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龍時(リュウジ)03―04
野沢 尚
目 次
第一章 グループリーグ/vs.ギリシャ
第二章 クォーターファイナル/vs.スペイン
第三章 セミファイナル/vs.韓国
第四章 ファイナル/vs.ブラジル
本格サッカー小説の百年構想(野沢尚×中西哲生 対談)
解説 中西哲生
[#改ページ]
第一章 グループリーグ/vs.ギリシャ[#「第一章 グループリーグ/vs.ギリシャ」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
アウェー。
レアル・マドリーと戦ったサンティアゴ・ベルナベウとも違う。
セビリア・ダービーを戦ったエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンとも、やはり違う。
日本代表と戦った横浜国際総合競技場とは、天と地ほどに違う。
やっと根付いたらしいピッチの芝に一歩目を踏みしめた時、リュウジは四方八方から降る怒声に、血に飢えたかのような三万人の殺気を全身に感じた。
最初に連想したのはコロッセオの映像だった。何年か前にアカデミー賞をとったという剣闘士の映画。マリアがビデオを借りてきて、サンタクルス街のアパートメントで一緒に見た。素肌に鎧《よろい》をつけたマッチョの男が猛獣と円形競技場で闘ったり、剣闘士同士が鋼鉄の武器を振り回して殺し合いを始めると、三階席まで埋めつくした立ち見の観衆が、もっとスリルを、もっとおびただしい血を、と残虐な喚声を降らせる。
この完成したばかりのスタジアムは所々コンクリが剥き出しで、遺跡の有り様に似た粗削りな造りだったから、ローマのモニュメントを想像してしまったのだ。
お前たちを生きて帰さない。スタンドの連中はそう言っているのかもしれない。
敗者になるなら許してやろう。それが奴らの精一杯の優しさかもしれない。
誰もがわめいている。吼《ほ》えている。血走っている。
「すげえな」
入場し、整列した時、隣の選手が震えまじりの苦笑で呟いた。
リュウジはスタンドに味方の存在を探したが、ジャパンブルーはなかなか見つけることができない。二大会連続の決勝トーナメント進出のかかった大一番に、日本から数千人のサポーターが詰めかけていると聞くが、彼らも圧倒的な敵地の雰囲気に呑まれ、日の丸もジャパンブルーのフラッグも振りかざすことができないのかもしれない。
ここで勝ちたいのなら、命を差し出す覚悟を持て。この地に足を踏み入れた異国人の競技者たちに、神はそう促しているみたいだ。
勝利の女神ニケ。古代オリンピックでは、競技は神に近づく努力としての鍛練であり、勝者の栄誉は聖なるオリーブの枝で作った冠でたたえたという。
ここはギリシャ、アテネ近郊ピラエウス、カライスカキ・スタジアム。
国歌斉唱となる。ピッチ上、五輪マークのポロシャツを着た若者四人によって広げられた日の丸に向かい、ゆったりした旋律に自分の声をのせる。
リュウジにとっては、スペインに住むようになってから知らず知らずのうちに口ずさむ歌だった。理屈抜きに、この体に日本人の血が流れているのだと感じ、安息を覚えることのできる「君が代」の一分間だ。
短い十一小節の曲が終わり、パラパラと聞こえるスタンドの拍手に、やっとジャパンブルーの存在を感じた。
ギリシャの国歌となる。スタンドの三万人も一緒に歌う。スタジアムの構造物に音量が伝わり、敵の選んだ揺り籠に乗せられている気がする。
オリンピック開幕一カ月前、滑り込みセーフで完成したサッカーのメイン会場である。一年前の今頃は土が剥き出しの地面だけだったというから、急ピッチの工事だったようだ。
元々はギリシャ・サッカーの強豪オリンピアコスのホームスタジアムがあった場所だが、老朽化した旧スタジアムを取り壊し、更地にしてからの全面改修工事となった。今から二千五百年前にアクロポリスを造ってしまったギリシャ人にとっては、スタジアム一個を一年で造ることなんて朝飯前だったのかもしれない。
オリンピック関係者をやきもきさせた建設の遅れの原因は、遺跡の発見だった。旧スタジアムより深く掘り返した場所に、紀元前の住居跡が見つかってしまった。
ギリシャでは地面を掘れば遺跡が発掘されると言っても大袈裟ではないらしい。工事現場には常に考古学者が張りついていて、何か発見されたら工事はストップとなり、融通のきかない調査が延々と続く。
とにかく本番には間に合ったが、スタジアムの警備や観客の誘導のテスト、そして芝のチェックの時間はないに等しかった。
スタンドの最前列に、重装備で身を固めた警官が等間隔で立っている。日本が勝った瞬間、その程度の防衛線では簡単に破られそうな気がする。スタンド各所で民間の警備員が睨《にら》みをきかしているが、日本の勝利か引き分けによってギリシャのグループリーグ敗退が決まり、三万人が怒り狂った時、それっぽっちの人数で対処できるのだろうか。
リュウジは敵国の国歌を聞いている間、スパイクをピッチに馴染ませようと、細かくステップを繰り返す。
試合開始一時間半前にスタジアムに到着すると、スパイクを二種類持ってフィールドに立った。固定式と取り替え式。若干ゆるいピッチを感じると、スタッドが少なく地面に食いつきのいい、スペインで履き慣れている取り替え式を選んだ。試合前にふんだんに水を撒くスペインでは、滑りにくく、踏ん張りのきく取り替え式を使うことが多い。
儀式が終わり、選手たちは握手を交わす。代表戦の時はいつもそうだが、とにかく機械的に十一人との握手を続け、敵の選手の手の厚みや、握られる時の強さを、早くやり過ごそうとする。時々、指の関節を潰《つぶ》すような挑発的な握力を感じることがあって、「握手くらい普通にしろよ」とウンザリすることがある。
同じ青いユニフォームの彼らに対して、日本はグレーがかった白いアウェー用ユニフォームに身を固めている。去年、A代表のヨーロッパ遠征からリニューアルされたものだ。上から白・青・白という構成は、日本にとってはゲンのいい配色だった。グループリーグ初戦のアメリカ戦では、このユニフォームで大量得点を奪っている。
オリンピックの開会式が始まる前の八月十一日に、あらゆる競技に先立ってサッカーが始まった。日本はアメリカから3点をもぎとり、シドニー・オリンピックの決勝トーナメントで敗れた雪辱を果たした。四年前、中田英寿のPK失敗を最後に準決勝進出が果たせなかった試合だ。
しかし二戦目のカメルーン戦では、ブラック・アフリカン特有の身体能力と個人技に完敗した。彼らのリーチの長さと弾力性に富んだ筋肉に接すると、「違う惑星の生き物か」と思ってしまう。そもそも気温三十二度というピッチ条件は、アフリカ勢相手だと日本に不利だった。カメルーンには前回オリンピック金メダル国の貫禄があった。
六月にグループリーグの組分けが決まった時から、三戦目のギリシャ戦が決勝トーナメント進出における最大の難関であるとは分かっていた。
予想通りにカメルーンが早々と一位通過を決めた。実力的には伯仲している日本とギリシャが二位通過をめぐって、グループリーグ最終戦で激しい戦いになることは、戦前からの予想通りだった。
ギリシャにはオリンピック開催国のグループリーグ突破、というノルマが義務づけられている。
これぞアウェー、である。
試合開始時刻はギリシャ人の生活時間帯に合わされた。午後八時半だが日没には少しだけ早い。見上げれば空は深い藍色をたたえ、西の方角はオレンジ色の輝きで縁取られている。
ギリシャではこれから長い夜が始まる。スペイン暮らしのリュウジは慣れているが、夜が長い国の感覚は日本人の常識を超えている。レストランが開くのが午後八時で、多くの客が食事に来るのが十時過ぎ、若者が友人たちと十一時に待ち合わせをして遊ぶというのはザラだ。
ギリシャ在住のガイドが言っていた。夏に午後七時頃食事に出ると、「お昼はこちらのメニューです」とウェイターに言われるらしい。宵っ張り民族の寝不足解消か、シエスタの習慣があるのはスペインと同じで、午後二時以降は役所も商店も閉まっている。この間に電話をして人を起こすのは、夜中に電話をするより失礼に当たる。
人々が勤めを終え、自宅に帰ってテレビをつける時間に試合が設定された。日本では真夜中の二時半。それでも多くの人々が生中継の放送を見ることだろう。故郷草加市の和風スナック「よしこ」で、母と妹が近所の人たちとテレビにかじりついている姿が想像できる。
父はどこで見ているのだろう……。
もしかしたら、ギリシャ一色のこのスタンドのどこかで、トレードマークの黒いキャップをかぶり、試合前から熱狂している人々の真っ只中にひっそりと座っているのかもしれない。
選手たちの記念撮影となる。
リュウジは前列で両隣の選手と肩を組み、フラッシュを浴びる。
ピッチへと散る。リュウジのポジションは中盤の右サイド。アウェーの日本は本当なら右側のベンチとなるが、組み合わせの関係で左側となり、左にエンドをとる前半では、ベンチに最も近い位置にいる。リュウジにはホームベンチの指示をピッチの仲間に伝える役目もある。
スタンドの喚声が別の音色を帯びる。うぉーうぉー。三万人が腹式呼吸で発声しているかのような、重々しい唸《うな》り声だ。
ギリシャはイタリアやスペインほどのビッグクラブはないが、サッカー熱は高い。
第一回近代オリンピックのアテネ開催が決まった一八九四年、大会に向けてのデモンストレーションとして、サッカーがギリシャに伝わった。
リーグ戦は一九二七年から始まったが、一九七四年に軍事独裁政権が倒れた後、ギリシャのサッカーは早くもその四年後から本格的なプロリーグに転換した。満足に芝も生えていないグラウンドで、強すぎる太陽を浴び、土まみれになる選手たち。当時のプロ選手にあるものといえば、勝って、強くなって、芝の上でサッカーをしたいという「飢えた心」だけだったという。
A代表は一九九四年のアメリカ・ワールドカップに初出場。だが三戦全敗、得点0、失点10という惨憺たる成績で、「二十四チーム中最弱」という評価だった。クラブレベルでは、一九七一年にパナシナイコスがチャンピオンズ・カップ決勝に進み、ヨハン・クライフのアヤックスに0対2で負けたのが最高の成績。その後、国内リーグで七連覇を達成したオリンピアコスは、ヨーロッパ・チャンピオンズリーグの常連になり、一九九九年はベスト8に入った。永遠のライバルといえるパナシナイコスとオリンピアコス、それにAEKアテネを加えた3チームがギリシャの三大クラブとして有名である。一番裕福なのはオリンピアコスだが、それでもクラブの全予算は日本円にして八十四億円で、レアル・マドリーのジダン一人しか買えない値段だ。
下部リーグの選手たちはサッカーでは食えず、他に仕事を持っていて、なかなか練習に来られないという経済的な事情もあるが、クラブは何より若手の育成のため十代の選手を優先して出場させる。そこで輝きを見せた選手が上のクラブに移籍すれば、会費以外にほとんど収入のないクラブに莫大な利益がもたらされる。
だからギリシャのオリンピック世代の実力は、サッカー大国のレベルと同等かそれ以上だという前評判だった。
日本チームに帯同しているギリシャ在住の日本人ガイドの話によると、ギリシャ人は身体に熱い血が溢れていて、情熱のみで生きている民族だという。この情熱が芸術を生み、哲学を創り出してきた。だがサッカーに限って言うと、血が燃えたぎっている時には素晴らしいプレーをするが、一度熱が冷めてしまうと、女子供よりひどいサッカーをするという。その落差はスペイン人のムラっ気より激しいと、リュウジはみた。
ギリシャに二十年暮らし、ギリシャ人の妻をもらって家庭を築いたガイドの児島さんは、試合の参考になるならばと、ギリシャ人の特徴や性格についていろいろ教えてくれた。
まず声がでかい。このスタンドの大歓声を聞いて納得だ。
さすが紀元前六世紀頃から「万物の起源は水だ、いや火だ」と、この世の森羅万象について二千年以上議論を続けてきた民族で、抑えのきかない性格は、復讐のためにトロイ城壁の下で無意味な殺戮《さつりく》を繰り返した頃から変わらない。ギリシャ人の辞書に「自制心」という言葉はないのかもしれない。何事にも度を越す。喜びも悲しみもほどほどに抑えるということができない。大事なことだろうと、些細なことだろうと、楽しい時も悲しい時も、叫び、吼《ほ》え、わめき、怒鳴りまくる。どんな感情もそっと胸にしまっておくなんてできない。
で、思う存分に感情を爆発させた後は、爆発のきっかけは何だったのか思い出すこともできないくらいあっけらかんとしている。
弁論による民主主義の発祥の地らしく、議論は日常茶飯事。大声で異なる意見をとことんぶつけ合うが、わだかまりは残さない。渋滞の道で車の接触事故が起きると、当事者同士で三十分怒鳴り合った後は、一緒にコーヒーを飲みに行くという国民性らしい。
リュウジは「スペイン人のいい加減さに理屈好きという面を加味して、一・五倍ほど熱量を増やした人種」というふうに解釈した。
児島さんはこうも言う。ギリシャ人は確かに勇敢な民族である。第二次世界大戦で、ヨーロッパの国々が次々と抵抗をやめる中、ギリシャのみが大国相手に戦い続けたことを、今も誇りにしている。「ギリシャ人は英雄的に戦うという言い方は違う。英雄がギリシャ人のように戦うのである」と名言を残したのは、ウィンストン・チャーチルというイギリスの首相だった。
ハーフウェイラインを間に対峙《たいじ》するギリシャのイレブン。十一人全員がオーバーエイジではないかと思うほど老けた顔つきで、日本の選手は子供に見える。チーム最年少のリュウジは、彼らからすると「小学生が紛れ込んでいるのか?」といったところかもしれない。
リュウジが招集される前、チームはギリシャ遠征でこのU─23ギリシャ代表と親善試合を行っている。ロスタイムに追いつかれ、1対1で引き分けたそうだ。お互いに相手の手の内はある程度分かっている。
ウォーミングアップのボールを次々とピッチ外に戻し、試合開始のホイッスルを待つ。
初先発の緊張感はあるか? 自分の身体に問いかける。重低音の喚声に包まれたスタンドを黙らせてやりたいという闘志が、隅々にまで行きわたっている。
初戦のアメリカ戦では後半二十分からの出場だった。2点を追うアメリカは前がかりになり、リュウジがスペースを見つけるのはたやすかった。大久保嘉人へスルーパスを通し、勝利を決定づける3点目をアシストした。リュウジが所属するレアル・ベティスと同じく、リュウジをスーパーサブとして起用する方法を平義監督は取り、リュウジはその期待に応えたことになる。
カメルーン戦では、右サイドハーフの石川直宏が後半直後の接触プレーで負傷退場し、リュウジはいつもより早くピッチに送り出された。カメルーンはその時すでに2点差を付けていたので、後半は引き気味にゲームを運び、リュウジにドリブルできるスペースは与えられなかった。
ベンチを振り返る。平義楯夫はクリーニングしたての白いサマージャケットを、紳士服のコマーシャルに出てくるモデルのように着こなし、足を組み、悠然と座っている。
長く見ているとこちらが苛立《いらだ》ってしまいそうに無表情なので、リュウジはピッチに目を戻す。
テレビ放送の都合なのか、審判のホイッスルはまだ鳴らない。選手たちは自分のポジションで身体に熱を送っている。
キーパーはオーバーエイジの曽ケ端準。3バックの中央には、オーバーエイジの田中誠。両ストッパーは茂庭照幸と闘莉王。ダブルボランチはオーバーエイジで、キャプテンマークをつけた明神智和と阿部勇樹。中盤の左に根本裕一。トップ下はリュウジと同様、十代から「飛び級」でオリンピック代表に選ばれた梶《かじ》祐一郎。2トップは大久保嘉人と、リュウジと同い年の平山相太、3─5─2というオーソドックスな布陣である。
日本はギリシャに対してアドバンテージがある。引き分けでも得失点差で予選通過ができるという状況だ。アメリカ戦での3得点がきいていた。
しかし日本のスポーツ新聞の中には「去年のコンフェデ杯におけるコロンビア戦と同じ末路を辿るのではないか」と書くものがあって、馴染みの記者からこっそり紙面を見せられた大久保が、「とっくの昔に忘れていたのに、不吉なこと思い出させてくれたよなあ」と苦い顔をしていた。大久保はその時、A代表のメンバーとしてピッチに立っていた。ゴールを決められず、後半、永井雄一郎と交代させられたという、彼にとっては散々なゲームだった。
ジーコ・ジャパンは初戦のニュージーランドに大勝し、次のフランス戦では惜敗、引き分けでも得失点差で決勝トーナメント進出ができるという状況で、コロンビアに敗れてしまった。守りの意識に陥ったところに敵の猛攻を受けると浮足立つというパターンで、それは日本チーム特有の脆《もろ》さであり、オリンピック代表にも遺伝している脆さに違いないと、スポーツ新聞は知ったかぶって言う。
笛が鳴った。日本のキックオフで始まった。スタンドから脅迫的な喚声が降り注ぐ。
平山は自陣にボールを下げる。明神と阿部勇樹は横パスをつないで敵の出方を探る。
アジア最終予選までは「とにかく前を向け!」とサッカー解説者に叱咤激励され続けたダブルボランチだった。平義監督はダイレクトのプレーと、自陣から十秒以内でシュートにつなげるチームを理想とした。しかし相手が引いてしまっては、DFからビルドアップしなければならない。プレッシャーの厳しい中盤ではボランチは簡単に前を向かせてはもらえない。チーム全体にボランチが前を向けるようなボール回しが要求されるのだ。
横パスやバックパスがボランチだけの責任ではないことを理解できないマスコミやサポーターによって、「ボランチに前を向く技術がないなら試合に出るな」と、日本の守備的MFたちは怒りの声にさらされることが多い。
確実にいきたい、ミスをしたくないという気持ちは理解できる。前線の大久保はダイレクトプレーを狙っている。ボランチがボールを持つと裏へ走ろうとする。しかし後ろがパスを出さないと、次第に走らなくなって、相手DFの裏へ走る回数が減っていく。必然的に中盤の選手はボールの出しどころに困って横パスが増えてくる。
相手チームも読めてしまう。縦にボールが入る、それを戻す、そしてサイドへ展開、という攻撃の形も、相手にとってはクサビさえ潰せば抑えられる。クサビが入らなくなると攻撃に時間がかかるわけで、相手もマークしやすくなる。
こうした悪循環がチームの弱点だったが、クサビのパスもロングフィードにおいても、五分五分だったら勝負してみようという気持ちが、経験豊かな明神がオーバーエイジ枠で入ってきてから、育ち始めてきた。
素早く横パスをつなぎ、相手のマークがずれてくると、明神から梶へと縦にパスが通った。同時にリュウジはこれからマッチアップすることになる敵左サイドの選手8番の動きを見る。8番は味方ボランチ二人と梶を囲い込もうとするつもりか、中へ絞った。リュウジの前にスペースが生まれようとした時、梶は明神から渡ったボールをワントラップしてすぐにリュウジへ出した。8番は中へ絞る動きにブレーキをかけたが間に合わず、スペースでボールを受けたリュウジは、柔らかなファーストタッチからボールをコントロールし、対応にやってくる敵ボランチを視界左に見つつ、ライン際をドリブルする。
自分が落ち着いてプレーしているのが分かった。ボールが足に吸いついてくる感覚がある。中へ切れ込もうとする動きで敵ボランチ6番を惑わし、逆に縦へと走る。
これが同じポジションの石川直宏とは違う持ち味。石川は鋭く中へ切れ込む動きを得意としているが、自分はとにかく縦へと勝負する。
前線で大久保と平山がボールを受けようと動くのが見える。スローからクイック。後ろから前。スピードと方向に変化をつけて、マーカーを振り切ろうとしている。
敵ボランチ6番にクロスのコースを阻まれているが、リュウジはその左腕と左脚の間に見えた空中のスペースにコースを見つけてクロスを上げる。ボールをこすり上げるようにキックして回転をつけ、ゴールから逃げていく弾道でファーサイドにいる平山に合わせようとした。ギリシャ人三万人の中に埋《うず》もれていた日本のサポーター、彼らの歓声を聞いた。
が、クロスは敵の大型センターバックのヘディングによってクリアされた。オリンポスの山のように高いDF、と言われるギリシャのセンターバック二人がそびえている。
結果が伴わなくても今はこれでいい。開始早々に攻撃のリズムを得た。右サイドで対面する敵の選手の力が少し分かった気がした。
セカンドボールをギリシャの選手が拾ったが、日本の中盤の寄せは速い。二人で囲い込む。両チームともDFが押し上げているので、狭い局面でのボールの奪い合いが続く。
視界の端にベンチの様子が見えた。
平義監督は親指で顎を撫でるいつもの癖が始まっている。化学者が試験管の液体反応を待っているかのような表情。日本のスポーツ紙は「平義教授」というニックネームで呼ぶことがある。
ゲーム中、滅多に声は上げない。ピッチにしきりと声をかけているのは、青いジャージ姿のクズ兄《に》ィだ。
「周りをよく見ろ、サイドに散らせ、大胆に行け大胆に!」
甲高い声もいつものように、試合が終わる頃には潰れてダミ声になるだろう。キーパーコーチの葛井倫和は、平義とは対照的に大工の棟梁という風貌で、どっぷり突き出た腹を揺らし、いつも練習グラウンドを選手と一緒に駆けている。ポーカーフェイスの平義と、「あの監督、何を考えてるのか分かんねえよ」と不満を洩らす選手たちの間に入り、架け橋になる存在だ。一歩引いた場所から選手を見ることができるキーパーコーチには、選手たちも気軽に相談しやすい。
平義はあえてヘッドコーチを置かないスタッフ編成で、このオリンピック代表チームを立ち上げた。そこにも平義のワンマンぶりが反映されている、という声をよく聞く。
現役時代ゴールキーパーだったクズ兄ィは、Jリーグが始まる前のクラブで、中盤の司令塔だった平義とはチームメイトだった。
現役時代、平義のプレーにはびっくりするような表現力があったが、反面、喜怒哀楽の少なさはいつも周囲の誤解のもとだったという。
「どんなに敵に押し込まれていても、平義さんの表情は変わらない。苦しい時にあの人を見ると、今の苦しみなんて大したことがないように思えてくるから不思議だ」
クズ兄ィが合宿の食堂でそう話してくれた。お前たちにとっても「苦しい時の神頼み」になるはずだと言いたかったのだろう。
平義が全日本のプレイヤーとして全盛期を迎えていた一九八五年前後、サッカーに限らず、日本のスポーツ界で評価を受けるのは、誰にでも分かる「汗だくのひたむきさ」だった。
平義がどんな選手だったのか、リュウジは小学生の頃、父からよく聞かされた。
いかにも父が好きそうな、日本では数少ない創造力のあるクリエイターだった。トップ下からタイミングをずらせて相手DFの裏を取り、意表をついたラストパスを出す。フィールドは彼にとってまるで絵画のキャンバスだった。独創的な筆遣いで大胆な色に染めるようなセンスあるプレイヤー、という華々しい評価には、だが多くの場合、但し書きがついた。
「もっと彼にがむしゃらさがあれば」
「もっと泥臭くプレーをしてくれたら」
それは「能力がありながら力を出し切れない平義」「決して勝負強くない平義」というイメージを作り出してしまった。
父がこう言っていたのを今でも覚えている。「スポーツジャーナリズムってやつは、戦後四十年たっていた当時でも、特攻隊のような選手が好きだったんだ」
リュウジが本大会を前に平義ジャパンの国内合宿に招集され、〇三─〇四シーズンが終わったばかりのスペインから帰国すると、実家にリュウジ宛ての大きな茶封筒が届いていた。
父からだった。住所は書かれていなかった。旅の途中から郵送してくれたのかもしれない。
中に入っていたのは、スポーツ雑誌のコピーだった。父がかつて平義にインタビューをした記事である。リュウジが平義という監督を理解するため、少しでも自分の仕事を役に立ててほしいという父の気持ちだった。ミサキによると、父がリュウジの帰国日を知っていたかのように、帰国前日に封筒が届いた。
父の文章によって、平義のサッカー人生の一端が明らかになった。
Jリーグ開幕を待たず、三十歳で現役を退いた平義は、私費でドイツへ渡り、コーチ留学を始めた。コーチングスクールでは最初、相当なイジメを受けたらしい。
当時、サッカーをしていることすらあまり知られていない国からの受講者だ。全員が国家試験にパスするための競争者だから、練習ゲームでは肘打ち、後ろからの引っかけ、何でも受けた。サッカー弱小国を踏みつけにしようとするヨーロッパ列強国、という環境から這い上がることが、平義にとって最初の戦いだったという。
受講者の中には有名なプロ選手もいる。強者たちとサッカーの技術と戦術で対等に渡り合うのだから、平義のポーカーフェイスはそこで磨きがかかったに違いない。
プロコーチの養成コースでは、何がコーチにとって最も重要な資質なのかを思い知らされた。知識や理論を超えたもの。ドイツではそれをパーソナリティと呼ぶ。単なる個性とか人格を超えたもの。ピッチにいる選手たちに力を与え、ひとつにまとめる「魅力的な何か」だった。
平義は将来的にはブンデスリーガの監督を目指し、苦労して国家試験にパスし、日本でいうところのS級ライセンスを取得した。そしていきなりFCハーメルンという二部のクラブのユースチームをまかされ、優勝に導いた。
ドイツ北部、メルヘン街道の途中にある中世のたたずまいが残る小都市。ネズミ退治の報酬の約束を守らなかったハーメルン市民を懲らしめてやろうと、ネズミ捕りの男が笛の音で百三十人の子供たちを眩惑し、連れ去ったという伝説で有名な街らしい。
妻を東京に残したまま、平義の海外単身赴任は続いた。
FCハーメルンのユースチームは、堅実に、生真面目に約束事をこなすドイツ人のサッカー、という典型的なイメージを持っていたことが平義に幸いした。攻撃のパターンと守備のパターンを練習で延々と繰り返す指導法は、若い選手たちを鋳型《いがた》にはめこむようなものだったが、この時ばかりはいい方に転がった。
試合で逆境に陥ってパニックになる若い選手たちは、ベンチを振り返り、平義の「まだ大丈夫だ、落ち着け」という言葉が聞こえてくるかのような無表情を見ると、自然と混乱が収まったという。それがドイツ・サッカーで言う平義のパーソナリティだったのかもしれない。
日本サッカー草創期に来日したデットマール・クラマーの時代から、ドイツ・サッカー界と日本は縁が深いとはいえ、外国人の指導者への眼差しは厳しい。
「ワールドカップにたった一度出ただけの国の人間が、わが街のチームをコーチするだと?」
風当たりが強い中で、最少得点を守りきる平義の組織サッカーは評価され、次のシーズンではユースチームからトップチームのアシスタントコーチに抜擢された。そしてシーズン途中、成績不振による突然の監督解任でチームを急遽まかされると、残り四試合を連勝し、三部降格の危機を奇跡的に乗り切った。
リュウジの父はちょうどその頃、ドイツの平義を訪ね、クラブハウスでインタビューをしている。
平義流の勝負観とは──?
「僕はマイナス思考から入ります。最初に、自分が負けるという最悪の事態を想定する。絶対そういう状態にはなりたくないという自分たちの負けパターンの最悪の形をまず想像して、そういうポジションには自分を置きたくない、そのためには何をすればいいかと遡《さかのぼ》って、やらなければならないことを整理します。辛い練習でも『そんな負け方をするぐらいなら頑張ろう』という気分で選手たちを高めるんです。負けパターンに入っていく時には前兆というものがありますから、事前にその芽を取り除く作業をする」
それはえてして、選手の自由を束縛するサッカーにならないだろうか──?
「サッカーというのは、どんなに約束事で縛りつけても、不確実性要素がいっぱいの騙し合いになります。練習でいくら鋳型にはめても、試合中に監督がベンチから睨みをきかしても、最終的には選手たちが自由にプレーせざるを得ないボールゲームです。計画通りに事を運ぼうと思ってもそうはいきません。しかし、だからといって計画を放棄してはならない。練習で選手を自由にさせてばかりでは、彼らが自由の意味と喜びを知ることはできない。不自由な状況から自由を切実に求めて解き放たれる時のエネルギーを、私は監督として期待するのです」
平義は父のインタビューを受けた次のシーズン、引き続き監督としてFCハーメルンをまかされ、二年目で上位進出、三年目に当たる昨シーズン、ブンデスリーガ一部昇格を果たした。
財団法人日本サッカー協会は遅まきながら平義に注目した。
A代表におけるジーコの自由主義は行き詰まりを見せている、という声が多い。二〇〇六年ドイツ・ワールドカップのアジア一次予選では、勝ち点を着実に積み重ねたものの、格下相手に内容の伴わない試合ばかりで、きたる最終予選に暗雲の兆《きざ》しがあるとマスコミは言う。
日本サッカー協会は「日本人選手には、やはり厳格な教師タイプの指導者が合っているのではないか」と方針転換をしつつあるようだ。要するに、フィリップ・トルシエの「冷静沈着版・人格者版」がいれば申し分なかった。そのお眼鏡に平義はかなったのである。
「守備に自由は存在しない。攻撃は個人で局面を打開できるが、ディフェンスは一人ではできない。最終ラインというのは、自由を追い求めると責任ばかりが強くなってしまうポジションで、個々の判断ではやっていけない」という、ドイツ仕込みの守備の哲学を持つ平義が一躍注目の的になった。
が、同時にドイツ・サッカーに対するネガティブな先入観も平義にはつきまとう。
「芸術性に欠けるドイツ・サッカー」「試合内容よりもスコアが優先するドイツ・サッカー」「機械のように精密だが、創造性のある選手が生まれないドイツ・サッカー」という固定概念だ。ドイツ人に言わせると、そんなことを信じ込んでいるのは世界で日本ぐらいだというが、二〇〇二年の日韓W杯では、オリバー・カーンやバラック、クローゼらの活躍で準優勝を果たしたものの、「今のドイツ・サッカーは石器時代」「ゲルマン魂はアイルランドにお株を奪われた」と、その結果には留保をつけられた。
平義はFCハーメルン一部昇格の貢献者だったが、クラブが次シーズンでは有名監督を招聘《しようへい》する方針を取ったため、契約をせず、いくつものクラブから監督要請を受けることになった。日本サッカー協会の申し出を受けることになった平義にとっては凱旋帰国だったが、その華やかな報道の裏で、平義の長いドイツ生活が原因で神経を病んだ妻が帰国を望んだからだという噂も流れた。
日本サッカー協会は二〇〇六年ドイツW杯を視野に入れ、ドイツ・サッカーをよく知るブレーンとしても平義を必要としたらしい。平義がアテネ・オリンピックで好成績を残したら、ポスト・ジーコの最有力候補となるのは間違いない。
平義のオリンピック代表監督就任は、日本サッカー界に化学反応を生んだという。チームがアジア最終予選で堂々の一位通過、アジアの三枠に入った頃から、ジーコのA代表での采配も冴えを見せた。それまで見られなかった大胆な選手交代をするようになったから、どうやらドイツ帰りの監督に対して、ブラジル人監督の胸中に競争意識が生まれたのかもしれない。
A代表の合宿では紅白戦ばかりで、攻撃と守備の約束事を確認しないまま、ジーコはただ選手たちを疲れさせるばかりという批判がある。平義の指導法はそれとはまるで違う。
両方の合宿に選ばれたことのある日本代表のFWが、こんなふうに二人の違いを説明した。
「最初は暖かい南米のサッカーと、寒いヨーロッパのサッカーの違いくらいに考えてたんだけど、それ以上のモンがあったよ。ジーコに『紅白戦でサッカーを楽しめ』って言われても、あそこまでやられると、楽しむどころじゃなくなる。このパワーを本番まで取っておきたいって思うようになる。自分の何を温存させるか、サッカーで大金を稼いでいるプロなら自分で決めろって突き放すようなところがジーコにはある。あの人の言う自由って、一番正しいことを自分で判断しろっていう意味で、ピッチで好き放題にやれって意味じゃない。俺、そういう監督は嫌いじゃないよ。で、次に平義さんの合宿に来るだろ。あの人は選手一人一人の、本番まで温存しなきゃいけないものも、本番前に吐き出さなきゃいけないものも、全部お見通しって感じなんだ。何だか平義さんの前に出ると、自分が丸裸にされてる気がして怖いなって感じる。でもね、そういう監督も、俺、アリかなって思うんだ」
リュウジは実際に平義ジャパンの合宿に投げ込まれ、その練習方法にカルチャーギャップを感じないではいられなかった。
例えば、ダイレクトでパスをつないでサイドから早めのアーリークロスをいれる、という攻撃パターンを何十回となく繰り返す。何もかも身体に染み込ませようという練習だった。
「なるほど、これがマイナス思考から入るガチガチの組織サッカーか」と思ったものだ。
ギリシャの中盤の寄せは、相変わらず速い。
合宿から繰り返し練習してきた速いパス回しは読まれ、阿部勇樹が苦し紛れにDFに戻したボールも狙われ、競り合いに強い闘莉王がからくもタッチラインにボールを出した。
ひたひたと押し込まれている、という感覚だった。
ギリシャのスローインから、また中盤での一進一退の奪い合い。左サイドに大きく展開していた根本に、梶が鋭いグラウンダーのパスを出そうとした。その瞬間、日本のDFがラインを押し上げてアタッカー陣も前がかりになった。ところがボールは根本に渡る前にインターセプトされた。守備陣はすぐに帰陣する。ボールは敵の右サイドから展開される。攻撃に移ろうとしたところで逆襲を食らう、いわゆる「カウンターのカウンター」だった。
茂庭がマークしていた敵のFW11番がオフサイドラインを抜け出したと同時に、きわどいタイミングでボールが渡った。パナシナイコスに所属するA代表のFW。要注意人物だ。茂庭は手を上げてオフサイドをアピールするが、認められない。明神も阿部勇樹も最終ラインに慌てて戻り、敵の二列目からの飛び出しを警戒する。茂庭と並走してゴールラインまでボールを運んだ敵FWは、競り合いながらクロス、明神も阿部勇樹も走って最終ラインに戻ったところにマイナスのボールを出され、身体のバランスを崩してしまう。ペナルティアークあたりで敵MF8番は前向きでボールを受けた。
スタンドから野太い咆哮《ほうこう》があがる。一秒後の歓喜のためにエネルギーを溜め込んでいる。
3バックの中央に位置する田中誠がシュートコースを消そうと体を投げ出す。その胯間《こかん》が危ないとリュウジが感じた時、敵8番はシュートを放った。針の目を通すコントロールではなく、田中誠の右足に跳ね返り、大きなクリアボールとなった。スタンドがドッと落胆する。危機は脱した。
「ボールを持った選手がフリーな時にオフサイドトラップをかけるな!」とクズ兄ィの声が聞こえた。ベンチに一番近いリュウジが、伝達役となる。そう、ここは絵に描いたようなアウェーの地だ。しかも主審はギリシャの隣国トルコの人間。
ギリシャは中盤を省略して、ボールを縦にどんどん入れてくるようになった。危険ゾーンと言われるDFの裏のスペースだ。リュウジも含めた日本の中盤は、頻繁に長い距離を戻らなくてはならない。日本の3バックに対してギリシャは3トップ。どうしても中盤の左にいる根本は下がってしまう。
「ユウキ、11番ケアしろ!」
「俺が見る!」
「駄目だ、3番が来てる、そっちを見ろ!」
「絞れ、中へ絞れ!」
「ボールを見るな、人を見ろ、人を!」
選手たちの怒号が交錯する。前半四十五分の半分も過ぎていないのに、パニックに似たものが日本陣内に広がりつつある。リュウジも敵の侵入を食い止めるため、自陣で敵のチェックに奔走させられる。
リュウジはまだ冷静さを保っている。
レアル・マドリーの波状攻撃に比べたら怖くはない、と思った。
必死にそう思いこもうとした。
2[#「2」はゴシック体]
リーガ・エスパニョーラ〇三─〇四シーズンは、レアル・マドリーとの開幕戦で始まった。
敵地サンティアゴ・ベルナベウ。最上階の席までエル・ブランコで染まっている。すり鉢の底から見上げると、ナイアガラの滝のように白い濁流が降り注いできそうな迫力だった。
ベティスはプレシーズンマッチで勢いをつけての開幕戦だった。昨シーズンはデポルティーボ・ラ・コルーニャを敵地リアソールで撃破し、その後もリーガのビッグクラブを手玉にとってロケット・スタートを切った。その再現とばかりにマドリードの開幕戦に乗り込んできた。
ベティスに完全移籍を果たしたリュウジは、ベンチスタートだった。今シーズンもビクトル・フェルナンデスのリュウジ起用法は、「後半二十分からのジョーカー」ということになるだろう。
ベティスのスタメンは、キーパーに新加入のコントレラス。昨シーズンまでマラガのゴールを守っていた男で、日韓ワールドカップのスペイン代表の控えキーパーでもあった。4バックはミンゴ、ファニート、バレーラ、そしてウルグアイ代表のレンボ。中盤の底は後にスペインのオリンピック代表に選ばれたアルスと、攻撃の起点となるマルコス・アスンソン。この褐色のブラジル人とFWのアルフォンソが後半、故障した時からベティスは順位を下げてしまった。ワールドクラスのサイドアタッカーであるホアキンが右サイドにいる。しかし左サイドにいるべきブラジル代表のデニウソンは、昨シーズンのイエローカードを引きずって、開幕戦は出場停止。代わりにチーム新加入のイスマエルが入り、トップ下は今年もカピ。そして1トップには、今シーズンの補強の目玉と言われたマルティン・パレルモがいる。
二〇〇〇年のトヨタカップでボカ・ジュニアーズの一員として来日し、中学三年だったリュウジはテレビでそのプレーを見た記憶がある。相手はレアル・マドリーで、パレルモは国立競技場のピッチで全得点を叩き出した。
左サイドから抜け出したデルガドのクロスに、走り込んでいたパレルモが左足で合わせ、開始からわずか三分という、トヨタカップ史上、最も早い時間帯でのゴールだった。さらに三分後、リケルメの長い縦パスを追ったパレルモが、またも得意の左足でゴールを決めるという電光石火の連続2得点だった。
その活躍が認められてビジャレアルに移籍したが、スタンドの倒壊事故に遭い、壁の下敷きになって足首を骨折、〇一─〇二シーズンを棒に振ったという悲運のストライカーだ。
ベティスはもう一人、高いテクニックを持つトテというFWをレアル・マドリーからレンタルで獲得している。ストライカー不足に苦しんだチームは、この二人の補強によってゴールを量産できるのではないかというサポーターたちの皮算用だった。
対するレアル・マドリーも、ベストメンバー。
キーパーは不動のカシージャス。イエロを放出した後のセンターバックには、これまで左サイドバックとしてロベルト・カルロスの控えだったラウール・ブラボが入った。もう一人のセンターバックはエルゲラ。左右サイドバックはミチェル・サルガドとロベカルで今年も固定。ワンボランチにカンビアッソ。もう一人、マドリーの中盤の底を支えてきたマケレレは、湯水の如く金をばらまくチェルシーに電撃移籍してしまった。この穴をカンビアッソ一人ではたして埋められるものかどうかが、今シーズンのマドリーの懸案事項だ。ベッカムが得意の右サイドのポジションを得た。フィーゴは左。中央にジダン、ラウールは一・五列目からゴールを狙い、ロナウドは前線にどっしり構えている。
まさに世界選抜。
監督はポルトガル人のカルロス・ケイロス、五十歳。ポルトガルのU─21代表の監督として、一九八九、九一年のワールドユースで連覇。その時のメンバーにフィーゴがいる。この監督は名古屋グランパスでも指揮を執ったことがあり、昨シーズンはマンチェスター・ユナイテッドでコーチを務めた。ベッカムの起用法を最もよく知る男が、新天地でスター軍団をまとめることになった。
おそらくフリーキックもコーナーキックもほとんど全部、ベッカムに蹴らせるに違いないとリュウジは予想している。
スローなテンポでゲームは始まった。
体重を落としきれていないロナウドは、昨年より身体が重そうだが、足元にボールが入ると速くてトリッキーな動きを見せる。ラウールは相変わらずスペースを突くのがうまい。決して足は速くないが、スペースでボールを扱う時の冷静さと抜け目のなさが、ラウールの真骨頂だ。
ベッカムのサイドチェンジのボールが、逆サイドにいたジダンの足元にすっぽりと収まる。まるで右足の磁石でボールを吸いよせているかのようだ。
フィーゴがベッカムとポジションチェンジをして、右サイドから中央へとドリブルを仕掛けると、ペナルティエリアに入れたくないミンゴがたまらず足を引っかけた。フィーゴの罠だった。昨シーズン、その狡猾なドリブルで散々な目に遭った学習は、まるで身についていない。
ロナウドが左サイドからドリブルでベティスの中盤を次々に置き去りにした。中央にいるフィーゴへボールを預けると、すぐにリターンパス。ペナルティエリアに入ったロナウドが再びボールをコントロールし、ライン際からマイナス気味のクロスを低い弾道で入れた。
あっ、やられた。ベンチのリュウジはその瞬間に思った。
走り込んでいたのはジダンとベッカム。ロナウドのクロスはベッカムの右足インサイドで叩かれた。コントレラスは一歩も動けず、ネットが揺れる。開始二分、ベッカムの挨拶代わりとも言えるリーガ初ゴールでサンティアゴ・ベルナベウは白く爆発した。
その後はマドリーの敵をいたぶるようなパス回しが続き、三十分を過ぎた頃にコーチから指示があり、リュウジは後半の出場に備えてアップを始めた。
ライン際を軽くランニングをしている時、ベティスにチャンスが訪れた。
ゴール前左、二十五メートルの距離からのフリーキックをマルコス・アスンソンが蹴る。プレースキックではベッカム以上の精度があると言われるマルコス・アスンソンは、ベッカムの目の前でそれを証明した。
壁をぎりぎりに越えたボールはファーサイドの無人の空間に流れ、カシージャスはからくも手に当てた。ゲームの流れは微《かす》かながらベティスに傾いてきた。コーナーキックを蹴るのはホアキンだ。右コーナーから右利きのキッカーが蹴ると、ボールはゴールから逃げていく。左利きのキッカーによってゴール内側に入ってくるボールを蹴られるより、キーパーは扱いが難しい。回転の少ない鋭い弾道にドンピシャで合わせたのはDFのファニートだった。鮮やかなヘディングシュートが決まって、ベティスは同点に追いついた。
サンティアゴ・ベルナベウでの引き分けは勝利に値する。が、時間はまだまだたっぷりあった。
リュウジの出番は後半十五分に訪れた。
イスマエルに代わって左サイドに入ったが、中央のカピや右サイドのホアキンと盛んにポジションチェンジをしてマドリーのDF陣をかき回すことがリュウジの役目だった。
リュウジはピッチを縦横無尽に疾走する。マドリーのパス交換に翻弄され、自陣で守備に追われても、決して相手の懐には飛び込まず、少し距離を置いてディフェンスを続けた。
フィーゴからジダンへのパスをカットした時は快感だった。ワンボランチのカンビアッソをかわし、ぎざぎざのコースを描いて敵陣ヘ迫る。イエロのいないマドリーのDFラインは、速さはあっても老練な読みは失われた。オフサイドラインぎりぎりから飛び出したパレルモにラストパスが通った。
線審のフラッグが上がった。オフサイドだと言う。リュウジは両手を上げて呆れたポーズ。
ベティスの受難はその直後だった。
ベッカムからジダンへのロングパスが通った。左サイドに流れていたジダンからゴール前にクロスが上がる。ラウールとロナウドがペナルティエリアに突っ込んでいた。ファニートはニアのラウールをケアした。ロナウドをマークするのはミンゴの役目だったが、ロナウドの瞬発力ある飛び出しに反応が遅れた。ロナウドは易々とボレーでゴールを決めた。
ファニートとミンゴは責任をなすり付け合う。
「なぜロナウドにつかない」
「それはお前の役目だろ」
みっともない、やめろ、とリュウジは言いたかった。
2対1。ベティスは開幕戦を落とした。
このゲームはベッカム人気の日本でも放送されたようだ。草加市の実家では、放映権を獲得したペイテレビとすぐに契約し、母と妹は近所の人々を集めて観戦したらしい。
代理人のペドロサを通じ、平義監督からクラブ側にオリンピック代表合宿への招集打診があったのは、セビリア・ダービーを今年もドローで終えた十月の終わり頃だった。
ベティスがどんどん順位を下げていることもあって、ロペーラ会長はリュウジを日本に戻すことに難色を示した。日本サッカー協会はその時点ではリュウジを深追いしなかった。あっさりリュウジの合宿招集を見送ったことで、リュウジは「その程度の興味か」と思ったものだ。
オリンピック代表はその後リュウジを呼ぶことなく、長期合宿を経て、三月のアジア最終予選を戦い、韓国とイラクと共にアジアの三枠に滑り込んだ。しかしバーレーン、レバノン、UAEといった中東三国との戦いでチームの問題点が明らかになった。
司令塔をまかされたのは、かつてリュウジと日本選抜のチームで一緒になり、スペインU─17代表との親善試合で「殺される、という恐怖感を相手に与えるサッカー」に放り込まれた仲間、後に高卒ルーキーとして横浜F・マリノスに入団した梶祐一郎だ。
敵が梶をマークして潰せば、根本と石川の両サイドも攻撃の起点を失い、前線の2トップも機能しなくなることが最終予選六試合で露呈した。大量得点を期待されたが、ほとんどの試合をDFの踏ん張りと最少得点で逃げきった恰好だった。
足らない攻撃のオプション。敵も味方も疲れてくる残り二十五分のジョーカーが、オリンピック日本代表に求められた。
しかし平義は、十九歳の梶に司令塔として攻撃をまかせる作戦を元々とってはいない。
「現代サッカーにおいてファンタジスタと呼ばれる創造的プレイヤーは存在しない」というのが平義の持論だ。ボールを持って一秒以内にパスを出さなければすぐ三人の選手に囲まれる。一人の選手の創造性ではなく、組織のオートマティズムを絶え間なく連続させることが現代サッカーの創造性だと言う。
「中田や中村のようにヨーロッパで有名になった選手ほど、ディフェンスから受けるプレスは激しい。私の考える創造性とは、練習で繰り返し行われた反射運動の連続のことです。つまり、クリエイトすることより、与えられた命題に対していかに迅速に答えを出すか。創造性はブラジルにだけあるものではない。クリエイティブという言葉はブラジルの3Rに集約するような、狭い意味ばかりではありません。迷うことなく瞬間的に最適なプレーを考えるのが、今のサッカーにおける創造的な選手なのです」
平義はサッカー雑誌のインタビューにそう答えた。
「ボール支配を重視してパスの回数が多くなれば、それだけミスをしやすくなり、カウンターを食らう可能性も増える。ともかく早く前線へボールを運べば、敵がボールを奪うとしても低い位置からで、カウンターの危険度は低くなります」
「おっと、それはジーコ・ジャパンに対する批判なのではないか?」と、煽《あお》るマスコミも現れた。確かに平義の現代サッカー論は、練習でも紅白戦を長時間こなし、黄金の中盤四人がゲームで何を創り出すか、じっと見守っているような──時にはないものねだりをしているかのようなジーコのサッカーとは対極にある。
しかし「平義の組織論は分かる。だが、約束事に縛られたチームにこそファンタジスタは必要なのだ、志野リュウジが必要なのだ」というのが、サッカーファンの祈りだった。
本大会前の合宿で、ようやく平義はリュウジを追加招集した。
サッカーファンの祈りは通じた。娯楽満載のリーガ・エスパニョーラの息吹きがオリンピック日本代表に注入される!
