにかみを、彼に向けていた。
勝負、あった。
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其の五 ご愁傷さま二ノ宮くん
[#改ページ]
これも褒《ほ》められてしかるべきだろう。本来、まずもってありえない話なのである。
どのような鍛《きた》えかたをしているものか――保坂《ほさか》はしばしの失神の後、ほどなく意識《いしき》を取り戻《もど》していた。
とはいえあくまでかりそめの、不完全な覚醒《かくせい》だ。夢《ゆめ》の中にあるのと大差はない。
矇朧《もうろう》としながら彼は考える。
いったい何が起こったのか。彼女に腕《うで》をつかまれた途端《とたん》、血でも抜《ぬ》かれたみたいに全身が重くなり、気づいた時にはこれだ。鉛《なまり》になった身体《からだ》で泥《どろ》の中に埋《う》もれているような気分。まったく、油断《ゆだん》は禁物《きんもつ》だ。けどこれで手荒《てあら》なことをせずに済んだし、ハッピーエンドだと思う。お嬢《じょう》さまには気の毒だけど。
本能《ほんのう》が、無意識のうちに状況《じょうきょう》を確認《かくにん》しようとしている。手足の感覚がない。まぶたすら開けられない。舌《した》はコンクリ床《ゆか》の味だけを舐《な》める。鼻もやはりその臭《にお》いだけをかぐ。
聴覚《ちょうかく》器官だけがかろうじて稼動《かどう》している。
くやしげなうめきが聞こえる。主人のものだ。何か声をかけようとしてみるが、この状態で舌と口を同時に動かすなんてアクロバットに等しい。
別の音も聞こえる。こちらはひどく機嫌《きげん》のよさそうな含《ふく》み笑いだ。
「あらら、残念だったわね、麗華《れいか》ちゃん」
「……気安く人の名前を呼《よ》ばないでいただけますこと?」
「かまわないでしょ? だって、今日からわたしがあなたの主人なんだもの」
さっ……というこの音は、血の気がひく時のそれだろうか。そんなもの聞こえるはずもないだろうに。
「あなた、わたくしに教えませんでしたわね? |二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》の実力を」
「だって、あんなの実力のうちに入らないもの。あの程度《ていど》の連中に二発も入れられてるのよ? まったく、ちょっと放《ほう》っておくとすぐに腕《うで》をなまらせるんだから。また鍛えなおしてあげなきゃいけないようねえ……」
うふふ、となにやら陰惨《いんさん》な笑い。
「こっ、この勝負、そもそもフェアじゃありませんでしたわ。それにあの月村《つきむら》真由《まゆ》とかいう小娘《こむすめ》、あれは――」
「あら言い訳《わけ》? 北条《ほうじょう》麗華が? 北条家の後継《あとつ》ぎが? 人の上に立つべきあなたが、それでどうやって下の者に示《しめ》しをつけるのかしらね?」
ふたたび悔《くや》しそうなうめき。
「それにあなたには保坂が三人ついてたじゃない――ああ、そうか。そうね、たしかにフェアじゃなかったわね。だって、あなたのほうがよっぽど有利だったんだもの。そう思ったから受けた勝負なのよね? え? ちがうの? ひょっとして油断? 自分の命運がかかっている勝負に? そんな、まさか。ねえ?」
哀願《あいがん》するような主人の声、「わ、わたくしは北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》で、生徒会長で、だからいそがしくて――」
「お生憎《あいにく》さま、明日からそっちのほうは副業になるの。これからたいへんよ麗華ちゃん。今後は本業と両立させていくことになるんだから」
「ばっ、ばかげてますわこんなこと! お父さまが、北条コンツェルン総帥《そうすい》がそんなまねを許《ゆる》すと思って?」
「ああ北条さんにはもう諒解《りょうかい》とってあるから。ふたつ返事で承知《しょうち》してたわよ。泣きそうな顔で。何なら確認《かくにん》してみる?」
「お、お父さまが? あなた一体……」
――いくら鍛えかたが違《ちが》うといってもこのあたりが限界《げんかい》だった。
ふたたび保坂の意識は黒くぬりつぶされる。
*
朱色《しゅいろ》の陽射《ひざ》しが横殴《よこなぐ》りに風景を染《そ》め抜く中、峻護はゆっくりと家路をゆく。
気を失った真由をおんぶして運びながら。
当然、背中のそこかしこに柔《やわ》らかな感触《かんしょく》がある。
だが邪念《じゃねん》を抱いてはならない。悟りの境地をもってそれにあたる。とはいえ、所詮インスタントな悟りだけに、九九の詠唱《えいしょう》は片時《かたとき》もおろそかにできない。
言うまでもなく注目の的である。なにしろ可憐《かれん》なセーラー服姿の女の子と、それをかついでブツブツ呪文《じゅもん》を唱えながら往来《おうらい》をゆく少年の図だ。官憲《かんけん》を呼ばれないだけ僥倖《ぎょうこう》と思わなけれぱならない。
じろじろ見てきたり、くすくす笑ったり。通りかかる人間がいろいろな反応《はんのう》をよこしてくる。恥ずかしいったらない。でも、それほど嫌なわけでもない。
さんざん身体を動かした後でもあるし、なにより真由に触《ふ》れているためだろう。体力の消耗《しょうもう》がはげしい。おそろしくだるい。
でも、それがふしぎと心地《ここち》よいのはなぜだろう。
死ぬ思いで家にたどりつき、部屋の中まで入ったところで。
「――あの、もうここで」
背中の同居人《どうきょにん》がささやいた。
「え? ああ、うん」
急に声をかけられ、おたおたしつつ彼女をおろす。
とん、と降《お》り立ち、
「ありがとうございました」ぺこり。
「え? ああ」
顔色こそすぐれないが、思いのほか意識がしゃん[#「しゃん」に傍点]としている。
(…………)
もしかして、とっくに目を覚ましていたのだろうか?
目を覚ましていて、ずっと?
