鈴木光司
バースデイ
目 次
空に浮かぶ棺
レモンハート
ハッピー・バースデイ
空に浮かぶ棺
1
一九九〇年 十一月
意識がはっきりする以前から、彼女の網膜はぼんやりと上空の風景をとらえていた。風景といっても視界はごく狭く、地の底に横たわって、長方形に切り取られた空を見上げているようなものだ。縦に走る青い空の線以外は、すべて黒で縁取られている。最初のうち、彼女には、眺めている風景の意味がわからなかった。今いる場所がどこなのか、見当もつかない。
眠りから覚め、夢とうつつとの境が朦朧《もうろう》としているときの感覚と同じだった。
左右にはコンクリートの壁が迫り、背中の下にも同質の硬い感触がある。丸い空が上にあるのなら、井戸の底ともとれるのだが、形状から察すれば、どうも数メートルの深さを持つ直方体の亀裂であると思われてくる。
日の光を直接見ることはできなかった。冷え冷えとして、澄んだ空気の肌触りから、まだ早朝であるような気がする。ときどき、異様な迫力を持って、間近からカラスの鳴き声が聞こえてきた。姿も見せず、羽ばたきもなく、鳴き声だけがガーガーと狭い空間に響き渡る。
忽然《こつぜん》とカラスの声が消えたかと思うと、船の汽笛がそれに代わって、耳に流れ込んだ。海が近いに違いない。潮の香りがわずかに鼻孔を刺激してくる。東京湾に面したビルの屋上……、彼女は、次第に今自分のいる場所を把握していった。
顎《あご》を上に突き出すと、錆《さ》びたパイプが二本、頭の上を横切っているのが見える。両側から壁は迫り、肩や腕を動かすスペースすらない。ひび割れたコンクリートから鉄筋が数本、刺《とげ》のように飛び出していた。触れると痛そうな刺の先端が、ただでさえ狭い空間をより狭く感じさせている。あお向けのまま、両手両足をまっすぐに伸ばした一本の棒のような姿勢で、横たわる他なさそうだ。
身体を固定したまま首を起こし、視線を足下のほうにずらしてみる。目の錯覚なのか、さっきまで細い鉄の筋と思われたものが、吹き込む風に揺れているように見えたからだ。じっと目を凝らすと、鉄の筋ではなく、浴衣《ゆかた》の帯に似た細い布製の紐《ひも》であることがわかった。一方の端がどこに結わえられているかは見えない。だが、片方の端は、足のあたりをふわふわとさまよっている。
……蜘蛛《くも》の糸。
『蜘蛛の糸』という小説のタイトルを思い浮かべた瞬間、地獄を連想し、身体中の毛穴がきゅっとひき締まる感覚を得た。
自分がなぜ今こんなところにいるのか、思い出すことができなかった。打ち捨てられたタイルのように、記憶はとぎれとぎれに拡散している。思い出そうと努力しても、断片は意味のある模様を形成することなく、物事の因果関係がわからなくなっている。
……ここはどこなのか。なぜ、自分はここにいるのか。
記憶が部分的に抜け落ちているのは明らかだが、空白部分がどれほど多いのか見当もつかない。
彼女は自分の名前を胸の内でつぶやいてみる。
……高野舞。
間違ってはいないと思う。自分が高野舞という名前を持つ女性なのは確からしい。だが、どうも違和感があるのだ。異物が身体に入り込んだ感覚を拭《ぬぐ》い切れず、さっきから自分が自分でないような気分を味わっていた。
続いて、年齢や住所、これまでの経歴など、自分の輪郭をはっきりさせる情報を、思い出せる限り胸の内で確認してみる。
……二十二歳、大学生。文学部に籍を置き、この先の進路は大学院の哲学専攻と決まっている。
突如、足の痛みに襲われた。というより、目覚めて初めて、足首あたりが痛むのを感知したのだ。
高野舞はおそるおそる顔を上げて、自分の足下のほうを見ようとする。唖然《あぜん》とした。足が見えないのだ。
視界を遮る物の正体がわからず、初めのうち目を細めたりしていたが、やがて、それが自分の膨らんだ腹と知れると、高野舞は両目を見開いて驚愕《きようがく》の表情を浮かべた。
トレーナーをたくし込んだジャンパースカートの腹部が、パンパンに膨らんでいる。高野舞は、足の痛みも忘れ、突き出た腹にそっと手を置いてみた。異物が腹の中に差し挟まれているのではなく、腹と、そこに触れている手が、皮膚として連続しているという確かな感覚があった。腹の皮を突っ張らせて、肉体の内部から盛り上がっているのである。記憶し得る限り、それまでの自分はスリムな体型であったはずだ。胸もそう大きなほうではなく、ウェストに至っては女性の平均以下の細さを誇っていた。
恐怖もなければ、失望もなかった。驚きが去った後、しばし呆然として、高野舞は両方の手で自分の腹をさすり続けた。自分の置かれた状況が信じられず、どんな感情を持てばいいのかさえわからないでいる。
客観的な、冷静な視線が、自分の身体を眺め回している。思考力が停止してしまったように、心の内は真っ白だ。他人事の視線によってしげしげと観察される膨らんだ腹。どこから見ても、臨月の腹だ。妊婦という言葉が浮かんだ。
それをきっかけとして、高野舞の脳裏に次々と、断片的な映像が蘇《よみがえ》る。なぜ、自分が今ここにいるのか、直感で理解したようだ。発端は、そう一本のビデオテープだった。
……見てしまったからだ。
嫌な予感がしたにもかかわらず、見てしまったのがいけない。
高野舞は今、ビデオデッキにテープをセットし、プレイボタンを押したときの指の感触までリアルに、思い起こしていた。
2
ビデオテープを手に入れてしまったのも、映像を見てしまったのも、単なるなりゆきからだった。偶然と見える裏で、人為的な力が働いたのかどうか、高野舞には知りようがなかった。目に見えない力に怯《おび》えるあまり、必死で、単なる偶然だと思い込もうとしていたようだ。真実を知ることすら避けたかったのかもしれない。
高山竜司の死に一本のビデオテープが絡んでいるらしいという話は、竜司の友人である浅川から、それとなく聞いていた。しかし、具体的にどう関わっていたのかはだれも教えてくれなかった。思いも寄らない映像を見たせいで、ショック死を起こしたという、荒唐無稽な仮説をたてたのは舞自身だった。人を死に導くビデオテープのからくりを、それ以外にどうやって説明しろというのか……。
でなければ、浅川の言った言葉が理解できない。高山竜司の死の瞬間に立ち会った舞に対して、彼はこう尋ねたのだった。
「本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね? たとえば、ビデオテープのこととか……」
いかにも、ビデオテープが高山の死をもたらしたという口振りであった。
結局、舞は信じていなかった。だからこそ、ふらふらと導かれるようにして、映像を見てしまったのである。
大学で論理学を教える高山竜司は、月刊誌に哲学論文を連載していて、その清書をしていたのが、教え子の舞である。竜司の悪筆は、よほど読み慣れた者にしか解読不可能で、舞は、犠牲的精神というより、師の論文を最初に読む光栄に浴したいという思惑から、自ら清書役を買って出たのであった。
ところが、連載の最終回を書き終わったところで、高山竜司は急逝してしまう。遺体を解剖した監察医、安藤満男の見立てによれば、心臓を取り巻く冠動脈の閉塞《へいそく》によって、急性心筋|梗塞《こうそく》を起こしたらしいというのだが、疑問点は多い。竜司の友人の浅川に至っては、ビデオテープを見たことが直接の原因であるらしいと、意味不明なことを仄《ほの》めかす始末。竜司の死を取り沙汰する環境はますます混迷化するばかりだった。
原稿の最終回を担当編集者に渡す直前になって、舞は、原稿に落丁があるのを発見した。一年に及ぶ連載の最後の結論部分が、数枚欠けていたのである。
竜司の部屋をしらみつぶしに探したが見つからず、最後の望みをかけたのは、相模大野にある竜司の実家であった。死の直後、竜司の部屋にあった荷物はすべて、実家に運び込まれている。落丁分の原稿がある場所として、ほかには考えられなかった。
竜司の母に事の次第を説明し、了解を得て家に迎えられた舞は、二階の個室に通された。小学校から大学二年まで、竜司が勉強部屋として使っていた部屋である。舞は、この部屋の中を自由に探す権限を与えられた。
書籍類から衣類、電気製品、小さな家具と、1DKのアパートにあった家財道具はすべて、段ボールに詰め込まれ、乱雑に積み上げられている。捜し物はほんの数枚の原稿用紙に過ぎず、隠れ場所はかくも多い。長丁場を予想し、舞はカーディガンを脱いで仕事に取り掛かったのだった。
捜し始めてしばらくするうち、たった数枚の原稿を探すことが、果てしもなく不毛な行為であることを悟っていった。だからといって、落丁分の原稿をどう埋め合わせるべきか解決策が浮かばず、ただだらだらと捜し続けるほかなかったのだが……。
萎《な》えていく気力を象徴するかのように、舞の背中は疲れを帯びて曲がり、その丸くなった背中に集中する視線を、ふとした折に感じるようになっていった。何かに見られているという感覚はますます強くなる。
高校生の頃、担任の美術教師に請われて、舞はたった一度だけ油絵のモデルをしたことがある。むろん着衣でのモデルであったが、教師の視線は服を通過して肌を舐《な》め、肉の奥の骨格にまで達するかのようで、恥ずかしさと陶酔の入り交じった、一種異様な興奮を味わったものだ。人物の頭を描くとき、画家の目は頭蓋骨《ずがいこつ》の形状を観察しているということを後で聞き、舞は、自分の直感が正しかったことを知った。
……美術教師の目は、わたしの骨盤をはっきりととらえていたんだわ。
あのときと同じ強い視線が、さっきから背中に刺さっている。皮膚を通し、肉を抉《えぐ》り、骨格に触れんとするような、先鋭的な視線……。
舞は、抗しきれず、振り返っていた。背後には、ピンク色のカーディガンに覆われた黒い物体があった。作業を始める前に脱いだカーディガンを、舞はついうっかり、そいつの上にかけていたのだ。
カーディガンを取り払ったとき、目の前に現れたのは、黒いボディのビデオデッキだった。電源は入ってなかったが、小さく赤いパイロットランプが、鈍い輝きを放っている。舞の頭に、浅川の言葉が蘇った。
「本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね? たとえば、ビデオテープのこととか……」
舞は、言葉に促されるようにして、ビデオデッキの電源を入れてしまったのだ。
3
自分はいるべくして、こんなところにいるのではないかという思いが、次第に強くなっていった。偶然ではなく、必然かもしれないと。
そういえば、現在横たわっているビルの屋上の亀裂は、ビデオテープの直方体の形状と似ている。いや、ビデオテープが収まるべきケースといったほうがもっとしっくりくるだろう。
ビルの構造上、この溝が何の役割を果たしているのかは不明である。排水溝、あるいは排気溝とでも呼ぶのだろうか。高層建築の構造など、舞には不得手な領域である。コンクリートのすぐ下から聞こえるモーターの唸《うな》りが、エレベーターの存在をほのめかしている。機械室のすぐ横のあたりにいることだけは間違いない。
いつの間にか、空が明るくなっている。白んでいた大気が晴れ、青色がより濃くなってきた。溝の壁には陰陽を分かつ日差しの線が走り、目で追えるほどの早さで下降する。巨大なビデオケースの内側を、光の線が動いていく……。
舞は、竜司の実家で、デッキからビデオテープを抜き出した瞬間のことを思い出した。コンセントを差し込み、電源を入れ、エジェクトボタンを押す。ガチャンと音をたてて、飛び出てきたビデオテープは、唇を真一文字にのばしてせせら笑い、あっかんべーをするかのようだった。
触れたときの感触。無機質の硬い手触りにもかかわらず、妙に暖かかった。電源を入れたばかりなのに、生きているようなぬくもりが指に伝わってきた。
背中のところには、こうタイトルが記入されていた。
『ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr・1989』
下手な文字で記されている。とても内容を説明しているとは思われない。このビデオテープに、ショーアップされたステージの模様が収められているはずがない。タイトルはそのままで、他の映像をダビングしたものなのだろう。
見てしまったことよりも、竜司の実家からビデオテープをこっそり持ってきてしまったことを、舞は今、強く後悔している。なぜ放っておかなかったのだろうか。原稿の落丁を捜しに行っただけなのだから、奇妙なビデオテープなど無視しておけばよかったのだ。ビデオテープを持ち帰ったときから、いつか見るべきものとして運命は決まってしまった。
日差しの線がガクンガクンと溝の壁を降りてきたかと思うと、舞の目を日の光が射た。太陽が中天に昇ったのだ。
時間のたつのが異様に早い。アナログ的な時間の進み方ではなかった。ついさっき、目覚めたのは早朝のはずだった。ところが今、溝の底に日差しが届いていることから察して、時間は正午近いと知れる。
左腕を力なく上げてみる。腕時計はなく、日差しの高さから、時間を推し量るほかなさそうだ。
どうも意識がブロックごとに欠落しているような気がする。でなければ、滑らかさを欠いた、ガクンガクンとした時間の進み方の説明ができない。覚醒《かくせい》と失神が交互に差し挟まれている。目覚めてからの数時間、うつらうつらとまどろみ、過去の記憶をフラッシュバックさせながら、無為に過ごしてしまったようだ。
今からすべきことははっきりしている。
……ここからどうやって抜け出すか、方法を考えなくっちゃ。
脱出できなければ、ゆっくりと訪れるであろう死に、精神が蝕《むしば》まれていくばかり。
……もう、おかしくなっているのかしら。
状況からすれば、もっと恐怖を感じたり悲観したりしていいはずなのに、どこか他人事のように眺めるもうひとりの自分がいるような感じだった。舞は、意識の陥没具合や薄さから、自分の精神が、もはや状況をはっきりと把握できずにいるのではないかと恐れた。
何の脈絡もなく、舞はふと、井戸の底で朽ちていく可憐《かれん》な少女を思い浮かべていた。心に思い浮かべるイメージは、必ず何かに触発されるものなのに、舞にはその出所がわからない。いや、匂いだろうか。どこからともなく柑橘系の香りが漂ってきて、想像力を刺激してくるようなのだ。少女の面影は、リアルな映像となって舞の身体にのしかかり、すうっと遠ざかっていった。
本当に、そこにいるかのように、少女のイメージが立ち上がってきたのである。
舞は耳を澄ませて、あたりの気配をうかがった。たった一人でいるのがたまらなく怖い。だれでもいいから、そばに寄って来てもらいたい。
頼りになるのは耳だけだ。すぐ近くから、足音が湧き起こるのを、舞はじっと待った。無力な自分が腹立たしい。
……救出されるのを待つだけなんて。
待つだけという消極的な態度を取るのが、本来あまり好きではなかった。
壁の内側から垂れた紐が、下界とを繋《つな》ぐ唯一の命綱だった。浴衣の腰紐を何本か結び合わせたのだろう、下から眺め上げると、丸い結び目がひとつだけ見える。なぜあんなところから紐が垂れているのか……。紐を蛇の胴体にたとえれば、結び目は蛇の頭だった。
自分の体重を支えるには、ちょっと細過ぎる紐であるが、この状況から抜け出そうとして他に頼るべきものはない。ちょうど足の爪先のあたり、紐の端は、床から数十センチのところでふらふらと揺れている。
舞は、無理に上半身を起こして、自分の身体がどこまで動かせるか、試してみようと思い立つ。ところが、上半身を起こした反動で痛めた左足首を壁にぶつけ、激痛のあまり声にならない悲鳴を上げる始末。くじいただけなのか、骨折しているのか。強烈な痛みは、自分の意識が明確に存在していることの証明であり、かえって勇気づけられた。
冷や汗を流しながら、舞は痛みに堪《た》えた。自力脱出どころか、溝の底で上半身を上げることさえままならない。
……助けを呼ぶのよ。
舞は必死で考える。どうすれば、自分がここにいることを外の世界の住民に知らせることができるのか。
「助けて、助けて」
声を上げてみた。上空に広がる空に飲み込まれるばかりで、声がだれかの耳に届くという手応えはまったくない。屋上に人が上ってこない限り、いくら声を上げても無駄なようだ。
舞は他の方法を考える。屋上に人が来ないのであれば、無理に注意を引き、人を呼ぶだけだ。
例えば空から何かが降ってくれば、通行人は空を見上げるはずである。
……何か、投げるものはないかしら。
両手を伸ばし、頭の上のほうを手探りするとコンクリート片が二、三個、指先に触れた。舞は、そのうちの一つを手に取り、大きさを確認する。親指の先程度の大きさ。ぼろぼろと崩れかかった古いコンクリート片で、間違って頭に当たったとしても、ひどく怪我することもなさそうだ。
中学高校時代、陸上の短距離選手として過ごした舞は、運動神経に自信があり、ソフトボールの遠投ではクラスで一、二を争う飛距離を出していた。ただ、身体をピンと伸ばしたあお向けの姿勢でどこまで遠くに放れるものか、試したことはない。投げ方にしても、頭から足にかけて弧を描くように右手を回してコンクリート片を放す他なく、飛んでいくのは一方向のみである。屋上の柵を越えて下に届かなければ無駄骨に終わる。
日差しは西に傾きつつあった。昼間の、なるべく人通りの多いときに試みるべきだろうと、舞は右手に握っている一個を空に放った。あっという間に視界から消え、音もなく空気に飲み込まれていく。
今、見ている世界の狭さに、舞は愕然とするばかりだ。短冊形の、細長い空が世界のすべてである。本当に自分のいる場所は、下界と繋がっているのだろうかと、疑問が生じる。疑問を裏付けるように、コンクリート片は何の手応えも残さず消えてしまった。
手探りして、次に手に触れてきたのは、十センチほどの鉄パイプだった。さっきの小片よりは遠くに届きそうな大きさと重さだ。だが、人間の頭部を直撃すれば、かなりのダメージを与えてしまう。
運悪く直撃したときのダメージを少しでも少なくしたいという思い以上に、自分の痕跡《こんせき》をはっきりと記し、メッセージ色を強く出したいと願った。
舞は、手頃な布切れがないかと、ポケットを探った。
ハンカチでも何でもいい。鉄パイプに結わえておけば、単なる落下物と判断される確率は減るだろう。
ポケットにハンカチはなかった。トレーナーの一部、ジャンパースカートの裾のあたりを破ろうとしてもまず不可能。さあどうしようと目を閉じた舞の胸にいい考えが浮かんだ。鉄パイプとのミスマッチが大きければ大きいほど、人目を引くに違いない。明らかに女性のものとわかる品……、手頃な大きさ。目立つことこの上ない。パンティを脱いでしっかりと結わえるのだ。
チャンスは一度、失敗したらそれまでである。ただ、足先から抜き取るときの痛みを我慢できるかどうか、自信がない。
舞は徐々にスカートをたくし上げ、裸の腰骨のあたりに触れた。伸縮性のある、下着の紐がそこにあるはずだった。ところが、指の爪は自分の皮膚を引っ掻《か》くばかりで、どこをどう探っても一向に下着には触れてこないのだ。
……やだ、下着を穿《は》いてない!
普段そんなことは決してなかった。下着をつけずに外出したことなど、舞は一度としてなかった。
不自然に持ち上げられた顔を左右に倒し、自分の股間を直に見ようとしても、突き出た腹のせいで見えず、手探りで判断する他ない。そうして、下着を穿いてないことを理解した瞬間、彼女の手は、腹の中で何かが動く力を感じ取っていた。
胎動としか思えない。自分がまだ処女であることを思い出し、舞の意識はまた遠くなりかけた。なぜ、自分は下着を穿いていないのだろうという疑問は、瞬時に、このお腹の中にいるのは一体何なのだろうという疑問に取って代わった。
めくれ上がったスカートから、腹の一部がのぞいている。内部からの圧力により、突っ張った腹がぼこぼこと、目まぐるしく形状を変えている。
数年前に見た映画のワンシーンを思い出し、舞は、自分の置かれた状況の異常さに心底ゾッとした。
4
記憶に間違いのあるはずがなかった。検証することのばかばかしさは、舞自身が一番よく知っている。
かつて一度だけ、ボーイフレンドに身体をまかせかけたことはあった。今もあのときと同じ姿勢を取っている。両手両足をぴんと伸ばした、仰向けのポーズ。場所は彼のアパートにあったシングルベッドの上……。入念な話し合いの末、覚悟は決まっていたのだ。
同じ大学の文学部に籍を置く彼は、名前を杉山といった。杉山は、色白のほっそりとした体型で整った顔立ちをしていた。背は舞より少し高いだけ、いかにも美少年といった面影を残し、容姿の点で、舞とは実に似合いのカップルであった。
舞が魅《ひ》かれたのは、彼の容姿ではなく、学問的な早熟さだった。あらゆるジャンルの知識を網羅する博覧強記を誇り、どんな質問にもすらすらと答えてしまう。問いを発するのが楽しくなるほど、快刀乱麻の切れ味を持っていて、彼との会話は楽しくスリリングであった。
文学にも造詣《ぞうけい》が深く、占星術やギリシア神話等のエピソードを盛り込んで、女性をうっとりさせる話術にも長《た》けていた。高校時代はスポーツに夢中になり過ぎ、大学に入ってからは学問一筋でいこうと決めていた舞は、めくるめくような杉山の才能、中性的な魅力に夢中になってしまったのである。
中学高校と陸上部の選手として鳴らしてきた舞が、杉山のような男を恋人に選んだことに対して、かねてからの友人たちは疑問を投げてよこした。
……あら、体育会系の男が好みじゃなかったの。
疑問の中身はおおよそそんなところだ。だが、肉体と精神のどちらかを選択せよといわれれば、舞は迷うことなく、才能の在り場としての精神を優先させる。もちろん、両方を兼ね備えていればこの限りではない。舞は、高山竜司に出会うまで、そんな男に出会ったことはなかった。
陸上部だった頃、舞は何度か、男の先輩からデートに誘われた。初心《うぶ》な男たちで、直接にモーションをかけられたことはなかったが、テーブルを挟んで一緒にいるだけで、むんむんとした男の熱気が迫り、発散する性欲の強さに辟易《へきえき》し、負担と感じることが多かったのである。
中性的な魅力……、それは一種の気楽さでもある。迫り来る男の性欲を、真正面からブロックしたり、手懐《てなず》けて方向転換を促したりする必要がないのだから、どこか安心して気の抜けるところがある。
杉山のアパートで、結ばれそうになったとき、それはあたかも儀式のようにして始まった。互いの思惑を確認し合った上での、計画的な行為。舞は、そのとき処女を捨てることになんのためらいもなかった。
指示されるまま、ベッドに横たわり、舞は目をきつく閉じた。緊張のため手足に力を込め、両手両足をぴんと伸ばした格好は、今とそっくり同じだった。杉山は、舞の緊張を解きほぐそうとはしなかった。それどころか、身体の硬さを楽しむかのように、いつになく寡黙な態度で事に及んだ。
杉山の手によって徐々に服は脱がされ、肌があらわれていく。舞は、自分の裸体をはっきりと脳裏に浮かべていた。キスや愛撫のまったくない、脱がす者と脱がされる者の役割分担が明確な、妙にたんたんとした性交前の儀式も、経験のない舞には変だとは思われない。
ブラジャーとパンティだけになり、杉山の手が胸にかかったときだった。ふとした拍子に、ブラジャーが上にずれ、小振りな舞の乳房が両方とも露《あらわ》になった。もともと小さかった胸は、仰向けになっているせいでほとんど真っ平らの状態である。舞は、杉山が見ているであろう自分の胸を、想像の中ではっきりと思い浮かべていた。小振りな割には乳首は大きく、たぶんそれは天井に向かって屹立《きつりつ》しているのだろう。
脳裏に浮かべた映像のせいでよけい、あのときの瞬間は克明に舞の脳裏に記憶されることになった。
舞は十数秒間というもの、ずれ上がったブラジャーの下から乳房をのぞかせたポーズで放置された。平らな胸を強調されたままの、どっちつかずのみっともなさ。そんな身体をじっと見つめる杉山の視線を強く感じたかと思うと、一方に流れていた風の向きがすうっと変わっていった。舞は、空気の変動を察知して不安に駆られた。
……なにしてるの。早くして。
ところが、早く先に進んでほしいという舞の願いも空しく、杉山の手はブラジャーを元に戻しにかかったのだった。
舞は、手の感触を胸に感じ取るや両目を見開き、信じられぬ思いで、胸を覆われていく過程をつぶさに眺めた。胸だけではない。さっきとまったく逆の手順で、服を着せられていく。唾液《だえき》を一滴もつけられることなく、無垢《むく》のまま閉じられていったのだ。
舞は、目だけで杉山に尋ねた。
……なぜなの。
杉山は、舞の耳に口を寄せてこう言った。
「やっぱり、よそうよ」
普段の饒舌《じようぜつ》さが嘘のようなあっけなさ。杉山ならば、途中で手を止め、行為を中断させたものの正体をある程度美化し、舞を説得できるはずだった。それが、理由もなにもなく、ただ、「よそう」とだけ言う。
舞の頭の中は真っ白になり、わけがわからなくなった。屈辱感が渦を巻いている。人格を奪われ、単なる着せ換え人形にされてしまったようなものだ。
セックスをすることを、互いに了承していたにもかかわらず、なぜ彼は途中でUターンしなければならなかったのか。それほど自分の肉体に魅力がなかったというのか。言葉での説明がないだけに、ネガティブな疑問が勝手に膨れ上がってくる。彼の気を殺《そ》いだものが何なのか理解できず、舞は、深い絶望にとらわれた。
……胸が小さいからなの。
舞は自問してみる。そんなことなら、裸にするまでもないことだ。服の上からでもある程度のことは知れる。
理由も知らされず、深く傷ついたまま、舞は杉山のアパートを出て自宅へと向かう他なかった。
舞と杉山の関係は、それをきっかけにして終わったのだった。
以後、ボーイフレンドからの誘いは多いけれど、一線を踏み越えないままでいる。思い出すだに、あの空白の十数秒が、恐怖の対象として迫ってくる。自分の裸身をねっとりと値踏みされてしまったような不快感。もう一度あんな思いをさせられるぐらいなら、一生処女のままでもいいくらいだった。
間違いはなかった。記憶が欠落しているとも思えない、検証するのさえばからしくなる、自分はまだ未体験であるという前提。
……どうして、わたし、妊娠してるの。
因果応報……、原因があるから結果がある。直接の原因として考えられるのは、そう、あのビデオテープを見てしまったことだ。
そうしてもうひとつの要因を、舞ははっきりと思い出していた。
……ビデオテープを見てしまったとき、わたしの身体は、排卵日にあった。
生理の周期からも、体温計の数字からも明らかだった。排卵日……、ビデオテープ……、二つの要素が重なったことで、今のこの身体の変化はもたらされた。
壁の内側を、日差しの線が昇っていた。太陽は西に傾き、直方体の空間は、刻々と闇に支配されつつある。
舞は、杉山にされたような、肉体を値踏みされる視線をまたも感じた。亀裂の外側から覗《のぞ》かれているのではない。視線は、自分の胎内から発せられている。どうも、胎内に抱いている目に観察されているらしいのだ。
それを証明するかのように、またひとつ舞の腹が小さく、鋭く波打った。
5
結局、高山竜司の家財道具をいくら探しても、紛失した原稿は見つからなかった。担当編集者と交わした約束は明日である。明日の午後までに、連載の最終稿を清書して渡さなければならない。
夜も遅い時間だった。舞は、ワンルームの自室に閉じこもり、テーブルの上に原稿を広げて「うんうん」と頭を抱えていた。部屋の広さは五畳程度。テーブルを机代わりに、座椅子に座るのが、勉強するときの姿勢だった。手を伸ばせば届く距離に本棚がある。本棚の隙間にはビデオ内蔵型の14インチテレビがはめこまれていた。
原稿をどう処理していいかわからず、舞は何度も顔を上げて溜め息ばかりついていた。清書するだけならともかく、抜け落ちた部分をどう補えばいいのか。
それまで舞は、失った分の原稿を自分の言葉で書き加えることにばかり気を取られていた。前回の原稿から最終回へと、論理が飛躍しているのは明らかである。その飛躍した部分を自分の論で補おうとするから、筆は一向に進まず、うんうんと頭を悩ます他なかったのだ。
ところがふと、加筆するのではなく、削除する方向で整理したらどうかと思い付いた。
……書き足そうとするから、言葉が浮かばないんだわ。
書き加えるより削除するほうがずっと楽である。しかも竜司の思想を強引にネジ曲げる恐れもない。
方針がきまったとたん、舞の気分は楽になった。朝までにはどうにかなると、目途がたったからだ。
その隙間を狙うようにして、ビデオテープが目に入ってきた。紛失した原稿は見つからず、その代わりに持ってきたビデオテープは、何気なくテレビの上に置かれたままになっている。気分転換に、この映像を見たとしても、原稿の清書は十分間に合うだろう。
今から思えば、罠《わな》ともとれる術中に、舞は見事にはまってしまった。だれが仕組んだとも知れぬ罠……、舞は、目に見えない存在の企《たくら》みに乗せられた。
座椅子に座ったまま、自然な動作で腕を伸ばし、舞はビデオテープを手に取った。
『ライザ・ミネリ、フランク・シナトラ、サミー・デイビス・Jr・1989』
ケースもない、剥《む》き出しのビデオテープだった。
ラベルの筆跡だけからも、テープが竜司のものでないことは明らかだ。第三者によってダビングされたものが、ある経路で竜司のアパートに持ち込まれ、巡り巡って今はこうして舞の部屋で吸引力を発揮している。
舞は手を伸ばして、テープをデッキに挿入した。自動的にスイッチがオンになる。ビデオ映像にチャンネルを合わせ、プレイボタンを押した。
プレイボタンに触れた瞬間、彼女の本能はストップを命じかけた。
……今ならまだ間に合う。捨てるのよ、そんなもの。
だが、本能の声は、ビデオのたてる雑音によってかき消された。
「ザーザー」
やはり好奇心には勝てない。雑音とともに画面は乱れ、墨を流したような映像が目に飛び込んできた。もう後戻りはできないのだ。覚悟を決め、舞は姿勢を正した。見る者に凝視を要求する傲慢《ごうまん》さが、ビデオテープから溢《あふ》れ出ている。
……終いまで見よ。モウジャに食われるぞ。
太くのたくる墨の線は、実際に文字を形成して脅しをかけてくる。明滅する光の点は、現実にはありえない人工的な輝きを発し、眼球を射られて不快なはずなのに、視線を逸《そ》らすことができなかった。
映像は断片的な情景の寄せ集めであり、意味不明である。ただ、ワンシーンワンシーンのインパクトは実に強烈で、臨場感を持って胸に迫ってくる。映像が、肉体に影響を与えているのではないかと、疑いを差し挟みたくなるほどの迫力……。
真っ赤な色が迸《ほとばし》ったかと思うと、それは溶岩に変わり、一見して活火山とわかる山肌を焦がして流れ落ちる。夜空へと舞い上がる火の粉は、まさしく自然の風景だった。
かと思うと、次のシーンでは、白地に黒く「山」という漢字が浮かんで消え、二個のサイコロが鉛でできたボウルの底を転がったりする。
次の場面でようやく人間が登場した。老婆が畳の上に座り、正面に向かって何ごとか囁《ささや》きかける。方言が含まれているせいか、うまく聞き取れない。説教しているような雰囲気がある。
生まれたばかりの赤ん坊が産声を上げた。赤ん坊の身体は、眺めているうち徐々に大きくなってくる。舞は、自分の両手で、画面の中にいる赤ん坊を抱いているような錯覚を覚えた。手の平が、羊水におおわれた皮膚に触れる。ぬるりとして、滑り落ちるかのような手応え。舞は、思わず両手を引っ込めてしまった。
と同時に赤ん坊は消え、「嘘つき」「詐欺師」という集団のざわめきが湧き起こる。碁盤目の格子に百個ばかりの人間の顔がはめ込まれ、よく見ると、一個一個の顔が非難の表情を浮かべている。さらに顔は細胞分裂を繰り返して増殖し、無数の点と化し、画面を埋め尽くす。
黒くなった画面の中央に「貞」という文字が浮かんでくる。
突然現れた男の顔……、唐突な変化だった。男は呼吸を荒くして、顔から大粒の汗を滴らせている。男の背後にはまばらに木々が生い茂っている。
ランニング姿の裸の肩は汗で光り、日に焼け過ぎの肌は薄く皮が剥けていた。背後の風景も、男の格好も、夏そのものだった。男の目は殺意を秘めて充血していった。口を歪《ゆが》め、よだれを垂らしながら、男は顔を上に向け、一旦画面から消えた。
次に現れたとき、男の肩口は抉《えぐ》られ、肉も露に血が流れ落ちていた。画面の正面へと流れる大量の血。
またどこからともなく、赤ん坊の泣き声が湧き起こる。鼓膜ではなく、直接皮膚の細胞を震動させるような、ざわざわとした泣き声。舞は、赤ん坊に触れたときの皮膚感覚を思い出していた。
画面の中央に、明るい円形の穴が現れた。闇の底にいて、中天に満月を見上げているような具合だった。やがて、満月から一個二個と握り拳大の石が降ってくる。
……この人、井戸の底から上空を見上げているんだわ。
舞は、満月のシーンを見たとき、はっきり状況を把握することができた。その後に、自分に降りかかる運命を察知して、勘が働いたのかもしれない。
満月に似た丸い輪が、実は井戸の縁であると、この時点でわかるはずがないのだ。
最後に再び文字が浮かぶ。
「この映像を見た者は、一週間後のこの時間に死ぬ運命にある。死にたくなければ、今から言うことを実行せよ。すなわち……」
そこで画面はがらりと変わった。よくテレビで見かける蚊取り線香のCMが、突如差し挟まれて映像を遮断する。死の運命から逃れる方法が記されている部分に、テレビCMがかぶさり、消されている。
舞は、震える手でデッキのストップボタンを押した。
顎のあたりががくがくして、何か喋《しやべ》ろうとしても言葉にならない。かといって、夜のワンルームにたったひとり、語りかける相手もいないのだが……。
見た人間を一週間後に死に至らしめるビデオテープの存在が、にわかにクローズアップされてくる。
高山竜司の死因に関して、浅川は確かにこう尋ねてきたのだ。
「本当に、竜司はあなたになにも言い残してないのですね? たとえば、ビデオテープのこととか……」
ビデオテープは間違いなく高山竜司の部屋にあった。竜司はこの映像を見て、ちょうど一週間後、謎の死を迎えた。
実際に映像を見た者でなければ、そんなことを言われてもまず信じなかっただろう。細胞のひとつひとつに迫ってくる、異様なまでのリアリティが、ワンシーンワンシーンに含まれている。
こみ上げてくるものがあった。ビデオデッキの前で呆然としていた舞は、吐き気を感じてバスルームに駆け込んだ。
……見るんじゃなかった。
後悔してももう遅かった。自分の意志で見たというより、何者かの意志で見せられてしまったという思いが強い。
舞は喉の奥に指をつっこみ、胃の中身が空になるまで吐き続けた。今この瞬間、身体の中にあるものをすべて出してしまいたい。身体の奥のほうに、何か異物が入り込んだようなのだ。
胃液にむせて、涙が流れる。便器の前で、舞はがっくりと膝をつき、苦しげに息を吐いた。
自分が徐々に消滅していく感覚をしばらく味わった後、舞は、意識を失っていった。
映像を見てからというもの、ふと意識がなくなる瞬間を多く持った。一週間の出来事を順序だてて、余すところなく思い出すことができない。気がつくと、数時間単位で時間が経過し、自分のいる場所がどこなのかわからなくなる。まるで魂を乗っ取られたような状態だった。
……魂を乗っ取られた状態。
言い得て妙である。自分の肉体が支配されつつあることに、舞はなんとなく気づいていた。
ビデオテープを見てから、舞の肉体に侵入した異物は、徐々に成長していった。排卵日に見てしまったことが、異物の侵入を容易にしたのだろうか。それとも、あのビデオテープを見た人間は皆、こうして死への旅路を辿《たど》るものなのか……。
舞は、卵管にある卵子に向けて突進する無数の精子を想像する。性教育の教科書で、一度見たことのある生々しい図。ビデオテープを見ることによって大量発生したウィルス状の微生物が、卵管に殺到したのではないか。でなければ、処女にもかかわらず、妊婦の体型になってしまった理由がわからない。
腹の中には間違いなく、生命が存在する。ビクンビクンと鼓動を繰り返し、張り詰めた子宮の中で手足を振り上げる生命がいるのだ。
6
紐の先が、折り曲げた膝のあたりをくすぐっていた。昼間見たときより紐の先端が少し下がってきたような気がする。
……だれが、何のために、こんな紐を亀裂の中に垂らしたのかしら。
自問するまでもなかった。舞の手には、一方の先を屋上の手摺《てすり》に縛り付けたときの感覚が蘇っていた。フラッシュ撮影されたスナップ写真が、意識の中にスパッスパッと差し挟まれ、闇に自分の姿が客観的に浮かんでくる。指先の動きももどかしく、何ものかの意志に操られて紐を結んだのは、間違いなく舞自身であった。ほうっておくと力が抜けてしまいそうに、足や腰はがくがくと揺れ、それでも舞は、訳のわからない義務感に駆られて、一心不乱に紐を結わえたのだった。
紐は、部屋を出るときから用意されていた。紐と一緒にもうひとつ用意したものがあるはずなのに、記憶は抜け落ちている。何だったんだろう。確かビニール袋に入っていた。ぐにゃりとした感触だけは覚えている。
ビデオテープを見て以降、子宮の中で徐々に育っていった生命は、いつの頃からか肉体に影響を及ぼし始めた。深夜ふと我に返って耳を澄ますと、腹の中で育った異物の鼓動が聞こえたりもした。ほんの四、五日で臨月と見まがうほどに腹は膨らみ、大きくなった乳首からは母乳が滲《にじ》む。
なぜ自分はこんなビルの亀裂の底にいるのか。たった今、舞は理由をはっきりと把握した。
……産み落とすため。
舞は、腹の中にいるのが自分の子供であるとは、露ほども信じてはいなかった。人間であるのかどうかも疑わしい。
……獣。
いや生命体という気さえしないのだ。
この異質なものを人知れず産み落とさなくてはという義務感。出所の不明な、だが、否応《いやおう》もなくのしかかってくる義務感。そのためには「さなぎの殻」という役割に徹しなければならないと、舞は行動に駆り立てられたのである。
ちょうど一昼夜前の今ごろ、舞は、下着を脱ぎ捨て、人に見られないように部屋を出て、倉庫街にあるこのビルの屋上に上った。夜になると人通りは絶え、車の数も少なくなる海岸通りに沿って建つ、古びたビルだった。
二階踊り場の柵を飛び越えて、非常用のらせん階段を屋上まで上り、さらに塔屋へのはしごを上って機械室の上部あたりに出た。そこの海寄りの側に、まるで空に浮かぶ棺のように、排気用の深い溝があったのである。
さなぎが、殻から脱するのにちょうどいい場所。魂の抜け殻を放置するのにちょうどいい場所。そこならば、舞のマンションから遠くもなく、極めて人目につきにくい。
舞は、垂らした紐を伝って亀裂を降りようとして落下し、足首をくじいてしまった。
……今、何時だろう。
昼間ならば日差しの変化によって、おおよその時間はわかる。だが、日が沈んでからゆうに数時間が経過した深夜、星々の輝きはいかにも頼りなく、時の流れを知る手掛かりにはならない。
部屋を出てからおそらく二十四時間が過ぎている。
ふと舞の胸は悲しみに襲われた。ここにいる二十四時間、ほとんど意識は他に飛んでいて、自我を保っていた時間を凝縮すればほんの二、三時間程度に過ぎない。驚愕や恐怖、得体のしれない不気味さには何度も襲われたが、悲しみを味わうのは初めてである。
舞の肉体は、そのときが近付きつつあるのを知っているに違いなかった。
起き上がろうとして起き上がれず、声を出そうとして喉の奥は詰まる。それとはうらはらに、胎内の動きはますます激しく、内部から圧迫する力は生命に溢れていた。
生命力が移行していく。これまでの二十二年間を思うと辛《つら》くなってきた。得体のしれないものに身体を乗っ取られ、生み出すためにだけ自分の肉体を使われるとすれば、これまでの自分があまりにも哀れだ。
舞には、涙の意味がわかっていた。人生を無化しようとするものに対する恐怖が、悲痛な思いを表面に押し上げてくる。
十一月の中旬……、ここ数日間暖かな晴天が続いていたが、やはり深夜となれば冷えてくる。コンクリートの冷たさが背中から骨へと伝わり、舞の悲しみを肥大させた。どこから漏れてくるのか、薄い水の膜が壁の内側にできている。ぬるりとした湿った感触が、さらに追い討ちをかけるのだった。
舞は嗚咽《おえつ》を漏らした。
……助けて、助けて。
言葉は声にならない。陣痛が湧き起こったかと思うと、海の巨大なうねりを連想させて、悲しみや寒さ、感情の一切を運び去ってしまう。海の臭《にお》いが濃くなったようだ。今、この時間、潮は満ちているに違いない。
幼かった頃、母からこんなふうに言われたことがある。
……あなたは満ち潮のときに生まれたのよ。
自然のリズムに任せる限り、人間は満ち潮のときに生まれ、引き潮のときに死ぬと、母は言う。
生と死、ふたつが同時に起こりそうな気配が濃くなってゆく。だとすれば、それは満ち潮なのか、引き潮なのか。重力の変化は、間違いなく生死に影響を与える。
陣痛はやや治まり、打ち寄せる波のリズムよりいくぶんゆったりしてきた。一定のリズムの上に、低く旋律がかぶさってきたようにも聞こえる。船の汽笛や、遠くで鳴るクラクションが、効果的にアクセントを添えていた。夜の街の音が、幾重にも重なって音楽に聞こえるだけなのか。それとも、ビルの一室に流れる音楽が、ここまで漏れ聞こえるだけなのか。あるいはまた……。
舞には、音楽が本当に聞こえているのかどうか、判断できない。幻聴と現実音の区別などできるはずがなかった。ただ、聞いていると心が落ち着くのは確かだ。
神秘的な旋律に肉体の苦痛は和らぎ、舞は一瞬不思議な気分にさせられた。判然としない音の源にふと思い当たったのだ。そして、まさかという気持ちで思い付きを打ち消し、頭を起こして自分の腹を見つめる。
……だれ、そんなところで歌をうたっているのは。
舞は、腹の中にいる生命が、母体の苦痛を和らげるために歌をうたっている姿を想像していた。羊水で満たされた真っ暗な子宮は、今、舞のいる環境と似ている。暗いお腹の中で、柔らかく歌をうたう者は、もうすぐ顔を出そうとしている。
歌声は若い女のものだった。すぐ間近からの声もあれば、足下付近から回り込んで聞こえてくることもある。声の主は一旦うたうのを止め、低くか細く、語り始めた。
かつて一度死んだことのある女の言葉だった。女ははっきりとそう言った。
……わたし、以前、井戸の底で、死んだことがあるのよ。
女は、山村貞子と名乗り、ごく簡単にこれまでの経緯を話す。
信じないわけにはいかなかった。ビデオテープの映像はビデオカメラで撮影されたものではなく、山村貞子の五感を通し、念の作用で映されたものだと声が言う。ああそうなのかと自然に納得されてきた。ビデオ映像を見ているとき、山村貞子という未知の女性の感覚と、舞の感覚は完全に一致していたのである。赤ん坊の生々しい映像が、舞の脳裏に明滅した。
子宮口は完全に拡大していた。たったひとり、舞は、陣痛のリズムに合わせて、いきんだ。苦痛を帯びたうめき声は、狭い空間に響き渡って、耳に届いてくる。まるで自分の声とは思われず、違和感は拭えない。
最初の頃に比べると、陣痛のリズムは短く、短くなったぶんだけ生命誕生にむけてのエネルギーはより強く凝縮され、より強く解放され、子宮と腹筋の収縮は繰り返された。
舞の脳裏では巨大な波が絶えず砕け散っていた。そのリズムに合わせ胸いっぱいに息を吸い込み、いきみ、声を出したくなるのを堪《こら》え、全身の力を下半身へと集中させた。
今、月は地球を回り、徐々に満潮に向かいつつあるに違いない。
舞は、突如激しい陣痛に襲われた。下腹部にエネルギーの凝縮があり、それはかたまりとなって出口から弾《はじ》けようとしている。舞は、すがる思いで腕を伸ばす。何でもいいから握るものがほしかった。
……生まれる!
