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龍時(リュウジ)01─02
野沢 尚
目 次
第一章 イッツ・ア・スモール・ワールド
第二章 ゴー・ウエスト
第三章 ダメラ!
第四章 ロンリー・ハポネス
第五章 エル・ファンタスティコ
第六章 ペイン
第七章 アイデンティファイ
第八章 ブラッド・シンプル
文庫版のためのあとがき
[#改ページ]
第一章 イッツ・ア・スモール・ワールド[#「第一章 イッツ・ア・スモール・ワールド」はゴシック体]
味方から大きくサイドチェンジされたボールに、午後四時の斜光が照り返っている。
大型スクリーンとスタンドで縁取りされた五月の晴天を横切って、それはゆるやかな弧を描き、リュウジのいる右サイドに落下してくる。
地球が自転しながら落ちてくる。そう思える時だ。ボールの模様が広大なアジアにも見えたし、それと地続きのヨーロッパの形にも見えた。
日本の裏側にブラジルやアルゼンチンがある。サッカー発祥の地と言われるイギリスは遥か遠くにある。日本列島はサッカー大国から見放された地の果てに、まるで金魚の糞《ふん》のような形で位置している。
落下してくるボールをリュウジは右足インサイドで迎えた。インパクトの瞬間に軽く引くと、土踏まずのあたりに心地好い衝撃、それは足に吸いついてくれた。地球儀の模様に見えたボールをうまくトラップできた時は、地球の支配者になった気分だ。試合開始一分、このファーストタッチで落ち着いた。
短く刈られた芝にボールがまとわりつく感覚。土のグラウンドばかりで練習しているリュウジたちにとっては、慣れるまでに時間のかかるピッチだ。ボールに意志を吹きこむように転がす。敵の中盤が襲いかかってくるまでにはまだ時間がある。どこまでドリブルで運べるだろうか。
敵左サイドバックの6番が進路の先で、隙《すき》のないボディバランスで立ちはだかった。リュウジが内側へ切れこもうが、タッチラインぎりぎりをドリブルで破ろうとしようが、どちらにも対応できる体勢でいる。
リュウジと同じ170センチそこそこの身長だが、日本人とは比べ物にならないくらい太腿《ふともも》には厚く筋肉が詰まっている。無雑作に伸ばした黒髪に隠れ、野卑《やひ》な目が炯々《けいけい》と輝いていた。赤土の荒野で獲物を迎える獣の目だ。
リュウジはつっかけて一対一の勝負に挑みたい衝動を抑え、試合前の監督の指示通り、広いパスコースにいる味方10番、ゲームメーカーの梶《かじ》祐一郎へと確実なインサイドキックでボールを送った。
対決に挑もうとしなかった俺に、今、敵6番がうすら笑いを浮かべなかったか?
リュウジは体の奥底で焦げるものを感じる。種火だった。
フィールドには、ユニフォームの上から青・白・青という組み合わせのリュウジたち十人と、赤・紺・黒という敵十人が入り乱れている。
敵は濃厚な赤だ。彼らとの試合が決まった時、高貴な王国をイメージする色だと監督が言っていた。胸にはオレンジ色のエンブレム。リュウジたちと同じ十七歳以下の選手だが、スペインという国を背負った代表たちだ。
ピッチに入場する時、通路で連中と接近遭遇したが、とても同じ十七歳以下とは思えなかった。「奴らは老《ふ》けて見えるんだ」という監督の言葉は、どうやらリュウジたちが威圧されないための予備知識だったようだ。
体臭もキツい連中だった。真夏の東武伊勢崎線の匂いを思い出しながら彼らと並んで入場した時、まず国立競技場という箱のデカさが目の前に迫った。リュウジがいつも練習しているのは、タッチラインが90メートルそこそこ、ゴールラインは60メートルあるかないかのグラウンドだった。国立競技場は105メートルと68メートルというサイズだ。
三日前に急遽《きゆうきよ》決まった試合だったので、国立での前日練習などできなかった。高校選手権の出場経験もないリュウジと多くのチームメイトにとって、初めて足を踏み入れた日本サッカーの聖地である。
フィールドとはさほど高低差がなく、すり鉢状のスタンドが広がるのが、この競技場の特徴だ。客は時間がたつにつれ、加速度的に増えることは予想できる。リュウジたち日本選抜とスペインU─17代表との親善マッチは前座試合であり、七時からは日本と韓国のA代表同士が同じ場所でぶつかる。
海外の遠征試合でことごとく負けている日本のA代表にとって、時差だのピッチ・コンディションだのアウェーの洗礼だの、言い訳のできないホームゲームとなる。スタンドは青一色に膨《ふく》れ上がるだろう。
俺たちもスタンドで日韓戦を見られるだろうか、席を空けといてくれるだろうかと、能天気なことを言う奴がいた。この九十分が終わった後に一人のサッカー・ファンに戻れるとは、リュウジには到底思えない。
味方フォワード二人がコマネズミのように敵陣でボールを受ける動作を繰り返している。梶はパスの受け手を見いだせず、左へとボールを持ちこんでディフェンダーのオーバーラップを待った。
が、見え見えの上がり方をしたサイドバックへのパスは簡単に読まれ、奪われた。
中盤の狭いスペースでのボールの奪い合い。この浅いディフェンスラインが保てるのはいつまでだろうか。遠目で眺めている時、味方のミスしたパスがリュウジの三歩後ろに流れてきた。
そのボールに反応すると、背後に敵6番の気配を感じた。ボールを左足で止めようとすると、背中に奴の胸板を感じた。背筋に鋲《びよう》を打たれるような厳しいチェックだった。ファウルを受けて倒れこもうという素振りを見せると、敵が体を引いた。リュウジはその体重移動を狙って、内側に進路を見つけた。
素早く、カミソリのような切れ味で敵陣へと右足アウトサイドでボールを運び、さっきまで嘲笑《ちようしよう》を浮かべていた敵6番を置き去りにしてやった。
だからといって、これが敵の実力とは思わない。奴らはまだ様子見の段階なのだ。
彼らのエンジンのかかりは遅い。はるばるアジア遠征をしていたスペインU─17が、「帰る前にもう一試合だけやってほしい」と無理やり組まれた試合だと聞いている。
来賓《らいひん》席には多数のスペイン人が陣取っている。新しく日本にやってきたスペイン大使が大のサッカー好きで、その就任記念として実現した試合らしい。スペインチームとしては、「わがままな大使のせいで、どうして疲れた体にムチ打たなきゃならないのか」という気分かもしれない。灼熱《しやくねつ》のインドネシアで、彼らは中国とサウジアラビアを含めた四カ国の同年代チームと三試合を終えたばかりだった。
日本のメンバーは三日前の緊急招集で、日本サッカー協会には登録されていないメンバーのため、U─17という冠はつかない。国際的には認められない、単なる十七歳以下の日本選抜チームというわけだ。
それでも観客席には、大使と親しいスペインのサッカー関係者も何人か見に来ているという。リーガ・エスパニョーラへのアピールの機会になるかもしれないと、試合前にチームメイトが喋《しやべ》っていた。
五千人ほどの観客席からどよめきが聞こえる。リュウジのプレーが巻き起こす歓声だった。敵6番を完全に抜き去っていた。
メーン・イベントの日韓戦の三時間前からスタンドに陣取るコアなファンたち。妹のミサキに連れられた母も見に来ているはず。酒癖の悪い店の客と同じくらいに、サッカーが嫌いな母親だった。ミサキに引きずられて、仕方なく足を運んだのだろう。
八木沢|千穂《ちほ》はどこだろう。今日もMDウォークマンで|Eny《エンヤ》aを聞きながら、決して歓声など上げない醒《さ》めた目で俺のプレーを見ているのだろうか。制服のブラウスから伸びる白い腕が脳裏にちらついた。
敵6番を振りきった後は、タッチライン際を駆け上がる。ピッチが足に馴染《なじ》んできた。スパイクのスタッドが芝をえぐる。中央から寄ってくる敵のチェックを左腕でブロックした。こちらの関節が敵の肋骨《ろつこつ》を叩く。痛いか。ザマアミロ。かわすと次は左斜め前から敵センターバックの4番。リュウジの進路を塞《ふさ》ぎに来る。しつこい。しつこすぎる。リュウジはゴールラインぎりぎりまでドリブルすることを選んだ。
視界の端に味方の上がりを確認する。ニアに味方9番。ファーに味方11番。梶も二列目からゴール前に疾風《はやて》の如《ごと》く駆けこんでくる。ファーに高くて速いセンタリング、それをヘディングに強い11番が折り返して梶がフィニッシュ、というイメージが閃《ひらめ》いた。
執拗《しつよう》にまとわりつく敵センターバックが繰り出す太い右脚をかいくぐると、リュウジは右足首に熱を送り、針の穴を通すようなマイナスのクロスを上げる。
クロスボールは転々ところがるだけだった。
綾瀬川の河川敷。夕陽の空き地に黄金の砂埃が舞い上がる。
「もっと強くだ、リュウジ!」
擦《す》り切れて模様が見えにくくなったミズノの四号球を、ゴール前にいる父が蹴り返した。置かれた二つのピース缶がゴールの枠だ。
寝癖で逆立った白髪混じりの髪。朝方まで飲んでいて、午後に起きたその足で、父は牛丼屋で空腹を満たし、サッカーボールを持って小学校の校門前で待ち伏せしていた。
「やるか、リュウジ」
にんまりと二日酔いの顔で笑う父の許《もと》に、ランドセルをゆらしてリュウジは駆け寄った。肩を並べて河原にやってきた。
リュウジの通う埼玉県|草加《そうか》市の小学校は、三年生からでないと部活動ができないというつまらない規則がある。来年サッカー部に入ることに備えて、父がマンツーマンのコーチをかってでた。
町工場がひしめく一帯を通り抜ける。機械音が鳴り響いているものの、ゴーストタウンのように人気《ひとけ》のない町。リュウジが生まれ育った町だった。
昨夜のショックから日本はまだ立ち直っていない。今朝の登校途中、バス待ちの人間たちは皆、意気消沈しているように見えた。
サラリーマンが渋い顔で広げているスポーツ新聞。「夢破れる」「悲劇」「扉は閉じられた」というでかい見出しが目に飛びこんできた。八歳のリュウジでもかろうじて読める。
昨夜、リュウジは父と一緒に、母の店のテレビで一部始終を見た。その瞬間、客たちの間から悲鳴が巻き起こった。それまで声を嗄《か》らして応援していた常連たち十二人の熱気で、店の中はモヤがかかっていた。サッカーに無関心な母も、さすがにその時はニンニクの芽を炒める手を止め、カウンターの端にある十四型のテレビに目を奪われた。
居間で寝ていた四歳のミサキが、何が起こったのかという顔で奥から出てくる。悲鳴の後は水を打ったような静けさが支配した。テレビのアナウンサーも悲痛な裏声になっていた。
ボールの軌道を日本のキーパーが茫然《ぼうぜん》と見送ると、次々と芝に倒れる青いユニフォームの男たち。あと十秒だった。あと十秒で日本はイラクを1点差で下し、ライバルの韓国を退けてアメリカ・ワールドカップの切符を手にできたのだ。
ショックから一番先に立ち直ったのは父だった。いつもの手付きでウーロン酎を作り始めた。リュウジが見上げると、フィールドに倒れこむ選手たちを眺めている父は、唇の端を曲げ、薄く微笑《ほほえ》んでいた。それはどういう意味の笑いなのか、リュウジは炭酸の飛んだコーラを啜《すす》りながら探り見ていた。
「イラクの真似か?」
昨夜見た映像を脳裏に再生し、リュウジはゴール前の父へとクロスを上げようとした。
日本を奈落《ならく》に突き落としたチームの真似をするのは、いけないことかもしれない。リュウジはそれでも、イラクがロスタイム、ショートコーナーでボールを受けたムッシンが、三浦知良のディフェンスをかいくぐってゴール前のオムラム・サルマンに上げたクロスをこの足で再現したかった。
が、なかなかボールが上がらない。
「インフロントだ、リュウジ!」
父が靴を脱いで裸足《はだし》になり、蹴る時の甲の形を見せる。
「足首をロックする、親指を反《そ》り返らせてボールを乗せるようにして、ボールの中心やや右をこすり上げるようにして蹴るんだ」
腹の脂肪が揺れる。重そうな体つきだが、父がインフロントで蹴ったボールは鋭い角度でリュウジの胸に届いた。父は中学一年の時に一週間だけサッカー部にいた。少年時代から、年上であろうが誰かに指図されるのが嫌いだったのだろう。
会社勤めなどできそうにない。フリーライターというのがどういう職業なのか、リュウジはまだよく分かっていない。大人の女が読む週刊誌に、父はせっせと原稿を書いている。二階の四畳半に仕事机と座椅子《ざいす》があるが、父が原稿用紙を広げるのは店のカウンターだった。
母が下拵《したごしら》えを始める夕方前から、ピース缶を文鎮《ぶんちん》代わりにして鉛筆を走らせる。内容は有名若手女優の恋の噂だったり、一家を皆殺しにされた少女の後日談だったりする。それが何日か後に、けばけばしい見出しが付いた記事となる。
原稿料と呼ばれるお金が、リュウジや妹の食費や学費になっているとは思えなかった。家族を養っているのは母の稼ぎだった。
店は繁盛している方かもしれない。リュウジには甲高《かんだか》い耳障《みみざわ》りな笑い声にしか聞こえないが、母の底抜けの明るさが客を集めているのは確かなようだ。
父は仕事を終えると、店のカウンターで常連客と一緒に酔っ払う。夜が更《ふ》けると、給料が出たばかりの男たちを誘って店を出ていく。母によると、若い女の子がたくさんいる駅前の別の店へと行くらしい。
「タカリがうまくなきゃ、ヒモにはなれないってことだ」
父のことをそう評する客がいた。店から出てきた二人の客が吐き捨てたのを、路地でリフティングをしていたリュウジは小耳に挟んだ。
タカリとヒモ。二つの謎めいた言葉の意味は、母に訊《き》いたらすぐ教えてくれた。人のお金で飲み食いする人のこと。お金のある人にくっ付いている人間のこと。「お父さんみたいな人のことよ」とは、思っていても母は決して口にしない。
ピース缶のゴール前へクロスが上がった。リュウジはすぐにインフロントで上げるクロスの感触を覚えた。
「そうだ、リュウジ!」
父は本当に嬉《うれ》しそうだ。髭面《ひげづら》の笑顔だが、リュウジにとっては宝物のように思える父の表情だった。
「お前はやっぱり、サッカー選手になる運命なのかもな」
その話は耳にタコができるぐらい聞かされてきた。
一九八五年八月二十五日にリュウジは浦和の病院で生まれた。八月二十五日は、釜本邦茂という有名なサッカー選手が現役を引退した日だと、幼い頃から何百回となく聞かされてきた。
リュウジが生まれるちょうど一年前の夏の日、父は雑誌の取材で国立競技場のスタンドにいて、国際Aマッチでは75試合で72得点という驚異的なペースでゴールを量産した二十世紀最高の日本人ストライカーが、ペレたちに肩車されてフィールドを一周するラストシーンを目に焼き付けたという。
その一年後にリュウジは生まれた、だからサッカー選手になる運命なのだという、ややこじつけっぽい話だった。
ちなみに、リュウジが最初の酸素を吸い込んで高らかに産声《うぶごえ》を上げた時、父は病院にはいなかった。その二週間ほど前に五百人以上の死者を出した日航機墜落事故があって、父は取材のために群馬県の村から一歩も出られないでいた。
さっきのクロスはまぐれではない。リュウジの右足は覚えていた。次も同じ角度、同じ速さのボールが父の足元へ飛んだ。
「そうそう!」
父の顔は破れっぱなしだった。リュウジは楽しくてしょうがない。次も日本代表をドーハに沈めたようなクロスを蹴ってやる。
リュウジはすぐに、インサイドとインフロントとインステップの蹴り分けができるようになった。
「お父さん、お兄ちゃん!」
声のした方角を、二人は同時に振り返った。土手にお下げ髪のミサキが立っている。つい最近までオネショしていたというのに、日に日に母の顔に似てくる。こざっぱりとした口調も母譲りだ。トレーナーの胸でセーラームーンがウィンクをしていた。
「お母さんがお店を開けるから手伝ってって、お兄ちゃんは早く宿題をやっちゃいなさいだって!」
父は溜め息まじりに笑い、言った。
「うるせえ女どもだ」
短い足で高々と蹴り上げたボールが、茜《あかね》色の雲がとぐろを巻く空へと吸いこまれるように見えたが、すぐ落ちてきた。
ファーサイドに蹴ったクロスボールは、敵キーパーの手に阻《はば》まれ、11番の頭には届かなかった。
六秒をフルに使って、キーパーは前線へとボールを蹴り上げる。ゴールラインを割っていたリュウジは、踵《きびす》を返して全速力で戻る。
中盤の右はリュウジにとって本来のポジションではない。学校でも、埼玉県選抜の時も、リュウジはトップ下、つまり今、梶のいる場所でプレーしている。
同じ攻撃的ミッドフィルダーでも早めにラストパスを送る梶とは違って、「できるだけドリブルで持ちこんで、2トップにハイどうぞ」というプレースタイルがリュウジの理想である。
しかしチームの中心は、神保《じんぼ》監督お気に入りの梶だ。静岡県選抜のエースであり、二〇〇六年のセンターサークルにいるA代表の10番こそ梶祐一郎だと、スポーツ記者たちはこぞって褒《ほ》めそやす。
認めてやってもいい。クレバーで協調性があって、たった一日練習しただけの味方選手でも、その特徴を引き出してパスを送ることのできるセンス。
かたやリュウジは、「ディフェンスを何人も抜きたがるのは単なる自己満足だ」と監督に叱《しか》られてばかりいる。代表候補合宿の戦術練習で、レギュラー組のビブスを脱がされたことも数知れない。
ハーフウェイラインを10メートルほど越えたところがボールの落下点で、味方ボランチと敵フォワードが競《せ》り合う。セカンドボールは簡単に奪われてしまった。
案の定、ディフェンスラインはウラを取られるのが怖くてずるずると後退し、中盤のいたる所に敵のスペースができている。こぼれ球は敵のゲームメーカーを中心に、自由自在に回されている。
その10番だけは名前をインプットした。ヴィクトル・ロペスという奴だ。レアル・マドリーのラウールを超える逸材《いつざい》だと、サッカー雑誌に書いてあった。
身長は180センチに少し足りないぐらい。敏捷《びんしよう》かつ重量感のある疾走で、日本の選手を寄せつけない。ミサイルの弾頭を思わす鋭角的な顎《あご》、銃の照準のように顔の中心にそびえている鷲鼻《わしばな》、短く刈った茶色の髪は、国立競技場に差しこむ残照を受けて、金色に輝いている。
「ラインを下げるな!」
「右のスペースを消せ!」
「10番をしっかり捕まえろ!」
「もっとボールに寄せろ!」
味方の金切り声が交錯《こうさく》する。言う通りのことを誰もできないでいる。次第に敵のエンジンがかかってくるのが分かる。ヴィクトルから6番の左サイドバックにボールが渡ると、リュウジはチェックに走る。すぐにボールは他にパスされ、攪乱《かくらん》される。
スクリーンの電光掲示を見て、張り詰めた精神が萎《な》えそうになる。試合開始からまだ十分もたっていないではないか。
フィジカル面での強さを持つ相手に対して、日本はユース世代からA代表まで「短くつなぐ組織的なサッカー」とやらを目指してきた。
今の世界標準ともいえる4─4─2のスペインに対して、日本はまるで小・中・高一貫教育のように3─5─2のシステムを採用している。
が、このシステムでは司令塔は一人になってしまい、リュウジは梶のサブにしかならない。4バックで中盤の四人が台形になれば、梶と共存できる可能性はあった。
「局面局面で壁パスを織り混ぜる日本の攻撃」と言えば聞こえはいいが、要するに「ピンボールマシンのようなサッカー」をやれということだろう。個人技でかわして抜くリュウジとは相性の悪いサッカーだ。しかし監督は今回、攻撃にアクセントを持たせるドリブラーとしてリュウジを中盤の右に抜擢《ばつてき》した。チームに招集されたのも意外だったのに、スタメン起用だったから驚いた。
スペイン戦は守備重視、という大方の予想を裏切って、神保監督は一か八《ばち》かの賭けに出たようだ。日韓戦の前座ならば注目が集まる。勝利の暁《あかつき》には、監督は日本サッカー協会からどんなご褒美《ほうび》をもらうのだろうか。
ところが試合前のミーティングは「短くパスをつなげ、あまり持ちすぎるな」という相変わらずの指示だったから、リュウジは脳味噌をこねくり回された気分だった。
もっと分かるように説明してほしい。俺に何をしろと言うんだろう。
ヴィクトルがボールを持って、リュウジの前方を攻め上がる。深いディフェンスラインに穴を見つけようとしている。リュウジは右サイドから離れて中央へと追いすがる。ヴィクトルはどこにラストパスを出すのか。めまぐるしくスペースへ走りこむ敵フォワードの動きに、ディフェンダーたちは後手後手に回っている。
今、俺が止めなければ。
追いついたものの、リュウジはスライディングでは間に合わないヴィクトルのスピードに、思わず手が出てしまう。ユニフォームの脇腹あたりを掴《つか》んでしまった。審判に見られたと思った瞬間、ヴィクトルはお約束のような倒れ方をした。笛が鳴った。リュウジは咄嗟《とつさ》に「何もしていない」と両手を上げる。カードが出なかっただけ幸いだった。
芝生に座りこんだまま、ゆっくりとソックスの中のすね当てを整えているヴィクトルに手を差し伸べた。こちらを見上げ、口の端をひんまげて笑うヴィクトルは、決してリュウジの手を取ろうとしなかった。
そうかよ。上等だ。
ゴールを正面に見て左サイド、20メートルからのフリーキックとなった。ボールの空気孔を確かめてから芝生にプレースしたのはヴィクトル。そこは彼の得意な位置、得意な角度なのだろう。
キーパーが指を五本掲げた。五枚の壁を作れという指示だ。壁の軸となるのは梶で、ゴールを向いて、ニアポストと自分とボールの位置が一直線になるように立ってから、キッカーと向き合う。壁の二枚目に入るのはリュウジだった。三、四、五枚目が隙間を作らず立つ。あらかじめ決められた陣形だった。キーパーがポジショニングを指示する。壁全体で微妙にボールへ寄っていくと、主審が9・15メートル離れるようにと下げさせる。
日本は全員自陣を固める。前線に残る者はいない。敵は一人のディフェンダーを残して攻め上がっている。
「跳ぶぞ」
キャプテンマークを付けた梶の指示だった。
「足元だ」
リュウジが異を唱えたのは、予感がしたからだ。ヴィクトルほどの奴なら、セオリー通りにジャンプする壁のウラをかくに違いない。地を這《は》う強烈なボールがゴールに襲いかかる。その映像がスローモーションで見えたのだ。
「いいから跳べ」
「跳んだらやられる」
肩をひっつけ合ったまま言い合いになった。他の壁たちが「どうするんだ」という不安いっぱいの眼差《まなざ》しを送ってよこす。
「跳べ!」
「下に来る」
「ふざけんなよ、リュウジ」
梶は声を震わす。そこに割って入ってきた人物に、梶もリュウジも虚《きよ》をつかれた。敵の大型フォワードだった。強引に二人の間に押し入ってきて、はね返すことはできなかった。肘《ひじ》で突く。突かれる。ポジションの取り合いになる。
主審が壁の位置を決めさせた。笛をくわえようとしている。ヴィクトルは助走体勢だ。
隣にいるこいつの足元に違いない。押し寄せる予感。コンパスのように開く両足。そこにヴィクトルは蹴りこんでくる。どうすればいい。跳ばずにコースに体を入れることだ。
「こいつは囮《おとり》だ」
敵フォワードの向こうから梶が吠《ほ》える。「俺たちの上を狙ってくる。跳べよ、リュウジ!」
こいつらは人の無駄遣いなどしない。囮なんかじゃない。この毛むくじゃらの男が何かやるに決まってる。
笛が鳴った。ヴィクトルが走りこむ。壁のリュウジたちは胸と股間を腕でガードして、それぞれの動きに入る。リュウジを除く四人が跳ぶ。リュウジだけ最後まで逆らって敵フォワードの前に体を入れる。シュートコースは消したはずだったが、ボールはそんな場所には飛んでこなかった。梶の予想も外れた。あらぬ方角へのゆるやかな軌道が目に入る。どこへボールは行くのだ。
逆サイドにふわりとボールが入る。入り乱れた密集地帯から、それをヘッドで折り返す敵の姿が目に入った。リュウジたちは全員振られてしまう。首根っこを掴まれてブンブン振り回された気分だった。
唯一当たったカンは、壁に入っていた敵フォワードの存在意味だった。今まで頑強な柱でしかなかった奴が、機敏な動きでマークを振り払い、折り返されたボールを高い打点からヘッドで叩きつけた。キーパーの前で一度バウンドしたボールは、グローブの手をすり抜け、ネットに突き刺さった。
やられた。リュウジを無力感が襲う。予想もできなかった攻撃パターン。前半十分、敵の先取点だった。
梶が悔しさを滲《にじ》ませた表情でゴールネットに隠れているボールを蹴りだし、センターサークルへと運ぶ。リュウジと並走している時、低い声音《こわね》で言った。
「どうしてあんなところでファウルするんだ」
リュウジは無視を決めこんだ。
「あの調子で止めてたら、またやられるぞ」
連中はゴール前のセットプレーに数知れないオプションを持っている。多彩な攻撃に持ちこまれては歯が立たない。梶の言うことには説得力がある。
韓国や中国の同世代チームと日本で戦った経験しかないリュウジとは違い、梶は多くの国際試合を経験している。リュウジが小汚いボールをぶら下げて綾瀬川を渡って越境通学をしていた頃、すでに梶はその年代のエースとして海外遠征を重ねていたのだ。
第二ボタンまではだけた詰め襟《えり》の制服に、川風を通す。
上野で安く買ったアディダスのスポーツバッグに勉強道具と練習ユニフォームを一緒くたに詰めこみ、肩にかけている。手にはネットに入ったボール。両膝で交互に蹴りながら、リュウジは橋のたもとを歩いていた。
いつものように綾瀬川の生臭さに顔をしかめる、かったるい朝だ。
リュウジは川を隔てた隣町の公立中学に通い始めた。生まれ育った町の中学校は、サッカー部が弱くて話にならない。隣町の中学は全国大会に進んだこともある強豪だった。
越境するには住民票を移すしかない。そこで父が川向こうのアパートを仕事場として借り、家族全員で引っ越したように見せかけた。
就学通知は父のアパートに届き、リュウジは希望の中学に入ることができた。
一年生からリュウジはめきめきと頭角を現わした。監督が新入生の部員に試しにやらせたシュート練習では、リュウジの蹴るボールは精度も高く、唸《うな》りを上げてネットを揺らした。夏までにレギュラーを取れるかもしれない。
橋の真ん中あたりに黒い影が三つそびえていた。まるで三羽のカラス。ゴミ漁《あさ》りのカラスだ。リュウジが行こうとしなかったこちらの中学の奴らだった。連中は小学校の時からやたらとちょっかいを出してきた。
「裏切りモン」
潰《つぶ》したニキビに覆われた顔が、リュウジにいきなり敵意をぶつけてくる。リュウジは立ち止まり、目を合わせない。怖いからではない。三人の壁をいかに突破するか、すでに考え始めている。
「そんなに俺たちの中学を敵に回したいのかよ」
「ちょっとぐらいサッカーがうまいからって、調子にのんなよ」
「大事な右足、へし折ってやっかなー」
壁の間にコースが見えた。
「お前の親父ってさ、かあちゃんに働かせて毎晩酔っ払ってる人間のクズだって? クズの子供はクズにしかなんねえんだよ」
怒り。ふつふつ。音をたてる。
「お前にレッズのユニフォームなんか着させねえかんな」
誰が着たいって言ったよ。リュウジは右足に熱を溜めこむ。
「毎朝、通行料な。ハイ、千円」
手の平を差し出して寄ってきたニキビ面。くれてやる。網の中のボールを渾身《こんしん》の力でキックした。それは奴の鼻をぐしゃりと潰した。「ぐわっ」とのけぞる。時間とスペースを与える前にもう一人にもくれてやる。振り向きざまにボレーシュートだ。そいつはこめかみをヒットされてふっ飛ぶ。リュウジは逃走のコースへと走る。もう一人は「おい大丈夫か」と二人の介抱に追われていう。「覚えてろよ!」と、泣きの入ったお決まりの台詞《せりふ》だけが追いかけてきた。
グラウンドの照明灯も夜八時には消え、リュウジたち新入生部員三十名は練習道具の片づけを終え、家路につく。
橋を渡って町に戻る前、リュウジは日課のように立ち寄る場所がある。父の仕事場のアパートだ。コーラを一本飲み干し、父に練習の報告をする。原稿と雑誌が散乱する部屋で覚えたてのキックフェイントを実演すると、ピースをくわえて目を細める父。それから一緒に、母の働くスナックへと帰るのだ。
父のアパートに向かって、切れかかった蛍光灯がチカチカしている薄暗い路地を進むにつれ、謎めいた騒音が聞こえてくる。ガラスの割れる音。地面で何か砕ける音。言葉になっていない女の叫び声。
異変がリュウジを待ち構えていた。
視界が開けると、見慣れた木造モルタル・アパートの前に人だかりができていた。二階の父の仕事部屋から次々と物が投げ捨てられる。髪をふり乱した母だった。為す術《すべ》なく眺めている住人たちの中に、ぼうっと突っ立っている父の姿があった。
「女、連れこんでるところ、奥さんに踏みこまれたんだってさ」
人垣の後ろから聞こえてくる主婦の声。
「こんな物、こんな物」
母の叫びがかろうじて言葉となって降ってくる。ピンク色の毛布を捨てた。花柄の枕が放物線を描いた。原稿用紙の雪が舞った。
「練習、どうだった」
父がいつの間にかリュウジの姿に気付いて、普段と変わらぬ呑気《のんき》な笑顔を向けてくる。
これ、どうしちゃったの?
リュウジは目顔で訊く。原因はさっきの主婦の言葉でおおよそ分かっているのだが。
二階から落ちてきて、地面でポコンポコンと弾むものがあった。ボールに似ていた。父の部屋にあった地球儀だった。
「ここが、世界で一番つまらないが、勝つサッカーをするイタリアだ」と、いつか父が指を差して教えてくれた。華麗なドリブルのブラジルはここ。勤勉なサッカーをするドイツはここ。スペクタクルな見世物として面白いのはスペイン。多彩で組織的なフランス。変幻自在でまるで予測のつかないポルトガル。そうやってリュウジは世界を知った。
弾んだそれがリュウジの足元に転がってきた。リュウジは本能的に足の甲に乗せ、上げ、両膝で軽くリフティングしてから右足の裏に収めた。
「世界はお前の足にある」
地球儀を踏んでいるリュウジに、父が修羅場《しゆらば》には不似合いな笑顔を投げかけた。
喉《のど》が潰れるほどの母の狂乱は、依然として続いている。
ボールの模様に地球を見る余裕はない。
例の左サイドバック6番の進路を避けて、内側へドリブルで切れこむ。すると敵ボランチがチェックに来る。対峙《たいじ》する。どうするか。キックフェイントはボールを前にさらすため、中盤の戦いではあまり有効ではない。
左へサイドチェンジすると見せかけて、クライフ・ターンを試みる。このフェイントだとボールを自分の後ろを通すから相手に奪われにくい。まず右足を踏みこみ、左インステップで蹴る姿勢から素早く体の向きを変え、左足インサイドで右足の踵《かかと》の後ろにボールを通し、右サイドに切り返す。動きに眩惑《げんわく》された敵を置き去りにした。
中一で覚えたこのフェイントにオランダ代表選手の名前がついていることを教えてくれたのも父だった。リュウジが生まれる前のワールドカップで活躍した選手らしい。確か同じ背番号14だ。
ヴィクトルのチェックが入る。視界左に梶がいる。強いパスを送るとダイレクトに返してくれて、ヴィクトルは振られた。スペインの厚い壁を崩すのはリュウジのドリブルかもしれないと、梶も感じてくれたのか。
味方9番が左に展開し、「出せ」と合図を送っている。相手ディフェンダーがそれにつられた。ゴールへの穴が見えた。早く選択しなければならない。さっき置き去りにした敵ボランチと左サイドバックが、やがて猛烈なプレスを仕掛けてくるだろう。
9番に出すか。しかしリュウジは彼の最低と最高を知っている。この攻めの形でラストパスを送っても、ボールが足につかないことが練習では幾度もあった。だから信じるより疑った。
リュウジはクロスを上げると見せかけ、迷わずニアポストの上を狙う。体のバネを絞り、解き放った。回転の少ない強い弾道でシュートが飛ぶ。一瞬ウラをかかれた敵キーパーだったが、かろうじて手に当てた。初めての決定的チャンスだった。スタンドに今まで聞いたことのないどよめきが走った。
くそっ。リュウジは拳《こぶし》を握りしめた。
梶がコーナーキックを蹴るため、リュウジの後ろを駆け抜けて行く。
ボールをコーナーにプレースする。リュウジは敵と味方が入り乱れる乱戦地帯で、前後左右の動きを繰り返す。梶が右手を上げた。ファーに蹴りこむから折り返せ、というサインだ。
ヘッドに強い11番は中央の前あたりをうろつき、マークを受けている。囮の動きだった。長身の味方ディフェンダーがするするとファーサイドに入ってくる。ノーマークだ。問題は、折り返されたボールがどこに来るかだ。リュウジは食らいついていくつもりだった。
梶が蹴った。強いハイボール。ピンポイントへと正確に入った。しかし敵ディフェンダーがヘッドで軽く触ってコースの変わったボールを、もう一人のディフェンダーが高くクリアする。まるでそこに飛んでくると予想していたかのように、センターサークルあたりに待機していたヴィクトルの足元にボールは落ちた。
敵のカウンター攻撃が始まった。スタンドから悲鳴に似た喚声が聞こえる。日本は自陣にディフェンダーを二人残していた。ヴィクトルは二人めがけてドリブルでつっかけていく。リュウジと梶が追うが、捕まえられる距離ではない。完全に一対二の状況。
味方3番がヴィクトルを迎える。味方4番はカバーに回る。みるみるゴールへの距離が詰められる。キーパーがおどおどした動きでシュートを迎えようとしている。彼の感じる恐怖がフィールドの全員に伝染する。
最後のディフェンスの壁へと、ゴール前やや右方向からヴィクトルはボールを携《たずさ》えて突っ走る。右足の外側で右サイドへ抜くと見せかけてボールを跨《また》ぐ。相手の体が傾いたのを見て、左足の外側でボールを押し出して3番を抜いた。左足のシュートコースを4番が防ぎに来る。スライディングで止めるしかなかった4番を嘲笑《あざわら》うかのように、左足でシュートするはずだったボールを鋭く切り返した。見事なキックフェイントだった。4番は芝に倒れこんでいる。
前に飛び出してくるキーパー。「ループで決められる」とリュウジが思った一瞬後、ヴィクトルはゴール左上隅へとインフロントで巻き、スピードのあるループシュートを決めた。
前半二十七分、また失点してしまった。
大型スクリーンでそのリピート映像を横目に見ながら、リュウジは再び自陣の右サイドに入る。
屈辱の時間は永遠に続くように思える。
屈辱というものを中三で初めて知った。
全国中学校選手権に、リュウジの学校は関東代表として出場した。似合わないキャプテンマークを付けさせられたが、一回戦で敗退した。引いた相手に手こずり、0対0でPK戦に引きずりこまれたのが敗因だった。
攻めても攻めてもディフェンスをこじ開けられなかった負け方は、全身の骨に絡み付くような疲労感でリュウジを打ちのめした。
粗めのかき氷を噛《か》んで、自宅の二階でだらだらした夏休みを過ごすことになった。
父がいなくなった後の四畳半が、リュウジの部屋になった。洗濯の終わった試合用ユニフォームが投げ出されている。たたむ元気もない。背中の10番は皺《しわ》だらけだ。ユニフォームとパンツとソックスを人型に並べると、まるで透明人間の死体のようだった。リュウジは「へっ」と笑い飛ばし、その横にだらんと寝転ぶ。
両親が離婚したのは二年前だった。父の仕事部屋から母が地球儀を放り投げたあの日から何日かして、父はリュウジとミサキの前から姿を消すことになった。
それでも試合になると、スタンドの隅に父の姿を見た。父の趣味とは思えない派手な色のシャツを着ていた。今はどんな女に繋《つな》がっているヒモなのかと、思ったりした。
一階で電話が鳴っている。ミサキが取ったようだ。母は仕込みに出かけている。
「お兄ちゃん、電話だよ」
「誰から」と叫び返す。
「八木沢さん」
すぐにハネ起きた。
三十分後、リュウジは夕暮れの蝉《せみ》時雨《しぐれ》に立った。八木沢千穂に「今近くまで来てるの。出てこられる?」と公園に呼び出されたのだ。
無地のTシャツにスパッツ、ナイキのキャップを目深《まぶか》にかぶった千穂がジャングルジムの向こうから現われた。
「近くって、何」
「ピアノの発表会」
フリルのついた衣裳《いしよう》を想像した。どこかで着替えてから来たらしい。教えてくれたら聴きに行ったのに。三歳から惰性《だせい》で続けているピアノだと言うが、クラスの窓際の席でいつもかったるそうに教科書を開いている姿とは別人の千穂を見られたかもしれない。
細くて小柄だが、胸の二つのふくらみが自己主張をしている。切れ長で二重|瞼《まぶた》の両目はキャップに隠されている。不機嫌そうにつぼめた唇だけでしか、表情を読み取ることができない。
「何だよ」
用件を問う。
「見たよ、試合」
へえ、と思った。スタンドのどこかにいたらしい。
「あの終わり方、ないよね」
「まあな」
「リュウジ、頑張ったじゃん」
「そう見えた」
「見えた。ご褒美モンだよ、あれは」
「あっそ」
「だから、あげるよ、ご褒美」
何を持っているのだろう。手ぶらにしか見えないが。
「すれば」
「何を」
「キス。したかったら、すれば」
呆気《あつけ》に取られた。
「したくないの」
「したい、かもしんない」
「なら早く」
顔を突き出された。夕暮れの児童公園。他に子供の姿はない。エアポケットにいるかのような真夏の午後六時だった。
「邪魔」
キャップのひさしが邪魔だった。千穂は「あっ、そうか」と外した。瞳がリュウジを射抜く。水分が多いせいか、やたらと光が反射する瞳だった。
「邪魔」
「何がよ」
「目、閉じろ」
「いやだ」
それ以上の言い合いは面倒臭くて、顔を傾けキスした。やり方だけは知っていた。初めて知る唇の感触だった。千穂は目を開けたままだ。二秒ほどで離れた。
「だからって、私と付き合ってるなんてみんなに自慢したら、怒るから」
睨《にら》まれた。
クラスの連中には内緒で付き合いたいということらしい。サッカー部のエースであるリュウジに寄ってくる女子は何人もいた。バレンタインデーにはたくさんチョコレートを持ち帰ることになる。そういう連中の嫉妬《しつと》は受けたくないのかもしれない、とリュウジは察した。
「じゃあね」
「もう帰るのかよ」
「ママが道の向こうで待ってるから」
ピアノの発表会の帰り、車を運転する母親に「ちょっと待ってて」と言って停めてもらい、リュウジにキスひとつするためやってきたらしい。
「また会える? 俺たち」
夏休みはまだ一週間以上もある。
「リュウジがいい子にしてたらね」
何がいい子だ。憮然《ぶぜん》とするリュウジを千穂が笑う。えくぼが見えた。八木沢千穂は来た時より遥かに軽い足取りで、ジャングルジムの彼方へ消えた。
家に帰ってくると、まだ夜になったばかりなのに、店に客の気配があった。
普段は店の横の外階段を上って、二階の住居に入る。客相手をしている母の姿など見向きもしない。父が家を出て行ってからは尚更《なおさら》だった。
「リュウジ、お客さんだよ!」
階段にリュウジの足音を聞いた母が怒鳴った。ステップを下りて店を覗《のぞ》くと、カウンターの母と向かい合っている口あけの客二人がこちらを振り返った。
宮城先生だった。中学の体育教師であり、サッカー部のコーチをしている。もう一人は先生と同世代の、ポロシャツから伸びる腕が真っ黒に日焼けした男だった。
リュウジは背中を丸めて暖簾《のれん》をくぐった。ジョッキのビールと枝豆がカウンターにあった。一杯飲んでリュウジの帰りを待っていたらしい。
「リュウジとお母さんに、ちょっと話があって来たんだ。こちらは大学の同級生で、ユースのコーチをしている高畑さんだ」
あるJリーグのチーム名を言った。高畑はその下部組織で中学生からの子供を教えているという。「よろしく」と手を差し出され、リュウジは握手した。
宮城は大学リーグの得点王で、Jリーグ入りを目前にしたが、前十字|靭帯《じんたい》を断裂した。その当時はサッカー選手にとっては致命傷となる怪我《けが》だったらしい。
普段の生活では、歩いたり走ったり、どうということはないが、季節の変わり目になるとシクシク痛むという。
今の監督が中学教師として定年になれば、次は宮城先生になるはずである。リュウジたちが卒業してからの話だが。
母がコーラをリュウジの前に置く。どんな話なのかと、用心深い顔をしている。サッカー関係の人間に対しては、いつもの愛想は半分程度になる。
「高畑は今のU─16の代表監督にけっこう信頼されてるんだ。神保監督。名前ぐらい知ってるだろう」
名前ぐらいなら。
「君のゲームは見させてもらったよ」
高畑が歯切れのいい声で喋り始めた。「神保さんは攻撃的な中盤の選手を探している。君を推薦してみたんだ。どうかな、代表候補の合宿に参加してみないか」
一回戦で負けたものの、守り一辺倒の相手をこじ開けるために、リュウジはテクニックを余すところなく駆使した。それは結局、得点には結びつかなかったが、評価してくれる人がスタンドにいたのだ。
喜びを閉じこめて、母の顔色を探り見た。
突き出しを小皿に盛っている。眉間《みけん》の皺から母の気持ちは手に取るように分かる。
サッカーは別れた亭主の置土産《おきみやげ》のようなものだ。それにのめりこめばのめりこむほど、我が子が自分の手許から離れていく……。
「試してみないか、自分の力を」
「行きます、俺」
即決だった。「こんなところで、グズグズしてられないから、俺」
こんなところ? 宮城と高畑が訊き返す眼差し。母も同様だった。リュウジは答えることを拒《こば》むようにコーラを飲み干し、さっきまで残っていた八木沢千穂とのキスの感触を消し去った。
リュウジは生き急いでいる。サッカーに費やせる時間が刻々と減っているように思えてならないのだ。
両方のゴール裏のスタンドは、完全に青一色になっている。
日韓戦のサポーターたちが、その前座試合にも声援を送ろうとしていた。鳴り物の試し打ちされる音が、ボールを追ってフィールドを行きつ戻りつするリュウジの耳に聞こえてくる。
怒号は野次だ。スペインの厚い攻めに翻弄《ほんろう》される日本選抜への、口汚いまでの叱咤《しつた》だった。言葉は定かでないが。
中盤のスペイン支配は変わらない。速いパス回しに日本は追いつけない。A代表がフランスやスペインと戦った最近の試合でも、テレビを見ていたリュウジは「どうしてもっとボールを取りに行かないのか」と思ったものだ。スタンドの観客は全員そう思って見ているだろう。しかし、ピッチで体験した者にしか分からない。
寄せても相手の球離れは早く、すぐはたかれてしまう。取りたくても取れないのだ。
ハーフタイムの疲労を想像するとゾッとした。前半の残り時間はロスタイムを入れれば、あと十分もある。早く終わってくれないだろうか、というのがリュウジだけでなく、全員の願望だった。
味方ボランチが相手のパスをカットした。キープしてくれ。体勢が整うまでボールを持っててくれ。
が、敵の寄せは速い。味方のフォローが遅いから、すぐ詰められる。ディフェンダーへのバックパスしかない。今はそれでいい。リュウジは下がって、パスを受けようとする。
ところが味方4番の視線はこちらにはない。前線へロングボールを入れてしまう。またそれか。中盤の選手は長いボールの軌道を追うだけで、前線へ走りこもうとしない。
「どうせすぐボールを奪われるに決まってる。ここで前線に飛び出したら、また必死に戻らなくてはならない」という気分が中盤の選手に蔓延《まんえん》している。
案の定、ロングボールは味方11番のヘッドには届かず、ヴィクトルのものとなった。するとリュウジの真後ろを左サイドバック6番が弾丸のように駆け上がる。ボールをキープしながら縦走していたヴィクトルが、上がる6番へと鋭く斜めに、完璧なスルーパスを出した。回転の少ない矢のようなボールが、宙をひらりと飛んだ6番の足に張りついた。
これがスペインの攻撃パターンになっている。ヴィクトルがボールを持っていると、両サイドは信頼しきって駆け上がるのだ。
テレビで見たリーガ・エスパニョーラの試合でもそうだった。視野の広さが日本との決定的な違いだと思った。スペイン人は強烈で効果的なサイドアタックを、ユース世代から叩きこまれているのだろう。
6番はこちらのボランチを軽々と抜き去る。何度こういうシーンを後方から見せられたろう。次に対する右ディフェンダーを、6番は腰を振るリズミカルなフェイントで弄《もてあそ》んだ。長めのクロスが逆サイドへ上がる。飛びこんできた敵フォワードに、ボールひとつ分だけ合わなかった。それでも彼らは親指を上げて頷《うなず》き合い、楽しげに笑っている。
「リュウジ、最後までつけ!」
梶が叫んだ。6番をケアしろと言っている。ふざけるな、それは俺の仕事じゃないだろ。
6番がボールを持っている時なら地獄の果てまでついていくつもりだが、持っていない時は自陣の真ん中あたりまでが守備範囲と思っている。あとは3バックの右の仕事だ。
敵の左を抑えるなら、俺が右で攻め上がることだ。監督はだから俺をスタメンで使ったんじゃないのか?
いや、きっと梶の言い分が正しいのだろう。顎の上がったボランチと右ディフェンダーの今の有り様では、6番一人をマークしきれない。
梶との出逢いは、福島のJビレッジだった。
中三の夏に高畑から誘いを受けたリュウジは、九月の連休を使った三泊四日のU─16代表候補合宿に参加した。
梶は静岡の中学で全国制覇をなし遂《と》げ、すでにエースの風格で君臨していた。リュウジは同じトップ下。ポジションを奪う自信はあった。接近戦からラストパスを送るリュウジと、まるで攻撃を遠隔操作するような長くて速いスルーパスを送る梶。持ち味は異なっていた。あとは監督の好みだった。
その年の十月、ヨーロッパへの遠征メンバーにはリュウジは選ばれなかった。リュウジのドリブルを「自己満足」と神保監督が言いきった時から、その結果は予想済みだった。
翌年、リュウジは高校に進学した。埼玉では三本の指に入るサッカーの名門私立高校で、スポーツ特待生として学費は免除された。
中学時代に代表候補選手だったリュウジは、四月の練習試合ですぐにベンチ入りになったが、他の新入生部員と共に、ボールの空気入れやユニフォームやビブスの洗濯、グラウンド整備をする日々だった。
そしてこの五月、日本選抜に突然招集された。リュウジのようなドリブラーが今のU─17には足りない攻撃オプションであることに、神保監督は気付いたようだ。
しかし自分は梶の控えにしかすぎないと思いこんでいた。招集されてからの二日間の練習でも、中盤の右などさせられたことはなかった。
タッチラインを横にして、百八十度でしか自分の持ち味を出せない不満はあったが、リュウジはラインを背負いながらの自分の攻撃を急いでイメージし、国立競技場のロッカールームで支給された背番号14の代表ユニフォームに袖を通した。
梶のコピーを目指したところでこのチームに居場所はない。なら、どういう選手になればいいのか、思い浮かばない。未来の自分を知るためのスペイン戦だと思っていた。
味方が攻撃の片鱗《へんりん》を見せる。
調子のいい時のピンボールだ。梶を中心にして短いパス回しが続き、何となく形になりつつある。防戦一方の試合でも、そういう時間帯はやってくるものだ。
ボールが3バックの右ディフェンダーに渡った。その前にいるリュウジにライン沿いの縦パスを送ろうとしている。ボールを受けたらどうすべきか考えた。中盤は相変わらず前線への上がりが遅い。やみくもに敵陣に張っている2トップも相手ディフェンスのマークを受けている。彼らにボールを渡しても後ろに敵を背負ってキープするのが精一杯で、ゴールを向けるはずがない。
リュウジは自分の得意とする個人技で相手を切り崩すことを選んだ。
縦パスが足元に入ってきた。敵6番がリュウジの背中にぴったり張りつく。送られてきたボールを右足アウトサイドで相手の右背後へと、バックスピンをかけて送り出す。自分は逆方向、相手の左を一気にすり抜けた。
二〇〇〇年一月、FIFA世界クラブ選手権の開幕戦、バスコ・ダ・ガマのエジムンドが、この技でマンチェスター・ユナイテッドを手玉に取った。
神保監督は「軽いプレー」と蔑《さげす》む。リスクの大きい個人技と言いたいのだ。ゴール前ならいざしらず、中盤で使うフェイントとしては危険だ。その体勢でボールを取られたら、完全に置き去りにされてしまう。
とにかく敵6番を抜き去った。梶とその向こうの11番が一直線に並んだのが見えた。鋭いグラウンダーのパスを送ると、梶は後方へとスルーした。気に入らない奴だが意思の疎通はできていた。
ボールを短いトラップでコントロールした11番は、彼自身も驚いたのだろう、簡単に前を向くことができた。相手ディフェンダーが梶とリュウジにつられていたのだ。11番は|どフリー《ヽヽヽヽ》でシュートチャンスを迎えていた。
外すなよ。リュウジは念力《ねんりき》を送る。
11番はセンターバックが戻ってくる前に、右足を振り抜く。やけに足先に力がみなぎっているのを見た時、リュウジはイヤな予感がした。それは的中し、|ふかし《ヽヽヽ》たボールはゴールの遥か上へと消え、11番は両手で顔を覆った。
スタンドから落胆の合唱が聞こえる。脱力感がリュウジの全身に染みわたる。早く前半が終われ。願いながらデジタル時計盤を見上げると、数字はなかった。ロスタイムに入っていた。
敵キーパーのゴールキックを仰いだ時、前半終了のホイッスルを聞いた。
記憶が正しければ0対2で折り返したことになる。電光表示にもそう記されている。もっと点を取られた気分だった。
リュウジたちは疲弊《ひへい》しきった顔でピッチから引き揚げるが、スペインの選手たちは楽しくフットサルでもしたような爽快《そうかい》な表情だ。別の惑星の生き物に思えてならない。
走ることをやめて素に戻ったら、途端にくらくらと眩暈《めまい》がした。歩いていると、足の部品が次々にこぼれ落ちそうだ。
距離を置いて、並んで歩いていたヴィクトルがこちらを振り返り、ふっと息を抜くような笑顔をこぼし、リュウジに何か言った。
言葉は分からないが、「けっこうやるじゃないか」と言ったようだ。からかっているのかもしれない。
スパイクの足音が反響する通路を経て、ロッカールームに入る。
水分の補給。十一人の喉が一斉に鳴る。ドクターとトレーナーが怪我人チェックをしている。厳しく削られた者などいない。敵はそんなことをする必要はないのだから。
コの字型のベンチに座る選手たち、その中心に神保監督が立つ。背広にネクタイを締めている。監督には悪いけど、少しヤクザっぽい不動産会社の営業マンにしか見えない。母の店にそういう客がやってくるのだ。
選手としては大成しなかった人だった。だが、そういう監督ほど選手をうまく使って、名コーチになるという法則がある。宮城先生もしかりだ。挫折《ざせつ》を知っている監督ほど選手の痛みが分かるのだそうだ。
が、鹿児島出身らしく彫りの深い顔立ちで、暑苦しく説教を垂れるタイプの神保監督は、本当にその法則に当てはまるのかと、リュウジはこの頃疑っている。
疲れきった選手たちを見下ろし、冷静さを装った微笑を浮かべる。
「相手の6番が思ったより速かった」
リュウジの同意を得たいようだったから、小さく頷いてやった。
「6番へのパスコースを消す。二人のホットラインを断ち切る。リュウジ、聞いてるかリュウジ」
なぜ俺をしきりに呼ぶんだろう。
「お前がマンツーマンで行くしかない」
リュウジはタオルで首筋を拭く手を止め、監督を見上げる。マンツーマン。そう言ったのか、今。
「6番の動きを消して、左サイドの攻撃を封じ込める、いいな」
リュウジの運動量をディフェンスに注ぎこもうとする。リュウジを犠牲にして、これ以上点を取られない試合をしようとする。
俺をスタメンで使う意味が、それか。
「いいか、二度とああいう軽いプレーはするな」
釘をさされた。
監督は「2点は気にせず行け」と言うが、リュウジには「行くな」と言う。「がむしゃらに点を取りに行こうとして組織に穴を開けるな」と言うが、「もっとアグレッシブになれ」と言う。
矛盾《むじゆん》だらけ。
リュウジだけでなく中盤の左も下がらせるようだ。つまり5バックも同然。先月、テレビで見たA代表のスペイン遠征試合を思い出す。何もかも一貫教育ということか。
「シュートで終われ。何とか1点取るぞ」
ポンッと手を叩く。その音はむなしく室内に残響する。「絶対勝つぞ」とは結局言わなかった。0─2では完敗。1─2なら惜敗《せきはい》というイメージに収めることができる。
リュウジは暗澹《あんたん》たる気分に陥る。うつろに視線を泳がせていると、梶の目とぶつかった。
「いいな、6番につけよ、最後まで」
監督の後ろ楯を得て、梶は念を押す。リュウジは顔をそらした。
「相手だって疲れてるんだ、同じ人間だぞ!」
監督が声を張り上げた。奴らと同じピッチに立ってみれば分かる。同じ人間とは到底思えない。
「とにかく声を出して、マークを怠《おこた》るな!」
十五分後にピッチに戻ってみると、声など聞こえない状況になっていた。
日韓戦を二時間後に控えたスタンドは、改めて眺めてみたら、半分以上の入りになっている。バックスタンドにも青いベルトが続いている。お馴染みの「ニッポン」コールの応援歌が始まった。
これほどの観客の前でサッカーをするなんて、生まれて初めてだ。バックスタンドの群衆がのしかかってくるようだ。照明灯に灯《ひ》も入り、芝生は十五分前とは別の色に見える。
両チームとも交代選手はいない。見慣れた顔ぶれで再びゲームが始まる。日本選抜は今度は大型スクリーンに向かって攻める。リュウジはバックスタンド側の右サイドに立つ。
例の左サイドバックが、リュウジと自分を交互に指差して何か言っている。お前が俺をマンマークするんだろう?
ムカつく野郎だ。見透かしているのだ。
ああ、そうだよ。日本語で答えてやった。
後半開始のホイッスルが鳴る。リュウジは6番に張りつく。物分かりよく、忠実に、執拗に。
相手は早々にバックラインを上げる。あと3、4点は取ってこいと監督にハッパをかけられたに違いない。
すでにセンターラインあたりで攻撃の機会を窺《うかが》っている6番。リュウジは自陣ばかりにいることになる。ヴィクトルはリュウジによって消された6番へのパスコースに、何の執着もない。奴らの攻撃パターンは他にもあるのだ。
リュウジはタッチライン際で6番との間合いを測るだけで、試合に参加している気がしない。ピッチにいながら、一人の観客の気分だ。誕生日プレゼントで父に四号球をもらって始めたサッカーだ。それから八年、史上最低のサッカーをこれから経験することになる。
「14番、攻めろよ!」
そんな野次をスタンドに聞いたような気がする。攻めたくても攻められないもどかしさ。
監督は何のために俺を呼んだのか俺は何をすべきなのか俺は何者なのか俺はどうしてこんなところにいるのか。
切れ目のない疑問が頭の中を駆けめぐる。
十五分がたった。狭い中盤でのボールの取り合いから、ヴィクトルがシュート態勢に入ったが、ディフェンダーが体を張ってブロックした。こぼれ球を梶がやむをえずクリアすると、敵の浅いディフェンスラインへ飛び出した味方9番に青天の霹靂《へきれき》のように渡った。敵ディフェンダーたちは手を上げてオフサイドを主張する。線審の旗は上がらなかった。ラッキーチャンスだった。
9番はゴール前25メートルからの独走になった。キーパーと一対一になる。スタンドが沸く。9番はペナルティエリアに突入したが、飛び出してきたキーパーにシュートコースを消されてしまう。仕方なしにフェイントをかけるが、9番にとっては苦手な左足でシュートしなければならない。しかし冷静さを失っていなければ、インサイドで確実に蹴ってネットを揺らすことはできるはず。
キーパーが巨大な壁に見えた。右サイドを駆け上がっているリュウジにもそう見えた。9番は自信が持てなくなった。キーパーの手が自分の足にかかるのを待ってしまった。キーパーグローブが触れるか触れないかの時に、ボールを離し、ゴールへの執念を捨て去り、芝へと倒れこんだ。明らかにダイビングだった。少なくともリュウジにはそう見えた。
主審の笛が鳴った。勢いこんでペナルティマークを指差した。PKを得た。要するにホームに甘い笛だった。
敵キーパーが主審に詰め寄る。接触していないと訴える。主審は頑《かたく》なに首を振る。苦笑しているのはヴィクトル。リュウジと一瞬、目が合った。苦笑が嘲笑に変わる。
そんなに欲しけりゃくれてやるよ、1点ぐらい。
そう言いたいのかもしれない。
ペナルティマークにボールをプレースするのは梶。PKを蹴るのは彼の役目と決まっている。キーパーが大きく腕を開いて、自分を大きく見せようとする。梶の蹴る方向を嗅《か》ぎ取ろうとする。
リュウジたちは梶の後方に扇形になり、こぼれ球に備えるため突進の構えにつく。
笛が鳴る。梶は猛ダッシュでボールに走りこむ。ゴール左隅へと矢のように突き刺さるボールをリュウジは予想した。キーパーも同様だった。迷わず左へ跳躍する。ボール直前で梶は右足のスピードを殺した。蹴られたボールはゆるい弾道でゴールネットの真ん中に入った。その時すでにキーパーは芝へ倒れこんでいた。
心憎いまでのPKだった。よほどの度胸がなくては、真ん中にふわりとボールを入れることなどできない。
1点奪った。スタンドで青い旗が雄叫《おたけ》びを上げる。仲間たちの歓喜の輪にリュウジは入らなかった。こんな1点で満足か。
梶も同様だった。駆け寄る9番を無視して、センターサークルへ走って戻る。
キックオフから再び攻めこまれる。スペインは楽しそうに攻めの反復練習をしているかのようだ。
リュウジは左サイドバック6番のマーカーを務める。ヴィクトルが6番にパスを送ると、リュウジとの対決になる。彼らのドリブルはそもそもリズムが違う。ビートを合わせようと思っても合わない。軽くつっかけてきて、仕掛けなしに股を抜いてくる。
かろうじて抜かせなかった。足に当てた。が、こぼれたボールを再び6番は支配する。対決のやり直し。今度はトップスピードで来て、スピードを緩めずにかわしてくる。
いくつものテクニックで遊ばれているうち、リュウジの体内の種火は赤々とした炎になる。怒りが突き上げてくる。
どうして俺は今日、このゲームに呼ばれたのか。この6番をマークするために呼ばれたのか。自分の最高のプレーをすることで、世界と自分の距離を測ることができるはずだった。これでは何も測れないではないか。
炎がある形を成していく。全身を這う動脈と静脈が膨れ上がり、真っ赤な一匹の動物へと形を変える。
リュウジが密《ひそ》かに飼い慣らしている動物。
龍だった。
それを体内に感じるのは久しぶりだった。
いつか父に聞いたことがある。自分も妹もどうしてカタカナの名前なのか。「リュウジ」の「リュウ」はどういう漢字が付くのか、と。
綾瀬川の河川敷だった。沈む太陽を背負った父が、影の中で微笑んでいたっけ。額に伝う汗がだいだい色に光っていたっけ。
「いいか、リュウジ」
父さんは俺を見下ろしていたから、俺が小さかった頃だ。サッカーを始めて間もない、八歳か九歳の頃だろう。
「男というものは魂の隠し場所を持っていなきゃいけない」
言葉は一語一句覚えている。「それはむやみに人に見せるもんじゃない。お前の『リュウ』には『龍』が隠されているんだ」
今、隠し場所から首をもたげた「魂」が、毛穴という毛穴から噴き出している。龍が時を迎えたのだ。
自陣で対峙していた左サイドバックのドリブルのビートと、瞬間、合ったと思ったら、ボールを取り返していた。スペインはボランチまで中央に上がっていて、進路を阻む者は少なかった。味方の11番が「ここだ、出せ!」とスペースに流れている。お前なんかに出せるものか。ラストパスは相手ゴールだ。
左斜め前から敵センターバックが突っ込んでくる。リュウジはスピードを上げると見せかけて左へ切り返した。センターバックは突進してきた勢いのまま逆を突かれ、バランスを崩した。
11番が相変わらずフリーだった。美しくも何ともないラストパスを送ることもできた。11番はそれを受けてシュートを決められるかもしれない。
だが、角度はなかったものの、リュウジは迷わず自分でシュートを打つことを選んだ。キーパーと対する。距離が詰まる前に打たなくては。さっきの9番と同じ轍《てつ》を踏みそうだった。逆サイドの左ポスト根元を狙い、冷静に左足インフロントで、ややシュート回転するボールを蹴りこんだ。キーパーは右手の指先でかろうじて触る。コースが変わったボールはゴールラインを割った。
リュウジは決定機を外した味方フォワードのように、天を仰いだりしなかった。
できる。これならもう1点取れる。手応えをつかんだ。
が、怒声を聞いた。コーナーキックに行こうとする梶が、「どうして出さない!」と目を剥《む》いた。あいつにしては珍しい顔つきだった。
ベンチを見た。フィールドを越えて神保監督と目が合う。リュウジの独断専行を目《ま》の当たりにして、いまいましげに唇を噛んでいた。そしてベンチを振り返って、7番の選手に何かを命じた。
リュウジと同じポジションの、レギュラーの選手がアップを始める。つまり俺は交代させられるということだ。
残された時間は少ない。7番がアップを終えるまでに結果を残さなくてはならない。
梶がコーナーキックを蹴る。11番の打点に届かず、キーパーの手に握られた。全員が駆け上がるのを待って、ボールは高く中央へと蹴られた。リュウジは哮《たけ》り狂う「龍」を抱えたまま、ボールめがけて突っ走った。6番のマークなどもうどうでもいい。相手の中盤のパス回しに突っ込む。ボールを奪おうと、腰を落としてのチェイシングに奔走する。
パスコースに伸ばした右足にボールが絡み付いた。奪った。瞬時に体勢を整えて駆け上がる。今度はプレスに来る者が左右から一人ずつ。梶の姿が目に入った。奴の助けを借りなければならない状況だった。壁パスを期待して、信じて、願って、強くボールを渡した。
が、梶は右サイドを突っ走るリュウジを無視して、逆サイドのスペースにボールを出した。リュウジを囮に使ったのだ。
どうして!