リュウジのメンバー入りを発表した平義は日本中の支持を得たが、その時点ではまだ、リュウジがジャパンブルーのユニフォームに袖を通した意味は、日本中のサッカーファンどころか、リュウジ本人も知らずにいた。
平義にとってリュウジは、硬直化したチームに注入する「刺激剤」にすぎなかったのだ。後にリュウジは嫌というほどそれを思い知らされる……。
ベティスは毎年の課題である選手層の薄さを、今シーズンも克服できなかった。チャンピオンズリーグの日程が重なったシーズン後半にきて、マルコス・アスンソンとカピ、そしてパレルモが続いて故障離脱し、いつの間にか降格圏内にいた。チャンピオンズリーグはグループリーグでインテル・ミラノやアーセナルと同組になるという不運で、ホームで引き分けがやっとという、目も当てられない結果に終わった。
五月二十三日、マラガとのリーグ最終戦を終えると、リュウジは福島Jヴィレッジの合宿に参加するため、帰国の途についた。
「三カ月か……長いね」
マリアの笑顔に寂しさがよぎる。
「俺が帰ってくる頃には、今度はマリアが飛び立つ番だ」
そんなスレ違いは二人にとって珍しいことではない。マリアがフラメンコ学校で巡業メンバーに選ばれた頃から、マリアが育てている真紅のゼラニウムを、マリアがいない時はリュウジの部屋で世話をするという日々が続いている。
八月のオリンピックが終われば、リュウジはベティスでの来シーズンのためスペインに帰ってくる。だが九月にはマリアがロンドンの巡業に旅立つことになっている。
バラハス空港の出発ロビーで別れを惜しんだ。
マリアはちょうどマドリードのタブラオで踊っていて、日本に帰るリュウジを見送りに来てくれた。二週間前より腕が細くなったような気がする。「コラール・デ・ラ・モレリア」というフラメンコの老舗で踊る日々は、十年以上在籍するベテランのダンサーにしごかれる毎日らしい。胸も薄くなったように見える。確かめられないのが残念だ。
「電話する」
抱きしめ、耳元で言う。
海外でも通話できるボーダフォンを二人は買ったばかりだが、平義ジャパンの合宿では携帯電話が禁止されると聞いた。
ロビーで人目をはばからずマリアとキスを交わす。この唇の感触を覚えておこうと思う。
さっきTシャツの胸にサインをしてやったファンの少年が、二人のラブシーンをぽかんと食い入るように見上げていた。
3[#「3」はゴシック体]
ギリシャの大きな展開によって、最終ラインに戻った日本の中盤の選手も左右に首を振らされる。
右から左にサイドチェンジをされ、前線へ雪崩込んでくる敵のアタッカー三人にクロスが入る。DFのマークがずれた。ヘディングシュート。曽ケ端は横っ飛びでキャッチした。
日本のDFたちは誰も平義の教えを守ることができない。無理もない。ここまで左右に振られると、ボールと人、その片方だけにしか神経を働かすことができない。ギリシャは横への速い揺さぶりによって守備のマークをずらすという、理想的なサイド攻撃を仕掛けてくる。
合宿中から、平義はボールウォッチャーにならないための守備練習を繰り返しやらせた。
DFというのは、ボールと相手をできるだけ同一視野に入れるのが鉄則だが、どうしてもボールを見なければならない瞬間がある。その空白のタイミングで、相手FWは視界から消えてしまう。これがDFにとっての「魔の瞬間」で、失点につながってしまう。
それを防ぐには、前にいる中盤の選手が、敵の展開を予想できるようなプレッシャーのかけ方をしなければならない。サイドに振られると予感したら、パスコースを消し、サイドチェンジのボールを予想しての寄せが必要になってくる。それができると、いい視野の中で守備ができるようになり、予想できる形でボールを奪えて、効果的なカウンターアタックになる。
守備のオートマティズムはよりよい攻撃につながるというのが、平義の理想だった。
が、このゲームでは難しい。
クロスボールの落下点ではすでに敵11番が身体を入れている。長身の闘莉王がヘディングで競り合っても、ジャンプのタイミングが遅れて体勢が悪くなり、弾き飛ばされてしまう。
ゴール前にボールが浮いた。混戦状態で曽ケ端がキーパーチャージすれすれの形で倒される。がら空きのゴールへ敵の11番が流し込もうとした時、茂庭がかろうじてゴールライン外へクリアした。
敵のコーナーキックとなる。
そこでリュウジは視界の右端、ベンチの動きを見た。
平義がすっくと立ち上がり、ライン際から指示を送る。二本の指を掲げた。敵陣に大久保とリュウジを残せ、という指示だ。
押し込まれている時にコーナーキックを取られると、さあ守らなければと全員が自陣ペナルティエリアに入ってしまうものだ。そうすると、カウンターはないと敵は安心して攻めてくる。こちらのアタッカーを敵陣に二人残せば、相手は三人でカウンターに備えることになる。結果、自陣にいる敵は六人、こちらは八人となり、ゴール前で数的優位を保てて守りやすくなる。
平義は「超・守備的な監督」とよく言われるが、こういう作戦指示をされると、単なる守備一辺倒の監督ではないのかもしれない、とリュウジは思う。
敵コーナーキックのボールは曽ケ端がジャンプして捕った。前線に残っているリュウジへと、曽ケ端が素早くパントキック。敵DFを背にしてリュウジはボールを受けると、一瞬タメを作ってから左へ行くと見せかけて右へ鋭く反転、抜きにかかった。置き去りにされつつある敵DFがユニフォームを掴もうとするが、振り払った。千載一遇のカウンター攻撃となった。
スペースへ走り込んでいる大久保にパスを出すか、自分で持ち込むか。ギリシャのサポーターが盛大なブーイングを降らせる中、ゴールを期待する日本サポーターの応援を微かに聞いた。
右ライン際を駆け上がったリュウジは、遂に対峙したDFを、タテに抜くと見せかけ内側へ鋭い角度で切り返し、かわし、すぐにゴールへ直線的にドリブル。すると大久保のマークについていたDFがやむをえずリュウジに寄せてくる。これが狙いだった。その瞬間、フリーになった大久保へ丁寧に右足インサイドでラストパス。大久保はキーパーと一対一。しかしキーパーは絶妙な判断で飛び出し、大久保はシュートコースを消されてしまう。それでも冷静な判断でボールの下に爪先を入れてループシュート。そうだ、それしかない。ボールはキーパーの手を越えた。
「入れ」
リュウジは祈った。ジャパンブルーを身につけた誰もが祈った。
敵サポーターも含めてスタジアムの全員がゴールを確信したが、リュウジはその緩やかな弾道を追っているうち、落胆の予感が募った。シュートはバーをかすめて外れた。頭を抱える大久保。こんなチャンスは今夜二度とないのではないか、と思うほどの決定機だった。
リュウジはベンチを振り返る。地面を蹴って悔しがっているコーチたちの中で、平義はいつものポーカーフェイスで動かない。
リュウジは苦笑する。監督は今のシュートミスを見ても、「決定力不足とはFWのせいではなく、マシン全体がゴール前まで効果的にボールを運べないからだ」と言うに違いない。
合宿中、選手たちが耳にタコができるほど言われたことだった。
「リュウジ、元気か。
お前がオリンピック代表に招集されたことを知った。
かつて俺が平義楯夫にインタビューした時の記事を送る。
父親としてお前にできることは、こんなことぐらいしかない。
平義という男が、お前を生かすのか殺すのか、俺にはまだ分からない。
健闘を祈る。
志野リュウジ様
[#地付き]時任礼作」
スペインのシーズンを終えて帰国し、合宿までに休養の時間が一週間あったリュウジは、草加市の自宅で三日ほど静養し、母親自慢の肉皿を毎日食べ、綾瀬川の河原で自主トレのランニングをした。父から届いた短い文面の手紙を何度も開き、父が平義について書いた記事を繰り返し読んだ。
マリアとは毎日のように話した。マドリードの老舗のタブラオでは、マリアはベテラン・ダンサーにしごかれる日々だという。また胸が痩せてしまったと笑う。
「明日から合宿だ。しばらく電話できないかもしれない」
「頑張って」
国際携帯電話とはいえ、会話にタイムラグはまったくなくて、隣町にいるマリアと話している気分だった。
実家にいた三日間、母は店を臨時休業した。故郷の人たちは家族水入らずの雰囲気を遠くから見守ってくれた。それでも、中学生の男の子とお爺さんのコンビが朝のランニングの途中で色紙を持って待っていたから、リュウジは気軽にサインをしてやった。
母が夕飯の買い物に行っている間、ミサキに訊《き》いた。
「母さん、この店ずっと続けるつもりかな」
ベティスに完全移籍をしたリュウジは、月に八千ユーロ、百万円以上の金を故郷に送っている。毎晩、酔っ払い客に付き合って酒を飲むような生活などする必要はないのだ。
「店をたたんで、お母さんに何をしろって言うの?」
中三の妹は宿題をしながら訊き返す。
「温泉に行ったり、ゴルフを習ったり、絵を描いたり……」
と言ってみたものの、クラブを振ったり絵筆を握る母がうまく想像できない。とにかく、子供二人と、ヒモと呼ばれた父を養うために苦労してきた母に、少しでも楽をさせてやりたかった。
「お母さんは、この店にお客さんを集めて、みんなでお兄ちゃんのゲームを見るのが楽しみなの。あたしと二人で見るんじゃなくて、大騒ぎしながら見るのが、何よりの娯楽なんだから」
リーガ・エスパニョーラを週に三試合しか放送しないペイテレビでは、ベティスのゲームは、レアル・マドリーやバルセロナといったビッグクラブ相手のものしか流れない。
しかも生放送のゲームは日本時間では早朝から放送になる。母はそれをビデオに録画し、夜まで見ないで我慢する。常連客が集まる時間からビデオを流し、リュウジが途中出場する後半の残り二十五分を、まるで今ゲームが行われているかのように、一喜一憂しながら見つめるのだという。
「そういうお母さんを見てると、お兄ちゃんが羨ましくなる。こんな分かりやすい親孝行ができていいなあ……って」
油染みがこびりついた十四型のテレビだった。大きなテレビを置いたら、それだけ店が窮屈になる。できるだけ大勢で試合を見たいから、母はテレビを買い換えたりはしない。
リュウジがゴールを決めた時の、熱狂する店の様子が想像できた。歓喜の輪の中ではしゃぐ母に、どんどんビールが注がれるに違いない。母は嬉しいから全部飲み干すのだろう。
「心配なのは、肝臓だな」
「心配なのは、お兄ちゃんの怪我だよ」
リュウジは微笑み、母の字でラベルの書かれたビデオの棚を見やる。リュウジのデビュー戦から、きれいに収められていた。どれも右上がりの母の字だ。
「ただいま」
母が帰ってきた。階段から店を見下ろすと、「よっこらしょ」と大きな買い物袋を置く母の姿が見えた。スキヤキで明日からの合宿に送り出してくれるらしい。
福島Jヴィレッジ集合の日、リュウジは日本サッカー協会が手配してくれたハイヤーに乗り、草加市の実家から旅立った。
朝食は、前夜のスキヤキの残りを炊きたてのご飯にぶっかけて済ました。あまりにうまかったので、母親に頼み、プラスチック容器にスキヤキ弁当を作ってもらった。
常磐自動車道は渋滞することなく滑らかに北へと進む。福島県いわき市の先、草加市からだと車でゆうに三時間以上かかるJヴィレッジには、眠っている間に到着した。
太平洋に近い丘陵地に面した、五千人収容のJヴィレッジ・スタジアムがオリンピック日本代表の練習場となる。
まだ誰も来てはいなかった。宿泊施設に一番乗りでチェックインし、二人部屋に荷物を置くと、スキヤキ弁当で腹ごしらえをした。
窓から見渡せば、施設内には十一面のグラウンドがある。初夏の日差しで青々と輝く天然芝を見ていると、居ても立ってもいられなくなった。
集合時間まで二時間もあった。他の選手たちの多くは、前夜のJリーグの試合を終えて、午後三時に到着することになっている。
リュウジは支給されたジャパンブルーのトレーニングウェアを身につけ、トレーニングシューズを履いて部屋を出た。
実際身につけてみると、日本代表のユニフォームはなぜ青いのだろう、と思わずにいられない。普通、代表チームはその国旗の色をユニフォームに使うことが多い。ブラジルもアルゼンチンも、フランスもそうしている。しかし日本は日の丸の色を使うことなく、過去ほとんどの時期を青と白の組み合わせを代表カラーとしてきた。
その理由としては、「日の丸がよく映えるように青にした」「日本は海に囲まれた島国だから青にした」「アジア各国は赤いユニフォームが多いから、区別しやすいように青にした」……と様々な説があるが、納得できる理由は見当たらない。
スタジアムへ続く道の両側に、フットサルコートや雨天練習場、プールやトレーニングジム、サッカーミュージアムといった様々な施設が建てられている。一九九七年のオープン以来、日本代表やJリーグ関係者だけでなく、水泳や陸上、バレーボールなど各種スポーツの合宿や指導者の研修、あるいは小中学校の校外学習の場としても提供されている。
芝の上でスポーツをすることの喜びを人々に与えることが、この施設の理念なのだという。
通用門から入ると、スタジアムのピッチは無人だった。グラウンド管理の職員が、芝の手入れを終え、どこかでひと休みをしているのだろう。
リュウジは入念にストレッチをすると、外周を軽くランニングする。芝はスペインと違ってやや硬めだ。向こうではあまり使わない固定式のスパイクを履くことになりそうだ。
一周半を走ったところで、スタジアムにいるのは自分だけではなかったことに気付いた。
ピッチの反対側、メインスタンドの下のベンチ。スポンサー名の入ったジャパンブルーのトレーニングウェアに身を包み、屋根の下で日差しを避けている人間がいた。リュウジより少し遅れてスタジアム入りをしたようだ。
平義監督だった。
リュウジは遠くからでも分かるように大きくぺこりと頭を下げ、小走りにピッチを横断して近づく。初対面の挨拶をしておくべきだと思った。
平義もベンチから立って、リュウジを迎える。
笑顔らしきものがあった。聞いていた通りのイメージだった。贅肉のかけらもないトレーニングウェア姿にかつてサッカー選手だった頃の名残はあっても、風貌は「スポーツ好きの大学教授」といったところだ。
手を差し出され、リュウジは握手を交わした。冷たい掌だった。
「志野リュウジです。よろしくお願いします」
「よろしく。平義です」
挨拶の後は言葉が続かず、リュウジは芝に座り込んでストレッチをすることにする。覚えていますか、ドイツにいたあなたを訪ねて、インタビューをした時任礼作というフリーライターを、俺はその息子です。そんな自己紹介もできたが、面倒くさい会話になりそうな気がしたので、やめた。
「早いな。俺が一番かと思った」と平義。
「遅れちゃいけないと思って早めに家を出たら、高速が空いてて……」
平義は「そうか」と言った後、自分もグラウンドを走り出す。一緒に走るべきだろうかとリュウジは一瞬思ったが、平義には他人を寄せつけない空気があったので、ストレッチを続けた。
二周走って、持参したスポーツ飲料をごくごくと飲んだ平義が、ストレッチを終えて立ち上がってリフティングでもしようかと思っていたリュウジに、不意に声をかけた。
「ヴィクトル・ロペスのマンマークは、君の判断だったのか?」
咄嗟《とつさ》に質問の意味が分からなかったが、「はい?」と見返した三秒後、約一カ月前のバレンシア戦について言っているのだと分かった。
リーガ・エスパニョーラ第三十五節、メスタージャで行われたゲームは、シーズン終盤の大一番だった。首位を走るバレンシアは、後半から調子を上げてきたレアル・マドリーを振り切るために、ベティスをホームに迎えて完膚なきまでに叩く必要があった。レアル・マドリーはアウェーでデポルティーボ・ラ・コルーニャと戦うため、星を落とす可能性は大きい。バレンシアにとっては勝ち点差6に広げて、残り三試合を優位に進めるチャンスだった。
ベティスはやっと、マルコス・アスンソンやアルフォンソなど主力の故障者がピッチに復帰して降格圏内から脱したものの、六位という順位からなかなか上へ進めない。チャンピオンズリーグ出場資格を得る四位を目指して、何とか勝ち点が欲しいゲームだった。
今シーズン、チャンピオンズリーグには出場せずに国内リーグ一本に目標を絞ることのできたバレンシアは、カリューという昨シーズンのチーム得点王をASローマに放出したものの、南米リベルタドーレス杯でペレのゴール記録を更新した若きFWリカルド・オリベイラの獲得が、カリューの穴を埋めて余りある。しかも故障から完全復帰したパブロ・アイマールと、十九歳のヴィクトル・ロペスのダブル司令塔が好調、バラハとアルベルダの両ボランチも健在、リーグ序盤から首位を走っていた。
スペインではレアル・マドリーやバルセロナに代表されるような超攻撃的なチームが多い中、バレンシアは、「堅守のサッカー」というイタリア的な匂いのするチームを作り上げた。五位に終わった昨シーズンは、ラファエル・ベニテス監督と主力選手との不仲が噂され、上位チームにホームでことごとく敗れるという不甲斐ない一年だった。ベニテス監督は地味だが堅実な補強を行い、若手とベテランがうまく噛み合うチームへと再建した。
リュウジはそのゲーム、ホアキンのカード累積による欠場で先発することになった。右サイドから攻撃するリュウジにとって、1トップの下、左めに位置するヴィクトル・ロペスとはマッチアップする恰好になる。
平義は日本のペイテレビで放送されたゲームを見たに違いない。その週に日本で放送されたリーガ・エスパニョーラは、優勝圏内にあるバレンシア、レアル・マドリー、そしてバルセロナの三試合だったと聞いている。
ビクトル・フェルナンデス監督は、決してリュウジにヴィクトル・ロペスのマンマークを命令したりしなかった。結果的にそうなってしまい、相手の左サイドを無力化できたのは、最初にヴィクトル・ロペスによってリュウジが執拗にマークされたのがきっかけだった。
リュウジのドリブル突破という右サイドの攻撃と、右サイドバックのバレーラのオーバーラップを抑えるというのが、堅守をモットーとする敵将ベニテスがヴィクトル・ロペスに命じたことのようだ。
本人は不満だったかもしれないが、それは功を奏した。バレンシアはパブロ・アイマールと右サイドのルフェテでゲームをコントロールし、リカルド・オリベイラの1トップに効果的なスルーパスを出し続けた。
前半三十分に先取点を奪うと、バレンシアお得意の先行逃げ切り態勢になるかと思われた。ところが後半開始直後にベティスがマルコス・アスンソンのフリーキックで同点に追いついたところから、再び攻撃的にゲームを進めなければならなくなった。バレンシアにとっての問題は、右サイドのルフェテの消耗が激しかったことで、ベニテス監督は作戦を変更、前半を守備に費やしたヴィクトル・ロペスがパブロ・アイマールと盛んにポジションチェンジをしながらベティス陣内に攻め込むことになった。
リュウジは報復に出た。これまでマークされ、激しいチャージで削られたお返しだ。監督の命令ではない。三年前の国立競技場における戦いから好敵手の関係にあるヴィクトル・ロペスに対して、激しい敵愾心《てきがいしん》がそうさせた。奴を潰せばこのゲームをモノにできると、半ば開き直って自分の持ち味を殺し、敵の左サイドを無力化することに躍起となったのだ。
「前半は奴にやられました。だから後半、やり返してやりました」
平義の質問に答えた。
「そうか。後半は素晴らしい働きだったな」
評価してもらったが、本来の攻撃的ポジションではない部分で褒められても、あまり嬉しくはない。
無言のリュウジに、「自分でもそう思わないか?」と平義が言う。
「そう思います」と答えた。
事実、バレンシア戦の後半、リュウジはヴィクトル・ロペスにほとんど仕事をさせなかった。疲れてきたパブロ・アイマールが左サイドに流れ、ヴィクトル・ロペスがトップ下の位置に出てくると、彼をとことん追い回すリュウジの献身的な守備はバレンシアのチーム全体の勢いを止めることになった。
結局、ゲームを1対1のドローで終え、リュウジとヴィクトル・ロペスはユニフォームを交換し、湯気の放つ身体で「アテネで会おう」と約束した。
シーズンが終わってみれば、バレンシアはレアル・マドリーを振り切って優勝、ベティスはチャンピオンズリーグ出場権にぎりぎり届かなかった。
ヴィクトル・ロペスはオリンピック・スペイン代表の司令塔として、フェルナンド・トーレス(アトレティコ・マドリー)、ハビエル・ポルティージョ(レアル・マドリー)、シャビ・アロンソ(レアル・ソシエダ)、ホセ・アントニオ・レジェス(アーセナル)、リュウジのチームメイトであるホアキンやアルスといったスター軍団の中で、最年少の十九歳ながらキャプテンマークを付けることになった。
「あと二周ほど、走るか?」
監督に誘われたら嫌とは言えない。肩を並べて走った。
走りながら何か話があるのかと思ったら、平義はずっと無言だった。ヴィクトル・ロペスをマンマークしたのは自分の意志だったとリュウジから聞いたことで、何かしら満足している様子に見えた。
事実、そうだったのだ。
リュウジは福島入りの日から、体の重そうなチームメイトの中にあって溌剌《はつらつ》と練習グラウンドを駆けた。
午前中に二時間、午後遅くから二時間という二部構成の練習は、Jリーグ期間中にある国内の選手にとってはハードに違いない。
2タッチ以内のパスで、手数をかけずに敵陣へ攻め入る戦術練習では、平義は選手たちに「意味なく走るな」と教え込む。
「要するに、かつてトルシエが敷いた鉄の規律と同様、平義が目指しているのは、レールに沿って歩いていく日本社会のメンタリティーと完全に一致したメカニズムなのではないか」と、あるスポーツ雑誌が書いた。
平義はその雑誌の取材にこう答えた。
「選手に自由を与えることは、無駄な動きを増やし、単に消耗させるだけである。しかも自由を与えられた選手たちは、その裏にある義務の重さを持て余してしまう。自分のプレーによってリスクを冒してはならない、という消極性を持ち始め、結局、横パスやバックパスを多用するプレーになってしまう」
どうしようもなく集団意識を持ってしまう日本人は、「自由」に憧れはするが「自由」を謳歌することができず、結局、慎重なプレーしかできなくなる。ボールの保持率は高くなっても、機に応じ、リスクを背負っても速攻を仕掛けようとはせず、着実にボールを回す遅攻を選んでしまう。結局、手数をかけすぎてチャンスを逃すという形を何度も重ねてしまう。
「日本人プレイヤーの最大の敵は、自分の恐怖心です。恐怖のあまり、みんなで責任を負おうとする。そんな集団意識から抜けきれないのなら、恐怖心を含めた意識をうまく組織化するしかないでしょう」
インタビュー記事を読んでいつも思うのだが、グラウンドでは寡黙だが、活字媒体では平義はよく喋るというイメージがある。
リュウジも、平義の記事が目につくとつい手に取ってしまう。本大会直前に追加招集された者としては、監督を早く理解しなければという一心だった。
平義は、日本人の「勤勉」という長所と、「みんなで渡れば怖くない」という短所を踏まえて、選手たちにピッチでの効率を徹底させた。
日本サッカー協会が作成した二〇〇二ワールドカップのテクニカル・レポートというものがある。それによると、流れの中で生まれた全109点の半数以上、58得点が、ボールを奪ってから十秒以内に記録されているらしい。パス本数では三本以内が67得点、全体の六一パーセントにものぼる。つまり、ボールを奪って前線にクサビを入れる、そのポストプレーから裏へのパスを出してシュート、これで三本になる。現代サッカーの特徴は、守備の高度な組織化にある。これを打ち破るには、ボールを奪った瞬間に相手に先んじてスペースに走り、相手の守備意識が整う前に攻め崩すことが必要なのだ。
しかし、この現代サッカーのスピードに対して日本人の大きな課題は、すでにフランス・ワールドカップ後のテクニカル・レポートで指摘されていた。
書いたのは岡田武史・元日本代表監督である。
それは、「中盤で緻密にパスをつなぐ日本の組織サッカーは、対アルゼンチン、クロアチア、ジャマイカのグループリーグ三試合である程度通用したものの、アタッキングサード(フィールドを三分割して、相手ゴールに近いエリア)にFWが入ってからの有効な崩しはできなかった。そのエリアでは個人の力こそが求められる」という結論で締めくくられた。
この日本人の宿命的課題を、日韓ワールドカップで克服できたのか。判断は難しい。岡田氏の次に現れたトルシエは、「個の爆発力」を育てるどころか、組織で個人を押し殺したのではないか……。
平義はミニゲームで、常に高い位置でボールを奪い、スピーディかつコレクティブにボールを運んでチャンスを作る攻撃を繰り返した。
「ファンタジーと効率は共存できない」
その持論通り、平義は選手のメンバー構成を替えても、決してゲームのリズムを変えようとはしなかった。
合宿の最初、軽快に自分らしさを発揮していたリュウジは、やがて「ピッチの約束事」に縛られていく。
右サイドでボールを受けると、縦に突破する。すでに前線の選手はオートマティズムを発揮していて、一人はスペースを突く、一人は相手DFと競り合ってターゲットになろうとする。二列目から梶が飛び出してくる。パスの選択肢は三つあった。そこでドリブルで抜きにかかろうとすると、平義は笛を吹いてプレーを止める。「三手先がないプレーだ」とリュウジは言われた。
ドリブルで突破すればするほど、その先の選択肢は限られてくる。結局、無闇にペナルティエリアに突っ込んで憤死し、相手のファウルを誘うぐらいしかない。その程度のプレーなら初めからするなというのが平義の効率的な考えだった。
リュウジは疑問に思い始める。ならばどうして俺はこのチームに呼ばれたのか……。
もう一度、同じ局面になった。右サイドからアーリークロスを上げる状況で、リュウジは左サイドでフリーになっている選手に、長くて正確なサイドチェンジのパスを出した。それは攻撃の約束事にないものだったが、相手DFを横に振って攪乱《かくらん》し、左サイドが起点となってゴールを決めることができた。
こんなこともできます、俺は。
リュウジの静かなる主張に、平義は無反応だった。
部屋は梶と同室だった。
十代の選手同士だからという理由ではない。どうやら監督は三年前、国立でスペインU─17代表と戦った時の、ピッチ上における梶とリュウジの確執を知っているようだ。
当時、日本選抜の神保《じんぼ》監督は、攻撃的なリュウジを守備に注ぎ込もうとした。スペイン相手に0対1で負けても「惜敗」として評価されるというサッカーにリュウジは反発し、個人プレーに走り、監督の逆鱗《げきりん》に触れた。交代させられそうになった時、リュウジはゴールを決めたが、ゲーム中、幾度となくピッチ上で梶とやり合った。しかし敗北が決定的となった終了間際、梶は「まだ時間はある。お前一人で行け」と、リュウジを走らせてくれた。
最後の最後で、梶とは通じ合えたような気がした。
合宿所で食事を終え、マッサージを終えて部屋に帰ってくる。消灯時間に従うわけではないが、疲れきってツインのベッドに横たわる。レクリエーションルームには卓球台やビリヤード台が用意されているが、遊ぶ気力など残っていなかった。
ただ眠りたい。できれば夢を見ない眠りがいい。繰り返し右サイドからクロスを上げる夢だったら、最悪だ。
闇の向こうから「リュウジ」と梶の呼ぶ声。
首をねじって見やると、梶が起き上がって、ベッドの端に座ってリュウジを見下ろしていた。
リュウジも起き上がった。同室だがじっくり話すのは初めてだった。一方がマッサージから帰ってくると、一方はすでに寝ているという日々が続いていた。
「何のために自分が呼ばれたのか、そろそろ分かっといた方がいいぞ」
「何のため……?」
「自由気まま、好き勝手にピッチを駆けるお前のような奴が、監督は欲しかったのさ」
意味が分からない。
「お前をこのチームの約束事に縛りつけた時、平義ジャパンは完成するってわけ」
まだ分からない。
「組織のために奉仕させる、チームを一枚岩にまとめるため、志野リュウジを組織の犠牲にさせる」
「見せしめの道具ってことかよ」
「そういうことだ」
スペインからリュウジを呼び戻した目的はそれなのだと梶は言う。
そこまで手のこんだ目的があるとはリュウジは思っていなかった。三年前の神保監督と同様の、点を取られないためのゲームプランにはめ込まれる、程度にしか考えていなかった。
梶はベッドから出てくると、テレビをつけ、床に放り出したままになっているプレステ2を起動させる。選手たちの間で流行っている「ウイニングイレブン」だ。選手の間ではコミュニケーション・ツールになっている。リュウジもスペインにいる頃、チームメイトとさんざんやったゲームだ。中でもマルコス・アスンソンがハマッている。
梶はタイトル画面をスキップして、ゲームモードにした。
「やるか?」
「……ああ」
指先の運動で疲れて、眠れるかもしれないと思った。
「チームは?」
リュウジはスペイン代表を選んだ。梶はならばと日本代表を選ぶ。
CGで精巧に作られた選手たちを指先で操作し、語らう。
「監督が好きなタイプの選手って誰か知ってるか?」と梶。
ある雑誌のインタビューで、平義は「イングランド代表のハーグリーブス」と答えたそうだ。バイエルン・ミュンヘンに所属するオーウェン・ハーグリーブスは、豊富なスタミナ量に支えられて、ピッチを幅広く動き、中盤では激しく相手にチャレンジしてボールを奪うという、攻守の切り換えの早い若い守備的MFである。
「スター選手の周りで働き蜂のように動く、ハーグリーブスみたいな選手のことを、ドイツ語では『バッサ・トレーナー』って言うらしい。直訳すると『水を運ぶ人』……」
攻撃能力の高い選手をフォローし、DFの負担をなるべく軽くするよう補う存在だ。
「で、お前やハンブルガーの高原さんみたいに技術のある選手のことを、ドイツでは何て言うのかっていうと……」
盗賊のようなプレー、と言うらしい。平義がコーチングを学んだドイツでは、選手は足元でボールをこねくり回すだけでは評価されないと言われる。「水を運ぶ人」として、遮二無二走って、気持ちを前面に出すことが要求される。
それになれと言うのか、監督は俺に。
「お前は殺されるために日本に戻されたんだ……」
口調には憐憫《れんびん》はあっても、揶揄《やゆ》するようなものはなかった。リュウジの身を案ずるより、梶は平義の「チームをまとめるためには一人の選手を殺す」冷徹さを畏怖していた。
その夜、リュウジのスペイン代表は日本代表にゴールラッシュを許してしまった。
翌日のミニゲームで、梶の予想は的中した。
リュウジは中盤の底まで下がって、しつこくボールを追うことを命じられた。縦に長い距離を走らされ、サイドバックに近い動きを要求された。消耗度は激しく、身体の中の水分が絞り出され、「水を運ぶ人」というより「水を絞り出す人」と言い換えた方がいいのではないか、と思った。ボールを奪って攻撃に転じた時にはエネルギーは残り少なくなっていて、トラップミスも多く、クロスの精度も悪くなった。
芝に座り込んで休息をとる選手たちに、平義は太陽を背にし、高みから言う。選手たちは眩《まぶ》しげに監督を見上げた。
「組織的な守備というのは、よりよい攻撃のための基礎だ。日本では組織的な意識を浸透させようとすると、すぐに守備的なゲーム運びと解釈される。そうではない。攻め込んできた相手からボールを奪う。たくさん奪えば、攻撃のチャンス、つまり得点の可能性が増える。シンプルなことだと思わないか?」
教授に口答えする者はいなかった。
リュウジは忠実に平義のメニューを消化していたが、策略があった。
練習は監督の統制下に置かれても、ゲームになれば選手のものだ。レールを外れたプレーをしたとしてもゴールに結びつけば誰も文句は言わない。ピッチに立てばこっちのもの。だから練習中にわざわざ監督に逆らうようなことはしなかった。リュウジは三年近くのスペイン暮らしで、狡猾《こうかつ》な反逆者になっていた。
六月、七月と調整試合を無難にこなした。ポジションのかぶる石川直宏が先発しても、ベティスの時のように後半のジョーカーとしてピッチに立つと、意外性のあるプレーを必ずひとつは見せた。
右サイド、ハーフウェイラインの手前でボールを持つ。トップスピードのドリブルで敵陣へ突進し、二列目から飛び出す梶にグラウンダーの縦パスを出す。梶は巧みなトラップから敵DF二人の間を抜け出してシュートに結びつけた。
さりげないパス出しだが、難易度は高い。スピーディなドリブルから一センチの狂いもなく、しかも速いボールを縦に送るのはたやすいことではないのだ。
ゴールを決めた梶も素晴らしかった。鋭いグラウンダーのパスを足のアウトサイド部分を使って止めると、止め所がずれるかもしれないリスキーなプレーになる。それを難なくこなし、ファーストタッチから速いドリブルに結びつけての得点だった。祝福のため梶に走り寄る前に、リュウジはベンチを見やる。リュウジのアシストに大きく頷いているクズ兄ィの横で、平義は教授席で表情ひとつ変えないで座っている。アピールしたのは確かだ。
だがリュウジは調子に乗ったりしなかった。意外性のあるプレーはひとつだけで、ふたつもみっつも見せはしなかった。それがリュウジの策略だった。リュウジがピッチに投入されると攻撃のアクセントができる。その程度の印象付けで我慢した。
平義との腹の探り合いだった。
八月にギリシャに入って、涼しい高地でのトレーニング。
リュウジは監督の要求に従順な、献身的に「水を運ぶ」中盤のプレイヤーに徹した。本大会前に招集されたリュウジには、長く合宿を続けてきたチームメイトたちに比べるとハンディがある。
梶はカピではない。根本はデニウソンではない。阿部勇樹はマルコス・アスンソンではない。オリンピック日本代表のレベルと特徴にプレイスタイルを合わせるまで、少々時間がかかったが、ギリシャ入りしてからは呼吸に狂いはなくなった。
そして緒戦を迎えて、アメリカを完膚なきまでに叩きのめして勢いをつけた。スタンドのギリシャ人たちが日本を応援してくれたのも勝因のひとつだったかもしれない。
ギリシャ人には根深い反米感情があるという。アメリカがかつて、ギリシャの残忍な軍事政権に多くの援助をしていて、国民の反感を買ったという歴史が、日本に味方した。それでなくても、ブッシュ政権のアメリカは「世界の警察のような顔をしているが、実はならず者」と見られるご時世だ。
カメルーン戦は完敗だったが、最大の関門のギリシャ戦に、石川の怪我によって先発することになった。
4[#「4」はゴシック体]
前半タイムアップの笛が鳴った。
全身の疲れが両足に急降下し、スパイク裏が芝に根を生やしたように感じた。重い両足を引きずるようにしてピッチを引き上げる。
ギリシャの選手らを見ると、攻め続けた彼らの方が疲れているのは明らかだった。シュート数はどのくらいだろう。日本は二本程度。ギリシャは十本以上あったかと思う。こちらのDFとGKのゴール前での踏ん張りと、相手のシュートミスに助けられた前半だった。
空を仰ぐ。西の方角、スタジアムの屋根の切れ目にうっすら残光がある。リュウジたちがスタンド下の通路に近づくにつれて、意味不明の怒号が降ってくる。
降ってきたのは声だけではなかった。ペットボトルや硬貨が飛んできた。選手たちは身をすくめ、コーチらに「早く上がれ」と促され、小走りにスタンド下に逃げ込む。観客の熱気というものにはリーガの試合で慣れているリュウジは、他の選手のように怯えたりはしない。フィールドに投げ込まれるものを軽々とかわすようにして、安全地帯に入った。
アメリカ戦では応援してくれたギリシャ人だったが、今や祖国の宿敵として日本選手に罵声を浴びせる。前半にゴールできなかったことが焦りを生みつつある。ギリシャは引き分けではグループリーグを突破できない。
ロッカールームに入り、手早くアンダーシャツを交換し、水分補給をする。交代があればそろそろコーチから声がかかるが、どうやら先発メンバーで後半を始めるようだ。
「11番は今のままじゃ掴みきれない。ゾーンで守るのは限界だ」
「左サイドバックの縦を切らないと、奴らのやりたい放題になっちまう」
「中盤の底でボールを奪ったら、試しに長いボールを入れてみないと」
「クサビが入らないならセカンドボールを取ろう。そういうポジショニングを意識しよう」
選手たちがしたたり落ちる汗を拭い、修正点を喋り合う。ハーフタイム十五分のうち、最初の数分間は選手たちの「自由会議」という雰囲気になる。
選手たちの熱でモヤがかかったようなロッカールームにやがて平義が現れると、選手たちは喋るのをやめ、教授の講義を聞く態勢になる。
「今の戦い方でいい」
まず自信ありげに言う。部屋はシンと静まり返り、選手たちは監督の言葉を拠り所にしようとした。
「自分たちでキープするより、むしろ相手にキープさせておいて、奪った瞬間がチャンスだ。ボールキープと試合の流れは一致しない。相手はそこを勘違いしている。ボールが持てているからギリシャのペースだと思っている。付け入る隙《すき》はある」
ボールを持たせておいて、奪って一気にカウンターを狙う。監督は決して「引き分け狙い」を口にしない。それを選手の頭にインプットさせた時にチームが瓦解することを、A代表の戦いを見て知っている。
簡潔な指示が終わった。あとはDFの軸である田中誠にだけ、細かく修正点を話す。アトランタ・オリンピックのアジア最終予選で大会最優秀ディフェンダーと認められ、ジュビロ磐田のDFを長く統率してきた田中誠に、平義監督は全幅の信頼を置いている。オーバーエイジ枠に選ばれたチーム最年長の田中誠は、若い選手たちにとって、韓国代表をキャプテンとしてまとめたホン・ミョンボのような存在だ。
リュウジは氷水に浸かっていたレモンを手にし、果肉に歯を入れ、思い切り噛んだ。きりりと鋭い酸味で覚醒する。
ハーフタイムの終了間近をスタッフが知らせにくる。円陣を組んで「行くぞっ」と声を合わせ、通路に出る。
スパイクのアルミ製のスタッドがカチッカチッと鳴る。コンクリの通路に取り替え式スパイクの音を聞くと、一歩ごとに自分のテンションが上がっていくのが分かる。
奴らは前半の疲れをロッカールームに置いてきたかのようだ。
キックオフの笛が鳴った直後、両サイドの中盤の選手が猛然と上がってくる。たった十五分で生き返ったギリシャ、その怒濤の攻めが始まり、のっけから日本は圧倒された。
前線のプレッシャーも激しく、阿部勇樹は中盤の底でボールを奪われそうになり、キーパーまでボールを戻した。
こんなはずではない。前半の攻め疲れで、開始十五分ぐらいは日本の時間帯だと予想していたが、まるでボールを持てないのだ。
監督が言うように、「相手にキープさせてやるんだ」と思い込むことにしたが、ボールを奪ったとしても攻撃の芽はまったくなかった。
闘莉王からライン際に縦パスが入る。リュウジは半身でそのボールを迎え、右足でトラップする。すぐに敵のサイドバックを左手に感じたので、右足の踵《かかと》で内側にボールを出し、自分はライン際をすり抜けるトリッキーな動きで相手を置き去りにしようとした。ところが身体をぶつけられ、ボールを奪われた。芝に倒される。ファウルの判定はなく、ゲームは続行となる。
トルコ人の主審がどの程度ホームに有利に笛を吹くか、ギリシャは前半で見極めたようだ。これならラフプレーが通用する……と。
梶も足をかけられて倒される。主審はボールにかかっていたと判断して笛を鳴らさない。
大久保に鋭いクサビが入ると、背中に貼りつく敵DFがバックチャージする。笛は鳴ったがイエローカードは出ない。
ベンチからクズ兄ィが抗議の声を上げる。平義が微かに感情表現を見せた。主審の判定に両腕を開き、呆れたふうに苦笑する。
ゴールから三十メートルの地点でフリーキックとなる。阿部勇樹が壁の裏のスペースへ浮き球を入れる。打点の高い平山がキーパーと競る。キーパーの手からこぼれ落ちたボールをそのまま平山が押し込んだ。一瞬の歓喜がピッチを駆け抜けるが、主審はすぐに笛を吹いた。平山のキーパーチャージを宣告した。
日本の選手たちも、ハナっから抗議はしない。そんなことだろうと思っていた、というリアクションだ。
露骨なホーム擁護の笛だった。ギリシャの人間にとっては頼もしい主審だろう。
敵10番が中央突破を試みる。半身で迎える明神は縦への侵入を許さない。敵10番からボールを奪った。奪い返そうとする相手に、明神はぎりぎりまでボールをさらし、巧みに身体を入れる。が、相手の方からぶつかってきて、激しく交錯した二人は芝にもつれて倒れこんだ。笛が鳴る。どちらのファウルを取ったのか。やはり明神だった。日頃冷静な明神も熱くなり、腕を振り上げて怒りを表明し、主審に食ってかかる。「ちゃんと見てるのか、目が付いているのか」と唾まじりに怒号をぶつける。
ゴール前二十五メートルからのフリーキック。日本の壁は六枚。セカンドボールを取れる位置にリュウジが立つ。前線に大久保が残っている。
敵10番がキッカー。長い助走から、ジャンプする壁の下を通す。地を這うシュートを曽ケ端は正面でがっちりキャッチした。
後半十五分、平義が動いた。アップをさせていた選手が呼ばれた。守備的MFの鈴木啓太だ。
まさか、俺が。
そろそろ引き分け狙いを考える時だとすると、リュウジのポジションに守備的な選手を入れて、3ボランチ気味の布陣を敷くことも考えられる。
が、電光掲示に点《つ》いた数字はリュウジの14番ではなく6番──阿部勇樹の背番号だった。リュウジは安堵したが、これはどう見てもスコアレスドローで終えるための選手交代だった。阿部には中盤の底からゲームを組み立てられる攻撃センスがある。今日のゲームではそれは生かされないと監督は判断したのだろうが、守備の意識が凶に出ないことをリュウジは祈った。
ギリシャは泥臭い個人技で攻め入ってくる。その乱暴さにつられてチャージに行くとファウルを取られる可能性があるので、日本のDF陣は慎重にならざるをえない。
リュウジも中盤の底までずるずる下がって、ボールを追った。
平義はまた動いた。前線のターゲットになりきれなかった平山を下げて、田中達也を入れる。「守るだけではない、攻めるんだ」という選手たちへのメッセージだったが、リュウジも含めて、攻撃陣は小粒の印象を拭えない。敵の大型DFにとっては「身長百七十センチ前後のFW二人など簡単に弾き飛ばせる」と思うかもしれない。
「タツヤ、下がるな!」
ボールをもらおうと下がってくる田中達也にリュウジは指示する。年上であろうが呼び捨てだ。田中達也の突破力が生きる時は必ず来る。
スタンドの日本人サポーターが声を嗄《か》らして声援する。その彼方には、テレビの生中継を見ている何千万の日本人がいる。母もミサキも、ひょっとしたらこのスタジアムにいるかもしれない父も、日本がグループリーグを突破できるかどうかの瀬戸際を、固唾《かたず》を呑んで見つめているはずだ。
リュウジは背負った日の丸の重みを、この日初めて実感した。
スタンドからはギリシャ人の脅迫的な喚声。ピッチのみんなはこのままゲームを終えたいと思っている。リュウジは時計を見る。あと二十分。攻め続けたいという欲求に、「カウンターのカウンターを狙われたら……」という危険信号が瞬く。無理はせず、無失点でゲームを終えることが最重要課題に思えてきた。
敵は攻撃のカードを切ってくる。イキの良さそうな攻撃的中盤の選手が二人送り込まれた。前線は活性化するに違いない。
これが「苦しい時の神頼み」なのか。リュウジはベンチを見る。吼え続けているクズ兄ィの横で、平義は優雅な姿勢で座っている。今、二度三度と監督は頷かなかったか?
「このままでいい、このままゲームを終えろ」という意味の頷きに見えた。
好機が訪れた。DF二枚を残して前がかりになっている敵の中盤同士で交換されるパスに、リュウジは突っ込んで行くと、それに戸惑った相手がトラップミス、ボールを奪えた。
行ける。大久保と田中達也が交差してマークを振り切り、DF二枚を慌てさせる。リュウジの目の前には大きなスペースが生まれていた。
ドリブルのスピードを上げようとした時、さっきピッチに入った敵の中盤16番が、猛然と視界の左隅から迫ってくるのが見えた。交代要員でエネルギーが充満している選手だった。追いつかれる恐怖を感じた。早く前線へパスを出すべきだと思った。大久保が右サイドのスペースにいるが、DFの一人がパスカットを狙っている。田中達也が逆サイドにいるが、そこへの長いパスも読まれているような気がする。彼に渡っても、よほどいいファーストコントロールをしないと、DFをかわせそうにない。
センターサークルを越えたあたりに梶がフリーでいるのが見えた。横パスで一旦梶に預け、斜め背後から迫る敵の中盤16番を振り切って突っ走り、右サイド深くで梶のリターンパスを受けるのが最も安全のような気がした。
リュウジはセーフティの道を選んだ。選んでしまった。横パスを出した時、梶の目が点になったような気がした。お前がそれをするのかと意外そうな表情が、リュウジのプライドに爪を立てる。
後悔が直後に待っていた。リュウジはもっと速いボールを出すべきだった。もう一人の交代要員でエネルギーのあり余っている敵の中盤14番がするすると梶に迫っていた。リュウジの横パスはそいつにカットされた。
日本の中盤の選手にブレーキがかかった。リュウジがボールを持った時点で、攻め上がることを確信して前がかりの姿勢になっていた彼らは、完全に逆を突かれた。
最も恐れていた「カウンターのカウンター」だった。
田中誠、茂庭、闘莉王の3バックも慌てて自陣を固める。背筋が凍りつくような予感にリュウジは襲われる。このミスを何とか取り返さなければと自陣に戻る。敵の中盤14番からあれよあれよという間にダイレクトパスをつながれる。右ストッパーの闘莉王がかわされた。懸命の形相で猛チャージする鈴木啓太が肘打ちで倒されるが笛は鳴らない。誰か止めてくれ。リュウジは他力本願になってしまう。
敵のFW11番が最後の壁であるリベロの田中誠と一対一になった。シュートコースを消したはずが、インステップで強烈に放たれたシュートが田中誠の胯間を抜いてゴール右隅に決まった。
後半二十八分、ギリシャ先制点。地鳴りと共にスタンドの歓喜が爆発する。
俺のパスミスで……。
リュウジは頭の中が真っ白になる。敵の歓喜と抱擁を呆然と見つめていた。前線の大久保が腕を広げて叫んでいる。どうして俺に出さなかった。田中達也も地面を蹴りつけて、リュウジを睨み付けている。どうして俺にくれなかった。
信じることができなかったんだ、お前たちを。
空白の頭から自虐の言葉が洩れてくる。
誰かが「行くぞ、リュウジ」と言った。振り返ると、声の主は梶だった。
リュウジの目を見据えて、ポンポンッと二度手を打つ。
ベンチを振り返ってしまう。監督はいつもの無表情のまま動かない。隣でクズ兄ィが「下を向くな、まだ時間がある」という仕種《しぐさ》を繰り返している。リュウジはアップしている選手たちを見る。俺を交代させるとしたら、誰か。
「見るな」
梶が言う。リュウジは我に返る。まだ十五分以上ある。リュウジは内なる龍を呼び寄せようとする。
炎を放って、とぐろを巻き、リュウジの内側から現れる生き物がいるはずだ。
どこにもそんなものは見つからない。
日本のキックオフ。リュウジは猛然とボールを追う。敵のパスコースを刈り取るように足を繰り出し、ボールを奪取した。ドリブルでつっかけるが、五メートルも進まないうちに敵に囲まれ、小突き回され倒される。闘争心は空転する。
ギリシャは虎の子の1点を守りきろうとはしない。国民性だろうか、監督の采配だろうか、ゲームを支配することが最大の防御と考える。
日本にとっては引いてこないことは好都合だった。相変わらず、ギリシャは攻める時にDFは二人になる。リュウジは空回りするエンジンに冷却水を注ぎ込む。
落ち着け。
落ち着いて周りを見ろ。
敵陣につっかけたい衝動を抑え、中盤の底に戻って守備に奔走する。視界の遠くに田中達也。リュウジの指示を守って、前線に張っている。
時間が刻々と過ぎる。残り五分になれば、さすがのギリシャも引いてくるだろう。そうなるとカウンターのチャンスはなくなる。
ベンチの監督が立ち上がったのが見えた。アップの様子を見に行っているクズ兄ィに何か指示をした。誰を呼ぶのか。
俺だ。俺が代えられる。
ところがクズ兄ィはそのままアップ中の選手を残し、ベンチに引き上げてくる。クズ兄ィは平義の横に座って、二度と立ち上がる気配はない。それはすなわち、ゲームは今ピッチにいる者にまかせた、という監督の無言のメッセージだった。
俺たちでやるしかない。
リュウジは高まるものを感じた。慎重に敵のパス回しへと忍び寄っていく。かわされる。かわされる。それでもパスコースにナイフの切っ先のように突っ込んでいく。梶も寄ってきて、二人で囲い込もうとする。厳しい中盤のチェックに、ギリシャは苛立つ。それでも前へ前へとボールを出す。敵のこの闘争心にはいつか隙ができる。
残り五分を切った。
ゴール前で茂庭を背負っていた敵のFW11番が振り向きざま、強引にシュートを放った。曽ケ端が正面でキャッチしようとしたが、ボールの強さにファンブルした。それを敵に拾われる。子供の「団子サッカー」を思わすような混戦地帯からシュート。曽ケ端は右足一本で止めた。また拾われた。波状攻撃だ。追加点を入れられたら最後だ。
クリアボールを鈴木啓太が拾う一瞬後の光景がイメージできた時、リュウジはすかさず走り出した。鈴木啓太が自分にくれることを信じて、何も考えずに中盤の広大なスペースを目指した。
と同時に、ぶれる視界の端、リュウジの動きと連動して、小柄な身体で前線のマークを外そうとする田中達也の動きを見た。
キックの音を聞いた。鈴木啓太から放たれたボールが背後からリュウジの足元に入った。ボールをやり過ごして、自分のトップスピードにそれを乗せた。一人立ちはだかっていた敵の中盤を小気味いいフェイントでかわした。タツヤはどこだ。ペナルティエリアの左隅のあたりに近づこうとしている薄いグレーのユニフォームが見えた。リュウジはやや右足のアウトにかけ、シュート回転するロングパスを蹴った。敵のDFがパスコースにいたが、カーブするその弾道に逆を突かれてバランスを崩した。
内側に走り込んでいた田中達也に通った!
ファーストタッチでボールを足元に収めた田中達也は、追いすがるDFを振り切ろうとする。倒されるな。倒されてもあの主審はファウルを宣告しないだろう。
リュウジは一直線にゴールめがけて走っている。大久保もやや遅れて走ってくるのが視界の端に見えた。
もう一人のDFが、猛然と駆けてくるリュウジをケアしなければ、という動きを見せた。それがリュウジの狙いだった。田中達也は今、対面しているDF一枚だけを相手にすればいい。
行かせまいとする敵DFが田中達也のユニフォームの端を掴んだ。薄いグレーが伸びきる。田中達也はのけぞってしまうが、何とか振り払った。あとはゴール目指して一直線だった。キーパーが迫ってくる。ループシュートが安全そうだったが、キーパーは前半に同じ局面を経験しているため、無闇に前には出て来ない。田中達也は冷静にファーサイドのポストめがけて右足インサイドで流し込もうとした。
抜けた! と思ったが、キーパーがかろうじて出した左足にボールが当たり、宙を浮き、ゆるやかな弧を描いた。
入れ。入ってくれ。
またしてもリュウジの願い虚《むな》しく、ボールはバーを叩いた。またこの不運かとスタンドのジャパンブルーは天を仰いだことだろう。
が、それでは終わらなかった。ボールが跳ね返ってくることをひたすら信じる者がいた。リュウジではなく、リュウジより後に走り込んできた大久保だった。ボールが思ったより強かったのが幸いし、バーを叩いてから勢いよく跳ね返ってきた。クリアしようとした敵DFは空振りした。無人の空間に浮き球。すでに大久保はマークしている敵DFと共にペナルティエリアに入り込んでいた。浮遊するボールめがけて敵のDF二人とGKと大久保が殺到する。
大久保は身体を寝かせて飛び込んだ。右足のボレー。確実なインパクトだけを心がけて、無駄な力を抜き、右足の甲にボールを当てた。ボールは放たれた。
ネットが揺れる。何度見ても素晴らしい風景。白く波立つネットに、絡みつくボール。日本をグループリーグ突破に導く同点弾だった。
この静寂。ギリシャ人の愕然だ。いや、日本人サポーターが大騒ぎをしている。
地面に転がった大久保はすぐに立ち上がり、神に感謝するかのように天を仰ぎ、ユニフォームを脱いでピッチを旋回した。やがて駆け寄る味方選手でもみくちゃになる。リュウジもその輪に飛び込んでいった。このカウンター攻撃の起点となったリュウジも手荒い祝福を受ける。
敵はいまいましい顔つきで、ボールをすぐ拾いだしてセンターサークルに置く。
リュウジはできるだけ時計を進めようと、たっぷりと時間をかけて喜ぶ。主審が不機嫌な表情で、早く戻るようにとリュウジたちに言う。
ベンチを見る。跳ね回っているコーチや控えの選手たちの外で、平義は一人だけ超然と構えていた。
嬉しくないのか。監督がクズ兄ィをベンチに戻した。だから俺たちは「自分たちで打開しなければ」と思った。監督の沈黙の成果だ。一緒に喜んでくれないのか。
自陣に戻り、敵のキックオフを迎える頃には歓喜を閉じ込める。まだゲームは続いている。残り三分をしのがなければならない。
肉弾戦になった。がむしゃらに敵は突っ込んでくる。主審は日本の選手が倒れてもなかなか笛を吹いてくれない。
ロスタイム表示が出た。六分! どんな計算をするとそんな数字が出るのだ。
平義は表示を見るとすぐに立ち上がった。このゲームにおいて、監督は初めて機敏な動きを見せた。ベンチにいるDFの那須大亮を呼び寄せた。時間稼ぎも含んだ選手交代だ。ディフェンダーもボランチもこなすユーティリティプレイヤーの那須は急いでジャージを脱ぎ、スネ当てをストッキングの中に入れる。平義は那須にポジション取りとマークする選手について簡潔に指示をする。
のろのろとピッチを引き上げる根本に、主審が「早く出て行け」と促す。那須が入れ代わりにピッチに入ってくる。下がりめの位置につき、日本は4バックに近い形となる。引き分け狙いの意志はピッチ上でも統一された。
ただしリュウジは「タツヤ、そこにいていい!」と叫ぶ。田中達也の突破力を目の当たりにした敵DFは、やたらと攻め上がることができないはずだ。
六分が永遠のように感じられた。
田中達也を敵陣に残し、日本の選手たちは自陣に引いて守る。ギリシャはなかなかペナルティエリアに入ることができずに焦り、自分に苛立ち、味方選手にも怒り、ラフプレーになる。
リュウジはボールを奪った時に、激しいスライディングを食らう。怪我にならないよう、ひらりとかわし、自分の身体に少し触れさせてファウルを誘い、芝に倒れた。大袈裟に痛がって時計を進めた。ギリシャの選手が「小僧、早く立て」とでも言ったのか、リュウジを無理やり立たせようと腕を取る。リュウジは「本当に痛いんだよ、放せ」とスペイン語で言い返して、巧みな演技でのろのろと立ち上がる。スペイン仕込みの小賢しい時間稼ぎだった。
主審はいつ時計を見るのか。いつ笛を吹くのか。クズ兄ィが審判に「時計を見てみろ、もう六分を過ぎているぞ!」とアピールしている。
さっきまで左足を引きずって痛がっていたリュウジは、こちらの右サイドをえぐられると、しつこくチェイスする。ボールを奪うと、自陣深くでボールを足元に収めたまま、コーナーあたりでボールをキープしようとする。フラッグが揺れる。敵が二人がかりで奪おうとする。肘が当たる。ふくらはぎを蹴られる。ギリシャ人の獣じみた肉体に小突き回される。ボールを独り占めにした後、巧みに敵にボールを当ててゴールキックに逃れた。ギリシャの選手はリュウジを噛み殺さんばかりの顔つきだ。
あと一分ぐらいか?
あと三十秒かそこらか?
曽ケ端が滞空時間の長いゴールキックを放った時、ホイッスルが三度鳴った。
1対1。日本とギリシャは勝ち点が4ながら、得失点差1で日本がグループリーグを二位で通過した瞬間だった。
怒りの発煙筒が焚かれ、暴動が起きそうなスタンドだった。スタジアムのスタッフたちが早くピッチから逃げるように言う。クズ兄ィが「戻ってこい!」とピッチの十一人に叫ぶ。スタンドからフィールドに飛び下りてくる人間が見えた。警備員とサポーターが小競り合いを演じ、走ってピッチを出るリュウジたちにキラキラするものが飛んでくる。硬貨はもちろん祝福の「おひねり」なんかではない。
ロッカールームでは、選手たちの握手とハイタッチが続いている。
日本サッカー協会の「背広組」の人たちが、ヤンチャ坊主を見守るような表情で、拍手をしつつ、遠巻きにして見ている。決勝トーナメント進出を祝して、ミネラルウォーターの掛け合いになるとでも思っているのかもしれない。
リュウジたちにとっては、グループリーグを突破したぐらいでは大騒ぎはしない。決勝トーナメント進出は最低限の使命だと思っている。
「とりあえずよかった」
「でも、次だよ次」
そんな声が着替え中の選手たちから聞こえ、クズ兄ィが「ここで満足するな」と、潰れた声を張り上げる。
平義監督はゲーム後の記者会見で、ロッカールームにはいない。
「リュウジ、一人で試合を盛り上げていたな」
梶がやや皮肉をこめて言う。リュウジのパスミスから失点し、リュウジが起点となったゴールで決着がついた。「負けなくってよかった」というのがリュウジの本音だった。
他会場の結果が入ってきた。C組二位となった日本が準々決勝でぶつかるのは、D組一位のスペインと決まった。
下馬評では、スペインはブラジルと並ぶ金メダル候補である。
ヴィクトル・ロペスとの戦いが待っている。ホアキンやアルスといったベティスのチームメイトともしのぎを削らなくてはならない。
リュウジは震えに似た闘志を、すでに胸の奥に溜め込んだ。
着替えを終えてアテネのホテルに帰ろうとする時になって、会場スタッフに制止された。
今スタジアムを出ると危ないと言う。
耳を澄ませば、野太く、異様な熱を帯びた声が自分たちを建物の外で包囲しているのが分かった。
怒り狂うギリシャ人サポーターが通用門に陣取り、警官隊と小競り合いを演じているらしい。彼らは日本のチームだけでなく、「開催国のグループリーグ突破」というノルマも果たせなかったギリシャのチームにも怒りをぶつけたいのか、両チームの選手がそれぞれのロッカールームで足止めを食らうことになった。
その夜、リュウジたちは早く体を休めたいのに、二時間近くスタジアムに監禁された。
日本人サポーターたちもひと塊にされ、警官の護衛付きで街に帰るという。それはまるで、サンチェス・ピスフアンでのセビリア・ダービーに勝ったベティス・サポーターの受難、といったところだが、ナショナリズムという厄介なスパイスがかかっている分だけ、鎮《しず》まるまで時間がかかりそうだった。あとはギリシャ人の「熱しやすく冷めやすい」性格をアテにするしかない。
ギリシャ人の怒号や銃声にも似た爆竹の破裂音は、港町ピラエウスで一晩中続き、サッカーの勝利が命の危険につながることを、カライスカキ・スタジアムに閉じ込められた日本人の誰もが身をもって知った。
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*
六本木のロアビル近くに、ギリシャ人が集まるスポーツバーがあると聞いた。
深夜二時から明け方にかけて、時任礼作は敵国の人いきれが充満する店内の二十型の液晶テレビで、グループリーグ最終戦を見た。
言わばアウェーでの観戦で、快適な空間とは言えなかったが、それも仕事のうちだった。
後半二十八分、リュウジのパスミスからボールを奪われ、ギリシャのダイレクトパスによって日本のDF陣が崩され、田中誠と一対一になった敵FW11番が胯間を抜いてゴールを決めた時、ギリシャ産のオリーブオイルの匂いとギリシャ人の体臭があいまった店内は、雑居ビル全体を震わすような大歓声に包まれた。
日本人はカウンターの隅っこにいた礼作と、ギリシャ人男性と結婚しているらしき長い黒髪の女性、二人だけだった。歓喜のギリシャ語が炸裂《さくれつ》した時、女性の隣で寝ていた三歳ぐらいの混血の少女が、何が起こったのかと弾かれたように起き上がった。
それからは祭りだった。ギリシャ寄りの主審の判定に、客たちは拍手喝采を送る。礼作はサッカーに関心のない酔っぱらいを演じ、ゲームを淡々と見届けるしかなかった。
日本在住のギリシャ人が、「開催国であるわが国のグループリーグ突破」を故郷から離れた地でどう応援するのか、という原稿用紙二枚ほどの短いルポを新聞社系の週刊誌から頼まれた。ギリシャに行っていれば目の前のゲームに没頭できただろう。ちょうどペナントレースの折り返し地点にきたプロ野球の総力取材を頼まれ、日本を離れられないという事情もあった。
いや、そんな仕事など断ることはできたはず。顔見知りのサッカー担当記者が集まるアテネに飛び込むのは、リュウジに迷惑をかけるような気がしてならなかったのだ。
ベティスのスーパーサブであり、現在のオリンピック日本代表のキーマンであるリュウジには、時任礼作という別れて暮らす父親がいる。リュウジが中学生の時に両親が離婚、スポーツライターである父親はいつも息子のゲームを陰ながら見守っている。アテネのスタンドにも父親の姿があった……。
リュウジと自分の関係が知れわたるのは時間の問題だったし、女性誌あたりに何やら美談めいた記事に仕立てられる恐れがあった。
──お父さんのルポをよく読んで、監督との接し方の参考にしたのでは?
──お父さんはギリシャに来ているようですよ。自由時間にでも会いに行きますか?
練習場からバスに戻るリュウジに、無遠慮な質問が飛ぶかもしれない。
リュウジにその種の雑音を聞かせたくなくて、礼作は時差六時間の東京でリュウジのプレーを見ることにした。
ゲームが残り五分を切ったあたりで、日本に絶好のカウンターのチャンスが訪れた。それまでギリシャはもう一点決めようと果敢に攻め上がっていて、スポーツバーの連中の応援も「イケイケ」状態だった。この熱すぎる血が、すなわち彼らの弱点だった。
ゴール前の混戦状態から、クリアボールが鈴木啓太からリュウジへと渡った。礼作はカウンターで拳を握りしめた。リュウジから田中達也へと正確なロングパス。危険を察知した客たちが悲鳴をあげる。敵DFを充分に引きつけた田中達也がシュート。礼作の尻は椅子から浮いた。またしてもボールはバーを叩いたが、長駆、ゴールに突進してきた大久保が跳ね返ったボールを右足のボレーで決めた。
リュウジが攻撃の起点となって、同点ゴールに結びついた。礼作は声帯を開放して雄叫びを上げたかったが、少しでも喜色を見せようものなら、周りのギリシャ人に食い殺されてしまうだろう。
リュウジが敵のチャージを受けて倒れ、たっぷりと時間稼ぎをする。
それでいい、リュウジ、まだ倒れていろ。
店の客たちはブーイングの嵐だ。「今、芝生の上で小芝居を演じているのは俺の息子なんだ」と告白したら、袋叩きだろう。
ロスタイム六分の表示。礼作はタイムアップの笛と共に店を退散するつもりでいたから、カウンターの中にいるギリシャ人のマスターに「おあいそ」と言う。テレビに夢中になっているマスターはビール三本分の代金を言い、礼作は釣り銭がないように千円札と小銭を置いた。
長い六分が過ぎて、主審が長い笛を三度吹き、実況アナウンサーが「ニッポン、二大会連続の決勝トーナメント進出です!」と嗄れた声で絶叫すると、礼作は敵地を突破するように店を横断し、呆然とテレビを見上げている客、悔し涙を目に溜めている客、悪態の限りをつく客たちの間をすり抜け、熱帯夜の屋外へと飛び出した。
あちこちのスポーツバーから飛び出してきたジャパンブルーの若者たちが、酒瓶を手に大騒ぎをしている。ビールがけの飛沫《しぶき》が、歩道を行く礼作にも飛んできた。麻布警察の巡査たちがそろそろ街へと散る頃だろう。
地下鉄日比谷線の始発の時間には、まだ一時間ほどある。
昇降口の近くの路傍に腰掛け、礼作は一服する。リュウジはミスを充分に取り返した。鈴木啓太のクリアボールをいい場所で拾うことができたのは、天性の予知能力といっていい。礼作は誇らしかった。自分の血を受け継いだ子供が、大陸の彼方で世界の注目を浴び、自分らしさを存分に見せつける。
息子は素晴らしい人生を得ている。
「次の相手はスペインだ……リュウジ」
ギリシャ対日本より早く終わった試合で、スペインが先に決勝トーナメント進出を決めている。
「監督は、お前をもっと必要とするはずだ」
煙まじりの独り言を吐く。
同じポジションの石川直宏が戻ってくるかもしれないが、リーガ・エスパニョーラでスペインの選手と多く戦っているリュウジを、平義監督は必ずスタメンで使ってくるだろう。
父親に何ができる……。
死力を尽くす息子のために、何がしてやれるのか……。
草加の家に、四年前に平義をインタビューした時の記事を送ってやった。リュウジには理解が難しいタイプの監督であることは分かっていたから、少しでも「監督の人間解明」に役立てば、と思った。
だが、礼作自身、一時間ほどのインタビューでは平義の実像に辿り着くことはできなかった。
理論派と呼ばれる監督にも、スポーツ選手としての熱い血は流れているはずだが、平義のポーカーフェイスからはその手掛かりさえ掴むことができなかった。もどかしい仕事だったことを今でも思い出す。
たとえ今大会には間に合わなくても、リュウジに届けられるものはあるような気がした。グループリーグ突破に導いた平義は、おそらく、A代表の監督に最も近い男となるだろう。リュウジが順調に成長してくれたら、平義とは十年以上の付き合いになるかもしれない。
礼作は路傍の敷石から立ち上がる。まだ地下鉄は走っていないと思い直してまた腰を下ろす。居ても立ってもいられない気分になってきた。
リュウジがオリンピック代表に招集されたと知った時、父親としての嬉しさが半分、あとの半分は「リュウジは何のために平義の組織サッカーに放り込まれるのか」という不安感だった。
攻撃のオプションとして、ベティスがスーパーサブとしてリュウジを使うような形で起用するなら、ベンチのメンバーに入れる意味は大いにある。だが、ゲームをリュウジに託して九十分使いこなそうとした時から、平義が目指すサッカーとの食い違いが生じてくる。リュウジが中盤の攻撃的ポジションを駆ければ駆けるほど、平義は自分が理想とするサッカーを手放すことになるのだ。
スペイン戦で勝つにしても負けるにしても、その先に平義との確執が待っている。
リュウジのために平義を知りたいと思った。
最初の目的地はすぐに定まった。地下鉄から私鉄に乗り継いで一時間ほどの場所だ。赤羽のアパートに戻って仮眠を取ることもできるが、スポーツバーでギリシャ戦の興奮を抑え続けてきた反動で、目は冴え冴えとしていた。
溜池方面の空が白み始め、野放図な若者を捕まえようとしているのか、警察官の呼び子の音が六本木交差点界隈に飛び交っている。
池袋から黄色い私鉄電車に乗って、二十五分ほど行った駅で下りる。
昨日の朝から着替えていないアロハシャツは汗を吸うだけ吸って、自分でも匂いが気になった。
中学校の関係者に会って話を聞くことにもなるかもしれない。まだ朝七時なので、二十四時間営業のファミレスでモーニング・セットを注文し、時間を潰した。開店したばかりの大型スーパーに入り、千円でお釣りのくるポロシャツを買う。
道の途中に児童公園があったので、着替え、アロハはゴミかごに放り込んできた。サイズはXLなので、腹の脂肪太りも覆い隠してくれる。
蝉《せみ》時雨《しぐれ》の中を徒歩で十五分、砂塵の舞う校庭に辿り着いた。
平義楯夫の出身中学だった。これまで公開されているプロフィールによると、平義は小学校五年生でサッカーボールを蹴り始めたが、部活動でサッカーを選んだのは中学からだという。
彼の原点の地といっていい。
広い校庭を野球部と分けて使うというよく見る光景だが、野球部は内野の守備練習だけで、サッカー部が幅をきかしている。校舎の窓から下がっている垂れ幕を見れば、両者の力関係の差はしごく当然に思えてくる。
『祝・平義ジャパン!』
平義の出身校としての誇りだった。
夏休みで校門は開放されている。朝から野球部員の父兄らしき人影もちらほら見える。礼作より若い父親たちだった。
ぐんぐんと気温が上昇する校庭で、サッカー部員たちが二色のビブスを付けて走り回っている。水分補給を怠らずゲーム形式の練習をしているが、中学サッカーのレベルとしてはさほど高くないチームであることが、練習を五分ほど見て分かった。
小学生のリュウジが加わったとしても、あの守備陣なら五人抜きができるだろう。
サッカーの練習を見守る大人は、他には誰もいない。
……いや、いた。
時折吹いてくる風で校庭の砂が渦を巻く。黄色い砂塵で保護色になっていたのだろう、黄色い服の人影がグラウンドの反対側に立っていた。
女性だった。年齢は四十すぎ。夏服から痩せた腕が伸びている。カールのかかった髪は豊かだが、色白の、骨張った顔つきだった。吹きつける砂塵に顔をそむける。人にやや神経質な印象を与える美人だった。
トートバッグを肩から下げ、ハーフコートを走り回る部員たちを、熱心でもない、かといって無関心でもないという、どこか浮遊した眼差しで眺めている。
部員の母親だろうか……。
年恰好はそうだが、母性というものが少しも匂い立ってこない女だった。
礼作は今の監督にまず会って、三十年前、平義がサッカー部員だった頃をよく知る人を紹介してもらおうと考えている。見回しても監督の姿が見えないから、しばらく女の観察を続けた。
ボールが女の足元に転がっていく。
女はサンダル履きの右足の裏で正確に止めた。蹴る動作を一瞬見せたが、サンダルであることに気づいたらしく、トートバッグを地面に置いてからボールを手にした。
それからの動きを見て、礼作は思わず「ほう」と感嘆の声を上げた。
女はボール扱いに慣れた者のように、美しいスローインの動作から、駆けてくる子供の足元にちゃんとボールを落としたのだ。
サッカー経験者か……?
