おあいにくさま二ノ宮くん1
鈴木大輔
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目 次
真由《まゆ》、特訓《とっくん》するのこと
真由、看病《かんびょう》するのこと
峻護《しゅんご》と真由、閉じ込められるのこと
真由、お使いに行くのこと
真由、街へ出るのこと
真由、アクロばるのこと
麗華《れいか》、峻護と二人きりになるのこと
あとがき
真由《まゆ》、特訓《とっくん》するのこと
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油断《ゆだん》していたわけではない。
だが警戒《けいかい》を向けるポイントには確《たし》かに不手際《ふてぎわ》があったかもしれない――校内を逃げ回りながら|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》は苦々しく認《みと》めた。
駆《か》けつつ背後《はいご》を顧《かえり》みる。
視線《しせん》の先にあるのは、こちらを追走《ついそう》してくる男子生徒二十数名。
げっそりした。
さっきより増えている。おまけに距離《きょり》もかなり詰《つ》められている。
手を引いている同級生に早口で言う、
「月村《つきむら》さんもっと急いで!」
「は、はいっ!」
催促《さいそく》に月村|真由《まゆ》は力強く返してくる。だがその息は荒く足取りもあやしい。女の子にしてはよく頑張《がんば》っていたが、そろそろ限界《げんかい》か。
舌打《したう》ちする。反省は後回《あとまわ》しにしなければ、とわかってはいても後悔《こうかい》を抑えきれない。
体育の授業《じゅぎょう》を控《ひか》えた真由が露出《ろしゅつ》の多い体操服《たいそうふく》――古式《こしき》ゆかしい紺色《こんいろ》のやつ――に着替えるとなれば、危険《きけん》が生じるのは目に見えていた。事実《じじつ》、クラスの男子どもはきちんと牽制《けんせい》できていたのだ。だけど他クラスの、それも単なる通りすがりの男子生徒たちが、真由をたった一目見ただけでここまであっさり暴徒化《ぼうとか》するなんて、どうして想像《そうぞう》できるだろう。
だが常識《じょうしき》は通用しないのだ。執拗《しつよう》に追ってくるこの学園のお調子者《ちょうしもの》たちにも、峻護が連れて逃げている月村真由という少女にも。
劣情《れつじょう》丸出しの雄《お》たけびを上げ、暴徒どもはいよいよ迫ってきている。あの様子では説得《せっとく》など徒労《とろう》。連中《れんちゅう》、どうせ真由がいつもの結果[#「いつもの結果」に傍点]に落ち着くまで目を覚ますまい。
まどろっこしい。
こうなったら真由を抱《かか》え上げて運ぶしかない。あとは己《おのれ》の二本の足にすべてを賭《か》けるのみ。
そう峻護は思い定めた。
が、遅《おそ》すぎた。
前方、廊下《ろうか》の先に数人の男子生徒が湧《わ》いた。伏兵《ふくへい》。どうやら罵《わな》に誘《さそ》い込まれたらしい。追手《おって》の狂態《きょうたい》も、あるいはこの策《さく》を|迷 彩《カムフラージュ》するための演技《フェイク》だったか。
あわてて急ブレーキをかけ迂回路《うかいろ》を探すが――それも読まれていた。峻護が動きを止めた隙《すき》を狙《ねら》い澄《す》まして側面《そくめん》から急襲《きゅうしゅう》してきたのは別口《べつくち》の伏兵。よけられるタイミングではない。胴《どう》タックルを食らって吹っ飛んだ峻護の上へさらに数人が覆《おお》いかぶさる。孤立《こりつ》した真由が峻護の名を呼ぶ声、彼女の目と鼻の先に迫る野獣《やじゅう》どもの影。制止《せいし》する峻護の悲鳴《ひめい》も届《とど》かず、獣性《じゅうせい》を解放《かいほう》した男どもが獲物《えもの》に殺到《さっとう》し、そして――
*
この世界には『サキュバス』と呼ばれる女性達が存在《そんざい》ずる。
彼女達はその魅惑《みわく》で男性を寵絡《ろうらく》し、彼らの精気を吸《す》って生命の糧《かて》となす。その美貌《びぼう》はまさに傾国《けいこく》のそれであり、その秘技《ひぎ》を施《ほどこ》された男どもは恍惚《こうこつ》として別次元へいざなわれるという。ある意味、男性にとってはロマンの現出、女性の理想像《りそうぞう》というべきであろう。
だがしかし、である。そんな種《しゅ》に生まれついた少女が極度《きょくど》の男惟恐怖症《だんせいきょうふしょう》――それも、異性《いせい》に囲まれただけで失神《しっしん》してしまうほどの重症《じゅうしょう》であったとしたら?
*
「はあ……」
神宮寺《じんぐうじ》学園の保健室《ほけんしつ》で、二ノ宮峻護は毎度のため息をつく。
結局いつものオチ(月村真由の魅惑に正気を失った男子生徒が彼女を追いまわす→男に囲まれた彼女が卒倒《そっとう》→保健室へ直行)になってしまった。この学園のバカ男どもにはそろそろ学習能力を発揮《はっき》してもらいたいと思う。相手をKOしてから我《われ》に返るのでは遅すぎるということにいい加減《かげん》気づいてほしい。
「ふう……」
ふたたびため息の峻護。
「すいません……」
そんな彼の様子を見た真由が、ベッドに横たわったまま小さな声で謝《あやま》った。穴《あな》があったら入りたい、という顔である。
「謝らなくていい。悪いのはあの連中だよ」
そっけない口調《くちょう》でフォローする。無論《むろん》すべての問題の根源は、魔性《ましょう》の魅惑を持ちながら男性恐怖症である彼女に帰《き》するのだが、いまさらそれをいっても始まらない。おまけに彼女がサキュバスであるという事実を秘匿《ひとく》している以上、そのあたりの事情を説明して理解《りかい》を求めるわけにも行かないわけで。
それに、こうなることを予測《よそく》できていながら再三再四それを防《ふせ》げない峻護も悪い。真由を守る役目は彼が望んで引き受けたものではないが、もともと律儀《りちぎ》な性格の峻護である。こう失態《しったい》が続げば口借《くちお》しさも一通りではなかった。
「――月村さん、悪いのは君じゃないけど、でももうちょっと何とかならないか? 男に囲まれてももう少し我慢《がまん》できるような方法とかはないのか?」
「は……い」
と返事はするものの、それ以上の言葉はない。決まり悪そうに視線をそらすばかり。
「なんでもいいんだ。恐怖症の対策《たいさく》になりそうなこと、何か思いつかない?」
「…………」
今度は返事すらなく、ひたすら恐縮《きょうしゅく》の体《てい》。
再々《さいさい》度《ど》、峻護はため息をつく。
わかってはいるのだ。そんな簡単《かんたん》に問題を解決《かいけつ》できる方法があるなら彼女がわざわざ二ノ宮家に来るはずもないし、峻護だって彼女の面倒《めんどう》を任《まか》せられることもない。
しかしそれにしたって、である。いかにも前途多難《ぜんとたなん》の度が過《す》ぎる。彼女が峻護のもとにやってきてまだ数日ではあるが、良化の傾向《けいこう》がさっぱり観測《かんそく》できないこの状況《じょうきょう》。正直これでは――
「やっぱり無茶だよ、これは」
振《ふ》り返り、それまで黙《だま》って成り行きを見守っていた同席者二人に言った。
「こんな調子じゃ恐怖症|克服《こくふく》の見込みなんてとても立たないと思う。根本的なところから色々考え直したほうがいいんじゃないか?」
「そうねえ……たしかにあんたの言うことにも一理あるかもね」
と同意したのは峻護の姉であり、この学園の保健医でもある二ノ宮|涼子《りょうこ》。
「想定《そうてい》していたよりもはるかに恐怖症の克服が進んでいないのは事実だし。何かもっと別の対策を考えないと――」
「しかしだな、涼子くん」と口をはさんだのは真由の兄にして、この学園の用務員《ようむいん》でもある月村|美樹彦《みきひこ》だ。
「以前にも話したと思うが、真由の恐怖症克服についてはこれまでありとあらゆる手段《しゅだん》で治療《ちりょう》を試《こころ》みてきた。だがそのいずれも効果《こうか》がなく、そこで最後の手段として採用《さいよう》したのが今回の荒療治《あらりょうじ》――同性ばかりの寄宿舎《きしゅくしゃ》生活を離《はな》れ、異性も交《まじ》えた暮らしを送ることだったんだ。それに見込みがないとなると、残念《ざんねん》ながら僕にはもう打つ手がない」
「美樹彦、本当に他の手はないの?」
「あれば苦労はしないさ。無茶だろうと何だろうと、もうこのやり方にすべてを賭けるしかないんだ」
議論《ぎろん》を始めた二人を、真由がひどく不安げな様子で見つめている。
一方、峻護はただ沈黙《ちんもく》を保《たも》ったまま。彼にしてみれば当然である。下手《へた》に口出しすればどうせやぶへびになって、また無理《むり》難題《なんだい》を押し付けられるに決まっている。そうでなくともこの二人のこと。どのように論理《ろんり》を飛躍《ひやく》させてこちらにとばっちりを食わせてくるか知れたものではない。
だが結局のところ、峻護のそんな不安は的中《てきちゅう》することになった。いかに自重《じちょう》していようと、この二人はあの手この手を駆便《くし》して彼をいけにえの祭壇《さいだん》に引き出すのである。
議論が、思わぬ方向に逸《そ》れてきた。
「所詮《しょせん》、見果《みは》てぬ夢だったということか」どこか遠い場所を見つめ、美樹彦が呟《つぶや》く。
「そう、やはり高望みだったのだろう、恐怖症の克服などは。ここらが潮時《しおどき》かな」
「そうね。頼《たの》みの綱《つな》の峻護も、このやり方には否定的《ひていてき》なようだし」
「まったくだ。藁《わら》にも縋《すが》る思いで頼《たよ》った峻護くんにも、どうやら我々《われわれ》は見放されてしまったようだしね」
(……いや、誰《だれ》もそこまでは言ってないだろう)
どうにも極端《きょくたん》な話の展開《てんかい》に心の中で突っこみを入れる唆護だが、それが相手に届《とど》くはずもなく。
「やむをえないわ。今回の計画、現時刻《げんじこく》をもって白紙|撒回《てっかい》することにしましょう」
「そう――そうだな。それがいい。見込みのない計画に拘泥《こうでい》して、君たち姉弟にこれ以上|迷惑《めいわく》をかけるわけにはいかない。恐怖症の克服は、潔《いさぎよ》く諦《あきら》めることにしよう」
ついにはこんな言葉まで飛び出した。
「悪いわね美樹彦。なんの役にも立てなくて」
「とんでもない。君にも峻護くんにも大いに世話になった。本当に感謝《かんしゃ》している」
「それで、出発は何時《いつ》にするの?」
「早いほうがいい。今日のうちにも荷物《にもつ》をまとめ、この国を発《た》つとしよう。別れの名残《なごり》を惜《お》しんでいると、かえってつらくなってしまうからね」
峻護、四たびため息をつく。ここまできては沈黙を保っているわけにもいかない。この二人、本当に言葉通りやりかねないのだ。
「姉さん、美樹彦さん、二人ともちょっと待って――」
「待ってください!」
言いかけた峻護をさえぎり、真由が切迫《せっぱく》した声を上げた。
「わたし、やります! ぜったい恐怖症を治します! どんなことでもします! だからもう少しだけ待ってください!」
必死《ひっし》で、追い詰められた表情。もともと大人《おとな》しい彼女にしてみれば、これはもう形相《ぎょうそう》といっていいレベルだろう。
「一週間、じゃなくて三日、いいえ一日、一日だけでいいですから! 特訓《とっくん》して、一日で治しますから!」
おまけに彼女まで言うことが極端になってきた。
「いや月村さん、それはいくらなんでも無理――」
「真由ちゃん。そこまで言うからには覚悟《かくご》はできているんでしょうね?」
言いかげた峻護をさえぎり、涼子が鬼コーチの声で言った。
「覚悟はあります!」
「特訓はつらくて厳《きび》しいわよ?」
「耐《た》えます!」
「|わたし《コーチ》の言うことをちゃんと聞く?」
「ぜんぶ言うとおりにします!」
「――わかったわ。あなたの覚悟、たしかに受け取った」
満面の笑《え》みを浮《う》かべる涼子。このスボ根じみた展開、どうやら初めからそういう方向に誘導《ゆうどう》する魂胆《こんたん》だったらしい。そのことにようやく気づき、唆護は五度目のため息を盛大につくのだった。
こうして、一日限りの『特訓』とやらが始まることになったのだが。
*
嫌《いや》な予感はしていたのだ。
真由の恐怖症克服対策について自分が無関係《むかんけい》でいられるはずはない――それについては重々《じゅうじゅう》承知《しょうち》していた。そもそも彼が月村真由と同居《どうきょ》し、彼女の面倒《めんどう》を任《まか》されているのは、二ノ宮峻護という人間が彼女にとって恐怖心をほとんど覚えずに済《す》む希少《きしょう》な異性《いせい》である、という点に起因《きいん》する。他の異性に近づけば人事不省《じんじふせい》になる真由だから、まずは刺激《しげき》の弱い峻護をあてがって恐怖心を慣《な》らそう、という目論見《もくろみ》だったのだ。今もって恐怖症に改善《かいぜん》が見られないということであれば、特訓と称《しょう》する恐怖症対策に彼が駆《か》り出されないはずはない。
しかし、である。果たしてこんな手だてが本当に恐怖症克服の役に立つものだろうか。
時は夜、所は二ノ宮家の居間《いま》である。
「ちがう、ごかいなんだまゆ。ぼくのはなしをきいてくれ」
「えーと……ふん、冗談《じょうだん》じゃないわ、浮気《うわき》の証拠《しょうこ》は挙《あ》がってるんですからね、峻護さん。離婚《りこん》よ、もうぜったい訴《うった》えてやるんだから」
「だから、それはきみのかんちがいなんだよ。たしかめてくれればわかる。だからおちついてくれ。……月村さん、次、そこ」
「あっ、はい、すいません。――わたしは騙《だま》されないんだから。いいわけは沢山《たくさん》よ。今日からわたし、実家に帰らせていただきます。さようなら。次に会う時は裁判所《さいばんしょ》で――」
「あーもうダメダメ。カットカット!」
監督《かんとく》の涼子がメガホンを振《ふ》り回し、大根演技《だいこんえんぎ》を中断《ちゅうだん》させた。
「竣護、ちゃんと真面目《まじめ》にやりなさい。真由ちゃん、あなたはそんなに緊張《きんちょう》しなくていいから、もっと自然体で」
(こんな頭の悪い脚本《きゃくほん》を書いといてよく言うよ)と声に出したいのをこらえ、峻護はせいぜい従順《じゅうじゅん》に頷《うなず》いてみせる。
「まったく、先が思いやられるな。どうやらこれは腰《こし》を据《す》えてやる必要があるようだ」
と、プロデューサーの美樹彦がやれやれと首を振る。(こんな頭の悪い企画を通しておいてよく言うよ)と言いたいのをこらえ、峻護はこれにも頷いてみせる。
彼らの主張《しゅちょう》によれば、この三文|芝居《しばい》は恐怖症克服のためのシミュレーションということになるのだが……こんな学芸会以下の子供だましで効果が上がるとは到底《とうてい》思えない。
が、相方《あいかた》のほうは峻護と意見を異にしているようだった。
「はい! もっと自然体で、腰を据えてやります! 次のシーンお願いします!」
いつにない気合で真由は力強く頷くと、すぐに脚本へ目を落とし、ぶつぶつとセリフを確認《かくにん》しはじめる。そんな様子を見せられると『これ、たぶんあまり役に立たないから適当《てきとう》にやったほうがいいよ』とは言いにくい。
「さ、じゃあ続きを始めるわよ。次はメインのキスシーンね」
やむなく峻護も台本に戻り、B級の昼メロでもお目にかかれないようなセリフを次々と並べていく。実にアホらしい。
よりいっそう大根演技に磨《みが》きがかかっていく峻護。だが一方の真由はすっかり役に没入《ぼつにゅう》し、セリフの一つ一つに熱がこもりつつある様子である。嫌《いや》な予感がふたたび鎌首《かまくび》をもたげてくる。このまま事態《じたい》が展開すると、かなり危険《きけん》な状況《じょうきょう》に追い込まれそうな気がする。
「はい、じゃあ二人ともそこで見つめ合って――そう、そんな感じで」
ドラマはいよいよ佳境《かきょう》に入っている。峻護は指示どおり真由と向かい合い――そして、予感は形になって表れ始めた。こちらを見上げてくる彼女の潤《うる》んだ瞳《ひとみ》は、まさしく想《おも》い人を見る時のそれではないか。
「ほら唆護、そこで決めゼリフ」
予感よ思い過ごしであってくれ、と祈《いの》りつつ、峻護はシナリオどおりに言った。
「あいしてるよ、まゆ」
的中《てきちゅう》した。
ぼっ、と音を立てたかと思うほど見事《みごと》に真由の顔が沸騰《ふっとう》し――そしてそれは瞬《またた》く間に唆護にも伝染《でんせん》した。彼女に変化が起こった途端《とたん》、その全身から発せられたすさまじいばかりの蠱惑《こわく》が高波のごとく峻護を拉《らっ》し去り、彼を煩悩《ぼんのう》の大渦《おおうず》に叩《たた》き込んだのである。
これだ。これなのだ。
そう、彼女の本性は否応《いやおう》なしに男を惑《まど》わす『サキュバス』なのである。ひとたび彼女が男女のことに本気になればどんな結末を見るか。
「あの、わたし、わたしも二ノ宮くんのことが、その」ちらりと上目遣《うわめづか》い。「……あの、」
ふたたび視線を逸《そ》らす。ぐあ、と思わずうめきそうになる。そのいじらしさにはサキュバスのみが発する、半強制的に男を籠絡《ろうらく》する魅惑《みわく》が横溢《おういつ》している。
「はい、じゃあ顔を近づけて。ゆっくりね」
そこへ、監督から悪魔のささやき。
スイッチの入った真由が、ためらいつつもそっと唇《くちびる》を寄せてくる。それにあわせて、吸《す》い寄せられるように峻護も――。
だが忘れてはならない。
月村真由の厄介《やっかい》さは男性恐怖症だけに留《とど》まらない。彼女はサキュバスであり、異性の精気を吸いあげる能力を持つのだが――悪いことにその能力をコントロールすることが全くできないのだ。並《なみ》の男なら彼女の肌《はだ》に触《ふ》れただけで即《そく》、失神《しっしん》。たとえ彼女の吸引能力に耐性《たいせい》をもつ峻護であっても、それ以上のコトに及《およ》べばどうなるか、推《お》して知るべし。
峻護はすさまじく葛藤《かっとう》していた。
(これはお芝居なんだ、短気を起こすなよ二ノ宮峻護。まだミイラにはなりたくないだろう? この先の人生を捨てる気がないなら今すぐ正気に戻るんだ……!)
だが忘れてはならない。彼女は男の理性の天敵《てんてき》、サキュバスなのである。一旦《いったん》その魅惑に搦《から》め捕《と》られたが最後、そうそう簡単に正気に戻れるものではない。
危機的状況だった。もはや生ぬるい方策《ほうさく》が通用する段階《だんかい》ではなく、かくなる上は非常の手段《しゅだん》に訴《うった》えるしかなかった。
「――うわあ! 足が滑《すべ》ったあ!」
そう腹の底から叫《さけ》んで気力を奮《ふる》い立たせると、峻護は迫真《はくしん》の(客観的にはミエミエの)演技をもってその場で足を滑らせ――
後頭部から、床《ゆか》ヘダイブした。
ごん、と鈍《にぶ》すぎる音が骨の髄《ずい》まで響《ひび》く。
星が飛ぶ。天地が反転する。そう、ここまで身を捨てなければ彼女の魅惑は振《ふ》りほどけないのだ。恨《うら》むのであれば、サキュバスという存在そのものの理不尽《りふじん》さを恨むしかない。
「だっ、大丈夫《だいじょうぶ》ですか二ノ宮くん!」
霞《かす》んでいく意識《いしき》の中、真由がこちらを覗《のぞ》き込んでくるのがかろうじて認識《にんしき》できる。
その背後《はいご》に立ち、温度の低い視線《しせん》で見下ろしてくる二人の容赦《ようしゃ》ないコメント。
「まったく、何やってるのかしらこのバカは。どこかの新喜劇《しんきげき》じゃあるまいし、何もないところで足を滑らせるなんて」
「まさしく。彼には失望させられたよ。まさか、真由の魅惑から逃れるために捨て身の手段を選んだわけでもあるまいしね」
「冗談。その程度《ていど》の精神力しか持ち合わせていない軟弱者《なんじゃくもの》は二ノ宮家の男子じゃないわ。ま、どっちにしてもあんなとんま[#「とんま」に傍点]がわたしの弟だなんて、信じたくもない事実《じじつ》だけど」
臓腑《ぞうふ》をえぐる罵倒《ばとう》を子守唄《こもりうた》にしつつ、峻護の意識はあえなく途切《とぎ》れていく……。
*
果たしてこんな手だてが本当に恐怖症克服の役に立つものだろうか。
強く強く、峻護はそう思う。
でも、姉や美樹彦はともかく、真由に真剣な顔で『お願い』されては断《ことわ》りきれないわけで。とはいえここまでするのはやっぱり行きすぎだと思うわけで。
二ノ宮家の浴場《よくじょう》である。
意識を取りもどした峻護を待っていたのは、さらに過酷《かこく》な試練《しれん》であった。
「うんうん、がんばってるわね真由ちゃん」
「いやまったく。わが妹ながらあの健気《けなげ》さには頭が下がる思いだよ。峻護くんのことだ、その努力を水泡《すいほう》に帰《き》すような真似《まね》は、よもやするまいだろうさ」
なぜか当たり前の顔をして入浴《にゅうよく》を同じくしている涼子と美樹彦が、さりげに退路《たいろ》を断《た》ってくる。峻護は泣きそうになった。
そしてこの話の流れから、もうおわかりであろう。
真由も、やはり入浴を同じくしている。もちろんこれも恐怖症克服対策の一環《いっかん》である。涼子と美樹彦に言わせれば、だが。
では、彼女は一体なにを頑張《がんば》っているというのか?
「あの、二ノ宮くん。どこかかゆいところとか、ありますか?」
峻護、無言《むごん》で首を振《ふ》る。
「何か失敗してたら、遠慮《えんりょ》なく言ってくださいね」
言って、ふたたび真由は峻護の背中をごしごしこすり出した。
――そう、彼女は今、峻護の背中を流しているのである。
なんだそんなことか、とお思いだろうが、甘い。真由がサキュバスであるという事実がまだおわかりでない。
考えてもみてほしい。サキュバスとは、言ってみれば夜の技巧《ぎこう》を遺伝形質的《いでんけいしつてき》に極《きわ》めることによって生き延《の》びてきた血族である。そんな存在に背中を流されればどうなるか。
改めて、峻護は月村真由の恐ろしさを思い知っていた。かろうじて水着の着用だけは認《みと》められたが、彼女が相手では何の救いにもならない。タオルで背中をこすっているだけなのに、なぜ、こうも手つきが、そっち方面を連想《れんそう》させる艶《なま》めかしさをもっているのだろう。
何事《なにごと》にも真面目《まじめ》な真由の性格もよくない。えい、えい、と一生《いっしょう》懸命《けんめい》にやってくれるのはいいのだが、その熱心さに正比例《せいひれい》して峻護の心は蝕《むしば》まれてゆく。そして作業に集中しているだけに、彼女は自分の身体のある部分――女性の上半身のうち最も柔軟性《じゅうなんせい》と弾力性《だんりょくせい》に富《と》む箇所《かしょ》が、時おり峻護の背中に触《ふ》れていることに気づいていない。
とうくに理性は金属疲労《きんぞくひろう》を起こしている。さほどの猶予《ゆうよ》は残されていなかった。
そこへ、悪魔が容赦《ようしゃ》なくとどめをさす。
「あ、背中はもう終わった? じゃあ次は前の方もね、真由ちゃん」
抗議《こうぎ》の悲鳴をあげるより早く、柔《やわ》らかい手が遠慮《えんりょ》がちに差し入れられた。はう、と思わず可愛《かわい》い声が出た。均衡《きんこう》は無残に崩壊《ほうかい》し、振り切れんばかりの勢いで煩悩ゲージはマックスへ。もはやなりふり構《かま》ってはいられなかった。竣護は限界まできた劣情を抑《おさ》え込む術《すべ》を探した。彼の本能が無我《むが》夢中《むちゅう》で拾い上げた手段はこうだった。
「にいちがに! ににんがし! にさんがろく! にしがはち!」
いきなり九九を叫び出した峻護に、真由がポカンと口を開ける。
「にごじゅう! にろくじゅうに! にしちじゅうし! にはちじゅうろく!」
だが変人|扱《あつか》い、狂人《きょうじん》扱いは覚悟の上。彼も己の命と彼自身の矜持《きょうじ》――煩悩に屈《くっ》して女性に手を出すような真似は絶対しない――を守るのに必死なのだ。
そんな峻護を血も涙も《なみだ》なく斬《き》り捨てたのは、やはりあの二人だった。
「呆《あき》れた。ごの期《ご》に及《およ》んで算数の復習だなんて……まさかあの子の学力が小学生並みだったとはね。情けない限りだわ」
「いやまったく。よもや、真由の魅惑に屈しかける心を奮《ふる》い立たせるためにあんな不様《ぶざま》な真似をしているわけでもあるまいしね。しかし僕は思うんだが――あれはひょっとして算数ではなく、新種《しんしゅ》の交霊術《こうれいじゅつ》なのではあるまいか。しばらく様子を見てみよう。なにか面白いモノが降りてくるかもしれない」
「というかあれって取り憑《つ》かれてるんじゃない? エクソシストでも呼んだほうがいいのかしら……ああいいのよ真由ちゃん。続けて続けて。アホは無視《むし》してくれていいから」
涼子の指令に素直《すなお》に従って、真由はおずおずと作業を再開する。峻護の呪文《じゅもん》はますます音量を上げ、馬鹿《ばか》の一つ覚えに真由の魅惑に抗《こう》することができない不甲斐《ふがい》なさに、その音色はいよいよ哀愁《あいしゅう》の調べを帯《お》びていく……。
*
果たしてこんな手だてが本当に恐怖症克服の役に立つものだろうか。
強く強く強く、峻護はそう思う。
同じ部屋で寝起きすることについては、真由が二ノ宮家に来た当初から決められていたことである。納得していたわけではないにせよ、それ自体は今さら論《ろん》ずるに値《あたい》しない。
しかし若い男女が同じベッドの上で、となれば、これは大幅《おおはば》に事情が違ってくる。
いくらなんでもそれはまずいだろう――もちろん彼もそう思った。が、姉と美樹彦の言い分はともかく、例によって真由に必死の懇願《こんがん》をされると、これがひどく断りにくい。
しかし、やっぱりこれはやりすぎだと思う。これではまるで一線を越《こ》えてもいいと言わんばかりではないか。いやもうほとんどその一線を越えているのではないか。
――などと未《いま》だにうだうだ考えている峻護だが、遅きに失しているのである。なにしろすでにベッドインした後なのだから。
だが逆に言えば、彼にはまだそんな風にうだうだ考える余裕《よゆう》があるということである。
峻護と真由の部屋にある寝具《しんぐ》はキングサイズのダブルベッド。
今、彼ら二人はその余剰《よじょう》面積《めんせき》十分のベッド上にお互《たが》い背を向け、あたかも磁石《じしゃく》のS極《きょく》とN極のごとく離《はな》れて陣取《じんど》っている。風雲《ふううん》急を告げる事態《じたい》にはまだ遠いはずだった。
それにこの場には涼子と美樹彦がいない。さすがに遠慮したものか――というかたぶん気を利《き》かせたつもりなのだろうが、ともかく現在、彼らの監視《かんし》の目はない。つまり、峻護としては非常《ひじょう》事態になった際《さい》、リタイヤしやすい状況《じょうきょう》にあるということだ。彼にしてみれば余裕があるのも当然であった。
だが二ノ宮峻護、やはりまだ考えが甘い。サキュバスの半径一メートル以内にいることがどういうことか、彼は程《ほど》なく思い知ることとなる。
「――あの、二ノ宮くん」
意を決したような声が、ベッドの反対側から聞こえた。
「もっとそばに行っても、いいですか?」
「え? ど、どうして?」
「あの、だってこれは、恐怖症克服のためにしていることだから。……ほんとうですよ? うそじゃないですよ?」
「ああ、うん、そうだ、そうだよな、うん。じゃあ、そうしてくれ」
ほとんど無意識《むいしき》のうちにそう口走っていた。
少しの間が空き、そして、がさ、ごそ、がさ、ごそ。
宣言《せんげん》どおり近づいてきた。
峻護の想像《そうぞう》していたより、ずっとそばまで。
仄《ほの》かに漂《ただよ》って鼻先をくすぐるシャンプーのさわやかな香り。その中にかすかに混《ま》じり、かすかでありながら脳髄《のうずい》を強烈《きょうれつ》にキックする、甘く艶《なま》めかしい女の子の――
来た。バケツをぶちまけたようなアドレナリンの大放出《だいほうしゅつ》。|心拍数 急 上昇《しんぱくすうきゅうじょうしょう》。全身ヘ一気に熱が回り、思考《しこう》はたちまちにして霞がかったように輪郭《りんかく》を失う。
「――あの、二ノ宮くん」
ふたたび声。距離《きょり》、至近《しきん》。
「あの、触れていてもいいですか? 二ノ宮くんに。あの、だってこれは、恐怖症克服のためだから。そうしてたほうが、いいと思うから」
「ええっ? いやでも、ああ、うん、そうだな。そうだね」
峻護、やはり半《なか》ば無意識のうちに首肯《しゅこう》している。ずでに真由《サキュバス》の|蠱 惑 領 域 《テンプテーション・フイールド》に捕《とら》われていることを、彼はいまだ自覚《じかく》していない。
そう、対象の自覚しないうちに己の自家薬寵中《じかやくろうちゅう》へ捕捉《ほそく》する。そこが彼女たち夜の血族の恐《こわ》さなのである。
真由の手が、そっと、峻護の背中に当てられた。なにか、特別な想《おも》いを感じさせるやわらかさと、温かさで。
次いで、それよりもやや上のあたりに付けられた感触《かんしょく》は――額の、それか。
背中をくすぐるのは、感情の昂《たか》まりを色|濃《こ》くのせる、わずかな、しかし熱い、吐息《といき》。
この展開はまずいんじゃないだろうか――ようやく峻護の思考はそこに思い至った。が、いかにも遅すぎる。
案《あん》の定《じょう》、次が来た。
「あの、ぎゅっ、てしても、いいですか?」
「ぎゅ、ぎゅ?」
思わず素《す》っ頓狂《とんきょう》な声が出た。
「だめ――ですか?」
「そ、それも恐怖症克服のため?」
「はい。そうです。恐怖症の克服のためです」
そこまできっぱり言われると。
峻護は押し黙《だま》った。
混乱《こんらん》した。
どうすればいい? どんな風に応《こた》えれば?
…………。
…………。
…………。
それともいっそのこと、
(――否《いな》ッ!)
心の間隙《かんげき》を衝《つ》いて忍《しの》び込んだその邪念《じゃねん》をあわてて蹴《け》り出す。
(否否否ッ! ノー! ダメ! ノー!)
が、そいつは懲《こ》りもせずふたたび舞《ま》い戻り、なおも甘言《かんげん》を弄《ろう》してくる。
――食っちまえばいいじゃねえか、ええ? おい。背中を流されただけで別世界へ行きかけたお前だ。それ以上のことになればどんな夢を見られるか、想像できないわけでもあんめえ。やせ我慢《がまん》は身体《からだ》によくねえぜ?
――冗談じゃない。彼女に手を出せばどうなるかわかっているのか? ミイラだぞ? あっちの世界へ行ったまま帰ってこられないんだぞ?
――天国への片道|切符《きっぷ》、上等じゃねえか。とっととそいつを掴《つか》んで楽になっちまえよ。嫌《きら》いなわけじゃねえんだろ? あいつのこと。
――そっ……それでも嫌だ! 絶対《ぜったい》に嫌だ! 絶っっっ対に、おれは嫌だからな!
――強情《ごうじょう》な野郎だ。だったら訊《き》くが、
お前は一体、何を、問題にしてるんだ……?
