鈴木光司
リング
目 次
第一章 初 秋
第二章 高 原
第三章 突 風
第四章 波 紋
第一章 初 秋
1
九月五日 午後十時四十九分
横浜
三溪園に隣接する住宅地の北端には十四階建てのマンションが数棟建ち並び、新築にもかかわらずそのほとんどの部屋はふさがっていた。一棟に百近い住居が密集していたが、たいがいの住人は隣人の顔も知らず、それぞれの住居に人が住んでいるのを証明するのは夜になって灯《とも》る部屋の明りだけであった。
南の方向では、脂っぽい海が工場の常夜灯の光をテラテラと照り返している。工場の外壁には無数のパイプがまとわり付き、体内の筋肉を這《は》い回る血管を思わせた。しかも、表面を覆う無数のイルミネーションは夜光虫に似て、グロテスクな景観も見ようによっては美しい。工場は、黒い海に無言の影を落としていた。
そのもっと手前、ほんの数百メートル先の区画整理された宅地に、新築の二階建てがポツンと離れて建っている。南北に走る一方通行の道に接して玄関があり、その横には車一台ぶんの駐車場があった。新興住宅地で見かけるごく普通の家といった感じだが、その後方と両隣には家の影がない。交通の便が余り良くないためか、まだ買手がつかず、売り地という立て札があちこちに見受けられる。完成と同時に人で埋まっていったマンションと比べると、なんとも寂しい風景であった。
その家の二階の蛍光灯の光は、開け放たれた窓から暗い路面いっぱいにこぼれ落ちていた。家で明りのついているのは、二階の智子の部屋だけである。私立女子高三年の大石智子は、その部屋の二階で机の前に座っていた。白いTシャツにショートパンツ姿で、床に置かれた扇風機の風に両足を差し出し、身体《からだ》をひねる無理な格好で開いた問題集に目を落としていた。Tシャツの裾《すそ》をパタパタさせて風を直接素肌に当てながら、暑い暑いとだれにともなく文句ばかり言う。夏休みに遊び過ぎたせいで宿題は山ほどたまり、智子はそうなった原因を暑さのせいにしていた。しかし、今年の夏はそんなに暑くはなかった。晴天の日も少なく、海水浴客の出も例年に比べればずっと悪かった。ところが、夏休みが終わったとたん、五日続けて真夏日が続いている。この皮肉な天候に智子は苛立《いらだ》ち、空を恨んだ。
……このクソ暑いのに、勉強なんてできるわけねえだろ。
智子は髪をかきあげた手で、ラジオのボリュームを上げた。すぐ横の網戸に止まった小さな蛾《が》が、扇風機の風に抗し切れず、どこかに飛んでいくのが見える。虫が闇の中に消え去った後、網戸はしばらくぶるぶると細かく震えていた。
さっきから、勉強は少しもはかどらない。明日はテストだというのに、徹夜しても範囲は終わりそうになかった。
時計に目をやる。もうすぐ十一時だ。テレビでプロ野球ニュースでも見ようかと思う。ひょっとして、内野席スタンドに両親の顔が映っているかもしれない。しかし、明日のテストが気に掛かる。智子はどうしても大学に行きたかった。入りさえすればいい。大学と名がつけばどこでもよかった。それにしても今年の夏休みには欲求不満が残る。天候のせいでハデに遊ぶこともできず、かといってねっとりとまとわりつく湿気が気持ち悪くて勉強をする気も起こらなかった。
……ちぇ、高校最後の夏休みだってのにさ、もうちょっとパァーっといきたかったな。女子高生という名で呼ばれる夏休みは、もうこれでオシマイ。
気分はむしゃくしゃし、当り散らすべきターゲットは急にコロコロと変わった。
……ったく、娘が汗水タラして勉強してるってのに、ノコノコふたりでナイターなど見に行きやがって、娘の気持ちも考えろよな。
仕事の関係で偶然手に入れた巨人戦のチケットを持って、両親とも東京ドームに出かけていた。試合終了後、どこにも寄らないとしたら、もう帰ってもいい頃だ。今、真新しい4LDKには、智子ひとりしかいない。
ここ数日まったく雨が降ってないというのに、妙な湿っぽさを感じた。自分の身体《からだ》からにじみ出した汗以外に、確かに、部屋の中には細かな水滴が漂っていた。智子は無意識に腿《もも》をピシャリと打った。手をどけても、蚊のつぶれた姿はない。一点に集中する痒《かゆ》みを膝《ひざ》の上に感じたのだが、気のせいだったようだ。ブーンという羽音がする。智子は頭の上を両手で払った。蠅《はえ》だ。蠅は一旦《いつたん》視野から消え、扇風機の風を避けるようにしてドアの前で高さを変えている。一体どこから入り込んだのだろう。ドアは締まっている。智子は網戸の隙間《すきま》を確かめた。蠅が通るほどの隙間はどこにも見られない。智子は、尿意と喉《のど》の渇きを同時に覚えた。
息苦しいというほどではないが、どこからともなく圧力がかかってきて、胸を押す力があった。さっきからぶつぶつと声に出して文句ばかり言っていた智子ではあるが、今は別人のように黙り込んでいる。階段を降りながら、わけもなく心臓がドキドキする。すぐ前の道路を通る車のヘッドライトが、すうっと階段下の壁をなでて消えていった。車のエンジン音が小さくなって遠のくと、以前よりもなお一層闇が深まったようで、智子はわざと大きな音をたてて階段を降り、廊下の明りのスイッチを入れた。
放尿し終わって、智子はしばらく便座に座ってぼうっとしていた。心臓の動悸《どうき》は治まらない。こんなふうになったのは初めてだ。どうしたというのだろう。大きく数回深呼吸をしてから、智子は立ち上がり、ショーツとショートパンツをいっしょに引き上げた。
……パパとママったら、早く帰ってきてよ。
急に女の子らしい言葉になっていた。
……いやだ、あたしったら誰にお願いしてるんだろう。
両親に向かって早く帰ってきてと語りかけたわけではない。それ以外の何者かに対してである。
……お願いします。わたしをあまり脅さないでよぉ。
知らぬ間に敬語さえ使っている。
キッチンの流しで手を洗った。濡れた手でフリーザーの氷をグラスの中に放り込み、コーラをなみなみと注《つ》ぐ。そして、まず一杯、一気に飲み干し、グラスをカウンターの上に置いた。グラスの中で氷がぐるぐる回って動きを止める。智子はぶるっと体を震わせた。寒けがしたのだ。まだ、喉の渇きは治まらない。もう一度コーラの一・五リットル瓶を冷蔵庫から出してグラスに注ぐ。手が震えた。背後に気配がある。けっして人間ではあり得ない。肉の腐ったすえた臭い、空気の中に溶け込んで包み込むように……、固体ではあり得ない。
「お願い、やめて!」
声に出して訴えていた。流しの上の、十五ワットの蛍光灯がチカチカと息切れをしている。まだ新しいはずなのに、なんとも頼りない明り。部屋全体の照明もONにしておくべきだったと智子は後悔した。しかし、スイッチのところまで歩くことができない。それどころか、振り返ることさえできなかった。背後に何があるのかわかっていた。八畳の和室、床の間にあるおじいちゃんの仏壇。八畳間のカーテンは開いていて、硝子《ガラス》窓の向こうに草の生えた宅地とマンションの明りが格子縞《こうしじま》に小さく見えるはず、ただそれだけのはず。
二杯目のコーラを半分飲んだところで、智子はまったく身動きがとれなくなってしまった。気のせいですますには、あまりに気配が濃密であった。今にも何かがニュッと伸び、自分の首筋に触れそうでならない。
……もし、アレだったらどうしよう。
それ以上考えたくはなかった。このまま、こうしていたら、あのことばかりが思い起こされ、肥大した恐怖に耐えられなくなってしまうだろう。もうとっくに忘れていた一週間前のあの事件。秀一があんなこと言い出したからいけないんだ。みんな、あとに引けなくなってしまって……、でも、都会に戻ると同時に信憑《しんぴょう》性がなくなっていった例の、鮮明な映像。誰かのイタズラ。智子は、他のもっと楽しいことを考えようとした。もっと、別の……。でも、もしアレだったら……。アレが、本当のことだったら、そうよ、だって、電話がかかってきたじゃない、あの時。
……ああ、パパとママったら何してるの。
「早く帰ってきてよ!」
智子は声を上げた。声を出しても不気味な影は一向に引く気配を見せない。じっと後ろでうかがっている。機会が来るのを待っている。
十七歳の智子には恐怖の正体はまだよくわからない。しかし、想像の中で勝手に膨らんでしまう恐怖があることは知っている。
……そうであってくれればいい。いや、きっとそうに違いない。振り返っても、そこには何もない。きっと、何もない。
智子は振り返りたい欲望に駆られた。さっさとなんでもないことを確かめ、一時も早くこんな状態から抜け出したかった。しかし、本当にただそれだけのことだろうか。背中は泡立っていた。肩のあたりで湧《わ》き起こった悪寒が背筋を伝って下へ下へと這《は》い降り、冷たい汗でTシャツはぐっしょりと濡れていた。単なる思い込みにしては、肉体の変化が激し過ぎる。
……誰かが言っていた、肉体は精神よりも正直だって。
一方で、声がする。振り向いてしまえ、何もあるはずないじゃないか。残りのコーラを飲んで早く勉強に戻らないと、明日の試験どうなっても知らないぞ。
グラスの中でピシッと音をたてて氷が割れた。そして、その音に弾《はじ》かれたように、智子は思わず振り返ってしまった。
九月五日 午後十時五十四分
東京 品川駅前の交差点
目の前で信号が黄色に変わった。突っ切れないこともなかったが、木村はタクシーをなるべく左側に寄せて止めた。六本木交差点までの客がついてくれると都合がいい、この場所で拾う客は割合赤坂、六本木方面が多く、こうやって信号待ちで止まっている間に乗り込んでくることもしばしばであった。
タクシーの左脇を抜けて、一台のバイクが横断歩道のすぐ手前に止まった。運転しているのは、ジーンズをはいた若い男だ。木村はチョロチョロと走り回るバイクが目障りで仕方ない。特に、信号待ちしている時、平気で車の前に出てきたり、ドアのすぐ脇に止まるバイクに腹が立った。今日一日、客のツキがあまりよくなく、機嫌が悪かったこともあって、木村はおもしろくなさそうな目で若い男を見ていた。フルフェイスのヘルメットで顔の表情を隠し、男は歩道の縁石に左足をかけ、股《また》を広げ、だらしのない格好で身体《からだ》を揺らせている。
足のきれいな若い女が歩道を歩いていく。男はその女の後を追って首を巡らせていった。ところが、男は女の姿を最後まで追い切らなかった。約九十度首を回したところで、男は左側のショウウィンドウに視線を固定させてしまったのだ。視野の外に出て、女は歩き去ってゆく。男はそのまま取り残されて、じっと何かに見入っていた。歩行者専用の信号が点滅を始め、やがて赤に変わった。横断歩道を歩行中の人々は足を速め、タクシーのすぐ前を通り過ぎてゆく。手を上げて寄ってくる者はいない。木村はエンジンを空ぶかしして、正面の信号が青に変わるのを待った。
その時、バイクの男は、ビクッと強く身体を震わせたかと思うと両腕を上げ、木村のタクシーのほうに倒れ込んできた。ガシャンという音と共に、男はドアにぶつかって視界の外に消えていった。
……この、バカヤロー。
バランスを崩して立ちゴケしたに違いないと、木村はハザードを出して車を降りた。ドアに傷がついていたら、それ相応の修理費を払わせるつもりであった。信号は青に変わり、後続の車は木村の車を追い越して交差点に入っていく。男は路面で仰向けにひっくりかえり、足をバタバタさせ、両手でヘルメットを取ろうともがいていた。木村はその男よりも、まず自分の商売道具を見た。思ったとおり、ドアの部分に斜めに傷が走っている。
「チェッ」
木村は舌打ちしながら男に近づいた。男は、ヘルメットの顎《あご》ひもが顎の下でしっかりと固定されているにもかかわらず、なおも必死でヘルメットを取ろうと、自分の首も一緒にもぎ取りそうな勢いであった。
……それほど息苦しいのだろうか。
木村は男の様子が尋常でないことを悟り、傍らに座り込んでようやく「大丈夫か?」と尋ねた。スモークシールドのせいで、男の表情がよくわからない。男は木村の手を握って、何かを訴えかけた。すがるようでさえあった。声が出ない。シールドを上げようともしない。木村は早とちりをした。
「待ってろ、すぐに救急車を呼んでやる」
公衆電話に走りながらも、どうしてただの立ちゴケであんなふうになっちまうんだと合点がいかない。よほど頭の打ちどころが悪かったのだろうか。
……ばか言え、ちゃんと、あの野郎、ヘルメット被《かぶ》ってたじゃないか。足とか腕の骨を折っているようにも見えない。めんどくせえことにならなければいいが……、オレの車にぶつかってけがしたとなると、これは、ちょっと、やばいかもしれねえな。
木村は嫌な予感に襲われていた。
……もしけがでもしていたら、オレの車の保険で処理することになるのだろうか。となると、事故証明、おまけに警察。
電話を終え、もとの場所に戻ると、男は喉《のど》のあたりに手を置いて動かなくなっている。数人の通行人が立ち止まり、心配そうに覗《のぞ》き込んでいた。木村は人をかきわけ、救急車を呼んだのが自分であることをみんなにアピールした。
「おい、……おいっ、しっかりしろ、今に救急車が来るからな」
木村はヘルメットの顎《あご》ひもをはずす。そして、あれほどもがき苦しんでいたのが嘘のように、ヘルメットはなんなく脱げていった。驚いたことに男の顔は大きくゆがんでいた。この表情に言葉を当てはめるとしたら、驚愕《きようがく》。両目をかっと見開き、赤い舌を喉の奥につまらせて、口の端からよだれを流している。救急車を待つまでもなかった。ヘルメットを脱がす時に触れた木村の手は、当然あるべき場所にその男の脈拍を発見できなかった。木村はぞっとした。回りの情景からスルスルと現実感が引いていった。
倒れたバイクの車輪はまだゆっくりと回り、エンジン部から流れ出した黒いオイルが路面に伝わって下水の中に滴り落ちている。風はなく、晴れ渡った夜空を背景に真上の信号が再び赤に変わった。木村はヨロヨロと立ち上がり、道路|脇《わき》のガードレールにつかまって、もう一度チラッと路面に横たわった男を見た。男はヘルメットを枕に直角に近い格好で頭を立て、その姿はどう見ても不自然であった。
……オレが置いたのだろうか、あの男の頭を、あんなふうに、ヘルメットの上に。ヘルメットが枕になるように。なんのために?
数秒前のことが思い出せない。大きく開いた両目がこっちを向いている。悪寒が走った。生暖かな空気が、今、すっと肩先を通り過ぎていったように思う。熱帯夜にかかわらず、木村は身体《からだ》の震えが止まらなかった。
2
内堀の緑色の水面は早朝の秋の色を映し出していた。暑い九月もようやく終わろうとしている。浅川和行は地下のホームに降りかけたが、ふと気が変わり、九階から見た水の色をもっと間近に感じようと、外に至る階段を上った。出版局の汚れた空気が、瓶の底に澱《おり》がたまるように地下へと沈んでいる気がして、急に外の空気を吸いたくなったのだ。皇居の緑をすぐ前に見ると、高速五号線と環状線が合流するこのあたりの排気ガスもそう気にはならず、まだ明けたばかりの空が、朝の冷気と共に新鮮に輝いている。
徹夜明けで身体《からだ》はかなり疲労していたが、あまり眠くはなかった。原稿を書き上げた興奮は、適度な刺激となって脳細胞を覚醒《かくせい》させている。浅川は、ここ二週間ばかり休みをとっていなかった。今日明日は家でゆっくり休養を取ろうと思う。編集長の命令なんだから堂々と休むことができる。
九段下のほうから空のタクシーが来るのを見て、本能的に手を上げていた。二日間に地下鉄の竹橋・新馬場間の定期が切れ、まだ新しく購入してなかったのだ。ここから北品川のマンションまで地下鉄なら四百円、タクシーだと二千円弱。約千五百円の無駄遣いになるが、三回の乗り替えを考えると、給料をもらったばかりということも手伝って、まあ今日だけは贅沢《ぜいたく》しようかという気持ちになる。
この日、この場所で浅川がタクシーを拾う気になったのは、ささやかな衝動が積み重なった上の気紛れであった。最初からタクシーを拾うつもりで外に出たわけではない。ふと外の空気が恋しくなったところに、空車の赤ランプをつけたタクシーが通りかかり、その瞬間、切符を買ってまで三つの駅で乗り替えることが面倒に思えてしまったのだ。もし、地下鉄で帰路についていたら、二つの事件は決して同じ線で結ばれなかっただろう。しかし、考えてみれば、物語の発端にはいつも偶然がつきものである。
一台のタクシーが、ためらいがちにパレスサイドビルの前で止まった。運転手は四十前後の小柄な男で、やはり徹夜明けのせいか真っ赤な目をしている。ダッシュボードの上にカラーの顔写真があり、写真の横には木村幹夫と運転手の名前が記されている。
「北品川まで……」
行き先を聞いて、木村は小躍りしたい気分になった。北品川は会社の倉庫のある東五反田のすぐ先で、そろそろ帰庫しようとしていた木村の進行方向と同じである。タクシードライバーが仕事のおもしろさを実感するのは、自分の読みに従って流れがうまくつながった時だ。木村はいつになく饒舌《じょうぜつ》になった。
「これから取材ですか?」
疲れのせいで充血した目を窓の外に向け、ぼうっと考えごとをしていた浅川は「え?」と聞き返した。自分の職業をなぜ知っているのだろうと、疑問に思いながら。
「お客さん、新聞記者じゃないんですか」
「週刊誌のほうだけど、よくわかりますねえ」
二十年近くタクシーに乗っている木村は、乗せた場所や服装、言葉遣いから、ある程度客の職業を推測することができた。一般的に人気のある職業に就いて、しかもそれを誇りに思っている客の場合、仕事に関係した話題にはすぐ乗ってくる。
「たいへんですねえ。こんな早くから」
「いや、逆です。今から帰って寝るところですよ」
「あ、じゃあ、わたしと同じだ」
普段の浅川には仕事に対する誇りなどなかった。しかし、今朝は、初めて自分の記事が活字になった時の、あの満足感を取り戻していた。ある企画のシリーズをようやく終え、かなりの反響を得ることができたのだ。
「仕事、おもしろいですか」
「まあね」
と浅川はあやふやに答えた。おもしろい時もあれば、そうじゃないときもある、ただ、今はそれ以上受け答えするのが面倒くさかった。彼は二年前の失敗を忘れてしまったわけではない。あのとき手掛けた記事のタイトルをまだはっきり覚えている。
『現代の新しい神々』
二度と取材活動はできないと、震えながら編集長に訴えていた情けない自分の姿が目に浮かぶ。
しばらくの沈黙があった。車は、東京タワーのすぐ左側のカーブをかなりのスピードで走り抜けていく。
「あ、お客さん。運河沿いの道を行きますか、それとも第一京浜?」
北品川のどこに向かうかによって取るルートが違ってくる。
「第一京浜のほう……。新馬場の手前で降ろしてよ」
タクシードライバーは、客の目的地がはっきりするといくらか安心するものだ。木村は札の辻の交差点でハンドルを右に切った。
あの場所が近づいた。木村にとって、ここ一ケ月近くどうしても忘れることのできぬ交差点。浅川が二年前の失敗にこだわるのとは異なり、木村はある程度客観的な立場からこの事故を眺めることができた。というのも、事故に対する責任も、それに伴う反省も、彼には一切なかったからだ。完全に相手の自損事故であり、注意して避けられるものではなかった。あの時の恐怖はもう忘れかけている。一ケ月……、長いといえるのだろうか。浅川は二年前の恐怖に今なお縛られている。
ただ、どうにも説明がつかない。なぜ、ここを通るたびに、あの時のことを人に話したくなるのか。ルームミラーでチラッと見て、客が眠っている場合はまあ諦《あきら》めるけれど、そうでなければ、木村はまず例外なく全《すべ》ての客にあの時のことを逐一話してしまう、衝動があった。木村はこの交差点に入るたびにいつも話したいという衝動に襲われるのだった。
「一ケ月近く前のことだったかなあ……」
まるで話し始めるのを待っていたかのように、信号は木村の目の前で黄色から赤に変わっていった。
「世の中にはわけのわからないことがたくさんありますよねえ」
話の内容をなんとなくほのめかして、木村は客の関心を引こうとした。浅川は半分眠りかけていた頭をガバッと起こして、キョロキョロと回りを見回す。木村の声に驚いて、今いる位置を確認したのだ。
「突然死って、この頃、増えてるんですかねえ……、若い連中の間にも」
「え?」
浅川の耳にその言葉は響いた、……突然死。木村は先を続けた。
「いえね、一ケ月近く前だったかなあ。あそこで信号待ちしているわたしの車に、突然バイクが倒れかかってきましてね、走っていてコケたわけじゃないんですよ、止まっていて、急にパタッて。それで、どうなったと思います。あ、運転していたのは、十九歳の予備校生だったんだけど、……死んじまいやがってね、これが。びっくりしましたよ、救急車は来るわ、パトカーは来るわ。おまけにオレの車でしょ、ぶつかったの。エライ騒ぎですわ」
浅川は黙って聞いていたが、十年来の記者としての勘をひらめかして、即座にドライバーとタクシー会社の名前をメモした。それは本能的ともいえる早さであった。
「死に方がね、ちょっとおかしいんですよ。とにかく、もの凄《すご》い勢いでヘルメットを取ろうとして……、仰向けになってバタバタ……、オレが救急車を呼びにいって、戻ってみると、もう、オシャカ」
「場所はどこですか?」
浅川の目は完全に覚めていた。
「あそこですよ、ほら」
駅前の横断歩道を渡ったところを、木村は指差した。品川駅は港区|高輪《たかなわ》にある。浅川はそのことを頭に焼き付けた。もし、あそこで事故が起こったとしたら、管轄の警察は高輪署である。そして、頭の中で素早く、高輪署の内部に入り込むルートをたぐっていた。大手新聞社の強みは、まさにここにある。あらゆる分野に張り巡らしたコネを新聞社は持っていて、時によってその情報収集能力は警察のそれを凌《しの》ぐことさえあるのだ。
「で、死因は、突然死だったわけですか」
突然死という病名があるかどうかはわからない。浅川は聞き急いでいた。この事故が、自分の心のどこに引っ掛かっているのか知らぬまま……。
「ふざけた話ですよ。わたしの車は止まってたんですよ。勝手に倒れてきたのは、あっちのほうなんだ。なのに、事故証明、おまけにもうちょっとでこっちの保険汚すところで……。降って湧《わ》いた災難ってやつですよ」
「はっきりした日時、わかりますか」
「おやおや、何か事件の匂いでも嗅《か》ぎ当てましたか? 九月の四日か五日、うーん、そのあたりだな。時間は午後十一時前後だったと思いますよ」
言ったとたん、木村の脳裏にあの時の光景が甦《よみがえ》った。生暖かい空気……、倒れたバイクから流れ出した真っ黒なオイル。まるで生き物のようにオイルは下水に向かって、這《は》っていた。表面でヘッドライトを照り返し、ドロリとした滴となって、下水に落ちて消えてゆく、音もなく。感覚器官が一時的な障害に陥ったような具合だった。そして、ヘルメットを枕にした男の死顔、びっくりした顔。何に驚いているのだ?
信号が青に変わった。木村はアクセルを踏む。リヤシートからボールペンの走る音が聞こえた。浅川がメモをとっている。木村は吐き気を覚えた。どうして、こう生々しく思い出してしまうのか。木村はすっぱい唾液《だえき》を飲み込んで、吐き気に耐えた。
「で、死因は何だったんですか?」
浅川が聞いた。
「心臓|麻痺《まひ》」
……心臓麻痺? 本当に監察医はそう診断を下したのだろうか。最近ではもう心臓麻痺だなんて言葉は使わないはずだ。
「正確な日時と一緒に、これも確認する必要があるな」
浅川はそうつぶやきながらメモをとった。
「つまり、それ以外に外傷は一切なかったわけですね」
「そう、その通り。全く、驚きですよ。全く……、驚きたいのはこっちのほうですよ」
「え?」
「あ、いえね。仏さん、えらく驚いた顔して死んでいたものですから……」
浅川の心でピンと弾《はじ》ける音がする。一方ではまた、ふたつの繋《つな》がりを拒否する声。
……偶然の一致さ。ただ単に。
京浜急行の新馬場はすぐ目前にあった。
「そこの信号、左に曲がったところで止めてください」
車は止まり、ドアが開く。浅川は二枚の千円札と一緒に名刺を出した。
「M新聞の浅川という者です。もしよければ、今のお話、もっと詳しく聞かせてもらえませんでしょうか」
「ええ、構いませんよ」
木村はうれしそうに言った。なぜか、そうするのが自分の使命に思われる。
「後日お電話します」
「電話番号……」
「あ、大丈夫。会社の名前メモしましたから。すぐ近くなんですね」
浅川は車から降り、ドアを閉めようとしてしばし躊躇《ちゅうちょ》した。確認することに、いい知れぬ恐怖を感じたのだ。変なことに首を突っ込まないほうがいいんじゃないか、またあの時の二の舞だぞ。しかし、こうまで興味をそそられた以上、黙って見過ごすことは決してできない。わかりきっている、そんなことは。浅川は、もう一度木村に聞いた。
「その男、確かにヘルメットを取ろうともがき苦しんでいたんですね」
3
小栗編集長は、浅川の報告を聞きながら顔をしかめていた。ふっと二年前の浅川の姿が頭をよぎったからだ。狐に憑《つ》かれたように昼夜ワープロに向かい、取材で得た以上の情報を盛り込んで教祖影山照高の半生を克明に綴《つづ》っていった、あの時の異常さ。本気で精神科の医者に診せようとしたぐらい、鬼気迫るものがあった。
ちょうど、時期が重なったのも悪い。二年前、空前のオカルトブームが出版界を飲み込み、編集室には心霊写真の山が築かれた。一体世の中どうなってるんだと思わせる程、あらゆる出版社に送りつけられた幽霊|譚《たん》や心霊写真と称するマヤカシ物の山。世界の仕組みはある程度判読可能と自負していた小栗ではあるが、あの現象だけにはどうしても納得のいく答えを見つけることができない。それほど、まさに常軌を逸して、投稿者は未曾有《みぞう》の数に上った。誇張でもなんでもなく、一日に送られてくる郵便物は編集室を埋め尽くし、しかも、その全てがオカルト的な内容のものであった。M新聞社だけが投稿の的になったのではない。日本中の出版社という出版社は同時に嵐に巻き込まれ、理解の範囲を越えた現象に苦しんだ。時間のロスを覚悟で調査した結果、投稿者は一人で幾通も出しているわけではなく、当然の如《ごと》く匿名がほとんどであった。ざっと概算しても、約一千万もの人間がこの時期、どこかの出版社に手紙を送ったことになる。一千万! この数字に出版界は震えた。投稿の内容にそれ程恐いものはなかったが、この数字にだけは心底震えたのだ。つまり、十人集まればそのうちの一人は投稿の経験者ということになるが、出版に携わる人間やその家族、友人に当っても、だれ一人投稿の経験者を見つけることができないのだ。一体、どうなっている? 手紙の山はどこからやって来るんだ? 編集者は皆首をひねった。そして、回答を見つけられないまま、波は引いていった。約半年に及ぶ異常事態の後、夢であったかのように編集室は正常に戻り、この種の手紙は一通も届かなくなったのだ。
新聞社が発行する週刊誌として、この現象にどう対処するか、小栗は明確な態度でこれに臨まなければならなかった。彼の下した結論は、徹底した無視。ひょっとして、この現象の火付け役を果たしたのは、小栗が常々クダラナイと評しているところの雑誌ではないだろうか。写真や経験談を掲載することによって読者の投稿熱をあおった結果、異常な事態が発生してしまったのではないか。もちろん、この説明が全てを納得させるものではないことぐらい、小栗はよく知っている。しかし、小栗はなんとか合理的な理屈をつけ、事態に対処しなければならなかった。
以後、小栗編集長以下の編集部員は、送られてくる郵便物を開封することなく焼却炉に運んだ。そして、世間に対してはまったくいつもとかわらない態度をとった。もちろん、オカルトに関する内容はなんであれシャットアウト、無関心を決め込んだ。そのせいかどうか、未曾有《みぞう》の投稿熱は徐々に引いていく気配を見せた。そんな時、浅川は愚かにも、消えかかった火に油を注ぐ行為に走りかけたのだ。小栗はまじまじと浅川の顔を見る。
……二年前の痛手をもう一度繰り返すつもりかい?
「おまえさんねえ」
小栗はなんと言うべきか困ると、必ず相手のことをおまえさんと呼ぶ。
「編集長が何を考えているのか、僕にはよくわかりますよ」
「いや、まあ、おもしろいことはおもしろい。一体ここから何が飛び出すか、わからねえもんな。でも、よお。飛び出すのが、また例の奴《やつ》だったら、チト困るんじゃないかい」
例の奴。二年前のオカルトブームが人為的なものであったと、小栗はまだ信じている。それと、憎しみ。多大な迷惑を被った故、オカルト的なもの全てに対する偏見を彼はまだ持ち続けていた。
「別に、ことさら神秘性に触れようとは思ってませんよ。こういった偶然はあり得ない、とそう言ってるだけです」
「偶然ねえ……」
小栗は耳の横に手をやって、もう一度話の内容を整理した。
……浅川の妻の姪《めい》、大石智子が九月五日の午後十一時前後に本牧《ほんもく》の自宅で死亡。死因は急性心不全。まだ高校三年生、十七歳の若さである。同日、同時刻、JR品川駅前にて、十九歳の予備校生がバイクに乗って信号待ちをしていたところ、やはり心筋|梗塞《こうそく》で死亡。
「ただ単に、偶然が重なったとしか思えねえなあ、オレには。タクシーの運転手から事故のことを聞いて、女房の姪ごさんが亡くなったことをたまたま思い出しちまっただけじゃねえのか」
「いいですか」
浅川は編集長の注意を引きつけた。「バイクに乗っていた青年は、死ぬ間際にヘルメットを取ろうともがき苦しんでいたんですよ」
「……で?」
「智子も、死体で発見された時、頭をかきむしったらしく、両手の指にごっそりと自分の髪の毛を巻きつけていたのです」
浅川は智子に数回会ったことがある。女子高生らしくいつも髪には気を遣い、朝シャンも欠かしたことのない娘だった。そんな子が、ごっそりと大切な髪の毛を引き抜いてしまうなんてあり得るだろうか。彼女にそうさせたモノの正体がわからない。浅川は、髪の毛を夢中で引きちぎろうとする智子の姿を思い浮かべるたびに、目に見えないモノの影を想像した。そして、彼女を駆り立てた喩《たと》えようのない恐怖を。
「わからねえな。おまえさんよぉ、先入観を持ち過ぎてるんじゃねえか。どんな事件だって、共通点を捜そうと思えば何かしら見つかるものだ。ふたりともようするに心臓の発作で死んだってことだろ。なら、苦しかったはずだ。頭かきむしったり、夢中でヘルメットを取ろうとしたり……、案外、普通のことじゃねえのか」
その可能性もあると認めながら、浅川は頭を横にふった。簡単に言い負かされるわけにはいかないのだ。
「編集長、胸ですよ、胸、苦しかったのは。どうして、頭をかきむしる必要があるんですか」
「おまえさん、心臓の発作を起こしたことあるのかい?」
「……ないですよ」
「じゃ、医者に聞いたのかい?」
「何を?」
「心臓発作を起こした人間が頭をかきむしるかどうか」
浅川は黙る他なかった。彼は実際に医者に聞いていた。医者はこう答えた。……そりゃ、ないとも限りませんねえ。あやふやな答えであった。逆の場合はありますがね……、つまりクモ膜下出血や脳出血の場合、頭が痛くなると同時にお腹のあたりが気持ち悪くなるからねえ。
「ようするに個人差じゃねえのか。数学の問題が解けないで頭かきむしる奴《やつ》もいれば、煙草《たばこ》をふかす奴もいる。腹に手をあてる奴だっているかもしれねえ」
小栗は言いながら椅子を回転させた。
「とにかく、今の段階では、まだ何も言えねえじゃねえか。載せるスペースはないよ。わかってるだろ、二年前のことがあるからな。こういった類のことにはうかつに手を出せねえ。思い込みで書こうと思えば、書けてしまうものさ」
そうかもしれない。本当に編集長の言う通り、ただ単に偶然が重なっただけかもしれない。しかし、どうだろう、最終的に医者は首をかしげるのみであった。心臓発作で頭の毛をごっそりと抜いてしまうことがあるのですかという問いに、医者は顔をしかめて「うーん」と唸《うな》っただけであった。その顔は告げている、少なくとも彼の診た患者にそういった例がなかったことを。
「わかりました」
今は素直に引き下がる他なかった。このふたつの事故の間にもっと客観的な因果関係が発見できなければ、編集長を説得するのはむずかしい。もし、何も発見できなかったら、その時は黙って手を引こう、浅川はそう心に決めていた。
4
受話器をフックに掛け、そこに手を置いたまま浅川はなかなか動こうとしなかった。必要以上に持ち上げて相手の顔色をうかがう自分の声がまだ耳に残っていて、どうにもやりきれない気分であった。電話の相手はいかにも尊大な態度で秘書から受話器を受け取り、こちらの企画を聞くに従って、次第に声の表情を和らげていった。最初は広告の依頼と勘違いでもしたのだろう。それから素早く頭を回転させて、自分の半生が記事になるメリットを計算したのだ。
「トップインタビュー」と題する企画は九月から連載されたもので、一代で会社を興した社長にスポットを当て、その苦労や努力を記事にまとめるものである。一応、取材のアポイントメントを取ることに成功したのだから、もう少し満足そうに受話器を置いてしかるべきなのに、浅川の気は重い。いかにも俗物といったこの男から聞き出すのは、毎度おきまりの苦労話、自分がいかに才知に長《た》け、チャンスをものにし、のしあがってきたか……、こちらから礼を言って立ち上がらなければ延々と果てしなく続くサクセスストーリー。うんざりだった。浅川はこんな企画を考えた人間を恨んだ。雑誌を維持するためにはどうしても広告が必要で、そのための布石として後々役に立つことはわかりきっている。しかし、浅川は、会社が儲《もう》かろうが損をしようがあまり関心はなかった。大切なのは、面白い仕事にありつけるかどうか、ただそれだけだ。想像力を伴わない仕事は、肉体的には楽でも精神的に疲れる場合が多い。
浅川は四階の資料室に向かった。明日のインタビューの下調べもあったが、それ以上に気に掛かることがあった。興味深い二つの事故を結ぶ客観的な因果関係。ふと頭に浮かんだのだ。どこから手をつけていいかわからなかったが、俗物社長の声を頭から振り払った隙間《すきま》にすっとさし挟まれた疑問。
……果たして、九月五日の午後十一時前後に生じた原因不明の突然死はこの二件だけなのだろうか?
そうでなければ、つまり他にもこれと同様の事件が起こっているとしたら、偶然である確率はより一層ゼロに近づく。浅川は九月初旬の新聞に目を通してみることにした。商売柄、新聞は丹念に読んではいる。しかし、社会面の記事などは見出しだけ目を通してさっとページをめくってしまうことが多く、何かを見落としている可能性が充分にあった。そんな予感がした。引っ掛かることがある。一ケ月ばかり前、社会面のほんの片隅に奇妙な見出しが載っていたような気がする。掲載されたのは左下の小さなスペースで……、載った場所だけは覚えている。見出しを読んでおやっと思ったが、「おい、浅川」と呼ぶデスクの声に振り向き、そのまま忙しさに紛れて読みかけのままになってしまったのだ。
浅川は九月六日の朝刊から調べ始めた。必ず手がかりを発見できるという確信があり、宝物を捜す子供のように胸をときめかせていた。暗い資料室で一ケ月近く前の新聞を読むという、ただそれだけの行為にすら、俗物のインタビューでは味わえない精神的高揚感が感じられる。ハデに外を飛び回って様々な人間と交わるより、こういった仕事のほうが浅川には向いていた。
九月七日の夕刊……、浅川が記憶していた通りの場所に、目当ての記事はあった。三十四人の犠牲者を出した海難事故のニュースに押しやられ、その記事のスペースは想像していたよりもずっと小さかった。これでは見落とすのも無理はない。浅川は銀縁のメガネを取り、紙面に顔を近づけて一字一句漏らさないように本文を読んでいった。
レンタカーに若い男女の変死体
七日午前六時十五分ごろ、横須賀市芦名の県道沿いの空き地に止められた乗用車の前部シートで、若い男女が死んでいるのを通りかかった軽トラックの運転手が見つけ、横須賀署に通報した。
車のナンバーから、死亡した男女は東京都渋谷区の予備校生(十九)と、横浜市磯子区の私立女子高生(十七)と判明。車は二日前の夕方、渋谷区のレンタカーで予備校生が借りたものであった。
発見当時、車はロックされキィはイグニッションに差し込まれたままになっていた。死亡推定時刻は五日の深夜から未明にかけて。車の窓が締まっていたことから、眠り込んでしまっての酸欠死とも見られたが、薬物による心中の可能性もあり、詳しい死因はまだわかっていない。他殺の疑いは今のところないものと思われる。
たったこれだけの記事であったが、浅川には確かな手応《てごた》えがあった。まず、死亡した女子高生は姪《めい》の智子と同じく横浜の私立女子高に通っていて共に十七歳。レンタカーを借りた男も、品川駅前で事故死した青年と同じく予備校生であり年齢も共に十九歳。死亡推定時刻も殆《ほとん》ど同じ。死因はやはり不明。
この四人の死には必ず接点がある。決定的な共通点を発見するのにそう時間はかからないだろう。なにしろ浅川は大手新聞社の内側にいて、情報には事欠かない。この記事のコピーを取ると、彼は一旦《いつたん》編集局に向かった。とてつもない金鉱を掘り当てたという満足感で足は次第に速くなり、浅川はエレベーターを待つ時間さえもどかしく感じていた。
横須賀市役所記者クラブ。吉野は専用の机に座って原稿用紙にペンを走らせていた。東京本社からここまで、高速道路が混んでさえいなければ一時間で来てしまう。浅川は吉野の後ろに立つと、声をかけた。
「吉野さん」
吉野に会うのは一年半ぶりであった。
「お、おう、浅川か。どうしたんだ。横須賀くんだりまで……。まあ座れや」
吉野はあいている椅子《いす》を引っぱり出して浅川にすすめた。顔中|髭《ひげ》だらけで、見るからに品のない印象を与えるが、吉野は意外と人に気を遣うところがある。
「忙しいかよ」
「ええ、まあ」
吉野は、浅川がまだ社会部にいた頃の三年先輩で、現在三十五歳だった。
「実は、横須賀通信部に問い合わせたところ、吉野さん、ここにいるってことだったので……」
「なんじゃい。オレに、なにか用でもあるのかい?」
浅川は、先ほどコピーした記事を差し出した。吉野は異常な程長い時間をかけてじっとそれに見入った。自分の書いた記事なのだから、そんな熱心に読まなくても内容はわかっているはずなのに、彼は口に運ぶ好物のピーナッツを空中で止めたまま、全神経をそこに集中させた。今はゆっくりと咀嚼《そしやく》している。まるで、記事の内容を逐一思い出し、一緒に胃の中で消化しようとするかのように。
「これがどうかしたのか?」
吉野は真剣な顔になっていた。
「いえね、もっと詳しく聞きたいと思いまして」
吉野は立ち上がった。
「よし、隣で茶でも飲みながら話そう」
「時間、だいじょうぶですか」
「いいってことよ。こっちのほうがおもしろそうだ」
市役所のすぐ横に小さな喫茶店があり、コーヒーが二百円で飲める。吉野は席につくとすぐカウンターを振り返り、「コーヒー二つ」と声を上げた。それから、浅川のほうに向き直ると、ぐっと体を近づけた。
「いいか、オレは社会部の記者になって十二年になる。この十二年間、オレは様々な事件に出合った。しかし、だ。これ程妙チクリンな事件に出合ったのは初めてだ」
吉野はそこまで言うと水を一口飲み、先を続けた。
「なあ、浅川。交換条件といこうじゃないか。本社出版局勤めのおまえが、どうしてこの事件を調べ始めたんだい?」
まだ手の内を見せるわけにはいかない。浅川だけのスクープにしておきたかった。吉野のようなやり手に知られたりしたら、あっという間にひっかき回されて獲物をさらわれてしまう。浅川は咄嗟《とっさ》に嘘をついた。
「たいした理由はないんですよ。僕の姪《めい》っこがこの死んだ女子高生と友達で、根掘り葉掘り聞くもんですから、この事件のこと。ですから、こちらに来たついでに……」
ヘタな嘘だ。吉野は疑わしそうな目をキラッと光らせたかと思うと、しらけて徐々に身体を引いていった。
「ホントかよ」
「ええ、なにしろ女子高生でしょ。友達が死んだってだけでも大変なのに、妙な死に方なものだから、ああだこうだとうるさくてうるさくて……。お願いしますよ。詳しく教えてください」
「で、何を聞きたいってんだ?」
「その後、死因は判明したんですか」
吉野は首を振った。
「ま、ようするに、突然の心臓停止ってやつだが、どうしてソレが起こったかについちゃ何もわからねえ」
「他殺の線は? 例えば首を締められたとか」
「あり得ない。首筋に内出血の跡はなかった」
「薬物……」
「解剖しても、反応はでなかった」
「とするとこの事件は、まだ解決……」
「おいおい、解決もクソもねえ。殺人じゃねえんだから事件でもなんでもないんだよ。病死、あるいは事故死、それで終わりさ。捜査本部も当然ナシ」
素っ気ない言い方だった。吉野は椅子の背もたれに背中をあずけている。
「死亡した人間の名前を伏せてあるのはどうしてですか」
「未成年だしよ。……それに、一応心中の疑いもあったからな」
吉野はそこで何かを思い出したようにふっと笑うと、体を前に乗り出した。
「男のほうはよ、ジーンズと一緒にブリーフを膝《ひざ》まで下げていた。女の子のほうもよ、パンティを膝まで下げていた」
「とすると、その、最中だったってわけですか」
「最中ってわけじゃない。これからやろうとしていたところだ。お楽しみはこれからってえ、その時!」
吉野はパンと手を打った。
「なにかが起こった」
いかにも、相手の気持ちを高ぶらせる語り口であった。
「なあ、浅川。正直に言ってくれよ。おまえ、この事件に関係したネタを掴《つか》んだんじゃねえのか……」
「…………」
「秘密は守るからよお。手柄を横取りする気もない。ただ、オレには興味があるだけだ」
浅川は黙り込んだ。
「なあ、オレは聞きたくてうずうずしてるんだぜ」
考えてみる。やっぱりだめだ。まだ言わないほうがいい。しかし、嘘は通用しない。
「すみません、吉野さん。もうちょっと待ってもらえますか。まだ、なんとも言えないんですよ。二、三日のうちには必ずお話しできます。約束しますよ」
失望の色が吉野の顔に浮かんだ。
「ちぇ、おまえがそう言うんじゃよぉ……」
浅川は懇願する目を向けた。話の続きを促す視線。
「何かが起こったとしか考えられないんだよな。男と女が、今からやろうって時に窒息するかよ、笑い話にもならねえ。あらかじめ飲まされた毒が効き始めたってことも考えられるがその反応はなし……、まあ、反応が出ない毒物もあるにはあるが、予備校生と女子高生の男女にそう簡単に手に入るものとは思えねえしなあ」
吉野は、車の発見された場所を思い浮かべた。実際に足を運んだため、かなりはっきりと印象が残っている。芦名から大楠山《おおくすやま》に上る未舗装の県道沿いに、小さな谷間の、木々のうっそうと茂った空き地があり、上ってくる車からテールがチラッと目に留まるような格好で、車は止められていたのだ。運転していた予備校生がどういうつもりでこの場所に車を運んだのか、想像に難くない。夜になるとこの道を通る車は殆《ほとん》ど一台もなく、山肌から横に伸びた樹の葉が目隠しとなって、お金のないカップルにとっては格好の密室となる。
「そこで、男はハンドルとサイドウィンドウに頭を押しつけるように、女は助手席のシートとドアの間に頭を埋めるようにして、死んでいた。オレはこの目で、ふたりの死体が車から運び出されるところを見たんだ。ドアを開けたとたん、ふたつの死体はそれぞれのドアから転がり出た。死の間際、内側から強い力で押されたように、そして、その力が死後三十時間たってもまだ残っていたかのように、捜査員がドアに手をかけたとたん、弾《はじ》かれるように飛び出したんだ。いいか、その車はな、2ドアで、キィを中に置いたままではドアロックをできない仕組みになっていた。そして、キィはイグニッションに差し込まれたまま……、ドアロック……、どういうことかわかるな。車は完全な密室状態だったってわけだ。外部からの力が加わったとは考えにくい。なあ、どんな顔で死んでいたと思う? ふたりとも、怯《おび》え切っていた。恐怖に顔を歪《ゆが》めていたんだ」
吉野はそこで一息ついた。ゴクッと唾《つば》を飲み込む音がした。浅川がたてたのか、それとも吉野がたてた音なのかわからない。
「考えてもみろよ。もし、仮に、森の中から恐ろしい獣が出てきたとする。ふたりはその姿に怯え、体を寄せ合うはずだ。男はそうしなかったとしても、女は、まず、絶対に男のほうに体を近づける。一応、恋人なんだから。ところがだ。男も女も、お互いに、相手から少しでも離れようとして、力いっぱい背中をドアに押しつけていた」
吉野は、お手あげのポーズをとった。
「一体どういうことなのか、さっぱりわからねえ」
もし横須賀沖の海難事故がなかったら、この記事はもっと大きな扱いになったはずだ。そして、一般読者の推理パズルとなり、おもちゃとなっていたに違いない。しかし、……しかし。捜査員を含めあの場にいた人々の間に広がった雰囲気。それぞれ似たりよったりのことを考えているにもかかわらず、そして、そのことが喉《のど》まで出かかっているというのに、誰ひとり言い出そうとしない、あの雰囲気。一組の男女がまったく同時に心臓発作で死亡することなどありえないのに、医学的なこじつけで自分を納得させてしまう、誰ひとり、信じてもいないくせに。人から非科学的な奴《やつ》だとバカにされぬがために、そのことを口にしないのではない。想像もつかない恐怖を身近に引きつけてしまうようで認めるのが恐いのだ。それならまだ、納得はいかなくても科学的な説明に甘んじているほうが、なにかと都合がいい。
同時に浅川と吉野の背筋に悪寒が走った。やはりふたりとも同じことを考えていた。しばらくの沈黙が、ふたりの胸に湧《わ》き上がったある種の予感を確認し合った。これで終わったわけじゃない、何かが起こるのはコレカラダ。どれほど科学的な知識を身につけようと、根本的なところで、人間は科学の法則で説明できないある存在を信じている。
「発見された時、男と女は手をどこに置いていましたか?」
唐突に浅川が聞いた。
「頭……、いや、頭というより、両手で顔を被《おお》っていたって感じかな」
「こんなふうに、髪の毛をごっそり抜いていたとか」
浅川は自分の髪を引っ張って見せた。
「あん?」
「つまり、その、自分の頭をかきむしって、毛髪を抜いていたかどうか」
「いや、そんなことはなかったと思う」
「そうですか。吉野さん、その予備校生と女子高生の住所と名前、教えてもらえないでしょうかねえ」
「いいよ。でも、おまえ、約束、忘れるなよ」
浅川が笑いながらうなずくのを見て、吉野は立ち上がった。そのひょうしに、テーブルが揺れてコーヒーが受け皿にこぼれた。吉野はコーヒーカップに一度も口をつけていなかった。
5
浅川は、仕事の合間を縫って死亡した四人の若者の身辺を探ろうとしたが、仕事に追われてなかなか思うようにはかどらなかった。そうこうするうちに一週間が過ぎて月も改まり、雨の降り続いた八月の蒸し暑さも、夏を取り戻したような九月の炎暑も、深まりゆく秋の気配に押し流されるように過去の記憶となっていった。ここしばらく何も起こってはいない。あれ以来、新聞の社会面には隅々まで目を通すようにしているが、類似した事件には出合わない。それとも、浅川の目に触れないところで、恐ろしい何かが着々と進行しているのだろうか。ただ、時がたつほどに、四人の死は単なる偶然であって、なんの関連性もないのかもしれないと思うことが多くなった。吉野にもあれ以来会ってはいない。彼も、もう忘れてしまったのだろう。覚えていれば、浅川に連絡をとってくるはずである。
浅川は、事件への情熱が遠のくといつも、四枚のカードをポケットから取り出し、偶然であるはずがないという思いを新たにする。カードの上には名前や住所等の必要事項が記入され、その下の空白には八月から九月にかけての四人の行動、あるいは生い立ちなど、取材して得た情報が残らずメモできるようになっていた。
カード1
大石智子 昭和四十七年十月二十一日生まれ
私立啓聖女子学園三年 十七歳
住所 横浜市中区本牧元町一―七
九月五日午後十一時前後 両親の留守中、自宅一階の台所にて死亡。死因は急性心不全。
カード2
岩田秀一 昭和四十六年五月二十六日生まれ
英進予備校にて一浪中 十九歳
住所 品川区西中延一―五―二十三
九月五日午後十時五十四分 品川駅前の交差点で転倒して死亡。死因は心筋|梗塞《こうそく》。
カード3
辻遥子 昭和四十八年一月十二日生まれ
私立啓聖女子学園三年 十七歳
住所 横浜市磯子区森五―十九
九月五日深夜から未明にかけて、大楠山の麓《ふもと》の県道沿い、車の中で死亡。死因は急性心不全。
カード4
能美武彦 昭和四十五年十二月四日生まれ
英進予備校にて二浪中 十九歳
住所 渋谷区上原一―十―四
九月五日深夜から未明にかけて、大楠山の麓の車にて辻遥子と共に死亡。死因は急性心不全。
大石智子と辻遥子が同じ高校に通う友人どうしで、岩田秀一と能美武彦も同じ予備校で学ぶ友人どうしであることは取材で確認するまでもなく明らかであった。そして、辻遥子と能美武彦が九月五日の夜、横須賀の大楠山へドライブに出かけている事実からも、このふたりが恋人とはいかないまでも遊び友達であったことに間違いはない。友人たちに聞いても、辻遥子が東京の予備校生と付き合っているらしいという噂《うわさ》は耳にした。ただ、いつごろ、どのようにして知り合った仲なのかは、今のところまだわからない。とすると、当然、大石智子と岩田秀一も恋人どうしではないかという疑問も出てくるが、いくら調べてもそれを裏づける事実は出てこない。ひょっとしたら、大石智子と岩田秀一は一面識もないかもしれない。とすると、この四人をつなぐ糸は一体どこにあるのか。正体不明の存在がアトランダムに犠牲者をつまみ上げたにしては、四人の関係はあまりに親し過ぎる。たとえば、この四人は他の人間が知らない秘密を持っていて、その秘密のせいで殺されたとか……。浅川は、もう少し科学的に考えた。四人は、ある時同時に、ある場所にいて、心臓を冒すウィルスに感染した。
……おいおい。
浅川は歩きながら首を振った。
……急性心不全を起こさせるようなウィルスなんてあるのかよ。
ウィルス、ウィルスと、浅川は階段を上りながら二度つぶやいた。そして、やはりまず第一に科学的な説明を試みることが先決ではないかと思い直す。ここで、急激な心臓発作を生じさせるウィルスの存在を仮定したとしよう。超自然の力を仮定するより、いくらか現実的であり、他人に話して笑われる心配も少ないように思われる。現在まだ地球上で発見されていないにしても、隕石《いんせき》の内部に閉じ込められてごく最近宇宙から飛来したとも限らない。あるいは、細菌兵器として開発されたものが漏れた可能性もないとはいえない。そうだ。まず、これをウィルスの一種と考えることにしてみよう。もちろん、そうすることによって全ての疑問点に答えられるものでもないが。四人が四人とも驚愕《きようがく》の表情を浮かべて死んでいたのはなぜか、辻遥子と能美武彦が狭い車の中で、互いに相手から離れるようにして死んでいたのはなぜか。検死の結果何も発見できなかったのはなぜか。もし、細菌兵器が漏れ出たとすれば三番目の疑問には容易に答えることができる。その筋からの箝口令《かんこうれい》が敷かれたのだ。
さて、この仮定のもとに論を進めると、被害者がこれ以上現れないという事実からも、このウィルスが空気感染をしないということは明らかである。エイズのように血液感染するモノなのか、あるいは極めて感染しにくいモノなのか。そして、もっとも肝心なのは、四人はソレを一体どこで拾ったのかということ。八月から九月にかけての四人の行動をもう一度洗い直し、共通する時間と場所を探り出さなければならない。当事者の口が塞《ふさ》がれた今となっては、そう簡単に発見することはできないだろう。四人だけの秘密として、両親や友人のだれ一人知らないことであれば探りようがない。しかし、必ず、この四人はある時、ある場所で、あるモノを共有したはずである。
浅川はワープロの前に座ると、正体不明のウィルスを一旦《いつたん》頭から払い退けた。今取材したばかりのノートを取り出し、カセットテープの内容を素早くまとめていく。記事は今日中に完成しなければならない。明日の日曜日は妻の静とともに義姉の大石良美宅を訪ねることになっていた。智子が死んだ場所を実際に目で確かめ、雰囲気がまだ残っていればそれを肌で感じたかった。ひとり娘を亡くしたばかりの姉を慰める意味もあって静は本牧に行くことに同意したが、彼女はもちろん夫の真意を知らない。
記事のアウトラインが決まるか決まらないかのうちに、浅川はキィを叩《たた》き始めた。
6
浅川の妻、静は、約一ケ月ぶりで父と母に再会した。孫の智子が死んで以来、ふたりは休みごとに足利から上京して、娘と慰め合っていたのだ。そのことを静は今日初めて知った。やつれた顔に深い悲しみを湛《たた》える老父母を見るのはなんとも心が痛む。ふたりにはかつて三人の孫がいた。長女良美の娘智子、次女紀子の息子の健一、そして浅川夫婦の娘の陽子。三人の娘にそれぞれ一人ずつというのは、多いとはいえない。初孫だっただけに、智子に会えば必ず父と母は顔をくしゃくしゃに綻《ほころ》ばせ、甘えたい放題にさせたものだ。姉夫婦の悲しみと父と母の悲しみと、どちらがより大きいか判断がつかないくらい、両親の落ち込みようはひどかった。
……孫ってそんなにかわいいものなのかしら。
今年三十になったばかりの静には、自分の子がもし死んでしまったらと、その比較の上で姉の悲しみを推し測るのが精一杯であった。しかし、なにしろ、娘の陽子はまだ一歳半で、十七歳で逝《い》った智子とは比べようもなかった。年月の積み重ねがどのように愛情を深めてゆくものか、静には想像がつかない。
午後も三時を過ぎると、足利の両親は帰り支度を始めた。
静は不思議でならなかった。いつも忙しい忙しいとぼやいている夫が、なぜ妻の長姉の家を訪ねようなどと言い出したのか。原稿の締め切りに追われ、葬式にさえ顔を出さなかった夫である。しかも、そろそろ夕飯の支度という時間を迎えても一向に帰ろうとする素振りを見せない。姪《めい》の智子には数回会っただけ、親しく話したこともなかったはず、故人を偲《しの》んで立ち去り難いとも思えない。
「あなた、もう、そろそろ……」
静は浅川の膝《ひざ》を軽く叩《たた》き、耳許《みみもと》で囁《ささや》いた。
「陽子のやつ、眠そうだぜ。ここでちょっと寝かしてもらったほうがいいんじゃないか」
浅川夫婦は娘を連れていた。普段なら、今頃は昼寝の時間である。確かに陽子のまばたきは、眠い時のそれに変わりつつある。しかしここで昼寝をさせれば、あと二時間はこの家に居なくてはならない。一人娘を亡くしたばかりの姉夫婦とあと二時間、一体何を話せばいいのか。
「電車の中で寝かせればいいじゃない」
静は声を落として言った。
「この前はそれでぐずられて、ひどい目にあった。もうあんなのはこりごりだね」
陽子は人込みの中で眠くなると、手がつけられないぐずり方をする。両手両足をバタバタさせ、大声で喚《わめ》き散らして親を困らせるのだ。叱《しか》りつけでもしたら、火に油を注ぐようなもので、どうにかうまく眠らせる以外におとなしくする手段《てだて》はない。こうなると、浅川は回りの視線を気にして、一番迷惑してるのは親のほうだとばかり不機嫌な顔で黙り込んでしまう。他の乗客の迷惑そうな眼差しに責められて、浅川は息がつまりそうになるのだ。そして静もまた、神経質そうに頬《ほお》の筋肉を震わせる夫の顔はなるべく見たくなかった。
「あなたがそう言うなら……」
「そうしよう。二階で少し昼寝させてもらおうよ」
陽子は母の膝《ひざ》の上で半分目を閉じかけている。
「僕が寝かしつけてくる」
浅川は、娘の頬を手の甲で撫《な》でながら言った。滅多に子供の面倒を見ない浅川だけに、その言葉はなんとも奇妙に聞こえる。子供を亡くした親の悲しみに触れて、心を入れ替えたのだろうか。
「どうしちゃったのよ、今日は……。なんだか気持ちワルイ」
「だいじょうぶ、この様子ならすぐ寝る。僕に任せろよ」
静は娘を浅川に渡した。
「じゃ、お願いね。いつもこうだと助かるんだけど」
母の胸から父の胸に移る瞬間、陽子はほんの少し顔をしかめたが、泣く暇もなく眠りに落ちていった。浅川は娘を抱き抱え、階段を上った。二階には、二つの和室とかつて智子の部屋であった洋室がひとつある。南に面した和室の布団にそっと陽子を置く。添い寝する必要はなかった。かわいらしい寝息をたてて、既に娘は深い眠りに落ちていた。
浅川はそっと和室から出ると、階段下の様子をうかがいながら智子の部屋に入った。死んだ人間のプライバシーに触れる行為に若干後ろめたさを感じる。いつも自分に戒めていることではなかったのか。しかし大きな目的のためには、大きな悪を裁くためにはそれもいたしかたない。そうやってなんだかんだと理由をつけてすぐにこのシステムを正当化しようとする自分が情けなかった。彼は弁解していた。記事にするわけじゃない、四人に共通する時と場所を捜すだけなんだ、ちょっと、邪魔するよ。
浅川は机の引き出しを開けた。普通の女子高生が使う文房具類が、かなり整頓されてしまわれている。写真が三枚、小物入れ、手紙、メモ帳、裁縫道具。死んだ後、両親の手が入ったのだろうか。いや、そんなふうにも見えない。もともときれい好きなんだろう。日記帳の類が出てくれば一番てっとり早い。×月×日、どこそこにて、辻遥子、能美武彦、岩田秀一の四人で……。と、そういった記述が見つかりさえすれば。浅川は本棚からノートを取り出しパラパラとめくった。引き出しの奥からいかにも女の子っぽい日記帳が出てきたが、最初の数ページに申し訳程度書かれているだけで、日付はずっと以前のものばかりであった。
机の横のカラーボックスに本はなく、その代わりに赤い花柄の小さな化粧台が置かれてあった。引き出しを引く。安物のアクセサリーの数々。すぐになくしてしまうらしく、ペアで揃《そろ》っているイヤリングは少ない。携帯用のくしには、細い髪の毛が数本巻きついていた。
作り付けのワードローブを開けると、ぷんと女子高生の匂いが鼻をつく。カラフルな柄のワンピースやスカートが、ぎっしり吊《つ》り下がっている。姉夫婦は、ひとり娘の匂いの染み付いた衣類をどう始末したらいいのか、解決策をまだ見つけてないのだ。浅川は下の様子に耳を澄ませた。こんなところを姉夫婦に見られたら、どう思われるかわからない。物音はしなかった。妻と姉夫婦はなにやら話し込んでいるようだ。浅川は洋服のポケットをひとつずつ探った。ハンカチ、映画館の半券、ガムの包み、それから、ポシェットの中にはナプキン、定期券入れ。中を覗《のぞ》く。山手から鶴見までの定期券、学生証、そして一枚のカード。カードには名前が記入されている。野々山結貴。おや、なんて読むのだろう。ゆき、あるいは、ゆうき。女なのか男なのか、名前からでは判断できない。どうして他人名義のカードがこんなところに。階段を上る足音が聞こえる。浅川はカードを自分のポケットにしまうと、定期券入れを元に戻し、ワードローブを閉めた。廊下に出ると、義姉の良美がちょうど階段を上り切ったところであった。
「あの、二階にもトイレありましたっけ?」
浅川は、オーバーにキョロキョロして見せた。
「そこの突き当りですけど」
怪しんでいる気配はない。
「陽子ちゃん、おとなしく眠りましたか?」
「ええ、おかげさまで。どうもご迷惑かけます」
「いいんですのよ」
義姉は軽く頭を下げ、帯に手を当てながら和室に入った。
トイレにて、浅川はカードを取り出した。パシフィック・リゾートクラブ会員証。このカードの名称である。その下に野々山結貴の名前と会員番号。有効年月日。裏にする。個条書きにされた注意事項が五つと会社の名前、住所。パシフィック・リゾートクラブ株式会社、東京都千代田区|麹町《こうじまち》三―五、TEL(03)261―4922。拾ったり、盗んだりしたものでなければ、智子はおそらくこのカードを野々山という人物から借りたのだ。何のために。もちろん、パシフィック・リゾートの施設を利用するために。それはどこで、いつのこと?