直感が身体中を駆け巡ったとき、舞の意識はすうっと遠のいていった。
7
おそらく気を失っていたのはほんの二、三分に過ぎない。意識がはっきりするにしたがって、舞の網膜は、自分の股間のあたりでがさごそと動く、小さな影をとらえていった。
赤ん坊は、声もなく子宮から這《は》い出し、身をくねらせながら上半身を持ち上げようとしている。両手をうまく使って泳ぐような格好だった。産声を伴わない無言の動き……。それだけによけい、既に意志を持った存在であることを強く訴えかけている。
舞の胸には、母性が体験するはずの喜びや感動が、どこからも湧いてこない。ようやく生まれたという事実だけが、ぼんやりと身体に染み渡っていく。異物を排出したという安堵《あんど》感が勝っていたのだろう。
目が慣れると、小さな影はますますはっきりとしてきた。
全身を羊水に覆われ、星明かりの下でぬらぬらと肌をてからせている赤ん坊は、必死の形相で両手に紐状のものを掴《つか》んでいる。自分の身体から延びた、しわくちゃの紐……、両手でへその緒《お》を掴んでいるらしい。
生み落としたといっても、まだ自分の肉体と離れているわけではなく、へその緒によって繋《つな》がっている。ちょうどこの亀裂の中に垂れ下がった紐のようだ。さっさと断ち切ってしまいたかった。だが、自分の力では如何ともしがたく、力の抜けた身体を横たえて、なすがままに身を任せる他ない。
無力な舞に比べ、赤ん坊の動きは活発だった。ロープのようにより合わさったへその緒を両手で引っ張り、延ばしておいて口でくわえ、切ろうとする。もちろん、まだ歯が生えているわけではない。赤い歯茎でへその緒の中央をくわえ込み、首を横に振る形相は、赤ん坊とは思えないほどに凄《すさ》まじく、小さな顔は鬼のように歪んでいた。
ひょろひょろと長いウィンナーソーセージを、無理やり引き千切るようなものだった。切り終わると、赤ん坊は、足下のあたりに転がっていたビニール袋から濡れタオルを取り出し、身体を拭《ふ》き始める。
濡れタオルは、舞自身が紐と一緒に用意したものらしい。飛び下りたとき足下のあたりに転がり、頭の位置からは発見できずにいたようだ。
知らぬ間に、出産の準備をさせられていたのだろう。子宮に育ちつつある胎児の命令に従ったとしか思えない。だが、舞はその事実にどうもピンとこないのだ。
舞の子宮は収縮を続けていた。少し力んでみると、胎盤が出てきたような感覚があった。卵膜と一緒に排出されるや、舞のお腹はこれまでとはうって変わってぺちゃんこになっていた。
平らになった腹の向こうで、赤ん坊の全体像はますますはっきりとしてきた。
赤ん坊は身体を拭いていた。身体中の皺《しわ》を伸ばすような、ゆっくりとした拭き方だった。胎内にいるときから、生まれ出た後の行動がわかっていたのだ。呆れるほどの手際よさである。
一通り拭き終えると、赤ん坊はリラックスしたポーズでしゃがみ込み、口を動かし始めた。
……何をしているのかしら。
顔や手の動きから、何かを食べているように見えた。むさぼり食う姿に、舞は食欲を刺激され、頭を大きく起こす。
濃く変色した血が、小さな唇に付着していた。くちゃくちゃと肉を噛《か》む音が聞こえてくる。
どうも胎盤を食べているらしい。
極めて栄養価の高い胎盤を頬張りながら、赤ん坊の身体は以前にも増して生命力を迸《ほとばし》らせていく。空腹で力も出ない舞の肉体の一部を食べながら、赤ん坊は満足そうな笑みを浮かべるのだった。
闇の中で、目と目があった。小さな顔に、一瞬、哀れみの表情が浮かんだ。
「あなたが山村貞子なの」
舞は、かろうじて声を出した。
赤ん坊は目を逸《そ》らすことなく、柔らかな髪の毛がぴったりと付着した額を前に傾けた。山村貞子であることを肯定しているようにも見える。
すぐ斜め上からは紐が垂れ、肩のあたりを撫でている。
赤ん坊は、意を決したようにその紐を掴み、そのポーズのまま舞のほうにじっと視線を注ぐ。態度からは、外の世界に出るという意志が感じられた。赤ん坊は、紐を辿《たど》って脱出するつもりなのだ。
思った通り、身体を上へ上へと引き上げ始めた。途中、動きを止めて舞を見下ろし、目を瞬かせ、意味ありげな視線を投げてよこす。何か訴えたいことでもあるのだろうか。敵意や哀れみ、憎しみのない、まったくの無表情。皺くちゃの小さな顔のため、表情から心を読み取ることができないだけなのか……。
やがて、排気溝の縁にまで到達すると、赤ん坊は星明かりに照らされて黒く輪郭を浮き立たせた。中途半端に切断されたへその緒が、輪郭の中にはっきりと見えた。へその緒は、獣の尻尾のようでもあるし、鬼の角のようでもある。
赤ん坊は、縁にたたずんで、しばらく舞を見下ろした。舞は、その黒い影にすがりつきたい思いだった。
……助けて。
他にはだれもいない。助けを求められるのが、自分の生み出した者だけとは……。保護するのは生み出した側のはずなのに、立場が逆転してしまっている。
願いも空しく、逆に、赤ん坊は紐を上に引っ張り上げていく。へその緒を無理やり千切るのと同じだった。繋げたまま放置しては、自立できないのだろうか。
だが、紐だけは放っておいてほしかった。外の世界と繋がる唯一のパイプを、わざわざ取り上げてしまう理由がどこにある。蜘蛛《くも》の糸を切らないでほしい。永久に地獄から這い上がれなくなってしまう。
舞は、必死に訴えかけ、赤ん坊の残酷さを恨んだ。
悲痛な義務感に支配されての行動なのか、赤ん坊の動きは冷静そのものだ。舞の訴えを少しでも聞く素振りを見せない。
……お願い、見捨てないで。
紐が引っ張り上げられると同時に、赤ん坊の顔も排気溝の縁から消えた。何をしているのだろう。まだがさごそと音が聞こえる。いなくなったわけではない。
赤ん坊は、顔だけを縁からのぞかせ、左腕を素早く動かして、舞のほうに何かを放って寄越した。薄明かりの中空で、それはらせん状に絡まり合う蛇のように見えた。幾重にも巻かれた紐の束は、舞の腹の上に落下し、重みもなく、とぐろを巻いている。単なるイタズラだろうか。それにしては意味不明で、悪意のみが鼻につく。
赤ん坊は、ニッと笑いかけると、何の躊躇《ちゆうちよ》も見せず、夜の闇へと姿を消していった。
これからどこに行くのか、そして何になろうとしているのか。
舞の目には、腹の真ん中から短く垂れ下がったへその緒が、余韻となっていつまでも残った。やはりどうしても鬼を連想してしまう。
東京湾のほうから船の汽笛が聞こえてきた。音は、狼の遠吠えに似ていた。生き物の生々しい叫びに似ている。呼応して陸地の奥、住宅街の一角から犬が小さく吠えた。海も近く、人の住む街も思ったほど遠くない。にもかかわらず、ここは全く異界の法則に支配されている。
満ちていた潮は、これを境に引き潮に変わるだろう。なんのことはない。生と死は矛盾せず、この空間にうまく同居していたのだ。
舞は力なく笑って赤ん坊が去ったあたりの闇に目を凝らし、その将来に思いを馳《は》せた。
その一方で、早く朝にならないかと願うのだが、夜はまだまだ長く続きそうである。夜明けまで、自分の意識が持つかどうか自信がない。
今、ふっと星が自分の近くまで降りてきたように感じられた。それとも、自分の身体が浮きかけたのか……。気分はそれほど悪くはない。
死はもうすぐそこまで来ている。
レモンハート
1
一九九〇年 十一月
………………………………………………………、キャパにして四百人程度の、昔から慣れ親しんだ劇場が、夢の舞台だった。客席でもステージでもなく、客席後方、ステージを正面から見下ろす位置にある音効室にいて、音効係をおおせつかっているらしい。キャビネットに埋め込まれたミキサーやオープンテープデッキが手元明かりに照らされて、すぐ正面にある。椅子に腰掛け、テープレコーダーのプレイボタンに右手の人差し指を乗せて、ミキサーの音量を左手で調整しながら、じっとステージの芝居に視線を注いでいた。これが夢であることはわかり切っている。先の展開もあらかた予想できるというのに、眠りから覚めて中断されることはなさそうだ……、そんなふうに自分を意識できるのが不思議でならない。睡眠と覚醒《かくせい》の境界線を行ったり来たりの、どっちつかずの状態といえばいいのだろうか。
音効室は照明室の隣に位置していて、ステージで繰り広げられる芝居を盛り上げるための重要な役割を負っている。芝居の進行を見ながら、舞台監督の合図や照明係との呼吸を取りながら、絶妙なタイミングで音楽を流し、効果音を差し挟む。特に、その劇団は、音楽の扱いにデリケートだった。曲のリズムにあわせて、役者の動きや台詞《せりふ》が決まっていたりするため、音出しのタイミングが狂えば、芝居自体がぶち壊しになってしまう。したがって、音効担当には常に慎重さが要求され、芝居が終わるまで気を抜くことができなかった。
ステージでは、大好きな若い女優が、ようやく手に入れた役を真剣に演じていた。初ステージであり、これからの女優人生を左右しかねない、大切な瞬間瞬間を精一杯に生きている。
個人的に好意を寄せているだけに、音出しのタイミングには特に慎重になり、指の先にまで思いを込めてプレイボタンを押さなければならない。緊張のあまり指先から脂汗が滲《にじ》み出る。
音楽に合わせて、ほんの一小節ばかり歌を口ずさむシーンだった。プレイボタンを押せば、この手で録音され、編集された曲の一節がステージ正面のスピーカーから流れ出るはずだった。
プレイボタン、オン。
ところが、スピーカーから出たのは、聞き覚えのある音ではなかった。音楽になっていないどころか、効果音としても極めて不気味なものだった。よく聞き取れないが、人間の呻《うめ》き声のように聞こえる。明るく歌を口ずさむシーンにあって、その音は芝居を壊すのに十分な破壊力を持っていた。
目の前で回るオープンテープは、まごうかたなくこの自分の手で編集したものだ。テープのどこにどんな音が入っているのかは、完全に知り尽くしている。ところが、現在流れているのは、まったく予期せぬ不気味な呻吟《しんぎん》なのである。
……一体、だれが、いつ、こんなところに、こんな音を、挿入しやがったんだ。
打開策を考える余裕もなかった。様々な疑問に襲われてパニックに陥り、あげくの果てに次のシーンで出すはずの音……、場違いな電話のベルの音を場内に響かせ、いよいよ収拾がつかなくなってしまった。
まだ新人ゆえにアドリブもままならず、若い女優は演技をとめて、音効室のほうを見上げてきた。客席の照明は落ち、音効室だけに手元明かりが点《とも》っているため、ステージからは音効室の様子が見えるはずである。
若い女優は、その視力のよさを武器にじっとこちらを見上げ、徐々に非難の光を目に込めていった。
……よくも、わたしの初舞台を台無しにしてくれたわね。
お手上げだった。なぜ、あんなところに不気味な呻き声が挿入されていたのか、まったく説明できないのだ。責められるいわれなどあろうはずがない。被害を受けたのはこっちのほうなんだ。
言い訳をしたくても言葉は出ず、身体も硬直して動かなくなっていく。金縛りにあったようなもの。
いまやステージ上の役者たちはすべて演技を止めて音効室を見上げ、その動きに合わせて観客たちまで中腰で振り返って、こちらに視線を注ぎ始める。非難を込めた視線を全身に受けるのは堪《た》え難かった。
……おれのせいじゃない、おれのせいじゃない。
言葉にならない言い訳だった。内心の声が、なぜかマイクで増幅されて、劇場中に響き渡り始める。
「おれのせいじゃない、おれのせいじゃない」
ほとんど絶叫ともいえる釈明の台詞が、人々の非難に油を注ぎ、糾弾の調子が強く劇場全体を包み始める。
中でもとりわけ鋭い視線を投げてよこすのは、初舞台の若い女優だった。同期で劇団に入り、研究生として共に雑事をこなし、励まし合っているうち、恋の対象となっていった女……。助けてあげたいのに助けられない。いや、それどころか、足を引っ張っている。心底、女優として成功してほしいと願う相手の未来を、今、こうして奪いつつある現実に歯ぎしりする……。いくら、愛していると言ったところで、現実はどうなるものでもなかった。
胸をかきむしり、脂汗をびっしょりかいて、遠山は夢から覚めた。
夢から覚めても最初のうちどこにいるのかわからなかった。呼吸を整え、あたりを見回し、遠山は状況を把握していった。鏡のある天井……、寝慣れない円形のベッド……、バスタオルを巻いた女性が、その大きなベッドの隣に座っている。
女の顔を見上げようとしたとき、突如、締め付けられるような痛みが胸に走った。震えを伴って、冷や汗が背中からじっとりと滲み出てゆく皮膚感覚がある。最近、背中や胸の痛みを覚えることが多く、遠山は、「またか」と不安な気持ちに襲われ、やはり医者に診てもらったほうがいいのかもしれないと、考えるのだった。
「うなされていたわよ」
女は、さもおもしろいものを見せてもらったわよというふうに、揶揄《やゆ》を含んだ笑みを見せた。
「あ、ああ……」
遠山は、あお向けの姿勢のまま、しばらく動かないでいた。今ここで下手に動くと、めまいを起こして倒れかねない。呼吸が落ち着くのを待つのだ。
おそるおそる寝返りを打ってみると、どうにか大丈夫そうに感じられた。
静かに女から離れ、夢の内容と、現実とを秤《はかり》にかけながら、ほっと溜《た》め息をつく。それが夢であると知りつつ、怖い夢を見るという経験が、遠山には幾度もあった。わかっていても、遠山は、同じ夢に怯《おび》え、現実でないことを確認して安堵《あんど》する。
腕時計を見ながら、遠山は女に訊《き》いた。
「おれ、何分ぐらい眠ってしまったのかなあ」
「十五分ってところかしら。寝ちゃったから、先にシャワー浴びて、戻ってきたらあなた、ひどくうなされてた。悪いことばっかしてるから、罰が当たったんじゃないの」
遠山は苦笑いを浮かべて、枕《まくら》に顔をうずめた。女がなにを考えているのか、よくわかる気がする。女房子供がいるにもかかわらず、女遊びの絶えない四十七歳の男が、浮気がバレて妻から咎《とが》められ、冷や汗を流してたんじゃないの、ってなところだろう。
酒に酔っているわけではなかった。夜ですらない。午後二時。ホテルの外に出れば、十一月終りの晴れた青空が見渡せるはずである。仕事中ひょんなことから空きができ、昼食でもと呼び出した昔なじみの恋人とホテルに入り、食事とセックスの満足感に、疲労の蓄積も手伝い、突如睡魔に襲われたほんの十数分間に差し挟まれた夢の断片……。意味を与えるのは簡単である。二十四年前、まだ二十三歳の大学生だった頃、幾度となく同じ夢にうなされていた。
夢には様々なバリエーションがあった。劇場の音効室で曲の頭出しをする瞬間、粘着テープで繋《つな》いだオープンテープがブチッと音を立てて切れる場合もあれば、芝居のシーンにそぐわない異音が出てしまうこともある。それによって、初舞台の女優が登場するシーンはずたずたに切り裂かれ、舞台は台無しになる。どのバリエーションにも共通しているのは、最愛の女性が初舞台に立つ大切な瞬間、自分のこの手で出された音が、彼女の演技を壊してしまうことである。
二十四年前、遠山はこの同じ夢にうなされた。当時、『劇団飛翔』の音効担当として音効室に座っていた身には、実際に起こり得る事態であり、似たような事件を経験してしまっていた。
あの日以来、二十四年間見ることのなかった夢がなぜ最近続けて蘇《よみがえ》るのか……、その理由をほぼ理解しているつもりだった。
現在も名刺入れの中には、彼の名刺が入っている。
『M新聞社横須賀支局 吉野賢三』
M新聞社の吉野と名乗る人間から突如電話を受けたのは、つい一か月ばかり前のことである。
平日の午後、昼食をとって戻った会社のデスクで、遠山はその受話器を取り上げた。吉野は、遠山の名前と、彼が一九六五年に『劇団飛翔』に入団した事実を確認すると、一呼吸置いてこう尋ねてきた。
……すみません、山村貞子さんに関して、ちょっとお伺いしたいことがあるんですけど。
焦りを押し殺し、わらにも縋《すが》るような、吉野記者の口調まではっきりと、遠山は覚えている。声の質が強く印象に残るのも無理はない。なにしろ、見ず知らずの相手が、懐かしい山村貞子の名前を告げたのだ。この二十四年間、心密《ひそ》かに思い出すことはあっても、決して第三者の口からは出ることのなかった名前。彼女の顔を思い浮かべるたびに胸は締め付けられ、動悸《どうき》が早くなる。未だ心の傷が癒えていないのは明らかだった。
できれば会って、山村貞子に関しての話を聞きたいという吉野の希望を聞き届け、一度だけ彼と会うことになった。遠山にしても興味のある話題である。会わないわけにはいかなかった。会社のすぐ近く、赤坂の喫茶店で、遠山は吉野と話す時間を作った。
いかにも昔ふうの新聞記者といった風体の吉野は、ときどき顎髭《あごひげ》に手を当てながら、遠い記憶を呼び覚まそうとしてきた。話題の中心は、山村貞子が失踪する前後のことに絞られた。
……山村貞子さんは、一九六六年、劇団飛翔の公演を最後に、消息を断ってしまったんですよねえ。
劇団を去った後の、彼女の消息に関して、吉野記者は執拗《しつよう》に知りたがった。吉野は、焦るでもなくゆっくりと間を置いて質問を出してくるのだが、山村貞子に対する関心の深さは、喋《しやべ》り方や表情から十分にうかがい知ることができる。
……二十四年前の山村貞子の消息。
遠山にわかろうはずもない。彼こそ、必死の思いで山村貞子を探したのだ。どこに消えたのか知っていれば、遠山の人生は今と変わったものとなっていただろう。
だから悪夢が蘇った理由ははっきりしている。吉野記者が遠山の前に現れ、山村貞子の名前を口にしたからだ。かつて何度も苦しめられた悪夢が蘇った理由が、他にあるとは思えない。
2
ホテルから出ると、太陽が一際眩《まぶ》しかった。密室での行為後の、あるいはうしろめたさだろうが、特に光の強度が気になってならない。それとはうらはらに、終わろうとする秋のさわやかな気配があちこちに感じられた。
早足で歩道を歩き、人通りの少なくなったところで女の手を素早く握ると、遠山は、
「じゃあ、これで」
と、抑えた声で言った。
「これから会社に戻るの」
女は屈託のない笑顔で応じ、腰のあたりに据えた手を小さく振る。さよならの合図だった。
「ああ、仕事が山積みなんでね」
「にもかかわらずこっちのほうは我慢できない。いつもそうなんだから」
女は開いた手で、さっと遠山の股間を受け止める仕草をする。
そろそろ潮時かもしれないなと、遠山はふと思う。もう若くはないのだ。さっきのような胸の発作に何度も襲われるようでは、いつ命の危険に陥るかわかったものではない。
「また電話するよ」
遠山は唇だけで小さくキスを投げ、身体を翻した。少し歩いて振り返ると、女はまだこちらを見ている。手を振って応え、乃木坂から一つ木通りへの道を急いだ。仕事が山積しているというのは嘘《うそ》ではなかった。
大学の三年のとき、突如劇作家になろうと決意して『劇団飛翔』の文芸演出部に入ったはいいが、先輩に優れた劇作家や演出家がごろごろいて、とても力を発揮する場を見つけるどころではなかった。音楽担当に回ってそこそこに仕事を覚え、一年遅れで大学を卒業後、うまく潜り込んだレコード会社でディレクターとなって二十三年がたっていた。劇団時代に、音楽を担当した経験を生かしての就職である。ところが、仕事に就いてみるとこれがなかなか面白く、ほぼ天職ではないかと思われる職場だった。
スタジオに入ってレコーディングに付き合っている限り、仕事が苦しいと感じたことは一度たりとてなかった。上役との企画会議ではときどき嫌な気分にさせられたが、ミュージシャンとの付き合いにはほとんどストレスもなく、やり甲斐のある仕事に就けてよかったと実感している。加えて業界全体は、かつてない好景気の中、さらに浮上してゆくような雰囲気があった。どんな分野に関しても強気の勝負ができ、給料も申し分なく、遊びの相手にも事欠かず、遠山は、現在自分が置かれている境遇を嘆くことがあまりない。会社で待ち構えている仕事にしても、苦にならないものばかりだ。最近の身体の不調を除けば、心配ごとなどあまりなかった。
ただ、山村貞子の名前を吉野の口から告げられ、さっきもまた彼女の夢を見たことにより、どことなく整理のつかない、宙ぶらりんの気持ちにさせられてしまったのは確かだ。山村貞子は、彼にとって唯一の女性といってよかった。最初の結婚でしくじり、二度目の結婚でようやく安定して子供もでき、年齢とは不釣り合いに若い妻と幼い子供たちに囲まれた生活からは、そこそこの満足も得ていた。だが、「もし」という仮定を立てることはしばしばあった。
……もし、仮に、山村貞子と結婚していたらどうなっていただろう。
様々な「もし」を仮定してみる。
……もし地球最期の時がやってくるとして、その時はだれと一緒に過ごすのか。
……もう一度人生をやり直せるなら生活をだれと共にするのか。
……生涯にたった一度しか女を抱けないとして、その相手はだれか。
いずれの場合も、遠山の答えは、山村貞子だった。今、この瞬間、彼女が現れて、自分を受け入れてくれるのなら、すべてをなげうつだけの覚悟が、彼にはあった。もう一度彼女の肌に触れられるのなら、それと同時に生命を終わらせてもいいとさえ思える。
……電話をしなければ。
仕事を今日中に片付ければ、明日、十一月二十七日は、かなり時間の余裕が生まれるはずだ。横須賀まで来いと言われれば、行く労も厭《いと》わないだろう。
職場で電話をかけるより、路上の公衆電話がよかろうと、遠山は、テレホンカードと名刺を取り出しながら、歩道の端に寄った。M新聞社横須賀支局の番号をプッシュする。電話に出たのは吉野賢三本人だった。
前回の電話では一方的に呼び出されて、山村貞子に関してあれこれ訊かれるだけに終始した。急ぐ事情でもあったのだろうが、こちらの質問にはほとんど生返事を返すだけで、知りたいことだけを訊き、情報が得られないとわかると、吉野は長居は無用とばかりにすっと腰を上げて去っていったのだ。遠山の頭に無数の疑問だけを残した立ち去り方は、あまりに一方的で配慮に欠けているように思われた。
……なぜ、M新聞社の記者が、山村貞子の消息を嗅《か》ぎ回っているのだろう。
もっとも単純な疑問が、頭の中で渦を巻いている。遠山は、電話に出た吉野に率直に疑問をぶつけ、会って話を聞きたい旨を丁寧な口調で伝えた。
いざとなれば横須賀まで出向く意向を付け加えたところ、吉野はそれには及ばないと、明日の予定を簡単に説明し始めた。昨日、新聞社の同僚が品川の病院で亡くなり、その葬式のため、明日は品川に行く予定になっている。葬式の後ならば、一時間ばかり時間が取れると言うのだ。
……京浜急行新馬場駅の改札。午後四時。
遠山は、会う場所と時間を確認し、必要事項を手帳に書き付けてから受話器を置いた。
3
日が沈むのは早かった。午後も遅くなり、空が靄《もや》に覆われたように暗くなってゆくと、急激な速度で日が暮れていった。空気はめっきりと冷え込み、商店街への出口となっている私鉄の改札口には、初冬の気配が強く漂い始めた。
その改札口で、予定の時間より五分早く、遠山と吉野は落ち合うことができた。
吉野は、一か月前と比べるとこころなしかやつれたように見える。ついさっきまで後輩の葬式に出ていたということだが、たぶんそのことと無関係ではあるまい。自分よりも年若い人間の死は、常に人の気持ちを滅入らせるものだ。
京浜急行の新馬場は、遠山にとっては初めて降りる駅だった。ちょっと東に向かって歩けば運河にぶつかり、その手前には海岸通りが南北に走っているはずだ。道路の海側は閑散とした倉庫街であり、頭上を通って東京湾を行き交う船の汽笛が聞こえたりもする。
遠山と吉野は連れ立って歩き、海岸通りに出る手前の喫茶店に入った。店に入ってコーヒーを注文するやいなや、ろくに会話を交わす暇もなく、吉野はポケベルで呼び出され、席を立って店の奥にあるピンク電話に向かった。遠山は、いかにも新聞記者然とした吉野の後ろ姿を目で追った。手慣れた仕草で受話器を肩と耳で支え、ダイアルを回していく格好が、なかなか様になっている。
遠山の耳には、受話器に向かって吉野が喋る内容が、自然に入ってきた。
「なに、高野舞の遺体が発見された?」
高野舞……、もちろん遠山には初めて聞く名前だった。興味があるのは山村貞子のその後だけである。知らない女の名前を聞いたところで、何の関心も抱けるはずもない。遠山は軽く聞き流したつもりでいた。
吉野は声を押さえるという配慮もなく、背筋を曲げて受話器にがなりたて始めた。寂しげな面持ちが影を潜め、事件の臭いを嗅ぎ取って新聞記者としての活気が取り戻されていくようだ。
「三日前……、場所は……、東品川、なんだ、すぐ近くじゃないか。時間があれば現場に寄ってもいいんだが……。ああ、どっちだって? だから、司法解剖か、行政解剖か、どっちに回されたかって聞いてんだよ。ああ、わかった。…………ほう、死後九十時間。なに……、死ぬ直前に出産した形跡がある……、へその緒? ほんとかよ。で、赤ん坊はどこにいるんだ?……え、いない? いないって……、影も形もないっていうのか」
遠山には、おおよそのことが知れた。三日前にこの付近で高野舞という女性の遺体が発見され、解剖にふされ、その結果、死の直前に子供を出産している事実が判明した。ところがその赤ん坊がいなくなったという。
なかなかショッキングな事件の報告がなされているらしい。だが、やはり縁遠い場所での出来事だった。だれがどんな死に方をしたところで関係がなかった。死ぬ直前その女が何を生み出したとしても……。そしてまた、奇妙な話ではあるが、出産の直後、だれの力も借りず、赤ん坊がひとりで姿を消したとしても……。
無関係だと思い込もうとする一方で、遠山の神経は逆立っていく。
……高野舞。
初めて聞く名前にもかかわらず、胸の底に深く刻まれるのはどういう訳だろう。
死後硬直の始まった死体の傍らでごそごそと蠢《うごめ》く物体が、イメージできる。母の死体を乗り越えて歩み去ってゆく赤ん坊のイメージだった。
ふいに悪寒に襲われた。高野舞の出産に関して、強く直感が働きかけてくる。興味がない、関心がないとは言わせない。背を丸め、受話器に向かって無遠慮に喋る吉野の、その一言一言、事実の断片が、リアルな映像となって脳裏に展開するのだ。ぶつ切れの曲の断片が、編集によって一曲の音楽となり、流暢《りゆうちよう》に流れ出すような具合だった。
遠山は目を閉じて顔を上に向けた。電話の声がとぎれ、一瞬の空白の後、目を開けると、いつ元の場所に戻ったのか、正面の椅子には吉野が座っていた。吉野が電話をしていた数分間が、遠山にはひどく唐突で歪曲《わいきよく》された時間のように感じられた。ねじ伏せられ、ぽんと異次元に放り込まれたような数分間。
「どうかしましたか」
驚きと虚脱の入り交じった表情が気になるのか、吉野は心配そうに声をかけてきた。
「別に……、ところで、なんだか物騒な事件のようじゃありませんか」
遠山は、深く掛けていた腰を引き気味にして姿勢を立て直し、大きくひとつ息をついてから言った。
「いやあ、事件かどうか……、若い女性が、ビルの屋上から遺体で発見されたってだけです」
「この近くのビル?」
「ええ、東品川の、ビルの屋上の排気溝……、ようするに深い溝ですな。奇妙な場所でしょう」
「殺人なの?」
「いやあ、その可能性はなさそうです。おそらく事故でしょう」
「別に、盗み聞きしたわけじゃないんですが、その、死ぬ直前に、出産した形跡があるとか……」
吉野は、遠山の顔をちらっと見て、意味不明の笑みを浮かべた。目で問うているようだった。
……なぜ、あんたは、電話で聞きかじっただけの事件に、そんなに興味を持つのかねえ。
「まだなんとも言えませんがね。報告を聞いただけですから……。若い身空で、気の毒なことですよ。頭のいい、きれいな娘さんだったから、なんだかよけい……」
吉野は顔を横に向け、顎髭を手で撫《な》でている。心に何か引っ掛かるものがあるような表情と仕草だった。遠山は、ピンと来るものがあった。
「その高野舞という女性ですけど、ひょっとして、吉野さんのお知り合いの方ですか」
吉野は即座に首を横に振った。
「いやあ、直接の知り合いってわけじゃ。おととい亡くなり、たった今、葬式に出てきたばかりの浅川……、うちの社の後輩で親しくしていた奴なんですが……、そいつの知り合いだったんですよ」
今、遠山は、吉野の顔に明らかな不安を読み取っていた。不安というより恐怖心に近いのかもしれない。
「ふたつの死は、偶然なんですか」
そう言ってから遠山は気づいた。自分の言葉が、吉野にさらなる恐怖を与えたことに。
浅川という知人の死、そして彼の顔見知りの若い女性の不審死。両方とも事件性は薄いという。しかし、情報量が少ないだけにかえって、部外者としてはこのふたつの死を結びつけたくなってくる。
吉野の目の動きが早くなっていた。必死で何かを考え、思い浮かぶ想念をまた必死で否定しているかのようだ。
「そう、だから……、山村貞子のことなんですよ」
吉野は、あたかも浅川や高野舞の死と関連があるかのように、話題を山村貞子のほうに振ってきた。
前回会って山村貞子に関しての質問を受けたとき、遠山は訊かれたことを答える役に徹するだけで終わった。今度は同じ轍《てつ》を踏むつもりはない。会話のイニシアチブを握り、なぜ新聞記者が山村貞子の消息を聞き回るのか、理由を探り出すのだ。
「そろそろ教えてくれてもよくはありませんか。なぜ、あなたがたは二十四年前の山村貞子の消息を嗅ぎ回っているのです」
遠山は、単刀直入に尋ねた。
吉野はうーんと頭を抱えて、弱り切った顔を作る。前に会ったときと同じ表情だった。
「それがねえ……、わたし自身、よくわからないんですよ」
前回と同じ答えだった。遠山には納得できるはずもない。理由もわからず、四半世紀も以前、都会の片隅に存在した女の消息を、大新聞の記者が尋ね回る道理がどこにあるというのか。
「いいかげんにしてください」
遠山がやんわり気色ばんで見せると、吉野は、軽く両手を上げて言った。
「わかりました。正直に申し上げましょう。本社出版局の記者である浅川和行が、なんらかの事件を追っていて、その過程で、山村貞子の情報が必要になったらしい。でも、浅川は事情があってほかの現場から離れられなかった。で、わたしに頼んできたってわけです。二十四年前の、山村貞子に関する情報をすべて調べてほしいと」
「事件って何ですか」
遠山は上半身を前に倒して言った。
「それがねえ……。浅川は、全容を隠したまま、交通事故に遭い、意識を取り戻すことなくおととい死んじまいやがった。彼がなぜ執拗に山村貞子の情報を得ようとしていたのか、真相は藪《やぶ》の中ってわけです」
遠山は、嘘か本当かを見極めようと、吉野の目を覗《のぞ》いた。大まかなところで嘘はないだろう。だが、小さな嘘ならいくつか隠しているようにも思われた。
浅川からの要請を受け、吉野が遠山のところにまで辿《たど》り着いた経過を順序立てて考えてみる。劇団飛翔の稽古場を訪れ、吉野はまず、一九六五年の二月に研究生として入団した同期生をピックアップした。入団試験のときに提出された履歴書は現在も劇団事務所に保管されている。遠山が覚えている限り、同期生は八人いるはずだった。彼らに尋ねれば、山村貞子の消息がわかるかもしれないと踏んだのだろう。
「他の奴にも訊いてみたんですか」
