TITLE : 真空地帯
真空地帯 野間 宏
真空地帯
第一章
一
木谷《きたに》上等兵が二年の刑を終って陸軍刑務所から自分の中隊にかえってきたとき、部隊の様子は彼が部隊本部経理室の使役兵《しえきへい》として勤務中に逮捕され憲兵につれられて師団司令部軍法会議に向ったときとは全く変ってしまっていた。彼は二年前軍隊にはいってからはじめて巻脚絆《まききやはん》をつけることなく衛門をつれ出されたが、巻脚絆も帯剣もつけていない代りに上衣の下に隠した両手に手錠を、その腰に捕縄《ほじよう》をつけた身体をふって見上げた衛門横のポプラの木はいまでは切り倒されていた。彼とともに入営した現役兵は大半中支《ちゆうし》へ渡ってしまっており、部隊には次々と召集された幾種類もの補充兵の他に第一回学徒出陣兵がはいっていた。彼が入営した日身体検査のあとで内務班で支給されたパンも、彼が刑務所で炊事囚として土曜日、祭日につくらされた饅頭《まんじゆう》も部隊には見えなかった。もちろん彼もまた同じようにこの期間のうちに非常に変ってしまっていた。ただたんに彼の肩の上には以前のっかっていた星三つの肩章がなくなっているというだけではなく。もっとも自分の肩の星が三つから二つに減ってしまったということは、木谷に、腕の骨をぬきとられたような感じをあたえたのだが。
朝はやく石切の刑務所から護送自動車で送られてきた木谷一等兵が刑務所看守とともに控室で釈放時間をまっているとき、軍法会議警手とともにはいってきた出迎えの中隊人事係准尉《じゆんい》は、彼の不在中他部隊から転任してきたらしく、彼には全然見おぼえがなかった。そして准尉の後についておずおずとはいってきた星二つの引率兵は見るからにひょろ高く、帯革《たいかく》の下の服は幾重にも襞《ひだ》がよっていて、如何《い か》にも不恰好な兵隊だった。……すでにこのような場面には、たびたび出くわしていた人事係准尉は、別にこの師団司令部の建物や出入りする法務官や廊下にちらつく手錠の輝きなどにおびやかされなかったし、自分の眼の前にあらわれるはずの刑余者について先日来報告書類を十分研究してあったのだろう、いくらか無頓着《むとんじやく》な顔をつきつけて一べつした。木谷の頭は瞬間、反射的にたれた。しかし彼は警手達がはいってくるや当然のように態度をかえた看守に対する怒りでいっぱいだった。
看守はつづけて言った。「なあ、木谷、しっかりやれよな……。もう、これまでのような気は、どんなことがあったって、ぜったいに起すんじゃないぜ……」彼の皺《しわ》の寄った年寄のようにしなびた感じの鼻は、上の方に引きあげられていた。「なあ――、いいかい?」それは二年もの間移動することなく、同じ刑務所にとどまって刑をうけてきた囚徒兵の前では、看守が口にすることのできるような調子ではない。看守が刑務所内で官品を着服するためには、絶対に古参囚徒の協力が必要であった。木谷一等兵はこの一見寛容でいて、しかも厳格、そしてその本当の内容は狡猾《こうかつ》という看守の手本のような男が、木工材料を自分のものにせしめるために選んだ協力者だったのだ。看守は長い曹長剣をならした。
若い警手は看守の方を見向きもしなかった。彼は身軽に木谷の身の廻りを一巡して見てやった。彼は黒い腕被《うでおお》いをしていて、神経質な顔をしていた。「さあ……よし。もう、手錠はとってもらったんだね……つらかったろう。領置品は……よし、もらったな……。じゃ、すぐ、つれてかえってもらったらいい。……中隊へかえってからの注意はさっき言っておいたとおりだぜ……もう、くりかえしはしないけど。」彼の指は細く胸の上あたりでよく動いた。「もっと散髪はていねいにしてもらわないのかなあ……今日は隊にかえるんだからな……」
「さあ行こう……」看守にてい重《ちよう》な挨拶をすませた准尉は、木谷が兵隊のもってきた帯剣をつけ終ると言った。彼は控室の奥にある網をはった留置場をのぞいていた兵隊をよんで、最後に儀礼のためのように、警手から「部隊にかえった当分の間は食物に注意してやってほしい。……刑務所の給与は量が規則できまっているから腹が一定していたが、刑が終って中隊にかえると不規則になって腸をこわすものがいるから。」という注意をききとった。木谷は、そのような温和な准尉の態度から、その人間をどう判断していいかわからなかった。しかし、人事係准尉という位置が彼には恐ろしかった。これは彼が取り入らなければならない人間だった。
彼らは大阪城のなかの幾つもの城門をぬけて歩いて行った。准尉は部隊の敬礼をとるのが面倒なので二人からいくらかはなれるようにして歩いた。そこで引率の内村一等兵は、軍隊礼式令を幾度か頭の内で整理するかのようなあぶなげな号令をかけて、歩調をとった。「歩調とれ。頭《かしら》あ……右……直れ、歩調止《や》め……」
木谷は歩調を取って頭を右に向け、向うからやってくる軍刀の将校に注目した。彼は次々とすれちがう上官達の眼が、じっと自分の身体を見守っているのを知っていた。彼は今日もやはり巻脚絆をしていなかったから。彼は帯剣だけを準備して巻脚絆を忘れてきた一等兵に不満を感じた。彼は将校達の眼が巻脚絆のない自分の足をすくめるのを感じていた。たしかに彼はそれだけで陸軍刑務所出所者なのだ。
交叉点《こうさてん》の混雑で准尉との距離がとおくなったとき、木谷は引率者に言った。
「おい、お前、いつの兵隊なんや?」
「はい、去年の五月の兵隊です。」
「補充兵か?」
「はい?」
「俺のことをお前知ってるのか? 隊できかされたか?」
「いいえ……自分は何もまだきいておりませんです。」
補充兵の頬は寒気のために赤かった。彼は物を言うたびに女のように首を左右にゆり動かした。彼が古い兵隊でないということは明らかなことだったが、それはこちらの口調をうけとめる相手の腰の弱い言葉の調子にそのたしかな手応えがある。
「現役はいないのかい?」
「はあ……おりますです。」
「何?……いや……四年兵だぞ……十×年にはいった……?」
「はあ……いいえ……現役の三年兵殿であります……」
「四年兵は一人もいないのか?」
「はあ……一人も、おいでになりません……」
木谷が出獄の時期が近づくにつれて、刑務所のなかで一番よく考えたことは、やはり自分が原隊に帰った場合、自分を知っているものが一人もいなければいいがということであった。彼は自分の同年兵達が大陸にでて行ったということは、最後に隊長がよこした手紙で知っていたが、或いはそのうちの少数のものがまだのこっているのではないかと恐れていた。
木谷は話しながら、前にいる准尉の方を見つづけていた。背の低い体の大きくない、左右に肩を揺って歩く准尉。彼のもっともおそれなければならないのは、隊長と准尉の二人であり、殊に准尉だった。そしてこれがその准尉だ。
『飲み助じゃない? こいつはあかん?』と彼の身体は判断していた。固い融通性のない准尉にちがいないのだ……ところが、あの、馬鹿みたいな顔はどういうのだ……准尉は交叉点のところで信号を待って、ぼんやりとどこを見ているかわからぬような眼をして、空を見上げていたが、その顎《あご》は、ゆるんだまま前につき出されていた。彼は左横の方からやってきた背の高い少尉に思い出したように敬礼をした。それからふいと木谷の方を突然ふりかえった。木谷は不意をおそわれたようにぎくっとして、口をつぐんだが、准尉はもう振り向きはしなかった。
准尉は先刻《さつき》師団司令部の控室でも木谷が昨夜から予想していた長々しい説教や、訓話を彼にしなかった。いや訓話ばかりではなく、ただの短い注意さえ与えようとはしなかった。さらに腰かけていた木谷が立ち上ってした室内の敬礼に対するまともな答礼さえしなかった。「ううーん。」と彼は鼻のところで言った。しかし木谷は准尉を固い人間だと思った。木谷の大きな眼は狡猾そうに准尉の頸筋《くびすじ》の辺りをちらちらながめた。
「ケー。」衛兵所の控えの兵は一斉に起立しながら、口をあけた。准尉は直立している衛兵司令の方をちらとみて、そちらへ近よって行った。「ホ隊だが、つれて行く……。日々命令《にちにちめいれい》廻ってきてるだろう……あいつ。木谷利一郎《りいちろう》。」
「直レ……。はあ……きています……通って下さい……休メ。」衛兵司令は向き直って言った。
すでに経理室の建物はすぐ右手のところにあった。そこには木谷の憎しみの交じった思い出がこめられているのだ。
衛門をはいった引率者と木谷は准尉のうしろにつったって手続きが終るのを待っていた。
「よし、通れ。」衛兵司令は改めて、二人に向って強い言葉をかけた。准尉は二人の方に顔を振った。「よし、俺といこう……内村、御苦労……先にかえってくれ……木谷は俺がつれて行く。」二人は左手の連隊本部の二階へ上っていった。二人は曲りくねった事務室の一番奥のところまではいって行った。
二
「何だよ……一寸《ちよつと》、待てんか?」本部勤務者達のぜい沢と誇りであり、各中隊の羨望《せんぼう》をそそる副官室のお喋《しやべ》りと暖炉とを恋しがって集まってきた勤務者達に取りまかれていた連隊副官は長い間二人をまたせておいて、時々振り返った。彼は他のもののもっていないビロード張りの回転椅子に体をくずして腰かけていた。彼は副官勤務に如何にもふさわしく世俗的で柔和だった。
「ホ隊ですが、木谷利一郎をつれてかえって来ました。」准尉は声をおさえて繰り返した。
副官の前の黒いストーブには火がもえていた。副官は、顔だけそちらに向けて、何も言わなかった。彼の顔の上には笑いの跡がのこっていた。准尉の後に編上靴《へんじようか》を右手にもち頭をたれて姿勢をつくっていた木谷は火をみながら、帰ってきたと思っていた。ここは二年前彼が逮捕されて憲兵隊に留置される前につれてこられたところだった。そのとき彼が申告した副官は大尉だったが、いま副官は中尉だった。ストーブの火口の隙間からもれる火をみる木谷のうちには、もはや二年前とちがって別に恐怖はないのに、警戒心のために肉体的なおびえが生れていた。……左横の事務机の列には曹長達が体を机の上にのり出して、複写紙を重ね合わせては、大きなブリキの下敷を動かした。彼らは兵隊用の靴下を何枚も重ねてはき、当番兵の保革油で十分手入れをした皮の薄い上靴《じようか》(スリッパ)を机の下ではいていた。
「おい、はやく出すものは出せよ……ここにない? 中隊だって……? ごまかすな! 当番に取りにやらせるぞ……。出すんだぞ……出さないと今度の酒の配給券は、お前の方にはもう廻さんぞ。」副官はストーブの煙突の向うに腕をくんで足をつき出している背の高い少尉に向って、昨夜の加給品のパンを出せと言っていたが、まだ自分の後にまっている二人を眉をひそめた顔でふりかえった。
「ああ……何だ……まだいるのか……後じゃいかんのか……うん、……木谷だったか。」
「木谷利一郎でありますが。」准尉は抑揚のない声をつくって言った。
「うん、そうだな……後ではいかんのか……」
「申告だけさせたいと思っておりますが。」
「申告?……そうか……じゃあ……よかろう……」
准尉はふりかえって木谷に言った。「木谷、副官殿に申告申しあげろ。」
木谷は一座のものが自分の顔を一度に注視しだしたことに気づいた。彼は瞬間自分の顔が、あの監房の四角い窓から飯盒《めんこ》をはこぶごとにつき出される禁錮囚《きんこしゆう》の顔であるような錯覚におそわれた。それらの顔は陸軍刑務所の厳しい監房規則のために、ほとんど変形し、しぼみ、脂肪を抜かれていた。木谷は懲役囚で刑務所内で調練をうけていたので、自分の顔にはそのような跡形はないとよく知っていたが、彼の顔はみるみる熱をもってきた。
「申告します。
陸軍一等兵木谷利一郎は昭和××年一月十×日附をもって仮釈放となり原隊復帰を命ぜられました……。ここにつつしんで申告します。」
副官はようやく気づいたのだ。これが三日前師団司令部法務部から連絡のあった木谷利一郎であるということを。彼は力をしぼって不動の姿勢を取っている相手の顔をじっとみつめたが、前にのり出した。彼は相手の鼻根部がふくれていて、据っている鼻、厚い少しつき出たインドネシア型の唇、四角い額、ねじれたり、まばらの毛がところどころにかたまってのこっている薄白い頭、などから、一人の罪人の顔を掘り出してこようとしたが、眼をそらせた。
「仮釈放か?」
「はい。」
「何だったんだ?」
「…………」
「何年だったのだ?」
「二年三カ月であります。」
「それで仮釈放ででてきたのだな。」
一座のものは、いまになってようやく仮釈放という言葉の意味が解ったらしかった。彼らはつづけていた話をやめた。長靴《ちようか》をつけた足をひろげて両手をくんで前につき出していた顔色の悪い動員室の少尉は、まともに木谷の方に向き直った。
「何だったんだ?」
「はい……」木谷は両手をゆるめてそれをのばした。「懲役であります……」
「いや……そうじゃない……何をしたんだったな……」
「はあ……」
「その点は、後ほど、自分の方から報告いたすことにする考えでありますから。」准尉は再び言葉を抑えていった。彼はすました顔をつくっていた。そしてそれが将校達に対する彼の軽蔑《けいべつ》の表現だった。
副官は准尉の方をじっとみた。
「はあ、後ほど。……中隊へつれてかえって、休ませてやりたいと考えておりますから……後ほど、また、連れて参ることに致しますから……。今日《きよう》師団の法務官殿の方から御注意がありまして今日は、これを静かにしておいてやってくれと承ってきておりますから……」准尉の態度はすでにつつしみぶかいものだった。
「副官殿、部隊長殿が一寸きてほしいとおよびであります。」後のドアをあけてはいってきた部隊長の当番兵は、新しい服をきて、新しい襟布《えりふ》をしていた。副官は、不可解な顔をして准尉をみたが、「よし。」と言った。
「木谷、もう、いい……かえれ……」准尉は副官に敬礼して言った。頭をたれて副官の方をぬすみ見していた木谷は、頭をさらにたれた。が彼はすでにすばやく下においた靴をとりあげていた。彼は自分の後の方で、事務曹長の一人とよびとめられた准尉の話し合っている言葉をきいた。
「准尉さん、立沢《たてざわ》はん、あれ、あんたの隊に配属だっか?」
「配属だっかとは何だ……。お前の方で勝手に俺の隊にあんなものをよこしときながら……。ほんまにえらいもんを、かかえこませやがったぜ……」
木谷は本部をでて、経理室前をとおり、坂をのぼって中隊へ行くとき、准尉との距離をたえずはかるようにして歩いて行った。
三
木谷は中隊の事務室で中隊長がくるのを長い間待っていた。彼は部屋の真正面の日当りのいい窓ぎわにすえられた准尉の事務机の前に小さい長椅子をもってきて、頭をたれて坐っていたが、准尉は木谷が入隊後すぐに書いた身上調書を人事係助手の上等兵に出させ、それにもとづいて二、三の書き込みをしたきりだった。
「父親は七歳のときになくなったんだな……」
「はあ、そうであります。」
「すわったままでよろしい。……母は再婚、……保護者は兄貴と……兄さんはお前がでてきたこと知っているか?」
「知っているはずであります。向うから家の方へ知らしてくれとりますから。」
「兄さんはいそがしいか……鶴見橋……西成《にしなり》区で帽子屋……。お前は兄さんの家にいたんだなあ……地方にいたときには……」
「はあ、そうであります。」
木谷は話しながら再び准尉の肌合いをうかがっていたが、事務室で准尉はのびのびとし部屋中を支配し、おさえ、部屋の空気は彼のところで換流していた。左の窓下の古い明治時代の色塗りのタンスのような物入れの前には給与と金銭出納責任者の曹長がいた。「准尉殿、今日は朝はやくから、出てかれて、おさむうございましたでしょう。こっちゃあ……もう、きょう日、気がたるんでしもうて、衛門前で駈け出すこっちゃ。」彼は言った。「いや、なに!」准尉は言った。曹長のところに話しにきていた被服係の軍曹は曹長の机の上に首をつっこんでいた。「当番、中隊当番。」彼はどなった。「当番、何をぼやぼやしてるか。准尉殿が朝早くから、師団まで行ってかえってこられたのが分らんのか……。ぬくぬくとストーブのところに猫《ねこ》みたいにまるうなりやがって。中隊当番! 准尉殿、お茶をひとつどうです……こういうんだ。熱いお茶をもって行くんだ。当番、わかったか。こら、なあ、こうすれば俺は今度の日曜の外出には准尉殿から、外泊まちがいなしに貰えるんだ。ねえ、准尉殿。」軍曹は湯呑茶碗を准尉の前にはこんだ。「こら、当番、笑うない! おかしい? 何がおかしい。」彼は鼻筋のとおったしかしとがった鼻を右手でおしあげ、大きな鼻の孔をみえるようにし、部屋の入口のところでストーブをたいている中隊当番の二等兵に右眼をとじてウィンクした。しかし彼の眼はすぐにも准尉の前の木谷のところにもどって行った。靴下の上に巻脚絆をつけて上靴をはいた中隊当番は軍曹の強制的な笑いに出会って立ったり坐ったりした。准尉の横の人事係上等兵は笑ったが、二等兵の彼は笑う資格をもたなかった。木谷はこの軍曹が気になった。軍曹が彼の方をときどきみては曹長と何か話し合っているからだ。――曹長は彼が恐れている以前の自分を知っている人間だった。彼は隊にいたときはいつもこの曹長から給与を支給された。この曹長も他の隊の曹長と同じように受領印の印判の手入れがやかましかった。彼もまたこの曹長に竹刀《しない》でなぐられ、印判を頭の毛でこすって掃除された。――
「よう。かえってきたな。」曹長は彼をみたとき言った。曹長の言葉はすぐ人情的になった。「お前がはやくかえってくるの、待ってたんだぜ……ふうん……ようかえってきた。……」曹長は頬と鼻筋のほそい弱々しい顔をしていたが顔色は桃色に近いあかさなので、その弱々しさは補われていた。木谷がしっているのはこの曹長だけだった。(なぜ、この野郎はみんなと一緒に外地に行きやがらなかったんだ。)曹長はときどき彼の方にやさしくわらいかけてきた。そして曹長は体を前後に振った。しかし木谷はその笑いを信じなかった。
木谷は、この部屋では曹長だけをしっていた。いや彼はこの部屋を知っている。この事務室で中隊当番をつとめ、事務室のお茶わかし、伝令、掃除、はしりづかいをした。いま当番が苦しげに坐っているように入口の左側の壁に向い、(ああ、ちょうど、独房の壁に向うように)坐っていたことがある。いつ何時、無理な命令が出ようと、それによび出されなければならない身体。その当時ストーブにたいていたのは石炭だった。しかしいま中隊当番は薪を取り上げて、火口につっこんでいる。(それは刑務所でも同じことだった。)それに曹長の後にあるあの色塗りタンスは置いてなかった。
四
「フルル……フルルル……」「フルル……フルッ……フルルルル……フッル……フー。」事務室のすぐ横で馬が鼻を鳴らし、それから馬の蹄《ひづめ》の音が、コッポ……コッポ……コッポ……として急にとまって静かになると「ばかったれ! 鉄! 鉄!」馬取兵がどなっている。そして隊長室の戸がばたんとあけられた。
「おい! 当番、当番! あつい茶をくれ! あつい茶を!」隊長は細いとがった声でさけんだ。狭い部屋のなかをぐるぐるまわって寒さと癇癪《かんしやく》とをおさえているのが、その長靴のかがとの音ではっきりわかる。隊長室は事務室のすぐ向い側にある。そして事務室の空気が変ろうとする。
「おい、当番! 当番! 谷田、谷田はいないのか? いなければだれでもいいから、もってこないか。」
「はいッ。」中隊当番は「隊長の当番どこい行きやがったんやろ。」と言いながらドアをあけて隊長室に湯呑茶碗を取りにとんで行った。
准尉は机の下で股《また》を大きくひらいてのんびりしていた。彼だけが隊長のはこんできた緊張した空気のなかでゆったりかまえていた。中隊当番が隊長の湯呑にお茶を入れて隊長室にもって行って帰ってきたとき、彼は言った。「さあ……行くかな……木谷……たて……隊長に申告しろ。」
木谷は立ち上ったが、彼は自分の右手、部屋の右側、曹長とは反対の壁のところに席をもっている一人の一等兵が自分の方をじっとみつめていたのに気づいて、ぎょっとした。彼は細い顔をして大きい眼をしていた。木谷は眼をふせた。一等兵は頬づえをついて、じっとみつめているようだった。
「はいります。陸軍一等兵木谷利一郎参りました。」木谷は事務室を出て隊長室にはいって行ったが、そこには隊長当番のすらりとして一見して粋《いき》な(木谷にはそう見えた。)谷田上等兵が来ていて、火鉢に火をつくっていた。
「申告します。
陸軍一等兵木谷利一郎は……」
しかし隊長当番は木谷の上に重々しくのしかかった。彼の口は動かなかった。
「待て! 当番、谷田、お前しばらく外に出ておれ。」准尉は隊長の当番兵に向って言った。
当番兵は准尉の言葉の前で小さい反抗をした。彼は隊長の方を見返した。そして彼は「帰ります。」と小さい声で言った。
「申告します。
陸軍一等兵木谷利一郎は……」
木谷は申告をおわって、まだ大げさにうなずいて首をふっている隊長の方をじっとうかがった。彼の前にはまだ独居房のあの格子戸があるようだった。
「今朝、自分が向うまで行ってつれて参りました。二、三の注意事項もきいて参りましたが、木谷はもう刑をすませた兵だから、どんなことがあっても決して他のものと差別するようなことがないように特に注意してくれとのことでありました。」准尉はしずかに近づいて行って、力をぬくようにした低い声で報告した。
体の小さく特に足の短い隊長は軍袴《ぐんこ》の胴のところを特別につくらしてふくらませ、細い袖の上衣をつけ、さらに細い長靴をつけて補っていたがその自然条件をどうするというわけにもいかないようだった。彼は小さい鼻、小さい眼をした小さい顔をまた大げさにふりたてた。「二、三の注意事項? よし、わかった。御苦労だった。立沢。よかろう。」准尉は微笑した。
「何をしたんだ?」隊長は突然木谷の前にあるき出した。「何をしたんだ?」
「窃盗であります。衛兵勤務中のことであります。」准尉は言った。「うーん。」隊長のうなり声は少しばかり大きすぎた。「どこの衛兵だ?」「枚方《ひらかた》火薬庫であります。」
「誰からとったんだ……」
「巡察の週番士官からであります。」「うーん……」
隊長のうなりはまた少しばかり大きすぎた。木谷は小学校、つとめ先、軍隊、刑務所、あらゆるところで習ったとおり、頭をたれていた。
「第一班へ入れようと思いますが……」准尉は言った。
「班長をよべ。」隊長は言った。
「班長はいま教育中であります。」准尉の声は低くなった。すると彼はやはり隊長を軽蔑しているのだ。
「じゃあ……、あとで俺のところにくるようにいってくれ……よいか、立沢……」隊長は、顔を前につき出して、兎のように小さい眼を准尉の方におしつけた。准尉は、「はあ、承知しました。」とつっ立ったまま言った。
「木谷、木谷だな……もう二度とひとのものをとるなんてことをするんじゃないぞ……、お前その精神をきたえあげてきたか、どうじゃ!」
隊長室を出ると准尉は中隊当番をよんで言った。「一班の班長をよんでこい……兵器庫でねているだろう。」
中隊当番は隊長室から三つ目の兵器庫の戸をたたいた。
「誰だ? 誰もいないぞ。」と内から太い声がした。
「吉田班長殿、吉田班長殿。」
「いないぞ――、誰もいないったら……」
「吉田班長殿、准尉殿がおよびです……」
「何? 准尉殿? それを、早く言え……それを……当番! はやく言いなさいようったら。」内の声は甘えたような女の口調になった。
五
木谷は吉田軍曹のあとについて、二階の内務班の方に上って行った。廊下の銃架には銃が長く冷たく並んでかかっていた。谷間のようにくらいへこんだ部屋には、すでに毛布を四つ折にしてたたんで置かれた寝台がならんでいた。油の匂い……重い冷たい匂い……木谷はまた帰ってきたと思った。彼は准尉が自分の傍《そば》にいないので自由になっていた。
階段を上りきった右手にならんだ二つの班長室の左手、一班、二班の班長室で吉田軍曹は事情をきき取ったが、彼は木谷に何年いたのか、苦しかったろう……給与はよかったか……中隊もかわったろう……などと簡単なことをきいたきりで、その点にはなるべくふれないようにしていた。彼は班長室のなかをせかせかと机から机へととびまわった。「なんだい、仕様のないやろうだな……大滝伍長のやつ。ひとのクリームをだまってつかいやがって、あとはほったらかしにしてしまいやがる……。あああ、このざまは、……パンにこんなにジャムをぬりたくりやがって……」隅の机の上にはパンの腹に赤いジャムをねっとりつけた塊がすててあった。
「まあ、皆がかえってきたら、身廻り品ももらってやるからな。」吉田軍曹は机の上の鏡をのぞきながら言った。「准尉さんも言うてたけど、お前のこれまでのことはな、この隊内には絶対にもらさないことにしてあるから、その方のことは、お前も全然気にかけるな……な……心配な点があったら、いいにこいよ……な。」彼は鏡から眼をはなさなかった。「おっ、とっとっとっ……このやろう……。ほんまに……大滝伍長のやつ……。どこへ行きくさった……とっちめてやらないことには。」
木谷は相手の頬から立ち上るいい匂いをかいだ。軍曹は、その肉の薄い円形の顔に白い色がうき出すほどにもクリームをすりこんでいた。彼は額の生えぎわにまるく剃刀《かみそり》をあてさせており、もみあげのところを切りたつようにそりこんでいた。これをみただけですでに軍隊に一年以上いる木谷には彼が下士官のできる限りのわがままをしているということがはっきりわかるのだ。彼は軍隊のあそび人だ。なまけものだ。軍隊にはときどきこのような訓練とはもっともかけはなれた人間がいる。木谷は吉田軍曹を軽蔑した。しかし彼はおとなしくしていた。彼は吉田軍曹が鏡を手ばなして横の壁のところにつくられた整頓棚の方に立って行ったとき、じっとそのまるい背に眼をそそいだ。彼はこの軍曹の背後から何かやりそうな自分を感じた。刑務所で作業中ふと看守のうしろからとびかかりたいと感じることがあるように。軍曹の背は彼の心をさそうに十分なほど彼に無関心だった。
「すまんが、木谷君、ストーブを一寸みてもらえないか。」吉田軍曹は棚の上の小さい手箱の引出しから白い襟布を出して言った。木谷はぎくっとして立ち上った。彼は黙ってストーブのところに寄って行った。
「いやすまんな、――あ、おれがしよう。まだ君を使うのはすまんからな……。お前の同年兵はもうだれもいないだろう?」
木谷はのそのそとストーブのところにあるいて行って、ダルマ・ストーブの口をあけて傍の木切れをつっこんだ。
「おーい、誰かいないか!」突然吉田軍曹は立って壁をにぎりこぶしで打った。
「はーい。」内務班から兵隊達がやってきた。彼らはドアをたたく。
「はいれ。」吉田軍曹は言った。「おーい、薪がないぞ。もっとばりばりもってきてくれよ。なあ、お前たち、なにしとるんだ……この俺を氷づめにでもして夏までおいておくつもりかい。」
「はいります。」だらりと頭を一つさげて、やせた兵隊がはいってきた。
「誰だ? 誰がきたんだ? もとえ! かえれ、かえれ。」
「班長殿。今井でんがな……」
「今井でんがなとは、何だ。誰がきたのかわからんぜ。」
「班長殿……そんなこと言わはらんと……なあ、班長殿。」
「なんや、今井。お前、この俺をなめとるなあ。三年兵になったら、班長をなめんと通らんのか。」
「班長殿……殺生やなあ……」三年兵はにやにや笑って甘ったらしい兵隊の表情を身体でした。
「こまりまんなあ……ほんまに、班長殿……」
「こまる? よし。その代り薪はあるな? 薪をもってこい薪を。薪をもってきたらよし、薪がなければ、すぐお前を訓練においだしてやるから。今井、お前……このやろう。今日もまた週番下士の眼をうまいことのがれやがって、班内でごろんごろんしてやがるんやろう……。おい、薪、さあ薪。」
「こまりまんなあ……班長殿……足がこんなにはれ上ってまんねんぜ。練兵休《れんぺいきゆう》で……診断うけて……」
「何? 練兵休やて? よし、よし、それなら次の日曜は外出どめだ。」
「そんな……班長殿……可哀そうなこといいなはんな……」
「よし、薪もってこい。」
「そんな班長殿殺生な。」
「よし……初年兵がかえってきたら、すぐ、薪をつくってもってくるように言え……。大体、お前たち、班長に薪をもってこいなんて言わせるのが、まちがってるぞ……よし……まあ、ごろんとねてろよ……その代り外出どめやからな……ところでおい、今井、何かうまいものはないか。」
今井はしわしわ身体をくねらせるようにして、何回もお辞儀ばかりしていたが、「ほんまに初年兵の野郎この頃、なまけてやがる……よし今晩、あいつらバッチや。」といいながら帰って行く。
「おっと……おお……お前、そうやった。」吉田軍曹は木谷の方へ帰ってきて言ったが、その声はきわめて冷たかった。彼はストーブに薬罐《やかん》をかけた。「つかれたろう、木谷、班へ行って、やすむか。」しかし彼はもはや木谷の方には頭も向けてはいはしなかった。
「はあ。」と木谷は言った。「はあ。」彼は身体をのばして「帰ります。」と低い声で言った。
彼は吉田軍曹が再び彼の気を引くようにして、
「木谷、お前、班のことわかってるな……何だったら、俺がいってやる。」と後をおっかけるようにして言葉をかけたのに対して怒りをおしとめて、「はあ……」と言った。
六
木谷は班内に行って舎後《しやご》(裏側)の窓ぎわのところの寝台に腰をおろして、昼の時間を待っていた。ああ、やはりまだ兵隊だ……彼が刑務所でくりかえし計算したように、彼は二年の刑期をつとめあげたとはいえ、それは現役兵としての兵役年限のなかにかぞえられはしないので、まだあと一年の義務年限がのこっている。いや、正確にいうならば一年と三カ月だ。彼は仮釈放で一カ月はやくでてきているから……この一カ月の期間に事故をおこせばまた刑務所へまいもどらなければならないだろう。
先ほど下士官室にやってきた今井上等兵とあと二人の古い兵隊は、寝台の上の毛布に足をつっこんでごろごろかたまっていたが、彼がはいっていったとき、じろりと眼をむけ、いつまでも視線をはなそうとしなかった。彼らは木谷が窓ぎわのところに行ってからも、ときどき、寝台の上から交互に首をのばし彼の方を眺めては話していた。木谷は今井上等兵の視線が自分の顔にねばりついているのを感じたが、彼はその方は放って窓から向うにひろがる営庭を見下していた。(彼には今井上等兵の眼が彼に入班の挨拶を要求しているもののように思えた。)――営庭は次第にはれて行く灰色にかがやいた空の下に四角くひろがっている。そしてここには刑務所の囚徒兵たちの展望をさえぎったあの背の高い、板木の木目がくっきりでているコンクリートの壁がない。この壁は彼らをおさえた、一日中、ただ雨の日、その灰色の壁が水しぶきのなかでけむってやわらかくなるときの他《ほか》は。それにあの刑務所の営庭にはすみからすみまで熊手箒木《くまでほうき》の跡が美しくついていたが、それは囚徒の心を秩序正しくみちびくためにそうしているのだと所長は言っているようだったが、それを土の上に一つ一つつけてはいて行くのは掃除囚にとって大きな苦しみだった。そして木谷が刑が決定してまずやらされたのはこの営庭の掃除だった。
木谷は舎前《しやぜん》(表側)にいる兵隊達のところに行こうと思ったが、それができなかった。彼は外に出れば彼が知ることのできなかったいろんなことをまずききたい、それから何よりもまず思う存分煙草を喫いたいと思っていたが、彼はすすんでその兵隊達のところに出て行くことができなかった。彼は決して無口な方ではなかったが、彼の口はひとりでにしばられ彼の足は動かなかった。彼がでてきてみると、「外」はやはり彼が刑務所で想像していたとおり、冷たい空気を彼にふきつけた。
そのうちに舎前にいた兵隊のうちの一人が彼のところにやってきて、今井上等兵殿がきてほしいと言っていると伝えて行った。「はあ……」と彼は言ったが、彼の眼は大きくなった。「あっちい来い?」以前上等兵であって一等兵に降等された木谷は上等兵に対しては特別な感情をもっていた。しかし彼は挨拶を要求してきたこの上等兵に対して自分の名前をつげ、今日からこの班の配属になるけれどよろしくたのみますと言ってかえってきた。相手は木谷の言葉に不満をもっていることは明らかだったが、その兵隊年次もはっきりしないので、木谷に対して用いる言葉の弱るのをどうしていいのかわからないようだった。彼は木谷を退院患者と思っているらしかったが、退院患者のなかにはときどき四年兵や五年兵などのような古い兵隊がいることがあるからだ。そして彼が木谷の兵隊年次をよみとろうとしているのがよくわかった。
「どこの病院でんねん? やはり金岡《かなおか》だっか。」
木谷はそれに答えなかった。
「いつ病院へはいらはったんや?」
「別に病院でもあらしまへんけど。」木谷は相手の調子に合わせた口調で言ったが、彼は自分の舌と口の中がくらくなったような気がした。こいつらはいまにどんな風に俺に向いやがるか。
今井上等兵は、それ以上たずねるのをやめて横を向いた。彼は、黙って毛布のなかにもぐりこんでしまった。彼らのすぐ頭の上のところ、食台と食台との間にストーブが置いてあったが、もう初年兵が集めてきた木切れをたきつくして火ははいっていなかった。彼らは「初年兵のやつこの頃、薪割りにも行きやがらへん。」とぼそぼそ言いながら、毛布のなかで寒そうに身動きもしなくなってしまったが、木谷の身体は班内で暖かかった。
昼前、勤務と使役に出ていた兵隊たちがかえってくると班内は一どきにさわがしくなった。古い兵隊達はストーブの廻りにあつまって火をつくった。彼らは、はがしてきた兵舎の板塀《いたべい》を寝台の足にたたきつけて折った。昨年の四月と五月に入隊した現役兵と補充兵は食事準備をしていたが、彼らは寝台の上を次々とわたって、整頓棚の手箱のなかから食器を入れた食器袋を寝台の上に放り出して手箱の蓋を規定通り横に倒しておかなければならない。アルミの食器は寝台の上でにぶい音をたてた。
木谷は彼らが食器を食台の上にならべて行くのをみていたが、急にそうぞうしくなった空気のなかでひとりでに独房のなかのあの厚い木の板壁を自分のまわりにはりめぐらした。彼はふと刑務所のなかにいたが、そこには作業監の西窓下にすえたミシンに向って獄衣の修理をしている自分がいる。その鉄棒のはまった窓越しに彼が見るのは畑一面のキャベツの葉っぱ、そしてあの視界を奪い取る壁。――部屋のなかは訓練に出ていた初年兵がかえってくると、さらにまたにぎやかになって木谷をひとりにして取りのこす。
「田川、只今、演習よりかえりました。」
「よお――、田川、一体、お前どこからかえったんや。」
「田川、只今、演習よりかえりました。」
「よお――、ようかえってくれはりましたなあ、――なあ。田川はん。」
初年兵たちは自分をおびやかす古年兵のかけ声の下をくぐって自分の寝台の脚に巻脚絆をはさみ、寝台の下に編上靴をそろえておいた。彼らは帯革をとって整頓棚の下の装具かけにかけた。彼らはまだ息を切らして咽喉《の ど》で呼吸をしているようだったが、あわてていた。彼らの首筋に班内の荒れ出しそうな空気が、はっきりふれるのだ。彼らは駈け出して行った。薬罐をさげて一号炊事に茶をくみに行かねばならないし、下士官室に班長の食器を取りに行かなければならない……。石廊下(石を敷いた廊下)に週番上等兵が補充兵をつれてはこんできた飯と汁を取りに行かなければならない。
木谷の横の寝台のところにかえってきた頬の出張った、大きな眼鏡《めがね》をかけた初年兵は、木谷をおどろかせた。彼は誰よりもおそく班内にはいってきて、靴を置いたが、寝台の下にそろえてあった上靴がみつからないのでぐずついていると、たちまち廊下の真中《まんなか》につったって班内をみわたしていた体の大きな兵隊がかけつけてきて、そいつになぐり倒されたが、彼は「わるうございました……上等兵殿ゆるして下さい。」といいながら、寝台にへばりついた。
「たて、たたないのか……こいつ、こいつ。」
「はい……はい……たちます。」
「ゆるして下さいとは何だ。」
「はい。」
初年兵は鈍い音をたてて床の上に倒れるたびに、相手の打撃をさけようとして右手で自分の顔をまもろうとかまえながら起きてきた。それが木谷には不思議だった……それは奇妙な兵隊だった。初年兵は大きなよだれをたらした。木谷のうちで突然彼を前へつき出すものが動いた。
「はやく行け。」初年兵係は言った。
「はい……はい。」初年兵は小さい泣き声でいって上体を前にふり、頬をなでながら舎前の壁のところの杓子箱《しやくしばこ》のところへ、汁杓子と飯杓子をとりに行ったが、それはすでに他の初年兵がもって行ってしまった後だった。
「安西《あんざい》、あほんだら……お前なにしてたんや……はよう……班長室い薪をもって行かんか。」ストーブにあたっていた今井上等兵が言った。
「は、はあい。」安西二等兵は言った。彼はくるりと後をむくと、きょときょとあたりを見廻していたが、ストーブをとりかこんでいる兵隊の足元につんだ木切れに手をのばした。と彼の右手はすぐ前の兵隊の上靴の底で踏みつけられた。
「あほんだらやなあ……お前はほんとにどこまであほにできてるんや……ひとが苦心してとってきた薪を、へい班長殿薪をもって参りましたいうて持って行くつもりか。」眉の上にあがった眼尻の長いその兵隊は顎を出して言った。
「は、はい……橋本二年兵殿すみませんでした……知らなかったんであります。」安西二等兵は言った。
「気をつけい!」
「はい、気をつけます。」安西二等兵は上半身をふって言った。彼は班の中央の廊下のところで、「安西……安西……薪取りに営庭へ行ってきます。」とどもりながら声が小さいと言われはしまいかと力一杯の声で言って、敬礼をすると、上靴を引きずりながら、階段の方へ出て行った。
やがて安西二等兵の行方をみとどけてきた初年兵係上等兵は「兵長のやつ、またこの俺に、おしつけやがる……。この俺にそんな時間があるかい。よー。仕様のないやつや。」と、大きな声でいいながら、こんどは木谷のところにやってきた。「お前かよ――今日かえってきたっていうのは――」彼は木谷のすぐ前にたって上から下へ見ながら言った。「入院下番《かばん》やて? まだお前、食器も、手箱ももらってないのやろ。食器がないと、飯も食えないじゃないか! お前、どうしたんや? よし、俺が食器もらってやろう……」彼は近くにいる現役兵にいいつけて、階下の陣営具《じんえいぐ》倉庫へ行って、吉井上等兵にいうて入院下番一名に食器と手箱を渡してやってくれ、俺がいうたいうてもらってきてやってくれと食器をもらいにやった。
「金岡の陸軍病院じゃないと? どこや? 岡山かそっちか?」
木谷はどういう風にしていいかわからなかったので、寝台に尻をつけたまま、相手の平らな、皮膚の厚そうな、はれ上ったような一皮《ひとえ》瞼《まぶた》の、広い鼻をした上等兵の顔をじっと読んでいた。
「俺の言うことがわからんのかい? はじめてのもんは、わかりにくかろうが……なあ。」
「お世話になります。」と木谷は短い首をちぢめるようにして言った。
「いや、世話なんかしてられんけど……、俺あ初年兵相手やよってにな。先任兵長が公用外出で出てやがるけん俺のところにまわってきたけど……先任兵長がかえってきたら、ようたのんで、まだ足りんもん、もらってくれよ! なあ、被服もそのときにしてくれるか? うん、へえー、お前、それでええ服きとるやないかなあ、こりゃあ班長よりもずっとええやないか。」上等兵は右手をのばして太い指でラシャの上をなでた。木谷は彼が入隊した当時一装用《いつそうよう》(正装用)としてすべての兵隊に支給されたこのラシャ服は班長以外には部隊の兵隊はほとんどもっていないということに気づいていたが、改めて自分の服を見廻した。
「上靴もはいとらんのか……」上等兵はしばらくして食器と手箱をはこんできた兵隊から受け取って言った。「上靴、営内靴《えいないか》は、俺がいまもらってやるからな。」彼は先刻の現役兵にいいつけて上靴と営内靴を階下の被服庫から借りてくるようにいいつけてすでに運び上げてきた飯桶《めしおけ》と汁鑵《しるかん》の飯と汁を食器に次々とついで行く初年兵を監視するために廊下の方へ行った。
木谷は汁食器から立ち上る湯気が自分の顔をやわらかくつつみこむのを感じた。湯気はやわらかく汁はあつく、担当看守の「食事準備……喫飯《キツパン》……止《ヤ》メ、手ヲオケ」という号令はかからないのだ。しかし彼は自分の周囲の兵隊たちが、自分の飯食器《めししよつき》の飯から立ち上る白い湯気の匂いをかいで、特別なものをかぎわけるような気がした。彼が半分ほど食い終ったとき、いつも彼の坐っているところで食べるきまりにしていた、上等兵が勤務からかえってきた。上等兵は食台の角の席が知らない人間に占領されているのをみて「なんや、俺の食うところないのか! しょうがないなあ、初年兵さん……」といいながら寝台に上って手箱から箸箱《はしばこ》を取り出してきたが、「一寸、そっちいいってくれよ……」と彼の体をおした。「すんまへんなあ……かんにんしたっとくれやすや。」
木谷は上等兵ののっぺりした顔をみた。彼は黙って尻を動かして角の席をあけた。彼がふと前をみると先ほど事務室の北側の壁のところに坐って、じっと彼をみつめていた一等兵が、食台の向う側の隅の寝台のところにかえってきていて、彼の方にかるく頭をさげて、何か一種の挨拶をした。木谷はぎくっとして体をふるわせた。それから彼は急にそわそわしだして、長椅子から尻をうかしたり、食台のまわりをながめまわしたりした。彼はよくばって短い時間で班内の兵隊の一人一人のことをおぼえこもうとしていたので、もうこのように次々とおぼえておきたい人間があらわれてきては、つめこむこともできなくなってしまった。彼はその日一日中みんなにとりのこされて、隅の寝台の上に上りこんでそこから班内をじっとながめていた。彼は何か考えようと思いながら、まとまりもないことを考えていた。そして思い出そうとしていないときに何か思い出していたが、ふと気づいて何を思い出していたのかしらべてみると、何だったかわからないというような状態だった。しかし彼は自分の戦友のことを思い出していた。彼が会うのを恐れていた戦友がここにいないということがわかったので、その同年兵の姿は彼のうちになんら苦しみをもたらすことなく次々にうかんできた。向うの営庭の一番はしにある十三階段から、飛び下りることがどうしても出来ないで、初年兵係の上等兵からつきおとされて一週間医務室に入室していた小森という栗のような頭をした男や……、一期の師団長の検閲のとき被甲《ひこう》(ガスマスク)を置きわすれて真青《まつさお》になってうろうろしていた曾良木《そらき》や、一期の上等兵進級のときどうしても彼が学課でおいつくことのできなかった山田など。が彼の眼のなかには突如として刑務所の監房の窓から、蜘蛛《く も》の巣の向う側にみえる桐の枝のつきでた空があらわれた。彼が床の上にかがみこんで見上げたときつき出た庇《ひさし》の先に何か鳥の巣があるのがみえたあの窓。
七
夕方先任兵長が兵器受領の公用からかえってから木谷は兵長につれられて被服庫に行き、毛布、飯盒《はんごう》、襦袢《じゆばん》、袴下《こした》、など被服一式をもらって帰ってきた。被服庫はこの上なく荒れていて、そこにつまれている下着類は刑務所の下着類よりもはるかに悪かった。刑務所で修理をしばらく受け持っていた木谷には襦袢のそそけだった布地や、弱りはてて繊維のほそくのびきった生地が眼にはいった。しかし彼は自分がいまきているものを一刻もはやく脱いでしまいたかった。彼がつけている軍服、襦袢、袴下は彼が逮捕されたとき身につけていたものだった。(もっとも軍服はそのときつけていた略衣―普段着―をぬいで着がえたのだった。)彼が刑務所入所中は囚徒兵用の色あせた空色の作業衣、緑色の襦袢をつけていたので、それらの被服は彼の私物である、十四円五十二銭入りの財布、ハンカチ、チリ紙、写真などとともにずっと領置品置場におかれていて、全然使用したことがなかった。(もっとも軍服は軍法会議の判決当日はつけて出たのであるが)それらは非常に質もよかったので、彼がそれらを他の品に取りかえてほしいという気配をしめすと、兵隊たちは不思議に思うのだった。彼は狭い倉庫一杯にこもった煙草の煙にむせた。被服庫は建物の中央の階段を下りきった所に石廊下があり、そのすぐ左手の個室を改造してできていたが、先任兵長は彼をつれてはいるや被服係助手の兵長に用件だけ話しておいて倉庫内をじろじろ見廻していた。
「用水《もちみず》兵長、そんなにその編上靴をにらんだって、そいつはなんにもならんぜ。」唇の少しそった鉢の広い頭をした被服係兵長は女のような声をしていった。先任兵長が「泣かす、わあ泣かす」という流行語をしきりにはきかけていた表皮の新しい十文の編上靴は右側の壁につき出た棚の巻脚絆の束の山の上に三足おかれていた。
「よっ、その――、だれが、こんな編上靴!」用水先任兵長は言葉を切ってつづけた。「貰いたいよ。」
倉庫の床にじかに尻をおろして、襦袢と袴下のしわを一枚一枚のばしてそろえていた補充兵たちは笑った。
「おい、その辺の巻脚絆、気をつけてくれよ。こいつがきたら、いつでも何か無《の》うなってるよってにな。」被服係兵長が言った。
木谷はぎくっとして胸をつらぬかれた。彼の首筋は冷たくなった。彼は被服係兵長の方をふり向いたが、兵長の眼が媚《こび》に近い光をつけて用水兵長にわらっているだけだった。
用水兵長は下に置いてあった編上靴入れの大きな木箱を右足で横からはたいた。「へん――じゃか、じゃかいうな! 何や、こんながらくた被服。こんどお前の班のやつがな兵器に傷を一つでもつけやがってみろ――かたっぱしから始末書とってやらあ――」
「そんなあほなことすなよーな、おっさん。」彼は雑嚢《ざつのう》、背嚢《はいのう》、被服手入れ袋などをもらっている木谷のところにきて言った。「このきてる服を被服係に返してどないすんねん。さっきから、この被服係の兵長が、この鳥目の眼を力一ぱいあけやがって、このお前のきてる服をきこんで今度の外出には飛田《とびた》の山海楼《さんかいろう》辺りできーっと泣かそうおもうてねろうてやがるんやぜ……」
木谷は飛田の山海楼という言葉がでてから相手の言っていることをきいていなかった。彼は刑務所の領置品係にあずけてあった花枝の写真がどうして自分に返ってこないのかそのわけを考えようとした。領置品係の三村看守は、ときどきその写真について戯談《じようだん》を言ったが、出所するときには、あれもみんな返してやるぜと言っていたのだ。ところが他の私物はみんな返してくれたにもかかわらず、写真だけは彼の手許《てもと》にもどってこなかった。
用水兵長は寝台はあとで陣営具係からもらってやるから、班内にかえっていてくれといって兵器庫室の方へ行ってしまった。木谷は班内にかえってやはりまた舎後の窓ぎわの寝台の上にもらってきた品物をつみかさねたまま、横の壁に背をもたせてただ日がくれるのを待っていた。班内には午前と同じように、今井上等兵の他に二人ほど兵隊が残ってストーブを細々とたいていたが、ストーブがもえつき、それから、もらってきた襦袢を一枚余計に着こむと、体はほこほこ暖かく、やわらかくなったように思えたが、彼は寒さを感じだした。彼は煙草を喫いたいと思って今井上等兵のところにわけてもらいに行こうと考えたが、それはやめにして、兵舎のすぐ前の酒保《しゆほ》まで行った。もちろん煙草は売っていなかった。これが彼が刑務所にいるときいつもあれこれと想像していた出所の日だった。出所したらまっ先に煙草屋にとんでいって、思う存分、煙をはき出してやろう……それからあの花枝をたずねて行ってやろうと考えていたのだ。たしかに今日ここでは検身はない。もう部屋のなかのあちこちに吊《つる》した靴下の洗濯物がかすむほどにもうすぐらくなれば、あの独居監の東、浴場のすぐ右手の広い検身場から刑務所内にひびきわたる囚徒たちの裸足《はだし》で床板をふみつける足音は、ここにはきこえてこない。また床板にまっすぐ足をたてて両手を前につき、はいつくばることもいらない。半ば看守のものだった尻の穴はもう彼のものだ。
「おい、汚いぞ、ばかたれ、もうちいと、きれいにふいとけ、ひとさまにおがませるんだぞ。」というような言葉をあびせられることはない。しかしいま木谷は煙草を思う存分すってもいないし花枝にも会っていなかったので、不安だった。彼は花枝の写真がどこへ行ったかについて考えていたが、それは准尉以外のひとがもっているなどとは思えなかった。彼は花枝がいまも飛田の山海楼にいるとは思えなかったが、さがし出せば、さがし出せると考えていた。
勤務兵がまた勤務からかえってきて、食事準備がされ、さらに初年兵が訓練からかえってきてかけ声が方々でかけられ、さわがしくなってきたなかで、彼はさわぎをみながら、さわぎからとおざかって壁にもたれていたが、昼食のとき彼が食台の一ばん端の席をうばっていたので尻でおしてきた瀬戸《せと》上等兵にまたおしのけられた。
上等兵は執務からかえってくるや、木谷が自分の寝台に上りこんでいるのをみつけて、すぐその足元に通信紙の束と鉛筆をほうり出した。彼は木谷の足をまたいで自分の手箱に近づき、その引出しから煙草を取り出してなかをしらべた。「また、やりやがったな……」彼は言って、立ったままあたりを見廻していたが、一人の補充兵をよんでだれか俺の手箱をあけた奴をしらないかときいた。それからついに木谷に「あんた、ここにいたんやったら、この手箱をあけた奴をみなんだやろか。」ときいた。
「さあ、そんなもん、俺、知らんな。」木谷は言った。
「そういったかて、お前はずっといたんやろ……」
「ずっといた。」木谷は言った。
「そこのけ。」上等兵は背中をまげて長い手で木谷の肩を押した。
木谷は押し返してだまっていたが言った。「少しぐらい、場所かしてやれや。」
「俺あここで仕事するんやからな。……まあ、のけ。」上等兵は言った。
木谷は薄ぐらい空気のなかの相手の顔のすぐちかくに自分の顔をもって行ったが、その長いひき肉のようなすじのある顔を彼はにくんだ。しかし彼は看守に対する憎しみと同じように、この憎しみを自分のなかに溜《た》めようとした。……瀬戸上等兵は木谷にならんで壁に背をつけ、膝《ひざ》の上に通信紙をひらいて何かかきはじめたが、再び肩で木谷をおした。木谷はそれをおしかえした。彼はどうしても寝台からおりなかった。
八
そのうちに電燈のついた班内に、さわぎがまた大きく拡がってきた。いよいよ飯桶と汁鑵とが班内にはこびこまれて、食器につぎわけられようとするとき、初年兵が事故をおこしたのだ。
「初年兵の野郎が、よー、汁桶を一棹《ひとさお》ひっくりかえしやがって、今夜は一班だけ菜《さい》なしだとよおー。」初年兵係上等兵は頬に奇妙にうれしげな笑いをのぼせてかえってきた。「どこでって、そこよー。階段の踊り場のところみてきてみろ……汁をまきやがって、安西のやつ汁のなかではらばいになって、口ぱくぱくしてよるよ。」彼の顔は内からいやに輝き、彼は顔を大きく動かした。
「あいつ、どこまであほなんや……一体また、なにしよったんや、ほんまに、初年兵さんようしてくれるなあ。」今井上等兵はストーブに手をかざしながら言った。
「そうよ。ほんまに俺の初年兵がようしてくれるんで、初年兵係も班内で肩身がひろいてなあ。なあ、みな、だまってみててくれよ……初年兵さんどないしよるか、みててみろよ。」初年兵係はさらに厚い唇をぬらして言った。「補充兵! お前らもいってみてきてやらんか……初年兵のやったことやおもて胸なでてると、あてがちがうんやぞ……」初年兵係はみなのなかに割ってはいった。そして、のうすまんのう……実際、今度の初年兵さんはよう気合かけてくれるわ……昨日は銃口の手入れをやらしたら洗矢《あらいや》を二本とも折ってしまいやがるし……それが上等兵殿洗矢が折れましたから代りを頂きにきましたとのうのうとぬかしやがる……学徒入隊、学徒入隊で甘やかしただけあるわと、喋《しやべ》りはじめた。
「かえってきやがった。みてみろ……。あの田川ののっぽの大きい面してやがるの。あれでいて、ずるいいうたら。」廊下の方から現役兵の一人が言ってはいってきた。何か特別な憎しみを中心とした特別な感情が人々のうちに動いていた。それは半分空になった汁鑵をさげてかえってきた安西、田川の二人の二等兵の上に蔽《おお》いかぶさった。地野《ちの》上等兵の前で安西二等兵はいつものように背を少しかがめて眼鏡の向うで眼をしょぼしょぼさせていた。背の高い田川は全身の力を四角な顎《あご》にあつめて胸元に引きよせ直立しようとするが、彼の体はひとりでに右にゆがんで、皆を笑わせた。彼は、「田川、安西は汁鑵を不用意のためにこぼしました。申し訳ありません。」と繰り返した。「上等兵殿、自分らはどうすればよろしいのでありますか。」
「そんなこと、俺あ知るかい!」上等兵は太い咽喉を一層ふくらせていた。彼の顔は赤くもえたストーブの火で赤黒くみえた。「大学へ行ってな先生におしえてもろてくるんやな。」彼は声をひくめていやな響きの声で言った。彼は顎を動かしてふりむかなかった。「俺あなあ、階段で汁鑵をひとにおしつけ合いしていてこぼした汁をどうしたら修理できるか、軍隊じゃおそわらなんだ。学校でもなろうてこなんだ。俺のような小学校出にゃわからんとよお。」彼はこのような表現に一生懸命力を入れていた。彼の平らな皮膚の厚い顔はまた喜々として喜びにみちてくる。喜びと怒りとがこのように結合しているとすれば彼は初年兵をにくんでいるのだ。彼は初年兵に眼鏡をはずせと言っておいてつづけさまに拳骨で頬をなぐりつづけ、床の上に倒した。そして二人に班内の兵隊一人一人に汁をこぼしたことについて許しをうけてくるようにいった。しかし二人がそれを実行しているうちに、彼らはいつものように途中でいろんな注文をうけた。地野上等兵は二人について廻った。
彼らは木谷のところへはらばいながら近づいて行った。しかし、木谷には彼らのそのようなのろのろした匐《は》いぶりが不思議だった。さらに、「上等兵殿、もういたしませんから、今日はこれでお許し下さい。」と途中で膝でたった安西二等兵の苦しげに歯をくいしばった様がたえられなかった。古い教育をうけた木谷にはこれが一体兵隊なんだろうかというような気がした。
木谷はこれら二人の頭を床の上におしつけて、ごんごんいわせてやりたいと思った。彼らの泣き声は彼の憎しみをかきたてた。
「俺はええがな。」と彼は太い声で言った。しかし彼は自分の前では礼をしようという気配もみせず、はらばい去った田川の後につき出た頭をじっとみた。二人はやがて、木谷が事務室で出会ったあの一等兵のところに行った。一等兵は黙って顔を横にふった。彼はそっぽをむいて窓から唾をはきおとしに行った。木谷は一等兵の方をじっとみたが、今度は一等兵は彼の方をみようとはしなかった。二人の初年兵は次々と班内を一周して行った。
一ツ軍人は忠節をつくすを本分とすべし
隣の二班の方から初年兵が軍人勅諭を暗誦《あんしよう》する声がきこえてきた。
「頂キマス……」
地野上等兵は廊下の中央に二班の方をむいて股を大きくひらいてつったっていた。「そら、また、二班に食事準備まけやがった。まだ、飯がつけてないところがある! いつまでかかってるか。あほんだら、田川、安西、いつまでお前ら、はいまわってるか……みんなにもう飯たべてもいいかどうかきいてみろ……みんながいいといったら、席にかえって食え。」
一ツ軍人は忠節をつくすを本分とすべし
初年兵ははじめた。その声がちいさいとどなられるのを恐れている声は事故をおこしたあとなので、哀れなほど大きかった。それは何かの心をそのはげしい勢のなかに、おしだすような語調のなかにふくんでいた。すると間もなく、中央営庭の方から食事ラッパが次第に大きくなりわたってきた。ラッパは中央営庭からさらに彼らの近くにきて鳴った。そしてついに三度目には喇叭手《ラツパしゆ》は兵舎の東横のところまできてまた吹いた。木谷は隊にかえってきてラッパの音をきくのはこれで二度目だった。昼の食事ラッパをきいたとき、彼はあの刑務所の表門の衛兵所の上につられた鐘の音を思い出したが、今もまた彼は思い出した。鐘の音は、るらーん、るらーん、るらーんと彼の耳のなかでなる。ああ、あの鐘が二年間、彼の心と身体をきりきざんできたのだ。これは釣鐘形の小さい鐘だったが小さい映画館のテケツのような衛兵所の屋根からつりさげてあって、衛兵は半時間ごとにそれをうつ義務をもっていたが、朝六時にるらーん、るらーん、と睡りのおくの方で揺れると、彼は鐘の時間のなかに投げこまれるのだ。鐘の音は彼の耳のなかに深くしまいこまれていたが、それはいま喇叭の音に席を譲った。
九
木谷は食事後酒保へ下りて行った。酒保はホ隊と向い合って建っていてその二階は下士集《かししゆう》(下士官集会所)だった。建物の中央に板仕切があり、酒保委員助手と御用商人がそのなかにはいっていた。彼らはその板仕切に開けた四角の穴から甘味品《かんみひん》をつき出したが、刑務所から帰ってきた木谷には穴はどれでもうとましかった。ひょいとその向うから戸をあけて看守の顔がのぞき出しそうだった。酒保で自由に買えるのはコーヒーだけだった。彼は刑務所で看守達にいま外に出ても何一つ買えへんぞ、どこもかも何もないのできれいなもんやとよくきかされたが、それをほんとうに理解することはできなかった。彼は瓶詰《びんづめ》コーヒーを五本買って、すぐに五本とものみほしてしまった。そして彼は出所してはじめて自由を味わったような気がした。お腹《なか》にたまっているふくれた水がそれのような気がした。酒保の前では、ようやく夜となって出はじめた冷たい風に身体をさらして各隊割当の甘味品を受け取るために毛布をもった兵隊が行列していたが、もう全く暗くなっているので小さい電球がうちからてらし出しているとはいえ、顔を見分けるなどということはできなかった。
木谷の腹には十分コーヒーがはいっていた。胃袋のなかのコーヒーが口のところに出てきそうな位であった。彼はまたコーヒーを二本買ってきて飲みほした。彼はまだコーヒーを舌の上に流しこみたかった。彼の舌はまだまだいくらでもコーヒーに触れたいと言っていた。そして彼は腹がみちてくると次第に不安が去って行くのを感じた。彼は隅の長椅子と長机のところに集まっている兵隊のなかにはいって行って、今朝から気にしていた、この部隊で一番古い兵隊の年次をききただしたが、二年八カ月から二年半というのが一番古い兵隊だというのだった。彼はコーヒーの瓶を上衣につつんでかえしに行き、また三本買って上衣の裾につつみ、身をかがめるようにして酒保の裏手の方に廻ろうとすると、彼は今朝から彼がもっとも気をつけなければいけないと思っているひとの気配に出会った。ああ、あれだ。ああ、木谷は身体中がぞっとした。静かなおちついたそのひとの空気。覗《のぞ》いてやがるんだ。
「おい、木谷。」
向うにすわっている顔。やはり准尉の声だ。木谷はその声をきかなくとも、その顔の輪郭をみなくともわかっていたのだ。
「木谷だろう。おい。」「おい、おい、木谷。」准尉は声をやわらかくして言った。ふりむいた木谷の方に准尉はまるで彼の姿がみえなくて距離を見誤まっているかのように、ぐんぐん近より、つき出した胸を近づけた。木谷はたじたじとして身をひいたが、彼は准尉のつけているものから暖かい火の匂いがふきつけてくるのを感じた。いまのいままで、看守のように火にあたっていやがったんだ。准尉の腕にあるのはマントだった。
「はい、木谷です。」木谷は「です」と言ったことが気になった。
「何だ。買えたかい?」
「はい。」
「何買《こ》うたんだ。コーヒーか。」
「はい、コーヒーであります。」木谷は准尉の瞳《ひとみ》が下方に向いているのをさぐりとった。
「何本買った? みせてみい。」准尉は木谷がひろげた上衣のなかをのぞきこんだ。「何本だ。」
「三本であります。」
「何本飲んだ?」
「はあ?」
「全部で何本買うてきたか?」
「はあー。」
「コーヒーはうまかったか?」
「はい……」
「そうか。そうか。買うんなら班長にいうて饅頭《まんじゆう》でも買うてもらえ……。しかし腹をこわさんようにせえよ――」
准尉の眼はすわっていて、体はしっかりひきしまっているのに、声だけが柔らかだと木谷は感じていた。
「俺あもう帰るぜ……ようねむれよ――」准尉は真向うを向いたまま言いのこした。彼は体を左右にゆするような歩き方で裏口から長靴の音をたてて出て行った。が出口のところでマントを勢よく拡げて体をつつみ、火薬庫をかこむ小さな丘のある方へ姿を消した。
木谷はしばらくそこにつったって見送っていたが、こんこんちきと思った。彼は准尉が自分の体のなかへはいってきて、出て行ったような気がした。彼は上衣の裾をひろげてそこにのせているコーヒーの瓶をみたが、黒い瓶のなかで空気が動いている。コーヒーは墨の汁のように黒かった。彼はもうのみたくなくなったコーヒーの栓をあけて、しばらくかかって休み休み一本一本飲みおえたが、准尉が自分の後のところについているという考えは彼の心から去らなかった。
彼がコーヒーをのみ終って瓶を返し、小便所に行って再び酒保の方にかえってくると、裏手のくらい外燈の下にしゃがんでいた兵隊の群のなかからふと立ち上って、彼を避けてにげようとするものがある。『何を逃げやがる? こいつ。』彼の眼にのこったのは、この兵隊のくらい顔のなかの厚い眼鏡だった。それは安西二等兵だった。安西二等兵はコーヒー瓶を両手にもち、なお両方のポケットにも二本ほどつき入れているようだった。
十
班内では初年兵が食台の上に手入毛布《ていれもうふ》をひろげて互いに向い合い小銃と銃剣の手入れをしていた。現役兵と補充兵も同じように銃を前に置いて、撃発装置をあけたりといたり、がちゃがちゃいわせていた。木谷が班内にかえって行くと班のものが一人のこらず彼の方をみたように思われた。彼はまた一番窓ぎわの寝台のところにあるいて行ったが、そこにねそべっていた瀬戸上等兵は、彼が行きつかないうちに、じろりと見上げて、木谷の寝台を用水兵長がもらってくれて初年兵にはこばせてきたが、それをその二つ目と三つ目の寝台の間に入れることにしたからとつげた。彼はまるで木谷に上にあがってこられるのをふせごうとして寝台の上に身体をのばしているかのようだった。それは二十五名収容の東一雑居監で囚徒たちがねるとき一寸《ちよつと》でも他人に自分の毛布にさわられたら、気をくさらせて口のなかでぶつぶつ言っていたあの糸井のやつのようだった。「装具もみんなそっちへおいたあるぜ。」と上等兵は言った。
木谷は何も言わずにその自分の寝台の上に上って坐りこんだ。そして彼がそこから瀬戸上等兵の方をみると、向うもこちらを怒ったような顔つきをしてながめていた。彼が眼を移して、銃手入れをしている初年兵の頭ごしに向う側の寝台をみると、そこに立ってこちらをみていたあの事務室の一等兵が眼をそらせたようだった。そのとき銃手入れをしていた顔のごつい現役兵の一人がふりかえって一等兵に向って言った。「三年兵殿、自分あした、不寝番つきまっしゃろか……。ね、三年兵殿。」
「さあ、つくやろな。」一等兵は立ち上って手箱のなかから煙草を取り出そうとしていたがふり返って言った。彼は何だかぼんやりしていた。
「ああ、またあれや。」若い現役兵は大きい横にはったその肩を体と一緒に左に倒したが、それが彼の上級者に対する御愛想だった。
「三年兵殿にかかったら、いつでもこれやから、かなわしまへんなあ。なあ、曾田《そだ》三年兵殿、三年兵殿に不寝番いつあたるかきいたら、大抵、その日か、その翌《あく》る日には不寝番につかされまんがな。」
「そんなことないやろ。不寝番は不寝番や。」
三年兵は次第に彼が行っていた遠いところから、呼び出されてきたようだった。彼ははじめて下にいる現役兵をみた。「岡下《おかした》。そんなこと俺あ知らんぞ。」彼は笑いかけたが、彼は笑うと眼がこの上なく柔らかくなった。「不寝番の順番はちゃんと計算して表で割り出すんやからな……そうなるはずはないな。」
木谷は岡下一等兵の「え、へ……」という追従笑いをきいた。彼が自分の後をふりかえってみると寝台の上の整頓棚のところは、いままで置いてあった手箱を左、右によせて片づけたため、がらんと空間ができているのに気づいた。彼は、寝台の上に放り出されている、昼間もらってきた襦袢、袴下、略衣などを規定に従って折りたたみ、そのあいたところに整頓した。彼は最初襦袢のたたみ方を思い出せないように思ったが、袖の根元を折り返して袖の外側の線を襦袢の脇の下の線にそろえておいて中央のところを二つに折るところまで思い出すと、あとは次々と全部思い出すことが出来た。そして彼はそうして胴のところを二枚に折り、折り目にきちんと角をつけて、その間に袴下をはさんで折り目をこちらに向けて棚の上においた。次第にそれに熱中した彼は次の襦袢と略衣を同ようにおりたたんで行った。
「あんた、そら、ちがいまんがな。かしてみなはれ。」
木谷が顔をあげてみるとそれは汚れて星にしみの入った一等兵の階級章をつけた男だった。「こうだんがな、忘れてはるがな、あんた。かしてみなはれ。」彼は木谷の手から襦袢を取り上げて無造作にふり折りをばらばらにくずした。「こうだんがな。背嚢の長さに折らんとあかしまへんがな……上へ背嚢がのりまんねんがな……初年兵のすることわすれてしもてはる。」彼はそうして襦袢も略衣も背嚢の幅の長さに折りたたんできちんと重ね木谷に渡した。
「入院してはると忘れてしまいはりまんねんな。この前も退院してきやはって整頓のつくり方どうやるんやった忘れてしもたいうてはりましたぜ。」それは少し鼻にかかった、甘さをふくんだ物やわらかな声だった。それは女のもっている声のようだった。木谷はこの顎の細長い、鼻の肉がなだらかに固まった男の中に女をみつけた。
その眼が小さくくぼんでいるにかかわらず、ぱっちり開いているようにみえるのは、睫毛《まつげ》が人形などにあるように、はっきりと外にひろがっているからだった。
木谷は彼が「整頓」してくれた襦袢、略衣を、棚の上にかさねてつみあげて行った。彼はその上に背嚢をのせ、背嚢の上に赤い軍帽を庇を前にしておいた。それから規定に従ってその衣類の整頓の右側に手箱を置き手箱の右側に飯盒をさかさにしてたてに置いた。
「これでええかしらん。」木谷ははじめて心を許したというような声を出してふりかえった。
「ほんまに、けったいな背嚢もろてきやはりましたな……こんな毛のはえたやつもろて。だれに貰いはりました?」
「だれ? だれいうて、あすこの兵長がくれやがったんやけどな。なんちゅう名前やったか俺、知らんけど。」
「兵長やったら成山《なるやま》兵長だっしゃろ。あの兵長にいうたらあかしまへんがな。うちの班の使役が行ってましたやろ。……この班から坂田いうのんが被服庫の使役に行ってまんのや。その坂田に言わはったらよかったんや。そやないとあの成山兵長、班の成績あげよおもて、自分の班のもんにええのん廻して、ひとの班のもんには、こんなはげちょろ背嚢くれよりまんねんぜ。」
「長いこと隊はなれてると、整頓もなんも忘れてしまうなあ。なんもかもわからへんがな。」相手が自分の手元をのぞきこんできたので木谷の鞭《むち》の跡のある右手はひとりでに後にひかれて行った。
一等兵の表情は一寸解けた。「なんやけど、あんた、煙草をもってはりまっか……持ってはんのやったら。」彼は言って辺りを見廻した。彼は自分の言葉に薄笑いした。
「煙草か。それが……煙草をもってえへんのや。」木谷は物入れから財布を引き出した。「俺も煙草ほしいおもたとこやけど、煙草買うてくるか。」「それやったら、よろしま。これから、どこか廻って、さがしてきまっさ。」相手は失望の表情をあらわにしめした。彼は廊下の方から呼ぶ声がしたのでその方へ行こうとした。「おーい、染《そめ》え、われ、群福《ぐんぷく》の蹄《ひづめ》、馬手入れのとき、みたったか。」声は言った。
「あんなもんもう、あきまっかいな、くさってまんがな。」一等兵は振り返って言った。
「やっぱり蹄叉腐爛《ていさふらん》やろ。」
「蹄叉腐爛もテイサフラン。足がくさってきてまんがな。あした、硫酸のなかい足漬けてしもたるわ。」
向うで呼んでいるのは顔の円い一等兵だった。
「われ、むちゃすなよ。」
「なあ……ここの班長だれだれなんや。一寸、おしえたりいな。俺、申告せんならんねんけど、何班長から先にしたらええやろな。」木谷は言った。「班長は三人やろが。」
「班長は三人だっけど、将校やら、ごたごたいるさかいな……隊長にはしなはったんだっか……。それやったら、あて行きまっさかい……申告やったら……曾田三年兵殿にきいてみなはれ……なあ三年兵殿。」一等兵はもう後をむいて大きい声をだしたが、それに返事したのはあの向うの寝台の事務室の一等兵だった。「なあ……申告の順番をおしえてほしいいうてはんのん……三年兵殿おしえてやっとくなはれな。」
銃手入れをしていた初年兵がみなこちらを向いた。木谷はその三年兵の一等兵のところへは行きたくなかった。しかしこの「染《そめ》」とよばれた兵隊が大きな声をだすので、それをふせぐためにも、どうしても、そこまで行かなければならなかった。「染」は木谷の代りにその三年兵に申告の順序をきいてくれたが、隊長、曹長、自分の班長、それから兵器、被服の班長、隣の二班の班長の順序でやるのだが、それほどせかなくともよいのではないかという返事だった。「染」がその返事の中途で行ってしまうと、二人は両方とも少しばかり固くなった。二人は互いの眼と体つきを見合った。木谷は眼をさけた。相手もさけようとしているようだった。
木谷は自分らのときは、申告は将校にも、各班の班長にもしたけれど、その順番がおしえてほしいのだと言った。そらしてもええけど、そんなことをわざわざしなくともいいように思うと相手は言った。
木谷にはそれが自分のことを特別に何か考えていっているように思えた。彼が寝台の上にたっている相手を見上げると、相手は早口になり、言葉につまった。申告をやかましくいう班長は、ここにはそんなにいないです、申告はもうやかましくはない、前とはちごてるかもしれへんけど、と彼は言った。
「うちの班長だけにきちんとやっといたらいいですよ。班長のうちで一番うるさいのは、松市《まついち》班長やけど、馬受領《うまじゆりよう》に行ってて一月ほどせんとかえってきませんから、かえってきたらすぐ言ったげます。そら、その日にすぐ申告しとかんと、おれの班にそんな奴いたかしらんというようなこと言いだしよるから。」
「はあ、よろしゅうたのみますぜ。」木谷は相手の指が顔や体と同じような感じであまり太くないのを見た。
「大住《おおすみ》班長の方は年とってて、もののわかる班長ですけど。……吉田班長がうちの班長で他の二人は班付班長やけど。今度吉田班長が兵器班長になる命令がでるんで、そしたら大住班長が班付から班長になることになってるので、そのつもりでいやはったらいいでしょう。」彼は次第におちついてきた声で言った。
「今度の外出のとき、一ぺん学校行ってみたいな……」二人の後で初年兵が言った。
「学校なんていって、お前どないすんねん。……いきとうないことないけど、俺やっぱり家で一日中、ねてるわ……」
「お前ら、なんやな……ほんまに……どんな気いでいるねん……」古い兵隊が言った。
「三年兵殿、週番下士官がよんでられます……事務室まで、きてくれて。」班の廊下のところで中隊当番が口に手をあてて大きな声で言った。
すると曾田の顔は見る見るくもった。「おい、豊浜《とよはま》、なんや。」
「週番下士官殿が……」
「週番下士がどうした……ちっとは、休ましたれ……なあ……休ましたれ。」三年兵はそういいながらも、当番がよんでいるからと木谷に言って出て行った。
木谷が自分の寝台の上にかえるとストーブのところから、またさわぎがきこえてきた。
「おい、安西、これお前何や……おい、これで薪をもってかえってきたつもりか……なんや……こんなもん、一ペん、もやしたらしまいやないか。」
「はい、上等兵殿……自分は営庭をぐるっとまわって、さがしたんでありますが、これだけしかとれなかったんであります。」
「何? 営庭をぐるっとまわった? よし、どこからどこへ行って、どこでどうしていたか言ってみろ。」
「はい……あのー、まず砲廠《ほうしよう》の裏から厩《うまや》へ行き向うの垣をこわそうと思って寄ってみたんですが、もう、みんなが折り取ってしまって、垣は一本ものこっていないので……」
「うそぬかせ。」
十一
点呼掃除、点呼掃除。初年兵と現役兵と補充兵は寝台を片側に次々とはこんで行った。
「われ、あほんだら、そんなもん、こわがって、どないすんねん、ばあっと、寝台ぶっちゃげてしまえ。」初年兵たちのうしろで女のような唇をゆがめてどなっているのは「染」だ。
「おい、初年兵、また初年兵の野郎、雑巾もってるやつ一人もいやがらへん……。そろいもそろうて、みな、箒木《ほうき》もって、すましかえって掃いてやがる。初年兵! 冷たい雑巾をだれがもってるかみてみろ……。古年兵殿だぞ。」地野上等兵は先の方が輪になっている籐《とう》の毛布はたきを尻にぽてぽてあてながら、うずくまって床をふいている兵隊たちの間をぶらぶらぐるぐる廻っていた。初年兵をつつむ班の意地悪な空気はストーブのまわりで、初年兵を取りおさえてやろうとするかのように眼を動かして、つったっている三年兵たちの方から吹きつける。初年兵はそれを感じとると、いよいよその空気のなかで射すくめられ、その手も足も、動かなくなってくる。
「何してやがるんだ、何してやがるんだ……寝台一つもち上らんのか。どいたどいた初年兵はじゃまだ。」隣の班からどたどたという足ぶみの音が動きわたってくると、「やい、うちでもやってほしいか、初年兵、お前たち掃除ができんというのなら、おれたちがやるぞ……。こんなもんおれたちが一寸手を動かせば、三分間で、床も廊下もぴかぴか塵《ちり》一つなくしてみせるんだ。……しかしな、おれたちに、雑巾をもたせたら、もう、それでおしまいやぞ……ええか。」地野上等兵は唇のところで言葉がぼうちょうして形がゆがんで出るかのような勢でわめきつづけた。
木谷のすぐ下を初年兵が雑巾を両手でおして、通って行った。彼は尻を、それも特別大きな尻をつったてているので、顔をのぞいてみると、あの安西二等兵がのろのろと床をふいて行くのだ。何という不細工なふき方をする奴だろうと思って、先刻《さつき》汁鑵をこぼした相棒の背の高い方はどこにいるかとさがしてみると、廊下におかれたバケツのなかに手をつっこんで、バケツをひとり占めしながら、雑巾をあらい出し、しぼったが、その雑巾のしぼり方ののろいこと。
木谷は彼の寝台を動かして掃除をするときになったので、寝台からおりて部屋のすみのところに行った。彼は赤い手にときどき、口から息をふきかけながら雑巾を頭の前につき出して動いて行く兵隊たちを眺めていたが、彼は曾田一等兵のことが気になってならなかった。何故《な ぜ》先ほど彼が事務室におりて行く前に、彼が自分のことを知っているかどうかたずねてみなかったかと後悔した。彼は昨夜、まだ刑務所の独房のなかで、毛布にくるまって、今日のことをいろいろ考えていたが、隊にかえってきてから自分の過去を班のものにかくそうなどという考えはもっていなかった。彼は隊に着いて、班内で聞かれたら、「将校の金をぬすんでな、つかまったんや。」とあっさり言おうか、それとも「そのうちにおいおいわかるがな。」とだけ言っておこうかなどと考えた。そしてその時勝負でどうでもええやないかと思っていた。そのように昨夜の彼の心も体も弾んでいた。とにかく何かができるところに出て行くんだ……という思いで……彼はみちていた。しかし一たびこうして帰ってきてみると、そのようなわけにはいかなくなっていた。どういうわけか、彼の心にそれをかくそうという考えが動いてきた。そして彼はもう朝からしっかりとそれにとらわれたも同然だった。――彼は寝台を入れるから、そこをのいてくれと初年兵に言われて、はじめて、そこの掃除が終ったことを知った。彼は曾田一等兵がはやくかえってきてくれないかと待ったが、曾田はなかなか事務室からかえってこなかった。曾田がかえってきたのはみなが点呼位置について整列しているときだった。彼はそれをみつけて点呼が終ったら、何よりもまず曾田のところにとんで行って、誰にも自分のことを言わないでくれと頼もうと考えた。しかし、実際点呼がおわったときには、彼の足は前には動かなかった。彼は曾田一等兵のところへは行かなかった。
「点呼の位置につけ。」先任兵長は廊下のつき当りのところにたって班内を見わたしながら、低い気取った声で言った。点呼の位置とは真中の廊下のところはあけておいて、廊下よりの四つの寝台の前に立った兵隊に各寝台の兵隊が右へならえをしてできるものだった。兵長は二、三度番号をかけて、列を正した。番号は二十一だった。どうもおかしいぞと言っているとき、曾田一等兵がかえってきて、木谷の列と向い合っている列の一番右に位置をとった。兵長はまた番号をつけさせて、「今日は一名増えたんやったな……よし。」とやっと思い出して言った。木谷は刑務所の炊事は今夜は一名減員して飯をたいただろうと思ったが、それとともに今日隊の週番下士官は一体日報をどう切るのだろうか考えた。給与人員一名増《ぞう》、一名の増は陸軍刑務所ヨリ受入とするのだろうか……しかもその増員は一班増と明らかに記されるのだ。木谷が以前週番上等兵のとき、彼は週番下士官の切った給与伝票をもって炊事に飯上《めしあ》げに行ったことがある。ああその給与伝票にはたしかに、「木谷一等兵陸軍刑務所ヨリ」と記入されるのだ。『くそったれめ。』彼は思って斜め前の曾田一等兵の髪ののびた頭をみた。
「右へならえ。」兵長が号令をかけた。もう一度靴が床板をする音がざらざらとした。
「おい、誰だ……さっきから、腹つき出しやがって……右へならえがわからんのかい。……」木谷の列の右翼のものがとんできたが、それが木谷だとわかると、「おいお前、はらがでとるぞ……たのむぞ……」といってもとへかえって行った。『くそったれめ。』木谷は言った。彼の左右に列んでいた兵隊が彼の方を向いた。
「番号!」兵長は言った。「一、二、三、四、五……十九。」
「おい、曾田、曾田。」向う側のはしの方から首をつき出して、一人の上等兵がささやき声で言った。「おい、お前、俺を今夜不寝番につけやがったな……よし……」
「俺あ、しらんよ。」曾田一等兵は一寸首を出してその方に言った。
「よし、今夜、俺の不寝番のとき、お前がねている間にお前の寝台のなかい風を入れてやるぞ。おい、曾田の野郎。」
「ばかやろう、俺あどこか別の寝台にもぐりこんでねるぜ。」曾田一等兵は言った。
班内のあちこちから笑いが起った。
火が落ちたので班内は冷えてきはじめた。初年兵たちは手と体をちぢめて「休め」をしていた。彼らはときどき寒そうに手をこすり合わせた。しかし木谷の皮膚はやわらかい空気にふれ、体のなかで肉はふくらんだ。彼のまわりではまだ刑務所の大戸をならす風の音がおとずれ、彼の頭のなかにはその監房のくらい燈《ひ》やマットの上を音をしのばせてあるく看守の足音や、哀訴するうめきや、あの不意をおそって覗き穴にあらわれる看守の大きな眼玉などが動いていたが。
隣の班にも兵隊の番号をつける声がしていたが、もう全く静かだった。
やがて廊下の向うから班長がやってきたが、今夜彼は元気を失っているようだった。彼の体はわざとだらんと保たれ、その足音はぱたんぱたんといっていた。彼は班内にはいってくるとき他の班長のように周囲を見廻さなかったし、廊下に面した寝台の横の銃架にかかっている銃の引金に手をふれてみなかった。
「おお、さむいやないか! なあ、点呼かんにんしたってくれや、なあ。」彼は太い低い声をつくって言った。「おい、おい! おかしいないのんか、誰も笑いやがらへんな。」
「気をつけ!」兵長は号令をかけて、室内の敬礼をした。「総員三十一名、事故九名、現在員二十二名、番号。」兵隊の番号が一周すると兵長は報告をつづけた。「事故の九名は炊事一、厩二、将集《しようしゆう》(将校集会所)一、馬受領二、医務室二、本部一、計九名異常ありません。」
「うん……総員三十一名……うん、一名、増だな……」班長は言った。彼は廊下の真中にたって向い合ってならんでいる兵隊の顔を次々とさがして行ったが、木谷のところを通りすぎて最後の兵隊のところまで行ってしまうと、また引きかえしてきた。不動の姿勢を取っている木谷はその方を見ることは出来なかったが、班長が自分の顔をたしかめようとしているのを感じ取った。
「よし休め。」班長は言った。木谷は班長の顔色がわるく、斑点があり、その鼻が途中で欠けているかのようにさきがとがっているのを見た。
「おい、田川、部隊長訓をいってみろ。」班長はひょいと体を返して木谷の列のなかにいる初年兵を指した。すると木谷から二人ほど左にいた安西二等兵が体をふるわせたのがはっきりわかった。
「はい、一ツ互いにいましめ合うこと。二己を捨てろ。三嘘を言うな。四誠心に生きろ、であります。」田川二等兵は言った。彼は眼を天井に向けていた。
「あほんだら。初年兵係。」班長は言った。
「はい……」地野上等兵が言った。
「初年兵係、お前の初年兵さん、ほんまに頭がええなあ。あほんだら、出直してこい。」班長は言った。
「はい。」初年兵係は言った。「田川、おすけ野郎、お前班長殿から質問されたらまず不動の姿勢とらんか。」
「はい。」田川二等兵の声はいつものように悲壮だった。彼は不動の姿勢を取った。彼の上には点呼後何が起るかはっきりしているのだ。
「あほんだら、おそいわ。」班長は言った。「おい、曾田。」彼は曾田一等兵の方へふり向いて言った。
「はい。」曾田一等兵は言った。
「何やこの勤務のつけ方は、俺の班から二名も厩当番につけやがって……それに、炊事に将集。勤務ばっかりで班内からっぽやぞ。貴様、この班にうらみがあるのか、あほんだら。四つに折って塩漬けにするぞ……」班長は、曾田一等兵の前まで歩いて行ったが、こんどは小さい甘い声でつづけた。「おい、どや? こんど、俺は、外泊確実か……准尉さんがどないいうてた。……おい、外泊くれなんだらな、こんどはきっと、塩漬けやぞ……」
兵隊たちは笑った。しかし曾田一等兵はただにやにやしているだけだった。木谷はじっとその方をみていた。
「点呼!」週番下士官が下の廊下でどなった。「点呼。」
点呼ラッパがなり渡っていた。
「気をつけ!」班長は廊下に立って号令をかけた。兵長はすぐ横の寝台の前のいままで開けてあった位置にはいった。
白赤の週番肩章をかけた週番士官は週番下士官をともなって威勢をつけたはげしい「点呼の勢い」でやってきた。班長は敬礼して、総員を報告し番号をかけ異常なしと言った。
眼のくりくりして背の低い週番士官は兵隊の列の前をあるいて一人一人の顔色をしらべて行った。それがすむと彼は形式通り銃架と整頓に眼をやった。
「おい、大住、班長はどうした、吉田班長はどうして点呼をうけんのか。」週番士官は言った。
「は。吉田班長でありますか。……風邪をひいていま臥床中《がしようちゆう》であります。」大住班長は低い気取った声で言った。それが彼がこの少尉に対する抵抗だった。
「そうか。よし。」週番士官は言った。それから彼は巧みに長靴をならして廻れ右をしてそして二班の方へ引き返した。木谷は週番士官が自分のことについて何もふれることがなかったのでようやく心をゆるめたが、それは無駄だった。整った顔をしているにもかかわらず、淋病《りんびよう》患者のように股《また》をひらいてのそりのそりとあるく伍長の週番下士官はかえるときに言った。
「大住班長殿、今日、かえってきたのは、この班だしたな。かえってきてまんな。」
週番下士官が去って行くと班長はささやくように言った。「あーあ、なさけなや、俺も明日は風邪引いてやるぞ。」
十二
木谷は点呼が終ったときは、『もうどないなとなりやがれ。あの曾田一等兵に頼んでみたところで同じことだ。』という風に、考えていた。しかし彼はそう考えながらも近くにやってきた染一等兵をつかまえて曾田一等兵についてききだした。「煙草ないか、煙草ないか。」と染一等兵は歌うように言いながら、袖のなかに両手をつっこんでぶらんぶらんさせて歩いていたが、やがて彼のところにやってきて説明した。それによると曾田一等兵は何かふっと眼に空気があたると木谷が思っていたように、大学出身者だった。彼は三年兵の補充兵で人事係の助手をしていた。そして染一等兵の「あら、ほんまに、ええ人だっせ。」という言葉には曾田に対する彼の好感がはっきりでていた。しかし学校出ということが分れば、木谷と曾田との間には、打ち破ることのできない障壁がそびえたった。彼は改まった眼であらためて向うの寝台の方をみてみなければならなかった。
そこでは右腕に教範類と大型ノートをかかえた田川二等兵が大きな体を前へつき出して、たのみごとをしていた。「三年兵殿。行って参ります。……あの山砲分解図、もう一度、貸して頂きたいのですが。」
「これから将校室いいくのか。行くのやったら、はよう行けよ。はよ行かんとやられるぞ。」曾田一等兵は手箱から薄い分解図のほんを出してきて言った。「あいたら、この手箱のなかへつっこんどいてくれ。」
もう初年兵係の声が向うでしていた。「田川、おい、田川、一寸、ここへこい。こいったらこないのか。」
「はい……」田川二等兵は歩いて行った。「はいっ、はいっ……」彼は今まで、むしろ自分からこの呼び出しをまっていたかのようだ。
「おそろしいか……ふん、おそろしいか。」やってきた地野上等兵は言った。「にげるか。貴様ら……」彼はそのとき、班から出て行こうとする兵隊達に向って言った。「将校室へ行く。将校室が何よ。将校のうしろにかくれやがって、いまに踏みこんでやるぞ。よし、今日は、このまま行かしといてやる……。逃がしといてやらあ。お前ら毎晩将校室でガブガブお茶のみくさって雑誌よんでやがるいうことやなあ……。あす朝、佐藤も谷も弓山もみんな俺のとこへこい。」
「安西、お前もこい。」地野上等兵は班を出おくれて、銃架のところでうろうろしている安西二等兵に言った。
染一等兵はまた歌うようにして歩いて行った。
「五つに分れたり、アジア州、ヨーロッパ州、北アメリカ州、南アメリカ州……。だれか煙草喫ましたれや。ほんまに喫ましたりいな。……ああ、あ、一つの怪物がヨーロッパをあるきまわっている。」
「染! 貴様、態度太いぞ……こいつ。」地野上等兵が言った。
「いやあー、上等兵殿、厩へ行きまんねんやないか……これから馬に水やりに……」
「馬の水与《みずあた》え出ろ! 各班、馬の水与え出ろ。」階下から外務週番上等兵の声がしていた。
「初年兵! 初年兵!」
「初年兵? 初年兵に馬を可愛がってもろう? あほなこと! 初年兵いまごろ、将校室でストーブたいて、タバコふかしてやがるよ。こっちが、さむいさむいいうて、ふるえてるのによー。」
「初年兵のやつ、馬の水与え位すませて、行きやがればええのに、点呼すんだら、すぐ勉強やぬかしやがって、将校室い行きやがる。」
「いまに、おれたちを、しぼろうおもて勉強してくれてはるんや。」
「へん、初年兵は隊のお客様だよ。」
「大事な大事なお客様やぞ。」
「そう、大事な大事なお客様やよ。」
「将校室焼きはろうてまえ。」
「あーあー、今よー。いれたりいな。なあ、いれたりいなー。」
田川二等兵も安西二等兵もようやくにして班内をぬけ出して行った。
兵隊達は消燈ラッパがならないのに、もう、毛布の間に身体をすべりこませていた。木谷もそれにならって、先ほど染一等兵に手つだってもらってつくった寝床の中にもぐりこんだが、眠れなかった。彼の左側の寝台にあった毛布は先ほど馬の水与えの時ぐるぐるまいて肩に一人がかついではこんでいたが、寝台の主が今夜は厩当番だったのである。寝台の上は藁蒲団《わらぶとん》をむき出しにして寒々としていた。
木谷の右隣の男は消燈近くになってかえってきたが、二言三言はなしかけてすぐ、だまってしまった。彼は去年の五月にはいった補充兵で頭の細くとがった男だった。彼は現在一号炊事勤務なので、四時に起き炊事にでかけて行かなければならないのだった。彼は寝台の前の床にチョークで四時起せと書いていた。
毛布のなかは暖かだった。しばらくたつうちに毛布のなかは体温がたまって、あたたまっているようだった。刑務所は石切の谷間にあったので、昨夜も、当直看守は零下八度と交代看守に報告していた。明り取り窓は夕刻看守がしめてまわったが、風ははいった。天井は高く手がとどかぬように板がはってなかった。厚い床板は毛布をとおして体温をうばい取った。「寒いよう、寒うて、ねられへんよう。看守殿……」と声がしている。木谷はそのような苦しみには耐えることができた。(陸軍刑務所の長期刑の囚徒達の唯一の望みは、この地獄をでて民間の刑務所に移してもらうことであったが、現役兵として入隊し義務年限ののこっている木谷には地方刑務所行きはのぞむことはできなかった。)彼は刑務所の重監禁にも耐えることが出来た。刑務所長は二年間、毎月悔悛《かいしゆん》の情をみとめがたいという報告を師団法務部に出していた。週一回、月曜日にある看守会議では、彼の採点はいつも上らなかった。しかし彼は刑期があとしばらくで終るという頃になって、むしょうに出たくなったのだ。
木谷は三日前所長面接所で仮釈放の内示を受けたのだ。彼は作業場から非番看守に後を追われて灌水《かんすい》浴場の横を通り独居房へぬけ看守の宿直室の横から右にそれて営庭のはしを斜めに横切り、衛兵所に行く途中の左側にある二階建の前まで出た。建物は緑色の開き戸を一つもつきりだ。「はいれ。」看守がいう。木谷ははいって正面の演台に向って不動の姿勢を取っていた。「敬礼。」看守がいう。木谷が顔をあげると頬骨のつき出た頬のぐっと引きこんだあの所長がやわらかい顔をつくって立っていた。お前もこんどはよくやった、わたしもお前を一日もはやく隊へかえして、お国のためにはたらいてもらわなければならないと考えておった……しかしどうしてもお前だけは安心して出してやれん。なんぼそうしてやろうかと考えたかしれん。なんぼお前のためにないたかしれん。わたしも看守長もみなないた。しかしいつも出した書類がみとめられなかった。ようやく今度書類の手つづきもすみ、三日後には出ることができるようになった。わたしもようやく肩の荷をおろした。この三日間によくいままでしてきたことを考えつくして、隊へかえってどうすれば御奉公できるか、用意してもらいたい……所長の説教は長かった。それがすべて嘘だということはよく木谷にわかっていた。そして彼も別にこの所長から何もきこうとしていなかった。すでに彼は仮釈放のことは、その前から宿直看守の一人から知らされていた。彼はただ所長の言葉をききながら女の形を考えていた。この二年間、彼がみてきたこと、きいてきたこと、考えてきたことは何だったろうか。彼はあの胸の厚い女のことを考えていた。でたならばまずそこへ行かなければならないということを考えていた。彼はこの所長が自分達にいそがせてつくらせたタンス、鏡台、長持が、どこに行ったか、その行き先を知っていた。この所長が彼の妻をつき殺したという評判は囚徒のなかにひろがりわたっているのに、本人はそれを知らずに、如何《い か》にもきびしそうなふるまいをして、自分たちを呼びとめるのだ。ああ、しかし、もうこんなことは、みんなうしろにけとばしてやると彼は考えていた。
それから彼はできるだけはやく林中尉の居所をさがしだして、そこへのりこんで行ってやらなければならないと考えていた。彼は林中尉がすでにこの部隊にはいないということをきいて知っていたが、どの部隊にいっていようともさがしださずにはおかないと考えていた。それにはまず経理室の金子伍長に会ってきいてみる必要がある。(彼は刑務所にいたとき後からはいってきたものに、金子伍長はすでに軍曹になっているということをきいて知っていた。)……彼の眼にはいまも一寸蝋細工《ろうざいく》のようなうす白い顔をした林中尉がうかんでいたが、それこそ彼を今日まで二年間あの鐘がなる刑務所へ送りこんだ人間だった。彼は林中尉の形のよい高いが小さい鼻、かたくつったって角ばっている耳を忘れることはできない。彼は刑務所をでればまず何よりも林中尉のところにでかけて行って、打ちたおしてやるのだと毎夜のように考えてきたのだ。彼はその細工物のような顔に指をつき入れて、かきまわしてやりたかった。
それから彼はあの岡本検察官にもできるものならあいたかった。全く林中尉の証言ばかりをとりあげてでたらめの検察をやったあの検察官。……それから中堀《なかぼり》中尉と山屋大尉、これは彼が軍法会議にまわるのをふせぐためにほん走してくれた人たちだった。
ああ、それから彼が刑務所をでたらやらなければならないと考えていたことは他《ほか》にもある。あの自分をよくなぐりつけやがったやかまし屋の看守の家をさがしだすこと……炊事囚の谷に手紙をかいてやること……、のびをすること、横にころがること、……ああ、はやく外へでたい……。
木谷は今日はほんとうに体中がつかれているように思えるのになかなかねむれなかった。
やがてラッパがなりわたって行った。
そして班内も次第に静かになって行った。木谷はまた女のことを考えはじめた。はやく出てそれにふれなければもう刑務所のなかにいるようにはしずめることはできないように思われた。しかし彼はもはや花枝を許すことはできはしないと思うのだ。
木谷は便所におりて行ったが、石廊下をおりたところの被服庫の向う側にある将校室にはまだ燈がついていた。そしてそこからそうぞうしい話し声がもれていた。
木谷は班内へもどって、足音を忍ばせて曾田一等兵の寝台の前にたったが、ついに彼をゆり起すことはできなかった。
第二章
一
じりじりストーブの上でこげる餅の匂いは曾田一等兵を、彼が「真空管」と呼んでいる、「兵営」の外側へつれだした。彼は大きい呼吸をしてその匂いを二、三度つよくすいこんだ。餅は兵営のうちにはなく、外部にあるものだった。それは真空の外のものだった。(今年は正月にも餅は支給されなかった。正月に兵隊の前に出されたのは、酒八勺と数の子、酢のかぶら、こぶ巻などにすぎなかった。そして彼が先日祝餅を食ったのは自分の家の餅だった。――このように兵営はいよいよその真空の度をましていると彼は考えていた。)それ故彼はこうしてその匂いをすいこんでいると自分が空気中に口をだしてぱくぱくやっている金魚のような気がした。
餅は彼の横に腰かけている小室《こむろ》一等兵が、この前の外出のとき衛門の眼をごまかして、家からもってかえってきたものだった。そしてその匂いは、はげしい勢でこの部屋のなかの兵隊の鼻につきあたった。曾田一等兵は一寸遠ざかるような眼をしてようやくふくれはじめた餅をながめた。それはいわば外界の切れっぱしとでもいうべきものだった。彼の眼はぼーっとけむっていたが、それは餅のただよわせた匂いのなかで何かを彼が考えようとしていたからだ。
「ほんまに、これもう全部食うてしもたろや……あほらしい。」小室一等兵は最近ときどき何でもないことにわざとすてばちのようないい方をするのだ。「あほらしいもない……食え、食え、食うてしまえ……准尉さんが来たってなんや! かまうもんか。」しかし彼はやはり隣の事務室にいる准尉や曹長にきこえないように声をひくくした。
曾田一等兵の後の事務机にもたれてたっていた時屋《ときや》一等兵は一寸薄い唇の右端をあげ、だまって指の長い青い手をのばして餅をおさえた。
「炊事い行って砂糖でもとってきてこましたろか……炊事い電話でもかけたろか。」小室は経理室の市村中尉の言葉つきをまねはじめたが、歯のぬけた口からでるその言葉は、気のぬけたように語尾がききとりにくかった。「もし、もし、炊事か……大江いるか……大江軍曹……おお、いたか……こっちは経理室の市村中尉やけど……いま、ホ隊にいるんやが、すぐに砂糖一鑵《ひとかん》だれかにもってよこさせてくれんか……うん、そうだ……すぐに持ってくるんだ。というような具合にはいかんもんでっしゃろかな……曾田三年兵殿。」
「という具合にいかしてくれてほしいな、しかしな小室のその顔なら……炊事もこわがってにげるぜ……、そんな歯がぬけるほど砂糖をよこせったって、無理だというだろうぜ。」
「ちがいおまへんな。」小室はうれしそうに言った。
「ストーブ、消えてきたんやないのかな……」時屋は言った。彼は首に合っていない太い襟《えり》から寒そうにつき出たほそい首を折るようにまげて火口をのぞきこんだ。するとこのとき突然小室一等兵が椅子から立ち上った。彼はあわててストーブの上の餅を横の寝台の毛布の上に放りなげた。
「あかん、はよ、はよかくさんとあかん……きやがった。……あれはきっと大住班長やぜ。……あの上靴《じようか》の音、そら。ぺた、ぺた、しゅ、しゅう……いうてる。」彼は言った。
「いや、こっちいは、こないよ。……大丈夫だよ。」曾田一等兵は寝台の上の餅をとって横の机の引出しのなかに放りこんだ。
「いや、くるくる、はよう……三年兵殿……引出しのなかへ新聞紙入れて、餅をかくしとかんとあきまへんぜ……」
「大丈夫だよ……きたってなんだよ。」
「ああ、きまんがな……」
「なんぼ餅をかくしたって、窓あけて空気を入れかえなければ、なんにもならしませんよ。」時屋一等兵は長い手を机ごしにのばして窓をあけた。しかしもうその外の足音は部屋の前まできてとまっていた。
「おいよ――いうたれや、返事したれや……おい、だれもいやへんのか……おいよ――」大住軍曹はしばらく戸の外で烈しくたたいていたが、誰も戸をあけに行くものがなかったので、今度は力一ぱい二、三度足でけったと思うと、戸の内側にむすんであった紐《ひも》を切ってはいってきた。
「おい、お前ら、この俺がきたら戸を開けられんのか……おい!」
小室一等兵は両手をあげて相手のふりあげた拳《こぶし》の下に身をちぢめた。「班長殿……。なにいうてはりまんのや。班長殿やとわかっていたら、そんなことしやしまへん、また、あの二班の杉《すぎ》班長殿が、薪をとりにきやはったんやないかおもうて内側からしめていましたんやないか。……班長殿……そんな、むちゃな……」
「何がむちゃや……この野郎……そのぬけた歯でぬけぬけと言いぬけようとしやがったってあかんぞ。……おい、出せ! この野郎! 何を食うてやがった? だせ。」
大住班長は首を前へつき出し、くぼんだ眼を力一ぱいみひらいて相手につきつけ小室一等兵を部屋の隅においつめて行った。小室は小さい体を攻撃に対してかまえて後に倒しながら、おびえた声をつくって、「班長殿、そんなむちゃな……そんなむちゃな。」と繰り返したがその声は兵隊の媚《こび》をふくんでいくらか甘かった。
「なんや……この野郎……ちび! きさま、いつものようにうまいことこの俺をいいくるめようたってだめやぞ……だせ! ださんか。」班長は激しい声で言った。「この野郎もまた、そばでじっとたってみてやがるか……おい曾田……貴様も同じやろ……そんなところで……ぬくぬくと、立って笑うてやがる。」
「別に何も笑うてませんよ。」曾田一等兵は言った。
「貴様か? 時屋!」
「ちがいますよ……班長殿。」時屋一等兵は相手の拳をふせいで言った。
「というようなんはどうや……こうやれば……この俺も一寸、恐《こわ》いやろ……」班長は不意に曾田一等兵の前へ再び顔をつき出して言った。彼は笑い出したが、左の頬の筋肉が自由にならないので、そこへ口の端が引きつり、すごい顔になった。しかし本人にとってはそれがとっておきの顔のようだった。
「お、お、お、おい――何とかいうたれや。……なあ……曾田さん、あたし、さびしいのよ、ねえ……かわいがってよ。……ねえ……ほんとにさびしくってさびしくって……さびしくって、たまらないのよ。」彼は腰かけたままじっとしている曾田一等兵に女のように身をくねらせて、だきつき、脂の上った頬をぴったりくっつけて行った。「だせよ! そら、小室、引出しの餅だしてやいてしまった方がいいぜ……」曾田一等兵はいつものようにようやくにして大住班長の抱擁からのがれて言った。この抱擁からにげだすのはむずかしかった。彼の心は冷えきっていたが、それがそのまま相手につたわるならば彼の存在はあやういのだ。
