TITLE : アジア 新しい物語
〈底 本〉文春文庫 平成十四年一月十日刊
(C) Susumu Nomura 2003
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目  次
プロローグ
アジア世界にようこそ
第一章 中国の大地を花で埋めよ〈中国〉
第二章 サイゴンの部屋貸します〈ベトナム〉
第三章 アジアで一番幸せな国〈フィリピン〉
アジア危機の中で
第四章 韓国大百貨店、本日開店〈韓国〉
第五章 バンコク食べ放題物語〈タイ〉
第六章 経済危機から遠く離れた島にて〈インドネシア〉
アジア新世界へ
第七章 日本人僧侶の“タイ焼き・タコ焼き作戦”〈カンボジア〉
第八章 マレーシアが“電脳都市”を夢見るとき〈マレーシア〉
第九章 黒帯先生、インドをゆく〈インド〉
エピローグ
あとがき
章名をクリックするとその文章が表示されます。
アジア 新しい物語
プロローグ
たとえば、手塚治虫の大作『ブッダ』を、タイ人の留学生に読んでもらうことにしよう。さて、どんな反応が返ってくるか。
同じ仏教徒としての感動? 共感? それとも無関心?
答えは、どれでもない。
「あれがブッダだなんて、とんでもない。あれじゃ我々と同じ人間じゃないですか」
予想外の強い拒否反応が返ってくるのだという。いったいなぜだろうか。
彼らタイ人にとって、ブッダすなわち釈迦は限りなく神に近い存在なのである。手塚作品にあるような人間くさい苦悩や迷いとは、いっさい無縁であるはずなのだ。そう考える彼らの目に、一方で、日本の僧侶はどん底にまで堕落した連中と映る。僧侶のくせに妻を持ち、酒を飲み、クルマを運転するなんて、もはや仏教徒ですらないと決めつけるのである。
同じ仏教徒と言っても、日本人とタイ人とではこれほどに見方が異なる……。
このエピソードを、タイ人の女性と結婚しタイに長く住んだ、ある日本人研究者から聞かされたとき、私は実に新鮮な驚きに包まれた。タイやカンボジアなどの東南アジアで広く信じられている上座部《じようざぶ》仏教について、ひととおり理解したつもりになっていた私には、思いがけない角度からの指摘だったせいもある。自分の半可通を、私は恥じた。
話は、上座部仏教に限らない。
学生時代にマルコス独裁政権下のフィリピンに留学して以来、二十年余りアジアの動向を追ってきた私にも、率直に言って、よくわからなくなっていたのだった。日本以外のアジアがいま本当のところどうなっているのか、そしてこれからどのような道を辿《たど》ろうとしているのか、ということが。
つい最近まで、「アジアの奇跡」「二十一世紀はアジアの時代」といった威勢のよいキャッチフレーズが、日本のマスコミには躍っていたものだ。急速な経済成長を遂げつつあるアジアから、日本だけが取り残されるのではないかといった危機感すら、しきりに取り沙汰《ざた》されていた。
それが、いまでは一転して「アジア経済危機」「アジア迷走」である。予想しうる将来に「アジアの時代」など訪れる可能性はないと断言する著名な国際政治学者の意見が、大新聞に堂々と掲載されたりしている。
極端な楽観論から極端な悲観論へ。日本のマスコミの常と言ってしまえばそれまでだが、このアジアに対する見方のあまりにも大きな振幅には、そもそもマスコミ(および一部のアカデミズム)関係者の定見のなさと、彼らが送りだす情報の不確かさが、その根底にあるのではないか。こんなことで、アジアの現状と未来を読み解けるものだろうか。
こうした疑問をくすぶらせながら、私は一九九〇年代初めから、アジアの各地に住み着いた日本人たちに会いつづけてきた。
旅行で長期滞在しているのでも、企業の駐在員やマスコミの特派員として派遣されているのでもない日本人たち。一個人として、日本以外のアジアに生きることを選択した、いわば「アジア定住」の日本人たち。彼らと出会い、語らえば語らうほど、現在のアジアに最も深く分け入り、それぞれの地に全身を投げ込み、ときには格闘し、ときには抱擁しつつ、愛憎こもごもの思いでアジアを見つめている人々はほかにいないとの確信を、私は強めていった。
何よりも、彼らの目を通して見るアジアは、圧倒的におもしろい。その力を借りながら、私は視界をさえぎるような既成のアジア観やアジア報道からはいったん自由になって、アジアの「いま」と「これから」を見きわめてみたい。
そんな、いささか誇大妄想的な念願を胸に、私は日本をあとにする。
長い旅の最初の目的地は、中国・上海──。やがてアジアどころか世界最大の都市になると言われているこの街で、どんな日本人が、どんな思いを胸に生きているだろうか。
アジア世界にようこそ
第一章 中国の大地を花で埋めよ〈中国〉
上海の街は、巨大な建設と、そのすぐ隣で行われている巨大な破壊との、真っ只中にある。
一説によると、世界中にあるビル工事用クレーンの四分の一がここに集中し、また戸籍人口千三百万の大都市に三百万人もの流民が農村部から流れ込んでいるという。できかけの未来都市と、すさんだ宿場町とが同居しているかのごとき、シュールな雰囲気を漂わせているのである。