女は再び腕組みをして、ゲーム形式の練習をぼんやり眺めている。
校舎から監督らしき男が現れた。校章が胸についたTシャツを身につけている。おそらく体育教師だろう。
それまでだらだらとボールを追いかけていたFWの動きが、監督を見るや、機敏になった。
日焼けした肉体労働者のような監督は、女の姿を目に留め、白い帽子を脱いでお辞儀をした。女も腰を折って挨拶をした。マネージャーらしきジャージ姿の女の子が、テントの日陰に積まれた清涼飲料水の箱を指さし、監督に何事か言う。
監督はさらに相好を崩し、女に何度も頭を下げた。
「いつも差し入れをありがとうございます」……とでも言ったのだろうか。
部員の母親ではないが、サッカー部と関わりの深い女なのだ。
その時、上空で巻いた風が、校舎の垂れ幕をはためかせた。平義の名前が空中を踊っている。
ひょっとしたら……。
平義の自宅は確か、この中学校から徒歩圏内にある。
サンダル履きの女は、「買い物がてら、ちょっと立ち寄った」という風情だ。
監督は女と話し込んでいる。隣のマネージャーの子も、何やら興奮した口調で喋っている。女は如才ない笑みを浮かべる。
昨夜のギリシャ戦を話題にしているのではないか……?
女は会話が途切れるのを待って、腕時計を見る。「お邪魔しました」と監督に告げたようだ。監督もマネージャーも、練習途中の部員たちも、まるで国賓を見送るような態度で、「ごちそうさまです」「ありがとうございます」と高らかな声を発する。
女は礼作のいる校門の方ではなく、校舎の向こう側にあるらしい通用門を目指し、歩いていく。
礼作の足が無意識のうちに動き出す。監督に会うのは後回しだ。女の素性を確かめなければ気が済まなくなった。
校庭を突っ切ることもできたが、不審者に思われたらこれからの取材に支障をきたす。礼作は踵《きびす》を返して校門を出て、外の金網沿いを走り、敷地の向こう側を目指した。
炎天下の全力疾走だった。通用門を出た女を見失ってはならない。脂肪を蓄えた腹がゆさゆさ揺れ、新しいポロシャツがまた汗を吸う。すぐに喘《あえ》ぎ始める。両足が棒になる。ご多分に洩れず、運動不足の肉体だった。
ふたつのコーナーを曲がり、通用門が見えたと思ったら、黄色い人影が視界の真ん中に飛び込んできた。女は自動販売機で煙草を買っていて、取り出し口に身をかがめているところだった。
礼作は走るのをやめ、息を鎮め、道の反対側を歩いて、女をやり過ごそうとする。
女はセーラム・ライトを取り出してトートバッグに放り込み、礼作と距離を置いてすれ違い、道を歩きだした。
ガラスのような神経を持つ女。
そんな表現がぴったりの女だった。色白の頬に、繊細な神経の一本一本が透けて見えるようだった。
精神的に不安定な女性、という噂と合致する。
礼作はしばらく歩いた後、くるりと振り返り、女の背中を二十メートルほど前に捉え、尾行者の足どりになった。
女の背中を見つめ続けることで何が判明するのか分からない。とにかく彼女が平義家の門をくぐる姿を確認したかった。
校庭の、声がわりした少年たちの声が遠ざかる。
運動部の夏練習とは無縁の中学生たちが、コンビニの前でしゃがみこみ、夏休みの小さな悪企みをしている。
このあたりの雑木林には輝かしい獲物が生息しているのか、虫取り網とカゴをもった小学生が女の横を通りすぎ、礼作の横を通りすぎる。甘い匂いがした。子供の口の周りはチョコアイスで汚れていた。幼稚園児のリュウジも口の周りをベタベタにしていて、礼作は舌でぺろりと舐めてやったことを思い出した。胸に疼痛を与える、家庭ありし日の記憶だった。
一定の歩調で歩く女は、家路につくというより、何かのゴールを目指しているようにも見える。
それが、乱れた。
左足がかくんとなり、捻挫してもおかしくないほど足首が曲がった。女は異変の原因が咄嗟には分からない。足元に手を伸ばして、サンダルを脱いだ。顔の前にかざし、踵《かかと》が折れたことに気づく。
礼作は回り込むように近寄り、女の表情を少しでも見ようとする。
斜め後ろからの横顔。ふーっと大きく息をついたのが分かった。片足が裸足《はだし》のまま再び歩き始めるが、サンダルの踵は高めだったため、右足との高低差がついてしまい、斜めにかしいだ変な歩き方になってしまう。
女は決心し、右足のサンダルも脱ぎ、裸足で歩き始めた。
ひたひたと音が聞こえてくるようだ。焼けたアスファルトで火傷をしないだろうかと、礼作は心配になってしまう。
ブランドもののサンダルなのかもしれない。道端にゴミかごがあったが、捨てることはせず、トートバッグにしまった。
女の歩調が早くなる。やはり地面が熱いのだ。靴屋はないかと、礼作も道の先を遠望する。
黄色い私鉄が通りすぎた。線路沿いを歩いていた。やがて、さっき礼作がポロシャツを購入した駅前の大型スーパーが見えてきた。
まず、そこでサンダルを買うべきだ。女はその通りの行動を見せる。スーパーから出てきた中年女が、裸足で歩いている彼女を怪訝《けげん》そうに見やるが、彼女は平然と自動ドアをくぐった。
礼作もくぐる。過剰なほどのエアコンの冷気が、額の汗を吹き払う。
女は売り場の奥へと狙いを定めていて、ぴたぴたと音をたてて通路を突っ切る。
日用雑貨のコーナー。中国あたりで大量生産されたサンダルが大きなカゴに山盛りにされている。女は服とのコーディネートを考えたのか、水色で低い踵のものを選んだ。
値札が付いたものをその場で履く。問題は解決し、買い物カゴをひとつ取り上げて、夕飯の買い物を始めるようだ。
豚肉の特売が行われている。小さなパックを手にしたのは、夫が海外に単身赴任をしていて、一人分の夕飯を作る日々だからだろう。
肉のパックを戻した。今度は鮮魚コーナーを眺めるが、手に取る様子はない。冷凍食品もしかり。出来合いの惣菜のコーナーしかり。食生活への熱意が微塵《みじん》も感じられない主婦の姿だった。サンダルだけはしっかり足に馴染んで、結局、売り場をぐるりと回って、出口を目指すようだ。
カゴを戻した。レジの横を通り抜けた。
「おいおい……」
礼作は声をかけたくなる。履いているサンダルだ。それがレジを通っていない。
礼作は別の方角からの視線を感じた。スーパーの制服は来ていないが、涼しげなポロシャツ姿で、目つきの鋭い角刈りの男性がいる。女の姿を目で追っていた。
保安員だ。万引き取り締まりの網に、女は引っかかってしまった。虚ろな女の横顔が、保安員の注意を引いたのかもしれない。
彼女がそのまま自動ドアをくぐって外に出たら、背後に忍び寄り、「支払いがまだですよ」と声をかけ、いくら彼女が「不注意でした」と平謝りに謝っても、奥の部屋に連れ込まれるのだ。
『オリンピック日本代表を決勝トーナメントに導いた監督の妻が、スーパーで万引き』
三流雑誌の見出しが思い浮かんだ。あの保安員が小遣い欲しさに、週刊誌にネタを売るかもしれない。
礼作は運動不足の体を、また駆り立てる。滑りそうなリノリウムの床を走り、彼女に照準を定めている保安員の横を疾風の如く通りすぎ、女の背中に迫る。自動ドアが開いて、三十度を超えた外気によって不快な熱を与えられた瞬間、女の正面に回り込み、言った。
「支払いが、済んでませんよ」
女はえっという顔になる。色白で骨張った、やはり病的に見える顔が萎縮した。
礼作は足元を見下ろす。女は値札のついたサンダルに気づき、「あっ」と声を発した。
「……すみません。忘れていました」
「いいんです。私はスーパーの者ではありませんから」
女はきょとんとした顔になる。
「裸足で入ってこられて、サンダルを買って、そのまま出て行こうとするのを見かけたもので……」
しどろもどろになってしまう。
女はとにかくレジに戻り、支払いを済ませる。保安員らしき男性は、何事もなかったように売り場の向こうへ歩き始め、再び万引き狩りに努めるようだ。
図らずも女と接触してしまった。こうなったら一歩、これをきっかけにして女の内側に踏み込んでみようか。スーパー前の広場で所在なげに立っていると、支払いを済ませた女が軽やかに出てきた。
礼作に薄い笑顔を向けた。
帰る方向が同じだった。改札は線路の向こうにあって、踏み切りがなかなか開かないのは、礼作にはありがたい。
「お礼がしたいんですけど」
「なら、旦那さんについて語って下さい」
礼作はそう言いたい衝動にかられたが、「いえ、お気遣いなく」と答える。さりげない出逢いで別れることもできたが、スーパーだけの接点では後が続かない。こんなことを言ったら彼女は警戒するだろうかと思いながら、
「実は中学の校庭でお見かけしました」
賽《さい》を振ってみた。「子供たちの練習は見ていて飽きなかったけど、この暑さですからね」
「炎天下でサッカーの練習は、大変だと思います」
「そろそろ帰ろうと思った時、あなたも裏から出て行かれたのが見えました」
帰り道が一緒になり、スーパーにも一緒に入ってしまった。すぐに綻《ほころ》びが出そうな言い訳だった。
「何もお買いにならなかったんですね」
と訊かれ、綻びが出た。礼作は手ぶらだった。
「ちょっと涼みたくて、入っただけです」
「あの中学の出身ですか?」
「ええ、もう三十年以上になりますが」
よくそんな嘘がつける。
「なら、わたしと同級生かしら」
「何年卒業ですか?」
「ええと、一九七四年、かしら」
四十五歳。平義と彼女は同じ中学の出身だったのか。
「僕の方が三年上です」
本当はひとつ年上なのだが、当時の学校の話をされたらボロが出るので、もう少し距離を置く。
「黒川先生っていらっしゃいましたか? 生活指導の、とても怖い先生」
「いましたっけ……当時のことはあまり覚えてないんです」
「覚えてないけど、中学時代が時々懐かしくなって、つい校庭を覗いてしまう?」
嘘の上塗りを、彼女が手伝ってくれる。
「そうなんです。今日は仕事で近くまで来ていたので……」
平義の妻は対人恐怖症ではないか、鬱病《うつびよう》ではないか、という噂があった。確かにふわふわと漂うような眼差しを時折見せるが、言葉は淀みなく出てくる。実は喋り好き、というタイプにさえ感じる。
今日は調子がいいのか。抗鬱剤が効いているのか。あるいは、平義ジャパンのグループリーグ突破で気分が浮き立っているせいか。
踏み切りが開いた。もう少し「開かずの踏み切り」でもよかったのにと、礼作は恨めしくなる。
線路を渡ると駅の入口はすぐだった。
「助けていただいてありがとうございます」
「助けたなんて。ちょっと声をかけただけです」
「あのまま外に出ていたら、きっと万引き扱いされて……大変なことになってました」
夫に迷惑がかかることを何よりも恐れている。ほっと安堵の溜め息を洩らしてから、礼作を探るように見た。
「中学にはまたいらっしゃいますか?」
ひょっとしたら、彼女はこの嘘に勘づいているのでは、と思った。
「いえ、たっぷり思い出巡りをしましたから」
「校庭ってこんなに狭かったのかしらって」
「そうですね。青春の記憶ってやつは広々してしまうものです。あの頃なんて、実はちっぽけな世界でくよくよ悩んでいただけなのに」
「それ、分かります」
駅の入口で、彼女も立ち止まってくれる。別れ時だった。
「じゃあ……」
「じゃあ……」
女はぺこりと頭を下げて、トートバッグを左肩から右肩に掛け直し、駅の北側へと歩いていく。
礼作は日陰に入り、切符売り場にゆっくり歩きながら、まだ履き慣れないサンダルをやや引きずるようにして家路につく女を、視界から完全に消えるまで見送った。
お互い名乗らなかったことに気づいた。
名乗るほどの出逢いではなかったのかもしれない。
赤羽のアパートに帰ると、すぐにクーラーをつけて部屋の暑気を追い払い、畳の上に置いたベッドに寝ころがる。
昨日から仮眠たった二時間という体調だが、眠気はどこかに置いてきたようで、すぐに起き上がる。仕事で鉱脈を見つけた時の、ぷつぷつと体中の細胞が弾けるような感覚だ。昔から知っているスポーツ雑誌のデスク担当が夏休みを取っていないことを祈り、電話を手にする。
平義の妻について、ありったけの情報を得ようとした。
「……じゃあ、やはり二人は同級生なのか」
「同い年の夫婦。奥さんも同じ学校かどうかは分からないが……あ、ちょっと待ってくれ」
デスク担当はキーボードを叩いてくれる。デスクトップに入っているのか、平義楯夫についてのデータを洗ってくれる。
「平義楯夫、真理子夫妻」
名前は真理子。
「やはり中学からの同級生らしい」
「中学から……ということは、高校も同じということか?」
「かもしれない」
平義の出身高校を確認した。横浜の進学校だった。高校サッカーでは一度、全国大会のベスト8まで昇ったことがある。平義が三年生で頭脳的なMFとして注目を浴びた一九七七年の大会だ。
「平義を取材しているのか」
「まあな」
「原稿は何枚ぐらいになる?」
「長くなるかもしれない」
「うちで引き受けるぞ」
オリンピック代表チームが帰国した時、最大のスタアは平義かもしれない。スポーツ雑誌にとっては旬のネタだ。
「真っ先に読んでもらうよ」
「取材費はもつから、領収書を取っておいてくれ」
かかるのは交通費程度だろう。
次のスペイン戦の翌日、勝っても負けても、彼女は高校のグラウンドに現れそうな気がする。根拠は何もない。日本に残された妻として、亭主が成功の階段を上がるにつれ、彼との距離を確かめたくなるのではないか。二人が共有していた時代を確かめようと……。
そうだ。
中学の校庭で見せた彼女の眼差しを、礼作はやっと、何となくだが解釈できた。
あれは、失ったものを取り戻そうと、無駄だと分かっていながら、青春という名のちっぽけな過去に旅した女の目だ。
平義楯夫も、真理子も、この三十年で何か大きなものをなくしている。
なくしたものの大きさと、平義が掴もうとしている成功は、同じ質量で測ることができるのかもしれない。
礼作は横浜市緑区の地図をベッドに広げ、平義夫婦の出身高校に赤い印をつけた。
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第二章 クォーターファイナル/vs.スペイン[#「第二章 クォーターファイナル/vs.スペイン」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
クレタ島には迷宮がある。
大神ゼウスの血を引くクレタのミノス王は、王位継承の時、海神ポセイドンに「私を王にしてくれたら雄牛を捧げる」という約束をしておきながら、いざ王位に就いてしまうと雄牛を生贄《いけにえ》にするのが惜しくなった。
怒ったポセイドンは王の妃が雄牛に恋するよう、心を狂わせてしまう。そして妃は牛頭人身の怪物ミノタウロスを産み落とした。
ミノス王はこの凶暴な怪物を恐れた。王宮に仕える建築家に命じ、クノッソスに迷宮を造らせ、その奥にミノタウロスを閉じ込めた。怪物は迷宮の中で成長し、時折迷い込んでくる人間を食らい、クレタの暗黒世界に君臨した。
戦争に負けたアテネは、クレタに七人の青年と七人の乙女をミノタウロスへの生贄として差し出すことになった。アテネの英雄テセウスは「私を生贄に加えて下さい」と、勇敢にも犠牲者のグループに加わり、怪物の棲むクノッソスにやってくる。テセウスは、「私こそアテネの王にふさわしい勇敢な者」と天下に示すため、この冒険に挑んだのだ。
ミノス王の娘アリアドネはこの英雄に恋をした。自分をアテネに連れ帰って結婚してくれることを条件に、敵国の英雄に力を貸すことになる。
問題は怪物を倒した後、いかにして迷宮から脱出するかだ。迷宮の建築家はアリアドネに言う。
「設計図は父君の命令で焼いてしまいましたし、あまりに複雑に造ってしまったものですから、私にも分からないのです」
「何とかならないの?」
「では糸玉を持ってお入りなさい。一端を出入り口に結んでおくのです」
その助言のおかげで、テセウスはミノタウロスを退治した後、迷宮から無事に脱出することができた。
しかしアリアドネの末路は悲惨だった。駆け落ちをしてまでテセウスを救ったのに、彼は逃避行の途中で訪れたナクソス島で、野蛮な男神ディオニュソスにアリアドネを売り渡してしまった……。
クレタ島のイラクリオン空港にはアテネから五十分ほどで到着する。
ところが日本選手団を迎える地元の人々に不穏な動きがあるらしく、機内で足止めとなった。
「おいおい、またかよ」
選手たちはうんざりだ。ギリシャのグループリーグ突破を阻んだ日本代表に、受難は続いている。
というわけで、ギリシャ在住のガイド・児島さんが時間潰しに、クレタ島にまつわる神話を話してくれた。
迷宮の一部が残るクノッソス宮殿は百年前に発掘されたが、復元作業があまりに度重なったため、どこまでが復元で、どこまでが本来の遺跡なのか、考古学者もさっぱり分からないという。どうやら地面の下が本来のもので、地面から上に見えるのはすべて作り物らしいと言われている。
「わがオリンピック日本代表も、怪物を退治して迷宮から脱出して下さい」
と、児島さんは締めくくった。怪物とは二日後、準々決勝で対戦するスペインのことだ。
スペインのマスコミは決勝トーナメント初戦の相手が日本に決まると、「これで金メダルに一歩近づいた」とホクホク顔だったろう。彼らにとって日本は、準決勝に駒を進める前に差し出された生贄、程度にしか映っていない。
「ただし、生贄の集団には志野リュウジが紛れ込んでいる。ベティスのスーパーサブに要注意」
おそらく「マルカ」紙あたりではそんな書かれ方をしているだろう。
ギリシャ戦を勝利で終えた前夜、暴徒化した敵サポーターにスタジアムを包囲されたため、ホテルに辿り着いたのは深夜〇時過ぎだった。朝六時には起床し、眠気|眼《まなこ》をこすって荷造りをし、警官隊に護衛された選手バスに乗り込んだ。ギリシャ人は宵っ張りで朝が遅い。彼らが起き出す前に次の試合地クレタ島に移動した方が賢明、ということで、早朝出発となった。
やっと飛行機から出ることができた。クレタ島の警察が安全路を作ってくれて、リュウジたちは人々の罵声を尻目にバスに乗り込み、空港を脱出する。
椰子の樹が街路を飾る目抜き通りで渋滞にぶつかる。アテネほどではないにしても、クレタ島も交通事情が悪い。のろのろ運転の車から吐き出されるガスが、眩しい陽光を鈍い色に変えている。
警備員が入口を固める宿舎に到着すると、荷ほどきもそこそこに、トレーニングウェアに着替えてロビー集合となった。どこへ行くにも物々しい護衛付きで、バスで十五分ほどの場所にある練習グラウンドに入る。
リュウジたちレギュラー組は、ランニング程度の軽い練習で終える。昨夜のゲームの疲れと寝不足が相まって、霞の中を漂っている感覚だ。まだ余熱を持っている身体をクールダウンさせようとするが、熱はひっきりなしに真上から降り注ぐ。暑い。
ミニゲームできっちり汗をかくサブ組と別れ、宿舎に戻る。
広い敷地を持つクレタ島の四つ星ホテルは、日本選手団の全室貸し切りになっているが、フリータイムであっても公式カラーのポロシャツを着ることが義務づけられている。
みんなは部屋のベッドに寝ころがって足らない睡眠時間を補うようだが、リュウジは目が冴えてしまって、眠れそうにない。
選手たちは日頃から三時間の昼寝を義務づけられている。三時間で二回のノンレム睡眠があれば、成長ホルモンが二回発生することになり、壊れた細胞に栄養が行きわたって体が逞しくなるし、怪我もしにくくなる。午後にも練習がある日は、高いレベルからスタートできるという、科学的な裏付けのあるメニューだった。
どうせ眠れないのなら、同室の梶の邪魔にならないよう、しばらくホテル内をうろつくことにした。
広間のテレビではオリンピックの陸上競技が映されている。アスリートたちの緊張した表情を見ているだけで疲れてくる。静けさを求めてプールサイドに出ることにした。
泳ぐことは禁止されているから、プールサイドにいるしかない。ゴムボートに乗ったホテルのスタッフが、水面に散らばった落ち葉を拾う光景をぼんやり眺める。
ギリシャ戦における初先発を自分で採点する。
敵の先取点を演出したかのようなパスミスは、引き分けに持ち込んだゴールを演出して帳消しになったのだろうか。全体の動きは悪くなかった。リーガの試合でもフル出場は稀《まれ》だが、最後までスタミナに問題はなかった。日本の攻撃は右サイドが起点になっていることを印象づける九十分だった。
次のスペイン戦でも、おそらく先発起用だろう。敵のほとんどの選手とシーズン中に戦っているし、ホアキンやアルスとはチームメイトだ。
問題は「使われ方」だ。リュウジは敵の手の内を知っているが、向こうもリュウジの手の内を知っている。リュウジという駒が、スペインの圧倒的優勢に風穴を開ける切り札になると、平義監督は考えてくれるだろうか。
「お前は殺されるために日本に戻されたんだ」
福島Jヴィレッジで梶に言われたことが、気になる。
確かに合宿では、リュウジの閃《ひらめ》きにまかせたようなプレーを監督は嫌った。敵陣へとドリブル突破することでラストパスの選択の幅は狭くなっていく。ゴール前でボールをこねくり回していると、笛を吹いて止められる。
しかしリュウジの加入によって、今までのオリンピック日本代表にはない攻撃のアクセントがついたことは確かだ。グループリーグの三試合では、失敗もあったが、持ち味は発揮できたと思う。
自己採点にも疲れ、リュウジは水面に乱反射する陽光から目をそむけ、庭園に降りることにする。
鬱蒼《うつそう》たるジャングルのような一角があり、南国独特の樹林にスプリンクラーで水が撒かれている。
空間に虹が見えると、ほんの少し、気分が安らいだ。
庭園管理の人間がすれ違いざま、おざなりに英語で挨拶をする。態度が微妙に冷たい。これから勝ち続けたとしても、ギリシャ人を常に敵に回すことになるのだろうか。
決勝トーナメントに進出したのは、日本、カメルーン、韓国、スペイン、ドイツ、ブラジル、アルゼンチン、エジプトの八カ国だ。
この中でメダル候補はスペインとアルゼンチンとブラジルの三国と言われている。どれもグループリーグで圧倒的な攻撃力で勝ち上がってきた国ばかりである。
ブラジルの次の対戦はドイツ。日韓ワールドカップ決勝戦の再現となる。韓国はアルゼンチン相手にどこまで善戦できるか。前回オリンピック優勝のカメルーンの相手は、B組でポルトガルを下して今大会のダークホースと言われるエジプト。アフリカ勢同士の戦いとなる。
リュウジは木陰のベンチに座り、アフリカの風を感じようとする。
ギリシャ最南端のクレタ島は、兵庫県とほぼ同じ大きさで、東西に細長く、南側は地中海を挟んでアフリカ大陸が控えているため、夏にはアフリカからの熱風が直接吹き込んでくるという。
そろそろ部屋に戻ってシエスタを取るか。
立ち上がりかけた時、椰子の樹の向こうに置物のような人影を見た。平義監督だった。あずま屋のテーブルで書類を広げ、ダブルサイズのオレンジジュースを飲みつつ、作戦を練っているかに見える。
サブ組のミニゲームが終わり、あとの練習をコーチにまかせ、宿舎に戻ってきたようだ。
監督に気付かれる前に消えようとしたが、顔が合った。
妙な間ができた。
ぺこりと会釈をして去ろうとすると、「リュウジ」と呼び止められた。
指先で軽く、手招きをされる。リュウジは「また腹の探り合いか」という憂鬱な気分で、あずま屋に近づいた。
グラウンドの外で、監督と会話をするのは初めてかもしれない。
練習後も厳格な規律を設けている平義は、選手たちにとって近寄りがたい存在だ。例えば、食事はスタッフと選手が全員集まってからで、最後の一人が食べ終わるまで席を立ってはならない。食事中も移動中も、服装は統一する。監督がいる前では私語は禁止。バイキングで皿に載せたものは残してはならないといった、小学生が言われるようなこともルール化されていた。最初の頃は戸惑ったが、今はもう慣れた。
昼寝もしないでホテルの中をうろつき回っていることを、咎められるのか。サブ組のメンバーが帰ってくるまでは自由時間のはずだ。
タイル張りの円形テーブルを間にして、監督と向かい合う。
「何か飲むか?」
絞りたてのオレンジジュースはうまそうだが、ウェイターを呼んで飲み物がくるまで時間がかかりそうなので、「いえ、いいです」と遠慮した。
早く話を切り上げて部屋に戻りたい。
監督は書類ホルダーを閉じる。選手のポジショニングの移動図がちらと見えた。
ギリシャ戦の失点シーンにつながるミスについて責められるのかと、ざわざわと落ち着かない気分になる。
「最初の練習グラウンドはどこだった?」
「……は?」
「子供の頃、どこでサッカーをした。公園か? 路地裏か?」
「家の隣の駐車場です」
「実家はどこだ」
「埼玉の草加です」
和風スナック「よしこ」のざわめきが聞こえてくる駐車場で、一人、ミズノの四号球を蹴った。陽が暮れるまでリュウジのサッカーに付き合ってくれる友人は、近所にいなかった。
「ストリートサッカーほど、創造性を育てるステージはない」
その通りだと思ったから、リュウジは頷いた。狭い路地でいかに敵を抜いて、ゴールの枠にボールを押し込むか、子供たちは遊びの中で工夫をする。日韓ワールドカップ準決勝、ブラジル対トルコ戦におけるロナウドのトーキックも、フットサルやストリートサッカーから生まれた技と言える。
平義は選手たちには禁じている煙草を吸い、マイペースで話を続ける。
「一九八九年に東西の壁が崩れた時、旧東ドイツから優秀な選手が大挙やってくるという楽観論が、ドイツ・サッカー界にはびこった」
ドイツのサッカー留学が長かった平義である。「事実、ザマーやイェレミースやヤンカーといった選手がドイツ代表に名を連ねた。九二年のヨーロッパ選手権では決勝進出、九四年アメリカ・ワールドカップではブルガリアにやられたが、九六年ヨーロッパ選手権で優勝……ところが、ドイツ・サッカー界は社会的な変化を把握できていなかった。子供の世界からストリートサッカーが消えたんだ」
「それはどこの国でも同じだと思います」
子供の娯楽はインドアに向かい、コンピューターゲームのコントローラーを握りしめている。
「他のサッカー大国の子供たちより、ドイツはまだ恵まれている方だろう。ドイツの学校は午前中だけだから、ほとんどの子供は午後になるとスポーツクラブに通う。ゲームをする子供も増えて、ストリートサッカーは少なくなっても、スポーツは国策として普及している。その目的は実は健康保険料の負担を減らすことにあるんだ。『国民をスポーツで健康にすれば、国家予算も楽になる』という考えらしい」
「へえ」と感心すればいいのだろうか。リュウジは「はあ」と曖昧に頷くだけだった。
「ドイツにクリエイティブな選手が生まれにくいのは、寒さも大きく影響している。寒いから安全に生き延びる発想をする。南の人々なら楽しむことを人生の主眼におき、それがテクニカルなサッカーに現れる。ドイツは結果を中心テーマにしている国だ。よりアスレチックで軍隊的傾向が強くなる」
もっと分かりやすく言えば、日本のA代表におけるジーコと、ドイツ帰りの平義、二人のサッカー観の違いだ。自由主義と管理主義。
さて、平義は何を言おうとしているのだろう。軍隊の勝利のために、お前は一兵士として犠牲にならなければならない、と説得されようとしているのか。リュウジは用心深く監督の話に耳を傾ける。
「ドイツ人のメンタリティーは世間で言われているほど強くはない。常に勝ちたいという気持ちはアメリカの方が強い。メンタル面での教育は日本の方が進んでいると言ってもいい。ただしドイツでは、子供の頃から『諦めるな』と徹底して教えられる。諦めないことは、彼らの日常的な感覚なんだ」
日韓ワールドカップでは常に先行して逃げきるゲーム展開だったため、不屈のゲルマン魂とやらを見る機会はなかった。
「ゲーリー・リネカーは知っているだろう?」
知っている。Jリーグのチームで晩年を終えたイングランドの有名な選手だ。
「彼がドイツのサッカーを評してこう言っている。『サッカーなんて単純なスポーツだ。二十二人の男たちがひとつのボールを追いかけるだけ。でも最後に勝つのは、いつもドイツ』……」
リーガ・エスパニョーラにはドイツ人の選手はいないが、一年前までアスレティック・ビルバオを率いていたハインケス監督がドイツ人だった。純血主義のビルバオをドイツ人の監督が率いる、ということで当時話題になった。頑固さを揶揄する「鉄仮面」という愛称を持つハインケスは、そう言えば、「諦めるな」と常に選手を鼓舞するゲーム運びをしていた。
「七〇年のワールドカップを見たことがあるか?」
リュウジは首を振る。生まれる前だ。ビデオですら見たことはない。
「メキシコ大会の準決勝、西ドイツ対イタリア戦。ベッケンバウアーがペナルティエリア内の混戦で肩を脱臼したが、代わりになる選手がいなくて、腕を吊ってゲームを続けた。1点リードされてのロスタイム、イタリアの勝利を誰もが確信した時、西ドイツのDFシュネリンガーが敵陣まで上がって、左サイドからのクロスを、長身を寝かせるようにして右足で必死に合わせ、起死回生の同点ゴールだ」
平義が楽しそうに喋るのを初めて見た。一九七〇年ということは、監督が小学生の頃だろう。サッカー少年が初めて触れたワールドカップの興奮、というやつか。
「延長戦では逆転につぐ逆転で、結局、イタリアが4対3で激闘を制した。アステカ・スタジアムの入口に今でも掲げられているプレートには、『これまでで最も素晴らしいゲーム。一九七〇年六月十七日』とある。決勝戦のブラジル対イタリア戦ではなく、西ドイツ対イタリア戦の日付だ。メキシコ大会はゲルマン魂というものを世界中にアピールした最初の大会だったんだ」
相槌はちゃんとしているつもりだ。リュウジは「……で?」と訊《き》き返したくなる。本題は何だ。明後日のゲームでは怪我の癒えた石川直宏を使う、お前は控えに逆戻りだと言いたいのなら、さっさと言い渡してほしい。
静寂になる。アフリカから届いたような風がエーゲ海の湿気を含ませ、ねっとりと肌に絡みつく。
ちらちらと人影が見えた。木立の向こうから、レギュラー組の選手二人がこちらを窺っている。リュウジは監督と何を話しているのかと興味津々の顔つきだ。
平義も彼らの視線に気付いた。監督が特定の選手と話し込むことは、変な噂を招くと思ったのだろうか、微かに浮かべていた笑顔を消し、リュウジから顔をそむけて言った。
「行っていいぞ」
再び書類を開いた。
呼んでおいて、邪険に追い払う。監督の真意は結局分からずじまいで、リュウジは「失礼します」と立ち去るしかなかった。
2[#「2」はゴシック体]
夕食が終わると、揃いのポロシャツ姿の選手全員が広間に集まり、ミーティングとなる。
スペインは緒戦のメキシコ戦に4対2で勝利、次のポルトガル戦でも、マンチェスター・ユナイテッドに所属するクリスティアーノ・ロナウドを抑えて3対1で快勝。ポルトガルの思わぬ連敗もあって、この時点で早々と決勝トーナメント進出を決め、エジプト戦ではサブ組を起用するという余裕で、2対2で引き分けた。
スペインのビデオを見る前に、平義がホワイトボードの前に立って、スペインの先発メンバーを英語で書き込む。まさに「教授」というあだ名にふさわしい姿だ。
GK……VALDES。
綴りは正しい。ゴールキーパーはバルセロナの若き守護神バルデスだ。〇三─〇四シーズンは日韓ワールドカップで活躍したトルコ代表のリュストゥが加入し、ポジションを奪われるかと思われたが、最後まで正ゴールキーパーの座を守り抜いた。
DFは、右からミニャンブレス、ルベン、ラウール・ブラボという、去年までレアル・マドリーのチームメイトだった三人組と、左サイドバックに元バルセロナのナバーロ。二人のボランチは、リュウジのチームメイトであるアルスと、レアル・ソシエダ躍進の立役者でもあり、A代表にも欠かせない存在となったシャビ・アロンソ。右の攻撃的MFにベティスの誇る強力サイドアタッカー、ホアキン、左にヴィクトル・ロペスが入る。一・五列目のシャドー・ストライカーの位置に、セビージャから今年電撃的にアーセナルに移籍したレジェス。レフティーの彼は「ラウール二世」の呼び声も高く、実際、スペースを巧みに突く動きはラウールそのものだ。
1トップにはアトレティコ・マドリーの二十歳のエースストライカーであるフェルナンド・トーレス。鋭い突破力と高い得点能力で、いつしかスペインの人々に「エル・ニーニョ(神の子)」と呼ばれるようになった。A代表でもラウールと2トップを組んでいる。
フェルナンド・トーレスの下にはカッコでくくられ、ポルティージョの名前も書かれた。レアル・マドリーの控えFWであるポルティージョは、メキシコ戦とポルトガル戦では後半途中から入り、エジプト戦では先発している。日本を甘く見るならば、明後日のゲームで先発してくる可能性も高い。
平義はポジションの名前を書き終えると、選手たちに向き直り、「講義」を始める。
「彼らは現在ヨーロッパで主流になっている4─2─3─1のシステムをとる。ボールの動きに『深さ』と『幅』を確保することが、この戦術の狙いだ。『深さ』とは縦パスのコース、『幅』とは横パスのコースを意味する」
子供でも分かるようなことでも、噛んで含めるように教える。選手たちは時々、俺たちは馬鹿にされているんじゃないか、と思うほどだ。
平義のペンがホワイトボードを踊る。まず敵の戦術を理解させようとする。
「ゴールへの最短距離である縦への攻撃は相手に最も警戒される形だから、まずボールを横に動かしてDFの間にギャップが開くチャンスを窺う。そしてチャンスを見つけるや、即座に縦への攻撃を仕掛け、FWが一人でも高い攻撃力を持つ。その強さは、今の日本代表が採用している4─4─2と比較すると分かりやすい」
おっと、ジーコ批判が出るのか? と選手たちは身を乗り出す。
平義は、日本のA代表のフォーメーションを手早くホワイトボードに書き込み、中盤の攻撃的MFに「ヒデ」と「シュンスケ」と書き込んだ。
「もちろんA代表でも『深さ』と『幅』を確保する努力はなされている。例えば2トップの一人が縦へのパスコースに入ると、この二人がワイドな位置に開くというパターンを見たことがあるだろう」
大久保が頷く。FWの縦の動きは、彼が実際にA代表でやっていることだ。
「ただし『深さ』と『幅』を同時に確保するためには、ワイドに開いた二人の攻撃的MFが開けたスペースを、誰かが埋めなくてはならない。二人のボランチの一方が攻め上がるか、2トップの片方が引いてくる動きだ。この連動がスムーズに出来れば、4─4─2でも『深さ』と『幅』は確保されて、多彩な攻撃の選択肢が用意できるのだが……」
そうはうまくいかない。リュウジは日本から送ってもらったA代表の試合のビデオを見て、歯痒い思いをしたものだ。2トップの二人が揃って縦にばかり走ったり、ボランチの二人が慎重に中盤の底に留まる時間が長かったり、結局、攻撃的MFは中央寄りに位置せざるをえなくなり、平義の言う「幅」は狭くなってしまう。それを埋め合わせるのはサイドバックの攻撃参加のはずだが、最終ラインの守備から離れようとしない。
オリンピック日本代表はA代表のシステムを採用していない。3─5─2という守備的な布陣だ。これは戦い方によっては、中盤の両サイドが最終ラインに吸収されて、5─3─2という手堅いシステムになってしまう。Jリーグのチームの多くがこのバランス重視のシステムを採用しているらしく、今回代表に選ばれた選手のほとんどは3─5─2が身体に馴染んでいる。
トルシエはかつて三人のDFをフラットに置いたが、平義は従来の3バック、リベロと二人のストッパーという考え方で、中盤の両サイドの選手を高い位置に置く。
リュウジが所属するベティスのビクトル・フェルナンデス監督は、「システムには意味はない」とよく言う。数字の入れ物にこだわると本質を見失う。サッカーという競技は一度ホイッスルが鳴ると、柵も仕切りもピッチ上には存在しない。
が、時として数字ほど分かりやすいものはない。監督はしばしば選手へのメッセージとして数字を使う。平義もそういう考え方なのだろう。
平義のペンはスペインのフォーメーション図に戻る。ホアキンとヴィクトル・ロペスの名前を示した。
「前線の3のうち両サイドは、ディフェンスライン、あるいはボランチから着実にボールを引き出し、攻撃のための的確なポジショニングを取る。突破力が最大の武器だ。両サイドのワイドな位置に突破力のある選手がいることは、チームにとって大きなアドバンテージになる。カバーしようとする相手のセンターバックを引き出し、同時に、相手のサイドバックの上がりを抑えることにもつながる」
ここで平義は選手たちを見下ろし、間を作る。この思わせぶりな沈黙の意味は何だろうと思った直後、平義のペンは1トップの名前をトントンと叩いた。
「ビデオを見ればよく分かる。フェルナンド・トーレスは、後方からのボールを着実に受けて、前線で攻撃の起点を作る。基本的にはたった一人でターゲットになるため、広範囲の運動量も必要だ。一人で縦への突破を狙いながら、激しい寄せの中でもクサビの役目をしっかりとこなし、タメを作り、一・五列目から侵入するレジェスと連繋する。そして前線の3の中央、レジェスに求められるのは、相手DFをこじ開け、一方で左右のアタッカーを生かし、孤立しがちな1トップを常時フォローする能力だ」
レジェスにはセビリア・ダービーできりきり舞いさせられた。自分の横を疾風のように駆け抜け、振り切られ、瞬く間にゴールされた屈辱的な記憶が甦る。
平義がペンを置くと、ホワイトボードが片づけられ、クズ兄ィがビデオをつけた。スペインのグループリーグ三試合を編集したダイジェスト版だ。
「ボールを持たせてカウンターを狙うという、ギリシャ戦と同じ戦い方になるだろうが、ギリシャ戦のイメージは忘れろ。スペインの攻撃の質はギリシャより数段高いぞ」
クズ兄ィに言われるまでもなく、ビデオを見れば一目瞭然だった。ボールを奪った後の、無駄のない連動。フェルナンド・トーレスがしっかりとポストプレーで前線に起点を作る。サイドのヴィクトル・ロペスが攻撃を仕掛けると、空いたスペースをアルスがカバーし、絶対に穴を作らないという効率のいいスタイルだ。選手一人一人の動きがパスとランで見事につながっていることに感動してしまう。
「リュウジはスペインで何度も奴らと対戦してるだろう。何か気がついたことはないか」
クズ兄ィに訊かれ、ビデオで流れているプレーと、実際体験したプレーを照らし合わせ、答える。
「俺が出場したアトレティコ戦では、フェルナンド・トーレス一人にやられたっていう感じでした。奴には足元のテクニックによって一人で局面打開ができるという印象があって……そう、今のプレーみたいに」
金髪をなびかせるフェルナンド・トーレスは右腕を張ってメキシコのDFを寄せつけず、ゴールに背を向けた恰好から鋭く反転、ひとつフェイントを入れてシュートに結びつけた。
「ホアキンの右サイドの突破力は確かに要注意だけど、ナーバスになるとプレーが散漫になるのが欠点です。アルスは最終ラインから確実なロングフィードを供給するんで、奴がボールを持った瞬間の前線の動きには注意した方がいいです。レアル・マドリーのポルティージョは、タレント軍団の中でなかなか出場機会がなくて、実際のプレーを見たことはありません」
スペインでプレーしているからといって、すべて知ったかぶって答えるつもりはなかった。
やはり神経を尖らせなければならないのは、ヴィクトル・ロペスの動きだと思う。バレンシアでは左の攻撃的MFのレギュラーポジションを獲得し、故障から回復したパブロ・アイマールとダブル司令塔として共存している。
目の前のビデオでも、ポルトガルの大型DF、その胯間へ鋭いスルーパスを通し、レジェスの左足のゴールを演出した。
「ただし、周りの選手とのコンディションに差があると、ヴィクトル・ロペスは独りよがりのプレーが多くなって、ラストパスの精度にむらが出てきます」
日本のA代表のゲームで、かつて中田英寿が高い次元のプレーを求めても、周りがついてこられない局面があったが、それに似ている。
ポルトガル戦の後半、ヴィクトル・ロペスはサイドチェンジをしようと、低くて速い弾道のロングパスを出すが、ホアキンがトラップミスをして悪態をついた。
「付け入る隙があるとすれば、奴の自信過剰だ」
平義の言葉にリュウジも同感だった。ヴィクトル・ロペスに焦りが生まれると、それはチーム全体に伝染する。ポルトガル戦の後半が無得点だったのは、2点差で安心したわけではなく、ヴィクトル・ロペスのパスミスから攻撃に精彩を欠き、逆に押し込まれる時間帯が多かったためだ。クリスティアーノ・ロナウドにもっと早く1点を決められていたら、試合展開はどうなっていたか分からない。
またDFも鉄壁とは言えない。エジプト戦でもポルティージョとレジェスのゴールで2点先行しながら、後半に2点を失った。四人のDFのうち三人はレアル・マドリーの出身選手で固めているが、点差が広がって緊張感が弛《ゆる》んだところで攻め込まれると浮足立つ場面が何度かあった。スペインの弱点はそこにある。
センターバックのルベンで思い出すのは、昨年のリーガ第十一節だ。セビージャの大量得点につながるミスで交代させられ、泣きながらベンチに戻ってきたルベンの姿を、テレビカメラは非情にもアップで捉えた。
「先発メンバーはギリシャ戦と同じでいく」
ビデオが終わると、平義はあっさりと発表した。
同じポジションのライバルである石川直宏は、右足捻挫も回復し、いつでも出場できるコンディションに戻っている。
ミスもあったが、ギリシャ戦における俺の働きを認めてくれたのだと、リュウジは安堵した。
「敵の両サイドバック、ナバーロとミニャンブレスの上がりはある程度許す。むしろサイドが攻め上がった時のスペースを狙う」
自分の走路が目の前に広がるイメージ。ヴィクトル・ロペスがボールを持つと、スペインは全員で前がかりになる。ナバーロが調子に乗ってオーバーラップする。明神がパスカットした瞬間、奥まで見通せるような敵陣へとリュウジは突っ走る。振り返れば、自分めがけて放物線を描くロングフィードがある……。
が、次の平義のひと言で、リュウジの心は暗転した。
「ヴィクトル・ロペスの動きを徹底的に封じて、敵の左サイドを無力化する。マーカーはリュウジだ」
走路は暗幕で閉ざされた。
ミーティングルームにぞっとするような沈黙が支配した。みんなの眼差しが四方八方から集まってくる。クズ兄ィは目を伏せている。ミーティングの前にすでに、監督からリュウジの起用法について聞かされていたのだろう。
そういうことか、と思った。
福島Jヴィレッジで初めて監督と対面した時のことが思い出された。二時間前に練習グラウンドに到着すると、監督もフィールドに現れた。世間話のような気軽さで、第三十五節のバレンシア戦について訊かれた。
「ヴィクトル・ロペスのマンマークは、君の判断だったのか?」
そうだと答えた。最初はリュウジが奴にマークされた。その仕返しに、後半は徹底的につきまとってやり、激しいチャージでヴィクトル・ロペスを潰した。それによってバレンシアのチーム全体の勢いを削《そ》ぐことに成功したのだ。
「後半は素晴らしい働きだったな。自分でもそう思わないか」と平義に評価してもらい、面はゆかったが、「そう思います」と答えた。
あの会話はすべて、今の指示につながる伏線だったのか。
自分の意志でヴィクトル・ロペスのマーカーになったのなら、それを再現してみろと言われている。スペイン戦で先発させるのは、リーガの戦いでヴィクトル・ロペスの動きを知り抜いている俺を、マーカー役で使うためだったのだ……。
リュウジは梶と目が合う。「分かったろ、これが最初からの、監督の狙いだったんだ」という表情を投げかけてくる。
平義に視線を戻さなくてはならない。命令にまだ返答していない。見返すと、リュウジの心まで見通そうとするかのような、平義の怜悧《れいり》な眼差しがあった。リュウジの返答を辛抱強く待っている。
「はい」
リュウジは低い声音ではっきりと返事をした。
スタジアムでの前日練習では、平義はマスコミをシャットアウトし、ミニゲームでフォーメーションの確認をした。
サブ組の松井大輔が仮想ヴィクトル・ロペスだった。リュウジは無心になってマークに駆けずり回った。ボランチから松井にボールが出ると、すでに背後に忍び寄っている。松井がトラップした時には、イエローカードぎりぎりのチャージに入る。背中に絡みつくリュウジに、松井がきりきりと苛立つ。しまいに折り重なって倒れると、松井の怒りは爆発する。
胸をド突かれた。リュウジはド突き返す。監督への怒り、監督の本心を見抜けなかった自分への怒りだった。周りの選手が慌てて「おい、よせ」と二人を分ける。平義はピッチの外で顔色ひとつ変えず、リュウジと松井の興奮状態を見守っている。
リュウジと松井がピッチの片面で肉弾戦を繰り広げ、その間にボールが運ばれる、そんな光景だった。
サイドバックが上がった後の右サイドの広大なスペースを、ボランチの明神が駆け上がる。そこを自分が駆けることのできない苛立ちを、明日のゲームではイヤというほど感じることだろう……。
リュウジが何度も寝返りを打つので、隣のベッドから梶が「眠れないのか」と声をかけてくる。
深夜一時だった。
「ゲームでもやるか?」
「いや。大丈夫だ」
梶の気持ちには感謝しているが、リュウジは硬い声になってしまう。
「リュウジ」
「……うん?」
「勝つためだ」
チームが勝つためにヴィクトル・ロペスに付きまとうストーカーになってくれと梶は言う。
「分かってる」
燻《くすぶ》るものを噛み殺して答えると、リュウジはベッドを出る。夜風に当たりたかった。
「俺を気にしないで寝てくれ」
梶はしばらくリュウジの背中を見ていたようだが、向こう側に寝返りを打った。
気温差が激しく、夜になるとセーターがいるほどだ。どこかで虫が啼いている。日本の鈴虫と似た音色を奏でている。
酔って帰ってくる父に二十回のリフティングを見せたかったが、駐車場で一人ボールを蹴るのにも飽きてしまった。隣の空き地で鈴虫が啼いていた。二階の部屋でままごとをしているミサキを呼んで、一緒に虫取りをしようと思った。
サッカーをすることに苦しみが伴うなんて、思いもしなかった頃だ。
見上げれば半月が薄雲から光を放っている。鈴虫がちっとも捕まらず、妹と一緒に溜め息まじりに夜空を見上げた時も、同じような月がかかっていた。目を凝《こ》らせば、ギリシャで見る月面の模様は微妙に違うのかもしれない。
ボールの供給源であるヴィクトル・ロペスを抑えれば、ボランチの位置にいるシャビ・アロンソを引き出せるかもしれない。リュウジの働き次第ではスペイン陣内に穴が開く。
理にかなった考え方なのだろう、きっと。
眼下の庭園に何か小さな光が揺れるのを見た。
あずま屋に人影がある。見覚えのある輪郭だ。携帯用ライトで書類を読んでいるのは、平義に違いない。全員が寝静まった後、一人で勉強をしている。監督も眠れないのだろうか。
何を悩むことがある。志野リュウジをヴィクトル・ロペスのマーカーに指名した。あいつは必ずやってくれる。そう信じていればいい。
選手にもスタッフにも、片腕のクズ兄ィにも言えない苦悩があるのだろうか。
試合前日の夜、監督は一人で闇に身を晒《さら》す。それは国の威信を背負った監督が抱える孤独なのだろうか。
噂によると、平義の妻は精神を病んでいるらしい。ブンデスリーガの監督より、オリンピック日本代表の仕事を選んだのは、長年、日本に置き去りにしてきた妻を思ってのことだという。
うす暗い部屋に一人座り込んでいる痩せた女をリュウジは想像した。
平義楯夫は仕事のためにどれほど家族を犠牲にしてきたのだろう……。
あずま屋の影が微妙に動いた。リュウジの視線に気づいたかのようにフラッとこちらを見上げたのだ。
すぐに背中を向けるのは癪《しやく》だったので、しばらく闇を隔てて遠くの人影を見つめ続けた。
平義も顔をそむける気配はなかった。
遠い人影とのにらめっこにも飽きて、リュウジは部屋に引っ込む。
何故だろう。平義の孤独な姿を見た後は、不思議と眠ることができた。
3[#「3」はゴシック体]
かちゃかちゃと、二十二人分のスパイクのスタッドが通路のコンクリを叩く。
FIFA公式アンセムが流れ始めた通路で、リュウジはキャプテンマークをつけたヴィクトル・ロペスと握手を交わした。
向こうから手を差し伸べてきたのだ。
日本が相手とあって余裕なのだろう。親愛のこもった笑みをたたえていられるのも、今のうちだ。ゲームが始まって俺のマークを受ければ、その優しげな目も怒りで充血するだろう。
アルスが肩を組んできて、
「いい子にしてろよ、リュウジ」
にこにこした顔で言う。シュートレンジに入ってきたら容赦なく倒す、と警告しているつもりだ。
「一足早くスペインに帰ってくれ」
言い返してやったら、高笑いされ、頬をギュッと摘《つま》まれた。
ホアキンはワールドカップ韓国戦の教訓があるのか、アジアのチームが相手でも決して油断はしていない。ロッカールームで気合を入れてきたのかすでに額に汗が浮いていて、リュウジと目が合っても友好的な表情は微塵もない。
1トップにはフェルナンド・トーレス。予想通りのスタメンだった。日本を舐めてかかるようなメンバーではなかった。
審判四人に続いて入場となる。太陽がまだまだ熱を放つ夕方六時。気温二十八度。湿度五五パーセント。コンディションは悪くない。
だいだい色を帯びた陽光を浴びた視界に、二色が広がる。収容人数一万五千人そこそこのスタンドは、日本サポーター5、スペインのサポーター3、地元の人間2という割合か。やはりギリシャを破った日本には、口汚いブーイングが降ってくる。怒りの熱はすぐ冷める国民性と聞いていたが、案外と根に持つ奴らだ。
整列し、日の丸の旗を見て国歌斉唱となる。日本人の誰よりも「君が代」を美しいと実感できるリュウジは、照れずに歌える。
中継カメラが選手の表情を横移動で追う。草加市の実家で見ている母親やミサキにも聞こえるように、声を張り上げて歌ってやった。
次に、何度か帰化を考えたスペイン、その国歌が流れる。
リュウジは日本代表のユニフォームを身にまとった。FIFAのルール上、もう他国に帰化しても代表選手になることはできない。スペインへの帰化について未練はなかった。日本サッカーが自分を必要としてくれたからだ。
どんな必要のされ方にせよ。
スペインの選手の方から歩み寄ってきて握手。記念撮影になる。
勝つためだ。勝つためだ。
リュウジは心で呪文のように唱える。勝つために自分を犠牲にするのだ。「君が代」が迷いを消してくれたみたいだ。ヴィクトル・ロペスにしつこく食らいついてやる。
ジャパンブルーがピッチに散る。スペインの高貴の「赤」も散る。ボランチの明神とボール回しをする。右サイドの攻撃スペースは明神に譲らなくてはならない。リュウジがこのゲームでハーフウェイラインを越えられる機会はないかもしれない。
スペインのキックオフで始まった。スタンドでカメラのフラッシュが瞬《またた》く。
ヴィクトル・ロペスが陣内に入ってくると、ひたひたと寄って行く。ボールが渡る瞬間を読んで、猛然とダッシュして相手に寄せる。ワンタッチは許しても、ツータッチする頃にはパスコースを完全に消す。ヴィクトル・ロペスはシャビ・アロンソにバックパスするしかなかった。奴の舌打ちが聞こえた気がした。
すぐに悟ったようだ。リュウジは自分のマーカーであると。
リュウジは一旦離れるが、視界にいつでもヴィクトル・ロペスの動きを捉えている。ボールが逆サイドにあっても、常にヴィクトル・ロペスにサイドチェンジがあることを警戒する。スペインのボール支配の時は、リュウジは必然的にボランチの位置に下がってプレーすることになった。
これで満足か?
ベンチの監督を一瞥《いちべつ》する。サマースーツ姿の平義はいつもの学者然とした姿で、物静かに戦況を見守っている。
これが深夜のあずま屋で思い描いていた風景か?
なら、勝利の方程式を教えてくれ。サイドバック二人とボランチ一人を引き出して、相も変わらずカウンターアタックか?