時屋は、細い手をのばして寝台の下にかくしておいた薪を取りだしてきた。小室は餅をストーブの上にのせた。
二
曾田一等兵には大住班長がなぜ、自分の後を追い廻すのかよくわかっていた。それは他のすべての班長や兵隊が彼や小室やその他の事務室要員の後をおいまわすのと同じことだった。その理由はニュースがほしいのだ。……もしそれが班長ならば人事異動と外泊のニュースが、それが兵隊ならば召集解除のニュースが。しかし曾田一等兵は自分より階級の上のものが自分に近づいてくるとき、いつも気が重くなった。彼らは彼のなかからいつも何かを奪うのだ。
「班長殿、もう、明日、中隊命令でますよ……」曾田一等兵は言った。
「何がでるいうんや! この野郎。」すでに小室のさしだした餅を二つとも食べおわった大住軍曹は大きな声をだした。曾田はその声ですでに軍曹がこの話をほぼ知っていることを感じた。
「やっぱり班長殿が一班の班長になられることにきまりましたね……」曾田一等兵は言った。
「それが、俺になんの関係がある。」
「一班の班長はなかなかむつかしいからというのできまらなかったと准尉さんは言ってましたがね。」
「そんなこと俺しるかい!」
「そら、大住班長殿やないと、一班はとてもおさまらしまへんわ……准尉殿はやっぱりようみてはるわ。」小室一等兵は言った。
「あほんだら、あほぬかせ……」班長は言ったが、……彼の顔はひとりでに解けて行った。
時屋はそんな話には知らぬ顔をしてしきりに鉛筆をけずりつづけた。
「あれほど、俺あ、准尉さんに、一班なんていややいうたあったのになあ――」
「一班がいやなんですか?」
「そらいややないか、曾田、お前みたいな……骨ばかりのやせんぼがいてやなあ――毎日毎日、准尉さんに、今朝はうちの班長殿、ねぼうして、点呼をさぼらはりました……昨日は、おすけして晩飯二はいもくわはりましたなんて、報告しやがるさかいになあ!」
戯談《じようだん》にかこつけて話をかきまわしておけば、大住軍曹も自分が一班の班長に任命されるというそのことを自分から話題にのぼすのが、楽になってくる。彼らの話はさらに班長任務のうるさいということから隊長のことや准尉のこと、曹長のことに移って行った。もちろんこのようなとき話をみちびくのは班長だった。そして下士官はいつも自分の上級者の動静にたいして血眼になっていた。とりわけ誰よりも准尉のことを少しでもくわしく知りたがった。
「事務室に准尉さんいるか。」彼は言った。
「また、むつかしい顔して、あの大住のやつ、毛布のなかにもぐりこんで、だらだらしてやがるんやないかみてこい、いうてはんのやろ。」
「そんなこと、准尉さんがいやはりますかいな……准尉殿はそんなひととちがいますぜ。」小室は椅子に腰をおろしながら言った。
「そんなことわかってるわい!」班長は言った。
「また、むちゃな……」
「何が、むちゃや……この野郎。准尉さんがどんなひとや位、この節穴のような眼した俺にもわかってるんやぞ……隊長と准尉さんとがどうちがういうこと位あ、なあ。」
大住軍曹は今度の新しい隊長に対してよい心をもってはいなかった。隊長はこれまでの中隊にあったしきたりの多くを無視してしまったから。それ故に大住軍曹が中隊にあってしばしば横車をおし乱暴をはたらき、そして自分の特異な存在を人々にみとめさせてきたことなどは全くかえりみられなかったから。このことは隊長が短期間のうちに中隊固有の風習や申し送りなどをみぬく眼をもっていないことを示した。その上隊長の指示はあまりにもこまかすぎたので、彼は下士官の領域をおかしてしまったのだ。それ故班長たちは号令をかける余地を全くなくしてしまった。実際は或いは前任者の隊長の方が、いささかその任務を放りっぱなしにしすぎたのかもしれなかった。彼はすでに大隊長になる時期が近づいていたし、師団司令部へはいろうという野心をいだいていたから。そして彼は自分と同じ野戦の戦線に出た下士官のうちの最上級者として大住軍曹をかなり自由にしてやっていた。
「おい小室、茶をくれ、茶を!」餅を食いおわった軍曹は言った。
「気をきかさんか、気を、……砂糖もなにもない餅をくわせやがって……あほんだら、茶も用意しやがらん……茶、茶、茶、茶やぞ……」
「また、はじめはった。」小室は言った。「きこえまっせ准尉殿に……」
「何? 准尉殿にきこえる? おい、おい、おい、おい……おーお。こわ……」大住軍曹は立ち上りながら首をすくめて、顔をふるわせてみせた。「おい曾田、むつかしい顔してんと、一寸は、相談にのったれよ……なあ……一班の班長ときまったんやったら、もうしょうないけど……俺あやっぱり、むつかしいおもうな……一班いうとこは面倒なとこやぜ……俺はこの間からしばらく班付班長で、責任のないとこからみてたんやけど……これが班長ということになると……また、別やさかいな……おい、曾田! おい!」
「そうでしょうね。」曾田一等兵は言った。「僕なんかには解らしませんけど……」
「そう、あっさり言うない……」
「初年兵のことですか?」
「そう、あっさり言うない……いろいろあるがな。」大住軍曹は曾田一等兵のうしろにたって、両肩に手をおいてぐっと力を入れた。
「何や、細い肩しやがって……毎日ストーブにぬくぬくとあたってやがるもんはちがうな。」
この班長の声で曾田一等兵の顔はぽっと赤くなって行った。
「そんなこと言わはるけど……ストーブがなければ、ほんとに仕事にならしませんぜ。ペンをもつ手がかじかんでちっとも進みやしませんもの。」こうしてずけずけした言い方のできるのは高等師範学校を出て数学の教師をしていて応召してきた時屋一等兵だった。彼は長い膝《ひざ》をおってストーブの前にしゃがんでいたが、ガリ版切りで骨がいたむといっている右手の指をなでていた。大住軍曹はしばらく奇妙な顔をしたが、「そら、そういうもんかもしれんなあ。」とあっさり言って曾田一等兵の顔をうしろからのぞきこんだ。「この間かえってきた、あの木谷なあ――あいつ、班内でどうしてよる? おれが班内へ行くたびに、かくれようとしやがる……どうも、そうや……」
「まだ、慣れないからでしょう。」曾田一等兵は班長の指を肩からもぎはなしながら言った。現在、彼の心をもっともとらえているものは、この隊内のなかではこの木谷一等兵のことであったが、それは彼の心のなかと同じように、この隊内のだれ一人に対してももらすことはできなかった。それにまた、彼はこの班長が自分に近づいてくればくるほど、はっきりした距離をつくっておきたいと願った。彼にはこの班長をにげるべき理由はなかったが、相手が自分に対してまちがった理解をもっているとわかるので、相手の自分に対する力の入れ方は気の毒だった。そして彼はこの班長の前ではひとりでに言葉数が少なくなった。この班長は第一彼の顔の表情が如何なるものであるかさえ知りはしない。
小室一等兵は事務室へ行って湯呑と土瓶《どびん》をもってきて、お茶を入れた。
「おそいやい!」大住班長はいった。
「三年兵殿!」小室一等兵はいった。
「無理せんといてや。」曾田一等兵はいった。
「むりちないでちょうだいね……」大住班長はいった。
「俺あ、あいつを、ほんまに、ええ、人間にしてやりたいおもうな……可哀そうやぜ……」大住班長は、お茶をのみおわると言った。
「なあ、曾田、お前もちょっとは、みてやれや……班長になったらまたたのむけどな……ならんさきからも俺からたのむさかいな……おい小室、煙草や、煙草……けちけちすない……」
「そりゃあ、自分もやりますよ……」曾田一等兵はいった。しかし、彼は自分の心に思っていた……『そりゃあ、全然、逆の方向ですよ……』彼の顔はくらくなっていった。
「あっ……いかん、准尉さんや……」叫んだのは班長だった。廊下をこちらに近づく足音はたしかにゆったりとして、准尉以外の足音ではなかった。
「こら、あかん……」班長は急にばたばたしはじめた。そして准尉がドアをあけてはいってきたとき、班長は、「おおはずかし……」といいながら、准尉の傍《そば》をくぐるようにして、准尉がはいってきたので、姿勢を正してたっている三人の兵隊の方には顔をのこしもしないで出て行った。
「どうした、くさいぞ……窓をあけんか……おい、曾田……この間かえってきよった木谷、どうしてよるか……一寸、よんできてくれんか……一ぺん話したいおもてたんやが……班内にいよったら……ここいこい言うてくれんか……」准尉は曾田一等兵のところにのそのそあるいてきて、窓の外にみえる壕《ごう》の修理作業の方に顔をむけたまま言った。
「はいっ……木谷一等兵をよんでまいります。」曾田一等兵は言った。
「班内にいたらだぞ……いなければあとでよろしい。」准尉は言った。「あの大住のやつ、なんや恥しいとは一体なんじゃ……」
准尉は曾田一等兵の方に顔をふって、ちょっと、あとの二人に眼をむけたが、知らぬ顔をした。彼はこの准尉用の個室に事務室要員がなぜあつまってくるかをよく知っていた。彼らは、事務室はさわがしくて仕事ができないという理由をつけて、ガリ版や鉄筆をもってこの隣の部屋にやってきた。彼らは、一時間に一回はここに集まってきた。事務室の上官と、その命令系統からのがれて。……彼ら事務室要員は、曾田一等兵をのぞいては、まだ年次が新しかったので、事務室から外に出て行っても、決して班内には帰らなかった。もしも班内にかえって行ったならば、彼らはすぐさま古い兵隊たちから用事をいいつけられるにちがいなかった。彼らはまだ班内の掃除や整頓や飯上げなど班内労働をしなければならない年次だった。
「おい……時屋……はじめようか……」小室一等兵は准尉の方からふきつけてくる空気にもはやじっとしていることができなかった。彼の小さい顔の肌はさらにちぢんだようだった。
「うん……やろう……ガリ切ってしまおう。」時屋一等兵はストーブの火をおとしながら言った。二人は、戸口のところで准尉の方に敬礼して外に出ると、ようやく、二人で顔を見合わせ、唇をつき出してぶるっといわせた。……彼らは足音をしのばせながら事務室の方にかけこんで行った。
准尉はそれには知らん顔をしてだまって外の作業を窓からのぞきつづけた。しかし兵隊が戸の外にでたとき、彼らの背に投げたその眼は冷たかった。
三
曾田一等兵は廊下をかけぬけて行ったが、彼は階段まで行きつかないうちに、兵器庫と被服庫の前で二度つかまってしまった。彼はそれを予想してかけ足でとんで行ったのだが、向うはまちかまえていたように、なかから首をつき出して彼をよびとめた。「おい曾田よ……一寸《ちよつと》、一寸……一寸……まあ……はいれや……おい……」兵器庫の前でよびとめたのは用水兵長だった。曾田一等兵は掌《てのひら》をひらいて前につきだした。「そら。」相手は彼のその手に、餅饅頭《もちまんじゆう》の袋を一つおいた。もちろんそのきこうとしているところは、外出の有無だ……次の日曜日には、外出はとりやめになるかもしれないという、うわさがとんでいた。それとともにまた、下士官の遠隔地のものには外泊がでていたのを、やめにするといううわさがとんでいた。そしてそれは主として防空要員の確保のためだといわれた。
「おい、曾田……外出あるか……ないか……おい、あるやろ……あるといえ。」用水兵長は言ったが、後で兵器をみがきにきていた使役兵たちはどっとわらった。
「兵長殿、あるようですよ……」曾田一等兵は言った。
「おお……あるか……よし……しめしめ……やっぱり曾田だけある……ソーダ、ソーダ……ソーダ! ソーダ。」
「おい……曾田さん……」部屋の奥の窓ぎわに坐っていた吉田軍曹は、ひらりひらりという風に床にひろげた拳銃の上をまたぎながらやってきた。「おい……准尉さん、俺に何泊くれるちゅうとった? 二泊? それとも三泊?」
「さあ……そりゃあ……」
「そりゃあどうした……まさか……」
「まさか……」
「おい……曾田さん……たのむよ――、准尉さんをうんとたきつけて……たのむぜ……あの准尉、この俺のことをほんまに……この頃、わるうおもうてやがるらしいんやけど……たのむぜ……」
「そんなこと、いうたって、自分などの力じゃあ、どうともならしませんがな……」曾田一等兵は言った。
「ま、ま……こう、こう、こう、たのむぜ……」吉田軍曹は准尉の背中を両手でなでさする真似をした。「こう、な、……ちょんちょんとやっといて……たのんだぜ。」
「大丈夫ですよ……班長殿。」曾田一等兵は言った。もちろんそれはでたらめだった。彼は吉田軍曹がただ自分のことばかり考えている人間だということをよく知っていた。
曾田一等兵は兵器庫を出て歩いて行ったが、しばらくすると彼のくるのを戸のところで同じように見はっていた被服係兵長につかまえられた。
「おい、曾田……」兵長は女のように顔でまねいたが、その顔はまたいまにも泣き出しそうだった。「なあ……外出どないになった? あるやろか? どないやろ? 曾田――、なあ、あるやろなあ――」
「あるやろ……」曾田一等兵は相手をじらせながら言った。
「なんやあ――、曾田そんな返事なんて、あるか? 一体、どうなんや? よう……なあ。」
「そうだから、あるやろ、いうてるやないか。」
「こんな古着屋のような真似して、毎日やってんねんぜ……こんななさけないことをなあ――それも、外出しようおもうさかいやぜ――」
「お国のためやろ!」曾田一等兵は言った。「外出はあるよ! しかし外出があったって、俺は今度は防空要員で残留やからな。」
「お前のこととは別やないか……外出があるかないかきいてんねんやないか……よう――、なあ――」兵長の顔はすぐにもまた泣きだしそうになった。二人は同じ年次の補充兵だったが、一方は勤勉で忠実で口がきいたのですでに兵長だった。
四
曾田一等兵は木谷一等兵をさがしに班内へ行ったが、いつも彼がいるはずの舎後の東側の寝台の上には彼はいなかった。すでに木谷一等兵がかえってきてから三日以上もたっていたが、彼は寝台からはなれるということはあまりなかった。彼は寝台の方にすわって、体をうしろの整頓棚の下のくらいところにおしこんでいるか、或いは毛布をめくって前につき出した足をつつみこみ……そのたてた膝の上にあごをのせて班内を見廻しているかした。もっとも彼は帰ってきて二日目には、方々の班長室に申告に行くのにいそがしかった。曾田は彼に申告の順序をおしえてやったが、彼がどのように申告したのか、それは知ることはできなかった。しかしふと下士官室からきこえてきた声をききとめると、なかなかききとりにくかったが陸軍病院より帰りましたといって彼が申告しているということが推測できた。その日に彼が営庭の方へ下りて行くのを曾田はみたが、その翌日からは、彼はやはりまた一日中班内にとじこもって、じっとひとりで時をすごしていた。曾田一等兵には最初、彼が自分に何か話しかけたがっているように思えたのだが、やがて彼は曾田のところへは全くこなくなってしまった。それでも曾田はときどき彼の方へちかよって行った。何かの機会をとらえて話しかけて行き、できるだけ近しい関係をもちたいと思ってその工夫をしたが、ついにはむしろ木谷の方で曾田をさけるという風なけはいが生れてきているように思えた。もっとも木谷がかえってきてから三日ほどたつと、すでに彼についてのいろんなうわさがとびはじめた。本人はもちろんそれに気づいていただろうが、そして多分そのためだろうが、木谷は最初の日にはいろんな不在中の部隊のことをきこうとして、初年兵や現役の初年兵をつかまえて質問をこころみていたが、それも次第にしなくなっていった。木谷についてのうわさはもちろん、ただのうわさであって、はっきりした根拠のあるものではなかった。彼は半年ほど前まで朝鮮の部隊にいたのだが、何か或る悪事をはたらいて、ついに内地におくりかえされてきたとか、陸軍病院からかえってきたと自分では言っているけれども、実際は、病院の精神病棟にいたのであって、それもまだ十分なおりきっていないから、注意しないといけないとか……あいつはあんな太い態度で一日中寝台の上にのさばってごろごろしていやがるけれど……せいぜい二年兵にすぎないらしい、しかし、なんでも師団司令部の方のだれかに知合いがあって、それが班長のところへ、この間木谷が部隊にかえってくるとき一緒にきたのをみた、というような程度のものであった。曾田はそのようなうわさに注意していたが、彼が刑務所からかえってきたというような種類のものはまだどこにもでていないようであった。もっともこのうわさにしても、それほどまだ一般に行きわたってはいず、古い兵隊、特に三年兵たちの間にあるにすぎなかった。しかし曾田は誰か他の兵隊が木谷のことについて何かそのような種類のことを言いだしたり、また間接に自分の近くで、何か話されたりしているのを耳に入れたりすると、何故かしらどきりとするのだった。彼は木谷のことをたびたび考えた。そしてしらずしらずのうちに、この兵隊のことを考えるというようになっていた。事務室の准尉の近くで机に向って鉄筆を動かしているときでも、頭のなかに動くものがあって、その動きをたどってみると、その糸のさきに木谷の顔があるのにぶつかった。
木谷が彼の班にやってくるまでは、彼の関心は主として初年兵――学徒入隊をした初年兵たちのところにあったのだが、それがいまでは、木谷の方に移って行こうとしていた。
曾田一等兵は木谷が或いは便所に行ったのではないかと思ってしばらくまっていた。しかし木谷はなかなかかえってこなかった。班内ではまだ練兵休《れんぺいきゆう》をとっている今井上等兵がのこっていたが、曾田はその方へさきに行くという気がしなかった。彼は下士官室をのぞいてみようと思ったが、下士官室にはいるためには、やはり「はいります。」といって礼をしてはいらなければならないと思うと、それもやめにした。彼はぶらぶらと上靴をならしながら階段を下りて行ったが、ここまできたついでに、便所に行っておこうと思って考えてみると、自分が帽子をもってくるのを忘れたことに気づいた。しかし帽子をとりに事務室の机のところまでかえれば、一応、准尉に報告をしなければならない。そうすれば、きっと准尉はもう木谷をさがしに行かなくともよいというにちがいなかった。そこで彼はたれか初年兵がとおりかかればそれのもっている帽子を借りようと思って、石廊下の裏手の便所へ出る通りのところでまっていると、一番最初にそこを通りかかったのは、初年兵の弓山だった。彼は裏の営庭の方から便所の横の葉のおちた桜の木をくぐって、巻脚絆《まききやはん》の足を引きずり引きずりやってきた。彼はつかれて顔色がわるかったが、曾田の顔をみてひびくような笑いを笑った。
「どうしたんや……」曾田一等兵は言った。
「はあ……」弓山は言った。「一寸、教練中に眼まいがしてきたもので……。教官殿がかえって休んでおれといわれたんで、かえってきたんです……」彼は曾田の方は放って、前にかがんで巻脚絆をときにかかった。
「えらいやろう……」曾田は弓山の両手の甲がひびわれと霜焼けとが混合して、じくじくと膿汁《う み》をだしているのを見ながら言った。「大丈夫か――」もちろんそれは、今後、軍隊生活にもちこたえることができるかどうかといういみだった。
「はあ――、大丈夫やろうと思います……」
「軍隊て、こんなところや……」
「ええ、わかってきました……」
「どう解ってきた?」
「はあ――」弓山の体は元来大きくなかったが、それがやせて、肩の辺りが細々としていた。その顔は美しいとはいえなかったが、しっかりした鼻と、細い頬の線と、血色のよい顔色をもっていたので、入隊した当時は生き生きした感じをあたえたのだが、いまはいつもほこりをかぶっているかのように、すすけてみえた。彼は初年兵のうちでもっともしっかりした考え方と、そして自分に対する統制をもっている人間だった。そしてそれは最近いよいよはっきり証明されようとしていた。曾田は、学徒入隊兵の班内に於《お》けるすがたを、じっとみているということができなかった。それは彼の心をこまかくふるわせた。彼らは軍隊の生活のなかで、あまりにもはやくほとんど自分自身を失ってしまった。彼らはみるみる自分のなかにもっている弱点をあらわにした。すると、曾田の心には、このようにして人間のなかから無残にもあらゆるものをあばきたてる軍隊に対する憎しみとともに、彼ら大学生に対する嫌悪感が湧《わ》き上ってくるのをふせぐことができなかった。そして弓山は彼らのうちで、そのような自己を失うことのない非常に少ない兵隊のうちの一人だった。
弓山はようやくとりはずした巻脚絆をまきにかかったが、返事はしなかった。想像してきたところとは全然ちがうという感想は、この弓山がすでに半月ほど前に曾田にもらしたところだった。しかし弓山はそれから先に出ようとはしなかった。曾田はそれ以上弓山を追跡はしなかった。彼は、「軍隊というところは真空管だぜ。」とひょいと自分の口から出しそうな気がしたが、やめにした。彼はそこへ馬手入れの袋をぶらぶらさげてもってかえってきた染一等兵に声をかけて、靴と帽子をかりた。
「染! おい、一寸、帽子と靴とかしてくれよ……」
「よろしま。」染一等兵は言った。
「三年兵殿、これでよければ。」弓山二等兵は言ったが、曾田はもう染一等兵の帽子と靴をはいて便所の方へかけだして行った。彼が便所の窓ごしに見たのは、斜め左の高い射《しや》てき台の裏側にたちならんだ棒杭《ぼうぐい》のところにかがみこんでじっとしている木谷の姿だった。彼ははっとして眼をみはったが、注意してみるとそこはちょうど一方は射てき台の土砂くずれをふせぐために板と木で頑丈な壁が組み上げてあり、そのうしろにさらにポプラの大きい木が三、四本植えてあり、その木の根っこにしゃがめば、射てき台の斜め右にたっているこの便所の辺りから眺めなければその人間をほとんどみつけることができないにちがいない。そしてなおもよくみていると、木谷はたしかに両手をうごかしてポプラの根元を掘り返しているように思えるのだ。
曾田一等兵は小便をすませて、彼から帽子と靴とを受けとろうと待っている染に向ってこえをかけた。
「おーい、染、もうしばらく、帽子貸してくれ、それから、そこにぬいだ俺の上靴を事務室の中隊当番のところへおいといてくれ。」
染一等兵は、「三年兵殿、殺生な……」といいながら、最後には「よろしま。」といって、上靴をとりあげて姿をけした。
五
曾田一等兵はすぐに射てき台の裏のところにかけつけようとしたが、途中の山茶花《さざんか》の木の下をくぐって向う側にぬけでてしまおうとしたとき考えを変えた。彼のすぐ斜め前のところでたしかに木谷一等兵は、木片をつかって地面をほっているのだ。木谷はほりながらときどき、頭をあげて、左右に気をくばったが、またほりつづけた。そして曾田はむしろ木谷が何かわけのわからない作業を仕終えてかえってくるところをつかまえようと考えたが、木谷は案外はやくそれをおえてやってきた。木谷は射てき台の裏からすぐこちらに抜けでてはこないで、そのまわりを一回まわって向う側から営庭の方へ出て行き、まるで営庭の方からまっすぐにやってきたという顔つきで便所の横の洗面所にあらわれた。
「木谷さん。」曾田一等兵は、ちょうど便所を終って手を洗いにきたという恰好で木谷のすぐ横の栓をひねった。木谷はぎくっとしてふり向いたが、水道の栓が半ばこごりついてちょろちょろしかでない水をそそごうとつき出していた両手を動かすと、ちょうど雲の間からあらわれた太陽が前の庇《ひさし》の下から一すじの光線をおくりこんで木谷の手をてらしだした。すると曾田はその手首がまるでやけどでつぶれてしまったかのように、幾筋も肌がひきつっているのをはじめてみた。木谷は返事はせず、首から上を前へつき出した。そして上眼《うわめ》づかいにじろっと曾田の方をみた。それからもう一度、首から上を前へつき出すようにおじぎをした。「曾田はんだしたな。」
「准尉殿がね、よんでられるんですが、すぐ行ってくれますか。」
「准尉殿?」木谷はゆっくりと顔をうごかした。がその眼は曾田のうしろの方にいっていた。と不意に、その眼玉が次第に上の方につり上って行ったと思うと、「おい貴様、何をぼんやりつったっとるか? おい?」という声がして、便所の方から週番肩章をかけた将校が近づいてきた。
「おい、お前はだれだ? 何隊のものだ? どうして胸に隊号をつけんのか? 何隊だ?」頬鬚《ほおひげ》の濃い士官は言った。それは他中隊の週番士官だった。
「はい?」
「何故《な ぜ》、敬礼と声に出して言わんか? 何故敬礼をせんか?」
「はあ――」
「何故せんか。」
「はあ――」
「何隊だ――」
「ホ隊であります。」曾田一等兵は傍から言った。
「お前にきいてはおらん。」将校は言った。「おい、返事せんのか?」
「はあ、ホ隊であります。」
「ホ隊じゃ、将校が、兵隊が二人以上いるところをとおりかかったらどうするか、おそわらんのか?……おい、お前のその姿勢は何だ……それで不動の姿勢のつもりか。お前のその眼玉は何だ、しょっちゅう、きょろ、きょろ動きまわってるじゃないか……それにその体は、何だ……全然左の方へ倒れてしまってるじゃないか。」週番士官はつかつかと近よってきて木谷の体を手荒く両手で右の方にまげたが、彼が手をはなすと木谷の体はまたもとどおり左の方に傾いた。それは如何にもわざと意識的にやっているようにみえた。そして傍の曾田をはらはらさせた。
「おい、きいてるのか、俺のいうこと貴様きいてるのか?」士官は身構えるかのように動いた。木谷は依然としてものをねらうような眼つきをしつづけてだまっていた。士官はついに「おれと一緒にこい!」といいだしたが、木谷はじっと動かなかった。士官はなおしばらく木谷に注意をあたえていたが、ついになぐる機会をとらえることができなかったのであろう、訓戒をあたえるだけにしてそのまま去っていった。
「くそったれ!」と木谷は言った。彼の瞼《まぶた》はけわしくふくれた。しかし彼は曾田と顔を見合わせるとにっこりした。
「くそったれ。」木谷は口のなかでまだ言っていた。
曾田は木谷の笑いにたいして微笑をかえすことができなかった、というよりもおくれてしまった。木谷は水道が出ないので冷たいたまり水のなかへざぶっと手をつっこんで洗った。しかし頬にはまばらに鬚がついていてうすぎたなく、寒そうだった。曾田は彼にハンカチを貸してやった。曾田は木谷の顔をじっとみつめるのをさけた。
「准尉さんがよんではるってどんな用事でっしゃろか。」
「さあ――話したいことがあるそうですよ……事務室の隣の部屋で待っています。」
「なんでっしゃろなあ――」
「さあ、自分にははっきりわからしませんけどね。」
曾田はむしろ木谷につき従うようにして歩いて行ったが、木谷は二人が石廊下のはいり口のところにきたとき急にくるりとふりかえった。彼は曾田の体を肩でおして建物の窓の下のところにおしつけるようにしてつれて行った。曾田は一体彼が何をしだすのかと圧倒されてしまった。「曾田はん、あんた、このわしのことをきいて知ってはるやろな。」彼は言った。
それは曾田の予期しない問だった。それはあまりにも突然のことなので彼は「いや、僕は別に知らないです。」というような答をしかかったが、ようやくにして首を大きくたてにふった。木谷は首をつき出して眼を光らせていた。
「曾田はん、班でみんな俺のことをなんていうてま?」
「さあ……いや……別になんていうなんてことは……」
「でも、なんとかいうてまっしゃろ。」
「いや、別にそんなこと気にしていないと思うけど……」
「先任兵長はどうでっしゃろ?」
「さあ! 別に何もいうてはいませんよ。」
「班長はどうやろ? 知ってまっしゃろか?」
「吉田班長と大住班長は知ってますよ。」
「その他、あんた以外でだれが知ってますやろ?」
「事務室にいるものは知ってるけど、絶対に言うことはないですから。」
「そうかなあ――。あんた、週番の給与伝票みやはったやろか?」
「給与伝票? 何ですか。みてませんがね。」
木谷はしばらく黙ってうつむいていたが突然哀れな声でいった。
「なあ、曾田はん、准尉さんがいつ外出さしてくれはるか、わからしまへんやろかなあ――、どうでっしゃろ……まだずっと先だっしゃろか――、准尉さんにあんたからもたのんでみてくれしまへんか……なあ――」
曾田一等兵にはどうしてこのように急激に木谷が自分の前で垣根をとりはずしたのか解らなかった。彼の方は、しかしまだそれをとり去ってしまうわけには行かなかった。彼は、自分などがいくらやったところでどうなるものでもないけれど、自分でできるだけのことはするからと言った。そして、いまはゆっくり話せないが、点呼後でも相談しようと言って、相手に准尉のところにはやく行くようにうながした。……曾田はひとりになったとき、すぐに射てき台の後のところに行って、木谷が掘っていたところを掘り返してみようと思ったが、掘っているうちにいまにも木谷が引き返してきてみつかりそうにも思えるので、それはやめにして、靴と帽子を班内にいる染一等兵に返しに行ったが、班内では、青い顔をして寝ていたのに起きてきて、昼食準備のために手箱をあけて次々と食器をだして行く弓山二等兵を染一等兵がしかりつけているところだった。
「もう大丈夫やて! あほぬかせ! ねてろ、ねてろ! 俺がやったるさかい、ねてろ! そんな青い顔してなんや!」
「古年次兵殿、もう、別になんともありませんから。」弓山二等兵は自分をはげますようにいいながら、寝台の上を次々とわたって行った。
六
曾田が事務室にかえったときには、准尉はそこにはいず、隣の部屋から、その低い話し声がもれてきた。しかし今度は彼は隣室に木谷がいることをたしかめたにもかかわらず、射てき台の裏へは行かなかった。彼はちらと自分が陸軍刑務所にはいらなければならないかも知れないということを考えた。彼は今夜の不寝番を割り出し、明日の厩当番《うまやとうばん》、来週の炊事勤務などの選定をしにかかったが、中隊長の名簿の下に勤務名をかき入れた勤務割当表を一つ一つ繰って行くという気がなくなっていた。彼は先ほど木谷が言った給与伝票とは何をいっていたのかと思い出して、事務室の入口をはいってすぐ右側に、ちょうど窓ぎわの准尉の机と真正面に向い合う位置にすえた週番下士官のところまで行って、中隊の現在員、総員をしらべる風をよそおいながら、給与伝票を繰ってみたが、四、五日前のところに、人員増、一、師団ヨリ受入レ、木谷利一郎一等兵と書きこまれているのをみてようやく先刻の木谷の質問の意味を理解することが出来た。すると彼はいよいよ自分の仕事に手がつかなくなった。もっとも、この事務室から准尉の姿がきえるや、兵隊たちはもちろん、班長、曹長にいたるまでが、その上にのしかかっていた重みが取り去られるのを感じた。それ故に彼らは急に各自の姿をあらわした。そして、事務室は煙草の煙とさわぎとでもうもうとした状態になった。もちろん小室も時屋もたち上ってストーブのところへお茶をのみに行き、中隊当番をからかっていた。曾田はストーブの雑談には加わらなかった。彼はふと思い当るところがあって日々命令綴《にちにちめいれいつづり》を後の棚の上からおろしてきて、ひそかに頁《ページ》を繰った。彼はそこに木谷の原隊復帰の命令(師団長命令を受けて発せられた命令)がそこにはっきりかかれているのを読んだ。そこには木谷が陸軍刑務所より原隊復帰をすることが明示されてあった。
曾田は今までこの日々命令に軍隊の行動の重要なもののほとんどすべてが出され、一般に公表されるということに気づかなかった自分の抜けていた点が自分でおかしかった。このことに気づいてみると、すでに木谷に関する報告が先日雑報として師団から廻送されてきていることが思い出された。それは最近の軍隊内の犯罪の傾向とその教育に関するものであった。もちろんそこには木谷という名前は使われてはいず、仮名が用いられてはいたが、いま記憶をたどってみれば、たしかにあれはこの木谷にちがいないと思えた。曾田は中隊当番がはこんできてくれたお茶を飲むひまもなく、すぐに雑報綴を出してきて、しらべてみたがそれは一カ月ほど前に出された報告で、犯罪情報の一部だった。曾田はもう一度それに眼をとおした。そこには更生しようとする兵隊の例と、もはやその見込みのない極悪な兵隊の例とが対照的にだされていて、この後者の悪い例こそ、木谷にちがいないということがその犯罪の種類によって推測することができた。枚方《ひらかた》の衛兵について、巡察に来た士官の金入れを取ったという一件と軍機密をみだりにもらしたという一件、この二件の追求によって二年三カ月の懲役に処せられた兵は、刑務所入所中いかに所長所員の手をもって訓諭しても、なかなか悔い改めるという風がなく、すでに前後三回にわたって担当看守に手をふりあげ、はむかう態度を示し、さらに作業道具をもって背後から危害を加えようとして、刑務所内でさらに反則処罰をうけることしばしばである。このような極悪不ていな兵の事例は、これまであつかった隊内犯罪者のうちでも非常にまれであって、そのよってくるところは、国家観念が全く欠如しているところよりくるものと考えられる。忠実にして優秀なる兵をつくる上に於て、如何に国家観念、皇軍の自覚の重要なことはこれによって知られるものである。この事例を通じて各部隊に於ては兵の教育の参考とされたい。――報告はこのようなものであった。そしてそこに使ってある言葉は極悪無道だとか、いささかの悔悛の気持もなくとか、残忍非情とか人情を解せず義務を負おうとする心全くなくとかいう風な、如何にも断定的な、そして読むものの嫌悪心をひきおこそうという意図ばかりがはっきりみえるようなものであった。もっともこのような形容詞はその前にのせられているよい方の事例にある、容相一変温順をとりもどし、真面目につねに自分の犯した罪を自分に責め、そのつみほろぼしの出来る日に死をもって国に奉公しようとの心いよいよあつく、刑務所内の手本となりつつありなどという言葉とならべて使われているのであった。この方は逃亡して武器を遺棄し、食にこまって民家におし入り、食料を奪い去った兵の事例だった。
曾田一等兵は先日よんだときよりもはるかにはげしい印象を、この報告からうけた。彼はこの兵隊が、他に未遂事件をおこしているということを頭において木谷の顔を思いうかべてみたが、或いはそれはありそうなことかもしれなかった。しかしいささかの悔悛の情なくという風な断定となると、どうしても彼の見る木谷から感じとることはできなかった。すると或いはこの事例のなかにある人間は、犯罪事実は似ているとはいえ、あの木谷と別人ではないのかという疑いが彼の心のうちに起ってきた。木谷のおどおどした動きのなかからは、どうしてもこのような強い感じがえられないということはこれが文章を誇張と考えている軍人の文章だからであろうが、それにしても、これではあまりにも、対象からかけはなれてしまっているのだ。
「三年兵殿、雑綴一寸貸してくれますか?」
向うから手がのびてきたとき、曾田はまるで自分の犯罪事実をおおいかくそうとするかのように、雑報綴を手元に引きよせて頁をとじた。
「三年兵殿、一寸、一寸ですよ……一寸だよ。」それは近海《おうみ》上等兵だった。「何だんねん……何よんではんねん……」
曾田は黙って返事もせずに相手に綴をわたしたが、それはこの場合決して相手が二年兵ではあるが上等兵なので、言葉の調子が威圧的になるのに反撥したからではなかった。ストーブのところで三年兵殿、三年兵殿と小室一等兵が、眼をぱちぱちさせて、いいものができたからと合図していたが、彼は行かなかった。さらに、しばらくして、ついに小室がやってきて、三年兵殿、砂糖湯でんがな……と言ったが、彼は行かなかった。彼は犯罪情報のことを思い出して、将校のものをめがけているという事実や、何ら悔悛の模様を示さず、当局のにくしみのまとになっているということを考えると、くらいとはいえ、快いものが自分のうちをはしり去るのを感じた。
「中隊当番……おーい……だれかいないか……」隣の部屋から、准尉の言葉がきこえてきたような気がしたが、それははっきりしないままにきえてしまった。と五分ほどしてまた、声がした。はっきり准尉の声だ。
「三年兵殿……いま遊んでたんでしょう――だったら、行ってくれますか。」近海上等兵が言った。「よし、行こう。」曾田は言った。と、このとき、事務室の入口があいて、「はいります。」とはいってきたのをみると木谷だった。彼は先日帰隊して准尉につれられて、最初にここへはいってきたときよりもはるかに落着きがなく、周囲の人々に自分を左右されているようにみえた。彼は二、三度顔を左右にうごかし、あたりを見廻したが、ようやく中隊当番の存在をみとめて、「准尉殿が近海上等兵か曾田三年兵のどちらでもいいからきてくれといっている」旨をつたえた。
「ええ、行きますよ……いま。」曾田は木谷の方へ近よりながら言った。
「はあ、お願いしますです。」木谷はまるではじめて会う人間に話すかのように改まった言葉使いで言った。小室は最初おされるように体をさけたが、いつもの敏速な小さな眼でその姿をのこるくまなくうつしとろうとしていた。
曾田は隣室に行って准尉の命令を受け、事務室の准尉の席の後の非常持出箱のなかから身上調書綴と兵籍簿とを出して持って行ったが、このとき彼は窓の下の事務机の前にだらんと腰かけた准尉の横側に頭をたれたまま重い口調で話す木谷をみた。
「そしたら、結局、お前のところからは、手紙をだしても、きてくれるもんはおらんのか。」
「はあ――。いや、はあ、兄貴がきてくれると思いますですが……」
「いま、兄貴――兄さんはとてもきてくれんといったんじゃないのか……」
「はあー、きてくれないと思いますですが……」
「なんや……どっちや……わからへんやないか……木谷、なあ――どっちやー。」
准尉の言葉はいまや猫の手のように柔らかだった。そしてそれはいよいよ柔らかくなって行きそうだった。ところがそうなればなるほど木谷はおずおずと頭を揺った。
「なあ! 手紙で呼んで兄さんにきてもらうぞ、いいな――」
「はあー。」
「おうー、こっちへもらおう。」准尉は手をのばして書類を受け取ったが、木谷ははいってきた曾田の方は見ようとはしなかった。曾田はそのような准尉の柔らかい言葉から彼が木谷を老練な手つきで取り扱い、自分の手のうちににぎりとって行こうとしているのを感じた。もっとも下士官たちは准尉のこのような手つきにとらえられて、准尉さんはものわかりがよく、よく人間ができているという判断を下していた。――曾田は昼食の後で班内で木谷の口から准尉と彼とがどのような話をしたかをおおよそきいたが、それは別にたいしたことではなく、木谷の家庭のことが中心であって、木谷の兄の住んでいる近辺はかつて准尉も住んでいたことがあって、何通りには何という何店があったというようなこまかい世間話がでたのだった。そして、結局、兄貴にきてもらうことにしたというのだった。――もちろん、曾田は准尉に対しても同じように自分を幕につつんで接していた。彼が事務室へかえってみると准尉の当番兵が准尉の食器を出して、ふきんで拭っていた。彼は大いそぎで不寝番勤務だけを割り出して、チョークで割出表の小さい黒板に書き入れて石廊下の壁のところにかけに行った。すると今日はすでに訓練をおえた初年兵が、そこにかけつけていて、初年兵係上等兵のしている巻脚絆をとくために、その足元にかがみこんで、「上等兵殿、上等兵殿、どうか、自分に巻脚絆とらして下さい……」とたのみこんでいた。ところが、地野上等兵の右足には二人も初年兵がだきついて、自分にとらして下さい、自分の方にとらして下さいと、互いにいい合っているのだ。みると一人は安西二等兵だった。
「おお、いいよう――、安西……お前に巻脚絆とってもろたら、おっとろしいよ――」地野上等兵は言った。
「上等兵殿……そんなこと言わずに、自分にやらして下さい……上等兵殿、上等兵殿。」安西二等兵はコンクリートの上を膝であるき廻りながら、顔をふりつづけた。傍をとおる曾田の顔はひとりでにほてった。彼の顔に出会うと地野上等兵は眼の辺りをゆがめて顎《あご》から上をしゃくってつき出した。「曾田よー、ようしてくれるよ、こんだの初年兵、これみてくれるか――ちぇっ。」彼は安西二等兵の手をふりはらってにくにくしげに言った。「なによ――。いいったら……なにを、お前たちにしてもらうことがあろう。」
七
曾田は地野上等兵の侮辱の言葉を胸にもって班内にかえって行ったが、班内ではまだ机の上に大きなアルミの薬罐《やかん》が二つごろごろ転がされていて、誰もお茶をくみに行っていなかった。下士官室から班長の食器膳《ぜん》を出してきていなかった。ストーブにたく薪はもはや一本もなかった。弓山二等兵が一等兵とともに食事準備をしていたが、おっつくはずはなかった。そして古い兵隊たちは、互いにぶつぶついいながら、自分の肩を寒そうにだいて机のまわりに尻をおしつけて「お――、はよう、飯くわしたれや――」と言っていた。
「おーい、曾田よー。」曾田が班内にかえってきたことに気づくと彼らは一せいに声をかけた。「おーい、外出、あるんのんかいー、どないやねんー。」
「ありますよ。そりゃあ。」曾田は皆のあつまっているストーブのところへは行かないで、自分の寝台のところに行こうとしたが、それは彼の言葉で「わーっ。」という歓声を一どきにあげた兵隊たちによってとめられた。何という喜びだろう。喜びはあふれ、「泣かす、泣かす。」と彼らは言った。彼らはさらに声をあげた。「おーい、曾田ー、やっぱりちがう、なあー曾田ー。ほんまにたのむぜ、ええ知らせきかしたってよ。おーい、はよう、火たいてこの曾田をぬくめたってよ。――おい、曾田こっちい、きてあたりいな――」
「おーい、にげんない……逃げんない……もっとええ、話、きかしたりいな――、外出は、何時やねん!」兵隊たちは外出のこととなると、すでにわかりきっている同じことを、繰り返し繰り返し質問するのだ。外出のことにいかなる仕方にしろふれるということが、彼らに哀れな喜びをもたらせる。「七時、かい? 八時、舎前に整列! 泣かす! 泣かす!」
「あーあ、たつよ、たつよー。」
「もう、たちどおしやがなー。」
一人の兵隊は相手の兵隊の首に腕をまきつけて引きよせ、自分の体の上に相手の尻をのせて、大きな嘆息をついてみせた。
「われ、こんど、あの白い襟布《えりふ》俺にかせよー。」
「なにをいう、あかんあかん……あれは俺がこんどあのラシャの服につけて、しゅうっとして……」
百十二部隊の衛門で
はんかち片手に眼になみだ
古い兵隊達はうたったが、それは次第に殺気だって、めちゃくちゃにくずれそうであった。
あなた上から下《さが》り藤《ふじ》
あたしゃ下から百合《ゆ り》の花
一汗かいたそのあとで――
「なあーなあ、なあー、おーい、やってよおー、行く行く行く!」
「どこい行くのじゃ……白い汁。」
「穴のなかから、墓の中、よいよいー。」
彼らは薬罐をもってきてたたいていた。
「満期操典やれ! 満期操典やれ。」多くの声が同じことをもとめていた。
金ある単ちゃんたよりない
いきな上等兵にゃ金がない
女なかせる二つ星、よいよい
女なかせる二つ星、よいよい
「おーい、曾田さん……愛してね……外出さしてね……ね、お願いよ。」大住班長の声色《こわいろ》をしてみせるのは、橋本三年兵だった。かつて彼は曾田が初年兵としてはいったとき、現役兵として六カ月はやく入隊していたために、曾田を毎日その長くつり上った眼を横の方からつきつけるようにして、最後になぐり倒したのだが、いまでは曾田が事務室にいて准尉の仕事をしているので、ときどきお世辞や、あらわな媚態《びたい》を示した。ところがその媚態というのが、相手を女として取り扱い、頬ずりしたり腋《わき》の下に手を入れたり、股でしめたりすることなので、曾田はその手の下をくぐりぬけて、「ああ、たまらん……そんなことされたら……どうなることやら。」などといいながら体裁よく逃げなければならなかった。「おーい、曾田しゃん……そのぽっぽさわらしてよ、ねええー。」
曾田は今日は機先を制せられていたし、木谷のことで自分の心のなかに重いものがあったので、いつものようにすばやい即答をなげつけて、相手を取りさばいてたくみにきりぬけて行くということができなかった。彼は橋本三年兵の馬くさい体からぬけ出したが、今度は意地のわるい、いつも人間をうしろからじっとのぞいているような土谷《つちや》三年兵につかまってしまった。「おい、ありがとうさんよーふんで、くれたな。ありがとさんよーふんで、くれるといたいぜ……なんぼ、お前が細うてかるいいうたって、いたいぜ。」
土谷三年兵はいやないんうつな脂くさい匂いがした。曾田は言った。「ああ、すみません。この橋本はんが、あんまり俺の首をしめやがったんで、足の踏みどころが解らんようになりやがって。」
土谷のはば広い顔についた怒ったような眼はもう全く白くなった。
「へえー、そうだっしゃろかねえー。ふん、外出をもってやってきてくれはったんかいー、外出! ちぇっ、くそ面白うない。」
「そうですかねえ。」曾田は相手の言葉をとって言った。
土谷がぐっと気をつめたのが曾田の咽喉元《のどもと》にもつたわった。「おいー、お前それでええつもりか? それでこの俺に向ってええつもりかよ。」
「どこかわるいところがありますか?」
「なあ、曾田さん、お前、初年兵をよう可愛がってくれてはるなあー。」
「そうですかねえ。」
「おい、そうですかねえとは何や。それに橋本三年兵を呼ぶのに橋本はんとは何や? この橋本とお前とでは、同じ三年兵でも、三年兵がちがうぞ! お前が初年兵のとき橋本をどうよんでたんや……橋本二年兵殿とちゃんと殿がついてたやろ……俺たちはな、この手でお前を教育してやったんやぞ……もう一度初年兵みたいになぐってほしいか?」
「土谷はん! あんたみたいなおすけ古年次兵に、なぐられてきたさかいにこの俺はまだおすけ一等兵でふにゃふにゃしてるんやないか。」曾田一等兵は烈しい声で言ったが、彼の年次ではこれ以上の言葉を上の年次のものに言うなどということは不可能だった。実際いまも彼はすぐ自分の辺りで、彼に向っておしよせてくる年次の古い兵隊たちの呼吸を感じていた。彼の言葉は彼らの呼吸を解いて笑いにみちびいたが、それはただ偶然のことにすぎなかった。曾田はそれをつきぬけた。三年兵たちはくすくすわらいだした。
「土谷、土谷よ、外出でけんからいうたって、いくらわめいたって、あかんぞ……」
「ちぇっ、よう、土谷、やれ! やらんか、曾田のやろう、この頃態度わるいぞ……」
きょろきょろ後をふりかえった土谷は再び曾田の方にせまって行った。「おい、曾田、お前、また、この俺を厩当番につけやがったな……」
「そんなこと俺は知らんよ! 勤務つけんのは俺だけやないもん……」曾田は相手の言葉をすばやくはねあげて、身を退《ひ》きながら、「初年兵、はよう顔よこせ、湯くんでこい。」とわめいている集まりの外へ出ようとした。
そのとき班内にはいってきたのは地野上等兵だった。彼はいつものように銃架のところから、まるで上体だけを自分の手でほうりなげるようにして、「何や、何や、なにしてん……誰が? え、曾田の野郎が。」といいながらとびこんできたが、事情を知ると、曾田という名前をさもきたならしいように言った。「曾田、どこにいる、よんでこい! 面白い! この間から一ぺんやらにゃいかんおもてたんや! おーい、どこぞい。」
「野郎、ほんまに生意気になりやあがった。」いままで黙って何一つ意見をはこうとしなかった今井上等兵がいった。
「おけ! 土谷、曾田におされてしまいやがって。」地野上等兵は言った。
「おい曾田。」こんな声を耳のうしろにして、それにかまわず自分の寝台の方へかえって行こうとした曾田は、銃架のところで昼飯をたべに階下から上ってきた用水兵長にとっつかまった。
「おい曾田、ほんまに、外出あんのかいな? 隊長は今度の日曜日には外出はとりやめるいうてるそうやないか、おい、ほんまか、おい、曾田。どうなんや……この野郎……なんや……にやにや笑うて黙ってやがって、じらすない……よう。」
「隊長の方は、外出をやめさせるいうてがんばったらしいですけどね、准尉さんの方から、兵隊は外出させないと志気があがらないからと隊長に申しでて……」
「おっ、それで、やっぱり外出と、きまったんか。そうか……よしやっぱり曾田やないとあかん。曾田、ええとこあるぜ……小室の野郎さっき下で、隊長と准尉さんとがなんとかかんとかやいうて、わからんことぬかしやがるさかい、そんなことどうでもよい外出はどうなるんやいうてきいたら、いやそれで隊長は外出はさせんというてるといいやがって……こっちがそれから結局どうなったときいてるのに、将校室から呼びにきやがって行ってしまうとなかなか帰ってきやがらへん……ほんまにあいつ気をもませやがった。汗かいたぜ。そうか……兵隊は外出をさせないと志気があがらない……准尉さんがいうてたんやな……泣かす! ほんまに、外出とめやがってみろ……一日中、毛布かぶってねてしもて、兵器もみんな、錆《さ》びさせてしもたるさかい……」
「おい、何や、用水兵長、何がどうしたんや……外出がどうかした? どうした……なんかあったのか! ええおい――どっちぞいよー。」曾田のあとを追ってきた地野上等兵は太い手をつき出して言った。
「いやー、心配させやがったぜーえ、この曾田の野郎が……な、あーあー汗かいたよ。」用水兵長は鼻を右手でつまんでぶるんとすりおろした。「あー、あ、汗かいたよ。」
「そうよ、この野郎、ちいと、この頃、のさばりくさって……」地野上等兵はじっと廊下の真中でつったっている曾田の方へ憎しみのこもった眼でにらみながら近づいて行った。
『やるなら、やりやあがれ。』曾田は動かなかった。曾田が初年兵のときもっともよくなぐられたのはこの地野からだった。それ故にこの地野の厚い肌をした顔は、いまも圧力をもって彼にせまった。しかし彼の心はこの顔に熱い火炎をふきかけた。
「おい、おい、おい……ええやないか! 地野!」用水兵長は言った。「そや、そやー、泣かす、……俺あ……今《こん》だあ……あれきて出るぞ……おい、地野、靴墨かせよー。」
「初年兵、薪はまだかー。」兵隊達は再びさわぎだしていた。
「誰かいないのか、誰か?」「誰かいないのか、誰か?」呼んでいるのは大住班長だった。下士官室の戸をあけて、そこから大声でどなっているのだが、二班をこえて、ようやくきこえてきた。
「おい、誰か、曾田いるか、曾田?」
八
曾田は地野上等兵の攻撃からのがれるために、これをきっかけに二人に背を向けてとんで行ったが、彼が下士官室の戸をあけて大住軍曹の机(それは窓ぎわの右側の吉田軍曹の机と少しへだててやはり窓に面しておいてあった)のところに行くと、戸の横の壁ぎわに逆立ちしていた兵隊がうめいて、床の上にくずおれて、大きな音をたてた。「いて、いて、いて……」それは染一等兵だった。
「いつ、足をおろしてええいうた? おい、染。一体、だれにたのまれやがって、この俺の手箱と寝台動かしやがったのか? いうてみろ……それが言えんかったら、そこで、それをいうまで逆立ちしてろ――」大住軍曹は、机に竹刀《しない》をもたせかけて言った。「おい、この俺が、いつものように、途中で許してくれるおもたら、間違いやぞ……こら、くそ……俺はこんどはとことんまでやっつけてやるんやから、貴様を使って、この寝台を、こんなところに放り出しやがった奴の名前をききとるまでやる……。よくなきやがるな……せんつうなら、腹をなでたら直るけどな……いまに、脳に血がさがって、顔もほおずきのようになりやがるからな……。おい曾田……きたか……よし、俺は貴様に、この染の監視役を命ずる……いいな……」
「班長殿、何でありますか。」曾田は言った。
「何でありますか? 何でありますかて、いかやないか……、いまに墨をはかして、泥をだして、うらむけにして。」
「染がどうかしましたか?」
「どうかしましたか? とは何だ……これ、みてみろ……これ!」班長は寝台を指さした。
「さあ……それが、どうか……」
「おい、曾田、貴様も……いかにしてほしいか……それともたこか……」
「はあ……」曾田は、ちらと右側で故意にそ知らぬ顔をしつづけて、書類に赤線をひっぱったりしている、吉田班長の方をながめたが、吉田班長は不意に立ち上って……、ばたんと戸をひらいて……大きな音をたてて出て行った。
「おい……染! 吉田班長にたのまれたなら、たのまれたといえ……吉田班長にたのまれたんやろ……おい! 返事するんなら、逆立ちやめて……立ってよろしい。」
染一等兵はいつまでも逆立ちをつづけようとするらしく、立ちあがらなかった。
「よし……、そのまま、しておれ……」大住班長は机にたてかけてあった竹刀を取り上げて、横なぐりに染の上にあげた足をはらった……「いひひひひ……」染一等兵は奇妙な声をあげて、右にどーっとくずおれ倒れた。
「おい、よしとは、いうとらんぞ……えい、えい、えい……」大住班長は、竹刀を染の脇腹のところにぐいぐいつき入れながら言った。「よし、曾田……俺あ……お前をみこんで……こいつの前でたのみたいことがある……きいてくれるか……おい! きいてくれるかといってるんや……どないや――」
「はあ――班長殿、何でありますか――」
「きいてくれるか、というてるんや……俺は。」
「はあ――」
「きいてくれるか、きいてくれるか……」班長はこういう間にも、染の首筋のところを竹刀でしばいた……。その度にうっぷしている染は、首をまわして班長の方へ向き直ろうとするらしく、「いひ……」「いひ……」苦しげな声をあげながら、あやつり人形のように首をうごかした。
「班長殿! 班長殿! いうて下さい。」曾田一等兵は言った。彼はこの染のいいようのないいやな声をきいて、染を愛している自分の心が深いのを感じとった。「班長殿!」
「よし……こいつを班内につれて行って、俺の手箱と寝台をこんなところにほうりださしやがったのはだれかききだしてくれ……こんな奴、こうして殺してしもうてやるんや……こうして、こうして、こうして……」
「いひ……、いひ……、いひ……」
「死ね、死ね、死ね……死ね……」班長の顔は見る見るぷくっとふくれ上ってきた……彼の鼻は先がいよいよとがって、ふるえているようだった。と不意に、ふりあげた竹刀がストーブの上の薬罐にひっかかって、それをはじきとばした……「あっ……あっ……」染一等兵は顔をおおったが……。
「あついか……血がまだ通うてやがるか……血が通うてる間は……こうだ、こうだ、こうだ……」
「いひ、いひ……、いひ……」
「よし、曾田、つれて行け! お前のええようにしろ……。はやく、つれて行かんか。……どんなことをしてもええさかい……こいつから、ききとってくれ……しかしやぞ……だれにもいうな……はやく行け――、他の班長が、もうかえってきやがる……」
曾田は染一等兵をたたせようとしたが、彼は顔を両手でおさえたまま、立ち上らなかった……立ち上ったと思うと、どうとまた倒れた……そこで曾田は彼を肩にすけて、引きずるようにして下士官室を出て、班内につれてかえった。しかし下士官室をでるや、しばらくすると、顔をおおっていた彼は、両手をはずして、「曾田三年兵殿、すんまへんなあ――あのど気狂《きちが》いめ……が!」と班長をののしった。彼は恥かしそうにゆがんだ顔を曾田の前にあらわしたが、曾田は哀れな兵隊の顔が、自分の心をつき動かしてくるのを感じた。彼の眼はまたたいた。
「あるけまんがな……あんなもん位、なんでもあらしまへん……あんな、ど気狂いのすることは、こたえしまへん。」染一等兵は言って、自分の両足を廊下の真中につったてて、あるこうとしたが、しばらく、足がいうことをきかないので、廊下の銃架のところに身体をもたせて……、大きくいきをひいた。
「三年兵殿……もう、よろしま……行っとくなはれ……そうでないと、また、三年兵にやられまっさかい……ひとりで歩きま……たのんます……」彼は、ぐっと口をくいしばって、たち上り、くそっ、くそっ、というようなかけ声をかけながら、自分の寝台のところまであるいて行って、寝台の上の藁蒲団《わらぶとん》のはしをにぎって、そこにかがみこんだ。
「おい――、染――、どうしたんや……腹でもいたいのか……」ストーブのところから声がとんできた。
「へえ――、腹だす。」
「また、おすけしやがったんやろう、ゆうべ……貴様。」
「へえ――」染一等兵は言った。彼はまだ朝四つに折りたたんだままでおいてある毛布の上に顔をふせたが、またそれをあげて、前のくらい整頓棚《せいとんだな》の下をくらい眼でながめた。彼は頭を速度のゆるんできた独楽《こ ま》のようにうごかした。どこかとおくで馬がいなないたのを彼はきいたかどうか。
曾田は染一等兵をほうっておいた。彼にはどうするすべもなかった。彼は大住班長と吉田班長の以前からの争いが、いよいよ、あらわになってきたのを知っていた。二人はもう互いの顔を濡らし合った。はっきりとあつい呼吸をふきかけ合った。そして互いに班内の兵隊を奪い合った。そこで兵隊たちは全く自分の知ることのない苦しみを苦しまされるのだった。曾田は二人の対立の原因をほぼしっていたが、吉田軍曹は五年以前からずっとこの部隊にいる下士官であり、大住軍曹は二年前野戦からかえってきた下士官である。そして内地組と外地組の二組が対立しているように彼らも対立した。大住軍曹は殊に吉田軍曹の怠惰をにくんだようである。いやその香水の匂いのただよう円いうつくしげな顔をだ。しかしこの二人がはっきりと向い合わなければならなくなったのは、一カ月前、部隊に大動員があって、幹部の下士官のほとんど全部が外地に去り、吉田軍曹がこの中隊のうちでの一番上席の先任下士官に大住軍曹がそれに次ぐ席次をもつようになってからである。以前から二人は同じように一班の班の班長であったが、暫定的に吉田軍曹が一班の内務班長となったとき、大住軍曹の行状が荒れたのを曾田は知っている。彼は准尉に一班をはなれたいと申し出た。しかし准尉はもうしばらく部隊が落ちつくまでまつようにと説きつけた。さらに吉田軍曹が兵器係軍曹を命ぜられたとき、大住軍曹は、同じく被服係軍曹を命ぜられたが、彼は被服係軍曹のような役は自分のたえるところではないと言って、受けようとしなかった。自分はやはり、ずっと兵隊といつまでも接触をたもっていたい……兵隊の教育をつづけて行きたいというのがその理由であった。しかしもちろん、それは決してその本当の理由ということはできなかった。もっとも彼の求めていた兵器係軍曹の位置が吉田軍曹によってしめられてしまったので、再び彼の行状が乱れたのだとははっきり言うことはできなかったが、彼が兵隊達との接触がなくなるのを悲しむなどということは決して考えることなどできはしなかった。軍隊の下士官のほとんどすべてがそうであるように、大住軍曹も吉田軍曹と同じようにこの上なくわがままだった。彼らが自分以外のことを考えるなどということをどうして想像することができよう――しかしいまでは大住軍曹の主張は准尉にうけ入れられ、実際に彼は第一班の内務班長となるのだ。すでに彼は立沢准尉を自分の手に入れていた。いや或いはむしろ准尉が彼をしっかりとその手のうちににぎりとったのかも知れないのだ。そして曾田自身、この准尉の手のうちにあるのである。彼は自分の位置を考えるとき如何《い か》に考えてみてもそう考えるほかにはない、彼はここでは准尉の助手以外にいかなる位置もなかった。
九
曾田は大住班長からやっかいな仕事をおしつけられた。染一等兵が吉田班長のいいつけで大住班長の寝台の位置を変えようとしたことはもう事実疑いないことだろう。吉田班長が自分の寝台との距離を遠ざけようとして大住班長の寝台を染一等兵に動かさせたということはありうることだ。そして他にはそのようなことを考えつくものなどはこの中隊にはひとりもいやしないのだ。しかしそれは決して大住班長が声を大きくしていいちらすような、彼の寝台を下士官室から放り出して、どっか別の部屋へ移そうなどという考えでなされたものでは決してないということも明らかなことだった。吉田班長はそのような意志的で行動的な人間ではなかったから。むしろそのようなことをするとすれば、それは大住班長の方だった。彼がもし逆に吉田班長よりも上の位置にいて、そのような行動が許されていたならば、きっと実行したにちがいない。しかしそれを染一等兵の口から言葉として吐きださせるということは、それは彼自身が、吉田班長の陣営を捨てて大住班長の陣営にあることを表明することだった。しかし、彼には、そのようなことをしなければならない理由はない。しかもまたもし染一等兵を掴《つか》まえてその言葉をはきださせたならば、染は今度は吉田班長から同じように打撃をあたえられるにちがいない。もっとも染は如何になぐり倒されようと、また、その他のはげしい私刑にあおうと、口をひらくような男とは思えなかったが。――曾田の心はこの面倒な役を引きうけさせられて、重かった。彼は自分にはこのようなことはとてもできるとは思えなかった。それ故に少しの間放っておいて、大住班長の怒りがいくらかとけたならば、その時はあるいは気がかわるなどということはなくとも、それほど染を追及することもないのではないかと考えた。それに彼は先ほどからこの染一等兵よりもはるかに木谷によって心を奪われていた。ところが木谷はすでに准尉との話をおえて、班内にかえっていたが、今日はめずらしくも、いつものように寝台の上に毛布をひろげて坐りこむことなく、窓ぎわの中央につったって、じっとその硝子《ガラス》の向うを見下していた。曾田は廊下のところから木谷をみつけて、しばらくその後姿《うしろすがた》をみていたが、木谷はいつまでも窓から眼をはなさなかった。そのうちに曾田はふいと一つのことを思いついた。その窓のところからあの射てき台のポプラの枝がみえはしないかという疑問が彼のうちに浮かび上ったのだ。彼は一刻もはやくそれをたしかめてみたいと思って、足ばやにそこに向ってあるいていった。が彼がそこに行きつかないうちに、彼はひとにぶつかり、はねとばされた。彼は食台(机)の間に倒れ、脇腹を食台の角にぶちあてた。彼を倒したのは佐藤という初年兵だった。初年兵は腕に銃剣を五本ほどかかえこんでいたが、それを大きい音をたてて床の上におとした。彼はあわてておとした銃剣をひろって左側の寝台の上においた。
「佐藤! 何! 何! 何するか……。おい佐藤……、おい、佐藤……おい佐藤! いうてんのがわからんのか?」大きな足音をたてて、とんできたのは地野上等兵だった。「おい。何してん。」「はいっ!」佐藤は初年兵のなかでは一番敏捷《びんしよう》そうでまた「賢こそうな」均斉のとれたやわらかい顔をしていたが、実際はもっとも鈍重で、また記憶力を失ってしまっていた。彼はようやくにして不動の姿勢をとったが、その顔は、寝台の上においた剣のさやでつづけさまに打たれた。「はいっ。」
「貴様、曾田三年兵を倒しておきながら、一言の謝ざいもしないのか……よう、しないのか。」
「はいっ。」
「何が、はいぞい……。おい……。はよう、いって、曾田三年兵殿に思いきりなぐってもらってこい……」
「はい!」
「はやく行くんだ。」
曾田は自分の前にたった佐藤を見たが、彼はさらに自分のすぐ前にあるふくれた二つの眼の玉をみた。その眼は二重《ふたえ》のなめらかな瞼《まぶた》でつつまれていたが、力をもたなかった。彼のきている略衣は前が油とほこりで真黒だった。
「曾田三年兵殿……」
「なんだ。」
「地野上等兵殿が、行ってなぐってきてもらえといわれました……」
「ふん。そうか。」曾田はわざと地野の方はみなかった。「俺のとこなどへくるやつがあるかい――、あほなことすな。」
「はい――」
佐藤はそのまま帰って行ったが、曾田が木谷の後のところに近づいたとき再び彼のところにやってきて、どうしても彼になぐってもらってこないと承知しない、もしなぐってもらってこなければ、地野上等兵自身、ここへ来て曾田に話があるからと言っているというのだ。佐藤はその眼と同じように体に力がなかった。彼は寒そうだった。さらにもはや動作がこれ以上できないかのようであった。それは曾田にかつての自分の姿を思わせた。しかし彼はこの佐藤に心を動かさなかった。
「いいから、……おれのとこへきたって、俺あしらんぜ……」曾田は地野上等兵のところにとどく声をつくって言った。
「でも、上等兵殿がどうしても、なぐってもらってこい……と……」
こちらをふりかえって、二人をみていた木谷は、じっと曾田の方に眼をそそいだが、頭をふって、再び窓の方に向いてしまった。
「俺あ、手が痛うて、なんぎしてるのに、なぐれんよ……」曾田は地野上等兵が、あるいは、今日は、このあとで自分をなぐることになるかもしれないと考えていた。彼はいつものように廊下の真中につったって食事準備をする兵隊たちを見はっている地野上等兵の威圧が自分の上にも及んでいることを知っていた。「ええよ、いってくれ、俺あいまいそがしいんや……おい――」
「はい……そうでありますか……」佐藤は言った。彼の声は元気がなかった。彼は何かもっと言葉を待っていたが、待っても甲斐《かい》ないことをさとったもののように、だまって頭をさげてまたかえって行った。が、曾田はすでに地野上等兵がむこうからこっちにむかってやってくるのをみた。曾田は木谷の方にすすんだ。
「曾田はん、わかりはりましたやろか。」木谷は曾田が言葉をかけないうちに彼の方からふりかえった。彼の眼は大きく開いていた。彼の口はさらにささやいた。「曾田はん。」
曾田は相手のはげしさに圧倒された。そこにつき出た顔は、どこか別のところからでている顔だ……どこかくらい深いところから。曾田は相手の手首のところに眼をやった。相手は笑った。曾田にはその笑いが理解できなかった。彼はその顔をみつめながら言った。
「ああ、伝票のこと? 炊事の給与伝票は別になんでもないですよ。」
「なんでもない?」
「ええ。」
「どない書いてました?」
「いや、別に……そうですね……師団ヨリ受入レという風にかいてありましたよ……」
「ふん、師団ヨリ受入レ……」木谷は顔の緊張をゆるめたが、不審を解かなかった。「それだけだしたか?」
「ええ……」
曾田は窓硝子の向うの例のポプラの樹に眼を向けた。それはそのすぐ下の便所の屋根のはるか向うに、ほとんど、その樹の根元までのぞきこむことができるではないか……ここからあの樹が見えるということさえ考えられなかった曾田は、その樹の根元をほりかえしている自分の姿を、この窓から木谷が見つけるところを想像してぞっとした。それはたしかに起りうることだった。いや或いは、彼が先刻、あの下士官室をでて、すぐにあのポプラの樹の下へ行っていたならば、木谷はきっとここから彼の姿をそこにみたにちがいないのだ。しかしたしかに以前はこの窓のところからあのポプラの樹など見えはしなかった。そしてそれは便所とポプラの樹との間に教育隊の建物があったからなのだ。いまはその建物は土台とともにさらに左方の柵《さく》の近くにうつされていた。
(どうしてあんな樹の根元を木谷はほっていたのだろうか……)樹はいまや全く裸でたかくつったっていた、月が皮をはいだ白い幹の片側にさしていた。
突然木谷は曾田の右腕をつかんで……手元に引っぱった。
「日報もそうやろか? ほんまに伝票、そうなってるのか? 曾田はん、それほんまか?」
「ほんとですよ。」
「日報も?」
「そうでしょう。」
「日報も。」木谷の声は次第にゆるくのんびりしたものになって行った。
「日報は俺あまだみてないけどね……いま曹長が使ってるし、曹長の助手が手から離さへんからね……しかし伝票は大体日報係と相談して切るんやからね。」
「おい、曾田、一寸《ちよつと》きてくれ。」地野上等兵はやってきた。「おい曾田、返事したれや、よおー。」地野上等兵の顔はこのとき一寸角を下に向けた牛のようだった。「おい、曾田、お前、初年兵がなぐれんのか? 初年兵の教育はな、この班じゃ、みんなこの初年兵係の俺のいうとおりにしてくれんとどんな兵隊ができるか、わかろうが? お前、どうしても、初年兵がなぐれんというのか。」
「こんな手ですよ。……これでなぐったりしたら、手の方がはれあがってしまいますぜ――」曾田は右手をつき出して、ぶらぶらさせた。彼はその自分の手つきが相手ににくらしげにうつるように工夫した。彼にはそれ以外に反抗の方法はなかった。「これがいたいか。」相手はその手をとびかかるようにしてつかんで前へ引いた。
「初年兵係、なにしやがるか。」木谷はうなり声をあげるように言った。「勝手な真似しやがるない。」
「よっ、よっ。」地野上等兵はその方へ向っていった。
「勝手な真似しやがるない……横合いからはいってきやがって……こっちの用事がすんでからのことにするもんやぞ。」
「よっ、よっ……」
「あほ、ぬけ野郎。」木谷は大きな声をだしてみるみる顔をふくらせ、体をふるわせたが、自分を制した。
地野上等兵は木谷の方へじりじりとせまっていったが、「おい、病院下番《かばん》、この班でこの俺のいうことがきけんというのか。」を繰り返した。
「そんなものは、きけないぜ……」木谷の眼はすわって、額に太い筋がふき出てきた。
「よし、その頭をうちわって、いまにいやでもきけるように、してやっからなあ――、おいもっとこっちへでてみろ。」
そのとき大住班長がはいってきて、大きな声でどなったので、二人はにらみ合ったまま、しばらく呼吸をはかっていて、顔をつき出し合った。
「おい、誰かおらんのか。おい……誰か……。おい、曾田のやつはおらんのか……」
「いませんよう。」曾田は地野上等兵の呼吸を下からすくい上げようとするかのように、調子をつけて言った。
「おい、曾田……。あれは解ったか。……すぐ下士官室の俺のところまでこい……。この野郎、そんなところでのろのろとあそんでいやがってから……」大住班長は二人をかこむように集まってきていた班内の兵隊を手でかきわけながら、曾田のところに近よってきて言った。
「遊んでいやしまへんぜ……」曾田は言った。
「やかましいやい――」班長は言った。
「班長殿。」
「やかましいやい――」
すでに室内には飯バケツがはこばれ、食器に次々とついでまわる初年兵は、あせってそれぞれいきをはずませていた。
「班長殿。」曾田はさらに言った。
「やかましいやい。」班長はさらに言った。
兵隊たちは笑った。しかしそれは半ば追従笑いにすぎなかった。
「班長殿、すぐ行きます。いま、一寸、ここで話があるので……」
「やかましいやい……」班長はいよいよ図にのっていいつづけた。しかし曾田がにやにや笑いだすと、調子をかえるのだった。「何を、話がなんだ。そんなものほっといて、俺のところへすぐくるんや。」
そのとき、中隊当番が准尉が呼んでいるからと曾田をさがしにきた。
「豊浜! きさまは、何というときにここにきやがったかあ――。曾田の野郎、もうけやがった、行ってこい。しかしな、かえってきたら、すぐ、俺のところにくるんやぞ――」
曾田は班長の横を通りぬけて事務室へいそいでかけおりて行った。とうとう、地野上等兵と衝突しなければならなくなったが、しかし、もうそれをうまく切りぬける方法は彼にはなかった。
「おい、地野、一寸は、薪をまわしたれよ――。お前、ほんまに、毎日ストーブたきづめでぬくうてぬくうてしょうがおまへんいうような、ええ顔してやがるやないか。」班長は地野上等兵の肩を後におしやって、木谷の方に近づいて行った。
「木谷、どないや、え、木谷どないやねん。」
「え、へえ。」木谷はおずおずした顔で言った。彼はわざとらしい笑いをつくった。
「何やねん、お前、その服は、もうちっと、ましなものをもらえよ――。被服係もまた、ようお前にこんなもん、きせやがったな――」
「はあ。」と木谷は言った。
「俺が被服係にいうたろか、もうちょっと、なにせんと、なんぼなんでも初年兵とちがうんやないか。ええ、そうやろ。」班長は言った。「おい、地野、お前、初年兵係で初年兵みんのが商売かしれへんけど、たまには、ほかのこともみてやれ、よ、な……」
「はあ、班長殿。」地野上等兵は不満そうに言った。「班長殿、自分やってずい分気をくばってやってますぜ、そら、いそがしいのなんのって――、なあ。」
「何や、その声は。われは、何や――」班長は言った。彼は地野上等兵の方に全く尻を向けた。彼は木谷の方に向って言った。「おい、……こまっていることないか、あったらいえよ――」
「はあ。」木谷は言った。しかし木谷は班長の方へは、でて行かなかった。彼は班長の顔をみつめて、横をむいた。
「こまってることあったら、すぐ言うてこいよ――」班長は、柔らかい声で言った。彼は踵《かかと》をかえしてわめいた。「何やい、われら、なにをみにきてやがんねん、え。どけどけ。飯やぞ飯やぞ。おい、橋本、なんやそんなとこにぼーっとつったってやがって、夜明けのガス燈みたいに。おい、橋本、厩《うまや》へ行け厩へ。厩へ行って馬んなれ馬に。染、われはまた、犬みたいに鼻をひくひくさせてやがる。」
「班長殿、そんな、馬ぐらい、毎日でもなりまんがな……へ、へ、へ……」橋本は言った。
「なんや、こいつ、けったいな笑い方しやがって……。われはまた話をじきそこいもって行く。われは何てことをいう、ちったあ、上品な話したれ、上品な話。」大住班長は帰って行った。
「敬礼。」初年兵たちはさけんだ。
「ちぇっ、あれが、こんどから、うちの班長か。重いぜ……」地野上等兵は言った。
「おい、はよう満期さしたれや、満期。」今井上等兵は言った。
「食わしたるぞ、くわしたるぞ、馬のふけ飯、まってなはれや。」橋本三年兵は言った。彼らは、ぞろぞろストーブの方へかえって行った。
「おーい、さむいなあ……ほんまに、飯できたか……おれにも、忘れんと、食わしてや――なあ、初年兵さん……」用水兵長は手に息をふきかけながらはいってきた。
木谷は再び窓の方に眼を向けた。
十
事務室で准尉は犯罪情報をさがしていた。しかし小室や時屋がかなり時間をかけてさがしたのだが、でてこないので、彼は当番のはこんできた食事に手をつけた。曾田は先ほど戸棚の奥にしまった雑報綴を取り出してきたが、准尉は、もう一つ、古いのがあるだろう、それをだしてくれんかと言った。どういう事項内容でしょうかと曾田はきいた。彼は「それはひょっとしたら陣営具倉庫にあるかもしれませんから、すぐさがしてみます。」と言おうとして口をつぐんだ。彼は准尉の身体つきが、いつもとは少しばかりちがうことに気づいたのだ。別にその眼のくばり方がどうだとか、物のいいぶりが変っているというようなものではなかったが、口を動かしながら食器の方だけに眼をやったまま、曾田の方を見返ろうともしないその上衣をぬいで鼠色のワイシャツ一枚になった小さな体が、曾田にそれを感じさせた。准尉は口のなかのものをのみこまずに言った。
「木谷のことがでてるはずなんだがな。」曾田はこのときもう自分が犯罪情報の綴をあまりにもはやく、戸棚の奥からとり出してきたことを後悔した。それは事務室の他の者が、どうさがしてもみつけ出すことができなかったものなのに、彼だけが、その在り場所をよく知っているということは、准尉の心にどうひびくだろうか。
「すぐ、さがしてみますです。」曾田は言った。
「さがしてくれるか。」准尉は顔をあげた。
「はあ、……」
「どこか、あるかな。」
「さあ……それは。」
「お前、知らんのか。」
「はあ、全然知りませんですが。」
曾田は兵隊言葉のなかに自分の身をかくそうとつとめた。彼はその書類はきっと陣営具倉庫におかれているにちがいないということをはっきり思い出した。准尉は、「うん。」と言った。そのとき、准尉、おい、准尉、准尉はいないかという隊長の上《うわ》ずった声が隊長室でして、つづいて、おい誰かいないか、誰か准尉をよべというつくった声がそれにつづいた。それは隊長の威厳を保とうとしている声であることは、はっきりわかったので、事務室のものは顔を見合わせた。彼らは笑った。准尉はわらわなかった。彼は机の下で、両足をひらいた。誰も隊長室へかけつけるものはいなかった。准尉はそれを命じなかった。彼は立ちもしなかった。曾田がこれは何かおこるなと思っているともう隊長室の戸があけはなたれる音がし、つづいて事務室の戸がばーあんとひらかれ、隊長の小さい体がその戸口につったった。
「敬礼。」あわてこんだ中隊当番がどなったなかを、隊長は肩をふってなかへはいってきた。一同は敬礼して頭をさげたが、准尉は事務机に腰かけてじっとしていた。隊長はその方にぐんぐん足をのばしてあるいて行った。彼の眼はまだ立ち上ることをしない准尉をわらっているかのようだった。
「准尉、印判はどこにある……かえしてもらおう……」
「はあ、印判でありますか……はあ、あずかっておりますが。」准尉は言った。
「あずかっておりますがじゃあ、こまるじゃないか、すんだら、すぐかえすようにするもんじゃぞ……」
「まだ、すんでおりませんのですが……」
「いや、印判はこれから、みな、わしが自分でおす。印判をかえしなさい。」
「これであります。」准尉はおちついて言った。
曾田は隊長の呼吸がはずんできているのをみた。「准尉!」隊長は言った。「お前は、ちっとも、書類をみせんなあ――週番勤務簿も一つ一つわしにみせるもんじゃ……これから、みんな、そうする……」隊長の顔は、上気して赤くなっていた。彼はまるで顎を上へあげて、子供のようにいばりちらしだしそうにみえた。
「准尉! なんで、敬礼と号令がかかって、敬礼せんか。わけがあるか。わけがあるなら言え。」
「はあ、敬礼ははぶかせて頂いております。事務室では、隊長殿に対する敬礼は、一々、やらせていては、事務が進行しませぬから、やらないということにしております。」
「ふん、そうか――。理くつはとおっておるな……よろしい。准尉よろしいぞ……。うちの准尉はよろしいぞ、准尉。」隊長は名前をよばず准尉といったが、彼はこのとき准尉を賤称《せんしよう》のようにつかった。准尉は顔を動かさなかった。隊長は曾田の手にもった書類を手にとってみた。「何? 犯罪情報。……何だ……何……おい、これはいけない……大変じゃないか……准尉、こんなものを兵隊に取り扱いさせてはいけないじゃないか、すぐ、取り上げるようにせい……。いいか。」隊長は、曾田の手に書類をかえしながら言った。「お前は誰じゃ?……木谷か?」
「いいえ、曾田であります。」
いままで両側につったって隊長の幼稚な芝居をながめていた勤務員たちは、これでくすくす笑った。ところが隊長にはその理由がわからなかったので、顔をあげて鳥のように動かした。「曾田、お前、ここにかいてあること、誰にも、いうんじゃないぞ……」
隊長がかえって行くと、皆はこの准尉の部屋の気流がかきみだれているのを頬にかんじて、だまったまま、次第に用事にかこつけて部屋をでて行った。
「はやく、ここでんとあかん、こんなとこいのこってたら、ふきとばされてしまう……いきまひょ、はよ、いきまひょ。」小室の言葉にさそわれて、曾田は班内にかえって、おくればせながら皆の口を動かしている仲間に加わった。この間は、隊長と准尉の間に次の休みに兵隊を外出させるさせないで意見のくいちがいがあり、その前には、隊長が朝、隊に到着したときには、准尉、曹長は、入口まで出迎えて、朝の報告をかかさずしなければならないと要求して、准尉との言葉のやりとりになったが、准尉と隊長の間には、とくことのできないくいちがいがもう生れてしまったようだと考えながら、太い木の根のようなキャベツの汁に顔をつっこんでいると、先ほどから曾田の向い側からしきりに声をかけようとしていた木谷が言った。「曾田はん、飯すんだら、すぐ階下へ行かはりまっか。」それは木谷の挨拶のようなものだった。先刻の地野上等兵との事件で木谷と曾田の間には深いつながりができたようだった。いや深いとはいえないにしても、一つのつながりだ、軍隊以外のつながりだ。曾田はすぐ階下へおりて行くといった。
「それやったら、また、晩にでもたのみまっさ。」木谷は言った。彼は笑った。曾田も笑いを返したが、彼はいつしか、自分が木谷のなか深くはいって行っていることに気づいた。彼は木谷との対話を打ち切って、食事にとりかかったが、彼が考えていることは木谷の身の上だった。彼はとおくで、「あいつ、俺を、今夜不寝番につけやがった……、曾田のやつ……しょがないな――、ほんまに、――あのやろう――」と地野上等兵が言っているのをきいた。
「おーい、曾田、せっ生やぞ……俺、不寝番ついたん、二日前やぞ、それにまた、今夜つけるなんて殺生やぜ……」はいってきたのは二班の里田《さとだ》三年兵だった。
「二日前、ああ、それやったら、あとで変えとくよ。」曾田は言った。彼は、今日は、もうあと二、三人が、不寝番か厩当番で文句をいってくるだろうと思った。彼は今日は仕事を丁寧にやるなどという気持は全然なかった。彼の心は陣営具倉庫にある犯罪情報の古い綴のことで一ぱいだった。彼は不思議にも眼の前にいる木谷の実在物よりも、このときには過去の木谷に心をうばわれていた。彼は食事がおわると、すぐ木谷のところに行って、顔を近づけてみたが、木谷の方は微笑したきりで話をきり出さなかった。曾田も二人の姿が班内に眼立つことをおそれたので、すぐそこをはなれて行った。彼はそのまま階下におりてあたりを見廻しながら隊長室の横の陣営具倉庫にはいって行った。倉庫はちょうど陣営具係助手が昼食をしに行くとき鍵《かぎ》をしてなかったので、はいることができたが、彼は右隅の掩体《えんたい》をつみかさねた机の下につんである古い書類のなかから、ようやく犯罪情報の綴を見出《みいだ》した。たしかにそれはこの間から彼が思い出していたように、かつて彼がよんだことのあるものだった。しかし彼はそこに木谷の名がかかれていたことはおぼえがなかった。木谷の件は書類の一番最後にとじてあったが、そしてそこにはほぼ彼の犯罪事実と審議の内容、軍法会議の場景が出ていたが、しかしそれをよんで、新しいものがえられるわけではなかった。とくに、それはそのはじめの方の四枚があるきりで、残りの部分はとじひもがきれたために、綴からはずれてどこか他の書類の下じきになってしまっているらしかった。
それは謄写版ずりの文書で、なかにペン書の紙がはさんであったが、最初の部分には犯罪の事実がたどってあった。――その日枚方《ひらかた》の火薬庫に巡察にきたのは、七中隊の林中尉だった。林中尉は立哨中《りつしようちゆう》の木谷に型通り質問し一応勤務をすませてから衛兵所の裏の便所にはいっていた。その間に便所の横の杭《くい》の上にひっかけてあった上衣のなかから金入れがぬすまれたのである。木谷と林中尉とは顔見知りであった。林中尉は経理委員だったことがあるからである。それ故に林中尉は最初、犯人の見当をつけることができなかったといっている。林中尉は便所からでてきて金入れがなくなっているのに気づかずかえって行ったが、やがて気づいてもどってきて、衛兵司令に届けでて、兵隊をつかって犯人をさがさせたといっている。このとき木谷も他の兵隊に加わって犯人さがしをやっている。木谷は金入れを衛兵所の横の木材のつんである下をほってかくしていてあとからそれをほりだし、背嚢《はいのう》のなかへしまいこんだのだ。それに対して木谷は陳述している。立哨時間がすぎて、歩哨を交代して衛兵所にかえり、便所に行った。すると便所へ行く途中に金入れがおとしてある。彼はそれをひろって、中身だけを取って、金入れは裏のどぶ溝《みぞ》のなかへなげすてた。しかし金だけを取って金入れを溝のなかへなげすてたのは、決して最初から、この金入れが林中尉のものだ、ということを、知っていて、それをかくそうとしてやったというのではない。全然知らなかったのだと彼は主張している。それに対して検察官は、このような陳述は全然みとめられない……盗《と》ろうとする意図は非常に明瞭であると断定している。このような最初の被告の陳述は決してみとめられないのでありまして、漸次問いつめて行きましたところ犯行を全部みとめるに到ったのであります。その態度はまことに図々しく横着千万であり、いささかの誠意もみとめがたいのであります。もちろんここに到ります間にも、言を左右にして種々被害者の林中尉に対して説をなしたるも、いずれもそれは事実無根のことであります。しかも同様なる上官に対する兵隊としてあるまじき言葉は、彼の所持せる私物の手帳のなかに、いたるところに発見され、木谷のいだいている考えが、まことに軍隊の神聖なる秩序を維持する上に於《おい》てこの上なく有害であると認められるのであります。なおこの手帳は彼の胴巻より発見されたものであります。書類は大体このようなものであったが、ここで切れてしまっている。曾田は書類綴の積んであるなかをかき廻したが、その残りの紙片をみつけだすことはできなかった。たしかに(彼はこれをよんで行くうちに思い出したが)彼は以前これをよんだとき、自分はこのような手帳は絶対にもたないようにしなければならないということを心にいいきかせたものだった。彼はその間にも、ここにひょっこり准尉がはいってきはしないか、或いは、向うの南側に一つだけあいている窓の外から誰かが、こちらをのぞき見をしていないだろうかと心を動かした。木谷は一体何をかきつけていたのだろうか、いたるところにかきつけていたなどとは、一体、どういう気持なのだろうか。しかし木谷と親しくするということは、今後いよいよ用心しなければならないことであった。
曾田は誰にも見つけられることなく倉庫を出て、その残りの紙片は一体どこにあるのだろうと考えてみたが、わかりそうもなかった。また彼はこの書類がみつかったと准尉に報告すべきだろうかどうかと考えたが、結局、何も言わないでおくことにしようと心にきめた。彼は午後の勤務時間がきたとき、長い間、事務室や、曹長室や将校室や陣営具倉庫や、あらゆるところをさがしたあとで、結局どこにもみあたらないけれど、もう一度さがしてみるからしばらく待ってくださるようにと報告した。准尉は今夜はいつもよりずっと早く、家へ帰って行った。その帰りは隊長よりも早かった位だった。
「これじゃあ、仕事になりませんぜ、和尚《おす》さん、おすさん。」と准尉は机の上に言葉をはきかけていた。「そらそうでんなあ、准尉殿、隊長殿がいくら、ぎゅっと印判にぎってたって……そんな、准尉殿をにぎってなんだら、仕事など、ちっともすすむはずないんでっさかいなあ――」曹長は言った。
「うん。」と准尉は言った。
曾田はようやく夕刻になって、勤務割の訂正をして、班内にかえり大住班長にいいつけられたことをはたそうと思って染一等兵のところにいそいだが、染は、馬がせん痛をおこしそうなので、馬の腹をなでに厩に行っていて、多分今夜はかえってこないだろうということであった。彼は木谷の寝台の方をみたが、木谷もそこにはいなかった。彼はつかつかと窓のところにあるいて行った。彼はもうすでに暗くなった夜の空気をとおして、向うにみえるポプラの黒い樹をみつめた。府庁の高い重そうな建物が闇のなかにうすぐろくういて、その上に光が廻っているのが眼のはしにはいっている。彼は眼をポプラの幹にそうてずっとおろして行ったが、そこには動く黒い影はなかった。彼は安心して自分の寝台のところにもどろうとおもって、身を動かすと、そこにいたのは木谷だった。
「曾田はん……、もう仕事すまはったんか。……そらこれ。」木谷は硫酸紙のなかにつつんだ平らにのばした大福餅を曾田の眼の前に出した。曾田はようやく心を取り直して笑ったが、木谷が彼の前に取りだしたのは一通の手紙だった。それをポストに入れてほしいというのである。
「返事がくるのんか。」曾田は言った。
「いいや。」木谷は餅で頬をふくらませたまま言った。曾田は引きうけた。明日公用にでもでたら入れるか、将集《しようしゆう》の当番にたのんでポストに入れさせるかするつもりだった。
「監獄はいま頃から、冷えてきやがるんやがな。」木谷は言った。
「つらいか、つらいやろな。」曾田は言った。
「うんつらいな。」木谷は言った。
第三章
一
舎前の入口の前に兵隊たちは班の順序に従って二列横隊に整列し外出前の服装検査を受けた。彼らは二装(外出用)の服をつけていた。しかしその大部分は綿製品だった。彼らは上衣の皺《しわ》をのばし、そのボタンの線と帯革の留金《とめがね》の線を一直線にそろえ、巻脚絆《まききやはん》の紐《ひも》の結び目をズボンの横の筋目にあわせた。そして彼らの靴は昨夜から十分みがきあげてあった。(それは初年兵が昨夜点呼後みがいたものだった。)こうして外出日には彼らはまったくちがってみえた。それは彼らが雑巾のようにつぎの当ったあの三装略衣《さんぞうりやくい》をきていないからであろうか。昨夜おそくまでかかって剃刀《かみそり》を額や眉やもみあげやうなじのところにあてたためだろうか。朝の日が物干場《ぶつかんば》の向うの砲廠《ほうしよう》の屋根をこえてあたたかそうに斜めに彼らの身体にさしているからだろうか。彼らの上衣の物入れのなかには木の外出証がはいっていた。……彼らの顔はよごれていなかった。しかし彼らの列のうちから学徒出陣兵と補充兵とをさがしだすとすれば、それは簡単だった。彼らは古年次兵が後列にひきさがってかくれたがるのでみな前列におし出されていたが、彼らにはまだ外出用の服装が少しもぴったりしていなかったから、彼らはまるで糊《のり》のよくきいたごわごわの着物をつけているかのようにみえた。彼らは何回も用水兵長と地野上等兵の服装検査を受けていた。曾田はそこにはいなかった。
「舎前整列!」週番下士官のこの声を彼らは一週間待ったのだ。木谷は二階の窓からじっとそれを見た。彼は自分の身体がみえないように額だけをつきだすようにしてもうすぐこの兵営から外にでて行く皆の姿を眺めていた。彼はすでに二年以上も軍隊の外にでたことがなかった。
やがて大住班長の機嫌のよさそうな声が下でした。「おーい、用水兵長! お前、外出証いらんのか……まだ取りにこんのはお前だけやないか……。そんなところで、まだうろうろしてやがって、このおすけ兵長は外出止めにしてほしいか……」
「うえー、班長殿、外出止めやなんてそんなむちゃな。」用水兵長はかけだして行った。兵隊たちは笑った。
「何をいつまでも豆鉄砲食うた鳩みたいにぼやぼやしてやがる?」
「週番士官殿が本部へ行かれてまだ帰って来られしまへんのですがな……」
「泣くない! ぼけ茄子《な す》、普段の心がけがわるいやい……」
「わー、班長殿。こわいなあほんまに。かんにんしたんなはれ。……班長殿……今日は外泊でっしゃろがな。」
「ぼけ茄子、……それ知ってやがるんやったら、この間、兵器庫にはいった、新しい帯革、俺のところにもってこんか……班長には新しい帯革をして外出してもらおうとまず考えるのが、兵器係の役目やないか……ぼけ胡瓜《きゆうり》。」
用水兵長は列の方に帰って行った。彼は班長からもらった小さな木の外出証を空中に放り上げ両手でうけとめると、それを胸のところにもって行って女をだくかのように大事にだきとる恰好をした。
木谷は列のなかに曾田一等兵の顔をみつけようとさがしていたが、それはなかなか見当らなかった。或いは見まちがったのではないだろうかと、まだ自分は日が浅いので見つけることができないのではないだろうかと、また二度ほど列をたどって行ったがついに曾田一等兵の顔をみつけることはできなかった。そして曾田は週番下士官が姿をあらわし、用水兵長の号令がひびきわたったときもまだそこへはやってきはしなかった。
「気をつけー、週番士官殿に敬礼ー、頭《かしら》、右。なおれ、第一班、十七名、外出者整列おわりました。」
それでも木谷は或いは曾田は事務室の用事で整列がおくれ、きっとあとから列外に参加するのではないかと考え直して曾田があらわれるのを待っていたが、彼はついに週番士官の服装検査が終るころになってもやってはこなかった。……週番士官は巻脚絆の巻き方と帽子のかぶり方とを着眼にしているらしく、足元をのぞいて二、三人の兵隊に巻脚絆のまき直しを命じたが、検査が一通り終ると位置にかえって外出にあたっての注意をあたえはじめた。もちろんこの注意の対象は主として初年兵にあったので、彼のいうところは型通りのものであった。外出にあたっては、まず大ざっぱでもいいから、一日の計画をたてなければならない……まず最初に家にかえって両親に元気な顔をみせる……その家ですごす時間は何分間。次に友達の家をたずねて行くのならそこで何分間をすごす、次に盛り場へ遊びに行くのならそこで何分間、とちゃんと計画をたてておく。そうすれば事故をおこすなどということは絶対にない。電車、汽車、交通機関による時間はかならず余計にみておくようにする。そして全員外出時限の夕食時前、一時間、おそくとも三十分前までには絶対に隊にかえっているようにしなくてはならない……。それから週番士官はもし万一電車に事故があって帰営がおくれた場合、また途中身体の状態がわるくなって同じようにおくれそうになった場合にはどうするかなどという質問を初年兵にした。いかなる場合も処罰をおそれてそのまま帰ってこないというようなことがあってはならないと週番士官は言いきかせた。
木谷は全く二年ぶりで週番士官の外出の注意というものをきいたのだ。それをきいているといよいよ自分が外出できない身であるということがはっきりしてきたが、彼は曾田が姿をみせるまでは窓辺をはなれることはできなかった。しかしついに週番士官が注意を終って解散を命じようというころになっても曾田はやってこない。……それでは曾田一等兵は或いは今日外出しないのではないだろうか……それでは木谷がこの間曾田に託した手紙は今日もまた出されることがないのである。曾田はそのときから昨日も一昨日も公用で外出するという機会がなかったので、木谷がたのんだ手紙はまだだすことができないと言っていた。……なぜ昨日曾田に今日外出するかどうかをたしかめておかなかったのだと木谷は思いながら、窓をはなれて階段をかけおり事務室の方までとんで行ったが、彼の顔は変っていた。彼が思いきって戸の間から頭をつっこんでなかをのぞくと、すぐ前のストーブのところで、昨夜の酒保の甘味品《かんみひん》をほおばりながら、長い右腕を大きくぐるぐる廻してモーションをつけているのが曾田だった。しかし木谷は最初それが曾田だとは全然気がつかなかった。それは曾田が向うむきになっていたためだったかもしれない。それはいつもの曾田とは全くちがった印象を彼にあたえた。それに事務室もふだんの事務室とはちがって、ただ机が長々と窓ぎわにならんでいて、その上には定規や硯箱《すずりばこ》が冷たくのっており、床の上には白い雑巾の跡がいくつもついている。准尉はいなかった。……曾田は腕をまわして野球の投手のフォームをつくったが、ようやくふりかえって木谷をみつけたとき、あっと小さい声をあげた。足を前につきだして、砂糖をさじですくっていた中隊当番はあわてたが、じろりとみた。
木谷は自分のところに曾田がやってきたとき、今日外出するかしないかどうかをせきこんでたずねた。相手はすばやく木谷を事務室の外につれだし、今日ひるから多分公用にでられると思うから、そのときには必ずあの手紙は入れられるだろうと思うと言った。
「ひるから?」
「ええ、ひるから週番士官にたのんで公用にだしてもらうことになってるので……」
「何やて? 昼から? 昼からだっか?……そうでしたか、あんた今日は外出しやはらしまへんのか……。でもな昼からはきっと公用で出やはり、まっしゃろか。」木谷の顔はもう牛のようにふくれ上っていた。
「さあー、そらでられますよ――週番士官の用で瓦町まで行くことになってますからね。」
「そうでっかな……でられまんのやな……」
「あのあずかった手紙をはやく出してきてあげようと思うて、考えてるんですけども、ひとに頼むのはいかんやろおもうてしているのでまだうまくいかへんのですよ。ひとに頼んでもいい、というのなら、それやったらこれから外出する兵隊にたのんでだしてきてもろてもええんやけど……」
木谷は自分の出す手紙の宛名が曾田以外の中隊のものに知れわたるのは、さけたいと思ったが、しかしもうこれ以上、手紙をだすのがのびるということはたえられなかった。「勝手やけどな、なんとか、はよう出してくれはるようにしてもらえしまへんやろか。」彼は言った。
「それやったら……染《そめ》知ってますね? 染なら自分から頼めばちゃんとやってくれますけどあれなら大丈夫です。あ……整列、もう終ったな……こらいかん……」曾田は突然声を大きくしたが、もう隊長室の前のところから、身をおどらせるようにして、外に出ていった。すでに外出の整列は終ったところだった。そしてなだれるように営舎の向うを衛門の方へといそぐ兵隊の群がみえた。曾田は帽子もかぶらず、上靴《じようか》のままはしって行ったが、やがて染をつれてもどってきた。彼は染をそこに待たせておいて、木谷の方はふりむきもせず事務室のなかにはいって行き、先日木谷がたのんであずけておいた一通の封筒をもってきた。
「三年兵殿、なんだんねん? 一体……。へえ……これだっか、よろしま――、よろしま――、花枝さんだっか……よろしま……。その代り、こら、不寝番……二、三日、かんにんしたんなはらんとあきまへんで……」染はにやにやしながら後にいる木谷の方に眼をうつして行った。彼は封筒を二つに折って上衣の物入れに入れはじめたが、ここへ入れたんではあぶないと言って再びそれをだしてきて、上衣の前をあげて腹のところに納めたが、そのとき彼はもう一度封筒をひろげてその宛先をよんだ。「なんだんねん……西成区山王町やて……へえ……こら飛田やおまへんか……へえ……三年兵殿も……こんなとこいあれしに行きはりまんのか……。よろしま。山海楼、あそこやな……。これやったら、あてが行ってわたしてきたげてもええけどな……どうせ、今日帰りにあこい寄りまんのやよって……」
「まあ、あんまり、いらんことしてくれなよ。」曾田は言った。「誰にもいやがるなよ……」曾田はさらにかぶせるように言った。
「わかってまんがな……よろしまんがな……花枝さんだっか。」染は突然だらだらした体をのばして、不動の姿勢をとった。「三年兵殿、染、只今から外出さして頂きます……」彼は木谷に向って敬礼し直すと、子供のようににこっと笑って、廻れ右をし、もう、まるで二年兵か三年兵ででもあるかのような身体のさばきかたで歩いて行った。
木谷は傍《そば》にいて自分の顔がゆがむのがはっきりわかった。彼は染一等兵が自分の方に気をくばっているのを感じ取った。彼は自分の書いた字を曾田の書いたものだと誰かが見間違うということなどはありえないことだと思っていた。彼は三日前にペンを取って寝台の隅でその手紙をかいたとき、自分のペン字がもう全く体をなさなくなってしまっているのに気づいたのだ。彼は決して字は下手な方ではなかった。彼は小学校のときには、上級学校を志望して特別勉強をしていたものたちなどにもひけをとるなどということは全くなかったのだ。しかし彼の手は二年間のうちになんということになってしまったんだろうか……。手はふるえ、字はひょろひょろした細長いいやなものだった。刑務所では彼は手紙など全くかかなかったが、強制的に家族のもの(兄)に対してかかされる場合、彼の手にするのは、先の太い、さらに握りの太い毛筆だった。
二