同期生の中で名前を記憶しているのは、山村貞子以外にほんの二、三人だけだった。今はもう付き合いはなく、どこで何をしているのかまったく知らない。
「一九六五年の劇団飛翔入団組で、現在も連絡可能なのは、あなたを含めて四人いました」
「ということは、ぼく以外の三人にも、連絡を取ったということですね」
吉野は首を縦に振った。
「ええ、電話でお話をうかがいました」
「だれと話したんですか」
「飯野さん、北嶋さん、加藤さん、その三人です」
名前を言われれば、その顔が頭に浮かぶ。記憶の底にぼんやりと眠っていた人物の輪郭が、ほんの少しずつクリアになっていく手応えがあった。まだ初々しい二十歳前後の面影ばかりだった。
……飯野。
すっかり忘れていた名前だった。無口だがパントマイムがうまく、先輩の女優たちには可愛がられていた。
……北嶋。
小柄で存在感はあまりなかったが、台詞を喋るのがうまく、研究生のうちからナレーターとして通用する程の腕を見せていた。彼もまた山村貞子にほのかな恋心を寄せていたと思われる。
……加藤。
名前は、たしか恵子だった。地味な名前のためか、演出家の重森から有り難い芸名を授かってしまった。
『竜宮ゆら子』
なかなか綺麗《きれい》な子で三枚目の線を狙っていたわけでは決してない。迷惑だったろうが、劇団主宰者兼演出家じきじきの命名とあっては断るわけにもいかず複雑な心境を隠しきれずにいたことを覚えている。仲間同士の酒の席などで、芸名のことをからかわれたりすると、泣きそうな顔になって抗議してきたものだ。
しかし、芸名が欲しかったのは山村貞子のほうであったはずだ。古風過ぎる本名は、現代風の美人である彼女の風貌《ふうぼう》には合わず、急遽《きゆうきよ》舞台に立つようになった折にでも、ちゃんとした芸名を与えられてしかるべきであった。だが、重森は本名のまま、彼女を初の舞台に立たせた。
吉野から名前を告げられただけで、忘れていると思われた人間たちが生き生きと脳裏に動き始める。懐かしかった。遠山は、若い頃の感慨に浸りかけて踏み止《とど》まり、ひとつの疑問を口にした。
「飯野、北嶋、加藤の三人には電話をかけただけなんですね」
なぜ、自分だけに会おうとしたのかと、言外に匂わせたつもりだった。
「あなたにも事前に電話を差し上げましたよ」
「ええ、わかってます。でも他の三人は電話取材だけで済ませたのに、なぜわたしにだけは実際に会おうと考えたのですか」
吉野は意外そうな顔で、遠山の顔を覗き込んできた。そんなこと訊くまでもないでしょうと、少し呆《あき》れているようにも見える。
「ご存じなかったんですか。他の三人が口を揃《そろ》えて言ってましたよ。当時、あなたと山村貞子さんは、特別な関係にあったと」
……特別な関係。
身体から力が抜け、椅子の背に身をゆだねていく。深く座り込んだ姿勢を取ると、自然に天井の染みが眺められた。
「だからなのか……」
ようやく納得できた。ほかの三人は電話取材だけですませ、自分にだけは直接会いたい旨を吉野が伝えてきた理由が、今になって初めて飲み込めたのだ。
劇団員どころか、親しかった同期生の仲間たちにも、山村貞子との仲は隠していたつもりだった。ところが、同期生たちの目には全てお見通しだったらしい。しかも、二十四年後の今でもそのことを覚えているという。よほど印象深かったということになる。自分の存在が人々の胸に強い印象を与えるとは考えられない。とすると、やはり山村貞子の持つ際だったキャラクターだ。あるいは、自分と彼女との関係そのものが好奇の対象だったのか。
「もしよかったら、お聞かせ願えませんかねえ」
顎を引き、視線を下げると、好奇心に満ちた吉野の顔が目に入った。
……またこいつは聞き役に徹しようとしてやがる。
「なにをですか」
「なぜ、山村貞子さんは、一九六六年、春の本公演終了後、突如姿をくらませてしまったのか。あなたならご存じでしょう」
深い仲であった遠山なら知らぬはずはないだろうと、吉野は、山村貞子が失踪《しつそう》した理由を尋ねてくる。失踪後の消息は知らないとしても、失踪の原因ぐらい教えてくれてもよかろう……、飢えた狼のごとく吉野はネタに食らいついてくる。
「冗談じゃない」
食らいつかれて与える餌《えさ》など遠山の手にあろうはずもない。なぜ、彼女は行き先も告げず、自分の元を去ったのか、その理由さえわかれば、二十三歳から現在に至る年月は、もっともっと明るく陽気なものになっていただろう。
「そうそう、いいものをお見せいたしましょうか」
吉野は、ブリーフケースを探って、一冊の台本を取り出してきた。
ぼろぼろの表紙には次のようにタイトルが記されている。
劇団飛翔 第十一回公演
二幕四景
『黒い服を着た少女』
作・演出 重森勇作
ガリ版刷りで簡単に製本された、本公演の台本だった。
遠山は思わず台本に手を伸ばしていた。中を開いてみると、二十四年前の懐かしい香りがする。
「どうしたんですか、こんなもの」
思わず出た言葉だった。
「絶対に返却するからと断って、劇団事務所から借りてきたんです。一九六六年の三月、山村貞子はこの公演で代役を射止め、終了とほぼ同時に行方を絶ってしまった。何があったのですか。芝居の公演と無関係であるはずがないと思うんですが……」
「読んでみましたか」
「もちろん……、でも、芝居の上演台本は、読んでもよくわからないですね」
遠山はページをめくってみる。二十四年前、彼はこれと同じ台本を手にしていた。本棚に保存してあったはずだが、最初の結婚と離婚、それに伴う数度の引っ越しを経るうち、どこかになくしてしまったに違いない。今、自分の部屋を探しても、まず手に入らない代物だった。
最初のページには、スタッフの名が記されている。
音響担当……遠山博。
そこに自分の名前を発見して、遠山はくすぐったい思いに駆られた。二十三歳の自分と対面したような気分である。
続いてキャストの名前があった。
黒い服を着た少女……葉月愛子。
ところが、葉月愛子の名前には斜線がほどこされ、その横に山村貞子の名前がボールペンで記入されている。
物語のカギを握る重要な登場人物である少女には、名前が与えられていなかった。重要な役どころにもかかわらず出番は少なく、その分、登場したときのインパクトが強くなるように設定されている。最初、その役は、劇団の中堅女優である葉月愛子のものだった。だが、初日を数日後に控え、葉月愛子は突如病いに倒れ、プロンプターとして稽古に付き合っていた山村貞子が急遽《きゆうきよ》代役として立ったのだった。彼女の初舞台である。
今にして思えば、重森は、山村貞子という研究生に触発されて、この脚本を書いたのではないかと疑われてくるのだった。当時そんなことは脳裏に露ほども浮かばなかった。しかし、あれから後も生き続ける、山村貞子というキャラクターや、年月がたっても消えることのない面影を思うと、最初から彼女を役に据えようという心積もりがあって、重森が役柄を作り出したと考えるほうが納得がいく。それほど、黒い服を着た少女のイメージは、山村貞子にぴったりだったのだ。
さらにページをめくる。台本は演出家の重森のものらしく、演出ノートやダメ出しのメモが、台詞やト書きの間に細かい文字でびっしりと書き込まれている。音出しのタイミングまで、しっかりと記載されている。
M1……テーマソング。
芝居の幕は上がった。舞台中央には応接間のセットが置かれている。小さく照明が入り、舞台セットは次第に明るく浮かび上がってくる。
………
………
M5……遠くで鳴る教会の鐘。それにかぶさって雑踏の音、群衆のざわめき。
黒い服を着た少女が登場する最初の場面である。効果音に導かれ、彼女はほんの一瞬ステージに姿を現す。
遠山は無意識のうちに、右手人差し指でテーブルを叩いていた。
……プレイボタン、オン。
テープが回って、効果音はスタートする。音の出と同時に、ステージに黒い服を着た少女が登場するはずだった。
黒い服を着た少女……、それは不吉さの象徴である。観客席のすべてから、彼女の姿が見えていたわけではない。位置的に死角になる客席もあり、舞台に立っているにもかかわらず、ある者の目には見え、ある者の目には見えないことになる。しかし、芝居の効果としてはそれでよかった。
遠山の脳裏には、山村貞子の姿が生々しく蘇える。十八歳の彼女だった。生涯でただひとり本気で愛した女性……。今も忘れ得ぬ女性……。
「貞ちゃん」
遠山は、思わずその名前を口にしていた。
4
一九六六年 三月
劇団飛翔、第十一回本公演のゲネプロの日、遠山は音効室に閉じこもって最後の調整を行っていた。初日を明日に控え、不備な点はないかとテープやイコライザーをチェックする間も、たったひとり操作盤を前にしての仕事が楽しくて、ついつい口笛が出てしまう。二か月にわたる稽古期間を終え、晴れて小屋(劇場)に場所を移すことができたのだ。本番の緊張を差し引いても、嬉《うれ》しさのほうが勝る。稽古中は、演出家の重森が常に隣に座り、音出しに関してあれこれとうるさい注文を出してきた。一言一句聞き漏らさず、忠実に使命を果たさなければ、容赦のない怒声が飛んでくる。たった一秒の音出しのズレや、音量の違いが、演出家には我慢ならないらしい。胃が苦しめられるような緊張の毎日……、それに比べると、小屋の音効室は独立した城だった。演出家がここに顔を出すことは滅多になく、テープ出しのタイミングさえ狂わなければ、文句を言われることもない。芝居が始まれば、演出家の興味は舞台に釘付けとなり、細々とした注文は一体何のためだったのかと拍子抜けするほど、音へのこだわりをなくしてしまう。演出家のそうした性癖を知っているだけに、遠山は、小屋の音効室に入るのを心待ちにしていたのである。
本来出るはずのない音が出てしまうという悪夢は何度か見ていた。不安がないこともなかったが、演出家によってもたらされる圧迫感と比べれば、所詮起こり得るはずのない夢……。かわいいものだった。
遠山のいる音効室は、客席ロビーかららせん階段を上ってすぐの、照明室の手前に位置していた。舞台との直接通路はなく、控え室や舞台裏との行き来は、ロビーに出て階段を上がらなければならない。インターホンを使えば舞台裏との連絡は簡単に取れるけれど、実際の行き来となると、客入れをしてからは特に面倒臭くなる。公演が始まってから、重森が音に対する興味を失うのは、音効室との位置関係が原因なのかもしれない。稽古場においては、演出席のすぐ隣が音効担当の席という不運に見舞われ、背負い込まなくてもいい重荷を背負い込んでしまったのだ。
午前のうちに搬入をかたづけ、午後からは簡単な場当たりをし、夜には、本番とまったく同じ衣装でのゲネプロとなる予定だった。その点でも音効担当は楽だった。持ち込むのはオープンテープぐらいのもので、重い道具をステージに運ぶという労力からも解放されている。
遠山は、ときどき顔を上げて、変化してゆくステージに目を落としていた。防音ガラスのはめこまれた窓の向こうに、徐々に舞台セットが完成されつつあった。それぞれの人間が力を合わせ、ひとつの作品が完成されてゆく過程を眺めるのは、なかなか気分のいいものである。長い稽古期間の苦労が報われる思い。今、この時間、舞台に立つ役者たちはとりたてて仕事もなく、同じ思いを抱きながら、控え室でのんびりと過ごしているはずであった。
弁当で配られた夕食をとった後、遠山は、曲の入ったテープと効果音の入ったテープをセッティングし、一通り音の順番を確認し終わっていた。問題は何もなかった。あとはゲネプロの始まりを待つばかりである。ゲネプロが終われば、簡単なダメ出しの後、解散になるはずだった。小屋の終了時間が決まっているため、深夜遅くまで残されて稽古することは絶対にあり得ない。小屋に入れば、終電の時間を気にしながら稽古に付き合う苦労からも解放されるのだった。
遠山は、ふと背後に人の気配を感じて振り返った。
ドアの隙間《すきま》に、女性がひとり立っている。音効室の暗い照明では顔が判明できず、遠山は立っていってドアを大きく開けた。
「なんだ、貞ちゃんか」
遠山は、無表情で立ち尽くす山村貞子の手を取って音効室に導き入れると、再びドアを閉めた。防音がなされているために、ドアにはずしりと重い手応えがある。
遠山は、貞子から先に何か言い出すのを待った。だが、彼女は口を閉ざしたまま、遠山の身体越しに、ほぼ完成されたステージを眺めている。舞台には応接セットが運び込まれ、その位置に関して演出家から細かな指示が出されているところであった。
「わたし、こわい」
その言葉は単純に、初舞台を前にした新人女優の初々しさと響いた。伊豆大島の高校を卒業してすぐ上京し、劇団飛翔の研究生となった貞子にしてみれば、初舞台までの時間は例外的に短い。緊張したり不安がったりするのも無理ないだろう。もちろん、八人いる同期生の中で本公演の舞台に立てるのは彼女だけだ。
「だいじょうぶ、おれがここから声援を送っているから」
遠山はそう言って励ましたつもりだった。だが、貞子は、首を横に振る。
「ううん、そうじゃなくて」
空《うつ》ろな瞳《ひとみ》だった。ステージを見ていた貞子の目は、いつの間にか、回り続けるオープンテープへと注がれていた。何も録音されていない空のテープ。チェックした後、停止ボタンを押されぬまま、回り続けるテープ。
遠山は、一旦テープをとめて巻き戻していった。
「初舞台はだれだって緊張するものさ」
テープが巻き戻される音の中で、遠山はなおも貞子を励まし続ける。だが、貞子は、ピントはずれと思われる、予期しない言葉を返してきた。
「ねえ、このテープに、女の人の声が入っている?」
遠山は笑った。覚えている限り、人間の声を単独で録音したことはない。ステージで台詞を喋る役者に人間の声をかぶせたりしたら演技が死んでしまう。特別な演出でない限り、テープの音出しで、台詞に台詞をかぶせることはなかった。
「なにを言い出すんだよ、突然」
「大久保君が言っていた。ほら、さっき、あなた、音量をチェックしていたでしょ。そのとき、大久保君が、ちょっと変な顔をしたの。なんだか怯えたような。彼、言うのよ、女の声が入っている、しかも、聞き覚えのある声だって。だから、あたし」
同期生のひとりである大久保は、多方面の才能に恵まれていたが、背の低いことを気にし過ぎるというコンプレックスを抱えていた。そうして、彼もまた山村貞子に密かに好意を寄せるひとりでもあった。
「わかった、それ群衆のざわめきだよ。ほら、君がステージに登場するシーン、そのバックに流れる……」
群衆がざわめくシーンは、ある映画から採録していた。どよめく群衆の声は背景に埋没していて、単独に浮き上がってくる声はひとつとしてなかったはずだ。しかし、聞く人間によっては、あるひとつの声がクローズアップされてゆく錯覚に陥るのかもしれなかった。
「違う、そこじゃない」
貞子は言下に否定してきた。口調があまりに強いので、遠山もなんとなく気になってきた。
「じゃあ、どのシーンなのかわかるかい」
録音されている場所さえわかれば、ヘッドホンで聴いてすぐにチェックできる。もし本当に、奇妙な女の声が入っているのなら、早目に処置をしなければやっかいなことになってしまう。
しかし、万が一にもそんなことはないはずだった。稽古の期間、何度同じテープを聴いたかしれない。編集に際しては、ヘッドホンで繰り返し聴いたのだ。その段階で、異音の挿入は絶対に有り得なかった。
「大久保君ったら、変なことを言うのよ。ほら、ステージの裏に、小さな神棚があるでしょ」
「だいたいどの小屋にも神棚はあるさ」
遠山には、大久保が貞子に何を言ったのかある程度の予想がついた。劇場には、必ず神棚があり、付随して怪談の類いが囁《ささや》かれたりすることが多い。大道具や舞台セットを扱うためか怪我《けが》や事故が多く、また役者たちの怨念が渦を巻く場所だからだろうか、どの劇場も綺談のひとつやふたつは抱えているものだ。大久保が、そんなたわいもない話で貞子を脅かしたとすれば、テープに異音が挿入されているという貞子の訴えも根拠のないことになってしまう。
「ううん、もうひとつあるのよ」
「なにが?」
「神棚」
ステージ上手奥のコンクリートに埋め込まれた神棚は、遠山は何度も目にしていた。それ以外にもうひとつ神棚があると、貞子は言う。
「どこ?」
ドアの前に立ったまま貞子は、左手を上げて、そっと指を差した。指差された場所は、卓の影になっていて、遠山の位置から見えない。それだけによけい、遠山の背筋に悪寒が走った。この部屋は自分の城である。どこに何があるかぐらい把握しているつもりだ。神棚などあろうはずもない。
遠山はわずかに腰を浮かしかけた。
「うふふふ、びっくりした?」
「脅かすなよ」
浮かしていた腰を下ろすと、椅子の表面がなんだかひんやりとする。
「だめよ、ちょっと、ここなの」
貞子は遠山の手を引っ張って椅子から立ち上がらせておいて、自分は備え付けのキャビネットの前に座った。床から十センチほどの高さのところに、観音開きの扉がある。貞子は、遠山の顔とキャビネットを見比べて、「ほら開けてごらん」と、それとなくほのめかす。
こんなところに収納スペースがあるとは思いもよらなかった。扉の部分は、五十センチ四方の大きさ。取っ手がないせいで、壁の一部だとばかり思い込んでいた。
中央を指で押して離すと、音もなく扉は開いた。遠山は、使い古しのオープンテープやコードの類いが乱雑に収納されているとばかり予想していたが、現実は少し違った。二段に仕切られた金属製の棚の上部には、背にラベルの貼《は》られたオープンテープの箱が上下二列に並んでいる。これまでこの劇場で使われた古いテープに違いない。ところが、下部の棚には、木製の小さな箱がすっぽりと収まっていたのである。それは、貞子が言う通り、神棚のように見えた。
五十センチ四方の小さな扉を開くという、たったそれだけのことで、音効室の雰囲気がまるで変わってしまった。いつも自分が仕事をする卓の隣に突如出現した異空間といったところだ。実際に臭いがあったかどうか定かではない。だが、遠山の鼻は、すえた肉の臭いを嗅いだような錯覚を覚えた。
遠山は、貞子と並んで、神棚の前に両膝を抱く格好で座った。すぐ目の前、神棚の前には、供え物が置かれてある。最初のうち、それは干からびたゴボウの切れ端のように見えた。水分を失って皺《しわ》だらけに縮み上がった、小指の先程度のごく小さな切れ端だ。
貞子は、躊躇《ちゆうちよ》なくその切れ端を指の先に挟んで取り上げた。そうして、まるでキャンデーの一粒を手に乗せるかのように、遠山の手の平に切れ端を乗せてきたのだった。
されるがままに、遠山はお供え物を受け、手の平に乗せてじっと観察しながら、これは一体何なんだろうという思いを強くしていった。
何であるか気付いたのは、貞子が、手の平に鼻を近づけて、くんくんと臭《にお》いを嗅《か》いだときだった。突如、ひとつの想念が脳裏に差し挟まれてきた。しかも、女の声が囁くのだ。
……ああ、生まれる。
一瞬で遠山は理解した。
……へその緒。赤ん坊のへその緒だ。
確かに、遠い昔に切断されたへその緒に間違いはなかった。
その刹那《せつな》、遠山は神棚の前から飛び退き、手の平のものを貞子のほうへ放り出していた。貞子は、へその緒を手で受け止め、心乱すことなくひとりごちる。
「やっぱりね、大久保君の言ったとおりだわ」
遠山は、年下の女性の前で無様な態度は見せまいと、ゆっくりと呼吸を整え、落ち着いた風を装って尋ねる。
「大久保は、なんて」
貞子は、へその緒を元通り神棚の前に戻しながら答えた。
「テープに入っていた、女の人の声。聞き覚えがあるんだって。うんうんと苦しんでいる声。何をしているときの声かというとね、お産で苦しんでいるときのいきみだって。大久保君ったら、そう言うのよ。その女の人、赤ん坊を生んだのね」
どう答えていいのかわからなかった。大久保の言うことも変なら、何事もなく冷静に不気味な話を受け止める貞子の様子も奇妙極まりない。
そのときインターホンに、演出家の声が響いた。
「はい、そろそろ、ゲネプロを始めます。キャスト、スタッフとも定位置についてください」
遠山にとっては救われる思いだ。普段はあまり聞きたくもない演出家の声が、神の声とも聞こえる。即座に現実に引き戻すだけの力が声にこめられていた。
貞子は、ステージで立ち位置につかなければならず、こんなところで無駄話をしている場合ではなかった。
「さ、いよいよ君の出番だ。がんばって」
喉《のど》がからからに渇き、かすれ声だったが、遠山は、貞子の背中を押して、ステージへと急がせた。貞子は、いやいやをするように身体をくねらせ、立ち止まる仕草をして、言った。
「じゃ、また、あとで、ね」
ぞっとするほど艶《つや》っぽいその言い方と表情に、遠山は、女優としての成長を見る思いがする。五歳年下の貞子は、遠山にとって可愛らしさの象徴であった。成長した女の色香というより、まだあどけなさの残る少女っぽさに惹《ひ》かれて、恋い焦がれている。それが、なんという妖艶《ようえん》さを見せるのだろう。
遠山は我を忘れ、らせん階段を降りて行く貞子をしばらく目で追った。
ゲネプロが本番とまったく同じように行われる以上、テープの音も最初から最後まで流されることになる。貞子の言っていた通り、どこかに異音が挟まれているとすれば、確認するにはいいチャンスだった。
遠山は頭にヘッドホンをつけて、自分の出す音に注意を集中させようとした。だが、すぐ横の、神棚の収納されたキャビネットが気になってならない。演出家からの合図はまだ出ないようだ。場内は暗くなり、卓の端に置かれた手元照明だけが、音効室全体をぼうっと照らし出している。
そっと横に目をやると、キャビネットが半開きのままに放置されてあった。しっかり閉めておかなかったものらしい。
……産みの苦しみに喘《あえ》ぐ、女の声だって。ふん、ばからしい。
遠山は、ヘッドホンをしたまま身体を移動させ、足の先でキャビネットの扉を押した。何も恐れてはいないんだという強がりが、彼に足を使わせた。
カチッと音がして、扉の閉まる音が響いた。しかし、その音にかぶさるように、ヘッドホンの奥から、かすかな声が聞こえてきた。弱々しい、赤ん坊の声。泣いているのか笑っているのか判然としない声……、あるいはまた生まれたばかりなのか……。
遠山はすかさずテープのほうを見た。もちろん、テープはまだ回っていなかった。
演出家の合図があって、ゲネプロの幕が落とされた。即座にオープニングテーマを出す手筈になっていたが、震える手は何度もプレイボタンの上を滑り、タイミングは遅れた。後で演出家に怒鳴られるだろうが、そんなことはどうでもよかった。
……プレイボタン、オン。
派手なオープニングテーマが流れ出たせいで、赤ん坊の泣き声はかき消されてもはや聞こえてはいない。
冷や汗を流しながら、音の出所はどこかと考え続ける遠山の鼻孔に、レモンに似た淡い香りが流れ込んだ。
5
一幕が終了すると、ダメ出しのある役者だけステージに残され、それ以外の者には二十分程度の休憩が与えられることになった。オープニングテーマの出が遅れたことで文句を言われるかとも恐れたが、その点に関する指摘はなく、遠山はしばし音効室を離れる時間が持てたのである。
遠山は、一旦客席ロビーに降り、売店の前を通って役者控え室に向かう通路を小走りに駆けた。時間はあまりない。大久保をつかまえて聞き出す余裕があるかどうか……。
大部屋の控え室に飛び込み、そこに大久保の姿がないことを見届けると、鏡に向かって台詞の稽古をしている先輩に尋ねた。
「すみません、大久保、どこにいるかご存じですか」
先輩は、台詞を中断して、顎をちょんと突き出した。
「彼、有馬さんのプロンプターやってるから、下手の奥についてるんじゃないの」
「ありがとうございます」
大部屋から出ようとした時、遠山はちょうど大久保とぶつかりそうになった。大久保は、オーバーなアクションで身体を斜めにして遠山をかわし、
「おっと、失礼」
と気取って言う。まるで英国の紳士を演じているような口調だった。大久保の場合、立ち居振る舞いや、喋り方がいちいち芝居がかっている。遠山と年齢が同じせいで、劇団で一緒に過ごす時間は長く、仲も悪くはなかった。だが、遠山は、大久保の芝居がかった態度が鼻につくことがあった。
苦笑いしながら、遠山は大久保の袖《そで》を掴《つか》み、
「ちょっと話がある」
と脇に引いた。
「なんですか、突然」
驚いたふうもなく、大久保は、妙ににこにことしている。
「まあ座れよ」
遠山と大久保は、鏡の前の椅子を引いて、並んで座った。
小柄な大久保は、座るとよけいに小さく見える。背筋をしゃんと伸ばし、首もまっすぐに立てて、姿勢は申し分ない。いついかなるときでも姿勢を崩さず、だらりと身体をリラックスすることがないのだ。それはまた、身長の低さを補う行動のようにも見えた。以前彼がいた劇団は、劇団飛翔よりもずっと伝統のある名門で、彼にとってはそれが誇りだった。入団するだけでも至難の業と言われるその劇団に入り、しかしチャンスを見つけることができず、ここ飛翔に都落ちしてきたのである。その理由が身長の低さにあるとして、自分を納得させているふしが彼にはあった。
プライドとコンプレックス……、両方が絡み合って、大久保の滑稽《こつけい》な動作と物言いが形成されたのだと、遠山は理解していた。
休憩はほんの二十分。遠山は単刀直入に切り出した。
「おまえ、貞子に、変なこと言っただろう」
「人聞きの悪い。ぼくは変なことを言った覚えはないけどなあ」
どこにも悪びれたところのない、明朗な答え方だった。
「別に責めてるんじゃない、おれ自身、ちょっと気になることがあったもんだから」
「お聞きしましょうか」
「なあ、効果音や曲を流すのは、おれの仕事なんだ。だから、気にするのも無理はあるまい。だから正直に答えてほしい。貞子に言ったこと、本当なのか。本当に、テープの中に、女の声を聞いたのか。しかも、これから出産しようとする女のいきみを」
それを聞いて、大久保は手を打って笑った。
「なあ、出産しようとする女のいきみって、そりゃなんだ。ぼくが言ったのは、その原因になる行為のことだよ、あのときの、女のよがり声……、そう言ったつもりなんだがなあ。どうも調子狂っちゃうよ、貞ちゃんには」
「冗談だったのか」
「冗談、じゃない」
そう言ってまた大久保は笑う。自分の台詞に一人で受けていて話にならない。なにをそう空はしゃぎすることがあるのだろう。
「ふざけないでほしい。おれは聞いたんだ」
「なにを」
「赤ん坊の泣き声」
大久保は、一呼吸置いてから、怪訝《けげん》そうな顔を近づけてきた。
「どこで?」
「音効室、ヘッドホンの奥からだ」
大久保は、近づけていた顔を引き、
「おやおや」
と、少し呆れた様子を見せた。
「だから、つじつまが合う。もし、おまえが、分娩《ぶんべん》のさいの妊婦のいきみを聞いたのだとすれば、その、妙に合ってしまうんだよ」
おまけに遠山は、神棚に供えられたへその緒を思い起こしていた。
「ひょうたんからコマってやつですねえ、こりゃ」
大久保は、落語家の口調を真似た。
「いいかげん、わけのわからないことばかり言うのはよせ。ちゃんと教えてくれよ、おまえ、貞子にどんなふうに言ったんだ」
「貞ちゃんは同期生のホープですからねえ。あの美貌にして、演出家の覚えもめでたく、末は大女優ですか。しかし、なにしろ初舞台、はたで見ていると、あんまり緊張してかわいそうなくらい。同期のよしみってもんです。緊張を少しでもほぐそうと、ま、怪談話のひとつふたつでも聞かせてあげましょうと」
イライラとして遠山は念を押した。
「じゃあ、実際に、テープの中に、女の声を聞いたわけではないんだな」
大久保は、口をとがらせて首を横に振る。
「オー、ノー」
「もうひとつ。音効室の中に神棚があることを、おまえ、なぜ知っていた?」
「音効室の神棚?」
大久保はすっとんきょうな声を上げ、柏手《かしわで》をパンパンと二度打った。しかも、目を閉じて頭を垂れ、ぶつぶつとお経らしきものを唱え始めた。
普段はそうでもなかったが、今日は特に、大久保の仕草が鼻についた。ほとんど溜め息混じりに、遠山は念を押す。
「ああ、神棚だ。これぐらいの、小さいやつ」
遠山は両手を広げて、大きさを示した。
「わたくし、音効室に入ったこともございません」
「だれかから聞いて、神棚の存在を知っていたのか」
「舞台上手奥の神棚なら、毎日拝んでるんだけどねえ」
そう言って再度大久保は柏手を打った。
「わかった。じゃあ、神棚のことは、貞子に言ってなかったんだな」
「言うも何も、そんなものが音効室にあるなんて、想像もつかない」
……じゃあ、なぜ、貞子は、あそこに神棚があることを知っていたのだろう。彼女は、大久保から聞いたと言っていた。だが、大久保は、知らないという。どちらかが嘘をついているというのか。だが、大久保の言葉に嘘があるようには思われない。
遠山はしばらく考え込んでしまった。
……大久保は、テープの効果音に女の声が入っていると言って、貞子を怖がらせた。まあこれは、どの小屋にもある類いの怪談で、マジで怒るほどのものではない。大久保は、聞こえたのは女のよがり声……、性行為の最中の声だと貞子に教えたのだ。ところが、貞子は、なぜか出産に際してのいきみだと、おれに伝えてきた。単なる誤解なのだろうか。それにしては、神棚の前に置かれたへその緒といい、符牒が合い過ぎる。
遠山は、ヘッドホンの中に小さく響いた赤ん坊の泣き声を思い起こしていた。耳の奥に残っている、消したくても消せないあの声。二幕が始まる前には音効室に戻らなければならないのだが、遠山にとってそれは気が重い。ひとりで音効室に入るのは避けたいところだ。できれば、大部屋の明るい照明の下にずっと居続けたかった。
「ところで、貞子は、今、どこ」
遠山は、空ろな目で尋ねた。
「おいおい、なに言ってんだか。ちゃんと芝居見てたのかよ。演出家の大先生にダメ出されて、今、ステージで絞られてる最中じゃない」
大久保は突如投げやりに、喋り方を崩してきた。
ついさっきのことをもう忘れてしまっている。一幕終了後、ダメ出しされた役者がステージに並ぶのを、音効室の窓から見ていたではないか。その中に貞子の姿があったのも確認していた。今、貞子は、演出家の重森によって、演技のうまくない箇所を指摘され、稽古を受けているはずだった。
遠山の目から見ても、重森の、貞子への傾倒のしかたは異常のように思える。稽古の最中、愛憎半ばした今にも泣き出しそうな顔を貞子に向けることがあって、遠山ははっとさせられたことがある。それは、普段の重森からは想像もつかない、思いつめた視線だった。劇団内の絶対的な権力者である重森に目をつけられることは、肉体の関係を迫られることに直結していた。貞子を愛する遠山にしてみれば、それだけはどうしても避けたい事態だった。
そのときちょうど、重森の声がインターホンから響いた。
「はい、そろそろ二幕に移ります。みなさん、準備はいいですか」
大部屋から音効室までは距離があるため、遠山はあわてて走り出そうとした。その背中に向かって、大久保が言う。
「おい遠山、音効室のインターホン、オンのままにしておくなよ。喋ってることが控え室まで筒抜けだぜ」
振り向くと、大久保はウィンクしていた。
狭い通路を音効室へと戻りながら、大久保が口にした言葉の意味を考えた。
……音効室の会話が大部屋に筒抜け? インターホンのスイッチは、必要なとき以外は常にオフにしてあったはずで、注意は怠らなかったと思うのだが。