叫びが体内を席巻《せつけん》する。どうして俺に返してくれない。今や味方も敵ということか。
逆サイドでは簡単にボールを奪われている。ベンチ前の光景が嫌でも目に飛びこんでくる。7番がスパイク裏を見せ、第四審判に連れられてラインの外に立った。第四審判の手に握られた電光掲示板に光ったのは、やはりリュウジの背番号「14」だった。
ボールがアウトになれば交代となる。リュウジは狂ったようにボールをチェイスする。嘲笑うかのようなパス回しの中心にヴィクトルがいる。
味方ボランチがプレスをかけたら、ヴィクトルが倒れこんだ。余計なことをするなとリュウジは叫びたかった。主審の笛が鳴ってファウルを宣告されたら、プレーは止まり、7番が入ることになる。
が、笛は鳴らなかった。主審はヴィクトルに両手で立つように指示し、プレーを続けさせた。まだ運に見放されてはいない。
味方の中盤がボールを取った。敵の速いプレスに焦って、梶へのボールがミスパスとなった。梶のヘッドをかすめて、タッチラインを越えようとしている。リュウジは走った。そのボールを出してはならない。ラインの外にボールが出れば選手交代になる。スライディングした。芝を腰で駆け、届けよとばかりに足を伸ばした。
届いた。ボールはラインを越えようとする寸前で止まった。素早く立ち上がる。反転して右サイドを走る。これがラストチャンスかもしれない。ドリブルで敵ボランチにつっかける。広い股が見えた。そこにボールを入れて抜こうとした。
が、その手には引っ掛からない。これまで二度ほどリュウジとの一対一に負けているボランチは、ブロックし、ボールをヴィクトルへ渡した。駄目か。チャンスは消えたか。リュウジは絶望に歯止めをかけてチェイスする。その執拗な動きによってパスコースが限定される。ヴィクトルが出したボールを梶がインターセプトすることができた。
梶と目が合った。また逆サイドのスペースかと思いながら、一縷《いちる》の望みを抱いて右サイドを駆けた。頼む。俺にくれ。すると梶はリュウジの5メートル先に地を這うスルーパスを出した。
賭けてくれたのだ、俺に。
敵センターバックがチェックに来る。それを越えても、もう一人のセンターバックの網が待っている。例によって逆サイドに味方の11番と9番が走りこんでいる。それは何の囮にもなっていなくて、敵ディフェンスは2トップに見向きもしない。リュウジが一人で仕掛けてくると読んでいる。その通り。これが正真正銘のラストチャンス。
縦に行くと見せかけて、センターバック4番の股を左足のアウトサイドで抜いた。右利きの選手が左足アウトサイドで相手の股間を抜く。誰にでもできることではない。
センターバック3番が迫る。左にかわしてラストパスを送ると見せかけて、左足でキックフェイントを仕掛けた。どこかで見た光景だと思った。
スペインの2点目、大型スクリーンで見たヴィクトルの攻撃シーンがリュウジの網膜《もうまく》に残像として残っていた。敵ボランチが左から駆けこんでくる。今だ、今しかない。
ミドルレンジからのシュート。九歳のあの日、父から教えられた右足インフロントの感覚が甦《よみがえ》る。左回転を与えられたボールは、キーパーの手には届かず、ゴール左ポスト上部の内側に当たった。ネットに吸いこまれはしなかったが、甲高い金属音の後、正面、ペナルティマークのあたりに戻ってきた。
リュウジはトップスピードのままボールめがけてダイブした。水泳選手の飛びこみの恰好《かつこう》だった。矢のように飛ぶリュウジの額にボールがヒットした。リュウジの支配した地球は弾丸となり、逆を突かれたキーパーを嘲笑い、ゴールマウスを割った。
ネットが祝祭のように揺れる。リュウジは芝の上を二回転して立ち上がった。キーパーの跪《ひざまず》く先にボールを見ると、腕を突き上げた。スタンドの青が爆発している。仲間たちが走り寄ってくる。誰かが「すげえ、すげえよ、リュウジ」と裏声で叫んでいる。
ベンチの監督を見た。固まっている。リュウジは「どうだ」という意味の拳をベンチへ突きつける。
控えの7番が監督の顔色を窺っている。僕はどうすればいいんでしょう、と言いたげに。
監督が第四審判の許へ行き、何事か言う。第四審判の持っていた電光掲示板の数字が「14」から「9」に変わった。7番は2トップの片方のポジションに入ることになった。
リュウジの内なる「龍」は勝利感に吠えた。いや、まだ勝ったわけではない。ゲームは同点になっただけだ。
残り二十分。試合で一番キツい時間帯。同点に追いついた選手たちが、「まだ二十分もあるのか」と思うか、「もう二十分しかないのか」と思うか、それが勝負の分かれ目だ。
勝ちに行くのか。引き分けでいいのか。
ヴィクトルのキックオフ。敵の目の色が変わったことに気付いた。ボールを持つリュウジに猛チャージを仕掛けてくるのは、敵左サイドバックだった。今までマークしていた相手にマークされる快感はあるものの、右足に衝撃が走り、視界が揺さぶられ、芝に倒された。初めて受けたファウルだった。
削られた右足が痛む。立てよリュウジ。自分に怒鳴りつける。痛がっている暇なんてないだろ。
ヴィクトルが味方に声を出している。「アブレ!」
どういう意味だろう。確かなのは、相手がやっと本気になり始めたということだ。ヴィクトルがボールを持つと、その視界にいる者全員が左右に開いた。さっきのは「開け」という指示だったのか。どの方角にも攻撃の可能性があった。本気モードのスペインは凄《すご》いと思った。
かろうじてこちらの守備陣がボールを取ると、猛スピードの芝刈り機のようなスライディングが襲いかかる。日本の選手はばたばた倒されていた。格闘技。まさに、殺される、という感覚だった。
個々のテクニックが凄いのがスペインのサッカー、と父親に教えられた。それだけではなかった。激しかった。ユニフォームの赤は高貴の色ではない。彼らの体内で沸騰する血の色だ。
リュウジはスペインの選手が羨《うらや》ましい。相手に「殺される」という恐怖感を与えるサッカーだ。俺もそれがしたい。が、この青いユニフォームを着ている限りはできないのかもしれない。
彼らにとっては遠いアジアの小国。ニッポン。何て小さな世界。
リュウジも体力の限界にあった。さっきのシュートで燃料の大部分を使い果たしていた。右足だけでなく、下半身のいたるところに痛みがあった。満身|創痍《そうい》の体が走ると上下に波打って、目線がぶれ、スペースが見えなくなる。
梶がこちらにボールを出そうとする。6番がプレスをかけてくる。その寄せがあまりに速いので、ボールから目を切ってしまう。するとボールを受けてもトラップが大きくなって相手に奪われてしまう。
時計が正面に見えた。残り七分。見上げる仲間たちがそこかしこにいる。同点でゲームを終えたいと思っている。
神保監督が第四審判の注意を受けながら、ライン際から大声で指示をしている。スタンドの歓声にかき消されて聞こえない。「ラインを上げろ」とでも怒鳴っているようだ。ここに来て勝利への色気か。しかし叫べど、フィールドの選手に何ら活力を注ぎこむことはできない。ディフェンスに奔走させられているフォワードの11番など、しきりに頭を振っている。粘《ねば》ついた唾《つば》を吐く。意識|朦朧《もうろう》の状態なのだ。
後半二十五分でピッチに入り、誰よりも元気なはずの7番も、寄せては|はたかれる《ヽヽヽヽヽ》という連続に、すでに顎が上がっている。
ヴィクトルと梶、10番同士の対決になる。怒濤《どとう》の攻めを止めるのはファウルしかなかった。梶にイエローカードが出された。「どうしてあんなところでファウルをするんだ」とリュウジに言った梶が、同じことをしていた。あいつも疲れているのだ。
ゴール前20メートルからの敵フリーキック。蹴るのはヴィクトルだ。リュウジも五枚の壁に入る。前線に残る者はいない。ヴィクトルは正攻法で打ってきた。ボールを脇腹に受けた壁の一人が、芝にうずくまる。ボールはかろうじてクリアされた。
中盤のそいつは芝の上で苦しんでいるが、あの跳ね返り方はあばらに当たった証拠だ。悶絶《もんぜつ》は芝居だった。
「早く立て!」
リュウジは思わず怒鳴った。龍の炎を感じたのか、倒れた選手が身を縮めた。梶が腕を取って立たせる。
同点で時間稼ぎをするチームなのだ。怒りを通り越して悲しくなる。「スペインと引き分ける」というのが勲章か。
スローインのボールも日本はキープできず、相手のプレスに易々《やすやす》とはまって明け渡してしまう。ゴール前へのマシンガンの如き襲撃。この拷問《ごうもん》から早く解放されたいという願いから、ディフェンダーたちの顔は半泣きのように歪《ゆが》んでいる。
今、デジタル時計の表示が消えた。ロスタイムに入った。目安は三分だった。
全員で守備をしている。「勝ちたい」より「負けたくない」の気分は、リュウジと梶を除く全員を支配していた。スペインは広い視野を使い、速いパス回しからシュートコースを窺う。リュウジは残り少ない燃料を体内の奥深くへと注ぎこむ。最後の力を振り絞った。
パスカットした。前がかりの相手の間を縫って、前線へドリブルする。もちろんスペースに味方はいない。ゴールは遠かった。一人で持ちこまなければならない距離は、アジアの小国からサッカー列強ひしめくヨーロッパまでの距離に等しかった。
たちまち敵ボランチとセンターバック二人に囲まれたリュウジは、味方のフォローを求めた。梶は遠く左サイドにいる。頼れる者は周りにいない。リュウジは孤立した。
奪われたボールが左サイドバックの6番に渡った。悠々と駆け上がり、ライン際から速くて高いクロスを入れる。
その瞬間、リュウジはコンマ何秒後の未来を見た。入ると予感した。ゴール前には敵の攻撃陣が三枚走りこんでいた。6番のクロスは一人の頭の上を越えたが、次の一人が囮となって、三人目が右足に当てた。ボレーシュート独特の、空気銃のような音が聞こえた。
ネットが揺れ、スタンドは悲鳴からたちまち沈黙した。
日本の選手はがっくり膝を折った。ロスタイムに決勝点。これまで何度か見た日本の負け方だった。
いや、まだ負けたわけじゃない。
ネットにまとわりつくボールを、リュウジは掴んだ。抱えてセンターサークルめがけて走る。
「立てよ。なに寝転んでんだ!」
梶も怒声を張り上げたが、誰もがうつろな目をしていた。
芝に折り重なって喜んでいるスペインの選手にも、「お前らも早く戻れ!」と梶は怒鳴っていた。
リュウジがボールを置く。梶がキックオフ。リュウジの足元にやって来た。
「リュウジ、まだ時間がある、お前一人で行け」
梶の声が聞こえた気がした。しかしドリブルの時間すらないのは分かっていた。遠い国めがけてリュウジは大きく蹴った。午後六時の残照がスタンドの上部を縁取る宵闇に、ボールは吸いこまれていく。
笛が鳴った。三度、長く、タイムアップのホイッスルがピッチを満たした。
ボールはゴール前に転々ところがり、ラインの前で停止した。
その時だった。リュウジの体内で囁《ささや》く者がいた。枯れきった命をあやすような声だった。
「ここにいたんじゃ駄目だ。こんな小さな世界にいたんじゃ……」
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第二章 ゴー・ウエスト[#「第二章 ゴー・ウエスト」はゴシック体]
どこに居ても雨垂れの音がリュウジのBGMになっている。
例年通りの梅雨入りの後は、見事なくらい毎日雨が降り続き、追い討ちをかけるようにリュウジの気分を湿らせる。
教室では窓際の席だから、二次関数の公式が書かれた黒板よりも、どうしても湿地帯と化した校庭の方に目が行ってしまう。
今は「梅雨寒《つゆざむ》」というやつだが、これで雨が止んで太陽がひとたび顔を出せば、首筋を不快な汗が濡らすことになる。
今朝のテレビのスポーツコーナーでも言っていた。一年後のワールドカップでは、外国選手はまず日本の湿気と戦うことになる。この地の利を日本は生かさなくてはならない。酷暑の中で行われたアメリカ・ワールドカップは退屈な試合が多かった、そこで健闘したのはアジアの国だった、だから今度のワールドカップでもアジア勢にはベスト16への期待が高まる……のだそうだ。
右足首がまた疼《うず》く。
スペインU─17の左サイドバックに削られたそこには、チームドクターから大量にもらった冷|湿布《しつぷ》を貼り続けているが、一週間たっても違和感は消えない。
高校のサッカー部の練習は、それを理由に休んでいる。
リュウジが国立での試合で活躍したことで、先輩の目もがらりと変わった。お前がウチの切り札だ、不動の司令塔だと、キャプテンにも熱い調子で言われた。練習に復帰すれば、これからはレギュラー組のビブスを着ることになるだろう。
だからどうだというのだ。
高校サッカーで活躍したとする。Jリーグのチームにツバをつけられたとする。卒業して華々しくそこに入団したとする。デビュー戦で得点を挙げたりしてスポーツ紙のカラーページを飾り、U─19あたりの代表候補に選ばれたとする。
だからどうだというのだ。
リュウジの心はねじれている。かつて抱いた夢が、国立の試合の後は急に色褪《いろあ》せて感じられる。
単なる攻撃的なオプションとしての自分。監督の気まぐれで中盤の右をやらされてはみたものの、結局は5バックの一員として、相手の左サイドバックをマンマークしろと言われる。内なる「龍」に衝《つ》き動かされてその命令に背《そむ》くと、交代要員がピッチラインの外に立つ。
これからどうサッカーを続けてもその繰り返しになるような気がするのは、今、気分がへこんでいるせいだろうか。
日本でサッカーをしている限り自分に居場所はない、という思いが、リュウジをサッカーボールから遠ざけていた。
国立の試合はテレビ中継されたわけではないが、スポーツ新聞やサッカー雑誌の情報で、クラスの連中もリュウジが同点ゴールを挙げた活躍を知っている。
「ドリブルしてるとこ、写真に出てたぞ」
「未来の日本代表か。今のうちサインもらっとこ」
「あの14番なら世界に通用するって、スペイン人が言ってたってさ。すげえじゃん、リュウジ」
何日かはクラスのヒーローだったが、梅雨入りと共に、リュウジをめぐるサッカーの話題は雨に流され、下水溝に消えてしまったかのようだ。
期末試験の出題範囲が出たこともあるが、コンフェデレーションズカップにおける日本代表の活躍が連日の話題にとって代わったせいもある。
予選Bグループを一位で通過して、オーストラリアとの豪雨での決戦を制し、日本代表はフランスとの決勝に挑んだ。
青い代表グッズを身につけ、金切り声をあげて応援するミサキの横で、リュウジも寝転がってテレビ観戦した。短いパス回しによって中盤を制した予選の戦いぶりは、確かに以前にはない逞《たくま》しさを感じさせた。
はたく。もらう。当てる。スルーする。一級のピンボールだと思った。
だが、やはりリュウジはそのピッチに立つ自分の姿を想像することはできなかった。
フランスには完敗だった。ひとつひとつのパスに、フィードに、ポジショニングに、次のプレーへの「意志」が感じられるフランスは、たとえ主力選手が欠けていようが世界一のチームだった。彼らと日本代表との実力差には、何となく残酷な真理が隠されている気がしてならない。
すなわち、「日本人の進化には限界がある」という真理だ。いくら努力してもフランスの域に辿《たど》り着くのは無理ではないのか。突き詰めて考えようとする思考回路を、リュウジは断ち切った。
何も考えたくない。目と耳を塞《ふさ》いでいたい。そういう日々が続いている。
昼飯の後の眠い時間帯が過ぎると、六限目の授業も終わり、リュウジはナイキのスポーツバッグを肩にかけ、右足をわざと少々引きずり、校舎を出る。
「今日も休みか?」
すれ違うサッカー部の先輩。
「医者、行かなきゃいけないんで」
嘘だった。そこまでは悪くない。
「長いよな。骨折してんじゃねえの」
「そうっすね。駄目かもしれませんね」
先輩は「なわけねえだろ」と笑って部室へ駆けていく。
練習グラウンドを避けるようにして、裏門から出る。学校が終わる時間を見計らったように、バッグの中で電子音が鳴った。
携帯電話の着信コールだ。ゆっくり取り出し、フリップを開けて発信人の名前を見る。千穂だった。
八木沢千穂とは中学三年の夏から、高校は違っても付き合いを続けている。どうやら本格的にピアニストを目指している千穂と、サッカーの練習に明け暮れるリュウジは、休みの日が重ならずなかなか会えない。
レッスンの帰りに呼び出され、人気のない児童公園で落ち合い、一時間ほどブランコに腰掛けて喋《しやべ》る。それはそれで楽しかった。
付き合い始めてそろそろ一年になるが、キス以上の何かをしたわけじゃない。胸のふくらみは、制服の上からの感触だけでしか知らない。
受信ボタンを押す気になれず、留守番電話になるまで放っておいた。千穂は何も吹きこまず、切った。
どうしてる? かったるいだけ。そんな会話にしかならないことは分かっていた。
帰宅部の連中と一緒にバスに乗る。綾瀬川を渡る頃から同じ制服の姿はどんどん少なくなり、生まれ育った町に降り立つ時はリュウジ一人だった。
曇天と町工場の煙がないまぜになっている。どこからが汚れた空気なのか、境目が分からない空だ。
足を引きずらず歩いてみる。やはり微《かす》かな痛みがある。それはすなわち、しつこくまとわりついている国立のゲームの記憶だった。
後半の残り二十分、スペインは本気だった。リュウジたちは「殺される」と思った。仲間はマシンガンの一斉射撃を食らったかのように、バタバタとピッチに倒された。
試合後のロッカールーム、青く腫《は》れ上がったリュウジの右足首を見て、神保監督が「奴らを本気にさせた勲章だ」と笑って言った。同点狙いのゲームを貫いたチームにふさわしい勲章ですか? と言い返してやりたかった。
自宅に着いてしまう。学校帰りにゲームセンターに立ち寄ったりする習慣がまるでないリュウジにとって、帰りたくないのに帰りついてしまう場所だった。
「よしこ」と看板のかかった和風スナック。母の名前を店の名前にしている。引き戸と縄|暖簾《のれん》。ダサい造りだがこの町には似合っている。仕込みの音が聞こえた。住居の二階へは、店を通り抜けて奥の階段から上るか、外階段を上るか。リュウジは迷わず、母の顔を見ないで済む道を選んだ。
「リュウジ?」
鉄階段の音を聞きつけた母が呼ぶ。「今日も練習、休み?」
嬉《うれ》しげに聞こえる。俺がサッカーをやらずに帰ってくることが、そんなに嬉しいかよ。
無視して二階へ。
居間の六畳に妹のランドセルが転がっていた。学校から帰ってきて、そのまま塾へ行ったようだ。中学受験を目前にして、ミサキは暇さえあれば参考書を開いている。父の血を受け継いだのか、妹は国語が得意科目だった。
父が仕事部屋にしていた四畳半は、今ではリュウジの部屋だ。サッカー雑誌の付録だったフィーゴのポスターが貼ってある。レアル・マドリーではなく、ポルトガル代表のユニフォームを着たフィーゴだ。
世界屈指の攻撃的ミッドフィルダー。十六歳でU─16ポルトガル代表としてヨーロッパ・チャンピオンとなり、十七歳で名門クラブ、スポルティングでプロデビュー。十九歳のワールドユースで優勝。一九九五年にスペインのFCバルセロナに移籍。五年間で二度のリーグ優勝を果たした後、六十億円の移籍金でライバル・クラブのレアル・マドリーに電撃移籍。サイドビジネスとしてバルセロナに出していた彼の寿司バーはそのために焼き討ちに遭い、他人の手に渡ったという。
フィーゴのドリブルを止めるにはファウルしかない。正確無比なクロスと、時に放つ強烈なシュート。現在二十八歳。二〇〇二年ワールドカップはフィーゴの大会になるだろうと言われている。
リュウジは予言できる。二〇〇二年のベスト4は、フィーゴがいるポルトガル、ベーロンがいるアルゼンチン、トッティのいるイタリア、ジダンのいるフランスだ。次点にはラウールがいるスペインを挙げておこう。日本はどの時点で消えているのだろう。
六月の湿気を味方につけて、グループCの一位を相手に、神戸の決勝トーナメントのピッチに立っているだろうか。
ドリブルをしているフィーゴの姿を万年床に寝転がって下から眺めているうち、いつの間にか眠ってしまったようだ。
俎《まないた》の音で目が覚めた。窓の外は暗くて、また雨垂れが聞こえる。母が店を開けた頃だろう。
ミサキが夕飯の支度をしていた。沢庵《たくあん》を刻んでいる。味噌汁の匂いが漂ってくる。フライパンで焼いているのは、兄の体を気遣い、脂身の少ない鶏肉だろう。
「寝すぎだよ、お兄ちゃん」
ポニーテールが揺れてリュウジを一瞥《いちべつ》した。南国育ちのような浅黒い肌。フランスのカーレーサーと結婚した元アイドルに似ていると店の客がよく言う。それは褒《ほ》めすぎだ。生意気そうな横顔が似ているだけだ。
冷蔵庫から麦茶を出し、コップふたつと箸《はし》ふた組を卓袱台《ちやぶだい》に置く。母は夕飯の食卓にはいない。客のために作った酒の肴《さかな》をつまんで空腹を誤魔化し、リュウジとミサキが眠った後の深夜、お茶づけを啜《すす》って寝床につくというのが母の日課だ。
妹と二人で、七時からのバラエティ番組を見ながらの夕飯となる。
「お兄ちゃん、立て膝」
いつものように注意される。店で忙しい母から「躾《しつけ》役」をまかされたかのようだ。
「ほら、引き箸」
「いちいちうるせえよ、お前」
「ちゃんとしようよ、もうすぐ十六歳でしょ」
いつもの言い合いになった時、騒々しく階段を駆け上がってくる音。燃え上がったような髪型の母が現われ、板の間にドンと皿を置く。
「ほら、おかず、食べな」
店で発揮している「よしこちゃんの笑顔」をそのまま持ちこんできたが、すぐいなくなる。店がたてこんでいるのだろう。
客のために作った肉皿だ。吉野家の牛皿よりはうまい。店のメニューの中で、リュウジが一番好きな料理だった。
「もう、わたしの苦労が……」
ミサキはぼやきながら、肉皿を卓袱台に置く。脂身の多いバラ肉が玉葱《たまねぎ》やシラタキと絡まって湯気をたてている。練習を休んでいる時はカロリーに気をつけるようにと、国立のゲームに帯同していたチームドクターに言われた。ミサキはそれを踏まえて毎日の献立を考えるのだが、母はカロリー計算など知ったことではなく、リュウジの好物を店から運んでくるのだ。
「でも、うまいよね、母さんの肉皿」
ミサキもご飯に載せてパクつく。
国立のゲームは、母もミサキに連れられてメインスタンドで見たという。記者席のちょうど前あたりだったと後で聞いた。
ゲームの翌日、リュウジの右足首は青く腫れ上がったが、ミサキは喉《のど》を赤く腫らしていた。声の出しすぎだった。
リュウジがドリブル突破からシュートを放ち、ポストに当たって跳ね返ったボールにダイブして同点弾を決めた時、ミサキは頭の血管がぶち切れるほど興奮したという。
母はどうだったのだろう。
「結構、熱心に見てたよ」
ミサキはそう言葉を濁《にご》す。どんな応援をしながら見ていたのか、「リュウジには言わないでよ」と母は妹に口止めしたのかもしれない。普段からリュウジがサッカーをすることを快く思っていない母は、応援の様子もリュウジに知られたくないに違いない。
つまらないことに意地を張る、子供みたいな母親だ。
隣室からチャイムの音がする。メールの着信音だった。ピアノのレッスンを終えた千穂からだろうか。
箸を持ったまま携帯電話を取りに行く。
「誰から?」
ミサキが訊《き》いたのは、誰からのメールか直感したからだ。妹の予想が当たった。
「やっぱ親父」
「何て?」
画面を見せてやった。
「龍を死なせるつもりか……?」
ミサキが読み上げた。「こういう謎の言葉、お父さん好きだよね」
謎でも何でもない。リュウジはすぐ理解できた。父は国立競技場のどこかでゲームを見ていたのだ。ピッチにおけるリュウジの苛立《いらだ》ちも怒りも、ゲームから一週間もたつのに一向に晴れない気分も、お見通しなのだ。
このままでは、リュウジというカタカナの名前に潜む「内なる龍」は死んでしまうかもしれない。
父と別れて三年になる。リュウジもミサキも、会ってもいないし電話で話したこともない。それが離婚に際しての、母の条件だったらしい。
父が車に積みこんだ荷物は、ダンボール三つに過ぎなかった。母がミサキを連れて買物に行ってる間に、父は家を出ていった。
リュウジはちょうど練習帰り、川沿いの道を歩いている時に、父の運転する車と出くわした。
「練習、どうだった」
車を止めて、父が無精|髭《ひげ》だらけの笑顔を投げかけた。中一になって、司令塔の位置を不動のものにした頃だった。
「留守番、頼むぞ」
まるで何日か取材旅行に出かけるような口ぶりだった。後部座席に並んでいるダンボールから本が溢《あふ》れていたので、リュウジは少し妙に思った。
「じゃあな、リュウジ」
家に帰って、父の仕事部屋である四畳半ががらんどうになっているのを見てはじめて、父が離婚届に判を押して家を出て行ったのだと分かった。
毎年、父から届く誕生日プレゼントだけは、母は黙認してくれる。リュウジが高校に入った時、発売になったばかりのiモードの携帯電話が贈られた。
電話代も父が払ってくれる。以来、ミサキの言うところの「謎の言葉」が時折、送られてくる。それは離れ離れになった父と息子をつなぐホットラインだった。
返事を送ろうか。
「死なせるつもりはないよ」と強がりを言うこともできたが、千穂の電話をやり過ごしたのと同様、言葉を返す気分にはなれなかった。
腫れと痛みがやっと引いた頃から、軽いランニングを始めた。
総勢五十名のサッカー部は、その実績によって他の運動部を制し、週の半分は練習グラウンドを独り占めしている。
下級生たちが雑巾《ぞうきん》にグラウンドに溜まった水を吸わせ、バケツにしぼる。乾いた土をかけて、トンボでならす。一年生のリュウジももちろん加わる。やっとボールが転がるコンディションになると、一軍メンバーは八対八でミニゲームを始めた。
リュウジだけは別メニューで、グラウンドの外を小さな歩幅で走っていた。まだ足首をかばう走り方である。
厚い雲の間から午後の太陽が顔を覗《のぞ》かせたせいで、湿度がぐっと上がってきた。真夏の炎天の到来と思われたが、再び西の方から鉛色の雲が押し寄せ、陽を遮《さえぎ》ろうとしている。
グラウンドに部外者が現われた。青いキャップを脱いで、ミニゲームを腕組みで見ていた監督に礼儀正しくぺこりと頭を下げたその人物を、リュウジは視界の端に捉《とら》えた。
高畑だった。
一年前、中学三年のリュウジをU─16の代表候補に推薦してくれた人物だ。合宿後、ヨーロッパへの遠征メンバーには入れなかったが、この五月の選抜メンバーに選ばれた。リュウジにチャンスを与えてくれた恩人といっていい。
高畑の日焼けした顔に健康的な歯並びが見えた。監督と笑顔で如才ない挨拶《あいさつ》を交わした後、「リュウジ君に話があって来たのですが」と用件を告げたようだ。監督がグラウンドの反対側にいるリュウジを指差す。高畑が見つけて、こちらに手を振る。
監督はリュウジを国立の檜《ひのき》舞台に上げてくれた高畑に対して、礼のひとつも言わなければならない立場にある。
が、その応対は冷たくはないが、温かくもない。
高畑が下部組織の指導者として勤めているJリーグのクラブが、最近、「高校サッカーが日本サッカーの未来を阻《はば》む」という趣旨の意見書を協会に出し、物議をかもしたばかりだった。
子供たちは中学までは地元クラブのジュニア・ユースで練習し、その段階までは優秀な選手をJリーグに吸い上げるシステムとして確立されている。ところが高校生になると、少年たちは国立での正月決戦を夢見て、それまで所属していたJリーグの下部組織から高校のサッカー部に活動の場を移してしまう。
高校サッカーに散った選手たちから代表候補を選んだとしても、高校の大会の方が優先されてしまい、なかなか強化合宿ができない。U─16の将来有望な選手は、部活動の範囲ではどうしても下級生部員として球拾いをさせられ、日々の練習も満足にできないという現実が目の前に横たわる。そして上級生になれば受験という壁がそびえる。
高校サッカーが選手の才能を摘み取っている、というのがクラブ側の本音だった。
もちろん高校側にも言い分はある。
営利主義のJリーグの下部組織に、安心して育成をまかせることはできない。「プレイヤーを育てて、トップチームに上げて、高額な値段を付けて他のチームに売る」という海外のクラブのやり方は、日本ではまだ歴史が浅く、とても実践できそうにない、所詮《しよせん》は選手を金の成る木として見ているのではないか。
何より、子供たちが国立決戦に夢を抱いているのだ。高校サッカーが日本サッカーの未来を暗くしているなどとは言語道断だ、というのが高校側の反論だった。
高校サッカーが長きにわたって日本サッカーのレベルを支えてきたのは事実のようだ。
かつて「高校サッカー燃えつき症候群」という言葉が聞かれたように、高校のサッカー部に身を置くサッカー少年は、高校を卒業した頃にはエネルギーを使い果たし、大学や社会人サッカーでは結果を残せず選手生命を終える、というパターンがあったらしい。
当時、ユース選抜と高校選抜が戦うと、猛練習によって技術や体力の面でピークを迎えている高校選抜の方が、あらゆる面で勝負強かったという。
が、今はプロ選手への近道として、地域に根を張るJリーグの下部組織に子供たちが吸い寄せられていく。その結果として、高校サッカーのレベルが少しずつ下がってしまった。
高校サッカー側もJリーグ下部組織側も、どちらも「相手に才能を盗まれた」と言う。どちらも正論だった。そして、どちらの組織からも日本代表クラスの選手を輩出しているのも確かだった。高校サッカーは中村俊輔を、Jリーグ下部組織は稲本潤一や市川大祐を世に送り出した。
代表候補合宿に参加して、様々な選手を身近で見てきたリュウジの印象からすると、Jリーグ下部組織で育った選手は総じて「同じ顔」をしていた。テクニックの面でも同じ巧《うま》さを持っている。クラブ特有のエリート育成システムのせいかもしれないと思った。
かたや高校サッカー出身の代表候補は、「一芸に秀《ひい》でた」選手が多かったような気がする。学校の教師でもある高校サッカーの指導者は、技術的な英才教育よりも、「言う通りのことができないと殴《なぐ》る」という精神主義で選手と接する。よく言えば「人間的な」指導者によって、選手の中で眠っていた才能が荒々しく引き出されていくようだ。
そういう意味では、リュウジはどちらかというと高校サッカーの方が水が合っているかもしれない。
高畑が「しばらく」と笑顔でやってきた。リュウジはランニングを切り上げて、グラウンドを囲むネットの外で高畑と立ち話をすることにした。
「足の調子はどう?」
「思ったより、治るのに時間がかかって……」
何となく弁解じみた答え方になってしまう。高畑の推薦でもう一度代表候補に上げてくれないだろうか、と願う自分がいるのだ。日本のサッカーに居場所はないと思いつつ、それにすがろうとしている自分がいた。自己|嫌悪《けんお》だった。
ミニゲームをしている先輩たちが、時折、高畑の存在を気にする。アピールしようとする動きを見せる。高畑がどういう人物か、みんな知っている。
「話があって来たんだが……」
高畑のやや口ごもった切り出し方から、それほどいい話ではないな、とリュウジは直感した。
もう君は代表候補には呼ばれないだろう、と告げに来たのだろうか。いや、そんな残酷なことをわざわざ言いには来ないか。
「スペインから君について、打診があった」
打診?
「君については協会も多くの情報を持っているわけじゃない。そこで神保監督に問い合わせが行った。で、君の推薦者である俺に監督から電話がかかってきたというわけだ。俺が知る範囲で、君のこれまでの実績を書いてスペインにファクスを送っておいた」
言ってる意味がまだよく分からない。
「スペインのあるユースチームの育成担当が近々、日本にやってくる。君に会いたいそうだ」
会いたい? 俺に? スカウトということか?
「アトランティコFCというクラブ、聞いたことないかな」
いえ、と首を振った後、思い直す。聞いたことがあるような気もする。
「今季、二部リーグを二位の成績で終えて、次のシーズンから一部に昇格が決まってるクラブだ」
リーガ・エスパニョーラの今シーズンは、つい何日か前、すべての日程を終えた。レアル・マドリーがデポルティーボ・ラ・コルーニャをかわして優勝している。
「首都マドリード郊外の町をホームタウンにしている。クラブの会長はワイン会社の社長で、今度新しく日本にやってきたスペイン大使の友人だそうだ。大使の就任祝いと、自分のところのワインを日本の輸入代理店にアピールするという仕事もあって、ちょうど五月に来日してたそうだ。国立のゲームも来賓席で見たらしい」
高畑の話に、息を殺して聞き入る。
その会長はリュウジのプレーに惚《ほ》れこんだ。うちのユースチームにどうしても欲しいと言い出した。会長の命を受けた育成担当が、リュウジを口説《くど》くために来日するという。
「こっちの都合も聞かずにどんどん話を進めるもんだから、俺も正直、困ってるんだ。君との橋渡しになってくれと、協会を通じて頼まれちゃってさ」
ワンマン会長の思いつきに右往左往させられているチームスタッフの姿が想像できる、と高畑は言う。アトランティコFCというクラブについてよく分からないうちにスカウトと面会するのは軽率かもしれないと、慎重に考えているようだ。
「スペインのチームが、俺を欲しいと言ってるんですね」
話の要旨について念を押す。
「そういうことだ」
「国立のプレーを、認めてくれたんですね」
「そうだが、先走らない方がいい。確かにアトランティコというチームは力のあるチームだろう。二部リーグの上位争いを勝ち抜いて昇格したんだから。だが、君を欲しがっているのはトップチームではなくユースのチームだ。あっちのユースは日本よりも細かく年代別に分けられていて、その中でさらに実力に応じて、二つか三つのカテゴリーに分けられている。日本とは比較にならないほど下部組織の裾野《すその》は広いんだ。君を必要としているチームがはたしてどのレベルにあるのか、詳しく話を聞くまで分からない」
「なら、俺、詳しく聞きたいです」
高畑が溜め息を洩《も》らす。この話をすればリュウジが乗ってくることは分かりきっていた、という表情だ。だから話を切り出す時に躊躇《ためら》いがあったのだ。
「そうだよな。会いたいと思うのは当然だよな。俺も一緒についていくが、構わないね?」
「よろしくお願いします。俺、スペイン語なんて話せませんから」
「俺だって話せないよ」と笑う。
高畑はイギリスへの留学経験があるらしく、スペインからやってくる育成担当とは英語で交渉をするという。
「このこと、俺の方からお母さんに話そうか?」
「いえ、まだ内緒にしてくれますか」
一年前に宮城先生に連れられて、高畑も母の店にやってきた。「代表候補合宿に来ないか」とリュウジを誘った時、母の表情に表われたものを、高畑だって覚えているはずだ。
「分かった。向こうの話をちゃんと聞くまでは黙っていよう」
サッカーをしにスペインへ行く、などということになったら、母に反対されるのは目に見えていた。邪魔されたくない。
再び雨を降らすのかと思われた曇天に、切れ目が現われた。一条の斜光が空の彼方に走っていた。
それはリュウジの鬱屈《うつくつ》した日々に差す光かもしれない。
アトランティコFCユース育成担当のセルジオ・ムニョスの宿泊先は、都心のシティホテルではなく、錦糸町《きんしちよう》のJR線路沿いにあるビジネスホテルだった。
夜七時、部屋で会いたいというので、高畑とリュウジはフロント横のエレベーターに乗った。やけに時間のかかる旧式のエレベーターの中で、高畑もリュウジも黙ったまま六階までのランプを見上げている。こんな場末《ばすえ》のホテルでスカウトか。言葉には出さないが、萎《しぼ》んでいく思いで二人は通じている。
出迎えた男は髪の毛を側頭部だけ残し、濃い口髭を蓄えた小男だった。愛想だけはいい。とびっきりの笑顔で二人と握手をし、部屋に招き入れた。上半身はランニングシャツ一枚だ。
部屋はエアコンが嗄《か》れた音をたてている。ツインの片方のベッドにはバッグの中身が散乱している。窓際に三人がちょうど座れる応接スペースがある。隣接する歓楽街のネオンが煌々《こうこう》と光を放っていた。麻薬の密売には似合いの場所だろう。
セルジオは電話中だった。かなり訛《なまり》のきつい英語で誰かと話し、手帳に予定を書きこんでいる。リュウジをスカウトする用事だけで来日したわけではないらしい。
電話を切り上げると、冷蔵庫から冷えた缶ジュースを出して二人の前に置き、面談の姿勢になった。
頭上で音をたてているエアコンを指差して何か言う。高畑が通訳した。エアコンの調子が悪いのでこんな恰好《かつこう》で失礼させてくれ、と言ったらしい。確かに耳障《みみざわ》りな音だが、室温はちょうどいい。セルジオの禿《は》げた頭は汗で光っている。日本の梅雨は外国人にはこたえるようだ。
「リュウジ・チノ」
書類に書かれたリュウジのフルネームを言う。「リュウ」という言い方が巻き舌になって、発音しにくそうだ。苗字《みようじ》の「志野」を「チノ」と言った。しかも何やら薄笑いを洩らして。
高畑が「シノです、シノ」と間違いを正す。
「シノ、シノ……オーケイ」
「スペイン人は『チノ』と呼ぶかもしれないが気にするな、と言ってる」
リュウジは首をひねる。「チノ」の意味が分からない。高畑も「俺もよく分からない」と言う。
本題に入る。セルジオが英語をゆっくりと発音する。高畑は一語一句に頷《うなず》き、なるべく正確に訳そうとする。
「会長はホアキン・ロドリゲス・ディアスという人で、リュウジのプレーを見て、こんな選手が日本にいるのかとびっくりしたらしい。ディフェンダーを背負ってもすぐに正対して相手を抜き去るテクニックが素晴らしい、まるでジダンを思わせる、と感心したそうだ」
ジダンを持ち出された。本気にしていいのか。
高畑が通訳しているのを待ちきれず、セルジオは言葉を連ねる。「しかもドリブルにはスピードがある。ラインを背負って片側だけでしか攻撃のできないウィングバックではなく、メディアプンタ……いわゆる司令塔のポジションにいるべき選手だと言っている。自分ではどう思うか?」
リュウジは、「自分もそう思う」という意味で頷いた。自然と笑みがこぼれた。最大級の褒め言葉をもらった。セルジオはリュウジの反応を見て、満足げに頷き返し、また身振り手振りで喋る。
「会長は言っている。リュウジが過去にどういうサッカーをしてきたのか、そんなことはどうでもいい。あの日の九十分のプレーだけで充分だ。アトランティコのトップチームを目指して、フベニール……日本で言うユースのことだが、そこで頑張ってくれないか、と言ってる」
高畑はフベニールというカテゴリーについて質問する。セルジオはホテル備え付けの便箋《びんせん》にアトランティコの組織形態を図に描き、説明する。
「トップチームと、サテライトの『アトランティコB』、その下にフベニールの少年チームがふたつある。ひとつはフベニールの中でも上のカテゴリーに属する『ラーヨ・アトランティコ』。リュウジには本当はここでプレーしてもらいたいが、このカテゴリーは外国人がプレーできない。もうひとつの、プレフェレンテと呼ばれるカテゴリーに属する『シティオ・アトランティコ』から出発してもらいたいそうだ」
最下層からのスタートらしい。
「一年契約で、生活費も学費も支給してくれるそうだ」
「学費?」
リュウジが訊き返す。高畑が「彼は学校に通わなくてはいけないのか?」と訊いた。
「イエス」とセルジオは真顔で頷く。
「地元の中学に通うことが条件らしい。外国からやってくる少年たちは、他のクラブでも例外なく学校に通わせる」
日本とは違い、スペインの中学は四年生まである。義務教育は終わってないのだ。サッカー漬けの毎日かと期待していた。日本で義務教育が終わっているのだから、勉強なんてもう必要ないと思っていた。
セルジオがリュウジに言い聞かすように喋っている。高畑が訳す。
「夢を抱いてスペインにやってきても、プロ契約できるのはわずかだ。契約が断たれて放り出されても、社会人として生きる道を残してあげなければいけない。だから学校に通わせる」
それは一種の親心だという。
リュウジはチームが指定する寮に入る。そこでは狭いが個室が与えられる。他のチームの寮はひと部屋を二人や三人で使うことが多いから、それに比べたらホテル並みの待遇だと、セルジオは自慢げに言う。
高畑がリュウジを見やる。「話半分に聞いといた方がいい」と言いたげな表情を、セルジオには分からないように投げかけた。
ホームタウンであるアランフェスという町について、高畑が訊く。
マドリードからバスで五十分、日本で言うところのベッドタウンらしい。中心地に王宮を抱えるこぢんまりとした観光地だが、地元産業は活発ではなく、マドリードへ通勤している人々が多い。
ホアキン会長はスタジアムを見下ろす高台に邸宅を構えているが、彼が経営する葡萄《ぶどう》農園とワイン工場は、その地にはない。アランフェスから南西に50キロほど行くとトレドという有名な観光地があり、その郊外に広大な農園を持っているという。
セルジオがブリーフケースからトップチームの集合写真を取り出し、リュウジに見せる。選手たちは白と濃厚な赤が縦縞になったユニフォーム姿だ。白ワインと赤ワインの色を意味するそれがチームカラーらしい。
「今日は相手の話だけ聞いておこう」
説明が途切れたところで、高畑が声をひそめてリュウジに言う。
「契約期間が一年というのも短い気がする。文化も練習環境も違う国ですぐに結果を出すのは難しい……。次のシーズンは九月からだし、考える時間はたっぷりある」
「俺、行きます」
おいおい、と高畑が慌《あわ》てる。
そう答えようと決めていた。自分を必要としてくれる場所があるなら、どこでもいいと思っていた。
「アイ・ウォントゥ・ゴー」
英語は赤点ぎりぎりだが、それぐらいは言えた。
セルジオが立ち上がって、にこやかに手を差し出す。リュウジは握手をする。最初の握手よりぬくもりが感じられた。「自分は親代わりだ」と言う育成担当の言葉に偽りはないように思える。
高畑だけは眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、不安げな表情でいる。リュウジの意思は意思として、「しばらく考えてからご返事します」とセルジオに言ったようだ。
窓の外でネオンの色が変わった。
日曜日は県大会の予選があった。八月のインターハイを目指し、六月から毎週試合がある。シード校であるリュウジの高校は、比較的楽な相手から始まった。
リュウジは後半から出場した。国立のゲーム以来の実戦だった。
右足首の感触を確かめるようにドリブルで中央を駆け上がり、シュートを打った。それは難なくゴールへ吸いこまれた。
試合は快勝だった。月曜日の練習が休みとなり、リュウジは母校の中学に足を向けた。
宮城先生から「次の休みに遊びに来い」と言われていた。高畑と錦糸町のビジネスホテルを訪ねた翌日、電話がかかってきたのだ。高畑から話を聞いて心配になったのかもしれない。
シュート練習をしていた後輩の中学生たちが、リュウジの姿を見て「うーすっ」と元気よく声を上げる。
宮城は学校を定年退職した前監督に替わって、チームを仕切っている。リュウジをベンチに座らせ、練習を見ながらの会話となる。
「行く先はどこでもいいから日本から飛び出したい……そんな気分か?」
見透かされてしまった。
頭を冷やして考えろ。宮城がそう言いたくて自分を呼んだことは分かっていた。
「アトランティコFCというクラブについては、俺も知り合いから情報を集めてみた。チーム創設は八十年前で、歴史は古いが、この数年は一部に上がってもすぐ降格するという繰り返しだ。昇格した時に、それに貢献した選手を高く売ったりするため、戦力が安定しない。そういう悪循環から脱しきれないクラブだそうだ。まるでトランプの大貧民だな」
大貧民に落ちた者は大富豪に強いカードを渡さなくてはならない。よほどの運がないと這《は》い上がれない。
「他のクラブに比べると、確かにユースのチームは積極的に選手を補強しているようだ。他のヨーロッパの国や南米の国なら分かるが、スペインのリーグ関係者が日本にスカウトを送りこむというのは稀《まれ》だし、そういう意味ではリュウジは運がよかった」
さほど期待もせず、商談の合間に国立にやってきて、来賓席に座った。そこでリュウジの活躍に目を留めたわけだ。
「だが所詮、その会長にとっては『先物買い』に過ぎない。安く選手を仕入れて、そこそこのレベルまで育てて、他のクラブへ高く売りつける。そうやってクラブ経営をしているのがスペインではほとんどだ。お前は商品にされるわけだ」
「分かってます、そんなこと」
商品になるならしてほしい。プロってそういうことではないのか。日本のクラブ・チームが資金難で苦しいのは、日本人独特の考え方なのか、選手を商売の道具にするという発想ができにくいからではないのか。
「紙パックの安ワインで儲《もう》けてる会社らしい。そういえば最近、日本でも話題になって売れたみたいだな」
テレビのある料理番組に出演した若手のカリスマ・タレントが、料理に合うワインを自前で持ってきた。紙パックからジュースのようにがぶがぶ飲む姿が評判になって、「あのワインはどこで買えるのか」とテレビ局に問い合わせが殺到したらしい。それがきっかけでホアキン会長のワインは日本へ大量に出荷されたという。
リュウジはそのタレントに感謝した方がいいのかもしれない。
「トレド郊外の大地主らしいが、かなりの俗物という噂だ。他のユースチームで問題児扱いされた若者を寄せ集めてるって話もある。目立つことがとにかく好きらしい。お前が思うほど、そこは天国じゃないぞ」
「俺、それでもいいです」
日本でやるサッカーも、学校も、家も、すべてがうっとうしかった。飛び出すきっかけは何でもよかった。リセット。そうだ、この言葉が一番的を射ている。俺は自分をリセットしたい。
「確かにこのまま代表候補を目指しても、神保監督はお前を再び呼ぶかどうかは分からない」
無理だと思う。結果はどうあれ、監督の指示を無視して右サイドを駆け上がった俺は、日本サッカーの秩序と組織を乱す異端児にすぎない。
「だが神保監督は、お前についてスペインから問い合わせがあったことを高畑に伝えた。協会から電話があった時に『志野リュウジなんていう選手についてはよく知らない』と返答してたら、そこで立ち消えになってた話かもしれない。自分は代表候補に呼ぶつもりはないが、スペインにリュウジの未来があるのなら頑張ってほしいとエールを送ってくれたんだ」
感謝はしていた。
「俺、勝つサッカーがしたいんです」
日本が得意とする組織的なサッカーというのは、つまり、前線の選手も守備に駆け回って「負けないサッカー」を第一に考え、ピンボールマシンのようにワンタッチでボールを回し、ボールを回した選手に責任を委《ゆだ》ねるだけのサッカーではないのか。監督が替わればサッカーも変わるのだろうか。そうは到底思えない。
「集団に個人が埋もれてしまう国だ」
宮城が深い溜め息を洩らして言う。「政治が変わるとして、次に経済が変わって、やっと教育現場が変わる。サッカーが変わるのは一番最後かもしれないな。とてつもなく時間がかかりそうだ」
「スペインのサッカーなんて、テレビで見るぐらいしか知らなかったけど……」
スペクタクルな見世物で、見る者を幸せな気分にさせるサッカー。そう教えてくれたのは父親だった。
「俺、国立で戦った連中がすげえ羨《うらや》ましかった。相手が『殺される』って思うようなサッカーを、俺もしたかった。生まれた国を間違えたのかもしれないって思った」
「だが、城や西澤を見てみろ。あれだけ力があってもスペインでは結果を出せなかった。何かが足りなかったんだ。あのマラドーナだってバルセロナではそうだった」
自分に何が足りないのか分かる旅なら、それでもいいとリュウジは思った。
後輩たちのシュート練習は続いている。なかなか枠を捉えることができない。子供から大人まで、日本サッカーは似たような光景を見せる。
世界レベルで活躍するには、とてつもない努力と途方もない運が必要なのだろう。今年五月六日のユヴェントス戦、後半十五分にピッチに立ったローマの中田英寿は、空いたスペースを真っ直ぐドリブルで攻めこみ、ミドルレンジから強烈なシュートを放った。テレビで見ていても、ユリアーノとモンテッロの間を切り裂いたボールの唸《うな》りが聞こえてくるようだった。中田は終了間際にも得点に絡み、スクデット獲得への躍進となる引き分けに持ちこんだ。
EUの外国人選手枠撤廃の直後、すぐに結果を出す中田英寿という選手は凄《すご》いと思った。ベンチ入りさえ保証されない日々でも、自分を鍛えることを怠《おこた》らなかったに違いない。そして舞いこんだ規制撤廃という「運」に食らいついた。
何よりゴールを見せつけたことが凄い。成り上がろうとしている選手に必要なのは、アシストではなくゴールだ。日本にはどうしてアシスト・ランキングなるものがあるのだろう。
「日本を逃げ出すわけじゃないんだな?」
違う。自信を持って言える。だから強く頷いた。
「なら……気持ちよく送り出してやるか」
来てよかった。自分の気持ちを宮城を相手に言葉にしてみたら、自分の中心を貫くものがむき出しになった。
今、生まれ変わるチャンスなのだ。
あとは最後の難関。母をどう説得すればいいのだろう。親の承諾なしにスペインへ旅立てないことは、高畑から聞かされていた。学生ビザには親のサインが必要なのだ。
冷静に話し合うなんて、はなっから無理だと思った。
「よしこ」が閉店になる午前一時、リュウジは階段を下りる。妹の部屋は暗かったから、勉強を終わって寝入ったのだろう。
母は煮物の鍋に蓋《ふた》をして、冷蔵庫にしまっていた。これから売上げを計算して、ぬるくなった風呂を追い焚《だ》きして、残り御飯をお茶づけにして啜り、やっと一日が終わる。その繰り返しの人生だ。
「……どうした?」
リュウジの影に気付いた。滅多に店に現われない息子が戸口に立っていたから、少々驚いている。
「何、それ」
リュウジは無言で一枚の紙を差し出していた。
近寄る母がそれを手にする。「学生ビザ申請書?」
「サイン、してくれないか」
「ビザって、外国に行くってこと?」
「ああ」
「そんな金、どこにあるの」
「金は向こうが出してくれる」
母は話が飲みこめないでいる。「ちゃんと話しなさいよ。どこに行くの。誰と遊びに行くの」
観光旅行だと思っている。
「スペインに行く。向こうの学校に入って、向こうのクラブでやるんだ」
「サッカーね」
前兆だ。声がくぐもった。
「国立のゲームで俺のことを認めてくれたスペイン人が、俺に来てほしいって言うんだ。一昨日、会ってきた。その場で決めてきた。あとはあんたのサインが必要なんだ」
「あたしに隠れて何やってんの」
母の顔つきが変わる。怒りを溜めこんでいる。やはりひどいことになりそうだ。
「あの人の差し金?」
別れた父が関係していると思っている。
「違うよ」
「サッカーなんて、どこでやろうが同じでしょ」
いくら説明したって理解できないだろう。
「それを持ってスペイン大使館に行って、係の人間の前でサインをしてほしいんだ。面倒臭いだろうけど、すぐ終わるらしいから」
「いつ帰ってくるの」
「さあ」
「いつ帰るかも分からないのに、行くって言うの」
「帰ることを考えて行くような、そんな旅じゃないから」
帰って来る時は、負けた時だ。すべてが終わっている時だ。おそらく生きる価値のない人生しか残っていない時だ。
「そんなにあたしが嫌?」
声がねじくれてきた。泣き声一歩手前だ。
「両親は好き勝手に生きて、あたしを放ってそれぞれ別の相手といなくなった。亭主も仕事場に女を連れこんで、いなくなった」
またその話か。親の離婚と再婚はともかく、亭主はいなくなったんじゃなくて、あんたが放り出したんだろう。
「次は息子……。みんなあたしの前からいなくなってく」
そういう被害妄想の繰《く》り言《ごと》はたくさんだ。うるせえ、と怒鳴ってやりたい気分をぐっと堪《こら》える。今はとにかくサインに同意させなきゃならない。
「スペインでサッカーをやりたいんだよ。チャンスなんだよ。一円だって迷惑かけないから。大使館に行ってこれにサインをしてくれるだけでいいから。頼むよ」
爆発しそうなものを抱え、懇願の口調で言う。頼むからウンと言ってくれ。
「勝手に行けばいいじゃない」
本当に行っていいのか。なら、その紙に手を伸ばしてくれ。カウンターに置いた申請書をもう一度手に取れよ。
「でもサインなんかしない」
と言ったかと思うと、紙をもう一度手にした。リュウジの目の前で破く。二枚になった紙片が床に落ちる。目の奥がカッと熱くなった。血がほとばしる感覚。抑えが利かなくなった。
「てめえ、何するんだ」
「親に向かっててめえとは何よ」
「てめえなんか親じゃねえよ。息子のやることをいちいち邪魔してんじゃねえか。てめえが一番ウゼエんだよ。くそっ、どうして破いたりするんだ!」
母が迫ってきた。逃げはしなかった。母の平手が飛んできて、左頬に衝撃が走った。反射的にリュウジも平手を返す。母がふっ飛んだ。
「親に向かって……」
むしゃぶりついてくる。拳骨《げんこつ》がひとつ、ふたつと顔に入った。リュウジの髪を掴《つか》んで揺さぶる。大柄な女だ。店では一層自分を大きく見せようと底の厚いサンダルを履いている。リュウジとさほど背丈は変わらない。
「あたしがお前を生んだんだよ、痛い思いして生んだんだよ、ここまで大きくしたんだよ」
振り下ろされる母の腕を掴み、ねじり上げ、ボトルキープの酒瓶が並んでいる棚に突き飛ばした。床に崩れ落ちた母の腹に、思わず蹴りを入れていた。怒りの傍《かたわ》らに留まっていた理性が、手加減をする。リュウジが本気でインステップで蹴ったら内臓破裂で死んでしまうだろう。
ひどいことになってしまった。ここまでひどいことになるとは思わなかった。
母はリュウジの足に抱きつく。バランスを崩してリュウジは後ろへ倒れこんだ。床に尻餅をつく。俺の右足に触るな。これが俺のすべてなんだ。足の裏で母の肩を蹴りつけた。乱れた髪の奥に紅潮した母の顔を見た。鼻血だった。
リュウジも自分の顔にぬる温かいものを感じている。やはり鼻血が出ていた。
「てめえなんか死んじまえ、死んじまえ!」
吠《ほ》えたてる。
「じゃあ、お前が殺しなよ、ほらやってみなよ」
母は立ち上がり、流しにあった文化包丁を投げつけた。それは背後の壁にはね返った。
殺してやりたかった。よせ、と制する者がいた。怒りのやり場を他に探す。客の座るスツールを手にし、振りかぶり、カウンターの中へ放り投げた。棚から小鉢が吹き飛んだ。リセットだ。全部壊してやる。
母は頭を両手で覆って悲鳴をあげる。
「やめてよ、ねえ」
母の声ではなかった。奥の戸口にミサキのシルエットがあった。肩を震わせて泣いている。くしゃくしゃの顔で、光のある場所に出てくる。
「やめてよ、お兄ちゃん、お願いだから」
沸騰を続けていた頭に冷水が注がれた気がした。あたりが静まり返ると、自分の心臓の鼓動だけが鳴り響いていた。
「大丈夫? お母さん」
床にべたりと腰が砕けたままの母に、ミサキがティッシュを差し出す。顔の下半分を染めている鼻血を拭いてやる。母はなすがままだ。魂をどこかに垂れ流してしまったかのような顔つきだった。
妹が嗚咽《おえつ》を堪《こら》え、母に語りかける。
「お兄ちゃんを、行かせてあげよ」
リュウジはそれを聞くなり、客のスツールに崩れ落ちるように座りこむ。力が抜けた。ミサキはリュウジと母のやり取りを、奥で身を潜めて聞いていたようだ。
「国立のスタンドで、お母さん、お兄ちゃんのこと、あんなに応援してたじゃない。飛び上がってワーワー叫んで、後ろの席に座ってるおじさんに文句言われるぐらいに。そしたらお母さん、後ろを振り返って、あれはうちの息子なんですよって、自慢して」
そんなこと、初めて聞いた。
「それまでお母さんのうるさい応援を迷惑そうにしてたおじさんたちが、それ聞いて、凄いよ、あんたの息子は一人で頑張ってるよって褒めてくれて……お母さん、皆様のご指導のおかげです、なんて言っちゃったりして。お兄ちゃんが点を入れた時は、みんなから握手攻めに遭って、本当にお母さん、嬉しそうだったじゃない」
視界が歪《ゆが》んだ。瞳を覆う水分のせいだ。なぜ、泣けてくるんだろう。
母が呻《うめ》いている。声を振り絞って、床に涙を落としている。
「だったら、スペイン、行かせてあげよ」
ミサキは母の背中をさすって言う。
「わたしがお兄ちゃんの分まで、親孝行するから。みんなあたしのことを捨ててくなんて言ってるけど、わたしはお母さんのこと、絶対捨てたりしないから」
そしてリュウジを振り返る。
「お兄ちゃん、わたしとお母さんなら大丈夫だよ。仲良くするから。休みの日には映画とか行くんだ。一緒に原宿を歩いて、おいしいものを食べて、女同士で楽しいこと、いっぱいするんだ」
ミサキは真っ赤な涙目で笑う。母は洟《はな》を啜っている。リュウジは流れる涙を拭うしかなかった。
誰もが言葉を失っていた。どのくらい時間がたっただろう。母がこちらを振り仰いだ。
視線を感じていたが、リュウジは顔を見返すことができない。
「いつか、戻ってくるんだろ」
ほとんど吐息のような声だった。「いつか戻ってくる」と答えれば、母は安心してサインをしてくれるかもしれない。しかし嘘はつきたくなかった。
「分からない」
正直、分からなかった。
ミサキはもう何も言わない。母と兄の成り行きを見守っている。やがて床を引きずるサンダルの音が聞こえた。破り捨てた学生ビザの申請書を母が拾う。二枚に破かれた用紙を手にし、くしゃくしゃになっているそれを膝の上に置き、手で伸ばす。
母は言った。
「セロテープ、どこだっけ」
あとでミサキが教えてくれた。
母はミサキと一緒に六本木のスペイン大使館に行ってくれた。受入れ先の土地の学校からすでに就学通知が出ていたため、あとは親の確認を取るだけだった。
「息子さんの渡航目的はサッカー留学、ということですね?」
「はい、そうです」
学生ビザの有効期限などの説明を事務官から受けて、署名欄にサインをした。「志野喜子」と漢字でしたそうだ。
終始、母は淡々としていたという。
何日かして、スポーツ新聞の片隅に、「国立の対スペイン親善試合で活躍した高校一年生のサッカー少年、単身、スペインへ渡る」という記事が載った。リュウジがドリブル突破をしたモノクロ写真が添えられて。
どこからそういうニュースは洩れるのだろう。
期末試験はどれも赤点ギリギリだったが、何とか「立つ鳥あとを濁さず」の形で終えることができた。
クラスの連中が「お別れ会」をしたいと言ったが、リュウジは「カンベンしてくれ」と断わった。あまりにしつこかったから、学校近くの喫茶店に集まって、みんなとアイスコーヒーを飲み、写真におさまった。
梅雨明け宣言と同時に夏休みになった。
リュウジの学校はインターハイ県予選の準決勝まで進んだ。
「今日はリュウジの壮行試合だ、勝って送り出してやろう」と監督が言ってくれた。
リュウジのスペイン行きを知っている観客が声援を送ってくれる。県営グラウンドのスタンドを見やると、八木沢千穂の姿はなかった。夏の試合は決まって派手なアロハシャツと麦藁《むぎわら》帽子で見に来る父の姿もなかった。
トップ下のリュウジが常に攻撃の起点だった。先輩たちはどんどんボールを回してくれる。びくびく待ち構えている敵ディフェンダーの壁を面白いように崩せた。
代表候補合宿で「軽いプレー」と言われ続け、しかしスペインの連中をきりきり舞いさせたテクニックも、色褪せていないことが確認できた。
ペナルティエリアの外で取り囲む三人のディフェンダーを、チップキックで嘲笑《あざわら》った。ボールの下に足を刺すように入れて鋭く蹴る。後ろ向きのスピンのかかったボールが彼らの頭上を越える。走りこんでいた味方フォワードがワントラップしてから落ち着いてシュートを決めた。
日本でやる最後のサッカーになるのだろうか。タイムアップの笛が鳴った時、胸が少し詰まった。何人かの先輩が「あっちでも頑張れよ」と手荒く頭を撫《な》でて通り過ぎていく。
退学届を出しても、スペインに発つまではみんなと練習することを許されたが、リュウジは自主トレを選んだ。自分と同じ一年生がグラウンド整備や用具の片づけをしている横で、マイペースのトレーニングをするのは気が引けた。
父とよく練習をした綾瀬川の河川敷で、炎天が過ぎる夕方、体を動かすことにした。
枯れ枝を拾い、地面に梯子《はしご》状の模様を描いた。30センチ四方の枠から枠へ、あるいは外側から枠へと、様々なテンポで短いステップを踏み、前進する。
「いいかリュウジ、サッカー選手は常に小股で動かなきゃならない」
この練習を最初に教えてくれたのも父だった。「大股で一、二の三で蹴るタイミングはすぐ相手に読まれてしまう。ステップを細かくすれば、ドリブルのテンポのままでシュートが打てる」
代表候補の合宿では、ナイロン製のロープで作られた「ラダー」と呼ばれるものでこの練習を繰り返した。
ドリブルの能力を養うにはボールを使うよりステップワークのトレーニングの方が効果的だというのは、外国人監督が持ちこんだ考え方だった。名古屋グランパスを指揮したアーセン・ベンゲルも、このトレーニングを繰り返し選手にやらせたという。
砂埃の舞う土手に、白いTシャツとストレッチパンツの女がやってくるのが見えた。千穂だった。
「久しぶり」
ほのかな薄い笑顔で近づいてくる。
「電話、何度かしたんだぞ」
携帯電話の着信履歴を見たはずだ。逢いたかった、なんて歯の浮いたことは言えない。
「話したいこと、あったから」
「知ってる。スペインに行くんでしょ?」
ハイ、と渡されるスポーツドリンク。リュウジの好きなアクエリアスだ。
土手の石段に座り、半分ほど飲み干す。千穂が「ちょっとちょうだい」と言うから、渡した。千穂もゴクゴク飲む。川風が気持ちよかった。
「ピアノスクールの合宿とかあって、連絡できなくてごめん」
「俺さ、もう日本に帰ってこないかもしんない」
少し突き放すように言ってみた。
「分かってた」
「……分かってた?」
「国立の試合、上の方から見てた。サッカーってスタンドの上から見るとよく分かるよね。リュウジがどのくらいの距離を、どんなスピードで走っているのか。離れていてもリュウジの心臓の音が聞こえてくるみたいで、私も息苦しくなった」
西の空は茜《あかね》色に染まりつつある。千穂の瞳にもだいだい色に揺らぐものがあった。千穂とも永遠の別れかもしれないと思うと、何だか急にいとおしくなる。
「リュウジはここにいちゃいけない人なんだ、いつか私の傍《そば》からいなくならなきゃいけない人なんだ……。そう思うとね、私、リュウジと逢うのが辛《つら》かった。でも一度だけ電話したんだよ」