この家から電話をかけるわけにはいかない。煙草《たばこ》を買ってくると言い残して、浅川は表の公衆電話に走った。ダイアルを回す。
「はい、もしもしパシフィック・リゾートです」という若い女性の声。
「あの、お宅の会員券で利用できる施設を知りたいのですが」
女性の返事が遅れる。口では簡単に言えない程、利用施設の数が多いのかもしれない。
「あ、いや、そうですね……、東京から一泊で行ける範囲で……」
浅川は言い足した。四人|揃《そろ》って二泊も三泊も家を空けたとなれば、かなり目立つはずである。これまでの調査で発見できなかったとすれば、せいぜい一泊程度の距離であろう。一泊程度なら、友達のところに泊まるとか言ってなんとでも親の目をごまかせる。
「南箱根にパシフィックランドという総合施設がございます」
女性の声は事務的であった。
「具体的に、つまり、どんなレジャーが楽しめるんですか?」
「そうですね、テニス、ゴルフ、フィールドアスレチック、それにプールもございます」
「宿泊施設は?」
「はい、ホテルと貸し別荘ビラ・ロッグキャビンがございます。あの、もしよろしければ案内書をお送り致しますが」
「ええ、ぜひお願いします」
浅川は客を装った。心よく情報を聞き出すためである。
「その、ホテルや貸し別荘に、一般の人間も泊まれるんですか?」
「はい、できます。一般料金になりますけれど」
「そうですか、それじゃひとつ、そこの電話番号教えてください。ためしに行ってみようかな」
「宿泊の申込みでしたらこちらで受け付けますが」
「うーん、いや、そっちの方ドライブしていて、急に寄りたくなるかもしれないから……。教えてよ、電話番号」
「しばらくお待ちください」
待つ間にメモ用紙とボールペンを取り出していた。
「よろしいですか?」
女の声が戻り、十一|桁《けた》の番号をふたつ告げた。市外局番がやけに長い。浅川は素早く書き取る。
「念のため聞くけれど、それ以外の施設はどこにあるの?」
「浜名湖と、三重県浜島町に同じような総合レジャーランドがございます」
遠すぎる! 高校生や予備校生にそんなところまで行く軍資金はないだろう。
「なるほど、名前のとおり、太平洋に面してるってわけだ」
女はその後、パシフィック・リゾートクラブの会員になると、どれほど素晴らしい恩恵に浴することができるか、とくとくと説明を始めた。浅川は適当に聞いて、遮った。
「わかりました、あとはパンフレットを見ます。住所言うから送ってください」
浅川は住所を告げて受話器を置いた。金の余裕ができたら会員になってもいいなと、女の説明を聞くうちに浅川は本当にそんな気になっていた。
陽子が寝入って一時間ばかり過ぎ、足利の両親も帰っていった。静は台所に立ち、ふと物思いにふけりがちの姉に代わって食器を洗った。浅川も居間から食器を運ぶのをかいがいしく手伝った。
「ねえ、どうしちゃったのよ。あなた、ヘンよ」
静は洗い物の手を休めずに言う。
「陽子を寝かしつけたり、台所を手伝ったり。心境の変化? ずっとこのままだといいんだけど」
浅川は考えごとをしていて、邪魔されたくはなかった。妻には名前のとおり静かにしていてもらいたい。女の口を閉ざすには返事をしないことだ。
「ねえ、そういえば、寝かす前、紙オムツにしてくれた? よその家でお漏らししたらたいへんよ」
浅川は構わず、台所の壁を見回す。ここで智子は死んだのだ。床にはグラスの破片が飛び散り、コーラがこぼれていたという。おそらく、冷蔵庫からコーラの瓶を出して飲もうとした時、例のウィルスに襲われたのだ。浅川は冷蔵庫を開け、智子がやったとおりのことを真似てみる。グラスを想定し、飲むふりをする。
「なにやってるの?……あなた」
静がぽかんと口を開けて見つめた。浅川は続ける。飲むふりをしながら、後ろを振り返った。振り返ると、目の前に、居間と台所を隔てるガラスのドアがあった。そこに、流しの上の蛍光灯が反射している。外はまだ明るく、居間にも光が満ちているせいか、ガラス窓が映し出すのは蛍光灯の明りだけで、こちら側にいる人物の表情を映すまでには至らない。もし、ガラスの向こうが真っ暗でこちら側が明るかったとしたら、そう、智子があの夜ここに立った時と同じく……、このガラス戸は鏡となって台所の様子を映し出したはずである。恐怖に歪《ゆが》んだ智子の顔が映ったとなると、浅川には、ガラス板こそ起こったことすべての記録者のように思えてくる。光と闇のかけ引きにより、透明にもなるし鏡にもなるガラス。魅せられたようにガラスに顔を近づける浅川の背中に静が触れようとしたちょうどその時、二階から子供の泣き声が聞こえた。陽子が目を覚ましたのだ。
「あ、陽子ちゃん。起きたのね」
静は濡れた手をタオルで拭《ふ》いた。しかし、寝起きの声にしてはあまりに激しい泣き声であった。静はあわてて二階へ駆け上がった。
入れ替わりに入ってきたのは良美だった。浅川は先ほどのカードを差し出した。
「これ、ピアノの下に落ちてましたよ」
浅川は何気無くそう言って反応を待った。良美はカードを手にとって裏返した。
「変ねえ、どうしてこんなものが」
不思議そうに首をかしげている。
「智子さんが友達から借りたんじゃないですか」
「でも、野々山結貴だなんて聞いたことがない。あの子の友達で、こんな名前の人いたかしら」
そう言った後、良美は大げさに困った顔をして浅川を見た。
「いやだ。これ、大切なものなんでしょう。あの子ったら、もう……」
良美は声を詰まらせた。ほんの些細《ささい》なことでも悲しみに拍車がかかってしまう。浅川は聞くのをためらった。
「あの、智子さん、夏休みに友達と、ここのリゾートクラブに出かけたとか……」
良美は首を横にふった。娘を信頼しているのだ。親に嘘をついてまで仲間と泊まりに出かけるような子ではない、それに第一受験生なのだからと。浅川には良美の気持ちがよく理解できる。これ以上、智子のことに触れたくはなかった。第一、受験を控えた女子高生が、男友達と貸し別荘に出かけてきますと親に断って行くはずもない。恐らく友達の家で勉強するとか嘘をついたに決まっている。親は何も知らないのだ。
「僕のほうで持ち主を捜して、返しておきますよ」
良美は無言で頭を下げ、居間からの夫の声に呼ばれて台所から走り去った。一人娘を亡くしたばかりの父は、真新しい仏壇の前に座り込み、なにやらぶつぶつと遺影に語りかけていた。その声がぎょっとする程明るく、浅川の気は滅入る。心のどこかで現実を否定しているのだ。どうにか立ち直ってくれることを、浅川は祈る他なかった。
浅川には、わかったことがひとつあった。野々山という人物がリゾートクラブの会員証を智子に貸していたとしたら、智子の死を知ってすぐ、会員証を返してもらおうと親に連絡を取るはずである。しかし、智子の母の良美は何も知らなかった。野々山が会員証のことを忘れているはずはない。親の家族会員であっても、高額な会費を払った以上、なくしてそのままというわけにもいかないだろう。これをどう解釈する? 浅川はこう考えた。野々山は残りの三人、つまり岩田、辻、能美のうちのだれか一人にカードを貸した。ところが、カードはなんらかの事情で智子の手に渡り、そのままになってしまった。野々山は貸した相手の親に連絡を取る。親は子供の持ち物を探る。見つかるはずがない。カードはここにあるのだ。とすると、残りの三人の家族と連絡を取れば、ひょっとして、野々山の住所が判明するかもしれない。今晩さっそく電話するべきだ。もしそれで手がかりが得られなかったら、このカードが四人に共通の時と場所の提供者であるという可能性は薄くなる。しかし、野々山にはどうしても会って話を聞きたかった。いざとなったらパシフィック・リゾートの会員番号から住所を割り出す他ない。おそらく、直接会社に問い合わせても簡単には教えてくれないだろうが、蛇《じや》の道はへび、新聞社のコネを使えばどうにでもなる。
誰かが浅川を呼んでいた。遠くからの声、……あなたぁ、……あなたぁ。子供の泣き声に混ざり、妻の声はオロオロしていた。
「ねえ、あなたぁ、ちょっと来てくださらない」
浅川は我に返った。ふと、今まで、自分が何を考えていたのかもわからなくなった。どことなく娘の泣き方が異常である。階段を上るほどに、その思いは強くなった。
「どうしたんだ?」
浅川は妻を咎《とが》めるように言った。
「おかしいのよね、この子。どうかしちゃったみたい。泣き方がいつもと違うの。ねえ、病気かしら」
浅川は陽子の額に手を当てた。熱はない。しかし、小さな手が震えている。その震えが体全体に伝わり、時々ピクンピクンと背中を揺らせている。顔は真っ赤で、両目ともぎゅっと閉じていた。
「いつからこうなんだ?」
「目を覚ました時、誰もそばにいなかったものだから」
目覚めた時、傍らに母親がいなくて泣くことは多い。しかし、母親が駆け寄って抱きしめればすぐに治まるものだ。赤ん坊は泣くことによって何かを訴えかける、一体何を……、この子は今、何か言おうとしているのだ。甘えとは違う。小さな二本の手を顔の上で強く結んでいる。……怯《おび》え。そうだ、この子は恐怖のあまり泣き叫んでいる。陽子は顔をそらし、結んだ拳《こぶし》をわずかに開いて正面を指差そうとしている。浅川はその方向を見た。柱があった。視線を上げた。天井の下三十センチのところに掛けられた握り拳大の般若《はんにゃ》の面。この子は鬼の面に怯えているのか?
「おい、あれ!」
浅川は顎《あご》で示した。ふたりは同時に鬼の面を見て、その後ゆっくりと顔を見合わせた。
「まさか、この子、鬼に怯えてるって言うの?」
浅川は立ち上がった。柱にかかっている鬼の面を外し、タンスの上に伏せて置いた。こうすれば陽子の目に触れることはない。泣き声はピタリと止まった。
「なんだ、陽子ちゃん、オニがこわかったのぉ」
静は、原因がわかってほっとしたのか、うれしそうに娘の顔に頬《ほお》ずりをする。浅川はどこか釈然としなかった。ただなんとなく、この部屋にはもう居たくない。
「おい、早く帰ろう」
浅川は妻を急《せ》かした。
夕方、大石家から帰るとすぐ、浅川は辻、能美、岩田の順に電話をかけた。リゾートクラブ会員証に関して、子供の知り合いから問い合わせがなかったかどうか聞くためである。最後に電話口に出た岩田の母親は、「息子の高校時代の先輩と称する人から電話があり、リゾート施設の会員証を貸したので返して欲しいっていわれまして……、でも、息子の部屋を隅々まで捜しても、結局何も出なくて、もう困っていたところなんですよ」と一気にまくしたてたのだった。というわけで野々山の電話番号はすぐにわかり、さっそく電話をかけることができた。
野々山は、八月の最後の日曜日に渋谷で岩田に会い、思った通り会員証を貸したと言う。その時、岩田は、ナンパした女子高生と泊まりに行くようなことを言ったらしい。
……夏休みも終わりだもんな、最後にぱーっと遊ばないと、身を入れて受験勉強に打ち込めないですよ。
それを聞いて野々山は笑った。
……バカヤロ、予備校生に夏休みなんてあるのかよ。
八月最後の日曜日は二十六日、その後どこかに泊まりがけで遊びに行くとしたら、二十七日、二十八日、二十九日、三十日のうちの一日だ。九月になれば、予備校生はともかく高校は新学期を迎えてしまう。
慣れない場所に長時間いて疲れたせいか、陽子は添い寝をしている静と一緒にすぐ寝入ってしまった。寝室のドアに耳を当てると、ふたりの寝息がかすかに聞こえる。午後の九時……、浅川にとっては心やすらぐ時間だ。妻と子が寝た後でなければ、2DKの狭いマンションに落ち着いて仕事のできるスペースはない。
浅川は冷蔵庫からビールを出し、グラスに注《つ》いだ。格別の味がする。会員証の発見により、大きく一歩前進したことは確かだ。八月二十七日、二十八日、二十九日、三十日のうちどれか一日、岩田秀一を含む四人のグループがパシフィック・リゾートの宿泊施設を利用した可能性が極めて高い。その施設の中でも南箱根パシフィックランドにあるビラ・ロッグキャビンが一番有力だろう。距離的に見ても箱根以外の施設は有り得ないだろうし、お金のない高校生のグループが優雅にホテルに泊まるとも思えない。会員証を利用して安い貸し別荘に泊まるのが普通だろう。会員証を利用すれば、そこは一棟五千円、一人あたり千円ちょっとで利用できるのだ。
ビラ・ロッグキャビンの電話番号は今手もとにある。浅川はテーブルの上にメモを置いた。ここのフロントに電話をかけ、野々山という名前で四人のグループが泊まったことを確認できればてっとり早い。しかし、電話してもフロントが答えるわけがない。リゾートクラブ内の貸し別荘の管理人ともなればよく訓練されていて、お客のプライバシーを守るのを義務と考えるのが当然だ。大手新聞社の記者という身分を証《あか》し、その調査目的を明確に告げたとしても、管理人は電話では絶対に教えない。ここはまず地元の支局に連絡をとり、コネのある弁護士を動かして宿帳を見せるよう頼んでもらうのはどうだろう、と浅川は考えた。こんな場合、管理人が宿帳を見せる義務が出てくるのは警察と弁護士に限られる。浅川がそういった身分を装ってもまず見破られるし、会社に迷惑がかかる。ここはちゃんと筋を通すのが安全かつ的確だ。
しかし、その場合どうしても最低三、四日の日数がかかってしまう。浅川にはそれがもどかしかった。今、知りたいのだ。三日もがまんできないほど、事件解明にかける情熱は強い。一体、ここから出てくるモノは何なのか。もし、四人が八月の終わりに南箱根パシフィックランド、ビラ・ロッグキャビンで一泊したとして、そのことが原因で謎の死をとげたとしたら、一体そこで起こったことは何なのか。ウィルス、ウィルス。そいつをウィルスと呼ぶことが、神秘的なモノに気圧されないための強がりであることぐらいわかりきっている。超自然の力に立ち向かうのに科学の力を用いるのは、ある程度理にかなっているのだ。わからないモノをわからないコトバで論じてもしかたがない。わからないモノはわかるコトバに置き換えていかねばならない。
陽子の泣き声を、浅川は思い出す。なぜ、今日の午後、あの子は鬼の顔を見て、あれほど怯《おび》えなければならなかったのか。帰りの電車の中で浅川は妻に聞いた。
「なあ、おまえ、陽子に鬼のこと教えたか」
「え?」
「絵本かなにかで、鬼が恐《こわ》いモノであることを教えたかい?」
「ううん、まさか……」
会話はそこで途切れた。静は何の疑問も持たなかった。しかし、浅川は気にかかる。ああいった怯えというのは、本能的な部分を突かないと出てこない。これ、こわいモノだよと教えられて怖がるのとは違うのだ。類人猿といわれた時代から、人間はいつも何かに怯えて暮らしていた。カミナリ、台風、野獣、火山の噴火、そして闇……。だから、初めてカミナリの音と稲妻に触れた子供が、これに本能的に怯えるのはわかる。第一、カミナリは現実に存在する。しかし、……しかし、鬼は。国語辞典でオニを引けば、想像上の怪物、あるいは死者の霊魂と載っている。恐い顔をしているから鬼に怯えるとしたら、同じく恐い顔形をしたゴジラの模型にも陽子は怯えなければならない。一度、デパートのショーウィンドウで陽子は見たことがある。精巧に造られたゴジラの模型。怯えるどころか、好奇心に目を輝かせて彼女はこれに見入っていたのだ。これをどう説明する。ただ一つ明らかなのは、ゴジラはどう考えても想像上の怪物だということ。しかるに、鬼は……。果たして鬼は日本だけのものだろうか、いや、西洋にも似たようなヤツがいるぞ。悪魔……。最初の一杯に比べて、ビールの味が落ちてきたように思う。他にないだろうか、陽子が怯えるモノ。そうだ、ある。闇。この子は闇をすごく恐がる。明かりのついてない部屋には、決してひとりで入ろうとしない。そして、闇は、光の対極として、やはり、ちゃんと存在するのだ。今も陽子は、暗い部屋の中で母に抱かれて眠っている。
第二章 高 原
1
十月十一日 木曜日
雨脚が次第に早くなり、浅川はワイパーの速度を上げた。箱根の天気は変わりやすい。小田原あたりでは晴れていても、標高が高くなるにつれ空気が湿っぽくなり、峠付近で激しい風雨に捕まったことがこれまでに何度かあった。昼間なら、箱根山を被《おお》う雲の様子から、ある程度山の天候を予測することができる。しかし、夜は、ヘッドライトが照らす前方の闇にばかり気を取られ、車を止め、空を見上げて初めて、いつの間にか星空が消えていることに気付いたりする。東京駅でこだま号の下りに乗り込んだ時、街はまだ薄闇の中にあった。熱海駅にてレンタカーを借りる時は、雲の切れ間に月が見え隠れしていた。そして、今、ヘッドライトの中にふわふわと浮かび上がっていた細かな水滴が、本格的な雨に成長してフロントガラスを打ち始めたのだ。
スピードメーターのすぐ上のデジタル時計が十九時三十二分を示している。浅川は、ここまで来るのにかかった時間を素早く暗算した。十七時十六分東京発の下りに乗り、熱海着は十八時七分。改札を出てレンタカーを借りる手続きを済ませたのが十八時三十分。マーケットにてカップヌードル二個とウィスキーの小瓶を買い込み、一方通行の多い市内をどうにか抜け出したのが十九時。
すぐ目の前に、煌々《こうこう》としたオレンジ色の光をくるんだ長いトンネルが見えてくる。このトンネルを抜け、熱函《ねつかん》道路に入るとすぐ南箱根パシフィックランド入口の案内が目につくはずだ。丹那《たんな》断層を突き抜けるトンネルの中に入ると、風を切る音が変わった。同時に、皮膚の色も助手席のシートも、車内のものはみなオレンジ色のライトに照らされて、しっとりとした落ち着きを失い、毛羽立つ。対向車は一台もなく、乾いたフロントウィンドウを撫《な》でるワイパーがきしんだ音をたてる。ワイパーを止めた。八時までには目的の場所に着くはずだった。道路はがらがらなのに、アクセルを踏み込む気がしない。浅川は、無意識のうちに、その場所に行くことを嫌がっていたのだ。
今日の午後四時二十分、浅川は出版局のファクシミリがジージーと音をたてるのを見守った。熱海の通信部から回答が届くことになっていたからだ。ファクシミリには、八月の二十七日から三十日にかけてのビラ・ロッグキャビンの宿帳の写しが載っているはずである。プリントアウトされた写しを見て、浅川は小躍りして喜んだ。勘が的中したのだ。そこには四人の名前があった。野々山、大石智子、辻遥子、能美武彦。四人は二十九日の夜、ビラ・ロッグキャビンのB―4号棟に宿泊していた。岩田秀一が野々山の名を借りたことは明らかだ。これで、四人の共通の時間と場所がはっきりした。八月二十九日水曜日、南箱根パシフィックランド、ビラ・ロッグキャビンB―4号棟と考えて間違いない。謎の死をとげるちょうど一週間前のことである。
浅川はすぐその場で受話器を取り上げ、ビラ・ロッグキャビンの番号を回した。B―4号棟の今晩の宿泊を予約するためである。明日の午前十一時の編集会議に間に合えばいいのだから、その地で夜を過ごす時間は充分にあった。
……行ってみよう、とにかく、現場に行ってみよう。
気は急《せ》いていた。彼の地で待ち構えているものが何なのか、彼にはまるで想像がつかなかった。
トンネルを抜けるとすぐ料金所があり、浅川は百円玉を三枚手渡しながら聞いた。
「南箱根パシフィックランドはこの先?」
わかりきったことであった。地図で何度も確認してある。久しぶりで人間に出合ったような気がして、なんとなく言葉を交わしてみたくなったのだ。
「この先に案内が出ていますから、そこを左に折れてください」
領収書を受け取った。こんなに交通量が少なければ、人件費のほうがはるかに高くつくように思われた。一体いつまでこの男はボックスの中に立っているつもりだろう。なかなか車を出そうとしない浅川を、男は怪訝《けげん》な顔で見ている。無理に笑い顔をつくり、ゆっくりと車を出した。
四人に共通な時と場所を発見したという数時間前の喜びが嘘のように萎《しぼ》んでいる。ビ
ラ・ロッグキャビンで一泊したちょうど一週間後に死んだ四人の顔が瞼《まぶた》に明滅し、引き返すなら今のうちだぜとニタニタ笑っている。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。一方では新聞記者としての本能が強く働いていた。たった一人、という状況がどうしようもなく恐怖をかきたてていることは確かだ。吉野に声をかければ、おそらくふたつ返事で飛びついただろうが、同じ職業の人間ではうまくない。浅川はこれまでの経過を文書にまとめ、既にフロッピーディスクの中にしまい込んである。ひっかき回し、邪魔することなく、この事件を共に追ってくれる男……。当てがないわけではない。純粋な興味だけで付き合ってくれそうな男が彼には一人いた。しかも、そっちの方面に関する知識は深い。大学の非常勤講師のため、時間の余裕もある。うってつけだった。ただ、癖のある特異な人格にがまんできるかどうかは自信が持てない。
山の斜面に南箱根パシフィックランドの案内が立っていた。ネオンサインはなく、白地のパネル板に黒いペンキで書かれているだけなので、ヘッドライトに照らされる一瞬をはずすと、うっかり見過ごしてしまう。浅川は左に折れ、段々畑の中の山道を上った。リゾートクラブに至るにしては道はやけに細く、このまま行き止まりになるのではないかと心細い。カーブがきつく、街路灯もないため、ギアをローに入れたままゆっくりと上る。対向車が来てもすれ違うスペースもなかった。
いつの間にか、雨はやんでいた。浅川はそのことに初めて気付いた。丹那断層を境に東と西ではこうも天候が違うのだ。
それでも、道は行き止まりにならず、どうにか上へ上へと続いていた。上るほどに、道の両側にポツポツと建て売りの別荘が現れ始めた。そして突然、道は二車線になり、うって変わって路面の質もよくなり、しゃれた街路灯が道の両側を飾っていた。浅川はこの変化に驚く。パシフィックランドの敷地内に入ったとたん、贅沢《ぜいたく》な装飾があちこちに顔を出したのだ。ここに至る畑の中の小道は一体何だったのだろう。トウモロコシや丈の高い草の茎が両側から道の方にしな垂れかかり、狭い道をより狭く先細りさせ、急カーブの先に現れるかもしれないモノに対する不安を殊更にかきたてた、あの道路。
広い駐車場の向こうにある三階建てのビルが、ここのインフォメーションセンターでありレストランであった。浅川は何も考えずに車をロビー前に止め、ホールへと入っていった。時計を見るとちょうど八時、予定通りだ。ポーン、ポーンというボールの音がどこからともなく聞こえる。センターの下にはテニスコートが四面あり、黄色っぽいライトの下で数組の男女がテニスに興じている。驚いたことにテニスコートは四つともみな塞《ふさ》がっていた。十月上旬の木曜日の夜八時、こんなところにまで来てプレーするという神経が浅川には理解できない。テニスコートのずっと下には、三島と沼津の夜景が見渡せる。その向こうのコールタール状の黒さは、田子の浦の海だ。
センターに入ると、正面がレストランになっていた。ガラス張りなので、中の様子がよくわかる。浅川はここでも驚かされた。レストランの営業は八時で終わりだけれど、まだ半分ほどの席がうまっていたのだ。家族連れや、女の子だけのグループ。一体どういうことだ。浅川は首をひねった。この連中はどこから来たのだろう。不思議でならない。自分が今通って来たあの同じ道を通って、ここにいる人々がやって来たとはどうしても思えないのだ。ひょっとして、今通ってきたのは裏道で、本当はもっと他に明るく広い道があるのではないだろうか。しかし、パシフィックランドの場所を説明して、女は電話口で言った。
……熱函道路の中ほどを左に折れて、山道を上ってきてください。
浅川はその通りにした。他の抜け道があるとは考えられない。
オーダーストップを承知で、浅川はレストランの中に入った。広々としたガラス窓の下には、よく手入れされた芝生がなだらかなカーブを描いて夜の街へと傾斜している。室内の照明が薄暗く保たれているのは、より美しい夜景をお客に披露するためと思われる。浅川は近くを通りかかったボーイをつかまえて、ビラ・ロッグキャビンの場所を聞いた。ボーイは、浅川が入って来たばかりの玄関ホールを指差した。
「そこの道を右にまっすぐ、二百メートルばかり行くと管理人室がございます」
「駐車場はあるの?」
「管理人室の前が駐車場になっております」
なんのことはない。こんなところに寄らず、まっすぐ進んでいれば、自然と目的の場所に行き着いたのだ。なぜ、近代的なビルに魅せられて、のこのことレストランの中にまで入って来てしまったのか、浅川はある程度自分の心理を分析することができる。どことなく、ほっとしたのだ。浅川は、『十三日の金曜日』の舞台となりそうな、つまり、近代的という言葉とはまるでかけ離れた暗い丸木小屋を想像していたのだが、そういった、いかにもという雰囲気はここにはなかった。この地にも近代科学の力がちゃんと及んでいるという証拠を目の前にすれば、いくらか心強くもなる。引っ掛かるのは、下界からここに至るまでの道の悪さ、そして、それにもかかわらずテニスや食事を楽しむ人々が上の世界に多くいるということ。どうして、そこに引っ掛かるのか、浅川にはわからない。ただ、なんとなく、ここにいる人々には、生きているというニュアンスが感じられない。
テニスコートもレストランも込んでいたのだから、数棟のロッグキャビンからは夕食後の楽しげな団欒《だんらん》の声が聞こえるはずであった。浅川はそれを期待した。ところが、駐車場の端に立って谷底を見下ろしても、まばらな林のゆるやかな斜面に建つ十棟のロッグキャビンの、六つまでしか確認できない。そこより下は、街路灯の明かりさえ届かず、また、室内からあふれ出る一筋の光もないために、夜の木陰の深い闇に沈んでいる。B―4号棟、浅川が今晩泊まるべき部屋は、それでもどうにか光と闇の境目にあり、玄関ドアの上部のみが浅川の目にとまった。
浅川は正面に回り、管理人室のドアを開けて中に入った。テレビの音は聞こえても、オフィスに人影はなかった。管理人は左手奥の和室に居て、浅川が入ってきたことに気付かないのだ。カウンターに妨げられて、奥の様子がわからない。テレビ番組ではなく洋画のビデオを見ているらしく、英語のセリフとともにちかちかと揺れる画像の影が、正面のキャビネットのガラスに反射している。その、作り付けのキャビネットいっぱいに、ケースに入ったビデオテープが並んでいた。浅川はカウンターに手をついて、声をかけた。すぐに、六十前後の小柄な男が顔を出し、「あ、いらっしゃい」と頭を下げた。弁護士を伴った熱海通信部の調査に応じ、快く宿帳を見せてくれたのはこの男に違いない……、そう思って、浅川は愛想よく笑いかけた。
「予約してある浅川です」
男はノートを開けて予約を確認する。
「B―4号でしたね。ここに、お名前と、住所をお願いします」
浅川は本名を記入した。野々山名義の会員証はきのう本人|宛《あて》に郵送したばかりで、もう手元にはなかった。
「お一人ですか?」
管理人は顔を上げ、不思議そうに浅川を見た。これまで、こんなところに一人で泊まる客はいなかった。一般料金の場合、一人ならホテルに泊まるほうが経済的だ。管理人は一組のシーツを差し出し、キャビネットを振り返った。
「もしよかったら一本どうです。けっこう、話題作が揃《そろ》ってると思うんですが」
「ほう、ビデオのレンタル?」
浅川は、壁を埋め尽くすビデオのタイトルに軽く目を通した。レイダース、スターウォーズ、バック・トゥ・ザ・フューチャー、十三日の金曜日……、SFを中心に、洋画の話題作ばかりが並んでいて、新作も多い。たぶんこのロッグキャビンを利用するのは、若いグループばかりなのだろう。興味を引く映画はなかった。それに第一、浅川がここに来たのは一応仕事のためである。
「あいにくと、仕事でね」
浅川は床に置いてあったポータブルワープロを持ち上げて見せた。管理人はそれを見て、こんなところに一人で泊まるわけを納得したようであった。
「食器などは、全部揃ってますね」
浅川は念を押した。
「はい、ご自由にお使い下さい」
使うといっても、浅川に必要なのは、カップラーメンの湯を沸かすためのヤカンだけだ。シーツとルームキィを受け取ってオフィスを出ようとする浅川に、管理人はB―4号棟の場所を説明し、その後、妙に丁寧に「ごゆっくりどうぞ」と言った。
ノブに触れる前に、浅川は用意しておいたゴム手袋を取り出して両手にはめた。正体不明のウィルスから身を守るためのオマジナイであり、気休めである。
ドアを開け、玄関脇のスイッチをONにすると、二十畳ほどのリビングルームが百ワットの電球に照らされた。壁紙から、床のじゅうたん、四人掛けのソファ、テレビ、ダイニングセットまで、室内のものは皆新しく、機能的に配置されていた。浅川は靴を脱いで、上がった。リビングルームに面してバルコニー、そして、二階と一階にそれぞれひとつずつ四畳半の和室があった。確かに一人で泊まるには贅沢《ぜいたく》過ぎる広さだ。浅川はレースのカーテンと一緒にガラス戸を開け、空気を入れかえた。期待を裏切るかのように、室内はまったく清潔に保たれている。何の手がかりもなく帰ることになるかもしれない。浅川の頭にふとそんな思いがよぎった。
リビングルーム横の和室に入り、押し入れを開けた。何もない。浅川は、シャツとスラックスを脱ぎ、ジャージとトレーナーに着替えた。そして、脱いだ物を押し入れに吊《つる》す。二階に上がり、和室の電灯をつける。我ながら子供っぽいと浅川は苦笑いする。気がつくと、部屋中の明かりという明かりを全て灯《とも》していた。
充分に明るくした上で、今度はトイレのドアをそっと開け、中を確認し、細くドアを開けたままにしておく。子供の頃やった肝だめしを思い出した。夏の夜、トイレに一人で行けなくなり、ドアを細く開けて父に後ろを見張ってもらった、あの頃。すりガラスの向こうは、小綺麗な浴室であった。水気はなく、バスタブの底も洗い場も、からからに乾いている。ここしばらく、この部屋に泊まった客はいないに違いない。ゴム手袋を脱ごうとしたが、汗で張り付いてなかなかうまく取れない。高原の冷たい風が吹き込み、カーテンを揺らしていた。
浅川は、フリーザーから取り出した氷でグラスを満たし、買ってきたウィスキーを半分ほど注《つ》いだ。その後、水道の水をつぎ足そうとしたが、一瞬ためらい、オンザロックが飲みたかったのさ、と自分を納得させて蛇口を締める。この部屋のモノを口にする勇気はまだなかった。しかし、フリーザーの氷に不用心なのは、微生物は熱と氷に弱いという先入観が働いたためであった。
ソファに深々と体を沈めて、テレビのスイッチを入れる。新人歌手の歌声が流れ出した。東京でもこの時間帯同じ番組をやっている。浅川はチャンネルをかえた。見るわけでもないのに、音声を適当に調節し、バッグの中からビデオカメラを取り出し、テーブルの上に置く。異変が生じた場合、起こったことを逐一録画するつもりだった。
ウィスキーを一口すすった。ほんの少しではあるが、肝がすわったように感じる。浅川は、今までの経緯《いきさつ》をもう一度頭の中で追う。もし、今晩、ここで、何の手がかりも得られなければ、書こうとしている記事は暗礁に乗り上げることになる。しかし、逆に考えれば、そのほうがいいのだ。なんの手がかりも得られないとは、つまり、例のウィルスを拾わないということだから、妻と子を持つ身で、妙な死に方はしたくない。浅川はテーブルの上に足を投げ出した。
……果たして、オレは何を待っているのだ? 恐くないのかい? おい、恐くないのかい? 死神に襲われるかもしれないんだぞ。
落ち着きなく視線をあちこちに飛ばし、浅川はどうしても壁の一点に目を据えることができなかった。見つめているうちに、イメージが形となって現れそうでしかたない。
外から冷たい風が強く吹き込んだ。窓を閉め、カーテンを引こうとして、チラッと外の闇に目をやる。すぐ前にはB―5号棟の屋根があり、その影になっている部分が一際濃い闇を作っていた。テニスコートにも、レストランにも、人は大勢いた。なのに、なぜか、ここには、浅川ひとりだった。カーテンを引き、時計を見る。八時五十六分。この部屋に入ってまだ三十分もたってなかった。ゆうに一時間が過ぎたように感じる。ここに居ることが、そのまま、危険につながるわけではない。なるべくそう考えて、気持ちを落ち着けた。というのも、ビラ・ロッグキャビンができてもう半年、B―4号棟に泊まった客の数もかなりの人数に上るはずであった。ところが、泊まった人間が皆、変死しているわけではない。今までの調べでは、死んだのはあの四人だけ。時間をかけて調べればもっと出てくるかもしれないが、今のところ他には見当らなかった。ようするに、ここにいることが問題なのではない。ここで何をしたのか、である。
……彼らは、ここで一体、何をしたのだ?
浅川は微妙に質問の仕方を変えた。
……いや、この部屋でできることは何だ?
トイレにも、浴室にも、押し入れにも、冷蔵庫にも、手がかりらしきものはない。仮にあったとしても、さっきの管理人が片付けてしまっただろう。とすれば、こんなところでのんびりウィスキーなど飲んでいるより、管理人にあたったほうが早くはないか。
一杯目のグラスが空になった。おかわりは少な目にした。酔いつぶれるわけにはいかない。水を多く入れ、今度は水道の水で割る。危険に対する感覚が、多少|麻痺《まひ》してきたらしい。仕事の合間を縫ってこんな処にまでやってきた自分が愚かに思え、浅川は、メガネをはずし、顔を洗い、鏡に自分の顔を映した。病人の顔であった。ひょっとして、もう、既に、ウィルスに感染したのではないか。浅川は作ったばかりの水割りを一気に飲み干し、また別のを作った。
ダイニングルームから戻る時、浅川は電話台の下の棚に一冊のノートを発見した。「旅の思い出」表紙にはそう書かれている。彼はページをめくった。
四月七日 土曜日
ノンコは、今日という日をけっして忘れません。なぜかは、ヒ、ミ、ツ。ユウイチってとっても優しいの、ウフフ
NONKO
ペンションなどによく置いてある旅の思い出や感想をメモするノートであった。次のページにはお父さんとお母さんの顔がへたくそに描かれている。幼児を連れた家族連れだろう。日付は四月十四日、やはり土曜日である。
おとうさんはでぶです。
おかあさんはでぶです。
だから、ぼくもでぶです。
四がつ十四にち
浅川はページをめくった。後のほうのページに強く開こうとする力が感じられるが、浅川は順番通りにページを進めていった。順番を狂わせた結果、何かを見落とすこともあり得るのだ。
何も書かない旅行客も多いはずだからはっきり言えないが、夏休みに入るまではだいたい土曜ごとに客が入っていた。夏休みになると日付の間隔が狭くなり、八月も終わりに近づくに従って、夏が終わることを嘆く声が多くなる。
八月二十日 日曜日
あー、夏休みも終わりだあー。なにもいいことなかったよおー。だれか助けてくれー。哀れな僕に救いの手をー。当方、四百CCのバイクを所有。なかなかのハンサム。買い得だゼ。
A.Y.
書いているうちに、文通相手を求める自己PRになってしまったらしい。発想は似たり寄ったりであった。カップルでここを利用した連中は、その思い出を多少あてつけ気味に、そうでなかった連中は相手が欲しいよという想《おも》いを、ノートにぶつけている。
しかし、読んでいて退屈はしない。時計の針はようやく九時を回った。
そして、次のページ。
八月三十日 木曜日
ごくっ。警告。度胸のない奴《やつ》は、コレを見るべからず。後悔するよ。ヘッヘッヘ。
S.I.
たったそれだけである。八月三十日というのは、四人が泊まった翌朝。S.I.というイニシャルは岩田秀一と思われる。彼が書いたページだけは、他のものと違っている。どういうことなのだろう。コレを見るべからず? コレ、とは一体何だ? 浅川は一旦《いったん》ノートを閉じて、横から見た。小さな隙間《すきま》ができている。浅川はそこに指を入れ、ページを開いた。……ごくっ。警告。度胸のない奴は、コレを見るべからず。後悔するよ。ヘッヘッヘ。S.I.という文字が目に飛び込む。なぜ、このページに自ら開こうとする力があるのだ? 浅川は考えた。おそらく、あの四人はページを開き、その上に何かを乗せておいたのだ。その重しのせいで、このページは開こうとする力を今だに維持している。そして、ここに乗せたモノは、コレを見るべからず、の「コレ」とイコールで結ばれるに違いない。
浅川はキョロキョロとあたりを見回し、電話台の棚を隅々まで探る。何もなかった。鉛筆一本出てこない。
もう一度、ソファに座り直し、ノートの先を読む。次の日付は、九月一日土曜日。まったくありふれたことしか書かれていない。この日に泊まった大学生のグループが「コレ」を見たのかどうかはわからない。そして、それ以後ページのどこを捜しても、「コレ」に関する記述はなかった。
浅川はノートを閉じ、煙草に火をつけた。度胸のない奴はコレを見るべからず、とある以上、コレの内容は恐いものでなければならない。浅川は、ノートのページをアトランダムに開き、軽く手で押さえる。しかも、閉じようとする紙の力に対抗するだけの重さを持ったモノ。例えば、一枚や二枚の心霊写真の類だったら、それほどの重さはない。週刊誌、あるいは、単行本とか……。とにかく、見るべきものなのだ。管理人に聞いてみようか、八月三十日、お客の帰った後、部屋に妙なモノが置いてなかったかどうか。覚えているだろうか、もし、印象に残る程奇妙なモノであれば、きっと覚えているに違いない。浅川は立ちかけて、ふと目の前のVHSビデオに目を留めた。テレビのスイッチは入ったままで、掃除器を抱えた有名女優が夫を追いかけるシーンが流れていた。家電メーカーのCMらしい。
……そうだ、VHSのビデオテープなら、ノートを開いて、その重しにするのにちょうど手頃だ。
浅川は中腰のまま、煙草の火を消す。さっき、管理人室で見かけたビデオのコレクションがさっと頭に浮かんだ。たまたま、恐いホラー映画を見て、おもしろいぞ見てごらんと、おもしろさを口コミで伝えようとしたのかもしれない。もし、それだけのことなら……、まてよ、もしそうなら、どうして岩田秀一は固有名詞を使わなかったのだろうか。例えば、『十三日の金曜日』が面白いということをある人に伝えたければ、「コレ」などという代名詞を使わないで固有名詞を使えばいい。それにわざわさノートの上に「コレ」を置く必要もない。とすると、「コレ」はコレという表現で指し示さなければわからないモノで、固有の名称を持たないのかもしれない。
……どうだろう。調べる価値はあるのか?
他になんの手がかりもない以上、あたってみて損はない。とにかく、こんなところで、あれこれ考えていても埒《らち》が明かない。浅川は玄関を出ると、石段を上り、管理人室のドアを押した。
さっきと同様、カウンターの中に管理人の姿はなく、テレビの音だけが奥から聞こえていた。都会での会社勤めを終え、余生を自然に囲まれて暮らそうと、リゾート地の管理人室を再就職先に選んだはいいが、いざ仕事に就いてみると退屈で退屈で、毎日ビデオを見て過ごす他ない……、浅川はここの管理人の境遇をそんなふうに解釈した。浅川が声をかける前に、管理人は四つん這《ば》いになってにゅっと顔を出した。浅川は、どこか言い訳がましく言った。
「やっぱり、ビデオでも借りようかなと思いまして……」
管理人は、嬉《うれ》しそうにニヤッと笑う。
「どうぞ、お好きなのを……。一本につき、三百円頂きます」
浅川は怪奇映画のタイトルをピックアップしていった。地獄の家、黒の恐怖、それから、エクソシスト、オーメン、どれも皆学生時代に見たものばかりであった。他には……、他に、未知の恐怖映画があるはず。ひととおり端から端まで見渡したが、浅川はそれらしきモノを発見できない。もう一度、二百本ばかりのコレクションのタイトルを、順に目で追う。すると、一番下の棚の、隅っこのほうに、裸のままのビデオテープが横になって転がっているのが目についた。他のはジャケットの上から、写真やタイトル文字にくるまれているのに、そのテープにはまったく何のラベルも貼《は》られていない。
「ソレ、なんですか?」
聞いてしまってから、浅川は「ソレ」という代名詞を使って指差していることに気付いた。固有名詞がなければ、他に呼びようがないのだ。管理人は困ったように顔をしかめ、「はーん?」と間の抜けた声を上げると、そのテープを手に取った。
「なんでもないですよ、こんなモン」
……おや、この男はこのテープの内容を知っているのだろうか。
「見ましたか? それ」
浅川は尋ねた。
「さあねえ……」
管理人はしきりに首をかしげている。どうして、こんなモノがここにあるのか、とんと解《げ》せないというふうに。
「もし、よかったら、そのテープ、ちょっと貸してもらえないでしょうかね」
管理人は返事をする代わりに、ポンと膝《ひざ》を打った。
「あ、思い出した。部屋に転がってたんだ、コレ。わたし、てっきり、ここのビデオだとばかり思って、持ってきたんだけど……」
「コレが置いてあったのは、B―4号棟じゃないですか?」
浅川は念を押すように、ゆっくりと聞いた。管理人は笑いながら首を振る。
「そんなこと覚えていませんよ。なにしろ、二ケ月ばかり前のことだから」
浅川はもう一度聞く。
「あなた、このビデオ、見ましたか?」
管理人はやはり首を横に振った。顔から笑いが消えている。
「いいえ」
「ソレ、ちょっと貸してくださいよ」
「テレビ番組でも録画するの?」
「え、ええ、まあ……」
管理人はビデオをチラッと見た。
「爪《つめ》が折れてるよ、ほら、再録防止のための爪が折れてる」
酒の酔いも手伝ってか、むしょうに苛立《いらだ》ちを感じた。貸してくれって言ってんだから、さっさと渡せばいいんだよこのやろー、と心の中で毒突いた。しかし、どんなに酔っていても、浅川は他人に対して強い態度に出ることはできない。
「お願いしますよ。すぐ返しますから」
浅川は頭を下げた。管理人は、このお客がなぜこんなモノに興味を示すのか不思議でならない。この中に、オモシロイ映像が隠されているのか……。ひょっとして、消し忘れのビデオとか……。なぜ、発見した時に見なかったのかと悔やまれた。今すぐにでも見たい誘惑に駆られたが、お客に頼まれてイヤというわけにはいかない。管理人はテープを差し出した。浅川は財布を出そうとしたが、管理人は手で制した。
「いやいや、料金は結構ですよ。いただけるわけないでしょう」
「どうも、ありがとう、すぐ返しますよ」
浅川はテープを持った手を軽く上げた。
「おもしろいヤツだったら、すぐに、頼みますよ」
管理人はすっかり好奇心を刺激されていた。ここに並ぶビデオは既に一度見たものばかりで、彼の興味の対象からは外れつつある。
……それにしても、なぜ、アレを見逃していたのだろう。いい退屈しのぎになったのに。しかし、まあ、つまらないテレビ番組を録画しただけのものかもしれない。
管理人は、そのビデオがすぐ戻ってくるとばかり思っていたのだ。
3
ビデオテープは巻き戻してあった。どこでも手に入るごく普通の百二十分テープで、管理人の言った通り、録画防止用の爪《つめ》が折られている。浅川はビデオのスイッチを入れ、テープを押し込んだ。テレビ画面のすぐ前であぐらをかき、プレイを押す。テープが回転する音。浅川は、この中に四人の死の謎を解く鍵が隠されているかもしれないと期待した。ほんのちょっとした手がかりでも発見できれば、それで満足というつもりで、プレイボタンを押したのだ。まさか、危険はないだろうと。ビデオを見ることによってもたらされる危険なんてあるわけがないのだ。雑音とともに画像は一旦《いつたん》激しく揺れたが、チャンネルを操作するとすぐに収まり、ブラウン管は墨をこぼしたように黒色に塗り替えられていった。それが、このビデオのファーストシーンである。音が出なかったので、故障でもしたのかと、浅川は顔を近づける。警告! コレを見るべからず。後悔するよ。岩田秀一の言葉が甦《よみがえ》る。後悔なんてするはずがない。浅川は慣れていた。かつては社会部の記者だったのだ。どんな残酷な映像を見せられたとしても、後悔しないだけの自信はあった。
真っ黒な画面に、針の先程の光の点が明滅し始めたかと思うと、それは徐々に膨らんで右に左に飛び回り、やがて左の隅に固定されていった。そして、枝分かれをし、先のほつれた光の束となり、ミミズのように這《は》い回って六個の文字を形作ろうとする。テロップなどと呼べるシロモノではない。真っ黒な半紙に、白い筆で書かれたへたくそな文字。それでもどうにか、こんなふうに読めた。「終いまで見よ」命令形である。一旦消え、次の文字が浮かんだ。「モウジャに食われるぞ」モウジャが何かわからないが、食われるとはただごとでない。このふたつの文句の間には、「さもないと」という接続詞が省略されているようだ。途中で映像を止めてはならない、さもないと、ひどい目にあわせると脅迫していることになる。
モウジャに食われるぞ、という文字はそのまま拡大して、画面から黒い色を追い払ってゆく。黒から乳白色へ、変化は単調であった。ムラのある乳白色の色彩は、自然の色とはとても言い難く、キャンバスに塗り重ねられた様々な観念に見えてくる。うごめき、悩み、出口を見つけ、今ほとばしろうとする無意識、あるいは、生の躍動。思考はエネルギーを持ち、獣じみて、闇を飽食する。不思議と停止ボタンを押す気にならない。モウジャが恐いからではなく、強烈なエネルギーの流露が心地よくて……。
モノクロと思われていた画面に、赤い色が弾《はじ》けた。それとともに、地鳴りが、どこからともなく聞こえてくる。ひょっとして、この家全体が揺れてるんじゃないかと錯覚するくらい、音は方向性を持たず、小さなスピーカーから流れ出していると感じさせない。ドロドロとした真っ赤な流体は、爆発しては飛び散り、時には画面全体を占めてしまうこともあった。黒から白、そして赤へ……、色が激しく変わるばかりで、ここまでのところ自然の光景は現れてはいない。抽象化された観念と、色の鮮やかな変化が鮮烈に脳裏に刻まれ、疲れさえ覚える。すると、見る者の心理を読み取ったかのように、画面から赤みはさっと引き、なだらかな山頂を持った一目見て火山とわかる山の景色が広がった。火山はよく晴れた空を背景に、白い煙をもくもくと立ち上らせていた。カメラが位置するのは麓《ふもと》のあたりで、足元はごつごつとした黒褐色の溶岩に覆われている。
再び闇に包まれた。青く晴れ渡った空は、瞬時にして黒く塗りつぶされ、そして、数秒後、画面中央部から真っ赤な液体がほとばしり、下に向かって流れ出す。二度目の爆発……、飛び上がった飛沫《しぶき》は赤く燃え、そのせいで、かすかに山の輪郭が判別できる。前の映像が抽象的であったのに比べ、今度のは具体的であった。明らかに火山の爆発、自然界の現象であり、説明可能なシーンである。火口から流れ出た溶岩流は、山肌の谷間をぬってこちらに近付いてくる。カメラはどこに位置するのだ? 空からの撮影ならともかく、このままでは溶岩に飲み込まれてしまう。地響きが大きくなり、画面全体を溶岩が埋め尽くす直前、シーンはがらっと変わる。シーンとシーンの間には連続性がなく、まったく唐突な変化であった。
白地に黒く太く、文字が浮かんだ。輪郭がぼやけてはいるが、どうにか「山」という字に読める。墨の滴る筆を雑に走らせたように、大小の黒い点が文字の周囲を飾りたてている。文字は動かず、画面の乱れもない。
またしても突然の変化。二個のサイコロが丸底の鉛のボールの中を転がっている。背景は白、鉛のボールの中は黒、そしてサイコロの一の目だけが赤。さっきからこの三色が多く使われている。サイコロは音をたてずゆっくりと転がり、やがて一と五の目を上にして止まった。赤い一の目と、白地に並ぶ黒い五つの目……、何を意味するのだろう。
次のシーンで、初めて人間が登場した。顔中|皺《しわ》だらけの老婆が、板の間の上の二枚の畳にちょこんと座り、膝《ひざ》に両手を乗せ、左肩をわずかに突き出し、正面に向かってゆっくりと語りかけている。左目と右目の大きさがかなり違うので、まばたきする様がウィンクに見えてしまう。
「……その後、体はなあしい? しょーもんばかりしてると、ぼうこんがくるぞ。いいか、たびもんには気ぃつけろ。うぬは、だーせん、よごらをあげる。あまっこじゃ、おーばーの言うこときいとけぇ。じのもんでがまあないがよ」
老婆は無表情にそれだけ言って、ふっと消えてしまった。意味不明の言葉が多い。しかし、どことなく説教されたらしいことはわかる。何かに気をつけろと警告を与えているのだ。一体だれに対して、だれに向かってこの老婆は語りかけたのだ?