しかし、大久保の言い草は気になった。なにかまずいことを喋り、その内容が大部屋にいるだれかの耳に入らなかっただろうか、と。
6
控え室大部屋からロビーに抜けると、足下の感触は急に変わる。控え室の廊下には、コンクリートの上にリノリウムを敷いただけの、硬くて冷たい感触があった。それが、客席ロビーに出ると、ふかふかの絨毯《じゆうたん》の感触に変わるのだ。
明日の初日を迎えれば、多くの客で埋まるはずのロビーを抜け、遠山は、音効室へのらせん階段を上ろうとした。どこからともなく、こそこそと話し声が聞こえる。男の声と、女の声……、両者ともあたりを憚《はばか》るような抑え方だった。遠山は、階段の途中で足をとめ、振り返った。
客席に入るドアの部分は凹状にへこんでいて、その角のところに、重なり合うふたつの影があった。背の高い男と、華奢《きやしや》な女が、正面を向き合うようにして立っている。遠山は、ふたつの人影に目を凝らした。見てはいけないものを見ているという独特の気配があった。相手から身体の見えない位置に身をずらし、遠山は息を殺す。
男は壁に身体半分隠れるような格好をしているため、ときどきその顔を正面からとらえることができた。女のほうは背中を向けていて顔が見えない。男が演出家の重森であることはすぐに知れた。そうして、顔が見えなくとも、衣装や身体つきから、女がだれであるかも知れた。
「貞子……」
遠山は、愛する女の名前をつい口の端から漏らしていた。
重森は、ときどき相手の耳に口を近づけるようにして囁《ささや》きかけ、肩に手を置いて身体を揺すったりしている。大勢いる女優のひとりとして、山村貞子を扱っているふうには見えない。演技に関する、特別のダメ出しがあって、身体を寄せ合うのとも違うようだ。
遠山は、はらわたの煮えくり返る思いで、今直面しているこの現実の意味を確認しようと努めた。かなり努力のいる作業だったが、見極めないではいられない。劇団主宰者としての立場を利用して、若い女を手に入れようとする重森の行為が、遠山には許せなかった。行為自体は理解できなくもない。もともと業界全体には、そんなことを容認する空気がある。まだ経験の浅い遠山といえども、とっくに承知していることである。
より問題なのは、貞子の反応の仕方だ。立場上、強く拒むことはできないだろうが、相手の気持ちを損なうことなく、やんわりとかわすぐらいの技量は持っていてほしかった。難しいだろうけれど、特に、今、この場では、無難な立ち居振る舞いを見せてほしいと切に願うのだった。でなければ、遠山は、かつて交わした愛の言葉が信じられなくなる。
まだ肉体の関係があるわけではない。しかし、遠山は、貞子が口にした「愛してるわ」という言葉を疑ったことはない。
思いを告げたのは遠山のほうが先である。昨年、秋の公演に向けての稽古中、思いがけずその機会は訪れたのだった。
先の公演は、ダンスシーンをいくらか絡めたミュージカル風の演出がなされ、プロの女性ダンサーをふたりゲストに招いての芝居であった。スケジュールの過密な女性ダンサーは、稽古に参加できない日も多く、山村貞子が代役として起用されることになったのだが、代役は代役のままに終わって、本番のステージに立つことはなかった。
それまで、貞子がダンスをするシーンなど想像したこともなかったため、貞子の踊りを間近で見て、遠山はかなり驚かされた。同期生として入団試験を受けたときから、貞子は特別に目だった存在で、遠山は憧《あこが》れの対象として彼女のほうに注意ばかりを向けていた。しかし、特技のひとつがダンスであることなど知りようもなく、初めて目にする扇情的な身体の動きに、彼の欲情はいやがうえにもかきたてられた。
ただ、貞子は、自分の踊りに自信が持てないでいるようだった。振付師の指導を受けてステップを取った後、考え込むようにして首を傾《かし》げることが何度もあった。遠山から見れば、十分に通用すると思われる踊りも、彼女には納得できてなかったのかもしれない。
稽古場の休憩時間にトイレに行き、流し場で貞子と一緒になったとき、遠山は、「なかなかうまいじゃないか」と、彼女の踊りを褒めたことがある。だが、貞子は、遠山の言葉を皮肉としか受け取らず、睨《にら》むような強い視線を向けてきたのだった。
「そんな言い方しなくてもいいでしょ。もっと練習してうまくなってやるから」
おそらく先輩の女優たちから、ダンスの技量がまだ甘いことをちくりちくりと指摘されていたに違いない。本気で褒めたつもりなのに、貞子は素直に受け取ろうとせず、どうせ素人芸よとへそをまげてしまったのだ。
身を翻してその場を去ろうとする彼女の後を、遠山はあわてて追いすがった。
「そういう意味じゃないんだ」
肩に軽く乗せた遠山の手を振り払い、貞子は言った。
「わかっているのよ、わたしだって、へただってことが」
「いや、ぼくから見れば、十分にうまいよ。信じてほしい。皮肉でもなんでもなく、本心から言ってるんだから。ぼくはただ、貞ちゃんに自信を持ってもらいたいと思って……」
「嘘ばっかし」
「嘘じゃない。いいかい、ぼくは、もって回ったような言い方をする人間じゃない。もし本当にへたなら、へたと、正直に言う」
ふたりは黙って見つめ合った。遠山は、自分の誠意を目に込めたつもりだった。
その甲斐もあり、納得しかねる表情の中に、ぎこちない笑みを浮かべ、貞子は、
「わかった、ありがとう」
と小さくうなずいてきた。
それが、貞子と心が通じあえたと思われる最初の出来事だった。
以来、遠山は陰になり日向になり、貞子にアドバイスを与え続けた。稽古を眺めていて気がついたことなど、客観的な立場から感想を述べ、少しでも女優として成長できるように援助の手を休めなかったのである。
もともと女から好かれるタイプの遠山から、目に見えてわかる情熱を傾けられ、貞子の心も徐々に彼のほうに開いていった。目立つ存在なだけに、先輩からの誹謗《ひぼう》中傷は数限りなく、中にはことさらに貶《おとし》めてありもしない噂《うわさ》を振りまく輩《やから》もいる中、遠山の好意がうれしくないはずはなかった。
研究生に割り当てられる掃除当番が貞子と一緒になり、たまたまふたり同時に劇団の稽古場に顔を出した九月のある日のことである。昼過ぎの稽古場に、ふたり以外の人影はなく、その日は、稽古が始まるまでたっぷり一時間以上の時間をふたりだけで過ごすことになった。
トイレと稽古場の掃除をさっとかたづけると、遠山は部屋の隅に置いてある古いピアノの前に座った。半分壊れかけたアップライトピアノで、音の狂っている鍵盤《けんばん》もいくつかある。遠山は、音の狂ったキィを叩かないように工夫して、自作の曲をいくつか貞子に披露しようとした。
貞子は、遠山の横に立って、初めのうち黙って聴いていたが、椅子に尻を割り込ませて自分の指を鍵盤に這《は》わせてきた。連弾とまではいかなくとも、それなりに音を合わせるぐらいはできた。
貞子は、正式にピアノを習ったことはないと言う。しかし、見よう見真似で弾ける曲がひとつだけあった。物悲しい調べで、聴き覚えはあるのだが、曲名が浮かばない。遠山は、椅子から押し出されるような格好で立ち上がり、今度は貞子の背後に回って、彼女ひとりの演奏を聴いた。
左手でたどたどしく和音を押さえ、右手でメロディをつけていく。うまくはなかったが、妙に引き込む力がある。女優として光るものを持つ貞子は、音楽のセンスもいいに違いない。
どうにもとどめることのできない衝動だった。長い髪におおわれたうなじは白く、垂れようとする前髪をすっと右手でかき上げてはまた、鍵盤に指を戻す。しなやかな手の動き。そして、全身から匂い立つのは、少女と大人の女の雰囲気が混ざり合った、えも言われぬ魅力である。
劇団の中に、貞子のことを「気持ちの悪い女」と形容する先輩が何人かいることを、遠山は小耳に挟んでいた。特に女性の目からは、度はずれた魅力が逆に気持ちが悪いと見えてしまうのではないか、そう解釈しなければ、遠山には納得できなかった。抵抗することもできず、遠山は貞子に対する感情の高ぶりに身を任せていた。
モーションを起こそうと、決心した上の行動ではない。好きだという感情が溢《あふ》れ出て、抑えようがなかったのだ。
ごく自然に身体は動き、手が出ていた。遠山は、
「貞子……」
と、名前を呼びながら両手を広げ、背後から抱きすくめ、ピアノに向かう彼女の横顔に自分の横顔をくっつけようとした。ところが、貞子は、まるで背後にも目があるかのように行動した。アクションを察知し、すっと両手をかわして椅子から立ち上がると、彼女もまた両手を広げて遠山の身体を正面から受け止めてきたのだった。遠山にとって、それはうれしい誤算だった。愛の表現が、どうやって受け止められるか、恐れがなかったわけではない。拒絶されたときの間の悪さや、屈辱感に思いを馳《は》せなかったわけではない。まさか真正面から受け止めてくれるとは思いも寄らなかった。
二十三年間の人生で、遠山は何人かの女性と付き合ってきた。だが、このピアノの前の抱擁に勝る快楽を得たことはなかった。頬と頬をすり合わせ、そっと離して今度は互いに唇を触れ合わせる。もし覗き見る者がいたとしたら、まだ若いこのふたりの抱擁から、淫靡《いんび》さではなくさわやかな印象を受けたことだろう。
顔を離すたびに、ふたりは囁き合った。
「会った瞬間から君のことが好きだった」
遠山が気持ちを伝えると、貞子も応じた。
「愛してるわ」
それが貞子の口から得た愛の言葉だった。
にもかかわらず、今、直面しているシーンは一体何だというのだろう。遠山は、らせん階段の途中で地団太を踏み、歯ぎしりをした。飛び出していって、重森の身体を貞子から引き離したくてならない。壁の角にふたりの顔が隠れるたび、ふたりがキスしているのではないかという妄想《もうそう》に苦しめられた。今年四十七歳になる重森は、演出家としても劇作家としても脂がのり切っていて、業界にも顔がきく。へたに行動を起こせば、自分だけではなく貞子にまで悪い結果をもたらすことにもなりかねない。悔しさに胸が張り裂けんばかりだったが、ここはぐっと耐えるしかないのだ。遠山は自分に言い聞かせた。
ふたりの様子を観察することにも慣れ、少し冷静さを取り戻すと、遠山は、重森の表情がいつもと違うことに気づいてきた。稽古場で貞子に向ける思い詰めたような視線は、もはや何物かに憑《つ》かれているとしかいいようのない目に変化していた。完全に、我を失っている。上気した顔の真ん中で、目は充血し、呼吸は激しそうだ。ときどき重森は、胸を押さえるような仕草をする。
眺めているうち、遠山は希望を持つに至った。重森が一方的にモーションをかけているだけで、貞子のほうは適当にあしらい、矛先をずらしているかのように見える。やはり言葉に嘘はなかったと思われてくる。
ところが、その直後、貞子は、信じられない行動に出た。
壁の陰に隠れていた貞子の身体が、斜めに伸び出してきたかと思うと、貞子のほうから重森の唇に、自分の唇を押し当てていったのである。
重森は、貞子のキスを受け、ちょっと驚いたふうに身を引き、まさに目を飛び出さんばかりにして貞子の顔を覗き込んだ。たぶん、貞子のとった行動は、重森が望んでいたものとも、予期していたものとも、違うのだ。
重森の顔に浮かぶ驚愕《きようがく》の表情が、自分の顔にも現れているであろうことが、遠山にはわかった。遠山もまた目が飛び出さんばかりにして、貞子の後ろ姿を見守っていた。
貞子の行為はそれだけで終わらなかった。少し身を引き、驚いて眺めやる重森の股間にさっと左手を伸ばし、睾丸《こうがん》のある位置に手の平を添え、下から受け止める仕草をしてきた。そうして、柔らかなボールを弄《もてあそ》ぶように、実際に二度三度と睾丸を揉《も》みさすったのである。
重森はさらに身を引き、困惑気に曇らせた顔を、苦しそうに歪《ゆが》めてきた。今にも泣き出さんばかりの、苦悶《くもん》の表情……。重森は、倒れかけた。貧血を起こしたのだろうか。ふらふらとよろけ、壁に身をもたせかけて支え、大きく胸を上下させている。片方の手で胸を押さえ、片方の手で首筋をさすり、見た目にも明らかなほど喘《あえ》ぎは大きい。
……どうしたのだろう。
さっきまでの憎しみが嘘のように、遠山は重森に同情しかけていた。今、遠山と重森には同じ戸惑いがあった。両者とも、貞子の行為に意味が与えられないでいる。なぜ突然自分からキスをして、しかも手の平に睾丸を受けて掴んだのか、理由がさっぱりわからない。彼女にとっては、何か意味のあることなのだろうか。
肉体に変調をきたした重森をその場に残して、貞子は壁から離れ、突如遠山のほうを振り返った。あたかも、そこに遠山がいることを最初から知っているかのように。距離は二十メートル以上離れ、遠山の身体の大半は階段の手摺《てすり》に隠れている。偶然に遠山を発見したという振り返りかたではなく、背中についた目で位置を確認しておき、焦点を一気に絞るようなものだった。それは、ピアノを弾く貞子の背後から、遠山が両手で抱きしめようとしたときの反応とそっくり同じである。勘がいいというだけでは解釈しようのない見事な動きだった。
貞子は、遠山と視線を合わせると、勝ち誇った顔でウィンクをひとつしてきた。
……ね、わかっているでしょ。
目が告げている。しかし、何をわかっているというのだろう。
たくさんの疑問を残したまま、貞子は、控え室の廊下へと姿を消していった。
あるひとつの目的を持ち、毅然《きぜん》とした貞子の目……、それに比べて、重森の目は何も見てはいなかった。空ろな視線を上に向けたまま、未《ま》だ正面にいる遠山にも気づかないでいる。貞子の迅速《じんそく》な動きと比べればいかにも鈍重で、普段の才気|煥発《かんぱつ》はまったく影を潜めてしまっていた。
しかし、ようやく我を取り戻したのか、よろけながらドアを押し、劇場の中へと重森は自分の身を押し込んでいった。痩《や》せて長身の身体だったが、足も手も実に重そうに見える。
ふたりの姿が完全に視界から消えたのを確認してから、遠山は音効室に入っていった。
テープの準備は整えられている。いつ幕が開いても問題はない。
やがて、インターホンに重森の声が入ってきた。
「はい、それでは、今から、第二幕を始めます」
動揺を隠しての震え声である。先程のシーンを目撃した遠山でなくても、声の震えには気づくに違いない。
7
ゲネプロの二幕が上がっても、遠山は自分の仕事に集中できないでいた。さっき目にした光景が脳裏に点滅され、テープに異音が差し挟まれているかどうかのチェックがおろそかになる。嫉妬《しつと》や怒り、驚きと不安の入り交じった感情が、心の底から湧《わ》き上がり、奔流《ほんりゆう》となって襲来して、手に負えなかった。
約半年前から、遠山と貞子は、互いを恋人と認める間柄になっていたはずだった。人の見ていないところで抱き合い、キスを交わして甘い言葉のやりとりをする程度のもので、遠山がいくら求めてもそれ以上の関係にいくことはなかった。しかし、遠山は、それで満足していた。まだ十八歳という若さが、肉体関係への発展を妨げているのだろうと勝手に解釈して、逆に初心《うぶ》な心情がうれしくもあった。遠山は、貞子が処女であることを疑ったことは一度としてなかった。
ただひとつ不満に思うのは、貞子が、ふたりの関係が決して外部に漏れないよう細心の注意を払い過ぎていることだった。遠山にしてみれば、これは少し度が過ぎているように思われた。
ふたりだけでいるときは、貞子は本心から愛しているという態度をちゃんと見せてくれる。だが、劇団のメンバーがそばにいるときは、ことさらに冷たく接し、遠山は不安な思いに苛《さいな》まれた。遠山は、いついかなる場合も、その他大勢の中のひとりではなく、特別な存在として貞子を見做《みな》しているつもりだった。ところが、貞子のほうは違う。他人の目があるところでは、その他大勢の中のひとりとしてしか遠山を扱わなかった。
遠山の願いはひとつである。たとえ、仲間たちが近くにいたとしても、隣に座って、こっそりと、ただ見つめてくれるだけでよかったのだ。みんなの前で無視されたくはなかった。無視されたりすれば、視線で追い回し、人目を盗み、抱き締めてキスをしたいという願望が強まるだけだ。
変な噂を立てられたくないという配慮はわかるが、もう少しなんとかしてほしいと気持ちを伝えると、貞子の返事はいつも決まっていた。
……みんなの前で、ふたりの仲のよさを見せびらかすなんてこと、したくないの。わたしたちのことは、わたしたちだけのヒミツ。これ絶対に守ってほしいの。いい、だれにも、わたしたちのこと、喋らないでね。約束よ。でないと、わたし、あなたを失うことになる。
説明されても、なぜそうまで秘密にしなければならないのか、遠山には納得しかねていた。ところが、ついさっき目にした重森との行為が、あるひとつの仮説を提示したのかもしれないと、遠山は、疑念を抱く。
劇団に入った以上、だれもがみな役者として成功したいと考えている。特に貞子からはその願望が強く発散していた。どこか常人では計り知れないほどの、社会に対する挑戦的なまなざしもまた感じたりする。敵意というのに近いのかもしれない。遠山は、ぞっとするほどに冷たい、世間を睥睨《へいげい》する貞子の視線に、辟易《へきえき》することもあった。
……君が考えているほど、世間は君に対して、冷たくはないんだよ。
何度そう言い聞かせたかしれない。だが、貞子は、遠山の言うことに取り合おうとはしなかった。逆に、遠山の甘さを指摘し、のんびりしているとしてやられるわよと、年上の女のような態度で諭したりするのだ。
貞子の過去に何があったのだろうかと、遠山は興味を持ち、それとなく聞き出そうとしたこともあった。だが、そのたびに話ははぐらかされ、社会に対する敵意に似た感情の正体を掴むことはできなかったのである。
貞子にとって、社会を見返し、そこに君臨するための唯一の方法は、有名な女優になることであった。十八歳の小娘に、社会の関心を一気に引きつける方法が、ほかにあるとは思えない。貞子ならば、それぐらいのことは熟知しているはずだ。
遠山は、そこから演繹《えんえき》して考えた。大女優になるためには、まずチャンスを掴まなければならない。今、この劇団にいて、貞子ができることは何か。決まっている。劇団の絶対権力者である重森にうまく取り入り、役を手に入れることだ。その通り、異例の抜擢《ばつてき》を受け、今回の本公演における重要な役を彼女は手に入れた。入団して一年かそこらの研究生にしては異様な速さである。
……どうやって?
その先を、遠山は考えたくなかった。壁の隅に重なり合う一組の男女……。光景が脳裏に浮かんでは消え、浮かんでは消え、遠山を苦しめる。
そこから類推すれば、なぜ遠山との仲を必要以上に隠すのか、理由も明らかになってくるはずだった。遠山と恋人関係にあることが知れ、劇団内で噂になれば、当然重森の耳にも入るだろう。特定の恋人の存在を、重森は喜ぶはずはなく、取り入るチャンスが少なくなるのは確実だった。
……まだ十九歳の、少女とも大人の女ともいえぬ妖精《ようせい》に、おれは、弄ばれているだけなのか。
遠山は、ヘッドホンをしたまま頭を抱え、いっときステージから目をそらせた。
「おい、遠山、ベルの音、忘れているぞ」
インターホンから、舞台監督の声が飛び出した。
はっとして顔を上げた。目を伏せていたためにタイミングを逃してしまったらしい。遠山はあわててプレイボタンをオンにして、電話のベル音を流した。手筈通りベルが鳴らないため、間合いを長くして、アドリブを入れていた中堅の役者は、一、二回鳴るのを見計らって受話器を取り上げた。その動きに合わせて、テープを停止させる。
一応ことなきを得たが、舞台監督の容赦ない罵声《ばせい》が飛んできた。
「ばかやろ。ちゃんと舞台見てんのかよ」
「すみません」
遠山は、即座に謝った。
「気をつけろよ」
「わかりました」
冷や汗と共に、大きく溜め息をついていた。弁解の余地はなかった。自分を見失い、仕事への集中力を無くし、仲間たちに迷惑をかけようとしている……、原因は、貞子への恋心。
……くそ! しっかりしろ。
自分の気持ちを制御できない状態に、我慢がならない。これまでは自分のことを、感情に流されない、意志強固の人間だとばかり思っていたのだ。それが、たったひとりの女のせいで、この体たらく。
遠山は頭を振って、淫《みだ》らな妄想を追い出そうとする。しかし、無駄だった。ステージは、山村貞子が登場するシーンに移り変わっていた。
上手奥から登場した「黒い服を着た少女」は、受話器に向かってがなり立てる中年男性の背後に無言で立つ。すると、男は、背後の気配を察し、受話器に向かって喋るのをやめて振り返る。そこで一瞬の暗転だった。次に照明がついたときは、「黒い服を着た少女」は消えている。照明と舞台セットをうまく使った、見事な転換だった。
男は、受話器を放り出し、たった今、見たはずの少女の亡霊に怯《おび》える……。
芝居を理解する上で、大きなヒントとなるシーンであった。
ほんの一瞬姿を見せただけで、ステージから消えてしまった「黒い服を着た少女」に向かって、遠山は呼びかけた。
「貞子……」
呼びかけるというより、姿を垣間見せただけで去って行く者へ、戻ってきてほしいと哀訴するようなトーンになっていた。遠山はふといやな予感に襲われた。ステージにおける、貞子の消え方が、なんとなく今後を予想させるような気がしたのだ。
……おいおい、不吉なことを考えるな。
遠山は、ステージを見守った。もう一度、「黒い服を着た少女」の登場シーンがあるはずだった。
今度は、舞台正面奥からの登場である。中央の壇上に立ち、「黒い服を着た少女」は、何か言おうとして口を開きかけるのだ。ところが、そこで再び暗転。ステージはまったく違ったシーンへと転換している。「黒い服を着た少女」が結局何を言いたかったのか、観客にはわからない仕組みになっていた。
遠山は、芝居の展開に自分の気持ちをだぶらせていた。貞子には、口を開きかけて途中で止めないで、大きな声で言ってほしかった。劇団の仲間たちに秘密にしないで、もっとおおっぴらにふたりの仲を開示してほしかったのだ。
……遠山さん、わたしはあなたのことを愛しています。
もし大勢の観客がいる前で、その言葉が聞かれたらどんなに素晴らしいだろう。隠し事ではなく、だれもが知るところとなれば、こそこそと抱き合う必要はなかった。そうなれば、どんなに清々するだろう。
だれ憚《はばか》ることなく、貞子との愛を語らいたかった。そうして重森の耳にも、きっちりとその情報を届けさせるのだ。貞子が愛しているのは遠山であって、重森ではないことを、わからせてやる。そうなれば、重森だって、さっきのような行為には及ばないはずだ。
遠山は混乱している。だれもいない客席ロビーで、能動的な行為に及んだのは重森ではなく、貞子のほうだった。
余韻を残して、「黒い服を着た少女」はステージから消えていた。出番は少なかったが、そこに確かに存在したという雰囲気を残しての消え方は、実に効果的だった。余計なことを一切言わず、むろん別れの言葉もない。
しかし、それは、現実には決してあってほしくない消え方だった。
8
ゲネプロが終了すると、ほとんどダメ出しもなく、「おつかれさま」ということになった。
「おつかれさま」という挨拶《あいさつ》が重森の口から出れば、以降、解散は自由であり、束縛は一切解かれるのだった。疲れているだけに、遠山はほっと胸を撫《な》でおろした。しくじったところもいくつかあり、ぐちぐちと文句を言われたりしたらやり切れない。
ゲネプロの出来がよかったから早目に解散できるというより、重森自身の疲れから解散せざるを得ないというのが実情のようだった。ステージと客席にスタッフやキャスト、制作の人間が居並ぶ中、重森は一言一言区切るようにして芝居の感想を述べ、明日からの三週間に及ぶ公演を、がんばるようにとみんなを激励した。顔色は悪く、椅子の背に身体をあずけたまま、重森は、ついに立とうともしなかった。
しかし、いよいよ明日が初日という高揚感に、役者たちの顔は明るく輝いている。
「おつかれさまでした」
互いに挨拶を交わしてからは、帰る者、さらに稽古を続ける者様々に、それぞれの自由に任される。ただ、劇場全体が閉まる十二時までには、全員が外に出なければならない。ガードマンのチェックがあるために、それ以降の時間、小屋に残るのは不可能だった。
遠山は、片付けのために再度音効室へと上った。
「さてと……」
明日の初日に備えて、やり残していることはないかと、遠山は今一度考えた。
貞子に対する複雑な思いを抱いたままであったが、ゲネプロを通してテープのチェックは一応したつもりだった。変調をきたしていた箇所はどこにもない。遠山は、自分の耳に自信があった。いくら気もそぞろであったとはいえ、奇妙な音の混入を聞き逃すことはないと思う。ヘッドホンをしていて何も気づかないとなれば、一般のお客には感知できない程度の音であり、芝居の進行に支障をきたすことはまず有り得ない。
……そうだ、生録用のカセットデッキ。
遠山は、卓の下の収納棚から、一台のカセットデッキを取り出した。持ち運びに便利なように、両端に革のベルトがついている。遠山は、そのベルトをつかんでデッキを奥から引っ張り出した。
ベルトを肩にかけて携帯でき、しかもマイク内蔵型の最新タイプである。例えば、街の雑踏の音を採録したい場合、これを抱えて街に出て録音し、後にオープンにダビングして編集したりするのだ。
遠山は、このデッキにあまり聞かれてほしくない音が収録されていることに気づいた。昨日の午後、稽古場に研究生だけがいるとき、みんなでちょっとしたいたずら心を起こしたのである。
ことの発端は大久保だった。物真似を得意なレパートリーのひとつに挙げている大久保は、自分の声を録音して物真似の出来を確認したいと言い出したのである。まだあまり普及していないカセット型のデッキが珍しいらしく、大久保は、遠山にその使い方を教えてくれと請い、仲間たちを呼び集めた。
遠山を含め、研究生ばかりが数名寄り集まってくる中、大久保は得意芸のいくつかを披露し始める。やんやの喝采を受けると、大久保はテープを巻き戻して、自分の芸を聞いて笑い転げ、自分で自分に批評を下す。その批評もまたおかしく、カセットデッキを囲んでの遊びは、さらにエスカレートしていったのだ。
テレビタレントを中心に物真似をしていた大久保は、そのうちターゲットを身近な人間に移してきた。劇団幹部で、喋《しやべ》りかたに特徴のある役者を槍玉《やりだま》に上げ、笑いものにする。さらに矛先は、演出家の重森にも及んだ。まさに禁断の行為である。気の小さな仲間は、劇団事務所の前に走って、重森がいないことをしっかりと確認する始末。聞かれでもしたら大変なことになる。そうして、重森が稽古場にいないことを確認するや、大久保の物真似芸は最高潮に達したのだった。
ダメ出しをするときの重森の口調やら、下手な演技を罵倒するときのねちねちとした喋りかた、新人女優をくどくときの決まり文句まで、大久保は器用に真似た。普段接しているだけによけい、聞くほうにとってはおもしろく、カセットデッキの録音ボタンをオンにしたまま、重森の物真似は延々と繰り広げられた。
そのときの様子を逐一録音したカセットテープが、今、遠山の目の前にあった。明日の初日以降は、もしもの場合に備えて、すぐに作動できるよう、空のテープをセットした状態でカセットデッキを準備しておかなければならない。ところが、予備のカセットテープはなく、遠山はどうしようかと頭を悩ませたのだった。
重森をネタに笑い転げる様子を録音したテープなど、危険極まりないシロモノだった。万が一漏れ出て、重森の知るところとなれば、どやされるだけではすまないだろう。聞いている側はまだいい。女をくどくときの癖を身振り手振りで物真似して、しかも振られるという状況を再現して笑い者にした大久保などは、どんな目にあわされるか知れたものではない。
遠山は、カセットテープを消去することにした。
マイクをオフにした状態で録音ボタンを押せば、カセットテープはまっさらな状態に戻るはずである。どこにどんな音が入っているか確認するのも面倒くさく、遠山はテープの最初から、きれいに消去していくことにした。ただ、その場合、消去が完了するまでに四十五分という時間がかかることになる。
遠山は、カセットデッキの録音ボタンをオンにセットし、テープが回転し始めるのを見届けた。これで遊びの証拠は消滅するはずであった。
手持ち無沙汰《ぶさた》に何気なくステージに目を落とすと、数人の役者たちが、自分の立ち位置などを確認するために、ゆっくりとステージを歩き回っている。舞台中央の壇上には、山村貞子の姿があった。
何か喋ろうとして口を開き、その瞬間に暗転となる場面の稽古を、貞子は、納得のいくまで繰り返している。貞子は、何を言おうとしているのだろうか。いや、というよりも、言おうとして言葉にならない貞子の台詞《せりふ》が、重森の頭にはあったのかどうか……。もし、そんな台詞が存在するのなら、遠山は直接貞子から聞いてみたかった。
遠山は、音効室の窓ガラスに顔を近づけて、貞子のほうに目を凝らした。
貞子もまた遠山が自分を見ていることに気づいたようである。稽古を中断し、両手を垂らして、視線を遠山のほうに向けてきた。距離があっても、遠山には確かな手応えがあった。貞子の視線と自分の視線は、今、確かに結ばれているという手応え。
音効室全体は部屋の照明に照らされ、遠山の顔もぼんやりと窓越しに浮かび上がっているはずである。地明かりのついたステージは、ゲネプロのときとはまったく異なった雰囲気に包まれ、白々として、そこに立つ貞子の顔の色まで違って見せる。舞台衣装の黒いドレスの色合いが微妙に異なっていて、下着が透けるような、どこか淫靡《いんび》な雰囲気を漂わせていた。
貞子は、ステージから客席に降りて、ロビーのほうに歩き始めた。
……貞子は、これから、音効室に来ようとしている。
遠山は、貞子の身体を想像の中で動かしてみる。今、彼女はロビーを抜け、ここに至るらせん階段をゆっくりと上がっているに違いない。けっして急ぐことはなく、相手をじらすような歩度で悠長に構えている。身のこなしは優雅で軽やかだ。
遠山は、ドアがノックされるのを待ち構えた。
……3、2、1、0。
と同時に、ドアはノックされることなく、押し開けられた。
隙間から室内に身を滑り込ませると、貞子は、後ろ手にドアを閉めた。
「わたしのこと、呼んだ?」
近くから見ると、ステージ衣装を着た貞子はなまめかしい。
遠山は無言のままで、にこりともしなかった。怒りを表情に込めたつもりだったが、実際はどう見えていたかわからない。貞子は、遠山が見せる精一杯に不機嫌な顔をものともせず、勝手に部屋を横切り、パイプ椅子をセットして腰をおろす。
なおも黙り続ける遠山に、貞子は初めて気づいたかのようなふりをして言った。
「やだ、あなた、なに、怒ってんのよ」
遠山がなにに対して怒っているのか、わからないはずがなかった。知っていてわざととぼける貞子に、遠山は苛立《いらだ》ちをぶちまける。
「おい、さっきのあれは、なんだ」
貞子は、ちょっと眉毛《まゆげ》を上げ、
「ああ、あれ」
と唇を押さえ、いたずらっぽく、
「ふふふ」
と、笑った。
「おれが見ているのを承知で、おまえ、先生にあんなことをしたのか」
劇団内で、重森はいつも先生と呼ばれているため、遠山はつい癖で先生と呼んでしまったが、どうにもしっくりせず、いきがるためもあって、