「ごめん。無視した」
「芝の上を走り回ってるリュウジを見てるとね、リュウジってボールを追って走りながら、自分の命を一滴二滴とこぼしてるんじゃないかって思った。私、息苦しかったし、怖かった」
研《と》ぎ澄まされた感性を持つ女の子だ。俺の気付かないことまで教えてくれる。国立の芝にこぼした命。そうかもしれないと思う。サッカーを続ける限り、こぼれていく命だ。
「俺、たぶん、あと二十年くらいだと思うんだ」
「何が?」
「生きられるの」
「サッカー選手として、ってこと?」
「サッカーをやめる自分なんて考えられないから、俺そのものの命かな」
「サッカーができなくなったら自殺でもするってこと?」
「分からないけど……サッカーができなくなって、指導者を目指したり、テレビの解説者になったりとか、俺、そんなふうに生きられそうにないから」
千穂はじっとリュウジの横顔を見つめてから、ふっと笑った。
「それじゃ、リュウジのせいで日本の平均寿命、下がっちゃうね」
冗談にしてくれたから、リュウジの気分も軽くなった。ああ、冗談さ。今はそういうことにしておく。
「リュウジ」
「うん?」
「今日はずっと一緒にいてよ」
「いいよ」
顔を寄せると、千穂がキスを待っていた。お互いの舌の先が触れた。二人とも、これまでキスばかりしてきたからキスの達人だ。
「うちに来ない?」
千穂の誘う声は少しかすれていた。
橋を越えた向こう岸、河原から歩いて十五分のところに千穂の家があった。
工場の音など聞こえない住宅地にある、大きな二世帯住宅だった。庭で雑種の犬がしおらしく寝そべっていた。千穂が帰ると鼻をくんくんさせて近寄ってきた。
「家族中で別荘に出かけてるの。私はピアノもあるし、ドンの世話もあるし」
暗い家に入る。革張りのソファとグランドピアノの置かれたリビングに通された。千穂がエアコンのスイッチを入れると、瞬く間に部屋が涼しくなった。
「リュウジ、汗臭いよ」
「そうか?」。肩の匂いを嗅《か》いでみる。自分では分からない。
「シャワー、浴びれば」
「じゃ、そうする」
バスルームに案内してくれた。シャワーの温度調節もしてくれて、「ハイ、ごゆっくり」と出ていった。
リュウジはシャワーを浴びる。見下ろす。予感して張り詰めたものは、一向に鎮《しず》まらない。
バスルームを出る。汗で湿った下着とトレーニングパンツを穿《は》き、リビングに出る。
「千穂?」
姿が見えなかった。もう一度呼びかけると、「こっち」と二階から声がした。
リュウジは階段を上る。森の中にいるような芳香剤の匂いが漂っている。リュウジには無縁な「家族の匂い」だ。フローリングの床が冷たくて気持ちがいい。
「分かる? ここ」
奥の扉だった。リュウジは覗きこむようにして入る。勉強机と電子ピアノとベッドのある部屋だった。十六歳の部屋にしては原色が少ない。
千穂はベッドに腰掛けていた。サイドテーブルにバドワイザーの缶ビールがあった。
「飲む?」
濡れた瞳がこちらを見上げる。泣いているわけではない。顔に立ち上っている熱のせいだ。
「ちょっともらう」
隣に腰掛けてビールを啜る。半分ほど千穂は飲んでいた。缶を空にすると、同じようにビールの匂いのする千穂の唇にキスをする。キスの達人が舌を絡めてきたと思ったら、千穂は力が抜けたように後ろに倒れこんだ。
リュウジは千穂が身にまとっているものを脱がす。自分がまとっているものも剥《は》ぎ取る。
「待って」
千穂が起き上がって爪先立ちになり、壁のスイッチを消す。部屋が暗くなった。窓から差しこむ街灯の明かりが、千穂の裸をぼんやりと照らす。肌を重ねると、千穂の放っている熱が理解できた。愛というのはこういう熱のことだ。
どうしていいのか分からない。千穂のすべてにキスをした。胸に顔を埋めた。小さく柔らかく突起したものを口に含んだら、
「痛い」
と言われた。突進したい思いにブレーキをかけて、千穂を慈《いつく》しみ、優しく抱いた。
「私のこと、覚えておいてね」
リュウジの胸に額をつけている千穂が、ぽろりと呟《つぶや》きかける。眠っているのかと思ったら、そうではなかった。
時間はかかってしまったが、最後まで辿り着くことができた。千穂も初めてだったと言う。二人の心臓の鼓動はとうに鎮まり、身をふたつ重ねてベッドに投げ出している。
「私はリュウジのこと、なるべく早く忘れるから」
「不公平だよ」
「そうだよ、不公平だよ。だって、二十年で死んじゃう人を好きになるのは、しんどいもん」
千穂を抱き寄せる。細い体が再び熱を帯びてくる。この感触を刻みつけておこうと思う。
千穂、さようなら。覚えておくよ、千穂がどれほど俺に優しかったか。どれほど愛の温度に溢れていたか。
うまく言葉にできなかったから、汗の匂いが残る千穂の髪にキスをした。
今年の夏は渡航準備で慌ただしく、驚くべき早さで過ぎていく。
リュウジにとっては初めての海外旅行だが、去年、パスポートだけは取っておいた。代表候補合宿に呼ばれた時、ヨーロッパ遠征メンバーに選ばれる場合に備えて作らされていたのだ。
荷造りは簡単だった。スポーツバッグに衣類と履き慣れたスパイクを二足入れたら、もういっぱいになった。迷ったが、ボールは置いて行くことにした。スペイン語辞典はミサキが餞別《せんべつ》としてプレゼントしてくれた。
八月二十三日に出発して、すぐにチームの練習に参加、学校の新学期が始まる九月まで生活環境を整え、プレフェレンテのリーグ戦を迎えることになるという。セルジオからの連絡事項は、すべて高畑が訳して伝えてくれた。
学校のパンフレットも送られてきた。煉瓦《れんが》造りの校舎と、食堂で弾けた笑顔を投げかける学生たちの姿が写っていた。何が書いてあるのか分からない。ミサキからもらった辞書で訳してみたが、「futuro=未来」と「variado=変化に富んだ」の二語を訳したところで辞書を放り出した。
きっと「変化に富んだ未来」がある学校なのだろうと思った。
母とは相変わらず、ほとんど顔を合わさない。夕方の自主トレが終わると、店の外階段を上って二階へ上がる。妹と夕飯を食べていると、「ほら、おかずだよ」と肉皿とか焼き茄子《なす》といった店の料理を持ってくるだけだ。
母の白目に少し血の跡があった。リュウジが殴った時の出血の跡が残っている。
リュウジの学校は県予選の決勝戦で敗退したという。あっそう、という感じだった。退学届を出した後は、自分でも不思議なくらい、今までいたサッカー部には関心がなくなった。
ツクツクボウシが鳴き始め、市民センターのジムで筋トレを終えて土手の道を帰る時、川風に秋めいた涼しさを感じた。
一度だけ、川の対岸に千穂らしき女の姿を見かけた。気のせいだったかもしれない。白いTシャツの女は全部、千穂に見えてしまう。
「お母さん、お兄ちゃんが行っちゃうよ」
母の部屋の襖《ふすま》を開けて、ミサキが声をかける。
深夜に店を終えて、母は熟睡していた。体の右側を下にして、背中を向けて寝ていた。腹のあたりにタオルケットがかかっている。ユニクロの薄いトレーナーの上下がパジャマ替わりだった。
「お母さん……」
「いいよ、寝かしといてやろう」
ミサキも一緒に空港へ行く。上野まで電車で行き、京成スカイライナーに乗る。空港第二ターミナルのJALカウンター前で、見送りに来てくれる宮城と高畑と落ち合うことになっている。
「お別れぐらい、言えないのかな……」
ミサキが悲しげに呟き、襖を閉めようとした時だった。
「リュウジ」
むこうを向いている母が名前を呼んだ。丸みを帯びた体をこちらへ向けようともせず、母は言う。
「駄目になっても、帰っておいで」
リュウジは咄嗟《とつさ》に、どう答えていいか分からない。
「生きて、帰っておいで」
今まで眠っていたとは思えない、凜《りん》とした声だった。深夜から今まで寝つけずにいたのだろうか。
なぜだろう。不意にリュウジは、自分が幼かった頃の母のぬくもりを思い出す。母がまだリュウジを抱き上げることができた時だ。ミサキが生まれる前だろう。二人は観光バスに乗っていた。父が傍にいた記憶はない。麦藁帽子の匂いも甦《よみがえ》る。リュウジは母の膝に乗り、母の顔と間近で向き合っていた。
「ボク、ここにいたんでしょ?」
母の下っ腹をつついて訊いたのだ。
「そうだよ。ここで何カ月もリュウジは眠ってたんだよ」
「この中、気持ちいいのかな」
「どうかなあ。リュウジはよく、中からボンボン蹴ってたから、居心地が悪かったのかなあ」
タオルケットのかかった、ユニクロのトレーナー姿の母。リュウジが蹴り続けた場所には肉がたくさん付いてしまった。そこで自分は命を与えられ続けた。今、自分は命をこぼしながらボールを蹴り、あと二十年の寿命を生きようとしている。
そして母は一睡もできずにリュウジの旅立ちの朝を迎え、駄目になっても生きて帰ってこいと言う。
喉元にこみ上げる思いを悟られたくなかった。「行ってきます」とあっさり告げて、妹を残し、先に階段を下り始めた。
出発一時間前のロビー。宮城と高畑がすでにいた。
旅慣れないリュウジに替わって、パスポートと旅券をカウンターに出して、「もし席が空いているなら、長旅なのでビジネスクラスに座らせてほしい」と宮城が頼んでくれた。
空きはなかった。十数時間、エコノミー席で辛抱《しんぼう》しなきゃならない。
「マドリードの空港を出たところで、セルジオが待ってるはずだ。機内で少しぐらいスペイン語を覚えておけよ」
買っておいた『地球の歩き方』の巻末に、簡単な会話例が載っていた。
「電話したかったら、コレクトコールでいいからね」とミサキ。
「あっちの学校だってパソコンはあるだろうから、メールを送ればいい。国際電話より安上がりだから」と高畑のアドバイス。
「じゃあ、これ、お前にやる」
父からもらったiモードの携帯電話をミサキにやる。海外では使えないし、ミサキへのメールはこれに送ればいい。
「ありがと。お父さんが電話代を払ってくれるんだもんね、じゃんじゃん使っちゃお」
妹の手に渡った時、それが鳴ったのでミサキはびっくりして落としそうになった。メールの着信音だった。
リュウジはボタンを押して文面を見る。
「噂をすれば……」
父からだった。
「これ、どういう意味ですか?」
高畑に見せる。液晶画面にはこうあった。「Hasta pronto」
「ハスタ・プロント……?」とリュウジは読む。
「スペイン語だと最初のHは発音しないんだ。アスタ・プロント」
高畑は挨拶程度のスペイン語なら理解できる。
「いつかまた……遠い先ではなく、近いうちいつか、という意味の別れの言葉だ。スペイン人っていうのはたいがい約束にいい加減で、『また会おう』と言っても言葉だけになるんだが、この言葉は『約束だぜ』っていう意味が強い」
リュウジの旅立ちの日を父はどこで聞いたのだろうか。父も母と同じように、「生きてるうちに会おう」と言いたいのかもしれない。
改めてミサキに携帯電話を渡す。
「たまにはこれで、父さんに連絡してやれよ」
「そうだね。お父さんに前から訊きたかったこともあるし。お兄ちゃんの名前には『龍』っていう漢字が隠されてるんなら、わたしの『ミサキ』にはどういう漢字が隠れてるんだろうって」
「美しく咲く、じゃないの」
「わたしはね、『未来の先』だと思う」
未先。名前にそんな漢字は付けねえよ、と思う。
「未来の先まで、お兄ちゃんのこと、見ててあげるから」
「そういうオチか」と小馬鹿にしたようにリュウジは笑う。ミサキが拳骨でぶつ。
俺は何もかも妹に押しつけて、日本から逃げ出そうとしてるんじゃないだろうか。ミサキの笑顔を見ているうちに罪悪感に心が疼く。
「ごめんな」
「何が?」
「母さんのこと、頼む」
「よし、頼まれてやる」
ミサキは腕組みをして答える。涙が出そうなところを、冗談めかして誤魔化す。
リュウジは宮城と高畑にぺこりと頭を下げると、手ぶらのまま出発ゲートに向かう。一度歩き出したら振り返りはしない。そう決めていた。
「お兄ちゃん」
ミサキの声を背中で聞いた。
「アスタ・プロント、だかんね!」
エコノミー席だったが、横一列が空席だった。
肘当《ひじあ》てを上げて横になってもいいらしい。そうやっている乗客がいたので、リュウジも真似した。
食事が終わり、映画の上映が終わり、何もすることがなくて横になった。アムステルダムまで約十二時間。そこで乗り換えてマドリードまで三時間ほど。本当に長い旅だ。
飛行機の振動を全身に浴びていると、父、母、ミサキ、千穂……みんなの顔がちらつく。
リュウジのインフロントキックに目を細めた父。酒棚に背中をぶつけて倒れこんだ母の、魂の抜け落ちたような顔。「お兄ちゃん、やめて」と母の楯となったミサキ。最後に交わした唇が小刻みに震えていた千穂……。
もう二度と、みんなとは会えないのかもしれないという思いが押し寄せてくる。今まで感じたことのない孤独感だった。
湿った感情なんて削り落としてやろうと思い、国立のゲームで敵の6番に削られた記憶を甦らせる。
衝撃。宙を浮く。芝に倒れる。一瞬、息ができなくなる。右足を押さえて呻く。それでも立たなくてはならない。同点でゲームを終えたくはなかった。
リュウジは繰り返し、その時の痛みを思いだし、西陽の眩《まぶ》しいアムステルダムの空港に舞い降りた。
二時間のトランジット。ロビーの椅子《いす》に座り、ただ時間の上を浮遊した。
マドリード行きの飛行機に乗った。
雲の上をまた漂う。太陽が沈むのを見た。明日も真夏であることを約束するような、赤々と燃え立つ夕陽だった。
夜になった。機内アナウンスが聞こえた。どうやらマドリードに到着するようだ。大きく伸びをして痼《こ》った体をほぐす。
結局、一睡もできなかった。何度か眠ろうと努力したのだが、飛行機の振動が睡魔を阻んだ。
安全ベルトを付ける。飛行機は着陸態勢に入る。窓の外、闇の底に光の雫《しずく》が満ちてきた。
マドリードとはどんな貌《かお》をした街なのか、降りてみなければ分からない。
宝石をちりばめたような大都会へと、リュウジは滑り落ちていく。
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第三章 ダメラ![#「第三章 ダメラ!」はゴシック体]
「ウェイク・アップ!」
扉が叩かれ部屋を揺さぶられ、リュウジは夢ひとつない深い眠りから暴力的に引き戻される。
「ウェイク・アップ、リュウジ!」
聞き慣れた女の声。スペインに来て以来、毎朝、聞かされる羽目になった声だ。
返事がないので、アリシアは「レバンタテ!」とスペイン語になる。「起きろ」を意味するお決まりの台詞《せりふ》だ。英語のサービスは終わった。
「バーレ・ジャー」
リュウジはやっと応える。それだけで「はい、分かった、今すぐ」という意味になる。スペイン人との会話で最も頻繁に使う便利な言葉だ。
アリシアは別の部屋の扉を叩く。ブラジル人のセサルと、ギニア人のベルナールと、スペイン人だがバスク出身のパチに対しては、最初からスペイン語だ。彼らがモゾモゾと起き出す気配が伝わってくる。
スプリングが耳障《みみざわ》りな音を奏で、シングルサイズのベッドから身を起こすと、リュウジはポルトガル代表のユニフォームでピッチを駆けるフィーゴと向かい合う。日本から八つに折って持ってきたポスターだ。
本当に俺は彼と同じ国でサッカーをしているのだろうか。フィーゴの雄姿を眺めるたびに思う。
日本でいえば三畳ほどの広さ。漆喰《しつくい》が所々はげ落ちている壁。ドアのないクローゼット。引き出しのない木製の勉強机。窓はひとつだけで、西向きのために朝はろくな外光が入らない。トイレは部屋の入口のすぐ横にあるが、シャワーは廊下の真向かいにあって、他の寮生と共用だ。
個室でホテル並みの待遇というセルジオの話はやはり眉唾《まゆつば》ものだった。一人部屋は確かだが、まるで刑務所の独房である。
狭い部屋に閉じ込められる意味は、住み始めてすぐ分かった。外国から一人でやってきて、言葉も分からず、疎外感に苛《さいな》まれたとしても、一人でこんな部屋にいては窒息しそうになる。よほどの「引きこもり」癖がある若者でもなければ、ここより広いどこかに出たくなる。
すると必然的に、寮の階下にある酒場《バル》に下りていく。そこにはとりあえずテレビがあって、人々の熱に包まれ、言葉が分かろうが分かるまいが店の常連たちから質問攻めに遇《あ》い、いやでもスペイン人との荒々しいコミュニケーションに投げ込まれる。
アトランティコFCの熱心なサポーターであり、外国からサッカー留学でやってきた若者たちに部屋を提供しているバルのオヤジ、ペペが考えたことだ。
七分丈のスウェットパンツを穿《は》いて、廊下に出る。同じ寮生である三人も亡霊の足どりで出てきた。漆黒の肌のベルナールは裸足《はだし》だ。グラウンド以外で靴を履いている彼を見たことがない。アフリカの大地からは遠く離れたというのに。
おはよう、を意味する最低限度の言葉を四人は発し、朝食の待つ階下に下りていく。セサルの太腿は女性のウエストぐらいの太さで、トレパンがはち切れそうだが、同じ左サイドバックのロベルト・カルロスと似ているのはそこだけだ。ポルトガル語で「今朝のメシは何だ」とでも言っているのだろうか。
「カフェ・コン・レチェ・イ・チューロス」
パチがサバンナのような頭髪をカリカリ掻《か》きながら予言する。スペイン北部バスク出身の人間は、ここでは外国人と同様の扱いを受けるらしい。黒い瞳に暗い翳《かげ》りを漂わせているパチに対して、初対面の人間がひるむのは、彼の肉体的ハンディキャップを目にするからだ。右手の手首から先がない。ゴールキーパーをやらない限りサッカーには支障はないが、リュウジは初めて紹介された時、そこから目をそらすのに苦労をしたものだ。
バルは朝八時から営業している。リュウジたち寮生と孫娘のアリシアと、朝が早いアランフェスの労働者のために、ペペが店を開けるのだ。
夜更《よふ》かし民族のくせに、スペイン人の労働開始時間は日本人とさほど変わらない。元気の素はシエスタだ。午後三時くらいから二時間ほど、体力補給の昼寝タイムがある。
立ち食いをさせるために椅子《いす》がないカウンターには、パチが予言した通りの献立が並んでいる。コーヒーにミルクたっぷりの、いわゆるカフェ・オレ。そして揚げパン。東京ディズニーランドでもチューロスという名前で売っていた覚えがあるが、いかにも手作りと思わせる大きく歪《ゆが》んだ形で、子供相手の甘さなどない。これをカフェ・コン・レチェに浸して食べるのが、スペイン人のスタンダードな朝食スタイルだ。
真紅と白の縦縞、アトランティコFCのチームカラーを朝から身にまとっているペペは、外の新聞スタンドから買ってきたばかりの「アス」紙を広げている。日本でいうスポーツ新聞だが、四十ページの紙面のうち二十七ページはサッカー関係の記事で埋め尽くされている。
スペイン人にとってサッカーは国技だから、という理由だけでは、この新聞の有り様は説明がつかない。相撲《すもう》の記事で半分以上を占めるスポーツ新聞なんて、日本では見たことがない。
二〇〇一─二〇〇二年のシーズン開幕を目前にして、毎朝「アス」紙を隅々まで読むペペは、敵戦力の分析に余念がない。今季から一部に昇格したアトランティコFCは、開幕戦をアウェーでアスレティック・ビルバオと戦い、二節でここアランフェスに、昨シーズンのリーガ・エスパニョーラの覇者であり、大金で選手を集めまくってドリームチーム化したレアル・マドリーを迎えることになる。何しろジダンまでもが中盤にいるチームだ。移籍金は八十億円。ヨーロッパの移籍市場は狂っているとしか言いようがない。
ペペが身振り手振りでパチに何か言っている。開幕戦の相手はパチにとっては故郷のホームチームである。「お前んとこのビルバオに勝って、弾みをつけてレアルを迎えてやる」と絡んでいるのだろうか。パチはコメントを差し控えている。何か言い返したら、学校に遅刻するのもお構いなしにペペが議論をふっかけてくる。
リュウジたちはさっさと食事を平らげて、支度をしなければならない。寮生たちとは距離を置いてカウンターの中でチューロスを頬張っていたアリシアが、リュックを肩に下げ、真っ先に店を出る。
店の壁に飾ってあるチームカラーの大太鼓を手で打って、四人の寮生たちを振り向かせた。「急がないと遅刻よ」という警告だろう。下宿屋の女主人を気取ってやがる。
毎朝変わり映えのしないメニューだろうが、ここ「ペペ・デ・ボンボ」で食事をする限り、食費はかからない。食い放題と聞けば浅ましく腹に詰め込もうとするのは万国共通のようで、セサルもベルナールもパチも時間ぎりぎりまで、大皿に山盛りにされたチューロスに手を伸ばす。
チームから提供されているのは食事だけではない。ジャージとトレーニングウェアとウィンドブレイカーは二セットずつの支給、小遣いも月に一万ペセタくれる。日本円で七千円弱程度だが、物価の安いスペインでは使いでがありそうだ。胃液が逆流するような猛練習の後に遊ぶ気力があれば、の話だが。
日本を出て二週間近くなる。学校も三日前から始まっている。日々は駆け足のように過ぎた。マドリードのバラハス空港に降り立ったのが遠い昔のように思えるから不思議だ。
荷物が出てくるまで延々と待たされた。到着ゲートを出てセルジオの姿が見えた時には心底ホッとした。
何しろリュウジにとっては、飛行機に乗るのも初めてなら、海外に出るのも初めてだった。
待ちくたびれていたセルジオは、荷物を持ってくれるでもなく、リュウジを駐車場へ連れていく。アトランティコのホアキン会長の命を受けて、錦糸町のビジネスホテルでリュウジをスカウトしたユース育成担当のセルジオには、初対面の時のような愛想は見られなかった。
「私が君の親代わりになってやる」という彼の言葉にすがってやってきたわけではないが、黙ったまま車に案内するセルジオの後ろ姿に、リュウジは心細さを覚えた。
「アー・ユー・タイアド?」
疲れたか? と訊《き》いてきた。リュウジは「タイアド」と答えた。それが車で一時間、アランフェスに到着するまでの会話だった。
午後十一時、「ペペ・デ・ボンボ」はちょうど立てこんでいる時間だった。カウンターの中で酒を作ったり、料理を皿に盛ったりで忙しいペペとは、セルジオに紹介されて握手を交わしただけで、二階の部屋に案内された。
セルジオの車の中でも眠れなかった。とうとうスペインにやってきてしまったという、高揚とも不安ともつかない気分で、疲れ切った体に場違いな活力が注がれた。
それでも真新しいシーツで覆われたベッドに腰掛けた瞬間、忘れていた睡魔がリュウジを挫《くじ》きにかかった。たまらず横になると、日本を出て十数時間、一睡もできなかったツケが回ってきて、すぐに寝入ってしまった。
夜中に誰かが部屋を覗《のぞ》いた気配があった。今はただ寝かせてくれと願い、リュウジは寝たふりをした。入口に立つ人物のシルエットは、しばらくリュウジを観察していたようだが、静かにドアを閉めた。
「ウェイク・アップ!!」
朝になると、それ以後、毎朝聞かされることになるアリシアの声が下から響いてきた。
黒髪で黒い瞳、それほど背は高くない。後で知ったことだが、母親がアンダルシア出身のため、日本人に似た風貌《ふうぼう》なのだという。二十歳をゆうに越えていると思ったら、リュウジと同じ年の生まれだった。スペイン人の女は老《ふ》けて見える。
「マイ・ネーム・イズ・アリシア」
と自己紹介されたから、リュウジも同じように答えた。
まだ寝たりないリュウジを見下ろして、アリシアは何やら早口で言う。ゆっくり喋《しやべ》ってもらえないだろうか。もっとも、ゆっくり喋られても意味は分からないだろうが。
とにかくうるさい。ミサキみたいにうるさい。リュウジは「わかんねーよ」と言い返してやった。アリシアはボールを蹴る真似をした。どうやら練習がすぐあるから一緒に来い、と言っているようだ。
「分かった。着替えるから」
片手を振ってアリシアを追い出し、寝ぼけ眼《まなこ》をこすって、スポーツバッグを開けてトレーニングウェアを取り出した。
アリシアが待っている階下のバルに下りると、昨夜の喧噪《けんそう》はなかった。あのオヤジもいない。壁に自慢げに飾られた赤と白のツートンカラーの大太鼓がいやでも目に入る。これが店の名物らしい。アリシアが指さして「ボンボ」と言う。
「ペペ・デ・ボンボ」という店の名前は、「大太鼓のペペおじさん」という意味らしい。アトランティコのホームゲームのある日は、ペペが胸に抱え、スタジアムに出かけるのだろう。
「んで? どこでやんの、練習」
お構いなしに日本語で訊いた。アリシアは「こっちよ」とばかりに顎《あご》をしゃくり、外へ連れ出す。意味が通じたみたいだ。
昨夜は分からなかったが、整然と商店が立ち並ぶ街の目抜き通りの角《かど》っこに「ペペ・デ・ボンボ」は位置していた。
薄茶色の漆喰の壁に真っ赤な「コカ・コーラ」のブリキ製の看板が掛けられている。自分が寝た二階の部屋には、白く縁取られた飾り窓があった。
周りには高いビルなどないから空が広い。母の店「よしこ」がある草加《そうか》市|界隈《かいわい》と共通するものがあった。午前十時ごろは人通りが少なく、朝と夜では表情が一変する街であるところも。
店の脇に立て掛けてある、錆《さび》の目立つ古びた自転車をアリシアは指さす。それに乗れと言う。サドルに跨《また》がると、アリシアが後ろの荷台に乗ってきた。練習場まで案内してあげるから漕《こ》げ、ということらしい。
走り出すと、後ろが重かった。小柄だが肉がギュウギュウに詰まっていると思わせる女の体だった。
「そこを曲がれ、次を左」とでも言ってるのだろう、アリシアはぞんざいな感じで手を振り、道を教える。
気に入らない。何だか気に入らない。のっけから女に指図されていた。
スペインの太陽は予想した通り、強烈だった。ひとたび風が吹けば砂埃が舞いそうな乾いた道を進むと、片側に観客席のある広い空間が目の前に広がった。シティオ・アトランティコの練習グラウンドだった。
土のフィールドで二十一人の少年たちはすでに練習を始めていた。
長旅の疲れを考慮してくれてか、リュウジの遅刻は許されたようだ。観客席のスタンドにはセルジオやペペもいた。リュウジがフィールドに入ると、セルジオがスタンドから下りてきて、無精|髭《ひげ》に覆われた顔のほとんどを黒いサングラスで隠している監督らしき人物と、たくさんのボールをフィールドに用意している道具係らしき人物をリュウジに引き合わせた。
「フェレール」
「マノロ」
監督と道具係が手を差し伸べてきて、それぞれと握手をし、ごく簡単な自己紹介が終わると、リュウジはすぐにアップしろと言われた。フィールドにコーンを配置していたマノロは、膨《ふく》らみすぎた風船のような体形ながら、どうやらフィジカル・コーチも兼任しているようで、リュウジにストレッチのやり方を指示した。
何本目かのダッシュをしている選手たちは、横目でリュウジを見ている。彼らにとっては初めての東洋人の同僚選手となる。練習場に漂う何とも言えない侘《わび》しさの正体を探りながら、リュウジは痼《しこ》った体をほぐした。
たった二人の主要スタッフ。今にも崩れ落ちそうなスタンド。日陰に座って、練習などまったく関心なさそうに本を開いているアリシアの姿。広すぎる空。熱すぎる太陽。
それらが、地の果てまで来てしまった、とリュウジに思わせる。ここがスペイン・サッカーの入口だとしたら、出口はどこにあるのだろう。気が遠くなりそうな道のりに思える。
ストレッチが終わって、選手たちのランニングに後半から加わると、いきなりミニゲームに参加させられた。選手たちをリュウジに一人一人紹介する儀式などなかった。渡されたビブスをかぶると、気がついた時にはフィールドを走らされていた。
これが時差ぼけというものか。筋肉が伸ばし方を忘れてしまったかのように体がぎくしゃくし、雲の中を漂っている気分でボールを追った。
夏の練習にもかかわらず、水分補給は間にたった一度だけ。それでも時間にして二時間程度で終わった。スパイクを脱いで座り込んでいたリュウジはたちまち、東洋人を珍しそうに見る選手たちに取り囲まれた。
「何か用かよ」
ガンをつけてやった。
何か喋ってるぞ、この東洋人。そんなふうに笑い合う顔、顔、顔。
「パンダに見えるか、俺が。ウゼエよ、お前ら」
日本語が分かる奴などいないと思ったら、選手の輪から出てきた一人が、リュウジに向かって「ニホンジン、みんな初めて見た。ちょっとガマンね」と日本語で答えたから驚いた。
「喋れるんだ、日本語」
「まー少し」
親父がスペイン料理店のシェフとして、東京の赤坂で働いていたという。むきたての玉子のような顔だちのエミリオ・デ・オルドニュエスは、小学生の時に二年いた日本で言葉を覚えたらしい。
ミニゲームでも常にターゲット・マンとして前線にいた巨漢の少年が、リュウジを下から上へと舐《な》め回す視線で近寄って来る。岩肌のようなあばた顔に茶色がかった髭が密生している。本当にこいつも俺と同じ十代なのか。
スペイン語で何やら訊いてきたが、無駄だと分かって、「ネーム、ネーム」と片言の英語になった。
「リュウジ」と教えてやったら、集まっている連中が口々に「リュウジ、リュウジ」と唱えてみる。「リュウ」の部分が巻き舌になってうまく発音できない。セルジオもそうだった。スペイン人には苦手な発音のようだ。
「ラスト・ネーム」と巨漢に再び訊かれた。やけにしつこい。
「ニックネーム、みんな決めたいんだよ」とエミリオ。
リュウジは「志野」と教えてやった。
はあ? と何人かが顔を寄せてくるから、「志野!」と、くっきり発音してやると、たちまち「チノ、チノ」と大笑いになった。
「チノじゃねえよ、シノ」
間違いを訂正しようとしても無駄で、連中は何がおかしいのか「チノ、チノ」の大合唱だ。
「こいつらどうして笑ってんだ?」
エミリオに訊いてみる。
「チノっていうのは中国人のことなんだ。似合いの呼び方だってみんな言ってる」
愛称などではなく、アジア人への蔑称《べつしよう》なのだ。そういえばセルジオも言っていた。スペイン人は君のことを「チノ」と呼ぶかもしれないが気にするな、と。
「俺は日本人だってば」
「日本人も中国人も、あまり違わない、ガマンね」
「全然違うだろ。ちゃんと説明してやってくれよ、日本と中国の違いを」
「スペイン人にとっては、アジアっていえば中国とフィリピンしかないんだよ。フィリピンは長いことスペイン領にしてたし、中国人はスペインにも多いし。ま、チノでしばらくガマンね」
ガマンね、というのがエミリオの口癖だ。日本にいた頃よく使った言葉なのか。ガマンすることが多かったのだろうか。
後に知ったことだが、実はこのエミリオがリュウジのスペイン行きに一役買ったという経緯があった。
エミリオが日本にいた頃の友人からメールをもらった。日本のカリスマ・タレントが料理番組に出た時に、ホアキン会長が作っている紙パックのワイン「ロドリーゴ」をがぶ飲みして評判になったという。エミリオはホアキン会長のご機嫌をとるつもりで、「ロドリーゴ」のホームページに「会長のワインが日本で今、ブームになっています」と情報を提供した。確かに調べてみると、日本の輸入代理店からの注文が増えている。会長は「今が日本市場を開拓するチャンス」と見て、友人である新しい駐日大使が日本に赴任するお祝いも兼ねて来日し、そこでリュウジの活躍を目にしたのである。
何やら「風が吹けば桶《おけ》屋が儲《もう》かる」式の話だが、リュウジはエミリオにも感謝した方がよいのかもしれない。
「あまり大きな声じゃ言えないけど……」
エミリオが声をひそめる。「ロドリーゴは飲み放題。会長から選手の家族にタダで配られるんだ。欲しかったらあげようか。すぐ悪酔いするワインだけどね」
ペペの店ですら置かないワインだという。スーパーで買えば一リットルの紙パックで百五十ペセタ、清涼飲料水なみの価格だ。
練習を終えて引き上げる選手たちに、スタンドから声がかかる。がらがらだった観客席も、ミニゲームが始まる頃から選手の家族がちらほら集まってきた。
さきほどリュウジを「チノ」と真っ先に笑った巨漢は、真っ赤に炎上しているような髪形のおばさんから「ビセンテ!」と呼ばれるや、10センチほど背が縮まった。ミニゲームの動きを注意されているようだ。母親には頭が上がらないのだ。リュウジはビセンテを「マザコン野郎」というカテゴリーに入れてやった。
ゲーム形式では常に右サイドにいて、黒い長髪をヘアバンドで留めた男が、「ハビエル!」と子持ちの若い女に呼ばれた。二歳ぐらいの男の子の手を引き、胸には赤ん坊をだっこ紐《ひも》で抱えている女は、日本でいうところの「ヤンママ」というやつだ。右サイドを弾丸のように駆け上がっていたハビエルは、どうやら十七歳にして二児の父親らしい。サッカーに生活がかかっている彼の家でも、やはり女が強いみたいで、ゲーム中の動きを若妻がくどくどと注意している。
「寮にいる三人とは挨拶《あいさつ》した?」
エミリオが仲介役として、セサルとベルナールとパチをリュウジに引き合わせた。右手のないパチとは、リュウジは目のやり場に困りながら左手で握手をした。
「彼のふるさとのバスクっていう所は、昔から爆弾のテロが多いんだ」
エミリオが後で教えてくれた。「テロに巻き込まれて右手をなくしたんだって」
サッカー場の警備隊が標的となった爆弾テロで右手をもぎ取られた少年が、利き手を使わなくてものし上がることのできるサッカーに人生の活路を見いだしたということか。彼のポジションはデフェンサ・セントラル、片手がなくても支障のないセンターバックである。
ロベカルのコピーを目指しているのか、ミニゲームでも左足のクロスを何度も上げていたセサルは、ブラジルから単身やってきて、アトランティコのテストを受けたというスラム出身者だった。いつかサッカーで大金を得て故郷に帰り、豪邸を建てて家族みんなで楽《らく》して暮らすのだという。
真っ黒なアフロ・アフリカンのベルナールは、手脚が長く、キーパーに適した体格をしている。内戦の続く国に七人の兄弟を残して、ヨーロッパに文字通り裸足で渡った。幸運にも、アフリカでダイヤの原石を探す代理人の目に止まり、まずイングランドのユースチームでプレーをし、その後、ポルトガルを経てスペインに流れ着いたという。
他にもレギュラークラスの選手について、エミリオは懇切丁寧にキャラクターの説明をしてくれた。
「金をかけずにフラメンコのダンスを見たかったら、2トップのもう一人、アンダルシア人のマルコに頼むといい」
マルコ・アクーニャは髪は黒く、肌の色も濃く、日本人に似た風貌をしている。確かに踊るような身のこなしで、スペースに流れたボールをキープしてシュートまで持ち込んだ。
彼はヒターノと呼ばれる少数民族の血を引いている。スペイン社会では歓迎されず、偏見と差別の中で生きている。それに比べたら日本人が「チノ」と呼ばれるくらい大したことない、とエミリオは言う。
ミニゲームでもレギュラー組だったトップ下は、シティオ・アトランティコの攻撃の起点であるアントニオ・マルティーネス。リュウジと背丈はあまり変わらない。顎が長く、彫りの深い顔だちで、どことなくアルゼンチン代表のオルテガに似た、狡賢《ずるがしこ》そうな風貌をしている。
「あいつの傍《そば》には財布は置かない方がいい」
エミリオが声をひそめて忠告する。「日本人は誰でも金持ちだと思っている。ここに来る前はマドリードのグランビア通りで路上強盗をしていた。いや、ほんとの話」
水道の水を頭から浴びていたアントニオと目が合った。頭を振って水しぶきを撒《ま》き散らすと、リュウジの懐具合を値踏みするような眼差《まなざ》しを投げかける。忠告を守ろうとリュウジは素直に思った。
練習ユニフォームのまま、油絵の画材を積んだ自転車に跨がって悠然とした漕ぎっぷりでグラウンドを後にするのは、チームのメディオ・セントロ、いわゆるボランチのフェルナンド・ビダールだ。神父を思わす物静かな風貌だが、的確なカバーリングで相手から出るボールをカットしていた。バルセロナ出身で、大学の先生をしている父親の転勤によって、スペイン国内ではバルセロナの「敵国」とみなされるマドリードにやってきた。
パチとセンターバックを組むミッチェル・イグレシアスは、リュウジを「チノ」と高笑いで馬鹿にした一人である。母親がフランス人の彼は人種差別的言動が多く、チーム内でもトラブルメーカーになることが多いという。スペイン人を「ピレネー山脈の向こうにいる野蛮人」と見ている。自分にも半分その血が入っているというのに。
今年の春、バレンシアで行われたスペイン代表とフランス代表の親善マッチでは、ゲーム前までは頬をトリコロールに塗ってフランスを応援し、ゲーム後は感涙《かんるい》にむせびながらスペインの旗を振ったという矛盾《むじゆん》だらけの男らしい。スペインが二十一年ぶりにフランスに勝利したゲームだった。
宮城先生が「噂によると問題児の寄せ集めのチームのようだ」と言っていたのは、どうやら事実らしい。
スカウトのセルジオがどこで拾ってきたのだろうと思うようなひと癖もふた癖もある人間ばかりだったが、彼らの実力のほどは、一週間たち、十日たつうちにやっと見えてきた。
リュウジは今、連立方程式の解き方をスペイン語で説明される教室の片隅で、自分は取り返しのつかないほど遠回りな道を選んでしまったのではないか、というゾッとする思いに囚《とら》われている。
日本を捨ててスペインを選んだ。選択は正しかったのか。
自分の寿命はあと二十年と考えているリュウジにとって、その疑問は身を凍らすような恐怖に等しい。
一クラス二十五人、チームメイトではエミリオとセサルがいて、リュウジの世話係であるアリシアも斜め前の席にいる。言葉の分からないリュウジのことなどお構いなしに、スペイン語による数学の授業は続く。
そもそも日本語でも苦手な数学だから、お手上げの状態である。睡魔との戦いにはかろうじて勝利し、次の授業を迎えた。
国語の授業ではリュウジは一人別室に追いやられ、マンツーマンの授業となる。図書室のテーブルにつき、分厚い眼鏡《めがね》をかけた図書管理のおばさんからスペイン語の個人指導を受ける。
その国の言葉をマスターすることは、チームのコミュニケーションの基本でもある。リュウジが唯一|真面目《まじめ》に受ける授業だった。
カラフルな絵の入っている薄い教本を前にして、先生に続いて挨拶文を読む。
「ケ・オラ・エス?」
何時ですか? という基本形を覚えると、「授業は何時から?」とか「午後二時からは何の授業があるの?」とか、「金曜日も同じ時間に授業があるの?」という、時間に関した応用文に移る。
一昨日と昨日の授業で、「やあ元気」や「おはようございます」や「どうもありがとう」の言い方を応用も含めてマスターし、スペイン語で一から二十まで数えられるようになった。
日本の英語教育とは違って、ノートに文章を書くことは少ない。実践的な会話を中心にした毎日一時間の授業である。パラグアイのプロチームにレンタル移籍した元ジェフ市原の廣山選手は、三カ月でスペイン語の日常会話をマスターしたという。リュウジの目標だった。
昼休みになる。
学校から抜け出して外食をする学生もいるが、学費は免除され、必然的に昼飯もタダなリュウジは、味はどうあれ、学生食堂で食べることにしている。セルフサービスでランチの皿を受け取り、長いテーブルの一番隅で一人静かに食べようとしていたリュウジの前に、アリシアがどっかと座った。
「コシード」
そういう名前の料理らしい。煮込んだ肉や豆や野菜がメインだが、その煮汁が細いヌードルの入ったスープとして添えられる。アリシアが食べ方を教えてくれる。
エジプト豆と脂身の多い豚肉、チョリソと野菜をフォークで刻んで、それらをグチョグチョに一緒くたにして食べろと、手本を見せてくれる。
言う通りにやってみる。気取りのない料理で嫌いな味ではないが、塩味が強く、全部食えそうにない。スープはあっさりしているが、ソーメンに似たヌードルには腰がない。スペイン人の味覚ほど大雑把《おおざつぱ》なものはない、ということもこの二週間の生活で分かった。
アリシアはリュウジに食べ方を教えつつ、隣に座った友人の女の子たちとペチャクチャ喋っている。どいつもこいつも胸がでかくて、尻がはちきれそうだ。成長するのも早いが老けるのも早いというのが、スペイン人女性のパターンのようだ。可愛いしスタイルもいいが、長続きはしない。
アリシアが時折リュウジを見やり、友人たちに何か説明している。どうやら「私がいなきゃ、この子は何もできないの」と愚痴《ぐち》をこぼしているみたいだ。
ペペの下宿に入った外国人は、誰でもまずアリシアによってスペインにおける生活習慣を手取り足取りで教えられる。どうやらチームからいくらかバイト代が出ているらしい。
やっぱり半分食べたあたりで味に飽きてきた。トレイを持って立ち上がったリュウジに、アリシアが「残すの? ちゃんと食べなきゃ大きくなれないわよ」とでも言っているようだ。
言葉は違っても、妹のミサキに言い方が似ていたのだ。
午後からは一般の学生は体育の授業になるが、シティオ・アトランティコに所属する者は免除され、家に帰って二時間ほどのシエスタが義務づけられる。
この習慣にやっとリュウジも慣れた。
学校から徒歩十五分、灼熱《しやくねつ》の太陽を浴びるだけで体力が消耗する。ペペの店が道の向こうに見えてくる頃には、ベッドが恋しくなる。
店は無人だった。耳を澄ませばペペの鼾《いびき》が聞こえるかもしれない。街全体がシエスタによって静まり返っていた。カメラを手にした王宮目当ての観光客だけが、元気に道を行き交っている。
店のクーラーボックスに「ボトル・キープ」してある紙パックのミルクを取り出し、一気に半分ほど飲んだ。喉《のど》が渇いたら、なるべくミルクを飲むようにしている。肉体作りの基本だ。
二階にあがるとスプリングが軋《きし》むベッドに倒れこむ。力を抜いて四肢《しし》を投げ出すと、疲労が体の隅々に蓄積しているのがよく分かった。夕方からの練習に備えて眠る。とにかく眠る。
こちらにやってきて一週間は、食事も合わず、練習もキツくてゲロを吐いたり、寝る前に微熱が出たり下痢《げり》をしたりで散々だった。二週目に入ったところで、徐々にだが、体が慣れてきたような気がする。
食って、ミルクを飲んで、寝る。身長170センチそこそこのリュウジだが、まだ成長期にいると信じたい。
夕方から練習グラウンドに集まる。スペインでは夜八時を過ぎても空は明るい。まだ強い日差しがリュウジの頬に照りつける。シエスタの効果もあってか、体が軽く感じられた。スペインにやってきて初めて本来の力を出せそうだった。
シーズン開幕を前にしたプレシーズン・マッチが二日後に組まれていた。今日はみっちり戦術練習となる。
ハーフコートで六対六の実戦形式が始まった。リュウジは日本選抜の時と同様に、レギュラー攻撃側の右サイドハーフに入る。このチームに合流してから、右の位置に定着しつつある。ディフェンス側の中盤二人はサブメンバーだが、ディフェンダー四人はレギュラーだ。
国立でゲームを見たホアキン会長は、リュウジを司令塔のポジションにいるべき選手と評価してくれたと聞いているが、フェレール監督の構想では、トップ下のアントニオと前線の二枚で起点を作ろうとしているようだ。
このチームのシステムは4─4─2だが、中盤はワンボランチのダイヤモンド形だ。ダブルボランチの台形システムが主流の中で、「シティオ」は攻撃的な陣形を用いている。
監督は道具係のマノロと二人でハーフウェイラインのあたりに腕組みして立ち、攻撃側に指示を送っている。
逆サイドのエミリオが時々大声で通訳してくれる。監督は「フォワード二人はボールを後ろ向きでもらったら、ダイレクトで落とせ。ボールを回す時はツータッチ以内」と指示している。リュウジには身振り手振りで「中へ流れていけ」と言う。そうしたダイナミックな動きはリュウジの真骨頂《しんこつちよう》だった。
狡猾《こうかつ》なフットワークで日本人観光客の財布をかすめ取って生計を立てていたというアントニオだが、相手ディフェンダーを背にしてゴール前に張る巨漢のビセンテと、フラメンコの身のこなしでスペースに侵入するマルコの2トップを生かしているとは言えない。アントニオはゴールへの意識が高すぎて、パサーになりきれない。二列目からの飛び出しと言えば聞こえはいいが、三人でのチャンスメークに一度失敗してボールを奪われると、戻りが遅くなり、一挙に失点のリスクにさらされる。アントニオが積極的に飛び出していく攻撃は、いつも危険と隣り合わせなのだ。
だからリュウジは、右サイドから中央に流れて、アントニオを含めた三人のカードを生かす役割を求められた。
しかし味方が三枚いるということは敵も三枚いるということで、ドリブルで抜くスペースは限られる。中村俊輔だったら喜びそうな攻撃の局面だが、リュウジのような「ドリブルでいけるところまでいってラストパスを送る」という中盤の選手にとっては窮屈に感じられる。
ビセンテの周りを衛星的に動くマルコ。アントニオもディフェンダーのマークを外そうとしている。どこにパスを送るか。パスを出しても返ってくるだろうか。とりあえず自分の持ち味を出してみようと思い、一人で仕掛けてみる。
フィーゴのように、最初のタッチで相手真正面にボールをさらす。相手が取れそうな場所に餌《えさ》を与えて、食らいついてくるのを待つのだ。相手が踏み込んでくる瞬間を見て方向を変えた。抜けた。狭いスペースから中へ、そして左へと流れ、左サイドハーフのエミリオとポジションチェンジをする。
激しくチェックに来るディフェンダーは人種差別主義者のミッチェルだが、マークが激しいのはリュウジが彼らが馬鹿にする「チノ」だからではない。彼らは練習でも平気で|削り《ヽヽ》に来る。
最初、彼らのリーチの長さにてこずった。かわしたと思っても足が伸びてくる。捨て身でやってくるスライディングが深くて、クロスを上げようとしてもブロックされる。日本人相手に戦う時よりも、体ひとつ分ほど横にスライドするという意識を持っていないと駄目だと、リュウジは学習した。
日本と決定的に違うのは、味方がボールを奪った時、ボールを持っていない選手の動き出しがとにかく早いことだ。ボランチのフェルナンドがボールを持つと、両サイドのスペースへと選手が扇形に流れる。日本にいた時より、広い場所でサッカーをやらされている気分になる。
いつか父親に聞いたことがある。日本サッカー草創期はドイツ人の指導者が多く、サイドから切り崩すサッカーを日本人は植えつけられた。だからいいウィンガーがいたし、いいセンターフォワードもいた。ところがJリーグが始まる頃にブラジル人が多くやって来て、密集地帯を中央突破することが美徳のブラジル・サッカーを取り入れた日本サッカーは、ピッチの幅を広く使うサイドアタックを忘れてしまった。
攻撃サッカーを目指したはずの今の代表監督も、多すぎる「10番」タイプの選手を右や左に配置し、サイドアタッカーのスペシャリストを養成することなく、二〇〇二年のワールドカップを迎えようとしている。
リュウジも色分けをすれば「10番」のタイプかもしれないが、同じ右サイドハーフのポジションをやらされても、5バックとなる日本選抜では「いるべき場所が違う」と違和感を覚えるのに、ダイヤモンド形のこのポジションはうまくフィットしているように思える。これなら「10番」タイプが多くても共存できるのではないか。
戦術練習の締めくくりは、二十分ハーフの紅白戦だった。リュウジはレギュラー組に残った。
監督がここで確認したかったのは、サイドバック二人の攻撃参加だった。リュウジの後ろにいるハビエル、エミリオの後ろにいるセサルが、いかに効果的に攻め上がるか。
しかし彼ら両サイドバックが猛烈に駆け上がると、最終ラインはパチとミッチェルの二枚になる。これは4バックではなく2バックではないかと思う局面がたびたびあった。ボランチのフェルナンドがディフェンスラインに戻るにしても、明らかにこのチームの守備意識は低い。控え組を相手にしているから穴は目立たないが、本番では「粗目のザル」になるのではないか。
監督が「両サイドが上がりすぎだ、常にディフェンスの数的優位を保て」と指示する様子はない。どうやらこの監督は「取られても取り返せ」というサッカーが好きなようだ。そういうリュウジも「アバウトな攻撃」にかまけてしまう。楽しいのだ。スペインの水にやっぱり自分は合っていた、と思えてくるほどに。
ボールを持ってサイドを上がると、ハビエルが弾丸の如《ごと》くオーバーラップする。そこにボールを出すのがひとつの攻撃パターン。もうひとつは、ハビエルを囮《おとり》にして相手ディフェンダーをサイドに散らし、中へと切れ込み、アントニオを含めた3トップにラストパスを送るというパターンだ。スペースがあるうちはドリブルで行きたいが、そうでなければ、不本意ながら早めにパスを出さなくてはならない。
「アブレ!」
ライン際にいる監督が声を張り上げる。国立のゲームの終盤で、本気になったスペインU─17の監督もしきりに叫んでいた言葉だ。
「サイドに開け」という指示だった。リュウジは「開いてるだろ」と思うが、まだ足りないらしい。極端に言えば、この国のサッカーはピッチにいる誰もがサイドアタッカーなのかもしれない。
監督と選手の間で交わされるサッカー用語は、学校の個人授業で覚える日常会話よりも必死に、頭の中にインプットした。
「バーモス、バーモス!」
一番よく聞く掛け声。「行け、行け」というやつだ。
「カンビオ!」
サイドチェンジのことである。左サイドでボールを持ったエミリオが、右のリュウジにロングボールを送ってくる。ところが精度が悪くて敵に渡り、監督が舌打ちした。
「クイダード!」と、リュウジにパスを送ったフェルナンドが叫ぶ。
「気をつけろ」と、後ろからのマークが来ていることを知らせたのだ。リュウジはトリッキーに動いてマークをかわし、ゴールへと正対する。
「ソロ、ソロ」と、近くで見守るマノロが声をかける。「とりあえずフリーになっているからドリブルで冷静に行け」という指示だ。
中央でうまく自分のマークを外したアントニオがリュウジに足元を両手で示して「ダメラ!」と怒鳴った。「ここにパスを出せ」と言っている。ボールを持ったらやみくもに勝負しかねないアントニオより、リュウジは右のスペースに流れてきたマルコに強いショートパスを送った。壁パスを期待して走り込んだが、マルコとの呼吸は合わず、ボールは奪われてしまった。
アントニオがリュウジに向かって「ホデール!」と毒づいた。「クソったれ、どうしてボールをよこさないんだ」と怒っているのだ。
中盤でレギュラー組がボールを奪い返すと、監督が「ラピド、ラピド!」と連呼する。「早く、早く」と駆り立てる。
監督のルイス・フェレールは、聞くところによると、現役時代は大した選手ではなかったようだ。父親がロシア・リーグの選手で、その影響で幼い頃からサッカーボールを蹴っていたという。昼間は建築会社に設計士として勤めている。
スペインでは、ユースの監督が他の仕事を持っているのは珍しいことではない。コーチの人材は豊富で、成績が少しでも悪ければ解任され、他の監督がやってくる。格下のチームに連敗したら即解任、という法則もあるらしい。フェレール監督は前シーズンの残り三試合からチームを引き継ぎ、リーグ三位の成績で締めくくって、今シーズンも続いて指揮を執《と》ることになった。
二週間付き合ってみて、きっと監督自身に守備意識が低いのだとリュウジは確信した。おそらく、監督でありながらゲーム中は一人の観客になってしまうタイプなのだ。
ディフェンスなんてうまくても話にならない。そんな感覚がスペイン・サッカーに幅を利かせているのは確かだ。鉄壁の守りなどというものに価値を見いだせないお国柄なのか、ゲームは面白くてナンボ、と誰もが思っている。誰が点を取った。誰がうまい。誰が速い。観客はそれだけで盛り上がる。現実的な勝利にこだわるイタリア・サッカーとは歴然と違う。二年連続でバレンシアをチャンピオンズリーグのファイナリストにしたクーペル前監督を、「つまらないサッカーを見せる監督」と呼んでしまう民族である。悪く言えば、子供のやるサッカー。良く言えば、大人になっても夢を失っていないサッカーだ。
しかし、物凄《ものすご》い攻撃だからこそ、それを止めることのできるディフェンダーも凄いという価値観も、この国には存在するように思える。やはり奥が深い。
「ファシル!」とマルコがダミ声を張り上げる。ディフェンダーがボールを持った時、「もっとシンプルに、安全にプレーしろ、中盤がフォローに来るから」という意味だ。それだけの長い指示が「ファシル」という一語にこめられているのは便利だと思った。
選手たちにとっては監督よりも、フィジカル・コーチ兼道具係のマノロが良き相談相手のようだ。
監督は一カ月ごとに替わることもあるが、マノロは決して解任されない。シティオ・アトランティコでは五シーズン目になるという。フェレール監督より選手一人一人の能力を把握《はあく》していて、監督に的確なアドバイスを送っているように見える。が、決して指導の前面にはしゃしゃり出てこない。ビア樽《だる》のような体つきだが、気配りは細かい。
マノロは何年か前に、日本とスペインのユースの指導者の交流で、広島に一週間ほど滞在し、高校のサッカー部を教えたらしい。その時の印象をエミリオの通訳で聞いた。
日本人は体の使い方を知らない。実は潜在能力があって、激しい当たりを受けても柔道の受け身の要領でダメージの少ない倒れ方ができるのに、それに気付いていない。
審判を騙《だま》したり、水面下の狡いプレーというものをしないのは、日本のスポーツ精神に反するからだろう。しかし吸収力はあって、教えたことをすぐに実行できる。それが自我の塊《かたまり》のようなスペイン人とは決定的に違う。協調性と我慢、自分の能力を過大評価しない控えめな点、という精神面ではスペイン人に勝っているとマノロは思った。
しかし、忠実に、献身的であるあまり、創造的なプレーがなかなかできない。相手がボールを回して攻め方を変えてきた時、瞬時に対応できない。ボールがあるところを守ってばかりで、ボールがこれから出されるであろう場所を予知してカバーリングすることができないのが、広島のサッカー少年たちだったという。
それを聞いて、日本サッカー全般に当てはまる的《まと》を射た表現だとリュウジは思った。
自分を殺して誰かを生かす。この犠牲的精神は日本人特有のものだと、いつか宮城も言っていた。外国人は自分をアピールして生き残る。別の誰かのために献身的に動くという精神は元々持ち合わせていない。大リーグで犠牲バントが少ないのも同じ理由だからだろう。
だから中盤でクリエイトするタイプの選手は、日本では過大に評価される傾向にある。外国に行けばクリエイターはたくさんいるのだ。
ホアキン会長が自社のホームページで「ロドリーゴが日本で売れている」との情報を知り、新しいスペイン大使に「日本での試合を見に行かないか」と誘われても、最初は乗り気ではなかったという。商談だけ済まして帰ってくるつもりでいたが、チームの編成会議で会ったマノロに「日本の選手は見る価値があるか」と訊いてみた。広島で指導経験のあったマノロに、「見て損はないですよ」と言われ、会長は国立の来賓席に座ることになった。
マノロもリュウジのスペイン行きに一役買ったといえる。
「プレシオーナ!」
プレスをかけろと監督が怒鳴る。ボールをキープしている控え組のミッドフィルダーをフェルナンドとリュウジが囲い込む。
「フエルテ!」
もっと強く当たれと言う。控え組の大切な選手だろうがお構いなしに、リュウジはファウルすれすれの当たりでボールを奪った。
すり傷だらけの足を少々引きずって、夕闇のアランフェスを歩く。八時を過ぎて、ようやく暮色がたちこめる。
煉瓦《れんが》の外壁が中世の城砦《じようさい》を思わせる一万五千人収容の「エスタディオ・アランフェス」が道の向こうに見えてきた。トップチーム、アトランティコFCのホームスタジアムである。
照明に明かりがついていて、選手たちのプレー中の声や、スタンドにいるサポーターたちの声援が聞こえてくる。このスタジアムにレアルやバルサも来るのだと思うと胸が高鳴る。
トップチームの練習をリュウジは何度かそのスタンドで見た。
「お前がいつかプレーする場所だ」とペペに連れてこられたのだ。
二部リーグを二位で終えて一部リーグ昇格を果たしたアトランティコだが、勝利に貢献した選手はマラガやラス・パルマスといったリーガ中堅どころのチームに引き抜かれてしまった。目立った補強もできずにシーズンを迎えることになるようで、練習を見た限りでは、フォワードの小粒さとディフェンスのむらが気になった。二節のホームゲーム、ジダンやフィーゴやラウールが最終ラインをずたずたにする光景を想像すると、マゾヒスティックな興奮を覚える。
タダで練習見学はできるのだが、今日は疲れ切っていて、ボールを見るのも勘弁《かんべん》という気分だ。スタジアムを通りすぎると円形の闘牛場が宵闇に横たわっている。
ペペに連れられて、闘牛はすでに見ている。スペインに到着した二日後がリュウジの十六歳の誕生日ということもあり、アランフェスの観光案内がそのもてなしだった。
闘牛見物はもちろん初めてだった。
牛の死を前提にした儀式であり、牛と闘牛士の高度な戦いぶりを楽しむ見世物だった。突進してくる牛を闘牛士が赤い布を掲げて何度もかわし、最後は牛の急所に剣を突きたて、牛は大量の血を地面にばらまいて絶命する。牛の角《つの》をぎりぎりまで迎える闘牛士ほど、絢爛《けんらん》たる衣裳《いしよう》は血で汚れ、その勇気が視覚的に迫ってくる。
下手な闘牛士だと急所の位置がずれて剣が肺を貫き、牛は血を口から吐いて悶絶《もんぜつ》する。闘牛士は「みっともない殺し方だ」と観客の非難を浴びるらしい。一瞬に訪れる死でなければ美しくないのだ。
闘牛は大体が夕方五時、場内の日向と日陰がちょうど半分になる時間に始まる。スペインでは時間に正確なのは闘牛の開始時間だけだ、とも言われている。光と影。それは生と死のコントラストを際立たせる最高の舞台装置となる。
何やらスペイン・サッカーにも通じるような気がした。攻めるか、死ぬか。ピッチを広く使った攻撃的サッカー、その代償として瞬時にして食らってしまうカウンターアタック。観客は得点という「生」に歓喜し、失点という「死」に絶叫する。
アランフェスの象徴である広大な王宮もペペは案内してくれた。王家の人間が何代もかかって完成させたというそこには、スペインの植民地支配の歴史が網羅されていた。ある部屋は草花模様に東洋の風物が配された陶板《とうばん》が天井を覆い尽くしていた。スペインという国が海を渡ってアジアの国に触手を伸ばした証拠だった。
タホ川には川べりのレストランの明かりが揺らめいている。
王宮見物の帰り、そこでアランフェスの名物料理であるカエルのニンニク揚げをご馳走《ちそう》になった。長さ5センチほどのカエルの下半身が山盛りで出てきて、O脚の形が嫌でもカエルを意識させる。食感は鶏に近かった。食用ガエルは近くの沼や川で大量に捕獲できるらしい。アランフェス郊外の道路にはカエルの絵をあしらった「カエルに注意」の標識も掲げられているという。
デザートはカロリーの高そうな、赤々と熟した苺《いちご》のホイップクリーム添え。アランフェスは苺とアスパラガスの産地として有名なのだそうだ。
食事の間、店のタペストリーに描かれた戦争の風景についてペペが熱心に説明してくれた。ようやく理解できたのは、フランス支配に対してスペイン軍が戦った「アランフェスの反乱」は、スペイン独立戦争の序曲だったということだ。
アランフェスはマドリードの衛星都市として急速に開発が進んでいる。アトランティコがリーガに昇格したことで町に活気を与える以前から、低層マンションが町のいたる所で建築され、ペペの店に来る客も建築関係の労働者が多い。
王宮前のサンティアゴ・ルシニョール広場を抜けると、碁盤《ごばん》の目のような通りに商店が軒を並べる市街地になる。
「ペペ・デ・ボンボ」には今夜も地元の男たちが詰めかけている。壁にはレアル・マドリー戦のポスターも貼られていた。言葉は分からなくても会話に出てくる固有名詞で、アトランティコの誰がジダンを抑えるかで店が盛り上がっているのが理解できる。
練習帰りのリュウジは男たちに「ハポネシート、バーモス」と肩を叩かれながら店を横断する。日本の小僧、頑張れ。
顔を合わさず「オラ、オラ」と適当に応えておけばいい。今夜も全身がチームカラーになっているペペが、「すぐに夕飯を作ってやるから下りて来いよ」と言っている。
メシなど喉を通りそうにないが、無理にでも食べておかないと弱るばかりだ。頷《うなず》き返して二階の寮に通じる階段を上る。体が鉛のように重かった。
明日は試合前日で練習がないのが救いだった。日本では試合の前日が休みなんて考えられない。必ずグラウンドに出て、セットプレーの確認やサッカー・テニスといった軽めの練習ながら、日々体を動かすことを怠《おこた》らない。
スペインでは週に四日か、多くて五日の練習しかしない。しかも二時間以内できっちり終わる。日本のように脈絡のないトレーニングが四時間もだらだらと続くことはない。フィジカルに始まってフィジカルに終わるという流れが決まっていて、無駄な時間はまったくない。それは日本の四時間より遥かにハードだった。
階段の奥、一階の住居部分の闇からスペインの流行歌らしきものが聞こえてきた。アリシアの部屋だ。今夜は胸のでかい友人たちとは遊ばないみたいだ。見つかると、「勉強が分からないなら教えてあげる」とやたら世話を焼かれそうなので、足音を忍ばせて階段を上った。
二階の「独房」に入った。ベッドに抱きつくようにして寝ころぶ。日本では今何時だろうかという思いがよぎる。
サマータイムの時差七時間を足せばいい。深夜三時過ぎか。母は「よしこ」の片づけを終わって、お茶づけを啜《すす》り、寝入ったところだろうか。
旅立って以来、一度も電話をしていないし、手紙も書いていない。必然的に日本の情報も入ってこない。Jリーグのセカンド・ステージはすでに始まっている。ファースト・ステージで降格危機を叫ばれた名門二チームはどんな調子だろうか。
緑、黄色、真紅、サックス・ブルー、オレンジ色……Jリーグのチームカラーが次々に脳裏を横切っていく。本当にあの国を捨てたことは正解だったのかと、毎晩の恒例行事のような疑問がリュウジの心を焦がす。
日本を出てくる時、スペイン・サッカーに詳しい人間にリサーチしてくれた宮城から、どういう形でトップチームを目指せばいいのかアドバイスを受けた。
フベニールと呼ばれるユースのカテゴリーには、「シティオ・アトランティコ」を二軍とすれば、「ラーヨ・アトランティコ」という一軍チームがある。リュウジの実力からしたら、本当は「ラーヨ」でプレーすべきだが、このチームでは外国人はプレーできない。今のチームで目覚ましい活躍を見せて、サテライトの「アトランティコB」のスカウティングを期待するしかないと宮城は言う。