「……だめ、ですか?」
「――あ、あのさ、どうしてそこまで? 今の状況って結構《けっこう》、いやかなり、ちょっとしたことだと思うけど」
苦し紛《まぎ》れの時間|稼《かせ》ぎ、のつもりだった。
今度は真由が黙った。
短い間《ま》ではなかった。
やがて、ほとんど聞き取れないような声で、彼女は答えた。
「――ここを、出たくないんです」
その小さな吐露《とろ》は、ずん、と重く、深く、峻護の胸の裡《うち》に響いた。
「この家に、いたいんです……」
涙まじりだった。
真摯《しんし》で、切実《せつじつ》で、ひたむきな――それは、彼女の、精一杯《せいいっぱい》だった。
峻護は口をつぐんだ。
この期に及んで『姉さんや美樹彦さんの話を真に受ける必要はないんだ』などという馬鹿な話をするべきでないことは、いかに榊鎧隊の彼でも騨鰍できた。そして彼も男の端くれである。これ以上|不様《ぶざま》な捨て身で場をごまかすのを潔《いさぎよ》しとはしない。
いまだに混乱はしている。だがそのごたまぜ[#「ごたまぜ」に傍点]の中にも一本の芯が通った。その芯《しん》が、峻護の不器用《ぶきよう》な口を開かせた。
「……おれはさ、月村さん。そんなに頭はよくないし、しゃべるのも上手《うま》くはないし、姉さん達みたいになんでもこなせるわけでもない。それに女の人をどうやって扱《あつか》っていいかもよくわからなくて。自分でもそれはよくわかってて。これまで女性と付き合ったこともないし、だから本当に、男と女の付き合い方ってわからないんだけど」
やはり、言いたいことが上手く言えない。それでも峻護は続ける。
「でも、現代の若者っていうのは男女の関係に軽すぎるんじゃないかって思うんだ。といっても、若いうちからの男女の深い関係がよくないって思ってるわけでもなくて。むしろ大いに関係するべきだって思ってて。そう思っていながら女性と付き含ったことがないのは、ただ単におれに度胸《どきょう》がなかったり奥手だったりするだけのことで」
話に筋《すじ》が通らない。おまけに語っている内容自体がとても赤《あか》っ恥《ぱ》ずかしい。
それでも峻護は続ける。
「要するにおれが思うのは、節度《せつど》ってやつが一番大切なんじゃないかってことなんだ。だって、そうだろう? なんか侮しいじゃないか。本能とか欲望とかのままに女性と関係するのってさ。そういうのを全部|否定《ひてい》するわけじゃないけどさ、それでもやっぱりおれは、それは悔しいと思うんだよ」
続けた甲斐《かい》はあった。
話しているうちになんとなくわかってきた。自分が一番の問題にしているのは何なのか。
真由に手を出したら即死《そくし》――そんなことは問題じゃない。
サキュバスである真由の暴力的ともいうべき魅惑に抗えないこと――突き詰めれば、それだって大した問題ではないのだ。
峻護がどうしても許せないこと。それは、恋愛のプロセスなしにそういう関係になることなのだ。
それが、どうしても我慢《がまん》ならないのだ。
ちゃんと順序《じゅんじょ》を踏《ふ》んで、段階《だんかい》を経《へ》て、関係を築《きず》いて行きたいのだ。
そうでない関係なんて、結局のところ砂上の楼閣《ろうかく》同然に、いずれあっけなく崩《くず》れ去ってしまう気がするのだ。もしそうなったら――そんなのは、哀《かな》しすぎるではないか。
そう、そうなのだ。
そういうことなのだ。
「だから月村さん。おれは――」
と、その時になってようやく様子《ようす》がおかしいことに気づいた。
「月村さん?」
答《いら》えの代わりに返ってきたのは、静かで穏《おだ》やかな――寝息《ねいき》。
(……忘れてた)
思い出し、峻護は一気に脱力《だつりょく》する。
そうだった。彼女にはこれがあった。
精気――生命エネルギーの補給《ほきゅう》に難《なん》のある彼女は、激《はげ》しく精気を消耗《しょうもう》する状況、たとえば極度《きょくど》の緊張下《きんちょうか》に身を置いたあとなどは、こうしてすぐに寝入ってしまうのである。
彼女にしてみれば先ほどまでの峻護への態度《たいど》、どれほど勇気の要《い》ることであったか。
まして昼の間、彼女は男に囲まれて失神《しっしん》し、一度は精気を便い果たしている。この結果は当然|予測《よそく》されるべきものだった。
峻護、なんとも複雑《ふくざつ》な苦笑いを浮かべる。
これでよかったような、ちょっとだけ残念なような。
一旦《いったん》冷静になってみて確かに言えるのは――
こんな照《て》れくさいこと、たぶん二度とは言えないだろうな、ということくらい。
でも、やっぱりこれでいいのだと思う。
二人の関係は、じっくりと時間をかけて築き上げて行けばいいのだから。
「……おやすみ、月村さん」
とにかく今夜はゆっくり寝かせてあげよう。そんな風に思い、峻護もまた目を閉じた。
――が、のどかな気分にひたったのも束《つか》の間《ま》であった。
間違《まちが》いなく眠っているはずの真由の腕《うで》が、峻護の胴《どう》にそっと絡《から》められたのである。
「へっ? つ、月村さん?」
答《いら》えの代わりに、強く、やさしく、腕に力が込められる。
やわらかい感覚が、背中いっぱいに、当たって。
一気に血圧《けつあつ》が上がった。
不幸にも、彼が真由の寝相《ねぞう》の悪さを知ったのはこの日が最初であった。そしてその寝相の悪さは、いかにもサキュバス的なそれだったのである。
彼女がまったく無意識のうちに発揮《はっき》する技巧《ぎこう》はどんな怪力《かいりき》よりも強く峻護を縛《しば》り、逃れることを許さない。ゆっくり寝かせてあげようと思った手前、起こすのは忍びない――などと甘い方針《ほうしん》を採《と》るのがまた彼の悪いところ。真由のしたいようにさせているうち、瞬《またた》く間に状況は危険|域《いき》に達し、その時にはもはや抜き差しならぬところまできてしまっているのだ。
彼女の妙技《みょうぎ》がどれほどのものであったかについては――ここでは、峻護の声にならぬ絶叫《ぜっきょう》が夜通し響き渡ったという事実を記すのみにとどめたい。すべては、そこから想像していただくこととしよう。
長い長い夜は、まだまだ始まったばかりである。
*
「どっ、どうしたんですか二ノ宮くん、その顔……!」
一夜明けて。
朝の支度《したく》をしている峻護と顔を合わせた真由の第一声は、それだった。
無理《むり》もない。生きながらにしてミイラ化したその姿《すがた》を見れば誰だって泡《あわ》を食う。
「ああ、大丈夫。大丈夫だから」
言葉を濁《にご》す峻護。原因が誰にあるか、本人を前にしてはちょっと言いづらい。
「それより月村さん、昨夜はよく眠れた?」
「あっ、はい、わたしのほうは――」
「で? 約束の一日は過《す》ぎたわけだけど」
真由の表情がたちまちこわばる。
「恐怖症のほうはどう? 治った感触《かんしょく》は?」
「それは――実際に試《ため》してみないと――」
「だろうね。まあすぐにわかることだから。楽しみにしているよ」
言うと、真由は暗い顔で俯《うつむ》いてしまった。
まあ、意地悪もこのくらいにしておくべきだろう。たった一日の特訓で解決《かいけつ》する問題ではないことくらい、わかりきっているのだ。
そして、峻護の肚《はら》はとっくに決まっていた。
こほん、と咳払《せきばら》いして、
「――月村さん、おれは思うんだけど、」
「あらおはよう真由ちゃん。昨日はよく眠れたかしら?」
「やあおはよう峻護くん。どうやら昨日はよく眠れなかったようだね?」
言いかけたところを邪魔《じゃま》された。
「……姉さん、今おれが月村さんと話を、」
「真由ちゃん」
弟の主張を華麗《かれい》に無視《むし》し、涼子《コーチ》はうつむいたままの教え子に向き直り、
「その様子だと、どうやら結果《けっか》は聞くまでもなく明らかなようね」
さらに美樹彦が後《あと》を引き取る。
「昨夜のことは一部|始終《しじゅう》を余《あま》さず見させてもらったよ、真由。その努力は買うが――世の中ものを言うのは結果だ。どうやら僕たちの採るべき道はひとつに絞《しぼ》られたようだね」
「……聞き流しそうになったけどちょっと待った。見てた、ってどういうことです?」
峻護の問いをやはり黙殺《もくさつ》し、姉は続ける。
「真由ちゃん」
「……はい」
「ものを言うのは結果だけど、あなたのやる気は確かに見せてもらったわ。鍛《きた》えれば、あなたはものになる。今後も特訓を続けるから心するように」
「えっ? あっ!」
ぱあっと、たちまち明るい顔。
「はい! よろしくおねがいします!」
一方の峻護、蚊帳《かや》の外に置かれたばかりか自分が主導《しゅどう》すべき流れを持っていかれ、撫然《ぶぜん》とした表情である。
「ん? どうしたんだい峻護くん。ひどく不満そうな様子に見えるが」
「……別に」
「まだ当分真由ちゃんはこの家で面倒《めんどう》をみることになるけど。文句《もんく》はないわね、峻護?」
「別に――文句は――」
「ま、それはそうよねえ。昨晩《さくばん》あれだけのことを言っておいて今さら嫌だとは、ね?」
ニヤニヤ笑いながら涼子は弟の肩に腕《うで》をまわし、懐《ふところ》から何かを取り出した。
峻護の目が愕然《がくぜん》と見開かれた。姉が手にしていたのはハンディタイブの録画《ろくが》再生《さいせい》装置《そうち》。
そしてそこから流れてきたのは――
『おれはさ、月村さん。そんなに頭はよくないし、しゃべるのも上手くはないし、姉さん達みたいになんでもこなせるわけでも――』
「待て! ちょっと待て! なんだよこれは―― なんでこんなものが……!」
弟の抗議《こうぎ》を鮮《あざ》やかに聞き流し、
「さて、これから忙《いそが》しくなるわね。まずは新たなる特訓のメニューを考えなくちゃ。美樹彦、どういう案がある?」
「そうだな。第一に言えるのは、やはり従来の特訓では手ぬるいということだろう。もっと厳《きび》しい内容でなければ効果は上がるまい」
「やっぱりキスくらいじゃ刺激が弱すぎたのね。どうやらベッドシーンの導入を本格的に検討《けんとう》する必要がありそうだわ」
「それに入浴を共にするにしても、やはり水着では効果が薄い。今後は入浴時の本来の姿、全裸《ぜんら》を原則《げんそく》としよう。バスタオルも禁止《きんし》の方向で」
「待て! ちょっと待て! 当事者を置いてきぼりにしてそんな無茶苦茶《むちゃくちゃ》――」
「真由ちゃん、事情はわかったわね? 特訓を続けると言ったからには、この程度《ていど》の試練を乗り越える覚悟はできてるはずよね?」
「……はい」
「月村さん! そんな簡単《かんたん》に――」
「ところで真由ちゃん、あなたの知らない昨晩の出来事《できごと》、ここにそのすべてを記録してあるんだけど。ちょっと聞いてみない?」
「待て! それは本当に待て! 頼《たの》むからおれの話も少しは聞いてくれ、いいか、おれはそもそも――」
*
こうしてふたたび二ノ宮峻護は、月村真由の男性恐怖症克服を目的とした特訓と称《しょう》する荒行《あらぎょう》に、強制参加させられることとなったわけで。
真由との同居を望みつつ、しかしそのことは彼にとって死と隣り合わせの煩悩地獄でもあるわけで――
この先当分、二ノ宮家からは彼の憐《あわ》れなる悲鳴が響いてくることになりそうである。
ご愁傷《しゅうしょう》さま、二ノ宮くん。
おしまい
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真由、看病《かんびよう》するのこと
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油断《ゆだん》していたわけではない。
と、校内を逃げ回りながら|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》は自分を慰《なぐさ》める。だがこうも立て続けに同じ危機《きき》に晒《さら》されていては、その自己|弁護《べんご》も説得力を欠くというものだった。
駆《か》けつつ、しかし背後《はいご》は顧《かえり》みない。追っ手が十人から百人に増えていようと今さらどうということはない。絶体《ぜったい》絶命《ぜつめい》のピンチに晒されている事実は動かしようがないのだから。
手を取り合って遁走《とんそう》している同級生へ手短に問う、
「月村《つきむら》さん、まだ走れるかッ?」
「はい、まだいけます!」
さほど息も切らさず、月村真由は頼《たの》もしく頷《うなず》いてくる。ここしばらくは|煩悩に狂った連中《ばかども》に追われる→足がつるまで逃げ回る、というコンボを強いられてきたためか、存分に持久走《じきゅうそう》能力《のうりょく》を鍛《きた》えられたようだ。むしろ今日は峻護のほうが危《あや》うい。先ほどから心臓《しんぞう》は悲鳴《ひめい》をあげ、息切れは激しく。足が鉛のように重い。真由に対して保護責任を負う彼としては忸怩《じくじ》たるものがあるが――その反省《はんせい》もまた、毎度のことであった。
それにつけてもここ、神宮寺《じんぐうじ》学園の欲情《よくじょう》直球《ちょっきゅう》男どもには手を焼かされる。真由の体操着《たいそうぎ》姿や水着姿を見て理性をトばしていたうちはまだ可愛いものだった。だが今の彼女はただの制服姿、それを見ただけでこの有様である。どうやら連中、真由を目に入れただけで情欲に脳《のう》を侵《おか》されるという末期状態《まつきじょうたい》に陥《おちい》りつつあるようだ。
だがそれもむべなるかな。何しろ月村真由という少女の正体は――
「さあ、もうこれ以上は逃げられんぞ二ノ宮」
袋小路《ふくろこうじ》に追い詰められた。ようやくそれに気づき、ふらふらする頭を振《ふ》り向かせる。
「……あんたたちいい加減《かげん》にしてくれ。なんだってこういつもいつも、懲《こ》りもせず彼女を追い掛《か》け回すんだ。知っているんだろう? 彼女が男性|恐怖症《きょうふしょう》だってことも、大勢《おおぜい》の男に囲まれただけで失神《しっしん》してしまうことも。だったら――」
峻護の抗議《こうぎ》にも暴漢《ぼうかん》どもはどこ吹《ふ》く風。
怯《おび》える真由を背中にかばいつつ、それでも言葉を尽《つ》くす。
「たのむから少しはおれの苦労も察《さっ》してくれ。こうして学校で絡《から》まれるのはまだ序《じょ》の口だ。登下校の際《さい》に彼女を連れて歩くことがどんな意味を持つかあんたたちにわかるか? 通りかかる男の全員に殺気《さっき》を浴《あ》びせられるおれの気持ちが? それだけじゃない、普段《ふだん》からおれは――」
息切れが収まらず、嫌《いや》な汗《あせ》がどろどろと全身を伝う中、精一杯《せいいっぱい》の泣き落としにかかる。が、暴徒《ぼうと》どもは沈黙《ちんもく》を保ったままじりじりと包囲網《ほういもう》を狭《せば》めてくるのみ。
「あんたたちはいつもそうだ。月村さんがぶっ倒《たお》れてから初めて正気に戻るんだ。そろそろ学習してくれ。たのむから」
「…………」
「もちろん彼女が常軌を逸して[#「常軌を逸して」に傍点]魅力的《みりょくてき》なのはわかる。その彼女と一つ屋根の下で暮らしているおれが吊《つ》るし上げられるのもわかる。でも、それでもここまでするのはいかにもひどいじゃないか。そもそもおれはあんたたちのためを思って言ってるんだぞ。彼女にはある事情があって[#「彼女にはある事情があって」に傍点]、もし普通の男が彼女に触れれば[#「もし普通の男が彼女に触れれば」に傍点]――ん?……あれ?」
目をぱちくりとさせる峻護。いつの間にか目の前の男子生徒たちの姿が消え、彼はずらりと平行に並んだ棒《ぼう》っきれを相手に話し掛けていたのである。
いや違う。しゃべっていたつもりが、どうやら口を動かしていただけのようだ。自分の話し声が聞こえてこないからそれがわかる。いま聞こえてくるのは月村真由の悲鳴《ひめい》だけ。泣きそうな声で自分の名前を呼んでいる。なぜ? なぜ彼女はそんなに切羽詰《せっぱつ》まっている? それになぜこんなに頭が痛い? なぜこんなに身体《からだ》がだるい? なぜこんなに視界《しかい》が歪《ゆが》む? なぜ――
……こうして二ノ宮竣護は。
目の前に並んだ棒が男子生徒たちの足であることに気づかず、つまりは自らが横倒しになって床《ゆか》に倒れたことにも気づかぬまま、真由の呼び声を子守唄《こもりうた》に意識《いしき》を手放していた。
*
「風邪《かぜ》ね」
早退《そうたい》した弟をざっと診察《しんさつ》した涼子《りょうこ》が呆《あき》れ顔で断《だん》を下した。
「しっかし情けないわね。二ノ宮家の男子たるものが高々《たかだか》感冒程度《かんぼうていど》で寝込《ねこ》むなんて」
「…………」
自室のベッドに寝かされた峻護、恨《うら》めしげな視線《しせん》を姉に向ける。反論《はんろん》したいことは色々あるのだが、ウィルスの侵攻《しんこう》に連戦連敗《れんせんれんぱい》中である今の彼にはそれもままならない。
もし峻護が健康な状態《じょうたい》であれば、およそ次のように申《もう》し開きしたであろう。
――ちょっと待ってくれ姉さん。もちろんおれだって普通《ふつう》ならここまで弱ったりしない。でもここしばらくは状況が特殊だったじゃないか。男の精気を吸って生命の糧《かて》とする淫魔《サキュバス》でありながら男性恐怖症でもある月村さんが、恐怖症|克服《こくふく》のためにウチに居候《いそうろう》することになって、おれがその面倒《めんどう》を付きっきりでみることになって。そのことによる心身への負担《ふたん》がどれほどのものか、姉さんだって知らないわけじゃないだろう――
「まったく、涼子くんの言う通りだな。真由を任《まか》されている身でありながらこの体《てい》たらくとは……」
と、かぶりを振ってため息をつくのは、真由の兄たる淫魔《インキュバス》・月村|美樹彦《みきひこ》である。
「峻護くん、僕らは君を見込んで妹を託《たく》しているのだ。その君が任務《にんむ》を果たすどころか保護|対象《たいしょう》たる真由に担《かつ》がれてくるようでは話にならない。もっとしっかりしてくれたまえ」
「ほんと。頑丈《がんじょう》さだけが唯一《ゆいいつ》の取柄《とりえ》だってのに……それがこのザマじゃ、あんたの存在《そんざい》意義《いぎ》なんて炭酸《たんさん》の抜けたノンアルコールビールにも劣《おと》るわよ」
「いやはや、峻護くんに失望《しつぼう》させられるのはこれで何度目になるだろう。寛容《かんよう》を旨《むね》とする僕の豊富《ほうふ》な忍耐力《にんたいりょく》ですら、彼のヘタレ具合《ぐあい》を前にしては風前《ふうぜん》の灯《ともしび》だ。真由をどうこういうよりもまず、彼の調教《ちょうきょう》を優先《ゆうせん》させるべきではあるまいか」
「そうねえ……かねがね思ってたけど、やっぱりこれまでの教育|方針《ほうしん》が手ぬるかったみたいね。じゃあ今からジェットをチャーターしてこのバカを北極海にでも連れて行く? 裸《はだか》に剥《む》いて寒中《かんちゅう》水泳でもさせれば不抜《ふぬ》けた性根《しょうね》も少しはしゃきっとするでしょう」
言いたい放題《ほうだい》の悪魔二人。
「ほら、あなたも何か言ってあげなさい」涼子に至《いた》ってはそれだけで飽《あ》きたらず、部屋の隅《すみ》で申《もう》し訳なさげに縮《ちぢ》こまっている真由に非難《ひなん》の援護射撃《えんごしゃげき》を要讃《ようせい》した。「四十度の熱が出たくらいでダウンした上に扁桃腺《へんとうせん》腫《は》らしまくってロクに声も出せないこのアホに、止《とど》めを刺《さ》してあげなさい。わたしが許可《きょか》するから」
「とっ、とんでもないです……!」
首と両手を千切《ちぎ》れんばかりに振り、全力で辞退《じたい》する真由。
「悪いのは全部、いつまでたっても男性恐怖症を治せないわたしの方です。二ノ宮くんはいつも頑張《がんば》ってくれて。だから、わたしさえしっかりしていればこんなことには……」
「まあ。真由ちゃん、あなたやさしすぎるわ。こんな役立たずにまでそんな情けをかけるなんて……いい子ねえ」
いとおしげにサキュパス少女の頭をなでなでする涼子。
「それであの、二ノ宮くんはだいじょうぶなんですか?」
「ええ、なんてことないわ。こんなショボ男でも二ノ宮の端《はし》くれ、一晩《ひとばん》寝ればケロッと治ってるわよ。放《ほお》っておいていいから」
これには峻護も異存《いぞん》なかった。唯一《ゆいいつ》の取柄《とりえ》かどうかはともかく、己の頑健《がんけん》さについては自信がある。これまでの経験《けいけん》からしても順当《じゅんとう》に行けば明日の朝には快癒《かいゆ》しているはずだった。
「そういうことだ。彼については心配|無用《むよう》。それより――」と美樹彦。「僕と涼子くんはこれから出かける用事がある。真由も一緒についてくるといい。どこかに寄《よ》って美味《おい》しいものでも食べようじゃないか」
「! そんな、だめよ兄さん!」
めずらしくまなじりを吊《つ》り上げ、真由は兄を難詰《なんきつ》する。
「兄さんと涼子さんは出かけてください。わたしはここに残ります。残って、二ノ宮くんのそばでお世話《せわ》をします。もとはといえばわたしが原因で二ノ宮くんに無理をさせてしまったんです。そうして当然です」
「……と、いうことだそうだ峻護くん。感謝したまえよ、彼女手ずからの看病《かんびょう》を受けるなど他に類《るい》を見ぬ果報《かほう》である。心して堪能《たんのう》するように」
「真由ちゃんはホントえらいわねえ。じゃあわたしたちもその心意気《こころいき》に応《こた》えましょう。あなたにとっておきの看護法《かんごほう》をレクチャーしといたげるわ」
話は纏《まと》まったようであった。
何やらしたり顔で講義《こうぎ》する涼子&美樹彦と、生真面目《きまじめ》にメモを取る真由を横目に、峻護は心安らかにまぶたを閉じる。――今日はゆっくり休ませてもらおう。月村さんも看病してくれることだし、なに、大人しくしていればすぐに治るさ。
――それは幸福なことであったのか、あるいはその真逆《まぎゃく》であったのか。
一見|無難《ぶなん》に見えたここまでの流れが阿鼻《あび》叫喚《きょうかん》たる看護|地獄《じごく》の序曲《じょきょく》に過《す》ぎなかったことを、この時の彼は知る由《よし》もなかったのである……。
*
初めのうちはどうということもなかった。真由の看護は適切かつ献身的《けんしんてき》であり、あくまで心地《ここち》よく、峻護に一切の不満を抱かせなかった。彼は同居人《どうきょにん》の技能にひたすら感心、感謝《かんしゃ》するだけでよかった。
雲行《くもゆ》きが変わったのは、病状が悪化し始めたころからである。
当の峻護はその悪化に何ら問題を見出《みいだ》してはいなかった。いずれ体調不艮のピークが来るのは計算のうちであり、この悪化はその一環《いっかん》とみて差し支えない。彼にとっては不安材料でなく、むしろここさえ乗り切ってしまえばあとは快方に向かうだけということで、かえって気を弛《ゆる》めたくらいである。
だが。
*
「どっ、どうしよう……」
体温計の目盛《めもり》を見た真由が一気に顔を青ざめさせた。峻護としては驚《おどろ》くほどのことはない。思考《しこう》はかなり朦朧《もうろう》としていたが、自分の身体のことであるゆえ、発熱の度合《どあ》いがかなり進んでいることは測定《そくてい》するまでもなく知れる。そしておそらく、これ以上体温があがることもないはずだった。
「そんな、わたしちゃんと看病して……何がだめだったんだろう、何が……」
だが真由の反応も無理《むり》はない。彼の容態《ようだい》は目のくま[#「くま」に傍点]といい顔色の青ざめようといい、べッドに寝かされた病人というより棺桶《かんおけ》に詰《つ》められた死人と言うに近い。動揺《どうよう》して当然だった。
「わたしのせい、わたしの……」
貴任を感じているのだろう、真由の狼狽《ろうばい》ぶりはかなり手ひどい。が、むろん気に病むことはない。ここまでの彼女の仕事はむしろ完璧《かんぺき》だった。病状だってここから先は快復《かいふく》に向かうことが見込まれる。
それを説明し、彼女を安心させようとして――そこで、気づいた。
(……しゃ、しゃべれない……)
病状の進行に伴《ともな》って喉《のど》の腫《は》れもピークに達し、発声能力が壊滅的《かいめつてき》打撃《だげき》を受けていたのである。のみならず、すでに指一本、首一つ動かすのも難儀《なんぎ》なほどに気力も体力も減退《げんたい》しているではないか。
峻護の心に初めて不安の翳《かげ》が差した。それが絶望的《ぜつぼうてき》なまでに正確な予感だったことを、彼は間もなく知ることになる。
とにかく、まだ喉が完全に死んだわけではない。あわあわと焦《あせ》っている真由を目で招《まね》き寄《よ》せた。
「は、はいっ、どうしました?」
「月村さん、そう慌《あわ》てなくていい」精一杯《せいいっぱい》に喉を絞《しぼ》る。「このあたりが峠《とうげ》だから、ここを過ぎればあとは平気だ。そんなに気にすることは――」
「救急車《きゅうきゅうしゃ》? 救急車ですね? わかりました、今すぐ呼んできます!」
「へ?」
「わたしもそうしようと思ってたんです、ええと、救急車を呼ぶ電話番号は――」
「! 待った! ちがうちがう! そんなことは言っていない!」
冗談《じょうだん》じゃない。そんな騒《さわ》ぎになったら姉にまた何を言われるか。しかもようやく病状が山場を越《こ》えようとしているところなのに。
だが彼の懸命《けんめい》な制止《せいし》も、ほとんど声らしい声にならない。真由は今にも部屋を飛び出そうとしている。
声が届《とど》かないなら是非《ぜひ》もない。峻護は必死の形相《ぎょうそう》でアイコンタクトを試《こころ》みた。
――月村さん待ってくれ、そうじゃない!
「え? ちがうんですか? でも――」
通《つう》じた。
一安心し、もう一度告げる。
「と、とにかくだ。君の看病には不満はないし、おれの病状だってここからは快復に――」
「えっ? し、下《しも》のお世話ですか?……わ、わかりました、二ノ宮くんがそう言うんだったら……」
「いっ? ちがうちがうそんなこと言ってない言ってない!」
目を剥いて否定《ひてい》しつつ。峻護は遅まきながらも気づいていた。以前にも経験のあることだがこのサキュバス少女、いったん動転《どうてん》すると立ち直りがひどく遅いのである。つまり彼女の心は見た目以上に乱れており、その結果、ただでさえ聞き取りにくい病人の発言を激《はげ》しく曲解《きょつかい》しているに違いなかった。素早《すばや》く断を下す。今後、言語によるコミュニケーションは諦《あきら》めたほうがいい。
再度アイコンタクトを試みた。――とにかく、君の仕事は素晴《すば》らしかったし、おかげで思ったよりは早く治りそうだ。大丈夫《だいじょうぶ》、心配ない。落ち着いて看病を続けて欲《ほ》しい。
真剣《しんけん》な顔で見つめてくる真由。患者《かんじゃ》の言わんとするところを一生懸命《いっしょうけんめい》に読み取ろうとしているようだったが――やがて彼女なりの解釈《かいしゃく》が出たらしく、大きくうなずいた。
「わかりました、つまりこういうことですね。わたし一人の力で治してみせろ、と」
「…………」
大筋《おおすじ》では間違《まちが》ってないはずなのだが――なにかこう、決定的にズレている気もする。
「だいじょうぶです、まかせてください。あらゆる手を尽《つ》くして二ノ宮くんを快復させてみせます。だいじょうぶ、こんな時のために兄さんと涼子さんから看病の奥義《おうぎ》を教わっておいたんです。さっそく用意してきますね」
著《いちじる》しく竣護を不安にさせるセリフを残し、あわただしく部屋を出て行った。
(……あの二人が余計《よけい》なことを吹き込んでなければいいんだけど)
なす術《すべ》もなく天井《てんじょう》を見つめながら、ただそれだけを祈《いの》る峻護だが――
残念《ざんねん》。嫌《いや》な予感は的中《てきちゅう》するようにできているのだ。
*
ほどなく戻ってきた真由と共に乱入してきたすさまじい臭《にお》いに、峻護は底をつきかけた体力を使って思わず顔をしかめていた。
「お待たせしました二ノ宮くん。まずはこれを食べて栄養《えいよう》をつけてください」
手にした皿から放たれる臭気《しゅうき》に何の疑問《ぎもん》も感じてない様子で、にっこり笑う。
「…………」
これ、なに?
「イモリの黒焼きマムシドリンク煮込《にこ》みです。トッピングに冬虫《とうちゅう》夏草《かそう》のスライスもかけてあります」
(……いやちょっと待ってくれ。なんなんだその料理は。本来の君の腕《うで》からすればありえない組み合わぜだろう?……ええいくそ、さては姉さんと美樹彦さんの仕業《しわざ》か)
「はい、あーんしてください。あーん」
さらに真由、皿によそった物体《ぶったい》Xをスプーンですくい、咀噛《そしゃく》と嚥下《えんか》を要求してきた。
(いや、無理。悪いけど、無理)
峻護は目線で難色《なんしょく》を示す。体力的なこともあるにせよ、とてもではないが『あーん』をする気は起こらない。
「ダメですよ二ノ宮くん」真由の瞳《ひとみ》に、母親が子供を窘《たしな》める時のような色が浮《う》かんだ。
「ちゃんと食べてください。スタミナをつけないと治るものも治りません」
理屈《りくつ》として間違ってないのだが、納得する気にもなれない。第一これはスタミナ料理というよりむしろ――
「ほら二ノ宮くん、好き嫌《きら》いはいけませんよ。あーんです。あーん」
「…………」
「……わかりました。聞き分けのないひとには、こうです」
「!」
宣言《せんげん》するなりスプーンの中身を口に含《ふく》み、問答無用《もんどうむよう》で顔を寄せてきた。
長い髪《かみ》を片手で押さえ、まぶたを薄《うす》く閉じて、ゆっくりと――
(待ったストップ! 食べる! 食べるから!)
懸命のアイコンタクト。
「わかってもらえました? はい、ではあらためて……あーん」
こうなっては受け入れるしかない。
しかし月村真由、やはり見た目以上に動転しているようだ。『あーん』もそうだが、普段《ふだん》の彼女なら『口|移《うつ》しで食べさせる』などというきわどい行為《こうい》、冗談でもやるまい。
スプーンの動きに合わせ、かろうじてくちびるを開く。嫌《いや》な感触《かんしょく》が滑《すべ》り込んでくる。表現不能《ひょうげんふのう》な味わいが口内を犯し尽《つ》くす。
しかし実のところ、その不味《まず》さは大した問題ではないのだ。峻護が気にしているのはもっと別のことであり――
そして彼の思ったよりずっと早く、効果《こうか》は顕《あらわ》れはじめた。
「あ、あれ? おかしいな、どうして……」
それを見てまた真由がうろたえ始める。
「なんだか二ノ宮くん、苦しそうです。あわわ、どうしよう……だめでした? 効《き》き目、ありませんでした?」
(……いや、あったよ。むしろ抜群《ばつぐん》にね……)
そしてそれゆえに峻護は苦悶《くもん》しているのである。
考えてもみよう。真由はスタミナ料理と主張《しゅちょう》するし、それもあながち嘘《うそ》ではない。だがイモリの黒焼きにせよマムシドリンクにせよ――その材料はスタミナ云々《うんぬん》というより、どうみても『精力剤《せいりょくざい》』のそれではないか。
要《よう》するにアレである。現状《げんじょう》でこそ布団《ふとん》でカバーされてはいるものの、すでに峻護のワルサーP38はサタデーナイトフィーバー状態《じょうたい》なのである。
そして忘れてはならない。彼女は男の理性の天敵《てんてき》サキュバス、ただそこにいるだけで学園中の男どもを暴走《ぼうそう》させるほどの魔性《ましょう》の魅惑《みわく》をもつ少女なのだ。
ただでさえそんな真由と二人きり、そこに加えて怪《あや》しげな料理でハッスルさせられているとなれば、果たしてどうなるか?
「……二ノ宮くん? 二ノ宮くん!」
さらに悪いことに、彼女は額《ひたい》と額がくっつきそうになるほどの至近距離《しきんきょり》で唆護を覗《のぞ》き込んでくるのだ。すなわち脳髄《のうずい》を侵食《しんしょく》する甘い香り――サキュバスのフェロモンが、いわば生のまま、原液《げんえき》のまま、産地直送《さんちちょくそう》で、彼の理性を蜂《はち》の巣《す》にしてくるのである。
「二ノ宮くん! しっかりしてください!」
端的《たんてき》に言って、ピンチだった。普段の峻護なら鉄《てつ》の意志でもっていかなるリビドーをも抑止《よくし》できる。だがこの状況はいかにもまずかった。フェロモンだけではない、『額と額がくっつきそうになる至近』まで顔を寄せてくるということは、真由の首から下もそれに伴《ともな》われて接近《せっきん》してくることを意味する。つまり彼女の豊かに実った身体が、それも女性の身体のうち最もやわらかな部位が、ひどくダイナミックに迫《せま》ってくるわけで。
しかし耐《た》えねばならない。少しでも気を抜けば本能《ほんのう》が理性を押しのけ、残りわずかな体力をかき集めて不埒《ふらち》な行為《こうい》に及《およ》んでしまうこと、疑《うたが》いなかった。だが欲望《よくぼう》に抵抗《ていこう》すればするほど残存《ざんぞん》している体力はじりじりと消費《しょうひ》されていく。
「ああ……どうしよう、このままじゃ二ノ宮くんが……」そんな患者《かんじゃ》の様子をどう受け取ったものか、悲壮《ひそう》な顔をする真由。「……こうなったら奥の手です。ちょっと待っててくださいね」
ベッドから離《はな》れ、何ごとか作業を始める。
どうする気なのかは知らないが、真由と距離ができたことで負担《ふたん》は軽減《けいげん》された。ホッと一息つきつつ――しかしそれも長くは続かない。
「お待たせしました。これさえあればいっぱつです。すぐによくなりますよ」
自信満々に真由はのたまった。
その手にあるのは。
見るも凶悪《きょうあく》なぶっとい注射器《ちゅうしゃき》。
つかの間の安堵《あんど》を蹴散《けち》らし、たちまち峻護の心を黒雲が覆《おお》っていく。
目で問う。
――それ、何?
「はい、もしもの時はこれを注射して楽にしてあげなさい、って、兄さんと涼子さんが」
(…………待て。ちょっと待て)
本能が、かつてないほどけたたましく警報《けいほう》を鳴《な》らしている。アレを注入された先にあるのは集中|治療室《ちりょうしつ》か、はたまた火葬場《かそうば》か。
必死の形相でアイコンタクトを試みる。――待ってくれ、そんなもの射《う》たなくても大丈夫、あとはじっとしてれば治るんだから!
真由は天使の笑《え》みで応える。
「はい、わかってます。これさえ射てば元気になりますからそう慌てないでください。わたしお注射するの生まれて初めてだから、あまり急《せ》かされると手もとが狂《くる》っちゃいます」
わかってない! 残念ながら君はわかってないぞ月村さん! ていうか今なんて言った? 何か著《いちじる》しく不吉《ふきつ》な言葉を聞いたぞ!
「もうっ、心配性ですね二ノ宮くんは。わかりました、じゃあリクエストにお応えしてお薬の量を倍に増やしますね。こうすれば安心ですよね?」
「…………」
血の気が引いていく音が確かに聞こえた。事態《じたい》はさらに悲惨《ひさん》な方向に転がり始めている。どうやら真由の『顔に出ない動揺』は頂点《ちょうてん》に達し、もはやアイコンタクトすら曲解の対象《たいしょう》になりつつあるらしい。
「さ、それじゃあお注射しますよー。身体の力を抜いてくださいねー」
真剣なまなざしの真由。ひとつ、ふたつと深呼吸《しんこきゅう》し、覚悟《かくご》を決めた顔。
針《はり》が近づいてくる。震《ふる》えなから。
峻護は心の中であらんかぎりの悲鳴《ひめい》をあげる。――待て、待ってくれ、注射の中身についてはもう諦《あきら》めた、だからせめて、せめて止血帯《しけつたい》と消毒《しょうどく》をしてからにしてくれ! ていうか空気! 空気がシリンダーに入ったままだって! そんなことしたら心臓が、血管に空気が入っておれの心臓がうぎゃーっ!
…………。
……………………。
………………………………。
――二ノ宮峻護という少年は本人が考えているよりもずっと頑丈《がんじょう》にできているらしい。よい子は決して真似《まね》をしてはいけない類《たぐい》の鬼畜処置《きちくしょち》を受けながら、彼はいまだ生き長らえていた。
「二ノ宮くん、だいじょうぶですか二ノ宮くん?……どっ、どうしよう、これでもまだダメだなんて……このあとはどうすれば……」
が、危機的《ききてき》状況にあることは今も変わりない。
(まずいぞこれは……)
幸い、注射の中身は劇薬《げきやく》ではなかった。
ただし、ある意味ではそれよりよほどタチが悪いモノだった。
峻護は己《おのれ》の下腹部《かふくぶ》に視線をやる。
やはり布団によって隠《かく》れてはいるが――彼のランドマークタワーは、ちょっとロでは言えない様相《ようそう》を呈《てい》していた。どうやらあの注射、最前のゲテモノクッキングと同様の効果《こうか》をもつ代物《しろもの》だったらしい。
それが意味するところは明白であった。もともと青息吐息《あおいきといき》の病状にハイブリッド料理を投入《とうにゅう》されて煩悩全開《ぼんのうぜんかい》、そこへ正体不明の薬によってさらなる強糟《きょうせい》効果を重ねられ、またまた強制的な体力の消耗《しょうもう》――
二ノ宮峻護、現在青息吐息どころか半死半生《はんしはんしょう》の有様《ありさま》である。
八方《はっぽう》塞《ふさ》がりだった。口は利《き》けず、アイコンタクトも届《とど》かず、麻酔《ますい》でも射たれたように身体は重く。視界《しかい》が霞《かす》み、意識《いしき》はほとんど飛びかけている。血流が下半身に集まりすぎたためか貧血《ひんけつ》の症状《しょうじょう》まで出てきた。
「すいません、すいません、わたしの看病が至《いた》らないばっかりに……」
真由がすがりつくように謝《あやま》ってくる。距離《きょり》が近い。サキュバスの魅惑《フェロモン》が止《とど》めを刺さんとばかりに激しく挑発《ちょうはつ》してくる。もはや笑うしかない状況だが、半笑いを浮かべるのすら叶《かな》わないほど病《や》み衰《おとろ》えた峻護であった。
ひたすら忍耐《にんたい》を続ける唇《くちびる》から細いあえぎが漏《も》れ、全身から滝のような汗《あせ》が滴《したた》り落ちる。
「ひどい汗――そうだっ、からだ、身体|拭《ふ》かなきゃ」
「…………」
峻護、もはや目を剥く気力もない。
返す返すも忘れてはならない。彼女は男の理性の天敵、サキュバスなのである。その夜の技巧《ぎこう》の甘美《かんび》さは他《た》に比肩《ひけん》するものがないのみならず、彼女の取るあらゆる所作《しょさ》は無意識《むいしき》のうちに男性を籠絡《ろうらく》し得《う》る。そんな月村真由がタオルを操《あやつ》ればどうなるか―― 賢明《けんめい》なる読者|諸兄《しょけい》にはもうおわかりであろう。
手早く濡《ぬ》れタオルを用意した真由、普段の彼女にはない大胆《だいたん》さで布団を剥《は》ぎ、峻護の着衣を剥いた。
上半身が露《あらわ》わになった。
そっと、タオルがあてがわれた。
途端《とたん》、かろうじて峻護を繋《つな》ぎとめていた貞操回路《ていそうかいろ》かダース単位でトぶ。真由当人にそのつもりはないのだろうが、血に刻《きざ》まれた本能とはげに恐ろしきもの。柔布で擦《こす》り上げるその動き、その力加減《かげん》――いずれも夜の種族の本領《ほんりょう》が遺憾《いかん》なく発揮《はっき》されていた。
その刺激《しげき》はあまりに無情《むじょう》だった。肌《はだ》を直《じか》に侵食《しんしょく》する蠱惑《こわく》が意識《いしき》を儚《はかな》くさせる。原初《げんしょ》的な欲望が満身創瘻《まんしんそうい》の五体を鞭打《むちう》ち、ガス欠になったはずの身体が弓《ゆみ》のようにしなる。それを見た真由がいっそう悲壮な顔になり、『ご奉仕《ほうし》』をする手にさらなる熱意を込め、それと正比例《せいひれい》して峻護の煩悶《はんもん》は増強《ぞうきょう》され――
死ぬ。このままいったら本気で死ねる。
本泣きになりながら、しかし状況|打開《だかい》の手立てもなく、とうとう観念《かんねん》した峻護が心の中で十字を切りつつコーランと般若心経《はんにゃしんきょう》を唱《とな》え始めたころ――
ようやく、真由の手が止まった。
だが運命は峻護に一時の休息すら与えない。
ふう、と自らの額をぬぐった真由、
「さ、次は下半身です」
自らの発言に何の疑問も感じてない声で言った。
声にならぬ悲鳴が峻護の腫《は》れきった喉からほとばしる。
いけない、それだけはまかりならない。ご機嫌《きげん》なダンスパーティーを開いている一人息子と彼女を引き合わせるこれにはいかない。もしあの手つきでまさぐられたら? 決まっている。ビッグ・バンだ。それだけはどうあっても許されない。
その本日最大の危機感《ききかん》が、峻護の中の何かを目醒《めざ》めさせた。
能動《のうどう》的活動に終止符《しゅうしふ》が打たれたはずの身体が半自動的に再起動《さいきどう》し、布団をはっしと掴《つか》む。
真由の手が止まる。
「……ダメです、二ノ宮くん。拭かせてください」
首を振る。
「ダメです。言うことを聞いてください」
首を振る。
「…………」
真由、問答無用で布団を引っ張《ぱ》った。峻護はあくまでも抵抗《ていこう》する。
「…………」
「…………」
綱引《つなひ》きが始まった。もう後がないというのに、覚醒《かくせい》することで引き出した体力のへそくりが湯水《ゆみず》のように浪費《ろうひ》されていく。
そして――
今度こそ、へばった。
スイッチを切ったロボットのように動きが止まり、そのまま仰向《あおむ》けにぶっ倒れる。
「に、二ノ宮くん? 二ノ宮くん!」
不幸中の幸いだったのは、動転の極致《きょくち》に達した真由が元々の目的を忘れてタオルを放り出してくれたことだが――しかしそれもすぐ災《わざわ》いに転じることとなる。
「どうしよう、このままじゃほんとに二ノ宮くんが――そ、そうだ、こういう時は確か、服を脱《ぬ》いで肌を付け合って、直接《ちょくせつ》温めてあげるのがいいって――」
(……それは身体が冷えている時の対処法《たいしょほう》だろ……)
と突っ込もうとするが、できない。いや、すでにそれを発想することさえ今の峻護には不可能《ふかのう》だった。体力の減退《げんたい》と発熱のあまり、彼は正常な意識《いしき》を半《なか》ば以上手放していたのである。
もう打つ手はなかった。
ゲームオーバー。
……の、はずだったのだが。
焦燥《しょうそう》、諦念《ていねん》、煩悶《はんもん》――そういった雑念《ざつねん》が、彼の思考にバイアスをかけていた一切《いっさい》のフィルターが、抜け落ちたためだろうか。
現世《げんせ》と涅槃《ねはん》の境《さかい》にさまよいながら、峻護は唐突《とうとつ》に気づいていた。それまでまったく見落としていたあることに。
そうだ。どうして今まで、気づかなかったんだろう。
視界の隅《すみ》に真由の姿がある。
今度ばかりは自らの行為《こうい》にためらいがあったのか、逡巡《しゅんじゅん》の気配《けはい》がその顔によぎる。しかしそれもほどなく決意のそれに取って代わり、細く白い手が着衣にかかる。
その煩《ほお》を、ぼろぼろと涙《なみだ》が伝っていた。
そうか――そうだったんだな――
真由が、視線に気づいた。
彼女を見る峻護の目は、やはりどこかいつもと違っていたのだろう。「二ノ宮くん?」そのまなざしに何を感じ取ったものか、患者の意思《いし》を汲《く》み取ろうとすぐそばにまで寄ってきた。
「二ノ宮くん……?」
整《ととの》った顔を濡《ぬ》らし、一点の曇《くも》りもない、ただただ気遣《きづか》わしげな様子で。
そうだ。
そうなんだ。
正常な判断ができないほど動転してしまっているのも。あのゲテモノ料理を口に入れて平然としていられるのも。破廉恥《はれんち》と紙一重《かみひとえ》の行為に何の疑問も抱《いだ》かないのも。みんなみんな。
君は――
君はただ、本当におれのことだけを心配して、一生懸命《いっしょうけんめい》になってくれてたんだな……
――それは『二ノ宮家の男子』の底力、だったのだろうか。それとも『奇跡《きせき》』と称《しょう》される何かだったのか。
他人のそれであるかのように主《あるじ》に背《そむ》き、びくりともしなかった両腕が。
ひどく自然に、動いた。
「にっ、にににににに二ノ宮くん?」
患者に突然《とつぜん》抱きすくめられた真由が、普段より2オクターブ高い声を上げる。
「ど、ど、ど、どうしたんですか、えっ、うあ、あの、えっ? えっ?」
「…………」
「――あ、あはは、二ノ宮くんって意外と気さくな人だったんですね。こんなフランクな冗談をしてくるなんて、あは、あはは」
思わぬ奇襲《きしゅう》を受けて混乱《こんらん》の極《きわ》みに達した真由が、しどろもどろに言葉を連ねる。
「――あのあの、だめです、そんなことしたら。ほ、ほら、知ってますよね、わたしの体質。わたしに触《ふ》れてると二ノ宮くんが……」
「…………」
「だ、だめですよ。だめです。だって、そんなことされたら――わたし、襲《おそ》っちゃいますよ? わたしはこれでもサキュバスなんですからね……? し、知らないですよ?」
峻護は、真由の拒絶《きょぜつ》に行動で応《こた》えた。
より強く彼女を抱きすくめることによって。
「……!」
今度こそ真由の一切の動きが止まる。
そして再度、奇跡は起こった。
「ありがとう、月村さん」
使い物にならなくなったはずの喉《のど》から意味ある言葉が滑《すべ》り出す。
「もうだいじょうぶ。だいじょうぶだから。だから――だからしばらく、こうしていてくれないか……?」
びくん、と。腕の中にある身体が跳《は》ねた。
途端《とたん》、その硬《かた》さがほぐれ、巣《す》に抱かれる小鳥のように緊張《きんちょう》が解《と》ける。
「……はい。こうしてます」
ちいさく、応えてきた。
「わたし、こうしてますから。ずっと、ずっと、こうしてますから――」
混濁《こんだく》した意識の中で、思う。
なんだかよくわからないが――当面の危機《きき》は脱《だっ》したらしい。いや、ちっともそうではないのか?……まあいいや、どちらでも。とにかく今はゆっくり休みたい。彼女がじっとしているなら、おれもじっとしていられるし、じっとしてさえいれば、今からでも遅くない、明日の朝には――明日の朝に、は
暗転《あんてん》。
*
(……なぜだ?)
