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龍時(リュウジ)02―03
野沢 尚
目 次
第一章 ミス・ジャッジ
第二章 ソル・イ・ソンブラ
第三章 セビリア・ダービー
第四章 ゴー・イースト
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第一章 ミス・ジャッジ[#「第一章 ミス・ジャッジ」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
■開幕戦デポルティーボ・ラ・コルーニャ対レアル・ベティス。スペインの有名スポーツ新聞「マルカ」紙、元レアル・マドリー選手ミッチェル氏のコラムより。[#「開幕戦デポルティーボ・ラ・コルーニャ対レアル・ベティス。スペインの有名スポーツ新聞「マルカ」紙、元レアル・マドリー選手ミッチェル氏のコラムより。」はゴシック体]
『ヴェルディ・ブランコ(緑と白)の祝祭』
ラ・コルーニャで行われたリーガ・エスパニョーラ二〇〇二─二〇〇三シーズン開幕戦は、ガリシアの地に緑と白、二色のアンダルシア州旗が勇ましくはためく結果となった。
二部から上がったばかりの昨シーズン、六位という好成績を収めてUEFAカップ出場権を得たレアル・ベティスは、今シーズンは攻撃的サッカーを標榜《ひようぼう》する監督、ビクトル・フェルナンデスを得て、敵地エスタディオ・リアソールで4点を奪うという快挙をなし遂げた。
マルコス・アスンソンとアルフォンソ、二人の新加入選手が期待以上の活躍を見せ、ベティスの生命線とも言えるホアキンとデニウソンの両サイドアタッカーは今年も健在である。
3点差となった残り十五分、ビクトル・フェルナンデスはトップ下のカピに替え、十七歳の日本人選手・志野リュウジを投入する。アトランティコでの昨シーズン最終戦、バルサのディフェンス陣を翻弄して鮮烈なゴールを挙げ、それがロペーラ会長の目に留まり、今シーズン、ベティスにレンタル移籍した若きドリブラーである。
フラメンゴからベティスに戻ってひと皮|剥《む》けたデニウソンと、代表に招集されてめきめき力をつけたホアキン、志野は前線で積極的に二人と絡み、戦意の衰えたデポルティーボを手玉に取る。しかし味方ディフェンスが不用意にPKを与えて2点差となると、ビクトル・フェルナンデスは残り二枚の交代枠を守備要員に当て、志野も高い位置でのプレーができなくなってしまった。決定的な仕事はなかったが、もう少し長い時間、見てみたいと思わせる選手であった。
ともあれ、ベティスは好スタートを切った。ダークホースという表現はもう当てはまらない。二シーズン前に二部落ちをしたとは思えない戦力は、常勝チームの風格さえ感じさせる。このチームの真髄は強力な両翼と、怒濤《どとう》の如きカウンターアタックで、いわばスペイン・サッカーの娯楽性を凝縮しているのが、今のベティスである。
ゲーム前、デポルティーボのハビエル・イルレタ監督は「本当は開幕で弱いチームと当たりたかったが、チャンピオンズリーグでバイエルンやミランとこれから対戦することを考えると、最初からレベルの高いチームと戦って手応えを感じておく方がいい」とコメントしたそうだが、この結果を見る限り、手応えのありすぎる相手だったようだ。
■第二節レアル・ベティス対レアル・マドリー。人気サッカー番組「エスタディオ・エスタディオ」のリポートより。[#「第二節レアル・ベティス対レアル・マドリー。人気サッカー番組「エスタディオ・エスタディオ」のリポートより。」はゴシック体]
前半戦屈指の好カードは、前代未聞の珍事となった。
ロナウドの合流まで少々時間のかかりそうなマドリーは、ラウールとモリエンテスの2トップで、攻撃陣の充実ぶりに比べれば見劣りのするベティスの守備陣に挑みかかった。しかしベティスの中盤の寄せは早い。ハーフウェイライン周辺での潰《つぶ》し合いが続く中、マドリーもボールをよくつなぎ、カンビアッソ、マケレレ、ジダンを経て、右のフィーゴが攻撃の起点となる流れるような展開は、スター軍団のコンディションの良さを印象づけた。
珍事の前兆はゲーム開始早々からあった。照明がふわふわと波打つように暗くなったり明るくなったりしたため、審判団は一度ゲームを止め、試合を続行すべきか両軍監督と協議した。
三十五分、イエロのクリアボールに中央からカピが突進、ゴールを決めた。エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラは大歓声で揺れ、ひょっとしたらこの震動が電気系統に支障を与えたのかもしれない。
手前タッチラインからルイス・フェルナンデスがスローインしたボールをアルフォンソがペナルティエリア前でキープした四十四分三十八秒、スタジアムの照明が一斉に落ち、スペインリーグの高レベルの戦いを繰り広げていたピッチは闇に包まれた。
すぐにスタンドに無数のライターの光がついたのは、喫煙者の多いスペインならではの風景として外国人の目に映ったかもしれない。
照明は数分後に回復したものの、再び停電する可能性は残っていたようで、マドリーは試合続行を拒否、前半のロスタイム二分と後半の四十五分は後日改めて行われることになった。
スタジアムと照明設備会社と電力会社が責任をなすりつけ合い、補償問題は長引くようだが、噂によると、ゲーム当日の朝から照明設備会社は電気系統の故障を予期していたらしい。数人の技師をスタンドで待機させたいという申し出を、ロペーラ会長は「その連中にただで試合を見せるわけにはいかない」と拒否したという話がまことしやかに伝わっている。
マスコミと折り合いの悪いロペーラ会長ならではの、風説である。
■第三節後、有力紙「as」のコラム『二〇〇二年を象徴する風景』より。[#「第三節後、有力紙「as」のコラム『二〇〇二年を象徴する風景』より。」はゴシック体]
ワールドカップが選手という「商品」の見本市だった時代は、どうやら終わりを告げた。
コリア・ジャパンでの活躍を成功につなげたのはセネガル勢ぐらいで、エースのディウフがディアオと共にリバプールへ、キャプテンのシセもバーミンガムへの移籍を果たした。しかしこれらの移籍交渉はフランスを破った開幕戦の直前から始まっていて、ワールドカップでの発見によるものではない。三位に輝いたトルコなどは、以前からクラブチームのガラタサライの躍進が注目されていても、市場ではほとんど動きがなかった。
移籍市場が低迷したのは、イギリスのITVデジタルやドイツのキルヒ・グループの破綻《はたん》など、テレビ放映権収入への先行き不安が最大の原因で、セリエAの開幕の遅れもこの流れの中で発生している。
スペインにおいては、レアル・マドリーのロナウド獲得は別格として、バルセロナがリケルメとメンディエタを獲得したぐらいで、全体の移籍投資額が二十三パーセント例年を下回るという現象が起きている。新移籍選手の多くがレンタルや契約失効後の新契約によるもので、市場では八十人近い一部リーグ選手がプレーの場所が見つからず、停職状態にある。
まさに選手の価値が激減しながらオーバーブッキング状態となり、スペインリーグがさらに狭き門となったわけだ。
スペインのサッカーバブルを演出したのもテレビ放映権で、一九九五年以降のスペインリーグ放映権を巨額で購入し続けたオーディオビジュアル・スポーツ社が元凶といっていい。各クラブはその収入を当て込んで、相次いでビッグ選手の移籍投資を行ったが、市場を煽《あお》ってきたオーディオビジュアル・スポーツ社が経営難を申告し、各クラブにとってのおいしい契約は二〇〇三年をもって打ち切られることになった。
世界最高峰と言われるスペインリーグも、先行き不透明な時代に突入した。
そんな中で、日本と韓国がワールドカップを共催した二〇〇二年、東アジア勢の移籍は活況を呈した。日本はフルハムに移籍した稲本潤一を含め、七人を海外に送り込み、韓国と中国も三人ずつ移籍をさせ、アジアの選手たちはワールドカップをステップにつなげる形となった。
アジア新発見の風潮はスペインにも及び、リーガは無名ながら二人の異邦人を迎え入れることになった。
昨シーズン最終戦で十六歳デビューを果たしたアトランティコの志野リュウジをベティスがレンタルで獲得し、同じセビリアをホームタウンとするライバルチーム、セビージャFCは、パク・ジョンウォンという若い才能を広い裾野から発掘した。
パクは十四歳からスペインに渡り、いくつものクラブの下部組織でプレーをしていた頃からスカウトが注目した大型ボランチの選手である。やがてセビージャのホセ・マリア・デル・ニド会長の目に留まる。セビージャは今シーズンも、二部Bリーグの選手や、一部から二部に降格したチームの選手を入団させ、地味で手堅い補強を行っているが、パクもその一人である。
ベティスには、ワールドカップ韓国戦における不可解なジャッジとPK失敗で涙を呑んだホアキンがいる。セビージャが若い韓国人選手を連れてきたのは、ホアキンへの挑発ではないかと、ベティスのロペーラ会長は憤慨したという話も伝わってきている。
そう言うロペーラも、志野リュウジを獲得したのは下心があってのことだ。日本人選手の先行投資は、必ず観光収入とグッズ収入をもたらすという皮算用があるようで、志野程度の安いレンタル移籍料なら失敗しても痛手は少ないと踏んでいる。
九月二十二日の第三節、ベティスはアウェーで開幕二連勝のレアル・ソシエダと、セビージャはホームでアスレティック・ビルバオと戦ったが、ほぼ同じ時間帯に二人の若き異邦人がピッチに立ったのは、二〇〇二年のサッカー・シーンを象徴する風景といえる。
どちらもドローで終わりそうな残り数分での投入だったが、志野リュウジもパク・ジョンウォンも持ち味の片鱗を見せた。攻撃的MFの志野には、消耗戦では効果的なスピードとテクニックがあり、守備的MFのパクには、ワールドカップで欧州列強を退けた韓国人独特の強さがあった。九十分通して使ってみれば、どこまでも走り続ける韓国人の底なしのスタミナが証明されるであろう。
志野とパク。この二人が世界一過激と言われるセビリア・ダービーで激突する日を楽しみにしよう。
■第四節レアル・ベティス対FCバルセロナ。「マルカ」紙のヨハン・クライフ氏のコラムより。[#「第四節レアル・ベティス対FCバルセロナ。「マルカ」紙のヨハン・クライフ氏のコラムより。」はゴシック体]
前節、好調レアル・ソシエダの攻撃陣に3点を献上したベティスは、ディフェンス陣の弱点をあらわにした。それは攻撃サッカーを信条とするビクトル・フェルナンデス采配における諸刃《もろは》の剣であり、早くも彼らの快進撃に翳《かげ》りが見えたかに思えた。
センターバックのリバスを故障で欠き、屈強なルーマニア人DFフィリペスクの復帰も見通しが立たないチーム事情では、ボランチのアルスをDFラインに下げるという苦肉の策に打って出るしかなかった。センターバックの控えにはワシントン・タイスという選手もいたが、ビクトル・フェルナンデスは5センチ身長の高いアルスのコンバートに賭けた。
国王杯で二部Bのチームに衝撃的な敗北を喫したものの、ビルバオ相手に復調を印象づけたバルセロナは、リケルメが長男誕生のためアルゼンチンに帰国している。それでも上り調子のクライフェルトとサビオラがいれば、手薄なベティス守備陣をズタズタにする光景は誰でも想像できた。
結果は意外にもバルセロナの完敗。ベティスは絵に描いたようなカウンターアタックを見舞って3点を挙げ、しかも不安視された急造ディフェンスはバルサ攻撃陣にまったく仕事をさせず、完封した。
特筆すべきはベティス右サイドバックのバレラだ。後半三十八分、キーパーから受けたボールをそのままドリブルで運び、バルサ守備陣を次々にかわしてゴールを決めた。この日、サポーターの乱暴行為への措置としてホームスタジアム使用を禁止され、セビリア郊外のウエルバでのゲームとなったが、高速道路を飛ばして大挙してやってきたベティス・サポーターたちは「闘牛士のように美しい」と、バレラのゴールに歓声を上げた。まさにディエゴ・マラドーナの五人抜きに匹敵するスーパーゴールであった。
これで十月八日開催に決まったレアル・マドリーとの残り半分の試合をしのげば、ベティスはリーガの三強を前半戦で倒すことになる。
だが、優勝争いを彼らに期待するのはまだ早い。
確かにデニウソンとホアキンという両サイドアタッカーは、相手守備陣にとって脅威である。出場を重ねるごとに存在感を増しているマルコス・アスンソンも中盤の底で的確にゲームをハンドリングし、ベッカムより精度のあるプレースキックを見せる。しかし彼らを故障で欠いた時、リバスの穴をアルスで埋めたような幸運が再び訪れるだろうか。
ゲームが決まった最後の十分、拍手でベンチに迎えられたホアキンに代わり、志野リュウジがピッチに立つ。昨シーズン最終戦のバルサ戦で、フランク・デ・ブールをかわしてゴールネットを揺らした志野だったが、二度目の奇跡は見せてくれなかった。
完敗目前のバルサにも意地はあった。敗戦チームの唯一の殊勲者ともいえるセンターバックのプジョルは、軽業師の如き志野の突破をことごとく跳ね返し、芝に転がる志野はフィジカルの弱さを露呈した。今シーズン、ホアキンはおそらく各チームにマークされるだろうが、その代役を志野に期待するのはまだ酷というものだ。
さて、ベティスは第四節を終えて負けなし、勝ち点7で地元セビリアの戦場に向かうことになる。レアル・マドリーに勝利することを夢見る前に、彼らには血なまぐさいダービーマッチが控えている。
■第五節セビージャ対レアル・ベティス。スポーツ・グラフィックNumber誌のスペインリーグ特集記事『最も危険なダービー』より。[#「第五節セビージャ対レアル・ベティス。スポーツ・グラフィックNumber誌のスペインリーグ特集記事『最も危険なダービー』より。」はゴシック体]
スペインにこんな小話がある。
レアル・マドリーのソシオ(正式会員)である老人が、医者から「あと二カ月の命」と宣告された。家族に「お爺ちゃん、最後に何がしたい?」と訊《き》かれた老人は、「バルサのソシオになりたい」と答えた。
なぜ?
「バルサのソシオが一人くたばると思うと、ザマアミロだからだよ」
老人はそう言って不敵に笑った。
レアル・マドリーとバルセロナの通称スペイン・ダービーが、フランコ政権とその失脚の歴史を背景にしたスペインの地域対立の代理戦争となっていることは、多少なりともスペイン・サッカーに触れたことのある読者ならご存じかと思う。
しかし、最も敵意に満ちたダービーは州規模ではなく、ひとつの街を舞台にする時にこそ、密度濃く繰り広げられる。ミランとインテル。ローマとラツィオ。リバプールとエバートン。スペイン国内でいえば、アスレティック・ビルバオとレアル・ソシエダのバスク・ダービー。セルタとデポルティーボのガリシア・ダービー。バルセロナも身近にエスパニョールという相手がいて、レアル・マドリーもアトレティコ・マドリーという好敵手を同じ街に抱えている。
そしてセビージャ対ベティス。
世界で数あるダービーの中で、人気度と会員数と実力が拮抗しているチームの対戦はこのカードだけである。例えばレアル・マドリーとアトレティコ・マドリーの会員数比率は七対三、バルセロナとエスパニョールの場合だと八対二で、おおむねビッグクラブは追従クラブを無視する態度を取る。ところがセビージャの正式会員数は二万八千人、ベティスは四万人とさほど大きな差はなく、クラブの予算も同規模、成績においても長いスパンで見ると似たりよったりだ。
両クラブのライバル性はその差がきわめて小さいため、相手を無視などできず、常に意識し合う関係になっている。
ダービーの日は街が二分し、いたるところで両サポーターと警官隊との三つ巴の衝突が発生し、フィールドでの戦いは削り合いとなるという。
筆者は「最も危険なダービー」をこの目で確かめるため、十月初旬、日本航空とイベリア航空を乗り継ぎ、セビリアの街に降り立った。
夏は過ぎてもアンダルシアの太陽は健在である。日中は半袖と短パンで充分。ガスパチョが冷たく喉を滑り落ちていく。
予備知識を披瀝《ひれき》しておこう。
アンダルシアを代表する両クラブが激突し、「危険度ナンバーワン」と評されるダービーマッチには、他の地域とは比較にならないほど、きわどい共存関係の歴史があった。
セビージャFCは一九〇五年に発足したが、地方の労働者出身の選手と契約するかどうかで理事会が紛糾、「そんな奴らをクラブに入れるわけにはいかない」と決定した上層部に二人の理事が反発し、クラブを脱退、別のクラブを設立した。これが既存するもうひとつのクラブを吸収して、レアル・ベティス・バロンピエとして産声を上げた。ベティスという名前はアンダルシア地方の古代ローマの属州名・バエティカにちなんでいて、緑と白というチームカラーもアンダルシア州旗の二色をそのまま持ち込んでいる。
この労働者出身選手の処遇をめぐる逸話からしても、ベティスには左寄りというイメージが色濃く漂う。セビージャは裕福なブルジョワで民主党を支持し、ベティスは貧困なワーキング・クラスで労働社会党を支持する、という色分けが出来上がった。
セビリアはフランコ軍によって最初に落ちた街である。戦前から国の軍事産業を牛耳り、フランコは街の有力者たちから多大な援助を受けた。その一人にセビージャFCのオーナーであるラモン・サンチェス・ピスフアンがいた。今のホームスタジアム名となっている人物である。フランコとの蜜月関係も「セビジスタたちは金持ち」という固定観念を生んでしまったようだ。
セビジスタ(セビージャのサポーター)とベティコ(ベティスのサポーター)が顔を合わせるのは闘牛場だけと言われ、「そこにレプリカシャツ姿で現れるほど趣味が悪いのはベティコの連中だ」と、セビジスタは鼻で笑って語る。
最初のダービーは一九一六年に行われ、セビージャ大勝という結果になったが、その後九十年近くにわたる過激な対立の歴史は、翌シーズンの地域トーナメントにおける両者の対戦が発端となっている。
ダービー前夜、兵役中のベティスの選手五人がセビリアの兵舎に寝泊まりをしていたが、どうやらセビージャFCの圧力によって(とベティコたちは今でも主張する)試合のためであろうと外出許可は下りず、守衛によって門が閉ざされた。
さて、ベティスは主力選手を欠いたままどうしたか。
ここからが、良く言えば不屈の根性、悪く言えば子供じみているのだが、ベティスは抗議の意味からジュニアユース、つまり中学生の子供でチームを構成し、セビージャのトップチームにぶつけたのだ!
結果は明らか。ベティスは22対0という屈辱的な大敗を喫し、セビジスタたちは今でもダービーの日にこのスコアを意地悪く合唱し、ベティコたちを挑発する。一九九〇年代に入って固定背番号制が導入された時、ロペーラ会長は当初、22番のシャツを認めなかったという。
リーグ優勝を果たしたのはベティスの方が早かった。一九三五年、スペイン内戦が勃発する一年前で、同年にセビージャFCはカップ(国王杯)優勝を果たしている。ただしベティスは主軸選手六人をバスク人で構成していた。産業革命による北部バスクの繁栄も頭打ちとなり、南部アンダルシアに移ってきた人々の子孫である。その全員が内戦勃発と同時にセビリアを去ったため、ベティスの栄光は長続きしなかった。
先に黄金時代を迎えたのはセビージャFCだった。第二次世界大戦が終わる頃からカップ優勝、リーグ二位と三位という好成績を残し、一九四六年にはチャンピオンの座につく。これは彼らにとっても唯一のリーグタイトルだ。
かたやベティスは暗黒の時代に突入する。一九四七年に何と三部リーグに降格。落ちたチームが二度と這い上がることはできないと恐れられたそのリーグに、ベティスは七年間とどまった。
両クラブの「仁義なき戦い」は数知れずだが、セビージャを嫌う叩き上げのベティス会長マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ(この人の名もホームスタジアム名となった)が、ライバルを倒してもらうため、その対戦チームに報奨金を渡したという罪で訴えられたこともある。
匿名のセビジスタから会長の許《もと》に「殺してやる」という脅迫状が届くという事態に発展したが、ロペーラ会長は「報奨金を渡して何が悪い。私にはやりたいことをする権利がある」と恐れず開き直ったという。
セビージャFCは太ったマラドーナが晩年プレー(というか、リハビリ?)したクラブとしても知られているが、中堅クラブの宿命として、成績が少しでも良くなるとビッグクラブにいい選手を引き抜かれてしまうという憂き目に遭う。一九九七年、二部に降格したのは、レアル・マドリーに引き抜かれたダボール・シュケルの穴を埋められなかったためである。
一方、ベティスというチームは、数十年、セビージャの陰になっていたせいか、セビージャより上位にいれば満足と考え、たとえ二部に落ちても熱狂的声援が途絶えることはない。
「ビバ・エル・ベティ・マンケ・ピエルダ!」
たとえ負けたってベティス万歳! この応援フレーズは、クラブの支持基盤が忍耐強い労働者階級の人たちであるという認識をスペインじゅうに知らしめることとなった。
「今では我々も裕福になった」と胸を張るロペーラ会長は、一九九八年にブラジル代表のデニウソンを、クラブ史上最高額の約四十億円で獲得したことでそれを証明する。セビジスタたちは彼の成金的行動を陰で笑ったが、翌シーズンの終わりには笑っている場合ではなくなった。セビージャもベティスも揃って二部に降格したのである。
両者仲良く昇格して、一部でのセビリア・ダービーが復活したのは去年だった。しかし結果は二試合ともスコアレス・ドローである。サポーターたちの欲求不満状態は極に達しているのではないか。
ダービーによる宿命のライバル対決は面白いゲームにならない、とよく言われるのはなぜだろうか。
「勝ちたい」という意欲より「負けたくない」という意識に支配されるため、どうしても守備的な戦いになるからだろう。スタンドの不穏な空気もピッチに伝染し、選手たちをラフプレーに駆り立てる。発煙筒や乱闘騒ぎでプレーの集中が途切れてしまうことも原因だ。
サポーターたちのテンションの高さばかりが見せ物扱いされ、試合内容より、どんな騒ぎがピッチの外で発生したかに目を向けられてしまうのが、去年のセビリア・ダービーだった。
今シーズンはどんな戦いになるのか。その一部始終を目に焼き付ける前に、筆者はまず、ダービーの前座試合ともいえるUEFAカップ一回戦、ベティス対ジンブル・チシナウ戦をエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラで観戦した。
予選ラウンドを勝ち上がったジンブル・チシナウというクラブは、一九九〇年に旧ソ連の分離解体に伴い独立したモルドバという小国にある。情報は皆無だが、ルーマニアに隣接し、人種的にも近いため、個人技のある選手が少なくないという。
ベティスはアウェーの一戦目を2対0で勝っているため、ホームの二戦目はほぼ消化試合の恰好《かつこう》になった。ジンブル・チシナウの選手を乗せたバスがスタジアムにやって来ると、緑と白のタオルマフラーを腕に巻いたベティコたちは「遠くからよく負けにきたな」と拍手で迎えた。
スタンドは半分の入り。筆者と通訳兼コーディネーターの男性は窮屈なプレス席から一般席での観戦を許された。照明事故の後遺症なのか、選手たちがアップする直前までスタジアムは闇に包まれていた。
ゲームは結局、2対1というスコアでベティス勝利となるのだが、ここで知ったのは、応援するベティコたちの荒々しいまでのユーモアと、ベティスというチームに潜在する宿命的弱点だった。凡戦ではあったが、ダービーを見る前にとても勉強になった一戦であった。
ディフェンス以外はサブ組でスタメンが構成され、ベティスが厳しいシーズンを乗り切るためのターンオーバー制が可能なのか、その攻撃力に注目した。ところが、この日は強力な両翼からのカウンターアタック、といういつものベティスらしさはまったく感じられない、言わば「普通に中盤でパスをつなぐ」チームになり下がった。
目の肥えたソシオの観客たちは、辛辣《しんらつ》だ。
巨漢ボランチのベンハミンが、決して器用ではないボールさばきで前線に駆け上がろうとすると、
「こらベンハミン、お前のすることとちゃうやろ。そんなドリブルはデニウソンにまかせとけ!」
サポーターたちは皆、監督になった気分で見ている。
「そんなところでフリーにしたらあかんがな、相手がセビージャだったら入れられとるぞ!」
「ビクトル、死んだような三人をグラウンドから放り出したれ!」
「ここはホームだ、後押しはワイらがしたる、プレーするのはお前らや!」
コーディネーター氏が関西出身者のためこういう翻訳になるのだが、ベティコの応援は関西人のノリに通じている。怒号にも常に笑いが含まれ、実に軽やかだ。いっそのことセビリア市と大阪市は姉妹都市になるべきだ。
選手同士が殴り合い寸前まで揉《も》めると、
「いっそのこと一人一挺ずつ銃を渡して、決着つけたらええ」
ジンブル・チシナウの選手が交代になってベンチに下がると、
「ロペーラ、あいつに生ハム食わして帰したれ」
ゴール裏では過激なサポーターたちが飛び跳ね、お決まりのフレーズを合唱する。
「セビジスタ・ケ・ノ・ボテ!」
セビージャのサポーターは飛び跳ねるな! セビージャ相手のゲームでないのに、常に敵対するサポーターを応援の肴《さかな》にする。それでいて、いいプレーには、たとえ得点に結びつかなくても盛大な拍手が起きる。サッカーを知っている人々なのだ。
後半、ベンチの選手がピッチに立つ。待ちに待った交代だった。精彩を欠いたフェルナンドに代わって、背番号28、志野リュウジがトップ下のポジションに入る。
今回のダービー取材には、もうひとつ目的があった。ベティスにレンタル移籍を果たした志野リュウジが、はたしてリーガ上位を狙うチームで通用するのか……。
前には元アルゼンチンU─20代表のガストン・カサス、右には先日のバルサ戦で歴史的ゴールを決めたバレラ、左にはデニウソンの控えに甘んじているセサルがいる。扱う駒として不足はない。
アウェーゴールを換算すると、ジンブル・チシナウは逆転勝ちをするためにはあと3点は入れなければならない。当然前がかりになり、ベティス攻撃陣は得意のカウンター狙いであと1、2点は取れるはずだった。
ところが志野の効果的なスルーパスに攻撃陣は一歩遅れてしまう。サイドからえぐって、志野がアタッカーとしてゴールに突進しても、クロスの精度がない。
時間は漫然と過ぎ、結局、後半四十五分はどちらも無得点で終わった。
これが「華々しい攻撃サッカー」という衣を剥《は》がした時の、ベティスのもうひとつの素顔だった。かねてから評論家に指摘されていた選手層の薄さを見せつけられた思いだった。
翌日の午前十時、スタジアム近くの練習グラウンドに選手たちが集合した。
前夜、試合に出たサブ組は軽めのランニングとストレッチで終わる。志野リュウジは、軽口を叩き合って走るチームメイトからやや離れ、黙々と芝生を踏みしめていた。
二日後のダービーに向けて臨戦態勢に入っているレギュラー組は、五対五のミニゲームを行う。「パスはツータッチ以内、シュートはワンタッチで」と決められ、選手たちは激しく動き、シュートは至近距離からでも思い切り放たれる。
一時間十五分ほどの密度の濃い練習が終わると、マルコス・アスンソンがゴール前に人形を立て、フリーキックの居残り練習をする。回転の少ないボールがカーブを描き、キーパーの手先をかすめてネットを揺らした。
ゴール裏の通路ではマスコミと広報が揉めている。いつもだったら練習後に選手が一人か二人出てきて、短い記者会見に応ずるのだが、ダービーが近いこともあって選手も監督もナーバスになっているらしい。誰も会見には出て来ないという。
選手たちはシャワーを浴び、マッサージを終えると、駐車場でそれぞれの自家用車に乗って帰るのだが、出口に群れなすファンに捕まると、サインや記念撮影に応じたりする。
クラブ関係者の車に同乗してグラウンドを去る志野リュウジを、ファンにまじって捕まえることができた。
──ベティスのチームカラーに慣れた?
「まあ、ぼちぼちですね」
──ロペーラ会長はアットホームな人で、選手たちをよく食事に誘ったりするそうだね。プライベートで仲間とのコミュニケーションは取れてる?
「誘われたらレストランでもディスコでも、どこへでも行きますけど、つるんでよく遊んでるってわけではないです」
──昨夜のゲームの手応えは?
「途中交代だといつもそうだけど、短時間でゲームに慣れて、トップコンディションに自分を持っていかなきゃならない。それがきつい。エンジンのかかりが遅い自分が悪いんだろうけど」
──監督の期待は感じる?
「相手が疲れた時にかき回す役ってことは、もう納得済み。そういう意味ではいい仕事場を与えられてると思う」
──明後日のダービーはベンチ入りできそう?
「すいません。そういう質問には答えちゃいけないって言われてるから」
──頑張ってね。
「ありがとうございます」
十七歳の、いくらか人見知りする童顔をサングラスで隠し、赤土の砂埃の彼方へ走り去って行った。彼にサインをねだるファンの数は、まだ少ない。
翌日、スタジアムでの前日練習は非公開となり、筆者はベティスの周辺取材に一日駆け回ることとなった。
セビジスタもベティコたちも、ダービーの結果について一様に恐れることがある。
自分の贔屓《ひいき》のチームが負けた時、身近にいる敵サポーターから、彼らの勝ちっぷりを、そして自分たちの負けっぷりを、次のダービーまでの半年間、ことあるごとにネチネチ言われるのだ。
彼らに「ダービーの予想は?」と尋ねると、「もちろんセビージャが5対0で勝ち」とか「ベティスが0対2で勝ち。ホアキンのゴールとアスンソンのフリーキックで」と勇ましく拳を振り上げて言うのだが、本音は「とにかく負けてもらっては困る。だから引き分けで構わない」ということらしい。これは筆者にとっては少なからず驚きだった。
去年のダービーは二戦とも0対0の引き分けだった。両サポーターはさぞかし欲求不満状態で、「勝っても負けてもいいから決着をつけてくれ」と切実な思いを抱えているのかと思っていたら、どうやらダービーで守備的な気分に陥るのは、選手だけでなく、サポーターも同じらしい。
セビージャの非公開の練習が始まる頃、エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアン前のベンチでたむろする老人の一人に訊いてみた。
六十過ぎの、退職した元航空技師の男性は、「ダービーは今年最高の祭り」だという。老いも若きもセビジャーナスを踊るスペイン三大祭りのフェリアより、マカレナの聖母像を掲げたきらびやかなセマナ・サンタより、彼らにとっては熱い一日となる。
「わしはダービーの夜はスタジアムには行かんよ。セビージャが他のチームと対戦する時は必ずここで見るが、ダービーだけは決してスタジアムに入らない」
どうして? と私は訊く。ちなみに、このセビージャ・サポーターの言葉が関西弁の翻訳にならないのは、彼がラフな服装ながら、いかにも山の手の住人という品の良さをたたえているからだ。甲子園球場の一塁側スタンドにいてもサマになるであろうベティス・サポーターとは、かなり違う雰囲気を漂わせている。
「どうしてかって? 心臓発作を起こして倒れるからさ。当日はテレビ中継も見ない。ラジオも聞かない。明日は街から十五キロ離れた息子夫婦の家に行って、孫娘の九歳の誕生日を祝うんじゃ。翌日の新聞を広げるまで、ダービーの結果は知らないでおく。そっと新聞を開いてセビージャが勝ったと分かったら、ユーロ・チャンネルで再放送になるゲームを心安らかな思いで眺める」
心臓麻痺で死んでもスタジアムで結果を見届ける、とは言わない。ダービーが自分にとって最高の祭りと言いながら、その祭りが終わるまで田舎にひっそり身を隠しているという。これもまた熱烈サポーターの姿なのだ。
彼はまた、セビリア人であるということに絶大なる誇りを持っている。
「ドイツ人がまだパンツもはかず、槍を持って動物を追いかけていた頃、セビリア人はチェスをしていた」
本当だろうか。
次に会ったのは、ベティスの元選手で、二部落ちをした頃に強化部長をしていたという四十五歳の男性だ。
「家族の中でもセビージャとベティス、ふたつのファンに分かれることも珍しくない。私の妻だって実はセビージャ・ファンでね。毎年ソファに並んで座ってテレビ観戦さ。家庭の平和のためにも引き分けがいいね」
やはりそれが本音。
「現役時代には、セビージャに親友の選手がいたんだ。ゲーム中に激しいタックルを受けて、『今度やったら殺してやる!』って怒鳴ってやった。だがゲームが終われば親友に戻る。あの九十分間だけはお互い別人になるんだよ。普段は街でよく遊んだもんさ」
彼は、ネオ・ナチや麻薬犯罪の絡んだサポーターの暴力事件に眉をひそめる。だが、選手にもその責任の一端があると言う。
「審判を欺くプレーが多すぎる。ファウルでも何でもないのに、大げさに痛がって倒れる。それがサポーターの過熱ぶりに油を注いでしまうんだ」
ワールドカップでスペインが見舞われた「災厄」についても水を向けてみた。
「コリアはよく走った。審判はもちろん最悪だった。プロとしては悪い方には考えたくない」
審判が韓国に買収されていたのでは、という疑惑についてだ。
「審判を嘘発見器にかけるわけにはいかないしね。それもサッカーだと割り切るしかないんだよ。それに、ホアキンの涙は無駄ではなかったろう?」
韓国戦で決勝アシストをとんでもない判定で取り消され、四人目のキッカーをまかされたPK戦を失敗して涙の帰国となった。しかし傷は時間が癒してくれたようだ。八月に行われたハンガリーとの親善試合で招集され、タムードの得点をアシスト。今シーズンのリーグが開幕してからも、重心の低いドリブル突破で競り合う選手を嘲笑《あざわら》っている。
この日最後に訪ねたのは、日刊タブロイド判のサッカー専門紙「マルカ」のセビリア支局に勤める、七十歳の超ベテラン記者だ。
彼は古い資料を見せてくれて、終始自分のペースで、ダービーの歴史について喋り続ける。前述したセビージャとベティスの闘争の歴史は、彼からレクチャーされたことだ。
「近年のベティスの躍進は、確かにロペーラ会長の手腕によるものだ。それは認めよう。だが言わせてくれ。奴は普通じゃない。スタジアム建設の時に業者と揉めると、すぐに訴訟に打って出る。政治家ともすぐ喧嘩になる。セビージャを自分たちより下位に落とすためなら、手段を選ばん男さ」
会長の暴れっぷりについて具体的に訊こうとすると、途端に口が固くなった。
「日本にセビリアの恥を言いふらすような真似は、できんよ」
この老記者、ワールドカップにおけるスペインの敗戦には相当にショックを受けたようで、しばらくテレビの前で「ここはどこ、私は誰」といった精神状態だったという。審判は誤ったのではなく確信犯的にスペインのゴールを盗んだ、と言い切った。
──だったら、今シーズン、セビージャに韓国人プレイヤーが加わりましたが、歓迎できなかったのでは?
「いや、問題ない」
セビージャのためにいいプレーをしてくれるなら大歓迎だという。寛容な人である。ただし、パク・ジョンウォンがチームの足を引っ張った時には、「マルカ」紙の論調は想像に難くない。
さてダービー当日の日曜日。
繁華街の目抜き通りに立つ豪華なショッピングセンターのアーケードを抜け、スタジアムの壁面を飾る巨大なモザイクと向かい合う。地元アーティストの労作であるこのモザイク壁画には、過去百年間、エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンを訪れた国内外六十の主要チームの紋章が描かれている。セビージャの創立年度、スタジアムのこけら落としの年、ここでワールドカップの試合が行われた年もモザイク模様で記されている。
生粋のセビジスタたちはスタジアムの思い出に屈折した思いを抱えている。先代スタジアムもこのサンチェス・ピスフアンも、どちらも初めてのダービーではベティスに負け、こけら落としのパーティを台無しにされたという過去があるのだ。
試合開始まで八時間以上あるというのに、すでにスタジアム周辺は、赤と白の縞《しま》模様のタオルマフラーを巻いた連中がたむろしていた。
セビージャのサポーター・クラブである酒場《バル》に足を踏み入れる。
真っ昼間からレプリカ・ユニフォームを来た女性の一団がテーブル席で気炎を上げている。四十歳ぐらいの母親、まだまだ元気なその母親、地方にいるのに会費を払ってソシオになっているという姉、ティーンの娘。
旦那はどこで何をしているんだろう……。
「今日は私ら、スタジアムでポテトフライを食うのを楽しみにしてるのさ!」
ポテト=イモ=ベティコ、という意味らしい。
「ベティスの調子がいいのも、まあ今日で最後だね」
自信たっぷりだ。これまでベティスの快進撃に歯噛みの毎日だったに違いない。
「家族はもちろん全員セビジスタよ。まあ親戚の中には変わったのがいて、変な二色模様を身につける奴もいるよ。どういう色かは言わないけどね、アハハ」
指輪にもネックレスにもセビージャの紋章が入っている。小太りの全身をぶるぶる震わせ、今にも勝利のダンスをしそうな勢いだ。
「ダービーまであと五日、四日、三日……精神安定ドリンク片手にカウントダウンの日々だったわね。近づくにつれて寝付きが悪くなるの。今朝も九時に目が覚めて、一家引き連れてこの店に来ちゃった」
スペイン人が日曜の朝、九時に目が覚めるというのは、相当な早起きである。
「見て見て、この靴」
黒いラバーソールの新品の靴。この日のために下ろしたらしい。スタジアムで飛び跳ねるため、そして勝ってこの店で踊るためだ。
「勝ったら? そりゃ朝まで大騒ぎ」
負けたら?
「家に直行。すぐフテ寝」
タクシーを拾って、次はベティスのサポーターが集まるバルを覗いてみる。
運ちゃんはベティコだった。八時には仕事を終え、試合開始の八時半には家に着いて、家族とテレビ観戦らしい。今夜、観光客以外で街を歩く人間は少ない。どうせ車を転がしても稼ぎは少ないのだ。
一般のベティコたちは今夜、セビージャのスタジアムには行かない。ベティス側へのチケット割り当てが少ないこともあるが、セビジスタで埋まるスタンドに緑と白のチームカラーを身につけて行くなら、不愉快なトラブルは覚悟しなければならないからだ。
観光客の多いサンタクルス街に、オレンジの樹の下、テラスの広いバルがある。店内奥には緑の鉄柵、その向こうがベティスのサポーター・クラブとなっている。大型テレビが置かれたフロアには、今夜、スタジアムに行けないサポーターたちが大挙して集まるらしい。
意外にもバーテンの一人はセビジスタで、今夜は声を潜めて応援し、セビージャが得点したら小さくガッツポーズをするのだという。
街に境界線があって、こっちにセビジスタ、あっちはベティコという色分けがあるわけではなく、バルや職場や家庭のいたる所で、両者は混在しているのだ。
「今夜、セビージャ・サポーターは街にいないよ。負けていろいろ言われるのが怖くて、家に隠れちまうのさ!」
美人だがキツイ目をしたやり手の女将《おかみ》、といった印象のバルの女性経営者が、高らかに笑う。
筆者とコーディネーター氏は今晩の戦いに備えたシエスタの後、午後六時、居ても立ってもいられずスタジアムにやってきた。
選手通用門前は、警官隊によって広範囲に柵が設けられ、騎馬警官が周辺を固めている。馬の尻には近づかない方がいい。突如、ボトボトと馬糞《ばふん》が落ちてくる。
チケット窓口には、予約したサポーターたちが受け取りのため集まっている。値段は普段の試合の二倍。最も高い席で、日本円にして一万三千円もする。この値段ではおそらくスタンドは満席にはならないだろうとコーディネーター氏は言う。
あたりが物々しくなってきた。とんがりヘアの若いサポーターは言う。「去年のような引き分けはもう勘弁してほしい。絶対決着をつけてくれ」
そうこなくっちゃ。
鼻の頭にも毛が密生している太鼓腹のおっさんが言う。
「わしの名前はマヌエル・ルイスっていうんだが、毎年この時期になると名前を変えたくなるよ」
ベティスの会長の名前とまったく一緒だからだ。
「ベティスの選手バスが来る前に逃げ道を確保しといた方がいいぞ。石が飛んでくるから」と、ありがたい忠告もいただいた。
貴賓用の食料を運ぶ保冷車がやってくるだけで、セビジスタたちは大騒ぎだ。
「ベティスの選手たちがこれに乗ってやって来たぞ!」
そんなわけがない。
「ムチョ・ベティ・プータ・ベティ!」
くそったれベティス、売春婦のベティス!
「ヴェルディ・ブランコ・ケ・ノ・ボテ!」
緑と白のチームの奴は飛び跳ねるな! ベティコたちが叫ぶ「セビジスタ・ケ・ノ・ボテ」の逆バージョンだ。
キックオフ一時間半前、まずベティスの選手バスがやってくる。耳を聾《ろう》するほどの怒号だ。
我々は逃げ道を確保し、セビジスタたちの凶暴なる歓迎ぶりを眺める。「通すもんか!」と叫んで人込みを走っていく若者がいる。おいおい、通してやらなかったら、君たちが楽しみにしているゲームが見られないんだぞ。
くそったれコールの中、バスから監督と選手たちが素早く降りて、スタジアム内に駆け込む。警官隊が囲んでいるのだが、その狭い視界めがけて石が飛ぶ、卵が飛ぶ。ビクトル・フェルナンデスは身を縮めて入口に消えた。
そして数分後にはセビージャの選手バスがやってくる。祭りの主役たちの登場に盛大なる拍手と歓声だ。
記者パスをもらってスタジアムに入った我々は、汚れたコンクリートの階段をあがり、急傾斜のスタンド最上段の記者席につく。
コーディネーター氏が持参したラジオから、他の地域ですでに行われているゲームの実況放送が流れる。アラベスをサンティアゴ・ベルナベウに迎えたレアル・マドリーが、後半からロナウドをお披露目させたという。何とセカンド・タッチで初ゴールらしい。どうやら明日のスポーツ紙の一面はセビリア・ダービーにはならないだろう。
過激サポーターで埋まる左手のゴール裏。みるみる犯罪の匂いがたちこめてくる。
「バン!」
爆発音。爆竹なのだろうが、香港の路上で聞かれる「パン」ではなく、大砲の音のような「バン!」なのだ。筆者は椅子から飛び上がった。コーディネーター氏の説明によると、葉巻ほどの太さの爆竹で、音のわりには周りへの被害は少ないという。
キックオフまで四十五分。ベティスのキーパーがピッチに出てきてアップを始める。凄まじいブーイングになるのだが、そこで最初の事件。
ゴール裏のスタンドからサポーターの一人がネットをくぐってフィールドに乱入、練習用のボールをひとつ奪ってスタンドに持ち帰ってしまう。まるで日光の猿が観光客の菓子を盗んで、縄張りに逃げ帰るような恰好だ。
次なる事件は、ゴール裏で構えていた警備員との乱闘だ。旗の棒で警備員を袋叩きにする。殴り殺さんばかりの勢いなのだ。警備員はほうほうの体《てい》で逃げる。筆者は記者席から双眼鏡で眺めていたが、ゲーム前からこの調子なら、始まったらどうなるのだろうかと恐ろしくなる。
ベティコは乱暴者だけど、セビジスタはおとなしい? どこが。
ベティスの選手たちが続々ピッチに出てくると、くそったれコールと共に発煙筒がどんどん投げ込まれる。芝生が赤く燃えている。爆撃を受けたベイルートの戦場のようにピッチが黄色い煙を上げ、それが記者席まで立ち昇ってくる。
記者席から見て、バックスタンドの右奥コーナーに、ベティス・サポーターたちが陣取る。彼らの応援を、セビージャ・サポーターが何倍もの声量で打ち消す。
千人規模の彼らベティス・サポーターはまず自分たちのホームスタジアムに集結し、そこから警官隊の護衛付きで、徒歩で一時間半かけて敵地にやってきたという。当然、路上でセビージャ・サポーターの投石を浴び、警官とも面倒を起こし、額から血をしたたらせる者も何人かいたが、スタンドの隔離エリアに放り込まれた。
メンバー表が記者席に配られる。ベティスはベストメンバーである。控えの七人に志野リュウジの名前はなかった。同様に、セビージャの控えメンバーにパク・ジョンウォンはいない。
ラジオからはゴールシーンの実況が届けられる。アナウンサーが「ゴォォォォォル」を連発。スペイン全土がサッカー熱で沸騰しているかのようだ。
八時三十四分キックオフ。スタンドはコーディネーター氏の予想通り、満席にはならなかったが、相変わらずプレッシャーの早いベティスの中盤にセビージャがボールを奪われるにつれ、まがまがしい空気がスタンドに満ちてくる。
極めつきの事件は前半八分に発生する。ゴール裏から若いサポーターがピッチに乱入、ベティスのキーパー、プラッツめがけて突進する。我々の記者席でも「プラッツ、逃げろ、後ろだ!」と声が上がるが、彼は背後の気配にまったく気づかない。大歓声に紛れて迫る凶悪サポーターはプラッツに襲いかかった。どうやら相当アルコールが入っているようで、プラッツに振りほどかれて芝に倒れると、それ以上の戦意はなく、遅れて駆けつけた警官に捕縛されてしまう。
サッカーを愛する人間の行為とは思えない。これはテロだ。
十七分、ベティス得意のカウンターアタックが炸裂《さくれつ》する。デニウソンが左を突破すると、右のホアキンは中央に切れこんでアタッカーと化す。バルセロナが散々やられた攻撃パターンで、セビージャのディフェンスも穴を開けてしまう。ホアキンのヘッドでベティス先制点。スタンドはベティコのいる片隅を残して一挙に静寂。ゾッとするような沈黙だ。
ベティスは正確なサイドチェンジでピッチを広く使う。一方のセビージャは右サイドのガジャルド頼み。そしてFWの質の違いも歴然。上から見ていると、ベティスの1トップ、アルフォンソは、前後左右よく動いてボールをもらいにいく。セビージャの1トップは止まっているだけのターゲットだ。
サポーターもよく分かっている。試合が進むにつれて、「アントニートを出せ!」とコールする。セビージャの下部組織出身で、二十四歳の若さで三部や二部のチームを渡り歩いてきたFWだ。
それにしても、空気を震わすこの応援。まるでスタジアムが一個のパーソナリティを持っているかのようだ。応援のコツを全員が知っている。横浜国際総合競技場が日本代表の試合でいっぱいになったとしても、この空気圧は味わえないだろう。
ベティス1点リードで前半を終了した時、記者席からやや前方の客席に二人の若者を見た。黒髪の東洋人。ベティスの志野リュウジとセビージャのパク・ジョンウォンが並んで観戦していたことに、筆者は初めて気づいた。
ベンチ入りしなかった選手は、チームの内規によってスタジアムで試合観戦することを義務づけられる。普段着の選手がスタンドにいることは珍しくないが、ダービーの相手選手と同席しているのは、やはり奇異な光景だ。
周りの観客は気づいていない。志野もパクも存在感が薄いせいだ。二人は言葉を交わすことなく、ハーフタイムもじっと座ったままで、控え選手がアップをしているピッチを、ミネラルウォーターを口に運び、見下ろしている。
──君たちは親友なのか?
記者席を立って階段を二段下り、訊いてみたい衝動に駆られたが、彼らの静謐《せいひつ》な空間を邪魔してはならない気がした。
後半が始まる。セビージャは次々と攻撃のカードを切ってくる。サポーターの祈りが通じたのか、アントニートが入って2トップとなり、木偶《でく》の坊だったFWも控えと交代になる。
ゲームの最初から頭に包帯を巻いているパブロ・アルファロが、傷だらけの軍曹といった雰囲気をたたえ、士気を高める。レッドカードをもらう回数が多く、スペインリーグ一、二を争う激しいDFだ。
次第にセビージャが攻撃の形を見せる。二十三分、セビージャが珍しく左サイドからの攻撃。危険なクロスが放り込まれた。あっ。筆者は声を上げる。ゴールネットが揺れた。スタジアムが一匹の野獣になったかのように雄叫びを上げる。誰のゴールだ。ファニートだ。ベティスのセンターバック。オウンゴールだった。
これで同点。どちらのサポーターも心の底で望む結果が、実現しそうな案配になってきた。
総立ちのスタンドの中で、志野もパクも無反応だった。二人ともベンチ入りさせてくれなかったことに不貞腐《ふてくさ》れているのだろうか。
同点直後からベティスも動く。まだ仕事をしたそうなデニウソンがアウト、頼りなさげな控えの司令塔フェルナンドがインして、トップ下にいたカピが左サイドに回る。二日後に予定されているレアル・マドリーとの戦いに備えて、主力に怪我をさせたくないというビクトル・フェルナンデスの思惑が見え隠れする。
セビージャは守備固めを始めてしまった。
だからといってピッチにいる選手から闘志が薄らいだようには見えない。足をつる選手が続出する。セビージャのレジェスの足をベティスのファニートが伸ばしてやると、スタンドから拍手が起きる。
ロスタイムになる頃、志野とパクが申し合わせたように立ち上がり、出口へと消えていく。「次のダービーはお前ら東洋人二人に期待してるぞ」と声をかけるサポーターなどいない。
ゲームは結局、両サポーターが最低限の喜びと安堵を得る形で終わった。
なかなか通らない空車のタクシーを道で待ち続け、一時間後にベティスのサポーターズ・バルに辿り着いたが、引き分けという結果のせいだろう、閑散としていて我々を拍子抜けさせた。
ベティスのサポーターはまた徒歩で一時間半かけ、警官隊に周囲を固められ、自分たちのホームスタジアムまで行進したようだ。路上でタクシー待ちをしている時、セビジスタのガキんちょが行進の列に石を投げ込み、警官に追われていたのを目撃した。
こうして祭りは終わった。
翌日の新聞。見出しはこうだ。「事件が記録された」「最も悲しいダービー」「恥」「打ち消された戦い」……。
マルカ紙のミッチェル氏は語る。「いつまであんな映像をセビリアで見なくてはならないのか。どこかの馬鹿者が暴行を働く一部始終が世界に流れるのは本当に悲しい。そういうことは昨シーズンで終わったと思っていた。それにしても、ベティスはセビージャ相手だと、途端にゴールの決定力がなくなる」
プラッツに背後から襲いかかった若者はクラブから追放すると、セビージャの会長は発表した。
ホテルをチェックアウトして帰国の途につく筆者は、肌寒さに震える。空を見上げればアンダルシアの太陽はかけらもなく、ここはロンドンかと思うような霧によって、マドリード行きの飛行機は一時間遅れた。
敵チームのパクを伴い、絶叫が横溢《おういつ》するスタンドから静かに去っていく志野リュウジ、その寂しげな後ろ姿が不意に脳裏に甦った。
ベティス・ホームのダービーは来年三月に行われる。志野が進む闇路の彼方に、ヴェルディ・ブランコの旗がはためくのだろうか。
ひょっとしたら、マカレナの聖母は彼のためにダービーの決着を温存したのかもしれない……。
■第八節を終えて、ベティス公式サイトにおけるロペーラ会長からサポーターへのメッセージ。[#「第八節を終えて、ベティス公式サイトにおけるロペーラ会長からサポーターへのメッセージ。」はゴシック体]
確かにダービーは残念な結果に終わった。勝てるチャンスをみすみす逃してしまった。二日後、ホームで行われたレアル・マドリーとの残り四十五分も、高いレベルの試合内容に満足はしたものの、追いつかれ、引き分けで終わってしまった。
しかし思い返してほしい。デビュー戦で2得点を挙げたロナウドは、あの四十五分、どこにいた? 完全に消されていたではないか。ベティスの蛇のようにしつこいプレッシャーに、マドリーのタレント軍団はボールを短くつなぐので精一杯であった。
我々ベティスこそ、王者レアル・マドリーに挑戦しうるチームであると、この壮絶な戦いが証明したのだ。
その後のベティスの快進撃にはおおいに満足している。
ホームでのマジョルカ戦、アウェーでのレクレアティボ・ウエルバ戦、ホームでのマラガ戦、我が軍は真骨頂のカウンターアタックによって常に主導権を握り、不安視されていたディフェンスも三試合で失点1という堅守ぶりであった。
昨年セルタで好成績を残し、今シーズンから指揮をとるビクトル・フェルナンデスは、熱血さと冷静さを併せ持つ将軍である。ダービー戦の後半にデニウソンとアルフォンソをベンチに下げた采配に批判があったようだが、セビージャのハードアタックによる怪我を警戒し、主力をレアル戦に向けて温存させるのが狙いだった。私は支持する。
サポーターからは、中断したままのスタジアム改修工事はどうなっているのか、このサイトで多くの問い合わせがあった。
かつてベティスは「選手は給料を牛でもらっている」と言われた時代があった。アントゥーネスという一九四〇年代の選手は、あろうことかセビージャに買われていった。金がなかったベティスは仕方なくライバルチームにスター選手を売ったのである。フランコ政権下の、スペインが最も貧しい時代だった。
今は違う。潤沢な予算で積極的な選手補強をし、近代的スタジアムへの改修工事計画は着々と進んでいる。
来シーズンのプレシーズンマッチではアジアに遠征するという計画もある。我がチームには志野リュウジという、これからのベティスを背負って立ち、ワールドカップで健闘した日本代表を更なる高みに導く若き才能がいる。
残り二十分でピッチに登場するスーパーサブ・志野リュウジは、疲れの見える相手ディフェンダーにとっては脅威のドリブラーである。遠征ではベティスが育てた志野リュウジの才能を、日本のファンにお見せできるかもしれない。対戦相手はもちろん神様ジーコが指揮する日本代表である。
第八節を終えて、五勝〇敗三分け、勝ち点18で堂々の二位。UEFAカップ二回戦突破も確実となったが、我々の夢はまだ始まったばかりだ!
■第九節バレンシア対レアル・ベティスを日本で放送したJスカイスポーツの、アナウンサーと解説者のコメントより。[#「第九節バレンシア対レアル・ベティスを日本で放送したJスカイスポーツの、アナウンサーと解説者のコメントより。」はゴシック体]
「皆様今晩は。リーガ・エスパニョーラ二〇〇二─二〇〇三シーズン第九節、バレンシア対レアル・ベティスの一戦を、バレンシアのホーム、エスタディオ・メスタージャよりお送りします。現在バレンシアは四位、好調ベティスは二位につけ、今シーズン最大のダークホースと言われる首位レアル・ソシエダを追走していますが、上位五チームの勝ち点差が4という混戦模様で、リーガの前半戦は予断を許さない展開となっています」
「三位のレアル・マドリーは、ロナウドの調子の波によってチームが左右されるという波乱含みの状態で、勝ち点を思うように伸ばせないのが現状ですよね。五位のバルセロナはファンハール監督と選手との確執が毎日のように新聞を賑わせてます。選手がゴールを決めても、決して監督には抱きついていかないという光景が全てを象徴しているんじゃないかな」
「二大クラブが足踏みをしている間に、バレンシアはディフェンスの強みで地道に勝ち点を伸ばし、ベティスは新加入の選手が軸となって、無敗という成績で上位に食い込んでいます」
「私たち日本人にとっては、十六歳でスペインに単身渡った志野リュウジがこのメスタージャでどんなプレーを見せるのか、おおいに注目なんですが……」
「どうやら志野はベンチスタートのようですね」
「カンテラあがり──カンテラというのは石切り場という意味で、原石を発掘するクラブの下部組織を称して言うんですけど、つまりクラブのユースあがりの選手が続々頭角を現しているベティスの中にあって、十八人の登録選手に名前を連ねているだけでも、志野リュウジは評価に値すると僕は思いますよ」
「十代の才能はバレンシアでも花を咲かせています。去年、十八歳でリーガ・デビューを果たし、カマーチョ監督のスペイン代表にも選ばれた経験のあるヴィクトル・ロペスです。今シーズンはパブロ・アイマールの怪我によって、ここ三試合、トップ下で先発です」
「志野リュウジとヴィクトル・ロペスは、去年五月、アンダー17の親善試合で国立競技場を舞台に戦ってるんですよね」
「志野リュウジがアトランティコのフベニールにスカウトされるきっかけとなった試合でした」
「先に一部デビューを果たしたのはヴィクトル・ロペスで、今や、バラハ、サルバ、カリューといったアタック陣を鋭いスルーパスで走らせ、ゴールチャンスを演出する姿は、十八歳とは思えない風格を感じますよねえ。とにかく監督の期待を一身に集めているのが画面からも伝わってきます」
「治療中のアイマールも心中穏やかでないでしょう。バレンシアにはミスタというトップ下の控え選手がいて、当初はヴィクトル・ロペス起用に批判の声もあったのですが……」
「ラファエル・ベニテス監督は押し切りましたね。この人は選手経験がなくて、大学で監督資格を得た人物なんですが、昨シーズンのバレンシアの躍進で、カリスマ的存在になりました」
「ベティスの選手がピッチに入ってきました。緑一色のアウェー用ユニフォームです。カッパ社製のこのユニフォームはぴっちりしていて、体の線をあらわにします。太ってしまった選手は一目瞭然ですね。さて、このゲームの見どころは?」
「バレンシアの、堅い守りを軸にして少ないチャンスをモノにするサッカーは今年も健在です。ベティスにとっては、ボールをキープするバルセロナより、バレンシアのようなチームの方が苦手のはずです。弱点はクーロ・トーレス頼みの右サイドと、三十七歳の左サイドバック、カルボーニのスタミナじゃないでしょうか」
「となると、ベティスの誇る両サイドアタッカーにも充分に付け入る隙《すき》がありそうですね」
「おっしゃる通り。ベティスの戦い方というのは、引いて守って相手にボールを支配させ、クサビを前線に入れた瞬間に両サイドが駆け上がり、常にフォローを引き連れた分厚い攻めで襲いかかる。課題はこの集中が九十分続くかどうかで……」
「今、ピッチではバレンシアの選手が登場し、名物サポーターであるマノーロおじさんの太鼓が鳴り響いています。スタジアム前のバルを従業員にまかせ、今日もド派手な衣装で応援です」
「ベティスのロペーラ会長は、この一戦に特別ボーナスを用意しているそうですよ」
「ニンジンをぶら下げましたか」
「この人がよくやる手なんですよねえ。ゲーム前のロッカールームに突然現れて、ゴールした者には四千ユーロ、アシストには三千ユーロ、アシストのアシストには二千ユーロと、かなり具体的な金銭提示を選手にするみたいで」
「本当ですか、それは」
「噂ですけど」
「あ、今、噂の会長が映りました。メスタージャまで足を伸ばしてきたようです。映画『ドラキュラ』に登場するヘルシング教授のような風貌のこの人が、マヌエル・ルイス・デ・ロペーラ会長です」
「本当だ、そっくりだ」
「直情径行の毒舌家として知られ、ベティス・サポーターにとっては神様、選手にとっては父親、しかしマスコミ受けは最悪というきわめて毀誉褒貶《きよほうへん》の激しい人物です」
「ベティスが財政難で最も苦しい時、自分のポケットマネー五億ペセタでクラブを救ったというのが、サポーターが神様と崇《あが》める理由なんですよね。選手が慕うのには訳があるんです。セビリア市内で買い物をした時に財布を忘れて、店員に『俺はベティスの選手だ、ロペーラ会長につけといてくれ』と試しに言ってみたら通った、というのが尊敬の理由らしいですよ」
「成金の父親とドラ息子の関係、というのは言い過ぎでしょうか」
「会長の自宅はどこにあるか知ってます?」
「いえ」
「サンタフスタ駅近くのマンションですって。ベティスの会長なら郊外の大邸宅に住んでいてもおかしくないのに、この人は夫人と二人でマンション暮らしだそうですよ」
「へえ」
「夫婦は最上階に住んでるんだけど、マンションの屋上もロペーラ会長の所有で、何とそこで八匹の犬を飼ってる」
「屋上で犬を?」
「変でしょう? 番犬の意味をまったくなさない。空から誘拐犯が舞い降りてくるとでも思ってるのかな。会長は街を歩いていて可愛い野良犬を見かけると、自宅に連れ帰って、屋上で放し飼いにするそうです」
「ロペーラに拾われた犬は幸せですよね」
「犬と選手をわが子のように可愛がる人」
「犬と同じレベルですか」
「ベティスが絶体絶命の時や得点した時、おそらく現地のテレビカメラはロペーラ会長を抜くでしょうから、よく見てて下さい。背広の内ポケットからキリストの絵を取りだして、危機の時は祈りのキスを、得点した時は感謝のキスをしますから」
「実に信心深い人だそうですね。去年のハロウィン騒動もなるほどこの人なら、と頷けますね。昨シーズンの秋、ちょうどセビリア・ダービー前のハロウィンに、深夜の外出禁止令を犯した選手たちが誰かの家に集まり……」
「ベンハミンの家だそうですよ」
「乱痴気騒ぎのホームパーティをしていると地獄耳で聞きつけたロペーラ会長は、何と自宅で寛《くつろ》いでいた監督を呼び出し、一緒にベンハミン邸に乗り込んで、『お前ら一体何やってるんだ!』と選手たちを叱りつけたそうです」
「選手たちも驚いただろうなあ。ドアを開けたら怖い顔したヘルシング教授がいるんだもん」
「この話がマスコミに洩れると、選手たちへのサポーターの怒りは凄まじかったそうですね。練習グラウンドで大ブーイングを浴びせたそうです」
「当時指揮をとっていたフアン・デ・ラモス監督にも批判が集中。『お前は会長の腰巾着《こしぎんちやく》で、選手の監視人か』って」
「この騒ぎがたたって、ベティスは直後のサラゴサ戦をホームで落としてしまいました。いやはや、何かとリーガに話題を提供してくれるレアル・ベティス・バロンピエです……さて、主審のホイッスルが鳴りました。バレンシアのキックオフ」
「いやあ、のっけからベティスの中盤は寄せが早い」
「倒れたのはヴィクトル・ロペス。ファウルではありません。マルコス・アスンソンがハンドルを握ります。カピ、デニウソン、後ろからルイス・フェルナンデスがオーバーラップ。デニウソン、中央に切れ込んで右へサイドチェンジ。正確なボールが届きます。ホアキンのトラップも柔らかい。ゴールにつっかけていきます、ホアキン、ホアキン、ホアキン!」
「さすがペジェグリーノ」
「奪いました。バレンシアのセンターバックは鉄壁です。バラハ、アルベルダのゆっくりしたボール回しから中央でヴィクトル・ロペスがもらいます。左サイドのビセンテを走らせた。バレラをフェイントでかわした。クロスが上がった。さてゴール前にはカリュー!」
「ウィー!」
「カリューには届きません、最終ラインが板についたアルスのクリアです」
「おっと、そこにいたかヴィクトル・ロペス」
「クリアボールを奪います。誰に渡す。右にルフェテが大きく展開。通るかスルーパス。あっ、倒された」
「今度はファウルでしょう」
「イトにイエローカードです。ゴールに向かってほぼ正面、二十五メートルからのフリーキック。早々とバレンシア、ゴールチャンスです。さてキッカーは誰でしょう。プレースしたのはヴィクトル・ロペス。チームメイトの信用を得ています。壁は五枚。プラッツが大声で壁の位置を指示します」
「匂いますね、ゴールの匂いが」
「ゆっくりした助走から……蹴った」
「決まった!」
「バレンシア先制、前半二分、ヴィクトル・ロペス、今シーズン初得点!」
「国立競技場で戦った志野リュウジは、どんな気分で今のゴールを見たのかなあ」
「スーパーサブの志野リュウジに後半出番のチャンスはあるのでしょうか」
「今、憮然としたロペーラ会長の姿が映っています。懐の神様にはまだ助けを求めないようです……」
2[#「2」はゴシック体]
医務室の窓が闇に閉ざされた。
白いカーテンを外側から染めていた光は消え失せる。今、エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラの照明がすべて消されたのだ。室内の薄暗さがやけに際立つ。
試合中に怪我をした選手が運び込まれるその部屋は、医務室とは名ばかりで、剥き出しのコンクリートの壁が寒々しく、床は砂と芝で汚れ、包帯やガーゼの残骸も落ちている。無菌状態にはほど遠い。
選手の汗がビニールの表面に染みをつけ、破れ目からウレタンがはみ出している簡易ベッド。リュウジはアンダーパンツ一丁で座っている。試合後にシャワーを浴びて、体内吸収の早い特製ドリンクをたっぷり飲んだ後だが、壁の鏡に映る自分の姿はまるで枯れ木のようだ。
実際、肉体は涸《か》れきっている。手にしている紙コップに注がなければならないものは、ただの一滴も絞り出すことができない。
この部屋に入ってから三十分、沈黙の時間が続いている。ベッドに座ってやみくもにドリンクをあおるリュウジを、苛立ちを隠せない眼差しで見ている二人の人間。
スペイン・サッカー協会から派遣された医師と看護婦だ。禿《は》げ頭の小男は貧乏揺すりを始めている。生粋のアンダルシア女性らしき看護婦は、待たされる時の癖なのか、黒髪をしきりにいじっている。
その東洋人サイズのペニスから、早くコップ半分の尿を絞り出せ。
二人の無言の威圧だった。
「しょうがないだろ……」
リュウジは日本語で呟く。「いっくら水を飲んでも出ないんだから」
言葉は分からないだろうが、弁解めいた呟きであることは通じたらしく、医師がこれみよがしに溜め息を発する。看護婦は腕時計を見やる。ボーイフレンドと食事の約束があるのかもしれない。リュウジはいたたまれない。
試合後、抜き打ちで指名されるドーピング検査だった。試合に出場した選手の中から、事前通告なしに「今日はお前だ」とロッカールームで言われて医務室に連れてこられ、数々の禁止薬物項目のチェックのために尿を採られる。
ところが医務室に隣接するトイレに入っても、一滴も出ない。試合中に水分はすべて汗となり、いくら水や特製ドリンクを飲んでも、ひび割れた大地のような肉体に吸収されるばかりで、まったく排泄《はいせつ》されないのだ。おしっこが出ないことがこんなに苦痛とは思わなかった。
尿意よ、来い!