できれば「飛び級」でいきたい。フベニールのリーグでも優勝のかかった試合となれば、トップチームのスカウトも見に来る。そこでアピールすれば、今いる底辺のチームからいきなりトップに昇格できる! というのは、リアリティのない夢物語のようだ。
「シティオ」のレベルは試合をやってみないと分からない部分もあるが、国立で戦ったスペインU─17代表と比べたら格段に落ちるのは確かだ。リュウジがいた日本選抜よりも下だろう。十回戦ったら日本選抜が七回は勝つと断言できる。
決死の思いで日本を出てきたのに、どうして日本選抜よりレベルの低いチームでやらなきゃいけないのかと、最近リュウジは根源的な疑問に直面している。
しかし、レベルが上のチームにいたリュウジなら「シティオ」で大活躍できるかと言ったら……疑問だ。一人の力ではどうにもならない集団競技の歯痒《はがゆ》さといったらそれまでだが、何故《なぜ》だか「シティオ」では思い通りにプレーができない。チームに加わってまだ日が浅いということもあるだろうが、自分が右サイドにいてもいなくてもこのチームのサッカーは大して変わらないのではないか、という醒《さ》めた思いに囚《とら》われてしまう。
考えることにさえ疲れてウトウトする。スタンドで練習を見ているセルジオがスローモーションで手招きしていた。早くそこから這《は》い上がってトップに来い、と言っているのだろうか。
「セナ!」
夕飯だよ、アリシアの呼ぶ声で束《つか》の間の夢が破られる。リュウジは鉛のように重い四肢を持ち上げる。
玉子料理とチーズとパンという夕飯だろう。日本と違って、こちらでは一日の最後の食事は軽く済ませることになっている。ミルクで適当に流し込んでおこう……。
日曜日の遠征といっても、バスで一時間ほどの距離だ。
メンバー十八人にリュウジは選ばれ、練習ユニフォーム姿でペペの店に下りてきた。
ペペとアリシアは試合が始まる時間に自家用車で行くという。プレシーズン・マッチだが、ペペは何やら気合のこもった顔つきでカフェ・コン・レチェとチューロスを用意してくれる。
エミリオが昨日、教えてくれた。相手の「エル・トレド」は因縁のチームらしい。
ホームタウンの観光都市トレドはホアキン会長の葡萄《ぶどう》農園とワイン工場のお膝元だから、本来、会長がホームチームとして抱えてもおかしくない。ところが会長は、いくら地元チームであろうがアトランティコの傘下《さんか》にあれもこれも加えることはしなかったため、「エル・トレド」は貧しい市民チームとしてひっそり存在するしかない。「シティオ」とは別リーグになるため、プレシーズンしか対戦しない相手だが、練習試合では敵意を燃やしてぶつかってくるらしい。
「ロドリーゴの葡萄畑がある土地なのに、どうしてウチのチームは会長に愛されず、お前らだけが優遇されるのだ」という妬《ねた》みそねみが、勝利へのモチベーションを高めるようだ。よって過去の対戦成績では「エル・トレド」が大きく勝ち越している。
「プレシーズン・マッチで相手がエル・トレドって聞くと、ユーウツな気分になるよ。これってホアキン会長の嫌がらせじゃないかと思うよね」
エミリオの弁だ。
「特に外国人は狙われやすいから、注意した方がいいよ」
セサルもベルナールもパチも、ペペの用意してくれた朝食を前にしても揃《そろ》って溜め息まじりで、浮かない顔をしているのはそのためだ。ブラジル人もギニア人もバスク人も、「エル・トレド」のラフプレーの洗礼を受けたことがあるらしい。
食欲のない彼らに、ペペが拳《こぶし》を振り上げ、強い口調で何か言っている。「奴らを叩きのめしてやれ」といった類《たぐい》の、気合ばかりの文句だった。
セサルとベルナールは朝帰りだった。オフの土曜日を仲間と共にマドリードへ繰り出し、ディスコで朝まで踊っていたという。試合当日なのにいい根性をしている。二人とも白目まで充血していた。
リュウジは|バク睡《ヽヽヽ》の土曜日だった。寝汗をかいて喉が渇くとミルクを飲み、腹が減ったら店に下りて、ペペお手製のタパスをつまんだ。
ドングリの実を食べた豚で作られたハモンセラーノ。イワシの酢漬け。イカのフリット。この二週間の生活で好物は決まった。
だらだらと過ごした一日で英気は取り戻せた気はするが、前日にまったく体を動かさないのは不安だったので、日が沈む頃、練習グラウンドを一人走った。
パチは一日、部屋で何をしていたのだろう。彼の部屋を一度覗いたことがある。デスクトップのパソコンに向かって左手一本でキーを叩いていた。自分の金でインターネット用の電話回線を部屋に引いたらしい。
周りの人間と決して打ち解けようとしない男だが、暇さえあればネット上で「世界」と対話しているようだ。
午前九時にアランフェスのバスターミナルに集合した。
監督とマノロは用具を載せた自家用車で直接、トレドの試合グラウンドに向かう。フベニールのチームに、チームロゴの入った遠征バスが用意されるわけがない。集まった十八人は自費でバスに乗る。
まるで葬式に出かけるような沈黙だった。利き足の古傷が痛い、としきりに訴える奴もいた。控えメンバーにポジションを譲るための伏線《ふくせん》を今から張っているのかもしれない。
「審判がちゃんといるんだろ」
隣のエミリオに訊くと、「まあね」という答えが返ってくる。
「そんなにひどい相手なのか?」
「ゲームが始まれば分かるよ」
赤土の間の道を走って、古い城砦に囲まれた町が見えてきた。空に高く突きだしているのはカテドラルだろう。トレドの繁栄の象徴。スペイン三大カテドラルのひとつ。『地球の歩き方』に載っていた。
日曜日なので観光バスも目立つ。選手を乗せた路線バスはトレドの市街地には入らず、茶色い流れのタホ川に沿って、葡萄畑が広がる郊外の町に入った。
ここがホアキン会長が所有している広大な葡萄農園だ。収穫の秋に向かって、アトランティコのチームカラーと同じ二色の実が、緑の葉の中で輝きつつある。
グラウンドに到着してまず驚いたのは、そのサイズだった。
万国共通の公式ルールでは、タッチラインは90メートル以上120メートル以下、ゴールラインは45メートル以上90メートル以下、と決められている。
国立競技場のサイズは105メートルと68メートル。高校生がそこまで広いグラウンドを使うことは少ないが、それにしても、今目の前に広がっている土のグラウンドはどう見ても最小規定ギリギリの広さしかない。
いつもの感覚でパスをしたら、ラインをすぐ割ってしまうかもしれない。試合が始まってしばらくは広さが掴《つか》めないだろう。
ホームチームはすでにアップを始めている。選手の親たちが、斜面にブロックが組まれただけの粗末なスタンドに陣取っている。グラウンドに到着した時から突き刺さる視線をリュウジたちは感じていた。
アウェー側にはペペやアリシア、ビセンテの怖いお袋さんや、ハビエルの怖い奥さんの姿も見えた。「エル・トレド」の応援団とは距離を置いていて、両者の間には冷え冷えとした空間が横たわっている。
壁が落書きだらけのロッカーハウスがグラウンドの脇に建っていて、試合ユニフォームを床に広げたマノロと監督が到着を待っていた。
薄暗いロッカーハウスで、リュウジたちは着替えながら監督の指示に耳を傾ける。エミリオが訳してくれた。
「怪我《けが》したくなかったら、あまりボールを持たず、パスを早く回せ。相手の挑発にのるな。無傷で帰るぞ」
試合前にそんな指示を聞くのは初めてだった。かなりヤバい場所にやってきてしまったようだ。
グラウンド横の空き地でアップをする。リュウジは先発メンバーに入った。練習の時と同様、右のサイドハーフでデビュー戦を迎えることになった。
黒いユニフォームの審判三人がグラウンドに入ってきた。揃いも揃って不機嫌そうなツラをしている。一番ジャッジしたくない対戦カード、と言わんばかりだ。
今日も早起きして野良仕事をしてきた葡萄農家のオヤジ、といった風情《ふぜい》の主審が、胸ポケットに入ったイエローとレッド、二枚のカードを確認している。今日の試合でそれらが何度掲げられるのだろう。グラウンドに整列したリュウジは、すでに悪い予感を感じていた。
「エル・トレド」の親たちは試合が始まる前から歓声をあげている。そのヒステリックな盛り上がり方も不安材料のひとつだった。
リュウジは敵チーム十一人の注目を浴びた。「おっ、中国人だ」とほざいたに違いない。獲物を見つけたような薄笑いが見えた。リュウジは素知らぬ顔で体を動かす。
「チノ?」
白地のユニフォームに中世の城のようなエンブレムを付けた敵の一人が、リュウジを見下すようにして訊いてきた。
「チノ」
キャプテンマークを付けたビセンテが、当然だ、といった顔で答える。
「違うだろ」
リュウジは思わず声をあげる。「違うって言ってやれよ、エミリオ」
「いいじゃない、今はそんなこと」
「よかねえよ、俺を何だと思ってんだよ」
「ガマン、ガマン」とエミリオは言うだけ。この試合をいかに生き延びるかということしか今は考えていない。
陣形に散り、ジャンプして体に熱を送り、試合開始のホイッスルを聞いた。
徐々に荒れるのなら分かる。だが、試合は最初から荒れた。
監督の指示通りにボールを早く離しているつもりだが、離した後も勢い余った相手のチェックで、まずマルコが倒される。すぐに主審の笛が鳴った。審判たちは先行き不安な試合に厳しい態度で臨むようだ。
リュウジのファーストタッチは、敵のパスカットだった。前が空いていたのでドリブルを仕掛けようとしたが、ツータッチもしないうちに横から相手ボランチが激しく襲いかかってきた。ボールの取り方を知らないスライディング。軽い身のこなしでかわすのが精一杯だった。こいつらは喧嘩《けんか》目当てでサッカーをやってるんじゃないだろうか。
予想通り、狭いフィールドではパスの感覚が掴めない。相手のトラップミスでボールを奪ったリュウジは、左のエミリオへサイドチェンジのパスを送ろうとしたが、それはエミリオを越えてラインを割った。
すまん。手を上げる。日本にいた時はミスしても謝ったりしなかった。このチームの連中とはうまくやっていきたいと思っている証拠かもしれない。
何の騒ぎだ? リュウジはスタンドを振り返った。そこには衝撃的な光景があった。「エル・トレド」の親と「シティオ」の親がもみ合っていた。
嘘だろ。
リュウジは我が目を疑った。
試合が始まって五分もしないうちから、グラウンド以上にスタンドが熱くなっている。ペペが仲裁に入ろうとするが、弾き飛ばされる。地べたに尻餅をついたペペを見て、「シティオ」側の親がさらに熱くなる。あれはビセンテの母親だ。分厚い胸をぶるぶる震わせて、相手側の似た体形の女性に挑《いど》みかかっていく。不器用に拳を振り下ろし、殴《なぐ》る蹴るの乱闘状態になりつつある。これがスペイン人の血の熱さというやつか。日本では決して起こらない事態だ。
もちろん、選手全員がグラウンド外の騒ぎに気付いていた。
うちの父ちゃんが殴られている。そう思うと、選手のプレーはもっと荒くなる。相手フォワードをマークしていたセサルが脇腹に肘《ひじ》打ちを食らった。げっと唸《うな》って倒れこむ。主審の笛がまた鳴る。イエローカードが掲げられる。過熱の一途を辿《たど》りそうな試合を、先手先手でさばこうとしているようだが、あまりに早く笛が鳴るので選手の苛立《いらだ》ちが増すばかりだ。
開始十五分で何枚のイエローが飛んだだろうか。
また甲高《かんだか》い笛の音だ。いい加減にしろよ。試合をさせろよ、という気分のリュウジは、アントニオに二枚目のイエローが突きつけられたのを見た。カードはレッドに持ち替えられ、アントニオは退場となる。普通だったら頭を抱えて呪詛《じゆそ》の言葉でも吐き捨てるところだが、フィールドを去る彼はサバサバした顔をしている。こんな試合から早く解放してもらってラッキー、といったところだろうか。
スタンドの騒ぎは小康状態になったが、一触即発であるのは変わりない。監督の指示で、アントニオに代わってトップ下に入ったリュウジは、前線でディフェンダーを背負って仁王立ちになっているビセンテへ壁パスのつもりでボールを出した。が、ダッシュしたリュウジにそれは返ってこなかった。ビセンテは一人で突破しようとして失敗、二人がかりで倒された。
「ここだろ、ここ」
リュウジは両手を開いて訴える。ビセンテは無視している。練習の時と何かが違う。
最初の違和感だった。
ハビエルが自陣からボールを持ち込んでくる。中央のスペースに入ったリュウジはフリーだった。
「ダメラ!」
パスをよこせ。しかし、ハビエルは相手ディフェンダーに捕まりそうになる。リュウジを見向きもせず左のエミリオにロングパスを出した。しかしパスコースを予想していた相手にカットされる。
何だ、それは。リュウジはハビエルを睨《にら》みつける。連中は意図《いと》的だった。リュウジにボールを回さない。それが外国でプレーする異国人へのお決まりの洗礼であることと覚悟していたが、練習では「新入りの日本人にボールを渡さない」という雰囲気はまったくなかった。
リュウジは悟った。練習でボールを回したのは、「この東洋人はどのくらいやるのか」という品定めにすぎなかったのだ。リュウジの実力が分かると、出る杭《くい》を打とうとする。
上等だ。こうなったら監督の指示は棚上げだ。リュウジは相手の中盤に食らいついた。執拗《しつよう》なチェイシングでボールを奪うと、ハーフウェイラインからドリブルで中央突破する。一人かわす。二人かわした。正面でビセンテがディフェンダーを背負って、「ダメラ!」と叫んでいる。ふざけるな。右のスペースに走り込んでいるマルコも、ボールを出せと喚《わめ》いている。ふざけるな。
シュートコースが開いた。狙いすましてミドルレンジから放とうとした時だった。敵が背中から両手で掴みかかり、タックルしてきた。リュウジはムチウチになりそうな衝撃で倒された。何だこれは。ラグビーだろうそれは。
張本人にはレッドカードが掲げられた。スタンドがまた騒がしくなる。絶好の位置でフリーキックをもらったが、リュウジは喜ぶどころか、信じられない形でファウルを受けたことに愕然《がくぜん》としている。俺は格闘技じゃなくサッカーをやりにお前らの国に来たんだぞ。
「エル・トレド」の一人退場にブーイングの連呼となる。誰が見ても悪質極まりないファウルだろうが。たとえ応援団でもブーブー言う奴らの神経が分からない。
フリーキックのためのボールをビセンテがプレースした。俺が蹴る、という意思表示だ。敵が五枚の壁を作る。リュウジは右に張って、こぼれ球を決して見逃さない。ビセンテが蹴ったが、壁の中心を狙ったような不器用なフリーキックだった。ボールがダンゴになった選手の中で彷徨《さまよ》っている。倒れた選手に蹴りが入る。集団プロレスの様相だった。ペナルティエリア内で両軍がもつれ、主審が笛を鳴らして分け入る。またカードか。セサルと敵ディフェンダーにレッドカードが掲げられた。喧嘩両成敗はいいが、どんどんフィールドから人数が減っていくではないか。
とにかく「シティオ」のPKとなる。蹴るのはやはりビセンテだ。正面にしか蹴れないんだろう、どうせ。
リュウジの思った通り、キーパーの正面に飛んだが、強烈なキックが幸運を呼んだ。キーパーの手をはじいてこぼれた。両軍の選手が飛び込む。またボールめがけて人間がもつれる。敵キーパーが倒れていた。悪質なキーパーチャージとみなされて、ビセンテにレッドカードが突きつけられた。「シティオ」は三人目の退場だった。
プレイヤーの最少人数については、国際的には「いずれかのチームが七人未満となった場合は試合を続けるべきではない」という見解だ。現在、「シティオ」は八人。
ビセンテは「まあ、お前らでよろしくやってくれ」という表情で、ユニフォームを脱ぎ、ベンチに向かう。スタンドで母親がしわがれ声で主審を呪《のろ》っている。どう見てもあんたの息子が悪いんだよ、とリュウジは言ってやりたい。
ゲームが再開する。「シティオ」のフィールド・プレイヤーは七人だが、監督が二枚で守れと指示をする。数が足りなくなっても勝ちにいこうとする点においてはリュウジ好みのチームだと言える。
が、リュウジはまたまた叫ぶことになった。
「ダメラ!」
いくら人数が足りなくなっても、いくらがら空きのスペースにリュウジがいても、味方はボールを回さない。俺はひょっとしたら奴らに見えていないのかもしれない、俺は透明人間なのだろうか。
溶岩みたいな赤々とした怒りが突き上げてくる。てめえら、ふざけんなよ。その矛先《ほこさき》を敵へのチェイシングに向けた。リュウジがボールに触れることができるのは相手のパスをカットする時だけだ。
走った。奪った。ゴール前25メートルで道を切り開いた。ゴール前でディフェンダーをかわそうと行ったり来たりしているマルコがいる。どけ、お前のフラメンコが邪魔だ。
今度こそ決めてやる。右足を振り抜こうとした時、左右から敵に挟まれるように当たられた。胸が潰《つぶ》されて息ができなくなった。リュウジは手こそ出さなかったが、あらゆるものへの怒りがひとつになって、胸を突きだして相手にぶつかっていった。それが合図になった。瞬く間に両軍が入り乱れる。
どうにかしろよ、監督。リュウジはベンチの方を見る。声を張り上げて止めようとしているマノロはともかく、監督は「処置なし」といったジェスチュアでベンチに腰掛けたままだ。
血が沸騰している選手の間で、主審も翻弄《ほんろう》されている。
「チノ!」
罵声《ばせい》が飛んできて振り返ったら、顔に打撃を食らった。敵の肘だった。中国人をいつか襲撃してやろうと狙っていたのか。銀の点が目の前に散る。脳味噌が攪拌《かくはん》される。リュウジは地面に吸い込まれるように昏倒《こんとう》する。大の字になった。
野蛮極まりないサッカーの地にリュウジは倒れている。フィールドとスタンドの喧噪が遠い雑音のように聞こえる。
音の群れを縫って幻聴のように聞こえてきたのは、一人の女性の声だった。
「生きて、帰っておいで」
母だった。旅立ちの朝、リュウジに背中を向けて母はそう言ったのだ。
太陽の熱を溜め込んだ大地にリュウジは体を投げ出し、薄れゆく意識の中でリフレインされるその声を、子守唄のように聞いていた。
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第四章 ロンリー・ハポネス[#「第四章 ロンリー・ハポネス」はゴシック体]
アトランティコFCのホームスタジアム、一万五千人収容のエスタディオ・アランフェスを見下ろす高台は、「ミラドール地区」と呼ばれている。
これは「展望台」という意味で、文字通り、茶色い瓦《かわら》屋根でびっしり埋め尽くされたアランフェスの町並みを地平線まで眺めることができる高級住宅地だ。
アトランティコFCのオーナーであるホアキン会長のような実業家が、坂道に面した広い敷地を贅沢《ぜいたく》に使い、プール付きの豪邸を構えている。
午後一時、まだ夏を誇っている太陽が真上から照りつけ、プールサイドのパラソルの下で、少年たちは料理を山盛りにした皿を手に、旺盛な食欲を発揮している。
トップチームから下部組織までシーズン開幕を目前にして、ホアキン会長は日替わりで選手とチーム関係者を自宅に招き、ガーデン・パーティを催している。毎年恒例の行事らしい。今日はフベニールの二チーム、総勢五十人以上が呼ばれた。
ユース・レベルでは一軍の「ラーヨ・アトランティコ」の連中は、リュウジたち「シティオ・アトランティコ」を露骨に見下す態度だ。両者は服装からしてまず違う。
「ラーヨ」はアパレルメーカーがスポンサーに付いているのか、揃《そろ》いのサマー・ジャケットと半袖ボタンダウン・シャツを着て、チームカラーである真紅と白の縦縞のネクタイを締めている。
一方「シティオ」の連中は支給されたジャージか私服で、まるで統一性はない。しかも乱闘騒ぎとなったプレシーズン・マッチのせいで、顔に青い傷跡をこしらえている者もいる。リュウジもその一人だ。腹を空かせた町の悪童が豪邸に紛れ込んだという光景に、見えなくもない。
「ラーヨ・アトランティコ」では外国人は登録できないだけでなく、「シティオ」で脚光を浴びたスペイン人少年選手がいても「ラーヨ」に昇格していくケースは稀《まれ》らしい。
「ラーヨ」の排他性は際立っていて、中学生レベルのカデッタ、小学生高学年レベルのインファンティルといったカテゴリーから優秀な子供を吸い上げることのみに機能し、「シティオ」のような同年代の雑草軍団にチャンスをやる温かな眼差《まなざ》しは持ち合わせていない。
鼻持ちならないエリート意識を漂わせた彼らは、服装がばらばらな「シティオ」の連中に対してちょっかいをかけるわけでもなく、ただ汚物を見るような目を投げかける。リュウジたちはその視線を黙ってはね返すしかない。
豪勢な料理がなかったら、「シティオ」の連中は決してこんな集まりには来ないだろう。初めて参加したリュウジも、十五分いただけで窮屈な気分になった。「ラーヨ」の連中は「アトランティコ始まって以来の中国人選手」という噂でも聞きつけてきたのか、リュウジを見て陰口を叩いている。
「何見てんだよ」
日本語で呟《つぶや》き、視線の集中砲火に対してガンをつけてやった。
「やってるよ、アントニオが、ほら」
エミリオが日本語で言い、顎《あご》をしゃくる。
クーラーの利いた室内、料理のワゴンに並ぶ「ラーヨ」の一人にぴったりくっ付いて並んでいるアントニオが、怪しげな動きを見せている。尻ポケットから顔を出している財布を、ちょうど今、繊細な指遣いでスッたところだ。かつてマドリードのグランビア通りで路上強盗をやって生計を立てていたというアントニオは、「シティオ」蔑視《べつし》への腹いせをそういう形で晴らしている。
獲物にありついて列から離れたアントニオに、パチが立ちはだかった。一部始終を見ていたのだ。「返してやれ」とパチに睨《にら》まれたアントニオは、スッた相手の足元に渋々財布を落とし、「落ちてるよ」とわざとらしく教えてやる。
根っからの悪人ではないのだろう、とリュウジは評価してやった。
パーティにはフェレール監督やマノロも呼ばれ、ユースの育成担当であり、錦糸町のビジネスホテルでリュウジをスカウトしたセルジオと赤ワインを飲み交わし、身振り手振り、大仰《おおぎよう》なボディ・ランゲージを交えて何事か話している。
日本からモノになりそうなガキを騙《だま》して連れてきたものの、目立った補強はできず、チームは去年より順位を下げるかもしれない……とでも言っているのだろうか。リュウジに目もくれないから別の話題かもしれない。
ペペとアリシアも、外国人少年に部屋を提供している寮の管理人一家ということで、チーム関係者として招待された。アリシアはノースリーブのワンピース姿で、よくよく見ると、出るべきところは出ていて、くびれるべきところはくびれている。年を経るごとにみるみる肉付きのよくなるスペイン人女性の宿命を前に、十六歳のアリシアは束《つか》の間の輝きを放っているかのようだ。
話し相手の女友だちもいなくて、プールサイドで一人退屈そうに佇《たたず》んでいたアリシアの許《もと》に、「ラーヨ」の少年二人がニヤニヤと顔を綻《ほころ》ばせ、近づく。揃って赤ら顔なのは、ホアキン会長の安ワイン「ロドリーゴ」で作られたサングリアでしこたま酔っぱらったからだろう。スペインで男として生まれたならば、多少なりとも魅力的な女性が視界にいたら口説《くど》かなくては失礼に当たる、というラテン系の性癖が十代の頃から身についている。少年二人は歯の浮く台詞《せりふ》を口々に唱えているのか、ナンパを始めた。アリシアはめっきり不機嫌になる。リュウジは成り行きを見守る。ちょっとしたパーティの余興《よきよう》になるかもしれない。
しつこく言い寄っていた少年が、突然ウッと体を折り、足を踏み外してプールに落下、高々と水しぶきを上げた。アリシアに急所を蹴られて撃退されたのだ。拍手をしているのは「シティオ」の連中たち。ずぶ濡れの少年に手を差し伸べるのは「ラーヨ」の仲間。
アリシアは素知らぬ顔でプールサイドから離れ、料理と飲み物が用意された室内へと立ち去っていく。「シティオ」のみんなは溜飲《りゆういん》を下げた。リュウジも思わず微笑がこぼれ、「やるじゃん」とアリシアを褒《ほ》めてやった。
「チノ?」
爽快《そうかい》な気分に水を差す一言。いかにも屈強なディフェンダーという体つきの「ラーヨ」の少年が目の前にそびえる。こいつも安ワインで酔っぱらった口だ。リュウジを薄笑いで見下ろし、その隣にいるエミリオに問う。
「お前がデビュー戦で殴《なぐ》られてゲーム中に気絶した中国人か、と訊《き》いてるよ」とエミリオが訳してくれた。
喧嘩《けんか》の勲章とは言い難い青痣《あおあざ》が、まだ頬骨のあたりに残っていた。
「違う、中国人じゃなくて日本人だ」
リュウジの仏頂面《ぶつちようづら》の返答をエミリオがすかさず訳すと、絡んできた「ラーヨ」の少年は仲間を呼び寄せ、「やっぱりこいつだ」とばかりにリュウジを指さして笑う。
プレシーズン・マッチの「エル・トレド」戦は、荒れに荒れて退場者が相次ぎ、リュウジが殴られ負傷退場したことで試合は続行不可能と主審が判断し、開始二十分もしないうちにノーゲームとなった。
帰りのバスはまるで負傷兵の輸送トラックだった。リュウジだけでなく、乱闘で唇を切ったのが何人もいた。
「お前ら東洋人のサッカーはカラテがアレンジされてるって聞いたが、違うのか」
嫌味ったらしい言い方まで、エミリオは正確に訳す。
「ウゼエよ、あっち行け」
「国に帰る頃には、その黄色い顔が痣で真っ青になってるだろうよ、チノ野郎」
「そういう悪口まで訳さなくていいんだよ」
エミリオは肩をすくめ、「ラーヨ」を追い払う。「俺たちはあのゲーム以来、機嫌が悪いんだ」とでも言ったようだ。つまらないことで怪我《けが》したくない「ラーヨ」の連中は、それ以上喧嘩を吹っかける度胸はなく、離れて行った。
建物の方から豪快な笑い声が聞こえた。ホアキン会長のお出ましだ。
葡萄《ぶどう》農園とワイン工場を持ち、スペイン駐日大使を友人に持ったことで来日し、国立のゲームでリュウジの活躍を目にした会長は、以前テレビで見た「ゴッドファーザー」で、敵に寝返ったナンバー3あたりのマフィアを思わせる。長年の不摂生《ふせつせい》で溜め込まれた脂肪で覆われ、葉巻の吸いすぎなのか声はしわがれ、取り巻き連中のおべっかを聞き流している。
傍《かたわ》らには年齢の釣り合わない、おそらく二番目か三番目の妻がゴージャスなドレスを身にまとって、夫に負けず劣らず騒々しく嬌声《きようせい》を撒《ま》き散らしている。
周りの反対を押し切って資金援助をしてきたアトランティコFCが数年ぶりにリーガ一部に昇格し、ホアキン会長は鼻高々だ。リュウジがトレドの大地に殴り倒された日、トップチームはアウェーで開幕戦を迎えてアスレティック・ビルバオと0対0で引き分けた。その結果にも会長はおおむね上機嫌、といったところだ。
スペインのクラブ・チームの中でも、アスレティック・ビルバオほど「純血」にこだわるチームも少ない。外国人を一人も取らないだけでなく、チームはバスク出身者が占めている。よってサポーターの熱狂度も高く、ホームで負けることを許さない。その相手に引き分けたのだから、今季から一部に上がったばかりのアトランティコとしては大健闘の部類だろう。
ペペの寮で一緒に暮らしているバスク出身のパチは、試合結果を知って「屈辱だ」という顔をしていた。
次の土曜日はいよいよ、昨シーズンの覇者であり、またしても大金をばら撒いて強引な補強をしドリームチーム化したレアル・マドリーをここアランフェスに迎え、二節のゲームを戦うことになる。このプールサイドからも見下ろすことのできるスタジアムが観衆で膨《ふく》れ上がるのだ。
街は日に日に興奮を増している。プラチナ・チケットとなった入場券をめぐって傷害事件も起こったらしい。試合当日は近隣の街から応援の警官も大勢やってくるという。
レアル戦の翌日が、リュウジたち「シティオ・アトランティコ」の開幕戦となる。アウェーゲームながら、相手は格下の「カテドラ」というチーム。ホアキン会長がフェレール監督に大声で何か言っている。いかにも士気を鼓舞《こぶ》するような口調だ。
プールの反対側まで聞こえてくる言葉をエミリオが訳してくれた。
「カテドラに勝って、最高の調子で次のホームゲームを戦ってほしい。相手はアルカラだ」
昨シーズン、「シティオ」と激しい順位争いをしたチームらしい。
「アルカラ戦にはトップチームのスカウトも見に来るってさ」
ユースの最下層のチームであっても、好カードはスカウトのチェックが入る。上を目指す選手にとってはチャンスの場なのだ。
料理も残り少なくなってパーティもお開きの時間になる頃、リュウジはセルジオに「残ってろ」と言われた。ホアキン会長が二人だけで話したいらしい。
選手たちがいなくなり、ボーイ数人が片づけを始めているプールサイドで、リュウジは会長と対面した。
パラソルの下の日陰、長椅子《ながいす》に並んで腰掛ける。近くで見ると、会長はアランフェス名物のカエルの親玉のような風貌《ふうぼう》で、リュウジは威圧感を覚えた。
セルジオは最初、「通訳ならいますが」と、日本語のできるエミリオを置いていこうとしたが、会長は「いらない」と言い、リュウジと二人きりになった。
スペインにやってきてまだ三週間だからスペイン語のヒアリングには自信がなかったが、会長はお構いなしだった。まずスペイン語で話す。リュウジが理解できないようだと英語に切り換える。それでも分からないようならジェスチュアを交える。その三段階で、リュウジは何とかホアキン会長の言葉を理解した。
まず国立でのゲームを褒めてくれた。右サイドを弾丸のように駆け上がるこの少年こそ、アトランティコだけでなく、スペイン・サッカーが必要としている逸材《いつざい》だ、と惚《ほ》れ込んでくれたこと。
「グラシアス」
素直に礼を言った。
「君が我がチームに幸運を呼ぶ天使のように思えた」
エンジェル、とたとえられ、面《おも》はゆい。
「私は常にこうしたカンによって物事を進める」
そのカンによって東奔西走させられるのが周りのスタッフで、セルジオもその一人だった。なけなしの出張費で日本にやってきて、リュウジをスカウトした。
「しかし君とは一年の契約だ。一年で結果が出なければ日本に帰ってもらう」
帰るかどうかは俺が決めることだろう、と思ったから、リュウジは首を振り、「ノー・ゴー・バック・ハポン」と言い返した。
ホアキン会長は真顔で「よく聞きなさい」とばかりに、リュウジの目を覗《のぞ》き込む。目許の肉はたるんでいるが、眼光には力があった。「帰る勇気を持たなくてはならない。その時、君はまだ十七歳だ。うちで使いものにならない日本人の選手など、どこへ行っても居場所はないだろう。次はどこへ行く? ポルトガルか? 海を渡ってモロッコか? そんな浮浪児のような人生を歩むくらいなら日本へ帰るべきだ」
会長の優しさを感じることができたから、それ以上言いたいことは胸に閉じ込め、リュウジは頷《うなず》いて見せた。
会長は笑顔になって握手を求めてきた。リュウジは会長の分厚い手を握り返した。
「バーモス、ハポネシート」
激励され、リュウジは邸宅を後にした。
眼下の左手にスタジアムを、右手に円形の闘牛場を見下ろす坂道を、リュウジは一人で下りていく。
一年以内に結果を出さなかったらチームを追い出される。タイムリミットは一年、つまり今シーズン。
味方選手がボールを回してくれない「エル・トレド」戦の悲惨な記憶が脳裏をよぎる。ゲームは格闘技によって終わった。
スペインのサッカーがみなそうであるとは思わないが、日本のサッカーと違うのは接触した時の肉体の軋《きし》み方だった。体の寄せには今まで感じたことのなかった衝撃が伴う。崩されたボディバランスから立ち直ってボールをさばくまでのコンマ何秒は、リュウジにとっては未知の世界だった。
それを克服《こくふく》できないまま一年が過ぎたら、日本に帰るしかないと会長は言う。敗残兵の足どりで成田行きの飛行機に乗る自分を想像すると、悪寒《おかん》が走る。
日本にはおそらく居場所が用意されるだろう。Jリーグのどこかの下部組織がリュウジを引き取ってくれるかもしれない。日本人の体の寄せに衝撃を感じることなく、楽々とゴールへの道筋を進めるかもしれない。
だがそのサッカーはおそらく、自分にとって魅力的なサッカーではなくなっている。あと二十年の人生を輝くものにできないなら、その時、自分は死んだに等しい。
ミラドール地区の道には人の気配がない。どこかで飼い犬が甲高《かんだか》く吠《ほ》えている。リュウジは坂道の傾斜に身をまかせ、自然と早まる足どりで下りていく。アトランティコFCのホームスタジアムがみるみる近くに見えてくる。
そこにさえ辿《たど》り着けない、という結果はリュウジには決して許されない。
いつものようにスペイン語会話の授業を、図書管理のおばさんからマンツーマンで教わる。
「ドンデ・ビーベス?」
「エン・アランフェス」
どこにお住まいですか? と訊かれ、アランフェスに住んでいます、と答える。先生の後について、細かな発音に気をつけて復唱する。
vivesはvivirの現在二人称単数形で、原形はirで終わるので「ir動詞」と呼ばれている。これまで習ってきたのは「ar動詞」ばかりだった。人称による活用をしつこくたたき込まれる。
「私」ならビーボ、「君」ならビーベス、「私たち」ならビビーモス、「君たち」ならビビイス。
何度も口に出して言っていると、唇がビビビと痺《しび》れてくるようだ。「シティオ」の選手は午後の体育の授業は免除され、リュウジは寮に帰ってシエスタを取る。
店の冷蔵庫にボトルキープしてあるミルクをたっぷり飲んでから二階に上がる。毎日二リットルは飲んで骨を作るように心がけている。170センチそこそこのリュウジにとって体作りは最重要課題である。
肉体に恵まれない選手は、「サッカーで大切なのは体の大きさではなく体の使い方である」という言葉を信奉する。それは「体作り」の限界にぶち当たった人間にとって宗教のようなものだ。
「体の使い方」云々《うんぬん》を考えるのは後回しだ。とにかく当たり負けしない体を作りたい。先日のような荒れたゲームを経験するとリュウジは余計にそう思う。シエスタも眠たいからするというより、食って飲んで眠れば骨細胞が増えていくような気がするからだ。食事も睡眠もリュウジにとっては安らぎの時間にはならない。すべて、焦りが伴っている。
夢ひとつ見ない二時間のシエスタの後、リュウジは練習に出発する。
三日後に試合を控えた週半ばは、練習試合か紅白戦となる。「エル・トレド」戦のトラウマなのか、対外試合はやめになった。確かに他チームのユニフォームを見る気分ではない。リュウジは紅白戦のレギュラー組に入った。
ペペの店を出てきた時から西の空に厚い雲が押し寄せていた。ゴロゴロと遠雷も聞こえた。湿った風が練習グラウンドを吹き抜ける。ひと雨くるかもしれない。
「ダメラ!」
紅白戦が始まってすぐ、先日の練習試合のように、またその言葉を叫ぶ羽目となった。中央でボールを持ったアントニオは、フリーでいたリュウジの頭を越えて、右サイドをオーバーラップしていたハビエルにボールを出した。ところがロングパスには精度がなくてラインを割ってしまう。
「俺に出せばいいんだよ、お前、目が付いてないのか」
日本語だがアクション付きで言ってやった。アントニオは無視する。逆サイドにいるエミリオがサイドチェンジのボールをくれた。たかがそれだけのことで、「持つべきものは友だち」という感謝の気分になってしまう。
ディフェンダーが二人、行く手を塞《ふさ》いでいた。中央にいる巨漢のビセンテにクサビを入れる。奴がキープしている間にディフェンダー二人の間をすり抜けてシュートコースに入り、ビセンテからボールをもらうはずだった。
ビセンテはボールを持ったまま反転して強引にゴールへと向いた。ターンの動きは鈍い。守備に戻っていた相手中盤のチェックを背後から受けて、簡単にボールを奪われてしまった。
「アキー!」
ここだろ! とリュウジはボールを出すべき場所を両手で示す。
ビセンテは聞こえないふりをしている。リュウジは「そうだろ、監督」と同意を求める表情でフェレール監督とマノロを振り返る。が、攻撃好きの監督はリュウジに見向きもせず、前線へ大声で指示をしている。マノロだけが「落ち着け」という仕種《しぐさ》をリュウジに投げかけた。
あたりが急に暗くなったと思ったら、大粒の雨が落ちてきた。
相手のトラップミスからボールを持つことができた。この幸運を大切に育てなくてはならない。前線へ駆け込むマルコがフラメンコを思わす足さばきでマークをかわし、「チノ!」と呼んでいる。確かに彼の前にぽっかりとスペースができていた。涎《よだれ》を垂らしてスルーパスを待っているようなスペースだった。
リュウジは構わずドリブルでつっかけていく。雨はいつの間にか大地をドラムのように打っている。泥のグラウンドになってボールが止まってしまえば、得意のドリブルは使えなくなる。何度もシザースを仕掛けてリザーブメンバーを翻弄《ほんろう》する。楽々と振り切った。ゴールへの角度が開いた。クロスを待っているマルコとアントニオが、雨のカーテンの向こうで物欲しげに手を上げている。無視した。キーパーのリーチを計算して、ゴール右隅を狙いすまし、インステップのシュートをイメージできた。そこに相手ディフェンダーのスライディングがやってきた。
宙を飛び、泥水に顔から叩きつけられた。何秒か息ができず、泥の中で身をよじる。マノロの笛が聞こえた。
ファウルでそこからフリーキックとなる。ゴール前のフリーキックではアントニオがキッカーとなる。近づいてくる彼の目の前でリュウジは痛みを振り払って立ち上がり、ボールを手にした。怒りの熱が身を焦がしている。
アントニオが「どういうことだ?」と呆気《あつけ》に取られた顔をしている。
リュウジがボールをプレースした。俺が蹴る、という意思表示だった。
「お前ら、さっさと壁を作れ」
リザーブメンバーを睨みつけると、ちまちまと五枚の壁を作り始めた。キッカーのポジションにリュウジとアントニオが立つ。
俺の役目だ、分かってるな。アントニオがそう念を押している。知ったことか、コソ泥野郎。
マノロが笛を鳴らすと、アントニオより先に飛び出し、ボールをこすり上げて蹴った。ボールは壁の上を巻いて、ゴール前に飛び込んでいたパチの頭にピンポイントで合った。ゴールマウスに吸い込まれて得点となり、パラパラと味方の拍手があったものの、アントニオには睨まれた。身振り手振りで文句を言っている。自分の生活を脅《おびや》かす侵略者のようにリュウジをなじっている。
「うるせえ!」
振り向きざま怒鳴り返してやった。リュウジの血走った目に気圧《けお》されたのか、アントニオは口をつぐんだ。彼らにとって東洋人とは、そもそも不気味な対象なのだ。
キレると何しでかすか分からないぞこの中国人は、といったところだろうか。
雨のやむ気配はない。土のグラウンドは泥の海になりつつある。リュウジは常にディフェンダーのターゲットとなった。ボールを持てば前後左右、様々な角度からスライディングが茶色い水しぶきとともにやってくる。相手は水上スキーのように滑ってきて、リュウジは面白いように倒され続けた。何度、泥を舐《な》めたことだろう。
ところがしばらくすると、リュウジは相手に見向きもされなくなった。味方がまったくボールを出さなくなったからだ。フィールドの中で一番汚れているのはリュウジだった。
紅白戦はそれ以後、リュウジ以外のメンバーが次々に得点に絡んで、レギュラー組のゴールラッシュで終わった。
監督は悪天候から逃れるように引き上げる。用具の片づけを始めるマノロが「今日の練習は終わりだ」と告げたようで、びしょびしょの選手たちがロッカーへ逃げ込む。
「俺がそんなに気に入らないか」
気がついたらリュウジは自分の軋んだ声を聞いていた。口が勝手に動いている。
レギュラー組の連中が小屋の庇《ひさし》の下で振り返った。リュウジだけは雨に打たれている。トタンの庇の続く通路の彼方で、マノロが何事かと見ている。
「今日こそはっきりさせるぞ。俺にボールを出さない理由を言ってみろ」
言葉の分からない連中がエミリオを見て、「チノの言葉を訳せ」と言っている。
「自分たちよりテクニックがあるのが気に入らないのか。中国人がドリブルで人をかわすのが許せないのか。ふざけるな。これまでの練習で分かっただろう。俺が右から中央へカットインする。ビセンテがポストになって、アントニオとマルコがスペースをついてディフェンダーを引きつける、俺はその間にエミリオとポジションチェンジをする、それで相手の守備は大混乱だ。あとは俺のスルーパスを受ける準備をしてりゃいいんだ。違うか?」
早口のリュウジに遅れまいと、エミリオが大慌《おおあわ》てで訳している。
「右サイドでボールを持つ俺を、後ろからハビエルが追い越す、中央や左でトップ二枚が張ってりゃ相手はつられ、右の前はスペースが見つけ放題だ。違うか?」
エミリオが「ちょっと待ってよ」と音《ね》を上げた。リュウジは構わず喋《しやべ》り続けるので、エミリオは通訳を断念した。
言葉なんか分からなくてもいい。俺の怒りを理解しろ。
「こんな底辺でサッカーを続けるのがお前らの望みか。ここより下に落ちるところはもうないんだろ? こんな水びたしの場所でサッカーを続けたいのか。俺はカンベンだ。冗談じゃねえぞ。勝って勝って勝ちまくって、点を取って取って取りまくって、上の連中に認めさせる。俺にボールを回せばそういうチャンスが増えるんだ。俺がこのチームに必要なのか、必要じゃないのか、その空っぽの頭でよく考えてみろ!」
迫力だけは伝わったようだ。みんな呆気に取られている。が、それ以上の反応は乏《とぼ》しかった。連中はリュウジから目をそらし、ぞろぞろとロッカーの暗がりへ消える。
最後に残ったエミリオが、「みんなによく言っとくから、ガマンね」とリュウジをなだめる笑みを投げかけ、連中の後を追った。
リュウジは滝のような雨に打たれている。こんなに一度に喋ったのは生まれて初めてかもしれない。喉《のど》がヒリヒリしている。
ふと視線に気付いた。あちらからマノロが見ている。
ネットに入ったボールとコーン。リュウジの話を聞くため地面に置いた用具を、「よいしょ」という感じで持ち直す。たくさん喋ってちょっとは楽《らく》になったか? といった笑みを残して、去っていった。
リュウジは今まで這《は》いずり回っていた練習グラウンドを振り返る。
明日になれば水は引いているだろうが、今はサッカーなど二度とできないような水没した大地に見える。
ここは地の果てだ。錦糸町のビジネスホテルで甘い言葉に誘われ、日本を飛び出すことが唯一の突破口だと思い込み、辿り着いたのが格闘技選手権のようなサッカーであり、この泥だらけのグラウンドだった。
自分が滑稽《こつけい》で仕方ない。
雨雲は去り、日本より赤みの強い月が夜空に輝いた。
今夜も「ジダン対策」で盛り上がっている「ペペ・デ・ボンボ」の常連客をかき分けてリュウジは外に出た。手にありったけの小銭を持っていた。
日本に国際電話をかけるのは初めてだった。通り沿いに公衆電話があった。かけ方は『地球の歩き方』に載っていた。日本は朝六時。リュウジが声を聞きたいと思った相手は、規則正しい朝型人間だからそろそろ起きる時間だろう。
日本に繋《つな》がるまでいくらか待たされ、やっとコールになった。三つ目で相手の声が聞こえた。
「もしもし」
宮城の眠そうな声だった。リュウジの母校の中学で監督をしている宮城には、「行く先はどこでもいいから日本から飛び出したい、そんな気分か?」と言い当てられた。こうも言われた。「お前が思うほど、そこは天国じゃないぞ」
その通りだった。
「すいません、起こしちゃいましたか?」
「……リュウジか?」
眠気が吹っ飛んだようだ。
「ご無沙汰《ぶさた》してます」
「どうだ、調子は」
「ぼちぼちです」と答えるしかない。「日本はどうですか?」
情報に飢えていた。日本代表が八月にオーストラリア代表と選手権試合を行い、大勝したことを初めて知った。
「真夏の静岡で何の選手権ですか?」
「サッカー・バブルはいろいろな名目をこしらえて、『トゥルシエ・ニッポン』コールをしたくてたまらない客をかき集めるんだ」
Jリーグのセカンド・ステージは始まって四試合ほど消化し、やはり名門二チームは降格の危機から脱しきれていない。
「そっちはどんなチームだった?」
と訊かれ、「2バックじゃないかと思うようなチームです」と、小銭を絶え間なく電話機に放り込みながら答えた。サイドバックが上がりたがる攻撃一辺倒のチームだとすぐ分かったようで、宮城は電話の向こうで笑った。
「俺ってやっぱり日本人なんですね」
愚痴《ぐち》っぽい一言が洩《も》れてしまう。
「そうだ。お前は日本人だ」
多くを語らなくても、苦悩は宮城に伝わった。
「サッカーっていう共通言語がありゃ、国籍なんか関係ないと思ってたろう?」
「思ってました」
チームで疎外感を覚えれば覚えるほど、否応《いやおう》もなく己《おのれ》の出自を思い知らされる。俺は何者なのか。日本人って何なのか。日本人のサッカーをスペインは本当に必要としているのか。世界のサッカー地図において日本はどこに位置するのか。FIFAランキングだけでは説明のつかないものが多すぎた。
「しんどいだろうが、頑張れ」
小銭が尽きる。「いつでも電話をしてこい」という宮城の言葉を最後に、通話は途切れてしまった。
受話器を置き、踵《きびす》を返して店に戻ろうとしたところで、自転車に鍵をかけているアリシアに出くわす。背中を丸めて国際電話をかけていたリュウジの後ろ姿を、さっきからじっと見ていたようだ。ホームシックにかかったと誤解されたかもしれない。
リュウジが理解できそうな言葉を使って、身振り手振りを交え、アリシアは言う。
「エントレナール・ムーチョ」
たくさん練習をして、
「コメール・ムーチョ」
お腹いっぱい食べて、
「イ・ドルミール・ムーチョ」
たっぷり寝ると、
「マニャーナ・セラ・オートロ・ディーア」
明日になる。
明日になったらどうなってるんだ? とリュウジは目で問う。
「ヌエボ・ディーア・イ・ヌエボ・リュウジ」
すると昨日とは違うリュウジになってる……ニュー・リュウジ。
へっと笑い返した。そんな単純なことじゃねえよ、と思いつつ、アリシアと肩を並べて店に入る。入口をくぐる時、Tシャツから伸びるお互いの腕が触れ合う。さっきの言葉に通じる温かさが、アリシアの素肌から感じられた。
今までさほど感じなかった疑問が首をもたげる。アリシアの母親はどうしたのだろう。
ペペはアリシアの父方の祖父だという。父親は彼女が幼い頃に交通事故で亡くなったと聞いている。アンダルシアの血を娘に授けた母親とはどうして別れたのだろうか。ひょっとしたら俺と同じような家庭の事情があるのかもしれない、とリュウジは思った。
ジダン封じの妙案が見つからないまま飲んだくれていた老人の常連客が、リュウジの肩を叩き、「アトランティコの救世主はお前だ、日本人!」とでも叫んだようだ。すると誰かの音頭で「ハポン、ハポネス」の大合唱が始まった。
おい、爺《じい》さん連中、本当にそう思ってんのか?
街は朝から興奮状態だ。
夜八時キックオフの「アトランティコFC対レアル・マドリー戦」に備えて、午前中から街のいたる所で鳴り物の音が聞こえる。ややベージュがかった白とワインレッドという縦縞のフラッグが、街を祝祭日のように染めている。
ただでさえ狭い一万五千人というスタジアムの収容人数のせいもあって、チケットは前代未聞の争奪戦となった。アランフェス市内のある家に押し入った強盗は、金のありかを聞く前に、まず「レアル戦のチケットを持っていないか」と家の主人に訊いたという。ダフ屋さえチケットを持っていることを知られたくないから、身の危険を感じて路上に出ないという異常事態だ。
ぺぺは長年のチーム貢献のご褒美《ほうび》として一枚だけ手に入れることができて、店の常連客の羨望《せんぼう》の的である。今夜、ペペはアリシア一人に店をまかせ、「ペペ・デ・ボンボ」という店の名の由来にもなった大太鼓を抱え、全身をチームカラーで染めて応援に出かける。
試合前日で完全休養日となった「シティオ」の連中は、それぞれの場所でテレビ観戦となる。チケットをゲットしたという奴は聞かない。
セサルとベルナールはビセンテの家で、ビセンテの母親の手料理を食いながら一緒に見るのだという。パチはフェルナンドのアパートに誘われたみたいだ。バスク人のパチは、練習場にいつも絵の具とキャンバスを持ち歩いている芸術家肌のフェルナンドとは反カスティーリャの地方出身者という共通点もあって、何かと気が合うらしい。
リュウジはエミリオの家に誘われたが、ずぶ濡れの練習の後にキレて以来、練習以外でチームメイトと顔を合わす気分にはなれなかった。
昼間、ドンドンと鳴り物が響きわたる街の中心部に背を向け、リュウジは練習グラウンドに出かけた。二日前に泥の海となったグラウンドは、黄色く乾いた大地に戻っている。
荒野に一人。
ベニヤ製の人形をゴール前に五体並べて立て、フリーキックの練習をする。ボールの腹をこすり上げ、カーブをかける。壁をよけたボールがゴールの外側から右上ぎりぎりに突き刺さる。蹴る前のイメージと目の前の結果を照らし合わせ、踏み込みの位置がいくらか深かったのか、インパクトが強すぎたのか、角度が浅かったのか、何が違っていたのかを点検し、次のボールで修正する。
三十分ほど砂埃を上げて蹴り続けた後は、全身の筋肉細胞をほぐすようなランニングで自主トレを終えた。
グラウンドを後にして街に戻る途中、連なった三台のバスが視界を横切っていった。エル・ブランコの小旗がはためいている。レアル・マドリーのサポーターたちがチャーターしたバスだろう。駅の方角からも白いレプリカ・ユニフォームを着た男たちが連なってやってくる。
長袖シャツの上に着たユニフォームは、スポンサー名が大きなロゴで入っている昨シーズンのタイプだ。シーズンが始まったばかりで、サポーターたちは新しいグッズを買い揃えることができないのだろう。
今夜のレアルはおそらくアウェー用のユニフォームだ。肩から袖にかけては白だが、あとは黒一色のタイプ。レアルの黒は相手チームを威圧する色だ。
開幕戦を落としたレアル・マドリーは、ジダンとフィーゴの共存関係という、シーズン前から不安視されていた課題を先送りにしたままだが、二部から上がったばかりのアトランティコ相手なら大暴れをするだろうというのが「アス」紙の予想だ。
白い一団とワインカラーの一団が道で遭遇したが、険悪な空気などなく、陽気に体を叩き合っている。常勝チームのサポーターは、「お前らの街に来てやったよ。どのくらい俺たちを苦しめるのか見せてもらおうじゃないか」という余裕の表情だ。
リュウジは人混みを縫うようにしてペペの店に帰ってきた。すでにカウンターにひしめき合っている常連客。店の中を素通りして階段を上がると、ひんやりした静寂があった。寮の他の三人は出払っている。共同のバスルームに直行してシャワーで汗を洗い落とすと、帰り道で買ってきたミルクのボトルを開け、一気に半分ほど飲む。
ベッドに寝ころぶと眠気がやってくる。街のざわめきはシエスタの時間になってもやまない。今日に限って、人々は昼寝を必要としないようだ。リュウジは習慣に馴染《なじ》んでしまったのかウトウトしてしまう。
寝すぎてしまった。
「レバンタテ・リュウジ!」
廊下からアリシアの巻き舌の声が聞こえて目が覚めると、レアル戦キックオフ三十分前だった。
階下に下りると、アリシアが一人で店を切り盛りしていた。平時は店の飾り物になっている大太鼓が消えている。天井からつり下げられているテレビは、サッカー中継のチャンネルに合わされているが、今やっているのは視聴者参加のクイズ番組だ。司会者の女は胸あきドレスでフェロモンを撒き散らしている。スペインのテレビはニュースをやっていてもお色気番組に思える時がある。
アリシアがタパスを盛った皿をくれる。テレビ観戦前の腹ごしらえを用意してくれたのだ。店の冷蔵庫からミネラルウォーターをもらい、カウンターの隅で食らいつく。
ジャガイモがぎゅうぎゅうに詰まったトルティージャ・エスパニョーラ、日本で言うところのスパニッシュ・オムレツは作りたてだ。アランフェス特産品のアスパラガスもイモの中に埋まっている。リュウジはハフハフ言いながら口に放り込む。
「何急いで食べてんの」とアリシアに言われた。さっさと空腹を満たして店を出るつもりだった。この人いきれの中でゲームを観戦する気分ではなかった。チケットはないが、スタジアムの近くにいたい。
「リュウジ」
平らげた皿を返したところで、真顔のアリシアに声をかけられた。
「マニャーナ・ティエネス・トゥ・パルティード」
明日はリュウジのゲームだよ。
街の興奮に背を向けて一人でどこへ行くのだろう、と心配されたようだ。明日は大切なゲームだから無茶をしては駄目だと釘を刺された。
「バーレ」
分かってるよ。
アリシアがふっと微笑《ほほえ》んだ。あたしの思い過ごしね、という心の声が聞こえた。黒髪と黒い瞳と白い歯。アンダルシアの血が濃く流れているせいで日本人の顔だちに通じるものがあって、悔しいが、その笑顔に癒《いや》される瞬間がある。
店を出る。八時近くでもまだ明るい。空と陸地の境界線あたりから強烈な西陽が照りつけている。
リュウジはスタジアムの方角へと歩き始めた。
選手紹介のアナウンスが聞こえる。アウェーチームの場合は、ぼそぼそと早口で唱えるだけだが、それでもスタンドからは歓声が上がる。マドリードから近いせいもあるが、おそらくスタジアムの三割はレアルのサポーターだ。
リュウジはエスタディオ・アランフェスの外、騒然たる歩道の暗がりにいる。プラチナ・チケットを後生大事に手にしてゲートに吸い込まれていく観客を尻目に、煉瓦《れんが》の壁にもたれ、突っ立っていた。
歩道にはメガホンやタオルマフラーやレプリカ・ユニフォームを売る屋台が連なり、ゲームが終わってスタジアムから吐き出されてくる客を待っている。アトランティコがもし勝ったらチームグッズに群がってくる、という商機を信じて。
見上げれば、濃紺色の空にフィールドを照らす夜間照明が眩《まぶ》しい。西の空には太陽の残滓《ざんし》しかない。
アトランティコの選手紹介は、アナウンサーの絶叫だ。するとそれに輪をかけた大歓声がスタジアムを包みこむ。六シーズンぶりのリーガ一部昇格、その初めてのホームゲームとあって、スタジアムが一匹の巨大な怪物のように吠えている。ペペの大太鼓だろう、ドンドンドンというリズミカルな連打にサポーターの拍手が付いてくる。
リュウジは煉瓦の壁に後頭部を付けてみる。地響きが頭に伝わる。芝を踏みしめる選手の足音だって伝わってくるに違いない。リュウジは今、全身全霊でゲームを感じようとしている。
まずレアルの選手が入場する。三割の歓声と七割のブーイングが席巻《せつけん》する。そしてアトランティコのイレブンがピッチに立った。見上げればチカチカと閃光《せんこう》が宵闇に見えた。記念撮影のために並ぶ選手に、サポーターもカメラを向けているのだろう。
キックオフとなる。屋台のラジオから実況放送が聞こえる。マドリードの放送局に違いない、レアルの選手の呼び方に熱が入る。もっともボール支配率で圧倒するレアルの前では、アトランティコの選手名を呼ぶ機会は少ない。
レアルの布陣はアウェーであっても攻撃的だ。キーパーのカシージャスは磐石《ばんじやく》。センターバックのイエロとカランカは攻撃の起点としては優れているがスピードに欠けるため、今シーズン、レアルのアキレス腱と言われている。レアルは大金をかけてジダンを獲得したため、ディフェンスの補強がほとんどできなかったのだ。
左サイドバックにロベルト・カルロス。右にはミッチェル・サルガドは不動。中盤の底はマケレレ一人でまかなうことになる。アトランティコ相手ならワンボランチで充分、というナメ方だ。ジダンが中央にいて右にフィーゴ、左にマクマナマンというダイヤモンド形の中盤で、2トップはラウールとムニティス。モリエンテスに続いてグティも故障したため、これまで左サイドハーフで使われていた小柄なムニティスが抜擢《ばつてき》された。前線の二人の激しい運動量にアトランティコのディフェンスはついていけるだろうか。
レアルの攻撃はふたつのパターンに集約される。フィーゴが左右に流れて起点を作り、正確なクロスを誰かに合わせるオーソドックスなパターン。もうひとつは、ジダンを中心とした中盤の速いパス回しでディフェンスを崩し、スペースに走り込む前線の選手に鋭いスルーパスを通すパターンだ。
「フィーゴ、フィーゴ、フィィィィーゴ!」
ゲーム開始早々、アナウンサーが雄叫《おたけ》びをあげる。フィーゴのドリブルがリュウジには見えた。ボールを餌《えさ》のように相手ディフェンダーの前にさらし、それに食いつこうとする体重移動を見逃さずに突破したに違いない。
スタジアムに「ウィー」という溜め息が巻き起こる。クロスに誰も合わなかったようだ。「惜しかった」という三割と、「危なかった」という七割の安堵《あんど》。
やはりアトランティコは一方的に攻められている。
左サイドの中央あたりでマクマナマンがボールを持ったのだろうか。その背後をロベルト・カルロスが猛スピードでオーバーラップする。アウェーでは攻撃参加を控えるロベカルも、相手がアトランティコなら遠慮はしない。アナウンサーの声はスタンドの歓声でかき消される。ロベカルからクロスが放り込まれたのか、混戦状態となったゴール前の行方を観客全員が見守る一瞬の静寂の後、スタジアム三割の歓喜が爆発した。
「ラウゥゥゥゥル!」
実況によると、ジダンのシュートがはじかれたところを、こぼれ球を狙っていたラウールがちょこんと左足インサイドを当て、ゴールを決めたようだ。
七割の失意をペペの大太鼓が勇気づける。
リュウジはさっきから目を閉じている。ゲームを音だけでイメージしている。
ジダンとフィーゴのパス交換は冴《さ》えわたっている。右サイドから中央へドリブルするフィーゴが一旦《いつたん》ジダンに預ける。敵ディフェンダーを引きつけておいてヒールで返す。オフサイドをからくも逃れたムニティスへとフィーゴがスルーパスを出す。ワンタッチかツータッチのパスでアトランティコのディフェンスラインはずたずたに切り裂かれた。タッチラインぎりぎりからクロスが上がった。ジダンがフランス・ワールドカップ決勝戦で見せたような、マシンのようなヘディングシュートが決まった。
リュウジのイメージを裏付けたのは、アナウンサーによるジダンの連呼だ。
長いホイッスルが鳴った。アトランティコ・サポーターにとっては「やっと前半が終わってくれた」という心境だろう。
リュウジは売店でミネラルウォーターを買い、まるで自分もフィールドを駆けていたかのような喉の乾きに注ぎこむ。
ここスタジアム外の路傍《ろぼう》から、歓声の的となっているフィールドの芝まで、直線距離にして100メートル足らず。恐ろしく長い距離に思える。そこに辿り着けないまま俺は死んでいくのだろうか……。
紅白戦のフィールドでさえボールを与えられない。仲間から奪い取るしかない。それとも「俺にボールを出してくれ」と泣いて乞《こ》えばいいのか。たかがそんなレベルで苦しんでいる自分は、何とみみっちい存在なのか。
ハーフタイムは終わったようだ。ホイッスルが鳴る。エンドを交換して後半のキックオフ。
レアルは前半での攻め疲れなのか、2点を取った安堵なのか、やはり本調子でないのか、アトランティコに攻めの時間帯が巡ってきた。アトランティコのフォワードが、近頃めっきり一歩目が遅くなったイエロを振り切ったみたいだ。初めてのシュートはしかしバーを大きく越えた。いいぞ、いけるぞ。スタジアム七割の意気が上がる。
攻めている。また決定機があった。しかし「ウィー」という溜め息で萎《しぼ》んだ。
アトランティコは自分たちの時間帯をモノにできなかった。十五分過ぎから再びレアルがじわじわとボールを支配する。しかもムニティスを下げてフラビオ・コンセイソンを入れてダブルボランチにし、守りを固めてきた。定石の展開だった。
悲鳴が束《たば》になって聞こえてくる。息を吹き返したレアルの前線を、アトランティコはファウルで止めるしかなかったようだ。ペナルティエリア前、キッカーはフィーゴかロベカルか。
小刻みのステップからボールめがけて驀進《ばくしん》するロベカルが見えた。壁に立っているアトランティコの選手の恐怖を、リュウジは我が事のように感じる。壁に当たれ、だが自分には当たってくれるな。
ロベカルの左足、若干アウトサイドにかかったボールが壁の右側を突き抜け、一瞬弾道を見失ったキーパーを嘲笑《あざわら》うかのように、信じられない角度で巻いてゴールの逆サイドに吸い込まれる。そんなフリーキックを蹴ることができるのは世界でロベカルしかいない。
スタジアム三割が歓喜の声を上げ、ゲームは3対0で終わった。
観客がゲートから吐き出されてくる。レアルのサポーターたちはバスターミナルや駅へと急ぐ。どっちの交通機関を使っても一時間かそこらでホームタウンに帰ることができるはずだ。
アトランティコのサポーターたちは朝まで飲み明かすに違いない。ペペの店では、常連客たちが頭の中でゲームを再生し、ケンケンゴウゴウで夜が更《ふ》けるのだろう。彼らはビデオデッキがなくても言葉で克明《こくめい》にゲームを再現することができる。その記憶力が普段の生活や仕事では発揮されることはない。
彼らはイングランドのフーリガンのように、大敗したからといって荒れたりはしない。勝っても負けても、九十分を楽しませてくれたフットボールへの感謝と愛情がスペイン人の心の根っこにあるようだ。
両チームの選手バスが大勢のファンに囲まれながらスタジアムの駐車場口から出て行く。照明がひとつ、ふたつと消えていく。
あたりが闇に閉ざされても、リュウジはまだ路傍にいた。
鳴り物は遠ざかっていく。静寂が濃くなる。野良犬がホットドッグの残飯に食らいついている。ホームレスもゴミカゴを漁《あさ》っている。スタジアムを見下ろすミラドール地区で、ホアキン会長はやけ酒をあおっているのだろうか、それとも入場料収入とテレビ放映権とチームグッズがもたらした利益で、でかいスタジアムを建てる夢がまた一歩近づいたとほくほく顔だろうか。
俺はどこへ行こうとしているのだろう。
どこを向いても闇ばかりの道だ。俺はただ、異国の闇を彷徨《さまよ》うために日本を飛び出してきたのだろうか。
遠くに生活の明かりが点在するだけのこの闇を、いつまでも覚えておこうとリュウジは思った。ここより落ちるところはない。終着駅であり、始発駅だ。
リュウジ、何だそれは。
今、目尻を濡らしているのは何だ?