ひとがきたので曾田は各班の外出簿の整理があるからといってすぐ事務所に引きこんでしまった。木谷は班内にはかえらなかった。彼はその足で射てき場の後のところにかくしてある所持金の一部をだしに行った。彼はすでに自分の金のかくし場所を変えていた。彼は帰隊して翌日、持っていた金を場所をえらんで、この射てき場のうしろのポプラの木のところ――ポプラの木の傍の古びた杭の根元のところを掘ってかくした。しかし土は掘りにくく土のなかでしめった紙幣は夜の間に凍《い》てついた。そこで今度の場所はすぐそばの射てき台の土砂をうしろからささえている、板組みの高塀《たかべい》だった。板は横渡しに何枚もつぎつぎとはってあったが、そりかえった板と板との間にすき間があいて、そこから土がふきでている。木谷はそのすき間に所持金を移したのだ。彼はいつもその場所にくると、せわしげに両手を動かしながら上をあおいで、全く葉をおとしてしまったポプラの根の方をみないではいられなかった。ポプラは無数の裸の細い枝を天にむかってつきたてているのだ。すると彼の手は寒さと他の原因によってがたがたふるえた。もちろん今度のこの場所も彼の内務班の窓から、三本ならんだポプラの木の間をとおして、監視することができた。……金は彼が刑務所ではたらいて得た金であった。刑務所では作業褒賞金がでたからである。彼は看守長の手をとおして、それを貯金係のもとにあずけてあったのだ。彼はその他に郵便貯金もしていたが、(それは強制的なものだった。)彼はこの方には毎月僅かの額しか入れようとはしなかった。看守は何回か現金を貯金にしておくようにと説いたが、彼は承知しなかった。……木谷はこの通帳と百円余の所持金をもって隊に帰ってきたときには、自分のその所持金については師団法務部の方から中隊に連絡されていて、きっと准尉がそれをすぐ中隊にあずけておくようにといいだすにちがいないと考えていた。しかし准尉が先日の身上調査にさいして、所持金のことにふれたとき、木谷の心はもうきまっていた。准尉はぬけているところがあったのだろう。「お前、金はもってはせんだろうな……」ときいたからである。彼は准尉の顔をじっとうかがって師団から連絡はなにもなかったにちがいないと判断した。彼はそのとき下腹のところに紙につつんだその金をかくしてもっていたのである。しかし准尉には金は八円と少しばかりしかもっていない、全部のこりは貯金していると答えた。彼は准尉の命令で班内においてある貯金通帳を取りに行ってそれをみせた。
木谷は今日も板のすき間から紙幣の束を引きだしてしまうと、どこまでも細く空をつきとおしているポプラを仰ぎみた。しかし彼の手はもうふるえはしなかった。彼は十円紙幣だけとってのこりの金をもとのところにかえし、その上に砂をかけた。彼はいまも砂をかけながら刑務所の監房のことを思い出していたが、はじめてこの射てき台の板のすき間に紙幣をこまかく折りたたんですべりこませ、そのあとに砂をうすくそそぎこんだとき、彼は刑務所の独居房の便所を思い出した。彼は首を左右にふって、あたりをうかがった。――刑務所では大便用の塵紙《ちりがみ》は一日に一回しかくれなかった。そしてそれを使わなかったときには、夜の就寝の際に看守に取りあげられた。そこで木谷は使わない紙を返さずに、隠しておく場所を房内にさがし求めた。しかし房内はたとえいかなるところであろうと毎日の監房検査のときにしらべられ、捜査されないというようなところはなかった。入れられている毛布、枕、むしろは、毎日きびしい検査があり、一つ一つむちではたかれた。床や板戸や板壁のすき間は、とがった針金の検査棒をつっこんで、ほじくりかえされた。そこで木谷の考えたのは、調練場に面してつけられた窓の下にある小さい洗面器の下からでている鉛管と板壁の間にできたすき間と、その横の床を切ってつくられた便所のなかだった。しかし鉛管のすき間はしめっているので、一度そこへおしこんだ紙は、取りだしてみると水でぬれてもはや用をなさなかった。……木谷は便器を置いてあるコンクリートの穴のなかを、看守のすきをうかがって用便中にしらべてみた。すると用便後穴をふさぐための木蓋《きぶた》を取りつけてある横木が上部にあるばかりで、その他の部分は全くコンクリートをぬりこめてあって、すき間などというものは少しも見出すことができなかった。しかし彼が次の日何の考えもなくふとその横木の下のところに手をつき入れてみたとき、彼はその向うに大きな穴があいているのを発見した。下のコンクリート壁と上の横木とは密着していず、その間から手を入れるとそれは房の下の空間だった。しかもその縁の下の土はもり上っていて、そこに物をおいても、すぐまた取りだすことができた。木谷はそこに余りの塵紙をしまった。魚の骨や、しじみ貝のから、さらには、ひろってきた小石をしまっておいた。看守は便器のなか、糞《くそ》の状態はもちろん、便器を取りのけてコンクリートの穴をすっかりしらべたが、彼が刑務所をでるまで、ついに、彼のそのような秘密を発見することはできなかった。彼は夜就寝する前に小便の許可をうけた。便器の上にかがみながらそこから小石や貝がらを取りだすと毛布のなかにもってはいって一緒にねた。毛布は房の真中に出入口を頭にしいてある。彼は翌朝おきる前にも小便の許可をうけた。それは貝殻を元のところにかえしておくためだった。貝殻はうす青い色をしていた。それは祭日のみそ汁のなかにはいっていたものだったが、彼に少年時代兄とともにてんこちを取りに行った浜の突堤の岩のことを思い出させた。もちろん彼はその隠し場所がみつかったときには看守にたいしてのべなければならない言葉をちゃんと考えてあった。彼はよばれてやってくる看守長の前でこう主張し、とぼけとおさなければならないと考えていた。「そんなもん、自分は全然知らしまへんぜ。そらきっと前にここにおったもんが隠してたにちがいおまへん! 自分が何でそんなことしまっかいな。」
木谷は取りだした金を下腹のところにおさめると二号炊事へ金子班長に会いに行った。二号炊事は部隊の南西の隅にあった。しかしめざす班長は今日もそこにはいなかった。……金子軍曹は木谷が以前経理室勤務だったとき、まだ伍長の階級だったが、どのような重量の梱包《こんぽう》にもへこむということがなく、しかも字の美しい木谷をかわいがっていた。そして彼は木谷の事件をできるだけ部隊内で処理しておんびんに取り扱うようにはからってくれたのである。もっとも、金子班長は絶対に木谷を罪におとさせるようなことはないから心配すな。経理室の方で師団司令部の方へ運動してやるからなといったにかかわらず、その言葉は実現しなかったし、さらに彼は二年間、木谷が刑務所にいる間に、一通の手紙もくれはしなかったのだ。……しかし木谷がいま隊にかえってきて会いたいと思う人間といえば、この班長の他にはいなかった。それに木谷はどうしてもこの金子班長から、林中尉や中堀中尉やさらにできれば岡本検察官などのこともきかなければならなかった。……二日前木谷はこの金子班長に中隊の石廊下で偶然にも会うことができたが、彼は若いのにでっぷり太ってすっかり貫禄《かんろく》をつけた軍曹に全く圧倒されてしまった。帰隊の挨拶も、世話になった御礼の言葉も、これからの依頼の言葉ものべる余裕をもたなかった。彼はそのわずかの時間にただ相手の顔色を伺うだけで、彼がいつも心にもっている林中尉のことを質問にきりだすことはできなかった。「よお、木谷やな。……かえってきたか……元気かな……。かえってきたんはええけど、……かえってきても、もう隊にもなにもないやろ。」金子班長の方はすでに木谷が帰隊していることを知っていたかのように別におどろく風もなくどっしりおちついていた。彼は連隊でも一人か二人しかはいていないだろうと思えるような新しい牛皮の営内靴《えいないか》をはいていたが、いそがしい用事をもっているのか、どんどん廊下をあがって事務室の方へ行ってしまった。木谷はその後姿をじっと追うたが、彼は金子班長が事務室のなかへはいってやがて准尉と一緒にでてきて隣の准尉室へはいるのをみた。……准尉がでてきたので木谷はすぐに身をかくしたが、金子班長はそのとき木谷に遊びにくるように言いのこした。「いつでてきてん……それやったら甘いもんがほしいやろ……、ほしかったらいつでもとっといたるさかい、おれのとこいこいよ。俺もなこの間分遣《ぶんけん》からかえってきたとこでな、まだ仕事ないのんでな、まあ、大抵炊事の方へ顔だしてるよってな。」木谷は毎日折をみては二号炊事に出かけて行ったが、いつも金子軍曹は外出していて会うことはできなかった。
……まるで班長でもあるかのようにふるまう炊事の上等兵をかこんで使役兵たちは、この外出日だというのに、外出もできず、女のあそこであそこをぬらして帰ってきやがる奴らのために、こんな青葱《あおねぎ》をばさばさ洗わんならんとは、なんとなさけないことやなと大声で話し合っていた。『なんや、こいつおすけ(一等兵)のくせしやがって、のこのこ大きい顔して、班長をよびにやってきやがったな。……どうせ、またおすけ(いやしんぼ)しょうおもてんのやろ。』という風に彼らは木谷をみた。木谷はすぐ中隊にかえって行った。炊事兵舎の雰囲気《ふんいき》は少しばかり彼には親しいものだ。……ああ、彼はあの林中尉と一緒に一号炊事で米をまきあげ、ここからは肉、調味料などをもちだし、それをつんだバタバタ・オートバイには筵《むしろ》を何枚もひっかぶせてもちだしたことがある……。
木谷は班内にかえると、しばらく襦袢《じゆばん》の襟《えり》をつくろったり、軍袴《ぐんこ》の膝《ひざ》のところに糸をさしたりしたが、それをすませると、毛布のなかにはいって時間をすごした。彼は帰隊してから自分がそのような被服の修理をやるなどということは、考えられもしなかったが、こうして営舎にもどって一週間もすごしてみると、そのような気持がまた彼のなかに起ってくるのだった。……日曜日の班内は全くひっそりしたものだった。空気はいくらストーブを燃やしたてても冷えきっていた。三年兵で残留したものは、曾田と土谷一等兵と今井上等兵の三人にすぎなかった。曾田は事務室に行ったままかえってこなかった。今井と土谷は昨夜初年兵たちが、残留者のためだ、外出する初年兵は薪をとっておけといってあつめさされた薪を燃やしてしまうと、もう全くすることもなくなって、毛布のなかにもぐりこんで、ぼそぼそと女の話をつづけた。二年兵と補充兵は糧秣《りようまつ》の使役に出て行っていた。残りの補充兵たちは、午前中は一週間分ためていた洗濯、班長のもの、それから二年兵、三年兵のものの洗濯に時間をついやさなければならなかった。木谷は毛布のなかで、下腹のところにおいた紙幣を何回となく、折りたたんだりひらいたりしていたが、ついに毛布のあたたかみのなかにおちこんでね入ってしまった。兵舎のねむりはあたたかだった。彼の硬くなった肉や心はそのなかでやわらかくゆるんで行く……彼は自分の体のなかでまきすぎた時計のゼンマイがもどけにもどけてしまうような気がする。そして彼ははっとして眼をさました。すると彼をつつんでいるのはかたい兵隊の服だ。彼はおどおど眼をさましてはまたね入った。彼が起きたときには昼食はほとんどすんでしまっていた。彼をおこしたのは曾田だったが、彼は自分の口を、どうして曾田の手がふさいでいるのか理解できなかった。あとで曾田にきけば、彼はじつにへんな声でうめいて、なにかしらわからないことを口ばしったのだという。
三
木谷は便所へおりて行ってすでに面会人たちが営舎の周りをとりまいているのをみた。そのなかにまじった白粉《おしろい》の白い顔や風にひるがえる色彩のある裾やその手にさげたかさだかい持物は木谷の眼をとらえずにはおかなかった。兵隊たちは面会人たちの周囲を行ったりきたりして、もどってきては、その品定めをしていた。木谷は中隊の便所に出入りしている面会人を真近にみてたちどまり、首をまわしてその姿を追った。それは玉虫色の羽織をきた中背の女だった。
「補充兵さんの面会やな。」同じように便所にでてきた曾田は言った。
木谷の体は底の方からまだふるえていた。別に彼はその女と何の関係があるわけでもなかった、その羽織の色が彼をさそったわけでもなかった。しかし彼の腹の辺りは渦巻き、彼の顔は四角になっていた。彼は曾田にうながされて班内にあがって行ったが、班内で今井上等兵と土谷三年兵から補充兵が買ってきてくれた酒保品の分前を出されたときも、まだぼんやりしていた。
「おい、いらへんのかい、いらんいうのかい。」今井上等兵は言った。
「いらへんいわはんのかい。」土谷三年兵はぎょろりとした眼をむいて真似をした。
「よう、泣かす、すまんなあー。」曾田はおっかぶせるようにおさえておいて、両手で毛布の上に出された酒保品の紙袋をもちあげて、自分の寝台の方へもって行った。「よう、金はすぐ、払わしてもらうぜ……」
「おい、曾田よ、われ今ばん、おれを不寝番につけんといてくれよ。」土谷三年兵は、あらわに追従の調子をつくって言った。「なあ、曾田、外出はとまるわ、不寝番につくわでは、めもあてられへんがな。」
今井上等兵が言った。「おーい、曾田よ、俺もたのむぞ、たのんだぞ、この前も残留、今度もまた残留やなんて……。いまごろ、よしちゃん、股《また》ぐらぬらして、泣いてるぜ……、おいな、曾田よ、……公用ありまへんか、公用、公用やったら、なんぼでも行ってきたるぜ。」
「公用は、今日は、俺が行くぜ……今日は、ひるから、一時間でも公用で外へでてきたらんことには、玉ちゃんが泣いてるがな。」曾田は袋のなかから、餅菓子を取りだしてきてたべながら、再びおっかぶせるように言った。「さあ、お金、ここいおいとくよ……御苦労さん、……さあ……俺はな、ひるから、バリッとしてやな、さっ、さっ、さっと、衛門をでてやな……谷町からナンバへでて……」
曾田の勢におされて今井と土谷はだまってしまった。すると二人はそこへ菓子の代金をもってやってきた木谷をからかいはじめた。しかし木谷はまだぼんやりしていて、二人のいっていることが十分のみこめないのだった。彼はこまかいものがないのでつりをくれないかといって五円紙幣をだしたが、それは今井上等兵を刺げきした。
「へえ、木谷はん、おおきに。」今井上等兵は金を受け取って言った。「へえ、またねてはったんかいな、ようねられまんなあ……。そうやって、厩当番も、不寝番も、なんの勤務もなしで、ぶらぶらしてはったら、ほんまに退くつでっしゃろな……。酒保品の買取りは、わてらがやりまんがな……。病院のようには、おなごはんも面会にきてくれへんしな。」
「木谷よ、われは一体どこの病院にいたんや。」土谷は寝台の上からのり出して言った。「金岡か? 金岡やったら、あこに、金網のはった病棟あるやろ、なあ……、夜中に、こわいー、こわいーいうて泣いておがみやがるそうやないか、部隊長が野戦から後送されてるいうことやないか……おい、木谷、われ、知らんのか。」
「知らん。」木谷は言った。
「病院にはどこの病棟でも金網はってあるがな。」曾田は言った。「さあ、外出するぜ、外出するぜ……、パリッと着がえて、外出やぜ……」彼は二人の古い兵隊を上からおさえた。木谷は酒保品の袋を上衣の物入れにつっこむと、そのまま誰にもかまうことなく、はげしい勢で外に出ようとふみ出した。彼の望むところは、そうぞうしい物音、人のけはいのつたわってくる面会人たちのところに行ってみるということだった。もう彼には一刻もじっとしているというわけにはいかなかった。しかし彼は班内をでて残留になった兵隊たちや、病気のために外出止めになった学徒兵たちを取りかこんでいる多勢の家族たちをみると、そこに近づいて行くことはできなくなった。彼らは衛兵所の眼をまぬかれて持ちこんだ食物を兵隊の前にもちだして、勝手のちがった眼をときどき周囲にむけながら、せきこんでたずねたり、笑ったりした。兵隊たちは赤くふくれ上った手に大事そうに上靴をそろえてもっていたが、たえず、顔と眼を動かして、そわそわしていた。ときどき誰かが敬礼と叫ぶと、彼らは立ち上って方向をみさだめ敬礼した。
営庭は一面に着物と外套《がいとう》と髪の毛と白い顔のはんらんだった。母親や父親や家族のものたちは営庭の土の上に出された椅子に坐って砂をふくんだ風に冷たく吹かれていた。小さい男の子供が、年寄った兵隊の膝の間にはいってたべものをたべていた。その兵隊は日にやけたしなびた顔をしていたが、その面会用にきた二装の外出着の襟章《えりしよう》の一つ星は玩具《おもちや》の星のように黄色かった。学徒兵がそれらのなかに交じって坐っていたが、そこだけには、うすくはなやかな色が舞っているようだった。そして洋装の女たちの細い(木谷にはそう思えた。)顔がみえた。そしてそれは彼に曾田を思わせた。木谷は経理室の前をさけて、小銃隊の営舎の方から人々の方に近づいて行ったが、その廻りをうろうろしながら、肩をくんだり、たたきあったりして、面会中の補充兵に自分の存在を知らせようとする古年兵と同じように行動することはできなかった。……以前、入隊して三週目に面会が許されたとき、彼の兄の嫁は子供をつれて、巻ずしの包をもって来てくれたが、そのときにはいつも姉のきつい言葉を荒々しい太い動作でふり切ってきた彼も、その背の高いお天気もんの姉がこの上なく懐しく思えたものである。それは彼の心に訴えたいものがたまっていたからだった。ひとの店で飯をたべてきて、身軽に身体をうごかすことのできる彼も入隊後最初の一週間で、うちのめされていた。
「毎ばんなぐられてるがな……このまま、半年ほど次の下の兵隊がくるまで、これで行くのやそうや……」
「それをつとめてこんことにはなあー、松屋町の文次さんも、きのうきて、いうてたが……えらいもんやて……。でも、しんぼうせんとあかへんぜ……」彼は姉の細長い四角い尻が動きながら、義一の兄ににて小さいかりたての頭をつれて、衛門の方へきえて行ったのを思い出すことができる。しかしいまでは彼はやはり姉の家のやっかいものだった。その後、彼が外出する度に小遣銭をもらいに行くと、ああ、また、帰ってきたかという顔が彼を迎えた。しかし軍隊で古年次兵に気に入られるためにはやはり何より金が必要だった。それ故に彼はそのあらわにいやな顔をみせるこの姉に、顔の皮をあつくして金をほしいんやけどと申しでたのだ。……しかしいまでは彼の兄とこの姉は一層彼をうとましく思い、おそれていることだろう。
木谷が班内へかえったときは、もう昼食時間をずっとすぎてしまっていた。補充兵たちは食事をすませて、再び長い行列にたったのち、酒保品を買ってかえってきたが、面会所から面会人の名前が伝達されるのを待ちのぞんで、ときどき窓から首をつき出して、面会の使役が衛門の方からかけつけてきはしないかと、せわしげに待っていた。しかし彼らはやがてまちきれなくなって衛門前の面会人受付簿のところまで出かけて行った。
四
グリン・ピースの汁で飯を食ってしまうと、木谷は曾田と一緒に厩《うまや》の横の馬場に馬運動にでかけた。曾田は彼をしきりにひっぱりだそうとした。彼の心はすすまなかった。いまでは自分が馬を自由にあつかうことができるかどうか全く自信がなかった。もう二年も馬からはなれてしまっているのだ……彼はまるで自分が駆けていて前足を折るような気がした。いやそればかりではなく、彼は飯をかんでいるうちに、ふと「山海楼やったら、行って渡してきてもよい。」といった染の言葉を思い出して、もし染が山海楼へ直接に行くようなことになったら、どうしたらよいだろうかと考えはじめると、落ちつかなくなってきた。染に直接にあそこに行かれたりしたのでは面白くない。……もしも横田ばあさんがいまもあそこにいるならば、彼のことをなんでもかんでもしゃべりちらすにちがいない。しかしそれにしても花枝の消息は今晩にも染がもってかえってきてくれるだろう。
曾田は今井上等兵や土谷一等兵にも馬運動をすすめた。しかし二人とも動こうとはしなかった。彼らは午後からもう一度補充兵に面会にくる主婦《か み》さんや妹たちの白粉《おしろい》を見たり匂いをかぎに行く計画をもっていた。
木谷は曾田につれられて兵器庫の吉田班長のところへ行った。彼はうちにははいらず、曾田が班長に乗馬鞍《じようばくら》を借りる交渉をするのをきいていた。
「おい、おい、曾田、かえった、かえった……乗馬鞍なんて兵器庫にはあらせん、あらせん。」
「班長殿、そんなこと言わはらんと、貸したっとくなはれよ……ちゃんと磨いて脂もぬって返しますよ。」
「ちゃんと、磨いて脂もぬって……返す……あたり前やないか……別にめずらしいことやないがな。」
「いや……そんなむごいこと言わはらんと……貸したっとくなはれな……」
「おい……曾田よ……大住班長に二泊三日の外出でこの俺に二日だけとはな……お前はむごいと思わんやろな……。さあ……さあ外へ出た。俺はこれから外出するよってな……さあ、でたでた。」
「班長殿……外泊のことは、自分など知らんことやないですか……そら准尉さんが、ひとりできめはることですよ。……自分など全然関係あらしませんがな。」
「なにを、この野郎、准尉さんの横にいやがって、この吉田班長には一泊でよろしまっせ……ぐらいのこと口を入れやがったんやろ。……そら、外へでやがれ、でやがれ。」
「そんなこと言わんと班長殿。」
「この次には俺に二泊三日出すか……」
「そんなこと、自分に言わはったって……どうなるもんでもないですがな。」
「それなら、鞍はお前には貸せん、かえれ、かえれ。」
「そんなこと言わんと班長殿。」
「ああ、あ、うるさいやつやな……外出もさしやがらへん……。とうとう押しきりやがった……。しょうがないやつやな……曾田よ、ほら、そこに鍵《かぎ》あるやろ……もって行け……おいその代り……曾田よ、お前、俺のいうことに返答するな……よし、よし……そんならよし。……よし、きくぞ……曾田よ……大住のやつ……毎晩、この頃、准尉さんとこへ、出入りしてやがるけど……やつは、この俺を、中隊からほうりだそうということを准尉さんにたきつけてるということやないか……さあ、どうや……。曾田よ。」
「何を、班長殿、そんなむつかしいことが……この自分にはわかりますか?」
「この野郎、なめやがるか……なに? 調査しておきます。おのれまた逃げやがるか……逃げようたって、にがさんぞ……。しかしまあ、ま、今日はこれでかんにんしといたる。……鞍もって行け。その代り俺はいまから外出するよって、すんだら、鞍をもとへおいて、鍵は用水兵長に渡しとけよ……。しかしな……こんどこそ、二泊三日を出しやがらなんだら、それこそ。」強い香水の匂いをさせた吉田班長は兵器庫からでてくると、木谷につき当りそうになって「なんや、お前か、まだ外出さしてもらわへんのか。」といい放ったまま、石廊下の方へ小走りにおりて行った。
木谷は曾田と小銃を格納してある棚の上の鞍掛けから乗馬鞍をおろした。彼らは事務室で曾田が借りておいてあった乗馬靴にはきかえ、鞍をかついで厩まではこんで行った。彼らは厩当番に言って、流星《ながれぼし》の白山と栃栗毛《とちくりげ》の群福を厩から出した。木谷は帰隊後はじめて厩にきたのだが、彼がよく知っている馬はいまこの隊には残っていなかった。馬は高い厩の両側でしきりに足をかいていた。牽綱《ひきづな》を両側の柱にくくりつけられた馬は、首をたかく後にそらせて大きな眼ではいってきたものをみた。……木谷は白山と群福には全然見おぼえがなかった。それ故に彼は曾田からどっちの馬にのるかと言われても、返事のしようがなかったが、背の高いすらりとした足の小さい馬は、前からどうしても好きにはなれなかった。その種の馬には恐怖癖が多く、その上後退癖をあわせもっていることがあったからだ。彼は馬の後退癖がひどくきらいだった。二人は馬を厩の前の寝藁《ねわら》をほす石だたみのところにつれて行った。補充兵の厩当番は、三年兵殿、自分がやりますと申しでたが、曾田は鞍を馬の背にのせて腹帯をひとりでしめた。彼は右足をあげて腹帯にかけ革ひもをたくみに力一ぱいひきしぼった。木谷は馬の前で口をとっていた。
やがて二人は馬にまたがったが曾田の背を後にそらせた馬上の姿勢には気取りがあった。「木谷はん行きまひょいや。」彼は厩当番に蹄鉄《ていてつ》の具合がどうかとたずね、「蹄鉄」は「ぜんぶしらべてあります。」という答をとると馬を前にだした。木谷は全然その癖も歩調も知らない白山の横でしばらくとまどっていたが、乗ってみるとそれは尻のどっしりした、息の長い強い馬で彼を広い背にのせてひとりでにはこんで行った。彼らは北部営庭の東隅にある馬場を三周した。そのうちに木谷はもう馬の呼吸が自分の筋肉のすみずみに生きかえってきて、股のところにあつまってくるのを感じとった。彼の顔は冷たい風にたたかれて赤くなっていた。彼は前にすすむ曾田を追うたが、曾田はときどき鞭《むち》をあてながら木谷の方をふりかえったが、その微笑をうかべた顔には自信があった。
木谷は再び曾田の後を追って行った。……馬の上は非常に冷たかったが、風がやみ、かくれていた日がでてくると空気は次第にあたたかくなってきた。彼らは鞭をあて、拍車を入れた。木谷は自分の前で曾田の背がまるくなっているのを感じて身体を前にたおした。すると曾田は鞭を入れた。木谷は微笑した。彼は相手の後をなおも追った。彼は曾田が鞍の上で宙にうかしている尻をみて、この相手をぬくこと位なんでもないことだと思った。ところが実際馬上で身をおとし股をぴったり背につけて姿勢をとり、ぐんぐん前の馬にせまろうとしたが、それは不可能だった。彼は鞭をやたらに使った。するとただちに曾田の方にその空気がつたわった。群福の速度は再びはやくなって、二人の距離をまた引きはなした。木谷は拍車を入れた。そしてまた拍車を入れた。遠くかすんでみえる営庭の柵《さく》が、斜めになって動いた。しかし彼の馬は前にいる群福をおいぬくことはできなかった。すでに彼の手綱をにぎった手の指は、彼のいうことをきかなかった。彼の両脚は馬の上で次第にかたくなって行った。彼は刑務所の縫工室でミシンを踏んでいる自分の姿がちらちら動きだしたのを知った。彼は何かしれないはげしい憎しみに全身をみたされて、曾田を追った。が彼の身体は彼の心の思いどおりにはならなかった。彼の息はすぐ切れた。しかし彼は力をこめて鞭をつかいつづけた。
しかしやがて群福の足並が急にみだれてくるのがみてとれた。曾田がしきりに馬の腹をしめているのが、はっきりわかった。……馬場を六周してふたたび厩の近くのまがり角のところにきたとき、群福はもう全く速度をおとしてしまった。みるみる木谷はそれにおいつき、距離をちぢめた。すると彼の全身はまるくふくれて、弾んだ。木谷はまがり角のところで馬を外側に向けて、おいぬいた。
「曾田はん……ぬいてしまうぜ。……」木谷は言って左側の曾田に笑いのひろがった顔をふりむけた。
「ああ、とうとう、やられてしまいやがった。」曾田は顔をあげて大きな声で言った。彼もまた笑っていた。木谷はまた大きく鞭を使って全身を前へおとした。彼はしばらくしてもう群福が自分の後を追うてこないということに気づいたが、そのまま拍車を入れつづけぐんぐん速度をのばして一周した。彼は自分の身体が快く伸びるのを感じた。ああ、彼の身体をつつむのは海の風だ……そして幼年時代が彼のうちのどこかでばくはつしているかのようだった。
やがて木谷が馬場をまわりおわって手綱をつかって速度をゆるめて近づいて行くと、馬場の柵に馬をつなぎとめていた曾田が声をかけた。「木谷はん、どうもへんやおもてたらね、やっぱり蹄鉄をおとしてしもたらしんですよ。……それが一体どこで落ちやがったもんやらも、皆目、見当もつきよらへんので、こまった。厩当番のやつ、蹄鉄はもうしらべましたけど、みんな大丈夫やいやがって、それを信用してたら、えらい目にあわしやがった。ほんとに、処置なしやな。」
木谷はしょげかえっている曾田をみて笑いをあげずにはいられなかった。
二人は馬を柵につないだまま落ちた蹄鉄をさがしたが、それはなかなかみあたらなかった。二人は馬場を一周して丁寧にしらべたのである。もとのところまできたとき曾田はまた同じ調子で言った。
「ほんまに今日は処置なし日和ですぜ。……これじゃあ、外出はとまるし、おまけに残留中に馬運動に行ったら蹄鉄をおとしてとうとうまた外出止めになったなんてことになってしまいそうでんな。木谷はん……」
「なげくにゃあはやいぜ。そんなもんさがしたらすぐでてくるがな。こんな蹄鉄ぐらいさがせんでどないしまんのや。なんやったらわしひとりでもさがしたげるがな。……あんた、これからまだ事務室へ行って仕事しやはんねやろ……。それやったら、先にかえってもろたら、あとは、わしが引き受けてさがしとくぜ。」
曾田は不意にふりかえるとくくりつけた綱を首をふってほどこうとしている群福に向ってどなりつけた。「ちぇっ、待ていうたら待たんか。水がほしけりゃやるがな。ちぇっ、ほんまにお前のおかげでこの俺は、今日はこんなざまやないか。」
とにかく馬を厩にかえしてしまうということにして、二人は水飼場《みずかいば》に馬をつれて行って水をあたえた。蹄鉄のとれた後足を馬はかるく動かしていた。凍った水道の栓からでる水が鉄の長い桶《おけ》にたまると馬は長い咽喉《の ど》を大きく動かしてそれを飲んだが、体の細い群福は始終肌をふるわせた。厩当番に馬の手入れをたのんでおいて二人はすぐに再び馬場にひき返してきた。しかしなくした蹄鉄をみつけだすことはどうしてもできなかった。
「蹄鉄工(てっちん)にいうて、今夜でも工場でつくらしたらええやないか……それ、あの……何やいうたな……染にいうてつくってこさしたらええやないか。」木谷はなおも靴の先で砂のなかをかきわけながら言った。
「ええ、そうですね。そうしようかな。染にたのんでみて、うまくいくかどうか、しかしほかにどうしょうもないもんね。」
「そら、あれにやらしたら、ちゃんとうまいことやるやろな。俺あそうにらんでるけど。」
「ええ。」曾田はおされるように顔をひいた。
木谷はまだしばらくの間砂の上に身をかがめて土をひきよせたり、砂のなかに手をつっこんでさがしていたが、やはり蹄鉄はついにでてこなかった。
五
落した蹄鉄にみきりをつけた二人は汗にぬれた体を拭き馬場の東側の日あたりのよい板壁のところに身をよせた。……すでに木谷の身体からは熱が去ってはだをはしる冷感がふたたび彼の肉をかたくした。しかし彼のふさがれていた毛穴は一挙にいたるところで大きくひらいて何かまだ熱気をはきだしているようだった。彼は二年来はじめてのった馬の背がまだ、彼の股をひろげ、そこにごつごつ動いているような気がした。彼は馬のたてがみのざらざらした手ざわりが棕梠《しゆろ》の毛のように手にまといつくということも思い出していた。
木谷は全く雄弁になった、そして彼はたえずしゃべっていた。長い間のらないでいると、もう馬が全然いうことをきかなくなってしまった、この分だと尻の皮をもう一度はじめから剥《む》き直さんことにはもとどおり馬にのれるようにならへんかもしれんなどという話をした。彼はまたいま隊の厩にいる馬の蹄《ひづめ》がずい分大きいことにびっくりしていた。彼がもといたときにはそんな大きな蹄の馬はほとんどいなかったのだ。しかし何よりも隊の厩当番がたよりなく、気合のかかっていないのにあきれる他なかった。彼は以前ならば、ただあのような馬運動だけで蹄鉄がおちるなんていうでたらめな検査をしていたら、それこそ厩当番はどやしたおされて、足腰がたたなくなったというような話もした。彼の話は次々とたえることがなかった。
曾田は上衣の物入れに入れておいた大福もちを取り出してきて木谷に渡した。木谷はそれを頬ばりながらしばらく、いま頃外出したものはどうしているやろうな、もう一時すぎてるさかいに、そろそろ帰りの時間が近づいて、あわてだしてるやろうな、などと話しをつづけていたが、不意に口を大きくあけた。
「曾田はん、染はもうあの手紙入れてくれてるやろかな。」
「そら入れてくれてますよ。」
「そやろか。ひょっとして、じかに山海楼の方へ行きよらへんやろかとふっと考えてみてまんのやけど。」
「さあ、いや、そんなことはないでしょう。」
「染のなじみは飛田にいまんのやろ。」
「馴染《なじ》み、なじみというのがいるかどうか。それは知りませんけど、あいつ、今日はきっと飛田であそんでますやろね。」
木谷は小さい唸《うな》り声をたてた。
「あの染はそう変なことはしやしませんよ。」
木谷は曾田のこの言葉をほとんどきいてはいなかった。彼は准尉が花枝の写真をもっているかどうか、それがどこにあるかを知っているかどうかをたずねた。曾田は花枝というひとがどういう顔立ちで、どういう関係のひとかは知らないが、准尉さんがそのひとの写真をもっていそうには思えないと言った。もしそれがどこかの引出しか書類箱に入れてあるならば、すぐに解るはずであるがと彼はつけ加えた。木谷はつづけて、曾田がどこの大学をでたのかをたずねた。それは彼がこの間から知りたいと思っていたことであった。彼には何故《な ぜ》曾田が自分の世話をよくしてくれ、班の他のものたちとはちがって好意を示してくれるのか、その理由が、曾田が大学をでていながら兵隊のままでいるのと同じようにわからないことであった。曾田は自分の経歴をはっきり知っていて、その上で自分に対していることは明らかなことであったが、彼が決して自分を避けたり、特別あつかいをしたりしていないということは、また同じように明らかなことであった。
京都の大学だと曾田はこたえた。
「大学まで出てはってからが、どないして幹候《かんこう》志願しやはらへんのや。いまごろはパリパリの見習士官で営外居住やおまへんやないか。こんな兵隊でこき使われて、あほらしい思いはるやろ。」
「いやー、こんなおすけがとても幹部候補生にはなれないですよ。」
「そやろかな。いまごろはうんと大学生がふえよったもんな。……ほんまにいやなやつばっかりでみてられん。しかしな幹候になってたらあんたも今ごろは毎日おれらをしぼってはるところやな。」
曾田はそれには答えなかった。彼は木谷の家が西成の鶴見橋《つるみばし》のどの辺りかをきいた。木谷は松通と梅通のどの辺からはいってどう曲って行くのかということを説明した。彼はもう曾田にそのようなことについては、かくそうとは思わなかった。彼はむしろいまはこの相手に自分の事件をすっかりつたえてしまいたい欲望にときどきつかれた。或いはこの曾田がもしも准尉の口から自分のことをきいているとすれば、それはじっさいとは全然ちがっているのだ。そしてそういう風にこの曾田は自分のことを思っているのだと考えると、木谷は自分の事件の内容をあらいざらいこの男に話して、知らせずにはいられない衝動にかられた。あんたの家はどこなんやと木谷はその代りにたずねた。
住吉《すみよし》の方だと曾田は言った。しかし木谷はそれ以上はきかなかった。彼はきき耳をたててうしろの壁の外の足音をたどっていた。それはたしかに女の小きざみな軽い下駄の音であった。彼はねそべったまま首をまわして壁の下の小さな破れ目に顔をくっつけて、外をのぞいた。板壁の外の広い深い溝《みぞ》の向うの舗道に動いているのは、白いひらめくような足首と赤くこぼれている着物の裾であった。彼はしばらく額がいたくなるほどにも板につよく頭をおしつけて、のぞいていたが、やがてふりかえったとき、曾田が眼を大きくして自分の方をみつめているのをみた。
「曾田はん、今日准尉さんいやへんのやったら、一ぺん、花枝の写真がどこかにおいてないかどうかしらべてもらえしまへんやろか……たしかに、師団司令部では准尉さんに渡しとくさかいにあとで受け取るようにというてましたんやもんな……」
「ええ、それはしらべてみたげましょう……」
「べつにな、あいつの写真なんぞ、いまさらさがしたって、用ないんやけどもな……。あんなもんに、いつまでもべたべたしてるおもわれたら、かなわへんけどな……」
木谷は板塀《いたべい》のうしろを通って行く足音にいつまでも耳をすませていた。もしも彼がこの塀の外へでられるものなれば……あらゆるところをかきわけてさがし出し、こうしてやるのだが……彼は両手を腹の上でくみあわせて、花枝の首のまわりをぐっとしめる形をとった。しかしやがて彼がふりかえったとき彼は曾田が再び眼を大きくして自分の方をみつめているのをみた。すると彼は曾田が自分のことについて(ことに刑に関係したことについて)何かたずねたがっているということを感じて今度は逆にぎくっとした。彼のかんはするどくそれはまちがっていなかった。もちろん曾田のきき方は彼が予想したようなものではなく、それは「石切はさむいやろな。」とか「毛布なんかあるのかな。」というような、自分自身に問うているというような形の問からはじまって、「一体、どういう風なところなんです。」というように移って行ったのである。
「さあ、ね、どんなとこやいうても、あれだけは一口でいえへんとこやな……いれてもらわんことには、かいもくわからんとこや……」木谷の調子はひとりでに相手をつきのけるようなものになった。しかし曾田がおされたようにだまってしまったのをみると、彼は面会のことや(面会は週或いは月に一度できたのだが、実際は彼のところへはだれもきてくれなかった。)食事のことや、監房の構造のことなどについて、さらに朝六時におきて点呼をうけてから調練、作業にまわることなどを話しだした。
「なれてしまえば、隊とかわるところはないというようなやつもいよるけど、あすこでは看守が後から使いやがる。」
「うしろから使う?」
「そうや、刀をもちやがって、ひとの後にたってよって、動かしやがるんや……。そら箒《ほうき》、そら小箒、そら右へ、そら左へ、そら前へ、食事用意、喫飯《きつぱん》、……みんな、後からいいやがるんや、なんでもうしろからや。」木谷はじっと自分をみている相手の眼をみた。つみかさなった侮辱にたいするいかりは彼の身体のなかですぐさまたぎった。
「喫飯?」
「看守が食事のときに喫飯と号令をかけると、それではじめて皆飯を食うのや……。みんな房のなかで、入口の方を向いて正坐してまっているんや。食事用意、喫飯、看守がいやがって、それでみんな箸《はし》をとって食う……喫飯の号令がかからんうちに食うてみい、それこそえらいことや……裸にしといて木銃《もくじゆう》でつきたおしやがるよ。」
「…………」
「飯はな、測り飯やぜ……」
「測り飯?」
「そや、測り飯や、飯盒《めんこ》に入れて炊事囚が一つ一つはかりで測って、一瓦《グラム》でも多いとへずり取りやがる。」
「そんなんで、よく体がもつのやなあ。」
「なんやって? 体はもつな。人間の体いうやつは、大抵のことならこたえるよってな。」木谷は黙ってしまった曾田にあびせるようにつけ加えた。「とにかく、あそこは、ひとの手をねじっておいて、そいつになんでもやるんやさかい、どんなむちゃなことでもできんことはないよってな。」
木谷はもう相手のことを考えている余裕はもたなかった。彼は蹄鉄を失って気をめいらせている曾田にかまうことができなかった。それに彼は蹄鉄のことなどそれほど心配することはいらない、もし染が今日点呼までにどこかで蹄鉄を手に入れることができないというようなことになった場合には、自分が蹄鉄工場へ行ってみてもよい、蹄鉄一個を手に入れる位のことは、自分でもできるだろうと考えていた。それにもしもそれでもなお手にはいらない場合には炊事の金子班長のところへ行ってたのみこみ、そこから蹄鉄工場の班長を動かしてもらうということも考えていた。そして彼は石切の刑務所の玄関は寺院のようなつくりで、その前にたつと生駒山《いこまやま》がじつによくみえること、作業は道具がないのですべてつらいが、しかし房内でじっと正坐して壁に向って一日中坐っているよりははるかにすごしよいということ。看守たちはみんな、囚人のたべるものを鳥のようにねらっていて、そのためになかにいるものの食事の量がいよいよへずられるということなどを次々と話して行くうちに、どっと内からふき上ってきた怒りのために、どうして自分があの林中尉の手で軍法会議にまわされるようになったりしたかということを曾田にきかせないではいられなくなった。
「曾田はん、七中隊の林中尉しってるか。」木谷は突然改まったように言った。
「いや、知らへんけど……」曾田はおびえたようにふりむいたがじっと木谷の顔をみつめたまま答えた。
「いや、元七中隊にいた林中尉やぜ……いまは隊にはいやへんのや……俺を軍法会議にかけやがったやつや。やっぱり曾田はんは知らんやろな……そしたら経理室の金子班長知ってるな……」木谷はその曾田の眼をいつまでも見返していた。彼は曾田の眼がまぶしそうにまたたくのをみた。「あの金子班長が俺を軍法会議にかけるのはかわいそうやいうので、そらえらい運動してくれよったんや……、俺のやった位のことで軍法会議にかけるなんてことはいらんいうわけや……。そら曾田はん、うそやあらへんぜ……うそついたって、こらすぐあんたには、あとでわかることやし、うそなど俺はいわへん……。ところがそのためにやな、よけいにいろいろもつれてきて、林中尉の野郎が、どないしても、これを内々ですませることはできん、俺を軍法会議にかけると主張しやがったんや……俺はほんまにそんをしてるんや……。たったあれ位のことでやな……のこのこと二年間まるまる刑務所にいれられてたんやよってな……。金子班長は俺が経理室にいたとき、そのときは伍長やったけど、俺の上にいよってな……そらようやってくれたんや……曾田はん、うそやあらへん……俺はさっきも金子班長に会いに炊事まで行ってきたとこや……」木谷は林中尉の名をにくにくしげにくりかえした。彼は曾田の顔をみているうちに、なかなか相手が自分のいうことをのみこんでくれないことにいらだった。彼は一体どう説明したらいいのかわからなかった。ただ林中尉といってみたって、あいつがこの俺にしたことがどんなことだということは少しもわかりはしないのだ……それにこの曾田は、はたして俺のいうことをほんとうだと思ってきいてくれるだろうか……しかし、これがほんとうなんだ……。
「俺のやったことなんど、別に軍法会議にかかるほどのことやあらへんのやぜ……それをあいつが主張しやがったために、とうとう俺を憲兵の手にわたしてしまいやがった。……林中尉のやろう……自分が経理室で、うまいこといかへんよって、こっちにまであたってきよってな……あいつはこの俺なんどより何層倍わるいことさらしてるかわからへんのやぜ……そら、みんなおんなじや……林中尉にしたって中堀中尉にしたって、わるいことさらさへんやつはいやへんのやさかい……経理室は部隊の小便たんごやいわれてたんやさかい……」
曾田は一言もものをいわなかった。木谷は曾田の顔が見る見る緊張してくるのをみて、それにぐっとひきこまれて行った。「ほんまに、みんな、ええかげんなことさらしやがるんやぜ……あんたら、学校でてはったって、軍隊のことはまだ知ってはらへんやろけど……えらいもんでっせ。……だけど、俺がこんなこというたこと、誰にいうてもろてもこまるぜ、な。」木谷は話しながら、刑務所のなかでどのようなよい看守にしろ、看守相手にしゃべっているときに必ず感じるような不安を感じていたが、彼の言葉はとまらなかった。
「ほんまに、みんな、ええかげんなことさらしやがるんや……そら、あんたら、えらい勉強してきてはって、いろいろ深いこと考えてはるやろけど……まだ軍隊のことはこっからさきも知ってはらへんも同然や……。俺を軍法会議にかけやがった林中尉など、俺よりどのくらいわるいことしてるかわからへん……。曾田はん、ところがな……軍法会議はそんなことちょっともしらべんと、将校のしゃべることだけをきいて、そのいうなりになって、兵隊のいうことなんど、全然ききよらんと、まるでしらべもせんと……長い間ほっといたままでおいといて……勝手に判決やろ……。そんなもん、いくら、そうとはちがう、将校のいうことちがういうたって、最初から兵隊はわるいことするにきまってるときめてるよって、いえばいうほど、態度わるい……とぬかしやがって、それでおしとおしてしまいやがるんやからな。長い間、未決でいると、そら陸軍刑務所いうとこは、また、きついとこで、つらい……裁判がちごてても、もうどないなとなれいう気になってしまうぜ……俺かて、とうとうそのくちでいかれてしもてな……いくらこんなこというても信用でけんやろ、曾田はん。」曾田は頭を横にふった。
「曾田はん、そやぜ。みんなええかげんなことさらしてやがるんや。」木谷はもう一度、同じ言葉をくりかえしておいて、横になった曾田の体の上に身をのりだすようにして、話して行った。彼の長い話は前後が入れちがい、その上当然うそも交じっていたが、それは曾田の心をはげしくうった。曾田はしばらくの間一言も言葉を発することができなかった。
六
1
木谷はこれまで食料品店や玩具店やいろいろな店に住みこんで、どこにいってもその裏面にごたごたしたあらそいがあるのをみた。それ故に彼は経理室勤務中にも将校たちの腐敗した勢力あらそいにすぐ気づいた。もっとも木谷だけではなくほとんどの兵隊がそれに気づいていて、それはよく話題にもでて兵隊たちの反感を買っていたのである。木谷は経理室内にあったそのような勢力あらそいが、自分の身を左右するほど大きな力をもって、自分の上に影響を及ぼすなどとは予想することができなかった。木谷は実際に自分がそのあらそいのかっとうのなかにまきこまれて、ついに軍法会議につきだされるようなことになろうとしたときにも、なかなかそれとさとることができなかった。それというのも彼がその事件を起したのは彼がすでに経理室の勤務をはなれて中隊で仕事をしていたときのことであったからでもある。しかし彼がもと経理委員をやっていた林中尉の金入れを拾ったということが彼の不幸だった。林中尉は経理室の当時の中心勢力であった山屋《やまや》大尉、中堀中尉、下瀬《しもせ》中尉などによって経理委員の席をおわれた人間だった。
木谷が経理室勤務になったのは入隊後三カ月の訓練がすみ、しばらくたってからである。彼は体が丈夫で気転がきき、敏捷《びんしよう》で、その上珠算がうまく能筆であったので、少し陰気でかげがあるといわれていたけれども、中隊では彼を経理室にだすのをおしがった。しかし中隊から行った他の兵隊が経理室勤務に適しないというのでかえされてきたとき、ついに彼はその代りに経理室にやられることになったのである。木谷は最初二カ月間ほどは経理室の使役兵であった。このときの彼の仕事は主として運搬が中心でトラックにのることだった。しかしついで正式の勤務兵となるにつれてその仕事は室内事務が中心となっていった。彼はこの経理室勤務を一年近くつづけた。そして勤務交代のときになって中隊にかえってきた。その間彼は老練で部隊の事務に精通した准尉上りの国本少尉と、若い学生風の金子伍長の下で勤務したが筆写や師団への報告書をかく場合などにはとくべつに引きだされて、筆をとらされたり、複写をさされたりした。しかし彼は互いに対立していた林中尉と中堀中尉のいずれの側にもそれほど深い関心をもちはしなかった。またこのいずれからもはげしく憎みとおされるというようなことはなかった。しかしいまから考えてみるならば経理委員を追われた林中尉から、たしかに彼もまた中堀中尉の一派に属するものと思われていたにちがいなかった。中堀中尉があれほど木谷のためにほん走するようなことになってからは、それはなおのことだった。そのために彼は林中尉に憎まれてついに送られなくともよい軍法会議に送られることになってしまったのだ。そればかりではなく林中尉のいつわりの陳述によって重い罪におとされる破目におちいったのだ。
木谷が事件を起したのは経理室勤務からはなれてからのことであった。(経理室勤務から中隊にかえるや彼はただちに金に窮してきた)それ故その監督の責任は別に経理室にはなく全部中隊にあった。……木谷の中隊が彼が衛兵勤務中に起したこの事件をできるだけ中隊内でそれも内輪に処理して公になることをふせごうとしたのは当然のことだった。それは中隊の成績に関係してくるからである。人事係准尉は心配して巡察将校の林中尉のもとに懇請に行った。しかし彼の事件が憲兵の手をへて軍法会議の手にうつることを同じようにおそれたのは部隊経理室であって、殊にその中心である中堀中尉だった。以前そこに一年近くも勤務していて、特に金子伍長の下にいた木谷が取調べをうけるということになれば、経理室に都合のわるい秘密が検察官にもれるおそれがあるからである。木谷はなかなかこのことに気づくことができなかった。それ故に彼は中堀中尉が金子伍長をつかってじつに彼のためにほん走してくれたときには意外にも思ったがまた感謝した。木谷は金子伍長、国本少尉の下働きとして事務的には中堀中尉に間接に接するだけで、それほど特別な関係はなかったから。しかし中堀中尉は自分の身の安全をはかるために一生懸命だったのだろうが、最後まで根気よく木谷のために師団の上層部まではたらきかけてくれたのだった。しかもこの中堀中尉の努力も実を結びはしなかった。林中尉は木谷を軍法会議にかけるという意見をおしとおし、ついにそれをひるがえすということをしなかった。もっとも林中尉にも最初から木谷を憲兵に手わたしてしまうという気持があったわけではない。というのは彼は衛兵第一種巡察として金入れをとった木谷をとらえた場合にただちに憲兵に連絡すべきであったにかかわらず、そうしなかったからである。……林中尉はたといそれが木谷を手なずけるためだったにしろ最初はそのようにむしろ木谷のためにはかる気持をもっていたのだ。……それ故に林中尉が木谷を憲兵に手わたして軍法会議にかけることを強硬に主張するようになったのはむしろ中堀中尉が木谷のためにほん走しているということに気づいてからのことであった。……とすれば木谷に対する二人の人間の間にはさまれて、自分の知らない運命をせおわされたことになる。
林中尉が経理委員の席を失うにいたったのは、その品行がおさまらないことが直接の原因になっていたが、実際は後からきた中堀中尉と下瀬中尉とにおいだされたのであったから、彼は中堀中尉にたいしてはげしい憎しみをもっていた。しかし野戦がえりの彼はじつに自分勝手でまわりのことに気をくばることができなかったので、それでは留守部隊の経理業務に即応して行けるものではなかった。殊に統制は強化され軍隊の必要なものでさえ手に入れにくくなってきて、しかも師団からは諸費節約のきびしい通達のだされはじめていたころである。林中尉は野戦から一緒に帰ってきた部隊でも古参の勢力のある須崎《すざき》大尉が経理委員首座として上にいて特別に面倒をみてくれている間はよかったのだ。戦闘自慢の少しかわりものの須崎大尉は彼をすいていてずっと無理をとおさせていた。しかし須崎大尉がやがて少佐に昇進して他部隊に移り山屋大尉がこれに代ることとなると林中尉はもはや委員のなかで孤立するほかなくなり、ついには経理委員の席をおわれなければならなかった。……この林中尉の追出し工作をすすめたのが新たに経理委員首座についた山屋大尉と糧秣係《りようまつがかり》(委員)の下瀬中尉と新たにきた中堀主計中尉とであった。山屋大尉はこれまでの首座のように全く上に祭られているというのではなかった。彼は部隊副官とも非常によく他の経理委員たちをもまたたくうちにたくみに手なずけ、古くからいる国本少尉を今度のは「えらものやぞ。」と感心させたが、彼はまた下士官たちを心服させ、主計連中をも支配した。それ故に人事異動のあとわずかの期間で経理室の空気はいままでとは全くかわって行った。室内はよく整頓《せいとん》され勤務の規律は重んぜられた。もっともそれは兵隊たちをきゅうくつにしたので山屋大尉の悪評はひろく兵隊の間にひろがった。がっちり屋というあだ名は彼のものであった。それ故兵隊たちはしきりに彼の行動を一つ一つせんさくした。林中尉はこのような空気にはたえられなかったようである。……しかし木谷のみるところでは経理室の実権はというとそれはやはり主計の中堀中尉と糧秣の下瀬中尉の手にあった。もともと部隊経理は経理委員の手によって運営される規定であり高級主計もまたその委員の一員にすぎなかったが、経理室の実権は主計将校が握るのが常であった。それは結局師団からくる金銭の出し入れは全くその権限のうちにあったからである。中堀中尉は山屋大尉をたくみに上にたて、統制のすすむにつれて花形の地位をしめだした糧秣係の下瀬中尉と結んで他の委員たちを完全に支配した。そして彼は部隊であたることのできない実権をにぎりとったのである。以前須崎大尉の下で勝手なことを許されていた林中尉はもちろん新しくきた中堀中尉のしょうがい物になる人間だった。しかし力をにぎった中堀中尉にとって粗暴でみなからきらわれているなまけものの林中尉をおいだすなどということは、それほど努力を要することではなかったのである。そして林中尉がついに経理委員をとりあげられたとき、中堀中尉、下瀬中尉に反対の立場にある林中尉がそうなるというのもまた当然のことだと思われていた。このときふだんから下士官いじめの林中尉に反感をいだいていた下士官たちはむしろ祝盃《しゆくはい》をあげ、何かというと長靴をつかってけりまわした林中尉に兵隊たちは同情をもちはしなかった。
2
林中尉は木谷が経理室の使役兵から正式の勤務兵になったときにはすでに、経理室にはあまり顔をみせることがなかった。彼はたといでてきても長く一ところにすわっているということができなかった。彼はいろんな原因がかさなって精神的にも肉体的にも衰弱していてもはや日常的な事務に関係するということができなかった。その頃林中尉は下士官たちをよく使って物品を引きだすのでいやがられていたが、倉庫の下士官などはみな彼にぶつからないようににげまわっていた。彼らはその強圧的なやり方にはらをたてていた。兵隊たちもまた優しいときには気持がわるいほどやさしいが全く思いやりをかいたこの中尉をさけようとした。彼の使役兵にたいする使い方はあらかった。彼はすぐ足をつかってけり倒したが、勤務兵にたいしても決して遠慮はしなかった。木谷も師団に対する報告書を謄写し終って用紙を机の上でそろえていたのを、ひょいと横あいから取りあげられもみくちゃにされてしまったことがある。それは中堀中尉担当の書類だった。木谷は誰か兵隊がいたずらをしたのかと思って「何をしやがる。」とふりむくと、「何をしやがるとは何か、この俺にもう一度いってみろ。」とのしかかった。木谷はこれが軍隊外の出来事ならば、逆につっこんでいって、こんな青びょうたんはほうっておかないのにとくやしがったが、林中尉は特別に装工兵にかたく打たせた長靴の底で木谷の向うずねをけり上げてうち倒した。彼は倒れている木谷の上へその顔と手をつきつけるようにつきだしたが、彼の自慢のその顔は酒のために色がうす白くかわり、眼尻がくずれてしまっていて汚かった。思い返してみれば彼はその頃からすでに木谷を中堀中尉の側の兵隊であるとかんちがいしていたように思えるのである。……彼は多くの兵隊たちを同じような手口で乱暴につき倒した。兵隊たちは以前はこのようなことはなかった、野戦からかえってきたころには、使役兵たちをのせたトラックに自分ものり、炊事に出させた食物と酒をかくして衛門を出、トラックが街はずれまで出てから、その上でのませたことなど話したが、「お天気もんや。」といってそれほどすいてはいなかった。彼は四条畷《しじようなわて》方面の旧家の次男坊で、任官するのに相当の金をつかったという評判が兵隊たちのうちに行きわたっていた。無口というのではないがひとをえらんでしゃべり、好悪がはげしく、兵隊たちはその肌ざわりを好まなかったのである。
木谷はやはりその頃林中尉が下瀬中尉のところへ行って、係の下士官に山屋大尉のところへはこびこんだ品物を俺の方へもだせ、いや、やぼなことはいわん、酒をだせ酒をこっちにも廻せと大声をあげているのをみたことがある。肥満していて太っ腹といわれているがいたって気のこまかい下瀬中尉は全く知らぬ顔をして書類を取り上げ、煙草をふかしていたが、やがて、一寸《ちよつと》冷やしてこいと言って向うへ行ってしまった。すると林中尉は、部屋の真中につったって、何だ、いまの経理室は何だ……山屋大尉の経理室か、副官の経理室か、部隊長と副官と大隊長、高級軍医あたりに、ものをはこびこんで、それで戦争しようと思うてやがるなどとののしりはじめたのである。彼は以前は物品の係を担当していて、二、三の下士官を味方につけ、彼が非難する人たちと全く同じように、部隊長や副官たちの家にものをはこび入れるという方法をとって、自分の安全をはかっていたのであるから、彼のいうことはすでに全く力をもちはしなかった。むしろそのように大声をあげる彼を下士官たちはわらっていた。野ぼなことをいうなというのだ。将校たちはもちろん黙殺した。そして兵隊たちさえもあわれに思ったのである。……林中尉が物品の係の責任をとかれたのは木谷が経理室へ行くようになってからのことであったが、彼は責任の位置をもたない委員となってしばらく自尊心をけがされ、手持ちぶさたにしていたが、いままでかえりみなかった兵隊たちに近づいて煙草をあたえ、外出につれだしたり、歓心を買おうとした。そしてその頃彼のくりかえすことといえば、「経理委員などというこんな面倒なもんは、はやくやめてしもうて、中隊にかえって演習でもやってる方がなんぼええかしれん――、なあー、外へでて、ぎゅっと、ひっかけてみい。」というような言葉だった。
中堀中尉は小さい鉄工所の経営主の息子だということだったが、林中尉に軽蔑《けいべつ》されるにたるような人間だった。彼はたしか商大出身で一時鉄工関係の工場にはいって営業面を担当していたといわれるので事務的には非常にすぐれていたが、銃剣術、剣道などは弱く、行軍には全くたえなかった。つまり留守部隊経理業務に彼は全く適していたのである。木谷は以前、部隊の銃剣術大会の予選があったとき林中尉が、俺は出る必要がない、いそがしい、時間がないといって出場しない中堀中尉を、むりに引き出してはげしい勢で撃突し、その場にひっくりかえし、組打ちにもって行って、面をうばいとったのをみたことがある。そのときは冷静で現実的な中堀中尉もその顔は青ざめ、相手の侮辱にはげしく頬を引きつらせて、いきをあえがせていた。「おい、君、そんなむちゃする奴があるか。」彼はおとされた木銃を拾おうとかがんだところをつづけさまにうちすえられた。彼は小さいかわいい耳と小さい獅子鼻《ししばな》をもった小造りの顔をして、如何《い か》にも温和な人物にみえたが、ひとにおされるようなところは全くなかった。
中堀中尉は林中尉に対して眼中におかず相手にならないという態度をとっていた。彼は林中尉を全く無視して仕事をすすめた。しかしその林中尉に対する対立意識ははげしいものだった。林中尉が中堀中尉に対して行う侮辱もまた相当の程度のものだったのだ。林中尉はしばしば主計将校に対する軽蔑をあらわに示したが、それは兵隊の眼にさえ度をこえたものと思えた。彼は中堀中尉をよぶにあたってよく主計さんという言葉を使うのだった。すると中堀中尉の顔色はあらわに変った。そして林中尉は黙ってしまった中堀中尉をさらに執拗《しつよう》に追うて行くのだ。「へえ、返事がありまへんな、主計さん。」中堀中尉はまたまだ一度も野戦にでたことがないという点でも林中尉の軽蔑をうけていた。しかしこの方は中堀中尉がそれを別に苦にすることはありえなかった。彼はそれに対してはいつも留守部隊業務、とくに統制経済のもとで担当する留守部隊の経理業務のむずかしい点を強調するのが常だった。彼は決して留守部隊というものを軽視してはいけないと言っていた。彼はひとによるとよく野戦野戦といって他の業務をおろそかにするものもいるけれども、それでは戦争などできなくなる。自分はむしろこれからも留守業務にうちこんで御奉公したいと思っている。野戦へわざわざでて行きたいと思ったこともなし、ここでやれという命令がでれば、喜んでそれをおうけして、いつまでもこれをやりますよと兵隊たちにきこえるようにしゃべったが、もちろんこれは明らかに林中尉のことを頭において言っている言葉だった。兵隊たちは黙って向うでそれを拝聴した。すると下瀬中尉は「俺などそんなこと考えてる暇がないぜ。内地にいてやな野戦野戦なんていくらいうてみたって、しょうがないやないか。一寸俺にもそんなごたくをいわしてくれる暇をくれんかな、暇を。」というのだった。事務を取っている兵隊たちはそれで笑ったが、「野戦に行きたいやつには行かしてやるか。」という中堀中尉の言葉をきいてぎょっとした。兵隊たちは中堀中尉を林中尉ほどにはきらってはいなかったが、それだからといって決してすいていたわけではなかった。彼は林中尉のような自分勝手とはちがうのだがやはり高まんでわがままで自分のことだけを考えていた。その上自分の勢力が次第にのびて行くにつれてこの傾向は一層はげしくなって行った。もちろん木谷はその中尉の身のまわりの世話をときどきやっておくことは忘れなかったが、中尉に対してそれほどよい感情はもっていなかった。彼は兵隊にものやわらかい態度で接していたが実際は少しもそうではなくいたって冷淡なのだった。(木谷にはそれがすぐわかった。彼は多くの奉公先でいろいろな主人に出会ってきているので、自分のつかえる人間をみる眼は決して温かいとはいえなかった。)……中堀中尉は書類の形式にこり、各中隊に対しては用紙の節約をきびしく通達していたにかかわらず、自分の書類となれば何度も兵隊にかき直させ、紙も兵隊の労力も少しも考えないという風であった。
しかし木谷が何よりも受け入れることのできなかったのは、中堀中尉が学校出の兵隊を自分の下にあつめようという考えをもっていて、次第にそれを実行にうつしたことである。中堀中尉もまた木谷の態度から彼が自分に心服してはいないということを感じたのだろう、ついに彼の経理室勤務を解いたのである。もちろん木谷が経理室勤務をやめて中隊勤務にもどったのは、定期の勤務兵交代のときのことである。木谷の中隊では上等兵が一名病気で長期入院をしていたので、中隊の上等兵勤務に支障をきたし、上等兵の木谷を経理室へさしだしておくことをおしがった。そして木谷の代りに別の一等兵をさしだすことに決めたのだ。しかしこのときもし中堀中尉が木谷を自分に役立つ必要な兵隊だとみていたのなら、たといいかに中隊が木谷をかえしてくれといってきたところで承知するものではないのだ。しかし経理室は木谷をかえすことをじつに簡単に承認した。木谷はこのとき自分が経理室では迎えられない人間だと感じたが、それはたしかに中堀中尉の意向によったにちがいなかった。……金子伍長などはむしろ木谷に引きつづき経理室にいてくれることをのぞんでいて、中隊にも要請するといっていたのだから、中堀中尉がそれに反対したと考えるほかにはなかったのだ。……以前上等兵進級のとき木谷を候補に推薦したのは中堀中尉であったが、木谷はかなり前から学校をでていない自分が中堀中尉からみすてられていることを感じとっていた。もっともこの第二次選抜の上等兵選衡のときに中堀中尉と下瀬中尉が木谷を上等兵にするように中隊に要求したのは、木谷もよく知っているが、それは全く形式的なものだった。中堀中尉は経理室勤務兵、ことに自分の部下のなかから一人でも多くの進級者をだそうと考えてほとんどすべての勤務員について各中隊に同じ要求をだしたのだ。それは別に木谷一人についてなされたことではなかった。それだから彼は上等兵に進級したときはうれしいことはうれしかったし、中隊のものたちも経理室勤務のものは上等兵進級がはやいとうらやんだが、彼は心から中堀中尉に感謝するなどということはなかった。
3
中堀中尉が下瀬中尉の協力をえて強行したといわれる、部隊経理の無駄を排除する計画は、この中堀、下瀬両中尉が金子伍長をつかってたてたものであったが、木谷はその計画の謄写刷りをつくらされたことがある。中堀中尉の御用商人に対する態度はきびしかった。彼はしばしば金子伍長とともに納入品目全般にわたるきびしい検査をかかさなかった。こうして彼は経理室の権威をうちたてるとともに御用商人をたくみに自分の身ぢかに近づけさせた。物資の購入の困難になるにつれて留守部隊の経理室の位置はいよいよ重くなっていたが、経理室、倉庫の各中隊にたいするにらみはよくきき、さらに下瀬中尉と中堀中尉の各倉庫各中隊に対する重みは大変なものとなっていた。そして下瀬中尉の名もまた部隊のすみずみまで行きわたった。彼らは部隊のなかではできないことはないとさえいわれた。彼らの自宅には召集や動員のあるごとに自分の子供や親戚《しんせき》の召集をうけたものを「即日帰郷」にしてもらうために多くの人がおしよせるということだった。彼らの名前は二年間にその私財をふやし、莫大な金をためこんだといううわさとともに口にされた。補充兵の使役兵たちは好んでそれを話題にした。しかし経理室内部ではむしろそのようなことを言うものは、ほとんどいなかったが、それはみながほとんど同じようにうるおっていたからである。
中堀中尉は非常に用心深かったが、下瀬中尉は大軌《だいき》沿線にかなり大きな家を新築していた。もちろん経理室の一中尉が家を新築するなどということは当時絶対に不可能なことであった。……木谷は四、五人の兵隊と一緒に金子伍長に引率されて、まだひとの入っていない新築家屋のガラス磨きに使役に行ったことがある。ところがそこへはすでに御用商人たちが出入りしていて家具や什器《じゆうき》やその他薪、炭、野菜いろんなものを公然とはこびこんでいた。木谷たちはその家の裏庭に物資を入れる物置をつくるというので土はこびをさせられたが、そのときには最後の日に炊事の班長から酒がとどけられ、中尉はその酒を兵隊たちにふるまった。しかしもちろん酒は祭日に兵隊に下給されるべきものだった。兵隊たちはぶつぶつ文句をいいながらのみほして、赤い顔をして金子班長の号令で衛門をくぐったのである。下瀬中尉は雑貨問屋の息子で、軍隊勤務などほんの内職づとめや位におもてるなどと彼のことを言う兵隊もいたが、それは彼の力のもたらすところだったといえるだろう。彼は特別につくらせた大きな軍服の下から腹をつきだして、ゆっくりした歩調でよく営庭を斜めによこぎり炊事の方へ姿をあらわしたが、そのとき兵隊として木谷の感じるものは、如何にしても動かすことのできない力のようなものであった。……また下瀬中尉、中堀中尉の部隊長、副官、高級将校たちに対する政策の完備していることはよく知られていた。下瀬中尉と中堀中尉はたえずその点では眼をくばっていた。彼らは部隊長宅に、米、薪、炭、肉類、調味料、あらゆる物品をはこびこんだ。木谷は部隊長と部隊副官の当番兵とよく連絡して、ときどきその家に物品をはこぶ使役などもさせられたが、五十をこえた鬚《ひげ》の白い、ずんぐりした部隊長はにこにこして彼らを迎えた。
しかし一方木谷たちは当番兵とぐるになってその途中、その品物の一部をぬきとりかくすのだった。もちろん木谷のやったことはそれだけではなかった。彼がもっともよく物品の持出しのできたのは、金子伍長が経理学校からかえってきてしばらくして、まだ中堀中尉の腹心の部下になっていなかったころであった。木谷は金子伍長が被服倉庫の下士官と一緒になって兵隊の靴下を、炊事の使うバタバタの積荷の下に入れてもちだすのを手つだわされたことがある。それ故に金子伍長は後には兵隊たちをひどくしめるようになってきたが、少量の持出しについてはいつもみてみないふりをした。
林中尉がよく口にしたのは中堀中尉や下瀬中尉や金子伍長がやる高等政策だった。彼はそれを高等政策という言葉でよんでいたが、酒などのんだときにはしきりに「もう許さんぞ、許さんぞ。」というようないい方をして、ひどくいきりたった。しかし彼にはそれをどうするという力もあるわけがなかった。彼は中堀中尉と下瀬中尉の圧力におされて全く力を失った。するとただ力の弱い金子伍長にあたるということがついには彼にできる唯一のいやがらせにすぎないという風になってしまった。そして彼自身はそのように相手を攻撃しながら以前にもましてびっくりするほど強欲になっていた。彼は毎日のように炊事へ食糧をださせるために自分ででかけて行くということだった。もはやどこへ行ってもきらわれていたので自分の当番兵を交渉にやらせるだけでは彼は品物をださせることはできなかったからである。木谷は彼が悪質の病気がこうじて金がいるのだといううわさをきいたが、七中隊の当番兵もそれを否定しなかった。当番兵はむしろ林中尉をきらっていて、その品物を衛門歩哨《ほしよう》の眼をかすめて外にもちだすのにじつに苦労するというのである。しかしそれもやがて衛門の検査が次第にきびしくなり、石炭運搬のトラックに乗りこむとかいろんな工夫をしなければならなかった。その上、けちな林中尉はそれほど苦心してはこびだしたものを当番兵にわけてやるなどということはしなかった。……しかしついに林中尉は飛田遊廓《ゆうかく》事件を起して謹慎を命ぜられ、やがて経理委員の位置からしりぞけられることになったのである。飛田遊廓事件というのは林中尉が廓内《くるわない》に軍の書類を忘失してきた事件であった。しかし書類はそれほど重大な書類でもなかったし、楼主が部隊本部までそれをとどけてくれたので、外部にひろがるということはなかった。が、それは中堀中尉が彼を経理室から追うのに、じつによい機会となったのだ。
4
木谷の事件はこのような経理室内のあらそいのなかへおかれたのである。彼は林中尉から中堀中尉側の人間として憎まれた。そのためについに林中尉におとし入れられてしまうことになったのだ。林中尉は彼を検察官に手渡し軍法会議にかけたばかりではなく、さらにそこに於《おい》ても木谷のために種々の不利な陳述をした。もちろん木谷は林中尉の言葉にいろいろ抗弁したのである。しかし彼はそのためにかえって反軍思想の持主と判定されて重罪に処せられるにいたったという。……
「一体、反軍思想などというものをこの俺がどこにもっていたか、また不穏な考え方などと検察官はいいやがるけど、……そんなことはみんな全くでたらめで勝手に向うでつくったこしらえごとなんや。この軍隊がすきな兵隊なんて一体どこにいるやろか、日本中さがしていたら、おめにかかりたいわ……。軍隊がいや、はようかえりたいいうこと位はだれでも、兵隊ならばいつもいうてることやないか。しかし兵隊はやな、いくら口ではそういうてても、この日本のくにのためにつくす気持はみんな心の底にはもってるんや。」(木谷は話して行った。)ところがあの林中尉のやつはほんまにいんけんなやり方で事実をまげて、木谷を不利な立場においこみ、彼をおどしつけてことをはかろうとした。たしかに林中尉は木谷をおとし入れようとして事実をまげたのだ。……木谷は実際その金入れをとろうとしてとったのではなかった。たしかにそれはひろったのである。ところが林中尉は木谷が最初から計画的に考えてその金入れをとったのだと陳述し、その証拠をいろいろとのべたてた。木谷はいまも林中尉のそのようなやり方を許すことができない。しかし彼はまた林中尉にいいふくめられ(たしかにそうにちがいない)、ただ林中尉の陳述だけをとりあげて検察をすすめた検察官をまた同じように許すことができないのだ。木谷としては事実とちがうことをおしつけられてどうしてそれをみとめることができようか。しかし彼が如何にそれを否認しようとも、否認すればするほどそれは彼の反軍思想を証明するということになるばかりであった。彼はそれによって態度がわるいといわれ、反省がたりないとののしられ、おそるべき兵隊だという判定をくだされた。
木谷は決してその金入れを計画的にとろうとしてとったのではない。金入れは衛兵所の便所から三、四間はなれた草地のところにおちていたのだ、たしかに木谷はそれを拾ったのである。……衛兵交代の前日のことだった。林中尉が巡察にやってきたとき、歩哨係上等兵だった木谷はほんとにいやなやつがきやがったな、こいつはきっと長いことしぼられるぞと思ったのである。彼は歩哨の守則などはよく暗誦《あんしよう》していたが、長い間経理室ばかりにいたのでまだこのような勤務にはなれるところがなかったのだ。ところが幸いにも林中尉は疲れているのか巡察を全く簡単にすませ、顔見知りの木谷をじろりとみたきりで言葉をかけることもなく、すぐ茶をくれといって衛舎の裏の仮眠所の方へはいって行った。木谷はそれで巡察はおわり、林中尉はもうまもなくひき上げるものと考えていた。ところが彼はなおしばらく仮眠所の方で休息をとり、腹痛をなおすために便所に行ったのである。ちょうど歩哨交代の時刻だった。木谷は控えの兵隊をつれて歩哨を交代し、立哨していた歩哨を休ませるために引きつれて衛兵所にもどってきた。衛兵司令に異常の有無を報告し、便所に行こうと思って歩いていった。ところが便所に行く途中、道から一寸左にはいった窪地《くぼち》に何かおちているものがある。行って拾い上げてみると、それが金入れだったのである。彼はすぐその場で中身をしらべてみたが、五十四円五十七銭という金と市電のちぎれた切符と朝日座の映画の優待券とがはいっていた。彼はこの落し主についていろいろ考えてみたが、はっきり見当がつかなかった。このようなところに落ちていたとすれば落し主は兵隊であってその他には考えることはできなかった。彼はそこに一寸たちどまり、辺りを見廻したが、それを衛兵所にとどけでて、おとしたものをしらべようと思い、そのまま便所にもいかず、すぐ引き返した。しかし彼は五歩も行かないうちにその金がほしくなり、また辺りをうかがってからそれを上衣の物入れに入れてしまった。それから彼はすぐ衛兵所の裏を少し下りたところの竹藪《たけやぶ》わきの流れのところへかけて行って、そのなかみを自分の身につけ、金入れだけをそこにすてたのである。しかし彼は竹藪のところに下りて行こうとしたときその金入れが林中尉の持物だということに気づいた。というのは、その金入れは靴修理に使う皮革を用いて装工兵につくらせたものであって、それは経理室関係の将校か下士官の他にはもっていないものであったから。そう気づいて彼はこのときはじめて便所のところに将校服がかかっていてそこに巡察の白赤の肩章がひっかけてあるのをみた。木谷は林中尉がまだ帰っていず便所にいたことを知ったのである。彼は一寸の間まよった。或いは便所のなかにいた林中尉がなかから彼をみていたかも知れなかった。そしてまだ、そのときならば彼は金入れをもって衛兵所に引き返していっても間に合ったのだ。彼はあとで林中尉が金入れを紛失したことに気づいて、調べるところを想像し、もし見つかるようなことになってはもうおしまいだとも思った。しかし彼は金がほしかった。衛兵下番《かばん》したならば、すぐさま花枝のところに行こうと考えていたが、彼にはもう金を手に入れるあてはなかった。そこで彼は金入れを衛兵所にとどける方をえらばず、竹藪の方へ行ったのである。その途中彼は或いは林中尉はどこか道でおとしたものと考えるかも知れないなどと夢想もした。……彼はやがてすべてを溝《みぞ》のところで始末して衛兵所にかえったが、かえってからもう一度よく考えてみてその金の端数の四円五十七銭だけは物入れの自分の金入れのなかに入れ、十円紙幣五枚の方は紙につつんで衛兵所横につんであった材木の下にかくすことにした。間もなく林中尉は便所からでてきて、腹がいたむ、巡察勤務中の下痢には実際弱るぞとか何とかいいながらかえって行った。木谷はひとのかげにかくれてみていたが、安心したと思う間もなくやがて林中尉は一時間ほどしてから引き返してきた。電車にのろうと思って、ふと内ポケットが軽いのに気づいて、かえってきたと彼はいった。彼は兵隊たちを動員させて便所の周囲をさがさせ、さらに衛兵所から、自分の歩いた道順を片はしからずっと歩かせたが、金入れがでてくるはずはなかった。衛兵たちは毎日の勤務でつかれていたが、巡察の命令であるからこばむことができず、ぶつぶついいながらも、それに従った。木谷も同じようにみなに交じってさがす風をしていた。ついに金入れがでてこないとわかったとき、林中尉はこれだけさがしてでてこないとすれば金入れは盗まれたとみなければならない、捜査の手続き上まず最初落したものとして捜査させたが、いまからは衛兵一人一人を自分が巡察将校として徹底的にしらべると言った。そして彼は兵隊を一人ずつよんでその持物と肌につけているものとをすっかりしらべたが、ついに金入れはでてこなかった。彼はまず衛兵司令と衛舎係と木谷上等兵をよび、この兵隊のなかで挙動のあやしかったものはいないか、また平素から素行のわるいものはだれかなどとたずねた。しかし衛兵司令はこの衛兵は同じ隊からでているのではなく、中隊が別であって方々からあつまってきているので、わかりかねると答えて、しかしそのようなものがいたとは自分には思えないと言った。林中尉はそれでは部下の掌握が衛兵司令として不十分だと言った。林中尉は木谷のところにきてしばらくその陰うつなとげとげしい眼でじろじろみていたが、何もきくことはしなかった。木谷もまた何もいわずだまっていた。次いで林中尉は木谷をその仮眠所から去らせ、しばらく衛兵司令と二人でのこっていたが、あとで司令はそのときのことを話して中尉が司令の身体検査をしたといっておこっていた。木谷のことは別に何もきこうとはしなかったそうである。木谷ももちろんそれから兵隊と一緒に身体検査をうけたのであるが、そのときも林中尉は、この犯人はどんな手段をとってもさがしだしてやるのだと興奮していて、荒々しく彼を取り扱ったが別に彼に調査以上の言葉をかけることはなかった。木谷は林中尉はすでにくらくなった衛兵所を、みなのささげ銃《つつ》の敬礼をうけて、肩をいからせて出て行ったのをおぼえている。林中尉は一度もあとをふりかえらなかった。木谷はその姿をみながら、(自分がその金入れをとった人間であるにかかわらず)はげしい憎しみを感じていた。
5
その翌日は衛兵交代の日であった。木谷はひる前金をかくし場所から取り出してきて、背嚢《はいのう》の木わくの間にかくした。もう巡察はないと考え彼は衛兵交代してただ部隊にかえる時間をまっていたのだ。ところが正午近くになって林中尉は再びやってきたのである。彼はただちに立哨中の歩哨以外を全部そこにあつめ、動かさないようにして全員の持物を徹底的にしらべた。そして彼はついに木谷の背嚢の板がこいの間から紙につつんだ五十円をみつけだした。昨日しらべられたときには木谷の所持金は八円ばかりだった。それでも彼の金は他の者よりも多い方であった。その上五十円の金がでてきてはそれをいいぬける手段はもはやなかった。木谷は問いつめられるままにその金を自分が取ったことを認めなければならなかった。彼は気をとり直して昨日歩哨交代後金入れを拾ってからのことをかくすことなく、すぐに林中尉にのべたが、彼は自分がこの林中尉にみつけられたということが残念でならなかった。林中尉はしばらく、憎々しげに木谷をみていたが、やがて木谷の前にすっとたつと、その顔をつづけざまになぐりつづけた。それから「こい。」といって衛兵司令をともない、木谷にその拾ったという現場に案内させ、さらに裏の金入れをすてた溝のところにも一緒に行って説明をききとった。彼はさらに木谷にはだしにならせて、冷たいひえきった流れのなかへつき入れ、金入れをさがさせたが、それはでてこなかった。三人はそこをひきあげたが林中尉は金入れのことをしきりに口にした。それがどんなによい品だったかを兵隊たちにふいちょうした。そしてそれがでてくるまでもう一度あくまで徹底的にさがせといって木谷にふたたび命令した。しかしそれはついに憲兵隊の依頼によって次の交代衛兵が溝をさらえたり、底を掘り返したりしてさがしだしてくるまではでてこなかった。木谷は冷たい水のなかを裸足《はだし》でさぐったが、かえって行って金入れはみつからないと報告した。林中尉はみつからないのはお前がほん気でさがそうとはしなかったからだといってまたなぐりつけた。林中尉はなぐっておいて、木谷をたたせたまま長靴で木谷の脚をけったり尻をこづいたりしていたが、しばらくしてから、お前が先ほど金入れをひろったといったのは、嘘だ、お前はひろったのではなくこの上衣の内ポケットからじかに取ったのだろう……はっきりいえといいだした。それは明らかにでたらめだった。彼はそれを否定しつづけたが、林中尉はお前はまだ嘘をつくのかといってまたなぐりつづけた。……林中尉は、昨日は衛兵の巡察を終ってから腹痛のためすぐに便所に行った。便所に行くにあたって上衣がじゃまになるので上衣をぬいだ。しかしそのとき自分が金入れをおとすようなことは絶対にありえない。上衣の内ポケットにはちゃんとボタンがかけてあったのだからそこから金入れがおちるなどというはずはない。それ故木谷が金入れを横のくぼ地のところでひろったなどといいたてるのは全然いつわりだ。木谷はきっと自分が便所の目隠しの板のところにかけておいた上衣のなかから金入れをとりだしたのにちがいないというのだ。林中尉は、はやく白状しろ、そうだといえと木谷をこづきまわした。いくらうそをついてもこれは必ず俺が徹底的にしらべてつきとめてやるからとおどすようにいった。しかし木谷はもはやおしだまったまま一言もいうことはなかった。すると林中尉もまるでつかれたもののように黙ってしまった。彼はあまりにも突然のことで処置にこまっている衛兵司令に一応自分が十分取調べの上で処理するから報告書にはまだかき入れないように指示しておいて衛兵たちにもそのように注意した。そして彼は衛兵の交代後、衛兵を下番した木谷に部隊にかえるから自分と一緒にくるんだと命令した。
林中尉は頭の毛はうすく、眉毛はぬけおちて、木谷がしばらく見ない間にその整った顔も台なしになっていたが、彼は途中木谷に、どうしてひとの物をとるようなことになってしまったのかと説諭をつづけて、その顔をこまかく左右にふった。彼は昨日兵隊の所持金をしらべたときすでに大体見当はついていたと自分の直観のあやまらなかったことを自負した。彼は衛兵交代間ぎわにやってきて調査したその捜査方針と方法とに自信をもっていたので自分でのぼせあがったその勢でこまごまとした質問をしつこいほどにも電車のなかで出して、木谷を閉口させた。彼は木谷の生《お》いたちと経歴をきき、父ははやく死に母は行方知れずになり、兄の家にやっかいになってきた話をきいて、お前も可哀そうな奴やなといった。彼は「俺は、お前がやってくれたので困った。やはり僅かの期間でも同じところに勤務していたものが、そんなことをしてくれたんでは、処置ないなと思っていたので、お前のところから金がでてきたときには実際こまったぞ。」といいながら、「おい、木谷、お前、そんなに金がほしかったか。」としみじみした口調で話しかけた。それから彼は「経理室みたいなところにいるとみんな人間が毒されてしもうて、わるうなって行くな。」などと大げさになげいたが、彼は決して木谷を追求することをやめたのではなかった。彼はもう懲罰をかくごした木谷の態度があまりにもなげやりではきはきしているのを許さなかった。彼はその金をどうして取る気になったのか、なぜ金がそんなにほしかったのかを問いつめ、ついに木谷がその女関係、花枝のことを白状するまではやめなかった。彼はそれをきいて、ようやく満足した。そしてそのやり方はほんとにいやらしく残忍だった。
「おい、そんなに女にあいたかったんか。」彼はからかうように言った。「はあ、会いとました。」と木谷はこたえたが、この調子はすぐに林中尉の気持を害したのである。彼は木谷の頭を後からつよくこづいて、「お前、それほど覚悟があるんなら、どうして金入れをとったといわんで、拾ったなんていいはるのだ。」と手あらい扱いにかえっていくのだ。
当時の木谷の中隊長は歩兵砲中隊長としてやはり古参大尉の一人だったが、それほど他中隊に対してにらみがきくほどではなかったので、林中尉をときふせるという自信をもたなかった。彼は中隊の兵隊が衛兵勤務中にそのような事件を起したことをきいてただ激怒した。彼はすぐに木谷を重営倉《じゆうえいそう》処分にするよう主張したが、それは准尉に注意されて、この事件はそれほど簡単に決定することはできないことをようやくなっとくした。准尉は山脇《やまわき》といったが、林中尉から報告をうけると、中隊の兵隊のおかした罪をあやまってすぐに木谷を他の兵隊からきりはなして、林中尉殿に取り調べて頂くことにしてはどうかと提案し、隊長と林中尉の両方に賛成させたのである。「木谷、行け、お前は、このおっとなしそうな顔をして……かっしこそうな顔をして、にっくたらしそうな顔をして、この顔でやりおったのか、この顔で。」准尉は大きな声をあげて木谷を突然どなりつけ、胸のところをついた。「ぬすっとにまでなりおったな、こいつは、こいつは。」准尉は木谷を再びつきとばしたが、彼は木谷の罪を軍刑法や軍隊内務書などにてらして、できるだけかるくしようという手続きを研究することはおこたらなかった。彼は体が大きくその割に頭が小さく、うしろからみると頭の右側が如何にも固い石ころのようにみえて如何にも愚かな感じがし、その言動も粗暴で兵隊たちをいつもののしっていたが、このような際にむやみと木谷をつきおとすようなことはしなかった。木谷は准尉のこの動じない態度におされた。そして曹長もこの准尉の意を体して木谷のために動いてくれたのである。木谷の班長は准尉の前でおろおろしていたが、誰もいなくなると木谷をこづいた。林中尉は隊長と准尉の前で再び金入れをひろったとまだ言うつもりかと追求した。しかし木谷は事実をのべるほかにはなかった。木谷は曹長室の壁ぎわに不動の姿勢をして何時間もたっていた。
「こいつは、経理室にいたときは、もうちょっとよい兵隊やったと思っとったが、な、おい木谷。」と林中尉は曹長室の真中につったったまま言った。「貴様うそつくぞ。」
「はあ、自分もそう考えて、わざわざ経理室に要求して、ええ兵隊にしようと考えていたところ、なあ、こんなことやりくさって。貴様この俺の眼からかくしてたな……この貴様の心をな。」准尉は言った。
傍から曹長は言った。「木谷、お前はおっそろしい人間ぞな。はやく准尉殿におわびして本当のことを申し上げろ。准尉殿が貴様のことをこれほど考えて下さってるのがわからんのか。准尉殿、相当てこずらせよりますな。」
隊長は曹長室にはいってくる度に「林さん手をとらせるな。」といい、「准尉、なんとかはやく始末できんか。」と部屋をぐるぐるまわった。彼は林中尉に「なあ、中隊長として責任をもつなどというのはあたり前のことだが、中隊長が自分でこの兵隊をあずかるから、君、中隊にもどしてみてくれんか。」とたのみこんだ。しかし林中尉はそれにたいして自分は巡察将校の立場にあるのだから、もっと取りしらべをすすめてからでないとそう簡単に取りあつかうというわけにはいかないと言った。金子伍長がかけつけてきたのは、その翌日の夕方のことだった。
6
木谷は最初は金子伍長が自分のことで中隊にやってきたりしたのが意外だった。それは予想することのできないことだった。しかし伍長が心配してわざわざきてくれたということはもちろんうれしいことだった。金子伍長は准尉に案内されて曹長室の木谷のところにやってきたが、事件についてくわしくききとると言った。「木谷、お前、ほんまに厄介なことをやったな。あんな林中尉にかかわったりしてからに、どないするのや。」彼はうつむいたまま黙っている木谷の肩をにぎって声をひそめていいつづけた。「なんで、あんな林中尉みたいなやつにちょっかい、だしたりしたんや。金がほしかったら、なんで俺のとこにいうてこん?」
准尉はその言葉をきいてきかない風をしていた。伍長は、中堀中尉殿もお前のことを心配してられるぞと木谷につたえたが、林中尉は一体木谷をどうしようといっているのかとくわしくきいた。そして彼は中堀中尉にお前のことをよくはなして、中堀中尉の力でうまくうちわですむようにしてもらってやるというのだ。彼はやがて准尉に耳打ちしてでて行ったが翌朝はやくふたたびやってきて、中堀中尉も自分のいうことをきいてくれて、お前の隊長にも説き、隊長から林中尉によくはなしてもらうということになっていると説明したが、このことについては絶対に林中尉にさとられないようにしないといけないと注意した。彼は曹長室にとじこめられている木谷のために甘味品をもってきてくれ、熱いお茶をとってきてはのませてくれた。それは隔離されてひとりになっていた木谷の胸にしみとおった。金子伍長はいつも木谷のところにきている間、林中尉がやってきはしまいかとびくびくしていたが、そのなかで林中尉が一体何をいったかをしきりにききたがった。木谷は金子伍長がかえってから准尉の口からも中堀中尉が特に彼のためにほん走してくれていること、しかし中堀中尉は主計将校であるから実際にはこのような他中隊の兵隊のことに口出しすることはひかえなければならない立場にあるのだから、絶対にだれにももらしてはならないという注意をきいた。
中堀中尉はその翌日金子伍長をともなってやってきたが、このときには中隊長がさきにたって案内した。彼はいつものように冷たい眼でみて特別に木谷に感情を動かすということはなかった。「わるいことをしたやつだが、計画的にやったのでもないのだから、よほどよく考えてやってやらんと、かわいそうだぞ。」彼は木谷の前で准尉に言った。「そうむやみに罪人をつくってみてもしょうがないやないですか。それより二度とそうならんようにして、一生懸命にはたらかした方が軍にとってもなんぼええことかわからんと自分などは思うな。」もちろん隊長も大いにこれに賛成した。彼は非常に気をよくして木谷にむかって言った。「木谷、お前はほんとにやっかいかけるやつやなあ。」隊長はこれに力をえて改めて木谷のことに力を入れだすようになったのである。
木谷はこのときのことをよくおぼえているが、中堀中尉の態度には少しばかり不審な点があったにかかわらず、彼はそれにあまり気づくことがなかったのである。たしかに中堀中尉は林中尉をおそれていた。……中堀中尉は木谷の横にたってしばらく隊長と二人で林中尉にどのように説いたらよいかということを話し合っていたが、やがて木谷についてしらべたいことがあるのだが、みながいては言いにくいだろうからと隊長と准尉に一寸席をはずしてくれるようにたのみこんだ。二人がでて行くと彼は自分の近くに木谷をよんでつらいかと低い声でいったがそれは木谷を動かした。
「木谷、経理室は規定の上からいうと、いまお前がどんなことをしようと別に責任をもつことはないようになっているけれど、この間まで経理室で勤務してくれていた兵隊のことはやっぱり自分にはほうっておけん。それに木谷、お前も林中尉を相手にするんでは可哀そうだな……」中堀中尉は言った。彼は顔をあげた木谷に、林中尉がなぜ木谷が拾ったという金入れをとったものだと事実をまげたりするのかときいてじっと顔をみ入った。「そんなこと位わかるだろう……」中堀中尉はさらにいったが、木谷はそれには答えられなかった。(木谷はこのときこれに答えられなかったということはなんという頭のめぐりのわるいことだったろうかといまになって思うのである。)それから中堀中尉は林中尉が何か経理室のことでお前にはなしはしなかったか、それともたずねはしなかったかときいた。しかし林中尉は別にそのようなことはしなかったのだ。木谷は知らないと答えたが、中堀中尉は別にかくすことはない、経理室のわるいことを言っていたらいっていたといえというのだ。金子伍長はしきりに横から中尉の言葉をくりかえした。
中堀中尉も隊長もみな林中尉にはてこずっているように見えた。たしかに林中尉のやり方は陰けんで、小細工だらけで、ひとのうらばかりをかくやり方だった。木谷は林中尉のそのようなやり方をみぬくことができなかった自分がいまもくやしくてならないが、彼は林中尉のみえすいたうそさえみぬくことができなかったのだ。いや木谷は林中尉が何をたくらんでいるか、うすうす感じていないわけではなかったのに、それにもかかわらずはかられてしまった自分がくやしくてならないのだ。そして木谷は林中尉のわるがしこさについてはいまもつよい印象をもって思いだすことができるのである。林中尉は中堀中尉が木谷をたずねてきたことをただちにかぎとったが、それを知ったときの木谷の驚きは大きかった。中堀中尉が木谷のところにたずねてきたことを知っているのは、ただ本人と隊長と准尉と木谷と金子伍長の五人にすぎない。しかもこのうちのだれ一人としてそれを林中尉にはなすなどということをするものはないのだ。隊長も准尉も木谷に対してそれをだれにも言ってはいけないと言った位である。しかも林中尉は中隊長が中堀中尉の言葉に従って木谷の事件を内輪で処理してくれるように彼のところに改めてたのみに行ったとき、ただちにそれをかぎとったのである。……林中尉はさっそく木谷のところへやってきたのだ。林中尉ははいってくるや、「おい木谷、中堀中尉がきたやろう、おい、いえ、はいといえ。」とせまるようにして近づいてきた。「怪しいとにらんでいたら、とうとうやってきやがった。おい、いくらかくしてもあかんぞ、中堀中尉がごそごそ動きだしてまた何かたくらんでるらしいが、そんなことしたって俺にはすぐわかるんだぞ、ちゃんと知らせてくれるものがいるんだ。」「おい、中堀中尉は一体、何というてかえった? 言え、木谷、言わんか。」さらに林中尉はいったが、「昨日、お前の中隊長がきて、いま頃、あらたまって何いうのかとおもてたら、お前の事件を内輪にしてやってくれという話やないか……ふん、それでもう俺には、すべてがちゃんとわかったな……ところが、お前の隊長はほんとにとぼけるのがうまいよ……なんぼといつめてやっても、中堀中尉のナの字もいわん……しかしな、どうも、あやしいと思っとった。この間からどうもお前が糞おちつきにおちついてやがると思うたけど……陰で中堀の野郎が糸をひいてやがったんやな……しかしな、俺はもう絶対にこのままではお前を許さんぞ。」というのだ。林中尉は長い間木谷をせめた。彼は木谷をののしり、靴でけった。そして彼はおどしたが、木谷は彼がついにおこってでて行ってしまうまでいつまでもだまって何もいわなかった。中堀中尉の好意はすでに林中尉に見破られて、逆に木谷に全くわるい結果をもたらせたのだ。
7
しかし翌朝林中尉がふたたびやってきたとき彼の態度は昨日とはかわって非常にやさしかった。ああ、そして木谷はそれにうまくひっかかったのだ。林中尉はまるで木谷の機嫌をとり、くどくかのようにいろいろといった。とはいえやはり彼の目的はあくまでも中堀中尉のことをききだすことにあったのだ。彼はたしかに中堀中尉にたいして何かをたくらんでいたにちがいなかった。木谷はそれをみぬくことができなかった。……木谷は中堀中尉が彼のところにどんなことをいいにきたのか、それをきかせてくれたらお前の今度の事件も内輪にすましてやってもよいという林中尉の申し出につられて、中堀中尉がやってきて彼のためにほん走してやると約束してかえったことを話したが、林中尉がそのような答で満足するなどということはなかったのだ。いやそれはむしろ林中尉の疑惑を深める結果になったにすぎなかった。林中尉はふんという顔をして木谷をみた。彼はぐるぐると長靴の音をたてて部屋のなかをあるいたが、木谷のところへかえってくると、「おい、木谷、かくさずに全部言えんのか、言えんのなら言えんでええぞ……」と憎々しげに言った。林中尉は彼がさしだした釣り餌《え》をすでにすばやく手元にひっこめていた。「そんなことで、事件が内輪にしてもらえるなどと思うてたら、あてがちがうぞ……」と林中尉はおびやかすようにいった。「何のうちあわせをしたのだ? おい木谷、もう、中堀のやつが、いまごろ、いくら動きまわっても、こっちのしらべはちゃんとついている。一体どうなんだ。おい中堀中尉にどうたのまれたか、いえ。いつまでもあんな中堀中尉にくっついているつもりか、あんな国賊を俺はいつまでものさばらしてはおかんのだ。」
木谷は、林中尉にうまくはかられたのだということをようやくさとったが、もはやそれを取り返すということはできなかった。彼は自分は中堀中尉と別に深い関係があるわけではなく、それだから決して何かたのまれるなどということなどはない、中堀中尉殿はただ自分のことを心配してきてくれたのだと説明したが、それは林中尉の疑いをとくことにはならなかった。何の関係もないもののところへあの中堀中尉がわざわざやってくるなどということがあるか、それにお前は金子伍長の下にいた兵隊じゃないか、と林中尉はいうのだ。そして林中尉は木谷を許さなかった。彼は木谷を腹黒い、兵隊らしくない男だといい、それではいまもまた金入れはあくまで拾ったといいはるつもりだろうといった。ああ、しかしこれをきいたとき木谷は、これこそ前から林中尉が準備していた結論だったのではないだろうかと考えた。彼は林中尉がかえってしまってから、幾度も考え直して、そのたびに、自分がたくみに林中尉にはかられたと思って、じだんだをふむ思いをした。彼はどうして林中尉に中堀中尉のことを少しでもはなしたりしたのかとくやんだが、それはすでにせんのないことだった。そして木谷はその翌日の正午、憲兵の手に渡されたのである。林中尉はもはや中隊長や准尉が如何にといてもきき入れはしなかった。彼は木谷が服の内ポケットから金入れをとったことをみとめない限りは絶対に木谷を許さないぞというばかりだった。
しかし木谷はそれほどのおそれもなく翌日の正午を迎えたのだ。彼がいよいよ憲兵の手に渡される時刻が近づくや、木谷はもう全く平然としていた。中堀中尉も金子伍長もすでに自分をみすてただろうと彼は考えていた。中隊長や准尉はまだあきらめきれないらしく、たびたび林中尉のところへ足をはこんでいるようであったが、中堀中尉や金子伍長が中隊をたずねてくるけはいはなかった。もっとも木谷はまだ中堀中尉をたのみにしていないわけではなかったので、廊下を通って行く足音に期待をいだいたが、彼はもう腹をすえていたのである。彼は憲兵が自分を引き取りにくる時間をきかされていたわけではなかった。しかしそれが正午ごろだとはおおよそ察していた。そこで彼は時刻が近づくと便所にも行き食事もすませてちゃんとしていた。するとそのとき戸があいたのでとうとう来たのかと思ってみると、それは金子伍長だった。木谷はこのときのこともまた忘れることはできないのである。金子伍長は走ってきたのか息をせいていて、ひどくあわてこんでいたが、決して心配することはないぜ、中堀中尉殿がずっとほん走してくれているからお前は絶対に大丈夫だ、……と木谷につたえてくれた。しかし伍長自身はそういいながらもひどく心配そうだった。彼は林中尉のやつはじっさいむちゃをやりよるさかいこまるなあとなげくのだ。いま考えてみれば彼もまた木谷が軍法会議におくられることは、自分の身をあやうくすることだったので、不安におそわれていたにちがいないのだ。木谷はこのとき林中尉が中堀中尉のことを国賊よばわりしていたことをつたえてやったが、伍長は別におどろきもしなかった。彼は寒そうな顔をしてそうかといっただけだった。彼のやわらかい生毛《うぶげ》のはえた円い頬は寒さのためもあって色が変っていた。彼は木谷にお前はおどしをかけられてもそれにのったりしてはいかんぞ、せっかくこっちで努力してもそれがぜんぶむだになってしまうのだからと繰り返した。彼が最後に木谷の肩に手をかけて言ったことは、品物の持出しのことや経理室のことは絶対にいわないようにしないといけない、これだけはほんとに気をつけてくれということだった。木谷はこのときの伍長の顔をみたが、その眼は、「わかってくれるな……俺と一緒にやったことはぜったいにいうなよ。」といっているようだった。木谷はただ大きくうなずいた。
木谷は憲兵隊にとめおかれて取調べをうけ、その間に余罪の調査をされたが、そのとき彼はその余罪調査で自分の官品持出しがばれはしないかとそのことだけがおそろしかった。憲兵隊の取調べというものはじつにむごく、しばしばなぐり、けり、火でせめ、さらにおどしつけ、山をかけたり、誘導尋問したりするのだが、それはたえられないということはないのだ。彼はそれはむしろ容易に切りぬけた。彼はそこで金入れを林中尉の上衣のポケットからとったといえと竹刀《しない》でなぐられ通しだったが、ついに憲兵隊はその点は決定することなく調書をかいて木谷を軍法会議に送ったのだ。
8
木谷は話して行ったが、彼の話は全く予想以上に手間どった。彼ははたして曾田が経理室内の二つの勢力の対立、林中尉と中堀中尉のことをわかってくれるかどうかを心配した。経理室勤務を一度もしたことのないものになかの事情をなっとくさせるということはほんとに困難なので彼は何回となく話を前にもどしたり、よこみちにはいったり、余計な説明を加えたりした。しかし話をすすめて行けば行くほど彼の曾田に対する疑いは次第にするどく頭をもたげてきた。……曾田は身を横にしてじっと眼をひらいていた。彼の顔には明らかに木谷に対する同情の表情がよみとられるのだ。木谷はその曾田の顔をたしかめたが、彼には曾田の口をつぐんでだまった顔がふいと看守の顔のように思えるのだ。(看守というやつは、獄舎の覗《のぞ》き穴の向うから、如何に囚人の話を熱心にきき、それをあわれんでくれようと、決してそのすべてを信じてはいないのだ!)