「今日はありがとうございました。本当に」
当惑《とうわく》する峻護をよそに、真由はあらためて礼を言う。
「いや、こっちこそ妙《みょう》なことに巻《ま》きこんで。北条|先輩《せんぱい》って普段《ふだん》はもっとやり手だし、尊敬《そんけい》できる人なんだけど……」
「いえ。本当に、うれしかったです」
「いや……」
なんだろう? なんだか調子が狂《くる》う。今の彼女は、以前よりどこかキッパリハッキリしているというか、人変わりしているというか。
「ああそうだ、」ことさらな大声で、「月村さん、今日は疲《つか》れただろう? 何だったら、今のうちに少し眠《ねむ》っておいたら?」
「そう――ですね」ちょっと考え、「今日はだいぶ精気《せいき》を減《へ》らしちゃいましたから……あとで兄に、その、いつものを頼《たの》むことになると思います。それまで――」
「うん、そうだな、美樹彦《みきひこ》さんが帰ってくるまで、そうするといい」
また『回復《かいふく》』してもらうのだろう。そのやりかたを知っている身としては、なんとなく心穏《こころおだ》やかではないが。
「それで、あの」言葉をにごす真由。
「え?……ああ、着替《きが》えだな。そうかすまない、気づかなかった。すぐ出てくから」
「いえ。わざわざ出て行かなくても、うしろを向いててくれれば、それで」
「そ、そう? わ、わかった」
こくこくうなずき、スピンターン。
やや、ためらう気配。
やがて、しゅる、ぱさ、と繊維《せんい》質の何かがほどけたり重なり落ちたりする音。
考える。
彼女はこれから睡眠《すいみん》をとるんだから、いずれにせよ自分がここにいても仕方ないのではないか。何もしてやれることはないし、邪魔《じゃま》になるだけなのに。なぜ、引きとめるようなことを言うのだろう。
布ずれの音がやんだ。が、真由は何も言わず、ペッドに向かう様子もなく。
「……ええと、」
こうなれば自分がするべきことはひとつ。退散《たいさん》あるのみ。
背中を向けたまま、
「それじゃあおれはこれで――」
「ひとつ、お願いしてもいいですか」
かぼそい声がさえぎる。
背中を向けたまま、
「お願い? まあ、かまわないけど」
「…………」
真由、すぐには切り出さなかった。その沈黙《ちんもく》から、もじもじと両手の指をからませて口ごもっている姿《すがた》がありありと想像《そうぞう》できる。
「あの」
決意、
「二ノ宮くんが、してくれませんか」
…………。
「は?」
「兄が帰ってくるまで、まだ時間がありますから。それにいつまでも兄に頼《たよ》ってばかりじゃいけないから、だから――」
「そ、それって」
「二ノ宮くんのことは初めて会った時からあまりこわくなかったし、むしろ二ノ宮くんを見ていると安心できるというか、ほっとするというか――そんなひと、二ノ宮くんしかいなくて、だからこんなこと頼める相手、たぶん他《ほか》に誰《だれ》もいなくて」
毛穴《けあな》という毛穴から汗《あせ》がふきだし、みるまに滝《たき》となって流れ落ちていく。
「ただわたし、意識《いしき》があるとやっぱり男の人がどうしてもだめで、でも、意識がないときならたぶんへいきだから、だからあの、寝《ね》ている時にその、あの、」
アドレナリンの出血大サービス、心拍数《しんぱくすう》が自己《じこ》ベストを更新《こうしん》、
「こういうことって、相手は誰でもいいわけじゃないし、だけどわたしは二ノ宮くんだったら、その――」
「…………」
「あっ、もちろんそれは二ノ宮くんも同じだと思うし、だからあの、無理は言いませんから……もしわたしでもよければ、でいいですから」
「…………」
「ええと、あの、、ええと、その、じゃ、お待ちしていますから。――おやすみなさいっ」
どこか的はずれな言葉でしめくくる。
とたとたと駆《か》ける音。がさごそとベッドにもぐりこむ音。
「…………」
だから言ったんだ。同居《どうきょ》なんてとんでもない。ひとつ屋根の下にいれば――
ひとつ屋根の下にいれば。
「…………」
夕日の差しこむ夏の部屋で。
背中《せなか》を向けたまま、峻護は石になっている。
*
二時間がすぎた。
とっくに日は暮《く》れている。月明かりをふくんだ闇《やみ》が部屋を満たしてひさしい。
物理的に圧力《あつりょく》を感じるほどの緊迫《きんぱく》を放射《ほうしゃ》していたベッド上は今、凪《なぎ》のように静まり返っている。まるで寝付けない様子の真由だったが、最後には精力の消耗《しょうもう》からくる疲労《ひろう》が勝ったようだ。
峻護は石のままである。
が、見た目とは裏腹《うらはら》に、心中はかつてないほどの大時化《おおしけ》である。
人はだれしも心の中に天使と悪魔を住まわせているという。たとえばそれは節度、貞心《ていしん》、良俗《りょうぞく》といったものであり、あるいはまた自堕落《じだらく》、無節操《むせっそう》、不道徳の類《たぐい》である。
両者は絶えず相克《そうこく》しあい、前者が優位《ゆうい》を保《たも》つことで、人は社会に適応《てきおう》するだけの能力《のうりょく》と資格《しかく》を得る。峻護はそう信じている。
そして彼がすごした十六年の人生においては、天使が常に圧倒的な優位に立ちつづけてきた。そう、ほんの一昨日までは。
その図式がついに崩《くず》れようとしている。
激闘《げきとう》二時間。今、天使は最後の決戦を挑《いど》もうとしていた。
――聞け、二ノ宮峻護。
事実は事実だ。みとめよう。今の状況《じょうきょう》これはたしかに据《す》え膳《ぜん》だ。いや、据え膳であるばかりか『はい、あーんして』とでもいう感じに、口にまでご馳走《ちそう》を運んでくれているシチュエーションだ。だがそれが何だというのだ? 据え膳食わぬは男の恥《はじ》? 否《いな》、そうではない、あえて据膳に手をつけない勇気もあるはずだ。そしておまえはそれを持っているはずだ。それに重要なことを忘《わす》れている。おまえ、明るい家族計画を持っていないだろう? まさかそれを用いないつもりではあるまい。それを用いなければ、当然そういう意思があるのだと判断《はんだん》される。責任《せきにん》問題にまで事は発展する。婚約《こんやく》で、結納《ゆいのう》で、挙式で、子供《こども》は男の子がふたり、女の子がひとりだ。お前にはそういう覚悟《かくご》があるというのか?