自分の弱さに腹が立つ。ならばこの涙も覚えておこうと思った。十六歳、スペインの田舎《いなか》町の夜道で、一人流した涙だ。
リュウジは自分の孤独と向き合っていた。決して目をそらさずに。
ゴシック様式の尖塔《せんとう》が朝の光をぎらぎらと跳ね返し、アウェーゲームに乗りこんできたリュウジたち十八人を過剰な光の中に迎えた。
十字架がそこかしこに見える煉瓦色の構内を抜けると、よく手入れされた芝のグラウンドで相手選手たちが試合前のアップをしている。
「カテドラ」は名前の通り、キリスト教学校の生徒を母体にしたチームで、ストレッチを見てもひとつひとつの動きが柔らかで上品である。獣《けもの》の集まりのようだった「エル・トレド」とは大違いだ。少なくとも前半からイエローカードが乱発される荒れた試合にはならないだろう。
白木のスタンドには、「シティオ」の選手の家族たちが陣取っている。ぺぺやアリシアもいる。ビセンテの母親がひときわ騒々しい。彼らは自家用車に分乗してやってきた。アランフェスの中心部から二十分ほどの場所だ。同じリーグに属するチームのグラウンドは、どこもその程度の距離にある。何度も来ているから道に迷うことなく、選手たちのバスより先に到着している。
監督とマノロの待つロッカールームへ入っていくリュウジたちを、応援団が拍手で迎えた。
相手チームの応援の人数は少ない。「シティオ」の親ほどサッカーに熱心ではないのだろう。これから始まる試合にさほど興味がないのか、ファッション雑誌をめくっている母親や、ラジオのイヤホンを耳にはめ、紙袋からピーパスという向日葵《ひまわり》の種を取り出し、齧《かじ》っては殻を吐き散らかす父親がいる。開幕戦は比較的楽な相手、というのはこういう敵側の光景からも窺《うかが》える。
煉瓦造りの掘っ建て小屋、およそロッカールームとは言えないような場所でマノロからユニフォームを支給される。
リュウジに渡された背番号は15番だった。スタメンは1番から11番と相場が決まっている。案の定、監督が唱えた先発メンバーにリュウジの名はなかった。
あの雨の日、仲間との軋轢《あつれき》を監督も目にし、リュウジをスタメンから外したのは明らかだった。
喧嘩の成敗として落としたのならまだ分かる。監督は俺の力を認めていながら、チームの「和」とやらを重んじて外したのだ。それでは俺が今までいた国と変わらないじゃないか。ここは個人の力量さえあればのし上がっていける国ではなかったのか?
リュウジは失望感と、足元がドロドロ溶けていくような脱力感を覚える。監督とマノロが「バーモス」というお決まりの掛け声で手を叩いて、選手たちをグラウンドへ送り出す。
練習着のままアップを始めると、スタンドのアリシアと目が合った。レギュラー組と別でアップをしているリュウジを見て、スタメンから外れたのが分かったに違いない。
なのに笑っている。人が落ち込んでいる時に向日葵のように笑える女。単に性格が悪いだけかもしれない。
アップが終わって15番に袖を通す。図体《ずうたい》のでかい選手に合わせてユニフォームを作っているため、リュウジにはだぶだぶだった。
U─17日本選抜の時は14番だった。番号がひとつ増えている。後退している、という気分を拭《ぬぐ》えない。
イレブンが整列すると、マッチ・オフィシャルなのか、カメラを向けてシャッターを切る。そんな寒々しい記念撮影に加わりたいわけではないが、ベンチに座っているリュウジは今の自分の有り様がどうしても許せない。
「カテドラ」のイレブンは、ホームゲームの時の儀式なのか、グラウンドを見下ろす教会の尖塔に向かって、胸で十字を切った。敬虔《けいけん》なキリスト教信者の坊やたちはどんなサッカーをするのだろうか。
日曜日の午前十一時キックオフの公式戦だった。日本の高校サッカーは四十分ハーフだが、ここではプロと同じ四十五分ハーフだ。ブラスバンドの音楽などなく、司会者がいて盛り上げることもなく、フベニール・プレフェレンテのシーズン開幕戦は粛々《しゆくしゆく》と始まった。
「カテドラ」は「頭のいい子」のチームだった。
最初の五分のプレーで、彼らが「シティオ」の弱点を研究していることが分かった。
2トップへのボール供給源でありながら、実はゴールの意識が高いアントニオを相手ボランチが徹底的にマークしてきた。ビセンテは前線に孤立し、マルコがいくら踊るような動きで要求してもボールに絡めない。
アントニオをマンマークされると、ひとつしかないボールの供給源が断たれてしまう。それがリュウジのいない「シティオ」というチームだった。
「カテドラ」のプレーに激しさはないが、確実に、根気よくボールを受け渡す。パスの基本練習のようなボール回しだが、中盤から前線へとじわじわと攻め込んでいる。そのうち「シティオ」のディフェンダーが苛立《いらだ》つ。ハビエルがスライディングする。ボールではなく足にかかった。ファウルを取られてセットプレーとなる。
ゴール前、左20メートルからのフリーキック。ゴール前の密集エリアを避けて、エリアの右外へふわりとサイドチェンジのボールを入れられ、ヘディングで返される、するすると走り込んでいた小柄な敵フォワードがボレーシュート。ベルナールがからくも反応して長い手で弾いた。危なかった。
敵コーナーキック。敵味方が入り乱れる地帯にベルナールが飛び込んでセーブする。また危なかった。
格下相手とは思えない。「シティオ」のディフェンダー四人とボランチのフェルナンドは、相手の長いサイドチェンジのパスによって徐々にラインを下げてしまう。
リュウジは貧乏揺すりを抑えられない。監督の横顔を窺う。フィールドのひとつひとつのプレーに毒づいているフェレール監督は、リュウジの方を見向きもしない。
アントニオに出そうとするボールがまたカットされた。全身をねじって怒っているアントニオを尻目に、敵がまた攻め込む。「シティオ」は防戦一辺倒になる。右サイドから正確なアーリークロスが上がった。慌てて戻るミッチェルが、自分の後ろにいる敵にボールを渡してはならないと懸命にクリアしようとする。「やばい」というリュウジの予感。ゴール前でミッチェルは頭をひねりきれず、ヘディングのクリアミス。ベルナールは逆をつかれ、ボールがネットを揺らした。オウンゴールになってしまった。
ミッチェルはありとあらゆる罵詈雑言《ばりぞうごん》をフィールドに投げつける。パチが後頭部を叩いてなだめる。「シティオ」は完全に浮き足立った。
ベンチが振動している。自分の貧乏揺すりより激しい監督のそれ。監督の動揺が控えの選手にも伝染している。
味方の失点を喜ぶ気持ちがリュウジにはある。ベンチスタートのメンバーなら誰でも思うこと。自分が出ないゲームなど負けてしまえばいい。
監督はどう流れを変えるつもりなのか。俺を見ろ。俺はここにいる。リュウジは監督に念力《ねんりき》を送るが、通じない。
「アデランターモス・ラ・リネア!」
監督がベンチを飛び出して、パチとミッチェルに「ラインを上げろ」と指示する。最終ラインを管理するセンターバックに飛んだ指示は、「後ろからの声は神の声」と言われるように、ディフェンダーから中盤に、中盤から前線の選手へと伝達される。
中盤の寄せを速くしろ。簡単にアーリークロスを上げられたのも中盤の寄せが甘かったからだ。監督はそう言いたいのだろう。選手はその時だけは指示通りに動いて、コンパクトになった中盤でボールを拾うことができた。
敵のセンターバックがボールを持つ。前線のマルコとビセンテがプレスに行く場面だった。それが遅かったために、敵センターバックはルックアップして、確実にパスが出せない中盤を省略、最終ラインからトップへとロングパスを出した。それはオフサイドラインぎりぎりでパチの後方へと入った。ディフェンス陣は慌てて戻る。ボールがラインを割って助かったが、この一発のプレーで「ラインを上げるのは怖い」というイメージに囚《とら》われてしまう。
中盤から前線の寄せが甘いままではラインは上げられない。
「アデランタ・ラ・リネア!」
無理なプレスをかけるのではなく、相手との間合いを詰めろ、という意味を含んだ監督の指示だ。
「トカ、トカ!」
短くパスをつなげ、と監督は言う。ボールを持っている時間が長いとパスの出し所を読まれてしまう。だから短くつなぐ。しかし誰も指示通りの動きができない。短くつなごうとしてもパスミスでラインを割ってしまう。
無残だった。
敵コーナーキックとなる。リュウジは悪い予感がした。ゴール前で敵と入り乱れる選手の動き。誰もが自信なさげだ。集中力が散漫で、マークを掴《つか》みきれていない。あれではこぼれ球への反応が遅くなる。
コーナーキックはふわりとした浮き球だった。パチが敵とヘッドでせり合う。密集地帯でボールが弾き、弾かれ、ベルナールは至近距離からのシュートにまったく反応できず、股間《こかん》を抜かれた。ネットが揺れて0対2。敵の応援団の意気が上がる。スタンドを見上げると、さっきよりホーム側の人数が多くなっている。ファッション雑誌をめくっていた母親も今では飛び跳ねている。
「シティオ」のサポーターは沈黙の後、怒鳴り声となる。ビセンテの怖い母親とハビエルの怖い奥さんが口汚いまでの叱咤《しつた》激励の声を張り上げる。「このままじゃ家に入れないよ」とか「飯はおあずけだよ」とでも言っているのだろうか。
まだ流れの中で得点されたわけではない。前半で1点返して攻撃のリズムさえ掴めれば、守備ラインも落ち着くはずだ。アントニオに頼らない方がいい。供給源がひとつでは駄目だ。アントニオを頼らないということは俺を入れるということだ。
俺を見ろってば、監督。
リュウジのポジションにいる右サイドハーフは、ボールをもらってもタメを作ることができず、上がろうとするサイドバックのハビエルに時間とスペースを与えることができない。オーバーラップできないハビエルが苛立ってくる。
「ポンセラ!」
フリーで受けてもボールの出し所に困っている右サイドハーフに、監督が「クロスを上げろ!」と、その能力以上の注文をする。案の定、精度のないクロスで、敵センターバックに簡単にヘディングでクリアされてしまう。すると敵のカウンターアタックが襲いかかる。
さほど速くはないが分厚い攻め。アントニオもエミリオも戻りが遅い。ずるずると下がるパチとミッチェルめがけて相手ツートップが突進する。それは囮《おとり》だった。中盤の選手が飛び出してくる。追いすがるハビエルは振り切られてしまい、最後の手段でユニフォームを掴もうとしても手が届かない。ペナルティエリア内に突っ込んでくる二列目の選手にミッチェルが気付いた時には遅かった。流れの中でスムーズに、まさに教科書通りのようなスルーパスからゴールを決められた。
0対3。前半ですでに。
笛が鳴って、長い長い四十五分がやっと終わってくれた。
ハーフタイムのロッカールームでは、監督が口許《くちもと》から泡を吹いて檄《げき》を飛ばしている。
言葉の半分も理解できないリュウジだが、具体的な戦術の指示ではなく、「お前ら、どうしちまったんだ」だの、「格下相手に悔しくないのか」だの、こういう場合の精神高揚の決まり文句ばかりだった。
選手は誰も聞いていない。やみくもに水分を補給し、汗を吸ったアンダーシャツを着替え、「チクショー」とか「こんなはずじゃなかったのに」とか、地面に向かって吠えている。監督はみんなを落ち着かせることができない。動揺も興奮も、何もかも選手に伝染させないと気が済まない監督なのかもしれない。
マノロだけが冷静に、パチとミッチェルのセンターバック二人に細かく指示をしている。中盤に無理なプレスをかけさせるな、寄せをしっかりさせろ、それができればラインを上げられる、と徹底している。
監督の怒号が煉瓦の室内に耳障《みみざわ》りなまでに反響する。リュウジはいつか父親が教えてくれたことを思い出した。
「ヤジロベエの上に乗る椅子」
ドイツではサッカーの監督のことをそう言うらしい。監督がチームを受け持つ時、まず自分の志向するサッカーを選手に分かりやすい言葉で伝え、理解させ、グラウンドでの実践に導く。「このオヤジの言うことについていけば、俺たちも得をするかもしれない」と選手に思わせるのが選手|掌握《しようあく》術の第一歩で、不安定なヤジロベエの上にしっかり椅子を置いて座ることのできる監督こそ一級、ということらしい。
フェレール監督と不意に目が合った。そこで怒号が止んだ。そういえばお前がいたな、という監督の目だった。リュウジは、忘れる奴があるかよ、と見返してやった。
あんたはまるで、右に左に揺れまくるヤジロベエの上で椅子から転げ落ちそうになっている監督に見えるよ。
監督が顎をしゃくる。出ろ、と言ったのだ。リュウジは後半からの出場を短く言い渡された。
フィールドにいながらにして、自分と敵味方の位置を俯瞰《ふかん》で見ることのできる選手こそ超一流と言われている。
リュウジにはまだその能力は備わっていないが、どこにスペースが生まれ、消えてはまた生まれるのか、右サイドでフリーランニングをするうちに一瞬だが、フィールドの俯瞰図が見えたような気がした。調子のいい証拠だろう。
スペインの地に足をつけて以来、自分の肉体が最もキレているという実感があった。誰も信用することができない、自分一人でゲームを切り開かなければならないという使命感が、リュウジにみなぎっている。
自分をマークする敵中盤の目線を盗み、自分を見ていない瞬間にダッシュした。欺《あざむ》いたのは敵だけではない。フェルナンドからアントニオに渡ろうとする中距離パスをリュウジがカットしてやった。どうせアントニオに付いているマーカーによってボールを奪われるくらいなら、先に奪ってやる。
速いドリブルで前線へ攻め上がる。首を振って敵を見つけ、お前が見えてるぞ、と知らせてやる。全力で追いかけてくる敵中盤に「俺のチェックに気付いているのか」と思わせるのだ。敵のモチベーションを殺《そ》ぐための「首振りプレー」は中田英寿から学んだ。彼は目だけで敵ディフェンスを躊躇《ちゆうちよ》させられる選手だ。
トップスピードでボールを持ったままルックアップすることほど難しいものはない。ドリブルしながら前方を見た。リュウジの視線の先にはマルコがいた。敵ディフェンダーはリュウジの目線につられて、スペースへ走り込むマルコを捕まえようとする。これによって別の場所にスペースが生まれた。
リュウジはそこへボールを運ぶ。ビセンテが敵センターバックを背負って、堅牢《けんろう》なポストとなってボールを待っている。リュウジはビセンテの左側へと、彼を囮にして突破を試みる。シュートコースが開いた。だがこのままでは左足で打たなくてはならない。大きくキックフェイントをかけて追いすがるディフェンダーをかわし、切り返そうとする。自分の大砲のようなシュートがネットをぶち破るイメージが頭に閃《ひらめ》いたその瞬間、さっきまでビセンテをマークしていた敵センターバックがビセンテを捨てて襲いかかった。リュウジは重量級のスライディングを受けた。
「エル・トレド」の選手のような「敵を削ってやろう」という悪質なスライディングではなかった。ちゃんとボールを狙っていた。それでも軸足まで激しく払われ、倒された。
主審の笛は鳴らない。プレーは進行しているが、リュウジは左足のスネを押さえたままフィールドに倒れている。ボールがラインに出されたのかプレーが止まっていた。リュウジはまだもがいていて、地面で顔を歪《ゆが》ませ、芝を噛《か》んでいた。
「エスタス・ビエン?」
大丈夫? と心配そうに覗き込んでくるのはエミリオ一人だった。地面から見上げた視界には、リュウジを心配して駆け寄ってくる他のチームメイトの姿はなかった。
エミリオに腕を取られ、やっと立ち上がることができた。
アントニオもビセンテも、「さっさと自分のポジションに戻れ」と言わんばかりの視線を投げかけ、リュウジに背を向ける。
自分が完全に孤立していることを物語る光景だったが、リュウジは今さらショックを覚えたりはしない。
俺は俺のプレーをやるだけだ。これはひょっとしたら11対10対1のゲームなのかもしれない、とさえ思った。
アントニオを無力化した敵ボランチが、リュウジの最初のプレーを見て以来、リュウジへのマークにも気を配っているのが分かった。
「そんなマークは必要ないよ」と言ってやろうか。何故なら味方のボールは来ない。
だからといって味方のパスをカットするような真似を続けてやるわけにはいかない。リュウジは敵の、スピードはないが効果的な攻め上がりに対して、とりあえず守備に専念する。
敵左サイドバックがパスをもらおうとライン際を駆け上がってくる。リュウジはボールの出所を確かめてから寄せに行く。リュウジは振り抜かれた。背中から飛んできたサイドチェンジのパスを許してしまった。追いすがる。かわされる。くそっ。
もう俯瞰図など見えない。体がキレていると思ったのは単なる気のせいか。さっき痛めた左足のせいだ。いや、そんな言い訳は自分にも通用しない。何かが狂っている。大きく狂い始めている。
ゲームは「シティオ・アトランティコ」にとって、目を覆いたくなるような展開になっている。実際にスタンドではペペやアリシアが目をそむけているかもしれない。
サイドから中盤を経由して逆サイドへ、相手は余裕のパス交換。こっちは毎度の如《ごと》くラインを下げられ、スペースに相手フォワードの侵入を許し、ボールの動きではなく人の動きにディフェンダーはつられる。後手後手に回る。
さんざん恥をかかされたディフェンスの中心人物で、怒りと恥辱で顔を真っ赤にしているミッチェルが、苛立ちからかゴール前の敵フォワードを確信犯的なファウルで倒してしまう。
フリーキックとなる。五枚の壁の一番外側にリュウジも入る。ベルナールが位置を調節させる。リュウジは顔と急所をブロックして、襲撃に備える。
笛が鳴った。ボールが蹴られた。リュウジはジャンプした。壁の中で最も背が低いから、誰よりも高く跳ばねばと思った。それが災いした。ボールはリュウジの頭をかすめる。イヤな角度になった。ゴールの外にそれようとしていたボールはコースを変えてしまい、ベルナールは逆を突かれた。長い手の先に触れたものの、ボールはゴールに吸い込まれてしまった。
0対4。
その先のことはほとんど何も覚えていない。
味方からボールが回ることはなく、相手のパスミスで突然足元にやってきたボールも、ドリブルの一歩目か二歩目でいつの間にか消えていた。ボールに嫌われているのだろうか。そんなんじゃない。相手の読みが勝っているだけだ。俺が遅いからだ。
終了のホイッスルを聞いた。「カテドラ」の神様が「シティオ」のみんなに慈悲を与えるような笛の音だった。フィールドの選手もスタンドの応援団も、リーグ優勝候補の「シティオ・アトランティコ」を破る大金星に沸いている。
そんなに嬉《うれ》しいか。嬉しいんだろう、きっと。
リュウジは不快な汗をたっぷり吸いこんだユニフォームを脱ぎ、しかめっ面で悔しさを表情に刻んでいるチームメイトを一人一人、睨み付ける。
二十年どころか、これでは一年だ。
お前らの糞《くそ》サッカーに付き合わされる羽目になった俺の、残り少ない寿命のことだ。
今、リュウジをかろうじて支えているのは、仲間への責任|転嫁《てんか》だけだった。
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第五章 エル・ファンタスティコ[#「第五章 エル・ファンタスティコ」はゴシック体]
試合翌日の月曜日は完全休養日だ。シエスタを終えて練習グラウンドに出てきても誰もいない。
ゴール左前20メートルの位置にボールをプレースし、そこから目安で9・15メートル離してフリーキック用の人形たちを立てる。リュウジは思い直して、近めに置いた。実戦では相手選手たちの壁がルール通りに立つことはまずない。
「シティオ・アトランティコ」が持っているフリーキック練習器は、ベニヤ板を人型に切って五対並べた手製のものだ。日本のU─17代表候補合宿に参加した時は、「ベンケイ」という商品名の、灯油のポリタンクと同じ材質で人形部分が作られた、公園遊具に似た立派な練習器があった。それを購入できる予算は、この地の果てのユースチームにはない。
リュウジは五対の人形の右、頭ぎりぎりで越えるコースを狙いすまし、ボールを鋭くこすり上げるようにして蹴った。人形をかすめるどころか命中して側頭部が「ベリッ」とへし折れ、ボールはゴール前へ転々とした。これまで何度もボールを命中させられ、ガクガクになっていたベニヤの頭部分だった。
リュウジは自分の側頭部にボールが当たった時の感触を思い出す。昨日の試合、「カテドラ」に与えたフリーキックの4点目は、壁に入った自分の頭にボールが当たり、コースが変わってゴールに吸い込まれた。
格下相手によもやの惨敗。グラウンドを去る選手たちはまるで葬列のようだった。ペペやアリシアの応援団もどう慰めの声をかけていいのか分からず、強張《こわば》った笑みを表情に張りつかせ、遠巻きにしていた。ビセンテの怖いお母さんだけが吠《ほ》えていた。
リュウジは欲求不満の塊《かたまり》を吐き出すように、フリーキックの練習を続ける。蹴っても蹴っても、いくらベニヤの人形を壊しても、体内に昏《くら》く淀《よど》むものは消えてくれない。
視界に人間の動きを見た。ロッカーハウスの庇《ひさし》の下、南中高度の太陽が作る影の下に、マノロがいた。昨日の試合で使った用具を倉庫に戻しに来たようだ。
リュウジがしばらく見ていても、向こうから距離を縮める様子はない。ただそこに突っ立って、リュウジの練習を眺めているだけだった。庇の影が濃くて表情までは見えない。温かく見守っているのか、冷たく突き放しているのか。
お前に足りないものは、何か分かるか?
そう問われているような気もする。マノロはやがて踵《きびす》を返す。分かるまでそうやって一人でボールを蹴っていろと言いたげに、マノロは背中を向けた。
リュウジは蹴る。踏み込みが浅いせいでカーブのかからないボールを、側頭部の欠けた被害|甚大《じんだい》の右端の人形が今度は腹で受け、苦しげな音をたてた。
次節は優勝候補の「アルカラ」をホームで迎えてのゲームとなる。アトランティコのトップチームの育成担当も見に来るというから、選手にとっては数少ないアピールの機会である。
ランニングとフィジカル中心の火曜日の練習は、後半、二十分ハーフの紅白戦に当てられた。普段なら実戦練習は試合に近くなる木曜日頃に組まれるが、フェレール監督は「カテドラ」戦での問題点を早めに修正したかったようだ。
リュウジはレギュラー組に入る。相変わらずチームの連中は、相手が守りを固めていて、横パスをするしかないような場面でしかリュウジにボールを出さない。中央でボールの供給源となるアントニオは、攻撃の起点を左で作ろうとする。
仲間のボールを奪いに行くような真似は、もうやめた。そんなことをして何になる。消耗するだけだ。冷えきった心を抱えているリュウジは、ディフェンダーまでやみくもに攻撃参加するレギュラー組の有り様を、白けきった目で右サイドから眺めている。
相手がサブ組なのにカウンターを食らい、中盤の戻りは遅く、ゴール前で二対二の局面となって失点してしまった。
「アグアンタ!」
監督の怒号が駆けめぐる。パチとミッチェル、失点を許した二人のセンターバックより、中盤の選手への注文だ。ボールを無理に取りに行くのではなく、マークしてパスコースを消せ、と指示している。「カテドラ」戦における最大の反省点だ。皮肉にも監督の言葉を守っていたのはリュウジ一人だった。相手のボールを取りに行こうとしないのは、敵との間合いを詰めているように見えるかもしれないが、実はやる気がないだけだ。食らいつくようなチェイシングからボールを奪い、トップスピードのドリブルで攻撃するリュウジは、今、いない。
マノロが監督の指示を補足して、中盤の選手に言う。
「アウン・ケ・ケダ・ドス・デフェンサス・ポデーモス・クブリール・エントレ・トードス」
2バックになるかもしれないが、全員が守りのことを考えれば弱点を補える。味方の守りの数は手薄だと常に思いながら攻撃しろ、ということか。
つくづくバランスの悪いチームだと思う。いくら「我慢して寄せろ」と指示してもボールを早く奪いたくてたまらない。そしてすぐに攻撃したくなるのが、このチームの弱点なのだ。監督の攻撃重視のチーム作りが招いた結果だろう。
ボールを支配した時は強い。当たり前だ。相手は控えのメンバーだ。真ん中に張っているビセンテは、背中のディフェンダーを弾き飛ばすようにして反転し、シュートに持ち込むことができた。ネットを揺らして喜んでいられるのは今だけだ。次の「アルカラ」戦がこの調子で進むとはリュウジには到底思えない。
引いて守るサブ組の前で、リュウジは転がってきた横パスをワントラップしてそのままアントニオに返した。勝手にそっちで攻撃してくれ、というメッセージをボールに乗せて。
次節のレギュラーに選ばれるようアピールしなければ、という前向きな意識などまるでない。こんなチームでレギュラーを取ったからといって何になる。その醒《さ》め方は末期症状だった。
自ら袋小路に入り込んでしまったかのようだ。自分でも分かっているのだが、それはずぶずぶと足がはまる沼地みたいなもので、なかなか抜け出せそうにない。
週末にたっぷり遊んで人々が遅い眠りについたアランフェスの市街地は、日曜日の朝六時半、耳を澄ませば住人たちの寝息が聞こえるような静寂に包まれている。
朝日が昇るのは遅く、やっとスペイン瓦の屋根を照らし出した。朝もやに斜線を引く光の中を、リュウジは靴底を引きずる足どりでペペの店に帰ってくる。
試合前日なのに夜遊び。朝帰り。
いつだったか、前日に遊び呆《ほう》けて充血した目で試合に出かけるセサルとベルナールを「いい根性している」と思ったが、その根性はすぐにリュウジにも身についた。
土曜の夜、クラスの連中に誘われて、町に一軒しかないディスコで踊り狂った。日本でディスコに行くなんて滅多になかったから、そこでかかっている音楽が流行《はや》りのものなのかは分からない。男四人、女三人のグループで固まり、三原色のライトが回転するフロアで単調なビートに体を乗せた。
「マオウ」という銘柄のビールを何本飲んだか。母に隠れて飲んでいた日本のキリンビールのような伝統的、一般的なビールだが、味はごく軽い。友人たちは水代わりに飲んでいた。
はじめは気付かなかったが、実は三組のカップルが決まっているところにリュウジが誘われたようで、午前四時頃、連中はそれぞれ二人きりになれる場所を求めてディスコから散って行った。
リュウジはしばらく一人で時間を潰《つぶ》してから喧噪《けんそう》の場を出てきた。まだ夜の帳《とばり》を残しているプラタナスの並木道を抜け、王宮前のベンチに腰掛けた。
体中にまとわりついているタバコの煙と酒臭さを、シンとした清涼な朝の空気に身を浸すことで洗い落とそうとする。王家の離宮の絢爛《けんらん》たる建築物が、次第に煌々《こうこう》と朝日に照らされていくのを見つめた。
メロディを口ずさむ。アランフェス協奏曲の第二楽章だ。憂《うれ》いを帯びた旋律《せんりつ》はどうしようもなく自分の孤独を際立たせるが、まだ耳の中で残響しているディスコ音楽は少なくとも消してくれる。アリシアが「この町の名を有名にした音楽よ」と教えてくれて、テープに録音してくれた。日本から持ってきたウォークマンで聞いているうちに、覚えてしまったのだ。
アリシアからウンチクも聞かされた。ロドリーゴ以前には傑作と呼べるようなギター協奏曲は生まれていない。協奏曲の独奏楽器であるギターは、たとえ少数編成のオーケストラが相手でも音が埋もれてしまう。ロドリーゴはこのアランフェス協奏曲によって、初めてギターとオーケストラの間に理想的な関係を生み出した。盲目の音楽家だったホアキン・ロドリーゴによる甘美なギターのメロディは、かつて内戦で荒廃したスペイン人の心に深く染みわたり、世界中に響きわたったという。五時間後には試合だ。どうせベンチスタートだろうが。ほうっと溜め息が出たところでリュウジはベンチから立ち上がる。ロドリーゴを讃《たた》える銅像の立つサンティアゴ・ルシニョール広場を抜け、寮のベッドを求めて歩きだした。
「ペペ・デ・ボンボ」の扉を開けたところで、店内にたちこめるコーヒーの匂いに気付き、カウンターの中、アリシアが黒髪をなびかせて振り返ったのが見えた。
リュウジは朝帰りを咎《とが》められるのかと、一瞬、棒立ちになる。
「おかえりなさい」
日本語だった。教えた覚えはない。「カフェ・ソロ?」
眠気覚ましに濃いヤツにする? と訊《き》かれた。
カフェでも酒場《バル》でも、エスプレッソを抽出《ちゆうしゆつ》する大型の機械で瞬間的な圧力をかけ、ドロドロに濃いコーヒーが作られる。リュウジは首を振って、「コン・レチェ」と答える。ミルクで割ってほしいと頼む。眠気を覚ますより、二時間でも眠りたい。
ワインとオリーブ油を吸い込んで艶《つや》の出た一枚板のカウンターに、それが置かれる。
俺が帰ってくるのを待って、コーヒーを淹《い》れてくれたのだろうか。
啜《すす》りながら上目遣いでアリシアを見るが、彼女はただ、油がぐらぐらに煮立った大鍋の前で、蛇がとぐろを巻いたような太くて長いチューロスを揚げている。
無言が続いた。カフェ・コン・レチェを飲み干して、立ち上がると、
「おやすみ」
振り返るアリシアの口から放たれたのは、また日本語だった。
「おやすみなさい」
と、リュウジはつい礼儀正しく応えてしまった。油のはじける音を背中で聞きながら、店の奥へ、二階の寮へ通じる暗い階段を上がる。
女の優しさなのか? リュウジは首をかしげる。
開幕戦で後半から出場したものの、相手の十一人だけでなく味方の十人も敵に回したようなゲームで疲れ果て、今日の「アルカラ」戦で結果を出さないとさらに道が険しくなる俺を、アリシアは淹れたてのコーヒーと日本語で元気づけたのだろうか。
俺に惚《ほ》れてたりして。
なわけないか、とリュウジは独りごち、刑務所の独房を思わす部屋に入るなりベッドに倒れ込む。錆《さ》びたスプリングの音を聞いたかと思ったら、泥のような眠りにおちた。
思った通りの背番号15、初戦と同じベンチスタートだった。
ホームの試合場となる練習グラウンドには、確かに黒いサングラスをかけてガムを噛《か》んでいるトップチームの育成担当らしき男と、ノートを手にしたその部下らしき男がいるものの、彼らが「逸材《いつざい》はいるか」と目を凝らすのは、同じユースでも上部組織の「ラーヨ・アトランティコ」のゲームを見る時だろう。
「シティオ」にはほとんど期待していないが、リーグ優勝候補の「アルカラ」を相手にしたゲームなら多少なりとも見る価値はあると思って足を運んだに違いない。
彼らに「何か」を見せなければならない。このチャンスを逃したら次にスタンドで見てくれるのは何週間先か分からない。ベンチに尻を貼りつかせたままのリュウジに焦りがこみ上げる。
整列と記念撮影が終わって、キックオフとなる。
「アルカラ」は強いチームだった。最初の十分でその強さの何たるかが分かった。アウェー・ユニフォームは上下が黒一色で、まず視覚的に迫力を与える。
センターバックは前線へのフィードはうまくないが、ヘディングは滅法《めつぽう》強い。両サイドはとにかく速い。筋肉の詰まった屈強なセンターフォワードは、チャンスメークは二列目の選手にまかせ、ペナルティエリア内で存在を誇示する「ボックス・ストライカー」の典型だった。エリア内で敵ディフェンダーを背負っても、強引にゴールを向いてシュートまでもっていける。サイドからクロスが上がれば、泥臭くボールに絡んでキーパーを脅《おびや》かすことができる。
中盤のサイドの選手はゴールから四十五度でボールを持ったら、必ずクロスを上げることができる。だからフォワードは常に真ん中でボールを待てるのだ。
一人一人の選手が「一芸」に秀《ひい》でている。日本人のように、何でも平均点、という選手ではない。自分の得意技をアピールできる。
攻撃の速さと厚みは、先週の「カテドラ」の比ではない。ボールの唯一の供給源であるアントニオをことさらマークしなくても、彼から前線へ渡るボールはことごとく読まれてしまう。そして長くて正確なパスでカウンターアタックが始まる。
「シティオ」陣内に入ると、フィールドの幅いっぱいに黒い波濤《はとう》が広がったかのように、襲いかかってくる。トップ下の10番を経由しての、右のタッチラインから左のタッチラインへのサイドチェンジ。その広い視野と展開力によって、「シティオ」の守備陣は穴だらけにされる。
10番によってスペースに通されたパスに、ストライカーがパチを振り切ってシュートに持ち込む。前に飛び出したベルナールの判断を高笑いするかのような、緩やかな放物線を描くループシュートだった。ゴールへと転々とするボールをミッチェルが追うが、ネットを静かに揺らして、まず0対1。
フェレール監督が立ち上がって指示を送る。
「クイダード・コン・エステ!」
そいつに注意しろ。10番のことを言っている。ボランチのフェルナンドがマンマークに付くようだ。ハビエルとエミリオの両サイドバックにも上がりを少なくさせる。ゲームが落ち着くまで、とりあえずディフェンスラインを整えようという狙い。
こいつらに通用するだろうか。しないだろうとリュウジは思った。
またアントニオのパスコースが読まれて、ボールを奪われた。黒い大波を「シティオ」の守備陣は戦々兢々《せんせんきようきよう》として迎える。フェルナンドが敵10番をマークしている。ところがサイドチェンジは一人飛ばしたパスで行われ、10番を経由しなくても分厚い攻めに変わりはなかった。しかもフェルナンドが10番につられているせいで、真ん中にポッカリとスペースができてしまう。左サイドのエミリオが慌《あわ》ててそこを埋めようとすると、今度は彼が離れたサイドにボールが展開される。右からのクロス。ゴール前の敵フォワードが飛翔する。この高さは何だ。空中浮遊しているかのように高い打点からのヘディング、ニアサイドぎりぎりに決まって、0対2。
スタンドから怒りまじりの溜め息が聞こえる。いつもの応援団の面々が吠え始める。
リュウジは居ても立ってもいられず立ち上がった。両隣の選手が「何をするんだ?」という目で見上げる。監督が「アップをしろ」と言ったわけではない。それでもベンチを離れて、体に熱を送り始めた。
監督には俺のアップが視界ぎりぎりに見えているはずだ。いつでも行けるぞ、と知らしめる。しかし振り返ったのはマノロだけだった。
ゲームは「シティオ」の防戦一方になっている。ボールを持てたとしても、敵の中盤は間合いを詰め、縦にパスが出せない。横パスとバックパスの連続。
スタンドから荒々しい声が降ってくる。
「ケ・パッサー!」
何やってんだ!
「バーモス・アタカー!」
攻めろ!
フィールドにいない人間には分からない。攻めたくても攻められないのだ。
アップで汗をかき始めた頃、マノロがベンチを出てきた。監督の「出る用意をしろ」という命令を伝えに来たのかと思ったら、違った。リュウジの相手になってくれる。近い距離から投げてくるボールを、リュウジは左右に動きつつ両足インサイドで交互に、ダイレクトで返す。
ゲームに見向きもせず、マノロが投げてくれるボールのコントロールに集中した。
いつでも出られる。あとは監督の判断だ。ベンチを見る。監督は背中を向けたままだ。振り向かせてやりたい。マノロの掛け声が強くなる。よそ見をするな、ボールだけを見ていろ、と言っているのか。体が充分なアイドリング状態になった時、前半終了の笛が鳴った。2点ビハインドで折り返した。
ハーフタイムの光景は、先週の光景をビデオ再生しているみたいだった。意気消沈の選手に監督がしきりに気合を入れているが、心に響いている様子はない。いや、先週とは違う。監督はリュウジと目が合っても、後半の出場を言い渡すことはなかった。このメンバーのままで後半に入って、どうやって流れを変えるつもりだろうか。
「ノー・オス・ダ・ベルグエンサ」
お前ら、こんなゲームをして恥ずかしくないのか!
「エスタイス・ドルミードス」
お前たちは寝てるのか!
「テネーモス・ケ・ルチャール・アスタ・フィナル」
われわれは最後まで戦い抜かなきゃいけないんだ!
恥辱《ちじよく》をバネにして立ち上がれという類《たぐい》の連呼だけだ。チームの現状分析もしないし、具体的な対策も言ってくれないから、選手はどうしていいのか分からない。
ハーフタイム十五分はそれだけで過ぎた。リュウジは絶望的な気分を引きずったまま、皆の一番後ろについてベンチに戻る。
中盤で無理なプレスを仕掛けずに間合いを詰めるという作業は、消極的プレーと紙一重だ。敵はゆっくりとボールを回して、生まれては消えるスペースに攻撃の芽を探そうとする。
その膠着《こうちやく》状態に「シティオ」の選手たちは耐えられなくなる。アントニオがバックチャージ。笛が鳴る。
相手フリーキックは速いリスタートから始まる。また歯車が狂い始める。前線で回されるボールに、焦りからセンターバックのミッチェルが飛び出して奪おうとする。かわそうとする敵10番はミッチェルの足がかする時を狙って、うまく前に倒れた。また笛。ミッチェルは腕をぶん回して怒っている。判定にではなく、罠《わな》に引っ掛かった自分への怒りだ。
ゴール正面25メートルからのフリーキックとなった。「シティオ」は五枚の壁で守る。頭ひとつ身長が抜きん出ている敵のストライカーが壁の中に強引に割り込んできた。ボールが蹴られる瞬間、そいつが壁の掃除人と化してシュートコースをこじ開けるのだろう。主審の笛を待つ間、「シティオ」の選手と押し合いへし合いを演じているが、ストライカーは頑丈にそびえ立っている。
蹴るのは10番。予想通り、ストライカーが周りを弾き飛ばして開けたコースにボールを蹴ってきた。ベルナールの正面だった。強いボールを胸と両手で受け止めるはずが、弾いてしまう。自分の1メートル手前に逃がした。そこへ突っ込んでくる両軍選手。密集地帯の蹴り合いから、パチが懸命にクリアする。高々と飛んでくるボールが、タッチライン沿いで弾み、リュウジのいるベンチに転がってきた。
あいつがやって来る。
体中の動脈と静脈が螺旋《らせん》となって太く巻かれ、一匹の獣の形となる。あの感覚。「龍」の感覚がやって来る。
リュウジはベンチを飛び出す。転がってくるボールへと突進する。渾身《こんしん》のインステップで、選手がまだ密集している自陣へと蹴り込む。それは回転の少ない弾道で、宙を裂き、パチの胸元に収まった。
全員がその時、リュウジに注目した。フィールドが静寂に包まれた。停滞するゲームの空気がひとつの熱気で攪拌《かくはん》された瞬間が、皆に思い出させる。
このゲームに足りないもの。それは彼らがチノと呼ぶ存在。
喉元《のどもと》から顔を出した「龍」が扁桃腺《へんとうせん》あたりにまだ潜んでいた。いつでも奴らへ噛みつける。リュウジは沸騰する血の熱さを絶やさぬように、注目する連中を睨《にら》み返し、両足で小刻みなステップを繰り返してタッチライン際から戻る。
そこでフェレール監督の目線とぶつかった。監督は初めてリュウジに気付いたかのように、まじまじと見つめている。そして皮肉っぽく何か言った。
「キエレ・フガール・タント?」
そんなに蹴りたいか、と言ったに違いない。
「今頃気付いたのかよ、このタコ」
日本語が分からないのをいいことに、リュウジはそう言い返した。ボールをただ蹴りたいだけではない、このゲームに出たいんだよ、タコ。
監督はリュウジの反骨心だけは理解したようだ。口の端を曲げた。ニヤッと音が聞こえてきそうな微笑《ほほえ》みだった。マノロが監督の笑顔の意味を汲《く》み取ると、すぐに用紙を取り出して書き込む。交代はこれでいいですかと、監督の了解を得る。
ボールがアウトになっている間、電光石火《でんこうせつか》の手続きが行われた。リュウジはスネ当てとスパイクの裏を第四審判に確認させ、ベンチに下がる右サイドの中盤の選手と交代し、ピッチに立つ。
スタンドから「リュウジ!」と、いかにも発音しにくそうな巻き舌の声が飛んでくる。ペペとアリシアだ。
リュウジはスタンドを見上げる。最上段にいるトップチームの育成担当二人に、「よく見ておけよ」と心で呟《つぶや》きかける。
敵スローインからゲーム再開。ゆるやかな敵の攻撃がまた始まる。リュウジは狙い澄まして、相手のパスコースに入った。ボールをインターセプトした。アントニオとマルコとビセンテが反応して走り出す。
リュウジが司令塔となって3トップがボールを受ける状況へと一変する。しかし相手の戻りは早く、ボールの出し所がすぐに限定された。リュウジはドリブルで前へ運ぶ。右から内側へとカットインして、そのまま左サイドへと流れる。フェイントで切り返し、パスコースとスペースが見つからないままゴール前へと距離を詰める。
マルコがファーサイドで手を上げてボールを要求している。そこは無理だ、ヘディングに強いセンターバックに跳ね返される。アントニオもニアサイドで「アキー!」と叫ぶ。そこも駄目だ、もう一人のセンターバックがコースを消している。ビセンテが中央でディフェンダーを背負って、クサビのボールを要求している。お前にボールを出して返してくれるのなら分かる、どうせ反転してシュートに行こうとするんだろ? そこも却下《きやつか》。
リュウジは自分で行こうと決断してゴールへと向く。ボールを運びながら、自分の足が届くぎりぎりの範囲でボールをさらし、それを奪おうとする敵を一人かわした。二人かわした。が、個人技に走ったツケが訪れる。あの10番が後ろから足を出してきた。足元から弾かれたボールが敵ボランチに渡った。リュウジはバランスを崩してピッチに手をつく。笛は鳴らなかった。リュウジの攻め上がりで前がかりになっていたこちらの中盤が慌てて戻る。
こういう局面で2バックとなる守備陣が、両サイドへのパスで振られ、ゴール前に大海原《おおうなばら》のようなスペースを開けられた。走り込む敵ストライカーは、苦もなくグラウンダーのラストパスを右足インサイドで確実にゴールへ流し込んだ。これで0対3。
リュウジのミスによる失点だった。しかも交代直後に。
ベンチを見る。監督は椅子《いす》に沈み込んだままだ。誰もアップさせないところを見ると、俺を代えるつもりはないらしい。諦《あきら》めるなら諦めてくれた方がいい。
マノロだけが、
「ポデーモス・レバンタール・エ!」
まだ大丈夫だ、逆転できるぞ、と身振り手振りで言っている。
センターサークルにボールが置かれて、ゲーム再開。中盤の底のフェルナンドに一旦《いつたん》ボールが戻される。
リュウジは猛然と右サイドを駆け上がる。正面で対する敵左サイドバックが驚いているのが分かる。3点取られても諦めず、まだ前向きにボールを追うリュウジに圧倒されたのだ。
他の連中が諦めても俺は諦めない。ミスを取り返してやる。
フェルナンドはその時、一心不乱に駆け上がるリュウジの姿に目を奪われた。チノが走る先、敵左サイドバックの裏にはスペースがある。チノは俺の出すボールを信じて、ひたすら走っているのか……。
リュウジはすでに敵左サイドバックの裏を取っていた。今、ボールが来れば、時間とスペースがある状態でボールを受けられる。
フェルナンドは本能的に選択した。リュウジに賭《か》けてみた。右サイドのオープンスペースへ送った。それはタッチラインを割るかに見えたが、トップスピードで走っていたリュウジはぎりぎりで追いつき、そのままジャンプして右足のインサイドでボールを迎えた。
相手の裏を取ってフリーの状態でボールを取ったが、クロスを上げるにはまだ早い。味方の攻め上がりが遅かった。ならばドリブルでゴールへ向かうのみ。
さっきのリプレーを見ているみたいだ。遅れてきた3トップがそれぞれの場所でボールを要求してくる。しかし敵のマークも確実だった。三つの選択肢がすぐに消された。目の前にいるあと一人をかわせば、あわよくばファウルを受け、ペナルティエリア隅の絶好な位置でフリーキックをもらえるかもしれない。そんな浅ましい欲求が高まる。
その時、視界の左端、アントニオが敵センターバックを振り切ったのが見えた。短いグラウンダーでパスを出せば、ワントラップでシュートにもちこめそうなポジショニングだった。
リュウジは一瞬迷った。しかし決断した。さっきフェルナンドがボールをくれたように、リュウジはアントニオの狡猾《こうかつ》なプレーを信じてみようと思った。追いすがる敵ボランチの股間《こかん》を右足インサイドで抜くパス。それはインサイドキックながら鋭く地を這《は》い、アントニオの左足に渡った。ワントラップして左足でシュートする一瞬後の光景がリュウジには見えた。
ところがアントニオは予想を裏切った。ボールを左足のインサイドでダイレクトに、右足の踵《かかと》越しにボールを落とした。いつの間にか背後に走り込んでいたマルコへのラストパスだった。
マルコの疾風《はやて》のような突進から放たれた右足インフロントのシュートは完璧にコントロールされ、ゴール右に吸い込まれる。敵キーパーはまったく反応できず、ネットがちぎれんばかりに揺れた。
1点返した。スタンドが沸く。リュウジは誰よりも反応が鈍く、仲間の歓喜の光景を茫然《ぼうぜん》と見ていた。今のゴールシーンが信じられなかったのだ。ネットに絡まっているボールを急いで取ってきたアントニオに後頭部を軽く叩かれた。称賛の仕種《しぐさ》だった。
リュウジだけでなく、チームの全員、それぞれの心の内部で不可思議な化学変化が起きようとしていた。
これまで試合でも練習でもなかった得点の形を目《ま》の当たりにしたことで、恐るべき力が自分たちに潜在《せんざい》しているのかと錯覚している。
錯覚は時には本物の力を育てる。2点ビハインドのこのゲームがそれを証明しつつあった。
流れが変わっていた。「シティオ」がボールを取ると、マルコが鋭角的な動きでゴール前に侵入してスペースを作る。ビセンテにクサビが入ると、背中でディフェンダーを食い止めてボールをキープし、仲間の攻め上がりを待つ。アントニオが二列目から飛び込んでくると、リュウジがその足元に優しいラストパスを出す。それらの攻撃はゴールまであと一歩だが、歯車が噛み合っていることを誰もが実感した。
そうか。
リュウジはその時、視界の汚れが一掃されたような明晰《めいせき》な理解に至った。
さっきの得点シーンで、リュウジはペナルティエリアに接近しながら敵のファウルを誘うこともできた。しかしアントニオを信じた。その絶好のポジショニングを見た時、どうしようもなく信じてみたくなったのだ。パスを出したら、アントニオはリュウジの想像を超えた動きを見せた。ゴールへの意識が高すぎるアントニオがあの位置でパサーになったのだから驚いた。そしてマルコのゴールが生まれた。いくつもの信頼が生み出した得点だった。
俺が信用されていなかったんじゃない。
俺が仲間を信用していなかったのだ。
今、俺は十一人のサッカーをしている。仲間たちと見えない鎖《くさり》で繋《つな》がっている。そんな頼もしい実感は初めてだった。日本にいた時も味わったことのない自信だった。
敵の監督の指示によって、リュウジのサイドの守備が強化された。リュウジはほくそ笑む。自分一人でサイドを切り崩すことにこだわれば、強化された敵の網にかかる。しかし早い球離れで攻撃に絡めば、敵の中央は手薄になる。
実際そうなった。中央の選手のプレッシャーが甘くなり、その分、アントニオが自由に動けるようになった。
中盤の底からゲームを組み立てるフェルナンドから、強いグラウンダーのパスが来た。敵のマークも来る。リュウジはドリブルではなく中央のアントニオへダイレクトで返した。逆を突かれた敵のマーカーはバランスを崩し、その隙《すき》にリュウジは前のスペースへ走る。アントニオから再びパスが出ていた。「あ・うんの呼吸」とはこのこと。
リュウジは易々《やすやす》とマークを振り切ってアーリークロスを入れられる位置まで来た。ヘディングに強い敵センターバックがエリア内にそびえ立っている。高い打点を目指すクロスでは難しい。
さらにボールを運ぶと、敵の左サイドバックがボールを奪いに来る。さっき振り切った中盤の選手も追いすがる。ゴールラインぎりぎりまで運び、ひとつキックフェイントを入れてから、二人のディフェンスの間にボールを送り込んで、左右からブロックされる足の間を割って入った。スピードがなければできないプレーだ。
似たような突破シーンをかつてテレビで見たことがある。三年前、中一の時、フランス・ワールドカップの対アルゼンチン戦で、日本代表の中西永輔が観衆を沸かせたプレーだった。
ファーサイドにいるビセンテに素早くクロスを上げた。ビセンテは直接ゴールを狙えそうだったが、絶妙な折り返しで、あえて二列目から走り込んでいたアントニオに、柔らかいヘディングでボールを送った。アントニオは右足で強烈なボレーシュートを叩き込んだ。
2対3。1点差に追い上げた。拳《こぶし》をぶんぶん振り上げるフェレール監督のガッツポーズが見えた。あんたをもっと楽しませてやるよ。
スタンドでも応援団が縦に揺れている。アリシアの長い黒髪が躍っていた。後半は残り十五分。リュウジは歓喜の輪から早々に抜け出してポジションにつく。いつまでも喜んでいる場合じゃない。
この展開で前がかりになるな、というのは無理な話だ。
エミリオとハビエルの両サイドバックが攻撃参加する。リュウジに付いていた敵の中盤に微妙なマークのズレが見えた。ダイレクトでパスをつながれてしまうと後手を踏むという恐れが、寄せを躊躇《ちゆうちよ》させているのだ。そうなるとリュウジはボールを自在に持てる。背後をハビエルが追い越していく。リュウジは中へカットインすると見せかけて、右足アウトサイドでオーバーラップするハビエルにパスを出す。ハビエルはライン際までボールを運んでマイナスのクロスを上げる。敵センターバックが難なくヘディングでクリアする。このルーズボールを拾えないと「シティオ」は苦しくなる。
2バックへと、左右に開いた黒い大波が襲いかかる。ゲーム前半でイヤというほど見た光景だ。リュウジは懸命に守備に戻るが、敵のパスミスやシュートミスを期待するしかない局面になった。フリーになった10番に侵入を許すと、ミッチェルが背後から掴《つか》みかかる。エリア内のファウルになった。イエローカードを掲げられてもミッチェルは取り乱したりしなかった。それ以外に方法がなかったのだ。
PKのキッカーは10番だった。ベルナールがコースを読む。10番はゆっくりした助走。右足インサイドから放たれたボールはベルナールの読みとは逆に入った。2対4。再び2点差に開いた。
攻撃へと前向きになったところで点差がまた開いた。ただでさえ苦しいのに残り十分。いつもだったら諦める場面だったが、チームの誰からともなく「バーモス、バーモス」と強い声が上がる。おそらく今のリュウジと同じ気分なのだろう。十分もあればこの点差をひっくり返せるかもしれない、という気になっている。
錯覚だろう。逆転なんてきっと無理だ。でも錯覚の力を信じた。逆転することより、せっかく楽しくなったサッカーをこいつらともっと楽しみたいとリュウジは思った。
敵は逃げきろうとする時間帯だった。深く守り、「シティオ」にボールを持たせるだけ持たせておいて、最終的にゴール前に入ってくるボールを確実にクリアしていた。
マイボールが自然とリュウジを経由するようになった。みんなが何を期待しているか分かった。引いた相手に対して、リュウジの個人技から生まれるものを望んでいる。
彼らの信頼を得て、切れ味の鋭いシザースでリュウジはディフェンダーの間に切り込んでいこうとする。しかし相手のマークが厳しい。そのまま左サイドへと流れる。相手の足に触れそうなところで、あえてそこに突っ込んでいった。足がかかるとすかさず倒れた。ファウルを誘った。ダイビングとも受け取られそうな倒れ方だったが、ホームでの笛は味方をしてくれた。
ペナルティエリアのほぼ正面からのフリーキックとなった。右足でも左足でも狙える絶好の位置だ。ベニヤ板の人形を置いて何度も練習した位置だった。
ボールをプレースするのはリュウジ。俺が蹴る、という意思表示にちゃんと見えただろうか。左足で蹴る位置に立つアントニオに、意味を含んだ眼差《まなざ》しを送る。
──分かってるな?
──ああ、分かってるよ。
──本当に分かってるのか?