産まれたばかりの赤ん坊の顔が、画面いっぱいに広がった。どこからともなく産声が聞こえる。やはり、テレビのスピーカーからではない。顔の下、すぐ近くからだ。生の声に非常に近い。画面に、赤ん坊を抱く手が見えた。左手を頭の下に入れ、右手を背中に回し、大切そうに抱えている。きれいな手であった。画面に見入っている浅川は、いつのまにか映像の中の人物と同じ手の形をつくっていた。産声は顎《あご》のすぐ下から聞こえる。浅川は驚いて自分の手をひっこめた。感触があったからだ。ぬるっとした羊水、あるいは血、そして小さな肉の重み。浅川は放り出すようにして両手を広げ、手の平を顔に近づけた。匂いが残っている。薄い血の匂い、母胎から流れ出したものか、それとも……。濡れた肌ざわりもあった。しかし、実際に手が濡れているわけではない。浅川は目を映像に戻した。まだ、赤ん坊の顔が映っている。泣いてはいても顔は穏やかな表情に包まれ、体の震えは股の間に伝わり、ちょこんとついている小さなモノまで揺らしていた。
次のシーンには百個ばかりの人間の顔。どの顔にも憎しみと敵意がこめられていて、それ以外の際立った特徴は見られない。平板な板に塗《ぬ》り込められた数々の顔は、徐々に画面の奥に下がってゆく。そして、ひとつひとつの顔の大きさが小さくなるに従って、顔の絶対数は増え、大群集に膨れ上がっていった。首から上だけの群集というのも変ではあるが、湧《わ》き上がる音声が大群集のそれを思わせる。顔は口々になにかを叫びながら、数を増やし、小さくなっていく。なんと言っているのか、うまく聞き取れない。集団のざわめき、非難じみた声の質。ののしり声。明らかに、歓迎したり喝采《かつさい》したりしている声ではない。やっとひとつ聞き取れた。「嘘つき!」という言葉。それから、もうひとつ。「詐欺師!」顔の数はおそらく千を越しただろう。しかも、まだ増え続け、比例して声は大きくなる。数は万を越え、黒い粒子となって画面を埋め尽くし、電源の入らないブラウン管の状態と同じ色に変わっても、なお声だけは残っていた。そして、やがて声も消え、若干の残響が耳に残る。そのまましばらくの間、画面は静止したように見えた。浅川は、どうにもいたたまれない気持ちになった。自分自身に対するごうごうたる非難……、そんな気がしたのだ。
画面が変わると、木製の台の上に、一台のテレビがあった。回転式のチャンネルを持ったかなり古い型の19型で、うさぎの耳の形をした室内アンテナを木枠でできたキャビネットに乗せている。劇中劇ならぬ、テレビの中のテレビ。中のテレビにはまだ何も映ってはいなかった。電源が入っているらしく、チャンネル横のパイロットランプが赤く灯《とも》っている。画像の中の、テレビ画面がジジッと揺れた。元に戻り、またジジッと画面が乱れる。その間隔が短くなったかと思うと、ぼんやりとではあるが、ひとつの文字が浮かんだ。どうにか「貞」と読める。貞の字は時々乱れ、歪《ゆが》んで、貝という字になったりしながら消えていった。チョークで書かれた黒板の文字が、濡れ雑巾《ぞうきん》で拭《ふ》き取られるような消え方であった。
見ているうちに、浅川は妙な息苦しさに襲われていった。心臓の鼓動が聞こえ、動脈を流れる血の圧迫を感じる。それから、匂い、感触、舌を刺す甘酸っぱい味。時々ふと思い出したように現れる映像と音以外の媒体が、どういう仕組みで五感を刺激してくるのかと、不思議に思う。
急に、男の顔が現れた。これまでの映像と違い、この男には確かに生きているという生命の鼓動があった。見ているうちに嫌悪感を覚えた。なぜ自分が嫌悪感を抱いてしまうのかわからない。特に醜男というわけでもなかった。額がわずかに後退してはいるが、どちらかといえばいい男の部類に入る。ただ、目に危険な色を宿している。獲物を狙《ねら》う獣の目。男は顔から汗を流していた。はあはあと呼吸を荒くして、目を上に向け、リズミカルに体を動かしている。男の背後には、まばらに木々が生い茂り、木々の間を通して、午後の陽の光が差し込んでいた。男が、上に向けていた目を正面に戻すと、ちょうど見る者と視線が合う。浅川はしばしその男と見つめ合った。息苦しさが増し、どうにも目をそむけたくなってしまう。男はよだれを流し、目を充血させている。首筋が徐々にアップになり、そのまますっと画面の左がわに消えていったかと思うと、しばらくの間、画面は黒い木々の影ばかりを映し出した。腹の底からの叫び声が湧《わ》き上がる。声と同時に、肩から首筋の順に男の顔が画面に戻る。男の肩は裸であったが、右肩の先、数センチにわたって肉がえぐり取られていた。そこから流れ出した血の滴は、カメラのほうに吸い寄せられて大きくなり、レンズに当ってぼうっと画像をにじませていった。まるで瞬きをするように、画面は一回、二回と暗くなり、明るさを取り戻した時、映像は赤みを帯びていた。男の目には殺意があった。顔とともに肩が近づき、えぐり取られた肉の下から白く骨がのぞいている。胸を襲う強烈な圧迫感。再び、木々の茂る風景。空が回っている。夕闇へ向かう空の色、乾いた草の葉がパサパサと音をたてた。土が見え、草が見え、また空が見えた。どこからともなく、赤ん坊の泣き声が聞こえる。先ほど現れた男の子のものかどうか……。やがて、画面の周囲は闇に縁取られ、暗闇は徐々にその輪を縮めていった。光と闇の境界線はかなりはっきりしている。画面中央、暗闇の中にぽっかりと浮かんだ丸い月があった。月の中には男の顔がある。月から握り拳《こぶし》大のカタマリが降ってきて、鈍い音をたてた。もうひとつ、そして、またひとつ。音とともに、映像はびくっと揺れ、乱れる。肉を砕く音、すぐ後には真の闇。それでも鼓動は残っている。どくどくと、血は巡る。そのシーンは長く続いた。永久に終わらないのではないかと思わせる闇。始まりと同じく、文字が浮き上がってきた。ファーストシーンの文字はいかにもへたくそで、覚えたての幼児の書いた文字を思わせたが、ラストのそれはいくぶんマシになっていた。次々にぼうっと浮かんでは消える白い文字はこう語っていた。
「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」浅川はごくっとつばきを飲み込み、目を大きく見開いてテレビを見据えた。ところが、そこで画面はがらっと変わった。まったく、完璧な変わり方である。だれもが一度は目にしたであろうテレビコマーシャルが割り込んだのだ。夏の夜の下町の風景、縁側に座るゆかた姿の女優、夜空を彩る花火……、蚊取り線香のCMである。およそ三十秒ばかりのCMが終わり、別のシーンが入りかけた瞬間、画面は元に戻っていた。先ほどの闇、そして最後の文字が消えた残像。そこで、ザーという雑音が入り、ビデオテープは全て終わっている。浅川は目を見開いたまま、テープを戻し、ラストシーンを再生した。同じことの繰り返し……、大切な個所に割り込む余分なCM。浅川はビデオを止め、テレビの電源を切った。それでも、まだ、画面を見つめている。喉《のど》はからからに渇いていた。
「……なんだ?……こりゃ」
それ以外、一体なんと言ったらいいのか。意味不明なシーンの連続、しかし、たったひとつだけ理解できたのは、コレを見た者はちょうど一週間後に死ぬということ。そして、それを避ける方法が記されている個所が、テレビのCMによって消されてしまっていること。
……だれが消したんだ? この四人か?。
顎《あご》ががくがくと震えた。もし、四人の若者たちが同時刻に死んだことを知らなければ、こんな馬鹿なことがと笑い飛ばすことができただろう。ところが、彼は知っている、言葉通り、四人が謎の死を遂げたことを。
その時、電話が鳴った。浅川はその音に心臓が飛び出す思いであった。受話器を取って耳にあてる。ナニモノかが身をひそめ、じっと闇の中でこちらをうかがっている気配がする。
「……もしもし」
浅川は、震える声でやっとそれだけ言った。返事はない。暗く狭い場所で、なにかが渦を巻いている。地鳴りに似たゴーッという低い音と、湿った土の匂いがあった。耳もとに伝わる冷気に、うなじのあたりが総毛立つのがわかる。胸への圧迫は強くなり、地中深く這《は》い回る虫が足首や背中にくねくねとまとわりついてくすぐっている。言うに言われぬ想《おも》いと、時をかけて熟成した憎しみが、受話器の中を伝ってすぐそこにまで上ってきた。浅川はがしゃんと受話器をたたきつけた。口もとを押さえながら、トイレに走る。背筋を走る悪寒と、突然の吐き気、電話の向こうでソレはなにも言わなかったが、浅川には意図するところがわかった。確認の電話なのだ。
「……見ただろ、わかったな。言うとおりにするんだ……、さもないと……」
浅川は便器の上で吐いた。吐くものはあまりなかったが、先ほど飲んだウィスキーがすっぱい胃液と共に口から流れ出た。目に染みて、涙がにじむ。胃液が鼻に回って苦しかった。それでも、今、ここで、全部吐いてしまえば、見たばかりの映像も一緒に流れ出てしまいそうに思えた。
「……さもないとって言われてもよぉ。わかんねえじゃないか。どうしろってんだ? え? オレは何すればいいんだ?」
トイレの床に座り込み、浅川は恐怖に負けまいと大声を上げた。
「わかってくれよ、連中が消してしまったんだ。大事なところを……、オ、オレは知りようがない。勘弁してくれよぉ」
とにかく、弁解する他なかった。浅川はトイレから飛び出し、見苦しい自分の姿を顧みる余裕もなく、部屋中に顔を巡らせてそこにいるかもしれないモノにペコペコと頭を下げて懇願した。いつの間にか、相手の同情を引く顔になっていることを本人は知らない。浅川は立ち上がり、流しで口をゆすぎ、水を飲んだ。風が吹き込んでくる。リビングルームの窓を見た。カーテンが揺れている。
……おい、さっき締めたはずじゃねえか。
確かに、カーテンを引く前に、サッシのガラス戸をしっかりと締めたはずであった。記憶に間違いはなかった。震えがとまらない。理由もなく、彼の脳裏に、都会の超高層ビルの夜景が浮かんだ。ビルの壁面を彩る碁盤目状の窓明かりの模様は、ついたり消えたりし、ある文字になろうとしていた。ビル自体が巨大な長方形の墓石とすれば、窓の明かりによって形造られる文字は墓碑銘に見える。そのイメージが消えてもなお、白いレースのカーテンはふわふわと舞っていた。
浅川はほとんど半狂乱になって、押し入れからバッグを取り出し、荷物をまとめた。これ以上、一秒たりともここに居ることはできない。
……だれがなんと言おうともだ。これ以上ここに居たら、オレの命は一週間どころか一晩で終わってしまう。
彼はジャージとトレーナーのまま、玄関に降りた。外に出る前に理性を働かせる。ただ単に恐怖から逃れるだけでなく、自分が助かる方法を考えよ! 瞬間に湧《わ》き上がる生存への本能。浅川はもう一度部屋に戻り、ビデオテープの取り出しボタンを押した。バスタオルでビデオテープをぐるぐる巻きにして、バッグの中に入れる。手がかりはこのテープだけなんだから、置いていくわけにはいかなかった。連続したシーンの謎が解ければ、ひょっとして助かる方法も見つかるかもしれない。しかし、なんと言っても、期限はたったの一週間。時計を見た。十時八分を指している。見終わったのは、確か、十時四分くらいだった。時間は、のちのち重要な意味を持つ。浅川は、ルームキィをテーブルの上に乗せ、部屋の明かりを煌々《こうこう》とつけたまま外に出ると、管理人室にも寄らないで自分の車に走り、イグニッションにキィを差し込んだ。
「ひとりでは無理だ、あいつの助けを借りよう」
独り言を言いながら、浅川は車を発進させたが、バックミラーが気になってしかたがない。アクセルをいくら踏み込んでも、もどかしいほどのスピードしか出ないのだ。夢の中での追跡劇に似ている。何度も何度もバックミラーを見た。しかし、彼の跡を追う黒い影はどこにもなかった。
第三章 突 風
1
十月十二日 金曜日
「まず、そのビデオを見せろや」
高山竜司は、ニヤニヤ笑いながら言った。六本木の交差点にある喫茶店の二階。十月十二日金曜日、午後七時二十分。浅川が例のビデオを見てしまってから、二十四時間が過ぎようとしている。華やいだ女の子たちの声に囲まれれば、いくらかでも恐怖の感情は薄まるのではないかと、ハナ金の六本木を待ち合わせの場所に選んだのだが、まったくなんの気休めにもならない。話す程に、昨夜の出来事が鮮明に甦《よみがえ》り、恐怖心は少しも弱まることなく肥大してゆく。身体《からだ》に取り憑《つ》いたナニモノかの影を、ふっと、体の奥のほうに感じることさえあった。
竜司は、ワイシャツの一番上のボタンまできっちりとはめ、ネクタイもきつめに締めたまま取ろうとしなかった。そのため、首の回りの肉が二重に浮かび上がって、見ているほうが息苦しくなってしまう。この角ばった顔で笑いかけられると、普通の人間ならいやらしい印象を受けてしまうだろう。
竜司は、グラスから氷を取り出し、口に放り込んだ。
「……聞いてなかったのか、オレの話を。危険だって言っただろ」
浅川は押さえた声で言った。
「じゃあ、なんで、オレに相談を持ちかけた? 助けてもらいたいんだろ?」
竜司は頬《ほお》に笑みを浮かべたまま、口の中の氷をガリガリと噛《か》み砕く。
「ビデオを見なくたって、手助けする方法くらいあるさ」
竜司はうつむきかげんに首を振った。顔からはまだ薄笑いが取れない。浅川は不意の怒りに襲われて、ヒステリックに声を上げた。
「おまえ、信じてないんじゃねえのか! オレの話したこと……」
爆弾と知らず開いた小包のように、何の準備もなくビデオを見てしまった浅川には、それ以外に竜司のニヤけた笑いを説明する言葉がなかった。あれほどの恐怖を経験したのは初めてだ。しかも、終わったわけではない。あと六日間。恐怖は真綿で首を締めるようにじわっじわっと輪を縮めてくる。先で待ち構えるのは、死。それなのに、こいつは、自ら進んで、あのビデオを見たいなどと言う。
「でかい声出すなって。オレが恐《こわ》がってないもんだから、不満なのかい? いいか、浅川、前にも話した通り、オレはもし見れることなら、世界の終わりを見たいと思っている人間だ。この世の仕組み、つまり、始まりと終わりの謎、極大と極小の謎を解き明かしてくれる奴《やつ》がいたら、命と引き換えでもそいつから知識を引き出そうとするだろうな。おまえはオレのことを活字にしたんだ。覚えているはずだぜ」
もちろん浅川は覚えていた。だからこそ、こうやって、竜司に全てを打ち明けているのだ。
最初に企画をたてたのは浅川だった。二年前のまだ彼が三十歳だった時、自分と同じ歳の日本の青年がどんなことを考え、どんな夢を持って生きているのかと疑問に思ったことがあった。企画は通り、通産官僚、都議会議員、一流商社社員からごく普通のサラリーマンまで様々な世界で活躍する三十歳の青年をピックアップして、おそらく読者が知りたいであろう基本的なデータから個性まで、限られた紙面の中で三十という年齢を分析しようとしたのだ。たまたま、ピックアップされた十数名の中に、浅川は高校時代の同級生である高山竜司の名を発見した。肩書きはK大学文学部哲学科非常勤講師。それを見ておやっと思う。竜司は医学部に進んだと記憶していたからだ。取材には浅川があたった。様々な職業の中のひとつとして彼がリストアップされたわけだが、竜司は三十歳の学者の卵を代表するにはあまりに強烈な個性を持ち過ぎていた。高校時代からの捉《とら》えどころのない性格は、ますます磨きがかかったように見受けられる。彼は一旦《いったん》医学部を卒業したうえで、哲学科に学士入学し、その年、博士課程を終えたばかりであった。もし助手のポストが空いていたら、間違いなく彼はその地位を占めていただろうが、運悪くそこには先輩の研究者が居座っていた。彼は非常勤講師のポストを得て、週に二コマ母校にて論理学の授業を持った。現在、哲学という学問分野は極めて科学と近い位置にある。人生|如何《いか》に生くべきかなどというたわいもない観念を弄《もてあそ》ぶことイコール哲学ではない。専攻が、論理学とあっては、数字の抜けた数学を研究するようなものだ。かつて、古代ギリシァにおいては、哲学者は同時に数学者でもあった。竜司も同様、文学部の講師ではあっても頭の回路は科学者のそれだ。ところが、専門分野における知識もさることながら、彼の超心理学への造詣《ぞうけい》の深さには並み並みならぬものがあった。浅川には矛盾と受け取れた。超心理学、すなわち、超能力やオカルトの類は科学の論理に反するものではないのかと。竜司は答えた。……逆だ。超心理学は世界の仕組みを解き明かすひとつのキィワードだ。真夏だというのに、ストライプのはいった長袖《ながそで》のシャツを着て、今日と同じくシャツの一番上のボタンまできつく締め、竜司は、オレは人類の滅亡の瞬間に立ち会いたいと、暑苦しい顔に汗を浮かべながら言ったのだ。そして、世界の平和と人類の存続を叫ぶ連中にはへどが出るとも。
取材の中で浅川はこんな質問を出した。
……将来の夢を聞かせてくれよ。
竜司は平然と答えた。
……丘の上から人類の滅亡する光景を見物しながら大地に穴を掘り、その穴の中に何度も何度も射精すること。
浅川は念を押した。
……おい、本当にそんなこと書いちまっていいのか。
竜司はやはり今と同じ薄笑いを浮かべて、うなずくだけであった。
「だからよお、オレには恐いものなんてないの」
竜司はそう言った後、顔をぐっと浅川のほうに近づけた。
「ゆうべ、またひとり、ヤッちまったしよ」
……またか。
浅川が知る限り三人目の犠牲者であった。一人目を知ったのは、高校二年の時。二人とも川崎市多摩区の自宅から県立高校に通っていたが、浅川は毎朝授業の始まる一時間前には学校に着き、朝のすがすがしい時間帯にその日の予習をする癖があった。用務員を除けば、いつも彼が学校への一番のりを果たしていた。それに比べて竜司は、一時限目の授業をまともに出たことはないといったありさまで、遅刻の常習者、ところが、夏休みも終わったばかりのある朝のこと、浅川がいつも通り学校に行くと、なぜか竜司が先に来て教室の机の上に腰かけてぼんやりしていた。「やあ、めずらしいじゃないか」と浅川は声をかけた。「おう、まあな」無愛想にそう答えたきり、竜司は心ここにあらずといった様子で窓から校庭を眺めた。その目が赤く充血している。頬《ほお》にも赤みが差し、吐く息が少し酒臭かった。特別仲がよかったわけでもないので、それ以上会話は続かず、浅川はいつも通り教科書を広げて予習に取りかかった。ところがしばらくすると、竜司は音もなく浅川の背後に忍びより、「なあ、おまえにちょっと、頼みてえことがあるんだが……」と彼の背中を叩《たた》いたのだった。強烈な個性の持ち主である竜司は勉強もよくでき、陸上選手としても一流で、学校の皆から一目置かれる存在であった。どこといってとりえのない浅川は、竜司のような同級生からものを頼まれて嫌な気はしない。
「実はよう、ちょっと、オレの家に電話かけてくれないか」
竜司はなれなれしく浅川の肩に腕を回して言った。
「いいよ、でも、なんのために?」
「ただかけるだけでいいんだ。電話してオレを呼び出してくれ」
浅川は顔をしかめた。
「おまえを……? だっておまえはここにいるじゃないか」
「いいから、やってくれよ」
言われた通りの番号を回し、電話口に竜司の母親が出ると、「竜司君お願いします」と目の前にいる人間を呼び出した。
「あの、竜司はもう学校に行きましたけれど……」
と母親は穏やかに答えた。「ああそうですか」と浅川は受話器を置く。
「おい、これでいいのか」
浅川は釈然としない。こんなことをしてなんの意味があるのかまるでわからなかった。
「何か変わった様子なかったか?」竜司が聞いた。
「おふくろの声、緊張してなかったか?」
「別に、なにも……」
浅川は竜司の母親の声を初めて聞いたが、特別緊張の響きが含まれていたとは思えない。
「背後でガヤガヤ人の声がしたとか……」
「いや、べつに。そんなことはなかった。ごく普通の朝の食卓って雰囲気だ」
「そうか、それならいいんだ。ありがとよ」
「なあ、どういうことなんだ? なぜ、こんなことをする?」
竜司はどこかほっとした表情を浮かべ、浅川の肩に腕を回して顔をぐっと自分のほうに引きつけ、口を耳許《みみもと》にもっていった。
「おまえは、口もかたそうだし、信頼が置ける。だから、話してやる。実はよお、オレ、今朝の五時頃、女を犯してきた」
浅川は驚きのあまり声も出なかった。明け方の五時頃、竜司は、アパートに一人住まいの女子大生の部屋に忍び込んで乱暴し、警察に訴えたら承知しないぞと脅し文句を残して、そのまま学校に来てしまったというのだ。だから、ひょっとして今頃、警察が家のほうに来てはいないかと気になり、浅川に電話をかけさせて家の様子を探らせた。
そのことがあって以来、浅川と竜司はしばしば口をきくようになった。もちろん浅川は竜司の犯罪を人に言いふらしたりはしなかった。そして、翌年、竜司はインターハイの砲丸投げで三位に入賞し、そのまた翌年には現役でK大学医学部に入学した。浅川といえば、そのまた翌年、一浪の末、ようやく有名大学の文学部に合格したのだった。
浅川には、自分が本当は何を望んでいるのかわかっていた。やはり、実際に竜司にも例のビデオを見てもらいたかったのだ。口で内容を話すだけでは、彼の知識と経験を役立てることは難しい。一方には、自分が生き残るために他人まで巻き込むのはよくないという倫理観があった。葛藤《かつとう》はあるけれども、天秤《てんびん》にかければどちらが重いかはすぐにわかる。生き残る可能性はなるべく大きくしたいに決まっている。しかし、それにしても……。自分はどうしてこんな奴《やつ》の友人なんだと、常々思っている疑問がふと湧《わ》き上がる。新聞社に入って十年、取材を通して知り合った人間は数限りない。ところが、なぜか、お互いに誘いあって酒を飲むような仲になったのは、竜司以外にはいない。たまたま同級生だったからか? いや、同級生なら他に何人もいる。竜司の持つ異常性に共鳴する何かが心の底に存在すると思うと、浅川はふと自分自身がわからなくなってしまう。
「なあ、おい。急ごうぜ。残された時間は後六日だろ」
竜司は浅川の二の腕を掴《つか》むと、ぎゅっと握った。力が強い。
「早く、オレにもそのビデオを見せてくれよ。手遅れになって、おまえがおっちんじまったら、オラ寂しいでねえかよぉ」
竜司は浅川の腕をリズミカルに揉《も》みながら、皿に手付かずで残ったままのチーズケーキをフォークの先で突き刺し、口に運んでクチャクチャと噛《か》み始めた。竜司にはものを噛むときに唇を閉じる習慣がなく、口の中で唾液《だえき》と混ざって溶けてゆく様を浅川はすぐ目前で見て気分が悪くなりかけた。角ばった顔、ずんぐりとした体型、そんな男がチーズケーキをくちゃくちゃやりながら、グラスの氷を手で掴んで取り出しては、ガリガリと殊更に大きな音をたてて噛み砕いている。
浅川は悟った。こいつ以外に頼りになる奴《やつ》はいないと。
……相手は正体不明の悪霊で、常人にかなうわけがない。あのビデオを見て平然としていられるのは、おそらく竜司ぐらいのものだろう。毒をもって毒を制す。それ以外にない。もし、竜司が死ぬ運命に陥ったとしても知ったことか。人類の滅亡を見たいなどとほざく奴には、長生きする資格はない。
浅川はそう考えて、赤の他人を巻き込む行為を正当化しようとした。
2
ふたりはタクシーで浅川のマンションに向かった。六本木から北品川まで、道が混んでいなければ二十分もかからない。ルームミラーの中に、運転手の額だけが映っている。むっつりと押し黙ってハンドルに片手を乗せ、彼は客に語りかけようとはしない。もとはといえば、タクシードライバーのお喋《しゃべ》りが発端であった。もし、あの時間、あそこでタクシーを拾わなければ、こんな奇怪な事件に巻き込まれることはなかったのだ。浅川は、半月前のことを思い起こしていた。そして、いくら面倒臭くても、キップを買い、地下鉄を何度も乗り替え、家に帰るべきであったと後悔した。
「おまえの家で、ダビングできるかい?」
竜司が聞いた。職業柄、浅川は二台のビデオを持っていた。一台は普及し始めた頃に購入したもので、性能はかなり劣るけれど、コピーを作るくらいなら別段問題はない。
「できるよ」
「そうか、じゃあ、さっそく、オレの分のコピーも作ってくれ。自分の部屋で何度もじっくり見て研究したいんでな」
……心強い、と浅川は思う。今の浅川は、こんな言葉で簡単に勇気づけられる。
御殿山ヒルズの前でタクシーを降り、あとは歩くことにした。九時十分前。この時間ではまだ、妻と子供が起きている可能性があった。妻の静はいつも九時ちょっと前に娘を風呂に入れ、上がるとすぐ布団に入り、そのまま添い寝してるうちに自分まで一緒に眠ってしまう。そして、一旦《いったん》寝入ってしまうと、自力で布団から這《は》い出すことはまずできなかった。静は夫との語らいの時間をなるべく持とうとしていたので、以前は「起こしてください」という伝言を必ずテーブルの上に残しておいた。仕事から帰った浅川は、その言葉に従い、起きる意志があるだろうとばかり妻を揺り起こす。しかし、これが、まったく起きない。それでも無理に起こそうとすると、頭上の蠅《はえ》を追い払うように両手を振り回し、静は不機嫌に顔をしかめていやそうな声を上げる。半分は目覚めるのだが、眠ろうとする力のほうがはるかに強いらしく、浅川は徒労のうちに退散せざるを得ない。こんなことが続くうちに、伝言を見ても浅川は静を起こさなくなり、静もまた伝言を置かなくなっていった。そして、今や、夜の九時はだれ侵すことのできない静と陽子の就寝タイムとなっていたのだ。今日のような場合、逆にそれは都合がよかった。静は竜司のことを嫌っていたからだ。もっともなことだと、浅川はその理由を聞いたことはない。……お願いだから、もうあの人を家に呼ばないでちょうだい。そう言った時の、嫌悪感を露《あらわ》にした妻の顔を今でも浅川は覚えている。それに第一、静や陽子のいる前で例のビデオをつけるわけにもいかなかった。
部屋は暗く静まり返り、玄関にまで湯と石鹸《せっけん》の香りが流れていた。ふたりは濡れた髪にタオルを当て、たった今布団に入ったところらしい。ベッドルームのドアに耳を当て、妻と娘が眠っていることを確認すると、浅川はダイニングルームに竜司を案内した。
「ベイビーちゃんはおネンネかい?」
残念そうに竜司が言う。「しぃっ」と浅川は指を口に当てた。こんなことで目を覚ます静ではないが、いつもと違った気配を感じてのこのこと起き出してこないとも限らない。
浅川は二台のビデオデッキの出力端子と入力端子をつないだ上で、例のテープを押し込んだ。プレイボタンを押す前に竜司の顔を見て、本当に再生してもいいのかと、無言で意志を確認する。
「なにしてんだ、さっさと再生しろよ」
テレビ画面を見つめる竜司は、目を逸《そ》らさずに催促した。浅川は竜司の手にリモコンを握らせると、立ち上がって窓辺に寄った。見る気はしなかった。本当は何度でも見て冷静に分析しなくてはならないはずなのに、もうこれ以上この事件を追おうという気力が湧《わ》かない。とにかく、逃れたい。ただそれだけだ。浅川はバルコニーに出て煙草を吸った。娘が生まれた時、家の中では煙草を吸わないと妻に約束して、これまで破ったことはなかった。結婚して丸三年が過ぎても夫婦仲はいいほうだ。かわいい娘を授けてくれた妻の意見を、浅川は無視することができない。
バルコニーから部屋の中を覗《のぞ》くと、すりガラスを通して画像が揺れている。ビラ・ロッグキャビンでひとりで見るのと、一応三人の人間に囲まれて下町のマンションの六階で見るのとでは、恐さがまるで異なる。しかし、竜司なら、同じ状態で見たとしても、ぶざまにうろたえ、涙を流すようなことはないに違いない。彼にだけは、ヘラヘラ笑いながら悪態をつき、逆に相手を威嚇する目つきで画像を見てほしかった。
煙草を吸い終わり、バルコニーから部屋に戻ろうとしたちょうどその時、廊下とダイニングを隔てるドアが開いて、パジャマ姿の静が現れた。浅川はあわててテーブルの上のリモコンを操作して、画像を一時ストップさせた。
「寝てたんじゃないのか?」
浅川の声には非難の色が含まれている。
「物音が聞こえたものだから」
静は言いながら、ザーザーと音をたてて乱れる画面と、竜司と浅川を順に見回した。不審気に表情を曇らせながら……。
「寝てろ!」
一切の質問を拒否する口調で浅川は言った。
「よかったら、奥さんもご一緒に。これ、おもしろいですよ」
床にあぐらをかいたまま、竜司が顔を向けた。浅川は竜司を怒鳴《どな》りつけてやりたかった。しかし、言葉には出さず、思いのすべてを拳《こぶし》に込めて力いっぱいテーブルを打ちつけた。静はその音にびくっとしてあわててドアのノブに手をかけると、両目を細め、顔をほんの少し傾けて「どうぞ、ごゆっくり」と竜司に挨拶《あいさつ》した。そして、さっときびすを返してドアの向こうに消えてゆく。夜、男ふたりで、ビデオをつけたり消したり……、妻がどんな想像を巡らせたか、浅川には理解できる。目を細めた時、軽蔑《けいべつ》の色が浮かんだのを見逃さなかった。竜司に対してというよりも、男の本能に対する軽蔑。浅川は、妻になにも説明できないのがつらかった。
浅川の期待通り、竜司は見終わっても平然としていた。彼は鼻歌を歌いながらテープを巻き戻し、早送りや停止を繰り返しながら、もう一度ポイントを確認していった。
「これで、オイラも巻き込まれたってわけだ。おまえの持ち時間が六日、オイラが七日」
竜司は、ゲームに参加できたことを喜ぶように言った。
「どう思う?」
浅川は竜司の意見を聞いた。
「子供の遊びじゃねえのか」
「え?」
「ガキの頃、よくこんなことしなかったか? 恐い絵かなにかを見せて、コレを見た者は不幸になるとか言って友達を脅すヤツ。あるいは不幸の手紙とかよぉ」
もちろん、浅川にも経験があった。夏の夜に聞かされた怪談にも、似たパターンのものがあった。
「だから?」
「いや、別に。ただ、ちょっと、そんなふうに感じただけだ」
「他に何か気付いたことがあったら言ってくれ」
「そうだな、映像自体はそれほど恐いものじゃねえな。現実的なものと、抽象的なものとが混ざり合っているように見える。もし、四人の男女がこの言葉通りに死んでしまったって事実がなければ、ヘンこんなモンと鼻であしらうことができる。そうだろ?」
浅川はうなずいた。どうしようもなくやっかいなのは、ビデオの言葉が嘘でないことを知っていることである。
「まず、第一に、四人の馬鹿がなぜ死んでしまったか、その理由を考えてみよう。ふたつ考えられるだろ。ビデオのラストで『これを見た者全ては死ぬ運命にあり』と言い、その後すぐオマジナイ……、おい、これから、死の運命から逃れる方法のこと、オマジナイと呼ぶことにしようぜ。さて、四人はそのオマジナイの部分を消してしまったから、殺されたのか。それとも、単に、オマジナイを実行しなかったから殺されたのか。いや、それ以前に、オマジナイを消してしまったのが本当に例の四人かどうか、その確認が必要だ。ひょっとして、四人が見た時もう既にオマジナイが消されていたってこともある」
「確認するっていっても、どうやって? 四人に聞くことはできないぜ」
浅川は冷蔵庫からビールを取り出し、グラスについで竜司の前に置いた。
「まあ、見てみろや」
竜司はビデオのラストを再生し、オマジナイを消している蚊取り線香のCMの終わる瞬間を狙《ねら》って一時停止させ、ゆっくりとコマ送りをしていった。行き過ぎ、戻し、また停止、コマ送り……。すると、ほんの一瞬、テーブルを囲んで座る三人の人間のシーンが現れた。すんでの所で、CMのはさまれた番組のシーンが引っ掛かっていたのだ。その番組は夜十一時から放送される全国ネットのナイトショウで、三人のうちのひとりはだれもが知っている白髪の流行作家、ひとりは若く美しい女性、そしてもうひとりは関西を中心に活躍する若手落語家であった。浅川は画面に顔を近づけた。
「おまえ、この番組知ってるだろ」
竜司が聞いた。
「NBSで放送中のナイトショウだ」
「だろ? 流行作家は司会者、女はアシスタント、でもって、落語家はこの日のゲストってわけだ。だからよ、この落語家をゲストに迎えた日がいつなのかわかれば、四人がオマジナイを消したかどうかわかる」
「……なるほど」
ナイトショウは平日の夜十一時から放送されている。もし、この日の放送が八月二十九日のものとわかれば、消したのは、その夜ビラ・ロッグキャビンに泊まった例の四人に間違いない。
「NBSはおまえのいる新聞社の系列だろ。簡単にわかるんじゃねえのか?」
「わかった、調べておく」
「ああ、頼むぜ。オレたちの命に係わることだからな。とにかく、どんなことでもいい、ひとつずつ物事をはっきりさせていこう。なあ、戦友」
竜司は浅川の肩を叩《たた》いた。ともに死ぬ運命にあるから、戦友などという表現を使ったに違いない。
「おまえ、恐くないのか?」
「恐い? 逆だよ、期限をきられるなんておもしろいじゃねえか。罰は死……。いいねえ、命がけじゃなければ遊びはおもしろくねえ」
さっきから竜司は本当にうれしそうにはしゃいでいるので、恐怖を押し隠しての空元気ではと浅川は少し心配になってきたのだが、目の奥を覗《のぞ》いてもひとかけらの怯《おび》えも読み取ることができない。
「次に、このビデオをだれがいつどのような目的で作ったものか調べる。ビラ・ロッグキャビンができて半年になるらしいが、その間にB―4号棟に泊まった客に当って、ビデオを持ち込んだ奴《やつ》を割り出すんだ。まあ、八月の下旬に絞っても構わないだろうな。可能性が一番高いのは、例の四人のすぐ前に泊まった連中だ」
「それもオレが調べるのか?」
竜司は一息でビールを飲み干し、しばし考えた。
「あたりまえだろ。……期限を切られちまってるからなぁ。おまえのダチで、だれか頼りになる奴いねえか? いたら、手伝ってもらえ」
「この事件に興味を持っている記者がひとりいるにはいる。でも、命に係わることだから、そう簡単には……」
浅川は吉野のことを考えていた。
「構うこたぁねえ、じゃんじゃん巻き込んじまえ。このビデオを見せりゃ、尻《しり》に火がついたように飛び回らざるを得なくなる。喜ぶぞ、そいつも」
「みんな、おまえみたいな奴ばかりじゃないんだよ」
「なら、裏ビデオだとだまして、無理やり見せちまえばいいじゃねえか」
竜司に常識を説いても無駄であった。オマジナイの中身が判明しない限り、むやみに人に見せるわけにはいかない。どうも袋小路に入り込んでしまったようだと、浅川は感じた。このビデオの正体を掴《つか》むためには、かなり組織だった調査が必要なのに、ビデオの性質上容易に人手を集めることができない。竜司のように、喜び勇んで死のゲームに身を投じる人間は稀《まれ》なのだ。果たして、吉野ならどんな反応を見せるだろうか。彼もまた妻子持ちである以上、危険を冒してまで好奇心を満足させようとはしないだろう。しかし、ビデオを見なくても、手伝ってもらえることはある。一応、彼にはここまでの経緯《いきさつ》を話しておくべきかもしれない。
「わかった、当ってみるよ」
竜司はダイニングテーブルに座ってリモコンを手に取った。
「そうそう、コレ、抽象的なシーンと具体的なシーンと、大きくふたつに分けられるだろ」
言いながら、彼は火山の噴火のシーンを出して、停止させた。
「そら、この火山。こいつは、どう見たって現実のものだ。なんて山なのか調べなくっちゃならねえ。それに、この噴火。山の名前がわかれば、噴火した日もわかるはずだから、このシーンがいつどこで録画されたものなのかはっきりする」
竜司はまた画像を移動させた。老婆が登場して、わけのわからないことを言う場面だ。
……なあしい、しょーもん、ぼうこん、だーせん、よごら、など、方言らしい言葉がちりばめられている。
「どこかの方言だろ。オレの大学に方言の専門家がいるから、そいつに聞いてみてやらあ、そうすれば、このばあさんの出身地がわかるはずだ」
竜司は早送りにした。ラスト近くの、特徴ある男の顔が映し出される。額から汗を流し、はあはあと荒い息を吐きながら体をリズミカルに動かしている男の、肩先の肉がえぐり取られるすぐ前のシーンで、竜司は画像をストップさせた。男の顔がもっともアップになる場面だ。目鼻立ちから耳の形まで、かなりはっきりと顔の特徴をとらえることができる。髪の生え際が後退してはいるが、年は三十歳前後といったところだろう。
「この男に見覚えあるか?」
竜司が聞いた。
「あるわけないだろ」
「薄気味悪いツラしてやがる」
「おまえがそう思うくらいだから、この男もたいしたものだ。敬意を表したくなるよ」
「ああ、そうしてくれ。これだけインパクトの強い顔はそうザラにはない。捜せないものかなぁ。おまえ、記者なんだから、調査にかけてはプロだろ」
「冗談じゃない。犯罪者とか、芸能人ならともかく、顔だけから人物を割り出せるわけがない。日本の人口は一億を越えている」
「だから、犯罪者の線を追ってみたらどうだい? あるいは、裏ビデオの類の俳優とか」
浅川は返事をする代わりに、メモ用紙を引きつけた。やることが多いと、メモしておかなければ忘れてしまう。
竜司は映像を止めた。そして、勝手にもう一本ビールを冷蔵庫から取り出すと、お互いのグラスに注《つ》いだ。
「乾杯しよう!」
乾杯の理由がわからず、浅川はグラスを持ち上げようとしない。
「オレは予感がするんだ」
竜司の土色の頬《ほお》に少し赤みがさしてくる。
「この出来事には、普遍的な悪のイメージがつきまとうんだよな。匂ってくるんだ、どこからともなく、あの時の衝動が……。おまえにも話しただろ、おれが一番最初に犯した女のこと」
「ああ、覚えている」
「もう十五年も前のことだ。あの時も、妙に胸をくすぐる予感があった。十七歳、高校二年の九月。オレは夜中の三時まで数学をやり、その後一時間ばかりドイツ語を勉強して頭を休めた。いつもそうしてるんだ。疲れた脳細胞をもみほぐすには、語学がちょうどいいからな。四時になると、やはりいつも通りビールを二本飲み、日課である散歩に出かけた。出かける時、オレの頭にはいつもと違う何かが芽生え始めていた。深夜の住宅街を歩いたことがあるかい? 気持ちがいいぞ。犬も眠っている。おまえのベイビーちゃんのようにな。オレはあるアパートの前にまで来ていた。しゃれた木造の二階建てで、このうちのどこかに時々通りで見かける清楚《せいそ》な感じの女子大生が住んでいることを、オレは知っていた。どの部屋かはわからない。オレは八つある部屋の窓を順に見渡していった。この時、別に考えがあって見回したわけじゃない。ただ、なんとなく、な。二階の南端に目が留まると、心の奥で弾《はじ》ける音がして、ふと心に芽生えた闇が徐々に大きくなる気配を感じた。オレはもう一度、順に見回した。やはり、同じところで闇が渦を巻く。しかも、はっきりと確信できた。その部屋には鍵がかかっていないことをな。単なるかけ忘れなのかどうかはわからない。オレは心の中に生じた闇に導かれるままアパートの階段を上り、その部屋の前に立った。表札はローマ字で書かれている。YUKARI MAKITA。オレは右手でドアのノブを強く握った。しばらくそうやって握った後、力を込めてノブを左に回した。しかし、回らない。そんなばかなと思う。瞬間、カチッと音がして、ドアが開いた。いいか、かけ忘れなどではなく、その瞬間に鍵があいてしまったのだ。なんらかのエネルギーが働いてな。女は机の横に布団を敷いて眠っていた。てっきりベッドに寝ているものと思っていたが、そうじゃなかった。掛け布団の横から片方の足をのぞかせて……」
竜司はそこで一旦《いったん》話を中断させた。そして、その後の光景を素早く脳裏に再現させたのか、いとおしさと残酷さが混ざりあった表情で遠い記憶を見つめるのだった。こんなあやふやな竜司の顔を、浅川は初めて見る思いだった。
「……その、二日後、学校からの帰り道、アパートの前を通りかかると、二トントラックが止まって、家具などを部屋から運び出していやがった。引っ越そうとしていたのは、YUKARIだった。父親らしい男に付き添われ、YUKARIはなにするでもなくぼーっと塀に寄りかかり、運び出されていく家具を見つめていた。なぜ、娘が急に引っ越すのか、父親は本当の理由を知らないに決まってる。そうやって、YUKARIは、オレの前から姿を消していった。実家に帰ったのか、それとも、住所を変えて以前と同じ女子大に通い続けたのか……。ただ、あのアパートにだけはもう一秒たりとも住むことができなかったんだ。へへ、かわいそうによぉ。よほど恐かったんだなあ」
浅川は聞いていて息苦しかった。一緒にビールを飲むことにさえ嫌悪感を感じた。
「おまえ、それで、気が咎《とが》めたりはしないのかい?」
「慣れちまったよ、もう。毎日、コンクリートに拳《こぶし》をぶつけていてみろ、しまいには痛みなんて感じなくなる」
……だから、今でも、同じことを続けているのか。浅川はもう二度とこの男を家に上げないと胸に誓った。とにかく、妻と娘のそばにだけは寄せまいと。
「心配するな、おまえのベイビーちゃんにはそんなことしないから」
心の中を見透かされたようで、浅川はあわてて話を逸《そ》らした。
「ところで、その、予感ってなんだ?」
「だから、悪の予感さ。とてつもない悪のエネルギーがなければ、こんな手のこんだイタズラはできやしねえだろ」
竜司は立ち上がった。立っても、椅子に座っている浅川と頭の高さがそう変わらない。しかし、百六十センチに満たない短身ながら、インターハイの砲丸投げで入賞しただけあって、肩のあたりの筋肉の盛り上がりがすばらしい。
「オレはそろそろ帰るぜ。宿題、ちゃんとやっておいてくれよ。夜が明ければ、おまえの残り時間はあと五日」
竜司は片手を広げた。
「わかった」
「どこかでな、悪のエネルギーが渦を巻いているんだ。オレにはわかる。懐かしい香りがするもんな」
念を押すようにそう言うと、竜司はダビングしたテープを胸に抱えて玄関に立った。
「次の作戦会議はおまえの部屋でやろう」
浅川は低い声で、はっきりと言う。
「わかった、わかった」
竜司の目が笑っていた。
竜司が帰るとすぐ、浅川はダイニングルームの柱時計を見た。結婚のお祝いに友人からもらったもので、ちょうちょの形をした赤い振り子が揺れている。十時二十一分……。今日一日、何度時計を見たことだろう。とにかく、時間が気になってならない。竜司が言った通り、夜が明ければあと残された期限は五日間。果たしてそれまでに消された個所の謎を解明できるかどうか。成功の可能性の殆《ほとん》どない手術を前にした癌《がん》患者の心境であった。浅川はこれまで、癌は告知すべきであると考えていた。しかし、こんな精神状態が続くとすれば、やはり知りたくないなと思う。人によっては、死を前にして生命を完全燃焼させる者もいるが、浅川にそんな芸当はできない。今はまだいい。しかし、残り一日、一時間、一分と時を刻まれたら、正常な意識を持ち続けられるかどうかまったく自信がなかった。嫌悪しながらも、竜司に魅《ひ》かれる理由がわかったような気がする。竜司は及びもつかない程の精神的強さを持っているのだ。浅川が回りの人間の目を気にしながらコソコソと生きているのに対し、竜司は体の中に神、いや、悪魔を飼って自由奔放に生きている。恐怖に負けることは決してない。浅川の場合、生への欲望が恐怖心を追い払うのは、死んだ後に残される妻と娘に想《おも》いを寄せた時のみであった。浅川はふと気になって、寝室のドアをそっと開け、妻と娘の寝顔を確かめた。何事もない安らかな寝顔。怯《おび》えて縮こまっている暇はなかった。浅川は電話で吉野を呼び出すと、今までの経緯《いきさつ》を話して協力を頼むことにした。今日できることは今日のうちにやっておかないと、きっと後悔することになるだろうと。
3
十月十三日 土曜日
この一週間休みを取ろうかとも思ったが、部屋にこもって無意味に怯えているよりも、会社の情報システムをフルに利用したほうがビデオテープの内容を解明するのに役立つと考え直し、土曜日にもかかわらず浅川は出社した。出社しても仕事が手につかないことはわかりきっていた。編集長に全てを打ち明け、しばらくの間仕事からはずしてもらうのが得策と思われた。編集長の協力を得られれば、それに越したことはない。問題は、編集長がソレを信じるかどうかだ。また、例の偶然を持ち出して、鼻先で笑うに決まっている。証拠のビデオがあっても、最初から否定してかかればあらゆるものは自分の論理に従って配列され、納得のいくように変形されてしまう。しかし、……おもしろい、と浅川は思う。一応、ブリーフケースに入れてビデオを持ってきているが、もしこれを編集長に見せれば、どんな反応をするだろうかと。いや、それ以前に、彼はこれを見ようとするかどうか。昨夜遅く吉野に事の次第を話したところ、彼は信じた。そして、その言葉を裏づけるように、絶対にビデオは見たくない、見せないでくれとも言った。その代わり、できるだけのことは協力しようとも……。吉野の場合、信じるべき土壤があったことは確かだ。芦名の県道沿いの車の中から辻遥子と能美武彦の変死体が発見された時、吉野はいち早く駆けつけて現場の空気に触れている。化け物以外にこんなことは為し得ないとわかっているはずなのに、捜査員のだれもがそのことを言い出さない、あの息詰った雰囲気。もし吉野が、あの時の空気に触れていなかったら、こうすんなりと信じたかどうかわからない。
とにかく、浅川は今、一個の爆弾を抱えていた。編集長の目の前でチラつかせて威嚇すれば、そこそこの効果は上げるはずである。単なる興味という点からも、浅川は使ってみたいという誘惑に駆られるのだった。
小栗編集長の顔から、いつもの人をこばかにしたような笑いが消えていた。机に両肘《ひじ》をつき、目をせわしなく動かして、もう一度浅川の言った言葉を吟味する。
……八月二十九日の夜、ビラ・ロッグキャビンにて間違いなくあるビデオを見たと思われる四人の男女が、ビデオの言葉通りちょうど一週間後に謎の死を遂げている。それ以後、ビデオは管理人の目にとまって管理人室に持ち込まれ、この浅川に発見されるまでおとなしく眠っていた。ところが、浅川に発見され、こいつは見てしまったのだ。こいつが五日後に死ぬ? 信じられるか、そんなことが。しかし、四人の死は紛れもない事実、これをどう説明する? 論理的な筋道は?
