マルタ・サギーは探偵ですか?
「ドクトル・バーチに愛の手を」
野梨原花南
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『ドクトル・バーチへの憤懣《ふんまん》あらわに/
王立植物研究所主任 リーサー氏』
先《せん》だっての青《あお》薔薇《ばら》盗難《とうなん》事件《じけん》(同時に臓器《ぞうき》売買《ばいばい》事件の解決であったことは、読者の記憶《きおく》に新しいことと思う)で、施設《しせつ》に多大な被害《ひがい》を被《こうむ》ったとして、王立植物研究所主任リーサー氏は、ドクトル・バーチを本紙記者の前で非難《ひなん》した。
市民《しみん》の味方、不必要な被害を出さない義《ぎ》なる怪盗《かいとう》としてドクトル・バーチは市民に愛されているが、で、あるなら何故《なにゆえ》、施設に甚大《じんだい》な被害を及ぼして黙秘《もくひ》しているのか。
年に一度のネラス嵐《あらし》の日にぶつかったのは、お互い運が悪かったとしても、その後の温室《おんしつ》における被害は惨状《さんじょう》の一言《ひとこと》である。
本来|密《みつ》なる状態《じょうたい》に保たれるべき温室の生態系は、かの怪盗が開け放った一枚のガラスのために壊滅的《かいめつてき》な被害を被った。
学術的《がくじゅつてき》な| 志 《こころざし》が微塵《みじん》でもあるものならば、心を痛めないわけがない。
けれど事件から一《いっ》か月《げつ》が経《た》とうとしている今日ですら、まだかの怪盗からの接触《せっしょく》は私のところにない。
詫《わ》び状《じょう》の一通《いっつう》でもあってもよいものである。
オスタス・ジャーナル第三面囲み記事より抜粋《ばっすい》
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絹《きぬ》の寝間着《ねまき》の上にガウンを着て、温室の花を見ながら朝食を待っていたバーチは、その整《ととの》えた爪《つめ》で白い額《ひたい》を抑えて溜息《ためいき》を吐いた。
大理石《だいりせき》の天板《てんばん》の、丸テーブルの上に湯気《ゆげ》を立てる朝食が置かれる。
「ジャック。これを読んだかね」
顔も上げずにバーチは新聞を振ってみせる。
「はい。ドクトルのお名前が見出しにありましたから、その三面記事は特によく読みました」
答えたのは泥色《どろいろ》の皮膚《ひふ》、低い身長とずんぐりした体つきのゴブリンだ。
きっちりとプレスしたシャツとベストとネクタイ、磨《みが》き上げた革靴に、折り筋を通したズボン。
彼の名はジャックといい、ドクトル・バーチの執事《しつじ》| 兼《けん》| 運転手 《うんてんしゅ》| 兼《けん》|世話係《せわがかり》|兼《けん》|秘書《ひしょ》といったところで、実に多忙《たぼう》な毎日を過ごしているはずだが、そういったそぶりは毛ほども見せない有能《ゆうのう》な男だった。
更《さら》に言えば、バーチの父の代からこの家に仕《つか》えているから、バーチの子供時代からの付き合いだ。
バーチはその黒い扇《おうぎ》のような睫《まつげ》を何度か瞬《またた》かせてジャックの言葉を待っている。
今や妙齢《にょうれい》の婦人《ふじん》だというのに、そうしている様子は子供の頃と変わらない。
すらりと伸びた四肢《しし》も豊かな胸も細い首も丸い肩も、何も関係なかった。
困《こま》ったときの顔だ。
ジャックはわざと何も言わない。
「で、どう思う」
上目遣《うわめづか》いで言われて、苦笑《くしょう》を堪《こら》える。
「どう、とは?」
「だから。私は謝罪《しゃざい》するべきかね」
「……何をですか」
「だから、彼の温室に被害を出してしまったことだよ」
もどかしげに言うバーチに、ジャックはふむ、と息を漏《も》らしてみせる。
「どうしてそんなことになったのですかな」
「多分アレだ。逃《に》げるときに窓《まど》を閉《し》めなかったからだ。それで羽蟻《ネラス》が入り込んで」
「ああ、気球《ききゅう》の掃除《そうじ》も大変でした」
「私も取り巻かれて大変だったよ」
「とはいえドクトル。お小さいときから開けた窓や扉《とびら》や戸は閉めるようにとさんざん」
「扉ならいざしらず、窓を閉めて帰る怪盗なんかいるか」
バーチは椅子《いす》にふんぞり返り、その豊かで長い黒髪を掻《か》き上《あ》げて足を組んだ。
「怪盗が去った後《あと》にはいつだって、カーテンがたなびいているものだろう? そうじゃないか?」
「……はぁ。そんなもんですかね」
ジャックは半眼《はんがん》になって天井《てんじょう》に視線《しせん》をやる。
ああ、しみがある。
掃除しないと。
「まぁ悪くないと思われるんでしたら謝罪の必要もありませんでしょう」
「いや、だから。薔薇を盗《ぬす》んだことと窓を閉めなかったことは悪くないと思っているけど、温室の環境《かんきょう》を壊《こわ》したことは悪いと思っているんだよ。けれど、その二つは密接《みっせつ》につながっているし、けれど大変申し訳ないことをしたとか頭を下げるドクトル・バーチは魅力的《みりょくてき》ではないじゃないか。謝罪の気持ちを表《あらわ》すにしても、もっとなんというか、あれだ、驚《おどろ》きが必要だ。ちょっと洒落《しゃれ》ていて、何かこう美しい感じのものだ」