必死の説得を試みる天使を悪魔が鼻で笑う。
据え膳に手をつけない勇気だと? 語るに落ちる。その正体とは何か? そんなものは取るに足らないちっぽけな個人《こじん》的|倫理《りんり》――いや、単なる子供じみた潔癖《けっぺき》、あるいは意固地《いこじ》、もしくは度胸《どきょう》のなさを肯定《こうてい》する方便にすぎない。そのうえ明るい家族計画を持ってないから、ときた。くだらん。美樹彦の話を聞いてなかったのか? サキュバスは異性《いせい》間における直《じか》の交接《こうせつ》によって精気《せいき》を補充《ほじゅう》するんだ。そんなもの着用してたら彼女の消耗状態は治せないだろうが。――そう、わかっているのか? これはれっきとした治療行為《ちりょうこうい》なんだぞ。 責任問題うんぬんなど論《ろん》ずるをまたない。まったくナンセンスだ。こんなのは赤チン塗《ぬ》るのと同じだ。おまえは産婦人科《さんふじんか》の医者をチカンだと罵《ののし》るのか? 人工|呼吸《こきゅう》をほどこす者を見て『あれはキスだ』などとはやし立てるのか? それに第一――
悪魔がにやりと笑う。
――おまえ、彼女のこと嫌《きら》いなのか?
図式は崩れた。
天使はもはや大義《たいぎ》名分を失った。そして古来、大義名分を持たない者が最終的な勝利をおさめた例はない。今や彼ら天使は忌《い》むべき堕天使であり、悪魔こそが天界に返り咲《ざ》いた神の使徒である。
一昨日の台所とは訳《わけ》がちがう。
昨日の保健室《ほけんしつ》と比べてさえ、そうだ。
勘《かん》ぐる余地《よち》のない、完全なる承認《しょうにん》――否、純然《じゅんぜん》たる懇望《こんもう》。
それを峻護は手にしている。そして悪魔――いまや天使となった――のささやいた一言。
決まりだった。
峻護は石をやめた。
月明かりの中、ベッドにゆっくりと歩みよる。
ほのかに浮《う》かび上がる眠《ねむ》り姫《ひめ》の姿《すがた》。
純粋無垢《じゅんすいむく》な寝顔《ねがお》。
緊張《きんちょう》ゆえかしばらくは寝付けなかったようだが、今は深い夢《ゆめ》の中に横たわっている。ただでさえ疲労困懲《ひろうこんぱい》していたはずだ。ちょっとやそっとでは目を覚ましそうにない。
そう、彼女の望みどおりに。
もはやあらゆる障害《しょうがい》は排《はい》された――ただ一点をのぞいて。
「……ふたりとも、勘違《かんちが》いしないように」
真由に視線を固定したまま峻護は口を開いた。
いい加減耳になじんだ、じー、というデジカメの音に向けて、である。
いつからそこにいたのか、などという無駄《むだ》なことは訊《き》かず、
「言っておきますがこれは彼女の合意を得て、」
「皆《みな》まで言わずともいい。事情《じじょう》はすべて承知《しょうち》しているよ、峻護くん」
なぜそんなことまで知っているのかは問わず、
「わかってるんなら――」
「この短期間で妹もずいぶん変わったものだ。男を誘《さそ》えるまでになるとは予想以上の成果だよ。君には感謝《かんしゃ》している」
「もっとも、がんばったのは真由ちゃんのほうであって峻護、あんたじゃないけれどね。さ、やるんなら早くして。こっちだっていそがしいんだから」
無視《むし》し、
「いいから、出てってくれ」
「――ま。あんたも言うようになったわねえ。虚仮《こけ》の一念岩をも通す、助平の一念姉をも軽《かろ》んず……」
「よかろう。僕《ぼく》らにはマグマのごとく漠《たぎ》るリビドオを抑止《よくし》する術《すべ》はなく、またその意思も、権利《けんり》もない。無粋《ぶすい》な真似《まね》はよそう。君の希望を汲《く》んで、われわれは退散《たいさん》する」
「見られてるほうが燃《も》えると思うんだけど……変わった趣味《しゅみ》ね、あんたって」
「自在《じざい》にやるといい。兄として、保護者《ほごしゃ》として、それを認めよう」
ばたん、とドアが閉《し》まる。
峻護は一度も振り返らなかった。
今や、あらゆる障害は排された。
あらためてベッドに向きなおる。この騒《さわ》ぎに彼女が気づいた様子はない。首元まで掛《か》けた布団《ふとん》が胸元《むなもと》でゆっくり上下している。月光に浮かび上がるその顔《かんばせ》は、この上なく――
「…………」
そっと手をのぼし、髪《かみ》を一房《ひとふさ》、指でくしけずる。絹《きぬ》、あるいは羽毛《うもう》を思わせる手触《てざわ》り。
この感触《かんしょく》ひとつとっても千金の価値《かち》があると思う。
緊張がまたぞろぶり返してくる。まばたきの回数が多い。意味もなく咳《せき》ばらいがしたくなる。指先がふるえている。異様《いよう》に肩《かた》がこる。力の入れすぎで背《せ》すじが痛《いた》い。粉が浮きそうなほど喉《のど》が乾燥《かんそう》している。つばを飲もうとするが、出ない。喉を上下させ、飲みこんだフリだけで我慢《がまん》する。
くちびるに目をやる。露《つゆ》をふくんだ花びらのようにあでやかな、小ぶりの朱唇《しゅしん》。
ほしい、と思う。
す、と顔をよせる。
ふわっ、と女の子のにおい。
花びらがすぐそこまで近づいて――
ぴた、と進軍が止まった。
なぜだろう。これは、やってはいけない気がする。これをすることは、他《ほか》のどんなことをするよりも重大な事態《じたい》を引きおこしそうな気がする。