小栗編集長を見降ろす浅川の顔には滅多に見られない優越感が漂っていた。経験上、小栗が今どんなことを考えているのかおおよその見当はつく。浅川は、小栗の思考がデッドエンドに陥った頃を見計らって、ブリーフケースからビデオテープを取り出した。もったいぶった、ロイヤルストレートフラッシュを開けるような手つきがいかにも芝居がかっていた。
「もしよければ、コレ、ごらんになりますか?」
浅川は、窓際に置かれたソファの横のテレビを目で示しながら、挑発と余裕の笑みを浮かべて言った。ごくっとつばを飲み込む音が、小栗の喉《のど》の奥から聞こえる。小栗は窓際には目もくれず、机の上に置かれた真っ黒なビデオテープを見つめたままだ。そして、正直に自分の心に問うていた。
……見ようと思えば今すぐにでも再生できる。おまえにはそれができるのだ。いつものように、くだらねえと笑い飛ばして、あそこのデッキにこいつを押し込めばいいじゃねえか。やれよ、さあ、やってみろよ。
小栗の理性は自分の肉体に命令を下す、……こんな馬鹿なことはあり得ないんだから、さっさと見ちまえと。見ることは、ようするに浅川の言葉を信じないということだろうが。逆に、いいか、よく考えてみろよ、見ることを拒めば、こいつのヨタ話を信じることになるんだぜ。だから、さっさと見てしまえ。おまえは現代科学の信奉者だろう。幽霊に怯《おび》えるガキじゃあるまいし。
実のところ、九十九パーセントまで、小栗はこの話を信じてはいなかった。しかし、心の奥にほんの少し、ひょっとしたらという思いがあった。ひょっとして、本当だったら……、世界にはまだ現代科学の及ばない領域があるのかもしれないと。その危険性がある限り、いくら理性が働きかけたところで、肉体は拒否するに決まっている。現に、小栗は椅子に座ったまま、動こうともしない。いや、動けなかったのだ。頭での理解以上に、体がいうことをきかない。危険の可能性が少しでもある以上、肉体は正直に防衛本能を働かせる。小栗は顔を上げ、乾ききった声で言った。
「で、どうしてもらいたいんだね、君は?」
……勝った、と浅川は確信した。
「今の仕事からはずしてください。このビデオに関して徹底的に究明したいんです。お願いします。わかるでしょ、僕の命がかかってるんです」
小栗は両目をかたく閉じていた。
「記事にするつもりかい?」
「これでも記者ですからねえ……、一応事実は書きとめておきます。僕と高山竜司の死によって、すべてが闇に葬られるわけにはいかないでしょう。もちろん、載せる載せないの決断は、編集長にお任せしますが」
小栗は大きくふたつうなずく。
「ま、いいだろう。トップインタビューはヒラメに任せるとするか」
浅川は軽く頭を下げ、ビデオテープをブリーフケースに戻そうとしたが、しまい込む前にちょっといたずら心を起こして、もう一度小栗の前にテープを差し出した。
「コレ、信じたんでしょ?」
小栗は「うーん」という長い唸《うな》り声を上げたまま、首を横に振るだけであった。信じるとも、信じないとも言い切れない、とにかく一抹の不安がある……、まあ、そういったところだろう。
「僕も編集長と同じ気分ですよ」
浅川はそう言い残して立ち去った。小栗は後ろ姿を見ながら、もし彼が十月十八日を過ぎても生きていたら、その時はこの目でビデオを見てやろうかと思う。しかし、その時がくれば、やはり体が拒否するかもしれない。「ひょっとしたら」という不安はいつまでたっても消えそうになかった。
資料室にて、浅川は、三冊の分厚い本をテーブルに積み重ねた。「日本の火山」「火山列島」「世界の活火山」ビデオに収録された火山の噴火シーンは日本でのものらしいと目星をつけて、浅川はまず「日本の火山」という本の表紙をめくった。巻頭のカラー写真。白い噴煙と水蒸気を吹き上げる山々は、黒褐色の溶岩に被われて雄々しく、夜空に真っ赤な溶岩をほとばしらせる火口は、黒い輪郭を闇の中に溶かして、宇宙の始源に起こったビッグバンを思わせる。浅川は頭に焼きつけてある映像と写真とを比べながら、次々とページをめくった。阿蘇山《あそさん》、浅間山《あさまやま》、昭和新山、桜島……。ところが、思ったほど発見するのに手間はかからなかった。なにしろ、富士火山帯に属する三原山は日本の活火山の中でもかなり有名な部類に入る。
「……三原山?」
浅川はつぶやいた。見開きのページに空中写真が二枚、小高い丘の上からの写真が一枚。浅川は映像を思い出し、様々な方向からの姿をイメージして、これと比べた。確かに、似ている。裾野《すその》からの視点では、山頂はなだらかな傾斜をもっているように見える。しかし、空中写真によれば、山頂には円形の外輪山があり、カルデラの中に中央火口丘が見受けられる。裾野の小高い丘から写したものが、ビデオの映像と特によく似ていた。山肌の色も、起伏の状態もほぼ同じと思われる。残像に頼るだけではなく、ちゃんと確認する必要があった。浅川は他の二、三の候補とともに、三原山の写真のコピーをとった。
午後中ずっと、浅川は電話をかけ続けた。この半年間、ビラ・ロッグキャビンを利用したグループへの電話取材である。直接会って顔色をうかがいながら話を聞ければいいのだが、そんな時間の余裕はなかった。電話の声だけでは、嘘を見破ることはなかなか難しい。浅川は、相手のちょっとした動揺も見逃すまいと特に耳を澄ました。確認すべき相手は十六グループ。というのも、今年の四月にビラ・ロッグキャビンが完成した時には、まだ各戸にビデオデッキは備わっていなかったのだ。地方の宿泊施設が取り壊され、そこにあった大量のビデオデッキの使用場所として、新たにロッグキャビンが選ばれたのが七月半ばのこと。どうにか夏休みに間に合う格好で、デッキとテープのコレクションが完備されたのが七月の下旬。従って、パンフレットの類にはまだビデオのサービスがあることは載っていない。来て初めて、ほうこんなものがあったのかと、雨の日の暇つぶしに利用するくらいのもので、あらかじめテープを持参して番組を録画しようとしたグループはほとんどなかった。もちろん、電話の声を信じる限りにおいてである。一体だれが、あのテープをあそこに持ち込んだのか。そして、あれを録画した者はだれなのか。浅川は絶対に聞き逃すものかと時に応じて何度も鎌をかけたりしたが、だれひとり、ほんのわずかでも隠している様子が見られないのだ。十六グループのうち、ビデオデッキの存在にすら気付かなかったのがゴルフを目的にやって来た三グループ。あることには気付いても利用しなかったのが七グループ。目当てのテニスが雨でできず、しかたなくビデオを借りたのが五グループ。借りた映画のタイトルには、往年の名画が多い。おそらく過去に見たものを繰り返して見たのだろう。そして、残りの一グループ、横浜に住む金子という四人家族だけは、持参したビデオテープを使って大河ドラマの裏番組を録画しようとしたのだった。
浅川は一旦《いったん》受話器を置き、出揃《でそろ》った十六のデータにもう一度目を通した。問題がありそうなのは一ケ所だけ……。金子夫婦と小学生になるふたりの子供たち。彼らは今年の夏休み二回にわたってビラ・ロッグキャビンを利用した。最初が八月十日金曜日の夜、そして二回目が八月二十五日と二十六日、土曜、日曜と二連泊したのだ。二回目の利用は、例の四人が泊まった日の三日前に当る。次の月曜日、火曜日は客がなかったため、金子一家のすぐ後に四人が入ったことになる。しかも、日曜日の夜八時、小学校六年になる上の男の子が、家から持参したビデオテープで大河ドラマの裏番組を録画したという。男の子は日曜の夜八時、民放で放送中のお笑い番組を毎回欠かさずに見ていた。しかし、番組の選択権は当然のごとく両親にある。両親はこの時間帯、NHKの大河ドラマにチャンネルを合わせる。ロッグキャビンにはテレビが一台しかないけれど、ビデオデッキが置いてあることを知っていたので、男の子は裏録して後で見ようと録画ボタンを押した。ところが、録画している最中、たまたま雨が上がったことを知らせに来た友人からテニスに誘われ、そのまま妹と一緒にコートに走ってしまった。目当ての番組を見終わった両親は録画中なのも忘れてテレビをとめ、十時近くまでコートを走り回った兄妹もくたくたになって帰るとすぐ眠りに落ちて、ビデオのことなどすっかりと忘れてしまったのだ。翌日、もうすぐ我が家というところで、男の子はビデオテープをデッキの中に入れたままなのに気付き、車を運転する父に「戻ってほしい」と大声で頼み込んだと言う。さんざんもめたけれどもどうにか諦《あきら》めもつき、男の子は泣きながら家の門をくぐった……。
浅川はビデオテープを取り出して、机の上に立てた。インデックスラベルを貼《は》る部分に「フジテックス VHS T120 Super AV」の文字が銀色に光っている。浅川は再び金子宅の番号を押した。
「……たびたびすみません。さきほどお電話したM新聞の浅川ですが」
少し間を置いて「はい」という返事があった。さっきと同様、母親の声である。
「お子さんがビデオテープを忘れてきたとおっしゃいましたが、そのテープ、どこの会社のものかわかりますか?」
「さあ、ねえ」という笑いを含んだ声。その背後で物音がする。
「あ、今ちょうど、息子が帰ってきましたので聞いてみますわ」
浅川は待った。どこの会社のものかなんてわかるわけないだろうなと思いながら。
「やはり、わからないそうです。うちで使うのは、三本いくらの安物ばかりですから」
無理もなかった。ビデオを使うとき、それがどこのメーカーのものかなんていちいち気にするわけないのだ。その時、浅川はふとひらめいた。……まてよ、このテープのケースはどこにあるのだ? 普通テープはどれもケースに入って売っている。ケースを捨てることはまずあり得ない。少なくとも浅川には、音楽用カセットテープだろうが、ビデオテープだろうが、そのケースだけを捨てた経験はなかった。
「お宅、ビデオテープをケースに入れて保管していますか?」
「ええ、もちろん」
「まことに恐れ入りますが、そちらに空《から》のケースがひとつ余ってないかどうか、調べてもらえないでしょうか」
「はあ?」
間の抜けた声であった。質問の意味は理解できても、その奥にある動機がわからず、行動を鈍らせてしまっている。
「お願いします。……実は、人の命がかかってるのです」
特に家庭の主婦の場合、人の命うんぬんには弱い。手間を省いて行動に走らせたい場合、この言葉は充分なインパクトを持つ。しかも、浅川は嘘を言っているのではない。
「ちょっと、お待ちください」
思った通り、声の響きが変わった。受話器を置いたあと、かなりの間があった。もしケースも一緒にビラ・ロッグキャビンに忘れてきたとすれば、あの管理人に捨てられているだろう。しかし、そうでなければ、金子宅に残っている可能性が高い。声が戻った。
「中身のカラのケースですね?」
「はい」
「ふたつございました」
「メーカー名とテープの種類が記されているはずですが……」
「えーと、ひとつは、パナビジョン T120。もうひとつは、フジテックス VHS T120 Super AV……」
浅川の手にあるビデオテープとまったく同じ名称である。フジテックスのビデオテープは無数に売られているはずだから、これで確証を得たとは言い難い。しかし、一歩近づいたことだけは確かだ。この悪魔のテープは、もとはと言えば小学校六年生の男の子が持ち込んだもの。どうだろう、そう考えてほぼ間違いないのではないか。浅川は丁寧にお礼を述べて受話器を置いた。
八月二十六日、四人が宿泊する三日前の日曜日の夜八時から、B―4号棟のビデオデッキは録画状態になっていたのだ。そして、忘れたまま金子一家は帰ってしまう。次にやって来たのは、例の四人。その日もやはり雨が降っていた。ビデオでも見ようかと操作すると、中にはテープが入ったまま、なんの気なしに見てみる。わけのわからない不気味な内容。しかも、ラストにある脅し文句。四人は悪天候を呪《のろ》うあまり、たちの悪いイタズラを考えついた。死の運命から逃れる方法を消した上で、次に泊まるグループに見せて脅してやれ。もちろん、内容を信じていたわけではない。もし信じていたら、恐くてイタズラなんてできるはずがない。果たして四人は死の瞬間、このテープの内容を思い出しただろうか。それとも、そんな暇もなく死神に連れ去られたか。他人事ではない。浅川はぶるっと身震いをした。あと、五日間、死の運命から逃れる方法を捜し出さねば、彼らと同じく……、その時がくれば、連中がどんな気持ちで死んでいったかわかる。
ところで、男の子が録画したとしたら、あの映像はどこからやってきたのか。最初浅川は、ビデオカメラで録画されたものが持ち込まれたとばかり考えていた。まさか、裏番組を録画するつもりでテープをセットしたところ、電波に乗ってとんでもない映像が侵入してしまったとは露ほども思わなかった。
……電波ジャック!
去年の選挙の時、NHKの終了後に対立候補を誹謗《ひぼう》する映像が流れてしまった事件を、浅川は思い出した。
そうだ、電波ジャック以外に考えられない。
八月二十六日の夜八時から、南箱根一帯に電波に乗ってあの映像が流れてしまい、たまたま、このテープがそれを拾い上げてしまった可能性がある。もしそうなら、なんらかの記録が残っているはずだ。浅川は、地元の支局と通信部に問い合わせすぐにでも事実を確認する必要を感じた。
4
午後十時、浅川は安らかなふたつの寝息に迎えられて帰宅した。玄関を上がるとすぐ、ベッドルームのドアをそっと開け、妻と娘の寝顔を確認する。どんなに疲れて帰ってきても、浅川はこれを欠かしたことがない。
ダイニングルームの上にはメモ用紙が置いてあった。「高山さんからお電話がありました」とある。今日一日、浅川は会社から何度も竜司の部屋に電話を入れたが、留守でつかまらなかった。彼もまた外に出て調査していたのだろう。……何か、新しいことがわかったのかもしれない。浅川はダイアルを回し、呼び出し音を十回鳴らした。だれも出ない。東中野のアパートで、竜司は独りで暮らしている。まだ帰ってないのだ。
軽くシャワーを浴びてからビールを一本あけ、もう一度電話する。やはりまだ帰っていない。ウィスキーのオンザロックに移る。酔いにまかせて寝る以外、安眠の手段《てだて》はなかった。長身で華奢《きゃしゃ》な体の浅川は、これまでに病気らしい病気をしたことがない。それが、こんな方法で死の宣告を受けようとは……。まだ心のどこかには、この出来事を夢と感じている部分がある。このまま、ビデオの意味とオマジナイの中身が明らかにされぬまま十月十八日午後十時という締め切りを迎えても、結局は何も起きずいつもとなんら変わらぬ日常が延々と続くのではないかと……。小栗編集長は人を小馬鹿にした顔で迷信を信じる愚かさを説き、竜司はヘラヘラ笑いながら「世界の仕組みはなかなかわからねえものさ」とつぶやく。そして、妻と娘は今まで通りの寝顔でパパを迎える。墜落する飛行機の中でさえ、乗客は皆自分だけは助かるという希望を最後まで捨てないものだ。
三杯目のオンザロックを飲み終わり、浅川は三度目のダイアルを回した。これで出なかったら、もう今日は諦《あきら》めるつもりだった。呼び出し音を七回聞いたところで、受話器の上がる音がした。
「なにやってんだよぉ! 今頃まで……」
浅川は相手を確かめもせず怒鳴《どな》りつけた。相手が竜司だと、知らぬ間に言葉遣いが汚くなる。そう考えると不思議な存在であった。どんな友人に対してもある程度の距離を置き、決して態度を崩さない浅川が、竜司にだけは平気で罵詈雑言《ばりぞうごん》を浴びせかけることができるのだ。だからといって、彼は竜司を親友と思ったことは一度もなかった。
しかし、返事は意外にも竜司の声ではなかった。
「もしもし……、あの……」
いきなり怒鳴られ、おどおどした女の声。
「あ、すみません。間違えました」
浅川は受話器を置こうとした。
「あの、高山先生のところにおかけでは?」
「あ、ええ、そうですけれど……」
「先生はまだ帰っておられませんが……」
浅川は、この若く魅力的な声の主が誰か気になった。高山先生と呼ぶところをみると、家族の者でないことは察しがつく。恋人……? まさかという思い。竜司を好きになる女性などいるはずがない、浅川は先入観でそう思い込んでいた。
「そうですか、僕は浅川という者ですけど」
「先生がお帰りになりましたら、お電話差し上げるよう伝えておきます。……浅川さん、ですね」
受話器を置いてもなお、女の声は残っていた。柔らかな響きが耳に心地いい。
カーペット敷きのベッドルームからベッドがなくなったのは、陽子が生まれた時であった。赤ん坊をベッドに寝かすわけにもいかず、かといって四畳半の部屋ではベビーベッドを置くスペースもない。しかたなく、これまで使っていたダブルベッドを捨て、その代わりに布団を上げ下げすることにした。二組敷かれた布団の空いたスペースに、浅川はもぐり込んだ。三人揃《そろ》って寝る場合のみ、三人の寝場所は決まっていた。静と陽子の寝相はあまりに悪く、眠りに落ちて一時間もすれば最初の位置から大きく移動している。ために、後からもぐり込む浅川はいつも空いたスペースを捜さざるを得ない。もし浅川がいなくなったら、その分のスペースを埋めるのにどれほどの時間がかかるだろう。静が再婚相手を見つけるという意味ではない。人によっては、配偶者を失うことによって生じた隙間《すきま》を永久に埋めることのできぬ者もいる。……三年、三年というのが妥当な線じゃないだろうか。実家に戻り、両親に娘の面倒を見てもらいながら仕事に出る静の顔が、それなりに生き生きと輝いていることを浅川は無理にイメージした。女は強くあってほしかった。自分がいなくなった後、共に生き地獄に堕ちる妻と子を想像するのは、耐えられないことであった。
五年前の、千葉支局から本社出版局に移ったばかりの頃、浅川は同じM新聞社系列の旅行社のOLであった静と知り合った。彼女のフロアーは三階で浅川は七階、時々エレベーターで顔を合わす程度であったが、たまたま取材のための周遊券を取りに行ったおり、担当の者がいなくて静が応対したのだ。この時彼女は二十五歳、旅行が好きでしかたがないという静は、取材であちこち飛び回る浅川に羨望《せんぼう》の眼差《まなざ》しを向けたのだが、彼はその目に初恋の女性の面影を見いだした。互いの顔と名前を知ったことにより、エレベーターの中で出会えば挨拶《あいさつ》を交わすようになり、ふたりの仲は急速に深まった。二年後、ふたりは家族の反対もなくすんなりと結婚した。実家に頭金を援助してもらって北品川に2DKのマンションを購入したのは結婚する半年前のことだった。地価高騰を予想し、あわてて結婚前に新居を購入したわけではない。ただ単に、なるべく早くローンを払い終わろうとしただけである。もしこの時期を逃していたら、浅川夫婦は永久に都心部に住居を構えることはできなかっただろう。マンションは一年後に約三倍に値上がりしたのだ。しかも、毎月のローンは賃借りした場合の半分以下に過ぎない。狭い狭いと常に文句を言ってはいるが、この財産によってふたりとも大きな余裕を得ていることは確かだった。残してやれるものがあってよかった、と浅川は思う。生命保険の受け取りを残りのローンにあてれば、ここはそっくりそのまま妻と娘のものになる。
……死亡時に受け取る生命保険の額は確か二千万だと思ったけれど、ちゃんと確認しておく必要があるな。
浅川は、朦朧《もうろう》とした頭で金額をあちこちに振り分け、アドバイスできることがあったら早めにメモしておかなければいけないなと自分に言い聞かす。それにしても、彼の死はどんな呼ばれかたをするのだろう。病死? 事故死? それとも他殺?
……とにかく、生命保険の内容をもう一度確認しておかねば。
ここ三日間、眠りに落ちる時はいつも悲観的な気分になった。浅川は自分のいなくなった世界にまで影響を及ぼそうとあれこれ思い悩み、遺書めいたものを残そうと考えるのだった。
十月十四日 日曜日
翌日曜日、起きるとすぐ浅川は竜司の電話番号を回した。かすれた声で「……はい」と答える竜司。いかにも、この電話で起こされたという声。浅川は昨夜からのいらいらを思い出し、つい電話口で怒鳴《どな》ってしまった。
「ゆうべ、どこに行ってたんだ!」
「あ、……あ、なんだ、……浅川か」
「電話をよこすはずじゃなかったのか!」
「いやぁ、飲み過ぎちまってな。最近の女子大生は酒も強いしアッチも強い、参った、参った」
ふっと、この三日間のことが夢と感じられ、拍子抜けがする。深刻に生きている自分が馬鹿らしく思えた。
「とにかく、今から行く。待ってろ」
浅川は受話器を置いた。
JRを東中野で降り、上落合に向かって十分ばかり歩いた。歩きながら浅川は、夜は酒を飲み歩いていても竜司のことだ。きっと何か掴《つか》んだに違いないと、彼に対してささやかな期待を抱いた。ひょっとして謎が解けたんじゃないのか、だから、あいつは、平気で夜遅くまで飲み騒いだのかもしれないと。竜司のアパートが近づくにつれて楽天的な気分になり、浅川はいくぶん足を速めた。不安と期待、悲観と楽観、感情はコロコロと揺れ動き、そのことがかえって浅川の精神を疲れさせた。
まさに今起きたばかりらしく、無精髭《ぶしようひげ》にパジャマ姿で、竜司は玄関のドアを開けた。浅川は靴を脱ぐのももどかしく、「何かわかったかい?」と聞く。
「いや、べつに……。ま、上がれよ」
言いながら、竜司はボリボリと頭をかく。ぼうっとして目の焦点が定まらず、まだ脳細胞が起きてないことは一目|瞭然《りようぜん》であった。
「コーヒーでも飲んで目を覚ませよ」
期待を裏切られた浅川は、不機嫌そうにガチャガチャ音をたててヤカンを火にかけた。時間に対する強迫観念が突然に湧《わ》き起こる。
壁一面に本が積まれた六畳間で、ふたりはあぐらをかいて座った。
「さあ、調べたことを教えてくださいなぁ」
貧乏ゆすりをして、竜司が言う。時間の無駄は許されない。浅川はきのうわかったことをうまく整理して、時間の経過に従って並べていった。まず、例のビデオテープは八月二十六日の夜八時から、ビラ・ロッグキャビンにてテレビより録画されたものらしいこと。
「ほう?」
竜司は意外そうな顔をする。やはり彼も、ビデオカメラで録画されたものが持ち込まれたと考えていたのだ。
「そいつはおもしろい。ところでと、おまえさんの言うようにそれが電波ジャックだとすれば、他にもあの映像を見てしまった人間がいることになるが……」
「一応、熱海と三島の通信部に問い合わせてそのことは聞いてみた。だが、今のところ、八月二十六日の夜、南箱根に怪電波が飛び交ったという情報は入ってないらしい」
「なるほど、なるほど……」竜司は腕組みをして、しばらく考えた。「ふたつ考えられるな。ひとつは、映像を見た人間がすべて死んだことにより……、まてよ、テレビに流れた時点ではオマジナイの方法は消えてなかったはずだから……、ま、いいや、とにかく、地元の新聞社もこの事件をキャッチできずにいるということ……」
「その可能性も確認済みだ。あの四人以外の犠牲者の有無だろ。それも、いない。ゼロなんだよ、ゼロ。電波が飛んだとすればもっと多くの人間があれを見ているはずなのに、犠牲者はひとりも出ていないし、不思議な噂《うわさ》もない」
「なあ、エイズが文明社会に登場した時のこと覚えているかい? 最初、アメリカの医者は何が起こっているのかわからなかった。ただ、出会ったこともない症状で死ぬ奴《やつ》を見て、妙な病気が起こっているらしいという予感を抱いただけだ。エイズという名前で呼ばれ出したのは、発生してから二年ばかりたってからなんだぜ。……な、そういうこともある」
丹那《たんな》断層を境にしてその西側の山間部では、熱函道路の下方にぽつぽつと民家が散在するだけであった。そこから南を仰げば、現実感の希薄な高原、南箱根パシフィックランド。この地にて、目に見えぬなにかが進行しているというのか。実際、原因不明の突然死が多数生じているにもかかわらず、表沙汰《おもてざた》になってないだけかもしれない。エイズだけではない。日本で最初に発見された「川崎病」は、約十年もの年数をかけて新しい病気としての地位を築いていったのだ。怪電波が飛び、偶然ビデオに収録されてから、まだ一ケ月半。症候群として認知されるに至ってない可能性は充分にある。もし浅川が、姪《めい》を含む四人の死に共通なファクターを見つけていなかったら、未だこの「病気」は地下に眠ったままであったろう。そう考えるほうがより恐い。「病気」としての地位を確立するのは、常に数百数千という犠牲者が出てからのことだ。
「あのあたりの住民一戸一戸にあたっている暇はないな。ところで、竜司、もうひとつの可能性は?」
「もうひとつ。映像を見た人間は例の四人とオレたち以外には存在しないということ。なあ、これを偶然に録画したという小学生のガキ、地方に行くと周波数が変わるってことを知ってたのかなあ。東京なら4チャンネルでやっているものが、地方に行くとまったく違うチャンネルで放送されてたりする。馬鹿なガキならそんなことも知らず、東京のチャンネルに合わせて録画してしまったかもしれねえだろ」
「……だから?」
「考えても見ろよ。たとえば、オレたち東京に住む人間が、2チャンネルを見たりするかい?」
なるほど、男の子は、地元の人間なら決して合わせないチャンネルに合わせ、録画ボタンを押してしまったかもしれない。裏録だったから、画面を確認しなかったのだ。しかも、あのへんは山間部で住居もまばら、テレビを見る絶対数も断然少ない。
「どっちにしろ、問題はその電波の発信地がどこかということだな」
竜司は簡単に言い切った。電波の発信地。組織的かつ科学的な捜査をしなければ、決して解決できそうにない問題であった。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。必ずしもこの前提が正しいとは限らない。男の子が間違って怪電波を録画してしまったというのは単なる推測に過ぎない」
「わかってる。でもなあ、百パーセントの確証を得ながら事を進めていたんじゃ、埒《らち》があかねえじゃねえか。この線でいく他ないさ」
電波。浅川の科学的知識は乏しい。そもそも電波とはなんなのか、まずそこから調べなければならない。捜し出すしか手はないのだ。電波の発信地。もう一度、あの地に行かざるを得ない。今日を除けば、締め切りまであと四日。
次の問題は、オマジナイの部分を消したのは誰かということ。ビデオテープが現地で録画されたものと仮定すれば、これを消したのは例の四人以外にはあり得ないことになる。浅川はテレビ局に問い合わせて、生放送のナイトショウに若手落語家の三遊亭真楽がゲスト出演した日を問い合わせた。間違いなかった。返ってきたのは、八月二十九日という答え。四人がオマジナイを消したと考えて百パーセント間違いなかった。
浅川はブリーフケースから、数枚のコピーを出した。伊豆大島、三原山の写真である。
「どうだ?」
竜司に見せながら、意見を求める。
「三原山か……。おい、これも百パーセント確実と見ていいぜ」
「なぜ分かる?」
「きのうの午後、オレの大学の民俗学の先コウに聞いたんだよ、ばあさんが喋《しゃべ》っている方言のこと。現在ではあまり使われないが、どうも伊豆大島の方言らしいって言うんだ。大島の中でも南端に位置する差木地《さしきじ》の方言が含まれてるってよ。そいつは優柔不断な奴《やつ》で、はっきりと断言したわけじゃねえが、この写真を添えて考えれば、方言は大島、山は三原山とみて間違いないだろう。ところで、三原山の噴火に関して何か調べたか?」
「ああ、もちろん。戦後……、なあ噴火の時期は戦後に絞って構わないと思うが……」
撮影技術の発達を考えれば当然のことであろう。
「……そうだな」
「いいか、戦後四回、三原山は噴火している。一回目は一九五〇年から五一年にかけて。二回目は五七年、三回目は七四年。そして、四回目は記憶に新しい……、一九八六年の秋。なお、五七年の噴火では新火口が生じ、一人が死亡、五十三人が重軽傷を負っている」
「ビデオカメラの普及を考えれば、八六年のやつが一番怪しいが、ま、まだなんとも言えねえな」
竜司はそこで思い出したようにバッグを探り、一枚の紙切れを出してきた。
「そうそう、あの方言を標準語に直すとこうなるらしいぜ。先コウが、ご丁寧に標準語に訳してくれた」
浅川は紙切れを見た。そこにはこう書かれている。
「その後、からだの具合はどうだい? 水遊びばかりしていると、お化けがやってくるぞ。いいか、よそ者には気をつけろ。おまえは、来年子供を産むのだ。娘っこだから、おばあちゃんの言うことはよく聞いておけ。土地の者で構うことないじゃないか」
浅川はゆっくりと二回目を通して、顔を上げた。
「これ、どういうことだ?」
「知るか! それを、おまえ、これから調べるんじゃねえか」
「あと四日間だぞ!」
どこから手をつけていいかわからず、しかも調べることはあまりに多い。神経が尖《とが》って、浅川は非難がましくなっていた。
「おまえはな……。オレはおまえより、一日余裕があるんだ。せいぜい先頭に立ってがんばってくれや」
浅川の心にふと疑念が湧《わ》いた。竜司はこの一日の余裕を悪用することができる。たとえばオマジナイの中身がふたつ考えられるとしたら、竜司は浅川に片方だけを教え、その生死によって当りはずれを検証できる。たった一日の差が、大きな武器となりうるのだ。
「竜司、オレが生きようが死のうが、おまえにはどうってことないんだろ。ヘラヘラ笑いながら、そうやって、平然と……」
みっともないヒステリーと知りつつ、浅川はわめいた。
「なにメメしいこと言ってやがる。泣き言ほざいている暇があったら、もっと頭を働かせろや」
浅川はまだうらめしげな目をしている。
「なあ、どう言えば気がすむんだ? おまえはオレの親友だよ。死んじまっちゃあ、困る。僕もがんばるから、おまえもがんばってね。お互い、一生懸命がんばりましょう。……おい、これなら文句ねえのか?」
竜司は途中から子供っぽい口調に変えてそう言うと、下品に笑った。
その笑い声の中で、玄関のドアが開いた。浅川は驚いて腰を浮かせ、台所越しに玄関を覗《のぞ》いた。若い女性が体を折り、白いパンプスを脱ごうとしている。ショートヘアが両耳の上に軽くかぶさり、イヤリングが白く光っていた。女は靴を脱ぐと顔を上げ、浅川と目が合った。
「あら、ごめんなさい。てっきり先生ひとりとばかり……」
女はそう言って手を口もとに当てた。仕草がとても上品で、白で統一した清潔な服のセンスともどもこの部屋の雰囲気とはまるでそぐわない。スカートから伸びた足は細くしなやかで、細面の知的な顔立ちはテレビCMでよく見かける女性作家と似ていた。
「どうぞ、入りなさい」
竜司の声の質が変わっていた。響きに威厳があり、下品さが影をひそめている。
「紹介しよう。K大学文学部の高野舞さん。哲学科の才媛《さいえん》で、僕の授業を熱心に聞いている。この子くらいのものだ、僕の講義を理解しているのは……。こちらは、M新聞社の浅川和行。僕の、……親友です」
高野舞はちょっと驚いたように浅川を見た。彼女が一体何に驚いたのか、この時はまだ浅川にはわからなかった。
「はじめまして……」
舞はぞくっとするくらい魅力的な笑みを浮かべて、軽く頭を下げた。それは、見る者をなんともさわやかな気分にさせてくれる。浅川はこれほど綺麗《きれい》な女性に会ったことがなかった。肌のきめ細かさ、目の輝き、均整のとれた体のライン……、しかも内面からにじみ出る知性、気品、優しさ、どれをとっても非の打ちどころがない。浅川は蛇ににらまれたカエルの如《ごと》く立ちすくみ言葉も出なかった。
「おい、なんとか言えよ」
竜司にわきばらをつつかれてようやく、「こんにちは」とぎこちなく応じたけれど、目はまだうつろなままだ。
「先生、ゆうべはどこに行ってらしたの?」
舞は、ストッキングに覆われた爪先《つまさき》を優雅に滑らせて竜司のほうに二、三歩近づいた。
「実は、高林君と八木君に誘われて……」
ふたり立ち並ぶと、舞の方が竜司よりも十センチ程背が高い。しかし、体重は竜司の半分程度だろう。
「帰らないなら、ちゃんとそう言ってくれないと……、私、待ちくたびれちゃった」
浅川はふと我に返った。ゆうべの電話の声を思い出したからだ。昨夜、この部屋で浅川からの電話を取ったのは、間違いなくこの女性であった。
竜司は母親に叱《しか》られた少年のように首をうなだれている。
「まあ、いいわ。今回は許してあげる。はい、コレ」
舞は紙袋を差し出した。「下着、洗っておいたわ。お部屋も片付けようと思ったけれど、本の位置が変わると、先生怒るから……」
浅川は、交わす言葉でふたりの関係を推し量る他なかった。どう見ても、師弟関係を越えた恋人同士としか映らない。しかも、昨夜遅くまでこの子は竜司の部屋で彼の帰りを待っていた! そういう関係だというのか? あまりに不釣り合いなカップルを見ると腹立たしくなることがあるが、この場合度を越えている。何もかもが狂っているのだ、竜司の回りでは。しかも、舞を見つめる時の竜司の慈愛のこもった眼差《まなざ》し! 言葉遣い、それから顔つきまで変化させてしまう見事なカメレオンぶり。浅川は一瞬、竜司の犯罪行為を全てばらし、高野舞の目を覚まさせてやりたい程の怒りを覚えた。
「先生、そろそろお昼よ。なにか作りましょうか。浅川さんも食べてらっしゃるでしょ。リクエストはございまして?」
浅川は返事に困って竜司を見た。
「遠慮するなよ。舞さんの料理の腕、なかなかのもんだぜ」
「お任せします」
浅川はそう言うのがやっとだった。
舞はその後すぐ、料理の材料を買うために近くのマーケットに買い物に出た。そして、彼女がいなくなっても、浅川は夢見ごこちでドアのほうばかりを見つめるのだった。
「おい、なに鳩が豆鉄砲くらったような顔してんだよ」
竜司はさもおかしそうにニヤニヤしている。
「……いや、別に」
「おい、こら、いつまでもぼうっとしてるんじゃねえぞ」竜司は浅川の頬《ほお》をピシャピシャと軽く叩《たた》く。
「彼女がいないうちに、話さなくっちゃならねえことがある」
「舞さんにはあのビデオ見せてないんだな」
「あったりめえよ」
「わかった、じゃあ、さっさと切り上げよう。オレは飯を食ったら帰る」
「そうだな、それに第一、おまえはアンテナを捜さなくっちゃならねえだろ」
「アンテナ?」
「電波の発信基地だよ」
のんびりしてはいられなかった。帰りがけに図書館に寄って、まず電波に関して調べる必要があった。今日このまま南箱根に行ってやみくもに捜すよりも、事前にある程度調べて見当をつけておいた方がてっとり早いに違いない。電波の性格と、電波ジャック事件の捜査の仕方がわかれば、いくらかは可能性も出てくる。
やるべきことは山ほどあった。しかし、今の浅川はどことなく気勢をそがれ、心ここにあらずといった具合だった。彼女の顔と体が頭から去らないのだ。なぜ舞は竜司のような男と付き合うのか。怒りを伴う大きな疑問。
「おい、聞いてるのか!」竜司の声に浅川は我に返る。「ビデオの中に男の赤ん坊のシーンがあっただろ」
「ああ」
浅川は舞の姿態を一旦《いったん》消し、ヌルヌルとした羊水に包まれた新生児の映像を思い出そうとした。しかし、その移行がうまくいかず、彼は全身を水に濡らした裸の舞を想像してしまった。
「あのシーンを見た時、オレは、自分の手に、妙な感触を受けた。こう、まるで、自分があの男の子を抱いているような……」
……感触?……抱いた感触? 想像の腕の中で、舞と男の赤ん坊とが目まぐるしく入れ替わっていった。そうして、浅川はようやく手に入れた。あの時、赤ん坊が腕の中にいる気がして、両手をビクンと上げてしまった感覚! そして、竜司がまったく同じ感覚を抱いたということの重要性。
「オレもそうなんだ。ヌルッとした感触を確かに感じた」
「おまえもか。とすると、これはどういうことだ?」
竜司は四つん這《ば》いになってテレビに近づくと、ビデオのそのシーンを再現させた。時間にして約二分間、男の赤ん坊は穏やかな産声を上げ続けている。赤ん坊の首とお尻の下から、しなやかな手が二本のぞいていた。
「おい、これはなんだ?」
竜司は映像を一時停止させ、コマ送りにする。画面がほんの一瞬ではあるが黒くなったのだ。連続して見れば、瞬時のことでなかなか気づかない。しかし、何度も繰り返してコマ送りにすると、映像が真っ黒に塗りつぶされる瞬間を捉《とら》えることができる。
「あ、また!」
竜司は叫んだ。猫背になり、真剣な顔付きでじっと画面に見入っていたかと思うと、ふわっと顔を遠ざけて両目をせわしなく動かす。竜司は、激しく思考していた。思考の様子が目の動きに表れている。浅川には彼が何を考えているのかまるでわからない。結局、二分間のシーンの中に黒くなる瞬間は三十三回出てきた。
「だから、何なんだ? たった、これだけのことから何か新しい事実が判明するとでもいうのかい。単なる撮影のミスじゃねえのか。ビデオカメラの故障とか……」
浅川の言葉を無視して、竜司は他のシーンも探ろうとした。外の階段を上る足音が聞こえる。竜司はあわてて停止ボタンを押した。
やがて、玄関のドアが開き、「お待ちどおさま」という声とともに舞が現れた。そして、部屋は再び香しさに包まれていった。
日曜の午後、都立図書館前の芝生には子供連れの家族が多い。男の子とキャッチボールをしているお父さんもいれば、子供の遊びに入っていけず芝生に寝転がるパパもいる。十月半ばの日曜日は穏やかな好天に恵まれ、どこもかしこものどかさにあふれていた。
そんな光景を前にして、浅川は早く家に帰りたい衝動に駆られた。四階の自然科学のフロアーで電波に関する基本原理を一通り学び終わり、彼はどこを見るでもなくただぼうっと外の景色を眺めていたのだ。今日一日、ふと思考が途切れてしまうことが多かった。脈絡もなく様々な思いが次々と湧《わ》いてきて、一点に集中できないのだ。焦りがあるからだろう。浅川は席を立った。早く妻と娘の顔を見たい。今、強くその思いに襲われた。残された時間はあまりない。あんなふうに芝生の上で子供と戯れることも……。
五時ちょっと前、浅川は家に帰った。妻の静は夕飯の支度をしている。野菜を切る後ろ姿から、機嫌の悪さが読み取れた。理由はわかりきっている。たまの休みだというのに、「竜司のところに行ってくる」と言い残して朝早くから外に出てしまったからだ。休みの日くらい妻に代わって娘の面倒をみてあげなくては、育児によるストレスはたまる一方だ。しかも、よりによって竜司のところ……、行き先がいけない。適当な嘘でごまかす手もあったが、いざという時に連絡が取れなくなる可能性があった。
「ねえ、不動産屋から電話があったわよ」
静は包丁を持つ手を休めないで言った。
「なんて?」
「このマンション、売る気はありませんかって」
浅川は娘の陽子を膝《ひざ》に乗せ、絵本を読んでいた。意味がわかるはずもないが、たくさんの言葉を頭に蓄積させておけば、二歳頃になって堰《せき》を切ったように言葉が溢《あふ》れ出してくる。
「いい値をつけたかい?」
地価高騰以来、売ってほしいと言う不動産屋は数多い。
「七千万……」
一頃《ひところ》より値は下がっていた。しかし、ここのローンを返しても、妻と子の手にはかなりの額が残ることになる。
「おまえはなんて言ったの?」
静はタオルで手を拭《ふ》きながら、ようやく振り返った。
「主人が留守だから、わからないって」
いつもそうだった。主人がいないから……、主人に相談してからでなくては……、これまで静が物事をひとりで勝手に決めたことはなかった。しかし、これからは……。
「ねえ、どうかしら。そろそろ考えてみない? 郊外なら庭付きの一戸建てが買えるでしょ。不動産屋もそう言ってた」
一家のささやかな夢、それは今住んでいるマンションを売って郊外に大きな家を建てること。元手もなにもなければ、それは単なる夢で終わってしまう。しかし、彼らには都心部のマンションという強力な財産があった。夢は常に実現可能であり、夢を口にすることにわくわくする程の楽しさが付随する。手を伸ばせば、すぐ届くところにそれはある。
「それに、ほら、そろそろふたり目も……」
静が頭の中でどんな光景を思い描いているのか、浅川は手に取るようにわかった。郊外の広々とした家、二人か三人の子供たちにそれぞれひとつずつの勉強部屋、何人お客が来ても困らないだけのリビングルーム。陽子が膝《ひざ》の上であばれた。パパの目が絵本から離れ、関心が自分以外のものに向いていることを察知して抗議しているのだ。浅川は絵本に目を戻した。
……むかし沼間は沼浜と呼ばれ、葦《あし》の茂る沼地が海へと続いていた。
そう声に出して読みながら、浅川の目には涙が浮かんだ。妻の夢を実現させてあげたい。切実にそう思う。しかし、あと、四日。原因不明の死に、妻の精神は耐えられるだろうか。夢が脆《もろ》くも崩れ去るであろうことを、妻はまだ知らないのだ。
午後九時。妻と娘はいつも通り眠りについた。浅川は竜司が最後に言いかけたことが気になっていた。
……なぜ、あいつは、赤ん坊のシーンを何度も繰り返して見たのか。それに、老婆の言葉……、うぬはだーせんよごらをあげる、すなわち、おまえは来年子供を産む。老婆の言葉に登場する子供と、男の赤ん坊のシーンとは何か関係があるのだろうか。それと、全体が黒く塗りつぶされる瞬間のこと。その瞬間は、ある間隔をおいて、三十数回出現しているらしい。
浅川はもう一度ビデオを見て、そのことを確認しようとした。ちゃらんぽらんのように見えて、竜司も必死で何かを捜そうとしている。竜司は論理的な思考力もさることながら、直感力にも長《た》けている。その点、浅川が得意とするのは、綿密な調査によって真実を引き出す作業であった。
浅川はキャビネットを開け、例のビデオテープを手に取った。そして、デッキに押し込もうとした瞬間ふと気付いて手を止めた。
……待てよ、なにかがヘンだぞ。
どこがどうおかしいのか浅川にはわからない。しかし、第六感は働くものだ。ビデオテープを手にした時の、ヘンだなという気分が思い過ごしでないという確信は徐々に高まっていく。ほんのちょっとした変化だった。
……どこだ? 変わったところはどこだ?
動悸《どうき》がする。
……悪いことなんだ。事態をよくする方向へのナニかではない。思い出せ、よく思い出すのだ。オレが最後にこれを見終わった時、確かにオレはテープを巻き戻した。しかるに、今、巻かれたテープの厚さは左側が二とすれば右側は一。ちょうど、録画された映像が終わったところあたりで止まったまま、巻き戻してはない。だれかが見たのだ。オレの留守中……。
浅川はベッドルームに走った。静と陽子は折り重なるように眠っている。静を仰向けになおすと、浅川はその肩を揺らした。
「おい、起きろ。おい、静!」
浅川は陽子まで起こしてしまわないよう声を低めた。静は顔を不機嫌そうに歪《ゆが》ませ、体を右に左にくねらせる。
「おい、起きろってば!」
浅川の声はいつもと違った。
「……なーに?……どうしたの?」
「話がある。こっちに来い」
浅川は静を引き起こし、そのままダイニングに引っ張った。そして、ビデオテープを妻の前に差し出す。
「おまえ、コレ、見たのか!」
あまりの剣幕に、静はしばらくの間テープと夫の顔を交互に見比べる他なかった。
「……いけなかったかしら?」
そう言うのがやっとだ。
……なにをそんなに怒ってるのかしらこの人、日曜日だというのに、あなたはどっかに行っちゃうし、退屈だったから、おとつい、あなたが竜司さんとコソコソ見ていたビデオを引っ張り出して、でも、おもしろくもなんともないシロモノ。M新聞社系列の映像部門で作ったものなんでしょうけど。
静は無言で抗議していた。そんなに怒られる筋合いはないと……。
浅川は結婚して初めて、妻を殴りたい衝動に駆られた。
「……この、バカが!」
しかし、どうにか握り拳《こぶし》を固めただけで衝動に耐えた。冷静に考えろ。自分が悪いんじゃないか。こんなモノを、妻の目に触れるところに放置しておいた自分が。夫宛《あて》の封は決して切らない妻を信用して、キャビネットに置き放しにしてしまったのだ。なぜ、隠さなかった、こんな危険なモノを。しかも、竜司とふたりでコレを見ている時、静は部屋に入ってきたのだ。ビデオテープに好奇心を抱くのは当然のこと。隠さなかったオレが悪い。
「ごめんなさい」
不服そうな顔で、静は謝った。
「いつ、見た?」
浅川の声は震えている。
「今日の午前中」
「本当に?」
見た時が重要な意味を持つことなど静には知りようもない。静はこくりとうなずいた。
「何時頃?」
「どうしてそんなこと聞くの?」
「いいから、答えろ!」
もう一度、浅川の手は動きかけた。
「十時半頃かな。仮面ライダーが終わったばかりだったから……」
仮面ライダー? なぜ、そんなものを。我が家で仮面ライダーに興味を示すのは、娘の陽子だけ。浅川は倒れそうになるのを必死でこらえた。
「いいか、大事なことだから、よく聞け。おまえがこのビデオを見た時、陽子はどこにいた?」
静は泣き出しそうな顔になっていた。
「私の膝《ひざ》の上にいたわ」
「陽子も、……おまえと一緒に、……この、……このビデオを見たと、言うんだな」
「ただ、チラつく画面を眺めていただけで、あの子には意味なんて……」
「うるさい! そんなことはどうでもいい!」
夢が崩れ去る? それどころではない。家族そのものが消滅しようとしている。まったく、なんの意味もない死によって。
静は、夫の怒り、恐怖、絶望を見るに及んで、ようやくこれが只事《ただごと》でないことに気付き始めた。
「ねえ、……まさか、……嘘でしょ」
たちの悪いイタズラと解釈したビデオの言葉を、静は思い出していた。そんなことがあるはずもない。でも、この人の、この慌てよう、これはなに?
「ねえ、嘘なんでしょ。……あんなこと」
浅川は首を横に振るばかりで、何も言うことができない。ふと、いとおしさが込み上げてくる。自分と同じ運命に陥った者がまたここにもいるかと思うと。
5
十月十五日 月曜日
ここ数日、朝目覚めるたびに浅川は、今までのこと全てが夢であってくれればいいと思う。近所のレンタカーオフィスに電話を入れ、昨日予約した時間通りに車を取りにいくことを告げる。間違いなく昨日の予約は入っていた。やはり現実は途切れることなく続いていたのだ。
現地にて電波の発信場所を捜すには、やはり足を確保する必要があった。市販の無線機ではテレビの電波を妨害するのはむずかしく、専門家によって改造された無線機が使われたと考えられる。画像が途切れてないことからも、発信装置はごく近い距離から強力な電波を飛ばしたに違いない。もっと情報量が多ければ電波の流れた区域を特定でき、それをもとに発信地を突きとめることもできようが、浅川が持っているのはビラ・ロッグキャビンB―4号棟のテレビが受信したという事実だけだ。そこを中心点に、地形を確認しながらあたりをしらみつぶしに当っていく以外方法は見当らない。どれだけ時間を要するのか見当もつかず、浅川は一応三日分の着替えをバッグに詰めた。三日分……、それ以上は必要ないのだ。
顔を合わせても、静はビデオのことに触れようとしない。ゆうべ、とっさにうまい嘘が思い浮かばず、浅川は「一週間後の死」をあやふやにしたまま静を寝かしつけた。静もまた、そのことを確認するのが恐くて、あやふやな状態を望んだに違いない。いつものように質問攻めにすることもなく、妙に黙り込んだまま自分なりに察してしまったらしい。どのような解釈に達したのか知るよしもないが、不安感は拭《ぬぐ》えないらしく、朝の連続ドラマを見ながら何度も腰を浮かせかけて、外の音に敏感に反応していた。
「一切、このことには触れるな。オレ自身、どう答えていいのかわからないんだよ。とにかく、オレに任せろ」
静の不安を押さえるため、浅川はそう言う他なかった。決して、弱気な姿を妻の前にさらしてはならない。
まさに家を出ようとしたちょうどその時、電話が鳴った。竜司からである。
「おもしろい発見があるんだ。おまえの意見をぜひ聞きたい」
竜司の声は少し興奮気味である。
「電話では無理かい? 実は、今、レンタカーを取りに行くところなんだ」
「レンタカー?」
「電波の発信場所を捜してこいと言ったのはおまえだろ」
「なるほどね。まあ、そっちのほうは放っておいて、とにかくすぐに来いよ。ひょっとしたら、アンテナなんて捜す必要がなくなるかもしれねえ。前提そのものが崩れちまう……、かもネ」
南箱根パシフィックランドに行く必要が生じた場合、彼の部屋からそのまま直行できるように、浅川はレンタカーを借りた上で竜司の部屋に寄ることにした。
歩道に車輪を乗り上げて駐車すると、浅川は竜司の部屋のドアを荒々しく叩《たた》いた。
「入れ! 鍵はかかってない」
浅川は乱暴にドアを押し開けると、わざと大きな足音をたてて台所を横切った。
「何を発見したんだ?」
浅川は勢い込んで聞く。
「なにカッカしてんだよ」
竜司はあぐらをかいたまま、目をぎょろっと向けた。
「何を発見したのか、さっさと教えろよ!」
「落ち着けよ」
「落ち着いてなどいられるか、さあ、早く答えるんだ!」
竜司はしばし黙った。そして、ゆっくりと聞く。
「どうした? 何かあったのか?」
浅川は六畳間にぺたりと座り、膝頭《ひざがしら》を両手で強く握った。
「妻と、……妻と娘が、例のヤツを見ちまったんだよぉ」
「それは、それは、テエヘンなことになっちまっただナァ」
竜司はじっと浅川の様子を眺め、彼が興奮状態から脱するのを待った。そして、その間にくしゃみをひとつして、プーンと音をたてて鼻をかんだ。
「それで、おまえ、女房と子供を助けたいんだろ?」
浅川は子供のようにうなずく。
「なら、なおさら、冷静にならなくちゃ。オレは結論を先に言わない。証拠を並べ立てるだけだ。おまえがその証拠から何を思い付くのか、オレが知りたいのはそこだ。だから、いいか、興奮してたんじゃあ、困る」
「わかった」
浅川は素直に認めた。
「まず、顔でも洗ってこいよ」
浅川は竜司の前では泣くことができた。妻の前で取り乱すことができない分、竜司を感情の捌《は》け口《ぐち》にしていたのだ。
タオルで顔を拭《ふ》きながら戻ると、竜司は一枚のレポート用紙を差し出した。それは簡単な表になっていた。
1)イントロ83秒[0]抽象
2)赤い色の流出49秒[0]抽象
3)三原山55秒[11]現実
4)三原山の噴火32秒[6]現実
5)「山」の文字56秒[0]抽象
6)サイコロ103秒[0]抽象
7)老婆111秒[0]抽象
8)赤ん坊125秒[33]現実
9)無数の顔117秒[0]抽象
10)古いテレビ141秒[35]現実
11)男の顔186秒[44]現実
12)ラスト132秒[0]抽象
見ただけで、ある程度のことはわかる。ビデオの映像をシーンごとに分けたものだ。
「昨夜、ふと思いついてこんなものを作ってみたんだが……。わかるな、どういうことなのか。映像は全部で十二のシーンから成り立っている。それぞれ、番号と題名をつけてみた。題名の後の数字はそのシーンが映る秒数。その次のカッコの中の数字は、いいかい、画面が真っ黒に覆われる瞬間の回数」
浅川は怪訝《けげん》な顔をしている。
「昨日おまえが帰ってから、赤ん坊のシーン以外のやつも調べてみたんだ。真っ黒になる瞬間があるかどうか。そうしたら、ほら、この通り……、3)4)8)10)11)に現れている、ちゃんと」
「その次の、抽象とか現実というのは?」
「十二のシーンは大きくふたつのグループに分けることができる。抽象的な、そうだな、心象風景とでも呼べるような頭に思い浮かんだシーンと、実際に目を通して見ることのできる現実に存在するシーン。その区別だよ」
竜司はそこで一呼吸置いた。
「これを見て、何か気付くことはないか?」
「そうだな、おまえの言う黒い幕は現実のシーンの中にのみ現れている」
「な、そうだろ。まず、その点をよく頭に入れるんだ」
「なあ、竜司。こんなじれったいことはやめて、さっさと種明かししてくれよ。ようするに、これは何を意味するのだ?」
「まあ、待て。結論を先に与えてしまうと、直感が鈍る場合がある。オレは直感によって既にある結論に達した。一旦《いったん》そう思い込むと、あらゆる事象をねじまげてでも、自分の得た結論を正当化しようとするものなんだ。犯罪捜査においてもそうだろ。こいつが怪しいと思い込んだら、あらゆる証拠がそいつを指し示しているように思えてきてしまうのさ。な、今、道を踏み誤るわけにはいかねえ。おまえには、オレの得た結論を検証してもらわなくてはならない。つまり、ここに並べる事実から、オレと同じ直感を得ることができるかどうか……」
「わかった、続けてくれ」
「いいか、黒い幕が現実の風景の中にしか現れないという事実と一緒に、もう一度最初にこの映像を見た時の感覚を思い出してくれ。赤ん坊のシーンに関しては、昨日言ったとおりだな。それ以外は? たとえば、無数の顔のシーンはどうだい?」
竜司はリモコンを操作して、そのシーンを映し出した。
「よーく、見ろ。この顔」
壁にはめ込まれた数十の顔が徐々に後退して、数百、数千の数に膨れ上がっていく。顔のひとつひとつをよく見ると、人間の顔のようでいてどこか異なる。
「どんな感じだい?」
竜司が聞いた。
「なんだか、オレ自身が非難されているような……、嘘《うそ》つき、ペテン師と」
「そうだろ、実は、オレも同じ、いや、恐らくおまえと近い感覚を抱いた」
浅川は神経を集中させた。この事実が導く先。竜司は待っている。明確な返事を。
「どうだ?」
もう一度竜司が聞いた。浅川は頭を振る。
「だめだ、何も思い浮かばない」
「もっと、のんびりと時間をかけて考えりゃ、きっとオレと同じことを思い付くかもしれねえな。いいか、オレもおまえも、この映像はテレビカメラ、ようするに機械のレンズによって撮影されたものと考えていたんじゃねえかい」
「違うのか?」
「一瞬画面を覆うこの黒い幕はなんだ?」
竜司はコマ送りをして、黒く塗りつぶされた画像を出した。連続して三コマから四コマ黒い画像が差しはさまれている。一コマは三十分の一秒だから、時間にして約〇・一秒程だ。
「現実の風景に現れて、イメージした風景に現れないのはなぜだ? よく、見てみろよ、この画像。一面真っ黒ってわけじゃない」
浅川は画面に顔を近づけた。確かに、真っ黒じゃない。薄くぼんやりと、白いモヤのようなものがかかっている。
「ぼやけた影……、こいつはな、残像だ。そして、見ているうちに、自分が当事者に陥ってしまったような、生々しい臨場感は?」
竜司は浅川の目の前で大きくひとつまばたきをして見せた。……黒い幕、黒い幕。……え?