バーチは自分の頭の中のイメージを形作るかのように新聞を持ったまま両手を動かした。
そして止めた。
「……あー……」
かといってかにか思い付いたわけでもなく、やがてがくりと椅子にもたれ、両腕は力無《ちからな》く垂《た》れた。
「ドクトル」
「あぁ」
「食事が冷《さ》めます」
「ああ」
溜息をつきながらバーチは起きあがって、焼きたてのロールパンを千切《ちぎ》る。バターを少しとマーマレードを塗《ぬ》って食べる。
「まあ、その。なんと言いましたっけ」
「リーサー氏か?」
「彼をよく知る人物に話を聞くと参考《さんこう》になるんじゃないですかね」
バーチの手が一瞬止まり、いかにもイヤそうにジャックを見上げた。
「トワイネル?」
「同僚《どうりょう》でしょう」
「…リーサー氏は実直《じっちょく》そうな男だったぞ」
「それでしたらリーサー氏はあの方とは仲《なか》がお悪いとは思いますが、あの方のほうではどうかわかりませんし、観察眼《かんさつがん》は人一倍なんではないですか。その……」
ジャックは言葉を探して胸の前でもどかしく、軽く手を動かす。
「……思いやりがないだけで」
「思いやりがないわけじぁないなぁ。自分より他人のことがとにかく優先《ゆうせん》するだけだろ」
ナイフを操《あやつ》って、ベーコンを切り、レタスと一緒に口に運んで溜息をつく。
あいつにオレンジを食べさせたら蛍光色《けいこうしょく》の黄色い泡《あわ》を吹き出して倒れたのは思い出しても気持ちが悪い。
まぁ確かに自分が、思いがけない食物《しょくもつ》で思いもかけない症状《しょうじょう》を起こして倒《たお》れているのに、心配より先に気持ち悪いとか思われ続けたら彼みたいになるのかもしれない。
でも、だって、色んな種族の特徴《とくちょう》が混ざりまくっている彼は、吹き出す体液《たいえき》がいちいち蛍光色なのがとにかくよくない。
同情するよりびっくりするし、いつだったかはいつの間にか寄生《きせい》していた極小《ごくしょう》の妖精《ようせい》たちが文句《もんく》を言いながら口から飛んでいった。しかもいっぱい。
そんなことを考えると、別に自分が酷《ひど》い人間だというわけではなく、驚きが先に立つのは仕方ないとも思えるのだ。
だからバーチは彼を嫌《きら》いではない。
嫌いではないが苦手《にがて》ではある。
だから頼《たよ》りたくはない。
「頼りたくないなぁ、トワイネルには」
思ったままを素直《すなお》に口に出してみる。
「言っている場合でもないんじゃないですかね」
「何故《なぜ》だ?」
「謝《あやま》ることは難《むずか》しいからですよ」
うう、と唸《うな》ってバーチは黙《だま》る。
「しかもドクトルと来たら、自分の体裁《ていさい》を保《たも》つことまで考えておいでですから、両方を一緒にするとなると、そりゃぁ情報は必要でしょう」
ジャックはちらりとバーチを見た。
「選択《せんたく》の余地《よち》はないと、あたしは思いますがね」
「すまないねぇこんなことに狩《か》り出《だ》して」
白衣《はくい》に手袋《てぶくろ》、マスク姿のリーサーが、同じ格好《かっこう》のマルタとリッツにすまなさそうに言う。小さな体に不似合《ふにあ》いな銀色の噴霧器《ふんむき》を背負《せお》っていた。
「いえいえ。手当《てあて》がいただけるんでしたらどうせ暇《ひま》ですし」
とマルタが言って
「リーサーズローズの件の後始末《あよしまつ》と思えば手当をいただくのが申し訳ないくらいの話ですし」
とリッツが言った。
リーサーは疲《つか》れ切《き》った溜息を吐き出して肩を落とす。
「ほんとにねぇ。まぁ運が悪かったとは思うんだけど。まさかここまで繁殖《はんしょく》するとは……」
確かに温室内は悲惨《ひさん》な有様《ありさま》だった。
入り込んだネラスの中に女王アリに進化《しんか》したものがいたらしく、足元は幾筋《いくすじ》もの黒く蠢《うごめ》く縞模様《しまもよう》に彩《いろど》られている。
「巣《す》に熱湯《ねっとう》を流し込んだりは?」
長靴《ながぐつ》に這《は》い上《あ》がってきた蟻《あり》をもう片方の靴底で払い落としながらマルタは言う。
「したさ。きかないけど」
「僕《ぼく》がいたところじゃ、蟻の巣に毒を持ち運ばせて、巣の中で蟻がそれを食べたら死ぬっていう仕掛けがあったけど」
「へぇ! それはどんな毒だい!?」
期待《きたい》に顔を輝《かがや》かせてリーサーは言い、マルタは少し固《かた》まってから答えた。
「さぁ」
「え」
「ケースに入って店で売ってたから知りません」
あんまりにもあからさまにがっかりした顔で見られたものだから、マルタは少し頬《ほほ》を染《そ》めてうつむき、口の中で、
「だって、テリーヌの作り方しらなくたって、店で買えば食べられるじゃないですか。それと同じで」
とか呟《つぶや》いた。
リーサーは曖昧《あいまい》に笑うと、
「そうだね。じゃぁ、やっぱり地道《じみち》に駆除《くじょ》作業《さぎょう》をお願いするよ」
と告《つ》げて、手順を説明すると、どこかへと消えていった。
そして少ししてから現れて、彼らしくない凄《すご》みのある形相《ぎょうそう》で低く告げた。
「そうだ、あのね。事は急を要《よう》するんだ。言っておくけど。だからさ・ぼ・ら・な・いでね!」
それだけ言ってどこかへ消えた。