リュウジのマークによってヴィクトル・ロペスが消されても、スペインはシャビ・アロンソをボールの供給源にする。ホアキンが右サイドを走り、ボールが流れるように前線へと渡る。
リュウジが敵の左サイドを無力化すればするほど、ボランチのシャビ・アロンソは上がり目になるだろう。敵の中盤の底をアルス一枚にしてやれば、梶を動きやすくすることができる。
フェルナンド・トーレスの対応には阿部勇樹と闘莉王がつき、それが突破されてもリベロの田中誠が控えているという万全の態勢だ。
が、リュウジは第十節、ベティスのホームでアトレティコ・マドリーと戦った時の記憶が脳裏にこびりついている。左からのクロスに飛び込んだフェルナンド・トーレスが、マーカーを難なくかわして右足ボレーでダイナミックに決めたゴールだった。
この二十歳のエースストライカーは調子づかせたら手がつけられない。
ホアキンが逆サイドで茂庭を抜きにかかる。茂庭の体重移動を予測してのドリブル。茂庭が抜かれた。そのままホアキンがシュートに持ち込むかと思われたが、茂庭の左を抜いたため角度がなく、マイナス気味のクロスを上げた。その一瞬前、フェルナンド・トーレスが寄せる闘莉王をファウルすれすれのショルダーチャージで振り切った。クロスにどんぴしゃのタイミングだった。頭ひとつ飛び出してのヘディングシュート。幸いにもキーパー正面のボールで、曽ケ端はがっちりキャッチし、両腕で大切に抱え込むようにして芝に倒れこんだ。
事なきを得たが、最初から日本は押し込まれている。
曽ケ端のパントキックの到達点で、前線の平山がアルスと競り合う。浮き球を足元に収めたのはレジェス。日本の中盤のプレスが利いていた。梶と根本で囲い込む。梶がボールを奪取すると、リュウジは自分のテリトリーである右サイドへと走ろうとした。
本能だった。ヴィクトル・ロペスを視界に見て、からくもブレーキをかける。背後をジャパンブルーが駆け抜けた。明神がオーバーラップしていく。ヴィクトル・ロペスへの対応を常に考えなくてはならないリュウジは、攻撃参加の欲求に歯止めをかける。
明神から中央の梶に折り返した。梶はドリブルでつっかける動きを見せた直後、後方の大久保へスルーした。梶の動きにつられていたアルスは騙された。大久保はワントラップした後、ペナルティエリアのすぐ外で前を向くことができた。DFのラウール・ブラボをトリッキーな動きで抜こうとする。ペナルティエリアまであと二歩。そこで足がかかって倒れこんだ。大久保は自分から身体をぶつけていった恰好に見えた。地べたから大久保はファウルを主張するが、ポルトガル人の主審は毅然として首を振り、笛を手にしない。むしろ大久保を睨み付けて、次にそれをやったらシミュレーションだぞ、と警告の眼差しだ。
グループリーグの2得点で、大久保の力量はスペインにも知れわたっている。敵DFは飛び込んでいくとかわされると警戒し、巧みに距離を置いてシュートコースを消す。
敵にボールを支配されると、大久保も下がり目になる。前線には平山がターゲットとして残るが、レアル・マドリーのDFたちを相手にどこまで堅牢なポストプレーができるだろうか。
シャビ・アロンソからヴィクトル・ロペスにボールが出た時には、リュウジは彼の背中に貼りついている。せいぜい横パスしかできない状況に奴を立たせる。
三年前にU─17スペイン代表と戦った時は、「殺される」と実感するような九十分だった。そこまで相手に恐怖を与えるサッカーを自分もしたいと思って、リュウジはスペインに渡った。
今は「殺してやる」という気分が勝っている。ヴィクトル・ロペスを苛つかせ、パスの精度を殺し、奴の焦りをスペインのチーム全体に伝染させてやろう。リュウジはこの仕事に生き甲斐を見つけようとする。
ヴィクトル・ロペスが対決を挑んできた。ハーフウェイラインまで下がってボールを受けると、リュウジとマッチアップした。生き甲斐がひとつ見つかった。
リュウジは指先で手招きをし、お前のテクニックを見せてみろと挑発してやった。ヴィクトル・ロペスはリュウジを抜きにかかる。ボールをまたぐ。そんなものには騙されない。半身になって迎え、体重移動を奴に悟らせない。リュウジは両手両足を駆使して絡みつく。主審の目の届かないところではユニフォームも引っ張る。ボールがラインを越え、もつれて一緒に倒れこんだ。笛が鳴る。リュウジのファウルを取られた。
立ち上がる時にヴィクトル・ロペスに手を貸してやった。ぐいっと引き寄せたら、
「やっぱり日本人だな」
鼻先で皮肉を投げかけられた。いくらスペインでサッカーをしても、日本人のチームに戻れば、自分らしさを犠牲にしてまで健気に組織に奉仕をする……そう言いたいのだろう。
リュウジは言い返すことはせず、ひたすらヴィクトル・ロペスの影を踏む。
どこへ行くにもついていく。金魚の糞。そんなたとえが日本語になかったか?
「ゴースト」
ヴィクトル・ロペスが振り向きざま吐き捨てた。お前は俺の背後霊か、と言いたいのだろう。
ゲームは二人を置き去りにして進んでいるかのようだ。
前半二十一分、フリーになったレジェスを突破させまいと阿部勇樹が後ろから倒してしまった。イエローカード覚悟のファウルだった。敵のフリーキックになる。キッカーの位置に立つのはヴィクトル・ロペスとレジェスだ。
平義がすっくとベンチを立ち上がってライン際に来て、両手を開いて十本の指を見せた。
「全員だ!」
隣のクズ兄ィが翻訳して叫ぶ。全員でゴール前を守れという指示だった。ギリシャ戦の時のように、攻撃陣を二枚残すような真似はしない。相手は百戦錬磨のスペインだ。
曽ケ端が壁六枚に指示をして視界を確保する。
「ヨシト、ファーの4番」
「7番のケアだ、飛び込んでくるぞ」
「壁の裏だ、裏!」
「いいんだ、ヨシトはそこにいろ」
「どっちなんだよ!」
マークの指示が怒号のように飛び交う。ホアキンのケアに回ったリュウジは、その時、ペナルティエリア外にいるシャビ・アロンソが気になった。ミドルシュートのレンジにいる。シャビ・アロンソの右足にボールが吸い込まれていく光景を想像してしまった。凶兆だった。
主審の笛が鳴る。ヴィクトル・ロペスが蹴る動きを見せるが、両手を広げて「壁が近い」とアピールする。壁六枚の緊張が弛んだ瞬間に、ヴィクトル・ロペスは横のレジェスへと、スパイクの裏でちょこんとボールを出した。壁が迫っていく。レジェスはヒールで後ろへ流す。ヴィクトル・ロペスはレジェスの背後を通り抜け、その機敏な横移動によって壁の穴を見つけ、グラウンダーのシュートを放った。壁に触れてコースが変わった。逆を突かれた曽ケ端だったが、懸命に手を伸ばした。ボールがグラブの先をかすめて誰もがゴールかと思ったら、ポストが甲高い音をあげた。跳ね返ったボールがまた誰かに当たり、ゴール前にふわっと浮いた。リュウジは突っ込んでくるホアキンに身体を入れるので精一杯だった。茂庭と競り合うフェルナンド・トーレスがヘディングで折り返した。ゴール前で混戦になる。リュウジも懸命にシュートコースを消そうと体を投げ出す。中途半端なクリアボールがペナルティエリアの外に流れた。
リュウジの予感は見事に的中した。絶妙のポジションにいたシャビ・アロンソ。あんな光景を想像した自分を呪いたい気分だった。シャビ・アロンソはボールを足の甲に乗せるようにしてボレー。鋭く落ち気味のボールがリュウジのユニフォームの肩口をかすめた。その摩擦に焼け焦げる匂いがした。ボールは日本のエンブレムを引っかくようにして、ゴールへと吸い込まれた。ネットが揺れる。スペインの先取点だ。
高貴の「赤」が快哉の輪を作る。スタンドから太鼓の音が聞こえる。バレンシアの名物サポーターで、代表の試合にも応援に駆けつけるマノーロおじさんが、ここでも太鼓を叩いているのかもしれない。
日本の選手は脱力感で、膝に手をつき、前かがみになる。誰も責めることはできない。誰もが体を張って食い止めようとしていた。キャプテンマークの明神が「まだ二十分だ!」とポンポンと手を叩き、士気を鼓舞する。
日本のキックオフでゲーム再開。
1点先取した時のスペインの作戦なのかもしれないが、奴らは日本にボールを持たせてくれる。体力温存の時間帯なのだろう。しかしゴール前は大型DFが勢ぞろいして、日本のアタッカー陣の侵入を許さない。
梶はボールの出し所がなく、左サイドの根本に出す。しかし根本は縦を切られて、仕方がなく茂庭にバックパス。茂庭から右サイドの明神にサイドチェンジ。突破の構えを見せるが、やはり梶に横パスするしかない。梶はFWへのパスコースを見つけられず、ボールをこねくり回すしかない。
こんな繰り返しで、ペナルティエリアの外でボールを回す。スペイン相手に今のような遅攻でゴールを割るなんてできっこないと、リュウジは絶望的になる。
日本に焦りの色が見え始めた。早く同点に追いつかなくてはと、大久保は中央突破を試みる。しかし簡単に跳ね返される。梶が何とかセカンドボールを拾って、左サイドの根本に出す。根本は何とかライン際まで運んで、ミニャンブレスの足元をかいくぐり、ターゲットの平山めがけてクロスを入れた。
初めて見せた攻撃の形だったが、緩やかな弾道ではルベンが楽々と競り勝ち、跳ね返す。
リュウジは相変わらず、ヴィクトル・ロペスをマンマークだ。アルスから縦にボールが入ると、ヴィクトル・ロペスはワンタッチのプレーでレジェスにボールを預け、まるでハエを追い払うようにリュウジをかわした。するとギアを切り換え、猪突猛進、ゴールめがけて突っ込んでいく。そうはさせない。リュウジと右ストッパーの闘莉王が挟み込むようにしてブロックする。
ヴィクトル・ロペスは囮《おとり》だった。ボールは逆サイドのホアキンに渡った。ホアキンは獣の面構えでボールを携え、戦車が迫ってくるようなドリブルからシュートレンジに入る。茂庭をかわしてシュート。曽ケ端の好セーブで何とかしのいだ。
日本の選手たちは全員がいっぱいいっぱいだった。
根本はホアキンの縦の動きを警戒して、敵陣に入れない。最終ラインにリュウジも含めて七人もいる状況だ。前線は梶と大久保と平山だけになり、攻撃の選択肢は限られた。梶から平山にクサビを入れ、大久保が裏を突くという形しかない。
それも完全に読まれている。アルスがマンマークとはいえないまでも、梶を要所要所でマークし、ボールの供給源を抑えているのだ。
同点に追いつくゴールなどまるで期待できないまま、前半も終わりに近づく。
「行かせてくれ」
リュウジは願う。敵の左サイドバックが上がった後の、広大なスペース。リュウジの走路だった。リュウジに替わってそこを上がるはずの明神も、今や守備に追われている。
飢えた犬が涎《よだれ》を垂らすが如く、右サイドのスペースを何度も見やるリュウジは、ヴィクトル・ロペスのワンタッチのパスを梶がカットした瞬間、欲求を抑えることができなかった。
自分の職務を忘れ、梶のロングフィードを信じて右サイドを走った。背中で空気銃を撃ったような音。首を振ると、高く放物線を描いて、自分の走る先に落ちようとするボールを見た。やっと訪れた自分の舞台。しばらく遮蔽物はない。リュウジはフリーでボールを受けた。最初のトラップでボールを完璧にコントロールした時、前線の大久保と、やや遅れて平山が交差して、相手のマークを振り切る動きを見せた。それぞれ一人ずつのDFを引き連れている。リュウジのフリーの状態を阻止しようと、ボランチのアルスがケアにやってくる。
「いい子にしてろって言ったろ」
お仕置きをしてやる、と言いたげなアルスが迫る。あともう少しのドリブルでペナルティエリアに辿り着ける。アルスとは一秒後に接触するだろう。ラストパスなら今しかない。大久保がマークを振り切った。リュウジはすかさず右足インサイドで、目の前を横切る大久保へとスルーパスを出した。
通った!
と思った時、アルスの伸ばした足でカットされた。ピンボールのように跳ねたボールをナバーロが受けた。中央にいるヴィクトル・ロペスへとロングパスが楽々と渡った。
そこで本来ヴィクトル・ロペスを止めなければならないリュウジは、いない。ヴィクトル・ロペスはやっとリュウジというマーカーから解放され、爆発的にゴール前へ駆ける。遠くにいても奴の笑顔が見えるようだ。
リュウジは急いで自陣に戻るが、間に合いっこない。誰かあいつを止めてくれ。誰でもいいから止めてくれ。
祈りはむなしく、ヴィクトル・ロペスとレジェスのワンツーでDF陣は崩された。闘莉王はバランスを崩して尻をついている。最後の壁である田中誠がシュートコースを消そうと右足を繰り出す。フリーでリターンパスを受けたヴィクトル・ロペスが、これまでの鬱憤を晴らすように右足を振り抜いた。
前半四十四分、ネットが揺れた。スペインの追加点だった。
リュウジはベンチを見やる。全身で悔しさを表現するクズ兄ィの向こうで、平義は姿勢を崩さず座っている。
俺の攻撃参加を責めているだろうか。やっぱりリュウジは勝手な真似をしやがった、後半すぐに交代させるか……と思っただろうか。表情から読み取れるものはない。
ロスタイムはほとんどなく、スタンドの時間表示が消えたと同時に前半終了の笛が鳴った。
緊張の糸から解かれると、日本の選手たちは守備一辺倒の疲労感を骨の髄まで感じた。
あと四十五分で2点を取り返す。白く波立つゴールは遥か彼方にあるように思えてならない。
4[#「4」はゴシック体]
選手たちの熱気でモヤがかったようなロッカールームで、リュウジはぐっしょりと汗を吸ったアンダーシャツを交換する。
いくら水分を補給しても追いつかない。顎の下からぽたぽたと汗がこぼれ落ちる。
「ホアキンは中に入れたら打ってくる。むしろ縦に行かせた方がいい」
「フェルナンド・トーレスに前を向かせたら終わりだ」
「横に速く揺さぶろう」
「少しだけマークを外したらパスをくれ。何とかするから」
監督が現れるまで、選手たちはあちこちで修正点を話し合う。サブのメンバーはアップしている者以外は集まっている。リュウジは一人の不在に気付いた。
石川直宏だ。今、ピッチでアップをしているに違いない。後半から出場なのだ。
つまり、俺が代えられる。
クズ兄ィが現れた。監督の指示を受けて、交代する選手の肩を叩く役目だった。こちらにやってくる。目が合った。リュウジが諦めかけた時、クズ兄ィはリュウジの後ろをすり抜け、明神に耳打ちした。
頷いた明神はキャプテンマークを外し、田中誠に渡す。
明神に代えて石川直宏を投入するという。リュウジはその交代の意味を考える。右サイドのスペシャリストである石川直宏を投入したということは、後半も同じようにリュウジがヴィクトル・ロペスのマークに付かなければならないということだ。
失点シーン以外、リュウジがヴィクトル・ロペスを封じ込めたことを、監督はどうやら評価してくれたようだ。リュウジが我慢できず攻撃参加したことでヴィクトル・ロペスをフリーにし、相手の2点目につながったことについてはお咎めなしか。
ふっ。リュウジは苦笑を洩らす。
同じポジションの石川を投入したのは、二度と勝手に右サイドを駆けるなという至上命令だった。
平義が入ってきた。選手たちは口を閉じる。頭に血が昇っている先発メンバーが落ち着くまで、ゆっくり全員を見渡してから、
「最初の二十分が勝負だ」
選手たちは頷く。同感だった。
「二十分を過ぎると敵は2点を守りにくる。自陣でボールを奪ったら、時間と手数をかけず、前へとシンプルにボールをつなげ。ピッチを広く使って、速いサイドチェンジで敵のセンターバックを散らしたら、中央のスペースだ」
それができれば苦労はいらない、とリュウジは思う。ひたすらカウンター狙いで局面が打開できると本気で考えているのか。あんたはリスクを冒して点を取りに行こうという気があるのか。あるのなら、梶を前線に上げて、俺をトップ下に入れることだ。
練習では一度もやったことのない布陣だが、リュウジには自信があった。ホワイトボードを前に修正点を指示している監督に、叫びたかった。
俺にFW三枚を操らせてくれ……!
マニュアルに反したことを監督が許すはずはない。
2点を追う後半が、始まる。
「まだやるつもりか?」
ヴィクトル・ロペスに笑われた。相変わらずリュウジはヴィクトル・ロペスの影を踏んでいる。笑いたければ笑え。
リュウジには策略があった。スペインに勝つためなら、すべてを懸けてもいいとさえ思っている。たとえ監督の逆鱗《げきりん》に触れて、次の試合に出場できなくたって構わない。今のままでは次はないのだから。
十分頃に監督は必ず動く。ポストプレーができないでいる平山に代えて、ギリシャ戦と同様に田中達也を投入する。その証拠に、アップしているサブ組の中でタツヤはペースを上げている。
交代枠はみっつ。そのうちふたつを早い時間帯で使えば、あと一枠は残すのがセオリーだ。リュウジがどんなプレーをして監督に逆らっても、交代の可能性は少ないだろう。
リュウジは覚悟を決めた。反逆者としての覚悟だった。
主審のホイッスルが鳴る。石川直宏に右サイドを譲り、リュウジはボランチの位置でヴィクトル・ロペスを迎える。しばらくはマークをそつなくこなし、従順なふりをしなければならない。ボールを持ったヴィクトル・ロペスに決して前を向かせない。横パスに追い込む。
スペインと戦いながら、平義とも戦っている気分だった。
カウンター狙いで自陣を七人で固める日本は、とりあえずスペインの攻撃の芽を摘んでいる。2点差をつけた以上、スペインに焦る必要はない。悠々とボールを支配すればいい。必然的にゲームは膠着《こうちやく》する。
梶から中央の平山にクサビが入る。胸トラップで落とし、そこでキープしている間に大久保が裏のスペースに飛び出す流れだが、平山はアルスに背中を押されて倒れてしまう。笛が鳴る。梶が早いリスタートからサイドの石川に出す。梶と大久保は前線へ飛び込み、敵のセンターバック二人が中へ絞る。石川はナバーロさえ抜いたらシュートレンジに入ることができる。
が、抜けなかった。縦に行くと見せかけて内側に切れ込む得意な動きを完璧に読まれた。ボールは再びスペインに支配される。
やはり平義が動いた。十二分、平山に代えて田中達也が投入される。これで交代枠をふたつ使ったことになる。
リュウジは梶に近寄り、囁いた。
「行かせてもらう」
どういう意味だ? という顔をする梶は、すぐに悟ったようだ。
「お前とゲームできるのも、これが最後かな」
笑う。リュウジも笑い返す。確かに、ここで監督に逆らったら二度とピッチには上がれないだろう。
スペインは田中達也についての知識はないのだろうか、あるいは、日本の選手の分析など必要ないとタカをくくっているのか、小気味のいい田中達也の動きに大型DFが逆を突かれた。
こいつには要注意と、レアル・マドリーのDF三人組は思ったかもしれない。大久保が右のスペースに流れるとナバーロがケアに走る。田中達也と大久保は似ているタイプのFWだが、二人が連動すれば、敵陣に必ず穴が開く。
梶が中央でボールを持った。突貫小僧のようなFW二人がクロスして、敵DFを攪乱する動きを見せる。今だとリュウジは思った。
ヴィクトル・ロペスのマークから離れ、ボランチの位置から猛然と飛び出した。二人のFWにつられた敵陣にスペースが生まれている。梶を追い越したあたりで、「あうんの呼吸」で縦のスルーパスが後ろから届いた。うまく足元でコントロールできた。フリーになった。みるみるゴールに迫る。
「行け、リュウジ!」
大久保が叫んだ。アルスが追いすがり、激しくショルダーチャージをしてくる。ペナルティエリアには入っていないから、奴も大胆な止め方をしてくる。リュウジはブレーキをかけ、アルスの逆を突こうとする。思わずアルスの繰り出した足にかかる。スネ当てから衝撃が伝わる。宙を舞った。ダメージは少なかったが、できるだけ派手に倒れてやった。芝に顔を突っ伏し、苦痛の表情を主審によく見せてやる。笛が鳴った。ペナルティエリアのわずかに手前だった。
千載一遇のチャンス。キッカーは阿部勇樹。リュウジは壁の中に入る。五枚の壁の中で左右から肘を突かれ、翻弄される。阿部勇樹とアイコンタクト。
分かっているな? 分かっている。
リュウジは壁の中で居場所を定める。キーパーのバルデスの目隠しになる位置に立つ。
笛が鳴った。阿部勇樹が蹴る。リュウジがその直前に大きく身体をずらし、横の敵DFを押しやるようにしてスペースを開ける。壁の空白に蹴りこんでくると敵は考え、両側から体を寄せてきた。横に移動しながらだとジャンプが一瞬遅れる。阿部勇樹のボールはジャンプしきれなかった壁の上を越え、鋭い角度で落ちた。
入れ!
弾道に念力をかけるとゴール左上隅ぎりぎりに入った。1対2。よし。追い上げた。リュウジは仲間の祝福の輪には入らず、ネットに絡んだボールを取りに行く。
「どけ」
邪魔しようとする敵を振り払って。
センターサークルにボールを運びつつ、ベンチを見る。監督の言葉を受けたクズ兄ィが、「いいんですか」と念を押し、「いいんだ」と平義が答えたようだ。
クズ兄ィは不承不承ながら、アップしている五人の中の誰かに指示を送った。ベンチ前に戻ってビブスを脱ごうとしているのは鈴木啓太だった。
今度こそ代えられるのは俺だ。リュウジの予測は甘かった。監督は交代の残り一枠を使おうとしている。リュウジの二度目の独断専行に対する怒りの大きさを物語っていた。中央突破が相手のファウルを誘い、フリーキックで1点を挙げるきっかけとなったとしても、監督に「結果オーライ」を認める気持ちなどない。
あと2点を取るまでは、代えられたくない。
リュウジは開き直るしかなかった。監督の指示を完全に無視してヴィクトル・ロペスのマークから離れた。後ろから押し出す形で梶を前線へ追いやり、無理やりトップ下に入った恰好だった。
ベンチのクズ兄ィから「リュウジ!」と叱責の声が届く。監督の指示に逆らうのもいい加減にしろ、と言いたいのだろう。
リュウジは右サイドの石川直宏を生かそうとする。ワイドに展開する石川へパスを出す。大久保と田中達也と梶が、堰《せき》を切ってペナルティエリアに突入する。ボランチのアルスとシャビ・アロンソが戻るが、誰をマークすればいいのかと混乱する。石川のカーブのかかったクロスが上がった。飛び込むのは梶。バルデスがパンチングで逃れる。そのボールをリュウジが拾った。追いすがるアルスをフェイントでかわしてバランスを崩してやると、するするとDFの間を抜けた田中達也へ、短いスルーパスを通した。田中達也は足に絡みついたボールを、やや窮屈な体勢からシュートに結びつけた。バルデスにキャッチされた。惜しかった。
タッチラインに鈴木啓太が立った。ボードに背番号が打ち込まれる。交代させられるのは14番。やはり俺だ。
あとワンチャンスしかない。ボールがラインを割ったり、誰かがファウルをしたらプレーが止まり、交代となる。
三年前に国立でスペインと戦った時も、同じような局面があったことを思い出す。あの時は残り少ない持ち時間でゴールを決め、交代をさせなかった。
リュウジはドリブルで駆け上がる。大久保が前線から戻り気味になってクサビを受けようとしている。俺だけでなく大久保も、俯瞰でピッチを見ているに違いない。どこにスペースがあるのか、真上からの視点が備わっているかのように見渡せる。乗ってきた証拠だ。
彼とのワンツーをイメージした時、背後から厳しいチェックを受けた。ヴィクトル・ロペスだった。今度は奴が俺をマークし始める。リュウジは楽しくなってきた。しかし娯楽の時間はあとわずかだろう。
ボールを奪われた。リュウジは急いで戻る。ヴィクトル・ロペスは一瞬タメを作った。前線のどこに味方FWがいるのかとルックアップしたためだ。リュウジは追いつくことができて、そのパスコースを読んでスライディングにかかった。ボールはリュウジの足に当たって変な浮き方をして、ゴール前へ流れていく。
しまった! 曽ケ端が果敢に飛び込んでくる。ボールを追ってフェルナンド・トーレスが突進する。キーパーより早くボールに追いついたフェルナンド・トーレスがシュート体勢になり、曽ケ端の手が足にかかって倒れ、主審は笛を吹いてPKを宣告する……そんな一瞬後の光景をリュウジは鮮明に思い描いた。追加点を取られ、しかも俺は交代させられる。最悪だ。
と思った時、芝を滑ってくる曽ケ端がフェルナンド・トーレスより早くボールを捕まえた。フェルナンド・トーレスと交錯して、グラブからボールがこぼれた。すかさずフェルナンド・トーレスはゴールに押し込んだ。スペインのサポーターの歓喜は、主審の笛で遮られた。キーパーチャージだった。
追加点は許さなかったが、ゲームが止まってしまった。もう駄目だ。リュウジは膝を折りたい気分だった。振り向けば、14と電光表示のある下で鈴木啓太がピッチに立とうとしていた。
が、ベンチに別の動きが見えた。監督の指示を受けたクズ兄ィが慌ててベンチを飛び出してきて、鈴木啓太をライン際から下げたのだ。何が起こったのかと、彼らの視線を辿るように自陣ゴール前を振り返ると、ペナルティエリア内で曽ケ端が倒れたままだった。
もしキーパーが怪我をしているなら、残りの交代枠を考え、リュウジを交代させることはできない。
主審が日本のベンチに手招きをする。トレーナーが飛び出してきて、曽ケ端の状態を診る。リュウジはその場から成り行きを見守る。日本のサポーターから「曽ケ端コール」が起きる。控えキーパーの林卓人が慌ててアップを始める。曽ケ端は右肩を押さえて苦悶の顔つきだが、二度三度頷いた。トレーナーはやがてベンチに向かって○印を見せた。
曽ケ端は痛々しげに肩を回しながら起き上がる。監督はやはり鈴木啓太を下げるしかない。延長戦とPK戦に備えて、キーパーの交代枠は温存しなければならないからだ。少なくともこのゲームに限っては、監督は俺を代えることはできなくなったわけだ。曽ケ端には申し訳ないが、運がリュウジに味方した。
苦痛を堪《こら》えた曽ケ端のパントキックでゲーム再開となる。
梶がシャビ・アロンソとヘディングで競り合ったボールを、石川が奪った。中央で構えるリュウジにパス。みんながボールを集めてくれる。
首を振って視界にヴィクトル・ロペスを捉えると、本当にリュウジをマークしていいのかと迷っている様子だ。俺をマークすればスペインのアタッカー陣は手薄になる。1点差で残り十五分。守りに徹するにしては早すぎる。
左サイドの根本へ出し、彼がゆっくりとボールキープしている間に、リュウジは中央から左サイドへと大きく迂回する。リュウジは根本の背後を猛然とオーバーラップした。左サイドを走るなんていつ以来だろう。練習では一度も試したことのない攻撃パターンだったが、根本から縦にボールを受けたリュウジは左サイドをゴールライン前までドリブルする。ミニャンブレスがまとわりついてくると、鋭角的に中へと切れ込み、すかさず右足でクロスを上げる。ふわりと上がったボールは、ジャンプする梶にピンポイントで合ったかに思えたが、ジャンプのタイミングが一瞬早かった。それが幸いした。ボールにかろうじて触った梶は、頭で後方へすらす形になった。バルデスはクロスが上がった時からヘディングシュートを予測してニアに構えていた。梶の頭をかすめたボールはバルデスの頭上を越えてゴール前に落ち、いつの間にかファーに侵入していた大久保の足元に入ってきた。ボールウォッチャーになっていたラウール・ブラボのチェックが一瞬遅れた。大久保はインサイドボレーで確実に捉えた。ボールは横っ飛びのバルデスのグラブをかすめ、ネットへ転がった。
後半三十一分、同点弾!
大久保が空中でガッツポーズ。みんなが集まってきて歓喜の輪になる。リュウジはクロスを上げた位置で一人、拳を握りしめてガッツポーズをしていた。大久保たちの輪がそのままリュウジにやってくる。たちまちリュウジは呑み込まれた。
「行けるぞ、行けるぞ」
「行くぞ、行くぞ」
勝ちに行くぞ。勝てるぞ。みんなが口々に叫んでいる。
ベンチを見る。クズ兄ィが平義を振り返り、何か指示をした方がいいのではと、お伺いを立てる。リュウジをこのまま好きなようにさせるのか、止めるのか、確認をしようとしている。
平義は首を振った。攻め上がるなとリュウジに命じたところで無駄だと、諦めたのかもしれない。
2点を守りきれなかったスペインにみるみる焦りの色。こうなると追い上げる方が精神的に優位に立てる。センターサークルから放たれたボールに大久保が突進し、慌てたシャビ・アロンソの足元から奪った。敵は三枚で大久保を止めに来る。
大久保は倒された。ファウルではない。大久保は笑って地面から立ち上がった。今、俺たちはスペインを慌てさせている。日本の選手たちは皆、痛快な顔をしている。
延長戦を戦いたくないのは両軍とも同様だった。これに勝てば、次のゲームは中二日。延長戦で体力を消耗したくない。
監督の視野には「ドローで終えてPK戦」という選択肢があるのかもしれない。曽ケ端の状態を考えると、いまいましいがリュウジを代えられない、という気分だろう。
中盤での削り合いとなる。リュウジがボールを持てばヴィクトル・ロペスがチェックに来る。彼がボールを持てばリュウジがパスコースを消す。まるでチャンバラで斬り合っているようなサッカーだった。
ヴィクトル・ロペスは大きく展開しようと、ホアキンにサイドチェンジのボールを出す。疲れの見えるホアキンは追いつけず、ボールはラインを割った。ホアキンが自分に毒づく。ヴィクトル・ロペスが地面を蹴る。味方の選手が見えていない証拠だ。ヴィクトル・ロペスの悪い癖が始まっている。パスの精度も格段に悪くなった。前半からのマークがボディブローのように利いているのかもしれない。
日本はDFラインを押し上げ、「押せ押せ」の気分が高まっている。レジェスのスルーパスにフェルナンド・トーレスが飛び出してフリーになるが、日本の三人のDFが一斉に手を挙げる。線審が遅れ気味にフラッグを上げた。オフサイドだった。
コンパクトになった中盤でボールの奪い合いが続いている。後半も残り五分だった。
チャンスはヴィクトル・ロペスのパスミスから生まれた。阿部勇樹がカットし、梶とのワンツーで阿部が敵陣を切り裂いていく。ペナルティエリア前でDFを背負っている大久保へクサビを入れると見せかけて、右サイドの石川直宏へ出す。石川はDFの動きだしの速さを見て、ダイレクトでクロスを放り込んできた。ピンポイントで大久保がダイブする。繰り返し練習してきた得点パターンだったが、バルデスのスーパーセーブ。決定的チャンスを逃してしまった。
ロスタイム三分は、両軍とも安全なボール回しで終始した。
フィールドプレイヤー二十人は自分のエネルギーの残量を考え、延長戦に備え始めていた。
5[#「5」はゴシック体]
見上げれば、わずかな残光で縁取られた夜空。
リュウジたちはピッチに寝ころび、心臓の高鳴りをあやし、水分を補給し、マッサージを受けている。
今大会は、延長戦はサドンデスのゴールデンゴール方式ではなく、シルバーゴールで行われる。十五分以内に得点しても、残り時間、ゲームは続行する。
延長前半までの五分間の休息。クズ兄ィは曽ケ端の右肩の状態を確認している。
「何とか大丈夫っす」
腕を上げるとズキッと痛みが走るのか、顔をしかめる。ハイボールの処理が問題かもしれない。控えキーパーの林はすでに充分なアップを終え、いつでも出番OKだ。
平義監督は選手一人一人に入念なポジショニングの指示を終えたところだ。リュウジに対しては短く、「ヴィクトル・ロペスに前を向かせるな」と、戦前と同じ指示だった。勝手にトップ下を張ったことについて叱責はなかった。
「敵は延長戦で決着をつけてくる。PK戦にはしたくない。両サイドから揺さぶってくるだろう。ボールウォッチャーにはなるな」
クズ兄ィがDF陣に「オフサイドトラップには気をつけろ、あの線審は頼りにならんぞ」と続ける。
日本のDF陣がオフサイドを主張しても、旗を上げるのが一拍遅れることが多かった。
スペインはメンバーを代えてきた。フェルナンド・トーレスがアウト、ポルティージョがイン。イキのいいFWが入って前線が活性化するに違いない。
「シャビ・アロンソとサイドバック二人も盛んに上がってくるだろう。最終ラインはセンターバック二人とボランチ一人になる。タツヤだけは高い位置から離れるな」
監督が最後の指示を終えると、クズ兄ィの音頭で選手たちが円陣を組む。コーチやトレーナーも加わって、「行くぞ、オウ!」と声を上げて気合を入れ、散った。
延長前半十五分が日本のキックオフで始まる。
のっけからポルティージョが突っ込んでくる。梶はボールを下げるが、ポルティージョはエネルギーがあり余っている。日本はしばらく安全なボール回しで敵の様子を見ようとしたが、スペインはがつがつとやってくる。リュウジは左サイドをあがる根本へボールを出したが、突っ込んできたホアキンにパスカットされ、奪取された。
梶がケアに行く。ホアキンが中へ切れ込むことは許さない。ゴールライン際まで競走になる。スペインのアタッカー陣はうようよと前線に雪崩《なだ》れ込んでくる。
リュウジはヴィクトル・ロペスの肩に触れ、再び執拗なストーカーぶりを発揮する。
敵のセンターバック二人はハーフウェイラインまであがっている。総攻撃の様相だ。
ホアキンからのクロスは田中誠がカットした。右サイドの闘莉王に回す。そこにチェックしてくるのはナバーロ。リュウジがパスコースを作り、闘莉王からボールを受ける。ヴィクトル・ロペスがチェックに来る。リュウジはダイレクトで石川に出す。その瞬間に田中達也がオフサイドラインを越えて、石川からのロングフィードを迎えようとする。ラウール・ブラボが田中達也にぴったり付いていたので、石川は躊躇し、逆サイドにいる大久保へ展開した。駄目だ、それでは素早いカウンター攻撃にはならない。アルスもシャビ・アロンソもするすると戻って、鉄壁の構えとなる。
大久保のトラップミスしたボールをアルスが拾い、縦に鋭くヴィクトル・ロペスに出してきた。
リュウジは背中に貼りついて、ヴィクトル・ロペスを振り向かせない。ヴィクトル・ロペスは右足アウトサイドで、リュウジの右斜め後ろにいたレジェスにダイレクトで出し、自分はボールとは逆方向にリュウジを抜いて、再びレジェスからボールをもらった。リュウジは欺《あざむ》かれた。
ヴィクトル・ロペスはリュウジのチェックが来るより早く、前線のポルティージョにスルーパス。DF三枚はその時、フラットに位置していて、揃って手を挙げてオフサイドをアピールした。
当然フラッグが上がるだろうとスピードを緩めたのが、とんでもない危機的状況を招いた。
オフサイドは認められなかった。だからあの線審を信用するなと言ったのだ。クズ兄ィの呪詛《じゆそ》の声が聞こえた気がした。
ポルティージョは右サイドでフリーになっている。一番近い茂庭が猛チャージに行くが、すでに振り切られている。田中誠がゴール前を固める。闘莉王は突入してくるレジェスやヴィクトル・ロペスをカバーしなければならない。リュウジも懸命に戻った。ポルティージョと田中誠が一対一だ。足元の巧みなボールコントロールで最後の壁をかわそうとするポルティージョが、シュートコースを見つけた。誰もが強烈な弾道がネットを揺らし、シルバーゴールとなる光景を想像した。
田中誠はたまらず身体をぶつけていく。手がユニフォームにかかる。高貴な「赤」が伸びた。のけぞるポルティージョは豪快に芝に倒れた。主審の笛が鋭く鳴り響いた。
その時、リュウジも梶も「やってしまった」と天を仰いだ。主審は胸ポケットのカードを出そうとする。田中誠は毅然としてその宣告を待つ。イエロー覚悟のファウルだったに違いない。ポルティージョを「どフリー」にしてしまったあの状態では、PKにした方がまだ防ぎようがあると究極の選択をしたのだろう。
主審が田中誠の鼻先にカードを突きつけた。
レッドカードだった。
「ちょっと待てよ!」
田中誠だけでなく、他の選手も主審に詰め寄る。ポルティージョは仲間に祝福されている。
「今のは違うだろう。今のでレッドカードかよ」
日系ブラジル三世の闘莉王は、ポルトガル語で「頼みます、お願いだから」と拝み手で哀願しているが、主審は「離れろ」と手で追いやる。胸から出したシートに書き込み、田中誠には早くピッチから出るように促す。
流れ落ちる汗を拭い、達観の顔つきでピッチを出て行く田中誠は、キャプテンマークをリュウジに渡した。
「曽ケ端に渡してくれ」
リュウジが受け取ると、ポンと頭を叩かれた。田中誠は「後を頼むぞ」と言い残して、ラインを越えていった。敵のPKになってしまった以上、後などないに等しい。リュウジは曽ケ端へ歩み寄り、「お願いします」と渡した。さすがの平義も立ち上がっている。クズ兄ィも呆然たる表情で、これからのPKを見守る。
ボールをプレースしたのはホアキンだった。その時、リュウジはひとつ企んだ。
キャプテンマークを付けて、味方を誰も寄せつけず集中しようとしている曽ケ端に、「俺、ホアキンの癖ならよく分かっています」と告げた。
曽ケ端は「いいんだ。聞きたくない」と言う。予備知識はかえって直感を妨げる。
「そう言うと思ってました」
「……?」
曽ケ端がリュウジを見やる。リュウジが微笑み返して後ろをちらと振り返ると、案の定、ホアキンがこちらを気にしていた。
俺のPKの癖を知っているリュウジが、キーパーに何か吹き込んでいるのでは……と疑心暗鬼になった顔だ。
「どっちに蹴ってくるか、俺もよく分かりません」
リュウジは曽ケ端にそう言い残し、ゴール前からペナルティエリア外へ去る。曽ケ端はリュウジの企みに気づき、まるでホアキンの癖を知らされたかのように、わざと大きく頷き返した。
ホアキンは「何を喋っていたんだ」とリュウジに問いただすような目をしている。
リュウジはホアキンの横を通りすぎる時、スペイン語で言ってやった。
「忘れろ、もう二年前のことだ」
ホアキンがぴくりと反応したのが分かった。二年前の日韓ワールドカップ、韓国戦のPK失敗のことを言ったのだ。彼は涙で光州を去った。あのトラウマからやっと立ち直ったホアキンだ。
「今度は大丈夫さ」
ホアキンが火を放つような眼差しで一瞥する。リュウジはにやりと微笑みかける。失敗の記憶を無理やり引きずり出してやった。主審が笛を吹いた。
曽ケ端は大きく両腕を広げ、自分を大きく見せようとする。スタンドからはスペイン人のサポーターの歓声が降ってくる。日本人のサポーターは「曽ケ端コール」だ。
ホアキンの一歩目はゆっくりだった。二歩目から爆発的にボールに向かう。思い切って蹴ってくるとリュウジは確信した。曽ケ端の右に飛んでいくだろう。ホアキンが蹴る直前まで曽ケ端は動かなかった。ホアキンのインステップがボールの下に入った瞬間、曽ケ端は右へと飛んだ。渾身の力で放たれたボールは、リュウジと曽ケ端が予感した通り、右に飛んできた。曽ケ端は腕に当てた。正面にこぼれた。フィールドプレイヤーが群がる。リュウジも足を繰り出してクリアしようとする。阿部勇樹が大きくタッチライン外へ蹴りだした。
ホアキンのPK失敗。ガッツポーズの曽ケ端に、リュウジたちが群がる。両手で頭を抱えていたホアキンが食い殺さんばかりの表情でリュウジを睨み付けた。
攪乱作戦は成功した。PKほどちょっとしたメンタルで左右されるものはない。ホアキンと同じチームにいたことがここで役に立った。
ベティスの練習に戻ったらヤキを入れられるかもしれない。
日本は絶望の淵から甦った。しかし田中誠を欠いて十人だ。平義がライン際から指示を送ってくる。根本をバックラインに下げ、石川にもサイドバックの盛んな上がりを抑えるように言う。延長の残り時間を十人でしのぎ、PK戦にすべてを懸けることで意志統一された。
守る。徹底的に守る。田中達也も自陣に戻った。スペインはボールを支配できても、ジャパンブルーの密集地帯をこじ開けることができない。
こうして延長前半が終わった。
すぐにエンドを替えて延長後半が始まる。スペインは自陣にラウール・ブラボ一人を残して攻めてくる。
スペインは遠目からシュートを打ってくるようになった。ふかしたボールはゴールの遥か上を越えていく。スペインは相当に焦っている。日本にとってはあと十三分をしのげば勝利の芽が見えてくる。リュウジはヴィクトル・ロペスに絡みつくことだけを考える。一年分の守備を今、やっているような気がする。
レジェスがドリブルでくる。フェイントにキレがないから、すぐにDFにブロックされる。疲労が足元のキレを奪っているのだ。
プレーが止まると、リュウジもさすがにくらっと眩暈《めまい》を覚える。ポルティージョのボールをスライディングで外に出した茂庭が、苦悶の顔つきで足を伸ばしている。つりかけたらしい。闘莉王が伸ばしてやる。主審がピッチの外に出そうとするが、茂庭は「すぐ立てますから」と懇願する。時計を進めたい。
その間、両軍の選手は水をあおる。
スペインのスローインからゲーム再開となる。あとはラッキーチャンスに期待するしかないのだろう、スペインはゴール前にボールをふわりと入れてくる。足をつりかけた茂庭が必死にジャンプしてヘディングでクリアする。
放り込まれて、跳ね返す。その繰り返しだった。
ハーフウェイラインあたりで敵DFを背負っていた田中達也にクサビが入った。梶に返し、田中達也は反転、敵陣を走る。梶からのパスは通ったものの、ラウール・ブラボが並走している。抜かれたらキーパーと一対一になるからラウール・ブラボも必死の形相だ。田中達也はファウルすれすれのチャージを受けて倒された。
あと五分を踏ん張れ。
あと三分をしのげ。
主審の笛が鳴る。今のは何だ。リュウジはかすんだ目を凝らす。闘莉王がポルティージョをペナルティエリア外で倒してしまったのだ。くそっ、そんな場所で倒してしまったか。
これがラストのワンプレーだ。これをしのげば……。
日本の選手たちは全員、ゴール前を固める。七枚の壁だった。曽ケ端がポスト脇に立って位置を指示する。人と人の間に視界を確保する。壁はなるべくキッカーに近寄ろうとする。主審が「ここまで下がれ」と厳しい顔で命じる。リュウジは突っ込んでこようとしているホアキンをケアする。さっきのPK失敗をリュウジの野次のせいにしているホアキンは、張り手でリュウジを遠ざけようとする。リュウジも両腕で囲い込むようにホアキンをブロックする。
キッカーはレジェスか、シャビ・アロンソか。
笛が鳴る。シャビ・アロンソが先に動いてボールをまたいだ。レジェスが左足で蹴った。ボールは曲線を描いてゴール右上隅へ。曽ケ端が飛んだ。グラブをすり抜けた。ポストとバーの角が「カン!」と鳴った。戻ってきたボールをホアキンが胸でトラップした。リュウジは足元に入れさせない。ゴール前が混戦状態になる。獣の叫び声がゴール前に横溢する。全員の血が沸騰している。誰かが蹴りだした。中途半端なクリアボールだった。シャビ・アロンソがボレーで振り抜いた。枠を越えて行った。
緊張状態から解放されて、夜空を仰いで大きく息継ぎをした時、主審の笛が三度、長く鳴った。
延長戦を終えて2対2のドロー。遂にPK戦だ。
キッカーの順番は、前日練習の時に決められていた。決勝トーナメントから導入されるPK戦に備えて、たっぷりその練習に時間を費した。
トップバッターは明神だったが、交代しているので阿部勇樹。二番目が田中誠だったが、退場になったので根本。三番目に大久保。四番目に梶。五番目に茂庭。リュウジは、五人で決まらなかった場合の八番目だったが、六番目に繰り上がったことになる。
クズ兄ィが曽ケ端の肩の状態を訊いている。「大丈夫です」と血走った目で曽ケ端は答える。痛みなど感じないほど張りつめているのだ。監督は林に代えようとはしなかった。すべてを曽ケ端に懸けた。
PK戦のためのゴールは、スペイン人のサポーターが裏に陣取っている方になった。日本には不利に思えるが、スペインのキッカーはその声援をプレッシャーと感じてくれるかもしれない。
曽ケ端がポジションにつく。スペインの最初のキッカーはレジェスだった。スタンドの一万五千人、選手たち、大会関係者の視線が集中する。
笛が鳴った。レジェスは小刻みな助走から、思い切りゴール右隅に蹴りこんできた。曽ケ端はコースを読んだものの、ボールの速さについていけなかった。スペインがまず成功。
バルデスがゴール前に代わって立ち、阿部勇樹と相対する。リュウジたちは横一列になって手を結び、阿部勇樹が丹念にプレースしたボールに「気」を送り込む。
ゆっくりした助走から、阿部勇樹は蹴った。左に動いたバルデスの逆をつき、ほぼ正面へ、強烈に叩き込まれた。日本も成功。
曽ケ端が立つ。二番目のキッカーのシャビ・アロンソがボールを置く。大きなストライドで助走、キーパーの動きをぎりぎりまで見て右足インサイドでゴール右に蹴りこんだ。曽ケ端は反対側へ飛んで倒れている。
バルデスが立つ。根本がボールの空気穴を確かめて芝に置いた。リュウジは悪い予感がした。そこから見る後ろ姿、両肩がやけに角張っている。根本の緊張が悪い方へ転がらないことを祈った。助走に入る。左足からボールが放たれた。バルデスは左へ飛んだ。根本の蹴ったボールはそのグラブを越えたが──。
ああっと全員が呻く。枠から外れてしまった。
両手で顔を覆って立ち尽くす根本。スペインのサポーターの大騒ぎ。根本は仲間に顔向けできずに俯いて戻ってくる。リュウジが真っ先に近寄って、その背中をポンと叩いた。
三番目のキッカーのヴィクトル・ロペスは難なく決めた。
大久保もトップスピードで右足を振り抜いて、豪快に決めた。
四番目のキッカーはホアキンだ。リュウジはもう、気持ちをかき乱すような言葉をかけたりしない。これも外したら、ホアキンはまた長いトラウマに苦しむかもしれない。同じベティスのチームメイトとして、雑音のない勝負の場に置いてやりたかった。
ホアキンが助走に入る。インパクトの瞬間に曽ケ端は左へ飛んでいた。完全に誤った。ホアキンのボールは右のポストをかすめてネットを揺らした。曽ケ端は地面を叩いて悔しがった。
梶がボールを手にし、ポイントに置き、バルデスを見据えながらゆっくり下がる。これを外したら日本の敗北となる。
頼むぞ、梶。
ボールを置いて助走の距離に下がるまではゆっくりした動作の梶だったが、主審の笛が鳴るや一気|呵成《かせい》に駆けた。その勢いにバルデスは呑まれたに違いない。一瞬の判断が遅れて、飛んだ方向は間違っていなかったが、ゴールを許した。
五番目はポルティージョ。これを曽ケ端が止めなければ、日本は終わりだ。
ゴール裏のスペイン人サポーターが歓喜のための準備をしている。マノーロおじさんは二度三度と太鼓を鳴らしたが、あとは勝負を静かに見守る。
ポルティージョがボールとキーパーを交互に見やり、主審の笛を待つ。
鳴った。駆けた。蹴った。曽ケ端は左へ飛んだ。逆をつかれた。ボールはゴール正面に向かう。曽ケ端は手でボールに触れることはできなかった。しかし左足が触れた。ボールは跳ね上がり、無情にもポルティージョの足元に返ってきた。
日本人サポーターが沸く。リュウジたちも口々に雄叫びをあげる。神がかり的に左足一本でボールを止めた曽ケ端が、飛び上がってガッツポーズをしている。
茂庭がみんなに気合を入れられ、キッカーの位置に立つ。
バルデスが黒髪をかき分け、蜘蛛《くも》のように両腕を広げて立つ。これを止めたらスペインの勝利だ。
茂庭がボールへと突進する。インパクト。ボールの下から芝が飛んだのが見えた。あっ、ふかした、とリュウジは思った。ボールはバーを叩いたが、運良く内側を叩いてゴール内で跳ね、ネットを揺らした。茂庭は心臓に手を当てて安堵している。
4対4でサドンデスになる。
六番目のキッカーにアルスが立つ。曽ケ端はアルスが入念にボールを手の中で回し、置き方を考えている間、目を閉じ、精神を集中している。
アルスが下がる。曽ケ端が澄みきった目で迎える。きっとコースが見えたに違いない。リュウジにも見えた。アルスがPKを蹴る時のコースは決まっている。ボールにややカーブをかけ、左隅に決めてくる場合が多い。曽ケ端にそれを教える暇はなかった。教えたらアルスは逆を狙ってくるかもしれないし、曽ケ端の精神集中に水を差したくはなかった。
アルスが走った。やはりそうだ。力いっぱい振り抜いてくる。左にくるぞ。曽ケ端が飛んだ。ドンピシャの方向だった。曽ケ端のグラブがボールを外へ弾き出した。
アルスはがっくり膝を折る。
日本人サポーターが沸き立つ。リュウジに出番が回ってきた。これを決めたら勝利だ。仲間の元に戻るアルスとすれ違う。集中を保つため顔を合わせなかった。ボールを受け取って、空気穴を下にして置く。ゴール前に歩み寄ると、すべての雑音がボリュームをしぼったように消えてゆく。ゴール前にそびえるバルデスと見合う。その視線を跳ね返し、一歩二歩三歩と下がる。
深呼吸をひとつ。余分な緊張感を吐き出した。その時、不意に脳裏をよぎったのは、和風スナック「よしこ」に隣接する月極め駐車場の風景だった。
薄暮だった。駐車場の壁にチョークでゴールの枠を描いた。日本対イタリアのPK戦を一人でやった。日本側のキッカーは誰だったっけ。カズがいた。中山がいた。武田もいたし、ラモスもいた。五番目のキッカーが志野リュウジだった。
「やりました、日本代表、ワールドカップ優勝です!」
リュウジはチョークで描かれたゴールにボールを放り込んだ後、一人で駐車場を跳ね回り、歓喜した。
「何やってるんだ、リュウジ」
いつもより帰りが早い父が道にいた。リュウジはバツが悪かった。休みになると河川敷でボールを蹴ろうと誘う父に、いやいやながら付き合っていた頃だ。実はサッカーの面白さを知り始めていた。二十回を超えたリフティングも父に見てほしかった。
「河原に行くか?」
リュウジは初めて素直に頷いた。
父さん、どこでこの試合を見ているんだ? ひょっとしたらスタンドにいるんじゃないか? 見ていてくれ、あの時と同じコースに蹴ってやる。いくらキーパーがコースを読んでも、触れることもできない速さで蹴ってやる。
笛が鳴った。誰よりも長い助走だった。蹴る直前、バルデスの動きが目に入った。正解だ。そのコースだ。リュウジは渾身のインステップでボールをとらえた。ボールの模様が見えるほど回転のないボールがゴール左隅に襲いかかる。バルデスが地面に沈んだ時には、ネットはちぎれんばかりに膨らんでいた。
主審の笛が長く鳴る。
勝利を実感した時には、後ろからドッと仲間に抱かれ、絶叫の真っ只中にいた。
高貴な「赤」たちが芝に沈むのが見えた。このゲームでひとつずつPKを失敗したベティスのチームメイト二人ががっくりうなだれている。
整列して、サポーターたちに一礼をする。
ヴィクトル・ロペスが歩み寄ってくる。ユニフォーム交換をリュウジに申し入れた。リュウジは快く上半身裸になった。
「メスタージャでまた会おう」
バレンシアのホームスタジアムで彼と対決できる時を、リュウジも心待ちにした。
再び仲間とハイタッチをする。リュウジはしゃくれた顎で満面笑顔の曽ケ端に問う。
「肩は大丈夫ですか?」
曽ケ端は周りを見て、監督やコーチたちの耳に入らないように、こう答えた。
「お前のプレーを、もっと見たかったから」
茶目っ気たっぷりな顔だった。そうか。俺を交代させまいとして、曽ケ端はフェルナンド・トーレスと激突した後、ダメージが大きいような芝居をしてくれたのだ。
曽ケ端は口の前に指一本を立てる。誰にも内緒だぞ、という意味だ。
リュウジは平義の背中を見た。振り返って何か言ってほしいと思った。
コーチたちと握手を交わしてグラウンドを去る平義監督が、リュウジの視線に気付いたかのように、立ち止まり、振り返る。
静かに勝利の喜びを噛みしめていたのかもしれない監督は、リュウジの顔を直視した。
その間、二秒。
次の瞬間、彼は何も見なかったかのように視線をそらした。
今のは反逆者への怒りが燻る顔つき……ではなかったか?