翌朝、待望《たいぼう》の翌朝。待望だったはずの、翌朝。
長い眠りの果てに目を覚ました峻護は、呆然《ぼうぜん》と心の中で呟《つぶや》いていた。
(……なぜだ?)
高熱は引かないまま。喉は腫《は》れたまま。身体はグロッキー状態のまま。無諭《むろん》、ベッドからは出られないまま。
それだけではない。昨日まではなかった症状《しょうじょう》――咳《せき》やら関節痛《かんせつつう》やら鼻水やら、これでもかというほどに感冒《かんぼう》症状のオンパレード。
(……なぜなんだ?)
おかしい。一晩《ひとばん》じっくり眠れていたのは確《たし》かなはずだ。昨日の記憶《きおく》がどうも定かでないし、何かとてつもなく重大なことを仕出《しで》かした気もするのだが――それはそれである。順当《じゅんとう》なら体調不良にはケリがついているはず。なのに、なぜ?
「まったく、お話にならないわね」
ベッドの傍《かたわ》らに立つ涼子が、呆《あき》れ果てた声を降《ふ》らせた。
「ほんと、姉として情けないわ。あれだけ時間を使って風邪のひとつも克服できないなんて。やっぱり『北極海寒中水泳コース』で根性|叩《たた》き直しとけばよかった」
「同感だ。真由の心づくしの看病を受けてこのザマとは……軟弱《なんじゃく》、気合不足《きあいぶそく》にも程《ほど》がある。むしろ『スペースシャトルをチャーターして裸で宇宙|遊泳《ゆうえい》コース』を検討《けんとう》すべきではあるまいか?」
姉に続き、美樹彦も容赦《ようしゃ》のないコメント。
「あ、あの、どうか二ノ宮くんを悪く言わないでください。悪いのは看病しても治せなかったわたしの方で――」
「真由ちゃん、やさしさも程ほどにしておかないとこのバカを甘《あま》やかすことになるわ」
「そうとも。この男に下手な情けを掛けるのはかえってためにならない。そのことは、今ここで幽体離脱《ゆうたいりだつ》しかかっている彼の無様《ぶざま》な姿が如実《にょじつ》に証明している」
介護人《かいごにん》たる真由がフォローするものの、悪魔二人はその心遣《こころづか》いを容《い》れようとしない。
そう、面妖《めんよう》なのは体調だけに限らない。真由もどこかおかしい。峻護が視線を向けるとどういうわけか目を逸《そ》らすのである。
それだけならまだわかる。看病の甲斐《かい》なく一晩たっても完治《かんち》させることができなかったという負い目があるのだろう。それは、わかる。だがそれだけならばなぜ、煩《ほお》を仄《ほの》かな朱色《しゅいろ》に染《そ》めたりする? それも俯《うつむ》きがちに、もじもじと恥《は》じらいながら。
(……なぜ?)
峻護は知らない。生死の境《さかい》をさまよった彼は覚えていない。昨晩《さくばん》自分が彼女に何を言い、何をしたかを。
そしてまた真由が彼の言葉を聞き入れ、彼が目覚めるほんの少し前まで、ずっと抱かれつづけていたことを。
それは果たして何を意味するか?
サキュバスたる真由には、男性の精気を吸《す》い取る能力がある。しかも彼女のその力は極《きわ》めて強力であり、肌と肌がほんの少し触れているだけでも吸引《きゅういん》能力を発動《はつどう》できる。
だが悪いことに、この少女はその能力を自分の意思《いし》でコントロールすることがまったくできないのだ。
そんな彼女に一晩中ずっと触れつづけていれば、どうなるか?
「――さて、この男をどうする涼子くん」
「決まってるじゃない。今日も一日このままよ。いいわね峻護、そこで頭を冷やしながら自分の腑抜《ふぬ》けっぶりをしっかり反省《はんせい》なさい」
「あっ、あのっ! わたし、今日も看病します! 二ノ宮くんがこうなってるのはわたしのせいなんです! だから今日こそちゃんと看病して、二ノ宮くんを治してみせます!」
「やれやれ、仕方《しかた》ないな。真由は本当に彼に対しては甘い。……よかろう、気の済《す》むように看病してあげなさい。たっぷりと[#「たっぷりと」に傍点]、ね」
「でも真由ちゃん、あなたが手を尽くしたにもかかわらずこの軟弱者《なんじゃくもの》はこの体《てい》たらくなのよ? 何か勝算はあるの?」
「はい、あります。昨日はわたし、まだまだ看護の仕方《しかた》に遠慮《えんりょ》がありました。今日は全力でいきます。料理にはスッポンの血とムカデの干《ほ》したのを入れます。それとお注射の量は三倍にします。それからもっと身体も丁寧《ていねい》に、こまめに拭《ふ》いて、それからそれから――」
「ほう、真由もなかなかやるじゃないか」
「ええ、頼《たの》もしいわ。じゃあ真由ちゃんにぜんぶ任せるから、好きなように看病してあげて。たっぷりと[#「たっぷりと」に傍点]、ね」
「はいっ、任せてください!」
「…………」
一切の抵抗を封《ふう》じられて拷問《ごうもん》を受ける虜囚《りょしゅう》の心境《しんきょう》で、峻護は思った。
人生色々あったけど。
たぶん今日がおれの命日になるんだろうな、と――
おしまい
[#改ページ]
峻護《しゅんご》と真由、閉じ込められるのこと
[#改ページ]
あるよく晴れた昼下がりのことである。
その日、|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》は女の子を押し倒していた。
*
――と、こう書くのは、虚偽《きょぎ》ではないがフェアでもない。彼の名誉《めいよ》のため、ここはもう少し詳《くわ》しく説明しよう。
*
二ノ宮家の階級制度《ヒエラルキー》において最下層《さいかそう》の位置を占《し》める男、それが二ノ宮峻護である。
よって彼を呼びつけた姉の涼子《りょうこ》から「七輪《しちりん》を探してきて」と言われた時も、同席《どうせき》していた居候《いそうろう》の月村《つきむら》美樹彦《みきひこ》が「可及的速《かきゅうてきすみ》やかに頼《たの》むよ」とデカい態度《たいど》でのたまった時も、彼はただ素直《すなお》に頷《うなず》いたものだ。
ところがこの姉、その七輪をどこに仕舞《しま》ったかまるで覚えていなかった。峻護はさんざん家中探し回ったのだがそれでも目的《もくてき》の品を発見できず、最後は庭の一角にある古い蔵《くら》に出向《でむ》いた。ここまではよかった。
だが蔵の中に一歩入った途端《とたん》、彼はげっそりすることになる。そこはあまりに雑多《ざった》な器物《きぶつ》が無節操《むせっそう》に積《つ》み上げられた混沌《こんとん》の空間。パンドラの箱《はこ》もかくやという禁断《きんだん》の収納《しゅうのう》場所《ばしょ》だったのだ。
フライドチキン屋の店先に置いてあるセルロイド人形、鎧具足《よろいぐそく》一式、サイドカー付きのバイク、自動販売機《じどうはんばいき》、道路標識《どうろひょうしき》、貯水《ちょすい》タンク、などなど。これらすべて、整理整頓《せいりせいとん》に関しては破減的《はめつてき》に無能《むのう》な姉の私物《しぶつ》だ。どうやって手に入れたのか、何に使うつもりなのか、はたまたどうやって搬入《はんにゅう》したのか――それらの常識的《じょうしきてき》発想《はっそう》をせせら笑うような意味《いみ》不明《ふめい》物品《ぶっぴん》がうずたかく積み上げられている。その姿《すがた》、あたかも廃棄物《はいきぶつ》処理場《しょりじょう》から生まれた異形《いぎょう》の怪物《かいぶつ》のごとしであった。
そしてその怪物のちょうど頭の位置。運命の悪戯《いたずら》だろうか、もっとも取りにくい場所に目的の七輪が載《の》っかっていたのである。
状況《じょうきょう》は芳《かんば》しくなかった。梯子《はしご》をかけようにも蔵の体積《たいせき》を目《め》一杯《いっぱい》に使っているだけにそのスペースがない。またこのガラクタ山はほとんど奇跡的《きせきてき》なバランスで成り立ったパズルのようなものであり、正確《せいかく》な手順《てじゅん》を踏《ふ》まねば解体《かいたい》するのは不可能《ふかのう》。
残る手段《しゅだん》は山の内部へ進入《しんにゅう》し、ガラクタの隙間《すきま》を縫《ぬ》って山頂《さんちょう》まで到達《とうたつ》、しかるのちに七輪を奪取《だっしゅ》することだろうが――しかしこれとてお世辞《せじ》にも安全な手段とは言い難《がた》い。そもそも隙間|自体《じたい》が狭すぎるため峻護の体格では進入《しんにゅう》すらもままならない。
弱った。たかが七輪のために危険《きけん》を冒《おか》したくはないが、このまますごすご引き返せば姉と美樹彦に何を言われるか知れたものではない。
と、そこへ現れたのが美樹彦の妹、月村|真由《まゆ》である。彼女は事情《じじょう》を知るとすぐさま助力《じょりょく》を申し出た。「いや、危ないから」と峻護が遠慮《えんりょ》しても、「ぜびお手伝いさせてください」と言って聞かない。
どのみち他に妙案《みょうあん》も思いつかない。真由の申し出がことのほか熱心だったこともあって、
けっきょく押し切られるような形で任せることになり、彼女は果敢《かかん》にもガラクタ山の攻略《こうりゃく》に挑《いど》んだのだが――
*
「……だっ、だいじょうぶですか二ノ宮くんっ」
「ああ。なんとか」
打《う》ち身《み》程度《ていど》で済んだのは不幸中の幸いだったろう。身体《からだ》のあちこちがズキズキするものの、骨や筋までは痛めていない。真由の方もケガはなさそうだ。
「すいません、失敗しちゃって……」
「いいよ。それより――」
この状況をどう脱《だっ》するかが問題だった。
目を左右に配《くば》って状況を確認《かくにん》する。
見れば見るほど大したケガもないのが不思議《ふしぎ》に思えた。雪崩《なだれ》を打って崩《くず》れた器物《きぶつ》が折《お》り重《かさ》なった中に僅《わず》かな空白地帯が形成《けいせい》され、その中で峻護と真由がかろうじて安全を確保《かくほ》しているのである。空間の天井《てんじょう》を支《ささ》えているのは峻護の背中であり、両腕であり、彼が作った有るか無しかの隙間に真由が仰向《あおむ》けになっている状態だ。光はあちこちから漏《も》れてくるから通気に問題はなさそうだが、このままでは体力の切れ目が命の切れ目、ということになりかねない。最大の問題は現状では動くに動けない点にあった。支えるだけで手一杯の重量《じゅうりょう》を跳《は》ね除《の》けるなど至難《しなん》の業《わぎ》だし、周りはみっちりとガラクタに囲まれて行動の自由も制限《せいげん》される。しかも脱出の際《さい》は真由のことも考慮《こうりょ》に入れねばならない。
いずれにせよ時間が惜しい。すぐに手を打たねば。
「月村さん」
「は、はいっ」
「おれからは見えないんだけど――今、上の方はどんな状況になっている? おれの代わりに観察《かんさつ》して、知らせて欲しいんだけど」
「あっ、はい、わかりました。ええとですね――」
首を精一杯《せいいっぱい》に伸《の》ばし――彼女も満足に動けない体勢《たいせい》だ――峻護が支えているガラクタを観察する。
「ええと、とにかくたくさんのものが重なってます。バランスはとても悪いです。ちょうどヤジロペエみたいにふらふら揺《ゆ》れてて、ちょっとでも変な力を入れたらすぐにでも崩れてきそうです」
どうやら思ったよりずっと状況は悪いらしい。くしゃみひとつが致命傷《ちめいしよう》となりそうだ。
「それで、例えばどんなものが積み重なっている?」
「そうでずね、まず七輪があります。あとはひとりでは持てそうにないチェーンソーとか、人間でも串刺《くしざ》しにできそうな剣山《けんざん》とか、抜き身の日本刀とか……あと、たらいとか」
よりによって悲惨《ひさん》なものばかりである。
これらが崩れてきた日には、五体《ごたい》満足《まんぞく》でいられないばかりか懐《なつ》かしのコントまで再現することになるだろう。まったく姉にも困ったものだ。あとで文句《もんく》のひとつも言わねばなるまい――生きて帰れたらの話だが。
「月村さんの状態は? どのくらい動ける? 動けたとして、脱出できるような隙間はありそう?」
「すいません、わたしの方もほとんど動けないです。抜け出せるような隙間も――見たところなさそうです」
がんじがらめである。
加えて峻護にはより切実《せつじつ》な問題があった。
薄暗《うすぐら》い空間の中、動きを封《ふう》じられて仰向けになった年頃《としごろ》の少女に覆《おお》い被《かぶ》さっているこの状況というのは――何というかその、いろいろ連想させるではないか。
そしてまた相手も悪い。というのも彼の下になっている月村真由という少女、その正体はあらゆる男性を寵絡《ろうらく》し、その精気《せいき》を吸《す》って生きる夜の種族『サキュバス』なのである。
峻護は今、これまでの経験から嫌というほど知ってるはずのサキュバスの本質――男性を否応《いやおう》なく虜《とリこ》にする彼女たちの魅惑《みわく》のすさまじさを、あらためて復習《ふくしゅう》させられていた。その眼差《まなざ》し、その口唇《こうしん》、その鼻梁《びりょう》――いずれも一流の職人《しょくにん》が一生かけて丹精《たんせい》を込めても決して再現できまいと思えるような精緻《せいち》さで形作られ、それらの成す調和《ちょうわ》はおよそ人類の頭脳《ずのう》が想像しうる範囲《はんい》の極致《きょくち》にある。この現実を前にしては世に流布《るふ》する美の観念《かんねん》は意味を喪失《そうしつ》し、絶世《ぜっせい》という形容詞《けいようし》は陳腐《ちんぷ》に堕《だ》する。彼女と並べられれば、かのクレオパトラですら整形手術《せいけいしゅじゅつ》に踏《ふ》み切るに違いない。きっともう一センチ鼻を高くしようとするはずだ。
そんな少女ときわどい体勢になっていればどうなるか――男性諸氏でなくとも想像は容易《ようい》であろう。実のところ二ノ宮峻護、体力がどうこういうより先に理性《りせい》のほうがもちそうにない。
「……? 二ノ宮くん?」
「え? ああいやなんでもない。とにかく、今できることは全部やろう。まずは声を出して助けを呼ぶ」
当然真っ先にすべきことだ。ただし状況上、峻護が声を出すのはリスクが高すぎる。
「わかりました。それでは……」
反響《はんきょう》でガラクタ山を刺激《しげき》せぬよう、ほどほどの声で救助を求める真由。が、手ごたえはない。すこし迷ったのち、音量をやや上げた。それでもやはり反応なし。
無理《むり》もなかろう。壁《かべ》に阻《はば》まれて音は漏《も》れにくいし、そもそもが庭の外れにある蔵である。近くを誰《だれ》かが通りかからない限りSOSは届《とど》くまい。
「……。すいません」結果を出せず、しゅんとなる真由。
「いや、仕方《しかた》ないよ。そもそもがダメモトのつもりだったんだ、気にすることはない」
とはいえ早くも手詰《てづ》まりである。こうしている間にも身体《からだ》のあちこちが痙攣《けいれん》の兆候《ちょうこう》を示《しめ》し始め、理性の堤防《ていぼう》は水漏れを起こしつつあるというのに――
「あの、二ノ宮くん」
「ん?」
「わたし、ほとんど動けないとは言いましたけど――それでも二ノ宮くんよりは動けます。とにかくできるだけ動いてみて、打開策《だかいさく》を探してみます」
「わかった、お願いするよ。どうもここは月村さんにすべて託《たく》す以外になさそうだ」
峻護の言葉に大げさなほど神妙《しんみょう》に頷《うなず》き、真由は行動《こうどう》を開始する。
「ええと、ここがこうで、あっちがああなってるから……」
彼女の周囲もガラクタだらけである。それらに当たらぬよう、慎重《しんちょう》に手足を移動《いどう》させていく。
そして――峻護は早くも自分の言を後侮《こうかい》し始めていた。
それというのも月村真由、その動きがどうにもこう、やたらめったらと艶《なま》めかしいのである。腰つきといい、足つきといい、まるっきり男を誘《さそ》っているとしか思えない。もちろん無意識《むいしさ》にやっているのだろうが――まさしくその点にこそサキュバスの恐ろしさがあるわけで。
彼女は大真面目《おおまじめ》なだけにやめてくれとも言いにくい。が、ただでさえ女の子の上にのしかかっているという、不純《ふじゅん》な思惑《おもわく》を誘発《ゆうはつ》しやすい体勢《たいせい》。まずい。鼻息が荒くなる。瞬《またた》きの回数が多くなる。煩悩《ぼんのう》が疼《うず》く。それを抑《おさ》えるために神経《しんけい》を使う。それが体力の減耗《げんもう》に拍車《はくしゃ》をかける。そうとも知らず真由は無自覚《むじかく》の挑発《ちょうはつ》を継続《けいぞく》する。
「あっ――」その真由が声を上げた。
「どうした、月村さん」どうにか平静を装《よそお》い、訊《き》く。
「はい、あのですね、手が届きそうなところに鉄の棒《ぼう》があるんです。パイプみたいなのですげど」
「パイプ?」
「はい。それを使って、支えにするのはどうでしょう」
なるほど、つっかえ棒にして峻護の負担《ふたん》を軽減《けいげん》しようというのだろう。悪くない。
頷いてみせると、真由の顔が父親に褒《ほ》められた童女のように華《はな》やぐ。
「待っててくださいね、すぐに二ノ宮くんを助けてみせますから」
言って、「ん〜」と手を伸《の》ばし始める。その声がまたひどく色っぽくて。
峻護は、たまらなくなってきた。
「っ、月村さん、早く。おれ、もう……」
「す、すいません、もう少し、もう少しなんですけど……」
あれこれと試行錯誤《しこうさくご》しているが、何分《なにぶん》にも不自由な体勢である。「あとちょっとなのに……っ」焦《あせ》り始めている様子《ようす》が手に取るようにわかる。嫌《いや》な予感がする。経験上、彼女がこういう視野狭窄《しやきょうさく》状態にある時はろくなことが起きない。
そう思い、ひとこと注意を喚起《かんき》しようとした、その時だった。
じれったくなったのだろう。真由、「えいっ」と一声《ひとこえ》上げるや、くるんと反転し、うつ伏《ぶ》せになった。その拍子《ひょうし》、勢《いきお》い余った臀部《でんぶ》が峻護の下腹部《かふくぶ》をひと撫《な》でする。ちょうどそう、ボクシングのアレ、天井《てんじょう》から吊《つ》るされているパンチングボールを叩《たた》くような感じで。もちろんサキュバス的になまめかしく。
(はうあ!)
ひとたまりもなかった。何もかもかなぐり捨ててアニマルと化しかけて――だが彼にとって魂《たましい》レベルで染《し》み付いた貞操観念《ていそうかんねん》が脊髄反射《せきずいはんしゃ》で抵抗《ていこう》を試《こころ》みる。そんな峻護の涙《なみだ》ぐましい努力も知らず、真由はいよいよアクティブな活動を開始。「あと五センチで届くのにっ……もう、この、このっ……えい、えいっ」自分の仕事に集中している彼女は己《おのれ》がいかにきわどい体勢になっているか気づかない。そのやわらかい腰部《ようぶ》が激《はげ》しく峻護のエクスカリバーを挑発する。ぐにぐにと。
さすがにこうなってはもうダメだった。強調すべきは、彼だからこそここまで持ちこたえられたという事実である。並の男なら遥《はる》か以前の時点でバッドエンドを迎《むか》え、為《な》す術《すべ》なくスタッフロールを眺《なが》めていたことだろう。よって、理性と奉能の相克《そうこく》による負荷《ふか》に耐《た》えかねた峻護が一瞬《いっしゅん》意識を手放したとしても、誰もそれを責《せ》めることはできまい。
それはほんの刹那《せつな》の間であり、そして十分《じゅうぶん》すぎる時間だった。峻護が意識を取り戻した時、雑多《ざった》なガラクタの山を支えるだけの力が彼の五体からは失われていた。あわてて力を入れ直し、身体《からだ》を沈《しず》み込ませながらショックを吸収するが――遅い。調和を失ったガラクタたちの崩れ落ちる音が、破減《はめつ》の音が、すでに彼の耳もとへ届きつつある。屋久杉《やくすぎ》でも真っ二つにできそうなチェーンソーがその重みだけで周りのガラクタを裁断《さいだん》しながら落ちてくる。ラフレシアでも活《い》けるのかと思わせる巨大な剣山が雨と降るガラクタたちをさくさく串刺しにしていく。抜き身の日本刀が峻護の耳もとを掠《かす》め、刃の半《なか》ばまで軽々と床《ゆか》にめり込んで――
それを最後に崩壊《ほうかい》のビートは止《や》んだ。
はらり、と。日本刀に持っていかれた髪《かみ》の毛が舞《ま》い落ちていく。
「…………」
どうしてまだ生きてるんだろう、と本気で謎《なぞ》に思った。冷や汗《あせ》が顔中を伝い、脈拍《みやくはく》がフォルティッシモを刻《きざ》む。喉《のど》もとまでせり上がった心臓は次の瞬間にもこぼれ出しそうだ。
とにかく、最悪の事態《じたい》だけは免《まぬか》れたらしい。背中の向こう、ガラクタ山は崩壊《ほうかい》一歩手前でどうにかバランスを維持《いじ》している。
が、運命は彼に一時《いっとき》の休息も許さない。
「月村さん、ケガは――」
そう訊《き》いたところでようやく気づいた。
すぐ目と鼻の先に真由の顔があった。『身体を沈み込ませながら[#「身体を沈み込ませながら」に傍点]ショックを吸収』した結果である。
「あ――」
真由の頬《ほお》にゆっくりと朱色《しゅいろ》がのぼっていき、やがてゆでだこのようになって目を逸《そ》らす。その仕草《しぐさ》がまたぞくぞくずるほどなまめかしい。お互いの温《ぬく》もりが交じり合うような、ごくりと喉を鳴らす音まで聞かれそうな、至近《しきん》。かすかに鼻腔《びこう》をくすぐる、セッケンとはまた別の甘酸《あまず》っぱい薫《かお》り。収まりかけた鼓動《こどう》が跳《は》ね上がる。宥《なだ》めたはずの煩悩がまたそろ鎌首《かまくび》をもたげてくる。
「……あの、」
急いでサキュバスの魅惑《みわく》に対抗《たいこう》するための精神|防壁《ぼうへき》を築《きず》いていると、視線を泳がせたまま真由が言いよこしてくる。
「すいません、間に合いませんでした、棒。またわたし失敗して……」
「いや、気にしないでいい。どのみち棒一本ではそう大したこともできなかったろうし」
「……ありがとうございます。でも、やっぱりわたし――」
目を泳がせるのを止《や》め、切実《せつじつ》な様子で見つめてくる。
その顔が凍《こお》りついた。
「月村さん?」
固まったまま返事がない。
その視線が向いている先は――どうやら峻護の後頭部の、そのまた後ろあたりか。だが無諭《むろん》、今の彼には確かめることができない。
「月村さん?」
もう一度訊いたのと同時、視界の隅《すみ》を何かが横切った。真由がくぐもった悲鳴をあげ、峻護はようやくそれの正体を知った。
クモである。クモ形網|真正《しんせい》クモ目に属《ぞく》する節足《せっそく》動物であるところの。小指の先ほどもないサイズのそれが、糸を引いて上方から垂《た》れ下がっているのだった。といってもあくまで無毒《むどく》な、どこでも見かけるクモなのだが、彼女にとってはそんな情報もさほど救いにはならないらしい。
「あ、あわ、あわ、くも、くくく、くも、」
「月村さん、気持ちはわかるけど落ち着いて」
急いで宥めにかかる。ここで恐慌《きょうこう》に駆《か》られ、下手《へた》に動かれでもしたらシャレにならない。
「別に君に危害《きがい》を加えたりしない。大丈夫《だいじょうぶ》だから」
「で、でもっ、くっ、くくくくもっ、くもなんですっ。くもなんですよっ」
「大丈夫だって。ほら、よくよく見れば案外|可愛《かわい》らしい形態《けいたい》をしてるし、ペットにしてる愛好家《あいこうか》だっているわけだし、それに知ってた? クモって実は昆虫じゃないんだ、そう考えれば恐怖心も少しは薄れ――ええいくそ、やっぱだめかっ」
いよいよ取り乱す真由を見て説得を諦《あきら》めるや、峻護はおもむろに首を横に回した。そのまま口をひん曲げ、小さな闖入者《ちんにゅうしゃ》に向けてふーふー息を吹きかける。どこへなりと吹き飛ばそうという試みだったのだが――そんな努力をあざ笑うかのように、八本足の昆虫モドキはふらふら揺れるのみ。
それどころか彼の企図《きと》は全くの裏目《うらめ》に出た。生暖《なまあたた》かい風に辟易《へきえき》としたものか、八本足は峻護の横に浮かぶのを止め、すうっと糸を伸《の》ばして下方向へ移動《いどう》。
そこに。
着地点に、真由の顔があった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
あっけなく決壊《けっかい》した。
「やっ、やだやだやだやだやだやだやだやだ、にっ、にの、くも、二ノ宮く、くも、くもが、くも宮くんがッ……!」
「落ち着いて月村さん……って、うわっ」
抱《だ》きついてきた。力いっぱいに。
いきなりの加重に体勢が傾《かたむ》く。ガラクタの山が揺《ゆ》れ動く。そればかりでない、彼にしがみ付いている少女はサキュバスであり、夜の種族であり、その本能的スキルは無意識のうちに発揮《はっき》されるものであり――要するに二ノ宮峻護、またしてもダメになりつつあった。
二人のフロント部分が熱烈《ねつれつ》なダンスを交わしている。感情を恐怖一色に染めて意味不明の言葉を呟《つぶや》きながら、群《む》れからはぐれた子鹿《こじか》のように震《ふる》えながら、だけどもフェロモンたっぶりに蠢《うごめ》く真由。じわじわと体勢が崩《くず》れてゆく。ゆらゆら揺れる背中の荷物の振幅《しんぷく》が徐々《じょじょ》に大きくなっていく。加えてリビドーやら危機感やらがごたまぜのスープとなって脳内《のうない》を席巻《せっけん》し、峻護に正気の維持《いじ》を許さない。
無理《むり》だ、と思った。この状況で耐《た》えられるのならむしろ男として、いや人間として間違ってると思った。お花畑が見える。賽《さい》の河原《かわら》も、三途《さんず》の川も。鳴呼《ああ》……みんな、悪いけど一足先に逝かせてもらうよ。おれが死んだら骨はエーゲ海に――
だが次の瞬間《しゅんかん》、予期せぬことが起こった。
ぐらり、と視界がブレた。
「!」
峻護がぐらついたのではない。変化があったのは蔵そのもの。
(地震《じしん》――? そんな、こんなタイミングでっ!)
かなり強い。激《はげ》しく震動《しんどう》している。だが逃げようにも逃げられない。そして今でも彼らの上方にはガラクタ山が――
考えるより先に身体が動いた。先ほどと同じく、手足に擁《たわ》めた力をとっさに弛《ゆる》める。四肢《しし》にばねのごとく伸縮《しんしゅく》する弾力《だんりょく》を与えて揺れに対処《たいしょ》する。が、到底《とうてい》それで吸収しきれるものではない。しかし現状ではそれ以外に対処法がない。いくつものガラクタが落ちてくるのを横目に見ながら、致命的《ちめいてき》な事態《じたい》にならないことを一心に祈《いの》るだけ――
やがて。
始まった時と同じく、震動は何の前触《まえぶ》れもなく止んだ。
「……ぷはぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ」
長い長い吐息《といき》をつく。どうやら再度、きわどい命を拾ったらしい。
とはいえ状況はまたしても悪化《あっか》した。真由の抱擁《ほうよう》と突然の地震により、峻護の姿勢《しせい》は無残なほど崩れきっている。そう――例えば、子供を腹にぶら下げたコアラがトライアスロンを完遂《かんすい》した直後に腕《うで》立て伏《ふ》せを始めようとすれば、こんな格好《かっこう》になるだろうか。
そして未《いま》だ真由はしがみ付いたまま。
「月村さん、すまないけどそろそろ……」
「……え?……あ」
気づいた。
ぱっと手を放した。
「すっ、すいませんすいませんすいませんすいません!」
「いや、気にしなくていい」
目を逸《そ》らしながら言う。離《はな》れたとはいえ、もともとの状況が状況である。女の子だけが持つ蕩《とろ》けそうな匂《にお》いと、いつでも宣戦《せんせん》布告《ふこく》できる距離《きょり》。煩悩エンジンは未だフル稼動中《かどうちゅう》である。
「それより状況を教えて欲しい。今、上の方はどうなってる?」
「は、はい、ええと……」同じく目を逸らしていた真由がガラクタ山に視線を向ける。
「……いろいろ落ちてきてますけど、まだたくさんの物が積み重なってます。いま落ちてきそうなのは、大きな爆竹《ばくちく》――ええと、たぶんダイナマイトだと思います。それに、いくつか筒《つつ》があります。あれは……確かグレネードランチャー、でしたっけ? それと……原子力|発電所《はつでんしょ》とかでよく見かけるマークのついた筒とかもあります。あと、たらいも」
「…………」
場を和《なご》ませるジョークだと思いたい。
「……もう、おしまいですね」不意《ふい》に真由が言った。「もう、どうにもなりません。おしまいです。ごめんなさい」
「……。おしまい、って、どういう意味?」
「…………」
「――ばかな、何を言ってるんだ月村さん。ばかを言っちゃいけない、まだまだこれからじゃないか」
だが真由は首を振り、悲しそうに笑う。これだけの近距離だ、峻護のコンディションは手に取るようにわかるのだろう。その浅い呼吸《こきゅう》も、滴《したた》る脂汗《あぶらあせ》も。
「すこしでも……すこしでもお役に立ちたいって、そう思ってました」
「月村さん?」
「わたしがここに、この家に来てからずっと、いつもいつも二ノ宮くんには助けてもらって、でもわたしはただ迷惑《めいわく》をかけるばっかりで、足手まといで。今日だって、すこしでも二ノ宮くんの助けになればって……なのに、こんなことになって。わたしのせいで、どんどん状況を悪くしちゃって」
破滅《はめつ》を予見《よけん》しながら真由の瞳《ひとみ》に恐怖はない。ただ寂《さび》しそうな、悔根《かいこん》を隠し切れない色だけがそこに滲《にじ》んでいる。
「わたしのせいなんですから、わたしは自業自得《じごうじとく》ですけど……二ノ宮くんを巻き込んじゃったのが心残りです。ごめんなさい。ほんとうに、ごめんなさい……っ」
「…………」
とっさに声をかけられなかった。今日のことだけではない、確かに彼女と同居を始めるようになって峻護は数知れぬ迷惑をこうむっている。そのことを彼女はずっと気に病《や》んできたのだろう。
だが、彼女との暮らしは決してマイナスばかりをもたらしたわけではない。いや、それどころかむしろ――
「……月村さん」
様々《さまざま》な想《おも》いを込めて語りかける。
「そんなネガティブに考えてはいけない。おれに迷惑をかけてる――というのは、まあ、違うとは言わないけど、大丈夫、そんなのは大したことじゃない、気にしてない。それに月村さんは十分がんばってくれたじゃないか。その気持ちだけで十分だ。うれしく思ってるし、感謝《かんしゃ》もしているよ。君はもっと自信を持っていい。胸を張《は》っていい」
わりと、うまく笑えたと思う。
「だから諦《あきら》めずにがんばろう。大丈夫、きっとなんとかなる。おれがなんとかしてみせる」
「二ノ宮くん……」
真由の表情に、生気《せいき》のようなものが戻ってきた。
「そんな風に言ってもらえて、わたしうれしいです。なんだかもう、このまま死んじゃってもいいかな、って思いました」
「ばか言っちゃいけない。まだまだこれからだ。第一、こんなところで諦めたらぜったい後悔《こうかい》する。どんな結末になるにしたって、思い残すことがないよう、できる限りのことをするべきだ。そうだろう?」
「はい……今ならわたし、何でもできそうな気がします」
「そう、その意気だ。その意気でここを脱出《だっしゅつ》――」
そこまで言ってどうも妙《みょう》だと気づいた。真由に生気が戻ってきたのは確かだが――その様子に、これから大脱出の壮挙《そうきょ》を成そうとしている人間の勇ましさが感じられないのである。代わりに何というか、瞳をうるうるさせてこちらを見上げてくる様子は、乙女回路《おとめかいろ》全開みたいな、というか。
もっとはっきり言えば、サキュバスの本能フル回転、というか。
そしてそのことに気づいた時はもう、|蠱 惑 領 域《テンプテーション・フィールド》に搦《から》め捕《と》られているのがお約束なのである。
「ええと……月村さん?」
「後悔しないように、しなくちゃいけませんよね?」
「ああ、うん、それはそうだけど、ええとつまりその、」
「二ノ宮くん」
なんてことのない一言がセリフの続きを封《ふう》じる。
「わたし、がんばりますね?」
「あ、ああ、うん、がんばろう。がんばってここを出――」
そっと、首に腕を回してきた。
「つ、月村さん? ええと、寒いってわけじゃ……ないよな?」
「いいえ、寒いです。ひとりでいるのは、とても寒いです」
繰《く》り返そう。彼我《ひが》の距離《きょり》、お互《たが》いの瞳の虹彩《こうさい》の数まで数えられる近さである。それもサキュバスの魅惑《みわく》を余《あま》すところなく散布《さんぷ》している少女が相手で、その吐息《といき》が喉《のど》もとをくすぐるたび、背すじに舌を這わせたような震えが走って、彼女から漂《ただよ》う薫《かお》りを吸《す》い込むたびに目の裏で火花が散って――
さらに近づいてくる、
「くちびるとくちびるが、くっついちゃいそうですね」
「……。ええと、」
「二ノ宮くんって今、動けないんですよね」
「え? ああ、うん」
「…………」
「…………」
「あの、二ノ宮くん」
「な、なに?」
「ずるいことしても、いいですか?」
「え?」
見つめてくる。煩《ほお》を上気させ、夜の血に目醒めた眼差《まなざ》しで。
「……ええと……なにをするって?」
「ずるいこと、です」
「……ええと……ずるいことって、なんでしょう?」
応《こた》えない。
応えの代わりに真由は瞳を閉じた。
近づいてくる。かすかに震えながら、ゆっくり、ゆっくりと。
まずい。何がまずいって、彼女はサキュバスなのだ。それも普通のサキュバスではない、男性恐怖症で――しかも自身の精気吸引能力をまったくコントロールできないという、致命的《ちめいてき》な欠点《けってん》を持ったサキュバスなのである。そんな彼女とくちびるを合わせればたちまち全精気を吸《す》い尽《つ》くされ、ツタンカーメンの仲間入りをすることだろう。だからこれは本気でまずいのだ。まずい。まずいまずいまずい。月村さんダメそれいけない、それをされたらおれは、だからどうせならもっとちゃんとしたシチュエーションで、いやそうじゃなくて、ああもうとにかくそれはダメ!