らしくない様子とらしくない言い方に、二人はリーサーが酷く追い詰められていることを知る。
温室の中では似たような格好の人々が、話をする様子もなく黙々《もくもく》と作業をしている。
木でできたささら状のもので蟻を叩《たた》き、下に落として踏《ふ》みつぶす。
あるいはあまり効《き》かないが、温室の貴重な植物に被害を与えないもの、例えば唐辛子《とうがらし》やニンニクを煮《に》だした汁《しる》を霧吹《きりふ》きで噴霧して回っているものもいた。
どちらにしろあまり効率的《こうりつてき》ではない。
マルタはささら状のもので、列をなしている蟻をべちべちと叩き始めた。
「こんなことして駆除《くじょ》できるのかな」
リッツが首を捻《ひね》りながら言う。
「やらないよりはマシなんじゃないの? ジョセフに蚤《のみ》がついたときだって、根気よくとったら一週間くらいでいなくなったし」
あれは夜に彼女が人の姿になって風呂に入っていたからなのだがなとリッツは思ったが口には出さなかった。
マルタとリッツが飼《か》っている犬のジョセフ犬《いぬ》が、実は人犬族《じんけんぞく》の少女で夜になると人の姿になって街を歩き回っていることをマルタは知らない。
知っているのはリッツだけだ。
リッツにしろ、彼女がどこで何をしているのかは謎《なぞ》だ。
そしてこんな地味《じみ》な作業をしている今は、事務所《じむしょ》兼《けん》住居《じゅうきょ》の留守番《るすばん》を頼《たの》んである。
リーサーとこの二人の関係は、つい先日のリーサーズローズ事件からはじまる。
バーチがリーサーが作り出した青い薔薇、リーサーズローズを盗むと予告を出し、二人にトーリアス警部《けいぶ》が薔薇の護衛《ごえい》の依頼をしたのだ。
結果薔薇は盗まれてしまったが、同時期に起こっていた臓器売買の一派《いっぱ》の逮捕《たいほ》につながるという思いがけない展開《てんかい》を見せた。
その一派はこの温室の隣にあるエシ博士の研究所の助手三人だった。
ノナウスムと警察が仮称《かしょう》している一派のものだとトーリアスは見ているが、三人はまるっきり黙秘《もくひ》を通していて話にならない。
その時エシ博士が異《い》世界《せかい》人《じん》であるマルタの身体を調べたいと言って、研究室に招《まね》いていたが、マルタはエシ氏がどうしても好きにはなれなかった。
だから、蟻をべちべちと木から叩き落としながら温室のガラス越しに、エシ氏の研究室に入っていく黒髪の女性を見て、少なからず驚いた。
「あれ……マリアンナさん」
「マルタ、さぼるな」
リッツがあまり効かない水を霧吹きで吹き、薬効《やっこう》でというよりも蟻を溺死《できし》させまくりながら言う。
「いや、あの、ティルマカット洋《よう》菓子《がし》店《てん》のマリアンナさんがエシ氏の研究室に」
「見間違えだろ」
リッツはにべもなく言い、作業に戻る。
マルタは釈然《しゃくぜん》としないなぁと呟きながらも、ともあれ蟻の退治《たいじ》と気持ちを切り替えてまたべしべしと蟻を叩き始めた。
「ところでマルタ」
「ん?」
「ディルベルタさん好きなのか?」
「うん。美人で優しいしお菓子食べさせてくれるもん」
「そういう意味じゃなくて」
「えー?」
「その、恋文を書きたい衝動《しょうどう》にかられたりとかしない?」
思いがけない言葉にマルタはリッツを凝視《ぎょうし》する。
「……シェル様じゃあるまいし」
「恋をしたらアレよりはましな詩が書けるんじゃないのか」
以前の依頼者であるヘボ詩人の名を出し、リッツはマルタを見つめ返す。
「書いたら見せるよ」
「見せなくていいよ」
「なんだ冷《つめ》たいな」
「関係ないだろ」
「お前こそ彼女いるんじゃないか? ほらこの間、帰ったら二人分|食器《しょっき》が洗《あら》い場《ば》にあったじゃないか、あれは」
「しつこいよマルタ! あれは大事なお客が来たんだよ!」
リッツは顔を赤くしてマルタに水を吹きかけた。
「……冷たいよなーリッツ」
恨《うら》みがましい目で見られて、リッツはマルタの方が年上なのにもかかわらず内心このクソガキ、と毒《どく》づく。背中を丸めてべちべちと蟻を叩く姿がいかにもうざったかった。
それでも視線はエシ氏の研究室へと向けられていたので、やっぱり気になるんじゃないかとは思ったが、自分はクソガキじゃないから茶化《ちゃか》すのはやめた。
「マルタ、どこ見てるんだ」
「うん」
言われてマルタは作業に戻ったが、視線はやっぱり温室の外だった。
研究室の中は心地《ここち》よく暖《あたた》められている。温室の影響《えいきょう》でここまで廊下《ろうか》も暖かかったが、ここではもう外套《がいとう》もマフも帽子《ぼうし》もいらない。
布《ぬの》張《ば》りのソファとテーブルがある応接室《おうせつしつ》部分《ぶぶん》に、マリアンナ・ディルベルタことドクトル・バーチは通された。
案内《あんない》をしたのは研究室の入口にいたオーガーで、彼は窮屈《きゅうくつ》そうに灰色《はいいろ》のスーツを着ていたがいかにも似合っていなかった。
コートかけに帽子とコートをかけて座って待ち、やがて奥の扉が開いて、出て来たのはトワイネル・クルーゼル・エシ博士その人だった。
「ようこそマリアンナ」