日はすでにかげってしまって、木谷の体は全く冷えきっていた。彼のうちの興奮ももはやにげ去った。彼は軍法会議のことを話さなければ曾田には自分の話は信じられないのではないかと考えていた。……そして曾田もさらに軍法会議のことについてしきりにききたがったが、彼が公用にでて行かなければならない時間はずっと前にきていたのだ。
「曾田はん、あんたはまだ俺の話、信用でけへんかしらんけど、そら軍法会議の話きいてもろたら、もっとわかってもらえるとおもうんやけど、そら軍法会議はでたらめやぜ。……将校のいうことは正しいて、兵隊のいうことはぜんぶうそやねんからな。それに文句つけたら、それで反軍思想をお前はもってるときやがる。……それにこいつは、もうどこへももって行きどこがない。この俺にしても、そんな二年も刑務所いはいることなどいらんのに、とうとう入れられてしもうたんやよってな。実際、経理室の金子班長かていうてよったし、なかで大抵の看守がいうてたんや。お前、なんでそんな金をとった位で二年もの刑になるなんて、おかしいやないかいうてな。……あの金子班長にしても学校出だけあって要領ようてひとにはつめたいやつやけど、俺のことはほんとにようやってくれよったんや……こんどはぜひともきいてもらお……なにいうても、軍法会議いうのはひどい裁判やよってな……」……そのでたらめで、よい加減の軍法会議の模様を木谷は話して行きたかった。しかし彼はじっと曾田の顔をみた。彼はたち上って検察官の前で林中尉が経理室でやった不正をいろいろばくろしてやったのだが、そんな彼の陳述などは全然きき入れられなかったということを簡単に話した。彼はさらに彼がそのような陳述をしたために、それまで彼のした陳述は全部つくりごとだろうと検察官からきめつけられたことを話した。ついに公判のときには裁判長ににくまれて注意をうけるような破目になったという話もした。
しかし二人はもう行かなければならなかった。
「曾田はん、行きまほか。あんた公用に行きはんのやろ。軍法会議のことはこの次にぜひきいてもらいますよ。」木谷は言った。
「さあ、公用いうたかて、別に今日は行ってもいかなくても、かまわないんですよ。」曾田はなかなかたとうとはしなかったが、ついにだらだらした体つきでたち上った。「ほんとにひどいな……そんなだとはほんとにしらなかったな。」曾田は頭をたれたまま歩いたが、木谷の方にずっとその身をよせようとした。
木谷は歩きながらさらに話したが、彼の言葉は営舎の方に近づくにつれてもう非常に低声になり、弱々しかった。「俺がな曹長室に入れられ、それから憲兵隊につれて行かれたとき、一番つらかったのは、同年兵に会うということだしたな……。同年兵が食事を班内から曹長室の俺のとこへはこんでくれよるんやけど、じろっとのぞいてかえって行きやがるんや……みせ物みたいに……食事もってきやがる奴が、いつもちごうてて、交代でのぞきにきやがるんや……。俺は曹長室でじっとねころんでたけど、朝おきて顔をあらいに行くとき、便所に行くとき、部屋をでてみなに会うのが一番いややった……曾田はんそらつらいぜ……。憲兵隊では竹刀でごんごんなぐりやがったけど、それはまた別や……。いやいまはもう面の皮かて、体の皮かて厚うなったけどな……刑務所では一年中頭から毎日十五分間水をかけやがるよってな。」
最後に木谷は花枝のことを話したが、そこには彼の嘆きがにじみでた。「あれは、ほんまに憎たらしい女ですぜ。ほんとに、こっちではいちずにおもいこんでて、心のうちにあることみんなかくさず、しゃべってしもて、その気になってたのに、それがみんなうその皮やったんや……ただしぼりとる一心で向うはいてやがったんや……。ところが俺はな山海楼へ憲兵が調べに行ったということをきいて、あいつらが花枝に一体どないおれのことをいうてやがるのかとそればっかり気にしてたんやもんな……。ほんまに花枝のやつがどないおもてるやろうと気をもんでたら、『おい、木谷、花枝はんは、おれらがかえりには泣いてたが――な、しくしくと。』と憲兵が戯談《じようだん》のようにいやがったんやけど……そら、俺にわるい証言をしときやがって泣いてるいうのをきいたとき、ほんまに殺してしもたりたいおもいましたな。」
七
事務室で曾田は外出からかえってきた兵隊から外出証を受け取り、外出者名簿に各人の帰隊時刻をかき入れた。彼は染一等兵がかえってくるのを待っていた。染に蹄鉄《ていてつ》のことを頼まなければならなかったし、染が木谷の手紙を入れてきたかどうかそれをたしかめなければならなかった。或いは染が木谷の心配していたように、直接に山海楼までそれをもって行っていはしないかという不安もなくはなかった。彼は事務室の前で「はいります。」という声がかかるごとに染の声でないと知ってがっかりした。……曾田は今日公用外出をすることができなかった。彼が馬運動から引きあげて週番士官のところへかけつけたところ、今朝はお前に俺の家まで行ってもらうことにしてあったが、お前のくるのがあまりにもおそいから、もう他のものに代って行ってもらったというのだ。たしかに曾田は木谷と話して午後の時間一ぱいをつかったのだ。週番士官がおこって他のものを使いにだしたというのも無理のないことだった。しかしそれとわかっていたのならば、曾田は木谷ともっと話し合って、軍法会議や刑務所のなかのことをきいておくべきだったと残念だった。……それに彼はたとい三十分でも衛門をくぐって外界の空気にふれたかったが、それももはやできないことだった。週番士官は融通のきかない将校として通っていたので、一寸《ちよつと》した用事をつくって曾田にそれを命じ、外出させてやるというようなおもいやりを示すなどということもありえなかった。
兵隊たちは衛門から中隊まで駈足でかえってきた。兵隊たちは衛門に近づき門をくぐって再び部隊のなかにはいるということにはぐずぐずしていても、衛門はやはり眼をつむってでもくぐって、かえってこなければならなかった。……兵隊たちは事務室の前でボタンの線をただし、上衣の裾を引き、帽子をもちかえ、列をつくってなかへはいる順番をまっていた。「はいります。」兵隊たちは週番士官の前にすすみでた。すると、これまでついていた外界の貴重な空気は彼らの服の上からこぼれおち、流れ去った。週番下士官は今日は外出してふにゃけてきたやつらに気合を入れてやるのだと言って入口近くに竹刀をもって肩をつきだしていた。曾田はこの小肥りのした小生意気な週番下士官が嫌いだった。この男の兵隊たちにたいする小細工をろうした意地悪な仕打ちというものは兵隊の間でも有名だったが、それは飯の盛り具合一つでどうにでもなると兵隊たちはいいふらしていた。しかしその仕打ちはあまりにも執拗《しつよう》で、週番士官にたいするへつらいにみちていた。とすればそれは週番勤務あけに、外泊の口ぞいをしてもらおうとのこんたんが明らかにみられるようだ。「もとへ。それが外泊をとまって一日中週番勤務をつとめていられる週番士官殿にたいしてとる態度か? よおー。」彼は言った。彼は兵隊の上衣の物入れを一つ一つ手でさわって検査した。「へえ、ふくらしてやがるなあー、おい、こい、食物入れてるんやあらへんやろな。くいもん入れてるんやったら、このおすけのおれのとこいおいとくんやぞ。」彼は机の向う側で外出証の整理をしている曾田を笑わせようとして、奇妙な声を出したが、曾田は笑わなかった。彼は笑いをこらえた。
「第何班××本日外出先異常なくかえりました。」兵隊たちは週番士官と下士官に挨拶をすませると、曾田のところにやってきた。
「三年兵殿、外出帰隊の挨拶させて頂きます。」兵隊は言った。「ええがな。」曾田は言った。
曾田は間もなく帰隊してきた小室一等兵と時屋一等兵に外出証の整理の方をまかせておいて班内にかえって行った。
「三年兵殿、はよう、おりておいなはれや、今日はもってかえってきましたぜ、砂糖たんともってかえってきましたぜ……」小室は言った。曾田は染のことが気がかりになっていて、それには重い返事をした。
班内にはつつみ紙や紙くず類が散乱した。外出からかえった兵隊たちは外出着をぬいでおりたたみ整頓《せいとん》し、声高《こわだか》に今日の収穫をはなしつづけた。もちろん収穫というのは女のことなのだ。初年兵が衛門の眼をかすめてもってかえってきた菓子や煮ぬき卵、キャラメル、アメ玉などは古年兵たちの寝台の上にひろがっていた。初年兵たちは一時間前、あるいは少なくとも四十分前に帰隊して、補充兵とともに、夕食準備、ストーブの薪取り、馬手入れにでなければならなかった。今日はいつの日よりも力を励まなければならなかった。外出した兵隊たちの手は今日はいつものようには動きはしなかったが、残留して一日中班内にごろごろしていた古年兵の眼は、彼らのあとを追いまわしていた。彼らは一週間かかってようやく手に入れ、そして半ば自由に伸ばしてやった「自分」を、またまた、重い力でおしつぶされるのだ。
初年兵はストーブをがんがんもやした。曾田がかえって行くと、「おいー、初年兵、はよう曾田三年兵殿に挨拶せんか。ストーブたいてあたってもらわんかー。三年兵殿は今日は残留やぞ。」古年兵はさけんだが、曾田は初年兵から挨拶を受けるのがはずかしかった。しかし初年兵たちがあわてて佐藤、弓山、次々とやってきたので、曾田は挨拶を受けないわけにはいかなかった。「ゆっくりしてきた?」彼はきいた。「はい、ゆっくりしてきましたです。」弓山は正しく取った姿勢をくずすことなく言った。曾田は弓山の霜焼けでふくれ上った両手に新しい繃帯《ほうたい》がまかれ、指ぐすりの脂がぬられているのをみた。彼はそれ以上弓山とものを言いつづけることができなかった。彼は彼らが、同類を彼のなかに求めようとしているのを感じた。「家で心配したやろ。」彼は佐藤に向って言った。佐藤の顔はくずれた。「はあ。」佐藤は甘えるような声をだして答えた。安西二等兵の姿がみえないのが曾田の心にひっかかったが、そのとき染の大きな声が班内にしたので、彼はそのことを放ってしまった。
「染えー、野郎、酔うてきやがったな。」舌を口のなかで、べろべろさせるようにして声をあげたのは、蹄鉄屋の彦佐《ひこさ》一等兵だった。
「三年兵殿、酔うてる? あほらしい、飲んでるけども、あてが酔うたりしてたまるもんでっかいなー、へー。」染は言った。
「こいつ、また、大けえこと、こきやーがって。」ぐりっとした眼はしているが、ひとのよい彦佐三年兵は言った。「おい、馬手入れみに行くよってな、はよう、服ぬいで、したくしてこい、まってたらあー。」
「馬手入れ! 三年兵殿――、ひえー、馬手入れ……ああ、なさけなやー。まだ、こっちゃあー、あての水与《みずあた》えもすんでえしまへんねんぜー。」
「水ぐらい厩《うまや》へいけば、馬の水が一ぱいあるわ、おい、染。」
笑声がおこったが、古い兵隊たちはすでに染のこのような年次をこえた態度に舌打ちをした。彦佐一等兵は染の体をおさえて寝台のところに引っぱって行った。曾田はそこへ歩いて行ったが、染はそれほど酔っているというのではなかった。まぶたを女のようにうすくそめて、小さなふたをしたような小鼻をふくらませているだけだった。「三年兵殿……」と染は彼をみつけるとたちあがってかるく不動の姿勢を取った。
「三年兵殿、染、本日外出先異常なくかえりました。……あのう、あの手紙入れときました。」曾田は彼の次の言葉をおさえた。染はうなずいた。染はすぐさま、廻れ右をすると部屋の中央の四柱と四隅の寝台のところに陣取っている三年兵の先任の兵隊たちに次々と挨拶してまわった。それからただちに服をきかえて、馬手入れに厩に行っている兵隊たちに加わるためにでて行った。曾田は染が部屋をでるやその後を追って行ったが、ようやくにして階段のところでおいつくことができた。
「三年兵殿。木谷はんのことだっか。」染は気づいて向うから先に言った。「木谷はんのことやったら、あとで話しま。手紙の方はちゃんと入れときましたよって。」
「いや、木谷はんのこととはちがう。」曾田は口ごもった。「別のことなんやけどな。……」彼はようやくにして、今日、馬運動で蹄鉄をおとしてしまったということを先に行く彦佐三年兵をはばかって小声で言った。染の顔色が瞬間変ったが、彼は気づいて彦佐三年兵を強引に先につきやり、「三年兵殿、事務室の用事がでけたよって、先へ行っとくなはれ、すぐ行きま、すぐ行きま。」とまだわけがわからずおどろいているひとのいい彦佐をさばいておいてすぐもとのところにかえってきた。
「蹄鉄おとしはったて? 誰がでんねん? 三年兵殿だっか?」
曾田はうなずいた。「そう、今日、馬運動をやってておとしたんや……」
染はしばらく黙っていたが、顔をふった。「よろしま。なんとかしまっさ。点呼までに、ちゃんと始末しときまっさ……まだ、三年兵のだれにも言うてはらしまへんやろな……」
曾田は再び同じようにうなずいた。「厩当番にはいうたあるけどな……、なんとかするいうて、できるかしら、工場に代りの蹄鉄があるかしら。」
「厩当番だけだんな。それやったら大丈夫だっさ……よろしま。蹄鉄の一つや二つ位……」
「無理するんやないやろな……工場は今ごろ、しまってるんやないやろか……」
「工場がしまってたって、蹄鉄の一つや二つ位、あてがなんとかしま……点呼までには、ちゃんとしときまっさかい……全然心配いりまへんぜ……ほんまにいりまへんぜ……」
曾田は先日大住班長になぐられた跡がくろくのこっている染の額の生《はえ》ぎわのところをじっとみつめた。染はふにゃっと恥しそうにわらって、「よろしま。」ともう一言いい、くるりと方向をかえたと思うと、もう階段をとぶようにしておりて行った。
八
曾田は染の態度にくらべてみて、自分の方がはるかに弱弱しくおとっているということを心に痛くかんじさされた。彼は自分が染を愛しているが染の方でも彼のこのような気持を感じとっていることをはっきり知った。彼はすぐに木谷のところにとんで行って、染が手紙を入れてくれたこと、また、自分のなくした蹄鉄を点呼までに手に入れてくれるといっているということをつげ知らせた。
「そうか入れてくれはったか?」木谷は言った。「やっぱり俺のいうたとおりやろ、染いう男は、あら、なんでもやれる男や……」
曾田はたとい染が今夜点呼までに蹄鉄の始末をすることができないようなことになろうとも、もう、これ以上は自分でそれにたえなければならないと考えていた。ああ、しかし自分にはそれができるだろうか。ところが班内がにわかに騒々しくなって、「初年兵、もう用水兵長殿と地野上等兵殿がかえってこられるぞー、お前ら、ぼさっとたってるのが能やあらへん。ちゃんと、上靴《じようか》をもって事務室のところまで出迎えに行かんか。」大きな口をひらいてどなっているのは、岡下現役兵だった。弓山二等兵と谷二等兵はすぐ上靴をもって事務室にかけつけた。しかし、「安西のがき、なにしてやがんねん……おい、初年兵。」「おっかちゃん……おっぱい、おっかちゃん……おおお……そ、そ……」「さては、にげやがったな……」さわぎは大きくなるばかりだった。あと十分で夕食時限がくるにかかわらず、安西二等兵は帰隊してこないのだった。……他の外出兵はもうほとんど全部かえってきていた。二十分前ごろから班内はこのことでさわがしくなってきた。遊び上手といわれる兵隊たちも、二十五分ほど前にはみなかえってきた。そしてまだ帰隊していないのは安西二等兵と地野上等兵と用水兵長の三人だけだった。しかしこのあとの二人のものに不安を感じるものは誰一人もいなかったが、この二人の方は間もなく初年兵に巻脚絆《まききやはん》と帯剣と編上靴《へんじようか》とをもたせて上機嫌でかえってきたのに、安西二等兵の方はやはり依然としてかえってこないのだった。
「ふん、安西がかえってこんやってなあ――、なあ、おい。」地野上等兵は班内にはいってくるや、酒で赤黒くなった日焼けした顔をストーブの方につきだして声をはりあげた。「おい――、今井――、残留、ごくろうやったなあ、おい、今井、安西がもどってこんやってなあー、この俺の初年兵教育が初年兵の野郎、気に入らんとよおー、なあー。初年兵! そうやろが。おい、ここへきてみろ、お前ら、逃げやがってみろ。」彼は声を大きくしてまことに荒々しく初年兵の方へせまっていったが、何のすべもなく全くあわててしまっていたのだ。用水兵長は、すぐに下士官室に連絡を取らせて、古年兵を二人つれて、事務室へ行き、さらに、週番士官の命令で衛門の方まで様子をみに行った。曾田は安西二等兵がひょっとしたらもう帰ってこないのではないのかという気がちらとして、逃亡兵となった安西が巨大な重い石の下におしつぶされて行く様をかんじた。彼が寝台のところから前をみると、木谷がまるでけもののようにきき耳をたてて、じっと班内をみはっている。彼は木谷のその姿にぎくっとして、右手を上衣の胸の物入れにつき入れた。彼はしばらくその様子をうかがっていたが、彼もこのさわぎをよそにして班内にとどまっていることはできなかった。しかし彼が班内を出ようとしたとき彼は地野上等兵の怒声に後をおそわれて、一寸、ふみとどまらなければならなかった。「初年兵! きさまら、お前の同年兵がもどってこんいうこのときに班内にすっこんでやがって、ちっとも心配にならんのか、同年兵やないか、衛門位までみに行ってきてやらんか。」地野上等兵は事務室へかけつけようとして班内へもどってきてどなったが、またすぐにあわててこの自分の言葉を取り消した。
「ええ、えい。初年兵動くな。みんな初年兵、ここいかたまっとれ。外へでるんでない。今井たのむぞ。初年兵を絶対に外へ出すな。」彼のふりむいた顔は片方だけがなま白くゆがんでいるように見えた。……このようなさわぎのなかでもっとも気をもんでいるのは二年兵と補充兵だった。彼らは頭のわるい、動かない地野上等兵の全く一定しない命令で動きまわったが、彼らの行動はむだにひとしいものだった。しかし兵隊は動いておれば気がすむものである。
曾田は事務室にとんで行ったが、五分前だというのにまだ安西はかえってきていなかった。
ジリジリジリリン……衛兵所から電話がかかってきた。週番下士官は自分ではしりよって、受話器をもどかしそうに取った。……「は、は……はあー、衛兵所……なに……はあ……」彼は週番士官の方へふりかえって、送話器の口をふせていった。「週番士官殿……衛兵所からです……、ホ隊、外出者異常の有無報告がまだでてないが、すぐだすようにと言っています。どうしましょう……」
「よし、報告してくれ……もう、これ以上まてんからな。……」
「中隊当番、中隊当番、その台の上の報告書もって、……すぐ行け。」週番下士官は言った。「衛兵所ですか……ホ隊一名、外出者がまだ帰隊しておりません……初年兵です……安西二等兵。」
また、電話がかかってきたが、衛兵所だった。安西二等兵は今朝確実に外出したのかどうか、今朝一緒に衛門をでたものがいるかどうかしらべてくれという要求だった。それは学徒兵がはいる以前補充兵の一人が外出していつまでたってもかえってこないという事件が起ったが、よくしらべてみると外出したと考えていた本人は外出せずに隊内にのこって、被服庫のなかで縊死《いし》していたのである。小室は二階へとんでいったが、今朝たしかに安西は衛門をでた、初年兵はみなそろって衛門をでたという答えだった。
週番下士官は衛兵所へすぐ電話でしらせたが、おわると言った。「安西いうやつは、あの唇の大きいやつやろ。そやな――、あいつ、ほんまに、今朝も、こやつ大丈夫かしらん思わせよったけど……やっぱりあかんなあー、外出整列のとき、ああ、と思わせるやつは、大抵あかん。ほんまにあいつ俺の週番、台なしにしやがった。無事故でとおしたろおもてたのになー、くそ、いまいましいやっちゃ……」
「よし、俺は衛兵所まで行ってくるから……あとをたのむぞ。」じっとしていられなくなって週番士官は不意に立ち上ってあらあらしくドアをひらいて出て行った。
「こら、もうかえってきやしまへんぜ……安西のやつ、あのおうちゃく学生のために来週の外出はうちの隊だけ全員禁止だっせ、くそおもしろうもない。」小室一等兵は外出証を一枚一枚外出簿に照合させていたが、このおどけた調子には憎しみがふくまれていた。兵隊たちの関心はただ来週外出がとまるかどうかというところにあったのだが、実際安西に対する同情の心というものはほんとうに少ないといってよかった。曾田は耳をおおおうとしてできないので、だまって事務室を出て行ったが、でるときに時計をみたがもう二分前だった。曾田は衛門の方へはしって行った。彼もまた安西二等兵をそれほどすきにはなれなかったが、その唇の大きい、鼻の平らにひらいた、眼の角ばった顔がなにものかの手でひっとらえられ、罪のなかへきえて行くと思うと、それに向ってさけびかけずにはいられなかった。かえりやがれ、安西、かえりやがれ、彼のこのさけびは咽喉《の ど》のところでとまっていた。彼は自分が逃亡兵になる瞬間を心にえがいて、カムフラージュをほどこした脂油庫の横をはしり下りた。カムフラージュの黄の色は暗い夜の色のなかで、白くういていた。曾田は経理室横のところで、安西二等兵をとりかこんで、おしたてるようにして、すすんでくる一隊にであった。
「はいっ、はいっ、はいっ。」安西二等兵は、頭をふってばかりいた。曾田はかなり遠くから安西のその声変りがしはじめたときのような声音をききつけたとき、彼の身体は瞬間動かなくなった。彼は道の横にたちどまってこの一隊をとおりすごさせようとした。地野上等兵が大きな声をあげて彼をよばなかったら、彼は決してその一隊には加わらなかったろう。彼は安西を明るみのなかでみることにたえることができなかったのである。
「曾田よー、かえってきたぞー、安西あ、かえってきたぞ――。おーい、ここにかえってきていやがるよ――」
「おー、かえってきましたか――、よかった、よかった。」曾田は言って近づいて行ったが、彼は決してよかったなどとは思ってはいなかった。彼は安西の真前《まんまえ》にすすんで行って、もう一度、「かえってきたか。」と言い、「はいっ――、三年兵殿。」という涙をまじえたような安西の声をきくと、すぐ後の方にさがりながら、一隊のものに対する言葉、「ごくろうさん、ごくろうさん。」を連発した。
「おい、安西――」
「はい――」
「えろかろうが――」
「はい――」
「えろかろうがよう。」
「はい――」
食事ラッパが鳴りわたった。なぐさめるというのかいじめるというのか、全く理解できぬような声をだして安西の傍からいいつづけていた地野上等兵もだまってそれをきいた。
「安西、ラッパきいて安心したやろ。」酒の匂いを胸の間からさせる用水兵長が言った。
「はいッ――」
曾田は安西の大きな首のふりかたをみているわけにはいかなかった。彼はラッパの音をきいて安心したかときく用水兵長に苦笑した。ラッパのきこえない世界へ、はたして安西はのりだそうとしたのだろうか。(ラッパのない世界、それこそすべての兵隊の願望なのに。)安西は鶏のように首を動かしていた。
九
事務室で週番下士官の調査がはじまったが、安西ははいっという言葉を繰り返しては眼の玉を上の方にあげた。彼は家を出たのは二時間前であった、ちゃんと外出前に週番士官殿に教えて頂きましたように十分時間を取って出てきたのでありますが、電車にのってふと気がついてみると外出証がない、いろいろ身の廻りをさがしたが「外出証」を家におきわすれてきたことにようやく気づいて取り返しに行った。外出証がなければ衛門を入ることができないと思い、おくれたらどうしようと考えながらあともどりしました。このためにおそくなったのであります。とやはり眼を動かしつづけて泣くような声で言った。
「あほが――、そのままかえってくるんじゃ……。かえってきて週番士官殿に連絡とるんじゃとあれほどいうてあるのがわからんのか……外出証の問題やないぞ……もしおくれたら、どうする……あほが――中隊全体が、お前一人のためにこんなにごったかえさんならんじゃないか。」週番下士官は声をたかくした。
「わるかったであります。わるかったであります。」
「わるかったよりも、もし、一回でもおくれてみろ、お前幹候《かんこう》には絶対なれんぞ……」
「はあ――、はいっ……班長殿……班長殿……」
曾田は安西二等兵が自分の顔を週番下士官の前へつきつけようとするかのように、つきだしながら、拝聴する形をつくろうとしているのに眼をつむらなければならなかった。
「くそんだら、甘えつきやがるな。」地野上等兵は言った。「さあ、週番士官殿に、申告してはよう班内に行け、あっちで、これからな、俺がな、よういうてかしたるよってなあ――」
「はいっ、上等兵殿……」
「そう、やすっぽう、上等兵殿なんていうなよ。」
「はいっ……」
ふるえる安西二等兵を取りかこんでみなが上って行くと、出迎えた弓山二等兵は、「兵長殿、上等兵殿、三年兵殿、ごくろうさんでした。」といいながら安西の手をとって暗い電燈のたれさがった班内にひき入れた。「かえってきた、よかった……。安西……しっかりしてくれよ、たのむよ……」弓山は相手の顔をおさえるようにじっとみたが、これ以上のことを口にだして言うことは、彼には許されなかったろう。
「ああ、あ、安西はん、ようかえってきてくれはったなあ――」
「ほんまに、ありがたいこったすなあ――」
「なあ、じっさいなあ、よう心配さしてくれはりましたなあ――、初年兵さん。」橋本三年兵は長い顔をふっていった。
「あんまり、きついこというなよ、またあんまりいうと、こんだあ、こいつ、ほんまににげよるぜ。」
「何を、だれがこんなやつがよう逃げるもんか。」
「お客さんだっさかいなあ――、初年兵はな。ほんまに、にげんといたっとくんなはれやなー、にげられたら、おこられんのん、こっちやさかいなあ。」
「学生のお客はん方、つろうまっか……兵隊のまねごとのようなことしてても、やっぱりな、あんたはん方つろうまっしゃろな……」
「ああ、一人前に飯くうてるがな。」
安西二等兵はようやく班内でこづきまわされながら挨拶を終って、自分の寝台のところにかえってきたが、前にいる曾田をみつけて立ちあがった。「はよう、飯をくえ。」曾田は言った。彼は弓山二等兵が安西のところまでやってきて、はやく飯を食うてしまえよと小声でいうのをきいたが、意地悪に顔をしかめた安西は、「なんや、弓山、お前、そんなに、がやがやせかさんでもええやないか、そう、身体をひっぱるなよ。」と鼻声になって肩をはずした。曾田は木谷のことをしばらくの間、全く忘れてしまっていたが、ふっと気づいてみると、木谷は窓ぎわのところにつったって、真黒になってきた夜の色を窓ガラスの向うにじっと眺めていた。木谷は間もなく、自分の寝台のところにかえってきた。彼は整頓棚から手箱をおろして、引出しからレターペーパーを取り出し、隣のものにペンとインクを借りて、手箱の上に紙をひろげ手紙か何かを書き出しはじめた。
「このおれの初年兵教育が気に入らんとよおー、初年兵さんにはのう――」地野上等兵が向うの方ではじめた。「安西、お前、飯すんだら、俺のとこいこい……なにい、しかりゃせんよ、今日は週番士官殿がぜったいにしかっちゃいかんといわれとるから、絶対にしかりゃせんよ――、おい、安西。」
「おい、安西。」
「はいッ。」
安西の返事はおそすぎた。彼は地野上等兵の有名な「あとで俺のとこいこい」におしつぶされてしまったのかも知れないが、先刻、帰隊時刻五分前にかえってきて隊内をさわがせたものの返事ではない。
「安西。」
「はいッ。」
「安西。」
「はいッ。」
「おい、地野――、今日はよしとけよな。――。そら、じーちゃん。今日はおいといた方がええぜ。お前の初年兵やよってに、お前がバッチはかせるのに俺は別に何もいいとうないけどな――」用水兵長はぬぎすてた外出用の上衣の内から色のついたハンカチをまたもや出した。「あーあ、思い出させやがる。なんぼかいでも、ええ匂いやなあ。」皆はそれで笑った。用水兵長は深く剃刀《かみそり》をあてた首筋を前につきだしてハンカチをあてた。
「あーあ、ここまでにおうてきやがるがな……。このハンカチをあたくしの代りと思ってあなたのその胸に……あれれ……俺の胸いつの間にこんな太い毛がはえやがったんやろ……こらハンカチが泣くぜ……はえたらはえたと申告しろい。」皆の笑いはたかまった。
「あほんだらが……」地野上等兵は寝台の上にとび上って言った。「あいつなあ……。あの安西よ、あいつほんまに、どこまでくさってできてやがるんやろな……。けろっとしてやがるちゅうのか……ずるいいうのか……」
「あーあ、思い出すぜ、このハンカチをあたくしの代りと思って……あたしの、あたしの……くすん、くすん、くすん、ぽろぽろぽろ……」
外出帰りの兵隊たちはすぐに外出着をきかえてしまうのがおしいので、そのままで寝台にもたれたりすでに三装にきかえてはいるが外出着の方は整頓せずに寝台の上にひろげたまま長々とねそべっていたりしたが、彼らの話は一つのところにおちて行った、女のところへ。
「おーい、広井、つづきやれ、続きをやれ。」
「おーい、それから、われどうしやがったんや。……いらんこと横合いからぬかしやがるよって……」窓のところで白い眼を大きくひらいて叫んでいるのは、土谷三年兵だった。彼は壁ぎわの今井上等兵の股の間へ頭を入れて、横たわっていた。「なあー、われはほんまにええことしてきやがったんやろなー、俺あ、今日、この今井の野郎と二人で、面会にきやがった女のけつのあとを追うこっちゃ……ところがな……みんなかあちゃんで、……一人一人、男くわえてやがってな……。俺あ営庭の真中で大けなくしゃみ一つしただけで、かえってきたったがな。」
「くしゃみやないやろ。天王寺《てんのうじ》まできこえたぞ……くさかったぞ……」
「天王寺やて? 飛田やとぬかせ。」
「そこでやね……いよいよ電車はこんできやがる……ほしてからが……左右に揺れるたんびに俺の足がな――前のその女の足のところにぴたっとくっつきやがるんや……電車は満員、ほこほこぬくもってきやがる。ええ――、ほらもう、エレキみたいなもんやな……女というやつは。何を着てよったかな……とにかくええもん着てよったな……絹物やったがな……すべすべとしてええ肌ざわりやがな……藤色《ふじいろ》と黒をないあわした帯じめをここんとこいぴっちりしてよってな……何ちゅう柄やろかな……五色をな、はばひろうぼかして入れた純毛のショールをこう顎《あご》の下に入れよってな。俺がわざとよろけるようにしておして行くと、そのふせたおかいこさんのようなまぶたが、ぴくぴく動いて、頬のあたりが見る見るぽーっと赤うなってきてな……」外出の手柄の語り手は曾田と同じ年にはいった補充兵三年兵の広井だった。彼は枚方《ひらかた》近くの農村の出だったが、その経験と常識とたえまない弁舌で優に年次の古い現役の三年兵と太刀打ちした。彼は皮の厚い幅の広い大きな顔に狡猾《こうかつ》な笑いをうかべて、ときどき故意に言葉を切り自分よりはるか年下の兵隊たちをあらわに見下し、じらせるのだ。「そこで俺はいよいよ仕事にとりかかったんや。」
「ひえーっ、仕事。仕事ときやがる。」土谷三年兵は言った。
「種まいたか……」
「俺の中足《なかあし》はそのとき大きくふくらみはじめた。」
「なくぜ……」
「ぬらしやがったか。」
「白山マーラ。陸横チーン。」
「初年兵、茶もってこい。」
「初年兵、薪とってこい。」
「俺は右足をぐっと、女の両足の間へ頃をみはからって入れてやった、そしてこじあけておいて、じいわじいわと左手をそのなかへさし入れて行った……ところがな……女がな、運のわるいことに、はいてやがってな。……女は身動き一つするかい、ぐいぐい俺の方にのしかかってきやがる……」
「一丁あがり。」
「へっ、へっ……へっ……」広井は大きな口をひろげて、いつものように気持のわるい笑いをわざとつくって笑った。「お次は曾田、曾田、ソーダー、ソーダー。」
「ソーダー、ソーダー。ソーダー、ソーダー。」
「残留のわいだんは、守月のパリパリ……俺のつや話などやってると、今夜はかえってつやけしや……」曾田は寝台の上で染の帰りをまっていたが、きっと首をたてて叫んだ。それに負けをみせていてはもうだめなのだ。
「俺は今日は、残留なんやぜ……。かわいそうやおもたれや……」
「京阪電車の××から天満《てんま》まで正味三十分、満員電車のなかで……ボッスン、ボッスン、やることや……ああしんど。」広井はつづけた。「俺はここまで入れてしもたったぜ……」
「お、お、おい……ほんまかいや……そんなむちゃなしかたあるかな……」
「舌かむな。」
「よだれたらすな。」
「中足のよだれだけはとめられん。」
「それからどないしたんや。」
わずかな半日の解放の名残をちらすまいとして兵隊たちは、全力をつくすのだ。彼らは話をとぎらせることはできなかった。彼らはこの半日を一週間以上にも深く生きたのだから。
「してあとをおいかけて、住所をきいてみたったんや……」
「われは、今日はええことしてきたなあ――」
「ただやがな。……ほんまに、ええ心がけの女やな――」「こころがけのええのは、こっちやがな――」広井は言った。
十
階下の舎後の方で「ごくろうさん、別れ。」という外務週番上等兵の声がして馬手入れに行っていた初年兵と補充兵がかえってきたが、染はかえってくるやすぐに曾田のところにやってきて、もう蹄鉄の方はちゃんとしときましたから、心配いりまへんとつげた。「ええ、あったのか。」曾田はたずねた。
「あんなもん、工場の窓からはいって、柵《さく》の下にひっかけてあったやつを、おろしてもちだしてきたりました。あんなもん、なんやおまへんがな。」
「いや――、そう、そら、すまんなあ――染。いまごろ、お前が週番にみつけられてつかまってえへんやろかおもて、心配したぜ……」
「なんじゃおまへんがな……。三年兵殿……厩当番にいうときましたぜ……落蹄鉄《らくてつ》報告と一しょに、この蹄鉄もって馬係班長のところに行っといてくれいうて……代りの蹄鉄さえあれば、なんやって、かめしまへんねんよってな……。それでよろしまっしゃろ。」染はこれ以上曾田に「すまん」などという言葉を言わせなかった。曾田は染に工場にしのびこんだとき、誰にもみられなかったかどうかきこうとしたが、染が食事の後片づけのために動いている安西二等兵ののろのろした後姿に眼をすえて黙ってしまったのでやめにした。
「群福はな、あした工場へつれて行って蹄鉄うちかえてきまっさ。三年兵殿、今日、安西のやつ五分前になってかえってきたいうこってすな……。ほんまに今度の初年兵どないしてんのか、自分らにはさっぱりわからしまへんな。あてらでも、外出のときは三十分前にはきちんとかえってきてまんのにな、――自分ら態度太い態度太いよういわれるけど……。安西のやつ、初年兵のくせして、飛田へあがってきてまんねんぜ……。そのくせ……一寸バッチくろうたら、もう床の上へひっくりかえってしまいやがって、ぐずぐずしてやがる……あてらのときは、つきとばされて床の上にひっくりかえって起きられへなんだりしたら、それこそ顔中はれあがるほどどづかれましたぜ……」
あの安西二等兵が飛田の遊廓にあがってあそんできたという話は曾田をびっくりさせた。彼自身あそびに行かないわけではなかったが、あの安西が女を買いに行くというようなことは、かつて考えたことのないことであった。それはおよそ想像もできないことであった。しかしいま安西の軍服の下にかくされていたものが、それによってぱっとてらしだされたのだ。曾田は何時ごろに飛田で安西にあったのかと染にききかえした。三時半ごろだしたかな……太田楼いうて、裏手にある店にはいるのをみたのだという。染が女のところであそんで店を出て新世界の方へ行こうと思って、通りをまがったところ、阪堺線《はんかいせん》の線路の方の城門から、安西がひょこひょこはいってきた。そして横の通りへまがった。染はそれにはびっくりしたという。安西がこんなところへくるのかしらとあとをつけるような形になって、まがり角まででてみると、その安西が太田楼のなかへつかつかとはいって行った。この二つの眼でみたのだから、絶対に人ちがいではない……というのである。それでは安西がおくれてかえってきたのは、外出証を家へ忘れてきて、電車のなかでそれに気づき、取りにかえってきたからだという話は、全くでたらめではないか。曾田はぎくっとして染の顔をみつめないわけにはいかなかった。
「三年兵殿にうそなんてつかしまへんぜ。」染の言葉はいつものように淡々としていた。
「染、お前、だれかにもうその話をしたか……」曾田はもしこの事実がばらされた場合、安西がどのような処分をうけるかを考えると、安西のいつわりを追求しようと考えるよりも、はげしい不安におそわれた。曾田は染にそのことは言わずにおくようにと口どめしなければならなかった。染は彼の申し出を承知したが、「あんなやつは、どづきまわしたらんとあきまへんぜ。」と言うのだった。「あああ、外出したあとは、なんやら淋しまんなあ。」染は言いながら、薬罐《やかん》の水をごくごくのんだ。「三年兵殿あとで話がおまんねんぜ……あれなあ……」彼は木谷の方を顔でさしていいかけたが、急に口をとじると、向うの方で「染、染。」としきりによんでいる用水兵長の声の方へとんでいった。「染、群福が落蹄鉄したて? おい、染、あしたあさ、すぐたのむぜ……群福はうちの班の馬やないか……、お前すぐ蹄鉄をうったれよ――おい、染。」
安西の事件は班内にいつまでも尾をひいて残っているようだった。初年兵たちに対する古い兵隊の反感はいまやばくはつしそうだった。古い兵隊たちは外出後のだらだらした身体と心をひきずって一つ一つの動作にわざとのろのろした調子をつけていた。三年兵たちはごろんごろんと寝台の上にねころんで、互いにだき合いくすぐり合いうめき合った。初年兵はみな、いまにも自分たちの上にふりおちてきそうなはげしい罵声《ばせい》を予感して、おどおどと身体を動かし、班内の整頓をした。弓山二等兵はいつものようにはかどらない初年兵のはたらきぶりに気をもんで、おい佐藤お前食器あらいに行け、おい、田川、お前、下士官室の掃除に行けとさしずしながら、自分は先頭にたって、兵器の手入れをした。いつの入隊兵にも、いつも一人だけこうした指揮をする兵隊がでてきて、同年兵を統率して自分たちをまもり、そのうける打撃を少なくする役割をはたすものであるが、弓山はちょうどいまその位置にあった。しかし彼はそのためには自分が全身の力をしぼって、みなが息をぬいているときでも、たえず気をくばり動いていなければならないので、やせ細っていた。ところが安西はこの弓山の指図に服そうとはしなかった。彼は三年兵の前ではあらわに眼をしょぼしょぼさせて謹慎の様をしてみせていたが、弓山の言葉に対しては全く黙りこんで返事をしなかった。
曾田は夕食後事務室へ週番士官が安西二等兵の処分をどうするだろうかをうかがいにおりて行ったが、週番士官はむしろ安西をいたずらに刺戟《しげき》して逃亡させるようなことになっては、最初の学徒出陣に傷をつけることになるのでただそれをおそれているようだった。週番士官は週番下士官に安西二等兵に注意しているようにという命令をあたえた。曾田はそれで安心してまた二階にあがってきたが、彼は弓山とぐずぐず言い合って厚い唇をむき出している安西をみた。曾田は安西のその姿にいかりを感じたが、それを本人にいう気にはなれなかった。彼は先刻染が木谷のことについて何か言いかけていて言い残したのは、或いはひょっとすると直接山海楼へでかけて行ってきたのではないだろうか、とそのことがずっと気になっていた。しかし夕食後から点呼までに染にはいろんな仕事があった。馬具の手入れ、手入れ道具の修理、ひきづなの修理など外出後の仕事は多かった。そして染は曾田のところにやってはこなかった。
染に時間の余裕ができたのは点呼後のことであった。点呼のときには週番士官の注意があった。もちろん安西のことについてであった。……安西二等兵の帰隊時刻がおそく、ほとんどおくれそうになったこと、そしてそれは本人が外出証を自分の家に置き忘れてきて後で気づいて家へとりにかえったりしたそのような処置があやまっていたことから起ったことである、幸い時限には間に合って事故にはならなかったが、このような時にはまず何よりも隊にかえってきて週番士官に連絡を取るようにしなければならないということが、中隊全員集合の上でつたえられた。安西二等兵は下士官室によばれたが、すぐかえってきた。また群福の落蹄鉄の報告があったが、それはいたって簡単にすんでしまった。染は点呼がおわると腕をぽいぽいふりながら曾田の寝台の辺りを行ったりきたりしていたが、ついにそばにやってきた。彼はやはり山海楼へ行ってきたのだった。……染が手紙を投かんしてから、被服係兵長と山海楼へ一緒に行って花枝のことをさぐってみたところ、はじめはなかなか用心して話さなかったが、染が花枝の親戚《しんせき》すじにあたるひとにたのまれて行方をさがしているのだとたのんでみると、それでもなお警戒していたが、結局相手が兵隊だというので信用して、それからいろいろと木谷のことがわかったというのである。染が山海楼へよってみたのは全く最初はひやかし半分だった。しかしやがて花枝のことをよく知っているばあさんが奥からでてきて、花枝にはあんたはんみたいな兵隊が男にでけてな……なんぎしたんでっせ……そやから兵隊はんはな、こわいこわいと話しだした、その兵隊の名前をきいてみると木谷という上等兵やったという話で、染はもうびっくりしてしまった……ばあさんの話では、その木谷がなんでも、巡察とかにきた将校の銭入れをとってつかまえられた、ところがその木谷が山海楼の名をとうとうだしたので憲兵といろんなえらいひとがやってきて花枝の部屋をしらべて行った、それでえらいことになってしもてな……花枝もそれからとうとうここにいられへんようになって、かわって行ったというのである。染は話しながらも声をひくめていたが、曾田は被服係兵長にも同じようにこの話がつたわっているのだとすれば、もはや明日にもそれは隊全体にひろまってしまうだろうと思った。
「どこやら、ちごてるおもてたけど、やっぱりちごてたな……三年兵殿は知ってはりましたんやろ。」染は言った。
「うん。知ってた。けどな……みんなには言うなよ……」
「そんなもん、いうたりしまっかいな……」
「しかしな被服係兵長は知ってるんやろな……染。」
「なにを? そんなもん、ちゃんとしてま……。知らしまへん……ばあさんにはな、こっそりききましたんやもん。」
十一
曾田は消燈前三十分になったとき、事務室におりて行くかっこうをして、兵器庫の前にたった。彼は今朝吉田班長からあずかった鍵《かぎ》をだしてその戸をあけた。これは昨日から彼が予定していたところだった。それは先日の犯罪情報綴の残りのきれはしをさがすためだったが、もしそれがあるとすれば、この兵器庫以外にはないという見当をつけていたのだ。――それは少し前、部隊で書類検査があったときのことである。古い書類、なかでも重要書類とは認められていない兵隊の勤務表綴や通達綴や雑報綴などの書類綴は整理してさしつかえないという通達が部隊本部から出されてきた。そして中隊でも書類の整理にとりかかった。古い書類は事務室の戸棚と陣営具倉庫のおくにつっこんであった。表紙もすでに茶色近くに変色して場所を取り、ただ事務のさまたげになるばかりだった。准尉はその書類を一度しらべてから焼こうと言っていた。ちょうどこのとき兵器係班長が兵器、殊にラッパやとめ金などをみがくときに用いる紙を購入してほしいと要求してきたのである。しかしすでに紙の値段はあがっているし、なかなか手に入れることができなかった。そしてこの二十冊ばかりの古い書類が兵器庫にうつされることになったのだ。しかし実際にはこの書類綴は兵器の手入れにつかわれるということはなかった。それは兵器庫のつきあたりの右側の長い器具箱(そこには幾種類かの油罐《あぶらかん》がはいっていた。)と窓ぎわの壁との間のすき間にほうりこまれたまま長い間おかれていた。たしかにそれをそこにほうりこんだのは吉田班長にちがいなかった。その書類のふそろいの列は、「こんなもん准尉さんくれよってからが、どうしょうもないやないか、おう、上田、けちけちしやがってからが。」というようなことをいいながらそこにほうりなげるようにしてつみ上げられたことを物語っていた。
曾田は書類綴の置き方を一応頭に入れておいてから、一冊ずつ手にとってしらべて行った。するとはたして彼の予想はあやまらなかった。ちょうど書類の山のまんなかあたりのところに、ひきちぎれた表紙とともにさがし求める紙片ははさまっていた。しかし曾田はそこにも自分の期待していたものをみいだすことができなかった。彼は今日の午後木谷からかなりくわしい話をきくことができた。それ故に彼はこれまで全く予想していなかったようないろいろなことを知ったが、それによって彼の疑いは消え去ったわけではなかった。木谷についての疑問は依然として彼のうちに深くのこっていたが、それは犯罪情報の残りの紙片をみつけて木谷の事件の全貌を示す報告書類をさがしあてたいまも、やはりまだ解決されずにのこるのだ。もちろん曾田が明らかにしたいと考えていた疑問というのは、あの木谷の胴巻のなかより発見されたという手帳によってひき出されてきたものだった。曾田はその手帳の内容をたとえ少しでもよいから具体的に知りたかった。しかし木谷は午後の話のなかでも、このことについてはほとんどふれるということはなかったのである。
「上官に対する兵隊としてあるまじき言葉は、彼の所持せる私物の手帳のなかにいたるところに発見され……木谷のいだいている考えが、まことに軍隊の神聖なる秩序を維持する上に於《おい》てこの上なく有害であると認められるのであります。なおこの手帳は被告の胴巻の内より発見されたものであります。」曾田は犯罪情報のこのような言葉をいまもそらんじることができた。そして彼が明らかにしたいと思っているのは、この軍隊の神聖なる秩序を維持する上に於てこの上なく有害であると認められるものというのは、一体どのような種類のものであるかということであった。それを知るということは木谷という人間のもっとも深い秘密を明らかにすることであった。しかし情報綴の残りの部分でも、軍隊の多くの書類と同じように、すこぶる抽象的で、その手帳の内容をなんら具体的につたえるものではなかった。「手帳の内容はきわめてろう劣であり、呪《じゆ》そにみち、危険きわまりないものであります。」と検察官は判定している。「被告はこの手帳の内容については、再三、その意図するところは決して軍をひぼうしようとしたものではない、ただおもいついたままをかきちらしたものにすぎないと申したて、自分のいだく軍隊に対する一定の考えをおおいかくそうとする態度にでたのであります。しかし被告のその言が事実でないことは被告がその手帳の終りのところをひきちぎり、破りすてているところをみても明らかなことであります。被告はたしかに、手帳にかきつけた内容が、軍の規律に反するものであり、したがってそれが軍規を破壊するものなることを承知し、それが上官に発見されることを恐れているのであります。ところが被告はこのような検察官の追求の前に言を左右にして答をしぶり、その申立てもしばしばつじつまがあわず、逆上取り乱した形で神聖な裁決をすみやかにうけて軍務をはかどらせようとの態度はいささかもみられなかったのであります。しかしながら手帳と同時に被告の女のところより発見された被告の手紙について追求して行きたるところ、もはや被告もそれを否定することのできないことをさとり、ついにみとめるにいたったのであります。」検察官はこのように論じ、さらにその手紙について、全く軍規に反して、検閲官の検閲をうけることなく出されたものであると言っている。「被告は当時将校集会所当番なりしその戦友を利用して、隊外ポストにその手紙を投かんさせていたのでありますが、しばしばそのなかに隊の動静をかきつけ、動員その他重要な軍の機密をのせているのであります。しかもそのなかで被告は軍隊をのろい、上官をののしり、隊に於ける兵隊たちの訓練にともなう尊むべき苦労をことさらに誇張して悲惨な状態として書いているのであります。」そして検察官はかくして追求を重ねるにつれて、もはやかくすことができず、すべてを認めるにいたった被告の卑しむべき心根はまことにあきれはてざるをえないものがありますと言っている。「しかも被告はこのような自分の態度に対して何らはずるところなく、なお検察官をうらむがごとき言動にいでることしばしばであります。」とさらにそれはつづいている。
しかし曾田はやはりこのような文章からは木谷という人間をとらえることはできなかった。たしかにこれによって木谷の犯罪の全貌は明らかにされた。木谷の犯罪行為は巡察将校の金入れをとったという一件と軍の機密をみだりにひとにもらしたという一件――この二件である。そしていままではっきりしていなかったこの第二の件の方もいまはほぼ明らかにされたということができる。しかも曾田の疑問は依然としてもとのままにのこっていた。そしてその後の疑問というのはこの第一の巡察将校の金入れをとった窃盗犯の木谷と第二の軍機密にかんする犯罪に責任のある思想犯の木谷とがどうして同一人でありうるかということだった。……たしかに第二の事件が明らかになってみれば、いまはもう木谷が反軍思想をもち、しかもその思想は相当はっきりした系統だったものだと断定してさしつかえないのではないかと考えたが、しかし疑問は再び曾田の上をおおうのだ。――疑問はすぐさま起る。ではどうしてそのような木谷が、ただ遊興費がほしいからといってひとのものをとる行為にでることができるのか。或いはまたそのような木谷がどうして花枝のような女に軍の機密を知らせる必要があったのか。……花枝もまた木谷と同一思想の持主だと考えるならば、木谷のこの行為がなっとくできるところがある。花枝は木谷とともにはかって、或る反軍的な団体に役立つ或る仕事をしていたと考えればよいのだ。しかしそれは少しばかりロマンチックな夢のような話だ。そしてそれでは木谷が金入れをとってつくろうとした花枝との遊興費の問題などもでてこなくなる。――第一の木谷と第二の木谷とをむすびつけるということは、非常にむつかしいことだった。……しかしこのような疑問も結局はこの木谷の手紙の内容がはっきりしていないところからくるのである。それは曾田がこの間から木谷の手帳について考えていたことと同じことだった。もしこの手帳や手紙の内容を少しでも明らかにすることができたなら、はたしてこの第一の犯罪を行った木谷と第二の犯罪を行った木谷とが一体どこでむすびついているかを知ることができるにちがいないのである。もちろんこの手紙の方は、手帳とはちがって、この書類の文章によっていくらか具体的に明らかにされている。しかしやはりそれほどちがいがあるともいえないのである。……木谷は軍にかんする機密を女にだした手紙のなかにかいたのだというが、しかし一体彼はそれをどのようにかいたのか、またそれを何のためにかいたのか、ということを知ることができなければ、木谷という人間はいつまでもうすやみのなかにつつまれたままでつかむことはできないのである。……そして曾田はついに犯罪情報綴をおわりまでよみおわったときにも決して彼の疑問を解決することはできなかった。もっとも曾田は兵器庫のなかでかなりあわてていた。というのはこのような時間にこの兵器庫に燈がともるなどということは、ごくめずらしいことだから、いつ何時《なんどき》、週番士官か週番下士官が、怪しいとみて、とびこんでくるかも知れないのだ。もちろん曾田はたとい彼らがはいってきたとしても、弁明できる用意はあった。准尉の命令で古い書類を整理し直しているのだといえばいいのだ。だれも彼をうたがうものはいないだろう。しかし曾田が書類を繰る手はひとりでにふるえ、また彼の体はさむさのためにふるえた。
「被告が林中尉の金入れを取ったことは全く疑うことのできない事実であり、あらゆる点からみて明らかであるにもかかわらず、被告はそれをみとめず、被告の取ったことを知る林中尉の証言を全くしりぞけようとしたのであります。さらに被告はしばしば林中尉にたいしてちゅうしょうし、林中尉が被告にたいしてなにかたくらんでいるごとき言をはくが、これはじつに被告が自分のおかした行為を林中尉のせいに転かしようという意図をもっていた故であったのであります。しかして被告はついには全くいつわりの陳述をなし、林中尉に軍経理にたいする違法行為ありたるかのような口振りを示したのであります。しかしこれもまた林中尉に関する慎重な取調べの結果、全く無根のことであって、ただ被告が林中尉の証言に疑いをいだかせ、林中尉をおとし入れようとの考えの下になされたものであることが明らかになったのであります。……」
大体以上が検察官の求刑にさいしての取調べ概要だったが、まだ綴はそれでおわってはいなかった。綴のうしろにはなお最後の軍法会議公判報告のうつしがつけてあった。そしてこの公判報告は当日傍聴に出席した中隊のもの(多分人事係准尉だろう)がかいたものらしく、その書類の上部に隊長印と将校印とがおしてあった。曾田はもはや消燈時間もせまってきたので、これにはただざっと眼をとおしただけだったが、それによれば、木谷の公判判決はおどろくほどいたって簡単なものだった。裁判長井上中佐は被告の犯罪の原因を単純に被告の出生にみようとするのである。
「……被告は兵庫県鳴尾《なるお》村字《あざ》××の農業木谷喜一の次男に生れたが、同地の地主松井清次郎の小作たりし父親は生来酒をこのみ業をかえりみず、貧困な家計はいよいよ貧困の度を加えたのであります。さらに被告七歳のときに父親は死亡し、当時まだ十五歳なりし兄喜一郎には土地を引きつぎまもる力はなく、ついに一家は四散しなければならなかったのであります。
兄は尼《あま》ヶ崎《さき》に出て帽子店に奉公し被告はその後母親とともに大阪の母方の親戚の家をたより、そこで成長したるも、母親は被告十三歳のときに男とともに被告をすてて、行方をくらましているのであります。被告はそれ以来、兄の家に引きとられ、学校をでてより種々の店に奉公したがいずこにもおちつかず、ついに兄の店にて働きたるも、しばらくしてそこをとびだし、長い間じだらくな風習にそまり、兄一家に迷惑をかけつづけてきているのであります。隊にはいってからは、軍隊教育をうけたる結果一時素行もあらたまり、隊の教育訓練のすすむと相まって成績もすこぶるあがり、えらばれて経理室勤務をつとめるほどになり、はやく上等兵に選抜されるまでにいたったのであります。しかるに上等兵になりてより、被告は次第に気をゆるめ、勤務に余裕が生れてからはついにはあそびをおぼえ、飛田遊廓の女となじみをかさね、かくて地方生活中に被告の身につけたじだらくが再びよみがえり、ついに遊興費に窮して他人の金に手をつけるにいたったのであります。被告の金銭関係は相当にひろくひろがり戦友に借財するのみならず、さらに初年兵にたいして上等兵の地位を利用して金を出させ、しかもこれらのものにたいしては全く返済するところがないのであります。それ故に戦友たちから金を入手する道ももはやとだえ、いよいよ金につまった被告はついに衛兵勤務中林中尉が巡察をおえて用便中油断をみすまして便所の外にぬぎおいた服のなかよりその金入れをぬすみ取るにいたったのであります。」
そして裁判長はさらに、被告がこのように勤務中に巡察将校に対し犯罪行為をするような言語道断な兵隊になるにいたったみちは、きわめて明瞭であるといっている。少年時代より不規律な生活をつづけてきた被告はすでに初年兵のころより規律きびしい軍隊生活にたいしてはげしい不満をもち、兵営生活をたえがたいものとして呪そしている。そこから被告の軍隊の規律をなおざりにする傾向も生れ、上官に対する許すべからざる反抗的な態度もでてくるのであるといっている。そしてその点から被告の反軍的な精神態度について論じているのであるが、それは大体犯罪情報の記事と同じ内容だといってよかった。つづいて裁判長はそのような被告の精神態度から、被告が被告の女に対して軍規に反して隊の検閲をうくることなく通信し、しかもそのなかで被告はしばしばもっとも重大な軍の機密にぞくする動員、部隊輸送等に関する事柄をかきしるし、何らはばかるところがないとのべている。しかもそのなかで被告はしばしば隊に於ける兵隊たちの状態を事実をまげてあしざまにかき、上官の兵に対する態度をまるで鬼畜のごときものとしてののしり、じつに許すべからざる侮辱を軍隊にたいしてはたしているとさらに裁判長はのべている。
検察官の求刑は二年六カ月の懲役刑であった。そして裁判長は二年三カ月というほぼ求刑に近い重い刑を決定しているのである。なお裁判長は判決にさいして被告の態度を観察して、被告は法廷にのぞんでごうもおそれつつしむ気持なく、またいささかも改悛《かいしゆん》の模様みられず、全く傲慢《ごうまん》にして裁判官をなめあなどり、神聖な軍法会議に対してはなはだしく不信をいだきおることは明らかであり、ごうも情状酌量の余地はみとめられないと言っている。そしてこれで綴は終りになっていた。
十二
綴を読みおわると曾田はぬきだした書類を再び元通りにつみあげ、その木谷についての報告の部分だけをそとに持ちだした。彼はそれをどこにかくしておこうかと考えたが、それをかくす場所といえば隣の陣営具倉庫のなかか、それとも事務室の戸棚のなか以外にはなかった。それを班内にもってかえったならば、すぐ点呼のときに行われる検査によってみつかってしまうだろう。しかし事務室には准尉が、軍隊のあらゆる裏面を知りつくし、兵隊のすべての行動を測ることのできる准尉がいる。そこで曾田はやはり陣営具倉庫の戸棚のおくにかくしておく外にはないと考えた。彼は事務室の斜め横の倉庫の前にたって、そこにかかっている鍵をみていたが、それに手をかけて力一ぱい引いた。するといつものようにその古い弱くなった鍵はわけなく開いた。彼はなかにはいってザラ紙や鉛筆や筆などの入れてある戸棚のもっとも上部の書類を入れてあるところをあけて、その隅のところに綴の紙片をさし入れた。彼はそうしながら、あの射撃場の横のポプラの木の下をほっていた木谷の姿を思いうかべた。彼もまた以前この戸棚のなかに経済学の書物をかくしてあったことがある。しかし曾田はそのくらい倉庫のなかでそれほどぐずぐずしているわけにはいかなかった。すでに営庭の方から消燈ラッパがなり渡っていた。
曾田はすでにくらくなった班内をすかして木谷が寝台のなかにもぐりこんでいることをたしかめてから自分も毛布のなかにもぐりこんだが、なかなかねつくことができなかった。彼は先ほどよんだ書類によって木谷の犯罪というものの姿がほぼわかったような気がした。しかし彼は自分が木谷にいだいていた疑問を明らかにすることはできなかった。その書類のかたっている木谷は、彼の予想を裏切ってただ遊興費につまってその上で犯罪におちこんでいった一人の人間というにすぎなかった。しかし曾田の求めていたのは、そのような木谷ではなかったし、それでは木谷が彼に語ったところともひどくちがっているのである。もっとも曾田は木谷が今日午後曾田にした話をすべてそのまま信じこんでしまっているというのではなかった。彼は木谷の話そのものにも疑問をいだかなければならなかった。
たしかに木谷が今日の午後した話は、曾田が木谷という男に全く期待することのなかったほど、こまかな観察と人間判断にとんだものであった。それ故にその話し方はそれほどうまくはなく、いろいろの事情の連絡がつけがたいというようなものではあったが、曾田はじっさいその点でびっくりさせられた。(それはきっと刑務所のなかで何度も考えつくされた話にちがいなかった。)それ故に彼はその話をきいているうちには、木谷のいうことをほとんどうたがうということなくうけ入れたのだ。しかし曾田がよく考えてみると、その話にもやはり疑問は湧《わ》いた。いや疑問はいよいよ深まる一方だった。曾田はもちろん木谷の話の全部をうたがうというのではなかった。それはたしかに彼の今日までの軍隊生活を通しておおよそさっすることのできることだった。ことに経理室の内幕などは、全く曾田自身が想像していたところと一致するところが多かった。(もちろん曾田は補充兵の使役兵などからきいたり、炊事関係からきかされたりしてしっているにすぎなかったが。)しかしながら木谷があまりにも軍法会議というものをばかにし、それが全く幼稚ででたらめなものだと強調したので、木谷のいうことにむしろ信用がおけなくなったのだ。曾田にはどうしても木谷のいうような幼稚な軍法会議というものを考えることはできなかった。もちろん彼には軍法会議というものがどういうものであるかということは想像もできなかったが、木谷の話す軍法会議はあまりにもでたらめであるような感じがした。たしかに犯罪情報によれば検察官は、木谷が胴巻のなかにかくしていた手帳を捜査によってみつけだしてきているのだ。とするとそれをどうして幼稚とよぶことができようか。軍法会議! それは或いは今後の曾田を待っているかもしれないのだ。それは曾田にとってはおそろしいものだ。曾田は自分の後を軍法会議におっかけられている自分を感じることができる。そして軍法会議は不当なものだ。しかしそれがでたらめで幼稚だと考えることは彼にはできなかった。……とすれば軍法会議を木谷があのようにいうのは、むしろ何かわけがあるからではないだろうか。もちろんそのわけというのは、木谷が自分のたっている立場をかくすためである。では何故木谷はそれをかくさなければならないのだろうか。それは木谷がまだ現在もその立場にいるからか、それともすでにその立場をわるいものだと認めて放棄してしまったからか、どちらかだからである。曾田の考えは、いつの間にか木谷を思想犯として考えて行く方にはしっていた。しかしこのように考えながらもなお曾田の頭のなかに一瞬ひらめく木谷の別の姿がある。それは刑務所からでてきたことがひとに知れるのを、ひどくおそれているあの木谷だ。そしてそれはたしかに窃盗犯のあの木谷なのだ。木谷は自分は金入れをとったのではなく、ひろったのだということを強調して今日話したが、たしかにあの話にしても、木谷のその強調の仕方はあまりにも自分勝手すぎると曾田には思えるのだ。というのは木谷はたとい金入れを拾ったにしてもそれを自分のものにしたということにはかわりないのだが、木谷が金入れのことを口にするたびに、彼はまるでそれをひろっただけであって、決して自分のものにしたことなどなかったかのような口ぶりをするのだ。そしてそれは曾田のような人間にはひどく気にさわった。……すると彼には今日木谷が話した経理室内の対立のことや、その二派の間にたった木谷がそのために、行かなくともよい刑務所にとうとう行かされることになったということなども、すべてが疑わしいものになってくるのだった。
曾田はなかなかねむれなかった。彼は何回か起き上って木谷に花枝がすでに山海楼にもいず、その行先は山海楼でも知るものがないことをつげてやろうかと思ったが、ついにその決心がつかなかった。彼は向う側の寝台で木谷が、あーあ、あーあとときどき息をひいているのをきいた。
第四章
一
二日後のひる前木谷は再び炊事へ金子班長をたずねて行った。(昨日も一昨日も彼は炊事へ行ったのだが、金子班長に会うことができなかったのだ。)彼は午前中はなるべく班からはなれないようにしようと考えていた。今日位准尉が自分をよびだしにくるかもしれなかった。准尉の身上調査はまだのこっていた。准尉は木谷と花枝との関係についてはまだなんの調査もしていなかったので、いつかその調査があるというのは確実だった。(また准尉は今日になるまでまだ花枝の写真をかえしてくれていなかったが、さらにそれを自分があずかっているということも言わなかった。)しかし准尉は彼の予想に反して彼が班内にじっととどまっていたにかかわらず彼を調査に呼び出さなかった。
金子軍曹はまるで炊事班長のようにふるまい、試食と称する食膳《しよくぜん》を班長室の机の上にはこばせておいてそれには手をふれず、好きなチキンライスをつくらせてたべていた。
ちょうど炊事上等兵が倉庫の鍵を使役兵に渡すために炊事場におりて行ったので、木谷はすぐ班長室にはいって行くことができた。彼は金子軍曹の狼狽《ろうばい》した顔をみのがさなかった。それは木谷の予想することのできなかった表情だった。しかし彼は素知らぬ顔をした。
すぐに軍曹はおうように首をふった。
「おお、木谷きたか。こないだからまってたのにちょっともきやへなんだやないか。お前がくるやろおもてな、揚げパンを取っといたったんやけどな……」
金子軍曹は一寸《ちよつと》まってくれよな……と木谷をまたせておいて傍の伝票に眼をとおし、書き入れるような手つきをしていたが、大きな声をだして使役兵をよんでもう一皿チキンライスをつくってくるようにいいつけた。彼は木谷を長い間そのまままたせておいた。そしてようやくふりかえって新しいほまれの袋をほうりだした。「ほら、すえ。煙草ないねんやろ。いま、うまいもん食わしたるぜ……。いまのうちに食うとくんやな……なあ、木谷、せっかくかえってきたんやろけど、またつれだされてみい。」
この言葉をきいて木谷の全身はふるえた。彼は或いはまた何かの手ちがいで自分が刑務所におくりかえされることになるのではないかと考えたが、それはどうやらそうではないようだった。
「しかしな……。そんなとこいつったってることあらへんがな。煙草とったらええやないか、はよう物入れにしもとけよ。そんなもんほっといたら、いまに使役兵がきやがってみつけてみい、みんなすわれてしまうぜ。」
「こないだな、会うたときな、来いいわはったんで、どないしてはるやろおもて、今日はきてみたんやけど。」
木谷は自分がいつものようにおずおずしているのに腹立ったが、はこばれてきたチキンライスをむさぼるようにして食った。しかし彼は予想したとおり相手が自分をへだてていることをはっきり感じさされた。
「まあ、まあ、しかしえらかったやろ……さあ、うんと食うてや……まあ、ここやったらなんでもあるよってな……。ほんまに久しぶりやったな……この間、あこでお前に会うたときは、ほんまにびっくりしたぜ……どっから幽霊がでてきやがったんやろ、おもたもんなあ、青いいうんやあらへんけど……なんやしら気持わるい顔色しててなあ……」
木谷はときどき顔をあげて相手をみたが、彼の胸はこんぐらがっていた。金子軍曹はもはや二年前、曹長室で彼に頭をひくくして顔をすりつけるようにしてささやいたあの金子伍長ではないのだ。そして木谷はその金子伍長にあの林中尉のことをききだそうときたのに、この金子軍曹はまるで彼を近づけまいとしてわざと身をそっくりかえらせているかのようではないか。
「班長殿、卵十個ほどまわしたんなはれ、な。なあ。」班長室には各中隊、各倉庫から食物をねだりにはいってくる兵隊、下士官がたえなかった。兵隊は古い准尉連中の当番兵だったが、下士官は直接自分が出向いてやってきた。それ故木谷は林中尉のことをききだす機会をとらえることがなかなかできなかった。金子軍曹はそれらの下士官たちにとりまかれてテーブルの下で股《また》をひろげてどっしりとし、経理室からかかってきた電話にだけは、自分がたち上って応答した。
「おい、おい、なにしにきた? なに、上等兵に用事がある? また、砂糖やろ? 誰がなめんねん。隊長やて……あほいうな……隊長にいうとけ、砂糖はな、ここの炊事の班長からが、ちかごろはなめたことないねんやぞ……。砂糖なめたかったらな……いくらでもなめられる野戦勤務がきてるよってそういうとくんや。まあ、兵隊つれてそこいでて行くんやな……毎日なめさしたるよってな……」
集まってきていた下士官たちは笑った。「どこのやつや、隊長の用事もってこんなとこいきやがった当番は?」誰かがどなった。
「ホ隊であります。」入口のところで不動の姿勢をとったものがあった。木谷がホ隊という声にふり向くと、それは隊長当番の背の高い谷田上等兵だった。谷田上等兵は卑くつに暗く、へへへ……と笑った。木谷は谷田にみられないように姿勢をひくくした。谷田上等兵は下士官たちの残忍な攻撃にであってみるみるのぼせあがって行った。
「そこの兵隊。隊長はやな、兵隊の砂糖をとってやな、くうてもええのんか……背高のっぽ。」
「かえれ、かえれ、かえって隊長に飯盒《はんごう》もって二号炊事まで、来いいうとけ、なんでもかんでも隊長の自由になるおもてやがったら、あてがちがうぜ……」
「また野戦行きがあるいうてるけど、ほんまやろか。え、一体、どこ行きやねん……なあ、金子班長殿。」一人の下士官がきいた。
金子軍曹はただだまってにやにや笑いながらかまえていた。谷田上等兵は入口にしばらくつったっていたが、やがてそこにいられなくなって姿をけした。木谷は次第にみなの視線が、椅子にかけてじっとしている自分の方にあつまってくるのを意識したが、彼はやはり林中尉のことについてたずねてしまうまではそこを去ることができにくかった。しかし金子軍曹はいまはそのことにふれるのをきらっていた。それ故に木谷が林さんはいまどこへ行かはったんやと少し班長室がひっそりしてきたとき、きいたけれど、なんでもな、満州の部隊に転属してから全然どうしているかわからへんのやというきりで、はっきりした答をうることはできなかった。
「おい、二つ星、どかんかいな……、大きな顔しやがって、いつまでもひとの椅子占領してやがってからが……」おどしをふくんだ声が後でした。木谷がふりむくと鼻筋のとおった炊事上等兵が、まるでその鼻筋をみせようとするかのように、つり上った眼をぐっと近づけた。「どけいうたら、どいてやな。……飯くわしてもろたらな……さっさと、かえってや……な……」
木谷は立ち上って、上等兵の方に体をよせて行った。彼の幅の広い胸は新しい服をつけた相手の胸にふれた。彼の鼻孔はふるえて大きくなった。彼の眼には相手の新しい服の新しい色がとびこんだ。彼の胸は相手の胸をおした。相手はとっさのことでそのままおされていたが、いらいらしていた。木谷はその可愛げな、高まんな顔を、そのとがった鼻を滅多打ちにしようとする手をおさえた。
「おすけが、しゃれたまねしやがって、おい、どきやがれ……」
木谷は椅子をはなれて席をあけてやった。相手の上等兵は荒々しく椅子に腰をおろすと前の金子軍曹の方をみた。木谷もまたその方を見た。木谷は金子軍曹が全く知らぬ顔をしようとしているのを見た。そのとき外出用の服をきて帯剣をつけた使役兵がよびにきたので彼は帯剣を取りにやって巻脚絆《まききやはん》をまいたが、木谷の方へは背中をむけたままだった。
「石川、何むくれてんねや……俺の方がむくれたいところやぜ。」彼は上等兵に言ったが、上等兵はその方をむいてこびのある眼つきをした。
「俺な、一寸、出るよってな……経理室の方たのむぜ――連長《れんちよう》(部隊長)のお祝いやいやがって、飲みやがんのやそうやが……材料まわす方のこっちの身にもなってみい……」
「よろしま、班長殿……ゆっくりまわってきとくなはれ……よろしま。」上等兵は彼の顔をじっと相手におしつけた。
経理室に以前いたことのある木谷には金子班長がいま息抜きを目的として外にでようとしているということがはっきりわかったが、彼はいま金子班長を追おうとは思わなかった。彼は金子班長が新しいしゃれた帯革《たいかく》をしめて、しゃんと腰をのばすのをゆっくりとみていた。
「木谷、すまなんだな……また、きてくれるか、遠慮はいらんぜ、煙草のうなったら、とりにきたらええがな……なあ――」金子班長は一言いいのこして「さあ、いくぜ、いくぜ――」と太い声で景気をつけたように言ってでて行こうとしたが、またどたどたと引き返してきて、自分の机の引出しをあけて、袋に入ったパンを取り出して、木谷の横の机の上においた。「なあ、もうなんにもないけどパンでももっていくか。」
木谷はようやくその機会に林中尉や中堀中尉など、もとの経理室の人たちはどうしているかときいたが、金子軍曹はただ知らないと右手を左右にふってみせるだけだった。
飯上げにやってくる兵隊たちの荷車の音が、方々からこちらに近づいてきた。木谷は金子班長がいなくなってもすぐにはそこを去らなかった。彼はしばらく炊事の上等兵とにらみ合っていたが、班長のいなくなったあとでは炊事の上等兵の権力はこの上なく大きくなるばかりだった。木谷は自分のなかにわき上ってくる憎しみをどうすることもできないままに、パンの袋をにぎってかえってきた。
「おすけが、おすけが。」という炊事上等兵の声が部屋の方にきこえて、彼の心をかきたてた。彼の顔はまたも形をかえていた。
二
昼食後准尉の命令で木谷の兄の家をたずねることになったとき、曾田はそれを木谷にしらせて、何かことづけはないかときこうと思ってあたりをさがしたが、木谷の姿はどこにもみあたらなかった。それに曾田はまだ木谷についてもっていた疑問をとくことができていなかったし、はたして木谷の話したことがほんとうなのか、それとも犯罪情報の記事が真実なのかという点についても、その最後のところで決しかねていたので、それ以上木谷をさがすということはやめにした。しかし曾田は木谷の兄の家をたずねる前に週番士官の用事でもう一カ所行っておかなければならないところがあった。それはただ偕行社《かいこうしや》の靴部で注文の靴ができているかどうかをたしかめてくる用事だったが、もしもその靴ができ上っているならば、その品物を受け取って一度は隊へかえってこなければならないのだった。
曾田は一刻もはやく木谷の兄の家へ行きたかった。そこへ行けば、彼が木谷についてもっている疑問も、いくらかはとけるだろうという期待があった。それに彼にはその他に寄る家があるのだ。それ故に彼は週番士官の注文した靴が、まだでき上っていないことをのぞんだ。
曾田は事務室で週番下士官から公用証をもらって衛門のところまで行った。しかし彼は兵隊が外出にさいして衛門を向う側へとおりぬけるときに感じる、あの、「ざまみやがれ」という感情をもつことはできなかった。(ざまみやがれ、追っかけてはこられんやろ! ここまでは。)曾田の胸には部隊(軍隊)にたいしてはきかけるこのような言葉が今日もでかかっていたが、それは彼のうちのどこかにひっかかっていて外にはでてこなかった。彼は衛兵所で中隊名と行先とを書き入れて衛門を一歩またいだが見る見るゴムのような或いは雲のようなものが衛門のうちから自分の後を追うてくるのを感じた。それは紐《ひも》のような、また手のような形をしているかのようだ。それはいつも彼が衛門を一歩外へでるたびに後からついてくるのだが、それはどこまでも部隊のなかからくりだされ、のびてくる。彼は部隊から紐をつけてだされた人間だから、再びたぐりよせられて、そこに引きもどされなければならない人間だった。
街を人々はあるいていた。人々はのんびりとあるいていた。馬場《ばんば》町の公園前は電車を待つ人々がいつまでたっても電車がこないためだろう、次第に多くなり、歩道の方にもあふれていた。大阪城の天守閣がそのうしろにくらくかがやいていた。公園の灌木《かんぼく》のなかに人影が動く。そして彼らはみんなのそりのそりと歩いているようにおもえた。彼らの足はしばられてはいなかった。彼らには部隊の紐がついてはいなかった。しかし曾田の足をしばっているのは、歩兵操典の条文であり、曾田の眼をしばっているのは陸軍礼式令の条文だった。彼の眼はたとい一人の上官をも見落すことがあってはならなかった。
軍人ハ特ニ規定アル場合ヲ除ク外《ほか》上官ニ対シテ敬礼ヲ行ヒ上官ハ之《これ》ニ答礼シ同級者ハ互ニ敬礼ヲ交換スヘシ
敬礼ヲ行フトキハ通常受礼者ノ答礼終ルヲ待チ旧姿勢ニ復スルモノトス
曾田の時間、空間は条文のなかにあった。
府庁の前の公園の葉をおとした藤棚《ふじだな》の下に腰をおろした二人連の若い男を曾田はみたが、その二人がひょいと顔をあげて自分の方をみたとき、その寒そうな細い表情をした二人の顔は人間の顔だ。以前曾田が、この二人のいる世界にいたとき、この辺りを通ったとすればそのさむい日当りで二人と同じように腰をおろして、この再びくもって灰色になろうとしている空に向ってのんびりと煙をふき上げたかもしれない。いやその位のことはいまの彼にも巡察将校の眼をぬすんでやれば出来ないことではない。しかし彼の吐き出した煙は二人の男の煙とはちがって別の空へ昇って行くだろう。
曾田は以前中学の教員であったころ、この電車道の左側に菊の紋章をつけてつったっている白い大きな府庁の建物の玄関をくぐって、学務課に辞令を取りにきたり、校舎の修築予算の資料を代理でとどけにきたりしたことがある。彼はいまもこの府の学務課の予算内から給料のでている人間なのだ。しかしこの照空燈と長い耳をもった聴音器を屋上にそなえた大きな建物と彼との関係は、彼が衛門をくぐって兵隊になった日から一変している。この府庁の建物の屋上につきでた四角いエレベーター機関室の右端は北部営庭に於ける四一式山砲の標準点であり、また小銃訓練時の仮想敵だった。いま彼はこの建物内にはいって行くことはできる、建物のなかにいる人たちに会って話し合うことが可能である。しかしその生活のなかに自分が加わって行くことはできないことだ。このすぐ裏手の街、谷町を下って曲ったところにある北浜銀行につとめている学生時代の友人のところに行くことも彼にはできる。事実彼はときどきその友人のもとに公用を利用してでかけて行き、日本の戦時経済の分析を自分のものにしてくる。しかしいまではその友が彼とは全く別の世界にいることは事実なのだ。
曾田は自分の軍服と軍帽と巻脚絆の下に、自分をもっている。それが彼の自分だ。大学を卒業して教員になり経済学と歴史学を勉強して生きてきた自分だ。この服の下、襦袢《じゆばん》の下にその自分がいるのだ。しかしその自分のなかへ行くことはいま彼にはできはしない。……曾田と軍服の下の自分とをへだてているものがある。そしてその向うに彼はいるのだ、その向うに……。軍隊の多くの条令がこの服のようにこの曾田の自分の上にくもの糸のようにまつわりくい入り、それを曾田からとおくへへだててしまう……。さっき公園でみかけた二人の職人風の男、あのペロペロのスフの国民服をさむそうに風に動かしていた男たちも、明日召集にあうならば、兵営の鉄の柵をこえて向う側からこちら側へつれてこられる。すると彼らの体は襦袢と袴下《こした》とにしっかりつつまれ、彼らのもっている自分をとおくの世界へやってしまう。自分はそこにいる。その向うに。うめき声をあげてその向うにいる。
兵営ハ苦楽ヲ共ニシ死生ヲ同《おなじ》ウスル軍人ノ家庭ニシテ兵営生活ノ要ハ起居ノ間《かん》軍人精神ヲ涵養《かんよう》シ軍紀ニ慣熟《かんじゆく》セシメ鞏固《きようこ》ナル団結ヲ完成スルニ在《あ》リ
これは軍隊内務書の綱領の一にある文句である。兵隊は初年兵のときどうあろうとこれをおぼえこまされ、暗しょうさせられるので、それはいまでも曾田の口のなかにある。しかし曾田はそれを次のようにおきかえている。
兵営ハ条文ト柵ニトリマカレタ一丁四方ノ空間ニシテ、強力ナ圧力ニヨリツクラレタ抽象的社会デアル。人間ハコノナカニアッテ人間ノ要素ヲ取リ去ラレテ兵隊ニナル
たしかに兵営には空気がないのだ。それは強力な力によってとりさられている、いやそれは真空管というよりも、むしろ真空管をこさえあげるところだ。真空地帯だ。ひとはそのなかで、ある一定の自然と社会とをうばいとられて、ついには兵隊になる。
曾田は毎日一丁四方のなかをぐるぐるあるくのだ。そこには山もないし、海もない。しかしそこには、女がなく父母兄弟がない……そしてその代りに人工的な山や海があり……また人工的な父母、中隊長と班長がある。そこでは屋内で帽子をかぶることは許されないが、屋外へでるときは帽子なくしてでるということはまた許されない。これは一つの強制せられた社会である。そこではまた起床後より夕食時限までは寝台上に横たわることを許されないが、これは人間の自然をうばい去ることである。
曾田は今日も外出したときいつも考える彼の「兵隊論」を考えながら、偕行社前の軍人会館の横をはいって細い坂道を上って行ったが、このような人工的な抽象的な社会を破壊するにはどういう方法があるかと考えて行ったとき、彼の頭にはっきり浮かび上ってくるのはやはり木谷一等兵のことであった。
曾田は偕行社の靴部に行ってたずねたが、週番士官の靴はまだあと一週間もしないと出来上らないという答だった。……公用の腕章をつけた当番兵たちが、陳列台の間をゆききしているなかを、店員たちはつみあげた品物を胸の上においてはこんでいった。各部のおやじたちは品物をひっくりかえしては値段をきく将校達に生返事をして、そっぽを向いた。そして曾田はそのようなおやじたちがうらやましかった。かつて彼もこの店の人たちと同じように将校たちの前を何をすることもなく行ったりきたりしていたのだ。ところがいま彼は将校や准尉の公用をよろこんでかってでて、ようやく「真空管」のなかから、いくらか空気のある衛外へとはいでてくることができるのだ。
木谷の兄の家は南海沿線の萩之茶屋《はぎのちやや》にあった。曾田は以前学校につとめていたころ、一度この辺りにきたことがあった。それに彼は先日の木谷との話で大体の見当をつけていたので道にまようことはなかった。……この辺りの街の中心は鶴見橋通だったが、通の飾り窓も陳列台ももうほとんど品物がなくからっぽで、ただほこりをかぶって寒そうだった。店の多くは硝子《ガラス》戸《ど》をとざしていた。木谷の兄の帽子店も戸をしめていた。店にはカーテンがひかれていた。それではだれにも会うことができないのかと思えた。(しかしそれはまた次回に公用の用件がふえるということだったから、あるいみではよろこばしいことだった。)曾田は店の前にたってしばらく戸をたたいた。と隣の漢方薬をならべた、においのする暗い店のなかから、一人の眼のゆがんだ、おばあさんがでてきて、「もっと、どんどん大きくたたかんとあかん。」とおしえた。するとやがて曾田はカーテンをうちからあける髪をみだした身体の細い妻君をみた。そしてその妻君の顔が、彼をみて、じーいっとしばらくうかがうようにして戸をあけるのをやめるのをみた。「どなただすいな。」と妻君は言ったが、まだ戸の間からそのうす白い顔をだしたきりだった。曾田はもう一度表札をたしかめて説明した。しかし彼女は「うちのひとはまだねてますねんよって。」とおずおずいいながら、警戒した。曾田はようやく自分が疑われているとさとって当惑したが、内へ引きこもうとする妻君をとらえて、木谷が中隊にかえっていること、そして一度御主人に隊まで面会にきて頂きたいという命令をつたえるほかはなかった。背の高い顔の細い妻君は、「まあ、あの子とは、もう、うちは縁を切ってしもてまんねんよってなあ――」というだけだった。彼女は長い間だまったまま無愛想につったっていた。
しかし彼女は、木谷の上に何か事件が起ったのではないかという恐れが去ってしまったので、今度は彼を店のなかにひっぱりこんだ。
「はよう、なかへはいっとくなはれな。」彼女は言った。
ああ、それは何をおそれている顔なのだろう。曾田はあとで奥座敷(といっても畳のすり切れた、日当りのわるい、火の気のないその一間きりしかない部屋にすぎなかった。)にとおされて、以前ここへ憲兵がやってきて、どろ靴のままどたどたとあがりこみ、畳を一枚一枚あげさせて木谷のことをしらべて行ったという話を妻君からきいたとき、この顔をようやく理解することができた。しかし木谷の兄は妻君以上におびえていた。彼は曾田が上り口のところですましたい、巻脚絆をとくのはめんどうだからと言っても、なかなかいうことをきかなかった。「そこではどうもぐつわるおまっさ、ひとがきてみなはれ、もうすぐ近所にひろがってしまうよって。」奥へあがってくれというのだ。
曾田は改めて准尉の用件をきりだした。しかし木谷の兄は「この間、隊の方から出頭するようにいう知らせをうけとってまんねんけどな……」と繰り返した。曾田は自分が木谷となかがよいこと、木谷が隊にかえってきてから、いろいろ相談をうけていることなどを話した。曾田は相手の手がふるえていることに気づいた。木谷の兄はまた「この間、隊の方から出頭するようにいう知らせをうけとってまんねんけどな。」と繰り返して座をたった。すると彼はやがて部屋の隅の仏壇の横のはげた青いラシャ張りの机の引出しからよれよれになった葉書を出してきた。みるとそれは先日曾田が准尉の命令でかいて出したものだった。彼は隊へ行こうとは思っているのだが、徴用で造船所にひっぱりだされてる身では、行けるもんでないということをくどく説明した。この間からずっと、泉州工場の方へつれて行かれ、朝の七時から夜の八時まで、いままでもったこともない鉄火箸《てつひばし》をもたされて、尻をおいまわされているというのだ。監視付きで、寮にほりこまれ、もう一週間もいたら、くたくたで、身体がもたんよって、ときどき、こないして家にかえってきてまんねんけども、それも、会社にしれたら、えらいことになるよって、友達にみててもろて、交代でかえってきまんねんがなというのだ。「はたらきに行って、食うものがのうて、みんなこないして食うもんとりにかえってきまんねんがな……」
裏の方で子供のなき声のような、息をひきつるような物音が一定の間かくをおいて、くりかえしおこってきた。それは先ほどからも曾田の耳にはいっているのだろうか……。その物音がきこえてくると、くらい火の気のない、この場末の帽子屋の部屋のなかに明りが明滅するかのようだ。曾田は耳と眼をすませて、横の硝子をはめた障子戸の下からのぞいた。するとその小さい焼板でかこった庭一面にひろげてあるのは、ぼろの山だ。ぼろはまるで魚か牛のはらわたのように、さむそうにそこにのびている。右手の便所のところに一本つき出た松のくねった枝にも、長い昆布《こんぶ》のようなぼろくずがひっかけてあった。日がかげるとそのぼろくずがくろくしめったような感じになった。そして声がまたきこえてきた。曾田は庭にほしてあるのと同じぼろがすぐ前の縁側にもつんであるのをみた。さらにまたその部屋の押入れのすき間からはみでているのもみた。さらに部屋の隅にもつんであるのを。しかし、この部屋の隅の黒っぽいものは、よくみるとすでに手を加えて、ごつい手袋のような形になっていた。
話は同じことの繰り返しになった。それは行こうと思うてるのやけどな、こんな状態ではな、とても行けないというところでもとにもどってしまうのだ。木谷の兄は木谷の最近の様子をききとって、何も事故をおこさずにまじめにやっていると知ると安心したようだった。しかしすぐにまたあれはもうとうの前から勝手に家をでて行った子で、長い間何の往《ゆ》き来《き》もなかった、それにあれがわるいことをしたからというて、そのたびに一々よびだされていたんでは、かないまへんわというところにかえって行く。「兵隊はん、うちはな、あれのためにどれだけえらいめにおうてるか、こんなことはあんたはんにいいとうおまへんねんけんど、ものごとというもんはやっぱりきいてもらわんことにはわからしまへんよってにな……。あれの話すのをきかはったなら、ただもうこのあてがわるもんになってしもてまっしゃろけどな……」
木谷の兄はようやく膝《ひざ》をくずしていたが、その顔はじっと曾田をうかがっているのだ。その話によると実際、兄は木谷のことでたびたび警察によびだされている。そしてその度ごとにこの兄が尻ぬぐいをしてきている。「いくらいいきかしても、もう性根《しようね》がわるいもんで、どうしょうもない。」――「あれで、頭はわるい子やなかった……学校はようでけたけど、学校とこれとは別で、いくらでけたかて、性根がわるけりゃ、もう、なんにもええことが耳にはいらへんで、とうとうまがった道にはいって行って。」――「どこの家へ住みこましてみても、絶対に長つづきしたことがない。」「ぽいぽいといつの間にかそこをとびだしてしまう、そのたんびに店のお金をもちだして、いつもしりぬぐいをやってきた。」――「こんだかて、あれがことを起してから、取調べや、公判やいうて呼出しがくるたんびに、こっちが、ひやー、ひやーして、なあ――」
木谷とこの兄との間には全然似たところがなかった。それは曾田をおどろかせた。しかし彼には全く理解しがたいものをこの二人がもっている点では二人は共通していた。それが共通したものであるかどうか、曾田にはそれもわからなかったが。兄は木谷と同じようにどちらかというと円顔であったが、しかしそれは平べったい円顔で、力がなかった。鼻は同じように根元のところが張っていたが、兄の方は薄かった。しかしそのような相違があるにかかわらず、この二人には同じようにひとの何かをうかがいつづけているところがあるようだ。曾田はふとその眉と髪の毛に白っぽい綿くずが埃《ほこり》のようにつもっているのに気づいた。工場で支給されたにちがいない国防色の作業衣には、つづくり布が膝のところにあたっていたが、その下からでている手足はまことにうすぎたなかった。曾田はこの帽子屋という店の先入主とさらに木谷の身上調査によって、この兄の姿をあらかじめ想像していたが、それはいまは全くはずれてしまった。曾田は自分の友人関係から商店経営者の家庭の様子をしらないわけではなかった。しかしこのような場末の商店ははじめてだった。その店のなかはあまりにもきたなかった。徴用によってかわっている国民生活の変化という風に彼はそれをとらえたが、それから何をひきだすべきか、すでに彼には不可能だった。彼は庭から縁側にかけてほしてあるぼろについてたずねた。すると彼のつきあたったものは、木谷の兄の狡猾《こうかつ》な態度だった。
「なんにもあらしまへんがな、ただ一寸、やってまんねんがな。」木谷の兄は言った。
「なに、一寸、内職にやってまんねんがな……」しばらくして彼はさらに言った。