だが逃げられない。物理《ぶつり》的にも、心理《しんり》的にも。ガラクタ山に圧迫《あっぱく》され、サキュバスの魅惑《みわく》に捕えられ――いくら心の中で拒絶《きょぜつ》を叫《さけ》ぼうと、すでにあらゆる面で受け入れ態勢《たいせい》が整ってしまっている。たとえ抵抗できたとしても、サキュバスの本性を露《あら》わにした真由を前にしては何をやっても徒労《とろう》。
近づいてくる。なおも何事《なにごと》か言い募《つの》ろうと足掻《あが》く峻護の口を、そっと塞《ふさ》ごうとして――
転瞬《てんしゅん》。
「……! けほっ、けほっ……」
急に真由が咳《せ》き込み出した。同時、峻護を捕捉《ほそく》していた蠱惑《こわく》が解《と》ける。さらに同時、過度の煩悩によって麻痺《まひ》していた五感が機能を取り戻し、真由にのみ向けられていた嗅覚《きゅうかく》がその臭《にお》いにようやく気づく。
白煙《はくえん》が、周囲を覆《おお》うようにして薄くたなびいていた。
「煙《けむり》? 一体どこから――」
「そんな、火事……!」
真由の表情が絶望に彩《いろど》られる。泣きっ面《つら》に蜂《はち》とはこのことか。まずい。こんな状況で火が回っては……しかし火なんて一体どこから……いや、これだけ何でもありの、びっくり箱のような蔵だ。崩落《ほうらく》のショックで何が起きたとしてもおかしくない。
「くそっ、どうすれば……」
「も、もうダメです。オシマイです。とうとう最後の時が来てしまいました。こうなったら――」
そして事ここに至り、真由がいよいよ決意を固めたらしい。
「こうなったら、わたしはわたしの本懐《ほんかい》を遂《と》げます。特攻《とっこう》です、カミカゼです、女の花道です。……二ノ宮くんっ!」
やや錯乱《さくらん》気味《ぎみ》に叫ぶや、「失礼しますっ」一気呵成《いっきかせい》にくちびるを寄《よ》せてきた。
制止《せいし》の声を上げる間もない、一度は回避《かいひ》したかに見えた危機が再び峻護を襲《おそ》う――かと思いきや。
ぺとん。
何かが真由の鼻先に落ちてきた。
さっきのクモだった。
そいつが顔の上でもぞもぞと蠢《うごめ》き、真由の表情が引き攣《つ》り――
今度は悲鳴すら上げず、あっげなく気絶《きぜつ》した。
「……あ、危ないとこだった……」
くてん、と横たわる真由を見て、峻護は安堵《あんど》の吐息《といき》。クモは煙に煽《あお》られて落ちてきたものだろうか。世の中、何が幸いするかわからない。
とにかくこれで心理的自由だけは得られた。だが状況《じょうきょう》は切迫《せっぱく》している。刻一刻《こくいっこく》と煙は濃くなりつつあり、ガラクタ山を支える体力はとっくに赤信号。
絶体絶命《ぜったいぜつめい》。
(……どうする?)
どうもこうもない。このまま座《ざ》して終局《しゅうきょく》を眺《なが》めるよりは、わずかに残った可能性に賭《か》けるしかない。たとえそれが無謀《むぼう》な試みだとしても。
計画はこうだ。まず、背中にのしかかる重量を全力でもって跳《は》ね除《の》ける。次いで真由を抱きかかえ、雨あられと降ってくるだろうガラクタたちをかわし、あるいは跳ね除けながら、出ロへ向かって突貫《とっかん》。しかるのち、おそらくガラクタによって塞《ふさ》がれているだろう蔵の扉《とびら》に体当たりを敢行《かんこう》。これを突き破《やぶ》って脱出を完遂する。
無謀である。我《われ》ながら笑ってしまうほどお粗末《そまつ》な青写真だ。終戦|間際《まぎわ》の決死隊《けっしたい》でもこんな計画は立案《りつあん》すまい。だが他に手段《しゅだん》があるか? そもそも他の案を考えている余裕《よゆう》がない。状況は寸刻《すんこく》を争うのだ。
肚《はら》を決める。
途端《とたん》、疲労困懲《ひろうこんぱい》しているはずの身体の隅々《すみずみ》に力がみなぎってくる。『火事場の馬鹿力』とも『窮鼠《きゅうそ》猫を噛《か》む』とも言うが、人間誰しも追い込まれれば強い。峻護の場合はことにそれが顕著《けんちょ》である。
(それに――)
と、ぐったり横たわる真由を見やった。
――ピンチにある少女が傍《そば》にいて。
その少女を救えるのはただ一人、二ノ宮峻護だけ。
そして彼だって、オトコの端《はし》くれなのだ。
ひとつ、深呼吸《しんこきゅう》。
(……よし)
行く。前を睨《にら》み据《す》える。
カウントダウン、
いち、
にの、
さん……ッ!
*
――目を開ける。
まぶしい日射しが瞳を刺《さ》してくる。
反射的に背後を顧《かえり》みる。あたり一面に立ちこめる煙の中に、開け放たれた蔵がその偉容《いよう》をさらしている。
真由は彼の腕の中にいる。目を閉じて、ゆっくりと、安らかに呼吸《こきゅう》している。
身体《からだ》のあちこちが痛む。脱出《だっしゅつ》の際《さい》に負った傷だが――これは名誉《めいよ》の負傷というべきだろう。むしろ誇《ほこ》らしく痛みを甘受《かんじゅ》する。
やった。助かった。本当に助かった。まったく、我ながらあんな無茶苦茶《むちゃくちゃ》なミッションをよくぞ成功させたものだ。月村さん、すっかり覚悟《かくご》を決めていたみたいだけど……目を覚まして、自分がまだ生きていることを知ったら何と言うだろう。きっと目をぱちくりとさせて、きょろきょろとあたりを見回して。ここが天国でないと知ったそのあとは――春の陽《ひ》のように笑いこぼれるだろうか。それとも感極《かんきわ》まって泣き出すだろうか。そんな彼女に、おれはなんて声をかけようか――
「おや、峻護くんではないか」
「そんなとこで何してんのよあんた」
「……え?」
唐突《とうとつ》な声に振り返った。
すぐそこに美樹彦がいた。姉の涼子も一緒《いっしょ》である。
そして彼が見たものは。
涼子と美樹彦に挟《はさ》まれて、もうもうと煙を上げる焚《た》き火。
「……そこで、何してるんです?」
「見ての通り、焚き火を熾《おこ》しているところだよ」ぱたぱたと団扇《うちわ》で風を送りながら、美樹彦が言う。「付け木が湿《しめ》っていたから何度も失敗してね、煙ばかりを焚いてしまったが――ようやく具合よくなってきたところだ。これからこの火でサンマを焼こうとしているんだが、どうだい君もひとつ」
「……え?」
「ああ、なるほどね」ズタボロになった弟とそのうしろの蔵の様子を交互に見て、涼子は大体の事情を察《さっ》したらしい。呆《あき》れ声を投げかけてくる。「道理《どうり》でいくら揺らしても開かないと思ったら。中でつっかえていたわけね」
「……え?」
「何あんた、その歳《とし》で老人性|難聴《なんちょう》? 蔵を開けようとして散々《さんざん》扉を揺らしたけど開かなかった、って言ったの」
「……え?」
「ったく、あんたはいつまで経《た》っても帰ってこないし、七輪を仕舞《しま》った場所を思い出してここまで来てみたら蔵が開かないし、仕方ないから焚き火で代用してたんだけど……それもこれも結局はあんたの間抜けのせい、ってことになりそうね。ほんと、つくづく情けないわ」
「まあまあ涼子くん、彼のショボくれっぷりは今に始まったことではないさ。それにしても峻護くん、閉じ込められていたのなら当然外に向けて助けを呼んだんだろうね? もちろん、一回こっきりではなく継続《けいぞく》してSOSを発していたか、と訊いてるんだが」
「どうせその程度《ていど》の機転《きてん》も利かなかったんでしょ。救難《きゅうなん》信号なんて間を置かずに発信してなきゃ大した効果《こうか》がない、なんてこと、ちょっと考えれば子供でもわかる理屈《りくつ》なのに。ほんと、知恵の回らない子ねえ」
「第一外には僕らが居たんだから、それに気づいたならきちんと知らせればいいではないか。君、その程度の気配を読めるくらいには涼子くんから鍛《きた》えられているんだろう?」
「そんなこともわからないくらい焦《あせ》ってたんでしょ。まったく、危機にある時ほど冷静になりなさいって、いつも言ってるでしょうに」
「まあ、七輪のひとつも満足に調達《ちょうたつ》できない男には何を言っても無駄《むだ》かもしれないがね。しかしこれだけ使えない男に真由を預《あず》けるのはなんとも心許《こころもと》ない。ちょっと鍛え直した方がいいのではあるまいか?」
「そうねえ。前から思ってたけどわたし、ちょっとこの子には甘かったみたいね。今日からさっそく特訓《とっくん》を始めましょう。いいわね峻護。とっとと散らかした蔵の中を片付けて、それが終わったらわたしと美樹彦相手に組み手を百本。わかったら返事」
「…………」
返事の代わりにへなへなとくずおれる峻護。
その瞬間、彼は頭の上にたらいが落ちてきてマヌケな音を立てるのを、確かに耳にしたという。
おしまい
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真由、お使いに行くのこと
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「ちょっとおつかいに行ってきてもらいたいんだけど」と姉の涼子《りょうこ》に頼《たの》まれたこと自体は珍しいことでもない。意外だったのは次に続いた科白《せりふ》であった。
「真由《まゆ》ちゃん、あなたにね」
「わたしが、ですか?」
月村《つきむら》真由は不意打《ふいう》ちに目をぱちくりさせ、次いでこちらを見上げてきた。が、そんな顔をされても|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》にだって姉の真意《しんい》はわからない。
「――姉さん。おつかい、というのは?」
真由に代わって涼子に問い返す。
「買い物を頼もうと思ってね」居間《いま》のソファでビール片手にくつろぎながら、この家の主はのたまった。「マルイワまで行ってコロッケを買ってきてほしいの」
『マルイワ』とは近所にある肉屋の屋号《やごう》で、長らく二ノ宮家の御用達《ごようたし》に指定《してい》されている店舗《てんぽ》である。涼子はかねてよりそこの特製ビーフコロッケがお気に入りであった。そいつを肴《さかな》に仕事明けの一杯《いっぱい》としゃれ込むつもりだろう。
それはわかるのだが、やはり疑問《ぎもん》である。あそこへ彼女を行かせるというのは――
「姉さん。別に月村さんにやらせなくても買い物ならおれが」
「なに言ってるの峻護。あんた、真由ちゃんがどうしてウチで暮らしているか、まさか忘れているわけじゃないでしょうね?」
もちろん忘れてなどいない。男の精気《せいき》を吸《す》って生きるサキュバスでありながら男性恐怖症であるという少女・月村真由は、そのけったいな悪癖を克服するべくここにいる。
「町に出れば当然《とうぜん》、男との遭遇率《そうぐうりつ》は高くなるわ。真由ちゃんにとってはつらい状況《じょうきょう》でしょう。でも、だからこそ行かなければならない。わかるわね?」
と、涼子にではなく真由に向けて答えを返した。
「わたしが――お買い物に――」
だが危惧《きぐ》した通り、真由は早くも怖《お》じ気《け》づいている様子《ようす》である。無理《むり》もないと思う。彼女が居候《いそうろう》を始めて間もないが、その恐怖症がどの程度《ていど》のものかについては身に染《し》みて知っている。人通りの多い場所、それも不慣《ふな》れな町中へおつかいに出るなど拷問《ごうもん》にも等しかろう。
「唆護が相手ならともかく、五分以内に揚《あ》げたてコロッケを持ってきなさいとは言わないわ。どれだけ時間をかけてもいいから」
「でも――」
すがるような視線《しせん》を向けてくる真由だが、こればっかりは姉が正しい。
「がんばろう月村さん。おれもついていくし、できるだけの協力はするから」
「は……い」
と答えるものの、なかなか煮《に》え切らない。
「月村さん、これはチャンスと解釈《かいしゃく》すべきだ。せっかくウチで暮らしてまで恐怖症を克服しようとしているのに、ここでこの話を断《ことわ》ってどうする。いっしょにがんばろう。すこしでも前進できるようにしないと」
懇切丁寧《こんせつていねい》に説《と》くが、いよいよ真由は目を逸《そ》らすばかり。
それでも説得《せっとく》を重ねようとした時、
「この軟弱者《なんじゃくもの》ッ!」
鼓膜《こまく》を破《やぶ》りそうな大喝《だいかつ》が涼子の口から発せられた。
「そんなことでどうするのあなた! あなたは何のためにここにいるの? 男性恐怖症を必ず直す、その決意《けつい》があったからこそ我《わ》が家に来たんでしょう? こっちだって遊びでやってるんじゃないのよッ、やる気がないなら帰りなさい!」
まなじりを決し、鬼《おに》のような形相《ぎょうそう》で真由をなじる。その剣幕《けんまく》には峻護でさえ思わず身がすくんだ。
「あなたのためにどれだけの人間が労力を払《はら》っているか、ほんとうにわかってる? ここであなたがそんな弱腰《よわごし》な態度《たいど》を取ることがいかに彼らの厚意《こうい》を踏《ふ》みにじることになるか、ほんとうにわかっているの? 彼らに申《もう》し訳《わけ》が立たないとは思わないの?」
真由はうつむき、降《ふ》りかかる叱声《しっせい》に無言《むごん》で打たれている。ロングヘアに隠《かく》れてその表情は窺《うかが》い知れないが、あるいは涙《なみだ》ぐんでいるだろうか。
「さあ、今ここで覚悟を決めなさい」ずばばっ、と効果音が聞こえてきそうな動きで腕を振《ふ》り、さらに熱弁《ねつべん》する。「どんな困難《こんなん》にも打ち克《か》って、あなたの為《な》すべきことを必ず果《は》たしてみせると。何があっても決して退《ひ》くことなく、必ず勝利を持ち帰ってみせると」
「…………」
コロッケを買いに行くだけで何をそんな大げさな。
「姉さん、そこまで強く言うのもどうかと……彼女もやる気がないわけじゃ……」
「峻護、あんたは黙《だま》ってなさい。さあどうするの真由ちゃん。やるの? やらないの?」
「――やります」
きっ、と顔を上げ、決然《けつぜん》として真由が宣言《せんげん》した。
「やります。行って、必ず勝利をものにしてみせます」
その瞳《ひとみ》の輝《かがや》きに思わず峻護はのけぞった。
一点の曇《くも》りもなく、さわやかで、まっすぐな――なんというか、非《ひ》の打ち所がない体育会系の目というか。もっといえば、そう、スポ根《こん》的な目というか。
内気で控《ひか》えめ、といった彼女のイメージとはあまりに不釣合《ふつりあ》いな……でもそういえば以前にもこれに近い展開があったような……
「真由ちゃん、嫌《いや》ならやめてもいいのよ?」
「やります。いえ、ぜひやらせてください!」
「――いいでしょう。では行きなさい。行ってこの危機《きぎ》に打ち克ってきなさい。そしてその果てに輝ける勝利の栄光を掴《つか》み取るのよ!」
「はいっ、コーチ!」
肩を抱《だ》き合い、あさっての方角へ健闘《けんとう》を誓《ちか》い合う二人。
蚊帳《かや》の外に置かれたまま成り行きを見守っていると、してやったりとばかりに姉がウインクしてきた何つまり、そういうことらしい。
なんだかなあ、と内心つぶやきながら、峻護はただ肩をすくめてみせるしかなかった。
*
丘の上にある二ノ宮家から歩いて十五分。
精肉店《せいにくてん》『マルイワ』は商店街の中ほどにその慎《つつ》ましやかな暖簾《のれん》を出している。
ごく平凡《へいぼん》で小ぢんまりした店|構《がま》えながら店主《てんしゅ》の目利《めき》きは確かであり、またその目利きに適《かな》った商品が良心的《りょうしんてき》な価格で店頭に並べられるため、地元では確乎《かっこ》とした名声《めいせい》がある。わけても店主自ら丹精《たんせい》こめて揚《あ》げるピーフコロッケは値段《ねだん》・味ともに申し分ない逸品《いっぴん》であり、これを求めて遠方《えんぽう》より足繁《あししげ》く通う常連《じょうれん》の姿《すがた》は後を絶《た》たない。食にはうるさい涼子が贔屓《ひいき》にしているという一点だけをみてもその実力のほどは知れるだろう。
それは、いいのだが。
『マルイワ』の前にたどり着いた峻護は背中|越《ご》しに連れ合いを顧《かえり》みて、その様子《ようす》に不安を隠しきれなかった。
ここまで二キロ足らずの道のりを踏破《とうは》したに過《す》ぎないのだが、早くも月村真由はグロッキー状態《じょうたい》にあった。顔色は半死人じみて青く、足は水の尽《つ》きた砂漢《さばく》の旅人のようにふらふら。次の瞬間《しゅんかん》にも救急車《きゅうきゅうしゃ》のサイレンが聞こえてきそうな按配《あんばい》である。
無理《むり》もない。比較的《ひかくてき》人出《ひとで》の少ない登下校《とうげこう》のルートならばともかく、夕暮れで通行人《つうこうにん》のひしめく商店街を歩くとあっては、彼女にとって戦場を丸腰《まるごし》で往《ゆ》くも同然である。人出が女性だけなら問題ないのだが、あいにくこれらの半数が男性であり、そのうちのほぼ十割が真由に好奇《こうき》以上の視線《しせん》を浴《あ》びせてくることになる。なにせこの少女はサキュバス、その美貌《びぼう》と魅惑《みわく》はどうしたって異性《いせい》の目を惹《ひ》き付けてしまう。真由に恐怖症を起こさせない希少《きしょう》な男、二ノ宮峻護だからこそこうして介添人《かいぞえにん》も務《つと》まるのだが、それ以外の男性が相手となれば――
「大丈夫《だいじょうぶ》? まだ肝心《かんじん》の買い物が残ってるんだけど」
「だ、だいじょうぶです。まだぜんぜんいけます。余裕《よゆう》しゃくしゃくです」
魂《たましい》の抜けそうな顔をしながらもそう言いよこしてくる。ここはその意気を買うしかない。
だが本当にゴーサインを出していいものかどうか。真由にはまだ話してないのだが、この先彼女を待ち受けているであろう困難を思うと二の足を踏んでしまう。無論、姉の狙いはそこにこそあるのだろうが――
「だいじょうぶです二ノ宮くん。さあ行きましょう」
ままよ、と峻護は腹をくくった。
「こんにちはー。ごめんください」
「いらっしゃいませお客様」
暖簾《のれん》をくぐるや、腹の底から震《ふる》えるような低音《バス》が狭《せま》い店内に響《ひび》き渡った。
出迎《でむか》えたのは『マルイワ』のオーナー、源《げん》さんこと岩本《いわもと》源一郎《げんいちろう》である。
「精肉店マルイワへようこそ……おや、峻護くんではありませんか。お久しぶりですね」
「どうも。ごぶさたしてます」
大仰《おおぎょう》なほどジェントルなあいさつをしてくる店主に、峻護も丁寧《ていねい》に頭を下げた。
岩本源一郎、三十五歳。
端的《たんてき》に言ってこの人物、おっそろしくキャラが濃《こ》ゆい。
ニスを塗《ぬ》ったようにツヤ光りする、見事《みごと》に剃《そ》り上げた頭部。常《つね》に悠揚《ゆうよう》たる微笑《びしょう》を湛《たた》える二重の大きな瞳と、それを縁取《ふちど》る天然《てんねん》ひじきみたいに太い睫毛《まつげ》。さらには絵に描いたようなチョピひげと、その下のくちびるから覗《のぞ》く、芸能人も真っ青な白い歯並び。
首から上だけでもこの濃厚《のうこう》さだが、その下はさらにすごい。
峻護をもゆうに超《こ》える長身を鎧《よろ》うのは、ボディビルで鍛《きた》えぬいた筋肉の塊《かたまり》。塗り込めたオイルで軟体《なんたい》生物のようにぬらぬら光る無毛《むもう》の全身は、ただ立っているだけでも渾身《こんしん》のカを漲《みなぎ》らせてピクピクと震え、それでいて苦しげな様子は微塵《みじん》も見せずにジェントルスマイルを維持《いじ》し続けている。
これだけでも十二分に度肝《どぎも》を抜くビジュアルだろうが、まだ極《きわ》めつけがある。狭い店内を圧迫《あっぱく》する彼のエキセントリックな巨躯《きょく》を覆《おお》っているのは――なんと、『マルイワ』のマークをつけたエプロンただ一枚なのである。
すなわち『裸《はだか》エプロン』なのである。
いや無論、これ[#「これ」に傍点]をそこ[#「そこ」に傍点]にカテゴライズしようとすれば各方面より苛烈《かれつ》な抵抗《ていこう》を受けるだろうが、それでも分類《ぶんるい》学上(?)、岩本源一郎三十五歳の出《い》で立ちは確かに、俗《ぞく》に称《しょう》されるところの『裸エブロン』なのである。
あらゆる意味で型破《かたやぶ》りなこの精肉店主だが、近所のおばさま連中《れんちゅう》にはこのキャラクターが大受けだったりするし、見た目のアレさ加減《かげん》に反して中身はとても紳士的《しんしてき》な好漢《こうかん》だったりするのだが――
「時に峻護くん」むぅん、と、いかにもボディビルダーらしいポーズをとりながら、「今日は何が物入《ものい》りでありましたかな?」
百点満点のマッスルスマイルを借《お》しげもなく披露《ひろう》しつつ、
「マルイワ本日のオススメは、」
むぅん、とポーズを変える。上腕二頭筋《じょうわんにとうきん》が鋭《するど》く切り立った山塊《さんかい》のごとき盛《も》り上がりを見せ、
「こちらの特選地鶏《とくせんじどり》」
むぅん、とまたポーズを変える。大胸筋《だいきょうきん》がそこだけ別の生き物のようにうねうね動いてその充実《じゅうじつ》ぶりを激《はげ》しくアピールし、
「半年に一度めぐり合えるかどうかの値打《ねう》ちものです」
むぅん、とまたまたポーズを変える。広背筋《こうはいきん》がヘビの群れみたいに蠕動《ぜんどう》してかつてないパフォーマンスを示し、
「一羽まるごと買っても損《そん》はさせませんが……いかがでしょう?」
むぅん、と最後にもう一度ポーズを変え、白い歯をキラリと輝かせた。カーテンコールに応《こた》えて出演者|勢《せい》ぞろい、という感じで、全身の筋線維《きんせんい》が解剖《かいぼう》したカエルのようにピクピク痙攣《けいれん》している。
肉屋の売り口上というより岩本源一郎オンステージという感じだが、これが彼のいつものスタイルであり、峻護は慣《な》れたものである。
「なるほど、それはそれで興味《きょうみ》はあるんですが……」と営業トークをはぐらかしてから、
「実は源さん、今日は別の用事がありまして」
ここからが本題、まずはあいさつも兼《か》ねて真由に自己《じこ》紹介《しょうかい》でもしてもらおうと振り向いたのだが――
そこには誰《だれ》の姿《すがた》もなかった。
見れば。
サキュバス少女はいっそ感嘆《かんたん》するほどの快足《かいそく》で敵前《てきぜん》逃亡《とうぼう》を果たし、商店街を行き交う群衆《ぐんしゅう》の向こうに消えようとしていた。
*
なおもポーズを取り続ける裸エプロンの肉屋に頭を下げ、峻護は逃亡者《とうぼうしゃ》を捜索《そうさく》に出た。
ほどなく商店街のはずれの電信柱《でんしんばしら》の陰《かげ》にうずくまる人影《ひとかげ》を発見して、
「月村さん?」
「……ムリですっ!」
頭を抱え両目をしっかり閉じて、真由はいやいやをした。
「だっ、だめなんです、わたし、もともと男の人はだめだけど、ああいうその、コテコテな人は、申《もう》し訳《わけ》ないですけど、本気でだめなんです……!」
どうやら危惧《きぐ》していたことが現実になってしまったらしい。
「だめです……ありえないです……百パーセント不可能《ふかのう》ですー……あ、あのひと相手に買い物なんて、ぜったいムリですよう……」
怯《おび》えた小鳥のように震えながらブツブツ呟《つぶや》く真由。
「――わかった、やっぱり少しハードルが高すぎたな。今日はもうあきらめて帰ろう。今後はもう少し易《やさ》しいやり方でリハビリすればいい。姉さんにはおれから言っておく」
そばに屈《かが》み込み、目線を合わせて説《と》く。
「……いいえ」
が、しばしの後、彼女は震えを止めて顔を上げ、
「いいえ、やります。弱音を吐《は》いてすいませんでした。行きましょう」
「いや、だけど……」
「お願いします、やらせてください。だって――」はにかみながら、「わたし、ここに来てからずっと二ノ宮くんに迷惑《めいわく》かけてばかりです。それなのにここでちょっときついからって逃げてたら、申し訳が立たないです。いつまでたっても変われないです。少しでも恐怖症を直して、ご恩《おん》返しがしたいんです」
弱々しい声だったが、そこには不退転《ふたいてん》の決意が滲《にじ》んでいた。
「――わかった、最後まで付き合うよ。でも無理《むり》だけはしないように。だめなら我慢《がまん》しなくてもいいから」
「いいえ、やります。ここで自分に負けてたらこの先もずるずる負け続けちゃいます。だからやります。それに涼子さんとも約束しました。明日に向かって誓ったからには、必ず勝利を持ち帰らないといけません」
「いや……そのあたりのことは深く考えないでいいと思うけど。持ち帰るのはただのコロッケだし。なにより姉さんの言うことを真に受けすぎるのは……」
その点については強く勧《すす》めたが、真由に受け入れるそぶりはない。
それどころかいっそう瞳をキラキラ輝かせ、
「さあ行きましょう。リベンジです。今度こそ、是《ぜ》が非《ひ》でも試練を果《は》たしましょう!」
宣言する声も勇ましく、峻護を先導《せんどう》して力強く歩き出した。
*
再び、精肉店『マルイワ』である。
「いらっしゃいませ。この道ひとすじ二十年、町のホッとステーション、糟肉店マルイワへようこそ……おや峻護くん。どうしたんですか先ほどは。あわてて出て行ってしまって」
むぅん、とポーズを取り、裸エプロンの店主がマッスルスマイルを向けてくる。
「すいません、若干《じゃっかん》のアクシデントがありまして。ところで源さん、今日は源さんに紹介《しょうかい》したい人がいるんです」
前置きし、早くも石化しかけている運れを引き出して、
「月村真由さんです。実はですね……」
と峻護、かいつまんで事情《じじょう》を説明する。
「――ほう、男性恐怖症。それは難儀《なんぎ》なことです」同情をこめて、むぅん、とボーズを取り、「それで要《よう》するに、私はいつも通りにしていればいいのですな?」
「はい。そうしないと彼女のためにならないので。よろしくお願いします。――さ、月村さん。それじゃあ後は任《まか》せたから」
「は、はい……」
幽体離脱《ゆうたいりだつ》寸前の顔をしていた真由だが、それでもどうにか一歩を踏《ふ》み出して、
「う……あ……」
だが震えるくちびるからはなかなか言葉が出てこない。
そうこうするうちに源さん、むぅん、とポーズを取り直し、
「それではいつも通り、私は私の商《あきな》いを全《まっと》うするといたしましょう」
再度《さいど》のマッスルスマイル。己《おのれ》の肉体美を偏愛《へんあい》する彼には、あらゆる男性を虜《とりこ》にするサキュバスの魅惑《みわく》もさして眼中《がんちゅう》に入ってないようだ。
「さて、先ほども申し上げましたが――本日のオススメは、こちらの新鮮《しんせん》な地鶏《じどり》」
「あ……う……」
「こちらは大変よい品ですよ。どうです、この美しい色合いとなまめかしい艶《つや》っぶりは? 私の肉体に勝《まさ》るとも劣《おと》らない至高《しこう》の逸物《いちもつ》とは思いませんか? 煮《に》て良し、焼いて良し、生《なま》で良し。こちらの逸品、お嬢さんの初来店を記念して本日限りの特別価格でご提供いたしましょう」
「そ……ちが……きょ……は、」
「むう?……ほほう、そういうことですか。お嬢さんお目が高い。こちらの特選《とくせん》牛ヒレ肉に目をつけるとは、あなた素人《しろうと》じゃありませんね? いいでしょう、初来店記念にお嬢さんの目利きをプラスして、グラム当たりこの値段《ねだん》でいかがです?」
「ち……そ、じゃな……コロ……」
「おやおやこの値引きでもまだ足りないと? お嬢さん、いい奥さんになれますよ。わかりました私も男です、ズバリこの値段でいかがでしょう!」
むぅん、とボーズを取りながら電卓《でんたく》を差し出しつつ、カウンターから身を乗り出した。そこが限界《げんかい》だった。
「ひうあ」
いわく言い難《がた》い鳴咽《おえつ》を洩《も》らしたかと思うと、
「――ムリですっ!」
反転し、峻護の胸元《むなもと》にダイブしてきた。
「ムリですダメですぜったいムリです怖《こわ》いです怖いですよう!」
マシュマロのような、羽毛布団《うもうぶとん》のようなやわらかい感覚が、文字通り胸いっぱいに広がる。ぐは、と断末魔《だんまつま》じみた吐息《といき》が峻護の肺から絞《しぼ》り出される。
「こわいですこわいんです土台《どだい》むちゃだったんです帰りたい、帰りたい、帰りたい……」
とっておきのホラー映画を見せられた子供みたいにしがみついてくる。だが彼女の身体《からだ》は子供ではない。おまけにこの少女は蠱惑《こわく》の女王、サキュバスなのである。夜の種族ならではの甘美《かんび》な刺激《しげき》は正確に峻護の心臓《しんぞう》を狙《ねら》い打ち、彼の理性を的確《てきかく》に削《けず》り取ってゆく。本心から怯《おび》え、その怯えに全身を支配《しはい》されているはずなのに、どうしてこう、背に回してくる腕だとかすり寄せてくる腰《こし》だとかが妖《あや》しい雰囲気《ふんいき》たっぷりなのだろう。
こうなると真由より峻護のほうが危なかった。まさかこんな場所でアニマルと化し、本能をさらけ出す訳《わけ》にはいかない。
「源さん」妙《みょう》に抑揚《よくよう》を欠いた声で、「すいません。また出直してきます」
「――わかりました。私はいつでもあなたがたのご来店をお待ちしておりますよ」
むぅん、とポーズを取りながら手を振《ふ》る裸エプロンの店主を背に、しっかり抱きついてくる真由を引っ提《さ》げたまま、全身にギプスをしたような足取りで店を後にした。
*
「――すいません。またやってしまいました」
近所の公園のべンチで、真由はこの上なく沈《しず》んでいた。
「正直、へこたれました。自分に失望《しつぼう》しました。わかってたつもりだけどほんとうに駄目なんですね、わたしって。どうしてこう駄目《だめ》なんでしょう。弱々《よわよわ》です。お話になりません。ほんとにすいません、口ばっかりで、ぜんぜん結果を出せなくて」
肩を落とし、背中を丸めてため息をつく様子は、まさしく敗残者《はいざんしゃ》のそれである。
しかし今回ばかりは相手が悪い。真由の事情を知る者ならばここでリタイヤしたからといって誰も責《せ》めはすまい。無論《むろん》、峻護としてもドクターストッブ推奨《すいしょう》である。
が、判断《はんだん》を下すのは彼ではないのだ。
「どうする月村さん? もうやめておく?」
「――やります」
果たして、この可憐《かれん》なる挑戦者《チャレンジャー》は毅然《きぜん》として立ち上がり、瞳に闘魂《とうこん》をみなぎらせ、
「余裕《よゆう》しゃくしゃくではないけど、まだいけます。これが最後の勝負です。今度はぜったい退きません。それにこれは明日に向けて誓ったことですから」
「いや、だから。姉さんの言うことは聞き流していいと思うけど」
しかし彼女が聞き流したのは峻護の忠告《ちゅうこく》の方だった。
「さ、行きましょう。わたし、栄光《えいこう》を手にするまでぜったい家には帰りませんから」
*
「いらっしゃいませ、お二方」
『マルイワ』の暖簾《のれん》をくぐるのは本日三度目ながら、裸エプロンの店主は嫌《いや》な顔ひとつせず、律儀《りちぎ》に例のポーズで出迎《でむか》えてくれた。
「ビーフとポークとチキン、そしてこの私の織《お》り成すタンパク質のハーモニー、精肉店マルイワへようこそ。お二方、此度《こたび》こそは私の眼鏡《めがね》に適《かな》った逸品の数々を購入《こうにゅう》する準備《じゅんび》、整っておりましょうな?」
「はあ、たぶん。……さ、月村さん。あとは任せるから」
促《うなが》され、青コーナーより挑戦者入場。
「う……あ……」
「ふふふ、それでは改《あらた》めて商売と参《まい》りましょう。さあお嬢さん、入用《いりよう》の品をどうぞお申し付けあれ。なんなりと用意させていただきますよ」
「あ……う……」
高く分厚《ぶあつ》い|源さん《チャンプ》の壁《かペ》に、死力を尽《つ》くして立ち向かう|真 由《チャレンジャー》。
「は……はじめ、まして……わた、月村、真由と、申します」
よし、と峻護《トレーナー》はこぶしを握《にぎ》る。まずは順調《じゅんちょう》な滑《すべ》り出しだ。彼女にしては。
「ふむ、月村真由さんですね。私は岩本源一郎、この店のオーナーを務めております。以後、お見知り置きを」
むぅん、とボーズを取る裸エプロンの店主。僧帽筋《そうぼうきん》が活《い》きのいいナマズのように跳《は》ね、そのコンディションのよさをこれでもかと見せ付けてくる。
ごきゅ、という変な音が真由の喉《のど》から漏《も》れ出したが、どうにか持ちこたえる。
「ども、です、わた……し、今は……二ノ宮くん、の家に、います……恐怖症を……直します」
「承知《しょうち》しておりますとも。応援《おうえん》しておりますから、ぜひ頑張《がんば》ってくださいね」
「ほ、本日はお日柄《ひがら》もよく……」
「ふむ、たしかにいい天気でありますな」
「さ、幸いにも好天《こうてん》に恵まれて絶好の運動会|日和《びより》……保護者《ほごしゃ》の皆様方《みなさまがた》も数多く列席《れっせき》されて……健《すこ》やかな身体と精神を育《はぐく》んでください……」
「むむ? ええ、たしかにそれも結構《けっこう》ではありますが」
いけない。意識《いしき》の混濁《こんだく》が始まっている。
「人生には大切にすべき三つの袋《ふくろ》がございまして……」
どうする? 止めるべきか? だが彼女があれだけ必死に立ち向かっているのだ。介添人を任じる身とはいえ、水を差したくない。いや、であるからこそ、見届けねば。
「……立てよ国民、国民よ立て……神は死んだ…………」
「――ふむ。それでお嬢さん、あなたは一体なにを求めに来られたのです? それだけ申し付けていただければ、あとはこの私がなんとでもいたしますが?」
「あいはぶあどりーむ……」
「お嬢さん?」
「老兵《ろうへい》は死なず、ただ消え去る、の、み……」
ゼンマイの切れたオルゴールのように語尾《ごび》がフェードアゥト。
だめか。
「――すいません源さん、お騒《さわ》がせして。お忙《いそが》しいところありがとうございました」
「ふふ、お気になさらず。誇《ほこ》り高き我《わ》が店の扉《とびら》は、常にあなた方のために開けておきましょう。どうぞまたのご来店を」
一点の曇《くも》りもないマッスルスマイルで応《こた》えてくれた|裸エプロンの人《ウイナー》に深々《ふかぶか》と辞儀《じぎ》をし、立ったままKOされた敗北者《ルーザー》を抱えて速《すみ》やかに撤収《てっしゅう》する峻護であった。
*
近所の公園のベンチで、真由はこの上なく挫《くじ》けていた。
「ダメでした……」
海溝《かいこう》の底の底まで沈《しず》み込んだ声。力ない吐息《といき》からはエクトプラズムまで漏《も》れ出してきそうな気配《けはい》である。
「所詮《しょせん》わたしなんてこの程度《ていど》の人間だったんです。ミジンコにも劣《おと》ります。いいえ、ミジンコさんと比《くら》べるなんて失礼も甚《はなは》だしいです。店主さんにも本当、申《もう》し訳《わけ》ないです。土下《どげ》座でもしてお詫びしたい気持ちでいっぱいです。切腹《せっぷく》とかでもOKです。いいえ、切腹なんて賛沢《ぜいたく》です。そう、打《う》ち首《くび》獄門《ごくもん》がふさわしいです。わたしは打ち首獄門が世界一|似合《にあ》う女なんです……」
もはや弱音の見本市《みほんいち》だ。
「わたしは負け犬です。もういいです。しょせんは無謀《むぼう》な試《こころ》みだったんです。自作の羽で太陽目指して落っこちたイカロスも真っ青ですよ。おへそがお茶を沸《わ》かしすぎて跡形《あとかた》もなく蒸発《じょうはつ》しますよ……」
「月村さん、そこまで自分を卑下《ひげ》するものじゃない。君は十分がんばったじゃないか」
「いいえ。わたしはそれだけのことをしてしまいました。二ノ宮くんにも涼子さんにも本っっっ当に、申し訳ないでず。どじょう掬《すく》いでも泡踊《あわおど》りでもなんでもしてお詫びしますから、どうかそれでご容赦《ようしゃ》を……」
「いや。泡はまずいから」
本気でやりかねない勢《いきお》いに一応|釘《くぎ》を刺《さ》しておく。
「それで、どうする? 月村さん」
たずねる。が、もう返答は見えている。
「……。すいません」
案《あん》の定《じょう》、真由は力なくかぶりを振った。無理もないだろう。源さんがそこにいるというだけでメッタ打ちである。指先ひとつでダウン、どころの話ではない。端《はな》から勝ち負けにならないのだ。
だが――ここで止《や》めさせてしまっていいものだろうか。
せっかくあれだけやる気を見せていたのに何の成果《せいか》もなくすごすご引き下がるのでは、今後における彼女の男性恐怖症|克服《こくふく》ブログラムの進行に重大な支障《ししょう》を来たすのではあるまいか。
いや。そんな建前《たてまえ》ではなく。
峻護自身、やはり彼女には本懐《ほんかい》を遂《と》げさせてやりたい。そのために彼女の力になってやりたい。そしてどうせなら。こんな暗い顔でなく、明るく笑った顔を見ていたい。
「無駄《むだ》なお手間《てま》をお掛《か》けしてすいませんでした。もう帰りましょう……」
判断《はんだん》するのは彼ではない。
だが。
「――この軟弱者《なんじゃくもの》ッ!」
「……え?」
いきなり怒声《どせい》を浴《あ》びせ掛けた峻護に、ぱちくりと目を見開く真由。
「月村ッ! そんなことでどうするんだこの馬鹿野郎《ばかやろう》! 甘ったれるんじゃない!」
さらに。
ぺちり、と、軽〜いビンタをかました。
「あ……」
よよよとふらつきながら頬《ほほ》に手をやり、飼《か》い主に叱《しか》られた子犬みたいな顔をする真由へ、さらに畳《たた》み掛ける。
「あの時の誓いはどうした! 明日に向かって叫《さけ》んだあの約束、君はもう忘れてしまったというのかッ?」
「誓い……約束……」
「その手にしかけた勝利を、目と鼻の先にある栄光を、これっぽっちのことで無にしようというのか? 目を覚ませッ!」
「勝利……栄光……」
「さあどうする? やるのか? やらないのか?」
「――やります」
真由の瞳に闘志《とうし》がよみがえった。あっさりと。
「やります。誓いと約束は命に代えても守らねばならず、勝利と栄光は死を賭《と》しても手にしなければなりません。弱音を吐いてすいませんでした」
「……よし、わかればいいんだ。君ならできる。自信を持て!」
「はい、コーチ!」
文句《もんく》なしの返答に大きく頷《うなず》きながら、峻護は涼子の艶《つや》っぽいウインクを思い浮《う》かべていた。――これでいいんだな、姉さん。でもこの手は今後、できるだけ使わないようにしよう。ちょっと便利《べんり》すぎて恐《こわ》いから。
「……よし、それじゃあ早速《さっそく》もう一度、マルイワへ」
「あっ、あの、その前に――」
戦場へ向かいかけた峻護をもじもじと引き止める。
「その前にひとつだけ、お願いしてもいいですか?」
*
それからしばしの後。
糖肉店『マルイワ』の前で、峻護と真由は仁王立《におうだ》ちしていた。
足もとをつむじ風が駆《か》け過《す》ぎ、どこからか湧《わ》いた砂埃《すなぼこり》が舞《ま》い踊《おど》る。西部劇で、賞金首《しょうきんくび》の群《む》れる酒場へと乗り込むガンマンたち――そんなワンシーンに見えなくもない。
が、そんな乾《かわ》いた連想《れんそう》をするには、この二人の様相《ようそう》はいささか艶《つや》めきすぎていた。寄《よ》り添《そ》うようにして並ぶ彼らが手にしているのはリボルバーではなく、お互いの掌《てのひら》なのである。
『わたしに勇気をください』
との申し出によりこういうことになっている。彼女を煽《あお》った責任があるだけにもとより断《ことわ》れるはずもないが、しかしなんともこれは。手をつなぎ、そろってうつむきがちに頬を染めている姿。誰がどう見てもそういう取り合わせ[#「そういう取り合わせ」に傍点]に見えるではないか。
雑念《ざつねん》を頭から追い出し、声をかける。
「月村さん、覚悟《かくご》はいい?」
無言《むごん》でうなずく。決意《けつい》のほどはその眼差《まなざ》しで知れた。
うなずき返し、並んで死地《しち》へと踏《ふ》み込んだ。
「ほほう……」
暖簾をくぐってきた二人の姿を見て、裸エブロンの筋肉男が眉《まゆ》をくいっと上げる。
「もう諦《あきら》めたかと思っていましたが……そちらのお嬢さん、なかなか見所がおありになるようだ。しかし――よろしいのですかな?」
むぅん、とポーズを取りながらセクシーな流し目。
「私も商売人の端《はし》くれ、己の信条《しんじょう》による商《あきな》いには全力を尽《つ》くします。その結果、お嬢さんが再起不能《きいきふのう》になることもありえますが……?」
「大丈夫です。今回の彼女は一味違いますから」
言って、峻護は繋いだ手をいっそう強く握った。真由から激《はげ》しい怯《おび》えが伝わってくるが、それでも彼女は力強く峻護の手を握り返してくる。
「なるほど……いいでしょう、それでこそ私も遠慮《えんりょ》なく商いができるというもの。見事《みごと》、この私から目的の品を買い取ってごらんなさい」
むうん、と、今日一番のマッスルポーズを決めてみせる源さん。なかなかノリノリである。
「さあ、私はいつでもいいですよ。かかってらっしゃい」
「ありがとうございます。……さあ月村さん、これが本当に最後の勝負だ。がんばって」
こく、と頷く真由。
手を繋いだまま。二人して源さんの前まで進み出る。
「さあお嬢さん、ご注文をどうぞ」
むうん、とボーズを変え、立ちはだかる。ノリノリな主《あるじ》の意気に応えてか、全身のありとあらゆる筋肉が、かつてないほどハッスルしている。
その筋線維《きんせんい》の権化《ごんげ》たる精肉店主と相対《あいたい》しながら、だが男性恐怖症の少女は震えつつも一歩も退《ひ》こうとしない。
「……はじめ、まして……わたし……真由月村と……申し、ます」
「ご丁寧なあいさつ、痛《いた》み入ります。さあ、本日のご用件をどうぞ」
「わ……今、は……二ノ宮、くん、の、家に……恐怖症を直し……」
「たいへん結構なことです。応援していますよ」
「本日はお日柄もよく……」
「ええ、確かにいいお天気です。我が筋肉もまた絶好のコンディションですぞ」
「さ、幸いにも好天に恵まれて絶好の運動会日和……」
「…………」
いけない。また自分を見失いかけている。このままでは。
どうする?