エシ氏は人間族だが、様々な種族の混血《こんけつ》だ。耳の下には僅《わず》かに鱗《うろこ》、髪はふわふわとした白髪《はくはつ》、眼鏡《めがね》の下の瞳は金色で、虹彩《こうさい》は黒《くろ》。
トカゲや蛇《へび》のそれに似た瞳は視線が強すぎ、焦点《しょうてん》はどこで結ばれているのか解らない。
それなりに整った容姿《ようし》だが、いい男、という表現には少しばかり遠かった。
白衣に身を包《つつ》んだその姿を見て、バーチは立ち上がるでもなく僅かに目を不快《ふかい》に細め、唇《くちびる》を尖《とが》らせる。
「お久しぶり、トワイネル」
「本当にご無《ぶ》沙《さ》汰《た》だ」
笑顔でエシ氏は言う。
「……趣味《しゅみ》が変わったのかね」
「どうしてだい」
「助手にオーガーを使うとはね。君は人間族の女性が好きだったろう。それに、そういう態度《たいど》で人を出迎《でむか》えるなどというウィットに富《と》んだセンスもなかったはずだが?」
バーチはテーブルの上に出し放してあった新聞紙を手に取り、ポン、と左の手の平に打ち付ける。
バーチ言うところのそういう態度、と言うのはつまり、エシ氏の背後に見知らぬ男が立っていて、背中《せなか》をナイフでつついているというつまりそういう状態だ。
エシ氏は両手を軽く上げでそれでもにこにこしている。
そして脂汗《あぶらあせ》を流している。
「この間から私、こういう目に遭《あ》うのはどうしてなのかなぁ」
エシ氏が言うのは先日のリーサーズローズの騒《さわ》ぎの件で、確かに彼は今と同じようにナイフを突きつけられて人質《ひとじち》になったのだ。バーチは見ていないが、後で新聞を読んだから知っている。
あの時は花の様な女性助手に脅《おど》されていたのだが今回の相手は覆面《ふくめん》をした男だった。
奥から覆面をした人間族の男や、オーガーが出てきたのを見て、バーチはあからさまに顔をしかめた。
「日頃《ひごろ》の行《おこな》いが悪いんじゃないか? ……ところで私はむさ苦しいのが大嫌《だいきら》いなんだけれど。どうにかしてくれないか、トワイネル」
「いやぁそう言われても」
「お客様、とんでもないときにいらして下さいましたね」
覆面の男の一人が言った。
男たちは全員同じ、よくあるグレーのコートで同じような帽子を被《かぶ》って、顔の下半分を覆《おお》う覆面をしている。声を発した彼もそうだった。
バーチはにっこりと微笑《ほほえ》んで言った。
「あら。だって私、約束《やくそく》をしていたんですもの」
そして静かに立ち上がる。
「先約《せんやく》があるならトワイネル、ちゃんと調整《ちょうせい》してくださらなくてはいけないわ」
「えーとね、この人たち飛び込みで」
「約束はしておりません」
一番後ろに立っていた、背の高い男が言った。
どうやらリーダー格《かく》らしい。
突然変わったバーチの言葉《ことば》遣《づか》いにも驚いてはいないようだ。
もっとも、彼にとってはどうでもいいことなのかも知れないし、もとよりレディに訊《き》くことでもない。
「あら、そう。では私が先約ですのね」
「そうですな」
リーダーの男の声は動じない
バーチは微笑む。
「でも、そちらのご用事の方がお急ぎのようですから私は出直すとしましょう」
「マリアンナ、そんなぁ」
エシ氏が情けない声を上げる。
「いえご遠慮《えんりょ》なさらず。あなたのような美しい方が危機《きき》にさらされているとなれば、エシ博士の頑《かたく》なな態度も和《やわ》らぐやも知れませんので」
その言葉を聞いてバーチは見事な笑顔を作って見せた。
「あら、お上手ね。エシ博士に何をお望みなの?」
「あなたには関係のないことです」
「命がかかっているのでしょう? 聞いておきたいわぁ」
わざと科《しな》を作って言ってみる。
バカをからかう要領《ようりょう》だ。
「あなたには関係のないことです」
あまりバカでもなかった。
「あっあのねぇ、私こないだ大発明をしてその論文《ろんぶん》をぶわぁーっと業界《ぎょうかい》紙《し》に載《の》せたんだよ! そしたらそれにこの人たちが目をつけてねぇ!」
こっちのバカが引っかかった。
「黙らせろ」
背の高い男が言って、背後の男が強くナイフを突きつけた。
エシ氏は硬直《こうちょく》し、高く手を挙《あ》げ直す。
「ああ、あれか。ええと、昆虫《こんちゅう》の能力の意図《いと》的《てき》な操作《そうさ》について」
思い出して言われた言葉にエシ氏は嬉《うれ》しそうに微笑む。
「わぁ感激《かんげき》だなぁ! 君が私のことをそんなに気にかけてくれているなんて!」
「業界紙には全て目を通しているまでだ」
バーチは冷ややかに言う。
「でもあれ、すぐ回収《かいしゅう》になったんだよ。倫理《りんり》委員会《いいんかい》が論文の撤回《てっかい》と研究の停止《ていし》を求《もと》めてきてさ」
「……まぁ、そうだろうな。神《かみ》の領域《りょういき》だもの」
「私は他にいーっぱい研究することがあるから別にいーけどさー。倫理委員会ってうるさいよねー。科学の発展《はってん》の妨《さまた》げになってると思わない? 私は、まぁああいうことも必要だろうけど、それより大事なことってあるんじゃないかなとは思うけど、でもまぁ倫理がないと受け入れがたいという人が大勢《たいせい》を占《し》める昨今《さっこん》やっぱり必要なのかもと」
「それより黙ったほうがいいんじゃないか」