かまわず、侵攻《しんこう》を再開《さいかい》しようとする。思うようにいかない。無理をしようとすると、全身が金縛《かなしば》りにあったようになる。度胸《どきょう》が足りない? まさか。それはもう乗りこえたはず。
まあいい、と思いなおす。茶道《さどう》や華道《かどう》のように決まった作法があるわけではない。あとに回しても差しつかえない。
そろりと布団をよける。
ふわっ、とまた、女の子のにおい。
これがよくない。
今までに何度も何度も彼の煩悩《ぼんのう》を刺激《しげき》してきた、サキュバスの魅惑《みわく》。至近距離《しきんきょり》でそれをさんざん吸《す》いこんでいるのだ。正直、理性《りせい》が飛びかけている。動悸《どうき》と息切れもきつい。心臓《しんぞう》はどの瞬間《しゅんかん》にショック死してもおかしくないほどばっくんばっくんやっている。アドレナリンの分泌量《ぶんぴつりょう》は、もはや喀血《かっけつ》大サービスとでもいうべき有様。脳《のう》みそはどろどろのスープと化し、頭蓋骨《ずがいこつ》をぱかりと開ければさぞかし食欲をそそる湯気が立ちのぼることだろう。この状態《じょうたい》で意識《いしき》を保《たも》てているのだからギネスに申請《しんせい》したってよさそうなものだ。ほとんど意地だけでパジャマに手をかける。百を越《こ》したご長寿《ちょうじゅ》のように指が痙攣《けいれん》し、おまけにまばたきのしっ放しだから遠近感もろくに捉《とら》えられず、うまくボタンがつまめない。すかすかと何度も空振《からぶ》りする。つまんだらつまんだで、にじむ汗《あせ》のためにウナギみたいにつるつるすべる。言い聞かせる――相手は逃《に》げたりしないんだ、あわてず、ゆっくり。爆弾《ばくだん》の信管でも抜《ぬ》いてるような手つきで、亀《かめ》のようなのろさで、順番に外してゆく。よし、できた。次はこのパジャマを、
「ひとつ言い忘《わす》れていたんだがね」
美樹彦が耳もとでささやいた。
活動停止。
だが峻護はくじけない。聞き流し、すぐに作業を再開する。
「知ってのとおり真由は、異性《いせい》と肌《はだ》がふれただけでも精気《せいき》を吸《す》いとってしまう。それも相手を失神させるほどの量を、だ。そして妹の吸引《きゅういん》能力は規格《きかく》はずれに強大で、なおかつ彼女はそれを自らの意思でコントロールすることができない。そのことはもう、言って聞かせたはずだね?」
聞き流す。
「さて、そこでもうすこし想像《そうぞう》の翼《つばさ》をひろげてみよう。精気をもっとも効率《こうりつ》よく吸引する手順は、以前説明したとおりだ。君がこれからやろうとしている事だね。そして妹がこの方法で精気を吸引するのは初めてのことになる。これも以前話したとおりだ」
聞き流す。
「ところで君はどう考える? 妹は『異性に触《ふ》れただけで精気を吸いとる』ことを何度も経験《けいけん》していて、それにも拘《かかわ》らず未《いま》だにその能力をコントロールできていない。そんな彼女がこれからはじめて試《ため》そうとしている能力《のうりょく》を、果たしてすぐにコントロールできるものだろうか?」
「………あ」
「しかも今の彼女は意識のない状態だからね。なんの遠慮会釈《えんりょえしゃく》もなく、君の精気を根こそぎ吸いあげることだろう。おそらく君が本懐《ほんかい》をとげた瞬間に即席《そくせき》ミイラの一丁あがり…… そんな結果になるのがオチだろうな」
「…………」
「まあ、実際《じっさい》に試《ため》してみたわけではないから確《たし》かなことは言えないが……試す前に、遺書《いしょ》をしたためておくことをお勧《すす》めする。親しい友人へのあいさつまわりと、身辺の整理も済《す》ませておいたほうがいいだろう。生命|保険《ほけん》に加入しておくのも親孝行《おやこうこう》のひとつの形だと思う。ああ、ちなみに明るい家族計画を使用しても無駄《むだ》だよ。この場合は外皮による接触《せつしょく》とはわけがちがう。いくらこの国の技術《ぎじゅつ》がすぐれているにしても、ただのゴム皮にサキュバス対策《たいさく》がほどこしてあるとも思えない。薄皮《うすかわ》一|枚《まい》程度、妹の吸引能力にかかれば無いも同然だろう。それを知ってなお、君が自らの命を質《しち》に入れて試してみるというのなら、あえて止めはしないが。
僕の言いたいことは以上だ。邪魔《じゃま》してすまなかったね」
それを最後に、現《あらわ》れた時と同じく唐突《とうとつ》に気配は消える。
「…………」
天使と悪魔《あくま》は顔を見あわせ、休戦協定をむすんだ。不毛な争いであると判断《はんだん》したらしい。
へなへなと、峻護は崩《くず》れおちる。
あとには月明かりの闇《やみ》だけがのこる。
*
その月が西の彼方《かなた》に沈《しず》み、時計の針《はり》が新しい日付を刻もうとするころ――
二ノ宮家の居間《いま》では、涼子《りょうこ》と美樹彦がボルドーをかたむけながら談笑《だんしょう》している。
交《か》わされる会話は、たとえばこんな感じのものである。
「どうやら賭けは吉と出たようだね」
「そのようね。もっともあの二人、結局思い出しそうにないけど」