「…………」
――がんばれ、月村さん。
つないだ手をぎゅっと握った。はっとこちらを見上げてくる。気づかないふりをして、もういちど握った。強く強く、握り返してきた。
声質《こえしつ》が変わる。震えながらも、気迫《きはく》に満ちて。
「……運動会日和、ですが、今日はそんなことよりも、もっと、大事《だいじ》な、ことが」
よし。
「うう……三つの袋……じゃなくて……ひうぁ……立てよ国民……でもなくて……」
だが限界は近い。それでも、朦麗《もうろう》としているであろう意識《いしき》の中、真由は懸命《けんめい》に言葉をかき集めている。
固唾《かたず》を呑《の》んで見守る。
「わ、わたしが今日、ここに来たのは、」
「うかがいましょう」
さあ、
「わたしは……お買い物に……」
「何をお求めですか?」
来い!
「こ、 コロ……コロッケ――コロッケを、くださいなっ!」
「――ふふ、よく頑張りましたねお嬢さん」
とびきりジェントルに微笑《ほほえ》み、親指を立ててみせる源さん。
「任《まか》せておきなさい。我が入生最高のコロッケを揚げること、ここに約束しましょう。しばしお待ちあれ」
得意《とくい》のポーズで代金を受け取り、言葉どおりに丹念《たんねん》な仕事で注文に応《おう》じる源さん。整えめながらも珍《めずら》しくガッツポーズを取る峻護。自らの勝利をいまだ呑み込めず呆然《ぼうぜん》とする真由。
そしてその手へ、ついに栄光《えいこう》の証《あかし》が――
*
「やりました! わたし、やりましたよっ!」
『マルイワ』を飛び出して、大喜びの真由である。
ウサギのようにぴょんぴょん跳《は》ね回り、ワルツを踊るようにくるくる回る。かつて、彼女がここまで感情を露《あら》わにしたことがあっただろうか。
「やりましたあ……ほんとうに、やれちゃいましたよう……」
ほくほく顔でコロッケの包みを抱きしめる。
「よかったな、月村さん」
「はい! たいへん、よろしかったです!」
はじける笑み。
「なんだかもう、無敵《むてき》の気分ですよ? 今のわたしならなんでもできそうですよ? 男子校の相撲部《すもうぶ》にだって入れちゃいますよ?」
浮《う》かれきっている。だが苦笑しながらも峻護、水を差す気はない。事実《じじつ》それだけの難関《なんかん》であり、快挙《かいきょ》だったのだ。この一歩は人類にとって取るに足らない一歩だが、彼女にとっては大きな一歩となるだろう。
「ともかくもめでたいことだ。君はよくがんばったよ。おめでとう」
「えヘへ、ありがとうございます。でも――」
笑顔を朱《しゅ》に染めてこちらを向く。
「それもこれもみんな、二ノ宮くんのおかげです。二ノ宮くんがついててくれなければ、ぜったいこんなことできませんでした」
「いや、おれは何もしていない。すべて月村さんが自分で成し遂げたことだ」
「いいえ! ちがいます! 二ノ宮くんがいてくれたからこそ、です!」
ぐい、と顔を寄せて力説《りきせつ》する。
「そ、そう?」
「そうです!……あ」
興奮《こうふん》のあまり目と鼻の先まで迫《せま》っていたことをようやく自覚《じかく》したのだろう。赤外線《せきがいせん》ヒーターのように赤い顔になっていそいそと身を退き、それきりつま先に視線を固定して黙り込む。
「と、とにかくだ」
咳払《せきばら》いをして、なんだか妙な具合《ぐあい》になってきた空気を払いのけながら、
「今日の月村さんはよくやった。この分なら男性恐怖症を克服できる日も近いんじゃないか」
「はい、わたしもそう思います。二ノ宮くんがいてくれればきっと。これからもどうかよろしくおねが――」
「いやはや失敗失敗、私としたことが肝心《かんじん》なことを忘れていましたよ」
「!」
振り向けばそこにいる、岩本源一郎三十五歳である。
てかてか光るゴールデンボディを膨《ふく》らませながら真由に近づき、
「お嬢さん、先ほどはよく頑張りましたね。感動いたしました。なにやら私も自分のことのように嬉《うれ》しい気持ちですよ」
むうん、と、全身の筋肉で破顔《はがん》する源さんだが――その言葉どおりに興奮|気味《ぎみ》であったことと、さらには彼の丁寧で真面目《まじめ》な性格が、お互いにとって不幸に働いた。
「さて、忘れていたこととは他でもない――こちら、先ほど渡し損《そこ》ねたお釣りです。喜びのあまりとんだ失態《しったい》をお見せしました。さあ、どうぞ」
止める間もなく数枚の硬貨《こうか》を手渡していた[#「手渡していた」に傍点]。それも客商売の律儀《りちぎ》さゆえか、わざわざ真由の手を両手で握って。
ひとたまりもなかった。
「…………はう」
吐息《といき》を洩《も》らすなり、お花畑の向こうに逃避《とうひ》してぶっ倒《たお》れる真由。
そして彼女の悪癖《あくへき》がもうひとつ。それは異性《いせい》に触《ふ》れただけで、相手の精気を無意識《むいしき》のうちに、際限《さいげん》なく吸《す》い出してしまうこと――
「……油断した」
片手で顔を覆《おお》いながら峻護は惨状《さんじょう》を見やる。
きゅう、と目を回すサキュバス少女と、一瞬《いっしゅん》で精気を吸われ尽《つ》くして地に伏《ふ》せる裸エプロンの大男。何事かとぞろぞろ集まり出す野次馬《やじうま》たち。
やはり、一朝一夕《いっちょういっせき》でどうにかなる問題ではなさそうである。
「はあ……」
各方面へ向ける弁解《べんかい》と、これをきっかけに再び失意の海溝《かいこう》に沈むであろう真由のサルベージの仕方《しかた》を模索《もさく》しつつ、眼前《がんぜん》に広がるいばらの道に覚悟《かくご》を新たにする峻護であった。
おしまい
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真由、街へ出るのこと
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真由《まゆ》がクラスに馴染《なじ》めていない。
ということを|二ノ宮《にのみや》峻護《しゅんご》が気にし出したのは昨日今日の話ではない。実際《じっさい》それは彼女が神宮寺《じんぐうじ》学園《がくえん》に転入《てんにゅう》した初日から続く傾向《けいこう》であった。
といって具体的なイジメがあるというわけではないし、加えてそれは男子|生徒《せいと》を除《のぞ》いての話である。あらゆる男性を蠱惑《こわく》する『サキュバス』たる月村《つきむら》真由のこと、そちらの面での不安《ふあん》はない。
気になるのは女子生徒たちの反応《はんのう》だった。真由に対する態度《たいど》が妙《みょう》に淡白《たんぱく》なのである。
もちろん事情《じじょう》は汲《く》める。真由の周囲《しゅうい》は殺気《さっき》立《だ》った男どもが群《む》れ集《つど》う戦場《せんじょう》だ。気軽《きがる》に近寄って声をかけられる環境《かんきょう》ではない。加えて真由当人からして人付き合いが得意《とくい》とは言いがたい。だがそれらを最大限《さいだいげん》に考慮《こうりょ》しても、彼女たちの転入生に対する態度はよそよそしいように思えた。
もしかすると峻護が知らないだけで実はイジメられたりしているのだろうか。だとすれば真由の性格からしてそれを口にしない可能性《かのうせい》が高いと思われる。そういえば以前《いぜん》、一年A組女子は真由を男子|側《がわ》に売り渡した前科《ぜんか》もある。もちろんそれは、いかにも彼女たちらしい悪趣味《あくしゅみ》なジョークだったはずだが、こうなってくるとその解釈《かいしゃく》にも大幅《おおはば》な修正《しゅうせい》が必要になるかもしれず、かといって気の利《き》いた処方《しょほう》を編《あ》み出せるような器用《きよう》さなど朴念仁《ぼくねんじん》の彼にあろうはずもなく……。
こうして真由の孤立《こりつ》は峻護の数多い不安材料のひとつとなり、彼の持病《じびょう》であるストレス性胃炎《せいいえん》の一因《いちいん》となっているのだった。
そんな、ある日のことである。
*
その日の力リキュラムも終了《しゅうりょう》し、あとは帰路《きろ》に就《つ》くばかり、となったホームルーム後。
峻護と真由の前に立ったのは、毎度《まいど》のごとく殺到《さっとう》してくる男子生徒たちではなかった。
「はぁい、お二人さん。ちょっといいかしら」
一年A組女子のリーダー格《かく》、綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》と他数名の少女たちである。
「……何か?」
峻護は警戒《けいかい》も露《あら》わな顔をした。基本、この綾川日奈子から声をかけられる時はろくなことがない。歴史《れきし》がそれを証明《しょうめい》している。彼女を始めとする同級生女子たちには、峻護によからぬいたずら――具体的にはセクハラ――を仕掛けて遊ぶ趣味があるのだ。
「二ノ宮くんに用があるんじゃなくてさ。彼女にちょっと、ね……?」
言って日奈子は真由に瞳を向け、意味ありげな笑みを浮かべた。「ちょっと付き合ってもらえる? 月村さん」
峻護の心に暗雲《あんうん》が垂れこめた。日奈子の目の色に後ろ暗いものはなさそうだが、どうにも嫌《いや》な予感《よかん》がする。
「彼女に何の用が?」
「別に用ってほどのことじゃないって。ただ一緒に帰ろうってだけ」
「――悪いけど、」
一瞬《いっしゅん》迷《まよ》った峻護だが、不安げに彼を見上げてくる真由の姿《すがた》に、結局は安全策《あんぜんさく》を採《と》った。
「月村さんはおれと一緒に帰ることになっているから。彼女はまだこのあたりの地理《ちり》に不慣《ふな》れだし、道中《どうちゅう》何があるかわからない。住んでいる家も同じだし、それが妥当《だとう》だろう」
「そんな心配しなくても大丈夫《だいじょうぶ》よお。ちゃんと二ノ宮くんチまで送るからさ」
「いや、やっぱりおれが付き添《そ》った方がいい。おれにはその責任《せきにん》がある」
「ま、そう言わず」
パチン、と指を鳴らす日奈子。それを合図に、取り巻きの女子たちがたちまち峻護を取り囲む。
「ささ、二ノ宮くんはこっち来てあたしたちとイイコトしましょうねー」
「うわ、何を――」
「だいじょーぶだいじょーぶ。月村さんを取って食おうってわけじゃないから」
「ちょっ……ちょっとやめてくれ! どこ触《さわ》ってるんだ!」
「きゃ。二ノ宮くんったら、その単語をあたしらに発音させたいわけ? 意外ー、そういうプレイが好みだったなんて。よおし、今日は何でも許《ゆる》しちゃう。好きなことさせたげるからどんどんリクエストしてね?」
「うおっ、やめ、おれは彼女を――って、だからそこを握《にぎ》ったりしないでくれと、」
「……と、ゆーわけで月村さん」
少女たちの群れへ埋没《まいぼつ》していく峻護を尻目《しりめ》に、日奈子は快活《かいかつ》に笑った。
「二ノ宮くんは野暮用《やぼよう》があるみたいだから。今日はあたしと帰ろ?」
「え? あの、でも、」
「いーからいーから。二ノ宮くんを取って食ったりしないわよ。ちょっとかじるだけで。さ、行こ行こ」
食虫《しょくちゅう》 植物《しょくぶつ》に捕《と》らわれた虫が放ちそうな断末魔《だんまつま》の叫びを上げる峻護を尻目に、真由を引《ひ》っ張《ぱ》って悠々《ゆうゆう》と教室を出る日奈子であった。
*
「あの、綾川さん。わたしの帰り道はこっちじゃなくて、二ノ宮くんの家はあっちで……」
「ま、そう言わず。ちょっと寄り道してこーよ」
校門を出てしばらくの後。
遠慮がちに申し出た連れ合いに、ぱたぱたと日奈子は手を振《ふ》った。
「それか他に急ぎの用事《ようじ》とか、ある?」
「いえ、ないですけど……」
「そ。じゃ、今日はあたしに付き合ってね。どっか行きたいとことかは?」
「いえ、あの、特には……」
「そ。じゃ、あたしのお任《まか》せね」
にこ、と笑いかけると、もじもじ俯《うつむ》いてしまう真由。
(ふうむ。やっばかなり人見知《ひとみし》りっぽい感じねー)
そんな様子《ようす》を横目で窺《うかが》いながら、日奈子は心の手帳《てちょう》にメモをつけた。
というのも彼女、綾川日奈子もまた、真由の孤立《こりつ》を憂《うれ》えている一人なのである。
本来、こじれるような話ではなかったのだ。もともと一年A組の少女たちは総《そう》じて闊達《かったつ》・開放的《かいほうてき》である。順当《じゅんとう》なら転校生の十人や二十人は苦もなく仲間に迎《むか》え入れ、今ごろはみんなで仲良く峻護《オモチャ》を使って遊んでいるはずだったろう。
だが考えてもみるといい。その場に現《あらわ》れただけで男どもをことごとく煩悩《ぼんのう》の虜《とりこ》にしてしまう転校生がある日|突然《とつぜん》現れたら、その少女はどんな目で見られることになるか?
しかも真由は彼女たちの玩具《アイドル》・二ノ宮峻護を独占《どくせん》してしまった。転校初日以来、峻護は真由にぴたりとくっついて離《はな》れないのである。それは男性|恐怖症《きょうふしょう》の彼女を保護《ほご》するための処置《しょち》なのだが、理由の是非《ぜひ》は問題ではない。ポッと出の転校生が一年A組の共有《きょうゆう》財産《ざいさん》を独《ひと》り占《じ》めしたという事実《じじつ》こそが問題なのだ。
おまけに真由は付き合い下手《べた》である。自分から積極的《せっきょくてき》にコミュニケーションを図《はか》っていくことができない。そしてこの場合《ばあい》、その性質《せいしつ》は思わしくない方向に働きうる。常《つね》に男どもからちやほやされているくせに同性には一顧《いっこ》だにしない嫌《いや》な女――そう見られたって文句は言えないだろう。
ここまで条件《じょうけん》がそろってしまえば孤立《こりつ》するのもやむをえない。そしてこのまま状況《じょうきょう》が推移《すいい》すれば陰湿《いんしつ》な結果に行き着くことは目に見えているのだ。
*
街《まち》に出た。
駅周辺《えきしゅうへん》に広がるアーケード街《がい》であり、規模《きぼ》はさほどでもない。百貨店《ひゃっかてん》の系列《けいれつ》はないし、ピルは五階|建《だ》て止まり。だが大抵《たいてい》のものはそろう。そんな場所である。
「ほらあ、月村さんってば。ぼおっとしてると置いてくよー」
「す、すいません」
きょろきょろと物珍《ものめずら》しそうに街の景色《けしき》を見回していた真由があわてて追ってくる。
「何? どっか寄《よ》りたいトコあった? 言ってくれれば寄るよ?」
「ああいえ、特にそういうわけではないです、はい」
「そ。何か見つけたら言ってね。あたしも別に急ぐことないし」
ニカッ、と笑いながら、しかし日奈子が考えているのは別のことである。
現在、真由が排撃《はいげき》されずに済《す》んでいる理由は大きく分けて二つ。ひとつには一年A組の少女たちが総《そう》じて陰湿な行動《こうどう》を嫌っていること。もうひとつは、彼女たちが新顔《しんがお》のあまりの異質《いしつ》っぷりに戸惑《とまど》い、態度《たいど》を決めかねているゆえである。前者はともかく、後者については猫《ねこ》だましをかまされて面食《めんく》らっているようなもの。長くは続かない。だから今のうちに証明しておく必要《ひつよう》があるのだ――月村真由が『いい娘《こ》』であるということを。
日奈子がそれを認《みと》めれば誰《だれ》もが納得《なっとく》する。というより異端児《いたんじ》を扱《あつか》いあぐねたA組女子全員が、暗黙《あんもく》のうちにすべての判断《はんだん》を彼女へ託《たく》している――そんな節《ふし》さえあった。つまり、綾川日奈子とはそういう少女なのである。
そして状況を憂慮《ゆうりょ》しながらも日奈子は至極《しごく》楽観的《らっかんてき》だった。……なあに、難《むずか》しいことじゃないって。転校生を街に誘《さそ》って、一緒に遊んで、友達になりました。それで万事《ばんじ》解決《かいけつ》じゃないの――そんな風に考えている。
(……しっかし……これはなんとも……)
が、真由と並《なら》んで歩いているうちに、彼女の展望《てんぼう》は早くも最初の修正《しゅうせい》を迫《せま》られることになった。
月村真由の魅惑《みわく》は異性《いせい》を見境《みさかい》なく惹《ひ》きつける。そのことは重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》していたつもりだが、それにしてもこれほどとは思わなかった。隣《となり》にいるとよくわかる。通りかかる男たちが一人残らず、まるで示《しめ》し合わせたようにだらしない目を真由に向けてくるのだ。
そしてそれらの視線《しせん》はすべて、隣にいる日奈子をスルーしていくのである。
(い、居心地悪《いごこちわる》っ)
ここまで徹底《てってい》して無視《むし》されるとさすがにちょっぴり傷つく。彼女自身、スリムな長身にショートカットのよく似合う器量良《きりょうよ》しであり、本来なら単独飛行《たんどくひこう》でも十分にスコアを稼《かせ》げる撃墜王《エース》なのだが。
(こりゃ、二ノ宮くんの気持ちもわかるわね――)
四六時中《しろくじちゅう》真由のそばにいる彼はこんなものでは済むまい。いま日奈子を素通《すどお》りしている視線はすべて嫉妬《しっと》のそれに代わり、彼を蜂《はち》の巣《す》に変えることだろう。同情に値《あたい》する。今後はもう少しセクハラに手心《てごごろ》を加えてあげることにしよう、と思った。思うだけだが。
そして二ノ宮峻護以上に同情すべきは月村真由だろう。これだけ男を惹《ひ》きつける容姿《ようし》の持ち主でありながら極度《きょくど》の男性恐怖症なのだから。
(……それより、早いとこどっか入った方がよさそうかも)
初めは好奇心《こうきしん》を逞《たくま》しくしていた真由も、人出の多い場所に出てからこのかた、その顔色は青ざめる一方である。
「月村さん、こっちこっち」
言うなり真由の手をつかみ、煩悩色《ぼんのういろ》の視線の束《たば》を振り切るように駆《か》け出した。
*
男のいない場所の方がいいだろう、との配慮《はいりょ》で日奈子が避難所《ひなんじょ》に選《えら》んだのは、プリクラ専門《せんもん》のアミューズメントハウスだった。
「なに? こういうとこ初めて?」
筐体《きょうたい》を物色《ぶっしょく》しながら訊《たず》ねると、慣《な》れない場所に連れてこられたマーモセットみたいな仕草《しぐさ》で物見《ものみ》していた真由があたふたと応《こた》える。
「あ、はい、初めてです」
「へーえ、今どき珍《めずら》しー。ああそっか、十年間外国行ってたんだっけ」
「はい、そうです」
「なんでまた? 親御さんの都合《つごう》で?」
「いえ、そういうわけでは……」
「どこの国? 向こうの生活はどんなだった?」
「あの……その……」
俯《うつむ》きがちに口寵《くちご》もる。
(……自分の身の上をあまり話したがらない、か)
まあ詮索《せんさく》が目的ではない。
「じゃ、何か興味《きょうみ》あるのがあったら言ってね。それにするから」
「あの、いえ、わたしそういうのわからないので。初めてだし……」
「そお? じゃ、これにしよっか」
新入荷《しんにゅうか》らしき筐体を選び、財布《さいふ》を取り出した。
「あっ、あの、わたしもお金出します」
「ん? いいっていいって。今日はあたしが連れ出したんだし」
「いえ、わたしも出しますから」
存外《ぞんがい》に真由は強硬《きょうこう》だった。見た目とは裏腹《うらはら》にガンコなところがあるのかもしれない。それとも、他人に借りは作りたくないという意思《いし》表示《ひょうじ》なのだろうか、これは。
「……そっか。じゃ、ワリカンってことで」
コインを入れて適当《てきとう》に設定《せってい》を済ませ、戸惑う真由と並んでスイッチオン。
完成《かんせい》したシールを手にして、
「じゃ、これを半分ずつに……」
そこでセリフが止まった。
(うわ……何これ)
真由の写真うつりが恐《おそ》ろしくいいのである。粗《あら》い画素《がそ》と安っぽい発色、しかも指先大のサイズしかないというのに。カメラという無機質《むきしつ》の眼《め》を通したほうが恣意《しい》のノイズも混《ま》じらず、かえって彼女の容姿の整い具合《ぐあい》が際立《きわだ》つのだろうか。
災難《さいなん》なのは日奈子である。こんな人間離れした容色《ようしょく》と並べられては立つ瀬《せ》がない。プリクラやろうなどと言い出したのは彼女の方ではあったけど。
「あの、綾川さん……?」
「え? ああいやなんでもない、なんでもないよ? さ、次行こ次」
……これは無《な》かったことにしよう。
そう心に決める。さりげなくブツをポケットに入れて証拠隠滅《しょうこいんめつ》に及《およ》びながら、真由に先立って店を出た。微妙《びみょう》に唇《くちびる》の端《はし》を引きつらせながら。
――なるほど、たしかに日奈子が認めれば誰もが納得《なっとく》する。
だがもし、彼女が認めなければ?
*
プリクラ屋を後にした日奈子と真由。
その姿を物陰《ものかげ》から見守る、長身の人影《ひとかげ》がある。
言うまでもない。月村真由の保護者《ほごしゃ》たる苦労人《くろうにん》の少年、二ノ宮峻護である。
セクハラ少女たちの魔手《ましゅ》から辛《から》くも逃《のが》れた彼が二人を発見できたのは、偶然《ぐうぜん》が半分、読みが当たったのが半分、といったところだろう。手荒《てあら》なことをするつもりはないだろうと信じ、そう遠出《とおで》はしないだろうと当たりをつけ、おそらく男性の目が少ないところへ行くだろうとまでは絞《しぼ》ったが、あとはもうカンだけが頼《たよ》り。運に見放《みは》されがちな彼にしては、この結果《けっか》は上々《じょうじょう》と言える。
はらはらしつつ二人の後を追いながら日奈子の考えていることにも一理《いちり》ある、と峻護は感じていた。これはやはり女の子同士の問題なのだ。男である自分が、ましてその手のことに疎《うと》い自分が下手《へた》に関《かか》わるべきではない。とはいえ成《な》るように成れ、と開き直れるほど大らかな性格をしているわけでもなく、結局こうして成り行きを見守るしかないのは、苦労人の苦労人たるゆえんだろうか。
(さて、綾川さんは上手《うま》くやってくれるかな……)
観察《かんさつ》するに諸事《しょじ》、日奈子の方が主導《しゅどう》しているようである。連れを引《ひ》っ張《ば》っていきつつ、あれこれと話し掛《か》けて打《う》ち解《と》けようとしている。だが肝心《かんじん》の真由の方は状況にあがってしまっているのだろう、ぎこちない応答《おうとう》に終始《しゅうし》している模様《もよう》だ。
(月村さん、もうちょっとこう、笑顔で、リラックスして……!)
峻護とてそう対人関係《たいじんかんけい》の得意《とくい》な方ではないが、そんな彼から見てもじれったくなる展開だった。あるいはこれが最後のチャンスかもしれない、ということは、にぶちん[#「にぶちん」に傍点]の峻護にもわかる。クラスのご意見番《いけんばん》たる日奈子が『NO』と言えば様子《ようす》見《み》の空気が一息に崩《くず》れ、真由を徹底的《てっていてき》に叩《たた》き漬《つぶ》す流れが出来上《できあが》がる可能性《かのうせい》が極《きわ》めて高い。そうなればもう彼の器量《きりょう》では如何《いかん》ともしがたい。
こうなったらダメでもともと、自分が出て行って強引《ごういん》にでも状況を変えるべきか――と思案《しあん》し始めた時。
彼の肩《かた》をポンと叩く手があった。
「デートを出歯亀《でばがめ》するのは感心しないなあ、二ノ宮くん?」
「――!」
振《ふ》り向けば、彼をセクハラフルコースにかけていた女子生徒のひとりである。
「まったく、せっかくいいトコまで行ったのに逃げ出すんだから……二ノ宮くんってひどいオトコよねえ」
「しかも逃げ出した先でこーゆーことしてるなんて。これはもう、ね? あれだよね?」
さらに数人の手勢《てぜい》が現れ、獲物《えもの》を手際《てぎわ》よく包囲《ほうい》していく。
日奈子と真由の行く先を予測《よそく》ずるのも容易《ようい》なら、そのまた逆も真なり。そこまで頭の回らなかった峻護の不注慧《ふちゅうい》であった。
「ちょ、ちょっと待――」
「さ、これからがいよいよお楽しみだからね、二ノ宮くん。逃げ出して手間取《てまど》らせた分、きっちり覚悟《かくご》しとくよーに」
「だよねー。今度は逃げられないようにちゃんと縛《しば》っとこうよ」
「手錠《てじょう》くらいじゃすぐ逃げられるもんね。あ、そうそう。あたし新開発のセクハラがあったんだ。戻ったらまずはそれから試《ため》そっと」
……こうして為《な》す術《すべ》なく連行《れんこう》された峻護は、再びセクハラの深淵《しんえん》へと沈《しず》んでいくことになるのだが――ここでは彼の名誉《めいよ》のため、その詳細《しょうさい》を描写《びょうしゃ》するのは避《さ》けることとしよう。
*
さて、肝心の二人である。
続いて日奈子が案内したのは若い女の子向けに手ごろな品をそろえた小物屋《こものや》だった。コスメやアクセサーをはじめ、オリジナルのお菓子《かし》からちょっとした服飾《ふくしょく》に至《いた》るまで、なかなかバラエティに富んだラインナップが広く取ったフロアにずらりと並んでいる。
「ここって結構《けっこう》掘《ほ》り出し物があってさ。神宮寺学園《ウチ》の子たちもよく来るのよ」
解説《かいせつ》しながら目ぼしいものを物色《ぶっしょく》する。
真由は日奈子の言葉に頷《うなず》きながら後ろをついてくる。が、ただついてくるだけで商品を手に取るそぶりはない。
「あ。月村さんってもしかして、こういうトコ興味《きょうみ》なかった?」
「いえ、そんなことはないです」
かぶりを振る。たしかに好奇の目でもって店内を見回している。だが表情は硬《かた》く、どこかびくついているようにも見える。周りは女の子ばかりなのに。
「ふうん……あ、このリップいいかも」
試《ため》し塗《ぬ》りし、鏡に向かって具合《ぐあい》を確かめてみる。真由はその様子《ようす》を手持《ても》ち無沙汰《ぶさた》に見ているだけ。
「ほら、月村さんも何か試してみなよ。そうね、これなんかどう?」
「いえ、あの、わたしは……」
「いーからいーから」
持ち前の押しの強さを発揮し、リップ片手に真由へ近づいて。
またしても日奈子の動きが止まった。
(うわ……すご)
至近距離《しきんきょり》に『姿を見せただけで男を虜《とりこ》にできる少女』の顔がある。
造形《ぞうけい》の整い具合は今さら言うまでもないが、むろん彼女の売りはそれだけでない。こうしてそばで見ると、思わずのけぞるほどの美肌《びぼう》の持ち主であることがわかる。白さといい、きめの細かさといい、ほどよいしっとり感といい――思わずぷにぷにと触《さわ》ってみたくなるような、理想的《りそうてき》なべビースキン。おまけにまったくのノーメイクだった。そんな小細工《こざいく》を弄《ろう》せずとも眉《まゆ》は適度な形を保《たも》って細く、睫毛《まつげ》はつややかに長い。もちろんくちびるは鮮《あざ》やかな桃色《ももいろ》に色づき、みずみずしく濡《ぬ》れている。
つい、目と鼻の先まで寄り、ムムムと眉根を寄せてじっくり観察《かんさつ》してしまう。
「あ、あの、その、綾川さん?」
「……ひきょうだわ……」
「え?」
「ああいや、なんでもない。なんでもないよ、うん」
(そりゃ、この顔ならコスメなんて興味も必要《ひつよう》もないわよね。ちくしょー)
恨《うら》めしい哉《かな》、月村真由――日奈子の心に率直《そっちょく》な嫉妬《しっと》の炎が燃え上がる。覚えず握り締《し》めた拳《こぶし》がわなわな震《ふる》える。
だがそこは彼女もひとかどの人物である。すぐに気持ちを切り替えて、
「まあでもよく考えるとこのリップ、大したことないかな。やめとこやめとこ。あ、今度はあっち行こーよ、あっち」
と、さらに別のコーナーへ引《ひ》っ張《ぱ》っていく。
入浴剤《にゅうよくざい》とぬいぐるみの棚《たな》を経由《けいゆ》して足を止めたのはランジェリー売り場だった。
「おっ。このブラ可愛《かわい》くない?」
赤白チェック柄《がら》の肌着《はだぎ》を手に同意《どうい》を求める。
「あ、はい。可愛いと思います」
「だよねー。ちょっとつけてみよっと」
思い立ったら即行動《そくこうどう》。早速|着替《きが》えてみた。
更衣室《こういしつ》に真由を招《まね》き寄せ、
「どお?」
「あ、はい、可愛いと思います」
「そうでしょそうでしょ? うーんどうしよっかなー、買っちゃおっかな……ああそうだ」
もう一度着替えて更衣室を出ると、
「月村さんも何か試着《しちゃく》してみなよ。そうね……じゃああたしと同じやつとか、どう?」
「あの、わたしは特に……」
「いーからいーから。リップはともかくブラをつけないってことはないでしょ? ほらほら、サイズ選んで選んで」
「……わかりました。それじゃあ――」
しばし日奈子と同じ肌着のコーナーに視線をやっていたが、やがておもむろにそのうちのひとつを手に取った。
「じゃあ、これで」
「……え? これ?」
「はい」
「…………」
でかっ。あんた、なんちゅー胸してんのよ……。
「……?」
「――ああいや何でもない何でもない。オッケーじゃあそれでいこう」
内心の動揺《どうよう》を隠蔽《いんぺい》しつつ真由を更衣室に押し込んだ。
「…………」
「ん? どした?」
「……あの、覗《のぞ》かないでください……」
「なーによー。女同士じゃん、けちけちするなっての。ほれ、さっさとつけたつけた」
言われ、ためらいがちに衣服を脱《ぬ》ぎ始める真由。
それにつれて日奈子のにやにや笑いが次第《しだい》に硬化していく。
(――ちょっとちょっと。着痩《きや》せするにも程《ほど》があるわよあんた。しかもそのサイズで何故《なにゆえ》その張《は》りを保てる? でもってそのウエストのくびれっぷりは何なこれ? ていうか腰《こし》の位置高っ。なに食ったらこんなスタイルになるのよ……?)