リュウジは目線で念を押す。アントニオは頷《うなず》いた。グランビア通りの元コソ泥野郎と心が通じ合った。敵の壁は六枚。最も長身のセンターバックが壁の左から二枚目に立っている。リュウジが壁越しに巻いてゴールの左隅に入れるボールを予想しているのだ。リュウジはもう一度、自分でボールを置き直し、蹴りたくてたまらないと相手に思わせる。
主審の笛が鳴る。リュウジは助走を始める。壁がリュウジの動きにつられ、ジャンプした。リュウジはボールの上を素通りした。すでに背後に駆け込んでいたアントニオが左足で、壁の下を狙って蹴った。敵キーパーは右足に重心がかかっていて、低い弾道で飛んでくるボールにまったく反応できない。ネットを揺らした。スタンドが何種類もの声で沸く。3対4。また1点差に迫った。
エミリオがゴール内のボールを抱えてセンターサークルへ走る。残り五分だ。
相手は自陣でボールを回す。あからさまに時間稼ぎをする。前線の選手が懸命のチェイシングに行く。その迫力に恐れをなしたのか、敵は苦し紛れに前線へフィードする。パチが跳ね返すと、セカンドボールを取るため「シティオ」の選手は体を張る。ガツンと接触する。
左サイドのエミリオがボールを拾った。焦るな。そのボールを大事にしろ。敵がすぐさま帰陣してたちまち守りを固めるが、中央でエミリオからボールを受けたアントニオは、慎重にリュウジのいる右へサイドチェンジする。
リュウジはドリブルでつっかけて、ペナルティエリア隅まで運ぼうとする。背後にハビエルの疾走《しつそう》を感じた。先ほどの逆襲からの失点場面が脳裏に甦《よみがえ》る。彼の上げたクロスが敵にクリアされ、カウンターに見舞われた。
それでも、もう一度信じてみようと思った。
リュウジは相手左サイドバックを引きつけ、右足のアウトサイドでハビエルにパス、そしてゴール前へ走り込む。そこは完全に相手の数的優位になっている。ハビエルは右足インフロントでピンポイントのクロスを入れる準備に入る。すると、ようやくカバーに来るディフェンダーが迫ってきて、コースを限定しようとする。ハビエルはすかさず判断を切り換え、マイナス気味にリュウジに折り返した。
リュウジは視界の左端に敵ディフェンダーを見た。これを受けてもシュートコースはないだろう。咄嗟《とつさ》の判断でボールをスルーした。走り込んでいたのはマルコだ。追いすがる敵ミッドフィルダーに体を預けたまま、マルコもボールを跨《また》いでスルー、その後ろにいたのはアントニオでもなくハビエルでもなく、左から侵入してきたセサルだった。左足インサイドで確実にミートしたボールは、センターバックの膝に当たり、角度を変え、キーパーの逆をつき、ゴールに力なく転がりこんだ。まさか。本当にゴールだ。前線の二人が囮《おとり》となった攻撃。こんな戦術練習などしたことなかったのに、息はぴったり合っていた。
同点に追いついた。残り二分。しかし「シティオ」の選手たちは、途中から入ったリュウジ以外、燃料が切れたかのように足が止まっている。腰に手を当てている選手が目立ってきた。「アルカラ」の連中もアウェーで引き分けの勝ち点を得ようとするだろう。
しかし予想に反して、敵の監督は「シティオ」の疲労度と深いディフェンスラインを見て攻撃を命じた。一旦は3対0までリードしたゲームを4対4まで追いつかれ、引き分けで終わるわけにはいかない。
再び黒い大波がやってくる。
「シティオ」は何とか耐えようとする。前線の選手も自陣に引いてくる。リュウジも戻っているが、守りに加わろうとするマルコに大声を張り上げた。
「残ってろ!」
日本語で叫ぶとマルコはぴたっと止まった。
「絶対お前にボールを出すから、そこで待ってろ!」
マルコは頷いた。意味が通じたようだ。敵はディフェンダー一人を残して、攻撃してくる。
「アルカラ」は波状《はじよう》攻撃を仕掛け、ボールをゴール前へと放り込んでくる。「シティオ」の選手が跳ね返してもセカンドボールを拾われ、またクロスを入れられる。
リュウジはこぼれ球をどうにか拾おうと狙っていた。
だが、こぼれ球は相手のものとなる。ベルナールの逆をついてゴールの枠にきたミドルレンジのシュートを、パチがからくも右足でブロックした。それが偶然、リュウジの方に飛んできた。
これを待っていたのだ。前線にたった一人残っているマルコめがけて、右足を振り抜き、大きな放物線を描く長距離パスをフィードした。ハーフウェイラインを越えてバウンドしたボールを追って、マルコと敵ディフェンダーが一対一の競《せ》り合いとなる。敵の意表をついたカウンターだった。ボールを追いかけてマルコと敵が交錯《こうさく》する。もつれて二人とも倒れるがファウルではない。一瞬早く立ち上がったマルコがボールを拾って、ゴールに向かって突進する。
一瞬遅れて立ち上がった敵ディフェンダーが追いすがり、後ろから掴もうとする。ファウルを取られても構わないという掴み方だった。
倒れるな、ゴール前のフリーキックなんか期待するなとマルコに念じる。俺が出したそのボールを必ずゴールに叩き込め。
掴まれたユニフォームが伸びる。マルコは相手の手をふりほどく。エリア内に入った。キーパーが飛び出そうとした瞬間、マルコは爪先をボールの下に入れ、浮かせた。ループシュートだった。それは飛び出してきたキーパーの伸ばした手を軽くかすめ、ゴールへ転々とする。しかしキーパーの指に触れたために転がり方が弱い。マルコを追い越した敵ディフェンダーがそのボールをクリアしようと追いかける。スライディングでかき出そうとしたが、ボールは完全にゴールラインを越えた。
逆転した。「アルカラ」にもう戦意は残っていなかった。ボールとともにネットに絡まっている敵ディフェンダーも、ぐったりして立ち上がれない。
主審が長い笛を三度吹いた。勝った。逆転ゴールのマルコにみんなが駆け寄る。リュウジは天を仰ぎ、拳を握りしめたが、一人で立っていることを許されなかった。抱擁《ほうよう》される。輪の中心に放り込まれ、もみくちゃにされる。
リュウジはゴールこそなかったが、全得点に絡んだ。スタンド最上段の光景が目に入る。トップチームの育成担当が携帯電話で誰かと話していた。彼らの目に焼き付けたろうか。
スタンドの応援団は狂喜乱舞の様相だった。リュウジに部屋を貸しているペペに、みんなが握手を求めている。向日葵《ひまわり》の種が撒《ま》き散らされる中で、アリシアが両手を高く突き上げた。
「リュウジ!」
高らかに叫んだ。それは巻き舌にならず、今まで呼ばれた中で最高の発音だった。
そしてチームのみんなは「チノ」ではなく「シノ」とリュウジの苗字《みようじ》を呼んでくれる。それもスペイン人にとっては難しい発音のはずだ。
左右の頬を交互に擦《す》り寄せ、チュッチュッと舌を鳴らすスペイン式の抱擁が次々に襲いかかり、息ができなくなる。
お前ら、キモチ悪いよ。分かったから、もう離れろって。
監督が突進してくる。おいおいよせって、その髭面《ひげづら》だけはカンベンしてくれ。
リュウジは懸命に身をよじって逃げた。
「シティオ・アトランティコ」は開幕戦で躓《つまず》いたものの、「アルカラ」戦を皮切りにその後は快進撃を続けた。
九月から翌年四月までの八カ月で、リーグ全十六チームがホーム・アンド・アウェーで計三十試合を行うというシーズンだが、クリスマス休暇までの前半戦で、「シティオ」は連勝記録を伸ばした。
ハビエルとマルコとアントニオは、他のチームにとっては脅威《きようい》の3トップであり、三人をコントロールするリュウジをマンマークすることがとりあえずの対処法だった。
失点も少なくなかったが、それ以上の得点で勝利を収める「シティオ」は、「取ったら取り返す」という、いかにもスペイン人が好む攻撃的なチームだった。
スタンドで「シティオ」を応援することは、アランフェス市民にとって何より痛快な娯楽となった。肝心のトップチームはリーガ・エスパニョーラで中位をうろつくのが精一杯、二部リーグに所属する「アトランティコB」も降格ラインを彷徨《さまよ》っているし、ユースの上部組織である「ラーヨ・アトランティコ」にいたっては連敗記録を更新中である。彼らと同じカラーを身にまとい、季節の移ろいとともにユニフォームが半袖から長袖になっても逆転勝利を続ける「シティオ」は、アトランティコ・サポーターにとってせめてもの救いだった。
リュウジは身長が2センチ伸びた。
毎日二リットルのミルクとシエスタの効果かもしれない。
スペイン語も日常会話とサッカーのフィールド用語なら楽々こなせるようになった。相変わらず「チノ」と呼ばれることが多いが、相手チームの罵声《ばせい》はともかく、仲間のそれには侮蔑《ぶべつ》の意味はなくなった。
十二月二十日に学校がクリスマス休暇になると、リーグ戦も中断になる。「シティオ」は二位と勝ち点差12で折り返すことになった。
リュウジはホアキン会長の好意を無にしてしまった。
前半戦の成績のご褒美《ほうび》として、日本までの往復チケットをプレゼントしてくれたのだ。しかし学校が休みになっても、リュウジは里帰りせず、スペインに留《とど》まることにした。ユースの最下層で活躍した程度では、まだ胸を張って帰ることはできない。往復チケットはそんなに遠くない将来、必ず使わせてもらうつもりだった。
ミサキにはクリスマスカードを送った。
「クリスマスと新年、おめでとう」
母親への言葉もそこにこめた。
八木沢千穂にも送るべきか、かなり悩んだ。
「私のこと、覚えておいてね。私はリュウジのこと、なるべく早く忘れるから」
千穂の言葉を思い返した。リュウジが「不公平だよ」と抱き寄せて言うと、「そうだよ、不公平だよ。だって、二十年で死んじゃう人を好きになるのは、しんどいもん」と千穂は答えた。
それが最後に交わした会話だった。クリスマスカードなんて送ってはならないとリュウジは思い直した。
寮に住む仲間三人は、休暇になるとすぐ姿を消した。パチは故郷バスクに帰り、セサルもブラジルへ旅立った。ベルナールは家族の待つアフリカの国に帰ることはできなかった。内戦状態が続いているため、家族の方から「帰ってきては駄目だ」と言ってきたという。親戚《しんせき》のいるロンドンで新年を迎えるらしい。リュウジだけでなく、彼らバスク人と外国人二人にも往復航空チケットを会長は用意してくれた。
クリスマスになった。
リュウジはペペとアリシアの自宅に招かれ、松やもみの葉が飾りつけられたテーブルを囲み、二人の作るクリスマス料理をたらふく食べさせられた。
前菜はハムとマッシュルームのオムレツ、アーモンドスープで体が温まると、大皿いっぱいの鯛《たい》のオーブン焼きとチキンのローストが並んだ。トゥロンと呼ばれるクリスマス名物のデザートは、アーモンドの粉で作るヌガーのようなものだ。リュウジには甘すぎた。
三人でプレゼントを交換した。リュウジはペペに上等なシェリー酒を、アリシアにキルティングの鍋掴みを贈った。
二人がくれた新しいスパイクと毛糸の帽子を身につけ、リュウジは休みになってもグラウンドに足を運び、補修の跡が目立つベニヤの人形を立て、フリーキックの練習を繰り返した。
大《おお》晦日《みそか》、リュウジはアリシアたちに誘われてマドリードへ遊びに行くことになった。女の子だけ四人のグループに「大晦日に一人じゃ可哀相《かわいそう》だからマゼてあげる」と引きずり込まれたが、要するにリュウジはボディガード代わりなのだ。
煉瓦《れんが》の外壁がいくつものアーチを描くアランフェス駅から、セルカニャスと呼ばれる近郊鉄道線に乗って、九つ目の駅がマドリードのアトーチャ駅だ。時間的には新宿から八王子ほどの距離だが、画一的な町並みの続く日本とは違い、町を離れると車窓《しやそう》の風景は一変する。赤土の大地とオリーブ畑が都市と都市の間に延々と続くのだ。
アリシアよりオリーブ油の効果がじわじわと肉体に現われている女の子たちのかまびすしい声に囲まれ、リュウジはマドリードに初めて立った。
サッカー漬けの日々では、たまの休みは疲労回復に当て、マドリードへ遊びに行こうなどとは考えもしなかった。アランフェス市内にたった一軒あるディスコで踊り明かすのが関の山だった。
巨大なアーケードの下にいくつものプラットホームが並ぶアトーチャ駅は、高々と緑が生《お》い茂り、スプリンクラーが時折霧状に散水をする室内庭園の趣《おもむき》があった。ベンチでは恋人たちがキスを交わしている。新年をソル広場で迎えようとする人々でごった返していた。
地下鉄に乗り継いでプエルタ・デル・ソルにやってくると、ひしめき合う人々で身動きがとれず、やっと熊の像の近くに五人は居場所を見つけた。
「太陽の門」という名前の広場だが、凱旋門《がいせんもん》のような壮麗《そうれい》な建築物があるわけではない。マドリードの紋章にもなっている熊の像と、マドリード自治政府庁の時計台がささやかにあるだけの、街なかの公園に過ぎない。
十二時が近づく。財布をすられたのか、老婦人が喚《わめ》いている。路上強奪者たちにとってもかきいれ時に違いない。若者たちのカウントダウンが始まった。
時計台が鐘を打ち始めると、人々は手に手に用意してきたものを口に放り込む。十二の鐘の音の間に十二粒のぶどうを食べるのだ。そして鐘が鳴り終わった途端、
「フェリース・アーニョ・ヌエボ!」
新年おめでとう、と雄叫《おたけ》びを上げて、誰彼ともなく抱きつき合い、頬をすり寄せてキスをする。クラッカーがあちこちで鳴り響き、発泡酒の栓《せん》が宙に飛ぶ。
アリシアとキスを交わした。彼女の方から抱きついてきたのだ。新年のこの時だけは見知らぬ人でもキスしても構わないという風習らしい。近くでアリシアに抱きつこうとしていたスケベ親父がいたので、リュウジはガードしながらアリシアの頬に音をたてた。
冬休みが終わってリーグ戦が再開となった。
「シティオ」は休み疲れなのか、ひと頃の勢いはなくなった。しかし決して連敗はしなかった。二位の「アルカラ」が連勝街道に入り、開幕戦で「シティオ」から大金星を挙げた「カテドラ」が三位に浮上する健闘ぶりで、上位三チームの勝ち点差は縮まった。
トップチームは不調の波を脱したようだ。監督がシーズン早々に交代してディフェンスラインを整えた効果が、やっと後半にきて実を結んでいる。ただし攻撃の醍醐味《だいごみ》は薄れた。「シティオ」の攻めを見習え、という声が「ペペ・デ・ボンボ」の常連客の間からよく聞かれた。
一月の第二十節を終えた時点で二十チーム中十一位。十八位以下の三チームは二部に降格するが、大崩れしない限り、来季の一部残留は果たせそうな位置にいる。
そのトップチームの育成担当からフェレール監督へと、一本の電話が入った。
練習にリュウジを呼びたいという。
ユースの最下層から一挙にトップへ上がるのか。練習後に監督から告げられたリュウジも、一瞬、息を呑《の》んだ。が、そんな甘い話ではなかった。
トップチームは次節、レアル・マドリーとアウェーで対戦する。レアルの布陣を想定したゲーム形式の練習をするため、「仮想レアル」のリザーブメンバーに、フィーゴとプレースタイルが似ているリュウジを入れたいという。怪我《けが》人が多くて紅白戦も満足にできないというチーム事情もあった。
育成担当は例の「アルカラ」戦におけるリュウジの活躍を目に焼き付けて以来、要所要所のゲームでリュウジのプレーをチェックしてきた、その報告は監督まで上がっている、リュウジの力量を自分の目で確かめたいという監督の意向も含まれているはずだ、とマノロは言う。
こうしてリュウジは、憧《あこが》れのフィーゴになるべく、トップチームのホームグラウンドであるエスタディオ・アランフェスに足を踏み入れた。
アリシアのクリスマス・プレゼントであるスパイクは、青々とした天然芝にすぐ馴染《なじ》んだ。
スタンドの練習見学者の中に、ペペとアリシアの姿が見えた。チームの仲間も何人か、練習後にやってきた。アントニオとエミリオが「チノ」と「フィーゴ」を交互に連呼する。
ユースの選手とはひと回りも体格の違うトップチームの選手が、値踏みの目でリュウジを迎えた。「日本からやってきた仮想フィーゴ」というのは、彼らにとっては「何だそりゃ」と失笑するようなキャラクターなのだろう。
「トゥー・エレス……エル・ファンタスティコ・デル・シティオ?」
お前がシティオのファンタジスタか。
からかい半分のそんな声も聞こえてきた。リュウジの評判が風の便りで伝わっているのだろう。リュウジは臆《おく》することなく、ランニングをするメンバーの最後列に加わった。
アップが終わり、紅白戦となる。
リュウジはレアルのホームグラウンド、八万五千人収容のサンチャゴ・ベルナベウのピッチに立つ自分を想像しながら、レアルのチームカラーである純白──エル・ブランコのビブスを付けた。
母さん、元気ですか。
俺は何とかやってます。これまで手紙も書かず、電話もしないで、ちょっと済まないと思ってます。
今日、俺はルイス・フィーゴになりました。見たことあるだろ。俺の部屋に貼ってあったポスター。これで二十九歳かって思うような、黒牛みたいに体毛の濃い選手。俺とは全然レベルは違うけど、プレーが似てるってだけでトップチームの練習に呼ばれたんだ。今度、フィーゴのいるレアル・マドリーっていうメチャメチャ強いチームと試合をするからだ。
俺、頑張ってフィーゴになりきった。右サイドをドリブルで駆け上がって、左の中盤とポジションチェンジをして、ゴール前に飛び込む「仮想ラウール」にクロスを上げて、相手のプレスがきついとファウルを誘ってフリーキックをもらったりしてさ。
ゲームを続けてるうちに、物真似ショーで終わるのも馬鹿らしくなって、俺らしさをちょっと見せつけてやった。ドリブルでつっかけて行く時の一歩目の瞬発力が俺の持ち味だと思っている。三回に一回はレギュラー組の左サイドバックを抜き去ることができた。
俺の書いてること、さっぱり分からない?
ミサキに訊けば、少しは分かると思うよ。
とにかくトップの連中と楽しく紅白戦ができた。終わった時には、みんなが俺の頭を荒々しく撫《な》でていった。
明日からはリーグの終盤戦に向けて、厳しい戦いが待っている。ウチのチームは最初こそ調子よかったんだけど、首位を走るチームっていうのは次第に研究されるから、終わりに近づくほどしんどい戦いになるんだ。
友だちはけっこうできた。自分でも意外なくらいでさ。
ビセンテっていうマザコンのフォワードがいるんだけど、そいつは相変わらず、スタンドにいる怖いお母さんから怒鳴られている。母さんがああいう母さんだったら、俺、ゲームをするのが憂鬱《ゆううつ》になってたと思う。
十七歳で二児の父っていうハビエルは、また奥さんのお腹が膨《ふく》れてきて、「早く金の稼げるプロにならなきゃ」って焦ってる。
ミッチェルっていう人種差別主義者のセンターバックは、最初は気に入らない奴だったけど、やっと冗談を言い合うことができるようになった。自分の体の中に半分血が流れているっていうのに、スペイン人に関する皮肉までよく喋《しやべ》る。
スペイン人は自分を目立たせたい時には騒音を利用する。自分が生きていることを世間に知らしめるためで、特に深夜、新しいビデオやCDを買ったことを大音響で聞かせる。そしてスペイン人はオイル不足のエンジンでないと車に乗った気がしない。機械が喘《あえ》ぎ喘ぎ動いている音は、それに乗る人間が懸命に生きている証《あかし》だと思っている。とにかくスペイン人は周りが静かだと不安になるみたいで、スペイン語は「話す」のではなく「喚《わめ》く」という方が当たっているけど、さすがにシエスタでぐっすり寝入っている午後三時から五時までは静けさが支配する。
確かにミッチェルの言う通り、ここはそんな国だよ。
寮にはベルナールっていうアフリカ人がいるんだけど、先週、故郷の内戦で一番下の弟が亡くなったらしくて、俺たちはユニフォームの袖に喪章《もしよう》をつけてゲームをした。バスクの爆弾テロで片手のないパチが、ベルナールを夜通し慰めていた。
背が2センチぐらい伸びたよ。
顔つきも変わったんじゃないかな。ひょっとしたら、父さんに似てきたかもしれない。
母さんは相変わらず?
料理のレパートリーは増えた? 狂牛病が日本でも流行ったって聞いたけど、母さんの肉皿は健在?
九時過ぎになると「よしこ」のカウンターが常連客でいっぱいになって、母さんの笑い声が響きわたっているのかな。家にいた頃は、畳の下から母さんの「あははっ」って甲高《かんだか》い声が聞こえるたびに、「また調子こいて、客から酒をもらってるよ」って思ったもんだよ。
太陽工作機械の社長には今も口説《くど》かれてる?
奥さんを亡くして寂しそうにしてるからって、優しさを見せるのもほどほどにした方がいいよ。
時々、母さんに似た母親がスタンドにいるんだ。エミリオっていう、昔、日本にいたこともある奴の母親なんだけど、そいつがシュートを決めると、「今、ゴールを決めたのはあたしの息子だよ!」って飛び上がって自慢するんだ。他の親たちから握手攻めに遭うと、本当に嬉《うれ》しそうでさ。
国立のゲームで、母さんもそんなふうに俺を応援してくれたんだろ。
ちょっと真面目《まじめ》なこと書いていいかな。
母さんと父さんがどうして離婚したのか、俺、日本から遠く離れてみて、ようやく理解できたような気がする。
父さんが仕事場のアパートに女を連れ込んだから離婚になった。ずっとそう思ってきたけど、そんな単純なことじゃないってことが、少し、分かってきた。
母さんは父さんを、旅立たせてやったんじゃないのかな。
俺と殴《なぐ》り合いまでしてスペインに送り出してくれたように。
俺たちの家ってさ、いつの間にか動物園の檻《おり》みたいになって、父さんも俺も身動きがとれなくなってたろ。男にとっては窮屈な場所だったかもしれない。母さんは「浮気に激怒する妻」っていう分かりやすい女になって、父さんのために檻の扉を開けて、道を与えてやったんじゃないのかな。
そんなことを考えながら練習帰りに振り返ると、赤土だらけの一本道の遠く向こうに、エプロン姿の母さんの姿が見えたりする。よく見ると、オリーブの袋を背負った畑仕事のおばさんなんだけど。
幻が見えたのは、多分、日本の方角だと思うよ。
冬はやっぱり腰が痛みますか。
俺が赤ん坊の頃、階段で足を踏み外した母さんは、抱いている俺をかばうために両手が使えずに、腰を強く打ってしまったんだろ。今でも冷えると、そこがシクシク痛むんだろ。
日本の冬はまだまだ続くだろうから、温かくして寝るように。
休みの日は、ミサキと仲良く竹下通りにでも行ってくれ。
じゃあ、俺も寝る。明日は大嫌いな数学のテストだけど、勉強しようとすると他のことがしたくなって、こんなに手紙を書いちゃったよ。
また書くから。
日本に生きて帰るのは、まだ先になりそうです。
そいじゃ……。
リュウジ、元気そうで安心しました。
私もミサキも元気です。リュウジとは違って、大きな喜びや大きな不安とは縁のない、ささやかな喜びと悲しみの中で生きています。
ミサキは中学受験の追い込みで、この頃|些細《ささい》なことでも苛立《いらだ》って、口数が少なくなりました。腫《は》れ物に触るような毎日ですが、合格発表になればいつもの笑顔に戻ることでしょう。
心配してくれてありがとう。腰が痛む季節ですが、何とか春までしのぎます。
太陽工作機械の園田さんは二度目の不渡りを出してしまい、年老いたお母さんのいる新潟の実家に引き上げるようです。寂しくなります。この間、お店で送別会をやってあげました。
リュウジ、怪我だけには気をつけて下さいね。
あなたの擦り傷だらけの足を今も思い出します。自分の足をカンナで削っているように見えたものです。
手紙はいりません。手紙を書く暇があったら、ゆっくり休んで下さい。へとへとに疲れて部屋に帰ってきたら、そのままベッドに倒れこんで眠ってしまいなさい。
食事は慣れましたか?
そちらではコシヒカリのご飯は食べることができるのですか?
あなたの好きな桃屋の「ごはんですよ」はスペインで売っていますか?
送ってほしいものがあったら、コレクトコールで教えて下さい。
あなたは子供の頃からお腹が弱いから、寒い日にミルクを飲む時は少し温めた方がいいですよ。
背が2センチ伸びて、父さんの顔に似てきたというあなたを、想像しています。
頑張って下さい。
[#地付き]かしこ
一月二十一日
[#地付き]志野喜子
志野リュウジ様
追伸。
手紙をもらった夜、NHKの衛星放送でスペインのサッカーを放送してました。ミサキが「お兄ちゃんが練習に参加したチームってこれだよ」と教えてくれて、ずっとお店のテレビでお客さんたちと見てました。
そしてリュウジが真似したという白いユニフォームの選手がゴールをしたのを見ました。喉が嗄《か》れました。母さんはどちらを応援していいのか分からなくなりました。
スポーツニッポン紙。三月十五日付記事。
『日本から単身、スペインのユース・サッカーチームにスカウトされた元U─17日本代表候補の志野リュウジ君十六歳が、リーグ優勝を目指すチームの原動力となり、目下、10ゴールを挙げる大活躍。先頃、トップチームであるアトランティコFCの練習にも参加した志野君は、十代でリーガ・エスパニョーラのデビューも夢ではないと言われている……』
記事には写真も添えられた。砂塵《さじん》の舞う土のグラウンドでシュートしたリュウジが、背中に羽が生えたかのように、地面から10センチ上を舞っていた。
新聞記事は厚紙に貼られ、油染みが付かないようにサランラップで覆われ、和風スナック「よしこ」の壁に画鋲《がびよう》で留められている。
[#改ページ]
第六章 ペイン[#「第六章 ペイン」はゴシック体]
アトランティコBは日本で言うところのサテライトのチームだ。
スペイン・サッカー界の一般カテゴリーは、リーガ・エスパニョーラの一部と二部、その下の二部B、三部、地区リーグのプレフェレンテ、という五段階のヒエラルキーで成り立っている。
今季、リーガ一部に昇格したアトランティコFCと同様に、アトランティコBも二部B(セグンダB)から二部に昇格した。しかしチームは結果を残すことができず、残り四試合の時点でセグンダBに降格することが決定した。
同じ系列チームが一部と、すぐ下の二部にいることは運営上難しいと言われ、アトレチコ・マドリーやレアル・マドリーのように一部で強ければ第二チームは弱くなるという傾向がある。
リュウジは一月にトップチームの練習に参加して、紅白戦のリザーブ組のチームで「仮想フィーゴ」となったことをきっかけに、アトランティコBに急遽《きゆうきよ》補強され、二部リーグの残りゲームに登録されることになった。リュウジの右サイド突破は、紅白戦をスタンドで見たチーム関係者の目にも鮮やかに映ったようだ。
トップチームがサンチャゴ・ベルナベウのゲームでレアル・マドリーに完膚《かんぷ》なきまで叩きのめされた日、リュウジにアトランティコB入りの一報が入った。
しかし、皮肉にもリュウジがアトランティコBでベンチ登録され、残り五分でピッチに立ったゲームでチームは負け、セグンダBへの降格が決まってしまった。
セグンダBのリーグはユースと同じアマチュア契約だが、外国人は登録できないのが原則である。しかしリュウジは今季ぎりぎりで二部にベンチ登録された。規定では、その選手が五ゲーム以上、短時間でもゲームに出れば、そのカテゴリーに属したとみなされるため、リュウジはチームが降格しても、来季、引き続き選手登録されることが可能になった。何故《なぜ》このような複雑な規則があるのか、リュウジは首をかしげるばかりだった。
この例外的な措置《そち》でも、外国人の所属には一年という期限が設けられている。リュウジのタイムリミットはたった一年だが、延長されたわけだ。
アトランティコBの練習は午前十一時から始まるので、リュウジは二時間の練習を終えてから学校に行き、夕方までマンツーマンの特別授業を受けることになる。アリシアたち同級生が楽しそうに体育の授業を受けている午後、リュウジは教室で先生と差し向かいで勉強するという日々だ。
テスト用紙が配られると、先生はシエスタを取りに教室からいなくなってしまう。リュウジは教科書を見たり、それでも分からない時は、体育館から帰ろうとしているアリシアを捕まえて答えを聞いたりする。この実にいい加減な進級テストを経て、リュウジは落第することなく、義務教育の最後の一年を終え、卒業できることになった。
日韓共催ワールドカップを一カ月後に控えても、国内でのサッカーの話題はスペイン代表よりも、リーガ・エスパニョーラの優勝争いに集中している。
序盤の不調を盛り返して、リーグ中盤戦は圧倒的な強さを見せつけたレアル・マドリーを含めた、デポルティーボ・ラ・コルーニャとバレンシアという三強の優位は変わらない。チャンピオンズリーグの準決勝で主力選手が怪我《けが》をしてしまったデポルティーボと、ジダンの不調から勢いをなくしたレアル・マドリーより、UEFAカップの準々決勝で敗退してリーガ優勝に的を絞ったバレンシアが断然有利と言われている。
アトランティコFCはリーガ最終戦でバルセロナとホームで対戦する。その前節でバルセロナがチャンピオンズリーグの出場圏内である四位に確定する可能性が高く、アトランティコも来季一部残留をすでに決めているので、最終戦は緊張感のない消化ゲームになるかもしれない。それでもアトランティコ・サポーターの熱狂は日に日に高まるばかりである。
午後の授業を終え、学校からの帰り道を歩く頃、シエスタの習慣が身についてしまったのか、リュウジはアクビを連発する。夕方まで二時間ほど眠ったら、空が明るいうちにアトランティコBの練習グラウンドで自主トレをするつもりだった。
場所はアランフェス市内から自転車で二十分ほどかかる郊外にある。周りにはオリーブ畑が広がり、収穫時にはその匂いで包まれるという天然芝のグラウンドだった。
きっとエミリオとアントニオも現れるだろう。グラウンドに夜間照明はあるが、ユースから上がってきた新人のために点《つ》けてくれるはずはない。
四月にフベニールのシーズンが終わった時点で、「シティオ」からアトランティコBには、リュウジだけでなく、アントニオとエミリオも補強要員として練習に参加するようになった。トップチームは今季、弱点を露呈《ろてい》した中盤の補強を目指して、下部組織の各カテゴリーから目立った中盤の選手をピックアップしてチャンスの場を与えている。
右のリュウジ、左のエミリオ、そして真ん中のアントニオ、という攻撃的トライアングルがうまく機能し、ワンタッチかツータッチの速いパス交換で中盤を制したことが、「シティオ」がリーグで優勝できた原動力と言われている。
アトランティコBの中盤の選手十人に加わって競争が始まったが、この中でトップに上がることができるのは一人か二人だろう。ユースから「飛び級」でやってきたリュウジたち三人には、常に「お前らガキにポジションを取られてたまるか」という視線が突き刺さる。
三人がアトランティコBの練習で顔を揃《そろ》えたのはまだ一カ月にも満たないが、彼らのトライアングルはここでも時に通用した。実戦形式の練習でも、レギュラー組のディフェンス陣を振り切るシーンを何度か見せることができた。
午後四時、市内は風音とプラタナスの新緑の葉音しか聞こえない静寂に包まれる。鍵のかかっていないぺぺの店のドアを押す。暗がりの店内を抜け、寮のスペースとなっている二階へ上がる。
一階奥のアリシアの部屋からは流行のラップ・ミュージックが聞こえてくる。アリシアは最近になって「日本語を覚えたい」としきりに言う。捕まると日本語のテキストを見せられ、個人教授を求めてくる。リュウジは足音を忍ばせて階段を上がった。
店の静けさに幻聴を聞いた。バレンシア・サポーターの声援。昨夜、店のテレビで見たゲームの歓声が今も鼓膜《こまく》に焼きついている。
バレンシア対エスパニョール。後半二十分、ヴィクトル・ロペスがピッチに立ったのだ。去年、国立で戦ったスペインU─17代表のあいつだ。
バレンシアの下部組織にいたヴィクトルはリュウジ以上の「飛び級」でトップに昇格、十八歳でのリーガ・デビューとなった。
今年のバレンシアは、監督が替わっても守備一辺倒からカウンター攻撃という昨シーズンの形をそのまま引きずった形で始まったが、リーグ後半から本来の力を見せ始めた。ようやく上位を脅かす存在となり、レアル・マドリー、デポルティーボ・ラ・コルーニャの失速につけ込んで、首位に立とうとしている。
エスパニョールから三点目を取った後、パブロ・アイマールに替わって、上気した顔に初々《ういうい》しさの漂うヴィクトルがピッチに立ち、いきなりサルバに切れ味のいいラストパスを送った。それが試合を決定づける4点目につながり、エスタディオ・メスタージャの急傾斜のスタンドを埋めつくすサポーターがドッと沸いた。
今朝、ペペの店に置いてあった「アス」紙に目を通すと、十代のリーガ・デビューという点で「ラウールの再来」という見出しが躍っていた。「メンディエタにもう帰る場所はない」といった記事もあった。
スペイン代表のキーパーでもあるカニサレスのコンディション・チェックのためメスタージャで観戦していたスペイン代表監督のカマーチョが、「ワールドカップ出場選手の最終選考にヴィクトルを加えたい」とコメントしたという情報もある。
カマーチョが標榜《ひようぼう》するのは、中盤でボールを支配する攻撃的なサッカーだ。竹を割ったような性格で元気のいいキャラクターがスペイン人の支持を得ている。レアル・マドリーの選手時代は左サイドバックをこなし、盛んに攻撃参加をしたらしい。テクニカルなものより情熱を重んじる傾向は、その選手選考にも表われる。
若手も積極的に起用した。最近ではバレンシアのビセンテ、バルセロナのシャビを代表に招集している。アトレチコ・マドリーで十七歳デビューしたフェルナンド・トーレスもカマーチョのお眼鏡《めがね》にかなって代表招集される噂もあった。
冷静さの中で種火を絶やさず、フリーでボールを受けた時に瞬間的に燃え上がる。国立で見たヴィクトルのイメージだった。カマーチョ好みの選手かもしれない。
あのヴィクトルがスペイン代表となってワールドカップのピッチに立つ。
国立のゲーム、前半を2点差で折り返してロッカールームに下がる時、こちらを振り返ったヴィクトルが、ふっと息を抜いたように笑った。
けっこうやるじゃないか。俺にそう言ったような気がする。
テレビで見たヴィクトルの華々しい活躍は、リュウジにじりじりと身を焦がすほどの苛立《いらだ》ちを与えた。
アトランティコBの新監督はロイ・スチュアートというイギリス人だ。
チームの成績不振によって監督交代。一カ月前に来季の指揮を含めた契約で就任した。元プレミアリーグの選手らしいが、スペイン人監督の多いリーガで、規律を重んじるイギリス人監督というのは珍しい。
メタルフレームの眼鏡が似合う大学教授のような風貌《ふうぼう》だが、二部のチームを渡り歩いてきた職人監督という触れ込みだ。
来季、セグンダBに降格することが決まった以上、残りゲームをトップチームに上げる選手の選考の場にしている。アトランティコBの成績よりも、トップチームのための即戦力選手の発掘がスチュアート監督に課せられた仕事のようだ。
彼は従来の監督にはない競争原理をチームに持ち込んで、選手のモチベーションを高めている。
「練習でもゲームでも、輝く者だけにチャンスをやる」
その言葉には、選手たちに「仲間を蹴落としてでも這《は》い上がろう」という競争意識を残酷なまでに高める意図《いと》があった。
スタメンも補欠もひとつの集団として機能している。その団結心を破るような競争原理は、本来、監督によって排除されるのが普通だが、スチュアート監督は「人より輝け」と公言する。セグンダBに降格するチームへのショック療法だろうか。
監督の目に俺はどう見えているのだろう。
同じ異邦人ということで、少なくとも外国人への差別意識はなさそうだが、スペインでプレーする外国人への逆風に対して同情している様子はない。
外国人登録の制限が厳しい中で、ユース最下層にいるリュウジが上を目指すなら、どこかで劇的に昇格する必要があった。一月半ばにアトランティコB補強として登録されたのは、バレンシアでヴィクトルが注目されたことには遠く及ばないものの、外国人であることを考えると稀有《けう》な例だった。
今日はハーフコートでの戦術練習の後、その確認のため、二十分の紅白戦が組まれた。
アトランティコBは4─2─3─1のシステムを取っている。これは九八年ワールドカップでフランスのジャッケ監督が用い、後任のルメール監督もユーロ2000で採用して、連覇を果たした時のシステムだ。
1トップだが、攻撃的ミッドフィルダー三枚のうち一枚はシャドー・ストライカーとして得点能力が高い。このシステムは現在、スペインのリーグでも主流となっている。最も分かりやすい例は、ジダンが加入したレアル・マドリーだろう。ラウールとジダンとフィーゴがほぼ一列に並び、1トップにモリエンテスが入る布陣は見事ハマれば超攻撃的である。
リュウジがいつものように加わるリザーブ組も、三枚の攻撃的ミッドフィルダーを置く。
真ん中にアントニオ、右にリュウジ、左にエミリオ。三人の速いパス回しがレギュラー組を混乱に陥れる。リュウジがボールを持ってカットインすると、エミリオが右に動いて、時にはリュウジからボールが出る。アントニオが前線へ飛び出すが、レギュラー組は三人の動きを熟知しているのでマークが厳しい。リュウジはトップにクサビを入れるが、控え組の1トップにボールをキープできる能力はない。中盤三人の動きは目立つが、得点に至らないのはいつものことだった。
それでも紅白戦でリュウジたち三人を同時に使う時、レギュラー組の守備陣にとっては恰好《かつこう》の練習相手となる。
リュウジに最終ラインから長い縦パスがくる。もらって相手を背に反転、相手陣内にドリブルで侵入する。かわされた敵ボランチはカッと頭に血が昇り、足を引っかけて倒すしかなかった。リュウジはつっかけて行った時からファウルを受けることを分かっていたので、うまく宙を泳ぎ、スネ当てにショックを吸収させて倒れこんだ。
体格の面では劣るリュウジにとって怪我は大敵だが、いつかマノロが言ったように、日本人には柔道の受け身が本能的に備わっているのかもしれない。でかい選手は巨木が倒れるように、地響きをたてて倒れるが、リュウジはファウルを予測さえすれば、衝撃を最小限に抑え、柔らかくピッチに転がることができる。
練習が終わると、スチュアート監督がリュウジも含めた中盤の選手十人を呼び、立ち話だが真剣な面持ちで告げる。長くスペインの二部リーグを渡り歩いてきたため、スペイン語は流暢《りゆうちよう》だった。
要点はこうだ。
トップチームの中盤の選手が、前節の試合で悪質なファウルを受けて退場した。診断結果は思わしくなく、残り二ゲームの出場は絶望的となった。そこでアトランティコBから急遽、一名を補強することになった。明後日の木曜は紅白戦にして、そのゲーム内容から一名をトップに上げる。
中盤の選手たちに、ぴんと張りつめるものが生まれた。スチュアート監督がチームに持ち込んだショック療法ともいえる競争原理が、今、具体的な形となって選手たちにのしかかる。
誰もが表情の奥に闘志を隠している。解散になっても口数が少なかった。スタンドの下、半地下になっているロッカールームではできるだけ周りの人間と目を合わさず着替えた。
いつものように冗談を言い合っているのは、トップチーム昇格とは関係ないディフェンスの選手たちだ。シャワーの湯気《ゆげ》がもうもうとたちこめる室内は、いつになく息苦しく感じられる。
リュウジはアントニオやエミリオと言葉を交わすことなく、学校へと自転車を走らせた。
午後の特別授業を終えて寮に戻るが、目が冴《さ》え冴えとしていた。シエスタは習慣になっているが、今日に限っては睡魔はやってこない。
自然と「シティオ」の練習グラウンドに足が向いた。午後六時でもスペインの太陽はぎらぎらと黄色い熱を放っている。
砂埃のグラウンドにマノロの声がひときわ高く響きわたっている。最初のダッシュ走から気合を入れて、少年たちの怠《なま》け心を一掃する。
リュウジは仮設スタンドで見学する。マノロが気付いたが、手をひらっと振っただけだった。
この四月、フベニールのプレフェレンテ・リーグで優勝した「シティオ」は、来季、上部カテゴリーのリーガ・ナシオナルに昇格する。
しかし選手全員がこの昇格を喜んでいるわけではなかった。
リーガ・ナシオナルでは外国人の登録ができない。優勝した場合に限り、外国人は一年間そのチームでプレーができる。しかしリュウジと寮で暮らしていたセサルとベルナールは他のチームに移ることになった。二人は外国人登録が無制限で、しかも年齢制限もない大人のプレフェレンテに移ると聞いている。三部リーグの下に位置する、地区リーグと言われるアマチュアのカテゴリーだ。スペイン・サッカーは実に多種多様なカテゴリーで行われている。
バスク人のパチも今まで通り「シティオ」でプレーできたが、故郷に帰り、念願のアスレティック・ビルバオの下部組織でプレーすることになった。
チームは優勝したが、三人との別れは寂しかった。ペペとアリシアが開いてくれた送別会では、みんな陽気に飲んで騒いだが、最後はベルナールの啜《すす》り泣きが聞こえた。
内戦で弟を亡くした悲しみが、漆黒《しつこく》の頬を濡らした。故郷の家族にとって希望にならねば、と言う。ベルナールにとってサッカーとは、自分の夢だけでなく、戦火の下にいる家族が硝煙《しようえん》の彼方に見る夢だった。
ブラジルのスラムで育ったセサルも同様である。爆弾テロによって片手を奪われたパチにとっても、サッカーとは血なまぐさい日常世界から飛び出すための唯一無二の突破口だった。
リュウジは自分自身を振り返らずにはいられない。俺にとってサッカーとは何だろう。少なくとも彼らのように、生死の境で選んだスポーツではない。
三人がいなくなって、ペペの寮に住む外国人はリュウジだけになった。がら空きとなった二階で静寂に包まれ、スペイン・サッカーの広い裾野《すその》へと旅立って行った三人を、時折思う。
仮設スタンドが振動した。軋《きし》む足音に振り返ると、アントニオとエミリオがやってきた。
「そこでばったり会ったんだ」
エミリオが苦笑まじりに言う。午前の練習の疲れを引きずったまま、二人も何故かここに足が向いたようだ。
三人ばらばらに座る。明後日、三人のうち二人が、あるいは三人全員がふるい落とされるという現実が、三人に隙間《すきま》風を与えている。
「顔ぶれが変わっちまったな」
アントニオが「シティオ」のメンバーを眺めて言う。ランニングを終えた彼らはマノロの許《もと》に集まり、ビブスを身につけている。何組かに分かれてミニゲームだろう。
アンダルシア出身のマルコはセビーリャの下部組織に移り、フェルナンドは故郷バルセロナのテストを受けることになった。あと残りのレギュラーメンバー、マザコンのビセンテ、子持ちのハビエル、そしてミッチェルは、「シティオ」が昇格したリーガ・ナシオナルの、さらに上のカテゴリーであるディビシオン・デ・オノールの地元チームへと移籍を果たした。それも優勝を手にしたチームの勲章かもしれない。
フェレール監督も条件のいい他のチームに移った。
「あいつの手腕が認められたんだってよ」
リュウジたちは鼻で笑う。ディフェンスの修正は最後まで行われず、失点を得点でカバーしたチームだった。今思うと、観客と一緒になって攻撃的サッカーを楽しんでしまう無邪気《むじやき》な監督だった。
古株の道具係であるマノロが、次の監督が来るまでチームを率いている。手がポンッと叩かれ、四組に分かれてのミニゲームが始まる。
リュウジは西に傾いた太陽を正面から浴びていた。振り返ると、アントニオもエミリオも、眩《まぶ》しさに目をそばめ、何やら物憂《ものう》げな顔つきだ。
「シティオ」でプレーしていた頃が懐かしいのだろうか。仲間を蹴落として生き残るという状況とは無縁のサッカーだった。
リュウジにとってエミリオは、言葉の通じない連中との橋渡し役だった。日本語が堪能《たんのう》な彼がいてくれたお蔭《かげ》で、リュウジは孤立せずに済んだ。
料理人であるエミリオの父親は、一カ月前、勤めているタブラオの裏で事故に遭った。食材運搬のトラックの車体と壁の間に右腕を挟まれて複雑骨折したという。二度と料理はできないかもしれないと、エミリオが気弱な声でリュウジだけに打ち明けた。
これからはエミリオが一家を支えなくてはならない。そのためには喉《のど》から手が出るほど、アトランティコとのプロ契約を必要としている。
アントニオはアトランティコのテストを受けるまで、マドリードのグランビア通りで、白昼であろうが堂々と、観光客の財布やバッグを狙うストリート・キッズだった。
特に日本人がお得意様だったという。身なりを見て金を持っている日本人か判断し、仲間二人が往来で挟み撃ちにし、気を取られている間にポケットから財布を抜き取り、あとは一目散に路地へ逃げ込むというヒット・アンド・ランの要領を実演付きで教えてくれた。
財布に現金が少なくても、クレジットカードさえあれば大金を手にできる。サインなしでカードが使える靴屋や宝石ショップがあって、そこで限度額ぎりぎりまで買物をし、品物を裏町の故買《こばい》屋に持って行き、七掛けで引き取ってもらう。
イタリアのようなマフィア組織はスペインには存在しないとはいえ、サッカーが彼を小悪党の犯罪世界から救い出したのだ。もう二度とストリートには戻りたくないだろう。
攻撃の意識の高すぎるアントニオを試合で生かすことができたのは、リーグ二試合目の「アルカラ」戦が転機だった。リュウジが一人で敵ゴールへとドリブルで迫ったが、シュートコースに詰まってしまった。そこで絶好のポジションにいたアントニオを信じてパスを出し、得点につながった。アントニオは予想に反してシュートを打たず、背後に走り込んでいたマルコへとボールを落としたのだ。そのゴールシーンにリュウジは唖然《あぜん》としながら、ひとつの真理を心に刻んだ。
信頼されるためにはまず、仲間を信頼する。
以来、エミリオを加えた中盤の攻撃的トライアングルは敵チームのディフェンダーにとっては脅威《きようい》となったが、明後日の紅白戦が三人の力を発揮できる最後の舞台かもしれない。
怖いのは競争意識によって狂わされる攻撃のバランスだった。自分をアピールしなければ、という意識を三人が同時に持ったとしたら、変幻自在にポジションを変えて敵ゴールへ迫っていった効果的なトライアングルが、破綻《はたん》をきたすような気もする。
リュウジは不安を噛《か》み殺す。三人のうち一人が選抜されたら、残り二人にはしばらくトップ昇格のチャンスなど巡ってこないかもしれないのだ。
これまで支え合ってきた仲間二人と生き残りを目指した戦いを始めようとしている。しかし生活のかかっているエミリオとアントニオに比べて、自分には何がかかっているのか、とリュウジは考えてしまう。
日本という帰るべき国を持っているではないか。
よせ。考えるな。邪念《じやねん》だ。サッカー選手としての残り二十年が、すなわち自分の寿命ではないのか。俺には時間がない。もう後退も回り道も許されない。チャンスに食らいつくしかない。エミリオとアントニオを蹴落とさなければ、二十年と決めた人生は先へ続かない。
フィールドにいるマノロが三人に手招きをしている。
「こっちへ来い。一緒にやるぞ」
エミリオもアントニオも面倒臭そうな声で重そうに腰を上げたが、実は誘われるのを待っていた。考えるのに疲れて、体を動かしたくてたまらなくなっていたのは二人も同じようだ。
ビブスをつけて六対六のミニゲームに参加する。
狭いコートでボールを追う。アントニオの野蛮な面構えに笑いが弾ける。ゴールを決めてエミリオは小躍りする。現実を忘れて久しぶりに楽しいサッカーをした。
いつの頃からかサッカーは楽しいだけのものではなくなった。サッカーを職業にすれば、楽しむ心を売り渡してしまう。労働対価としての金や名誉。あの頃の楽しさと比較したら、そんなものにどれほどの価値があるのかと、リュウジは爽快《そうかい》なゴールを決めて歓喜の声を上げながら、思わずにいられない。
常連客を詰め込んだ「ペペ・デ・ボンボ」のテレビでは、アトランティコがホームでラス・パルマスと戦ったゲームをリピート放送している。
土曜はゲーム開始時間が大幅にずれて、テレビはバレンシア戦を放送した後にアトランティコ戦の放送を始めた。リュウジはヴィクトルの活躍を見ただけで、いくらトップチームの大切なゲームだろうが、他のゲームを見る気がしなくなった。
客たちは一度見たゲームで展開が分かっているはずなのに、ゴール前に突っ込んでいく選手に「バーモス、バーモス」と声援を送ったり、惜しいシュートに地団駄《じだんだ》踏んだりする。彼らのようなうるさい人種に囲まれて夕飯をとることに、リュウジはもう慣れた。
今夜も酒屋《バル》の床はゴミだらけ。小エビの塩ゆでの殻、から揚げの小骨、オリーブの種、鼻紙、吸殻で、床の色が見えないほどだ。スペインのバルではどこもそうらしい。床の汚れているバルはそれほど客がいたという証拠で、タパスがうまいという評判につながる。
リュウジは十種類のタパスをひと通り口に放り込み、ミルクを飲み干すとカウンターを離れた。チームカラーの帽子をかぶった郵便局長のオヤジが、「最後まで見ないのか?」と引き止める。
「どうせこの五分後にカウンターを食らって同点に追いつかれるんでしょ」
白けたことを言うな、という目で見られた。アトランティコがホームでとりあえず勝ち点1を得たゲームだった。
アウェーではこてんぱんにやられることが多いが、ホームでは第二節のレアル戦以外は負け知らずだった。それがリーガ中位の成績に結びついている。
二階に上がろうとして、アリシアに捕まる。店の奥の自宅リビングから手招きされた。日本語の個人教授である。仕方ない、付き合ってやろう。
絵入りのテキストに書かれた例文を、
「アナタノ、フルサトハ、ドコデスカ? ワタシノフルサトハ、マドリードデス」と読み、正確な発音をリュウジに訊《き》く。
「あなたのふるさとはどこですか? 私のふるさとはマドリードです」
模範を示すと、アリシアが繰り返す。勉強熱心だ。実は彼女、来月のワールドカップ観戦を兼ねて日本に短期留学をすることになっている。スペイン・サッカー協会が青少年相手に募集した特待生に選ばれたのだ。アリシアは留学中に観戦記を書き、協会が広報誌に載せるらしい。
「リュウジノフルサトハ、ドンナマチ?」
「うーん、どんな町かな。くすんだ町かな」
「クスンダ?」
どう説明したらいいだろう。「ぼんやりした町、かな」
「ボンヤリ?」
工場の煤煙《ばいえん》のせいだろうか、薄曇りの空しか思い出せない。
荷物を積みこんだ父親の車と綾瀬川沿いの道で出くわした時を不意に思い出した。無精|髭《ひげ》だらけの笑顔で、父は「留守番、頼むぞ」と言い残して旅立った。以来、父──時任礼作とは会っていない。
リュウジがアランフェスでサッカーをしていることは、父は当然知っている。妹のミサキが携帯メールでリュウジの住所を教えたに違いない。
アリシアはスペイン語で言う。「日本に行ったら、リュウジの家を訪ねてもいい?」
「いいよ。妹が喜ぶよ」
母と妹は週に二度、衛星放送で中継するリーガの試合に、早くリュウジが出ないかと心待ちにしているようだ。そんな簡単にリーガ・デビューができたら苦労はない。
「肉皿、俺の分まで食ってきてくれよ」
「ニクザラ?」
母が店で出す得意料理で、牛肉と玉葱《たまねぎ》を特製のタレで煮込んだものであることをアリシアに教える。醤油《しようゆ》ベースの味といっても、スペイン人にはイメージできないだろうが、「美味《おい》しそうだね」と、アリシアは向日葵《ひまわり》のように笑う。
いつだったか、ペペとアリシアと三人で、休日、車でラ・マンチャ地方へピクニックに行った時、乾ききった大地に無数の向日葵が咲き乱れた絶景を目にしたことがある。ペペが言うには、向日葵はヨーロッパの征服者たちがその昔、メキシコから持ち帰って故郷に広めた花らしい。
スペインの向日葵は日本のと比べると葉が小さかった。できるだけ水分が蒸発しないように、葉を小さくし、土に深く根を張っているようだ。アリシアの母親の故郷アンダルシアでは、「雨は地上から天に向かって降る」と言われるぐらい、乾燥が激しいという。
やはりアンダルシアの向日葵だと、アリシアの笑顔を見るたびにリュウジは思うのだ。
アトランティコBのレギュラー組に怪我人が出たわけではない。
スチュアート監督から紅白戦のメンバーを告げられた時、リュウジは耳を疑った。リュウジはレギュラー組の右サイドハーフ、エミリオとアントニオはいつものように控え組だから、彼らとモロに中盤でぶつかることになった。
二人と目が合う。いつもの攻撃的トライアングルを二人と一人に分けた監督の意図を、リュウジたちはすぐに理解した。
三人を直接対決させて一人を選ぼうとしているのではないか。それはつまりアトランティコBのどの中盤の選手より、三人が高い評価を得ている証拠だ。
レギュラー組は赤いビブスをつける。控え組は白だ。フィールドでメンバーが輪になる。リュウジにとっては日頃、敵対している選手ばかりだが、疎外される空気はまったくなかった。
「右から左へ自由に動いていいぞ」
キャプテンであるトップ下の選手に言われた。リュウジは頷《うなず》く。
「リュウジ以外は簡単にプレーしろ」
リュウジの力量を知っているレギュラー組は、子供のリーグから飛び級でやってきたガキであろうが、利用できるものは何でも利用する。リュウジにとってはアピールできる願ったり叶《かな》ったりの状況だった。
輪の中で軽く手をタッチして、陣形に散る。
控え組はまだ作戦会議だ。リュウジの欠けた攻撃的トライアングルをいかに機能させるのか、アントニオは狡猾《こうかつ》な作戦をキャプテンの選手に進言しているのかもしれない。
紅白戦ではそれぞれのキャプテンの裁量でゲームを作らせる。スチュアート監督は作戦に口出しはしない。自分をアピールしたいと選手が味方同士で潰《つぶ》し合いをしてしまえば、誰一人そのチームから浮かび上がることはできない。
リュウジは練習グラウンドを見下ろすスタンドを見やる。リュウジを日本でスカウトした育成担当のセルジオが、麻のジャケット姿のトップチームの関係者を連れている。
選手の家族だろう、普段の練習よりも大人数だ。ペペとアリシアもいた。
みんな、この紅白戦の重要性は分かっている。明日からエスタディオ・アランフェスでトップチームの練習に参加できるのは、たった一人だ。
右腕をギプスで固めた禿《は》げ頭の男性がいた。エミリオの父親だ。リュウジは心に躊躇《ためら》いが忍び込むのを恐れ、目をそらす。
控え組の十一人が陣形に散る。中盤でアントニオとエミリオと直接当たる恰好になる。
アントニオは硬い無表情を張りつかせているが、エミリオの表情には読み取れるものが微《かす》かにあった。光を集めすぎた瞳には、非情であらねばと自分を駆り立てるものが揺らめいている。それを見た時、リュウジは予感した。アントニオとエミリオがどんな形で自分に挑《いど》んでくるのか。
主審を務めるコーチが笛を吹いた。ゲームが始まった。
予感は的中した。リュウジがボールを持った瞬間、サイドのスペースでエミリオと一対一になり、猛然とアプローチをしてきた。縦に行くと見せかけて内側にカットインすると、アントニオもパスコースを消しにくる。
二人がかりでリュウジを中盤で潰すつもりだ。エミリオは攻撃的なポジションにいながら、リュウジをマンマークに近い形で抑えようとする。
リュウジは味方のトップ下にボールを預けてから、エミリオの逆をついてサイドを駆け上がり、ライン沿いでボールを受ける。エミリオは振り切ったが、アントニオが追いすがる。まるでリュウジを潰すことによって自分をアピールしようとする執着ぶりだ。
ビブスを掴《つか》まれた。のけぞるほどだった。そこで倒れてフリーキックをもらうこともできたが、リュウジは振りほどいた。オフサイドラインぎりぎりからゴール前に飛び込む味方フォワードにアーリークロスを上げることができた。
ピンポイントで合った。しかしヘディングのシュートはバーの遥か上だった。リュウジは最初の決定機を作ることができた。それは相手のマークがさらに厳しくなることを意味する。
リュウジはマークが厳しくなると、自分が囮《おとり》となってスペース・メークする。これで味方のトップ下が自由にボールを持てる。いつまでもリュウジをマークしていたら中盤にスペースを与えてしまうと相手が考え直した時が、リュウジが再び攻撃に転じるチャンスだ。
消えて、現れる。しかし、この呼吸はアントニオとエミリオは知り尽くしていて、リュウジの緩急《かんきゆう》自在な動きを常に視界に捉《とら》えている。
動きだけでなく相手の目線を読むことによってマークを外す。駆け引きはお互いを消耗させる。これでは最後までもたないと判断すると、リュウジは緊張を解き、一旦《いつたん》パスをもらう動きをやめ、体を休ませる。それでもアントニオとエミリオは油断していない。
控え組が守備的にゲームを進めることは予想していた。最終ラインに人を集めて、こぼれ球を素早い反応で拾ってカウンター、という作戦だ。中盤の狭いスペースでの潰し合いが続いている。普段の紅白戦とはやはり違う。肉体を削り合う音が聞こえてくるようだ。
リュウジはあえて中盤の深い位置に下がり、ボランチの位置でボールを回して体をアイドリング状態にしていたが、エミリオがボールを持ってドリブルで駆け上がってきたのを見て、自由にはさせまいと自分からチェックに行く。
リュウジは重心を低くし、チャンスがあればボールを奪いにかかる。まるで地を這う獣だった。視界の左端から背後へとアントニオが回るのが見えた。エミリオはアントニオにボールを出した。その後のエミリオの動きを読んだ。リュウジがアントニオに気を取られている隙に、エミリオはライン際を駆け上がるつもりだ。思った通り、エミリオはアントニオの壁パスをもらった。予測していた分だけリュウジは逆を突かれることなく、エミリオを追うことができた。
敵の1トップがマークを外してフリーの位置に走りこんだ。そこめがけてエミリオにクロスを上げられたら決定機を作られてしまう。リュウジはクロスのコースを消そうと懸命になる。
それは小さなパニックに過ぎなかった。決して自分を見失ってはいなかった。リュウジが消そうとしたのはクロスのコースで、エミリオ本人ではなかった。
左サイドのエミリオは内側に行くと見せかけてボールを跨《また》ぎ、縦にボールを持ち出した。リュウジが一瞬かわされたのを見逃さず、エミリオはクロスを上げるべく左足を振り抜こうとした。
ここで止めなければ。
リュウジは最後の手段でスライディングを試みた。狙ったのはボールだった。ボールはエミリオにキックされる前にスライディングしたリュウジの右足に払われ、クロスの機会を逸《いつ》した。そこまではリュウジの狙い通りだったが、リュウジの強烈なスライディングはボールを払おうとした右足だけでなく、左足の膝もエミリオの軸足にかかった。衝撃がリュウジの左膝に走った。乾いた樹の枝がへし折れるような音を聞いた。宙を飛ぶエミリオの苦悶《くもん》の表情がリュウジの目に迫った。その体が反《そ》り返ったまま地面に落ちていくのが見えた。
ボールはアウトになり、ライン際のピッチでリュウジとエミリオが折り重なって倒れていた。
主審の笛は鳴らなかった。ファウルではないと認めてくれて安堵《あんど》したのは一瞬のことで、リュウジの目と耳に至近距離からエミリオの苦痛が伝わってきた。汗まみれの歪《ゆが》んだ表情が目に飛び込み、甲高《かんだか》いエミリオの絶叫が耳をつんざいた。
そして見た。エミリオが両手に押さえている右足。ストッキングからスネ当てが飛び出したそれは、異様な角度で曲がっていた。リュウジも叫びたかった。骨折だ。
「大丈夫か、大丈夫か」
咄嗟《とつさ》に口から出たのは日本語だった。選手と監督、コーチたちも異常事態を察して駆け寄る。すぐに担架が用意される。
トレーナーが診《み》る。大きくバツ印を監督に見せる。主審役のコーチが携帯電話を取り出している。受け入れ先の病院に連絡を入れているのだ。
担架に乗せられたエミリオと目が合った。苦痛の涙で覆われた瞳だった。真っ青な唇が微かに開いた。リュウジに何かを告げようとしている。リュウジが聞こうと顔を寄せたが、コーチらに担がれた担架が動き始め、遠ざかっていく。
誰かは分からないが、リュウジの肩を叩く者がいた。「気にするなよ」という慰めだろうが、リュウジは脳天から串《くし》を刺されたように棒立ちでいる。
スタンドの動きが目に入った。ギプス姿の男性が血相変えて階段を下りてきて、担架に追いついた。エミリオの父親は一緒に病院へ付き添うようだ。
父親に替わって家族を養わなければならないと言っていたエミリオ。日本語の「ガマンね」が口癖だったエミリオ。さっき、俺に何を言おうとしたのか。
ゲーム再開の笛が鳴る。控え組はすぐ選手が補充された。リュウジの両足はまだ芝に張りついたままだ。
「チノ!」
味方選手の声で我に返る。プレーは始まっているのだ。本能的に足が動き始めるが、麻酔が半分くらいかかっている感覚だった。
現実のボールを目で追っていても、エミリオをスライディングでなぎ倒したシーンが瞼《まぶた》の裏でリフレインする。何度かまばたきをするとやっと映像が消えてくれる。
ボールが味方ボランチから出された。受けて前を向く。ドリブルで三歩もいかないうちに、敵サイドバックに距離を詰められてしまう。フェイントでかわす自信がなかった。横パスを出した。それを受けたトップ下が、「走れ」とリュウジに合図を送る。慌《あわ》てて一歩目を踏み出したが、サイドバックに動きを読まれ、パスを受けることはできない。味方トップ下はリュウジの上がりは諦《あきら》め、逆サイドにボールを展開させる。
芝の上を浮遊していた。
エミリオの右足が目にちらつく。スネ当てがこぼれ、今にも白い骨が肉と皮膚を突き破りそうなほど折れていた。エミリオの顔の毛穴という毛穴から噴き出していた脂汗。
リュウジは吐き気さえ催《もよお》す。こんな形でエミリオを蹴落とした。ライバルが一人いなくなり、トップチーム昇格に一歩近づいたのかもしれない。それを喜ぶ気持ちがまったくないと言い切れるか?
言い切れる。喜びなどあるはずがない。激烈な悲しみで貫かれている。エミリオに泣いて許しを乞《こ》いたいと思った。
逆サイドからボールが飛んでくる。その放物線を虚《うつ》ろな目が追っている。何をしている。落下点に急がなければ。やっと体が動いてくれた。迫り来るボールはシュルシュルと唸《うな》りを上げ、自分を木《こ》っ端《ぱ》みじんにしようとする砲弾に見えた。胸でトラップしたが、勢いを殺せず、ボールは大きく跳ねた。敵に奪われる。ひどいトラップミスだった。
ミスの後の反応も遅く、ドリブルでつっかけていく敵の中盤を簡単に逃がしてしまう。何もかもが精彩を欠いていた。自分でも分かっているが、どうすることもできない。まるで腐った材木にネジを当てているみたいだ。いくらドライバーで回してねじ込もうとしても手応えがない。
「リュウジ、バーモス!」
ペペの声だろう。リュウジは背中で聞いている。またボールが飛んでくる。リュウジのショック状態を悟っている敵の中盤は、さほど厳しいプレスをかけなくてもボールを取れると感じている。実際、その通りで、リュウジはドリブルを選ばず、スペースに味方が走り込むのを待ち、パスを出すだけだった。
しかし間合いを詰められ、どこにもボールを出せない。仕方なく後ろをフォローしていた味方ボランチにバックパスしようとした。
その時、激しい衝撃と共に視界が揺さぶられた。エミリオを倒した時と同様のスライディングを受けた。後ろから両足を払われ、リュウジはのけぞって倒れこんだ。悪質なバックチャージだった。ファウル宣告の笛がすぐ鳴った。
地面から見上げると、天上の太陽を背に、頬を歪めて野卑《やひ》に笑う男がそびえ立っていた。
アントニオだった。敵意丸出しの目を炯々《けいけい》と輝かせている。手を差し伸べてくる。リュウジが反射的に手を出すと、ギュッと握られ、強制的に立たせられた。
勢い余ってアントニオの浅黒い顔と鼻先で向かい合った。殺気を感じた。
「エミリオを潰してくれて、ありがとうな」
唾《つば》まじりで吐き捨てた声は凶悪な響きに満ちていた。路上強盗で生活していた人間の本性を見たような気がした。リュウジは目が覚める思いだった。
「次はお前だ」
アントニオはむごたらしい微笑でそう告げ、人差し指でリュウジの胸を突いて離れていく。主審役のコーチに「汚いプレーはするな」と注意され、「二度としません」と殊勝《しゆしよう》な顔つきに変わる。
リュウジの腹の底で小さく燃え上がるものがあった。青い種火だった。そこに燃料が注がれ、みるみる赤く炎が立ちのぼる。いくら回しても手応えのなかったネジが、引き締まった材木の中に堅くねじ込まれていく感覚があった。すべての筋肉が引き締まった。
アントニオへの憎悪《ぞうお》を感じた。骨折したエミリオが担架で運ばれていく姿に、心の中で快哉《かいさい》を唱えていたであろうアントニオを憎んだ。
ライン際にいるスチュアート監督も睨《にら》みつける。「仲間を蹴落として輝け」と強要する監督もリュウジは憎んだ。
リュウジがファウルを受けた場所から味方の中盤がフリーキックを放ち、ゲームが再開する。リュウジは爆発的に走り始めた。敵の最終ラインでつながれるボールを執拗《しつよう》にチェイシングする。
パスカットした。ドリブルで駆け上がる。前に敵が三枚立ちはだかっている。ボールを持ったまま内側にカットインする。味方のトップ下はクサビが入るのを期待したが、ボールは出ない。するとトップ下は右サイドへと流れて、リュウジとポジションチェンジをする。
ゲーム感覚が全身に甦《よみがえ》ってきた。中央から左に流れるリュウジに、アントニオが追いすがる。味方左サイドハーフがボールをもらいに来る。すれ違いざま一旦預ける。追いすがる敵ディフェンス陣はブレーキをかけて、次のプレスにかかろうとするが、ボールを受けた左サイドハーフはワンタッチした後、ポジションを交換したリュウジにヒールでボールを出した。幻惑されたアントニオがパニックに陥る。ボールをもらった時に鋭く方向転換してゴールを向いていたリュウジの前に、ぽっかりとシュートコースが開いた。
渾身《こんしん》のインステップ。ゴールのファーサイドに突き刺さるシュートに、からくもキーパーが反応して手で弾いた。リュウジは呪《のろ》いの言葉を吐き捨てる。スタンドではアリシアの黒髪が躍った。
味方のコーナーキックとなる。ゴール前の密集地帯でリュウジは何とかマークを外そうと動く。アントニオと接近遭遇した。視線で射抜いてやろうと睨みつけた時、リュウジはアントニオの表情に意外なものを見た。
笑っていた。さっきまでの敵意に満ちた皮肉な笑みではなかった。それでいいんだ、リュウジ。そう言いたげな微笑。
リュウジは電撃的な理解に至った。エミリオを潰してくれてありがとうな。さっき刃《やいば》のように突きつけたのは、エミリオに怪我をさせたショックで不甲斐《ふがい》ない有り様になっていたリュウジに火をつけるためだったのだ。
笛が鳴る。キッカーが蹴る態勢になった時、リュウジはマークするアントニオを引き連れてゴールから遠ざかった。右利きのキッカーが右のコーナーから蹴ると、ゴールから逃げていくボールになる。
ふわりと曲線を描いたボールがゴール前の密集で返され、中途半端なクリアとなった。リュウジをマークしていたアントニオはゴール前に戻ろうとする。力のないクリアボールをさらに遠くへ蹴り出そうと走り込む。不運にもそこで味方選手とぶつかった。行き場を失ったボールが転々とした先にリュウジがいた。蹴ってください、と言わんばかりのボールだった。
ゴール前の密集とゴールポストの間には針の穴ほどの隙間しかなかったが、リュウジはわずかなコースを見た。そこをめがけてボールを流しこんだ。針の穴に通った。キーパーは反応できない。ネットが揺れた。
その場で猫背気味にふたつの拳《こぶし》を握ってガッツポーズのリュウジに、レギュラー組の選手が駆け寄り、手荒い祝福となった。
三十分間の紅白戦は、リュウジの一点だけで終わった。
主審の笛を聞いた時、リュウジはフィールドを横断して監督の許に駆け寄り、「病院へ行っていいですか」と許可を得ようとした。監督の許しを聞く前にもう走り出していた。チームかかりつけの病院の場所は知っている。
リュウジはビブスをかぶったまま自転車に跨がった。
エミリオは検査の途中で会うことはできない。
廊下には両親と小学生の双子の弟たちがいた。リュウジの顔を見た父親は、眉《まゆ》を八の字にし、ふっと息を抜いた悲しげな笑みを浮かべた後、歩み寄り、黙って抱きしめる。ギプスの右手がポンポンッとリュウジの背中を叩いた。
気にするな。気にしちゃ駄目だ。
そう言ってくれたのかもしれない。リュウジはこみ上げるものを抑えられず、震える唇を噛んだ。
検査が終わるまでリュウジは病院の中庭で待った。プラタナスの葉が微風《そよかぜ》で揺れる木陰のベンチ。入院患者と看護婦が行き交うだけの静まり返った空間で、リュウジはエミリオを倒した時の映像を脳裏に映し出し、自らを責め苛《さいな》む。
本当にあの時、スライディングが必要だったのか?
エミリオにクロスを打たせてやっても、控え組のフォワードではゴールを決めることはできなかったのではないか?