歓喜の奥から冷たいものが立ち昇ってくるのを、リュウジは感じていた。
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リュウジに命じたヴィクトル・ロペスへのマンマーク。平義が本性をあらわにしたと思った。
リーガ・エスパニョーラのバレンシア戦で、リュウジがヴィクトル・ロペスの動きを徹底的に封じた試合を見て、平義はリュウジの利用価値を見つけたに違いない。
自分が監督でもそう命じるだろうと、礼作は思う。
礼作はその夜も、敵国の人間が多く集まる六本木プリンスホテル裏のバーでゲームを見た。スペイン大使館の職員が多く集まるレストランバーは、こんな粗野な連中が大使館で働いているのかと思うほど、国旗を振り回し、ラテンの血を沸騰させた連中が占拠していた。
礼作は歓迎された。スペイン人たちは「日本はここまでよくやった」と、ゲームが始まる前から自国の勝利を確信していて、日本人の客にも寛容だ。しかし客によっては、日韓ワールドカップで足元をすくわれたことを忘れたわけではない。
「あれは韓国のホームでやられた」
「エジプトとトリニダード・トバゴの審判にやられた」
だから今回の日本戦には何の不安材料もない、と思い込もうとしている。
シャビ・アロンソのミドルシュートが決まって、スペイン先制点。店が大歓声となる。
リュウジの上がりによってヴィクトル・ロペスがマークを逃れ、前半終了間際に2点目。理想的な勝ちゲームのパターンだった。
店にいるスペイン人は余裕の表情で、礼作を含め、三人の日本人にビールを奢ってくれた。礼作はありがたくご馳走になり、むき出しにしたい闘志を押し殺し、後半も代えられずピッチに立ったリュウジに、「お前がやるしかない」と呟きかけた。
そして反逆のドラマが始まった。リュウジが突如、ボランチの位置から上がって梶を3トップの位置まで押し上げ、ゲームのタクトを振るい始めた。
リュウジの突破が相手のファウルを誘い、阿部勇樹のフリーキックが決まって1点追い上げた。店に暗雲が漂い始めた。日本人の客の一人が「今度はこっちが奢りましょうか」などと言い出す。余計なことは言わない方がいい。
鈴木啓太がピッチの外に立ち、実況アナウンサーが「どうやら志野リュウジが交代となるようです」と残念そうに告げた時、礼作は「国立の時と同じだ。行け、リュウジ」と念じた。
ゲームが途切れるまでに結果を出せ。お前ならできる。
しかしリュウジの闘争心は空転するばかりで、プレーが止まり、もう駄目かと思った。天佑はその後に待っていた。フェルナンド・トーレスと激突した曽ケ端のダメージによって、平義はあとひとつの交代枠を温存しなければならなくなった。
そして同点劇。左サイドを駆けるリュウジからクロスがあがり、梶が頭で後ろへすらすと、ボールが大久保の足元に入り、後半三十分すぎに追いついた。
店の中はどよめきから静寂へ。日本人は険悪な空気を悟って、隅っこで地味に喜んでいた。
延長戦で田中誠が一発退場。PKキッカーはホアキンだ。リュウジが曽ケ端に何やらアドバイスを送り、その後ホアキンとすれ違いざま、一言声をかけた姿をテレビカメラがしっかり捉えた。
礼作はにやりと笑みをこぼす。チームメイトにどんな悪魔の囁きをしたのだろうか。
「他の奴に蹴らせろ!」
そう叫ぶスペイン人の客がいる。日韓ワールドカップ、PK戦失敗の悪夢を思い出したのだ。
その再来、ホアキンは失敗した。店の客たちの悪態を聞いていると、帰国後、マスコミから袋叩きに遭うであろうホアキンに同情の念を禁じ得ない。
延長戦が終わり、PK戦になった。一人ずつ失敗してサドンデスとなり、六番目のキッカーのアルスが曽ケ端の読みに屈した。
テレビカメラは、ボールをプレースするリュウジの顔を大写しにする。
礼作は無意識のうちに、キリスト教の祈りの仕種をしている。合わせた両手に力が入り、血の気を失っている。
思い出せ、「よしこ」の隣の月極め駐車場だ。壁をゴールに見立ててPK戦をやった頃を思い出せ、リュウジ。
「やりました、日本代表、ワールドカップ優勝です!」
薄暮の駐車場で跳ね回るリュウジに、「何やってるんだ、リュウジ」と、さも今帰って来たように声をかけた。実は、日本対イタリアの「一人PK戦」をやっている中学一年のリュウジを、ずっと道端から見ていたのだ。父親が教えるサッカーにいやいや付き合っていたかのように見えたが、実は一人でサッカーの楽しみを見つけてくれた。それが嬉しかった。
「さあ、ベスト4へ、決めてくれ志野リュウジ!」
実況アナウンサーが芝居がかった大声を上げた。
リュウジの右足から放たれたボールがネットを揺らすと、礼作は千円札を二枚置き、「釣りはいらない」とマスターに告げて、絶望の怨嗟が飛び交う客たちの間をすり抜け、薄明の街に出てきた。
いくらスペイン人の厭味にさらされても、もう少し店で、六時間の時差の彼方にいるリュウジと歓喜を共にしてもよかった。
立派になったな、リュウジ。
お前は一人で立派になってくれた。
別れて生きてきた父親としては、それは喜びだけではなく、自分への罰のようにも思える。
リュウジは仕事を果たした。今度は俺が仕事を始める番だと、礼作は興奮の余韻の中で思った。
高校サッカーとなると、真夏の練習は控えるのか、あるいは涼しい田舎で合宿でもしているのだろうか。
校門は開放されていたが、校庭はだだっ広い無人の空間でしかなかった。
ゴール隅にサッカーボールがひとつ落ちていたので、リュウジに教えていた頃の感覚を思い出し、たらたらとドリブルしてから、インステップキックで遠くへ蹴り上げてみた。
ボールは変な回転がかかって、ぶざまな飛び方をした。
「またお会いしましたね」
背後から声がかかった。
振り返ると、麻地のカットソーと七分丈のパンツに身を包んだ平義真理子がいた。足元はスーパーで買った安物のサンダルではなく、遠足に適したようなスニーカーだった。
自宅からは交通は不便なはずだ。自家用車を運転してきたのかもしれない。
「きっとあなたにお会いできると思っていました」
礼作は含み笑いで言う。不遜な印象を与えない笑顔を浮かべたつもりだ。
思った通りだった。夫がひとつ成功の階段を昇るごとに、彼女は過去に立ち返ろうとしている。
礼作は、今度会ったら手の内をさらけ出そうと思っていた。小細工はなし、正面からぶつかるべき時だ。
「偶然、ではないんでしょうね」
彼女の疑惑は当然のことだった。
「僕はあの中学の出身者ではありません。嘘をついてました」
真理子はこっくり頷く。そんなこと分かっていましたよ、と言いたげに。
「ちょっとした知り合いがあの中学の出身者で、その人の原点とも言うべき場所を訪ねてみたかったんです」
「ちょっとした知り合い……」
「はい」
「その人は、この高校の出身者でもある」
「そうです」
「わたし、誰だか分かります」
「昨夜の勝利、おめでとうございます」
真理子はふふっと照れ笑いのような、自嘲のような、妙な笑い方をした。
「四年前、ご主人がドイツにいらした頃、インタビューさせてもらいました。時任礼作といいます」
「平義真理子です」
「中学の校庭でお見かけしたのは偶然ですが、スーパーで声をかけたのは偶然ではありません」
あなたの素性を確かめたくて尾行してしまいました、と謝る。
「主人について、わたしから何を知りたいんですか?」
「中学から高校まで、同級生でいらしたそうですね」
真理子は言葉を選ぶような間を置いて、ええ、と答えた。
「大学まで一緒でした」
「確か、筑波大学」
「そうです……」
真理子の目が宙に泳ぐ。思い出したくないことが大学時代にあるのかもしれない。ますます興味が募る。
誰かが支えてやらなければならないと、真理子の細い体を見て思う。自分はこの女の魅力に引き寄せられているようだ。いつか自制の必要があるかもしれない。
「日陰に入りましょうか」
校舎の方へ誘う。今日も最高気温三十度を超える炎天だった。夕方にはひと雨くるだろう。
建物が近づくにつれ、吹奏部の練習なのだろうか、楽器の音が聞こえてくる。体育館の方からはバスケットボールのドリブルの音が聞こえた。
「何か飲みませんか」
自動販売機があった。ただの水がいいと言うので、真理子には小さなボトルのミネラルウォーターを、自分にはコーラを買った。
「知りたいのは……」
真理子の質問にまだ答えていなかった。「平義さんの根っこについてです」
「根っこ」
初めて発音する単語のように、真理子は呟く。
「四年前にインタビューした時、話してくれませんでしたか?」
「通り一遍の取材しかできませんでした」
「誰が訊いても、決して話さなかったでしょうけど」
話せないほど重要なものが潜んでいる、ということか。
「奥さんにうかがったら、答えていただけるでしょうか」
「……今朝、自宅に何人か記者の方がいらして、ちょっと迷惑しました。『わたしには何も話すことはありません』と言って、さっさと家を出てきました」
オリンピック日本代表をベスト4に導いた平義、その妻からコメントをもらおうと、女性誌の記者あたりが押しかけたのだろう。そういう輩《やから》と一緒くたにされたら、礼作には望みがない。
だが真理子は礼作からもらったミネラルウォーターをうまそうに飲み、しばらく日陰で涼むつもりだ。
「中学から大学までの付き合いについて、喋ればいいんですか?」
「差し支えない範囲で、是非」
「他愛もないことばかりですよ」
話してくれることは嬉しいが、何やら投げやりで無防備な言い方に聞こえたので、一言注意しておこうと思った。
「他愛のないことでも、色をつけて活字にする人間がこの世にはゴマンといますから、気をつけた方がいいですよ」
真理子はぽかんと礼作を見た後、口元が綻ぶ。「気をつけてインタビューに答えた方がいいなんて、変わったマスコミの方ですね」
言われてみればそうだ。礼作も苦笑する。
「時任さんは、色をつけて活字にするような人には見えませんから」
「どうかな」
一度会っただけで判定はできません、と言いたかった。何たってあんたの目の前にいるのは、息子の独占インタビューで金儲けをしようと企み、息子から「俺、父さんを捨てるよ」と告げられた男だ。
「スーパーで助けていただいたお礼も、まだでした」
「そこまで恩に感じなくても、結構ですよ」
計算ずくで保安員より先に声をかけたわけではないが、意識下にそういう計算があったのではないかと、礼作は自分を疑う。
「どこからお話ししましょうか」
「思い出したものから」
「……メモ、取らなくていいんですか?」
いろいろと心配してくれる。
「大丈夫です。覚えます」
それが礼作の取り柄だった。インタビューの相手は、ノートもレコーダーも持たない礼作を心配するが、後で「言ったことと違う」というクレームは受けたことがない。
昼に何を食べたかはすぐ忘れるが、仕事相手の言葉は正確に記憶回路に刻まれる。特殊技能と言ってもよい。
真理子は遠くを見る目になった。その視線の先を辿る。校庭と外の道を遮る高い緑色のネットしか見えない。
真理子には見えすぎるものがあるのだろう。
遠い過去を現在に引き寄せる第一声は、礼作にとっても聞き慣れた苗字《みようじ》から始まった。
「志野君のプレーを見ていると、昔の夫を思い出します」
父親は高度成長時代を支え、オイルショックに耐え、バブル景気を知ることなく定年を迎えた商社マンで、中東諸国の勤務が多かったという。
平義少年は一度も外国暮らしをしていない。一人っ子で、ひたすら海外勤務の夫の帰りを待つ母親との、母子家庭のような生活が長く続いた。
大手商社マンなら夫婦同伴の海外赴任が常識なのだろうが、体が弱かった母親には砂漠での暮らしなど無理と、父親は諦めたらしい。
白黒の「ウルトラQ」がテレビ体験の最初。礼作とほぼ同世代。四年前のインタビューもその話から始めていたら意気投合していたかもしれない、と礼作は思う。
平義少年は中学二年でFWのレギュラーだった。
体は細かったがスピードがあった。左足のシュートも武器だった。今の日本選手にたとえれば、アントラーズの本山雅志タイプだろうか。
真理子はサッカー部のマネージャーをしていた。だから美しいスローインぐらいならできるのだ。
「サッカー部の人気選手とマネージャーなんて、とってもベタな感じですけど」
真理子は自分を小馬鹿にするように笑った。
意外にも平義は、個人技でドリブル突破をするFWだったという。前傾姿勢でゴールに突き進んでいく姿が、リュウジを彷彿とさせるらしい。
「志野君のプレーって、風を切る音が聞こえてくるみたいです」
ほめ言葉だったから、礼作は父親として喜んでもよかったが、リュウジの父親であることまで明かす必要はない。
「今でもよく思い出すゲームがあります。何かの大会の決勝戦です。平義は一人で前半に2点取りました。相手を三人抜いてシュート、フリーキックからもう1点……独壇場でした」
ところが後半になって、敵のコーナーキックで平義も自陣に戻り、相手のマークについた。そこで敵の大型選手をひき倒してしまい、PKを与えて1点差にしてしまった。しかもその後、接触プレーで二枚目のイエローをもらって退場。一人少なくなったばかりか、平義という大黒柱を失ったチームは立て続けにゴールを許し、逆転で負けた。平義のひとり相撲のようなゲームだったと言う。
「だとすると、平義さんは少年時代の失敗を糧《かて》にして組織サッカーに傾いていった……ということでしょうか」
「さあ、どうでしょうか。そもそもわたしには、組織でするサッカーにどうして『組織サッカー』という言葉があるのかも、よく分からないんです」
なるほど、そういう見方もある。選手の個性を殺す平義サッカー、と世間で言われることへの、妻なりの反発なのかもしれない。
「夫婦の会話の中で、例えば『あの頃のサッカーが今の指導につながっているの』とか、そういった話は?」
「わが家の食卓にはふさわしくない話です」
「そういうものですか」
夫婦が寄せ鍋を間にしているが、グツグツと煮える音しか聞こえない食卓が想像できた。
「青春時代を共有しているのに」
真理子は小さく頷く。礼作はそれ以上、突き詰めることはしない。
ギリシャ戦のリュウジは、自分のミスから失点を許したものの、起点となって同点弾を生み出した。かつての平義も「お前で始まってお前で終わったようなゲーム」と仲間にからかわれたに違いない。
平義のサッカー観の奥底が垣間見える話である。と同時に、平義夫妻には、蓋をしたくなるような共通の過去があるように思えてならない。いくら長年連れ添った夫婦でも、それについて食卓の話題にするのは躊躇《ためら》われる、といった類の過去だ。
勘繰りすぎだろうか。
真理子は平義と同じ高校へ進んだ。二人は将来を誓い合ったわけではないが、その頃にはすでに付き合っていたという。
「あなたのご両親は反対しませんでしたか?」
男を追いかけるための進学。普通の親なら、「そんな不純な理由で進学を決めていいの?」と言うだろう。
「わたしの学力レベルより高い学校だったんです。むしろ両親は頑張れって言ってくれました。彼と付き合っていることは合格するまで話しませんでした」
だけど、と真理子は声を沈ませた。
彼女は言語中枢を断ち切られたように、黙りこくった。
「……だけど?」
随分と待ってから、礼作はそっと促した。
「妹だけは……」
消え入りそうな声で言う。「わたしの進学理由を知っていたから、陰で笑っていたでしょう」
「妹さんがいらっしゃる」
「はい」
真理子とは対照的に、眼差しに不安定なものはなく、しっかりと自分の進路を見据えて参考書を開き、「男を追いかけるために勉強するなんてバッカじゃない」と姉を蔑《さげす》む少女を、礼作は想像した。
平義は一年でFWのレギュラーとなり、二年生になると頭脳的なトップ下の選手としてチームの大黒柱となった。三年で全国大会に出場、ベスト8まで勝ち上がり、大雪の中で優勝候補と激突、完膚無きまでにやられた。
「まるで雪合戦のようなゲームでした。大量失点で負けて、みんな泣きじゃくっているのに、彼だけはただ体から湯気を放つだけで、目は渇ききっていて……悔しくないの、悲しくないのって、わたし、肩を掴んで揺り動かしてやりたかった」
敗れはしたものの、平義のプレーは大学サッカーの関係者の目に留まり、筑波大学に誘われた。スポーツ特待生という枠がなくても、平義は受験勉強を勝ち抜けるほど秀才だったという。
真理子も必死に勉強して筑波大に進学できた。
「あなたにとっては、彼がすべてだったんですね」
「ええ。まるで自分の人生じゃないみたいです」
つくづく自分を客観視することが癖らしい。「相手公認のストーカーと言ってもいいですね。彼の行く所には必ずいました。練習でも、遠征の試合でも……」
「卒業したら結婚しようと約束を?」
「わたしは彼しか男性を知りません」
客観視できるから、そんな際どいことも口にすることができる。
「あえて言わなくても、分かりますよ」
真理子から「そうですね」と、茶目っ気を含んだ微笑みが返ってくる。
「……でも、彼は違いますけど」
中学時代から付き合ってきた真理子以外に、交際した女性がいたということか。あるいは、結婚後、留学先のドイツあたりで、平義は浮気のひとつでもしたという意味だろうか。
その件について詮索するつもりはなかった。
「見てみますか、彼の高校時代を」
真理子は校舎へ歩きだす。校歌が彫られた大きな碑がロータリーに置かれている。生徒が開けっ放しにしたのか、正面玄関のガラス扉が開いたままになっている。
学校の卒業生という気安さで、真理子は玄関をくぐり、校舎の中へと礼作を案内する。
この学校の唯一の勲章なのかもしれない。二十七年前の高校サッカー全国大会の記念品が、壁やガラスケースの中に展示されていた。
色あせた当時の平義のカラー写真が、一番光の当たる場所に掲げられている。雪の降りしきる泥だらけのグラウンドで渾身のシュートを放った瞬間を、望遠レンズが捉えた。今の平義と印象は変わらない。高校生なのに大人びた横顔だ。
ガラスケースの中に鎮座するのは、寄せ書きのされたサッカーボール。当時のユニフォーム。対戦相手からもらったペナント。平義が使っていたのだろう、10番のリストバンド。
平義の写真に目を戻し、探りを入れてみる。
「平義さんもよくここを訪れるんでしょうか」
「いえ、結婚してからは一度も」
予想していた返答だった。平義はこの時代を封印しようとしている。
隣のパネル写真を見る。全国大会進出を決めた時の、選手とマネージャーと応援団の集合写真だった。
神奈川県大会を制し、天に拳を突き上げて口々に雄叫びを上げる選手の中にあって、中心にいる平義少年だけは薄い感情表現で、静かに微笑んでいる。
真理子がいた。顔の肉付きは今よりいい。大きなえくぼが印象的だった。三人のマネージャーの中ではリーダー格のようだ。その頃から恋人関係だが、みんなの手前、平義と寄り添ったりはできない。
そして応援の人間たちが列の後方に群れ成している。浮かれた少年少女の顔を見ていく。
礼作の目は一点に吸いよせられた。
もう一人、真理子がいた。
マネージャーのジャージ姿ではなく、当時の清楚なファッションに身を包んだ少女だった。無理やり集合写真の場に並ばされて、しょうがないから付き合ってやった、という表情に見えなくもない。「チーズ」と言われても、固く口をつぐんだ顔。真理子よりも遠く、平義の後ろに立っていた。
「……これが、妹さん?」
二人は瓜ふたつだった。双子なのだろう。
真理子は質問に答えてくれない。写真を懐かしさ半分、痛み半分の眼差しで見つめている。その唇から聞こえてくるのは、聖書の一節に似た言葉だった。
「わが魂よ、不死を求むることなかれ……」
礼作は本能的に、これは一語一句正確に覚えなくては、と思った。
真理子の声は細々としているが、廊下の静けさに反響した。
「ただ可能の限界を、汲み尽くせ……」
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第三章 セミファイナル/vs.韓国[#「第三章 セミファイナル/vs.韓国」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
コリアがまたしても主役に躍り出た。
日本がスペインを百二十分の戦いの後、PK戦の六人目で決着をつけた同夜、韓国は金メダル候補最右翼と言われたアルゼンチンを延長後半ロスタイムで破った。
アルゼンチンは信じられないことに、悪質なファウルで後半たて続けに二人の退場者を出し、それでも延長戦を0対0で終えてPK戦で決着をつけようとした。韓国の猛攻に恐怖心を募らせ、血相変えて守備に奔走するアルゼンチンの姿を見た有名スポーツ記者は、『世界のサッカー勢力地図の変貌を、この夜、目の当たりにした』と書いた。
アルゼンチンのオリンピック代表には、リーガ・エスパニョーラで活躍する若手選手が多くいる。FWはバルセロナの「エル・コネホ(うさぎ)」と称せられ、俊敏な動きでDFの間をすり抜けるサビオラ。センターバックには、リバープレートでの活躍を認められ、アトレティコ・マドリーのレギュラーポジションを勝ち取ったレキがいる。もう一人のセンターバックは、十八歳でボカ・ジュニアーズからACミランに移籍し、今シーズンはビジャレアルの最終ラインをまかされたコロッチーニだ。守備的MFには、二〇〇一年ワールドユース優勝メンバーでもあるサラゴサのポンシオ。攻撃的MFにはエスパニョールで10番を背負うマキシ・ロドリゲスがいる。
彼らがピッチ上で恐慌状態に陥る姿など、リュウジにはうまく想像できなかった。
イ・チョンスとパク・チソンという、ワールドカップでの活躍をヨーロッパ移籍につなげたコンビがアルゼンチンの最終ラインをずたずたに破り、まずコロッチーニのレッドカードを誘ったらしい。マキシ・ロドリゲスは審判への侮辱で退場。韓国は満身|創痍《そうい》のアルゼンチンをなぶり殺しにするような攻撃の末、キーパーが弾いたボールがレキに当たってオウンゴールとなるという幸運で、激戦の幕を閉じた。
試合中、スタンドではコリアレッドのサポーターが「テーハミングッ」を連呼し、二〇〇二年の勢いがそのままギリシャの地でも続いているかのようだったという。
テレビのダイジェスト放送を見ると、もう一人のパク、セビリア・ダービーでリュウジとしのぎを削るパク・ジョンウォンは、中盤の底でことごとくアルゼンチンの攻撃の芽を摘み取り、サビオラは再三、芝に転がされた。記者が選ぶマン・オブ・ザ・マッチは、決勝オウンゴールを導くシュートを放ったイ・チョンスではなくパクであったことが、彼の貢献度を物語っている。
残り二組のクォーターファイナルでは、カメルーンがエジプトを順当に破り、ブラジルはまたしても奔放なサッカーでドイツを退けた。スコアも試合展開も、まるでワールドカップ決勝戦のリプレイを見ているかのようだったという。
セミファイナルまで、また中二日というハードスケジュールである。
延長戦を戦った韓国も日本も同じコンディションだが、韓国には何といっても底なしのスタミナがある。ワールドカップの時から「それは一本数十万の高麗人参がもたらすスタミナらしい」と噂されるほど、彼らの運動量はゲーム終盤になっても落ちない。
チームはギリシャ北部テッサロニキに移動した。
ガイドの児島さんによると、首都アテネに次ぐギリシャ第二の都市で、広大なマケドニア平原を背後に持ち、テルマイコス湾に面した美しい港町らしいが、リュウジたちはバスから見る風景だけでしか、街の雰囲気を感じることはできない。
車窓からビザンチン様式の教会や凱旋門、城砦《じようさい》の白塗りの塔といったものを見送り、空港から宿舎に直行する。
クレタ島から移動したその日、午後の練習はクールダウンに当てられ、サブ組がミニゲームをやる外で、リュウジたちレギュラー組は軽いランニングとストレッチで身体をほぐした。
ギリシャ戦では殺気に満ちたアウェーの洗礼を受け、スペイン戦では百二十分とPK戦で体力と神経をすり減らした。ハードな連戦による疲労は肉体に蓄積されている。動くたびに関節がギクシャクと音をたてる。ふくらはぎには硬いしこりが居すわっている。芝が沼地に感じられる。
レギュラー組は練習グラウンドのピッチ外でぞろぞろと固まり、ランニングをしている。平義監督は見向きもせず、サブ組のミニゲームを見つめている。
俺の気のせいだろうか。監督は決して目を合わせようとしない。
リュウジはスペイン戦を勝利で飾った後の、平義の表情を忘れることができなかった。
ニッポンコールで揺れるスタジアムで、殊勲者のリュウジを振り返り、二秒ほど見つめ、何もなかったかのように目をそらした。監督とリュウジの間には、その時確かに冷え冷えとした風が吹いた。
ヴィクトル・ロペスのマークから外れて、勝手にトップ下を張ったことについては、一晩たっても注意も叱責もなかったが、リュウジは監督の静かなる怒りを微弱電波のように感じている。
その日は、宿舎に戻ってシエスタを取ると、夕方はマッサージ、全員揃ってのバイキング形式の夕飯を終えて、自由時間になった。コーチたちとオリンピックのテレビ放送を見て盛り上がった。野球の日本代表が予選突破を決めた試合だった。
大歓声となる広間に、監督はいない。自由時間は尚更、選手たちとの間に一線を引く監督である。自分がレクリエーションルームにいると雰囲気が硬くなることを、監督もよく分かっている。
テッサロニキのホテルには中庭はあるが、あずま屋はない。監督待遇のスイートルームに閉じこもって、一人、韓国戦の布陣を考えているのだろうか。
翌日──スタジアムでの前日練習で、韓国戦の先発メンバーが明らかになった。
スペイン戦の前日のようにミーティングで監督自ら発表する場合もあるが、今回は違う。ミニゲームが始まる時、クズ兄ィがレギュラー組のビブスを渡し、その色で最後まで通した者が翌日の先発メンバーになる。
最初、リュウジが渡されたのはサブ組のビブスだった。平義は戦術練習で選手たちを盛んにシャッフルするので、最初その色を渡されてもさほど気にしなかった。
結局最後まで、リュウジはレギュラー組のビブスを着ることはなかった。それは明日の試合では先発から外れることを意味している。明日の中盤構成はどうやら、明神と鈴木啓太のダブルボランチ、右に石川、左に根本、トップ下に梶の五人だろう。
FWは疲れの見える平山に代わって高松大樹が先発するようだ。
リュウジは何も考えないようにして、ただ動物的にボールを追う。
周りの選手の見る目には憐れみがあった。スペイン戦の後半で同点ゴールを演出したリュウジが先発を外れるというのは、常識では考えられない。反逆児への制裁の意味が含まれているのは明らかだった。
スペイン戦をトータルで判断して、「攻撃的に行く場合はやはりお前が必要」と監督が言ってくれるのではないかと甘い期待を抱いた自分が、滑稽に思えた。
レギュラー組の布陣では、もう一枚、大きな変更がある。田中誠はレッドカードで退場したため、次の試合は出場停止となる。3バックの真ん中には闘莉王が入り、右ストッパーには徳永悠平が入った。
平義が珍しく大声を張り上げて、新しい最終ラインを指導している。
「ゾーンの守備ではまずボール、次に味方のポジション、そして敵のポジション、危ない順番に消していくのがセオリーだ。その上でラインを整え、オフサイドトラップをかける。一対一のコンタクトでボールを奪うのも仕事だが、絶えず声をかけて味方を使え。自分の前にいる選手だけでボールを奪うことも必要だ」
茂庭、闘莉王、徳永の3バックの声がよく聞こえるようになった。先発から外れることの腹いせとは思われたくなかったが、リュウジはこの最終ラインをきりきり舞いさせたかった。
中盤でボールを持つと、縦に鋭くクサビを入れる。トップの平山相太がポストプレーからボールを返してくれると、中央をドリブルで駆け上がる。梶のチェックを振り払い、鈴木をフェイントで抜き、ストッパーの茂庭を寄せつけず、ラインドライブのかかったシュートを放った。それはネットを揺らした。
サブ組の祝福を受けても、リュウジの虚しさは募るばかりだった。
「トゥーリオ!」
監督はリュウジの動きを褒めることより、3バックの修正点を告げる。
「3バックの真ん中だからといって、余ることだけを考えるな。相手が打ち込んでくる縦パスに対して、ポスト役に真っ先に当たりにいく役目もあるんだぞ。分かってるのか」
素直に「オウケイ、分かってます」と応える闘莉王は、立ち昇る闘志で頬を赤らめている。田中誠不在の穴を埋めなくてはという使命感が、本番で硬さにつながらないことを願うばかりだ。
平義は調整試合から本大会の四試合を、2トップの組み合わせ以外はほとんど同じメンバーで固定してきた。本来スーパーサブであるリュウジが先発に起用されたのは、石川直宏の負傷によるものだった。
メンバーを固定することは、レギュラー組にとっては安定感のあるプレーにつながる。選手たちは「多少ミスしても代えられることはない」という安心感から、リスキーな選択を恐れず、思い切ってプレーができる。ただし、平義が設けた「約束事」の範囲内ではあるが。
「早くボールを回せ、それだけ早く相手に寄せられるぞ!」
平義の声が朗々とピッチに響きわたる。これまでにない熱血指導が、韓国戦へのモチベーションを高めている。
中盤でパスを回す時、おのおのが「いいパスを出そう」と考えると、必ず一度ボールを止めて、出す選手を探してしまう。この動作がボール回しのスピードを落とし、相手に守備隊形を整える時間を与えてしまう。つまり「いいプレーをしたい」という自分の欲求を抑え、早くボールを回そうとすることが、組織への奉仕につながる、というのが監督の持論だ。
レギュラー組のパスが、速く確実につながり始める。三十分の戦術練習は密度の濃いものになった。
日本からのマスコミも増え続けている。オリンピック日本代表はすでにベスト4というシドニー・オリンピック以上の成績を挙げたが、メキシコ大会以来のメダル獲得が目前だ。しかも相手は長年の宿敵・韓国である。スポーツ新聞の一面は連日、柔道の金メダルより、オリンピック日本代表のゴールシーンで独占されていると聞く。
今日は最初から報道陣をシャットアウトだ。チームの広報担当は記者連中と相当|揉《も》めたらしい。スタジアムから締め出された彼らは、外で耳を澄まし、監督の声を聞き取ろうとし、翌日の先発メンバーを予想していることだろう。
どれも父の書いたルポ記事で知ったことだ。
一九三五年、翌年にベルリン五輪を控えた日本は、全国大会に二度も優勝した朝鮮の京城蹴球団から数人の選手を選ぶはずだった。朝鮮は日本の植民地だったから、有能な朝鮮人選手を日本代表のメンバーとして選ぶことのできた時代である。
が、翌年選出された朝鮮人は二名だけだった。この仕打ちに朝鮮蹴球協会は強く反発した。
その頃、日本を訪問したイギリス海軍のサッカーチームとの親善試合が組まれた。日本にとってはベルリン大会に向けての実戦経験を積むためのいい機会だった。イギリス海軍は当時最先端の組織的フォーメーションを使っていたが、日本代表は自分のポジションのみを担当する旧式サッカーで対抗するしかなかった。力の差は歴然だった。
前半を日本は2点のビハインドで終え、後半も劣勢の流れは変わらなかった。センターフォワードとして起用された朝鮮人ストライカーは、ポストプレーを指示するコーチの戦術に苛立ちを隠せない。このままでは負けてしまうと考えた彼は、コーチの指示に逆らい、ドリブル突破でたて続けに6点を叩き出した。試合結果は6対3で日本代表の勝利だった。
しかしコーチは歓喜の場で、「コーチの指示に従わなかったお前など、二度と使わない」と彼を激しく叱りつけた。朝鮮人ストライカーは「選手がコーチの指示に従うのは当然だが、勝てる試合をわざわざ負ける必要はないではないか」と言い返した。
その場は何とか収まったが、メンバー全員と風呂に行った時、事件は起こった。朝鮮人蔑視の言動を繰り返すコーチに、ストライカーの怒りは爆発した。
「私とあなたはどう違うと言うのだ。二本の腕がついている。二本の足がついている。同じ人間ではないか!」
オリンピックに参加できなくていいから、一人のサッカー選手としてまともに扱ってくれ、という思いが爆発し、彼は皆の前でコーチを殴りつけ、そのまま祖国に帰ってしまった。
リュウジは、自分と平義の関係を想起させるようなこの逸話を、何やら因縁めいた感覚で思い出した。
太平洋戦争中の一九四一年にも、朝鮮サッカーにとって悲しい事件が起きた。
明治神宮体育大会で、朝鮮の実業団チームが決勝戦で日立製作所に勝利した。優勝が決まると、朝鮮人応援団が興奮のあまりグラウンドに出て選手たちを胴上げした。この行為が大会主催者によって問題にされた。明治天皇を奉る神聖な場所で朝鮮人がそのように振る舞ったことが「大会を汚す行為」とされ、結局、朝鮮の実業団チームは大会優勝旗を返納しなければならなくなった。
これら一連の出来事はすべて、植民地となって国を失ったゆえの朝鮮の悲しさだった。日本に対して「恨《ハン》」を募らせていった朝鮮──後の韓国が、サッカーだけでなく、野球でもバレーボールでも、あらゆるスポーツ競技で日本に対し強烈な対抗意識で向かってくるのは当然だった。
スポーツとは元々、戦争の代償行為なのだから。
太平洋戦争前から、日本と、日本の支配下にあった当時の朝鮮とのゲームは、国民性の違いと言うべきふたつの個性のぶつかり合いだった。朝鮮にはパワーと精神力があり、日本は組織だったショートパスを武器としていた。戦後も、日韓戦は常に韓国のスタミナと日本のテクニックの争いだった。
リュウジも幼い目に焼きつけたアメリカ・ワールドカップのアジア最終予選。日本は韓国に勝利し、三浦知良はインタビューで感極まって涙をこぼした。
以来、両国は互角の戦いを続けてきた。日韓ワールドカップが始まるまでは、トルシエの日本代表強化が韓国を上回っていると見られていたが、オランダ人の監督フース・ヒディンクが韓国を変えた。
「韓国はなぜ攻撃を急ぐのか」
ヒディンクはまず、試合中に無駄に体力を消耗する「精神力重視」の韓国サッカーを変えようとした。
韓国の選手は相手からボールを奪うと、急いで前方につなげようとする。ヒディンクは、前線の攻撃ラインが整っていない時はテンポを調節しろと中盤の選手に注文した。
そして韓国人選手の「血の気の多さ」が、ゲームによってはマイナスに働くことを鋭く見抜いた。ワールドカップの決勝トーナメント、イタリア戦を前に、彼は「イタリアの選手が悪たれをついて、癪《しやく》に障るようなプレーを仕掛けてきても黙ってその場から立ち去れ」と命じた。ヨーロッパの選手は東洋の選手に対して、「あいつらは精神的に弱いから、恫喝すれば萎縮する」という幻想を持っている。だから、乱暴なプレーに相手が何も反応しないと、結局、乱暴なプレーのために自分が消耗してしまう。
だがヒディンクはただ「優しい狼になれ」と選手に言ったわけではない。
イタリア戦の前、日本は雨の宮城スタジアムでトルコに敗北した。ヒディンクの目に映った日本代表は、十六強進出をなし遂げて気持ちが緩み、絶対に勝つという強い意志は見当たらなかった。日本対トルコの試合が終わった直後、彼は食堂に選手たちを集め、些細なことまで日本と比較し、「それはすなわち我々がやってはならないことだ」と、日本を反面教師にしようとした。日本との比較を始めると、選手たちの目の色が違ってきたという。
「アイム・スティル・ハングリー」
わたしはまだ勝利に飢えている。この言葉によって、選手たちははち切れそうなほどの闘志と緊張感でイタリア戦に臨むことができた。
スペインとのPK戦に向かう時には、選手たちにこう告げたという。
「私のスポーツ人生で一番楽しい瞬間だ。スコアを気にせず、ただ楽しめ」
選手はニヤッと笑い返したという。
監督についてコメントを求められた選手たちは、こう答えた。
「勇気と自信を与えてくれた第二の父」
「毒蛇のように賢く、冷淡な人」
「家族としてのチーム、職業として楽しむサッカーを教えてくれた」
「一生懸命だけがいいサッカーではないと気付かされた」
素晴らしい監督を得た韓国チームを、リュウジは羨ましく思った。
韓国は、ポスト・ヒディンクのA代表はやや足踏みをしているものの、オリンピック代表チームは、世界ベスト4に導いた彼の遺産を無駄にはしていない。
ヒディンクは自伝の日本語版に寄せて、こんなことを書き残している。
「日韓両国が、過去の忘れ得ぬ出来事≠乗り越えて、互いに手をとり合って、歩むことができると証明したのは、何よりの成果だと思う。友人として奇跡を起こすことより、敵≠ニして奇跡を生み出すことは遥かに難しいことである」……。
敵として奇跡を生む。
リュウジは明日、その場に立ち会いたかった。ピッチの外ではなく、戦場で。
前日練習の持ち時間が終わる頃、入れ違いに韓国のメンバーがピッチに入ってきた。
トレードマークの逆立った髪にも磨きがかかっている。筋トレの成果で胸板は更に厚くなった。
パク・ジョンウォンだ。遠くからリュウジに微笑みかけてくる。草原の獲物に舌なめずりをする野獣の顔だ。
「明日はお前を削ってやるぞ」
そう告げているのだ。
世界で最も危険なダービーと言われるセビージャとの試合では、右サイドのリュウジとボランチのパクは何度もピッチ上で激突し、もつれて倒れ、胸をぶつけ合って怒声をぶつけた。過熱した肉体に生傷はひとつやふたつでは終わらなかった。
パク、そんな目で見る必要はない。闘志の無駄遣いだ。俺は明日ここに立つことはない。ベンチ入りができたら喜んでくれ。
リュウジは目を合わさずピッチを引き上げる。パクはきっと悟ったことだろう。長い付き合いで、お互い、表情から汲み取れるものがある。
彼はコーチに告げたかもしれない。志野リュウジは明日、おそらく先発メンバーから外れるでしょう……と。
2[#「2」はゴシック体]
夕飯は今日も、日本から帯同したコックと栄養士による、日本食を中心としたバイキングだ。
日本で食べるほどうまくないのは、コックの責任ではなく、ギリシャの食材を使って日本食を作ることに無理があるからだろう。
メニューにはギリシャ料理も何品か並ぶ。ムサカという、油で揚げたナスと、ジャガイモとミートソースを交互に重ねて焼いたグラタンが、わりといける。
牛と豚と羊の肉を日本の焼き鳥のように串に刺し、炭火で焼いたスブラキは、ピタにトマトやタマネギと一緒にはさんで食べる。米をピーマンやトマトに詰めて焼いたイェミスタが、選手たちに好評だった。
ギリシャ料理は南フランス、イタリアといった南欧のスタイルと、トルコ、アラブなどのスタイルがミックスした感じの地中海料理といえる。どの料理にもオリーブ油がふんだんに使われる。
ただ、デザートは甘すぎる。ケーキ類はハチミツベースの餡やシロップがたっぷりかかっていて、一口食べて「もういいや」となる。
アテネ在住で、ギリシャ人の妻がいる児島さんが、選手たちの食卓で一緒に食事をしながら教えてくれる。
ギリシャの大衆食堂は「タベルナ」という。日本語の「食べるな」と聞こえるそこで、夜遅くまで食事と雑談が続く。人々はあまり働かない。仕事は人生を楽しく過ごすためのお金を稼ぐ手段であり、遊びや休息の場に仕事は持ち込まない点もスペインと同じだ。噂によると、ギリシャでまともに働いているのは人口の五パーセントほどで、残りの九五パーセントは何とかして仕事をさぼろうとしているという。ホテルのベルボーイを見ていると、「確かに」と思う。
だからクリスマスやイースター休暇、夏の二カ月は国中が仮死状態に陥る。
ギリシャ人が理想とする一夜の過ごし方は、数多い友人の中から二、三組の夫婦を選び、タベルナのテーブルを囲んでたらふく食い、潰れない程度にほどよく飲み、夜が更けるまでひたすら馬鹿話に興じる。子供たちはタベルナに付き物の野良猫と遊ぶのに飽きると、椅子の上で眠ってしまう。
食後のコーヒーは、デミタスカップに入ったドロドロしたギリシャコーヒーだ。
児島さんは「コーヒー占い」を披露する。飲み終えたカップをソーサーの上に逆さにしてしばらくおき、カップの底に残ったコーヒーの模様を見て、運勢を占うのだという。底に五ミリ程度の滓《かす》が溜まっていないと、ギリシャ人にとっては良いコーヒーではない。
試しに大久保がやってみた。カップの底の模様を、みんなが頭を突き合わせて覗き込む。
「何に見える?」
「何だ、こりゃ」
「……溺死体?」
人型に見えた。地面にバタッと倒れたふうだ。
「大の字か」
「分かった。ダイブだ!」と誰かが言った。ゴール前までドリブルを仕掛けたが、韓国のDFが強く、ダイブでPKを取ろうとしたらイエローをもらった……そんな運勢に、爆笑となる。
何がそんなにおかしいのかと、背中を向けていた監督が一瞥した。
選手全員が食べ終わったので、クズ兄ィが「解散」と告げる。リュウジは真っ先に監督の視界から消えた。
レクリエーションルームの広間には大型テレビがついていて、今夜もオリンピックの中継映像が流れている。女子レスリングの各階級で、日本選手にメダルの期待がかかっていた。
選手たちの卓球に、クズ兄ィが加わった。選手たちから馬鹿にされながら、負けまくっている。
故障を抱えた選手は、今夜もフィジカルコーチの山腰とともにマッサージルームへ向かう。日本から持ってきたDVDの貸し借りをしている選手もいる。人気の的は「マトリックス」の完結編と「キル・ビル」だ。
リュウジはポータブルMDのイヤホンをつけ、フラメンコギターで周囲の雑音を消す。フィットネスルームにあるサウナで汗を流そうかと思ったら、後ろから肩を叩かれた。
卓球で選手に完敗したクズ兄ィが、「ちょっと話そう」と言う。リュウジはMDを止めた。
どんな話かは想像がつく。監督と選手の間で潤滑油の役目を担うクズ兄ィにとって、こういう時が出番なのだ。
ホテル内の賑やかさから離れた中庭のベンチに座る。クズ兄ィは食堂からパック入りの緑茶を持ってきてくれた。
「いい動きだったぞ」
レギュラー組のDFを中央突破したことに、お褒めの言葉。
「監督ってあんな大声出すんだって、みんな驚いてました」
「現役の頃は、ピッチでうるさい人だった」
「へえ」
イメージとは違う。トップ下で冷静に、寡黙に、前線の選手を操る選手と思っていた。
「よく叱られた」
Jリーグになる前の社会人クラブチーム、クズ兄ィは平義の二年後輩で、ゴールマウスを守っていた。ハイボールの処理が下手なのは身体が重いからだと、相当絞られた。一緒に食事に行っても、肉の脂身は厳禁。焼き鳥を注文すると「皮をそぎ落としてから食え」と睨まれた。当時の監督は選手の管理までキャプテンの平義にまかせ、若い選手は「ゲシュタポ」というあだ名で呼んでいたという。
「明日はベンチ入りだ」
「……そうですか」
最悪の処罰ではなかった。
「恩着せがましく言うわけじゃないが、監督は韓国戦でお前をベンチ入りさせないつもりだった。それだけは考え直してくれと頼み込んだ」
思った通りだ。監督は徹底的に俺をスポイルしようとしている。リュウジはどっと溜め息が出る。
「先はあるんですか?」
「先?」
「俺を一度メンバーから外した、その先です。次に俺を使う時は、志野リュウジはきっと尻尾を振ってくると思ってるわけでしょう?」
自然と言葉がとがってしまう。
梶が言う通り、リュウジを自分のシステムに組み込むことができるかどうかが、平義の勝負なのだ。オリンピック代表の異端児である志野リュウジ。その料理の仕方は心得ている。荒馬を乗りこなすことができれば、日本チームは次のレベルに昇ることができる……。
監督がそう考えているとしたら、韓国戦に勝たなければ次はないし、リュウジをスポイルした意味はなくなる。これで終わったらただのイジメではないか。
「どうしてそこまで俺にこだわるんですか。どうして俺は目を付けられたんですか」
「お前の力を認めているからだ」
冗談じゃない。リュウジは自分の持ち味を殺されているとしか思えない。
「いつか監督の家に行ったことがある」
クズ兄ィは話の向きを変える。「あの人は決して自分のプライベートな面をコーチにも見せようとしないが、一度だけ、俺たちを自宅に招いてくれて、一緒に酒を飲んだ」
「奥さん、いましたか」
少し興味があった。
「ああ、料理の支度を終えたら自分の部屋に引っ込んで、最後まで俺たちのいる部屋には現れなかったが……何ていうか、隙間風が吹いているような寂しい家だったなあ」
田畑の残る練馬の私鉄沿線に、平義夫婦の家がある。元々は奥さんの実家で、瓦屋根の古い日本家屋。台所には大きな冷蔵庫がふたつ並んでいて、食料品は平義がたまの休みに買いだめをするらしい。奥さんは対人恐怖症で、まるで「大人の引きこもり」という状態だが、そのせいか家の内部はどこも掃除が行き届いている。
「清潔すぎて落ち着かない家だった」
玄関から裏口まで芳香剤の匂いが漂い、洗面室のタオルがきっちり同じ長さで垂れ下がっているような家か。
「監督の部屋は、まるで大学の研究室のようだった。サッカーのビデオで壁が両面埋まっていた。ラベルの文字はおそらく奥さんが書いたに違いない。国別で色分けされている。壮観だったな。日本代表のゲームは青いラベル。リーガ・エスパニョーラは赤いラベルだ。壁の一角が真っ赤だった。よく見ると、お前の一昨年からの試合ばかりだった」
バルセロナ相手に1点を決めた〇一─〇二シーズン最終戦をはじめとして、ベティスにレンタル移籍してからこれまで日本で放送されたゲームがすべてそこにあったという。
「お前を合宿に招集するかどうか、まだ結論が出ていなかった頃だ。協会から集めた資料じゃなく、プライベートなコレクションさ」
「俺を呼ぼうって決めたのは……」
「もちろん監督さ。リストにはお前とポジションのダブる選手が他に二人いた。実を言うと、協会の技術委員会はそっちの方を推していたが、中盤の右は石川直宏と志野リュウジでいくと、その夜、監督ははっきり俺たちに告げた」
そこまで愛情を注いで研究し、期待した選手にスペイン戦で反逆され、可愛さ余って憎さ百倍ということか。
俺にとっては迷惑な話だ、とリュウジは思う。
「監督の考えていることは、俺も実はよく分からん。ここまでの起用法は、お前の良さを意図的に消そうとしているとしか思えない。スペイン戦でピッチを掌握したお前をどうして韓国戦で外し、ベンチからも追い出そうとしたのか……」
監督の片腕であるクズ兄ィでさえそうなのだから、監督の心には誰も近づけない。魔宮の奥だ。
「だがなリュウジ、最後には必ず納得いく結末があるような気がするんだ」
本当だろうか。クズ兄ィの苦し紛れの言葉としか聞こえない。
「こんな言葉を知ってるか。ギリシャ神話の一節らしい」
クズ兄ィは一語一句、正確に思い出そうとする。
「わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ……」
「俺、そういうの詳しくないんで」
「だろうな。紀元前のギリシャ人だ。何ていったっけ、ピタゴラス? ……違うな。ヘラクレス。ソホクレス……違う。ピンダロスだ。古代ギリシャの有名な詩人らしいんだが、戦車競技で勝利した将軍に贈った言葉だそうだ」
「どういう意味ですか?」
「俺もよく分からん。監督が最近、教えてくれたんだ」
クズ兄ィ経由で、平義から投げかけられたナゾナゾのような気もする。
「不死を求むることなかれ……」
クズ兄ィはもう一度唱える。永遠に生き続けることを望んでは駄目だ、ということか。
「ただ可能の限界を汲み尽くせ」
リュウジの頭に刷り込ませようとするかのようにクズ兄ィは繰り返した。覚えておけば役に立つのだろうか。
「これだけは知っておいてくれ。監督は選手を育てる。同時に、選手が監督を育てるんだ」
「俺たちが監督を、ですか?」
「ああ。選手も不完全だし、監督も不完全。足らないものを補う関係じゃないかって、俺は最近思うようになった」
「俺も知っておいてほしいことがあります。チームが強さを発揮するのは、監督のために勝ちたいと思う時です。俺はビクトル・フェルナンデスのために勝ちたかった。結果がついていかない時はもちろんあったけど、普段の自分以上の自分がピッチにいました。このチームで、この監督の下でサッカーができて本当に幸せだと思った」
「そうだろうな。ゲームを見りゃ分かる」
クズ兄ィも平義のライブラリーから何本か借り、ベティスのユニフォームを着たリュウジが敵陣を引き裂く光景に何度も唸ったという。
卓球やマッサージでリラックスした選手たちが、ぞろぞろと部屋に引き上げるのが見えた。消灯時間が近い。
パクは今頃、高麗人参を煎じた苦い茶でも啜《すす》っているのだろうか。韓国の選手たちが食堂で、揃って渋い顔になっているさまを想像すると、笑えてくる。
二十四時間後、勝敗は決まっている。
カードキーで部屋を開けると、そこにいるはずのないキャプテンが短パン姿でいた。
「すいません。間違えました」
すぐに引っ込んだが、「……え?」となる。この鍵で入ったのだから部屋を間違えたはずがない。
もう一度ドアをそろっと開けた。
「遠慮するなよ。自分の部屋なんだから」
明神が床にあぐらをかいて、コントローラーを持ち、「ウイニングイレブン」をやっている。
「お前のイビキがうるさいって梶が言うから、代わってやった」
嘘だ。俺はイビキなんてかかない。一緒に寝ているマリアによると、いつも死体のようにおとなしい寝姿だという。
「ま、明日お前の出番はないと思うけど、ゆっくり休んだ方がいいよ。あっごめん、傷ついた?」
「いえ」
「やる?」
「じゃあ……」
隣に座らせてもらう。別の色のコントローラーを持ち、自分の国を選ぶ。
「俺、日本」と明神が選んだから、リュウジは韓国を選ぶことにする。明日の対戦カードだ。
「かわいそうだから、ゲームの中ぐらい先発で出してやるよ」
目元のあたりがよく似ているCGのリュウジがトップ下に入った。
そういうことか。クズ兄ィと同様に、先発メンバーを外れることが決定的となったリュウジを慰めようとしてくれる。梶が明神に「キャプテンにまかせます。俺は口下手だから」と頼んだのかもしれない。みんなに気を遣わせて申し訳なかった。
ゲームが始まった。二人はコントローラーをかちゃかちゃいわせながら、画面の中の選手たちを操る。
「パク・ジョンウォンは中盤の底から上がってくるか?」
ゲームの話ではない、明日のことだ。
「来ますね。最初はナリをひそめてますけど」
何度か戦った経験上、アドバイスする。画面の中でもそういう動きを見せてやった。
「当たりには強いだろうな」
「強いっスね。でもテクニックより、強引に入ってくるタイプですから、キャプテンなら応対しやすいんじゃないかな」
「まあ、やってみるワ」
「頑張ってください」
「ああ。頑張ってみるワ」
ゲームが続く。明日を占う戦いかもしれない。二人はつい真剣になってしまう。
そろそろ明神は、前回のオリンピックやワールドカップ出場者として、何かタメになることを言うに違いない。
が、いつまで待ってもその種の話題にはならない。
「キャプテンはあれスか」
こっちから話を振るのが礼儀に思えてきて、無理やり話題をこしらえた。
「怪我が少ないのは、やっぱり特別なストレッチとか、やってるんですか」
「なんにも」
「いつもコンスタントに調子を出してるじゃないですか。俺、すげえなって思います」
「調子の善し悪しが表に出にくいんだろうな。前線の連中だとシュート外したりして目に見える形で出てくる。ボランチだしさ、調子悪くても相手に素早く寄せたり、体を張ったりすることで誤魔化せるんだよ」
「イエローも少ないですよね。当たりの激しいポジションなのに」
「ファウルで止めるのは自分が下手だって認めてるのと一緒だよ。相手に『何だコイツ、反則でしか俺を止められないのか』って見られるの嫌だろ。ファウルしないでボールを取った時、勝った! って気分だよ」
相手の攻撃を遅らせて、突破を阻むのが本職の明神は、かつては日本代表で「最多出場プレイヤー」と言われていたにもかかわらず、強烈な印象を与えることはない。サッカー雑誌の表紙を飾ることもなければ、女性サポーターの黄色い声援も少ない。人は彼のことを「イブシ銀のプレイヤー」と呼ぶ。
「怪我が少ないのは、やっぱ親に感謝だな。そういう身体に産んでくれて」
店の厨房でネギを刻んでいる母の姿が、心をかすめた。
「柏のユースの頃、俺、リベロやってたんだよ」
「あ、そうなんですか」
「後ろじゃ駄目って判断されたんだろうな、ボランチに突然のコンバート。最初は戸惑ったよ。自分の後ろからもプレッシャーがくるだろ。DFなら全部前向いてプレーできるからよかったんだけど、ボランチは四方八方に敵がいるから、やべえって感じだったよ」
「本当に大明神って感じですよ」
「オベンチャラうまいな、お前」
「いや、ほんと」
本心でそう思う。
「前のオリンピックの時もそうだけど、俺ってシュンとかイナとかヒデさんとか、テクニックがある選手が周りにいないと生きないんだ。逆にああいう連中も俺がいなきゃ生きてこないんだよ、きっと」
月のような人だと思う。太陽の輝きを映して、結果的に自分も輝いている。だから俺はキャプテンに光を与える存在でなければならない。
「クズ兄ィ、何だって?」
中庭で話しているのを見かけたらしい。
「明日はベンチスタートだそうです」
「だろ?」
そんなことはとっくに分かっていた、という口ぶりだ。「言われなくても自分からアップを始めて、とっととピッチに出てこいよな」
「無理ですよ」
「まあ心の準備だけはしとけよ。俺の予言だと、お前はゼロゼロで残り十五分あたりで出てくることになってんだから」
「外れますね、その予言」
「まあ見てろって……あ、コイツ、シュート外しやがった」
画面の中のリュウジが、決定機を外して頭を抱えていた。
一晩中寝付きが悪いだろうと思っていたが、キャプテンとゲームをしながら話していると、胸の痼《しこり》が溶けたような気がする。
「このチームでもっとサッカーがしたいと思わないか?」
「したいです」
監督は別として、心からそう思う。
「なら明日、勝つしかないよ」
「頑張って下さい」
「馬鹿。お前も頑張るんだよ」
「はい」
ゲームの日韓戦をスコアレスドローで終えると、あくびがでてきた。
「寝るか」
明神は梶のベッドで寝る。
「おやすみなさい」
闇に黒い網のような睡魔が天井から降りてくる。明神の寝息が聞こえてきて、リュウジは安心してこの眠気に身を委ねようと思った。
3[#「3」はゴシック体]
テッサロニキのカフタンゾグリオ・スタジアム。
午後九時。残照がピッチにまだら模様を与えている。気温は夜に近づいても下がる気配はない。三十一度。湿度五六パーセント。今以上の熱気が両国のサポーターによって、ピッチへ吹き込まれることだろう。
リュウジはベンチからパクの入場を見ることになる。両チームの先発メンバーがメインスタンドに向かって整列した時、パクがベンチ前にいるリュウジを見て、「このゲームに出てこなきゃ許さないぞ」という目をした。
うちの監督に言ってくれないか。
スタンドはジャパンブルーとコリアレッドできっちり半々、という色分けが出来上がっている。
チャンチャンと騒々しく鳴り物を駆使する韓国の応援団だが、どこか余裕があって、ひと頃の「日本を完膚なきまで叩きのめしてやる」という殺気は感じられない。それが日本人サポーターにとっては逆に屈辱になっている。
韓国サッカー界は、日本がトルシエの下でワールドユース準優勝、アジアカップで優勝すると、「日本に後れをとった」という猛烈な危機感に駆られた。遅ればせながら十二歳、十五歳、十八歳と年代別にいい選手を集め、日本のトレセンのようなシステムを導入して強化に乗り出した。決してフース・ヒディンク一人が韓国サッカーを変えたわけではなかった。
パクによれば、今の韓国リーグはJリーグが始まった頃の日本のように、高卒ルーキーや大学中退者のプロがほとんどで、髪を染め、海外のクラブにアピールしようとしている選手が多いという。日韓ワールドカップで四強に入ったことで自信過剰ともいえる状態らしい。
韓国は長身のチョ・ジェジンの1トップで両ウィンガーを置くという、3トップに近い攻撃的布陣だ。日本のような3バックは3トップで来る相手に対して、どうしても中盤の両サイドが下がってしまう。効果的な布陣だ。右ウィンガーにはワールドカップのメンバーにも選ばれ、去年の日韓戦でもゴールを決めたチェ・テウクがいる。左のアタッカーにはレアル・ソシエダに移籍して、カルピンの控えとして一年目で頭角を現したイ・チョンス。ゲームを作るのは、オランダPSVでヒディンクの下、相変わらずのスピードに乗ったドリブルを見せるパク・チソンだ。
そして中盤の底には鉄壁の壁、パク・ジョンウォンがいる。3バックも大型選手が揃っている。
チームに三人もワールドカップのメンバーを抱えていることは、ピッチに三本の精神的支柱があると考えていい。彼らはトップレベルで経験している分、チームが苦しい時にゲームをコントロールできる。
ただし、今大会における韓国の戦いぶりには、劣勢を跳ね返して逆転勝利するという劇的な展開はまだ見られない。グループリーグでは、ブラジルに0対2で完敗したが、チェコには3対1、ナイジェリアには4対0で大勝するという、どれも一方的な展開だった。クォーターファイナルのアルゼンチン戦になると、敵が二人の退場者を出し、言わば相手の自滅によって勝利を拾っている。韓国の真価はまだ発揮されていない。それを物足らないと見るか、不気味と見るか……。
父親のルポ記事によれば、韓国の選手は日韓戦になると、ロッカールームで年配のコーチから「日本が韓国を植民地にしていた頃、お前たちの祖父や祖母はこんなひどいことをされたんだ」と具体的に残虐行為を教えられるという。DNAに刷り込まれた怒りを駆り立てて、選手たちをゲームに放り込むという意図だ。
多くの女性が日本軍兵士のための売春婦にさせられた。
軍人は日本刀の切れ味を試すために、笑いながら朝鮮人の首をはねた。殺される前に自分の墓穴を掘らされた。
怨念がちゃんとエネルギーに変わる国民性なのだ。
試合中も、彼らは決して日本選手の前で息の乱れを聞かせない。どんなに長い距離を全力疾走した後でも、日本選手に近づくと息を止め、疲れを悟られまいとするらしい。
ゲームが始まった。ピッチの選手たちより、スタンドの二色が過熱する。
「オー、ニッポン、ニッポン、ニッポン、ニッポン、ヘイヘイヘイヘイ!」
「オー、コリア、オーオーオー、コリア!」
のっけから日本は押し込まれる。ボディコンタクトでまず負け、セカンドボールをことごとく拾われてしまう。パク・チソンの切れ味鋭いドリブルに切り裂かれ、中盤の底が早くも最終ラインに吸収されてしまう。必然的に、前線にロングボールを蹴りこんでの単純な攻めしかできない。
韓国の方針は定まった。引いた相手からいかにゴールを決めるか。
日本はこの試合でも、幸運の女神を呼び込んでのカウンターアタックしかないと考えている。巧みなパス回しで敵陣を混乱させるという戦い方はできそうにない。
ベンチから見ていても、リュウジはゲームを俯瞰で見ることができる。敵陣に空いたスペースが分かる。冴えわたっている時の感覚だが、ベンチにいる以上、宝の持ち腐れと言える。
リュウジはレアル・ソシエダのイメージが目の前の韓国チームにだぶって見えて仕方ない。イ・チョンスがクロスを放ち、コバチェヴィッチはDFをなぎ倒すようにしてそれを受け、無理な体勢からでもシュートを狙う。韓国の1トップのチョ・ジェジンの強靭さはまさにコバチェヴィッチのそれだった。
梶からのクサビが高松に入った。両サイドの石川と根本が走り出す。久しぶりの日本の攻撃でジャパンブルーが盛り上がる。練習で繰り返してきた攻撃パターンだった。高松は背中にパクを背負って持ちこたえ、サイドにボールを散らそうとするが、厳しいチェックを受けて倒れてしまう。パクにファウルの笛が鳴ると、素早いリスタートで高松は石川にボールを出した。石川はゴールライン際までドリブルで勝負する。
この試合で2トップを組む高松と大久保がゴール前で複雑な動きを見せ、相手DFのマークを外そうとする。二列目から梶も飛び込んでくる。あとは正確なクロスがあればいい。
が、石川はクロスを上げるチャンスを逸したまま、潰されてしまった。
韓国のマークが厳しくて中盤にスペースがない。2トップも常にDFを背負っている。しかしDFがいてもクサビのパスを入れる積極性が必要だった。日本の選手はミスを恐れている。リスクを避けた横パスやバックパスが目立つようになる。
日本は「弱い日本」のパターンに入ろうとしていた。守備で持ちこたえても、集中が途切れる時間帯にミスをして失点、という行く末が見えるようだ。
パク・チソンのアーリークロスが入る。DFの中央にいる闘莉王が振り返って徳永のポジションを確認しようとする。その首の動きが入った分、イ・チョンスへのクロスボールに対する反応が遅れた。闘莉王はジャンプしたもののボールに触れることができず、自分と徳永の間に走り込んでいたイ・チョンスに胸トラップをされ、振り向きざまにシュートを放たれる。曽ケ端が神がかり的な反応ではじき出し、コーナーキックに逃れた。
韓国は右サイドにも左サイドにも攻撃の起点を作り、日本のDF陣に的を絞らせない。右に左に振られ続け、スペースを埋めようとする両ボランチの明神と鈴木啓太は、前半も半分を過ぎた頃には顎が上がり始めている。ACミランのガットゥーゾが好きだという鈴木啓太は、無尽蔵なスタミナを持つ「汗かき屋」のはずだが、すでに一試合分の疲れを感じているようだ。
こんなやられっぱなしのサッカーでよく日本はベスト4に進めたものだと、皮肉屋の父なら言うかもしれない。
中盤の底でボールを持ったパク・ジョンウォンが、前線にロングボールを入れようとしたが、中央にスペースがあると見るや、猛然と駆け上がる。闘莉王が待ち構える恰好。普通だったらパクをサイドに追い込んでボールを奪うか、少なくともパクに時間をかけさせるぐらいのことはできる。
ブラジル人の血が流れているというのに、狡《ずる》いこともできない。最初から身体ごと止めにいくことができず、パクがドリブルで迫ってきた時のファーストアクションが遅れた。おそらく闘莉王の脳裏に「アフタータックル気味にいけば、最悪の場合、レッドカードかもしれない」という恐怖心が芽生えたのだろう。
パクは闘莉王を振り切った。やや遠目であっても打ってくる。「ゴールが見えたら打て」というシュートの鉄則を実践した。利き足でない左足のキックだったことが日本側に幸いした。曽ケ端が倒れながら胸にボールを収めた。
中盤の底に戻るパクにコリアレッドの称賛の声が降ってくる。
平義からクズ兄ィに指示が渡り、控え選手全員にアップが命じられた。リュウジもベンチを出て、体に熱を送る。どんな局面になっても自分に出場チャンスはないだろうと分かっていても。
韓国の何度目かのチャンス。パク・チソンに最終ラインが突破された。キーパー曽ケ端と一対一になった。ループがくるぞ、と思った時、パク・チソンは力まかせに打ってきた。曽ケ端は右足一本で弾いた。パク・チソンの強引さに救われた。
日本は中盤でボールをキープする。右へ左へと慎重にパスを回し、攻撃の機会を窺う。平義が最も嫌う、ジーコ流の「ボール保持のサッカー」だったが、今の日本にはそれしか攻め手がない。大久保の足元にクサビが入るが、ボールは落ち着かない。裏を狙おうとパスを出しても、高松と呼吸が合わず、簡単にキーパーに渡ってしまう。
ワンタッチの、シンプルかつ速いプレーしかない……リュウジはピッチの梶へ念じる。ポストプレーも駄目、ドリブル突破も駄目だとすると、日本が得意とするピンボールのようなサッカーで相手を翻弄するしかない。
「テーハミングッ」とコリアレッドが合唱する。「ゆけニッポン」とジャパンブルーが声を嗄《か》らす。
韓国がフリーキックを得る。左サイドの、それほど深く入り込んだ位置ではないから、直接は狙えない。蹴るのはパク・チソン。ゴール前へするするともう一人のパクが入っていく。マーカーは徳永だが、キッカーがセットしたボールに目をやった瞬間、パクはアクションを起こし、そのタイミングでパク・チソンが蹴ってきた。こういう場面では、DFはボールに目を移してもマークの対象を感じられる真横の位置に自分を置いていなければならない。徳永は仕事を怠ったわけではないが、一瞬の隙を突かれた。
徳永が「まずい」と思った時には、パクが自分の前に入っていた。飛んでくるボールに対して、パクはゴールの位置を確認することなく、薄く頭に当てた。ゴールを見なくても、どのくらいの角度でどの程度頭に当てたらゴールに飛ぶのか感覚的に分かっていた。
薄く当てるヘディングほど難しいものはない。当たりすぎてゴールとは違う方向に行ったり、薄く当てようとするあまり、当てられずにボールを流してしまう。
日韓ワールドカップで、アン・ジョンファンが何度か見せたヘディングだった。パクとともにゴール前に入ってきたチョ・ジェジンに茂庭の注意が引っ張られたせいで、徳永をかわしたパクには恰好の見せ場が訪れた。
ボールがパクの頭部で跳ね、バーの下ぎりぎりをくぐり抜けて白いネットを揺らそうとしたが、ここでも曽ケ端が研ぎ澄まされた反応でジャンプし、指に当て、バーの外に出した。
前半も残り五分。これほど攻められて、ゴールを割らせていないのだから、まだツキに見放されていない。韓国は明らかに引いた相手に対して手こずっていた。
平義は動かない。ベンチを出て指示することもない。まるで今の戦い方で満足だと言いたげだ。
鈴木啓太が前線に長いボールを入れる。大久保は簡単にオフサイドの網にかかってしまう。いいんだ、それで。リュウジは呟く。いくら網にかかっても懲りずに相手DFの裏を突こうという動きは必要だ。極端に言えば、何十回オフサイドになろうと、一回の成功がゴールに結びつけばFWは仕事をしたことになるのだから。
前半終了の笛が鳴った。日本は0対0で折り返すことができた。
ハーフタイムになっても、スタンドは二色の熱気でざわつく。
リュウジは他の控えメンバーとピッチに出て、シュート練習をする。
クズ兄ィに交代要員として呼ばれたのは阿部勇樹だった。疲れの見える鈴木啓太に代えて後半から出場だろう。中盤の底からゲームを作ろうとする監督の意図は感じられるが、おそらく韓国に「攻め疲れ」というのは存在しない。後半のっけからガツガツきて、阿部勇樹も最終ラインに下がってしまうに違いない。
リュウジは控えキーパーの林卓人めがけて、右足アウトサイドにかけたシュートを蹴りこむ。白いネットが揺れるとサポーターから歓声が降ってきた。
ハーフタイムのロッカールームで監督はどんなことを喋っているのだろう。リュウジには想像できた。
「去年の日韓戦を思い出せ」
アウェーで負けたが、得るものも大きかったという。リュウジが招集される前の試合だ。
「立ち上がりは身体能力の問題だ。特に最初の二十分間は、筋肉のエネルギーをそのまま酸素に結びつけて燃焼させ、瞬発系のパワーに変えられる。だから筋肉の多い韓国人の方がパフォーマンスは高い」
科学的に説明し、選手に自信を植えつけさせようとするのが、平義のいつもの手だ。
「だがあの試合では、後半、韓国も多くのメンバーを代えているのに、ほとんどの選手の足がつり始めた。残り十分ではお前たちの方が動けていた。持久力ではこちらが上だ」
選手たちは監督の目論見《もくろみ》通り、自信をつけただろうか。
今の自分たちの消耗度を考えると、韓国よりスタミナで勝る時が来るなどとは、信じられないかもしれない。
「サッカーで重要なことは、ボールを持っている時といない時に選手がどう動くか。サッカーにはその二種類のフォーメーションがあるだけだ。ボールを持っていて、奪われたとしたら、どれだけ早く自分のポジションに戻って守るかの戦いである。ポジションは状況によって変わる」
かつて父がインタビューした時の、平義のコメントだった。
平義が口にする「4─4─2」とか「3─5─2」というのは、数字で分かりやすく選手やマスコミに伝えるための、言ってみれば「幼児言葉」みたいなものだ。
早い話、全員攻撃と全員守備ということだが、それは相手のスタミナより勝っている時の戦い方だ。韓国の底無しのパワーの前に消耗させられている時、攻撃から守備、守備から攻撃へと転じるスピードは期待できない。
俺をここに立たせてくれ……と、リュウジはトップ下に位置するピッチを見下ろす。
前線へ放たれていく高松と大久保と梶、3トップへのラストパス。
諦めろ。オリンピックのメダルが何だと言うのだ。自分が出場しないゲームの勝利などに興味はない。スペインに戻ってからのプレーを夢見ろ。
マリア、マドリードでもこの試合は見られるのだろうか。俺はもうすぐセビリアに帰る。
ねじ曲がった心がシュートを打たせる。そんなボールなど林は難なくキャッチできる。
後半が始まる。
控えメンバーにはベンチに戻るようにと指示があったが、リュウジは一人、アップのスペースに残った。監督にアピールしたいわけではない。身体に絶えず熱を送っていないと、ますます気分だけがねじ曲がっていく。
やはり攻め疲れのかけらもない。韓国は3トップが日本のDF陣を蹴散らすように、ゴール前に迫ってくる。
チョ・ジェジンが前線を攪乱する。中央の闘莉王がつかまえようとする。ブラジル人DF特有の、負けている場面で闇雲に攻め上がったり、危険なエリアで不要なファウルをおかす軽率さは、日本に帰化してからの闘莉王にはなくなったという。引くべき時は引いて我慢するというチーム最優先のプレーが身についたのは、平義の徹底的な指導による。将来のA代表のネオDFリーダーとして、監督の信頼を得た闘莉王は悪癖を矯正することができた。
しかし、「引くべき時に引く」慎重さと「抜かれたら大ピンチになる」と恐れることは紙一重だ。
イ・チョンスに対してマーカーの徳永は突破されるのを恐れ、ただ単に並走するだけになった。結果的に寄せが甘くなり、簡単にゴール前にクロスを上げられる。阿部勇樹と二人でイ・チョンスを見張っていたにもかかわらずだ。枚数も揃っている。ポジショニングのバランスも悪くはない。だが人がいてもボールに対してノープレッシャーなら意味がない。ゾーンで守る弱点がもろに出ている。右から左へ、左から右に揺さぶられ、ボールウォッチャーになっている。
スペースにチェ・テウクが走り込んでくる。彼は日本との親善試合をふたつ経験して、日本の守備の弱点を知り抜いている。
何かのインタビューでこう答えていた。日本は十一人が一体となって果敢にプレスを仕掛けてくるわけでもない。タイトにボディチェックをしてくるわけでもない。日本人はフィジカル・コンタクトがきっと苦手なのだろう。だからボールのないところでのマークも甘い。ある程度自由に動けて、スペースにどんどん飛び込んでいける。
明神がタイトなチェックをし、チェ・テウクを倒してしまう。勢い余ってしまった。キャプテン自身が最も嫌うファウルだった。明神は自分が許せないのか、口の中で何度も毒づいている。
ペナルティエリア手前の絶好の位置。FKのキッカーはイ・チョンス。壁は六枚。その中に長身のチョ・ジェジンがそそり立つ。両側の茂庭と闘莉王に肘を当てられてもびくともしない。パク・ジョンウォンもマーカーを振り切る動きでゴール前にいる。
イ・チョンスがフェイクなしに蹴ってきた。
チョ・ジェジンがすかさずどいたスペースにボールが入り、曽ケ端がパンチングでしのぐ。セカンドボールはまた韓国。パクが右足を大きく振り抜いてハーフボレーで打つ。曽ケ端がはじく。クリアしきれなかったボールをまた韓国の誰かが打つ。日本は叩かれ続ける。韓国は混戦地帯でシュートコースがなくても強引に打ってくる。アバウトなシュートでもオウンゴールを誘うことができるからだ。
それが起きた。茂庭の左足に当たったボールが曽ケ端の手をすり抜ける。入ってしまったとリュウジが思った時、ゴール内に入っていた石川がヘッドで弾き返した。梶が大きく蹴りだして敵の波状攻撃から脱した。
集中が途切れない。リュウジはアップしながらその守備を見ていて、この集中力と一糸乱れないゴール前の組織力も、日本チームの才能なのではと思えてきた。
「個人の自由」よりも「組織の不自由さ」の方が、日本人には合っている気がしてならない。誰もが「自由」という言葉の響きに騙され、それが素晴らしいもののように思えてしまうのだ。
そうだ。「自由」の最大の敵とは「恐怖」なのだ。リュウジはベンチから見るオリンピック日本代表のゲームで、真理のようなものを見た気がする。
合宿から本番まで、日本の選手たちと四六時中行動を共にしたことで、自分にも刷り込まれているものを発見した。
俺たちの心にはよく恐怖心が芽生える。いいプレーができた、勝利できたという結果がないと、自分に自信が持てなくなる。スペインの選手であれば、「この前のゲームでは結果が出なかったが、今度こそいいプレーができる」とポジティブに考えられる場面で、日本人は「この前のゲームでも結果が出なかったから、今度もミスするような気がする、またミスをしたら……」と恐怖する。それがプレーからアグレッシブさを奪い、筋肉を収縮させ、決定力不足を引き起こす。
恐怖心を分散させる智恵として、集団主義が生まれたのだろう。みんなで同じように責任を負えば、それだけ恐怖心も分散できる。
「あいつもミスを恐れている」と、怯える仲間に対して思うことで、「恐れるな!」と叱咤の言葉が出てくる。すると自分の恐怖心も不思議と和らぐ。
それが俺たちだ。日本人なんだ。
組織とはリュウジのような選手にとっては確かに不自由なものだが、ゲーム中の不安定な心を安定に導く、便利な処方箋なのかもしれない。
だからこそ……。
もうひとつの真理が導き出される。
だからこそ、このチームには俺が必要なんだ。
リュウジは負け惜しみでなく、そう思う。スペイン帰りの、ポジティブ・シンキングの塊のようなあいつを見ていると、ミスを恐れることが馬鹿馬鹿しく思えてくる。苦しい時の馬鹿頼み。仲間はピッチの俺を見て、そう思ってくれるかもしれない。
俺はこのチームにいていいんだ。たとえ監督の逆鱗に触れて出場機会がなくても、俺は確かにオリンピック日本代表メンバーになくてはならない存在だったと自信を持って言える。
リュウジは今、微笑んでいる。
後半十五分で、敵が交代のカードを切ってきた。チェ・テウクに代えて、金髪のフォワード、「韓国のマラドーナ」と異名をとるチェ・ソングクだ。情報によると、ボールを持ちすぎるのが玉に疵《きず》だが、凍りついた局面を変えられるスーパーサブだという。守り抜いている場面で違うリズムを持ったFWを投入されるほど嫌なものはない。
同じことは韓国についても言えるはずだ。韓国にとって一番嫌なタイプは誰だ?