それでいてその肢体《したい》の柔《やわ》らかそうなことといったら、もう。
今度は衝動《しょうどう》に抗《あらが》いきれなかった。意思《いし》とは無関係《むかんけい》に伸《の》びた手が、むに、と真由に触《ふ》れた。
「や……あっ」
びくん、と震えて身をすくませ、切ない声を上げる。それがまた、背すじがぞくぞくするほど艶《つや》っぽい。
(ちょ……なに赤くなってんのよあたし! あたしはそんな趣味《しゅみ》ないからね!)
「……あの、触《さわ》らないでください……」
「ああうん、ごめんごめん。つい出来心《できこごろ》で」
あわてて真由に背を向げ嘆息《たんそく》する。女の自分でさえこうである、いわんや男をや。二ノ宮峻護をちょっと尊敬《そんけい》した。あれだけ真由のそばにいて平常心《へいじょうしん》を保っていられるその貞操《ていそう》観念《かんねん》、見上げたものである。
「……月村さーん。着替え終わった?」
「あ、はい。終わりました」
「おーし、どれどれ……」
振《ふ》り返り、試着した真由を視野《しや》に入れて。
「――よし。そろそろ出ようか。月村さんそれ買う? 買うんならレジ行って、買わないんならもっかい着替えて他の店行こ。ね? よし決まり。あたし先に外出てるから」
返事《へんじ》も待たずに踵《きびす》を返した。
(ぐあーもう、なんなのよあの子っ。反則すぎ!)
やり場のないもやもやを心中に吐《は》き出しながら足を速める。なぜ既製品《きせいひん》のブラがあそこまで似合ってしまう? 同じデザインのブラをつけてあの程度だったあたしの立場は?
我《われ》ながら身勝手《みがって》な解釈《かいしゃく》ではあるし、比べるのはいい加減《かげん》馬鹿《ばか》らしいとも思うのだが、違いをこうきっぱりと見せ付けられては意識《いしき》せざるを得ない。ごく平凡《へいぼん》なはずの品でも、月村真由がつけると途端《とたん》に輝《かがや》きを増すのである。まるでブラの方が彼女に合わせているかのように。きっと可愛いものでも清楚《せいそ》なものでも妖艶《ようえん》なものでも、どんな衣服であれ、この少女なら苦もなく着こなすことだろう。
ため息をついた。どうも彼女と居《い》る時間に比例《ひれい》して、女としての自信が削《けず》られつつあるような気がする。
あたふたと追ってくる真由の気配《けはい》を背に感じながら、この先いろいろな意味で大変な一日になりそうな予感《よかん》のする日奈子だった。
*
そして嫌な予感は的中《てきちゅう》するようにできている。
転校生を街に誘《さそ》って、一緒《いっしょ》に遊んで、友達になりました――それで終わる話のはずが、日奈子にとっては朝飯前のミッションであるはずが、ちっとも上手《うま》く運ばない。どこへ連れて行ってもどうもパッとしない。なにかと話し掛けてもどこか歯車《はぐるま》が噛《か》み合わない。
そんなこんなで早《はや》、夕刻《ゆうこく》である。
女子高生|御用達《ごようたし》のティーショップでチョコレートシフォンをつつきながら、日奈子はつらつらと物思《ものおも》いに耽《ふけ》っている。
月村真由にまつわるあれこれを大げさには捉《とら》えていなかった日奈子だが――どうやらその思い込みを大幅《おおばば》に変更《へんこう》する必要がありそうだった。
彼女はいったい何者《なにもの》なのだろう?
うまく言葉にできないのだが……この転校生は、なにか、ちがう。
なんというのか、透明《とうめい》で薄《うす》っぺらなくせに決して越《こ》えられない何かが、月村真由の周囲に薄膜《うすまく》を張っているような気がする。それは他者に対する拒絶《きょぜつ》というほどには痛烈《つうれつ》なものではなく、ひどく強固《きょうこ》な遠慮《えんりょ》、とでもいうべきもののように思われた。あるいは『孤立《こりつ》していなければならない』という強迫観念《きょうはくかんねん》じみたもの、というか。
その理由もある程度わかる。この少女は自分の容姿《ようし》がどういう種類のものかをちゃんと理解しており、そしてまた己《おのれ》の世渡《よわた》り下手《べた》なところも自覚《じかく》しているのだろう。出る釘《くぎ》は打たれる、という箴言《しんげん》を持ち出すまでもなく、突出《とっしゅつ》は軋轢《あつれき》を生む。究極《きゅうきょく》の美少女であることは必ずしも幸福をもたらさないはず。敵《てき》を作らない技術に長《た》けていないのであればなおさらだ。それが彼女の消極牲《しょうきょくせい》の一因となっていることは疑《うたが》いない。
だがそれだけではないはずだ。もっと何か別の、根深いものがありそうな気がする。
「…………」
ちら、と、真向かいに座っている連れを見やった。
真由は居づらそうにテーブルへ視線を落とし、時おり思い出したようにオレンジペコー[#オレンジペコー……気が抜ける……が、原本がこうなっている]のカップに口をつけている。とっくに話の種《たね》は尽きていた。新しくそれを拾ってくる気力もない。
(どうしたもんかなー)
日奈子は自らが無言《むごん》のうちに引き受けてきた役割《やくわり》をよく心得ている。いわば日奈子は一年A組女子代表の全権大使《ぜんけんたいし》であり、大げさに言えば彼女たちと月村真由の運命を一手に握っているのだ。それだけに判断《はんだん》はあくまで公正を期《き》さねばならない。
月村真由が『いい娘《こ》』かどうか――実のところ、そんなことは確かめるまでもなくわかっている。それは直感による見立てだったが、直感だけに確信がある。彼女が不器用《ぶきよう》であることも想像がつく。他にもいろいろ斟酌《しんしゃく》すべき点はあるのだろうし、今日一日でかなり凹《ヘこ》まされたものの悪感情を抱いたわけでもない。
だがそれでも。あくまで中立の立場において断《だん》を下さねばならない。
(弱ったなァ……)
もういちど対面《たいめん》に目をやった。月村真由は決して無表情というわけではない。マイナス方向のそれが多いことを問題にしなければむしろ表情豊かな方だ。それなのに日奈子の目には、この少女の顔が決してひび割《わ》れぬ、無機質《むきしつ》な石の仮面《かめん》であるかのように思えてきた。もっと言えば人間とは別の、何か得体《えたい》の知れないモノにさえ見え始めている。考えれば考えるほど、表面上に現れているよりずっと深く暗いものが、この少女の内に見えてくるような気がするのだ。
そして日奈子の見立ては決して外れていないのである。ただ、真由はサキュバスであることさえ知らされていない彼女にそれ以上のことはわかりようがないのも事実だった。たとえば真由がこうして街らしい街に出るのは十年ぶりのことであり、それゆえの戸惑いが行動《こうどう》の硬《かた》さに出ていること――それすらも彼女は知る立場にない。
いずれにせよ、この溝《みぞ》を埋《う》めるのはひどく骨の折《お》れる作業《さぎょう》になりそうである。
「……そろそろ帰ろっか。送ってくよ」
煮《に》えきらぬ気分のまま、日奈子は伝票《でんぴょう》を取り上げて席を立った。
*
イルミネーションが灯《とも》り始めた街の中、二人は帰途《きと》に就《つ》いている。
真由は数歩|遅《おく》れてついてくる。会話はない。
歩きながら、日奈子は憂鬱《ゆううつ》な決意を固めていた。
(……ま、ありのままを報告《ほうこく》するっきゃないか)
その結果がどうなるかもおよそ見えている。それでも日奈子は自分なりの筋《すじ》を通すつもりだった。あとは月村真由本人の問題だろう。まあ陰気《いんき》なのは好きじゃないし、それなりに穏便《おんびん》に済ませるようにはするけどさ……
などとぼやき混《ま》じりに独白《どくはく》していると。
背後《はいご》の足音がいつのまにか消えていた。
「ありゃ?」
首をめぐらせると遥《はる》か後方、置き去りにしてしまった真由のシルエットがある。
(なにしてんだろ?)
来た道を戻《もど》りながら目を凝《こ》らすと、彼女はとあるテナントのショーウィンドウの前で足を止めていた。それもただ立ち止まるだけでなく、ガラス窓に両手を置いて食い入るように中を見ている。
さらに近づいた日奈子は少なからぬ驚《おどろ》きを覚えた。真由の横顔が、まるでウェディングドレスを見つめて将来《しょうらい》に夢をはせる少女のように、あるいは憧《あこが》れのトランペットを眺《なが》める少年のように、キラキラと輝《かがや》いているのである。
(いったい何を見てるわけ?)
真由の後ろに立ち、日奈子もウィンドウを覗《のぞ》く。
そこは四階建てビルの半分を占《し》めた、かなり大きな規模《きぼ》の書店。そしてウィンドウに並んでいるのは――
(……マンガ?)
であった。何かのイベントか特別展示《とくべつてんじ》の類《たぐい》らしく、四半世紀ほど前に流行《はや》った名作のサイン本やら生原稿《なまげんこう》やらが陳列《ちんれつ》されている。
肩越《かたご》しに真由の顔を見て、彼女が熱烈《ねつれつ》な視線《しせん》を送っている先をなぞる。
「……『ねらわれたエース』に『NO.1アタッカー』……? えっらい昔のスポ根もの少女マンガじゃない。これまたずいぶん古臭《ふるくさ》いっていうかマニアックというか――」
「そんなことはありません!」
いきなり真由が大声を出した。
「古臭くなんてありません。『ねらわれたエース』だって『NO.1アタッカー』だって今でも通用《つうよう》します。キャラ立てもストーリー構成《こうせい》も、なまじっかなマンガでは比肩《ひけん》し得ない完成度《かんせいど》を誇《ほこ》る王道じゃないですか。いいえ、たとえ古臭くたってあれらの作品が持つ輝きは永久不滅《えいきゅうふめつ》なものなんです!……あ」
噛《か》み付かんばかりに迫って主張《しゅちょう》していた自分に気づいたのだろう。赤面してそそくさと距離を取る。
日奈子、いまだ面食らったまま、
「え? なに? 月村さんってこういうの好きなの? うわ、意外っていうか……」
「い、いえ、そんなことないです、はい」
「いや、それは嘘《うそ》でしょ」
「いいえ。ほんとうです。『ねらわれたエース』も『NO.1アタッカー』も、わたしにはさっぱりです」
「ぜんぜん知らないってこと?」
「はい。知りません」
目をそらしながら断言する真由の顔いっぱいに隙間《すきま》なく『うそです』と書いてある。耳なし芳一《ほういち》もびっくりだ。
「……あー、そういえばあたし、昔読んだ覚えあるなあ、『ねらわれたエース』。主人公が丘日《おかひ》ロミオって子で、その子の憧れの人がサム・ナガタってコーチね。でもってライバルのオチョウ夫人ってのが高飛車《たかびしゃ》で最高に嫌な女で……」
「ちがいます。オチョウ[#「ウ」に傍点]夫人じゃなくてオチョワ[#「ワ」に傍点]夫人です。間違《まちが》えないでください。それにオチョワ夫人はアフリカ系|移民《いみん》の留学生《りゅうがくせい》で、仕送りで家族を養《やしな》いながらテニス界の頂点《ちょうてん》を極《きわ》めた人格者《じんかくしゃ》で、誰《だれ》からも尊敬《そんけい》されています。高飛車でも嫌な女なんかでもありません」
「知ってるじゃん」
「あう」
「そういやマニアックであることは否定《ひてい》しなかったわね、さっき」
「うっ……」
「好きなんでしょ?」
「そ、そうでもないです」
「好きなのね?」
「いえ、そんなことは」
「ふうん。ま、いいや。もう行こ? 遅くなるよ?」
告げて、くるっと踵《きびす》を返し、早足に歩き出す。数テンポ遅れてあわあわと真由があとを追い、隣に並びかける。
そこで不意打《ふいう》ちを仕掛《しか》けた。
「――なってなくてよ、月村さん!」
「は、はいっ、すいませんコーチ!――ああっ、ち、ちがうんです、これは、」
真っ赤になり、手をぶんぶん振って否定する。
「……あはっ」
虚像《きょぞう》が、あるいは億測《おくそく》を捏《こ》ねて作り上げた薄膜が、ぼろぼろと崩《くず》れていく。
なあんだ。
こんな簡単《かんたん》なことだったじゃない。
なおも弁解《べんかい》を続ける『異分子《いぶんし》』の顔を見て、思う。――これって『仮面』にはできない表情だもんね。ま、単純《たんじゅん》すぎるのとノセやすすぎるのはちょっと問題だけど。
あれこれ回り道して思い悩《なや》んだ自分がひどく馬鹿らしくなってくる。
フォローも心配も要《い》らない。彼女はちゃんと、普通《ふつう》に、『いい娘《こ》』だ。
「そーかそーか、そっち[#「そっち」に傍点]だったのね、あんた」
にひひと笑いつつ、真由の肩を抱《だ》く。
「よしよし、そうならそうと早くおねーさんに言ってくれればいいのに。あたしはそっちの道でもちょっとしたものなんだから。そういう店ならちゃんと知ってるからさ、そこ行こう、そこ」
まだ残ってる猫の皮も、ぜーんぶ剥《は》ぎ取ってあげるから、さ。
いまだに言い訳じみたことを述《の》べ続ける真由に生返事《なまへんじ》をしながらUターンする。
今宵《こよい》は長くなりそうだ、という、そんな予感を抱《いだ》きながら。
そして、たまにはいい予感だって的中するのである。
*
遅い。
遅すぎる。
月光の下、二ノ宮家の玄関先《げんかんさき》で右往《うおう》左往《さおう》しながら、峻護は真由の帰りを待っていた。逃走《とうそう》に失敗して再度《さいど》捕《とら》らわれ、言語《げんご》に絶《ぜっ》するセクハラを浴《あ》びて疲労《ひろう》困懲《こんぱい》のうちに帰宅《きたく》、しかる後《のち》かくかく笑う膝《ひざ》を励《はげ》ましつつここに立ってから、もう何時間が経《た》っただろう。
やはりおかしい。寄り道するにしたって限度《げんど》がある。それに生真面目《きまじめ》な真由のことだ、普通なら暗くならないうちに帰ってきてしかるべきだろう。とすれば、まさかとは思うが綾川日奈子が何かよからぬことを……?
どうする? 信じて待つか、それとも……。
何百回目になるかわからない自問《じもん》を繰《く》り返した果て、峻護はついに決断《けつだん》した。
よし。やっぱり捜しに行こう。まずは――
と、その時。彼の聴覚《ちょうかく》は耳ざとくその声を捉《とら》えていた。少女のものが二人分。丘の上にある二ノ宮家までゆっくりと上ってくる。
そして、笑いさざめきながら近づいてくる真由と日奈子の姿が視界《しかい》に入ってきた。
(え?)
意外な思いに打たれた。綾川さんはともかく、月村さんが『笑いさざめく』だって?
「おっ、二ノ宮くん、出迎《でむか》えごくろーさん。悪かったわね、この子をこんな時間まで連れまわして」
「すいません二ノ宮くん、こんな時間まで連絡《れんらく》もなしで。つい、話が弾《はず》んでしまって」
「ああ、うん。いや……」
二人の様子を見る限《かぎ》り、峻護があれこれ想像を巡《めぐ》らせていた心配事は杷憂《きゆう》に終わったようである。
肩透《かたす》かしを食らった気分の峻護を尻目《しりめ》に、
「じゃあねー、真由ー。また明日!」
「はい、また明日です、日奈子さん」
少女たちは至極《しごく》友好的《ゆうこうてき》に手を振り合って、後日の再会を約《やく》した。
「ほんとにすいません二ノ宮くん。心配をおかけしました」
「ああいや。無事《ぶじ》ならいいんだ、うん」
まだどこか気の抜けた声で返す峻護。
「なあ月村さん?」
「はい?」
鼻歌など口ずさみながら家に入っていく真由に、尋《たず》ねる。
「いったい何があったんだ?」
「……それはですね、」
振り返った真由の顔に浮かんでいたのは。
これまで彼女がみせたどんな表情とも違う、秘《ひ》め事《ごと》めいたはにかみだった。
「それは、女の子同士の秘密《ひみつ》です」
「はあ」
ロングヘアを翻《ひるがえ》してとたとた駆け去っていく後ろ姿に、暖昧《あいまい》な呟《つぶや》きを吐く。
(……女の子ってのは、わからないな……)
結局《けっきょく》、峻護に導《みちび》き出せる結論はそんなところだった.真由が大事《だいじ》そうに胸に抱えていたB5サイズの冊子《さっし》がいわゆる同人誌《どうじんし》なるものである、ということさえわかっていれば、彼にも少しは推測《すいそく》のしようがあったのだろうが。
真由に続いて家に入る。首をひねりつつも、真由のホクホク顔を見れば「ま、いいか」
と納得せざるを得ない二ノ宮峻護であった。
おしまい
[#改ページ]
真由、アクロばるのこと
[#改ページ]
寂《さび》しげな顔だった。
「――もう、おしまいですね」
それまで見たこともないような。
「わたしはもうおしまいです。こんなはずじゃ……|二ノ宮《にのみや》くんに知られるはずじゃ、なかったのに」
「なにを言ってるんだ月村《つきむら》さん」
それでも必死に峻護《しゅんご》は縋《すが》る。かすかに残されているかもしれない希望《きぼう》に。
「きっとこれは何かの間違《まちが》い、そうなんだろう? そうだと言ってくれ」
カケラも信じていないことを精一杯《せいいっぱい》の笑顔《えがお》で言う。まったく、この状況《じょうきょう》を目《ま》の当《あ》たりにして何をどう間違えようがあるというのか。
露《あら》わになった下着姿《したぎすがた》を腕《うで》で遮《さえぎ》りながら、真由《まゆ》はかぶりを振《ふ》る。
「わたしはもう、後戻《あともど》りできない道に踏《ふ》み込んでしまったんです」
「ちがう。そんなことはない。まだいくらでもやり直せる。そうだろう?」
空々《そらぞら》しい。
わかっているくせに。
すべてが明らかにされた今、もはや何を言っても虚《むな》しいだけだとわかっているくせに。
まったく彼女の言った通りだ。こんなはずではなかった。もっとおれがしっかり彼女について、彼女のガーディアンとしての役目を果たしてさえいればこんなことにはならなかったろうに。一体いつ、どこで、道を誤《あやま》ってしまったのだろう……
信じてもいない神を呪《のろ》いながら拳《こぶし》を握《にぎ》り締《し》めて。
峻護は絶望という言葉の意味を、ただ無力《むりょく》に噛《か》み締めるしかなかった。
*
――時計を巻き戻《もど》そう。
ほんの二十分前、一年A組の教室である。
*
「これより所持品検査《しょじひんけんさ》を行う」
と、数学教師・伊達《だて》辰郎《たつろう》は教室に入ってくるなりそう宣告《せんこく》した。
『…………』
一瞬《いっしゅん》の静寂《せいじゃく》。そして。
次の瞬間、教室に非難《ひなん》の嵐《あらし》が吹《ふ》き荒れた。
無理《むり》もない。徹底《てってい》して生徒の自主性を尊重《そんちょう》するこの神宮寺学園《じんぐうじがくえん》では生徒会の権限《けんげん》が極《きわ》めて強い。風紀担当教職員《ふうきたんとうきょうしょくいん》たる伊達|教諭《きょうゆ》とて、生徒会に話を通さずしての所持品検査は越権行為《えっけんこうい》のそしりを免《まぬか》れない。
のだが、
「静粛《せいしゅく》に。生徒会は了解《りょうかい》済みだ。念書《ねんしょ》もここにある。何なら回覧《かいらん》しても構《かま》わん」
伊達教諭は彼にとって常《つね》にそうであるように、あくまで冷静に告げた。
再びの静寂。
そしてまた始まるブーイングの嵐――。
……さて、一方の二ノ宮峻護はといえば。
(まあ最後の悪あがきだろうな、これは)
彼は教室の一隅《いちぐう》で泰然《たいぜん》と事態《じたい》を受け止めていた。信望《しんぼう》ある生徒会のお墨付《すみつ》きとあっては是非《ぜひ》もない。気の済むまで反発した後、クラスメイトたちも白旗《しろはた》を揚《あ》げることだろう。もちろん峻護には所持品にやましいところなどない。検査など毎日受けても問題ない。
うんうん頷《うなず》く峻護だが、そこでふと違和感《いわかん》に気づいた。
隣《となり》の席に座っている、彼の保護対象者《ほごたいしょうしゃ》に目をやった。
男性|恐肺症《きょうふしょう》のサキュバス少女・月村真由は机《つくえ》に目を落とし、貧血寸前《ひんけつすんぜん》の青い顔で震《ふる》えていた。
「月村さん?」
呼びかける峻護の声も届《とど》いていない。
「月村さ――」
「静粛に」
もう一度、伊達教諭が眼鏡《めがね》の奥から眼光鋭《がんこうするど》く言い渡した。
「ではこれより検査を始める。右側の席から順《じゅん》に持ち物を机の上に並べるよう」
その言葉を耳に入れながら、峻護はなおも小声で呼びかける。
(月村さん。月村さん!)
だめだった。まったく聞こえていない。いよいよ蒼白《そうはく》になり、がたがたと震えるばかりである。
(まさか――)
嫌《いド》な予感がした。この状況において、真由の体調《たいちょう》が偶然《ぐうぜん》かつ唐突《とうとつ》に悪くなった……と考えるのは、お人よしの峻護でもさすがに無理があった。となれば答えは一つしかない。
(そんな、ばかな)
月村真由が、所持品検査を受けては不都合《ふつごう》なものを所有《しょゆう》している?
あのキマジメ一辺倒《いっぺんとう》な月村真由が?
今度は峻護の顔が真っ青になる番だった。いつ、どこで、そんな非行《ひこう》に走る機会《きかい》があったのか。ひとつ屋根の下どころか同じ部屋で寝起《ねお》きし、真由を保護・監督《かんとく》するのが峻護に与《あた》えられた役目である。もしもこの箱《はこ》入り娘《むすめ》を悪《あ》しき色に染《そ》まらせるようなことがあれば首が飛ぶ。物理的《ぶつりてき》に。
(月村さんに限《かぎ》ってそんなことは……いや、でも……)
小さからぬ動揺《どうよう》が峻護を襲《おそ》った。その動揺と逡巡《しゅんじゅん》がさらなる命取りとなった。
持ち物検査は粛々《しゅくしゅく》と進められ、たちまち真由の順番が回ってきた。
「月村。カバンを机の上に置き、中の物を見せたまえ」
伊達教諭の指示《しじ》にビクンと震える真由。
「月村。聞こえてないのか」
淡々《たんたん》と催促《さいそく》する伊達。
真由のこの態度《たいど》に対して、誰もが同じ意味を見出《みいだ》しているのだろう。クラスメイトたちはお互《たが》いに目配《めくば》せし合い、無言《むごん》で事の成り行きを見守っている。
重たい沈黙《ちんもく》が流れた。
そして。
次に真由が取った行動は、驚《おどろ》くほど迅速《じんそく》だった。
「ごめんなさい……っ」
カバンを引《ひ》っ掴《つか》むなり椅子《いす》を蹴立《けた》てて立ち上がり、同時に前傾《ぜんけい》姿勢《しせい》になってダッシュ。地を這うような格好《かっこう》でするすると机の間を抜け、そのまま廊下《ろうか》へ逃亡《とうぼう》したのである。
「え……?」
あっという間の出来事《できごと》、猛禽類《もうきんるい》から逃れるリスのようにすばしっこい動きだった。
床《ゆか》に転がった椅子の立てる音の残響《ざんきょう》だけが、呆気《あっけ》に取られる教室にたゆたう。
「月村さん……」
大した逃げ足ではあった。だが。
「月村さん、それは、まずい……」
あれだけの逃げ足があればまんまと逃げおおせるだろう――とは、峻護は考えなかった。
なぜなら。
「――久しぶりだな。私の手から逃れようと試《こころ》みる冒険者《ぼうけんしゃ》が現れるのは」
伊達教諭が冷静に述攘《じゅっかい》する。
「しかも月村真由のあの動き、どうやら素人《しろうと》ではなさそうだ。……よかろう」
いかに生徒会の承認《しょうにん》があるとはいえ、くせものが揃《そろ》う一年A組の面々《めんめん》がこの教師に大人しく従《したが》っているのはなぜか。月村真由の逃亡を見て、誰《だれ》もが胸の前で十字を切る時のような仕草《しぐさ》をしたのはなぜか。
伊達辰郎という、この一見どうということのない四十男の真なる姿がいかなるものであるか――この学園で知らぬ者はないのだ。……転入して間もない生徒を除《のぞ》いては。
「私が戻るまで本日は自習とする。各自、それぞれ必要な学習に励《はげ》むよう」
そう言い渡し、伊達教諭は悠然《ゆうぜん》と教室を出て行った。「もっとも、すぐ戻ってくることになるだろうが」そんな独白《どくはく》を付け加えながら――
*
校舎を出なければ袋《ふくろ》のネズミ。それは重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》している。
だがそれでも今はここを離《はな》れてはならない――真由の第六感はその旨《むね》を激《はげ》しく警告《けいこく》していた。
特別教室が並《なら》ぶ棟《とう》の、女子用手洗いである。
その個室でじっと丸まり、真由は異様《いよう》に張《は》り詰《つ》めた緊張《きんちょう》の中に身を置いていた。
この場合もっとも安全と思われる策《さく》。それはすぐにでも学園を出て可能《かのう》な限り遠くまで離れ、『あれ』を安全な場所に移《うつ》すことである。そのはずだ。なのに本能がそれを是《ぜ》としない。厳然《げんぜん》と命じるのだ、ここを動いてはならないと。
胸に抱いたカバンにぎゅっと力を入れる。
持ち物検査中の逃亡。その行為《こうい》をしかし真由は悔《く》いてはいなかった。何を措《お》いても守るべきものがある、これはただそれだけのことなのだから。
悔いるとすればそもそも『あれ』を学校に持ち込んでしまったこと、そこにまで遡《さかのぼ》らねばならない。だがそれすらも彼女にとっては止《や》むに止まれぬ行動だった。それをも悔いるとなれば――
こつん
と、物音。
はっと首を上げる。個室のドアの向こう――手洗いの入り口あたりか。人の気配《けはい》はない。
だが。
こつん、再び音がした。偶然《ぐうぜん》ではない。やはり誰かいる。しかも、さっきより近いところから聞こえる。
心拍数《しんぱくすう》が一気に上がった。授業を抜け出した誰かが、わざわざ特別教室棟の、滅多《めった》に使われない手洗いを利用しにきた――そんな希望的|観測《かんそく》を持てる状況ではない。甘かった。
伊達教諭は男性、ここまでは入ってこないと思って――。どうする? やりすごせるだろうか? この狭《せま》い場所では動きようがない、それこそ袋のネズミ。やっぱり籠城《ろうじょう》は失敗だった。第六感なんていう根拠《こんきょ》のないものに頼《たよ》るべきじゃなかった。どうしようどうしようどうしよう!
こつん、と。みたび音がした。さらに近づいてきた。ごくりと喉《のど》を鳴らした。
全神経《ぜんしんけい》をそちらに向けようとした――その時。
第六感が警告の絶叫《ぜっきょう》を上げた。
同時。真由の身体はそれに従い、無意識《むいしき》に動いてた。
ばね仕掛《じか》けのように立ち上がり、そのまま肩《かた》から体当たりしてドアをブチ開けた。外れたドアと一緒《いっしょ》に床《ゆか》を転がる。勢《いきお》い余《あま》って反対側の壁《かべ》にぶつかる。
全身に走る痛みを無視《むし》し、素早《すばや》く振り返る。
「ほう」
驚き含《ぶく》みの、しかしあくまで静かな呟《つぶや》きが流れた。
「今のをかわしたか」
伊達教諭が。
ほんのさっきまで真由が丸まっていた個室に、ゆらりと立っていた。
「念を入れて細工をひとつ仕込《しこ》んでおいたのだが、惑《まど》わされなかったか」
見れば、天井《てんじょう》に設置《せっち》されていたダクトのカバーが開いている。まさかそこから? そんな音も気配もまったく感じなかったのに。
「校門に向かっていればすぐに片がついたのだが――安全な策を避《さ》けたのは、どうやら偶然ではなさそうだな。罠《わな》を張《は》ってあることにいつ気づいた? それとも純然《じゅんぜん》たる直観《ちょっかん》か? 後者であれば驚愕《きょうがく》すべきことだ」
伊達の独白を真由は耳に入れていない。思考《しこう》を目まぐるしく回転させ、逃走の手段《しゅだん》を探っている。
選択肢《せんたくし》はそう多くなかった。すぐに決断《けつだん》した。
「む?」
外れて転がっていたドアを持ち上げ、伊達のいる個室へ蓋《ふた》をするように押し付けた。
伊達の視界が一瞬《いっしゅん》、封《ふう》じられる。
「ぬうっ」
伊達の反応も早い。すぐさま障害物《しょうがいぶつ》を押しのけ、個室を出ようとして、
「――!」
二の矢が待っていた。
清掃用具《せいそうようぐ》入れのロッカーが中身を撒《ま》き散《ち》らしながら伊達に迫《せま》っていた。かわしきれない。
やむなく飛びのき、個室に一旦退《いつたんひ》いた。
瞬《またた》きひとつの時間|稼《かせ》ぎ、一瞬の封じ手である。だが、月村真由にとってはそれで十分だったらしい。
伊達に行動の自由が戻った時、逃亡者の姿《すがた》は煙《けむり》のごとく掻《か》き消えていた。
「……ふむ」
あくまで落ち着いた嘆息《たんそく》。
「最初から本気を出しておくべきだったな。月村真由の実力、見誤《みあやま》ったようだ」
そんな感想を漏《も》らしつつ、伊達教諭は悠々《ゆうゆう》たる足取りで手洗いを後にする。
*
いかに伊達教諭の言とはいえ唯々《いい》諾々《だくだく》と従《したが》える立場にはない。真由のガーディアンたる峻護は自習の指示より被保護者を探すことを優先《ゆうせん》し、校内のあちこちを駆《か》け巡《めぐ》っていた。
が、逃亡者の行方《ゆくえ》は杳《よう》として知れない。追跡者《ついせきしゃ》の行方もまた。
それもむべなるかな、学園内は常《つね》と変わらぬ様子《ようす》でカリキュラムが進められている。逃亡の気配も追跡の気配も、いずれも感知《かんち》できない。
そしてこの普段《ふだん》どおりの静けさこそが、むしろ伊達教諭の暗躍《あんやく》を証明《しょうめい》しているかとも見える。それがあの武闘派《ぶとうは》教師の仕事《アート》スタイルだからだ。
伊達辰郎。パッと見は変哲《へんてつ》のない物静《ものしず》かな数学教師だが――その正体は元レンジャー部隊のスーパーエリートとも、はたまた忍者《にんじゃ》の末裔《まつえい》だとも囁《ささや》かれる、神宮寺学園の『風紀《ふうき》の鬼《おに》』。一対一の隠密戦《おんみつせん》を得意とし、人知れず闇《やみ》から闇へと身を移しては確実《かくじつ》に標的を仕留《しと》める、強力|無比《むひ》なる静寂の狩猟者《しゅりょうしゃ》――
「こうやって追いかけといてなんだけどさ」
峻護と同じく真由を探している綾川《あやかわ》日奈子《ひなこ》が、ぽつんと言った。峻護の同級生で真由の友人、クラスのご意見番たる世話《せわ》好きな少女である。
「あの子、すぐにつかまっちゃうんじゃない? てか、もうつかまってない? 相手はあの伊達先生なんだし」
「いや、それはまだわからない」
生命元素関連因子欠損症《サキュバス》という特殊《とくしゅ》な体質を持つゆえか、月村真由にはとかく常識《じょうしき》で測《はか》れないところがある。あの手練《てだ》れ教師相手でもあるいは、もしかしたら、ひょっとして、何とかなっているかもしれない。彼女の兄などは人類《じんるい》の常識範囲を光年単位で飛《と》び越《こ》えている人物だし。
「そうかなあ。ていうか第一さ、もしあたしたちが真由を先に見つけられたってさ、そのあとどうするわけ? 二ノ宮くんは」
「それは――」
どうすればいいんだろう。
持ち物検査の最中に逃げ出した月村真由。普通《ふつう》に考えれば真由の方にやましいことがあったと受け取るべきだ。となれば彼女と伊達教諭、どちらに非《ひ》があるかは明白《めいはく》。だが峻護にとっての至上命題《しじょうめいだい》として、真由の利《り》になるよう動かねばならない。
とにかく、まずは状況を正しく確認《かくにん》することだ。判断《はんだん》はその後でいい。そのためにも、今はあの二人を追わなければいけない。
「……なんなら綾川さんは教室に戻っててくれ。月村さんはおれひとりで何とかする」
「いや、そういう訳《わけ》にはいかないって。……あたしにも責任《せきにん》あることだし」
最後に付け加えられた呟《つぶや》きを耳にすることなく、峻護は廊下《ろうか》を行く足をさらに速める。
*
学園内で身を隠《かく》す場所、というのは、いざ探してみるとそういくつも見つからないものだった。
広い体育倉庫の暗闇《くらやみ》の中。その真ん中にしゃがみ込んで、真由はせわしなく心拍《しんばく》と呼吸を整えている。
もう半泣きだった。抜き打ちで持ち物検査があったこともそうだし、あの伊達教諭はなんだかとてつもなく危険《きけん》な予感がするし。
そして――と真由は考える。
もし、伊達教諭に捕《つか》まって、持ち物検査を受けさせられて、『あれ』を峻護に知られることになれば。
ぶんぶんと首を振る。ぜったい嫌だ。そんなことになったらもう、彼に顔向けできない。彼と一緒《いっしょ》にいられない。それだけは嫌だ。どうにかして切り抜けないと。
でも、どうやって?
『あれ』を処分《しょぶん》する方法は――ない。というか、そんなこと絶対《ぜったい》したくない。だったらどこかに隠すとか? いやそれも危険だ。どうあっても人目に触《ふ》れさせてはいけないゆえ、肌身離《はだみはな》さず持ち歩いていたのだから。
汗《あせ》で蒸《む》れつつあるカバンをぎゅっと抱き直す。
不幸中の幸いは伊達教諭ひとりが相手だということだろう。追ってくる気配はあくまでひとつだけ。騒《さわ》ぎにもなっていない。それはすなわち降伏《こうふく》を促《うなが》しているとも受け取れる。今のうちにお縄《なわ》につくなら穏便《おんびん》に済ませよう、という譲歩《じょうほ》の提示《ていじ》だ。だがこればかりは受け入れられない。
それにつけてもあの伊達教諭は一体何者だろう。この学園には何食わぬ顔でとんでもない人物が籍《せき》を置いていたりするが、あの教師もその一人だろうか――
と。
ざわり、
またあの感覚《かんかく》がきた。
これもサキュバスゆえの鋭敏《えいびん》さであったろうか――身体《からだ》はひとりでに動いていた。
片膝《かたひざ》立《だ》ち。クラウチングスタートを切る時のような、いつでも動ける体勢《たいせい》をとる。
いる。間違《まちが》いなく。
だがどこに?