「あかしまへんがな、こんなもん、はじめたんやけど、ほこりでほこりで、子供には咽喉《の ど》をわるうされるしな……」彼はまた言ったが、結局それでは何も言わないと同じことだった。「隣近所からは木谷はんはええことをしてはるいうて、うるそまんのやけど、何がええことおまっかいな、なあー、店は取りあげられてもて……からに、なあー。」
曾田は黙ってそれをきいた。
木谷の兄は話をかえた。「ただ、軍隊であれを真人間にしていただけるものとおもてましたんで、軍隊であかんいうことになると、もうそれをどうしろいわれてもな、命令というのでしたら、出て行かへんなどというのやあらしまへん。しかしな、毎日、こんなくらししてすごしてまんねんよってなあー。」
曾田の役目は木谷の兄に隊にくるようにつたえて、その日取りをとりきめてくることだった。できることならば明日にでもきてもらう必要があった。隊と家庭との連絡を緊密にして、木谷の矯正にあたるという、この方法はどの隊でもとる方法だった。しかしもしもさしあたってこの兄が、ひきうけないならば、木谷に対する外出はいつまでも許されないことになる。
「おい、お茶だけだして、ひっこんでもて、兵隊はんにたべてもらうもん、なんやあらへんのか。」突然、兄は言った。
「どうぞ、もうおかまいなく、公用でやってきてるんですから。」曾田は言った。
「まあ、まあ……公用や、なんやいうたって……せっかくあがってもろたのに……。なんや、ほんまにあらへんのか。」
「さあな。たべてもらうもんいうたって……こんなときやしな……」よばれてはいってきた妻君はつったったまま言った。「べつに、なんにも、どこのうちやって……」彼女の冷たい表情は動かなかった。
「ない、いうたって、あれあるやろが、この間、田舎からとってきた、いもでもええがな、やいたげたらどやな……」
「……そうでしたな……いもがおましたな。あれやきまほか。」はじめて間《ま》の悪い表情が妻君のまっすぐたてた顔の上に浮かんだ。「あんた、気いつけてくれはらんとあかしまへんで、きこえたらどないしまんねんな。さっきから、もうあの薬屋のばばがまた戸口へきて、おたくい兵隊はんきやはりましたなあ……なんやおましたんかいな……いうてのぞきこみにきてまんねんぜ。」彼女は、湯呑をひいてたつと言った。「そうでしたな。そやったら、いもでも、やいたげまひょかな……」
木谷の兄はようやくその手袋の形をしたものは、工場の火夫や火造り工や鉄をのばすところで使うものだという説明だけをした。しかし彼はなかなか曾田の用件を承知しようとしなかった。承知しないというのではない、しかし木谷はもう軍隊へおまかせしてしもてまんねんやさかい、どのようにしようと、ちっともかまうことではない、一度行ってみてやりたいけれど、とてもこんな状態では行けそうにないというのだ。曾田はこのときになって、ようやく自分が相手にあなどられているのではないかと疑う気になった。彼は相手の狡猾な笑いが顔からきえて行くのをみまもった。彼は自分の襟《えり》についている印、一等兵の襟章を気にした。彼は自分が一等兵であることにはほこりをもっていたのだが、それと同じようにやはり一種の劣等感をもたされないわけにはいかなかった。下級の兵隊たちの取り扱いは一等兵と上等兵とでは全くちがったが、曾田はそれを気にしないわけにはいかなかった。彼の心はくらくなった。
「兵隊さんかてな、工場にきてはる兵隊やなんかは、同じ兵隊で、まるであつかいがちがうんやから、うんまんでそんするもんは、そんしまんなあ。大事にしてもろて、毎日、特別食、こさえてもろてな、くいきれんほどくうて、あばれだしてな……勝手ほうだいなことしててな――」木谷の兄はそわそわと膝を動かしだした。彼は急におちつきをなくしはじめた。彼はしんぼうしきれなくなったようにたちあがって便所にたったが、その後姿は全くうすっぺらだった。曾田は木谷がまだ仮釈放で出てきているのでどうしても保護者の兄さんに一度隊まででてきて頂いて、いろいろ准尉さんと相談してもらうというようにしないと、外出の許可がでないのだと一生懸命に説いた。彼は出された焼いもで手をあたためた。そしてあれほど外出を求めている木谷をなんとかして一度外出させてやりたい、或いは木谷が外出して花枝という女がすでに山海楼にはいないということ、遠い山陰方面に行ってしまったと知って、おどろきかなしむだろうが、その悲しみにしても外出ができなければ味わうことのできないものだと思って、この兄に熱心に説明した。兄の方は承知する代りに泉州工場の労働のはげしい様子を話してきかせた。毎朝、寮の舎監にかり出されて、どうでもこうでも工場まで送りこまれる。フイゴにコークスをたいて、真赤に鋲《びよう》をやき、鋲打工のしりについて、そのやけた鋲をはさんでわたして行くのだ。この話は曾田の心をとらえた。それは彼が久しぶりにきく日本の労働者の状態だった。曾田の眼はひらいた。彼は何か熱のある光景をその眼にうかべた。彼はむしろ木谷の兄がその工場のひどい労働状態について、順序もなくうったえるのを、感じとることができなかった。彼はその工場のありさまをさぐるために心をたかぶらせた。彼は兵営のみじめなことを、そのなかでじっととらえられている自分のことをまた心にえがいた。彼は何故自分がこのような兵営にあって、その工場のなかにいないのかと思っていた。この兵営からでていさえするならば、この真空管のなかからのがれでることさえできるならば……。彼はやはり自由に工場を休むことのできる立場のこの木谷の兄がうらやましかった。
「えらい虱《しらみ》がでましてな。毎晩はだかになってつぶしても、あくる日になったら、どっからでてくるのかしらん、ごそごそ体中がしてましてな――」工場のことを話しだす木谷の兄は急に陰うつな顔つきになった。彼の煙草をまく親指が不自由そうなので、よくみてみると、つけ根のところがふくれて動かなくなっているのだ。曾田は工場内の様子をさらにくわしくききたかった。しかしその方は別にかくそうというのではなかった。たしかに全然知らないようだった。徴用工の多くは工場を休みはじめているが、それがあまりにも長期にわたれば、憲兵に追及されて、はげしい処罰をうけなければならない。工場の高台には機関銃がすわって、その警備は完了している。
ふたたび裏の方で子供のなき声ともつかぬ年とった人間の息をひきつるような、せき入る音がくりかえしおこってきた。
「ほんまに、長いな……音良はんもあれでもう夜もねむれんで、本人よりも、自分の方がいてしまいそうやいうてはるがな……」妻君が何ということなくはいってきて声をひそめて言った。「それで、あの子、隊で、どこか営倉たらいうとこへ、まだ入れられてまんのかしらん。……火いつくったらええのんやけど……火は夜だけつかうことにしてまんのでなあ――さむいいうたら。」彼女は長い首筋をゆっくりとした動作でひっこめた。
曾田はようやくにして木谷の兄から今度の次の金曜日にもし工場の休みがとれたならば必ず面会に行くことにするという約束をとることができた。曾田が家のものがあたりをうかがいながらあけたカーテンの下をくぐって、表通りにとびでると、ちょうど、左足一面に繃帯《ほうたい》をまきつけた子供をおぶって、下駄をひきずりながら口をゆがめてかえってきた、頬のふくれた大きな男の子にぶつかった。すると、妻君が「義一、ほんまにどこいいってたんや……はよう品物を立花までおさめんならんいうのに、どこまで行ってたんや。」とその子をいらいらして内にひき入れた。荒いアンペラのような国防服をきた義一は、全然何もいわないで背負っていた子供を母親の顔の前につんとつきだしておいて、がたがたと大きな下駄の音をたてて戸のなかへはいって行った。曾田は、その子と木谷との間にどこか似たところがある、……しかしいずれにしても木谷がはやく外出できるようになれば、自分の心も非常にかるくなるだろうと考えながら、歩いて行った。
三
曾田は朝事務室で「敵、南伊《なんい》に新行動、テベル河附近に上陸」という新聞の報道をむさぼるようにしてよんだが、この西部イタリア海岸の独防衛線の後方に反枢軸軍《はんすうじくぐん》が上陸したというニュースは、曾田の心をてらしだし、彼の身体のどこかをかるくした。彼は繰り返しその場所をよんだ。彼はその傍にある海外探知機という欄も一字一句みのがすまいとしてよんだ。そこでは地中海反枢軸空軍司令の新しい任命と反枢軸軍対独戦略爆撃隊司令官米陸軍中将カール・スパーツが二十一日ロンドンに到着した、スパーツのロンドン到着をもってアイゼンハウアー指揮下の欧州侵攻作戦に参加する反枢軸軍司令官は全部頭をそろえたことになるというニュースとが眼をひいた。しかし何といっても曾田の心を支配したのは「ベルリン二十二日発同盟 南部イタリア戦線における独軍の頑強なる抵抗により反枢軸軍の進撃が遅々として進捗《しんちよく》していないのに焦慮した反枢軸軍は二十一日夜突如として西部沿岸に新行動を開始し、ネッツノとテベル河口の中間地域に橋頭堡《きようとうほ》を確立することに成功した、目下同方面においては激戦展開中の模様であるが、二十二日にいたっても詳細は判明しない。」という報道であった。それは同じように二面に小さくでているにすぎない。しかし、イタリアに於ける反ファシズム軍の最近の動きは、ソ連軍の動きとともに、曾田がたえずあとを追っているところのものだった。イタリアが枢軸軍の陣営から脱落したとき、曾田は自分の身体の周囲に一つのちがった空気がただようのを感じたが、最近ふたたびイタリアに於《お》けるいろいろな新しい動きは、新聞にとりあげられるようになっていた。そして一週間ほど前にも、ムッソリーニの女婿《じよせい》のチヤーノ伯らが、ファシズム顛覆《てんぷく》をはかってムッソリーニによって銃殺されたという記事を曾田はよんでいた。曾田はその記事を忘れることができなかった。それは深く彼の心を打ったのである。「反逆行為と断定、チヤーノ伯ら銃殺さる」という見出しの記事は、「独軍、猛反撃に転ず、キーロヴォグラード数村落の奪回なる」という見出しの記事のすぐ下のところにでていたのであるが、その死刑宣告判決文を、曾田はよくおぼえていて、木谷の犯罪情報を読んだときそれを思い出さされた。彼はそれをよみながら次第に興奮して行った。銃殺に処せられたのはチヤーノ伯、デ・ボーノ元帥ほか三名であったが、彼らは如何なる犠牲においても、戦争を中止して講和しようという意図をもって陰謀をたくらんだというのである。
「一九四三年七月二十四、五日のファシスト大評議会においてムッソリーニ統帥反対のグランディ決議案に署名し、バドリオをしてクーデターを遂行せしめ、ムッソリーニ統帥を裏切ったファシスト大評議会議員は特別法廷において死刑の宣告を受けたが、右宣告は一九四四年一月十一日午前九時すぎ執行された。……」新聞はつづいてその公判についてしらせていたが、チヤーノ伯の審理の報道は曾田の関心の中心だった。「最後にチヤーノが審理を受けたが、同人は『ムッソリーニ統帥を倒すことは結局我々自身の破滅となるのだからファシスト大評議会の議員がムッソリーニ統帥を倒そうなぞと企図することは絶対に論理に合わない、グランディの決議案はファシズムとの緊密な接触の下により広汎《こうはん》な国家的な団結を結成する以外全く他意がないと考えた。自分は間違っていたかも知れないが、決して反逆行為を犯したことはない。もし大評議会後に起った事態を事前に多少なりとも予想することが出来たならば自分は決してグランディの決議案を支持しなかったであろう。』と述べた。」新聞はつづいてさらに公判第二日目の模様を報道し、陰謀が一九四二年十一月以来のものであることを自殺をとげたカヴァレロ元帥の覚書を朗読して裁判長が詳述したことを知らせ、最後に裁判長の論告を附して裏切分子の陰謀の姿を明らかにしたのである。「今回の事件については、ファシスト党員の政治的陰謀とカヴァレロ元帥、バドリオらのサヴォイ王家との合作に基づく軍人の陰謀とが併行して行われた、一味は立憲的な方法によって陰謀を達成する計画であったが戦局が重大化した結果ムッソリーニ統帥がファシスト党員を総動員して国民の戦意を昂揚《こうよう》する方針の下に党領袖《とうりようしゆう》をローマに招致した機会に大評議会を開催するに到ったのである。グランディの決議案についてはムッソリーニ統帥はただちに案の狙いが如何《い か》なる犠牲においても講和しようという意図に出ていることを看破し、大評議会の席上『諸君が決議案を受諾すれば余は辞職しなければならない、さらに国王が決議案を採択しない場合には諸君はその結果について責任を負わなければならない』旨を指摘した。従って大評議会においては決議案採択の必然的な結果が明瞭となっていたにもかかわらず、グランディらはファシスト体制を顛覆させる一切の法律的政治的権限を国王に提供したのである。従って被告の反逆については疑問の余地なく国法に基づき死刑を宣告する。」これが判決文であったが、つづいて新聞はチヤーノ伯の略歴をのせていた。その短い略歴だけでもイタリアの最近の政治的激変をはっきりとらえることのできるものであった。曾田の求めていたのはその激変であるにちがいなかった。「チヤーノは十四年前に二十七歳でムッソリーニ首相の長女エッダと結婚、一九三六年より昨年二月の内閣改造まで青年外相として活躍したが七月の政変では法王庁駐剳《ちゆうさつ》大使としてグランディ元法相らと通謀し義父ムッソリーニ首相をかん禁、自分は政変の混乱に乗じて逃亡を企てたが失敗した、彼はもと新聞記者でエチオピア戦争には空軍将校として戦った。今年四十二歳である。」
曾田は自分の考えをしゃべることのできる相手をもっていなかった。先日も彼はこの新聞記事を小室一等兵につきつけてやろうかと思ったが、しばらくためらっていて、結局はやめにした。そのチヤーノ伯の記事の横には「赤軍の攻勢若干弱化す」という記事がでていたが、それはむしろ赤軍の各戦略地点に於ける弱化は一時的なものである、再び猛攻撃に転ずるのは必至であるという内容のものであった。
冷たい顔をさす風が街をふきぬけて行った。はやく冬が終ってくれなければ……兵隊にとって冬はもっとも苦しみの増大する時期である。曾田はすでにズボンのポケットに手をつっこんで歩いて行く学生時代からの習慣を忘れていた。それはむりじいに奪い去られた。しかし奪い去られないでのこっているものが、彼のうちにはあるだろうか。たとい冬が終ったにしても同じことである。空気のない兵隊のところには、季節がどうしてめぐってくることがあろう……。「真空管」のおおいを破るということ、のこっていることといえばただそれだけのことである。それ以外のあらゆることは、いかなることであろうと何らその真空管の内部に変化をもたらすなどということはない……。そう考えるときまた曾田の前に、つきすすみ、せまってくるのは木谷の顔、その存在だ。『上官に対する兵隊としてあるまじき言葉は、彼の所持せる私物の手帳のなかに、いたるところに発見され、木谷のいだいている考えが、まことに軍隊の神聖なる秩序を維持する上に於てこの上なく有害であると認められるのであります。』木谷は彼のすぐ眼の前までやってくる、その太い眉を彼のうち深くつき入れてくる。……ああ、あの木谷を一度でいいから、ここまで出してやりたい、二年来、一度もこの空気を知らないのだ……たとい木谷が兵営から出たとしても、やっぱりそこは兵営の真空管のなかだとは言ってもだ、……だしてやりたいのだ。あいつは、きっと、まっさきに花枝さんのいると考えている山海楼へとんで行きよるやろうな……。しかし花枝さんいうひとは、もうそこにはいやへんねんぜ……。曾田は兵営のなかにいる木谷に向ってよびかけた。しかしはたして木谷の兄は今度の約束の日に隊まででてくるだろうか。ぜひともその日は無理をしてでも、でてきてやってほしいのだが……。向うの通りを白い砂埃がかたまりになってかけて行った。……国道まででると曾田の行く手を装甲自動車の音と次々とたえまないほどにもつづいてやってくるキャタピラとがふさいだが、曾田はその中央のつきでた望楼のなかから立ち上って、身体をつき出している兵隊をみた。兵隊は大きな眼鏡を額の方にあげていたが、道の一方にならんでつったっている人たちの方に、なにかをさがすような眼を向けた。どこかをみているその顔は日にやけていた。しばらくすると、二、三台うしろの車のなかから、同じように兵隊が首をだして、人の列の方をみた。やはりどこかをみている。曾田は頭をふって靴のなかの冷たい足の痛みを取るために靴を舗道にうちつけて、それがとおりすぎるのを待った。
曾田が国道をすぎて南海電車の停車場に近づいたとき、彼はいつものように左右に気をくばりはじめる自分に気づいた。彼は左腕につけているうす汚れた公用の腕章に眼をやったが、この公用の腕章を利用して家へかえってくるという考えは、隊をでるときから彼のうちにあったのである。彼は家へ寄るかどうかをもう一度一寸考えたが、一時間の時間をかすめとって自分のものにするというのが、公用が兵隊にもたらす僅かばかりのおこぼれだ。律儀な兵隊としてこのままかえってしまってもそれでも同じことである。それはまたそれでそのまますんでしまう。曾田はいまではもう別にこのようなことで考えようとはしなかった。彼はやはり家へ行かなければならない。曾田は冷たい風のなかで気取ったように顔をふった。彼は一昨日は外出にはずれたのだ。それ故に今日はどうしても行かなければならないのである。ただはたして時子がいまこのような時間に彼の家にやってきているかどうか、それはわからないことであった。もちろんまた、たとい彼女がいつものように彼の家にたちよっていたとしても、彼が時子と向い合うことができるかどうかは、たしかなことではない。
曾田は住吉公園行きにのって、住吉公園でおりた。或いは途中で、巡察か憲兵にひっかかることを考えた。そのときにしゃべる言葉は用意している。ただ彼らにあとをつけられて自分が家のなかにはいっているときにふみこまれればおしまいだ。彼は木谷のことを考えて身をふるわせたが、やはりそのまますすんでいった。彼はわざとゆったりした歩調を取りながら自分の家の方へ歩いて行った。通りからはなれたこの古くさい植込みのある小さい石垣のついた家も以前外地からかえってきてはじめて眺めたときの眼を射るような姿はもうない。曾田は左右に気をくばって足をはやめた。彼は自分の左腕についている公用の腕章をすでに取りはずしていたが、それを収めた上衣の物入れが、いまでは彼の心をとらえている。彼は入口のところまできてまた左右に気をくばった。
四
以前軍隊にはいる前、勤めからかえってきて自分の家のうすぐらい昔風の玄関に近づくごとに、曾田は一日もはやくこの家がぶったおれてしまうことを望んだのである。その頃彼は日本の青年たちのもっとも大きい問題の一つである家ととりくんでいた。彼は保守的で変った事件を何よりもおそれる父がこの家にいる限り、自分の家のおもくるしい空気は変ることがなく、いつまでも古い匂いをただよわせていると考えていた。彼は無気力で、小さいことによく気のつく父がきらいだった。しかし彼が軍隊にはいってしまうや、彼がこれまで属していた社会に彼は属さなくなり、いまでは彼はこの家の一員ではなかった。彼はこの家にとっては外出日ごとにやってくる一種の来客のようなものだった。それ故に彼はもはやこの家のなかで起る如何なることもどうするということはできなかった。もちろん彼の父母たちも彼に対して何らの変化をあたえることはできないのである。彼の毎日の父親は中隊長であり、母親は班長で、彼らは彼に対して無限の力をもっていた。それ故に父親と曾田との間にあった対立は、いまではどこかとおくへもち去られてしまったということができるのである。
父親はこの曾田家に養子にきて、祖父がのこしておいた家作と少しばかりの土地をまもってきたのである。彼はその土地も家作もふやすなどということはなかった。新たな事業を起すためにそれを売り払うということもしなかった。しかし最近あらゆるところで人手が不足してきたので、彼のようなひろい展望もなく事務能力もない人間も、半年ほど前から求められて食料品関係の統制機関に席をおくことになっていた。もちろんこれは近所の人たちに説明するときの言葉だった。実際はあまりに急激にやってきた高物価のために、今までのままでいるわけにはいかなくなったというのが本当だった。そして母親が方々工作してその職をさがしてきた。しかもそれほど多くないその持家の半ばは今度の強制疎開でこぼってしまわなければならないことに決定していて、曾田の家も彼が軍隊に行っている間に、いよいよくずれはじめてきているといってよかった。
父の傾向をうけついだ兄も、曾田はすきではなかった。彼の兄は高等商業を出るや母親の知合いを通じて商事会社にはいって係長の位置にあったが、はやく学生時代にまなんだものをすて去ることができた。もちろん彼はまだ年齢の若いものにつきまとう社会に対する疑問や不安や小さな正義感をもってはいたが、それをたくみに処理することができたのである。彼は曾田を一応理解することはしたが、それだからといって別に父親たちのいうところを否定するのではなかった。しかしその兄もやがて応召して満州に渡って将校となったので曾田と兄との関係もいまでははるか彼方《かなた》のとおいところにあるといってよかった。
曾田にのこっているのは母親だけだった。もちろん活動的な彼女は曾田に満足しているはずはなかった。しかし彼女は一方学問をする曾田をすいていた。それは或いは女性の一種特別な虚栄心からきていたかもしれない。しかし彼女はいまではもはや曾田に対する望みをあきらめてしまったかもしれなかった。……いや兵隊である人間に一体何をのぞむということができるだろうか。……曾田は以前三カ月の教育訓練をうけてから外地に出発したとき、同じようにやせている母親のなかに自分に対するあらあらしいといえる愛がひそんでいたことを知っておどろいたのである。その日彼女は大阪駅まで彼の出発を見送りにきたが、そのまま次の列車にのって彼のあとを追うてきた。母親はそのときの模様を彼が外地から帰還して家にかえってきたときはなしたが、そのとき彼女はただ無我夢中でおされるようにして列車にとびのったのだ。彼女は彼が輸送船で宇品《うじな》港をはなれるときまで見送った。それはいまも曾田の胸につよくのこっている。それは二人の息子を自分のもとからうばい去られようとする母親の叫びであったろう。そのとき病気でねていた父親は自分に何の相談もなしに一週間もねたものをほうっておいて行くのだから、お母さんもあのときは一寸むちゃしてくれはったとよくその後も抗議した。もちろんその頃はまだ家に人手があったので家事の責任を母親が一日も手をはなさずもたなければならないというようなことはなかったわけである。
曾田の母親はいまではもう彼がかえってきてもそれほどめずらしい顔はしなくなっている。もちろんいろいろ工面《くめん》をして短い時間に、なにやかやと彼にたべさせてやろうと気をもみ、骨おしみをしないが、もう二年前に彼が軍隊にはいったころとはちがって、品物もほんとに手に入れにくくなってきていた。一年ばかり外地にでていて再び会うことができないかもしれないと思っていた子供にも会うことができるようになったのであるから、いちおうやすらかな気持を彼女は曾田についてもっているのだろう。それにいまは彼女は受け持たされる町内の防空や婦人会関係の仕事などの方がずっといそがしくなってきているのである。
曾田がこの家へかえってくるのは、この母親のところへ、飢えた胃袋をもってくるためである。いや、彼には他にも一人会わなければならない女がいる。それは時子である。曾田が時子と結婚することがなかったのは、彼の兄の結婚がおくれたことと、時子の病気が原因であったが、それよりも学生時代からつづいた彼の思想上の不安定な状態、それからくる心理的な動揺、そしてそれをうつす時子の感情的な動きもまたそれにかぞえることができたのである。また官吏の家にそだった時子は物事にたいしてきちんとした尺度をもたされていたが、その代りとしてひどく臆病であり、ここにも二人の結合をさまたげるものがあったといえるのだ。しかしこのような二人の関係を全く否定したのは、やはり軍隊だった。二人の関係はもはやいまの曾田には存在しない。これらの関係はいまでは二人の間に進行することなく、それは彼が入隊したときそのままの状態で停止しているといってもよかった。もっとも時子は前と同じように彼の家へ出入りしていたが、彼女は彼の見送りのとき、母親がひとりで彼のあとを追って行ったということをきいて、はげしい衝撃をうけたという。彼女も同じようにそこに行っていたのであるが、曾田の母親がいつの間にかいなくなったということを知って、びっくりした。がことはそれだけではすまなかったようだった。母親のその行動は時子と曾田との間をたち切るような要素をふくんでいたのだから。時子はそれによってひどい圧迫をうけ、圧倒されつくしたかのようだ。そして彼女はいまでは曾田の母親をどこかでおそれているのである。しかしもちろん時子と曾田との間をひきはなしてしまったのは決してこのようなことが原因ではなかった。……母親は曾田がすでに自分の手元にかえってきたものと考えているようだが、曾田は決してかえっているなどということはできなかった。彼は兵隊だった。
曾田が玄関にとびこんだとき、母親はちょうど婦人会の集まりがあって出ようとしているところであったが、すぐそのまま台所の方へひきかえして行った。するとそこに時子の声がしたので曾田は時子がきていることをたしかめることができた。
曾田が奥の間のこたつにもぐりこんだとき、餅をやきに行った母親はもう次々とやける餅をはこんでもってきたが、後の時子の方をふりかえった。
「ゆっくりでけますんですか、この間はかえってくるかとおもて、卵を方々へたのんでまってましたんやけど、とうとうかえってこずになあー。」
「その代り、もう何もなくなったわねえ――。」時子は母親の方へにっと笑ってみせたが、彼女が自分をはばかっているということが曾田にはじつにはっきりわかるのだった。曾田はいつも公用腕章をつけるところを右手でなでてみたが、「それならはよう、そこをしめない。」と母親は曾田の横をくぐるようにして玄関の戸に鍵《かぎ》をかけに行った。
母親は餅の皿をかえたり、生姜湯《しようがゆ》をつくったりするのにいそがしかったが、時子もそれについて動いていた。彼女はいつものように巻脚絆をまきにかかったが、中途でその巻き方がちがうことに気づくのだった。母親は防空訓練や在郷軍人会の接待などに引きだされて、どうにもことわりようがないのでよわるなどと前からいっていたが、その新しくつくったモンペ姿は彼女を活動的にみせて、曾田を困惑させた。しかし時子もまたモンペ姿だけは活動的だった。母親は今日もこれから婦人会の集まりに行かなければならないといっていたが、彼女の話では、近いうちに満州の兄が特別休暇をもらって内地にかえってこられるかもしれないということだった。休暇の方は或いは二十日間位の期日がもらえるようだと手紙ではきているけれど、お前の方もそんな休暇を出してもらうわけにはいかないのかと彼女は曾田にきいたが、兵隊の曾田にはそのようなことは考えられないことだった。久しぶりに兄にあえるかも知れない、もう会えないと思ったのはかなり前のことだ。しかしいま会うことができたとしてもそこには何の変化もないと曾田は思っていたので彼の心は動かなかった。それから母親は近くの市民館にこの間市役所の町内課長がきたときのことや、そのときこれからいよいよ戦争はひどくなるといわれ、いままでやってきた市民生活刷新運動ももう掛声だけではとてもやれんといわれたことなどを話した。
「いままでのは掛声でやってきたなんてそんなこと申して頂いてはこまりますいう声が谷口さんの奥さんあたりから出て、みんな笑うてしまわはったけどな。これからはぐんときびしいなるいうことでんな。原二《げんじ》さん、一体どないなります?」焼けた餅を時子に渡して再び台所の方にはいろうとしてしばらくつったったまま、自分を見下している母親を曾田はみた。母親は返事を待っていたが行ってしまった。曾田は時子にも話しかけなかった。もちろん彼は母親がかえってきたときも戦局については何も言うことができなかった。
「もう一年位、おすけ一等兵いうやつですごして、上等兵にでもしてもろて、それでかえしてくれたら、まあ、ましな方ですよ。……」
「お前の一等兵もながいこって、この頃はひとにきかれたとき、こまりますがな。……以前はこんなことちっともおもわずに、ただかえってきてくれたらええ、おもてたのに、それがもう上等兵になってられますやろか、とか、どこそこのだれは中尉さんになってはるとかいう挨拶をきくと、言葉にこまりますがな。」母親の輪かくがきついので強いようでいて、鼻筋がくずれているので弱々しい顔は一寸ユーモラスにおどけていたが、彼女はそのままの顔でずっとはいってきた。「この間もお父さんもいうてはったけど、いつまでも一等兵のままではあれもえらいやろういうて、つらがってはるのや。時ちゃんかて……昨日も、原二さんがいつまでも一等兵のままでいるのは……」
「いやよ、おばさん、その話したら、いやよ、ほんとにあたしこまるわ。」お茶をついでいた時子は突然土瓶《どびん》を手にしたまま膝をたてたが、彼女の狼狽《ろうばい》ぶりは一寸不思議な姿だった。しかしそれは無邪気というには少しばかりきつすぎたかもしれないので母親は時子の顔を見直していたが、時子の方は、きっとした頬を自分の方にむけたまま餅をほおばっている曾田の横顔をみた。曾田はそのような彼女を兵隊の顔と兵隊の冷たい坊主頭とでしりぞけた。
「上等兵いうのは、そう簡単になれるもんやないですよ……。その方は、はじめからあきらめてもらわないとこまるな。」しばらくして曾田は時子の方を放ったまま一寸わざとらしい言葉を言って腕時計をみたが、その左手をつきだして顔の方へもってくる動作はやはり兵隊の屈折のあるものだった。曾田は自分が兵隊であると言おうとしていた。母との関係も父との関係も時子との関係もいまでは以前とは全く別のものになっていることはもちろんのことである。しかしこの真空地帯におかれた自分を如何に説明するか、説明すればそれは泣言になってしまうだろう。
曾田は二階にある自分の部屋にあがって行った。本棚に多くの書物が彼を待っていた。一冊一冊が彼によびかけて、開けてもらいたがっているようだった。活字をみるたびに曾田は外地で古年兵たちが手にしている新聞を横眼でにらんでいるだけで、どうしてもそれをよむことのできない初年兵の苦しみをのみこまされたことを思い出された。しかしいま内地にかえってきて彼自身が古年兵になったが、以前はなしがたく彼にくっついていたすべての書物との間には、大きな距離があった。……彼はもうあと十分ほどすればこの家をでて行かなければならないのだ。そして再び左腕に公用腕章をつける。それからいかにもなんでもない、いまそこの将校の自宅へ洗濯物をとどけてきたという風をして帰って行く。ラッパが支配しているところへ。一丁四方の塀《へい》のなかだ。しかしそのなかへ行く前に時子とすましてしまわなければならない。それが是非とも必要である。そうでなければ、もじゃもじゃしたものが眼の前でもつれ合って、手のなかがぐじゃぐじゃしてきてねむられない。(地野上等兵の野郎めが。)どこかで兵隊が女をひっぱたいて、女のなかにごつい手をつき入れている。曾田は女のあげる細い悲鳴をもとめていた。彼の求めているのは欲望の遂行だけだろうか。そいつをやれば、たしかにその時、真空地帯の上に虹がかかる。彼はその虹の上をわたって地帯の外へでて行くのだ。どこか外へ、……とおいところへ、こえて行くのだ。曾田はここからどこか外へでて行かなければならない。ラッパの音のとどかないところへ……あそこへ……。曾田は土谷や広井など多くの兵隊たちのするように、まだ混み合った電車のなかで自分の前にたった女の股《また》のなかへ手をすべりこませて、「その女を泣かせてくる」ということができなかった。そのために彼はこうして時子のところにやってくるのだろうか。彼は手をだす。彼は手を出して時子をさぐる。それはそこにある。ああ、しかし彼の手はとどかない……、彼の手になにかつかえるものがある。それは網だ……そしてそれは金の網だ。だからもっと手をつきださなければ、とどきはしない……、もっとださなければ。彼は手をだす。動物園の網のなかから手をつきだしている猿のように手をだす。兵営のなかから兵営の外へ手をだそうとする。しかしそれは彼には不可能だ。餌物《えもの》は外側にある。それは餌物という言葉でよぶのがふさわしく、それは網の外側にある。猿はそれをとることができないので網のたかみにのぼって、ちょうど真中あたりのところで手足でしっかり網をにぎって奇声をはなってゆすぶるが、それを超えることのできない曾田には消燈ラッパが鳴る……。
ヘイタイサンハ、カーワイソウダネ
マタネテナクノカヨ
ヘイタイサンハ、カーワイソウダネ
マタネテナクノカヨ
曾田が求めているのはただ女だけなのだろうか。しかし例えば時子と同じものを遊女に求めることができるだろうかと考えると、やはりそのようなことはできはしない。彼のようなあまり遊びを求めることのなかった人間も、外地に一年ばかりいる間に、女との接触に対する反省はルーズになり、病気をおそれる心はなくなっていたので、このような比較も思いつけるのだが、彼はここで少しばかりわからなくなる。しかし兵隊である限りは、こうなのであると彼は思うのだ。
やがて玄関の戸があく音がする。母親がでて行ったようだ。するとしばらくして時子が階下からあがってきたが、部屋の真中につったって本をみあげている曾田をみて、感じ取るのだろう。一寸声をつまらせて近づいてきた。「ほんをみてたの? よみたいでしょうね。」少し眼が近いせいもあるが彼女の顔は眼の辺りがへんであった。彼女は顔をさけるわけではなかったが、そこには体全体をさけるけはいがあった。彼女の手は動かなかった。曾田は彼女が自分にたいして言いたいものをもっているのを感じるのだが、彼はそれをきいている余裕をもたなかった。彼はかまわずつかつかとすすんで両手で彼女のつき出た肩をおさえた。以前は彼女は母親に気をくばって身を引いたが、いまは何もいわず、くらいような抗議する眼で彼をみた。彼女は体をかたくして一寸自分自身に抵抗したが、半ば兵隊に奉仕する感じもあった。また熱がでているのだろう、こめかみのところが汗がたまっているようにぬれていて、そこが白粉《おしろい》がとくに濃いようにみえた。
時子は野戦からかえってきた曾田をどういう風に取り扱っていいのかわからないでいるのだ。彼女は曾田がわからないのだろう。彼女は自分の前にいるものがいままでの曾田とちがうということに気づいて、ときどきぎょっとして身を引くようにする。……この頃の曾田は全くぞんざいになった、ひとのことを少しもかまわない、とくにひとの心をかまわない。持っていた神経をやすりですりおとしたかのようだ。彼女のことは全く一ミリメートルさえ考えることがないのかもしれない、わがまま勝手な……いやわがまま勝手という点はそれは以前から曾田の持物の一つであるが、しかしいま曾田はわがまま勝手ともいうことのできないような勢をもって彼女のところにかけつけてきて、彼女をおさえてむしりとって行ってしまうかのようだ。愛などというものはそこにはない。そのようなものはもちろんなくなってしまった。しかしこれも戦場で彼女の知らない多くのことを経験してきたからであろうかという風に時子は考えているようだ。曾田にもそれはわかっているのだ。彼はわけもわからぬ道にふみまよったように、とおくかすかにみえるものを眺めているような眼つきで自分をみる時子のことを知っているが、如何に話してみても兵隊というものを女は理解することができないので、時子も理解してくれないと思うのだ。しかしもしも彼がこの時子に真正面から問いつめられたら、彼はいくら自分のうち深く、さらにまた肉の深みまで入りこんでくるものがあっても、その人間が兵隊のなか深くはいりきることはできないと言ったろう。
曾田はただ時間に追われてしきりにもう自分は行かなければならないということばかり考えていた。彼が力を入れて時子をあつかったので、彼女の上衣は胸のところで一寸《ちよつと》裂けた。しかし彼の眼界は次第に黄色くなってきた。彼は時子の足を荒々しくあつかいながらしきりに網の上にかけ上って、両手で網をゆすぶろうとする。彼は彼の肉体の一部をその網のあなからつき出しているのだ。
しばらくしてしずかになったとき時子は今日も自分のうちにもっているものを出すことなく、ひっこめてしまっていた。彼女は天井を眺めたまま口をひらいたが、自分の体のことについて話す言葉にはあまり力がなかった。しかし曾田はもう別のことを考えていたので答えなかった。
「あたしね、また熱をだしてしまったの。熱がでてくれた方が、工場の動員の方はやすめるんやけど、せっかく一生懸命して仕事をおぼえたとこなのに、おしいわ。」
彼女の動員先は化学工業の本社事務所の方だったので欠勤はまだそれほどやかましく追求されることがなかったようである。曾田も彼女の動員先のことはかなりくわしくきいて知っていたが、彼もそれが工場の動員でないことを、残念がってはいるのである。工場の動員であるならば、きっとそれは労働者のいろんなくるしみにもふれることになるだろうし、時子は多くのことを学ぶことができるだろうと考えて、できれば工場の方に廻してもらうように勤労主任辺りに話してみてはどうかと曾田は言ったこともある。時子もそれを承知したが、曾田の考えはやはり勤労動員体制を知らないものの考えであってその実現は困難だった。また時子の体もその仕事にたえることができるかどうかは疑問である。しかし曾田はいまでは自分の考えていることを時子に話すことはできなかった。彼はちゅう躇《ちよ》したが、彼の前に木谷があらわれて以来、彼の軍隊に対する考えは次第にはっきりした一定の形をとりはじめてきたし、それとともにいままであまり感じることのなかった恐怖と不安とが、まるで突然天からまいおりてくるような鳥のように、ひょいと彼のうちにやってくることがあったからである。
曾田はだまって兵隊服を始末していたが、彼の心のうちには先刻たずねて行った木谷の家のことと隊に外出をまちこがれて工作している木谷のことがあった。彼は木谷のことを時子に話そうかどうかと考えたが、結局話さないことにしようと思った。
「さあ、また、かえらんならんな。」曾田は軍袴《ぐんこ》の物入れのなかをごそごそしていたが、でてきたものは、煙草のくずであった。それで時子ははじめて笑った。
「ほんとにお気の毒ねえ――、あたしでかわってあげられるものなら、かわってあげるんだけどもなあ――、それはできないわね。」
曾田は何故《な ぜ》かぎくっとしたが、よく考えてみるとそれはあまりにも安易な言葉ではないか。
「そんなことができるもんか。」曾田のおこった声で時子はだまったまま大きく眼をひらいていたが、何もいわずにまもなくとじた。時子がものを言わなくなってしまったので、曾田は話すまいと考えていた木谷のことを少し話すようなことになった。彼はこの間から班に陸軍刑務所から、仮釈放でかえっている兵隊がいること、今日はその兵隊の兄の家に行っての帰りであること、巡察将校の金入れを取って刑を受けているのだが、決して悪い人間ではないことなどを話した。彼はそれとともに軍隊ではすべての人間が盗みをするということ、軍隊では自分の支給された品物、例えば洗濯バケや兵器手入具などを失えば、他の兵隊のを取ってきて、その員数《いんずう》をそろえておかなければならないという話を時子に思い出させたが、木谷の話は時子には少しばかり刺戟《しげき》がつよすぎたようだった。彼女はしきりに木谷のことを次々とききたがったが、今度は曾田の方がその話を時子にしたことを後悔した。彼はなんとかしてはやく木谷が外出できるようになればいいと思っていると言ったが、それには時子もうなずいていたが、彼女の顔は不安をあらわしていた。曾田はいよいよ時間もきたので、かえるよと言って先刻、時子が、母親が話そうとすると「話しちゃいや。」と言っていたことは何だときいた。が時子は顔をふって何も言おうとしなかった。彼女はおき上ろうともせず、体をまげて、足の先をつまんだ。彼は彼女が以前彼のことを「体がほそくてのっぽのくせに、気転がきかず、動作はその神経よりもかんまんである。」と批評した言葉を思い出させようとした。「で、いつまでたっても上等兵になれない?」
時子はわらったが、その辺りだと思うわといっておいて、しばらくしてから「原二さんがね、いつまでも一等兵でいるのは、いままで家でなんでもひとにさせてきたから、軍隊にはいって、いろんなことを自分でしなければいけないでしょう、それがきっとやりにくくて、おくれるのよ。」といっていたのだといった。「でもね、ほんとはそうじゃないんでしょう。なんかあるんでしょう……あたしそれ考えるとこわいわ。……何かあんたが軍隊で考えてることがあっても、そんなこときっと、実現なんかでけへんわ……」
時子は少し気が動顛《どうてん》してしまっているかのようだった。彼女の母親からも何かいわれるのだろう、彼女はかなり前に、この頃は、いろんなことがわからなくなってきた、自分でも整理しきれなくなってきた、しかしもうあまり考えないようにしようときめたとひとり言のように言っていたが、いよいよそういう風に実行しているかのようである。しかし曾田には彼女に話すべきことを考える時間がいつもなかった。曾田は階下へおりて巻脚絆《まききやはん》をつけた。彼の足は軽くはなかった。
曾田が隊についたのはすでに四時をすぎていて、うすぐらい空の空気のなかへ部隊のあの殺風景な、陰うつな木造の建物が、その輪郭をけそうとしているころであった。事務室にはまだ電気がきていなかった。
「准尉殿、曾田、只今、公用よりかえりました。」曾田は真中で大きくかまえている准尉のところにすすんで行った。
「おお、ごくろう。」准尉は言った。准尉は彼の顔をちらとみた。彼も准尉の顔をちらとみた。曾田は木谷の兄がくることができなかったのは、会社の休暇ができなかったためであって、今度の二十×日には会社の休暇がとれれば面会にくるとの報告をした。彼は木谷の兄が准尉さんによろしくつたえてほしいと言った言葉をつけ加えた。
「そうか、会社とはどういうんかな。」
「いえ、ずっと前から造船所にはいっているのであります。」
「そうか、よろしい、御苦労やった。あとできかしてくれ。近海上等兵にいうといたけど、曾田、野戦行きがきたぞ……またいそがしなるぞ、お前もこれを一寸読んで研究しといてくれ。俺はかえるぜ。ども、仕事になりまへんわいな。」
曾田が野戦行きの言葉におびえて、部隊本部からきた通達を受け取ってみると、それは独立歩兵部隊要員編成の内容のものであった。中隊から兵十五名、を出さなければならないのである。今夜はきっと中隊内は大さわぎをおこすことだろう。
「准尉殿、准尉殿、おかえりですか……お仕事がどうもはか行かへんようでんな……。なあ隊長殿も一体どういう気持やろな。准尉殿にたいして、あないなやり方をして、あたしも、今日まで曹長になるまで、いろいろな隊長につかえさしてもろてきましたけど、こんどのような隊長殿ははじめてですぜ。」曹長が椅子から立ち上って言った。
「いにまっさ。」准尉は言った。「なんにもかにも仕事になりまへんわ。こう一つ一つ仕事がつかえてたんではな。勝手にやってもらいます外ないわ。下士官の外泊も今度が最後やろな……」
「外泊もいかんいうてでんのですか。」
「そやが。」
「なんでまた、隊長殿はそんなこと考えてでしたんやろな。」
「わからんな。」
「下士官の外泊をとめて、どないして中隊をやっていくのやろ。それこそあてちがいでっせ。外泊だけをたよりに生きてきてんねんよってにな。」
「まあな、わかりまへんわ。」准尉は同じ調子でくりかえした。「わしも、あしたから、銃剣術にでるぜ――、一日銃剣術やってられたら、のん気なもんやぜ。」
曾田は隊長と准尉との間の対立がいよいよけわしいところにはいってきたことを知って、何かを期待した。彼は小室一等兵が向うから眼をとじて合図しているのをみた。行ってみると「だれやろな……野戦行きは、補充兵やろか、現役やろか……そら補充兵でっしゃろな……」というのである。
五
野戦行きの話はすぐにも大きくひろがっていた。それは事務室人事係助手や経理室要員、部隊本部要員、電話交換兵、炊事使役兵、その他衛生兵関係から出た。各勤務兵は自分の場所で得ることのできたニュースを勤務からかえって班内に着くやしゃべったので、それはただちに中隊じゅうにひろがった。野戦行きのニュースはいつもよく満期・召集解除のデマがとんだあとによくでてきて、兵隊たちの浮きたった心に冷水をあびせかけた。先月も召集解除のデマが一時流れたことがあった。曾田は毎日事務室から班内へそのニュースをもってはこんだが、ついに召集解除の動きは立ちぎえになり、そのあとへ、野戦への転属者を三人よこせという命令がきたことがある。三人の兵隊は召集解除と満期を待つような身でありながら、改めて野戦装具一切をもらいうけて出発して行ったが、今度の野戦行きの話はあまりにも突然のことであり、人員もまた多かったので、その打撃は大きかった。……兵隊たちの眼にはその先月出発した三人の一等兵の観念したような表情がのこっていた。うち二人は二泊三日の外出、一人は一泊二日の外出をもらい、その翌日はもう輸送司令官の指揮下にはいって大阪駅へたって行った。彼らはすでに一度野戦へ行ってようやくかえってきたものたちだけに、再び野戦に行くならばもはや生きることはできないと考えていた。それに彼らの行先は一人一人別々で、一人一人が全く未知の野戦部隊にのりこんで行くのだからその出発はまことにさびしいものであった。なぐさめる言葉はもちろんない。本人もまた元気をなくして、行きがけの駄賃というわけで初年兵に総バッチをくらわせるということもなかった。彼らが行ってしまうと相変らず留守部隊業務はつづけられ、病院からの退院兵と野戦部隊からかえってくる還送患者で隊の人員は日々増加して行ったが、そのときの印象は深く兵隊たちの心にきざみこまれたらしく、満期の話がでると皆は用心して、その兵隊たちのことを話題にだして、「めもあてられん。」といいだした。
曾田はすでに何回か事務室と班との間を行ったりきたりしていた。彼は班へかえってくるとすぐさま古い兵隊たちにとりまかれて、野戦行きはだれや、補充兵か現役かと問いつめられた。曾田は自分にはわからないと答えたが、もちろんそのようなことで皆のものが承知するはずはなかった。古い兵隊たちは彼をつかんではなさなかった。彼らはいつものように彼をストーブのところにつれて行ってもっとも暖かい場所を彼にあたえようとした。彼はただ自分の知っていること、通達の内容を簡単にはなしてやった。兵隊十五名が独立歩兵××部隊要員として編成されるということ、その編成のくわしい方法は明日か明後日部隊本部から通達としてくるはずになっていることをきいて古い兵隊たちは動揺した。彼らはそれをきくまでは、今度の野戦行きもきっと、初年兵か補充兵かが中心であると予想していたらしかった。しかし考えてみると或いは補充兵だけの編成ではなく、古年兵もそこにはいるのではないかという疑いが生れてくるのだ。すると彼らのもっとも知りたいところは、やはりその編成のなかに誰がはいるかということであり、また何年兵がそれにあたるかということであった。そのようなことは准尉さんがきめることで自分には全然わからない、またわかるはずはないではないかと曾田は言ったが、それで兵隊たちの動揺がしずまるものではなく、かえってそれによって動揺ははげしくなって行った。曾田は先刻から木谷をさがして今日その兄の家をたずねたことを話そうと考えていた。彼は今度二十×日には兄さんが面会にこられる、それ故にきっと近いうちには彼も外出することができるようになるだろうということを一刻もはやく知らせてやろうと、班内をみまわしていたが、木谷はどこへ行ったものかその姿がなかった。そのうちに三年兵と二年兵たちは彼を動けないほどとりかこみ、その両手を取り、両肩をとらえ、後から背をおした。
何時《い つ》でも野戦行きの噂《うわさ》がでるともっとも胆《きも》をひやすのは補充兵と成績不良と目され自分でもそれをみとめている古い兵隊たちであったが、今も補充兵たちは食事準備のために薬罐《やかん》や飯杓子《めしじやくし》や汁杓子やなどを手にさげたまま、寝台のところにかたまって首をよせあつめて、小声で話し合っていた。彼らは野戦行きの噂がでるとやはり普段から何よりも関心をもっているので、誰よりもはやくその情報をどこからか入手してきていた。彼らはすでに三十をこえている妻帯者が多かったが、いつも目だった役もあたえられることなくおさえつけられていて、ただ転属のときだけに主役の役目をひきうけるのだ。彼らも曾田のところにやってきて、何かニュースを得たいので、しきりに彼の方を見守っていたが、彼の周囲には古い兵隊たちがかたまっているので、そばへやってくることはできなかった。
曾田は「そらまだどの兵隊が行くかわからへんけど、そらやっぱり補充兵が中心で、そこい古い兵隊がどれだけまじるか、それでなんにもかもが変ってくると考えてたら、大体あたってるんやないかな。」というぼんやりした口調で皆に言った。「そやろ、その古いもんがどないなるかが問題やがな……。いまさらな、……満期満期いうて満期待ってる身がな、野戦行きにまわされてみい、眼もあてられへんがな……」と三年兵たちは言った。「それがどだい、いややがな……」
「ちくしょうめ、あの准尉のがき、この俺を野戦行きに入れやがってみい、前の晩、事務室にのりこんで、あのちっちゃいうめぼし頭、かちまわしてやんど。」橋本三年兵は曾田の顔をにらむようにして言ったが、顎《あご》をつきだして歯をむきだし、いいいをして舌をだした。
「おい、やっぱり、あれきめるのんは、准尉さんやろな……そやろ、曾田よ。」土谷三年兵は転属のあるごとに曾田に自分がはいっているかいないかをききにくるのだ。
「そうやな、准尉さんやな。」曾田は言った。
「じっ、じ……っさいな、生きるも殺すも、准尉さんのままになりやがるか……」土谷三年兵は言った。
「なにを、そんなことにああや、こうや心配せんならんねんね、なあ、曾田よ――、満期やないかな――、おれらは、もうじき満期やろ……そうだっしゃろがな……満期だっしゃろがな……」用水兵長は寝台の上で通信紙をひろげて、何か書いていたが、口をだした。
「用水よ、お前のその強気にだけは、まいるぜ、なあ――、用水……それやないと、軍隊じゃあ、兵長にはなれんわなあ――」土谷三年兵は言った。
「あたり前やないか、満期やさかい満期やないか……こないしてやな、俺みたいに、野戦行きは必ずのがれてやな、それで兵長になって、満期して、満期みやげに伍長もろてかえってくるのが、ほんまのうまい兵隊やないか――、なあ、曾田。曾田みたいに大学でて、野戦へやられて、かえってきて事務所で毎日こきつかわれてやな、それでもまだ一等兵でいる、これもまた軍隊や。しかしやな、同じ兵隊になるなら、俺みたいにやらんとあかんで、なあ、曾田、そやろ。」
「そら、そうですね。」曾田は言った。
「そら、お前は心配ないわな……お前はその強気でいたって心配ないわいな。」土谷三年兵は言った。「こっちらお前とちがうがな。」
「何がちがうねん、おんなじやないか、同じ日に同じ衛門からはいってきて、おんなじこの班に入れられたんやないか……なにがちがうねん、この俺が満期になるんやったら、そらお前らかておんなじこっちゃ。そらお前らがおすけで、月給がおれとちがうのは、こら、仕方あらへんわ、この頭のええわるいは生れつきや、かえられへんわ。しかしやな、満期はやな、生れつきで変るようなもんやあらへん。曾田よ、そやろな。」
「まあ、それは半分位そうですね。」
「半分位、そうか、全部そやいうたりいな、満期あかんか、満期。」用水兵長の言葉はすでに下士官的だ。
「満期まってるのは、こっちですぜ。」曾田は言った。「補充兵で、一寸三カ月教育召集にこいいうて、とられて、三カ月たって一ぺんかえれるいうて待ってたら、召集解除の三日前に、解除変更、野戦行きでそのままきてるんですぜ……おまけに野戦では初年兵の二等兵でやな、……一日ねる時間は四時間や……そら、かえしたらんとかわいそうやがな……」
「そやな、お前らは、ほんまに、そんなまんにまわってるがな……」用水兵長は言った。
「おい曾田よ、ほんま、いうたりいな……。野戦行き、だれやいうたりいな。」
「かくさんでもええやないか……」
「みずくさいがな……かくすのは……」
「補充兵とそれから、二年兵だっか……三年兵だっか……」
「おまんこ、世話するぜ。いきのええおまんこ……」
「いうたってもよろしおまへんやないか……」
「曾田よ、それに外出がないようなるいうのほんまか、野戦行きでそれが外部にもれたらいかへんよって、今度の日曜には外出がのうなるいう話やけど……」
「なんで外出のうなんねん、南方行きとちがうぜ、独立歩兵やったら中支やろ……中支行きがどないして外出とめんならんねん。」
曾田はそれらに適当にこたえておいてまた階下におりて行ったが、そこでも木谷をみつけることはできなかった。そして彼は石廊下のところで補充兵たちにとりかこまれた。彼らはすでに野戦行きのニュースで全くおびえてしまい、元気をうしなっていたが、なおなにかにたよろうとするように曾田にすがりつきにきた。彼らはみな体の小さい、胸はばのせまい、或いはまた眼球に傷があって照準に差し支えるような兵隊だった。やせてすじばり、その上に大きなだぶだぶの汚い略衣をきているので、ぶかっこうで寒そうで哀れだった。
「三年兵殿。」と最初に寄ってきたのは体の小さな、切り立ったような頭をした、顔のうすい眼のとびでた東出《ひがしで》一等兵だった。彼はよびかけておいて曾田の顔をみながら、これは大丈夫だとわかると仲間たちをまねきよせた。「三年兵殿、野戦行きあるいうてまっしゃろな……あれには補充兵が行くことにきまってまんねんやろ。」
石廊下に食事準備のためにあつまっていた補充兵たちはよってきた。彼らもあたりをはばかって小さい声でささやいた。
「三年兵殿、どないなりまんねんやろ、なあ、補充兵はどないに? 行きまんのんやろか、補充兵はみんな行きまんのんか。」
「いや――、そらね、まだわかってないな。いつもやったら、何年徴集の何兵を何名だせという風に通達がくるのに、今度はそれがまだきてないからね。」曾田は言っておいて、木谷一等兵をどこかでみかけなかったかときいた。
「木谷はんだすか? あのこないだかえってきやはった? あの方やったら、砲廠《ほうしよう》か厩《うまや》にいてはるのとちがいまっか? さっきあっちの方へあるいて行かはるのをみましたけど。」東出一等兵は黒い皮のはったような指で便所の方をさした。あすこに行っているのであろうかと曾田はポプラの樹のところを思い浮かべたが、そこへすぐ行ってみるわけにもいかなかった。そこへでかけて行って、もしもそこで木谷にばったりであったりすればどうするのだ。しかし一方そこへかけつけてみたいという欲望はかなりはげしいものがあった。
「三年兵殿、そやかてな、さっき炊事の使役に行ってるもんがかえってきて、今度の野戦行きは補充兵が中心で、そこへ古年次兵殿が二人ずつついて行くのんやいうてますんやけどな。」東出一等兵はしわがれた声で言った。彼は以前日雇大工をやっていたので補充兵のなかでは作業の面で頭角をあらわして便利がられていたが、もうそれほど力のあまっているという体でもなく、その日焼けした額には幾筋もの皺《しわ》があった。曾田はその相手がまじまじとみつめる眼に消しとってやることのできない不安をみつけて、それをじっとうけとめることができなかった。「俺はきいてないな。そんな通達はまだ正式にはどこにもでてないぜ。」彼は言った。
「そうでっしゃろか……。そやけどな、炊事の使役に行ってるもんが、いうてるのは……」東出一等兵は横のものに同意をもとめるためにふりむいた。
「そら知らんぜ、炊事の使役に行ってるもんがいくらいうたかて、そらわからんな。」曾田は言った。或いはそういうているのがほんとうなのかも知れなかった。食糧調達の関係でいつも炊事にはどこよりもはやく部隊情報がはいってくるのだ。しかしいま曾田のまわりにあつまってきている補充兵たちは、みなそのきいてきた悪いニュースを否定してもらおうと曾田にもとめて、ささやき合っているのだ。
「そうでっかな……三年兵殿、まだわからしまへんのでっか。へえ、まだきまったわけやおまへんのでっか。」東出一等兵は納得がいかないながらも、ようやく言ってそばをはなれた。「おいどいたれや……バケツがへしゃげるがな。」彼は筋のはった手の甲を上衣でこすりながら、仲間たちにささやいた。
「まだ、きまったわけやないいうてはるがな、三年兵殿が、事務室でしらべてはってな、まだきまったわけやないて。」左の瞼《まぶた》の上に傷のある佐野一等兵も言って、それを皆につたえに、人々をわけて行った。
「まだきまったわけやないいうてはるぜ。」ならんでいた兵隊の一人が言った。しかし誰もそれで心を安めているものなどはいない。
「なあ、いま、このまま、野戦へやられてしもたりしたらなあ、どないなるこっちゃ、家もくそも……なあ。」
「そんな、軍隊がなにおもてくれるかい……」石廊下のくらい隅で誰かがしゃべっているように曾田の耳にきこえた。
「家も整理もせんとでてきてんねんもんな。」
「おい、だれか、帽子と営内靴《えいないか》かしてくれよ……一寸、便所へ行くよって……」曾田は声を大きくして言った。とにかく今度野戦にでたならば、二、三年はかくごしていなければならない……それにもはや内地にかえれるかどうかもわからない、多分死んでかえるのほかないだろう……。彼自身がこのような身にならないとはいえないのである。しかし東出一等兵のしわがれた、ふるえているような声は彼の身にせまった。
曾田は補充兵がもっていたごそごその営内靴と帽子をかりて、皆の声をふり切るようにして便所へ行き、窓のところから向うのポプラの樹の辺りをじっとのぞいたが、そこには全く人影はなかった。すでに日はくれていた。いままでストーブにあたっていた体をくらい便所のなかでじっとさせていると次第に身ぶるいがではじめた。寒い夜があたり一面をおおっていて、窓の向うはずっと見とおしがきかなかったが、曾田はなおもしばらく眼をすまして何かそこに動く人影はないかとみつめた。しかしついにそこに彼が期待したものはみとめることができなかった。曾田は思いきって便所を後へぬけて、ポプラの樹の方へ近づいて行った。彼の心はもうきまっていた。もしもその近くに木谷がかくれていて、曾田が近づいて行ったときそのかくれ場所から突然身をあらわした木谷をもはやさけることができなくなったとしても、もう話はできると曾田は考えていた。彼はもちろん木谷を罪人などとしてあつかう心は少しももってはいなかった。しかし実際に彼がその葉をすっかり落してしまったポプラの樹の下にたったとき、射てき台の向う側のどこかにかくれているかもしれない木谷が、自分の背後にまわって足音をしのばせて近づいてくるような気がして後をふりかえった。曾田は黒い夜の中に黒い色をしてつったっているポプラの樹を下から見上げたが、突然冷たい風が彼の鼻の先をひやし、彼の眼はいたんだ。雨になるのか、全く星のない空は、いつもはいろんな街の燈火をうつしてあかくみえるのに、今夜はくろく動きさえみせないようだ。曾田は一番端の木のある高みでこぶのように根元がつき出てのびている枝をじっとみつめていたが、ふと思いついてそこにしゃがみ、木の根のところに眼を近づけて調べてみた。しかしところどころ掘りかえしたと思えるような跡がのこっているだけで、そこに指をつっこんでみても、思ったよりも固く、土がこごっていて、とても指などでふれることができるものではなかった。しかもこの掘り返したような跡は二、三カ所ではなく、しらべてみるとカムフラージュのためか、その辺りに幾つか同じようなものがつくられているようにも思えたし、それはまたただそう思ってみるからそうみえるにすぎないのかも知れなかった。曾田は木谷がこんなところにはたして何をかくしているのだろうか、それとも隠していたのではないとすれば、一体何をしようとしていたのだろうか、と先日来持っている疑問を解こうと、しばらくそこで考えていたが彼の営内靴にはいっている足の指は次第に冷えて痛んでくるし、辺り一帯はくらくてどの辺りに掘りあとがあるのか見当もつけにくく、それに、いつまでもこのようなところに坐っていては、いつ巡察の将校にみつけられないとも限らないので、彼はついにこれ以上そこにとどまっていることを断念した。しかし彼はここへ来てみて木谷がこの場所を何かのためにえらんだということについて、そのよくはたらく巧智に改めて感心しないわけにはいかなかった。曾田が立ち上って南の方をみると、前方の植込みのうしろの暗い光をともした便所よりははるか左手の、やはり同じように暗い光のついている洗面所の上に、自分たちの中隊の黒い建物がたっているのがみえた。そして木谷がいつもそこにたってこちらの方を見下していたあの班の東のはしの窓の燈がみえた。曾田はじっとその窓に眼をそそいだが、その窓のところに誰かのいまもつったってこちらをみつめている瞳《ひとみ》があるような気がして、眼をはなすことができなくなった。彼がふりむくとそこは射てき台の土砂をうける高い板がこいだ。曾田は班内へかえろうかどうしようかと考えたが、とにかく砲廠へ行ってみることにして、そこから洗面所の東側の方にある砲廠まであるいて行ったが、そこには初年兵と地野上等兵が砲手入れをしているきりで木谷の姿はなかった。
「ごくろう、さんです。ごくろうさんです、ごくろうさんです。」曾田がはいって行くと、初年兵たちは口々に言った。
「ごくろうさん。」曾田は言った。
「何がごくろうさんじゃい。」言ったのは地野上等兵だった。彼はだだっ広い砲廠の入口の戸を取りはずし、そこに小さい机のような砲手入台を出して、砲の鎖扉《さひ》(たまをこめる部分)を砲身から取りはずして手入れをしている初年兵たちの後から顔をつきだした。くらい電燈はちょうどその手入台の上の梁《はり》に引っかけてあった。曾田はそしらぬ顔をした。彼は初年兵の一人をつかまえて木谷の姿をみないかときいたが、知らないという答えだった。
「返答がでけんのかい……。えっ、……三年兵にはあほらしいて返事がでけんのかい。」地野上等兵は、初年兵がさむそうに手に息をふきかけては、手入台にかがみこんで、引鉄《ひきてつ》をみがいているのをのぞきこんでいたが、また首をあげてにらむようにした。曾田はだまって去ろうとしたが、安西二等兵につかまえられた。
「ごくろうさんです、曾田三年兵殿、ごくろうさんです。……三年兵殿。」彼は手入台のところからでてきて身をすりよせるように身をよせて小声でささやき、曾田を砲廠の奥の方へつれて行った。「曾田三年兵殿……この間は、自分、外出のとき、五分前にかえってきて、三年兵殿に非常な心配おかけして、わるかったであります。どうかお許し下さい。……今後は絶対に気をつけて、二度とこんなことが起らないようにいたしますです……」
「そら、注意せんとあかんぜ……はよ行け、また地野上等兵にやられるぞ……」曾田は言った。
「はあ、三年兵殿、おたずねしよう思うていましたんですが、それが三年兵殿はいつも班内におられませんので、いつおたずねしてよいかわからず、気になっておりますんですが……自分の処分は、もう決定しましたでしょうか……自分は今度の外出は禁止だということですが、ほんとうでしょうか。」
「外出禁止、だれがそんなこというている?」
「ほかのもんです。」
「ほかのもん? 誰や?」
「佐藤や田川や、みないうてますです。」安西二等兵の声はもう泣き声だった。
「そんな処分などまだ何もきまってないよ。……また、処分なんかないぜ。おいそんな泣き声だすなよ。おい、しっかりしてくれよ。」
「はあ――、三年兵殿、ありがとうございます。」
するとこのとき、地野上等兵の声が向うからとんできた。「おい――、安西。貴様、どこいいっとるか、貴様、そこで何しとるか。おい、砲手入れおしえてもらうんやったらやな、曾田三年兵殿に、こっちへきておしえてもらえ。」それから地野上等兵は曾田に向って言った。「おい、曾田よ、砲手入れやったら、こっちいきて、おしえたってや、なあ――、そら、俺の場所あけるがな。」
「はいっ、上等兵殿、はいっ……」安西二等兵は一瞬頭をたれてたちすくんだ。が彼は次の瞬間、かぶと虫のように、頭を左右にふって自分の姿をかくすために仲間のところにはいりこんだ。曾田は安西のその姿をじっとみていることができなかった。
地野上等兵はじっと曾田の方をみて意地悪い口調で言った。「曾田三年兵殿、さあ、ひとつ、ここへきて、初年兵に砲手入れをおしえてやってやな。」彼は自分の場所をあけた。初年兵たちはしんとして頭をうつむけたまま、油布をにぎった手をただうごかした。
曾田は砲廠の奥にひとりのこされて、地野上等兵がせまってくる空気を感じとった。彼のすぐ左側には、床に仕切りがあって七五ミリの口径をもった連隊砲の草色の塗料のところどころはげおちた太い砲身が、油をじっくりふくんで斜めに天井を向いてしずまっていた。その砲身を支えている両側の幅の広い車輪はいま初年兵の手で泥をおとされ、その上を油布でぬぐわれたばかりなのだろう、くら闇のなかで白く重く光っていた。その砲の前にはさらに同じ砲が一門。しかもこの方は砲身がはずされて、砲身を受ける赤黒い長細い箱のような揺架《ようが》が砲身のある場所のところに重く長くのびていた。曾田はそこにたって、向うの地野上等兵が動くのをみた。取りはずした砲身は砲手入台の右側のところに木をくりぬいてつくってある砲身受《ほうしんうけ》の上によこたえてあった。地野はその砲身の先の砲口のところに右手をおいて、じっとこっちをみつめているようだった。曾田はすぐ隣の仕切りのなかの細くつきでた長く鋭い砲身とその砲身にくらべては大きすぎる防楯《ぼうじゆん》をもった速射砲とさらに右手の方にある小さく太った狸《たぬき》のような大隊砲が、同じようにくらやみのなかにしずまっているのを、一寸すかすように眺めた。しかしとにかくもう今夜はぶつかるところまできたようである。これをさけることは困難だろう。正面からぶつかる他にはない。もちろん腕力ではかなうはずはない。相手は体力では中隊でもっともすぐれているし、十八貫の砲身を肩にのせてかけ足で十歩あるく男である。地野上等兵はもと地方では左官の手伝業に徒弟としてはいっていた。彼は曾田よりも半年以上も古い兵隊であり、上等兵で初年兵係でその上もっとも苦しいことには彼は曾田が初年兵のとき、班の整頓を受け持っていて、しばしば曾田をしばき上げて内務教育をした男であった。曾田は決して彼が悪人であるとは思わなかったが、彼は徒弟制度と軍隊制度が生んだ一つの典型的な人間だった。曾田の初年兵時代に彼をめがけてねらいうちした地野上等兵の執拗《しつよう》な仕打ちには、いまもはらわたがもえ上るものがあった。曾田は前に野戦行きがきまって出発したとき、この地野からはなれることができるというのが、一つのなぐさめだったが、その後野戦からかえってきたとき、地野が上等兵になってまだ部隊にいるときいたとき、恐怖と怒りとが同時にわき上ってくるのを感じたのである。
曾田は決心してそのまま地野上等兵のいる方へ営内靴をぼそぼそといわせてゆっくりと歩いて行った。
「おい、曾田よ――、こっちいきて、初年兵におしえたってくれや、のう。おい、お前がそばからいうてくれりゃ、わしのような初年兵係はいらんて。」地野上等兵はまちかまえていて言った。
曾田は相手にかまわず言った。「砲手入れなんて、俺あ、もう忘れてしもたなあ。砲口、薬室、鎖扉……螺体《らたい》やったかしら……。事務室にいて字ばっかりかかされてると、だんだん役にたたん兵隊になってしもて、教練、砲手入れのようなもんには、むかんようになってしまうなあ。」
「ふん。大学生が大学生の兵隊をおしえりゃ、よう教育ができようて、のう、曾田。砲手入れ忘れたなんてぬかして、何が貴様が忘れとるか。よう砲手入れをみさげてくれるわな。」地野上等兵はぐっと首をちぢめて、近よってきたので曾田は相手が右手を動かしたとき、その手がとんでくると思ったが、それはとんでこなかった。上等兵はにくにくしげにふくれ上った眼で曾田をみた。
「別にみさげてるわけやあらしません。自分のようなおすけ一等兵には砲操作のようなむつかしいことはわからへん、いうてるだけです。野戦でかて、こっちゃ、弾丸ばかりはこんでたんですからね。」
地野上等兵はまだ野戦に出て行ったことがなかったので、野戦の話はやはりいつも彼の上に圧迫としておちてくるらしかった。
「ふん、曾田よー、貴様、な、きさま、それが、この俺にいう言葉か。」
「上等兵殿、そない改まって、どういわれるんです? 自分らは、この一班で地野上等兵殿のバッチを毎晩うけて、ようよう一人前の兵隊にならしてもらいました。それは忘れていやしないですよ。」
「おい、曾田、俺になぐられたのが……いまでもそんなにくちおしいかよっ……そんなにくちおしけりゃあー、な、将校んなって、なぐりかえせよ、な……ええか……初年兵も、おんなじこっちゃ……俺になぐられてくやしけりゃ……はよう、将校んなるんやな……その代り、満期はでけんぞ、それだけは覚悟しとけよな。」
曾田は相手がさらに自分の方へせまってくるのを感じたが、彼はその方はほうって横の砲身をみがいている初年兵の上にかがみこんで言った。「ごくろうさん。しっかりやって幹部候補生になってや。その代り、地野上等兵殿がいうてはるように、はよ死ぬぜ。そこいいくと俺のような、おすけは楽やぜ。これも一つの参考例です。ごくろうさんです。」曾田は地野上等兵の方をむいて、ごくろうさんですだけを言った。「ひとをさがしにきて、こんなところで、うろついてたりしたら、仕事にならへん、……行ってきます。ごくろうさんです。」彼はいつまでもむっとした顔でじっとつったっている上等兵の横をとおりぬけて厩の方へあるきだした。が地野上等兵は彼の予想に反して後を追ってはこなかった。そして彼はしばらくして、地野が後から声をなげたのを耳にした。
「おい、曾田よ、あの監獄がえりをさがしに行くのやったら、厩にいるわな――」
曾田はその「監獄がえり」という言葉にぞっとして、振り返ったが、すぐさま足をはやめた。すると次に彼の耳にきこえてきたものは、地野が安西二等兵をよびつけている言葉だった。「安西、ここいこい。一寸ここいこい。お前さっき、曾田三年兵になにいうとった、よおー、外出は俺のような三年兵でも気がひけてでけんのに五分前にかえってきくさってよ。三年兵になれなれしゅう、はなしかける……。おれらの初年兵のときはな、三年兵殿にものをいうときには、不動の姿勢をとっていうたもんじゃ……おそろしゅうてよう。」
曾田は一体どうして木谷が監獄がえりだということが、もう知れたのだろうかと心をいためたが、もし地野上等兵がだれかにきいたものとするならば、それをつげたものは染一等兵の他には考えられない。しかしほんとにあの染がそれをしゃべったりしたのだろうか。曾田は染一等兵を信用していただけにそれだけ裏切られたような気がした。しかしいずれにしてもそれが地野上等兵に知れたということは大変なことであった。木谷は自分の前歴がひとに知られることをあれほどおそれているのに、それがすでに地野上等兵に知れてしまったとすれば、もうそれはたちまち、中隊中にひろがらずにはすまないだろう。そうなればあの木谷は一体どうするだろうか。曾田はなんとかして地野上等兵に口どめをするわけにはいかないだろうかと考えてみたが、すでに地野上等兵と彼との間もまた地野上等兵と木谷との間も、ほとんど完全に敵対関係にあるといってよかった。
曾田は厩へいそいだ。彼の体はもう冷えきっていた。厩へ行くのならば、営内靴をぬいで靴にかえてくればよかったし、営内靴と帽子をかりうけた補充兵はいまごろこまっていると思ったが、彼は先をいそいだ。そして彼は歩きながら、先刻の地野上等兵の自分に対する出方を考えてみた。地野上等兵が、自分の言葉に対してあのようにだまったままひっこんでいるなどということは普段には全くあり得ないことであり、彼自身の言葉はまたなぐり倒されるのを覚悟の発言であって決して古い兵隊にたいしていうことのできるような言葉ではなかった。とすれば地野上等兵が今日あのようにしずかにしていたのには理由があるのだ。それはやはりいま野戦行きのニュースが部隊内にとんでいるからなのだ。もちろん地野上等兵は初年兵係としていま初年兵を教育中であって、彼が今度の野戦行きのなかに加えられるなどということは絶対にあり得ないことである。そして彼もまた用水兵長などと同じように満期をまぢかくひかえている身である。とすれば別に野戦行きのニュースがでているからといって、人事係助手の曾田に気をかねるなどということはいらないことなのだ。しかしそれは理窟《りくつ》である。実際は兵隊はやはりそういうわけにはいかないのだ。曾田にはそれが解っていた。それ故に曾田がその点を利用すれば或いは地野上等兵に口止めをするということもできないものでもない。曾田は歩きながらこのような結論に達したが、しかしまた一方彼は近いうちにすべてが落着してしまえば、きっと執拗な地野上等兵から、手ひどい仕返しをうけるにちがいないと考えないわけにはいかなかった。
もう真黒になってしまった厩の周囲には、馬手入れにきた補充兵たちが、立ちならんだ太い高い石の柱と柱の間に馬の顔が入るように馬をつないで、馬の後脚の間に身を入れて蹄《ひづめ》を洗っていた。しかし馬は厩の方で厩当番の飼付《かいつけ》をする音がきこえてくると、前足をかいてじっとしていなかった。馬は大きな眼をあけてしきりに首をうえにあげた。
「おーら、おーら、おーら、おーら、このどしょうもない馬が。」誰かが馬の下からどなったが、その蹄を洗うタワシの音は、あらあらしく如何《い か》にもさむそうだった。曾田は馬が鼻をならしている間をずっと歩いたが、木谷をみつけることはできなかった。馬をこすっている手入兵たちは、みな木谷は厩にはこなかったと言った。曾田は初年兵のころ、この馬の手入れで、冬には指がひびわれ、泣いたことを思いだす。手入兵たちはぶつぶついい合っては、西からふく風を馬の背のかげにかくれてふせぎ、厩週番上等兵が「手入れやめ」の号令をかけるのをまっていた。曾田は厩の一番端の石畳をしいたところに二、三人のものがかたまっているのをみつけて近づいてみたが、そこにも木谷はいなかった。彼らの話しているのは野戦行きのことであった。曾田はとっつかまらないように、すぐ厩の入口をはいって厩当番にきいたが、当番は二人とも木谷をみなかったと言った。彼らは乾《ほ》してあった寝藁《ねわら》を入れおわって、飼桶《かいおけ》に馬糧を入れてまわっているところだった。一体木谷はどこへ行ったのだろうか……もうこれで彼は中隊を全部さがしたことになるのだが、いないとすれば、木谷は中隊にはいないことになる。……すると曾田のうちに、或いは木谷は……という考えがうかんできて、彼を恐怖におとし入れる。木谷は逃亡したのではないだろうか。いや、酒保かも知れんぞ。
このとき曾田がよくききなれた声が厩の南側でした。「ほわいちゃあ、どんすけ、ほわいちゃ。ぱーく、ぱーく、ほわいちゃ……なにいうてんねんな……ほわいちゃ。すけ、すけ、……たててやがって、ほしいか……ぴこんとたててやがって、ほしいか……、なんや、お前ら、その辺でぼさーっとたってやがって、上等兵殿が、こないして、タワシもって洗うてはるの、だまってみてやがるのか……よっ、そのー、たてー、たたんか。上等兵殿のもってるタワシを取りに行くんじゃ……上等兵殿に馬手入れなんどさして、そばでみてやがって、初年兵としてはずかしゅうないのか……おい……」染一等兵だ。どなられているのが初年兵だとすれば、初年兵が砲手入れをすませたのち、馬手入れの方に廻ってきたにちがいないのだ。
「はーい。二年兵殿。」それは安西二等兵のあのきばったような声である。曾田はすぐにその声の方にはしっていったが、染はまだどなりつづけている。
「おーい、初年兵さんよ、お前ら、馬ころしてしまうつもりか、そんな前へまわってやな、そんなとこい水をすてたら、馬がすべって脚おってしまうぞ。おい、初年兵さん、馬と砲と間違うてくれたらこまりまっせ……そら、どっちかて、なでてやな、うったらんとあかんけんどやな……砲と馬の区別ぐらいみたらつくやろ……。たかい金だして大学へ行てきたんやろ。」
染は曾田が近づいて行くと、くらいなかで一寸、あの睫毛《まつげ》の長い眼をまばたいて、はずかしそうにしたが、「三年兵殿、わざわざこんなところまで、何か御用だっか。」と言った。曾田はただ木谷をみかけなかったかどうかをたずねただけで、木谷のことが中隊にもれていることについては、言うべきかどうか判断にまよったのでだまっていた。染はやはり木谷をみかけなかった、自分は今日、はやくから厩にきていてずっといままでいたのだが、その間、一回も木谷はあらわれなかったと言った。曾田は染に求められて煙草を一本渡し、二人はそのまま、煙草をのむために、煙管《えんかん》のある喫煙所の方にあるいて行った。喫煙所といっても、厩から少しはなれたところに深い穴がほってあり、その穴の周囲にあつまって煙草を喫うことになっているのだ。
染は煙草をすいだすと、しきりにつわをぺっぺっとはいていたが、「三年兵殿、三年兵殿にはわるうおまっけど……なんだっしゃろか……大学出いうたら、あんなんだっしゃろか……なってえしまへんな、こんだの初年兵、ずるがしこうて、みんな自分のことだけしか考えていよらしまへんがな……」
「そうかなあー、自分のことだけしか考えてえへん?」
「そうでんがな……自分さえおこられなんだら、ええおもてる連中ばっかりでんがな……きたのうて、みてられへん、……そら初年兵はつらい、つろうまっせ、そやけんど、いまの初年兵は、自分らのときからみたら、なんぼらくかしれまへんがな……そやのにからに……な……」
「みんな、幹部候補生になるんや……」
「はようなるんなら、なりやがったらええわ……ほんまに、御機嫌とりが多うまんがな」
「そんな御機嫌とりがいるかしらん……」
「いまんがな……安西……田川……」
曾田は次第にものをいうのが苦しくなってきた。染の観察はじつにするどいものがある。それは曾田が事務室にいる時間が多いために、班内に於ける初年兵のいろいろな姿をすべて知ることができないためでもあろうが、染の言葉は初年兵の欠陥をとらえて、曾田の前につきつけるようだ。
「あの安西、あの安西、あんなにぼーっとしてて、班内では馬鹿にされて、子供みたいに思われてまっけどな……、この間も、あのことを話しましたやろ……飛田のこと、あれだけやあらへん、そら、うまいこと、だましまっせ。」
曾田がだまってしまったので、染はしゃべるのをやめた。彼はまた煙草をすっては、しきりにつわを地面にはいた。
「手入れやめー。」厩週番上等兵がどなっていた。
「手入れやめて、その辺を掃いてしもたら、みな一服せえ、一服すわしたる。」
曾田は自分の横で赤くなったりくろくなったりする染の煙草の火をじっとみつめた。彼は自分の向い側にしゃがんで煙草をすっている誰かわからないが兵隊の方をみた。曾田はこの間の蹄鉄《ていてつ》の礼を染に言った。「あんなもの、工場にごろごろしてまんの、それ、とってきただけだんがな。」染は言った。が彼は突然声を大きくした。「おい、初年兵、お前ら、手入道具かたづけて、石畳のとこはいてきたか。はいてきてえへんねんやろ……もう、ぬけてきて煙草すいにきやがる、後片づけしてんのは一体、誰や、古年次兵やろ……お前ら、自分が使うた道具だけでも手入れしとけ、……それから煙草すうんやったら、すえ……」曾田が顔をあげてみると、いま穴の向う側に集まってきた兵隊の影がしずまってしまったが、彼はそこに安西二等兵の顔があるのをみた。しかししばらくすると初年兵は顔をあげてざわざわしだし、煙草の火をつけはじめた。曾田はだまって、木谷が一体どこへ行っているのだろうと考えていたが、彼は傍の染が異様な言葉を口にするのを耳にした。
「一つの怪物が、ヨーロッパをあるきまわっている、共産主義の怪物が。旧ヨーロッパのあらゆる権力は、この怪物を退治するために神聖な同盟をむすんでいる。法王もツァーリも、メッテルニヒもギゾーもフランスの急進派もドイツの官憲も……」曾田は自分の横で或る種のお経のような調子で誦《そら》んじられるその言葉をきいていたが、それはもはやうたがう余地もない、『共産党宣言』の最初の言葉だった。それは闇の中にひびく。彼はなおもつづけようとする染の体を右肘《みぎひじ》でおして、それをやめさせた。
「おい、やめとけよ、……こんなとこでやるやつがあるかい。」
「へえ。」と染は言った。
「お前、それが何や知ってるのか。」
「共産党宣言だんがな。」
「どうして知ってる?」
「兄貴がよう教えてくれましたがな……兄貴が共産党やったもん……」
「そうか……。お前のうちは鉄工所やったな……」
「町工場だんがな……」
「兄貴は……いまは、どないしてねん。」
「行ってまんがな……。はいってまんねん。」
「刑務所か……」
「へえ……」
曾田は次第に馬手入れをすませた兵隊たちが、煙草をすうために次々と近づいてくるのをはばかってこれ以上、この話をすすめることをしなかった。彼はもう一度染に宣言の文句を暗誦《あんしよう》してもらいたい欲求にかられたが、それはふみとどまった。彼は或いは初年兵のなかの誰かが、それをききとっていはしなかったかとうたがったが、一刻もはやく木谷に会うためにたちあがった。彼は最後に、木谷のことがもう中隊にもれているようだが、誰がしゃべったのか知らないかときいたが、染はさあと言ったが、それやったら、ひょっとすると被服係兵長の成山が、山海楼のばあさんから話をききこんで、もらしたんではないかと言った。それより外には考えられない、自分は、三年兵殿から話すなといわれたんで、こら話したらいかんことやと直感してたので、だれにもまだ話したことはないし、この間山海楼でばあさんからききだしたときも、成山兵長が女と一緒に部屋にすっこんでしまってから、彼だけがとびだして行って、こっそりときいたので、それは成山に別にきこえるはずはないのであるとすれば、婆さんが、あとで、成山にそれについて何か話したのではないかというのである。
曾田は班内にかえったが、ようやく寝台に腰かけて、眼をまっすぐに前方にむけて、じっとしている木谷をみつけることができた。が木谷の方は、彼がそのそばに近よって行ってもなお同じ姿勢で、身動き一つしないでじっとしているのだ。しかし曾田は近づくにつれて木谷がそんな姿勢で何をしているのかがはっきりした。木谷は東隅の寝台の経理室勤務の上等兵のところにあつまってきて話し合っている兵隊たちの話をききとろうとして、そうしているのである。そしてその話というのが、戦争行きの話であるのは明らかであった。「出発はいつやねん」などという言葉が、すでに二度も曾田の耳にもきれぎれにはいってきた。経理室の新しいニュースをきき取ろうとして、みなはあつまっているのだ。
曾田が木谷の肩をたたくと木谷はまるで突然おそわれたもののように、ぎくっとして身体をはね上らせた。そのために曾田の方がかえってそれでぎょっとした位である。木谷は首をひねって曾田をみたが、ようやく彼だとわかると安心して、立とうとした。曾田は立ち上る相手をおさえて、自分もそこに腰かけ、今日、家をたずねて行ったことを話した。ところが相手はそれほど彼の話に耳をかたむけているようには思えないのである。それは曾田には不思議であったが、木谷はたしかに別のことに気をとられてしまっていた。曾田は長いこと家へかえっていない木谷のことを思いはかって、できるだけ彼の家がどうなっているかがわかるように話そうとした。曾田は木谷の兄が徴用になっていて、いまは奥さんだけでは商売ができないし、店をひらいていても売行きは思わしくないので、やめていることを話したが、木谷は前から、きいてたけど、ほんまに店閉めてしもてるのかと一寸疑うような目つきをした。
「造船所で何の仕事をしているいうてました?」
「運搬か、何かそのような仕事やそうですよ。」
「それより他のことはでけへんもんな……あの兄貴が、何ができるかいな……そんなもん。」
木谷はさらにもう自分との縁は切ったあるというてましたやろと曾田にきいた。曾田がそういっていたというと、木谷は、ふん、あんなもん、とうに、こっちから縁切れしてあるわと言った。
「二十×日に面会にくるいうて、そらきっときやしまへんで。くるいうのは口だけのこっちゃ。こっちがな、家へかえってくるのが、恐《こお》うて、恐うて、たまらへんのや……」
「兄さんがですか?」
「どっちもやが。」
「しかし、兄さんは、どうしても、一度、面会にきてくれはらないと、あんたが外出できんことになるので、一度だけでよいから、きて、准尉さんと話してくれるようにとよく説明したら、なっとくしてくださって、二十×日には面会に行くと約束してくれましたぜ。」
「必ずくると言いよりましたか。」
「会社が休暇さえくれたら、必ず行くと。」
「そうでっしゃろ、それやがな……。そら来やしまへん……そんなもん、きやしまへんで。恐うてたまらへんのやもんな……」木谷は周囲を見廻しながら言った。曾田はそのような木谷のうちにはいって行くことができず、しばらくだまっていたが、木谷も黙って煙草の袋をさしだした。みるとそれは新しい「ほまれ」の袋だった。
「炊事の班長から、取ってきたったんや。」と木谷は言った。が、もう曾田が班内にかえったのをみつけて兵隊たちは、また彼から何か野戦行きのニュースについて引きだそうと考えて、集まってきはじめた。
「おーい、曾田よ、どないなったんや。いうたりいな、え、かくしてたりしたら、かわいそうやで、なあ、かわいそうやで。」
しかし曾田はその方はかまわなかった。彼は或いは地野上等兵がもうかえってきはしまいかと気をくばっていたが、それも、入浴へでも行ったのか、なかなかかえってこなかった。彼は、「それだったら、またなんぞあったら、知らせますよ、今日は、行くときになんか、家へことづけはるもんあるかもしれないおもうて、班内をさがしたけど、いやはらへんので、行ってしまいましたんやけど。」といいながら立ち上った。といままで黙って天井に顔をむけていた木谷は突然彼の方をふりむいて言った。「野戦行きは、もう、きまったんやろか。」彼はそれからさらに声をおとしてきいた。「准尉さん、俺を野戦にやりやがるやあらへんやろか。」
ああ、それは曾田がまだ考えたことのないことであった。しかしいま一寸考えただけでも、それは或いはあの准尉の頭のなかにひらめかないとはいえないことであった。たしかに曾田は、ぼんやりだったのだ。曾田は相手の顔に打たれたかのように、みつめたが、「なあ、それがわかったら、しらせてや、曾田はん。」相手は言った。相手の顔は、「はよう向うへ、行ってくれ。」と言っているようであった。
「飯やぜ……はよう、飯、くわしてや……」
「おい、初年兵さん、なにしてはんねんやな……飯やぜ……お前らおれらを、ひぼしにするつもりやないやろな。」
兵隊たちは、さわぎはじめた。
第五章
一
木谷は野戦へおいやられるのがおそろしかった。彼は刑務所にいたときには中隊にかえって行ってから、野戦行きが自分の上にくるなどということは、あまり考えることができなかった。もちろんそれは刑務所というところがそうさせたのである。しかしもし彼がそれについて考えたとしても、彼は野戦行きをこれほどこわがるなどということはなかったろう。いや彼は刑務所にはいっているとき、一度野戦行きをはげしく求めたことがある。それは彼が既決囚となって刑務所にはいってしばらくしてからのことだった。ちょうどその頃、五年以下の刑のものは、刑をとかれて南方行きに参加させられるといううわさが刑務所内にとんだことがある。もちろん兇悪犯《きようあくはん》は許されないというのだが、木谷はそれを待ちのぞんでいた。彼は冬の冷たい監房のなかで作業後じっと正坐して就寝時間を待つくるしさにたえることができなかった。それ故に彼はむしろ外地行きをのぞんだのだ。しかしそれもほんのしばらくのことだった。苦しい陸軍刑務所の生活にもひとはまもなくなれて行くのだ。
しかし木谷は一度林中尉と花枝の二人に会うことなくしてどうして死ぬことができようか。木谷が一昨日から、金子軍曹をつかまえるために何回となく炊事や経理室をたずねたのも、そのためだった。彼は金子軍曹に会うことができなかった。……今日の午後、木谷がまた炊事をおとずれたのもそのためだった。野戦行きについて金子軍曹にたしかめなければならぬ、林中尉について花枝についてたしかめなければならぬ。しかし木谷は軍曹からはほとんど何も得ることはできなかった。軍曹は相変らずいそがしかった。
金子軍曹は炊事の後のポンプのところにいた。彼は肉をつんできたバタバタ・オートバイの男とはなしていたが、裏の方へまわってきた木谷の姿をみるとすぐやってきた。
「木谷、煙草か、煙草やったらおいたあるぞ、そらこれとれや、俺あ、一寸《ちよつと》、これから公用ででて行かんならんのでな……」
「別に、それできたんやあらへんけど。」木谷は言った。
「そうか、まあええ、これとっとけよ、……おれな、すまんけどな、いますぐでて行かんならんのでな……」
「野戦行きのことでききたいことがあってな……きたんやけど……どないでっしゃろな……」木谷はさらに押しつけるようにきいたが、彼の調子は今度こそはそうなるまいと考えてきたにかかわらず、まだ、おずおずしたものだった。