「ひょっとして、コレ、まばたきか」
浅川は呟《つぶや》いた。
「そうだ、違うかい。そう考えれば、辻褄《つじつま》が合うんだ。人間は直接目で見る以外に、心の中にシーンを思い浮かべることができる。その場合、網膜を通すわけでないから、まばたきは現れない。しかし、現実に目で見る風景は、網膜に映る光の強弱によって像が形成されるんだ。その場合、網膜の乾きを防ぐために、我々は無意識のうちにまばたきをしている。黒い幕は目を閉じた瞬間なんだよ」
再び吐き気に襲われた。最初にこれを見終わった時、浅川はトイレに駆け込んだが、今度のほうが悪寒はもっとひどかった。自分の体に何者かが入り込んでしまった! そう思えてならない。機械が録画したのではなく、ある人間の、目、耳、鼻、舌それに皮膚感覚、ようするに人間の五感のすべてがこんな映像を録画したのだ。この悪寒、たまらない程の震え、それは、何者かの影がすうっと自分の感覚器官の中に入り込んだことによるもの……。浅川は体の中の異物と同じ視点でこの映像を見ていたのだ。
拭《ぬぐ》っても拭っても、額からは冷たい汗が流れ出る。
「知ってるか、おい。個人差はあるが、まばたきの平均回数は、男が毎分二十回で、女が毎分十五なんだ。だからよぉ、この映像を録画したのは、女かもしれねえなあ」
浅川には言葉が聞こえてなかった。
「へへへ、どうした? おまえ、死人みてえな顔してやがるぞ」
竜司が笑った。
「なあ、もっと楽観的に考えろよ。オレたちは一歩解決に近づいたんだぜ。この映像がある人物の感覚器官によって記録されたものとすれば、オマジナイの中身はその人物の意志と関係してくるだろ。つまり、この人物は我々に何かをしてもらいたいんだ」
浅川の思考は一時的に機能を失っている。竜司の声が耳許《みみもと》に響いてはいるが、意味が頭にまで届かないのだ。
「とにかく、これでやるべきことがはっきりしただろう。この人物がだれなのか探り出すこと。そして、その人物が生前……、まあ、おそらくこいつはもう生きてはいまいが……、生前に、何を望んでいたのかということ、それが、オレたちが生き残るためのオマジナイなのさ」
竜司はどんなもんだいと、浅川にウインクしてみせた。
浅川の運転する車は第三京浜を抜け、横浜横須賀道路を南に向けて走りつつあった。竜司は助手席の背もたれを倒して、なんのストレスもないといった顔で眠っていた。もうすぐ午後の二時だというのに、浅川はまるで空腹を感じなかった。
浅川は起こそうとして伸ばした手を引っ込めた。目的地はまだ先だ。ただ漠然と鎌倉に行ってくれと言われただけで、はっきりとした目的地は聞いていない。行き先も定まらず、そこに行く目的もわからなくては、ドライバーの神経は苛立《いらだ》つ。詳しいことは車の中で話すと言いながら竜司はあわててバッグに荷物を詰め、しかも、車に乗り込んだとたん「オレはゆうべ寝てねえからよぉ、鎌倉に着くまで起こさねえでくれ」と言い残してさっさと眠りについてしまったのだ。
横横道路を朝比奈で降り、金沢街道を五キロばかり走ると鎌倉駅の前に着いた。竜司は二時間の睡眠を取ったことになる。
「おい、着いたぞ」
浅川が肩を揺すると、竜司は猫のように体を伸ばし、手の甲で目をこすり、ブルブルッと顔を横に振った。
「せっかくいい夢を見ていたのによぉ、ふぁーああ」
「これからどうするんだ?」
竜司は体を起こし、自分のいる位置を確認するために、窓の外をぐるっと見回した。
「この道をまっすぐ行って、一ノ鳥居のところを左に曲がったところでストップ」
竜司はそれだけ言うと、「へへへ、夢の続きを見させてもらうぜ」
とまた横になろうとした。
「なあ、あと五分もかからない。寝る間があったら、ちゃんとオレに説明しろよ」
「行きゃあわかる」
竜司はダッシュボードに膝《ひざ》を当て、再度眠りに落ちていった。
左に曲がったところで車を止めた。すぐ先に、「三浦哲三記念館」と小さく書かれた二階建ての古い民家がある。
「そこの駐車場に入れろ」
いつの間にか、竜司は薄目を開けていた。その顔は満足気で、芳香を嗅《か》ぐように鼻孔を広げている。
「へへへ、おかげでどうにか夢の続きを見ることができたよ」
「どんな夢だった?」
浅川はハンドルを切り返しながら聞いた。
「決まってるじゃねえか、空飛ぶ夢だよ。オレは空飛ぶ夢が大好きでねえ」
竜司はさもうれしそうに鼻を鳴らし、両唇をペチャペチャと舌で舐《な》め回した。
三浦哲三記念館なる建物に人の影はなかった。一階の十坪ほどのスペースに、写真や書籍類が額に入れられたり、ガラスケースに入れられたりして飾られ、中央の壁には三浦哲三なる人物の略歴が貼《は》られている。浅川はそれを読むことによって、ようやくこの人物が何者であるか知った。
「すみません、だれかおりませんか」
竜司は奥に向かって声をかける。返事がなかった。
三浦哲三はY大学教授を退官後、二年前に七十二歳で亡くなっている。専門は理論物理学、特に物性理論や統計力学に詳しい。しかし、小さくはあっても記念館なるものが建てられたのは、専門の物理学による業績のためではない。超常現象の科学的解明。略歴には、氏の理論は世界的な関心を引いたとあるが、注目したのはもちろん一部の人だけであろう。その証拠に、浅川はこれまでに彼の名前を聞いたことがなかった。さて、氏の発見した理論とは何か。浅川はその答えを、壁や陳列ケースに捜した。……念はエネルギーを持ち、そのエネルギーは……。そこまで読んだところで、階段を駆け降りる音が奥から響き、引き戸を開けて四十過ぎの口髭《くちひげ》のある男が顔を出した。名刺を手にその男に近づく竜司を見習って、浅川も胸のポケットから名刺入れを取り出した。
「はじめまして、K大学の高山です」
浅川と話す時とはまるで口調が異なり、如才《じょさい》無く振る舞うのがなんともおかしい。浅川も名刺を差し出した。大学の講師と週刊誌の記者、そのふたつの肩書きを見比べて、男はちょっと嫌な顔をした。彼が顔をしかめたのは、浅川の名刺に対してであった。
「もしよろしかったら、ちょっとご相談にのっていただきたいのですが」
「はあ、なんでしょう」
男は警戒の目を向けた。
「実は、三浦先生には生前一度だけお会いしたことがあります」
その言葉に男はなぜかほっとしたように顔をくずし、折りたたみ式の椅子を三脚持ってきて向かい合わせに並べた。
「そうでしたか。さあ、どうぞ、お座りください」
「三年程前……、そう、ちょうど先生が亡くなる前の年ですね、私、母校から科学方法論の講義を持たないかと打診を受けまして、それで、まあ、この機会に先生のお話も伺っておこうと……」
「この家で、ですか?」
「はい、高塚教授の紹介で……」
高塚教授の名前を聞くに及び、男はようやく笑顔を浮かべた。共通項がはっきりしたのだ。
……このふたりは自分のいる側の人間であって、攻撃をしかけようとしているのではないらしい。
「どうも、失礼しました。わたくし、三浦哲明と申します、すみません、あいにくと名刺をきらせまして……」
「と、おっしゃいますと、先生の……」
「ええ、不肖のひとり息子ってやつですよ」
「そうですか、いやー、三浦先生にこんなりっぱなお子さんがいらしたとは……」
浅川は吹き出しそうになるのをこらえた。自分より十歳は年上であろう人間に向かって、りっぱなお子さんはないだろう。
三浦哲明は簡単にこの記念館の紹介をした。教え子たちが力を合わせて、父の残した家を記念館として一般開放し、収集した資料の整理にあたったこと。そして、自分はといえば、父の希望した研究者の道を歩まず、記念館と同じ敷地内にペンションを建て、その経営に当っていることなどを自嘲《じちよう》気味に話すのだった。
「やはり、オヤジの名声と残してくれた土地を利用してるんですから、不肖の息子と言わざるを得ないですねえ」
哲明はそう言って、照れたように笑った。彼のペンションは、よく高校の合宿などに利用される。利用者のほとんどは物理、生物クラブなどの科学系のクラブであって、中には超心理研究会なる名前もあった。高校生の合宿には常に名目が必要である。ようするに、三浦哲三記念館は高校生の団体を引きつけるための格好のエサとなっていたのだ。
「ところで……」
竜司は、居ずまいを正して話の核心に導こうとした。
「あ、どうもすみません。ついペラペラと余計なことを……。ところで、どういったご用件で?」
こうして見る限り、哲明には科学者としての才能はないように見受けられる。相手の出方次第で態度をコロコロ変える商人が似合ってるぜと、竜司は横顔に軽蔑《けいべつ》の色を浮かべるのだった。
「実は、我々はある人物を捜してます」
「だれです?」
「いえ、その名前を知るために、私はここに来たのです」
「はあ、どういうことなのか……、どうも、よく……」
哲明は困ったように顔をしかめ、順序だてて話してくれるようそれとなく促した。
「その人物が現在生きているのか、それとももう死んでしまったのか、まだなんとも言えません。しかし、明らかに常人にはない力を秘めています」
そこで竜司は一呼吸置き、哲明を見据えた。哲明は常人にはない力が何を意味するか、すぐにわかったらしい。「三浦先生はおそらくこの分野にかけては日本一の収集家です。以前先生から、独自に張り巡らせたネットワークによって日本中に居る超能力者をリストアップし、その資料を保存しているというお話を伺いました」
哲明は顔を曇らせた。まさか、その資料の中からある一人を捜して欲しいと言い出すのではあるまいかと。
「はあ、もちろん、ファイルは保存してあります。でも、インチキなものも多くて、それになにしろ数が数なものですから」
哲明はもう一度あのファイルを調べると思うとぞっとした。十数人の弟子たちが数ケ月かかってやっと整理し終わるほどのものだ。しかも、どちらとも疑わしい資料も、故人の遺志によって保存したために膨大な量に膨れ上がってしまった。
「いえ、あなたの手を煩わせるようなことはいたしません。お許しいただければ、我々ふたりで捜し出します」
「ここの二階の倉庫にありますけど、まず、ご覧になりますか?」
哲明は立ち上がった。量を知らないから、こんなことが言えるのだ。もし、一目でもアレの並んだ棚を見れば、調べようなんて気は失せるに決まってる。そんなことを考えながら、哲明はふたりを二階に案内した。
その部屋の天井は高く、階段を上った正面の壁に七段の棚が二列に並んでいた。一冊のファイルに保存されている資料は四十件、それが、ざっと見渡しただけで数千冊……、竜司はともかく浅川の顔から血の気が引いた。
……こんなことに時間をかけていたら、この暗い倉庫で死を迎えることになってしまう。
そして、「他に手はないのかよぉ!」という声にならない叫び。
「拝見してよろしいですか?」
竜司はこともなげに言う。
「どうぞ、どうぞ、ご自由に……」
哲明はなかば呆《あき》れながら、一体何を調べ出すつもりかという好奇心もあってしばらくふたりの様子を観察していたが、さすがにうんざりしたらしく、
「私は仕事がありますので」と言い残してその場を立ち去った。
ふたりだけになると、浅川は竜司に聞いた。
「おい、どういうことなのか説明しろよ」
ファイルの並んだ棚を見上げているために、浅川の声はいくぶん太い。記念館に入って以来、彼が口をきくのはこれが初めてであった。ファイルは年代順に並び、背表紙の年月日は一九五六年から始まって八八年で終わっている。八八年……、三浦博士が亡くなった年だ。死をもって三十二年間に及ぶコレクションは幕を閉じる。
「時間がない、調べながら話そう。オレは一九五六年から調べるから、おまえは六〇年から始めてくれ」
浅川は試しに一冊を抜きだし、ページをめくった。どのページにも最低一枚の写真と、簡単な解説、それに住所、氏名の書かれた紙が付されている。
「調べるって、何を調べればいいんだ」
「住所と名前をよく注意しろ。この中から伊豆大島の女をピックアップする」
「女?」
浅川は不思議そうに首をかしげる。
「ばーさんは、だれに向かって、うぬはだーせんよごらをあげると言ったと思うんだ?」
確かに、男に子供が産めるわけがない。
ふたりはともかくも調べ始めた。単純な作業を繰り返しながら、竜司は浅川に聞かれるままこんなファイルがなぜ存在するのか、その理由を説明した。
超自然現象に興味を抱いた三浦博士は、一九五〇年代に入ってから、超能力を使った実験を試みるが、なかなか安定した結果が出ないために科学的な理論を生むに至らないでいた。透視能力においても、今さっきまでできたことが公衆の面前ではできなくなったりとむらが多い。こういった能力を発揮するには、かなりの集中力が必要なのはわかる。しかし、三浦博士が求めているのはいつどのような場合においても能力を発揮できる人物であった。ちゃんとした立ち会い人の前で失敗などしたら、三浦自身がペテン師呼ばわりされるのは目に見えている。そこで、三浦博士は、世の中にはまだ埋もれている超能力者がいるに違いないという確信のもと、超能力者の発見に努めることにしたのだ。ところで、どんな方法でこれを捜せばいいのか。まさか、ひとりひとり面会して、透視能力、予知能力、念動能力などを調べるわけにもいかない。そこで彼が考え出したのは、可能性があると思われた人物のもとに厳重に封印されたフィルムを郵送し、そこに指定した図柄を念写し密封状態のままで送り返してもらう方法である。これならば、相手が遠隔地にいても能力を試すことができる。しかも、念写能力というのはかなり基本的な力であって、この能力を持つ者は同時に予知あるいは透視能力を持つことが多い。一九五六年、三浦博士は出版社や新聞社にいる教え子たちの力を借りて、全国から広く能力者を募集し始めた。教え子たちはネットワークを張り巡らし、能力のありそうな人間の噂《うわさ》を聞きつけると、それを三浦博士に報告した。しかし、送り返された封書を調べても、確かに能力ありと思われたのは全体の約一割に過ぎず、ほとんどのフィルムは封をじょうずに切って擦り替えられていた。明らかにトリックとわかるものはその場で破り捨て、どちらとも疑わしいものはなるべく保管することにしたのだが、その結果ご覧の通り収拾のつかない程のコレクションが出来上がってしまった。その後、マスメディアの発達と教え子の数の増加により、このネットワークはより完備され、データの数は年を追うごとに増え、博士の亡くなる年まで続いたのだ。
「なるほどね……」浅川はつぶやいた。「このコレクションの意味はわかった。でも、この中にオレたちが追っている人間の名前があると、どうしてわかるんだい?」
「確実にこの中にあるとは言ってないぜ。ただ、可能性として極めて強いってだけだ。いいか、あれだけのことをした奴《やつ》なんだ、おまえだってわかるだろ、念写のできる奴はまあ実際何人かいるだろう。しかしなあ、なんの装置も使わずブラウン管に映像を送り込める超能力者はそうザラにはいねえ。超ド級の力だ。それだけの能力者となると、普通に生活してても目立つものなんだ。それを、みすみす三浦さんのネットワークが見逃すとは思えねえ」
……可能性はある。確かに浅川も認めざるを得ない。ファイルをめくる指に力が入る。
「ところで、オレはなぜ一九六〇年のファイルから調べてるんだ?」
浅川はふと思いついて、頭を上げた。
「ビデオテープの中にテレビが一台映っていただろ。あれは、かなり古い型だ。五〇年代から六〇年代の初めの、テレビ草創期の頃の」
「だからって、なにも……」
「うるせえな、可能性の問題だって言ってるだろ」
さっきからなにを苛《いら》ついているのだと、浅川は自分を戒めた。しかし、無理もなかった。時間が制限されている上に、この膨大なファイル。落ち着いてるほうが余程不自然だ。
その時、浅川はファイルの中に伊豆大島という文字を目にした。
「おい、あったぞ!」
鬼の首でも取ったような叫び方であった。竜司はびっくりして振り向き、覗《のぞ》き込む。
……伊豆大島、元町。土田昭子。三十七歳。六〇年二月十四日の消印。黒地に白い稲妻のようなものが走った白黒の写真が一枚。その解説には、「十という文字を念写する旨書き送ったところ、この念写を得る。擦り替えた跡なし」とある。
「どうだ!」
浅川は興奮で体を震わせながら、竜司の反応を待った。
「……可能性がないこともない。一応、住所と名前を書き取っておけ」
それだけ言うと、竜司は自分の分のファイルに戻っていった。浅川はこんなに早くそれらしきモノ≠発見できたことに気をよくしたが、竜司の素っ気無い反応が不満でもあった。
二時間が過ぎた。あれ以後、伊豆大島出身の女性は一人も発見できない。差出人の住所は東京、あるいは関東近辺が多い。哲明がお茶を持って現れ、皮肉とも取れる言葉を二、三残して去っていった。ファイルをめくる手の速度は、ふたりとも徐々に落ちている。二時間かけて、一年分の資料も洗うことができないのだ。
浅川はどうにか六〇年を調べ終わり、六一年に移ろうとして、チラッと竜司のほうを見た。竜司はあぐらをかき、広げたファイルに顔を埋めたまま動かない。眠っちまったのかなこいつ……、と手を伸ばし掛けたところ、竜司は押し潰《つぶ》したようなうめき声を上げた。
「腹が減って死にそうだ。おまえ、弁当とウーロン茶買ってきてくれ。それと、『プチペンション・それいゆ』に今晩の予約を頼む」
「な、なんだ、それ」
「さっきのおっさんが経営しているペンションだよ」
「そりゃわかってる、そんなところになぜおまえなんかと……」
「いやか?」
「第一、のんびりペンションなんかに泊まっている余裕はねえだろ」
「仮に女を発見したとしても、今からでは大島に行く手段《てだて》はない。今日はもう動けねえよ。しっかり睡眠をとって、体力を温存しといたほうがよかねえか?」
竜司とペンションに泊まることに言いようのない嫌悪感を覚えたが、しかたがないと諦《あきら》め、浅川は弁当を買いに走り、三浦哲明に今晩泊まる旨を伝え、竜司とふたりでウーロン茶を飲みながら弁当を食べた。午後七時……、束《つか》の間の休息であった。
腕がだるく、肩にしこりのようなものが感じられる。目がチカチカして、浅川はメガネをはずした。その代わり、ファイルを顔のすぐ前にもってきてなめるように調べてゆく。神経を集中させていなければ、うっかりと見逃してしまいそうで、そのためによけい疲れがたまっていった。
午後九時……、しんと静まり返った倉庫に響いたのは、竜司のすっ頓狂《とんきょう》な声であった。
「とうとう見つけたぞ。こんなところにいやがった」
浅川はそのファイルに吸い寄せられて、竜司の隣に座り込み、メガネをかけ直した。そこにはこうあった。
……伊豆大島差木地。山村貞子。十歳。封書の消印は、一九五八年八月二十九日。「自分の名前を念写する旨書送ったところ、これを得る。本物と見て間違いなし」そして、黒地に白く山という文字が浮かび上がった写真が一枚。その山という字に浅川は見覚えがあった。
「お、おい、これだ」
声が震えている。ビデオの中、三原山噴火のすぐ後にあったのが、これと同じ「山」という文字のシーンであった。しかも、十番目のシーンに映った古いテレビには「貞」という文字が浮かんでいた。そして、この女の名前は、山村貞子。
「どう思う?」
竜司は聞いた。
「まちがいない、こいつだ」
ようやく、浅川の心に希望が湧《わ》いた。ひょっとしたら、締め切りに間に合うかもしれない、そんな思いがふと胸をよぎった。
6
十月十六日 火曜日
午前十時十五分、浅川と竜司は熱海港を離れたばかりの高速艇にいた。大島と本土を結ぶフェリーはなく、車は熱海後楽園横の駐車場に預ける他なかった。浅川は車のキィをまだ左手に握ったままだ。
大島着は一時間後の予定であった。空は雨模様で、風もかなり強い。ほとんどの乗客はデッキに出ないで、指定席にうずくまっている。あわてて切符を買ったため充分確認する時間がなかったが、どうも台風が近づいている気配だ。波が荒く、揺れもひどい。
浅川は熱い缶コーヒーを飲みながら、これまでの経過をもう一度頭の中で繰り返してみる。よくここまでたどり着いたと誉めるべきか、それとももっと早く「山村貞子」の名前を掴《つか》んで大島に向かうべきであったと怠慢を責めるべきなのか、浅川にはどちらともつかない。ポイントは全て、一瞬ビデオを覆う黒い幕がまばたき≠ナあることに気付くか気付かないかにかかっていたのだ。映像を記録したのがビデオカメラではなく人間の感覚器官であり、しかも、その人間がビラ・ロッグキャビンB―4号棟の録画状態になったままのビデオデッキに向けて強い念写≠行ったとすれば、確かにその人物の持つ超能力は計り知れないことになる。竜司はそういった常人とは異なる「目立った」特徴に目をつけて、とうとう名前を探り出すことに成功した。いや、まだはっきり「山村貞子」が犯人と決まったわけではない。単なる容疑者に過ぎない。その容疑をはっきりさせるために今ふたりは大島に向かっている。
波は荒く、船が大きく揺れた。浅川は嫌な予感に襲われた。果たしてふたり揃《そろ》って大島に来てしまってよかったものかと。台風に閉じ込められ、ふたりとも大島から出られなくなったら、妻と娘は誰が救うのだ? 締め切りはもうすぐそこまで迫っている。あさっての午後十時四分。
缶コーヒーで両手を暖めながら、浅川はますます小さく身体《からだ》を屈める。
「信じられないんだ、オレにはまだ。一体、人間にそんなことが可能なのかどうか」
「信じる信じないの問題じゃねえだろ」
大島の地図に目を落としたまま、竜司は答えた。
「とにかく、おまえはこの現実に直面してるんだ。いいかい、オレたちに見えるのは、連続して変化する現象の一部だけだ」
竜司は地図を膝《ひざ》の上に置いた。「ビッグバンのことは知ってるだろ。宇宙は二百億年前に凄《すさ》まじい爆発を起こして誕生したと信じられている。誕生してから現在までの宇宙の姿を、オレは数式で表すことができる。微分方程式さ……、いいかい、この宇宙のほとんどの現象は微分方程式で表現することが可能なんだ。これを使えば、一億年前、百億年前、あるいは爆発後一秒、〇・一秒の宇宙の姿も明らかになる。しかし、だ、どんどん時間を遡《さかのぼ》って、〇《ゼロ》の瞬間、ようするに爆発したまさにその瞬間のことを表現しようとしても、これがどうしてもわからねえ。それと、もうひとつ、我々の宇宙が最後にはどうなっちまうのか……。宇宙は開いているのか、あるいは閉じているのか。なぁ、始まりと終わりがわからねえまま、ただオレたちは途中経過だけを知ることができる。これってよぉ、人間の人生に似てねえか」
竜司はそう言って浅川の腕をつついた。
「そうだな、アルバムを見れば自分の三歳だった頃の様子、生まれたばかりの赤ん坊だった頃の様子がある程度わかるもんな」
「だろ、生まれる前のこと、それから死んだ後のこと、こいつだけは人間にわからないんだ」
「死んだ後って……、死ねばそれで終わり、何もなくなる、それだけじゃないのか」
「おまえ、死んだことあるのかい?」
「いや」
浅川は妙にまじめくさって首を横に振った。
「じゃあ、わからねえだろ。死後の世界がどうなっているのか」
「魂が存在するってこと?」
「だから、オレにはわからねえとしか言いようがねえ。だがな、生命の誕生を考えた場合、魂なるものの存在を仮定したほうがすんなりいくような気もする。現代の分子生物学者の言っている戯言《ざれごと》には、とうてい現実味がないんだよ。いいかい、彼らはなんと言っているか。ボールの中に二十数種類のアミノ酸を数百個入れまして、電気エネルギーをふりかけながらぐちゃんぐちゃんにかき混ぜましたところ、ほらこの通り生命の元であるたんぱく質が出来上がりましたって、そう言ってんだぞ。あほらしくて信じられるか、そんなこと。神様の創造物でありますと言われたほうがまだピーンとくらあ。なあ、オレはなあ、誕生の瞬間には、もと全く違うタイプのエネルギー、というよりもある種の意志が働いたと思う」
竜司は浅川のほうにほんの少し顔を近づけたと思うと、すっと話題を転じていった。
「なあ、おまえさっき、三浦記念館で熱心に先生の著作に目を通していただろ。何かおもしろいモン見つけたか?」
そういえば、読みかけであったことに気付いた。……博士の理論。……念はエネルギーを持ち、そのエネルギーは……。
「念はエネルギーであるとか、そんなことが書いてあったと思うが……」
「その後は?」
「いや、読む暇がなかった」
「へへ、残念だったな、そこからがおもしろいのに。あの先生、普通の人間が聞いたらびっくりするようなことを平気でもっともらしく並べ立てるから、おかしくなっちまうぜ。ようするに、あのおっさんが言おうとしているのは、観念はエネルギーを持った生命体であるってことよ」
「ええ? つまり、頭の中に抱いた考えが生命体に変化するってことか?」
「そういうことになるな」
「そりゃ、また、極端だ」
「極端には違いないが、似たような考え方は紀元前から論じられている。生気論の変形と受け取れないこともない」
竜司はそこまで話すと、ふと会話に興味を失って大島の地図に目を戻していった。
竜司が何を言おうとしたのかわからないわけではない。しかし、浅川はどうも釈然としなかった。今我々が直面している事実を科学的に説明することはできない。しかし、これが現実である以上、原因と結果がわからなくてもただ現象面だけを捉《とら》えて対処していくしかない。我々がまずなすべきことは、オマジナイの謎を解いて生命の危機を脱することであって、超能力の謎を解き明かすことではない。言われれば、確かにその通りだ。しかし、浅川が竜司に期待するのは、もっと明解な答えであった。
沖に出るに従って揺れはひどくなり、浅川は船酔いのことを心配し始めていた。意識するほどに、胸のあたりがモゾモゾしてきてしまう。うつらうつらと眠りかけていた竜司がふと顔を上げて外を見た。海は濃い灰色に波立ち、前方にはぼんやりと島影が浮かんでいる。
「なあ、浅川。ちょっと気に掛かることがあるんだが」
「なんだ?」
「ロッグキャビンに泊まった四人のガキどもは、どうしてオマジナイを実行しなかったのだろう」
……なんだ、そんなことか。
「決まってるじゃないか。ビデオの内容を信じなかったからさ」
「もちろん、オレもそう思ったさ。だから、オマジナイを消すなんてイタズラをしたんだってな。だがな、オレはふと思い出した、高校の頃、陸上部の合宿中、夜中に斎藤が部屋に飛び込んで来やがったんだ。覚えているだろ、斎藤……、あのうすらバカ。部員は全部で十二人、皆同じ部屋で眠っていた。あの野郎、部屋に飛び込むなり、顎《あご》をがくがく揺らせて、『幽霊を見た!』って大声で喚《わめ》きやがった。トイレのドアを開けようとしたら、流しの横のごみ箱の影に小さな女の子の泣き顔を見たんだとよ。その場にいたオレ以外の十人はどんな反応をしたと思う?」
「半分信じて、半分は笑った、そんなところじゃないか」
竜司は首をふる。
「怪奇映画とかテレビの世界だとそうなる。最初は皆信じなくて、そのうち一人一人怪物に襲われて……、というパターンだ。しかしなあ、現実は違う。だれひとり例外なく、彼の話を信じたんだ。十人ともな。十人が特別に弱虫だったからじゃない。どんなグループで実験しても、同じ結果が出るに決まってる。根源的な恐怖心、こいつは人間の本能の中に組み込まれてる」
「例の四人がビデオを信じなかったのはおかしい、そう言いたいのか?」
竜司の話を聞くうちに、浅川はふと鬼の面を見て泣き出した娘の顔を思い出していた。そして、あの時の当惑、なぜ、鬼の面が恐いってことをこの子は「知って」いるのか。
「うーん、いや、あの映像はストーリー性もないし、見ただけではそれほど恐いものではない。だから、信じないこともあるだろう。しかし、あの四人はなんとなく心に引っ掛からなかっただろうか。どうだ、おまえなら、オマジナイを実行すれば、死の運命から逃れられる、としたら、たとえ信じなくとも実行してみようかという気にならないか。第一、ひとりくらい抜け駆けする奴《やつ》がいてもおかしくない。その場は他の三人の手前強気を装っても、東京に帰ってからこっそりと実行に移すことだってできる」
嫌な予感が強まった。実は、浅川自身、このことにふと考え及んだことがあったのだ。……つまり、もしオマジナイが実現不可能なことであったらどうしようと。
「実現不可能であったから、信じないことによって自分を納得させてしまったというわけか……」
浅川がその時思い浮かべたのはこんな喩えであった。何者かに殺された女が、現世にメッセージを残し、人の手を借りて自分の恨みを晴らそうとしている……。
「おまえが何を考えているかわかるぜ、オレには。どうする? もし、そうだったら」
もし、ある一人の人間を殺せという類《たぐい》の命令が込められているとしたら、自分の命を救うために見ず知らずの人間を殺すことができるかどうか……、浅川は自問した。それよりも問題なのは、もしそうなった場合、オマジナイを実行するのはだれかということ。浅川は頭を強くふった。こんなばからしいことを考えるのはやめろと。今はただ「山村貞子」なる人物の望みが、だれにとっても実現可能なものであることを祈る他ない。
島の輪郭がはっきりし、元町港の棧橋が徐々にたぐり寄せられてくる。
「なあ、竜司。頼みがある」
浅川は声に力を込めた。
「なんだ?」
「もし、オレが間に合わなくて、つまり……」浅川は死という言葉を口にしたくなかった。「翌日、おまえがオマジナイの正体を解き明かした場合、オレの妻と娘にも……」
竜司はそれから先を言わせなかった。
「もちろんだ。任せろ。オレが責任をもって、おまえの女房とベイビーちゃんを救ってやる」
浅川は名刺を一枚取り出すと、その裏に電話番号を書き込んだ。
「この事件が解決するまで、妻と子供を足利の実家に帰すつもりだ。ほら、これが実家の電話番号。忘れないうちに渡しておく」
竜司は名刺を見もしないで、ポケットに放り込んだ。
船内放送が、船が今大島元町港に着いたことを告げている。浅川は棧橋から家に電話をかけ、しばらく実家に戻るように妻を説得するつもりであった。いつ、自分が東京に戻れるかわからない。ひょっとしたら、このまま、大島にてデッドラインを迎えてしまうかもしれない。狭いマンションの中で、恐怖を募らせていく妻と子の姿を想像するのは耐えられなかった。
タラップを降りながら竜司が聞いた。
「なあ、浅川。女房子供ってそんなにかわいいものなのか?」
あまりに竜司らしくない質問だったので、浅川は笑いながら答える。
「そのうちわかるよ、おまえにも」
しかし、浅川は、竜司にまともな家庭が築けるなどとは思ってもいなかった。
7
熱海の埠頭《ふとう》よりも、ここ大島の棧橋に立った方が幾分風が強い。空を見上げれば西から東へと雲の動きが速く、棧橋のコンクリートに砕ける波が足元を揺らしている。ひどい雨ではなかったが、風に運ばれた雨滴が正面から浅川の顔をとらえていた。ふたりは傘もささず、両手をポケットにつっこみ猫背になって、海の上の棧橋を足早で歩いた。
レンタカーと書かれたプラカードや、民宿や旅館の旗などを持った島の人が観光客を迎えていた。浅川は顔を上げ、待ち合わせの人間を捜した。熱海港から高速艇に乗る前、浅川は本社に問い合わせて大島通信部の電話番号を聞き出し、早津という通信部員に調査の協力を依頼したのだった。どの新聞社も大島に支局は置いてなく、その代わり地元の人間を通信員として雇っている。通信員は島の出来事に常に目を光らせ、なにか変わった事件やエピソードを発見した場合は、本社に連絡する義務があり、社の人間が島で取材する際には、当然その協力もしなければならない。M新聞社を退職後大島に住みついた早津の場合、大島以南の伊豆七島全体が情報収集のテリトリーで、事件が起これば本社の記者を待つまでもなく自分で記事を書いて送ることができた。早津自身、島に独自のネットワークを持っており、従って、彼の協力が得られれば浅川の調査もスピーディーに進むはずであった。
早津は浅川の申し出に快く応じ、棧橋まで迎えに出ることを電話で約束してくれた。一面識もなかったので、浅川は、ふたり連れであること、それと、自分の肉体的特徴などを簡単に早津に知らせておいたのだ。
「失礼ですが、浅川さんでは……」
背後から声がかかった。
「ええそうですが……」
「大島通信部の早津です」
早津は傘を差し出しながら、人のよさそうな笑顔で迎えた。
「突然ですみません。お世話になります」
浅川は歩きながら竜司を紹介し、急いで早津の車に乗り込んだ。風の音がやかましく、車の中でなければまともに話ができない。軽自動車にしては車内が広かった。浅川が助手席、竜司が後部シートに座った。
「さっそく、山村敬さんのお宅に伺いますか?」
早津は両手をハンドルに乗せて聞いた。六十を越えても髪は豊富で、そのぶん白いものが多い。
「山村貞子の実家、もうわかったんですか?」
電話にて、山村貞子という人物について調査したい旨すでに話してあった。
「小さい町ですからねえ、差木地で山村といったら一軒しかないから、すぐにわかりますよ。山村さんところ、普段漁師をしていて夏の間は民宿もやってるんですが、どうです? もし、よかったら、今晩はそこに泊めてもらったら……、私んところでもいいですが、あんまり狭くて汚いもんだからねえ……、かえってご迷惑かと……」
早津はそう言って笑った。彼は妻と二人暮らしであったが、言葉に嘘はなく、実際のところ家には客二人を泊めるスペースはなかった。浅川は後ろを振り返って竜司を見た。
「オレはそれで構わねえぜ」
早津は島の南端、差木地に向かって軽自動車をとばした。とばしたといっても、島を一周する大島循環都道は道幅もせまく、カーブも多いのであまりスピードは出せない。すれ違う車は圧倒的に軽が多かった。右手の視界が開け海が見えると、風の音が変わった。海は空の色を映して暗く沈み、大きくうねりながら、波頭を白くキラめかせている。それがなかったら、空と海を分かつ線、あるいは海と陸を分かつ線までも不明確になっていただろう。じっと見ていると暗い気分になりそうだ。ラジオからは台風の情報が流れ、また一段とあたりが暗くなった。Y字路を右に入るとすぐ椿《つばき》のトンネルがあり、車はその内部に差しかかったのだ。長年の風雨に晒《さら》されて土を奪われたせいか、椿の幹の下からは曲がりくねった裸の根が幾本も顔を出し、からまり合っている。しかもその表面は雨に濡《ぬ》れてなまめかしく、浅川はふと巨大な怪物の腸の中を走り抜けているかのような感覚に陥ってしまう。
「差木地はこのすぐ先ですよ」
早津が言った。「ただ、山村貞子って女性はもうここにはいないと思いますがね。まあ、詳しいことは山村敬さんに聞いてみて下さい。山村さんは確か、山村貞子の母の従兄弟《いとこ》にあたると聞いてます」
「山村貞子って女性、今何歳なんですか」
浅川が聞いた。竜司はさっきから後部シートにうずくまっているだけで、一言も口をきこうとしない。
「さあ、わたしは直接会ったことはないんですが……、もし生きていれば、今頃は、四十二、三歳ってとこじゃないでしょうかね」
……もし生きていれば。なぜこんな表現を使うのだろうと、浅川はいぶかしんだ。ひょっとして現在消息不明なのではないか、せっかく大島まで来ても消息を掴《つか》めぬまま、デッドエンドを迎えてしまう、そんな危惧《きぐ》がさっと頭をよぎったのだ。
そうこうしているうちに、車は「山村荘」という看板のある二階建ての家の前で泊まった。眼前に海を見渡せるなだらかな斜面にあり、晴れていれば素晴らしい風景が楽しめるに違いない。沖には三角形の島影がぼんやりと浮かんでいる。利島だった。
「天気がよければね、あの向こうに新島、式根島、それに神津島まで、見渡せるんですよ」
早津は、はるか南の沖合を指差して自慢気に言った。
8
「調べるって、一体、その女の何を調べればいいんだ?」
……昭和四十年に入団? 冗談じゃねえ、今から二十五年も昔のことじゃねえか。
吉野は心の中で毒突いていた。
……一年前の犯人の足取りを追うだけでもかなりやっかいだというのに、二十五年とは。
「なんでもいい、わかること全て。僕たちは、その女がどういう人生を送り、今現在、何をして、何を望んでいるのか、そういうことを知りたいんです」
吉野は溜《た》め息をつく他なかった。受話器を耳と肩で押さえながら、机の端のメモ用紙を手前に引きつける。
「……で、その女の当時の年齢は?」
「十八歳、大島の高校を卒業すると同時に上京し、そのまま劇団|飛翔《ひしよう》に入団してます」
「大島?」吉野はペンを走らすのを止めて、顔をしかめた。「おまえさん、今、どこから電話かけてるんだい?」
「伊豆大島、差木地からです」
「…………、いつ帰る予定だ?」
「なるべく早く」
「知ってるのか、台風が接近してるってこと……」
もちろん現地にいて知らないはずはないだろうが、吉野にはこの差し迫った状況が作り事めいていておもしろく思われてしまう。「締め切り」はあさっての夜、しかし、本人は大島に閉じ込められたまま出られなくなるかもしれない。
「海と空の便、どんな具合ですか?」
浅川はまだ詳しく知らなかった。
「いや、はっきりとはわからないが、この様子だと、まず間違いなく……」
「欠航……」
「……じゃねえかな」
山村貞子の調査に忙しく、浅川はまだ台風に関する正確な情報を掴《つか》んではいなかった。大島の棧橋に着いた時から、なんとなく嫌な予感はあったが、「欠航」という言葉を直《じか》に口にすると、危機感はひしひしと迫ってくる。浅川は受話器を手にしたまま、黙り込んでしまった。
「おいおい、心配するな。まだはっきりそう決まったわけじゃねえ」
吉野は努めて明るく言うと、話題を逸《そ》らしていった。「じゃあ、その女の……、山村貞子の十八歳までの略歴は、もうおまえのほうで調査済みなんだな」
「おおまかなところは……」
そう答えながら、浅川は電話ボックスの中で風と波の音に耳を澄ましていた。
「ところで、他に何か手がかりはないのかい? まさか、劇団飛翔だけってんじゃねえだろうな」
「それが、その通りなんです。山村貞子は一九四七年に伊豆大島の差木地で生まれ、母の志津子……、あ、この名前もメモ頼みます。山村志津子、四七年当時二十二歳。志津子は生まれたばかりの貞子を祖母に預けて、東京に出奔……」
「なぜ、赤ん坊を島に残したまま?」
「男ですよ。この名前もメモしてください。伊熊平八郎、当時T大学精神科助教授、山村志津子の恋人……」
「ということは、山村貞子は志津子と伊熊平八郎との間に生まれた子供なのかい?」
「確証は取れていませんが、まずそう見て間違いないでしょう」
「ふたりは結婚してないんだな?」
「ええ、伊熊平八郎は妻子持ちですから」
なるほど、不倫の恋ってやつか……、吉野は鉛筆の先を舌でなめた。
「わかった、続けてくれ」
「一九五〇年になるとすぐ、志津子は三年ぶりに故郷を訪れ、娘の貞子に再会し、しばらくここで暮らします。しかし、その年も終わろうとする頃、またもや出奔、その時は貞子も一緒です。その後五年間ばかり、志津子と貞子の母子がどこでなにをしていたのか不明。ところが、五〇年代半ば、この島に住む山村志津子の従兄弟《いとこ》は、風の便りに志津子が有名になり、活躍してるという噂《うわさ》をキャッチします」
「事件でも起こしたのかい?」
「わからないんです。ただ、その従兄弟は風の便りに志津子の噂を聞いたというだけで……、ところが、僕が新聞社の名刺を差し出したところ、ブンヤさんならお宅たちのほうが詳しいんじゃないかい、と、そう言うんです。どうも、口ぶりからして、志津子と貞子の母娘は、一九五〇年から、五五年までの五年間にマスコミを賑《にぎ》わすような何かをしていたらしいのです。ところが、とにかく、ここは島なので本土の情報は入りにくく……」
「それが、なんなのか、オレに調べろって言うんだな」
「察しがいいですね」
「バカヤロ、それくらいすぐにわからぁ」
「まだあるんですよ。五六年、志津子は貞子を連れて故郷に戻るんですが、まるで別人のようにやつれ、従兄弟が何を聞いても答えようともせず、塞《ふさ》ぎ込んで意味不明のことをぶつぶつ唱えていたかと思うと、とうとう三原山の火口に身を投げて自殺してしまったのです。三十一歳でした」
「志津子がなぜ自殺したか、それもオレが調べるわけ?」
「お願いしますよ」
浅川は受話器を握ったまま、頭を下げていた。もし、このまま島に閉じ込められたりしたら、頼りになるのは吉野しかいない。こんなところにふたりでノコノコやってくるんじゃなかったと、浅川は後悔した。差木地のような小さな集落であれば、竜司ひとりで充分に調べ上げることができただろう。自分は東京に残り、竜司からの連絡を待って吉野とふたりで取材に回ったほうがずっと効率がよかったに違いない。
「やるだけはやってみる。しかしよぉ、ちょっと、人手が足りなくないかい?」
「小栗編集長に電話して、何人か回してもらうよう頼んでみますよ」
「ああ、そうしてくれ」
言ったはいいが、浅川には自信がなかった。いつも編集部員が足りないとぼやいている編集長が、こんなことに貴重な人員をさくとは思えない。
「さて、母親に自殺された貞子はそのまま差木地に残って母の従兄弟《いとこ》の世話になることになった。その従兄弟の家というのが現在民宿をやっていて……」
浅川は、竜司と共に今まさにその民宿に泊まっていることを言おうとしてやめた。余分なことと思われたからだ。
「小学校四年の貞子は翌年すぐ、三原山の噴火を予言して、校内で有名になります。いいですか、一九五七年、三原山は貞子の予言通りの日時に噴火しているんです」
「そいつは、すごい。こういう女がいれば、地震予知連なんていらねえな」
予言が的中したという噂《うわさ》が島中に広まり、それが三浦博士のネットワークにひっかかったことも、やはり、ここでは言う必要もないだろう。ただ、ここで、重要なのは……。
「そのことがあって以来、貞子はよく島の人々から予言してくれるよう頼まれた。でも、彼女は決してそれに答えたりはしなかった。まるで自分にそんな能力はないとばかり……」
「謙虚さゆえか?」
「いや、わからない。そして高校を卒業すると、貞子は待ってましたとばかり上京。世話になった親戚の許にはたった一枚のハガキが届いただけ。そこには、劇団|飛翔《ひしょう》の入団試験に受かった旨書き記されていた。それ以後今日まで、貞子から便りは一切なく、彼女がどこで何をしているのか知る者はこの島にひとりもいない」
「ようするに、その後の足取りを追う手がかりになるのは、劇団飛翔以外にないということだな」
「残念ながら……」
「いいか、もう一度確認するぜ。オレがこれから調べることは、山村志津子がマスコミを賑《にぎ》わせた理由と、火口に飛び込んだ理由、そして、娘の貞子は十八歳で劇団に入ってからどこで何をしていたのか。つまり、母親に関することと、その娘に関すること。この二点だな」
「そうです」
「どっちを先にする?」
「え?」
「母親のほうからか、娘のほうからか、どっちを先に調べたらいいのかって聞いてんだ。おまえ、時間がないんだろ」
直接問題になってくるのは、もちろん山村貞子の半生である。
「娘のほうから頼みますよ」
「わかった。じゃあ、明日さっそく劇団飛翔の事務所にでも顔を出すか」
浅川は腕時計を見た。まだ午後の六時を少し回ったところだ。劇団の稽古場《けいこば》なら充分に開いている時間だろう。
「吉野さん、明日と言わず、今晩頼みますよ」
吉野は大きく息をついて首を軽く振った。
「なあ、浅川。考えてくれよ、オレにだって仕事があるんだ。今晩中に書き上げなければならない原稿が山ほどあるんだよ。本当は明日だって……」
吉野はそこで言葉を止めた。これ以上言うとあまりにも恩着せがましくなる。彼はいつも男らしい自分を演出することに細心の注意を払っていたのだ。
「そこをなんとか頼みますよ。いいですか、僕の締め切りはあさってなんです」
この業界の内幕を知っている浅川には、とてもそれ以上強く言えなかった。ただ、無言で吉野の返事を待つ他ない。
「……って、いってもよぉ。しょうがねえなあ。わかった、なるべく今晩中にどうにかするよ、ま、約束はできんが」
「すみません、恩にきます」
浅川は頭を下げて受話器を置こうとした。
「おい、ちょっと待てよ。オレはまだ重要なことを聞いてないぜ」
「なんですか?」
「おまえが見てしまったとかいうビデオの映像と、その山村貞子とは一体どんな関係があるの?」
浅川は一呼吸置いた。
「言っても、きっと信じませんよ」
「いいから、言えよ」
「ビデオカメラがあの映像を録画したんじゃない」
浅川はたっぷりと間を置いて、その意味が吉野の頭に浸透するのを待った。
「あれは、山村貞子という女性の目を通して記録された映像と、彼女の心に浮かんだ映像とが、なんの脈絡もなく、断片的に並んだものなんです」
「へ?」
吉野は一瞬言葉を失った。
「ね、信じられないでしょ」
「念写……、みたいなものか」
「念写という表現は当らない。念によってブラウン管に映像を浮かばせるんだから、『念像』とでも言うべきなんでしょうかね」
「念像」が捏造《ねつぞう》という言葉と重なり、吉野はさもおかしそうに笑った。浅川は別に腹を立てるわけでもなく、笑わずにいられない吉野の気持ちを考えながら、屈託のない笑い声を黙って聞いていたのだった。
午後九時四十分。地下鉄丸ノ内線を四谷三丁目で降りてホームから地上への階段を上る途中、吉野は強風に帽子を飛ばされそうになり、両手で頭を押さえながらあたりを見回した。目印の消防署は捜すまでもなくすぐ角にあり、歩道を一分も歩かないうちに、目当ての場所に行き着いた。
「劇団|飛翔《ひしょう》」という立て看板の横に地下に降りる階段があり、その奥のほうから若い男女が張り上げるセリフや歌が混ざり合って聞こえる。公演が迫っていて、最終電車がなくなるまで稽古《けいこ》を続けるつもりだろう。文芸部の記者でなくてもそれくらいのことはわかる。いつも犯罪事件を追い回している吉野は、中堅劇団の稽古場を訪れることにどことなく違和感を覚えた。
地下に通じる階段は鉄でできていた。足を下ろすたびにコンコンと堅い音をたてる。もし、仮に、ここの劇団の創立メンバーが山村貞子のことを何も覚えていなかったら、そこで糸はプツンと切れ希代の超能力者の半生は闇に埋没してしまうことになる。劇団飛翔が創立されたのは一九五七年、山村貞子が入団したのが一九六五年。創立メンバーで現在も残っているのは劇団代表で作・演出家の内村を含めて四人に過ぎない。
吉野は稽古場の入口にいた二十歳そこそこの研究生に名刺を渡し、内村を呼んでもらうよう頼んだ。
「先生、M新聞社の方がお見えです」
研究生は役者らしくよく響く声で、壁際に座って皆の演技を見守る演出家の内村を呼んだ。内村は驚いたように振り向き、相手がプレス関係だと知ると、相好をくずして吉野に近づいてきた。どこの劇団も、プレス関係者を丁寧にもてなす。新聞の文芸欄にちょっと載せてもらっただけで、チケットの売上げが大きく伸びるからだ。一週間後に迫った公演の稽古《けいこ》風景でも取材にきたのだろう……、M新聞社にはこれまであまり大きく取り上げられたことがなかったので、内村はこの機会にとばかり愛想をふりまいた。しかし、吉野がやってきた本当の理由を知ったとたん、内村は急に興味を失ってオレは今忙しいんだよなという態度を取り始めた。そして、キョロキョロと稽古場を見回し、椅子に座った五十過ぎの小柄な男優に目を止めると、「真ちゃん」とかん高い声で近くに呼び寄せた。五十過ぎの男に向かってちゃんづけで呼ぶこと……、いや、それよりも内村の女っぽい声やヒョロヒョロとアンバランスに伸びた長い手足が、筋肉質の吉野には気持ちワルイと感じた。自分とはまるで異質な存在がここにいる、と。
「真ちゃん、二幕まで出番ないでしょ。じゃあ、さぁ、この人に、山村貞子のこと話してやってくれない。覚えてるでしょ、あの気持ちワルイ女」
真ちゃんと呼ばれた男優の声を、吉野はテレビで放映する洋画の吹き替えで聞いたことがある。有馬真は舞台での活躍よりも声優としての活躍のほうが目立っていた。彼もまた現存する創立メンバーのひとりであった。
「山村貞子?」
有馬は半分|禿《は》げかけた額に手を当て、二十五年前の記憶を手探りでたぐり寄せた。
「あー、あの、山村貞子」
有馬は少々すっとんきょうな声を上げた。「あの」という連体詞がつくところを見ると、かなり印象深い女性に違いない。
「思い出した? じゃ、僕、稽古してるから、二階の僕の部屋に案内してあげてよ」
内村は軽く頭を下げてから役者の集団に歩み寄り、今まで座っていた席につくまでには絶対君主たる演出家の顔を取り戻していた。
社長室と書かれたドアを開けると、有馬はレザー張りのソファセットを指して「さあ、どうぞ」と吉野に座るようすすめた。社長室がある以上、社長も存在し、社長がいる以上、この劇団は会社組織になっていることがわかる。おそらく、さっきの演出家が社長を兼ねているのだろう。
「嵐の中、ご苦労さまです」
有馬は稽古で流した汗で顔を赤く光らせ、目の奥に人のよさそうな笑みを浮かべていた。先ほどの演出家は相手の胸の中を探りながら会話をすすめていくタイプに見えたが、有馬は、包み隠さず聞かれたことを正直に答えていくタイプに見える。相手の人柄によって、楽な取材になるか苦しい取材になるか決まるものだ。
「すみません、お忙しいところ……」
吉野は座りながら手帳を取り出し、右手にペンを握っていつものポーズを取った。
「山村貞子の名前を今頃になって聞くとは思いませんでした。もう、ずいぶん昔のことですからねえ」
有馬は自分の青春時代を思い出していた。それまでいた商業劇団を飛び出し、仲間と共に新しい劇団を創立した頃の若いエネルギーが懐かしい。
「さっき有馬さん、彼女の名前を思い出した時、あの℃R村貞子とおっしゃいましたけれどあの≠ニいうのはどういうことなんですか?」
「あの子が入ってきたのは、えーと、いつの頃でしたっけねえ。劇団が誕生して数年といったところじゃなかったかな。劇団の伸び盛りの頃でねえ、年ごとに入団希望者は増えていったんですが……、とにかく、ヘンな子でしたよ、山村貞子は」
「変といいますと、どんなところが?」
「そうですねえ」
有馬は顎《あご》に手を当てて考え込んだ。そういえば、なぜ自分はあの子に対して変な女という印象を持っているのだろう。
「特別目立った特徴でも?」
「いや、外見はごく普通の女の子でしたよ、ちょっと背が高かったけれど、おとなしくて、……そして、いつも孤立してました」
「孤立?」
「ええ、ほら、ふつうは、研究生同士仲がいいんですよ。でも、あの子は、自分からは決して仲間に加わろうとしなかった」
どの集団にもそういったタイプの人間はいるものだ。それが、山村貞子の人格を際立たせていたとは考えにくい。
「彼女のイメージを一言で言うと?」
「一言? そうですね、不気味……、ってとこかな」
有馬は迷わず「不気味」という表現を使った。そういえば、内村も「あの気持ちのワルイ女」と表現していたっけ。十八歳のうら若き乙女が不気味と評されてしまったことに、吉野は同情を禁じ得ない。彼は、グロテスクな容姿の女を想像していた。
「その不気味さは、どこからきていると思いますか?」
考えてみると、不思議であった。二十五年前たった一年ばかり在籍しただけの研究生の印象が、なぜこうも鮮やかに残っているのか。有馬は心に引っ掛かるものがあった。なにかあったはずだ。山村貞子の名を記憶に留めることになる、エピソード。
「そうだ、思い出しましたよ。この部屋だ」
有馬は社長室を見回した。そして、例の事件を思い出したとたん、まだここが事務所として使われていた頃の家具の配置までが鮮明に甦《よみがえ》っていった。
「いえね、創立当時から、劇団の稽古場《けいこば》はここにあったんですが、当時はもっとずっと狭くて、今私たちがいるこの部屋は事務所として使われていたんです。あそこにロッカーがあって、ここにすりガラスのつい立てが置かれ……、そして、そう、ちょうど今テレビがある同じ場所にやはりテレビが置かれていた」
有馬は言いながら、手でその場所を示していった。
「テレビ?」
吉野はさっと目を細めペンを構え直した。
「ええ、古い型の、白黒のね」
「それで?」
吉野は先を促した。
「稽古が終わり、もうほとんどの劇団員が帰った後のこと、私は自分のセリフでどうしても納得できないところがあり、もう一度読み直そうとこの部屋に入ってきたのです。ほら、そこ……」有馬は入口のドアを指差した。
「そこに立って部屋の中を覗《のぞ》くと、すりガラスを通してテレビ画面がチカチカと揺れていたのです。わたしは、あ、だれかがテレビを見ているんだな、と思いました。いいですか、決して見まちがいではありません。すりガラス越しで、ブラウン管の映像を直接見たわけではありませんが、確かに白黒の光がぼんやりと揺れていたのです。音は出てなかった……。部屋の中は薄暗く、私はすりガラスを回りながら、テレビの前にいるのはだれだろうと、その顔をのぞきこみました。山村貞子でした。でも、すりガラスを回り込んで彼女の横に立った時にはもう、画面には何も映っていなかったのです。私は、もちろん、彼女が素早くスイッチを切ったものとばかり思いました。そこまでは、何の疑いも抱かなかったのです。でも……」
有馬はそこから先を言い淀《よど》んだ。
「どうぞ、続けてください」
「私は、山村貞子に、早く帰らないと電車がなくなるよ、なんて言いながら机の上のスタンドのスイッチを入れたところ、これがつかない。よく見るとコンセントが入っていないのです。私はかがみこんで、コンセントにプラグを差し込もうとしました。そこで、初めて気が付きました、テレビのプラグもコンセントに入っていなかったことを」
テレビから伸びたコードの先が床に転がっているのを見て、背筋にゾクッと悪寒が走ったことを、有馬はまざまざと思い出した。
「電源が入ってないにもかかわらず、明らかにテレビはついていた?」
吉野は確認した。
「そうです、ぞっとしましたよ。思わず顔を上げて、私は山村貞子を見ました。電源も入ってないテレビを前にして、この子は何をやっていたのだろうと。彼女は私と視線を合わせず、ただ、じっとテレビ画面を見つめていましたが、その口もとにうっすらと笑いを浮かべていたのです」
よほど印象深かったのか、有馬はエピソードの細部に至るまでよく覚えていた。
「で、そのことを、あなたはどなたかに話しましたか?」
「ええ、もちろん。うっちゃん……、さっきお会いになった演出家の内村とか、重森さんなんかに……」
「重森さん?」
「この劇団の事実上の創立者です。内村は二代目の劇団代表なんですよ」
「ほう、それで、重森さんはあなたのお話を聞いてどんな反応を?」
「マージャンをやりながらでしたけど、重森さんはずいぶんと興味を持ちましてねえ。もともと女には目がないほうでしたから……。どうも、前から狙ってたようなんです、いつか山村貞子をモノにするんだって。で、その夜、酒の酔いも手伝って、重森さん、今から山村貞子のアパートを襲うぞって、無茶苦茶なこと言い出して……、参りましたよ、私たちは……、酔っぱらいの戯言《ざれごと》にまともに付き合うことなんてできませんし。結局、彼ひとりその場に残して他のみんなは帰ったのですが、重森さんがその夜、本当に山村貞子のアパートに行ったかどうか、とうとうわからず終《じま》い。と言いますのもね、翌日、重森さん、稽古場に顔を出すには出したんですが、まるっきり人が変わったみたいに、押し黙ったまま、口もきかず、青白い顔でぼうっと椅子に座って動こうともしないで、眠るように死んでしまったのです」
吉野はびくっとして顔を上げた。
「それで、死因は?」
「心臓|麻痺《まひ》、今で言うところの急性心不全ってやつですよ。公演が迫ってかなり無理してましたからねえ、疲れがたまってたんだと思います」
「山村貞子と重森の間に何があったのか、結局だれも知らないのですね」
吉野が念を押すと、有馬は大きくうなずいた。なるほど、これだけの原因があれば、山村貞子の印象が強烈に残るのも無理はない。
「その後、彼女は?」
「やめましたよ、うちの劇団にいたのは、一年か二年だと思ったけど」
「ここをやめて、どうしました?」
「さあ、そこまではちょっとわかりません」
「ふつうの人はどうするんです、劇団をやめた後……」
「やる気のある奴《やつ》は他の劇団に入り直しますよ」
「山村貞子の場合はどうでしょうかね」
「なかなか頭もよかったし、演技の勘も悪くはなかった。でも、性格的に欠陥があったからねえ、ほら、この世界、ようするに人と人との関係でしょ。彼女のような性格だとちょっと合わないんじゃないかな」
「つまり、芝居の世界から足を洗った可能性もある?」
「ま、なんとも言えませんがね」
「彼女のその後の消息を知っている人、いないですかねぇ」
「そうねえ、同期の研究生なら、ひょっとして」
「わかりますか、同期の方の名前や住所」
「ちょっとお待ちください」
有馬は立ち上がって作り付けの棚に寄った。そして、ずらりと並んだファイルの中から一冊を抜き出す。それは、入団試験の際に提出する履歴書を保管したものであった。
「八人ですね、彼女を含め、一九六五年に入団した研究生は全部で八名います」
有馬は八枚の履歴書を片手でひらひらさせていた。
「見せてもらえますか?」
「どうぞ、どうぞ」
履歴書には写真が二枚|貼《は》られている。胸から上の顔写真と全身が写ったもの。吉野ははやる気持ちを押さえ、山村貞子の履歴書を引き抜いた。そしてその写真に目を見張った。
「あなた、さっき、山村貞子は不気味な女だとおっしゃいませんでしたか?」
吉野は混乱していた。有馬の話を聞きながらイメージした山村貞子の顔と、現実に見る写真の顔とがあまりにかけ離れていたからだ。
「不気味? 冗談じゃない。僕は今まで、これ程きれいな顔を見たことがない」
吉野はふと、なぜ自分はきれいな女と表現しないで、きれいな顔と言ってしまったのか疑問に感じた。確かに完璧に整った顔ではあるが、女としての丸みのようなものが欠けている。しかし、全身像に目をやると、腰と足首のくびれが際立ってじつに女っぽい。これほど美しいにもかかわらず、二十五年という時の流れに浸食され、残った印象は「不気味」、あるいは「気持ちのワルイ女」。本来なら、「素晴らしく美しい女だった」と言うのが普通だろう。吉野は、明らかな特徴を押しやってまで顔を覗《のぞ》かせる「不気味」さの正体に、強く興味をそそられた。
9
十月十七日 水曜日
吉野は、表参道と青山通りの交差点に立って、もう一度手帳を取り出した。
南青山六―一、杉山荘。それが、二十五年前の山村貞子の住所であった。番地とアパート名とのアンバランスさに、吉野は絶望的な気分を味わっていた。通りを曲がって、根津美術館のすぐ横のブロックが六―一であるが、吉野が心配した通り、杉山荘なる安アパートがあったはずの場所には、豪壮な赤レンガのマンションがそびえていた。
……どだい無理な話さ。二十五年前の女の足取りなんて、わかるわけねえ。
あと残る手がかりは、山村貞子と同期で入団した四人の研究生。貞子と同期で入った七人のうち、どうにか連絡先がわかったのは四人だけであった。彼らが貞子の消息に関して何も知らなかったら、完全に糸は途切れてしまう。吉野は、そうなりそうな気がしてしかたがない。時計を見ると午前十一時を回っていた。吉野は近くの文房具店に飛び込み、これまでにわかったことだけでも浅川に知らせようと、伊豆大島通信部に向けてファックスを送り始めた。
その時、浅川と竜司は通信部のある早津の自宅にいた。
「おい、浅川! 落ち着けよ」
せわしなく動き回る浅川の背に、竜司が怒鳴《どな》りつけた。「焦ったってしょうがねえだろうが」
……最大風速、中心付近の気圧、……ミリバール、北々東の風、……暴風雨圏内、……強いうねり。浅川の感情をさか撫《な》でするように、ラジオからは台風の情報が流れている。
御前崎の南海上約百五十キロの地点に位置する台風二十一号は、風速四十メートルを維持しつつ北々東の方向に毎時二十キロで進みつつあり、このままいけば今日の夕方には大島の南沖合に達するはずであった。空と海の便が平常に戻るには、たぶん明日の木曜日からではないか。それが、早津の予想だ。
「木曜だって!」
浅川の頭の中は煮えたぎっていた。
……オレのデッドラインは明日の夜十時なんだぜ、台風の野郎、さっさと通り過ぎるか、熱帯低気圧になって消えちまえ!