「気づいたか」
声。囁《ささや》くような響《ひび》き。
「気配《けはい》は完全に消したはずだったのだが――恐るべき勘《かん》のよさだ。反応もいい。構《かま》えの隙《すき》もない。お前の実力の評価《ひょうか》、さらに上方|修正《しゅうせい》しなければならないな」
どこにいる? 声の源は――わからない。かろうじて聞き取れるだけの小声、しかも広い体育倉庫ゆえ、音が拡散《かくさん》して追跡者《ついせきしゃ》の位置を絞《しぼ》らせない。
「さて月村。この先もあくまで抵抗《ていこう》するなら穏便に済ますことはできなくなる。それをあらかじめ言っておく」
こんなに早く見つかるなんて。学園中を浚《さら》ったわけでもないだろうに、早すぎる。なにか痕跡《こんせき》でも残しているのだろうか。あるいは、逃げ込む場所など限られているゆえか。
「これを最後|通告《つうこく》にしよう。おとなしく投降《とうこう》するならそれでよし。他の道を選ぶならそれなりの覚悟《かくこ》をしてもらう」
第六感がのた打ち回る。ここにいるのは危険、だけどここを動くのはもっと危険だと。
「返事を聞こう」
「…………」
無言《むごん》をもって返事とする。
「――よかろう。お前ほどの達人《たつじん》がそこまでして隠すもの……教師としての立場上、どうあっても見逃すことはできなくなった」
「…………」
静寂が戻る。じわり、粘《ねば》っこい汗《あせ》が首筋《くびすじ》を伝う。
――くる。
闇で牙《きば》を研《と》ぐ見えざる敵の恐怖に耐《た》えながら、真由はただじっとその時が来るのを待つしかない。恐れるな。うろたえるな。すべての感覚を研ぎ澄《す》ませ。あらゆる可能性《かのうせい》を尽《つ》くしてそれに備《そな》えろ
第六感が、彼女の期待《きたい》に応《こた》えてくれた。
心臓《しんぞう》を針《はり》で突《つ》つかれるような違和感《いわかん》。それを感じ取った転瞬《てんしゅん》、真由は弓《ゆみ》から放たれる矢のように動いた。わずか遅れて、つい今しがたまで彼女のいた場所に気配が湧《わ》く。逃げなければ。逃げるだけの時間をどうにかして稼《かせ》ぎたい、その欲求《よっきゅう》がさらに真由を突き動かす。間をおかずこちらに迫ってくる伊達教諭に向かって、手近にあった棚《たな》をひっくり返した。これで少しは隙《すき》を作――
「二度は通じん」
素軽《すがる》いステッブで難《なん》なくかわし、一気に間合《まあ》いを詰《つ》めてくる。真由も負けていない。作戦が失敗したと見て取るや、伸《の》びてくる伊達教諭の腕《うで》を数ミリのところで避《よ》ける。伊達の腕が起こした風が肌《はだ》をくすぐる。間髪《かんはつ》いれずに身を翻《ひるが》すが、純然《じゅんぜん》たる脚比《あしくら》べなら伊達に分がある、するすると距離《きょり》を縮《ちぢ》めて再度腕を伸ばしてきた。それでも真由は背中に目がついているかのような動きでダッキング、その魔手《ましゅ》を潜《くぐり》り抜ける。なびいた髪《かみ》が伊達の腕に触《ふ》れるのがわかった。文字通りの間一髪《かんいっぱつ》。わずかにできた間を盗《ぬす》んでもう一度ダッシュ、すかさず伊達がそれを追う。
さらに真由が逃げる。
いよいよ伊達も追う。
死力を振り絞《しぼ》った逃走&追走劇が始まった。
*
その活劇《かつげき》の一幕《ひとまく》を、峻護と日奈子は目《ま》の当たりにしていた。
中庭。校舎内の出来事《できごと》の多くを視界《しかい》に収《おさ》めることができる位置に、二人はいた。
「……びっくり。あんな子だったっけ、真由って」
「……いや、おれも初めて知った。びっくりだ」
ポカンと口をあけ、目を皿のようにして、校内|狭《せま》しと繰《く》り広げられる活劇を彼らは見守っている。
「まあいつだって驚《おどろ》かされるけどさ、あの子には……って、うわ、いまの三角|跳《と》びじゃない? 壁蹴《かべけ》ってもっと高いとこジャンプするやつ」
「確かに月村さんって、時々正体不明な人になることがある……って、いま月村さん、片腕《かたうで》一本でスイングしたあと月面宙返《げつめんちゅうがえ》りして姿勢《しせい》を整《ととの》えたぞ」
さらに特筆すべきは、これだけ縦横《じゅうおう》無尽《むじん》に動き回っていながら校内がまるで騒《さわ》ぎになっていないことである。動きの激《はげ》しさとは裏腹《うらはら》に、まるでサイレント映画でも見ているような静謐《せいひつ》ぶりだった。ほとんど誰もこの捕《と》り物《もの》劇《げき》に気づいていない。それだけ二人の動きが神速《しんそく》であり、目を凝《こ》らしていなければ視野《しや》に捉《とら》えられないということだろう。
「でも、伊達先生もやっぱすごい」と日奈子。
「真由のあれだけの動きにぴったりついていってる。それになんか、先生の方はまだ余裕《よゆう》がありそうだけど真由は一杯一杯《いっぱいいっぱい》な感じ。もう時間の問題ね」
「いや、それはどうかな」
異議を唱える峻護。
彼は知っている。真由が本当に手段《しゅだん》を選《えら》ばないのであれば、おそらく勝利するのは彼女であろうことを。だが、峻護にとっての問題は最早《もはや》そこにはないのだ。あの大人しい少女にここまでさせるほどのものを彼女が所持《しょじ》している――焦点《しょうてん》はそこにある。
紆余曲折《うよきょくせつ》のルートを辿《たど》りながら、逃走者と追走者は上の階へ上の階へと向かってゆく。
「――あのままだと屋上にたどり着くよね」
「そうなりそうだな。よし、行こう」
「……。じゃあ二ノ宮くんは先に行ってて。あたし、ちょっと考えがあるから」
「? そうか、わかった」
別行動を取ろうという日奈子にその意を問う時間も惜しい。否応《いやおう》もなく頷《うなず》き、峻護は階段目指して快足《かいそく》を飛ばした。
*
どこをどう走ってここまで来たのか覚えていない。
だが屋上にまで上ってきている自分の姿を見出《みいだ》した時、真由は今度こそ追《お》い詰《つ》められたことを悟《さと》った。
逃げられないわけではない。飛び降りてさらに逃亡を続行する――今の自分ならできそうな気はする。能力的《のうりょくてき》には。だが、すでに体力の方が底をついていた。もともと彼女は精気《せいき》=生命エネルギーの補給《ほきゅう》に難《なん》のあるサキュバス。慢性的《まんせいてき》に活力《かつりょく》が不足している、いわば片肺飛行を強《し》いられている身なのだ。
「見事《みごと》だ」
表情の変化に乏《とぼ》しい伊達教諭の目に、はっきりそれとわかる賞賛《しょうさん》の色が浮かんでいる。
「時々こういうことがあるからこの学園はたまらない。私としたことがつい、技比《わざくら》べに淫《いん》してしまったな――まあ、時にはそれもよかろう。さて」
しかしすぐに風紀担当教師としての顔に戻り、
「勝負はついた。カバンの中身を見せなさい」
「…………」
真由は、それでも首を縦《たて》に振らない。
まだ最後の手段は残っている。だがそれは彼女にとって様々《さまざま》な意味で忌避《きひ》すべき行為《こうい》だった。それでも、もうやるしかない。この場を切り抜けるには至上《しじょう》目的以外のすべてをなげうつしかない。
そして。
「……?」
標的の取った行動を見て伊達教諭の眉《まゆ》が動いた。
煩《ほお》を赤らめ、ためらいながら――真由は、身に纏《まと》っているセーラー服をはだけ始めたのである。
「どういうつもりだ月村」
真由はあらゆる男性を蠱惑《こわく》するサキュバスである。伊達とてまったく感情を動かされなかったわけではないが――だがそこは、彼もひとかどの人物であった。
「まさか色仕掛《いろじか》けで逃れようなどという浅薄《せんぱく》な計を目論《もくろ》んでいるのではあるまいな? もしそうであれば笑止《しようし》の極《きわ》みということになるが」
「…………」
真由は無言《むごん》のまま着衣《ちゃくい》を脱《ぬ》ぎ続ける。
あられもない下着《したぎ》姿《すがた》が露《あら》わになった。艶《つや》っぼさを濃縮《のうしゅく》した美しい肢体《したい》が惜《お》しげもなく晒《さら》される。
「――無駄《むだ》な足掻《あが》きだが、好きにするといい。私は私の職分《しょくぶん》を果たすのみ」
真由が抱《だ》いているカバンを引き剥《は》がす――それだけで事は済む。
立ち竦《すく》む標的に歩み寄る。真由の全身は激《はげ》しく震《ふる》えていた。それでも伊達は容赦《ようしゃ》をしない。冷徹《れいてつ》な職務|遂行者《すいこうしゃ》の目で、カバンを取り上げる作業に取《と》り掛《か》かって――
*
峻護が屋上に出た時、戦いは既《すで》に終わっていた。
下着姿で立つ真由の足もとに、伊達教諭が壊《こわ》れたゼンマイ人形のように横たわっていた。
「月村さん……」
状況《じょうきょう》を一目《ひとめ》見て、峻護は自分の想像《そうぞう》が正しかったことを知った。
異端者《いたんしゃ》たるサキュバスの中でもとびきりの異端である月村真由には、精気の吸収《きゅうしゅう》に関してひとつの癖がある。それは、異性《いせい》と肌が触《ふ》れ合っただけで相手の精気を際限《さいげん》なく吸《す》い取ってしまうこと。つまり、男性である伊達教諭が、素裸《すはだか》同然の真由から無理《むり》にカバンを取り上げようとすればどうなるか――
が、峻護にとって今、そんなことはどうでもいい。
「月村さん……」
不安げな表情も露わに彼は言った。
「まずは服を着てくれ。そのあとで、君に話がある」
「…………」
真由はただ俯《うつむ》くばかり。軽く吐息《といき》して峻護は続ける。
「おれは自分の立場の上からも、心情の上からも、君に聞かなければいけない。君はそのカバンの中に何を持っている?」
「…………」
「そんな、ここまでして君が隠《かく》すような……一体そんなもの、いつのまに君は――」
「…………」
「ひょっとして……万引《まんび》きか何かなのか? 万引きをして、値札《ねふだ》のついたままの商品がカバンの中に入っているとか、そういうことなのか?」
あわててかぶりを振る真由、
「ちがいます! 誓《ちか》ってそんなことはしません!」
「じゃあ……もしかして、タバコを吸《す》っているとか?」
「それも違いますっ」
「そんな……まさか、まさか君は薬物に手を出しているのか?」
「わたしは健康第一ですっ」
峻護、わずかに首をひねる仕草《しぐさ》をする。予想してたのと、どれもこれも違う。
「よくわからないな……。月村さん、聞きたいんだけど。君の持っているものは何かしら犯罪行為《はんざいこうい》に関《かか》わるものなのか?」
真由は居心地《いごこち》悪そうにもじもじした。
「……ええとその、厳密《げんみつ》に言えば法には抵触《ていしょく》しているかもしれません……ああっ、そんな悲しそうな顔しないでくださいっ、抵触するといっても、むしろわたしたちの年頃《としごろ》なら関心がなかったり経験してない方がある意味不自然というか、むしろそちらの方が心身に問題あるんじゃないかというかっ」
「……どういうことなのかさっぱりわからない。何を持っているのか、きちんと説明してくれないか」
「こ、こればかりは、二ノ宮くんの言うことでも、聞けません」
「月村さん。おれは君の味方《みかた》だ。君がどんな罪《つみ》に手を染めても、おれは君が更生《こうせい》できるよう努力すると誓う。それでもだめか?」
「……。すいません」
「……おれはそこまで君に信用されてないんだろうか……」
「うっ。そ、その表情はひきょうです」
しょんぼりした峻護に身もだえする真由。
「わ、わかりました。そこまで言われたら隠しておけないです。言います。でも、ひとつだけ約束してください」
「約束? わかった、なんでも言ってくれ」
「何を見たとしても……わたしのことを嫌いにならないでください」
「わかった。約束する」
「失望《しつぼう》したりだとか、軽蔑《けいべつ》したりとか、幻滅《げんめつ》したりだとかもなしにしてください。あと、他のひとに言いふらすのもなしです」
神妙《しんみょう》に頷《うなず》く峻護。
「では、言います。心の準備《じゅんび》はいいですか?」
「いつでもどうぞ」
「わたしのこと無視《むし》したり、避《さ》けるようになったり、しないでくださいね?」
「わかってる」
「じゃあ、いきますよ? いいですか?」
「ああ」
「ほんとに大丈夫《だいじょうぶ》ですか? 二重《にじゅう》にも三重《さんじゅう》にも心の準備をしておかないと、あとで大変なことになるかもですよ?」
「心構《こころがま》えはできてるつもりだ。安心してくれ」
「わかりました。……では、いきます」
深呼吸《しんこきゅう》をし、手のひらに人の字を書いて飲み込んで、頬をぺしぺし叩《たた》いて気合《きあい》を入れる。
「このカバンの中に入っているのは――」
「入っているのは?」
「つまりその――」
「その?」
「…………」
「…………」
「や――」
溜《た》めに溜めて。
ようやく、真由はロを開いた。
「や、やっぱりわたし、言えません!」
「言えってのに。そこまできたら」
声がした。真由の後ろから。
「ったくもう、世話焼《せわや》かせるんだからさー」
ひょい、と。
身軽《みがる》な動きでフェンスを乗り越《こ》えてくると、
「ひ、日奈子さんっ?」
度肝《どぎも》を抜かれて棒立ちになっている真由にすたすたと近づいて。
後生大事《ごしょうだいじ》に抱えていた問題のカバンを、あっさり取り上げてしまった。
真由や伊達教諭なみ――とは言わずとも、じつに機敏《きびん》な動きだった。どうやら雨どいを伝ってここまで上ってきたらしい。そんな手段《しゅだん》でもって真由の隙《すき》をつこうと試《こころ》みるあたり、この少女もなかなか肚《はら》が据《す》わっている。
「あ――」
何が起きてるかわからない、という顔で、空になった腕の中に目を落とす真由を尻目《しりめ》に、
「はい、二ノ宮くん」
にっこり笑う日奈子。
「な、なに?」
「これ、二ノ宮くんが見たかったもの。どうぞ」
カバンを開け、中身を峻護に見せた。ようやく我《われ》に返った真由がムンクみたいな顔で[#あれは「ムンクの描いた(叫び)という絵」なので「ムンク」があの顔というわけでは……]悲鳴《ひめい》をあげたが、もうおそい。
『それ』の紙面に躍《おど》っている文字を、峻護の目が追っていく……
『やだ、やめろってばレイジのバカッ』
『ふふ、リュウイチはここを弄《いじ》られると相変《あいか》わらず弱いな』
『い、いじわるすんなよ……』
『リュウイチ……愛してるよ』
「…………」
峻護の瞳《ひとみ》が驚愕《きょうがく》に見開かれ、顔色が青ざめていく。
カバンの中から次々と姿を現したのは――
美少年と美青年があられもない痴態《ちたい》を繰《く》り広げる様子《ようす》の猫写《びょうしゃ》に特化《とっか》した非《ひ》商業系《しょうぎょうけい》 創作《そうさく》出版物《しゅっぱんぶつ》――
つまり、いわゆるところの。
やおい同人誌《どうじんし》だった。
*
……峻護は、暴《あば》かれた真実の前に言葉もなく立ち呆《ほう》けている。
視界《しかい》が黒く塗《ぬ》りつぶされていくような気分だった。ある意味、犯罪行為に手を染められるよりも厄介《やっかい》だった。頭がクラクラしてくる。男女のことにさえ極端《きょくたん》なほどお堅《かた》い彼にとって、男同士のそういうこと[#「そういうこと」に傍点]というのは、まるで理解の範疇《はんちゅう》にないというのに――ほのかな想《おも》いを抱《いだ》いている少女がこういう趣味《しゅみ》を持っている場合、いったいどういう態度《たいど》を取ればいいのだろう。これまでの彼女との関係を、これからも維持《いじ》していけるのだろうか。
鳴呼《ああ》……悪魔でも何でもいい。誰か、おれをこの苦悩《くのう》から救ってはくれないか――
「はいはい、そこまでそこまで」
と、その時。
ぱんぱんと日奈子が手を叩き、重苦《おもくる》しく沈《しず》んだ場に清風《せいふう》を送った。
いたずらっ子に手を焼《や》く幼稚園《ようちえん》の先生のような声で、
「こら真由。そんな黙ってちゃだめだって。二ノ宮くん、ほんとに勘違いしちゃうよ?」
「…………はい?」
きょとんとした声を上げる真由。
それを無視《むし》して、
「ちょっと二ノ宮くん二ノ宮くん。アナタも反応しすぎ。そこまで極端《きょくたん》に引かれちゃうとさ、真由の方だってホントのことが言い出しにくくなるじゃん」
「……?」
一方の峻護も、日奈子の言っている意味がよくわかってないクチである。
「何の話をしてるんだ? 綾川さん」
「つまりさー、」
日奈子、いかにも姉御肌《あねごはだ》らしい快活《かいかつ》さでカラカラと笑い、
「ヘンだと思わない? あの優等生《ゆうとうせい》な真由がそんな趣味待ってるわけないじゃん、普通に
考えたら。そんなの二ノ宮くんが一番よくわかってるはずでしょ?」
峻護の暗い顔にひとすじの光明《こうみょう》が走る。
「それは――たしかに。じゃあ、このいかがわしい本は一体……?」
「決まってるじゃんそんなの」肩をすくめ、「男性|恐怖症《きょうふしょう》で真面目《まじめ》で努力家の真由がこういうホモ本持ってる理由。想像《そうぞう》つかない?」
「……?」
首をかしげる。
ややあって、ピン、ときた表情、
「ひょっとして……男性恐怖症|克服《こくふく》のため?」
「そゆこと。真由が『いつも二ノ宮くんに頼《たよ》ってばかりじゃいけない、お世話《せわ》になってる恩返しのためにも早く恐怖症を治したい、何かいい方法はないか』なーんて健気《けなげ》なこと言うからさ。あたしがこういう本探してきて真由に貸《か》したわけ」
「そ、そうだったのか……」
「まあ効果《こうか》があるかどうかはわかんないけど、ダメモトでやってみようってこと。二ノ宮くんに話さなかったのは悪かったけど、まあ世間的《せけんてき》にアレなブツだしさ。そのあたりの女の子の心理《しんり》はわかってあげてよ。そうだよね、真由?」
促《うなが》されてハッとなり、真由は首が千切《ちぎ》れんばかりにこくこく頷《うなず》いた。
*
――気を失ったままの伊達教諭を背負《せお》い、ほっとした顔で一足先に戻る峻護を見届けて。
「た、助かりました……」
真由はへなへなとその場にへたり込んだ。
一方の日奈子は両手を腰《こし》に当て、
「ていうかさー、そりゃホモ本貸したのはあたしだけどさー。ガッコにまで持ってくるなっての、そういうの」
「だって、二ノ宮くんとは同じ家の、同じ部屋に住んでるんですよ? 持ち歩いてないと絶対《ぜったい》バレちゃいますよう」
「どうせいつまでも隠しておけないってば。こっちの道に入るんなら最初に覚悟を決めなよねー、こういう面倒《めんどう》なことになる前に。なんたっていばらの道なんだからさー。ただでさえあんたって、アドリブに弱いというか、すぐにパニくるタイプなんだから」
「すいません……」
「それか事前《じぜん》にあたしに言っとけばよかったのよ。そのくらい何とかしてあげるんだからさ。二ノ宮くん丸め込むのなんて簡単《かんたん》なんだし」
「……それは、ちょっと問題発言だと思います」
「ま、あんたの気持ちもわかるげど。二ノ宮くんって、ホントにそういうとこお堅いしねー。にしてもあんた、男性恐怖症のクセにこういうのは平気なのよねー」
「生身《なまみ》の男の人じゃなければ、それほどは」
「ふうん。……ああ、それと伊達先生への釈明《しゃくめい》。てきとうに考えときなさいよ。思いつかないようならあたしも何とか手を考えとくし。ていうかあんた、どうやってあの伊達先生に勝ったわけ?」
「ええと、それは……」
「まあ、言いたくないならいいけど」
「…………すいません、日奈子さんにはお世話になりっぱなしで」
「んー、まあそれはいいんだけどね。退屈《たいくつ》はしないし」
カラカラ笑い、ばしばしと友人の背中《せなか》を叩く日奈子であった。
*
――と、しかし話はこれで終わらない。
数日後。一年A組の教室に入ってきた伊達教諭が、またしてもこう宣告《せんこく》したのである。
「これより持ち物検査を行う。各自、所持品を机に並べるよう」
「…………」
しばしの沈黙《ちんもく》の後、罵声《ばせい》が激《はげ》しく飛び交い始めた。短い期間を挟《はさ》んでの抜き打ち検査に、教室は非難《ひなん》轟々《ごうごう》雨あられである。
だが無論《むろん》、今回も峻護は泰然自若《たいぜんじじゃく》だった。己《おのれ》にやましいことがないのなら、持ち物検査など何も恐《おそ》れることはない、そうではないか――
嫌な予感《よかん》がした。教室のどこかから、というか峻護のすぐ隣の席から、濃厚《のうこう》な恐怖の気配が流れてきたのである。
見れば、月村真由はまたしても青い顔で震えていて、
「月村。所持品を机の上に――」
「ごめんなさい……っ」
自らの順番が回ってくるや、脱兎《だっと》のごとく遁走《とんそう》したのである。
「――一度ならず二度までも我《わ》が所持品検査から逃れようとするとは……。よかろう。前回は不覚《ふかく》を取ったが、今日こそは逃がさん」
どこか愉《たの》しげな声で呟《つぶや》きつつ、悠然《ゆうぜん》たる足取りで教室を後にする伊達教諭。
「…………」
峻護は、同じ教室にいる日奈子の席を向いた。
「……心当たり、ある?」
「さあ? 今回はあたしも」
肩をすくめ、やれやれと立ち上がる日奈子。
「そうか……」
ため息をついてこちらも席を立つ。
今度は何を持ってきたのやら。意外に隠《かく》し事《ごと》の多いらしい被保護者の今後の扱《あつか》い方を模索《もさく》しつつ、全速力で廊下を駆《か》け出す二ノ宮峻護であった。
おしまい
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麗華《れいか》、峻護と二人きりになるのこと
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北条《ほうじょう》麗華《れいか》がメイド仕事を始めて間もない頃《ころ》のことである。
「麗華ちゃん、今日一日あなたには」
彼女を呼び出した|二ノ宮《にのみや》涼子《りょうこ》は、前置きなしでこう切り出した。
「峻護《しゅんご》に付きっきりで我《わ》が家の家事《かじ》を覚えてもらうから。そのつもりで」
「……は?」
二ノ宮家のリピングで紅茶をすすっている涼子の前に立って、麗華はたっぷり数秒間、目を瞬《またた》かせる。
「――誰と誰が何をするですって?」
「あなたが峻護のそばに付いて、二ノ宮家の家事を覚えるの。あのバカ弟はああ見えて家事だけはそこそこできるし、あなたにしたっていきなりメイド仕事をやれと言われてもままならないことは多いでしょ? つまりこれは麗華ちゃんのための研修《けんしゅう》というわけね」
「…………」
それはいい。この女主人の言うことにしては理《り》も通っているし、麗華がこの家の家事の作法《さほう》についてほとんど無知《むち》なのも確かだ。
だが少し待って欲しい。麗華の付き人である保坂《ほさか》光流《みつる》は仕事で使いに出しているし、二ノ宮家の居候《いそうろう》たる月村《つきむら》兄妹もまた、こちらで暮らすための手続きがあるとかで二人|揃《そろ》って外出中《がいしゅつちゅう》。そして麗華の記憶《きおく》が確かなら、二ノ宮涼子もまた、そろそろどこかに出かけるのではなかったか。
「ええそうよ。あとのことは峻護に任《まか》せるからしっかりやりなさいね」
「ちょ、ちょっとお待ちなさいっ」
席を立ちかけた涼子を慌《あわ》てて呼び止める。保坂も月村兄妹も涼子も不在《ふざい》となれば、後に残されるのは二ノ宮峻護と自分、たった二人きりではないか。
麗華の顔がみるみる紅潮《こうちょう》していく。あの男と二人きりで同じ空間に身を置く、しかもあの男に付きっきりでそばにいられて、おまけにここは小高い丘の上の洋館《ようかん》だから半径《はんけい》数十メートル以内には人っ子ひとりいなくて。
そんなの――そんなの――
「い、いけません! そ、そんなのわたくしぜったい無理《むり》です!」
舌《した》をもつれさせつつ悲鳴《ひめい》に近い声を上げた。
「無理って、なにが?」首をかしげる涼子。「なにが無理なのか言ってごらんなさい。事《こと》と次第《しだい》によっては考えなくもないわ」
「だっ、だからそれはつまり、」
だって、だって、そんなのぜったい間《ま》が持たないというか、身が持たないというか。なぜなら自分は二ノ宮唆護のことを――
「とにかく! 無理なものは無理なのです! わたくしそんなのぜったい嫌《いや》ですからね! だいたい北条家の次期《じき》当主《とうしゅ》にして北条コンツェルンの後継者《こうけいしゃ》たるこのわたくしがメイド仕事などやらされている時点で何もかもが狂《くる》っているのです! わたくしその点について、ここであらためて異議《いぎ》を申し立てますわ!」
「なあに? まだそんなこと言ってるの? あなたこうなることもぜんぶ承知《しょうち》の上で賭《か》けに乗って、それに負けたわけでしょう。いい加減《かげん》あきらめをつけなさい」
呆《あき》れ顔でわざとらしいため息をつく涼子。
「そもそもわたし、どうもよくわからないのよね。どうして麗華ちゃんはそこまで峻護のことを嫌《いや》がるのかしら。何か抜き差しならない理由でもあるの? あるのなら、いい機会《きかい》だからこの場で言っておきなさい。住人の間に由々《ゆゆ》しき隔意《かくい》があるとすれば、この家の主《あるじ》としてそれに対処《たいしょ》する責任《せきにん》があるんだから」
「うう、だからそれは……」
相変《あいか》わらずこういう時に限《かぎ》って抗弁《こうべん》しづらい正諭《せいろん》を吐《は》く女主人である。
麗華は目を泳がせつつ、
「――それは、あんな無愛想男《ぶあいそう》と一緒《いっしょ》にいたら息が詰《つ》まって窒息《ちっそく》しそうになるからですわ。理由などそれだけで十分、そうではなくて?」
「というとつまり。麗華ちゃんは峻護のことを生理的《せいりてき》に受け付けないということかしら。困ったわねえ。それではどうしようもないわねえ」
オーバーなアクションで首を振《ふ》り、
「峻護と二人きりはどうしても嫌?」
「あたりまえです」
「ほんとに?」
「も、もちろんですわ」
「ほんとにほんと?」
「くどいですわよっ」
そっぽを向く麗華。じっと見つめる涼子。
「――そう、仕方《しかた》ないわね」
やがて涼子は悲しそうな顔で、
「そこまで嫌《きら》われているのならどうしようもないわね。あなたの研修を峻護に任せるのは止《や》めにしましょう」
「ふん、当然ですわ。そんなこといきなり言われたって心の準備《じゅんび》というものが……」
「でもそうね、それだけでは足りないわね。だって麗華ちゃんにはこれから先もウチで働いてもらわなければいけないのに、峻護はずっとこの家で暮《く》らすわけなんだから。それだと麗華ちゃんがずっと気詰《きづ》まりな思いをしてしまうものね。ああそうだ、いいことを思いついたわ」
ポンと手を叩《たた》き、
「こうしましょう。しばらく峻護を旅に出すことにするわ」
「……え?」
「あの子の最近の軟弱《なんじゃく》っぶりは目に余《あま》るものがあるし、旅に出して鍛《きた》えなおすことにしましょ。そうすれば麗華ちゃんは生理的に受け付けないあの子の顔を見ずに済むし。一石二鳥《いっせきにちょう》ね」
その案《あん》をひどく気に入った風情《ふぜい》でうんうん頷《うなず》き、
「さっそく学校を辞めさせて、まずはアマゾンの奥地《おくち》にでも素《す》っ裸《ぱだか》で放《ほう》り込んでみましょ。無事《ぶじ》に戻《もど》ってこられたら次は素っ裸でサハラ砂漠《さばく》、その次は素っ裸で南極《なんきょく》かしらね」
「ちょ、ちょっと、」
「まあその程度《ていど》の修羅場《しゅらば》をくぐれば多少はマシになって帰ってくるでしょう。ああ、でもその間はあの子に会うことはできなくなるわね。五年かかるか十年かかるか……というかそれ以前に生きて帰って来られるかどうかわからないけど。ま、それも仕方ないでしょ」
「そ、そんなー」
「だって、かわいい麗華ちゃんがウチで気兼《きが》ねなく働けるようにするためだもの、そのくらいはしなくちゃね。ああ峻護のこと? 気にしなくていいのよ気にしなくて。だって峻護だし。さ、そうと決まればすぐにでも退学《たいがく》の手続きを、」
「お、お待ちなさいっ」
再び麗華は悲鳴じみた声を上げた。この女主人、やると言ったことは本当にやるのである。
こほんと咳払《せきばら》いして、
「まあ、わたくしが二ノ宮峻護に悪感情《あくかんじょう》を抱《いだ》いているのは確《たし》かにしても、です。その理由のみをもってあの男を拒絶《きょぜつ》すればわたくしの、ひいては北条家の鼎《かなえ》の軽重《けいちょう》が問われるというもの。ここはわたくしが折《お》れましょう。二ノ宮峻護に付いてこの家の家事を学ぶ件《けん》、承知《しょうち》して差し上げますわ」
「あらいいの? 別に遠慮《えんりょ》しなくてもいいのよ。峻護のことなら別に気にしなくても、」
「お黙りなさい。わたくしはやるといったのです。北条家の連枝《れんし》たる者に二言はありません」
「そう。だったらこれ以上何も言うことはないわね」
頷いて、涼子は罠《わな》にかかった野ウサギを見る猟師《りょうし》の目でにんまり笑ったのだった。
*
「――北条先輩。北条先輩? 聞いてますか?」
「え?」
自分を呼ぶ声で麗華は我《われ》に返った。涼子から研修|指令《しれい》を受けてしばらくの後、二ノ宮峻護から家事のいろはを教わっている真《ま》っ最中《さいちゅう》である。
事が現在《げんざい》に至《いた》った経緯《けいい》を思い返していた麗華はあわてて表情を取り繕《つくろ》い、
「え、ええ、聞いてますわもちろん。スポンジにつけるクレンザーの量《りょう》と、磨《みが》き終わった銀食器《ぎんしょっき》の仕上《しあ》がり具合《ぐあい》との関係についての話でしたわね?」
「いえ。今は『濡《ぬ》れた食器を曇《くも》りなく拭《ふ》きあげるために最適《さいてき》な布巾《ふきん》の乾《かわ》き具合《ぐあい》』について話をしてたんですが」
「あ、あら。そうだったかしら?……ふん。二ノ宮峻護、あなたの解説《かいせつ》があまりに無味乾燥《むみかんそう》で退屈だから、ついわたくしの集中も途切《とぎ》れがちになるのです。このわたくしの耳目《じもく》を引きたければもっとウィットに富《と》んだ会話を心がけなさい」
「はあ、すいません。じゃ、もう一回元に戻って説明しますね」
と、教え子の無茶《むちゃ》な注文に峻護は嫌《いや》な顔もぜず、二度|手間《でま》のレクチャーを始めた。
「まったく、あなたの話は退屈《たいくつ》でかなわないのですわ。そもそもどうしてこのわたくしがあなたごときに教えを乞《こ》わねばならないのです……」
しぶしぶ、といった顔を作り、お手本を交《まじ》えて解説する即席講師《そくせきこうし》の話に聞き入ろうとする。だがその意識《いしき》は十秒も経《た》たないうちに別の方向へ拡散《かくさん》してしまうのだった。
無理もない。『あの』二ノ宮峻護が、ほんの少し身体《からだ》を動かせばお互《たが》いの身体《からだ》に触《ふ》れ合《あ》えるほどの距離《きょり》にいて、ただ麗華ひとりだけのために講義《こうぎ》している。もちろんこの広い屋敷《やしき》にいるのは彼らふたりだけ。この状況《じょうきょう》ではたとえ極上《ごくじょう》の話術《わじゅつ》を発揮《はっき》されたところで、麗華にそれを楽しむだけのゆとりなどなかったであろう。
(うう、おちつけ、おちつきなさいわたくし……)
ハートビートを刻《きざ》みっぱなしの胸に手を当ててこっそり深呼吸《しんこきゅう》するが、効果《こうか》は芳《かんば》しくなかった。デモンストレーションを披露《ひろう》する峻護の手もとに集中できず、彼の横顔をつい盗《ぬす》み見してしまう。
大真面目《おおまじめ》な表情で家事の極意《ごくい》を熱心《ねっしん》に解説する峻護。基本的《きほんてき》に無愛想《ぶあいそう》な部類《ぶるい》に入る少年だが、こういう顔をする時の彼はちょっとだけ、あくまでちょっとだけだけど、かっこいいかもしれない。いや、別に普段《ふだん》がダメだと言っているわけではないのだけれど。というかそもそも、この男がかっこいいなどというたわごとはわたくしが言っているのではなく、あくまでも周りがそう言っているということだけれど……
「――とまあ、食器を拭《ふ》く時の注意点はざっとそんなとこです。今のを念頭《ねんとう》において、試《ため》しにやってみましょう。そこの洗い物を実際《じっさい》に拭いてみてください」
言われた通りにしながらも、麗華の乙女心《おとめごごろ》はさらなる疾走《しっそう》を続ける。――まったく、この男がかっこいいなどとは笑止《しょうし》の沙汰《さた》ですわ。それはまあ、こうして近くで見てみると瞳《ひとみ》がとても澄《す》んでいて、見てると吸《す》い込まれてしまいそうだし、きりりとした眉《まゆ》はとても凜々《りり》しいし、色も抜かず整髪料《せいはつりょう》もつけていない生の髪《かみ》はとてもさらさらでついつい触《さわ》りたくなるけれど、昔のこの男のかっこよさに比《くら》べたら十分の一なのです。まあ十分の一でもぜんぜんかっこいいのだけれど。いえもちろん、かっこいいと言ってるのはわたくしではなく、あくまでも周《まわ》りの人間であり、わたくしはただ、昔のこの男を知りもせずにかっこいいなどと囃《はや》し立てる連中に物申《ものもう》したいだけで……
――などと、峻護の周りにいるミーハー少女たちを人知《ひとし》れず非難《ひなん》する麗華であるが。こんな考えごとをしながら手作業《てさぎょう》をしていればどうなるか目に見えているわけで。
「あ」
不意《ふい》に麗華の手もとが狂《くる》い、拭いていたマイセンのティーカップが宙《ちゅう》に躍《おど》って、
「おっと」
まるでそれを見越《みこ》していたかのように峻護の手が伸《の》び、カップを無事《ぶじ》に拾い上げていた。
「ご、ごめんなさ、」
「だめですよ先輩《せんぱい》、その拭き方だと今みたいに失敗します。こうやるんですよ」
「――!」
息を呑《の》む麗華。なぜなら、いきなり伸びてきた峻護の手が彼女のそれに重ねられたから。
「布巾の持ち方はこうで、食器の持ち方はこう。拭く時の角度は――」
さらにそのまま背後《はいご》にまわり、後ろから腕《うで》を伸ばし、文字通りの手取り足取りで峻護は熱の寵《こも》った指導《しどう》を施《ほどこ》していく。が、指導される側はたまったものではない。見た目よりもずっと厚《あつ》い峻護の胸板《むないた》が背中に密着《みっちゃく》している。そこから伝わる熱い温度が麗撃の頭をコインランドリーみたいにする。手足は冷凍《れいとう》マグロのように硬直《こうちょく》し、操《あやつ》り人形のようにされるがまま。
「まあ、だいたいこんな感じですね。わかりました?」
必死《ひっし》にこくこく頷くと、ようやく峻護は身体を放し、弟子《でし》の成長を見守る態勢《たいせい》に入る。
(に、二ノ宮峻護が、二ノ宮峻護が、二ノ宮峻護が――)
レクチャーされた拭き方をどうにか再現しながら、麗華はすっかり舞《ま》い上がっていた。
かつてこの男とこれほど密着したことがあっただろうか。うれしい。とてもうれしい。油断《ゆだん》すると涙《なみだ》が出そうなほどにうれしい。
けど。頭の片隅《かたすみ》に何か引っかかるものがある。なんだろう、この歯《は》がゆさ、納得《なっとく》のいかなさは。
ちらりと峻護を横目で見て、その理由はすぐにわかった。あの唐変木《とうへんぼく》はまるで、芸《げい》を仕込《しこ》んだ猿《さる》がどんな演技《えんぎ》を見せるかを観察《かんさつ》する猿回しのような目でこちらを見ているのだ。先ほどの接触《せつしょく》にいささかも感情を動かしていないのは明らかである。ちょっと待ってほしい、と思う。うら若い乙女にあそこまで大胆《だいたん》な真似《まね》をしたのだ。もっとこう、別な反応があってもいいではないか。
(それはもちろん、あの男の不感症《ふかんしょう》っぷりは承知《しょうち》していたつもりですけど。それにしてもこれはあんまりなのではなくて? これではまるで、わたくしを女として扱《あつか》ってないみたいじゃないの……)
考えるほどに腹が立つ。喜びが大きかっただけに、それを肩透《かたす》かしされた反動もまた大きかった。その反動が、彼女にしては破格《はかく》の決意《けつい》をさせしめた。
(いいでしょう。あの男がそういう態度《たいど》を取るならわたくしにも考えがあります)
この落とし前は、二ノ宮峻護に北条麗華をひとりの女性として意識《いしき》させることで果たされねばならない。もっと砕《くだ》けた言葉で言うならば、
(わたくし北条麗華はこれより、二ノ宮峻護に色仕掛《いろじか》けを敢行《かんこう》します。わたくしの魅力《みりょく》でもって、あの男をめろめろにしてやるのですわ。そう、わたくしだって、やる時はやるのです)
こう見えたって少しは自信があるのだ。ちょっと本気になれば、男の一人や二人を落とすくらいお茶の子さいさいなのだ。
「うん、だいたいできるようになったみたいですね。筋《すじ》がいいですよ北条先輩」
「――ふん。当然ですわ」
「では次、床《ゆか》の掃除《そうじ》に行きましょう」
台所《だいどごろ》を出て廊下《ろうか》へ移動《いどう》。
モップを持ち出してきた峻護|曰《いわ》く、
「ワックスがけまでは手が回らないけど、それ以外は一通り教えます。ええとまずは基本中の基本、モップの使い方から」
解説《かいせつ》に実技《じつぎ》を交えてレクチャーを始めた。それを目と耳で追いながら、麗華は内心でほくそえむ心地《ここち》である。
(ふん、そんな風に平然《へいぜん》としていられるのも今のうちです。これからあなたはわたくしの魅力《みりょく》を存分《ぞんぶん》に思い知ることになるのですからね。ではさっそく色仕掛けの第一弾を――)
と、そこまで考えて重要なことに思い至った。
そもそも色仕掛けとは、いったいどうやってやるのだろう?