さっきから念じているのだが、下腹部にそれがやってくる気配はない。
消耗の激しい試合だった。第十節、セルタ・デ・ビーゴをホームに迎えた。前節のバレンシア戦では3対0の完敗で、はるばるメスタージャまでやってきたロペーラ会長の罵詈雑言《ばりぞうごん》が、ロッカールームの外に聞こえた。連敗は許されないし、セルタはビクトル・フェルナンデス監督が昨シーズンまで指揮していたチームだ。選手たちは監督に勝利をプレゼントしたかったが、蓄積された疲労に戦意を削り取られた。
リュウジは後半十分にトップ下のポジションに入った。その時点でベティスはアルフォンソのゴールで1点リードしていたが、更に得点差を広げようとする時間帯にあった。
ところがベティスのアタッカーたちはハーフタイムを経ても、ぱたりと足が止まっていた。連戦の疲れである。チームはUEFAカップ二回戦の二戦目をレギュラー組で戦い、ホアキンやカピにはスペイン代表の試合もあった。ベンチから見ていても、中盤を省略して最終ラインから前線へのパスが入っても、すぐ奪われ、中盤はその尻拭いで苦しげにボールを追った。リュウジは後半が始まってすぐ、アップを命じられた。
守りに入る時間ではないし、監督は「攻撃こそ最大の防御」と考えるタイプの人だ。あと二十五分は攻め続けるために、リュウジの突破力で前線を活性化させようとしたのだ。
リュウジにとってはリーグ戦で最も長いプレー時間となった。
散々な内容だった。
昨日のスタジアム練習では体がキレまくって、監督にベンチ入りをアピールできたのだが、本番のピッチに立ってみると、昨日の自分とは別人だった。原因は分からない。
調子のいい時はDFのブロックやスライディングを空中浮遊のように素早くかわすことができたが、今日は相手の動きが読めず、よけきれず、当たり負けするばかりだった。芝生を何度|舐《な》めたことだろう。
セルタの同点弾はリュウジの責任ではなかった。スペインに帰化したブラジル人FWカターニャがディフェンスのマークをかわし、あれよあれよという間にゴール前に侵入、ファニートが思わず引っ張って倒してしまった。ゴール裏に凶悪なブーイングが巻き起こった。ファニートはこの種のチョンボを時折犯す。サポーターにとっては、ダービーでのオウンゴールがまだ記憶に新しい。
PKを蹴るのはモストボイ。ワールドカップでは結局出場できず、横浜国際総合競技場のベンチで日本の勝利を悔しく見届けた男だ。
キーパーのプラッツはコースを読めず、モストボイのゴールが決まる。ホームで追いつかれ、ベティスはいよいよ攻めなければならない展開になった。疲弊したアルフォンソに代えて、長髪ポニーテールのカサスを送り込んだが、ボールには絡めない。リュウジの責任だった。スルーパスはことごとくコースを読まれた。
その時点でデニウソンもホアキンもいっぱいいっぱいだったが、監督は残る一枚の交代枠をDFにあてることを決断した。イトを出し、アルスをボランチの位置に上げ、センターバックに怪我から復帰したばかりのフィリペスクを入れた。スタンドのベティコたちが最も嫌う引き分け狙いの守備固めだったが、リュウジのいる場所から最終ラインを眺めると、鉄壁の逃げ切り態勢に見えた。正しい選択だと思った。
「ビクトル、何しとんねん、攻めんかコラ!」
スタンドからの口汚い野次。この頃、ベティコたちの言葉はなぜか関西弁に聞こえる。
今日はこういう試合で我慢してくれと、リュウジもスタンドに言いたかった。残り十五分、得点機到来の奇跡を祈ってリュウジは前線を駆け回り、重い体に燃料を送り続けた。前髪から滝のような汗。プレーが止まった時に、ライン外のドリンクボトルを取りに走ったが、運悪く中身は空だった。
ゴールを背にして、褐色の坊主頭マルコス・アスンソンからの縦パスを受ける。左右の視界に動くものを探す。デニウソンもホアキンも上がりが鈍い。「おっせーよ」とリュウジは口の中で毒づく。選択に迷っている間に厳しいチェックを受けて倒れた。笛はやはり鳴らない。ホームに対してやけに厳しい審判だった。
チャンチャッチャッ。チャンチャッチャッ。サポーターの手拍子が「攻めんかい」と駆り立てるが、体がいうことを聞いてくれない。ピッチが拷問の場所に思えたのは初めてだった。
早く終わってくれ。残り時間はどのくらいだ。時間表示の出ないスタジアムを呪《のろ》った。
ロスタイム四分。それも地獄の長さだった。終了のホイッスルが鳴った時、くらくらと目眩《めまい》がして、デニウソンの体を支えにしなかったらぶっ倒れそうだった。
ロッカールームに戻ると大口を開けて水を飲んだ。が、すぐにダラダラと汗に変わる。そんな時にドーピング検査の指名を受けた。
つくづくツイていない日だ。医務室も拷問の場所だった。出ない。おしっこが出てくれない。チームメイトはとっくに全員帰ってしまった。いつもリュウジをサンタクルス街のアパートまで送ってくれる道具係のチェマも、家に早く帰らなければならない用事があるそうで、そそくさといなくなった。
闇に閉ざされたスタジアムから人の気配が失せていく。引き分けに不満だらけのサポーターの呪詛《じゆそ》の声も聞こえなくなった。場内清掃の係員たちの足音も遠ざかり、どこかでシャッターの閉まる音がする。コンクリートで囲まれた酷薄な静寂に、リュウジは取り残されている。
「ビール、ありませんか」
医者に利尿作用のある飲み物を要求してみる。医者は「ああ、その手があったか」という表情になったが、看護婦が首を横に振る。未成年選手にアルコールを飲ませるわけにはいかないという杓子《しやくし》定規。
「……あっ」
リュウジは立ち上がる。尿意だ。下腹部に張りつめるものがあった。
「出そうか」と医師。
「分かりません」
「出せ。絞り出せ」
「分かってますよ」
紙コップを持ってトイレに入る。医者と看護婦が期待の眼差しで見送る。
アンダーパンツを下ろす。ペニスを持ち、紙コップをあてがう。頼む。水分よ、体から出てきてくれ。早くアパートのベッドに寝かせてくれ。
尿道に気配。来る。来る。チロチロと紙コップにしたたる。ぬる温かいものが溜まっていく。もっと。もっと。これだけじゃ、あの医者は許してくれない。
「ゴー、ゴー」とリュウジは応援する。下腹部に渾身《こんしん》の力。どんどん水源から放出している。
遂にコップ半分になった!
こうしてリュウジは試合後の苦行から解放された。医務室に入って四十五分、サッカーのハーフの時間に相当する体内排泄機構との戦いだった。
エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラは、市街地の南、エリオポリス地区という、様々な階層の人々がひしめき合う場所にそびえている。
周辺には警備の行き届いた高級マンションもあり、低所得者の安普請《やすぶしん》の家もあり、ネオコロニアル様式の邸宅も広い道路に軒を連ねている。地場産業のオフィスや大学の薬学部が人々を集め、近くを流れるグアダルキビール川沿いには煉瓦造りの工場街が広がっている。
ベティスのトップチームだけでなく、Bチームもユースもジュニアユースも使用する芝二面、土一面の練習場は目と鼻の先だ。セビージャは山の手、ベティスは労働者階級という色分けをよくされるが、ふたつのスタジアムは比較的安全な場所にある。
メインスタンドの通用門を出ると、右手にオフィシャルショップがあるが、もちろん深夜零時を過ぎればシャッターは閉じている。
試合開始は九時半で、試合後も医務室に隔離されたため、こんな時間に外に放り出されてしまった。
街灯の淡い灯が点在する広々とした土の駐車場。観戦したファンやスタジアム関係者の車はもう残っていない。
通り沿いのバス停に、オレンジ色の市バスが止まるのが見えた。三十四番のバスは二十分ほどでサンタクルス街近くの噴水公園まで連れていってくれる。ひょっとしたらあれが最終のバスかもしれないが、削られ、湿布の貼られた足を駆り立て、走る気力はない。
徒歩では一時間以上かかる。日曜の夜は空車のタクシーを見つけるのは至難の業であるが、悪運続きの一日で最後くらい、ささやかな幸運に巡り逢いたい。
スパイクと、スペイン語と英語のテキストの入ったバックパックを右肩に背負っている。フリース地のセーターにすり切れたジーンズ、靴はチーム・スポンサーのスポーツ用品会社から支給されたトレーニング・シューズ。道で行き交う人々は、これがさっきまでスタジアムのピッチで照明を浴びていたベティスの選手とは思わないだろう。
深夜徘徊──といっても、スペイン人にとって深夜零時など宵の口だが、友だちの家でテレビゲームでもして帰宅する高校生にしか見えないはずだ。事実、リュウジは週に二度、夜間の語学学校に通っている。スペイン語は生活と仕事のためだが、英語は未来に備えてのためだ。チームメイトや代理人に勧められたわけではなく、英語圏でのサッカーを視野の片隅に入れている。
バスは走り去った。『NO∞DO』という車体のマークが遠ざかる。それは役所の玄関や、市街のいたる所、マンホールの蓋にも記されているセビリア市の公式マークだ。
街の事情通、リュウジが食堂として使っているメソン(居酒屋)の親父パコによると、一二四八年、フェルナンドV世がセビリアをイスラム教徒から奪還した時、「NO ME HA DEJADO(セビリアの街は私を諦めずに待っていてくれた)」と、人々のキリスト教信仰心に涙したという。
言葉の最初の二文字と最後の二文字を抜粋した上で、残った文字から「MADEJA」──アンダルシアの言葉で「糸巻」を意味する──を「∞」のマークに置き換えた。これは「無限大」の意味ではなく、人々の心をキリスト教が堅い糸巻のようにつなぎ止めておいてくれた、という国王の言葉を表している。
リュウジは灰色のスタジアムを振り返る。一時間前までリュウジの戦場だった場所は、とっぷりと闇に包まれている。全体は三階層になっているが、向かって右手のスタンドだけが一階で、そのつなぎ目は鉄骨が剥き出しになり、コンクリートの残骸が地面に転がっている。増設工事は遅々として進まず、「格納式の屋根を持つヨーロッパ最新のスタジアム」と会長がぶち上げた改修計画は、最近、眉唾《まゆつば》に思える。
これもまたパコ受け売りの知識だが、スタジアムの歴史は悲運と共に始まった。オープンして二日後に内戦が始まり、フィールドは戦車やジープなどの軍事車両の駐車場と化し、逮捕された共和主義者の拷問場にもなった。街の中心部に位置するセビージャのホームスタジアムも軍の参謀本部に使われたというから、当時は戦争によってサッカーという娯楽が奪われた暗い時代だったようだ。
バスの時刻表を見ると、最終バスが三十分後に来るが、リュウジは徒歩を選ぶ。スタジアム周辺は危険が少ないとはいえ、深夜となると話は別だ。同じバス待ちの人間や近所の酔っ払いにベティスの選手だと知れたら、ちょっとした騒ぎになる。
このまま北へまっすぐ歩き、川が左手に見えてくればアパートは近い。通りの向こう側に渡り、右車線を振り返り、後ろから空車がやってこないかと期待する。
屋根のランプ、「1・2・3」という地域番号の横に緑の光がピカピカ灯っていれば空車なのだが、通る気配はない。
ベティスが勝ち点3を逃したゲームに怒り狂うサポーターに出会わないことを祈り、リュウジは黙々と歩を進める。
バルのテラスが広い歩道に張り出している。客は少ないが、太った赤ら顔の男二人、その体に緑と白のチームカラーを見た。やばい。リュウジは顔を道の方に向け、足早に通りすぎる。
「引き分け狙いとはな、ビクトルもヤキが回ったんとちゃうか」
どうしてもリュウジの頭の中では関西弁で翻訳されてしまうベティコの声。続く言葉はこうだろう。
「後半に投入されたチビのチノさえ機能しとったら、あんなブザマな試合にはならんかったと思うで」
彼らは相変わらずリュウジの苗字を「チノ」と言う。「中国人」と侮蔑の意味が漂う呼称だ。彼らが「チノ」ではなく「シノ」と呼び、スペイン人にとって発音しにくい「リュウジ」をゴール裏で唱えてくれた時こそ、リュウジはベティスの真の一員として迎えられる。レンタル移籍が完全移籍となる時期のバロメーターかもしれない。
タクシーは諦めた。
ゲームで削られた足におかしな痛みはないし、このまま歩いて帰ろう。アトランティコでのシーズンを終えてベティスにレンタルされるまでの半年間でも思い返せば、退屈な道のりも、積もりに積もった疲労も紛れるかもしれない。
国立競技場で行われたスペインU─17との親善試合。そこでの活躍が目に留まり、リュウジはアトランティコという、マドリードの衛星都市アランフェスをホームタウンとする、田舎クラブの下部組織にスカウトされた。
恋人に別れを告げ、海外へのサッカー留学に反対する母親とは殴り合いまでし、リュウジはスペインに一人で渡った。生き残るために仲間を蹴落とさなければならない状況も経験し、シーズンが終わる頃にはフベニールの最下層からBチームを経て、トップチームのベンチ入りを果たした。
口数はやたらと多いが、信頼できる代理人とも出会えた。彼の勧めでスペインに帰化することを真剣に考えた。
リュウジを「金の成る木」と見て、私設代理人になろうとした父親には、リュウジは歯を食いしばり、「しんどくても、寂しくても、俺、父さんを捨てるよ」と切れ切れの涙で告げた。その父親がスタンドで見守る最終戦ではバルセロナ相手に同点ゴールを決めた。神が宿ったようなシュートの感覚は、まだ右足の甲に残っている。
アトランティコはそのシーズンを十一位という、二部から上がったばかりのクラブとしては大健闘の成績で終えることができた。アトランティコの会長は意気上がり、最後まで守備的に試合を進めた監督に「次のシーズンは攻撃の面白さを前面に出してくれなければ、すぐ解任」と条件提示をした上で、新しいシーズンのチーム編成を始めた。
攻撃の切り札としての自分。リュウジの居場所は確保されたかに思えたが、甘かった。フランク・デ・ブールをかわしてゴールを決めて会長を歓喜させたからといって、アトランティコの外国人枠がひとつ確保できたわけではなかった。
アトランティコは積極的な補強を始めた。二部リーグで得点王争いを演じた三十過ぎのFWが加入すると聞いた時、リュウジは悪い予感がした。選手生活で最後の盛りを迎えるそのベテランFWを、来シーズンはスーパーサブとしてすり切れるまで使うに違いない。予感は的中し、監督はリュウジに「Bチームに下ろし、活躍ぶりを見てからトップに上げる」と告げた。それでは飼い殺しにされてしまう。代理人のペドロサも同意見だった。
ここからペドロサの携帯電話が活躍した。いくつものクラブにリュウジの資料を送りつけ、リアクションを待った。対バルサにおける同点ゴールは、様々なアングルからの映像でしつこいほどリプレイし、資料VTRに収めた。それがリュウジにとって最大のセールスポイントだった。
ワールドカップも終わり、欧州の移籍市場が閉じられるぎりぎりになって、ベティスからレンタル移籍の話が舞い込んだ。アトランティコからの「貸し出し」であろうが、昨シーズン六位で終え、UEFAカップ出場権も得たベティスが自分を必要としてくれるなら、リュウジに迷いはなかった。しかもベティスの新監督はビクトル・フェルナンデス。代理人のペドロサは、「彼の下でプレーできるなら、たとえベンチ入りできなくても自分の財産になる」とベティス入りを強く勧めた。
選手としては三部止まりで大成しなかったが、ビクトル・フェルナンデスは若い頃から監督業を学び、故郷のチーム・サラゴサでキャリアを積んで、セルタに移ってからはその攻撃的采配で常に上位に食い込んだ。四十一歳という若さながら、一部リーグの現役監督ではルイス・アラゴネス、イルレタに次ぐ経験を持つ。
ワールドカップにおける日本への注目も、リュウジの助けになったようだ。ベティスのロペーラ会長にはどうやら日本市場への色気がある。テレビ放映権の問題などで欧州のサッカー・バブルは萎《しぼ》んだと言われているが、「日本は金を生む国」という神話はまだかろうじて生きていた。
会長の本業は建設や不動産だが、セビリア人も驚くほどフラメンコが盛んな日本にダンサーを送り込み、公演を企画するといった観光事業にも手を出していた。日本人観光客も多いセビリアならば、志野リュウジは客寄せの商品になるかもしれないと踏んだようだが、安いレンタル料で借りてきた日本人選手が活躍したら「儲けもの」程度の動機だったに違いない。つまりリュウジがチームで活躍したら、日本人向け観光パンフレットにはフラメンコ・ダンサーとリュウジの写真が並んで印刷されるわけだ。
移籍が決まると、日本の母と久しぶりに電話で話した。
「ベティスっていう強いチームに貸し出されることになった」と告げると、「貸し出し」の意味がよく分からなかったようで、自分の息子が人身売買のルートに乗ったのではないかと母は不安になったみたいだ。リュウジの保有権はアトランティコが持っていて、ベティスには次の市場が開かれる一月までの約半年間、期限付きで移籍することを、リュウジは言葉を尽くして説明してやった。
リーガ一部選手の最低年俸で契約がまとまると、リュウジは慌ただしくアランフェスから旅立った。アトランティコのフベニールで一緒だった元チームメイトがお別れパーティを開いてくれると言ったが、ピッチの中ならいざ知らず、そういう場所で主役になるのは苦手で、ひっそりと街を去ることにした。
だが下宿屋の親父であるペペと孫娘アリシアは最後まで面倒を見なければ気が済まない様子で、リュウジの少ない荷物を車に乗せ、セビリアの街まで運んでくれた。
見渡す限りのオリーブ畑の間を突っ切るハイウェイ。アンダルシアの太陽がぎらぎらと降り注ぐ走路を、エアコンをフル稼働させてのドライブだった。内陸中心部のアランフェスの乾いた気候とは違って、南に行くにつれて蒸し暑くなる。セビリアまでの五時間、運転手のペペも、助手席のアリシアも、最初は陽気にラジオから流れるフラメンコのカンテに合わせ、大声で歌っていたが、リュウジとの別れが近づくにつれて無口になっていった。
リュウジにも寂しさはあったが、それ以上に夢が膨らんでいた。ベティスの攻撃的サッカーでこれから自分の力を試される高揚感だった。
代理人のペドロサはセビリアの中心部サンタクルス街に、日本円にして月十万のアパートを借りてくれた。狭い路地にあって、ペペの車も通れない場所だった。
二部屋とキッチン。リーガ一部選手の住処《すみか》としては質素である。最低年俸といっても月に百五十万円の給料だから、セビリア郊外に庭付きプール付きの家だって買えるのだが、リュウジは路地裏のアパートが自分にふさわしいと思った。
若い選手たちは共同で一軒家を持ったりするそうだが、共同生活は苦手だし、むしろ人込みの中で寝起きする方が落ち着く。
サンタクルス街はかつてユダヤ人の居住区だった。十五世紀末、ユダヤ人がスペインから追放されると、貴族など裕福な人々がその邸宅跡に移り住んだ。二十世紀初頭には、観光地として地区全体が整備され美しい旧市街に生まれ変わり、今ではセビリア観光の見どころのひとつとなっている。
ヒラルダの塔と呼ばれる荘厳なカテドラルが、街を見下ろしている。「正気の沙汰とは思えないほどの巨大なカテドラルを建てよう」という合言葉によって、百年を費やして建造された。
塔の最上階の三十五階までは、階段ではなく、馬も通れるようにスロープになっている。そこから街が一望に見渡せ、エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラも、エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンも見つけることができた。
高度制限のあるその街では四階建て以上の建物は少ない。サンタクルス街は細い迷路のような路地が縦横に走り、アンダルシア独特のクリーム色の縁取りがされた白い家並みが続く。
どの家も奥を覗けば美しいパティオがあって、アラブ様式の噴水から水がしたたっている。水の少ない土地で生きてきたアラブ人にとって、水が常に流れている庭の風景は最高の贅沢なのだ。壁には聖母像のセビリア焼の絵タイルが何気なく飾られている。イスラム文化とキリスト文化が混合した美しさであることを、リュウジは街を散策するうちに知った。
蔦《つた》の緑、ジャスミンの白みがかった緑で覆われた街は、ベティスのチームカラーで染まっているかに見えた。セビージャ・ファンは決してそうは見ないだろうが。
イスラム時代の王宮で、フェルナンドV世のレコンキスタ後、キリスト教王の宮殿となったアルカサルは、この地を訪れた日本の皇太子も泊まった場所らしい。
漆喰《しつくい》細工やアラベスク模様で覆う宮殿を見物し、観光客に混じって外に出る。AGUA(水)と名付けられた路地、VIDA(人生)という名の路地を抜けると、観光エリアから離れた界隈があり、リュウジのアパートが両隣の建物とひしめき合うようにして建っている。
そこから道具係の車に同乗させてもらって、ベティス練習場まで通う日々が始まった。
六月に日韓ワールドカップが行われた頃、リュウジはまだアランフェスにいた。
ベティスへの移籍話が持ち上がる前で、アトランティコが来シーズン、自分をどう扱うつもりなのか疑心暗鬼になっていた頃である。学校を卒業するための補習授業に苦しみ、練習グラウンドで自主トレに汗を流して、先行きの不安を噛み殺す毎日だった。
ワールドカップの試合は時差の関係で、こちらでは昼前後にテレビ放送される。
優等生のアリシアは学生の特別海外特派員に選ばれて韓国に旅立ち、スペイン代表に帯同して取材をしていた。孫娘がいなくて寂しそうなペペと共に、リュウジはバルに詰めかける騒々しい常連客に囲まれ、いくつかの試合を見た。
スペインはグループリーグを無傷の三連勝で勝ち上がった。決勝まで進めば、スペイン代表もアリシアも日本の土を踏む。アリシアから国際電話がかかってきて、「横浜に行ったら、リュウジの故郷を訪ねてみる」と言う。リュウジは横浜から埼玉県草加市までの交通手段と地図を書いて、アリシアの泊まっている韓国のホテルにファクスしてやった。
日本の試合は有料チャンネルでしか中継されないので、決勝トーナメントまでの四試合は、マドリードのペドロサの事務所まで足を伸ばし、見せてもらった。
リュウジがいつかサッカー雑誌の取材で予想した通り、日本代表はグループリーグを一位で抜けた。
決勝トーナメント、宮城スタジアムでの対トルコ戦。雨模様のどんよりしたピッチでの戦いだった。
「血が冷えていくようなこの感覚は何だろう」とリュウジは思わずにはいられなかった。序盤で得点を許し、1点差のまま時間だけが過ぎていく。髪の毛から雨の雫《しずく》をしたたらせた日本代表の選手たちは、気持ちがあっても体がついて行かないのか、一向に猛反撃しようとしない。後にマスコミに叩かれることになる監督采配うんぬんより、選手たちのその「冷え方」にリュウジは愕然とさせられた。
「とにかく今の辛い状況から解放されたい」と心で唱えているかのような、苦しげな顔が大写しになる。DFの中心選手は、その一年前、所属するJリーグのチームが下位に低迷した時、不甲斐ない攻撃陣に見切りをつけたかのように、最終ラインから前線へと怒りをあらわに駆け上がって行った男である。
監督のシステム重視が足かせになったのかもしれないが、怒りに満ちた彼のオーバーラップは結局、宮城のピッチでは見られなかった。
彼らの脆弱さを責めることより、その脆弱さが自分にも刷り込まれている気がした。
リュウジは一時、スペインに帰化して、後戻りのできない場所でスペインのサッカーを自分の肉体に刷り込みたいと思ったが、父親の「いつか日本がお前を必要とする時が来る」という言葉で、結論を先のばしにしている。
ワールドカップでの日本の幕引きを見て、リュウジの心は日本サッカーへの落胆と、日本サッカーを自分の手で変えてやりたいという欲望の間で、揺れた。
ゲームが進むにつれて冷えていく日本と対極にあるのが、韓国だった。オランダ人監督の開き直った采配がまずある。もし彼が日本代表の監督で「2バックになっても構わない」と宮城のピッチに指示を送っていたら、あのDFは何の躊躇《ちゆうちよ》もなく前線めがけて走り始めていただろう。
疲れを知らない韓国人選手は、彼らが破った欧州各国のメディアも驚嘆したように、ユニフォームの色そのままの、赤々としたエネルギーの塊だった。体力の秘密は、薬草メーカーが支給した一千万円分の高麗人参《こうらいにんじん》だという噂もある。オリンピックのルールを自国の利益になるよう変えてしまう列強国は、そのうち高麗人参もドーピングの対象にするかもしれない。
韓国がグループリーグでポルトガルを沈め、決勝トーナメントでイタリアを破った時、スペインのサッカー通たちは「イヤな予感」がしたという。今のイタリアなら我がスペインに勝機は充分だが、韓国相手では難しいかもしれない、と。
韓国の強さを認めたとしても、リュウジは決して「同じアジア人として彼らの躍進を喜ぶ」という心境にはなれなかった。
準々決勝で韓国がスペインを破った試合は、犯罪的ともいえる誤審の連続だった。自分にそんなジャッジが与えられたらと思うと、背筋が寒くなるほどだった。
チームメイトになるとはその頃夢にも思わなかったベティス所属のホアキン・サンチェスは、一人で気を吐き、右サイドを駆け上がって絶妙のクロスを上げたが、「アウト」と判定された。後に何度もしつこくリプレイされたスローモーション画面を見れば、ボールは明らかにアウトになっていない。ホアキンの後方にいた線審の位置からして、見誤る距離と角度ではなかった。
ボールが上がってすぐに笛が吹かれた。その直後にモリエンテスがヘディングでゴールをしたが、笛が聞こえた瞬間にキーパーは力を抜いた。インプレーであったらキーパーは止めていただろう、だから「打ち消された1点」と叫ぶのは冷静さを欠いていると、韓国擁護のマスコミは言う。要するにアジア人蔑視、ヨーロッパの国同士の戦いだったらこれほどの騒ぎにはならなかっただろう、と。
リュウジにとって、問題はそういうことではない。
ボールがアウトとなるのは、ボールの輪郭全部がラインを完全に割った時である。そのルールがあっさり破られたことに、リュウジはスペイン人以上に怒りを覚えたのだ。自分の夢であるワールドカップが、この程度のジャッジ、ひょっとしたら何かの力が加わっているのかもしれないジャッジによって支配されてしまうことに、吐き気を催すほどの嫌悪感を覚えた。
リュウジはアトランティコでの最後の給料をはたいてパソコンを買い、インターネットで日本のマスコミがこの試合をどう伝えたのか、つぶさに見てみた。
「汚されたアジアの記念日」というタイトルで、この誤審を糾弾したのはジーコのコラムぐらいだった。「韓国戦に限って不可解な判定が多い。これはもう偶然とは言えない。偶然と言っていいはずがない」とジーコは怒りをぶつけたが、ほとんどのジャーナリストは「誤審もサッカーのうち」と醒めた反応だった。マラドーナの「神の手」しかり、サッカーの歴史に誤審は付き物なのだから、今回の一連の出来事に対してヒステリックに反応するのはサッカーを知らない人間か、反韓感情に突き動かされた人間だ、と言う。
リュウジは到底賛同できなかった。
「誤審もサッカー文化のひとつ」というのは、スタンドの上から、テレビの向こうからサッカーを見ている人間の言いぐさではないのか。ピッチで実際に戦っている選手は、自分に襲いかかる誤審を「文化」として許すことなどできない。
サッカー人口の広い裾野から一歩一歩階段を上り、プロ選手となり、食事も制限し、肉体を絞り、やがて代表への道が開けた。過酷な地区予選をくぐり抜け、監督の気まぐれな采配にも耐え、やっと出場を果たしたワールドカップ。その国のサッカー人口の頂点である十一人に選ばれ、満員のサポーターに囲まれ、自国の国歌が鳴り響くピッチに立った。
それがたったひとつの、あるいは不可解にも連続するミス・ジャッジによって台無しにされるのだ。その殺意に似た怒りを、ジャーナリストと称する人間たちは理解できないのだろうか。
リュウジはまだ階段を上っているレベルにすぎないが、上りつめた場所で梯子《はしご》を落とされたホアキンの悔しさと怒りは、充分に理解することができた。
それもスペインにいるから、かもしれない。
誤審に対する怒りの声を身近に聞いたせいもあるが、何よりこの国では毎日誰かがサッカーについて熱く語る。
インターネットで見る限り、日本ではワールドカップが終わるとワールドカップを話題にしなくなった。スペインではワールドカップの話はしなくなっても、サッカーの話題は連日登場する。土曜にゲームがあると、日曜、月曜、火曜とそのゲームについて誰もが語る。水曜に次のゲームがあると、木曜、金曜とそのゲームの話題だけでバルや職場は盛り上がる。
日本人にはきっと娯楽がたくさんあるのだろう。スペインにいると、毎日サッカーについて考えたくなるし、考えたくなくても無理やり考えさせられる。
だから、ライン上から放たれたホアキンのクロスの弾道は、いつまでもリュウジの目に焼き付いているのだ。
いっそのこと、審判のランク付けを選手たちがすればいい。ゲーム後の選手たちに、今日のジャッジについて採点をさせるのだ。
そして中南米やアジアや中近東の審判たちが、ヨーロッパのサッカー一流国で笛を吹けるよう、技術交流をするべきだ。
「あれは誤審だった」と、後に審判本人が認めたのも情けなかったし、呆れたが、それを聞いたFIFAが審判技術の向上について何も手を打たないのだとしたら、それこそサッカー選手たちへの冒涜《ぼうとく》だと思う。
左手に見えるライトアップされたスペイン広場を通りすぎ、一時間かけてサンタクルス街にさしかかった時、携帯電話が鳴った。
液晶画面に発信者の名前を見る。そろそろ電話が来る頃と思っていた。通話ボタンを押すと、「落ち込んでるゥ?」と、韓国人独特の語尾が滑る日本語がいきなり聞こえてきた。しかも陽気に。
「気分爽快だよ」
「そりゃよかった」
朴鐘元。パク・ジョンウォン。リュウジと同じ頃、移籍市場が閉ざされるぎりぎりで、セビリアの街にやってきた韓国人選手だった。年はリュウジよりひとつ上。精神年齢はリュウジのひとつ下。
「いつもの店にいるんだけどさ、慰めてやるから来いよ」
国営放送でテレビ中継されたセルタ戦を見たのだ。ベティスのライバル、セビージャFCに所属するパクは、ビジャレアルとのアウェーゲームには帯同せず、チームメイトと共同で借りているドス・エルマナス地区の一軒家で、ピーパス(向日葵《ひまわり》の種)を齧《かじ》りながら、リュウジのパスミスに「しっかりしろよ、リュウジ」と吠えていたに違いない。
「慰めてほしいのは自分だろ。遠征メンバーに選ばれなかったから」
「実はそうなの。一緒にチャンジャ食おうよ、リュウジ」
からかうような猫撫で声。
「今日はいいよ。疲れてるし。腹減ってないし」
「愚痴を聞いてやるって。あれってモストボイへのパスだったの?」
交代した直後のプレーについて言っている。自陣に戻ってボールを受け、ホアキンにパスしようとしたら、敵のモストボイに渡ってしまった。今思い出しても冷や汗の出るパスミス。失点に結びつかなくてよかった。
「今度会ったらブン殴る」
こちらの気持ちにズケズケ入ってくるのはパクの性格だからしょうがないが、傷に塩を塗り込むのはやめてほしい。
「ケンチャナヨ、ハミョンテンダ」
気にするな、なせばなる。パクの口癖だった。
「リュウジ、韓国にはこういう諺《ことわざ》がある」
パクはやたらと諺好きで、よくひけらかす。
「大木も十回斧を振れば倒れる……意味はね」
諦めずに最後までやり抜け、とかそういう意味だろう。聞かずとも分かったので、「切るぞ」と言って邪険に切った。
カテドラルの前に来る。さすがにこの時間になると観光馬車が姿を消す石畳の広場から、路地に入る。人間二人が通りすぎると肩が触れ合うほど狭い小道だ。連なる建物の一階は何かの商店で、二階以上が住居という場合が多い。どの家も大なり小なり中庭のパティオを持ち、水音が涼しげだ。
アパート到着。スタジアムからの遠足が終わった。鉄柵の扉を鍵で開け、四十ワットの電球でかろうじて上が見通せる階段に入る。四階までエレベーターはなく、この急な階段を上るしかない。
二階のドアからテレビの音が洩れている。BBVA(ビルバオビスカヤ・アルヘンタリア銀行)に勤める銀行マンと観光船の案内係の同棲カップルが、日曜の深夜番組を仲良く見ているのだろうか。サッカー番組でないことを祈る。近所のバルで顔を合わせると、まず昨夜のプレーを批評される。どいつもこいつもミッチェルやヨハン・クライフのように手厳しい。
踊り場でひと休みをする。三階の部屋は静まり返っている。住人はオランダから来ている画家志望の青年で、絵皿の店で働いている。監督もスター選手もオランダ人のバルセロナを応援し、自国が出場を逃したワールドカップ中は屈折した日々だったようだ。
リュウジは重い足を持ち上げる。頑張れ。もう少しでベッドにありつける。
パクと会ったのは、シーズンが始まる直前の九月だった。
韓国人の十八歳の選手がセビージャFCに入ったことはペドロサから聞いていた。ベティスには光州《クアンジユ》競技場で涙を呑んだホアキンがいる。その当てつけではないのか、ダービーで韓国人と戦わせてホアキンのプレーを乱そうとする姑息な作戦ではないか、というのがベティコたちの一致した意見だった。しかし後のダービーにはパクは出場せず、リュウジと並んでメインスタンドで観戦だった。
リュウジはこの街に移り住むと、まず日本食レストランを探した。アランフェスにいた頃は、米の飯と味噌汁が懐かしくなると、ペドロサの事務所に寄ったついでにマドリードの寿司屋に入った。
日本人観光客が多いセビリアなら何軒かあるだろうと思って道具係に聞いてみると、どうやらまともな日本食を食わせるのは、セビリア市内には二軒しかない。
一軒は五ツ星レストランの敷地内にある高級店だった。まずそっちに入ってみたが、牛ロースの和風ステーキが十六ユーロ、日本円にして二千円弱という高さだった。内装も立派で、敷居が高かった。
もう一軒はサンタクルス街の東、歩くと二十分ほどかかるが、エスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンの近くの「KYOTO」という店だった。
京料理を出すわけではない。入口は浅草の雷門ふうで、暖簾《のれん》には富士山が描かれていた。どうやら経営者は日本の地理に疎《うと》いようだ。
案の定、女将もウェイトレスも中国人だった。
午後一時という時間のせいか店は閑散としていた。スペイン人の昼飯は早くて二時頃だ。よく言われることだが、日本人とスペイン人の時間感覚は二時間違う。サッカーの試合が始まる時間だって、Jリーグだと夜七時だが、スペインでは八時半とか九時半だ。
刺身定食を恐る恐る頼んでみた。まぐろの色だけはややくすんでいたが、白身やイカは新鮮で、漬け物も味噌汁も悪くなかった。米はパエリア用の、日本のコシヒカリと比べるとひと回り大きなサイズだが、炊き方で限りなく日本のご飯に近づけていた。
赤い提灯《ちようちん》がぶら下がる庶民的な内装。この店なら常連になってもいいと思って、ご飯のおかわりを注文した時だった。
もう一人の客が衝立《ついたて》の向こうにいることに気づいた。リュウジは店に入ってきた時から鋭い視線を浴びていたようだ。自分と同世代の東洋人。それがパクだった。
パクは大盛りのご飯だけを注文して、店に持参したらしい小さなプラスティック容器の漬け物をおかずに食べている。180センチを超える身長。アディダスの真っ赤なスポーツウェア。ジェルでとんがっている短い黒髪。細い目。張った頬骨。日焼けした肌。こめかみにバンソウコウ。接触プレーによる傷だろう。
こいつがひょっとしたら……と思った。
向こうも、「例の日本人選手か」と分かったらしい。藪《やぶ》の向こうからじっと探り見ているような表情が、次の瞬間、眉を下げ、人懐こく破顔した。
ご飯の茶碗とプラスティック容器を持って、こちらのテーブルに移動してくる。
「ハポン?」
日本人か?
「シー。コリアーノ?」
そうだよ。で、お前は韓国人か?
パクは「ははん」という顔になり、リュウジを指さして「チノ」と呼んだ。リュウジは「シノ」とすぐ訂正してやった。
「やっぱりそうか。日本人の志野リュウジだ、バルサ戦で同点ゴールを決めた志野リュウジ……だろ?」
日本語になった。かなり流暢《りゆうちよう》だったので面食らった。「俺、パク・ジョンウォン……知ってるよな?」
手を差し出されたので、握手した。パクは中国人の女将に、注文した日本茶はこっちに持ってきてくれるように言う。リュウジのテーブルに居座るつもりだ。
「俺も米の飯が食いたくなって、ここに通うようになったんだ。この街には韓国レストランは一軒もない。どうしてか分かる?」
「スペイン人が焼き打ちにした」
韓国にワールドカップで負けた腹いせで。
パクは「あはは」と笑う。冗談ではなく本気で答えたのだが。
「まさか。そこまで奴らは根に持つタイプじゃないよ。そもそもスペインに辛い料理ってあんまりないでしょ? 奴らには汗をかく食べ物は体に悪いって考えがあるんだよ。特にアンダルシアではね」
なるほど、と思った。
「うちのスタジアムの近くにこの店を見つけて、三日に一度は来てる……食べる?」
プラスティック容器には、赤いヌルヌルが詰まっていた。
「チャンジャ。タラの内臓の塩辛。故郷から送ってくるんだ。うまいよ。辛いの大丈夫? 大丈夫だよな、日本人ってやたらと韓国料理、好きだもんね。ほら遠慮しないで」
やけに勧めるので一口食べてみた。キムチの味の親戚だった。懐かしい辛さ。母親の和風スナック「よしこ」でもキムチが品書きに並んでいる。
「これだけでご飯が進むだろ? ヨーさん、すごくイイ人で、持ち込みのおかずを許してくれた」
ヨーさんとは、和服の着方がかなり変な中国人の女将のことだ。
パクは初対面から「故郷どこ? お父さんは何してる? 兄弟はいるの?」と質問攻めにする。それは韓国人によく見られるキャラクターらしく、「相手のことを早く知りたい。自分のことも早く知ってほしい」という気持ちの表れだと後で知った。
「さて、俺はどうして日本語がうまいんでしょう」
「さあ」
「当ててみなよ」
「親の仕事の関係で、日本に二年ほどいた」
エミリオがそうだった。シティオ・アトランティコの元チームメイトの彼も日本語が堪能で、リュウジがアランフェスに来たばかりの頃は、排他的なスペイン人たちとの間に入ってもらい、通訳をしてもらった。
「俺のパパ、朝鮮日報の政治記者でさ」
日本人の特派員がよく家に出入りしていた。彼らの中には単身赴任ではなく、家族でソウルにやってきた者もいて、パクには憧れのお姉さんがいた。ふたつ年上のナオコちゃん。だから日本語の覚えが早かったという。
パクには中学生の弟と、大学生の姉がいる。リュウジは家族写真を見せられた。
「美人だろ?」
確かに自慢に値する。
「目と鼻を直して、やっとこのレベルだけどね」
パクの姉は大学の合格祝いに、親から美容整形の費用を出してもらった。韓国の中流家庭では珍しいことではないらしい。韓国女性は気合を入れて美人になろうとする。いい結婚も、キャリアウーマンとしての成功も「美」にかかっているというのが、韓国女性の価値観だった。
パクは日本以上の受験地獄の国から、十四歳で旅立つことになった。バルセロナで行われた、十五歳以下の選手によるスポーツ・メーカー主催の大会でスカウトの目に留まり、エスパニョールの下部組織でプレーを始めた。サッカーを武器に世界に旅立ったパクは、一族の誇りである。
会って数分でそれだけのことを矢継ぎ早に教えられた。パクは無類の話し好きである。そして饒舌な言葉の合間で、「もっと食いなよ」とチャンジャを勧める。
パクは仲間と引っ越し荷物の整理をしなければならないらしく、大盛りご飯をチャンジャだけでかきこむと、慌ただしく支払いを済ませ、「またここで会おう」と出て行った。彼がいなくなると、嵐が通りすぎたような静けさだった。
二日後、天ぷらの味が恋しくなってまた「KYOTO」の暖簾をくぐったら、今度は蛍光色のスポーツウェアのパクがいた。誘われるまま、そのテーブルについた。
「ベティスのチームには慣れた?」
「ぼちぼち。そっちは?」
訊くまでのことはなかった。その人懐こい性格なら、人間関係に苦しむことはなさそうだ。パクは十四歳でスペインにやってきて以来、四年間で三つのフベニールのチームと二つのBチームを渡り歩いてきた男で、雑草のような逞しさがあった。
「ダービーが五節であるだろ。その話題になるとチームがピリピリしない?」
マスコミが煽っているのだ。開幕戦前から、地元紙ではダービーの特集が始まっていた。まだ今シーズンが開幕していなかったその頃から、リュウジもパクも、両チームがダービーに向かう緊張状態を少しずつ感じ始めていた。
日本人と韓国人が同じテーブルにいれば、ワールドカップの話題になるのは時間の問題だった。
「俺、六月はラーヨ・バジェカーノのBチームで練習をしてたんだけど、韓国がイタリアをやっつけた時なんて、『スペインのためによくやってくれた!』って会う人会う人に肩を叩かれて、マドリードの人間には喜ばれたもんさ」
スペイン人は、韓国を露払いのように思っていた。今回のワールドカップでスペイン人はやっと地域と地域の対立を胸にとじこめ、代表チームを応援することができた。マドリードの人間にとって天敵であるバルサのルイス・エンリケやプジョルにも声援を送った。アイルランドとの消耗戦に勝利した段階で、スペインを優勝候補と推す外国メディアも多かった。スペイン人は遂に愛国心に目覚めたのだ。
ところが無残にも夢破れた。準々決勝で韓国と審判にゴールを盗まれた。するとパクに対するスペイン人の態度はガラリと変わった。
「会う人会う人に『コリアーノ』って呼ばれて中指を立てられるわ、卵はぶつけられるわ」
その時期、スペインにいる韓国人は外出を自粛したという。日本人や中国人も大なり小なりとばっちりを受けた。同じアジア人だというだけで、蔑《さげす》みの目、敵意の目を向けられるのだ。
リュウジはアランフェスという小さなコミュニティで暮らしていたから、被害はほとんどなかった。むしろ、「アジア人のあの体力は人間業じゃない、日本人もそうなのか」と畏怖の目で見られ、それはそれでウザったかった。
リュウジはパクにどう思われようが、「俺は韓国の勝利を喜べない」と正直に告げた。早めに本心を明かしておいた方がいいと思ったのだ。
パクはそれを聞いて、フンと鼻を鳴らし、肩をすくめ、
「確かにジャッジにツキはあった。天の恵みだったよ。日本だってホームの笛で助けてもらったろ? ベルギー戦の審判が相手のPKを認めてくれなくてラッキーだったろ? ロシア戦の稲本のゴールはオフサイドじゃないのか?」
パクは日本の試合をよく見ている。
違う。リュウジは首を振った。程度問題だ。ホアキンのクロスを「アウト」と判定したのはひどすぎる。
「それはさ、トルコ相手につまらない試合しかできなかったヒガミだよ」
余裕の笑顔で言い返された。日韓サポーター同士の口喧嘩みたいな真似はしたくなかったが、リュウジはむかっ腹を抑えられなくなり、珍しく多弁になった。
「お前の国の人間はサッカーなんか大して好きじゃないんだよ。外国同士で戦っている時に『テーハンミングッ』の合唱はないだろ。要するにお前たちは自分の国さえ勝てばいいんだ」
「それのどこが悪い」
パクは開き直る。「ベッカムが好きってだけで、どいつもこいつもイングランドのユニフォームを着る連中よりマシだろ!」
リュウジは痛いところを突かれた気分だったが、
「日本人は祭りに飢えてるんだよ」
と苦し紛れに言い返した。
「韓国人は祭りに慣れてるんだよ」
だから外国同士が戦うゲームにすぐ熱狂したりはしない。血を熱くさせる時と場合を心得ているのだという。
ヨーさんがあちらで怖《お》じ気《け》づくほど激しい口論になって、「お前とはもう話せない」とパクは席を立った。ところがその夜には「今度俺んちで焼き肉しない?」とハイトーンの声で電話がかかってきた。極端から極端に変わるのも韓国人の基本的性格のようだ。
パクはセビージャの練習グラウンドの近く、市街地から離れた高級住宅地の一軒家を、チームメイト二人と借りていた。パクと同じ控えのMFで、三十を過ぎたウルグアイ人とガリシア人だった。
プール付きの庭でバーベキューをし、肉にコチュジャンをたっぷりと付け、まだ夏まっ盛りのアンダルシアの太陽の下、大皿のキムチも赤々と輝いた。
そうやってパクと会い、スペイン人は不健康だと言う辛い料理で汗を流し、飯粒を飛ばして口論すると、不思議と練習の疲れも取れる。
リュウジもパクもリーガ中堅チームの激しい練習には、慣れるまで時間がかかった。練習内容はアトランティコと大して差はないのだが、上位を目指すチームには練習中でも独特の緊張感がある。ミニゲームでのシュートも唸りを上げる。密度が濃く、初日の練習の後は吐いたほどだ。
「お前のそのファッションセンス、どうにかならないのかよ」
パクはいつもド派手な服装だ。家にいる時も、赤地に金のラメの入った上下揃いの服を平気で着たりする。
「太陽の下に出るなよ。反射して目がチカチカする」
パクは「そうお?」と言って笑う。
「どこで売ってんの、それ」
弟がソウルの明洞《ミヨンドン》という繁華街のファッションビルで買って、送ってくれるのだという。韓国には「服は翼なり」という言葉があるらしい。徹底した外見重視の国で、女性は老人も若い子も着飾って厚化粧をしなければ軽く見られる。男も常に威風堂々としていなければならない。
「疲れる国」
リュウジの正直な感想。口喧嘩のネタは尽きない。
「ふざけるのは顔だけにしろ、チノ野郎」
「それはこっちのセリフだ、キムチ野郎」
一緒に肉を頬張っているウルグアイ人とガリシア人は、この東洋人二人は何を言い合っているのかと不思議そうに見ている。
思えば日本にいた頃だって、友だちと大声で口喧嘩するなんて滅多になかった。感情を剥き出しにすると爽快な気分になることを、パクとの出会いで初めて知った。
パクはソウルの実家にいた頃、父親と日本人特派員との政治談義を日常的に聞かされた。
韓国は以前、本気で日本に怒っていたが、今は微妙に変わってきているという。それは両国記者の一致した意見だったらしいが、韓国は日本に向かって声高に抗議しているというより、国内向けに反日を叫んでいるフシがある。「過去をきちんと謝罪しろ」と韓国の常套文句を口にする時だけ、ライバル日本に対して優越感を抱くことができるのだ。
今じゃ韓国の若者たちの間では、反日より反米の方に人気がある。冬季オリンピック・ショートトラックの判定で火がつき、ワールドカップでの韓国対アメリカの試合は見事に盛り上がった。
反米は新しく、反日は古いが、それでも政治家は日本を攻撃のカードにする。
「つまりね」
パクはカルビが炎をあげるバーベキュー・セットの前で、大きな身振り手振りで説明する。
「日本は韓国にとんでもないことをした罪人だ、しかもそれについて自覚も反省もしていない。そんなダメ日本人には、俺たち韓国人がしっかりと歴史を教えてやり、人間として正しい道を示してやらなければならない……こう考えることで、韓国人はプライドを保てるわけさ」
「ヤな性格してるな、お前ら」
パクとの日韓関係では、日本のマスコミのように言葉を飾る必要はない。
「親父が日本人にこう言ったよ。俺も同感だったな。韓国は一度、日本と戦争をすればいいんだって」
これまで韓国は日本の支配に対して戦争らしい戦争をしてこなかった。したかったのにできなかった。本当は実力行使で自国の解放を勝ち取りたかったが、それが叶わなかったことが「恨《ハン》」となった。
「だからこの際、自衛隊と戦ってみたらいい。そこで勝つことができたら反日感情はやっとなくなるって」
「そういう気分がサッカーに持ち込まれるんだから、たまったもんじゃないよ」
サッカーは戦争の代償行為。日本と韓国に限らず、そうだ。
リュウジもパクも、ワールドカップの共催で日本と韓国の間の壁がなくなった、という報道には首をひねった。
「真っ赤な嘘だよ。姉貴や弟に聞いたって、韓国人のほとんどは日本の勝利に舌打ちしてたっていうもの」
それが普通の国民感情ではないだろうか。リュウジも「どうして日本と韓国は無理やり仲良くしなくちゃならないのか」と思ったものだ。
「最終的には『俺たちも日本人を応援した』っていう韓国人が多かったのは事実さ。でもそれは、さっきの優越感と同じ理屈だよ。日本が決勝トーナメントで早々と負けたから、そういう優しい気分になれたんだ。もしこれが逆で、韓国が決勝トーナメント一回戦でイタリアに0対3ぐらいで負けて、日本が三位決定戦まで進んでいたら……」
あー恐ろしい、とパクは身震いの真似。
「なあリュウジ、俺たちってまるでロミオとジュリエットだな。日本対韓国。ベティス対セビージャ。戦争の中で芽生えた友情みたい」
「キモチ悪いこと言うな。ロミオとジュリエットは男と女の話だろ」
「そうだった。言っとくけど、俺にはそういう趣味はないからね」
パクは真剣な顔で念を押す。儒教の国では同性愛は犯罪なのだ。
「俺、正直言っていい?」
とリュウジは断ってから、大きな溜め息をまじえて言う。
「お前たち、そろそろ日本人離れしろよ」
日本人への優越感と劣等感でがんじがらめにされている韓国人は、一瞬絶句した後、
「言えてるかも」
と呟いた。
ベッドに辿り着いた。
ルームランナーや筋トレの器械が置かれた奥の部屋にバックパックを放り投げ、リュウジは次々に衣類を剥ぎ取り、下着姿になってスプリングに倒れこんだ。
ハードな試合が続いたことで、明日の練習は休みとなった。監督に感謝。昼まで寝ていられる。スタジアムから自宅まで徒歩で一時間、また汗をかき、リュウジの肉体は涸れきった。
ベッドから起き上がり、冷蔵庫の中から瓶詰めのアグア・シン・ガスを取り出すと、ごくごくと飲み干し、今度こそ睡眠の態勢に入った。
全身が「眠りたい」と叫んでいるのに、脳裏にゲームの記憶がまとわりつく。パスミス。ミスキック。トラップミス……モストボイは俺を芝に沈めて、出場できなかった横浜のゲームの恨みを晴らしただろうか。
いや、あいつは俺のことなんて歯牙《しが》にもかけていない。「くそっ」と枕の中へ呻《うめ》く。
ベリーソとカセレスとセルヒオ。あの3バックをいつか見返してやる。来年四月、セルタ・ホームでの再戦では必ず……。
意識はそこで途切れ、リュウジは心地よい暗黒に急降下した。
3[#「3」はゴシック体]
地震だろうか。
明るい窓になかなか目の焦点が合わないまどろみの中で、リュウジは思った。頬にパラパラと何か落ちてくる。天井から漆喰のかけらだ。
スペインはほとんど地震のない国のはず。日本のように揺れていたら多くの建造物が崩れ落ちると言われるほど、スペインの建物は甘い造りになっている。郊外の家々なんか、屋根が波打っていても、住人は直そうとせず平気で暮らしている。
まどろみから、ゆるやかに覚醒へ。
漆喰の細かな粒が顔にパラパラと降ってくるのは、地震のせいではない。ベッドは揺れていない。アパートの屋上に小刻みな震動があって、天井に伝わってくるのだ。
工事だろうか。金槌を打ちつけるリズムに似ている。リュウジは半身を起こして耳を澄ます。
誰か屋上にいる。激しく動き回っている。一定のリズムで足踏みをしている。靴全体で撫でるような踏み方をしたり、踵《かかと》で強く踏みつけたりする。タップのような足拍子。
フラメンコだ。リュウジはアランフェスにいた頃、下宿屋のバルでさんざん聞かされた音楽を思い出した。アリシアからは餞別《せんべつ》として、「セビリアはフラメンコの本場だから、これでも聞いて勉強しなさい」と何枚かのCDを渡された。ベティスの練習と語学学校で忙しくて、まだ封を開けていない。
バイレ・フラメンコと呼ばれるフラメンコ舞踏に使う靴には、踵と爪先の部分に釘が打ちつけてある。爪先だけ、踵だけ、指の付け根、そして足の裏全体、サパテアードと呼ばれる足拍子には大きく四つの方法があるのだと、アリシアが言っていた。
誰かが俺のアパートの屋上でフラメンコを踊っている……?