「くそ、重森のやろう……」
と、わざとひとりごちる。
「遠山さん、嫉妬してるの」
パイプ椅子の端っこのほうに腰掛けていた貞子は、両手で支えて腰を浮かしかけた。
「嫉妬だと? おれは、おまえのためを思って言ってやってんだ」
見え透いた嘘だった。だれのためでもない。嫉妬に苦しむ自分の心だけが、苛立ちの発生源である。
「ねえ、遠山さん。わたしのこと、おまえ、って呼ぶの、やめてくれない?」
きつくはなかったが、毅然《きぜん》とした言い方だった。貞子のはっきりとした意思表示にあって遠山はうろたえ、「ごめん」と謝りそうになるのを、懸命に堪《こら》えた。
「いくら重森に取り入ったところで、貞子の将来が開けるとは思えないんだけどなあ。そんなことより、ちゃんと自分の力で、夢を掴むべきだろうが」
……夢を掴む。
歯の浮いたような台詞だった。青春ドラマのワンシーンに似たやりとりに、遠山自身少々うんざりしかけていた。
「夢……、夢って、遠山さん、わたしの夢が何なのか、ご存じなの?」
「大女優になること、じゃないのか」
貞子は、意味不明の笑いを浮かべて、頬に片手を当てる。
「舞台女優になったとして、何人の人間がわたしを見にやってくるのかしら」
「舞台だけじゃなく、テレビも映画もある」
「たとえば、ほらそこに赤く光っているもの……」
貞子は、大久保の物真似芸を消去中のカセットデッキを指さした。一応録音のボタンが押されてあるため、赤く小さくパイロットランプが点《とも》っている。
「ああ、カセットデッキか」
「オープンテープよりずいぶんと小さくなって、録音も簡単そう」
「ああ実に便利だ」
「映像も、そうなるのかしら。映画館にある映写フィルムじゃなく、カセットテープぐらいの小さな媒体に、いろいろな映像が記録できるようになるのかしら」
貞子の言っていることが、遠い未来の夢物語であるとは思われなかった。そう遠くない将来、カセット型のテープに映像が収まるようになるのはまず間違いないことだ。
「いずれはそうなるさ。貞子が主演する映画が、家庭のテレビで簡単に見れるようになったりしてね」
「でもまだ先のことよね」
どこか諦《あきら》めたような口ぶりである。
「いや、不可能じゃない。貞子なら……」
「それじゃ、遅いのよ」
「遅い?」
「待っていたら、わたし、おばあちゃんになっちゃう」
このまま順調に貞子が女優として成長していったとして、カセット型の映像システムが普及する頃には、もう若くない年齢になっているのは確実だった。
「焦っちゃだめだ」
「年、取りたくないな。永遠に、若いままでいたい。ねえ、そう思わない」
女優を目指す若い女性ほど、老いに対する恐怖は強い。貞子もその例外ではないのだろうと、遠山は漠然と考えた。
「ぼくは、貞子と一緒なら、年を取るのも嫌じゃない」
遠山はほとんどプロポーズに近い言葉をさらりと口にする。嘘ではなかった。貞子と共に暮らせるのなら、老いていくのも怖くはない。年をとって死を迎えたとき、傍らに貞子がいてくれたら、どんな安らかな死に顔となることだろう。ほんの一瞬、遠山は、貞子の腕に抱かれて死ぬことを強くイメージした。世界がぐるぐると回り、遠い彼方に去ろうとするとき、貞子が、自分の顔を覗《のぞ》き込むのだ。年老いた自分……、それに比べなぜか貞子は今の年齢を保持している。イメージはぞっとするほど鮮明なものだった。
貞子は、一緒に暮らしたいという遠山の本心を悟って、口許を緩ませてきた。そうして、眉をちょっとひそめて、弁解がましく言うのだった。
「遠山さん、わたしが、先生のこと好きなんだと、勘違いしてるんじゃないの」
「もちろんそんなこと思いたくもない。でも、貞子の行動を見ていると……」
最後まで言わせないで、貞子は強く顔を横に振った。
「ううん、違う。勘違いしないで。わたし、先生のことが嫌い。だって、しつこいんだもの。それに怖いわ。なんだか思いつめちゃって、気味が悪い。やんなっちゃう。もっと余裕を持てないものかしら。子供じゃないんだから」
さすがの重森も、貞子にかかれば形無しだった。ひょっとして、重森は、四十七歳にしてかなり本気の恋をしているのではないだろうかと、遠山はまた同情を覚える。
「正直に言えば、おれは苦しい。どうやって貞子にこの気持ちを伝えればいいのか、わからない。貞子を信じたい。でも……」
貞子は、パイプ椅子から身を乗り出して、遠山の膝に手を置いてきた。
「遠山さん」
ほんの十九歳の貞子だが、嫉妬に苦しみ、苛立ちを募らせる男のフラストレーションをどうやって解消すればいいのか、その方法を知っているようである。
貞子は立ち上がって、部屋の照明を落とした。卓の上の手元明かりを消すと、部屋は真っ暗になる。ただ、ステージにともる地明かりがガラス窓から差し込んで、ぼんやりと貞子の身体を照らすのだった。しかし、ステージからだれもいなくなると、地明かりも落とされ、部屋は真の闇に包まれた。ただひとつ、録音ボタンを押されたカセットデッキのパイロットランプが、赤く小さく部屋の隅に点っている。
闇の中にカチリと音が響いた。貞子は、部屋のドアを内側からロックしたものらしい。やがて遠山の膝には、貞子の重みが感じられてくる。華奢《きやしや》に見えて、貞子の身体には見た目以上の重量感があった。
視力を一切閉ざしたまま、その重さで貞子の存在を確かめ、彼女の導きに応じて衣装を脱がそうとする。背中のファスナーを下げ、黒いドレスをすっぽりと頭から抜き去ると、椅子に腰を下ろした遠山の両膝の上に、貞子は、下着姿で跨《またが》る格好になった。
柔らかな肌の感触が、遠山の脳裏に貞子の身体の線を浮き上がらせる。黒い服を脱がされた貞子は今、逆に、「黒い服を着た少女」そのものになろうとしていた。暗くて見えないだけによけい想像力は刺激され、貞子の裸身はイメージの中に逞《たくま》しく膨れ上がる。パイロットランプの赤い点灯が、貞子の影をますます黒くするようでもある。
貞子を自分だけのものにしているという満足感が、遠山が抱いていた苛立ちや嫉妬心を、嘘のように駆逐していった。
どれほど時間が流れたのだろう。無我夢中で身体をまさぐり合い、髪に触れ、顔を上に向けさせて首筋のあたりに唇を這《は》わせるうち、当然のごとく遠山の欲望は次の段階へと進みそうになった。しかし、貞子は股間に伸びてくる遠山の手を、ときに優しくときに激しく拒み続けた。そうして、わざと意識を逸《そ》らそうとするかのように、自分の手を遠山の下着の中に入れてくるのだった。
高まるのに時間はかからなかった。手の動きに導かれ、遠山は、抑えたうめき声とともに果てた。
放出は、服や床に一滴も散らされることなく、すべて貞子の両手に受け止められた。放心のせいで、遠山には、貞子が何をしているのか見極める余裕はなかった。くちゅくちゅという音で判断すれば、どうも両手を揉《も》みしだいているようである。貞子は、両手に石鹸《せつけん》を泡だてるかのように、手の平や甲に遠山の体液を塗り込め、顔や首を抱き締めてくるのだった。自分自身の臭いが鼻についた。
そうして貞子は、耳元に聞こえるか聞こえないかの声で囁いた。
「これ以上、わたしを、愛さないで。わたし、遠山さんを、失いたくはない」
貞子が口で言ったのではなく、脳の中に直に言葉が届けられたような感覚があった。
……遠山さん、愛しているわ。
願望の強さゆえ、幻聴を起こしているのだろうか。やはり貞子の声は直接、脳に訴えてくる。
もし本当に聞こえているのなら、貞子の愛の言葉を、みんなに聞かせてやりたかった。特に、重森の耳に届かせてやりたい。
「貞子……、みんなの前で、愛していると言ってくれたら、どんなに……」
かすれ声で、遠山は囁く。しかし、貞子は、いやいやをするように、首を横に振った。
その拍子に、遠山の足がキャビネットの隅に当たった。ごそっと、何かが倒れる音がする。貞子への愛に我を忘れる中、遠山は、足の先に隠されている神棚と、その前に供えられたへその緒に、ほんの一瞬、意識を奪われた。
……遠山さん、愛しているわ。
脳に直接届けられる声……、その声にかぶさって、どこからともなく、赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がする。いや、気のせいではない、遠山は、貞子の背後に、生まれたばかりの赤ん坊の泣き声を聞いていた。
9
一九九〇年 十一月
細胞のひとつひとつが、山村貞子の肌の感触まで生々しく蘇《よみがえ》らせていた。脳が覚えているというより、細胞が内包するDNAに記憶が刻まれているかのようだ。
吉野記者に語る二十四年前の青春の一コマは、微に入り細に亘《わた》ってその情景が述べられたわけではない。ゲネプロの日の様子を、要点をかいつまんで説明しただけだ。だが、語るうちに、遠山はまるで昨日のことのように、貞子の口調や皮膚の柔らかさ、髪の手触りなどを思い出していた。
……遠山さん、愛しているわ。
貞子の声がまだ耳の奥に残っている。現実の声なのか、幻聴なのか、微妙な雰囲気を漂わせたまま、忠実に声の響きが再現されるのだ。生涯でただひとり、共に暮らせたら幸せだろうと思われた、女の声だった。
会えるものなら会いたかった。今、どこで何をしているのか。消息をつかめないことから確かなのは、女優としてはまったく無名のままに終わったという事実である。貞子ほど個性的で魅力のある女性が、無名のままに終わるということが信じられない。だから、遠山が不吉な予感に襲われるのは、無理のないことだった。
尋ねること自体、勇気のいることのような気がする。しかし、遠山は、その疑問を口にした。
「ところで、吉野さん。もしご存じなら、隠さずに、教えてほしい。貞子は、今、どうしていると思われますか」
吉野は、万年筆を持った手を顎《あご》に当て、舌の先でペンのカバーを舐《な》めた。
「矛盾したことを……、だって、彼女の消息は不明なんですから、今どうしているのか、わかるはずもない」
「いや、あなたがたは何らかの情報を握っているはずです。聞くだけ聞いといて、何も答えないっていうのは、ちょっとずるくないですか」
「しかしねえ……」
遠山は、真顔になって、身を前に乗り出した。吉野の髭面《ひげづら》がすぐ目前に迫ってくる。
「貞子は、今、生きてるんですか」
単刀直入に尋ねる他なかった。でなければ、話をはぐらかされるだけだ。
吉野は、遠山の真剣さに打たれたのか、神妙な顔になって、首を斜めに小さく二度ばかり振った。
「いえ、残念ですが、たぶん……」
正確な情報ではないと断りながらも、吉野は、浅川という同僚の記者から聞き出した情報から判断する限り、山村貞子が今はもうこの世に生きていないだろうという推測が成り立つことを告げていた。なんらかの事件に巻き込まれた可能性があること、それはおそらく二十四年前、劇団から姿を消した直後に起こっただろうことを、推測の域を出ないと断った上で語ったのである。
それで十分だった。遠山の恐れていたとおりの展開で、驚くようなことではない。いつの頃からか、そんな予感はあった。貞子は、とっくにこの世にはいないという予感を、遠山はずっと抱き続けていたのだ。
しかし、事実に近い情報として、吉野の口から告げられると、遠山の身体は予想以上に正直な反応を返してきた。
不意のことだった。ぼとりと大粒の涙が、頬を伝わるのではなく、両目から直接こぼれ落ちて床に散ったのである。四十七歳にもなって、そんなことが自分の身に起ころうとは夢にも思わず、むしろびっくりしたのは遠山のほうだった。生涯に唯一の、身を焦がすような恋……、しかし、もう二十四年も前の話である。女に対して初心なわけでもなく、そこそこの遊び人を自認する遠山が、貞子の死の確証を得て、不用意に涙を流す図は、なかなか滑稽《こつけい》であった。
吉野は、驚いてバッグを探り、ティッシュペーパーを取り出すと、黙って差し出した。
「すみません、なんだか……」
遠山は、言い訳をしかけて途中でやめ、鼻をかむ。
「お気持ちはわかります」
吉野の台詞が白々しく聞こえた。
……わかるはずないじゃないか。
もう一度、鼻をかもうとして、遠山は、さっきからずっと気になっていたことを口に出した。
「そういえば、吉野さんは、わたしの劇団時代の同期生に電話取材したとおっしゃってましたよね」
「ええ、飯野さん、北嶋さん、加藤さんの三人です」
「で、彼らはみな、わたしと貞子が特別な関係にあったのを知っていた、と」
「ええ」
遠山はその点が腑《ふ》に落ちない。貞子は、二人の仲が公にならないよう、必要以上の注意を払っていた。決して口外しないでという貞子の要請を受け、遠山もまたこの点に気を遣っていたつもりだった。にもかかわらず、なぜ、彼らの知るところになったのか、疑問は深い。
「わからない。絶対にばれてないと、自信あったのになあ」
吉野は、遠山の感情が落ち着いてきたのを見計らって、笑顔を浮かべる。
「甘いですねえ。愛し合っているふたりなんて、本人たちがどう隠そうとも、傍目《はため》にはわかってしまうものです」
「具体的に何か言ってましたか」
吉野は、笑いとも溜め息ともつかぬ声を漏らす。
「あ、そうか、あなたはご存じなかったんだ。どうも、これが、いたずらされたらしいんですよ」
「いたずら……」
「なにしろ、二十四年も前のことだから、聞いていてどうも要領を得なかったんですが、あなたのお話を伺ううち、不明な点は解消されました。つじつまが合ってきたんです」
それから、吉野は、同期生の北嶋から聞き出したというエピソードをかいつまんで話してくれた。北嶋が喋った通りに語ったわけではない。その情報に、たった今、遠山から聞き出した内容を加味し、吉野なりに話をまとめてみせたのである。
それは、三週間の公演期間も無事千秋楽を迎えることになった四月初めの午後のことであった。
今日が千秋楽とあって、楽屋裏の大部屋では研究生たちがいつになく楽しげに、休憩時間を過ごしていた。午後遅くの公演が終われば芝居は無事終了、大道具や照明のばらしの後は、楽しい打ち上げへとなだれ込むことになる。そのあとに待っているのは、一週間以上に及ぶ休日だった。ほぼ三か月ぶりに、思い切り羽を伸ばすことができるのである。
解放感も手伝ってか、大久保はまた仲間を集めて、得意の物真似を披露し始めたのだった。このときはまだ、北嶋も仲間たちのひとりとして大部屋にいて、大久保の芸に拍手を送ったりしていた。
だれが言い出したのかは定かでない。大久保の芸にエンジンがかかり始めた頃、だれかがふと、以前カセットテープに録音した物真似のことを話題に上げてきたのである。そういえば、そんな物騒な遊びをしたなあと回想するうち、大久保の関心は物真似芸から離れて、心配そうに宙をさ迷い始めた。カセットテープはどうなったんだろうと、大久保は、急に不安気な顔で仲間たちに訊《き》いて回り、だれも知らないことがわかると、カセットデッキの扱いを任されている遠山の他には知る者はいないだろうと見当をつけたのだった。
大久保にとって、カセットテープは危険極まりないシロモノである。重森の手に渡ったりすれば、せっかくの休日を取り上げられないとも限らない。確実に処理しておかなければ、安心して千秋楽を乗り切れないと判断したのである。
そこで大久保は、音効室にカセットテープを捜しに行くと言い出した。北嶋は、物真似芸の披露もそっちのけに、カセットテープの探索に熱を傾ける大久保に興味を失い、大部屋から出てロビーにあるトイレへと向かった。客が入る前のトイレに人影は少なく、大便の場合、北嶋は常にこちらのほうを使っていたのである。
ロビーまでは大久保と一緒だったが、それ以降は別れ、大久保はらせん階段を上がって音効室に入り、北嶋は、だれもいないトイレでゆっくりと用を済ませることにした。
しばらくして用を終え、公衆電話から電話をかけてチケットの確認をしてから大部屋に戻ると、顔を真っ赤にして飛び出して行く重森とぶつかりそうになった。その瞬間、北嶋は、何かよくないことが起こったに違いないと察したが、目の前にいる自分に重森は何の関心も示さなかったため、とりあえず怒りの対象はこちらにはないだろうと、胸を撫でおろしたのである。
タイミング的には、件《くだん》のカセットテープの存在を重森が知るところとなって、過剰に反応をしているような雰囲気があった。ところが、重森のその後の行動に注意を向けていた北嶋は、思わぬ光景を目にすることになる。
重森は、怒りとも困惑ともつかぬ、まさに度を失った形相で、女子大部屋のドアを開けると、抑えた声で、山村貞子の名前を連呼したのだ。
流しの陰に半分身を潜め、北嶋は、様子をうかがった。重森に名前を呼ばれ、ドア口のところまでやってくる女の気配がある。おそらく貞子なのだろうが、廊下側に立つ重森と向かい合う格好で部屋の内に立っているため、顔どころか身体の一部さえ見えない。だが、重森の喋る内容からすれば、そこにいるのが貞子であることは間違いなかった。
「貞子……、おまえというやつは……」
重森は、貞子の肩に手を乗せているふうである。ゆすったりさすったり、懇願の表情を見せたかと思えば、脅迫しかねない勢いで顔をきつく歪《ゆが》め、目つきも鋭く貞子を正面から見据えたりする。ときには涙さえも浮かべ、重森の横顔には、愛しさと憎しみが同居していたという。
ほぼ十分近くもねちねちと重森から責められ、ようやく解放されても、貞子は大部屋から出てくることはなかった。しかし、午後の公演時間も迫り、衣装や小道具の支度を整えるために大部屋の外に出てきたときの貞子の表情を、北嶋は今も忘れないという。
深い絶望。他になんと言えばいいのか。急遽《きゆうきよ》代役で手に入れた初舞台であったが、観客の反応は芳しくなく、公演が進むにつれて貞子の落ち込みはひどくなっていった。そのせいもあろうが、このときの貞子は、どん底といった顔をしていた。普段はもっと身体全体から発するオーラのようなものがあった。しかし光を失い、全身から力の抜けきった様子で舞台下手の階段を上ってゆく後ろ姿は、なんともいえぬ痛ましさに満ちていたらしい。
その日、北嶋が自分の目で見たのはそこまでだった。
現実に何が起こったのかを知ったのは、劇団をやめてイベント会社に就職し、数年がたった頃のことである。
劇団飛翔をやめてそれぞれの道を進み始めた者同士、久し振りで会おうということになり、北嶋と大久保は共に飲む機会を持った。そのとき、北嶋は、「そういえば、あのとき……」と、千秋楽の午後の出来事に話題を振ったのである。
そこからの話は、北嶋が大久保から聞き出した内容をもとにしていた。
重森の物真似が録音されたカセットテープを探すため、音効室を訪れた大久保は、遠山が留守なのをいいことに、勝手に部屋の中を荒らし始めた。そうして、棚の下にカセットデッキを発見すると、セットされたままのテープを最初から聞き始めたのである。カセットに貼《は》られたラベルから、そのテープが問題のものであることがわかった。ところが、以前吹き込んだ物真似は録音されていなかったのである。早送りと再生を繰り返し、聞き漏らしのないように操作したけれど、ついぞ物真似の録音は発見できず、「なんだもうとっくに消去されたのか」と、安堵《あんど》しかけたとき、大久保の耳は、女のうめき声をとらえたのだった。
「はっはっ」という荒い呼吸……、まだ女を知らない大久保は、最初のうちその声の意味がわからず、なんだろうという興味だけで聞き続けたのだが、うめき声が次第に言葉を形成してゆくと、意味と同時に、声の主も知ったのだった。
「貞子……」
大久保は、名前をつぶやいていた。間違いなく、声は貞子のものだ。鼻から息を吐き、快楽のうめきを漏らしながら、貞子は心をこめて名前を呼び、愛を告げていた。
……これ以上、わたしを、愛さないで。わたし、遠山さんを、失いたくはない。
呼吸は激しく、ときに息を止め、切なげに声をうわずらせる。
……遠山さん、愛しているわ。
大久保は我を忘れて聞き惚《ほ》れた。内容はともかくとして、聞く者の感性を刺激してくる魅力が声に含まれていた。
ところが、大久保は、突然にふと我に返ることになった。喋っている中身が、意味を持って脳裏に到達すると、制御できない感情に身体中が浸食されてゆく。一言では言い表せない感情だった。貞子に対する思いも強く作用した。遠山と同じく、貞子に好意を寄せる大久保は、複雑な気持ちを抱いて稽古期間から本公演へと至る、一連の流れを眺めてきたのだった。
年下の愛する女性が、演出家に取り入ってあっさりと役を手に入れるという現実に我慢ならなかったのかもしれない。愛する女に初舞台の先を越されたという負け犬根性が、根っこのところにあったのかもしれない。録音テープから判断すれば、貞子が遠山を愛しているのはほぼ間違いのない事実であり、遠山に対して激しい嫉妬《しつと》が燃え上がったのかもしれない。それに加え、あからさまに貞子を誘惑しようとする重森に、証拠を突き付けてやれという残忍な気持ちが働いたのかもしれない。
……普段からおれが物真似している通り、ふられる役回りが、お前にはお似合いなのさ。
様々な要素が絡み合い、大久保はかっと顔が熱くなるのを感じていた。そうして、魔が差したとしかいえない行動に出たのだった。
大久保は、テープを少し巻き戻すと、再生ボタンを押し、ボリュームをアップさせた。そうやって、貞子の声を確認してから、インターホンの楽屋大部屋のボタンを押したのである。遠山の名を呼ぶ貞子のよがり声は、大部屋に筒抜けになるはずであった。
そこまで話を聞いたとき、遠山は、叫びに近い悲鳴を上げた。
「なんてこった……」
吉野の顔には同情が浮かんでいる。
「ほんとうに、知らなかったんですか」
今の今まで、そんなことがあったと、疑ったことさえなかった。
「知ってるはずないじゃないですか。あのとき、ぼくは、芝居を見に来た友人に連れ出され、外で昼食をとっていたんだから」
多くの劇団仲間が、配給された弁当を食べる中、たまたま遠山だけは、友人に誘われるままに劇場の外に出て、ランチをとっていたのだった。
「口止めされてましたからねえ、厳重に」
「口止め……、だれに」
「もちろん、重森にですよ」
「重森は、テープの声を聞いたんですね」
「どうもそうらしい。そのときたまたま大部屋にいた重森は、インターホンから流れ出る貞子の声を聞いた。だから取り乱して、貞子のところに走ったということです」
そのあと、重森の身に何が起こったのか、遠山も吉野も既に知っていることだった。
無事千秋楽を迎え、舞台の片付けが終了すると予定通り打ち上げとなり、さらに解散したあと、重森は、劇団の幹部を集めて恒例の麻雀《マージヤン》へと移っていった。吉野の情報によれば、その場で重森は、幹部俳優の有馬から、貞子の特異な能力に関するエピソードを聞かされるのだが、そんなことも作用してか、重森は、「今から山村貞子の部屋を襲うぞ」と、気勢を上げたのだった。
酒の酔い方はいつになく深く、だれも重森の言動に待ったをかけることもできない。これ以上の酒は身体に悪いだろうと、他の面々はそうそうに麻雀を切り上げて帰途につく他なかった。だれも、重森が本当に行動に移すとは思っていなかったという。
そうして、事実は永遠に闇の中に葬られることになった。一体、重森は、激情に駆られ、深夜、山村貞子の部屋を訪れたのかどうか、真相を知る者はだれもいない。というのも、その翌日、重森は、稽古場に顔を出すには出したが、まるで別人のように黙り込んだまま、何するでもなく手持ち無沙汰にあちこち動き回り、椅子に座ったかと思うと眠るように息を引き取ってしまったからである。死因は急性心不全。無理な公演スケジュールが死を早めたのだろうと、だれもが納得するところであった。
皮肉な話である。遠山は、あの頃、音効室で過ごした、悶々《もんもん》とした日々を思い起こした。愛されているという確証はあっても、重森の手前、必要以上に隠そうとする貞子への嫉妬に苦しめられた日々。彼女の愛の言葉が、その誠実な響きのまま、みんなの耳に届けられればどんなに素晴らしいと思ったことか。皮肉なことにそれは現実となっていたのである。権力を利用して女を口説こうとする行為を懲らしめるためにも、貞子の愛の言葉が直に重森の耳に届けばいいと願ったりもした。皮肉なことにそれも現実になっていたのである。
考えただけで遠山は頭を抱えた。心に秘めた願望を、遠山は、貞子に直接告げていた。
……貞子……、みんなの前で、愛していると言ってくれたら、どんなに……。
カセットテープの声は、音効室から流れ出たものである。音効室の主は遠山自身だ。彼が外で昼食を食べていたという事実は、おそらく貞子は知らないだろう。普段からの願望と考え合わせたとき、貞子は、自分のあえぎ声を流したのがだれであるか、ある程度正確に突き止めたに違いない。
今ここで地団太を踏んでもしかたのないことだった。その夜、重森と何があったのか知るところではないが、貞子の失踪《しつそう》に自分との一件が絡んでいるのはほぼ確実である。貞子は、おそらく、遠山に裏切られたと思い込んだのだろう。もっとも信頼していた相手から裏切られ、性行為の最中のあえぎ声をスピーカーから流されるという、若い女性にとって最大の屈辱を受けてしまったと勘違いしてしまった。
だから、貞子は、何も言わずに劇団を去り、遠山のもとを去った。
脱力感に支配されていた。貞子はもう死んでしまっているらしい。どんな弁解も成り立つ余地はなかった。今さら、何を悔やんでも、始まらないのだ。すべては終わってしまったことである。大久保のしでかしたいたずらも、ある意味では遠山の願望そのものであったのだから、なんとも複雑な思いではある。
遠山の脳裏には小柄な大久保の顔が浮かんでいた。久し振りで会ってみたい気もする。会って、あのときのことをもっと具体的に聞いてみたい。
貞子が姿を消した二か月後、遠山も劇団飛翔をやめていたため、同期生たちの連絡先は不明だった。
「ところで、大久保の連絡先、ご存じないでしょうか」
この点に関しては、新聞記者の吉野のほうが情報量は多そうだ。なにしろ、吉野は、同期生の八人の連絡先を押さえている。
「あ、いや、大久保さんは、もう亡くなられています」
「え、亡くなった」
ふいをくらって、遠山は、身体を少しのけぞらせた。なにかがつんとくる手応えがあった。
「同期生のうち、現在も連絡がつくのは、あなたを含めて四人だけなんです」
「残りの四人は?」
「ですから、既に、亡くなられてます」
遠山と大久保は同期生の中では最年長で、生きていれば共に四十七歳のはずである。ちょうど重森が亡くなったのと同じ年だ。それ以外の仲間は、二、三歳年下の者が多く、死ぬにはまだ若すぎる年齢だった。同期生八人のうちの半分が、四十半ばになるかならぬうちに死亡するというのは、確率的にみてどうなのだろうか。遠山には、ちょっと低いような気がする。
「ところで、大久保の死因は何だったんですか」
病気か事故、どちらかのはずである。
「十年前だってことは聞いてるんですが、死因まではちょっと……。北嶋さんに尋ねられたらいかがでしょう。わたしも、情報源は、北嶋さんですから」
もちろんそうしてみるつもりだった。
「北嶋の、連絡先はわかりますか」
吉野は、ブリーフケースを探って手帳を取り出し、電話番号を読み上げた。都内の番号である。遠山は、数字を書き留めながら、明日にでもさっそく電話してみようと考えるのだった。
10
地下鉄の駅を降りて、一つ木通りを会社のほうに向かいながら、遠山は、背中に冷や汗の流れる感覚を何度も味わっていた。もうすぐ師走だというのに天候は暖かく穏やかである。雲一つない空の様子は、見ているだけでさわやかなはずなのに、遠山の心は少しも晴れない。
昨日、久し振りで北嶋に連絡を取り、話し合った内容が頭にこびりついて離れないでいる。なんともいえぬ後味の悪さが、肩から首筋のあたりに付着していた。
北嶋の言うところによれば、大久保を始めとする同期生のメンバー四人は、ここ数年のうち次々と死んでいったという。しかも、死因はみな同じで急性心不全や狭心症、心筋|梗塞《こうそく》といった心臓の病なのだ。そうしてまた恐るべき符合も聞かされたのである。
大久保のいたずらによって、貞子のよがり声はインターホンから大部屋に流された。そのとき、大部屋には、森新一郎、高畑恵子、夕見まゆ、の同期生三人がいたのである。偶然に大部屋に入ってきた重森を含め、ちょうど四人がテープの声を聞いたことになるが、そのとき居合わせたメンバーが、実は四人とも心臓の病気で死んでいた。重森は、テープを聞いた次の日に亡くなり、それ以外の三人は二十年ばかり過ぎた後と、死ぬ時期にはばらつきがある。しかし、それにしても、偶然ですますには無理のある確率の高さであった。
音効室でテープを流した張本人の大久保は、もっとも早く、三十七歳で心筋梗塞で亡くなっている。どんな形であれ、テープを聞いた人間が、五人とも心臓病が原因で死んでいるという事実は、いかにも不気味だった。
……おれは、聞いたのだろうか。
遠山が気になるのはその点だった。実際にテープを聞いたわけではない。しかし、脳に直接刻み込まれるような生々しい響きで、貞子の声の侵入を受けたのは間違いなかった。かつては、至上の快楽と受け止めた貞子の言葉が、今は別の意味を持ち始めていた。
さらにもうひとつ、先日、吉野と話していたときにはついうっかり言いそびれたことがあった。それは、貞子の声がカセットデッキのテープに録音されるはずがないという確信である。
二十四年たった今でもはっきりと覚えている。遠山は、大久保の物真似芸を消去しようとして、デッキの録音ボタンをオンにしたのである。しかも、何も録音されていない、空のテープを作るという目的のためには、内蔵マイクをオフにしておかなければならず、何度も確認したはずであった。重要なことだから、特に念入りに確認し、チェックしていた。視覚的にはっきりと覚えている。録音の音量を示すVUメーター針は触れていなかった。ずっとゼロを示したまま、停止していたのである。
したがって、貞子の声が録音されるはずはないのだ。これは当然の結論である。
歩道を歩いていた遠山は、突然の目まいによろけて、電信柱に身体をもたせかけた。今日の、目まいと呼吸困難は特にひどそうだ。普段なら、しばらく楽にしていればよくなるはずだったが、目まいは嘔吐《おうと》感を伴ってしばらく治まることはなかった。
会社の門をくぐって玄関を入ると、正面がラウンジになっている。遠山は、五階にある自分の部署にいくよりも先、ラウンジのソファに身体を沈めて、気怠《けだる》さや嘔吐感が去るのを待った。歩道を歩いていたときよりはよくなっているが、仕事に戻るためにはもう少しの休憩が必要なようである。
ラウンジ全体が白みがかって見えた。
「遠山さん」
どこかで自分の名前を呼ぶ声がする。目に映る部屋の光景は、薄い被膜に包まれたように霞《かす》んでいて、遠山は何度も何度も目をこすった。
「遠山さん」
声は次第に近づき、やがてすぐ耳元から聞こえてきた。手が肩に触れ、軽く二度ばかり叩かれる。
「遠山さん、どうしたんですか、さっきから何度も呼んでいるのに」
目を大きく見開いたり、細めたりしながら声のするほうを見上げた。
アシスタントディレクターの藤崎が、ミキサー担当の安井を伴ってすぐ横に立っていた。藤崎も安井も、遠山の直属の部下である。
まぶしそうな遠山の顔を見おろす格好で、藤崎は、顔をしかめる。
「困りましたよ」
……どうしたんだ?