「野戦行き――、ああ、まだ、はっきり、せえへんぜ――、なあ、俺、いま、すぐでて行かんならんので、くわしいことわかったら、すぐ知らしたるよ。」金子軍曹は言った。
「現役の古い兵隊は行きまっかな。」
「わからんがな、まだ。わかったら、知らしたるいうてるのに……」金子軍曹は炊事の裏口からはいって行こうとしたが、木谷はなおもあとを追うた。
「言うたんなはれな、班長殿。」
「木谷、一体、だれにたのまれたんや、え、三年兵か……え、ちがうのか、なんや、お前のことを心配してるのか……そうやな……それやったら、心配いらへんぞ、そんなもん、お前、今度のなには、補充兵が中心やないか……何をきくのかおもたら、かえってくる早々、もう、自分の、転属を気にしてやがんのか。」
金子軍曹は調子よく言っておいて振り切るように班長室へはいると、やがてパンの包を二つもってでてきて木谷の胸におしつけたが、それはまるでパンによって木谷を追いはらおうとするかのようだった。木谷はさらに表口の方へでて行こうとする軍曹のあとを追うたが、突然足をとめた軍曹はふりむきざま言いすてた。「木谷、貴様わからんのか。ちゃんとしたら、知らしたるいうてるやないか……それまで、待つことがでけんのか。貴様。」
木谷は全く予想することのできなかった軍曹の調子におどろいて、たちどまって、じっと相手をみたが、軍曹は木谷の視線をふり切るようにしてはらうと、どんどん衛門の方へあるきだした。しかし軍曹はけっしてそのまま向うへ去ってしまいはしなかった。十歩ほど歩いたと思うと、再び彼はそこにじっとしている木谷のところにひきかえしてきて言葉を直したのだ。
「木谷、気わるすなよ。昨夜からな、俺、ぜんぜんねむってえへんのやさかいな……、ちゃんと、わかったら、きっと知らしたるよ。おい木谷、それより、あの花枝のことしってるか、この間、いうたるのわすれてたけど、あの花枝な、もう山海楼にはいやへんいうぜ……なんでもな、借金がふえて、その始末に、鳥取の方へ移って行ったいうぜ……。ええか。」
金子軍曹は花枝のことについて少し明らかにしてくれたが、転属のことについては、木谷が曾田からきかされたこと以上には、何もしらせてくれなかったといってもよいのである。木谷はようやく金子軍曹のこの言葉に気を取り直して、再び炊事のなかへはいっていったが、炊事にはやはりいまも彼がへだてなく話のできるものは一人もいなかった。彼はやがて中隊へかえって、曾田の知らせてくれる新しいニュースを待つほかなかったのである。彼は鳥取という全然行ったこともない土地のことを考えながら、ああ、もういよいよ花枝にも当分会うことはできないと考えたが、そう考えることは考えるものの、もはや花枝があの山海楼にいないということはなかなか納得がいかなかった。
二
木谷は野戦へ転属になるということがおそろしかった。彼が何よりも求めているのは除隊だったが、野戦行きは彼の求めるその除隊から遠ざかることだった。いや遠ざかるというだけではなく、もはやふたたび除隊は彼のもとにはやってこないだろう。金子軍曹は今度の転属は補充兵が中心で古い兵隊はあんまりないのだからと、木谷が心配するのを笑うように言ったが、木谷はそれをそれほど信用することはできなかった。曾田の方がずっとそれよりくわしく知らせてくれたし、人員さえ明らかにしていたから。しかし木谷は一度林中尉と花枝の二人に会うことなくしてどうして死ぬことができようか。除隊への欲望はすべての兵隊のもっとも奥底に動いているものである。しかし木谷の場合、そこには林中尉に対するはげしい憎しみが加わっていた。もちろん刑務所にいるときには彼の除隊は二重の彼方《かなた》にあったのだ。彼はたとい牢獄の壁からぬけでて、刑務所からでて行ったとしても、まだ、その兵役の義務年限はあと一年ばかりのこっているので、ただちに除隊になるというわけではなかったのだ。それ故にいまこうして刑務所生活をおえて部隊にかえってきて、あとはただ除隊だけをまつ身となったのに、ちょうどこのとき野戦へほうり出されるなどということは木谷にはたえることのできないことだった。
木谷は毛布のなかでなかなかねむれなかった。すでに班内では野戦行きの話がすべてをしめていた。兵隊たちはわめき、わらい、わざとやけになったふりをし……がなりたて、何かというと事務室要員の曾田をよんだ。すると曾田は、またかという顔をしながらも、野戦行きには補充兵と古年兵とが出されること、それ故に学徒兵は別だという説明をくりかえすのだった。
中隊は歩兵砲三班、速射砲二班、五コ班で成り立っていたから、この十五名という人員を各班に配分すれば、各班四、五名となり、もし歩兵砲二班に配分すれば、一班七、八名となると曾田は言った。そして彼のいうところでは多分各班四、五名ということになるらしかった。……補充兵たちは、もはや確実に野戦行きということがわかっていよいよおちつきをなくして沈んでいたが、部屋の隅にあつまっては、ぼそぼそと話し合い、そして消燈前、ようやく手のあくころになって、みな手紙をかくのに一生懸命だった。彼らは今夜も消燈後先刻までは、班の中央に一つだけともっているうすぐらい電燈の下で、何か紙片にかきつけていた。彼らはそれを明日演習に外へ出たとき、郵便に入れるか、または公用兵にたのんで入れてもらうかするのだ。しかし彼らも先ほど廻ってきた古年兵の不寝番に長い間注意をうけたのち、しばらくすれば野戦に行く境遇だから許してもらって寝台にもぐりこんでしまったのだ。
木谷は階下の方から階段をばらんばらんとあがって近づいてくる足音にずっと注意していたが、曾田は今夜はいつまでたってもあがってこなかった。曾田は昨夜わざわざ木谷がねているところにやってきて、毛布の間から甘味品《かんみひん》をおしこんでくれ、そしてもう大体野戦行きの人員の編成ができ上ってきているが、木谷はそれにははいっていないからと知らせてくれたのである。木谷はそれで昨夜は一応安心してねむることができたが、しかしまた今夜になってみれば、それにもかかわらず、ふたたび疑惑はおきた。……間もなくまた誰かが階段を上って廊下をとおり、ぱたぱたという上靴《じようか》をはねる音が近づいてきたが、それは隣の二班の班内をゆっくりした歩調で一巡した。それはたしかに不寝番だった。するとやがて木谷の班のなかにその足音ははいってきて、二人づれの動哨《どうしよう》不寝番の話し合う言葉のなかに、木谷の名がきかれた。ひとが自分の名を口にするのをきくほど恐ろしいことがあろうか。木谷はぎくっとして耳をたてたが、そのとき、くらい班のなかに懐中電燈の白い光が大きく動いて、それはまぶしく彼の眼をうった。木谷は眼をつぶって毛布のなかに顎《あご》をひいたが、彼はしばらくの間懐中電燈に顔をてらしだされて、とざした瞼がひとりでにふるえだすのをどうするわけにもいかなかった。
「いよるか……」
「いよる、いよる。」と一人は答えた。
足音はやがて木谷のすぐ頭のところに近づいてきた。
「こいつが木谷か。」
「そうよ。こいつが木谷よ。刑務所からかえりくさったやつよ……」それはたしかに地野上等兵だった。もう一人の声は木谷にはわからなかったが、地野上等兵の特長のある太い声は木谷の耳にもはっきりわかった。
「こいつか、刑務所がえり、刑務所がえりみながいうてるのは。」
「そうよ、大《で》けえ顔して、一日中、何にもせんと、寝台の上でどてっとしてやがって、この俺にさし図までしくさりやがる。ひとには金岡《かなおか》の病院がえりやいうてやがってからに……」
「何をしよったんや。」
「何しよったって、ものとりやがって逃亡しやがったんやろがな……。おすけが……。どうせバッチなぐられるのこおうてな。……みてみい、この顔……」
「…………」
「みてみい……このにくらしげなつら。刑務所がえりやいうことうまいことかくしてやがってからに。この間からみなで一体あいつ、何ものや、毎日飯くらうだけで、ひょこっ、ひょこっとどこやら消えて行っては飯時にはちゃんともどってやがるいうので、みんなも何ものやろいうてたんや……。そしたら……わかってみればやな……。これみい……」
不意に木谷の顔の上でものが動く気配がしたので木谷は自分の顔を地野の冷たい指でさわられるのを予感したが、彼の額の上をぐっとついた太い指は生あたたかった。
「この野郎、まだ、先任の俺のところに挨拶にもきくさらん……、ところが、曾田の野郎がまた、准尉さんにいわれるのんかなんかしらんけど、こいつの世話をやきやがって、よけいに、こいつが増長してきてやがる……。そのうちに、はっきりしてやるけど……。このままじゃおかせん。」
懐中電燈はすぐ真上から木谷の顔だけを闇のなかにてらしだした。「何をしやがる!」木谷は声をかぎりどなりつけようとしたが、ようやく自分をおさえて、口をしめた。彼の胃袋はかたくかたまり、彼の全身は毛布のなかでふるえた。すると彼の身体に甦《よみがえ》ってくるのは、看守の命令に従わなかったという理由で皮のさく衣を胸にはめられ、調練所にひきだされ、水をぶっかけられたときのことだった。それは彼が掃除囚だったときのことだったが、地面にかがみこんでじっとしているところを、看守に足で注意されて、返事をしなかったのがはじまりだった。看守ははやくたてとさらに靴でこづいたが、彼は強情にたち上らなかった。「石でもひろおうとしてやがるんやろ……」看守は言って、後から近づき、肩をひいて地面の上に彼をひっくりかえした。しかし彼はそれ以上はそうされるままになってはいなかった。彼はけもののようなうめき声をあげて、看守の方に突進して行ったが、そのとき彼の胸の中にあったものは、やはり林中尉にたいするはげしいいかりだった。彼は看守をひっくりかえして、その腰にあった刀をとりあげたが、すぐさま看守の吹いた笛によってあつまってきた看守長と看守たちのためにとりまかれた。そして半時間にわたって彼は次第にせまくなる人の輪のなかで、刀を前にかまえたまま動くことなくじっとしていた。看守たちは最初は遠くからなだめたり、すかしたりして声をからした。しかしついに剣道に自信のある看守が刀をぬいて彼の方に近づいてきたが、刑務所長に切ってはならん、ひけといわれてさがって行った。そして彼は看守達が考えだした、ひくく張った縄をつかって足をすくう方法で最後にとらえられ、さく衣をかけられたのである。さく衣は皮でできていたが、水をかけるごとに引きしまり、彼の肩と胸は内へつよくしめつけられ、彼は一分ごとにうめき、わめかなければ呼吸ができなかった。彼の口はよだれと砂でべたべたによごれ、彼のだらんとした体は、冷たいどろ土の上にほうっておかれた。そして彼は気を失った。彼がその夜から一週間すごしたのは、独居監の右の列の一番先にある真黒な重屏禁《じゆうへいきん》の房だった。彼はそこへ着たものをぬがされて放りこまれたが、たべるものは一日一食の飯だけだった。そしてその房では他の房のように明るい燈がなかったので、看守の手にした懐中電燈の光が無慈悲に外からさしてきて木谷の顔をさがしだし、たしかめるのだ。
不寝番の地野上等兵が生ぬるい指でさわった跡はいつまでも額にのこっているようだった。彼らはやがてまた上靴の音をたてて向うへ去って行ったが、木谷は自分のことが班内だけでなく中隊内にひろくひろがってしまっていることを考えて、ねむれなかった。彼の胸には地野上等兵にたいするはげしいいかりがたぎっていた。しかしそれを力を加えておさえていると、再び自分が野戦行きの一員に加えられるのではないかといううたがいが、もちあがってくるのだ。彼の頭にちらと通りすぎる一つの考えは、准尉が或いは自分が夜逃亡することをおそれて、それをふせぐために手配しているのではないかということだった。たしかにそうかもしれない……。実際、俺はいまではこの班の、いやこの班ばかりではなく、この中隊の厄介者ではないだろうか……と木谷は考えて行ったが、もしそうだとすれば、彼の野戦行きは、いよいよ可能性がふえてくるように思えるのだ。
たしかに准尉が彼を野戦行きの要員のなかにえらぶ可能性は大きいのである。野戦行きのなかに組みこまれるもの、それはいつも中隊にもっとも役立たないものであって、人事係准尉はそれによってやっかいばらいをするのであるが、いま准尉が一番のぞんでいるやっかいばらいといえば、自分のほかにはないと木谷は考えなければならなかった。彼は中隊人事係がもっともあつかいにくい刑務所がえりである。それに彼はすでに帰隊してから二週間に近い。そして今度の野戦行きの出発が或いは一週間先とするならば、彼が刑務所内でいためつけられた身体と心は、もう回復したものとみられ、准尉は野戦行きが木谷にとって無理ではないと考えるのではないかと考えられた。しかしまた木谷がこのような想定を打ち消そうとする根拠も一つだけはあった。それは彼が現在仮釈放の身であるということだった。それ故に彼がこのような身である以上、彼を転属させたり、他部隊へ動かしたりするということはただたんに准尉の一存によってできることではなく、師団司令部の許可があってはじめてできることである。しかも彼の仮釈放の期限はまだあとかなりの日数がある故、一、二週間できれるなどということはないのだ。木谷はこのことを考えて自分は決して野戦行きの人員のなかに加えられることはないと考えこもうとしたが、しかしやはりそれで安心するなどということはできなかった。すると彼の乱れた心のなかにちらとひらめくようにして浮かんでくることは、もっと野戦行きのことについてただ曾田にきくだけではなく、他のところでさぐってみなければならないということと、いまのうちにあの林中尉をはやくさがしだしてしまわなければならないということだった。もしも彼が野戦行きのなかに加えられてしまったなら、彼が刑務所で考えていたことはすべてなにもかも消えてしまうのだ。もはや林中尉に会うことはできないし、花枝をつかまえることもできなくなる。それではすべてはおしまいだ。あの林中尉の野郎が軍法会議で一体どんなことをしたかをといつめてやることは夢のようなことになってしまう。やつが検察官をうまくまるめこんで、どんなことをしやがったかを白状させてやることもできはしないし、あのいまいましい軍法会議のからくりをあばいてやることもできないのだ。
三
木谷は取調べ中検察官の態度が急に変ってきたのをいまもおぼえている。検察官が途中から検察の方針を変えたということはたしかである。彼にはそれが林中尉の工作によるとしか考えられはしなかった。それは実際あまりにも急激な変りようなので木谷はいまでもそれが何時《い つ》から変ったということさえはっきりすることができるのである。
たしかにそれは第三回目の取調べのときからだった。このことを忘れるなどということは木谷にはできないのである。軍法会議に対する彼の疑惑はこの日にはじまったのだし、いつもこの日の記憶から出発する。……その日の前日彼は自分のいる房をうつされた。彼がそれまでいたところは雑居監であって、彼は多くの未決囚と一緒だったが、彼の新たにうつされたところは独居監の独居房だった。このとき木谷は何故《な ぜ》自分が房をうつされたりするのかその理由をみつけることができなかった。しかしそれまではただの窃盗事件としてあつかわれていた自分の事件がいままでとはちがう取り扱いをうけるようになったということは彼もすぐさま感じとったのだ。当時彼はまだ未決囚として刑務所に収容されたばかりで所内の風習しきたりにはほとんど通じていなかったが、このことがわからないような男ではなかった。そして看守たちもまたその裏書をしたのである。……彼は或いは経理室勤務中たびたび自分がやった物品持出しが検察官の調査によってばれてしまったのではないかと心配した。しかし一方彼はまたこれはいよいよ自分が無罪放免になるからではないだろうかと移された冷たい独居房のなかで考えていた。しかしこのいずれもがむしろまことに木谷の自分に都合のよい解釈にすぎなかったのだ。彼にはこの日から検察官が自分にのぞむのぞみ方や検察の模様が、それほど自分にきびしく変って行くなどということは予感することができなかった。ところが検察官はこの日を境として全く掌《てのひら》をかえしたように木谷の陳述をくつがえすという態度にでてきていたのである。……
木谷は担当の岡本検察官がすきではなかった。しかしそのものやさしい飾り気のない言動に対しては彼は期待をいだいていたのだ。彼は最初それがむしろ検察官の冷酷さからでているということをみぬくことができなかった。彼は検察官にすがりつこうという気持をむしろ心のどこかにもっていたが、それは彼が部隊をでるとき最後にきいた中堀中尉が自分のためにほん走してくれているという金子伍長の言葉をかたく信じこんでいたからだった。それ故に彼はこの検察官が自分にたいして全くちがった態度にでてきたとき、まるで自分が裏切られたかのような感じをもったのである。
検察官は三十をこえた法務少尉だったが、木谷は看守たちの言葉によってその検察官が、近く中尉に昇進するような見事な検察ぶりをみせているということをきいたことがある。看守たちは木谷から担当の検察官の名前をききとると、むしろ口をつぐんでそのことについてそれ以上話をしようとしなかった。それは彼らがその検察官に担当された被告はほとんどこれまであまり有利な判決をえていないことを知っていたからである。しかし木谷は当時このようなことをおしはかることはできなかった。看守たちは未決囚にたいしては既決囚ほどには接触の機会が少なく、あまり話をきかせることがなかったから。彼らは自分が話すというよりもむしろきいてまわる方だった。看守たちは犯罪の匂いをかぎとろうとするはげしい欲望をみなもっていたが、そのときの気持はどうだったのか、それを取ってどうしたのか、そしてそれをどこへかくしたのか、などという質問をまるで彼らが検察官になったかのように次々とした。しかし彼らは監房の覗《のぞ》き穴から眼だけをのぞかせて未決囚からきくだけきいてしまうとそのまま行ってしまって、何かをしゃべって行くということは少なかった。しかし彼らも未決囚をつれて裁判所、軍法会議、検察廷に出廷して行くときには、その護送自動車のなかでも、また検察廷の控室などでも少しはしゃべるのだ。殊に取調べが長びき、出廷回数がふえるようになると、うちとけていろいろぐち話をだすものさえできる。刑務所勤務のはげしいこと、――看守長のなかには、ほんとに意地のわるいやつがいて看守をおとし入れようとばかり考えていて囚徒をみはるというよりもむしろ看守の勤務の怠まんと反則とをてきはつするためにゴム靴をはいて獄舎の壁にへばりついて壁から壁へつたってあるくという話を木谷にきかせたものもいた。この種の話のなかには刑が決定して既決囚になってしまってはもはやきくことのできないものもあるのだ。……木谷の取調べはなかなかはかどらなかった。看守たちは石切の刑務所から大阪城内の検察廷に彼をおくって行く途中、よくそれを問題にして問いかけた。何故彼の取調べがそのように長びくのかわからないというのだ。木谷の事件が、ただ金をとったというだけならばいたって簡単な事件であり、それほど時間を要するものではなかった。普通ならば、このような窃盗事件は多くかかって三週間、大体二週間で公判もすみ、判決が行われるのだ。はやければ一週間以内で公判が終了してしまうということも多いのである。ところが木谷の事件は巡察将校のものを取ったという点は少し他の事件とちがっているにしても別に調査がふくざつだというのでもない。それをこのように長く手間どっているのはどういうのか、木谷お前はまだなにか隠していることがあるのではないかというのである。
いくらかくしていても検察官は最後には調べをすすめてみつけだすものだ、ここでは絶対にかくしおおせはしない、もしかくしていることが、後でばれるようなことになれば、それこそまた、大変なことになるから、と一人の看守は木谷に言った。そして彼は一度判決が下されて一年半の懲役ときまっていたところが、かくしていた罪があとからわかって、その方に非常に重い判決が下され、ついに五年以上の刑になってしまった例を話してきかせた。看守たちには木谷の取調べがうまくすすまないのは、全く木谷の方に原因があるとしか考えられないようだった。彼らは木谷にもしかくしていることがあるのならば、はやく言ってしまわないといけない。検察官殿の心しょうを一度そこなうということになると、判決にひどくこたえるからというのだ。木谷は看守に自分が取った金は衛兵所の便所の傍の窪地《くぼち》のところに落ちていたのか、それとも便所の目隠し塀《べい》にひっかけてあった巡察将校の上衣のなかにはいっていたのかを決定するので調べが長びいているのだと説明した。しかし看守たちはなかなか彼の言葉を信用しようとはしなかった。彼らは検察の方で評判を得ている岡本検察官がそのような簡単なことで取調べをながびかすなどというようなことがのみこめないのだ。しかし木谷にはそれ以上看守たちがなっとくすることのできる説明をするなどということは不可能だった。もちろん彼らが木谷が未決囚でまだ公判が終っていないとはいえ、検察官と木谷を対等にみるなどというはずもなかった。それ故に木谷がそれについて如何《い か》に説明をついやしてもそれはただ木谷のいいわけにすぎないとしか取らないようだった。
岡本検察官はたしかに最初は金入れは便所の近くに落ちていたのだという木谷の陳述をうけ入れそれを林中尉の金入れは内ポケットのなかにはいっていたのをとられたという陳述と、比較対照するというやり方をとっているようにみえた。しかし検察官はやがて木谷の陳述をかえりみず全くそれをしりぞけようとするようになったのだ。ところが実際に金入れを自分の手で拾った木谷には如何に検察官がたくみに金入れは内ポケットにあったということを論証しようとも、それをうけ入れるなどということはできないのである。……しかし看守たちはこのような木谷の説明を薄笑いをうかべてきいた。彼らは拾ったものを出来心で自分のものにしたのとはじめからひとの服のなかにあったものを計画的にねらって取ったのとでは、大きなひらきがあるのだから、それは十分検察官にいいひらきしてきいてもらうようにしないといけないとはいうのだ。しかしそれを言うその顔は決して木谷をみとめてはいなかった。彼らはもう調べはついているのだろう。それをお前だけがいつまでも剛情はっていてもだめだ、はやく白状するのならしてしまえというのだ。
しかし木谷の取調べが長びくにつれて彼はみるみるうちにひどく衰弱して行った。彼の頑丈な胸も肋骨《ろつこつ》もむきだしにし、彼の厚い爪も薄くなり色をかえた。彼の体力はもはやつづかなかった。すると彼の不安と焦躁《しようそう》はたかまり、彼はいつも自分にいいきかせている度胸を失おうとした。しかしこれはまた全く検察官のめざすところだったのだ。検察官はたしかに独居房が未決囚の上にふるう作用というものをよく知っていたにちがいなかった。彼は取調べをながびかせて木谷をそのような状態においたまま、その木谷の上に幾度もおそいかかって、おいつめようとしたのだ。しかし木谷はそのようなこととは全く知らずに、雑居房から独居房に移された日には、むしろ房はしずかだし、自分が一房を独占でき、便器も洗面器も自分がひとりでつかえることを喜んでいた。
独居房というのは二畳ほどの広さの細長い板張りの部屋だった。時代劇映画の牢獄の場面にでてくるような獄舎は太い樫《かし》の木ばかりで組まれていて、網をはった高い窓が高いところに一つあいている。その窓からはいる日は頑丈な開き扉《ど》の上に四角い光の箱をつくったが、日が動くにつれてその箱の位置は移動して行った。木谷はその扉《とびら》を左にして一枚のござをしき厚い板壁に向って正坐したまま朝六時から夜の九時までをすごすのだ。彼は地方にいたとき留置場に入れられてとめおかれた経験は何回かあった。それ故に彼は憲兵に部隊本部副官室によびだされ、逮捕状を形式的につきつけられて手錠をかけられたときには、やはりさっと顔色をかえたが、やがてそこから検察廷につづいて電車で石切の刑務所まで送りこまれて監房のなかに入れられたときには、別に大して感情の変化をもちはしなかったのだ。
護送の警手は石切の停留場をおりて山道を下ったところで木谷をとめた。松の根に腰かけさせ、煙草に火をつけて一本すわせた。木谷はそれを根元まですって煙をはきだしたが、そのときにはすでに何年間かの覚悟を彼はきめていた。彼はそのときまでは自分の未来がいつどんなことになろうか、はかりしれなかった。なにかが空から鷲《わし》のようにとびおりてきて自分がひっさらわれて行くように自分の未来について考えていた。しかしそのとき彼はそいつが空からまいおりてきて、黒い羽をひろげて、彼をだきかかえて行くような気がした。しかし彼はそれにだきかかえられて行ってそこでそのままにすごして行くという心をさだめていた。そいつがおわったなら、またそこからどこかへ行くのだという風に。やせて色の青い警手は「心配するな、な。」となれた口調で言って、彼をうながした。彼はそのとき、だれにもこいつはこの口調でいいやがるんやろと考えたが、それほど別に心配などしていなかった。山の紅葉が一面に赤く、彼の眼にうつっていた。彼はこのとき上等兵の自分の肩章を一寸顔をふってにらんだ。しかしそれは彼が陸軍刑務所がどういうところであるかを全く知ることがなかったがためだった。彼は刑務所の受付の横にある身体検査場で最初の検査(検身と呼ばれて一定の規定によってなされる身体検査)をうけたときにも、軍服をかまわずぬいで、緑色の囚徒服にきがえ、看守につれられて監房のなかにおしこまれたが、足を十分あげてその入口をまたいだ。しかしそれから一週間たったとき彼は壁に向って坐り、両膝《りようひざ》に両手をのせて眼をひらいたまま身動きすることなく、一日中じっとしているということがどういうことであるかを思いしらされた。規定は囚徒から自由をうばう目的でつくられていたが、それは手足・眼・鼻・眉・耳などを動かす自由を奪いとった。それ故眼をまたたくことや、かゆいところをかくこと、首をふること、顔をしかめることなど、いわば自然動作というべきものももちろん禁ぜられた。それをするためには看守の許可を必要とする。とすると許可なくしてできることは、自由に呼吸するということだった。
四
そして二週間たったとき木谷はもう塩菜《しおな》のようにぐったりしていた。夜の九時になって彼はようやくこのような規則から解放されて寝床にはいることができた。彼は規定にしたがって細くたたんだ毛布のなかに身体をつっこんだ。彼は毛布のなかで眼を瞬いたり、手で腹をさわったり、陰部にふれたりした。看守たちは覗き穴から全身がみえる位置に木谷をねかせて、規定の寝方をとるように注意した。
「おい、七十五号、木谷、お前もう影あらへんやないか。……え。そんなに背中まるめたりして反則だぞ、ちゃんとしてるんや。ちゃんと手を膝の上において肘をはって正坐してまっすぐ前の壁をみんか。眼をぱちぱちしてはいかん。なに? お前、背をまっすぐにしてることができないのか、え、とうとうお前もくたばってきやがったか。」いつも張番《はりばん》看守になったとき、彼の房にからかいにきた色の白い男振りのよい背の高い看守は或る日覗き穴から声をかけた。たしかにこの頃、木谷はもう全く元気を失って房のなかでまっすぐに正坐の姿勢をたもっているということができなくなっていた。木谷はのちに刑が決定して作業にでるようになってから、陸軍刑務所に於《おい》ては未決囚よりも既決囚の方がはるかにらくだと感じたが、彼は当時毎日夜の九時がくるのをまち、朝の六時がくるのをねながらおそれていたのである。木谷が体を動かすことのできるのは朝六時に起床してから点呼までの十分間の洗面と房内掃除のときと、検察廷にでて行く出廷のときとであった。……六時に起床の鐘がなると、木谷は毛布を所定の大きさにたたんで扉の右手にかさねておいた。それから扉の前一尺のところにひろげてある雑巾を取って床をこすった。そして彼は立ち上って柱、壁、扉などをこすった。彼はこの自分の身体を動かすことのできる時を利用しようとして、雑巾を使ったが、やがて彼の身体はふらふらとして動悸《どうき》ははげしくうち、血はまるではじめて動きはじめたように頬と腋《わき》の下の辺りにあつまって全身は酒に酔うているかのような状態になっていた。ああ、しかし僅か十分後には彼は雑巾をもとの場所にもどして、動きのない世界に正坐しなければならなかった。
「おい、七十五号、上等兵、お前一体どないしたのや、肩の骨がでてきたやないか、え、飯くうてんのか。え、お前のチンポ、もう、形もあらへんやないか。」その後しばらくしてからまたあの色白の男振りのよい瀬川看守が監房検査にきたとき木谷にあびせかけたが、木谷はもはやその悪口に対抗できる気力を失いはじめていた。……この若い看守は、この石切近辺の不良上りだったが、支那事変の初期、兵隊生活をおえて伍長まで昇進し、満期除隊後徴用のがれのために軍属を志願し、看守試験をうけたということだった。彼は監房の見廻りもいたって大ざっぱで木谷をよくからかったが、木谷はいつもこの男の言葉によってまるで鏡の前へはだかでたつ思いをさせられたのだ。
瀬川看守は看守長が傍にいないと知ると、毛布の検査や便器の検査や扉の検査は略してしまったが、身体検査だけはやはり規定の順序にしたがって行った。規定の検身の作法というのは房内に囚服をぬぎ、両手を水平にあげ、看守の号令に従って、両手、両足、頸部《けいぶ》を動かして検査をうける方法だったが、手、足、口、耳、頭、背、足の裏の順序で肛門《こうもん》が終りだった。
「右足あげて、左足あげて、向うむいて、よし、そら、向うむいて、四つんばいになって……なんやな、お前、尻の穴までたるんでもたあるやないか、お前、ほんまに長うないぞ。」瀬川看守はいったが木谷の色の黒い顔は真赤になって行った。木谷はいつもやってきては彼にいやな鏡をつきつけたこの看守を忘れることはできないが、彼が既決囚になってからみたこの看守のにくたらしい姿もまた、このときのいやらしいイメージと重なっている。……木谷はこの看守がしばしば炊事にはいりこんで、炊事囚のとめるのもきかず、傍の茶碗を大鍋《おおなべ》のなかにつっこんでは、囚徒の菜汁をかすめとっているのをみたが、木谷の瀬川看守にたいする憎しみは頂点にたっしたのだ。「所長のやつ、けちけちしやがって、この頃は汁ものんではいかんとぬかしよる。わしは刑務所長として看守よりも、囚徒の方がかわいいなんて、会議で訓示しやがる。」瀬川看守はあつい汁のはいった食器をふーふーと口でふきながら、ぶつぶつと所長や看守長の悪口をいいだすのだ。
五
木谷の軍法会議に対する疑いはいまも消えるべくもない。そして検察官にたいする憎しみをどうして取り去ることができよう。……彼は全く衰弱した状態にあるとき、検察官から金入れを服の内ポケットから取ったことをみとめるように次第においつめられ、ついにそれをおしつけられてこばみきることができなかったのだ。それを思うといまも彼の体のうちにあらあらしくあれまわるものがある。……何故あんなに弱りこみ、検察官にうまくおさえられてしまったのか、……それも全く彼が元気をなくして弱りはててしまっていたからなのだ。……検察官は「取った金入れは決して落ちていたものではない。それは便所の目隠し板にひっかけてあった巡察将校服のなかにあったものである。お前はそれを上衣の内ポケットからぬきとり、紙幣だけをかくし、小銭の方は自分の金入れに自分の金とまぜて入れた。」という判定をもって彼にせまってきた。木谷はしばしば弱々しげに検察官に抗弁したが、このとき検察官が彼の弁明からひきだしてきたものは、木谷が反軍思想をもっているという結論だった。検察官が取ったその取調べの方法、その論証のすすめ方はたくみだった。彼はそのおだやかな口調と冷酷な叱咤《しつた》とを交互につかって木谷をたびたびおびやかした。もちろん木谷は検察官のそのような検察にたいしてどうするというてだてももってはいなかった。……
木谷の軍法会議に対する疑いは取調べがすすんで行くにつれていよいよ深くなり、たしかになって行ったが、彼は雑居監に入れられていたとききいた一人の一等兵が言っていたことをよく思い合わせた。それは軍法会議を何度かくぐってきたものが吐きだした言葉であって、木谷の裁判を受ける態度をいましめるものをもっていた。もっともその一等兵は軍法会議も検察官も全くいい加減なものやといいながらも、それをのんびりとそのまま受け入れ、何回も刑務所生活をすごしてきたのである。木谷は全く衰えて自分でも心細い状態になってしまった自分の体をみながら、その男のことを思いうかべたが、この男の言ったことというのは、非常に簡単でばかばかしいことであったが、なんでもよいから公判廷でも、検察官の前でも、しくしくと泣いてみせろということだった。……もちろん木谷はこの男の言ったことを実行するなどということはできはしなかった。彼は公判廷でも検察官の前でも泣くなどということはなかったのだ。しかしこの一等兵の言った言葉はいまもまた木谷の頭のなかにうかんでは、彼の頬を一寸ほころばせ、ちぇっとひどい舌打ちをさせるのである。
木谷は自分が最初はいった刑務所の東側の谷川ぞいの松のしげみに面した東雑居監で、その一等兵に会ったことをおぼえているが、一等兵は房の責任者のような位置にいて、はいってきた木谷に毛布や枕をもってきて、そのたたみ方や食器の取り扱い方などを教えてくれたのだ。……未決囚たちは看守が隣房の見廻りに行ってかえってくる間を利用して、すばやくいろんな言葉を取りかわした。彼らはののしり合い、口論し、食事のときには飯と菜《さい》とをたくみに交換した。そして木谷は三度目にはいってきたというその体の小さい平べったい顔をした一等兵から、一日に一回一枚しか支給されないちり紙を大便の回数をふやして余分に看守から取る方法とか、正坐をつづけてしびれのきれないようにする方法や、如何にして空腹をふせぐかなどということをおそわった。彼は木谷の向い側にある、やはり歩兵部隊の百十一部隊の機関銃中隊の三年兵だった。彼は木谷には逃亡で六カ月と一年の懲役刑二回をすませたといっていたが、窃盗罪の方はかくしていたようである。(木谷は他のものにきいてそれを知ることができた。)しかしこの刑務所なれのした一見薄のろのようで、裁判に精通していることをほこっている男が、なめきった口調ではなした軍法会議の裏の話は、はじめて裁判をうける木谷の心をときほぐし、やすらかにした。もっともそれはむしろ木谷に裁判をあなどらせるわるい影響をあたえたのである。その一等兵は検察官を馬にたとえ、おーら、おーらという馬を手なずけるときに兵隊のつかう用語を用いて言ったが、彼によると一番注意しなければならないのは、検察官の前に出るときと、そこを去るときの態度であった。それから公判のときには直立したままの姿勢で泣かなければならないと彼は言った。しかし木谷が軍法会議というものが全くこの男のいう通りのものだと知ったのはもっとのちのことだった。彼はむしろそれをきいたときにはその男のいうことはあまりにも誇張にみちたでたらめなもののように思ったのである。いやむしろ木谷はほとんど最後までその男の言葉を信じかねていた。しかし彼は不思議なことにふたたびこの一等兵に会うことはできなかった。この男は刑がきまったら看守の手の入れかたはまたおしえてやるからと言ったが、木谷が刑が決定して或いはこの男に会えないだろうかと刑務所内を気をつけてみてみたが、調練の時間も、作業の時間にもその姿をみつけることはできなかった。彼はその一等兵が或いは病気になって病院送りになったのではないかと思ったが、それをたしかめるてだてというものはなかった。もちろんこの男が無罪釈放になったなどとは彼には考えることはできなかった。木谷はときにこの男が一等兵であることに優越感をもったが、やがて彼もまた上等兵の階級をうばいとられて同じように一等兵になったのである。
六
岡本検察官は若いにかかわらず頭の頂上のところが薄くなって肌地がかがやいていた。彼は看守にともなわれて控室の方から取調室へはいってきて敬礼し、着席する被告を観察し、その表情、態度、言葉つきから材料になる何かをよみとろうとかまえていたにかかわらず、如何にも面倒くさそうなそしらぬ態度をしてみせた。しかし彼は木谷に敬礼の仕方がわるい、お前は敬礼の仕方を上等兵にもなっていてならっていないのかとやり直しをさせたことがある。……彼は細く長い眼と細く長くさきのとがった鼻をもっていて、額の両側が深くきれ上っており、その頬はまるでふくみ綿でもしているかとおもえるほどやせているようにみえたが、実際はそれほどやせているのではなかった。彼の上背のある体はどちらかというとどっしりとしていて、廊下を重味のある足音をひびかせて渡ってくるとき、木谷の心は緊張した。彼は新しい軍服をつけ、香水の匂いをぷんぷんさせ、長靴《ちようか》を十分手入れさせているこの検察官をみて、彼の想像していた検察官の姿とちがっているのにびっくりした。もちろん彼は検察官という名前さえはっきり知らなかったのであるが、乱暴な憲兵のようなものを想像していたのだ。検察官は経理室の将校などと同じようになかなかの洒落《しやれ》者《もの》で、顔や手もいいつやをしていて、その給与状態が非常によいことを感じとらせた。
木谷の取調べは最初彼が刑務所にはいって二日目に行われた。彼の取調べの順番は二番目であったので、くらい狭い控室の固い長椅子に手錠をはめられたまま、順番がくるまでのこりの未決囚と背中合せに腰かけていた。……検察官は看守に手錠をとらせたのち最初全く事務的に木谷の姓名、本籍、部隊名、父母、兄弟などについてたずねた。その声と言葉つきはいかにも木谷の心をなでるように温和だった。それは木谷の不安をいくらか取り去った。彼は眼をあげて検察官の顔をみた。すると検察官はつづいて憲兵からの報告書にもとづいて木谷の犯罪行為についてききとって、「おい、木谷、お前はばかなやつだな、お前、これで一年以上ははいらんならんことしってるか……お前それと知ってやったんやな。」と言っていたが、突然声を大きくして、「おい、木谷、お前みたいな兵隊が、日本にふえてきたら、一体この日本はどうなるのだ。」とどなった。それは木谷の全く予想していない大きな声だったので、彼はどきっとして、体全体がひえて行くのを感じた。彼は何回かうつむいては顔をあげた。とその度に彼はするどくなった検察官のきつい眼にぶつかった。
「どうだ。」
「はい。」
「はいじゃ、わからん、どうじゃ。」と検察官はテーブルの上にのりだした。
木谷は下の方をむいてまた「はい。」と言った。すると検察官は机の引出しをあけていたが、なかから見覚えのある金入れを取りだした。
「これはお前のものか。」
「いいえ、ちがいます。」
「はっきり、こっちをみないか。」
金入れは以前は手脂がついてつやがでていたが、溝《みぞ》の底で水浸りになっていたため、そりかえって型がくずれてしまっていた。木谷は憲兵隊でもこの金入れをみせられたことがある。
「林中尉殿のものであります。」
「そうか。」
「はい。」
「何時林中尉のものだということを知ったのか。」
木谷の頭はこんぐらがった。彼は返事ができなかった。そして彼は青ざめた。「憲兵隊の取調べのとき、軍曹殿が……これが林中尉殿の持物であると言われました。」
「よし。なぜ、そんなことに時間がかかるんだ。」
「はあ。」
「この紙入れは、便所の目隠し板の下にあったんやな……」
「いいえ、ちがいますです。」
「どこに、あった?」
「一寸はなれた窪地のへこんだへんです。」
「そうか。」検察官は金入れがどういう恰好でおちていたのかを木谷に実際に手でさせてみせてから、「お前はひろったんだな。」
「拾いました。」
「この紙入れは林中尉のものだろう。ひとのものをひろって、だまって自分のものにすることはよいことか、わるいことか……それは罪になると思うか。」
「思います。」木谷は言った。
「思うだろうが……。お前はこれを拾って、自分のものにしようとしたとき、これをとれば罪になると思うたか。」
「さあ――」
「何が、さあなんていわなければならないことないじゃないか。別に考えることじゃない!……思うただろう。」
「はあ、思いました。」
「思うてるじゃないか。なぜすぐとどけでん。」
「はあ。」
「こんな場合には衛兵はどうするか……おちている紙入れを拾うた場合には。」
「衛兵司令にとどけでます。」
「うん、そうだろう。それをどうしてとどけでんか。」検察官は少しもその冷たい表情をくずさなかった。彼は木谷の家庭について質問し、それから山海楼の花枝との関係をたしかめて行った。その関係はいつからできたのか、どうしてできたのか、どの程度のものかという問にたいして木谷は半年ほど前に戦友につれられて一緒に山海楼に行って花枝に会ったこと、それ以来、外出日には必ず、山海楼へ行っていることを答えた。検察官は山海楼の登楼代は一回いくらだときき、大体三円から五円にきまっていたと答えると、上等兵の俸給と比較してみて、外出日には必ず登楼していたとすれば、この俸給ではとても不可能である、これまでどのようにしてその金をつくってきたかを問いつめた。
「五円というと上等兵には大金だろう。父親は死んでいる。兄はもう送金はしてくれないといっているのに、一体どうして外出ごとに遊廓《ゆうかく》の花代《はなだい》が上等兵の俸給でだせるのか。」
木谷はその少し前にといつめられて、花枝のところへは外出ごとに行っていたことをようやく言わされたところだった。それはすでに憲兵隊の方で調査ずみのことだぞと検察官は言ったのだ。
「可愛がってもろて、女に持ってもろたか。」検察官は顎をつき出して一寸皮肉な表情をしたが、すぐ木谷をつきはなした。
「いいえ。」木谷は言った。
「どうしたんだ。」
「へえ、戦友に借金たのんでますんです。」
木谷はようやくにして最後に言ったが、彼はこのときになって、自分が経理室にいて外部にもちだし売りとばした品物のことが、ばれてしまいはしないだろうかと不安になっていた。
「戦友? 上等兵か、一等兵か。」
「はあ、一等兵であります。」
「上等兵を笠にきて無理やり出させたのとちがうのか。」
「そんなことはしておりませんです。」
「そんなことはしておらないというが、それには、俺はよくぶつかっているぞ。お前が戦友に借りた金で女の登楼代金をはらってきたかどうかは、いずれお前の戦友を調査すればすぐにわかることだ、うそを言ってもだめだぞ。」
しかし検察官がその戦友の名前をききとらないので木谷は心を安めた。向う側に坐った、少尉の軍服をきた検察官は、調査の用紙を重ね合わせて、しばらくまっすぐどこかをみて考えていたが、今日はこれでおいとこうと言った。……その日の取調べはそれだけで終ったが、検察官はその終りごろになるともうその言葉をどんどんはしょるような形で検察をすすめていった。彼はあまりにも急激に増加する犯罪件数のために非常に多忙にみえた。事実彼は取調中にも一度呼ばれて木谷を放っておいて事務室の方へはいって行き、そちらの方で打合せをしていたが、しばらくの間出てこなかった。
「よし。もうよい。お前はもう一度きて、聴書をつくる。お前はかえったら、向うで自分のしたことをよく思いだすように考えておくのだ。お前が金入れをひろったのか、それともとったのか、そこのところを十分返答できるようにしておくんだ。いいか。おい看守、そちらにいるか。」検察官は鋭い眼を一寸みせておいて、控室にいる看守をよんだ。
「はいっ。」控室であそんでいた看守はあわててとんできて木谷の後にたって号令をかけた。
「起立。」……木谷はたって不動の姿勢をとった。「敬礼、直れ。」検察官はそれを受けるとせかせかとして事務室の方へ靴音をならしてはいっていった。
木谷はそこで手錠をはめられて控室にかえってきたのである。彼はそこをでるときには壁ぎわにおしつけられた人のように青ざめていたが、かえってきたときには取調べというものを半ばなめるような気持になっていた。彼は検察官がむしろ自分の側にたってくれているような気さえした。そして彼はそれは或いは中堀中尉が師団の方から特別に彼のためにやってくれているためではないかと考えたりした。彼はただ検察官が一年以上の刑という言葉を使ったのが気がかりだった。看守たちの意見では半年、多くて八カ月位だろうというのである。
木谷が控室で次の三番目の未決囚の取調べがおわる時間を待っていると、作業服をつけて身体中ほこりにまみれた、やせっぽちの、ひょろひょろした汚い青年が警手に右腕をつかまれてはいってきた。彼は動くとくさい匂いがした。首筋はとくに黒く何か腫物《はれもの》ができていた。青年をひきずってきた警手がその手をはなすと、彼は床の上にそのままどーっとぶったおれて、「許して下さいよう、許して下さいよう。」と声をあげていたが、やがてつきだした両足をがたがたふるわせはじめた。
「帰りに、これつれてかえってや。」警手は言った。
「はいっ。しかし、こいつ、虱《しらみ》もってやがるんやろ。また洗うたらんならんな。」看守の方は嫌悪にみちた声をだし、顔をしかめてみせた。木谷は逃亡して逮捕されてきたその兵隊の弱々しい態度を見下げていた。木谷は検察官の取調べは憲兵隊と同じように、ごう問をともなうものだと考えていたので検察官がなんら腕を用いないで取調べをすませたのが、少しばかり不安であった。
七
次回の取調べは三日後に行われたが、それはほとんど第一回の取調べの反覆のようなものであり、検察官の調子もまた変りがなかった。ただ検察官は風邪をひいたといって狭い取調室の冷たい空気にふれて肩をすぼめ、手をこすり合わせた。彼はこの前のときにはこんどは聴書をとるからといそぐようにいいながら、別にそれほどいそいでいるようにもみえなかった。彼は木谷にもう一度、手に入れた金入れを手にしたときの状況をたずねた。そしてお前はこの前金入れは拾ったと答えたが、やはり拾ったにちがいないかどうかとたずねた。検察官はちがいないなと念をおし、いまのうちにちがっていたのならちがっていたといえ、あとでちがっていたことがわかれば、承知しないぞと言った。そして取調べの中心は木谷が金入れを拾ったときに、それが巡察将校の落したものであることに気づいていたかどうかという点に向けられて行った。木谷は気づかなかったと答えるほかなかった。
「気づかないというはずはないだろう。」
「自分は林中尉殿は衛兵所にいられるものとばかり思っておりましたです。」木谷は言った。
「ふん。しかし衛兵所にいようとどこにいようと変りはない。林中尉が巡察中に金入れをおとすということもある。」
「はあ……、しかし林中尉殿はそのときには全然巡察はされないでありました。」
「巡察しなかった? うそいえ。林中尉は巡察はしてるじゃないか、衛兵所までちゃんと行ってるじゃないか。」
「はあ、いえ、巡察にはこられたのでありますが。」
「巡察はしているだろう……」
「はあ……、でも衛兵所のところを一寸みただけですぐ仮眠所の方へやすみに行って、立哨《りつしよう》場所へはでて行かれなかったであります。」
「巡察には行っている。立哨場所へは行かなかったかも知れないが巡察はしている。しかし便所へ行く途中におとすということもある……これが兵隊の持物ではないということ位はすぐわかるはずだ。兵隊がこのような大金をもっているはずはない。」
「はあ、いいえ……しかし……」
「林中尉の持物だと気づいていたのだろう……」
「いいえ、……」
「気づかないはずはないじゃないか……」
「はあ……しかし自分は気づきませんでした。」
「なぜ、気づかなかった? 誰のだと思った? 兵隊のだと思ったか?」
「はあ、そう思って自分は、それですぐ衛兵所にとどけでようと思って……」
「聴書にもお前はそういっている……しかし、なぜ、とどけでん。」
「はあ……」
「しかしすぐお前は兵隊のものでないことに気づいたろう。」
「はあ……」
「兵隊のものではないと気づけば、林中尉のものだということがわかっているではないか……」
「…………」
「お前はこの金入れから金を取りだして、金入れの方は証拠を湮滅《いんめつ》するためにうらの溝のなかにうめた……そうだな……」
「はい……」
「そのときにお前はこれが巡察将校のものであることに気づいていたはずだ。」
「…………」
「気づいていたろう。言え、いわないか。」
「いいえ……いえ、自分は……別に……気づかなかったであります。」
「何? 気づいていない……うそいってはいかん。じゃあ、一体、これは誰のものだと思っていたのだ。」
「はあ。」
「気づいていたのだな……そうだな……。言ってしまうべきことは言ってしまうのだ……いいか……そうだな……」
「いいえ、自分は気づいてはいなかったであります。」
「では、誰のだと思っていたのだ。兵隊のでもない、林中尉のでもない……。しかしその他には誰一人あそこにはいることのできるものはいないのだぞ。」
「はあ……しかし……自分は別に、なにも考えなかったであります……」
「しかしお前は、金入れをあけて中味をしらべている。ここには朝日座の割引券がはいっていたと言っておる。お前はなかをあけてしらべたとき、それを考えなかったなどということはない……本当をいわないか……本当を……」
「はあ……」
「お前は便所に行く目的でそこまで行ったと言っているが、何故、金入れを拾ってから便所に行くのを中止したのか……」
「はあ……、行かなくとも、辛抱できたからであります……そのとき金入れをすぐに衛兵所にもって行ってやろうと考えて……引き返したのであります。」
「そうではないだろう。……辛抱できるくらいなのになぜ便所に行くことがあるか……。そうではないだろう……お前は便所にはそのとき林中尉がはいっているということに気づいていた。……それでそのために便所へ行くのを中止したのにちがいない……でなければ衛兵所にとどけるのは、別に便所をすましてからでも、同じようにできることではないか……」
「はあ……。しかし自分はほんとになにも知らなかったのであります。自分は歩哨交代のある度に便所に行くことにしていて、そのときにもいつものとおり便所をすませておこうと考えて、行きましたですが、別にそれほど、行きたいから行ったというわけでもありませんのです……」
検察官は風邪をひいていて、体が冷えるからといって、この日は取調べをすぐにきりあげた。彼は木谷にうそをいってあとからわかったりしては承知しないぞと幾度もくりかえしてから、金入れが林中尉のものとは知らなかったのだなと念をおした。彼は今日はつかれていてこれ以上調べができないから、次にすると言ってすぐに木谷をつれていくように看守をよんだ。
八
次回の取調べは二日後にあるといわれていたが延期され、その間に木谷は雑居監から独居監へ移されていた。そして一週間後に彼が出廷したときには、検察官の態度は変っていた。彼は兵隊が遊廓に登楼することはよいかわるいかという問を真面目とも戯談《じようだん》ともつかない形でしながら、木谷がわるいと答えると、何故わるいかと問い、木谷が答にきゅうしてしまうとそれをみちびいてお前のように金につまって兵隊の勤めをおこたりついには他人のものをとるに至るようにさせるからじゃないかという結論にもっていった。それから彼は再び木谷が金入れを拾ったというのは、はたして真実かどうかという点を検討して行った。そして彼はこれまで木谷が行った陳述をすべてくつがえしたのである。
「木谷、お前は金入れをひろったとき、それが林中尉のものだということを知らなかったといっているが、うそだろう。本当のことをいいなさい。」検察官の言葉は前回よりもやわらかくやさしかった。
木谷はそれを否定した。
「うそいいなさい。お前が知っていないなどということはない。」
「…………」
「林中尉にきてもらってしらべてみたが、あらゆる点からみて、お前がそれを知らなかったなどということは考えられない。」
「いいえ、自分は知らなかったであります。」
「いいや。知っていた。いまのうちにほんとうのことを言うなら、俺もお前をみてやるが、あとからうそだということがわかったら俺は承知せんぞ……調べてわからないということはないのだから。」
検察官はそれから木谷の仕事の内容をたずね、何故お前は経理室勤務を中途でやめるようになったのかときいた。木谷は自分が経理室勤務をやめたのは決して勤務成績がわるかったためではないことをのべたが、検察官はしらべればすぐわかることだからといったきりだった。彼はもう一度木谷に金入れをひろって自分のものとして始末した模様をききとった。木谷は同じ陳述をまた繰り返した。しかし検察官は木谷の陳述をききおわると、「お前は金をひろって衛兵所へとどけでようと考えて歩いて行ったといっているが、一体何歩ほどそこからあるいたのか。」ときいた。
「十歩、十歩ほどであります。」
「わずか十歩位あるく間に、それほど簡単に衛兵所へとどけでようと考えていた考えがかわるものかな。」
木谷は少しうろたえた。「はあ、いいえ、二十歩位、いや、もう少し歩いたかもしれないであります。」
「二、三十歩位、それ以上だとするとかなりあるいたのだな……」
「はあ……」
「そこまで行って、気がかわって、金がほしくなって、引き返して竹藪《たけやぶ》の方へ下りて行ったんだね……」
「はあ……」
「うそだろう。」検察官はいいきった。
「はあ。うそではありませんです。」
「うそだ。本当をいわないか! 本当を。林中尉は便所の中からは、お前の姿をみんかったといっている。林中尉は便所にいる間ずっと窓から前方をのぞいていたといっている。あの便所の目隠し板は、小便所の方をかくしているだけだろう……そうだろう……」
「はい……」
「ところがお前がもし衛兵所の方へ引き返したのならば、林中尉は、そのお前の姿を窓からみていなければならないはずである……。ところが林中尉はお前の姿がみえなかったといっている……」
「さあ、そういうたかて、自分は……」
「そういうたかてとは、何だ……、林中尉がみなかったというのは、貴様が行かなかったからではないか……」
「そんなことはありません、自分は行きましたです。」
「それからお前はなぜ衛兵所からまっすぐに便所に行かなかったのか、便所へ行こうと思ってきたのなら、あんな左の窪地の方へまわるはずがないではないか……」
「しかし……それは……」
「それに窪地の方に廻ったにしても、目隠し板のところにかけてあった将校服が眼にはいらんなどということはないだろう。」
「はあ、しかし、……それは、自分には見えませんでした……」
「見えなかったのが、おかしいといっているのだ、それにだ、まだあるぞ。衛兵所から便所へ行ったものなら、やはり便所の窓からお前の姿がみえなければならないのに、林中尉はみえなかったといっている……」
「…………」
「衛兵所から便所へ行く途中に植込みがある。それ故に便所の窓からはそこまではみえないが、それをとおりこせば、そこをあるいているものの姿は、はっきりみえるはずである……ところが林中尉はお前の姿は便所の窓からはみえなかったといっている。」
「いえ、自分は衛兵所から便所へずっと行きましたです。しかし、途中から、便所の方へは行かず……こっちの方へ……」
「どっちへ廻ったのか……こっちとは。」
「はあ、こっちの方へです……」
「なぜ、廻ったのか……」
「なぜというても……」
「なぜ、廻ったのか……」
「…………」
「便所の目隠し板のところに将校服がかかっているのを、植込みのところからみつけたからだろう……」
「…………」
「お前はそこに将校服がかかっているのをみて、……便所の窓からみられないように、大廻りをして、そこへ近づいて行った……。そうでなければ、窓のなかの林中尉にみえないはずがない……」
そしてもう調査は十分できているのだと繰り返した。検察官はそれを認めるのならば聴書をとって公判にかけるが、それが認められないのならば、しばらくの間このままでほうっておくより他にないというのだ。彼は林中尉の言葉だけを採りあげて木谷のいうところは全くかえりみないという状態だった。木谷は、もはや取調べに希望をもつことができなかった。しかし彼はまだ或いは執行猶予のような判決が下されないでもないと考えて、それにのぞみをかけていた。彼は金入れは拾ったのであって取ったのではないということを前と同じように繰り返しのべた。彼の言葉はすでに弱々しかったが、彼の体は独居房に移されてから眼にみえて衰弱し、気力もまた全く弱っていた。すると検察官はそれではどうしようもない、聴書には取りかかることはできん、しばらくこのままにしてほうっておくぞとおどすように言った。木谷は林中尉殿のいわれることは全然うそです、自分は最初金入れをひろったのです、林中尉殿にあわして下さい、お願いですから林中尉殿にあわして下さいと声を大きくした。木谷の声は上《うわ》ずり変っていた。彼は林中尉殿は経理委員だったころからすでに経理室でもみなからまともと思われてはいなかったのだから、そんな林中尉殿の言うことだけを信用しないで下さい、それではほんとに不公平です、どうか一度でよいから林中尉殿に会わせて下さい、そしたら、いままでわからなかったこともみんなはっきりしますとあえぎながら言った。検察官は怒りの上った顔をあらわに横にむけてみせた。彼は冷たい態度で首を左右にふった。静かにしないか、こんなことではもう俺は調べをつづけない。おい、木谷、勝手な申立ては絶対に許さん。そんなにさわぐのなら、いまからすぐお前を石切へおくりかえして、もう、こっちへこさせない、と彼は言った。
木谷はそういわれても林中尉殿のいうのはちごうてます、絶対にちごうてますといいつづけた。
「まだいうか、黙らないか。ちがっていない。お前は俺が林中尉の陳述だけをみとめているとけしからんことをいうが、そのようなことは言わさんぞ。俺がみとめるのは調査してその上で正しいからみとめるのだ。お前のこれまでいったことなど、うそとでたらめばかりじゃないか。それがどうして認められるか。俺は林中尉が巡察将校だからといって、そのままその言葉を採りあげるようなことはしていない。だまれ。林中尉はお前に対して特別ふくむところなどは何もない。ただ巡察の責任をあくまでもはたすために、仕方なしにお前を検察の方へ手渡した、お前がどうしてもほんとうのことを言わないから、それをしらべて追及してもらうために、そうするほかなかったといっている……」
木谷はさらにまた林中尉にあわせてくれ、そしたらみんなはっきりするからと声をひくようにして言った。が検察官は、「できない。これほど言っても俺のいうことがわからないのか。そんな勝手なことをいって何だ。会わせる会わせないはその必要をみとめるかみとめないかの検察官の判断にあるが、自分はいま会わせる必要をみとめない。この忙しいときにこのような事件にこれ以上手間どっていることはできん。」というだけだった。「お前はよくないぞ、方々からくるお前の報告はどれもこれもよくない。」とさらに検察官は言った。
木谷はもういう言葉がでてこなかった。「自分が窪地のところで金入れを拾うたことはまちがいありませんです。」彼はいいつづけた。彼はほとんど泣きそうだった。
「検察官殿は林中尉殿のいうことは正しいとみとめて、自分のいうことはでたらめばかりやといわれますけれど、それは林中尉殿が経理委員のときどんなことをしたか全然知られないからです……林中尉殿がどんなことをしたか……林中尉殿は……」
「林中尉殿がどうしたのだ……」
「……林中尉殿は……林中尉殿は自分らよりももっとわるいことをやってます。」
検察官はしばらくの間黙ったが、木谷の言葉に少しも動かされなかった。
「黙りなさい。今日はこれでおく。」
「林中尉殿に会わせて下さい。自分は何も別に罪が重うなる軽うなるでいうてるのやありませんです。」
検察官はこの木谷の後の言葉にひどく気を悪くしたようだった。彼はこれではお前の取調べはできないからしばらくほうっておく外にないと言って取調べをおわるとつげた。「それから林中尉のことについて何か言ったが、それはとりあげない。」彼はいいそえた。
九
木谷は次回の取調べのときまでに一層ひどくよわって行った。彼は一日中正坐して、腕や手や眉を動かすことのできないという時間におしつぶされた。彼は刑に服して隣の房で封筒はりの作業をしている既決囚のことを考えると既決囚には毎日作業をする義務があったが、その義務はじつにはるかに幸福なものに思えた。すると彼は金入れを軍服のなかから取ったという検察官の主張をなんでもよいからみとめて、はやく公判をひらいてもらい、服罪して作業につく方がどんなによいだろうかと思ったのだ。彼は次の取調べのときには林中尉がどんなことをしているかを検察官に言ってやろうかどうかと考えていたが、林中尉のやった持出しをばらすならば、それはただちに自分の身にも及んでくると考え直していた。彼は林中尉だけではなく中堀中尉も山屋大尉も金子伍長も、ほかの兵隊もみんな自分よりもはるかにひどいことをしているのだということを考えてようやく自分を慰めた。
ところが検察官の方はその間に木谷に関する特別な調査をしていて木谷をおどろかせた。彼は木谷がもっていた手帳と通信紙綴をもってはいってきたが、それは、木谷が整頓棚《せいとんだな》のうしろの私物をつつんだ風呂敷づつみのなかにしまってあったものだった。彼はさらに花枝宛に出した木谷の手紙類をも紙の袋に入れてもっていた。
「木谷、お前はこの前、林中尉にたいしてよくないことを言った。よくないことというよりもそれはおそろしいことだ。お前は林中尉がまるで何かわるいことをしてでもいるかのような口ぶりをした。あれが兵隊のいう言葉か。きいていてじっさい俺はびっくりして、お前をどうあつかってよいかわからなくなった位だ。林中尉がどうこういうことは検察官がみるべきことで兵隊が口にすべきことでない。……」検察官は言ってじろりと木谷をみたが、木谷もまただまって彼を見返した。
「お前はこの前林中尉が自分よりももっとわるいことをやっていると言ったが、それはどういうことをいうのか。」
「はあ、どういうことというて、自分は別に……」
「別になどということはない。お前は言ったろう。」
「はい、いいましたです。」
「それなら、はっきりいえばいいではないか。お前はどういうことをいうのかいってみろ、……いわないか。」
「…………」
「いえないのか。」
「いろんなものを外に持ち出したり……」
「いろんなものとはどういうものか。」
「砂糖や靴下や……米やいろんなものです。」
「ふん、それをもちだしたり……」
「倉庫の下士官と一緒になって処分したり……いろいろありますです。」
「お前のしたこととそのこととどういう関係があるというのか……お前は林中尉をわるくいって自分のしたことを取り消そうというのだろう。しかしそれは取り上げない……。お前が兵隊としておそろしい考えをもっているということはすっかり解っているぞ。」
検察官は木谷の前に手帳と通信紙綴と手紙の束をとりだした。その手帳には、最初の方には軍歌や歌謡曲が、つづいて満期操典、かぞえ歌、それからどどいつ、さらにつづいて歩哨の守則などがうつしてあったが、その終りの方の頁《ページ》に、隊長や班長や林中尉や中堀中尉、さらに准尉や、班の先任上等兵などにたいする不満がかきちらしてあった。検察官は木谷にその箇所をあけてみせた。しかし一体これをどうするというのだろうか。木谷は心の底までひえて行きながら思った。たしかに彼にはそこにひとにみつけられてはいけないことを書きつけたおぼえはあるが、それがどうだというのだ。それにそれはほとんどひきちぎってしまってある。
「俺はおどろいてお前の調査をもう一度やらせたが、お前が、兵隊としてじつにおそろしい考えをもっていることがわかった。」検察官はふたたびくりかえした。木谷は検察官の言葉がおそろしいひびきをもって耳のなかになりわたったようで、身体をふるわせた。たしかに彼は兵隊のもつべきではない、よくない考えをもっているのだ。
小さい手帳の頁には上官にたいする悪口がかいてあった。それはもちろん彼が自分で考えついたものばかりではない。兵隊たちがよく口にしている面白い文句などもあつめて彼はかいたのだが、林中尉のところには気狂《きちが》いはよう死にやがれとあり、中隊長のところには穴だらけの蓮根野郎などと書いてあるのだ。准尉のところには、どあほ、石あたま、下瀬中尉の下には、家は新築、妾《めかけ》は五人、兵隊商売やめられないなどとかいてある。これは木谷が事務の合間に古い兵隊の手帳からうつしとったり、それにならって自分でも考えだしてかきつけたものだった。しかしこのようなあだ名をかくこと位がどうだというのだろう。こんなことは一寸《ちよつと》古い兵隊ならばみんな口にしていることではないか。しかしその次の頁には、あほんだら、この仕返しはきっとする、将校がこわいか、将校がこわいか、将校がこおうてちんと兵隊になってるんやないぞ……将校が毎日してることは一体あらなんや……などと書いてあり、その次には、「将校商売、下士勝手、兵隊ばかりが国のため」という通り文句のうしろに、「みんなうまいことしてやがる、こんな軍隊にはようおさらばして、しゃばにだしてもらわんことにゃあ、にゃんともならないわいなあ」という猫言葉がつけてあった。たしかにそれは彼が破りのこした部分である。そこにはそのような兵隊たちの間で流行したり、代々昔から兵隊の間につたわって行きわたっているいろんな文句がうつしてあったのだ。しかしそれにしてもそれが一体何だというのだ。通信紙の方はまだ新しく最初の方には、軍隊で使う食糧品目の名前と兵一日の給与のカロリー計算など経理検査のときの受検準備のためのノートがかき入れてあるだけであったが、その終の頁には、
兵隊はなぐればなぐるほど強くなり
御用商人はしかればしかるほど出し
部隊長ははこべばはこぶほどよろし
などという文句がかいてあった。
しかし木谷がもっとも恐れたのは花枝宛の手紙が袋のなかから取りだされたことであった。その手紙は部隊の検閲をうけていないもので、発信場所ももちろんでたらめのものである。それ故にそれはそれだけで軍規にふれるのだ。検察官はよんでみろといって手紙の束を彼の前にさしだした。木谷はじっと動かなかった。検察官はまたうながした。木谷はその一通を手にとったが、花枝の手ざわりがそのまま手紙からくるようであった。すると彼の手は身体が弱っているのと緊張のためとでぶるぶるふるえた。彼にはどうして花枝が彼の手紙をひとに手渡すようなことをしたのか、解らなかった。それは憲兵達でさえ取りだしてこなかったものである。そして花枝は以前それはね、誰にも渡しとうない、あんたにかて返さへん大事なものと言っていたのである。
「花ちゃん、どうしています。自分はいま皆が寝台にもぐりこんでから、将集《しようしゆう》の二年兵戦友のところにきてこれをかかしてもらっています。ひる初年兵が机の上で手紙などかいたりしたら、それこそ、顔がはれあがるほどなぐりあげられます。ふとい態度さらしてやがるというのです。昨日も点呼のときに掃除の仕方がわるいというてなでまわし、班長は自分ら初年兵をあつめて、石の上にすわらせ、初年兵の責任者として自分をよんでなぐりつけ、自分はじっさいしゃくでしゃくで、しかし歯をくいしばってなにくそ、いまにみろと心のうちで思ってるしかありません。」それはすでに二人が親しくなりはじめたころのものである。木谷はいまは検察官がそれをよませる意図を予感してその先をよみつづけることができなかった。しかし検察官の命令で彼は次を読んだ。「ほんまにひどいところです。自分は毎日夜の点呼が近づいてくるとおそろしい。なにくそと思いはするが、新兵はどんな手ひどいめにあおうと、仕返しすることは禁じられている。花ちゃんはこの間、学校をでて十四のとき岡山の餅屋へ奉公に行った話をしてくれた。水を使うので手がはれあがるのを、主人が水をいやがっていて餅屋に奉公ができるかといって、あん切りの竹べらではれたところをぴしりとやられる話。僕はあの話を思いだすと寝台のなかで涙がでてきてたまらない。僕が十五のときいた町工場の主人も後始末がわるいといってはぴしりとやった。しかし工場の主人はそれでも、まだ情というものがあった。風邪をひいたら、生《しよう》が湯をのめといって、かみさんにつくらせてのませてくれたりした。花ちゃんがあんな話をしてくれるとはいままで考えられなかったので、僕はあれをきいてうれしかった。僕もいままで全く花ちゃんとおなじような目にあってくらしてきたのです。僕はこれまで町工場をでて、一所にじっといつくことができず、方々渡ってきたけれど、どこへ行っても、場所がかわるというだけで、なかみはおなじことでした。僕はそうしているうちにうそをついたりしてずるい人間になってしまった。商売人はうそをつかなければ生きられんとみんないうけれど、僕はやっぱりそれではさびしいです。僕がいま考えていることは、はやく軍隊をおわって、独立して自分の店をもつことです。いつまでも親方につかわれてる身ではつまらない。しかし軍隊ほどいやなところはほかにはない……。ここではみんながひとをだしぬくことばかり考えている。……班長は薄情で、自分がうまいものをたべることができることばかりを考え、一寸したことで兵隊をしかりつける。……この次の外出日にはいつもの時間に行きます、はやくその日がくるようにと思いだしはじめると、このままにならない兵隊稼業《かぎよう》が哀れです。」
これは木谷が将集の当番室へ行って、苦心して少々文章を気取ってかいたものである。検察官はさらに第二、第三の手紙を取りだして木谷によませた。木谷の手紙は次第に兵隊のくるしさをうったえる部分が長くなり、その調子はつよくなっているのだ。検察官はしばらくだまって木谷の様子を観察していた。彼は花枝とは誰か、いつごろ知り合って、どのような関係にあるのかなどということをきいてから、再び取調べにはいって行った。
「この手紙はお前が書いたものだということはみとめるね。」
「はい。」
「ふーん、これだけはお前も否定しないのだな……」
「…………」
「この手紙をいま読んで、お前どう思うか。」
「はあ。」
「この手紙にかいてあることをお前は正しいと思うかどうか……、返事しないか。正しいとはいえないだろう。」
「はい。しかし……」
「しかしじゃない。お前は自分のかいたことが悪いということを知っている、そうだな……」
「はい……。しかし。」
「よし、さらにお前は、この六月×日にあった師団管下の動員についてこの花枝に知らせているが、これが軍機をまもるための法にふれることを知っているな……」
「…………」
「よし。木谷、この手紙にはその上検閲印がないね……」
「よし、それもよし。それから、木谷、中隊長は穴だらけの蓮根野郎というのは何だ。」検察官の声はいよいよ優しくなって行った。「いえないのか……ではきくが、中隊長はお前の何か。」
「はい、中隊長殿は父親であります。」
「班長はお前の何か。」
「はい、班長殿は母親であります。」
「よし、よく知っている。お前は決して知らないのではない……。よく知っていて、その上でこれをかいている。そうだな……」
「いいえ、それは……自分は……」木谷の言葉はもうでてこなかった。
「よし。お前は自分の父親に対して、うちでも蓮根野郎という風にいうのか。」
「…………」
「この間から自分はお前がどうあってもおかしいと考えていた。どうしてもお前のしていること、言うことが納得できないところがある。……自分はどうもおかしいと思って、一つの推理をたててみた。お前は何かかくしていることがあるにちがいない。しかしそれが何かというとやはりはっきりしない。……ところが、今度お前の身辺を整理してみてそれは決して推理におわりはしないということがはっきりした。この手帳に通信紙に手紙がそれだ。これをしらべてみて、いまはおかしいと思えるところは一点もない。……お前はその上、この手帳のうしろを破っているな。これをみてもお前がこれをひとにみられるのを恐れていたことがはっきりわかる。」
「…………」
「花枝も、もうお前とは縁切れするといっているが、お前はどうなのだ。花枝はな、いまではもうひどく後悔してお前という人間がおそろしくなったというておる。どうしてお前ははやく改悛《かいしゆん》して真人間にかえる気持になってくれないのかとないているぞ。その上、お前がいつまでもそのようではもうお前のことを考えるのがおそろしいといっているぞ。それで花枝はもうお前のことはなにひとつかくさず話してくれたが、お前はやはり前からいつも軍隊のことを呪《のろ》っているのだな。」
この花枝のいったという言葉は木谷をつよくどやしつけた。彼は身をひいて相手をきっとみた。もはや彼には自分を支える力はのこっていなかった。
「…………」
「よしこれで、すべてがはっきりしている……お前が巡察将校の物入れから金入れをとったこと……巡察将校であろうが、何であろうが、お前は上級者にたいして少しの尊敬心も服従心ももっていないということ……この二つはきりはなすことのできないことである。しかもお前は金入れをとっておいて、みつかると自分の罪をかるくしようと考えて、それは窪地《くぼち》におちていたのを拾ったのだといいはっている。……」
「…………」
「そうだろうが……それ以外に考えることはできない。最後にそれもうまくいかないということになってくる。すると被害者の林中尉を罪におとそうとくわだてている……。お前はどこまで心のねじけた人間なのだ。」
「…………」
「よし聴書をとる……」
「ちがいます。ちがいます。それはちがいます……」木谷は声を大きくしてはね上ったが、「何をするか。」という検察官の声に席についた。
すると検察官は手帳、通信紙、手紙類についてもう一度、お前がかいたものとみとめるかどうかと念をおして木谷にみとめさせ、経理室からも貴様のものにちがいないという報告がきているといいすてると、この次は聴書だ、よく考えておけとさらに一言いいのこして出て行った。
木谷に対する検察はほとんどそれでおわったのである。あとは検察官がその方向をつらぬくだけだった。木谷がいかにそれに反対しようとしてもがいても、彼はもはや獅子《しし》におさえられたけもののようにその前足でふみつぶされるだけだった。木谷は事態がこのようなところにきてはじめて自分のかきちらしたものが、大きな意味をもって自分を左右するのに気づいたが、それはもはやおそかった。彼は反軍的な思想の持主であり、それ故に将校の持物をなんのおそれるところもなくとった人間なのだ。彼が如何《い か》に検察官に反対しようとそれは反軍思想のあらわれにすぎないことになる。実際木谷は次回に検察官の論証はちがっていると主張し、下瀬中尉が家をたてたというのは決してうそではない、下瀬中尉や中堀中尉と御用商人の間には不正があるので、実際に自分もそれを知っているとのべたが、それは「木谷、お前はまた罪をひとにかぶせようとするのか。」という一言の下にしりぞけられた。
十
木谷が検察官のいうことをすべてみとめて聴書をとることを承認したのは、それからあと二回ほどたってからだった。検察官は「もし木谷がそれをみとめなければ、聴書もとれないし、従って公判もひらけない、お前をこのまま放っておく他ない、自分は他にも事件を受け持っているし、いそがしいのだ。」といって木谷をほうっておいたが、木谷はそれ以上検察官のそのようなやり方に抗《あらが》う力はもっていなかった。彼は検察官の口述する言葉を一つ一つみとめて聴書をとらせ、次々と拇印《ぼいん》をおして、ただ公判をまっていた。そのとき彼の望んでいたことは、一日もはやく公判をうけて既決囚となり、作業にでられる身になることだった。実際彼は公判によって彼の望んでいた通りになったのだ。しかしそれは彼が期待した以上に、いやそれをこえてはるかに、簡単なことだった。……いやほんとうにそれは公判だったのだろうか。彼がおそれていた公判は、傍聴席にはほとんどひとのいない、がらんとした公判廷で、僅か一時間の間、行われておわったのである。
たしかに検察官の論告は、まず木谷が衛兵勤務中、巡察将校の金入れを取ってそれをかくしていた犯罪事実を追及し、つづいて彼が軍の機密をしばしばもらしていたことを明らかにし、このいずれの犯罪行為もともに木谷のふしだらな日常と反軍的な思想とによって生れているという論証によってはじめられたが、それは全くだれか木谷の知らない人間のための論告のようだった。それはじつに理路整然としたものだった。しかし全く木谷にあてはまることのないものだった。木谷は正面の壇上に姿勢を正した白髪頭《しらがあたま》の法務中佐の裁判長をじっとみつめたまま、左方の端におかれた机を前にして論告をすすめる検察官の言葉をきいた。それはもはやいたずらに否認することのできないものだった。それはもちろん木谷が一応すべて自分でみとめ拇印をおしてきたものなのだ。
「被告はじつに神聖おかすべからざる軍にたいして兇悪《きようあく》な思想、感情をいだいているものであります。被告の所持せる手帳はたまたまその心中にいだきおる考えがあらわれたものにすぎませぬが、それを一見しただけでもこのまま軍隊内におくことがいかに危険であるかを知ることができるのであります。その上被告は自分の上官、上級者を非難し批判することをなんらわるいことと感じないものであります。かく手帳にかきとめたばかりではなく検察中にあっても本検察官の前でしばしば、過去に被告の上官であった人たちをあしざまにののしり、まるでそれらの人たちに罪があるかのごとき言をなすのであります。被告が現在、自分の犯行を一切みとめながらなお、そこに改悛の情というもののあまりみられないというのは、じつにおそるべきことであって、本官はこれを如何にして罰するかその方法をもたないのであります。」これが検察官の論調だった。木谷は裁判進行中は絶対に真正面の裁判長の方以外はみてはならないと警手にいいきかせられていたにかかわらず、ときどき検察官の新しい服をつけた姿をみた。彼はそれを繰り返したのでついに裁判長から注意をうけた。
検察官は長々と論じて最後に求刑したが、円顔の温和な口調の裁判長は検察官の論告にある犯罪事実をそのまま採用したのである。もちろん彼は型通りその犯罪事実を一つ一つあげて被告にその通りかどうかを問いただした。
「被告は以上のことを認めるものであるな。」木谷はどう答えるべきかはしばらく迷うほかなかった。しかし彼はついに言った。「はい。」その自分の声は木谷の胸にひびいた。それは一つ一つの犯罪事実にたいして行われた。そしてそれは一つ一つじつに簡単なものだった。黙って裁判長の左右に坐っている裁判官たちは全員首を前後にふった。官選弁護士の型通りの弁護がおわると裁判長は最後に被告の裁判にのぞむ態度をみても、まだ被告には改悛の情があるとはみられない、被告の現在の心境を申しのべよと木谷に命じた。木谷に一体どのような心境があるというのだろう。彼の口はひらかなかった。すると法廷は全くしんとして警手たちももはや出入りをやめた。しかし木谷の口はひらかなかった。
「被告は裁判に不満をもつのか。」
「被告はわるいことをしたとも思わないのか、わるいことをいたしましたと一言いうことができないのか。」
「え、いいから、何でも思ったことをいってみないか、うん。」
「いえないのか。裁判長のいうことがきけないのか。」
裁判長はついに休憩を宣した。裁判官たちは別室で相談していたが、次に木谷が被告席のところにたつと、裁判長は被告の裁判にのぞむ態度を論じはげしい言葉をもって非難し、もはや被告にたいしていささかも情状酌量する必要はないと断定したのである。
第六章
一
事務室のなかには朝から高い笑声がつづいていた。日ごろあまり顔をみせない班長たちが入口から顔をのぞかせ、はいってきては曹長相手に茶のみ話をしてかえって行くのだ。精勤な准尉がいつになく昼になってもやってこずいつも事務室内を支配する准尉の重い圧力が取りはらわれたからである。しかし曾田は准尉がいないからといって今日はべつに仕事の手をとめるというわけにはいかなかった。野戦行きの人選がすむと二、三日の間人事係助手のすることはなかなか多いのだ。曾田たちは人選の決定にしたがって転属者名簿を急速につくりあげ、それを外地出発の日までに間にあわさなければならなかった。さらに身上調査をととのえること、兵籍の整理、軍隊手帳の書き込みなど、外地に出発する兵隊の転属事務上の手続きは急を要し、またはんざつだった。その書類の一部は部隊本部に提出し、その一部は転属者が出発するとき輸送指揮官に本部を通じてたくす必要がある。曾田はそれ故夜おそくまで他の事務室要員とともに事務室にのこって仕事をしなければならなかった。それ故彼が班内にいる時といっては、朝食、昼食、夕食の食事時間と夜ねるときだけだった。彼にはいままでのように息ぬきのために一寸事務室をでて班内にかえって行くなどということももちろんあまりできはしなかった。しかし曾田は今日は昼飯の時間までに予定しただけの仕事をやりおえ、ようやく仕事から手がはなせるときがきても、別に班内に上って行くという気が起きはしなかった。兵隊の曾田には食事はもっとも待ちかねるものの一つだったが、これから上って行く班内の空気を一寸考えただけで、彼の足はもう前へはでなくなった。彼には寝台の上でときどき動物のように太い首をまわして班内をねめつけるようにして肩をはっている木谷の暗い顔と野戦行きの日の近づくにつれていよいよヒステリックになってきた兵隊たちの哀れな姿がはっきり想像されるのだ。彼らは曾田が上って行けばたちまち取りかこんで彼から何かをさぐりとろうとよってくるだろう。
木谷が刑務所がえりであるということはすでに班内の多くの兵隊に知れわたっていて、方々でそれについて話し合う声がしていたがそのなかで木谷がまるで体をふるわせているかのようにじっとしている様子をみるのは曾田にはこの上なく苦しいことだった。曾田ははじめ木谷がまるでそれに気づいていないかのようにふるまっているのをみた。しかし曾田が注意してみていると木谷がそれをちゃんと知っているということは明らかなことだった。曾田は兵隊たちの話すのを耳にすると、本当かどうかもわからないことだのに、むやみにいうものではないと注意してみたが、それが彼だけの力でどうなるものでもなかった。彼は一日中くらい顔をしてじっと寝台の上で膝《ひざ》をくんでいる木谷をみた。それ故に彼は野戦行きのものの名前が決定し、なかに木谷の名前がないのを知ったとき、木谷がそれをきいてどれほど喜ぶかしれないと思うとじっとしていることができなかった。彼は准尉が自分自身で発表するまでは誰にももらすことをとめられていたにかかわらず、すぐにとんでいって木谷にだけ知らせてやりその喜ぶ顔をみた。しかし木谷の顔がそのように晴れていたのはほんのしばらくのことだった。野戦行きの話はいまや全く班の兵隊たちをいらだたせ、無秩序にし、意地悪くしていたから、そのような空気のなかで木谷のうわさは無責任にもいよいよ尾ひれをつけられ、本人の前をはばかることなくされるようになったのである。兵隊たちは不安のために緊張していたが、さらには荒れだし、食事の前の空腹時にはいつも班内に声がとびかい、バッチの音がなりわたった。するとそれはたちまち野戦行きの危険性のない二年兵や初年兵の上に影響した。班内は全く陰うつで残忍な洞窟《どうくつ》のようなところとなった。
その洞窟のようなところで不安に見舞われているのは補充兵と三年兵の一部のものと下士官だったが、初年兵のとき野戦に放《ほう》りだされたことのある曾田には彼らの気持がよくわかった。しかし現在野戦にでて行くということはそのときとは比較にならないほど危険なのだ。輸送船はいたるところで攻撃をうけていた。もはや再び内地にかえってこられるかどうかという見透《みとお》しは全くもてなかった。それに今度の野戦行きは独立歩兵部隊とはいうが、その行き先は全くはっきりしていず、それは必ずしもいままでと同じように大陸方面だとは考えることはできなかった。南方方面へとやられる可能性は十分あった。それ故に彼らが全身の神経をひきたてて、おどおどし、またきいきいいうのは無理もないことだった。補充兵たちは曾田よりもずっと年をとっていてみな妻や子供のある身だったし、古いすでに体験のある兵隊はその恐ろしさを十分身にしみて感じていた。
曾田は何時《い つ》になく煙草を何本もふかした。すでに小室一等兵や時屋一等兵も仕事をおえてそれぞれ食事をしに自分の班へかえって行った。しかし曾田はみなのさそいに応じなかった。彼はなかなか机の前をたたなかった。一体自分はこのままで軍隊のなかでじっとしていていいのだろうかという思いが彼の内のどこからか湧《わ》き上ってくるのだ。こうしてみんなは簡単にえらびだされて、転属者名簿にかきだされ、新しい服と靴と背嚢《はいのう》を支給されて死にに行くのだ。みんながこれほどあわてふためき、大さわぎしているのに、その野戦行きの秘密をにぎった准尉は、ただそれをもらすことを禁じたまま、自分の家に休暇をとってじっとしているのだ。そして曾田の仕事はその准尉の手つだいをすることである。しかも何という准尉のばかくさいほどにも簡単な決定だろうか。
野戦行きの人選は大体は少し前からわかってはいたが、それが最後にはっきりと決定したのは一昨日のことだった。――一昨日の朝准尉は少しおくれてやってきたが、お茶をのみおわると「さあ、もういつまでもほうってはおけんな。今日は、ひとつきめることにするかな。なあ、そうしまほかな。おい、近海上等兵、補充兵名簿あるか。」といくらか調子をつけるように言ったのである。すると事務室の空気は全く一変してしんとした。「さあ、ぼつぼつきめますかな。」准尉はかまわずさらに言って近海上等兵に補充兵名簿と身上調書綴をもってこさせたが、やがて彼が上等兵をよんで手渡した紙片には十三名の補充兵と二名の古年兵の名前が赤鉛筆でかきつけてあった。
転属して外地に行くものの決定にあたっては准尉はいつもより慎重ではあったが、しかしそれは全くあまりにも簡単なことだった。……転属者をきめる場合にはその兵隊の家庭の事情が深く考慮されなければならないことになっていたが、おおよそそのようなことはなされはしなかった。もちろんほとんどすべての兵隊の家庭生活のくるしさは、いまでは全く同じようなものになってきていたが。それを決定するのはいわば准尉の心がうけとった兵隊たちの印象だといってよかった。それは班長にも曹長にも隊長にさえも相談なしにほとんど准尉の一存できめられたが、それが従来からのならわしだった。ことに補充兵の場合がそうである。なぜといって補充兵は最初から外地要員としてはいってきているので、隊長も班長もその出入りによってそれほど大きな影響をうけることがなかったからである。隊長は最後にめくら判をおすか、それともその一、二に文句をつけて変更させるかするのだったが、文句をつけるなどということはいままでほとんどなかったのである。
曾田の班で野戦行きに決定した補充兵の四名というのは東出、佐野、内村、世古《せこ》だったが、彼らはいずれも三十半ばをすぎていて、しかもその体はいかにもひ弱かった。世古などにいたっては細い曾田が自身の身にくらべても哀れだと思うような骨組の、四肢の細い男だった。東出は体は小さくとも少し使えそうな兵隊だったが、片方の眼には大きな星がはいっていた。佐野はしなびた肌をしたまことに老人くさいのろのろした人間だった。そして彼らの家庭ではいずれも妻がはたらいて二人以上の子供をやしなっている。妻帯はしているがまだ子供がないのでいくらか条件がよいというのは内村だけだった。それに内村は他のものにくらべると少しばかり年齢が若かったのでやはりひょろ長い体格だったが、まだ耐久力がありそうだった。しかしこの野戦行きからうまくのがれた他の二人、細川と飯田がこれら四人のものとくらべて、とくに家庭的な事情が複雑で外地派遣に適しない条件にあるかといえば、そういうことはとてもいうことができなかった。それにまたこの二人が他の四人より勤務成績がよく、そのために中隊では外地にだすのをおしがっているのだと考えられるようなことなど全くなかったのだ。それにまた古年兵の野戦行きの二名というのは二人とも曾田の班ではない。それは隣の二班に属しているのだ。彼らは三カ月ほど前陸軍病院から退院してきた兵隊だった。彼らはまたすでに相当の年齢にたっした人間だった。一人は頭がすっかりはげあがっていた。一人の方の視力は弱ったままでまだ恢復《かいふく》しきっているとはいえなかった。頭のはげた兵隊は病院を退院してくるや、すぐに准尉に家庭整理を理由に特別帰省を願いでたがきき入れられず、視力の弱っている方はもう一度視力検査のために金岡病院にやってほしいと申し出てその必要なしといいすてられていた。
やがてこの部隊をでて行くこれらの人たちの名前を曾田は幾種類かの書類にかいて自分の時間をすごすのだ。准尉がきめたこれらの人たちが死にに行くために必要な手続きをとるのだ。昨夜も彼は、十一時近くまでこの冷たい事務室にのこってこよりをつくったり、墨をすったりした。彼は決して准尉の気に入ろうとかまたよく思われようとか考えてふるまったりしたことはかつてなかった。彼は軍務にはげみはしなかった、はげんだとしても彼にはできもしなかったろうが、彼は訓練に於《おい》ても学課に於ても、別によい成績をとろうとはしなかった。そして彼は自分が軍隊にはいるとき考えていたとおり今日まで幹部候補生になることなく一等兵のままでやってきたのだ。彼にとっては自分のこの一等兵は誇りなのだった。そして彼がこの事務室要員になったというのも別に彼の方で望んでなったものでもない。それは命令だった。……しかしそのような理由づけがあるにしろ、彼は准尉の決定が実現されるように規定で定められた書類を作成するために自分の時間をささげているのだ。もちろん彼がやらなければいずれ誰か他のものがやるのだといったとしても、いま彼は自分でそれをやっている!