リュウジはサイドテーブルの目覚まし時計を見る。十時だ。昨夜の疲れが体のあちこちに痼《しこ》っている。あと二時間は眠っていたかった。
ベッドを出て、窓を開け、身を乗り出し、足拍子の張本人を見ようと屋上を覗き込む。
まず視界に入ったのは、雲ひとつないアンダルシアの青空にかかる「橋」だった。狭い路地を隔てて建っているこちらのアパートと、向かい側の建物に、建築現場から拾ってきたような長い板が掛けられている。それを伝って、誰かが向かい側の建物からこっちの屋上に侵入したということだ。
音楽が聞こえる。激しくかき鳴らすギター、野太い男の声によるカンテ、そして乾いた音の手拍子。テープから流れるフラメンコ音楽に合わせて、何者かが踊りの練習をしているのは確かだ。
苦情を言うべきか。
リュウジは鉄格子の張出し窓に腰掛け、しばらく様子を見る。サンタクルス街には有名なフラメンコ学校もあって、この界隈にはダンサー志望の女やギタリスト志望の青年が、仲間と部屋をシェアして住んでいると聞く。午後、街を歩いていると、小さなギターケースを背負った子供たちが親に連れられ、習い事に行く風景によく出くわす。
セビリアでは偶数年の秋に大々的にフラメンコ・フェスティバルが行われる。リュウジは練習疲れで足を運ぶことはなかったが、市内のマエストランサ大劇場や、セビリア大学近くのロペ・デ・ベーガ劇場に並ぶフラメンコ・ファンの姿を何度も見かけた。フラメンコ発祥の地と言われるセビリアでは、フラメンコは年齢を超え、人々の生活に密着している。朝の十時から、青空の下、練習している人間がいたって不思議じゃない。
アリシアに訊かれたことがある。「日本には、スペインにおけるフラメンコのような芸術はある?」
演歌だろうか。ちょっと違う気がする。若者が続々と演歌のスクールに通っている、なんて話は聞いたことがない。フラメンコは次々に新しい様式を生みだしているが、それを学ぶ学生はまず基本を大切にし、クラシックなフラメンコを「ダサイ」などとは言わず、仲間と競い合って会得しようとする。
強いて言えば歌舞伎や狂言などの古典芸能に近いかもしれないが、日本でそれを学ぼうとする人間は、フラメンコ人口に比べると微々たるものだろう。
ただし、セビリアの人間がみんなフラメンコを愛しているというわけでもない。ジプシーから生まれた音楽がルーツという偏見もあるし、世界に誇るその芸術性は認めたとしても、「観光客相手のもの」と冷めた見方をする人々もいる。中流階級のセビージャ・ファンに特に多いらしい。
音楽がやんだ。
練習は終わったようだ。サンタクルス街は静寂に包まれる。観光客が詰めかける喧騒は遠くにあって、屋上から人間の激しい息づかいが降ってくる。汗を拭き、ボトルの水を飲み、橋を渡って帰ろうとする人間は、どうやら女性だ。
いつ姿を現すのかと見上げていると、板を踏む気配がして、黒い影が頭上の視界を素早く横切った。
黒いTシャツに大きな汗染みがあり、長い練習着のスカートをはいた女性だった。細い上半身に尖った胸の膨らみが、リュウジの目には眩しかった。肩まで伸びる髪は茶色がかって、アンダルシア人女性の典型とはやや異なっている。顔はよく見えない。あまりに橋を渡るのが早かったせいだ。五階の高さから落ちはしないかとハラハラしてしまった。女は小さなポータブルステレオをぶら下げて、うまくバランスを取り、隣の建物の屋上に消えた。すると、橋になった板がするすると奥へ引っ込む。
向かい側のアパートに住む人間だろう。彼女の気配はたちまちのうちに消えた。
リュウジはまだ窓辺に座り込んだままである。
「女、か」
こぼれる呟き。最後に女の肌に触れたのはいつだろう、などと朝っぱらから考えてしまい、下半身に強張るものを感じる。一年以上前、日本を発つ前だ。八木沢|千穂《ちほ》の自宅におけるそれが、今のところ最初で最後の体験になっている。
何と寂しい十七歳の私生活。
今度は眼下に動きがあった。向かい側の建物、リュウジのいる場所から二階下の窓が開いた。緑の鉄柵にいくつもぶら下がった鉢植えに、ゼラニウムの赤い花が咲き誇っている。スポーツタイプのブラジャーを身につけたさっきの女が、汗で濡れたTシャツをてっとり早く水で洗い、窓辺に干し始めたのだ。
リュウジはぽかんと口を半開きにして、見下ろしている。
シャツを干し終えると、女はその場で腕をひねり、簡単なストレッチをしながら十一月の太陽を見上げた。いっぱい汗を流して爽快な気分なのか、青空に目を細め、うっとりした表情を見せる。目鼻立ちは小作り。幼女がそのまま大人になったような顔つきだった。可愛らしいタイプの美人といえる。スペインの女性は老けて見えるから年齢は測りにくい。おそらくリュウジの年齢プラス・マイナス1、といったところだろう。
彼女が、路地裏のアパートから見上げる空は狭い。すぐに、自分を見下ろしている存在に気づく。
目が合った。タンクトップを短くしたようなブラジャーだが、下着は下着である。彼女は途端に怖い顔になって、リュウジを睨み付ける。勝気な性格がすぐに現れた。
リュウジは「いや、俺はただ、ここに座ってるだけで……」という狼狽の表情になる。弁解の間は与えてくれず、彼女はピシャリと窓を閉じて姿を消した。ぶざまにうろたえる前に「俺んちの屋上で踊るな」と言うべきだった。
それがマリア・アンドラーデとの出逢いだった。
五日後の夜、意外な場所で彼女と再会することになる。
一人の選手が引退を決め、ベティスから去る夜でもあった。
パブロ・ゲレーロはチーム最年長、三十六歳のDFである。アンダルシア出身。地元ヘレスのクラブでのキャリアが一番長く、ベティスが二部に落ちた時に補強され、体を張ったプレーで一部昇格の原動力になった選手だった。
荒々しいプレイスタイルのため怪我が多く、先月のレクレアティボ・ウエルバ戦で右膝の古傷を痛め、クラブから戦力外通告を受ける前に決心、選手生活にピリオドを打つことになった。引退後は、現在二部リーグでは上位にいるヘレスの下部組織で、子供相手のコーチを務めるらしい。引退した選手の定番コースである。
リュウジと並ぶと巨木のような大男で、禿げかかった頭をスキンヘッドに剃り上げ、とにかくどんな時でも陽気な男である。
リュウジが唯一心を許せるチームメイトだった。カンテラ出身の多いベティスの選手たちは結束力が強く、リュウジの人見知りの激しい性格もあって、なかなか溶け込めないまま三カ月がたったが、パブロは常にリュウジを気にかけてくれて、食事やディスコにも誘ってくれた。
奥さんはヘレスの小学校からの同級生らしい。リュウジが遊びに行くと、必ずパエリアを作ってくれた。米好きな日本人のために、日本食はできないが、せめて米料理を食べさせてあげようという心遣いが嬉しかった。
パブロは独身の二十代の頃、半年間だけ横浜フリューゲルスでプレーしたことがあって、片言の日本語を話せる。
三年前の天皇杯決勝、すでにクラブ消滅が決まっていた横浜フリューゲルスが清水エスパルス相手に勝利し、有終の美を飾ったゲームについてリュウジが話してやると、パブロは目を潤ませて聞いていた。日本では思うようなプレーができなかったようだが、今は横浜F・マリノスの所有になっている東戸塚の練習グラウンドには、サポーターたちとの楽しい思い出がたくさん詰まっているという。
アウェーでのウエルバ戦、パブロに悲劇が襲いかかった。
港町ウエルバはセビリアから車で四十分ほどの場所にあるので、選手たちは当日入りとなった。チームは三日後にUEFAカップ二回戦を控えていて、主力は温存したい。相手は最下位にいるウエルバということもあり、控え選手が多く起用されることになった。リュウジもベンチ入りをし、パブロは右サイドバックで先発だった。
ウエルバは十九世紀終わり、イギリスからの出稼ぎ炭鉱労働者によってサッカーが伝えられ、スペインのサッカー史が始まった土地として有名だが、特に巨大なモニュメントがあるわけでもない。観光名所も特になく、スタジアムからは煤煙を上げる工業地帯が見える。
ウエルバのレクリエーション・クラブ、という意味のレクレアティボ・ウエルバは、スペインのクラブで最も歴史と伝統があるわけだが、長い低迷時代からやっと抜け出した。昨シーズン、二部リーグでアトレティコ・マドリー、ラシン・サンタンデールに次ぐ成績で一部昇格を果たした。
しかし三十五歳の青年監督は、ほとんど補強のできないチーム財政事情の中、今シーズンも二部や二部Bの寄せ集めのような選手たちを率いるしかなく、予想通り、ベティスをホームに迎えるまで勝ち点はたったの1という惨状だった。
上位を狙うチームの間では、「たとえアウェーでも、ウエルバ相手に星を落とした者が優勝争いから脱落」という合言葉が囁かれるほどだった。
血気盛んなルーカス・アルカラス監督は、その言葉を小耳に挟んだのかもしれない。選手経験がなくても、チームのレベルは二部Bと言われたウエルバを一部に昇格させた手腕は世間で認められている。下院議員の息子で、大学では経営学を専攻し、スペイン・サッカー協会の監督学校で戦術教官を務めるというプライドもあっただろう、一軍半の先発メンバーをエスタディオ・ヌエボ・コロンビーノのピッチに立たせるベティスに、強烈な敵意を燃やしたかもしれない。
「奴らを生きて帰さないぞ」
ゲーム前のロッカールームで、さっぱり意気の上がらない選手に向かってそんなことを口走ったとしても不思議ではない。
ゲームが始まって五分もたたないうちに、ベンチからピッチぎりぎりまで飛び出してきて、激しいボディアクションで選手たちに指示を送るアルカラス監督の姿を見た時、リュウジは「今夜は何かが起こる」と予感した。
二万人収容の小さなスタジアムは、ベティスにとってはゲンのいい場所だった。サポーターの乱暴行為の処分によって、二試合のホームスタジアム使用禁止が言い渡され、第四節のバルサ相手のホームゲームはここで行われた。ベティスは目もさめるカウンターアタックで3点を挙げ、不安視された急造DFが上り調子のバルサ攻撃陣を完封するという最高のゲームを行ったスタジアムである。
パブロも、あの時バレラが驚異の四人抜きをしたように、積極的に右サイドを駆け上がった。
マッチアップした敵左サイドバックともつれ、倒れた拍子に右膝をスパイクされてしまった。痛みに七転八倒するパブロはラインの外に出され、駆けつけたトレーナーがこっちに×印を見せ、担架で運ばれることになった。
それがパブロの現役生活ラストゲームとなった。
「ヘレス・デ・ラ・フロンテーラっていうのが町の正式名なんだけど、これはつまり『開拓者たちのシェリー酒』って意味なんだよ」
酔ったパブロから毎度聞かされるお国自慢だった。聞き役は酒場の女たち。
シェリー酒で栄えた裕福な土地で、小さな町でありながら郊外に空港を抱え、王立馬術学校もあって、世界に誇る高貴な血統馬を育成しているという。そして有名なフラメンコ歌手を輩出した町ヘレス。
千鳥足のパブロに連れてこられたのは、ベティス通りと呼ばれる川沿いの通りから路地裏に入った「ティオ・ルイス」とネオンパイプが光る酒場だった。
店名はヘレス出身の最古のカンタオール(男性歌手)の名前から取ったらしく、それがパブロの郷愁をかきたて、ふらふらと迷い込んで以来、常連になったらしい。
チームは明日の夜、アトレティコ・マドリーとアウェーで戦うためにマドリードに前日入りをしている。パブロのお別れパーティの出席者はベンチ入りしていない選手とトレーナーを含め、十人ほどだった。市内のアンダルシア料理のレストランで腹ごしらえをしてからディスコに繰り出し、トリアナ地区のバルで三度目の乾杯をした時には四人になり、最後の店でリュウジが一人、パブロのやけ酒に付き合うことになった。
「この店に来たことは女房には内緒だからな」
中央にフラメンコ・ダンサーが踊る円状のフロアがあり、暗いボックス席で、男性客を女たちが囲み、強烈な香水を漂わせている。日本で言うところのキャバクラという類の店かもしれない。もちろんリュウジはキャバクラ通いなどしたことはないが、最低限の知識に周りのいかがわしい雰囲気を当てはめ、そう見当をつけた。
「気に入った女がいたら、あっちだ」
パブロが囁《ささや》く。紗幕《しやまく》の向こうに階段が見える。ミニスカートの女が男性客を連れて、狭い階段を上がるところだった。
キャバクラどころではない。二階で売春もしているようだ。とんでもない場所に連れてこられた、と思っても遅い。すでにパブロとリュウジのいるボックス席に女が三人|雪崩《なだ》れ込んできて、肌を密着させている。
パブロは引退を決めたからいいが、こんな場所にいることをクラブ関係者に知られたら、リュウジはペナルティを食らう。未成年の飲酒は大目に見てくれるお国柄だが、「うちの新人選手が売春婦のいる店で遊んでいた」とロペーラ会長の地獄耳に伝わると、相当面倒なことになる。何たって去年のシーズン、選手たちのハロウィン・パーティに監督を引き連れて奇襲攻撃をした会長だ。
パブロが「志野リュウジだ、知ってるだろ? これからのベティスを背負って立つチビのチノだ」と女たちに紹介した。持ち上げているのかクサしているのか分からない。
ベティスの選手と付き合うことができたら未来は約束される、そんな欲望と媚びの眼差しがリュウジを取り巻く。露骨なフェロモンで息苦しくなった喉にアグア・コン・ガスを注ぎ込んだ。酒はもうよそう。この店で酔ったら彼女らの思う壺、と警戒心が働く。
憂愁を帯びたギターの音色が聞こえたのは、その時だ。中央のフロアだけ明かりが落ち、すらりとした女の黒い影が奥から出てきて、そこを舞台にして踊り始める。どこかで聞いた足拍子だと思った。
照明がゆるやかに満ちてくると、口に薔薇をくわえるという分かりやすい恰好のダンサーが登場し、その顔にリュウジの視線が吸いよせられた。
あの女だ。俺のアパートの屋上に侵入して、天井から漆喰のかけらを落とした張本人。下着姿を俺に見られて怖い目になった女。
即興ふうの踊りはセビジャーナスと呼ばれるものだ。ジプシーに限らないアンダルシア一帯の祭りで、老若男女がこぞって踊る。アリシアの説明を聞いた時、日本の盆踊りに当たるものだろうと理解できた。
パブロの軽口が女たちを引きつけているため、リュウジは彼女の踊りを誰にも邪魔されず見つめることができた。
「ヘレスに来た時は、ティオペペの酒蔵に是非寄ってくれ。俺の姉貴が赤いハットとチョッキを身につけて、ティオペペのマスコットそっくりの恰好で、観光客相手に案内係をしてるんだ。リュウジ、お前もシェリー酒の味が分かるようになったら絶対遊びに来いよな!」
「ああ」と生返事。リュウジは女のセビジャーナスに見とれている。
ものの数分で踊りが終わると、彼女の顔にも、リュウジの隣にいる女たちと同様の媚笑《びしよう》が浮かび、客のいるボックス席に入っていく。胸元が大きく開いたドレス。肌が汗で光っていて、客が拭いてくれるのを待っている。女は男の膝に手を置く。男が何事か囁く。誘っている。
一瞬、ほんの一瞬、彼女に痛みの表情が浮かんだかに見えた。女はすぐに笑顔になって、男の手を引き、立ち上がる。
目指すは紗幕の向こうの階段。
リュウジが目で追う。その視線に磁力を感じたかのように、女がこちらをゆっくり振り返った。リュウジは目をそらさなかった。女の眉間に皺が寄った。どこかで見た若者、近所のアパートの窓で私の下着姿をいやらしい目で見ていた若者だと、すぐに思い出した表情。
女の方から目をそらした。目先に仕事が控えている。汗で濡れたフラメンコの衣裳を男の前で脱ぐ仕事だ。
二階に消えた。
体を売りながらフラメンコを修業している女なのか。あるいは、体を売るためにフラメンコを修業している女か。どちらにしても大差ないだろうが……。
その夜は酔いつぶれたパブロをタクシーに乗せ、川向こうの自宅まで送ってやった。
サンタクルス街のアパートに戻ってきた時は、夜が明けようとしていた。
リュウジは目が冴えて眠れない。窓を開け、鉄柵の張出し窓に座り、路地を見下ろす。昔ながらのガス灯に似せた街灯が連なり、淡いオレンジ色の光を落としている。靄《もや》も薄くたちこめている。
ゆるやかにカーブを描く小径の彼方から、ゆらゆらと左右に揺れる人影が現れた。店で踊り疲れ、男に媚態を見せることにも疲れ果てた姿だった。
女は自分のアパート前に来て、鍵を取りだそうとする時、ぱたっと動きが止まった。リュウジの視線には彼女を振り向かせてしまう力があるのかもしれない。ひょいとこちらを見上げた。
薄く靄のかかった外気を隔てて、二人は見合った。街灯の光は女の顔を充分に照らしてはいない。彼女が悲しげな表情をこちらに投げかけたと思ったのは、気のせいか。
「何をそんなに見てるのよ」
彼女は不快げに呟いたかもしれない。顔をそむけると、勢いよくドアを開け、建物の内部に消えた。
聞こえてくる力強い足音は、彼女が屋上で聞かせたサパテアードに似ていた。青白い闇に満ちた寒々とした路地裏を、微《かす》かに震わせている。
アパートとは目と鼻の先、アルカサル近くのサンタンデール街に、リュウジが行きつけの「トレ・デ・ラ・プラタ」──訳すと「銀の塔」というメソンがある。
レストランというほど高級ではなく、バルと呼ぶには広く、「アンダルシアの台所」と常連客に呼ばれる居酒屋だ。
白い壁とクリーム色の縁取りという、この地独特の門構えをくぐると、右手の壁には生ハムの塊やサラミがぶら下がり、左手には真鍮《しんちゆう》製の帆船模型が飾られ、マストにはミニサイズの日の丸が掲げられている。
元船乗りの主人パコが、リュウジが日本人だと分かると「ハセクラが乗ってきた船だ」と教えてくれた。支倉常長のことである。
一六一四年、伊達政宗の命を受けた支倉常長とその一行三十名のサムライが、長い航海の末にスペインにやってきた。彼らは交易と宣教師派遣の依頼を目的に、スペイン国王とローマ法王に会うつもりで、セビリア郊外のコリア・デル・リオという村に留まった。その間に日本ではキリシタン禁止令が発布されてしまい、一行のうち数名は帰国せずにコリアに住みつくようになり、その子孫がハポン姓を受け継ぐことになった。今でも村には日本人の末裔たちが多数いるという。
「日本人なら一度はコリアに行くべきだ。ハセクラの銅像が川沿いに立っている」
頭の両側だけに髪の毛を残し、豊かな口髭がスーパーマリオにそっくりなパコは、「休みが取れたら行ってこい」としきりに勧める。壁には当時の世界地図が飾ってあって、支倉の長い航海を指で辿って教えてくれた。船乗りにとって、それは世界の航海史における快挙だという。
リュウジは練習グラウンドで午前中、汗を流すと、昼飯には早いが、「トレ」にやってきた。
ベンチ入り十八人の選手はマドリードに遠征に行っているため、残り七人ほどで軽めの練習を行った。みんなパブロの送別会の翌日のため、二日酔いの顔つきだった。
リュウジがいつも座るのは、店内奥のパティオである。店は間口こそ狭いが、奥に行くにつれ広くなる。アラブ模様の床板と白い円柱の立つ中庭には、太陽が真上の空から斜めに差し込んでいて、そこだけポカポカした陽気になっている。フロアに背を向けてパティオに座っていれば、人目につかず落ち着いてタパスをつまむことができる。
今夜のアトレティコ戦を終えると、チームはUEFAカップ三回戦を戦う。主力選手には連戦続きの疲れが予想され、リーガ次節、アスレティック・ビルバオをホームに迎えての試合にはリュウジにも出場機会があるかもしれないと、今日の練習でトレーナーに言われた。試合後や練習後のマッサージをするトレーナーは選手の疲労を知っている。選手本人より熟知しているかもしれない。
この季節、街路樹のあちこちにオレンジの実がたわわになっている。「トレ」のパティオにも一本、日溜まりにオレンジの樹があって、一個むしってむしゃぶりつきたい衝動に駆られた。練習後はむしょうに酸味が欲しくなる。
バーテンのキケにまずオレンジジュースをダブルで注文し、出来上がったばかりのタパスを三種類ほど大皿に盛り合わせてほしいと頼む。
「どうだい、今夜の試合は」
もじゃもじゃ頭に蝶ネクタイ。熱烈なベティス・サポーターであるキケは、きっとサッカーくじでベティス勝利をシングルで賭けたに違いない。
「さあね。俺がいないから駄目じゃないの」
半分は冗談だが、どうして自分は遠征メンバーに入らなかったのかという不満がある。代表にも選ばれて酷使されているトップ下のカピは、最近ラストパスの精度が悪くなっている。カピが使えなくなると、戦力はガタッと落ちるというのが、マスコミもサポーターも知っているベティスのアキレス腱だ。
控えのトップ下にはフェルナンドという選手がいる。レアル・マドリーからバジャドリーにレンタルされ、昨シーズンはチーム得点王になった選手を今年から補強したのだが、監督やチームの信頼を得るまでには至っていない。
リュウジは「フェルナンドを使うくらいなら俺をピッチに立たせてほしい」と正直思う。
ジュースを一気飲みして、柑橘系への欲望を満たすと、リュウジはバックパックからポータブルCDを取り出し、イヤホンを耳にはめる。今朝、初めて封を解いたCDを入れてきた。アリシアから餞別としてもらったが、今まで聞く機会のなかったフラメンコである。
なぜ聞く気になったのか。
朝靄の彼方から、重い足を引きずって路地裏に帰ってきた女の姿が、目を閉じると甦る。俺に気づいた時、一瞬浮かべたもの悲しい表情は何だったのだろう……。
店でフラメンコを踊りながら、時には二階で客をとる。そんな薄汚れた仕事を見られたことへの、羞恥や自己嫌悪なのか……。
鼓膜から前頭葉を駆けめぐるようなカンテ。十年前に死んだ有名な男性歌手の、情熱的であり、寂しげでもある歌声。
目を閉じて聞いていたリュウジは、いきなり耳からイヤホンが外され、何が起こったのかと思った。タパスを運んできたキケが「ほら食い物だ」と知らせようとしたのか。
違った。目の前に女が座っていた。
あの女だ。
リュウジは驚いた。カンテの歌声に、酒場のフロアで踊る女のセビジャーナスを思い出していた時、本人が五十センチ前に現れたのだ。
「話があるの」
微妙に怒気を含んだ声。茶色の髪をポニーテールにまとめ、真っ赤なスウェットに黒いスパッツ。これからグアダルキビール川の遊歩道をジョギングするような装いだった。
「チノ? スペイン語は話せる?」
「話せるよ、この通り」
リュウジは喉に栓をしている驚きの塊《かたまり》を飲み込む。「ただし、俺は中国人じゃない。日本人だ」
「あっそ」
彼女にとっては中国人であろうが日本人であろうがどうでもいい。注文を取りにきたキケにアグア・シン・ガスを頼む。このテーブルでじっくり話があるようだ。
天から降る陽光が、女の髪を輝かせ、この距離で面と向かうと眩しい。
「話って……」
リュウジはまだ面食らっている。
「今から言う」
女は言葉を選んでいる様子。
「俺がここにいるって、どうして」
「さっき広場で見かけたの」
尾行されたらしい。女のスペイン語には外国人の訛《なま》りがある。スペイン人ではないのかもしれない。
「昨夜は偶然?」
店にいたのは偶然なのか、と訊いている。「そうだ」とリュウジが答えると、女の眼差しがテーブルに落ち、気弱な表情を垣間見せた。
「……お願いがある」
人にものを頼む口調にしては愛想のかけらもなく、「私のお願いを聞いてくれなきゃ承知しないから」と言われた気がする。
キケが女の飲み物とタパスを持ってきた。リュウジを見て、「カノジョなら紹介しろよ」というニヤニヤした顔。違うよ、カノジョなんかじゃないよ、見て分からないか? リュウジは目顔で追い返す。
「あの店で働いていることを、誰にも言わないでほしいの」
「俺が誰に言うっていうの」
「アパートの大家」
見かけたことがある。建物の二階に住んでいて、いつも太った黒猫を櫛《くし》で毛繕《けづくろ》いしているおばさんだ。日溜まりで寝そべっている猫をリュウジが撫でたら、怖い目で睨まれたことがある。東洋人が猫に触れると何かよからぬことが起きる、という迷信でも抱えているような顔つきだった。苦手なタイプである。
「俺がどうして、あの黒猫おばさんにチクらなきゃいけないんだよ」
「分からないけど……」
よほど、あの店で働いていることを人に知られたくないのだろう。
「今のアパートはフラメンコ学校の紹介で入ることができたの。大家は学校の出身者で……」
あのおばさんも薔薇を口にくわえて踊っていたのだろうか。
「うちの学校、規律には厳しいの。そういう場所でアルバイトをしてたって知れたら、追い出される」
「そんなことわざわざ言いつけるほど、俺、暇じゃないよ」
「そう?」
まだ疑われている。「暇じゃないって……サッカーで?」
店の常連客であるパブロの線から、リュウジの素性は耳に入っているに違いない。
「あの店に行ったのだって、パブロの送別会があったから」
「あなたみたいな若い子が来る店じゃない」
説教みたいな言い方。俺より年上なのかもしれない。
「長いの、あの店」
リュウジはつい詮索。
「まだ二カ月」
二カ月で何人の男と寝たのか、探ろうとする自分がいた。売春婦特有のすさんだものは見当たらない。翳りはあっても、フラメンコをやっているせいだろうか、健康的な躍動感を発散する女だった。
「週に三日あそこで踊れば、学校に通える」
女は弁解じみた口調になった。水商売で授業料を稼ぐしかないようだ。
リュウジは俵型のコロッケを口に放り込む。「よかったら」と女にも勧めた。油っこい料理は控えているのか、羊のチーズだけを女はつまんだ。
沈黙になる。女の用件は終わったのだ。水を飲み干したら席を立つつもりだ。リュウジは話題を探した。
「フラメンコ、学校で習ってんだ」
分かりきっていることを訊く。
「そう、バイレを」
「学校って、近所の?」
二人のアパートがある路地から二本向こうの路地に、小さいながら有名な学校がある。
「ううん。橋を渡ったトリアナ地区」
ジプシーも多く住んでいる、フラメンコが盛んな地域だ。徒歩で通える距離である。傍らのバッグから練習着が覗いている。
「俺のアパートの屋上で踊ってたろ」
「うるさかった?」
「響くんだ、結構」
「うちのアパート、屋上にスペースがなくて」
だから橋を掛けてやってきて、練習場所として無断借用した。
「何聞いてるの?」
女がポータブルCDに目を留めた。リュウジは蓋を開け、CDの盤面を見せてやる。
「カマロン!」
女の声が裏返る。好きなアーティストらしい。
「フラメンコが好きなの?」
だからフラメンコが売り物の店に来たのか、と訊いている。そういうわけではないので、リュウジは首をかしげる。
「友だちにもらったんだ。ちょっと聞いてみたくなって」
君の姿が目に焼き付いたせいで聞いてみたくなった、とまでは言えない。
「カディスのサン・フェルナンドで生まれた歌手よ。十八歳の時にパコ・デ・ルシアの伴奏でアルバムを録音したの。四十二歳の若さで肺癌にかかって死んじゃった」
「結構、俺、気にいったよ」
女の表情が柔らかくなる。もう少しで微笑になる。
「死んでも歌声が生き続けるなんて、羨ましいよ」とリュウジは言う。
どうして羨ましいの? と女が訊きたそうな顔をする。
「俺の仕事はいつも一度っきりだし」
プレーは全て映像に記録されるわけではない。他人が目にする輝きはその一瞬だけだ。
「でも、一度きりだから、人の心に強く残る」
女は真理のように言う。なるほど、と思う。リュウジはもっと女と話したくなった。
「名前は?」
だから訊いた。
「マリア」
聖母の名だ。
「スペイン人じゃないんだろ?」
「隣。ポルトガル」
セビリアからだと、マドリードに行くより近い。
「ポルトガルのどこ」
「サンタクルスって町、知ってる?」
自分たちが住んでいる街と同じ名前だ。リュウジは首を振る。
「リスボンから北に三十キロほど行った、海辺の小さなリゾート地。白壁の家が並んでるだけの、何もない町」
溜め息をまじえて言う。退屈な町からフラメンコ・ダンサーの夢を抱いてセビリアに旅立った、ということか。
「故郷と同じ名前の町を見つけたから、つい住んじゃった」
同じ名前の町に住めば、ホームシックも癒されるのかもしれない。
「そういえば、私が生まれる前、町に日本人の小説家が暮らしてたって話を聞いたことがある」
「何て人?」
「カズオ・ダン」
リュウジは知らない。
「カズオ・ダン通りって名付けられた道があるし、昔その人が住んでた家がまだ残ってる。海岸にはその人の文学碑があるぐらい」
ダン・カズオというのはきっと有名な作家なのだろう。今度ミサキに訊いてみよう。
「で、あなたは有名なサッカー選手なの?」
俺への興味が多少あるようだ。
「ホアキンほど有名じゃない」
「誰それ」
サッカーには疎い。
「フィーゴやルイ・コスタは知ってるだろ?」
「知らない」
「ゴールデン・エイジのポルトガル代表」
マリアは「ああ、何となく聞いたことある」という顔になる。韓国戦で退場者二人を出して予選で沈んだポルトガルの屈辱など、彼女には無縁だ。
「来週のゲーム、見たかったらチケットやろうか」
ちょうど次節のゲームのチケットを、クラブから三枚ほど配布されたばかりだった。
「あなたが出るの?」
「かもしれない」
見てみようかな、という顔になる。日曜の夜ならフラメンコ学校の授業が終わって、ちょうど暇になるという。店も休みのようだ。
リュウジは「じゃ、誰か友だちと」と二枚プレゼントした。
「フランスから来てる子がサッカー好きだから、誘ってみる」
気がついたら、和やかな雰囲気が出来上がっていた。数分前、険しい顔でイヤホンを外された時から比べると、上々の変化だ。
いや、それが女の罠かもしれない。売春クラブの女と親密になったら未来を棒に振るぞ、と警告の声が遠くから聞こえている。
「シノ……何ていうの」
「リュウジ」
「リュウジ」と女は器用に発音した。ポルトガル人には難しくない名前のようだ。
マリアは自分の飲み物の代金を置き、「じゃ学校があるから」と立ち上がる。
「頼みがあるんだ」
パティオの日溜まりから消えようとしていたマリアが、茶色の髪をなびかせて振り返った。
「月曜の朝、ウチの屋上で踊るなら、できれば十一時過ぎにしてくれないかな」
日曜の試合がハードに終わった時は、翌日、監督は休養日にしてくれて、昼まで寝ていられる。十時に起こされるのはちょっと辛い。
「分かった。そうする」
リュウジが見たかったものが、その顔に浮かんだ。マリアの微笑はオレンジの実に照り返ったかのように、パティオをいっそう明るくさせた。
アルカサル見物を終えた観光客数名が騒々しく入ってくる。マリアはドイツ語が飛び交う年配者の間を器用にすり抜け、石畳の街路に消えた。
4[#「4」はゴシック体]
ホームゲームの前日は、スタジアムでの練習を終えると、先発とベンチ入りの選手十八人はホテルに入って、クラブの管理下に置かれる。
リュウジは土曜の夕方、一泊分の荷物を持って道具係の車でスタジアムに入った。選手たちは駐車場に車を置き、練習後は選手バスで移動する。翌日の試合が終わって解散になると、家族や恋人と共に、駐車場に停めておいた車でスタジアムを去る。
非公開の前日練習では、レギュラー組のDFを相手にレギュラー組の攻撃陣が攻める形で、戦術確認が行われた。中盤の底からサイドに長いボールを入れて、それをダイレクトに中央に返してシュートに結びつける展開を繰り返す。三節のレアル・ソシエダ戦における2点目のイメージだ。マルコス・アスンソンによるハーフウェイラインからのロングパス、右サイドの奥でホアキンがダイレクトに折り返し、走り込んでいたカピがダイレクトでシュートした。ゲームは引き分けに終わったが、監督がよほど気に入った得点シーンだったようだ。
リュウジもベンチ入りのサブ組として参加し、トップ下と右サイドを両方やらされた。出場機会があれば、カピかホアキンの交代としてピッチに入ることになる。
一時間の濃密な練習を終え、選手たちはホテルに入る。特にミーティングはなく、夕食が終わると暇になる。ゲーム前夜のアルコールは厳禁だが、冷蔵庫にはビール二缶とワインのハーフボトルが入っている。寝酒程度ならば許すというクラブの方針で、選手たちは誰かの部屋に集まり、ちびちびとビールを楽しみ、馬鹿話に花を咲かせる。宴会部長はベンハミンだ。去年のハロウィン事件でロペーラ会長から最もお目玉を食らった男。
今夜はホアキンの部屋に多くの選手が集まっている。女の話で盛り上がっているのだろう。ジェニファー・ロペスというラテン系の女優にゾッコンのホアキンは、そろそろ彼女の電話番号を手に入れたのかもしれない。
リュウジはグッジョンソンと同室だった。昨シーズン、オランダのクラブから緊急補強されたアイスランド代表のMFである。初々しかった頃のレオナルド・ディカプリオに似ている。リュウジとは背丈も年齢も近く、他の選手たちは二人の部屋を「子供部屋」とからかう。
フリーキックの練習では、マルコス・アスンソンと並んでグッジョンソンが蹴るが、精度には歴然たる差がある。「お前がフリーキックを蹴る時はベティスが二部落ちの時だな」という冗談を、冗談と受け止めることができず落ち込むタイプの青年で、リュウジより繊細な神経をしている。
グッジョンソンは早々と寝てしまった。リュウジも英語のテキストを五ページほど読んで、ベッドランプを消した。
隣のブラジル人二人の部屋はまだ盛り上がっている。マルコス・アスンソンもデニウソンも隣室の迷惑なんかお構いなし。サンバが鳴る前に眠ってしまおうと思った。
翌日、ホテル内のジムで軽く汗を流し、丹念にマッサージをしてもらい、夜のゲームに備える。シエスタもたっぷりとる。前夜、少ない酒で遅くまで騒いでいた連中は熟睡だ。
選手バスは一時間半前にスタジアムに入る。夕食は決まってパスタ。すぐにエネルギーに変わる炭水化物だ。
スペインで食べるパスタほどまずいものはない、とよく言われる。料理人はパスタ料理でしてはいけないことを全部する。少ない湯で茹で上げ、しかも水で洗う。すると、まったく腰のない、ふやけた出来上がりになる。
が、このホテルにはイタリア人のシェフがいる。セビリアで唯一、まともなパスタ料理を食わせてくれる場所かもしれない。
緑色のバスでホテルを出発する。ホテルの前から沿道にかけて、チームカラーをまとったサポーターが腕を振り上げ、リュウジたちを追いかける。
今日の相手アスレティック・ビルバオは、バスク人の選手だけで構成される「純血主義」のクラブとして名高い。
クラブ名の「アスレティック」はスペイン語表記だと「アトレティコ」となるはずだが、体制への反逆心から英語読みにしているほどだ。実は「バスク人のみで戦う」というチーム精神は、「バスクでサッカーをやったことのある選手ならOK」という、甘めの基準になりつつある。監督も「鉄仮面」の愛称を持つドイツ人のハインケスだ。
今シーズンの台風の目として期待されたビルバオも、十一節を終えてビリから四番目で、連敗が続けば監督更迭もあり得ると、昨夜のサッカー番組が予想していた。何とかレアル・マドリーに食らいつき二位につけているベティスはビルバオから確実に勝ち点3を取りたいところだが、尻に火がついているビルバオは必死に挑みかかってくるだろう。またしてもベティスのスター選手たちを消耗させるハードなゲームが待ち構えている。
だから俺を出せ。リュウジはそう念じる。
ベティコたちの熱い声援に囲まれて、バスがメインスタンド前の通用門に停まると、選手たちは足早に駆け込む。リュウジはホテルを出る時からポータブルCDをイヤホンで聞いている。マリアも好きだというカマロンの歌声で精神を集中だ。
ロッカールームに荷物を置いて、西日の眩しいピッチに出て、芝の状態を見る。開門して間もないので、スタンドの客はまばらだ。グラウンド管理の人間たちが、スプリンクラーで水をふんだんに撒いていた。
スペインでは日本で考えられないくらいにピッチを濡らす。狭い中盤のスペースを早いパスで切り裂くスペインのサッカーは、この濡れた芝なしでは考えられない。水を撒くことをやめたら、スペインのサッカーの面白さは半減するだろうとさえ言われる。
一旦ロッカールームに戻り、アップ用のジャージを着て、キックオフ四十分前、ピッチに立つ。すでに過激なサポーターで埋まっているゴール裏から盛大な声があがった。
審判の三人もハーフウェイラインを往復し、アップに努める。今夜の主審のモラノさんはバルセロナ在住で、バスクにもアンダルシアにも借りはなさそうだ。権力の味を知っている顔。ゲームで目立ちたがるタイプで、よく笛を吹き、カードを掲げることも多い審判である。本業は公務員らしい。国際試合の経験はない。
アップで汗だくになる頃、リュウジはスタンドを見上げる。マリアの席はメインスタンドの上方、記者席に近い。彼女はフラメンコ学校を終えて、フランス人の友人と来てくれるだろうか。
フィジカルコーチからアップの終了が告げられる。ロッカールームに下がり、ユニフォームに着替える。ビクトル・フェルナンデスがダンヒルの背広姿で入ってきて、
「頭のでかいFWは要注意だ、交代でケアしろ」
まずセンターバック二人に指示をした。デカ頭の敵FWとはウルサイスのこと。代表経験も多いベテランで、空中戦に絶対的な強さを見せる典型的なストライカーだ。
「センターバック二人は相変わらず不安定だ。綻《ほころ》びは必ず見つかる」
だから粘り強くプレッシャーをかけろ、と攻撃陣への指示。
キャプテンマークをつけたキーパーのプラッツが、「最後まで集中を切らすな」と気合を入れ、選手たちが手を一回鳴らす。通路に出ると、スタンドから地鳴りのようなブーイングが聞こえた。ビルバオの選手たちがピッチに出たようだ。
先発選手たちより早く、リュウジたち控えの七人はフィールドに出て、ベンチにもぐりこむ。スタンドは七分の入りだった。
ベティスのイレブンが登場し、四方八方から重圧のような大歓声となる。最初の発煙筒がゴール裏で煙を噴いた。
コイントスでビルバオがボールを取る。
ベティスは前半、右にエンドを取る。その先には、改修工事がストップしたままで一階だけになっているスタンドがある。後半勝負では、三階までぎっしりサポーターで埋まった左のスタンドに向かって攻めることになり、俄然モチベーションは高まる。
最初の五分で、主力選手の尋常ではない疲労度をリュウジは感じた。
三日前に引き分けに持ち込んだUEFAカップ戦の疲れは、特にベティスの生命線と言える両サイドの選手──ホアキンとデニウソンにのしかかっている。明らかに体にキレがない。下半身が重そうだ。
ホアキンを最初に防御する敵左サイドバックは三十一歳のララサーバル、これを置き去りにしたとしても、最終防御線にいるセンターバックは二十九歳のアイトール・カランカ。
彼はレアル・マドリーでイエロと共に最終ラインを守った男である。ロベルト・カルロスがオーバーラップした時、開いたスペースをうまくカバーリングする、地味だが堅実なプレイヤーだった。今シーズン、ビルバオが獲得した強力な助っ人である。
監督が「不安定」と評したセンターバック二人は、序盤では綻びを見せない。カランカと共にゴール前を死守するのはラクルスという若手のセンターバック。シドニー・オリンピックのスペイン準優勝メンバーだが、カランカとのコンビネーションにいつか必ず穴が開くと、監督は見ている。
ホアキンは対面するカランカに勝負を仕掛けるが、抜き去ることはできず、いつもの彼らしくない脆《もろ》さで倒れ、レフェリーにファウルを要求する。モラノ主審は「立て立て」とアクション。
リュウジは本能的に感じた。今夜、交代があるとすると、ホアキンのポジションだ。
一方の左サイド、デニウソンはトリッキーなドリブルでゴール前に迫ろうとする。カピが中央でマークを外し、アルフォンソが前線で相手の逆をつき、デニウソンからラストパスをもらおうとしている。デニウソンの悪い時の癖が出る。個人技でかわして、かわして、シュートを打つ。それは枠を大きく外す。
デニウソンにはボールしか見えていない。視野が狭くなり、最終的にシュートを選択してしまう。調子の悪い時のドリブラーは必ずそうなる。上を向いて、相手にボールをさらすことができなくなり、細かいステップから大きな動きで相手を欺くことができなくなる。疲れていると、体中に神経が行き届かなくなり、細かいステップが億劫になってしまうのだ。
リュウジはベンチで猫背になって戦況を見つめているが、自分がピッチに立った時のプレーを頭の中でイメージしている。マルコス・アスンソンからカピにクサビが入る。前線に攻撃の起点を作るため、縦にボールを入れる。
その瞬間、右サイドにいるリュウジはDFの裏に飛び出す。リュウジの動きを視界に捉えているカピは、ボールをもらおうとするリュウジをすぐに感じ、クサビのボールをトラップなしに左足アウトサイドで出す。すでにララサーバルを置き去りにしているリュウジは、カランカとの一対一の勝負になる……。
手本はデポルティーボ・ラ・コルーニャの、バレロンとマカーイのコンビネーションだ。代表に選ばれてワールドカップでも活躍したバレロンというトップ下の選手は、速くはないし、どちらかというとボールさばきは不器用だが、パスコース選択の早さ、三手先、五手先を読む眼力が抜群だ。テクニックもなく、足の遅い選手は、彼のプレーを見ると「頭がよければ一流選手になれる」と勇気づけられる。
カピにバレロンの半分ほどの能力さえあれば、自分を生かしてもらえるだろう。もし自分が右サイドではなくトップ下に入ったら、バレロンのようにアタッカーを操縦してやりたいと思う。
今日のクサビは、今のところどれも不発に終わる。クサビが何本入ったかで、その日のチームの善し悪しが判断できる。
クサビを受けた選手は、後ろから来る選手がなるべく前向きでボールを受けられるようにつなげる。もちろん簡単にはいかない。敵のボランチとセンターバックはクサビが入らないようにし、インターセプトを狙っている。ここでサッカーの駆け引きが始まる。守る側にインターセプトさせないために、攻める側がその裏を取ろうという動きを見せる。守る側が裏を取られまいと自分の背後を意識し始めると、インターセプトは途端に難しくなる。
両チームにさしたる駆け引きも決定機もないまま、さほど激しくはない中盤でのボールの取り合いが続く。ゲームは時間ばかりを浪費する。
ビルバオの攻撃も単調だった。頭のでかいウルサイスをターゲットに、こぼれ球を展開するパターンだが、トップ下のティコからサイドへのボール供給は一歩遅れる。ターゲットへのボールが長いため、ベティス守備陣もマークしやすいのだ。
かつてスペインを代表する右サイドのアタッカーと言われたエチェベリアは、こちらのルイス・フェルナンデスの網にすぐ引っかかってしまう。苦し紛れにクロスを上げたとしても、ウルサイス一人なので、こちらのセンターバックは対応しやすい。
マルコス・アスンソンがボールを持つ。背後をもう一人のボランチのアルスが、前方のスペースをカピが自由に動く。
監督は日頃から「円の攻撃」を選手たちに徹底させようとする。それは現代サッカーにおける最新のコンセプトだと監督は言う。
フィールドプレイヤー十人のうち、七人が輪になり、その中に三人のMFが自由自在にポジショニングを取る。外円の七人は左サイドの選手が上がれば、時計回りにポジション変更をしていく。この攻撃が実を結び、どんどん左サイドの選手が攻めにかかると、右サイドのアタッカーは中盤の底へ下がる形になるが、左右のバランスは常に保たれる。
ベティスにはまだ、デニウソンが左を突破すれば、右のホアキンがアタッカーとして中央に切れ込んでくるという攻撃の約束事があって、この円のコンセプトは見えにくい部分もある。
レアル・マドリーにおけるラウールなどは、彼がどこまで「円」を意識しているか分からないが、注意深く見ていると、ディフェンスに下がる動きに、本能的に前後左右のバランスを取ろうとする意図が窺える。
このコンセプトは、ラインをどうするかではなく、スペースをどう埋めるか、選手間の距離をどう一定に保つか、の考えに立っている。
全員守備、全員攻撃という縦のコンセプトとも違う。極めることができれば、FWやMFやDFという言葉は死語になるかもしれない。「その時、前にいる奴」「たまたま後ろにいる奴」と選手は呼ばれ、得点チャンスは十人均等に配分されるかもしれない。
FWはDFの気持ちを分からなくてはならない、自分のポジションの約束事だけを守っていてはいけない、という監督の信念だが、更なる進化形として、練習では「二重の円の動き」を試そうとする。外円の七人が時計回りに動く時、中の三人は逆回りに動く。リュウジは子供の頃、父親に買ってもらった宇宙ゴマを連想した。
二重の動きは速ければ速いほど相手を翻弄し、穴を作ることができる。
強靭な肉体をぶつけ合うイングランド、それぞれのポジションで勤勉に仕事をするドイツ、お互いの封じ手で終わるイタリアのサッカー。それらとはまるで違う円のコンセプトこそ、スペイン・サッカーが到達した進化であると、ビクトル・フェルナンデスは胸を張る。
が、今夜の選手たちは監督の思うようには動けない。
前半四十分、このまま消極的にボールを回してハーフタイムかと思われた時、後々の展開の大いなる伏線となる、最初の事件が起こった。
ペナルティエリア内でDFカランカを背負い、クサビのボールを受けようとしていたアルフォンソが、ボールをトラップして振り向きざまシュートに持ち込もうとした時、足をかけられ倒された。カランカはすぐに両手を上げ、「何もしていない」とアピールするが、モラノ主審の笛が鋭く鳴った。
PKの判定だった。倒れたアルフォンソを抱き起こすホアキンたちの喜び。ゴール裏の大騒ぎ。ビルバオの選手たちが血相変えてモラノ主審に迫る。「鉄仮面」と呼ばれるポーカーフェイスのハインケスもベンチを飛び出し、赤ら顔に更に火を灯し、ラインぎりぎりの位置から抗議の叫びを上げる。よほどのことがない限りベンチを立たないといわれるハインケスである。
蹴るのはアルフォンソ。助走の途中でひとつフェイクを入れ、右足インサイドで確実にゴール右に決めた。キーパーは逆をつかれた。
前半を1対0で折り返した。疲労度の濃いチームにとっては上々の展開かもしれない。
リュウジは控え組と共にピッチに散って、シュート練習をする。観客席に銀色の反射が無数に見える。生ハムやトルティージャの入ったサンドイッチはアルミホイルにくるまれている。大騒ぎだったゴール裏も静まり、ハーフタイムの腹ごなしとなる。
リュウジは無人の右サイドを駆け、イメージトレーニングのように敵DFをかわす動きから、シュートを放つ。右足のアウトにかけ、ボールをシュート回転させる。控えキーパーのガスペルチッチの手を弾いた。キレている。今夜ピッチに立たせてくれたら決められる、という自信がみなぎってくる。
「リュー」
童顔グッジョンソンから声をかけられる。アイスランド人は簡単に「リュウジ」の発音をマスターして、今では省略の愛称で呼んでくれる。
「後半二十五分あたり、チャンスが来るかもよ」
予言された。彼のカンはよく当たる。リュウジは「多分な」と答えて微笑む。もう一発、右サイドからシュートを放った。長身ガスペルチッチもその弾道を諦めた。イケる。今夜こそ初得点だ。
後半が始まった。
同じメンバーがピッチに散ったが、十五分では拭いきれない疲労が主力選手の肩にまとわりついている。ゴールの向こうにそびえる三階建てのスタンド。そこを埋めつくして応援コールを投げかけてくるサポーターを、次第にプレッシャーと感じるかもしれない。同点にされたら逆転できる余力はないかもしれない。
開始早々に監督からリュウジにアップの指令が出た。
敵将ハインケスはロッカールームで珍しく声を荒らげたのか、後半が始まってから、ビルバオは守勢からカウンター狙いというベティスと同じ戦術ながら、怒濤の勢いで同点機を狙う。その勢いを削《そ》ごうと巧みにボールを奪ったマルコス・アスンソンに激しいスライディングが襲いかかり、褐色のスキンヘッドが宙を舞った。苦悶の顔が芝に埋まる。ホイッスルは鳴ったがカードは出ない。スタンドが凶悪なブーイングをビルバオの選手に降らす。
両チームの消耗が増すほど、途中出場するリュウジにチャンスが増える。一週間以上、練習グラウンドでしか汗を流してこなかった鬱屈を一気に放つ。準備は整っている。
ベティスはいつもの速いサイドアタックは影をひそめているが、中盤でボールを支配する分厚い攻めでビルバオDFに迫る。カランカとララサーバルの両ベテランに反応の遅れが出始め、マークがずれてくる。ホアキンが少しずつフリーになり始めたが、そこに決定的な穴を開けられないのは、ホアキンの動きも鈍いからだ。
交代はもうすぐだ。確信し、リュウジはアップに熱をこめる。
後半二十三分、グッジョンソンの予言はほぼ的中し、リュウジは監督に手招きされた。ジャージを脱ぎ、スネ当てをストッキングの中に押し込み、監督の指示を受ける。
「相手の両サイドバックはスピードに自信がない。縦を切ってくるだろうから、縦には勝負せず、内側に切れ込んでセンターバックを引きずり出せばマークがずれる。あとはシュートかスルーパスで相手を混乱させろ」
リュウジは頷く。
「ただし、あまり個人技に頼るな。ゴール前では勝負をしていいが、簡単にできるところは簡単に行け」
頷く。頷く。リュウジのしたいことと一致していた。ビクトル・フェルナンデスの期待に何としてでも応えたかった。
ピッチから下がるのはやはりホアキンだった。よほど疲れていたのだろう、交代に安堵する表情が浮かび、リュウジと手を合わせ、尻を叩いて送り出してくれる。
スタンドから「チノ」コールが起きる。呼びたいように呼べ。俺の力と俺の本名をもうすぐ思い知らせてやる。
ピッチに入るや、リュウジは爆発的に駆けた。フィールドの右半分のエリアにボールが来ると、重心を低くし、相手にかわされないようにチェイシングした。敵MFはリュウジのしつこいプレスに焦り、ミスパスとなり、マルコス・アスンソンがもらう。
リュウジは彼の右前方のスペースに走った。そこでボールを受ける。時計とは逆回りの円運動が始まった。右サイドにはバレラが上がってくる。デニウソンは下がり目になり、アルフォンソがオフサイドラインぎりぎりのポジションから左サイド奥でスルーパスを受けようとしている。リュウジは敵陣を横断する動きで敵センターバックを引き出し、右足アウトでスルーパスを出した。アルフォンソが絶妙のタイミングでラインから飛び出す。敵DFがオフサイドをアピールするが、線審の旗は上がらない。アルフォンソが左でボールキープをしているうちに、デニウソンが迅速に裏を走り抜け、アルフォンソからのヒールパスをもらい、クロスの態勢になる。ベティスは久しぶりに滑らかな攻撃を見せた。
ゴールに飢えたアタッカー陣が次々にエリア内に入ってくる。リュウジは一歩引いて、敵DFがクリアしたセカンドボールを予測してポジションを取る。デニウソンのクロスは、サイドから上がってきたバレラには届かず、カランカがヘッドでクリアした。予想は当たり、ちょうどリュウジの目の前にこぼれてきた。トラップすると、ファーストコントロールでぐんとスピードアップし、ぽっかり開いたスペースにドリブルでつっかけていく。敵味方が入り乱れる密集地帯を突き抜け、左足でシュートを打とうとした時だった。
昨シーズン最終戦、バルサ戦以来のゴールが決まったかと思ったその時、後ろから伸びてきた足が軸足にかかった。倒された。PKだ。いや、笛は鳴らない。リュウジはエリア内で膝を立て、両手で「どうして?」というアピールをする。モラノ主審は一瞥もせず、「立て立て」というアクションを残し、クリアボールの方へ駆けだしている。
バランスを取ろうとしているジャッジを、リュウジは肌で感じ始めた。
モラノ主審の中にさじ加減がある。これは認めよう、これはまだ認めないでおこう。ジャッジの配分が最初から決まっていて、そこに目の前の局面を当てはめているのではないかとさえ思える。
これまでだって、公明正大といえない審判には何人も出会ってきた。誤審と思ったのは数知れずだ。両チームに有利な笛と不利な笛を均等に分けようとする審判もいた。
が、このモラノ主審には、ピッチに君臨しようとする独裁者的な匂いを感じる。ゲームを作るのは選手ではなく、主審である私。そんな鼻高々なプライドが見え隠れする。リュウジにとっては初めてのタイプの審判だった。
雑念を追い出してリュウジは走る。疲れた両チームの中で、動きのキレは際立っている。渋滞した高速道路、立ち往生する車の間をバイクで疾走している感覚だった。
デニウソンがボールを持った。リュウジは疾風のアタッカーとなる。カランカとラクルス、二人のセンターバックがリュウジに対してどちらが対処すればいいか、見合う瞬間があった。これが監督の狙っていた敵DF陣の綻びだった。カピの突入が更にマークの受け渡しを混乱させた。リュウジは大草原のようなスペースを見つけることができた。手を上げてボールを要求する必要はなく、デニウソンから鋭いアーリークロスが入った。リュウジは「届けよ」とばかりに右足を伸ばす。ボレーシュートの角度だった。
が、足の長さが5センチ足りなかった。ボールは通りすぎ、ラインを割った。敵キーパーと接触しそうになり、「邪魔なんだよ」と露骨なまでに両手で弾き飛ばされた。リュウジは尻餅をつき、スタンドが敵キーパーへの怒号となったが、笑顔で許してやることにした。快感だった。神出鬼没なリュウジの動きに、敵は苛立っている。
あと1点取れたらゲームを決められる。残り十五分。FWとDFが間延びして、敵の綻びは見つけ放題だった。ビルバオは1点負けているため、疲れの見える守備陣を一人減らして、攻撃的に来る可能性はあった。
攻めてこい、とリュウジは念じる。狙っているのは、前がかりになった相手の背後をつくカウンターだ。
ビルバオはウルサイスの他にFWを入れてきたが、相変わらず、トップに長いボールを当てて展開しようとする。マルコス・アスンソンがDFのクリアボールを拾った。
チャンス到来。リュウジは右サイドのスペースを駆け上がる。空気銃を撃ったようなロングパスの音が背後に聞こえた。振り向かなくても、ボールの弾道を感じることができた。視界に入ってきたボールは、リュウジの前方でバウンドしようとする。横から迫ってくる敵ボランチのアルキサは一歩遅れていた。リュウジは中を見た。昨日の練習で繰り返したような、ダイレクトのアーリークロスからシュート、という場面ではなかった。リュウジの反応が早過ぎて、カピが間に合っていないのだ。ただし、左サイドのデニウソンが中央に入ってくる。ダイレクトでそこに入れるのは距離があったので、リュウジはトラップを選んだ。
アルキサは進路の先に立ちはだかったが、リュウジは右足アウトサイドでボールをまたぎ、左足でボールを運びながらカットイン、縦を切ろうとする彼の逆をつき、芝に倒した。同じバスクのチームであるレアル・ソシエダからビルバオに移籍した選手は活躍できないという法則を打ち破った、三十二歳のボランチだ。
デニウソンまでのパスコースが開いた。同時にリュウジの目の前に広大なスペースがあった。このチャンスをものにしたいという欲望が高まる。デニウソンの要求を無視した。やらせてほしい。必ずゴールに結びつけるから。つっかける。つっかける。カランカがおどおどとリュウジの侵入を迎えようとしている。ひとつシザースを入れると、カランカの反応の鈍さが確認できた。嘲笑ってやりたかった。お前じゃ俺を止められない。
デニウソンが「チノ!」と呼ぶ。あんたまでそう呼ぶか。いい加減本名を覚えろ。リュウジは次のフェイントで、カランカのバランスを完全に崩してやった。右足で蹴る体勢。アウトにかけてシュート回転を与え、敵キーパーの手をかすめてゴール左上隅にボールが吸い込まれる映像が浮かんだ。
その時、意外な角度からボールを掠奪された。
さっきかわしたはずのアルキサがすぐ背後にいたのだ。彼の足はボールではなくリュウジの右足にかかって、リュウジは芝に倒された。ペナルティエリアのすぐ外だが、マルコス・アスンソンのフリーキックが期待できる場所だった。
リュウジは大声でアピールするが笛は鳴らなかった。それより悲劇がベティス陣内に襲いかかろうとしていた。前がかりになっていたベティスのアタッカー陣は、ボールの進む先を見送るしかなかった。
鳴りを潜めていたビルバオのカウンターだった。前線に山なりのロングボールが入る。飛び出したセンターバックのリバスが大きなバウンド処理を誤り、ウルサイスに背後を取られてしまった。後ろからユニフォームを掴むリバスに、ウルサイスは倒れたりしない。振りほどき、もう一人のセンターバックのファニートと一対一になるより早く、右足を豪快に振り抜いた。横っ飛びのプラッツが芝に倒れた時には、ゴールネットは揺れていた。
スタジアム全体がぞっとするような沈黙となる。後半三十五分、ビルバオ同点弾。きっかけはリュウジの独りよがり。デニウソンが腕を振り回し、リュウジに怒気を投げかける。
リュウジはベンチを振り返る。監督が地面を蹴っていた。俺への怒りだろうか。多分そうだろう。
まだ時間はある。エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラには時間表示がない。コーチが「あと九分」と知らせる。
ミスを取り返さなくては。闇雲にセンターサークルから放たれたボールを追うが、さっきまでの軽快な動きではなくなっていることにリュウジは気づく。地面に足がついていない。気持ちばかりが先立って、体が追いつかない。
空回りの時間はどんどん過ぎていく。第四の審判がロスタイム表示をした。もうそんな時間なのか。あと三分しかない。
ホームでビルバオ相手のドローは許されない。分かっている。スタンドの野次が明瞭に聞こえてくる。
「チノ、何しとんねん、ちゃんとパスを出さんかい!」
「お前のサーカスを見に来たんとちゃうで、早《はよ》うデニウソンにサイドチェンジせんか!」
分かっているから黙っててくれないか。
さっきと似たような局面が訪れた。ロングパスを供給するのはマルコス・アスンソン。時間を巻き戻したみたいだ。右サイドを走っていたリュウジは、ボールのバウンドを目の前に迎えた。左向こうの視界にやはりカピとデニウソンが見える。リュウジはワントラップした。さっきリュウジにかわされながらボールを掠奪したアルキサが長髪をふり乱してまた迫っていた。同じようにフェイントをかけたら、教訓が身についていないらしく、同じように芝に手をついた。恐ろしいぐらいに同じ展開だった。
カピとデニウソンが敵DFのマークをかわしながらボールを要求している。今度渡さなかったらタダじゃおかないぞと、脅迫めいた声に聞こえた。
駄目だ。さっきの展開とは違い、二人への相手DFの寄せが早く、ここでパスしてもカットされてしまう。リュウジはドリブルを選ぶしかなかった。
さっきはドリブルしたくてした局面だった。今度はしなければならない局面だった。もう一度これをやらせてほしいとチームメイトに許しを乞いたかった。必ず成功させる。だからもう一度試させてくれ。
最終ラインをかわす自分のテクニックを信ずる一方で、懸命に神頼みをする自分がいる。リュウジはその時、ピッチに神を探した。
ペナルティエリア内に入った。カランカが懸命にブロックしようと立ちはだかる。リュウジは背後に迫り来るものを感じた。倒したはずのアルキサがまた掠奪にやってくる。彼のチェックより早くシュートに結びつけることは難しいように思えた。
リュウジは神を求めた。
アルキサの足がボールにかかろうとした。リュウジは神を見つけた。モラノ主審はどこにいる。これを正確にジャッジできる場所に立っているだろうか。
ボールがアルキサの足によってクリアされた直後、リュウジは自分の足を触れさせた。宙を跳ねた。地面に沈んだ。痛みはあった。苦悶の顔は芝居ではなかった。かしいだ視界の中でモラノ主審と目が合った。くわえている笛に息が吹き込まれるのを祈った。最後の神をそこに求める。