「まあそれならそれでいいさ。惚《ほ》れた相手をキスひとつで瀕死《ひんし》に追いこんだ記憶《きおく》など、あの子も今さらほじくり返したくはあるまい。しかし真由も、あんな年頃《としごろ》からサキュバスの能力を覚醒させるんだからなあ。峻護くんには悪いことをした。完全な蘇生を果たすまでに五回だったかな? 心臓《しんぞう》が停止したのは」
「五十回よ。あの子、昔はもっと二ノ宮らしい子だったんだけどねえ。真由ちゃんに吸《す》い尽《つ》くされてからは、からっきし。真由ちゃんだけじゃなくてあの子の記憶も大分すっとんじゃったし」
「いやいや。あれで生きていられるんだから、彼もやっぱり二ノ宮の人間に違《ちが》いないよ。サキュバスに対する免疫構築《めんえきこうちく》もけた外れだしね。真由にしても、峻護くんに対してもっと強硬な拒絶反応を示してもおかしくなかったんだが――これも三つ子の魂百まで、というやつかな。むしろ真由は、峻護くんのことをすっかり気に入ったようだ」
「恋煩《こいわずら》いは草津の湯でもなんとやら、ってね。記憶をしまいこんだつもりでも、心のどこかにあのころの印象が刻《きざ》み込《こ》まれてるんでしょう。峻護もそのあたりの事情《じじょう》は同じなんじゃないかしら」
「それで、麗華くんについては?」
「親娘《おやこ》して散々ゴネてたけどね。最終的には納得《なっとく》してたわよ。観念した、とも言うけど」
「楽しみだ。とはいえ北条氏にも困《こま》ったものだな」
「ほんと。そもそも甘《あま》いのよね、あのおじさん。たかだか学校法人だと思って、ろくに下調べもせずに乗りこんだんでしょ。だれが経営者かも知らずに。麗華ちゃんも似たようなところあるし、たぶんあの家系《かけい》の遺伝《いでん》ね」
「納得だ。しかし本当に退屈しないな峻護くんの周りは。本業の看板はしばらく降ろして、当分は用務員《ようむいん》一本でいこうかな」
「いいの? 地球のパワーバランスがずいぶん変動することになるけれど」
「なあに、今はおおむね安定しているからね。僕が直接手を出さなくても、収《おさ》まるべきところに収まるさ」
「それじゃあわたしも保健医を続けてみようかな。久《ひさ》しぶりだとけっこう娑婆《しゃば》も面白《おもしろ》いし。しばらく見ないうちに峻護がずいぶんとたるんでるから、活を入れないといけないし」
「おやおや、君のほうこそ大丈夫かい? 世界|経済《けいざい》が数年先まで滞《とどこお》ることになるが」
「わたし抜《ぬ》きでもしぱらくは何とかなるでしょ」
「ふむ。そうなるといよいよ退屈しないな」
「そういうことね」
――黒幕《くろまく》たちの間で交《か》わされる会話は、たとえばこんな感じなのであった。
峻護の魂の働哭《どうこく》を乗せ、今日も夜はふけてゆく。
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鳥のさえずりとセミのがなり声、そして窓《まど》から差しこむ朝日。
峻護《しゅんご》は重いまぶたを薄《うす》く開ける。
「…………」
意識《いしき》と現実《げんじつ》がよみがえってくる。
夢《ゆめ》からは覚めた。だが、昨夜の悪夢《あくむ》は今も記憶に生々しい。
ニヒルな笑《え》みを片唇《かたくちびる》に浮《う》かばせる。そして海より深いため息。いずれも、人生の辛酸《しんさん》を舐《な》めつくしたかのような苦々しさがある。
掛《か》け値《ね》なしで最悪の一夜だった。あれほどの無念、不条理《ふじょうり》がまたとあるだろうか。
横たわっていた床《ゆか》から、だらだらと身体《からだ》を起こす。
気づく。
布団《ふとん》が掛けられている。自分でやったのではない。
ベッド。
だれもいない。
壁《かぺ》の時計をみる。
いつもより一時間|遅《おく》れ。
――ようやく覚醒《かくせい》した。
まずい、完全に寝《ね》すごした。
手ばやく着替《きが》えをすませ、大あわてでドアへ向かう。
ノブに手をかけ、
「きゃっ」
木板一|枚《まい》へだてたところで同じことをしていた真由《まゆ》と、かち合った。
セーラー服にエプロン姿《すがた》の彼女は目をぱちくりさせ、
「ごっ、ごめんなさい。まだ寝てると思って」
「あ、いや、こっちこそ」
あやまりつつ、どちらからともなく目をそらす。昨日、ああいう事があったばかりである。何事もなかったように振舞《ふるま》えるほどお互《たが》い神経《しんけい》は太くない。
「……二ノ宮くん」床に視線を落としたまま、真由。「何もしなかったんですね、昨日」
「え? ああ」
したくても、できなかったのだが。
「わたし、がんばらなきゃって、必死で、一生|懸命《けんめい》で。それなのに」
感情《かんじょう》の読み取れない表情。
「わたしって、そんなに魅力《みりょく》、ないですか?」
つぶやき、指先でそっと目尻《めじり》をぬぐう。
峻護は狼狽《ろうばい》した。
「い、いや、ちがう、待ってくれ! 魅力がないなんて、そんなこと全然。本当だ。そもそもこれは月村《つきむら》さんの体質《たいしつ》が」
「……うふふ」
「体質が――って、え?」
いきなり、真由はぺろりと舌を出した。そしていたずらっぽい微笑み。
不意打ちの表情。どくん、と心臓《しんぞう》が高鳴る。
「冗談《じょうだん》です。本気にしました?」
「あ、ああ……いや」
ウソ泣き? 彼女が?