二
……曾田はようやく立ち上ったが机の横にひろげた日々命令の綴のなかに、林中尉という文字をみつけてびっくりした。林中尉……林信二。たしかに木谷が話した林中尉というのも名前は信二だった。曾田が注意してよもうとおもってそのところをたどっていると不意に事務室の戸があいてひょいと顔をつきだしたのは吉田班長だった。しかし曾田はそれにかまわずに命令の林中尉のところをよんだが、それは陸軍中尉林信二が金岡陸軍病院から退院してきて、二中隊附になるという内容だった。曾田は准尉がいないのをたしかめた吉田班長が自分のところにやってくるまでに机の上を片づけてしまったが、彼の予想したとおり吉田班長も兵隊と同じように彼のところに野戦行きの人選をさぐりにきたのだった。吉田班長は准尉があらわれはしないだろうかとびくびくしていたが、一体今度の野戦行きの兵隊の人選はどうなったのか、もうすでに他の中隊では発表して外泊をあたえて家へかえらせるといっているところもあるのに、なぜうちでは発表しないのかときいたが、曾田は発表は明日准尉さんがやるでしょう、自分らにはほとんど何もわからないと答える他はなかった。曾田は吉田班長が兵器を渡す準備の都合があるから、はやく自分にも連絡をとってもらわんとこまるというので、それは大体昨日か今日かに班長会議をひらいて准尉さんが各班長に相談する予定になっていたのだが准尉さんが休んだので明日になるのではないかとつたえたが、吉田班長が知りたいことというのはそんな兵隊の移動のことではなく、むしろ下士官の移動のことなのだった。そして彼は曾田が下士官は別に野戦行きはないといってもなかなかそれを信じようとはしないのだった。
「曾田よ、そんな、かくさんでもええやないか……一寸位この俺にいうてくれたってええやないか……え……。また新品の帯革がきたらまわすがな。」吉田班長は言った。
「いえ、別にかくしているわけではありませんです。」
「いくらかくしていないいうたって……もう、他の隊では下士官の分の人選もおわってやな、……やはり外泊で家へかえってるもんもいよるんやぜ……それをお前、この俺にかくそういうたって……な。」
曾田は下士官の野戦行きがあるのは小銃中隊だけで、機関銃中隊と歩兵砲中隊とには下士官を差し出すようにはいってきていないといったが、それでも吉田班長はいま下士集《かししゆう》の班長に歩兵砲からも二名下士官がでるということをきいてきたのだからといって信じようとはしなかった。
「この野郎、ほんまに、ゆうずうのきかん野郎やな……別に言うたかてなんやいうことないやないか。ちょっ……」彼は言った。
「知っていたら自分はそんなかくすなんてことは絶対にしませんです。」曾田は言った。彼はもう吉田班長との話をきりあげて、木谷にはやく林中尉がかえってきているということを知らせてやりたいと考えていた。しかし林信二というのは、はたして木谷の話したあの林中尉と同一人なのだろうか。
「吉田、何をそんなとこでうずうずいうとるんか……え。」当番に茶をはこばせてただ一人飯をかきこんでいた曹長が舌をもつらせるようにしていった。
「曹長殿……、一寸、この曾田の野郎を監視してんと、あきまへんで! この野郎、ちかごろ、色気づきやがって、昼飯やいうのに飯もくわんと、こう事務室にのこって恋文ばっかり、かいてよりまんねんぜ……」吉田班長は言ったが、「何を班長殿。」という曾田に向って舌をだした。
「曾田! これ、どこが色気づいた!」曹長も言った。このような雰囲気《ふんいき》は、全く准尉がいないが故に生れてくるものだった。「おい、曾田! お前、よう、手紙がくるいうやないか……」
「曹長殿、そんな、手紙きませんです……」曾田は笑っている中隊当番の横をくぐりぬけて、事務室の外へでようとした。彼が戸をあけたときかけつけてきたのは、初年兵の佐藤だった。佐藤は顔を赤くして息をせいていたが、朝から安西二等兵の姿がみえず、さっきから班内のものが大さわぎしてさがしているのだがいくらさがしてもどこにもみつからない、それで曾田にどこか心当りになるものはないかとききにきたというのだ。曾田はあああの安西が逃亡したかと思うとぐっと胸がかたくなった。一体どうなるのだ。あの安西が逃亡して逃亡しおおせるなどということはじっさい彼にはとても考えることができなかった。明日か明後日か一週間後にはもう憲兵にひっとらえられ、なぐりたおされて、重営倉入りじゃないか、曾田が歩いて行くうちにももう階上の一班の方向からそうぞうしいどなり声がいくつもきこえてきたので、彼は佐藤と一緒に班内へかけ上った。佐藤はその間中も、「三年兵殿、すみませんです。御迷惑かけます。」といいつづけた。
三
曾田は班内へとんで行った。彼を迎えたのは、廊下にずらりとたたされた初年兵たちと地野上等兵の厭味《いやみ》たっぷりな言葉とだった。初年兵はいま、「お前ら自分の同年兵がおらんようになったのも気がつかんでいたとは、それでよう兵隊といえるな。」などとあびせられてなぐられたらしく、頬をかたくすぼめていたが、一せいに、「曾田三年兵殿、ごくろうさんです。」と一生懸命いった。しかしその前にたった地野上等兵にたいしては曾田は相当警戒しなければならなかった。
「曾田三年兵殿のおかえりやぞー。補充兵はよう、お茶をついでもって行けよー。さあ、三年兵殿の煙草に火をつけてサービスせんか……。補充兵、そやないと、お前ら、みんな野戦へやられてしまうぞ……三年兵殿はな、お前らを野戦へやる仕事がいそがしいとて、班内にえらいことがおこっても、上ってもこんのやぞ……」地野上等兵は言った。
曾田はそれには全くかまわなかった。安西二等兵がいないというのは、どうしたのかと彼はたずねた。しかし地野上等兵はそれがわかる位ならこんな大さわぎはせんぜ、というのだ。しかし曾田はたちまち班内のものたちによってとりかこまれた。曾田は野戦行きのうわさがはじまってからは、全く班内の花形になっていた。彼が班内に上って行くと兵隊たちは何かさぐりとろうと彼のところにおしよせるのだったが、いまはまた彼が安西二等兵の居所をさがしてきたと錯覚したものもいるのだ。彼らは口々に安西はどこにいるかということと、野戦行きはどうなったかということを問いはじめた。しかし曾田がそんな問は一切相手にせずに改めて安西がどうしてこんなことになったのかと初年兵に一人一人たずねてみると、今朝点呼後馬手入れに行って、染一等兵に馬手入れのやり方がわるい、お前はあらゆる点でずるいといわれて、めちゃくちゃになぐられ、つきとばされ、さらに藁《わら》のはいった馬の飼《かい》をくわされて、長い間ふくれかえっていたということがわかった。安西はそれでも馬手入れ後朝食はたべたのであるが、いよいよ教練がはじまる時間になって、急に部隊本部から使いがきて特別に面会人がきているから行ってくるといって行ったきり、いくらたっても帰ってこないというのだ。しかしもちろんこの部隊本部から使いがきたというのは全部うそであった。初年兵は今日はいつもよりはやく教練がおわって班内にかえってきたが、いつまでたっても安西がかえってこないので、或いは安西が本部へ行って面会をすませてからどこかでさぼっているのではないかと考えて、一人が本部の方へさがしに行ったがどこにもみあたらなかったのである。もちろん初年兵たちは最初それをかくしていた。しかし次第に心配になってきて地野上等兵につたえたが、地野上等兵も同じように安西にだまされていたことがわかってきた。上等兵は安西が週番士官殿の許可があったと言った言葉をその通り信じこんでいて、教練の教官にその報告までしたのであった。彼はびっくりして初年兵をひきつれて営内のあちこちをさがしまわったが結局、安西をみつけることはできなかった。するとそのさわぎはにわかに大きくなったのである。
曾田は初年兵に事情をきいた。しかしどうしてあの染のような兵隊が安西にそのようなむちゃなことをしたりしたのかと疑問がわいてくるだけで、すでに兵営内から外へにげだしてしまったのか、それともまだ営内のどこかに身をかくしているものかという、安西をさがしだすてだてをみつけることはできなかった。彼にはどうしても安西がこのように身をかくしたりしたのは、ただ染が原因であるとは考えられなかった。しかしとにかく一刻もはやくさがしださなければ、いよいよさわぎは大きくなって班内だけでおさめきれなくなる。すれば安西のみならず染もまた軍規の下に処罰されるだろう。実際初年兵以外の兵隊たちは、学徒出陣兵がこのような不始末を起したことを、半ばよろこばしげにみていたのである。ことに古い兵隊たちは初年兵係として初年兵に責任をもつ地野上等兵すら、「ちょっ、大学の兵隊さんは、ほんまにろくなことしてくれへんわ……一寸、馬のはけで顔をなでたら、もう逃亡さらしてくれる。」などと嘲《あざけ》りの声をはなって、安西をみすててしまおうとした。たしかに、安西二等兵にたいする班内の反感は先日の外出の事件以来たかまっていた。そこに同情などというものは全然動きようもなかった。さらにいまは安西の逃亡などというよりももっと各人にとって重大な野戦行きの問題がおしせまっていた。その上明後日の日曜日は部隊の外出はとりやめるという通達が二日前に部隊本部から出されているので、たとい安西が逃亡したために、中隊全員の外出が禁止されたとしても、部隊全体が外出止めなのだからなんらそこに変化はないのだ。
曾田は初年兵の一人一人の顔をもう一度みたが、もうみなはいまにも自分たちが責任を問われ、なぐり倒されはしないかと悲壮だった。
「地野上等兵殿、炊事の方へ行ってるなどということはないですか。」曾田は言った。
「そんなとこはとうの昔にさがしたわ。おい、曾田よ、事務室のストーブにいつまでもへばりついてて、いまごろ、のこのこ上ってきて、班内のことに口出ししやがるか。」地野上等兵は言った。「おい、曾田、班内へかえってこいと呼びにやったのが誰か知ってるのか。知ってたら、かえってきたらすぐ、そこへ行かんか。お前をよんだのはこの俺やちゅうこときいたろうが、そやったら俺のとこへこんか。……おい、曾田、お前、今日まで、よう初年兵の世話やいてくれたけど、安西をさがしだしてくれるいうのか。……ふん、そんなことこの俺がことわるわ。よう、おぼえててくれ……。ふん、はよ、班長室へ行け、大住班長がお前のそのみそ頭をかりたいとよお……」
「おーい、曾田よ、曾田しゃんよ、野戦行きどないなってんよう――」今井上等兵が後からさけんだ。
「おっ、おっ、おっ、曾田よ、みずくさいぞ、だれだれが行くいう位、班内のもんだけにでもいうたれや。」土谷三年兵が言った。
「うちの班の三年兵には野戦行きは一人もいないですよ。」曾田は言った。するとうわーっという喜びの声が曾田の方におしよせた。「うわーっ、泣かす、泣かす、野戦行きなしやぞー。」しかし曾田はいまそのみなの顔にあふれでた喜びを見ている時間はなかった。彼は班内をみまわして染をさがしたが染はいず、また木谷をさがしたが、木谷もいない。彼はすぐに班長室へとんで行った。彼はそこで染が不逞《ふて》くされたような顔をして壁ぎわにじっとたっているのをみた。しかし彼はそれをどうするというわけにもいかなかった。
「貴様はほんまにいらんことさらしやがるなあ――、このテッチンめ、おい……」大住班長は曾田がはいって行くと急にやわらかい言葉つきになった。しかし彼は染をののしることはやめなかった。彼は染をそこにたたせておいたまま、だれか他の班長がはいってきはしないかと気をくばりながら、安西の事件が起ったのだが、今日はちょうどあいにく准尉さんが休んでいられる、これが隊長の耳にはいる前に、准尉さんに報告しておかないといかんように思うのやがどうかというのである。もちろんこれは大住班長の准尉への忠義だてと、さらに万一ほんとうに安西が逃亡していることが明らかになった場合にも准尉にまもってもらおうという魂胆からでてくる言葉だということはすぐわかった。
「わかるな、わかる?」大住班長はいいにくそうにしていたが、「准尉殿がおられん日によりによって、こんな事件をおこしてしまって、俺は班長としてほんまにつらいよ。」
曾田は班長の言葉に従って准尉の家まで行くことにはしたが、もう一度皆が手わけをして営内をさがしだした方がよいのではないかと班長にいった。彼は自分のこの意見が地野上等兵には採用してもらえないということを感じていたので、班長の力でそれをやる他ないと思ったのである。彼はまだあの安西が営外逃亡をくわだてたとはどうしても考えられないのだった。そのような強い意志を安西がもっているとは思えはしない。もし学徒出陣兵のなかで、それをやる意志をもっているものがいるとすれば、それはあの弓山のほかにはないだろう。とはいえそれも曾田にはほとんど全くわからないことだった。……
曾田はすぐに外出着に着がえるために班内にかえったが、彼は下士官室にじっとたたされている染のために、安西二等兵が、いまもなお営内のどこかにいることをいのらずにはいられなかった。彼は服をかえて公用腕章をもらいに事務室の方へおりて行こうとしたとき、大住班長が班内でどなっているのをきいた。
「おい、地野、全員集合しろ……ただちに、安西をさがせ……お前ら、そこで、ぼそぼそと一体、何をさらしてやがるんや……地野、大体、お前がいかん、お前のあずかっている初年兵がおらんようになっているのに、こんなとこで、わいわいさわいでるだけで、何になる。兵隊を手わけして、さがせ、さがせ……」曾田は外に出る前にもう一度木谷をさがしたがみつけることができなかった。
四
准尉の家は森小路《もりしようじ》にあったので、かなり時間を取るわけだったが、曾田は今日は公用の途中にその時間を利用してどこかにたちよるというわけにはいかなかった。彼は途中北浜の銀行にいる友人を一寸たずねてみようかとも思ったが、その友人からも最近は全く手紙もこなくなっており、曾田は、自分がつながりをたたれていると感じないではいられなかった。兵隊はみなからたちきられて生きている! 彼は一度電車をのりかえてから、畑の中をあるき准尉のこぢんまりした平屋の前に出た。彼はあまりにも戸を勢よくあけた。するとそこにうずくまって靴をはいている男が自分の見知っているひとの顔であったのでびっくりした。曾田はすぐにはそのひとの名前を思い出すことはできなかった。しかしたしかにそれは補充兵の内村の父親だった。和服をきていつもとはみちがえるほど小さくなり、固くなった准尉は膝でたって、「御心配いらんでしょう……、まあ、まあ、そうもまいらんでしょうが。」と柔らかい調子でいっていた。彼は明らかに狼狽《ろうばい》した。「はあ、よろしくお願い申し上げるほかには。」と後をむいて言っていた額の横にひろい男も口をとじた。曾田はなかへはいることができなかった。彼は戸の横にたってまった。准尉もまた別に彼にはいれともいわなければ声もかけなかった。
「どうぞ、どうぞ、おつけになって。」准尉は外套《がいとう》をつけるように相手に言った。
「では、失礼いたします。」内村の父親は鼠色の外套をつけてでてきたが、そこにたっている曾田の方には顔をむけなかった。曾田は挨拶しようかどうかとまよったが、たしかに彼はそのひろい額の下についている低い眉、その横にはっているがうすっぺらな肩を見まちがうはずはない。やはりたしかにそれは内村の父親だった。曾田は彼の方をちらりとふりかえったその五十年配の男をたしかめた。以前曾田は内村の家族が部隊に面会にきたとき、内村が曾田を面会室までひっぱっていったことがある。そのときこの父親は曾田に役にたたん息子やろうと思ってますが、どうかよろしくお願いしますとたのんだことがある。ちょうど父親は便所にたとうとしていたときだったし、曾田も内村の言葉をきいてやってきたとはいえ、すぐ事務室へかえらなければならない用事があったので、一通りの挨拶を交しただけにおわったが、彼はその内村に似た父親の顔を忘れるはずはなかった。曾田はむしろ彼に紙につつんだせんべいと紅白をむりやりににぎらせた体の小さい母親の方はいまではその顔を思いだせなかった位なのだ。
曾田が思いきってはいって行くと、准尉は言った。「うん、曾田か、いまごろ、どうした? なんだ。別にたいしたことやなかったら、俺は一寸、具合わるいよってねるぜ……」
「はいっ。」曾田はいつになく固くなった。「曾田、大住班長殿の公用で参りました。初年兵の安西が朝からいなくなっていま班のものが手わけしてさがしていますので、大住班長殿がすぐ行って報告しといてくれといわれて、報告にまいりました。」
「なに! 安西が……逃げたか。」准尉は片膝をたてて構えたまま言った。彼は別におどろかなかった。「ふん、みつからんか……大住はどうした……」
「いま、兵隊と一緒にしらべておられますです。」
「ふん、よろしい……。すぐ行く。お前、曾田休んでいくか、お茶でもやろうか。」准尉は一応曾田から報告をうけると言った。曾田は、いま准尉の家でお茶をもらうということが特にいやだったので、自分は一足先にかえって、班長殿に報告しますからと返事した。彼は准尉によばれた顔色のわるいおどおどした奥さんがでてきて、准尉のいいつけでもあるのか一寸、やすんで行きなさっては、隊じゃ、いまはお茶もでないというのでしょうとひきとめたにかかわらず、そこをでた。
「そう、無理にとめるな、曾田は用があるのだろう。」准尉は奥からいっていたが、曾田がかえるというのででてきて、隊長殿はきていられるかどうか、もう安西の持物は全部しらべたかどうかをきき、多分まだだとおもうと曾田がこたえると、かえったら班長にいってしらべさせておいてくれと言ってひっこんだ。
五
曾田は今日は昼飯をまだたべていないのでぐったりとつかれていたが、安西がはたしてみつかっただろうか、木谷に一刻もはやく林中尉がかえっていることを知らせてやらなければと考えると、途中でさぼって行くということもできなかった。しかし彼はかえりの電車にのっていても、先ほどみた内村の父親のことをどう考えてよいか疑問に思えてならなかった。もちろん彼は以前も准尉の家へ使いにきたとき、(彼は准尉の当番ではなかったので准尉の家へ行くことはあまりなかったが)兵隊の親らしいと思えるものが、何か品物をもって行っているのに出会ったことがある。そして彼は人事係准尉というのは、こういうものかなあと、考えたことがある。彼もまた地方にいたときには自分の教えている生徒の親から手土産と称するものを受け取ったことがあるからだ。しかし今度の内村の父親は、ただそれだけのことできたのだろうか……あの内村は野戦行きの人選のなかにはいっている。曾田も転属者名簿をつくるときその身上調書をみて、扇町の方の紙問屋の重役をしているということ、その父親が以前その地域の方面委員をやっていたということを知っている。しかし或いはそれは曾田の思いすごしにすぎないのかもしれなかったが、父親が准尉の家に今日いたということは特別の意味があるように思えるのである。とはいえそれが一体兵隊に何の関係があろう。曾田は途中、乗り換えのところで場末の喫茶店にはいって、砂糖なしのコーヒーをのんだだけで、大いそぎで隊にかえってきたが、彼が期待した安西はまだ発見されず、班内で兵隊たちは、ぼそぼそと話していた。彼は大住班長に報告をして准尉が持物をしらべよと言ったことをつたえると、じゃあ――、すぐ安西の手箱、整頓棚《せいとんだな》の上の奥の方をしらべようと班長はいきごんだが、そこからでてきたものは黒い手垢《てあか》のついたぼろぼろになった手紙と、まだ書きかけの鉛筆の走り書きの便箋《びんせん》、それに何か赤いもののついたうすぎたないハンカチにすぎなかった。しかしその軍服や襦袢《じゆばん》の間につっこんであった、よごれた褌《ふんどし》と下着類のきたなさと、手箱の引出しのなかにはいっていたノートのきたなさとは全く曾田の眼をおおわせるものがあった。班長によばれた地野上等兵がそれをしらべたが、手紙は喜美子という女から出されたものであり、便箋は、たしかにその喜美子にだす手紙にちがいなかった。そこで班長がハンカチをひろげてみると、やはりそこについている赤い色は口紅をおしつけたものであり、そのハンカチの隅にはキミとローマ字の刺しゅうがはいっていた。
「なに、どうあっても、おわかれするのはいやよ……。いつ試験があって、いつ学校へいくのです? そしたら、あたしも、その学校へついて行ってよ……班長殿、班長殿、安西の野郎……」地野上等兵は大きな声をだして手紙をよんだ。彼の声はいやしくひびいた。まわりにあつまってきた初年兵はみな顔をかたくした。曾田は手紙がよまれるのをきいていてじっとしていることができなかった。
「おい、誰か、お前らのうちで、安西の女、この喜美子という女、どんな女か知ってるもんいるか……」班長はやがて言った。
「はいっ……」田川が大きな声をだした。
「知ってるのか。」
「知らないのであります。」
「あほんだら……」
喜美子というのはこの間、染がみたという安西が遊ぶ遊廓《ゆうかく》の女なのだろうかと曾田は考えていたが、彼は自分の知っていることをまだこの班長にいってしまおうという気にはなれなかった。しかしそれにしてもこの安西のこの軍服の下には、このような彼の人間がかくれているのだ。しかし遊廓の女がはたしてこのような内容の手紙をかくかと考えてみるとそれは曾田にもみとめることのできがたい内容だった。しかし或いは、安西がこの女のもとへ逃亡して行ったということは、一応考えがたいことではあるが、決してないとはいえないことなのだ。
大住班長や兵隊たちはこの手紙がみつけだされてからは、もう安西は営外へでてしまっているにちがいないと思いこんでしまったようだった。彼らはみなもう責任は責任だが、すでに逃げてしまった奴にたいする処置は、自分たちの力にあまるのだ、それは准尉さんの指図をうけて、外へさがしにでるか、それとも憲兵隊にとどけ出なければ、かたのいくものではないと思って沈んできた。……大住班長は、はやくこの喜美子という女がどんな女かまたどこにいるかをしらべてくれ、もし知っているものがいたらつれてきてくれと地野上等兵と曾田に命令しておいて班長室にかえって行ったが、やがてまたじっとしていることができないかのようにすぐにでてきて、おい十分間だぞ、十分間のうちにしらべて、おれのところに知らせてくるのだぞといって去っていった。彼はかえるとき、曾田に「おい、曾田よ、准尉さんおこってはったか? え、どうや。おこってなかったか? ほんまか、こいつ、喜ばせやがんな。」といって、御機嫌をとることを忘れなかった。
「ふん、また、はじめやがった。十分間でやれ。ふん。」地野上等兵は言った。「ふん勝手にせい。そんなことでさがせるもんかよ。わるいくせだしやがる。」そういいながらも彼はまた気を取り直してやはりこの班長の命令を班のものにつたえるのだ。……しかし班長はまた二分もたたないうちに下士官室からでてきて曾田をよんだ。今度は曾田にたいする彼の調子はさらに気味のわるいほど生あたたかいものだった。彼は安西二等兵のあの喜美子という女について是非ともはやくしらべてくれよとたのみながら、おい、吉田班長が転属するというのは本当か、え、准尉さんはどういうてはる? と声をひくくしてきくのである。
六
曾田は初年兵が食器をはこぶ箱のなかにのこしてくれた昼飯をようやく食いおわって事務室におりて行った。彼は或いは木谷がみつからないかと思って石廊下のところから便所の方をみていると、向うからかけつけてきたのは染だった。いました、いました、三年兵殿、安西がいましたと染は息を切らしていうのだ。「おお。」と曾田はいってかけよった。いたか、まだこのなかにいたか……そうかと曾田は胸のなかにかたくかたまりができるのを感じた。彼の眼にはいったのは染の安心したような柔らかくゆるんだ顔だった。安西は厩《うまや》の横につみあげた乾草の山のすき間に身をかくしていたという。この間も機関銃中隊の学徒出陣兵が便所のなかで首をくくって死んだという噂《うわさ》はもう部隊にひろがっていたから、曾田ももしやと思っていたのだ。染は安西がいくら皆が心配してさがしているのだから一緒に行こうといっても、足をふんばって、動かないので、厩当番の一人にたのんで安西の番をしてもらっておいて走ってきたのだという。彼はすぐ一緒に行ってほしいという染の言葉に従って、そこにぬぎすててあった靴を誰のものかもかまわずにはくと厩に向ってかけだした。しかし彼が向うについてみるとすでに安西は厩の端の厩当番の控室につれられていて、そのくらい板の間に腰かけて、じっとうつむいていた。
「安西、どうした。」
「三年兵殿……」安西二等兵は言ったが、顔中涙でぬらしているということが、くらいにかかわらずその声でわかった。
「おい、安西、かえろう。」曾田はその涙の声に言った。「おい、たたんか、たてんのか……おい、いまごろ、なきやがるのなら、なにもひとさわがせなことするな。」染の声はきびしい怒りにみちていた。彼は安西の膝の上においた手を荒々しくつかんで、ひったてた。
「三年兵殿が、お前のことを心配してわざわざ、きてくれてはんのやぞ、……おいわかるか……。お礼をいわんか……。これがほかのひとやってみい、いまごろ、お前のその頭は、大きくふくれあがってるのやぞ……」
「はいっ。」
「安西、行こう。染、はなせ。」曾田は染の言葉に恥しくなって先にたってそこを出た。ようやく彼について歩きだした安西は、「三年兵殿、申しわけありませんです……」と寒さと恐怖のためにふるえがとまらず、歯ががちがちとかみ合うのだった。そして彼は曾田がなぜ染が一緒に行こうといっても行こうとしなかったかとおこっても、それにはだまってこたえなかった。
「つらいか。」
「はい。」
「軍隊がつらいのか。」
「はい。」
「辛抱するより他に仕方はないぜ。」
「はい。辛抱しますです。」
「染がお前をなぐったといって、染がわるいんやないぜ。」
「はい、わかっておりますです。」
明るいところでみると安西の顔は涙のために眼のうちから、頬までが赤かったが、彼はその顔をつよく前にふるのだ。
「染、心配したやろ。」曾田はうしろからくる染に言った。「へえー、別に。もう、覚悟してまんがな。」染の女のような眼はまたたかなかった。
ああ、曾田は忘れていたのだ、たしかにこの二人は班へかえってから正式の処罰をうけるにちがいないのだ。「そうか。」と曾田は言った。彼の体はつめたかった。彼はすでに安西がみつかったということを厩週番上等兵の報告によって知り、二階の窓から首をつきだして、自分たちの方をみているものたちに手をふってみせたが、その窓のところに地野上等兵の皮の厚そうな顔がぬっとつきでてきたとき、はっきりとそっぽを向いてもう再び上の方をみなかった。
みんなは階段をどたどたとおりてきて、乾草が一ぱいくっついている安西のおびえて眼をむきだした姿をみた。「おお、いたか、いたか、ようかえってきた。」「あほう、え、一体、どこにどんな気持でいやがったんや。」「おい、そうむちゃいうな……。またにげるぞ……」みなは一息ついた形で安西をとりかこんで班内へあがっていったが、安西を班長室におくりこんでからも、まだそこを去ろうとはしなかった。すると他の班のものたちもたちまちあつまってきて、兵隊たちはそこにかさなり合った。
班長の前にでた安西二等兵を他の下士官たちもとりかこんでじろじろみた。しかし彼は多くのもののなかで、肩をすぼめて両手をにぎりしめて、はいっ、はいっと言うだけだった。彼の口の辺りにはえたまばらなひげが、彼を貧相な大人のようにみせた。「はいっ……わるかったであります。」
「わるかったかどうかをいってるんではない。」大住班長もまた繰り返す。
「はい、もうこれからこんなことは絶対にいたしませんです。」
「そんなことをきいてるんじゃない……。どうして、こういうことをしたか、その理由をきいているのだぞ。それがいえないのか。」
「はいっ……」
「はいっじゃわからん……」大住班長の言葉は先ほど、安西が行方不明になったということをきいてから、しょげかえっていたのが、いまや次第に元気を取りかえして冷酷さと威圧とをとりかえした。しかしまた彼はあまりにもおこりすぎて安西にふたたび逃亡されることをおそれてはいる。
「染がお前をなぐったというが、本当か……」
「おい! 安西、はっきりいわんか、きさま、班長殿に、いつまで手数をかけるか。」地野上等兵が傍から言った。
「はい……、そうであります。」
「なぐってどうした……」
「なぐって……けられましたです。」
「それから……」
「馬の飼《かい》をたべろというて、切り藁《わら》を一ぱい口をあけさせ……ねじこまれました。」
「お前はそれをたべたのか……」
「はい……」
「おい、安西。上品なことをいうな。お前は、馬にくわす豆粕《まめかす》を厩でくうてるいうことやないか……」地野上等兵が言った。
「はい……」
「地野、だまってろ……」班長が言った。「曾田、安西の手紙、もってきてくれ。」
曾田は安西の手紙を班内にかえって取ってきたが、安西はその手紙のこととなると、口をつぐんでしまって、なかなかいわないのだ。彼はまるで水の中から引き上げられた犬か何かのように身をふるわせるばかりだった。
すでに兵隊たちは午後の勤務にでかけたので班長室のまわりにあつまっていたものもいまではずっと少なくなっていた。しかし初年兵たちは班長の命令で室内の隅にかたまっていたので、安西の口が依然としてかるくならないのも無理のないところだった。初年兵たちは今日は二時から身体検査があるというので午後の教練は明日の時間割と変更され、ちょうど時間があいていたのである。
しかし安西の身体のふるえは次第に大きくなってくるのだ。そして彼の顔はいよいよ青くなった。
「一体、だれだ。お前は班長にもそれをいわんでおくつもりか……。よし、それならそれでよい……。お前は最初軍隊にはいってきたとき、女性関係はと俺がきいたとき、ないと答えている。うそいうな。これで女性関係はないというのか。こんなハンカチを大事にしまいこみやがって、一体、これはだれか、いってみろ。いわないな……いわないと俺はもう知らんぞ、俺はもうお前の班長でも、何でもないぞ……」
「はいっ。」
「いってみろ。誰だ。さあ、いってみろ。」
「はいっ、親戚《しんせき》のものであります。」
「親戚? 親戚て、どんな親戚か。」
「遠い母方の親戚でいま大阪へつとめにきているのであります。」
「よし、言えるではないか。年はいくつだ。」
「はいっ……。二十、二十六であります。」
「何、二十六? お前はいくつだ?」
「はいっ、二十二であります。」
「ふん。よし、年上の親戚の娘だな……。それで、お前とこの女とはどんな関係にあるのだ……。恋愛関係か。」
「はいっ、そうであります。」
「恋愛関係? 上品なこというな。寝たといえ。」横でにやにやながめながらパンを切っていた鼻の大きな大野伍長が言った。
「はいっ。」安西の声は細かった。
「どんな関係だ。」大住班長はかまわず言った。
「え、肉体関係があるのか。」
「肉体関係? ヒチむずかしいこというなあ。したかどうか、きいてはんねんやろ。」大野班長は言った。
「やかましいやい。」大住班長は言った。彼は大野班長に、もっていた煙草をなげた。「安西、どうなのか。肉体関係があるのだな。」
「はいっ……」
横にたっている初年兵たちの間に動揺がおこっているのが曾田にはわかった。彼はこのようにして多くの人のなかで個人の内容をひんめくって行く軍隊の力にたいして傍から抵抗したが、彼は初年兵たちの眼にうかんでいる苦しげな困惑の色をとらえようとあせった。
「それで、女に会いとうて、逃げようと考えたのか。」
「はいっ、いいえ、ちがいますです。」
「ちがう。」
「はいっ、自分は、べつに、逃げたり、逃げたりなんかはしませんです……」
「ばかやろッ、また、うそつくか。……部隊本部にお前の面会人は、今日は誰もきとりはせんぞ……」
「はいっ。」安西は言ったが、彼の身体のふるえは異様にはげしく、彼の腰はくねった。
「おい、弓山、つれて行け、つれて行って小便さしてやれ……」大住班長はどなった。すると安西は、「はいい……はいい……」といいながら、前を両手でおさえて、幾度か腰をくねらせながら出て行ったが、曾田は、みていて、どうしてもそのあとについて行かないではおれなかった。或いは安西がふたたび便所のなかで、異常なことを起しはしないだろうかとおそれたからである。それ故に彼は途中階段のところで安西が倒れて、ああ、出るう、出るうと前をおさえたときよりも、便所のなかへきえていったときの方がはるかに心配だった。しかし安西がそこからでてきて、はじめてゆるんだ顔をみせたとき、彼もまたようやく心のゆるむのを感じて笑いがうかんできた。彼は傍にたって安西を待っている弓山をふりかえって、ほほえんだが、寒そうな紫色の頬をした弓山の顔が、安西の事件をわがことのようにはずかしがっていることを示す奇妙な笑いを笑うのをみた。安西は手をかじかませて、それに息をふきかけながらでてきたが、こうしてひとのいないところでは彼はいたって元気なのだ。三人はだまったまま二階に上って行ったが、ああ、この安西、軍隊のなかにとらえられた安西は可哀そうだった。
「弓山、イタリアのこと知ってるか。」曾田は弓山の方に身をよせながら声をひくくしていった。しかし彼のいおうとするところは相手にはなかなか通じないようだった。
「イタリアでえらいことが起ってるの知っているか。」
「はあー。」
曾田は弓山と自分との間に、三年兵と初年兵という軍隊のへだたりがおかれていることがもどかしくてならなかった。
「イタリアのファシズムが動揺している……」
「はあー。イタリアで……? 自分たち新聞よんでいる時間が全然ないので、外のことがどうなったかも、なにもわかりませんです。」
「そうか。軍隊はえらいところやろ。」
「はあー、こんなところとは考えていませんでしたです。」
「三年兵殿、自分はどうかされますでしょうか……三年兵殿。」横から安西二等兵が顔をよせるようにして言ったが、そのふるえている声は曾田に対する甘えをふくんでいた。
「そらされるやろう。」曾田は冷酷に言った。
安西の体はぎくっと衝撃をうけてとまったようだった。「そしたら、やはり処罰をうけますんでしょうか。」
「うけるかもしれんな。」
「処罰をうけるとすれば、どんな処罰をうけることになりますでしょうか、三年兵殿。」
「そうやな……それはどうなるか、俺にはわからへんけれど。」
「外出止めをされるようなことになるというようなことはありませんでしょうか。」
曾田が安西を班長室へつれてかえって階下へおりてみると、ちょうど事務室の前で、隊長室からでてきた准尉が、隊長によびとめられてしきりにいい合っているところだった。
七
「准尉、できんか。やってくれないか。」
「はあ……、いくら隊長殿の御意見とはいいましても、転属者の人選ということになりますと健康状態は別としてやはりまず何よりも家庭の事情によるということになっておりますですから、それをそのまま御受けするということは、自分としてはいたしかねますですが……」
「だから、家庭の事情をよく調査してやれといっておるではないか。お前よくしらべているか。」
「はあ、それが自分の仕事になっておりますから、調査はよくすんでおりますが、身上調書にもはっきりでております。世古二等兵の家庭は決して他のものにくらべてわるいということはできません。むしろ人選の候補の第一にはいるべき兵隊になります。それをこんどの転属者からぬくということは、自分にはできかねますですが……」
「准尉、こちらへもう一度はいらないか。」
「はあー、これから、安西二等兵を取り調べようと思っておりますですから。」
「准尉、はいれ。」
「はあ――」
准尉のものごし、言葉つきはいかにも丁重だった。明らかにそこには余裕があった。彼はたしかに自分の隊長をそのいつもにもまして丁重なやり方で圧倒しているようだった。しかし曾田はもはやそれ以上そこにとまってきいているというわけにはいかなかった。彼はただそこを通りがかったのだから、すぐ事務室にはいって行かなければならなかった。しかし曾田が耳にしたものは、じっとたちどまって耳をすましてききとらずにはいられないような異常なことだった。
准尉は隊長室にはいっていったが、間もなくそこからでてくると事務室にかえってきた。彼は「ふん、おそれ入りましたな……ほんとにおそれ入りましたな。」とみなにきこえるように口にだしていいながらはいってきたが、自分の席にどっかとついた。彼はあついお茶をくれと当番にいいつけてから、身を起した曹長に言った。
「曹長。」
「准尉殿、また、隊長殿がなにか……」
「うん。隊長殿が、なぜ今日、自分にことわりなしに休むかというおしかりですがね、そういわれたって、どもなりまへんわな。昨日かえるときには別に休むつもりやなし、今日もなにも休んだというわけやなしな。こっちが夜おそうまで仕事をしたことはいわれずに、お前がいない間に重大な事件が中隊におこってしまったやないかといわれるから、別に自分がおらんときのことにしろ、人事に関するかぎりは、自分に責任がありますからというて、でてきましたぜ。」
「隊長殿はほんまにこまかいから。」
「きもが小《ちい》そわすわな。兵隊が一人や二人にげるのが、恐ろしゅうて、兵隊の人事があずかれますかな。」
曾田は准尉が大住班長をよびに行ってきてくれと自分に命じたとき、これはいよいよ准尉が班長と相談して処罰をきめるのではないかと感じたが、彼は安西に対してどのような処罰が下されるのか心配だった。或いはいまのような隊長とのいざこざのあとでそれが取られるとすれば、その処罰はいつもよりきついものになるだろう、彼はそれを安西のためにおそれたのだ。彼は下士官室に大住班長をよびに行ったついでに、班内へ行ったが班内には隅の方に安西二等兵と染一等兵がいるきりであとはいつものとおり常連の古年兵が寝台の上にごろごろしているだけだった。まだ木谷はどこへ行ったのかかえってきてはいないのだった。
「曾田三年兵殿、准尉さん出てきやはったいうことでんな。」曾田が階下へおりて行こうとすると、舎前の窓辺に背をもたせかけて、じっとこちらをみていた染がいった。曾田はその顔の色がひどく青いのをみた。
「うん、でてきてる……」曾田は言った。
「もう、きまりましたですか、三年兵殿。」
「何がよ。」
「何がて、処罰でんがな。准尉さんと隊長殿が話してきめはんのでっしゃろ。」
「いや。……しかし、まだ、そんなもん、なにもきまってないぜ。」
「三年兵殿、かくさんというたんなはれな。」
「別にかくしたりはせんよ。」曾田の言葉はひとりでにきつくなっていた。この染のような男にさえも、まだ自分がどういう人間であるかを知らせることができない故に、彼から疑いをもたれているのである。しかし彼はそのまま向うをむいてしまった染をほうっておいて班をでたが、でて行くときにちらと舎後の方をふりかえってみてみると安西二等兵がしきりに寝台の上に身をのりだして何かかいているところであった。曾田は事務室にかえる前にもう一度二階をずっとしらべ、さらに、便所のところまで上靴《じようか》のままかけて行って、例のポプラの木のところをうかがってみたが、木谷の姿はどこにもみえはしなかった。
曾田が事務室にかえると准尉は近海上等兵と曾田とに命じて安西二等兵と染一等兵の身上調書をしらべさせたが、二人がその仕事をおわっても准尉は別にそれに目をむけはしなかった。彼はしきりに頭をさげる大住班長をやさしいような笑いで迎えてやった。
「准尉殿、ほんとに申し訳ありませんです。一班の班長になって、さっそく班内でこのような事故をおこしまして……准尉殿に御迷惑をおかけしましたです。」
「同じことをそう何度もいうもんじゃない……」
「でも、自分としましては、准尉殿に御迷惑をおかけしましたことが一番、心苦しいことでありますです。」
「こんなことで、それほど気をつかっていては軍隊の班長はつとまらんぞ……。おい、大住。」
「はあ。」
「…………」
「自分は准尉殿にそのようにいうて頂いて、御言葉に甘えているわけには……」
「もうよい。御言葉に甘えるも甘えんもない。俺はお前がそんなやつとは思うとらん。まあ、いい。しかし、染と安西をあのままにはおいておけんぞ……」
「はあ、それは……」
「二人とも上にいるな。」
「はあ、おりますです。」
曾田は准尉が染と安西をどのように処罰するだろうかと息をのんであたりをみたが、室内のものはみなペンをとめていた。
「おい、二人をよんできてくれ。」准尉は言った。
「はい、准尉殿、染一等兵と安西二等兵でありますか。」近海上等兵が言った。
「うん。二人をここへつれてきてくれんか。」
「はい、染一等兵と安西二等兵をつれてきます。」近海上等兵は言って部屋を出ようとしたが、このとき荒々しく戸をひらいてはいってきたのは、隊長だった。
「准尉、染一等兵と安西二等兵の二人をどうするつもりじゃな……」隊長は准尉をにらみすえるような勢でつきすすんできたが言った。
「はいっ、処罰いたしますです。」准尉はたち上りながら、重く声をおさえて言った。
「そうむやみな処罰をしてはいけないぞ。」
「むやみな処罰といいますと?」
「むやみな処罰はむやみな処罰じゃ……むやみな処罰をしてはいけないぞ……処罰するときにはかならず、わしの許可をうけるのじゃぞ……」
「はい、もちろんそういたすつもりではこんでおりますが……」
「そういたすつもり?」
隊長はいよいよせきこみ、その小さな体を左右にふった。その肉のうすい皺《しわ》のよくみえる顔はすでに赤味を加えていた。
「つもりではこまるぞ。」隊長は言った。「准尉、むやみに処罰してはこまるぞ。」
「はい、……自分は染を営倉、安西を外出禁止にする考えでおりますが……」
ああ、やはり染は営倉だと曾田は心が冷えて行ったが、それをどうするというわけにもいかなかった。
「なに……。安西はこの間はいったばかりの初年兵ではないか……。それを処罰するのはどうか……もっと隊内処分であつかえないか……学徒兵には地方人の注目がいっておるから、その取り扱いには気をつけるようにと、部隊長殿もこの間将校集会所でいっておられる……どうじゃ。」隊長は言った。
「外出禁止はもちろん隊内処分であります。部隊には営倉入りのほかには、外出禁止というような処罰はつくられてはおりませんですが……」
「うん……」
「自分としては、今度の事件はこの両方を同時に罰しなければ、何ら意味ないものと考えております。しかし安西二等兵の方は二カ月前に入隊したばかりという点を考りょし、いちおう外出止めということにしたいと考えておりますですが……」
「そうか、よいようにせ……」言葉につまった隊長はついに言いすてると、くるりと廻れ右をして出て行こうとしたが、戸口のところで向き直って言った。「それで、染一等兵の処罰はいつにするつもりか。准尉。」
「はい、もちろん、これからただちに行います。今夜、営倉入りさせます。ではいますぐ両名をよびますから隊長殿から、申し渡しをして頂きたいと存じますが……」
「よし、きたら、よべ。」隊長は大きな声でよしといってまた荒々しく戸をひらいてでて行ったが、やがてまた大きな声で向うから当番をよんだ。「中隊当番、中隊当番、火をもっとつくれ。火がきえるぞ、火をつくらないか。それから熱い茶をくれ。」
隊長がでて行くと横にしりぞいていた班長はすぐに准尉のところにすすんで行って言った。
「准尉殿、すみませんです。」
「准尉殿、御苦労様ですなあ。」曹長は言った。
准尉は二人の言葉をゆっくりした態度でうけただけだった。曾田は寒い夜営倉に入れられている染を心にえがいたが、やがて近海上等兵につれてこられる彼の足音を耳にしなければならなかった。
八
准尉は呼びにやった染と安西がおりてきて、二人がならんで敬礼すると、しずかな声で二人に次々と自分のやった行動をたずねて、そのやったことがわるいと思うか、どうかをたずねていった。染はわるかったでありますといった。安西はわるかったであります、准尉殿、二度とふたたびこのようなことはいたしませんですから、どうか許して下さいと言った。
「准尉殿にもっとよくおわびしろ。」大住班長は二人のすぐ横にでてきて声を大きくした。
「准尉殿、すみませんです。」二人は声をそろえて言った。
「隊長殿をおよびしてくれ。」准尉は言った。彼は隊長がはいってくると隊長の前に二人をならばせておいて、これから処罰をいいわたすと静かな声で言った。彼は染一等兵の営倉入りと安西二等兵の外出止めをつたえたが、彼は突然声を大きくした。
「染一等兵、お前のしたことはこれ位の処罰ではすまんぞ。染、ふたたびこのようなことがあっては俺は絶対に許さん。」「安西二等兵、お前の外出止めの処分はこれがお前のしたことにたいする相応の処分だと思ってはちがうぞ、お前がまだ一人前の兵隊になっていないが故に一応の処分ですませるが、染とお前の行動はどちらも同じ処罰にすべきものなのだぞ。」
准尉の荒々しい声は二人の身体をすくませたが、隊長もまたその声によってどぎもをぬかれたようだった。いやその准尉の声は隊長をおどしつけるのが目的であったのかもしれないのだ。
「染、敬礼しないか、隊長殿に。」准尉は言った。染は敬礼の号令をかけた。
隊長は二人の敬礼をうけたが、身体をうしろにそらせて、二人の処分、准尉の申しわたしたことをもう一度くりかえした。
「二人とも、今後、よく注意するのじゃぞ……」隊長は「じゃぞ」という芝居のような言葉をつかった。そして彼は班長にむかって言った。「大住班長、お前はこれからこの二人を十分みてやらなければいけないぞよ。」
「はっ。」班長は言った。
「すぐに営倉の衛兵を中隊から準備し、衛兵所に営倉入りが一名あると通知してくれ。」准尉は曾田に言った。曾田は染の態度が立派なのに安心した。彼の衛兵所に連絡に行く足もそれほどおもくはならなかった。曾田は衛兵所に行ったついでに、かえりに二中隊まで行ってちょうど外にでてきた古い兵隊を三人ばかりつかまえて、林中尉というのが最近病院からかえって中隊附になっているかどうかをきいてみると、たしかに病院からかえってきた林中尉というのがいるが、なんでも近いうちに満州の方へ転属になって一人で出発するという話だった。しかし彼らもその林中尉が以前経理委員であったかどうかということは全然しるところがなかった。曾田はそこでできれば将校室をのぞいてみようと、近よって行ったが、将校が出入りするたびに少しばかり部屋のおくがみえるきりで、はたしてそこに彼のめざしている林中尉がいるかどうかということは全然しらべるなどということはできなかった。
九
染と安西の処罰は中隊内にたちまちひろがって大きな衝撃をあたえたが、処罰をうけた二人を迎えた班内は異様な空気につつまれていた。……兵隊たちには染の方に重い処罰が下ったということが、どうしてもなっとくがいかないのだ。演習と勤務からかえってきたばかりの古い兵隊たちは、やがて営倉入りをする染に煙草をつのって、存分にすわしてやっていたが、曾田がかえってくるとすぐによびとめて、安西の耳にはいるようにわざと大きな声で「女に会おうおもて軍隊からにげだそうとした奴とそいつに気合を入れたやつとやな、どっちゃがおもいつみでっしゃろな、曾田はん、……あんた事務室にいってはるような、頭のええお方やよって、わかりまっしゃろ、ひとつおしえたんなはれ。」ときいた。曾田は処罰をいいわたす際に准尉のいった言葉を、そのままつたえたが、彼らは、「はーん、さよでっか。」と皮肉な答をするだけでなかなかなっとくしなかった。
「曾田よ、そら、あの准尉さんのいわはったことやな……」今井上等兵は言った。
「そうですよ、准尉さんがいわれたことですよ。」と曾田は言った。「一期の検閲をすましてない初年兵はやはりあまり重い処罰にできへんらしいです。」
「ふん、そうでっかなあ。おれも、女たらして、女のとこへにげて行きたいぜ……」橋本三年兵は言った。
「おい、よう、あんまり、いまごろ、そんなごつごつしたこというなよ……きこえてみい、すぐ野戦へやられてしまうぞ。」土谷三年兵は言った。
「おお、くわばら、くわばら、くわばらもち。」
「染、すえ、もっと、すうとけよ。」橋本三年兵は言った。「おい、染、何日はいるねん。」
「一日、だあ……」
「そうか、そら、うんとすうとけよ。」
「冷えるやろなあ。」
「だれか、染のために、飯を食わしてやれんかなあ――」
「三年兵殿、曾田三年兵殿、すみませんです。」染はようやく曾田の方にむき直って言った。
「おう、もう行くのか。そうか、気をつけて風邪ひかんようにせえよ。俺はあとで行ってやるわ。」
「はあ。」染一等兵は言った。
寝台の上にねころんでいた地野上等兵はおき上ると染の方ににくらしげな顔をつきだして言った。「なんじゃ、一日位の営倉にはいりやがるのに。たいそうもない。おい、みんな、こんなに煙草を方々からあつめやがってからに。煙草なんて営倉からでてきてからすわしてやるんじゃ。……」
班内は一瞬しずまったが、地野上等兵は向うの舎後の隅の方にじっとしている安西二等兵の方に同じ顔をむけた。「おい、安西、一体、お前はどんな処罰をうけさらしたんや。おい、この俺にしらしてくれんのかいや……この俺がなんぼ地方で土はこびやってて、出面《でづら》、一円八十銭やいうたかてやな……俺はここでは初年兵の係やさかいな。」
おそろしげに顔をあげてきいていた安西二等兵はとんできて地野上等兵の前にたつと、処罰をうけた報告をはじめたが、地野上等兵は「上等兵殿、上等兵殿。」とまといつく安西にそっぽをむいて全然とりあってやろうとはしなかった。
曾田は皆の注意が安西と地野上等兵の方にむいている間に、そこをにげだしてやろうと思って、「染、身体に気いつけよ。」といいすてて舎後の方に木谷はいないかとさがしつづけたが、彼はたちまちまた三年兵たちにとりかこまれてしまった。
「おい、曾田、三年兵に野戦行きがないいうのは、あれ、ほんま、やろうな……。まあ、一本とれや。」彼らは煙草をつきつけながらいうのだ。
「ええ、ほんとですよ。」
「そしたら補充兵は全部野戦へ行くわけか。」
「そら、准尉さんにきかんとわからんことですよ。」曾田はすでに補充兵たちも自分のまわりにやってきはじめたのを感じてわざと声を大きくしてこういう言い方をした。「野戦行きなんて、この俺にきいてもなにもわからんぜ。」
「そうはいわずに、曾田さん、お煙草一ついかが。」今井上等兵が言った。
「ぱくぱく一つ……いかが……」
「花子さん、おとおし。」
「駒子さんへ、三十二番さん、駒子さんへ、おなじみさん……おとおし……」
すでに補充兵たちもあつまってきた。
「おい、染、おりてきてくれ。」染をよびにきた中隊当番が向うから言ったが、いよいよ染一等兵の営倉入りの時間がきたのだ、人事係准尉は彼を衛兵所までつれて行くだろう……。
「上等兵殿、染、只今より行ってまいります。」染は地野上等兵に向って言った。
「よし、行け。夜中にな、あつい、水筒もたしてやらな――、行け。」地野上等兵は言った。
「おい初年兵、だれか、染を下までおくって行かんか……。ふん、染はな、だれのおかげで営倉にはいるとおもうんや、おい。」
「はいっ。」とでてきたのは田川二等兵だった。
「田川、染一等兵殿をおくってまいります。」
「よし、行け。」
「よし、どけ、染いるか。こい。」はいってきたのは大住班長だった。彼はぐんぐん染の前にすすみでると、染の顔をつかんでめちゃくちゃに左右にふりつづけた。「おい、染、貴様、営倉へはいりやがるおもて、大きなつらしやがったら、承知せんぞ……。おい、染、貴様、営倉だけで、ことがすむおもてやがったら、あてがちがうぞ。貴様が俺の班の名をつぶしやがったのを、営倉位で許すおもてやがるとあてがちがうぞ。……おい染。わかったか、わかったか、わかったか。」
染は頭をぐらぐらゆすられて、どうと倒れた。しかし彼はすぐおき直ってきて、班長の前に直立した。ああとみていた曾田は言った。
「よし、俺のいうたこと忘れるな、こい。」班長はいいはなって染を前にたてて、でていった。班長のしめしたこの手本によって、班内の空気は急に荒々しくかわって行きそうだった。
「ちぇっ、お天気もんが、なにするぞ!」地野上等兵は班長のでて行った方に向って吐きかけた。彼は三年兵たちが班長がでていったので再び話を野戦行きのところにもどそうとして曾田に話しかけたとき、たちまちそれをさえぎった。
「曾田、曾田て、曾田がなんや。ええかげんにせんか。別に曾田の野郎が野戦行きをきめるわけやなし。曾田が准尉さんにきかんとわからんいうてるのやったら、もうかまうな。……どうせやな、このうちの班にはろくなことがあるかい。……あの監獄がえりがはいってきやがってから、毎日、ええことなしやないか。このぶんでいくと、部隊の外出禁止がとけてからも、一班だけは外出どめやろうぞ……」
「地野よ、当分、うちの班だけ外出止めやて?」今井上等兵は言った。
「そうよ。ろくなことがないよ。おい、初年兵、こっちに監獄がえりがいるかよ……いたらここいこいいえ。」地野上等兵はどなりつけた。
「いいえ、おられないであります。」田川二等兵が大きな声で向うから言った。
「おられない? だれがおられないというのかよ。」地野上等兵はどなりかえした。
「はいっ、あの……、その……」
「監獄がえりかよ……」
「はいっ……」
「げんくその悪い監獄がえりがおられないとはなんや。おらんといえ……。おい、田川、言い直してみろ。」
「はいっ……」
ついに田川二等兵は、「監獄がえりはおりませんです。」と言い直しをさされそれによって班内は笑いにみたされた。曾田はもはやこれ以上その言葉に耳をひらいているということができなかった。彼は野戦行きのことについてききもらすまいとして自分のまわりにあつまってきている補充兵たちの間をかきわけて、外へでて行こうとしたが、このときちょうど班内にはいってきた木谷の姿をみると、もう足がすくんで歩けなくなった。木谷がいまの言葉をきかなかったということはなかったにちがいないのだ。彼は木谷をみた。彼は一瞬自分の方を木谷がむいたように思った。しかし木谷はまるで何ごともなかったようにしずかに自分の寝台の方にあるいていって、その上にどんと腰をおろしてあたりをみた。すると、班内の眼はすべて彼の方にむいた。再びわらいは班内をみたした。
「ちぇっ、なんや。あいつ平気な顔して煙草すいやがる、処置なしやぞ――も。」地野上等兵はどなった。「やれい、ちくしょう……ふん、どうせ、外出止めやぞ……。おい、いまからみな、染の営倉入りのお祝いをやれよ――。おいっ、みんな、やらんか、数え歌やらんか。」
一ツともせいーえ、人もまた嫌《いや》がる軍隊えいーえ、志願もまたするよな馬鹿《ばか》もある、志願どころか再役《さいえき》するよな馬鹿もあるわーえ。
二ツともせいーえ、ふた親見捨ててきたからにゃいーえ、この身は国家に捧げ銃《つつ》、及ばずながらもえー務めますわーえ。
三ツともせいーえ、みなさん御承知の軍隊はいーえ、呑気で気楽でよいようだが、来てみてみなされえーつらいものぞーえ。
四ツともせいーえ、夜もまた寝られぬ不寝番じゃいーえ、あくれば衛兵に交代す、勤務勤務で苦労するわーえ。
五ツともせいーえ、いつかは知らねど不時《ふじ》点呼じゃいーえ、真の夜中に起されて班長さんより番号かけられ解散じゃわーえ。
六ツともせいーえ、無理なことでも軍隊はいーえ、命令なんぞとかこつけて、絶対服従せにゃならぬわーえ。
七ツともせいーえ、七日七日の土曜日にはいーえ、被服検査や兵器検査内務検査、検査検査で苦労するわーえ。
八ツともせいーえ、やけで営門出たからにゃいーえ、遊びつかれて七、八日帰りゃチョット二十日のえー重営倉じゃーえ。
九ツともせいーえ、ここの規則はよく出来たいーえ、寝るも起きるも皆ラッパ、衛兵交代、会報、非常呼集、食事、皆ラッパじゃわーえ。
十ともせいーえ、十日十日の俸給日にはいーえ、一円と八十五銭貰います、女郎買《じよろかい》どころかアンパン代にも足りはせぬわーえ。
「満期操典やれ満期操典。」また兵隊たちの満期操典を求める声だ。
「やれやれ。」
「パク、パク。」
「あああ、パク、パクつらいな――」
「あああ、パクパクしたいな――」
文明開化の世の中で軍隊生活知らないか知らなきゃ私が説明する、花の三月検査受け親の願いがとどかぬか役場の親切薄いのか彼女の思いがとどかぬか、甲種合格一番で蚤《のみ》の四月蚊の五月六月蝉《せみ》の鳴き初め七、八月は暑いころ、九月十月秋半ば十一師走も早や過ぎて明くれば一月十日には、近所親戚よせ集め酒や魚で祝いして万歳歓呼に送られて氏神様に参拝し武運長久祈りつつ市内電車の人となる、市内電車はよいけれど晴の衣服に星がない、思わず落す一しずくこらえこらえて馬場《ばんば》町、馬場町へと来てみれば左に見ゆるは放送局右にみゆるは輜重隊《しちようたい》で私しゃ一一二入隊す衛門くぐれば衛兵所、左に見ゆるは面会所一中隊や二中隊三中隊や四中隊あまた中隊ある中で銃剣術で名の高い私しゃ歩兵砲中隊に入隊す、寝台手箱定められ赤飯頭《せきはんかしら》で祝いして中隊長の訓示には中隊長はお父さん班長さんはお母さん古年次兵は兄さんで皆々仲よく元気よく無事につとめを終えるよう涙あふるるお話も一夜《いちや》明くれば鬼となる。
「あ、あ、あ、一夜あくれば鬼となる。」
十
「満期操典」の単調で過去のようなしめった節は、兵隊たちの身体をとおりぬけ、再び身体からでて、しめっぽい兵隊の生気をあたりにまいた。曾田も兵隊であるからにはこの「満期操典」を愛さずにはいられなかった。彼は皆に和しながら、いまちょうど営倉に入れられたばかりだろうと思える染のところに、地野上等兵がいったのとはちがった意味でこの兵隊の歌がとどかないものかと考えていた。
「満期操典」はつづいた。「満期操典」はつづいた。曾田は舎後の寝台の上でただひとりだけじっと口をつぐんでうつむいている木谷をみると思いきってみなの間をかきわけて近づいたが、彼は木谷の顔がいつもとは全く相をかえてふるえているのを感じて、そこにつったたされた。その顔はまだ電燈のつかぬくらい空気のなかで、何かをじっとこらえているかのようにかたくなり、容積をましていた。曾田はさけようとする自分の眼をむりやりにその顔の上にじっとすえた。
「木谷さん、だいぶんさがしましたよ。どこへいってたんです?」
「え? ああ、曾田はん……。野戦行きがきまりましたんやろか。」木谷の顔はゆがんだが、彼は別にそれをかくそうとはしなかった。「どないなりました。」
「いや、その野戦行きではなしに、あの……」
「今日はひるから金子班長のとこへ行ってたもんやよってな――。それで金子班長に野戦行きどうなってるのやきいてみたんやけど、別に今度は心配することいらんのやないかいう話で。なんやったら俺が准尉さんに口きいといてやるいうてくれよってな……」
「そうですか、それならもう野戦行きの方は全然心配いらんでしょう。……そっちの方からやれば、よくききますやろ。」
「金子班長もそういうてくれてるのやけどな。」
「いや、それやったら、木谷さんはもう大丈夫ですよ。……」
「そうでっしゃろか。野戦行きは明後日か明々後日《しあさつて》かに出発らしまんな。そやよって野戦行きのもんには、明日か明後日かに外泊がでるやろいうことだんな。金子班長がいうてくれたけど。それでな、今日は中隊でももう発表があるのやないやろかおもて、あわててかえってきたんやけど……まだ、だんねんな。」曾田は声をひくくして語る木谷の顔がようやく笑いにみたされてやわらかくとけてくるのをみて喜んだが、たしかに金子班長は木谷に野戦行きのことについて、その知っていることぜんぶをぶちまけて話してやったにちがいないのである。
「おーい、野戦行きの出発は明々後日やてよう――」向うで三年兵の一人が大きな声をあげた。
「うわー、なんや、出発はしあさってや? だれがいうてんねん、准尉さんか……炊事かい……」
「いや、いま、炊事の使役に行って、きいてきよったんや……それから野戦行きは外泊やて……」
いろんなさけび声があがると、食器をだしたり、机の上をふいたりして食事準備をする補充兵たちはもう自分のすることに手がつかないらしく、その声の方にすいよせられるようによって行った。
曾田は班内のさわぎがしずまるのをまってようやく今日昼知った林中尉のこと、二中隊の前まで行って中隊のものにきいてみたが、はたしてそれが、木谷のさがしている林中尉かどうかわからないとつたえたが、それは彼の予想に反して木谷の顔をくらくした。
「いや――、きっとそれだす。名前まで一緒で中尉やといえば、そうおんなじ名前のもんがいるはずあらしまへん。この間から一寸《ちよつと》将集の使役のもんにきいてみたりして、しらべたら、病気になって還送患者として内地にかえってきてるらしいという話もあるいうてたし、そらきっと、それにちがいない。」林中尉の名前をきいて「なに? 林中尉がかえってる。」と顔をたてた木谷も、次第におちつきのある調子でいったが、さらに林中尉が近いうちにまた転属になって外地にでて行くといううわさがあるとすれば、できるだけはやくとっつかまえなければならないと思うとつけ加えた。しかし曾田はこのときになってようやく木谷が今日はいつもとはちがって、自分に対してへだてをつくっているということにはっきり気づいたのである。たしかに木谷は彼の方へは身をよせてこなかった。その言葉には別に曾田をしりぞけようとするものなどはなにもなかったが、いつもの木谷であるならば曾田がくるのをまちかねるほどにもまっていて、なかなか彼をはなしはしないのだ。実際昨夜も一昨夜も木谷は、曾田が夜おそく仕事をおえて事務室からかえってくるのを毛布のなかでまっていて話しかけ、野戦行きの話がどうなったか、また自分の名前はその人選のなかにはいっているだろうかをききただした。彼はそうしなければいくら毛布のなかにもぐりこんでもねつくということができないにちがいなかった。……ところがいま木谷は、曾田が林中尉のことを知らせてやったにかかわらずそれほど喜ぶということもなく、眼を一点にすえて、何か別のことを考えこんでいるようなのだ。木谷は曾田に自分の横に腰をおろせともいわなければ、さそいもせず、そわそわとして何かに気をくばりつづけているのである。
曾田は事務室から中隊当番がよびにきたので、またくわしいことがわかったらしらせてやるといっておりて行ったが、木谷は、「曾田はんたのみますぜ。」といっただけだった。しかし曾田は事務室にかえる前に便所へ行ってでてきてみると、靴をもった木谷が石廊下をつききって、外へでて行くのをみてはっとした。たしかに木谷は二中隊へ林中尉のことをしらべに行くのではないかと曾田は直感したが、はたして林中尉がいまごろまで部隊にいるかどうかは疑わしかった。こんな時間にもう林中尉はきっと家へかえってしまっているのではなかろうか……。
十一
石廊下に飯鑵《めしかん》を炊事にとりに行っていたものたちがかえってきたらしく、さわがしい声がその方にあがっていた。曾田はそれをとおくの方にききながら、不寝番の名前をきめ、それを黒板にかきだした。しかし彼は今夜の不寝番にはすでに野戦行きに予定されているものをつけるということはしたくなかったのでえらぶのはかなり手間どった。その上彼は先刻の木谷の態度が一体どこからきたものか、それが気にかかってならなかった。たしかに木谷があのようになったというのは、木谷が刑務所からでてきたということが班内のすべてのものに知れわたり、みなのものがそれを口にし、問題にし、ささやきだしたところからきているのである。それはそれ以外に考えることはできないことである。それは曾田の不安をかきたてる。もはや班のものが木谷に意地悪な眼をむけていることは明らかなことである。班内の一人一人の眼はなにかというとものめずらしげに改めて木谷の上にそそがれていたし、監獄がえりという言葉は地野上等兵の口からでると同じように何かけがれた色をつけて班内を行き来しているのだ。そしてそれこそこれまで木谷がもっとも心配していたところではないだろうか。一体木谷は今後このような班内でどのようにしてあと七カ月の期間をすごすだろうか。たしかにこのような疑惑と不審と軽蔑《けいべつ》と敵対の眼が、彼の上にそそがれるというのは、木谷自身に原因があるとみることもできる。なぜといって木谷は帰隊してからすでに十日以上もたつというのに、まだ帰隊当初と同じように、ずっと寝台の上にすわりこんだままで、班の掃除や整頓《せいとん》などについては全然協力しようとしないばかりではなく、ときどきだれにも行き先をつげないで姿をけし、どこかをほっつきあるくという状態だった。最初は古い兵隊たちも、そのうちに木谷が班内の事情に少しなれてくれば、班の仕事を手伝うようにもなるだろうと待っていたのである。しかし木谷はいつまでたってもそのような気配をみせはしなかったのだ。その上彼は班の統制をにぎる三年兵たちにたいして、何ら気をくばるということをしなかったので、それはまたひどく三年兵たちの気をわるくさせることとなったのである。
しかし刑務所からかえってきて間もない木谷に一体そのような班内のわずらわしいことができようか。それに帰隊した木谷の頭のなかをみたしていたものは、ただ林中尉や岡本検察官やその他彼がさがしだしたいと言っていた人たちのことだったにちがいない。それ故にこのような事情を知る曾田は班のものたちに木谷のことをよく説明してみなの反感をとこうとつとめてきたのだが、しかしもはや彼の説明などによってそれがとけるなどというものではなかった。たとい如何《い か》に曾田が木谷の罪を弁護しようとも、いまでは彼のいうことに耳をかたむけようとするものはいなかった。ことに地野上等兵のような男が、木谷の前歴を知ってそれを意識的にばらしてみなの反感をあおろうとしているのだから、同じように地野上等兵とはよくない曾田が、いかに努力してもそれが受け入れられるということはないのである。
曾田は今夜の不寝番に地野上等兵を五番立ちにつけることにしてその名前を黒板にかきだし、中隊当番に廊下へかけるように渡したが、いまもまた一体誰が木谷の前歴を班内でもらしたりしたのだろうかと考えてみると、そこに浮かんでくるのはまず第一に染の顔であった。染のほかにはだれ一人として兵隊でその前歴を知っているものは、ないのである。もちろん事務室要員の小室や他のものは、かたく口をとざしていうはずはなかった。またそれをもらしたものとしていちおう班長連を考えることもできたが、班長たちがあの地野上等兵にわざわざ木谷のことをしゃべるなどということは考えられはしなかった。すると残るのはやはり染一人である。しかし曾田はあの染がそのようなことをしたとはどうあっても思いたくはなかった。あの染はそのようなことを決してする男ではないのだ、そして曾田が染に木谷の手紙をたくしたというのもまた染を信じたからだった。とはいえ染に手紙をたのんだのは彼なのだから、染がもしその秘密をもらしているとするならば、その責任はやはり自分にあると思わなければならないのではないかと考えていると、曾田はふと、或いは木谷が彼の前歴をもらしたのは自分ではないかと考えているのではないかと思いついた。そうとするならば今日の木谷の自分に対する態度もまたなっとくが行くというものなのだ。そう考えてみるとたしかに木谷が自分に疑いをもつということはありうることである。なぜといって曾田は今日まで木谷のためにかなりの世話をしてきたとはいっても、まだほんとうに木谷のために、はかってやるということはできはしなかったのである。彼は木谷に深く同情はしてはいたが、むしろ木谷をおそれているではないか。いやいまもなお彼には木谷の正体をとらえるということができなかった。もちろん彼は、いまではこの木谷という男が自分と同じようにはっきりした反戦的な社会主義的な思想をもっているなどということは考えることができなくなってはいたが、しかしやはりただ彼を窃盗犯として考えるなどということもできなかった。……しかしもしいま木谷がその前歴が班のものにもれたことについて自分を疑っているとすれば、できるだけはやくその疑いをはらさなければならないと曾田は考えたが、そのためにも部隊にかえってきた二中隊にいる林中尉がはたして木谷のさがしているあの林中尉であるかどうかをしらべたうえ、それを木谷につたえてやりたいと思うのだ。曾田は中隊当番に熱い茶をもらって身体をあたためながら考えていたが、もう一度犯罪情報のなかにでていた林中尉のことをしらべてみようと思ってこっそり陣営具倉庫のなかにはいって行ったが、静かな空気のなかにつたわってくる隣の隊長室からもれてくる声のなかに木谷という言葉があるのでぎくっとした。すでに隊長の馬は隊長をのせてかえって行ったのにと思って耳をすますと、それはたしかに准尉とたれかの声だ。木谷をどうとかこうとかいっているのだ。そして二人の口調が全くへだてのない、兵隊同士のやりとりのようなところからみれば、准尉の相手は准尉か曹長か、そのような階級のものとみなければならなかった。曾田はしばらく身をかたくして壁ぎわによっていったが、ようやくききとった話の内容は、木谷一等兵を今度の野戦行きの人選のなかに入れてくれという要求が准尉に対して出されていて、それを准尉が大体承諾させられているような形だった。
「准尉さん、骨折ってもらえまんな……。そら准尉さんのことやから念をおすまでもないことでっしゃろが……」太い声が少し高くなっていったが、男はわらっているようだった。
「そんな勝手なことをいまごろもちこんできたって俺は知らんぞ……。そんなもんが、こっちの自由にならへんやないか……。どんな話かおもたら、また、そんな話もってきやがる……」准尉はどこまでも声をおさえて冷静だった。
「そんな准尉さんの自由にならへんもんが、中隊のなかにありまっかな……。そうじらさんとやな、やったんなはれよ。」
「うちのおやじを、金子さん、あんたもしってるやろ……よその中隊とはわけがちがうからな。この頃じゃ、こっちのやることに一つ一つ注文をだしてきよらんことがないがな……。こんな苦労は俺が軍隊にはいってからはじめてやな……」
「そらようわかってますがな……、あの隊長のことはな。しかしそやからいうて、准尉さんにできんということもないでっしゃろ。兵隊の一人や二人……」
「そら、こっちゃ、どんな隊長がこようが、そんなこと、こたえるわけやないけどな……木谷利一郎を動かすのは、一寸、むつかしいぞ……。そら俺も、こんどまっさきに、あいつを考えんことはなかったんやけど……」
「木谷がどうしてむつかしいことがあります? 准尉さん……別に、木谷かておんなじことやありませんか……。そんなこといつまでも……」
「いや、ちがう……あら、師団の承認がいるぜ……」
「どうしてそんなもの。」
「どうしていうても、まだ刑期がのこってる兵隊やからな……。あれをつれてかえるとき、師団で言われてきたがな……。金子さん。」
先ほど金子さんと准尉がよんだときも曾田はどきりとしたが、准尉がいままた金子という名前をよぶのをきくと、この准尉と話しているのがあの金子軍曹であることを疑うことができなくなった。もちろん曾田は少し前に准尉のところに二度ばかりあそびにきた金子軍曹をみたことはあるのだが、その声を特別におぼえているということもなかったので、これを金子軍曹だと断定するわけにはいかなかったが、木谷のことが話題にでているとすれば、あの金子軍曹の他にだれがいるだろうか。しかしそれではあれほど自分のためにつくしてくれたと木谷の自慢にする金子軍曹がどうして木谷を野戦へやるように准尉に要求したりするということがまた曾田にはわからなくなってくるのだ。とすればこの金子とよばれる人間は、やはり同姓の他の人間にすぎないのだろうか。
金子とよばれる男はしばらくだまって考えこんでいるようだったが、師団の方ならすぐ自分が話をつけるようにするから、ぜひ木谷を人選のなかに入れるようにしてくれと言うのだ。その語調はいかにも自信たっぷりだった。そらあんたのことやからその点はうまくやってくれるやろと思うけど、もう人選は決定していて、いまからかえるとなると、また隊長をときふせる必要がでてくるし、ほんまに面倒なことをもってきてくれるなと准尉は皮肉な調子を改めずに言った。相手の言葉は急に小さくなったが、准尉はつづいて言った。「いや、そら金子軍曹はんがそれほど気をもんでることなんやよって、俺もできんとはいわんよ……、なあ。」
ああ、やはり准尉の相手というのは金子軍曹なのだ。やはりあの金子軍曹が木谷を野戦へやるように准尉に要求しているのである。……或いはそれでは今日でも木谷が金子軍曹のところをたずねて行って二人のあいだに何か起ったのではないだろうか……そのようにでも考えなければ、金子軍曹のこのような変心を理解するということは曾田にはできなかった。
准尉はそれからしばらく低い声で何やらささやいていたが、それは曾田が壁に身をおしつけていかに努力してもききとることができなかった。しかししばらくすると、「じつはな、うちの隊長が、今日木谷やないけど同じことを俺のとこへいうてきて、補充兵の一人を人選のなかからはぶいてくれいうてきやがって、俺はそんなことは人事係としていくら隊長の言葉でもうけられんいうてつっぱねてやったんやが……この隊長の方を受けておいて、その代りに木谷の方を出してみるか。」と准尉がいくらか嘲《あざけ》りのまじった調子でいっているのがきこえた。
「そないして頂けたら、これにこしたことおまへんが……准尉さん。」金子軍曹が言った。
「面倒なこともってきてからが、一体この代りになにがあるというんや……。また砂糖位じゃすませんぞ……」准尉は言った。
寒さのためにちぢんでいる曾田の体はいよいよかたくなって行った。木谷は野戦行きのなかに入れられることになるのだ。曾田は先日からこのようなことになりはしないかとおそれていたのである。すでに決定していた野戦行きの人選が、その間ぎわになって変更されるということはいままでにもよくあったし、その本人が輸送指揮官の手に移ってからでさえも、取消しや交代のでることがときにはあったのである。もちろんこれは部隊本部、医務室、隊長の指示によることが多かったが、しかしそこに疑惑をさしはさまずにはいられぬようなものをこれまでにもよく曾田は感じとらされたのである。彼は今日午後准尉の家で内村の父親に出会ったとき、木谷に危険がおとずれたことを知ったのであるが、それはいまや金子軍曹の申し出によって実現されるのだ。曾田はすぐにもここをでてこのことを木谷につたえてやらなければならないと思ったが、やはりもう一度この金子軍曹という男が、あの木谷のいう金子軍曹かどうかをたしかめなければならないと考えて、彼はなおしばらく倉庫のなかでたちつくしていた。彼はその間に音をたてないように書類をくって林中尉のことをしらべてみたが、前にみたときにも林中尉のことはあまりかいてなかったという記憶の通り、やはりそれによって二中隊にかえっている林中尉が木谷のめざす中尉かどうかをたしかめることはできなかった。
しばらくすると隣室の二人の話は次第に声高くなって、二人がたちあがり出て行く音がしたが、曾田がすぐに後を追うて行こうと思って出ようとすると、やがて金子軍曹をおくりだした准尉の足音だけが引き返してきた。
「おい、だれかいるのか、倉庫の戸があいてるが……」准尉は言ったが、大きな声で中隊当番をよんだ。……「おい、中隊当番、中隊当番……、陣営具係に倉庫の戸をしめさせておけ、おれはもうかえるぞ……」
十二
准尉が帰るとすぐ曾田は陣営具倉庫からとびでて二階へあがって行ったが、考えてみるともはや木谷を救う道はないのである。明日曾田は朝はやく准尉から転属者名簿の一部変更を申し渡されるだろう。すれば曾田たちは一日がかりで、また書類のつくりかえをやらなければならないのである。曾田はこれまで何度かこの書類のつくりかえのために泣かされてきた。一日中机に向ってかきつづけても名簿のつくりかえというものはそれほど簡単に行くものではない。名簿の変更は人事係助手を泣かせるものの一つだ。准尉は命じるだろう。すると曾田は今度はあの木谷の名前をかきこまなければならないのである。そしてその手続きが完了すれば、木谷は輸送指揮官の手にわたり、輸送船の船底にほうりこまれる。しかし曾田にはその書類の作成をこばむということは不可能である。彼はみなのものと一緒に木谷の名をそこにかきこむだろう。とすれば木谷が歩まなければならないと決定された道を変更するということは、もはや不可能なことである。曾田は階段を一歩一歩上りながら考えたが、彼は次第に自分の足が動かなくなるのを感じて、踊り場のところで、右肩をぐんと壁板にぶっつけた。『もしや、自分が木谷に金子軍曹と准尉との間に交されたあの話をつたえた場合に、木谷はその自分の決定された道を自分で変更するだろう。』という予感が曾田をとらえたのである。木谷が自分の野戦行きをそのままじっとまつなどということがあろうか。木谷はきっと准尉と金子軍曹のもとへのりこんで行くだろう。きっと彼は行くにちがいない。そしてその変更をさせるだろう。しかしあの准尉がその決定をかえるなどということは、考えることができないことだ。そして木谷が如何に荒れまわろうとも、部隊内に於て准尉、軍曹と一等兵の間にある距離をちぢめるなどということは不可能である。だから木谷がこの方法で自分の野戦行きを変更するなどということはとてもできないのである。しかもこの場合曾田が木谷にすべてのことを話したということはきっと准尉の耳にはいってしまうにちがいないのだ。いや或いは木谷はもっと別の方法を取るかもしれない。そしてそれは逃亡である。木谷が逃亡を考えるということはありうることなのだ。いや、きっと木谷は逃亡するだろう。もちろん現在軍隊を逃亡してにげおおせるということは非常に困難なことだから、逃亡後彼はおそらく逮捕されると考えるほかないが、それにしても彼はそれによって野戦行きをまぬかれることはできるのである。しかしこの場合にも曾田が木谷にすべてのことを話したということはもれるにちがいない。そして曾田は木谷に動員の機密を不必要なときにもらしたという理由で罰せられるだろう。
曾田は階段を上りきったところで、息をしずめてしばらく考えていたが、彼がまよったのは、いまはもう、ほんのしばらくの間だった。彼は罰せられることを決心して一瞬体をふるわせたが、下士官室の前から自分の班の方へはげしい勢ではしって行った。彼は走りながら、あのポプラの木の下で土をほっていたあの木谷の不可解な姿を自分の頭のなかからふるい落した。が彼が班内にはいって木谷のいることをみとどけて、そこにとんで行こうとしたとき、地野上等兵のいつにないやさしい声が彼をとめた。
「曾田シャン、曾田シャン……一寸、きてくださりませんでしょうかな。」
「なんですか、上等兵殿。」曾田は向うへは行かずにそこから言った。
「曾田シャン……また、今ばん不寝番につけてもろうておりますけど、かえてもらうというわけにはいきまへんやろかな……」
「そら、一寸、無理ですよ、不寝番は勤務表の統計をみてつけるわけですよってね。」
「そんなことはわかってるがな、そやよって、頼んでるんやないか……。それにこの俺を五番立ちとはひどいやないか……」地野上等兵の調子はすでにかわったが、しかしまだそれはどこかに甘さをふくんでいるものだった。
「しかし、それは、やはり順番やよって……」
「それをかえてくれ、いうてるのやないか……。曾田、俺のいうことが、そないにきけんのかよ。順番、順番て、きさま、ほんまに順番どおりつけてるかよ。え、この班には、まだ不寝番にも厩当番にも使役にもつかんやつがいるやないか……。おい、順番通りやいうのやったらなぜ、あの監獄がえりを不寝番につけんのや……」
「だれです? 一体だれのことをいうてるんです? そんなもんはうちの班にはいないですよ。みんな順番通り勤務につけていますよ。」
「だれのことや? とぼけるな。曾田。監獄がえりいうたら監獄がえりやないか……。なあおい――、この曾田の野郎、監獄がえりがわからんとよお――」
「監獄がえりは、飯くうて、そこで大きい顔して女郎に手紙かいてるやないか。」今井上等兵が言った。「監獄がえりゃあ、そら、棚の下にもぐりこみやがってくらいとこがええのやろ。」誰かが言った。曾田はその皆の言う言葉が木谷の耳にはいりはしないかとはらはらした。すでにこのとき彼の後の方からとんできたのは木谷のけもののほえるようなわめき声だった。
「おい、でろ。いまそこで、いうたやつは、でてきやがれ、おい、でてこいいうたらでてきやがれ。」木谷はわめいた。と思うと、寝台の上からとびおり、はげしい勢で舎前の地野上等兵の寝台のところめがけてとんで行った。彼は途中で補充兵の一人にぶつかって、バケツの上につきとばした。
「おい、上等兵、もっぺん、いうてみせろ、監獄がえりがどうしたいうてみせろ。」彼は勢にのまれて大きな眼をむいたままで寝台の上でかまえようとする地野上等兵の上にとびかかった。彼は、上等兵の首筋にごつい太い指をおし入れた。と思うと両手でつかんではげしく左右にふりまわした。「たて、たて、たて、たたんか、このやろ……」地野は「なにを、このやろう、いえとあらば、いうてやらあ。」とにくにくしげにいった。木谷の手をふりほどいてつきかえそうとする地野上等兵の両手をとると、木谷は彼を寝台の上から引きおろした。
「なにをさらっしやがっか……。やろ、やろ、やろ、お前らのような……三年兵のなりたてとはちがうぞ、おい、四年兵の監獄がえりのバッチをみせてやるから、そこいたて、たて、たて。」
地野上等兵はようやくおき上って窓ぎわに身をよせ怒りの上った眼でにらみすえながら、「ちきしょう、ちきしょう、こんなことでほっとかんぞ。」とうなるようにいっていたが、木谷が四年兵という言葉をくりかえしおしだすにつれて、その顔色はかわって行った。
「おい、上等兵、どうした、くるか、きやがるならこい……四年兵にむかってきやがるのならきてみい。四年兵いうてもやな、ただの四年兵とはちがうぞ……」
「四年兵ぞ――、なにが四年兵ぞ――」右手で頭をおおうようにしてたちあがってきた地野上等兵の口はゆがんでいた。すると木谷は上等兵の上に再びはげしい勢でとびかかった。彼は相手を一撃で床におしたおした。彼はわめいた。「くるか、くるか、こい、たて……、監獄がえりにこわいもんはないぞ……さあ、殺してやるから。」彼は地野上等兵の頭を床にごんごんぶっつけて行った。彼は大きく眼をむきだした自分の下にある顔が、さらに歯をむきだし、しゅうしゅう音をたてて、はねかえそうとするのをそのままさらにごんごんぶっつけた。やがて地野上等兵の頭の下から流れでてきたものは、ねばねばした液体だった。
曾田の耳をうったのは木谷のわめく奇妙な声だった。地野上等兵をたおした木谷をよろこんでいた彼も、いつまでも際限なくなぐりつづける木谷の姿に身の内が冷たくなった。彼は補充兵たちの間をわけて、木谷のうしろからその肩をひいた。しかしふりかえった木谷は「ふん。」と鼻で言ったきりで、いまは床の上にたおれて動かない地野上等兵の上にまたがったまま、「わかったか、わかったか、わかったか……」と泣くような声をあげてなぐりつづけた。「監獄が、きさまにはわからんやろ、監獄がきさまらにはわからんやろ。おい、おいおい……、なんとかいわんか、いわんか、いわんか、……よう……ようよう……」「ふん、三年兵のくせしやがってからに、軍隊に監獄があるのがそんなにめずらしいか、よう、よう、よう……ぬかせ、ぬかせ……」木谷の体ははげしい勢で上下した。曾田はそこにばくはつする奇妙な泣き声とどこまでもつづく殴打に胸をかきむしられ、またぞっとした。おお、そこにいるのは、まさにあのポプラの下の土をほって何かかくしていた木谷ではないか。
「おい、でてこい、まだいる。監獄がえりといいやがったやつはまだいるぞ、おい、でてこい、殺してやるぞ!」木谷はやがてゆるゆるとたちあがった。彼は周囲をじろりとみまわした。彼は三年兵のかたまっている方に眼をすえた。「こい、上等兵、今井。」
木谷は今井上等兵の前にぐんぐんすすんでいった。彼は気おされたままぼそりとたっている今井上等兵に、まるで煉瓦《れんが》か何かをつきあてるように、ごん、ごんとかためた大きい拳骨をつきあてていった。「おい、監獄がえりが女郎に手紙かいてわるいのか……。わかったか、これが監獄バッチやぞ、おい、これで頭がわれんかよ、頭がわれんかよ……」「監獄バッチがわかるかよ――、おい、よう。」するともう木谷の声は女の泣声にちかくなるのだ。今井上等兵は両足をふたふたとおったとおもうと、顔をだらりとした両手でおさえてうずくまった。
「三年兵、みな、寝台の上からおりてきて、ここへならべ。おい、三年兵、一人のこらずここへならべ……おい。俺がいまから監獄の挨拶をおしえといてやる。」木谷はぐずぐずしている三年兵を一人一人ひきずりだして一列にならばせたが、いまは彼の顔はまばらにはえた鬚《ひげ》の間に脂をうかべて、くらい電燈の下で黄色い果物のようにみえた。
「初年兵もならべ、補充兵もみんなならべ。」木谷は少しふくれ上った眼をじっとさしつけてそこにならんでいる顔を次々とみた。ぞろぞろ列をつくるみなの足音がしずまると、彼は三年兵から順次にその固い拳骨をつかって行った。
「監獄の挨拶はこんなことではすまんぜ。裸にしといてやな、骨と骨の間い、こいつをつっこむんやぞ……」「おい三年兵、補充兵、初年兵、後々の用意に監獄のことをおしえといたるけどな、飯はみんな、測り飯やぞ……一寸でも多ければ看守のやつがへずりとりやがるんやぞ……」ごつん、ごつん、ごつんとにぶい音がした。彼はなぐって行っては、よろける兵隊をついた。「監獄がえりがこわいか、よっ、おい。」木谷は一人一人にそれをくりかえした。「ふん、一分間で、湯にはいったらな、一日あたたこうて、うれしいてうれしいていられんところが、監獄やぞ……わかってるか……」
曾田は木谷の言葉つきが次第に地野上等兵ににてくるような気がした。いまは班内で列にならんでいないのは彼一人であったが、彼は木谷にはやく頭をかかえてうめいている地野上等兵をおこしてやれという機会をとらえようとみていたが、それはこなかった。
「おちた一粒の米をひろうてくうてみたらな、それが白い小石やったというところが軍隊の監獄やぞ……大学生、いたいか……ふん……」木谷は初年兵たちの歯をくいしばって拳骨をまっている顔を笑った。彼は最後になぐりおわって、すぐ近くにつったっている曾田をみつけると言った。「おい、きさまもここい来い。」曾田は見た。彼はその声とその眼によって知った。木谷は他のものと同じように自分をなぐろうとしているのだ。曾田は一歩前へでた。彼は歩いて行って木谷の前にたった。彼はつかれた木谷の顔が一寸ひきしまり、女をみるようななやましげな表情が自分をみるのをみた。彼の心はおじけづき彼の睫毛《まつげ》は動いた。が、木谷はその打撃を少しもゆるめることなく力一ぱい拳骨で曾田の頬をなぐった。曾田は倒れて寝台の角で脇腹をうった。彼はすぐにおきあがった。彼はおきあがったとき、腹をうったためにしばらく息をつめてじっとしていなければならなかったが、たえることのできない恥しさのために、真赤になった。
「おい、四年兵のバッチがどんなもんかわかったか、わかったら、もうええわ。」木谷はもう曾田の方を放ってしまった。彼は皆に向って言った。
「食鑵《しよつかん》洗い出よ! 食鑵洗い出よ!」という週番上等兵の声が外でしていたが、曾田の耳にそれがはいってきたのはしばらくしてからであった。
十三
曾田は初年兵がとっておいてくれた夕飯を自分の寝台の上へもって行って、ひとりで食った。彼の頭のなかをかけめぐるものは、ただ木谷の姿だけだった。彼は自分を同じようになぐった木谷を許すということができなかった。なぜ木谷はなぐりやがったりしたのだ、またなぜ俺はあの木谷になぐらせたりしたのだ……あれだけ木谷のことを考えていろいろしてやっている人間ではないか。彼のうちには木谷にたいするいかりがひろがっていたが、彼は木谷が自分の前にたちふさがって拳骨をにぎりしめたときのあのかたい顔を忘れることはできなかった。それは曾田の存在をはねのけている顔だ。はねのけている! ああ、曾田は恥しいことだが、あのとき木谷が自分だけはなぐったりすることはあるまいと思いこんでいたのである。木谷と自分とは同じ立場にたつことができると考えてもいたのである。曾田は飯をかみながら木谷がどこへ行ったかみわたしたが、酒保へでも行ったのだろうか木谷は班内にはいなかった。彼はまたなかなかかえって来そうもなかった。しかし曾田はいまはもう木谷をわざわざさがしだしてきて野戦行きの決定を知らせてやろうなどと考えることはできなかった。木谷はやはり自分を木谷の前歴を班内のものに知らせた人間だと思いこんでいるにちがいないのだと曾田はなぐられたためにまだ口のなかのしびれている箇所に舌をあてながら考えたが、しかしただそのことだけのために木谷が自分をなぐったのだと考えることはできなかった。
「三年兵殿、三年兵殿……曾田三年兵殿……」
曾田がよび声に気づいて顔をあげると、彼の前にたっているのは弓山二等兵だった。
「三年兵殿、今日の不寝番に安西がついているのですが、あれを交代してやって頂けないでしょうか。」
「安西が不寝番についていたか?」曾田は昨日自分が不寝番勤務に安西を選定したにかかわらず、いまは全くそのことを忘れてしまっていた。「いや、すぐかえるよ、安西は今夜不寝番につけるのは一寸、無理やろな。」
「はあ、安西は今夜はよくみていてやらないといかんと思いますです。」
「そうか、危いか? さっき、大住班長も、ここ二、三日、安西に気をつけていてくれんかというてたけど、やはり危いか?」
「さあ、そんな危いいうことはないと思いますけど……」弓山は言ったが、それは少し前に機関銃中隊に所属した学徒兵が便所のなかで首をくくって死んでいた事件をさすのだった。「不寝番の方は自分が安西と交代してもよろしいけど。」弓山は言った。彼の顔はそれを言ってしまって赤くなったが、曾田はそれには全然気がつかない顔をした。曾田はしばらくの間だまったままでいたが、実際軍隊でひとの勤務を自分から代ってかってでてやるということは、ほんとうにできがたいことだったので、彼はつよく胸をつかれたのである。曾田自身ならばそのようなことはできないことだと彼は考えた。曾田はようやく弓山はどこの学校だったのかとたずねようとしたが、それと同じ問を以前したときに弓山が××大学ですと、たしか私立大学の出身をはじていたのを思い出してやめにした。しかしどうして弓山はそのようなことをここにきてまで恥じたりするのだろうか。曾田はもしも学徒兵のなかにこの弓山のような人間が一人もいないとすれば、大学生たちに絶望するほかなかったろう。いやしかし絶望という言葉をこのようなところに使うとすれば、彼はこれまで軍隊内の自分自身に幾度絶望してきたかしれないのだ。彼自身、兵器手入具を失ったとき、それを隣の班の兵隊からぬすみだしただけではなく、自分の班のものからぬすみだし、そのためにそいつは顔がはれあがるほどなぐられたではないか……。そしてそれもただ自分がなぐられるということが恐ろしかったがためなのだ。曾田の頭にそのような過去のことがちらと通りすぎたが、「安西の家はなにしているんやったかしら?」と彼はきいた。
「さあ、はっきりはしませんですが、どこかの会社の部長とか、課長とかということです。」
「会社の重役なの?」
「さあ、それはどうかしりませんが。」
「そうか。しかし安西は毎晩、残飯すてばのところにつききりで残飯をかきわけているという話やな。」
「はあ――」
「ほんとうか。」
「はあ――」
「お腹《なか》すくか。」
「はあ、すきますけど、辛抱できんということはありませんです。」
「そうか――」曾田は言ったが安西があの厚い唇をとがらせて残飯すてばのところをうろついているのを想像すると、彼の身の内は冷たくなった。ああ、しかし木谷は刑務所のなかで、小石と紙とのりを食ったと話したし、彼自身も大陸の戦場で、まるで残飯あさりどころか拾い屋とかわるところはなかったではないか。
「安西は、学校では秀才だったそうです。二班に安西と同級のものがはいっていて、いうてましたですが……」弓山は言った。
「そうか。そうかもしれんなあ。……」曾田はいいながら向うの三年兵のかたまっている辺りをうかがったが、三年兵たちは、はなはだしく気勢をそがれてしまって、熱い湯のはいった薬罐《やかん》を股《また》にだいたり、互いにくらいつきあったりして、寝台の上にちぢまっていた。弓山も同じようにその方をみたが、彼はこうして曾田と話などしていたらあとで三年兵のバッチがとんでくるにちがいないとおそれているのだ。
「弓山とこはお父さんがないんやろ。」
「はあ、おやじがはやく死んだもんで、母がはたらいてくれてますです。」
「何してられるの?」
「はあ、ひとを置いて、下宿屋のようなことをして、やってるんですけど……」
「それで、やって行けるか。」
「ああ、そら、いつまでそれでいけるかわからしませんけど……」
「そうか……。かえりたいやろ。」
「はあ、でも、自分ら、まだはいって二カ月にしかならしませんのですよって……」
「弓山。……そんなこと言わんと、ほんとのこと言えよ……」
「え? はあ――」
「ほんとのこと言うてもええやろう。」
「はあ――」
「俺にも言えんか……」曾田は首をのばして相手の胸元に額をおしつけるようにして、一寸その顔をのぞきこんだが、相手のととのった顔はまぶしそうに眼をしばたたくだけで、相手がほんとうのことを言わずにいるのか、それとも別にいうべきものをもたないのかはわからない。
「将校になってしまえば、君らは、またらくになるけどな……」曾田は君という言葉をつかって言った。
「別に自分は将校になりたいなど、思いませんです。」弓山は言ったが、その言葉のなかには、つよいものがあった。「でも、家の事情で……」
「そうか。」曾田は言った。彼は改めてかたい声で相手の名をよんだ。「弓山。今日、昼、一寸、話したけど、イタリアのことな、あれのでてる新聞あるよって、貸すよ。」
曾田は後の手箱の横からとっておいた新聞を取りだして、あとでよんでみるようにと言って渡したが、彼は班の入口に補充兵の内村が、班長室からさげた班長の食膳《しよくぜん》をもってはいってきたのをみつけて、たちあがった。内村は曾田の方をみて、にっこりわらうではないか……。あいつはまた何か自分に持ってきたのだ、菓子か、大福か。その内村の顔のあの昼間准尉の家でみた父親の顔とにていること! 内村はたすかったのだ。たしかに内村は、うまいこと准尉を手に入れたのである。曾田はいままでにも准尉の家へ行ったとき、「そんなことをして頂いては、そんな御心配は御無用にして頂いて。」といいながら、たずねてきた兵隊の父兄から品物を受け取っている准尉をみて、そうか、なるほどと思ったことがある。それ故に内村の父親がどんな方法で准尉を手に入れたかは彼にははっきりわかるのだ。しかしこの内村がうまいこと准尉を手に入れたために、あの木谷はその代りとして野戦へほうりだされなければならないのである。
「三年兵殿、曾田三年兵殿……今日は酒保にコーヒー売りにきてよりますけど、よかったら買うてきまひょか。」内村は向うから言った。
「新聞はよう、しまっとけよ。」曾田は弓山の方に言っておいて、内村にはかたい顔をみせたまま出て行こうとしたが、内村は彼をとらえてはなすまいとした。
「三年兵殿。三年兵殿……」すりよってきた内村が曾田の手におしつけたのは、氷砂糖の塊だった。「三年兵殿、野戦行き、一体どないなりましたんやろ……え、もうわかってまんねんやろ……三年兵殿、コーヒー自分が買うといてもよろしまっせ……どないです。」
「俺にはわからんぜ……コーヒーは、いらん。」
「三年兵殿、よろしまんがな……とっといとくなはれ……」内村は腰の辺りをくねらすようにして、氷砂糖をかえそうとする曾田をおしかえしたが、曾田にはそれを拒否しつづけることはできなかった。彼は以前内村がこのように露骨に追従をするなどということは予想することができなかったのである。彼は内村のどこまでもせまってくる哀れな顔をしりぞけることができなかった。
「三年兵殿、この次には、うんと氷砂糖とブドー酒がはいることになっていますよってな。」
曾田は寒さのために桜色になっている、ひょうたん型の内村の顔が、無言のまま自分に向って何かをたのんでいるのをみた。
「おい、内村、曾田准尉殿にせいぜいまじないをしとかんとあかんぞ……」三年兵が向うから言った。すると橋本三年兵が言った。
「おい内村、こっちにもよこせよ、そんな事務室ばっかりに、ひっついてんならんということもないやろ……こっちにもたのむぜ……」
「はい、すぐ、そっちへももって行きますです。」内村は言った。
十四
曾田はのがれるようにして班内をでた。いまきいた曾田准尉殿といういやな言葉は彼の心を深く撃っていた。彼はそれ以上そこにとどまってその屈辱にたえていることができなかった。彼は階段をはしるようにしてとびおりて行った。彼は自分では事務室へ行って今夜の不寝番の勤務を変更する手続きをとっておかなければならないと考えていたにかかわらず、彼の足は事務室へは向わなかった。彼はひとりでに石廊下をまっすぐにつきぬけて、酒保の方へむかって行くのだ。彼は出口のところで初年兵の一人に靴をかりて酒保まで行ったが、その真中で大きな顔をして(曾田にはそう思えた)煙草をふかしている木谷の顔をみると、今度はどうしてもそのそばによって行くという気が起らなくなった。彼はたしかにいま木谷をさがしにここへやってきたのではなかったか。……しかし彼はすぐそこをつきぬけて出て行こうとした。ところが出口の横のくらいところに、安西が帽子に入れたコーヒー瓶《びん》を片手にかかえこんで、一方の手でごくごくと瓶をかたむけているではないか。あの安西が! それは全く曾田をおどろかせた。しかしその安西の方も、うまくひとにかくれてやっているとばかりおもいこんでいたらしくひどくびっくりしてふりむいたが、それが曾田と知ると、あわててコーヒーの瓶を前へだした。
「安西、こんなところにいるのをみつかると、またやられるぞ、のんでしもうたら、はやく班内にかえれよ。」
「はい……三年兵殿。」
「安西、つらいか。」
「はい、つらいです。……三年兵殿、あの、コーヒーおのみになりますですか。」
「いや、おれはいらん。……しかしお前、ほんとに大丈夫か。これから、ずっと辛抱してやっていけるか。」
「はい、三年兵殿、御心配かけてすみませんです。」安西は力のこもった近眼の大きい眼を曾田の眼の方にぐっと近づけた。「ほんとにわるかったであります。」
「ほんとにやっていけるのか。」
「はい……」
「腹がへるのか……」
「はい……」
「腹がへるときには、俺のとこへ言うてこいよ……俺がなんとか食物をみつけてくるからな……」
「はい……ありがとうございますです。」
しかし曾田は安西とこのような対話をかわしている自分に次第にがまんができなくなっていた。「いうてきてくれよ……。恥しいと思わずにな。」
「はい、三年兵殿。あの……三年兵殿、あの自分の外出止めいうのは、一体どの位の期間になったらとけるものでしょうか……」
「さあ――、そらわからんけどな。しかし一月か二月位はつづくやろ。」曾田はこの安西があまりにもただ自分のことばかりしか考えていないということにあきれた。彼はいまはいじめつけるような調子で言った。
「はあ――、そんな長い間になるのでしょうか……」
曾田はこれ以上このような安西と一緒にいるということにはたえられなかった。「しかしな、……染の方はな、お前のことで今夜はこんな寒いのに営倉にまで行ってるんやぞ……」
「はあ――。すみませんです。三年兵殿。」
曾田は安西に今夜彼が不寝番につくことになっていたが、だれか三年兵に代ってやらせるから、もうつかなくともよいとつたえておいて、まだ何か話したそうにしている安西をのこして引き返したが、かえりになかをみてみると木谷はどこへ行ったのか、もう酒保のなかにはいなかった。曾田はそこでコーヒーを二本買ってのみほしたが、今日のコーヒーは何時もとはちがってまだあたたかく、味もついており、胃袋のところから熱が体にひろがるようだった。彼はこの暖かいコーヒーを染一等兵にのましてやりたいと考えた。おい染と彼は口のなかで言った。しかし瓶をもって営倉に行くわけにはいかない。……彼は班内にかえって、飯盒《はんごう》をとってきてなかにコーヒーを入れ、衛兵所のそばの営倉のところにはこんで行った。おい染と彼は道々言った。衛兵は型通り衛兵司令にきこえるような大きな声で、「もう、食事もすんでいるのに、今ごろ、茶みたいなもん、もってきやがって、飲まさんぞ。」とどなっていたが、曾田がその口先に飯盒をもって行くと、蓋をあけてのませてくれという手ぶりをして、ごくごくとのんでから、「おい、染。」となかの方に声をかけた。
風は衛兵所の横からふきこんで音をたてた。
小さい豚小屋のような営倉の入口にはすでにもののくさったような匂いが流れていた。
「三年兵殿、ごくろうさんです。」穴にこもったような染の声だけは下の方にきこえるのだが、くらい小さい営倉のなかはのぞいてみることができなかった。
「染、寒いやろ……」
「寒いいうたって、毛布がはいってまんがな……」
「しかし風邪ひかんようにせんとあかんぞ。どうしてるんや。」
「ねてまんねんがな……三年兵殿。」
「ねてる? ねられるか?」
「そらさむうて、ねてもいられしまへんけんど……それでも、やっぱりひとりでにうとうととはしまっせ……」
「そうか……」
「そんなもん、こんなとこであほらしいて、じっとたってられまっかいな……。それでな、はいったらすぐ、ねてこましたりましてん。」
「飯はもうたべたのか。」
「はあ……もうさっきたべましたです……。はら一ぱいだんがな……初年兵が、一ぱい山盛り飯を盛ってきてくれよりました。」
「染。おい、そんなに、大きい声だすな。……衛兵所にきこえるぞ。」
「三年兵殿、そんなもん、こたえっかしまへん。大きい声がきこえる位なんでんねん。こっちゃ、もう、こないして営倉へ入れられてしもてまんねんやないか。……部隊でこれ以上のとこどこにもあらしまへんやろ。……ここへはいってしもてこれ以上いうたら刑務所だっしゃろな……」
「うん……そらまあ、そうだけど。注意した方がいいぜ。……だれが飯もってきた?」
「飯だっか? 飯は弓山がもってきてくれよりました。あれのほかに、そんなことできる初年兵はいやしまへん……」
「そうか……弓山がきたか……」
「へえ――大学兵でようできてるのは弓山だけだんがな。ああ、うまいコーヒーでんな……三年兵殿、……」
「そうか……うまいか――、体がぬくもるやろ? もうひえてしまったかな。」
「いや――、体がほんまにぬくもりまんな……」
染の語調にはたしかに、気勢を自分でつけているというところはあったが、彼が営倉に入れられて元気をおとしてしまっているなどということは全く感じられはしなかった。「三年兵殿、安西は、どうしてまー?」
「うん、班内にいるよ……」
「おとなしゅうしてまっか?」
「ああ、おとなしゅうしてるな……」
「あの野郎、ほんまに、ここ出たら、こんどこそ、足腰たたんようにしてこましたろおもてまんねん。」
「うん。しかしな……安西にしても……」曾田は言ったが、染の安西に対するはげしい怒りは、曾田のなかにぐっとはいってきた。
「あんなやつ、あのままにしといたら、ためにならしまへん……、ずるうて、ただ自分のことしか、考えてしまへんねん……」
「うん、しかしな、あいつも、かわいそうやぞ、学校の中途で、こんなとこい、つれてこられて、毎日のようにみんなからなぐりまわされて……」
「はあ、そらそうだす。しかしそう思うて、こっちも、あいつらにいろいろしてやってたら、あいつら、大学生そんなことぜんぜん感じんと、ただもう、ひとをだしぬいて自分が楽しようばかり考えてまんのや。」
曾田はくらい建物のなかからでてくる声だけに向っているのがもどかしかったが、その染にたいしてこれ以上このようなところで説明をつづけるということはできなかった。横にたっていた衛兵がなかにはいって行って飯盒をとってくるともうかえれと合図したからである。
曾田はかえろうとして言った。「染、どうしてるんや……いま。」
「三年兵殿、わるいけど、体がひえますよって、またねさしてもろてまんねん。」
すると向うで、ごそごそと靴が床をける音がした。
「そうか。気をつけてくれ。……それでな、染、一寸、ききたいことがあるんやけど、お前、木谷のことを班内のものにだれかしゃべりはしなかったか?」
「木谷? いいや、木谷はんのことをなんでこのあてがしゃべったりしまっかいな。三年兵殿からいわれてますしな。木谷はんのことは、あてもこの間から気にかかって心配してましたんや……。三年兵のあほんだらが、木谷はんが刑務所がえりやいうて、さわいでるけど、刑務所位がなんでんねん……あらきっと被服係の成山兵長がしゃべったにちがいおまへんぜ。あいつ山海楼で、さぐりだしてきやがったんでんな。三年兵殿、三年兵殿、木谷はんがどないかしましたか。」
「いや、別に。木谷はんがなんやということないけどな……。そうか、被服係兵長か。」曾田はようやくにしていま染に対する自分の疑いがとけたことが何よりうれしかったが、染にわかれてかえる途中、ふきつける冷たい風のように彼の前にしっかりとたちはだかったのは、この営倉のなかで如何にものん気にふるまっている染の姿だった。……何故《な ぜ》、俺はあの染を疑うというようなことをしたのだろうか、彼はつめたく頬や手足や全身につきささる冷たい風に、ぐっと心をつきさされながら、経理室の横を通って営舎の方へあるいて行った。「刑務所位がなんでんねん。」と染は言ったが、その染の言葉が真正面から向ってくるのは、むしろ曾田自身にたいしてだった。「刑務所位なんでんねん。」
曾田は右側の電燈の光のもれている経理室の窓近くに顔をよせて、或いは林中尉のことについて何か得られないかとのぞいてみたが、すでにそこには兵隊たちはいず、奥の方で下士官が口を動かして坐っているきりだった。彼は機関銃中隊の方へあるきながら先日自分の前で染が暗記してみせた共産党宣言を心の中でいってみたが、染がこの宣言の言葉を理解しているなどとはいまもどうしても考えられはしないにもかかわらず、むしろその染が自分をとおくへはじきとばしたことを感じるのだ。おお、たしかに曾田がおそれているのは刑務所ではないか……。(……曾田は先ほど自分の頬に木谷の拳骨をうけたときのことを思いうかべたが)、とすれば彼が木谷の拳骨をうける資格をもたないなどとどうして考えることができようか。
たしかに俺はそれをおそれている、このことはうちけすことのできないことである。……そして俺は刑務所がえりの人間だというだけで、あの木谷をおそれ、うたがいをもってみていたのだ。木谷は班のものと同じようにこの俺をならべてなぐりやがったが、どうして木谷がこの俺をなぐったのかその理由はじつに明らかなことではないか。木谷がさっき班内のものをならべて総バッチをくらわせたという点から考えても、彼が思想をもっているなどということはもはや絶対に考えられないことである。しかしそれにもかかわらず俺が木谷になぐりたおされないですますなどということはできはしなかったのだ。たしかにあの木谷はこの俺という人間をその底の底まで見抜きやがったのだ。しかしそれも当然のことではないか。木谷は監獄がえりの拳骨をおしえてやるといってみなをなぐったが、俺が木谷を監獄がえりとして取り扱っていたということは事実なのだから。たしかに俺は木谷を監獄がえりとしてしかみていなかったのである。そしてその監獄がえりをみなと同じようにおそれていたのだ。……あの馬運動に行った日に俺は木谷からあの経理室内のいざこざのこと、林中尉と中堀中尉の勢力対立とそれにまきこまれた木谷の立場の話をきいたが、そのときにしても俺は木谷のその話を一応みとめて木谷の身に同情したが、それにもかかわらず自分の罪をただ経理室に帰そうとする木谷を疑いの眼でみていたのだ。俺がそのとき木谷の話よりもむしろあの犯罪情報のなかの記事の方に信をおこうとしていたということはかくすことはできはしない。あの木谷が、それを見破ったということはあたり前のことではないか。
いや俺には木谷が俺の前にたって、あの色の黒い顔をかたくして拳をふりあげたときなぜ木谷がこの俺をなぐりやがるかということはすでにはっきりわかっていたのだ。なぜといってあの犯罪情報綴の記事が全くでたらめであるということは、隊長室で交していた金子軍曹と准尉の話を一寸きいただけでも明らかなことといえるではないか。そして木谷の事件のうしろで事件をあやつっているものは、木谷が話していた部隊の経理室というだけではなく、さらにその上の師団の経理室だということが感じられるではないか。木谷が味方だと信じこんでいた金子軍曹が木谷を裏切っている事実は、いまどう考えていいかということはわからないが、しかしそれがわからないままにも木谷の事件の背後に動いているものの正体はつかみとれるのだ。しかもなぜこの俺はこのような事実をはっきりと知ったにもかかわらず、なおそれを木谷の耳に入れるのをおそれていた。いや、このいまもなお恐れている。……
この俺にはあの木谷がなぜこの俺の顔を拳骨でごつんごつんとやりやがったかということがはっきりとわかるのだ。俺は准尉の家を内村の父親が訪問しているのを眼でみたし、金子軍曹が准尉に木谷を野戦にやるように要求しているのをきいたし、隊長が准尉に野戦行きの人選の変更をせまっているのを知ったのである。しかも俺はそれを木谷にすぐに知らせてやることができなかった。いや知らせてやることができないとはいわないにしても、喜んでそうすることができなかった。木谷の事件、罪はたしかにそのすべてをこの軍隊に帰することができるということがはっきりとしているにもかかわらず、なお、俺はあの木谷をおそれて……。しかしなぜ俺はそのようにあの木谷をおそれなければならないのか。……その理由というのもまたこの俺にはもはやじつに明らかなことではないか。
曾田は機関銃中隊横から酒保の方へ方がくをかえながら考えたが、彼はあの木谷の打った拳骨の打撃が自分の体をとらえているものをこなごなに打ちくだくのを感じた。木谷の手は真空地帯をうちこわす。
十五
曾田はもう一度酒保の辺りをみてみたが木谷をみつけることはできなかった。そこで彼は班内にかえってみたが、そこにも木谷はいなかった。彼は弓山に木谷がどこへ行ったかきいてみたが、木谷は一度かえってきて、しばらくするとまたでていったとのことだった。
「三年兵殿、新聞、ありがとうございました。もうよませて頂きました。」弓山は先ほどの新聞を毛布の間から取りだしながら言った。
「よんだか、そうか。どうやった……」