答えの出ない詰問《きつもん》を自分にぶつけた。
廊下の窓からリュウジを手招きしているのはエミリオの母親だ。どうやらエミリオに会えるようだ。
やけに物音が響きわたる建物に入ると、アトランティコBのトレーナーの姿を見た。廊下の向こうでチームドクターから診断結果の説明を受けていた。
半開きのドアから身をくぐらせるようにしてリュウジが病室に入ると、添え木をされた右足を天井から吊《つ》って、エミリオがベッドに横たわっていた。日当たりのいい窓際で白いシーツの輝きに包まれている。リノリウムの床に反射する西陽でその表情は隠れていた。頬に皺《しわ》が寄っているのは、笑っているからだろうか。
エミリオの家族はベッドからやや離れ、二人きりの空間にしてくれる。
「足には二本の骨があるらしいんだけど、細い方が折れてんだってさ」
エミリオは朗《ほが》らかな笑顔で言う。
右足の腓骨《ひこつ》骨折。全治三カ月。リハビリを経て練習に参加できるまで四カ月から五カ月というチームドクターの診断だった。
「ごめんな……」
絞り出すようなリュウジの言葉。
「事故だよ。親父に続いて、俺も事故に遭ったってことさ」
エミリオの父親がウンウンと頷いて見せる。
「ゲームはどうなった?」
「勝ったよ」
「誰が点を入れた?」
「……俺」
「おめでとう、リュウジ」
拳を突きつけてくる。いつもの仕種《しぐさ》で、リュウジは拳を合わせて応える。
「トップに上がるのは、やっぱりリュウジだな」
「まだ分からないよ」
「足が治ったら、追いかけていく」
「ああ」
看護婦が入ってくる。レントゲンを終えて診断結果が出たので、これからギプスで右足を固めるようだ。エミリオは家族に支えられて車椅子《くるまいす》に乗る。
「バーモス、リュウジ」
逆に元気づけられてしまったリュウジは、家族に車椅子を押され、処置室へ遠ざかるエミリオを、廊下で突っ立って見送ることしかできない。
体の奥底でずきずきと痛むものがある。エミリオの右足を襲ったものより激しく、自分を痛めつけてほしいとリュウジは願った。
ペダルを踏み込む気力もなかった。
地面に目を落としたまま、のろのろと石畳の街路を縫って走っている。それでも帰巣《きそう》本能が備わっているのか、いつの間にかペペの店に帰り着いていた。
いつもなら、まだ学校で個人授業を受けている時間だ。無断欠席をしてしまったが、アリシアが先生によろしく言っておいてくれただろう。
自転車を店に横付けして鍵をかけ、扉を押すと、いつもはシエスタの時間で薄暗いはずの店内に明かりがあった。
ペペがカウンターの中にいて、マシンでコーヒーを淹《い》れている。テーブル席でタパスをつまんでいた三人の男が話を中断して、リュウジを振り返った。
セルジオとスチュアート監督。もう一人のネクタイにスーツ姿の男は見知らぬ人物だった。
「みんなでリュウジの帰りを待ってたんだ」
セルジオがもう一つの椅子を用意し、テーブルにリュウジを迎える。
見知らぬ男が立ち上がってリュウジに握手を求めてきた。
「マドリードで代理人業をやっているディエゴ・ペドロサさんだ」
紹介され、分厚い手を握り返した。背丈はリュウジとさほど変わらない。小柄だが、元アスリートなのか、胸の筋肉は分厚かった。浅黒く、彫りが深く、ジャングルで育った野生児を思わす顔つきだった。年齢は四十を超えたぐらいだろうか。
「ペドロサさんはスペインのサッカー・ビジネスの世界では有名な人だ。うちの会長も懇意《こんい》にしている。常に八十人以上の若手有望株の選手を抱えて、ヨーロッパを飛び回ってる人だ」
セルジオが説明している間も、ペドロサはスチュアート監督相手に話の続きをしている。リュウジはセルジオのスペイン語を理解するのに神経を集中していて、そっちの言葉まで気が回らない。どうやらセグンダBで見込みのありそうな選手について話している。
ペペがコーヒー三つと、リュウジにはミルクを持ってきた。
「彼の現役時代は、とにかく足の速いフォワードだった」
スチュアート監督が懐かしそうに言うと、ペドロサはまた早口で何やら言い返す。ヨーロッパのカップ戦で、プレミアリーグの選手だったスチュアート監督は、ペドロサのいるチームと戦ったこともあるという。
「アトレチコ・マドリー、マヨルカ、バリャドリー……」
ペドロサは自分が渡り歩いたクラブ名を指を折って唱えるが、途中で記憶が怪しくなった。流れ者の終着駅は、その頃二部にいたアトランティコFCだったらしい。三十五歳で引退してから、マドリードに事務所を持ち、代理人業を始めたという。
「分かるな、リュウジ」
セルジオが真顔になる。どうしてみんなでお前を待っていたのか分かるな? と訊いている。薄々は分かっている。
「トップチームの練習に明日から参加してくれ」
リュウジの反応は薄かった。ただ頷いただけだった。
「しばらくはアマチュア契約のアトランティコBの選手として、トップチームへは『助《すけ》っ人《と》』という形で上がるだけだが、将来を見越して、ペドロサさんという代理人が付くことになったんだ」
「以前から君のプレーには注目していた。スタンドにも二、三度、足を運んだことがある」
ペドロサが機関銃のように喋《しやべ》る。「まるでピッチの5センチ上を浮かんでいるようなプレーだ。日本人には君みたいな選手が多いのか? ナカタやイナモトやオノにはない柔らかさがある。ホアキン会長が一目見て気に入ったのもよく分かる。日本ではどういう指導者についてたんだ? 話は変わるが……」
もう駄目だ。ヒアリングがついていかない。諦めて、適当に頷いておくことにした。
「今日のゴールは素晴らしかった」
スチュアート監督が称賛してくれる。ボールがどこへ飛ぶか、転がるか、その予知能力が素晴らしいと言う。
リュウジはうまく表情が作れない。体の奥底に潜んでいる痛みが喉元にこみ上げてくる。飲み込むことができなければ、耐えて、奥歯で噛み殺すしかない。枯れ木がへし折れたような音を聞く。耳を塞《ふさ》ぎたかった。
おめでとう、仲間を蹴落したリュウジ。
内なる者が残酷に問いかけてくる。目をそらさず、正面で向き合わねばとリュウジは思った。
エミリオの右足を砕いて掴んだチャンスだった。
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第七章 アイデンティファイ[#「第七章 アイデンティファイ」はゴシック体]
エスタディオ・アランフェスのフィールドにやってくるトップチームの選手たちは、一番にグラウンド入りしてストレッチをしていたリュウジを見て、「チノ!」と相好《そうごう》を崩し、手荒く頭を撫《な》でる。
一月に「仮想フィーゴ」として紅白戦に参加したことがあるので、チームにはすぐに溶け込んだ。一人足りなくなった中盤の選手を下部組織から補充することは、みんな聞かされていた。それがリュウジだと知っても、「当然だろう、あいつなら」と思ってくれたようだ。
リーガ・エスパニョーラ二〇〇一─二〇〇二年シーズンは残り二試合となった。今度の日曜をアウェーでセビーリャと戦い、最終節はここにバルセロナを迎える。
二部への降格ラインはすでに免《まぬが》れたので、選手たちの間には楽にゲームができる心の余裕が生まれているが、そろそろ来季の契約も見据えて、消化ゲームだろうがアピールしなきゃいけない選手もいる。
監督とコーチ陣が現れて、練習前のストレッチをしている選手の輪の中に立つ。カルロス・アルバレスは、チームが開幕三試合で一分け二敗となった時点で監督交代劇となり、ホアキン会長の肝煎《きもい》りで就任した監督だった。
五十歳。がっちりした体躯《たいく》で、芝にそびえる巨木のような印象だ。選手時代は大型センターバックで、スペイン本国より隣のポルトガル・リーグで活躍したらしい。監督業を始めてからはもっぱら成績不振のチームの建て直しをする職人として知られ、リーガのビッグクラブとは縁がないものの、彼が率いたチームは失点が少なくなり、必ず順位を上げた。
しわがれ声で今日の練習メニューを説明している。4バックの約束事がまだ守られていないと不満げだ。両サイドバックが上がる時はボランチの二人のどちらかが最終ラインに戻るという初歩的なコンビネーションを、今日は徹底させるという。
リュウジは監督と目が合っても、皆に紹介されるような儀式はなかった。改まった挨拶《あいさつ》をさせられるより気が楽でいいが、俺がここにいることは当然と考えているのか、それとも無視されたのか、この監督には何を考えているのか測りきれないところがある。
俺はあんたに望まれて、ここに来たんだよな。確かめずにはいられない。
コーチの指揮によって何種類かのランニングが終わると、ビブスをつけてのミニゲームとなる。
アルバレス監督はプレーを指笛で止め、そのたびにディフェンスの修正点を確認する。
守備意識の高い監督は、スペイン人のサポーターにはあまり愛されない。アトランティコでも同様で、ぺぺの店に集まる常連客の話を聞いていても、アルバレス監督を褒《ほ》めたためしはない。試合に勝っても必ず監督|采配《さいはい》に難癖をつける。
確かに格上相手のアウェーゲームでは極端に守備的になり、同点にされても引き分け狙いの選手交代をしていては、ファンの支持はいつまでも得られないだろう。
バレンシアの前監督クーペルと同様に、いくら成績が良くなっても、守りのサッカーは「楽しくてナンボ」の国民性を持つスペイン人は受け入れることができないのだ。
「クイダード!」
「アキー!」
そいつに注意しろ、ここにパスを出せ、と選手たちの声が飛び交う。
「バハテ!」
上がりすぎのディフェンダーに、下がれ、と監督が注意する。
リュウジ以外にEU外国人──つまり中南米やアジアやアフリカ人の選手は五人いる。プロ契約のリーグの外国人登録は「ベンチ入り四人、出場三人」という規定に今のところなっているが、これは年々厳しくなっている。
EUマーケット統合によって、ヨーロッパの国々では物や人は自由に流通や移動ができることになった。ヨーロッパ人はヨーロッパのチームでは無制限にプレーできる。「ボスマン裁定《さいてい》」という言葉くらいリュウジでも知っていた。しかしスペインのEU外国人枠は、以前は六人だったが、いずれは三人になるという噂だ。
外国人選手枠についてはUEFAが基準を設定するが、各国の協会が独自の制度を持っていいことになっている。イタリアのように、リーグの人気と面白さを保ち、チームを強化する意味からEU外国人枠を設けない国もある。
下部組織からの補充であっても、リュウジは六番目の外国人という扱いを受ける。
他の五人は、ブラジル人のボランチ、アルゼンチン人のサイドバック、エクアドル人のフォワード、南アフリカ人のセンターバック、モロッコ人のゴールキーパーで、守備的な選手が多い。
「しっかり守ってカウンター」のサッカーを標榜《ひようぼう》するアルバレス監督にとって、リュウジのような攻撃的な選手はそれほど重要ではない。トップに上がれたもののベンチ入りさえ難しい状況だ。
見上げれば、「ミラドール地区」と呼ばれる高台の高級住宅地に、ホアキン会長の豪邸が日差しを受けて輝いている。
俺のトップ昇格はどうやら現場の方針とは一致していないみたいだ。金は出すが口も出すフロント、と言われているホアキン会長は、一人欠けた中盤まで守備的な選手で補強しないでくれと、現場に強い要望を出したのかもしれない。
リュウジはパスをもらうと、獲物を狙う相手ディフェンダーの前に餌《えさ》のようにボールをさらした。そして相対するディフェンダーの体重移動を見て逆をつき、ドリブルで抜く。フィーゴのプレースタイルを借りて、まず存在を誇示《こじ》する。
監督に叱咤《しつた》されているレギュラー組のディフェンダーたちは、リュウジを囲い込み、潰《つぶ》す。
「それでいいんだ」という声が監督から飛ぶ。カウンター攻撃のためのフィードが精度がないと指摘する。ピッチから起き上がったリュウジを一顧《いつこ》だにしない。
ディフェンスを整備して成績を上げたのに、ここにきてファンのために攻撃的サッカーを目指せと現場に口出しをするホアキン会長への反発が、ひょっとしたらアルバレス監督にあるのでは……。
だから会長のお墨付きをもらってやって来た俺を認めようとしないのでは……。
「シティオ」では馬鹿みたいに攻撃一辺倒の監督、アトランティコBではチームに殺気だった競争原理を持ち込む監督、トップではガチガチの守りを目指す監督。
上に恵まれてないな。リュウジは心の中で呟《つぶや》く。
練習が終わると、スタジアムの関係者入口のところでペドロサが待っていた。携帯電話で誰かと話をしていたが、バッグを抱えたリュウジが出てくると、二種類の指輪が輝きを放つ右手で「ちょっと待って」という仕種《しぐさ》を見せる。
契約をしているどこかの選手がチームの待遇にクレームをつけているらしい。ペドロサは赤ん坊をあやすような声で、「しばらくそこで我慢すれば、必ず移籍話が殺到するから」となだめていた。
通話を終えて、「やれやれ」という意味の嘆きを発すると、一転、笑顔をリュウジに向け、
「マドリードまでドライブだ」
新型ベンツの助手席に乗せられた。ペドロサの事務所に連れていかれるのだ。
赤土の大地を貫くハイウェイを、おそらく制限速度をオーバーしているのだろう、次々と車を追い抜きながらペドロサは喋《しやべ》り続ける。
「スペインのサッカー界は、一言で言えば『アミーゴの国』ってやつだ。監督以下、チームの統括も代理人も、彼らが見つけた選手が成功すると、全員が利益を得られるシステムになっている」
外国人のスペイン語ヒアリング力を無視するというのが、ペドロサの欠点だ。言葉の意味に追いつくのにリュウジは必死だった。
半分は理解できた。こういうことらしい。
サッカー選手の情報は代理人を通して行き来し、代理人がサッカー・ビジネスの中心軸といってもいい。スペイン国内の選手を扱う分にはFIFA公認という資格は必要ないので、コーチや選手の父親が代理人の看板を掲げても構わない。
これまでリュウジの身元引受人はアトランティコの育成担当であるセルジオがやっていたが、これからは国内の隅々まで情報網を持つペドロサが代行する。つまり「チームのお抱え」という状態から一歩離れたことで、もしリュウジがアトランティコで成功すれば、ペドロサを通して他のチームに売り渡されることもある。
選手を移籍させることでクラブの利益を生むという考え方は、中田英寿をローマに売ったペルージャがそうであるように、ヨーロッパのプロチームなら当たり前のことだ。養豚場の豚のように、ユースでじっくり育てて他チームに売る、というクラブだってざらにある。そこが、クラブも選手もことさら情に厚い日本とは違う。Jリーグで有名選手が移籍するのは、その選手のいるクラブが二部に落ちた時ぐらいだろう。
マドリードの街が見えて来る。
煉瓦《れんが》のアーチが目立つ建築物が目抜き通りにひしめき合っているが、荘厳《そうごん》というより土臭さを感じさせる。
昼間のマドリードを見たのは初めてだ。大《おお》晦日《みそか》から新年にかけて、アリシアやその女友だちと一緒に遊びに来た時は、夜明けにはアランフェスに帰っていた。
都会ではシエスタの習慣は薄らいでいるのかもしれない。午後三時でもオフィス街の人通りが絶え間なかった。
カメラ店やコンビニエンスストアが軒を並べる雑居ビルの一階に、ペドロサの事務所はあった。
廊下を挟んで左にオフィス、右に応接室がある。どちらの部屋にもペドロサの現役時代の写真や、現在契約をしている選手の雄姿が掲げられ、壁には資料のビデオテープがぎっしり並んでいる。
オフィスには数人の青年たちがいた。リュウジはスタッフを次々に紹介される。彼らはおそらく元サッカー選手で、怪我《けが》や力の限界に気付いたことによって引退し、ペドロサの許《もと》で働いているに違いない。「オラ」と屈託のない笑顔に囲まれた。
飲み物は何がいいと訊《き》かれ、できればミルクを、と答えた。そういう注文をする小柄な若手選手もいるのか、冷蔵庫には口の開いたパック入りのミルクがあった。
応接セットの椅子《いす》に座らされ、ペドロサの講釈は続く。今日は事務所の案内と、ペドロサの主義主張を聞く会かもしれない。リュウジはミルクを啜《すす》りながら殊勝《しゆしよう》な顔で聞くことにしたが、例によって早口なので、神経を集中しなければならない。
「サッカー選手には二通りある。何か分かるか?」
ペドロサはネクタイを緩め、ふんぞり返った体勢で指を一本見せて、
「ひとつは、練習がうまい選手」
二本目の指を見せて、「もうひとつは試合に強い選手」と言う。訊いておきながらリュウジに考える間も与えず、早々に答えてしまった。せっかちな男だ。
「どちらか一方でいいということじゃない。一流の選手になるにはどちらも兼ね備えていなけりゃ駄目だ。肝心なのはコンディションを平均に保って、常に練習でいい動きを見せ、監督が与える少ないチャンスをいかに生かすかだ」
リュウジは頷《うなず》く。ちゃんと理解できた。
「その選手がピッチに上がって次の段階に昇るには、もうひとつ大切なことがある。サッカーを怖がるか怖がらないかだ」
ピッチに倒れたエミリオの右足は見たことのない角度で曲がっていた。今日の練習では、あの時みたいな厳しいチェックをかけることはできなかった。ミニゲームでそこまで敵意をむき出しにする必要はない。ならば本番ではどうだろう。
俺は怖がることなくスライディングができるだろうか。昨日の出来事がトラウマになったりしないだろうか……。
「監督にとってのサッカーとは、『作る』か『壊すか』のどちらかだということも、覚えておいた方がいい」
あるレベルにチームの力が達しているとすれば、どうやって新加入の選手をそこに上積みするか。あるいは、停滞しているチームをいかに新選手の存在でかき回し、再構築するか。
「作るにしても壊すにしても、どちらもクリエイティブなサッカーであることには間違いない。サッカーというのはたとえて言うなら、家を建てるのに等しい。設計者が何人もいる必要はない。サイズと材料の質が決まれば、その仕事をこなせそうな大工を呼び、壁塗りを呼び、庭師を呼び、そして家が完成する」
やたらと言葉を飾っているが、要は「監督という絶対的権力者の下では組織を大切に」という決まり文句だ。リュウジは適当に頷いておくことにする。守備重視のアルバレス監督の下でしばらくは耐えろ、とペドロサは言いたいのかもしれない。
「だが、クリエイティブなサッカーをするのはピッチの外にいる監督か?」
もったいぶってから、「違う」と言う。
だんだん身振り手振りが激しくなってきた。廊下を挟んだ隣室で若いスタッフたちが「ボスのテンションが上がってきたぞ」と言いたげに、こちらを覗《のぞ》き込み、笑って聞いている。
「一九八六年のワールドカップで、マラドーナの天才的プレーとともにアルゼンチンの優勝の原動力となり、九五年にレアル・マドリーの監督としてリーグ優勝を成し遂《と》げたホルヘ・バルダーノがこう言っている。『サッカーにおいて監督やトレーナーの方が選手より重要だという考えは、まったく馬鹿げている』……いいか、他でもないバルダーノがこう言ったんだ。サッカーに必要なのはまず才能。バルダーノはこう断言した。才能のある選手こそ、どんなに素晴らしい戦略よりも重要なんだ、と。今のサッカーは組織的な選手を求める。個性的で意表をつくプレーで一瞬にしてゲームの流れを変えることのできる選手にとっては、組織的なチームに自分を合わせることはとても難しい」
リュウジが何度も味わったことだった。
「イマジネーションは破壊分子なのか? テロリストなのか? ジノラやカントナやデラペーニャやバッジオが代表から外されたのは、そこに原因がある」
バッジオ以外は聞いたことがない選手だった。
「どこのクラブの監督も、取るに足らない些細《ささい》なことに気を配りすぎて、サッカーの本当の素晴らしさを見失っている」
と、大仰《おおぎよう》に嘆いて見せるペドロサを見て、リュウジは思った。このオッサン、よく分かってるじゃないか。
するとペドロサが隙《すき》を突いてきた。現役時代、いかにも敵陣のスペースをつくのがうまい駿足のフォワードだったというだけあって、リュウジが飲み物で喉《のど》を潤《うるお》す間にするりと言葉を滑り込ませてきた。
「ところでリュウジ、君はスペイン人になる覚悟はあるか?」
ミルクのコップを持つ手が止まり、リュウジはぽかんとペドロサを見返した。
スペイン版エディ・マーフィと言ってもいいお喋りな男は、今はじっとリュウジの反応を待っている。
リュウジは絶句したままだった。
マドリードのアトーチャ駅までペドロサの車で送ってもらい、近郊電車に乗ってアランフェスに帰って来た。
オリーブ畑が続く車窓の風景を眺めつつ、ペドロサの言葉を口の中で繰り返した。
「スペイン人になる覚悟……」
気がついた時にはアランフェス到着のアナウンスを聞いていた。
時間が滑り落ちていく。学校に寄って二時間の特別授業を受け、山のような宿題をもらって家路につく。
店の扉を開けると、油のはじける音が空腹を刺激した。今夜のタパスが次々にできあがっている。
「新入りだ。仲良くしてやれ」
ペペが上を指差す。天井がぎしぎし鳴っている。二階に何人もの人間の気配があった。パンとイカのフリットを紙に包んでもらい、二階に上がったところで、アリシアたちに出くわした。
「シティオ」の新人たちだった。ブラジル人とアルゼンチン人と南アフリカ人の少年たちをアリシアが紹介し、リュウジは彼らと握手を交わした。
アトランティコがワインの販売ルートのある国で、将来有望と見こんだ少年たちだ。リュウジと同い年の三人だが、幼く見えるのは、外国での新生活を前に不安でいっぱいなせいだろう。
「分からないことがあったらリュウジに何でも訊くように。次にシャワーの使い方だけど……」
アリシアは寮母の風格が身についている。三人のおどおどした表情を見ていると、九カ月前の自分もああだったのかとリュウジは思う。
夜更けに寮に到着し、機内で一睡もできなかったせいでバク睡しているとアリシアに叩き起こされ、練習グラウンドにいきなり連れて行かれた。暴力的ともいえる勢いに呑《の》まれて、東洋人には厳しいスペイン・サッカーの洗礼を受けた。
リュウジは自室のベッドに腰掛け、パンとフリットを口に放り込み、空腹を癒《いや》す。独房の窓から黄色い陽が差し込んでいる。七時を過ぎているが夕闇はまだ訪れない。
日本人であろうが「チノ」と呼ぶスペイン・サッカーが、リュウジに「いっそのことスペイン人になっちまえ」と言う。
つくづく不思議な国だと思った。骨の髄《ずい》まで排他的かと思ったら、その人間が少しでも国のためになると思えば貪欲《どんよく》に取り込もうとする。
ペドロサが帰化《きか》申請のための条件を教えてくれた。外国人がスペイン帰化の資格を得るには、基本的には十年間、スペイン国内に居住する必要がある。ただし例外として、スペイン人と結婚して、二年間続けてスペインに居住した場合には資格を得られるらしい。
結婚。例えば誰と。
「シャワーはお湯が出てくるまで時間がかかるけど、壊れてるわけじゃないから……」
新入りたちに説明するアリシアの声。例えばあの女と?
しかし、それでも帰化の申請が下りるまで二年かかる。最短コースを選ぶのなら、スペイン人の養子になればその時点で国籍が取得できるというのだ。
やけに簡単に思えるが、リュウジにはひとつ難関があった。養子になるには、実の親が親権を放棄しなければならない。
母がそんなことに同意するとは思えない。
そんなことより、リュウジ、お前には「スペイン人になりたい」という気持ちが本当にあるのか?
本心の壺《つぼ》を覗き込む。あった。正確にいえば「なりたい」ではなく「ならねば」という切羽《せつぱ》詰まった衝動だった。スペインという国を愛しているから、というわけではない。別の国だって構わない。必要なのは、逃げ道を塞《ふさ》ぐことだった。
セビーリャとの第三十七節の試合を二日後に控え、金曜日の練習はクールダウンのトレーニングになった。
レギュラー組はランニングと軽いパス回しで終わったが、リュウジは控えのディフェンダーと組んで、ドリブル突破からシュートに持ち込む練習で汗を流した。
リュウジは遠征メンバーには登録されなかったが、今のチーム事情では当然と思った。アウェーで勝ち点1を取るのが目標のアルバレス監督は、控えメンバーも守備的な選手を揃《そろ》えた。
練習を終えて学校に駆けつけ、溜まった宿題をアリシアに教えてもらって片づけ、二時間の特別授業を睡魔と戦いながら終えると、その足でエミリオの家に向かった。
昨夜、電話で「遊びに来ないか」と誘われていた。
通りがかった食料品店でジェラートのアイスクリームを買い、それを手《て》土産《みやげ》にしてエミリオの家の扉を叩いた。
季節の花に囲まれたパティオが美しい低層マンションの一階に、エミリオは家族四人と暮らしている。出迎えたのは、まだ右手の怪我が癒《い》えないエミリオの父親だった。頬をひっつけてスペイン式の挨拶。
玄関には折り畳まれた車椅子《くるまいす》があった。
「杖《つえ》を使えば歩けるんだけど、弟たちが俺を乗せて押したくてしょうがないんだ」
奥から声がする。足のギプスがすでに落書きだらけになっているエミリオが、居間のテーブルでリュウジを迎えた。やんちゃな双子の弟たちはテレビゲームで遊んでいた。旧式の任天堂ファミコンだった。
エミリオの母親は料理の真っ最中だった。スペイン料理店のシェフだけあって、エミリオの父親は口うるさく料理の仕方に注文をつけている。ニンニクの匂いが香ばしく部屋にたちこめていた。
「どうだ、練習は」
「監督の目には、まるで俺が見えていないみたいでさ」
軽く愚痴《ぐち》った。
「バルサ戦のチケットを親父が苦労して手に入れてくれてさ、メインスタンドの真ん中あたりに座ってるから、ゲームに出たら手を振ってくれよな」
「俺もきっとスタンドだよ」
ベンチ入り十八人に登録されない選手は、関係者席に座って試合を観戦することになる。ただのサッカー・ファンに徹することができたら、特等席で見ることのできるバルサ戦はさぞや楽しいだろう。
テーブルに料理が並んだ。オルドニュエス一家のパーティ・メニューなのか、子豚の丸焼きが中央にデンと置かれたから驚いた。大皿の中で子豚が平泳ぎでもしているような恰好《かつこう》で料理されている。
皮はぱりぱりして、とても豚肉とは思えないほどジューシーだった。エミリオの父親が作り方を教えてくれる。この料理では生後二十日ほどの、まだミルクしか飲んでいない子豚を使うのだという。
トマト、茄子《なす》、赤ピーマン、ズッキーニ。季節の野菜の煮込み料理がテーブルを華やかに飾っている。
弟たちが豚の頭の部分を取り合っている。食べるわけではなく、遊びたいだけなのだ。父親が「静かにしろ」と叱《しか》りつけて平手で二人の頭を続けざまにはたき、子供たちはやっと静かになる。
賑《にぎ》やかな子供のいる食卓には妙な懐かしさを覚えるが、よく考えてみれば、日本にいた頃も賑やかな家族の食事というのは無縁だった。
母は店で作った料理を運んできて、すぐに階下に引っ込んでしまう。父がいなくなってからは、妹と差し向かいで夕飯を食べる日々だった。
エミリオの一家は温かく迎えてくれる。リュウジにはかえってそれが辛《つら》い。息子からプロ契約の可能性を奪った奴。そういう目で見てくれても構わないと思った。
「表参道は、クリスマスに近くなると並木道が全部電飾になって、それは綺麗《きれい》だったなあ」
赤坂でスペイン料理店のシェフをまかされていたエミリオの父親は、懐かしそうに思い出す。一家揃って夜の表参道を散歩したこともあるという。リュウジに気を遣って日本の話題を口にしてくれたみたいだが、申し訳ないことに、リュウジは「電飾はなくなったみたいだけど」と答えることしかできない。
埼玉のサッカー小僧だったリュウジは、東京の話をされてもほとんど分からない。ガールフレンドと表参道のクリスマス・イルミネーションを見にいく機会など、十六年の人生で一度もなかった。
食事が終わり、手土産に持ってきたジェラートもなくなると、リュウジは弟たちと一緒に、車椅子に乗ったエミリオを外へと連れ出す。
草サッカーのできる空き地があった。痩《や》せた野良犬が木陰でへたっている。新しいマンションの建設予定地らしい。アランフェス市内では住宅建設ラッシュが続いている。アトランティコの一部リーグ昇格もそれに拍車をかけていると聞く。
リュウジが空高く四号球を蹴り上げると、乾いた地面でバウンドするそれを弟たちが追いかけていく。
「俺には帰る場所があるんだよな……」
日本語の分かるエミリオに甘えて、日本語で呟いた。
「日本に帰りたくなった?」
「そうじゃないよ……スペインでそこそこ活躍して日本に帰れば、引き取ってくれるチームはきっとあるだろうって思うんだ」
アトランティコの補強要員となったリュウジのことは、すぐ日本にも伝わって、明日の練習後、週刊のサッカー雑誌の取材を受けることになっている。「カメラのレンズを見て笑え」とか言われるのだろうか。その手の取材は苦手だが、チームの広報担当に言い渡され、拒《こば》むことはできなかった。
「日本人にとってはスペインでサッカーを続けるのは大変なことだもんな。外国人枠は年々厳しくなって、そのうち登録三人、出場二人になるって噂もあるし……」
エミリオはその辺の事情に詳しい。「スペインは他のヨーロッパの国と比べると、自分の国の選手を守るっていう考え方が強いみたいでさ、EUの選手をいくらでもチームに入れていいっていう規則を認めたのも、イヤイヤだったらしいよ。そのかわり、ブラジルやアルゼンチンのような強い国の選手にはすごく厳しくなった」
日本人はそのとばっちりを受けたようなものだった。ただでさえ狭き門の登録枠を、強い南米の選手たちと争わなくてはならない。
「そのうえ日本人にとって不利なのは、南米は昔からスペインと深い関係があるってことで、選手はスペインに三年住んでいれば帰化できるんだ」
スペインに帰化した南米の選手がリーガで活躍している例は確かに多い。デポルティーボのドナト、セルタのカターニャといったブラジル人が帰化し、スペイン代表にも選ばれた。
「日本人だと何年?」
「十年」
「やっぱりね」
エミリオが言うには、この差は実は、日本が国内で行っている「外国人排他」の政策に関係しているという。日本で被害を受けた外国人が、今度はその国にやってくる日本人に仕返しをしている、という背景があるらしい。
例えば、日本でスペイン人の労働許可申請が却下《きやつか》されると、スペインでも日本人を同様の規則で引き締める。
「親父も日本で苦労したみたいだよ。就労ビザの延長がなかなか下りなくてさ」
弟たちがあちらから「リュウジもやろうよ」と呼んでいる。空き地に線を引いてゲームをしようとしている。エミリオが「大事な話をしてるんだ。二人で仲良く遊んでろ」とあしらう。
「代理人に言われたんだ。スペイン人になるつもりはあるかって」
相談できる相手はエミリオしかいなかった。
「どう答えたの」
エミリオはさほど驚かない。
「咄嗟《とつさ》にどう答えていいか分からなくてさ、そしたら、ゆっくり考えればいいって言われて……」
ペドロサは性急に返答を求めなかった。スペイン人との養子縁組。例えばペペに頼めば引き受けてくれるのではないか、とまでリュウジは考えた。
「代理人はビジネスのために言ってるんだよ。外国人枠のある選手を売るより、スペイン人選手の方が商売になるから」
「分かってる」
「確かにサッカーがしやすい環境にはなると思うけど」
「俺さ、スペインで一年近く暮らして、この国のサッカーがやっと体に馴染《なじ》んできたけど、モヤモヤした気分がどうしても抜けない。自分にどうしても許せないことがあるんだ」
エミリオが車椅子から慈愛の眼差《まなざ》しで見上げる。さあ、心の中を洗いざらいぶちまけてみろ、と言っている。
「俺には逃げ道があるんだ。日本に帰ればどうにかなるっていう、甘えみたいなもんがどうしてもある。エミリオもアントニオも生活のために、家族のためにサッカーを続けなきゃいけなかった。俺はそういう奴らに最初から負けてると思う」
「リュウジは俺たちに勝ったじゃないか」
「この前の紅白戦では勝てたのかもしれない。でも、運やテクニックだけでずっと生き残れる世界じゃないよ。金や名誉や成功、そういうものを今すぐ手にしたいってギラギラ飢えてる奴が、最後には勝つんだよ」
「リュウジは金や名誉が欲しいわけじゃないだろ?」
あと二十年、サッカー選手として輝くこと。それだけがリュウジの望みだった。金や名誉は付属品に過ぎない。その二十年が終われば自ら命を絶っても構わないとさえ思う。
そのことは言わずにおく。自殺願望と受け取られるような話は、エミリオが相手であってもできない。
「リュウジ、それは家族を捨てるってことだよ」
リュウジの自問自答でも、最後はその問いかけに行き着く。リュウジ、お前は母やミサキを捨てることができるのか? 息子の俺を捨ててほしい、親としての権利を投げ出してほしいと母親に言えるのか?
母親がそれを了解してくれたとする。自分が日本人でなくなったとする。それからの自分を想像してみる。
退路のない袋小路にはどんな孤独が待っているのだろう。帰る国がないというのはどういう寂しさなのだろう。
「人間にはどうして国籍なんてものがあるのかな……」
ぼやいてしまう。国籍などなければ、人間はつまらない孤独感で苦しむ必要はないのだから。
そう思う一方で、「チノ」と呼ばれるとムッとし、「中国人じゃない、日本人だ」と言い返してしまう。国籍はどうしようもなく自分に刷り込まれているのだ。
ボールを追って汗だくになった弟たちが、脱いだTシャツを振り回して喧嘩《けんか》をしている。顔が同じでどっちが兄でどっちが弟なのかリュウジには分からないが、一方が顔をぶたれて泣いていた。
「仲良くしないとママに言いつけるぞ」
エミリオがスペイン語で叱りつけた。
リュウジは落ちているボールに歩み寄り、「さあ、リュウジ対ガキんちょ二人の勝負だ!」と、空高く蹴り上げた。
子供の涙はすぐ乾いた。
週刊サッカーマガジン五月二十二日号記事。
『見えてきたスパニッシュ・ドリーム/志野リュウジ[#「見えてきたスパニッシュ・ドリーム/志野リュウジ」はゴシック体](アトランティコB所属)/十六歳の少年がたった一人で灼熱《しやくねつ》のスペインの地に降り立ったのは昨年の晩夏だった。その年の五月、国立競技場で行われたU─17日本選抜対スペインU─17代表の親善試合で活躍した少年に目を留めたのは、今季リーガ一部昇格を果たしたアトランティコFC。その下部組織で着実に成績を積み上げ、アトランティコBとの契約を果たした志野リュウジ君は、今、攻撃的中盤の手薄なトップチームの練習に帯同し、FCバルセロナとの最終戦出場を狙っている。スペイン人選手でも実現したことのない十六歳でのリーガ・デビューの夢が、はたして見えてきたのか?
──国立のゲームを見ていたアトランティコの会長に見初《みそ》められてのスペイン行きだったと聞いているけど。[#「国立のゲームを見ていたアトランティコの会長に見初《みそ》められてのスペイン行きだったと聞いているけど。」はゴシック体]
そうですね。
──感謝してる?[#「感謝してる?」はゴシック体]
そこで俺のゲームを見てくれてなかったら、今の俺はないわけだから、まあ感謝してます。
──家族は喜んでくれた?[#「家族は喜んでくれた?」はゴシック体]
俺ほどは。
──スペインのサッカーにはどういうイメージを持っていた?[#「スペインのサッカーにはどういうイメージを持っていた?」はゴシック体]
国立で向こうの代表と戦うまでは何のイメージも持っていなかった。興味もなかった。戦ってみて分かった。相手に恐怖心を与えるサッカーだと思った。それが一番|羨《うらや》ましかった。
──ユースの一番下のカテゴリーで優勝して、それがアトランティコBとの契約につながったそうだけど、相手を怖がらせるサッカーが自分でもできたと思う?[#「ユースの一番下のカテゴリーで優勝して、それがアトランティコBとの契約につながったそうだけど、相手を怖がらせるサッカーが自分でもできたと思う?」はゴシック体]
分からない。ただ、相手は俺に抜かれてパニクッてる。ファウルもよく受けるようになった。
──日本のサッカーとは具体的に何が違うのだろう。[#「日本のサッカーとは具体的に何が違うのだろう。」はゴシック体]
うーん、そうだなあ……例えば練習でも試合でも、スパイクにタッチラインの白い粉がついていないと叱られる。それだけサイド攻撃を重要視してるんだと思う。とにかくみんな、自分の持ち味を出して出して出しまくって、見せつける。速い奴はとにかく速い。ヘディングに強い奴はそれだけは他の奴に負けない。試合が終わると、「俺のプレー、見た?」って感じ。目立ちたがり屋の集団。
──日本のサッカーは、今振り返ってみると、どうだった?[#「日本のサッカーは、今振り返ってみると、どうだった?」はゴシック体]
組織とかに従ってモゴモゴしてて、やっててあまり楽しくなかった。
──バルセロナとの最終戦でピッチに立つことができたら、自分の力が通用すると思う?[#「バルセロナとの最終戦でピッチに立つことができたら、自分の力が通用すると思う?」はゴシック体]
通用しなかったらまた練習するだけ。結果は恐くない。でも、そういうチャンスは多分もらえないと思う。
──どうして?[#「どうして?」はゴシック体]
最終戦は負けないサッカーをするだろうから。そういう試合では俺の出番はないと思うし、そもそも外国人枠が厳しいし。
──監督との相性が悪いのかな?[#「監督との相性が悪いのかな?」はゴシック体]
だとしても気にしない。相性の良かった監督なんて今までいなかったし。
──代理人がついて、これからサッカー・ビジネスの世界に入っていくわけだけど、自分が商品になることについて、どう思う?[#「代理人がついて、これからサッカー・ビジネスの世界に入っていくわけだけど、自分が商品になることについて、どう思う?」はゴシック体]
安売りされなければいい。
──将来的な目標は? やはり日本代表?[#「将来的な目標は? やはり日本代表?」はゴシック体]
今はこの国のサッカーにどっぷり浸かっていたい。生まれて十六年、ずっとこの国でボールを蹴っていたんじゃないかって自分でも思えるようなサッカーをしたい。日本代表のことは、必要とされる時がきたら考える。いっぺんにたくさんのことが考えられないから、俺。
──最後に、来月のワールドカップで、日本代表はどの辺まで行くと思う?[#「最後に、来月のワールドカップで、日本代表はどの辺まで行くと思う?」はゴシック体]
一位で抜けるんじゃないですか。組み合わせであそこまで恵まれたんだから。
──何だか日本代表への挑発にも聞こえるね。今日はどうもありがとう。活躍を祈ってます。[#「何だか日本代表への挑発にも聞こえるね。今日はどうもありがとう。活躍を祈ってます。」はゴシック体]
母さん、雑誌の記事は読みましたか?
ミサキから、母さんが週刊サッカーマガジンを定期購読してるって聞いたから、またそれもサランラップでおおって「よしこ」の壁に貼るんだろ。
俺はまだ読んでないけど、きっと「小生意気なガキが何か言ってるぞ」みたいな書かれ方をしてるんだろうな。
来週の最終戦は衛星放送で日本でもやるだろうけど、俺が出るかどうかに関しちゃ、期待しないように。外国人は四人しかベンチに入れないという規則があって、俺は六人の外国人の中でビリっけつです。他の五人より劣っているとは自分では思ってないけど、監督は俺のことを練習でもまったく見ようとしません。
大事なことを今日は書きます。
俺、スペイン人になってはいけませんか。
こちらの国の人間の養子になって、国籍を変えてはいけませんか。
いきなりこんなことを読んでびっくりしたと思うけど。
スペインでサッカーをやるには外国人は不利だからいっそのことスペイン人になっちまえ、という単純な発想じゃない。
母さんは旅立つ俺に「生きて帰っておいで」と言って送り出してくれたよね。俺はこのままだと、いつかその言葉にすがって、スペインや他の国でも駄目だったとしても、とりあえず生きて日本に帰るのかもしれない。
日本のサッカーは俺を歓迎してくれるかもしれない。外国でのサッカーには痛めつけられたけど、畳の部屋で大の字で寝ることができて、母さんの肉皿にもありつけて、これでよかったんだ、そんなふうに自分に言い聞かせて、自分が負け犬であることをすぐに忘れてしまう日がくるような気がする。
駄目だ。それじゃ駄目なんだ。
帰る場所があるってことが俺の弱点なんだよ。
俺は生活のかかっている仲間たちを蹴落として、今の場所に上がったんだ。エミリオを骨折させた時の感触が、今も俺の足に残っている。あいつは俺の親友で、競争相手だった。あいつらのためにも負けて帰るわけにはいかない。
俺を養子に迎えてくれそうな人が身近にいるんだ。もし母さんが親権を放棄することに同意してくれるんなら、その人に頼もうと思ってる。
俺を息子のように可愛がってくれる人だから、心配はいらないよ。
よく考えて返事が欲しい。
その手紙を、リュウジは翌日、郵便局へ持っていった。
ペペの店の常連客でもある局長が、二日酔いだと周りに宣伝しているような酒臭い息を撒《ま》き散らし、エアメールを扱ってくれた。リュウジは「一番早く着く形でお願いします」と頼んだ。料金は張ったが、三日後には母の手許に届くという。
本当に早く読んでもらおうとするなら、ファクスしてもよかった。自宅にはファクスはないが、宮城に送って、届けてもらうこともできた。
いや、それより国際電話をかければいい。
何となく、電話線を通じて気軽にやりとりするような内容ではないと思ったのだ。
早ければ、チームがセビーリャ遠征から帰ってきて、バルサ戦に向けての調整が始まる頃、母からの返事が届くかもしれない。
仕込みをしなければいけない時間なのに、薄暗い店の一角で、書いては破き、書いては破き、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて便箋《びんせん》にボールペンを走らせる母の姿を想像した。
志望の中学に入ることができて笑顔が戻ったというミサキは、「リュウジからこんな手紙が来た」と母から渡されたそれを読み、どんな表情に変わるのだろうか。
「……で、お母さんは何て返事を書いたの?」
ミサキの問いに、母は何と答えるのだろうか。
リュウジは待った。
郵便配達の自転車が店の前にやってくる時間は夕方の五時くらいで、リュウジはシエスタから目を覚ますと、道に出て、ポストの前で待ったりもした。
が、一週間たっても母からの返事はなかった。
その代わり、一人の男がリュウジの前に現れた。
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第八章 ブラッド・シンプル[#「第八章 ブラッド・シンプル」はゴシック体]
スペイン代表に新たな血が加わったことを、リュウジはその日、朝のスポーツ・ニュースで知った。
ワールドカップに向けての国内最終合宿。そのメンバーにバレンシアでリーガ十八歳デビューを果たしたヴィクトル・ロペスが招集されることになった。
運がヴィクトルに味方した。
昨年十月、スペイン代表の不動の右サイドバックであり、デポルティーボ・ラ・コルーニャの中心選手でもあるマヌエル・パブロが、対セルタ戦、いわゆるガリシア・ダービーで敵の中盤と激突、右足のスネが完全に曲がるという大|怪我《けが》を負った。
リュウジもテレビでその瞬間を見た。思わず悲鳴が出そうなほどショッキングな光景だった。怪我をさせてしまったセルタのジョバネーラ選手は、泣きながらプレーを続けた。その気持ちがリュウジには痛いほど分かった。
代表のカマーチョ監督にとっては、右サイドの穴をいかに手当てするかが急務となった。後継者として名前が挙がったのはレアル・マドリーのミッチェル・サルガドだったが、期待に反して、四月に行われたハンガリーとの親善試合では失点のきっかけを作ってしまった。
全治六カ月と診断されたマヌエル・パブロは順調に回復したが、まだ実戦には戻っていない。そこで現在、ボランチの選手に右サイドバックをまかせるという形がテストされている。もし練習試合でこれが機能すれば、今度はボランチの控え選手を補充しなければならない。
そこに、かねてからカマーチョが注目していたヴィクトル・ロペスに白羽の矢が立った。ヴィクトルは本来トップ下の選手だが、守備能力も高く、深い位置からゲームを組み立てることもできそうだとカマーチョは期待している。
それに比べて、お前の有り様は何だ?
リュウジは相変わらず、アルバレス監督の視界の外で練習をさせられていた。監督の視線にはことごとく逃げられている。
今日はセットプレーを重点的に練習する。ゴール前の密集から弾き返されたボールを受けると、リュウジは反対側の無人のゴールへとドリブルで駆けていく。
監督は見ちゃいなかった。
チームはセビーリャで1対1の引き分け、狙い通りの勝ち点1を得て、ホームに帰ってきた。
スタンドに詰めかけている年配のサポーターたちは、向日葵《ひまわり》の種を吐き散らかし、渋い顔で練習を見つめている。最後のバルサ戦も、まさかホームであろうがガチガチに守るつもりじゃないだろうな? 彼らのそんな心の声が聞こえてきそうだった。
第十九節、カンプ・ノウでのアウェーゲームでは、クライフェルトとサビオラに1点ずつを決められて負けた。雪辱《せつじよく》を果たせ、とサポーターは拳《こぶし》を振り上げる。
勝ち点45で十一位。最終戦で勝っても負けても順位は変わらないし、一部昇格の一年目で中位の成績でシーズンを終えることができたのはアルバレス監督の功績、という評価に落ち着くだろう。
だがアランフェスの人間はそれでは満足できない。バルサの強力な攻撃陣にコテンパンにやられてもいいから、とにかく点を取るサッカーをしてくれ。
監督の耳には届いているのだろうか。
六対六のミニゲームとなり、リュウジは監督の注意を引きつけようとできるだけ派手な動きを見せる。そういう媚《こ》びの売り方はしたくなかったが、意地でもあいつを振り向かせてやりたいという一心だった。
切れ味の鋭いフェイントから右足を一閃《いつせん》、小さなゴールにボールが突き刺さった。
その時、スタンドに黒い人影を見た。リュウジの視界の隅に、小さな黒い染みが広がってくる感覚だった。
黒いシャツに黒いチノパンツ、スニーカーまで黒で統一した男は、肌の色だけが黄色人種のそれだった。無精|髭《ひげ》には白いものがまじっている。肩から掛けているショルダーバッグは古く、するめイカのように隅が反《そ》り返っていて、リュウジには見覚えがあった。浪費癖はあったが、仕事道具のバッグだけは長く使い続ける男だった。
リュウジに見られたことに気付いたのか、不吉なカラスを思わす黒ずくめの男は右手を軽く挙げた。
「世界はお前の足にある」
転がってきた地球儀を中一のリュウジがトラップして、足の裏に収めると、彼はそう言って笑った。アパートに連れ込んでいた女に気付いて母が半狂乱になった時だ。
「いいかリュウジ、男というものは魂の隠し場所を持っていなきゃならない」
そう言われたのはサッカーを始めて間もない頃だ。魂はむやみに人に見せるものじゃないと彼は言った。リュウジという名前の「リュウ」には「龍」が隠されているのだ、と。
以来、リュウジは凶暴な怪物を飼い馴《な》らしている。それが首をもたげる時、リュウジはピッチを爆発的に駆けた。
「サッカーは美しい時計に似ている」
なぜ? と幼いリュウジが訊《き》くと、
「中の部品が一つ欠けたって時計は美しい。だが前と同じようには動かない」
きっと何かの本の受け売りだったに違いない。しかしリュウジは集団競技としてのサッカーの本質を男から教えられた。
次から次へと男の肉声が甦《よみがえ》ってきて、頭の中が混乱してしまう。監督が見ているというのにボールをトラップし損なった。
父がスタンドにいる。
時任礼作とはおよそ四年ぶりの再会だった。
「媚びてるのか。それともただ必死なだけか?」
男の第一声だった。練習を終えて通用門を出て行くと、愉快な小動物を体の中に飼っているような含み笑いで父が立っていた。
いつも以上に練習で監督にアピールしようとしている俺のことを、親父はちゃんと見抜いていた。
「どっちも当たってる」とリュウジは答えた。
ゆっくり話したいから、学校が終わるまで待ってくれるという。
「じゃあ、サンティアゴ・ルシニョール広場の傍《そば》の、タホ川沿いのレストランで」
リュウジがアランフェスに来て間もない頃、ペペがカエル料理をご馳走《ちそう》してくれた店だ。父はアランフェスは初めてらしいので場所を教えてやる。「じゃあ、後で」とリュウジは自転車をぎこちなく漕《こ》ぎ出す。前輪がよろける。動揺していた。
「しっかり勉強しろよ」
普通の親が言うようなことをこの父の口から聞くと、冗談みたいに聞こえる。
自転車でエスタディオ・アランフェスを後にする。背中に父の視線を感じていた。黒い存在感が背中にまとわりついている。大きくなったもんだ。父はそんなふうに呟《つぶや》き、俺を見送っているのかもしれない。
確かに父と別れた四年で、背は10センチ伸びた。
学校で特別授業を受けても、リュウジは上の空だった。ただでさえ訳の分からない数学のテキストが、数字の砂嵐のように見えてしまう。勉強に集中できない時は決まってそうだった。
二時間の授業を終え、明日までの宿題を言い渡され、リュウジは教室を出る。普段なら睡魔を引きずって帰る道のりだが、まばたきを必要としないほど冴《さ》えわたっていた。おかげで光を吸い込みすぎて、すぐ涙目になってしまう。
「一緒に帰ろうよ」
アリシアに声をかけられた。体育のジャージ姿だった。自転車をゆっくり走らせ、並んで家路を行く。
「ベンチ入りは?」と訊かれ、
「無理じゃないの」
と軽く吐き捨てる。
「ベンチ入りできなくても、来年につながればいいのよ」
何がつながるのだろう。明るい展望はなかった。
「アリシアはさ……」
訊いてみたくなった。「お母さんとはずっと会ってないのか?」
ふんっと鼻で軽く笑う。やはり訊いてはいけないことだったのかもしれない。
「カディスに住んでる。スペインの一番南の港町。マドリードから特急列車で五時間ぐらいかな」
会いに行こうと思えばすぐに行ける距離だ。
「六人家族のお母さんなの。私のお父さんが死ぬと、私を置いてアランフェスからいなくなって、家族を作り直したの。私を捨ててから、一年に一人、子供を産んだ勘定。二年くらい前に家族写真が送られてきたっけ。幸せそうだった。だから私は、カディス行きの特急列車には乗ってはいけないと思った」
大きな息の塊《かたまり》を吐き出す。この話は終わり、と告げたようだ。そこまで聞けば充分だった。
「二階に新しく入った子供たちに、優しくしてやってね」
「いじめてやる」
アリシアは自転車を接近させ、肩を小突いてくる。
「最初にたくさん、嫌な目に遭った方がいい」
リュウジの持論だった。
「自分がそうだったからって」
昨夜、隣の部屋から啜《すす》り泣きが聞こえた。南アフリカから来た少年だった。故郷に何を残してきたのだろうか。リュウジはアトランティコの支給品といってもいい紙パックの安ワインを持ち、廊下に出て、南アフリカ人の部屋の前に置いてドアをノックした。そのまま自室に戻った。ドアを開けた少年が紙パックのワインを拾い、ベッドに戻った気配が伝わってきた。翌朝、少年はこめかみを押さえていた。二日酔いのひどい安酒であることは教えていなかった。
サンティアゴ・ルシニョール広場が見えてきた。
「俺、寄る所があるから」
「試合が近いんだから、遊び歩いちゃ駄目よ」
「分かってるよ」
アリシアは市街地の方へ折れようとする。
「アリシア」
錆《さ》びたブレーキの音をたてて自転車を止め、アリシアは振り返った。
「親父がこの街に来たんだ」
アリシアだけには知っておいてほしかった。彼女はぽかんとした顔でこっちを見ている。
「四年ぶりに会った」
「……そう」
「夕飯までには戻る。ちょっと食ってくるかもしれないけど」
「お金はあるの?」
「親父が奢《おご》ってくれるよ」
「きっとそうね」
笑うと右の頬にだけエクボができる女だった。リュウジはひらっと手を振って、通りを渡る。
カエル料理の店は観光客で賑《にぎ》わっている。店の中から父が見ているに違いない。今、道で別れた女の子は息子のガールフレンドなのかと、興味津々の眼差《まなざ》しだろう。
が、リュウジが店に入っていくと、父は何杯目かのコーヒーで縁の汚れたカップを前に、一心不乱にノートパソコンで原稿を打っていた。
「お待たせ」
「腹、減ったろう」
原稿に苦しんでいた表情が、瞬時のうちに消えた。
リュウジはアランフェスの名産品である白アスパラガスの塩茹《しおゆ》でと、カスティーリャ・スープとパンを注文した。飲み物は氷抜きのアイス・ミルク。
「カエルがうまいけど、食べる?」
父は顔をしかめて首を振った。食べ物の趣味は常識的だったことを思い出した。母が店で試しに作ったイナゴの佃煮《つくだに》に、決して箸《はし》を伸ばそうとしなかった。
「何の原稿?」
父は有名なスポーツ雑誌の名を口にした。ペンネームを教えてくれた。その名前なら見たことがある。海外のサッカー選手のインタビューを多く手がけていた。やはりサッカーの世界に父はいたのだ。
だがよく見ると服装には金がかかっていない。黒いシャツも黒いチノパンツも色落ちが目立つ。売れっ子ライターってほどではないのかもしれない。
「最終戦の翌日、バルセロナのサビオラにインタビューができそうなんだ」
ということは、アランフェスでの最終戦をスタンドのプレス席で見るのか。
リュウジはピッチに立ちたかった。無性に。
「お前の母さんと、久しぶりに会った」
別れた妻のことを「お前の母さん」と呼ぶ。やはりバルサ戦を見るためだけにアランフェスに来たわけではない。リュウジは父の用件を察した。父の黒い姿をミニゲーム中に見た時から察していた。
「ミサキからメールが来た。お兄ちゃんのことで母さんが塞《ふさ》ぎ込んでいるという。店に電話したら、お前の母さんは俺からの電話を待っていたようだ」
この件で相談できるのは別れた夫しかいない、と母が思っていた矢先、父の方から電話がかかってきたというわけだ。
「スペインの帰化《きか》をやめさせるよう説得してくれって、母さんに頼まれた?」
先手を打って訊いた。
「お前にサッカーを教えたのは俺だ。俺の責任というわけだ」
責任を押しつけられて迷惑、という表情ではなかった。
「ちょうどスペインへ仕事で行くから、リュウジに会って、まず気持ちを確かめてくる。お前の母さんにはそう言った」
「手紙で書いた通りだよ」
父は、うむ、と頷《うなず》く。ウェイターがミルクを持ってきた。よく冷えているそれを一気に飲み干した。
「体作りのヤマ場はあと二年だ」
リュウジの飲みっぷりを見て、父は諭《さと》すような目つきになる。「だが焦るな。筋トレを欠かさずやってるのか?」
「ううん、あまり」
「それでいい。体をビルドアップしすぎるとキレがなくなる。外国にやってきた日本人選手は、体つきの違いを目《ま》の当たりにして、まず焦ってジム通いに精を出す。そこで本来の柔らかさを失ってしまう。今、身につけなきゃいけないのは膝下の柔らかさだ」
リュウジは素直に聞けた。
「母さんに頼まれた。帰化を思い止《とど》まらせてほしいと」
父は本題に戻った。リュウジの心は強張《こわば》る。父の眼差しから逃れて、ふつふつとたぎってくるものを言葉にする。
「俺、捨てられるものは全部捨てて、いっそのことゼロになりたいんだ」
「スペイン人になれば、生き直せるとでも思ってるのか?」
「スペインで駄目だったとしても、日本に帰ればサッカーで食っていけるっていうふやけた考えを、俺、粉々にしてやりたい」
そして呟き声で付け足す。「俺には、時間がないから……」
どういう意味だと父が訊き返さないことを祈った。あと二十年の命。この世に命を与えてくれた肉親には、できれば聞かせたくない。
「よく考えたんだな?」
「考えすぎて、毎日、偏頭痛《へんずつう》がするぐらいだよ」
「そうか……」
父は通りかかったウェイターにコーヒーのおかわりを注文した。
「なら、なっちまえ、スペインの人間に」
「……え」
耳を疑う。こんなに簡単に賛成してくれるとは思わなかった。
「母さんに叱《しか》られるんじゃないの。俺を説得する責任があるんだろ?」
「また嫌われるな。ミサキとメールのやりとりをしてたこともバレちまったし」
そのうえ、リュウジの説得に失敗したら、母はミサキから携帯を取り上げるかもしれない。子供じみたところがある母親だから。
「里親になってくれそうな人間っていうのは、あの店の主人か?」
リュウジが学校に行っている間、父はアランフェス市内の散歩で時間を潰《つぶ》した。息子が住んでいるという店の前も、外から眺めてきた。働いているペペを見かけたようだ。
「いい人なんだ」
ペペは酔うたびに「うちの息子になれ」とリュウジに言う。「アリシアを嫁にもらってくれ」という意味で、アリシアとリュウジをからかって楽しんでいる。決して酒の場の冗談だけではないはずだ。真剣に頼めば快く里親になってくれそうな気がする。
「代理人も確かな人物らしいな」
チーム関係者から聞き出したのだろう。リュウジを取材しにやってきた日本のマスコミと聞いて、アトランティコの広報担当はペドロサの連絡先も教えたようだ。
「俺にできることは何でもやってやる。まずはお前の母さんの説得だな」
親権放棄の手続きとは具体的に何をやるのか、リュウジには分からない。父が力を貸してくれる。母がまたスペイン大使館に出向いて何かの書類にサインをしなければならないのなら、父も付き添ってくれるに違いない。
息子を外国人にするために別れた夫婦が再び寄り添う。それはどれほど辛《つら》いことだろう。
「まかせておけ」
父は柔らかく微笑《ほほえ》む。リュウジは急に身軽になった気分だった。
料理がテーブルに運ばれてくる。
「食え」
「奢り?」
「もちろん」
アスパラガスがこの土地の名産品であることを教えた。父は「どれどれ」とフォークを伸ばす。口いっぱいに頬張り、無言でただ目を丸くした。うまい、と言う時の顔つきだ。
リュウジは父の表情のひとつひとつが懐かしく思えてならない。
アランフェス駅まで見送った。
マドリードのホテルに泊まっているという。その電話番号をコースターに書いてくれた。四日後のバルサ戦にまたアランフェスに来る。それまでに国際電話で母と話し合ってくれるという。
天井が高く、教会の礼拝堂にも似てやけに声が響きわたる駅の待合で、父がぽつりと言う。
「お前には、長い留守番を押しつけてしまったな」
父がいなくなり、リュウジが日本を去るまでの三年間のことだ。お前には苦労をかけてしまった、と言いたいのだ。
車に荷物を積みこんで家を出た父と学校帰りの河原で出くわした時、父は「留守番、頼むぞ」と、まるで何日か取材旅行に出るような口ぶりだったのを思い出す。
「まだいいか?」
「何が?」
「お前の父親でいても、いいか?」
苦いものを噛《か》みしめるような神妙な顔でそんなことを言われ、リュウジは面食らってしまう。ただ頷いた。
アトーチャ行きの電車のアナウンスがある。リュウジはホームまで見送ろうと思ったが、父は「ここでいい。またすぐ会うんだ」と、一人で改札をくぐった。
ホームへ遠ざかろうとして、あっ言い忘れた、という感じで振り返った。改札の仕切り越しに言う。
「試合の日、契約書を持って来る。少し時間をくれ」
「契約書?」
「お前の手記を書きたい。構わないだろ」
スペインで成功した日本人サッカー選手の手記、というやつか。父がゴーストライターになって文章にまとめるのだろうか。
「早すぎるよ」とリュウジは笑った。手記の出版なんて有名プレイヤーになってからだ。先物買いが過ぎる。
「いつか書いてみたい。念のためにお前の代理人に話を通しておかなきゃならん。契約書にサインをくれるか」
一瞬、硬い顔つきになった。
「ああ、いいよ」
リュウジの答えを聞くと、父はすぐまた柔らかな笑顔になり、近郊電車が入ろうとしているホームへと小走りに去っていく。息子のサッカーにはいろいろと難癖をつけるくせに、見るからに運動不足の走り方だった。
黒い姿が視界から消えると、リュウジは喉元《のどもと》に何やら小骨のようなものを感じる。
契約書? 手記?