「あの、昨日はすいませんでした」と、今度は打って変わった真面目《まじめ》な顔で丁寧《ていねい》なお辞儀《じぎ》。
「わたしの都合で勝手なことばかり言って。どうか忘《わす》れてください」
「ああ、うん。いや」
あいまいな返事をする。なんだか調子が狂《くる》う。
「あの、それで、」頭をあげると、途端《とたん》に不安そうな顔がのぞく。「朝ごはんの準備《じゅんび》ができたから呼《よ》びにきたんですけど。あの、わたしが作りました。二ノ宮くん起きてこなかったものだから、その」
「…………」
「あの……」
祈《いの》るような目でこちらを見ている。
朝食を作る――つまり、家事の一端《いったん》を担《にな》ったということ。
真由が何度手伝いを申し出ても、なんだかんだと理由をつけて受け入れなかった峻護である。
彼女を、受け入れなかった峻護である。
だが。
拒絶《きょぜつ》する理由はもう、ない。
「月村さん、」
がしがしと頭を掻《か》き、あさっての方角を向き、
「――またおれが寝坊《ねぼう》したら、よろしく」
「え?――あっ!」
ぱあっ、と表情が華《はな》やぐ。
「はいっ、がんばります!」
あふれんばかりの笑顔で、真由はもう一度お辞儀した。
(――ああ。やっぱり、そうなのか)
それを見て峻護は納得《なっとく》する。
本人にそのつもりがなくとも、やっぱり彼女は男を惑《まど》わす魔物《まもの》――サキュバスなのだ。これだけ心音が高くなるのも、やたら顔が熱いのも、つまりはそういうことなのだ。
ふわっ、と髪《かみ》をひるがえして駆《か》け去ってゆく姿を目で追いながら、考える。
(要するにこういうことだ。彼女にはさっさと男性|恐怖症《きょうふしょう》を克服《こくふく》してもらう。そうすれぱこの同居《どうきょ》生活は終わる。一日も早くその日をむかえるために、できるだけの協力はする。彼女の面倒を見るのはそういうことなのだ。うん、そういう方針で)
うんうんと一人うなずく、いつまでも往生際《おうじょうぎわ》のわるい峻護であった。
(っと、それどころじゃないな今は)
いそいで部屋を出る。下に行けば姉の雷《かみなり》が落ちることになるだろう。
しかしその足どりは軽い。
彼を苛《さいな》んだここ数日間の苦悩《くのう》は、これでほぼ解決《かいけつ》した形になるからである。
真由との同居についてはひとまず承知《しょうち》できた。そして彼女とある種の信頼《しんらい》関係も構築《こうちく》できた。このことによって、峻護の罪悪《ざいあく》感に深く打ち込まれ、彼の行動に枠《わく》をはめていたある楔《くさび》が、事実上解消されたことになる。
そう、真由を押《お》し倒《たお》していた(と受け取れる)動かぬ証拠《しょうこ》、あのデジカメの映像《えいぞう》だ。
なにしろ当の彼女からあの映像以上のことについて『OK』をもらっているのだ。今さらあんなものが、彼女との信頼関係に致命《ちめい》的な打撃《だげき》を与《あた》えるとは思えない。つまりあれをちらつかせる事による脅迫《きょうはく》が、今後は一切無効《いっさいむこう》になるのだ。姉と美樹彦から、いくらかアドバンテージを取り戻《もど》せることになる。平和の女神《めがみ》がいよいよ彼になびこうとしている。
そう考えれば、ああ、なんてすがすがしい朝なんだろう!
彼は高らかに人生の歓《よろこ》びを謹歌《おうか》しつつ、飛ぶような足どりで階段を下りながら、
「あ、おはようございます先輩《せんぱい》」
誰《だれ》かとすれちがって反射《はんしゃ》的にあいさつが出た。
(…………ん?)
振《ふ》り向く。
誰も――いない。
(?)
首をひねる。
たしかに誰かとすれちがった。それは見慣《みな》れない姿をした、見慣れた人物だったような気がする。決してここにいるはずのない人物だったようにも思う。
が、すぐに思いなおす。
ただの気のせいだろう。今日はこんなにすがすがしい朝なのだ。きっと潜在《せんざい》意識が不吉《ふきつ》な幻覚《げんかく》を見せ、幸せにひたる表層意識に釘《くぎ》を刺《さ》そうとしたにちがいない。
心配性の深層心理を笑い飛ばし、峻護は食堂に顔を出した。
そして彼は平和の女神がそっぽを向いたことを知った。
テーブルには美樹彦がいる。朝食の給仕《きゅうじ》をしている真由がいる。
それにくわえ、ここにいるはずのない、見慣れた姿があった。
「やあ、おはよう峻護くん」
「あ、おはよ、二ノ宮くん」
「…………」
美樹彦に軽く頭をさげ、それからもう一人のほうを半眼《はんがん》で見やった。
「…………ここで何してるんです? 保坂《ほさか》先輩」
「いやあ、あはは」と、箸《はし》を握《にぎ》ったままの手で頭のうしろをかき、
「見てのとおり、朝ごはんをお呼ばれしてるんだけど」
「…………じゃ、何でここにいるんです?」
「あのね、二ノ宮くん、それがね、」
と、その時。
「――ちょっ、お放しなさいあなた! 無礼な、やめ、」
「往生際が悪いわね。隠れても無駄よ。しかも仕事を放りだしたままで……あなたには階段の掃除《そうじ》を言いつけてあったでしょう」
騒々《そうぞう》しい声がふたり分、二階から下りてきた。
目が点、口が半開きになった。
一方は、シックなエプロンドレスを着た黒髪《くろかみ》の少女。もう一方は、必死にもがく彼女を、子猫《こねこ》の首根っこでもつかむように軽々と運んでくる姉。
「紹介《しょうかい》するわ峻護」荷物をぽいと放り投げて、
「彼女、今日から住み込みで働くことになったお手伝いさん」
「…………は?」
峻護は、床《ゆか》にへたりこんで腰《こし》をさすっている人物を穴《あな》の空くほど見つめた。
妙な服を着てはいるが――どこからどうみても、北条《ほうじょう》|麗華《れいか》である。北条コンツェルン総帥《そうすい》、北条|義宣《よしのぶ》が一人娘《ひとりむすめ》であるはずの。
「…………おてつだいさん?」
「そう。あんた、お手伝いさんが欲《ほ》しい、って言ってたでしょ。だから、ほら」
「…………北条先輩が、住み込みで?」
「そう」
「……どうして姉さんって人は――」
いちいちやることが穏《おだ》やかでないんだ、ってこんなこと訊《き》いてもどうせ『そのほうが面白《おもしろ》そうだから』のひとことで済ませるんだろ、ああわかってるよちくしょう、