何を困っているのか、その理由を訊こうとして、咄嗟《とつさ》に声が出なかった。
「…………」
「大丈夫ですか、遠山さん」
「す、すまん、ちょっと、水を、持ってきて、くれないか」
「わかりました」
藤崎は、部屋の隅にある自動販売機でスポーツ飲料を買って、遠山に手渡した。飲み干すとようやく人心地がついたのか、遠山は、さっき言おうとした言葉を口にした。
「一体、どうしたんだ?」
「どうしたもこうしたもない。ちょっと来てくださいよ。まいっちゃうんだよなあ、まったく」
遠山は重い腰を上げ、藤崎と安井に導かれるまま、第二スタジオのある三階へと、エレベーターで上がっていった。第二スタジオは、クラシック系の録音に使われることが多く、室内楽程度のストリングスなら難なくこなせるだけの器材を備えていた。
昨日まで、藤崎と安井は、ミュージシャンを伴い、ホールを借り切っての録音のため地方に出かけていた。空気が澄んで乾燥した山間部のホールのほうが、いい音が収録できるため、そのホールはレコーディングでよく使われていたのである。
遠山は、藤崎たちから、レコーディングはうまくいったという報告を受けていた。スタジオでの編集作業を経れば、アルバムとして完成し、近いうちCDとなってレコード店に並ぶはずである。
「なにか、問題でも、起こったのか」
遠山が尋ねると、藤崎は、ヘッドホンを差し出しながら言う。
「とにかく、まず一度、聴いてみてくださいよ」
遠山は、ヘッドホンをして、ミキサーの前に座った。目で合図すると、藤崎は、オープンテープのプレイボタンを押して音楽を流し始めた。
聞こえるのは、美しいピアノの調べである。どこにも問題ないじゃないかと、遠山は不審気な顔を藤崎に向けたつもりだった。
「ここです」
藤崎は、そう言ってテープを巻き戻し、再生する。メゾフォルテからメゾピアノにデクレッシェンドしていく一小節に、ほんの小さくではあるが、ピアノ以外の音が挟まれている。十分に訓練された遠山の耳は、はっきりと聞き取っていた。両目がせわしなく動いている。明らかな動揺が目に現れ、遠山の身体は小刻みに震えた。
「なんて、言ってるのでしょうかねえ、ぼくには、赤ん坊の泣き声のように聞こえるんですが」
ふぎゃーふぎゃーという弱々しい赤ん坊の泣き声……、しかし、それだけではない。藤崎には聞こえないのだろうか、そのもう少し奥のところに、言葉が浮かんでは消え、浮かんでは消え、しているじゃないか。ああ、懐かしいその声。
……遠山さん、愛しているわ。
しかし、おそらく藤崎にも安井にも聞き取れはしないのだろう。彼らに聞こえるのは、赤ん坊の声だけだ。しかも、彼らは、ホールの裏にでも止められた車の中に実際赤ん坊でもいて、その声をマイクで拾ってしまったものだと勘違いしている。
……そうじゃないんだ。そんなことではないんだ。
遠山は無言で叫び続けた。
「困っちゃいましてねえ、遠山さん。どうしましょう。これマザーテープなんですよ。しかも、別のテイクはなし。録音の時は、絶対こんな音、なかったはずなのになあ」
しきりに首を傾《かし》げ続ける藤崎を残して、遠山は、スタジオから飛び出そうとする。
「遠山さん、どこに行くんです」
スタジオの出口で振り向き、遠山は、つかえつかえ言った。
「この部屋は、息苦しい。ちょっと外に、出てくる」
それだけ言うのが精一杯だった。
スタジオを出て、エレベーターを待つ間、遠山はホールの奥にあるガラス窓に頬をくっつけて街の様子を眺めた。午後の日差しは強く、まぶしさのあまり光と影の部分が反転してゆく。網膜が白濁しているわけでもないのに街の一部は白く霞み、やがて全体に黒っぽく変色していった。額から吹き出た冷や汗が、ガラス窓にはり付いてつるりと滑る、嫌な感触があった。汗には、脂が多く含まれているらしい。
白と黒が反転し、一様に色を失った世界の中に、遠山の目を射るひとつの点があった。この季節には似合わない、ライムグリーンのワンピースに身を包んだ女の影……。
遠山は、遠い昔、小屋の音効室で過ごしたときのことを連想していた。貞子との、愛の行為に耽《ふけ》りながら、その真っ暗な部屋に点《とも》る、カセットデッキの赤いパイロットランプを、目の端でとらえたことがあった。真っ暗な中に点る赤い点は、闇を強調するかのような役目を果たしていた。
今、眺めている光景は、音効室での体験をも反転させるものだった。黒ずんだ風景の中、ライムグリーンのワンピースだけは原色の色そのままに、激しい不調和をきたしている。モノクロの世界に嵐を吹き込むかのような迫力で、ほんの小さな緑の点が支配力を主張している。
そのとき、エレベーターのドアが開いた。一階に降り、玄関の外へと歩き出すと、世界はそのままの色を取り戻していった。ただ、遠山の、締め付けられるような胸の痛みは治まらない。
11
喉《のど》が渇いてならなかった。さっき、藤崎にもらったスポーツ飲料を飲み干したばかりなのに、喉の渇きは我慢できないほど膨《ふく》れ上がっていた。
玄関を出たところにある自動販売機でレモンソーダを買って口に含む。身体が水分を欲しているのは間違いなかった。しかし、おいしいと感じられず、さらに冷や汗を溢《あふ》れ出させるだけの結果に終わってしまったようだ。遠山は、飲みかけのレモンソーダを捨てて、歩道を歩き始めた。
エレベーターホールから街を見下ろしたとき、目まいとともに、世界から色が失われていくような感覚を覚えた。そんな中、ただ一点から発散する緑色の小さな輝きに、目を奪われたのだ。なんのあてがあって歩き始めたわけでもない。ただ、なんとなく緑の輝きが気になって、通りに出てみただけである。
二十四年前の音効室での光景が、昨日のことのように蘇《よみがえ》る。スタジオで聞いたばかりの声のせいだった。赤ん坊の泣き声にかぶさるようにしての、囁《ささや》き声。山村貞子のものに間違いはなかった。
音や匂《にお》いは、鮮明な記憶を掘り起こすための起爆剤となり得る。遠山の記憶装置からはこれまでの二十四年間がすっぽり抜け落ち、時間は、貞子と過ごした音効室に直結しようとしていた。
……そう、匂いだ。
あの頃、遠山は、音効室に漂う奇妙な匂いが気になり出していた。最初のうち、部屋に特別な匂いがあるともわからなかった。しかし、部屋の出入りのたび徐々に気付いて、発生源をつきとめようとしたことがあった。
どう形容していいのかわからない匂いだった。ものの腐ったいやな臭いというのでもなく、ことさら香《こうば》しいというわけでもない。それでいて、つんとした刺激はあった。強いものではなかったが、鼻の粘膜を微妙に刺激してくるのである。
……レモン。
遠山のイメージは、レモンに到達していた。部屋のどこかにレモンが置かれてあるのかもしれないと。だが、熟したレモンは想像しにくかった。部屋に長期間置かれてあるとすれば、とっくに腐っているはずである。もっと新鮮なもの。皮を剥《む》くときの刺激臭に近いものがあった。黄色ではなく緑色の若さを保ったままの、未成熟の一個だ。
遠山は、部屋を探ってみた。棚という棚を開け、キャビネットの裏までも調べたが、何も発見できなかった。その過程で知り得た唯一のことは、神棚の前に供えられていた干からびたへその緒が消えているという事実である。いつ、だれの手で持ち去られたものか、遠山には見当もつかない。存在を知っているのは山村貞子だけと思われるが、別段聞き出して咎《とが》めるという類《たぐ》いのことでもなく、逆に、気味の悪い供え物が消えてほっとしたところもあり、敢えて話題にするのは憚《はばか》られたのである。
へその緒は消えてなくなり、その代わりに未熟なレモンの香りが仄《ほの》かに漂うことになった。
……へその緒か。
かつて遠山は、ある写真集で、子宮内胎児の撮影写真を見たことがある。受精から十二週たった頃の胎児を、鮮明なカラー映像でとらえたものだった。
胎児は胴体よりも頭のほうが大きく、両手両足をちょこんと前に突き出した格好で、子宮の中で背中を丸めていた。ほんの五、六センチメートルの大きさであろうが、性別の判断が可能なぐらいに人間としての基礎ができている。性器のような突起までが目で確認できた。
遠山の印象に強く残ったのは、小さな胎児と母体とを結ぶ紐《ひも》の存在である。手足よりも太い、赤い血管の浮き出たへその緒がループ状によじれ、しっかりと胎盤と結ばれていたのだ。へその緒は、胎児に酸素と栄養を与えるための、重要な管である。
胎児にとっては、自分がいまいるところの子宮が、世界のすべてである。すると、へその緒は、自分の住む世界とその外部とを結ぶ唯一のルートということになる。いってみればインターフェイス。母体の外に出て初めて、胎児は、自分の住んでいた世界の外側にも世界があることを知る。それはまたどんな驚きであろうと、遠山は、写真でへその緒を見ながら、胎児の気分を想像してみたことがあった。内部にいる限り、外部の世界は決して知り得ないだろうと。
歩道を歩いているうち、へそのすぐ上のあたり、たぶん胃であろうが、ぎゅうぎゅうと締め付けられる感覚に襲われた。冷や汗はさっきから流れ続けている。両腕の付け根が痛く、手を上に上げようとして、動かない。歩を進めるのがやっとだった。
心臓の鼓動が激しい。
……二十四年前、音効室から流れた貞子の声を聴いた人間は、全員、心臓の病で死んでいる。
その事実が脳裏に点滅する。
……いや、自分はあの場にいなかったし、テープの声など、聴いてはいない。
必死で否定するのだが、別の声は告げようとする。
……いや、おまえは、彼女から直接、声を聴いたじゃないか。しかも、鼓膜を通してではなく、脳に直接刻まれる言葉を。
おそらく気のせいだったのだろう。テレパシーではあるまいし、脳に直接押しつけられる言葉などあろうはずがない。
……遠山さん、愛しているわ。
繰り返し蘇る言葉。最愛の女性がもたらす愛《いと》しい言葉だった。にもかかわらず、それは逆に恐怖の対象でもあり得る。
不安の種は、たった今、与えられた。なぜ、スタジオのオープンテープに同じ台詞《せりふ》が入っていたのか。赤ん坊の泣き声の向こうから、訴えかける貞子の囁き。テープを介して聴いてしまったという恐怖と驚き、不安、懐かしさ、そうして矛盾して燃え上がる貞子への愛情。恐怖と愛情がまさに紙一重で隣り合っているのだ。二十四年前の感情をそのままの形で取り戻しながら、遠山は、はっきりと心臓の異常を感知していた。
振り返りもしないのに、遠山には、反対側歩道の斜め後方に、緑色の服を着た女性がいるのがわかった。彼女の歩みは遠山より少し早い。遠山は、それでも歩いた。どこに行こうとしているのか、なぜ歩かなければならないのかもわからず、ただ振り返ることなく先に進んだ。
緑色の服の女は、遠山のちょうど横に並ぶと、行き交う車の流れを避けながら、こちら側の歩道に斜めに横断してきた。熟す前のレモンの香りが鼻をつく。二十四年前の匂いと同じだった。
今、女は、遠山のすぐ隣にいた。手を伸ばせば触れる距離に、並んでいるのだ。よろけて肩が流れたとき、手の甲が彼女の腕に触れていた。相手は、まごうことなく生きている。生きているという確かな感触が、手から伝わってきた。
遠山は、横目にちらちらと視線を飛ばして、横にいる女を観察した。着ている洋服は、緑色のワンピースだった。季節はずれのノースリーブは見ているだけで寒気をもよおさせ、歩道を行き交う人々から浮き上がっていた。群れの中で自己を主張する姿は、昔と変わりがない。
……ほら、見て、わたしはここにいるのよ。
全身から訴えかけてくる。
背中の真ん中まで伸びた長い髪……、手は透き通るように白く、その手をよく見ると、人差し指の爪の先が割れている。足先に視線を落とす。ストッキングを履かず、素足にパンプスをひっかけただけの足首には、紫色に変色した痣《あざ》があった。全体的に均整がとれてすらりとした身体……、これも昔と変わるところがない。
胃が締め付けられる症状はますます厳しく、遠山は立っていられなくなった。崩れるように歩道に座り込むと、その身体は、緑色のワンピースを着た女に支えられた。世界の輪郭が徐々に狭くなっていく気配がある。女の素足に背中を接し、その柔らかな肌を脂分を多く含んだ汗が濡《ぬ》らしていく。
しばらく、そうやって女の膝に抱かれていた。通りを行く人々が、顔を覗《のぞ》き込み、口々に何かを言うのだが、ほとんど喋っている内容は聞き取れなかった。
ほんのかすかに、救急車という言葉が聞こえたような気もする。多くの人間たちに覗き込まれるのは、遠山にとって迷惑だった。追い払いたいのだが、身体が棒《ぼう》になったかのようで動かない。静かに、女の膝にだけ抱かれていたかった。
手を上げて、女の頬に触ろうとしてもうまくいかず、願望だけが空転してゆく。身体と心がバラバラになっていくのが、もどかしくてならなかった。
懐かしい山村貞子の顔がすぐ眼前にあった。不思議だと思う気持ちも湧《わ》かず、遠山は、二十四年前と変わることのない、若さを保ったままの顔を見上げていた。死んだはずの女……、そんなことはどうでもよかった。なぜ老いていないのか……、そんなこともたいした問題ではない。ただ、昔のままに生きている貞子に触れていられるのがうれしく、遠山は、迫り来る死への恐怖を押し退け、世界の輪郭がもの凄《すご》い勢いで狭まってくる状況に耐えていた。しかし、それにしても、胃の締め付けられる痛みからはなんとか解放されたいと願うのだ。
どこか遠くのほうから、救急車のサイレンが近づいてくる気配が感じられた。空気の振動がサイレンを伝えてくるようだ。肩から肘《ひじ》にかけてまったく動かなかったが、指だけはどうにか動きそうである。遠山は、貞子を求めて手を這《は》わせ、何本かの指を絡ませることに成功した。
もう片方の手を使い、貞子は、ハンドバッグから白っぽい小さな包みを取り出してきた。ティッシュペーパーに包んであるのだが、ところどころ茶褐色に変色している箇所がある。ティッシュペーパーを広げ、中のものを出すと、貞子は、遠山の手の平にそれを載せてきた。かつてどこかで一度、同じようなことがあったように思う。指でちょんと摘んで、手の平に載せられたのは……。
手の平のものを見るために、遠山は顎《あご》を引いて、目を自分の腰のあたりに向けた。重量感はほとんどなく、それは、異和感もなく手に載っていた。
無理に腕を引いて、何だろうと確認しようとする。震える手の平の上で、その物体も生きているかのように振動していた。やがて、遠山は、それがへその緒であることを理解したのである。
二十四年前、音効室にあった干からびたへその緒ではなく、まだ新しい血の付着したものだ。切断されて一週間程度のものだろう。子宮と母体とを結ぶ一本の通路。内の世界と外の世界を結ぶインターフェイスである。
しかし奇妙なことに、そのへその緒は、無理にひきちぎられたかのような切断面を持っていた。鋭利なハサミで切り取られていないのは明らかだ。
視野がずっと狭くなっていて、もはや遠山の目には、貞子の顔しか映っていなかった。身体に進行中の症状が、何に起因するのか知りようもなかったが、漠然とした死の予感はあった。皮肉なことに、貞子に抱かれて死にたいという願望が果たされようとしているらしい。
うっすらと笑みを浮かべようとした。貞子にも応《こた》えてほしかったが、さっきから彼女は無表情のままである。
遠山は昔の癖で、人差し指を軽く動かした。エンディングテーマを流すときは、いつも慎重に構え、人差し指と親指を擦り合わせるようにしてから、プレイボタンをオンにしたものだ。
貞子は、口を開き、何か言いかけた。
……え、なんだって? なにを言おうとしているの?
だが、言いかけた言葉は、喉の奧に飲み込まれて、遠山の意識には届かない。結局、「黒い服を着た少女」も言いたいことは何もなかったのかもしれない。
……プレイボタン、オン。
遠山は、人差し指を動かしてから、へその緒を軽く握ってみた。それがだれのものであるか、もはや疑いようがない。
……貞子は生まれ変わったのだ。
一瞬の後に暗転になった。それは、遠山の人生の幕を告げるものである。
どこからともなく拍手の音が聞こえた。そうして、注がれる多くの視線もまた同時に……。
ハッピー・バースデイ
1
映像を見終わったとき、杉浦礼子は、胸の鼓動を抑えながらひとりごちた。
……なんだか、お芝居を見ているみたい。
そんな印象を抱いたのも無理なかった。
礼子は、電子機器が散りばめられたヘッドマウントディスプレイを頭に被《かぶ》り、データグローブを手にはめて映像を見たわけではなく、ごく単純に、平面のモニターの中で展開するシーンを眺めたに過ぎない。妊娠中の礼子にとって、心を不安にさせるような刺激はもってのほかであった。登場人物と同じ生を生き、同じ死を経験するのは、衝撃が大き過ぎる。死の疑似体験が、精神に相当なダメージを与えるのは間違いなかった。胎児にいい影響を与えるはずもなく、天野は、その点を配慮して、平面のモニターで見ることを礼子に勧めたのだった。
映像を見る前、礼子は、『ループ』というプロジェクトに関して、ある程度のレクチャーを、専門の研究者である天野徹博士から受けていた。自分なりに理解したつもりでいたのに、やはりどこか信じられない気持ちは残っている。モニター画面に登場する人物たちは、別のキャラクターを演じているのではなく、自分自身の人生を生きているのだと何度も言い聞かせなければ、頭が混乱しそうになった。これは演技ではないのだと……。
しかし、そう思ってみても、見終わったときの印象は、やはりドラマを見ているようだというものであった。
なぜなのだろうと、礼子は考える。仮に、他人の日常を録画したビデオ映像を見せられたとしても、芝居のように感じられないのではないか。場合によっては、人の生活を覗《のぞ》き見ているように感じられるだろう。あるいは、平凡な日常ではなく、特異な事件に遭遇したときの映像であれば、映画や芝居のように見えてしまうものなのか。特異といえば、確かに映像はその点で抜きん出ている。ビルの屋上の排気溝に転落した女性が赤ん坊を産み落とすや、赤ん坊はへその緒を噛《か》み切って、たったひとり紐《ひも》をつたって溝の壁を登っていった。現実には決して起こり得ない、異様なシーンである。さらには、たった一週間で大人の女に成長したその女の膝に抱かれて死んでゆく男の物語が、後に控えていた。女はかつて男の恋人であった。男の心情が理解できるだけに余計、礼子は物語に感情移入し、芝居のように見えてしまったのかもしれない。
一旦、モニターを消し、映像の意味が脳裏に滲透《しんとう》するのを待って、天野が穏やかに訊《き》いてきた。
「いかがですか」
礼子は、さっき胸につぶやいた言葉を、もう一度口にする。
「なんだか、やっぱり、お芝居を見ているようですわ」
天野は笑いながらうなずいた。
「わたしもそうでした。初めて、ループの映像を見たときは、芝居のように感じたものです」
天野の口調は、優しかった。研究者としてのキャリアから判断すれば、年齢は恐らく四十代の後半といったところだろうが、外見的にはもっとずっと若く見える。銀縁メガネに色白のぽっちゃり顔は、どこをとっても悪意がなさそうで、礼子は、なんとなく安心してしまうのだ。
三日前、電話でその声を聞いたときから、天野のしゃべりかたには、人の心を落ち着かせる響きがあることを感じ取っていた。でなければ、いくら呼び出されたところで、こんな所には来ていなかったに違いない。
一面識もない天野から電話を受けた頃、礼子の落ち込みようはひどかった。生きる意味をなくしていたといったほうがいい。腹の中で徐々に成長を遂げてゆく胎児は、そのまま不安の増大を象徴するようで、生への執着は少なくなっていた。
子供を産もうか産むまいかという選択肢の、どちらか一方を選ぶ気力すら残ってはなく、惰性に衝《つ》き動かされて日々を送っていたに過ぎない。自殺という明確な解決方法すら遠くに追いやられ、転移性ヒトガンウィルスに蝕《むしば》まれてゆくだろう自分の身体を、他人事のような視線で投げやりに眺め暮らすだけだった。将来に待ち構えている確実な死に対して、抵抗する術もなく……。
唯一生の希望を与えてくれるのは、お腹の中にいる子供の父である二見馨《ふたみかおる》の存在であるはずだった。二か月前、彼はアメリカの砂漠地帯へと旅立っていた。世界に蔓延《まんえん》し、人類を滅亡の危機へと追い詰めつつある転移性ヒトガンウィルスを撲滅するためのヒントを探す旅に出かけていた。しかし、一か月前に、可能性が見えたという意味の言葉を電話で伝えて以来、彼は消息を絶ってしまっていた。オートバイで荒野を放浪する相手に、こちらから連絡を取る手段はなく、ただ待つだけの一か月はあまりに長すぎた。
馨が旅立つとき、はっきりと約束を交わしていた。彼の口調も覚えている。
……二か月後に会おう。それまでは、なにがあっても、とにかく生きていてくれ。
約束の二か月は過ぎ、妊娠三か月であった胎児は、今、五か月に成長している。しかし、彼からは何の連絡もなく、そうである以上、産むにしろ生きるにしろ、希望など持ちようがなかった。
今年三十四歳になる礼子にとって、これが子供を産む最後のチャンスになるかもしれない。二十二歳でもうけた最初の男の子を、自殺という最悪の手段で亡くしたと同時に授かった命だった。死と生のタイミングを思えば、生まれ変わりのような気にもなり、大切にしなければと思うのも確かだ。しかし、既に転移性ヒトガンウィルスのキャリアである以上、産まれてくる子も感染しているに違いなく、敢えて苦難の人生を歩ませる意味がどこにあろうかと疑われてならない。生きる意味を探してくるのがお腹の子供の父である馨の役目だったはずだ。
三日前、生命科学研究所の天野から電話をもらい、二見馨さんのことに関して、お話したいことがありますと言われたときは、半信半疑だった。研究所までご足労願いたいと言われても、どうにも動く気になれないでいた。というのも、これ以上悪い知らせを聞きたくないという防御本能が働いたからだろう。天野の口調は柔らかかった。しかし、その柔らかさの裏には、悪い知らせを持つ者に特有の同情や遠慮が働いているかもしれず、礼子は身構えてしまったのである。ひょっとして、馨に関しての悪い知らせを聞かされるのではないかと。
その疑問に対して、天野は否定も肯定もしなかった。電話口で話しても理解してもらえる内容ではないから、どうしても研究所までご足労願いたいと、天野から熱心な説得を受けた結果、礼子は折れ、この研究所を訪れることになったのである。
研究所の応接室に通された礼子は、『ループ』という巨大プロジェクトに関しての簡単な説明を受けた。かつて、馨もまた同じ部屋で、天野からレクチャーを受けたと聞いて、研究所の雰囲気にもどことなく親近感を覚え始めていったものだ。
『ループ』とは、百万台以上の超並列スーパーコンピューターを使って、もうひとつの世界を作り上げようという世界規模のプロジェクトの名称である。世界といっても、空間はどこにも存在しない。スクリーンに映し出された映像が、空間を保有しないのと同様である。そのサイバースペースに、生命の自然発生は見られなかったが、現実世界にある生命の基本であるRNAを植え付けることによって、生命群は独自に進化していった。そうして、発生源が同じという理由によってからか、ほぼ現実と同じ生命界の誕生を見るに及んだのである。
天野は、ループプロジェクトの全容を、かみ砕いて説明した。学会での研究発表とは訳が違い、概要さえイメージできれば構わないのだから、礼子にもわかるような、専門語を排除しての説明に終始した。そうして、ただ口で説明するよりも実際に映像を見てもらったほうが早いだろうと、ループ界のガン化と関わりの深いふたつのシーンを取り出して、礼子に見てもらったのである。ひとつは、処女のまま懐妊したタカノマイという若い女性が、ビルの屋上にある排気溝に転落し、直方体の空間で赤ん坊を産み落とすシーンである。産み落とされた赤ん坊は、最初から意志があるかのように、歯茎でへその緒をちぎり、用意された紐を伝わって外の世界に出てゆくのだ。
妊娠中の礼子にとっては、なんとも不気味な映像である。
次の映像は、時代が二十四年前に溯《さかのぼ》って、場所もがらりと変わっていた。ただ、登場人物はひとりだけ共通している。タカノマイのお腹から這《は》い出した赤ん坊……、ヤマムラサダコである。
劇団を舞台にした青春ドラマの色あいがあり、前の映像とは異なってストーリーの流れが感じられた。しかし、どこか非現実的なのは、デッキを通さずにオープンテープに女の声が録音されたり、そのテープを聞いた者はみな心臓に異常をきたして死んでいくという設定である。主な登場人物である男も、ひょんなことからテープに差し挟まれた女の声と赤ん坊の泣き声を聞いてしまい、突然の死を迎えることになるのだが、彼が望んだとおり、二十四年前に恋い焦がれたヤマムラサダコの膝の上で断末魔を迎えるのが、いかにもドラマを見ているようであった。
天野は、断片的に切り出したふたつの映像を礼子に見せたところで中断して感想を訊き、さらに説明をつけ加えてきた。
「ドラマのように見えますが、そうではありません。この中の人々は、現実に生きて、死んだのです」
礼子は自分なりの、たとえを思い浮かべようとした。前世紀の終わり頃から、実に精密にできたバーチャルリアリティのゲームが登場し、そのいくつかは子供の頃、実際に体験したことがある。時を経るに従い、キャラクターの細部からは角が取れ、丸みを帯びて人間そっくりに進化していったものだ。ゲームの中に登場するキャラクターは、人間が造り出したものであり、生きているとは言い難い。しかし、仮想空間『ループ』に蠢《うごめ》く生命たちは、独自の進化を遂げて、生きているのである。
「つまり、ゲームのキャラクターが生きていると考えればよろしいのかしら」
思ったことを口にすると、天野はうなずいた。
「ええ、そう思ってくれて構いません。ループの生命はそれぞれDNAを持って、生きています。ごらんになったとおり、人間と同じ容貌を持ち、雌雄に分かれてもいれば、恋もし、受精するためには性交もします」
モニターで映像を見る限り、天野の言っていることに嘘はなさそうだ。二本目の映像には、ちゃんと恋をして、性行為までする男女が登場する。嫉妬《しつと》という感情を抱く点においても、人間とそっくり同じといって構わないだろう。
ループ界が地球とまったく共通の公理や論理に支えられていると言われても、礼子には疑いを差し挟むことができなかった。炭素や窒素、ヘリウム等、宇宙を構成する百十一の元素が、その性質を踏襲したパターンで散りばめられていると言われても、それが具体的にどういうシステムになっているのかはわからない。ただ、自分なりの方法で、ある程度理解したつもりであった。
礼子にとって、科学的な疑問は関心の外にあった。ループ界の生命は、ループという世界の中で生きている。それで充分だ。知りたいのは、お腹にいる子供の父、馨のことである。にもかかわらず、なぜ、馨の知り合いである天野は、延々とループなどという仮想空間の説明を続けるのか……。
そういえば、礼子は、馨から聞かされたことがある。
……現実もまた一種の仮想空間かもしれないんだよ。
いや、馨は現実も仮想空間であると断言したのではなかったか。
宇宙には、その誕生の前において、時間も空間も存在しなかったと言われている。しかし、時間と空間が存在しない状態はどうにもイメージしにくい。しかし、ループ界と現実界を例に取れば、時間と空間の存在しない、誕生前の段階が簡単に説明できてしまう。だから、仮想空間ととらえたほうが矛盾はなくなる。もちろん、現実が仮想空間であるといっても、コンピューターシミュレーションとはまったく異なり、およそ人間の認識能力が及ばない、未知の力が作用してのことだ。その点を踏まえれば、現実を仮想空間ととらえることに関しての反論は、まったく不可能になってくる。
確か、馨はそんなふうに言っていたように思う。
「ところで……」
礼子は話題の転換をはかろうとした。
「わかってます」
天野は両手で制して、もうしばらくこのまま我慢してほしい旨を、表情で伝えてきた。そうして、少しでも核心に近づけるつもりなのか、話題を転移性ヒトガンウィルスのほうにシフトしてきたのだった。
「ループは、現在世界中で猛威をふるっている転移性ヒトガンウィルスと無関係ではありません」
礼子は、身体を硬直させて、
「え」
と声を上げた。
一家が不幸に見舞われたのは、すべて転移性ヒトガンウィルスのせいだった。このウィルスは、細胞をガン化させた上、ガン細胞を強力に浸潤させ転移させるという悪魔のような性質を持っている。憎んでも憎みきれない相手……、夫は二年前にガンに蝕まれて死に、息子の亮次《りようじ》は二か月前に病気治療のための化学療法に嫌気がさして、入院先の病院の窓から飛び下り自殺をしてしまった。そうして、息子の家庭教師であった馨と愛し合うようになって、お腹の子をもうけたのであるが、礼子自身も転移性ヒトガンウィルスのキャリアなら、彼女と性行為を持った馨も、ウィルス感染の運命から逃れられそうにない。また、馨の父親も、礼子の息子が入院していたと同じ病院で治療を受ける末期ガンの患者であり、馨の母もキャリアだと聞かされていた。周囲を見渡せば、どこもかしこも転移性ヒトガンウィルスを原因とする不幸にばかり見舞われている。現在、日本とアメリカを中心に患者数は数百万人にのぼっていた。血液やリンパ液を介する以外の感染経路も発見され、ウィルスの害が他の動物や植物にも及ぶことが判明するにあたって、地球生命滅亡の危機がまことしやかに囁《ささや》かれ始めたのである。
「実は、転移性ヒトガンウィルスの発生源がループであることが明らかになったのです。突き止めたのは、馨さんでした」
天野の口から馨の名前が出るのを初めて聞いた。それだけで、礼子の身体は反応し、奥のほうで血管がピクンと波打つ気配を感じたのだった。
……やっぱり、彼はやってくれたんだわ。
ウィルスの発生源を突き止めたことが、その後の治療にどう役立つのかはわからなかったが、礼子は単純に馨の手柄を喜んだ。
「それは、つまり、治療方法が発見されたということですか」
天野は、礼子の投げた疑問には答えず、滔々《とうとう》と説明を始める。
「今、ごらんいただいたふたつの映像は、いってみれば発端にあたります。見ておわかりの通り、ヤマムラサダコという個体は、念じるだけでオープンテープに声を録音することができました。これはループ界の科学法則では決してあり得ないことです。何度も申しましたとおり、我々のいる現実界と仮想空間ループ界は、まったく同じ法則に支配されているのですから。あるいはまた、一度死んだはずのヤマムラサダコは、二十四年後にタカノマイのお腹を借りて蘇《よみがえ》っている。これも、常識ではあり得ない現象です。コンピューターウィルスのいたずらとも言われていますが、本当の原因がどこにあるのかはまだ不明ですし、その原因が判明したところで問題解決の糸口とはなりません。問題は、偶発的に誕生したウィルスにどう対処するかです」
礼子の頭は混乱しかけた。同じ論法でいけば、転移性ヒトガンウィルスの発生源を突き止めたところで、問題解決につながらないということになってしまわないだろうか。馨の発見が無駄に終わるなんて想像したくもなかった。
礼子がその疑問をぶつけると、天野は、真顔で答えた。
「それはなぜ我々が存在するのかという問いかけと同じです。このとおり、わたしもあなたも既に、ここに人間として存在してしまっている。なぜ、人間が誕生したのかという問いかけとその答えは、社会をよりいい方向に進むよう制御してゆくこととは、別次元のところにあります。人間がなぜ我々のような形態を持ち、様々な欲望に支配されているのか、その原因がわかったところで、よりよく生きる方法の発見にはつながりません。あるものはあるとしてうまく制御していくしかない。
しかし、誤解なさらないように。馨さんの発見はまさしく意味のあることだったのです。なぜならば、それによってウィルスが進化した経過が説明できてきたからです。
よろしいでしょうか。話を元に戻しますよ。先触れはあったのです。ループ界における、ヤマムラサダコという特異なキャラクターは、やがて見てしまった個体をちょうど一週間後に殺してしまうビデオテープを造り上げてしまいました。死から逃れる方法は、ビデオテープをダビングして、まだ見てない他者に見せる以外にない。これを推し進めていけば、ビデオテープはネズミ算式に増えていくことになる。その途中、いたずらによる欠損が原因でビデオテープは突然変異を起こして進化し、様々なメディアへと変貌を遂げていった。まさに燎原《りようげん》の火のごとし。ウィルスとそっくりな爆発的な感染です。実際、ビデオテープを見た者の体内には、ある種のウィルスが発生しました。ループ界ではリングウィルスと呼ばれていたらしいんですが、排卵期にこのウィルスに冒された女性は、生殖行為なしに受精し、ヤマムラサダコという個体を産むはめになってしまったのです。
おわかりでしょう。最初にごらんになった映像がまさにそれ、リングウィルスに冒されたタカノマイがヤマムラサダコを出産するシーンです」
ループという仮想空間にどんな災厄が及んだとしても、どこか他人事といった安心感があった。礼子は半信半疑の面持ちで天野の話を聞き、さっき見たばかりの映像をヒントにして、一週間後に死をもたらすビデオテープが蔓延していく様を思い浮かべようとする。さらにビデオテープによって発生したリングウィルスが、女性の子宮を襲って独自の生命を植え付けていくのだ。現実にそんな事態を被れば、人々はパニックを起こして、自分勝手な行動に走るに違いない。その過程で、デマはデマを呼び、蔓延の速度は増していくだろう。
「で、どうなりました」
礼子は結論を急いだ。
「仮想空間ループは多様性を失い、ヤマムラサダコという単一の遺伝子に収斂《しゆうれん》して、ガン化し、滅亡しました。生命界が多様性を失えば、滅亡以外にありません。滅亡と同時に、ループプロジェクトは予算の関係もあって一旦凍結されることになりました。今から二十年前のことです」
ガン化と滅亡という言葉が、礼子の好奇心を刺激した。ガンという病名が出たことにより、ようやく話が現実に戻ってきたような手応えを持ったのである。
「なんだか、現実を反映しているようで、怖いわ」
礼子は両手を組んで、手の平で腕をさすってみせた。
「その通りです。現実と仮想空間は反映し合い、呼応し合っています」
「影響を及ぼし合っているということ?」
「そう言ってしまって構わないでしょう」
「たとえば、母親と胎児の関係と同じかしら?」
「そう、うまいたとえです」
天野は心底感心しているかのようだった。
礼子は、この荒唐無稽な話をどうにか自分の身に置き換えて理解しようと努めているに過ぎない。彼女は、ループとは恐らく子宮のようなものであると考える。そこはまたひとつの世界であり、親によって誕生させられた命の宿る空間でもある。そうしてまた、母体の健康状態は、胎児に影響を与えるだろうし、その逆も可能だった。いや、物理的な、肉体の状況だけではない。質量には換算できない心模様もまた胎児に微妙な影響をもたらす。ゆったりと落ち着いた幸福な気分でいれば、胎児は穏やかに呼吸するだろうし、苛立《いらだ》ちや怒りは胎児の鼓動を早くしかねない。片方の病気がもう片方に深刻なダメージを与えかねないのは確かだ。
礼子は、自分なりの仕方で理解した上で尋ねた。
「ループの滅亡が、現実界に影響を及ぼしたってことでしょうか」
「そうです、目に見えない影響力です。それとは別に、はっきりと理由のわかっている力もあります。どうも、ループ界に発生したリングウィルスが現実界に侵入して、独自の進化を遂げ、転移性ヒトガンウィルスの原形となったらしい」
仮想空間のウィルスが、現実の世界で通用するかどうかの説明はひとまず置くとして、天野は、なぜリングウィルスがこちら側の世界に伝わってきたのかという経路の説明を始めた。その内容は、礼子を驚愕《きようがく》のどん底にたたき込むこととなった。