リュウジはベンチの向こう側を見る。
「本当に俺をここで飼い殺しにするつもりか」と、俺は今、怒りのこもった目つきをしているだろう。俺をこの試合に出さないあんたは、大馬鹿野郎だ。俺を殺す暇があったら、俺を生かすことを考えてみろ。
不意に監督と目が合った。微弱電波が二人の間に流れる。リュウジは凝視し続ける。
恐怖に駆られたこの組織に、俺を投げ込め。
平義はリュウジから目をそらすとクズ兄ィに何か言い渡した。クズ兄ィがリュウジを振り返る。二人の動きがスローモーションのように見えた。
血が逆流するように期待感が高まった。クズ兄ィはこちらに歩み寄ってくる。リュウジは熱のこもった眼差しで迎える。クズ兄ィは硬い表情のままこう告げた。
「アップする必要はない」
リュウジの血は瞬間的に冷える。
「アップしているお前を、チラチラと気にする奴がいる」
確かに石川がこちらを見ている。俺はもうすぐ代えられるのかと疑心暗鬼になっているかもしれない。リュウジのアップは悪影響を及ぼす。
「辛抱しろ、リュウジ」
クズ兄ィは奥歯を噛みしめて、監督の傍《そば》に戻る。「最後には必ず納得いく結末があるような気がする」という昨夜の言葉は、虚しいものになりつつある。
リュウジは頭の中を空っぽにして、監督から離れてベンチに座り込む。隣の松井大輔が慰めの意味なのか、無言でポンッと膝を叩く。
平義は二枚目のカードを切った。まったく仕事をさせてもらえない高松に代えて、田中達也を送り出す。日本は小柄なFW二人にゲームをまかせることになった。高松と同様に高さと強いポストプレーを持ち味とする平山相太ではなく、田中達也を投入したのは、ドリブルでの攪乱で韓国DF陣に穴を開けられると考えたからだ。しかし韓国DF陣はもう高さを警戒する必要はなくなった。この交代、吉と出るか凶と出るか……。
ストッキングの下にスネ当てを入れ、スパイクの紐を縛り直して準備万端整った田中達也に、監督が指示を送る。
スタンドの歓声でリュウジには聞こえないが、手の動きを見ていると、「クロスをゴール前で待つ時は、一度ニアサイドにポジションを取ってから、膨らむようにして手前から奥へ逃げろ」と言っているのが分かる。
田中達也はクズ兄ィに「かき回してこい」と気合を入れられ、ピッチへ送り出される。
ベンチに戻ってきた高松が、リュウジの近くに座った。ヒーターが間近に置かれたみたいに熱を放ってくる。高松の激しい鼓動が空気を通して伝わってくる。
「駄目だ。こじ開けられねえよ」
顔中から汗が噴き出し、切れ切れの言葉が吐き出される。
「あの時はいけたけど、今回は駄目。ぜんぜん違う」
去年の日韓戦でヘディングのワンゴールをとった高松だ。その時とは相手の集中のレベルが違うと言う。
当たりに強い高松は高校時代、センターバックを務めていた。FWに転向すると、どんな時でもボールから逃げないがむしゃらな性格が生きた。キーパーがパンチングでクリアしたボールへと突っ込み、そのまま頭で押し込むゴールをオリンピック直前の親善試合で見た時、リュウジは「こいつのためにいいボールを出してやろう」と思ったものだ。
そんな男から今のような弱音を聞くと、ゾッとするような危機感がベンチに広がる。
ワーッと日本人の歓声が聞こえてピッチを見ると、前がかりになっている韓国に対して、日本のカウンターの場面が訪れた。
梶が右サイドに張っていた田中達也にロングフィード。うまくファーストタッチでボールをコントロールした田中達也は、薄くなった敵陣へ突っ込んでいく。大久保がマーカーを振り切る動きを見せて、「くれ!」と叫ぶ。
田中達也はペナルティエリアに向かって斜めに切り裂く。リュウジは思わず「今だ」とスルーパスのタイミングで声を上げたが、田中達也はボールを持ちすぎた。しかもボールが足元に入りすぎた窮屈な恰好で、シュート体勢になれない。結局パクの網にかかって、倒され、易々とボールを奪われてしまった。大久保があちらで天を仰いで怒声を上げている。
パクがもう一人のボランチと、大久保の目の前でボールを優雅に回し、嘲笑っている。
時間が刻々と過ぎていく。クズ兄ィの指示で控えメンバーがアップになる。残りの交代枠をどう使うのか。日本はまだゴールを許していない。韓国もさすがに攻め疲れの時間帯だ。奴らが息を吹き返す前の今がチャンスだ。
「テーハミングッ」
鳴り物が続く。スタンドからの連呼が、やがてピッチの選手に力を与えるだろう。
左サイドの根本がボールを運ぶ。敵DFをかわしてクロスが上がったが、キーパーに簡単に捕られてしまった。ゴール前のコンタクトプレーならばまだいいが、今のようにあっさりキーパーにキャッチされてしまうと、せっかく高まろうとしている熱気がすーっと冷めてしまう。攻撃のリズムが作れない。
後半三十五分、平義は三枚目の交代枠を使う。アップしている選手の中から松井大輔が呼ばれた。守備に奔走してまったく持ち味を見せられない梶を代えようとしている。
リュウジは「終わった」と思った。もう自分の出番はない。
ところが松井がライン前に立った時だった。イ・チョンスが放り込んだクロスにチョ・ジェジンが高い打点で合わせようとし、パンチングで弾き出そうとした曽ケ端と激しく激突した。
リュウジは「痛い」と、自分の痛みのように顔をしかめる。肉体が軋む音が聞こえた気がした。
イングランド人の主審はキーパーチャージを取ったが、両選手とも芝に倒れて動かない。スペイン戦の時と同じだった。主審が担架をふたつ呼んだ。両軍ベンチからトレーナーが走り出す。平義は交代させようとした松井を下げる。交代枠は負傷したキーパーのために使わなくてはならない。林が慌ててアップを始めた。
曽ケ端の状態を見るトレーナーは、最後に顔の前に指を見せ、「何本に見える?」と問う。曽ケ端が答えると、トレーナーはこちらに○印を見せる。曽ケ端は頭を何度か振って起き上がった。スペイン戦でリュウジのために芝居を演じてくれた曽ケ端だが、今回のダメージは本当らしい。平義は松井を投入したいが、延長戦やPK戦を睨むと交代枠を温存しなければならない。
チョ・ジェジンは軽い脳震盪《のうしんとう》なのか、担架でピッチ外に出された。今なら日本は数的優位にある。
日本の時間帯になった。サイドに散らし、クロスを放り込んでいく。日本のFWには高さはないが、素早く相手DFの視界から消える。大久保が右サイドのペナルティエリア前でボールを持った。
ファーサイドに田中達也が走り込んでくる。大久保はパクが寄せきらないうちにクロスを上げた。絶妙な角度だった。通常この種のクロスは、インサイドか、ややインフロント気味のキックを使う場合が多い。するとゴールから逃げるようなカーブのかかった弾道になる。ところが大久保はインステップで蹴ったため、ボールはストレート。田中達也の内寄りにいた相手DFはボールに届かなかった。巻くボールであればDFの方に戻ってくる感じになったはず。ゴール前のスペースにひょいと飛び出してきた田中達也は右足のダイレクトボレー。まるでスパイクの先に目がついているような、繊細なタッチだった。ところが相手キーパーは、クロスに対して飛び出してはいけないと素早く判断し、シュートへの備えができていた。ほとんどのシュートコースを消す完璧なポジション取りだった。田中達也は針の目を通すことができず、ボールはキーパーのブロックにかかってしまった。
スタンドのジャパンブルーから、あーっと一斉に落胆の悲鳴が上がった。
残り五分になったところで、両チームの選手は延長戦を意識し始めた。自分のミスによる失点を恐れ、何より休息を求め、怠惰なボール回しが続いた。
後半終了の笛が鳴った。
二戦連続の延長戦。
疲労の度合いは韓国も同じはずだが、どうしても「スタミナでは奴らが上だ」と、敵を過大評価してしまう。
レギュラー選手は短い時間でマッサージを受ける。リュウジはスタッフの手伝いに回る。九十分の戦いを終えて短い休息を得ている選手たちに、タオルやボトルを渡す。
ボトルから水をあおる選手の喉仏が上下に移動する。芝の上にばたりと仰向けになり、高鳴る心臓をなだめる。
韓国サイドではすでに監督を中心にして輪が出来上がり、一人一人に指示が下っている。
明神は阿部勇樹と、ボランチの動きを確認している。
「俺たち二人がボールを失うリスクを恐れて慎重になると、前の選手がセーフティなコースばかりにボールを回すようになる。すると両サイドもそれに連動して低い位置で安全にボールを受ける回数が増える。それじゃ駄目だ。大胆な突破が減って、バックパスが多くなる。いつの間にかチーム全体が押し込まれてしまう」
話を聞きつけた根本と石川が寄ってくる。
「俺とナオがもっとサイドの深いところでボールを持てるかどうかだ」と根本が言う。
その通りだとリュウジも思う。3─5─2のフォーメーションでは、両サイドハーフのダイナミックな動きによって、ピッチをワイドに使った攻撃を仕掛けることができる。両サイドの選手の動きが生かせないと、いつの間にか3─5─2は5─3─2の形になってしまい、守備から攻撃への切り替えがスピーディでなくなる。結果、中盤が相手に支配され、叩かれ続けることになる。
「だが、両サイドからがんがん行くかどうかは、相手次第だ」
明神は百戦錬磨の経験で言う。「先手を取られて相手もサイドから攻め上がってきた場合、根本とナオもガチンコ勝負になっちまう。その時はユウキが積極的に攻め上がれ。すると相手の守備の意識を中央のバイタルエリアに集めることができる」
バイタルエリアとはセンターバックとボランチの間のことだ。
「相手の守備の意識を中央に向けることで、両サイドの攻め上がりができるようになる」
こんな大切な指示を選手にまかせていいのだろうか。監督はどこにいる。
平義は選手たちの輪から離れて、一人の世界で熟考している。クズ兄ィが近寄り、切羽詰まった顔つきで何事か声をかけた。
クズ兄ィはリュウジを見やる。俺の起用を進言したのかもしれない。しかし平義は聞き流しているのか、無視しているのか、こちらに顔を向けようとしない。
平義がまず気にしたのは、後半で足が止まり気味だった梶だ。
「行けるか?」と声をかけ、「行けます」と梶から答えが返ってくると、次に満身創痍の曽ケ端の状態を見る。激突のダメージを引きずりながらスーパーセーブを繰り返してきた。ボトルの水を首筋に浴び、ふらつく頭を振っている。
エネルギーたっぷりのアタッカーを入れて攻めるのか。守りに徹するなら、今、キーパーを代えるべきか。決断の時だった。
監督はおそらく、曽ケ端はまだいけると踏み、松井の投入を決めたに違いない。やはり梶を下げるのか。確かに後半が進むにつれて、梶のスルーパスの精度はなくなった。監督は他の選手のコンディションにも目を凝らす。明神の指示を受けてサイドの攻め上がりに燃えている石川だが、足がつりかけている。大久保は古傷のあたりを揉《も》んでいる。
残る交代枠一に采配のすべてがかかっていた。平義の眉間《みけん》には深々とした皺が刻まれた。大事な決断を下そうとしている時の顔だった。
リュウジは監督に背を向け、梶の足を持ち、伸ばしてやる。
「ボールキープするので精一杯だ」
梶が言うのも分かる。
「スペースが見えたと思ったら、奴らは寄せてくる。サイドに振っても、どうせクロスが大きく跳ね返されると思うと、突っ込んで行けなくなる」
長身揃いのDFによって、クロスはことごとくヘッドでクリアされた。セカンドボールを相手に捕られると、驚異的なあがりをされ、後れをとることになる。
実りの薄い攻撃でも仕掛けなければならないことが、トップ下の選手には何より辛い。
俺ならどうするか。梶のエネルギーの残量にもよるが、右サイドに回す。石川の背後を抜けてオーバーラップさせ、俺はボールを右サイド奥に到達した梶に渡す。石川のケアに動いていたパクとDF一枚が必ず梶に寄っていく。梶には相手が寄せきらないうちに早めにクロスを上げさせ、バランスが微妙に崩れたDF陣に大久保と田中達也が突っ込んでいく。二人には高さはないが、裏を突くスピードはある……。
「リュウジ」
梶の呼ぶ声が聞こえなかった。想像の世界にまだいる。
「リュウジ」
「……うん?」
「お呼びだぞ」
梶は不思議な微笑を浮かべていた。自分の後ろを見てみろ、と顎でしゃくる。リュウジが振り返ると、平義とクズ兄ィが並んでこちらを見ていた。
監督の眉間から皺が消えている。迷いはけし飛んで、覚悟を決めたのだ。クズ兄ィが嬉しそうに監督の言葉を代弁し、リュウジに告げた。
「すぐアップしろ」
石川と交代してピッチに立てという。
「急げよ」
梶にも促され、リュウジは山腰フィジカルコーチを相手にアップを始める。石川は交代を告げられると、勢いを削がれて大の字になった。
リュウジはダッシュ走に瞬発系の動きを入れる。スパイクを芝に馴染ませる。
信じられなかった。監督は交代枠をキーパーのために温存せず、賭けに出たのだ。梶を下げて松井を送り込むのではなく、梶と俺のコンビネーションを延長戦の切り札として使おうとしている。
平義楯夫の内部で何が起こったのか。
隣のクズ兄ィがにやにや笑っている。「言っただろ。納得いく結末が待っているって」と言いたげだ。
韓国チームの輪から、突き刺さるような視線を感じる。パクが「やっと入るのか」と炯々《けいけい》とした目で、超特急でアップをするリュウジを目で追っていた。
リュウジは身体の奥底から溢れ出ようとしているものを感じる。予感があった。久しぶりだが馴染みの感覚。とぐろを巻き、飛び跳ねようとしている獣の感覚だった。
あいつが現れようとしている。
4[#「4」はゴシック体]
延長戦のピッチに出るに際して、監督からは何の指示もなかった。
「つまりスペイン戦と同じことをやれってことだ」
梶が勝手に都合よく解釈した。梶と盛んにポジションチェンジをして敵に的を絞らせず、機を見て梶を前線に上げて3トップ気味にし、リュウジがトップ下に入るという攻撃的布陣だ。
リュウジの肉体に潜んでいる「あいつ」は、いつでも牙を剥くことができる。
絶望の淵から甦った、死から目覚めたと実感した時、あの言葉が不意に目の前に迫ってきた。
『わが魂よ……』
平義が言ったというギリシャ神話の言葉だ。
『不死を求むることなかれ』
その先は何だっけ。確か……。
『ただ可能の限界を汲み尽くせ』
クズ兄ィから教えてもらった時は、言葉の意味など遥か彼方だった。今は目の届くところにあるような気がする。平義から間接的に投げかけられたナゾナゾの答えが、これからのピッチに見つかる気がしてならない。
日本のキックオフで延長前半が始まる。センターサークルにボールを置いた大久保と田中達也。主審のホイッスルでボールが一旦リュウジの許に下げられた。
突進してくるのはパクだ。
かわし、右サイドに回った梶に渡す。リュウジは軽快なステップを踏んで下がり、チェ・ソングクの突破を警戒する素振りを見せる。それに呼応するかのように阿部勇樹が上がり目になる。明神の指示通り、敵に中盤のスペースを意識させるためだ。
パクとの騙し合いが始まる。
パクを引き寄せて、ボランチの位置まで下がり、中盤の底からボールを供給する。そのままパクがリュウジをマークすると、韓国の中盤の底にスペースができるため、パクはいつまでもそこにはいられない。阿部勇樹のあがりも気にしなければならないし、必然的に自陣に下がる。するとリュウジはギアチェンジをし、猛然と阿部勇樹を追い越してトップ下の位置に駆け上がり、ワンタッチのプレーで前線の選手を操縦する。潮の満ち引きにも似た動きに、相手の中盤が惑わされる。
リュウジが大久保にクサビを入れる。大久保は背後のDFに潰される前にダイレクトでリュウジにリターン。リュウジは突進しながら受けて梶に短く出し、またリターンを受けると、左サイドにスペースを得ている根本にパスを通す。これまでの九十分では見られなかった短いパスワークによる攻撃だ。韓国の選手は前後左右と慌て始め、FWまで守備に戻る。
リュウジはパクの視線が自分からそれると、すかさず右サイドに走り、梶の背後をオーバーラップしてボールをもらい、クロスを上げる。
「いつの間にそこにいたんだ」という目でパクが見る。変幻自在に見えるのだろう。お前らとはガソリンの量が違う。
ゴールから逃げていく角度のクロスボールは相手DFにカットされたが、セカンドボールを梶が拾う。
梶から根本へ。今度は左からクロスが入る。ゴール前、ファーからニアへと横断したリュウジがジャンプして、胸トラップ、ひとつボールをリフティングしてから、追いすがるパクへと腕を張って寄せつけず、トリッキーな動きでかわそうとする。
パクはペナルティエリア内のファウルを恐れて無理なチェックにはこない。リュウジは反転して、ゴール前に浮き球のパスを上げる。それに群がる敵味方の頭がいくつか。高さでは負けるがタイミングで勝る大久保のヘディングだったが、ボールは惜しくもキーパーの正面だった。
キーパーはスペースへとボールを投げ込む。韓国の攻撃になる。明神の寄せが早い分、リュウジが自陣に戻る時間ができた。イ・チョンスからボールを受けたパクが重戦車の勢いで駆け上がるが、リュウジはみるみる追いすがる。パクがもう一人のパクとパス交換をする頃には、追い越し、ブロックの体勢に入っている。リターンを受けたパクがシュート体勢に入ると、リュウジはファウルすれすれのショルダーチャージをかけた。パクは倒れる。笛が鳴る。ファウルを宣告されてしまった。
主審に向かって苦笑いをしていると、起き上がったパクが体をぶち当ててきた。リュウジも負けじと胸を張る。両軍の選手が分け入る。ここで退場者を出したら致命的だ。
パクが「殺すぞお前」とスペイン語で言う。
「やってみろ、この野郎」とリュウジもスペイン語で言い返す。パクの怒りをあおってプレーから冷静さを奪うのが目的だった。ハタから見ればリュウジも興奮しているように見えるだろうが、心は平静を保っていた。
もっと怒れ、パク。
パクがつい手を出す。馬鹿、やり過ぎだ。リュウジは大袈裟に倒れて痛がることもできたが、それではパクを退場に追い込んでしまう。もっとこいつと戦いたい。リュウジは鼻先でパクを睨み付けた。
スタンドの二色が興奮している。主審が「それ以上やるとカードだぞ」という警告の顔つきから、握手をしろと二人に言い渡す。
リュウジは素直に手を差し出す。笑顔すら浮かべてやった。パクが怒りの収まらない顔でギュッと手を握ってくる。リュウジの指を潰そうとするほどの力だった。
「痛えよ」
「お前の魂胆は分かってる」
手をぐいっと引き寄せて言う。こいつは馬鹿ではなかった。パクは深呼吸で熱を冷ましている。
リュウジとパクの小競り合いにあおられたのか、スタジアム全体に危険な空気がたちこめる。「ゆけニッポン」と「テーハミングッ」が不協和音を奏でる。黒い警官の姿が両サポーターの境目に目立つようになった。積年の因縁を持つナショナリズムのぶつかり合いとは、こういう雰囲気を言うのか。
日本はかつて朝鮮を植民地にしていた。それに至る圧政に耐えかねて、一人のテロリストが日本の初代総理大臣を暗殺した。テロリストは百年近くたった今でも国民的英雄なのだそうだ。
日本の朝鮮支配によって、多くの朝鮮人が虐殺され、日本に移住した朝鮮人も不当な差別を受けてきた。ソウル郊外の独立記念館では、日本軍兵士による拷問の様子を、精巧な蝋人形で展示しているという。修学旅行でその地にやってきた日本の中学生は、「自分の祖先がこんなひどいことを」と思わず涙したらしい。韓国の人々は幼い頃から、日本人がいかに国土を蹂躙《じゆうりん》してきたかをつぶさに教えられる。父の書いたルポ記事で知ったことだ。
リュウジは慎重にボールを回しながら、前線の選手の力量を推し量る。途中出場の田中達也には、まだ勢いが残っている。プレーの時によく顔が上がっているのがその証拠だ。
監督は田中達也に、合宿中から「ヘッドアップ」と言い続けてきた。
「とにかく顔を上げて周りを見ろ。顔を上げることによって、足元近くに置かれていたボールが少しずつ前に置かれ、十メートル先が見えるようになる」
理に適ったアドバイスだった。
監督は前線の選手の独りよがりを何より嫌う。田中達也にも大久保にも、「ボールを持った選手がパスを出せる状況になってから動きだせ」と言う。自分の思い込みで早く動きだしてしまうと、ゴール前まで迫っても立ち止まってボールを受けてしまい、すでに相手DFにシュートコースを消されている。
合宿から親善試合を経て、FWたちのボールを受けるタイミングは良くなった。特に田中達也に関しては、相手DFに対して「離れる動き」から「向かう動き」だけではなく、「向かう動き」から「離れる動き」ができる。自分のスピードを生かすためだ。小柄なだけにターンが速く、相手DFが気付いた時には裏を取っている。
田中達也にシルバーゴールを決めてもらうか、あるいは田中達也の動きを囮《おとり》に使うか。トップ下で操縦桿を握るリュウジの決断ひとつにかかっている。
決めた。
田中達也の怖さをふんだんに見せつけてやろう。
中盤の寄せ合いからボールを奪うと、リュウジは左サイドに展開している田中達也にボールを出す。
ゴールへと斜めに突破にかかる。彼のドリブルが怖いのは、常にゴールへの最短距離を選んでコースを取っていることだ。大久保がオフサイドラインぎりぎりから飛び出そうとする動きにDFがつられ、田中達也はそのままドリブルでゴール前を横切って右サイドへ流れる。身体を絞りきって、右足を振り抜いてシュートする。キーパーは身体を投げ出してキャッチする。こぼれ球を期待して大久保が詰めていた。勢い余って足がキーパーの腹に入ってしまう。またしても両軍の選手がいきり立つ。つられてスタンドも過熱する。
大久保が危ない。ラフプレーでイエローカードをもらうことが多い選手だ。リュウジと梶が真っ先に駆け寄る。
「ヨシト、落ち着け」
年上だろうが呼び捨てだ。
「もういい、もう喋るな」
関西弁で吼《ほ》えている大久保の前で、梶も壁になる。イングランド人の主審は言葉が分からなくても、侮辱と受け取ったらカードを出す。
大久保も渋々ながら相手キーパーと握手を交わした。
日本ペースで延長前半が進む。明らかにリュウジ一人の投入で前線が活性化した。ゴールから遠くても、なるべく田中達也にパスを出した。韓国の選手にそのドリブルを目に焼きつけてもらうためだった。
韓国は中盤を省略して長いボールを入れてくるようになった。このゲームが初先発の徳永は、最初こそ地に足がつかない場面があったが、次第に試合の流れに乗り、本来彼が持っている高いディフェンス能力が発揮され始めた。茂庭と闘莉王もチョ・ジェジンの高い打点に競り勝っている。
韓国が後方からのフィードを多用するにつれ、ラインの押し上げがなくなった。気持ちは分かる。前の選手に「行ってらっしゃい」とばかりに長く蹴ったら、DFたちは相手に攻められるまでそこで待とうという気になる。
延長前半の残り時間が少なくなる。
一転して韓国のペースになる。ラインを上げ、イ・チョンス、パク・チソン、チョ・ジェジン、チェ・ソングクといったアタッカー陣が流れを掴み、津波の如く襲いかかる。
リュウジも守備に戻りつつ、パクを誰よりも用心する。前線の選手の動きにつられていると、パクは三列目から飛び出してミドルシュートを狙ってくる。お前の動きはセビリア・ダービーで学習済みだ。
パク・チソンのアーリークロスが上がる。長身のチョ・ジェジンがファーサイドでヘディングし、前に落とす。イ・チョンスがDFの間をすり抜けてハーフボレーのシュート。闘莉王が身体を投げ出してブロックしようとした。
あっ。
リュウジも声が出てしまった。闘莉王は身体に当てたものの、ボールはゴール方向へ飛んだ。曽ケ端がジャンプして手に当て、バーの上へ弾き出した。危なかった。オウンゴールになるところだった。
闘莉王が「あぶねー」と胸を撫で下ろす。スタンドのジャパンブルーが一斉に安堵の溜め息を洩らす。ピッチに数千人の息が吹き込まれ、生暖かい風が吹いたかに感じられた。
敵のコーナーキックとなる。時計の電光表示が消えた。前半ロスタイムに入っている。おそらくあとワンプレーかツープレーで主審は前半終了の笛を吹くだろう。
韓国はDF一人を残して攻めの態勢になる。普通、敵が一人いる場合は二人DFを残すものだが、韓国はセオリー無視のパワープレーに挑んでくる。一人残っている田中達也は怖いが、DF一人にまかせる賭けに出た。
イ・チョンスがコーナーにボールを置く。長身のパクは闘莉王と激しい体の寄せ合いをしながら、高い打点からのヘディングシュートを狙っている。
リュウジは梶とアイコンタクト。狙いが通じた。
こぼれ球を拾ったら一挙にカウンターに出る。相手の守備は手薄だし、ハーフウェイラインに残っている田中達也にぴったり付いているだけだ。フリーで走れるスペースがそこかしこにある。
イ・チョンスが蹴る。ボールはカーブしてゴール前に落ちる。パクがニアでジャンプする。ヘディングで後ろへすらし、チェ・ソングクの足元に入れようとする狙いだった。それを明神がカットした瞬間、自陣の密集地帯から放たれる者がいた。
梶だった。
敵も味方も、そのスタートの意味をまだ理解できない。リュウジだけが理解している。明神が混戦地帯からクリアしたボールがリュウジの五メートル先に落ちる。そこでパクが察知した。やはりあいつには動物的な嗅覚が備わっている。
リュウジはトラップして、ボールを得意な位置に置き、すでに自陣を飛び出している梶へと低い弾道のパスを出した。
田中達也が梶の先を走っている。一枚残っていた敵DFは、突進してくる梶の姿に怯えるが、これまで散々見せつけられてきた田中達也の動きの方を警戒した。延長前半から田中達也の動きを見せつけた伏線は、ここできく。
リュウジのフィードをファーストタッチで完璧にコントロールできた梶、その先には広大なスペースがあった。ほとんど全員が日本ゴールに詰めていた韓国にとっては、パワープレーの大きな代償だった。
ただし、韓国の選手の中で最も早く危険を嗅ぎ取ったパクが後方に迫っている。梶はリュウジからのボールを受ける前に、すでに首を振り、パクがあと何秒で追いつくか計算をしている。ボールをコントロールした後は中央をドリブルで突き進み、ぎりぎりまでパクを引きつける。もちろん梶の視界には、右サイドのスペースを走っているリュウジが見えている。
パクは覚悟を決めた。レッドカード覚悟のスライディングを梶に仕掛ける。ここで突破されたらシルバーゴールを許したも同然。土壇場の状況における究極の選択だ。
梶はまだドリブルで運ぶ。おそらく背後から芝刈り機のようなスライディングがくることを予感しただろう。そのままパクのファウルを誘ったとしても、PKを得られる場所ではないし、敵を一人減らしただけでは勝利したことにはならない。
パクの足がかかるより早く、右サイドのリュウジへと障害物のないパスを通した。その直後、パクのスライディングで梶は倒された。
頼むから笛を吹かないでくれ。
主審はプレーを続行させた。グラウンダーのパスは、リュウジの右足に吸いついた。スタンドのジャパンブルーが大歓声となる。周囲から強烈な磁波のようなものを感じる。これこそがナショナリズムの重量感だった。
DFは田中達也の動きをケアするので精一杯だ。ゴールめがけてリュウジは風を切る。たまらずDFが田中達也のマークから離れて、こちらへ寄せてくる。田中達也がすかさず身体を開き気味にした。それは「ここに出せ、いつでもシュートを打つ準備はできている」というメッセージだった。リュウジからのパスを待っているが、後ろが見えていない。梶を倒したパクがすぐに起き上がり、わき目もふらずに田中達也にも襲いかかろうとしている。
リュウジはDFと対面してボールをまたぎ、眩惑させる。
右にまたいで左に行こうとするシザース。すでに九十分以上を戦っているDFの足はもつれるが、予測していた。リュウジはそこで咄嗟の判断で、左足でふたたびボールをまたぎ、ダブルシザースを仕掛ける。完全に逆を突かれたDFはなす術もない。リュウジは落ち着いて右足でボールを押し出し、DFを抜き去った。
キーパーが果敢に飛び出してくる。その胯間を抜くか。ループで頭の上を狙うか。もうひとつの選択肢は、ゴール前で「どフリー」になっている田中達也。しかしあの体勢では、背後に迫るパクがまったく見えていない。首を振れ。パクに気付くはずだ。
田中達也は首を振る気配はなく、目の前のスペースを両手で示し、「くれ!」と叫んでいるだけだ。リュウジは迷う。リュウジがラストパスを出したとして、それを田中達也がダイレクトでシュートに結びつけるのならいい。慎重にボールをさばいてゴールを決めようとしてワントラップなどしてしまったら、パクに潰される可能性が高い。
パスの選択肢は捨てた。
このゲームは俺の右足で決める。すでに「内なる獣」は咆哮をあげている。龍は時を得ている。
右足でシュートを打つため、あえて内側へ入り、左足でキックフェイントをかけてキーパーを芝に倒した。しかし切り返しが若干大きくなってボールは右に流れ、角度がなくなってしまった。リュウジは右足インサイドで確実に、針の目を通した。
キーパーの伸ばした手をかすめ、ボールは逆サイドのポストめがけて転がっていく。
ポストに当たるな。入ってくれ。
甲高い絶叫が聞こえた。パクだった。リュウジから田中達也へのパスコースに追いついたものの、ボールがゴールマウスへ転々とする光景に、悲痛な叫び声を上げている。シュートしたリュウジ本人よりも早く、パクは白く揺れるネットを予感した。人間とは勝利より敗北に敏感なのだろう。
ボールは微かにポストの内側をかすめ、ラインを割って転がり続け、ゆるやかにネットに包まれた。
スタンドのジャパンブルーが炸裂する。ピッチ上のコリアレッドがバタバタと芝に沈む。パクは両手で顔を覆って仰向けで倒れている。
前半の残り時間はなくなっていることを知っている。主審は倒れこんでいる韓国の選手たちへ、その労をねぎらうかのように、長い笛を三度吹いた。
今、俺はどんな歓喜のポーズをしているのだろう。宙を跳ねているのだろうか。腕を突き上げているのだろうか。まさかラウールのように薬指にキスなどしていないだろう。自分の肉体がどこかに消し飛んでしまったような、幽体離脱の感覚だ。
すぐに肉体的な感覚が戻ってきた。仲間に揉みくちゃにされたからだ。痛い。背中が痛い。頭のてっぺんも痛い。寄ってたかってびしびし叩かれる。
群れなす仲間たち、その間の細い視界にベンチ前の光景が見えた。平義監督がクズ兄ィとがっちり握手を交わしていた。
リュウジの意外な活躍に興奮している、という姿ではなかった。作戦が成功した、どんぴしゃ、してやったり、狙い通りだった。監督はそれを喜んでいるかに見えた。
笑顔だった。
監督はあんなに嬉しそうに笑える人なのかと、リュウジはついつい眺めてしまう。
そして謎を目の前にかざす。
どうして監督は、スポイルし続けた俺を延長戦のピッチに出してくれたのか。
延長戦に入った時すでに、監督は俺の起用を決めていたのではないだろうか。
いや、ひょっとしたらもっと早い段階で……。
『わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ……』
ぼんやりとだが、言葉の意味が分かりかけてきた。どうやらそこには思いがけない真実が隠されているようだ。
リュウジは謎の答えを突き詰めることより、もうしばらく歓びに身を委ねることにした。
誰かが教えてくれる。ファイナルの相手は、今から十五分前に、カメルーンを延長戦で下したブラジルだという。
聞いた途端、邪悪なカナリアイエローが目の前にちらついたが、今はとにかく、テッサロニキの夜空へと勝利の雄叫びを上げた。
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その夜は新大久保の韓国料理屋にいた。
民家を改造した店で、下町の韓国食堂の匂いがぷんぷんする。看板料理のカムジャタンを一人分注文し、ゲームが始まる前には平らげた。
豚の背骨とじゃがいもを丸ごと煮込んで、唐辛子とニンニクで味付けをした真っ赤な鍋料理である。あとはモミナキムチとネギチヂミがあればいい。ビールは飲むが、マッカリは一杯だけにしておく。危険な酒だ。リュウジのプレーを酔っぱらい状態で見たくはなかった。
店は通常も朝五時まで営業している。キックオフの時間が近づくにつれて、韓国語のかまびすしい人間たちが続々やってくる。畳の広間には大型のワイドテレビが置かれ、試合を放送するテレビ局では、日本と韓国のここまでの戦いぶりを紹介していた。
要は「互角の戦いだ」という。
女将がカムジャタンの残り汁にご飯をいれて、名物のおじやを手早く作ってくれる。汗だくで腹におさめ、観戦の準備は整った。
因縁の日韓戦。ホイッスルが鳴った時、広間は四十人ほどの人いきれに包まれた。日本人は礼作の他に数人ほどだろうか、水商売の匂いのする女性たちとその青年経営者、というグループだった。
実況アナウンサーも解説者も、スペイン戦勝利の立役者であるリュウジをベンチに置いた平義の采配を理解できない。
アトランタ・オリンピックの西野監督と中田英寿の確執になぞることもできた。
礼作もリュウジのベンチスタートには納得できない。リュウジはスペイン戦で反逆児であったが、チームの和を乱したとは思えない。だが平義の内面に深く立ち入ろうとしている今の礼作には、平義が「戦術に逆らったから外す」という単純な理由でリュウジのスタメン落ちを決めたとも思えない。
平義とリュウジの間には、何やら細胞分裂に似た変化が起き始めている。
九十分を両者無得点で終え、延長戦に入ったところで、コーチの指示によってリュウジのアップが始まった。
後半三十五分に三枚目の交代枠で松井大輔を投入しようとしたし、スペイン戦と同様に曽ケ端のダメージによってベンチに下げたこともあって、延長で投入するのは松井であろうと誰もが思っていた。
リュウジをピッチに送り出したのは、平義の土壇場でのひらめきなのか、最初からの計算だったのか……。
「テーハミングッ」
店内でも韓国サポーターの唱和が始まる。日本人の客たちはことさらナショナリズムをまき散らすことなく朗らかにゲームを見ているので、韓国人の反感を買うことはなかった。
延長前半も終了近くになって、敵コーナーキックのこぼれ球をリュウジが拾い、自陣から飛び出していた梶にロングパスを通した。リュウジのライバルであるパクが梶に追いすがる。梶は中央突破した後、右サイドを駆けてきたフリーのリュウジにパス、ボールを受けたリュウジは敵DFと対面し、ダブルシザースで抜き去り、飛び出してくるキーパーもかわし、角度のない位置からゴールに流し込んだ。
礼作も思わず野太い声を発していた。こめかみの血管がちぎれるかと思った。周りは感情表現が豊かな韓国人の悲痛な絶叫で、礼作の「よおし!」という歓喜はかき消された。
ピッチで揉みくちゃになるリュウジが、望遠レンズで狙うテレビカメラの方を向いた。礼作の目と合った瞬間だった。
父親のリフティングの回数を超え、「すごいでしょ」と喜色満面で自分を見上げた頃のリュウジが、そこにいた。
タイムアップが告げられて抱き合う選手たち。ベンチでスタッフたちと握手を交わす平義の、彼らしくない晴れやかな笑顔と、拳を振り上げるガッツポーズ。
彼らの細胞は分裂し、成長している。
勝利監督のインタビューとなった。
──日本サッカー初のオリンピック決勝進出、お気持ちをお聞かせ下さい。
「銀メダルに満足することなく、上を目指します」
──最後まで集中が途切れず、素晴らしいゲーム運びだったと思いますが。
「選手たちがよく耐えてくれました」
──志野選手をスタメンから外したのは、どういう意図だったのでしょう。
「調子のいい者を起用したというだけです」
──三枚目の交代枠は当然、松井選手だと思いましたが、延長戦で志野選手を使ってきました。監督に閃きがあったのでしょうか。
「あの時間帯で送り出せば、最高のパフォーマンスを見せてくれると信じていました」
平義の言葉に偽りはない。リュウジの力を信じてくれたのは確かだ。礼作は彼の狙いが分かりかけてきた。
次に勝利の殊勲者としてリュウジがカメラの前に立った。滝のように汗が流れ落ちている。店の韓国人が騒々しく恨みがましい声を上げていたので、「しっ」と注意した。
──素晴らしいシュートでした。
「どうも」
──今日はベンチスタートでしたが、モチベーションはどうでしたか。
「いつでもピッチに出られるよう、準備はしていました」
──延長戦で投入される前、監督から具体的な指示は?
「ありませんでした。スペイン戦と同じパフォーマンスを見せればいいんじゃないかって」
──最後は自分でシュートを決めようと?
「タツヤさんがパクのチャージを受けそうだったので、自分でいくしかないかなって思いました」
──シルバーゴールが決まった時、どんな気持ちでした?
「サッカーって何て楽しいんだろうって思いました」
──志野選手らしいコメントですね。日本のファンに一言。
「サッカーの楽しさを教えてくれた人たち全員に、お礼が言いたいです」
礼作は涙を止められなかった。こんな薄汚れた父親だが、リュウジの言う「サッカーの楽しさを教えてくれた人たち」の一人に加えてくれたのかもしれない。
──さて、金メダルが見えてきましたね。決勝戦への抱負を聞かせて下さい。
「ただ可能の限界を……」
リュウジはそこで言葉を一旦切って、「尽くします」と締めくくった。
礼作は天啓に打たれたように、涙をかぶった目を拭い、晴眼でリュウジの顔を見ようとした。
平義の妻が「わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ」と唱えた。
リュウジもその言葉を知っているのだ、と直感した。
時差六時間の距離にいるリュウジと自分は、同じ鎖でつながっている。
リュウジがインタビュー・ブースから去ると、こうしてはいられない、と礼作は立ち上がる。
残された仕事がある。平義楯夫と二人の女性についての物語は、あのスペイン戦の翌日、真理子からつぶさに聞いた。あとはそれを文章にまとめ、真理子に見せなければならない。夫婦の許可なく発表することはできない。
礼作は店の支払いを終えると、やけ酒のマッカリが振る舞われる店から立ち去り、深夜営業の喫茶店を探す。
エスプレッソのダブルで頭をすっきりさせ、原稿用紙に向かわなければならない。記者たちが自宅に押し寄せる前に、朝九時には平義真理子を訪ねるつもりだった。文章にまとめるのは韓国戦の結果を見てからと決めていた。
あと五時間。リュウジのプレーが力を与えてくれる。早くボールペンを握りたかった。
大久保通りにドトール・コーヒーの明かりが見えた。
真理子が語った真理子の人生は、そのほとんどが妹の久里子のものだった。
中学時代にサッカー部のマネージャーとなり、平義と知り合い、横浜の高校に進学する平義を追って同じ高校を選び、「相手公認のストーカー」として筑波大学まで一緒だった。卒業後には結婚しようと誓い合った。それらは全部、久里子の人生だった。
マスコミ用に発表した夫婦のプロフィールも、久里子からの借り物が多く含まれていた。
双子の姉である真理子は、平義の夢と並走することだけが生き甲斐のような久里子を小馬鹿にして見ていた。一度だけ久里子に連れられて、神奈川大会の決勝戦を見に行き、記念写真にまで収まってしまった。
真理子は短大に入り、妹より先に社会に出た。サッカーとは無縁の日々だった。
「わたし、ひょっとしたらサッカーを遠ざけていたのかもしれない」
と、真理子は自嘲気味に言う。
ビール・メーカーの広報部に勤め始めた真理子は、ドイツのビールを輸入する仕事の必要上、自費で語学学校に通い、ドイツ語を学んだ。それが後に、ドイツ留学をする平義のために役立つことになる。
二十二歳、筑波大学の卒業式の翌日、悲劇が彼らを見舞った。
平義はすでに大学を中退して社会人チームに入っていた。練習を終える彼を迎えに首都高を自家用車で走っていた時、久里子は酔っぱらい運転の大型トラックに追突され、車は大破した。
知らせを聞いて病院に駆けつけた時、まだ久里子の息はあった。平義とはなかなか連絡がつかず、真理子は傷だらけの妹の手を握りしめた。心拍は頼りなく、みるみる血の気が失せていく。
臨終の直前、ぽっかりと目を開けた。真理子だと分かったのかどうか、久里子は蝋燭の最後の輝きのように、強い眼差しで真理子を見つめ、一筋の涙をこぼした。
真理子は妹から何かを託されたような気がした。
医師から臨終を告げられた後、平義が集中治療室に駆け込み、真理子から久里子の手を譲り受けた。
平義は自分を責めることしかできなかった。朝と夕方の二部の練習だから、夜終わる頃にはへろへろになっている。だから車で迎えに来てくれると助かる。そんなことを頼まなければ、久里子は首都高を走らずに済んだのだと、ひたすら自分を痛めつけた。
平義は婚約者の死によって、サッカーへの情熱も気力もすべて失ってしまったかに見えた。会社を無断欠勤、練習にも顔を出さず、久里子の遺品の整理で顔を合わすと、いつも酒臭かった。
真理子は自分が妹から何を託されたのか、ようやく理解した。
満足に食事もとらない彼のために、栄養価の高いものをプラスチック容器に詰め、彼のアパートを訪ねた。押しかけ女房のやり方に似ていた。
パジャマのままの彼にトレーニングウェア一式を投げつけ、引きずるように車の助手席に乗せ、練習場まで連れていったこともある。
時間は悲しみをそぎ落としていく。
時間は新しい愛情を育ててくれる。
平義は社会人チームで頭脳的なトップ下の選手として、三十歳までの八年間の現役生活を全うすることができた。真理子が「久里子の代役」として彼のサッカー人生を見守ってきたからだ。
真理子は、妹のどんな声援や慰めが平義を癒し、プレーへの意欲をかき立てるのか、知り尽くしていた。久里子と同じ笑顔で、同じ言葉で平義に接することは、双子の彼女にはさして難しいことではなかった。
真理子はその時すでに、平義を妹から託されただけでなく、亡き妹の人生を生きようとしていた。
ただし義務感に駆られてのことではない。真理子が中学の頃から、「男を追いかけるだけが取り柄の女」と久里子を笑い、平義の姿を視界の遠くに追いやっていたのは、実は妹と同様、平義を愛していたからではないかと気づかされた。傷つくことを恐れ、平義からなるべく遠ざかろうとしていたのだ。
気付いた後は、少し楽になった。
誰にも遠慮することなく、平義を愛すればよいのだと思った。たとえ、平義が今でも愛しているのは久里子の亡霊だったとしても……。
真理子が唯一、自分らしくなれたのは、引退後は指導者を目指し、ドイツでのサッカー留学を考えている平義に、ドイツ語を教えてやることだった。
食卓で向かい合い、テキストとノートを開き、平義は真理子の発音を聞き、その通り真似し、自分の言語中枢に刻み込んでいく。真理子が平義に対して、最も真理子らしくなれる時だった。
ただし、平義の家には常に久里子の遺品が山積みにされていた。
食器棚の中にもあった。アルバムの中にもあった。玄関に掛かっている絵の趣味も妹のものだった。平義だけでなく、真理子もそれらを捨て去ることはできない。二人を結びつけている絆を、断ち切るような恐怖を感じてしまうのだ。
日本サッカーのプロ化が進むにつれて、平義は選手としてのピークを過ぎていく。足首の怪我も原因のひとつだったが、Jリーグ発足を二年後に控え、平義は現役生活にピリオドを打った。
八月最後の日、平義の引退試合となった公式戦で、彼は珍しく個人技で相手DF二人を置き去りにして、左足でゴールを決めた。
翌日、平義も真理子も朝方まで続いた送別会で二日酔いだったが、揃って婚姻届を役所に出しに行った。
Jリーグの下部組織でのコーチを何年か勤め、ライセンス取得の勉強も怠らず、ドイツ語も真理子より上達し、数年後にやっとドイツ行きの準備が整った。
真理子は、実家の両親が倒れたためドイツに付いていけなかったことを、今でも悔やんでいる。ハーメルンでの生活は、平義から久里子の亡霊を拭い去るのに充分だったはずだ。新天地では、目の前の真理子に亡き久里子を重ね合わせることなどなかったろう。
事実、帰国した平義は久里子の残像をドイツの片田舎に捨ててきたように見えた。
海外でのその通過儀礼に、自分も立ち会うべきだったのだ。
父親が脳梗塞で倒れ、看病する母親も体調を壊し、真理子は日本を離れることができなかった。
ドイツでユースチームのコーチから始まって、平義は成功の階段を一歩一歩昇っている。かたや自分は、久里子の遺品に囲まれた家でじっと息を潜めて生きるしかなかった。久里子から引き継いだ人生がこれほど重いものだとは思わなかった。
夫と一緒にいる時は誤魔化せるものがあった。食卓での勉強で、同じ発音でドイツ語が返ってくる時、わたしは嬉しくなる。
彼のいない生活では、久里子の亡霊は際立ち過ぎた。
「ねえ、真理ちゃんも一緒に試合を見に行こうよ」
中学時代、久里子に誘われた。
「サッカー、よく分からないし」
「簡単だよ。相手のゴールにボールを入れるだけ。手は使っちゃいけないんだけど、ボールが横のラインに出た時だけ手が使えて、こんなふうにしてボールを中に投げこむの」
久里子がボールを手にして教えてくれた。
平義が個人技で2点取った試合だったが、平義のせいで逆転を許して負けたことを、久里子は身振り手振りで悔しげに話してくれた。
屋根の低い日本家屋。耳鳴りのするような静寂の中でじっとしていると、久里子の若々しい声が聞こえてくる。
平義の女房は精神的に不安定、という噂は、その頃から広まった。日本サッカー協会の人間が自宅を訪ねてきた時、「主人をいつ、日本に戻してくれるんですか?」と、切羽詰まった眼差しで問いただしたことがあった。
夫の仕事を邪魔したくなかったから、自分からSOSは発信できなかった。日本サッカーが平義を必要としてくれて、平義がこの家に帰って来てくれたら、自分は救われそうな気がした。
だから日本のA代表やオリンピック代表が親善試合で苦戦をするたび、真理子はほくそ笑んだ。日本サッカーが行き詰まりを見せ、監督批判がサポーターや評論家から噴出すると、真理子は「夫の出番はまだ?」とテレビに向かって催促していた。
やがて、平義はオリンピック日本代表チームを率いるため、日本に戻ってきた。真理子は華やいだ服装で空港に出迎えに行き、「長い間ご苦労さまでした」と、殊勝な言葉で夫をねぎらった。
心療内科でもらった抗鬱剤は、引き出しの奥にしまうことができた。
ドイツで仕込んできたのか、平義はある格言のようなものを真理子に教えた。ギリシャ神話の言葉だという。
「わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ」
選手たちへの叱咤激励の言葉に使うのだろうか。だが「不死」という一言が気になった。
真理子はこう解釈した。
「死んだ恋人を今、目の前にいる女に重ね合わせ、恋人の不死を求めてはならない。目の前の女を可能な限り愛するのだ……」
自分に都合のいい解釈だろうと真理子は苦笑し、日本対ブラジルの決勝戦と向かい合う。
日本サッカーのメダル獲得に沸き立ち、平義ジャパン賞賛の嵐となるスポーツ雑誌が、こんな記事を載せるだろうか。
真理子も、平義も、許すだろうか。
原稿を読んだ真理子は「マスコミの人間にこんなことを話してしまって、夫に叱られる」と思い悩むかもしれない。
礼作は西武池袋線の普通電車で最後の一行を書き終えると、犯罪をおかしたような気分で放心してしまう。許すはずはない。ならば破ってくれても構わない。平義夫妻の証人になれただけで礼作は満足だった。
最寄りの駅に降り立つ。真理子と知り合ったスーパーが踏み切りの向こうに見えた。
コンビニが目の前にあったので、書き上げた原稿用紙十枚をコピーした。クリップをひとつ買って、自分の名刺と一緒にコピー原稿を留める。
平義の自宅を目指し、炎熱のアスファルトを歩き始めた。住所は暗記している。地図で道も把握している。
キュウリとナスの畑の向こうに、屋根瓦の平屋が見えてくる。朝からすでにマスコミの人間が集まっていた。出版社系スポーツ雑誌のライター、タブロイド紙の新聞記者、見かけない顔はおそらく女性誌の人間だろう。
日本を決勝戦に導き、ブラジルとの世紀の決戦に挑もうとする平義が、日本の妻に何を話したのか、彼らは知りたがっている。
太った髭面のライターは礼作の顔見知りだった。
「時任さんも手広いなあ」
皮肉を言われた。礼作が志野リュウジの実父とは、今のところ知らない業界人だった。
そのうち同じ顔ぶれが礼作のアパートに押しかけ、「息子さんの活躍についてコメントを」と質問を浴びせるのかもしれない。
「奥さん、いないのか?」
「いや、居留守を使ってるみたいですよ。電気メーターが回ってるもん」
手渡しは諦めた。彼らの目を盗み、郵便ポストにコピー原稿を押し込んで帰ろうと思った。
だが、真理子が中にいるのなら、ひと目、顔を見たい。韓国戦の勝利をどんな思いで見届けたのか、やはり聞いてみたい。
礼作もマスコミの輪に加わった。
遠慮知らずの記者が玄関の引き戸を軽く叩く。
「奥さん、何度かお電話した者です。一言で結構ですから、奥さんのコメントをお願いします!」
反応はない。
「クーラーをつけっぱなしにして、外出してるんじゃないか?」と礼作は言う。両親が入院している病院に、朝早くから出かけたのかもしれない。
「いや、いますね」
髭面のライターは確信している。彼らの嗅覚は侮れない。
「奥さん、奥さん、一言いただけたら帰りますから。これじゃあ近所迷惑になりますから……」
と言いかけて、記者は口をつぐむ。周りはキュウリとナスの畑だ。記者たちの輪から笑いが起こった。
「しっ」
髭面のライターが皆に黙るように言う。家の中で音がしたようだ。玄関のガラス戸にぼんやりと人影が見えた。鍵を外す音が聞こえた。記者たちは群れなして近寄っていく。
真理子が現れた。無表情ではなかった。薄い膜のような笑顔が漂っている。黄色のワンピース。最初に会った時の服だった。
記者たちはメモ帳やノートを取り出し、コメントを取る態勢になる。
──昨夜のゲームは一人でご覧になったんですか?