「この島の船と飛行機は一体いつになったら動くんですか!」
浅川は怒りをどこにぶつけていいかわからない。
……こんなところに来るんじゃなかった。悔やんでも悔やみきれない、しかし、どこまで遡《さかのぼ》って後悔すればいいのか、あんなビデオなど見るべきじゃなかった、大石智子と岩田秀一の死に疑念をはさむべきじゃなかった。あんなところでタクシーを拾うんじゃなかった。ええい、クソったれ!
「おい、落ち着けっていうのが、わからねえのかい? 早津さんに文句言ったって仕方ねえだろうが」
妙に優しく竜司は浅川の腕を握った。「考えようによっちゃぁよお、オマジナイの実行はこの島でなければできないかもしれないだろ。な、そういう可能性だってある。例の四人のガキどもがなぜオマジナイを実行しなかったか……、大島まで来るゼニがなかったから……、な、有り得るだろ。この嵐を恵みの風と考えてみろや。そうすりゃあ、気分も治まる」
「それは、オマジナイを発見してからのことだろう!」
浅川は竜司の手を振り払った。いい年をした男がふたり、オマジナイオマジナイと騒いでいるのを見て、早津と妻のふみ子は顔を見合わせたが、浅川にはふたりが笑っているように見えた。
「なにがおかしいんですか?」
ふたりに詰め寄ろうとした浅川の手を、竜司は以前よりも強く引いた。
「よせよ。とにかく、ジタバタしたってはじまらねえ」
浅川の苛立《いらだ》ちに触れ、人のいい早津は台風による欠航に責任を感じ始めていた。というより、嵐の影響で苦しむ人間を間近に見て、すっかり同情してしまったというべきか。彼は浅川の仕事がうまく進むことを祈ってやまない。もうすぐ、東京からファックスが届くことになっていたが、待つという行為がよけい苛立ちに拍車をかけているように思え、その状況をどうにか変えようとした。
「調査のほう、はかどりましたか」
早津は浅川の気を落ち着けようと、穏やかに聞いた。
「ええ、まあ」
「すぐそこに山村志津子の幼馴染《おさななじ》みが住んでますが、もし、よかったら、呼び出して話でも聞いてやったらどうです? 源さん、この嵐で漁に出られず退屈してるはずだから、きっと喜びますよ」
取材の対象を与えれば、ずいぶん気も紛れるんじゃないか、早津はそう考えたのだ。
「もう、七十近い爺さんで、満足な話が聞けるかどうかわかりませんが、ただ待つよりはよほどいいでしょう」
「はあ……」
早津は浅川の返事も待たず振り返り、「おおい、源さんとこに電話してすぐこっちに来るように言ってくれや」と台所の妻に言いつけた。
早津の言った通り、源次は嬉《うれ》しそうに話した。山村志津子のことを喋《しゃべ》るのが楽しくてしかたがないのだ。源次は志津子よりも三つ年上で現在六十八歳。志津子は幼馴染みでもあり初恋の人でもあった。人に話すことによって、記憶はよりはっきりするのだろうか、それとも聞き手がいるという状態が刺激となって、思い出は容易に引き出されてしまうのだろうか。源次にとって、志津子のことを語るのは、自分の青春時代を語ると同じことであった。
とりとめもなく、時々目に涙を浮かべながら話す志津子とのエピソードから、浅川と竜司は彼女の一面を知ることができた。しかし、あまり信用すべきでないことは承知している。思い出は常に美化されるし、なにしろ、もう四十年以上も昔の話だ。他の女とごっちゃになっている可能性もなくはない。いや、そんなことは有り得ないか、初恋の女性とは男にとって特別なもの、他の女と間違えることはないかもしれない。
源次は語り口がうまいとはいえず、まわりくどい表現が多かったので、浅川はさすがにうんざりしてきた。ところが、「シズちゃんが、変わっちまったのは、あのせいなんだよなぁ、行者様の石像を、海ん中から拾い上げたのがよぉ……、満月の夜だったよなぁ」とそんなことを言い始めたことにより、浅川と竜司の興味は俄然《がぜん》引きつけられた。彼の話によると、山村貞子の母である志津子に不思議な力が宿るようになったことと、満月の海とは深く係わっていた。そして、そのことが起こった晩、源次はすぐ彼女の傍らで舟を漕《こ》いでいたらしい。それは、昭和二十一年の、夏も終わろうとするある夜のことで、志津子二十一歳、源次は二十四歳であった。
残暑は厳しく、夜になってもいっこうに涼しくはならなかったと、源次は四十四年前の出来事をまるで昨夕のことのように言う。
そんな暑い夜、源次は縁側に座ってうちわでパタパタとあおぎながら、波の静かな月明かりの中、凪《な》いだ海が夜空を映すのを見ていたが、静けさを打ち破るように志津子が家の前の坂道を駆け上ってきて目の前に立ち、「源ちゃ、釣りに行くから、舟を出して!」とわけも言わずに袖《そで》を引っ張った。理由を聞いても、「こんな月夜はまたとない」と言うだけで、源次はぼーっとして大島一きれいなアンコをうっとり眺めるばかり。「バカ面しないで、さ、早く……」と、志津子は源次の襟首を引っ張ると無理やり立たせた。いつも志津子の言いなりになって引っ張り回されていた源次は、「釣るって、一体なにを?」と聞き返したが、志津子は沖を見つめながら「行者様の石像さ」とそっけなく言う。
「行者様の……?」
その日の昼頃、占領軍の兵士が行者様の石像を海に放りこんでしまったと、志津子は眉《まゆ》をきっとつり上げて、悔しそうに言った。
東の海岸の中程にある行者浜には行者|窟《くつ》と呼ばれる小さな洞穴があり、そこには紀元六九九年ここに流された役小角《えんのおづぬ》という行者を模した石像が安置されていた。小角は生まれながらにして博識で、修行の果てに呪術《じゆじゆつ》仙術を体得し、鬼神をも自在にあやつることができたという。ところが、小角の示した予知能力は文武の世を治める権力者たちを恐れさせ、彼は社会を惑わす罪人としてここ伊豆大島に流されてしまった。今から千三百年近くも前の話である。小角は海際の洞窟《どうくつ》にこもってますます修行を積み、島人たちに農業や漁業を教えその人徳を敬われたが、その後許され、本土に戻り修験道を開くことになる。彼が大島に居た期間は三年ほどとされているが、その間に鉄の下駄をはいて富士山にまで飛んだという伝説も残っている。島人の彼を慕う気持ちは強く、行者窟は島内一の霊場となり、行者祭と呼ばれる祭りは毎年六月十五日に行われていた。
ところが太平洋戦争の終戦直後、神仏に対する政策の一環として、占領軍は、行者窟に祭られた役小角の石像を海中に投棄してしまう。この瞬間を志津子は見逃さなかったらしい。小角への信仰の厚い志津子はミミズ鼻の岩陰に隠れ、米海軍の巡視艇から投げ込まれた石像の位置をしっかりと頭の中に叩《たた》き込んだのだった。
釣り上げるのが行者様の石像と聞いて、源次は耳を疑った。漁師としての腕は確かだったが、石像を釣り上げた経験はこれまでに一度もない。しかし、密かに思いを寄せる志津子の頼みをむげに断れるはずもなく、ここはぜがひでも彼女に恩を売ろうとばかり、夜の海に舟を出した。なによりも、こんなきれいな月夜にふたりだけで海に出られるのはとても素晴らしいことと思われた。
行者浜とミミズ鼻のふたところに火をたいて目印とし、沖へ沖へとこぎ出した。ふたりともこのあたりの海は熟知していた。海底がどうなっていて、深さがどのくらいなのか……、そして、ここに泳ぐ魚の群れ。しかし、今は夜、月がいくら明るいとはいえ、海に潜れば光はまったく届かない。源次には、志津子がどうやって石像を見つけるつもりなのかわからなかった。櫓《ろ》を動かしながら、源次はそのことを聞いたが、志津子は答えず、浜辺で燃える焚火《たきび》を見ながら自分のいる位置を確認しただけだった。沖から眺め、岸で燃える二つの炎の距離を目測して、今の位置をおおまかに知ったのかもしれない。志津子は、数百メートルばかり漕ぎ出したところで、「止めてちょうだい!」と叫び声を上げた。
そして、艫《とも》に寄って海水に顔を近づけ、暗い海の中を覗《のぞ》くと、「後ろを向いてて」と源次に命令した。源次は、これから志津子が何をしようとしているのかわかり、胸が高鳴った。志津子は立ち上がるとカスリの着物を脱いでいった。肌をすべる衣の音に、想像力はよりかきたてられ、源次は息苦しさを覚える。海に飛び込む音が背後で起こり、波しぶきが肩先にかかると、そっと振り向いてみる。志津子は手ぬぐいで長い黒髪を束ね、細い綱の先を口にくわえて海から顔を出して立ち泳ぎをしている。そうして、胸から上を水の上に出して大きくふたつ息を吸い、海の底へと潜っていった。
何回海面から顔を出して息つぎをしただろう……、最後に顔を上げたとき彼女の口には綱の先がなかった。行者様にしっかりゆわえてきたから、さあ、引き上げてと、志津子は震える声で言う。
舟の舳先《へさき》に体を移し、源次は綱を引いた。志津子はいつのまにか舟に上がり、着物をはおって源次の横に並び、彼が石像を引き上げるのを手伝った。引き上げた石像を舟の中央に置き、ふたりは岸へと戻ったが、その間中源次と志津子は口をきかなかった。なぜか、全ての質問を閉ざす雰囲気があったからだ。真っ暗な海の中でなぜ石像の場所がわかったのか、源次には不思議だった。舟を降り、それから三日後に源次が志津子に聞いたところによると、行者様の石像が海の底で呼んでいたと言う。鬼神を従えた石像の緑色の目が、暗い海の底でキラリと光った……、志津子はそう言ったのだ。
それから後、志津子は体の不調を訴えるようになった。これまで頭が痛んだこともなかったのに、きりっとした痛みを伴って見たこともない情景が素早く脳裏に展開することが多くなった。そして、そうやってかいま見た風景は、近い将来必ず現実のものとなる。源次が詳しく聞いたところによると、未来の風景がさっと脳裏に差し挟まれる時にはきまって柑橘《かんきつ》系の香りが鼻を刺激するという。小田原に嫁に行った源次の姉の死ぬシーンを、その直前に予知したのも志津子だった。といっても、未来に起こる出来事を意識的に予知できるわけではないらしい。何の前触れもなく、ある情景がキラッとした輝きをもって脳裏にひらめくだけで、そのシーンでなくてはならない必然性が見当らない。だから、人から頼まれて、その人の未来を言い当てることを志津子はしなかった。
翌年、志津子は源次が引き止めるのもきかず上京し、伊熊平八郎と知り合って彼の子を孕《はら》む。そして、その年の暮れ、山村志津子は故郷に戻って女の子を産むことになる。その子が貞子であった。
源次の話はいつ終わるともしれなかった。口ぶりからして、その十年後に山村志津子が三原山の火口に飛び込んだのは、恋人の伊熊平八郎のせいと決めつけているふしがあった。恋仇《こいがたき》への当然の思いだろうが、恨みが混ざるとやはり話は聞き辛《つら》くなる。ただひとつ収穫だったのは、山村貞子の母である志津子にも予知能力があり、その力を与えたのは役小角の石像かもしれないということであった。
ちょうどその時、ファクシミリは動き出した。プリントアウトされたのは拡大された山村貞子の顔写真で、吉野が劇団|飛翔《ひしよう》で手に入れたものであった。
浅川は妙に感動的な気分になっていた。今初めて、山村貞子なる女性の容姿に触れたからだ。ほんの一時ではあっても、自分はこの女と感覚を共にし、同じ視点から風景を眺めたのだ。暗いベッドの中、相手の顔も見ずに体を求め合い、同時にオーガズムを迎えた愛《いと》しい女の顔に薄日が差し、ようやくその容貌《ようぼう》が明らかになる……。おぞましく思えないのが不思議なくらいだ。それもそのはず、ファクシミリで送られた写真は多少輪郭がぼやけていたが、山村貞子の美しく整った顔立ちとその魅力を余すところなく伝えている。
「いい女じゃねえか」
竜司が言った。浅川はふと高野舞を思い出した。純粋に顔だけを比較すれば、山村貞子のほうが高野舞よりも数段美しいといえる。しかし、高野舞には匂う程の女の色香があった。しかるに、山村貞子を表現するに「不気味」とは。写真からではその「不気味さ」は伝わらない。山村貞子の持つ常人にはない力が、回りの人々に影響を与えたに違いない。
二枚目のファックスには、山村貞子の母、志津子に関する情報がまとめられていた。それはちょうど、今さっき聞いたばかりの源次の話の続きにあたる。
一九四七年、故郷の差木地を後に上京した山村志津子は、突然の頭痛に倒れて病院に運び込まれ、そこの医者の紹介でT大学精神科助教授の伊熊平八郎と知り合う。伊熊平八郎は催眠現象の科学的解明に取り組んでいたが、志津子に驚くべき透視能力があることを発見して大きな興味を抱く。それは彼の研究テーマそのものを変えてしまうほどの出来事であった。以後、伊熊平八郎は志津子を被験者として、超能力に関する研究に没頭する。しかし、ふたりは単に研究者と被験者という関係を越え、妻子持ちにもかかわらず伊熊は志津子に恋心を抱くようになる。その年の終わり、伊熊の子を身ごもった志津子は、世間の目を逃れるように故郷の伊豆大島差木地に戻り、そこで山村貞子を産む。志津子は娘を差木地に残してすぐに上京するが、三年後、貞子を連れ戻すために再び差木地を訪れる。それ以後三原山の火口に身を投げて自殺するまで、志津子は娘をそばに置いて片時も離さなかったらしい。
さて、一九五〇年代に入ると、伊熊平八郎と山村志津子のコンビは大きく週刊誌や新聞の紙上を賑《にぎ》わすことになる。超能力の科学的根拠がにわかにクローズアップされたからだ。世間は、T大学助教授という伊熊平八郎の地位に眩惑《げんわく》されたのか、最初はこぞって志津子の超能力を信じる側に回った。マスコミもどちらかといえば、まあ好意的な書き方をしていた。しかし、インチキに決まっているという批判は依然根強く、より権威のある学者集団が一言「疑わしい」とコメントをしただけで、大勢は志津子と伊熊平八郎に不利な方向に流れ始めた。
志津子が発揮した超能力とは、主に念写、透視、予知のいわゆるESPであって、実際に物に触れずに動かしたりする念動を発揮することはなかった。ある雑誌によれば、彼女は、厳重に封印されたフィルムを額に当てるだけで、指定されたとおりの図柄を念写することができたし、同じく厳重に封印された封筒の中身を百発百中で言い当てることもできた。しかし、別の雑誌は、志津子はペテン師に過ぎず、多少修行を積んだマジシャンならば、いともたやすく同じことができると主張した。こうして、世間の風潮は次第に志津子と伊熊平八郎に冷たくなっていった。
そんな折り、志津子は不幸に見舞われる。一九五四年、志津子はふたり目の赤ん坊を産むのだが、生後四ケ月で病死させてしまう。赤ん坊は男の子であった。この時七歳であった貞子は、生まれたばかりの自分の弟に特別の愛情を注いだらしい。
翌五五年、伊熊平八郎は、公衆の面前で志津子の能力をお見せしようとマスコミを挑発する。志津子は初め、これを嫌がった。衆人環視の中では思うように意識を集中できないから、失敗する恐れがあると。しかし、彼は譲らなかった。マスコミからペテン師呼ばわりされることにはもう我慢ならず、明白な証拠を差し出す以外に世間の鼻をあかす方法はないと判断したからだ。
当日、百人近い報道人と学者の見守る中、志津子はいやいやながら実験台に登った。息子を死なせて以来、精神的に参っていたこともあり、とてもベストコンディションとはいえない状態であった。実験はごく簡単な方法で行われようとしていた。鉛の容器に入れられた二つのサイコロの目を言い当てさえすればいいのだ。普段の力を発揮すれば、全く問題はないはずであった。しかし、志津子は、彼女を取り囲む百人がすべて、自分の失敗を待ち望んでいることを「知って」しまう。志津子は体を震わせ、床に身をこごめ、「こんなこと、もういや!」と悲痛な叫びを上げた。志津子の釈明はこうであった。人間はだれでも少なからず「念」の力を持っている。私はただその力が人よりも勝っているだけ。百人もの人が失敗を念じている中にあっては、私の力なんて妨害され働かなくなってしまう。その後を引き継いだのは伊熊平八郎であった。「いや、百人ではない。今や、日本の国民全てが、私の研究の成果を踏みにじろうとしている。マスコミにあおられ、世論が一方向に流れ始めると、マスコミは多くの国民が望むこと以外口にしなくなる。恥を知れ!」結局、透視能力の公開実験は、伊熊平八郎のマスコミ批判によって幕を閉じた。
マスコミ関係者は、伊熊平八郎の怒号を、実験が失敗した原因を敵であるマスコミになすりつけるための言い掛かりと受け止め、翌日の紙面で一斉に書き立てた。……やはりインチキ、……化けの皮はがれる、……ペテン師T大助教授、……五年に及ぶ議論に終止符、……現代科学の勝利。志津子と伊熊平八郎を擁護する記事はひとつとしてなかったのだ。
その年の暮れ、伊熊平八郎は妻と離婚し、T大を辞職した。この頃から志津子の被害妄想がひどくなる。その後、伊熊平八郎は自らも超能力を身につけようと、山にこもり、滝に打たれたりするが、無理がたたって肺結核にかかり、箱根の療養所に入院することになる。志津子の精神状態はますますひどくなった。八歳の貞子は、マスコミの目と世間の嘲笑《ちょうしょう》から逃れるために、志津子を説得して故郷の差木地に戻るが、ちょっと目を離したすきに、母は三原山の火口に飛び込んでしまう。こうして、三人の生活は脆《もろ》くも崩れ去ったのだ。
浅川と竜司は同時に二枚のプリントを読み終わった。
「怨念《おんねん》だな」
竜司はつぶやいた。
「怨念?」
「ああ、母が三原山に飛び込んだ時、娘の貞子はどんな思いを抱いたか」
「マスコミへの恨み、か」
「マスコミだけじゃねえ。最初はチヤホヤしておきながら、趨勢《すうせい》が変わるや嘲笑を浴びせ家族を破滅に追いやった一般大衆への恨み。山村貞子は、三歳から十歳まで父と母のそばにくっついていたんだろ。なら、そういった世間の風潮を肌で感じ取ったはずだ」
「だからって、何も、無差別な攻撃を仕掛けなくたって……」
浅川が弁解しかけたのは、もちろん自分がマスコミの一員であることを意識してのことである。彼は心の中で、弁解、いや、懇願していた。僕もあなたと同じようにマスコミの体質には批判的なんだと。
「なにぶつぶつ言ってんだ?」
「え?」
いつの間にか声に出して念仏のように唱えていたことに、浅川は気付かなかった。
「なあ、これであのビデオの映像がある程度解明できただろ。三原山は、母の身投げの場所であり、貞子が噴火を予知した火山だから、そこにはかなり強い念が働いたはずだ。次のシーン、ぼんやりと浮かび上がった『山』の文字、あれは、おそらく山村貞子が幼い頃、初めて成功させた念写じゃねえかな」
「幼い頃?」
なぜ幼い頃の念写でなければならないのか、浅川には納得がいかない。
「ああ、四歳か五歳の頃のだ。そして、次のサイコロのシーン。貞子は母の公開実験の場にいて、サイコロの目を言い当てる母を心配そうに見守っていたってことさ」
「え、ちょっと待てよ、山村貞子には鉛のボールの中を転がるサイコロの目がはっきりと見えていたぜ」
浅川も竜司も、そのシーンを「自分の目」で見たのだ。間違えるわけがない。
「それがどうした?」
「母の志津子は、透視できなかったんだろ」
「母にできなくて、娘にできるのがそんなに不思議なのかい? いいかい、貞子はその当時まだ七歳だったけれど、母をはるかに凌駕《りようが》する能力を備えていたんだ。百人の人間の無意識の念の力などものともしない程のな。考えてもみろよ、ブラウン管に映像を送り込むんだぜ。フィルムに光を当てるのとはまったく異なる仕組みでテレビは映像を写し出す。五百二十五本の走査線を走査するって方法でな。貞子にはそれができる。桁《けた》外れの力だ」
浅川はどうも釈然としない。
「それほどの能力があるなら、三浦博士のもとに送られた念写フィルムに、もっと高度な図柄が写っていてもいいはずじゃないか」
「おまえも鈍い奴《やつ》だな。いいか、母の志津子は超能力を人に知られたが故に、不幸な生涯を送らざるを得なかった。娘に同じ轍《てつ》は踏ませたくなかったんだろ。能力を隠し、ごく平凡に生きること、母は娘にそう言い聞かせたに違いない。貞子は力をぐっと押さえ、ごく一般的な念写になるよう調整したのさ」
山村貞子は、劇団員が帰った後もひとり稽古場《けいこば》に残り、当時まだ貴重であったテレビに向かって、自分の力を試していたのだ。けっして自分の能力を人に知られないよう、注意しながら。
「次のシーンに登場する老婆はだれだ?」
浅川が聞いた。
「だれかはわからねえ、おそらく、あのばーさん、貞子の夢かなにかに現れて、予言めいたことを耳打ちするんじゃねえのか、昔の方言使ってよぉ。おまえも気付いただろうが、この島の言葉は殆《ほとん》ど標準語といっていい。あのばーさん、かなりの年寄りだぜ。鎌倉時代に生きていたとかよぉ、それとも、ひょっとしたら、役小角となにか係わりがあるのかもしれねえ」
……うぬはだーせんよごらをあげる。おまえは来年子供を産む。
「あの予言、本当なのかな」
「ああ、あれか。次にすぐ男の赤ん坊のシーンがあるだろ。だから、オレは、最初、山村貞子が男の赤ん坊を産んだものと考えたんだが、このファックスを見ると、どうも違うような気がするな」
「生後四ケ月で死んだ弟……」
「そう、そっちのほうだと思う」
「じゃあ、どうなる、予言のほうは。老婆はどう見ても山村貞子に向かって『うぬ』と呼びかけてるんだぜ、貞子は子供を産んだのか?」
「わからねえ、ばーさんの言葉を信じりゃ、たぶん、産んだんじゃねえかい」
「だれの子を?」
「知るか、そんなこと。なあ、おまえ、オレがなんでも知ってると思うなよ。オレはただ推測でものを言っているに過ぎないんだからな」
もし、山村貞子の子供が存在するのなら、それはだれの子で今何をしている?
竜司は突然立ち上がり、そのため膝《ひざ》をテーブルの裏面にしこたま打ちつけた。
「やけに腹が減ったと思えば、もう昼をまわってるじゃねえか。おい、浅川、メシ食いにいくぞ」
竜司はそう言うと、膝頭を手でさすりながらひとりでさっさと玄関に向かった。浅川に食欲はなかったが、気にかかることがあって食事につき合うことにした。竜司から調べてくれと頼まれていたが、どこから手をつけていいかわからずそのままになっていたことを思い出したのだ。それは、ビデオテープのラストに現れる男はだれかという疑問。父の伊熊平八郎かもしれない、しかし、それにしては、山村貞子の彼を見る視線に敵意が多過ぎる。その男の顔をブラウン管で見た時、浅川は身体《からだ》の奥のほうに鈍く重い痛みを感じ、強い嫌悪感を同時に抱いた。かなり整った顔立ちの男で、特に目つきが悪いわけでもないのに、なぜ嫌悪感を抱いてしまうのか不思議だった。どう見ても、山村貞子の目は肉親を見つめるものではなかった。吉野の調べたレポートには、貞子が父親と対立していたというような記述はどこにもない。むしろ、彼女は両親|想《おも》いの娘であった印象を受ける。この男の身元を発見するのはまず不可能という気がする。三十年近い年月は男の顔をずいぶん変えてしまっていることだろう。それでも、万一のことを考え、吉野に伊熊平八郎の顔写真を捜し出すよう頼むべきか、そして、竜司はこの点に関してどういう考えを持っているのか。そんなことを相談するためもあって、浅川は竜司の後を追って外に出た。
ビュウビュウと風の音がする。傘をさしても意味がなく、浅川と竜司は元町港のすぐ前のスナックに背を丸めて駆け込んだ。
「ビールでも飲むか」
竜司は浅川の返事も待たず、ウエイトレスに向かって「ビール二本」と叫んでいた。
「竜司、さっきの話の続きだが。おまえの考えでは、あのビデオの映像は、ようするに何だと思う?」
「わからねえ」
竜司は焼肉定食を食べるのに忙しく、素っ気無く答えたきり、顔を上げようともしなかった。浅川はつまみのソーセージをフォークで刺し、ビールを口に運んだ。窓の向こうに棧橋が見える。東海汽船の切符売り場に人影はなく、どこもかしこもしんと静まり返っていた。島に閉じ込められた旅行客たちは、旅館や民宿の窓からこの暗い空と海を心配そうに眺めているに違いない。
竜司が顔を上げた。
「おまえよぉ、人間が死ぬ瞬間、どんなことを頭に思い浮かべるか、ちらっと聞いたことあるだろ」
浅川は窓の外に向けていた視線を正面に戻した。
「ああ、心に残る印象的なシーンがフラッシュバックのごとく展開して……」
浅川は、ある作家の体験談を本で読んだことがある。その作家には、山道で車を運転中ハンドル操作を誤り深い谷底へ車もろとも転落したという経験があった。車が道路から飛び出して宙に浮いた瞬間、作家は、あ、自分はもうこれで死ぬなと悟り、そして、悟った瞬間、それまでの人生の様々なシーンがばたばたと音をたて、目の当りに、細部まで明瞭《めいりょう》に、頭の中に閃《ひらめ》いていったと言う。結局、作家は奇跡的に一命を取りとめたのだが、その時の経験はかなり鮮明に意識に残っていたらしい。
「まさか、それ、だというのかい?」
浅川が聞いた。竜司はウエイトレスに手を上げて、ビールをもう一本注文した。
「オレはな、ただそのことを連想しただけだ。ビデオに並んだシーンはどれもこれも山村貞子の念力や思いが強く働いたであろう瞬間を捉《とら》えているからな。人生における印象的なシーン、と言えないこともないんじゃないかな」
「なるほど、おい、ということは、つまり」
「そうだ、その可能性が強い」
……山村貞子はもうこの世に存在しない?
そして、死ぬ瞬間に彼女の頭を飛び交った様々なシーンが、こんな形で現世に残ってしまった?
「なぜ彼女は死んだんだ? それともうひとつ、ビデオのラストに映った男と貞子との関係は?」
「そうなんでもかんでもオレに質問するなって。こっちだってわからないことだらけなんだから」
浅川は不服そうな顔をしていた。
「なあ、少しは自分の頭で考えろや、おまえさん、ちょっと人に甘え過ぎだぜ。もし、オレになにかあって、おまえ一人でオマジナイの謎を解くハメになったらどうする?」
そんなことは有り得ない。浅川が死に、竜司ひとりでオマジナイを解くことはあるかもしれない、しかし、その逆のパターンはない。浅川はその点にだけは確信を持っていた。
通信部に戻ると早津が言った。
「吉野って方から電話がありましたよ。外からなので、十分したらもう一度かけ直すって言ってました」
浅川は電話の前に座り込み、いい知らせであることを祈った。ベルが鳴った。吉野からであった。
「さっきから何度も電話してるんだが……」
吉野の声にはささやかな非難が含まれている。
「すみません、食事に出ていて」
「それでと、……ファックス届いたかい」
吉野の口調がわずかに変わった。非難の響きが消え、その代わりに優しさが含まれる。浅川はいやな予感がした。
「ええ、おかげでとても参考になりました」
浅川はそこで受話器を持つ手を左から右に代えた。
「で、どうです、わかりましたか? 山村貞子のその後の足取り」
浅川は勢い込んで尋ねた。しかし、吉野の返事には間があった。
「だめだ。糸は途切れた」
聞いたとたん、浅川の顔は今にも泣き出しそうに歪《ゆが》んでいった。竜司は、期待に膨らんでいた人間の顔が見る見る絶望へと変化していく様を、さもおかしそうに観察しながら畳の上にどかっと座り、庭前に向けて両足を投げ出した。
「途切れたって、どういうことです!」
浅川の声がうわずっている。
「山村貞子と同期で劇団に入った研究生のうち、現在消息がわかった者は四名。その四人に電話で聞いてみたところ、だれも何も知らないんだ。彼らが、彼らといっても、みんなもう五十前後のおっさんだが、四人とも口を揃《そろ》えて言うには、山村貞子は劇団代表の重森が死んだ直後から見かけなくなってしまったということだけ、それ以外は一切、山村貞子に関する情報は得られない」
「まさか、これで終わりってわけじゃないでしょうね」
「といったって、おまえ、打つ手が……」
「オレはあしたの夜十時に死ぬ運命にあるんですよ。オレだけじゃない、妻と娘は日曜日の午前十一時」
竜司が後ろから、
「ま、私のこと忘れてる、いやぁね」
とちゃちゃを入れたが、浅川は相手にしないで続けた。
「まだ他にも手はあるでしょ。研究生以外に山村貞子の消息を知っている人がいるかもしれないし。ねえ、家族の命がかかってるんです」
「そうとも限らないだろ」
「え、どういうこと?」
「締め切りを迎えても、おまえさんが生きてるってことさ」
「信じてないんですね」
浅川は目の前が真っ暗になる思いであった。
「百パーセント信じろってほうが、無理な話さ」
「いいですか、吉野さん」どう言えばいいんだ、どうすればこの男を説得できる?「オレだってねえ、もちろん半分も信じちゃいませんよ。ばからしい、なにがオマジナイだ。でもね、いいですか、仮に、六分の一の確率でこれが真実だとして、あなたは、六発中一発の割合で弾丸の飛び出す拳銃《けんじゅう》をこめかみに当て、その引き金を引くことができますか。あなたは、あなたの家族をそんな危険なロシアンルーレットの賭《か》けに巻き込むことができますか。できないでしょ、銃口を下におろし、できれば拳銃ごと海の中にでも投げ込もうとするのが当り前だろ」
浅川は一気にまくしたてた。後ろのほうで竜司が、「オレたちはばかだ、ばかだ」とわめいている。
「うるさい! 静かにしろ」
浅川は受話器を手の平で押さえ、振り向いて竜司を怒鳴《どな》りつけた。
「どうかしたのか?」
吉野が声のトーンを落とした。
「いえ、なんでもありません。吉野さん、お願いしますよ、頼りになるのは……」
言いかけた浅川の腕を、竜司が引っ張った。浅川は怒りに任せて勢いよく振り返ったが、そこに見たのは思いのほか真剣な竜司の顔であった。
「オレたちはばかだ。オレもおまえも冷静さを失っている」
竜司が小声で言った。
「ちょっと待ってください」と浅川は受話器を下げる。「どうかしたのか?」
「なぜこんな簡単なことに気付かない。なにも山村貞子の足取りを年代順に追う必要はねえんだ。逆から辿《たど》ったって構わねえじゃねえか。なぜ、B―4号棟でなければならないんだ、なぜ、ビラ・ロッグキャビンでなければならないんだ、なぜ、南箱根パシフィックランドでなければならないんだ?」
浅川はあっという表情をして、あることに思い至った。そして、いくらか気分を落ち着けて、受話器を持ち直した。
「吉野さん」
吉野は切らずに待っていた。「吉野さん、劇団の線はひとまずおいてください。それより、至急調べてもらいたいことが出てきました。南箱根パシフィックランドのことはもうお話ししたと思いますけど……」
「ああ、聞いている。リゾートクラブだろ」
「ええ、僕の記憶では、確か十年程前にゴルフ場ができ、それに付随するかたちで、現在の施設が整っていったと思うんですが……、いいですか、調べてほしいのは、南箱根パシフィックランドができる以前、そこに何があったのかということ」
吉野が走らせるペンの音が聞こえる。
「何があったって、おまえ、ただの高原じゃねえのか」
「そうかもしれない、でも、そうじゃないかもしれない」
竜司がまた浅川の袖《そで》を引いた。「それと、配置図だ。いいか、パシフィックランドができる前、あの地に他の建物が建っていたとしたら、その建物の配置図も手に入れるよう、電話の主に言ってくれ」
浅川はその通り吉野に伝え、受話器を置いた。絶対に手がかりを掴《つか》んでくれと、強く念じながら。そう、だれにだって念じる力はあるのだ。
10
十月十八日 木曜日
風はいくぶん強く、晴れ渡った空に白い雲が低く流れていた。台風二十一号は昨日の夕方房総半島をかすめるようにして北東の海上に消え去り、その後を襲ったのは目が痛むばかりに青々とした海の色であった。さわやかな秋晴れとは裏腹に、浅川は、まるで死刑執行を目前にした死刑囚の心境で船のデッキに立ち、波頭を眺めていた。視線を上に向ければ、伊豆高原の稜線《りようせん》がゆったりと中空を走っている。とうとう「締め切り」の日を迎えてしまったのだ。今、午前十時、あと十二時間もすれば、その時は間違いなくやってくる。ビラ・ロッグキャビンでビデオを見てしまってから一週間が過ぎようとしていた。長かった……、というのが実感だ。普通の人が一生かかっても経験できないほどの恐怖を、たった一週間ですべて体験してしまったのだから、長いと感じるのも当然だろう。
水曜日まる一日大島に閉じ込められたのがどう響くか、浅川にはわからない。電話口ではつい興奮して調査の遅れをなじってしまったが、今になって冷静に考えれば、吉野は実によくやってくれたと感謝の気持ちは大きかった。もし、浅川自ら調査に走り回っていたら、焦慮に駆られてポイントのずれた方向に迷い込んでいたかもしれない。
……これでよかったのだ、台風はこっちに味方してくれた。
そう思わなければやり切れなかった。死ぬ瞬間、ああすればよかった、こうするべきだったと後悔しないよう、浅川は心の準備をしていた。
最後に残された手がかりは手元にある三枚のプリント。きのう半日かけて吉野が調べ上げ、ファックスで送ってきたものだ。南箱根パシフィックランドができる前、やはりその地には珍しい施設が存在した。しかし、珍しいといっても、当時にしてみればごくありふれた建物であった。以前そこにあったのは、結核療養所、いわゆるサナトリウムである。
結核、現在ではもうこの病気を恐れる者はあまりいないが、戦前の小説を読めば必ずといっていいほどこの名を目にしたものだ。トーマス・マンに「魔の山」を書くきっかけを与えたのも結核菌ならば、梶井基次郎をして澄みきった退廃を詩《うた》わしめたのも結核菌であった。しかし、一九四四年に発見されたストレプトマイシン、五〇年に発見されたヒドラジドは、結核から文学的な香りを奪い去り、一介の伝染病の地位にまで追いやってしまった。大正から昭和にかけて、この病気で死ぬ者は毎年二十万人にも上ったが、その数字は戦後急激に下降してゆく。それでも、結核菌は死滅したわけではない。現在でもこの菌に冒されて死ぬ者は毎年五千人ほどいる。
さて、結核が猛威をふるった時代、この病気を治すために必要とされたのは、きれいに澄んだ空気と閑静な環境であった。したがって、結核療養所は皆高原などに建てられたわけだが、科学療法の進歩にともなって患者の数が減ると、療養所としての機能を変えざるを得なくなってくる。つまり、内科、胃腸科、外科などを併せて設けないと経営面において成り立たなくなってしまったのだ。一九六〇年代の半ば、南箱根にあったサナトリウムにもこうした変革期が訪れた。しかし、状況は困難を極めた。あまりに交通の便の悪い場所に位置したからだ。結核の場合、一旦《いったん》入院すればなかなか退院できないので、交通の便は問題とならない。しかし、総合病院への変貌《へんぼう》を図るには、それは致命的であった。こうして、南箱根療養所は一九七二年に閉鎖されることになった。
そこに目をつけたのが、かねてよりゴルフ場やリゾート施設の建設地を物色していたパシフィック・リゾートクラブであった。一九七五年、パシフィック・リゾートは、南箱根療養所跡地を含めた高原地帯を購入、すぐにゴルフ場の建設に着手し、それ以後、建て売りの別荘、ホテル、プール、アスレチッククラブ、テニスコートと、リゾート施設を次々と整えていったのだ。そして、ビラ・ロッグキャビンが完成したのが、今から半年前の四月。
「どんなところだ?」
デッキにいたはずの竜司が、いつの間にか浅川の隣の席にきていた。
「え?」
「南箱根パシフィックランドだよ」
……そうか、竜司はまだあの地に行ったことがないんだ。
「夜景のきれいなところだ」
生命感の希薄な雰囲気、オレンジ色のライトの下、ポーンポーンと響いていたテニスボールの音が、浅川の耳に甦《よみがえ》った。
……あの雰囲気はどこからくるんだ? 療養所があったころ、そこで何人の人が亡くなったのだろうか。
浅川はそんなことを考えながら、眼下に美しく広がる沼津と三島の夜景を思い浮かべていたのだった。
浅川は最初のプリントを下に回し、二枚目と三枚目を膝《ひざ》の上に広げた。二枚目のプリントには、療養所の建物の簡単な配置図、そして、三枚目のプリントには、療養所の現在の姿である南箱根パシフィックランドインフォメーションセンターとレストランのある三階建てのしゃれた建物が写っている。浅川が訪れた時、ふと車を止め、つかつかと入ってボーイにビラ・ロッグキャビンの場所を聞いた建物である。浅川は二枚のプリントをかわるがわる見つめた。三十年近い時の流れが図柄となって表れている。山に沿ってカーブする道を基準にしなければ、どことどこが一致するのかまるでわからない。浅川は実際の風景を脳裏に浮かべながら、ビラ・ロッグキャビンの建つ場所には、以前何があったのだろうと、二枚目のプリントに描かれた地図を辿《たど》った。明確に位置を指定できるわけではない、が、どうやってその二枚のプリントを重ね合わせても、ビラ・ロッグキャビンの場所には何も存在しないのがわかる。谷側の斜面を覆ううっそうとした木々の茂みがあるのみであった。
浅川はもう一度、一枚目のプリントに戻った。南箱根療養所から南箱根パシフィックランドへの変遷、それ以外に、もうひとつ重要な情報が書き記されている。長尾城太郎、五十七歳。熱海市で内科・小児科医院を経営する開業医である。長尾は一九六二年から六七年までの五年間、南箱根療養所の医師を勤めた。インターンを終えたばかりのまだ若かりし頃のことである。当時南箱根療養所の医師を勤め、現在も存命中なのは、長崎の娘夫婦のもとに隠居する田中洋三と長尾城太郎のふたりだけであった。院長をはじめそれ以外の医師は皆、もうこの世にはない。従って、南箱根療養所に関しての情報を聞き出そうとするなら、長尾医師をおいて他になかった。田中洋三はもうすぐ八十歳という高齢であり、長崎という住所を考えればとても取材に出向く時間はなかった。
だれでもいいから生き証人を見つけるよう、浅川は必死になって吉野に頼み込み、吉野は怒鳴《どな》り返したいところをがまんしながら、どうにか長尾医師の名前を調べ出したのだ。彼が書き送ってきたのは名前と住所だけではなかった。長尾医師に関するおもしろい経歴も付け加えてきたのだ。なぜ、吉野がこのことに興味を抱いたのか、おそらく、調査しているうちにふと聞きかじり、意味もなく書き記しただけなのだろう。長尾は一九六二年から六七年までの五年間、療養所にて一日も休まず医師としての使命を全うしたわけではない。二週間という短い期間ではあるが、診る側から診られる側に回って隔離病棟に収容されたことがあった。一九六六年の夏、山間部の隔離施設を訪れた際、不注意にも患者から天然痘《てんねんとう》ウィルスをうつされてしまったのだ。幸い、数年前に種痘《しゆとう》を受けていたので大事には至らず、痘疹《とうしん》も少なく、二度目の発熱もなく、ごく軽い症状で終わった。しかし、感染を防ぐため、隔離治療を受けざるを得なかった。おもしろいのは、それによって長尾の名が医学的な資料に残ることになったことである。すなわち、日本で最後の天然痘患者。ギネスブックに様々な記録が載る昨今、こういった記録にどれだけの価値があるか知らないが、吉野にはおもしろいと感じられたに違いない。天然痘、浅川や竜司の世代にとって、この病名はもう死語になりつつある。
「竜司、おまえ、天然痘にかかったことあるか?」
浅川が聞いた。
「バカか、おまえ。あるわけねえだろ。死滅したんだ、そんなもの」
「死滅?」
「ああ、人類の叡知《えいち》によって根絶された。もうこの世に天然痘は存在しない」
竜司の言う通り、世界保健機構(WHO)のワクチンによる徹底的な掃討作戦により、天然痘ウィルスは一九七五年、ほぼ地球上から姿を消してしまった。世界最後の天然痘患者、この名ももちろん記録に残っている。一九七七年十月二十六日に発疹《はつしん》したアフリカ、ソマリアの青年である。
「ウィルスが死滅する?……なあ、そんなことがありうるのかい」
ウィルスに関する知識を、浅川はあまり持ち合わせてはいない。しかし、殺しても、殺しても、姿を変え、しぶとく生きるという印象がどうも拭《ぬぐ》い切れない。
「ウィルスはなあ、生命と非生命の境界線をさまよっているものなんだ。もとはといえば人間の細胞内の遺伝子だって説もあるくらいだ。どこでどう産まれてきたのかはわからない。ただ、生命の誕生とその進化に大きく係わっていることは確かだ」
竜司は、頭の後ろで組んでいた手を広げ、大きく伸びをした。その目が生き生きと輝いている。
「なあ、浅川。おもしろいとは思わねえか。細胞の中の遺伝子が飛び出して、別の生き物になるなんてよぉ。相反するものはすべて、その源において同一であったかもしれねえんだ。光と闇だってよぉ、ビッグバンが起こる前には仲良く、矛盾なく同居していた。神と悪魔もそうだ。ようするに堕落した神が悪魔と呼ばれるようになっただけで、もとは同じなんだ。男と女だってそうだぜ、もとの姿は両性具有、ミミズやナメクジみたいに女性性器と男性性器を同時に兼ね備えているんだ。それこそ、完璧な力と美の象徴だと思わねえか?」
竜司はそう言って笑った。「へへへ、セックスする手間が省けるんだから楽なもんさ」
なにがおかしいんだろうと、浅川はその顔を覗《のぞ》き込む。
……女性性器と男性性器を兼ね備えた生物が完全な美でありえるわけがない。
「他にも死滅したウィルスってあるのか?」
「さあね、そんなに興味あるなら、東京に戻ってとことん調べてみりゃいいじゃねえか」
「戻れたらな」
「へへ、心配するな、戻れるよ」
その時、浅川と竜司を乗せた高速艇はちょうど大島と伊東を結ぶ線の中間にあった。飛行機を使えばもっと早く東京に戻ることができたが、ふたりは熱海に住む長尾城太郎を訪ねるため、わざわざ船の便を利用したのだ。
前方に、熱海後楽園の観覧車が見えてくる。時間通り、十時五十分の着。浅川はタラップを降りると、レンタカーを止めてある駐車場に走った。
「おい、そう焦るなって」
竜司があとからのんびりと続く。長尾の医院は、伊東線来宮駅のすぐ近くにあった。竜司が車に乗り込むのをいらいらした気分で見届けると、浅川は坂と一方通行の多い熱海市街に向かって車を走らせた。
「おい、この事件の裏で手を引いているのは、ひょっとして悪魔かもしれねえな」
乗り込むやいなや、竜司が真顔で言った。浅川には、道路標識を見るのに忙しくて答える余裕がない。竜司は続ける。
「悪魔はなあ、いつも異なった姿でこの世に現れるんだ。十四世紀後半にヨーロッパ全土を襲ったペストを知ってるかい。全人口の約半数近くが死んだ。信じられるか? 半分、日本の人口が六千万に減るのと同じだ。もちろん、当時の芸術家はペストを悪魔になぞらえた。今だってそうだろ、エイズのことを現代の悪魔とかって呼ばないかい。だがなあ、悪魔は決して人間を死滅に追いやることはない。なぜか……、人間がいなければ、奴《やつ》らも存在できないからだ。ウィルスはなあ、ウィルスも宿主である細胞が滅んでしまったら、もはや生きられないんだ。ところが、人間は天然痘《てんねんとう》ウィルスを死滅に追いやった、本当かね。そんなことができるのかねえ」
かつて全世界で猛威をふるい、高い死亡率を誇った天然痘に対する恐怖は、現代ではとても想像できない。あまりの病苦ゆえ、この病気をめぐる信仰や迷信は日本にも数限りなくある。その昔、この病気を引き起こすのは、疱瘡神《ほうそうがみ》という疫神《えきじん》であると信じられていた。神、というよりも悪魔と呼んだほうがいいだろうが、果たして人間は神を死滅の縁に追いやることができるのか、竜司の疑問にはそうした問いかけが含まれていた。
浅川は竜司の話を聞いてなかった。心の片隅で、なぜこいつは今時こんな話をするのだろうと疑問に感じつつ、彼はただ単に道を間違えないこと、なるべく早く長尾医院に到着することにのみ神経を集中していたのだ。
11
来宮駅前の路地を入ったところに小さな平屋の家があり、玄関口には「長尾医院、内科、小児科」という看板がある。浅川と竜司は、ドアの前でしばし立ち止まった。もし、長尾から何の情報も引き出せなければ、その時こそ時間切れアウト。他の新しい線を探り出す時間はもうない。しかし、一体何を聞き出せるというのか。三十年近くも前の、山村貞子に関係ありそうな出来事をそう都合よく長尾が覚えているはずもない。それどころか、南箱根療養所に山村貞子が関係しているという確証すらなかった。南箱根療養所の同僚であった数名の医師は、田中洋三を除いて皆天寿を全うしている。当時の看護婦の名前も洗い出せないことはないだろうが、これからではもう遅い。
浅川は腕時計を見た。十一時半、締め切りまであと十時間ちょっと、ここにきて浅川はドアを押す手をためらってしまう。
「なにしてる、さっさと入れよ」
竜司は浅川の背中を押した。あれほどあわてて車を走らせた浅川が、なぜここで躊躇《ちゅうちよ》するのか、竜司にはわからないこともなかった。恐いのだ。最後の望みが断たれ、生きる希望を失うのが恐いに違いない。竜司は先にたってドアを開けた。
狭い待合室の壁際に、三人掛けの長椅子が置かれていた。都合よく、診察を待つ人はだれもいない。竜司は身をかがめ、受付の小窓を通して太った中年の看護婦に声をかけた。
「すみません、ちょっと、先生にお会いしたいのですが」
看護婦は手元の週刊誌から顔も上げないで、のんびりと聞いた。
「診察ですか?」
「いえ、ちがいます。先生にお伺いしたいことがございまして」
看護婦は週刊誌を閉じると、顔を上げてメガネをかけた。
「どういったご用件でしょうか」
「だから、ちょっと、お話を聞きたいと思いまして」
竜司の背後から、浅川が苛々《いらいら》として顔を出した。
「先生はいらっしゃるんですか?」
看護婦はメガネの縁を両手で押さえ、ふたりの男の顔を交互に見比べた。
「どういったご用件なのか、おっしゃってください」
高飛車な言い方であった。竜司と浅川は一旦《いったん》体を起こす。
「こんな看護婦が受付にいたら、客が寄りつくはずねえよな……」
竜司は聞こえよがしに言った。
「なんですって!」
……ここで怒らせたらマズイ! 浅川がそう思って頭を下げたところ、奥の診察室のドアが開いて、白衣を着た長尾が姿を現した。
「どうしました?」
長尾の頭は完全に禿《は》げ上がっていたが、五十七歳という年齢よりはいくらか若く見える。彼はいぶかしそうに顔をしかめて、玄関口に立つふたりの男を見つめていた。
浅川と竜司は、長尾の声に同時に振り向き、そこにいる長尾の顔を見た瞬間、またもや同時に「あ!」と声を上げたのだった。
……長尾が山村貞子に関する情報を知っているかもしれないだと、冗談じゃない、一目|瞭然《りようぜん》じゃねえか。
頭に電流が流れ、浅川の脳裏に焼きついているビデオのラストシーンが素早く甦《よみがえ》った。はあはあと荒い呼吸を吐き出す男の顔、汗みどろの顔はすぐ間近に迫り、目は赤く充血している。裸の肩口、そこにぽっかりと開いた傷口、傷口から流れ出した血は「目」に降り注ぎ網膜を曇らせる。胸を押す強烈な圧迫感、殺意を秘めた男の顔、その顔こそ、今現実に見ている長尾の顔であった。年はとっているが、見間違えることは決してない。
浅川と竜司は顔を見合わせた。竜司は長尾を指差して笑い始めた。
「ハハハ、これだからゲームはおもしろい。いやぁー、なんとなんと、こんなところでお目にかかれるとは……」
長尾はふたりの見知らぬ男が自分を見た時の反応に、あからさまな嫌悪感を抱いて、「なんですか、あなたがたは!」と大きく声を上げたが、竜司は構わずつかつかと長尾に歩み寄って、むんずと胸倉を掴《つか》んだ。長尾は竜司よりも十センチばかり背が高い。竜司は凄《すさ》まじい腕力で長尾の耳を自分の口もとに引きつけると、腕力とは裏腹の優しくゆっくりとねめまわすような声で尋ねたのだった。
「あんた、三十年近く前、南箱根療養所で、山村貞子に、なにをしたんだ?」
「言葉」が頭に達するまで数秒を要した。長尾は目をせわしなくあちこちに向け、過去のシーンに思いを巡らす。そして、決して忘れることのないあの時の記憶が呼び覚まされるや、腰から下の力がすっと抜けかかった。竜司は意識を失いかけた長尾の体を引き止めて、壁にもたせかけた。長尾は、過去の記憶が甦《よみがえ》ったことに、ショックを受けたのではない。三十になるかならないかのこの男が、なぜあのことを知っているのだろうかと、その疑問が閃《ひらめ》いたとたん、いい知れぬ恐怖に全身を貫かれたのだ。
「先生!」
看護婦の藤村が心配そうな声を上げた。
「さあ、ボチボチ昼休みにしたらどうだい」
竜司は目で浅川を促した。浅川は、患者が入ってこないように玄関のカーテンを閉めた。
「先生!」
藤村はどう対処していいのかわからず、オロオロと長尾の指示を仰ぐばかりであった。長尾はどうにか気を引き締めて、今からなすべきことを考える。
このどうしようもないおしゃべり女に、あのことを知られたらまずいと考え、平静を装って言った。
「藤村君、昼休みにしていいよ。食事でもとっておいで」
「……先生」
「いいから行っておいで、私のことはなにも心配いらない」
見知らぬ男がふたり入ってきて、先生の耳許《みみもと》でなにか囁《ささや》いたと思ったら、急に先生は目まいを起こして倒れそうになって……、どういうことなのかさっぱりわからず、藤村はまだしばらく立ちつくしていたが、「早く行くんだ!」という長尾の怒鳴《どな》り声に弾《はじ》かれたように表に飛び出していった。
「さ、それでは、お話を伺いましょうか」
竜司が診察室に入ると、長尾は癌《がん》を宣告された患者の如《ごと》くその後に従った。
「先に注意しておきますけど、嘘はつかないでください。私とこの男は、この『目』で見て全て知ってるのですからね」
竜司はまず浅川を指差し、それからその指を自分の目にもっていった。
「そんな、ばかな」
……目撃しただと、そんなことはありえない。あの茂みにはだれもいなかった。第一、このふたりの男の年齢は……、当時……。
「信じられないのも無理ねえな。でもよぉ、オレたちふたりとも、あんたの顔、よーく知ってんだぜ」
急に竜司の言葉遣いが変わった。「なんなら教えてやろうか、あんたの肉体的特徴……。その右肩にはまだ傷跡が残ってんじゃねえのか、ええ?」
長尾の両目が大きく見開かれ、顎《あご》のあたりががくがく震えた。竜司は充分に間を置いて、言った。
「あんたの肩の傷が、なぜ、そこにあるのか言ってやろうか」竜司はにゅっと頭を突き出して、長尾の肩先に口を運ぶ。「山村貞子に噛《か》みつかれたんだろ? こうやってよぉ」竜司は口を開け、白衣の上から噛むふりをした。長尾の顎の震えは一段と増し、彼は必死でなにか言おうとしたが、歯と歯がうまく噛《か》み合わず、言葉にならない。
「な、わかっただろ。いいかい、オレたちはあんたから聞いた話を絶対だれにも喋《しゃべ》らない。約束する。ただ、知りたいのは、山村貞子の身に起こったことの全てだ」
とても思考力の働く状態ではなかったが、長尾にはどうも話の辻褄《つじつま》が合わないように思われた。あの出来事を見たんなら、なにも今さら私の口から聞き出す必要はないではないか。いや、待て、あの光景を見られたという前提自体がおかしい、見られるわけはないのだ、こんな生まれていたかどうかも怪しいガキどもに。じゃあ、なんなんだ。こいつらは一体何を見たっていうんだ。どう考えても矛盾は膨らむばかりで、長尾の頭は破裂しそうに痛んだ。
「へへへへ……」
竜司は笑いながら、浅川を見た。その目が語っている。
……へへ、これだけ怯《おび》えさせれば、正直になんでも話してくれるさ。
その通り、長尾は語り始めた。なぜ、細部に至るまで覚えているのか自分でも不思議だった。そして語るにつれ、身体《からだ》中の感覚器官までがあのときの興奮を思い出していく。あの情景、熱気、感触、肌の色艶《いろつや》、セミの声、汗と草の匂い、それに古井戸……。
「一体何が原因だったのか、たぶん熱と頭痛に冒されて、正常な判断力を失ってしまったのだ。あの症状こそ潜伏期を経過しての、天然痘《てんねんとう》の初期症状であったのだが、まさか自分がそんな病気にかかっているとは思いもよらなかった。幸い、療養所からは一人の感染者も出さずことなきをえたが、もし、結核患者たちが天然痘の攻撃をまともに受けていたらと今でも身のすくむ思いだ。
暑い日だった。新しい入院患者の胸部断層写真に一円玉程の空洞を見つけ、まあ、一年は覚悟したほうがいいでしょうね、などと言いながら、その患者が会社に提出するはずの診断書を書き終えたところで、もうどうにもがまんできなくなって外に出たのだが、外の高原の空気を吸っても頭の痛みは一向に治まらなかった。それでもどうにか病棟の横の石段を降り、庭前の日陰に逃げこもうとしたところ、ひとりの若い女性が木の幹によりかかって下界を見下ろしているのに気付いた。彼女はここの患者ではなかった。私がここに来るずっと以前から入院している伊熊平八郎という元T大学助教授の娘さんで、名前を山村貞子といった。親子なのに名字が違っていたので、その名前をよく覚えている。ここ一ケ月ばかり、山村貞子は頻繁に南箱根療養所に見舞いに訪れていたのだが、あまり父のそばにいるでもなく、父の症状を医師から聞き出すでもなく、風光|明媚《めいび》な高原の景色を楽しみにやって来ているとしか思えなかった。私は彼女の隣に腰をおろし、にっこり笑いかけて、おとうさんの様子はどうだね、と語りかけたが、彼女は父の症状に関しては別に知りたくもないといった素振りを見せるのだ。そのくせ、彼女は父の命がもうそろそろ尽きようとしていることを確かに知っている。口振りから、それがわかった。どの医者の予想よりも正確に、彼女は父の亡くなる日を予知していたのだ。
そうやって山村貞子の隣に座って、彼女の人生や家族のことなどを聞いているうちに、あれほど激しかった頭痛がいつの間にか引いてしまったことに気付いた。その代わりに顔を出したのは、熱を伴う妙な高揚感。どこからともなく活力が湧《わ》き、体中の血の温度を上げていくような感覚。私は山村貞子の顔をそれとなく観察した。いつも感じることだが、女として、これほど整った顔がこの世に存在することの不思議さ。美しさの基準がどこにあるのかわからないが、私よりも二十も年上の田中医師も同じようなことをいっていた。山村貞子以上の美人を見たことがないと。わたしは、熱にむせかえる呼吸をどうにか押さえ、そっと彼女の肩に手を乗せ、言った。
『もっと木陰の涼しいところで話そうよ』
山村貞子はなんの疑いもなく、こっくりとうなずいて立ち上がろうとした。そして、立とうとして背中を丸めた時、私は彼女の白いブラウスの内側に、かたちの整った小振りの乳房を見てしまったのだ。その色はあまりに白く、と同時に私の頭全体が乳白色に染まり、正常な思考力が奪い取られるかのようなガツンとした衝撃を受けたのだった。
彼女は、そんな私のときめきになんの注意も払わず、長いスカートについた埃《ほこり》をぱたぱたと手で払っていたのだが、その仕草がとても無邪気でかわいらしいものに感じられた。
降るような蝉《せみ》の声の中、私たちは木々のおい茂る森をどこまでも歩いた。明確に目的地を定めたわけではなかったが、私の足はいつの間にかある方向に向かっていた。汗が背筋を流れ落ち、私はシャツを脱いでランニング一枚になった。獣道を進むと、その先の開けた谷の斜面に古びた民家があった。人が住まなくなって十数年はたつだろう、板壁はどこも腐りかけ、いつ屋根が崩れ落ちても不思議はない。その民家の向こうには井戸があり、彼女はそれを目にしたとたん「ああ、喉《のど》が渇いたわ」と走り寄り、中を覗《のぞ》くために身をかがめた。外観からも、その井戸が現在使われていないことは明白であった。私もまた井戸に走り寄った。井戸の中を見ようとしたためではない。見たかったのは、身をかがめた山村貞子の、その胸元。私は井戸の縁に両手をついて、それをすぐ間近に見た。暗い土の中からは、湿った冷気が立ち上がって私の顔を撫《な》でさすったが、火照りと衝動を取り去るにはとても至らない。衝動がどこから湧《わ》くのかわからなかった。天然痘《てんねんとう》の熱に制御機能を奪い取られた……、そんな気がする。誓って言うが、これまでこんな官能的な誘惑に駆られたことはなかったのだ。
私はおもわず手を伸ばし、ふくよかな脹らみに触れていた。彼女は、驚いて顔を上げた。私の頭の中でなにかが弾《はじ》け飛んだ。その後の記憶はどうにも曖昧《あいまい》で、思い出せるのは断片的なシーンでしかない。気がつくと、私は、山村貞子を大地に押しつけていた。ブラウスを胸の上までめくり上げ、そして……、激しい抵抗にあい、右肩を強く噛《か》まれるまで、私の記憶は飛んでしまう。強烈な痛みに我に返り、私は自分の肩先から流れ出した血が彼女の顔の上に滴るのを見ていた。血は彼女の目に入り、彼女はいやいやをするように顔をふっていた。そのリズミカルな動きに、私は体を合わせた。一体、今の私はどんな顔をしているのだろう。山村貞子はどんな目で私の顔を眺めているのだろう、きっと獣の顔が彼女の目に映っているに違いない……、と、そんなことを考えながら、私は果てた。
行為が終わると、貞子は強い視線を私に固定させたまま、仰向けの姿勢で両膝《りょうひざ》を立て、肘《ひじ》をじょうずに使って徐々にあとずさっていった。私はもう一度その体を見た。見間違いと思ったからだ。しわくちゃのグレーのスカートを腰のあたりにからみつけ、露《あらわ》な胸元を隠そうともしないで後じさる彼女の腿《もも》のつけ根にさっと日が差し、小さな黒っぽいかたまりをはっきりと照らし出した。目を上げて胸元を見る……、そこには形のいい乳房。もう一度視線を下げる……、そこ、陰毛に覆われた恥丘の奥には完全に分化発育した睾丸《こうがん》がついていた。
もし私が医者でなかったら、きっと驚きのあまり腰を抜かしていたかもしれない。しかし、私はこの症例をテキストの写真で見て知っていた。睾丸性女性化症候群。極めて珍しい症候群であり、テキスト以外で、しかもこんな状況のもとでお目にかかれると思ってもいなかった。男性仮性半陰陽のひとつである睾丸性女性化症候群は、外見的には完全に女性のからだで、乳房、外陰部、膣《ちつ》はもっていても子宮のない場合が多い。性染色体はXYで男性型、そして、なぜかこの症候群の人間は美人ぞろいなのである。
山村貞子はまだ私を見据えていた。自分の肉体の秘密を、家族以外の人間におそらく初めて知られたのだ。もちろん、ついさっきまで彼女は処女であった。これから先、女として生きるにあたって、どうしても必要な試練ではないか。私は自分の行為を正当化しようとしていた。そんな私の脳裏に、突然、言葉が飛び込んできた。
……殺してやるわ!