到着したアトーチャ行き近郊電車の、西陽がテラテラと反射する窓。父らしき黒い影が今ちょうど乗り込んだのが見えた。
一羽のカラスが我慢して窮屈そうに鳥籠《とりかご》に収まっている姿に、なぜか見えて仕方ない。
「日本のママは何て言ってるんだ?」
今まで見たことのない真面目《まじめ》な顔で、ペペに訊かれた。
様々なタパスの匂いとタバコの煙と酒気を追い出すため、換気扇が盛大に回っている。
「まだ話してません」とリュウジは正直に答えた。
店が閉まる午前一時を待って、リュウジは里親の件を相談した。常連客が床に落としていったゴミをペペが集めていた。
リュウジは手伝いながら、
「俺、スペイン人になりたい。俺の里親になってくれませんか」
単刀直入に切り出したのだ。
ペペはホウキの手を止めて、椅子《いす》を引き寄せる。リュウジと向かい合う形でどっかと腰を下ろした。
「母親は……必ず説得します」
父が間に入ってくれる。俺の固い決心を母に伝えてくれる。母を泣かせてしまうかもしれない。だがきっと書類にサインをしてくれるだろう。
奥からパジャマ姿のアリシアが現れた。店の冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取りに来たのだ。リュウジと祖父が黙り込んで向かい合っている姿に、
「どうしたの?」
「リュウジがうちの息子になりたいんだそうだ」
アリシアは一瞬意味を測りかねる。私と結婚したいってこと? と誤解したかもしれない。
「今の外国人枠だとゲームに出られそうにない。いっそのことスペイン人になればチャンスは増える……そういうことか?」
ペペの言うことは半分当たっている。でもそれだけではない。
「スペインで駄目なら日本に帰ればいい……俺はそのうち、きっとそう思い始める。だから逃げ道を塞いでやりたい」
ペペは小刻みに頷いた。気持ちは分かってくれた。しかし同時に、子供の親権を手放さなくてはならない母親の気持ちが痛いほど分かる。
重苦しい沈黙の中で、アリシアが微笑んだ。
「リュウジが弟になるのか」
誕生日はアリシアの方が早いのだ。
「親が子供を捨てるというのは、どういうことか分かるか?」
ペペに問われ、リュウジは深く頷いて見せる。軽々しく理解しているわけではないことを分かってほしかった。
「なら、国を捨てるというのがどういうことか分かるか?」
日本を捨てる。スペインに帰化すれば、二度と日本人には戻れないのかもしれない。
「だから、逃げ道をなくして……」
「違う。そういうことじゃない」
ペペは遮《さえぎ》る。「国を手放すということは、魂を失うということだ」
失う魂? それって何だろう。どんな形をしているのだろう。どれほど重いものなのだろう。リュウジには分からない。
「おそらく日本人でなくなった時、なくした物の大きさを知ることになる」
今夜のペペは何やら哲学者のような物言いをする。
結局、その夜、ペペは承諾してくれなかった。考えさせてほしいと言った。リュウジが母親を説得できたら改めて相談に乗るという。
二階に上がるリュウジを、アリシアが不意に呼び止めた。
「ねえリュウジ……違ってた」
「何が」
「おじいちゃんの養子になるってことは、私のお父さんになるってことだよ」
リュウジが二の句が継げなくてぽかんとしていると、アリシアはぷっと噴き出して自分の部屋へ消えた。
笑い話にして、リュウジを元気づけようとしたのかもしれない。
笑えなかった。父と四年ぶりの再会を果たした一日は長すぎて、リュウジは疲労|困憊《こんぱい》でベッドに沈んだ。
バルセロナ戦を三日後に控えて、マドリードのセグンダBに所属するチームと練習試合が行われた。
三十分三本。一本目は5対0、二本目は4対0で、リュウジはサブ組が中心の三本目に右のサイドハーフとして入った。
開始五分、アシストをした。ゴールラインぎりぎりまで駆け上がって、相手ディフェンダーのブロックをすり抜けたマイナスのクロスを、フリーになっていた控え組のフォワードがヘディングで決めた。絵に描いたような得点シーンだった。相手の守備に疲れが溜まっていて、ザル同然だった。
スタンドにはワインカラーのサポーターが詰めかけている。練習試合で大勢の観客がいるのは、それだけ最終戦に向けて街ぐるみでテンションが上がっている証拠だ。
バルセロナは前節で順位を確定しているので、最後のアウェーゲームは単なる消化ゲームになるが、格下のアトランティコFCには大勝して、気持ちよくシーズンを終えたいだろう。
練習試合の三本目も、サブ組の両サイドバックは守備に専念し、攻撃参加することを控えている。最終戦も守備を固めようとするアルバレス監督に、試合で使ってほしくて媚びているのだ。
リュウジはパスコースを読んでインターセプトし、ドリブルで駆け上がる。スタンドが歓声でうねり、「チノ、チノ」の合唱になる。リュウジは一人かわし、二人かわし、ペナルティエリアに飛び込んでシュートした。ポストを叩いた。惜しかった。スタンドから「ウィー」という声が聞こえる。
監督の方を振り返ると、サブ組のセンターバックに入念な指示を送っていた。ちゃんと見ていただろうな、今のシュートシーンを。リュウジは中盤の位置に戻りつつ、監督の横顔を睨《にら》みつける。
やはり見向きもしない。ベンチ入り十八人に選ばれることはやはり難しいかもしれない。
最後くらい攻撃的なサッカーを見せてくれという街の声が日に日に高まっていた。「0対0などというゲームになったら許さない。最終戦ぐらい負けてもいいから点を取ってくれ」という熱烈なサポーターの声は、今日も監督の後頭部に降り続けている。
バルサ戦が後半になっても膠着《こうちやく》状態ならば、監督は攻めのオプションを見せるかもしれない。それに備えて、手薄になっている攻撃的中盤の選手をベンチ入りさせる可能性はある。今日の練習試合で必死にアピールして、控え選手の候補として監督の頭にインプットさせなければならない。
タッチライン際で長い縦パスをもらう。縦を押さえられると内側にカットインする。リュウジの得意とする動きだった。一旦《いつたん》トップ下の選手にボールを預けると、すぐにヒールパスで返ってきた。相手ディフェンダーがつられ、三人も集まって来る。そこでフリーになっている左サイドバックにパスを送り、マークを逃れる。左からクロスが上がった。味方フォワードがディフェンダーを背にして頑丈なポストとなり、ヘディングでボールを落とした。そこにリュウジが駆け込んでいた。ハーフボレー。針の穴に糸を通す感覚。狭いシュートコースがリュウジを呼んでいた。ボールがディフェンダーの足に当たってコースを変えたのが幸いし、キーパーの逆をついてゴールとなった。
どうだ。仲間が集まって来る中で右腕を振り上げた。監督はポンポンッと手を叩いている。
心の中は読めない。
「いいシュートだった」
監督の代わりに褒《ほ》めてくれた。着替え終わってロッカールームを出てくると、ペドロサが声をかけてきた。
リュウジは右サイドから再三決定機を作った。正確なクロスを上げることもできた。1アシスト1ゴール。練習試合の三本とも同じメンバーで挑《いど》んできた相手の消耗度を差し引いても、三十分フルに動き回ったパフォーマンスは悪くなかった。
ちょうど監督も通路から出てきた。駐車場に停めてあるアウディに乗ろうとしたところを、ペドロサが笑顔で駆け寄って話しかける。リュウジはその場で見守る。
「どうですかリュウジは、最高の出来だったでしょう」と言葉をかけたに違いない。監督はリュウジを一瞥《いちべつ》し、肩をすくめた。「悪くない、確かに」とでも答えたのだろうか。
握手を交わしてペドロサは戻って来る。監督に見せた笑顔が、リュウジと目が合うなり、急に色褪《いろあ》せた。想像した会話は違っていたのだろうか。
監督のアウディが駐車場を出て行く。通用門の外にたむろしているサポーターたちが「2対0!」と叫ぶ。バルサ相手に必ず2点取れ、という要求だ。
「監督は、何て」
監督の一挙手一投足にびくびくしている自分が嫌だったが、ペドロサの仏頂面《ぶつちようづら》が気になって仕方がない。
「リュウジの価値がやっと分かったみたいだ」
ほっとした。
なら、その眉間《みけん》の皺《しわ》は何だろう。
「話がある」
ペドロサは声をひそめる。「レイサク・トキトウというのは、本当に君の父親か?」
リュウジは絶句する。急に胸のあたりがざわざわしだす。
「父親です」
「朝、ファクスが事務所に届いていた。契約書の文案だという」
胸ポケットからそれを取り出し、見せる。スペイン語で文字が打たれている。この種の契約文書はリュウジの読解力ではまだ読みこなせない。
「言いたいことはこうだ。これからリュウジへのマスコミ取材については自分を通してほしい、リュウジからすべて任されている」
愕然《がくぜん》とした。将来的にリュウジの手記を出版するため、代理人の許可を得るための契約書を作りたい。父に頼まれたのはそれだけだ。
「お父さんとはこれまで別れて暮らしていたんじゃなかったのか?」
「……そうです」
「いつ会った」
「昨日の午後です」
尋問を受けている気分だった。
「君は父親を代理人に選ぶつもりか?」
「いつかお前の手記を書きたいから、その承諾をお前の代理人からもらいたい。そういう話でした」
スペイン語がつっかえつっかえになる。動揺しているせいだった。
「だが、その時すでにこの契約書はできていた。そう思わないか?」
そう思う。昨日の夕方、アランフェスで別れ、父はマドリードのホテルに戻ると、すぐ日本に電話をし、「リュウジを帰化させてやってほしい」と母を説得したのだろうか。そして契約書の文案を作ってペドロサの事務所にファクスした? 動きが早すぎる。
「はっきり言おう。君の別れたお父さんは、どうやら君を金ヅルのように思っている。リーガでデビューする前に唾《つば》をつけておこうって腹だ」
俺の父親に何て言いぐさだ。怒りはしかし行き場を失い、リュウジは内向する。
「勝手にこんな契約を結ぶつもりなら、私は代理人をやめる」
後ろで歓声が聞こえる。アトランティコの中心選手が駐車場に出てきて、柵《さく》の向こうでファンが騒いでいるのだ。「2対0!」という声が合唱になる。気さくな選手は、柵の間から差し込まれるサイン帳にペンを走らせている。
リュウジはアスファルトに根を生《は》やしたように棒立ちでいる。
「もう一度訊く。お父さんとこういう約束をしたのか?」
「いえ」
「これからどうする」
「……どうすればいいですか?」
リュウジは混乱している。
「もう一度お父さんと会って、話をするべきだ」
「試合の日、来ます」
「私が一緒にいた方がよければ、そうするが」
「いえ、俺一人で……」
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
ペドロサはリュウジを信じる。肩を叩いて自分の車へ向かう。「ベンチ入りできるといいな」と、明るい声で言い残して。
通用門の人込みからは「リュウジ」「チノ」という掛け声も聞こえる。それをかき分けて出て行く気にはなれず、リュウジは通路を戻ってグラウンドに出た。
南中高度の太陽がフィールドに照りつけている。芝の管理人たちがバケツを持って手入れをしている風景を眺め、リュウジはぐらぐらと心で煮立っているものを鎮《しず》めようとする。
「なぜだ……」
自分の深呼吸が喘《あえ》ぎ声のように聞こえる。
父さん、なぜだ。なぜそんなことを企《たくら》んだ。
父が座るであろうスタンドのプレス席を見上げる。
父さんに見てほしかった。今日の練習試合を監督が評価してくれたら、ひょっとしたらベンチ入りできるかもしれない。ひょっとしたら後半の残り十分あたりでピッチに出られるかもしれない。
リュウジは自分の影を見下ろした。ソル。太陽。スペインの過剰な光によって作られる地上の影は、どれも濃すぎる。
クライフェルトとリバウドとサビオラ。敵の三枚の攻撃陣を無力化するには、彼らをディフェンスに戻せばいいのだ!
「ペペ・デ・ボンボ」の常連客たちは、イワシの尻尾《しつぽ》やオリーブの種を床に吐き散らし、まだ陽があるうちから作戦会議で盛り上がっている。
特にクライフェルトに守備をさせる展開になれば、アトランティコにも勝機がある。あいつが今季、献身的に守備もこなすようになったことは評価に値する。しかし不器用すぎる。リーチはあるが重心が高いのだ。エリアのすぐ外でファウルぎりぎりの止め方をするクライフェルトに、フランク・デ・ブールもパトリック・アンデションもはらはらしっぱなしで、「頼むから、お前は前線にいてくれ」と、この頃注文をつけている。
などと郵便局長は実際見てきたように言う。
リュウジは彼らの後ろをすり抜けて店の外に出る。見つからないようにしようと思ったが、「最高だったぞ、今日のゴールは!」と誰かに背中を叩かれた。
リュウジは逃げ足早く扉を押し、西に傾いた太陽に頬をあぶられ、舗道を突っ切った。道の向こうに国際通話もできる公衆電話がある。ポケットの小銭が重い。
日本は今、深夜〇時を過ぎた頃。母はまだ店で働いている時間だ。二階の電話を取るのはミサキしかいない。寝入りばなを起こしてしまうかもしれない。
国際通話のためのいくつかの番号を押す。つながるまで少し待たされ、コールになった。
相手はすぐに取った。「……もしもし?」
ミサキのくぐもった声だった。九カ月ぶりの妹の声は、やや大人びて聞こえた。
「俺」
「お兄ちゃん!」
素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を上げた後、ミサキは言葉を失う。
「しばらく。元気か?」
せわしなく小銭を入れながら会話する。すぐに本題に入らなければならない。
「あの話ね。お母さんに替わる? 呼んでこようか?」
「いや、お前でいい。ちょっと確かめたいことがあった。俺の手紙は読んだろ?」
「うん。お母さんに見せてもらった」
「母さんは……どんなだった」
「わたしのいる前じゃいつも通りだったけど、ショックだったと思う」
「お前が父さんにメールで知らせたんだな?」
「お母さんはどうしていいか分からなくて、お父さんに連絡してほしいって頼まれたの。わたしがお父さんとメールでやりとりしているのは知ってたから」
まずそこが微妙に違った。ミサキが母の様子をみかねて父に連絡を取ったのではなく、母の方から言い出したのだ。
「母さんは、父さんと久しぶりに会ったんだな?」
「そう。店に来てもらったの。わたしも一緒にいてほしいって言うから、学校が終わる時間に来てもらうことにして……」
「どんな話になった」
「わたしも意外だったけど、お母さんの気持ちはもうその時、決まってたみたい。お兄ちゃんの言う通りにさせてやろう。国籍なんかどうだって構わない。帰化したって、誰かの養子になったって、あたしがお腹を痛めてあの子を産んだことには変わりはないんだからって」
違う。話がまったく違う。母さんは帰化に反対した。父さんは母さんに泣いて頼まれて、俺を説得するためアランフェスに来たのではなかったのか。
「父さんは、仕事でスペインに行く用事があるから、リュウジの気持ちを聞いてきてやる、答えを出すのはそれからでも遅くないって……」
「父さんに説得されたわけじゃなく、母さんは自分で親権放棄を決めたんだな?」
「そうよ」
ミサキの声には怒りがこもっていた。「お兄ちゃんのために決心したの。これで満足?」
リュウジは頭の中を整理する。確かに父さんが言うように、俺の手紙で母さんは衝撃を受けた。ミサキを介して母さんは父さんと会った。「リュウジを説得できるのは元夫しかいない」と思ったからだが、会う前に自分で結論を出した。親権を放棄したからといって親子の縁が切れるわけではない。リュウジがスペインで成功するためには帰化する必要があるのだと母は泣く泣く納得した。自分一人で出した結論を別れた夫──息子をサッカーに導いた張本人に聞いてもらいたかったのかもしれない。
とっくに母さんは俺の帰化を受け入れている。父さんがそれを俺に言わなかったのはなぜだ。
「俺にまかせておけ。必ずお前の母さんを説得してやる」
そう言った後、アランフェス駅での別れ際、契約書の話をもちかけた。
つまり後々、「何とかお前の母さんを説得できたよ。その代わりと言っちゃなんだが、これからお前のマネージメントを俺にまかせてくれないか」とリュウジに持ちかけるつもりでいたからだ。すでに気持ちの固まっている母さんをダシにして、俺に恩を売るつもりでいたのだ。
もし十代でリーガでのデビューを実現させたら、中田や小野に匹敵するぐらいマスコミの取材が殺到し、父はそれによって莫大《ばくだい》な利益を得ることになる。
「お兄ちゃん、これだけは分かってあげて」
ミサキは懇願の声になる。「お母さんの気持ちは、前と変わらない」
次第に泣き声になる。「国籍なんかどうだっていい。お兄ちゃんがどこの国の人になろうが構わない。スペイン人になっても、お兄ちゃんには生きて日本に帰ってきてほしい……」
鼻の奥がカッと熱くなる。ミサキには決して見せずに母がこぼした涙は、あの薄汚れた二階の畳に吸い込まれたのだろうか。
リュウジの手許《てもと》にはあと数枚の硬貨しか残されていない。
「ミサキ……俺、スペイン人になって、スペインのサッカーを自分のものにしたい。何もかも捨てて、この場所から始めたいんだ」
「分かってるよ。分かってるけど」
電話の向こうでミサキは嗚咽《おえつ》している。中学生になっても、ガキの頃に喧嘩《けんか》した時、さんざん聞かされた泣き声とあまり変わらない。
「ごめんなミサキ……母さんにも謝っといてくれ」
「自分で言いなよ」
「中学は楽しいか?」
「うん……」
「友だちはできたか?」
「うん……」
「ボーイフレンドは?」
「そんなの、できるわけないでしょ」
これ以上|喋《しやべ》っていると、自分もぶざまな泣き声を上げそうだった。無理やり断ち切る。受話器を置いた。
小銭が三枚残った。
もう一カ所、電話しなければならない場所があった。三枚あれば足りるだろう。ポケットから二つに折ったコースターを取り出す。その表にはカエルのイラストが入っている。
俺にはまだ、残されている。
自分の手で捨てなくてはならないものだ。母。妹。故郷。日本サッカー。国籍。そして、残されたもうひとつのもの。
受話器を取り上げ、小銭の一枚目を落とし、コースターに書かれた番号を押し始めた。
ペペが店の前に立って、ゲーム前に一杯ひっかけるため店にやってくる常連客たちに「すまんが、店を開けるのは一時間後だ」と断ってくれる。
バルセロナとの最終戦は三時間後で、夕方は店のかきいれ時である。リュウジは申し訳ないと思う。
「街はどこに行っても騒々しいだろう。カフェやバルは地元のサポーターやバルセロナからやってくる連中でいっぱいだ。外で話すといっても、今じゃリュウジも有名人だ。人目については落ち着いて話せまい。親父さんは店に呼べばいい。二人きりにしてやるから」
言葉に甘えて、グラウンド入りしなくてはならない午後六時まで一時間、店の中を借りることにした。
リュウジは今夜、エスタディオ・アランフェスに行かなくてはならない。行く先はスタンドの関係者席ではない。ロッカールームだった。
金曜日の最終調整の練習後、コーチから登録メンバーに入ったことを告げられた。
攻撃的オプションとしてアルバレス監督はどれほど自分を買ってくれたのだろうか。サポーターやフロントの「最終戦ぐらい攻めてくれ」という声に後押しされて、仕方なくリュウジをベンチ入りさせたのだろうか。
リーガ・エスパニョーラでの十六歳デビューになるかどうかは、ゲームが後半に入ってどんな状況になっているかによる。0対0と拮抗《きつこう》していたら、スタンドからいくら罵声《ばせい》が降ってこようと引き分け狙いに徹するかもしれない。0対1で負けていれば攻撃の切り札を投入するだろうが、リュウジが起用されるかどうかは分からない。それ以上に点差が広がれば、監督はやっと開き直るかもしれない。ならばリュウジにもチャンスがある。
どうやらチームの劣勢を心|密《ひそ》かに望む夜になりそうだ。
えんじと青の縞模様のレプリカ・ユニフォームを着たバルセロナのサポーターも、アランフェスのバスターミナルにご到着のようだ。肩を組んでチームの応援歌を熱唱し、スタジアムへの道をねり歩いているのが窓越しに見える。アトランティコの人々は「遠くからよく来た」と拍手で敵サポーターを迎えている。
優勝がかかっているチーム同士の戦いではないから、殺気立ってはいない。彼らは今夜、日常の憂《う》さを忘れるほど盛り上がりたい。だから敵の応援も激しいほどいい。ゲームが終われば、サポーター同士もユニフォームを交換して、バルで飲んだくれるに違いない。
午後五時、約束の時間になった。
マドリードのホテルに電話した時、リュウジは「ゲームの前に話したいことがある」と父に告げた。話の内容については言わず、「時間と場所はまた改めて電話するから」と電話を切った。リュウジの硬い口調に父は何か察したかもしれない。
ペペが店を貸してくれるというので、昨夜もう一度電話して、「午後五時に、店で」と告げた。その時も話の内容には一切触れなかった。「分かった、五時だな」と、父も言葉少なに電話を切ろうとした。息子が胸に溜めている言葉を予感しているようだった。
そこでリュウジはひとつだけ朗報を告げた。「俺、ベンチ入りのメンバーに入ったよ」
父は「おめでとう。やったな」と電話口で喜んでくれた。
砂嵐が吹いているわけでもないのに、やけに黄色くけぶって見える道の向こうから、見慣れた輪郭の人間がやってくる。
父だった。
薄汚れた荒野のガンマン、というふうに見えなくもなかった。
店に近づいて来る日本人の男。リュウジの父親だとペペはすぐに分かった。握手して、「リュウジが中で待ってるよ」と迎え、扉を開けてやった。街の喧噪《けんそう》がワンと忍び込んできて、また静まり返る。父は内部を見回して、窓際の奥に座っているリュウジに気付いた。口許に笑みを見せる。革の隅がめくれ上がっているショルダーバッグは薄っぺらだった。
「何か飲む?」とリュウジは立ち上がった。
「水でいい」
リュウジは店の冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを持ってきた。父は受け取ると、栓《せん》をギリッとねじって開け、喉を鳴らして飲んだ。
店の外ではペペが門番のように座り、やってくる常連客を「出直してくれ」と追い払っている。
向かい合う。父は言葉を待っている。さあ、心の準備はいいぞ、お前の方から切り出せ。そう促されている気がする。
「俺、考えたんだ」
俯《うつむ》いてはならない。父を正視して言わなければならない。
「うん」と相槌《あいづち》を打つ時、父の眉間に悲しげな皺が寄った。何を息子から告げられるのか、すでに分かっているのだ。
「俺、父さんと何の約束もしない」
不覚にも震え声になってしまう。「手記なんか書いてくれなくていい。代理人にも、マネージャーにも、なってほしくない」
父が先に目を落とした。
「息子で商売になると思った?」
責める口調ではなかった。
「俺、母さんとミサキを捨てる。だから父さんのことも捨てなきゃと思うんだ」
父は頷く。
「俺、この国で、一人で生まれ変わる」
「そうか」
もう一度、そうか、と言い、
「……がんばれ」
父はぼそりと呟きかけた。
話は終わった。それだけ言えばいいと思って、何度も頭の中で繰り返してきた言葉だったが、言うべきことはもっとあるような気がした。リュウジは父に感謝したかった。
「クロスの上げ方は父さんが教えてくれた。そうだよね」
「そうだったな……」
「足首をロックして、親指を反り返らせて、ボールを乗せるようにして蹴る……綾瀬川の河川敷で、ゴール前にいる父さんに、やっといい球が届いて」
「ムッシンからオムラム・サルマンへ」
懐かしい名前だった。リュウジも思い出し笑い。日本代表をワールドカップ予選で沈めた男たちだった。ショートコーナーから三浦知良の足をかいくぐってゴール前に上げたムッシンのクロス。九歳のリュウジは何度も真似した。
「家を出て行っても、大事な試合は必ず見に来てくれたよね」
「ああ、必ず見に行った」
スタンドを見上げれば、磁石《じしやく》で吸いよせられるように父の姿を発見できた。父は最も高い位置からフィールドを見下ろす。あの頃のショルダーバッグはもっと膨らんでいたように思う。
「携帯メールは、ちょうど成田を発つ時に届いたよ。アスタ・プロント……また近いうちに会おう。約束だぞ。そういう意味だったんだろ?」
「その約束だけは、守った」
「父さんは守ってくれた」
涙腺《るいせん》がちくちくする。涙にしてはならない。
「ペペが……そこに座っている爺《じい》さんのことだけど」
窓の外、店にやってきたアトランティコ・サポーターと今日のスタメン予想をしているのか、ペペが身振り手振りで喋っている。
「国を捨てるということは魂を捨てるってことだ……俺にそう言ったんだ。その時はよく意味が分からなかったけど、今は少し分かる」
これからスペインに「リュウジ・シノ」という新しい人間が生まれる。それを生み出すのは俺自身だ。
「狭《せば》まってくる外国人登録枠のせいで帰化するんじゃない。俺、この土地で〇歳の俺になるんだ。これから歩き方を覚えて、立ち方を覚えて、親も兄弟も帰れる国もない、そういう寂しさを受け止めて、俺は自分一人の手で、俺っていう赤ん坊を育てるんだ」
「しんどいぞ」
「魂を捨てるって、頼るものがないしんどさに耐えることなんだよ、きっと」
もう一度言おう。決意を刻まなくては。
「しんどくても、寂しくても、俺、父さんを捨てるよ」
「そうしろ、リュウジ」
父が目をそらさず見つめてくる。「お前の言うとおりだ。俺は息子でひと儲《もう》けできると思った。サビオラへの独占インタビューなんていうのは嘘っぱちだ。お前相手に見栄を張ったんだ」
そこまで自分を痛めつけなくていいよ。萎《しお》れたショルダーバッグを見た時から、俺は分かっていたような気がする。
「ろくな仕事もできず、借金の取り立て屋に追われて、息子まで札束に変えようとする薄汚い男だ。お前の手で捨ててやれ」
自分自身への唾棄《だき》だった。
リュウジは耐えられず、涙をこぼしてしまった。
「母さんはもう納得している。俺が間に入る必要もなく、お前が自分の口から頼めば、親権放棄の手続きをしてくれるだろう。だがなリュウジ。ひとつだけ親らしい忠告をしていいか」
「うん」
「こっちに帰化すれば、後で思い直したとしても、簡単に日本人に戻ることはできない。日本がいつかお前を必要とする時が、必ず来る。自分は日本サッカーに捨てられたとお前は思っているかもしれないが、いつか必要とされた時、助けてやれ、あの国を」
そして思慮深げに微笑む。「お前は父親まで捨てるんだ。それで充分だ。国まで捨てることはない。お前は今立派に、お前自身が生み出した人間になっている」
リュウジには自覚があった。涙を流しているが、胸の奥には強靭《きようじん》なものが潜んでいる。
「外国人枠がいよいよ厳しくなった時、もう一度分かれ道に自分を立たせればいい。それまで日本人として頑張ってみろ」
リュウジは軽く頷いた。「考えておく」
父は「さあて」と立ち上がった。リュウジは見上げた。かつて父からサッカーを教わった時、今ぐらいに父が巨大に見えた。
「涙を拭け、リュウジ」
流れるまま、父を見上げている。「今日のゲーム、見てくれるんだろ?」
「ああ、スタンドのどこかで」
「これからも?」
「これからもずっと、見てやる」
飲みかけのペットボトルを「もらっていいか」と断ってから手にし、店を後にした。
ドアの音にペペが振り返ると、二人は別れの握手を交わす。「息子をよろしく」と父が言ったのだろうか、ペペはスペイン式の抱擁《ほうよう》を求めた。
リュウジは二人の会話が手に取るように分かった。「あんた、リュウジをよくここまで育てたな」と、ペペは父を褒めてくれた。父は「ひょっとしたら、あなたにリュウジをまかせる時がくるかもしれない」と言ったに違いない。
スタジアムの方角へ父は去っていく。青と赤のバルサ・サポーターの群れの間を縫って、空っぽのショルダーバッグを揺らし、西陽の中へ溶けていく。
ペペが店の中に戻ってくる。リュウジは急いで涙を拭《ぬぐ》った。
「リュウジ」
にこやかな皺だらけの顔で、分厚い手をポンッと叩いた。「さあ、お前のゲームが始まるぞ」
バルセロナはベストの布陣で挑んできた。
チームの柱はパトリック・クライフェルト、ピッチ内外で問題を起こすことで有名な、やや血の気の多いオランダ人プレイヤーだ。しかしサビオラが加入したことで、「若きストライカーの手本にならねば」という責任感が芽生えたのか、最近は大人になったと言われている。ポストプレイヤーとしての一瞬のボールコントロールは美しく、サイドからのクロスに合わせるテクニックもピカ一だが、今季、サビオラとのコンビネーションではオフェンシブハーフの位置に下がることが多かった。得点しにくいゾーンにいながら豊富な運動量で前線へ飛び出し、リーガ後半はサビオラのゴールラッシュに貢献した。
今季、アルゼンチンのリバープレートから加入し、マラドーナの後継者と言われているハビエル・サビオラは、リュウジとは四歳違いだ。重心の低いドリブルによるチャンスメークと、ディフェンダーを振り切る天性の技術。二十歳にして「世界で最も危険なストライカー」と言われている。
足元に吸いつくようなドリブルと、無理な体勢からでも強引にゴールを決めてしまうリバウドは、古傷の痛みを抱えていてフル出場はできないという見通しだ。サポーターとメディアからは、どんなに活躍しても野次られてしまうこの男も、来季は遂に移籍するのだろうか。
ベンチには、シドニー・オリンピックのブラジル代表として、荒々しいプレーがまだ記憶に新しいジェオバンニが控えていて、リバウドのポジションを虎視眈々《こしたんたん》と狙っている。
右にルイス・エンリケ。熱い闘志を前面に押し出すスペイン人だが、どのポジションもこなせる器用さも売り物。この男の二列目からの飛び出しは要注意だ。
下がり目の位置には、今季グアルディオラの穴を埋めるには至らなかったが、前線へスピードのあるロングパスを送るシャビがいる。バルサの下部組織から育った彼は、ワールドユースのナイジェリア大会の決勝で、日本代表をきりきり舞いさせて優勝に導き、自身もMVPに輝いた。
もう一人のボランチはオランダ人のコクー。困った時にはコクーがいる、と言われるぐらいに、チームプレーに徹する職人肌。得点感覚にも優れ、こぼれ球に対する反応が早い。
センターバックはバイエルン・ミュンヘンから移籍したスウェーデン人のパトリック・アンデション。ブンデス・リーガ仕込みのソツのない守りと落ち着き払った風貌《ふうぼう》が、昨シーズンまでのカウンターに弱いバルサのディフェンス陣に安定感を持ち込んだ。
もう一人のセンターバックは、確実な守備で定評のあるフランク・デ・ブールだ。双子の弟ロナルドと共にバルサにやってきたこのオランダ人は、最終ラインからゲームを組み立てることのできるディフェンダーとしては世界で五本の指に入るだろう。
もじゃもじゃ頭がトレードマークのプジョルは抜群の運動量で右サイドを駆け上がり、そして迅速にディフェンスに戻る。
左サイドにはチーム初のイタリア人選手である元ACミランのフランチェスコ・ココがいる。イタリア人特有の粘《ねば》り強い守備と、華麗なオーバーラップが持ち味で、左サイドに貴重なアクセントをつける。彼は高い位置でプレーすることが多いため、もしリュウジが右サイドハーフに入れば、裏のスペースを狙える相手だ。
アルゼンチン代表のゴールキーパー、ロベルト・ボナーノと一対一になる場面を想像すると、リュウジは右足インステップの血管が疼《うず》く。サビオラの「おまけ」として安い移籍金でバルサにやってきたこのゴールキーパーは、足元のボールさばきに難があるくせに、時々勘違いをして華麗にボールを扱おうとするところに弱点がある。
スペイン人は時間にルーズで、開始時間ぎりぎりにスタジアムにやってくることが多いが、今夜はキックオフ三十分前ですでにスタンドはチームカラーで膨《ふく》れ上がっている。アウェー側ゴール裏にはバルサ・サポーターが陣取っているが、全体からすると二割程度だ。
リュウジたちサブのメンバーはフィールドの片隈でパス回しをして時間を潰し、ロッカールームに引き上げる。アトランティコの主力選手に歓声が降ってくる。リュウジはスタンドの最上段を見上げる。
父の姿は見当たらなかったが、立ち止まることはしたくなかった。ペペやアリシアの姿は見えた。セルジオやペドロサらしき姿も見た。エミリオは杖《つえ》をついて家族みんなと見に来てくれただろうか。「シティオ」のかつての同僚も集まっているはずだ。
関係者席の中心にはホアキン会長がいて、地元の要人と抱擁を交わしていた。
フィールドを振り返ると、バルサの選手たちも引き上げて来る。
FCバルセロナは年間予算を世界中に散らばる約十万人の会員「ソシオ」によってまかなっているという、地域クラブの理想を達成したチームである。
バルセロナとレアル・マドリーの敵対関係は有名だが、それは一九三六年に勃発《ぼつぱつ》したスペイン内戦に始まっている。
ファシストのフランコ軍率いる反乱軍と自由主義の共和国政府との戦いは、国民の心に深い傷跡を残した。反乱軍の勝利によってフランコ独裁政権が始まるや、共和国側についたバルセロナは、首都マドリードからことあるごとに目の敵にされた。母国語であるカタルーニャ語も、独自の文化も迫害された。アイデンティティーを奪われる仕打ちにカタルーニャ人は怒り、それが今でもレアル・マドリーへの敵視とつながっている。
FCバルセロナというクラブは、カタルーニャ人にとってはバルセロナを代表するひとつのサッカー・チームというより、本来ひとつの国であるはずだったカタルーニャを象徴する国家代表として、人々の精神的支柱の役割を果たしている。
しかしバルサの主力選手の半数は外国人である。オランダのスーパー・スターであるヨハン・クライフが監督を務めたこともあって、このクラブはオランダ、スウェーデン、ブラジル、アルゼンチン……各国のエース級を擁する超多国籍軍としてリーガ・エスパニョーラに君臨している。今日のスタメンを見ても、十一人中、生粋《きつすい》のスペイン人はたったの三人だ。
最近のバルサは様々な問題を抱えている。一昨年のシーズンまでの中心選手だったフィーゴがライバルのレアル・マドリーに移籍をした。その破格の移籍金を手にしたものの、昨年は場当たり的な補強ばかりで、新しく入ってきた選手のほとんどが使い物にならなかった。
ひと頃は資金力の豊富な金持ちクラブと呼ばれたが、現在、ヨーロッパのクラブ資産番付では第八位と後退している。
「このところのバルサは無意味な配役が多すぎて主役が判別できないB級映画のようだ」と評したスポーツ・ジャーナリストもいる。バルサの役員たちも次々とメディアに出てきては、やれ「リケルメが欲しい」だの、やれ「クライフェルトは必要ない」だの好き勝手な発言をし、現場は混乱した。
今季のエンジンのかかりも遅かった。しかし願ってもない救世主が現れた。ワールドユースの得点王のサビオラだった。クライフェルト、リバウド、サビオラの強力トリオは、地元のメディアで「トリデンテ」と表現される。三つの穂先がついた一本の槍、という意味らしい。
後半戦になってやっと順位を上げたバルサだったが、上位三チームの牙城は崩せなかった。クラブ経営の重要な柱であるチャンピオンズリーグ出場を決めたことが、せめてもの救いだった。それにしても、信じられないのはレアルの失速だった。
レアルの唯一のアキレス腱と言われていたセンターバックの二選手が揃《そろ》って故障し、手薄になったディフェンスラインを格下チームによってズタズタにされた。しかもジダンの不調。バレンシアの優勝は、醒《さ》めた見方をすれば、棚ぼた式に転がりこんだものだった。
ロッカールームが静かになる。
ユニフォームに着替え終わった選手たちの何人かは頭を垂れ、神の名を唱え、十字を切っている。ヘッドホン・ステレオで音楽を聞いている者。虚空《こくう》を睨みつけている者。それぞれの方法でゲームへのモチベーションを高めている。
中心にスーツ姿のアルバレス監督が立つと、全員が姿勢を正し、注目する。
「中盤では必ずボールにプレスをかけ、そのエリアで相手に時間とスペースを与えるな」
そしてサイドバック二人を指さして、「左右に開いて攻めて来るクライフェルトとサビオラをマンツーマンで捕まえろ」
やはり守備のことしか言わなかった。
この及び腰のディフェンダーたちをズタズタにしてやれ、とリュウジの中の悪魔が囁《ささや》く。バルサがリードを広げるほど、自分に出場のチャンスが増える。
キャプテンマークを付けたトップ下の選手が円陣を狭め、声をかける。リュウジも気合のひと声を発し、円陣から散った。
通路に待機するレギュラー組を残し、リュウジたちサブメンバーはコーチらと共にグラウンドに出て、そそくさとベンチに入る。通路の出口でバルサのサブ組の一人と肩がぶつかった。昨シーズン、六十六億ペセタの移籍金でアーセナルからバルサ入りしたオーフェルマルスだった。「子供が紛れ込んでいるのか?」という目で見られた。勢いづかせたら誰にも止められない高速ドリブラーとして有名な、ベテランのオランダ人プレイヤーだ。
まずバルサの選手が入場して大ブーイングに包まれる。次にアトランティコの選手が駆け足で入場、整列する。メインスタンドからバックスタンドへ、熱狂的声援に手を振って応える。
記念撮影。コイントス。主審がテレビ中継クルーの合図を待ち、キックオフの笛を吹いた。
最初のワンプレーで誰もが思った。これはバルサがボール支配率で圧倒するゲームになるだろう、と。
センターサークルから放たれたボールは、いつの間にかリバウドの足元で大事に飼われている。アトランティコのプレスを楽々とかわし、シャビやルイス・エンリケとのパス交換で、じわじわと攻め上がってくる。すでに前線ではクライフェルトとサビオラがディフェンダーのマークを外そうと、縦横無尽に動き回っている。
リバウドの重心の安定は、あのがに股に秘密があるのかもしれない。アトランティコの選手は強引なプレスに行くのを恐れる。かわされたらリバウドにゴールを向かれてしまうという恐怖。
そして最初の洗礼を受ける。リバウドは自己中心的ともいえるドリブルから、ゴール前30メートル、遠い位置でも助走は少なく、強引なシュートを左足で打ってきた。それは不思議と枠に吸い込まれていく。キーパーがからくも手で弾いてゴールを阻止した。スタンドが一斉に「ウィー」と吠《ほ》えた。
ゲーム開始早々の相手コーナーキックから、アトランティコは全員でゴール前を固めることになる。アルバレス監督は敵陣に残っていたフォワードまで戻す。
ベンチの端に座っているリュウジは歯痒《はがゆ》い思いに駆られる。そんなにこの時間帯での失点が怖いのか。怖いのだろう。
リバウドのコーナーキックはキーパーがパンチングでクリアした。しかしボールを支配される時間は続く。
アトランティコは1トップでカウンター狙いだが、前線に張るフォワードにボールが渡っても、速さがないし、相手の虚《きよ》を突く意外性がまったくない。フランク・デ・ブールとパトリック・アンデションのセンターバック二人の網にすぐかかってしまう。
シャビが中盤の底でハンドルを握り、やはり左サイドをフランチェスコ・ココが積極的に駆け上がる。易々《やすやす》とパスを通され、クロスを打たれる羽目になる。ただしゴール前にディフェンダーの数は揃っていた。それだけが取り柄のチームだった。
バルサの弱点は前線のコンビネーションにあるはずだ。リーグのベスト・ペアと呼ばれるクライフェルトとサビオラがシンプルなボール回しをするのに、リバウドだけがこねくり回す時がある。身勝手な彼のミスにつけ込み、中盤でボールを奪ってトップに当てるというシンプルな攻撃を目指せばいい。
が、アトランティコの中盤はサビオラにスペースを突かれることを恐れ、リバウドをフリーにさせてしまう。
ボールを散らし、回す。バルサの攻撃陣は無理に仕掛けなくなった。アトランティコの疲労を待っている。狡猾《こうかつ》な作戦だ。
停滞するゲームにじりじりして、観衆は「バーモス・アタカー!」と叫ぶ。
アトランティコの選手を動かし、疲れさせ、隙間《すきま》を見つける。リバウドのスルーパスに身長168センチのサビオラが抜け出した。倒れ気味に左足のシュート。キーパーの正面だったのが幸いした。
楽しげに攻撃参加するフランチェスコ・ココが、ゴール前に長いボールを入れてくる。またしてもサビオラがディフェンダーを振り切ってフリーとなった。得点王タイトルを決定づける1点と誰もが予感した。が、簡単にヘッドで当てたシュートはバーの上を越えた。サビオラはそのままネットに突っ込んで、自分の不甲斐《ふがい》なさを呪《のろ》う。
ボールは再びリバウドの支配下に置かれる。前半だけの出場と最初から決まっているのか、誰よりも激しい運動量だ。あれよあれよという間にペナルティエリアに突っ込んで来る。観衆の絶叫。そのまま侵入されるくらいならファウルで止めるしかない。
ゴール正面、20メートルからのフリーキックとなる。蹴るのはリバウド本人。アトランティコは六枚の壁だが、「近い」とリバウドがクレームをつける。
すでに笛は吹かれた。冗談じゃない、こんな近くちゃ俺は蹴らないよ、とウンザリした態度を見せた一瞬後、リバウドは助走なしに左足を振り抜いた。完全に隙を突かれた壁の間をボールが通過した。キーパーの正面気味だったが、反応が遅れて前に弾いた。敵味方がボールに群がってくる。ディフェンダーが必死にクリアした。
雨あられのシュートだ。最後まで0点で終えることができたら、キーパーがゲームの殊勲者《しゆくんしや》だろう。
この浮遊感は何だ。
リュウジの耳から観衆の声が遠のく。
目の前のゲーム展開も現実感をなくす。俺ははたしてピッチの片隅に存在しているのか、それさえもあやふやな気分に陥る。
志野リュウジとは何者だ。まず日本人である。それは厳然《げんぜん》たる事実。まだプロではなく、単なるBチームからの補強要員。そして守備重視のチームでは必要とされないタレント。スペイン・サッカーという地平にただ浮遊しているに過ぎない存在。
父が最後に言った。お前は今立派に、お前自身が生み出した人間になっている。
父を捨て、やっと生み出した俺だ。それがベンチの端にうずくまり、ピッチを行き来するボールを物欲しげに眺めている。
出たい。このゲームに出て、血を分けた人間たちに、俺という人間が生き始めたことを証明したい。
監督の横顔を見る。こちらに目もくれず、テクニカルエリアに出てセンターバックへ指示を送っている。
絶叫を聞いた。何事かと振り返ると、自陣ゴール前でクライフェルトが倒れていた。ディフェンダーが「何もしていない」と両手を上げているが、主審はイエローカードを掲げた。どうやら中央突破したクライフェルトをエリア内で引き倒したようだ。
やっと0対0の均衡《きんこう》が破れるのか。PKを蹴るのはサビオラだ。たっぷりした助走から、キック寸前までキーパーの動きを読もうとする。
蹴った。インサイドで確実に当てたシュートをキーパーが完全に読んだ。ラインの外へ弾き出した。大事にいこうとして裏目に出たサビオラは頭を抱える。
アトランティコはまだツキに見放されていない。だがリュウジは喜べなかった。これでますます監督は0対0でゲームを終えようとするだろう。後半は疲れの見える守備陣を交代させるかもしれない。
リュウジは立ち上がった。監督やコーチに命じられたわけではなく、ベンチ裏でアップを始めた。スタンドから細々と「チノ」コールが起きる。リュウジをピッチで見たいと思うファンがいてくれる。
そうこうしている間に長い笛が二度鳴った。前半が終わった。
肩で息をし、疲れきったメンバーと入れ違いに、リュウジはピッチに出て控えメンバーたちとボールを蹴る。
ロッカールームに消えるアルバレス監督にブーイングが飛ぶ。物も投げられた。スタンドに制服の警備員が入ってきて、そのあたりがざわつく。欲求不満の観衆の中には発火寸前の輩《やから》もいる。
リュウジは控えのキーパーが守るゴールにシュート練習をする。体はすでに温まっている。テレビカメラの視線を感じた。リーガ最終戦で十六歳の日本人選手がデビューするかもしれないと聞いて、日本からも取材陣がやってきた。ピッチに立つことがあれば日本サッカー界には大ニュースになるだろう。
U─17日本選抜の神保監督や、チームメイトだった梶もテレビを見ているに違いない。ベンチの隅に居続ける俺を見たら、引き分け狙いのチームで同じ憂き目を味わっている、と梶は思うだろうか。
シュート練習は一本も外さず、ゴールネットを揺らした。
選手がフィールドに入ってくる。ロッカールームでどんな指示があったのだろうか。勝ち点1を取ったところで順位が上がるわけでもない最終戦なのに、「バルサに負けなかった」という結果を勲章にしようとしているのか。
リュウジたち控えメンバーはベンチに下がる。
エンドを替えての後半が始まった。
リバウドはやはり前半で力を使い果たし、若いブラジル人プレイヤー、ジェオバンニに交代した。
リュウジはベンチ裏で軽いランニングを繰り返す。監督の視野に入っているはずだ。
俺を見ろ。
念力《ねんりき》は通じない。
後半に入ってもバルサのボール支配率は高い。アトランティコのカウンター狙いはことごとく潰される。スタンドの野次は激しくなる。髪を振り乱して怒っている中年婦人がいる。
おや? と思い、リュウジはゲームに注目する。アトランティコがボールを回すシーンが増えたのは気のせいか。
バルサの攻撃疲れだ。後半十五分、アトランティコに最初の決定機がやってきた。右サイドバックのプジョルからシャビへのパスをカットした。開いていたセンターバックの間に突入する。ボナーノが前に出た。アトランティコのフォワードはその動きを見てループシュートを放った。が、勢いを失って転がるボールはポストに嫌われた。スタンドが落胆のどよめきに包まれる。
バルサのレシャック監督が初めてベンチを出てきて、きりきりした怒号を上げた。消化ゲームであっても、アトランティコごときに負けられないという意地がある。
アルバレス監督がベンチを振り返った。交代要員に目を止める。ベンチ裏でアップを続けているリュウジを、視線が素通りした。フォワードの控え選手が呼ばれて慌《あわ》ててアップを始める。ボランチを一人削って攻撃陣を増やすつもりだ。
さっきのシュートシーンで、勝機があると見たのだろう。観衆が待ち望んでいた攻撃モードにやっと突入する。
選手交代。ワンボランチでバルサの猛攻を凌《しの》げるのか。リバウドがいなくても、替わって入ったジェオバンニは一対一に強く、視野も広い。
案の定、手薄になった守備陣形の間をルイス・エンリケによって抜かれた。エリア内に左右から突っ込んでくるクライフェルトとサビオラにマークが引きずられていた。
危ない。リュウジはゴールの匂いを嗅《か》いだ。
ルイス・エンリケとジェオバンニのワンツーで崩された。ルイス・エンリケのチップキックによる浮き球を、マークをかいくぐったクライフェルトが、背中から飛んでくるボールを、長い脚で捉《とら》えた。まるで爪先が触手のようだ。ワントラップしたボールに右足が食らいつく。至近距離からの豪快なシュートをキーパーが弾いたところを、サビオラが難なく押し込んだ。ゴールネットが膨れ上がったように揺れた。遂にサビオラが神を味方につけた。
スタンドは沈黙。二割の歓喜のみ。
アトランティコの選手がボールを抱えてセンターサークルに走るが、バルサの選手たちは小柄なサビオラを囲んで祝福を続けている。
監督ががっくり肩を落とした。アトランティコはいよいよ無得点では許されない展開になった。
なら俺を見ろ。
レシャック監督が二枚目のカードを切ってくる。疲れの目立つコクーに替えてオーフェルマルスだ。左サイドからの攻撃でアトランティコを完膚《かんぷ》無きまでに叩き潰すつもりだ。
攻撃モードのために入れたはずなのに、アトランティコのフォワードはまったく機能しない。ずるずると下がってオーフェルマルスを中盤で食い止める仕事に専念している。
しかし、その背後をフランチェスコ・ココが怒濤《どとう》のオーバーラップで追い抜き、左サイドから矢のようなクロスを上げる。クライフェルトがヘッドで合わせた。危なかった。
相手の左サイドを封じるには、こちらの右サイドに新鮮な血を入れることだ。いつになったらそれに気付くのだ。
俺を見ろ!
残り十五分を切った。その瞬間の映像は、リュウジの目にはスローモーションで見えた。アルバレス監督が首をねじり、ベンチを振り返り、そこに座っていない控え選手を探す。そして、リュウジの顔に行き着いた。
俺を見た。その眼差しに浮き上がる言葉。
──行けるか?
──行けます、いつでも。
驚くことに、監督の心と通じ合った。トップチームに参加して初めての感覚だった。監督はコーチに「リュウジ」と告げた。コーチは用紙に急いで書き込む。監督はリュウジに向かって「来い」と顎《あご》をしゃくる。
リュウジはベンチに戻り、スネ当てをつけ、パンツの紐《ひも》を縛り直し、監督の許に行く。
「好きにやってこい」
こんなことを言う監督ではなかった。やってやる、かき回してやる。リュウジは監督の許から放たれた。
第四審判の許に行く。スパイクの裏を見せる。電光掲示板にリュウジの背番号が入る。スタンドが沸き立つ。アリシアの呼ぶ声が聞こえたと思ったのは空耳か。
首筋の血管が脈打っている。アドレナリンの激流で全身がみなぎっている。
ボールがアウトになった。消耗しきった右サイドの選手と交代になる。
「ブエナ・スエルテ」
すれ違いざま言われた。「グッド・ラック」を意味するスペイン語だった。
後半三十五分、ピッチに立った。練習をした時の芝の感触とは違う。熱が立ちのぼってくる。選手がこれまでの八十分でピッチに放った熱に違いない。
母さん、ミサキ、見てるか。
生放送ではないらしい。それだけが残念だ。中継録画して後日、日本で放送されると聞いている。
父さん、見てるか。今、俺はこの地で産声《うぶごえ》を上げる。
リュウジの名前がアナウンスで告げられた。スタンドが「チノ」の合唱となる。
チノじゃない、シノだ、そろそろ覚えろ。文句を心で呟く余裕もあった。
プレー再開となる。リュウジはこれまで引き絞っていた矢を放つかのように、ピッチを駆けた。
シャビからオーフェルマルスに渡ったパスをチェイシングする。左サイドバックのフランチェスコ・ココが背後の縦のスペースを駆け抜けていくのが見えた。そこへ出されるボールを読み切ってインターセプトした。オーフェルマルスがバランスを崩している間に、ドリブルでかわした。バルサの強力センターバック二人の網へとつっかけていく。味方フォワード二人の動きを、ぶれる視界の中に確認し、パスコースを選ぶ。フォワードの一人がフランチェスコ・ココの戻りの遅い右サイドのスペースに大きく流れたのを見て、右足アウトサイドでボールを出した。
ボールを受けたフォワードは素早くクロスを上げてくる。ペナルティエリアに侵入していたリュウジだったが、パトリック・アンデションの厳しいマークを受けてボールに絡めない。胸に肘《ひじ》が入ったが簡単に倒れたりしなかった。頭の上を越えていったハイクロスにもう一人のフォワードが合わせようとしたが、フランク・デ・ブールにヘディングでクリアされた。
アトランティコが初めて見せた、流れの中での攻撃だった。
あの感覚がある。獣《けもの》の鼓動を聞いた。
動脈と静脈が正月の注連縄《しめなわ》のようにねじれる。それが一匹の獣の姿になる。内なる「龍」が赤々と現れ、牙《きば》を剥《む》く。
疲れの見えるシャビに背後からプレスをかけて、ボールを奪い取った。シャビは倒れこんで大仰《おおぎよう》にファウルをアピールする。主審は笛を吹かなかった。リュウジはまたゴールを向く。
「どこのガキだ?」と、ゲームが始まる前に小馬鹿にしたオーフェルマルスの顔色が変わっている。
後ろから激突してくる奴。シャビが報復でプレスをかけに来たのかと思ったら、リュウジより背の低い選手だった。サビオラだ。フォワードのこいつまで守備に戻っている。残り十分を切って、バルサは虎《とら》の子の1点を守るつもりだ。
マークがきつくなった。ボールになかなか絡めなくなった。スペースを探して右から中央、そして左へと流れる。バルサの選手はリュウジへのパスコースをことごとく潰している。時計は進む。四十四分を過ぎた。第四審判がロスタイム表示。残り三分。
オーフェルマルスが敵陣コーナーでボールを持ち、露骨な時間稼ぎをしている。すぐ横のコーナーフラッグが選手に弾かれ、台風に見舞われたように揺れる。ボールがアトランティコの選手に当たってアウトになる。敵のスローイン。そのボールをまた時間稼ぎのためキープされてしまう。
主審が腕時計を見た。タイムアップは近い。おそらく残りワンプレーだ。その時アトランティコの選手が無理やり体を入れて何とかボールを奪った。前線へとやみくもに蹴ったボールを、うまく味方フォワードが胸でトラップし、背後に食いついてくるパトリック・アンデションを腕で押さえ、必死にボールをキープする。
リュウジはゴールに向かって走った。右サイドから斜めに猛然と中央を切り裂いた。味方フォワードが倒れ込みながらボールをリュウジに落とす。リュウジはそれを右足のインステップでひっかけ、加速する。さらにカバーに入り、行く手を阻《はば》むフランチェスコ・ココを切れ味の鋭いシザースでかわした。ぽっかりとシュートコースが開いた。リュウジ自身が創り出した空間だった。
その時、足元のボールがミズノの四号球に見えた。インステップとインフロントの蹴り分けができるようになった頃。綾瀬川の河川敷。でこぼこの地面で不規則にバウンドするボールを、渾身《こんしん》のインステップで捉えた時の感覚。
それでいいんだ、リュウジ。
父が褒めてくれた。
ボールが右足の甲に吸いつき、ひしゃげ、エネルギーを蓄えられてから放たれた。懸命にカットしようとするフランク・デ・ブールの爪先をかすめ、セービングしようとするキーパーの手をはじいた。弾道はリュウジ本人の目にも見えず、直後、ただ白く波立つものだけが見えた。
スタンドの歓声がとてつもない重力となって、ボールの行方を見届けたリュウジを四方八方から押し潰した。
[#改ページ]
謝辞
二〇〇一年初頭から一年かけて書き上げたこの小説は、多くの方々のご助力を仰いで完成しました。
スポーツ・ライターの竹澤哲さんには、スペイン・サッカー界の全般についてご教授願いました。
湘南ベルマーレの田中孝司監督には、日本のユース世代の育成方法などを詳しく教えていただきました。
四月のスペイン取材では、アトレチコ・マドリーのフベニールで頑張っていた玉乃淳君と滞在中に何度も会い、スペインに単身サッカー留学をしている十七歳の内面を覗《のぞ》かせてもらいました。
ゲームで途中交代となり、取材を受けられる精神状態でない時でも、快く質問に答えてくれました。本当にありがとう。
リュウジの風貌《ふうぼう》をイメージする時、どうしても玉乃君の姿が思い浮かびますが、彼が主人公のモデルだと言うのは失礼に当たるような気がします。玉乃君はリュウジのように屈折していませんし、日本のご家族は海外でのサッカー留学にとても理解のある方々だと聞いています。今季、古巣の東京ヴェルディに復帰する玉乃君の活躍を、祈っています。
スペインでは玉乃君の親代わりであるスペイン・トレンディ社の池ノ谷岩夫さんには、取材のコーディネートだけでなく、その後も、スペイン語の表記、スペイン・サッカー界の現状など、何度もメールのやり取りの中で教えていただきました。
スペイン取材では、B級資格コーチの小原一典さん、アトレチコ・マドリーの元ファーム統括部長のアントニオ・セセーニャ・フェルナンデスさん、現在ラーヨ・バリェカーノBの監督であるアントニオ・イリオンド・オルテガさん、元スペイン代表のフォワードで今は代理人業を営んでいるジョアン・カルロス・ペドロサさん、といった方々にお話を伺《うかが》いました。
物語の舞台となるアランフェスを、僕らと共に足を棒にして歩いてくださったスペイン・トレンディ社の岡本ミチエさんにも感謝します。
カメラマンのダイスケさんには、ナンバーPLUS誌連載時から、素晴らしい写真を提供していただきました。ロケーションではスペイン・トレンディ社の山下厚司さんにお世話になりました。
名古屋グランパスと川崎フロンターレにおける九年間の現役生活で「天国」と「地獄」を見た中西哲生さんは、読者の皆さんもご存じのように、現在はスポーツ・ジャーナリストとして大活躍をされています。
今回の小説を、「フィールドに視点を置いたアクション小説」と位置づけた時から、プロサッカー経験者で、作者の狙いを分かってもらった上で助言していただける「テクニカル・アドバイザー」が必要不可欠でした。
原稿が上がるたびに、中西さんとは文藝春秋の会議室でお会いし、時には目の前でサッカーボールを蹴ってもらって、一語一句をチェックしていただきました。
読者の方々にもし「迫真の試合描写」と思っていただけたら、それは中西さんの助言の賜物《たまもの》です。
今年冬から予定している第二部連載でも伴走をお願いします。
ナンバー編集部の江坂寛さんには、スペイン取材から今まで、激励していただきました。マドリードのグランビア通りを二人で歩いている時、路上強盗に遭いましたが、その体験は作品に生かすことができました。
ナンバー編集長の阿部雄輔さん、ナンバーPLUS編集長の鈴井伸夫さん、編集部の武田昇さんにも御礼を申し上げます。
文藝春秋第一出版局の白幡光明さんに、「サッカー小説を書きたいのですが」と、三年ぐらい前に酒場でお話ししたのがすべての始まりでした。やっと結実しました。
第一出版局の大村浩二さんにはこれからもお世話になります。
そして、サッカーボールに触れる機会を与えてくださった成城クリッパーズの大澤英雄監督、国士舘大学サッカー部所属のコーチたち、うちの崚や優も含めた子供たち、妻由紀子を含めた父母の皆さんにも感謝します。
二〇〇二年二月吉日
[#地付き]野沢 尚
【主要参考文献・引用文献】
『スペイン5つの旅』 中丸明 文春文庫
『スペインひるね暮らし』 中丸明 文春文庫
『ヨーロッパ・カルチャーガイド スペイン』 トラベルジャーナル
『地球の歩き方 マドリッド トレドとスペイン中部』 ダイヤモンド社
『NHKテレビ スペイン語会話』 日本放送出版協会
『スペイン人のまっかなホント』 ドリュー・ローネイ著 小林千枝子訳 マクミランランゲージハウス
『日本人には分からないスペインの生活』 榎本和以智 南雲堂フェニックス
『ワールドサッカー名言集 決めゼリフを言う選手、捨てゼリフを吐く監督』 フィル・ショウ編 森田浩之訳 廣済堂出版
『監督の条件』 セルジオ越後・金子達仁対談 ジェフ・キング著 竹澤哲訳 日刊スポーツ出版社
『サッカー監督という仕事』 湯浅健二 新潮社
『闘うサッカー理論』 湯浅健二 三交社
『サッカー上達マニュアル』 松木安太郎監修 産調出版
『サッカーの世紀』 後藤健生 文春文庫
『サッカーMONO物語』 伊東武彦 ベースボール・マガジン社
『サッカーマルチ大事典』 ベースボール・マガジン社
その他、文藝春秋発行『ナンバー』『ナンバーPLUS』、ベースボール・マガジン社『週刊サッカーマガジン』、ビクターブックス『ワールドサッカーグラフィック』などの雑誌の記事を参考にさせていただきました。
[#改ページ]
文庫版のためのあとがき[#「文庫版のためのあとがき」はゴシック体]
高校時代、サッカーとは敵対関係にあった。
名古屋の進学校、校庭は広いが運動部が分け合って使わなければならない。最も広く占拠しているのは僕ら野球部だ。ライト側では陸上部がハードルを立てている。軟式テニス部が壁打ちをしている。レフト側にサッカー部がいた。
彼らはレフト奥に立つゴールに向かいシュート練習をする。つまり、僕らが打撃練習をする時、彼らは背中を無防備にさらすことになる。
サッカー部の連中をめがけて打つとヒット・コースになるので、彼らは常に標的だった。
頭に命中して保健室に運ばれるサッカー部員の恨みを買い、野球部の僕らとはことごとく対立した。「カキン」と金属バットの音がするや、彼らが条件反射で後頭部を押さえて身をすくめるのが愉快だった。
こうしたサッカー部との軋轢《あつれき》のせいもあって、僕はそれから長い間、サッカーから遠ざかることになる。
数々のワールドカップの名場面もリアル・タイムでは知らない。
サッカーを部活動レベルでやったことがないことは、今となっては強烈なコンプレックスである。
ほんのたまに、若者たちに混じって草サッカーをすることがある。プレーのイメージだけはご立派なのだが、四十三歳の肉体はその十分の一も実現できない。ドリブルを仕掛けてくる敵の左サイドに半身を保って阻止しようとするのだが、易々と振り切られてしまう。
ボール恐怖症に陥りながらサードを守った高校時代が、僕の人生に何をもたらしたのだろう。野球漫画の原作を書いた時に少し役立った程度ではないか。もし人生をやり直すことができるのだとしたら、十歳あたりまで巻き戻してサッカーを始めたい。
一九九三年のアメリカ・ワールドカップ・アジア地区予選。そこからサッカーへの傾倒が始まった。「ドーハの悲劇」がきっかけでのめりこむという、「いるいる、そういう奴」と生粋のサッカー・ファンが鼻で笑う類の一人である。
それまでのサッカー空白時代を取り戻すように、僕は加速度的にサッカー漬けとなった。
サッカーに関するコラムでこの世界でデビューを果たしたのは、フランス・ワールドカップ直前のキリンカップ観戦記だったが、その後、ある男性ファッション月刊誌でサッカー・コラムを始める。
一年の連載中は、プレス席で見ることが多かった。試合後の記者会見でも末席に座り、トゥルシエのコメントがいかに紋切り型でつまらないかを知った。
静岡対決となった九九年のJリーグ・チャンピオンシップでは、当時清水エスパルスを率いていたペリマン監督のコメントが印象的だった。暴力行為で退場処分となったアレックス選手を責めながら、その激烈な口調に彼の成長を願う親心が感じられた時、この人に日本代表をまかせたいと思ったものだ。
二〇〇〇年の横浜F・マリノスのファースト・ステージ優勝は、セレッソ大阪と川崎フロンターレの試合結果にかかっていた。選手たちと同じピッチ・レベルで電光掲示板の中継映像を見上げ、フロンターレのVゴールと同時に、マリノスの選手と共に歓喜した。
プレス章を首から下げた奴が、そんなふうに喜んではならない。サッカーを冷静に見つめる側にいなければならない人間として、どうやら僕には熱量がありすぎる。
ならば、その放熱を仕事に生かさなくてどうする、と自分をけしかけた。
二〇〇一年、虎視眈々と狙っていたサッカー小説執筆のきっかけが、舞い込んだ。
以前から、それを書くなら、「ナンバー」を有し、豊富な取材陣を誇る文藝春秋しかありえないと思っていた。
「日本を愛する」という感情など日常的には無縁だと思える若者たちが、スタジアムでは朗々と国歌を歌ってしまう。ひょっとして遺伝子レベルで、ナショナリズムというものが僕らの細胞に刻み込まれているのかもしれない……。
何だかんだ言っても、僕らは日本という国を愛しているのか……?
そんな疑問も、サッカー小説に導かれた理由だったかもしれない。
僕は知りたい。
日本全国のサッカー人口八〇万人。そこで上を目指し、競争に生き残り、ワールドカップ出場という「頂点の十一人」に選ばれるというのは、どんな気分なのだろう。
うちの息子がかつて通っていたサッカー・スクールを見ていても、サッカー少年の裾野の広さには驚くばかりだった。
彼ら十一人は反吐《へど》を吐きながら、怪我の痛みに耐えながら練習を続けてきた。ボールを追うのが楽しくて楽しくてしょうがなかった子供の頃のサッカーは過ぎ去り、自分の体を見下ろせば、青痣《あおあざ》とテーピングだらけ。満身|創痍《そうい》だ。
父親と空き地でボールを蹴った。インステップキックとインフロントキックの蹴り分けができるようになった。無邪気にボールを追い、笑顔が絶えなかった頃のサッカーは、彼らにはもう無縁なのかもしれない。
否応もなく背負わされるナショナリズムは彼ら十一人を追い詰めるだけかもしれない。日本を代表してしまうことのプレッシャーとは、どれほどのものだろうか。
登録メンバーのサバイバルをくぐり抜け、ピッチに立つことができた。五万観衆の声援を浴びた。そこでゴールを決めた。スタンドの歓喜の爆発に押しつぶされそうになった。
ほんの一握りの人間にしか味わえない感動は、選手のその後の人生をどう左右するのだろうか。
僕らは彼らの苦しみを決して共有できない。僕らは、彼らが苦しむサッカーを楽しんでいる。ここにスポーツというものの残酷なる真理がある。
ナンバーPLUSでの連載と、ワールドカップ直前の単行本化の話があれよあれよという間に決まり、四月のスペイン取材となる。
何故スペイン・サッカーなのか。何故、主人公のリュウジ少年をスペインで活躍させようと思ったのか。
その答えは例えば、レアル・マドリー対バルセロナのゲームにある。カスティーリャ対カタルーニャ。地域と地域の激突。サイドを制する者が勝利するダイナミックな攻撃的サッカーの魅力。見ていて楽しくなければサッカーじゃない、という国民性。
太陽。赤土。砂埃。スペイン瓦……この色彩の中に主人公を投げ込んでみたかった。
書き上げれば、「日本初の本格サッカー小説」となるはずだ。サッカーに造詣《ぞうけい》の深い小説家は何人もいる。一番手でなくてはならないという変な焦りがあった。
味方からサイドチェンジされたボールが飛んでくると、それは地球が自転しながら落ちてくるように見える。うまくトラップできた時、地球の支配者になった気分になる。
冒頭の文章を思いついたら、あとは一気|呵成《かせい》だった。
この小説は多くの現役Jリーガーにも読まれたと聞く。
スポーツ・ジャーナリストの中西哲生さんをはじめ、多くの方々からアドバイスをいただいて、現役プレイヤーにも「あるある、こういうピッチ上の感覚」と思ってもらえるクオリティに何とか到達できた。
現在、シリーズはアテネ五輪を舞台にした三作目が出来上がり、この文庫本と同時期に書店に並ぶ。
もし日本サッカー界に停滞の時期が訪れたとしても、このシリーズを書き続けなくてはならない。
現実の選手からだけでなく、ジャパン・ブルーを身にまとう読者の皆さんからもエネルギーをもらえたら、と思う。
二〇〇四年四月二十五日 日本女子サッカーがアテネ行きを決めた
前夜のスタンドの興奮が、まだ体のあちこちに疼《うず》いている日に
[#地付き]野沢 尚
単行本 二〇〇二年四月 文藝春秋刊
初出誌
イッツ・ア・スモール・ワールド」「ゴー・ウエスト」「ダメラ!」「ロンリー・ハポネス」「エル・ファンタスティコ」の五章は Sports Graphic Number PLUS(June 2001〜May 2002)に連載。「ペイン」「アイデンティファイ」「ブラッド・シンプル」の三章は書き下ろし
〈底 本〉文春文庫 平成十六年七月十日刊