「ああもうっ、やってられませんわ!」
お手伝いさんが金切り声をあげ、フリルカチューシャを床にたたきつける。
「不条理よ! こんなのぜったい不条理よ! こんな服まで着せて――だいたいこれって何? うちのメイドが着る服じゃない!」
「そうよ。北条さんから貰《もら》ってきたの」
「わたくしが着るべき物じゃありませんわ、こんなのは!」
「とか言いつつしっかり着てるじゃない」
「それはあなたが無理やりわたくしをひん剥《む》いて――」
「かわいい声出してたわよ」
「それはあなたがヘンなところを触《さわ》るから……って、そんなことはどうでもよろしくってよっ!」
「不思議だわ。どうしてそんなに嫌《いや》がるの? あなたはこれで、峻護と同じ屋根の下で暮《く》らすオフィシャルな理由ができたじゃない」
「なっ……な、な、な、な、なぜわたくしが、そんな、理由なんて要《い》らな、何の関係も、」
「そうそう。北条さんから、ついでにこんなのを貰《もら》ってきたんだけど。ほら」
「! なぜあなたがその写真を! それはわたくしとお父さましか」
「他《ほか》にもほら、こんなものとか、こんなものまで。――ちょっと峻護、こっち来なさい。いいもの見せてあげるから」
「いやああああああああッ! やめてやめてやめてやめて!」
「はっはっは、いやいや、急に騒《さわ》がしくなった。――おや? チャイムが鳴っているな。みんな取りこみ中のようだし、僕《ぼく》が見てこよう」
「ええ、お願いね美樹彦。――さ、麗華ちゃん。この写真を地球|規模《きぼ》でばら撒《ま》かれたくなかったら、早くコーヒーを淹《い》れてくるように。掃除はあとでいいから。ブルマンとモカの三対一、温度はジャスト八十五度Cね。ミスったらやりなおしよ」
「く、くやしいいいいいいッ! おぼえてらっしゃいよ、あなた!」
「本当に諦《あきら》めの悪い子ねえ。まあどうしても納得《なっとく》いかないなら、直接《ちょくせつ》あなたのお父さんに掛《か》け合ってみたら? 電話、使っていいわよ」
「ところで涼子《りょうこ》さん、さっきぼくが話してたことの続きなんですが」
「何だったかしら、保坂くん」
「ぼくもこの家に居候《いそうろう》していいんですよね? だってぼく、麗華お嬢《じょう》さまの付き人だし」
「ええかまわないわ。ただし、お手伝いさんとしての仕事はやってもらうわよ。三食付きで日給二百円。これならあなたの主人とおなじ待遇《たいぐう》だし、文句《もんく》ないでしょ?」
「はい、わかりました」
「じゃ、今のうちに栄養はしっかり取っておきなさい」
「はい、じゃあ遠慮《えんりょ》なく」
「ちょっと峻護、そこに立たれると邪魔《じゃま》。あんたもさっさと朝食を済ませなさい。それが終わったら、寝坊《ねぼう》したペナルティを発表するから」
「お父さま! お父さま! 何度もわたくしが助けを求めているのにどうして――ちょっとお父さま、『おまえは産《う》まれてこなかったものと思って……』ってどういう意味ですの? もしもし? もしもしお父さま!」
「わあ、このお漬物《つけもの》おいしい! これも月村さんがつくったの?」
「いえ、わたしは漬けこんだだけで、糠床《ぬかどこ》は二ノ宮くんが。あの、保坂さん、昨日はすいませんでした」
「ううん、気にしてないよ。それにしてもすごいなあ、二ノ宮くん。糠床まで自前なのかぁ。ほらお嬢さま、ここにいれば毎日こんなおいしいお漬物が食べられますよ。ひと切れいかがですか?」
「保坂、このばか! わたくしがこんな目にあっているのに、おまえは――」
「ぐえ、おじょうざま、やめ、胃の中身が」
「おおい、峻護くん。君にお客さんだ。玄関《げんかん》じゃなんだから上がってもらったよ」
「――おい二ノ宮。おまえが月村さんを押《お》し倒《たお》している映像が匿名《とくめい》で送られてきたんだが。これはどういうことなのか説明しろや。納得できる説明を聞けるまではここを動かねーぞ。なあ井上《いのうえ》」
「吉田《よしだ》の言うとおりだ。しかもいっしょに送られてきた告発文には、おまえが月村さんと同じ部屋に住んでるって書いてあるんだが、こりゃどういうこった? まあたとえ納得できる説明が聞けたとしても、おまえを全殺しにすることはもう決定しているわけだが。だよな、綾川《あやかわ》?」
「そういうこと。ああそれと、この映像はクラス全員に回覧済《かいらんず》みだから、あしからず。きのう月村さんがあれだけ沈《しず》んでたのは二ノ宮くんに押し倒されたせいだって、そりゃもうみんなカンカンなんだから。学校に行ったら覚悟《かくご》しといてね。罪|滅《ほろ》ぼしとして、今日の美術の時間は二ノ宮くんにヌードモデルやってもらうことになってるし」
「はっはっは。峻護くん、あの映像を誰《だれ》にも見せないなんていう約束はしていないだろう? そんな目で僕を見ないでくれたまえ」
「おおっ! 月村さんのエプロン姿!」
「ああっ、待って月村さん、何もしないから近づかないから遠巻きにしてるから! 逃げないでもうちょっとその姿を拝《おが》ませて!」
「ていうか二ノ宮くんと美樹彦さんの部屋はどこ? ここまできたらパンツの一つもかっぱらってみんなに自慢《じまん》しなきゃ、女がすたるわ」
「ってあれ? 生徒会長じゃないすか。何してるんすか、こんなところで」
「え? こ、これはちがいますのよ? これには訳が――」
「しかも何なんすか、その恥《は》ずかしいカッコ………」
「い、いやああああああああっ! 見ないで! 汚《けが》れたわたくしを見ないで!」
「ちょっと麗華ちゃん、コーヒーまだ? それと峻護、いつまで突《つ》っ立ってんの。朝食抜《ぬ》きにするわよ。ちょっと、聞いてるの?」
「…………」
峻護は。
この乱痴気《らんちき》騒ぎに向かってひとこと言ってやるべく。
ありったけの想《おも》いをこめ、大きく息を吸《す》いこんだ。
あとがき
本編を読了《どくりょう》された皆様、お疲れ様でした。あとがきから読まれている皆様、この本を手にとっていただきありがとうございます。あとで本編もどうぞ。
どちら様も初めまして。作者の鈴木《すずき》です。以後《いご》、どうかよろしくお見知りおきを。