強い意志に裏打ちされた響きに、私は彼女の送るテレパシーが嘘でないことを瞬時に直感してしまった。『疑い』を一切差しはさむ間もなく、私の肉体はそれを事実として受け止めたのだ。先に殺《や》らなければ、こっちが殺されてしまう。肉体の防衛本能は私に命令を下した。私は、再度彼女の上におおいかぶさり、両手をか細い首にあてがい、体重をかけた。驚いたことに、今度のほうが抵抗は少なく、まるで死ぬのを望んでいたかのように気持ちよさそうに目を細め、彼女はするすると体の力を抜いていったのだ。
息絶えたのかどうか確かめもせず、私は彼女の身体《からだ》を抱き上げ、井戸へと近づいた。この時もまだ、行動が意志に先んじていたように思う。つまり、井戸の中に落とすつもりで身体を抱き上げたのではなく、ふと抱き上げたところちょうど丸く開いた黒い入口が目に入り、その気になってしまったというほうが当っている。なにか、物事が自分に都合よく配置されているなという感覚。いや、というよりも、自分以外の意思のまま動かされているなという感覚。これから先何が起こるのか漠然とわかっていたし、耳の奥からはこの現実を夢と呼ぶ声が聞こえる。
上から覗《のぞ》いても、底のほうは暗くてよく見えない。立ち上る土の香りから、底に浅く水がたまっているのがわかる。私は手を離した。山村貞子は、井戸の壁面に身体《からだ》を滑らせて地中に沈み、ばしゃんと水音をたてて底に突き当った。闇に慣れるまで目を凝らしても、井戸の底にうずくまる女の姿は見えない。しかし、不安は拭《ぬぐ》い切れず、私は石や土を投げ入れて彼女の体を永久に被《おお》い隠そうとした。両手一杯の土と一緒に拳《こぶし》大の石を五、六個投げ入れたところで、私はそれ以上どうしてもできなくなった。石は山村貞子の体に当って地の底で鈍い音をたて、私の想像力を刺激したのだ。あの、病的に美しい肉体が、こんな石ころで壊されていくのかと思うとどうにもやりきれない。矛盾しているのはよくわかる。一方で彼女の肉体の消滅を望み、一方では肉体が傷つくのを惜しんでいたのだ」
語り終わった長尾の前に、浅川は一枚のプリントを差し出した。南箱根パシフィックランドの配置図である。
「その井戸は、この図のどこに位置するんだ?」
浅川は勢い込んで尋ねた。長尾はその図の意味を理解するのに少々手間取ったが、かつて療養所のあった場所にレストランがあることを教えられると、その位置関係から土地勘を取り戻していった。
「このあたりだと思う」
長尾はおおよその場所を指差した。
「間違いない。ビラ・ロッグキャビンのある場所だ」浅川は立ち上がって言った。「さあ、いくぞ!」
しかし、竜司は落ち着いていた。
「まあ、そう慌てなさんな。オレたちはまだこのおっさんに聞きたいことがある。なあ、あんた、そのナントカって症候群……」
「睾丸《こうがん》性女性化症候群」
「の女は、子供を産むことができるのか?」
長尾は首を横にふった。
「いや、できない」
「それともうひとつ確認したい。山村貞子を犯した時、あんたはもう既に天然痘《てんねんとう》にかかっていたんだな」
長尾はうなずいた。
「てことはよぉ、日本で最後に天然痘に感染したのは山村貞子ってことになるんじゃねえか?」
死の間際、山村貞子の身体《からだ》に天然痘ウィルスが侵入したのは間違いない。しかし、彼女はその後すぐ死んだのだ。宿主である肉体が滅べば、ウィルスも生きていることはできない、感染したとはいえないだろう。長尾はどう答えていいかわからず、伏し目がちに竜司の視線を避けるだけで、はっきりとした返事は返さなかった。
「おい、なにしてる! 早く行くぞ」
浅川は玄関口に立って、竜司を急《せ》かした。
「けっ、いい思いしやがってよ」
竜司は人差指でピンと長尾の鼻頭を弾《はじ》くと浅川の後を追った。
12
理屈で説明できるわけではないが、小説を読んだり、くだらないテレビドラマを見たりの経験から、話の展開がこうなった場合の常套《じょうとう》手段のように感じられた。しかも、展開のしかたにテンポがある。山村貞子がひそんでいる場所を捜していたわけでもないのに、あれよあれよという間に彼女の身にふりかかった災難と、その埋葬場所が明らかになってしまったのだ。だから竜司から「大き目の金物屋の前で車を止めてくれ」と言われた時、浅川は、ああこいつもオレと同じことを考えているなと安心した。それがどれ程苦しい作業になるのか、浅川にはまだ想像できなかった。もし完全に埋められてなかったら、ビラ・ロッグキャビンの周辺から古井戸を発見することはそう難しくはない。そして、井戸の場所がわかれば、その中から山村貞子の遺骨を拾い出すこともたやすい。すべて簡単なことのように思われたし、そう思いたかった。午後一時の日差しが温泉街の坂道に反射して眩《まぶ》しい。平日ののんびりした街のムードと、この眩しさが、浅川の想像力を濁らせていた。たった四、五メートルの深さではあっても、狭い井戸の底は光|溢《あふ》れる地上とはまるで違う世界を形成していることに、浅川はまだ気付かない。
西崎金物店の看板が目に入って、浅川はブレーキを踏んだ。店先に並んだ脚立《きゃたつ》や芝刈り機から、必要なものは全部この店で揃《そろ》うだろうと確信できる。
「買う物はおまえに任せるよ」
そう言い残して、浅川は近くの電話ボックスに走った。ドアの手前で立ち止まってカード入れからテレホンカードを一枚抜き出す。
「おい、呑気《のんき》に電話かけてる場合じゃねえだろ」
竜司の文句は、浅川の耳に届かない。竜司はぶつぶつ呟《つぶや》きながら店に入り、ロープ、バケツ、スコップ、滑車、サーチライトなどに次々と手を伸ばした。
これが声を聞く最後のチャンスかもしれないと、そんな焦りが浅川を急《せ》かしていた。時間の余裕がないことくらい充分に承知の上だ。デッドラインまでの持ち時間は九時間を切っている。浅川はテレホンカードを押し込んで、足利の妻の実家の番号を押した。受話器を取ったのは義父であった。
「あ、浅川ですけれど、静と陽子を呼んでもらえますか」
挨拶《あいさつ》も一切抜きで、いきなり妻と娘を電話口に出せというのもかなり失礼ではあった。しかし、義父の気持ちなど忖度《そんたく》している暇はない。義父はなにか言いかけたが、こちらの差し迫った状況を理解してか、すぐに娘と孫を呼んでくれた。義母が先に出なくてよかったとつくづく思う。義母に受話器を渡したりしたら、長ったらしい挨拶をだらだらと際限なく続けて、待ったをかけるチャンスさえ容易に見いだせなくなってしまう。
「はい、もしもし」
「静、おまえか」
妻の声が懐かしかった。
「あなた、今どこにいるの」
「熱海だ。そっちのほうはどう?」
「ううん、別に変わりはない。陽子、すっかりおじいちゃん、おばあちゃんになついちゃって」
「そこにいるかい?」
声が聞こえた。まだ言葉にならない、破裂音。パパを求めて必死に母の膝《ひざ》を上る音。
「陽子ちゃん、パパよぉ」
静は、陽子の耳に受話器を押しつけた。
「パッパ、パッパ……」
そう聞こえた。本人はパパと言っているつもりだろうが。言葉が届いたわけではない。息遣いや唇から漏れる空気の音、あるいは唇やほっぺたが受話器に触れる音のほうが大きく耳許《みみもと》で響いた。そのせいか却《かえ》って、娘の存在を身近に感じることができる。こんなことから逃げ出して、今すぐにでも陽子を抱き締めたい衝動が胸をつく。
「陽子、待ってろな。パパ、もうすぐブーブで迎えに行くからな」
「え、そうなの、いつ来てくれるの?」
いつの間にか静に代わっていた。
「日曜日。そうだ、日曜日にレンタカー借りて迎えに行くから、みんなで日光にでもドライブして帰ろう」
「わ、本当?……陽子ちゃん、よかったわねえ、パパが今度の日曜日、ドライブに連れていってくれるって」
耳の奥が熱くなる。果たしてこんな約束をしてしまっていいのだろうか。医者は患者を必要以上に喜ばせることを決して言わない。後のショックを小さくするためにも、期待を抱かせないほうがいいのだ。
「事件のほう、もうかたづきそうなの?」
「そろそろね」
「約束よ、すべて終わったら、最初から順を追って話してくれるって……」
妻との約束。一切、この件に関して質問するな、そのかわり一段落したら全部話してあげるよ。妻は忠実に約束を守っていた。
「おい、いつまで話してやがる」
後ろから、竜司の声がした。振り返ると、彼はトランクを開けて購入した道具を放り込むところであった。
「また電話するよ。今晩はもうできないかもしれない」
浅川はフックに手をかけた。押せば、電話は切れてしまう。なんのために電話をかけたのかわからなかった。ただ声を聞くためなのか、それとももっと重要なことを伝えるためなのか。しかし、今仮に、延々と一時間会話したとしても、電話を切る時になれば、言いたいことの半分も伝えてないなあというもどかしさが強く残るに違いない。結局同じことなんだ。浅川はフックに指を乗せ、力を抜いた。とにかく、今晩の十時にはすべて決着がつく。今晩の、十時には……。
こうやって昼のさ中に上ると、以前来た夜の妖《あや》しげなムードは日差しに隠れ、南箱根パシフィックランドはごく普通の高原の雰囲気が漂っていた。テニスボールの音も心なしか弾んでいる。ポーンポーンと長く余韻を引くのではなく、ボールはポンポンと乾いた音をたててネットを飛び越えている。すぐ目の前には富士山が白くかすみ、下界に点在する温室の屋根は銀色に輝いていた。
平日の午後、ビラ・ロッグキャビンに客の姿はない。この貸し別荘がどうにか満室状態になるのは、土日と夏休みくらいのものだろう。B―4号棟は今日も空いていた。竜司に手続きをまかせ、浅川は荷物を運び込んで身軽な服装に着替えた。
しげしげと部屋を見回す。一週間前の夜、浅川はほうほうの体でこのお化け屋敷から逃げ帰ったのだ。吐き気を我慢してトイレに駆け込んだ時、もう少しで失禁しそうになったことまで……、そして、トイレにかがんですぐ横に見た落書きの内容まで浅川ははっきりと覚えていた。浅川はトイレのドアを開けた。同じ場所に同じ落書きがあった。
二時を少し回ったところだった。ふたりはバルコニーに出て、周辺の草むらを見渡しながら途中で買った弁当を食べた。長尾医院からここに至るまでの焦燥感がすうっと引いていた。どんなに焦っている時でも、こんな具合にのんびりと流れる時間が差し挟まれることがある。原稿の締め切りに追われながらなにするでもなくサイフォンからコーヒーのおちていく様子を眺め、後になって貴重な時間を優雅に無駄遣いしてしまったことに気付くことが、浅川にはしばしばあった。
「しっかりと腹ごしらえしておけ」
竜司が言った。彼は二人ぶんの弁当を買い込んでいた。浅川は食欲があまりないらしく、時々|箸《はし》を止めて室内の様子をじっとうかがったりしていたが、ふと思いついたように竜司に聞いた。
「なあ、はっきりさせようじゃないか。オレたちは今から何をしようとしてるんだい?」
「決まってる。山村貞子を捜し出すんだよ」
「捜し出してどうする?」
「差木地に運んで供養してもらう」
「つまり、オマジナイとは……、山村貞子が望んでいることは、それだと言うんだな」
竜司は、口の中いっぱいの御飯をくちゃくちゃと時間をかけて咀嚼《そしゃく》しながら、焦点の定まらぬ目でじっと一点を見つめた。自分でも納得しきっていないことが、その表情から読み取れる。浅川は恐《こわ》くなった。ラストチャンスには確たる根拠が欲しい。やり直しはきかないのだ。
「オレたちに今できることは、これ以外にない」
竜司はそう言って、空になった弁当箱を投げ出した。
「こういう可能性はどうだ? 自分を殺した人間への恨みを晴らしてもらいたい……」
「長尾城太郎か……、奴《やつ》をバラせば、山村貞子の気がおさまるとでも言うのかい?」
浅川は、竜司の目の奥にある本心を探った。遺骨を掘り上げて供養してもなお浅川の命を救えなかった場合、竜司は長尾医師を殺すつもりではないか、浅川を試金石にして、自分だけ助かろうとしているのではないかと……。
「おい、くだらねえこと考えてんじゃねえぞ」竜司は笑った。「第一な、もし、本気で山村貞子の恨みをかったとしたら、長尾なんてもうとっくに死んでいるよ」
確かにそれだけの力を彼女は持っている。
「じゃあ、なぜ、山村貞子はむざむざ長尾に殺された?」
「なんともいえねえ。ただな、彼女の回りでは身近な人間の死と挫折《ざせつ》がひしめいていたもんな。劇団からプイといなくなっちまったのも、ようするに挫折じゃねえのか。高原の結核療養所に父を見舞い、そこで父の死が近いことを知ってしまったしよぉ」
「現世を悲観する人間は、殺した人間に対して恨みを抱かない……ってわけか」
「いや、というよりも、山村貞子自身が、長尾のおっさんをその気にさせた……、ってことも考えられるだろ。つまり、長尾の手を借りた自殺かもしれねえってことさ」
三原山の噴火口に飛び込んだ母、肺結核で残り少ない命の父、女優への夢とその挫折、生まれながらの肉体的ハンデ……、数えあげればきりがないほど自殺の動機はある。実際、自殺と考えないと辻褄《つじつま》が合わなくなることがあった。吉野が送ってきたレポートに登場する劇団|飛翔《ひしょう》の創立者の重森は、酒に酔った勢いで山村貞子のアパートを襲い、その翌日心臓麻痺で死んでしまう。山村貞子がある特殊な能力を使って重森を殺したことはほぼ間違いない。貞子にはそれだけの力があった。男のひとりやふたり、なんの証拠も残さず簡単に殺してしまう力。なら、どうして長尾は生きていられる? 長尾の意思に働きかけての自殺ととらなければ、この矛盾はどうも解けそうにない。
「よし、じゃあ、仮に自殺として、貞子はなぜ死ぬ前に強姦《ごうかん》されなければならなかったのだ? おっと、処女のまま死ぬのが心残りだったなんてバカなことは言うなよ」
浅川は釘《くぎ》をさした。そのおかげで、竜司は返事に窮してしまった。まさにそう言おうと思っていたからだ。
「バカなことかな?」
「え?」
「処女のまま死にたくないって気持ちは、そんなにバカげてるのかよ」竜司はやけに真剣な顔で詰め寄った。「オレだったら、もし、オレだったら、やはりそう思うぜ。童貞のまま死ぬのはいやだってな」
いつもの竜司らしくない、と浅川は感じた。理屈ではうまく説明できないが、言うことも顔つきも竜司らしくなかった。
「おまえ、本気でそんなこと言ってるのか? 男と女は違うぜ、特に山村貞子の場合はな」
「へへ、冗談さ。つまりよ、山村貞子は強姦なんてされたくなかったんだ。そうに決まってる。だれが自ら好んで犯されたいと思うものか。現に彼女は、骨が見えるくらい長尾の肩に噛《か》みついているもんな。ヤラれちまった直後、死にたいという思いがふと頭をよぎり、知らず長尾城太郎に働きかけてしまった……、ま、そんなところさ」
「しかし、どうだろう、それでも長尾に対する恨みは残るはずじゃないか」
浅川は今ひとつ納得できない。
「おい、忘れていやしねえか。恨みっていう点ではな、山村貞子の怒りの鉾先《ほこさき》は特定の個人じゃなく、一般大衆に向けられていると見たほうがいいぜ。それに比べりゃ、長尾を憎む気持ちなんて屁《へ》みたいなもんさ」
大衆への恨み、もしそんなものがあのビデオに込められていたとしたら、果たして、オマジナイの内容は……、どうなる? 無差別攻撃、無差別攻撃、竜司のダミ声が浅川の思考を遮った。
「やめよう。そんなことをごちゃごちゃ考えている暇があったら、一刻も早く山村貞子を捜し出そうぜ。すべての謎《なぞ》に答えられるのは貞子だけだ」
竜司はウーロン茶を飲み干し、立ち上がって空き缶を谷底めがけて投げ捨てた。
ゆるやかな斜面に立って、二人はざっとあたりの草むらに目を落とした。竜司は浅川の手に鎌を握らせ、B―4号棟の左側の斜面を顎《あご》で示す。そこに茂る草を刈って、土地の起伏を調べろということらしい。浅川は腰をおろし、膝《ひざ》をつき、大地と水平に鎌で弧を描いて草を倒していった。
三十年近く前、ここには古びた民家が建ち、その庭前には井戸があったという。浅川は腰を伸ばした。もし、自分がここに住むとしたら果たしてどこに居を構えるだろうかと、その観点にたってもう一度ぐるりと見回した。おそらく、見晴らしのいい場所を選ぶだろう。こんなところに家を建てる理由は他にない。見晴らしの特にいいところ、それはどこだ? 浅川は、遥か下に並ぶ温室の屋根に目を凝らしながら自らの位置を変え、風景の変化を探った。しかし、どこからの眺めもあまり変わらない。ただ、家を建てるとしたら、B―4号棟の隣のA―4号棟あたりが一番建てやすい。横から見ると、そこだけが平坦《へいたん》になっているのがわかる。浅川はA―4号棟とB―4号棟の間に四つん這《ば》いになって、草を刈り、大地の感触を手で確かめた。
井戸の水をくんだ記憶が彼にはなかった。浅川は、自分には井戸というものに直接触れた経験がないことに思い至る。特にこんな山間部の場合、井戸はどんな作りになっているのだろう。果たしてほんとうに水が湧《わ》き出るのだろうか、そういえば、谷底を東の方向に数百メートルばかり歩くと、高い樹木に囲まれた沼がある。思考がどうもうまくまとまらなかった。こんな時、なにを考えながら作業をすすめるべきなのか、よくわからない。頭への充血、を感じる。時計を見ると三時近い。あと、七時間でデッドライン。こんなことをしていて間に合うのだろうか、考えるとよけい思考が散乱してしまう。井戸のイメージがうまくつかめない。古井戸の跡には何がある? きっと、石が丸く積み上げられているんだ。崩されて、地中に埋められていたら……、ああ、だめだ、そうなっていたら間に合わない。掘り起こすことなんてできるはずがない。また、時計を見てしまった。三時ジャスト。さっき、バルコニーの上で、ウーロン茶を五百CC近く飲んだにもかかわらず、もう喉《のど》がカラカラだった。土の出っ張りを捜せ、積み上げられた石の跡を捜せ、心の中で声が響く。浅川はむき出しの土にシャベルを突き刺した。時間が、血が、圧迫を繰り返す。神経がまいって、逆に疲労を感じない。バルコニーの上で弁当を食べたときとは、時間の流れ方がまるで別物だった。作業に入ったとたん、なぜこうも焦ってしまうのだろうか。こんなことをしていていいのだろうか、こんなことを。もっと他にやることがいっぱいあるはずだろ。
小さな横穴を掘ったことがかつて一度ある。確か、小学校の四年か、五年の頃だ。ハハハ、浅川は力なく笑った。その時のエピソードをふと思い出したからだ。
「おい、なにしてるんだ?」
竜司の声に、浅川ははっとして顔を上げた。
「おまえ、さっきから何してんだよ、こんなところに這《は》いつくばって……。もっと、調べる範囲を広げたらどうなんだい?」
浅川はポカンと口を開けて竜司を見上げた。竜司は背に日差しを受けて、顔を黒く染めている。そして、黒い顔からほとばしる汗が、足元にぽたぽたと落ちていた。ここで何をしていたのか……、すぐ目の先の地面には小さな穴が掘られている。浅川が掘ったものだ。
「落とし穴でも掘るつもりか?」
大きく息をつきながら竜司が言った。浅川は顔をしかめて腕時計を見ようとした。
「時計ばかり見るんじゃねえ! この、バカたれが」
竜司は浅川の手を払った。竜司はしばらく浅川を睨《にら》みつけていたが、溜《た》め息をついてしゃがみ、穏やかな声で囁《ささや》いた。
「おまえ、少し、休んでいろや」
「そんな暇はない」
「気を落ち着けろってことさ。焦るとロクなことがねえ」
竜司は、しゃがんだ浅川の胸元をポンと軽く押した。浅川はバランスを崩して仰向けにひっくりかえり、足の裏を空に向けて転がった。
「ほら、そうやって、寝転がっていろ、赤ん坊みたいによ」
浅川は起き上がろうともがいた。
「動くな! 寝てろ! 無駄に体力を使うな」
竜司は、浅川がじたばたするのをやめるまで胸を足で踏みつけた。浅川は目を閉じ、抵抗を諦《あきら》めた。竜司の足の重みが身体《からだ》から離れ遠のいていく。そっと目を開けると、竜司が短い足を力強く動かしてB―4号棟のバルコニーの陰に回っていくのが見えた。足取りが物語っていた。遠からず井戸の場所が見つかるだろうというインスピレーションが湧《わ》いて、焦る気持ちは薄くなった。
竜司が行ってしまっても、浅川は動こうとしなかった。手足を伸ばし、大の字になって空を見上げた。太陽がまぶしい。自分の精神が、竜司と比べてあまりに軟弱なのでいやになってしまう。呼吸を整え、冷静に考えようとした。これから七時間、刻々と時を刻まれて、自分を保ち続ける自信がなかった。ここは、すべて竜司の命令に服従しよう。それが一番だ。自分を消し去り、強靱《きょうじん》な精神力を持った人間の配下に下るのだ。自分をなくしてしまえ! そうすれば、恐怖からさえ逃れることができる。土に埋まって自然と一体になるんだ! その願いが通じたのか、浅川は急激な睡魔に襲われて意識を失いかけた。そして、眠りに落ちる瞬間、娘の陽子を高い高いする幻想と共に、さっきふと甦《よみがえ》った小学校の頃のエピソードをもう一度思い出した。
浅川の育った街のはずれに市営のグラウンドがあり、その横の崖《がけ》を降りたところにはザリガニのいる沼があった。小学校の頃、浅川はよく友達と一緒にその沼にザリガニを取りに出かけた。その日、むき出しの崖の赤土は春の日差しに照らされ、挑発するように沼の横にそそり立っていた。水の中につりざおをたらすことにも飽き、浅川は陽の当った崖の急斜面に何気なく穴を掘ろうとした。土は柔らかく、板切れを差し込むだけでボロボロと赤土は足元にこぼれていく。そのうち、友達も仲間に加わった。三人だったか……、それとも四人。横穴を掘るにはちょうど手頃な人数であった。これ以上多いと頭と頭がかち合って邪魔になるし、少ないと一人一人の労力が多くなり過ぎる。
一時間ばかり掘ると、小学生ひとりがすっぽりと入れるくらいの横穴が誕生した。さらに掘り続けた。学校の帰り道だったから、中のひとりはそろそろ家に帰ると言い出した。言い出しっぺの浅川だけは黙々と掘った。そして、日が沈む頃、横穴は、その場にいた子供たち全員が身をかがめて入れるくらいの大きさに成長した。浅川は膝《ひざ》を抱え、友人とクスクス笑い合った。赤土の横穴で丸くなっていると、社会の時間に習ったばかりの三ケ日《みつかび》原人の気分であった。
ところが、しばらくすると、穴の入口をおばさんの顔が塞《ふさ》いだ。沈みかかった夕日を背に受けて顔が黒く染まり、表情はよく読み取れなかったが、近所にすむ五十歳前後の主婦だってことはわかった。
「こんなところに穴なんか掘って……、生き埋めになったら、キモチ悪いじゃない」
おばさんは、穴の中を覗《のぞ》き込みながらそう言ったのだ。浅川と他のふたりの子供たちは顔を見合わせた。小学生ではあっても、注意のしかたのおかしさに気付いたのだ。「危険だからやめなさい」ではなく、「こんなところで生き埋めになって死んでしまうと、近所に住む私としては気味が悪い、だからやめて」と、まったく自分の立場だけから注意を与えている。へへへへへ、と浅川は友人たちに笑いかけた。おばさんの黒い顔は影絵のように、出口を塞いでいた。
そのおばさんの顔に、ふわっと竜司の顔が重なった。
「おまえの神経もずいぶん太くなったねえ。こんなところでおネンネとはたいしたもんだ。この野郎、なにニヤニヤ笑ってやがる」
竜司に起こされた。日は西の地平に傾き、宵闇《よいやみ》がすぐそこに迫りつつあった。竜司の身体と顔が、西からの弱い光を遮って以前よりももっと黒く染まっていた。
「ちょっと来てみろよ」
浅川の体を引き起こすと、竜司は黙ってB―4号棟のバルコニーの下にもぐり込んだ。浅川も続く。バルコニーの下の、B―4号棟を支える柱と柱の間の板壁が一枚|剥《は》がれかけていた。竜司は隙間《すきま》に手を差し入れ、力まかせに手前に引いた。板はバリッと音をたてて斜めに裂けた。室内の装飾はモダンだが、縁の下を隠す板壁は人の手で簡単に引き剥がされるほどやわにできている。目に見えぬところは徹底的に安普請なのだ。竜司は、そこからサーチライトを入れて縁の下を照らした。そして、見てみろというふうに顔を振った。浅川は壁の隙間に目を固定させて中を覗《のぞ》く。サーチライトが照らしたのは、中央よりちょっと西側に位置する黒い出っぱりであった。よく見ると、表面には石を積み上げたときにできる荒い格子模様の曲面がある。上部をコンクリート製の蓋《ふた》で覆われていて、石と石の間からも、コンクリートの割れ目からも草がのび放題にのびていた。浅川は、その上に何があるのかすぐに思い至った。井戸の上にはロッグキャビンの居間があり、しかも井戸の丸い縁のちょうど真上にはテレビとビデオのセットが置かれている。一週間前、例のビデオを見た時、山村貞子はこんな近い場所に隠れて上の様子をうかがっていたのだ。
竜司は板壁を次々と引き剥がし、人が通り抜けできる穴をこしらえた。ふたりは壁穴をくぐり、井戸の縁まで這《は》い進んだ。ロッグキャビンは斜面に建っているので、進むほどに床が下がってきて圧迫感を与える。暗い縁の下にも空気は充分あるはずなのに、浅川は息苦しさを覚えた。床下の土は外と比べてひんやりとしている。これから何をすべきか、浅川にはちゃんとわかっていた。わかっていてもまだ恐怖心は湧《わ》かない。床板がすぐ頭上に迫るだけで息苦しいというのに、ひょっとしたら、もっと深い闇に支配された井戸の底に降りなくてはならないかもしれないのだ。……かもしれない、ではない。山村貞子をひきずり出すためには、ほとんど確実に井戸の中に入っていかなければならない。
「おい、手を貸してくれ」
竜司が言った。竜司は、コンクリート製の蓋《ふた》の裂け目からのぞいた鉄骨に手をかけて、蓋を谷側の地面に引き落とそうとしたが、なにせ天井が低く思うように力が入らない。ベンチプレス百二十キロの竜司でも、足場が悪ければ力は半減してしまう。浅川は山側に回って仰向けにひっくりかえった。そして、両手を柱にそえて身体《からだ》を固定し、両足で蓋を押した。コンクリートと石がこすれて、耳障りな音が響いた。浅川と竜司は声を掛け合ってリズミカルに互いの力を一致させた。蓋が動いた。井戸の口が顔を出すのは何年ぶりだろう。井戸が閉ざされたのは、ビラ・ロッグキャビンが建てられた時か、南箱根パシフィックランドが造られた時か、あるいは結核療養所の時代か……、コンクリートと石の密着の具合から、あるいは、引き離されるときの嘆きにも似たきしみ音から、井戸が口を閉ざしていた期間を推し量る他ない。半年とか二年という歳月ではなさそうだ。最長なら二十五年間。とにかく、今ようやく井戸は口を開きかけた。竜司は、できた隙間《すきま》にスコップを差し込んでグリグリと押してみる。
「いいか、オレが合図したら、スコップの柄に体重をかけろ」
浅川は身体の向きを変えた。
「いいか、一、二の三!」
浅川がてこの応用で蓋を押し上げると同時に、竜司が蓋の横腹を両手で強く押した。蓋は悲痛な叫び声を上げてドンと地面に落ちていった。
井戸の丸い縁はわずかに湿っている。浅川と竜司は手にそれぞれサーチライトを持ち、湿った縁に手をかけて身体を引き起こした。井戸の底に光を投げかける前、ふたりは井戸と床の間の五十センチばかりの隙間《すきま》から頭と肩先を差し入れた。すえた匂いが冷気とからまるようにしてたち上ってくる。ちょっと手を離すと吸い込まれそうな程、その空間の密度は濃密であった。確かに、彼女はここにいる。希代の超能力者にして睾丸《こうがん》性女性化症候群の女……、いや女という言葉は当てはまらない。生物学的な男女の区別は、性腺《せいせん》の構造によってなされる。いくら美しい女性の肉体をもっていても、性腺の構造が睾丸ならばそれは男性ということになる。果たして山村貞子を男と呼ぶべきか女と呼ぶべきか、浅川にはわからない。貞子という名前を考えれば、両親は彼女が女として育つよう望んでいたに違いない。今日の午前、熱海に向かう船の中で、竜司はこう言った、……男性性器と女性性器を兼ね備えた人間、それは完璧な力と美の象徴さ。そういえば、かつて美術全集の中の古代ローマの彫刻を見て、浅川は一瞬我が目を疑ったことがある。見事に成熟した美しい女の裸身が石の上に横たわり、その股間《こかん》からはりっぱな男性性器がのぞいていた……。
「なにか見えるか?」
竜司が聞いた。サーチライトで照らすと、底のほうに水がたまっていることがわかる。そこまでの距離は四、五メートルってところだ。ただし、水の深さはわからない。
「底に水がたまっているぞ」
竜司はもぞもぞと動いて、ロープの先を柱にしっかりとゆわえつけた。
「おい、サーチライトを下に向け井戸の縁にぶらさげてくれ。絶対に落ちないようにな」
……竜司はこの穴の中に降りるつもりなんだ。そう思ったとたん、浅川の足は震えた。もしこの中に降りることになったら……、狭いたて穴を目の当りにして、ようやく浅川の想像力は働いた。自分にはとうていできないことだ。あの黒い水に身体《からだ》を浸して何をする? 遺骨を拾い出すんだろ……、できるわけがないそんなこと、気が変になっちまう。だから、竜司がすすんで穴の底に降りていくのを見て、浅川は感謝とともに、自分の番が回ってきませんようにと神に祈るのを忘れなかった。
暗闇に目が慣れたのか、以前よりもはっきりと苔《こけ》に被《おお》われた井戸の内壁が見えてきた。オレンジ色のライトに浮かぶ石の壁に目や鼻や口が浮かび上がり、そのまま目をそらさずにいると、石の模様は断末魔の叫びを上げて歪《ゆが》む死人の顔へと変化する。出口に向かって手を伸ばし、無数の悪霊たちが海の藻のようにゆらめいている。しかも、一旦《いったん》そう見えてしまうとイメージはなかなか崩れない。妖気《ようき》漂う直径一メートルばかりの円筒形の空間に小石が落ち、ぽちゃりと音をたてて石は悪霊たちの喉《のど》の奥に飲み込まれていった。
竜司は井戸と床板の間に身体を滑り込ませ、ロープを両手にからみつけて徐々に下へと降りていく。
竜司は井戸の底に降り立った。膝《ひざ》から下が水の中に沈んでいる。そんなに深くはなかったのだ。
「おい、浅川! バケツを持ってこい。細めのロープもな」
バケツはまだバルコニーに置いたままだ。浅川は、縁の下から這《は》い出した。外は暗かった。しかし、縁の下よりはずっと明るく感じる。それと、このなんとも言えぬ解放感! 豊富な澄んだ空気! ロッグキャビンを見回すと、道路に沿ったA―1号棟だけから明かりが漏れている。浅川は時計を見ないようにした。A―1号棟から漏れる団欒《だんらん》の声を中心に、そこだけが遠く浮き上がって別世界をつくっていた。もやもやとした夕餉《ゆうげ》の音、時計を見なくても時間の見当はつく。
浅川は井戸の縁に戻るとロープの先にバケツとスコップを縛って下に降ろしていった。竜司はスコップで井戸の底の土を掘ってはバケツに移した。時々しゃがみ込んで手の先で泥の中を探ったりしていたが、何も発見できなかったらしい。
「バケツを引き上げろ!」
竜司が怒鳴《どな》った。浅川は井戸の縁を腹に当てた姿勢でバケツを引き上げ、中の泥や石を外にあけ、空になったバケツを再び下に降ろした。入口を塞《ふさ》ぐ前にかなり多くの土砂が流れ込んだらしく、掘っても掘っても山村貞子は美しい肢体を現さない。
「おい、浅川!」
竜司は作業を止めて見上げた。浅川は返事を返さない。
「浅川! おまえ、どうかしたのか?」
……どうもしないよ、オレは平気だよ。
浅川はそう答えたつもりだった。
「おまえ、さっきから一言も口きいてねえ。掛け声くらい出したらどうだ。気が滅入る」
「…………」
「掛け声がいやなら歌でも歌え。美空ひばりの歌かなんか」
「…………」
「おい、浅川! そこにいるのか? ぶっ倒れてんじゃねえだろうな」
「……だ、だいじょうぶ」
どうにか、かすれ声を出すことができた。
「けっ、世話の焼ける野郎だ」
竜司は吐き捨てるように言って、スコップの先を水の中に突きたてた。
何度こんなことを繰り返したのだろうか、水位は徐々に下がっていっても、それらしきモノは一向に現れない。バケツが上に上がる速度が目に見えて遅くなっていった。そしてとうとう一センチも上がらなくなり、浅川は手を滑らせて井戸の真ん中あたりまで引き上げたバケツを落とした。直撃は避けたものの竜司は泥水を頭から浴びて、怒りとともに浅川の腕力の限界を実感した。
「バカヤロウ! オレを殺す気か!」
竜司はロープをつたって上った。
「交替だ」
……交替!
浅川はびっくりして身体《からだ》を起こし、その拍子に頭を強く床板に打ちつけてしまった。
「待て、竜司、だいじょうぶ、まだ、オレだって、力が残ってる」
浅川は言葉を短く区切って言った。竜司は井戸の上に顔を出した。
「力なんてどこにも残ってやしねえよ。さ、交替だ」
「ちょ、ちょっと、待ってくれよ。少し休めば、回復する」
「おまえの筋力が回復するのを待っていたら夜が明けるぜ」
竜司は浅川の顔にサーチライトを当てた。浅川の目つきが少し変わっている。死の恐怖が冷静な思考力を奪い去ってしまったのだ。一見して、正常な判断力を欠いていることがわかる。スコップで泥水をすくい上げる作業と、重いバケツを四、五メートル引き上げる作業と、どちらが力を使う作業なのか考えなくてもわかりそうなものだ。
「さあ、さっさと下に降りろ!」
竜司は、浅川の身体を井戸の縁に押し込んだ。
「ちょっと、待て。なあ、マズイんだ……」
「なにが?」
「オレ、閉所恐怖症なんだ」
「バカもやすみやすみ言え」
浅川は身をすくめたまま、動こうとしない。井戸の底で水面が揺れている。
「無理だ、オレにはできないよ」
竜司は浅川の胸倉をつかんで顔を引き寄せ、一発二発と平手で張った。
「どうだ、少しは目が覚めたか。オレにはできないだと? バカ言ってんじゃねえぞ。死を前にして、助かる方法があるかもしれないってのになにもしねえ奴《やつ》は人間のクズだ。おまえが抱えているのは自分の命だけじゃねえんだぞ、さっきの電話を忘れたか? え、かわいいベイビーちゃんが暗いところに連れていかれてもいいのかい?」
妻と娘の運命を思うと、臆病に身をすくめているわけにはいかない。確かにふたりの命は自分の手にある。しかし、どうも身体《からだ》がいうことをきかない。
「なあ、本当に、こんなことをして意味があるのか?」
いまさらこんな質問をしても無意味と知りつつ、力なく浅川は聞く。竜司は胸倉を掴《つか》む手の力を抜いた。
「三浦博士の理論をもう少し詳しく教えてやろうか。現世に怨念《おんねん》が強烈に残るには三つの条件が必要なんだ。閉ざされた空間、水、そして死に至るまでの時間。この三つだ。つまり水のある閉ざされた空間でゆっくり時間をかけて死に至った場合、死者の怨念がその場に憑依《ひようい》してしまうことが多いってわけさ。ほら、この井戸を見ろよ。閉ざされた狭い空間だ。そして、水。ビデオの中で、ばーさんがなんと言っていたか思い出せ」
……その後からだの具合はどうじゃ。水遊びばかりしているとぼうこんがくるぞ。
水遊び、水遊び、そうだ、山村貞子はあそこの真っ黒な泥水に浸かって今も水遊びを続けている。いつ終わることもなく、延々と続く地下水との戯れ。
「山村貞子はな、井戸に落とされた時、まだ生きていたんだ。そして、死が訪れるのを待ちながら、井戸の内側に怨念を塗り込めていった。彼女の場合、三つの条件はそろっていたんだよ」
「……だから?」
「だから……、三浦博士が言うにはよ、呪《のろ》いをとく方法なんて簡単なんだ。ようするに、解放してやればいい。遺骨を、狭い井戸の底から拾い上げ、供養を済ませた後に故郷の地に埋葬してやればいい。広く明るい世界に引きずり出してやるんだ」
さっき、バケツを取りに縁の下から這《は》い出た時、浅川はなんともいえない解放感を味わった。同じことを山村貞子にしてあげればいいというのか? 彼女はそんなことを望んでいるのか?
「それが、オマジナイの中身だっていうのかい?」
「そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」
「あやふやだな」
竜司はもう一度浅川の胸倉を引いた。
「なあ、よく考えてみろ。オレたちの将来にはなあ、確実なものなんて何もねえんだ。常に、あやふやな未来が待ち構えている。それでも、おまえは生きていくだろ。あやふやだという理由だけで生命活動を停止することはできねえ。可能性の問題よ。オマジナイ……、山村貞子の望むものはもっと他にあるのかもしれない。しかし、彼女の遺骨をここから拾い出すことによってビデオに込められた呪《のろ》いそのものが消失する可能性だって高い」
浅川は顔を歪《ゆが》め、声を出さずに叫んだ。
……閉ざされた空間と水と死に至るまでの時間だと? この三つの条件が揃《そろ》った場合もっとも強い怨念《おんねん》が残ってしまうだと? 三浦とかっていうインチキ学者のそんな戯言《ざれごと》が真実だという根拠が一体どこにある?
「さあ、わかったら、おまえ、下に降りろ」
……わかってねえ、オレにはそんなことわからねえよ!
「ぐずぐずしてる場合じゃないだろ。おまえの締め切り時間はすぐそこだぞ」
竜司の声が次第に優しくなっていった。
「戦わずに人生を乗り切れると思うなよ」
……バカヤロ! てめえの人生観なんて聞きたくもねえ。
浅川はそれでも井戸の縁から身を乗り出していった。
「そうだ、やっとその気になったかい」
浅川はロープにしがみついて井戸の内側にぶら下がった。竜司の顔がすぐ目の前にある。
「だいじょうぶ、この中にはなにもねえ。おまえにとって最大の敵は、その貧弱な想像力だよ」
見上げると、サーチライトの光をまともに目に受けて眩《まぶ》しい。背中を壁にくっつけて、ロープを握る手の力をそっとゆるめていく。足の先が石の表面を滑って、一気に一メートルばかり落ちた。摩擦で手が熱い。
浅川は、水のすぐ上でぶらぶらと漂って着水できないでいた。片足を伸ばし、風呂の湯かげんを調べるつもりで踝《くるぶし》まで水に沈めた。冷やっとした感触とともに、足先から背中にかけて鳥肌《とりはだ》がたち、浅川はすぐに足をひっこめてしまった。しかし、ロープにぶらさがっている腕力さえ残ってはいない。じりじりと身体《からだ》の重みで下がり、耐え切れず、両足をついた。その拍子に、水の底の柔らかな土が足を包んでぐっと沈み込んだ。浅川は目の前のロープにしがみついた。地中からたくさんの手が伸びて、オレを泥に沈めようとしていると、パニックに陥りかけた。前からも後ろからも横からも、壁が圧迫してくる。逃げ道はないぞと、口を歪《ゆが》めて笑いながら。
……りゅうじー!