「あっうん痛いー! ちょっと刺《さ》さってるよ君ー!」
「黙っていてくだされば少しナイフを引きますよ」
「黙る黙る」
徹頭徹尾《てっとうてつび》エシ氏は笑顔だ。笑顔以外の表情を、持っていないとでもいうようだ。
もちろんそれは大変な緊張感《きんちょうかん》を漂《ただよ》わせた、相変《あいか》わらず冷《ひ》や汗《あせ》混《ま》じりのものだったけれど。
「ところで君達」
懲《こ》りずにエシ氏は話し出したものだからまたちくりと刺された。
「あっあっヒドーイ。血が出た。ぬるってしてる。私の洋服がぁ」
「ほんとうに黙ってくださらないと、この先洋服の換《か》えを心配するのは一度だけということになりますよ」
リーダー格の男が言った。
「一度?」
エシ氏が流石《さすが》に青ざめながら出した問いに、男は平静《へいせい》に言った。
「お召《め》しになって棺桶に入る服です」
「あ、なーるほど! 私は断然《だんぜん》白衣《はくい》だね! ずっと着てるんだ、今更《いまさら》黒の燕尾服《えんびふく》なんか真《ま》っ平《ぴら》、痛いよ!!」
また切っ先が食い込んだらしい。
エシ氏の顔色はもはや完全に青い。
「それであなた方の望みはなんなのです?」
バーチは溜息混じりに言う。
用事《ようじ》を済ませて早く帰りたいだけなのだが。
「その、中途《ちゅうと》で途切《とぎ》れさせてしまった研究の続行ですよ」
リーダー格の男が言い、エシ氏が懲りずに言う。
「そりゃぁ私でなくて倫理委員会に申し立てた方がいい」
今度はエシ氏の顔に笑みはない。
呆《あき》れたようなどこかぽかんとした顔だ。
「だって私は王立研究所の職員なのだよ? 悪いがオスタス中《じゅう》| 捜 《さが》したって、ここより設備《せつび》の整っているところはない。あるとしたって、それは非《ひ》合法《ごうほう》なことをしているところさ。悪いが私は日の当たらない道を歩く気は全くないんだよ」
一瞬《いっしゅん》沈黙《ちんもく》が落ちる。
エシ氏の背中にナイフは刺さらない。
リーダー格の男が静かに告げた。
[……私どもは、どうでもそこを歩いていただきに参《まい》りました。資料をまとめて、一緒にいらしてください。でなければこちらのご婦人がどうなっても私どもは感知《かんち》いたしません」
「感知しないと仰《おっしゃ》るのなら、帰してくださるのがよろしいわ」
バーチは唇を尖らせて不《ふ》機嫌《きげん》に言い、エシ氏は慌《あわ》てて言う。
「ああっひどいマリアンナ見《み》捨《す》てないで」
「同志《どうし》A」
バーチを案内してきたオーガーが入ってきて、もぐもぐと不明瞭《ふめいりょう》な発音でリーダー格の男に言った。
「あの、こいつら、覗《のぞ》いてました」
猫の子供を持つように襟《えり》首《くび》を持ってぶら下げている。
ささら状の器具を持ったままのマスクをしたマルタ・サギーと霧吹きを持ったままのリッツ・スミス。
「あら、探偵《たんてい》さん」
マルタとはすでに面識《めんしき》があり、その正体《しょうたい》も先だって機会《きかい》があって聞いていたバーチは、マルタを見て目を大きく見開いた。
「こんにちはディルベルタさん」
マルタはぶら下げられたまま手の代わりにささら状の器具を振った。間から蟻の死骸《しがい》がぼろぼろ床に落ちた。
「あ、あのー、マルタからお聞きの通り、僕もアラン・レイ高校の生徒じゃないんですがこんにちは」
リッツが言って意味もなく霧吹きの水を吹く。
「ええ、伺《うかが》っておりますわ。助手さんですってね。またお会いできて嬉しいわ」
バーチはにこにことそう言ったが、ふと気がつく。
私は今、マリアンナ・ディルベルタであって、この二人にとってマリアンナというのはたおやかな上流の貴婦人《きふじん》であるはずだ。
だというのに刃物《はもの》も出ているこの状態で、こんなに平然《へいぜん》としていてはまずいのではないだろうか。
うーんとバーチは内心《ないしん》考《かんが》え、その場にへたりと座り込んでみた。
「あーん怖《こわ》いわ」
か細《ぼそ》い声で言ってみる。
「お二人の顔を見たら、緊張の糸が緩《ゆる》んでしまったようですわ。ああ恐ろしい。どうか早く私を解放《かいほう》して下さいな」
エシ氏がその様子にぶっと吹き出した。
視線で殺せるほど強く睨《にら》みつける。
エシ氏は凍《こお》り付《つ》いた。ナイフで刺されるよりもはっきりと黙り込んだ。
「えーと。状況《じょうきょう》が把握《はあく》できないんですが。この人たちは一体?」
マルタはぼんやりとぶら下げられたままだったので、バーチの様子にもなんら対応《たいおう》できずにぼけぼけと訊いた。
バーチは一瞬考え込んでから首をひねる。
「さぁ? 私もここに来たらいたんですわ」
「我々《われわれ》の名乗りを聞きたいというのかね」
リーダー格の男、同志Aが胸を張って言う。
「いや帰って欲しいな私は」
エシ氏が笑いながら言い、また刺されたらしく、悲鳴を上げた。
「で、要求は何なんですか?」
リッツもぶら下げられたまま言った。
「今その話は終わったところだ」
同志Aがつまらなそうに言う。
「僕たちは聞いてないもん」
マルタが緊張感なく言って笑う。
「だからつまりだな」
同志Aがイライラと言い、別の覆面の男が何か耳《みみ》打《う》ちをしたらはっと気がついてマルタとリッツに言った。