「ループ界でリングウィルスに感染したひとりにタカヤマリュウジという個体がいました。彼こそ、仮想空間から現実界への移行を果たした唯一の個体だったのです。
ループプロジェクトの産みの親でもあるクリス・エリオット博士は、一旦、ループ界で死んだタカヤマリュウジを、彼の遺伝情報を再合成することによって現実界に蘇らせようと考えました。全分子情報を解析し、成体として再生させるのは不可能で、タカヤマの遺伝情報を受精卵に埋め込むという方法で、赤ん坊として出産させるより他にありませんでした。しかし、運の悪いことにタカヤマリュウジはリングウィルスのキャリアでした。現在のところ、DNA解析や再構成の途中、事故が発生して大腸菌から漏洩《ろうえい》した疑いが持たれています。リングウィルスが転移性ヒトガンウィルスに変異していったのではないかという仮定は充分に成り立つのです。両者を比較した結果、DNAの塩基配列が酷似していますから」
天野は、そこで言葉を止め、意味ありげな視線を礼子に注いできた。その変化に気づくと、礼子はふっと身構えてしまう。
「タカヤマリュウジが、現実の世界に蘇ったのは、今から二十年前のことです」
天野が、二十年という歳月にアクセントを置いたのは何か意味があるのだろうかと、礼子は漠然と考えた。そういえば、馨の年齢も同じはずだった。
「やはり、まずこれを見てもらったほうが早いでしょう」
天野がモニターにセットしたのは、第三番目の映像だった。
「驚かないでください。いや、すみません。どんなふうに話したとしても、妊娠中のあなたを驚かす結果になることはわかっているのです。まったく、なんと言えばいいのか……」
天野は、自分に振り当てられた損な役回りを悔やんでいるように見えた。そうして、一瞬吹っ切れた表情になると、先を続けたのだった。
「いいですか。この人物が、ループ界におけるタカヤマリュウジです」
天野はキィボードで設定を変えて、タカヤマリュウジの姿を拡大させてゆく。
大学の研究室で、論理学の研究を進めるタカヤマの後ろ姿が映し出され、やがて視点は前方へと転回していった。机に向かっていたタカヤマは、顔を上げて天井を仰いだ。さらにその顔がアップになる。
「……馨さん」
それを見て、礼子は、タカヤマとは別の名前をつぶやいていた。天野が予想したような驚きは、礼子の顔に見られなかった。礼子はただ愛する人間の顔をモニターに発見し、いつもの癖で名前を呼んだに過ぎない。タカヤマリュウジと二見馨が同一人物であるという意味が、即座には、理解しえなかったからである。
2
たとえ馨という人間のDNAが、どこから発生したのであろうと構わない……。
発生がどこであろうと、礼子は気にするつもりなどさらさらなかった。もともと生命は無から生じたものだ。今、お腹の中にいるこの子にしても、その元となる卵子と精子が作り出され、受精する以前には、どこにも存在しなかった。
礼子にとって意味があるのは、行為だけのような気がする。息子の亮次が化学療法に備えての検査に連れ出される隙を利用し、病院の個室をラブホテル代わりに、馨との情事に耽《ふけ》ったのは、愛に裏打ちされた純粋な衝動だった。感情を抜きに、肉体の本能だけに動かされたわけでは決してなかった。愛しているという感情によって行為が促され、結果として誕生したのが胎内に宿る新しい生命だった。
……それにしても。
理解できないというのではない。ループの生命がDNAを持つ以上、現代科学を駆使すれば、その再合成が可能なことぐらい、頭ではわかっているつもりだった。にもかかわらず、突如、馨という男の身体が、サイボーグであったと言われたような錯覚を覚えてしまう。
午後の燦々《さんさん》とした日の光が差し込む病室で、カーテンも閉めず、馨との性行為に及んだことは何度もあった。明るい中、互いの器官を観察しながら愛液を舐《な》め合い、血管の脈動を粘膜に感じながら、精液まで口に含んだものだ。ほろ苦いその味や、舌触りを、礼子ははっきりと覚えている。肉体が分泌する確かな生命の味がした。
卵子に一匹の精子が到達し、受精に至るまでのメカニズムを、礼子は正確に把握しているわけではなかった。メカニズムを完全に理解していたとしても、記憶の底から浮上してくるのは、行為と、そのもとになった感情の自然な発露の思い出である。思うこと、念じることによって、新しい生命が誕生したのだった。
……愛してる。
馨の出生を知った今も、その気持ちに変わりはない。
天野は、礼子の頭の中で、馨への愛の再確認がされていることには到底気づくはずもなく、科学者の癖として、メカニズムの正確な理解が為《な》されているかどうかだけが気になっていた。
「馨さんが、ご両親の性行為の結果として、この世に誕生したのでないことは、ようくわかりました」
だから、礼子の口からこの言葉を聞けたとき、天野は少しほっとした。理解に至らなければ、下らない質問の山に付き合わされることになるだろうし、そうなれば時間の無駄は避けられないと危惧《きぐ》していたからだ。
「わかっていただけましたか」
礼子の知りたいのは、存在の始まりに関しての『なぜ?』ではなく、現在の経過……、ようするに今、馨はどこで何をしているのかということである。
「ところで、今、馨さんはどこにいるのですか」
天野は、小さく溜め息をついて、首を横に振った。腕時計で時間を確かめ、考える仕草をした後、おもむろに立ち上がってインターホンでコーヒーをふたつ注文する。礼子は、もったいぶった天野の様子を見て、ふと嫌な予感に襲われた。
やがて、若い女性がコーヒーを持って現れると、天野は、気もそぞろにカップに口を運びながら、伏し目がちに言う。
「ま、よろしかったら、コーヒーでもいかがですか」
そうして、訥々《とつとつ》と語り始めたのは、馨の消息ではなく、ニューキャップ(ニュートリノ・スキャニング・キャプチャー・システム)という科学装置の解説だった。
それは、ニュートリノ振動による位相のズレを利用して、生物の詳細な三次元構造からたんぱく質の状態、電流の状態に至るまでデジタルでデータ化できるシステムである。ようするにニュートリノの徹底的な照射によって、脳の活動状態から心模様、記憶を含めた、生体が持つすべての情報がデータとして記述できるのだ。
礼子は、天野の解説を適当に聞き流していたが、ニューキャップと呼ばれる装置が、北米大陸の、ニューメキシコ州、アリゾナ州、ユタ州、コロラド州四州にまたがるフォーコーナーズという地域の地下深くに設置されていると聞くと、はっとして顔を起こした。転移性ヒトガンウィルスを撲滅するためのヒントを求め、馨が向かっている場所がまさにそこだったからだ。
「馨さんは、そこにいるんですね」
すがるような訊《き》き方だった。
それに対して、天野は困惑の表情を返すだけである。否定、肯定、どちらでもなく、ひどくおろおろしているようにも見える。礼子は、無言で天野の顔をうかがい、どんな言葉が飛び出ても冷静に受け止めるのよ、と自分に言い聞かすのだった。
「馨さんの細胞は、テロメア領域のDNA配列がTTAGGGではなく、転移性ヒトガンウィルスが末端テロメラーゼを発現させ、DNA末端部にTTAGGGを付加しても、不安定になってすぐに分解してしまうことが判明しました。ようするに、転移性ヒトガンウィルスに対して完全な抵抗性を持った人間だったのです」
「つまり、馨さんは、絶対に転移性ヒトガンウィルスに罹《かか》らないってこと?」
「そうです、彼の細胞は、このウィルスのせいで発ガンすることはありません」
「よかった……」
いい知らせのはずなのに、礼子の胸の鼓動は治まらない。逆に、ニューキャップの存在が、空想の中で、青白く、妖《あや》しい光を放ち始めていった。
「なんと申し上げればいいのか……、つまり、それは世界中が待ち望んでいたことだったのです。転移性ヒトガンウィルスを撲滅する手掛かりが、馨さん自身の肉体にありと発見されたのですから」
礼子は、かつての馨の言動から思い出していた。転移性ヒトガンウィルスの発生やその治療方法の発見に、自分自身が深く関与していくだろうという手応えを、馨は直感で得ていたに違いなかった。馨は、その誕生から宿命を負わされ、ある種の使命を担わされていたのだ。
「馨さんが、治療の役に立つのですね」
「もちろんです。役に立つどころではありません。彼の全生体情報が分析され、画期的な治療法が既に完成されつつあります。すべて馨さんのおかげです」
……全生体情報。
その言葉が礼子の耳に引っ掛かった。話の展開から察すれば、馨がニューキャップという装置にかけられただろうということは想像に難くない。気になるのは、天野の話のもっていきかたであった。全生体情報を提供することによって、馨の肉体がどうなるかという点に関して、天野は何も言及していなかった。さっきからどうも歯切れが悪いのは、そこが曖昧《あいまい》だったからだ。
「馨さんは、ニューキャップにかけられたのですね」
「そうです」
天野は素直に頷《うなず》いた。
「ニューキャップにかけられると、人間の身体はどうなるのですか」
「直径二百メートルに及ぶドームの中心で、不純物の取り除かれた馨さんの身体は、純水の水槽に浮かぶことになります。そうして、球形の表面のあらゆる方向からニュートリノが照射され、身体を突き抜けて反対側の壁に到達するたびに詳細な分子情報が積み上げられてゆきます」
メカニズムの説明はもはやどうでもよかった。苛々《いらいら》として、礼子の声は怒気を含み始めていった。
「ですから、馨さんの肉体は、どうなるのでしょうか」
「完璧な情報を手に入れるためには、細胞を破壊するほどの入念な照射が必要になり、その結果……」
礼子は、ヒステリックに髪を振り乱して、上半身を乗り出してきた。
「ああ、ですから」
礼子の声は悲鳴に変わりつつあった。つられて、天野も、責任の所在が自分にはないことをアピールするかのように、声にやり場のない怒りを込めていった。
「いいですか。その結果、肉体は液状に溶けて、消滅してしまうのです」
「液状に、溶けて、消滅する」
礼子は呆然として、同じ言葉を繰り返した。身体がそうなっていく過程を思い浮かべようとして、うまくいかない。生命がどうなってしまうのか、結果はわかり切っているのに、礼子は言い出しかねている。
喋《しやべ》ろうとしてはためらい、言葉を飲み込み、ただ口をぱくぱくさせるだけで、呼吸困難に陥りそうな礼子を哀れに思い、天野は、はっきりと宣告を下した。
「馨さんは、この世界において、亡くなられました」
礼子と天野は、たっぷりと時間をかけて、見つめ合った。礼子の、目尻の垂れた大きな瞳《ひとみ》に見つめられ、天野は、視線を避けることもできず、感情の爆発を正面から受け止める他なかった。
顔を背けたのは、礼子が先だった。両目から涙を溢《あふ》れさせたかと思うと、コーヒーカップに髪が浸るのも構わずテーブルに顔を突っ伏し、声を詰まらせて言った。
「なんてことなの……」
他にどう言えばいいのだろう。二年前には、転移性ヒトガンウィルスに冒されて夫を亡くし、二か月前には同じ病気を苦にした息子に自殺され、そうして一か月前には、お腹にいる子の父である恋人が、どう形容していいのかわからない方法で、この世から去ってしまったのだ。度重なる不幸に、生きる気力は萎《な》えかけてゆく。
……もうこれ以上我慢ならない。
研究所を訪れる以前も厭世感が強かったけれど、天野から馨の死を知らされ、生に対する無力感は、はっきりとした自殺願望に変わりつつあった。この悲しみの根を断ち切るためには、感情の元である肉体を消滅させるほかないだろう。
たとえ、馨の全生体情報によって、自分の病気が治療されようと、もはや耐えられなかった。ガンを克服して、この先何十年生きることになろうと、悲しみは永久に付きまとうことになる。そんな人生を思うと、うんざりだった。今、礼子ははっきりと断言することができた。
……わたしは、これ以上人生が続くことを、望んでいない。
礼子は、椅子から立ち上がりかけた。その拍子に、テーブルに置かれたコーヒーカップを倒して膝頭を濡らしてしまったが、気にする素振りも見せず、憤然と身を翻してドアを目指した。
「どこに行くのです」
天野は慌てて追いかけ、礼子の手首を握った。
「もういいんです」
「よくはありません。話はまだ終わってないんですから」
「いいえ、もう、わかりました」
「いや、あなたは何もわかっていません」
礼子は、天野の忠告を無視して、ドアノブに手をかけようとした。ところが、天野にその手を強く押さえられると、礼子は、痛さのあまり、
「もう放っておいてください」
と、顔に似合わない怒鳴り声を上げた。しかし、引き下がるわけにはいかなった。馨に使命があったように、天野にも使命がある。エリオット博士との約束、いや、それよりもまず、二見馨との約束をきっちりと果たさなければならない。
「落ち着いて聞いてくれませんか。これは、馨さんとの約束なんですから」
礼子は、身体の動きを止めた。そうして、抵抗するでもなく、ただじっと天野の次の台詞を待つのだった。やはり、馨との約束という台詞は気になるようだった。
「約束……」
「そうです。あなたと馨さんを、対面させるのが、わたしの役目です。人類を救うための旅に発つ前、馨さんは、わたしやエリオット博士にはっきりと約束させたのです。彼の偉大な行為に報いるためにも、わたしは、彼の指示に従う義務があります。そう、ある瞬間をセッティングし、あなたには馨さんと対面していただきます」
「対面……、会えるんですか。馨さんと」
「ええ、もちろんです。彼は今でも、向こうの世界で生きていますから」
髪からコーヒーを滴らせ、礼子は、半身の姿勢で振り返っていた。顔に表情は乏しく、心持ち青ざめている。
「どうぞ、もう一度、お座りください」
天野はソファを指差して、礼子に座るように勧めた。
衝動に駆られた行為を途中で止め、元に戻すまでには時間がかかるものだ。礼子は、顔や髪に手を入れながらゆっくりと間をあけ、天野の指示に従って再度ソファに腰を沈めていった。
天野は、さっきから何度も腕時計を見ていたが、礼子はその様子が気になるらしい。
「時間、だいじょうぶなんですか」
「あ、いや、あと十分ほどで、約束の時間なものですから」
「約束……、どなたと?」
「馨さんです」
礼子の頭は混乱しかけた。一か月前に死んだはずの馨と約束を交わしたとしても、それが一体どんな効力を発揮するというのか。
天野は、礼子の誤解を解きほぐそうと、穏やかに話し始める。
「最初に断っておきますが、馨さんは、まったくの自由意志で、ニューキャップにかけられました」
「かけられれば死ぬとわかっていたのにですか」
「そうです。ニューキャップは、その瞬間の感情までリアルにデジタル化してしまいます。無理やり装置に縛り付けられ、ニュートリノを照射されたとしても、うまくはいきません。恐怖心や嫌悪感、現実を否定する感情に支配されていれば、肉体は硬直し、自然な肉体情報は得られなくなってしまいます。ですから、これだけはどうしても頭に入れておいていただきたい。馨さんは、自ら進んで、ニューキャップに入っていきました。より正確な生体情報が得られるように、心穏やかに、平常心を持ったまま、死を甘受したのです。それは、自己を犠牲にして人類を救おうという崇高な動機に裏打ちされた行動でした。もっとはっきり言いましょう。馨さんが特に救いたかったのは、あなたであり、産まれてくるお子さんであり、彼の両親だったのです」
天野の言葉は重かった。馨の死を賭けた行動が、自分と、このお腹にいる子供の生命を救うためということになれば、命はずしりと重くなる。自分の価値が高められるようなものだ。
天野はさらに言葉を続ける。
「馨さんの死にはふたつの意味がありました。ひとつはさっきから何度も言っているように、彼の生体情報を利用して、我々の世界から転移性ヒトガンウィルスを駆逐させること。もうひとつは、二見馨という人間の分子情報をすべてデジタル化して、彼を、仮想空間ループ界に再生させることです。
ループ界のガン化と現実界のガン化は、母体と胎児のたとえでもわかるとおり、微妙に影響を及ぼし合っています。両者ともに、生命界に特有の多様性を回復しなくては、本当の解決にはならないかもしれない。馨さんが貴重な生体情報を残して、現実界での死を迎える以上、その情報をフル活用しない手はない。馨さんにはループで生き返ってもらう。そうして、ループ界に正常な多様性をもたらすための担い手になってもらう。ようするに『神』の任務を負って、彼は、死と同時にループ界へと旅発ったのです。そうして、到着と同時に、二十年間凍結されていたループプロジェクトは、再開されました。ループ界は滅亡の一歩手前から、もう一度やり直すことになったのです」
「現実のこの世界で、馨さんを蘇《よみがえ》らせることはできないんですか」
「馨さんとまったく同一の人物をそのままの形で生き返らせるのは、不可能です。前世紀に開発されたクローン技術を用いれば、馨さんと同じDNAを持った生命を新しく誕生させることはできます。説明するまでもなく、同じ遺伝子を持っているといっても、それはもう馨さんとは別の人生を歩むことになる、別の生命です。しかし、ループ界に再生した馨さんは、我々と同じ肉体を持っていないにもかかわらず、思考経路や感情に至るまで、馨さんとまったく同一であり、結果として同じ記憶を持っていることになります」
「ということは、わたしのことも覚えているのですね」
「もちろんです」
礼子にはようやく、馨が向こうの世界で生きているという意味が飲み込めた。しかし、だからといって、死んだという事実は何ら変わるものでもない。仮想空間にいては、肉体の交歓もできなければ、コミュニケーションを交わすこともできそうになかった。さっきの映像のように、ドラマの中の登場人物として、相手を認識するだけだ。愛する相手がすぐそこにいるのに、触れることができないという状況は、より辛《つら》くはないだろうか。
「ループの生命に、わたしたちの姿は見えるのですか」
礼子の質問はもっともだった。ループ界が、こちらから観察可能なのは、二つの映像を見せられて、実際に経験ずみだった。しかし、その逆となると、また話は別だろうと、素人目にも予想はつく。
「それは無理です。われわれが神の世界を垣間見ることができないのと同じです」
礼子の脳裏に浮かんだのは人間と神のたとえではなかった。
何日か前、礼子は、かかりつけの産婦人科に足を運んで、胎児の様子を見せてもらったことがあった。ベッドに横になり、ブラウスをたくし上げて腹を出すと、産婦人科医はエコーを皮膚に当て、モニターに浮かぶ映像を見せながら、胎児の成長具合を説明してくれたものだ。子宮の中の様子はエコーを使えば簡単に見えてしまう。子宮をそのままループ界にたとえてみればわかりやすいだろう。母からは、子宮にいる胎児の様子はお見通しだが、胎児は決して母の全体像を認識することができない。この場合、相手を認識する方法は常に片道通行なのである。
現実世界はループ界を観察できるのに、その逆ができないことを、礼子はすんなりと納得できた。
「わかりました。馨さんに会わせてください」
本当は、馨の姿を一方的に見るだけだろうけれど、礼子はわざと相手も同じ空間に生きているような表現を使った。一時的にせよ、会っているという思いに浸りたかった。皮膚と皮膚を触れ合わせたときの感覚が蘇ればいいのにと……。
「わかりました。そろそろ場所を移動しましょう。馨さんは、おそらくあなたに伝えたいことがあるのだと思います。念を押してエリオット博士に約束させたそうですからね。フォログラフィックメモリによる再現映像を見せるのではなく、ほんのいっときでも同じ時間と場所を共有して、馨さんは、目の前にあなたがいるということを実感したかったのだと思います」
衝立《ついたて》に仕切られた研究室に入ると、天野は、コンピューターに向かって時間と場所を入力していった。研究室に招き入れられた礼子は、指定された椅子に座るよう指示が与えられ、ついで、ヘッドマウントディスプレイとデータグローブを使用するかどうかを尋ねられた。
「使えば、どうなります?」
「そうですね。より立体的でリアルな映像が手に入るだろうし、データグローブの着用によって、あなたは馨さんの身体に触れることができます」
迷うことはなかった。礼子は、ヘッドマウントディスプレイとデータグローブを使うことに決めた。
装着して、その時間がくるのを待った。二分前……、礼子は呼吸を整え、コーヒーで濡れた髪をハンカチで拭《ふ》きながら、後ろに流していった。向こうからこちらは見えないとわかっていても、女としての本能が働きかけるようだ。
馨の顔を見るのは二か月ぶりである。この世で一旦死んだ者の姿は、天国にテレビカメラを入れて撮影されたように映るのではないか。礼子の期待はいやがおうにも高められてゆく。穏やかで安らかな顔を見たかった。そうすれば、いくらかでも安心するだろう。
3
ループ時間にして、1991年6月27日午後2時ちょうどになろうとしていた。緯度経度の数字も、指定された通りぴたりと合わせられている。これから、礼子は、視聴覚を通して、ループ界の立体映像を経験することになるのだ。
システムが作動すると、突如、礼子は別の空間に連れ去られるような感覚を得た。周囲は白濁して、霧の粒子が無数に浮いているのが見える。その合間を身体が突き抜けていった。雲間を漂うようで、ふわふわと身が軽く感じられた。怖くはなかった。逆に、自由な肉体を手に入れたかのような心地よさがある。
視界を覆うのが雲であることに気づくまで、時間はあまりかからなかった。雲をかきわけ、切れ目からその向こうに出ると、海に突き出た半島を縁取る海岸が見下ろされてくる。俯瞰《ふかん》はさらに低くなり、入り組んだ海岸の様が手に取るようにわかってきた。急斜面がそのまま海へとなだれ込む海岸の地形は、申しわけ程度の砂浜を持つばかりで松林も少なかった。
舗装された道路は丘の中腹をうねり、その蛇行する様が灰色の輝きを映し出している。ループ界における太陽は、今、真後ろにあるらしく、礼子は直接に日差しを見ることはできない。路面に反射する光や、波間のきらめきによって、間接的に礼子は太陽の存在を背後に感じるのだった。
舗装路から折れて海に向かう獣道の途中に、ひとつの人影が見えた。最初のうち、礼子はその人影が何を求めて移動しているのかわからなかった。松林に覆われた斜面を、右往左往しながら、視界の開けた場所を探そうとしているのだろうか。あるいは雲の切れ間から差し込む光を、真正面から受けようとしているようにも見える。
人影は、やがて開けた草の斜面に腰を下ろして、礼子の『目』があるはずの空間をしっかりと見上げてきた。
遠くに聞こえる波の音……、そして自分を取り囲む風の音……、それ以外は静寂に包まれ、高度が低くなって大地が眼前に近づいてくる様子が、不思議な距離感をもたらす。着陸前の飛行機にたとえようにも、近づき方がゆっくりし過ぎている。礼子には経験がなかったが、パラシュートでの落下がおそらく似ているのではないかと思われた。
斜面に膝を抱えて座っている人物は、こちら側の名前では二見馨と呼ばれ、ループ界においてはタカヤマリュウジと呼ばれているはずだった。ループ界の時間経過は現実界よりも六倍早いため、礼子の過ごした一か月が向こうにとって半年の長さに相当している。しかし、今この瞬間が大切なのは、馨もまた、目の前に礼子がいることを意識していることだった。
数メートルの上空から見下ろし、額から鼻筋、意志の強そうな口許あたりの造作がはっきりしてくると、馨もまた中空に浮かぶ礼子の顔を求めるように、にっこりとほほ笑みかけてきたのだった。確かに、彼は、礼子に見られていることを知っている。
礼子はしばらく同じ位置にとどまって、馨との思い出が脳裏を通り過ぎるに任せた。共有した時間と場所はあまりに少ない。愛の言葉を交わした場所はほとんど病院であり、そこで息子に自殺されたことを思えば、楽しい思い出と辛い思い出は、表裏一体に共存していることになる。
それでも、礼子は、様々な記憶の中から純粋に馨との思い出を探し当て、実際に見ている顔を手掛かりに、回想に肉付けしようとする。そこに馨がいるにもかかわらず、礼子は目を閉じていた。
かつて馨と過ごした頃の映像が、脳裏に展開していた。病院の廊下を歩いてきて、自分の姿を見つけるや、ぱっと表情を崩して喜びを隠そうともしない馨の初々しさが懐かしい。軽々と抱き上げられベッドまで運ばれたとき、遠慮がちに触れてきた肌の温かさは今でも覚えている。病院の最上階から都会を見下ろしながら、もし病気を克服できたらまず何をしようかと、実現不可能な夢をテーマにいつまでも語り合ったものだ。
……あの記憶をもう一度、たどりたいのだろうか。もう一度、同じ体験をしたいのだろうか。
いや、そうではなかった。礼子は、馨と共に、先に進みたかった。しかし、彼は、死んでしまっている。現実には存在しない。共に歩む相手ではなかった。
ところが、目を開けると馨はもっと近くに来ていた。彼は口を動かしている。なにか喋っているのは明らかだが、マシンの調子が悪いせいか、内容が聞こえてこない。傍らで見守る天野にそのことを話すと、不手際があったらしく、自動翻訳装置の調整を行って言葉が耳に届くよう設定を変えようとする。
馨は、まっすぐ正面に顔を上げ、意志力に富んだ視線を投げながら、一語一語区切るようにして短い単語を吐き出していた。雑音のように聞こえたその言葉は、調整が進むにつれ、礼子の耳に届き始める。翻訳装置を経ることによって本来の馨の音声と微妙に変わっていたが、言葉の意味は明らかだった。
「だ・い・じ・ょ・う・ぶ・だ」
馨は、そう言っておいて、自分で確認するように大きく頷いている。
……だいじょうぶ。
何がだいじょうぶだと言うのだろう。自分の身を挺して守ろうとした世界の未来に対して、太鼓判を押しているのだろうか。その自信がどこからくるのかわからない。だが、礼子は、この研究所に来て数時間のうちに目まぐるしく変わった人生観が、ひとつの結論に到達してゆく手応えを得ていた。
自己犠牲によって救おうとした礼子と、その腹にいる子供を前に、馨が「だいじょうぶだ」と世界を肯定する限り、疑う根拠はどこにもなかった。
……生きよう。
その思いが全身を貫いてゆく。理由もなにも飛び越え、一気に礼子は消えかけていた生の実感を取り戻していった。
アメリカの砂漠に旅立つ直前のこと、それとなく自殺をほのめかす礼子は、馨によって強引に約束させられていた。
……二か月後に会おう。それまではたとえ何があろうと、とにかく生きていてほしい。
それはまた、二か月後には解決策を持って現れるという約束でもあった。馨は本当に、約束通り、答えを持って現れたのだ。
礼子は、データグローブをはめた両手を動かして、馨の身体に触れようとする。肩のあたりに手を置くと、肩胛骨《けんこうこつ》の出っ張りが発達した筋肉に覆われているのが感じられた。なにもかも以前と変わりはなかった。
馨は立てていた膝を倒してあぐらをかき、両手を前に差し出してきた。礼子の手は馨の手を掴《つか》もうとするのだが、向こうは礼子の動きに応じようとしなかった。馨からは礼子の姿が見えないのだからそれも無理はない。しかし、わかっていても、礼子は諦《あきら》めないで続けた。
思いを伝えようという気持ちが相手を動かすまで、礼子は必死で同じ動きを繰り返した。馨の腕に手を這《は》わせ、指に指を絡めようとする。そのたびに馨は、空に向かって手を振ったり頭を掻《か》いたりと、思惑とは逆の行動をとっていたのだが、やがて何かを察したように考え込み、力なく垂らした両手を前に差し出してきた。自分の意志ではなく、相手の意志に身を任せようという行為。
礼子は、馨の両手に自分の両手を重ねたまま、しばらくそおっとしておいた。互いの思惑をまさぐり合うためでもあり、急な動きで相手との繋《つな》がりが断ち切れないよう配慮するためでもあった。慎重に手を動かすと、向こうもまた同じ動きで応じてくれる。気配を察しているのだ。馨もまた、見えはしないけれども、礼子の手を自分の掌中におさめているという直感を得ているに違いなかった。
礼子は、馨の両手をおそるおそる自分の胸に当て、そおっと下に下げていった。繋がれた手と手は、いってみれば現実界とループ界を結ぶへその緒のようなものである。礼子はさらに馨の手を下に導く。腹の中心……、ちょうどへそのあたりに手をあてがい、
「ほら、聞いて」
と小さな心音を相手の皮膚に届かせようとする。
馨は首を縦に振って、もう一度同じ言葉を返してよこす。
「だいじょうぶだ」
声は胎児にまで届いたのかもしれない。礼子の子宮の中で、胎児はこれまでになく大きな動きを返してよこした。
4
病院の門をくぐったときから、礼子の心は複雑な感情に支配されていった。息子の亮次に飛び下り自殺された病院であり、門をくぐれば、もっと辛い思い出が喚起されて嫌な気分になるだろうと予想されたのが、不思議と馨との出会いの光景がまず脳裏に思い描かれてくるのだ。
礼子は、三階に上り、広大なロビーを抜けてB号棟に直結するエレベーターに乗換えようとしていた。三階には、中庭に面したカフェテラスがある。
初めて馨を意識したのが、このカフェテラスだった。じっとこちらに注がれる馨の視線に気づいたとき、常に男たちから見つめられている礼子は、いつものことだろうと刺《とげ》のある視線を返してやったのだが、それでも相手は動じる気配を見せず、逆に真摯《しんし》な色を目に強く込められ、もはや無視できなくなってしまった。その数日後、礼子は実際に馨と話をする機会を持ち、その人柄に触れたり、会話のそこかしこに深い理性の片鱗《へんりん》を垣間見るや、女として徐々に惹《ひ》かれていくことになる。息子の家庭教師役を依頼したのも、馨との接点を少しでも増やそうと思ってのことだった。
しかし、馨と愛し合うようになった結果、息子の亮次は自殺という手段を選んでしまった。苦しい検査に連れ出された留守を狙って、母親と馨が病室でこっそり情事に耽《ふけ》っているとあっては、失望するのも無理はなかった。邪魔者は早く消えたほうがいいでしょと、生の希望を失っていったのだ。
「ぼく、いなくなるから、あとは、ちゃっかりやってよ」
メモに残された遺書代わりの文章は、呪文《じゆもん》のように締め付けてくる。
自殺の直後は、いずれ転移性ヒトガンウィルスによる死は免れ得なかったのだと、自分を納得させていたのであるが、馨の全生体情報の分析によってガン撲滅の手掛かりが発見された今となっては、亮次の死が惜しまれてならない。耐えて生きていれば、馨の犠牲によって開発された技術が活用され、病気が治療されていた可能性が高いだろう。
エレベーターが七階で止まると、礼子はホールに出てぐるりと見回した。一瞬、方向感覚に狂いが生じ、空間が歪んで見えるような錯覚を起こした。廊下の中ほどには非常ドアがあり、そのドアを開けると、暗い非常階段が上下に伸びているはずだった。礼子の脳細胞は、それ以上のことを思い出すのを拒否しようとしていた。非常階段の踊り場には、火災時に内からも外からも開閉できる三角形の小窓がある。三か月前のある夕暮れ、亮次はその窓から飛び下りて、コンクリートの赤い染みに変わったのだった。
馨との出会い、そして亮次との別れ……、両方とも同じ場所でなされたため、病院のどこを見渡しても、思いは千々に乱れる。
礼子は、心の整理ができないままメモを見て、そこに書かれた番号を確認した上で、ドアをノックした。
「はい。どうぞ」
やって来るのを予測していたような即座の返事があり、引き続いて病室の中から衣擦《きぬず》れの音が聞こえてきた。
ドアを開けると、そこには、寝間着の前をはだけた二見秀幸が、不自然な格好で壁に寄りかかって立っていた。身体から染み出た分泌物で、病室内にはすえた臭いが漂っている。礼子は、一歩二歩と部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。臭いの主が馨の父だと思えば、自然と気にならなくなってくる。
「初めまして、杉浦礼子です」
礼子から自己紹介を受けると、秀幸は壁から身体を離し、
「よくいらっしゃいました。さあ、どうぞ」
と、満面に笑みを浮かべながらパイプ製の椅子を勧める。
秀幸は、礼子の訪問があることを、事前に連絡を受けて知らされていた。息子の馨と礼子が恋人同士の関係にあり、現在妊娠中であることも、馨が旅立つ直前に告白されて先刻承知だったのである。
礼子には、秀幸の顔に浮かぶ喜びが、自分と自分の腹にいる子供に向けられていることがよくわかった。嘘偽りのない正直な気持ちが、初対面の礼子にも充分伝わってきたのだった。
勧められるまま椅子に腰を下ろすと、礼子はそれとなく、秀幸の外見を観察してしまった。末期ガンの症状がどのように抑えられているのか、外見からだけでその様子がうかがえないだろうかという好奇心に加え、馨を育ててくれた大切な人間であるという感謝もあった。
仮想空間の遺伝子を受精卵に埋め込まれ、ある女性の子宮を借りて誕生した馨は、二見秀幸夫婦の元で成長を遂げた。たとえ同じDNAを受け継いでいなくとも、馨は秀幸のひとり息子として大切に育てられたのである。そうして、今、礼子のお腹にいる生命は、間違いなく馨のDNAを受け継いでいる。
発生の元が人工生命であるのだから、もっと異物を抱えているような気になっていいはずだった。しかし、違和感もなく、礼子は現実を受けとめることができた。秀幸から馨へ、そしてお腹の子へと伝えられていった意志の力をひしひしと感じる。一か月前の、モニター画面における馨との逢瀬《おうせ》で、それは確認済みである。
馨からのメッセージを受け、礼子は、生きようとする意志をどうにか取り戻しかけていた。馨の犠牲によって得られた情報が治療に役立てられ、奇跡的な回復を遂げつつある秀幸と直に会えば、その思いはますます強くなるものと思われた。
だからこそ、礼子は、好奇心と感謝の入り交じった顔で秀幸を眺め、身体の調子を気遣うのだった。
「身体のおかげん、よさそうですね」
以前の顔色と比較した上で言っているわけではなかった。肺への転移が濃厚になり、手術はもはや不可能、あとは死を待つばかりであると、病状を馨から聞いていたが、外見から判断する限り、生と死の拮抗は生の領域に大きく傾きつつあるようだ。
「なんだか、最近、身体が軽くなったようでしてねえ。まあ、臓器をたくさん取られてますから、無理ないんですが」
秀幸はそう言って笑った。
ふたりはそれからしばらく互いの近況を報告し合った。礼子は、馨がループ界に再生して、力強いメッセージを投げてよこしたときの様子を子細に描写して秀幸を喜ばせた。秀幸は科学者らしく、馨の細胞から取り出したテロメア領域のDNA配列を転移性ヒトガンウィルス患者の細胞に導入することにより、画期的な治療効果が生じたことを、自分の身体を例にとって説明して、ウィルスのキャリアである礼子を安心させようと努めたのだった。礼子は、秀幸の思惑通り、安心を得た。もはや、転移性ヒトガンウィルスなど恐るるに足りないと。
やがて、秀幸の興味は、妊娠中の礼子の身体へと移っていった。
「どう、順調ですか」
今のところ胎児の成長に関しては何の問題もなく、礼子は笑いながら腹を軽く手で打って見せた。予定日はいつかと尋ねる秀幸には、ほぼ三か月後に迫ったその日を正直に告げ、胎児の性別に対する問いには、
「さあ?」
とだけ曖昧《あいまい》な態度で返しておく。
本当は胎児の性別はわかっていた。先月、産婦人科医院に出向いてエコーを見せてもらったところ、モニター画面に映し出された胎児の両足のつけ根のあたりに、かわいらしい突起がちょこんとついているのを発見したのだった。
……あ、男の子。
ベッドに横たわって画像を見ながら、礼子はつい口に出してつぶやいてしまった。医者は慎重に押し黙っていたが、すぐ横にいた看護婦の表情から察してもまず間違いないと思われた。
男の子であることは、秀幸にはわざと知らせないでおくことにした。馨の生まれ変わりだと、変な期待を抱かれるのも気が引けるし、こんな場合、あやふやにしておくに越したことはない。
そろそろ暇を告げようと礼子が帰り支度を始めると、秀幸はベッドから起き上がって、ドアまで送ろうとする。