叫ぼうとして、浅川は声が出なかった。むしょうに息苦しい。喉《のど》の奥からかすれた音が漏れるばかりで、溺《おぼ》れかけた子供のように顔を上げた。ふとももの内側が生暖かく濡《ぬ》れていく感触があった。
「浅川! 呼吸するんだ」
浅川は、あまりの圧迫感に、無意識のうちに呼吸をとめていたのだ。
「オレがここにいるから、安心しろ」
残響を伴う竜司の声が頭に届くと、浅川はやっとひとつ息を吸い込むことができた。
まだ心臓の鼓動がおさまらない。作業ができる状態ではなかった。必死でなにか他のことを考えようとした。もっと、楽しいこと。もし、この井戸が満天の星の下にあったならこれほどの息苦しさはないに違いない。B―4号棟ですっぽりと被《おお》われているのがいけないのだ。その状態が逃げ路を遮断している。コンクリートのふたを取り去っても、そのすぐ上にはクモの巣のはった床板がある。山村貞子はこんなところに二十五年間も住み続けて……、そうだ、彼女はここにいる、オレが今立っている足の下。墓だ、ここは、死者の墓なんだ。他のことなんて考えられない。思考さえも閉ざされて、自由な羽ばたきは許されない。山村貞子はここで不幸にも人生の幕を閉じ、死の瞬間に閃《ひらめ》いた様々なシーンが「念」の力によって強くこのあたりに残ってしまったのだ。それはおそらく、狭い穴の中でたっぷりと時を費やして熟成し、潮の満ち引きのように呼吸し、ある周期で強弱を繰り返し、たまたまこの真上に位置するテレビの周波数と一致したところで、すうっとこの世に現れ出てしまった。山村貞子は呼吸している。はあはあと息の漏れる音がどこからともなく身体《からだ》を包み込む。山村貞子、山村貞子、その名前が脳裏に連なり、恐ろしいばかりに美しい彼女の顔が写真から浮き上がってなまめかしく首を振った。山村貞子はここにいる。浅川は夢中で底の土を探り彼女を求めた。きれいな顔と身体《からだ》を思い、そのイメージを維持するよう努めた。……オレの漏らした小便にまみれた美しい女の遺骨。浅川はシャベルを動かし、泥をすくった。時間は気にならない。ここに降りる前に腕時計ははずしてしまった。極度の疲労と緊張が焦燥感を麻痺《まひ》させ、タイムリミットを忘れさせていた。酒の酔いに似ている。時間の感覚がわからない。泥水で一杯になったバケツが往復した回数、耳を澄ませると聞こえる心臓の鼓動……、そんなものでしか時間をはかることができない。
やがて浅川は、丸みを帯びた大きな石を両手で掴《つか》んだ。手触りのいい、すべすべとした表面には穴がふたつあいている。浅川は水の中からそれを持ち上げた。凹《くぼ》みにたまった土を水で洗い流し、耳があったであろう部分を両手で挟んでしゃれこうべと向かい合った。イメージの中で肉が付着していく。深くくぼんだ眼窩《がんか》には澄んだ大きな瞳《ひとみ》が甦《よみがえ》り、真ん中のふたつの穴の上に肉が盛り上がって形の整った上品な鼻を形造る。長い髪は水に濡《ぬ》れ、耳の裏からも首筋からも水がポタポタと滴り落ちていた。山村貞子は憂いを含んだ瞳を二度三度まばたきさせ、まつげの上についた水滴を払い落とそうとした。浅川の両手に挟まれて山村貞子の顔は窮屈そうに歪《ゆが》んでいる。それでも美しさに陰りはない。彼女は浅川に笑いかけたのだが、その瞬間ピントを調整するようにすっと目を細めた。
……会いたかった。
浅川はそう言ったとたんその場にしりもちをついた。はるか頭上から竜司の声が届く。
……浅川! おまえのデッドラインは十時四分じゃなかったっけな。喜べ、今、もう十時十分だ。
……おい、浅川、聞いてんのか? 生きてるんだろ、おまえ。呪《のろ》いは解けた。オレたちは助かったんだ。おい、浅川! そんな所で死ぬと山村貞子の二の舞だぞ。死んでもオレにだけは呪いをかけるなよ。どうせ死ぬならおとなしく成仏しろ。おい、浅川! 生きてるんなら、返事をしろや。
竜司の声を聞いても、助かったという実感は湧《わ》かなかった。浅川はまるで別の空間を浮遊し、夢見心地で山村貞子のしゃれこうべを胸に抱いてうずくまっていた。
第四章 波 紋
1
十月十九日 金曜日
管理人室からの電話で、浅川は眠りから覚めた。午前十一時がチェックアウトの時間ですが、もう一泊されるんですかという催促の電話であった。浅川は、受話器をつかんだまま枕もとの腕時計に手を伸ばした。腕がだるく、持ち上げるのさえおっくうであった。まだ痛くはなかったが、明日になれば激しい筋肉痛に悩まされるだろう。メガネをかけてないため、目の前に持ってこないと時間を読むことができない。十一時を数分過ぎている。浅川はなんと答えるべきか咄嗟《とつさ》に思いつかなかった。ここがどこなのかすらわからないのだ。
「……延泊されますか」
管理人は苛立《いらだ》ちを押さえて聞いた。すぐ横で竜司のうめき声がする。自分の部屋でないことは確かだ。世界の色が知らぬ間に塗り替えられてしまった。過去から現在、そして未来に至る太い線が眠りの前と後で切断されていた。
「もしもし……」
管理人は、相手が電話口にいるのかどうか心配になった。わけもわからず、浅川の胸に喜びが湧《わ》いていく。竜司は寝返りをうって、薄く目を開いた。口からよだれを流している。記憶は朦朧《もうろう》として、手探りして行き当るのは暗い風景ばかりだ。長尾医師を訪ねビラ・ロッグキャビンに向かったところまではどうにか思い出すことができたが、それから先がどうにもあやふやだった。暗いイメージが次々とあふれ出て、息がつまりそうだ。強烈な印象を持った夢を見たにもかかわらず目覚めたとたん夢の内容を忘れてしまった、そんな気分であった。しかし、不思議と晴れ晴れとしている。
「……もしもし、聞こえますか?」
「あ、はい」
浅川はどうにか返事を返して、受話器を持ちかえた。
「チェックアウトは十一時です」
「わかりました。すぐに支度して、出ます」
管理人の事務的な言い方に合わせ、浅川も事務的に答えていた。キッチンかち、ちょろちょろと細く流れる水道の音が聞こえる。昨夜寝る前、しっかりと蛇口を締めなかったようだ。浅川は受話器を置いた。
さっき開きかけた竜司の目が再び閉じていた。浅川は竜司の体をゆすった。
「おい、竜司。起きろ」
何時間眠ってしまったのか見当もつかない。普段の浅川は、せいぜい五、六時間の睡眠時間しか取れないが、目覚めた時の気分からそれよりずっと長い時間眠っていたらしいことはわかる。しかも、なんの心配もなくぐっすり眠ったのは、ずいぶん久しぶりのことであった。
「おい、竜司! そろそろここを出ないと、宿泊費余分に取られちまうぞ」
浅川はより強く体をゆすったが、竜司は起きない。そのまま目を上げると、ダイニングテーブルに置かれたビニール袋が目に入った。乳白色のビニール袋の中に何が入っているのか、浅川はふと思いついた。ほんのちょっとしたきっかけで、夢の内容をするすると思い出していくようなものだ。……山村貞子の名を呼んでいた。床下の冷たい土の中から引きずり出され、ビニール袋の中でグシャリと小さく縮こまっている山村貞子。チョロチョロと流れる水の音……。昨夜、泥まみれの山村貞子を流しの水できれいに洗ったのは、竜司であった。その水がまだ出っぱなしで流れている。あの時、既に予定の時刻を過ぎていた。そして、今も、浅川は生きている。むしょうに嬉《うれ》しかった。目前にまで迫った死を払い除けた今、生命はより凝縮され、キラキラと輝き始めた。山村貞子の頭蓋骨《ずがいこつ》が、大理石の置き物のように美しい。
「おい、竜司! 起きろ」
ふと、いやな予感がした。心のどこかにまだ引っ掛かるものがある。浅川は竜司の胸に耳を当てた。分厚いトレーニングウェアの上から確かな心臓の鼓動を聞き、彼もまだ生きていることを確認したかった。ところが、胸に耳が触れるか触れぬかのうちに、浅川の首筋は太い二本の手でがっちりとヘッドロックされてしまった。浅川はパニックに陥り夢中で暴れた。
「へへへ、バカめ! オレが死んだと思ったのか」
竜司は浅川の首から手を離し、子供のような奇声を上げて笑った。こんな事件の後では冗談にもならない。何が起こっても不思議はないのだ。今この瞬間、山村貞子が甦《よみがえ》ってあのテーブルの横に立ち、竜司が髪をかきむしって死んだとしても、浅川は見たままを素直に信じるだろう。浅川は怒りを押さえた。竜司には大きな借りがあったからだ。
「つまらない冗談をやめろよ」
「お返しだ。おまえもゆうべはさんざんおどかしてくれたからなあ」
竜司は寝転がったままヘラヘラ笑った。
「オレが、どうかしたのか?」
「井戸の底でぶっ倒れちまいやがってよぉ。オレはてっきり、死んじまったんじゃねえかって、……心配したぜ。時間切れ、アウトってわけでよぉ」
「…………」
浅川は目をパチパチさせた。
「へ、覚えてねえんだろ。ったく、世話の焼ける野郎だぜ」
そういえば、浅川には自力で井戸の底から這《は》い出した記憶がない。
昨夜、ほとんど力尽きた状態のまま、ロープで吊《つ》り上げられたことに、浅川はようやく気付いた。竜司の腕力をしても、六十キロの体を四、五メートル引き上げる作業は楽でなかった。そんなふうに、吊られる浅川の姿は、海底から引き上げられた役小角の石像とどこか似ていた。石像を釣り上げた志津子には不思議な力が宿ったが、浅川を釣り上げた竜司には筋肉の痛みが残っただけであった。
「竜司」
浅川は妙に改まった声を出していた。
「なんだ?」
「いろいろ世話になったなあ」
「よせ、気持ちワルイこと言うな」
「おまえの助けがなかったら、オレは今頃……。感謝してる」
「やめろって。ゲロ吐きそうになる。野郎に感謝されても一文の得にもならねえ」
「昼メシでも食べに行こうか? オレがおごるよ」
「ま、おごりは当然だな」
竜司はよっこらしょと腰を上げかけて、少しよろけた。体中の筋肉がだるく、さすがの竜司も自分の体を思い通りに動かせない状態であった。
南箱根パシフィックランドのレストハウスから足利の妻のもとに電話をかけ、浅川は約束通り日曜日の朝レンタカーで迎えに行くことを伝えた。静は、じゃあもう事件のほうはかたづいたのね、と聞いてきたがそれに対して浅川は、「……たぶん」としか答えられなかった。自分はこの通り生きているという、その事実だけから、たぶん解決したのだろうと推測するほかなかったのだ。しかし、受話器を置いた時、釈然としない気持ちのほうがより強く残った。どうしても引っ掛かることがあるのだ。一方では、自分が生きているという理由だけで、すべてきれいさっぱりかたづいたと信じたくもある。ひょっとしたら、竜司も同じ疑問を抱いているかもしれないと、テーブルに戻るとすぐ浅川は竜司に聞いた。
「なあ、本当にこれで終わりなんだよな」
竜司は、浅川が電話をかけている間にランチをきれいに平らげていた。
「ベイビーは喜んでいたか?」
竜司は、すぐには質問に答えなかった。
「ああ。なあ、おまえ、どうだ? すっきりさわやかって気分じゃないだろう」
「気になるのか?」
「おまえは?」
「まあな」
「どこだ? 気になるところは」
「ばーさんの言葉だ。うぬはだーせんよごらをあげる。おまえは来年子供を産む。あのばーさんの予言だよ」
やはり竜司も自分と同じところに疑念を抱いていると思ったとたん、浅川はいつの間にか疑念を打ち消すほうに回った。
「うぬ、というのは、あの場合だけ、母の志津子を指しているとしたら……?」
竜司はぴしゃりと言ってのけた。
「あり得ない、そんなことは。ビデオの映像は山村貞子の目や心に中心を据えていて、ばーさんはそこに向かって語りかけている。うぬ、というのは山村貞子以外には考えられない」
「ばーさんの予言が嘘の可能性だってある」
「山村貞子の予知能力は百発百中のはずだが……」
「山村貞子は子供を産めない体だぜ」
「だから、おかしいんだ。生物学的に言えば山村貞子は女ではなく男なんだから、子供を産めるわけがねえ。おまけに死ぬ直前まで処女だったしよぉ。……それに」
「それに?」
「初めて体験した相手が長尾……、日本最後の天然痘《てんねんとう》患者という妙な符合」
神と悪魔、体細胞とウィルス、男と女、そして光と闇さえもはるか昔は矛盾なく同一のものとして存在していたという。浅川は不安に襲われた。遺伝子の仕組みや、地球誕生以前の宇宙の姿に話が及んでしまったら、とても人間個人の力では解決できなくなってしまう。ここは、どうにか自分自身を納得させる他なかった。少しくらいの心のもやもやは無理にでも消し去り、とにかく終わったことなんだと言い聞かせるしかない。
「な、オレはこうして生きている。消されたオマジナイの謎は解けたんだ。もう終わったのさ、この事件は……」
そして、浅川は突然思い至った。役小角の石像も海の底から引き上げられることを念じていたのではなかったのかと。その念が母の志津子に働きかけ、行動を起こさせ、彼女は新しい力を与えられたのだ。そのことと、似ているような気がしてならなかった。山村貞子の遺骨を井戸の底から拾い上げることと、役小角の石像を海の底から釣り上げること……。しかし、どうも引っ掛かるのは、山村志津子に与えられた能力は、皮肉にも彼女を不幸にしてしまったことである。しかし、結果からみればの話であり、今回の場合は、呪《のろ》いからの解放が「与えられた力」である可能性は充分考えられる。浅川は無理にそう考えようとした。
竜司は、浅川の顔や肩先にチラチラッと視線を飛ばし、目の前の男が確実に生きていることを確認した上で、二回ばかりうなずいた。
「ま、そのことに関しては問題ないだろう」
竜司はふーっと息を吐きながら、椅子に体を沈めていった。「でもよぉ……」
「え?」
体を起こしながら、竜司は自分自身に問いかけた。
「山村貞子は、一体、なにを産んだのだ?」
2
浅川と竜司は熱海の駅で別れた。浅川は山村貞子の遺骨を差木地の親戚の元に届け、彼らの手で供養してもらうつもりであった。三十年近くも音沙汰《おとさた》のなかった従姉妹《いとこ》の娘の遺骨を今頃になって持ってこられても、彼らは迷惑するだけだろう。しかし、モノがモノである以上、放置するわけにもいかない。身元不明ならば、無縁仏として埋葬してもらう手もあるが、山村貞子とわかっているからには差木地で引き取ってもらうほかない。時効はとっくに過ぎているし、今さら殺人を持ち出しても面倒になるだけなので、差木地には自殺らしいということで話を通すつもりでいた。浅川は遺骨を渡してすぐ東京に戻りたかったが、あいにくと船の便がなく、今からだと大島で一泊せざるを得ない。レンタカーを熱海港に置いていく以上、飛行機を使うとかえって面倒くさくなる。
「骨を届けるくらいおまえひとりでもできるよな」
熱海駅の前で車から降りる時、竜司はばかにしたように言った。山村貞子の遺骨はこの時ビニール袋ではなく、黒い風呂敷《ふろしき》に包まれてリヤシートに置かれていたが、確かにこんな小さな包みを差木地の山村に届けるくらい子供でもできる。要は、彼らに受け取らせることであった。拒まれて、持っていきどころがなくなると、やっかいなことになる。身寄りの者によって供養されなければ、オマジナイの実行は完全に終了しないような気がした。だが、どうだろう、いきなり二十五年前の人骨を差し出され、これはあなたがたの縁者の山村貞子ですと言われても、言われたほうは何を根拠にその言葉を信じればいいのだろうか……、浅川は少々不安になった。
「じゃあな、あばよ。また東京で会おうぜ」
竜司は手を振って熱海駅の改札を抜けた。
「仕事がなければ、付き合ってやってもいいだがよ」
竜司は早急に仕上げなければならない論文を山ほどかかえていた。
「ありがとう、改めて礼を言うよ」
「よせよ、オレもけっこう楽しんだしよぉ」
ホームの階段の陰に消えるまで、浅川は竜司の姿を追った。そして、その姿が視界から消える寸前、竜司は階段を踏み外して転びそうになった。あやうくバランスを取り戻したものの、グラッと揺れた瞬間に、竜司の逞《たくま》しい体の輪郭が浅川の目に二重にぼやけて映った。浅川は疲れを感じて、目をこすった。そして、手を両目から離すと、竜司はホームの上へと消えていた。その時、不思議な感覚が胸をついた。正体不明の、鼻をくすぐる柑橘《かんきつ》系の香りとともに……。
その日の午後、浅川は山村貞子の遺骨を無事山村敬のもとに届けることができた。漁から帰ったばかりの山村敬は、浅川が持っている黒い風呂敷《ふろしき》包みを見てすぐ、その中身が何であるのかピンときた。浅川が両手で差し出して、「貞子さんの遺骨です」と言うと、彼はしばらくその包みを眺め、懐かしそうに目を細め、やがてつかつかと歩み寄って深々と頭を下げて受け取ったのだ。「遠いところ、わざわざどうもご苦労様です」と言いながら……。浅川は拍子抜けした。こうも簡単に受け取ってもらえるとは思ってもいなかった。山村敬は浅川の疑問を読み取り、確信に満ちた声で言った。
「貞子に間違いございません」
三歳までと、九歳から十八歳までの期間、山村貞子は山村荘で過ごしている。今年六十一歳の山村敬にとって、貞子は一体どんな存在だったのか。遺骨を受け取る時の表情から推して、かなりの愛情を注いだらしいことは想像できる。彼は遺骨が山村貞子のものと確かめもしなかった。おそらく、その必要もなく、彼には黒い風呂敷包みの中身が山村貞子と直感できたのだ。初めて包みを見た時の目の輝きが、それを物語っている。やはりなにかしらの「力」が働いたに違いない。
用がすむと、浅川は一刻も早く山村貞子のもとから逃げ出そうと、「飛行機の時間に間に合わなくなりますから」と嘘をついて早々に退散した。家族の気が変わって、やはり証拠がない限り遺骨は受け取れないなどと言い出されたら元も子もないからだ。第一、根掘り葉掘り山村貞子のことを聞かれた場合、どう答えていいかわからない。人に語るには、まだまだ長い時間が必要であった。特に今は、血縁の者に話す心境ではなかった。
浅川は先日のお礼かたがた通信部の早津のところに寄り、大島温泉ホテルへと向かった。ゆったりと温泉につかって疲れをほぐし、これまでの経過を文章に直すためである。
3
浅川が伊豆大島温泉ホテルで床に入る頃、竜司は東中野のアパートの机に伏して居眠りをしていた。書きかけの論文に唇をつけ、そのためにダークブルーのインキが唾《つば》でにじんでいる。よほど疲れていたのか、手には愛用のモンブランの万年筆を握りしめたままだ。彼は論文の作成にまだワープロを導入していなかった。
がくっと肩が揺れ、机に接していた顔が不自然な格好に歪《ゆが》んだ。竜司は不意に跳ね起きた。背筋をピンと伸ばし、目覚めとは思えないほど、両目を大きく見開いている。もともと一重瞼《まぶた》の釣り上がった目ではあるが、その目がいっぱいに開かれると、普段の印象とは異なるかわいらしさがのぞく。目は赤く充血していた。彼は夢を見たのだ。世の中に恐いものなしといった竜司が、心底震えていた。夢の内容を思い出せるわけではない。ただ、ピクンとした体の震えだけが、夢の恐怖を端的に表していた。息苦しさを覚え、時計を見た。午後九時四十分。この時間が何を意味するのか、咄嗟《とっさ》に思いつかない。部屋の蛍光灯とすぐ前のスタンドが灯《とも》って、充分な明るさがあるにはあったが、それでもまだ明るさが足りないと感じた。本能的な闇への恐怖……、夢は喩《たと》えようのない暗黒に支配されていたのだ。
竜司は椅子を回転させてビデオデッキを見た。例のテープはまだそこに入ったままだ。なぜか、目をそらすことができない。じっと見つめた。呼吸があらい。疑念が顔をのぞかせる。論理的な思考が働く余地はなく、イメージばかりが先走った。
「ヤベエ、やって来やがった……」
竜司は机の縁に両手をそえて、背後の気配をうかがった。アパートは表通りを入った静かなところにあって、通りの雑踏は種々入り混じって判然としない。急発進する車のエンジンやタイヤの泣き声が時々際立つくらいで、街の音はぼんやりとひと固まりになって背後の空間を右に左にと浮遊していた。じっと耳を澄ますと、それぞれの音の源が何なのかわかるものもあった。中には虫の声も含まれている。その、混然一体となった音の群れが、ふわふわと人魂のように揺れだしたのだ。現実感が遠のいていく……、竜司はそんな印象を持った。そして、現実が離れた分、竜司の体の回りに隙間《すきま》ができ、そこに得体の知れない霊気が漂った。冷え冷えとした夜気と、肌《はだ》にまとわりつく湿気が、陰影となって身に迫ってくる。心臓の鼓動が、カチカチと鳴る時計の秒針を追い抜き、一段と早くなった。気配が胸を圧迫していた。竜司はもう一度時計を見た。九時四十四分。見るたびに、唾《つば》を何度も飲み込んだ。
……一週間前、オレが浅川の家でビデオを見たのは何時だっけ? 九時頃あいつのところのベイビーちゃんがおネンネするとか言ってたから……、その後プレイボタンを押したとして……見終わったのは……。
竜司は自分がビデオを見終わった時間をはっきりと把握していなかった。しかし、ボチボチ、その時刻になろうとしていることはわかる。今、身に迫るこの気配が、偽物でないことくらい竜司は承知の上だ。想像によって恐怖を増大させてしまったのとはわけが違う。想像妊娠ではあり得ない。確かに、ソレはヒタヒタと近づきつつあった。ただ、わからないのは……。
……なぜオレのところにだけやってくるんだ? という疑問。
……オレのところにだけ来て、なぜ、浅川のところには来なかったんだ? おい、不公平じゃねえか。
とめどもなく溢《あふ》れる疑問。
……一体どういうことだ? オレたちはオマジナイの謎を解いたわけではないのか? だとすればなぜ? なぜ? なぜ?
胸は早鐘を打った。何者かの手が胸の中にまで伸び、ぎゅっと心臓を掴《つか》まれたような気分であった。背骨がキリキリと痛んだ。首筋に冷たい感触があり、竜司は驚いて椅子から立ち上がりかけたが、腰から背中にかけての激しい痛みに襲われていて床に倒れ込んだ。
……今から何をすべきか考えろ!
どうにか保ち続けている意識が、肉体に命令を下している。立て! 立ち上がって考えろ! 竜司は畳の上を這《は》って、ビデオデッキにたどり着いた。エジェクトボタンを押して、中から例のテープを引き出す。なぜ、こんな行動を取るのか……、ただ、今、他にできることはなかった。張本人であるこのテープを念入りに調べる以外、この場で何ができる?竜司は引き出したテープの裏表を調べ、再度デッキに押し込もうとして手を止めた。テープの背に張られたラベルにタイトルが書き込まれていたからだ。「ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr、1989」浅川の字であった。テレビで放映された音楽番組を録画したものらしい。浅川は、それを消して例のビデオをダビングしたのだ。竜司の背筋に電流が走った。真っ白になった頭の中にあるひとつの考えが急速に形造られていった。……まさか、という思いでその閃《ひらめ》きを一旦《いったん》脳裏から消したが、テープをひっくり返した時、瞬間に流れた電流は確信に変わっていた。竜司は、素早い頭の回転で、一度にいくつものことがらを理解した。オマジナイの謎《なぞ》、老婆の予言、そして、ビデオテープの映像に込められたもうひとつの力……。なぜ、ビラ・ロッグキャビンに泊まった四人のガギどもは抜け駆けしてオマジナイを実行しなかったのか……、なぜ、浅川の命は助かったのにオレは今死の危機に瀕《ひん》しているのか……。そして、山村貞子は何を産み出したのか……。ヒントはこんな身近なところにあった。山村貞子の持つ力と、あるもうひとつの力の融合にまではとても思い至らなかった。彼女は子供を産みたかったのだ、だが、産める身体《からだ》ではなかった。そこで、悪魔と契約を結んで……、たくさんの子供を……。竜司は考えた……、このことがこの先どんな結果をもたらすかと。竜司は痛みをこらえて笑った。皮肉な笑いであった。
……冗談じゃねえ、人類の最期を見届けたいオレが、なぜ、こんなところで……、先陣をきって……。
竜司は電話のところまで這って浅川の家の番号を回しかけたが、直前で、彼は今大島にいることを思い出した。
……あの野郎、びっくりするだろうな、オレが死んじまったらよぉ。
胸への強い圧迫が、肋骨《ろつこつ》をきしませる。
竜司はそのまま、高野舞の番号を回した。生への激しい執着と、あるいは最後に声だけでも聞きたいという願いと、そのどちらが高野舞を呼び出そうという衝動を生み出したのか、竜司自身区別がつかない。ただ、一方では声がする。
……諦《あきら》めろ、彼女を巻き込むのはよくねえ。
だが、もう一方では、まだ間に合うかもしれねえという希望の声。
机の上の時計が目に入った。九時四十八分。竜司は受話器を耳に当て、高野舞が電話口に出るのを待った。頭がムズムズとして無性にかゆい。頭に手をやってボリボリかくと、何本かの髪の毛が抜ける感触があった。二回目の呼び出し音が鳴ったところで、竜司は顔を上げた。正面の洋服ダンスには縦長の鏡がついていて、そこに自分の顔が映っていた。竜司は肩と頭で受話器をはさんでいるのも忘れ、ぎょっとして鏡に顔を近づけた。その拍子に受話器は落ちたけれど、竜司は構わず鏡の中の自分を見つめた。鏡には別の人間が映っていた。頬《ほお》は黄ばみ、干乾びてゴワゴワとひび割れ、次々と抜け落ちる毛髪の隙間《すきま》には褐色のかさぶたが散在している。……幻覚だ、幻覚に決まっている。竜司は自分に言い聞かせた。それでも感情を抑制することはできない。床に転がった受話器から、「もしもし」と女の声がした。竜司は堪え切れず、悲鳴をあげてしまった。高野舞の声に自分の悲鳴が重なり、竜司はとうとう愛《いと》しい人の声を聞きそびれてしまった。鏡に映っているのは、他でもない百年先の自分の姿であった。さすがの竜司も知らなかった。まったくの別人となり果てた自分と出合うのがこんなに恐いものとは……。
呼び出し音が四回鳴るのを聞いて、高野舞は受話器を持ち上げ、「もしもし……」と言った。しかし、それに答えたのは、「うぉぉぉぉぉー」という悲鳴であった。一本の電話線を戦慄《せんりつ》が駆け抜けた。竜司のアパートから高野舞の部屋に、恐怖はそのままのかたちで伝わったのだ。高野舞は驚いて、受話器を耳から遠ざけた。うめき声はまだ続いている。最初の悲鳴には驚き、そして、後に続くうめきには信じられないという気持ちがこめられている。これまでに数回イタズラ電話を受けたことがあったが、それとは違うなとすぐに受話器を握り直す。うめき声ははたとやんだ。後を襲ったのは、しんとした静寂……。
午後九時四十九分……、最後に愛《いと》しい女の声を聞きたいという願いは無残に破れ、逆に断末魔の悲鳴を浴びせかけて、竜司は絶命した。意識は虚無に包まれていく……。すぐ手許の受話器からは、また高野舞の声が流れ出ていた。床の上に両足を大きく広げ、ベッドに背を当て、左手をベッドマットの上に投げだし、右手は「もしもし」と囁《ささや》き続ける受話器に伸び、頭をうしろに折ってかっと見開いた両目で天井を見上げていた。虚無が入り込む直前、竜司は自分が助からないことを悟り、浅川の野郎にビデオテープの謎を教えてやりてえもんだ、と強く念じるのを忘れなかった。
高野舞は何度も「もしもし」と、電話の向こうに呼びかけた。返事はない。彼女は受話器をフックに置いた。うめき声には聞き覚えがある。嫌な予感が胸を走り、もう一度受話器を持ち上げると、尊敬する先生の番号を回した。話中を知らせるプープーという音がした。一度フックを押し、また同じ番号を回す。やはり話中。この時、高野舞は、電話をかけてきたのが竜司で、彼の身にとんでもないことが起こったらしいことを知った。
4
十月二十日 土曜日
久しぶりの我が家ではあったが、妻と子供がいないとなんとなく寂しかった。何日ぶりだろうと、浅川は指を折って数えた。鎌倉で一泊、嵐に閉じ込められ大島で二泊、その翌日、南箱根パシフィックランドのビラ・ロッグキャビンで一泊、さらにまた大島で一泊。たった五泊しただけであった。もっとずっと長い間外に出ていたような気がしてならない。取材旅行で四泊五日なんてのはザラにあるが、帰ってきてふりかえると、いつも短かったなあと感じるものだ。
浅川は書斎の机に座ってワープロの電源を入れた。まだ体のあちこちに筋肉痛が残り、立ったり座ったりするだけでも腰のあたりに痛みが走る。眠られぬ夜が続いたこの一週間の疲れは、昨夜の十時間に及ぶ睡眠で解消しきれるものでもなかった。しかし、のんびり休んでもいられない。たまった仕事をかたづけておかないと、明日日曜日の日光にドライブという約束が果たせなくなる。
浅川はさっそくワープロの前に座った。レポートの前半部分は既にフロッピーに保存してある。これに、月曜日以降、山村貞子の名が判明してからの後半部分を付け足して、なるべく早く原稿を完成させねばならない。夕飯までに、五枚分の原稿を書き上げた。まあまあのペースであった。浅川の場合、深夜になればペースはもっともっと上がる。この調子なら、かなり楽な気分で妻と子供を迎えに行くことができそうだ。そして、月曜日からは、これまでとなんら変わらない日常生活が再開される。編集長がこの原稿に対してどんな反応を示すか全く予想できないが、書き上げない限り読ませることもできない。無駄骨になるのを承知で、浅川はこの一週間の後半部分をもう一度整理してまとめ上げていった。原稿が完成して初めて、彼の事件は完了するのだ。
時々、キィボードを叩《たた》く手が止まることがあった。机の横に置かれたプリントには山村貞子の写真がコピーされている。まさに恐い程の美人がチラッチラッと様子を窺《うかが》っているような気がして、浅川は気が散った。このあまりに美しい目を通して、浅川は山村貞子と同じものを見てしまったのだ。彼女の一部が体の中に入ってしまったという思いは未だ拭えない。浅川は写真を視界の外に置いた。山村貞子に見つめられていると、仕事がはかどらなかった。
近所の定食屋で夕飯を食べ終わって、浅川はふと、今頃竜司は何をしているのだろうと気になった。気になったというより、ただぼんやりと彼の顔を思い出しただけだ。ところが、部屋に戻って仕事の続きをしていると、頭の端に浮かぶ竜司の顔が徐々にはっきりしていった。
……あいつ、どうしてるのだろう、今頃。
頭に浮かんだ竜司の顔の輪郭が、時々二重にずれて見えたりする。妙な胸騒ぎがして、浅川は電話に手を伸ばした。七回ばかり呼び出し音が鳴ったところで受話器が上がり、浅川はほっとする。しかし、聞こえてきたのは女性の声であった。
「……はい、もしもし」
消え入りそうな、か細い声。浅川はその声に聞き覚えがあった。
「もしもし、浅川ですが」
「はい」という小さな返事。
「あの、高野舞さん、ですね。このあいだはどうもごちそうさまでした」
高野舞は「いえ、どういたしまして」と小さくつぶやいたまま、受話器を持ち続ける。
「あの、竜司君……、そちらにおりますか?」
なぜ早く竜司に代わらないのだろうと、浅川はいぶかしんだ。
「あの、龍……」
「先生、亡くなられました」
「……はあ?」
一体、どれくらいの間絶句していただろう。呆《ほう》けたように「はあ?」と答えたきり、うつろな目で天井の一点を見つめ、握っていた受話器が滑り落ちそうになったところでようやく浅川は、「いつ?」という問いを投げかけていたのだった。
「昨夜の十時頃……」
竜司が浅川のマンションで例のビデオを見終わったのが、先週の金曜日の九時四十九分だったから、まさに予告通りの時刻である。
「それで、死因は?」
聞くまでもないことだ。
「急性心不全……、はっきりとした死因はまだわからないそうです」
浅川は立っているのがやっとの状態だった。事件は終わったわけではない、第二ラウンドに突入したのだ。
「舞さん、まだそちらにおられますか?」
「はい、先生の遺稿の整理がありますので」
「僕、今からすぐうかがいます、帰らないでお待ちください」
浅川は受話器を置くと同時に、その場にへたり込んだ。妻と娘の締め切り時間は明日の午前十一時、時間との戦いがまた始まろうとしていた。しかも、今回は、たったひとりで戦わなければならない。竜司はもういないのだ。こんなところにへたり込んでいるわけにはいかない。早く行動を起こさねば……、早く早く……。
表通りに出て、道の混雑具合を見る。電車よりも車のほうが早そうだ。浅川は横断歩道を渡り、路上駐車しておいたレンタカーに乗り込んだ。妻と娘を迎えに行こうと、返却を明日までに延長しておいたのが幸いした。
これは一体どういうことなんだ?
浅川はハンドルを握りながら、考えをまとめようとした。様々なシーンがフラッシュバックのごとく甦《よみがえ》り、ひとつにまとまるどころではない。考えるほどに頭の中は収拾がつかなくなり、事柄と事柄を結ぶ糸が絡み合ってパンクしそうだ。落ち着け! 落ち着いて考えろ! 浅川は自分に言い聞かせた。そしてようやく、ポイントをどこに絞るべきかが明らかになってきた。
……まず、オレたちはオマジナイ、すなわち死の運命から逃れる方法を発見したわけではないということ。つまり、山村貞子は、自分の遺骨が発見され、供養してもらいたいと望んでいたわけではないのだ。彼女の望みはまったく別のところにある。なんだ? ……それは一体。もっとわからないのは、オマジナイの謎を解いてないにもかかわらず、なぜ、オレはこうして生きていられるのかということ。どういうことなんだ。説明してくれよ。なぜオレだけが生きていられる?
明日の日曜日午前十一時には、浅川の妻と娘がデッドラインを迎える。今、もう夜の九時だった。それまでになんとかしなければ、彼は妻と子を失うことになる。
竜司はこの事件を不慮の死を遂げた山村貞子の呪《のろ》いという観点で捉《とら》えたが、その点がどうも怪しくなってきたのを、浅川はひしひしと感じた。もっと何か、人の苦しみを嘲笑《あざわら》うかのような、底知れぬ悪意の予感がする。
高野舞は和室に正座して、竜司の未発表の論文を膝《ひざ》に乗せていた。一枚一枚めくって目を通してはいるのだが、ただでさえ難解な内容はなかなか頭に入ってこない。部屋はがらんとしている。竜司の遺体は今朝早く川崎の両親のもとに引き取られ、もうそこにはなかった。
「昨夜のこと、詳しく聞かせてください」
友の死……、特に戦友ともいえる竜司の死は悲しいが、今は感傷に浸っている余裕はない。浅川は舞の横に座って頭を下げた。
「夜の九時半過ぎでしたか、先生から電話がかかってきまして……」
舞は昨夜のことを詳しく話した。受話器から漏れた悲鳴、その後の静寂、あわてて竜司のアパートに駆けつけたところ、竜司はベッドにもたれかかって、両足を広げ……。舞は、竜司の死体があった場所に視線を固定させ、その時の彼の様子を語るうちに涙ぐんでいった。
「いくらわたしが呼んでも、先生、返事してくれなくて……」
浅川は舞に泣く暇を与えなかった。
「その時、部屋の様子で何か変わったところは?」
舞は首を横に振った。
「いいえ、……ただ、受話器がフックからはずれて耳障りな音を出していました」
竜司は死の瞬間、舞のところに電話をかけていた……。なんのために? 浅川はもう一度念を押した。
「本当に竜司君はあなたに何も言い残してないんですね? たとえば、ビデオテープのこととか……」
「ビデオ?」
舞は、先生の死とビデオと一体どんな関係があるのとばかり顔をしかめた。死の直前になって、竜司がオマジナイの真の意味を解き明かしたかどうか、浅川には知りようがなかった。
……果たして、竜司はなぜ高野舞に電話をかけたのだろうか。あいつは、自分の死が近いことを知って、彼女のもとに電話したに違いないのだが……。ただ単に、死ぬ前に愛する者の声を聞きたかったっていうのか。こうは考えられないか、竜司はオマジナイの謎を解き明かし、それを実行するために高野舞の力を借りようとした。だから、彼女のもとに電話を入れた。つまり、オマジナイを実行するには第三者の力が必要となる。
立ち去ろうとする浅川を、舞は玄関まで見送った。
「舞さんは、まだ今晩、ここに?」
「ええ、原稿の整理がありますから」
「そうですか、忙しいところお邪魔してすみませんでした」
浅川は行きかけた。
「あの、ちょっと……」
「え」
「浅川さん、私と先生のこと、誤解してるんじゃありません?」
「え、誤解って?」
「つまり、その、男と女の関係だと……」
「……いや、べつに、そんな」
この男とこの女はデキているんだな、とそんな視線を投げかける男を、舞は見分けることができる。浅川から浴びる視線には、強くその意味合いが込められていて、舞は気にかかっていた。
「私が初めて浅川さんにお会いした時、先生、あなたのことを親友の浅川ですって紹介したでしょ。わたし、ちょっとびっくりしちゃった。だって、先生が親友って呼び方をしたの、あなたが初めてなんですもの。ですから、先生にとって、あなたは特別な人なんだと思います。だから……」
舞はそこで言葉を止め、先を言い淀《よど》んだ。
「……だから、先生の親友であるあなたには、先生のこと、もっとよく理解してもらいたいな。先生……、私の知る限りでは、その、女の人を知らないまま……」
舞はそこまで言って目を伏せた。
……童貞のまま、死んだというのか?
返す言葉もなく、浅川は黙っていた。舞の記憶に残る竜司が別の人間に思われてくる。どこかで話がズレてしまったような……。
「……え、でも……」
でも、高校二年の時のできごとをあなたは知らないんでしょう、と浅川は言おうとしてやめた。死者の犯罪行為を今さら暴く気はなかったし、舞の胸に眠る竜司のイメージを崩したくはなかった。
というより、彼の胸には、ある疑問が浮かんだのだ。浅川は女性の勘を信じている。そして、竜司とかなり親密に付き合っていた舞が、竜司が童貞というのなら、その説のほうがより信憑《しんぴょう》性があるのではないかと考えかけていた。つまり、高校二年で近所の女子大生に乱暴をはたらいたというのは、単なる作り話に過ぎない……。
「先生、私の前では子供みたいに振る舞ってらしたわ。なんでも話してくれて、隠しごとも何もない。どんな青春時代を送り、どんな悩みを持ってらしたか、私はほとんど知っているつもり」
「そうでしたか」
それ以外、浅川には返す言葉がなかった。
「先生、私の前では十歳の純真な坊や、そこに第三者が加わると紳士、そして、たぶん浅川さんの前では悪党、を演じてらしたんじゃない? ねえ、そうしなければ、そうしなければ……」
高野舞はすっと白いハンドバッグに手を伸ばし、中からハンカチを出して目に当てた。
「そうやって、演じ分けなければ、先生、この社会で生きていくことができなかったのよ……、ねえ、わかる? そういうのって……」
驚きのほうが先にたった。がしかし、浅川には思い当ることがある。高校生の頃、勉強とスポーツに特別な才能を発揮したにもかかわらず、ひとりとして友人を持たなかった孤独な人格。
「とても純粋な方……、チャラチャラした男子学生なんて、比較にもならない」
舞の手に握られたハンカチは、目に溢《あふ》れる涙を吸い取って濡れていった。
狭い玄関口に立つ浅川には、考えることが一杯あり過ぎて、舞にどんな言葉を残すべきかとっさには思いつかない。彼の知っている竜司と、舞の知っている竜司の像がかけ離れてしまい、焦点がずれてぼやけたまま明確な人物像がつかめなくなってしまったのだ。竜司には、闇の部分が隠されている。いくらあがいたところで、彼という人格を丸ごと把握するのは不可能だった。高校二年の時、竜司は本当に近所に住む女子大生に乱暴を働いたのかどうか……、浅川には結局知りようがない。また、竜司が言うように、現在でもそういった行為を繰り返しているのかどうか。特に今、妻と娘のデッドラインを明日に控え、余計なことに頭を悩ませたくはなかった。
そして、ただ一言、浅川は言った。
「竜司は、僕にとっても最高の親友でした」
その言葉がうれしかったのか、舞はかわいらしい顔に笑顔とも泣き顔ともとれぬ表情を浮かべ、目だけで軽く会釈した。浅川はドアを締めて、アパートの階段を早足で降りた。道に出て竜司のアパートから遠ざかるにつれ、自分の命を犠牲にしてまで危険なゲームに身を投じた友の姿がひしひしと身に迫り、浅川は人目も気にせず涙を流した。
5
十月二十一日 日曜日
午前零時が過ぎ、いよいよ日曜日がやってきた。浅川は、手元のレポート用紙にポイントをメモしながら、思考を整理しようとしていた。
……竜司は締め切りの直前になって、オマジナイの謎を解き、高野舞に電話をかけ、おそらく呼びつけようとしたのだ。つまり、オマジナイを実行するに当って高野舞の助けが必要であった。さて、ここで重要になるのは、何故、オレは生きているのかということ。これに対する回答はひとつしかないだろう。この一週間、気付かないうちに、オレはオマジナイを実行していたのだ! それ以外にどんな説明がある。ようするに、オマジナイは第三者の手を借りればだれにでもたやすくできることなんだ。しかし、ここでまた疑問点。ではビラ・ロッグキャビンに泊まった例の四人はなぜ抜け駆けしてオマジナイを実行しなかったのか。簡単にできることなら、他の三人の前では強がって見せておいて、後でこっそり実行してしまえばいいじゃないか。よく、考えろ。いいかい、オレはこの一週間、なにをした。竜司は明らかにやってないことで、オレがしたことはなんなんだ?
そこまで考えると、浅川は叫び出した。
「わかるわけねえじゃねえか! そんなこと。この一週間、オレはやったけれども竜司はやらなかったこと……、そんなもの山程ある。冗談じゃねえ」
浅川は、山村貞子の写真を拳《こぶし》で打った。
「コノヤロー。おまえ、どこまでオレを苦しめれば気がすむ」
何度も何度も山村貞子の顔面を打ち据えた。しかし、山村貞子は表情も変えず、あくまで美しさを保っている。
浅川はキッチンに行き、ウィスキーをグラスになみなみと注《つ》いだ。頭の一点に充血してしまった血を、もとに戻す必要があったからだ。グイと一気にあおろうとして、手を止めた。オマジナイの方法を思い付き、夜中に足利まで車を運転しないとも限らない、酒は控えたほうがよかった。何かに頼ろうとする自分に腹が立った。ビラ・ロッグキャビンで山村貞子の骨を掘り起こした時、浅川は恐怖に負けて危うく自分をなくしかけた。それでもどうにか、目的を達成できたのは竜司がそばにいたからだ。
「竜司! りゅうーじー。なあ、頼むよ、助けてくれよ」
……妻と娘を奪われた生活、耐えられない、そんなものには耐えられない!
「りゅうーじー、力を貸してくれよ。なぜ、オレは生きていられるんだ? オレが最初に山村貞子の遺骨を発見したからか? もし、そうなら、妻と娘は助からない。そんなはずないよな、な、竜司!」
浅川の心は乱れていた。泣き言を言っている場合ではないと知りつつ冷静さを欠き、しばらく竜司に向かって喚《わめ》くと、またどうにか冷静さを取り戻す。彼はそれ以外のポイントをメモ用紙に書き留めていった。老婆の予言……、山村貞子は本当に子供を産んだのか? 死ぬ直前に性交した長尾城太郎は日本最後の天然痘《てんねんとう》患者であるが、そのことと何か関係あるのかどうか? どんな疑問のラストにもクエスチョンマークがつく。ひとつとして確実な事実はない。一体こんなことでオマジナイの方法を導き出すことができるのか。失敗は許されないのだ。
さらにまた数時間が過ぎた。外はそろそろ明るくなる頃である。床に転がる浅川の耳もとに、男っぽい息が吹きかかった。ちっちっちと小鳥の鳴き声がする。夢なのか現実なのかわからない。浅川はいつの間にか、床に倒れ込んで眠っていた。うーんと、朝の光に眩《まぶ》しそうに目を細める。柔らかな光の中を、人の影がすうっと引いていった。恐くはなかった。浅川ははっと我に返り、影の方向に目を凝らした。
「……竜司、そこにいるのかい?」
影はなにも答えず、まるで頭の襞《ひだ》に直接焼き付けられるように、本の題名が浮かんだ。
「人類と疫病」
目を閉じた浅川の瞼《まぶた》の裏に、白くはっきりと題名は浮かび、その後余韻をもって消えていった。その本は浅川の書斎にあるはずであった。この事件を調べ始めた頃、彼は四人の人間を同時に死に至らしめたモノの正体をある種のウィルスではと疑ったが、その興味から購入したものであった。まだ読んではいなかったが、彼はその本が本棚のどこに仕舞われているのかよく覚えていた。
東向きの窓から朝日が当っている。立ち上がろうとして、頭がずきんと痛んだ。
……夢だったのだろうか。
浅川は、書斎のドアを開けた。そして、何者かによって暗示された本、「人類と疫病」を手に取る。もちろん、浅川には暗示を与えたのがだれであるか想像がつく。竜司だ。竜司はオマジナイの秘密を教えるため、ほんの一瞬舞い戻ったのだ。
三百ページばかりの厚さのこの本のどこに、オマジナイの答えが載っているのか。浅川は再び、直感が閃《ひらめ》いた。百九十一ページ! その数字も、さっきほど強烈ではないが、脳裏に挿入されてきた。そこを開く。瞬間、浅川の目の中にひとつの単語が段階的にグッグッグと拡大されて飛び込んできた。
増殖 増殖 増殖 増殖
ウィルスの本能、それは、自分自身を増やすこと。『ウィルスは生命の機構を横取りして、自分自身を増やす』
「おおおおおお!」
浅川はすっとんきょうな声を上げた。オマジナイの意味にようやくつき当ったのだ。
……オレがこの一週間のうちにやったこと、そして竜司がやらなかったこと、明らかじゃないか。オレはあのビデオをビラ・ロッグキャビンから持ち帰ると、ダビングして竜司に見せた。オマジナイの中身、簡単じゃないか、だれにでもできることだ。ダビングして人に見せること……、まだ見てない人間に見せて増殖に手を貸してやればいいんだ。例の四人は、あんなイタズラをして、愚かにもビデオテープをビラ・ロッグキャビンに置いてきてしまった。だから、わざわざ取りに戻ってオマジナイを実行しようとした奴《やつ》はいない。
どう考えてもそれ以外の解釈はできない。浅川は受話器を持ち上げて足利の番号を回した。電話口に出たのは静だった。
「いいかい、今から言うことをよく聞くんだ。義父《とう》さん、義母《かあ》さんにぜひ見てもらいたいものがある。しかも、今すぐにだ。だから、オレがそっちに着くまで、ふたりをどこにも出さないでくれ、いいかい、わかったね、とっても重要なことだ」
……ああ、自分は悪魔に魂を売ろうとしているのか、妻と娘を助けるために、義父と義母を一時的な危険に陥れようとしている。しかし、娘と孫を救うためなら、ふたりは喜んで協力するに違いない。彼らもまた、ダビングして他のだれかに見せれば、それで危険を回避できるのだ。でも、その先は……、その先は?
「どういうことなのか、さっぱりわからないわ」
「いいから、言われた通りにするんだ。今からすぐそっちに向かう。ああ、そうだ。そこにビデオデッキあるかい?」
「あるわよ」
「べータかVHSか」
「VHSよ」
「わかった、すぐに向かう。絶対に、いいか絶対にどこにも行くな」
「ちょっと、待って。ねえ、お父さんとお母さんに見せたいものって、例のビデオじゃない?」
浅川は返事に窮し、黙り込んだ。
「そうなの?」
「……そうだ」
「危険はないの?」
……危険はないの? だと、おまえとおまえの娘はあと五時間で死ぬ運命にあるんだぞ。いいかげんにしろ、バカヤロー。質問ばかりしやがって。ことの次第を順に話して聞かせる時間はもうねえんだよ。浅川は怒鳴《どな》りつけたい気持ちをどうにか押さえた。
「とにかく、おれの言う通りにするんだ!」
七時ちょっと前、これから高速道路を飛ばしたとして、渋滞がなければ九時半頃までには足利の実家に着くだろう。妻の分と娘の分と二本ダビングをする時間を考えれば、十一時の締め切りにぎりぎりってところだ。浅川は受話器を置くと、オーディオのキャビネットを開けて、ビデオデッキの電源を引き抜いた。ダビングするには、どうしても二台のデッキが必要になるので、足利まで運ばざるを得ない。
浅川は部屋を出ようとして、もう一度山村貞子の写真を見た。
……あんた、とんでもないものを産み落としてくれたなあ。
大井ランプから首都高に入り、湾岸線を抜けて東北自動車道に入るコースをとることにした。東北道では、まず渋滞はあり得ない。問題は首都高の渋滞をどうやって回避するかだ。大井ランプで料金を払う時、渋滞の表示を確かめようとして初めて、浅川は今日が日曜日であることに気付いた。そのせいか、いつもは数珠《じゅず》つなぎになっている海底トンネルにも車の数はめっきり少なく、合流地点でさえ渋滞は見られない。この調子でいけば予定通り九時には足利の実家に着き、二本のダビングに充分な余裕をもってのぞむことができる。浅川はアクセルをゆるめた。スピードの出し過ぎで事故に巻き込まれるほうがずっと恐かった。
隅田川沿いを走りながら下を見ると、日曜日の朝の、まだ起きたばかりの街の表情があちこちに見受けられた。平日とは違った動きかたで、人々は歩いている。平和な日曜日の朝……。
浅川は考えてしまう。このことがどういう結果を生むのか……。妻の分と、娘の分と、二方向に分かれて放たれたウィルスは一体どのように広まってゆくのだろうか。既に一度見た人間にコピーをつくって渡し、ある特定のグループ内で受け渡しを繰り返せば、蔓延《まんえん》を防ぐことができるとも思える。しかし、それでは増殖を望むウィルスの意志に反することになり、その機能がどういった仕組みでビデオテープに組み込まれているのかは今のところ知りようがない。知るためには実験が必要となる。果たして、命をかけてまで真実を解明しようという人間が現れるのは、かなり深刻な状態にまで蔓延してからのことになるだろう。コピーをつくって人に見せるだけで危険を回避できるとすれば、難しい方法ではない故に人は必ず実行に移すものだ。そうして、口コミで伝わるうちに、「まだ見ていない人に」という条件は、必ず付される。それと、もうひとつ、おそらく一週間という猶予期間は伝播《でんぱ》するうちに短縮されるだろう。見せられた人間は一週間を待たずしてダビングし、他人に見せ……、一体、この環はどこまで広がるのだ。人間が本能的に持つ恐怖心に働きかけ、疫病と化したビデオテープはまたたく間に社会に広がるにきまっている。しかも、恐怖に駆られて人々はとんでもないデマを作り上げてしまわないとも限らない。たとえば、「見せられた人間は、二つ以上のコピーを作り二人以上の人間に見せなければならない」などという条件が加わったら、ねずみ講式に、一本の流れとはまったく比較にならないスピードで波及し、半年のうちに日本の全国民がキャリアとなって、感染は海外に及ぶ。その過程で、何人かの犠牲者が出る、すると、人々はビデオテープの予告が嘘でないことを知ってますます必死にダビングを繰り返す。どのようなパニックを引き起こし、どのような事態へ収束していくのか予想もつかないのだ。犠牲者が何人出るのかも……。二年前、空前のオカルトブームが襲った時、届いた投書は一千万通にも上ったのだ。どこかが狂っている。その狂いに乗じて、新種のウィルスは猛威をふるう……。
父と母を死に追いやった大衆への恨み、人類の叡知《えいち》によって絶滅の縁にまで追いつめられた天然痘《てんねんとう》ウィルスの恨み、それは、山村貞子という特異な人間の体の中で融合され、思いもよらない形で再び世に現れた。
浅川も家族も、ビデオを見てしまった者はみな、このウィルスに潜在的に感染してしまったことになる。キァリアだ。しかも、ウィルスは、生命の核ともいえる遺伝子に直接潜り込む。これがどういう結果を生むか、今はまだ知りようがない。これからの歴史に、いや人類の進化にどう係わってくるのか……。
……オレは、家族を守るために、人類を滅ぼすかもしれない疫病を世界に解き放とうとしている。
浅川はこれからやろうとすることの意味を恐れた。ほんのかすかな囁《ささや》き声もあるにはある。
……妻と娘を防波堤にすれば、それですむことじゃないか。宿主を失えばウィルスは滅ぶ。人類を救うことができるんだぞ。
しかし、その声はあまりに小さい。
車は東北自動車道に入った。混雑はなかった。このまま行けば、充分に間に合う。浅川は肩に力を込め、ハンドルにしがみつく格好で車を運転していた。「後悔なんてしない。オレの家族が防波堤になる義理などどこにもない。危機が迫った以上、どんな犠牲を払ってでも守らねばならないものがある」
決意を新たにするためもあり、浅川はエンジン音に負けぬ声でそう言った。果たして竜司ならば、こんな場合どうするか。その点について、彼は自信があった。竜司の霊は浅川にビデオテープの謎を教えたのだ。つまり、妻と娘を救え、と示唆したことになる。そのことが心強い。竜司ならこう言うだろう。
……今、この瞬間の自分の気持ちに忠実になれ! オレたちの前にはあやふやな未来しかねえんだ。後のことはなんとでもなる。人類の叡知とやらでことに当れば、ひょっとして解決できるかもしれねえ。人類にとっては、ひとつの試練だよ。悪魔は、いつの世でも、姿形を変えて現れるものさ。やっつけても、やっつけても、次々に現れやがる。
浅川は足利に向けてアクセルを一定に保ち続けた。バックミラーの中に、今あとにしたばかりの東京の空が映っている。その上空を、黒い雲が不気味に動いていた。黙示録的な悪の流出をほのめかす、蛇に似た動きであった。
角川文庫『リング』平成5年4月24日初版刊行