あんたのバランス感覚の中では、これはPKのはずだよな? さっきは認めてくれなかった。だったら今のは認めるべきだ。ダイブと判定しないでくれ。
リュウジは神に媚びを売るように、さほど痛くはない足を両手で押さえた。
モラノ主審の両頬が膨らんだ。息が笛に吹き込まれようとしている。ホイッスルが鳴った。どちらへの判定か。PKか、リュウジのシミュレーションか。モラノ主審はどことなく芝居がかった動きから、ペナルティマークを指さした。
スタンドが歓喜で膨張した。アルキサとカランカたちは掴みかからん勢いでモラノ主審に殺到する。ハインケス監督はベンチ前で頭を抱えている。リュウジは仲間の「よくやった」という声に囲まれる。
アルキサは主審からリュウジへと怒りの矛先を変える。
「てめえの芝居だろうが!」
デニウソンたちがリュウジを守り、敵の怒号から遠ざける。リュウジは穴蔵に逃げ込んだように目を閉じている。
選手たちの血の気に囲まれたモラノ主審は、カードを出そうとする脅迫的な仕種で混乱を収める。
アルフォンソがPKを蹴る。三階建てのゴール裏が高らかに逆点弾を要求する。ボールをプレースしたアルフォンソが助走の体勢になる。笛が鳴る。リュウジたちは飛び込もうとしている。アルフォンソは助走中のフェイクはなしに、強烈なキックをゴール真ん中に決めた。
後半ロスタイム、ベティス勝ち越し。
敵は急いでネットに絡んだボールを取って、センターサークルに運び、喜ぶベティスの選手たちに「早く戻れ、バカヤロウ」と言っている。
リュウジは歓喜の輪の外にいた。ゆっくりとセンターサークルに戻ろうとする。怒り冷めやらぬアルキサが肩をガツンと当ててきた。リュウジは無視して通りすぎる。
そうだ。その通りだ。最初の同じ場面がPKだった。二度目のあの時、お前の足は俺の足ではなく、ボールにかかっていた。どちらも誤審だった。
どちらもモラノ主審が見誤る距離と角度ではなかった。ゲームの主役であろうとする主審の秤《はかり》が、最終的にはリュウジに味方したのだ。
「サッカーに付き物」とジャーナリストたちが言い、それもサッカー文化のひとつだからと慰めるように言うミス・ジャッジが、今晩、リュウジに微笑んだ。
リュウジは神を求めた。リュウジに手を差し伸べた神は、敬うに値する神なのか……。
最悪なのは、俺はそんな審判に媚びを売り、誤審を求めた。韓国の勝ち方を非難する資格があるのか。
何かの力が加わっているかもしれないジャッジに自分のサッカーが支配される。その吐き気を催すほどの嫌悪感は、今、自分に向けられる。
スタンドを見上げた。照明の光が届かない記者席前のあたりに、リュウジは赤い色を見たような気がした。
張出し窓の鉢植えに咲き誇っていたゼラニウムの色だ。赤い服を着たマリアが、勝利に沸くスタンドの中で、静かに、物憂げな表情で立っている姿を想像した。
右サイドで残り一分ほどのゲームを終えようとしているリュウジは、翌朝、約束の十一時過ぎ、天井から聞こえてくるであろうマリアの力強いサパテアードを、すでに鼓膜の内側で聞いていた。
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第二章 ソル・イ・ソンブラ[#「第二章 ソル・イ・ソンブラ」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
ホアキンを拍手で迎える。
練習グラウンドに十五分の遅刻で、芝生に寝ころんで準備運動をしている選手たちが口々に冷やかす。監督とフィジカルコーチも、これみよがしに手を叩いて迎える。ホアキンはチームメイトに「もう、よせよ」と苦笑い。練習後、ホアキンは罰金の千ユーロをスタッフに渡さなければならない。
選手たちの遅刻の罰金はプールされ、みんなの飲み会に使われる。昨日、二十四歳になったリバスのバースデイ・パーティは、宴会部長ベンハミンの家で行われたが、今日だったら豪勢になっていただろう。
パーティ後に街に繰り出したらしいホアキンは、確かに吐く息が酒臭い。赤い目をこすって急いでアップを始めると、スタンドの石段に詰めかけた練習見学のサポーターから、
「ホアキン、朝まで飲んどったんやろう」
「ジェニファー・ロペスの婚約がそんなにショックかあ?」
軽妙な野次が飛ぶ。ホアキン憧れのラテン系女優は、最近、ハリウッド俳優との婚約を発表した。一年もしたらどうせ離婚だ、と誰かに慰められ、やけ酒を食らったのかもしれない。
準備運動が終わると二手に分かれてランニングとなる。リュウジは一昨日のビルバオ戦で後半二十三分からの出場だったが、レギュラー組のランニングに入る。サブ組はグラウンド三周と軽めだが、レギュラー組は隣のサブグラウンドを含めた大きさを三周しなければならない。
疲れが溜まっているレギュラー組ほど、ゲーム後の最初の練習ではみっちり走らされるが、勝った翌々日にギャラリーの前をゆっくりランニングするのは、凱旋行進をしている気分で快感だとみんなは言う。リュウジはその気分にはほど遠い。
「芝居上手のチノ、みんなに倒れ方を教えたれ」
リュウジがスタンド前を通りかかった時、からかいの野次が降ってきた。黙々と芝を踏んで走り、ちらと一瞥する。午前中から仕事もせずピーパスを食い散らかしている、ベティコのオヤジだ。
ビルバオ戦で審判のミス・ジャッジを導き出したリュウジは、ひとかどのヒーローだった。当日夜に放送されたサッカー番組「エスタディオ・エスタディオ」では、三度目に倒れてやっとPKを勝ち取った瞬間をいくつものアングルから見せ、「シノの倒れ方はシミュレーションの疑いが濃厚だが、ベティス勝利の貢献者には違いない」と、解説者が渋い顔で結論づけた。
遡《さかのぼ》って思い返すと、ゲーム後のロッカールームでは何度も背中を叩かれて祝福され、ミックスゾーンの取材でも「本当に相手の足はかかっていたのか」とハンディライトとカメラとマイクを突きつけられた。リュウジは「スペイン語、ボク、ヨクワカラナイ」と嘘をついて逃げてきた。
昨夜放送されたカナル・クルスの人気番組「エル・ディア・デスプエス(その翌日)」には参った。予想はしていたが、見事笑いものにされた。
元アイルランド代表で、リーガでも選手経験のある司会者が、この辛辣なユーモアに満ちた一時間番組を進める。土曜と日曜に行われるゲームの分析だけでなく、「今節最悪のゴール」と題して、たとえばキーパーのクリアしたボールが味方DFに当たってオウンゴールとなったシーンを何度もリフレインしたり、負けの込んでいるクラブのオーナーがゲーム中、貴賓席で居眠りをしているシーンを映したりする。コーナーとコーナーの切れ目がなく、独特のリズムで一時間が進む。日本のスポーツ番組にはないスタイルである。
最近見た中で笑えたのは、ロナウドのマペット人形が闘牛場でボールと対決する寸劇である。襲いかかってくるボールにちょっと触れただけでロナウド人形は大げさに倒れ、担架で運ばれる。故障の多いロナウドを皮肉ったコーナーだった。闘牛場の客席から冷たく見下ろしているのはファンハール。バルセロナの監督のかぶり物は、顔の部分が四角いレンガになっていた。彼はいつも表情に乏しいからだ。一緒に見たグッジョンソンと大笑いをしたものだ。
昨日の番組では、ロスタイムに勝ち越したという劇的な展開もあって、ベティス戦もクローズアップされた。
リュウジがゴール前で三度倒れ、三度目でやっと自分に有利な判定を導き出すまでをコミカルな音楽で映し、リュウジがモラノ審判の顔色を窺うアップの映像に「チノの神頼み」とテロップが流れた。
全国の視聴者の中で笑えなかったのは、リュウジ一人だったろう。
司会者は「シノのドリブルへの過信がビルバオ戦でコンビネーションを乱した」と結論づけた。確かに、背後に迫る敵ボランチを感じることができず、闇雲に突破しようとしてボールを奪われた。その時点で味方のアタッカーたちはゴール前に詰めていた。
デニウソンが怒るのも無理はなかった。ロスタイムのPKをもらった殊勲者に対して、ロッカールームでのデニウソンの祝福だけは手荒く、真顔で頭をポカッと叩かれた。「結果がよけりゃいいってもんじゃない」と言いたかったのかもしれない。
そのデニウソンはランニング後のストレッチで、ビクトル・フェルナンデス監督から厳しい顔で注意を受けている。ビルバオ戦では彼自身の反省点も多い。
ゲーム直後のロッカールームでは、監督と選手は反省会などしない。ゲームの熱が冷めやらない時にそんなことをしてもロクなことはない。掴み合いの喧嘩になるのがオチだ。監督はさっさと記者会見を済ませ、選手たちはシャワーを浴びてマスコミの質問に応え、足早に妻や恋人と共に車に乗り込む。一日オフを挟んだ最初の練習日に、監督は選手の許《もと》に歩み寄り、気づいたことをゲーム後初めて指摘する。
前半の四十五分間、ベティスの左サイドはほとんど機能しなかった。デニウソンが相手DFと対してトリッキーなボールさばきをしている時、サイドバックのルイス・フェルナンデスは背後をオーバーラップしようとしたが、デニウソンはそこにボールは出さなかった。デニウソンは「奴の上がりが遅かったから」と言いたいのかもしれない。
監督は「あの場合ではサイドバックを生かす動きをしろ」と注意している。デニウソンは監督の要求に、渋々ながら納得して頷く。
昨シーズンまでのデニウソンは、ボールを持ちすぎることでサポーターのブーイングを浴びることも多かった。ブラジル人独特の個人技信奉と言ったらそれまでだが、一昨日のリュウジ同様、ゴール前に詰める味方のアタッカーには目もくれずシュートを放ち、それはゴールの枠のはるか上を飛んでいく。
今シーズンから監督に就任したビクトル・フェルナンデスは、まずデニウソンの意識改革に着手した。「去年より周りが見えるプレーをしている」という評価を得るようになったデニウソンは、一昨日のリュウジに、かつての自分の姿を見たのかもしれない。
選手たちでゴールを移動させ、ビブスをつけ、七対七のミニゲームになる。
右サイドに入ったリュウジは、ドリブルで駆け上がる途中で「相手を抜ききる前でも上げろ! 今だ!」と監督の声に反応し、慌ててクロスを上げる。自分のタイミングではなく、クロスボールに飛び込んでくる選手に合わせることを優先させる。
が、精度のあるクロスが上がらない。動きに精彩がないのは自分が一番よく分かっている。中にいる選手のタイミングと自分のタイミングがあまりにずれているため、声がかかるたびにクロスを上げても精度を欠いてしまう。たとえばフィーゴなら、中に選手がいなければスピードダウンする緩急のテクニックがある。リュウジは相手ディフェンスを抜ききることだけを考えてしまい、そうなると自己満足のクロスしか上げられない。
監督が言いたいことは分かっている。自分のタイミングと相手のタイミングの使い分け。ここはチームの規律か、自由にやっていいかの選択。高い技術を要求されているのだ。
ビクトル・フェルナンデスは見切りをつけたかのように、五分もたたないうちにリュウジを交代させた。
次はアウェーでのエスパニョール戦。このままでは遠征メンバーには入れないかもしれない。週末までの練習で監督の期待に応える動きをしなければ。
次が駄目でも、第十四節のアトランティコ戦には何とか出たい。アランフェスのペペやアリシアも応援に来るという。古巣相手にホームでいいプレーをしたかった。
練習が始まった頃よりギャラリーが増えているスタンドを見上げると、茶色の髪が十二月の陽光を受けて輝くのが見えた。
マリアがいた。これからフラメンコ学校に行くのだろうか、スウェットとスパッツ姿だ。
練習グラウンドにやってくる熱心なサポーターは圧倒的に男ばかりで、若い女は好奇の目で見られてしまう。狼の中の白ウサギといった有り様だが、今、マリアを男たちの舐め回す視線から守っているのは、全身、ベティスのチームカラーに染まった一人の老婆である。
エステル婆さんは、「ベティスの名物婆ちゃん」と呼ばれ、ホームゲームだけでなく練習グラウンドにも杖をついてやってくる。今日はよもぎ色のワンピースを着て、女同士ですぐ意気投合したらしいマリアに「食べる?」とスナック菓子の袋を差し出している。
ベティスの「ソル・イ・ソンブラ」……「光と影」の時代を七十年以上見つめ続けてきたエステル婆さんは、今シーズンは若返ったように見える、と評判だ。ベティスの好調ぶりは、浅黒い肌の老婆に艶《つや》を与えている。
エステル婆さんの相手をしているマリアと、目が合った。彼女は控えめに手を振る。リュウジは軽く頷いて応えた。その交歓を見て、めざといエステル婆さんは「ははん、あなたはシノのガールフレンドね」と悟ったようだ。
練習後はいつも、道具係のチェマの車に乗せてもらってサンタクルス街に帰るのだが、グラウンド出口でマリアが待っていたから、「ちょっと寄るところがあって」と言って車を下りた。
マリアはいつもの鞄を持っている。これからフラメンコ学校なのだろう。
「バルでコーヒーでも飲む?」
腕時計を見て、「三十分くらいなら」とマリアは言った。
並んで舗道を歩く。スター選手たちはすでに帰ってしまったので、居残るサポーターも取材陣もほとんどいない。「練習後にデートか?」とからかわれたり、盗み撮りされたりする心配はなかった。
「チケットありがとう。初めてスタジアムでサッカーを見た」
「どうだった?」
「あなたが倒された時、みんなが拍手してたから、どうしてだろうって不思議に思った。一緒に行ったフランス人の子がルールに詳しくて、あなたが得点チャンスを作ったって知って、私も遅れて拍手……」
くすりと思い出し笑いをする。「周りの人と喜ぶタイミングが違って、一人でワーッと騒いだから、注目されちゃった」
約束通り、翌日は遅くまで寝かせてくれた。
「昨日は天井が鳴らなかったから、午後まで寝過ごしちゃったよ」
「朝から学校だったの」
リバスの誕生パーティがあって、深夜に帰った。路地から見上げると、マリアの部屋に明かりはなかった。すでに寝ていたのか。それとも店の客と、あの二階の個室で……。
大通りに出るとテラス付きのバルがあった。リュウジは舗道側に背中を向けて座る。通行人の死角になるべく居ようとするのは、リーガにデビューしてから備わった癖だった。
「あのアパート、独り暮らしじゃ結構家賃が大変?」
こんな話題しか見つからない。
「ルームメイトとつまらないことで喧嘩になって、月に四百ユーロ、一人で払う羽目になっちゃった」
リュウジの部屋と比べると家賃は半分だった。ならば広さも半分ほどだろう。
「学校の授業料は半年で二千五百ユーロだから、夜はアルバイトしないと……」
弁解じみた口調を覗かせる。一年で五千ユーロ。日本円にして六十万強。かなり高額だ。
「でも上級クラスのトップ五人に残ると、スペイン各地や他の国に公演旅行ができるようになるし、今日みたいに寝不足の日でも頑張って行かないと」
カフェ・コン・レチェに砂糖をひと袋入れてから、小さくアクビをする。
「今夜も店に?」
「うん」
「あの仕事、楽しい?」
フロアでフラメンコを踊るのは楽しい? と訊いたつもりだが、マリアはコーヒーを啜《すす》る顔を一瞬曇らせ、「楽しいわけ、ないじゃない」と軽く吐き出すように言った。
踊るよりも金になる二階の仕事について、彼女は言ったのだ。質問を皮肉と受け取ったかもしれない。リュウジは内心「しまった」と舌打ちした。
「踊り、また見てみたい」
それは本心だった。
「今度、暇な時に学校を覗いてみたら」
すぐ穏やかな表情に戻ったので、安堵した。リュウジは「ああ、そうする」と応えたが、学校ではなく、今晩、あの店での踊りを見てもいいと思った。
「クリスマスはどうしてる?」
何も予定がないなら、イブの夜、マドリードまで遊びに行かないかと誘うつもりだった。
マリアは曖昧に首を振る。三週間先なんて遠い未来、と言わんばかりの顔だ。
「ポルトガルに帰ったとしても、三十一日にはこっちに戻ってる。新年早々から学校なの」
だったら大晦日だ。去年はアリシアたち女の子のグループにまじって、マドリードの「太陽の門」で雑踏に揉まれ、十二時の新年の鐘が鳴るのと同時に、十二粒のぶどうを口に放り込んだ。
コーヒーを飲み干す頃には、マリアが学校に行かなければならない時間になっていた。リュウジがテーブルで支払うと「ごちそうさま」と彼女は言った。
バスが来るまでバス停で一緒に待ってやろうと思ったが、後ろからオレンジ色の車体に追い抜かれ、「じゃあ、また」とマリアは重そうな鞄を肩に掛け、しなやかに走り出した。次に会う約束もできず、リュウジは見送るしかなかった。
オレンジがたわわに実った街路樹は、冬のセビリアに点々とした色彩を与えている。
会うのに約束はいらないように思えた。
シエスタから目覚めると、まだ眠気がくすぶっている体をルームランナーで覚醒させた。
トレーニング・ルームに改造した奥の部屋で三十分汗を流す。フィジカルコーチが作ってくれたメニュー通りに、バーベルで筋トレをする。
夕方、英語とスペイン語、二種類のテキストを持って、サンタフスタ駅近くの語学学校に出かけ、計三時間、たっぷり舌を回してきた。続けて別の言語を習うとさすがに文法や発音がこんがらがるが、まとまって勉強の時間が取れるのは週はじめしかない。
日がとっぷり暮れると、行きつけのメソン「トレ・デ・ラ・プラタ」で食事をする。主人パコとバーテンのキケが、思い出したくない一昨日のゲームを無理やり思い出させてくれる。
「二度目に倒された時がファウルだ。違うか?」
俺の目は節穴じゃないぞ、というパコの顔。リュウジは焼き上がったばかりのトルティージャを口の中に放り込んで、「ああ、そうだよ」と答えておく。
キケが勝利のお祝いとして、絞りたてのオレンジジュースをピッチでくれた。
店にやかましいベティコたちがやってくる前に引き上げた。アルカサルの前は今日も観光客が多く、観光馬車がぱかぱかと音をたてて石畳を行き交う。
アパートに帰ると、バスタブに湯をはって体を沈め、瞑想する。
瞼のスクリーンに浮かぶのは、店のフロアで踊った後のマリアの姿。汗ばんだ胸元が激しい息づかいで盛り上がる。客の男がその汗を拭いてやると、マリアは媚笑《びしよう》を投げかける。
風呂を出て、寝酒のワインを一杯あおって、ベッドに入る。
明日も午前十時から練習だ。監督が求めるクロスのタイミングを、明日こそは軽快な動きで見せなければならない。
寝なければ。
が、目は冴《さ》え冴《ざ》えとしている。今頃、マリアは酔っぱらった客に体を撫でられているのかと思うと、寝返りに勢いをつけ、イメージを振り払う。
駄目だ、眠れない。
ベッドから起き上がる。時計を見る。すでに日が変わっている。リュウジは床に脱ぎっぱなしになっていたチノパンツを拾い上げ、足に通した。
衝動だけで動いている。アパートの階段を駆け下り、夜ともなると迷路に思える路地から路地へ、急ぎ足で行く。
夜遊びの人間で溢れたサンテルモ橋を渡り、グアダルキビール川を右手に見てベティス通りを歩く。早足で二十分。薄暗い路地に入ると、淫靡な光が石畳の道を照らす例の酒場「ティオ・ルイス」に到着した。
歩哨のように入口に立っているチェーン・スモーカーの男は、一度来たベティスの選手を覚えているのか、にんまりと笑顔を見せ、丁重な仕種で通してくれた。色落ちのした黒いシャツを着て、軍人が履くようなブーツ。店の用心棒という風貌だった。
今夜も紫煙と女たちの嬌声がたちこめ、それほど高くはなさそうな香水の匂いが充満している。リュウジはカウンター席に座ることにした。バーテンにカンパリソーダを注文する。
中央のダンスフロアでは、中小企業のオヤジふうの男が、店の女の子と下手なチークを踊っていた。マリアの出番はこれからなのか、すでに踊り終えて二階の部屋にいるのか……。
店内の暗さに目が慣れてくると、二十人ほどの女の子たちの顔が見通せるようになる。マリアはどこだ。
いた。一番奥のボックス席で、客にブランデーを注いでいる。衣裳は派手な色のワンピースで、激しくフラメンコを踊った後には見えない。厚化粧の横顔が、極上の作り笑いを浮かべる。
リュウジはカンパリソーダのグラスを口に運び、遠くのマリアを凝視する。
視線には磁力が備わっている。見つめたら彼女は振り返る。これまで何度もそうだった。今夜も必ず俺の気配を感じ取るはずだ。
客が「どんどん飲め」と勧めるブランデーに口をつける。喉をごくりとさせたが、それほど飲んではいない。彼女にとってはまだ夜は始まったばかりで、ここで泥酔するわけにはいかないのだろう。
あの脂ぎったオヤジが今夜のマリアの客かと思うと、店を破壊したくなる。マリアは二階の部屋で自分から裸になり、全身を撫で回され、汚されるのだ。
我慢ならなかった。
その時、マリアの頬に反応があった。目尻がぴくりとし、ゆっくりと気配のする方を振り返る。
スモークがかかったような店内の空気を隔てて、リュウジとマリアの視線は引き寄せられた。マリアはリュウジを見て軽く驚いた後、戸惑いの表情になる。目の前の客に「ちょっと失礼」と告げ、立ち上がる。
二人の距離が縮まり、マリアはカウンター席に浅く腰掛ける。陽光の下の顔とは違う。濃い化粧は鎧《よろい》にも見えた。
「一人で来たの?」
「ああ」
「どうして来たの」
「どうして……」
リュウジもその理由を自分に問いかける。「逢いたかったから……かな」
マリアを愛し始めているから。今夜の行動でそれは彼女に伝わっただろう。
「店では逢いたくないの」
彼女はきっぱりと言う。
「なら店が終わるまで外で待ってる」
「朝になるかもしれない」
「客がついて?」
鋭く切り返してしまった。マリアは口をつぐむ。
「何時になっても構わない」
リュウジは立ち上がった。「外で待ってる」ともう一度念を押した。
「アパートで待ってて。私が部屋を訪ねてもいい」
「いやだ。ここで待つ」
駄々っ子みたいな口調になってしまった。
「ねえ、リュウジ……このあたりは危ないから、帰った方がいいよ」
リュウジはカンパリソーダ一杯とチャージ料の支払いを済ませ、マリアを振り返らず出口をくぐる。さっき丁重な物腰で迎えてくれた店の用心棒が、「もうお帰り?」と薄笑いで見送る。
リュウジは路地の反対側、街灯の光がやや薄らぐ場所に立ち、店の建物を見上げる。用心棒の目に「このチノは店に厄介事を起こそうとしているのか」という表情が浮かんだ後、店の内部から誰かに呼ばれ、引っ込んだ。
すぐに戻ってきた男は含み笑いでリュウジを見やる。マリアに「彼は友だちだから、危ない目に遭わないよう気をつけてあげて」とか何とか耳打ちされたのだ。
腰にナイフを隠し持っているかもしれない男は、路地のこちら側にやってきて、タバコの箱をリュウジに差し出す。リュウジは「いらない」と首を振る。煉瓦の壁に背中をつけ、暗闇で長い待機状態に入る。
確かに人相の悪い連中が時折行き交う路地だった。ベティスの選手一人一人の顔に精通している熱烈サポーターと出くわしたら、用心棒が間に入ってくれたとしても、ちょっと面倒なことになる。
店の二階、路地に面した窓に淡い光がともるのが見えた。女が客を連れ込んだ部屋。マリアかもしれないと思う。
光はすぐに消える。マリアの裸体に脂ぎった男がのしかかる光景が頭をよぎり、リュウジは深呼吸しないではいられない。
ボールの弾む音がした。壁から背中を剥《は》がして、音のする方を見やる。更に奥まった路地。ワークシャツに長ズボンの子供が、すり切れた四号球を壁に向かって蹴っている。小学校に上がりたての年頃。アンダルシア人独特の黒髪を汗で濡らして、壁打ちサッカーに励んでいる。
リュウジは微笑む。近くの酒場で母親が働いていて、仕事を終えて出てくるのを待っているのか。ボールを蹴っていると時間がたつのを忘れる。サッカーボールが少年の孤独を癒す。
俺もあんな姿でボールを蹴っていたのかと、リュウジは遠い日の記憶を呼び覚ます。
和風スナック「よしこ」の裏には月極め駐車場があって、チョークで壁にゴールマウスを描いた。日本対イタリアのワールドカップ決勝戦を思い描き、リュウジは一人で戦った。PK戦になって、リュウジは両軍選手を演じる。壁に向かって蹴り、地面に得点表を描き、○印や×印をつける。
店の方からは常連客相手の、母親の高らかな笑い声が聞こえる。二階ではミサキが「兄ちゃん、どこ」とベソをかいている。夜中に起きたら隣に兄がいなくて、怖くなったのだ。
やがて、店の前にふらふらと横に揺れる人影が現れ、「まだ起きてたのか」と素っ頓狂な声がする。
「父さんを待っていたんだよ」とは照れくさくて言えなかった。
「リュウジ、リフティングは何回できた?」と父が訊くから、リュウジは今日の成果を見せてやる。四号球を右足で、左足で、腿《もも》で、頭も使って宙に上げた。二十回を超えた。父は「もう超されちまった」と眉を下げて笑う。父の最高記録は十七回。リュウジにとって厳しいコーチの父は、実は中学までしかサッカーをやっていない。
リュウジの足元にボールがやってくる。
子供が蹴り損ね、ごみ箱に当たったボールが石畳の道を転がってくると、リュウジは左足の甲に乗せ、低い位置で両足交互にリフティングをする。ボールを追ってきた子供は、リュウジのアクロバットに目を丸くする。
リュウジは腰の位置にボールを上げ、腿と肩を使い、額でも何度か弾ませる。子供は「ウァオ」と感嘆する。三十回ほどのリフティングを見せてやって、ヒールでボールを返す。子供の胸にすっぽりおさまった。
拍手が聞こえる。「ティオ・ルイス」の用心棒が、くわえタバコで手を叩いている。
「キエレス・フガール・コンミーゴ」
やるか、と訊くと、子供が嬉しそうな顔になる。
母を待つ子供と、好きな女を待つ若者が、薄暗い路地裏でボールを蹴り合う図だった。右足インサイドで確実に相手へ送る基本テクニックを教えてやると、子供はすぐにマスターした。
時を忘れる。見上げれば二階の窓は相変わらず暗い。ボールを蹴っていさえすれば、その意味も頭から追い出すことができる。
単調な練習に飽きた頃、ボールキープから「ほら、取ってみな」と挑発する。子供は向かってきて、リュウジからボールを奪おうとする。何度となく翻弄してから、ボールを取られたふりをしてやる。
子供が笑う。リュウジも笑う。
用心棒の背後でドアが開いたのは、その時だった。帰り支度をしたマリアが現れて、リュウジは虚を衝《つ》かれた。二階の部屋を見上げると、窓は闇に閉ざされたままだ。そこにいるのはマリアではなかった。
スウェットとスパッツ。いつものアスリートふうの恰好に、軍隊仕様のジャンパーを羽織っている。
「本当に待ってたのね」
感動なのか、戸惑いなのか、微笑みはぎごちない。
もっとサッカーをしたがっている子供に、リュウジは「ごめん。お先に」と済まなそうに言う。一人置いて行かれ、まだ愛する者を待たなければならない子供は「チャオ」と屈託がない。
リュウジはマリアと肩を並べて帰る。入口の用心棒にも軽く手を振った。
川沿いのベティス通りに出る。オレンジの樹が続く遊歩道を並んで歩く。言葉なんていらないと思った。サンテルモ橋のたもとに、枝葉を広げた街路樹が暗がりを作っていた。リュウジは歩を緩めた。並んで歩いていたマリアが「?」と見返すと、その手を取り、引き寄せ、キスをする。
マリアは何の抵抗もなく、リュウジに抱かれた。薄く開いた唇から、舌の先がリュウジの反応を探っている。リュウジは軽く絡めた。客に振る舞われたブランデーの味がした。
キスの時間はこの先もっとあるような気がして、リュウジは手を結び、橋を渡る。
「眠い?」
「ううん、全然」
サンタクルス街に入るまで、会話はそれだけだった。
アパートの前に来ると、マリアが鍵を取りだし、リュウジを招き入れようとする。内部はリュウジのアパートと同じような造りになっていて、急傾斜の階段を上がる。
想像した通りの間取りだった。寒々としたタイル張りのダイニングの向こう、路地に面した部屋がリビング兼ベッドルームになっている。壁の一角にスナップ写真が所狭しと貼られていた。白髪まじりのふくよかな女性は母親だろう。幼い頃のマリアがフラメンコの衣裳でポーズを決めている。海岸に面した白い家並み。マリアの故郷だ。ダン・カズオという作家も愛した海辺の田舎町。
貝殻の風鈴が天井からぶら下がっていたので、どんな音がするかと思って揺らしてみる。
浜辺の微風が奏でるような音。潮の匂いを感じる。ジャンパーをハンガーにかけていたマリアが、音に振り返り、微笑んだ。
リュウジは素早く部屋を横切って、マリアの腕を取り、抱き寄せる。
「シャワー、どうする?」と訊かれたが、「今、抱きたい」と答え、キスの続きから始めた。
時間はたっぷりあるのに、せき立てられたように、二人はお互いの衣類を次々と剥ぎ取った。下着だけになったマリアが部屋の明かりを消し、先にベッドに座った。スプリングが軋《きし》み、シングルベッドは二人の重みを受け入れた。
マリアは下着を外した。すでにリュウジは全裸になっている。手を伸ばして、彼女の胸の膨らみに触れると、すぐにでも突進したい思いに駆られた。リュウジにとっては人生二度目のセックス。本当に久しぶりで、やり方がすぐに思い出せない。
とにかく優しくしようと努めた。いくつもの場所にキスをする。マリアのややハスキーな喘ぎ声が聞こえると、湿った場所を手で探り当て、角度に見当をつけ、試しに入ってみた。三回ほどやり直して、やっと結ばれた。内部は温かく、リュウジを締めつけ、更なる昂奮に導く。
愛している。そう囁《ささや》いた。愛している。彼女も囁いた。スプリングが忙《せわ》しく鳴っている。もっとこうしていたい。いや、早く極みに辿り着きたい。ふたつの欲求が戦っている。
動きを緩めたのは、避妊具の用意をしていなかったことに気づいたからだ。
「いいの」
マリアがかすれ声で言う。今日は大丈夫だと教えてくれた。リュウジさえよければそのままで構わないと言う。
だから進んだ。マリアがリュウジの肩に顔を埋め、声を堪《こら》える代わりに肌を噛んでいる。その痛みも昂奮に拍車をかけた。心地よい痛みがあることを初めて知った。ベッドが壊れそうだった。
「ごめん」
律儀に謝ってから昇りつめた。マリアが期待したものではなかったかもしれない。全てを放ち終えても、しばらくリュウジは動いている。マリアが背中をさすってくれる。
動きをやめても、二人はつながったままでいる。
「……あ」
マリアが何か面白いことに気づいた。「ぴったり合ってる」
リュウジも聞き耳を立てる。胸の音に神経を集中する。
「本当だ」
二人の心臓の音が寸分の狂いもなく合っていた。打楽器のセッションにしばらく聞き入ってから、リュウジはやっと、つなぎ止めていた体を離そうとする。
「待って」
マリアはそのままの姿勢から、サイドテーブルにあるティッシュペーパーの箱に手を伸ばす。
その仕種に、リュウジより手馴れたものがあった。
二人は狭いシングルベッドで身を寄せ合い、三十分ほど眠った。目が覚めると、皮膚が密着している部分が汗ばんでいた。
「あの店で働くの……」
声がやけに響く。「やめてくれないか」
「やめたら……」
戸惑うマリアの声。「生きていけない」
「俺が金、出すよ」
店の前でマリアを待ちながら考えたことだった。リュウジにできる唯一のこと。自分のアパートは家賃十万円、まとまった額を日本に仕送りしているが、リュウジに金のかかる趣味はなく、銀行口座はたまる一方だ。サッカー選手は寿命が短いのだから、貯金できる時に貯金しておいた方がいいと母親には言われている。
とにかく、リュウジには使える金がたくさんある。
「受け取ってくれないか」
「私はあなたに買われるの?」
声は醒めているが、怒りは含んでいない。
「いつか返してもらう」
「返せないかもしれない」
「だったらそれでもいい。月にいくら必要なんだ?」
「私がどんな女なのか、知りもしないで?」
リュウジがくるんでいた腕からするりと抜け、半身を起こして見下ろす。
「日本人ってみんな、一回寝ただけの女に大金を貸すの?」
「本気でフラメンコダンサーになろうとしてるんだろ?」
間髪を入れず言い返す。「自分にそれだけの才能があると信じてるなら、その才能に投資しようとする人間を拒んだりしないものだ」
「私にどのくらい才能があるかなんて、知らないくせに」
「知ってるよ。屋上のサパテアードを聞いた。店でセビジャーナスを見た。口に薔薇をくわえるのはやりすぎと思ったけど」
真剣な顔を突き合わせての言い合いに、笑みがこぼれる。「私もあれ、どうかと思ったんだけど」
「とにかく俺は」
表情を引き締めて言う。「我慢ならない。君があの店で、男に……」
その先の言葉を飲み込む。マリアを侮辱したくなかった。
「三人よ」
マリアは強い口調で言った。リュウジの知らなかったことをさらけ出す。
「好きでもない男に抱かれたのは、三度」
リュウジは心に痛みを覚える。マリアはあの店で三人の客をとった。事実を受け入れようと思った。
「返事を、明日、聞かせてくれよ」
マリアの顎の下を撫で、伏目がちになっている彼女を向かせようとする。
「俺から金を受け取るのか、受け取らないのか」
やっとリュウジの顔を見る。悲しげな目をしていた。
「こうしよう。明日の朝、また屋上で踊っている音が聞こえたら、俺、練習に行く前に、ポストに金を入れておく」
マリアの瞳が濡れ始めている。
「どうして泣くんだ?」
「……分からない」
ベッドから起き上がって縁に腰掛け、リュウジに背中を向ける。肩甲骨に触れたら、
「帰って」
拒絶ではなく、自分を呪うみたいな吐息まじりの声で言われた。
リュウジは立ち上がる。床の衣類を拾って身につけ、萎《しお》れたようにベッドに腰掛けているマリアにも服を渡す。マリアはそれらを抱きかかえ、寒そうにしている。
「じゃ、明日……返事、待ってる」
リュウジは部屋を出て、階段を下り、今までいた部屋の窓を見上げる。ランプの暖色はこうして見ると頼りない。路地を隔てた自分のアパートに入った。
明日、天井から彼女の足音が聞こえるまで、眠り続けようと思った。
ボタン雪の舞う夢だった。
父にサッカーを教わったばかりの頃の、冬休み。河川敷には凧がいくつも上がっている。ミサキと母は土手に座り、甘酒を飲んで暖を取っている。さっきからミサキは不機嫌だ。父と兄はサッカーをしてばかりで、凧を上げてくれないからだ。
確実に相手の足元にボールを出すインサイドキックの練習は単調で、リュウジは飽き始めている。冬空からボタン雪が落ちてきたのに気づくと、ミサキを大声で呼ぶ。
ほら、雪だ。きっと積もるぞ。明日あたり、雪だるまが作れるぞ!
ミサキの機嫌はすぐ直る。二人して冬空を見上げる。顔にはらはらと雪が落ちる感触を楽しんだ。
遠い日の記憶。もう取り戻せない家族四人の日々。
聞こえてきたのは正月のお囃子《はやし》ではなかった。天井を震わすリズミカルな足音は、マリアのサパテアードに違いない。
リュウジが眠気眼で見上げると、細かな埃が目に入った。天井から舞っているのはボタン雪ではなく、漆喰の粉だった。
ぼんやりした頭が、この意味を探り当てる。マリアが朝っぱらから踊っているのだ。
返事だ。私はあなたからお金を貸してもらう。あなたの愛を受け入れる。マリアの言葉が聞こえた気がした。
まどろみの中でじわりと喜びが広がり、頬に降ってくるものの感触を楽しむ。窓から見上げてマリアと顔を合わせるのは何となく照れくさかったし、起床時間まで三十分もあるし、できれば夢の続きを見たかった。
目を閉じ、マリアのサパテアードを聞きながら、練習グラウンドに行く前にしなければならないことを頭に刻みつける。BBVAのキャッシュ・ディスペンサーに寄って、五千ユーロほど引き出して封筒に入れ、マリアのアパートのポストに入れる。とりあえず、フラメンコ学校の一年分の授業料だ。
夢の残滓《ざんし》を引き寄せて、リュウジはボタン雪をもう一度見つけた。
2[#「2」はゴシック体]
セビージャFCのホームスタジアムであるエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンは、リーガ序盤戦を快調に飛ばしているレアル・ソシエダを迎えた。
第十三節、パクの所属するセビージャFCは土曜日開催となった。ベティスは明日、エスパニョールとアウェーで戦うために今日は移動日だった。案の定、遠征メンバーに選ばれなかったリュウジは、パクがベンチ入りすることを聞き、マリアを伴って観戦にやってきた。
メインスタンドの上、記者席の近くだ。近くにベンチ入りできなかったセビージャFCの選手も座っている。選手たちに席が割り当てられる一帯で、今シーズン最初のセビリア・ダービーの時も、リュウジはそのあたりでパクと並んで見た。
ゲームは最初からアウェーのレアル・ソシエダが主導権を握る。セビージャFCは圧倒的なサポーターの応援を受けているが、敵の効果的なサイドアタックでピンチの連続だった。
「攻撃的なスペインのサッカーでは、両サイドが安定しているチームほど強い。見てごらん、レアル・ソシエダの左サイド」
海賊のような風貌のデ・ペドロが、セビージャFCの右サイドを楽々とかわして攻撃の起点となる。
リュウジはマリアのための解説者になっている。
「あいつはワールドカップの時もスペイン代表の左サイドバックだった。相手を突破してクロスを上げる態勢になると、コバチェビッチっていう強烈なストライカーをターゲットにする。前線にいるだろ、ほら、9番の選手だ。こいつに合わせれば何とかしてくれるっていう絶大な信頼感があって……」
マリアは頷きながらゲームにのめりこんでいる。
「ほら、来た」
デ・ペドロのクロスが上がった。コバチェビッチの強烈なヘディングシュート。セビージャFCのキーパーはからくも弾いた。スタジアムが一斉に「ウィー」と吠えた後、拍手の洪水となる。
昨シーズンの途中でラツィオから移籍してきたダルコ・コバチェビッチというユーゴスラビア人のFWは、屈強でテクニックもあって、ベティスにはいないタイプだった。リュウジは羨ましい。マーカーが引っ張っても肘打ちを食らわせてもびくともせず、シュートレンジに強引に入っていくああいうストライカーに、スルーパスを出せたら、どんなに楽しいだろう。
「どうしてスペインのサッカーは攻撃的なの?」
マリアの初歩的な質問。
「楽しくなきゃサッカーじゃないっていう国民性や、ラテンの熱い血がそうさせるとも言われてる。スペイン人はサッカーが好きだけど、勝負にはそんなにこだわらない民族なのかもしれない」
「攻撃的だけど、勝負にこだわらない?」
矛盾しているとマリアは思ったようだ。
「中盤の選手は攻撃に労力を使う。だから守備はおろそかになって、スペースができる。ひょっとしたら、相手の攻撃も存分に見せてほしいと願っているのかもしれない」
攻めるのも好きだが、攻められて鉄壁の守りを見せつけることにも快感を覚える。広いスペースをもらった選手たちが、中盤から前線にかけて、自分の持つテクニックを余すところなく発揮して突破にかかる。なるべく少ない手数と労力で相手の裏をつくイタリアのサッカーとは根本的に違う。
「イタリアはだまし合いのサッカーなんだ。几帳面だし、ディフェンスは暴力的だし、点を取ったらのらりくらりと時間を使って逃げきろうとする。スペイン・サッカーは真っ正直に勝負を挑むから、華やかで、豪快で、見ていて美しい」
右サイドにおける攻撃の要、金髪なびかせたカルピンが前線に目のさめるラストパスを出した。ニハトが易々とスペースに走り込んでいた。エストニア生まれのロシア人からトルコ人へ供給されたボールは、最後にはループを描いてゴールを割った。スタンドの沈黙にレアル・ソシエダの選手たちは快感を覚えているだろう。
「本当だ。美しい」
マリアは魅了されたようだ。もっとスペインのサッカーを好きになってほしいとリュウジは願う。
セビージャFCのベンチ横に動きがあった。
「あいつ、出るな」
眼下、パクがアップしているのが見える。
「あの人がリュウジの友だち?」
「ああ。どっちが今シーズン最初の得点をするか、競争してる」
後半十五分、セビージャFCは1点負けていたが、ボランチのパクをピッチに送り出した。これ以上、失点しないための手当てだ。
「アリーバ、パク」
小声だが声援を送る。
「アリーバ!」
リュウジより大きな声でマリアが声援を送った。リュウジと微笑みを交わす。
パクは次々とレアル・ソシエダの攻撃の芽を摘み取っていく。中央でボールをインターセプトすると、重戦車のようなドリブル突破を見せる。スタジアム全体が咆哮を上げ、思わずリュウジもマリアも立ち上がる。しかしパクはボールを持ちすぎて奪われ、ピッチに豪快に倒れこむ。スタジアムは一斉に落胆の声となる。
「ま、あれがあいつの限界だな」
迫力が取り柄の大型ボランチだった。テクニックはリュウジほど持っていない。だがパクは豊富な運動量でピッチのあちらこちらに顔を出して、敵を潰しにかかる。
スタジアム全体が諦めムードに覆われた頃、セビージャFCはラッキーチャンスをものにした。
起点はパクだった。前線へ長く蹴りこんだボールがディフェンスラインで浮き、そこに右サイドのガジャルドが果敢に飛び込んだ。焦ったDFがボールをクリアミスし、セビージャ育ちの若きFWアントニートの足元にそれが転がってきて、難なくゴールに押し込んだ。
スタジアムが歓喜で爆発した。残り五分で同点に追いついたのだ。セビージャFCの選手たちの中で、真っ先にゴールネットに絡んだボールを取りに行ったのはパクだった。
引き分けじゃ駄目だ、絶対勝ってやる。パクの全身から熱気が立ち昇っている。ワールドカップでも見せた韓国人選手の強さだった。
パクの自画自賛が今から想像できる。「あの同点弾は、俺のアシストのアシストってやつだな」と、鼻高々でゴールシーンを解説することだろう。今夜は疲れる聞き役になりそうだ。
「これがサッカーの面白さなんだ」
何が起こるのか分からないのがサッカー。
「本当ね。まさかこんなミスから得点になっちゃうなんて」
マリアもメインスタンドの興奮に当てられ、驚いている。
「ラグビーやアメフトと違って、サッカーはキーパー以外、手を使えない。足でボールを転がさなきゃいけないっていう制約が、どうしてもたくさんのミスを生む。世界中のスポーツで、サッカーほど番狂わせが激しいものはないんじゃないかな」
引き分け狙いとなるとパクの起用は意味を持つ。疲れの見えるセビージャFCのディフェンスラインの中にあって、パクはそびえ立つ壁だった。コバチェビッチとの空中戦でも引けを取らない。
短いロスタイムが終わり、終了のホイッスルが鳴る。サポーターたちはこの引き分けで満足のようだ。追いついたことに意味がある、と理解してくれた。
パクは厚かましくコバチェビッチの許に駆け寄り、ユニフォームの交換を申し出る。ユーゴスラビア人は快く応じてくれた。それも後で自慢のネタになることだろう。
ゲーム後、行きつけの日本食レストランでパクと落ち合うことになっていた。マリアを紹介してやって、セビリアにやってきてまだ女っ気のないパクを羨ましがらせてやろう。
「さあ、次は日本食に初挑戦してもらおうか」
「さっきからお腹が鳴ってばかり」
初めての日本食を経験するため、マリアはハーフタイムでも生ハムのサンドイッチを口にしなかった。
出口が詰まってなかなか下りられない通路で、リュウジはマリアの手をしっかり握った。
リュウジはパクと二人がかりで、マリアに箸の使い方を教えてやった。どさくさ紛れにマリアの手を握ろうとするパクには、厳しく注意をしてやった。
行きつけの店「KYOTO」のテーブルには、キュウリの酢の物、刺身、天ぷら盛り合わせ、照り焼きチキン、ご飯と味噌汁などがひしめき合っている。パクはいつものように容器に入ったチャンジャを、女将のヨーさんのご厚意で持ち込んでいる。
チキンを箸でつまんで口に入れたマリアは、「うん、美味しい」と言う。刺身にも果敢に挑戦し、気に入ったようだ。パクが勧めるチャンジャをしげしげと気味悪そうに見た後、意を決して口に放り込んだ。
辛さはしばらくするとやってくる。咳き込み、目を丸くし、汗をかき、パクに大笑いされた。
試合後三十分で店にやってきたパクは、マリアを紹介してやると、鬼のようだったピッチでの顔つきから一変、眉を下げてニヤけ、「よろしく、リュウジ君の大切な友だち、パク・ジョンウォンです」と軽薄な自己紹介をした。
「あの同点ゴールは俺のアシストのアシスト」
予想した通りの自慢。
「コバチェビッチのユニフォーム、見る?」
うるさいから見てやることにした。
マリアが「走る姿が物凄い迫力で、圧倒された」と正直に感想を言うと、パクは調子づいた。褒めるとつけ上がる。
「レアル・ソシエダの勢いは俺たちが止めたな。カルピンはちょっと削ってやると頭に血が昇ってプレーが目茶滅茶になるし、デ・ペドロなんてワールドカップのショックをまだ引きずってるみたいでさ、俺を見て『韓国戦の悪夢を思い出した』ってなツラなんだよ。何たってバスクの連中は暗い! 背中丸めてドリブルするなって言いたいよ。いつも寒空の下でサッカーやってると、人間、縮まるんだな」
適当に相槌を打っておく。
注文したものでテーブルが賑やかになる頃には、初対面とは思えない親しげな空気が出来上がっていた。
「故郷は? 兄弟はいるの? お父さんは何してる人?」
パクの詮索好きが始まった。「韓国人って初対面で何でも知りたがるみたいだから、気を悪くしないで」と予備知識を与えておいてよかった。マリアは嫌な顔ひとつせず、軽やかに答えた。
そこにはリュウジが初めて知ることもあった。
「パパは漁師をしてたんだけど、私がまだ赤ちゃんの頃、嵐の海で遭難したの。結局、船も死体も上がらなかったから、今でもどこかで漂流していて、いつか必ず帰ってくるってママは信じてるみたい」
悲しい話だと思った。
「ママは海辺で小さなペンサオを経営してるの」
ペンサオとは安宿のこと。マリアの母親は客の世話が一段落つくと、海に面したバルコニーで安楽椅子に揺られて水平線の彼方を眺め、夫の船が帰ってくるのを待っているという。
「食卓にはパパの椅子がまだある。食事はいつでも必ず三人分作る。私、そんな家がだんだん息苦しくなって……フラメンコはただの口実だったのかもしれない。早く故郷から出たかった」
マリアは深刻がらずに喋っているが、パクは感情移入したみたいで、やたらと神妙な顔で聞いている。
「私が家を出た後も、ママは三人分の食事を作っているのかな」
リュウジは日本の母を思い出した。スペイン行きを告げた後の殴り合いの喧嘩。旅立つリュウジに、背中を向けたまま「生きて帰っておいで」と告げた母は、肉皿が息子の好物であることを忘れず、今でも客に振る舞っているだろう。
「そりゃ三人分、作ってるさ」
リュウジが確信して言う。パクが「本人がいてもいなくても、いつも三人家族なんだよ」と続く。お前、たまにはいいこと言うじゃないか。
マリアは二人の言葉に微笑み、次は味噌汁の碗を手にし、啜ってみる。
「そのスープ、日本では『母親の味』なんだ」
マリアは何口か啜って、
「……うん、何となく分かる。体が温まるもん」
わかめがマリアの唇にぺたりと貼りついた。
「で、昼間はフラメンコの学校に通いながら、どんな仕事をしてるの」
パクの質問攻めが再開した。マリアはどう答えるのかと、リュウジは横目で探り見る。
「昨日からウェイトレスを始めたの。アルカサル近くの『トレ・デ・ラ・プラタ』って店」
え? となるリュウジ。俺が二日に一度は通う店だ。マリアに奇襲されて、「話があるの」と怖い顔で詰め寄られた場所でもある。いつの間にあの店で職を見つけてきたのか。パコとキケが「店の看板娘になる」と大喜びで迎えたことは想像できる。
マリアは悪戯っぽい目でリュウジをチラと見返す。驚いたでしょ、と言いたげだ。
リュウジがポストに落とした五千ユーロで、マリアは夜の仕事をする必要はなくなったのだ。「トレ」は安月給だろうが、真面目に働けば、そこそこの金はもらえる。
それに店は午後十一時に閉まる。あそこで遅い夕飯を一緒に食べて、一緒にアパートに帰ればいい。
マリアとの安らかな日々がこれから始まると思うと、心が弾む。
「パク」
むしょうにサッカーの話がしたくなった。「アトランティコのセンターバック二人はどのくらい強い?」
明日のエスパニョール戦を終えたら、次はホームにアトランティコを迎える。リュウジはどうしても古巣との対決に出場したい。パクたちセビージャFCはプレシーズンのゲームでアトランティコと対戦している。センターバック二人はリュウジが移籍した後に補強した選手だ。
「教えてやるよ」
パクは大皿の上で焼き鮭をゴールに見立て、照り焼きチキンふたつをセンターバックの位置に置いた。
「俺が右サイドからクロスを上げた時、うちのFWに対するマークの受け渡しが遅れて……」
大皿の上は作戦ボードになり、マリアも覗き込み、話に懸命についていこうとする。
アトランティコ戦を勝利で終えたら、マリアの待つ「トレ」で乾杯ができる。それが今のリュウジのささやかな夢だった。
アウェーでエスパニョールを破り、その週のUEFAカップ三回戦の二戦目も勝利したベティスは、シーズン開幕当初の好調ぶりに戻ったかのようだ。
アトランティコ戦を目前にした練習では、レギュラー組はカップ戦の疲れを取るため軽めだったが、サブ組は激しいミニゲームで汗を流すことになった。ストレッチを終えてロッカールームに戻ろうとするマルコス・アスンソンとデニウソンが、足を止め、サブ組の熱気につい見入ってしまう。
「リュー、判断が遅いぞ」
「ボールと遊ぶな、シンプルにいけ」
ベンチにどっかり座ったブラジル人二人が、しきりに声をかけてくる。
キーパーのガスペルチッチと一対一になると、リュウジは冷静にボールを浮かせ、ループで入れた。ブラジル人二人の拍手がミニゲームをやたらと盛り上げてくれる。五対五だったゲームに、二人が飛び入りすることになった。監督は「ほどほどにしておけよ」と注意するが、ブラジル人は楽しいサッカーを目の前でやられると体が疼《うず》くようだ。
ありがたいことに、マルコス・アスンソンが中盤の底につき、右にリュウジ、左にデニウソン、という本番同様の布陣になる。アトランティコ戦を想定できる。
「ホアキンも呼んでこい」
デニウソンがグッジョンソンに言う。いっそのことホアキンを右に入れて、真ん中にリュウジを置いてやろうとする。リュウジのテクニックが最も生きるのは三百六十度動けるトップ下であることを、デニウソンは知っている。使い走りにされたグッジョンソンがロッカールームを覗いて、すぐ戻ってきた。
「マッサージもやらずにすぐ帰っちゃいました。例の韓国人の追っかけがまたやってきたみたいで」
韓国でのワールドカップで悲劇の主人公となったホアキンには、熱烈な女性ファンがついた。今シーズンが始まる頃から、二人の韓国人女性が何度となくセビリアにやってきて、ホアキンを練習グラウンドから自宅まで追っかけているらしい。
リュウジも練習グラウンドのスタンドで二度ほど見かけたことがある。度の強い眼鏡をかけ、肉付きのよい、まるで双子のような印象の二人組だった。グラウンドをランニングするホアキンが近くに来ると、大砲のような一眼レフのカメラでバシャバシャと連写するのだ。
ミニゲーム再開。マルコス・アスンソンから縦にパスをもらうと、相手DFを背にしてキープし、前を横切るデニウソンに左足アウトサイドでちょこんと出す。リュウジは左サイドに移り、デニウソンから鋭くグラウンダーで入ったクロスをダイレクトでゴールに入れた。巨漢のガスペルチッチが芝を転がった。
監督が「悪くない」という表情で、しきりに頷いている。
間違いない。アトランティコ戦はベンチ入りできる。
マリアが「トレ」で働き始めて四日になる。リュウジは夜の九時頃に店に現れ、白いシャツに蝶ネクタイという、キケとお揃いの恰好の彼女に「オラ・ブエナス」と迎えられる日々だった。
パコとキケと、そこらにいるベティコたちも加わって「ベティスはいかにして上位にとどまるか」というテーマで議論になるが、リュウジは上の空で、しなやかな動きで厨房からテーブルに料理を運ぶマリアの姿を目で追っている。
店|終《じま》いまで空腹を我慢して、従業員たちと賄《まかな》いの夕飯を一緒に食べる。そしてマリアと肩を並べて帰る。アパートまで五分もかからない。
「どっち?」とリュウジが訊く。
片づいている部屋の方に入る。バスタブの中で二人一緒にシャワーを浴び、リュウジが練習で痛めた場所をマリアは石鹸をこすりつけ、丹念にマッサージしてくれる。
そして、たっぷり時間をかけて抱き合う。マリアが買ってきた二ダースの避妊具はふたつに分け、二人の部屋、それぞれのサイドテーブルに置かれた。このままのペースで毎晩抱き合っていたら、すぐになくなってしまうだろう。ドラッグストアで今度それを買ってくるのはリュウジの番よと、マリアには言われた。
リュウジの部屋で時を過ごす場合、マリアは泊まることなく、路地を渡って必ず自分のアパートに帰る。マリアの部屋で抱き合った後も、まどろんでいるリュウジは「ほら、部屋に戻らなきゃ」と促されてしまう。
二人は決して同じ部屋で朝を迎えることはなかった。
練習で疲れた体をゆっくり休めるためには、一人でベッドを独占し、自由に寝返りを打てるその方がよかった。彼女は気を遣ってくれたのかもしれない。
それでも、なぜ……と思ってしまう。彼女はなぜ、愛する者と一晩を過ごそうとしないのか。
些細なことかもしれないが、それはマリアとの間に横たわるひとつの謎だった。
アトランティコ戦に向けての戦術練習をみっちりやった金曜日の午後、リュウジはチェマの車でサンタクルス街に帰ってくると、その足で「トレ」に向かった。
金曜の夜はリュウジとデートをするため、アルバイトは昼の時間にしてもらったとマリアが言っていた。午後からフラメンコ学校があるなら、散歩がてら学校まで一緒に行って、マリアが教室で踊る姿を見せてもらおう。
カテドラル前の広場を通りすぎて、「トレ」が見えてきた時だった。マリアがパコに「お先に」と声をかけて出てくる姿を見た。声をかけようとしたが、マリアがあまりに早足だったので機会を逸した。
彼女は路地を抜けて、車の往来の多いクリストバル・コロン通りに出ようとする。走って追いつこうと思ったが、激しい練習で一度つりかけた右足が抵抗する。フィジカルコーチから「無理すると日曜のゲームを棒に振るぞ」と注意を受けた。
マリアは腕時計を見て、更に早足になった。
誰かと会う約束でもあるのか。誰だ。疑念がくすぶり始めた。マリアにはやはり、俺の知らない別の顔があるのかもしれない……。
リュウジは尾行する形になってしまう。
川沿いの大通りに出ると、イサベルU世橋を渡る。低層住宅のひしめくトリアナ地区に入り、川沿いに歩けば、マリアの通うフラメンコ学校まで徒歩数分の距離だ。
が、マリアは橋を渡っても、そのまま街中《まちなか》へと入っていく。学校のレッスンが始まるまであと三十分。どうやら時間に急《せ》かされた用事がある。
十二月の日差しであっても日焼けしそうな熱があって、そのバルのテラス席にもふんだんに降り注いでいる。
マリアを待つ男がいた。
萎《しお》れた襟の長袖のポロシャツを着た無精髭の男は、昼間からピッチャーでビールを飲んでいた。どんな仕事をしているのか定かでない風情だ。四十代。失業者ふう。右手の薬指に指輪が光っているということは妻帯者だ。スペインでは日本とは逆の手に結婚指輪をはめる。午後のビールが心地よい気分をもたらし、破顔一笑、マリアを向かい側の席に座らせた。
リュウジは街角に突っ立って、マリアと男の逢瀬に見入る。マリアは男の勧めるピッチャーのビールを断り、ウェイターに別のものを注文した。こちらに背中を向けて座っているので、表情は分からない。
凝視するリュウジは、こめかみを打つ自分の血を感じる。
二人は久しぶりに会ったようだ。「ちょっと見ない間に綺麗になったな」とでも言ったのか、マリアの美しさに目尻を下げた男は、指で彼女の頬に触れようとする。マリアは少しだけされるがままになったが、やがてよけた。
男の無駄話を遮るように、マリアは本題に入る。練習着の入った鞄から封筒を取り出し、男に差し出す。中身を覗き込む男は、肩をすくめる。
金だ。その厚みからすると、大金に違いない。
男にとっては長くマリアに貸していた金。戻ってきてもさほど嬉しくはない。これで完全にマリアと関係が切れることを残念がっている……と、リュウジは想像した。
コーヒーが運ばれてきたが、マリアは口をつけようとせず、財布からその代金を出そうとする。男は「いいよ」と止める。
じゃあ、ごちそうさま。マリアは席を立つ。男は「マリア」と呼びかけた。彼女は振り返らない。
「マリア!」
リュウジが潜んでいる場所にも、その野太い声が届く。
車道を隔てた向こう、マリアはリュウジの前を通りすぎていく。男の呼びかけには応えない顔、その眉間には苦痛を堪えるような、深い皺が刻まれている。
リュウジは再び、マリアの後ろ三十メートルを歩く。
昔の恋人だったに違いない。借金の清算。リュウジと同様に、彼女の魅力に引きずられ、手持ちの小金を貸し与えた男。マリアは腐れ縁をひとつ清算した。リュウジがポストに落とした五千ユーロから、いくらそれに使われたのだろうか。
清算しなければならない関係は、それで終わりなのか……。
好きでもない男に抱かれたのは三度だと彼女は言った。その中にさっきの男は含まれているのだろうか。
マリアが建物に消えた。フラメンコ学校はグアダルキビール川沿いのビルのワンフロアにある。テラスに回ると、窓からダンサーの卵たちの踊りを覗くことができる。
二時ちょうどになって、黒い練習着のマリアがフロアに駆け込んでくる。十人ほどの女性たちが、樽のように太った先生の指導で「歓びの踊り」と呼ばれるアレグリアを始める。
リュウジは頭を空っぽにして見つめる。
上級クラスにいるマリアは、リュウジのひいき目かもしれないが、他のダンサー志望者と比べても、優雅さと激しさがひときわ目立っていた。
彼女には間違いなく才能がある。
マリアが踊る順番を終え、はずむ胸元に汗が光り、小休止に入った時だった。窓の外のリュウジに気づいた。あら、という顔になる。
リュウジがさっきから自分の踊りを見ていたのだと知って、汗ばんだ頬に照れたような微笑みを浮かべる。
リュウジは腕時計を示し、両手で「七時」のサインを送る。約束通り、七時にあの場所で待ち合わせ、という合図だった。
マリアは頷く。すぐに踊りの番が回ってきて、また床を強く踏みならし、全身で「歓び」を表現する。
リュウジはテラスから去る。先生の手拍子と彼女たちのサパテアードが遠ざかっていく。
そろそろ人々がシエスタに入ろうとする時間で、川沿いの道には人通りが少ない。のろのろした歩調で橋を渡る。グアダルキビール川は昨夜の通り雨のせいか、茶色く濁っている。
橋の欄干に手をつき、川面を眺める。色とりどりのライフジャケットを着た小学校高学年の子供たちが、コーチの指導でカヌーに乗っている。大きな観光船が近づき、カヌー初心者らしき少女が進路を邪魔してしまう。観光船の船長が「右か左か、どっちかに行け!」と怒鳴るが、少女は不器用にオールを漕ぐだけで、カヌーは思うように動かない。
「早くどけ!」
「……そうしようとしてるんだけど」と半ベソの顔だ。
コーチのカヌーが助けにやってきて、少女のカヌーを引き寄せようとする。「川の真ん中を通らないよう教えておけ」と怒鳴り散らす船長に、「初めてなんだからしょうがないだろう」と言い返す。自分のせいで大人たちが喧嘩を始めたので、少女はいたたまれない表情になる。ままならないカヌーを焦って立て直そうとしたため、川にどぼんと落ちてしまった。
観光船の甲板に、カメラを下げた日本人らしき観光客がいる。人の不幸がそんなに面白いのか、ライフジャケットの少女が川面であたふたしている様子を撮影している。
リュウジはそんな騒動を見ても何の感情も湧かず、橋を離れ、また歩きだす。
考えていることは、たったひとつだった。
マリアから金を返してもらい、その後ろ姿に未練がましく名前を呼びかける男。
あれは未来の俺ではないのか……?