「横になっていてください」
「いや、いいんだ。それより、あなたは、赤ん坊をどこで産むつもりかね」
壁に片手をつきながらよたよたと歩み寄ってくる秀幸を片手で支え、礼子は、近所の産婦人科医院の名前を上げた。
それを聞いて、秀幸は立ち止まった。
「ここではないのかね」
なぜ、この病院で産まないのだという非難が、声に含まれているような気がする。秀幸の同僚や後輩もスタッフに大勢いて、馨もまた医学生として学んだ、馴染《なじ》みの深い大学付属病院である。街の小さな医院で出産するより、いざという場合の対処は完璧なはずだった。
もちろん、礼子にしても、この病院で産むという選択肢が頭に浮かばなかったわけではない。ただ、やはり亮次の自殺した病院であることが、引っ掛かっていた。
「迷ったんですけど……」
秀幸は、礼子の息子がここで自殺したことを知らないはずだった。不吉な思い出を口にすることは憚《はばか》られ、礼子は、はっきりした理由を説明できないでいた。
「ここで、産んだらいい」
秀幸はほとんど懇願していた。それは、一刻も早く孫を抱きたいという思いの表れだった。目前の死は回避されたとはいえ、秀幸の退院はまだかなり先のはずだった。同じ病院で出産してくれれば、すぐにでも孫の顔は見られるだろうし、会える機会はずっと多くなる。
気持ちがわかるだけに、礼子の心は揺れかけた。三十分ばかり会話を交わしただけでも、秀幸の性格は充分にうかがい知ることができる。馨の父親でなくとも、礼子は、秀幸という人間に好意を抱いていただろう。
「考えておきますわ」
礼子がそう言うと、秀幸は、両手を差し出して、握手を求めてきた。握ってみると、感触が馨の手と似ている。
「また、遊びにきてください。待っています」
礼子は既視感に襲われた。見舞いの挨拶から、情熱を込めた握手のしかたまで、馨とのやりとりにそっくりだった。ただ、見舞う者と見舞われる者の立場が逆転している。
病室のドアを閉めながら礼子は思う。本当に、この病院に転院しようかしら、と。
5
出産予定日をあと一か月ばかり先に控え、礼子は、またしても鬱々《うつうつ》とした心の状態に陥りかけていた。夜、たったひとりで部屋にいると、寂しさと不安を抑えることができず、このまま狂ってしまうのではないかと怖くなるほどだ。冬も終わり三月になったばかりの頃……、馨が旅立ってちょうど半年が過ぎようとしていた。
ひとりで住むには広すぎる部屋だった。四十畳はあろうかというリビングルームに加えてベッドルームが三つ、夫と息子、三人の暮しでももてあまし気味の広さが、大きな負担となってのしかかる。広々とした空間がそのまま空虚さを象徴するようで、たまらなくなるのだ。愛する者を相次いで失ってたったひとり、厳密に言えばひとりではないのだろうが、礼子の戦わなければならない相手は、かつての転移性ヒトガンウィルスから、この圧倒的な孤独に変わろうとしていた。
リビングルームは、贅《ぜい》を尽くした調度品の数々で埋もれていた。どれもこれも実業家であった夫の財力によってもたらされた品である。しかし、今は何の価値もない。
礼子は、ソファに深く腰を沈め込み、肘《ひじ》乗せに顔を突っ伏して嗚咽《おえつ》を漏らした。身体が震えるほどの寂寥《せきりよう》感を何で補えばいいのかわからない。索莫とした人生の風景が眼前に広がるばかりで、いくら「生きろ」と言われても、すぐに挫《くじ》けそうになる。
……話し相手が欲しい。
切実にそれを願った。馨の父親の秀幸なら、望みさえすればその役を立派に果たしてくれるだろう。互いが抱える心の傷は共通していて、その点においても、いい話し相手になってくれるのは請け合いだった。出産場所を大学病院に変えるための手続きは既に取ってある。しかし、なにかの折、瞬間的に襲い来る孤独感に対して、秀幸だけでは足りなかった。今、この部屋を支配する敵を抑え込む手段にはなり得なかった。
礼子は、両目を閉じて、部屋の広さを頭から締め出そうとする。すると脳裏には自然に、コンパクトに編集されたこれまでの人生が流れ始めた。幼児から小学校、中学校、高校、大学へと至るそのときどきの記念行事の一風景が、客観的な映像となって浮かんでくるのだった。
自分のたどった歴史が、なぜ客観的映像で浮かぶのかという理由ははっきりしていた。つい先日、納戸の整理をしていて、礼子は、デジタル映像が保存されたフロッピーディスクを偶然発見したからである。
それは十二年前に、結婚式の余興で披露するために作成されたものだった。懐かしさのあまり、礼子はモニターで再生して何度も繰り返し見ることになった。礼子が提供したデジタル映像を元に、友人たちが勝手に編集し、おもしろおかしく仕上げられた人生模様がそこには描かれていた。久し振りに見て、礼子自身、声を上げて笑ってしまったほどである。
結婚式場の、巨大なモニター画面に映し出された映像は、礼子が赤ん坊だった頃のシーンから始まって、二十二歳で結婚するまでの、まだ恋人の状況にあった将来の夫と並んで立つショットで終わっていた。人生模様といっても、〇歳から二十二歳までの簡単な流れである。
そのラストシーンで、礼子は映像を一旦停止させた。ビデオカメラではなく、静止映像を映すカメラで撮影されたもので、海を背景にして、礼子と未来の夫はふたり並んでカメラに収まっていた。礼子は、正面ではなく横向きに身体をひねり、腹を夫のほうに向かって突き出すような格好をしていた。横向きの不自然な格好をなぜしていたのか……。
写真を撮る際に交わした会話まではっきりと礼子は思い出すことができる。結婚前であったが、腹の中には既に夫の子供がいたのだ。礼子は、その子供が望まれて誕生すること、祝福されて生を受けることを、はっきりと映像として残すため、わざと腹を突き出して、その腹に手を当てて見せたのだった。挙式に来てくれた仲間たちにも、妊娠中であることを隠そうとはしなかった。結婚式の司会者が、映像を停止させ、二十二歳の礼子が、現在新郎の子供を孕《はら》んでいることを告げると、ふたりはやんやの喝采に包まれたのである。
目を閉じると、拍手の音が聞こえる。あの頃はすべてが揃っていた。両親も生きていたし、夫となる人はそばにいて、その人の子供はお腹の中で成長を遂げつつあった。亮次である。
過去の思い出の氾濫《はんらん》にはなす術もなく、礼子は頭を抱えてしまう。昔を回想することは、寂寥感を癒《いや》すどころか、その感情をもっと強くさせる結果となる。ひとりでいるのがよくないのだ。ひとりでいる限り、頭の中は過去の映像に支配される。
「そうだ」
礼子は、ソファから立ち上がって、AV機器の設置されている個室へと向かった。
部屋には、パソコンと接続されたモニターの巨大画面がある。天野の取り計らいにより、部屋にいて簡単にループ界にアクセスでき、向こうの世界の映像を見られるように設定されていた。
アクセスしたからといって、ループ界に生きる個体とコミュニケーションが取れるわけではない。こちらから観察するという一方的な行為は、またしてもフラストレーションを募らせるだけの結果に終わるかもしれなかったが、礼子は、天野の親切を無にすることなく、教えられた通り、ループ界の映像を呼び出してみることにした。
天野の設定によって、最初から焦点がタカヤマリュウジに定まっていたのだろう、いきなりモニター画面に大写しになった馨の顔を見て、礼子は、懐かしさのあまり感激の声を上げてしまった。
前後の脈絡を欠いているせいで、そこがどこなのかはわからなかった。ループ界でタカヤマリュウジとして再生した馨は、ソファに横になって寝顔をさらしていた。研究室の隅に置かれたソファのようにも見受けられるが、視点を後ろにずらしていくと、そこが病院の待合室であることがわかってくる。
ループ時間では1994年。ループプロジェクト再開以来三年が過ぎている。自分の身を犠牲にして現実界の転移性ヒトガンウィルス撲滅に大きく貢献した馨は、今度はループ界のガン化を正常に戻すべく三十四歳のタカヤマリュウジとして再生し、現在、三十七歳になっているはずだった。
礼子と愛し合った二十歳の馨は、この半年で三つ年上のたくましい男性へと変化していた。年齢の積み重ねは、年相応の魅力となって顔に現れている。たとえ寝顔であってもそのことはうかがえた。しかし、身体にどこか悪いところでもあるのか、彼は、病院の待合室で診察の順番がやってくるのを待っている。
名前を呼ばれると、タカヤマは目を覚ました。うたた寝から覚めたときの常で、今いる場所がどこかわからなくなったようだった。きょろきょろとあたりを見回したとき、礼子は、彼の視線と自分の視線が合ったような錯覚を覚え、胸が締め付けられる喜びを得てしまった。言葉を交わすことはできない代わりに、一挙手一投足を自分に関連づけ、意味づけしてしまう。
タカヤマは診察室に入っていった。医師の前に座って上着を脱ぎ、たくましい肉体をさらしている。背後から眺めると、十数センチにわたって背中に傷跡が走っているのがわかる。付き合っている頃、こんな傷はなかった。ループ界で目まぐるしく奔走《ほんそう》する中、事故にでもあったのだろうか。傷口から盛り上がった皮膚の膨らみが、怪我の大きさを如実に物語っている。礼子の尻のあたりに、もぞもぞと、痒《かゆ》みが走る。傷から大量の血を連想した結果だった。
診察はループ時間にして十分程度で終わった。服を着込んだタカヤマは、もう一度待合室に出て、受付の前に立って処方箋の出るのを待った。彼の背後には、これから診察を受ける予定である十数人の患者たちが、長椅子に腰をかけている。その中のひとりを見て、礼子は、はっとなった。ひじょうに整った顔立ちの若い女性が、足を組んで座っている。秀でた額とまっすぐにのびた眉、すうっと通った鼻筋、薄情さを漂わす薄い唇、どれをとっても顔の造りは完璧に思われた。礼子がはっとしたのは、その女性が美人だったからではない。どこかで一度見た顔だったからだ。
礼子は、映像を一旦停止させ、女性の顔をクローズアップさせていく。名前を思い出すまでにかかったのはほんの十数秒である。
……ヤマムラサダコ。
ループがガン化するきっかけを作った女だった。彼女は、器材を使わずオープンテープに音を録音できる能力を発展させ、映像を見た個体を一週間後に死亡させるビデオテープを作った。やがて、彼女の作ったビデオテープは突然変異を起こし、様々なメディアに枝分かれしていった。偶然排卵期にある女性がメディアと接触した場合、その女性はヤマムラサダコと同じDNAを持った個体を孕むことになる。礼子は、屋上の排気溝に転落した女性の子宮から、ヤマムラサダコが這《は》い出し、まだ歯のはえていない歯茎でへその緒を食いちぎるシーンを鮮明に覚えていた。同じく妊娠中の礼子には、他人事、絵空事と笑う気にはとてもなれなかった。空間を異にしたループ界の出来事とはいえ、見るだに恐ろしく、身を震わせたものだ。
かくして、ループ界はヤマムラサダコという単一DNAの飛躍的増殖と、変異メディアの洪水へと導かれていったのである。
ループ界をガン化させた張本人のヤマムラサダコは、タカヤマのすぐ後ろにいて、なにくわぬ顔で診察の順番を待っていた。処方箋を受け取るさい、タカヤマはヤマムラサダコの存在に気付いたようだったが、表情に何の変化も見せず病院の外へと歩き出して行った。普段通りの、日常となんら変わることのない行動と見えた。
病院の玄関で、タカヤマはもうひとりのヤマムラサダコとすれ違う。ふたりは互いを意識することなく通り過ぎ、それぞれ別の方向に歩み去った。タカヤマは、玄関前の駐車場に置かれた車のドアを開け、ヤマムラサダコは病院のエレベーターに乗って上の階に行きかけた。
タカヤマの車は走りだした。どこへ向かうのか、やがて幹線道路に出たタカヤマは、アクセルを踏んでスピードを上げていった。風景が前後左右から、凄い速度で背後に回り込んでゆく……。
礼子は、時がたつのも忘れて、映像を見続けた。もはや、ドラマを見ているようだという他人事の視線は持ち得なかった。礼子は、ひとりの男の人生そのものを見ていた。かけがえのない男の、作り事でない真実が、映像に込められている。
6
それからの一か月間、礼子は、毎日決められた時刻がくるとループ界にアクセスして、タカヤマの人生を垣間見ることにしたのだった。それが唯一の楽しみといっても過言ではなかった。ループ時間は現実界の約六倍の速度で経過するため、翌日の決められた時刻にアクセスすると、前日の六日後の映像が見られる計算になる。六日ごとの数時間を断片的に映像でとらえていくのだが、そのほうがかえって手頃である。ひとりの個体の生活を逐一追うのは時間の無駄だった。断片を手掛かりに、後は想像で補ったほうがいい。
部分的に見ても、おおよその流れは理解することができる。ループ界のガン化が阻まれ、多様性を取り戻していく一連の映像は、それがタカヤマの活躍によるところが大きいだけに、礼子には、快哉《かいさい》を叫びたくなるほどの娯楽として映るのだった。
礼子は、ループ界の推移を眺めることに、次第に夢中になっていった。実生活の中、重くのしかかっていた孤独感が振り払われていくのと、ループ界が多様性を取り戻してゆくのとは、共振作用があるかのようにリズムが一致している。タカヤマの活躍はそのまま、礼子の心を晴らすことに繋《つな》がるのだった。
文字通り、ループ界は一旦滅亡しかけていた。一週間後に死をもたらすビデオテープの存在が明らかになり、さらに他のメディアに変異された情報が社会の表面に出ると、ループ界の個体はパニックに陥り、ウィルスの蔓延《まんえん》は皮肉にも早くなっていった。だれも一週間という期限をのんびりと待たなくなり、しかも、ひとりにビデオテープを見せただけではまだ安心できないとばかり、不特定多数に見せる個体まで出る始末。礼子はその過程で様々なエピソードを体験することができた。ビデオテープを原因とした殺し合いや、男女間の愛情が崩れ去ってゆく図、あるいは自分と身近な愛する者を救うための権謀術数……。それはまさに現実界と同様、エゴイズムむき出しの地獄絵図でもあった。
しかし、滅亡すると見えて、ことはそのようには進まなかった。ループ界には、タカヤマが降臨していたからである。
ループ界のガン化を防ぐため、タカヤマが取った方法はふたつある。三か月ばかり前、天野が所属する研究所で、礼子と対面したときには、タカヤマは既にワクチンの製造に成功していた。そのせいもあって、タカヤマは自信を持って「だいじょうぶだ」という言葉を口にしたのだろうが、以降、ワクチンは徐々に効果を上げ始めていたのだ。
変異メディアとの接触により一週間後の死や、リングウィルスの受精がプログラムされた個体から、どうやってプログラムを解除すればいいのか、タカヤマはかつて馨として存在した世界の理論にのっとり、技術の開発に成功していた。世界の仕組みを知り抜いているだけに、タカヤマにとってはそれほどの難題でもなかったのである。ワクチンにはふたつの作用がある。接種することによるプログラムの解除と、変異メディアと接触しても死や受精がプログラムされない抵抗力を身につけること、このふたつである。
ワクチンの製造が進み、接種する個体の数が飛躍的に増大すると、変異メディアはもはや凶器ではなくなっていった。こうして、世界に蔓延しつつあった変異メディアは、単なるガラクタと化したのである。本来の役目である娯楽作品として生き残る道は残されていたけれども、だれも興味本位でしかこれを見なくなった。
……昔、このビデオテープは、殺人ビデオと呼ばれてたんだぜ。どう、君は、見る勇気があるかい?
もはや過去の遺物である。
しかし、問題はもうひとつあった。ネズミ算式に増殖していったヤマムラサダコをどう処理するかという難題である。雌雄同体のヤマムラサダコは単一での生殖が可能なため、ウィルスに匹敵する速度での増殖が可能だった。いくら変異メディアの恐怖がなくなったとはいえ、全人口に占めるヤマムラサダコの割合が増え続ければ、ループの生態系は大きな狂いを生ずる。しかし、それ以外にはなんら害を及ぼさないヤマムラサダコという個体を、断固たる意志で排除しようというまでには、世論は高まらなかった。倫理観が高いせいだと説明する向きもあるが、だれがどのようにしてヤマムラサダコを狩り、処理するかという問題を前に、後込《しりご》みしてしまったというほうが的を射ている。
ところが、円満な解決へと事を運ぶべく、新種のウィルスが解き放たれたのである。以前からループ界に存在したウィルスが変異して影響を及ぼし始めたのか、なんらかの意図のもとに作成されたものなのかは定かでない。ヤマムラサダコという個体のみに決定的なダメージを与えるウィルスは、自然の流れに任せて元凶を消滅させる効果を発揮したのだ。そうして、その決定的な効果は、ひとつの警告を社会全体にもたらすことになった。生命社会が均一化していくことの危険性、多様性を失っていくことの危険性を、雄弁に訴えかけたのである。
個体差はそのまま生命社会の持つ強度にもつながる。山に住む個体もいれば、海辺に住む個体もいる。氷の世界に住む個体もいれば、赤道直下に暮らす個体もいる。肌の色が白い個体もいれば、黒い個体もいる。それぞれの個体差が大きければ大きいほど、あるひとつの打撃を受けた場合の危機を回避する能力も高いということになる。ある種のウィルスは、暑い場所で暮らす個体にはダメージを与えても、寒い場所で暮らす個体には何の影響力も及ぼさないかもしれない。ウィルスの攻撃に対して、前者は滅ぼされ、後者は生き残る。生き残る者がありさえすれば、そこから新たに始めて、多様性のある世界を形成することができる。しかし、世界の全てが、まったく同じDNAを有する同体であるとしたら、あるウィルスの攻撃に対して全滅してしまう可能性が高くなる。
ヤマムラサダコを襲ったウィルスは、それを証明する結果になった。おそらくヤマムラサダコの持つ肉体的特色に反応するのであろうが、ウィルスは、彼女たちだけを自然死へと導いていったのである。
元来ヤマムラサダコは、雌雄の生殖行為なく誕生し、一週間で成体に成長するという特色を持っていた。しかし、このウィルスに感染するや、そのままの速度で老いて、自然死を迎えることになるのだ。ループ界には、老いて死にゆくヤマムラサダコがそこかしこに溢《あふ》れていった。
礼子は、路上に倒れ行くヤマムラサダコを眺めながら、ある感慨に耽《ふけ》っていた。劇団の女優時代、老いることにあれほどの恐怖を募らせた彼女が、次々に襲い来る老醜になす術もなくやられていく姿は、女性として見るには忍びない。一個ではなく、戦って敗れる姿が無数にあるだけに、哀れさはひとしおだった。
ループ界の社会は、ヤマムラサダコに死をもたらすウィルスが自然発生したものと受け止めているようだが、礼子にはウィルスには作り主がいて、それがだれなのかの予測がついた。タカヤマリュウジ……、馨である。DNAのテロメア領域の配列が普通と異なる馨は、その知識を応用して、細胞分裂を早めるウィルスを作成したのではないか……。礼子は、細胞の分裂回数と老いとが密接な関係にあることを、天野から聞かされて知っていた。細胞の分裂回数は、テロメアの長短によって指定されているらしいのだ。
結局、タカヤマリュウジはふたつの仕事を為したことになる。プログラムされた死と受精の解除ワクチンの作成と、ヤマムラサダコの細胞の分裂回数を多くするウィルスの作成。このふたつの相互作用によってループ界は多様性を取り戻すことになった。
礼子は視点を後ろにずらして、より広い範囲を視野におさめていった。ループ界をすぐ真下に見下ろす視線から、百メートル刻みで高くしていき、数千メートルの高度へと昇る。やがて大気圏外に出ると、ループと呼ばれる球体の全体的色合いは微妙に変わっていった。現実と大差ない美しい変化だった。
少し前までは、汚い斑《まだら》模様があちこちを覆っていたが、多様性を取り戻した今、ループ界は元の色に戻りつつある。様々な色が混じり合って、より微妙な色彩を映し出し、光加減によってもさらに明暗の強弱が付け加えられる。
それを見て、礼子はほっと胸を撫《な》でおろす。ループ界に降り立った馨の使命が果たされたことを、視覚によって知ることができたのだ。眺めている風景の美しさ、華やかさは、言葉よりも迅速《じんそく》に情報を礼子に伝えたのだ。
この安心を抱いたまま、眠りたかった。
礼子は、一旦コンピューターの電源をオフにし、続きはまた明日見ればいいと、臨月の身体をベッドに横たえた。腹の内側から胎児が激しく蹴ってくる感触があった。もういつ生まれてもおかしくない段階にきている。礼子は、いざという場合に備えて、受話器を枕元に引き寄せた。
翌日、礼子は、同じ時刻にループ界にアクセスした。ループ界では六日が経過していたが、たったそれだけの時間経過が、タカヤマの身体に変化をもたらせていた。タカヤマのいる場所はまたしても病院である。以前と同じ診察室で、やはり医師の面前に身体をさらしている。
背中が正面に見えた。斜めに走る傷のほかに、褐色の斑点が皮膚に点在し、首筋には幾本かの横皺が刻まれている。ここ数日間で急激な変化が訪れたようだ。髪には白いものが多く混じり、服を持ち上げる手はささくれ立って乾燥していた。
礼子は視点を前方に回して、タカヤマの顔をうかがった。まさかという思いは、顔を正面からとらえるや確信に変わっていった。そこにあるのは、年老いて変わり果てた顔である。
タカヤマであることは疑いなかった。全身くまなく一様の老いに冒されているのではなく、腹から胸のあたりにはまだ青年の初々しさも残っていたりする。しかし、顔と腹のあたりのアンバランスな老い方が、なにか自然ではない力を連想させ、礼子は、より大きな不安に包まれる。
診察を終えたタカヤマは、受付の前で処方箋を受け取り、とぼとぼと歩いて病院の玄関を出た。その間、モニター画面には、待合室の様子が映し出されたが、以前はほんの短時間に二度発見されたヤマムラサダコの顔が、もはやどこにも見られない。ループ界から完全に駆逐されたのだろうか……。
玄関を出ると、タカヤマは道路を歩き始めた。車ではなく、舗装された路面を、二本の足で歩いてゆく。
小さくしぼんだ背中は、極度の疲労と衰弱を訴え掛けている。歩くのもきつそうで、タカヤマは、ときどき立ち止まっては、電柱や壁に身体をもたせかけ、胸を押さえながらぜいぜいと荒く呼吸し、咳《せき》をする。
そのたびにタカヤマは、先ほど処方されたばかりの薬を取り出して口に含むのだが、もはや気休めに過ぎないことぐらい本人も承知しているようだった。
急速な老化がタカヤマを襲っているのは明らかだった。なぜなのか、その理由も礼子には察しがつく。ヤマムラサダコを老化させるウィルスに、タカヤマも感染したのだ。ウィルスを開発するにあたって、タカヤマは、そのことを予期していたに違いない。ループ界への再生方法が似ている以上、ヤマムラサダコを老化させるウィルスはやがて自分の身体にも影響を与え、滅ぼしにかかるだろうと。わかっていて、彼はやめなかったのだ。またしても自己犠牲。宿命を背負っているとしかいいようがない。
立っていることもままならず、タカヤマはビルとビルの間を抜けて公園に上る階段に腰を下ろしてしまった。コンクリートの冷やっとした感触が、今、彼の尻に伝わっていることが容易に想像できてしまう。季節はいつなのだろう。通りをゆく人々の服装から判断すれば、うす寒い気候であるはずだった。
コンクリートの階段に腰掛けるタカヤマは、人々の群れの中にあって、圧倒的な孤独に包まれていた。彼をメシアと知る者はなく、だれひとり気づくことなく通り過ぎてゆく。礼子は、手を伸ばし、できることならその身体に触れ、互いの孤独を癒し合いたい欲求に駆られる。すぐ近くにいて、手を握ることもできないのだ。礼子は、ループ界の映像にアクセスして以来初めての、激しい苛立《いらだ》ちに襲われていた。
タカヤマは、身体を前に折り曲げ、力なく投げ出した両膝の上に、両手を乗せている。ときどき顔を上げて、空を見るのだが、その顔には不思議と清々《すがすが》しさが現れていた。天寿をまっとうしようという境地なのだろうか。死と再生を何度か繰り返してきた彼は、役目を終えた満足感に浸りながら、自然死を従容として迎える覚悟を決めているように見える。折り曲げていた身体を伸ばして、タカヤマは、後ろの段差に寄り掛かるような姿勢を取った。さっきよりも幾分楽そうな格好である。
あお向けに近い姿勢のため、今度は顔の表情がよく見えた。彼は、じっとこちらに視線を注いでいる。ビルとビルに切り取られたその隙間には、空が見えるのだろうか。タカヤマは、モニターのこちら側にまで到達する視線を、じっと注ぎ続けている。
タカヤマは、空に向かって何か言おうとして口を閉じ、乾いた唇を嘗《な》めた。
……何を言おうとしているのかしら。
さっきからタカヤマは、何か言おうとしては途中でやめ、唇を嘗めるといった行為を繰り返している。
礼子は、天野から教わった通りキィボードを操作して、視点をタカヤマにロックしてみることにした。そうすれば、タカヤマが見ているはずのものを、自分の目で見られるはずだった。
風景は徐々に転じて、モニターには予想した通りの、ビルとビルの隙間の小さな青空が映し出された。タカヤマの目で、今、礼子は世界を眺めている。彼の目には、世界がこんなふうに映っていたのかと、感慨を新たにする。よく見ると、空の中ほどに、人間の顔のような物体が浮かんでいた。
礼子はその顔に見覚えがあった。鏡の中で親しんだ顔……、自分自身の顔である。
……彼は今、わたしのことを思い、わたしの顔を思い浮かべている。
馨の気持ちが、礼子は、痛いほどに実感できる。目を閉じてもなお、まぶたの裏には残像となって自分の顔が映っていた。馨の思いの強さが、実際にこの目で見えるのだ。強く求めるあまり、空想の中に大切な人間の顔を作り上げてゆく心の様子が、今の礼子には目で見ることができるのだ。
空に浮かぶ顔がぼんやりと二重映しになり始めてようやく、礼子には、涙を流していることが自覚されてきた。タカヤマの心を胸の中央に据え、さっきから何度も彼が言おうとして飲み込んでいる言葉を、想像しようとする。
死の際になって、タカヤマは、礼子と一緒にいた頃の幸福を噛み締めているようだ。さよならの言葉を聞かされるより、礼子にはそのほうがずっと嬉しかった。
心臓の鼓動がゆっくりとした間隔を置いて、手応えが薄くなっていくようだった。死は目前に迫っている。風景が小刻みに揺れていた。顔を正面に向けたままでいるのが、きつそうだった。
目を開いているよりも、閉じている時間のほうが長くなっていく。やがて、周りの風景は徐々に消滅していった。ビルも街路樹も人々の群れも消え、視界は完全な暗黒に包まれた。しかし、礼子の顔だけは輪郭をはっきりとさせ、死の余韻の中にいつまでも残っていた。
ループ界の風景は、もはや礼子にとって意味をなさなくなった。死んだという情報を聞かされるより、モニターで目にしたタカヤマの最期の光景が、強く意識に作用してきたようだ。礼子は、ロックを解除すると、呆然自失の状態で、タカヤマのいなくなったループ界を上空から眺め下ろしていた。従容として死を迎えた以上、自分もまたタカヤマの死を冷静に受け止めてあげなければならないとわかってはいる。しかし、まだ納得することができないのだ。
しばらくして、落ち着きを取り戻すと、礼子は、徐々にモニターから目を逸らした。タカヤマがいなくなれば、ループ界への興味は自然と薄れてくる。
……さようなら。
電源を切り、目の前から仮想空間の風景を消滅させる。以後、ループ界の映像を見ることはないだろう。
礼子は、ほんの一瞬ではあるが、死の疑似体験をしたことになる。しかも、愛する者の目を通して自分の肖像を眺めるという、異様な体験のしかただった。
そのせいかどうか、身体に異変が生じたのを感じ取っていた。はっきりと陣痛が起こっているようでもない。しかし、彼女の直感は告げていた。
……産まれそう。
礼子は、受話器に手を伸ばし、あらかじめ指示された番号をプッシュしていった。
7
分娩《ぶんべん》第一期の陣痛は、ゆったりとしたリズムを持って押しては引いている。活発に動き回っていた胎児は、動きを少し緩め、低い位置に移動してきたようだ。胸のあたりに、ふわりと、空白が生じたような感覚があった。
タクシーに乗り込むと、礼子は、大学病院の名前を告げていた。
「おめでたですか」
運転手はそうつぶやくと、車を静かに発進させた。
膝の上には、大きな旅行バッグが置かれている。以前から出産に必要な品々を準備し、詰めておいたものだ。亮次を出産したときは、準備などする必要はなかった。車の中では、母と夫が両隣に座り、手を握られ、「がんばるのよ」と激励されたりもした。ところが、今度はたったひとりの出産である。不安感は拭《ぬぐ》えない。
大学病院に着いたのは、ちょうど午後の七時である。服を着替え終わると、礼子はベッドに横になって、子宮口が完全に開ききるのを待った。
陣痛は巨大なうねりを連想させた。潮の満ち引きよりもずっと短い間隔を持ち、砂浜に打ち寄せる波よりはいくぶんゆったりとしている。苦痛に顔を歪《ゆが》めながら、礼子は、馨の名前を呼んでみた。そばで見守ってくれるだろう馨に語りかけていれば、苦痛もいくらか紛れそうである。
うねりとうねりの間に生じる空白をついて、礼子の耳に音楽が流れ込んできた。最初のうち、隣の病室から聞こえるラジオの音かとも思われたが、どうも違うようだ。
窓に目をやると、窓枠にはめ込まれた真っ黒な闇があり、出産が深夜にまで及ぶことを予感させた。この闇の向こうから音楽が流れ込んでいるとはどうしても思えなかった。胎児に聞かせるためのBGMを、病院側がそっと流しているのだろうか。
小さく響く音楽は神秘的で美しい旋律を持ち、いっとき礼子の苦痛を和らげた。
礼子はふと、判然としない音の源に思い当たった。まさかという気持ちで打ち消しながら顔を起こし、自分の腹を見つめる。
「そんなところでうたってないで、早く出てらっしゃい」
礼子は、自分の息子が、母親の苦痛を少しでも和らげるため、暗いお腹の中で歌をうたっている姿を、空想していた。ループ界の映像が頭にはっきりと残っているせいで、包むものと包まれるもの、守るものと守られるものの関係が混乱してきたようだ。
午後十一時ちょっと過ぎ、子宮口は完全に拡大し、礼子は準備室から分娩室に運ばれて分娩台の上に乗せられた。
医師と看護婦の指導のもと、礼子は、陣痛のリズムに合わせていきんだ。初期の頃と比べると、陣痛のリズムは短くなっていた。リズムにのって、子宮と腹筋の収縮が繰り返されている。礼子は、外に押し出そうとする力が、身体の中に凝縮されてくるのを感じていた。
看護婦の指示に従って、腹式呼吸に切り替えようとするのだが、どうもうまくいかない。痛みと緊張のせいで、腹全体で深くするべき呼吸が、浅く早いものになってしまっている。ここはリラックスしなければならない。礼子は、馨の顔を脳裏に思い浮かべて語りかけようとした。
「声を出さないで!」
口の端から漏れる息は激しく、うめき声と一緒に馨の名前を呼ぶのだが、そのたびに、看護婦から、声を出さないように注意されてしまう。声を上げると、出産のエネルギーが無駄に費やされてしまうからだ。
「あ……」
小さく声を上げ、看護婦は医師の顔をうかがった。一瞬、胎児の頭が、外陰部から覗《のぞ》いたように見えたからだ。
医師は、マスクの下から長い唸《うな》り声を発し、舌を打った。その顔には疑問の色が浮かんでいる。
「分娩室に運ぶとき、子宮口は開いていたんだろ」
疑問は看護婦に向けられたものではなかった。事実をもう一度確認するための、つぶやきに過ぎない。少し前まで開いていたはずの子宮口が、今は閉じてしまっているらしい。
「どうしました?」
礼子は、医師と看護婦の会話から、その場の不思議な雰囲気を感じ取り、顔を上げて尋ねた。
「いや、ちょっと」
医師はへんに心配させまいとして、言葉を濁すほかなかった。しかし、礼子は、なんの恐れも見せず、医師の疑問をあっさりと口にする。
「うちの子、ひっこんじゃったの?」
「そうですねえ、そのようですねえ」
礼子の言い方がどことなく無邪気で呑気だったため、医師の危惧《きぐ》はいっぺんに吹き飛び、妙なおかしさが込み上げてくる。
「もうちょっと待ちましょうか」
母体と胎児の状態はすこぶる良好で、このまま自然の流れに任せて問題はない様子だった。生命誕生に向けて一方向に流れていたエネルギーが、逆流することはあり得ない。礼子は再び準備室に運ばれて、そこでもうしばらく待つことになった。
さっきまでの陣痛が時化《しけ》だとすれば、今のこの状態は、夕凪《ゆうなぎ》の静けさを思わせた。あれほど大きかった波は一体どこに消えてしまったのか、そう思うと、礼子にはこの静けさが不気味に感じられる。ふわっとエネルギーの流れが変わった瞬間を、礼子は覚えている。看護婦が「あ」と小さく声を上げたとき、礼子にもその声の意味が伝わり、同時に彼女も声を上げそうになったのだった。あのとき、確かに、空気の移動を肌に感じた。
「早く出てらっしゃい」
なんだか、赤ん坊が、ためらっているようでもある。外の世界をちらっと覗き見て、出る価値のある場所かどうか、値踏みしているのではないかと。
せり出したお腹の向こうに病室の白い壁を見ながら、礼子は、わが子に語りかけた。
「なかなかいい場所なのよ、ここは」
腹に両手を乗せ、子供の動きを確認してみるが、返事はない。
礼子は、枕もとの時計で時間を確認してから目を閉じた。もうすぐ午前一時だった。入院以来、まだ六時間しかたっていない。まだまだこれからなんだと自分に言い聞かせ、気持ちを落ち着かせた。
一時間ばかりすると、さっきの看護婦が様子を見に現れ、状況があまり変わっていないことを確認すると、
「がんばってね」
と言い残して、部屋を出ていった。
その直後、礼子は強い陣痛に襲われた。下腹部全体が外に押し出されてゆくようだった。礼子は、うねりにもまれる状態で身体をひねり、枕もとの緊急ブザーを探ったが、なかなか手に触れない。
……産まれる!
母親としての直感が身体中を駆け巡ったとき、礼子の意識はすっと遠のいていった。
その翌日、礼子は、穏やかな表情でベッドに横たわり、昨夜の格闘が記憶の彼方に遠のいていくような、気怠《けだる》く、うっとりとした満足感に浸っていた。産みの苦しみは、産み出した後の感動に変わり、身体の奥のほうから喜びが湧《わ》き上がってくる。
すぐ隣から赤ん坊の泣き声がした。ベッドの横に寝ているわけではない。看護婦に抱かれてあやされていた。
礼子は、見るとはなしに、看護婦の胸で揺れる赤ん坊の表情を観察していた。予想したとおりの男の子で、どことなく顔の造りが父親と似ているようにも思う。
赤ん坊を胸に抱いて揺らす看護婦の前には、一枚の厚いガラス窓がある。外部と新生児室とを隔てるガラス板だった。これによって、新生児室は無菌状態に保たれる。そのガラス板は、鏡の役目をして、看護婦と赤ん坊の姿を映し出していた。現実の風景と、それを映し出す架空の風景は、ふたつ向き合って同じ方向に揺れていた。
ガラスに映し出された赤ん坊を、すぐ上から覗き込む大柄な人間の影が見えた。影だけのその像は、背を丸めて赤ん坊に顔を近付け、はたから眺めているとなにごとか囁《ささや》き掛けようとするかのようだ。
影は輪郭をはっきりさせ、顔の造作も次第に克明に浮かび上がらせてきた。
……馨さん。
礼子は、顔を上げて、影に向かって呼びかける。何度も言おうとして言えなかったことばが、たった今、馨の口をついて出てきたような気がした。
……ハッピー・バースデイ。
誕生日ではなく、誕生そのものを祝う言葉が、馨の口からこぼれ落ちていた。
息子が大きくなったら、あなたの父親がどんな人間であったか、その辿《たど》った軌跡を映像で見せられるという楽しみを思い、礼子は未来の光景に胸をときめかせていた。たぶん息子もまた父の生きた姿を誇りに思うだろうと。
そうして、馨のことばを受けて、礼子は同じことばを息子に投げかけた。
……ハッピー・バースデイ。
角川文庫『バースデイ』平成11年12月10日初版発行