「そうだ、なんでお前たちにそんなこと言わなくてはならないんだ」
「いやー人質なんだから」
「そうそう」
「一応聞いておきたいのが人情《にんじょう》でしょう」
「そうそう」
リッツが言って、マルタが真面目な顔で相槌《あいづち》を打つ。
「うるさい。人質なんだから大人しくしていろ。さ、エシ博士。参りましょうか。重要な資料をまとめてください。お手伝いします」
「やだー」
エシ氏が子供の様に言う。だがすぐにその言葉が泣き声に変わる。
「痛いよ! 死んだらどうするんだい!」
後ろに立つ男に涙《なみだ》声《ごえ》で言う。
「殺しませんよ。死んでいただいては困ります。ですが、そちらのご婦人や、二人の若者《わかもの》の命は保障《ほしょう》いたしません」
脅迫《きょうはく》者《しゃ》の余裕《よゆう》で、同志Aは三人を見つめた。
バーチは内心とても不愉快に思う。
マルタ・サギーとリッツ・スミスがいなければ、全員のしてやってもいいんだが。
まぁそれをして自分の正体に、後々《あとあと》疑問《ぎもん》を持たれても厄介《やっかい》だ。
なにしろマリアンナ・ディルベルタはしとやかな貴婦人でなければいけないのだから。
とはいえこいつらは腹が立つ。
マルタ・サギーも首を銜《くわ》えられた子猫《こねこ》状態《じょうたい》だから、カードの使用もままなるまい。
さて、どうするか。
エシ氏を連れて行かせれば自分たちは普通に解放されるだろうが、そうしたらわざわざここまで来た用事が足《た》せないではないか。
ましてやどこかに監禁《かんきん》などされたら。
何の同志か知らないし、興味《きょうみ》もないが目《め》障《ざわ》りで邪魔《じゃま》だ。
とはいえ自分が動くわけにも。
思考は巡《めぐ》って出口がない。
いざとなったらやっぱり自分が全員倒すしかなさそうだ。
バーチは思って手に持った丸めた新聞紙を握りこんだ。
だがその時、軽い足音が響《ひび》いて扉が突然開けられた。
突然の闖入《ちんにゅう》者《しゃ》に全員の視線がそちらを向く。
「さぼんないでって言ったじゃないですか、探偵さん!」
背中に大きな噴霧器を背負ったリーサーだった。
大きな、というのは正確《せいかく》さに欠ける。
通常サイズだが、リーサーが小さいので大きく見えるのだ。
いかにも場にそぐわない人物の登場に、マルタは一瞬|硬直《こうちょく》して、それから何かを思いついてにっこり笑っていった。
「リーサーさんこいつら虫だよ」
「何言ってんだマルタ」
リッツが驚いて言ったがその言葉が終わらないうちに、リーサーが怒鳴《どな》った。
「なんだとー!! 我が庭園《ていえん》に害《がい》なすものども!! 死ね――――――!!」
後でマルタとリッツは聞いた事だが、この時リーサーは三日間不眠不休《ふみんふきゅう》で害虫《がいちゅう》駆除《くじょ》に当たっていた。
食事も軽食だけで、何より眠っていなかった。
生来《せいらい》の温厚《おんこう》さで、先刻《せんこく》まではなんとか平素《へいそ》の様子を保《たも》っていたが、マルタの言葉でぶっちぎれた。
虫。
蟻。
この何日も彼を悩ます災厄《さいやく》の源《みなもと》。
彼の温室、彼の楽園《らくえん》を破壊する小さな悪魔《あくま》ども。
どう見ても目の前の彼らは虫には見えなかったが、リーサーには関係なかった。
噴霧器のレバーを握力《あくりょく》の限り握りしめ、ノズルを開放して殺虫《さっちゅう》効果《こうか》のある薬液《やくえき》を部屋中に噴霧する。
バーチだけは身軽《みがる》にソファの陰《かげ》に隠《かく》れ、ハンカチで鼻と口を覆い、目を閉じてやりすごしたが、他の全員が目をやられ、酷《ひど》い臭《にお》いに咳《せ》き込《こ》んで、その場に蹲《うずくま》る。
もちろんエシ氏も例外ではなく、毛穴《けあな》から緑色の粘液《ねんえき》を出してのたうち回っている。
マルタもリッツも同様だ。
バーチは薄目《うすめ》をあけてハンカチで覆面のように顔の下半分を覆うと、噴霧器のノズルを引きまくるリーサーの頭を丸めた新聞紙で叩いて昏倒《こんとう》させる。
「すまんね」
この人には迷惑《めいわく》ばかりかけている。
思いながらリーサーの襟首を掴《つか》んで廊下に投げてドアを閉める。
そしてマルタとリッツとエシ氏以外の全員の頭を打って気絶《きぜつ》させ、窓を開けて外気《がいき》を入れる。
ついでに丸めた新聞紙を外に捨てて、口元と鼻を覆ったハンカチを畳《たた》み直して口元に当て直し、くたくたと窓辺《まどべ》に倒れて見せる。
「ディルベルタさん、大丈夫ですか」
咳き込み、涙《なみだ》の溢《あふ》れる目を擦《こす》りながらマルタが床《ゆか》を這《は》ってくる。
「ええ、大丈夫。ハンカチを当てたから。探偵さん、あなたは?」
「大丈夫です、ほぼ」
げほ、と咳をして微妙な返事をしながらマルタは言い、声のする方へと這っていき、バーチの近くに辿《たど》り着《つ》くと笑った。
涙が溢れて開けられない目と、鼻水を啜《すす》り上げざるを得ない真っ赤な鼻、薬剤《やくざい》の刺激でおかしな色に染まった頬で安心したように笑った。
「お怪我《けが》は?」
「ないわ。ありがとう」
バーチはマルタのその、とうてい綺麗《きれい》とは言えない顔を見て、こっそりと微笑む。