興奮《こうふん》していたゆえ気持ちだけが先に立ち、肝心《かんじん》なことが抜けていた。単語のイメージだけ先行して知った気になっていたが、色仕掛けとは具体的《ぐたいてき》にどうすればいいのか。
例えば……そうですわね、肌《はだ》も露《あら》わにしな[#「しな」に傍点]をつくって『抱《だ》いて』とでもささやけばいいのでしょうか。……論外《ろんがい》ですわね、そんなはしたない真似。誇《ほこ》り高き北条家の次期当主たるこのわたくしにできることではありません。というかそんなセリフ口にしたらわたくし、たぶん死ねます。急性《きゅうせい》脳溢血《のういっけつ》でしょうね、おそらく。そもそも色仕掛けとはそんな即物的《そくぶつてき》なものではなく、たぶんもっとこう、微妙《びみょう》なものなのですわ。そこまではわかるのですが……ううん……そういえば、女性が殿方《とのがた》を誘惑《ゆうわく》する時に使う『しなをつくる』という言い回しですけど。いったいしな[#「しな」に傍点]とは何を指すのでしょう。そういえば深く考えたことがなかったけど、そのあたりにヒントがあるかも知れませんわね。ええと、しな……シナ……品……ふむ、おいしい料理を何品も作って相手の歓心《かんしん》を得《え》るという意味なのでしょうか。けれどそんな時間はありませんし……というか色仕掛けじゃないですわね、それ……
「――先輩? 北条先輩?」
「え? は、はいっ、なんですのっ? 料理を作るにはちょっと時間が……」
「? 何の話です? ええと、床掃除についてはとりあえずいま説明した通りなんで。ちよっと復習《ふくしゅう》がてら、試しにこの廊下をモップがけしてみてもらえませんか」
そう言ってモップを渡してきたのだが――この時の彼女は少しばかり動転《どうてん》していた。
「あ、っと……」
もらい損《そこ》ねてモップを床に落とし、あわてて捨《ひろ》い上げる。その直後に悲劇《ひげき》は起こった。
モップを手に立ち上燐った瞬間《しゅんかん》。何の因果《いんが》か、モップの柄《え》がスカートに引っかかり、布地《ぬのじ》を派手《はで》にめくり上げたのである。
「きゃ――」
急いでスカートを押さえたが、遅い。モンローも脱帽《だつぼう》するような大胆さで、中身が白日《はくじつ》の下に晒《さら》されてしまった。
かあああ、と煩《ほお》に赤みがさす。見られた。ぜったい見られた。今日はお気に入りをつけていたから不幸中の幸いだったけど、いや問題はそんなことではなくて――
ちらり、上目遣《うわめづか》いに竣護を見やった。
だが目撃者《もくげきしゃ》は至《いた》って冷静な口調で、
「だいじょうぶですか? じゃ、続きをやりましょうか」
眼福《がんぷく》と呼ぶべきアクシデントをたったそれだけで片付け、生徒に授業《じゅぎょう》の続行《ぞっこう》を促《うなが》す。美少女フィギュアのスカートの中を覗《のぞ》いた程度にも感情を動かされていない風情だ。
「…………」
麗華のこめかみがひくひく動く。
(ちょっとお待ちなさい二ノ宮唆護。その反応はあまりにあまりではなくて? レディのスカートの中を覗いたのですわよ? どぎまぎしろとは言いませんが、せめて下手《へた》くそなジョークで場を和《なご》まそうと試みるとか、この状況《じょうきょう》にもっとふさわしいやりようというものがあるでしょう。)
と思ったが口にはしない。これはもはや、北条麗華というひとりの女に対する挑戦であった。かくなる上は行動あるのみ。破廉恥《はれんち》上等《じょうとう》。やってやろうではないか。
度胸《どきょう》を据《す》え、ブラウスの首元をくつろげた。
「ねえ、二ノ宮峻護」
「はい?」
やや前かがみになり、視線《しせん》は上目遣い。
膝《ひざ》は少し内股《うちまた》気味《ぎみ》に、上半身は心もちくねらせるようにして。
声はあくまで甘く、ささやくように。
「なんだか今日は、暑いですわね……」
ブラウスを指でつまみ、ぱたぱた風を入れる。ここまでサービスすれば、峻護の位置からはかなりきわどい光景《こうけい》が展開されているはずだった。北条麗華|一世《いっせい》一代《いちだい》の大技《おおわざ》である。
(さあ、これならどうです。思う存分《ぞんぶん》悩殺《のうさつ》されるがいいのですわ)
「…………」
峻護は探るようにこちらを見つめてくる。麗華もまた、熱く熱く見つめ返す。
そのお色気|光線《こうせん》(と麗華が信じているもの)が伝わったのか、峻護はこくりと頷き、
「わかりました。じゃあ休憩《きゅうけい》しましょうか。おれ、何か冷たい飲み物を入れてきますね。ただしほんとうに時間がないので、休憩はちょっとだけです」
踵《きびす》を返し、すたすたとリビングの方に消えていった。
「…………な」
前かがみの体勢《たいせい》のまま絶句《ぜっく》する麗華。
「――こ、このわたくしがここまでしているのに! あンの鈍感男《どんかんおとこ》だけは……!」
もういい。もう決めた。もう堪忍袋《かんにんぶくろ》の緒《お》が切れた。
メイド服のエプロンの裾《すそ》を噛《か》み、地団太《じだんだ》を踏みながら、麗華は強く強く心に誓《ちか》う。こうなったらとことんやってやる。どんなことをしてでもあの男をぎゃふんと言わせてやる。破廉恥だの何だの言ってる場合ではない。これは女の沽券《こけん》を懸けた戦いだ。ぜったいに負けるわけにはいかない。
「見てなさいよ二ノ宮峻護……」
そう思い定め、麗華は肩を怒らせて標的《ひょうてき》の後を追った。
*
が、それから二時間ばかりも経《た》ったころ。
あれだけ漲《みなぎ》っていた麗華の威勢《いせい》は、きれいさっぱり底をついていた。
(二ノ宮峻護、あなたという男は――)
もはやため息しか出てこない。重々《じゅうじゅう》 承知《しょうち》していたつもりだったが、あの少年の堅物《かたぶつ》っぶりは彼女の想定《そうてい》を遥《はる》かに超《こ》えていた。
記憶を総動員《そうどういん》して色仕掛《いろじか》けのパターンを検索《けんさく》し、それを再現《さいげん》した。プライドをかなぐり捨《す》てて肌《はだ》をさらけ出し、媚《こび》を売った。いずれも冷静になって思い返すと顔から火が出るほどに差恥《しゅうち》を催《もよお》す行動であり、北条麗華の個人史《こじんし》から抹消《まっしょう》すべき事実《じじつ》であった。
だがそこまで、そこまでやったにもかかわらず――
「とまあ、『微細《びさい》な引っかき傷をつけずにガラス窓《まど》を磨《みが》き上げる極意《ごくい》』はだいたいそんな感じです。北条先輩、いま言った通りにやってみてください」
バカ男は平気な顔で雑巾《ぞうきん》を手渡してくるのである。
「…………」
答《いら》えを返す気力もなくそれを受け取る麗華は、ひどく意気《いき》消沈《しょうちん》していた。
なにが悪いのだろう。
どうしてこうなのだろう。
悟《さと》りを開いた修験者《しゅげんじゃ》のように枯《か》れきっている峻護に問題があるのか、それとも。
北条麗華という人間にそれだけの価値《かち》がない、ということなのだろうか。
(そんなにわたくし、魅力《みりょく》がない……?)
窓を拭きつつ、ガラスに映りこんだ自分の姿《すがた》を見る。下の者たちにはとうてい見せられない、肩を落とした北条コンツェルン次期|総帥《そうすい》の姿。
顔は、そんなに悪くないと思う。つり目ぎみなのはちょっと気にしているところだけど、チャームポイントと言えなくもないわけだし。スタイルだってひそかに自慢《じまん》としているのだ。身長は平均《へいきん》だけど、手足の長さは誇《ほこ》っていいだけの水準《すいじゅん》であるはず。ウエストの細さについてはどこに出しても恥《は》ずかしくないと断言《だんげん》できる。胸については……まあ、形状《けいじょう》で勝負ということで。総合《そうごう》すれば――うん、やっぱり悪くはない。
(だけど……)
ふと気になって自分の頬に触《ふ》れ、麗華の表情が曇《くも》った。なんだかこう、お肌のすべすべ感がなくなっているような気がする。ここしばらくは激務《げきむ》が続き、ただでさえ少なかった睡眠時間《すいみんじかん》がいよいよ減《ヘ》ってきている。仮眠《かみん》を重ねるだけでベッドに入れない日も多い。ましてやお肌のケアに割《さ》ける時間は言うに及《およ》ばず、である。美容《びよう》の前提《ぜんてい》である食生活も褒《ほ》められたものではない。不規則《ふきそく》なのはもちろん、仕事の合間《あいま》に軽くつまめるようなものばかり口に入れているのだ。まだまだ若いわけだし、美容も食事も少しくらい手を抜いたって大丈夫だろうと楽観《らっかん》してたけど……
懸念《けねん》はまだある。例《たと》えば毎日の召《め》し物《もの》。考えてみると近ごろ着ている服といえば学校の制服《せいふく》かメイド服ばかり。服のストック不足というわけではもちろんないけど、ぜんぶスタイリストに任せっきりなのである。自分で服を選ぶなどはどれほどご無沙汰《ぶさた》だろう。普通《ふつう》、女の子というのはもっとおしゃれに気を使うものではないのか。
(そう、普通の女の子というものは……)
それを考えるといよいよ憂鬱《ゆううつ》になった。自分がどれほど『普通』の世界から縁遠《えんどお》いかについてはよく自覚《じかく》している。でも仕方がないではないか。そういう立場に生まれたんだし、その立場を全《まっと》うすることも自分で決めたことだし。でもきっと普通の女の子に生まれていれば、こんなことで悩《なや》まずに済むのだ。
なのに『普通の女の子』はむしろ自分のことをうらやむ。それは確かに、財力《ざいりよく》にせよ権力《けんりょく》にせよ、生まれ持ったものは彼女たちに比《くら》べて破格《はかく》のものだったろう。だけどそんなものを生まれ持ったところで何になるのか。北条麗華は、たった一人の少年を振《ふ》り向かせることすらできはしない――
「ああ、終わりましたね。どれどれ、ちょっと見せてください」
ぼんやりと手を動かしているうちに窓拭き仕事が終っていたらしい。真剣《しんけん》な眼差《まなざ》しで仕事ぶりを見守っていた唆護が前に出てきて、その仕上《しあ》げ具合《ぐあい》を確認していたが、
「お見事《みごと》です。この作業のコツはもう掴《つか》みましたね。じゃ、次は一階へ」
うんうん頷くと、麗華を促《うなが》しつつ階段《かいだん》の方へ足を向けた。
うつむき、肩《かた》を落としたままその後についていく。こんな仕事、上手《うま》くできたところで何だというのか。家事仕事だけではない。新規《しんき》事業《じぎょう》の立案《りつあん》、債務《さいむ》処理《しょり》、為替《かわせ》相場《そうば》の操作《そうさ》、そんなものいくらできたところで何の意味もないのだ。それらはすべて、たったひとつの願いのために身につけた技術。その願いが叶《かな》わなければ何の意味も成《な》さない。むしろこうなっては、そんな小器用《こぎよう》さは疎《うと》ましいだけではないか――
「それにしてもさすがですね、北条先輩」
その時。階段を下りながら、峻護が弾《はず》んだ声を発した。
「飲み込みがすごく早い。今日中にどこまでできるか不安だったけど、どうやらなんとかなりそうです」
「……? 何の話ですの?」
顔を上げて問う麗華に、峻護は階段を下りながら振《ふ》り向いて、
「いや。実は今日、姉から厳命《げんめい》されてたんですよ。今日一日で北条先輩にウチの仕事をぜんぶ叩き込むように、できなきゃペナルティだ、って」
頭を掻《か》いて苦笑し、
「恥《は》ずかしながらおれ、姉には逆《さか》らえませんから。どうにかノルマをこなそうとして必死になってて。それで必死になるあまり、気づかないうちに失礼なことをしちゃってたかもしれません。それに先輩の筋《すじ》がいいから、つい教えるのに夢中《むちゅう》になった、というのもありますけど」
「え……」
「おれ、何か失礼なことをしませんでしたか? いや、たぶんやっちゃってたと思うんですよね。自分で言うのもなんだけど、おれって鈍《にぶ》いところあるんで。でずから今のうちに謝《あやま》っておければなあ。と」
「…………」
それは、つまり。
わたくし、少しはあなたの役に立てていたということかしら? いいえそれよりも。あなたがわたくしの色仕掛《いろじか》けを歯牙《しが》にも掛けなかったのは、別にわたくしに魅力《みりょく》がなかったというわけではなく? この男のことだから、本当に夢中《むちゅう》になるあまりわたくしの色仕掛けが目に入っていなかった、とか?
「二ノ宮峻護、それはつまり――」
思わず身を乗り出し、真意《しんい》を質《ただ》そうとした。そこに隙《すき》があった。
「きゃ」
階段を踏《ふ》み外し、バランスを崩《くず》した。麗華の反射神経《はんしゃしんけい》でもカバーしきれない、致命的《ちめいてき》なミス。前のめりに落下《らっか》、一階の床がみるみるうちに迫《せま》って――
「! 先輩っ!」
峻護の鋭《するど》い声。ぐいっと身体を引かれる感触《かんしょく》。視界《しかい》の天地が逆転《ぎゃくてん》し、重力の方向が狂《くる》う感覚。肉が床を打つ鈍《にぶ》い音。そして。
「あ――」
気づくと麗華は一階にいた。痛みはなく、まったくの無傷《むきず》。へたり込むような格好《かっこう》で座《すわ》り込み、そして彼女の形のいいお尻《しり》の下には。
「二ノ宮峻護?」
彼女を救ってくれた少年がいた。
とっさの判断《はんだん》で麗華の腕《うで》を引き、体勢《たいせい》を入れ替《か》えて落下。彼女のクッションとなるべく、自らを犠牲《ぎせい》にして下敷《したじ》きになったのである。
「二ノ宮峻護――」
助けて、くれた。二ノ宮峻護が自分を助けてくれた。
きゅうう、っと胸が締《し》め付けられ、同時に身体が火を入れたように熱くなり、次の瞬間、それどころではないことに気づいた。自分の下敷きとなって仰向けに倒れている峻護。状況からして後頭部を強打《きょうだ》したのは明らか。まぶたは力なく閉ざされ、手足はまるでゼンマイの切れたブリキ人形のように投げ出されていて――
たちまち青くなり、顔を近づけて呼びかける。
「二ノ宮峻護! 二ノ宮峻護っ!」
反応がない。錯乱《さくらん》寸前《すんぜん》に頭がこんがらかる。頭部に強い衝撃《しょうげき》を受げた人間は下手《へた》に動かしてはいけないとわかっているのに、肩を掴《つか》んで揺《ゆ》さぶってしまう。もし、もしも彼の身に何かあったら――それも自分のせいで彼を害《がい》することになってしまったら――
が、そんな混乱《こんらん》も長くは続かなかった。麗華の耳に、静かな寝息《ねいき》が届《とど》いてきたからである。至《いた》って穏《おだ》やかで安定した呼吸《こきゅう》だった。どうやら気を失っているだけらしい。
心の底からホッとし、全身の力を抜いた。
「まったくひやひやさせて――少しはわたくしの身にもなれというのです。あなたという男はいつもいつも……」
照《て》れ隠《かく》しにぶつくさ独《ひと》り言《ごと》を口にしつつ、手早く外傷の有無《うむ》等《とう》を確認《かくにん》していく。さすがというか何というかこの男、よほど頑丈《がんじょう》にできているらしい。ざっと見た限《かぎ》りではどこにも問題は見られなかった。
「とはいえ万一《まんいち》ということがありますしね、病院に連れていって精密《せいみつ》検査《けんさ》を受けさせるのがよろしいでしょう。さっそくコンツェルン傘下《さんか》の医療施設《いりょうしせつ》に手配《てはい》を――」
と、そこまで言ってからはたと気づいた。
今のこの状況。峻護は意識途絶《いしきとぜつ》、自分は意識|鮮明《せんめい》。峻護は下になっていて、自分はその上に馬乗《うまの》り。そしてこの館《やかた》にいるのは二人だけであり、なおかつここは小高い丘の上の洋館だから、半径《はんけい》数十メートル以内には人っ子ひとりいないわけで、
「――な、なに考えてるのよわたくしっ!」
一瞬《いっしゅん》頭に浮《う》かんだ考えをあわてて打ち消す。
「まったく、今はそれどころではないのです。この男を一刻《いっこく》も早く病院に連れて行くという義務《ぎむ》がわたくしにはあるでしょう?」
でも、こうしてみる限り容態《ようだい》は安定《あんてい》しているこれで。多少は医学の心得《こころえ》もある自分が診《み》た限《かぎ》り、問題はなさそうなわけで。
だから、ちょっとくらいは時間を取っていいはずなわけで。
でもってその時間を使って、例えば――くちびるを奪《うば》ったりしてみる、とか。
「だっ、だめだめだめだめ! いけません! そんなの卑怯《ひきょう》極《きわ》まりますわ! だいたいわたくし、意識《いしき》のないこの男にそんなことしたって、うれしくもなんとも――」
でも、意識のある二ノ宮峻護にそんな真似《まね》するのは、とうてい無理《むり》なわけで。子供のころは勢《いきお》いでやってしまったことがあるけど、今となってはそんな大胆なことありえないわけで。そうなると、こういう時くらいしかチャンスはないわけで。
「…………」
ごくり、喉《のど》が鳴《な》る。
眠ったように気絶《きぜつ》する峻護をあらためて見やる。こうして見ると普段《ふだん》の無愛想|面《づら》と打って変わり、ひどくあどけない感じがする。くちびるだって、男のくせにひどく艶《つや》やかでやわらかそうだ。そう、あの十年前と同じように。
「――に、二ノ宮峻護」
かすかに震《ふる》える声で、ささやく。
「起きなさい。起きないと、ほんとうにやってしまいますわよ? いま起きれば――まだわたくし、止まれますわよ?」
反応なし。相変わらず峻護は静かな呼吸《こきゅう》を維持《いじ》したまま。
「ほ、ほんとうにやりますわよ? わ、わたくしだって、やる時はやるんだから」
そう、そうだ、これは仕方のないことなのだ。だって二ノ宮峻護が悪いのだから。身を呈《てい》して女の子を助けておいて勝手《かって》に気絶《きぜつ》して、気持ちの昂《たか》ぶっている女の子に何もされないなんて、考えが甘すぎるのだ。
髪《かみ》を手で押さえ、ゆっくり、ゆっくり顔を寄せる。暴《あば》れだす心臓。脳内《のうない》麻薬《まやく》が分泌《ぶんぴつ》されすぎてチカチカする視界《しかい》。
「あなたが悪いのです、あなたがそんなスキだらけな顔をするから……そう、わたくしはあなたがそんなスキだらけだから、それを正そうとしてこんなことをするのです。あなたは罰《ばつ》を受けて当然なのですわ、ええもちろん」
そこまで警告《けいこく》しても相手は『無視《むし》』を貫《つらぬ》いている。こうなればやむを得《え》ない。制裁《せいさい》を発動《はつどう》するしかあるまい。この状況であれば誰もがそれを認めるだろう。そうにちがいない。
「二ノ宮、峻護……」
吐息《といき》が触《ふ》れ合う距離。麗華の髪が峻護の頬にかかり、ごくり、もう一度|生唾《なまつば》を飲み、一気に最後の距離を縮《ちぢ》めようとして、そして――
転瞬《てんしゅん》。
「えっ?」
麗華の世界が、ぐるりと反転した。あっという間の出来事《できごと》。気づいた時には麗華の目の前に一階の床があり、少年ひとり分の体重が彼女の背中にあった。
二ノ宮峻護に、背中からのしかかられていた。
(う、うそ、気絶《きぜつ》してるんじゃ、なかったのっ? いえ、そんなことより、こ、こ、この体勢《たいせい》というのは――)
混乱《こんらん》は頂点《ちょうてん》に達《たっ》した。麗華だって、男と女がこういう体勢《たいせい》になることが何を意味しているかは知っている。
「ま、待って、いきなり、そんな、確かに始めたのはわたくしだけど、で、でもそんな、わたくしまだ、心の準備《じゅんび》、それはもちろん、あなたがどうしてもと言うならやぶさかではありませんが、でもこういうことは、もっと段階《だんかい》を踏んで、」
だが、あたふたした弁解《べんかい》は強制的《きょうせいてき》に封《ふう》じられることとなった。背後《はいご》から首に回された二本の腕によって。
「――!」
反射的に暴《あば》れだそうとしていた身体も、それで止められた。いや、麗華が、自らの意志《いし》で止めた。なぜなら。
『あの』二ノ宮峻護が今、北条麗華を抱《だ》きすくめているのだから。
(ああ……)
だったらもう、道はひとつ。北条麗華は二ノ宮峻護ただひとりを想《おも》い、そしてまた彼の想いに応えるためにのみ、これまで生きてきたのだから。そしてようやく、その願いが叶《かな》う時が来たのだから。
全身からカを抜く。もう、すべてを委《ゆだ》ねるつもりだった。まさかこんなことになるとは思わなかったけど、途中《とちゅう》の色々なものを省《はぶ》いてしまってる気もするけど、それこそ些細《ささい》な問題でしかない。
首にかかった腕の温度をいとおしみつつ、思う。――ついに。ついにこの時が来たのですわね。早すぎるとは思いません、だって十年も待ちつづけたんですもの。ただ、あまり賛沢《ぜいたく》を言うつもりはないけれど、もう少しムードのある場所であればと思いますわ。こんな床の上というのはいくらなんでもちょっと……まあきっかけを作ったわたくしが言うことではないかもしれませんけど。それにわたくし、あなたの気持ちをあなたの口から一度も聞いたことがないのですわよ? ええ、でも、そんなのはいいのです。そんなのは後でいくらでも聞けることなのですわ。十年分のツケとして、何度でも何度でも聞かせてもらうんだから。たっぷり利子《りし》をつけて払《はら》ってもらうから覚悟《かくご》しておきなさい。その代わりわたくしも、もう少し素直《すなお》になれるようにするから。もっとあなたに好かれるわたくしになれるよう、がんばるから。――ああ、あまりにも心が満たされているからなのかしら? なんだかこう……意識《いしき》が……遠く…………なっ…………て
*
「…………。なーにがあったのかしらね、これは」
それからしばしの後。
用事《ようじ》を済ませて帰宅《きたく》した二ノ宮涼子は、階段下で展開《てんかい》されていた奇妙《きみょう》な状況を見てそう呟《つぶや》いた。
状況とはこうである。出演者は二ノ宮峻護と北条麗華。小道具は掃除に使っていたのであろう一切れの雑巾《ぞうきん》。
まずは麗華。こちらは床に直接|俯《うつぶ》せになる格好《かっこう》。ちょうど、レスリングの試合で対戦《たいせん》相手に起こされまいと両手両足を突《つ》っ張《ぱ》った状態に似《に》ている。眠るようにまぶたを閉ざして動こうとしないところから、既《すで》に意識はないものと見受けられた。
次に峻護。右の表現を借《か》りるなら、こちらは『対戦相手』の方になる。床に伏せている麗華の上に覆《おお》い被《かぶ》さり、首に腕を回して頸動脈を締め上げていた[#「首に腕を回して頸動脈を締め上げていた」に傍点]。彼もまた両目を閉ざし、意識を手放《てばな》している様子である。
そして雑巾。窓拭き用と思《おぼ》しきこれは前記《ぜんき》二人のそばに放り出されている。すべて一部始終を目撃《もくげき》していたであろう布切れはしかし黙《もく》して語らず、床上にしなびた姿を晒《さら》していた。
「ふむ」
腕を組み、涼子はしばし黙考《もっこう》。いったい彼らは何をしていたのだろうか。まさか仕事をサボってスパーリングをしていたわけでもあるまい。そもそも麗華の方に抵抗《ていこう》の跡《あと》がなく、着衣の乱《みだ》れも確認できない。それを踏まえた上で、階段下というロケーション、彼ら二人の行動パターン、性格等を考慮《こうりょ》すると――
「……二階で窓拭き仕事を教えて一階に向かっていたところ、何かの拍子《ひょうし》で麗華ちゃんが足を踏み外し、階段をまっさかさま。峻護は彼女を捨《す》て身で助けようとして下敷《したじ》きになり、気絶《きぜつ》。でもって麗華ちゃんは二人きりなのをいいことに峻護の寝込みを襲《おそ》おうとしたんだけれど――」
ふむ、と頷き、
「腐《くさ》っても二ノ宮家の男子である峻護は、気を失いつつも防衛《ぼうえい》本能《ほんのう》を発動《はつどう》させ、外敵《がいてき》=寝込《ねこ》みを襲おうとした麗華ちゃんの存在《そんざい》を察知《さっち》。身体が無意識《むいしき》のうちに動いて麗華ちゃんを組み伏せ、頸動脈《けいどうみゃく》を絞めて気絶させた。外敵が沈黙《ちんもく》したことによって防衛本能が引っ込んだ峻護もまた、気絶を続行中……ま、だいたいそんなとこかしらね」
わずかな手がかりでほぼ完壁《かんぺき》に状況を推測《すいそく》し終えると、仲良く夢の世界に旅立っている二人のそばに屈《かが》み込み、
「まったくこのバカ弟は……おとなしく襲われておけばいいものを、こういう時に限って修行《しゅぎょう》の成果を発揮《はっき》するのねえ。そりゃまあ、無意識のうちにも身体が動くのが武芸《ぶげい》だとは言うけれど」
べしっ、と不肖《ふしょう》の弟にデコピンをかましておいてから、次にメイド少女の方を覗《のぞ》き込み、
「――あらあら」
普段《ふだん》は見せない、ひどくやわらかな微笑《びしょう》を浮《う》かべた。
なぜなら。北条麗華は絞め落とされているにもかかわらず、この上なく幸せそうな顔をしていたから。
「……こんなところで寝転がられると邪魔《じゃま》で仕方ないんだけど――ま、しばらく放っておこうかしらね」
こういう時でもないと麗華ちゃん、峻護とくっ付いていられないでしょうし――そう言い足して立ち上がると、涼子は機嫌《きげん》よさげに鼻歌を口ずさみながらリビングに向かうのだった。
北条麗華、十七歳。
彼女の春は、まだまだ遠いようである。
おしまい
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あとがき
初めての方は初めまして、そうでない方はお久しぶりです。作者の鈴木《すずき》です。拙著《せっちょ》『ご愁傷《しゅうしょう》さま二ノ宮くん』の短編集、『おあいにくさま二ノ宮くん』の第一|弾《だん》をここにお届《とど》け致します。――うん、あとがきの書き出しをこのパターンで始めるのも、すっかり定着《ていちゃく》してきた予感《よかん》。書き出しに悩《なや》まずに済むというのは作者をとても幸せにするので、大変|結構《けっこう》なことです。
*
さて、今回のあとがきの内容ですが、それぞれの短編の制作《せいさく》にまつわる裏話《うらばなし》的なものをつらつら記述《きじゅつ》して稿《こう》を埋《う》めたいと思います。さしたる捻《ひね》りもなくてすいません。でもこれだと作者の私はあまり悩まずに済むので、とても幸せなことなのです。
*
『真由《まゆ》、特訓《とっくん》するのこと』
記念すべき、と言っていいものかどうか、まあともあれ、『二ノ宮くん』シリーズの短編第一弾であります。この短編は『ご愁傷さま二ノ宮くん』第一巻が世に出た直後《ちょくご》に発売された月刊ドラゴンマガジンに掲載されたもの。同時にまた、原稿料《げんこうりょう》を受け取ることを前提《ぜんてい》に書いた始めての小説であり、さらに言えば私にとって生涯《しょうがい》初《はつ》の『短編らしい短編』でもありました(それまで書いていた小説は長編がほとんどだったのです)。
そんなわけで、この短編はかなりの難産《なんざん》となりました。プロットの構想《こうそう》から最終的《さいしゅうてき》なオーケーか出るまで一ヵ月半くらいかかったような気がします。原稿用紙《げんこうようし》四十枚前後という月刊ドラゴンマガジンのフォーマットに合わせるのに苦労したし、一度は全ボツに近いのも食らってますし(これは人生初のボツでもありますね)。
もっともそんな苦労の甲斐《かい》もあったといいますか、おかげさまでこの短編はかなりの好評《こうひょう》をいただけたようでして。その後月刊ドラゴンマガジンで連載の枠《わく》をもらうことになる大きなきっかけとなりました。今にして思えば、色々な意味《いみ》で節目《ふしめ》となった小説、という感があります。
ちなみにこのエピソード。初期《しょき》バージョン(ボツバージョン)では、麗華《れいか》や保坂《ほさか》だけでなくクラスメイトまで登場する、盛《も》りだくさんの内容でした。詰《つ》め込みすぎて失敗《しっぱい》した典型的《てんけいてき》な例《れい》でもありますが。
『真由、看病《かんびょう》するのこと』
記念すべき、と言っていいものかどうか、まあともあれ、『二ノ宮くん』シリーズの短編連載第一弾であります。好評をいただいた前回の流れを踏襲《とうしゅう》し、可能《かのう》な限《かぎ》りラブコメ色を前面《ぜんめん》に出そうとしている痕跡《こんせき》がちらほら。まだまだ短編を書き慣《な》れていない感じや、月刊ドラゴンマガジンのフォーマットに慣れていない感じもよく出ていますね。今になって読み返してみると至《いた》らぬ点があちこちにあって、作者としては汗顔《かんがん》の至《いた》り。この短編集を出すにあたって少なからぬ修正《しゅうせい》を入れていますので、当時の掲載誌《けいさいし》を持っている方は読み比べてみても面白いかも。
……とはいえ至らぬ点が多いのは確《たし》かながら、作品的にはけっこう気に入っていたりもします。作者の腕《うで》は未熟《みじゅく》なれど、真由が上手《うま》いこと動いてくれてるような気がするし。
『峻護《しゅんご》と真由、閉じ込められるのこと』
三度目の正直というやつでしょうか。この頃になってようやく短編のリズムが多少つかめてきたようで、いま読み直してみてもそれほど違和感《いわかん》ない感じになってくれてます。内容的には前二回を踏襲したラブコメ全開路線《ぜんかいろせん》。真由もまだ、この頃《ころ》はしおらしいもんです。
ただし『短編のリズムがつかめてきた』とは言いましたが……実はこの回、読者様の反応《はんのう》が最も鈍《にぶ》かった回でもあります。不思議《ふしぎ》なことに連載第二回目というのは人気が出にくいものであるとのこと。作品としてはそこそこ気に入っているですけどね、このエピソードって……。
『真由、お使いに行くのこと』
だんだん真由にヘンなキャラが付き始めてきた四話目。見所《みどころ》は源《げん》さんの完成《かんせい》されたアミノ酸《さん》バランス。
ところでこの短編を読んだ担当さんから「何かコロッケに思い入れでもあるんですか?」という質問《しつもん》をされましたが、特にそういうことはありません。予備《よび》校時代はよく帰り道に三個百円のコロッケを買い食いしてたなあ、とか、大学時代は近所の肉屋によく揚《あ》げたてコロッケを買いに行ったなあ、とか、そういえば地元《じもと》にある鳥肉屋のコロッケがちょっと変《かわ》り種《だね》で美味《おい》しいんですよ、とか。その程度《ていど》。
『真由、街へ出るのこと』
従来《じゅうらい》のラブコメ路線《ろせん》からちょいと離《はな》れたこの回。「こういうエピソードは読者的にどうなのか」という話は担当さんともしたのですが、一度はやっておきたかったことなのでまあ良し。長編一巻でちょいと登場した日奈子《ひなこ》がこの後、準《じゅん》レギュラーな感じで顔を出すようになります。見所はオチョワ夫人《ふじん》。
余談《よだん》ですが、日奈子というキャラはクラスの女子たちを集めて『セクハラクラブ』なる結社《けつしゃ》を立てているという設定《せってい》があります。この結社は峻護に日々よからぬ所業《しょぎょう》を働いており、そこにキマジメな真由が絡《から》んできて……というエピソードも考えていたんですが、やりそびれてしまいました。さて、今後使う機会《きかい》があるのかどうか。
『真由、アクロばるのこと』
ジャッキー・チェンの『プロジェクトA』をイメージして書いた記憶《きおく》があるような無《な》いような。短編シリーズには珍《めずら》しく、アクション多めなお話になってます。伊達《だて》教諭《きょうゆ》は某《ぼう》有名ネットゲームに出てくるダークエルフのイメージで。やおい同人誌《どうじんし》に出てくる二人は某有名|携帯《けいたい》用ゲームソフトから名前を拝借《はいしゃく》。
またこのエピソードの後日談《ごじつだん》として、真由がそちらの道に本格的《ほんかくてき》に目覚《めざ》めて峻護を巻き込みつつ同人誌作ったり即売会《そくばいかい》に行ったり、というエピソードも考えていましたが……はて、いつになったら書けることやら。このネタも死蔵《しぞう》しそうな予感。
『麗華《れいか》、峻護と二人きりになるのこと』
書き下ろし。麗華は作者的にとても動かしやすいキャラなので、このエピソードは割《わり》と気楽《きらく》に書けました。プロットも本番もほぼ一発オーケーだったし。
ちなみに現在《げんざい》の私は、原稿用紙四十枚前後という月刊ドラゴンマガジン連載《れんさい》のフォーマットにすっかり慣《な》れてしまっていて。この書き下ろしも本来は中編くらいの長さにするつもりが、いつの間にかいつもの枚数になってしまいました。人間の適応《てきおう》能力《のうりょく》とは便利《べんり》でもあり、厄介《やっかい》でもあり。
*
そんなこんなで今回も最後になってしまいましたが、イラストの高苗《たかなえ》氏、担当のS氏をはじめ、この本に関わって頂《いただ》いた全ての人たちに満腔《まんこう》の謝意《しゃい》を。そしてこの本を手に取ってくださった皆様《みなさま》に、私から一方通行《いっぽうつうこう》の愛を。ありがとうございました、どうぞこの次もよろしくお願い致《いた》します。
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初出
真由《まゆ》、特訓《とっくん》するのこと 月刊ドラゴンマガジン2004年11月号
真由、看病《かんびょう》するのこと 月刊ドラゴンマガジン2005年4月号
峻護《しゅんご》と真由、閉じ込められるのこと 月刊ドラゴンマガジン2005年5月号
真由、お使いに行くのこと 月刊ドラゴンマガジン2005年6月号
真由、街へ出るのこと 月刊ドラゴンマガジン2005年7月号
真由、アクロばるのこと 月刊ドラゴンマガジン2005年8月号
麗華《れいか》、峻護と二人きりになるのこと 書き下ろし
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底本 おあいにくさま|二ノ宮《にのみや》くん1
出版社 富士見書房
発行年月日 平成18年1月25日 初版発行
入力者 ネギIRC