「はあ――、自分などにはわかりませんです……もう二カ月もゆっくり新聞もよまずにいると、ものを考える力というものがなくなって、自信がもてなくなりますです。」
「そうかなあ……」
「はあ、三年兵殿は、どう考えられますですか……」弓山の眼はすでにおちつかなかった。彼はもう三年兵たちの気配に気をくばらなければならなかった。「三年兵殿、すみませんですが、点呼のときだけ、自分のかきかけの手紙あずかって頂けませんでしょうか……」
曾田が弓山が手箱のうしろから出してきた便箋綴《びんせんつづり》をあずかっていると、かけよってきたのは安西で、同じように彼もまた手紙を点呼の時間だけ事務室にもって行ってくれないかというのだ。
曾田は自分の机の引出しのなかにまずそのあずかり物をかくしておいてから木谷をさがしに行こうと思って事務室におりて行ったが、木谷がはたしてどこにいるかその見当がつかないままに二人の便箋、手帳をあけるともなくあけてよんでみると、弓山の手紙も安西の手紙もともに母親宛のものであった。そしてそのいずれもおかあさんというよびかけではじまっていて、曾田に自分の初年兵のときのことを思い出させた。
おかあさん。前の週にかえったとき、次の日曜日にも外出が許され家へかえれるように言いましたが、今度急に次の日曜日には外出ができないことになりました。それは班の補充兵に野戦行きの命令がでて、そのために機密がもれないようにと部隊全員の外出が禁止されたからです。それでこの前かえったとき、相談をうけた家財の売却のこと、そちらでよろしくお願いします。一度くれるといったお金でありながら、いまごろになってまた返せといってくるなど、いくらもののわからない伯父とはいえ、あまりにもひどいやり方だと思います。それに伯父にはいま、家がどんな状態だかはっきりわかっているはずなのですから、先日のお話では、いま道具類をうりはらうことは、非常に損で先祖様にも申しわけないことだからできることならなるべくそうせずに、もう一度伯父にお願いしに行くとの話でしたが、しかし僕はもう、おかあさんに伯父のところへ行くなどという考えはすてて頂きたいと思います。なにもかもおかあさんにまかせきりでいてこのようなこと申したくないのですが、どうかこのことだけは思いきって実行して下さい。もうしばらくの辛抱です。幹候の試験がすめば、今後のことがもっとはっきりきまると思います。もしこれにパスすれば、任官の道がひらけますし、そうなれば、僕の方から少しは家の方へ送金するということも考えられます。それ故、それまで、いろいろやりにくいことが多いと思いますが、毎月の不足分は、やはり、僕が入隊前に相談したように、家のものを売りはらってあてるということにしてほしいと思います。今度の外出には、ぜひこのことを御相談しようと思っていたのですが、隊の都合ででられなくなりましたので、かきおくります。班内ではこれをゆっくりかいている時間もなく、とびとびに何回もかかってかきました。ほんとに家にいたころの、時間が自分の自由につかえた生活のありがたさがしみじみわかります。……あの伯父をもう今後伯父などとよぶのもいやな思いです。じっさい、訓練中にもあの伯父のことを思うとはらがたってきます。おかあさん、向うへいったら、どうかうまくいいこめられないようにしていて下さい。そちらへでて行けないのが残念ですが、もうしばらくのことですから。――これは弓山のかいたものだった。
母上様。次の日曜日の外出がなくなったので、お知らせします。一昨日突然、命令がでたのです。理由は補充兵の野戦行きがきまり、出発の日が近いので、防諜上《ぼうちようじよう》部隊全部にわたって外出、面会ともに禁じられたのです。たのしみにしていた外出もなく気がぬけてしまいましたが、この手紙つき次第、慰問袋、至急送って下さい。お腹もへりますが班長殿や三年兵や古年兵にもあげなければならないのです。氷砂糖どこかにありませんか。この前送って下さったのはずい分役にたちましたから。手の方はいよいよはれあがって、あの油薬もぜんぜん効かず、まげのばしができないほどになりました。お腹の方もどうしてもなおりません。このようなお腹の状態では、一番つらいのはかけ足ですが、明日は早朝、点呼前の駈足訓練があることになっているのです。野戦行きの準備のために自習室につかわせてもらっていた将校室も今週一週間はつかえなくなり、いままで毎夜一息ついていたのにそれもできないのです。慰問袋のことぜひともおねがいします。外出、面会ともにないので、初枝に新聞の切抜き送るようにいって下さい。新聞がよめないのが何より苦しいです。
この安西の手紙は小さいノートにはさんであったが、ノートにはところどころにきれぎれの言葉がかきちらしてあって、それは曾田をぎょっとさせた。
苦しいか、おい、苦しいか。苦しいといえ。
心などもうなくなってしまった。自分をどうすることもできない。犬のようにたたきまわされても、なんともないし、ひとりでに手があがるだけ。
自分がこんなになるとは思えなかった。胃袋が口のところまででてきている。
靴は重いし服はだぶだぶ。ざらざらざら。おかあさん……また、今日も蝉《せみ》、せみです。
曾田はじっとたちつくした。おかあさんと彼は口のなかで言った。
十六
階上から「点呼掃除。」というどなり声がきこえてきたので曾田は手紙とノートを引出しに放りこんでおいて、下靴をもって便所へ行ったが、ふと向うにみえる黒いポプラの樹の方をみると、そこに誰かうずくまって動いているように思えるのだ。いや、眼の錯覚ではないだろうかと一寸うたがったが、曾田は便所をすませてすぐさま裏へ廻って射てき台の後のところに近づいて行くと、はたして、びっくりしたようにふりかえって、こちらをうかがっているのは木谷だった。しかし木谷はそれが曾田だとわかると、ようやくたちあがって、向うから近づいてきた。
「金のかくし場所をかえとこうおもて、掘ったんやけど、土のかたいのなんのて……」木谷は如何《い か》にも具合わるそうに曾田の方をみた。曾田は眼をそらせることなくそれを見かえした。「お金ですか。」と彼は言った。
「へへ、この間から射てき台の板の間にかくしておいたあったんやけど、もう一週間以上にもなるので、場所をかえとこ……おもてな……」
「もってると、貯金さされてしまうかもしれないですね。」
「そいつが、こわいよってね……、そんなにたんとあるわけやないねんけど……。花枝をさがすのにいるやろおもて、むこうでためてましたんや。」
「土のなかへうめたりしたら、雨でぬれてしまわないですか。」曾田はやはり自分があずかってやろうとは言いだしかねた。
「少々ぬれたって、こればっかりは、だれもいやとはいわんしな……」木谷は言ったが、照れかくしのように、大きな背をさむそうにすぼめて、「ああ、冷えやがる、冬の土はほんまに熱をぜんぶすいとりやがるさかい、つらいな……」
「木谷はん。」曾田は改めて木谷をよんだが、木谷の運命をかえる野戦行きのことをいざつたえるということになると、ためらわずにはいられなかった。しかしもはや相手の心がうける衝撃をおもいはかって、躊躇《ちゆうちよ》してばかりいれば、ますますつたえにくくなってくるのだ。「木谷はん。」と曾田はもう一度よんで、先ほど陣営具倉庫できいた話を全部つたえたが、彼には木谷の体がみるみるかたくなってじっと動かなくなるのが感じられた。木谷は、一寸《ちよつと》曾田の話がつまると、「それから。」「それからどうだ?」とせきこんだ調子でいっていたが、そこにでてくる金子軍曹の名前には全くおどろいた模様で、最初はどうしてもそれが納得いかないようだった。彼は全部ききおわると「野戦行きの人選は決まってましたんやろ――、それを金子班長が准尉にたのんで、俺をそこへ入れるようにいいにきたんでんな……そうでんな。」と念をおしたが、「どういうんでっしゃろな……わからへんな……。もうそれどうするわけにもいかしまへんやろな……曾田はん。」といったまま、しばらくの間、全くだまりこんで何もいわなくなってしまった。曾田はただ自分の身がほそる思いだった。
「えらいことになりやがったな……。その野戦行きはたしかだっしゃろな。……自分がそれにはいることはもうまちがいおまへんやろな。」やがて木谷は言ってぐっと近づいてくると曾田の服の前に手をのばした。
「まちがいないと思いますよ。」曾田はじっと自分の体をたもって言った。
「そうだっしゃろな……、そうだっしゃろな……」
「ほんまにむちゃやけどな……」曾田はすぐ眼の前の自分の方に身をよせかかる木谷をみながら、先ほど、この男が自分の顔の上に拳骨をふるったのだということを自分にいいきかせた。
「曾田はん。准尉さんは、もう事務室にいやしまへんやろな。」木谷はなおも曾田の服をひいた。
「ええ、もうかえってしもてますけど。」
「たしかに金子班長だっしゃろな。まちがいないでっしゃろな。」
「まちがいないはずです。」
「ふーん、どういうのかな……。林中尉もさがしたけど、もう家へかえってしもてて、いよらんし。」
このときなりわたった点呼ラッパは木谷の顔をくらいやみのなかで全くくらい絶望の色でとざしたように曾田にはおもえた。
「どうするか?」木谷は思わずあるきだしたが、後にいる曾田をよんだ。「曾田さん……」
「どうします?」と曾田は腹の辺りに力を入れて言ったが、それは、木谷さん、どうします、なんとかしないと、いけない、やるならやりなさいという意味だった。
「え?」
「どうします?」
「え?」
また点呼ラッパがなりわたった。冷えきった身体がはじめて曾田に意識されたかのようだった。「木谷さん、もう点呼やし、点呼すんでからにしましょう。」
しかしもう木谷は曾田のそばをはなれてばたばたとかけだしていた。そして曾田が木谷さん、木谷さんといくらよんでもたちどまりはしなかった。彼は営舎の西側を大まわりしようというのか、便所のところから道を横にとり、やがてくらいやみのなかに姿をかくしてしまった。曾田はもはやその後をおいかけはしなかった。木谷の行き先というのは、金子軍曹のところにちがいないのだ。……しかし或いは、木谷は金子軍曹をつかまえたあと、もうこの班へはかえってこないかもしれない。曾田はさわぎだそうとする自分の心をしずめるためにもう一度、便所へいったが、先ほど自分と木谷がいたところはただくらく寒い風が動いているようで、そのくらいなかに、彼が以前教員をしていたとき教えた教え子の顔がいくつか動き、母親のもちをやいてくれる姿がちらちらした。彼はさらに自分のさわぎだす心をしずめしずめ班に上って行ったが、用水先任兵長に、木谷はいま事務室の用事で経理室へ行っているからと報告した。木谷がかえってくればよし、かえってこなければ、その逃亡の責任は自分の上にもかかってくるかもしれないと思ったが、いま点呼時に木谷の居所がわからないということになれば、中隊は大さわぎとなりただちに木谷の捜索隊はくりだされる。するともはやそののがれる道はふさがれてしまうだろうと彼は考えたのだ。
しかし曾田が点呼の番号をつけながら、木谷が事務室の用件で経理室へ行っているという報告がうそであることがばれはしないかと気をもんでいると、ちょうど週番士官が階下の班をすませて一班に点呼を取りにはいってくる少し前になって、とんとんという躍るような足音をたてて木谷はかえってきた。
「だれだ、いまごろ、もどってきやがったのは。」大住班長はどなったが、彼はそれが木谷だとわかると、声をゆるめた。「木谷か、はやく席にはいれ。」曾田の心はふたたびさわぎだしたが、彼の前の席にたった木谷は如何に曾田が合図をおくろうとしてもまるでそれが通じないという風だった。
「木谷、一体どこいってた、……」改めて番号をつけさせたのち大住班長は言ったが、木谷はいたってとぼけた返事をした。
「はあー。」
「どこへいっとったかときいているんや?」
「はあー。」
「おい、おれのいうことがわからんのか、おいこの――」大住班長は彼の言おうとした言葉を中途でのみこんでしまったようだったが、全く気をつめて木谷がどう答えるかと気をもんでいた曾田は、ひやっとした。
「はい、便所へいっておりましたです。」
「なに、便所? 経理室やないのか?」
「はあ。便所へいってましたんやけど……」木谷はゆっくりした調子で言った。そこにはたしかに下士官をないがしろにしたものがはっきりと出されている。そしてそれを鋭敏に感じ取らない大住班長ではないのだ。しかし彼は知らぬ顔してそれを流した。「ふん、きさまも、ビチビチ腹してやがるな。……おい、曾田、木谷が経理室へつかいに行ってるいいやがって、ようもでたらめの報告しやがったな……曾田……おい、点呼後、おれのとこいこい……」みなはどっと笑い声をあげたが、曾田はその笑い声のなかに木谷に対するつよい反感が交じっているのを感じとった。
「班長殿、班長殿、木谷が経理室へ使役に行っていたことはまちがいありませんです。」曾田は木谷の方をちらとみながら言った。
「木谷は便所でビチビチやいうてるやないか、点呼後、おれのとこいこい。」
「班長殿。」
「点呼後来い……」
「班長……」
「こい。」
点呼は無事終ったが、曾田が心配しながら下士官室へ行ってみると大住班長が彼をよびつけたのは木谷のことを調査するためなどではなく、下士官の移動について准尉さんがかえりぎわになにかいっていなかったかを彼からききだそうとするためだった。曾田はそれで安心はしたが、考えてみるならば、すでに中隊の班長たちの心のなかには班のことなど何一つないということは明らかなことだった。以前大住班長は「木谷をまともな人間にしてやりたい。」などという表現で、いかにも誠実をもって班内のことにのぞむようなことを曾田にも言ったが、いまは一人の木谷のことなどは、まるでどこへとんで行ってしまったか、全く関心の外にあるといってよかった。もっとも兵隊たちは実際そうでもなければ、無理なことばかりをおしつける下士官におしつぶされてしまうほかないのだが。大住班長はまた吉田班長の空いている席をさして、この頃毎夜のように本部へでかけていきやがるんやけれども、一体どこへ行きやがるのか知らないかときいた。しかしもちろん曾田はこのいずれの問にも答えることはできなかった。すると大住班長は、こいつ、この間も、染が吉田班長にいいつけられて俺の寝台を横っちょの方にやりやがったのを、染の口から白状させろといいつけてあるのに、全然、なんにもやりやがらん。俺はいまにお前がその報告をもってやってくるかと待っているのに、なにも報告しやがらへん。一体どないなった。いまから営倉へいって染の口からきいてこい、と曾田を責めはじめたが、それはやはり、どうしても曾田から移動のニュースを引きだそうとするためだった。曾田は木谷のことが気がかりで、少しでもおりをみつけて班内にかえろうとねらっていたが、大住班長はいよいよ曾田から何もひきだすものがないとわかると、罰としていまから班長日誌の整理を命じるといって、なかなか彼をかえそうとしなかった。曾田が班長室からようやく解放されたのは、全く点呼後どこかへ行っていた吉田班長が赤い顔をしてかえってきて、曾田の顔と大住班長の顔と見くらべたり、意味ありげな表情をうかべたりして、もはや大住班長が曾田を下士官室に引きとめておくことができなくなってからだった。曾田はいそいで班内にかえってみたが、木谷はどこに行ったのかいなかった。……木谷がかえってきたのは消燈後ずっとたってからであった。曾田はねむれなかったが毛布を冷たい体にまきつけたまま、眼をつむっていると、足音をしのばせてかえってきた木谷は自分の寝台のところでしばらくごそごそしていたが、やがて曾田の枕元にやってきて、「曾田はん、曾田はん。」と彼を起した。ちょうどいままで、炊事から経理室、縫工場、装工場、倉庫などぜんぶさがしたが、結局金子班長はつかまらなかったというのだ。「にげやがったんやないやろか。」木谷は声を低くして言った。
「曾田はん、どこでも上等兵の野郎が、えらそうにいいやがってな……、まるでしらんしらんいうたら、えらいとでもおもてやがる。経理室の前では一時間もたってたけどなんぼまっても、かえってきやがらへん。」
曾田は外をあるいてきた木谷の服から自分の頭の上に外の冷たい空気がおりてくるのを感じたが、その無事な姿をみてようやく眠りに入ることができた。
第七章
一
或いはそうかもしれない……そうだ、きっとそうなのだ。木谷の頭のなかに幾度もひらめくように通りすぎて行くのはこの言葉だった。……もしそうでないのなら、どうして金子軍曹が自分を野戦へほうりだそうなどと考えるのかその理由が彼にはわからなかった。とすればたしかに林中尉が今度は金子軍曹を動かしていろいろと工作しているにちがいないのだ。木谷はどうしてもねむることができなかった。すると昨日金子軍曹がまるで自分を物もらいか何ぞのように取り扱って煙草を手渡したときのことが思い出された。しかも曾田の話では金子軍曹はその後で准尉のところへこの俺を野戦行きに加えるように交渉に行っているのである。しかし考えてみれば、金子軍曹がそのようなことをする男ではないなどとはっきり言いきることなどはできはしなかった。あの気の弱い金子軍曹は、ときによれば、中堀中尉であろうと林中尉であろうと、どちらの側にでも立つ人間だった。……しかし俺は絶対にこのようなことで野戦などに行きはせんぞ。だれが「野戦行き――はいそうでありますか。」などと引きさがっているものか。
木谷は夜どおし野戦行きのことを思うとねむれなかった。彼はやはり花枝にもぜひとも会わなければならなかった。一度でよい、ただ一度でよいから、あの花枝に自分の憎しみを焼印のようにおしつけてやりたかった。……しかし怒りが体一ぱいにみちてくると、それとは全くかかわりのない花枝の匂いが彼の毛布のなかの生あたたかい顔をつつんで、彼の思いうかべる花枝の姿をいよいよあざやかにする。すると彼の心は荒々しくなって行った。彼の横で花枝はいつもささやいたが、彼女の声はいまもささやいているかのように思い出された。「女郎。」彼はわざと彼女を女郎という言葉をつかって呼んでみた。すると彼の荒々しい心はさらに兇暴《きようぼう》になり、彼は彼女を今夜も金をもってだきとっている男を想像しなければならなかった。……以前、すでに客を取った花枝が、やがて待っている自分のところにはいってきて、如何にも泣きだしそうな哀れな顔をして、なかなか体をひらこうとしなかったときのことがはっきりと思い出された。夏のあついときで、花枝はいくら顔を直しても彼女の全身は何かにおいをたてていたが、彼女はいつものようには、その体を彼の手のなかにほうってはおかなかった。まるで彼女は体に傷をしたかのようだった。すると兵隊の顔にはちらと悪い思いが浮かんで、その傷をしらべなければ安心ができなかった。……たとい軽い病毒におかされたとしても、一カ月の外出止めは必然のことだった。そして木谷は荒々しく花枝の体をあつかったが、ついに花枝は全く身体をかたくとざしたまま、泣きだしたのだ。彼女の大きな眼はとざされたままだった。それから彼女は、他の女郎たちなどとは全然ちがって、木谷に全く身体を自由にさせ、あらゆることをさせて、少しもいやな言葉をださなかった。「ね、こんだから、もうこんなことにならへんように、いつでも一番にきてね……。そうでないと、あたし、つらくて。」彼女は言った。彼女が泣いたのはそのときがはじめてでそれ以後にもそのようなことは一度もありはしなかった。彼女はむしろいつも、ねているときでもふざけちらすまねをするのがすきだった。そしてまるで年上のように木谷にふるまっていた。……それ故にこのときのことは木谷の心を大きく動かしたのだ。その上たしかに商売女で花枝のように身体を彼の思いのままに自由にさせたものはそれほどいはしなかった。いやそれは彼女だけだった。彼女たちは、ほとんどが、じゃけんで、油断ができなかった。……木谷が花枝を信用し、その心を信じるようになったのはたしかにそのときからのことだったが、しかし花枝もやはりいまでは同じ女郎にすぎなかったのだ。……やっぱりうまうまとこの俺をあしらいやがったのだ。
木谷は検察官が、花枝が「木谷さんは兵隊やったので、かわいそうでいつも新兵の苦労のつらさをきいてあげていた。」などといったことを自分に話したのを思いだすと、また花枝にたいするののしりの声がでてきたが、しかし考え直してみれば、それは一人の女郎としてはあたり前のことではなかったか。
木谷は花枝が、いくら扇風機をかけてもどうしても汗が流れでる体に、浴衣をかたくまといつけて泣いている姿を思いだしたが、いま彼に必要なのは、その頃、いつまでも忘れにくく思えていた彼女の泣き声などではなかった。浴衣をひんめくるようにいま木谷は花枝をひんめくらずにはいられなかった。花枝が遊び場の「女郎」であろうが、なんであろうが……そのようなことはかまうことはないのだ……とにかく花枝には一度会わねばならなかった。……ちゃんと花枝を買うための金はとってあるのだ。
木谷は一晩中ねむれなかった。俺は命などおしくはないぞ……野戦行きがこわいのではないぞ……彼は毛布のなかでくりかえしつぶやいたが、彼の体にまといついてくる花枝の匂いは、彼がつかれはてるまでいつまでも去らなかった。そして彼は朝方になってもまだねむりに入ることができなかった。
二
准尉は朝はやく転属者の氏名を発表したが、木谷はねむれなかったので一面に脂のういた顔を廊下をふきぬける冷たい風にさらしたままそれをきいた。事務室前によびだされて整列した補充兵たちはうすぐらい廊下のなかで表情もわからなかったが、ぎこちない不動の姿勢で准尉に注目した。……しかし列の一番うしろにならんだ木谷はすでに曾田からききこんでいたし、ひそかに准尉にたいするののしりの声をあげてきいていたので彼の心はそれほど動かなかった。彼はこれがおわればすぐにも准尉のところに行って曾田からきいたことを全部ぶちまけて野戦行きの取消しをせまろうかと考えていた。……准尉はお前たちもいよいよ御奉公のみちがきまったのだから、しっかりしなければいけないと前置きしてから十五名の名前をよみあげ、転属の命令をつたえた。それから彼は普通ならば、今は外出などということも許されないのだが、みなもいろいろ家庭の事情もあろうからと考えて特に市内近辺のものは外出、遠方のものは一泊の外泊が出されることになったのだから、野戦に出てもあとに何の思いのこすところもないようによく家のなかを整理してかえってくるようにと十分間ばかり話すと、兵隊に隊長をよびにやって申告をさせ、ただちにいまから外出の準備をせよと命じてみなをわかれさせた。隊長は声をふりしぼるようにして型にはまった訓示を悲壮な顔をつくってした。そして悲壮な顔をして補充兵たちは別れた。しかし木谷が一応みなと一緒に班内にかえろうかそれともすぐさま准尉のところに行こうかと迷っていると、「木谷、こないか、話がある。」と低い声でよんだのは准尉である。木谷はその後からついて行ったが、准尉のはいったのは曹長室だった。すると木谷は何故かいやなものが背筋をはしるのを感じた。そこは以前彼がとじこめられて林中尉の取調べをうけたところなのだ。
准尉はしばらくだまっていたが「木谷、お前には外泊も外出もさせてやれないが、これは師団の命令だ、俺の力ではどうにもならんのだから辛抱せえ。しかしな、いまお前の兄をよんでいるから、お前は面会で後のことをいろいろ相談しておくがよい。」というのだ。これは木谷の全く予想していないことだった。しかし彼は別にこれにもおどろきはしなかった。准尉がこのような手をうつということは考えられないことではないのだ。それが何だ。木谷はすぐにも野戦行きの変更をもちだそうと思った。しかし今朝から二回もたずねてまだつかまえることのできない金子軍曹をさきにみつけて、その方を追求する方がほんとうだという考えが彼のうちでまたつよくなってきたので、彼は准尉のいうことをそのままだまってきいていた。すると准尉はさらに「木谷、野戦行きを命ぜられるということはお前にとってはこれこそ名誉を回復するときであって、ほんとに正しい兵隊として更生する機会をめぐまれるわけなのだから、こんどこそ向うでまじめにつとめをはげんでくれ。」というのだ。
「だれがなんといおうと、自分さえまっすぐにしておれば、少しも気にすることはいらない、そうだぜ、木谷。なあ――」准尉はまたしばらく説いた。……このような言葉は木谷がすでに何回もきいたものだった。そして准尉もまたいま同じことを口にするのだ。准尉はじっと木谷をさぐるようにみたが、木谷は眼をそむけはしなかった。彼の眼は敵の眼のように相手をみた。
「わかったな――」
「はあ。」木谷はしずかに低い声で言った。しかし彼の眼はその入口の戸の上の壁に三日月型のきずが二年前と同じように白くついているのや、床の上の一カ所に不細工にも繕い板がはってあるのなどをさがしていた。「くそったれ。」と彼は曹長室をでて准尉とわかれるや言った。彼はすぐ班内へあがって行ったが、彼の頭のなかはさがしださなければならない金子軍曹のことで一ぱいだった。
一かたまりになってぼそぼそと寒そうにしゃべりながら外出準備をしていた補充兵たちは、木谷があがって行くと急にまるでこわいものがきたように静まった。いまや木谷四年兵はこの班の一つの中心、別な新たにできた中心なのか。三年兵たちはそれでもなおざまをみろというように小づらにくい顔をして遠くから彼をみた。それは木谷の心にふれた。木谷は帽子と靴をとって外へでて行こうとしたが、廊下に外套《がいとう》をひろげて輪巻きにしている補充兵の一人につきあたった。
「四年兵殿、どこい行かはりまんねん。四年兵殿、どこに行かはりまんねん。四年兵殿、外出者の整列がありますよって、すぐ準備しておくんなはれよ。」木谷がふりかえってみるとそれは東出一等兵だった。
「四年兵殿、ここへ四年兵殿の外套まいておきますぜ。」東出は星のはいった眼をすえて言った。
「ええよ。」木谷はかたまっている補充兵たちの顔をみたが、彼らの真面目な顔は一つ一つばつが悪そうで、また取りかえしのつかぬことをした顔のようにつらそうだった。「ええよ。おれは、外套なんていらんぞ……」
「四年兵殿、外出は? 外出はどないしやはりまんのです?」
「あほんだらめ、外出? この俺がそうやすやすと外出して、野戦へ行かされてたまるかい……」
補充兵たちはみな口をつぐんで彼をみた。木谷はそこにつったって、みなの外出準備を手つだっている内村をみつけてにらみつけるようにみたが、内村のそむけた顔を彼はもうみなかった。
「おい、内村、うまいこと、のがれよって、こいつ。向うへついたらな、慰問袋、おくれよな。」老人のような飯田は木谷にかまわず元気をふるったようにしわがれ声で言った。「もう、かあちゃんに知らしたか……かあちゃんまだ、当分、できるいうて、よろこんでるやろ……。おらな、今日は、最後のやつ、二つ三つしてこましてくるぜ――」
「へえッ……飯田、そんなこというないな。」内村は言ってうつむいた。が、彼はすぐさま次の攻撃をうけたのだ。
「おいな……内村、お前やって、次には行くぜ――、おれら、一寸一足先にいってるけどな――」しかし飯田のその声はさびしそうだった。木谷はただ、あほんだらめ、と彼らにたいして声をあげた。
三
木谷はみなを放っておいて炊事と経理室にはしって行った。彼は金子軍曹をさがしたが炊事でも経理室でも金子軍曹の行方をしゃべるものはいなかった。炊事の上等兵はもはや彼を班長室へ入ることを許さなかった。炊事の班長は奥の方からまたきやがったか、はいってきたらたたきだっそ、とどなりつけた。すでに木谷は昨夜点呼後に二回、今朝になって二回もやってきているのでみなはもう彼の顔をみるとまるで汚《けが》れ物にふれるかのような顔をした。それにこの横へいな一等兵などに一体だれが親切にするだろうか。それでも木谷は自分をおさえてしずかにそこをひきあげ二中隊へ林中尉をたずねたが、林中尉もやはりまだ隊に来ていなかった。……時間は次第にたって行くのだ。そしてそれを取り返すことはできないのだ。それではもはや、どうあっても先に准尉のところにのりこんで行くよりほかにはない、あの准尉もとうとう、うまうまと金子軍曹の野郎にまるめこまれてしまいやがった。きっと炊事の砂糖袋を一つ位金子の野郎からつかまされやがったんだ。……金子の野郎はいまじゃこの俺が部隊にいるのがこわくなっているのだ。俺はあいつのやってきたいろんなわるいことをのこらず知っているからな……。たしかにこの俺があいつには邪魔なのだ。
しかし木谷の足はなかなか中隊の方へは向って行きはしなかった。彼はあの准尉の前にたつとその身体の方から自分の方にふきつけてくるあのものやわらかな風がきらいだった。あの風につつまれると彼の手足はなぜかいうことをきかなくなる。しかしあの准尉のところに行かないでいつまでもじっとしているわけにはいきはしない。木谷はすぐにも中隊にかえって准尉のところに行こうと一度は思ったが、やはりまた金子軍曹を先にさがしだすことにきめると、もう一度、縫工場、装工場、経理関係の倉庫を一巡してから炊事と経理室にたちよった。しかし今度もまた軍曹はつかまらなかった。たしかに金子軍曹は木谷からにげるために衛外にでてしまっているにちがいないのだ。これほどにもさがして、つかまえることができないとすれば、もはやそのほかには考えることはできなかった。すると考えられることはやはり金子軍曹にはかられたということだった。そして金子軍曹が昨日、野戦行きについてはっきりきまったら知らせに行ってやるからとこの自分に言っておきながら、そういう口の下から、准尉のところにはしって行って、自分を野戦においだす工作をしていたことがまたもや憤どおろしく胸を動かしてくる。
木谷は金子軍曹がつかまらないので経理室から再び二中隊へというコースをとった。すると二中隊の舎前の入口のところに自分の方をいつまでも何かしらべるかのようにじっとみている背の高い将校がいるので、或いはと思って近づいてみると、それが刑務所以来二年間、彼のめざしている林中尉だった。
いやたしかにそれは一見しただけで木谷にはとおくから林中尉だということがわかったのだ。どうしてこの少しばかり上半身を前へかたむけた姿勢を忘れることができようか。顔がおどろくべくほどかわってしまっていたのでむしろはじめから近くで出会ったとしたならば、やりすごしてしまったかもしれはしなかった。……木谷は突進するような勢で近づいて行った。彼は声をたててはしっているかのようにはしった。彼は相手のすぐ近くでとまるとその顔をものも言わず見上げるようにみた。彼の口はきかなかった。彼の足もきかなかった。彼はこの俺の顔をみてみい、この俺の顔をみてみいというようにじっと相手をにらむようにみた。彼の瞼《まぶた》はふくれ上った。
「木谷、木谷やな、やっぱり木谷やな。」
「ああ、木谷やが。」木谷はおしつけるように言った。
「そうか。いつかえった。どうしているか。木谷、ずっと元気でいたか。」
「この間な、ようよう、出てきましたぜ。」中尉の調子は木谷に怒りを思い出させた。
「この間、そうか。うん。そうやろうな。長かったよってな。しかしようお前に会えたな。一度ぜひ、会いたいと思っとったが、お前にはもう会えんのではないかと思っとった。木谷ここでは冷える、なかへはいってはなさんか……。俺はな、ぜひお前にきかせたいことがある。」
『なにをいやがる、きかせたいのはこっちじゃないか……』それは以前とは全くちがった林中尉だった。高飛車な勝手なものいいは少しもかわってはいなかったが、その弱々しい調子は全く以前にはみられなかったものだった。木谷はこいつ何をいやがる……何をいやがると思いながらそのあとについて将校室にはいって行ったが、中尉の後姿を真近にみるにつれて彼のいかりはまたふくれ上った。中尉の背中はやせていてそのために服がだぶだぶしていたが、それはやはりあの林中尉だ。衛兵所でこづきまわし、裏の冷たい川のなかへ彼をつっこんだ林中尉、拾った金入れを取ったと陳述して彼を重刑におとし入れた林中尉。木谷はこのまっすぐな板のような背が一寸気取ったように冷淡な感じであの取調べのために入れられていた曹長室からでて行くのをただうらめしいという気持だけで何度となくみていたのだ。あの冷酷な気狂《きちが》い野郎の林中尉。――しかし中尉の顔はいまは一種の洋菓子のくずれたもののようにくずれているだけではなく、その眼尻は赤くただれ、鼻筋はいよいよほそくとがり、鼻孔はうすく、しばらく立っているのさえもたえられないというような表情だった。
「木谷、お前、俺をうらんでるな。まあ、そこへかけないか。木谷、あれから、いろんなことがあってな、俺もとうとうこんな身になってしまったが、お前にだけは会うて話しておきたいと思うてたぜ。こっちへこないか。……な……、木谷、なにかあるとよいのだが、俺もついこの間病院からでてきたところで、まだ何一つ手にいらんので、お茶でものんでもらおうか。」
林中尉はたち上って棚の上からコップを二つだしてきて茶をついだが、木谷は椅子に腰をおろさなかった。彼は自分の息をしずめようとするかのように大きく呼吸をしたが、彼のふくれ上った胸は肩を上へつきだすばかりでしずまらなかった。
「今日はここのやつがみんなでて行ってだれもおらんから、ゆっくり話せてちょうどよいが……お前のとこにも今日外出があったか。」
「…………」
「今度の行先はなんでも南らしいな……全部補充兵やそうやけど……向うへつくかどうか、あぶないもんやと、いうてるな。」中尉はもう疲れをまともにあらわして腰をおろしたが、その力を入れた背は椅子をつよくおしてきしませた。
「林中尉殿、なんで自分がここへきたのか、わかりまんな。」木谷はようやく口をひらいたがその言葉は重いものがでるようにでた。
「うん。」と中尉はどこか身体がいたむのか顔をしかめながら言った。「そうやから、話さんことにはわからんといってるではないか。実際話をせんことにはわかってくれんだろう……。俺はお前にはほんとに気の毒なことしたと思っている……。木谷……。俺は当時全然お前を思いちがいしていたのでな。」
「そんな言うことを、いまごろきかんぞ、俺はきかんぞ……」兵隊の言葉でない言葉を木谷は口から出したのだ。
「木谷! おい、木谷。」中尉はきしるような声で叫んだ。
「…………」
「木谷、ちがうぞ……。貴様、俺のいうことをきかないのか。」木谷の言葉のために林中尉の顔はすでに屈辱にふるえていた。
木谷の身体はいまにもけもののようにほえうめきながらとびかかって行こうとした。彼の二年間のつみかさねられ、おしつけられたいかりはわめきさけぶ女のように肩のところでばくはつした。しかし彼はいまは相手の上にけもののようにのしかかって行きはしなかった。相手の以前と全くちがった弱々しいものごしが彼にそうさせなかったのだ。
「林中尉、俺は、絶対に金入れを取ってはいないですぜ……金入れは便所の横でひろったんですぜ……」
「ううん……うん。」
「あの金入れは、上衣のなかから取ったりはしてない、金入れは便所の横でひろったんですぜ……」
「うん……。そのことについてもみんなお前と話した上でないとわからんというているではないか。少し、俺のいうこともきかないか。……だから俺はお前を誤解していたといっている。」
木谷は前にある大きな火鉢をまたいで向うにこえようとしたが、林中尉の眼だけを強く光らせるばかりでたよりなげな、力のない体がそれをさまたげた。
「何がわからんことなどない。金入れを便所の横でひろったのに中尉殿は自分が金入れを上衣のなかから取ったと申立てをして、そのために自分は。」木谷はさけんだ。さく衣をはめられて水をぶっかけられ、ぶっかけられしてなぐりつづけられた木谷、重屏禁《じゆうへいきん》をうけてはだかのままくらい冷たい房にとじこめられた木谷。
「それはな、わるかったといってるではないか。俺はお前を中堀の下にいると誤解しとったよってな。それでとうとうお前を刑におとしてしもうた。俺はお前のことを考えるごとにいつもすまんことをしたと思わんかったことはない。……ところがあれにはえらい裏があったんでな。この俺もあのときにお前と少しもかわらず同じめにあわされてきている――中堀のやつに、うまうまとひっかけられて、とうとういまはこんなざまになってる……。な、木谷……かけないのか……」
「…………」
「俺はもう、こんな体になって、軍隊じゃ、なんの使いものにもならん。……みてみい、まだいまごろになっても中尉の肩章がついてる。みんなあの中堀のやつのしたことだ……。木谷。金子軍曹がかえってるのを知っているか。そうか、知ってるのか。では中堀が師団にいるのを知っているか。」
おお、中堀中尉は師団にいる! 木谷は顔をふった。金子軍曹はやはり嘘をつきやがったのだ。
「やっぱり何もしらんのだな……。中堀のことはなにもしらんのだろうな……。お前をつみにおとしたのも、あの中堀中尉のしわざぞ……」
「そんなこといまごろになってきかせてくれてもしようがない!……」木谷はのどのおくで言った。彼はようやく椅子の上にのりだした。この前の長い細い首をのばしている林中尉を彼は信じるということはできなかった。その顔はいくらか赤味がさしはじめたが、まるで汚いものを一面にふきだしたようでほんの少しの間もじっとみていることができないほどだった。
「木谷、お前は中堀が師団の法務部に運動してお前を罪におとしておいて知らん顔をしているのを知らないだろう。それでいて、ただこの俺をうらむのはまちがってるぞ……。な、木谷、そら俺はうらまれても仕方ない。ひどいことをした。俺はいまではもうこんな身になっていて、お前にうらまれようがちっともかまわんぞ。俺がお前のことを全然考えてなかったなら、こんなことをわざわざお前にいいはせん。俺はあの中堀のために全くお前と同じようにうまくだまされ、やつの計略にのせられてひどいめにあってきて、はじめて心底からお前にすまんことをしたということがわかってきている。俺はそれでいうてるぞ。木谷、中堀が師団の経理部を通じてあのとき師団の法務部の方へどんなに運動したか、お前少しでも知っているか?」
木谷は次第に自分の顔が青ざめて行くのを感じた。彼はまるでこれまで自分を支えていたものが、自分のうちからとりさられ、もちはずされてしまうような気がした。よく説明されてみれば中堀中尉が法務部に運動したということはたしかに事実にちがいなかった。そしてそれが事実であるとすれば、金子軍曹のやろうが俺を野戦へほうりだそうとして工作しやがったということがじつによくわかるのだ。あのふっくらした坊ちゃん面をしやがった金子の奴は、どうもおかしいおかしいと思っていたら、これですべてがはっきりするのだ。
林中尉はさらに身体をのりだして、ときどき痛みのために顔をしかめながら二年前の当時のことを話して行った。それは木谷が刑務所のなかでいかに思いめぐらそうとも考え及ぶことのできないものだった。木谷は中尉の言葉に従ってやがて腰をおろしたが、しばらく体を動かすこともできなかった。彼がこれまで信じていたことがすべてくつがえされる。それでは木谷を刑務所につきおとしたのは中堀中尉とあの検察官ではないか。しかし木谷はいま自分の身をどこによせることができようか。
四
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「木谷、俺がこんな身になってこんなことをいうのはばかげたことか知れん。しかし軍隊というところはひどいところやからな……。お前もまる二年もあのようなとこへやられて、ほんとに気の毒なことやったが、内地の軍隊はじっさいくさりきってる、じつに底の底まで腐敗している。俺も外地にいて内地の軍隊はな女官《じよかん》部隊だといわれ、きかされていたが、内地へかえってきてじっさいそこへはいってみるとな、もう考えていた以上で、どうすることもできん。なんとかしてよくしようと思ってやってみたが、俺のような男は、こうしてとうとうつきおとされてしまった。……それは、この俺もわるいことせんかったとはいわん。しかしな俺は部隊をよくしようと思うてただそれだけでやってきた。俺はな、軍隊のためには、じっさい本心から、つくしてきたぞ。それやから、そばで軍をないがしろにするやつらのことをじっとみてることができなんだんや。しかしな、それでは軍隊というところは、全然だめなんじゃ。お前もしってるだろう。連隊長、副官、大隊長連がどんなことをしてたかな。……ただもう師団、師団で、師団の御機嫌を取ることだけがその幹部連の仕事で……本人だけやない、女房、娘、一家総動員しないと間に合わんといわれる始末やからな。知ってるな、あの副官、部隊一のきれものといわれた副官な。ところがあの副官の女房は、部隊長の家へつききりで、はしり使い、小間使いで、一日中はしりまわらなければ副官殿の方がつとまらん。そらそばでみていてじつになさけないぞ。御用商人のおさめるものは、数や質がどうあろうとまず部隊長の家へはこびこむことを考える。その上でみんなひどいことをやる、あの下瀬中尉などちゃんと家までたてさせて、おさまっているぞ。俺はな、それをそばでじっとしてみてることができんで、とうとうのりだして行ったがこの俺には無理な仕事やった。……お前には大きなさいなんにあわせたし、俺は部隊をおっぱらわれて、このようなざまになってしまった。こうして病気になってみい、ただ一人もうみむきもせん。それにいくら願いでても、もう少し養生してみいということでやめさせてはくれん。……木谷、俺はなお前を中堀中尉に買い取られているものとばかり思いこんでいて、とうとうお前を軍法会議に送りこんでしまったが、あとでそれが誤解だとわかったときにはな、もうどうすることもできなかったぞ。」――林中尉は全く予想もできなかったような哀れな声で言って、当時の経理部内の対立から話して行ったが、それについては木谷は自分の見ていたところがほとんど間違っていなかったことを知ったのである。しかし彼はやはりじつに多くのことを見おとしていたのだ。いや彼はその対立の裏でどのようなことが行われていたかをほとんど知ることがなかったのだ。そしてそのうちもっとも重要なことは、林中尉が中堀中尉とぶつかりついに経理委員の席をおわれてから、中堀中尉の勢をくつがえそうと考えて倉庫関係の下士官にはたらきかけ、中堀中尉の一派たちと御用商人の間の不正をしらべあげることを計画し、ほぼその調べはできあがろうとしていたということである。林中尉は被服倉庫の下士官が中堀中尉に反感をもっていることを知って、ようやくその一人を自分の側につけることに成功した。しかしそれだけではまだ相手をうちくだくだけの準備ができたとはいえなかった。林中尉はさらに自分の側にたつ人間を一人でも多く獲得しようと工作した。林中尉が木谷の事件にぶつかったのはちょうどこのような時だった。林中尉は腐敗した部隊の経理室をよくするためにはどうしてもそのうちの腐敗分子をおいだして行かなければならないと考えていたが、それには、これまでのように自分だけがひとりぎめでやって行くのでは不可能だということをさとったのだと話した。彼は当時自分があまり兵隊や下士官たちによく思われていないということに気づいて反省したという。そして林中尉はさらに二、三人の下士官たちを自分の側につけるということについに成功した。しかし部隊の幹部を物の力でにぎりとっている中堀中尉一派の力をくつがえすなどということは、じっさい容易なことではなかった。いやそれはむしろ不可能なことだった。中堀中尉はこの林中尉の動きに気づくや、部隊副官を動かしてただちにその三人の下士官をよびよせ、転属をもっておどしつけ、林中尉の画策をのこらずしゃべらせた。そしてこの三人を適当に野戦や航空隊においだした。この中堀中尉のやり方はじつにすごいものだったという。林中尉の計画はまたたく間に見抜かれ、つぶされた。彼はあせらずにはいられなかった。彼の側にはまだ最初から彼と行動をともにした下士官が一人いたが、事態がこのようになってくると、それもすでに自分の保身を考えようとしはじめた。それ故木谷の事件がおこったとき林中尉はまずそれを利用して木谷から中堀中尉や経理室内のいろいろな問題について何かひき出そうと考えたのである。彼は枚方《ひらかた》の衛兵所で木谷を取り調べているときにそれを考えたのだという。もっとも彼はその頃はそれほど兵隊の木谷から重大なことがひきだせるなどとは考えていなかった。しかし木谷の事件をききつけて中堀中尉がまた動きだしたということをきいたとき、彼の考えは一変した。……木谷の事件をききつけた中堀中尉は林中尉の画策で木谷が軍法会議に送りこまれるのをおそれて、それをとめようとあらゆる手段をつくしたのだ。……林中尉は最初から木谷を軍法会議に廻そうなどとは決して考えてはいなかった。しかし中堀中尉があまりにも木谷のために力を入れるのをみると、そこに何か理由があるにちがいない、と考えないわけにはいかなかった。彼は木谷が中堀中尉の一派のなかにすでに買い取られているものと判断したのだ。そこで林中尉は木谷を説いた。中堀中尉について知っていることがあれば言うようにと彼に追求した。しかし木谷の口は全く固かった。とすればいよいよその疑いはこくなるではないか。そしてついに彼は木谷を軍法会議におくることに決意したという。中堀中尉の側にたつ木谷の取調べがすすんで行くならば、そこに経理室の秘密が明るみにだされる可能性は大いにあるわけだった。林中尉はついにこれを実行するほかにはもはや中堀中尉一派をくつがえすような機会をとらえることはできないと考えなければならなかった。しかも林中尉自身、木谷の取調べにあたってはもっとも有力な発言をしうる証人の一人となることができるではないか。しかしそれは林中尉が軍法会議の尊厳というものを信じきっていたからできたことだった。彼は軍隊の腐敗だらくとその情実のいりまじった裏面についてはかなりよく知ってはいたが、軍法会議もやはり全く同じことであり、なんらかわることがないなどということは考えることはできなかった。それ故に林中尉は軍法会議で中堀中尉の不正の罪状が明らかにされて行けば、もちろん自分自身にもそれは及ぶだろう。すればもはや自分も無事にいることはできないと考えて、この決心にはかなり手間どったという。しかしそれはまことにばかげた考えであったということがすぐあとからわかったのである。師団の軍法会議が師団に悪い影響を及ぼす検察をし判決を下すなどということは、ほとんどありえないことなのだ。
林中尉もこの事件によってはじめて軍の威厳をたもつおそるべき軍法会議というものの正体を知ることができたという。もちろん当時彼はそのようなことに気づくことはできなかった。しかし彼がそれをはっきりとみきわめることができたときには、それはあまりにもおそすぎた。すでにそのとき木谷は刑に服していたし、彼の方は危険な南方の輸送機関勤務に転属させられていた。
これらのことはもういまとなっては取り返すことなどできはしない。このような身になって何一つ力をもたないようでは、もうそれをどうするなどということは考えられないことである。その上もうそれをどうかしようという気力もまた彼にはなくなった。木谷が刑をうけ、林中尉が船中で病気でたおれ、内地送還をうけて病院を転々としているとき、中堀中尉は師団へ転出して、すでに大尉になり、思いのままに力をふるっている。じっさい主計の連中にこの軍隊はみんなくいつくされてしまうのだ。主計のやつらはほんとうに軍の毒虫ではないだろうか。
2
木谷の軍法会議を左右したのは師団の経理部の中心である大山少佐であった。師団経理部はそれ以前から林中尉が部隊の経理室にたいして種々不都合な画策をしていることをきき、もし部隊経理室を中心とするいろいろの問題が明るみにでるならば、それは師団にも波及するおそれがあるので、この事件のためにも着々と手をうったのだ。師団に問題が移るような重大な事態をきたしたならば、それは軍の威信をきずつけ、戦局に影響するところも大きいのである。それ故にそれは如何なることがあっても決して明るみにだすべきものではなく、小さいうちにすぐさまもみ消してしまうべきものだった。もちろん林中尉も、中堀中尉が師団にかけつけ、種々画策をするにちがいないと考えてはいたが、直接それが師団法務部に及ぶなどということは考えることができなかった。しかし実際中堀中尉たちのやったもみ消しはじつに大がかりなものだった。このためには副官から連隊長も動いたのである。彼らは下士官と将校の人事異動を慎重にやり、勤務兵さえ交代させ、全く腹心のものばかりで身をかためたのである。もはやそれにたいして林中尉には手のだしようもなかったということができる。木谷の事件は或いは、中堀中尉たちがのこした、ただ一つのすき間であったのかもしれなかった。しかしその木谷の事件に対しても、じつに用意周到なやり方でのぞんで彼らは、たくみにそれをきりぬけたのである。明らかに検察官は当時上部からなんらかの指示をうけていたとみることができる。もちろん彼らも林中尉の存在を非常におそれていたのですぐに彼を異動させることはできなかった。しかしその他のあらゆる手段によってあたってきたという。
林中尉は木谷が中堀中尉の側にたっていると信じこんでしまっていたので、木谷の取調べが簡単におわり、それが起訴猶予とか不起訴処分のような形で解放されてしまうことをもっとも警戒したのである。それでは中堀中尉をただ喜ばすだけである。それ故に彼は木谷の犯行が計画的なものであることを、くわしく説明して行かなければならなかった。彼はそれにずい分力を入れ、時間をついやした。しかし検察官はなかなか彼のいうことをそのままとりあげようとはしなかった。検察官はむしろ被告の木谷の側にたって林中尉の証言をつき、それを反証するという態度にでた。そのやり方はじつにするどく、林中尉は全く検察官の方針を最後までうたがうことができなかったという。いまから考えればそこにかえって検察官にたいする疑いをますのだが、林中尉はそのことのために検察官がその後取調べがすすむにつれて、逆に木谷のいろいろな犯罪行為をえぐりだし、ついに予想以上の重い刑を求めるにいたったときにも、どうしても検察官を疑うということはなかったのである。岡本検察官は一見穏和ないかにも人間味のあるひとのようにみえるので、林中尉はそのような点から全く彼を信じこんでしまっていたという。ところが検察官は後になってわかったのであるが、上部からの命令で最初は木谷を不起訴処分にして事件を簡単に処理してしまう方針であったようである。しかしそのためにはやはり巡察将校たる林中尉の同意が必要であり、また木谷の改悛《かいしゆん》の気持を明らかにしなければならないのである。しかし検察官はこのいずれにも失敗した。しかも木谷はついに取調べにさいして経理室全般の不正を指てきして、上官たちがこのような行動をしているのにどうして自分だけが、一寸したことで罰せられるのかという態度にでたので、検察官はもはや木谷を取りおさえ、これを始末するよりほかに方法がなくなったのだ。……検察官はもちろんかなり前からその準備をした。検察官はじつに綿密な調査と捜査を木谷にたいして行ったが、このような捜査が兵隊の犯罪に対して取られたなどということはかつてない位であった。さらにまた公判の検察期間がこのようにのびることもめったにあるものではない。そして最初はむしろ木谷の側にたって林中尉の申立てをそのまま取りあげることなく、事件の経過を現場におもむいて再調査するなどということを言った検察官は、次回に林中尉がよびだされて出席すると、木谷の態度がじつにわるいことをのべ、林中尉が経理委員在任中の不正について木谷が申立てをしたりしているなどと憤慨してみせ、じつにたくみに彼ののど首をしめてきたのである。林中尉はもちろん木谷のいうことはでたらめであると否定した。が検察官もまた「じつにけしからん、わたしも木谷の口からそれをきいたとき、もう腹がたってたまらず、兵隊たるものが将校に対して何をいうか、兵隊がそのようなことを考える必要はない、その代りにちゃんと師団に検察官がいるのだとどなりつけてやったですよ。」というのである。林中尉はこの検察官の言葉をきいて、全くおされてしまったという。林中尉はそれ以後は全然検察官の誘導するままになるほかなかったのである。次によびだされて出席すると、検察官は「木谷はあなたが不正をやっているのは事実で絶対に嘘ではない、どうか調査をしてくれと繰り返し申し立てているが、じつにけしからん兵隊ですよ。全く悪質きわまるので、いま木谷の思想調査をすることに法務部として決定したが、或いはそれで容易ならんおそろしい結果がでてくるかもしれない。それで部隊にも通達してあの兵隊在営中の影響調査をしているところです。木谷のいうところをきくと、上官連はすべて不正をやっている、さらに経理室全体が不正の巣《そう》くつだというおそろしいことになる。じつにおそろしい、危険思想ですよ。兵隊として絶対にあるまじき考えです。あのようなことはたしかに特別な思想の持主でなければ考え及びもできないことですよ。」というのだ。林中尉はぎくっとしてそれについて意見を求められたが、木谷がそのような特別な思想などを持っているかどうかはわからないと答えるほかなかった。彼にはもはや木谷のいうことを取り上げてその不正を調査するように主張するものはのこされてはいなかった。検察官は不審げに頭をふるだけだった。しかし三回目に出席したとき林中尉は自分の方から自分に不正があるとか経理室に不正があるとか木谷がいっているとすれば、或いは検察官に疑点をのこしていることだろうから、どうかその取調べをすすめてもらいたいと主張した。すると岡本検察官は「あなたはそれを正気でいわれるのですか。将校たるものがそうむやみなことを口からでまかせにいってもらってはこまるではないか。」というのだ。「すでに師団には経理部があって部隊の経理検査を確実に実施しているはずである。もしあなたや経理室に不正があれば経理検査に於《おい》てそれは発見されなければならない、あなたは師団の検査が全く信用できないものといわれるのか。……いやすでに百十二部隊の経理については最近いろいろとつまらないことをいいふらすものがでているので検察側としても内々に調査をすすめているから、その結果については、すべてこちらで責任をもつが、あなたの口からそのような言葉がでるのはつつしんでもらいたい。それにどうしてあなたは木谷上等兵があなたを侮辱する言葉をはいているにかかわらず腹をたてないのか。わたしはそれを木谷の口からきいたとき腹がたってならなかった。あのような言葉をわたしは検察官として決して放ってはおけない。」とさらにいうのである。林中尉はこのときはもはやそのようなことでひきさがりはしなかった。しかしそれ以上に不正の取調べの問題をおしすすめるということは彼の力ではできなかった。「あなたを取り調べる必要がこちらでも生じたら、言われなくともすぐ取り調べるようにしますよ。……しかし一等兵、上等兵のいうことをそう一々取り上げていたら、やりきれませんよ……」検察官はついに戯談《じようだん》のようにいいながら、このような結論をだしたのである。そして彼は木谷の腹巻のなかからさがしだしたという手帳の一頁《ページ》だけをみせたが、そこには林中尉にたいする悪口がはっきりよまれた。しかし検察官のやり方は形式の上ではじつに公正で、うまく検察をはこんでいくので全くそこに異議をさしはさむ余裕をもてなかったという。それ故に林中尉はその後師団の経理室にいたことのある下士官としたしくなって、当時の事情の内幕をもらされることがなかったなら、いつまでもこの検察に疑惑をもつなどということはなかったろう。もっとも彼は検察官が「経理室に不正がある。」といいたてた木谷を危険思想として取り扱ったとき、いくらか不自然なものを感じたのである。しかしよく考え直してみると、むしろそのような取り扱いの方がはるかに軍人精神にふさわしいことを認めなければならなかった。……林中尉は木谷が中堀中尉の側の人間だと思いこんでいたので、自分の考えていたことは全然実現することができなかったが、木谷が刑をうけたという点で心を慰めるほかなかった。最後まで彼は木谷を誤解していたのである。もっとも彼は検察が予期しない方向にすすんでしまったとき、むしろ木谷を軍法会議に送ったことを後悔した。そして判決の当日は彼に執行猶予の恩典が下されることをのぞんだという。しかしそれも全くあとの祭だった。そして林中尉は木谷の公判後間もなく転属を命ぜられて、全く未知の勝手もわからない輸送部隊にうつされてしまったのである。もはやそれ以後中堀中尉たちは経理室で全く自由に安心して力をふるうことができたにちがいないのである。
「木谷、突然に会って、お前にこんな話をして信用できんかもしれん。しかし自分はもう、こんな体になってしまって、軍隊になんののぞみももっていない人間や、うそをつくなどというようなことは絶対にないぞ。俺はな、お前を全然誤解していて、そのためにお前にひどいことをしてしまったけれど、しかしそれも決して自分ひとりのためにやろうとしたことではないな。くさりきった部隊をなんとかしてようしようと考えて、やったことやからな。それだけは信じてくれ。そうでなければ、俺はこんな話をお前にはせんぞ。……俺は最初あの衛兵の巡察勤務を命じられたときにも、部隊副官のところにどなりこんでやったんや。巡察勤務に中尉を使うとはなんということをする、少尉があり余ってるのに少尉をつかったらどうかと文句をいってやったんやが、副官のやつどうしても他のものと交代させやがらん。あの時分から一つ一つこの俺にいやがらせをしてきやがったな。……ところが巡察に行って、ぶつかったのがちょうどお前やった。ほんまにお前にはすまないことをしたけど、それもみんな中堀中尉のやろうのさしがねやといってもええ。あの日はまた運わるく俺は腹をこわして下痢気味でな……」林中尉は最後に言ったが、彼はもはやひどく疲れて話をつづけることができないほどだった。
五
林中尉の話がたとえ真実であったとしても、木谷がいままで信じこんでいたところをすて去って、ただちにこれをとりあげることなどできようか。しかし彼の心のなかにあった疑問は、その話によってほとんど消え去って行ってしまうように思われた。それにたしかに林中尉の話すところが全然でたらめだなどとはいえないのである。実際木谷は林中尉があの当時、倉庫の下士官とともに中堀中尉の勢力をつきくずすために画策していたということなどについては全く気づいていなかった。しかしその話によって思い出してみれば、あの当時倉庫関係の下士官三名が、二回にわたって転属になったということは事実なのだ。木谷はそれをはっきりとおぼえている。また中堀中尉や金子軍曹が自分に取った態度を考えてみても、またあの岡本検察官の取調べの模様などを思い出してみても、林中尉の話は木谷がこれまで疑問にしていたところを明らかにしているのだ。ことに岡本検察官のあのいま思いだしてもくやしい検察は、じっさい林中尉のいうとおりなのだ。林中尉はまた、「俺の話はけっして自分の推量でするのではない。自分が病院に入院中、名前はいえないが、師団の経理部の下士官が同じところに入院していて、なかなかしゃべりそうになかったけど、その男から少しずつひきだしたもので、信じてくれていいぞ。じっさいこの俺もそれを最初きかされたときには、うならされたな……そして一晩中ねむれなかったな……そら俺も前から、大体のところは推測がついてたけど……しかし実際証拠をつきつけられてみると、ほんまにうならされたな。」と言ったが、このような林中尉の言葉よりも、事実、今朝自分が准尉から転属をいいわたされたということが、何よりも林中尉の話にたいする木谷の疑いを消して行くのだ。……すると木谷はまるで自分が二年間大切にもちつづけてきたものをすべてうばい去られてしまったもののように、如何《い か》にして自分をささえてよいか、解らなかった。この眼の前の林中尉をどうあつかってよいかも彼には全く解らなかった。
「うそやあらしまへんやろな。」長い間だまりこんでいた木谷はようやくにして言ったが、それは木谷が言おうとしたことではなかったのだ。
「うそなど俺はいわんと言ってるぞ。こんな体になってその上でまだなにもかくすことなぞない。そうやから俺は自分のやってきたことも、わるいこともなにもかくさずにみなお前に話した。これはずっと前からお前には話そうと考えていたことでな……。俺はいまでは以前とはずっとようなってきてる。しかし俺は以前はもう衰弱がはげしゅうて、もうもつまいといわれた。俺はそのとき、ほんまにお前をよべるものなら呼んでもらいたいと思ったぞ……」
しかし木谷はたち上った。「しかしな、自分は二年間、毎日、あんたを殺してやることばかり考えて、監獄でいましたんやぜ。」
林中尉は顔を上げて眼を光らせてだまったまま木谷をみた。木谷の唇はふくれていた。「勝手や、勝手なこというて! 何や! あ、あ、あんたなんかが、呼んだかて、自分がどないしてあんたのとこへ行きまっか。」
林中尉は顔をひいた。「木谷わかってくれんのか。お前もな、そうやろうけれど、この俺もいま話したとおり、あの中堀中尉のためにひどいめにあわされて……」
「ちがう。そんなもんとちがう。あんたは勝手なことばかりいうてるのや。」木谷は火鉢の上をとぶようにまたいで前へでて行こうとしたが、ちょうどこのとき曾田がはいってきて声をかけたので、彼は相手にとびかかって行くことができなかった。彼は、じっと相手の眼をにらみすえた。ただれてしょぼしょぼと動いているようなその眼を。
林中尉はあまりにらみすえる木谷の眼にたえることはできなかった。彼は急にはげしくせき入ったが、「木谷、すまんが、茶をくれんか。」というので、木谷が気を取り直して茶をくんでのましてやっていると、曾田はそれを不思議そうにみた。
曾田はやがて中尉の許可をえてから、木谷に姉さんが面会にきていられるから一緒につれてくるようにとの准尉殿の命令でやってきたということをつたえた。おお、やはりそれでは、これから准尉にぶつからなければどうもならないのだと木谷は思った。自分の野戦行きの準備はこうして着々すすんでいるのだ。
「面会人か……そうか。木谷、では、すぐかえるか。」中尉は言った。
木谷は勢よくコップの水をまいた。「明日な、補充兵と一緒に出発だんがな……」
「えっ!……木谷、お前が補充兵と一緒に行く?」せきのおさまった林中尉は大きく眼をむいて言ったが、それは彼にはどうしても納得のいかないことらしかった。そこで木谷は金子軍曹が自分の野戦行きのことについて裏でうごいたということを簡単に話してきかせたが、林中尉の眼だけはいよいよ大きくかがやいて行った。
「あの金子のやつがやったと! あれが最近、隊にかえっているということはきいていたが……。それじゃ、中堀がまた金子のうしろで、やってることではないのか。」
「南方行きだしたな。」木谷はそれには答えず言った。
「う……うん。そういうことやが、木谷、お前ほんまに行くのか。」林中尉はじっと木谷をみた。木谷はもはや後をみなかった。
六
木谷は曾田と一緒に中隊にいそいだ。彼は黙りこんでしまった。彼は、昨夜自分のなぐったあとが曾田の額の横のところに青くついているのをみつけたが、それについても口をひらかなかった。彼は曾田が自分をいたましそうにみているのを見て足をいそがせた。彼はただ曾田に中堀大尉が師団の経理部にいまいるかどうかしらべてみてくれないかとたのんだだけだった。すると曾田はあの中堀大尉が師団にいるのですか、……林中尉がそういっているのですかと顔を緊張させて承知したが、それ以上きこうとはしなかった。
木谷は中隊につくとすぐ曾田とともに准尉のところへ行って面会の許可をうけ、事務室の隣の室に待っている義姉のところに行った。准尉は彼と一緒に同じようにはいってきたが、いかにも柔らかく、あいそがよかった。時間は十分あるから、ゆっくり面会してよいぞ、もう昼食やないか、飯はなんならここへはこばせて、一緒にしたらどうかといったりした。
木谷はいよいよかたく口をとざしていた。彼は准尉の側にあって身体がふるえてくるのを感じていた。まるで親切な思いやりのある人間かなんぞのようにふるまう准尉のいうことを、彼はかたくした身体でなげかえしていた。准尉は、全くそれには知らぬ顔をして、義姉の方に話しかけていた。
義姉は准尉がはいってくるやたち上ってかたくなったまま何回となく腰を折りまげた。彼女は木谷の方をぬすみ見たが、准尉がでて行くとすぐに木谷のそばににじりよるようによってきた。
「利一ちゃん、あんた、あした、出発やてな――」――「そやよって、お父ちゃんに、どないぞして知らそおもて、電報うっといたんやけど、今日はこれへんのや。」――「お父ちゃんは会社がえらいきびしいてな、この頃は寮へつめこまれたままでかえってもこられへんねんぜ。そやけど、明日はなんぼなんでも、ほかのことやないねんよって、休みとれるとおもうわ。お父ちゃんも明日は一ぺんきてもろとかんと、ほんまに、もう会えるや、会えんやわからへんのやよってな――」――「利一ちゃん、もう二年会うてえへんのやろ。」「お前あしたは、出るのは何時や?」義姉は時々隣室をうかがいながら矢つぎばやにきいた。
「明日の時間はまだわからへんが。」木谷は姉から身体をはなして言った。
「え? まだ、わからへんの? きっと朝やろな。でも朝やったらお父ちゃん、とても間に合わへんやろな……、向うから南海電車の一番にのってきたかて……三時間はかかるやろしな……」
「いや、朝やないやろ、まだ、背嚢《はいのう》もなんにもまだくれんし、今日外泊で明日の朝でないとかえってきやへんもんもいるし、明日の晩か、明後日の朝か……その位やないやろか……」
「なんにもないねんぜ……。出発やときいて、できるだけのことはしてやりたいとおもうたんやけどな。よびにきてくれはった兵隊はんにまっててもろて、すんねんやろ……なんにもでけへんがな……」
姉は大きな風呂敷包をあけたが、そこには千人針とするめの束と、石鹸《せつけん》、歯ブラシ、箸《はし》、タオル、チリ紙、褌《ふんどし》、針と糸などが石鹸の大箱につめこんであった。一方の風呂敷包は重箱でそこにはチラシずしがつめてあった。それは木谷に花枝を思い出させた。黄色い卵と赤生姜《あかしようが》の細くきざんだ色。それは木谷に花枝を思い出させた。花枝はそれがすきで、一度木谷にもとってたべさせたことがある。その頃はまだすしが外でたべられたのだ。外の事情のわからない木谷にも、今日は姉がずい分、金をかけたにちがいないということがわかるのである。しかし、義姉はいままでに一度もまだこのようなことをしてくれたことはないのだった。姉はさらに重箱の一番下から卵の煮ぬきと蓮根のにしめを取りだし、いもの煮干しをだした。彼女の話すことは、夫が徴用になってしまってから、店もひらくことができず、家もほんまにこまりきっているということだった。「ほんまにもう一寸《ちよつと》たまったもんもだんだんないようにして行くし、お父ちゃんはなれない仕事やもんで、週に一度かえってくると、一日中畳の上へべたっとねたきりでな、おきられへんのや。」と彼女は夫のことを話すのだった。彼女はさらに木谷が以前にいた店が最近やはり店をとじたとか、親戚《しんせき》たちのことを話したが、たしかに彼女はいつもよりずっとよく喋《しやべ》った。しかし木谷は次第に口数が少なくなった。彼はただむしゃむしゃとたべるものをたべた。「利一ちゃん、えらかったやろな……。ほんまにつらい目におうてきたやろな……そやけど、こっちもな、お前のことでえらいこっちゃったんや、なあ、憲兵がしらべにきたもんやで、もうすぐ、近所のひとに知れてしもて、やれ、隊からにげた、隊でわるいことしたのやいうて、いいふらされてな……」義姉は言った。「なあ、利一ちゃん、こんどは、ほんまに心を入れかえてやってな……。准尉さんも、こんどはお前がきっとようやってくれるやろと期待しているいうてやはった。」
「なあ、あれが、さっきの准尉さんやろ……、准尉さんはな、もう少し手元にお前をおいて見ていたかったが、師団の方の命令で、自分の思いにまかせませんでといわはんねんやけど、やっぱりなにかい? 今度はお前のようなものばかりが向うへやられるのかい?」
「ちがうがな。」木谷は眉をあげた。姉はその勢にびっくりした。彼女は木谷のためにむいてやっていた卵を床の上に取りおとして、後を追った。木谷は刑務所にいるときから、そこをでてはじめて自分の家族のものに会うときの恥しさを幾度か予感していた。しかしいまはじめて会う家のものに全く恥しさを感じなかった。姉は砂埃《すなぼこり》のついた白い卵をひろいあげたが、すでにそれがたべられないことを知って、顔をあかくした。彼女はまるで長くいると軍隊から罰をうけるかのように、あたりをうかがい、木谷をみた。「なあ、ほんまに寒いわな――、かぜひかんように気をつけてな――」
姉は刑務所のなかのことを少したずねながら哀れむもののように、その細い顔色のよくない顔をむけた。木谷は大ざっぱな乱暴な返事をした。
「姉さん、すんまへんでした。」木谷はいよいよ姉がかえるときになってようやく改まって言った。「兄ちゃんこれなんだら、明日はもうええよってに。……義一は、学校へ行っとるかしら。」以前木谷のことをなにかというと姉につげ口をした義一は、面会のときはいつも姉と一緒にきたので、今日はいないのがさびしかった。或いはもう、これで再び会えないかもしれないと思うと、この姉に対しても感情が尾をひいた。姉は大きな涙をためて、幾度も体に気をつけるように言った。木谷は准尉に言って姉を衛門のところにおくって行ったが、最後に彼はきいた。
「姉さん、准尉さんから、写真あずからへなんだか。」
「へえ、写真て何もあずからへんけど、何かあるのかしら。」彼女は衛門のところで二十円の金を木谷の手ににぎらせた。
七
ついに金子軍曹は、いくらさがしても、つかまえることができなかった。木谷はさらに数回炊事と経理室をうかがった。また部隊のいろんなところをあるいた。しかし金子軍曹の姿はどこにもみえなかった。もはや金子軍曹が転属者の部隊がでて行くまで部隊の外へにげて、木谷をさけているということは明らかなことではないだろうか。……木谷は金子軍曹をさがす合間に寝台の上へ風呂敷包をひろげて整理したが、彼は何故《な ぜ》に自分が野戦行きのために姉のもってきた風呂敷を自分がひとりでに整理するのか不思議でならなかった。彼は自分は絶対に野戦などには行かないという決心をかたくしていたのだ。
「曾田よ、いうたれや、今度の外出いつやねん、曾田よ、いうたれや、おら、もう、たまらんで……おらもう、ねるぜ、枕だいてねるぜ……」三年兵の誰かが言った。木谷がその方をふりむいてみると、曾田が階下からあがってきているのだった。
「俺もまくらだいてねたいよ。」曾田は返しておいて、なお声をかける三年兵たちをふり切ってまっすぐに木谷のところにやってきた。
木谷は整理の手をやめて曾田の言葉を待ったが曾田は口をひらかなかった。
「曾田はん、忙しいねんな……今日は、ちょっとも事務室からでてこやへんな……転属事務だっか。」
曾田は如何にも恥しそうな顔をした。彼は何も言わなかった。
「これな、まずいやろけど、たべてくれしまへんかな……。さっきな、家からもってきてくれよったんや。家ではな、俺が野戦へ行くいうので、えらい喜んでよるよ。」
「…………」
「無理してな、こんな荷物もってきやがった……。やっかいばらいするのには、やすいもんやぜ……。曾田はんたべてくれしまへんのか。」
「そんなこと言わんと、木谷さん、あんたもってはったらどうです……」曾田は言ったが、言葉がでないようだった。
「そういわんと、たべてくれよな。曾田はん、もう今晩一晩やがな……。なあ――、やっぱり、昨日、あんたが知らしてくれた通りやったな。」
曾田は気の毒そうにただうなずいたが、彼の眼は木谷の顔から何かをよみ取ろうとした。木谷は先ほど林中尉に会ってきかされた話を簡単にしたが、曾田はその話でひどい衝撃をうけたようだった。彼の顔はたちまち鳥肌だってきた。彼は親指の爪を口のところにあてて、白い息をほー、ほーとはいた。
「ほんまに、えらいことやりやがるな……。しかしな、そら、ようわかりまんな。」曾田は言った。
「曾田三年兵殿、曾田三年兵殿。」安西二等兵がまだ濡れている洗濯物をかかえてかえってきたが、曾田をみつけると寄ってきて「三年兵殿、もう、今晩は自分が不寝番をやりますから。」というのだ。
木谷は安西をじろりとみたが、そのもっている洗濯物の汚いのにびっくりした。それは洗ったということさえできないような汚さだった。このような洗濯の仕方をやっていては、彼の初年兵時代ならば、どづきまわされて足腰たたぬようにされてしまうだろう。
「不寝番? いや、まだ、いいぜ、心配すな。」曾田は言った。
「安西よ、それ、一体誰の洗濯物や。」木谷はじっとしていることができなくなってきいた。
「はあ、班長殿のであります。」
「もっと、よく洗えよ、もっとよくゆすげよ、汚いやないか。」木谷は言った。
「はあ――、水が冷たくて、指がかじかんで、ちっともゆすげないのであります。」
「洗濯を、まともにしよういう気がないのやろ……。おい、安西、つらいか。お前、外出止めになったのやな。」
「はあ。」
「安西、お前、女いるのか。」
「はあ、いいえ、ちがいますです。」
「かくさんでも、ええやないか。え、俺にいうたれや。……え、会いたいやろ。」
「はあ。」
「安西。……お前、軍隊がいややろが……」
「いいえ、そんなこと、自分は……」
「うそ、いえ、軍隊がいややろが……地方にいてみい、大学出のパリパリやないか……ところが、ここへきたら、そんな洗濯ばかりやらされて、おまけに、外出止めやないか……え、軍隊がいややろが……」
「いいえ……自分は……」
「自分は、何や……うそ、いえ……」
「いいえ、自分は……」
「うそ、つけ……」
「はあ――」
木谷はその顔を曾田の方に向けた。曾田の堅い顔が自分をじっとみているのをみた。
「なあ、安西、家から、もってきよったんや、たべてくれるか……」木谷は乾《ほ》し芋をだした。彼はかがんで芋に手をのばす安西の上頬にふくれた跡のあるのをみつけだして、心を動かした。
「安西、やっていけるか。」曾田が言った。
「…………」
「安西、お前、ほんまに大丈夫か、やっていけるか。」
「はあ、いけますです。」安西の顔はまたもや次第に泣き顔になって行ったが、木谷はもうそれをじっとみていることができなかった。
「つらいやろけど、しんぼうせえよ。俺にしても、初年兵のときは、お前と同じようなことばっかり、やって、笑われてきたんや。」曾田は言った。
木谷はしかしもうじっとしていることができなかった。彼は勝手なやつ、勝手なやつと口の中で安西にあびせかけたが、突然たち上ると曾田に向って言った。「曾田はん、俺、もう一ぺん、いってくるわ……」彼は寝台からとびおりると、その下から靴をとりだした。
「え? もう一ぺん?……二中隊でっか?」
「うん、二中隊、林のとこへいってくる。」
木谷は二中隊へ向ってはげしい勢でとんで行ったが、おどろいて椅子から立ち上ろうとする林中尉の上へのしかかった。
「木谷、何をするか、貴様、何をするか。」林中尉は肩をふって木谷のつかみかかる手をふるいおとしにらみつけた。
「木谷、貴様……上官に向って、何をするか、貴様……」林中尉は次第に首筋にはいってくる木谷の手を顎《あご》でふせぎながら、細い声をだした。木谷はその恐怖にみちたくらい顔をみた。が木谷は自分の真下におさえた顔の上にかまわずかたい拳骨をごつんごつんとあてて行った。
「ほんまに勝手やぞ。お前ら、ほんまに勝手やぞ――、勝手やぞ――、自分勝手なことばかり考えやがるんやぞ――、わかるかいよ。俺が監獄で殺したろおもてたことがわかるかいよ。え、わかるか――、こら、俺は毎日、お前を殺したろおもて蒲団のなかで考えて、ねたんやぞ……、あんな話を、いくら俺にしたって、それがなんや……それがどないなんや。」木谷は、うわーとうめく声をはなった。彼は相手の顔をぐじゃぐじゃにしてしまおうとするかのように、いつまでも滅多打ちにごつん、ごつんと打った。
椅子とともにひっくりかえされた林中尉は、額をかかえてふらふらとおき上った。「木谷、貴様は、この俺を……」しかし彼は体力のつきた馬のように両足をふにゃふにゃと折ってそこに膝《ひざ》をついた。「貴様、ほんとに上官にたいして暴行をするな――、よし、貴様……」
「それが、どないしたいうのや……」
「貴様。どういうわけでこの俺が、貴様にわざわざ、あんな話をしたと思うのや……、いまも、俺は金子のところへもこれから行って、貴様のために、野戦行きをとめるようにはなしてやる、つもりでいたのに。そのこの俺に、貴様……」
「それが、どないしたんや……、金子の野郎のところへは俺は自分で行く。俺はな、貴様を殺したろおもてでてきたんやぞ。」木谷はさらにごつんごつんと打った。彼のうめきはのどをならせた。ああ、彼のさがしだすべきは金子軍曹の行方だった。彼は再び経理室から炊事の方へまわったが、金子軍曹をとらえることはできなかった。彼は中隊へかえる道で、俺は野戦へ行くのがこわいのやないぞ、どうしてもまだ中堀中尉と金子軍曹と岡本検察官に会わなければならんのだぞと自分にいった。彼のうめきはのどのなかでなおなった。彼は力一ぱいかけた。彼は事務室の戸をはげしい勢であけて転属の取消しをしてくれるように准尉のところに言いに行った。
事務室のものは木谷がはいって行くとみなおどろいたが、曾田の顔が変ったのを木谷はみた。准尉は木谷が話があるからというと「ここでええ、ここで言え。」と言って座をたたず「なあ木谷、まあ坐れ、何の話やな。」と言っていたが、木谷がいよいよ口をひらくと冷たく彼をしりぞけた。
「准尉殿、どうしてこの自分が、こんど野戦行きのなかにはいるようになったりしましたんでしょうか。」木谷はおちつけおちつけと自分にいいながら、見下すように准尉をみた。
「何?……そんなことはお前にいう必要はない。」
「准尉殿、なんで補充兵のなかへ自分だけはいらんならんのです?」
「何も補充兵とは限っとらん。」
「しかしよその隊では、どこにも、ほかの兵隊はまじってはおらんです……」
「他の隊とうちの隊とくらべてどうなるか、他の隊は他の隊、うちの隊はうちの隊じゃ。」
「しかし……」
「しかしも、何もない。」
木谷の眼と舌はつり上った。彼は声を大きくした。「師団から命令がでたとか、いう話でしたけど、ほんまにそんな命令がでたものでしょうか、その命令があったら、自分にみせてくれまへんか。」
「木谷、何をいうか。お前が何を口出しすることがある。」
「いいま、なんで、自分が転属せんならんのか、一度きまったものを、どないしてかえてまで、転属ささんならへんのか……」
「木谷!」准尉はたち上ったと思うと、後の窓わきにたてかけてあった竹刀《しない》を取った。しかし彼は急に気をかえてそれをつかわなかった。「出ろ、木谷、かえれ。誰がはいれといった。お前にはもう用はない。……」
「わけはいえんでしょう……いえんでしょう……ほしたら、こっちから言うてもよろしますぜ……」木谷は准尉の机の方へ一歩でた。
「木谷を外へだせ、曾田、おい、すぐ、木谷を二階へつれて行け! そして班長をよべ。」
曾田は立ち上ったが、自分の机のところでぐずぐずした。
「どないだす、准尉さん。」木谷は言った。
「曾田! はやく、つれて行かんか。」烈しい声で准尉は言った。
木谷は曾田が自分の方へ歩いてくるのをみた。その顔の白いのをみた。彼はいまは曾田からきいた、金子軍曹と准尉の間にかわされた話をぜんぶぶちまけてしまおうと考えていた。しかし自分の方へやってくる曾田をみると、彼の口はひらかなかった。
「木谷、行くか。」曾田は言った。
「はやく行け。」准尉は言った。
「曾田、ぐずぐずするな、はやく、はやく。」曹長が横から言った。
「はいります。」このとき戸をあけてはいってきたのは、営倉入りを終った染一等兵をともなった衛兵だった。……
衛兵は報告をおえて染を准尉に渡すとすぐにかえって行った。木谷はぐずぐずしたまま入口のところにつったって染をみた。染の顔も耳も真赤だった。
「染、只今、営倉よりかえりました。」染は准尉に申告して言った。准尉はそれをうけた。彼は型通りの説諭をしたが、急に声を大きくした。
「よし、染、これから、このようなことの二度とないようにできるか、どうだ。」
「はい、できますです。」染は低い声で平然として言った。
「曾田、何をしとるか。貴様このごろ、どうかしとるぞ、はやく木谷をつれて行かんか。よし、すぐ、染も一緒につれて行け。」准尉は言った。
木谷も染もぞろぞろとした足つきをわざとつくって事務室をでた。
「木谷はん、すまんな。」階段のところまできたとき曾田は言った。
「いいや。」木谷ははっきりした笑くぼをだして曾田に笑った。
「木谷はん、金子班長の話、自分からきいたと准尉さんにいうてくれはっても、いいですよ。」
「いいや、ええよ。」
染は後から首をのばして言った。「木谷はん、野戦へ行かはんねんやそうでんな……。なあ、花枝はん、まだ、わからしまへんのか。」
「おう、わからへんな。」木谷は言った。「染、腹へってるやろ。体冷えてもたやろ。すぐ風呂へいって、ぬくもってこいよ。」
「そうや……えらかったやろ、染。」曾田は言った。
「あんなもん位、こたえっかしまへんがな。」染は言った。
曾田は階段を上りながら、経理室で師団の経理部に中堀大尉というのがいるかどうかをきいたが、どうもなかなかわからない、しかし点呼後もう一度本部関係できいてみるからと木谷につたえたが、木谷はだまって何か考えこんでいた。
八
補充兵たちが延刻《えんこく》外出からかえってきたのは、点呼前三十分位のころだった。みなは申し合わせて門の前で互いにまち合わせていたらしく、そろってかえってきたが、衛門の手荷物検査で手間どって、三十分ほども、またされたという。彼らはすでに朝出て行くときとはちがって一種の落着きをもってかえってきた。しかしその代りにいずれも一様に放心したように、どこかぼんやりしていた。もちろんそれは、明日出発するだろうというので古い兵隊たちが監視の眼をゆるめたことにも原因があったろう。しかしみなは家で妻子とすごした時間をいまも追っているにちがいなかった。彼らはいつもと同じように気合をかけて点呼掃除をしたが、その合間にも彼ら同士が出会うと、ぼそぼそと今日の外出で、何を食ってきたか、出発には見送りにまたくるかどうか、今日は衛門までおくってきよったぞ、ほんまに女房のやつ、ないてな、はなれやがらへん、せめて外泊やったらな……外出とはほんまにせっ生やな、などという話をした。
木谷は外出からかえってきた補充兵たちが、一人一人自分のところに挨拶にやってきて、家庭の異常の有無を報告し、さらに野戦へ出発してからは、どうかよろしくお願いしますと言うのをきいた。彼らは木谷のところへも手土産を少しばかりもってきた。彼らはみな今日は木谷も同じように外出してきたものと思いこんでいるようで、「四年兵殿、お家の方はみな元気でいられましたですか。」という問をだすのだ。木谷は口をつぐんで答えなかった。彼は点呼後、転属者は転属の被服を支給するから取りにくるようにという被服係班長の指示があったにかかわらず、その方は放ってただちに班をぬけだして、射てき場の後の土をほりに行った。彼はかくしてあった金を全部とりだして身につけると、すぐまた経理室と炊事にかけて行ったが、やはりまだ金子班長はそのどちらにもいないのだった。彼は重い足どりでしかも後から追われるもののように、班にかえってきた。すると彼の寝台の上には、誰かが彼の代りに倉庫から受け取ってきてくれた新しい軍服、襦袢《じゆばん》、袴下《こした》、靴下がつまれてあった。しかもその襦袢にはすでに黒糸でキタニと名前がぬいこんであり、軍服の裏地には墨汁で彼の名前がかきこんであった。自分のためにやってくれるものなど一人もないだろうと思っていたのに、一体誰が? と思っていると、弓山二等兵が今度は新しい背負袋と巻脚絆《まききやはん》、雑嚢《ざつのう》をかかえてかえってくると彼のところへやってくるではないか。木谷は涙をうかべた。弓山はそれを置いて、つづいて携帯口糧、塩、携帯燃料、帽子、靴などをはこんできた。ああ、時間はせまるのだ。
「お前か! 弓山か。」
「はあ、自分、手があいておりますですから、四年兵殿、他にすることがありましたらその方をやって下さい。これは自分がやっておきますから。」
「弓山、そんなもん、ほっとけ、な。」
「はあ?」
「やめとけいうてるんや。」
「四年兵殿、自分いま、手があいておりますですから。」
「やめとけ。な……。弓山、それより俺に話さんか。え、お前もすきな女がいるのか。」
「好きな女というて?」
「いるやろ……な……。え、いるやろ……な……」
「はあ……」
「いくつや?」
「十八でありますです。」
木谷は弓山の眼をふせた顔をじっとみたままだまってしまった。……彼はまた急にたち上ると弓山にそんなもん、もうせんでもええぞといいのこしたまま、また炊事と経理室へ行ったが、もちろん今度も金子班長をつかまえることはできなかった。彼がかえってみると、初年兵たちは、補充兵のもってかえってきた土産物をもうたべてしまってそろそろ荒れはじめてきた三年兵たちにねらわれていた。三年兵たちは、「お前ら、今日染が営倉からかえってきたのに挨拶をしたか、だれか挨拶したやつが一人でもいるか、染が、営倉で、着てる服どろどろにしてきてんのに、洗濯しようと申しでるものが一人もおらんのか。」というのである。
舎前の地野上等兵のところに集まった初年兵たちは一人一人染一等兵の前にたたされ、わびを言わされた。
「染古年兵殿、御苦労様でした。自分は古年兵殿が営倉からかえって来られましたのに、出迎えに行きませんでした。今後ぜったいにこのようなことがないように気をつけますから、どうかお許し下さい。」彼らは言った。
「染古年兵殿、……御苦労様でした。自分は古年兵殿が……」安西二等兵は最後に言った。
「安西、いまごろ、出てきやがってからに、染は一体だれのおかげで営倉入りになってるのや……え、だれのためや……おい安西。」地野上等兵はどなった。
「はいっ。」安西は言った。「自分のためでありますです。」
「では、なんで、第一番にお前は出迎えにでんのか。よっ、出迎えにでんのか、よっ。」
「はいっ、上等兵殿、はいっ、上等兵殿。」
「こわいか、安西。」
「はいっ、上等兵殿。」
「上等兵殿、もう、よろしまんがな……な……上等兵殿……。よろしまんがな。」染は言った。「上等兵殿、……みな、ちゃんとしてくれてま、襦袢は弓山が代りをもってきてくれたよって着がえましたし、上衣は明日洗うてくれるいうてま……」
地野上等兵は突然寝台の上へおどり上った。「染、貴様、何ということをぬかす。おい、染。染、貴様、一度位営倉へはいってきやがってやな……そんなことで生ぶりやがったら、承知せえへんぞ。」
「へえ。」染は言った。
「へえとは何や。」
「やかましいぞ。三年兵ども。みんなをねさしたらんか。おい。」木谷は大きな声をあげた。
みなは急に静かになったが、しかし今夜は転属者たちの準備のために一時間消燈時刻がのばされていた。
九
補充兵たちは着ていたものをぬいで新しく支給されたものを身につけ、それぞれ洗濯に行っていたが、洗濯物をバケツ一ぱいに入れてかえってくると、赤くこごえてしびれてしまった両手に息をふきかけながら、隅の方で煙草をふかした。彼らは木谷の近くの机に新しく支給された帯剣をならべてその油を取りはじめたが、彼らの口からとめどなくでてくるものは、「かかあ」とか「女房」とか「おかん」とかいう言葉だった。木谷は両足は毛布のなかにつっこんだまま耳をすまして騒音のなかをつたわってくる彼らの話をきいたが、彼はもはや心をみださずにその話をきいていることができなかった。
「おい、補充兵よ、ごくろうさんやなあ――、え、今日は、最後に、何発やってきたんや……え、おい……」向うの毛布のなかから首をだして橋本三年兵が言った。
「へえ――、なあ、三年兵殿、腰のつづくかぎりでんがな。」東出一等兵が片方の白い眼をむけて言ったが、それはだれの笑いをもさそわなかった。
「ああ、外出をとめやがって……。俺の女、今日はひく、ひくとまってやがったやろにな……。ほんまにせっしょうやなあ――」今井上等兵も首をだした。
すでに一時間の延燈《えんとう》では時間がたりないのでさらに一時間の延燈が許可された。そして明るい班内を外套《がいとう》をつけて帯剣をし、腕章をまいた不寝番が廻っていた。彼らは木谷の周囲を行ったりきたりしては、やがて向うへ行きそしてまたやってきた。
十時すぎに木谷がもう一度、経理室と炊事に金子軍曹をさがしに行こうと思って階下へ下りて行くと、石廊下のところに立哨中《りつしようちゆう》の不寝番が行先をたずねた。木谷が答えると今夜は便所以外のところへ出ることは禁じられている、明日は出発だから間違いがあってはいけないので、外へだすことはできない、という。彼が無理におし通ろうとすると、週番士官殿、週番士官殿と大きな声をあげたので、木谷はしばらくあきらめて自分の班へかけ上る他にはなかった。
木谷は消燈後、不寝番の監視附で便所に行ったが、あがってきてみると、先ほど寝台の前で書きものをしていた補充兵たちは、廊下の真中のくらい燈の下にかたまり、こごえた体をちぢめて支給された靴下や襟布《えりふ》や修理具などを背負袋につめこんでいた。彼らは点呼後、洗ってきた枕覆いや襦袢などを廊下のすみに縄をはってほしていたが、それはもうかたくこごりついて、ぴんとはっていた。
「四年兵殿、四年兵殿の背負袋は、ちゃんとつめて、棚の上においてありまっせ……な。」顔をあげたのは東出一等兵だった。
「おい、みな、もうあしたにせんか。野戦へいかされるいうのに、あほらしいないのか。」木谷が彼らが手でふせたものを注意してみてみると、みなの手のなかにあるのは、妻と子供の写真だった。木谷は眼をそむけて、そこにまじっている内村の尻を足でけった。
十一時過ぎ曾田が階下からあがってきて、毛布のなかの木谷に、中堀大尉が師団経理部にいることがわかったことと、今夜は、木谷と染の二人を監視するよう不寝番に命令がでており、衛兵には逃亡者の監視を厳にする命令が新しくでたことをつたえたが、木谷はあまり曾田と言葉を交さなかった。
「すまんなあ……。おそうまでやってはってんやなあ――、もう十一時ごろやろ……」
「そうや、十一時一寸すぎやな。」曾田は言った。曾田はさらに何か言葉をまっているようだった。木谷にはそれがよくわかった。……曾田はそっけない木谷の言葉に、言葉を折られたらしく、しばらくだまってそこにたっていたが、「おやすみ。」とやがてしずかに言って、自分の寝台の方へ行ってしまった。木谷は毛布のなかで、せきをする曾田のもの音と、不寝番の足音を長い間きいていたが、彼の体は毛布のなかでいよいよかたくなって行った。
木谷は長い間、しーんという空気の音と不寝番の足音のなかで、衛兵交代の時間を待っていたが、彼はそのうちにしゃーっと雨が営庭をうつ音と、「ね、ねるのよ、つかれてるのでしょう。ねるのよ、ぐっすりねるのよ。」という花枝の声をきいた。
「どうしたのよう、可哀そうに、ねむれないの。心配なのね、時間が。いいわ、あたしが起したげるから、ぐっすりねなさいな、兵営へかえったらねようというても、ねられへんのでしょう。眼が赤うなってるわ……。ちゃんと時計を枕許《まくらもと》においといてみててあげるよって、心配せんとねなさいな。ね。」
彼の頭の上にやわらかくおかれているのは花枝の手だった。彼の左の頬にふれて、じー、じーっとおしてくるのは彼女の匂う右の頬。おお、黙っていて、すべてはこのかたくつけ合った頬のなかで、一つになる。すべては一つになって、頬のなかで、じーんと鳴っている。
「可哀そうにね。ねなさい……ね。そんなことするもんじゃないわ……まあ……いやよ。」花枝の胸のいくらか硬く厚い皮膚が彼をやわらかくのせて支えている。
木谷はびしょびしょという雨の音の中に「そんなことしたら、きたないわよ……いいの、まあ。」という花枝の甘いふくんだ声をきいた。
十
衛兵交代で衛兵が中央営庭をさっさっという音をたてて横切って行くのをきくと、木谷は起き上って外套をつけながら、うす闇を通して向う側の寝台の曾田の方をみた。世話になったなと彼は言った。それから彼は巻脚絆と帽子を外套の物入れにねじこみ靴をもって足音をたてないようにあるいて、動哨中の不寝番の足音をうかがった。……それはようやく階段を上ってきて右手の方に折れ、やがて三班の方へ歩いて行く。木谷は彼らがひきかえしてきて自分の班の方へこない間に階段をおりた。それから彼は立哨中の不寝番に便所に行くからと言って便所のなかにはしって入り、便所の戸の音をさせておいて、そのまま向う側へぬけた。
木谷ははしった。彼は雨の中を身を小さくし姿勢をひくくして射てき台の後をまわって西の塀《へい》の方へ向ってはしった。それはちょうど表門歩哨のところからも裏門歩哨のところからも全くはなれて、監視のきかないところだった。雨は木谷の顔を次第にうち、次第にぬらした。向うの塀はひろがる闇のなかでくろくつったっていた。木谷はくぼちのところで足をすべらせて倒れたが、つづいてまた埋立地のところでひっくりかえった。彼はすぐ起き上って走って行ったが、雨の粒は彼の眼に、音をたてるようにはいってきた。遠い電燈の光にてらされるのか斜めに白くはいってきた。すでに彼の服も手も足も、どろどろだった。
木谷は鉄板をはった塀のへこんだところに足を入れ右手を柱にかけてのぼろうとしたが、泥のついた靴はたちまちすべって、彼は下におちた。彼はまた足をかけたが、彼はまた落ちた。すでに彼の手の指はつめたくこごえて、力は入らなかった。彼はまた足をかけて今度はよじ上るようにして上って行ったが、彼はやはり今度もまた落ちた。……すでに不寝番は彼が逃亡したことに気づいて、週番士官をたたき起し、全員起床の号令をかけているにちがいなかった……木谷はおちつけ、おちつけといよいよ雨の中でぬれて冷たく小さくなって行く自分によびかけながら、場所をかえようと思って二十間ばかり右手へはしってみたが、この間からしらべてあったように、足をかけることのできる場所は他のところにはないのだ。
木谷は再び引き返してもとの場所に足をかけたが、彼の足は先の方がぐらぐら動いていうことをきかなかった。……するとはるか後の方でラッパが鳴った。とうとうラッパは鳴った。木谷は足をかけたが、彼はやはり塀をのぼりきることはできなかった。するとラッパはまた鳴りまた鳴った。……木谷は一瞬耳をすましたが、それはたしかに事故ラッパだった。そして彼の前には赤く錆《さ》びた鉄板の塀がつったっている。
雨が眼の前を斜めにきるなかをラッパはまた鳴った。するともはや彼のはるか後手で人のわめきさわぐ声がきこえてくるかのようだ。
木谷はようやく靴をぬいで向う側に放りなげておいてから塀をよじ上った。彼の冷たい靴下は塀の上で幾度かすべったが、彼は塀の向うにある溝《みぞ》をこえてとぶと、かたい凍った道の上に足をおってぶっ倒れた。するとかたい体の下にある土が、向うの人家の燈影《ほかげ》をうつして彼の顔をてらしだした。木谷の足はもはや冷たい土の上をはしることができなかった。土は雨にぬれたまま、まだごつごつと足の裏をきつく打った。はだしのままでこれ以上にげおおせることなどということのできないことは明らかなことだった。冷たい雨は木谷の頭をぬらし顔をぬらし、背筋をぬらしていた。彼の胸はあつくもえながら、小さく小さくちぢんでかたくなって行った。彼はすぐに引き返して、塀の下のくらい溝の辺りをはらばいになってのぞいたが、塀の向うから彼が放りなげた靴はついにみつけることはできなかった。そして木谷は再び先ほど、塀の上からとびおりたときに目標にみつけておいた、くらい燈影のある古い酒倉のような人家の方へ、びしょぬれになった顔を、全くいうことをきかない右手でなでながら、痛む足を動かして走って行った。
十一
(三日後)
湯気のこもった空気が低い天井にあたっておりてくるとまるで液体のように、舷側《げんそく》に体をもたせた木谷の顔にあたる。しかしやがてそれがすぎるとまた温かい船底のなかで彼の体はすこぶるつめたく冷えてくるのだ。相もかわらぬエンジンのひびきで耳はふるえる。木谷は眼をあけて、いまは班内の古年兵たちから解放されて、のんびりと足をなげだしている補充兵たちをみた。
補充兵たちは、三日前から一日中口を動かしているが、いまもまた、するめの足をわけ合って口を動かしている。出発のとき大阪駅で家族から受け取ったそれぞれの荷物は、たべものばかりだった。彼らはそれを次から次へとあけて腹一ぱいつめこんだ。彼らは揺れる船にただゆられてうすくねむそうに眼をあけていた。彼らの勤務はただ飯《めし》準備と不寝番と潜水艦監視だけにすぎなかった。
「四年兵殿、四年兵殿、お茶くんできました。お茶け一ぱいどないでっしゃろ。」横の小さなくぐり戸をあけて、薬罐《やかん》をさげてはいってきた東出一等兵が言った。
「おう、一ぱいくれよ。」木谷は言った。
「もう、外は真《まつ》くらでっせ……。どっち向いたって、何一つみえしまへんがな……潜水艦いうたって、なかなか、でやしまへんな。」東出一等兵は頭をさげて、兵隊たちの体の上をまたいでくると、白い眼をつきつけるようにして、木谷をみた。
「そやろ、くらいやろ。」木谷は言った。
「あほんだら、そうそう、潜水艦にでられてたまるかい。」くらい電燈の向うでだれかが言った。
「今夜は、下給品《かきゆうひん》あがらへんのか。」まただれかが言った。
「今夜の下給品は煙草だけらしいな。」
「羊かん位だしたれや、なあ――」
「四年兵殿、四年兵殿、そこの窓の暗幕大丈夫でっしゃろな。ほら。お茶け、一ぱい。」
うわーん、ぐる、ぐるぐるぐる、うわーん、ぐるぐるぐるぐる、どこか甲板の方でチェーンの音がする。
「対潜監視三番立ち、でよー、対潜監視次のものでよー。」階段の向うから、口メガホンの声がはいってきた。
「おい、でえよ。でえよ。はよう出えよ。」
「はよう、でんかい。でんかい。船を沈めてもええのか、お前ら。」
「お前ら、古い兵隊がいやへんおもて、なまけてけつかるか。」
「おー、でるぞ――」
「よーし、でるなあ――」
また湯気のこもった空気が天井に当って木谷の顔にまといついた。木谷はお茶けをのみおわって、上の低い天井の隅に白く浮かぶようにみえる救命袋をしばらくみていた。しかし眼をとざすと、そこに浮かんでくるのは、あの夜、二時間あまりのちに、豆腐屋の物置のなかにかくれていたのを、捜査隊にみつけだされて、部隊につれもどされたときのことである。
「おい、名前をいえ、名前を。」「はっきり言わんか。」衛兵所で鼻の大きな衛兵司令は、白い息をはいて何度もきびしい声で言った。ただちに迎えにきた週番士官は週番司令に、週番勤務を厳にせよといわれて、木谷にごつごつ当った。曾田もきていた。曾田は何もいわず、じっと後から彼を見守るだけだった。全員がたたき起された中隊のものたちは、木谷が週番士官につれられてかえって行くと、どっと入口におしよせたが、泥だらけの木谷をみて、ああと言った。それから木谷は将校室にはいって、弓山と補充兵のもってきてくれたものにきがえたのだ。彼の身体は一晩中ふるえていた。そのふるえはどうしてもとまらなかった。
翌日准尉は週番士官から木谷をうけとると、曹長室につれて行って、「木谷か、お前、それほど野戦へ行くのが、こわいのか。」と繰り返しながらなぐったが、木谷は起き上ると「金子軍曹に会わしてくれ。」と彼の方も繰り返した。
「必要ない。」准尉は言った。
木谷は午後隊長室へよばれて行った。隊長は型通りおこってみせたが、ただそれだけで、いままで副官と週番司令と相談し、部隊長殿にも申し上げた、するとかえってきたばかりのお前を再びつみにおとすのは可哀そうではないか、よくいいきかせよという部隊長殿のお言葉があったので、今回はお前を罰することはしない。しかし部隊長殿のこの御心をきもに銘じて、向うへいって、こんどこそは心を入れかえ、御奉公するんだぞ、というのだ。じつにそれは不思議なことだった。処罰一つおこなわれはしないのだ。「ええか、木谷、わかったか。准尉、よくもっといいきかせて、おしえてやれ、いいか。おしえ方がたりないぞ、准尉。」隊長は言った。
「木谷、準備はできたか、そうか、うん、足の傷はもう、手当をしたか。そうか、……じゃあ、行け。体を大事にせえよ。それからこれはあずかりもんや、かえすぞ。」准尉は最後に言って、封筒にはいったものを渡したが、それが花枝の写真であることは、なかをみなくとも、木谷にははっきり解っていた。
その花枝の写真は彼の上衣のなかの軍隊手帳の間にある。それは前髪にして一寸遠方をみつめているような眼つきの半身像である。それはすましてよそ行きの顔にうつっている。それは木谷のそばに近づいて少し大きな眼とうすい頬とに茶目の笑いが浮かびでるあの花枝の顔ではない。花枝は高等小学校のときに、髪の毛にいたずらした男の子を、手拭におしっこをつけたのを手にもって、おいまわしてやったという。彼女は岡山の北の方の農村に生れたが、自分からすすんで、父に申しでて大阪へきたという。村へは毎年、大阪から周旋屋のおっちゃんが、口説きにきて、娘をつれてかえって行くという。契約は長くはないが、その約束どおり借金をかえして帰ってこられるものなどはほとんどない、花枝も、来年はその約束の年やけど、かえれはせん、またもう、かえりとうはないという。借金はきえるどころか、一寸、彼女がうっかりしていると、計算がふえているのである。
「ねえ、あたしたち、昨日はお昼ぬきなのよ……。お客がつかないときは、みんな昼をぬけ、ぬけってやかましくいうの。でも毎日二食じゃ、あたしたち、体なんど、ぜったいもたないわ。でも、のんびりと毎日たべたりしてたら、月末にはそらえらい計算になってるわ。」以前花枝のこの言葉をきいて木谷はよく米を持ち出しては花枝にやったが、彼女はじつに大きな眼をなお大きくして喜んだ。……彼女が働きのない父をうらむ言葉を口にしたときのこと、木谷も同じように酒飲みの酒くさい父の思い出を彼女に話したが、「でもな、かわいそうでな、せめてやりとうはない。」と彼女は言ったのだ。彼女は小さい時、父が畑にうえた砂糖きびをきってきて、刃を入れ、小切れにして噛《かじ》った味が忘れられないと話したが、そのような話はまた木谷の方にも同じようにあったのだ。彼は苺《いちご》の赤く熟するころ、地主さんの榎《えのき》の木の下で大きなジャム釜《がま》をすえてジャム屋がジャムをつくる話を花枝にした。
榎の木は彼の家の東手にある地主の家の横の空地にうわっていた。毎年苺の盛りがすぎようとするころ、大阪からジャム屋がやってきてちょうどこの木のところに小屋がけをする。煉瓦《れんが》と粘土をつかってかまどをきずく。それは木谷が生れる前からずっといつもやられてきた。すると彼の父母や兄たちはじつにいそがしい日々を送るのである。そのジャム製造には地主もまた資本を投じていたからだった。木谷の家では一家をあげてハイカラ苺の買取りを手伝わなければならなかった。地主とジャム屋が日一日とやすくなる残り苺を、段《たん》いくらで買い取ると木谷の父は牛車をだしてそれを運搬する。そして底の浅い細長い苺箱にはいった形のくずれた苺は、次々と広場の隅につまれ、やがて広場一ぱいに集まってくる村の女の手に渡って行く。すると両手の爪を真赤にした彼女らは、朝はやくから夜おそくまで、身体をかがめて箱の苺のへたを取るのだ。そのへたむしりは二箱むしって一銭だった。木谷の父と母とはジャム屋のさしずで、へた取りの女や子供たちからへたを取りおわった苺箱を受け取ると、一箱券とかいた小さい紙のふだを何枚も何枚もわたしてあるくのだ。……四つの木谷は父のうしろについてあるいて、自分がそのふだをわたすのだと駄々をこねたが、「じゃまじゃい、おい。こいつをあっちへつれて行きやがれ。」とどなられた。さらに彼には五つのときその暮に死んだ祖母と一緒にその苺のへたをむしった記憶がある。祖母はそのへたをむしってためたお金で木谷に運動靴を買ってやるといつもいっていたが、もちろんその金は一銭のこらずみな父にとりあげられたのだ。
村には一面に苺の花がさいた。するとやがて真赤な苺と、青い麦の穂。そして木谷が下痢するときだ。彼の尻からは毎日おそろしいような真赤ないちごがでる。「おんどら、なにさらしてけつかるか、いちごばっかりくいやがって……」兄はジャム工場からかえってくると、どなりつける。しかしこのジャムつくりも木谷の父が死んだころには、もはや村にはなくなっていた。大阪の方に大規模の工場がつくられ、苺は直接そこにおくりこまれることになっていた。それが木谷の家のもっともくるしい時だった。まだ十五ばかりの兄は一人前の畑仕事はできなかった。それにすでに父の病気中、全く取りかえしのつかない出費があいついだ。そしてついに彼の一家の土地は取りあげられてしまったのだ。しかし地主は小作たちから取り上げた土地を、電鉄会社の経営する土地会社に高い値段でうりつけたということだった。
木谷は花枝にこの自分の身の上話をしたことがある。すると花枝のかたむけた顔をつたって涙がおちた。木谷は祖母が苺のへたむしりをして、アメ菓子をかってくれたこと、祖母はジャムをジャムといわないでジャミといっていたことなどをさらに話したが、すると花枝はうちかて、小さいときはジャミといってたわと言ったのだ。木谷はさらに、小さいときにはほんまに東方の地主さんがこわかった、と花枝に話したが、そのとき花枝はきっと家のことを思い浮かべていたのだろう、だまって何もいわなかった。
花枝の姿は後から後から浮かんできたが、もはや木谷は再び花枝と会うこともできはしないだろうと思うと、いまは彼女の居所さえつきとめることができなかったことが、くやまれた。もはや彼には花枝という女を信じるなどということはできなかった。或いは自分が岡本検察官から彼女についてきかされたことは、全く検察官のつくりごとかもしれないのだ。また自分は検察官にはかられたのかもしれないのだという考えが彼のうちにひろがってくることはある。さらにあの検察官に取りあげられた手紙にしても全く花枝がむりやりに出さされたものかもしれないと考えることもある。いやむしろ彼としてはそのように考えて行きたいのだ。しかし彼の心は彼のいうことをききはしなかった。
ああ、木谷には自分を可愛がってくれたものは、彼が生れてから今日までの間にただこの花枝だけだという思い出がある!……しかしそれはもはや、揺れる船のように、彼のはらわたの辺りでかすかにゆれているだけだった。……班内で他の兵隊におされないようにするためには兵隊たちは機敏でパリッとして、女の一人ももっていなければだめである。外出のある度に女のところに出かけて行って、女を泣かせてくるということがなければならないのだ。そして平日には兵隊たちは班内でその女に手紙をかいて返事がくるのをまつ。もちろん木谷が最初望んだのもそのような女だった。しかし彼と花枝の関係はただそのようなものにとどまりはしなかった。このような女が兵隊に必要になるのは一期の検閲がおわってからである。勤務に出はじめ、つづいて補充兵や初年兵が入隊してきて自分が古年兵面ができるようになってきたときである。しかし木谷と花枝との関係は彼が一つ星のとき、しかも検閲がまだおわらないうちからのものだった。(彼はそのときまだ公然と遊びになど行けない兵隊だった。)彼はあの山海楼で花枝に出会ってからはもはや遊びにあがる家も女もかえなかった。それ故に彼は刑務所にはいった当座、四、五日の間いつも心のなかで花枝をよびつづけたのだ。彼は独居房のなかで次第に身体と心のすべてがおとろえてくると花枝の名をよんでそばにきてくれるように求めないではいられなかった。すると一体花枝は自分をどう思っているだろうかという疑いがするどく彼のうちにおこってくるのだった。
さらにまた彼は自分が刑務所にいるうちに花枝がどこか別の家へ行ってしまいはしまいか、という恐れにおそわれていた。彼は独居房のなかで以前彼がもし動員があって外地にだされた場合に、彼女がずっと山海楼にいてくれるかどうか、動いてわからなくなるようなことがないだろうかどうかとたずねたときのことを思いだしたのだ。そのとき花枝は「大丈夫よ、そんなにこの身は動けるもんではないのよ……動きたくてもね。……でもそんなこと考えないでね……。そりゃあ、かわったら、すぐ、知らせるけど、そんなかなしいこと考えるの、いやよ、ねえ。」と眼をつむったまま言ったが、それもはたしてどうかわからないように木谷には思えてくるのだった。
そしてたしかに花枝はいまは彼の疑ったとおり、その「お店《みせ》」をかわってしまって、手紙一本よこしはしないのだ。
ボオー、ボオー。
船が互いにみとめあったらしく、船は両方から汽笛をならし合った。木谷の眼には一瞬やみにつつまれた大海の姿が浮かんできえた。彼はさらに以前花枝が新世界まで買物にでて、途中で敬礼をしなかったというので、ひとなかで兵隊をしかりつけている少尉さんに出くわしてうち腹がたって腹がたって、とびでて行ってやりたいと思うたわ、と話したことを思い出した。しかしもはや花枝は次第に木谷からとおざかって行くかのようだ。彼のはげしい憎しみからも。しかしまたやがてまもなく船のゆれる音とともに花枝は木谷の欲情のみちた体のなかにかえってきては、くるおしいようにその火をかきまわす。
「飯上《めしあ》げ出よ――、飯上げ出よ――」やがて日直当番の声が階段のところできこえると、もう船首の方から五カ条を唱えるひくいひびきがとどいてきた。
花枝にももう会えない、中堀中尉、金子軍曹の野郎にも、岡本検察官にも、とうとう会うことができないのだ。
一《ひとつ》 軍人は忠節を尽すを本分とすへし
一 軍人は礼儀を正しくすへし
一 軍人は武勇を尚《とうと》ふへし
一 軍人は信義を重んすへし
一 軍人は……
帰るつもりで来は来たものの
夜ごとに変るあだまくら 色でかためた遊女でもまた格別のこともある 来て見りゃみれんで帰れない。
木谷は眼をつむったまま口のなかで歌った。すでに涙はかわいていた。
この作品は昭和三十一年二月新潮文庫版が上下二巻で刊行され、昭和四十七年十二月一巻本に改められた。
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真空地帯
発行 2002年11月1日
著者 野間 宏
発行者 佐藤隆信
発行所 株式会社新潮社
〒162-8711 東京都新宿区矢来町71
e-mail: old-info@shinchosha.co.jp
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ISBN4-10-861230-2 C0893
(C)Mitsuko Noma 1952, Coded in Japan