セビリア大学法学部のバロック様式の建物は、かつて王立タバコ工場だった。
十八世紀当時、葉巻の生産は国家事業として独占されていたので、建物の周囲は壕《ほり》と見張り塔で厳重に警備された。広大な敷地内には密輸を企てた者を収容する牢獄もあったという。
「カルメン」の舞台となったのがここだ。タバコ工場で働く自由奔放なジプシー娘カルメンに、衛兵ドン・ホセが魅せられた。最後には落ちぶれたホセが嫉妬心からカルメンを刺し、「俺の愛しいカルメン!」と叫んで幕となるオペラを、リュウジは語学学校の教材ビデオで見せられた。
厳《いか》めしい正面入口で、マリアと待ち合わせをすることになっていた。
リュウジは約束の時間に五分遅れた。夜七時でもまだ陽は西にあるが、大学構内は濃い影に包まれ、マリアは行き交う観光客の中、ぽつんと突っ立っていた。
「悪い。遅れて」
リュウジは笑みを作り、声をかける。
「大丈夫、チケットはもう買ってあるから」
これから大学構内を突っ切り、裏門から出て、近くの劇場に行く。マリアお勧めの現代フラメンコを見るためだ。
「今日、わざわざ見に来たの?」
「近くを通りかかったから、学校ってこの辺じゃないかと思って……踊ってた中じゃマリアが一番うまかったよ」
「どうかな」
マリアは満更でもなさそうだ。
ロペ・デ・ベーガは市民劇場と呼ばれる通り、敷居は高くない。市民や観光客は軽装でやってくる。マリアが前売りで買ったのは前から三列目の席で、一席三千円ほどだ。日本にいた頃も劇場なんてほとんど行ったことのないリュウジにとって、それは高いのか安いのか分からない。
劇場前に来ると、開場したばかりで、列を作っていた人々がチケットをもぎってもらい、アーチ型の玄関をくぐっていく。酒造メーカーのPRなのか、劇場のサービスなのか、古式ゆかしい衣裳を身につけた男性が、大きな樽から長いひしゃくでマンザニーリャを汲み、紙コップで客たちに振る舞っている。
未成年のリュウジとマリアも、もらうことにした。シェリー酒に似たねっとりした味わいで、大人の社交場に来たという気分になる。
赤いビロードの幕で覆われた劇場内は、見上げれば四階席まである。フラメンコ・ファンの観光客で七割ほどの入りだった。
演目が始まった。舞台にはスクリーンがあり、精子と卵子の結合から細胞分裂を起こす映像が流れる。やがて舞台上から、子宮を意味する袋が下りてきて、中から白いタイツの男性ダンサーが登場する。どうやら一人の男の誕生から死までを描く物語らしい。
主人公の少年時代がスクリーンに流れる。魚市場でステップを踏むと、舞台では男性ダンサーが水を張った床の上で踊る。
青春時代、主人公は友人と二人でサッカーのゲーム中、ドリブルふうのフラメンコを見せる。衣裳を剥ぎ取ると、二人はセビージャFCとベティスのユニフォームを着ていて、客席から拍手が起きる。
最初は舞台に集中していたリュウジも、やがて上の空になる。
隣のマリアを盗み見ると、批評家のような厳しい目で、ダンサーの動きを追っている。
マリア、俺が君のためにできることは何だ……?
「面白かった?」
と訊かれて、リュウジは「ああ」と返事をする。劇場を出て、マリア・ルイサ公園沿いにあるバルで食事をすることにした。アグア・コン・ガスを渇いた喉に流し込んだが、喉元は爽やかにならない。
「どうしたの?」
リュウジの硬い表情に、マリアは剣呑《けんのん》な空気を感じる。リュウジにとっては精一杯のポーカーフェイスだったが、胸の中でとぐろを巻く感情は隠しようがない。
「訊いていいかな」
「……なに」
マリアは警戒の表情になる。秘密を隠し持った女の顔だとリュウジは思った。
「あと、どのくらい金がいるんだ?」
「何の話」
「自由になるには、あとどれだけ必要なんだ?」
ざわめく店内で、二人のテーブルだけが重苦しい沈黙になる。マリアの凝視にリュウジは耐えられなくなり、先に目をそらした。
「見たの?」
マリアが悟った。「偶然通りかかったなんて、嘘ね。学校に行く前の私を、見たんでしょ?」
「ああ。マリアは男に会って、金を渡してた」
抑制しようとしても、言葉に棘《とげ》が生える。
「セビリアに出てきたばかりの頃、一時期、助けてもらった人」
パトロンというわけか。
「リュウジのお金を使わせてもらった。改めてお礼を言うわ。ありがとう」
悲しげな眼差しでリュウジを見つめ、どこか事務的に言う。
「自由になるにはあといくら必要かって質問ね?」
「もういいよ」
「五千ユーロよ」
リュウジから借りている金額だった。あと五千ユーロが必要、という意味ではなかった。リュウジから金を借りている限り、自由ではないとマリアは言いたいのだ。マリアを自由にさせようとして、実は彼女を束縛していたことにリュウジは気づく。
「愛してる。だから、俺は……」
マリアの助けになりたかった。金を渡すことは、愛だった。
「金をやったんだから俺の言うことを聞け。俺の女になれ……リュウジにそんな気持ち、ない?」
ないと言えば嘘になる。これまでどんな男と寝た。どんな汚れ方をしてきた。隠し持っている秘密を全部言ってみろ。そう言い放ちたい衝動に駆られる。
「もう帰ろう」
マリアが席を立つ。ベニサシのフライもムール貝のマリネも手つかずのままだった。
サンタクルス街までの徒歩十五分、マリアが足早に歩き、リュウジがついていくという恰好になる。
恋愛に金を絡めてしまうと、男女の関係はこうなる。物事の真理を見た思いだった。
だが放っておいたら、マリアは何人もの男に抱かれる羽目になる。どうすればよかったのか。どこで間違えたのか。マリアのような女を愛したこと自体が間違っていたのか。
路地をいくつも抜けてアパートの前に辿り着くと、マリアが振り返り、「どっちで?」と言った。
リュウジの部屋か、マリアの部屋か。
答えるかわりに、リュウジは鍵を取りだした。
急傾斜の階段を上り、部屋に入ると、マリアはすぐにバスルームに入る。いつもだったら一緒にシャワーを浴びるところだが、リュウジはダイニングの椅子に腰掛け、昼間つりそうになった右足のふくらはぎを揉む。足よりも心を落ち着かせたかった。
金か……。
リュウジは心で呟く。使い道がなく、銀行口座にうなっているものが、リュウジは憎く思えてならない。
シャワーの音が止まり、白い肌から湯気を放つマリアがバスタオルを胸に巻いて現れた。リュウジは目を合わさず、入れ替わりにバスルームに入る。熱のこもった個室で、無心でシャワーを浴びた。
マリアはバスタオルを巻いたまま、ベッドの縁に腰掛けて待っていた。リュウジが全裸でやってくると、注文を受けたようにはらりとタオルを脱ぎ捨てた。
ベッドに横たわる。どうぞ自由にして。全身がそう告げている。金で買われた女の姿を、あえて演じようとしている。
リュウジの心は虚《むな》しさでいっぱいだったが、「愛してる」というマリアの喘ぎ声を聞けば癒されるものがあるような気がした。
無抵抗のマリアを抱いた。彼女の体に熱を送ろうと懸命になった。
「愛してる」
リュウジが囁くが、マリアは息を弾ませるだけだった。
「愛してる?」
言ってくれ、と願い、激しい動きの中でリュウジは繰り返す。やっとマリアは「愛してる」と言ってくれたが、油を無理やり差された機械が放つ声に聞こえた。
避妊具を使って終えると、リュウジはマリアの隣に横たわる。他に言葉が思いつかない。「愛してる」なんて、この世で最も虚しい言葉に思えてきた。
愛って何だ。
マリアのサパテアードによって剥がれた漆喰は、今、二人が見つめている天井から降ってきた。
「ボタン雪の夢を見た……」
息が鎮《しず》まると、リュウジはぽつりと言う。
「子供の頃、妹と並んで見上げた雪……君の故郷には、雪は降る?」
「ううん。滅多に」
「雪だと思ったら、漆喰の粉だった。君の踊りがそれを降らせて、ボタン雪の夢になった」
「掃除が大変だった? ごめんね」
またしばらく沈黙が続き、マリアは起き上がった。リュウジに背中を向けて下着と服を身につける。
「おやすみ」
振り向きざまリュウジの額に軽くキスをして、部屋を出て行く。リュウジはベッドから見送るだけで、「おやすみ」と告げた時にはすでに、マリアの姿はドアの向こうに消えていた。
階段を下りて行く彼女を、建物の微かな震動で感じることができる。マリアはやがて路地に出た。石畳を渡る。自分のアパートのドアを開ける。気配は遠のいていく。
ベッドから起き上がって窓を見下ろせば、マリアの部屋の明かりを見ることができるが、リュウジは動かず、ボタン雪の夢を降らせた天井を見つめ続けた。左手がさっきまでマリアの寝ていた場所を探る。彼女の体温はまだかろうじて残っていた。
シーツから薄らいでいく熱に別れを告げ、リュウジは明日の練習のため、眠ろうと努力した。
3[#「3」はゴシック体]
エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラでの前日練習は夕方からだったが、リュウジは右足の状態が気にかかり、午前中のBチームの練習に加わった。
ふくらはぎに張りは残っていたが、プレーに支障はない。先発メンバーだと九十分もつだろうかと心配になるが、リュウジの出場機会は後半残り二十分というのが相場である。
ミニゲームで二発ゴールに叩き込むと、いい感触を右足に刻みつけたまま練習グラウンドを後にする。アパートに帰ってゆっくり体をほぐし、シエスタをとり、スタジアムに出かけるつもりだった。
チェマの迎えはないので、リュウジはバッグを持ってバス停への道を行こうとする。ゲートをくぐったところで背後からクラクションを浴びた。代理人ペドロサのベンツだった。
リュウジは夕方の練習に備えて昼間から体を動かしているに違いないと見当をつけ、やってきたみたいだ。
「話がある。乗ってくれ」
黒いサングラスで覆われた顔から表情は読み取れないが、言葉が短くて鋭い時は、何か厄介な問題を抱えている。去年、父がリュウジの私的代理人になろうと契約を求めてきた時も、ペドロサは同じような仏頂面で、「本当にそういう約束を交わしたのか」とリュウジを詰問した。
リュウジは後部座席にバッグを放り込むと、ペドロサの表情を窺いながら助手席に身をくぐらせた。
漠然と、ペドロサの用件が予測できた。
「クラブ側から注意を受けた」
多分、あのことだろう。
「ベティスの未成年の選手が、いかがわしい酒場に出入りし、深夜まで女性と街をうろついているという噂がロペーラ会長の耳に届いたそうだ」
誰がチクったのだろうか。ロペーラの知人が街で見かけて教えたのかもしれない。とにかく地獄耳の会長である。
「事実か?」
「……はい」
「売春婦と付き合っているのか?」
「いえ」
「遊びか?」
「いえ」
「リュウジも知ってるだろう。ハロウィンで馬鹿騒ぎをした選手のところに押しかけるような会長だ。若い選手がいかがわしい酒場の女と付き合っているなんて、ロペーラが最も嫌うスキャンダルだ」
「ですから、いかがわしい女なんかじゃありません」
「噂を聞きつけた会長は、すぐに監督に電話を入れたようだ」
絶望的な気分になる。
「今日を含めた年内の二試合は、ベンチ入りもできない。一種の懲罰だ」
今夜のアトランティコ戦には出られない。ショックはショックだが、思ったより軽い罰だった。年内のもう一試合はホームでのオサスナ戦だった。
「今夜はスタンドで見るか? 会長は自宅謹慎にしろと言っているらしい」
「ならいいです。テレビで見ます」
ベンツはエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラの前を通りすぎて、大通りに出る。気の早いサポーターが緑色のマフラーを巻いて広場にたむろしている。
「分かっているだろうが、もうすぐ移籍期間が始まる。謹慎している間にまたよからぬ噂が飛んだら、完全移籍の話も立ち消えになるぞ」
クラブ側との話し合いでは、ペドロサは好感触を得ているという。スーパーサブ的に使われたゲームでコンスタントに結果を残せば、ベティスに必要な攻撃的中盤の選手として完全移籍も夢ではないというのが、一週間前の話だった。リュウジはまだ結果らしい結果を残していないが、少なくとも練習ではビクトル・フェルナンデスの目に留まっている。
「ロペーラがいくら日本市場に色気を見せているといっても、リュウジが使い物にならないと分かればさっさと手を引く。そこらの見切りの付け方は早い人だ。アトランティコに戻されて居場所があればいいが……」
ないだろう。二部のチームにレンタルされるのはまだいい方で、最悪はアトランティコのBチームで飼い殺しにされる。アランフェスに愛着はあるが、ベティスで失敗して戻ることになったら、また一からやり直しだ。
土の練習グラウンド。壊れたフリーキック練習器。土煙の舞うラフプレー。
イヤだ。あそこには戻りたくない。
「悪いことは言わない。その女とは切れろ」
マリアのせいなのか?
「そういう女とどうやったら切れるか、教えてやろうか」
「いえ、大丈夫です」
代理人にそこまでケアされたくなかった。第一、ロペーラ会長の誤解で物事が進んでいることに我慢ならない。
「我慢しろ」
ペドロサはリュウジの気持ちを見透かしたように、諭す。
「酒と女は、しばらく我慢しろ」
だからそれが誤解だと言うのだ。リュウジはしかし、反論する気力もなかった。未来への扉が閉じられようとしていることに、ただただ打ちのめされていた。
スタジアム観戦をしなくていいと言われた以上、日曜の夜はアパートの部屋にこもるしかなかった。リュウジにはやけ酒を食らう場所はない。うっかり街に出ればベティス・サポーターに出くわすだろうし。
窓から見下ろすと、マリアの部屋には明かりはない。学校のレッスンのない日曜の夜だというのに、どこで何をしているのか。「トレ」で働いているのだろうか。
昨夜も明かりは見えなかった。前日練習から外れたリュウジは、肉離れで自宅静養になったグッジョンソンの見舞いに行き、ステーキを焼いてやった。彼とは何でも話せる親友というわけではないが、チーム内で年齢が近いせいもあり、一番付き合いやすい男だった。きっと人恋しかったのだろう。同じように練習から外れたチームメイトと一緒にいれば、悔しさも寂しさも紛れると思ったのだ。
グッジョンソンとステーキ肉六百グラムを平らげて深夜に帰宅すると、マリアは留守だった。今日の昼間も窓に気配はなかった。バルコニーのゼラニウムは、水をやる人間もなく、色あせて見えた。
国営放送でアトランティコ戦が始まった。
改修工事が止まったままのアウェー側のスタンドから聞こえてくるのは、リズミカルな太鼓の音。アランフェスから太鼓を抱えてやってきたペペに違いない。発表されたリザーブのメンバーにリュウジの名前がなくて、ペペとアリシアを失望させたことだろう。
引いて守るアトランティコに、デニウソンもホアキンも早めに攻撃の芽を摘まれ、奪われたボールを追いかけるシーンが目立った。
ベティスのワントップはカサス。ポニーテールをなびかせて前線に走り込むが、アーリークロスはDFにカットされ、無駄走りになる。
リュウジが移籍した後に加入したアトランティコの二人のセンターバックは、昨年のアトランティコの少ない美点のひとつだった守備の意識を更に高めている。会長が目指した攻撃的なチームにはまるでなっていないが、とりあえず、チームは中位に位置している。
退屈な前半が終わった。
テレビの解説者が、「週半ばにカップ戦をやった後で、ベティスの選手は体が重そうだ」と、至極当然なことを大発見のように言う。中三日でゲームをする疲れを教えてやりたい。
いや、むしろ俺が教わりたい。連戦の疲れというものをリュウジはまだ体験していない。
後半が始まる。監督は次々と交代のカードを切ってくる。ボランチの一人を削ってフェルナンド投入。それは俺の役目だ、とリュウジは思う。
ホアキンをアウトさせ、フィリペスクを右サイドバックに入れ、バレラをホアキンの位置に上げる。ホアキンを替えるなら俺だ、と思う。
交代の選手がピッチに立つたびに、リュウジの欲求不満に拍車がかかる。
自分がピッチに立った時のプレーがイメージできる。つっかける、フェイントをかける、相手DFを置き去りにする、ディフェンスラインをかき回す……。
苛々《いらいら》と貧乏揺すりでテレビ画面に向かう。
「あっ」
怪我から復帰したもののゲーム勘が戻っていないフィリペスクの右サイドがあっさり抜かれた。
「おいおい」
ペナルティエリア横からふわりと入ったクロスに、二列目から突進してきたMFがゴール前の混戦から押し込んだ。
「止めろ」
ゆるいボールがプラッツの指先をかすめ、ラインを割った。
後半三十五分、アトランティコ先制弾。静まりかえるスタンドで、ペペの太鼓がひときわ高らかに鳴る。
残り十分、ベティコの熱烈な声援が選手たちには逆にプレッシャーになるという、最悪の展開になった。アトランティコは逃げきり態勢だ。ベティスはボールを支配するが、ゴールの鍵を開けることはできない。デニウソンの悪い癖も出た。トリッキーなボールさばきからシュートを放つが、大きく外れ、ゴール裏まで飛ぶ。ボールを受け取ったベティコが、怒りをあらわにフィールドに投げ返す。
監督は三枚目のカードを切る。カップ戦の疲れが残っていて、できれば休ませたかったアルフォンソを投入した。
が、焦りがシュートの精度を奪う。シュート数で勝敗が決まるなら、今夜のベティスは圧勝だった。
時間だけが過ぎていく。ロスタイム五分は審判の慈悲かもしれない。しかしベティス攻撃陣は空回りを続ける。アトランティコはボールをキープし、コーナーフラッグのあたりで露骨な時間稼ぎをし、ベティコたちから激しいブーイングを浴びる。
タイムアップ。笛が三度鳴る。
リュウジは緊張を解き、ソファにぐったり沈む。ホームでの痛い黒星だった。きっと今夜、街はあちこちで荒れるだろう。「トレ」でマリアが働いているのか覗きに行こうかと思ったが、リュウジが店に現れたら迷惑をかけるような気がして、やめた。
テレビではさしたる見せ場のなかったゲームのハイライトを放送している。
電話が鳴る。マリアでなければ、ひょっとして……と思った。
「リュウジ、エスタス・レシオナード?」
リュウジ、怪我でもしたの?
案の定、受話器から聞こえてきたのは、アトランティコの勝利で弾むアリシアの声だった。
「重傷。再起不能」
「出てきなさいよ」
本気にされなかった。アリシアは携帯電話からかけている。バックでアトランティコのサポーターズ・ソングを何人かが歌っている。警官たちの先導でスタジアムを出ようとしている途中のようだ。隔離されたアウェーチームのサポーターは、ゲームが終わると警官隊の保護下に置かれるのだ。勝った場合は特に厳重に。
「今夜外に出るのはツライもんがあるな」
「お爺ちゃんはすぐ車で帰っちゃうけど、わたしはセビリアに一泊するの。ホテルのロビーにいらっしゃい」
年は同じなのに弟扱いする癖は直っていない。ホテル名を告げられた。サンタクルス街のはずれにあるホテルだった。
「会って話したいことがあるの」
「何」
「会って話す。絶対来てよね」
一方的に切られた。やれやれ。リュウジは外出の支度を始める。キャップを目深にかぶって行くことにしよう。
ハーフタイムにホットドッグを齧っただけだと言うので、アリシアを「KYOTO」に連れてきた。
日韓ワールドカップで「特別海外特派員」としてスペイン代表に帯同したアリシアは、結局、日本のスタジアムに行くことはなかったので、日本食は食べそこねた。
スペイン代表が決勝戦に進出して横浜の土を踏んだら、リュウジの故郷を訪ねて、和風スナック「よしこ」の肉皿を食べてもらうはずだった。
「元気そうだな」
半年そこら会わない間に、ぐっと大人びて見えるのは気のせいだろうか。頬のあたりの無駄な肉が落ちている。意識して自分を磨いた成果だとしたら……。
「男、できたな」
アリシアは、えへへ、と笑い、「リュウジはカノジョ、できた?」と質問で返す。
「まあ、できたにはできたけど……」
俺の話はいい。「何だよ、会って話したいことって」
ヨーさんが焼き肉定食を運んできた。アリシアはやけにもったいぶっているし、腹ごしらえをしてからゆっくり聞くことにした。
「うちの肉皿とはかなり違うけど、ま、食ってみて」
サイコロ形の牛ロース肉を照り焼きソースでからめたものだ。アリシアは韓国の特派員生活で箸の使い方には慣れている。
「これが味噌スープか。美味しいね」
味噌汁が女たちには好評だ。
「日本人にとっては、母親の味ってやつ」
「母親か……」
アリシアはふと神妙な顔になり、もう一口、味わう。
「アトランティコ、いいゲームをしたな」
「前半0対0で持ちこたえて、後半に1点取ったら必死で逃げきるっていうのが今年の勝ちパターン。アランフェスでは不評だけど」
「ペペ・デ・ボンボ」の常連客たちが、欲求不満で夜ごと、監督批判をしている光景が想像できる。
「リュウジがゲームに出たら、必ずユーロ・スポーツの再放送を店で流すの。結果は分かっているのに、みんな凄い応援。今夜のゲームに出場してたら、アランフェスの人たちは複雑な気持ちだったろうね」
「出たかったよ」
溜め息が出る。
「本当に怪我なの?」
「全然」
ピンピンしている足を見せてやった。
「練習で調子上がらず?」
「かなり上向き」
「ならどうして」
「素行不良で懲罰」
「うそっ」
「俺の話はいいからさ、そろそろ話せよ」
焼き肉定食をおおかた平らげたあたりで、アリシアは日本茶を啜り、少し改まったふうだ。
「わたし、結婚するの」
日本茶にむせた。
「マジで?」と思わず日本語が出る。十七歳で結婚。スペイン女性の水準でも早婚だ。
「相手は」
「ワールドカップの取材で知り合った旅行コーディネーター。生まれも育ちもマドリードだけど、バルサのプジョルそっくりの二十五歳」
もじゃもじゃ頭のプジョルか。きっと愛嬌たっぷりの男だろう。
「一年の大半、世界中を旅してる人だけど、アランフェスに一緒に住んでくれるって言うし、お爺ちゃんも気に入ってくれて」
「なら最高じゃん」
韓国でデキちまったわけか。大人になったのか、この女も……と、リュウジはしげしげ見てしまう。
「リュウジには電話じゃなく、会って知らせたかったの」
「お祝いしなきゃな」
「そんなのいいよ。初ゴールを早く見せてくれたら」
謹慎が解けた来年早々のゲームで果たしてやろう。
「いくらアトランティコの応援でも、いつもはアウェーゲームまでは付き合わないんだけど、リュウジに会えるならと思って来たの」
「アリシアが花嫁か」
嬉しさに妙な寂しさが忍び込む。何だ、この感情は。俺、ひょっとして、この女を好きだったのか?
「セビリアに来たのは、もうひとつ目的があって……カディスがすぐそこでしょ」
セビリアからアンダルシア・エクスプレスに乗れば、二時間もかからない距離だ。
そうか、母親か。リュウジは思い当たる。
夫を亡くした後に恋人ができて、アリシアの母親は娘を残し、アランフェスからいなくなった。今ではカディスで四人の子供の母親だという。出奔してから一年に一人ずつ子供を産んだ母親は、三年前に家族写真を送ってきた。幸せそうな六人家族だったから、自分は決してカディス行きの特急列車には乗ってはいけないのだと、いつかアリシアが話してくれた。
「お母さんに会いに行くのか?」
「うん。結婚を報告したくて」
「喜ぶだろうな。住所は分かってるのか?」
「うん……でも、会うのがちょっと怖くてね」
一人で列車に乗り、不安げな顔でカディスに降り立つアリシアの姿を想像した。
「だったら、俺、一緒に行ってやるよ」
「え、いいよ」
「どうせ俺、素行不良で謹慎中だし」
「……本当に?」
「日帰りの距離だし、どうってことない」
アリシアにホッとした笑みが浮かぶ。「ありがとう、リュウジ……本当は心細かったの」
十年ぶりの再会だという。付き添い、見守ってやろうと思った。
デザートは汁粉だった。甘いもの好きのスペイン人の舌には合うみたいで、アリシアは初めての日本食を最後まで満喫した。
翌朝九時、サンタフスタ駅で待ち合わせをすることにした。
外に出たら肌寒かったのでウィンドブレーカーを取りに戻り、再び路地に出てきたら、頭上の窓が開いた。
水をもらって鮮やかな色を取り戻したゼラニウムに囲まれ、パジャマに薄いガウンを羽織ったマリアが顔を覗かせた。リュウジがアパートから出たり入ったりする気配を感じ、目を覚ましたのだろう。
「おはよう」
声が降ってきた。
「おはよう」
この二日、どこで何をしていたんだ? と訊きたかったが、堪えた。
「早起きね。こんなに早くから練習?」
「カディスまで日帰り旅行」
「そう」
誰と、何のための旅行なのか、マリアは訊かない。俺がどこで何をしても興味ないのだろうか。
「帰ったら会わないか。暗くなる前に戻れると思う」
「いいよ。午後から『トレ』にいる」
話さなければならないことがあった。ベティスでサッカーを続けるためには、君と別れなくてはならない。でも君を失いたくない。どうすればいい?
答えはまだ見つからない。今、何を言ってもマリアを傷つけてしまいそうだった。
「じゃ、行ってくる」
胸の内の混乱を悟られたくなくて、旅立つ。
「気をつけて」
リュウジは手を振って応え、路地を出る。カディスへの小旅行できっと自分を見つめ直すことができる。答えが見つかる。そう信じて、リュウジは恋人の視界から消え去った。
セビリア・カディス間のアンダルシア・エクスプレスは、地元サッカーファンにとっては少なからず思い入れのある列車だ。
これも「トレ」の主人パコから聞いた話である。かつてセビージャFCとカディスが揃って二部落ちした時、失意のサポーター連中が「この対戦カードを一部で見られない寂しさは、アンダルシア・エクスプレスに乗って癒そう」と自虐的に言ったという。列車の発着ボードに記された「セビリア〜カディス」に、彼らは未来の対戦カードを夢見たわけだ。
セビージャFCは暗黒の時代から這い上がったものの、カディスは恐怖の二部Bでいまだもがき苦しんでいる。ベティスのBチームと同じリーグである。
一泊旅行分のバッグを持ったアリシアとコンコース前で落ち合った。片道一人八ユーロのチケットは、彼女が買っておいてくれた。だったら朝食を奢《おご》ってやろうと思い、売店でチューロスとコーヒーを買ってきた。
列車はセビリアを出て二駅目までは地下を通るが、それからは地上に出て、眩しい日差しが窓から差し込む。
「晴れてよかった」
リュウジは窓に日除けを下ろす。最近のスペイン南部地方は異常気象らしく、天気予報も当てにならない。
「リュウジのカノジョって、どんな人?」
「フラメンコダンサーを目指すポルトガル人、俺よりひとつ年上」
「へえ。じゃあ、わたしがプレゼントしたCDは、少しは役に立ったわけね」
おおいに役立った。アリシアがくれたカマロンが、険しい表情で現れたマリアから微笑みを引き出してくれたのだ。
アリシアはそれ以上訊かない。素行不良ならばカノジョに原因があるのかもしれないと思ったのだろう、詮索はしなかった。
さくさくとチューロスを食べ、眩しくても日除けを上げて、窓外の風景を眺めることにする。
造成中の都市部を通りすぎると、すぐに田舎の風景になる。日本とは違い、だらだらと中途半端な街が続いたりはしない。茶色の大地に、くすんだ緑色のオリーブ畑。焼き畑の黄色い煙が、青空に吸い込まれていく。白い綿花が風に舞い、地上から降る雪のようだ。
一時間四十分の旅。カディスに近づくにつれて、広大な湿地帯が車窓に広がる。サン・フェルナンドを過ぎたあたりから、両側が海になる。右手が港のある内海で、左手が砂浜の美しい外海。まるで海の中を突っ走っている感覚だ。
ジブラルタル海峡の西側、大西洋に面するコスタ・デ・ラ・ルス(光の海岸)の中心地がカディスだ。終着駅は、旧市街のある半島部分の根元に位置する。
コンコースから出口の通路は煉瓦塀だが、駅の外観は近代的な造りになっている。建物の白壁と、大通りの中心を貫く椰子の並木が、南国ムードをかきたてる。
紀元前十世紀にフェニキア人が造った港町で、古くから海上交通の要衝の地として栄えた。十八世紀、スペインが七つの海を支配していた黄金時代には、海外貿易の出窓だった。今でも漁船や大型客船が岸壁を埋めているが、観光地としてはややさびれた印象だ。
アリシアは地図を広げる。かつてアリシアの母親から家族写真が送られてきた時、差出人の住所は書かれていなかった。消印はカディスの旧市街にある郵便局だった。
旧市街は通り名の表示がない細い路地も多く、迷いやすいとガイドブックに書いてある。リュウジは町並みの彼方に黄色い円形ドームのカテドラルを見つける。それをランドマークにして歩けばよい。
母親の名前はドローレス。九歳を頭に、四人の子供の母親。手がかりはそれだけである。
通行人に訊いて、まず郵便局を探した。
両側に商店のひしめく界隈を通りすぎると、市民の憩いの広場に、郵便局が全国共通のマークを掲げている。アリシアが窓口で暇そうにしている職員に声をかける。写真が送られてきた時の封筒を見せて、ここの消印ですかと訊く。
確かにここで集荷された郵便物だという。
「ドローレスという女性を知りませんか?」
六人家族の写真、その右端にいるふくよかな女性を示した。
「クルス・ベルデ」
職員が答える。アリシアが「クルス・ベルデ?」と訊き返す。街の名前だろうか。リュウジが地図を広げると、職員は指さして教えてくれる。
「店の名前だ。この街で一番まともなパエリアを食わせる食堂だよ」
ドローレスは食堂の女将だった。
「お嬢さんとドローレスおばさんは、どういう……?」
どういう関係なのかと職員に訊かれ、アリシアは誤魔化すことなく、「娘です」と明るく告げた。
職員は優しげに目尻を下げ、再会の幸運を祈ってくれた。
再び街路に出て、旧市街を南へと突っ切る。路地の両側には、色とりどりの花を咲かせる植木鉢がつり下げられている。スペイン人は家の壁や狭いバルコニーをやたらと植木で飾りたがる。
窓辺に釣り竿が置かれ、空に向かって林立している。古い港町の男たちは、折り畳み式の釣り竿なんて洒落た物は持たない。三メートル以上の竹製の釣り竿を家に置くとすると、ベランダしかないのだ。
地図にマーキングしてもらった「クルス・ベルデ」は、街の名前でもあり、地元の人々で昼時になると混み合うというシーフード・レストランの名前でもあった。
黄色い板壁に、様々なパエリアの絵がイラストで描かれた店だった。入口も窓も閉ざされている。ドアに紙が貼られている。
「本日臨時休業。御用のある方は教会へ」
ちょうど正午の鐘が聞こえてきた。リュウジが音源を探って、「あっちだ」と促した時、アリシアは別の方に目を奪われた。
店の裏手が住居らしい。煉瓦の仕切りで囲まれた庭に、洗濯物がずらりと並ぶ物干しがあった。大家族の下着が風に揺れている。母親の生活感を発見し、アリシアは食い入るように見つめる。
「さあ、行こう」
ゴールはすぐそこだ。「うん」とアリシアは応え、鳴りやんだ鐘の音が残響している方角へと、路地を進む。
それは祝福のチャペルだった。
教会で結婚式が行われていた。玄関前のプラザに、着飾った老若男女が群れをなす。新郎も新婦も地元出身者だろう、それぞれの友人が大挙して詰めかけ、親密な雰囲気でいっぱいだ。
午前中に式を済ませ、昼から食事付きのパーティとなったのだろう。プラザに料理のワゴンが並び、腹を空かせて待ちきれない子供たちがテントの下で食べ始めている。「クルス・ベルデ」自慢のパエリアも何種類か並んでいる。
「あの人……?」
リュウジが先に見つけた。家族写真に映っている姿より、ひと回り脂肪を身につけた中年女性が盛装で佇《たたず》んでいた。どうやら花嫁の介添え役を務めている。ドローレスの夫らしき陽気な男が、帽子を持って招待客の周りを歩き、お祝い金を集めている。
はやしたてる拍手。花嫁が照れくさそうな顔から、ドローレスに促され、意を決してウェディングドレスの下をたくし上げる。
何をするのかと思ったら、衆人環視の中でパンツを脱いだ。ドローレスがリボンのついた大きな鋏を渡すと、花嫁が自分のパンツを細かく切って、御祝儀をくれた人々にその切れ端を渡す。
へえ、そんな儀式もあるのかとリュウジは微笑む。
ギターが鳴り始める。手拍子がリズムを奏でる。招待客の中から踊り始める者が出てくる。祝福の踊り。歓びのアレグリアだ。
マリアのアレグリアを思い出した。
アリシアは人垣の向こうの母を見つめ、その横にいる満面笑顔の新婦を見やる。母が介添え役として付いている花嫁に、もうすぐ結婚する自分を重ね合わせているのだろう。
アリシアの目に涙が浮かぶ。
「行かなくていいのか?」
アリシアは言葉にならなかった。「これで充分」と言いたげに頷き、その拍子に大粒の涙がこぼれた。
「見て……花嫁さんを祝福して、お母さん、あんなに笑ってる」
ドローレスにとっては、花嫁は夫の親戚なのかもしれない。寄ってくる子供たちがドレスの裾を踏まないように、笑顔で注意をしている。
「わたしが近寄っていったら、あの笑顔がなくなってしまう。そう思わない?」
「でも、その後に抱きしめてくれるさ」
「今のお母さんにとって、わたしは思い出したくない過去だもん」
「毎晩思い出している過去かもしれないだろ」
「わたしは幻でいいの。実物が現れちゃ駄目よ。お母さんを過去に戻しちゃいけない」
「本当にそれでいいのか?」
「うん……わたしは大丈夫」
祝福の広場から後ずさり、踵《きびす》を返そうとして、もう一度、母親を振り返った。心の中で別れの言葉を唱えているのだろう。
さようなら、お母さん。わたしもお嫁さんになるの。わたしも幸せよ。
きっぱりと帰路へと向き直り、歩き始めた。歓びのアレグリアは止むことがない。通りかかった観光客もカメラを向ける結婚式の広場から、リュウジとアリシアは遠ざかっていく。
帰りのアンダルシア・エクスプレスでは、アリシアは車窓の後方へと流れる風景に目を凝らしている。
母のいるカディスを長く記憶にとどめようとしているのか。
アリシアの感傷を向かい側の席からそっと見守っていたリュウジは、自分自身を見つめることにする。
ドローレスという女性は、どんな事情があったか深く知らないが、過去を捨て、新天地で逞しく生き直し、ささやかな幸福を見つけた。
ドローレスにとって娘との別れがそうであったように、俺が日本を捨ててスペインにやってくるまで、多くの涙が流された。母がそうだった。妹がそうだった。リュウジは父にも別れを告げねばならなかった。
ドローレスはその時の涙を無駄にしたくなかったから、過去を振り捨て、強く生きようとし、幸せを掴んだのだ。
リュウジは荒々しいスペイン・サッカーに自分を投げ込み、国籍まで変えてもいいとさえ思った。別れを恐れたら、先には進めない。俺はまだスペイン・サッカーの入口に立っているに過ぎないのだから。
右足が疼いた。ふくらはぎの張りは完全になくなった。ディフェンスラインを切り裂いて、強烈なインステップでボールを蹴り、ゴールネットを揺らしたい。
しばらく逢えないかもしれない。
マリアにはそう告げよう。ロペーラ会長の馬鹿げた誤解が発端だとしても、今の俺にはベティスのサッカーが必要なのだ。
俺が逢いに行けるようになるまで待っていてくれなんて、身勝手なことを言うつもりはない。君に夢があるなら、君を愛そうとする男性が現れるなら、君はそれを選べばいい。俺は祝福できるかもしれない。歓びのアレグリアは踊れそうにないけど……。
考えている間に、セビリアのサンタフスタ駅に到着した。
アリシアは別の特急列車に乗って、これからアランフェスに帰る。二人はホームに降り立つ。
セビリアの街に帰り着いたら、列車の中で考えたことは確かな決意になっていた。
「いい旅だった。俺にとっても」
「もう迷いは消えた?」
リュウジの苦悩をアリシアも感じていた。だが彼女は彼女の事情で精一杯だった。リュウジの相談相手になれなかったことに、少し済まなそうな顔をする。
「一緒についてきてくれて、ありがとう」
「アリシア、幸せになれよ」
スペイン式の抱擁を交わす。頬にキスをする。
特急列車の時間まであと三十分もあった。見送ってやりたかったが、右足の疼きがリュウジをせき立てていた。
「ごめん。すぐに練習に行きたいんだ」
「そうして。早く初ゴールを決めて。頑張れ、リュウジ」
駅構内を染める西陽。暗くなるまでたっぷり時間はあった。リュウジは歩いてくる旅行者を敵DFに見立て、かわして走った。
隣の芝生のグラウンドでは、ベティスのユースチームが練習をしている。その向こうの土のグラウンドには、二色のビブスを付けたジュニアユースの子供たち。
リュウジはスウェットを着込み、トレーニングシューズに履き替え、まず景気づけでボールを空高く蹴り上げた。
ハーフウェイラインのあたりで大きく弾んだボールめがけて、リュウジは準備運動のステップを加えながら、走る。
戦うことのできなかったアトランティコの選手たちを空舞台にイメージし、リュウジはドリブルをする。
無心にボールを蹴る。
ユースの連中に「リューがいるぞ」と注目されているが、視界の外に追いやる。
走って、走って、ゴールマウスへ蹴る。回転の少ない弾道でボールはネットを揺らす。ユースの連中から歓声が上がる。
右サイドを走る。ゴールラインぎりぎりまでボールを運び、ゴール前にマイナスのクロスを上げる。アルフォンソがマークをかわしてヘディングで決めるシーンを想像する。
小休止を入れて、芝生に座り込み、ストレッチをする頃には、ユースやジュニアユースの子供たちは、親に連れられ、三々五々、帰っていく。
陽は暮れようとしている。無人の練習グラウンドに冷たい風が吹いてくる。それでもまだ汗は冷えない。
自分の蹴るボールを追いかけ、やっと疲れを感じ始めると、マリアの顔が脳裏をかすめた。
逢いたいと思った。
逢って、辛いことを告げなければならなかったが、それでも逢いたかった。
午後から「トレ」で働いている。マリアは今朝、そう言っていた。
夕食にはまだ早過ぎる店内には、ちびちびとシェリー酒のグラスを傾け、キケと世間話をしている常連客しかいない。
「マリアは?」
訊くと、キケはどことなく悲しげな表情で首を振る。
「何かあったの?」
「急に帰ることになったらしい」
彼女の故郷ポルトガル。アパートがある場所と同じ名前の町、サンタクルスだ。
「リュウジに渡してくれって、これを……」
キケが差し出す薄い封筒を、リュウジは手にするなり封を開ける。短い文面の手紙があった。
──ごめんなさい。急にクリスマスを故郷で過ごすことになって、帰ることになりました。お金は近いうちに必ず返します。リュウジにとって二〇〇三年がいい年でありますように。
帰郷の理由は書かれていなかった。
「他に何か言ってなかった?」
「旅支度をして今日の昼、店にやってきた。その手紙を俺に預けて、『しばらく店に出られそうにない』とパコに謝っていた。訳を訊いても詳しいことは教えてくれない。どうやら故郷で何かあったようだな」
海辺のペンサオで、帰らぬ夫を待ち続けているという老婦人の姿をイメージした。
リュウジはこの店のパティオで、マリアに告げるつもりだった。
「がむしゃらにサッカーがしたい。今のチームに必要とされるまで、君とは逢えない。勝手な言い分で済まない」
そこまで言うなら、マリアのアパートの真向かいに住んでいてはいけないと思った。しばらくグッジョンソンの部屋に居候させてもらうことにする。この間遊びに行った時から、奴はしきりに「ルームメイトにならないか」と誘う。
が、マリアの方からいなくなってくれた。
マリアは俺の気持ちを察して去って行ったのか。いや、それは見当違いもいいところだ。お前は本当に自分のことしか考えない大馬鹿野郎だ。
自己嫌悪と、クリスマスが過ぎてもマリアの顔を見ることができない寂しさで、リュウジは萎れ、椅子にべたりと座り込む。
故郷で何が待っているのだろう。マリアは今、どんな苦しみを抱えているのだろう……。
扉のガラスの向こうには、冷たい風の吹く夕闇の街。日本で言うところの木枯らしが吹きすさんでいる。
アンダルシアといえど、十二月は冬。愛する者を見失った人間にとっては、心まで寒々とする冬だ。
4[#「4」はゴシック体]
■スポーツ新聞「マルカ」紙、元レアル・マドリー選手ミッチェル氏のコラムより。[#「スポーツ新聞「マルカ」紙、元レアル・マドリー選手ミッチェル氏のコラムより。」はゴシック体]
『白い巨人を追え!』
十九節を終え、リーガの戦いは後半戦に突入する。
首位はロナウドのコンディションが上向きになるにつれ、アウェーでの取りこぼしがなくなったレアル・マドリー。二位には勝ち点差2に迫るベティス。三位には堅守のバレンシア。四位にチャンピオンズリーグの勢いをようやくリーガの戦いに反映させたバルセロナ。前半戦の台風の目であったレアル・ソシエダはこのところの連敗で、五位に後退した。
超攻撃型布陣のレアル・マドリーに対して、「ストップ・ザ・レアル」を合言葉とする追撃者たちは、守備を固めてカウンターから得点するというセオリーで勝利を目指すと思われるが、レアルの攻撃力に正面から立ち向かおうとするチームがここに存在する。ビクトル・フェルナンデス率いるベティスである。
デニウソンとホアキンという質の高い両サイドアタッカーによってピッチを幅広く使い、レアルの守備陣を揺さぶり、穴を開けようとするだろう。中央にはスペイン代表に招集されたカピ、そして中盤の底には今季のベティス最大の功労者といえるマルコス・アスンソンがいる。
九十分を通じての運動量は豊富で、前線からディフェンスラインまで、ボールがあるところに「黒い人影」は出没する。レアルの新戦力カンビアッソの活躍を見ても、ボランチの充実は必ずチームの勝利に直結する。
ベティスの弱点は、選手層の薄さである。フルメンバーは驚異的なパフォーマンスを発揮するが、故障や累積警告で主力を欠くと、戦力は途端にダウンすることは否めない。
経験不足の控え組の中で、微かに光を放つのはシノ・リュウジである。ピッチ外の素行不良が噂されてロペーラ会長の逆鱗に触れ、しばらくベンチからも遠ざかっていたが、年明け二試合目のアラベス戦で久しぶりに登場し、同点ゴールの起点となった。拮抗したゲームで相手DFが疲れる時間帯に投入されると、シノのスピードは効果的であることが再認識させられた。
二〇〇三年に入って底力を見せつけたチームは、4対0というスコアでレアル・ソシエダを完膚なきまでに叩きつぶし、敵地カンプ・ノウでバルセロナを最少得点で退けたバレンシアである。
チームの主軸を狙うバラハは一段と成長し、もう一人のボランチのアルベルダと共に攻守の切り替えをコントロールする。ようやくヨーロッパの水に慣れたアイマールが故障で戦線離脱したのは痛かったが、十八歳で司令塔をまかされたヴィクトル・ロペスがそれを補って余りある活躍を見せている。
前半戦のクラシコは、サポーターたちがカンプ・ノウのピッチをペットボトルと豚の頭で汚したことで、フィーゴだけでなく、バルセロナもリズムを狂わされ、スコアレスドローで終わった。彼らはそろそろチャンピオンズリーグ優勝に照準を絞るのだろうか。今年に入って、レクレアティボ・ウエルバやマラガといった格下のチームには貫禄勝ちができるが、バレンシア相手にホームで躓《つまず》くという脆《もろ》さが、先行きに不安を残す。
さて第二十節、開幕戦と同じカードとなる中で、注目はベティスがホームにデポルティーボ・ラ・コルーニャを迎える一戦である。
白い巨人を追撃する候補者の中では、最も面白いサッカーを見せるベティスだが、快進撃に潜む危うさが、そろそろ顔を出す時かもしれない。
開幕戦でベティスに無残な負け方をしたデポルティーボは、敵地での雪辱を果たすため、強烈なモチベーションを抱えてセビリアに乗り込んでくるに違いない……。
タイムアップの笛が満員のエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラに鳴り響いた時、出番のなかったリュウジもベンチで小さくガッツポーズを見せた。
フィールドからこちらを振り返ったビクトル・フェルナンデスは、控え選手の中で一番先にリュウジと握手を交わした。
二度のアップで体を温めてきたリュウジへの、ねぎらいだった。
価値あるドローだった。試合開始直後にマカーイの個人技にやられて失点、十分過ぎにフリーキックから失点、前半ロスタイムにディフェンスの乱れを突かれての3点目で、先発メンバーは亡霊のような足どりでロッカールームに引き上げた。レアル戦の時のように、もう一度停電事故が起きてくれないだろうか、そうすれば後日改めて、心機一転、後半四十五分をプレーできる……とスタメンの選手たちは願ったことだろう。
リュウジはハーフタイム中、ピッチでシュート練習をしていたので、監督がロッカールームでどんな叱咤激励を飛ばしたのかは知らない。
先発十一人は再びピッチに上がった時、異様な生気に満ちていた。監督は選手一人一人の蛇口をひねり、秘められていた活力を解放させたのだろう。後半立ち上がりの攻めは目を見張るものがあった。
中盤の寄せの早さ。高い位置でボールを奪い、サイドに展開する。デニウソンがドリブルで上がると、ホアキンは右サイドから中央に切れ込んできて、アルフォンソやカピについている敵のマーカーを混乱状態に陥れる。クリアボールが転がる場所には必ずマルコス・アスンソンがいて、攻撃に切れ目がなかった。
デポルティーボはやはりバレロン離脱の穴を埋めることはできない。彼なくしてはマカーイの威力は半減だ。相手の嫌なゾーンでのプレーを得意としていたバレロン不在は、前線でのプレスを甘くし、早いサイドアタックを得意とするベティスのようなチームにかかると、後半はめっきりと運動量が落ちる。
リュウジは自分の出番が近いと思った。コーチからアップの指示があって、後半はいつでもゲームに出られるよう体を温め続けた。しかし監督は奮起し始めた先発メンバーのバランスを重視し、3失点を彼ら自身の手で取り返してもらうことを望んだ。
リュウジのアップはホアキンに刺激を与えたに違いない。低い重心のドリブルでデポルティーボの左サイドバック、ロメロを抜き去り、セサルとナイベトの両センターバックもかわし、ゴール左隅に豪快なシュートを放って、まず1点。
その後にデポルティーボの猛攻となったが、ベティスのディフェンスラインは体を張ってしのぎ、プラッツの好セーブもあって、危険な時間帯を切り抜けた。2点目はゴール正面からのマルコス・アスンソンのフリーキック。同点弾は、リバスのインターセプトから生まれた、絵に描いたようなカウンターアタックだった。
トップのアルフォンソがロングボールを受け、デニウソンが左サイドを上がる。一旦サイドに散らした瞬間にアルフォンソがマーカーを振りほどき、オフサイドぎりぎりのタイミングでアタッキングゾーンに突入した。デニウソンからのスルーパスを受け、反転して左足で押し込み、キーパーの股下を抜くゴールとなった。
残り十分、逆転を目指す選手たちの熱気がピッチに横溢する。コーチから二度目のアップから引き上げるよう指示があった。リュウジもベンチでひりひりした戦況を見守り、敵のファウルに怒号を上げ、やがてタイムアップの笛を聞いた。
レアル・マドリーもエスパニョールと引き分けたという。勝ち点差は2のまま、二月八日の次節、サンティアゴ・ベルナベウに乗り込んでの首位決戦となる。
リュウジはロッカールームでスタメン組と握手を交わす。二度のアップで汗をたっぷり吸い込んだアンダーシャツは、ピッチの外にいてもゲームに参加したという証《あかし》だった。
すぐに頭を切り替えた。これからの一週間、チーム内での戦いがリュウジを待っている。レアル戦の遠征メンバーに選ばれるために、寝ても醒めてもサッカー漬けの日々が始まる。
チェマの車でサンタクルス街に降ろしてもらい、路地に入ると、まずマリアの部屋を見上げる。この頃の日課だ。
窓辺のゼラニウムは水をやる者もなく、萎れきっている。ポストの郵便物は黒猫を抱いた大家が回収しているところを見ると、マリアはアパートを引き払ったわけではなさそうだ。
彼女はもう一カ月以上もセビリアの街を離れている。もしやと思ってフラメンコの学校を覗いてみたが、姿は見えなかった。入口には生徒名のプレートが掲げられている。マリア・アンドラーデという名札も残っているということは、休学はしているものの、いつかは上級クラスに帰って来るということだ。
アパートの階段は蛍光灯が切れかかって、薄暗い。リュウジは孤独感が忍び込まないように、心を無にする。
新年は一人で過ごした。
チームがオサスナ戦をホームで楽勝し、クリスマス休暇に入ると、外国人選手たちが次々に故郷へと飛び立った。パクも正月をソウルで過ごすという。リュウジは日本に帰らなかった。
「日本人は孤独が好きなのか?」
パクが不思議そうに訊くので、「まあな」と答えておいた。
まだ日本には帰れない。家族のぬくもりが、心の隙間を広げる大敵のような気がした。炬燵と蜜柑と肉皿。そこで安らぎ、一旦気持ちが緩んだら、セビリアに戻ってきても、体も精神も伸びきったままゲーム勘が戻らないのではという強迫観念だった。
クリスマスに国際電話をかけた。
「来年の夏、日本代表と戦うため遠征するって言ってるから、その時は必ず帰るよ」
「本当ね、お兄ちゃん」
年末に帰ってくることを期待していたミサキに、怒り口調で念を押された。中学三年になったミサキは、英語の検定試験に挑戦しているという。試しに電話の向こうで喋らせると、リュウジよりきれいな発音だったので、悔しかった。
「ボーイフレンドは?」
「周りの男は馬鹿ばっか」
そう見える年頃なのだ。
「お兄ちゃんは?」
「フラレてばっか」
アリシアはプジョル似の男にさらわれたし、マリアは音沙汰ないし。つい溜め息が出た。
母親とも長話をした。リュウジが毎月送金してくる三十万は、まだ一円も使わず貯金しているという。
「年末の休み、ミサキと箱根の温泉でも行ってくればいいんだよ」
「お前が正月も練習グラウンドで汗を流していると思うと、そんな贅沢、できないよ」
「ひょっとして、金を貯めてるのは俺名義の銀行口座?」
当たりだった。リュウジがスペインで傷つき、いつか帰ってくる時のために貯金をしているという。
「選手の寿命はあと二十年もないんだろう? 次の人生のために貯めておかなくてどうするの」
あと二十年の寿命。それが終われば本当に死んでもいいとさえ、リュウジは考えている。サッカーができない人生に、リュウジは何の価値も見いだせない。口が裂けても家族には言えない本心だった。
アランフェスから電話をもらった。たった一人のクリスマスなら帰ってこいとペペが言う。
去年もそこでクリスマスを過ごしたのだから、断る理由がなかった。リュウジは一泊分の荷物を持って、懐かしい第二の故郷に降り立った。
「ペペ・デ・ボンボ」の入口をくぐると、たちまち常連客たちに取り囲まれ、握手攻めとなった。五月、アトランティコのホームで行われるゲームには必ず出場しろよと郵便局長が怖い顔で迫ってきた。
アリシアの婚約者もやってきた。確かにプジョルに似たカーリーヘアの、気のいい青年だった。名前はマウリシオ。仕事の関係で横浜にも行ったことがあるらしく、日本の物価の高さで話が盛り上がり、もみの葉が飾りつけられたテーブルは賑やかになった。
アリシアが精魂込めて作ったチキンのローストが、切りわけられ、リュウジは脂肪の少ないところをもらった。
イブの夜、かつて生活した独居房のような部屋で、遠くの鐘の音を聞いた。引っ越す時に残していったフィーゴのポスターは、同じ場所に貼られていた。部屋を使っている「シティオ・アトランティコ」の十六歳の選手も、ドリブルが得意な攻撃的MFだという。日本から持ってきたポスターがドリブラーたちに引き継がれていくのかと思うと、頬が緩む。
翌日、久しぶりに「シティオ」の練習グラウンドに出て、ボールを蹴ってみた。内陸性の乾いた風が砂塵を舞い上げる。異邦人のリュウジにパスを回さない連中に、怒りの声を上げたあの日を思い出す。この赤い土を踏み、格闘技のようなサッカーに痛めつけられ、上を目指したことが大昔のように思われた。
みんなが駅まで見送ってくれた。ペペに駅のホームで抱かれ、マウリシオと握手を交わし、アリシアの頬にキスをし、リュウジは里帰りを終えてセビリアに戻った。
自主トレと語学の勉強で、淡々と新年を迎えた。
最後の休日、リュウジはバスに乗ってセビリア郊外へ出かけた。目指すはコリア・デル・リオという漁村だった。
一六一四年、仙台の伊達政宗の命を受けた支倉常長の一行が訪れ、その何人かが住みつき、「ハポン」姓を持つその子孫が今でも六百人ほど存在するという町。
「トレ」の主人パコに、「日本人なら一度は立ち寄る義務がある」と常々言われていたのだ。
川沿いの公園に侍の銅像が立っているのは、確かに異様な風景だった。見るべきものはそれしかない。腹が減ったのでバルを探していたら、自転車で魚の行商をしているオヤジに「ハポン?」と訊かれた。「シー」と答えると、「俺もハポンだ」と言ってニッと笑う。日本人観光客を目にした時、必ず交わす会話のようだ。
仙台藩の子孫の一人だった。親近感が湧かないでもなかった。オヤジの案内するバルで、塩ゆでのエビと巻き貝をたらふく食い、バスで帰ってきた。
休暇から続々と選手たちが戻ってくる。
初練習で遅刻したのはやはりホアキンで、罰金は新年会の予算に回されることになった。
新年からの四試合を、二勝二分けの成績で乗り切ったのはまずまずだった。格下チームなら三勝はできるという皮算用が監督にはあったようで、「こんなことでどうする」と選手たちの気を引き締め、デポルティーボ戦を迎えた。
ディフェンスの欠点があらわになったゲームだったが、次節につながるドローとなった。チームはレアル戦を控え、コンディションを整える。
週半ばの紅白戦で、リュウジはサブ組の司令塔としてピッチに立った。
1トップにガストン・カサス、右にグッジョンソン、左にセサル、中盤の底にベンハミンというメンバー構成では、これまで何度もプレーをしているので呼吸は合っている。
レギュラー組のセンターバック二人、ファニートとリバスは、カサスがリュウジのスルーパスを受けようとペナルティエリアに侵入しても、マークの受け渡しに迷いはない。ならば右のグッジョンソンから起点を作ろうと、リュウジは左のセサルを走らせておいて、右へとサイドチェンジのパスを出す。中央に絞ろうとしていた敵の左サイドバック、ルイス・フェルナンデスの裏のスペースを突いた。
グッジョンソンはドリブル突破しようと見せかけて、中央にいたリュウジにマイナスのクロスを出した。リュウジは左足アウトサイドでちょこんと合わせ、スピードを殺したダイレクトのパスを送る。ボールはDFの頭を越え、マーカーを振り切ったカサスの足元に届いた。カサスは落ち着いてプラッツの逆をつき、ネットを揺らした。見事なコンビネーションによる1点だった。紅白戦ではサブ組が勝つことはそれほど珍しくない。レギュラー組の弱点を知り抜いているからだ。
紅白戦の翌日、監督からマドリードへの遠征メンバーが発表になった。
リュウジの名前が告げられた。
移動は試合当日の昼だった。セビリア空港に揃いのスーツ姿の選手たちが集合し、詰めかけたベティコたちの熱い声援に見送られ、監督とコーチ、選手十八人がイベリア航空機に乗り込んだ。
「首位をもぎ取って帰ってこいよ!」
「ホアキン、いくらガキの頃からレアルのファンやからって、手加減したらあかんぞ!」
「チノ、ロベルト・カルロスに遠慮せんとぶつかってったれ!」
彼らの言葉はやはり関西弁に聞こえる。
夢見たサンティアゴ・ベルナベウの芝生を今夜、踏むことができるのか。ドリブルで突っかけてくるフィーゴからボールを奪い、彼を置き去りにして敵陣へとボールを運ぶ自分をイメージすると、鳥肌が立つ。
マリアの実家のペンサオでも、このゲームはテレビに映っているだろうか。ポルトガル人のフィーゴを応援する人々の中で、リュウジの姿を画面に探すマリアがそこにいるような気がした。
5[#「5」はゴシック体]
見上げれば、サンティアゴ・ベルナベウの屋根で切り取られた薄暮の上空を、数羽の鷹が舞っている。
あれがレアルの鷹たちだ。ベンチコートを着込んでピッチ状態を見に外に出てきたリュウジは、このスタジアムの名脇役が優雅に旋回する様子を目で追う。
サンティアゴ・ベルナベウには様々な鳥があちこちに巣を作り、その糞が座席を汚し、コンクリートを劣化させる。そのため、二人の鷹使いが雇われた。害鳥たちを追い払う数羽の鷹のうち、二羽はジダンとフィーゴという名前らしい。
リュウジは手入れの行き届いた芝を踏み、世界一のスタジアムに足を踏み入れた実感を胸に刻む。
レアル・マドリーのクラブ幹部の言葉が、今のレアルを物語っている。
「自分がサッカーを見に行って楽しめるものを、観客に見せてあげたい」
レアルはプライド高く、それを実践している。つまり観客の誰もが、守備の人になるジダンを見たいとは思わない。ロベルト・カルロスには弾丸ライナーのフリーキックを、フィーゴにはボールを跨《また》いでのドリブル突破を、ロナウドにはDF二人を前にしての信じられないスピードを、スタジアムに詰めかける観客に、クラブ一丸となって披露しようとする。
一九〇二年の創立からレアル・マドリーは、首都マドリードを代表するクラブではあったが、当時のスペインにおけるサッカー先進地域は、カタルーニャやバスクだった。その後、レアルは一九二〇年代のプロリーグ結成において中心的役割を果たしたが、三〇年代後半のスペイン内戦でチームは解散、文字通り廃墟からの再出発だった。
そこに登場したのが選手出身のサンティアゴ・ベルナベウ会長で、巨大なスタジアムを建設してレアルの存在を世界に知らしめ、スペイン国家復興の象徴となった。
しかし内戦後のリーグ戦ではダービーの相手、アトレティコ・マドリーに敗北、栄光にはほど遠かった。
光をもたらしたのは、アルゼンチン人の名選手、ディステファノの獲得だった。ヘント、プスカシュ、コパ、サンタマリアなどの活躍で五〇年代スペインの覇権を握り、ヨーロッパ・カップでも五連覇を達成、一気にヨーロッパ最強チームに登りつめた。レアルが優勝を逃した六〇年代の二度のシーズンも、優勝はアトレティコ・マドリーだったから、その頃すでに、スペインのサッカー勢力図は完全にマドリードに移っていたことになる。
レアルの存在感は順位や数字で表されるものではない。仮にレアルに勝ち点差1をリードして最終節を迎えたチームがあったとしたら、その重圧から信じられないようなミスを犯し、みすみす栄冠を逃してしまうかもしれない。それほど彼らは圧倒的な存在なのだ。
攻撃的なリーガ・エスパニョーラの代表格として君臨するレアルが、他のチームの追随を許さないのは、全ての選手が攻撃のセンスを備えている点にある。
センターバックのイエロとエルゲラは、インターセプト後の前線へのフィードから攻撃の起点となる。ボランチのカンビアッソとマケレレも、中盤の底からのパスが幾度となく得点につながる。ロベルト・カルロスは疾風の如く左サイドを駆け上がる。ジダンとフィーゴという中盤の主役が変幻自在なポジションチェンジから前線へラストパスを供給する。右サイドバックのミチェル・サルガドは、フィーゴが右でボールを受けると、必ずといっていいほどサポートのため全力で駆け上がり、得点の予感は俄然高まる。独特の嗅覚でこぼれ球を狙い、スペースに走り込み、ループシュートでキーパーを嘲笑《あざわら》うのはラウール。ピンポイントのコーナーキックに飛び込み、高さを誇るのはモリエンテス。そして常に前線に張り、マーカーを疲労困憊させるロナウド。
レアル追撃のチームが目指すのは、センターバックのスピード不足と、攻撃に転じた時のサイドバックの裏のスペースだ。いくら彼らの飛び抜けた攻撃力をもってしても、毎試合のように失点を許しているのも確かである。
が、横綱のウィークポイントを攻めようと前がかりになれば、こちらの守備の弱点をタレント軍団によってズタズタにされる。ここで問われるのは指揮官の采配だ。ゲームの流れを読み、守備から攻撃へと転じるタイミングを逃さず、的確なポジショニングを指示しなければならない。レアル戦で消耗するのは選手だけではない。
サンティアゴ・ベルナベウ。七万五千を超える観客が一斉に足踏みでもしているのだろうか、スタンドの地鳴りがロッカールームを震わせる。
選手十八人はピッチでのアップを終え、試合用のユニフォームに着替え終わった。
ビクトル・フェルナンデスがいつものスーツ姿で、輪の中心に立つ。
「レアルはベストメンバーだ。カンビアッソは前めでプレーするだろう。マケレレのワンボランチと見ていい。ホームで勝ち点3を取って我々を引き離すつもりだ」
だが最近のカンビアッソには、クラブ内外から「ポジショニングがまずい」「戦術眼がない」「パーソナリティがない」という批判の声が上がって、デル・ボスケ監督もこの何試合か先発起用を控えていた。
監督はカンビアッソと同じポジションのマルコス・アスンソンを見て、「最高のボランチはどういうプレーをするのか、奴に見せてやれ」と言う。
後方で配球をしながらゲームの流れを操作する従来型のボランチ、たとえば元バルセロナのグアルディオラや現バルセロナのシャビのようなタイプの選手は、過去の遺物になりつつある。これからのボランチは、敵に渡ったボールを奪う能力に長け、速攻の仕掛け役としてボールを素早く縦に出し、ラストパスも出せるスピードが要求される。
監督の言葉にマルコス・アスンソンの表情が引き締まる。さらに監督はキーパーのプラッツの目を見て言う。
「最高のゴールキーパーには、速攻のために敵のゴールエリアまでボールを飛ばせるキック力が備わっている。あの小僧に手本を見せてやれ」
小僧とはカシージャスのことだ。プラッツはこっくり頷く。こういう言葉の数々で、監督は試合前の選手にエネルギーを注入する。
ビクトル・フェルナンデスはレギュラー組だけでなく、サブの七人に対しても、一人一人の目を見て語りかけてくる。
「ベティスはベティスの戦い方をするだけだ。敵にボールを支配させてやれ。ボールを奪ったら、できるだけタッチ数を少なくしてサイドに運ぶ。奴らをホームに迎えた二節の戦い方を思い出せ。最初の四十五分は我慢だ。もし自分たちが人数をかけて攻撃を仕掛ければ、それだけ相手にスペースを与えることになる。攻撃は少ない人数で、手数をかけるな。チャンスは後半なかばに必ずやってくる。自分を信じろ。仲間を信じろ」
後半の勝負どころで俺の出番がある。リュウジは確信した。監督は俺の目を覗き込み、「自分を信じろ」と言ったのだ。
キャプテンマークを付けたプラッツが、話を終えた監督に代わって中心に立ち、選手たちも立ち上がる。掛け声を発し、手を打ち、信じるべき仲間の肩を叩く。
廊下に出て、ベンチコートを着こんだリュウジたち控えメンバーがまずフィールドに入る。まばゆい照明。スタンドはエル・ブランコ一色。そこは気圧が違っていた。やがてベティスの先発メンバーが入場すると、凄まじいブーイングが四方八方から降ってくる。
アップをしていた時とはまるで雰囲気が違う。スペイン人はゲーム開始ぎりぎりにスタンドに入る。アップの時は六分の入り、今は満席だ。緑色のサポーターを探す。三階席の一角に千人ほどが隔離されていた。
レアルの先発組が入ってくる。ベティスに降らせた声より何オクターブも高い歓声。紙吹雪が花火のように散り、ネット裏に巨大な応援マークが広がる。
この七万五千人を沈黙させてやることが、敵地で戦う者の最高の快感、最高の贅沢だ。
襟付きの純白のユニフォームと、襟なしの緑一色のユニフォームが対峙する。アウェー用のユニフォームだと、ベティスはいかにも草の匂いが漂ってきそうな姿だ。クラブ創立以来、二部落ちしたことのないエリートたちと、何度となく暗黒の時代を経験し、這い上がってきた草の根集団との、首位決戦だった。
ベティスのキックオフ。セオリーのようにマルコス・アスンソンに下げられたボールが、右サイドを上がるホアキンへと長い弾道で送られる。ホアキンはトラップミスによって、ロベルト・カルロスに奪われた。まだホアキンは硬い。
リュウジの歯がガチガチと鳴っている。この震えは何だろう。ホアキンの緊張感が伝染したのだ。
左サイドを駆け上がるロベカルに、ボランチのアルスが対応する。ボールは中央のジダンへ。右サイドのフィーゴへ。ベティスの中盤は監督の指示通り、無理なチェックにはいかず、味方選手との距離を一定に保つ。
前線に張っているロナウドは、無駄な動きをせず、センターバックのファニートを引き連れ、どっしり構えている。虎視眈々《こしたんたん》とスペースを狙っているのはラウールだ。
やはりカンビアッソが上がってきて、積極的にボールをもらう動きをする。流麗なパス回し。ベティスは5バックにも見える対応で、敵の大胆な侵入だけは許さない。問題はこの集中力がいつまで持つかだ。
リバスがインターセプトした。左サイドを駆け上がるデニウソンにロングパスが渡る。千人のベティコたちが歓声をあげる。得意のカウンターアタックだ。デニウソンがマッチアップするのはミチェル・サルガド。右からアタッキングエリアに入ってくるホアキン。デニウソンが二度のフェイントでミチェル・サルガドをかわし、ゴールライン際までドリブルした。イエロとエルゲラの間に突っ込んでくるのはアルフォンソ。
クロスが上がった。アルフォンソのヘッドに合うかと思われた時、キーパーのカシージャスが軽快にジャンプして捕った。右サイドの広大なスペースにいるフィーゴへとボールを投げ込む。
またしても草原の獲物をなぶり殺しにするかのようなレアルの遅攻が始まる。