「はい」
──試合前や試合後、平義監督と電話で話したりは。
「話しました」
──どんなお話を。
真理子はそこで礼作に気づいた。もう一枚、笑顔の薄膜を重ね合わせたような表情で礼作を二秒ほど見つめ、質問している記者に顔を戻した。
「勝って、とても喜んでいました」
──決勝戦への抱負など、お聞きになりませんでしたか?
「少しだけ、そんなようなことを……」
──どんな。
「選手たちに言ってあげるそうです。最後のゲームを存分に楽しんでこいって」
記者は貪欲に求める。
──他にはどんなお話を。例えば、日本に帰ったら何がしたい、何が食べたい、とか。
「誘われました。墓参りに」
──どなたのお墓ですか?
礼作は瞬時に悟った。彼女の墓だ。
「わたしと夫が同じくらい愛した人間です。命日が近いんです」
礼作の目を見て答えた。この言葉の意味があなたにお分かりになる? と試すような眼差しに見えたから、礼作は微笑み、分かりますよ、という意味で頷いた。
久里子の命日は大学の卒業式の翌日だから、三月だ。とうに過ぎていた。平義と真理子にとって近日中に迫っている記念日とは、久里子の命日ではない。
──九月一日ですね?
礼作が訊いた。
真理子は「はい」と答えた。笑顔はまた厚みを増した。記者たちが礼作を振り返り、「どうしてあんたが知っているんだ。九月一日に誰が死んだんだ」と訊きたそうな顔をする。
平義が引退試合でゴールを挙げた翌日、二人は入籍したのだ。
かつて平義は真理子にこう告げたのではないか。お前と一緒になった時、俺の中で久里子は死んだ。だから久里子の本当の命日は、俺たちの結婚記念日なんだよ。
「申し訳ありません。すぐ支度して病院に行かなくてはならないので」
真理子は皆に済まなそうに言い、戸を締め、家の中に消えた。
まだ情報に飢えている記者たちがガラス戸越しに質問を浴びせている。彼らから離れた礼作は、ブルゾンの懐からコピー原稿を取り出し、皆に見られないよう、郵便ポストの中に差し入れた。
「わが魂よ……」
礼作は玄関前の喧騒に背を向け、原稿用紙にも記したギリシャ神話の一節を呟き、歩きだす。
艶々と実ったキュウリにトンボがまとわりついている。日本の夏は終わろうとしている。
「ただ可能の限界を……」
アテネの夏は、まだ一試合分、残っているはずだ。
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第四章 ファイナル/vs.ブラジル[#「第四章 ファイナル/vs.ブラジル」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
オリンピックにおけるサッカーは、IOC(国際オリンピック委員会)とFIFA(国際サッカー連盟)の衝突と妥協の歴史であると言ってもいい。
ブラジル、アルゼンチン、ドイツといったワールドカップ優勝国がオリンピックで金メダルを取っていないのは、アマチュアスポーツとしてのオリンピックのサッカーを「二流」と位置づけたからで、その結果、八〇年代前半までは東欧勢がメダルを独占していた。国別メダル獲得ランキングでいうと、ハンガリーが一位である。
だが、オリンピック自体がテレビ放映権を中核としてビジネス化すると、サッカーを魅力的なソフトにするため、プロ選手の参加を条件付きで認めるようになった。
プロの参加資格は後に、「二十三歳以下のチームに三人まで年齢制限のない選手を加えてよい」という現行の形になる。サッカーで収益をあげたいIOCの意向が反映されたわけだが、FIFAも商売上手で、オーバーエイジ導入の交換条件として、女子サッカーをオリンピックの正式競技種目に加えてもらった。
それでも相変わらず「一軍半の選手たちによる一流半の大会」という位置づけをされてしまうのは、IOCとFIFAの対立の構図にUEFA(欧州サッカー連盟)が絡んでいるからだ。
オリンピックが開催される八月は、ヨーロッパの各国リーグが開幕直前であったり、チャンピオンズリーグやUEFAカップの開幕が控えているため、当然のことながらクラブ側はレギュラークラスの選手を送り出すことに難色を示す。二〇〇〇年のシドニー大会ではセリエAが開幕を遅らせたものの、リーガ・エスパニョーラにその配慮はなかった。クラブあっての国内リーグという前提がある以上、各国のリーグ連盟もサッカー協会も「オリンピックにベストメンバーを送り込め」などと強気には言えない。
U─23というカテゴリーのないヨーロッパは、U─21ヨーロッパ選手権の上位四強がオリンピックの出場権を手にすることになっているが、勝ち上がったチームにそもそもオリンピック出場資格のない場合もある。
イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドのイギリス四協会は、国家単位での参加というオリンピックの規定を満たさないため、四強に残っても下位チームに出場資格を譲ることになる。
今回のアテネ大会は、奇跡的に各国の一流選手が集まった大会として、今後の見本となるかもしれない。スペインでいえば、オーバーエイジ枠は使われなかったものの、ホアキンやアルス、レジェスやフェルナンド・トーレスといったクラブのレギュラー選手が参加した。
ヨーロッパや南米の各国がメダルを取る気になったのは、二大会連続でアフリカ勢に金メダルをさらわれたという屈辱が根底にあるからなのかもしれない。
アトランタではアルゼンチンとブラジルがナイジェリアの後塵を拝した。シドニーではカメルーンがスペインを下している。オリンピックのサッカーをワールドカップの前哨戦と位置づけると、アフリカの台頭に対して、早めに「出る杭を打つ」という思惑があってもおかしくない。
今大会もカメルーンが四強に進出した。
叩いたのはブラジルだった。決勝戦の数日後には南米のワールドカップ予選があるという強行日程ながら、オーバーエイジ枠もふんだんに活用して、「ライオン狩り」に成功した。
ブラジルは前回のシドニー大会では、ロナウジーニョやアレックスを軸としたチームのバランスを重視するルシェンブルゴ監督の方針から、オーバーエイジ枠を使わず、その結果、若いチームは肝心なところでメンタルの弱さを露呈し、準々決勝でカメルーンに足をすくわれた。
今回は雪辱戦だった。グループリーグで日本を圧倒したカメルーンも、マジョルカのサムエル・エトオやマンチェスター・ユナイテッドのエリック・ジェンバジェンバといった、ヨーロッパの一流クラブに散っている若手のレギュラークラスを中心に挑んだが、テクニックと狡猾さにおいて、カナリアイエローが一枚も二枚も上だった。
さて、ブラジルだ。
日本との縁は深い。Jリーグのチームに多くのブラジル人選手を送り込んでいるし、ブラジルからの帰化選手も何人かいる。ブラジル・サッカーが日本のクラブに果たした役割は大きく、例えば全盛期のヴェルディ川崎に見られるような、ショートパスをつないで中央突破を狙うサッカーを徹底して教え込んだ。だが、それは一方でピッチを広く使うサッカーを軽視することになり、日本にサイドバックの選手が育たなかった一因とも言われている。
現在、4バックのフォーメーションを敷く日本のA代表が、両サイドバックに課題を抱えている状態がそれを物語っている。
一九九一年の日本プロサッカーリーグ設立を睨んで、実業団クラブはプロ化のために動きだし、ブラジルの血を続々と注入した。
日産自動車に元ブラジル代表キャプテンのDFオスカーが登録され、その後もトヨタのジョルジーニョなど、ブラジル代表経験のある大物選手が呼ばれた。すでに引退していたジーコを現役に復帰させたのは、当時日本リーグで二部にいた住友金属である。
一九九〇年には、読売サッカークラブに三浦知良が入団した。十五歳でブラジルに単身渡り、サントスからプロ選手のキャリアをスタートさせた若者の凱旋帰国だった。この年の読売クラブは元ブラジル代表監督のカルロス・アルベルト・ダ・シルバを監督として迎えている。
ドイツが日本サッカーの生みの親だとすれは、ブラジルは育ての親と言える。
今回のオリンピックで、日本は三大会連続でブラジルと当たることになった。
アトランタでは日本は伊東輝悦のラッキーなゴールで歴史的勝利を掴んだ。シドニーではグループリーグ突破がかかったゲームで、日本は出場停止の中田英寿抜きで、中村俊輔を司令塔に置いて戦い、0対1で負けたものの予選を通過することができた。
育ての親と、育てられた子の宿命なのだろうか、日本サッカーの節目節目でブラジルに当たっている。
チームはアテネに戻った。
この街の交通渋滞と排気ガス公害は有名だ。ギリシャには排ガス規制がないため、バスは発進の際に真っ黒な煙を平気でまき散らす。ギリシャは本当にヨーロッパなのだろうかと、移動のバスから外を眺め、リュウジは思う。
決勝戦まで中三日。
テッサロニキから移動した翌日、午前中、軽めの練習をした後、選手たちは監督やコーチ陣と共にバスに乗り、ギリシャの遺跡見物に出かけた。マスコミの取材も規制し、息抜きの時間を設けたのだ。
日本がグループリーグでギリシャを破ったことでは、かなりギリシャ人の恨みを買ったが、今では激闘の末に決勝戦に進んだ日本を応援してくれているようだ。
わだかまりを残さない人種というのは本当だった。市場やカフェニオン、遺跡の土産物売り場、どこへ行っても「頑張れ」とギリシャ語の声が飛んでくる。
アテネのシンボル、パルテノン神殿を擁する古代遺跡アクロポリス。
日本チームに帯同している児島さんのガイドで、世界遺産に触れた。
海の神ポセイドンと智恵の女神アテナは、ある町の守護神の座を争っていた。そこで神々は「人間に役に立つものを与えた方を守護神とする」と定め、ポセイドンは泉を、アテナはオリーブの木を人間に与えた。その結果、人間はオリーブを選び、アテナが守護神となる。これにちなみ、町はアテネと名付けられた。
第一回近代オリンピックが開催されたアテネ競技場にも行ってみた。
だだっ広い競技場跡を見ても、すぐに退屈してしまい、選手たちは道端の屋台で売っている焼きトウモロコシに群がる。塩味なので日本のそれとは違う。誰かが醤油のミニボトルを携帯していて、路上で奪い合いになった。
遺跡の向こうから、望遠レンズで狙う日本のマスコミがいる。日本のサッカー史上初、銀メダル以上が確定したことで、日本から大挙、報道関係者がアテネ入りをしていると聞く。チームは毎日二人ずつ、選手を共同記者会見に出すことで餌を与えていた。
今日はリュウジにお鉢が回ってきた。
宿舎に設けられた会見場で、ライトを浴び、ぐるりと群れなすマスコミを前に、十五分のインタビューに応じた。
──スペイン戦の活躍で、韓国戦では同じトップ下で先発と思われていたけど、外れた理由は何だったんでしょう。
最初から答えにくい質問をぶつけられた。
「監督のゲームプランですから」
──韓国戦の後半三十五分、松井選手が三人目の交代のために一度はベンチから立ちましたよね。ということは、あの時点で、志野選手には韓国戦の出番がなくなったわけですが。
「はい。諦めました」
──アップをしている時に葛井コーチに止められた場面がありましたね。お前に出番はないと告げられたんでしょう?
よく観察している。
──結果はどうあれ、スペイン戦で監督のゲームプランに逆らった懲罰として、韓国戦ではスタメンを外されたというのがもっぱらの噂ですけど。
「でも、出場しましたから」
──ですよね。そこが不思議なんですけど。延長戦になって監督に閃きがあったということでしょうか。
「監督に訊《き》いて下さい」
──延長戦から投入される時、監督から何か指示は?
「特になかったです」
──監督を見返してやりたいという気持ちだったでしょう。
「監督と戦ってるわけじゃないですから」
──見事な決勝ゴールでしたね。
「見事だったのは、僕のゴールにつながるまでの流れです。明神さんがいいクリアをして、その時にはもう梶が走り出していて、前線のタツヤさんが相手DFを引き連れていた。全部がハマッたって感じです」
──決勝戦への意気込みを聞かせて下さい。
「相手は世界最強チームだけど、十回戦ったら一回は勝てる相手だと思うので、その一回が三日後になればいいなと思ってます」
その夜、ホテルでミーティングがあった。
揃いのポロシャツ姿の選手たちを前にして、平義は例によって学者のような口ぶりで語る。
「一九六〇年から東京オリンピックに向けて、日本のコーチをしたドイツ人のデットマール・クラマーは、『日本人には動き始めの五メートルから十メートルの速さに見るべきものがある』と言った」
瞬発力は、当時から日本人の特性だったらしい。
「五十メートルから百メートルならドイツ人の方が速いが、日本人の速さは判断の早さと動き始めの速さだった。だから彼はワンツーパスの練習から始めた。高いボールを蹴らさず、常にボールを足元に置いて、ワンツーを繰り返す練習を日本人にやらせた」
日本人と外国人とでは、体内に埋め込まれているメモリー感覚が決定的に違う。平義はそれをドイツのコーチング留学で実感したという。
「日本人は細かい感覚を持っている。例えば『ちょっと右に動け』と指示すると、日本人はセンチ単位で動くことができるが、ヨーロッパや南米の選手はメートル感覚でしか動けない」
日本はショートパス主体のサッカーをブラジルから教えられたが、今ではブラジルより遥かに細かく繊細な動きを会得することができる。
平義の話は選手たちに、自分たちにもブラジルチームに勝るものがあると信じさせる。
「これはアトランタでブラジルに勝った時のビデオだ」
平義がテープを掲げる。「どうだ、見たいか?」
選手たちの反応は鈍い。
当時、オリンピック代表のリベロだった田中誠が、「見なくていいです」とはっきりと言った。大会途中に攻撃陣と守備陣が離反して、チームとして崩壊した嫌な思い出があることは、みんな知っている。
平義は答えが分かっていたかのようにそのビデオを引っ込め、クズ兄ィにもう一本のビデオを映すように言う。今大会におけるブラジルの五試合をダイジェストしたビデオだった。
韓国戦。チェコ戦。ナイジェリア戦。クォーターファイナルのドイツ戦。そしてセミファイナルのカメルーン戦。
選手たちは目を凝らす。
先発メンバーは全試合、ほぼ固定されている。
リーガで知った顔も多かった。中盤にはマジョルカのネネ、セビージャのジュリオ・バプチスタ、エスパニョールのフレドソンといった選手がいる。彼らはクラブでは控えクラスだ。バルセロナのレギュラークラスであるチアーゴ・モッタはクラブでは中盤にいるが、このチームでは左サイドバックに位置する。元バルセロナで現在スポルティング・リスボンのファビオ・ロッチェンバックは中盤の底だ。
FWはパルマで中田英寿とプレーをし、その後インテルに移籍したアドリアーノ。そして何といっても今回のブラジルチームでマークしなければならないのは、「スペクタクルの申し子」と呼ばれるカカーだ。
名門サンパウロでプレーをしてきたカカーは、クラブで彼専門の育成プロジェクトが作られたほど大切に育てられ、今シーズンからACミランに鳴り物入りで移籍をした攻撃的MFの逸材である。
日韓ワールドカップにも出場をしている。グループリーグのコスタリカ戦。すでにブラジルが五点を挙げた後、リバウドと交代して残り十八分をプレーした。
ACミランでは、ルイ・コスタの後継者と目されている。シェフチェンコとインザーギの両トップと、ガットゥーゾ、ピルロ、セードルフといった不動の中盤とのつなぎ役をこなしつつ、ゴールに迫る果敢なプレーが持ち味だ。
今回のオリンピックでも、縦への展開に頻繁に絡みながら、FW二人を後方から追い越す動きを見せる。しかもディフェンスをうまくこなす長所もある。味方エリアから相手エリアの四分の三までカバーリングに走るので、相手のマークを増やすのにも役立っている。
このタレントたちに加えて、最強のオーバーエイジ枠三人がいる。
まず、キーパーのジダ。アトランタ大会では日本に1点を許してしまったが、ACミラン所属で経験豊富なこの男に、セレソンのゴールマウスを託した。
レアル・マドリーの不動の左サイドバックも、自らオリンピック代表に名乗りを上げた。リュウジとは何度もピッチ上でマッチアップし、騙し、騙され、削り、削られ、という因縁を積み重ねてきたロベルト・カルロスだ。
そしてロナウド。一見するとオーバーウェイト気味で体が重そうだが、一瞬にして相手DFを抜き去る、リーガ・エスパニョーラ〇三─〇四シーズンの得点王だ。
ゴメス監督はオリンピック南米予選ではヨーロッパ組をほとんど招集できず、毎試合苦しみ抜き、かろうじて本大会出場の切符を手にした。本国リーグのクルゼイロとサントスのメンバーを中心に構成し、中でもサントスのディエゴとロビーニョがカカーの穴を埋める活躍で、パラグアイとの熾烈《しれつ》な最終戦を制した。
しかしアテネの空の下では、ブラジルはこれ以上ない完璧なキャスティングで金メダルを獲得しようとしている。
このチームはワールドカップで優勝したブラジルのイメージとほとんど違いはない。フラットな4バックとサイドからのアタッキングサッカーというブラジルの伝統的な戦い方だが、どの選手もしなやかな個人技を持っていて、ピッチのあらゆる場所から攻撃の起点を作ることができる。
五試合とも、まさに完璧なゲーム運びだった。
「俺たちの時は『両サイドバックからの速いクロスでセンターバックの間を狙うのが、ブラジルの唯一の弱点』と言われたけど……」
アトランタでブラジルを下した田中誠が言う。「このチームには通用しないだろうな」
どんな時代でも、ブラジルはブラジルらしいチームを作ることができる。なぜブラジルだけが、こんなに次から次へと天才的な選手を出してくるのかと、リュウジは思わずにいられない。
サッカーが生活に溶け込んでいる国は他にもたくさんある。人口が多いせいか、ハングリー精神が根強く残っているからか、いろいろな人種の血が混ざり合う強みだろうか……。
リュウジはベティスのパーティでデニウソンとマルコス・アスンソンから聞いた話を、ビデオを見ながら思い出した。
リュウジが「なぜブラジル人プレイヤーは、自然とブラジルのスタイルでプレーするようになるのか」と素朴な疑問をぶつけたら、デニウソンが「マランドロのせいだ」と言う。
マランドロ。「悪党」と訳せばいいらしい。
ブラジルの民間伝承に登場するマランドロは、詐欺師でありトリックスターだった。一匹狼でルールには従わない。どんなに貧しくても、いい服を着て、一流のレストランで食事をし、とびっきりの美女をいつも連れ歩いている。
「要するにブラジル人は、自分たちをマランドロに見立てているんだ」
「そのマランドロっていうのは、どこでどうやって育つんですか?」とリュウジは質問を続けた。
「簡単に説明してやろう」
マルコス・アスンソンが代わって喋りだす。「お前がスラムに行ったとする。一人の女に会う。家には男はいない。女は五人か六人の子供の面倒を見ている。その中で一番賢い子を見つければいい。その子には路上でかっぱらいをしても、警察から逃げる足があり、路地裏を味方につける頭の良さがある。腕っぷしも強い。フットボーラーになるのはその子だ。人生に付き物のトラブルも、巧みなドリブルでかわしていける。やがてその子はフットボーラーとして母親にパンを稼いでやる。ピッチでDFを騙すのと、路地裏で利口に立ち回ることは同じなんだ。その子がすなわちマランドロさ」
何となく理解できた。
古典的にはマランドロは黒人らしい。その頃からサッカーをしていたのかどうかは定かではないが、彼はブラジルの黒人に四百年以上前から伝わるカポエイラの達人である。カポエイラはダンスと空手を混ぜたようなものである。
その頃、ブラジルを支配していたポルトガル人は、アフリカ人を奴隷として連れて来た。奴隷たちは支配者の暴力から身を守るため、独自の格闘技を生み出した。彼らは皆、手錠をはめられていたので、必然的に足技が発展した。格闘技の練習が見つかると罰せられる。だから奴隷たちはダンスをしているように見せかけた。
「ブラジル人のフットボールを理解するには、まずカポエイラを理解することだ。カポエイラとは相手を騙すテクニックだ。ボクシングみたいに、ただパワーがあるから勝つものじゃない。肉体の哲学さ。カポエイラは踊りであり、スポーツでもある。まさに偉大なブラジル・フットボールだろう?」
ブラジル人が最も愛するサッカー選手は、ガリンシャやペレといったドリブラーである。彼らはバナナシュートやバイシクルシュートといった技を発明した。まさにカポエイラの達人である。
ペレの名前は知っていたが、ガリンシャという選手は初めて聞いた。ブラジル代表として三度のワールドカップで二度優勝し、引退した時には妻と七人の子供に囲まれ、出身地のスラムと似た場所に住んでいた。アルコール中毒で命を縮めた彼の葬儀には、百万人のファンがリオの街を埋めつくしたという。
「分かるか、リュー」
デニウソンが分厚い唇を突き出し、不敵な笑みを浮かべて言った。
「ブラジルのフットボールはただのスポーツじゃない。舞台の上の華やかな演劇なんだ」
ブラジルはこれまでオリンピックを重要視していなかった。
しかし、今回の決勝戦の相手は日本。初めてサッカーで金メダルが取れるこんなオイシイ機会を、逃す手はない。ゴールドの輝きはマランドロの目を引きつけているに違いない。
2[#「2」はゴシック体]
前日練習のマスコミ公開は十五分と決められた。
平義が自ら二色のビブスを配り、ボランチに明神と鈴木啓太を入れるという守備的な布陣でミニゲームを行った。ブラジル戦は当然ディフェンシブに戦うという表明である。インタビューでも平義はそれを匂わす発言をした。
「実力差は明らかなので、しっかり自陣を固めてカウンターを狙うしかないでしょう」
それだけのコメントでは、海千山千のマスコミは疑ってかかっただろう。だから平義は公開練習で右サイドに石川ではなくリュウジを入れた。これまでの活躍からすれば、リュウジは当然スタメンで使われるだろうと考えたマスコミは、この布陣に真実味を感じたようだ。
広報担当が「時間です。スタンドから退去していただきます」と告げ、不満げな取材クルーがたらたらとスタジアムを後にして非公開になると、平義はレギュラー組の布陣を変えた。
明神のワンボランチ、右に石川が入り、トップ下にリュウジ、平山相太の1トップに、田中達也と梶の2シャドーという、超攻撃的なフォーメーションである。
これまでの監督の守備意識からすると、大いなる矛盾である。まともに戦ってもブラジルに勝てないのなら、彼らの予想を覆す戦い方で挑むしかない、負けたって日本初のサッカー銀メダルという名誉は残されると、開き直ったのだろうか。
いつもの平義だったら、しきりに笛を吹いてプレーを止め、細かい動きの確認をするのだが、今日は違う。ただ見守っている。
リュウジは颯爽たる気分でピッチ中央を駆けた。
梶とのワンツーから中央突破をし、相手のバイタルエリアを脅《おびや》かす。あるいは石川の背後をオーバーラップして、右サイドに回ろうとする。相手がリュウジの動きにつられると、マークが薄くなった石川は楽々と内に切り込むことができる。韓国戦が延長からの出場だったこともあり、リュウジは休養充分だった。
楽しかった。練習でこんなに楽しめたのは初めてかもしれない。その分、明日の本番では苦しみが待っているのかもしれない。
その時、意外なものを視界の端に捉えた。平義がリュウジたち前線のプレーを見て、微笑を浮かべたのだ。
「おい、監督が笑ってるよ」と、他の選手も気付いた。
「動け、リュウジ!」
そんなふうに声を掛けられたのは初めてだった。
「お前が敵陣のあらゆる場所に出没すれば、スペースが生まれる。動け、裏を取れ!」
だから駆けた。平義の声が鞭《むち》のようにリュウジの背中を打つ。心地よい感覚だった。
ファーサイドにクロスを放り込み、平山が高い打点で折り返し、二列目から走り込んでいた梶がボレーシュートを放つ。
「よーし、それでいい!」
監督も俺たちのサッカーを楽しんでいる。まるで、オリンピック日本代表の監督に就任してから今までの戦いは、すべて苦しみの連続だった、やっと苦痛から解放されたと言いたげな、涼しげな表情だった。
好対照なのは、隣のクズ兄ィの顔つきだ。いつもだったら大工の棟梁が若い衆を叱り飛ばすように、ミニゲームでは声を出しっぱなしのキーパーコーチだが、今日に限っては、賑やかな監督の隣でむっつりと口を閉じている。
饒舌《じようぜつ》と寡黙《かもく》が逆転した二人の姿を見ているうち、
そういうことなのか?
リュウジの中でみるみる氷解するものがあった……。
夕飯が終わって解散になると、リュウジは「いいですか、クズ兄ィ」と廊下で呼び止めた。
食堂を出て自室へと向かう監督を見送った。練習では明るかったが、その後ろ姿にはいつものように孤独感が漂っている。
選手たちは決勝戦前日の緊張をほぐすため、卓球台やビリヤードに集まっている。
ホテルのロビーが閑散としていて、二人きりで話すことができた。
「どうした」
雨音が聞こえた。明日の試合開始時刻は快晴だという予報だが、降り続けば、明日のピッチは湿度が高いかもしれない。
「あの言葉です」
平義がクズ兄ィに話したというギリシャ神話の言葉だ。
「不死を求めるなってどういう意味なのか、韓国戦でゴールを挙げた後、俺、ぼんやりとだけど、答えが見えたような気がして」
「ほお。聞きたいな」
「今日の練習で、監督はやたらと楽しそうだったでしょう?」
「そうだな」
クズ兄ィは苦笑まじり。
「でも、クズ兄ィはずっと深刻な顔つきだった」
「いかんな。俺はすぐ顔に出るタチだから」
「今日の監督の様子を見ているうちに、きっとそういうことじゃないかって確信になりました」
「教えてくれよ」
「監督は俺のスペインでのプレーを研究してくれた。そうですよね」
監督の部屋には、リュウジが出場したリーガ・エスパニョーラの全試合のビデオが並んでいたという。
「俺のテクニックだけじゃなくて、俺の性格まで監督は把握した。違いますか?」
「しただろうな」
「俺が馬鹿力を出すのは、監督やチームに対して反発したり、ゲームがもうどうにもならないところに追い込まれた時だと、監督は発見した。それを利用しない手はない、と思った」
「ふむ……」
「だから監督は、俺にわざとストレスをかけて、フラストレーションの塊にしたんじゃないかって、俺、思ったんです」
クズ兄ィは考えこむ。思い当たることがあるみたいだ。
ファンタジスタはいらない、チーム全体のオートマティズムこそ現代サッカーであるという信念を持つ平義は、リュウジを組織の犠牲者にするつもりなのだと周りは思った。梶は「殺されるためにお前は呼ばれたんだ」と言った。
そうじゃない。一度犠牲者にした後に生まれてくる、超攻撃的なオプションだったのではないか。
「だから監督は俺をぎりぎりまで追い込んだ。韓国戦で先発から外したのは、スペイン戦でチームに反発したからじゃない」
スペイン戦でのリュウジの活躍は、平義にとっては予想通りだった。韓国戦を前にした練習で、懲罰として先発から外すように見せかけ、クズ兄ィには「ベンチからも外したい」と告げて味方さえも欺き、リュウジを絶望の淵に追い込んだ。
そして韓国戦の土壇場でリュウジを投入した。
リュウジは「龍」の時を迎えた。
平義はリュウジを追加招集した時から、土壇場でのモチベーション作りのため、徹底的にリュウジの圧制者となり、騙してきた。リーガのバレンシア戦で、リュウジがヴィクトル・ロペスのマンマークを自分の意志で行ったと聞いた時に、監督はリュウジの性格を有効利用できる確信を得たのではないか。
「韓国戦で延長に突入した時、監督は『今がリュウジの使い時』と判断したんです。だけど使えるのは一回こっきりだ。そういう使い方が決勝戦でできれば、言うことはなかった。でも、そううまくはいかなかった」
クズ兄ィが言葉を引き取って続ける。「日本チームの力量を考えても、リュウジというオプションを使う場面は思ったより早く訪れると、あの人は考えていた。出し惜しみをするわけにはいかなかった」
韓国戦でカードを切ることになった。奇策が結果を出してしまえば、リュウジは平義の意図に勘づき、それ以後のゲームでは「反逆児のパワー」といったものは期待できない。
「だからといって」
クズ兄ィは、俺に言わせろ、とばかりに遮る。「リュウジの反骨心を利用した作戦を使うことを躊躇《ためら》ってはならない」
わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ。
とっておきのカードが永遠に効果を生むと考えてはならない、カードを切った後はただ正攻法で敵にぶつかり、できる限りのことをしなければならない……監督は以前から自分にそう言い聞かせてきたのではないか。
「俺、これまで監督と腹の探り合いばかりしてきました。騙し合ってきました。紅白戦や調整試合で自分の持ち味を全部出したら、きっと本番では使われないだろうと思ってた。リュウジがピッチに立てば攻撃のアクセントがつく程度に思わせておかなきゃいけない。俺も監督と心理戦を戦っていたんです。結構疲れました」
「監督も同じだ」
「だから韓国戦でカードを切った後、監督はやっと解放されたんです。これからは誰も欺く必要はない、目の前のサッカーを楽しめばいいと思った」
「確かに、あんな楽しそうな監督は、初めて見た」
「クズ兄ィはどうして、楽しめなかったんですか?」
答えは分かっている。「いつもと違う監督の姿を見ているうち、急に不安になったんでしょう?」
クズ兄ィは「ああ」と頷く。「監督は、選手たちをリラックスさせようと明るく声を出してるんじゃない。打つ手がなくて空っぽだから、もう笑うしかない……そんなふうに見えてさ」
「クズ兄ィの『おいおい監督、それで大丈夫かよ』っていう顔を見て、俺、『あ、そういうことかもしれない』って分かったんです。監督は打つ手をすべて打った。ブラジル戦に残されたのは『十回戦ったら一回は勝つ』っていう幸運に期待するしかないとしたら、監督がここまででやり遂げたことって一体何なのか」
それは志野リュウジというオプションを韓国戦で使い果たしたこと。
言われてみて、クズ兄ィは合点がいったようだ。
「スペイン戦で最高のパフォーマンスを見せたお前を、韓国戦の先発メンバーから外すだけじゃなく、ベンチ入りもさせないと言い出した時、一体どうしちまったのかって思ったもんだ。選手が自分のシステムを無視したからといって、組織から締め出すような監督じゃない」
「クズ兄ィも騙されていたんです」
「俺が必死になって『リュウジをベンチ入りから外さないでほしい』と頼んでなかったら、どうするつもりだったんだろう」
「監督は信じてたんです、クズ兄ィを。きっとそう言ってくるだろうって」
変な信用のされ方だなと苦笑した後、クズ兄ィは「でもな」と真顔になった。
「監督も韓国戦では揺れていた。前も言った通り、監督は決して完全な人間じゃない。後半残り十分で松井を入れようとした時だ」
交代枠の残りひとつを使い切ろうとした場面だ。監督は拮抗《きつこう》したゲームが続くにつれ、「当初の計画通りにリュウジを入れたとして、はたして期待通りの働きをするだろうか」と確信が持てなくなった。疲れてきてパスの精度が落ちた梶に代えてキープ力のある松井を投入することは、あの場面、最も理にかなった対策だった。
「だけど曽ケ端さんがキーパーチャージでダメージを食らってしまうと、梶をそこで交代させることができなくなった」
あれが分かれ道だった。キーパーが健在だったら松井を入れていただろう。試合の行方はどうなっていたか分からない。
クズ兄ィは「そういえば……」と思い出す。
「九十分が終わった時、あの人はまず梶の様子を気にした。梶がまだいけると判断した時、最初から目論んでいた通り、リュウジと梶とのコンビネーションにすべてを賭けようとした。もう迷うことはない、志野リュウジという切り札を、今切らなくていつ切る。反骨心のバネを絞りきって待っているあいつをピッチに投げ込んでみよう……」
クズ兄ィと二人で謎解きをしている気分だった。平義楯夫の複雑な内面が、糸がするすると解けるように明らかとなる。
「賭けは見事当たったな」
「俺が決勝ゴールを決めた後、監督は得意そうな顔をしてました」
俺の目に狂いはなかった、志野リュウジというタレントを完璧に使い切った、という満足感だったのだろう。
「問題は明日だ」
カナリアイエローが目の前にちらつく。邪悪な色だ。リュウジは「ただ可能の限界を汲み尽くせ……」と呟く。
「あとは選手から新しい可能性が飛び出してくるのを待つしかない……監督はイイ意味でも悪い意味でも、諦めたってことだ」
「諦めた?」
「言葉が悪かったな」
クズ兄ィは言い方を変える。「達観した。突き放した」
そんなふうに突き放されても、リュウジは困る。
「今度はお前たちが、監督に未知のものを見せてやれ。選手が監督を育てる番がとうとう来たんだ」
「俺たちが、監督を……」
「監督もコーチも実はお手上げだ。作戦なんてないに等しい。守って守ってカウンター。サイドに振って真ん中に穴を開けろ。そんなことしか言えない。アトランタでブラジルを破った時とは訳が違うんだ」
日本戦でGKジダとゴール前で接触し、世紀の番狂わせの原因を作ってしまったDFアウダイールは、後にこう語ったという。
「ブラジルには格下の相手と戦う時のやり方があった。同時に開幕戦の戦い方というものもあった。過去のワールドカップの歴史を見ても、ブラジルの初戦はいつも芳しくない。大事にいかなければという思いが、選手たちから自由を奪ってしまうようだ。ただ、アトランタの日本戦について言うなら、立ち上がりを静かにしてしまったのは大失敗だった。正直言うと、我々ブラジルは日本に猛攻をかける必要すらないと考えていた。慎重に戦ったっていつかはゴールが決まるという思い込みがあった。そして我々はとてつもなく高い代償を払うことになった」
彼らは二度と、対戦相手が日本だからといって油断はしないだろう。明日はオリンピックの初戦ではなく、決勝戦だ。ブラジルに故障者はいない。ベストメンバーがベストの力を発揮し、金メダルを得るまで攻撃の手を緩めない。首に掛けてもらった金メダルを、カメラに向かって齧《かじ》って見せるのが彼らの夢だ。
平義がマスコミを巻き込んで「日本は守備的にいく」とブラジルに思わせ、本番では裏をかき、ボランチを一人削って攻撃的に行ったとしても、おそらく大した変化は望めない。
ブラジルはゲーム序盤で決着をつけ、オリンピックのサッカー史上、最もつまらない決勝戦を世界に見せつけるつもりだ。
「監督を育てるって、どうやって」
「さあな」
「メンバーから外された怒りだけで突っ走ってた俺に、何ができるって言うんですか……」
買いかぶりだ。
クズ兄ィは首をすくめるだけだった。
沖に投げ出されたような気分だった。十一人の選手は海面に浮かび上がるのに精一杯で、血に飢えた鮫の影に怯えるばかりだ。命綱はどこにある、監督の舟はどこだと探してしまうだろう。
「監督は、今、ゼロなんですね」
念を押すように訊く。クズ兄ィは頷く。
「でも、勝ちを諦めたわけではない」
もちろんさ、とクズ兄ィは言う。
「明日は、俺たちが監督を育てる」
そうだ、とクズ兄ィは言った。「どうやら平義さんとお前たちは長い付き合いになりそうだな」
日本サッカー史上初めての銀メダルという功績で、平義のA代表監督就任は意外に近いかもしれないと言われている。二〇一〇年を一緒に戦うことになるかもしれない。
韓国戦の前夜、リュウジはクズ兄ィに、「チームが強さを発揮するのは、監督のために勝ちたいと思う時だ」と言った。
ビクトル・フェルナンデスのために勝ちたいと思った時、普段の自分以上の自分がピッチにいたことがあった。
今、リュウジは血管が脈打つ感覚で、ある欲求を覚えている。
自分のために勝ちたい。
そして平義楯夫のためにも勝ちたい。
3[#「3」はゴシック体]
八月二十八日、決勝戦の会場オリンピック・スタジアム。
ロッカールームは遺跡の洞窟のような静けさに包まれている。おそらくジャパンブルーとカナリアイエローの二色に色分けされているであろうスタンドから、応援フレーズと鳴り物とサンバのリズムが重低音で空気を震わせる。
試合用ユニフォームに着替え終わった選手たちは、MDのイヤホンを耳から外し、マッサージを終え、最後の水分補給をする。氷水を張ったボウルからレモンを取り出し、ひと齧りする者もいる。酸っぱさで頭がシャキッとする。
決勝戦のキックオフは午前十時である。選手とスタッフは午前六時に起床し、食堂に集合してスモールミールの朝食をとった。選手たちが腹に入れたのは、おにぎり二個と、うどんかパスタ、バナナ一本だった。ご飯が喉を通らない者は、うどんの汁に浸して流し込んでいた。
選手たちが「最後の晩餐ぐらい、好きなものを出してほしい」と栄養士にリクエストを出したら、極上の讃岐うどんを出してくれた。ブラジル戦で命を落とすわけでもないのに「最後の晩餐」とは大袈裟だが、何やら死地に赴く気分なのは確かだった。
リュウジはスパイク裏のスタッドを器具で締め直し、カチャカチャと床を踏む。その音で戦意が高まる。
静けさの中心に、麻のスーツ姿の平義監督が出てきた。リュウジたちは見上げる恰好で注目する。
監督は全員をぐるりと見回してから、
「これからは、すべてが新しい体験だ」
気負いのない、静かな口調で語り始める。「決勝戦。相手はブラジル。お前たちのことだから、緊張なんかしないだろうが、スタジアムに入ったら、一度、隅から隅まで眺めてみろ。ゴールはどこにあるのか。電光掲示板はどこにあるのか。日本のサポーターはどこらへんに固まっているか。ブラジルのサポーターの中には水着姿の女性も大勢いる。さっき見たら、あれはほとんど裸だ」
選手たちからフフッと笑い声が聞こえる。
「全体をぐるりと見回したら、ブラジル選手の顔だ。握手をする時、相手の顔をしっかり見ろ。目が合ってもそらすな」
スタッフがそろそろ入場であることを伝えに部屋に入ってきたが、監督の話が続いているので、ドア口で待っている。
「最後の試合になったな」
監督はうっすら微笑みをたたえた。「君たちとサッカーができたことを、誇りに思う」
俺たちのプレーが監督に誇りをもたらしたと言う。選手たちはまじまじと監督を見ている。
「ありがとう」
監督が俺たちに感謝した。リュウジたちは意外な言葉に絶句してしまった。「ありがとうございます」と応えるべきだったかもしれない。誰もが胸が詰まって何も言えなかった。
「よし、行こう」
監督はキャプテンの明神を促し、輪から退く。
全員が立ち上がる。円陣を組む。
「自分たちに自信を持って戦おう。そして勝とう」
明神の短い言葉に、「オウ!」と腹の底から声を出す。あとは賑やかだった。周りの選手たちとハイタッチをする。「よおし、いくぜいくぜいくぜ!」と発奮する。
スタッフに導かれて通路に出る。
白い廊下の先に、入場ゲート裏のホールがある。すでにカナリア色のユニフォームが集っていた。褐色の肉体がかもし出す何かがリュウジたちに迫ってくるが、ロッカールームで高めた戦意でその威圧感をはね返す。リュウジは背丈やリーチの違いを見せつけられても、目をそらさない。
褐色のスキンヘッドにすでにねっとりと汗をかいているロベカルが、リュウジを見てウィンクをした。
坊主、覚悟しろ。そう言っているのかもしれない。
リュウジはウィンクで返せるほどの愛嬌はなく、ただロベカルの薄笑いを見返すだけだ。
監督とコーチ、控え選手が先にフィールドに入った。大会フラッグを持つ若者たち、審判団の四人、そして両軍先発メンバーでホールがいっぱいになる。主審はスキンヘッドをきれいに輝かせたコリーナさんだ。世界大会ファイナルの常連審判である。
「第二十八回オリンピック競技大会、二〇〇四アテネ……フットボール、ファイナル、ブラジル・ヴァーサス・ジャパン」
英語のアナウンスの最後は大歓声でかき消された。
FIFAがオリンピックで存在を誇示するかのようなアンセムが流れ始める。
入場する。カナリア軍団は例によって手をつないでいる。午前の太陽に切り取られた視界が目の前に広がるにつれ、むっとする暑気に全身が包まれる。
つい二十分前にアップした時と比べても、熱気の度合いが違う。スタンドの体温のせいだろうか。気温三十一度、早朝まで降っていた雨のせいで湿度八〇パーセントというコンディションだ。
「やべえ」
誰かが呟いた。確かにこの酷暑のピッチはやばい。
監督に言われた通り、ゆっくりとスタジアム全体を見回す。ジャパンブルーが七割、カナリアイエローが三割のスタンドだったが、サンバのリズムが圧倒している。緑のビキニで黄色いバンダナを頭にかぶった、裸に近い女もいた。
メインスタンドに向かって横一列に整列をし、国歌斉唱となる。
まず「君が代」だ。中継カメラが横移動して、選手一人一人の顔をアップで捉える。リュウジは目を閉じ、「君が代は、千代に八千代に」と歌う。故郷の家族に届けよ、とばかりに。
ブラジルの国歌となる。長ったらしい曲を聞いている間、芝目から湧きだす熱気に息苦しくなる。九十分もつだろうかという不安を、リュウジだけでなく、他の十人も感じているはずだ。
本当にやばい。
一方のブラジルのメンバーは涼しげな顔をしている。こいつらとは細胞の構造からして違うのだと、プレーになれば思い知らされるだろう。
ゲーム前のセレモニーが終わる。ブラジルの選手と握手をする。一人一人を睨み付ける。
ジダもロベカルもロナウドも、「よく決勝戦までやってきたな」「これから楽しく遊んでやる」「銀色のメダルで満足しなきゃ駄目だぞ」と、幼児をあやすような顔で通りすぎていく。
写真撮影になる。隣の梶と肩を組む。フラッシュの一斉射撃を浴びて、ピッチへ放たれる。
キャプテン明神がコイントスで、エンドを選んだ。ジャパンブルーに染まっている方を自陣とする。リュウジはトップ下の位置に立つ。
テレビ中継の関係で、キックオフが待たされる。ブラジルは日本の布陣を見て、「ディフェンシブではない」と勘づいた頃だ。リュウジと石川が共存しているのがその証拠。日本は百二十分をゼロで抑えてPK戦に懸けている、と考えていたブラジルは、「気がふれたか」と思ったかもしれない。
センターサークルにロナウドとアドリアーノが立つ。妙にリラックスしているFW二人。笑みさえ見える。日本の出方を見て、徐々にエンジンをかけてくるのか。それとも……。
中継あけの合図がピッチの外から出て、コリーナさんが試合開始の笛を高らかに鳴らした。
アドリアーノがしなやかなモーションで左サイドへ蹴った。根本がヘディングしたボールに、カカーが猛然とダッシュする。
優雅にゲームを始めようとはしない。アトランタの時は、「格下相手には序盤に猛攻をかけて相手の戦意を喪失させる」というセオリーを取らなかったのが失敗の因《もと》だった。前轍は踏まない。やはりブラジルは序盤でゲームを決めようとしてくる。
根本から明神に横パス。キャプテンはボールをキーパーに戻す。ダッシュしてくるアドリアーノに曽ケ端が慌てた。ミスキックのボールが右のタッチラインを割る。
スローインからボランチのロッチェンバックに一旦戻る。リュウジがすぐに寄せる。ロッチェンバックはカカーとのワンツーパスで、プレッシャーをかけるリュウジと梶を楽々と振り切って、前線のロナウドにクサビを入れる。明神のしつこいチェックでロナウドは前を向けないが、ボールを失うことはない。明神が粘っこく絡みつく。ロナウドはカカーにボールを戻す。
トップ下としての貫禄が備わっているカカーは、右サイドに振る。サイドバックがボールキープをしている間にフォローに回り、ボールを受けると今度は左へ、長いサイドチェンジのボールをロベカルの足元に確実に届けた。
まだ地に足がついていない日本のDF陣を右へ左へと動かす。アトランタのブラジル戦経験者、最終ラインの頼みの綱である田中誠が大声でマークを指示する。
ただしスタンドからの二種類の応援フレーズによって、聞き取れない。
信じられない。たった二人のパス交換で田中誠と闘莉王が置き去りにされた。低い姿勢で迎える曽ケ端に強烈なシュートが襲いかかる。キャッチできなかった。前に弾くのがやっとだった。ロナウドがすかさずスライディングで押し込む。曽ケ端の手をかすめてボールは白いネットに吸い込まれた。
開始一分もたたないうちの失点。おそらくオリンピック史上最速のゴールではないだろうか。
ピッチのカナリア色も、スタンド三割のカナリア色も、午前十時の澄みきった空から降り注ぐ太陽を浴び、輝きを放つ。サンバが席巻する。カーニバルが始まっている。
日本の選手はベンチを振り返る。ベンチで平静さを保っている監督を見れば落ち着く、という効用があるはずだ。苦しいときの神頼みが早々に始まっている。
平義がライン際まで出てきて、「落ち着け」というアクションをする。
監督に打つ手はない、あとはお前たちが監督を育てるんだ。昨夜のクズ兄ィの言葉が甦るが、リュウジを含めたピッチの全員が、今何をするべきか監督に言ってほしいと願う。
平義はリュウジを呼んだ。
サンバの音を縫って言葉が届く。「安全にキープしようとするな。試しに奴らと同じことをしてみろ」
失点の後は萎縮し、ボールをキープしようとする気分になるが、開始早々の失点で浮足立つチームに、監督は「前へ攻める姿勢を敵に見せてやれ」と言いたかったのだ。攻めて、ラインも上げて、高い位置でボールを奪う。やはりこの人は単なるディフェンシブな監督ではなかった。
だが、監督が言えるのはそれが限度だ。今まで積み上げてきた規律もオートマティズムも、ブラジル相手には通用しないことは分かっている。選手たちがピッチで新しく発揮するものに期待するしかない。
期待に応えたいと思う。リュウジは頷いてトップ下の位置に戻る。再度キックオフとなる。
中盤での安全なボール回しから一転、リュウジがエンジンの回転数を上げた。ピッチを縦に切り裂くと、いいタイミングで後方の明神からボールがくる。ワントラップでボールをコントロールできた。平山と田中達也が交差する動きで敵陣へと駆ける。
平山にクサビを入れる前に、首を振って梶の位置を確認した。平山の足元に入れる。リターンパスがくるとスルーして、後方の梶にボールを渡し、リュウジはすでに右サイドへ流れている。
ロベカルがするすると寄ってくるのが見える。因縁の対決がもうすぐ始まる。
早いタイミングで梶からパスをもらって、すぐにアーリークロスを上げるというイメージが出来上がった。ところが筋肉の塊のようなロベカルの猛チャージを受け、ボールを奪われた。最初の対決は負け。前がかりになった日本に急ブレーキがかかり、自陣に戻る。上げていた最終ラインが田中誠のコントロールによって後退する。
ブラジルの選手は個人技でキープし、前へ前へとボールを運ぶ。カポエイラとはこのことを言う。マランドロの親玉はカカーだ。A代表のロナウジーニョとスタイルが似ている。常にドリブルに緩急があって、トップスピードでボールをまたぐ。
明神のワンボランチでは対処できないと、日本の中盤はすでに判断をし、根本と石川を含めた五人が最終ラインに戻っている。リュウジも中盤のチェックに走る。守備の感覚だけは研ぎ澄まされている。誰もが低い重心でブラジル選手をマークし、無理に突っ込んではいかず、ゾーンでの受け渡しをスムーズに行い、ペナルティエリア前に最終ラインを敷いて守っている。
守備においては地に足がついたが、攻撃に転じるまでは、まだ相当な時間がかかりそうだ……。
ブラジルの大胆なサイドチェンジで振られる。茂庭と闘莉王がそのたびに走らされる。次に心配しなければならないのはスタミナだった。暑さと湿気が肉体を|蝕み《むしば》始めている。
電光掲示の時計を見る。まだ十分もたっていないので、リュウジは愕然とした。
突破された。カカーにペナルティエリアへの侵入を許した。
ストッパーの茂庭がシュートコースを消す。強引にライン際から浮き球のクロスを上げられた。ヘディングでシュートを打とうとするアドリアーノに田中誠が体を当てて防いだ。ボールは曽ケ端が確保。倒れたアドリアーノはアピールするが、ファウルの笛は鳴らなかった。コリーナさんはそれ以上のクレームを許さない。ギョロッとした目で睨み返す。いつもながら毅然《きぜん》たるジャッジだ。
平義監督は今、何を考えているのか。開き直ってオフェンシブな布陣でゲームを始めたものの、最初の失点でみんな腰が引けてしまった。
クズ兄ィが「頑張ってラインを上げろ」と監督の言葉を代弁しているが、無理な相談だ。個人技の嵐でゴール前に襲いかかるブラジルに、ラインを上げるなんて、「ご自由に裏を取って下さい」と言うようなものだ。
リュウジはチェイシングに奔走しながら、「相手をなぶり殺しにするレアルの遅攻に比べたら、どうってことない」と思い込もうとする。
ロナウドはいてもジダンはいない。
ロベカルがいてもフィーゴはいない。
ラウールやベッカムがいるわけではない。
思い込みは続かない。ボールが奪えない。奪ってもつなげない。相手のスルーパスのコースを消し、ペナルティエリアに侵入させないのがやっとだ。
体力の消耗を防ぐにはボールをキープすることだ。スライディングでボールを奪い取った。前を見る。田中達也が走り始めていたら、矢のようなロングフィードを蹴るつもりだったが、その動き出しは遅かった。しばらくドリブルでセンターサークルまで上がり、並走する梶に横パスをし、ゆっくりしたボール回しで態勢を整える。
ブラジルの選手は無理に奪いにこない。「しばらくボールと遊ばせてやる」という余裕だ。
ゆっくりとパス交換を繰り返し、リュウジはタイミングを見て、前線の平山に鋭いクサビを入れた。その瞬間に田中達也がスペースへ流れる。平山から裏へのスルーパスがくることを期待したが、平山のトラップは少し大きく、ボールを奪われた。
梶もリュウジもそうなることを予感していたので、すぐに守備に戻ることができた。ボールを奪われるのを警戒して、前へ出ようとする意識にブレーキをかけてしまう。
中盤のスペースを消そうとすると、相手は中盤を省略して長いボールを入れてきた。ロナウドが茂庭と競り勝って、ボールをキープした。ポストプレーの見本だった。カカーとアドリアーノが襲いかかる。石川はすでにロベカルに振り切られ、見送っている。カカーはボールを散らすだろうと予測して、闘莉王は左サイドバックのロベカルを警戒し、チラチラとその上がりを見ている。田中誠との間にギャップができた。
が、ブラジルは予想に反して最短距離を狙ってきた。中央突破。カカーとロナウドがワンツー、さらにもう一度ロナウドとパス交換。体勢に無理があってもボールをしっかり足に絡みつけている。まるでショーだった。ショートパスの連続で日本のDF陣はガタガタにされ、ロナウドにシュートを放たれた。
たいていのシュートは、蹴る直前にそれと分かる。インサイドキックなら膝が開く。インステップキックならキックモーションが大きくなる。今のロナウドのシュートにはまったくといっていいほどキックモーションがなかった。フットサルでよく見るトーキックだった。
枠を捉えたが、曽ケ端がパンチングで外へ出した。今日も曽ケ端は冴えている。
敵コーナーキックになる時、リュウジはまた時計を見上げてしまう。二十分を過ぎたところ。まだ前半の半分ほどだというのに、この疲労度は何だ。
「集中、集中」という声が飛ぶが、ゴール前を縦横無尽に動くブラジルの選手たちを掴みきれない。敵のコーナーキックでは、ニアサイドはゾーンで、ファーサイドはマンツーマンで敵を一人マークするのがセオリーだ。田中誠が口を酸っぱくしてその確認をしている。ファーに飛び込もうとしているのはアドリアーノ。茂庭がぴったり張りついている。
ボールがコーナーから放たれた。茂庭の厳しいマークがついていたにもかかわらず、アドリアーノが頭ひとつ分高くボールを捉え、首を鋭く振ってヘディング。曽ケ端が際立った反射神経でキャッチし、急いでスペースへ投げ込む。
攻撃のバリエーションが豊富であることは分かっていたが、これほどとは思わなかった。
中央を割られる。両サイドからクロスを上げられる。ミドルを打たれる。雨あられとシュートを打たれるのは、ギリシャ戦でもスペイン戦でも経験済みだが、あの二チームとは格が違う。ブラジルの選手の放つシュートはボールの真芯を捉えてほぼ無回転、模様や縫い目も見える。しかも重い。
その証拠に、フリーキックを頭に受けた茂庭が、倒れたまましばらく動けない。茂庭には悪いが、みんなはそのダメージを心配するよりペットボトルの水を取りに走る。いい時にゲームが途切れてくれた。
水を飲み、首筋にかける。瞬間、生き返った気がする。
梶が荒い息で声をかけてくる。
「チャンスはセットプレーしかない。できるな、リュウジ」
ドリブルで突っかけて、なるべくペナルティエリア近くでファウルを誘う。得点チャンスはそれしかないように思える。「勝負してみる」とリュウジは頷いた。
梶がボールをキープする。前線に平山が張っているが、クサビを入れることはできず、明神にボールを下げる。リュウジは右サイドに流れる。ロベカルを警戒するため下がり目にいた石川から、ライン際に縦パスが通った。リュウジはゴールを背にし、右足アウトサイドで内側へトラップする。ボールの勢いを殺すにはアウトサイドは実に有効だ。ロベカルの接近をかわすにはそれしかなかった。直前に首を振って、視界にロベカルの動きを捉えると、彼はリュウジを縦にこさせて勝負しようとしているのが分かった。右足アウトサイドでコントロールしたボールを、そのまま左足でひっかけて内側へ持ち出した。うまく逆をつけた。対決第二ラウンドは勝ち。ペナルティエリアの角は目前だ。DFが立ちはだかる。ボールを餌のようにさらす。さあ、食いついてみろ。そこに足が来た瞬間、リュウジは左足アウトサイドでボールを出し、相手を左側へかわそうとする。足が掛かるのを待って倒れた。コリーナさんが笛を吹いてくれて、痛がる芝居など必要なくなるとすぐに立ち上がった。
敵のDFは笛に文句を言うのではなく、リュウジの罠に引っかかった自分を呪う。ゴールのやや右、ペナルティエリアすぐ外からの絶好のフリーキックとなる。
キッカーは梶。田中達也が敵の壁六枚に身体をねじ込み、キーパーからボールが見えないようにするが、肘を当てられ、押され、散々な目に遭っている。
梶が蹴る。壁の真ん中をかすめて、カーブする。曲がりすぎて、ポストの左横へ消えた。惜しかった。ジャパンブルーが一斉に嘆息する。
またしてもブラジルの緩急をつけた攻撃になる。日本はサンドバッグと化している。殴られ続けている。
空中戦も支配される。彼らはボールを空中に置いてくる。地面にスペースがないなら空中に探し、そこへボールをおけば味方が飛び込んでくるという発想なのだ。
茂庭と闘莉王がさっきから何度となくジャンプし、空中のスペースを消そうとする。ボールをクリアできないなら身体を当てるしかない。せめてペナルティエリアの外でそれをやってくれとリュウジは願う。特に血の気が多い闘莉王は。
コリーナさんは日本に優しい笛を吹いてくれるわけではない。
太陽は次第に真上の位置になり、影は小さくなる。午前十時というキックオフの時間は誰が決めたのかと、呪いたくなる。常に芝から蒸発する湿気に足元からモワッと包まれる。
浮遊する感覚。視界が揺らぐ。試合中にこんな眩暈《めまい》に襲われるのは初めてだった。
早く前半が終わってくれ。せめて誰かがファウルで倒れてプレーが途切れてくれ。