さて、あとがきです。
実はこのあとがき、第三稿目であります。第一稿は『世界の難易度《なんいど》、あるいは条件付きモラトリアム永住権《えいじゅうけん》』と銘打《めいう》たれた内容の堅苦《かたくる》しさゆえ、第二稿は毒が多すぎることが仇《あだ》となり、いずれも却下の憂き目をみることとなりました。
そこでこの稿ではその轍《てつ》を踏《ふ》まぬよう、『私の執筆暦《しっぴつれき》』といった無難《ぶなん》な内容を取り上げることにします。しばしお付き合いいただければ幸いです。
それほど本を読むほうでもなかった私が小説を書こうなどと血迷《ちまよ》ったのは、たしか中学二年の時が最初だったと記憶しています。「これ、読め」と友人に進められた、神坂一《かんざかはじめ》先生の『スレイヤーズ!』がきっかけでした。
いや、これが当時やたら面白《おもしろ》くてですね。どのくらい面白かったかというと、私のような人間に「よっしゃ、俺も小説書くぜ!」と思わせるくらい面白かったわけです。で、調子《ちょうし》に乗って書き始めたのはいいんですが――「わかった、俺に小説は無理《むり》だぜ!」と納得《なっとく》するまで三十分も要《い》りませんでした。なにせ、原稿《げんこう》用紙一枚分のスペースを埋《う》めるのさえままならなかったのですから。小説家ってえのはよくこんなモンを何枚も書けるもんだな、などとつくづく感心したものです。
以降《いこう》、小説への志《こころざし》は何の未練《みれん》もなく綺麗《きれい》に捨《す》て去り、次に執筆と縁《えん》があるまで十年近いブランクを経《へ》ます。縁をくれたのは大学の授業《じゅぎょう》でした。レポートの代わりに小説を書け、という課題《かだい》が出たんですね。
で、書きました。原稿用紙三枚|程度《ていど》だったと思います。この時は一応|完結《かんけつ》だけはさせたのですが――レベルは推《お》して知るべし。起承転結《きしょうてんけつ》などという上等なものはもちろん無《な》く、ただ頭の中にあるイメージをひどく稚拙《ちせつ》にスケッチしただけの、駄文《だぷん》のお手本のような小説でした。実際《じっさい》成績もC評価《ひょうか》でしたし。同じ授業の仲間内でお互《たが》いの小説をちょっと見せ合ったりもしたのですが、たぶん私のが一番ショボかったはずです。
そしてこの時小説を書いたのは、あくまで授業の一環だったからです。これを境に執筆にいそしんだ、ということもありません。『俺に小説は無理だぜ!』という納得は中々に強固で、なおかつそのことに対して忸怩《じくじ》たる思いがまったくなかったのです。小説を書けないことについてなんの不都合《ふつごう》もなかった、と。
そんな事情が一変し、小説への情熱が燃え滾《たぎ》ることになるまでさらに数年を要するのですが――そろそろスペースに余裕《よゆう》がなくなってまいりました。まことに中途半端《ちゅうとはんぱ》ではありますが、その話はいずれ機会《きかい》があれば、ということで。
本編についても少しだけ。当小説は作者|乾坤一郷《けんこんいってき》のバカ・ラブコメです。登場人物たちが巻き起こすアホ騒ぎを世知辛い人生の一時の慰みにしていただければ、これに如《し》くはありません。以上です。本当に少しですね。
さて、最後になりましたが、担当のS氏、イラストの高苗《たかなえ》氏をはじめ、この本に関わって頂いた全ての人たちに満腔の謝意を。言うまでもなく、皆々様がたのお力なくしてはこの小説が日の目をみることはなかったでしょう。本当にありがとうございました。
それではこのあたりで失礼いたします。またお目にかかれることを祈《いの》りつつ――
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解説
富士見ファンタジア文庫編集部
一つ屋根の下に、ナイスバディの美少女とふたりっきり!
「いけっ! 今すぐ押し倒せっ!! なにを躊躇《ちゅうちょ》している。こんなチャンスは二度とこないぞっ!?」とかなんとか、煩悩《ぼんのう》かきたてまくりです。第16回ファンタジア長編小説大賞佳作『ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん』。
ほのかな憧《あこが》れとか、熱い友情とか。ファンタジア大賞のさわやかなイメージをぶちこわしまくる妄想《もうそう》満開、おチャクラ全開、めくるめくお笑いリビドー空間がここにあります。
とはいえ。この『二ノ宮くん』、大事なものも忘れちゃいません。
男の精気《せいき》を吸《す》って生きるサキュバスのくせに、極度《きょくど》の男性|恐怖症《きょうふしょう》で触《さわ》られるだけで失神《しっしん》してしまう純情娘・|真由《まゆ》。彼女が唯一《ゆいいつ》、触《ふ》れることのできるのが主人公の二ノ宮|峻護《しゅんご》。ところがこれまた二ノ宮くんは、ちょっと硬派《こうは》というか、マジメというか。みだりに婦女子にヘラヘラしません。お互いちょっと気になる存在でありながら、そういったこだわりとか性格とかのために、なかなか距離《きょり》が近づかないふたり。見てる方がいらいらじりじりしてくる、けっこう甘酸《あまず》っぱい青春味のストーリーが語られていきます。
「サキュバス娘と一つ屋根の下」なんていう軽めの設定《せってい》ですが、描かれていくのは好きなコに簡単には「好き」といえないつらさ、ちょっとしたことですれ違ってしまう焦《あせ》りといったとても切実《せつじつ》な気持ちです。そのあたりは、著者《ちょしゃ》の誠実《せいじつ》さ、マジメさが現れているのかもしれません。
初めて誰かを好きになったときのように、著者の鈴木大輔《すずきだいすけ》はきっとどきどきしているはずです。この物語を、あなたが好きになってくれるかどうか。叱咤激励《しったげきれい》――手にとってくださったあなたの感想をぜひきかせてください。
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底本 ご愁傷《しゅうしょう》さま|二ノ宮《にのみや》くん
出版社 富士見書房
発行年月日 平成16年9月25日 初版発行
入力者 ネギIRC