マケレレからカンビアッソへ。いつの間にか左サイドにいるフィーゴがボールを持ったかと思うと、中央のラウールに渡った。ジダンとのリターンパスで眩惑され、ロナウドの足元にボールが吸いよせられる。集中を切らせまいとするベティスDFへと、ボールを持ったロナウドが個人技で襲いかかる。迎えるファニートには落ち着きが感じられない。スタジアムが吠える。七万五千観衆の後押しだ。
センターバック二人の動きを読んで、ロナウドは一瞬タメを作る。何をしようとしているのかリュウジには分かった。ワールドカップのトルコ戦で決めたような小さなモーションのトーキックだ。プラッツが反応、回転の難しいボールをさばいたかに見えたが、ファンブルした。
そこにボールが来ることを完全に読んでいたかのようなラウールが、こぼれ球を押し込もうとする。レアル先制点かと誰もが思った。プラッツは懸命に飛びついてブロック。ラウール得意のループシュートが柔らかな弧を描くが、バーに嫌われ、ベティスは命拾いをした。
リュウジはどうしようもなく失点を予感した。ゴールの匂いがピッチからぷんぷんと漂ってくる。
始まって十分もたっていないが、ベティスはレアルのボール回しをカットし、クリアするので精一杯だ。ボールは当然味方には渡らず、いつまでもレアルの波状攻撃を受ける羽目になる。
マルコス・アスンソンがボールを持ったが、デニウソンへのフィードはラインを割った。いつもの彼ではなかった。最高のボランチの姿を、カンビアッソに見せつけることはできない。
マルコス・アスンソンだけではなく、ベティスの選手には「つなごう」というより「つながればいい」という気持ちしかない。守りの時間が長すぎるため、いざボールを取っても、攻撃のアイデアが出て来ない。パスの精度が悪いと、FWもいいボールが来ることを信じられなくなる。悪循環に入ろうとしていた。
ボールがレアルに渡ると、右へ左へと振られ、流れるようなパス交換を再び追わなければならない。回したければ回せばいい、という心境になる。ただしペナルティエリアには入れさせない。
やっとボールを奪い、カピがキープした。しかしボールを大切にしようとするあまり、攻撃はどうしても遅くなる。いくら瞬発系の動きに問題のあるイエロとはいえ、ベティスのテンポのないボール回しには楽々対応できる。
ボールを一旦下げるしかない。ファニートは執拗なラウールのチェックに焦り、デニウソンへのパスは滞空時間の長いボールとなり、フィーゴにインターセプトされた。そのままフィーゴはドリブルで攻め、ペナルティエリア手前からグラウンダーのクロスを放つ。中央のジダンが、チェックにくるリバスと対峙すると見せかけ、スルーした。飛び込んでくるロナウドの足元にそれはやってきた。ワールドカップ決勝戦、ブラジル代表の2点目と酷似していた。
ファニートはロナウドの左足でのダイレクトシュートを防ごうとスライディング。リュウジはその時「あー」と絶望的な声を上げた。ロナウドはシュートという選択ではなく、ファニートの逆をつくトラップで、自分の一番得意とする右足の前にボールを置いた。右足インフロントでインパクトされたボールは、プラッツのグラブをかすめ、ポストの内側を叩いてゴールに転がった。
レアル・マドリー先制点。爆裂する歓喜。ロナウドの坊主頭を皆が撫でる。
ベンチにどっしり座ったまま、当然の1点と言いたげなデル・ボスケ監督とは対照的に、ビクトル・フェルナンデスはベンチを出て、肩を落とす選手たちに大きなボディアクションで指示を送る。
「相手ボールの時にむやみに飛び込むな!」
隣のグッジョンソンがそれを聞いて、白い息で囁く。
「我慢できないよな」
同感だった。ボールを奪いたい欲求を押し殺し、ボールの行方を見つめるばかりのディフェンス。「そろそろ俺たちにボールを触らせろ!」と叫びたくなる。
レアルは敵を自陣に引き込んでカウンターを食らわすようなサッカーを嫌う。自分たちでボールを支配し、パスを何本もつなげて敵に絶望感を与え、叩きのめすのが王者の流儀なのだ。
ホアキンまでずるずるとディフェンスラインに下がる。フィーゴがジダンとポジションを替え、ホアキンのサイドにやってくる。
フィーゴが引退した後はレアルに移籍する。ホアキンにはそんな噂がつきまとっている。尊敬する10番と一対一になり、懸命にブロックしようとする。フィーゴがボールをまたぐ。ホアキンが追いすがる。しかし抜かれる。足をかけてしまう。フィーゴは巧みに倒れる。笛が鳴る。ホアキンは毒づく。ファウルで止めるしかなかった自分に毒づいたのだ。
フリーキックはフィーゴの位置だった。プラッツが「壁五枚」と指示を送る。
「ファーに来るぞ」
リュウジは呟く。ゴール左側からのフリーキックでは、それはフィーゴが放つ定番の弾道だった。壁の左に身長190センチのリバスが立つ。隣に183センチのファニートが立つ。笛が鳴った。フィーゴは大股の助走から蹴る。やはりファーを狙った。何とかジャンプしてシュートを防ごうとしたリバスの頭に、微かにボールが触れる。これが災いしてプラッツの逆をつく形になり、ネットに吸い込まれた。
フィーゴに祝福の輪ができる。
大歓声に重力を感じ、ベンチで背中を丸めていると、「リュー!」と呼ばれた。監督の指示を受けたフィジカルコーチがアップの指令。リュウジは慌てて立ち上がる。ベンチ裏に移動し、体が温まるまでベンチコートを着たまま体を動かす。
時計はまだ三十分を越えたあたり。もしかしたら前半から投入されるかもしれない。心臓が高鳴る。地に足はついているか? 自分の心と体の状態を確認する。
前半に最低でも1点は返しておきたい。ピッチに立った時の自分のプレーをイメージする。ロベカルさえ抜ききることができれば、最終ラインで待ち構えるイエロは瞬発力で何とかできる。
ベンチコートのボアの中に次第に熱がこもってきた。脱ぎ捨てる。コーチの指示で、ジョギングよりダッシュの割合が増えてきた。
体が臨戦態勢になったが、そこで笛が長く二度鳴った。前半終了。0対2で折り返す。
疲弊しきった選手たちが引き上げてくる。ホアキンが悪夢を振り払うように、頭を振っている。デニウソンの目も虚ろだ。リュウジは彼らと入れ代わりにピッチに入り、練習用のボールをもらい、空っぽの右サイドでドリブラーとなる。
前には誰もいないが、リュウジだけには後半マッチアップするロベカルの姿が見えていた。
リュウジは何度もアクロバティックなフェイントを試し、ロベカルを抜き去るイメージを頭に焼き付けた。
後半開始となる。
リュウジはピッチから引き上げても、体を冷やさないようにジョグとダッシュを繰り返す。
前半のボール支配率は、レアルが六十五パーセントといったところだろう。攻め続けた疲れは、ハーフタイムで一度緊張感が途切れると、後半必ずやってくる。監督が予言した「後半なかば」とは、後半二十分から三十分のあたり、それまでボールを支配していたチームが陥る「魔の時間帯」だ。そこをベティスが衝くことができれば、チャンスは必ず訪れる。1点さえ奪えば、追いつこうとするチームの方が心理的に有利に働く。
攻め疲れの兆候はまずジダンに現れた。コンディションが万全ではないのだろう。パスは前半ほどの精度がなくなり、汗を拭う顔も苦しげだ。
すかさずデル・ボスケが動く。後半八分、ジダンを下げ、ソラリを入れる。アルゼンチン代表でも守備的MFを務めるこの男を起用したということは、ホームでの2点を守りにきた。
ロナウドも顎が上がってきた。顎の下の肉付きが目立つようになる。こいつはあと2キロ、体重を落とすべきだ。
再びデル・ボスケが動いた。ロナウドに替えてモリエンテス投入。スタジアムは大歓声となる。ロナウド加入で居場所がなくなり、一時は移籍寸前まで追い込まれたが、チームメイトに慰められ、忍耐強く出場機会を待ったモリエンテス。観客は惜しみない声援を送る。
これまでスーパーサブとして5得点。この層の厚みがベティスと決定的に違う点だ。レアルには他にグティやポルティージョといった、カンテラあがりのFWがいる。
後半十八分。レアルは魔の時間帯を二人目の選手交代で乗り切ろうとする。レアルの攻撃が息を吹き返す予感があった。巧みな采配だ。守備的な選手を入れて安定させ、チームとして守りに入ると思わせたすぐ後に、イキのいいFWを入れる。守りきろうとするな、攻め続けろ、というメッセージ。選手の戦闘意識を呼び覚ます選手交代だった。
今だ。俺が入るなら今しかないとリュウジは思う。
ビクトル・フェルナンデスが動いた。コーチがリュウジを呼んだ。ホアキンとの交代だった。
ベンチでスネ当てをつけ、パンツの紐を締める。グッジョンソンが寄ってきて、何か言葉を投げかけてくる。騒音としか聞こえないスタンドの歓声と、打楽器の如く打ちつける自分の心臓のせいか、何を言っているのか聞こえない。「ここで活躍すればオイシイぜ」とでも言ったのだろう。とりあえず頷き返す。
第四の審判によってスパイク裏のチェックを受けてライン際に立つリュウジに、監督が寄ってきて囁く。
「ペナルティエリアがお前のゴールだ。いいな?」
自分の役目を理解して、武者震いと一緒に強く頷き返す。ゴールを狙うのではなく、エリアに侵入して相手DFを混乱に陥れるのが俺の役目。
「信じろ。誰を信じるか、分かるか?」
「仲間です」
と模範的な解答を選んだら、
「自分だ。ここで失敗しても、誰もお前の力を疑わない。だから焦るな、自分を信じろ」
ビルバオ戦のスタンドプレーを咎められたのではない。自分らしいプレーをしてこいと言う。涙腺が熱くなる。ピッチに送り出してくれる時、ここまで言葉を尽くしてくれる監督はいなかった。ビクトル・フェルナンデスのために必ず役目を全《まつと》うしようと、上げ潮のように決意が高まる。
引き上げるホアキンが、すれ違いざま、告げる。
「奴の裏のスペースだ。お前なら抜ける」
マッチアップするロベルト・カルロス。モリエンテス投入でもう1点取ろうとするレアルは、必ずサイドバックが前がかりになって、そこにリュウジの進路がある。
六十三分のプレーで体からもうもうと湯気を放つホアキンと交代、リュウジはピッチに送り出された。両軍の選手たちがかもしだす熱気のせいだろうか、ピッチの気温は高く感じられた。
レアルのボール支配は続く。
リュウジも自陣に下がって、カンビアッソからフィーゴへと送られるボールをチェイシングする。ボールを餌のようにさらされ、下手に食いつこうとするとかわされ、置き去りにされる。まさに罠だらけのドリブル。しかしこの時間帯ともなると、フィーゴのボールさばきに前半ほどのキレはない。取れると思った。フィーゴの両足に絡みついているボールに、リュウジはするすると忍び寄り、パスコースを読んで右足を出した。
カットした。ピンボールのようにリュウジの右足で跳ね返ったボールが、一緒に寄せていたマルコス・アスンソンに渡り、そのまま一気にデニウソンへとサイドチェンジされた。リュウジは態勢を立て直し、右サイドへとわき目もふらず突っ走る。首を振って左サイドを見やると、デニウソンはマケレレ相手に少し手こずっていた。攻めは遅くなったが、その分、リュウジに右サイドを上がる時間を与えてくれた。
デニウソンは巧みなステップでマケレレを抜き去った。彼の視界に俺の姿が入っていますようにと祈った直後、大きなサイドチェンジのボールが飛んできた。放物線を描いてみるみる落下するボールを、ロベカルと追い、地を駈ける。大海原のようなスペースにボールがバウンドした。デニウソンはキックする時にどんな回転を与えたのか、ボールは微妙なバックスピンがかかって、追いつこうとする者を待ってくれた。ロベカルより一瞬早くボールに追いついたリュウジは、ファーストコントロールでボールを最高の位置に置いた。まるでボールの方から愛されているようなコントロールだった。
そのままゴールラインまでロベカルとの競り合いを演じようかと思ったが、鋭く内側に切れ込んで、またしてもロベカルの背後を取った。途中から交代で入ったリュウジの切れ味に、ゲーム最初から出ていて魔の時間帯を迎えたロベカルは、どうしても反応が遅れる。逆ターンを余儀なくされたロベカルは、もう追いつけない。
ただし内側を選んだため、ライン際までのスペースは犠牲にしなければならない。視界左からカンビアッソがやってくる、その向こうには距離を保つエルゲラとイエロがいる。混戦地帯を進路に選んでしまった。アタッキングゾーンにはすでにアルフォンソがいるが、ミチェル・サルガドを背負っている。二列目からカピが走り込んでくる。選ぶべきパスコースを瞬時に判断する。選択肢を増やしたくて、カピを見た。その目線につられたカンビアッソが、カピに対応すべきか躊躇した。その迷いがリュウジの狙いだった。エルゲラが待ち構えるスペースへ突っかけていく。一対一。リュウジのゴールであるペナルティエリアは三歩先にある。視界左に動きを見た。アルフォンソがミチェル・サルガドのマークを外してくれた。リュウジはエルゲラ相手にドリブル突破のフェイントを入れ、ディフェンスラインのバランスを崩してから、アルフォンソの足元にボールを入れた。これが「仲間を信じる」という模範解答の形。その時すでにエルゲラをかわしてエリア内に一歩踏み込んでいるリュウジに、アルフォンソがリターンパス。心地よいリズムでボールが返ってきた。残るはカバーに入ってきたイエロの壁。一歩目が遅くても読みは正確で早い。リュウジのシュートを彼は読んだ。イエロが体を張って止めようとする前兆をリュウジは読み取った。シュートすると見せかけてボールの下に爪先を入れ、ダイレクトでチップキック。それは柔らかくイエロの肩口を越え、再びアルフォンソの足元に届いた。キーパーのカシージャスは蜘蛛《くも》のように両手両足を広げ、迫ってくる。フリーのアルフォンソはワントラップしたボールを、小細工せず、渾身の力でボレー。カシージャスの股間を抜いたボールは、ゴール中央を破った。
2対1。スタンドは沈黙する。遠い彼方で千人のベティス・サポーターだけが騒いでいる。静かなる男に似合わず雄叫びを上げるアルフォンソに、集まる仲間たち。リュウジも手荒い祝福を受けようとしていたが、それよりネットに絡みついたボールを取りに走る。早く同点に追いつかなければならない。
リュウジはどうやらロベカルの怒りを買ったようだ。ピッチのどこにいても矢のような視線を浴び、奴は虎視眈々と雪辱の機会を窺っている。望むところだった。
右サイドでボールをもらうと、筋肉の詰まった野獣が舌なめずりで迫ってくる。中央のカピにボールを預けて、奴の戦闘心を削《そ》いでやった。
しかしそのカピがマケレレの粘っこい守備でボールを奪われた。前線へのフィードをラウールが受け、中央をドリブルで切れ込む。ファニートの的確なチェックでボールを奪い返すが、ラウールが派手に転ぶ。それがファウルとは厳しい判定だった。ファニートが「ボールにかかっていましたよ」と主審に抗議をするが、相手にされない。
わずかなベティスのサポーターたちから「アシ、アシ、ガナ、マドリー!」と声が上がる。
こんなふうにしてマドリーは勝つ、という意味で、そこには「審判を圧力で味方に引き込んだ」という含みがある。レアルと対戦するクラブのサポーターたちが、不可解な判定に抗議する時のフレーズなのだ。
ゴールほぼ正面二十五メートルの位置。キッカー候補としてボールに寄ってくるのは、フィーゴとロベカルの二人。五枚の壁を作るベティスのDFたちは、誰もが思う。
ロベカルのフリーキックだけは体に食らいたくない、と。
ロベカルが長い助走の位置に立った。どうやら彼の殺人的なフリーキックが襲いかかる。壁にいるファニート、リバス、マルコス・アスンソン、ルイス・フェルナンデス、バレラの顔が引きつる。下腹部と顔、急所をしっかりガードし、こうなったら覚悟を決める。背の低いリュウジは、壁の延長線上、こぼれ球を狙っているラウールのマークにつく。
今、ロベカルが俺を見て、ウィンクを送らなかったか? お前が壁にいたら狙ってやったのにと、言葉が聞こえた気がした。
主審の笛が鳴る。ロベカルの小刻みなステップからの助走。五人の恐怖が瞬時にリュウジに伝染する。ロベカル得意の、左足アウトにかけたキック。ルイス・フェルナンデスが果敢にも突進していった。弾丸フリーキックは彼の体のどこかに当たって、大きく弾かれた。
ボールを追う選手たちの中で、ルイス・フェルナンデスの顔が苦痛に歪み、前かがみになる。
またしてもレアルの時間帯になる。カンビアッソからロベカルに渡る。リュウジは対応に走るが、狙っているのはロベカルが自陣に置いてきたスペースだ。ロベカルは上がる。リュウジは距離だけを保ち、無理に突っ込んでいかない。ロベカルから中にいるソラリへパス。狙いは分かっていた。パスを出した瞬間にスピードを上げたロベカルに、ソラリがワンツーでボールを返す。この流れをリュウジ同様に読んでいたのは、バレラだった。スライディングでパスカット。こぼれ球がリュウジの足元に転がってきた。スピードを上げていたロベカルは、すぐには戻れない。
リュウジは障害物のないスペースをドリブルで駆け上がる。左サイドのデニウソンにも、中央のアルフォンソにもカピにも、マークが付こうとしていた。誰かが「そのまま行け!」と叫んだ。リュウジの目の前には、ようやくエルゲラが埋めようとしている広いスペースがあった。
リュウジは風を切って走る。スタンドの怒号が快感だった。今、俺は微笑んでいるかもしれない。
エルゲラが進路を阻むまであと二秒。抜き去るか、ラストパスを選ぶか、一秒後の判断だ。ベティスのアタッカー陣のうち、誰がマークを外せるか、視界の三つの動きに目を凝らす。
カピだ。エルゲラの背後のスペースに走り込もうとしている。カットインして右サイドにパスコースを作り、カピに右足アウトサイドで渡し、ペナルティエリアに突っ込んでいく一秒後の光景をイメージした。
背後に野獣の足音を聞いたのは、その時だ。
白いユニフォームと褐色のスキンヘッドが視界左隅に見えた。
ロベカルに追いつかれた?
信じられない。リュウジをこのゲームにおける最大の敵と見なしたロベカルがエンジンを駆り立て、全速力で追いついたのだ。
縦を切ろうとしているエルゲラ、その背後に達しようとしているカピにボールを出すには、どうしても内側に入らなければならない。つまりロベカルにこちらから接近しなければならない。とんでもない危機的状況に自ら突っ込んでいくことは分かっていたが、止められなかった。やっとパスコースが見えてボールを出そうとした時、ロベカルのスライディングが襲いかかってきた。ボールを狙っていた。それでもリュウジの左足にかかった。
刈られ、体全体が払われ、宙を飛ぶ。長い滞空時間から、芝に倒れる。二回転する。激痛がやってくるおぞましい予感。
やってきた。痛い。痛い。左足を押さえて苦悶する。かしいだ視界に主審がいた。ファウルは宣告したがカードは出さなかった。汗まみれのロベカルが手を差し伸べてくる。ふざけるな。立てるわけがないだろう。ロベカルはリュウジの頭を撫でる。「坊主、悪かったな」程度の謝罪だった。
「大丈夫か?」と仲間たちが駆け寄る。リュウジは苦悶するだけだった。イヤな痛み。イヤな痺《しび》れがあった。やがてトレーナーが駆けてくる。患部にスプレーを吹きつける。駄目だ。そんなものでは消えない痛みだ。何かが断裂したりしなかったか? 折れた音が聞こえなかったか? いや、聞こえなかった。たぶん。
トレーナーはベンチに向かって×印を見せた。運搬車両がやってくる。担架に乗せられ、宙を泳いでピッチを去る。サンティアゴ・ベルナベウの照明が手術室のライトに見えた。
フィールドから暗い通路に入り、やがてむっとする室内に運ばれる。暖房の利いた医務室だった。チームドクターが待っている。ひんやりした彼の手を左足に感じた時、地震が起こった。
スタンドが揺れたのだ。大歓声を聞いた。どうやらレアルは追加点を挙げたようだ。
左足の激痛がそれに共鳴し、リュウジの肉体は拷問を加えられたように痙攣する。これまで過呼吸をしていたせいか、頭もずきずきしてくる。どこもかしこも痛みばかりだった。
「リュー、ナイスプレーだ」
チームドクターの声にあやされ、リュウジはほんの一瞬、安息を得た。
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第三章 セビリア・ダービー[#「第三章 セビリア・ダービー」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
ゲーム復帰まで三週間のメニューだった。
精密検査で骨には異常がないと分かると、チームドクターは全治二週間の左足首捻挫と診断した。完治しても試合のピッチに出られるまでプラス一週間要すると聞かされると、リュウジは瞬時に計算をした。三月二日のセビリア・ダービーにはぎりぎり間に合う。
それからというもの、リュウジは黙々と回復メニューをこなした。血管を収縮させるためのアイシングと温めの交代浴。最初の一週間はクラブハウス内の医務室に毎日通い、グラウンドから聞こえる練習の声がジリジリした焦りをもたらしても、湿布薬を貼られた左足首を見つめ、「早く痛みが遠のいてくれ」とひたすら念じた。
レアル・マドリー戦での後半十八分からの出場。ゴール前でのアルフォンソとのパス交換からアシストを決めた。その時点では1点差に追い上げた殊勲者だったが、ロベルト・カルロスとの競り合いに勝ったツケはすぐに回ってきた。再びロベカルの背後のスペースを突いてドリブル突破しようとしたが、猛スピードで追いついた彼にボールを奪われ、足を払われた。宙を舞って芝を転がり、海老のように体を曲げて悶絶するリュウジは、担架に乗せられ、戦場から連れ出された。
その直後にレアルがたて続けに追加点。結局、ベティスは1対4でサンティアゴ・ベルナベウを後にすることになった。セビリアへの帰郷は翌日の午前便で、リュウジは分厚い包帯を巻いた左足を引きずり、同僚グッジョンソンの肩を借りて飛行機に乗り込んだ。マドリードの街から俯《うつむ》いて敗走するベティスに、空港にいたレアル・サポーターから健闘を讃える拍手が起きたが、選手には皮肉としか聞こえなかった。
腫れが引くまでプールの中でのウォーキング。四日後には軽いジョギングができるようになった。練習グラウンドではレアル・ソシエダとの大事な一戦を控え、選手たちは監督の叱咤を受け、ミニゲームで汗を流していた。その周りをリュウジはゆっくりとジョギングし、上半身のウェイトトレーニングに励む。時々様子を見に来るチームドクターも「よしよし、いい子だ」と笑顔を浮かべるほどの、模範的な怪我人だった。
リーガ前半戦の主役であったレアル・ソシエダとの二十二節のゲームが終われば、UEFAカップ四回戦で中田英寿のいるパルマをエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラに迎えることになる。三日後にはバルセロナとの二十三節を戦い、四日後にはカップ四回戦のアウェーゲームがある。十二日間で四試合という強行日程をくぐり抜けると、セビリアの街が沸騰するダービーとなる。
リーガ強豪との二試合。中田とのカップ戦二試合。どれも出たかった。あの負傷退場さえなかったら、連戦がもたらすレギュラー組の疲労度を考えても、四試合で何度か起用されるはずだった。ロベカルに火をつけてしまった代償はあまりに大きかった。
いや、もう考えるな。リュウジは気持ちを切り換え、パクのいるセビージャとの戦いに照準を絞った。
なあ、俺の左足、お前とは長い付き合いだよな。これからもサッカーを続ける限り、お前とは苦労も喜びも共にする仲だよな。だったら頼む。早く力を蓄えてくれ。
リュウジは足首をさすり、語りかける。今日は機嫌が悪そうだ。怪我して以来、左足首は擬人化している。
エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラでのレアル・ソシエダとのゲームを、リュウジは自宅のテレビで見ることにした。
窓から宵闇を見下ろすと、マリアの部屋の窓辺で、赤い色を失ったゼラニウムが萎《しお》れている。リュウジはそれを見るたびに、路地を越えてホースで水をかけてやりたい衝動に駆られる。故郷ポルトガルに帰った彼女からは、電話も手紙もない日々が続いている。
ユーゴスラビア人の屈強なFWコバチェビッチには、ボランチのアルスがほぼマンマークで対応した。あとはニハトの突破力とカルピンのラストパスを寸断すれば、レアル・ソシエダの攻撃力は半減する。ビクトル・フェルナンデスは、セビージャがソシエダと引き分けに持ち込んだゲームを参考にして作戦を練ったに違いない。レアル・マドリー戦では結果的に4点を取られはしたが、前半の、猛攻に耐えに耐えた時間帯も選手には自信になった。集中を切らさずあの守りを続ければ、レアル・ソシエダなら零封できる。このチームにはレアル・マドリーほどの多彩な攻撃はない。
リュウジは部屋にたちこめる闇も気にせず、光を放つブラウン管を凝視した。監督の狙い通り、前半四十五分は完全にソシエダ攻撃陣を抑えた。相手のシュート数は二本。どれもコバチェビッチがアルスによってシュートのコースを消され、バーの遥か上にふかした。
「マルコス、ポル・ラス・バンダス」
マルコス、サイドに散らせ。
「サルガ・デル・メディオ、カピ」
中からタイミングよく飛び出せ、カピ。
あたかもピッチで指示しているかのように、リュウジはテレビに向かって声をかけた。
前半の攻め疲れから、レアル・ソシエダは中盤にスペースを与えるようになった。そこにホアキンがドリブルで突っ込んでいく。ライン際からマイナスのクロスがグラウンダーで入った。アルフォンソが相手DFを二人引きつけ、ボールをまたいでスルーした。そこにカピが走り込んでいた。右足インサイドで確実に蹴り込まれたボールにキーパーは反応できず、ネットが揺れた。
ベティス先制点。リュウジが「よっしゃ」と声を上げて立ち上がる。踏ん張ったせいで左足に微《かす》かな痛みが走った。
ソシエダ相手に虎の子の1点を守って勝利したベティスは、翌日の練習グラウンドではサポーターの拍手に迎えられた。雰囲気は明るかった。レアル・マドリーはアウェーでオサスナと引き分け、ベティスとの勝ち点差は5から3に縮まった。不気味なのは追走してくるバレンシアだった。例年通りの、最少得点を守りきるサッカーだ。二位のベティスとの差をじわじわと縮めている。
リュウジは左右のステッピングができるようになった。フィジカルコーチが手を叩くリズムに合わせ、軽快なステップを踏んだ。痛みはなかった。短い瞬発系のダッシュを四本やってその日のメニューは終わった。
レギュラー組も軽く体を動かして引き上げた。ブラジル人二人のひときわ甲高い笑い声が通路から響きわたる。サポーターや取材陣相手のドリンク・カウンターでは、ベティスの六十八年ぶりのリーガ優勝を信じて疑わない人々が、ソフトドリンクとスナック菓子で祝勝パーティの雰囲気だった。別メニューを終えてクラブハウスに引き上げるリュウジにも、
「エスタス・ビエン・チーノ? ケ・テ・メホーレス」
大丈夫か、チノ、回復を祈ってるぞ。
と、いたわりの声が飛んだ。
セビリアの街では二週間後の戦いに向けて、あちこちでサポーター同士の小競り合いが始まっていると聞く。白と赤のタオルマフラーを首に巻く連中と、緑と白のフラッグを振る連中が、最初はエールの交換をしていたが、誰かが中指を立てたことで一気に興奮状態となって乱闘となった。
クラブのスタッフからも、休日の外出はなるべく自粛するようにと言われている。
セビージャFCは現在十六位。ひとつでも勝ち点を得て降格ラインの十八位から遠ざかりたいだろう。何より、因縁の敵をダービーで倒すことが彼らの最大のモチベーションになっている。
昨シーズンに揃って両チームは一部に昇格し、一部でのセビリア・ダービーが復活したものの、二試合ともスコアレス・ドローだった。今シーズンの第五節、セビージャ・ホームのダービーも1対1の引き分けに終わったが、ゴール裏のセビジスタたちが警備員に乱暴を働いたり、はたまたピッチに乱入してベティスのキーパー、プラッツに襲いかかるという蛮行が翌日の紙面に大きく取り上げられた。
後でプラッツに訊いたら、確かにスタジアムの歓声で背後から不意を衝かれたけど、首筋に食らったのはヤワなパンチで、振りほどいたら、襲撃者の若者は簡単に芝の上に転がったらしい。いわゆる「赤子の手をひねる」というヤツ。ただの酔っぱらいで、しかもプラッツの許《もと》に駆けてくるまでに体力を使い果たしたみたいで、ゼイゼイと苦しげな息づかいで警備員数名に押さえ込まれた姿に、どことなく憐れみを感じたという。
山の手の、どちらかといえば「お上品」なセビジスタたちでさえ、そういう騒ぎを起こしたのだから、労働者階級と色分けされるベティコたちは第五節の報復の意味もこめて、前代未聞の荒れ方を見せるのではないか。今日の紙面からダービー特集を始めたマルカ紙の予想だった。
「リュー」
マッサージ室に入ろうとした時、監督に呼び止められた。
「コモ・バ・ラ・レクペラシオン?」
怪我の回復はどうだ?
「ジャ・キ・メ・ドゥエレ・ナーダ」
もう全然痛くありません。
即答した。
「あの時、エルゲラに縦を切られて、カピにボールを出すにはカットインするしかなかった。そうだな?」
レアル戦の負傷退場の場面についていきなり訊かれ、リュウジは「はい」と勢い込んで返事をした。
「後ろのロベルト・カルロスは感じていたのか?」
「視界の端に見えました」
「じゃあ、お前のすぐ後ろをバレラがフォローしていたのは気づいていたか?」
「……いえ」
と答えたが、すぐに思いなおした。「リュー!」と呼ぶ右サイドバックのバレラの声が不意に甦った。今まで奥底に沈んでいた記憶だった。つまりリスキーなロベカルとの対決を回避して、バックパスでバレラにボールを出す手もあったのだ。
リュウジに当時の記憶が甦ったことを、監督はその顔つきから察したようで、
「それでもお前はロベルト・カルロスに近寄って行った。なぜだ?」
リュウジの目を覗きこんで訊く。
リュウジは今ならその時の心理を冷静に分析できる。
「あいつに勝ちたかったんだと思います」
対決したい。抜き去りたい。その衝動がすなわちリュウジの弱点だった。思い上がった個人技が負傷退場という結果となり、チームに迷惑をかけた。監督の叱責を覚悟し、リュウジは身を縮めた。
ところが監督はリュウジの肩をポンッと叩き、温和な小学校の先生のような微笑みを投げかけた。
「ダービーまでしっかり調整をしろ。ただし無理をするな」
言い残すと、何かの鼻唄とともに、監督室に消えていく。
リュウジは監督の言わんとしたことを考える。後半十八分で投入される時、監督はリュウジの耳元で言った。「ここで失敗しても、誰もお前の力を疑わない。だから自分を信じろ」
自分らしいプレーをしてこいと、リュウジをピッチに送り出してくれた。ロベカルとの対決は良くも悪くもリュウジらしいプレーだった。監督はあの局面での心理をリュウジに問いただし、確認をし、評価をしてくれたのだ。
回復したらダービーにはお前を出す。監督は最後にそう言ってくれたような気がする。
俺の思い上がりか?
リュウジは左足首を見下ろし、呟きかけた。
いつものように道具係のチェマの車に乗せてもらい、車中では馬鹿話に花を咲かせ、サンタクルス街の入口で降ろしてもらった。
「トレ」で昼定食のトルティージャが焼き上がるまでまだ間があるから、アパートに帰って、汗を吸ったジャージと下着を洗濯機に放り込んでこようと思った。パコ手作りのトルティージャは焼きたてをかぶりつくのに限る。火傷《やけど》しそうなほど熱いジャガイモを口の中で転がすと、いっとき、幸せな気分になるのだ。
荘厳でありながら土臭いカテドラルの前を通りすぎ、蔦《つた》の緑と、ジャスミンの白みがかった緑で覆われたサンタクルス街の路地に入る。向こうから来る人間と肩が触れ合う狭い路地を抜けると、アパート前の、車が一台やっと通れるほどの石畳の道になる。南向きで、いつもアンダルシアの陽光をふんだんに浴びるマリアの部屋の窓辺を見上げる。何の変化がなくても、それは練習から帰ってくる時の日課だった。
変化が、あった。
はじめは分からなかった。雲ひとつない空から降り注ぐ春の陽光があまりに強すぎて、窓辺で萎れているゼラニウムは白光で覆われていた。すぐに光量に目が慣れ、鮮やかな色彩が窓辺を飾っていることに気づいた。
真っ赤に咲き誇っている。花が甦っている。いや、植え替えられたのだ。
部屋の主がそこにいる。両開きの窓が全開になっているのも、その証拠だった。
「マリア……」
部屋の内部に動く影を見ると、リュウジは足早にアパートの入口へと向かった。ちょうど犬を連れた住人が出てきたところで、リュウジは閉まろうとするドアに手をかけた。呼び鈴を鳴らすこともできたが、マリアを驚かしてやりたかった。それぐらいの楽しみがあってもいいだろ。二カ月以上も音信不通だったのだから。
二階に駆け上がる。左足首に痛みはない。もうどこへだって走っていけそうだった。
掃除機の音が聞こえた。久しぶりに帰ってきて、部屋の掃除をしている。洗濯機の音もする。マリアが聞かせる生活音に、郷愁に似たものを感じた。
ドアが半開きになっている。リュウジはそっと開ける。薄い布地のスカートが、開け放った窓から吹き込む風で揺れている。白い裸足が眩しかった。床に掃除機をかけているマリアの後ろ姿は、以前より丸みを帯びた気がする。初めて抱いた時の感触が甦ってくる。
まず言葉だ。
が、口を開けど、ただひとつの単語も出て来ない。失語症に陥って立ち尽くしているリュウジを、マリアが掃除機を止め、振り返った。とうに来訪に気づいていたようだ。
懐かしい笑顔がそこにある。前歯が二本覗いて、頬に窪みができる。
「そろそろ練習から帰ってくる頃だと思った」
リュウジはまだ言葉が出て来ない。
「階段を走って上ると、このアパート、ミシミシいうの」
だから掃除機をかけていても気配が伝わるのだ。
「ビエンベニーダ」
ようこそ。マリアが言う。
「オラ・ケタル」
やあ元気だった? やっと単語が出てきた。
一歩近づいたら、マリアは二歩近づいてきて、ふわりと抱きしめられた。羽のような感触だった。
「故郷で何があったんだ?」
質問攻めにはしたくなかったが、まず訊いた。
「ママが倒れたって知らせが届いて……」
そういう事情だろうとは思っていた。
「お母さんは大丈夫?」
「うん。心臓の持病なの。寝込んでいる間、私がペンサオの女主人よ。手が魚臭くなっちゃった」
魚というより、潮の匂いを感じた。
「どうして連絡してくれなかった?」
抱擁しながら会話を続ける。
「一度、年明けに帰ってきたんだけど、リュウジは留守にしてたでしょ?」
バジャドリー戦の遠征メンバーに選ばれて、セビリアにはいなかった。すれ違いになったらしい。
「私もすぐに公演旅行に出なきゃいけなくて、なかなか連絡する暇がなかったの……それに」
リュウジの体から離れ、間近から見つめる。「それに、離れている時は何も喋らない方がいいと思ったの。電話や手紙で離れた場所から言葉にしても、本心をちゃんと伝えられる自信がなかったから」
リュウジは頷く。こうしてぬくもりを得られた。電話も手紙もいらなかったような気がする。
「公演のメンバーに選ばれたんだね?」
「そうなの!」
マリアの顔がパッと輝く。「トップの五人に選ばれて、これからは少しだけどギャラがもらえるの」
だから、リュウジへの借金は思ったより早く返せるという。マリアは念願のフラメンコダンサーの道を歩み始めていた。才能がその人にふさわしいチャンスを与えたのだ。
「おめでとう」
素直に祝福できた。
「リュウジみたいな豪華な遠征旅行じゃないけど、バスでスペインのあちこちを回って、タブラオのお客さんの前で踊る毎日だった。明後日からはフランスの小さな劇場で踊るの」
「じゃ、これからまた?」
「枯れたゼラニウムを植え替えて、大急ぎで掃除と洗濯をしたら……すぐ荷造り」
一時間後に学校に集合し、バスで旅公演に出かけるという。フランスを中心にヨーロッパの国々を回る一カ月ほどの旅になるらしい。
「今度の公演が成功したら、日本に行く話もあるのよ。リュウジの国ではフラメンコが凄いブームなんでしょう?」
「らしいね」
「日本の有名な女優が、セビリアの春祭りで踊るっていうテレビ番組もあったそうよ」
フェリアはスペイン人だけでなく世界中の観光客が詰めかけるフラメンコの祭りだ。サンセバスチャン広場に色彩豊かな出店が並び、優美なひだ飾りのついたドレスで女性たちが夜を徹してセビジャーナスを踊るというこの盛大な春祭りを、リュウジはまだ体験していない。ベティスにレンタル移籍されてセビリアにやってきたのは、去年の八月だった。
「春祭りが始まる頃にはセビリアに帰ってくる。私も踊らなきゃ」
そしてマリアは眉間に皺を寄せる。リュウジの身を案じる顔になる。
「レアル・マドリーとの試合、テレビで見た」
ポルトガルのスター選手フィーゴの出場するゲームは、マリアの故郷では地上波で放送されるという。
「リュウジが芝に転がって、担架で運ばれて……私、心配で朝まで眠れなかった」
リュウジは左足を振って見せる。
「もう大丈夫なのね?」
「ああ。三月二日のダービーには出られる」
「フランスにまだいると思う。見られたらいいな」
どちらからともなく唇を寄せ、キスを交わす。それ以上の欲望は律しなければならないのが、辛い。
「逢いたかった」
「私もよ」
「学校まで送るよ」
「うん……」
リュウジからそっと離れると、マリアはきびきびと動き始めた。洗濯の終わった下着をビニール袋に詰める。旅先で干すためだ。
「そのゼラニウム、また枯れてしまうな……」
リュウジは窓辺を飾る色を見つめていた。
「大家さんに頼んで、水をあげてもらおうと思って」
「それなら、俺が預かるよ」
リュウジは窓辺に歩み寄り、甘く匂い立つ鉢植えを手にした。
自分の部屋の窓辺にゼラニウムの鉢植えを五個並べ、路地に降りてくると、マリアがぱんぱんに膨らんだスポーツバッグを持って立っていた。
リュウジは荷物を持ってやる。
フラメンコ学校の方角に歩き始めると、マリアが肩を寄せてくる。リュウジは人目など気にせず、手を握る。
「逢ったら、いっぱい話さなきゃいけないことがある。そう思ってたけど……リュウジの顔を見たら、何も話さなくていいような気がした」
「俺も」
怪我を治してピッチに立つ。そこで監督にも会長にも、「志野リュウジはベティスに必要な人間」と認めさせる活躍ができたら、誰に後ろ指差されることなく、いくら会長の横やりが入ったとしても、「マリア・アンドラーデは志野リュウジに必要な女」と言える。
が、こうしてマリアのいくらか汗ばんだ右手を握っていると、大事なことは言葉にしなくても通じ合っているような気がする。
フェリアでセビリアが賑わう四月、マリアとまた逢える。町のいたる所でカンテが唸り、サパテアードが響きわたる喧騒の中で、一言「愛している」と言えばいい。
白亜のマエストランサ闘牛場を右手に見て、大通りに出る。川沿いを歩いてイサベルU世橋を渡る。グアダルキビール川は今日も子供たちのカヌーを浮かべている。
集合時間が迫っているから歩調を早めなくてはいけない。でも、ゆっくりマリアと歩きたい。マリアと同じ歩調で進むこの時間が宝物のような気がした。
ヴェルディ・ブランコで染まった車から、「リュー」と声がかかる。ひと目でベティスの熱烈サポーターと分かった。
「ノー・アイ・テンポ・パ・ノビジェーオ」
子牛で闘牛をしている暇なんかないやろ。アンダルシア訛《なまり》のその言葉は、恋人を作る暇なんかお前にはないだろ、という意味のスラングだった。
「クーラテ・ラピド・パ・フーガ」
早くプレーできるよう怪我治さんとあかんで。
ベティスのマスコットが窓にぶら下がっているところを見ると、子供をベティスのジュニア・ユースに通わせている父親かもしれない。二重顎の太ったオッサンだ。
リュウジは「デスクイダ・アミーゴ・ケ・ロ・アーゴ」心配いらないよ、と笑顔で言い返す。
「セアイ・フェリセ」
幸せにな。オッサンは冷やかし、走り去っていく。
「ダービーではパクと戦うことになりそう?」
「たぶん」
「どんな戦いになるんだろう」
「あいつにきっと削られそうになる。俺はあいつのチェックをかわしてゴール前にドリブルする。ゴールを決める。あいつの悔しそうな顔を見て、腕をこうやって突き上げる」
「そして『KYOTO』で落ち合って、二人でお腹いっぱい食べる」
ピッチでは殺し合うようなテンションかもしれない。リュウジとパクがぶつかる中盤のそこだけは、ワールドカップでは果たせなかった日本対韓国、という雰囲気になるような気もするが、ゲームが終われば友人に戻ることができる。パクが店に持ち込む母親手作りのチャンジャで、二人の大盛りご飯はすぐ空になるだろう。
川を渡ってトリアナ地区に入る。道の向こうに大型バスが停まっているのが見えた。
「ここで見送る」
バッグをマリアに返す。リュウジと一緒にいるところを学校関係者に見られたら、マリアに迷惑がかかるかもしれない。
「頑張れよ」
「リュウジも頑張ってね」
キスをする。リュウジがマリアの下唇を軽く噛む。マリアがリュウジの上唇を軽く噛んで返す。デートの終わりは必ずそうした。
マリアは髪を翻《ひるがえ》し、仲間が待つバスへと小走りに行く。いつまで見送っても、マリアは振り向かなかった。彼女も寂しさと戦っているのだと思った。
マリアはバスの昇降口を上がり、車内に消えた。そこではじめて振り返り、道の向こうに突っ立っている俺を見て、「さようなら」と言ったかもしれない。
マリアへと手を振り、リュウジは踵を返し、元来た道を歩きだす。
腹がキュウと鳴った。
「トレ」に立ち寄って、焼きたてのトルティージャにかぶりつこう。ささやかな幸せが点在する日課をなぞる。左足首に語りかけてピッチを走る。淡々と日常を送ることが、寂しさに対抗する唯一の術《すべ》だ。
見上げれば太陽が眩しすぎる。まだ二月だというのに、一足飛びに夏がやってきそうな気がする。
2[#「2」はゴシック体]
パルマは4─3─3が基本フォーメーションで、右サイドの中田英寿はルーマニア人のムトゥとブラジル人のアドリアーノと共に、攻撃のトライアングルを形成している。ゲームメイクするのはユベントスからレンタルされているマッテオ・ブリーギ。トッティにプレイスタイルが似ている若手の有望株で、イタリア代表にも選ばれたことがあるが、課題は得点力不足だ。
パルマのオーナーであるタンツィ・ファミリーはパルマラットという世界的に有名な食品会社を経営していて、当初は企業イメージのアップのためにサッカークラブの運営に乗り出した。このファミリーの眼力の確かさは、その後の巨額投資にある。ただの田舎のクラブだったパルマを、ほんの数年でビッグクラブに育ててしまった。まだスクデットを取るだけのチーム力はないが、コッパ・イタリアで三回、UEFAカップでも二回優勝している。今シーズンは若手主体のチーム編成で苦戦を強いられるかと思ったが、若手のFWアドリアーノの活躍という嬉しい誤算でセリエAでは健闘している。
五万二千人収容のエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラの観客席は六割の入りだ。
ベティスのファンは二週間後のダービーのことで頭がいっぱいで、UEFAカップまで気が回らないのかもしれない。
リュウジはメインスタンドの最上階で、パクと並んで観戦する。中田のプレーを生で見るのは初めてだとパクは言う。
今日は白一色のアウェー用ユニフォームだ。ペルージャでの活躍が認められて移籍したものの、ASローマではトッティの控えに甘んじ、パルマでの一年目も苦難続きだった中田は、最近になって長いトンネルを抜け出したかに見える。若いチームを引っ張る大黒柱の風格さえ感じられる。
距離を保って固めるベティスのバックス陣の間を縫うように、鋭いスルーパスを通す。開始十分足らずで、ベティスの守備の癖と傾向を知り尽くしたかのようだ。まるで精密機械の右足だった。
「すげえ」
リュウジは感嘆してしまう。
「お前、どっちの応援をするつもりだ?」
パクがにやにやと笑う。
「そりゃあ、もちろん……」
自分のチーム、とは言い切れない。中田に自分を重ね合わせ、ベティスのバックラインをずたずたにする光景を想像してしまう。
「やっぱりお前にも愛国心ってやつがあるんだね」
日本語のできるパクは、「愛国心」という言葉を綺麗に発音した。
タフなアドリアーノがブラジル人特有の個人技でファニートの股間を抜いてシュートする。地を這うボールをプラッツがファンブルしかけたが、胸に収めた。ホーム・アンド・アウェーの戦いでは、アウェーのチームは守備的に戦い、ホームでの勝利を目論むのがセオリーだが、パルマは若いチームの勢いなのか、早い時間帯から勝負に出てくる。
相手が前がかりになれば、サイドアタックを身上とするチームにチャンスは巡ってくる。ベティスもホアキンとデニウソンの両サイドが果敢に攻め上がる。ゲームは撃ち合いの様相を呈する。
が、両チームともチャンスは作るがゴール前での決定力に欠ける。
「こりゃ、ドローだな」
パクの予想にリュウジも同感だった。決定打のないまま撃ち合うゲームは、終盤になるにつれ両チームとも足が止まり、尻すぼみに終わる傾向がある。そういう時こそサブのメンバーにどれだけイキのいい選手がいるかが、勝負の分かれ目になる。
ベティスには俺がいるはずだった……。
このゲームに出られない運命を呪ってしまう。
攻撃で消耗する四十五分が終わった。リュウジとパクは持参した生ハムのサンドイッチを頬張る。
「パルマは選手の運動量を見て、中田を替えてくるかもな」
パクのその予想も当たるような気がする。ここまで攻めてもゴールを奪えないとなれば、一転、守備的にゲームを進める。
「守り一辺倒になると、中田はゲームの流れの中で浮いてしまうだろ」
パクの理解は正しい。チームが守備に回った時、パルマの選手には中田から的確なパスを引き出せるほどの攻撃力はない。
中田の真骨頂は、ツータッチのショートパスでシンプルにプレーし、ボール支配率を考えた合理的なパスワークによるゲームの組み立てだ。ひらめきよりも論理を、即興より予測を大切にする。そこが自分との決定的な違いだとリュウジは思う。
サンドイッチを口に詰め込んでアルミホイルを丸める頃、選手たちがピッチに戻ってきた。後半の開始だ。
やはりパルマは前半ほど攻めてこない。中田がボールを持つ機会も当然減る。リュウジの目には、中田が中盤の片隅で途方に暮れているように映る。
リュウジが中田に期待するのは、右サイドを起点にして中に入り込んでパスを受け、アシストやシュートを狙うプレーだ。空けたライン際のスペースにサイドバックが走り込んで、中田が供給するパスでゾーン深く突いてもいい。
ビクトル・フェルナンデスが動いた。一度に二枚替える。マークが厳しくて思うようなプレーのできないデニウソンを下げて、セサルを。疲れの目立つアルフォンソに替えてガストン・カサスを入れた。
監督には悪いが、この交代で攻撃が息を吹き返すとは思えない。今、必要なのはドリブルの突破力だ。まだ若いグッジョンソンを使って、中盤をかき回した方がいい。
両チームともパスミスが目立ち始める。ゲームの質は後半に入って一気に落ちてしまった。パルマの監督も動いた。やはり中田がベンチに下がってしまう。
「つまんねー」
リュウジは椅子に深く沈み、あとは漫然とゲームを眺めるだけだ。
「ダービーには出られそうか?」
退屈なゲームに見切りをつけたパクが、アクビの後、訊いてくる。
「そういうことは訊かない約束だろ」
敵の選手にチーム事情を話すわけにはいかない。
「そうか。後半二十分に出場か」
勝手に決めつける。「だったら、左足は見逃してやる」
右足を削ってやるからな、というパクの挑発だった。
「股を気をつけろよ」
そこを抜いてやるからな、というリュウジの挑発だった。
笛が三度鳴ってタイムアップを告げると、リュウジとパクは早々に席から立ち上がって通路を降りる。
緑色のタオルマフラーを巻いた老人のソシオが二人を見かけ、目を吊り上げる。ダービーが近いというのに、ベティスの選手とセビージャの選手が仲良く試合見物か、と咎める目だ。
「チノ」
日本人も韓国人も一緒くたに「中国人」と呼ぶ。消化不良のゲームを見せられての八つ当たりかもしれない。リュウジとパクはトラブルを避けるため、呼び止める声がしても振り向かず、階段を降りた。
■週刊サッカーマガジン誌『世界の最新事情・スペイン』のコラムより。[#「週刊サッカーマガジン誌『世界の最新事情・スペイン』のコラムより。」はゴシック体]
『優勝争いより、まずはセビリア・ダービーを占う』
バルセロナとアウェーで対戦したベティスは、カンプ・ノウの脅迫的な応援にもめげず、後半ロスタイムにホアキンの四人抜きのシュートで同点に追いつき、価値あるドローで終えた。バルセロナにとってはこの結果は負けに等しく、優勝争いから一気に後退するという印象だ。ファンハール監督と会長が退いてもチームにさほどの変化はない。一九九六年にアトレティコ・マドリーを二冠に導いたラドミール・アンティッチ監督の手腕はまだ発揮されていない。
首位のレアル・マドリーは足踏みが続いている。ホームでバジャドリーと引き分け、二位のベティスとの勝ち点差3は変わらず。
追い上げてくるのは、バラハとアルベルダが中盤の底をがっちり守るバレンシア。この二人にはこぼれ球を得点に結びつける動物的な得点嗅覚が備わっていて、好不調の波のある若き司令塔ヴィクトル・ロペスを後方から支えている。アトランティコ戦ではアウェーでありながら大量5点で豪快に勝ち、ベティスに勝ち点差1に迫った。
三強の優勝争いを占う前に、アンダルシアの涸れた大地に血の雨が降りそうなダービーに注目しよう。
コンディション的にはセビージャが断然有利である。ベティスはリーガの合間にUEFAカップの二戦を挟むというハードな日程を消化している。しかも結果が伴わなかったことで、気持ちの切り換えができないままダービーを迎えることになりそうだ。
パルマのホームで戦ったカップ四回戦の二戦目は、中田のミドルシュートがDFの背中に当たってコースが変わり、プラッツが一歩も動けずゴールとなる不運によって敗北を喫し、UEFAカップの戦いは終わった。
はたして中二日で、「あとはリーガの優勝あるのみ」という前向きな気持ちになれるかどうかにかかっている。
セビージャは二部降格の黄色信号がともり始めたこともあって、アウェーであろうと猛然と襲いかかってくるだろう。ドロー続きのセビリア・ダービーはやっと決着を見るかもしれない。
レアル戦の負傷で戦列を離れていた志野リュウジが、どうやらダービーに間に合うという情報が入っている。レアル戦の好アシストから一気に株を上げた志野リュウジが「CRACK」の称号を与えられるかどうかは、このダービーでの途中出場にかかっている。
クラック。氷を叩き割る。すなわち凍りついた局面を打開する存在。ビクトル・フェルナンデスは後半二十分前後の切り札として、志野リュウジを投入するに違いない。
志野リュウジとパク・ジョンウォンの日韓マッチアップが実現し、志野のテクニックとパクの体力が中盤で激突するなら、ワールドカップ後のアジアの充実ぶりをヨーロッパに知らしめることができるだろう。
また過去を根に持つタイプのスペイン人だったら、韓国との準々決勝で誤審に泣いたホアキンが、セビージャに所属する韓国人選手を相手に光州《クアンジユ》の恨みを晴らすシーンを期待するかもしれない。
敵地に乗り込むセビージャは、まずスタジアムの外で「くそったれ」コールと投石の洗礼を受け、キーパーのノタリオはゲーム中でも背後を気にし、襲撃者の影に怯えなければならない。
筆者はずばり、セビージャの1点差勝利と予想する。このダービーのために万全の調整をしてくるセビージャは、深刻な得点力不足に喘いでいるが、ここまで失点18というのは、リーガ第二位の守備力だ。敵地エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラの雰囲気に身の危険を感じたとしても、連戦の疲れが蓄積しているベティスのディフェンス陣に隙を見つけることは難しくない。
あとは警備員と警官隊の健闘にかかっている。
ベティス敗北の笛が鳴った後、流血の惨事だけは御免である……。
二月二十八日、金曜日。
ベティスの名物サポーターであるエステル婆さんは、今日もよもぎ色一色の装いだ。練習見物のファンは圧倒的に男が多い。エステル婆さんはその中にあって、杖を手にどっしりと構え、女王のような雰囲気をたたえている。
パルマから帰ってきた翌日も、練習グラウンドに集合となって、レギュラー組は軽めの調整をする。明日はスタジアムで前日練習となる。カップ戦の後、中二日でダービーを迎えなければならないベティスには、悲壮な雰囲気がたちこめている。
いつもだったらランニング中でも冗談を飛ばすブラジル人二人も、体が重そうなのはひと目で分かる。
ウィークデイの午前中でありながら、熱心なサポーターが練習グラウンドの観客席に詰めかけている。動きが鈍い選手たちの中で、一人気を吐いてダッシュ走を繰り返すリュウジは、緑に染まった石段の光景を見て、いつもながら思う。
練習見物に足しげく通ってくるこの大の男たちは、一体いつ仕事をしているのだろうか……。
「リュー、へろへろの仲間にお前がカツを入れたれ」
「あの韓国野郎の始末はお前にまかす。道頓堀に沈めたれ」
いや、この翻訳は度が過ぎる。グアダルキビールに叩き込め、といったところだろうか。
彼らは自分たちのことを「スペイン一のサッカーファンだ」と胸を張る。
チームが三部に落ちたってワイらはついてくで。セビジスタの連中なんぞ、二部に降格すると観客数が半分に減りよった。スタジアムに背を向けた半分のファンは、日曜にジム通いや。ベティコは暗黒時代であっても変わらぬ応援を続けたやないか。そこがワイらとあいつらの違いや。
誇り高いファンであることは認めるが、選手にとっては時として暑苦しい人々である。
リュウジはサブ組のミニゲームに入る。
ゲーム勘が戻ったところを監督にアピールしなければならないと思い、ミニコートを縦横無尽に駆け回って、針の穴を通すダイレクトパスを前線に送った。
右サイドからクロスを上げる局面にくる。監督がしつこく覚えさせようとした、ゴール前の選手のタイミングに合わせるクロスだ。粘っこいキープから、味方選手が走り込んできたのを視界左隅に捉え、カーブをかけたクロスを上げた。
ピンポイントで頭に合い、ネットが揺れた。
「そうだ、リュー」
監督の声が爽快に染みわたる。
練習を終え、汗をたっぷり吸ったシャツを脱ぎ捨ててマッサージ室に入ると、先に上がったレギュラー組の選手がぐったりと寝そべって、トレーナーの手で太腿を揉まれていた。
クラブの広報担当クーロがホアキンに、「練習後の記者会見に出てくれないか」と頼み込んでいる。ホアキンは寝たふりをしている。ダービー直前のコメントを選手から引き出そうと躍起になっているマスコミが、通路の彼方で待ち構えている。選手はダービー二日前だからこそ、言葉尻を捉えて報道する記者連中を警戒する。会見なんてできれば出たくない。クーロは両者の板挟みに遭って、半泣きの顔だ。
チェマの車に乗って、練習グラウンドの駐車場から出ようとしたら、リュウジにサイン帳が差し出された。
車の窓を開けて気さくに応じる。同年代の女子学生だった。歯列矯正の器具が口許で光り、質問された。
「韓国人が相手だと、日本人って燃えるんでしょ?」
「それ、逆だと思うよ」
「日本と韓国って、昔、戦争してたんじゃないの?」
リュウジは首をかしげる。歴史には詳しくないが、これまで直接ぶつかったことはなかったんじゃないだろうか。
「ソイ・カシ・エスパニョール」
俺、もうスペイン人のようなもんだから。
「ノ・ロ・サビーア」
へえ知らなかった。
女子学生は、向こうで他の選手を取り囲んでいる友人に言う。
「ねえ、リューがスペインに帰化したんだって!」
えー本当ォ? 更に三人ほどやってくる。本気にするなって。
いいタイミングでチェマがエンジンをかけてくれて、ファンの質問攻めを回避できた。
心地よいシエスタを破ったのは、ベティスの応援歌だった。
ゼラニウムの花が飾る窓辺から見下ろすと、ベティスのレプリカ・ユニフォームを着た五人の中学生がいた。リュウジが顔を覗かせたので、ひときわ盛り上がる。
「エッペラーモ・トゥ・ゴール」
アンダルシア訛で、ゴールを期待してるよ、と叫ぶ。
トップチームの選手が路地裏のアパートに住むと、こういう煩わしさがある。
特に夜は外出しないようにとクラブ関係者から厳しいお達しがあったので、昼間のうちに「トレ」で腹ごしらえをし、夕食用にサンドイッチでも作ってもらおう。
窓外の路地に人気が途絶えた時を見計らい、リュウジは目立たない服装で外に出た。フード付きのトレーナーと目深にかぶったキャップ。この方が余計目立つみたいで、「トレ」に辿り着くまでに五人に「バーモス」と声をかけられた。
「トレ」でもゆっくり食事をさせてくれない。
キケが鶏肉のグリルがついた昼定食を運んできて、リュウジに耳打ちする。
「調子はどう」
「ぼちぼち」
「いつものように、店の従業員全員で明後日の賭けだ」
この種の話題には関わりたくない。
「明後日は出れそうか?」
「ノーコメントということで」
「リュウジが出るからってベティスの勝ちに賭けるほど、俺はガキじゃない」
「えっ、キケってセビージャのファンだったの?」
「バカな。生粋のベティコだ。ただし金がかかっていれば別。デニウソンもホアキンも連戦でクタクタだろ?」
「だから、そういう話は……」
解放してくれないだろうか。飯が冷めちまう。
「いいか、無理して勝ちに行くな。負けないでくれたら、それでいい」
テーブルの真向かいに座って、身振り手振りで訴える。どうやら仲間との賭けではドローに賭けたようだ。それってベティスの熱烈サポーターのあるべき姿だろうか。
「お前らが変な負け方をしてみろ。次のダービーまでセビジスタの連中に『あの失点はユース・レベルのディフェンスのせいだ』とか『ロペーラは今度はいくら無駄金を遣うつもりだ』とか散々言われる身にもなってみろ。負けっぷりを酒の肴にされるその半年が、俺たちにとっては何より辛いんだ」
気持ちは理解できなくはない。
「何の話だ?」と主人のパコも寄って来る。
「説教してたんですよ、負けゲームだけはするなって」
「そうだ。その通りだ。追いつけ。いいな、必死になって追いつけよ」
ベティスが先制点を入れられると決めつけている。ファンというのは熱くなればなるほど現実的になるようだ。
話を聞きつけた常連客もやってきて、リュウジのテーブルはたちまち二重に取り巻かれる。
食った気がしなかった。
特製サンドイッチを作ってもらって、やっと店を脱出することができた。手拍子が聞こえて振り返ると、店の前に常連客が固まり、リュウジをサポーターズ・ソングで見送ろうとしている。
カンベンしてくれよ。
セビリア・ダービーとは無縁の外国の観光客が、リュウジをお忍びで散歩している映画スターと思ったのか、慌ててデジカメを取りだした。
夜遅くまで路地裏に来訪者があった。
ベティスのファンにとっては、リュウジのアパートは観光名所になっているのかもしれない。リュウジをゆっくり休ませてやりたいという気持ちはあっても、「ここだよ、ここが志野リュウジのアパートだ」「見ろよ、赤い花を飾ってる」「女と住んでるのかもよ」と群れなして囁き合うものだから、夜の空気がざわざわと波立ち、眠れない。
ティッシュを丸めて耳に突っ込んだ。
三月一日、土曜日。
前日練習のスタジアム入りは午後六時。
リュウジは昼間、練習グラウンドに出て、Bチームのミニゲームに参加させてもらった。夜の練習を前に、左足首の調子を確認しておきたかったのだ。
アパートに戻って、イメージトレーニングのために第五節のダービーをビデオで見る。
スタンドの興奮状態にあおられた選手たちの動きは、時として空転し、我を忘れ、ラフプレーになる。デニウソンが左を突破して正確なクロスを上げ、ホアキンがヘッドで決めて先制点。セビージャは後半、ファニートのオウンゴールで追いつく。そのきっかけとなったのは左サイドからのクロスだが、セビージャの攻めはほとんど右からで、要するに右サイドのMFガジャルドさえ抑えれば、攻撃の形にはならない。それは五カ月前のチーム状態だが、セビージャの今の低迷を考えると、五カ月たっても問題点は改善されなかったのだ。
リュウジがホアキンとの交代になれば、マッチアップするのは小柄な左サイドバック、ダビドだ。身長は166センチ。リュウジよりも低い。二十九歳のベテランだが、スピードとテクニックで不動のレギュラーにいる。この人は確か三年前、道で信号待ちをしている時、工事のクレーン車が強風で車の屋根に落ちてきて、三十センチの差で一命を取り留めたという強運の持ち主だ。
このゲームで中盤の底を守るのは、セビージャの一部昇格の貢献者であるカスケロだが、最近はパクがこのポジションで先発起用されている。レギュラー組の怪我というチャンスをパクは見事掴んだ。
右サイドを攻め上がれば、読みの鋭いダビドが正面にいて、横からはパクが襲いかかってくる。リュウジは二人がかりで襲われる凶悪なイメージを思い描き、いくつかのトリッキーな動きを選択肢に入れた。
ビデオは後半を映し出している。空転する闘志によって、両チームに足をつる選手が続出する。セビージャのレジェスがふくらはぎを押さえて倒れると、ベティスのファニートが伸ばしてやる。敵であろうが、一触即発の雰囲気でゲームをする者同士として、労《いたわ》り合っているかのような風景だ。
1対1のドロー。リュウジはビデオを止めてテレビを消すと、オレンジジュースの一気飲みで喉の渇きを癒し、ベッドに転がってシエスタの態勢となる。
一人の力では二枚の壁は突破できないかもしれないと、弱気ではなく、冷静に判断をする。自分が右サイドに張った場合、トップ下のカピと中盤の底のマルコス・アスンソンとのトライアングルでシンプルなパス回しができれば、ダビドもパクもかわせるような気がする。
イメージトレーニングを中断し、自分を強制的に眠りへと落とす。
夕方、チェマの迎えでスタジアムに行く。照明をつけ、本番と同じ明るさで、マスコミをシャットアウトしての戦術練習だ。一時間前にセビージャの選手が練習を終えていて、ピッチの芝に彼らが激しくプレーした名残がある。
ストレッチとランニングの後、半分のコートで、レギュラー組の攻撃陣と守備陣が五対五で戦う。ベティスとセビージャはどちらもワントップで両サイドバックが攻撃の起点となり、DFも似たタイプだから、レギュラー組をふたつに分けて戦わせる練習は効果的なのだ。
監督の指示で、ホアキンのポジションにリュウジは入った。これで後半のジョーカーとして起用するというお墨付きをもらったようなもの。ホアキンはリュウジが後に控えていることが分かっているから、明日は最初から飛ばしていくだろう。
ルイス・フェルナンデスとアルスが正面と横から潰しにかかってくる。仮想、ダビドとパクだ。
リュウジはフォローに回ったマルコス・アスンソンに一旦ボールを下げ、ライン際を飛び出してルイス・フェルナンデスをかわし、前線へのフィードに追いつく。
ペナルティエリアでDFをかわすアルフォンソにピンポイントのクロスを上げる。これが攻撃パターンその一。
またボールを右サイドで受ける。マルコス・アスンソンに一旦下げたところまでは同じだが、リュウジは二枚の壁の間をすり抜けてカットインする。カピはリュウジの動きの前にサイドに流れ、DFのマークを引き連れている。リュウジは開いたスペースを斜めに切り裂いてマルコス・アスンソンからのショートパスを受け、一気にペナルティエリアへと突っ込んでいく。
攻撃パターンその二だった。
監督が「いいぞ」と手を叩く。カピとマルコス・アスンソンとの呼吸はぴったり合っている。三人はそれぞれに親指を上げ、大きく頷き合う。
一時間の密度の濃い前日練習を終えると、選手たちはクラブの管理下に置かれる。自家用車でやってきた選手は車をスタジアムの駐車場に置き、バスに乗ってホテルに入る。
就寝までの飲酒は缶ビール一本だけが許される。これは建前で、大酒飲みの選手はバッグにこっそり持参している。しかし宴会部長のベンハミンであっても、ゲーム前日は大騒ぎを控えることにしている。
リュウジはいつものようにグッジョンソンと相部屋だった。ブルガリア人のガールフレンドができたというグッジョンソンは、ストイチコフの話題でやっと初デートの約束ができたという。バルセロナでもプレーしたことのある、激しい気性で知られるブルガリア代表史上最高のFWだ。日本の柏レイソルにも一年半ほどいたことがある。
ストイチコフが取り持つ縁か。リュウジは微笑む。
テレビのローカルニュースでは、エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラに前夜から集まっている熱烈サポーターの姿を映し出す。誰もが3点差、4点差でベティスが勝つと高らかに宣言する。
だらしない笑顔を投げかける酔っ払い連中が、画面奥で爆竹の音が轟《とどろ》くや、一瞬にして凶悪な顔つきになり、走っていく。葉巻ほどの太さの、大砲のような音を発する爆竹だ。テレビカメラも一緒についていく。
セビージャのサポーターによる襲撃だ!