マルタのこういう、自分を顧《かえり》みない利他《りた》的《てき》なところが自分を安心させてくれる。
きっと後で鏡《かがみ》を見て、マルタは恥《は》ずかしくて慌てるだろう。
けれどどんなに滑稽《こっけい》な様子であっても、誰かを心配して、そしてその無事に安堵《あんど》して微笑む表情が無様《ぶざま》であるはずはなく、それを見せてくれる人間はバーチにとってなににも代《か》え難《がた》い宝《たから》だ。
知らないだろうな、マルタ・サギー。
私が君をライバルとして愛するのは、まさにそんなところなのだよ。
異世界からやってきた客人《きゃくじん》。
この世でいつでも一人ぼっちの君《きみ》。
「……涙が」
バーチは畳んだハンカチでマルタの頬を拭《ぬぐ》う。
マルタは照れたらしく、硬直する。
「お洟《はな》も」
小さく笑ってバーチは言い、マルタの鼻の下を拭おうとしたが、マルタは顔を赤くして身を引いた。
「ハンカチが汚《よご》れます」
「あら嫌だ。ハンカチの使い方もご存じないの?」
優しい笑みと共に言われた言葉にマルタは更に身を強《こわ》ばらせる。
「自分ので」
「いいから」
言うとバーチは微笑んで、強引《ごういん》にマルタの鼻の下を拭ってやった。
「洗濯《せんたく》をして返しますから」
「私だって洗濯くらいしますから。いいのよ」
恐縮《きょうしゅく》するマルタにバーチは優しく言ってハンカチを畳み直して手の中に隠す。
随分《ずいぶん》すっきりして刺激《しげき》臭《しゅう》も薄《うす》れて来た室内を見回して、バーチは溜息と共に言う。
「この方達、どうして気絶してるのかしら」
白々《しらじら》しく呟いた言葉に、マルタは首を捻《ひね》る。
「さぁ」
「転んだ拍子《ひょうし》に頭でも打ったんじゃないですか。殴《なぐ》られたみたいな音してましたよ」
洟を啜りながら言ったのはリッツ・スミスだ。
あの状況の中でそんな音を聞き分けていたのかね。リッツ・スミス、侮《あなど》れない子だね。
バーチは緩《ゆる》い微笑みに本心《ほんしん》を隠して代わりに言った。
「まぁどちらにしろ警察を呼ばなくてはなりませんわね。どなたかご存知の刑事《けいじ》さんとかいらっしゃるかしら。お名前が出れば、話は早いと思うんですけれど」
「ああ、トーリアス警部というのが知り合いです」
ぐすりと洟《はな》を擦ってマルタが言い、咳《せ》き込みながら立ち上がる。
部屋の刺激臭はもうないから、それで呼吸は落ち着いて、長く息を吐く。
「電話、ここありましたよね」
「……はじめて伺《うかが》いましたので、私にはわかりませんわ」
隣《となり》の部屋だよマルタ・サギー。
にっこり笑って嘘《うそ》をつく。
「そういえば、ディルベルタさんはどうしてこちらに?」
純粋《じゅんすい》な疑問の調子で問われ、バーチは一瞬困ったが、嘘ならいくらでも用意してある。
「菓子《かし》の新しい保存《ほぞん》料《りょう》のことと、人間族以外の顧客《こきゃく》開発《かいはつ》のためのお話を伺いに参りましたの。……昨今は全く物騒《ぶっそう》ですわね。それだけでこんな目に遭うだなんて。探偵さんたちは? 何か事件でも?」
マルタは苦笑した。
「罪《つみ》滅《ほろ》ぼしでアルバイトを少し」
「罪滅ぼし? 何かなさいましたの?」
だって悪いのはバーチだろう。
「まぁ。結局《けっきょく》盗難《とうなん》を阻止《そし》できなかったのは阻止できなかったんで。それにまぁ、なんつーか、バーチがしたことをまるっきり知らんぷりするのも、ライバルとして薄情《はくじょう》じゃないですか」
当たり前の様にマルタは言って、リッツは咳をしながら隣の部屋のドアを開けて電話を見つけて、警察署に電話をかけた。
「あとトーリアス警部、救急車《きゅうきゅうしゃ》をお願いします。エシ博士が一番|重症《じゅうしょう》かな。なんか緑の液体を出しているんですけど。専門《せんもん》医のいる病院を調べておいてくださるといいかもしれませんね」
なんて冷静《れいせい》な伝達《でんたつ》だろうね、リッツ・スミス。
「あ、そーだリーサーさんどこ行ったリーサーさーん」
マルタがリーサーを捜して扉を開け、そこにぶっ倒れているリーサーを見つけて噴霧器を外してやって、抱き上げた。
「マルター。リーサーさん用の救急車いるかー」
リッツが受話器を持ったまま大声で訊き、マルタは苦笑して答えた。
「いや。寝てるだけだ」
リーサーは眠《ねむ》っていた。
ぐっすりと。
彼が愛する温室の香り。
熱帯《ねったい》の濃《こ》い緑と調整された温度と湿気《しっけ》。
それはとても幸せな体験だった。
柔《やわ》らかく体を受け止めてくれるベッド。
包み込んでくれる毛布《もうふ》。
なんと素晴らしい体験だろう。
ここ何日かの疲労《ひろう》が洗い流されていく。
ここは、あれだな。
エシ氏が勝手に温室の中に置いたベッドの上だな。
全く、人の施設の中に勝手《かって》にこんなもん置きやがって。
だがまぁ、さすが僕の温室。
最高じゃないか。
けれどなんだろう。
ぱさぱさと音がする。
雪でも降っているのだろうか。軽い音。たくさんの音。
なんだか不穏《ふおん》なものを感じてリーサーは目を開ける。
「おやお早う親友《しんゆう》。ゆっくり眠れたかい」
その声に飛び起きる。
大《だい》嫌《きら》いなバカの声だ。
「エシ!」