梶が前線へロングボールを入れる。田中達也がフラットなバックラインの裏を取ろうとしたが、飛び出すのがやや早かった。線審のフラッグが上がると同時にコリーナさんの笛が鳴った。天を仰いで悪態をつく田中達也に、梶が親指を上げて「オーケィ、オーケィ」と言っている。
前半が終わるまでは時計を見ないとリュウジは心に誓う。「まだそんなに時間が残っているのか」と絶望感に襲われるのがオチだ。何も考えずにボールを追いかける。中盤のスペースを消し、ボールを奪ったらキープすることを心がける。
ライン際に赤い光を見た。何の数字だ? 「2」と見えた。ロスタイム二分と分かり、やっと前半が終わってくれるのかと安堵する。
その気の緩みが災いした。ボールを受けて、パスの出し所を探ってモタモタしていたら、後ろからロベカルにチャージを受けてボールを奪われた。カカーに中央を割られる。リュウジは懸命に追いすがる。カカーを追いかけながら自陣のゴールに近づくと、叫び出したいようなパニックに襲われる。思わずユニフォームの端を掴んでしまう。そんなことでは倒れない。カカーからアドリアーノへとスルーパスが通った。闘莉王がロナウドの動きに気を取られている隙に、スペースを開けてしまった。アドリアーノは一度のキックフェイントで対面する田中誠のバランスを崩し、右から茂庭のスライディングが襲ってくる頃には、得意な位置にボールを置いて左足を振り抜いていた。
キーパーと近い距離でのインステップキックは、実は難易度が高い。シュートコースが狭いため、サイドキックに比べて精度の落ちるインステップでは、キーパーの身体に当ててしまうことが多いのだ。アドリアーノはそれをきっちりと決めた。曽ケ端の手を弾いたボールはネットに突き刺さった。
ロスタイムに追加点。
前半終了の笛が直後に鳴った時、日本の選手たちはがっくりと膝を折った。石川が吐き気を堪《こら》えるような顔つきで立ち上がる。平山の頬もだらんと垂れ下がっている。リュウジの膝もワラワラと笑っている。
FW二人の堂々の2得点で意気揚々たるブラジルの選手とは対照的に、日本の十一人は敗残者の足どりでロッカールームに引き上げた。
4[#「4」はゴシック体]
ハーフタイムのロッカールームは、十一人分の疲労を床に落としている。したたり落ちた汗の染みで、コンクリの床は斑《まだら》模様を描いている。
アンダーシャツを脱ぎ、水分を補給し、レモンを齧る。いつもは選手が口々に修正点を言い合う騒々しい雰囲気だが、ぼそぼそした声しか聞こえてこない。
「カカーをマンマークしてみるか」
「一人潰したところで何も変わらないよ」
「深めにラインを……」
「ゼロゼロならそれもアリだけど」
クズ兄ィがいきなり手をポンポンと打ち、沈んだ空気を攪拌《かくはん》するような大声で言った。
「うまく攻撃できないのは、システムの問題やサポートが前線に少ないだけじゃない。一人一人が敵のコンタクトに負けている。倒れるだけでボールをキープできないからだ」
言うことはもっとも。だがどうすればいい。弱点を補う術がない。十五分で筋トレをして強くなれとでも言うのだろうか。
監督が入ってくる。選手の輪の中心に立つが、言葉がなかなか出て来ない。見上げる選手たちは「何か言いたいなら早く言ってくれ」と苛立ちの目になっている。
「敵は3点目を取りに来るまでは攻撃の手は緩めないはずだ」
話の続きが読めて、選手たちの注意力がそれる。
「1点を返せば、心理的にこちらが有利になる。マイボールにしたら、なるべく手数をかけず、前線にクサビを入れた瞬間に石川と根本は上がって、両サイドから圧力をかけろ。FWは無理なポストプレーでボールをキープしようとはせず、とにかくサイドに散らせ」
監督の指示にみんな頷《うなず》いているが、おそらく言葉は耳から耳へとすり抜けている。
「明神がアウト、啓太がイン。平山アウト、高松が入る」
二人の交代を告げた。中盤の底で獅子奮迅だった明神は、確かに体力の限界だった。平山の交代も予選の時からのパターンだが、ブラジル戦に限っては、それで何かが変わるとは到底思えない。
明神はキャプテンマークを田中誠に渡した。
「リュウジ、さっき俺が指示したことをもう一度言ってみろ」
監督の言葉を誰も頭に刻みつけていないからだ。リュウジはみんなに一語一句聞かせるように繰り返す。
「敵は3点目を取りに来るまでは攻撃の手は緩めない。1点を返せば、心理的にこちらが有利だ。マイボールにしたら、なるべく手数をかけるな。前線にクサビを入れた瞬間に両サイドが上がれ。FWは無理なポストプレーはせずに、サイドに散らせ」
みんなの頭にやっと届いた。選手各自の話し合いが活発になる。石川と根本は上がるタイミングを話し合う。
「ナオがガンガン上がってくれることで、相手が右サイドに寄っていく。そうすれば俺のサイドは前にスペースが空く。一発のパスが出れば、左サイドを一気に突ける」
根本の言葉に石川が頷く。両サイドのこれまでの関係では、右が飛び出して、左の根本がステイする形が多かった。石川のポジションにリュウジが入っても同じだった。そのバランスを根本は有効に活用しようとしている。
「肝心なのは」
リュウジが口を挟む。「両サイドの二人にマークがつくようにすることだ。相手の守備はその分広がる」
たとえ両サイドからのクロスが実を結ばなくてもいい。日本にはサイドから崩す攻撃があると敵に意識させることだ。
スタッフが入場を促す。田中誠はキャプテンの役目として、選手の輪の中で声をあげる。
「行くぞ!」
リュウジもいつになく大声を張り上げた。そんなふうにロッカールームに響く自分の声を、初めて聞いた。
やはりブラジルは攻撃の手を緩めない。
2点というのは危険な点差であることを彼らもよく知っている。1点差ならば緊張感を保てる。2点差は気分が緩みがちになり、その間隙《かんげき》を突かれて相手に1点を与えてしまうと、嫌な危機感を覚えることになる。
ブラジルは前がかりになると、ギリシャやスペイン同様、日本を甘く見てDFは二枚になる。カウンターのチャンスさえモノにできれば、数的優位でゴール前に迫ることができる。
風が吹き始めて、前半ほど湿気の苦しみはない。
高松が「タツヤ、そこにいろ」と言い、田中達也を残して自分も守備に戻る。意思は統一されている。
ブラジルのアタッカー陣を寄せつけない。日本のDFたちはゾーンでマークの受け渡しをする。センチ単位の組織力が発揮され、強引に入ってくるロナウドには巧みに体を入れて、シュートコースを消す。
平義が築き上げてきた守備の意識が発揮されている。ブラジルは個人技に頼るようになった。だめ押しの3点目を自分の足で決めてやろうという意識が、前線の選手一人一人に表れると、独りよがりのプレーが多くなってくる。
いい兆候だとリュウジは思った。ここにブラジルの弱点がある。ボールをこねくり回してキープし、ドリブルでつっかけようとするアドリアーノ。その足元に突っ込んでいって、ファウルすれすれでボールを奪った。すぐに右サイドの石川にパス。モッタの背後を取って、ライン際をドリブルで上がる。前線には田中達也と、遅れて高松と梶が突っ込んでいく。石川はカバーに入ってきたロッチェンバックの繰り出す足をかいくぐるように、クロスを放つ。ゴール前のDFが一瞬ボールウォッチャーになった時、高松はその視界から消え、クロスの弾道を見るや、DFの背後から出現して向かってくるボールに突進、ニアで受けた。反転すればシュートに結びつけられるが、DFは懸命にブロックする。高松は再び石川に出す。石川はダイレクトで今度はファーサイドにクロスを放り込む。飛び込んでくる梶とタイミングが合わず、ボールは左サイドに流れてしまった。
それでいい。サイドからの攻めを相手に見せることができた。
ロナウドも顎が上がるようになる。汗が滝のようだ。オーバーウェイトと、シーズンの疲労の蓄積が後半になって、ボールキープ力やトラップの精度を奪っている。
リュウジは前半よりもロベカルのマークが強いことを感じていた。ハーフタイムの指示で、「敵の14番を消せ」と指示が出たのかもしれない。
いつもだったら嫌なマークだったが、このゲームに限っては大歓迎だった。リュウジはなるべくボールに絡まないようにする。相手のリズムを壊すために、ロベカルのマークを引き連れて動いた。俺がこうしてロベカルをおびき出すことで、右サイドに石川が動けるスペースが生まれるはずだ。
ただしあまり時間はない。二十分を過ぎる頃から、さすがのブラジルでも2点を守ろうとするだろう。引き気味になった時点から、バランスの悪さも修正されてしまう。
大きく動かず、ボールを遠くに見て、カカーから前線へのパス回しを観察した。カカーがパスターゲットにしている選手の動きに応じて、リュウジは微妙にポジショニングを調整する。ぴったり密着マークするのではなく、つかず離れずケアしている選手にカカーがパスを出すように仕向ける。カカーがパスを出した瞬間に、リュウジは爆発的なアクションを起こしてインターセプトに行った。
さっきまでマークしていたロベカルは、ちょっと目を離した隙にリュウジがボールに絡んでいるので、慌てて寄せてくる。
右サイドにスペースができて、梶がするっと入ってくる。リュウジはそこへボールを出す。石川がその前に、目立つ動きで右サイドを駆け上がるので、ロッチェンバックがつられた。ロッチェンバックが今までいた場所に今度はスペースが生まれ、そこに走り込むリュウジが梶からリターンパスをもらった。
田中達也が手前に膨らんでくる動きで、ペナルティエリアのすぐ外でボールを受けようとする。DFが絞ってくる。リュウジは左サイドへと大きく展開した。根本がフリーでサイドチェンジのボールをトラップし、足元に置くことができた。
中央から右に敵のDFが寄っていたため、根本は障害物のないペナルティエリアに突っ込んでくる。DFは根本の対応に戻る。一対一になった。高松と田中達也がすばしっこく動いてラストパスをもらおうとしている。
「打て!」
リュウジも梶も叫ぶが、久しぶりの攻撃で沸き立つジャパンブルーの歓声でかき消される。
根本はシュートのフェイクを入れて、DFの胯間にボールを通し、そのまま突っ込んでいこうとした時、太い腿のブロックにかかった。ペナルティエリア内の芝がえぐれた。倒された。コリーナさんの笛が鳴った。ファウルの判定。PKをもらった。
さほどダメージはなく、すぐ起き上がった根本を、みんなで取り囲んで褒めたたえる。
スタンドのジャパンブルーがゴールを期待している。騒ぐのはまだ早い。キッカーに梶が立つ。リュウジは歩み寄って言う。
「奴らを嘲笑ってやろう」
梶は「?」という表情になるが、
「きっと焦りだす」
言葉の意味を、梶はすぐに理解した。普通のPK以上のダメージを与えるのだ。
「よし。やってやる」
梶はいくらか強張《こわば》った笑みで答えた。
両チームの選手がこぼれ球に備えて突入の姿勢になる。笛が鳴って、梶がボールめがけて走った。大きなキックモーション。インステップで思い切り蹴ってくると誰もが思った。問題はコースだった。キーパーのジダは左右に微妙に動いてから、左へ飛んだ。梶はそのモーションからは信じられないような緩やかなボールを、しかも真ん中へ放り込んだ。ジダは地面に沈んで、ネットがふわりと揺れるのを見た。真ん中に緩いボールを蹴られるのは、キーパーにとって最大の屈辱のはずだ。
リュウジは皆と一緒に梶の頭を手荒く撫でた後、ベンチを見る。
クズ兄ィたちコーチが腕を突き上げている。平義がピッチに近寄って指を一本見せる。「もう1点だ。行けるぞ」と気合を送っている。リュウジは拳骨を振り上げて応えた。
後半十六分、1点差に詰め寄って、ブラジルの選手たちの顔色が変わった。小癪な真似でPKを決めた梶に、殺意の眼差しを送る。
リュウジには彼らの心理状態が読めた。
ブラジルの選手たちの性格は、リーガの戦いで知り尽くしている。格下の相手にナメたプレーをされると、サッカー王国のプライドが傷つけられるのか、子供じみたラフプレーに走ることが多い。バルセロナに移籍したロナウジーニョがそうだった。バレンシアのDFファビオ・アウレリオには「この小僧が」と突き飛ばされたことがある。デポルティーボ・ラ・コルーニャのマウロ・シルバといったベテランでも、頭に血が昇ると我を忘れる。同じベティスにいるデニウソンも、マルコス・アスンソンも、そんなプレーで何度イエローを受けたことか。目の前のロベカルだってそうだ。
リュウジはドリブルの進路が開くと、ブラジルの個人技に対抗するかのようなトリッキーな動きをわざと見せ、敵を抜こうとする。ロベカルがどんなラフプレーで来るか察知し、足をかけられてもダメージが少ないように倒れた。お約束のように主審の笛が鳴る。倒したロベカルが「早く立て、チノ」とリュウジに言う。奴らは戦っているのが日本の選手だと分かっていても「中国人」と蔑称で呼ぶ。
プライドを傷つけられ、苛立ち、それでも点差を広げようと前へ出るブラジルは、やがて中盤のバランスを崩してしまう。そこで修正しようとする謙虚さは彼らにはない。前半から続けている怒濤の攻めで、サッカー小国を圧倒しようとする。
敵のラフプレーにイエローがまた飛んだ。うまくすれば一人ぐらい退場に追い込むことができるかもしれない。
生意気な真似をする日本の選手を張り倒してやりたいが、もう一枚イエローを食らうと退場になるという気分が、さらなる苛立ちを生む。ブラジル選手のプレーに精度がなくなってきたのが分かった。
サイドチェンジのボールがラインを割ると、味方を罵る声が聞こえる。その調子だ。
監督がテクニカルエリアぎりぎりまで出て来て、声を張り上げる。
「ワイドに、ワイドに!」
「中盤、いったん押し出して、プレス厳しく!」
「マイボールになったら、前の選手を追い越せ!」
久しぶりに前線にクサビが入った。ボールを受けた高松は、腕を伸ばして敵を寄せつけず、頑丈なポストプレーができた。その隙《すき》に田中達也が裏へ飛び出し、高松からスルーパスが出る。すでにイエローをもらっている敵DFは無理な止め方ができず、田中達也の侵入を後退しながら迎えるしかない。
田中達也が中央に走り込んできた梶に折り返した。ダイレクトでシュート。ジダがはじいた。敵DFが必死にクリアした。流れの中でシュートチャンスに結びつけたのは初めてだった。
セカンドボールを鈴木啓太が拾う。ミドルシュートを放とうとした時、ロッチェンバックがスライディングで倒した。今のはかなり痛い。モーションに入ったところで軸足を刈られた。コリーナさんの笛が鳴った。鈴木啓太は苦悶する。イエローは出なかったが、ゴール前二十五メートルのフリーキックを得た。
キッカーには梶が立つ。敵の壁は五枚。そこに長身の茂庭がもぐりこむと、左右から凄まじい妨害を受ける。
リュウジは予知能力を最大限に発揮し、こぼれ球の位置を想像する。梶は二度目のフリーキックで、枠を外すことはないだろう。ジダのファンブル。浮き球。突っ込む高松と田中達也。慌てたDFの中途半端なクリア……そんな映像が瞬いた。
やや立ち位置を下げる。
梶が蹴った。壁の上を巻き、ジダの手が届かず、惜しくもポストに嫌われた。ところが跳ね返ったボールを敵DFが中途半端なクリアにしてしまった。予想はほぼ的中だ。ボールが何人かの選手に当たって、リュウジの方に流れてきた。
リュウジは足の裏で押さえて落とし、密集地帯へと渾身のインステップで振り抜こうとする動きを見せた。DFたちはオウンゴールになる危険性を感じ、体勢が萎縮した。
リュウジは闇雲に蹴ることもできた。敵でも味方でも、どこかに当たってコースが変わり、ボールはネットに吸い込まれるかもしれない。だが、一《いち》か八《ばち》かの賭けに出るより、このチャンスをもっと確実なものにしたかった。大きなモーションで一度フェイントを入れてから、右サイドでフリーになっている石川に、丁寧なパスを出した。石川はトップスピードで走り込んでくる。密集地帯から横にずれたその場所の方が、シュートコースは確実に開いている。
石川は右足のアウトにややかけ、ボールはシュート回転を与えられて右ポストめがけて飛んだ。
キーパーの逆をついた。ネットが揺れた!
後半三十一分の同点弾。このブラジルのメンバー相手に同点弾。スタンドのジャパンブルーが大興奮。石川の次にリュウジも祝福でもみくちゃになりそうになるが、すぐにゴールネットに絡んでいるボールを取りに行く。
これで満足するな、勝ちに行くぞ、という意志をチームに与える。ベンチを振り返ると、監督も「急いで戻れ」と大きなアクションで叫んでいる。チームに勢いのあるうちに追加点を入れなければならない。
ブラジルは本気になった。
本気にさせてしまった。
2点差にした時の余裕はない。1点差に詰められた時の苛立ちも鎮めた。ここからサッカー王国の本領が発揮される。
個人技にはもう頼らない。サイドにボールを散らし、正確なアーリークロスを入れてくる。日本のDFは跳ね返すので精一杯だ。セカンドボールも拾われて、波状攻撃を浴びる。ロナウドがシュート。曽ケ端がパンチング。カカーが打つ。茂庭がヘディングでクリア。
ブラジルにゴール前三十メートルでフリーキックを与えてしまう。ロベカルの出番だ。長い助走の距離をとっている。リュウジは六枚の壁に入らないが、六人の恐怖がこちらにも迫ってくる。ロベカル保険がほしい。奴のボールにだけは当たりたくない。
ロベカルが走った。得意の左足アウトにかけたキックだ。ボールが見えない。空を切り裂く音。壁の上で微妙にカーブして、ゴールをかすめてボールはたちまちのうちに消え去った。六人の安堵の吐息を聞いた。
ゴールキックからリュウジが足元にボールを入れると、激しいチェックがくる。そうなるとフィジカル面での弱点を露呈してしまう。ショルダーチャージを食らう。衝撃が背骨まで響く。吹っ飛ぶ。転がされて芝を噛む。誰かが腕を引っ張る。もうしばらく倒れていたかったが、倒された相手に無理やり助け起こされる。ロベカルだ。何度目の対決だったのだろう。もう覚えていられない。
ふらつく頭に血を通わせ、視界を平衡に戻す。あらゆる場所で芝が舞い上がる。土煙が上がる。日本の選手が倒される。まるで機関銃でバタバタと兵士が倒される戦場のような有り様だ。
このまま残り十分をしのいでも、合計三十分の延長戦が待っていて、PK戦まで持ち込むとしても気が遠くなるような残り時間だ。何とかあと十分で決着をつけたいが、本気モードになったブラジルは手がつけられないほど強靭で、当たりに行ったら倒される。かわしに行っても次の動きを読まれる。
田中達也がヘディングで競り合った後、相手DFの足を踏んで変な着地の仕方をした。足首を押さえて苦しむ。
ベンチに慌ただしい動き。大久保がスネ当てをつけ、監督の指示に聞き入っている。田中達也はもう無理だとベンチは判断している。
その間に他の選手は水分補給をする。コリーナさんの指示で担架が入ってくる。トレーナーがベンチに×印を見せる。激痛に呻く田中達也はピッチの外に出され、前半から入念なアップをしていた大久保が送り込まれる。もう交代枠はない。
前半から蓄積されてきた疲れがジワジワと肉体を挫《くじ》きにかかる。プレーが止まった時に味方選手の顔つきを見ると、眩暈で目をしばたたいたり、粘っこい唾を吐いたり、誰もがこの苦しい状況から早く解放されたいと願っている。
監督はラインの傍に立って、一人一人にポジショニングを指示している。田中誠はいくらか深めに。闘莉王はモッタの縦を切れ。鈴木啓太はカカーにマンマーク気味に付け。
「聞こえたら返事をしろ!」
無反応の選手たちに怒鳴った。呼ばれた選手たちが次々に「はい」と応える。
「行くぞ、取るぞ!」
ムードメーカーの闘莉王が叫ぶ。
ゲーム再開。今度は根本が倒される。しばらく寝ころんでいてくれと願ってしまう。
中盤はスペースだらけになる。リュウジも含めて足が止まっている。ペナルティエリア前へとボールが簡単に運ばれてしまう。鈴木啓太をかわしたカカーに得意のミドルを打たれた。やられたと思った。バーに助けられた。
電光掲示が「90」になった瞬間、消えた。
第四の審判によるロスタイム表示が出た。あと三分。それさえしのげば、延長戦開始までの休憩が入る。
この苦闘でサッカー人生が一年ぐらい縮まるような気がする。それでも勝ちたいと思った。アトランタでジダとアウダイールが激突して、伊東輝悦が押し込んだようなラッキーゴールを夢見てしまう。
ブラジルは寄せも慎重だ。日本に与えた2得点はファウルによるセットプレーからだ。ラフプレーは慎む。ボールを支配すると、ショートパスでつないでつないで、ゴール前に迫ってくる。田中誠の果敢な飛び出しで、攻撃を跳ね返した。
そのボールをリュウジは中央で胸トラップした。足元に落として反転すると、右サイドで石川がフリーでいることに気付いた。右サイドに出して、真ん中を突っ切る。石川がドリブルで駆け上がって、緩急をつけたフェイントでモッタをからくもかわし、ゴールライン際からマイナスのクロス、大久保がヘディングしようとしたが、DFに身体を入れられ、背中から地面に落ちた。DFと大久保が折り重なって倒れ、ボールが宙を彷徨《さまよ》っている。
リュウジはロッチェンバックを背負ったまま、宙を踊った。奴らの言うカポエイラとはこのことだ。
バイシクル気味に足を振り抜いた。右足インステップにヒットした。上下逆転した視界、ネットに吸い込まれるボールを見た。ネットを揺らしてくれ。
が、ジダの瞬発力が勝った。キャッチされ、スペースだらけの中盤にパントキックされたボールを、リュウジは地面から見送った。
ボールはカカーの足元に入り、ゴールへと一直線に走る。
起き上がったリュウジは、ピッチの彼方、ボールが自在にコントロールされ、ロナウドとのパス交換で日本のDFたちがかわされ、カナリアイエローの選手とボールが一体化してゴールを目指している光景を見た。
遠ざかる。何もかもが遠ざかる。
その場で見届けるしかなかった。横っ飛びの曽ケ端。地面に沈む曽ケ端。白く波立つもの。ゴールネットが何かの衝撃で揺らされたのだ。
ああ、入ってしまった。
ロスタイムの勝ち越し弾。骨まで溶けるような脱力感が襲う。あとどのくらい時間が残されているのだろう。誰もボールを拾いに行かない。芝に倒れこんでいる。
リュウジは軋《きし》む肉体を乱暴に駆り立て、起き上がった。ゴール前から、彼方のゴールへと最後の力を振り絞って駆ける。歓喜の輪を作っているブラジルの選手たちの横を走り抜け、芝に倒れこんでいる味方選手の間を突っ切り、顎が上がり、喘《あえ》ぎ、ボールに辿り着いた時には足がもつれ、前のめりに倒れこんでしまった。
この全力疾走で余力を使い果たしてしまった。もう立ち上がれない。許してほしい。ここで眠らせてほしい。
コリーナさんが時計を見た。「お前たちはよくやった」と言いたげに、あちこちで倒れている日本の選手たちに向かって長い笛を三度吹いた。
リュウジは芝の感触に後頭部を預け、目を閉じる。意識がふーっと遠のいていく。スタンドから降り注いでくるカーニバルの熱狂も、フェイドアウトする。
「わが魂よ、不死を求むることなかれ、ただ可能の限界を汲み尽くせ……」
心の中で自分が呟いている。
芝を踏む足音が近づいてくる。薄く目を開けると、太陽を背中に受けたシルエットがすぐ傍にそびえた。
一瞬、誰かに似ていると思った。実家の隣の駐車場でミズノの四号球と戯れていたら、「リュウジ」と闇から声をかけられた。酔って帰ってきた父を振り仰いだ時の光景が甦った。
どこか父親の輪郭に似た平義監督が、冷たそうな手を差し伸べてくる。リュウジは握った。意外にも熱を放つ掌だった。ぐいっと助け起こされる。まだ足がもつれ、監督の身体に手をついてしまい、麻のスーツを土で汚してしまった。
監督が訊く。
「可能の限界を見たな?」
澄みきった眼差しだった。
「見ました」
それだけは自信があったから、答えた。誇ってもいいような気がした。
「監督は?」
「ああ、見えた」
平義は満たされた笑顔で言うと、遠い眼差しになる。スタンドのジャパンブルーを見ているのではない。ピッチで見たものを脳裏に深く刻みつけようとしている。
導かれるだけでなく、監督を導き、共に「高み」へと足を踏み入れることができた。リュウジはそう実感している。
平義はリュウジの許を離れると、ピッチに倒れこんでいる選手たちに次々に手を差し伸べる。
曽ケ端を起こし、オーバーエイジ全試合フルタイム出場、その労をねぎらう。
闘莉王と握手をして引っ張り上げる。
体操座りで下を向いている梶に声をかけ、上を向かせた。
死闘を終えたチームで、それが最後に残された監督の仕事のように、平義は選手たち一人一人をピッチに立たせた。
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謝 辞
この『龍時』パートVの原稿は、去年(二〇〇三年)の十月から十一月にかけて、まだ出場国も分からないうちに、すでに書き上げていました。
その後、スペインもブラジルも予選落ちをしてしまうのですが、小説では日本がこの二チームと戦うことは、ストーリー上どうしても必要で、現実はどうあれ、架空のアテネ・オリンピックのサッカーを読者の皆さんに楽しんでもらおう、と開き直りました。
しかしスペインやブラジルの不出場は仕方ないとしても、日本まで予選で落ちてしまったら……。
今年三月、アジア最終予選の日本ラウンド三試合をスタンドで見つめ続けました。
『現実には行けなかったけど、サッカーファンの皆さん、せめて小説の中でオリンピック日本代表のゲームを楽しんで下さい』
小説の表紙にこんな情けない帯は付けたくないので、何としてでも現実のオリンピック代表には頑張ってもらおうと、祈りをこめての観戦の日々でした。
「可能の限界を汲み尽く」した死闘の末、彼らはアテネ行きの切符を獲得してくれましたが、次の悩みの種はメンバー選考です。
この小説を仕上げる段階で、アテネ行きの十八人のメンバーはまだ発表になっていません。
小説に登場するメンバーは必ず選ばれると信じていますが、ひょっとしたら現実との食い違いが生じるかもしれません。
オーバーエイジ枠の三選手は、僕なりの基準で選びました。田中誠選手、明神智和選手、曽ケ端準選手は、どうしてもこの小説のオリンピック代表に必要でした。
年々多忙の度を深める中西哲生さんには、今回の原稿チェックでも大変お世話になりました。
打ち合わせを始める時、コピー原稿に中西さんの赤いチェック文字がひしめいているのを見ると、「さあ頑張るぞ」と、ゲーム前の選手の闘志に通じるものが体中に満ちてきます。
現在ヨーロッパでお仕事をされている元横浜FCマネージメント・ディレクターの田部和良さんには、チームスタッフの目線から多くのことを聞かせていただきました。
清水エスパルスの森岡隆三選手には、ピッチに立つ選手の生々しい息づかいを教えていただきました。今年はエスパルス応援でスタジアム通いが増えそうです。
テレビ朝日・編成部長の亀山慶二さん、編成制作局・サッカープロジェクト統括の畠山大さんには、代表の試合観戦で何度も便宜を図っていただきました。セルジオ越後さんや堀池巧さんといった解説者の方々から、貴重なお話を伺う機会もいただきました。ありがとうございます。
文藝春秋第一出版局の担当編集者である武田昇さんとは、これからも『龍時』シリーズを一緒に育ててもらいたいと思っています。
第一出版局第一文藝部の川田未穂さんには、スタジアムの取材で助けていただきました。
別册文藝春秋の連載でお世話になった前編集長の津谷洋さん、現在の編集長である吉安章さん、第一出版局の白幡光明さんには、小説発表の最高のステージを与えていただきました。
年に一作の執筆、という公約を果たすため青息吐息ですが、挫《くじ》けそうになったら力を与えて下さい。
来年はワールドカップのアジア最終予選という、想像するだけで血沸き肉躍る状況が我々サッカーファンを待ち受けています。
リュウジがそこでどんな活躍を見せるのか、ベティスからの移籍はあるのか……。
この八月、現実のオリンピック代表の戦いを、できれば同じギリシャの空の下で見届けてから、じっくり考えようと思っています。
二〇〇四年五月吉日
[#地付き]野沢 尚
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【主要参考文献・引用文献】
『ヨーロッパ・カルチャーガイド ギリシア』 トラベルジャーナル
『厳選50ゴールに隠された世界の戦略・知略』 加藤久 ベースボール・マガジン社
『サッカー ゴール前の攻防』 風間八宏 大泉書店
『日本は敵 JAPANは友』 朴景浩/金徳起 オークラ出版
『挑戦──ブラジルを破るまでの軌跡』 西野朗 扶桑社
『ヒディンク自伝』 フース・ヒディンク 菅野朋子訳 文藝春秋
『勝利のチームメイク』 岡田武史/平尾誠二/古田敦也 日本経済新聞社
『指揮官 岡田武史』 潮智史 朝日新聞社
『28年目のハーフタイム』 金子達仁 文春文庫
『リーガ・エスパニョーラ コンプリートブック』 ぴあ
『日本サッカー史 代表篇』 後藤健生 双葉社
『サッカーの敵』 サイモン・クーパー 柳下毅一郎訳 白水社
『サッカー監督という仕事』 湯浅健二 新潮社
『勝利の時も、敗北の時も』 オスヴァルド・アルディレス 日本放送出版協会
『W杯戦士×乙武洋匡』 乙武洋匡 文藝春秋
『ギリシャ人のまっかなホント』 アレキサンドラ・フィアダ 加藤洋子訳 マクミラン ランゲージハウス
『古代ギリシャの言葉』 ジャック・ラカリエール 中井久夫訳 紀伊國屋書店出版部
『私のギリシャ神話』 阿刀田高 日本放送出版協会
その他、『SPORTS Yeah!』(角川書店)、『週刊サッカーマガジン』(ベースボール・マガジン社)、『ワールドサッカーグラフィック』(ぴあ)、『スポーツ・グラフィック ナンバー』(文藝春秋)、「スポーツニッポン」等の記事における、永井洋一氏、戸塚啓氏、田村修一氏、福永稔彦氏らのテキストを参考・引用させていただきました。
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本格サッカー小説の百年構想(野沢 尚×中西哲生 対談)
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
──新刊『龍時(リユウジ) 03─04』では、アテネを舞台にリュウジがオリンピックで活躍するという設定です。本の内容に触れる前に、中西さんにアドバイザーをやっていただくことになった経緯からお聞かせください。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 初めて会ったのは、二〇〇一年の三月ですね。
中西[#「中西」はゴシック体] 僕が現役を引退した直後です。今の仕事を始めたばかりでした。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 僕は『魂の叫び─J2聖戦記』を読んでいて、プレーヤーでよくこういう文章を書けたな、と思っていたんです。川崎フロンターレとFC東京が駒沢でやった試合もナマで観ていました。
中西[#「中西」はゴシック体] 僕が丸坊主で出たときですよね。
野沢[#「野沢」はゴシック体] そうそう。で、プレーを見てて熱気が伝わってきたのと、本を読んで、選手のナマの声を初めて聞けたっていう感じがあったんですね。だから、『龍時』を書こうと思い、選手の目線でいろんなことをアドバイスしてほしかったときに、この人に聞けないかな、とお願いをしました。それで最初にお会いしたときに一番印象に残ったのは、「やるんだったら、とことんやりましょう」と言われたこと。
中西[#「中西」はゴシック体] 野沢さんに向かって、「僕も遠慮するのは嫌なんで全部言います」と言ったんです(笑)。僕はドラマも観てましたし、お名前も知っていたんですけど、サッカーの小説を書くと聞いて、びっくりしました。野沢さんがサッカーを好きなことを全く知らないじゃないですか。書くったって大変だぞ、と。僕も自分のホームページで文章を書いていましたが、サッカーを表現するのは難しいんです。たとえばゴール前といってもいっぱいあるし、ペナルティエリアの角といったって角のどっち側かとか、ボールを右足と左足とどっちで持っているのか、とか。
野沢[#「野沢」はゴシック体] そうですね。
中西[#「中西」はゴシック体] それが分かっていたので、最初に言ったほうがいいかなと思いまして。でも、野沢さんの意気込みが半端じゃなかった。なんでそう思ったかというと、僕の本に付箋が貼ってあって、線が引っ張ってあったんです。それを見て、あっ、これは本気だと思って。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 最初は雑誌ナンバーPLUSでの連載スタートでしたし、やっぱりJリーグの選手たちが読んで、心動かされるものになればいいなと思ってました。そうするには僕一人の力では絶対無理だった。例えば、パスの相手を選ぶときに、相手とコースを〇・何秒で決めなきゃいけないじゃないですか。その心理状態をとにかく克明に書きたかったんです。たぶん選手はそんなことを考えずに一瞬で判断しているんだと思うけど、選手が読んで、あっ、ひょっとしたら自分の気持ちの中にこういう感情があって、パスのコースを選んだかもと思ってくれるような、そういう厚みのある心理描写をやりたかったんですね。それで、打ち合わせのときなんですが、原稿を開くと中西さんの赤字が見えるんです。それが多いと、うわっ、今日は大変だぞ、と(笑)。でも、非常に濃密な打ち合わせでした。二〇〇二年に中西さんがワールドカップで忙しくなっても、この三年間、変わらないスタンスでチェックしてもらったのは、ありがたかったです。
中西[#「中西」はゴシック体] 毎回、赤を入れる数が少なくなっていきました。前はここはこう直そう、とかあったんですが、今はもうあんまりないですね。
野沢[#「野沢」はゴシック体] まあ、多少学習したからかな。でも、サッカーを言葉で伝えるのはやっぱり本当に難しくて、三冊やってくると、同じ表現をするときがあるんですよね。「重戦車のようなドリブルで」って、低い重心でダーッと行くホアキンの迫力あるドリブルを、もうこういう表現は使っちゃダメだと思いながら、じゃ、ほかにどう言えばいいのか、とかね。
中西[#「中西」はゴシック体] 僕は同じでもいいと思いますよ。たぶん本を読んでいる読者は、テレビなどで初めてホアキンを見たときに、やっぱり重戦車のようなドリブルだって、きっと思うと思うんです。だから逆に、「ホアキンが……」とだけ書けば、ああいうドリブルだな、というイメージを重ね合わせられる瞬間もいずれ来るかもしれません。
野沢[#「野沢」はゴシック体] ああ、なるほどね。
中西[#「中西」はゴシック体] 僕がこだわったのは、ゴールを決めるシーンですね。インサイドキックだったら、とりあえず正確に大事に押し込むという気持ちになるだろうし、インステップだったら思いっきり叩き込むという感じだろうし、そういう一瞬でも、どういうキックを選択するかにその選手の気持ちを集約させたいなというのがありました。だから、野沢さんが持ってきたイメージのものにプラスアルファの意見を言わせてもらって、それを採用してくださると、すごく嬉しかった。一つ一つのシーンに、僕もものすごく愛着があります。ああ、このシーンはああいうふうに図で説明したな、とか。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 単純な原稿チェックじゃなくて、僕のやりたい方向性を分かってくれているから、すごく助かりました。単にこういう形は無理だとかじゃなくて、そういうものが書きたいのなら、こういう形でゴールまでの道筋をつくります、といったアドバイスでした。
中西[#「中西」はゴシック体] サッカーをご覧になる目は変わりましたか。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 明らかにね。とにかく見続ければ学習できて身になっていくと思うんです。まだまだ自分の見方は甘いですが。
中西[#「中西」はゴシック体] あんまり分かってもらっちゃうと、僕らの仕事がなくなっちゃいます(笑)。
──今回の第三弾ですが、読者に特に読んでほしいところはありますか?
野沢[#「野沢」はゴシック体] 一から三まで狙いが一つずつあって、パートTは日本人のアイデンティティを描きたかった。海外に行ったときに日本人というものを、どういうふうに理解するのかということをやりたかった。パートUはスペインそのものをなるべく熱く伝えたかったというのがあって、パートVは監督論ですね。中西さんといろいろ話してて、見つけたテーマなんですが、監督のために勝ちたいと思うチームは非常に強いということを聞いたんです。もちろん監督が選手を育てるんだけど、たぶん強くなるチームは、選手が監督を育てる瞬間があると思うんですよ。そういう瞬間を今回やりたかったんです。日本にとっての理想の監督とは、ということを見つけたかったのもありました。中西さんもあったでしょう、現役時代に。
中西[#「中西」はゴシック体] ありましたね。名古屋グランパスのベンゲル監督がそうでした。この監督を勝たせてやりたい、というか、僕たちがやっていることは間違っていないということを証明したい! ということですね。一年目の最後、天皇杯で優勝したときに、みんなそう思っていましたから。
野沢[#「野沢」はゴシック体] そういうことを踏まえて、これからの日本代表に必要な監督像というのはどう思います?
中西[#「中西」はゴシック体] 山本昌邦さん(五輪代表監督)みたいなタイプですね、今は。日本はまだブラジルのように個々の能力を結集すれば強いチームになるような状態じゃなく、戦術と組織力が大事なので、論理的で効率のいい守備と攻撃をきちんと描ける監督がいないと。日本人はそのとおりに動くのは得意ですから。あとはある程度、選手の自由というか創造力を重んじてくれるような監督だったらなおいい。要するにトルシエとジーコの間が山本さんだと思うんですけど。
野沢[#「野沢」はゴシック体] なるほど。それにしても、今年(二〇〇四年)の三月のオリンピック・アジア予選のときは大変でしたよ。普段の応援とは違って、自分の仕事も人生もかかわっているみたいな感じでしたもん。『龍時』はフィクションとはいえ、現実の日本代表は五輪に出られませんでした、でも、リュウジは五輪代表に入ってアテネで活躍します、というんじゃ、あまりにも乖離《かいり》しちゃいますからね。
中西[#「中西」はゴシック体] そうですね。オーバーエイジ枠の選手も現実とは若干違ってますけど、それはしょうがないですよ。なんかいい具合に現実と非現実が混ざり合っている感じが僕はします。
野沢[#「野沢」はゴシック体] オリンピックの組分けが決まって、日本は非常に厳しいグループになりましたよね。
中西[#「中西」はゴシック体] いまだかつてないぐらい厳しいですね。イタリアがヨーロッパ・チャンピオンで、パラグアイは予選でブラジルに勝っている相手だし、ガーナも今回の日本代表がワールドユースに出たときの準優勝チームですから。まあ、なんと言ってもポイントは初戦です。そこにすべてが集約されていると言っても過言じゃないです。グループリーグを突破したら決勝まで行ける可能性も十分あります。日本は十八人の選手のレベルはほとんど変わらないから、チーム力が変わらずに維持できるというのは大きいんじゃないかと思います。
──野沢さんは今後、『龍時』をどう展開させようと考えていらっしゃいますか?
野沢[#「野沢」はゴシック体] 一番やりたいのはケガとリハビリのことなんです。スポーツ小説をやるんだったら、ケガは避けて通れません。
中西[#「中西」はゴシック体] それはすごく面白いテーマだし、僕も絶対にやっていただきたいですけど、またそれも難しいですね。ただ、ケガしても、良い選手というのは必ずひと回り大きくなって帰ってくるんです。リュウジが精神的に大人になって帰ってくるのを描ければいいのではないでしょうか。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 来年はドイツ・ワールドカップの最終予選もありますしね。
中西[#「中西」はゴシック体] 三年前に初めてお会いしたときに、「ライフワークにしていきたいんです」と言われてたじゃないですか。すごいなあ、と思いました。僕、あのときに、Jリーグが九三年に開幕して二〇〇二年までの十年間というのは日本サッカーの躍進が約束されているんです、と言いました。恐いのは、その後がどうなるかで、二〇〇二年までにある程度サッカー熱を盛り上げてサッカーの本質的なものを伝えていくことができない限りは、サッカー界の進歩はないかなと思ったんですけど、落ちてないですね。実際、今年のユーロ(欧州選手権)も、日本が出ていない大会ですけど、みんな観ているじゃないですか。
野沢[#「野沢」はゴシック体] 観てますね、確実に。
中西[#「中西」はゴシック体] 僕は今後も毎回、「またよろしくお願いします」というふうに言われるのが嬉しいんです。いつも、解雇されるサッカー選手のような危機感を持ってますよ。もう中西さんから学ぶことは終わったんで、と言われないかと……(笑)。あとは、とにかく新しい人に会ってほしいですね。僕がすごくいいと思っているサッカー選手がいっぱいいるので、そういう選手たちとも話をしていただき、この物語により厚みが出るように。いつも言っているけど、サッカー選手が読んでも、この本はやっぱりすごいな、というふうに言われるものでありたいので。
野沢[#「野沢」はゴシック体] そうですね。なんでこれを書こうと思ったのか、よくよく思い返してみると、僕らのような人間とスポーツ選手って対極的なんですよね。作家は定年がないから、七十、八十になっても書けるんだけど、スポーツ選手はサラリーマンのいわゆる脂の乗った時期にやめていかなきゃいけないという限界があるわけです。僕にとってみると、本当に生き急いでいる人たちっていうイメージなんですね。だから、リュウジは二十年たってサッカーができなくなったら死んでもいいと思っている、というキャラクターに設定しましたが、やっぱり究極的にはリュウジが引退するときと、その後の人生も書かなきゃいけないと思ってます。人間の成長物語として、そこまで行ければいいなあ、と。
中西[#「中西」はゴシック体] ほかのお仕事も大変だと思いますが、最低でも三十年、あとはリュウジに子供ができて、話を引き継ぐ人が出てくる。そうなると面白いと思います。Jリーグと同じ百年構想で(笑)。
[#ここで字下げ終わり]
この対談は二〇〇四年六月十七日に行われたものです。(編集部注)
[#改ページ]
解説 『龍時』が完結する日
[#地付き]中西哲生
二〇〇一年三月九日。
その日僕は、文藝春秋で雑誌「Number」のインタビューを受けていた。それが終わると、僕と当時僕の担当編集者だった武田さんは、足早に次の打ち合わせの場所に向かった。
向かった先は、文藝春秋の目の前にある和食屋。そこにはすでに今日初めて会う二人の男性が、僕らを待っていた。ひとりは文藝春秋の江坂さん。そしてもうひとりは、その江坂さんが担当する作家、野沢尚さんだった。
僕の描いていた野沢さん像は、出会った瞬間に覆《くつがえ》された。
ドラマをあまり見ない僕でも、「眠れる森」の脚本家野沢尚≠ニいう名前は知っている。だが僕の口から言うのは失礼だが、あきらかに予想していたよりも柔らかいイメージだったのだ。
その三ヶ月前の二〇〇〇年十二月十日。プロサッカー選手からの引退を決意した僕は、川崎フロンターレのホームグラウンドである等々力競技場のピッチで、サポーターに別れの挨拶をしていた。九年間の現役生活に未練はなかったが、引退後の生活は決して希望に満ちたものではなかった。もちろん自分なりに、セカンドキャリアに向けた準備はしてきたつもりだ。しかし現実は厳しかった。
現役時代、日本代表に選ばれたこともない僕に、当然テレビ局から専属解説者としてのオファーはない。引退したからと言って仕事がある訳でもなく、毎日ヒマを持て余していた。唯一やっていることと言えば、ジムでのトレーニングと毎日のジョギング。毎月の稼ぎが十万円を越えることは一度もなかったし、とにかく仕事を増やすためにさまざまな人と会う日々だった。そんな時に、野沢さんに出会ったのだ。
「初めまして。お待たせして申し訳ありません。昨年までプロサッカー選手をしていた中西哲生と申します。今は引退してサッカーの解説をしています」
「初めまして、野沢尚と申します。今日はわざわざすみません」
野沢さんは深々と頭を下げた。
担当の武田さんから、「本当にいい人だよ」という話は聞いていた。しかし、僕がなぜ野沢さんからある仕事に関して指名されたのか、はっきりとした事情は分からなかった。ある仕事とは、「Number」が二〇〇二年日韓ワールドカップに向けて、一年前から別冊号を何冊か発売する中で、野沢さんがサッカー小説を書くので、そのアドバイザーをして欲しいというものだった。当時仕事がなかった僕は、どんなことでもやりたかったし、チャンスが欲しかった。だから、断る理由はなかったし、野沢さんと話すまでもなくオファーを受けたい状況だった。ただひとつの懸念さえ除けば……。
「中西さん、僕は本格的なサッカー小説を書きたいと思っているんです」
「だいたいどういうものなんでしょうか?」
サッカーというスポーツは映像がすべてと言っても過言ではない。試合で起こっていることを、一語一句、言葉で説明するのは途轍もなく難しい。さまざまな行動をとる二十二人の選手が、各々いったい何をしているのか、同時に伝えなくてはならないからだ。その証拠に、ラジオでサッカー中継を聞いていても、ある程度のことは推測できても、何が起きているか完璧に把握するのは不可能に近い。アニメやマンガという映像もしくは絵でリアルに伝えることさえ難しいのに、サッカーというスポーツを文章だけで伝えるというのは至難の業。つまり、本格的なサッカー小説を書くのは、たとえ野沢さんでも相当難しい作業なのである。
だが、リアルな描写があってこそ本格的なサッカー小説だと思うし、読んでいて頭にその情景が浮かび、なおかつハラハラドキドキできるような試合描写が小説の中心になってこないと話にならない。試合と試合の間の出来事や、人間模様のみがストーリーの中心であるサッカー小説というのなら、話は別だが。
「やるからには、プロサッカー選手が読んでも違和感がないくらいのものを書いてみたいです」
「お言葉を返すようですが、それは相当難しい作業になると思います。野沢さんご自身は、サッカーをやられた経験はおありですか?」
「サッカーが大好きでよく観るんですが、本格的にやったことはありません。息子とたまにボールを蹴るぐらいです」
「でも、ご覧になれば、サッカーの試合を活字で伝える難しさは理解できますよね?」
相手が野沢さんであるにもかかわらず、思わず厳しい言葉が出てしまう。
僕の胸のうちを明かせば、この仕事をいただいたことは大変光栄だったが、断ろうと考えていた。つまりそれぐらいサッカーを小説にするのは難しいと、当時の僕でも十分に理解していたのだ。
「難しいということはよく分かっています。だからこそ中西さんの力をお借りしたいのです」
「なぜ、僕なんでしょうか?」
そう尋ねると、野沢さんは一冊の本をバッグの中から取り出した。その本には無数の付箋が貼ってあり、ページを開くと、文章にラインマーカーでたくさんの線が引かれていた。
その本を手に取り、野沢さんはこう話を続けた。
「この本を読んで、この仕事を助けていただくのは中西さんしかいないと思ったんです」
本の題名は『魂の叫び』。僕が現役時代、スポーツライターの金子達仁さんと戸塚啓さんと共著で出版した本である。
「そうだったんですか……」
「助けていただけますか?」
僕は迷った。こんなにも自分の本をしっかりと読んでくれて、しかも付箋を貼ってラインマーカーまで引いてある。この人のサッカー小説を書こうという熱意は半端じゃない。だが、そんな真摯な野沢さんだからこそ、中途半端なものを世に出して欲しくはない。
そこで僕はこう切り出した。
「野沢さん。僕みたいにサッカー選手を引退してまだ三ヶ月しか社会に出ていない人間が、こんなことを言うのは本当に失礼なんですが、中途半端なことはしたくありません。やるのであれば徹底的にやります。つまり野沢さんが書かれた原稿のすべてを修正するかもしれません。それでもよろしいでしょうか?」
超がつくぐらいの一流脚本家であり、作家でもある野沢さんの原稿に対して修正を入れる。普通そんなことはあり得ないだろう。しかし、それを繰り返すことでしか、本物に近い試合描写を文章で表すことは不可能だと思ったのだ。だからこそ失礼を承知で「徹底的にやる」と言ったのである。
「全然問題ありません。是非ともそうして下さい」
ビックリした。すぐにそんな答えが返ってくるとは思っていなかった。誰だって自分が書いた文章を直されるのは嫌に決まっている。それをいとも簡単に「構わない」と言う。本心からそう言ってくれているのを聞いて、僕は嬉しかった。
しかしもうひとつ、野沢さんには伝えたいことがあった。
「分かりました。あともうひとつお願いがあります。プロサッカー選手が読んでも違和感がない本格的サッカー小説を完成させたいというお気持ちは嬉しいです。でも逆に、野沢さんのファンでこの小説を読む人には、サッカーファンになって欲しいという気持ちが僕にはあります。つまりプロが読んでも違和感がなく、初心者が読んでも理解できるような試合描写にしたいのです。はっきり言って、ものすごく高度で難しいと思いますが、やるからにはそれぐらいすごいものにして欲しいのです。大丈夫でしょうか?」
「もちろんです。僕の小説を読むことでサッカーファンになってくれるなんて、すごく嬉しいことですから」
「では、よろしくお願いします」
僕と野沢さんは笑顔で固く握手を交わした。その後は食事をしながら、どんなストーリーでいくのか、ある程度うかがった。と同時に、「現実離れしていないか?」、「子供の頃から実際にどういった過程を経て代表に選ばれていくのか?」など、逆に僕が野沢さんから質問攻めにあった。
実際の作業に入ると、予測はしていたが、それは容易なものではなかった。野沢さんが書いた原稿をいち早く見せていただき、すべての文章をチェックする。読んでいて違和感のある文章は修正し、情景が浮かびにくい試合描写などについては、僕なりのアイデアを余白に書き足していく。そうすると、自然と原稿は真っ赤になっていた。それを持って、野沢さんと文藝春秋の小さな会議室で、ひとつひとつチェックをする。その作業は、長いときには四、五時間にも及んだ。プレーをより具体的にイメージしてもらうため、その場にはいつもボールが用意され、僕が実演をしながら作業を進めることもあった。
毎回作業が終わると、一緒に食事に行き、現在の日本代表やJリーグなどの情報を野沢さんに伝えた。日本代表の試合を一緒に観戦し、テレビ中継では決して映らないベンチでの動きや、控えの選手のウォーミングアップを見てもらったり、ボールに絡んでいないポジションの選手が、どういった動きをしているのか、解説をしたりもした。また、サッカーチームの監督シミュレーションゲームを渡し、監督の気持ちを理解してもらうために、少しでも空いた時間があれば、そのゲームをやってもらうこともあった。そんな僕のバカバカしい注文にも、野沢さんは嫌な顔ひとつ見せず、丁寧に応えてくれた。
そうしていくうち、僕が原稿にチェックを入れる箇所も徐々に減っていった。順調に単行本が発売され、毎シーズン当たり前のようにリュウジも活躍の場を広げていった。
しかし、終わりは突然訪れた。
二〇〇四年六月二十八日。
その日、僕は中村俊輔選手と一緒に自主トレをしていた。午後六時、すべてのメニューが終了し、シャワーを浴びて携帯電話を取り出した。たった三時間の間に着信が十件以上もある。僕は恐る恐る留守番電話を聞いた──。
どうしても、その事実を受け入れることができなかった。つい先日会ったのだ。十日前、文藝春秋のいつもの会議室で野沢さんに会ったのだ。それは、『龍時』の単行本第三弾発売に際しての対談のためだった。その対談の中で、野沢さんは「来シーズンはケガとリハビリについて描きたい」と話したし、対談が終わった後にも、具体的にサッカー選手はこんなケガが多いとか、リハビリにはこれぐらいの時間がかかりますとか、こんな人を紹介するので是非とも会って欲しいとか、打ち合わせをしていた。また、選手の生《なま》の声も聞いて欲しかったので、翌々週に行なわれるジュビロ磐田の選手と僕のトークショーを見に来て欲しいというお願いもしていた。もちろん、野沢さんは快く引き受けてくれて、「じゃあまた、その時に」と言って別れたのだった。
あれからかなりの月日が経ったが、僕はいまだに信じられない。それが正直な気持ちである。目を閉じれば、野沢さんが楽しそうにサッカーの話をする姿が浮かんでくる。
「『龍時』をライフワークにしたいんです。究極的にはリュウジが引退するときと、その後の人生も書かなきゃと思っています。人間の成長物語として、そこまで行ければいいなあ、と」
野沢さん、野沢さんがいなくなって、誰がリュウジのこれからを書くのですか? みんなリュウジがこの先どう生きていくのか、どんなサッカー選手になっていくのか、知りたいです。僕だって知りたい。いつも最初に野沢さんの原稿を読めるのが、何より嬉しかった。誰よりも早くリュウジの成長を知ることができて、本当に嬉しくて仕方がなかったんです。
初めてお会いしたときは、はっきり言って完璧な試合描写のあるサッカー小説は難しい、いや不可能だと思っていました。しかし今は言えます。野沢さんの書いた文章からは、ゴールへの道筋、選手の息づかい、観客の反応、すべてが浮かんできます。決して不可能ではありませんでした。逆に文章だからこそ、想像力をより掻《か》き立てられることすらありました。
『龍時』は、野沢さんが望んだような小説にすでになっていたし、この小説を読んでサッカーファンになった人はこの四年間でたくさんいました。本を読んだプロサッカー選手も、「試合の状況が目に浮かぶ」と話してくれました。
だからこそ、だからこそ、僕はもっとリュウジを見たかった。それは叶いませんが、本物のリュウジはいつの日か、日本サッカー界に現れるかもしれません。日本という枠に納まりきれず、スペインへ飛び出し、バルセロナをキリキリ舞いさせるような少年が、この『龍時』という小説を読んで、いつの日か現れるかもしれません。
そして、リュウジのような生い立ちの選手が日本代表の中心選手となり、日本をワールドカップ優勝に導く。その瞬間に『龍時』は完結する。僕はそう信じています。
そのときまで、そんな選手が現れるまで、野沢さん、どうか天国から日本サッカー界を見守っていてください。
(スポーツジャーナリスト)
単行本 二〇〇四年七月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十八年五月十日刊