第五節のダービー前夜、ナイフを隠し持ったベティスの過激なサポーターがエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンに投石して、駐車場の車をボコボコに潰したという事件があった。その報復行為を予想して、今夜はすでに百人の警官がスタジアム周辺に配置されていた。緑色のユニフォームを着てカムフラージュしたセビージャ・サポーターが、警戒線を越えて侵入し、爆竹を放ったらしい。
両サポーターの殴り合いと、それに割って入る警官たちの騒然とした模様が、ハンディライトの中に浮かび上がる。
リュウジとグッジョンソンは口を半開きにして見入っている。顔中を血で真っ赤に染めた若者が、警官に両脇を支えられ、パトカーに乗せられた。
「明日、負けにつながるミスをした選手には、解散後にボディガードがつくってさ」
コーチたちが噂しているのを、グッジョンソンが小耳に挟んだらしい。
ホテルの窓辺に立ち、三ブロック先にあるスタジアムを眺める。パトカーの回転灯が点滅している。発煙筒の緑色の光もいくつか見える。スカッドミサイルでピンポイント攻撃をされた夜景に、見えなくもない。
明日は第五節のダービーを上回る、警官三百人、警備員二百人でスタジアム内外を固めると、テレビのレポーターが言う。
スタジオにカメラが切り替わると、白髪の司会者が「点を取り合った上での引き分けが、両サポーターにとって好ましい結果でしょう」とコメントした。痛み分けで終わるにしても、双方のゴールでサポーターの欲求不満を解消してやらなければならない、というわけだ。
日付が変わる頃、リュウジは眠りについた。
スタジアムは巨大な風船の中にある。必ずしもサッカーとは関係のない怒りや憎しみがそこに充満し、パンパンに膨れ上がっている。飢えた子供が泣いている。行き倒れの怪我人がいる。発煙筒の炎は本物の戦火だ。リュウジのシュートがゴールネットに突き刺さると、風船に風穴が開き、爆発寸前だった怒りや憎しみが噴き出していく。
そんな夢だったような気がする。
3[#「3」はゴシック体]
ヴェルディ・ブランコを身にまとった人間が、路上のあちこちで雄叫びを上げている。
警察の護送車に、後ろ手にされたサポーターの若者が押し込まれた。おそらく、ベティスより先に到着したセビージャの選手バスに、投石した乱暴者が逮捕されたのだ。
眩しい西陽が照りつける午後六時半、ベティスの選手バスがスタジアムの正面入口に入ろうとしていた。騎馬警官が作ってくれた花道を進んでいる。
バスのドアが開くと、スタッフの先導で素早くスタジアム内部に入る。歓声には軽く手を振って応える。
すでにホテルでミーティングを終えていた。ベティスはベストメンバーの先発で臨む。「とにかく先制点を奪うためにアタッカー陣は最初からトップギアで行け」と監督は指示した。
相手の疲れを見越して後半に勝負をかけるのがこれまでの戦い方だったが、ダービーでは熱気の後押しを受け、異様なテンションが選手を動かす。体力の温存を考えてしまうと、最初から猛攻にさらされ、浮足立つうちに先制ゴールを食らってしまう。試合開始のホイッスルが鳴った直後から、どれだけ相手を圧倒できるか。ビクトル・フェルナンデスの考えるダービーの戦い方だった。
みんなと一緒にジャージ姿でピッチに出る。芝はかなり濡れている。スペインの攻撃的サッカーを演出するのは、スプリンクラーでふんだんに撒《ま》かれる水である。
セビージャの選手もピッチに出てきた。パクがいる。リュウジを見つけると破顔一笑、腕を突き上げた。意味は分かった。お前を潰してやる、といったところだろう。
敵の選手に近寄って行っても誰も咎めないが、特に話すこともないので、そのままロッカールームに下がった。
コーチによってセビージャの先発メンバーが知らされる。パクはボランチで先発起用だった。
ハビ・ナバーロとパブロ・アルファロの両センターバックは、テクニックには欠けるが激しく強靭だ。セビリア・ダービーに強いパブロ・アルファロは、これまで自分が出場したダービー・マッチで一勝五分け負けなしという成績を誇っている。1トップはカンテラ育ちの若きFWアントニートだった。攻撃陣は鋭いドリブル突破の右サイドのMFガジャルド。イングランド人のサムウェイズは本来ボランチの選手だが、パクの台頭もあって、最近は前めでプレーする。U─22スペイン代表ではアトレティコのフェルナンド・トーレスと2トップを組むレジェスは、リーガの戦いでは一・五列目から飛び出す。
こうしてメンバーを見ると、現在十六位、二部降格の危機にあるチームとは到底思えない。
練習用ユニフォームに着替え、ピッチに出る。
スタンドはまだ半分も埋まっていない。おそらく試合開始の頃になっても満員にはならないだろう。チケットはダービー価格になっていて、上級クラスで日本円にして一万三千円もするからだ。
警官と警備員の制服が、スタンドのあちこちに見える。空前の厳戒態勢だった。バックスタンド三階席の一角が、鉄条網で囲まれている。セビージャのサポーターが千人ほど入る区画である。彼らはスタジアムに向かって行進をしている頃だろう。敵サポーターはホームスタジアムに集合してから、騎馬警官の護衛を受け、固まって相手の本拠地にやってくる。一時間以上の道のりの途中で相手サポーターから投石を受けるのはいつものことで、額の流血を手で押さえる姿がよく新聞を賑わす。
選手たちはランニングとストレッチの後、フォーメーションに散ってパス交換をする。サブ組は片隅で輪になって、リフティングでボール回しをする。
セビージャのアップでは、パクはレギュラー組のビブスを付けている。エネルギーを発散するパクの走りっぷりを見せつけられ、「早く試合のピッチに出てこいよ」と言われている気がする。
アップを終えてロッカールームに戻る。試合用のユニフォームに着替える。緑と白の縦縞。カッパ社製は肌に吸いつくようにフィットする。
選手たちはそれぞれのやり方で精神集中をする。多くの者がポータブルCDで音楽を聞いている。リュウジはパコ・デ・ルシアのフラメンコギターを聞いていた。本を読む者もいる。アルフォンソが開いているペーパーバックは、息子から借りてきたハリー・ポッターの最新作だ。マルコス・アスンソンは修行僧の風情で、ひたすらトレーナーのマッサージを受けている。
空気が波立っている。ポータブルCDのイヤホンを外すと、手拍子と応援フレーズが地鳴りのように伝わってくる。
スタッフから入場のサインがある。まずサブ組が通路の先を行く。宵闇と皓々《こうこう》たる照明がリュウジを待っていた。ゴール裏の三層のスタンドには、巨大なフラッグが波打っている。緑色の発煙筒が焚かれ、大砲の音のような爆竹が鳴る。ベンチにもぐりこむ前にスタンドを三百六十度見回すと、やはりメインスタンドとバックスタンドの両サイドに空席があった。セビジスタたちが陣取る一角は、赤と白のチームカラーに染まっている。彼らが応援フレーズを口にすると、緑色のベティコたちが「ブー」と唸りを上げて打ち消す。
レアル戦で体感したサンティアゴ・ベルナベウの七万五千人より数的には遥かに少ないが、ピッチにいる選手にかかる重圧は断然凄まじい。これがセビリア・ダービーなのだ。
セビージャの先発メンバーが入ってくる。狂気の沙汰のようなブーイングだ。引きつっている顔つきのメンバーの中で、パクだけがニコニコしていて、ベティコの野次すら楽しんでいる。
ベティスの先発メンバーが入ってくると、三層のゴール裏から盛大な紙吹雪が舞う。ある一角では蜘蛛の子を散らすような騒ぎが起こっている。警棒を持った警官数人が、乱暴行為の犯人を捕まえようとしているのか。
記念写真の撮影が終わる。コイントスが終わる。テレビ放送のCMあけのタイミングを待つ。
午後八時二分、キックオフ。
笛が鳴った直後からピッチに熱気を注ぐのはセビージャも同様だった。中盤の激しいプレスの応酬。バックラインでのボール回しにもFWが突っ込んでいく。
マルコス・アスンソンがボールを持って前線に上がり、パスの出し所を考えた。
「クイダーオ・ケ・ビエネ!」
危ない、来るぞ! ベティスのベンチから声が飛ぶ。マルコス・アスンソンの死角からパクが突進してきて、スライディングで襲いかかる。確実にボールを狙ったチャージなのに、ファウルを宣告された。
パクが「今のどこがファウルだ」とアピールする。主審は無視し、ボールのプレース位置を指差す。
早いリスタートから右サイドでホアキンがボールを受けた。低い重心のドリブルでライン際を駆け上がる。対応するのは、ここでもパクだ。ホアキンのトリッキーな動きを前にしても、体の軸はぶれない。
が、ホアキンはパクの股間を抜いた。パクの恐慌状態がリュウジにも伝わってくる。スタンドが大声援になる。ホアキンはクロスを上げると見せかけて、自分でペナルティエリアにつっかけていく。追いすがるパクがユニフォームを掴みかけた。そこで倒してファウルを宣告されてもPKにはならない位置。ベティスの決定的チャンスを前にして、パクは究極の選択を下した。その時、振り払おうとするホアキンの右腕が一閃《いつせん》した。パクの顔面をヒットしたと同時に、ホアキンも倒れこんだ。
笛が鳴る。もつれて倒れた二人に、主審が寄ってきてイエローカードを突きつける。
誰にイエローだ?
リュウジはホアキンの乱暴行為に対してだと思った。ところが主審がカードを突きつけた相手はパクだった。
鼻血で真っ赤に染まった顔で、パクは猛然と抗議をする。こういうふうに殴られたんだ、と実演する。主審は認めない。とにかくその鼻血を止めてからピッチに戻れ、と言う。
納得できないパクだが、一旦タッチラインの外に出て、駆けつけたトレーナーの手当てを受ける。
立ち上がったホアキンに拍手が巻き起こる。リュウジは背後、メインスタンドの声を聞いた。
「ええぞホアキン、狡賢《ずるがしこ》い韓国人をぶちのめしたれ!」
ワールドカップの恨みは忘れていない、ということだ。ホアキンが韓国人をノックアウトしたシーンを見て、溜飲を下げた人間は数多くいるに違いない。
ダービーはのっけから暴力的だ。応援もトップギア。こういうゲームでミスだけはしたくないと切実に思う。
ペナルティエリア右、角のすぐ外からのFK。キッカーには右利きのマルコス・アスンソンと左利きのデニウソンが立つ。壁は五枚。
鼻血の止まったパクがピッチに入れてくれ、と主審に大声を上げている。主審は、このFKが終わってからにしろ、と言う。パクは地団駄踏む。自分が招いたピンチを、自分で摘み取ることのできない苛立ちだ。
笛が鳴った。左利きのデニウソンにとってあまり角度はないが、ニアサイドのゴール右上隅を狙うべくスタートを切った。GKは直接狙ってくることを察知し、ニアサイドに意識を傾ける。しかしデニウソンは蹴らずにボールを飛び越えた。その瞬間、マルコス・アスンソンが短い助走から右足インフロントでこすり上げるように蹴った。ボールはゴール中央から左上隅へと強烈なカーブを描いて向かう。GKの意識はニアサイドにあって、体重は左足にかかっていた。自分の右側へと慌てて反応したが遅かった。飛びつくが、指先にわずかに触れるのが精一杯。弾かれたボールはファーサイドのポスト内側を叩き、ゴールに吸い込まれた。
スタンドの歓喜炸裂。開始わずか二分でベティス先制点。ベンチの控え選手も総立ちになった。ガッツポーズのビクトル・フェルナンデスに、仲間の祝福を振り切って一直線に駆けてきたマルコス・アスンソンが抱きついてくる。
リュウジも祝福の輪に加わる。すでに汗だくのマルコス・アスンソンのスキンヘッドに触れる。
セビージャの選手の顔つきが変わった。その最たるものはパクだ。鬼のような形相だった。自分のミスが失点につながったのだ。だが開始早々イエローをもらってしまった以上、プレーは自重しなければならない。しかも二度のファウル宣告でパクも学習したはずだ。この主審はパクのプレーには厳しい。ワールドカップの報復を望む観客と一体になっているとは思わないが、パクに対して厳しい判定をしても誰からも非難されることはない、という計算が主審に働いているのかもしれない。パクには、相手選手とスタンドと審判、三種類の敵がいる。
「パク、熱くなるな……」
リュウジは呟く。自分が後半ピッチに立った時、パクにいてもらわなくては困る。
セビージャは怒濤の反撃に転じた。
ベティスは1点を取ったことで安堵したのかもしれない。早い時間帯での先制点を守りきるつもりはないにせよ、変な余裕を持ってしまった。中盤のプレスが甘くなり、相手ボールが楽々と前線へ運ばれる。右のガジャルドからボールを受けたトップ下のレジェスが、ゴールを向く。シュート体勢に入ったと見せかけて、リバスをかわし、二列目から飛び出してきたサムウェイズにラストパスを出す。反転力があり、ボール扱いがうまい。
スタンドが轟音の悲鳴となる。サムウェイズはチップキックで逆サイドに出した。そこにはファニートを振り切ったアントニートがいた。大きなモーションから右足のボレーだ。悲鳴は極に達する。ベティスのベンチは凍りつく。強烈なシュートを、プラッツが体に当てた。跳ね返ったボールを、リバスが懸命のクリア。ボールがみぞおちに入ったらしく、プラッツがうずくまる。ボールが外に出される。トレーナーがベンチから飛び出していく。
その間にビクトル・フェルナンデスがマルコス・アスンソンを呼び寄せる。
「気を抜くな。アグレッシブに行け」
敵の勢いを止めるには攻撃しかない。得点は忘れろ。
パクは落ち着いたようだ。血は止まっているが鼻は真っ赤に腫れている。無理な当たりにはいかず、距離を考えたプレスで、ベティスのアタッカーたちを迎えている。
ホアキンから左サイドのデニウソンに大きなサイドチェンジ。マッチアップするのはユーゴスラビア人の右サイドバック、ニエグスだ。ドリブル突破を試みるデニウソンを絡みつくようにマークし、二人はもつれるようにして倒れた。主審はニエグスのファウルを宣告するが、デニウソンの怒りは収まらない。胸でニエグスを突き飛ばす。鼻をくっつけ合って怒号の応酬。主審が分け入る。二人を止めようとする両チームの選手も過熱し、小競り合いが起きる。
パクは争いには加わらず、一歩引いたところにいる。
「そうだ、それでいい……」
リュウジは冷静さを保っているパクを褒めてやる。
スタンドでも、警備員とサポーターとの争いがあちこちで起こっている。警棒を持った警備員が数人がかりで一人を制圧している。スタンドとフィールドはそれぞれ別の戦いを繰り広げていた。
主審がやっとデニウソンとニエグスを分け、握手をさせた。ゲームは再開する。
中盤のプレスの掛け合いで、時として子供の団子サッカーみたいになる。消耗戦の様相だった。
「セビジスタ・ケ・ノ・ボテ!」
セビージャのサポーターは飛び跳ねるな! ベティコたちのいつもの応援フレーズだ。
流れはセビージャに傾きつつあった。ダイレクトのパスがつながり始めたのだ。ベティスのバックス陣は翻弄され、尻餅をつく場面もある。前半終了まであと十分ちょっと。このまま折り返そうという消極姿勢になっている。
前線のアルフォンソまで中盤の守りに戻っている。監督がピッチの近くまで出て、「お前は前に張ってろ!」と指示を送る。
コーチからリュウジに、「アップをしろ」と指示が入った。その声を待っていた。リュウジはベンチを飛び出して、体を温め始める。
あと九分をしのげ。
あと五分をしのげ。
時間のたつのが遅く感じられる。ハーフタイムさえ挟めば、この流れは断ち切れる。レジェスが中央でボールを持って、前を向いた。ラストパスを受けようとするアタッカー陣がベティスのバックラインに侵入する。ところがレジェスは遠目から打ってきた。矢のようなミドルシュートだった。プラッツはパンチングで外にはじき出すのがやっとだった。
敵のコーナーキック。集中しろ。DFのパブロ・アルファロがするすると入ってくる。アントニートにも要注意。この二人をマークだ。駄目だ、パブロ・アルファロに対するリバスの寄せが甘い。来るぞ。そこに来るぞ。
ガジャルドが蹴った。マークの甘かったパブロ・アルファロの頭に合うかと思われた時、プラッツが飛び上がってパンチングでクリアした。助かった。今日のプラッツはキレまくっている。
と思った時に、選手の集中が途切れた。
「あー!」
リュウジは思わず声を上げた。高いクリアボールを、ホアキンが更に大きく蹴りだそうとした時、何と、空振りだ。地面でバウンドしたボールに、ゴール前からパクが突っ込んできて、ゴールを背にして、そのままオーバーヘッドでゴール前に戻した。それはベティス守備陣の間隙《かんげき》をつくラストパスとなった。混戦地帯で誰かがチョコンと合わせた。ボールはプラッツの脇をかすめて転がり、ラインを割ってネットにゆっくり収まった。
スタンドが一斉に沈黙する。前半終了間際に、セビージャ同点弾。バックスタンド三階のセビジスタのエリアは大騒ぎだ。
ホイッスルが二度鳴り、騒然とした雰囲気の中、前半が終了となった。
体から湯気を放つ先発メンバーが引き上げてくる。言葉もかけられないほど、彼らは疲弊している。カピは顔を歪め、口を手で押さえている。吐き気がこみ上げているようだ。
激励の意味で彼らの背中を叩き、リュウジはピッチに入る。
パクとすれ違う。彼の顔にはもう軽薄な笑いはない。主審に向けた殺気のこもった眼差しが、リュウジにも向けられる。
お前たちに絶対勝ってやる。
それほど血走ったパクの顔つきを見るのは、初めてだった。
メインスタンドの最前列からパクに激しい野次が飛ぶ。
「今度はお前らがジャッジに苦しむ番や!」
パクは一瞥もせず、奥に消える。
リュウジはマルコス・アスンソンとカピとのトライアングルを仮想しながら、右サイドをドリブルし、ペナルティエリア右隅から鋭角的にネットへ蹴りこむ。
ハーフタイムお馴染みの風景。持参したサンドイッチの包みを開き、アルミホイルが照明を受けてキラキラと光る。が、今夜のそれは、後半にエネルギーを放つための燃料補給のように見える。スタンドのあちこちに不穏なざわめきがあった。
明け方の夢が甦る。
人々の怒りや憎しみを解き放つ力が自分のシュートにあるのかどうか分からない。でもあのネットさえ揺らせば、いつ破裂してもおかしくないこの小宇宙を歓喜によって鎮めることができそうな気がする。
後半が始まった。
たった十五分の休息では息を吹き返したようには見えない。両チームの選手は、必死になって集中の糸を張ろうとしている。彼らにはどうやら「萎《な》えそうな自分」という敵がいる。
エンドを替え、ベティスは三層のスタンドに向かって攻めることになる。ヴェルディ・ブランコに染まるスタンドは、いつもだったら活力の源になるはずだが、ダービーに限ってはそうとも言えない。
ゴール裏から重圧がたちこめ、選手たちにとっては、そびえる壁と感じられる。
ホアキンが右サイドをかっ飛ばす。小柄なダビドがクレバーな読みで進路を遮断し、奪ったボールを前線へフィードする。中央で受けたサムウェイズからFWアントニートに縦のクサビが入る。アントニートはリバスと背中でぶつかりながらも踏ん張って、体を預けながらボールを一秒でも長くキープしようとする。それだけで他のアタッカー陣には有利な状況が生まれる。クサビを受けたFWの模範的な動きだった。
特に速攻においては、一秒あれば5メートルは移動できる。二列目にいたレジェスがその5メートルを駆けてきた。アントニートが体を張って稼いだ時間を無駄にしない。レジェスが前を向いてパスを受けた。シュート体勢に入った。ファニートがブロックに飛び込む。そこでフェイントをかけられたら、ファニートは倒れ、ぽっかりとシュートコースが空いたことだろう。
若いレジェスにそこまでの冷静さはなかった。素直に打った。ブロックに跳ね返されたボールには変な回転が与えられ、大きなクリアにはならなかった。バウンドしたボールに飛び込んでくるのは、中盤の底から猛然と駆けてきたパクだ。
大きなトラップから右サイドを深く切り裂く。ルイス・フェルナンデスが追いすがる。思わずパクのユニフォームを掴む。倒されそうになるが、パクは倒れない。バランスを崩しかけたが、ゴールライン際からマイナスのクロスを放った。地を這うグラウンダーのボールへと一直線に駆けて来るのは、マークを振り切ったガジャルドだった。
アップを中断し見入っていたリュウジは、悪寒が走った。ゴールを直感した。
ガジャルドは右足インサイドの確実なシュート。プラッツはグラブの先に当てたが、
「くそっ」
リュウジは毒づいた。ゴールを許してしまった。
セビージャ逆転。セビジスタだけが歓喜の声を上げる。一瞬沈黙したスタンドの大部分の観客は、重低音の嘆息を聞かせる。
パクはこの日、ふたつ目のアシストだった。祝福の輪の中心はガジャルドからパクに移る。パクの拳が天に突き上がる。
リュウジは監督を見る。出してくれ。早く俺を出して、パクと対決させてくれ。
後半も十五分が過ぎる。勝つためには2点を取らなければならないベティスだが、熱気が空回りする。開始早々の先制点が重荷となったベティスとは違い、この時間帯で逆転に成功したセビージャは冷静にゲームを運ぶ。ホアキンを密着マークするのはパク。右サイドで競争する二人は、そこだけ見れば光州《クアンジユ》の雪辱戦だった。頭に血が昇ったホアキンは、体を預けてくるパクを押し倒してしまった。レッドカードが出てもおかしくない場面だった。ビクトル・フェルナンデスも思わず頭を抱える。
主審がカードを掲げる。イエローで済んだ。ブーイングするのは千人のセビジスタ。仲間に起こしてもらうパクは、主審の偏った判定にもう慣れているのか、皮肉っぽい笑みだけを投げかける。
ホアキンがやたらと熱くなっている。またラフプレーでイエローを出されたら、十人で戦わなくてはならなくなる。手を打つなら今だ。
監督、今しかない!
リュウジの心の叫びが聞こえたに違いない。監督が振り返り、潤んでぎらついた眼差しをリュウジに投げかけた。
「来い」と手招きする。リュウジは弾かれたようにベンチ前に戻り、ストッキングにスネ当てを入れる。パンツの紐を締める。
「リュー、いいな、お前のタイミングじゃない、相手のタイミングだ」
クロスの心得だ。リュウジは「分かってますよ」と大きく頷き返す。指示はそれだけだった。心臓が一挙に二倍に膨らんだかのように、鼓動が体全体を震わす。コーチによって第四の審判の前に連れていかれる。交代の紙が差し出された。リュウジはスパイク裏を見せる。電光ボードにホアキンの背番号とリュウジの背番号が打ち込まれる。
ライン際に立つ。あとはボールがアウトになれば、パクと同じピッチに立つことができる。軽くジャンプして、体に溜まった熱を逃がさない。
が、そういう時に限ってプレーが途切れない。
セビージャは短くパスをつなげる。そこに飛び込んでくれ、と仲間に念じる。ボールを外に出してくれ。あるいはカードを出されない程度のファウルでもいい。早くピッチに立ちたかった。
セビージャの攻撃陣が余裕を持って攻め上がる。デニウソンとホアキンも最終ラインに下がって、これ以上の追加点を食い止めるべく総力で守備に回る。
ガジャルドがシュートする。リバスの足に当たってゴールラインを割った。プレーが止まった。副審が旗を上げて交代を知らせようとするが、主審は気づかない。
ベティスの選手たちも敵コーナーキックの対応のため、交代をアピールするどころではない。
「アルビトロ! カンビオ!」
交代! 交代! リュウジは声を上げる。主審はやっと気づく。その時すでに、キッカーがコーナーに立っているため、交代を認めない。
リュウジは地面を足で叩く。ファーサイドにコーナーキックが蹴りこまれる。DFがヘディングでクリアして、タッチラインを割った。主審は振り返り、笛を吹いてやっとピッチに入れてくれた。
疲れ切ったホアキンが小走りにやってくる。早くピッチを出てくれとせがむように、リュウジは小刻みなステップを続ける。ホアキンは燃え尽きた表情だった。途中交代を悔しがったりはしない。リュウジの後頭部をポンッと叩き、ピッチに送り出してくれた。
放たれた。
スーパーサブの登場でスタンドが沸く。リュウジは空中浮遊をしている感覚だった。地に足がつかない。パクが獲物を見つけたような眼差しでリュウジを見た。リュウジは負けじと睨み返した。
スローインからゲーム再開。ファーストタッチはそのトラップだった。おかげですぐに落ち着いた。
中央のカピに預けると、リュウジは自分の戦場である右サイドを目指してトップスピードでピッチを斜めに切り裂いた。視界の左端にマークにつこうとするパクが見えた。カピがリュウジの進路へとリターンパス。空いたスペースでボールを受けたリュウジは、邪魔者のいない右サイドをしばらく駆け上がる。
前を塞ごうとするのはダビド。内側の壁にはパク。何度もイメージした光景だった。背後にはマルコス・アスンソンのカバーがあるはずだ。カピはマークを引き連れている。トライアングルはできているはずだ。
ここからだ。攻撃パターンその二を選択した。ドリブルのスピードを落とすと、斜め後ろに気配を感じたマルコス・アスンソンへとバックパス。そこでギアを切り換え、トップスピードで斜めにカットインする。カピは「あうんの呼吸」で右サイドへとマークを引き連れて移動していた。ぽっかり空いた中央のスペースに走り込むと、パクが寄せて来る。距離を置いているマルコス・アスンソンからリュウジへのパスを読み、インターセプトを狙っているからだ。背後から頭を越えるボールがやってきた。落ちる先を予測してリュウジは走る。そこでトラップを間違えなかったら、ラストパスの出し所は、DFを振り切ったアルフォンソ、左のスペースでフリーになっているデニウソン、ふたつある。
地面に弾んだボールを右足の爪先でコントロールした。パクがファウルすれすれのチャージにかかってくる。肩の筋肉が激突した。肘を凶器の形にして跳ね返す。野獣の息づかいを聞いた。パクの血が沸騰していた。日本が韓国に勝ちたいわけではない。俺がこいつに勝ちたい。
いくら激しく体を寄せられても、ボールコントロールに乱れはなかった。アルフォンソへのパスコースが開いたのが見えた。今だ。この機を逃すとパクに倒される。右足インサイドで完璧なスルーパスを出す。アルフォンソに通った。決めてくれ。
シュートはキーパー正面でキャッチされた。スタンドの「ウィー」が大音響となって降って来る。
まずは最初のチャンスを作った。上々の試運転だ。「リュー、リュー」とスタンドが合唱する。もう彼らに「チノ」とは呼ばせない。
キーパーのパントキックに備えて、軽快なステップで自陣に下がる。プレーが止まるこういう時に、選手たちの疲れが分かる。みんな最後のエネルギーを振り絞ろうとしている。リュウジだけは燃料が満ちている。ただの思い込みだろうが、どいつもこいつも俺の敵ではない、という自信が高まる。
仲間がボールを預けてくれる。みんなが俺の突破に期待している。一人かわす。二人かわす。立ちはだかる三人目はパクだ。ボールを持って奴と向かい合い、シザースを見せつける。パクの重心移動を見て、その逆へつっかけていく。かわした。ザマアミロ。そこでパクが思わず出した足にかかった。リュウジはかわしきれず倒れた。笛が吹かれた。
違う、今のは故意のファウルじゃない。イエローを出さないでくれ。パクを退場させないでくれ。本当だったら地面を這いずり回って痛がることもできたが、リュウジはすっくと立ち上がった。
パクは覚悟の顔つきでやってくる主審を迎えたが、どういう慈悲なのか、主審はカードを出さなかった。
パクに安堵の表情が浮かんだのはほんの一瞬で、また獲物に食いつこうとする目でリュウジを見た。
後半二十二分。リュウジの投入でベティスに勢いが甦ろうとしていた。
打ち合わせをしたわけではないし、監督の指示があったわけではないが、いつの間にかリュウジはカピとポジションチェンジをしていた。カピが右サイドに流れ、リュウジはトップ下で縦横無尽に動いていた。疲れていないリュウジを全方位で動かそうとするチームの総意だった。それはすなわち、中央でのパクとの一対一の対決を意味していた。
リュウジにボールが渡る。右にも左にもパスの選択肢がある。トップ下の楽しさだった。1点負けていても、リュウジにとっては娯楽大作に思える場面が続いている。俺は今、笑っているかもしれない。
セビリア・ダービーは日本のペイテレビでも放送されるという。こんな殺気だった戦いでどうしてリュウジは笑っているのかと、父や母やミサキは不思議がるかもしれない。
パクとの衝突を避けて、左サイドを走っているデニウソンにスルーパスを通した。ベティスのアタッカー陣がゴール前に迫る。デニウソンはトリッキーなフェイントでニエグスを騙し、置き去りにし、ライン際からカーブのかかったクロスを上げた。飛び出してきたのは、知らないうちにリュウジを通り越したマルコス・アスンソン。彼にしては珍しいヘディング。褐色のスキンヘッドにボールは跳ね返った。まさにブラジル人コンビが創り上げた芸術だった。マルコス・アスンソンはまるで黒い怪鳥。見ていて惚れ惚れする高い打点からのシュートだった。キーパーは一歩も動けずゴールを許した。
絶叫が席巻。ベティコが一斉に立ち上がる。スタンドが膨れ上がる。メインスタンドの貴賓席も狂喜乱舞。ロペーラ会長は上着のポケットから出したキリストの絵にキスをしているのだろうか。
ゲームは振り出しに戻った。リュウジは仲間の歓喜の輪には入らず、ガッツポーズを見せた。視線の先にはパクがいた。奴はどういう気持ちの余裕なのか、苦笑している。
いいだろう。戦いはこれからだ。
パクの言葉が聞こえた気がした。
残り十分。ダービーのドローはもう見たくない、というサポーターの切実な気持ちが四方八方から降り注ぐ。両チームの監督が次々と交代のカードを切る。疲労が極に達しているカピを下げてグッジョンソンを、アルフォンソに替えてガストン・カサスを入れた。
リュウジはトップ下でボールの供給源となる。また右か左へのパスを予想する相手サイドバックは、横に広がってサイドを固めようとする。中央の網がスカスカになったところで、ドリブルでつっかける。パクだけはこの動きを予測していた。早めのチェックにくる。今日何度目かの対決だった。
リュウジは足の裏、爪先、踵《かかと》……足の様々な部位を使ってボールをコントロールし、パクの寄せをかわそうとする。キープが長すぎたかもしれない。パクとの対決を楽しみすぎたのかもしれない。後ろからのチェックに気づかなかった。誰かにボールを弾かれ、バランスを崩したところで、パクがボールを奪い、前線へと駆け上がる。
しまった!
今度はリュウジが追いすがる番だった。奪われたボールは自分で奪い返さなくてはならない。前がかりになっていたベティスの中盤は、すぐには戻れない。
セビージャのアタッカー二人がそれぞれの位置で、重戦車のようなドリブルでボールを運んでくるパクのラストパスを待つ。数的優位はセビージャにある。リュウジの体内で警戒警報が鳴り響く。こめかみが破裂するほど脈打つ。パクを止めるのはファウルしかないのか。このままでは逆転弾を食らう。リュウジはレッドカードを覚悟して、バックチャージに踏み切ろうとした。
その時、パクがラストパスを出した。右サイドでフリーになっているガジャルドがトラップした。シュート体勢に入る。プラッツが飛び出した。もう一度神がかり的なセーブを見せてくれとリュウジは祈った。
ガジャルドは迫るプラッツを嘲笑うかのようなループシュートを放った。それは無人のゴール前に転がる。絶体絶命と思われた時、駆け込んできたバレラが懸命にクリアし、勢い余って体がネットに絡みついた。小さかったクリアを、更にファニートが大きく蹴りだした。
スタンドからは安堵の重低音。全身で悔しさを表現するパクとガジャルドを尻目に、リュウジはまたセンターサークル付近でボールを持つ。今度はグッジョンソンを動かそうと右サイドに正確なパスを出した。
刈る。刈られる。誰もが足をつる。敵の選手でも足を伸ばしてやる。その間に水分補給をする。
時間は刻々と減っていく。四十四分を過ぎた。
第四の審判がロスタイム表示をする。残り四分だ。スタンドの観衆はいくら熱気溢れるゲームであっても、ドローという結末には満足しない。勝利と敗北で二分される世界を求めている。
セビージャのアタッカーたちは足が止まった。燃料を使い果たしたかのように、緩慢な動きで前線を這いずり回っている。そこに突進していくのはパクだった。一人、気を吐いている。疲れを知らないこの運動量は何だと、ベティスのDFたちは呆気に取られながら迎えうつ。
ワールドカップで見せた韓国人の底無しのスタミナだった。パクが一本五十万円の高麗人参を愛用しているという話は聞かない。あのスタミナは薬草がもたらしたものではない。彼らの血だ。真っ赤に燃える何かだ。
あれよあれよという間に、パクはゴール前にボールを運んでくる。リュウジは追いつける距離にはいなかった。DFの最後の踏ん張りを期待するしかなかった。
ミドルがくるぞ。
予感は当たった。パクは打ってきた。伸び上がる弾道のシュートに、「枠を外れろ」とリュウジは念じた。バーを叩いて乾いた音が響きわたった。ボールをファニートが大きく蹴りだす。回転しながら目の前に落ちてくるボールは、まるで俺に恋い焦がれているようだ。リュウジはセンターサークル手前でそれを受け止めてやった。
パクは追いつける所にいない。リュウジは一気呵成に中央をドリブルで運ぶ。敵の中盤も足が止まっている。どこまでも独走できそうだった。左サイドをデニウソンが走っていて、リュウジのラストパスを受けるため中央にカットインしてくる。右サイドのグッジョンソンもマークを楽々とかわした。
リュウジの視界前方には強靭なセンターバックの二人。まずハビ・ナバーロが寄せてくる。ドリブルの速度に緩急をつけて、最初の壁をかわした。残るはパブロ・アルファロ。その向こうには白く揺れるのを待っているゴールがある。
デニウソンが「出せ!」と叫んでいる。
その時、リュウジはエゴイストになった。動脈と静脈がしめ縄のように張りつめ、一匹の動物に形を変えたのを感じた。
龍の時だ。
パブロ・アルファロの股間を抜いた。小宇宙が爆裂したかのような歓声。みんなが想像している風景を実現させたかった。ぽっかり空いたシュートコース。レッドカード覚悟で引き倒そうとするパブロ・アルファロの腕も振り払った。
右足インステップを振り抜いた。ボールはホップしてネットへと吸い込まれる。リュウジは移籍後の初ゴールを確信した。
が、神は敵のキーパーにも等しく舞い降りた。ノタリオが体を伸ばして飛びつき、弾いて止めた。歓喜が一挙に萎《しぼ》む。リュウジも頭を抱えそうになる。
いや、それでは終わらない。デニウソンが詰めていた。こぼれ球を左足インサイドで軽く合わせる。ボールは優雅な転がり方でゴールに吸い込まれた。
エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラの爆発。ベティスはロスタイム逆転。気がふれたような興奮状態がスタンドを包み込む。
「ごっつぁんゴール」を決めたデニウソンが真っ先にリュウジの許に駆け寄る。グッジョンソンにも手荒く祝福された。
残り時間はわずか。あとワンプレーで終わりだろう。セビージャの選手は全員、力尽きて座り込んでいる。戦意はない。
白と赤のユニフォーム姿の中で一人だけ、一心不乱に縦に地を駆ける姿があった。
パクがピッチを突っ切って、ネットに絡みついているボールを抱え、センターサークルに猛然と戻ってくる。崩れ落ちた仲間たちに、
「バーモス・レバンタテ!」
早く立てと怒号を投げかける。
まだ勝負を諦めない。諦めてしまう自分が許せない。リュウジは汗に輝くパクの筋肉が、まばゆいばかりの光を放ったかに見えた。
それだ。それがお前の国の強さだ。お前のエンジンはまだ止まらない。今、俺はよく分かったよ。世界第四位はお前たちにふさわしい称号だった。
センターサークルにぐいっとボールを押しつけたパクは、大きな仕種で「早く戻れ」と呼び寄せ、「行くぞ、行くぞ」と手を叩いて仲間を鼓舞し、自分の守備位置につく。
リュウジは微笑みかけ、パクともっとサッカーをするためにセンターサークルへと向かった。
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第四章 ゴー・イースト[#「第四章 ゴー・イースト」はゴシック体]
1[#「1」はゴシック体]
午後四時過ぎにマドリードのバラハス空港を飛び立つイベリア航空機は、空の切れ目に血が滲んだような夕闇のアムステルダムに降り立つ。一時間半のトランジットを経てJAL便に乗り換え、十二時間あまりの長旅の後、成田に到着する。
セビリアの日本料理店「KYOTO」で時々顔を合わせる日本人商社マンによると、日本からヨーロッパへの旅は行きより帰りの方が辛いという。帰国した日に時差調整に失敗すると、一週間以上、夜は不眠状態に悩まされ、昼は猛烈な睡魔に襲われる。
リュウジは二年前に日本を旅立って以来、初めての帰国だから、時差の本当の苦しみはまだ経験していない。
ビジネスクラスを占領したベティスの選手とチーム関係者は、二本目の機内上映が終わる頃にはほとんど眠りについている。チームカラーである緑のネクタイは彼らの蓄積された疲労を物語り、はだけた襟からだらりと垂れ下がっている。
シーズン最終戦をアウェーゲームで終え、セビリアに帰ってきて一週間もしないうちに、日本遠征となった。
日本代表との親善試合である。日本代表が国内で海外のクラブチームと対戦するのは久しぶりになる。
今回実現したのは、去年、日本代表がスペインに遠征してレアル・マドリーと親善試合をすることができた「返礼」として、今度はスペインを代表するクラブチームを日本に招くという意味合いが強かった。ベティスが選ばれたのは、日本サッカー協会の中にリュウジのプレーを見たい人間がいたから、という噂もある。
国内ではJリーグのシーズン中であるが、ちょうどフランスでのコンフェデレーションズカップ出場のためにリーグ戦が休止期間にあって、中田英寿や中村俊輔らヨーロッパ組もそのまま帰国し、ベティスと対戦するというスケジュールが組まれた。
ロペーラ会長にとってこの遠征は、日本とスペインの友好記念というのは単なる名目で、ベティスをレアル・マドリー並みの世界ブランドに育てるための第一歩だった。ホームタウンのセビリアは「フラメンコの中心地」として日本では有名だし、セビリアの観光収入は日本人旅行者に多く依存している。
しかもベティスには志野リュウジがいる、と会長は胸を張る。日本に広がるフラメンコブームと未来を嘱望《しよくぼう》される日本人サッカー選手を足掛かりに、極東へのアンダルシア文化輸出に野心満々らしい。
会長自身は手広く事業を広げているものの、アンダルシアの人物らしく、ビジネスを前面に出さず、あくせく仕事するよりはプライベートを充実させるタイプの人間だ。本業は不動産業だが、フラメンコや闘牛を目玉にした日本人向けのツアーを企画したり、ワインやオリーブ油の工場を買収したりする。実務は子飼いの部下たちにまかせ、関連企業ではほとんど表舞台には立たないが、会長がベティスの躍進を追い風にして、グループ企業に相当な金をつぎ込んでいるのは確からしい。
ベティスがチャンピオンズリーグ出場権を得たことで、莫大な放映権料による利益配分も皮算用にあるのだろう。何しろ、チャンピオンズリーグでは一試合の勝利で八千万円、負けてもその半額が主催者UEFAから支払われる。予選を通過するだけで最高九億六千万円というクラブ収入になる。世界ランキングによる配分で、スペインのクラブチームには、国内リーグ四位までがチャンピオンズリーグ出場資格が与えられる。この巨額の収入にあずかるため、クラブはリーグ戦でしのぎを削っていると言ってもいい。
わりを食うのは選手である。何とかチャンピオンズリーグ出場権を得たものの、十カ月のシーズンの疲れが溜まりに溜まったこの時期、日本への長旅をしなければならない。
いくら相手が神様ジーコの指揮する日本代表でも、選手にとっては秋葉原の電気街ショッピングか、夜の六本木を楽しみにするしかない遠征である。しかも日本は梅雨の真っ只中だ。去年のワールドカップでブラジル代表として日本の土を踏んだデニウソンは、日本の湿気がいかに苦行であるか、リュウジに訊かないまでもよく知っている。
選手たちの移籍市場もそろそろ騒がしくなる。デニウソンは早々と残留を決めたようだが、問題はベティスのスター選手、ホアキンである。
少年の頃からの夢であるエル・ブランコ。尊敬するのはフィーゴ。誰よりも本人が望んでいると言われるレアル・マドリー移籍だが、以前から、ホアキンがマドリーに移籍するのはフィーゴが引退する時期がタイミングだと言われていた。フィーゴはマドリーと二〇〇六年まで契約、ホアキンもベティスと二〇〇八年までの契約を結んだが、今シーズン終了後、にわかに移籍話が本格化した。フィーゴが「みんなが予測するより早く引退するかもしれない」と発言したことが騒動の元だった。
ロペーラ会長は強気の発言で巧みに牽制した。
会長は一対三のトレードをマドリー側に要求したと、遠征直前、「マルカ」紙が大々的に報じた。ホアキン放出の見返りは、ベティスのストライカー不足を補うモリエンテス、中盤の右サイドを補強するマクマナマン、そしてDF強化のためのエルゲラだと、まことしやかに伝えられた。これが事実だとすると、ホアキンの移籍を邪魔するための嫌がらせとしか思えない。
その直後に電撃的なニュース。レアル・マドリーが四十九億円の移籍金で、かねてから移籍の噂のあったデイビッド・ベッカムをマンチェスター・ユナイテッドから獲得した。しかもデル・ボスケ監督とイエロがチームを去り、いよいよレアル・マドリーは商業ベースに乗った「世界選抜」化に突き進んでいる。つまりホアキンの移籍話は立ち消えになりつつある。ただでさえフィーゴとベッカムが右サイドのポジションを争うところに、ホアキンまで取るはずがない。
ホアキンはJALのビジネスクラスに座るやシャンパンをダブルで注文し、緑色のネクタイを誰よりも早くかなぐり捨てるという意味深な行動を見せた後、飲んだくれた。ロペーラ会長の言動のせいかどうかはともかく、ベッカムに先を越された。会長の腰巾着であるチーム関係者も同乗しているので、口にはチャックをしなければならない。
お陰で周りに座っているリュウジたちは、ホアキンが潰れて寝入るまで、腫れ物に触るような時間だった。
リュウジ自身はベティスへの完全移籍で話が進行しつつある。
セビリア・ダービーでの決勝点を導いたドリブル突破がアピールしたようだ。その後のレクレアティボ・ウエルバ戦で三人抜きによる今季初得点。続くマラガ戦でもアルフォンソの決勝点をアシストした。優勝争いから脱落するとリュウジの出場時間も増え、オサスナ戦と最終節のビジャレアル戦でも得意のドリブル突破からゴールネットを揺らした。
シーズン3得点という成績を武器に、代理人のペドロサはベティスから好条件を引き出そうとしている。
リュウジが何より嬉しかったのは、日本のサッカー界がスペインでの活躍を評価してくれたことだった。
今年の春、ジーコがヨーロッパにおける日本人選手の試合を視察にやってきた。それに同行した日本サッカー協会の幹部がスペインに立ち寄り、ベティスのゲームを観戦後、ロペーラ会長と会談したらしい。協会幹部はリュウジが来シーズンもベティスに在籍するという前提で、「アテネ・オリンピック代表の合宿や試合に志野リュウジを招集する時は、日程調整をしてもらえないか」と申し入れたという。
どうやら日本サッカー協会は一世代上のオリンピック代表にリュウジを呼ぼうとしている。
ブルーのユニフォームが目の前にちらついた。血が騒ぐ感覚だった。国立の歓声を思い出した。
同じ日本選抜メンバーとして国立のピッチに立った梶祐一郎も、U─22の代表候補に選ばれたと聞く。全国高校サッカー選手権準決勝で敗れはしたものの、卒業後に横浜F・マリノス入りを果たし、この春いきなりトップチームでデビューしたというライバルの話は、スペインまで聞こえてきた。
それにしても日本まで遠い。
リュウジはいくらフラットにシートを倒しても寝つけず、シールドを開けて窓の外を見る。
飛行機は闇夜を滑っていた。航行図によるとシベリア上空を東へ進んでいる。寝酒のビールでももらおうかと思ったが、やってきたスチュワーデスが「この人はどう見ても未成年者だし、アルコールをサービスしてもいいのだろうか」と悩むに違いないと思い、我慢することにした。
見回せば、ベティスのレギュラー組はみんな口を半開きにして爆睡している。リーガとスペイン国王杯とUEFAカップという過密日程を終えた疲れは、骨の髄まで染み込んでいる。
シーズン前半は出場機会に恵まれず、素行不良による謹慎処分も受けたことのあるリュウジは、彼らほど疲弊していない。日本のピッチでゲームができるという高揚感が優《まさ》っている。
横浜国際総合競技場のチケットは完売だとクラブ関係者が話していた。青一色の満員のスタンドが迎えてくれるかもしれない。
低いエンジン音だけの静寂に身を浸していると、どうしてもシーズン後半戦の悔しい記憶が甦ってくる。
ベティスがリーガ優勝争いから転落するまでの、一連のゲームだ。
三月二日のセビリア・ダービーでは会心の勝利だった。その後も下位チーム相手に順調に勝ち点を伸ばし、優勝戦線に生き残った。レアル・マドリーはアウェーで星をとりこぼしてもたつき、その間にバレンシアが連勝によって首位に躍り出た。三強の戦いに絞られたリーガは、四月五日、バレンシアをセビリアに迎えての二十八節が天王山となった。そこでベティスが勝てば勝ち点で並び、得失点差で上回って首位に躍り出るはずだったが……。
両チーム無得点で迎えた後半二十二分、リュウジは右サイドのピッチに立った。ホアキンが厳しいマークに苛立ってラフプレーに走り、イエローカードをもらった直後だった。もう一枚もらったら次節は出場停止になるため、ホアキンは下げられたのだ。
エスタディオ・ルイス・デ・ロペーラは、ベティスの優勝を夢見る観客で膨れ上がっていた。バレンシアのサポーター以外の五万人が、一斉に「リュー」コールを唱えてくれたのには驚いた。
バレンシアのトップ下にはヴィクトル・ロペスがいる。今シーズン、パブロ・アイマール戦線離脱の穴を埋め、今ではアトレティコ・マドリーのフェルナンド・トーレスと並んで「スペインの十代の至宝」と呼ばれている。
彼とは二年前の国立で対戦した。U─17の代表であっても、リュウジはスペインのサッカーを羨ましく思った。相手に「殺される」という恐怖を与えるサッカーに身を置きたくてスペインに旅立ち、乾いた赤土のグラウンドで何度も倒され、異邦人の孤独に涙をこぼし、階段を一段一段昇ってきた。
ヴィクトル・ロペスは一足早くリーガの一部にデビューした。今シーズンの第九節、バレンシアのホームで行われた試合では、ヴィクトルはすでにパブロ・アイマールの故障によってレギュラー・ポジションを取っていた。かたやリュウジはベンチで戦況を見守る控え組だった。開始早々、バレンシアはゴール前の絶好な位置でフリーキックをもらい、キッカーにヴィクトル・ロペスが立った。ボールは壁の右隅を巻いてゴール右上に吸い込まれ、リュウジの目の前で彼の今シーズン初得点が決まった。
あの時は3対0の完敗だった。ホームに彼らを迎えての戦いで負けるわけにはいかない。ここで勝ち点3を得た方が優勝に一歩近づく。
バレンシアの中盤の底を支えているのはバラハとアルベルダの両ボランチだが、この壁を突破しても、ペジェグリーノというセンターバックが巨大な壁となってそびえる。世界でもトップクラスの守備陣を相手に、リュウジは自分のドリブルがどこまで通用するか、試したかった。
リュウジがピッチに立って間もなく、敵将ベニテスも動いた。左MFのビセンテを下げて、アルゼンチン代表のキリ・ゴンサレスを投入した。バレンシア得意のパターン、膠着《こうちやく》状態における切り札だった。
今の俺は国立の時の俺ではない。それをヴィクトル・ロペスに見せつけてやりたくて、リュウジはボールを持つと、バレンシアの堅守へとドリブルでつっかけた。
さすがに首位にいるチームだと思った。無理な止め方をせず、リュウジと距離を保ち、パスコースを消す。突破を試みても、常に二人の壁がリュウジの前にそびえた。
タッチライン際の攻防でファビオ・アウレリオにボールを奪われると、一気にトップのカリューへと長いフィードが渡る。彼がベティスのDFを背にポストとなってボールをキープしている間に、キリ・ゴンサレスがサイドを上がって、カリューからのパスを受ける。カリューはすでにマークを振り切って走り出している。
マフィアの親分にくっついている巨漢のボディガード、という風貌のカリューは、195センチという身長から信じられないスピードを発揮するノルウェー人FWだ。すでに後半も半分が過ぎているというのに、ベティスのDF陣は彼の速さを掴みきれていない。
リュウジも自陣まで下がって守備に奔走する。ヴィクトル・ロペスへのチェックでは、ガツガツと肘打ちの応酬になった。
一瞬の隙が命取りになった。ヴィクトル・ロペスとキリ・ゴンサレスのワンツーで中央を切り崩され、カリューが強引にアタッキングエリアに入っていく。そこにDFのマークが集中した時、二列目からするするとバラハが侵入した。バラハに追い越されたリュウジが慌てて追いかけたが、遅かった。カリューがヒールで送ったラストパスを受け、バラハはぽっかり開いたシュートコースへと右足を振り抜いた。
この1点でベティスの集中は切れてしまった。三十五分過ぎにも、ヴィクトルがミドルシュートを放ち、プラッツが胸に大きく当て、そのこぼれ球をカリューが難なく押し込んだ。
リュウジはほとんど見せ場を作れぬまま終了のホイッスルを聞いた。ヴィクトル・ロペスと目が合うと、彼の方から寄ってきて、ユニフォーム交換を求めてきた。
「クアンド・バス・ア・ビスティールテ・デル・アスール?」
青いユニフォームはいつ着るんだ?