「なんだいリーサー。ごらんよ、この光景! まるで真っ白い花の乱舞《らんぶ》だ」
リーサーは茫然とする。
ベッドの周《まわ》りには蚊帳《かや》が吊《つ》ってあって、ベッドにエシ氏が馴《な》れ馴れしく腰《こし》掛《か》けていた。
蚊帳越しに見えるのは真っ白な蝶《ちょう》の乱舞。
地面を覆い尽くすそれは、温室を花園のように変えている。
幻想《げんそう》的《てき》な世界だ。
けれど何かおかしい。
蝶じゃない。
「ドクトル・バーチの依頼《いらい》があって、私が作ったのさ! 蟻だけを食べる蛾《が》でね。一世代だけの生殖能力《せいしょくのうりょく》しか持たない。ハエ算《ざん》って知っている? 1対のイエバエからひと夏で191×10の18乗の子孫《しそん》ができるんだ。191000000000000000000匹さ。もちろん現実には生まれた全ての子孫が成虫《せいちゅう》になるわけじゃないからありえないんだけど、私の研究はそれを可能《かのう》にし、しかも時間を早め、食事の対象を君のにっくき蟻だけに設定《せってい》した! そしてこの子たちの寿命《じゅみょう》は半日《はんにち》だ! 朝には蟻は綺麗に片付いているしこの子たちも死んでいる」
リーサーは乱舞する蛾を茫然と見やる。
「……バーチの依頼?」
「そうだとも。なあに礼《れい》には及《およ》ばない。私の天才の発露《はつろ》だ」
「なんでバーチがおまえに依頼するんだ」
エシ氏はにっこりと笑って言った。
「私が天才だからだろう」
リーサーの顔に笑みはない。
顔色は悪く、こめかみには青《あお》筋《すじ》が浮いて震《ふる》えている。見開いた目がエシ氏に向けられていた。
「それで」
思わず声が震える。
「誰がこの191000000000000000000匹の蟻食い蛾の死《し》骸《がい》を片づけるんだ?」
エシ氏は相変わらず笑顔だった。
そして軽く肩を竦《すく》めて言った。
「さぁね。少なくとも私じゃない」
「お前がやれ!!」
リーサーはその小さな身体をミサイルのようにして両足からエシ氏の腹《はら》にぶちあたった。
「あのあとさ」
リッツが朝の光の中で紅茶を飲む。マルタ・サギー探偵事務所の穏《おだ》やかな朝食後の風景だ。
マルタはやっぱりパジャマのままでぼさぼさとまだパンを齧《かじ》っている。リッツの身なりは完璧《かんぺき》で、先に新聞を読み始めた。
「エシ氏が気を取り戻して、まぁまぁ後のことは私にまかせてとか言って僕らを追《お》い返《かえ》したじゃない」
「うん」
そして同志達は連行《れんこう》され、昨日トーリアスから聞いたところでは同志達の正体はブリザンヌ大学の学生達で、議会《ぎかい》の転覆《てんぷく》を企《たくら》んでいたそうだ。ブルジョワ階級のアレがナニでどうの。
ジャムの瓶《びん》に指突っ込んだら怒られそうだなとマルタは思いながらリッツの話を聞く。底《そこ》の方に少し残ってるんだけど。だめかな。
「バーチの依頼でなんか作ってたらしいね。ともあれ蟻退治はもうしなくてよさそうだよ」
「バーチの依頼? ……案外バーチって気にしぃなんだな。事後《じご》処理《しょり》で後手《ごて》に回るだなんて、リーサーさんの投書《とうしょ》読んで気にしたのバレバレじゃんな」
「はは、そうだな。可愛《かわい》いところがあるんだな。ところで何やってるんだ?」
リッツはにこにことマルタを見る。
マルタの手にはすっぽりとジャムの瓶が嵌《はま》っていた。
「取れなくなっちゃった。助けて」
リッツは新聞に視線を戻した。
「夕方までそのまんまでいるといいよ」
新聞を読んで、バーチは朝食のテーブルに突《つ》っ伏《ぷ》した。
ジャックはタイミングを見計《みはか》らって言う。
「……あたしにできることは、陳謝《ちんしゃ》の手紙の書き方をお教えするぐらいなもんですが。それでようございますかね」
バーチは突っ伏したまま答えた。
「……頼むよ」
オスタス・ジャーナルのやっぱり三面囲み記事には、非常に感情《かんじょう》的《てき》なリーサーの投書が載《の》っていた。
[#ここから太字]
『ドクトル・バーチへの更なる憤懣露に/
王立植物研究所主任 リーサー氏』
全く、ドクトル・バーチは私を過労《かろう》で死《し》に至《いた》らしめるつもりであるのか。
蟻の駆除《くじょ》はまぁありがたいが、やり方に限度《げんど》や節度《せつど》というものがあろう。
全く見損《みそこ》なった。
バーチの依頼によって某《ぼう》博士《はかせ》が製作した蟻食蛾の大質量の死骸を、私は一体どうすればよいのか。
私は平穏な温室を早く取り戻したいだけなのだ。
[#ここまで太字]
あの時気を取り戻したエシ氏が、
「昔《むかし》のよしみだ。君の考えていることはわかっている。僕も友達の役に立ちたく思っていたところ。準備《じゅんび》は万端《ばんたん》。用意《ようい》はしてある。バーチからの依頼で作ったということにしていいね?」
と楽しげに言うものだからつい頷《うなず》いてしまった。
フィランシェ教室の脱退《だったい》者《しゃ》。トワイネル。
そういえば有能《ゆうのう》だったが一々《いちいち》ずれた男だった。
「その代わり、少しお小言《こごと》を聞くべきですよドクトル」
テーブルに突っ伏したままバーチは背中に刺さるように感じるジャックの小言を延々《えんえん》と聞き続けた。
[#地付き]<E>