いずれ国の代表同士で戦おう。ヴィクトル・ロペスは白い歯を見せた。リュウジは「アルグンディーア、シン・ファルタ」……いつか必ず、と答えるのが精一杯だった。九十分走り続けて勝利に貢献したヴィクトル・ロペスの白いユニフォームは、汗をふんだんに吸い、手の中で重く感じられた。
セビリアはその頃、フェリアで賑わった。
女性たちは、大きなフリルのついた色とりどりのドレスで街を闊歩し、フラメンコギターが無数のカセタ(仮設小屋)がひしめく広場から聞こえる。アンダルシアの伝統が凝縮された春の祭りだが、年に一度、たった六日間の祭りのために、セビリアの人々はこのカセタ作りに大金をつぎ込む。どのカセタも入口のデザインに工夫を凝らし、飾りたて、家自慢をする。
凱旋門をかたどったイルミネーションが広場の入口にそびえている。三万個の電球がカウントダウンから一斉に点灯し、夜空を皓々《こうこう》と照らす。道路はカセタに向かう群衆で溢れ、リュウジはマリアと手をつなぎ、蟻の大行進の如く、人々の体温を四方八方から浴びてぞろぞろと歩く。クラクションを鳴らした車は人込みの中で立ち往生し、道という道には二重三重に駐車されている。
車を出す時にはどうするのだろう。明日まで待つしかない。
カセタが立ち並ぶエリアは光と音の洪水だった。シェリー酒を豪快にあおる太った女性が、ごわごわとフリルのかさばるスカートを持ち上げ、練り歩く。造花と生花がアレンジされた髪飾りが豊かな黒髪を王冠のように飾っている。
「トレ」の主人パコの話によると、アンダルシアの女性の誇りは、髪の量と長さだという。男たちが恋人を自慢する時は、「彼女は髪が多くてね」というのが決まり文句らしい。
広場に入った二人は、やっとフラメンコ学校のカセタに到着した。女たちは老いも若きも子供もフラメンコ衣裳で着飾り、いっぱしの「情熱的なジプシー女」を演じようとする。男たちは腹の見える短いジャケットに黒いつば広帽で「伊達男の騎手」という恰好だ。
リュウジはそこで久しぶりにマリアの踊りを見た。亜麻布で覆われたステージで、ベティスのチームカラーを意識したのか鮮やかな緑色のドレスを身につけ、マリアは注目の的だった。
セビジャーナスは男と女の愛の踊りだ。まず二人が出会う。次に誘惑し合う。そして二人は争い、最後には仲直りをするというストーリーで成立している。マリアと男性ダンサーが視線と視線を絡み合わせ、愛憎を剥き出しにして踊る。
最後に彼女の踊りを見た時と比べて、ひとつひとつの動きが鋭くて、迫力があって、艶《つや》やかだった。カルメンのように高慢で、胸を張り、顎を突き出し、男の腕に抱かれる。多くの観客の目にさらされ、磨かれた踊りなのだろうと、リュウジは素人目にも理解できた。
フェリアの熱気が街から消える頃から、ベティスの最後の死闘が始まった。
二十九節、アウェーでセルタに勝利した。次節、アトレティコ・マドリーとはホームで引き分けた。アスレティック・ビルバオに引き分け、エスパニョールには大勝した。四試合を何とか負け知らずで乗り切ったが、首位争いはクラシコでバルセロナを完膚なきまでに退けたレアル・マドリーとバレンシアに絞られ、ベティスは首の皮一枚つながった形で追いすがった。
リュウジにとっては皮肉にも、古巣アトランティコとのアウェーゲームが希望を打ち砕く結果となった。
いつものように後半二十分からピッチに立つリュウジに、アランフェスの人々は温かかった。スタンドにはペペやアリシアがいて、敵であろうが声援を送ってくれた。今でもアトランティコのBチームでスタッフとして働いているマノロや、地域リーグで頑張っているというエミリオからも「バーモス」と声がかかった。
1対1の凍りついた局面で、リュウジは「クラック」になるべくピッチに送り出された。アトランティコも動いた。疲れの見えるボランチを交代させ、リュウジのスピードに対応させようとする。リュウジを戦力外として放出したアトランティコの監督が、リュウジを潰しにかかる。それはそれでリュウジにとって快感だった。
が、思うようなプレーができなかった。相手に囲い込まれ、味方のフォローもなく、二度ほど芝に倒された。ビクトル・フェルナンデス監督がいくらピッチの外から声を張り上げても、ドローで終えて次節に望みをつなごうという消極姿勢が、リュウジを除くフィールド・プレイヤーの間に蔓延していた。バックラインが深すぎて、打たれっぱなしだった。そこに「ホームに甘い笛」が鳴った。
終了間際、ファニートがペナルティエリア内で敵FWを厳しくチェックした時、足はボールにかかっていたはずが、笛が高らかに鳴った。ベティスの選手たちが大挙、主審に迫る。判定が変わるはずもない。あとはプラッツの好セーブに期待するしかなかった。
PKは鮮やかに決まった。
こうしてベティスは優勝争いから大きく後退し、諦めが厚い雲の如く覆いそうだった。何とか気持ちを立て直し、残り五試合を三勝二分けと踏ん張って、三位でシーズンを終えることになった。
最終節、バレンシアはセビージャと戦った。この時点で首位バレンシアはマドリーに勝ち点で3差。たとえマドリーが勝っても、バレンシアは引き分ければマドリーを勝ち点で1上回るという状況だったが、ベティスがアトランティコ戦で犯した過ちと同様、守備の意識が強すぎたことが悲劇につながった。
防戦一方から、疲れを知らないパクによってバックラインが崩された。
ベティスの最終節は土曜開催だったため、セビージャがホームの戦いをリュウジは自宅のテレビでマリアと一緒に見ることができた。
パクのピンポイントのクロスがアントニートの頭に合い、ネットが揺れると、二人は快哉を叫んだ。
終了のホイッスルが鳴ると、バレンシアのイレブンはエスタディオ・ラモン・サンチェス・ピスフアンの芝に次々と崩れ落ち、ヴィクトル・ロペスはベニテス監督に手を引かれないと立ち上がれない有り様だった。
同時刻に行われていたレアル・マドリー対アスレティック・ビルバオ戦は、マドリーがサンティアゴ・ベルナベウの大観衆の後押しを受けて、ロナウドのハットトリックを含むゴールラッシュで大勝していた。勝ち点で並んだが、直接対決の結果によりレアル・マドリーが逆転優勝した。
バレンシアが掴みかけていた優勝を一発のクロスでもぎ取ったパクは、ピッチを引き上げる時には満面の笑みで、ヒディンクがワールドカップの勝利で見せたようなガッツポーズをカメラ目線で繰り返した。
ベティスはチャンピオンズリーグ出場権を得て、ライバルのセビージャは一部残留を果たした。シーズン全日程が終了した六月二十二日の夜は、セビリアの町全体に祝福ムードがたちこめた。
サンタクルス街の路地に夜明け近くまで両チームのサポーターソングが聞こえ、爆竹が鳴る中、リュウジとマリアは夜通し「愛」を口にした。以前は決して泊まることのなかったリュウジの部屋で、マリアがまどろみ、安らいでくれることが、リュウジには嬉しかった。
「リュウジが日本から帰ってくる頃、私はバルセロナ……」
公演旅行でまたすれ違いになる。マリアのぬくもりを忘れたくなくて、飽きることなく体を密着させ、キスの雨を降らせ続けた。
少しウトウトしたようだ。
真っ赤なゼラニウムが咲き誇るバルコニーで、大きく手を振って迎えてくれるマリアの姿を今まで見ていた。手のひらにジワリとマリアのぬくもりが残っていた。
フィーゴの後継者を夢見るホアキンのいびきが、斜め前の座席から聞こえる。
飛行機はまだシベリア上空だった。
2[#「2」はゴシック体]
成田から渋滞の高速道路を二時間かけ、横浜港を見下ろす「みなとみらい」のホテルに入った。
荷物を部屋に置いたのも束の間、すぐに練習ユニフォームに着替えてロビーに集合しろと、コーチから号令がかかった。夕方から時差調整のため練習が行われる。
三ツ沢競技場のスタンドにはマスコミが詰めかけているが、思ったほどの人数ではなかった。
どうやら同じ時刻に別のグラウンドで日本代表の練習が行われていて、取材陣が殺到しているらしい。コンフェデレーションズカップでよもやの予選落ちとなった日本代表は、早く帰国できたこともあって調整は万全だと聞く。
ランニングとストレッチ、簡単なボール回し。体は重く、頭の芯が朦朧としているが、ここで適度に汗を流して疲れておかないと、三日後のゲームに体調が間に合わなくなる。一番元気なのは監督だった。ビクトル・フェルナンデスも選手にまじってボールを追い、声を張り上げる。
「慣れておけ、これが日本の暑さだ」
リュウジを見て、「そうだな?」と訊く。リュウジは「まだ涼しい方だと思います」と答えた。梅雨の真っ只中の日本だが、風はあって過ごしやすい。
カメラはスター選手のホアキンやデニウソンに集中している。リュウジも自分の動きを追う連写の音を聞いた。
十六歳でリーガ一部デビューを果たし、十七歳でチームのチャンピオンズリーグ出場権獲得に貢献した日本人選手、というのがリュウジを紹介する時のお決まりのフレーズになっている。成田で買ったスポーツ新聞では、「組織重視の日本サッカーに見切りをつけた反逆児」という書き方をされた。相変わらずマスコミ受けは悪い。「ぶっきらぼうで小生意気な少年」というイメージが定着している。
一時間で練習を切り上げると、バスの周りにはベティスのユニフォームを来た若い女が群がった。「リュウジ!」と黄色い声が上がったので、リュウジは軽く手を振って応えた。広報担当のクーロがカメラマンを引き連れ、リュウジやホアキンが女性ファンのためにサインする風景を撮影させる。
その夜は食事を終えると、全員、部屋に引き上げた。宴会部長のベンハミンも眠たそうな顔をしている。同室のグッジョンソンはシャワーを浴びることなくベッドにもぐりこんだ。
リュウジは夜のスポーツニュースを見てから寝ることにする。
ベティスの日本到着と練習の映像はやはり軽い扱いで、日本代表がジーコの下、ベストメンバーを揃えてミニゲームを行った映像や、中田英寿と中村俊輔のインタビューで番組のコーナーが費やされた。ジーコはヨーロッパ組を全員起用すると明言した。それは超攻撃的な布陣を意味し、ベティスとは壮絶な撃ち合いになるのではないかと解説者が言う。
予想スタメン表も出た。リュウジの名前はトップ下の位置にあった。確かに監督からは「スタメンで使う」と言われている。ホアキンは顔見せ程度で、早々にカピを右サイドに入れるという考えらしい。どうやらリュウジをフルに使って、ベティスと日本の深い絆を印象づけようとしている。親善試合に「興行」の意味合いが強くなればなるほど、クラブ上層部の意向もスタメンに反映される。
テレビを消し、冷房を切ってベッドに入る。体内の高ぶるものを鎮め、あやし、眠りにつく。
草加の実家にまだ連絡していないことに気づいたが、やっと捕まえた貴重な睡魔に身を委ねた。
来日二日目は、ホテル敷地内の散歩から始まった。
じとじとした小雨の中を、傘をさした選手たちは日本庭園を物珍しそうに見て回った。
駐日スペイン大使主催の昼食会を終えると、夕方の練習まで、選手たちは順番にメディアに登場した。
リュウジへの取材申し込みはホアキン並みに多く、合同記者会見の後、サッカー雑誌やスポーツ新聞、テレビ局の個別取材が三十分刻みで五件続いた。
質問されることは大体同じだった。
──ベティスへの完全移籍は決まった?
「交渉中で、すべて代理人にまかせてます」
──3得点という今季の成績については、自分ではどう思ってる?
「3得点を挙げた自分より、他のゲームでゴールの起点になった自分の方に満足してます」
──日本代表の選手の中で、ライバルと思うのは?
「スペインのサッカー以外、あまり見ないんで」
──オリンピックの予選が来年の春に延びたけど、招集される自信は?
「呼ばれたらもちろん頑張ります。『あいつはクラックだ』って言われるように」
──クラックって?
「凍りついた局面を打ち破る奴って意味です」
──どんなサッカーを理想としている?
「攻める方が意図的に相手に『穴』を作るサッカーです。動いて、惑わして、混乱させる」
──スペインの選手では誰を意識する?
「最近はデポルティーボ・ラ・コルーニャのバレロンかな」
──どういう点で?
「頭がよければサッカーはできると勇気づけられます。マカーイのようなFWとコンビを組めたらホント楽しいと思います」
──久しぶりの日本はどう?
「みんなが僕の名前を知ってるんで驚きました」
──埼玉のご家族にはもう会った?
「いえ」
──里帰りしたいでしょう。
「ゲームに合わせて体調を整えるのが最優先だから」
──セビリアという町は、君には優しかった?
「厳しかったです。でも今は大好きです」
──世界で一番過激と言われるセビリア・ダービーを戦ってみて、感想は?
「ゲーム内容には満足してるけど、警察官の姿がスタンドに多かったのは残念です。サッカーが人々にとってストレス発散の場になっているのは、ちょっと違うかなって思います」
──スペインに帰化して、スペイン代表として二〇〇六年、ドイツのピッチに立ちたいという気はない? 代表として公式戦に出場すると、いくら帰化しても別の国の代表選手にはなれないけど、君が二年前に国立で青いユニフォームを着た時は、代表資格ではない日本選抜だった。つまりまだ国を選べるチャンスがある。
「スペインが僕のサッカーを必要としてくれるなら、そういう選択肢もあるような気がします」
──それはつまり、日本サッカーに絶望したということ?
「違います。そもそも僕は日本サッカーってどういうサッカーなのか、まだよく分かっていません」
──こういうことかな。監督のキャラクターによってコロコロとスタイルが変わるのが日本サッカーで、必ず『トルシエ・ジャパン』とか『ジーコ・ジャパン』という呼び方になる。そんなサッカーでは何を目指せばいいのか、どこに自分が必要とされているのか分からない。
「それもちょっと違うかな……誤解してほしくないのは、僕は日本サッカーがいいとか駄目とか、好きとか嫌いとか判断する前にスペインに行きましたから、比較なんかできないんです。今は何て言うか……たった二年なのに、赤ん坊の頃からスペインの赤土の空き地でボールを蹴っていたんじゃないかって思えるし、それが自分の支えになってます」
──それぐらいスペインのサッカーに染まってしまった?
「思い込みでしょうけど、きっと」
──スペインの血が自分に注がれているという強烈な思い込みが、今の志野リュウジを支えているんだね。では最後の質問。移籍交渉中で落ち着かない選手がいたり、シーズンの疲れを引きずっている選手もいたり、観光気分で日本にやってきた選手も多いだろうけど、志野リュウジにとってこの親善試合はどういう意味を持っている?
「ドリブルでつっかけて、相手のバックラインを穴だらけにして、ピンポイントのクロスをあげて、FWはちょっと疲れ気味だけど鮮やかなゴールを決めてもらう。そういうサッカーをやるだけです」
──どうもありがとう。いいプレーを期待してます。
前日練習は横浜国際総合競技場のピッチで行われた。
キックオフの時間に合わせて、マスコミ公開のミニゲームとなった。
ブラジル代表のデニウソンにとっては、ワールドカップ決勝戦の記憶が刻まれた場所だ。終了間際にロナウドに代わって送り出され、四分にも満たないプレーだったが、交代直後に左サイドを鋭くドリブル突破した。短い時間だったが、持ち味を発揮できたんじゃないだろうか。ロスタイムにペナルティエリア前に突っ込んで行って倒されたのがラストプレーで、芝から立ち上がろうとして優勝を告げる笛を聞いた。
ロッカールームで当時の選手たちの落書きを見つけ、デニウソンは懐かしそうに大笑いしていた。
昼間に秋葉原までショッピングに出かけた選手たちは、早速、練習中からデジカメの試し撮りをしている。
リュウジはスポーツニュースの予想スタメン通り、トップ下でプレーした。右にホアキンがいるパターンと、交代でカピが入るパターンでは、中盤の底にいるマルコス・アスンソンからのパスの出方が違う。ホアキンのドリブル突破を生かすなら、スペースで待つ彼へ長いフィードや大胆なサイドチェンジのパスが渡り、リュウジは二列目からアタッキングゾーンに突っ込んで行けばいい。
右サイドにカピがいれば、マルコス・アスンソンとリュウジとのトライアングルで様々な攻撃のバリエーションを組み立てることができる。相手DFを右サイドに集めてバランスを崩した後、左サイドでフリーになっているデニウソンにサイドチェンジのパスを出す。
リュウジは今すぐにでもゲームがしたかった。シーズン中のゲームでリュウジがトップ下に入ったのはごくわずかだったが、レギュラー組とぴたりと呼吸が合っていた。できれば今からバレンシアと、二十八節のゲームのやり直しがしたかった。
一時間半の練習を終えて引き上げる時、監督に呼ばれ「母親に会ってこい。明日の昼までにホテルに戻ってくればいい」と言われた。
滞在の世話をしてくれる日本サッカー協会の職員が、すぐにハイヤーを手配してくれた。シャワーで汗を流して、Tシャツと短パンという普段着のまま、スタジアムから直行で故郷に帰ることになった。デニウソンには「ママのおっぱいをもらいに行くのか?」と冷やかされた。
ハイヤーには車内電話がついていたので、リュウジは使わせてもらった。
「ミサキか? 今から帰るけど、大丈夫かな」
電話の向こうで「えっ、ほんと」と声が裏返った。「お母さーん、お兄ちゃんが帰ってくるって!」と、階下の店に怒鳴る声が聞こえた。
高速道路は空いていて、ほとんど止まることなく東京の夜景を突っ切り、十時には草加市に着いた。
店に明かりはついていたが、暖簾はかかっていなかった。店じまいには早い時間だ。
ハイヤーを降りる時、「すいません。お金は明日、ホテルに戻った時でいいですか?」と運転手に謝る。財布も持たずに練習に出かけたことに途中で気づいた。道中、ただ乗りをしていることに気が気でなかった。母親に借りるのも恰好悪いし、同じ車が明日迎えに来てくれると聞いたので、思い切って後払いを頼んだ。
運転中ひと言も会話しなかった運転手だったが、「そんな心配、ご無用ですから」と、振り返って人懐こい笑顔を浮かべた。どうやらハイヤーというのは、乗った人間が料金を払わなくてもいい乗り物らしい。
「明日は何時にお迎えにあがりましょうか」
「八時でお願いします」
監督は「昼までに帰ってこい」と言ったが、なるべく早くチームに合流すべきだと思った。
店の前に立つと、子供時代の記憶が塊になって甦ってくる。
父が帰ってくるまでリフティングをした路地裏。一人で「日本対イタリア」をやった隣の駐車場。学校から帰ると、店にいる母と顔を合わせたくなくて一気に駆け上がった外階段。常連客と母との漫才のような掛け合いが聞こえてくる窓。油が切れて軋む換気扇の音……。
やっと扉に手がかかった。思い切って開けた。
懐かしい匂いが充満していた。できたての肉皿がそこにある。客は一人もいなかったが、客が今まで酌み交わした酒の匂いは残っている。キッチンの湯気の中に母と妹がいた。
二人とも、外に車の音がした時から到着が分かっていた。リュウジが最初に驚いたのはミサキの背丈だった。完全に母を追い越していたし、肩幅も広く、胸にも厚みがある。
「お帰り」
女ふたりの声が揃った。
「ただいま」
まるで高校生の息子が夜遊びから帰ってきたような恰好だ。足はサンダル履きだった。
「へえ」とミサキが言う。
「何が、へえ、だよ」
「テレビで見るより大きい」
衛星放送やCATVでリーガの試合は放送になる。ベティスはレアル・マドリーほど人気チームではないので全試合放送とまではいかないが、母も妹も何度かリュウジのプレーは見ていた。ピッチの中では小さく見えるだろうが、実際には二年前と比べて3センチ背が伸びたし、胸板も厚くなった。
カウンターの席に座った。ミサキは照れ臭いのか、なかなか兄と目を合わせられないでいる。大人びた顔つきにニキビが点在していた。
「ご飯は?」
母が訊く。髪を染めたみたいだ。目尻の皺が深くなった。ミサキと並ぶと、あの頃よりひと回り縮んだように見える。
「まだ。腹へった」
「ここでいいね?」
と、肉皿を盛ってカウンターに出す。リュウジは何はともあれ、甘辛く煮た肉を口に放り込む。ハフハフいう。これが食いたかった。熱くて涙が滲んだ。
この時間で客が一人もいないはずはないので、
「今日は休み?」
と訊いた。店は流行っていないのだろうか。
「さっきまで大勢いて、リュウジの話で盛り上がってたんだけど、帰ってくるって聞いて、みんな気を利かしたみたい」
親子水入らずにしてやろう、と席を立つ常連客の顔が想像できた。名前は忘れたが、近所の工場長に、郵便局長に、草加市役所の何とかさんだ。
「店の中、あまり変わってないね」
「後ろ、見てごらん」
振り返って、驚いた。店に入ってきた時は気づかなかったが、壁一面を新聞や雑誌の切り抜きが埋めつくしていた。アトランティコ時代のリュウジがバルセロナ相手にリーガ初ゴールを決めた瞬間が、最も派手に飾られている。全てのスクラップが厚紙に貼られ、油染みがつかないようにラップで覆われ、画鋲《がびよう》で留められていた。
「志野リュウジ生誕の地って紹介で、店が雑誌に載ったんだよ」とミサキ。
「ほんとかよ」
「町のタウン誌だけど」
だろうな。全国的にはまだ有名人ではない。そもそもベティスというチームを知っている人も、ごくわずかだろう。
ご飯をもらい、肉皿の具をぶっかけた。ミサキが作っているのは茄子の味噌汁だった。母が作っているのは、よしこ特製の冷し稲庭うどんだった。どれも好きな夏のメニューで、リュウジはがっついた。
「これ、二枚」
忘れないうちに渡しておく。明日のゲームの招待券だった。メインスタンド真ん中の関係者席である。
「サッカー協会の人がハイヤーを呼んでくれるってさ。金はいらないから、降りるときに『いくらですか?』なんて言うなよ。それから車内電話も使い放題だから」
と、知ったかぶって言った。
母と妹は料理が終わってもカウンターの中にいて、肩を並べ、リュウジのガツガツした食べっぷりを見下ろしている。
「お兄ちゃん」
「……なに」
「当たり前のように食べてるけど、何か言うことない?」
リュウジは箸を止め、首をかしげる。
「料理の感想」
「うまい。うまいよ。決まってるだろ。うまいってば」
母がニコリとし、続いて妹が母そっくりの笑顔を浮かべた。女ふたりは褒め言葉を聞いてやっとエプロンを外し、カウンターの中から出てきた。
熱い湯に肩まで浸《つ》かると、二年分の疲れが溶けだしていく感覚だった。
スペインではほとんどシャワー生活で、バスタブに湯を張ったとしても、日本の風呂のような「ほうっ」と安堵の溜め息が出るような安らぎは得られない。
ひび割れたタイルにも、蛇口をひねった時の軋んだ音にも、窓枠にこびりついている黴《かび》にも懐かしさを覚える。風呂桶が以前より狭く感じるのは、自分の体格がよくなったからだ。幼い頃、父親と一緒に浸かって、百まで数えたことを思い出す。
「いーち、にー、さーん……」
その頃の調子で数えてみた。反響する自分の声は、あの頃の父親の声に似ている気がする。
今ではミサキの部屋と化している四畳半に、布団を敷いてくれた。
二年前に着ていたパジャマは足がツンツルテンでも何とか着ることができた。かつてフィーゴのポスターが貼られていたところには、ミサキがワールドカップでファンになったというベッカムのポスターが貼られている。
洗い髪を拭きながら、リュウジは思わず「ベッカムかよ」と溜め息まじりに眺めた。子供の名前の入ったスパイクでクロスを上げた瞬間の写真だ。
「悪い?」
ミサキに睨まれた。
「来シーズン、奴を削ってやる」
「全世界の女性を敵に回すよ」
見慣れたはずの家具ひとつひとつが、大きさや色まで記憶とは違っていることに気づく。勉強机やカラーボックスは妹が使っている。ほとんど机に向かったことのないリュウジにとって、その頃、勉強机は邪魔な存在だった。
もっと以前は父の仕事部屋だった。その名残は畳に残っている。タバコの火で所々焦げている。
「あれから父さんは?」
母が風呂に入ってる隙に、ミサキに訊いた。バルサ戦の前に父を呼び出して、「俺、父さんを捨てる」と告げたことは、手紙で妹にだけは教えていた。
「スポーツ関係の記事とか書いてるみたいだけど、全然連絡ない。でも、きっと明日、見に来るだろうね」
「お前たちが関係者席に座るのは分かってるから、きっと遠くからお前たちのことも見てるよ」
「そっか。なら一番イイ服、着てこうかな」
スタンドの片隅から双眼鏡で息子のプレーを追いかける父は、ゲームが終われば大勢の人々に揉まれ、夜の町に消える。その一人ぼっちの姿を想像すると、胸が詰まる。リュウジが活躍すれば、父の足どりは多少弾むかもしれない。
母が風呂から出てきた。父の話はもうできない。
「冷房つけて寝ちゃ、体に悪いからね」
「分かってる。消して寝る」
「そこ開けておけば、居間のエアコンでちょうどいい案配じゃない?」
妹は居間で寝る。母はその奥の部屋だ。扉は開け放す。三人の間に距離はあるものの、川の字で寝る感じだ。
「おやすみ」
ミサキが居間の電気を豆電球だけにして、淡いオレンジ色の闇になる。
まだ眠りたくなかったが、どんなきっかけで話しかけていいか分からない。二人が何か言うのを待った。
いつまでたっても静かだから、ミサキのボーイフレンドの話でも訊こうかと思った時だった。
「お前は立派になったね」
母の部屋から不意に聞こえた。「聞こえる?」
「ああ、聞こえてる」
「お前は親の手を借りずに、一人で立派になった」
「お母さん、いつもそうやってお兄ちゃんのこと、自慢するんだよ」
母と妹の言葉に耳を傾ける。
「生きて帰ってきた」
母が心の底からほっとした声で言う。「生きて帰ってきて、本当によかった」
二年前に、母は同じ場所から「駄目になっても、生きて帰っておいで」と、旅支度を終えたリュウジに言った。リュウジはこみあげる涙を悟られたくなくて、「行ってきます」とあっさり告げ、旅立った。
「親いらずで子供が立派になると、寂しいものがあるけどね」
「それもいつものセリフ」とミサキが笑う。
「俺、全然立派じゃないけど、ここまで自分一人でこれたとは思ってないよ」
「そうだ。そうやってみんなに感謝しなきゃ」
母親が息子に言うお決まりの言葉かもしれないが、リュウジの胸に染みた。
「そう。まずわたしに感謝しなきゃ」
ミサキがまぜっ返す。
「お前にも感謝してるよ」
「真面目に返されると、困っちゃうな」と照れている。
「スペインの人間になっても、構わないんだよ」
帰化したいと手紙で告げた。母は悩んだ末にそれを受け入れた。父が説得のため訪れた時には、母の気持ちは固まっていた。
「父さんに言われたんだ。日本がいつかお前のサッカーを必要とする時がくる、その時はあの国を助けてやれって」
それまで日本人として頑張れ、と父は言った。
「お兄ちゃんのことだから、ぐずぐず悩んでるんでしょ」
「ああ」
「帰化したら、名前はどうするの?」
「あっちふうの名前に変えるんじゃないかな」
「じゃ、わたしが考えてあげる。何がいいかな。ミッキー、ドナルド、プルート、グーフィ……」
「ディズニーランドかよ」と突っ込む。
「ほら、早く寝ないと」
母が夜更かしをしている子供たちを諫《いさ》める。「おやすみ」とミサキが言い、リュウジが「おやすみ」と続く。
あとは壁の時計が秒針を刻む音だけになる。
浅い眠りの中で、リュウジは何度も同じ気配を感じた。夜中に母が布団を出て、リュウジのために冷房をつけたり消したりしていた。
やがて、ぷかぷかと温かな水に浮かぶ感覚で、深い眠りに落ちた。
ひょっとしたら、母の羊水で守られていた頃の記憶かもしれない。
綾瀬川の河原は、二日前の雨でまだぬかるんでいる。
リュウジは空を見上げる。薄く雲がかかっているが、今夜は梅雨の晴れ間になるだろう。
土手の道を早い出勤時間のサラリーマンがせかせかと歩き、運動部の朝練がある中学生が自転車を漕いでいる。
リュウジは思い出す。ここで父にインフロントとインステップの蹴り分けを教わった。へこんだゴム製のサッカーボールが落ちていたので、サンダルの爪先でドリブルしてみる。
足首をロックして、親指を反り返らせてボールを乗せるようにし、こすり上げる感覚で蹴る。うまくボールが上がると、父が顔をくしゃくしゃにして喜んだ。父に褒められたい一心でボールを蹴っていた頃だ。
蹴ってみた。
へこんだボールは水たまりに落ちた。
「お兄ちゃん!」
土手を振り返る。中学の制服姿のミサキがいる。本当にデカくなりやがった。夏草の中でそびえ立っている。
「ハイヤーが来たよ!」
リュウジはひょいと手を上げて応え、朝の散歩から引き上げる。
母は残った肉皿を弁当箱に詰めてくれた。「みんなに食べさせてあげなさい」と言うが、醤油とミリンと砂糖で煮た牛肉を、デニウソンやホアキンはどんな顔で味わうだろうか。
「では、また午後四時にお迎えにあがりますので」
ハイヤーの運転手は、見送る母と妹に言う。同じ車なら安心だった。
「しっかりね」と母。
「ゴールだよ」と妹。
「ごちそうさん」とリュウジは手を振る。車は走り始めた。振り返ると、視界から消えるまで母と妹は路上で見送っている。
「ゆっくりお休みになれましたか」と運転手の滝沢さんが言う。名前のホルダーが掛かっていたので、覚えてしまった。
「腹いっぱい食って、寝ました」
「それはよかった」
故郷がみるみる後ろへ遠ざかっていく。心残りがひとつあった。迷ったあげく、思い切って頼むことにした。
「滝沢さん」
「はい」
「一カ所、寄ってもらいたい場所があるんですけど」
橋を渡った隣町に、彼女の家はある。
引っ越してはいなかった。「八木沢」という表札がかかっていた。家の前を通りすぎて、やや離れた場所にハイヤーを止めてもらった。リュウジは時計を見る。彼女はもう家を出たかもしれない。
大きな二世帯住宅を眺めていると、あの日を思い出す。千穂《ちほ》を除く家族が別荘に出かけた夏の日、リュウジはそこで彼女と二人きりになり、愛し合うということを初めて知った。
「私のことを覚えておいてね」と千穂は言った。リュウジは約束を守ってきたつもりだ。
彼女はこうも言った。
「私はリュウジのことを早く忘れるから」
玄関がカランと鳴った。リュウジは車の後部座席で身を硬くする。白いブラウスが朝日に輝いた。水泳選手のように髪を短くした千穂が薄い鞄を手にし、道に出てくる。ハイヤーの横を通る。窓はスモークガラスになっているから、こちらは見えないはずだ。
それでもリュウジは緊張してしまう。逢うために来たわけではない。千穂の姿をひと目見られたらよかった。
上向きの鼻は小生意気な印象を与える。水分の多そうな瞳が朝日を集めて輝いている。あの頃のままの横顔を、リュウジは目で追う。
千穂はハイヤーにまったく注意を払わず、通学路を急ぎ足で行く。今日も暑くなりそうな空を一瞬不快そうに見上げたが、どんな楽しいことが学校で待っているのか、通学路の彼方に向かってふっと微笑みまじりに息を吐いた。
「急げ。遅刻だぞ……」
声が聞こえたわけではないが、千穂は歩調を早め、みるみるリュウジの視界から遠ざかっていく。最後まで彼女の姿は軽やかだった。気づかれなくてよかったと思う。
故郷めぐりは終わった。
「じゃ、行って下さい」
滝沢さんは滑らかに車を出した。
この地で育てられた肉体も精神も、あとは戦いのために費やせばいい。
3[#「3」はゴシック体]
夕方五時半、梅雨の晴れ間の太陽を浴びて人々が長い影を落とす。逆光でよく分からなかったが、彼らが選手バスに向かって振っている旗の色はヴェルディ・ブランコだった。リュウジの背番号28を背負ったファンもいる。
第三京浜の港北インターで下りた選手バスは、パトカーの先導で横浜国際総合競技場に入っていく。ゲート近くから身を乗り出して覗き込むファンたちが「ホアキン!」「デニウソン!」「リュウジ!」と呼びかける。
コンクリートで整然とエリアが分けられ、温かみに欠けるスタジアムへと、揃いの緑色のポロを着た選手たちがバスから降りて入っていく。リュウジはいつものように現代フラメンコのCDをイヤホンで聞いていた。
正面玄関を入って右手の廊下を行くと、アウェーチーム用のロッカールームがある。
荷物を置くと、クーラーボックスの中に用意されているゼリー状のサプリメントを手に取る。チョコレートや果物も並んでいる。
食事は午後四時にホテルで済ましてきた。例によってパスタ主体のメニューで、ゲーム開始時間に近づくにつれてエネルギーとなる。柑橘類を齧《かじ》って身を引き締める選手が何人かいた。
ピッチコンディションを見るため、三々五々、リュウジたちは通路を通り、人工芝の室内練習場を横切り、階段を上ってフィールドに出る。メインスタンド右側の隅から、ピッチに出ることができる。
すでに開門され、両サイドのゴール裏は埋まりつつある。どこもかしこも青一色で、ヴェルディ・ブランコを身にまとったファンは少数派だ。それでもピッチに出てきたリュウジたちに、出口の上に集まった人々から歓声が降ってくる。
が、このスタジアムの構造では、スタンドは遠いと感じる。
リュウジはスパイクを二種類持ち込んだ。裏のスタッドが固定式のものと取り替え式のものを、片足ずつ両手に持っている。
今日の自分のポジション、トップ下あたりの芝で履いてみる。
ふんだんに水が撒かれるスペインのピッチは柔らかく、スタッドの少ない取り替え式を履くことが多い。滑らないためにはその方が優れているのだ。しかし硬いピッチでスタッドが少ないスパイクだと、足にストレスを感じてしまう。
日本でプレーしていた頃はほとんど固定式だったので、今日のピッチ状態を見て決めるつもりだった。
「乾いてるな」
グッジョンソンもサンダルを脱ぎ、素足を芝に置いて、言う。
「日本じゃスペインみたいに水を撒かないんだ。このスタジアムの構造はイマイチだけど、ピッチコンディションは世界一かもしれない」
二年前のコンフェデレーションズカップの準決勝、日本対オーストラリアの一戦は豪雨の中で行われたが、ピッチには水たまりひとつできなかった。
右足に固定式、左足に取り替え式を履いて、試しに左右ステップを踏んでみる。取り替え式だと足に突き上げる感じがあった。固定式に決めた。
スタメンはホテルのミーティングで言い渡されている。前日練習のフォーメーション通り、リュウジはトップ下に入る。監督は九十分フルに使うつもりだが、リュウジには「最初から飛ばしていけ」と言う。暑さと湿気で足が止まる前にゴールを決めたい。
ホアキンはおそらく前半だけだろう。今朝の散歩でも選手の輪から離れ、国際携帯電話で頻繁に代理人と話していた。噂されているバルセロナやレアル・ソシエダへの移籍がもし決まるのなら、今晩がベティスにおけるラストゲームになる。プレーのモチベーションは高いかもしれない。スペースよりも足元にパスを出して、ホアキンの魅力を最大限に引き出してやろうと思った。
ジャパンブルーのポロシャツを着た選手たちもピッチに出てくる。着々と埋まりつつあるスタンドから拍手と歓声が起きる。中田英寿がいる。稲本潤一がいる。少し前までは雲の上の人に思えた顔ぶれを実際目にしても、リュウジに気後れはなかった。
世界のサッカーの中で最も進化しているスペイン、その中で最も攻撃的サッカーを見せつけるレアル・ベティスに自分は所属している。日本代表なんかに負けるはずがないと、リュウジには傲慢なほどの自信がみなぎっている。
ロッカールームに戻ってアップ用のユニフォームを着て、テーピングをする。
二十メートル×十メートルの室内練習場に出て、ストレッチと軽くジョギングをする。二人一組になってボールをボレーする。
空調が利いているものの、汗が噴き出す。
アップシューズからスパイクに履き替え、再びピッチに出て、ランニングをする。ほとんど満席になっているスタンドから、「ようこそ、日本に」という意味の歓声が降ってくる。日本代表のメンバーが出てくると、その何倍もの声量だ。
屋根で切り取られた上空、夕闇は濃くなっている。リュウジは芝生にスパイクを馴染ませるようにランニングをしつつ、メインスタンドの関係者席を見る。
母と妹をすぐ発見できた。二人とも勝利のまじないのつもりか、手首にヴェルディ・ブランコのバンダナを巻いている。
リュウジは満員になろうとしているスタンドをぐるりと見渡す。どこかに父がいる。黒いキャップが父の目印のような気がするが、横浜国際総合競技場のピッチとスタンドは距離がありすぎて、見つけることは困難だ。
レギュラー組のビブスをつけて、コーチの指示通り、ツータッチ以内のボール回しをする。
ゴール裏で青い波が起きた。「オー、ゆけニッポン、ニッポン、ニッポン、ゆけニッポン、ヘイ、ヘイ、ヘイヘイヘイヘイ!」
サポーターズソングの合唱が起きる。この程度の声量ならピッチでも声は伝わる。スペインではスタジアム自体が吠えるような感覚で、ピッチ上の意思の疎通はボディアクションしかない。
汗がしたたり落ちる。ドリンクのボトルがすぐ空になる。体はアイドリングの状態になった。選手たちがロッカールームに引き上げる頃に、アナウンスが聞こえてきた。
「ワールドチャレンジマッチ。日本代表対レアル・ベティス。ただいまより両チーム選手の紹介です!」
ベティスの選手紹介でも拍手が起きる。「……ミッドフィルダー、背番号16、デニウソン!」
世界制覇をなし遂げたブラジル代表への歓声だった。
「ミッドフィルダー、背番号17、ホアキン!」
韓国戦における涙のPK失敗を、サッカーファンは覚えている。
「ミッドフィルダー、背番号28、志野リュウジ!」
アウェーのチームでも顔写真が大型画面に出る。愛想のかけらもない、睨み付けるようなリュウジの写真。アナウンサーは他の選手とは違う調子で名前を唱えてくれた。スタンドの歓声は爆発的だった。リュウジは背骨にゾゾッと電気を感じた。
ロッカールームに戻って、汗を拭き、アンダーシャツを替え、試合用ユニフォームに腕を通す。
この暑さでもスーツをしっかり着込んだビクトル・フェルナンデスが、選手たちの放つ熱気で霞《かすみ》がかかったようなロッカールームに現れ、ホワイトボードの前で作戦を指示する。
「日本は右サイドバックが攻撃参加するケースが多いらしい。その分、左サイドバックは自重する。ナカムラとオノは真ん中から左のエリアで盛んにポジションチェンジをするだろう。その動きに惑わされるな。無理にボールを奪いに行くとかわされる。タカハラは日本人にしては珍しく、ゴールを向くと強引に勝負するタイプのストライカーだ。前を向かせるな。イナモトが攻撃参加する時がチャンスだ。もう一人のボランチとセンターバック二人は一対一に強いが、ピッチを広く使ってバランスを崩せば、穴はいくらでもできる」
最後に「青一色のスタンドを黙らせてやれ」と士気を鼓舞する。
スタッフの指示で通路に出る。いつもはレギュラー組より先にフィールドに出てベンチにもぐりこむが、ベティス入団以来初めてのスタメン出場で、入場を待つ通路にたちこめる熱気を久しぶりに感じた。スパイクの足踏みが響きわたる。細胞に収まりきらないアドレナリンが、選手一人一人の肉体から空中散布されているかのようだ。
稲本潤一がガキ大将の笑顔で手を差し伸べてくる。リュウジは頭を下げることなく、胸を張ってその手を握り返す。「来季もベティス?」と訊かれて、「いや、分かんないっす」と答えた。
中田英寿がASローマで一緒にプレーしたマルコス・アスンソンと旧交を温めている。そこにデニウソンも加わった。
FIFAの公式アンセムが流れ、選手入場となる。
通路からフィールドへ。リュウジはカッと照明を浴びる。大歓声に包まれる。レアル・マドリー戦におけるサンティアゴ・ベルナベウのような、あるいはダービーのエスタディオ・ルイス・デ・ロペーラのような気圧は感じない。だが、スペインのスタジアムでは体感したことのない、毛穴という毛穴に忍び込む何かを感じる。
何だろう。肌がざわざわとうねる、初めての皮膚感覚だった。
サッカー協会の会長、スペイン駐日大使、そしてロペーラ会長と握手を交わした後、国歌斉唱となる。スタンドの観客たちも起立する。
まず、日本在住のスペイン人女性歌手が独唱する。クラブチームのベティスはナショナルチームのように国を背負っているわけではないが、日本とスペインの友好記念という名目があるため、セレモニーではスペイン国歌を流すことになったらしい。
日本と敵対するチームの一員として、この勇壮な国歌を聞くとは思わなかった。目を閉じ、勇ましい旋律に身をゆだね、謎の皮膚感覚の正体を突き止めようとする。スペイン人の血が自分に流れ始めているのだろうか。だから皮膚の下で騒ぎ始めたのだろうか。
違うような気がする。今日初めて聞いたに等しいスペイン国歌に、体が共鳴しているわけではなかった。
漠然たる予感があった。正体が明らかになる。
突き詰めれば、自分はどうしてサッカー選手として生きているのか、どうして故郷を捨てて異国に旅立ち、全身汚れ、全身傷つき、今、ジャパンブルーの真っ只中でヴェルディ・ブランコのユニフォームを身にまとっているのか、もうすぐ全てが解き明かされる。
スペイン国歌が終わり、マイクの前に日本人のオペラ歌手が登場する。
君が代を歌い始めた。
リュウジにとっては、テレビで見るオリンピックの表彰台や、サッカーの国際試合でしか聞かない国歌だ。小学校でも中学校でも、入学式と卒業式でかろうじて聞く程度だった。
「君が代は……」
スタンドの若者たちが歌う。彼らはブルーのユニフォームを身につけるだけで、照れもなく、思想も関係なく、それを口にすることができる。
「千代に八千代に……」
肌に波立つ痺れが消え、替わってリュウジの肉体を支配したのは清明な感覚だった。俺はこの歌を口ずさんだことがある。入学式や卒業式じゃない。スペインに旅立ってからだ。アパートのキッチンでパスタを茹でている時、練習の汗をシャワーで洗い落としている時、グアダルキビール川の夕陽の照り返しを川辺で眺めている時、日常的に口から歌詞がこぼれ落ちたことを思い出す。「君が代」は俺にとって、異国で無意識のうちに口ずさむ歌だった。
「さざれ石の巌となりて……」
オペラ歌手の澄みきった歌声のせいもあるだろう。「君が代」とはこんなに美しい歌だったのか。国を捨てようと真剣に考え、今も「捨てるべきか」と迷い続けている人間が聞く歌だから、美しいと感じ取ることができるのかもしれない。
明晰な理解が押し寄せる。
そうか。そうだったんだ。
なあパク、国を愛するってどういうことだと思う? 自分の国を完全無欠だと信じこんで、賛美して、どっぷり安住することだろうか。俺にとって日本を愛するっていうのは、ちょっと違う。自分の手で別の日本を発見することだ。それって、国を壊すってことなんだよ。
以前、俺はこう思った。日本のサッカーって、誰もがチームに献身的で、FWも迷わずバックラインに戻って守備をして、中盤でボールを回す時は一級のピンボールマシンのように機械的だけど、それは責任を押しつけ合っているように見えてしまい、一人で突破しようとすると組織の破壊者と見なされる……。
そんなサッカーに自分は馴染めないと思って、外に飛び出した。この間のインタビューでも訊かれた。つまり君は日本のサッカーに絶望したんだろうって。
違う。やっぱりそれは違う。俺は日本のサッカーにないものを探しに行ったんだ。こんなことはマスコミの前じゃ言えないけど、俺はきっと、この国のサッカーを、自分の手で、もっと高みに連れてゆきたいんだと思う。
俺、今なら言える。なあパク、お前の国は少し間違ってるよ。昔、こっぴどく痛めつけられた。今でも恨みに思っている人がいて、政治家は人々のそういう気分を何かに利用しようとする。それじゃ駄目だと思うよ。被害者意識と愛国心を一緒くたにするだけじゃ、何も変わらないってば。
大切なのは、その国に欠けているもの、不完全なものを突き止めて、自分の手で埋めようとすることなんだよ。
俺、「君が代」の最後のフレーズを聞きながら、どうしようもなく感じる。悪いけど、この未熟な国が好きだよ。いつか青いユニフォームを着て、ピッチを駆けたいと心の底から思うよ。だから俺は、こうして日本のサッカーを壊しにきた。未熟さを思い知らせてやるためぶっ壊してやる。きりきり舞いさせてやる。でかい穴を開けてやる。その穴を埋めるのは志野リュウジしかいない、日本サッカーに足りないのは実は志野リュウジだったってことを、これから証明してやる。
「こけのむすまで……」
国歌斉唱は終わった。観客は座る。ベティスのメンバーが横に移動し、日本代表の選手たちと次々に握手を交わす。
リュウジは相手の顔を一人一人しっかり見て、手を握った。日本代表の選手たちの後ろを通り抜け、集合写真のためのポーズを作る。フラッシュが眩しい。撮影を終えてピッチに散る。リュウジは改めて、ポジションに散る敵の選手たちを見る。
日本代表のゴールマウスを守るのは、ワールドカップで代表正ゴールキーパーの座を掴んだ楢崎正剛。4バックは森岡隆三を筆頭に、秋田豊、名良橋晃、服部年宏のベテラン三人で固める。ボランチはフルハムの稲本潤一とトッテナムの戸田和幸。中盤の攻撃的なポジションにレッジーナの中村俊輔とフェイエノールトの小野伸二、中田英寿は本人としては不本意なポジションのようだが、パルマで成果をあげた右FWの位置にいる。前線に張るのは、オリバー・カーンの無失点記録を止めて世界中に名を轟かせたハンブルガーSVの高原直泰だ。ジーコ監督は早々と、彼を二〇〇六年のエースに指名した。
MFとFWの六人に全てヨーロッパ組を配した、日本代表の誇るベストメンバーだ。ベンチの柱に寄り掛かっているジーコが、険しい顔つきで腕組みをしている。監督就任以来、まだ国際試合で思うような成果を上げていないジーコにとっては、負けられない一戦だ。
コイントスでベティスがボールを取る。リュウジはセンターサークルでボールを足の下に置いた。テレビ中継のCMあけを待つ。
スタッフからサインが出た。日本人の国際審判が笛を吹いた。リュウジの足元からボールが放たれた。スタンドにカメラのフラッシュが点滅した。
一旦後ろのマルコス・アスンソンに下げられたボールは、左サイドを駆け上がるデニウソンへ大きくフィードされる。名良橋とヘッドで競る。こぼれ球を戸田が拾い、中村俊輔へとボールは渡る。ツータッチで逆サイドの小野伸二へ。ワンタッチで中田英寿へ。のっけから日本代表がベティス陣内をかき回し、スタンドを沸かせる。
しかしベティス守備陣は速いパス回しに翻弄されても、中田にも高原にも前は向かせない。ファニートがパスカットして、右サイドバックのバレラを経由してホアキンへとつなぐ。足元でボールをもらったホアキンは服部を抜きにかかる。ライン際の攻防。ねちっこく追いすがる服部をかわして、マイナス気味にリュウジへパス。
リュウジはボールをもらう前に首を振り、攻撃陣の位置を瞬時にインプットした。ドリブルから左サイドを駆け上がるデニウソンを見やる。秋田が「視線のフェイント」につられた。デニウソンのサイドを固めようと外へ動いたところを、バランスの崩れた中央へトップスピードでつっかける。戸田の厳しいチェックが視界の左端から襲いかかる。芝刈機のようなスライディングのブロックをジャンプでかわしたら、スタンドが驚嘆した。
アルフォンソがペナルティエリアのライン上で森岡を背負っている。服部が中へ絞る動きを見逃さず、ホアキンがアタッキングゾーンに入る。リュウジはデニウソンへパスすると見せかけ、視界にいる青い連中を全て欺いた。右足アウトサイドでホアキンへ出した。服部が足を伸ばしてカットしようとするが、パスは通った。
ホアキンはシュートの体勢に入った。リュウジは後退してこぼれ球に対応しようとする。ホアキンは思いきりニアへ打った。楢崎のグラブは届かなかったが、ボールはゴール右隅を叩いた。カンッと金属音。跳ね返ったボールを森岡がアルフォンソと競り合いながら、懸命にクリアした。
この一連の攻撃でベティスはリズムを作った。
稲本がボールを持って駆け上がるが、マルコス・アスンソンが読み勝って奪う。それを戸田が奪う。アルスが奪い返す。小野がパスコースを消す。狭い中盤にボールは閉じ込められ、敵味方入り乱れたピンボールだ。
ボールがリュウジの足元に入った。反転して中央突破する。デニウソンには名良橋がついている、ホアキンには服部が密着マークだ。リュウジはアルフォンソにクサビを入れた。秋田のファウルすれすれのチェックを受けたアルフォンソはバランスを崩しながら、リュウジにリターンパス。|どフリー《ヽヽヽヽ》になった。ゴール前に大海原。こんな素晴らしい風景は滅多にお目にかかれないと思った矢先、視界右隅から疾走音を聞いた。誰かの足で右足を刈られた。瞬間的に予知した分だけ、ダメージを食らわず倒れることができた。ペナルティエリア前、絶好のFKの位置かと思ったら、主審はゲームを流した。
ファウルだろう。今のは何だ、ホームに甘い笛かと、主審を睨みつける。が、怒りの熱に勝るものがある。日本代表への闘争心だった。すぐにリュウジはボールめがけて走り出した。
なあパク、俺もお前もサッカー人生を左右する誤審に、いつかぶつかるだろう。未熟であるだけでなく、意図的なジャッジによって、目前にしていた栄光をさらわれるかもしれない。
だけどきっと俺は、それもサッカーの一部なのだと受け入れることができるよ。肝心なのは、ポルトガルもイタリアもスペインも、お前の国に喫した敗北を無駄にしてはならないってことさ。
中田英寿が日本代表初めてのチャンスを作る。かつてのチームメイトであるマルコス・アスンソンからボールを奪取して右サイドを駆け上がる。対応するルイス・フェルナンデスをかわして、ゴールラインすれすれからクロスを上げた。ファーサイドに高原がいた。ヘディングで落とした。ワンバウンドしたボールを二列目から突進していた中村俊輔がスパイクの底で押し込もうとする。決まったかに見えたが、プラッツが体を投げ出し、中村俊輔と激突しながらブロックした。スタンドが一斉に悲鳴をあげた。
マルコス・アスンソンが稲本潤一のチェックをかわした。前がかりになっている日本代表は、バックラインが手薄になっている。左サイドをデニウソンが駆けた。名良橋がつられて動きだす。ベティス得意のカウンターアタックかと思わせ、センターサークル付近にいたリュウジにパスを出した。怒濤の如く迫る戸田をすでに背中に感じていたから、右足アウトサイドで後ろへ出し、ボールの反対側へとくるりと反転し、戸田を置き去りにした。スタンドが一斉に「おおっ」と唸った。
森岡と秋田が中央を固める。リュウジのドリブル突破を許さない構えだ。彼らの予想を裏切って、右サイドのホアキンへ出す。服部は距離を保ち、縦の突破を決して許さない。ホアキンがワントラップした瞬間、アルフォンソがオフサイドラインぎりぎりから飛び出した。ホアキンはドリブルの体勢から、服部を嘲笑うかのように絶妙なスルーパスを出した。アルフォンソはゴールに背中を向けてボールをもらった。森岡が前を向かせまいとする。反転して強引にシュートする選択肢もあったが、センターバックを引き連れていたため、真ん中に穴が開いたことにアルフォンソは気づく。空白地帯にちょこんとボールを出すのと、リュウジがそこに走り込むのが同時だった。
楢崎が飛び出してきて、大きく手を広げた。リュウジはエネルギーの水門を一気に開放して右足を振り抜いた。楢崎のグラブがはじかれた。リュウジの体は宙を舞い、鋭い弾道のシュートを空中で見届けることができた。
素晴らしい映像だった。横っ飛びの楢崎。遠ざかるボール。ちぎれそうなほど揺れるネット。
空中から着地した時、ゴールを挙げた者だけが味わえる強烈な快感が脊髄を貫いた。周りの緑のユニフォームが躍る。仲間たちの祝福がやってくる。
リュウジは六万人の沈黙から快感を得ようと思った。ところが信じられない音響が耳に届いた。リュウジが熱を注いで壊そうとする国。青一色のその人々がリュウジのゴールに快哉を叫ぶのを聞いたのだ。
ビクトル・フェルナンデスの抱擁が待つベンチ前へと一直線に走るリュウジは、天からの慈雨を受けるように両腕を広げ、六万人の歓声を全身に浴びた。
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謝 辞
公約通り、パートUを書き上げることができましたが、やはり今回も、多くの方々のご助力を仰ぐことになりました。
二〇〇二年九月二十七日から十一日間のスペイン取材では、前作同様、スペイン・トレンディ社の池ノ谷岩夫さんに大変お世話になりました。取材の段取りだけではなく、スペインサッカーの最新事情をたくさんお聞きし、フィールドプレイヤーの「円の動き」が進化したサッカーであるという話には瞠目しました。
通訳とコーディネーターを務めていただいた同社の山下厚司さんとは、セビリアからヘレス、カディスへと旅をし、セビリア・ダービーの熱気に、共に身を晒しました。第一章におけるダービーのルポは、ほとんど現実のことで、「関西弁に聞こえるサポーターの応援」とは、山下さんの軽妙な翻訳によるものです。アンダルシアの熱気を活字で表現することができたのは、あの充実した取材旅行の成果です。ありがとうございます。
ウエルバで見たベティス対バルセロナでは、ジェイ・スカイ・スポーツの取材に同行させていただき、大興奮のベティス3得点をこの目で見ることができました。制作部部長の田口健司さん、ディレクターの河野桂史郎さんにお礼を申し上げます。来シーズンもジェイ・スカイで放送される試合は全て録画して、勉強させてもらいます。
お会いしたことはありませんが、実況の倉敷保雄アナウンサーには、リーガ・エスパニョーラの醍醐味をラジオの向こうから教えていただきました。
セビリア在住の「マルカ」紙の超ベテラン記者マルティン・ベニートさんには、ベティスとセビージャの確執について突っ込んでお話をうかがいました。
かつてベティスとレアル・マドリーの選手だったラファエル・ゴルディージョさんには、セビリア・ダービーにおける選手やサポーターの心理について詳しくお訊きしました。
アトレティコ・マドリーから東京ヴェルディ1969に移籍した玉乃淳君からは、前作に引き続き、多くのインスパイアをもらいました。前作の出版記念会で聞いた話が大いに参考になって、今回のリュウジの肉付けができたのです。
玉乃君がヴェルディでブレイクする日は近いと信じています。
エムボマへの鋭いスルーパスを、早く見たい!
スポーツ・ジャーナリストの中西哲生さんには、今回も原稿があがるたびに文藝春秋の会議室にお越しいただき、細かくチェックをしてもらいました。
ワールドカップ以降、各媒体で獅子奮迅の活躍をされている中西さんは寝る暇もないほどの忙しさのようですが、まだまだ頼りにしていいですか?
ナンバー編集部の江坂寛さんには、スペイン取材の段取りをはじめ、様々な後方支援をしていただきました。ありがとうございます。
ナンバー編集部から第一出版局に移り、担当編集者になった武田昇さんには、これからもご苦労おかけします。
前・担当編集者の大村浩二さんとは、またお仕事できる機会があるでしょう。別冊文藝春秋の津谷洋さんには、第三部の連載でもお世話になります。
この物語で描かれたスペイン・リーグは、架空のものです。ゲームの勝敗はストーリーの都合で創作しました。
レアル・マドリーの優勝だけは的中させることができましたが、これに関しては子供でもできる予想だったでしょう。
現実では、ベティスはシーズン後半に調子を落とし、八位という成績に甘んじました。予想通り、選手層の薄さが災いしての結果です。彼らサポーターにとっては、宿敵セビージャより二位上にいるということが、唯一の慰めになったことでしょう。
さて予告編。
第三部は来年早々始動する予定で、ベッカムを獲得して一層「世界選抜」化したレアル・マドリーとの戦いも、もちろん描きたいと思っていますが、ストーリーの軸となるのは、アテネ・オリンピックにおけるリュウジの活躍です。
テーマは「組織と個人」、そして「監督論」といったところでしょうか。
この物語をリアリティあふれるものにするには、まず現実のオリンピック代表に頑張ってもらい、アジアの三枠に入ってもらわなくてはなりません。
油断大敵!
二〇〇三年八月吉日
[#地付き]野沢 尚
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【主要参考文献・引用文献】
『バルサとレアル/スペイン・サッカー物語』 フィル・ボール著 近藤隆文訳 NHK出版
『お笑い・日韓決別宣言』 テリー伊藤/リュウ・ヒジュン/金文学 実業之日本社
『韓国人のまっかなホント』 金兩基 マクミランランゲージハウス
『世界サッカー紀行2002』 後藤健生 文藝春秋
『山本昌邦備忘録』 山本昌邦 講談社
『スペインの誘惑』 永沢まこと・イラストレーション/宮本美智子・文 草思社
『ワールドサッカーグラフィック』二〇〇二年十二月号 ビクターブックス
『ナンバー臨時増刊 レアル・マドリーのすべて』 文藝春秋
「ヨーロッパの風」 小宮良之(スポーツ報知コラム)
単行本 二〇〇三年九月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成十七年五月十日刊