東京都庁を思わせる金属的な高層ビル群の谷間に、一陣の空っ風が吹き抜け、そこから人間の切断されたばかりの手首を口にくわえた野良犬がひょこひょこ飛び出してくる。こんなリドリー・スコットの『ブレード・ランナー』と黒澤明の『用心棒』のワン・シーンを同時に想起させる街は、アジアのどこにもない。「馬桶《マートン》」と呼ばれる夜間用の便器が転がる路地裏から一歩おもて通りに抜けると、そこには白茶けた日差しのもとで、生き残るために押し合いへし合いをする大群衆が待ち受けている。
ここ上海で、花の大農園を開いている日本人がいる、と聞いた。中国に来てまだ一年半にしかならないのに、メーデーや国慶節といった中国の国家的行事の際、上海の街を彩る花々の二割を、この日本人男性が生産しているのだという。
いったいどんな人物なのか。私は居ても立ってもいられなくなり、上海の中心からクルマで一時間ほどのところにある彼の農園を訪ねていった。
「上海教大農業科技有限公司」
一字一字、別々の白いボードに黒字で大書された農園の看板が、目に飛び込んでくる。
国道沿いの広大な土地に、ビニール・ハウスとガラス張りの温室が広がっていた。マリーゴールド、ベゴニア、百日草などの花々が咲き乱れ、赤や黄色や紫のペンキで大地をくっきり塗り分けたかのようである。上海のほこりっぽい空気に慣らされていた私は、久しぶりに思い切り深呼吸をした。これだけの農園を、たった一年半で作り上げた人物への興味が、いよいよ募る。私は、風にそよぐ花々から、何とはなしに温厚で小柄な中年男性を思い描いていた。
ところが、目の前に現れたのは、身長百八十五センチ近い、日本人にしては手足がずぬけて長く、首まで赤銅色に日焼けした大男なのだった。咄嗟《とつさ》に私は、リンカーンとはこういう体型の人物だったのではないかと連想したのだけれど、こちらの「リンカーン」は名前を永田英夫さんといい、土に汚れたジーンズに、泥の付いたスポーツ・シューズを履き、大きくてごつごつした手の爪の先にまで、黒土がびっしり詰まっている。その手で、寝癖のついたままのぼさぼさ頭をかきながら、べらんめえ調の大音声《だいおんじよう》でこう言うのである。
「俺は、どこへ行くのもこの恰好だし、中国のエラい人が来ても誰が来てもこの恰好なんだよ。百姓だから、かまってられねえんだよ」
地声がやけに大きいのは、若いころ日本でリヤカーを引いて花を売っていたからだそうである。
「一九九四年に初めて、中国に旅行で来たとき、上海の街を見て、ひでえとこだなあと思った。汚いし、殺伐としていて、潤いというものがない。それでカネ、カネ、カネだろう。俺が『お花』でこの街に潤いを与えられるかもしれないと思ったのが、上海に来るきっかけさ」
ぞんざいな口調なのに、花のことだけは律儀に「お花」と言う。この人の仕事ぶりは決してぞんざいではあるまいと、そのとき直感した。
「さぁて、と」
キリンみたいに首を曲げて、私の名刺をのぞきこみ、
「野村さん、かあ……。あんたも、俺のところに来るまでに、さんざん聞いてきたはずだよ、日本人が中国でどれだけ騙《だま》されてるかってことを」
いきなりで面食らったが、そう、たしかにうんざりするくらい聞かされてきた。騙された日本人と一緒に、騙したほうの中国人に会いに行ったことさえある。そのときの中国人の対応は、私の想像を絶していた。彼は、何年も家族ぐるみの付き合いをしてきた日本人から、卑劣な手段で飲食店を奪い取ったにもかかわらず、それ以来初めて会う、かつてのパートナーに媚《こ》びるように歩み寄り、こわばった顔つきのままの日本人の肩を抱き寄せようとしたのである。あたかも勝者が敗者に見せるかのような笑みすら浮かべて。
「むかしは中国人に騙されたと言う日本人がいると、それはこういう見方もあるんじゃないの、中国人のほうはこういうつもりなんじゃないの、と中国人の弁護をしていた僕が、騙されちゃった(笑)。やさしくして、よく理解を示した人ほど、中国人は騙すんですよ」
と、その北京語にも上海語にも堪能な日本人は、苦笑していたものである。この話をすると、永田さんは、
「なっ、みんなひでえ目に遭ってるだろ。いま中国には、そういうインチキや裏切りがまかり通っているわけさ。上海市の公園課だって、お花を四万鉢も頼んどいて、その通り育てたら一万鉢しか引き取らないなんて言うんだぜ。完全なルール違反だろ。ちゃんと契約したのに、それを反故《ほご》にして平気でいるというのは、俺は許さない。中国人であろうと何人《なにじん》であろうと関係ない。そういうインチキなところはきっちり指摘したほうが、中国人のためにもいいんだよ。そこは、はっきり言うことにしてる。で、俺はがんがん言うんだよ、がんがん」
その「がんがん」のところにいっそう力を込めて、からからと高笑いした。
「俺は、お花を作って上海の街をきれいにしたいと思ってるけど、それ以上に農業でカネが儲かるところを中国人に見せたいっていうところがあるんだよ。見ろ、百姓やっててもこれだけ儲かるんだぜって。いま中国人は、百姓で儲からないから田舎から上海に出てきてるわけだろ。でも、俺は、ちょっと待て、と。こうやれば百姓やってても儲けられるんだぜっていうところを見せたいわけさ。だって、ここの百姓が底上げされることは、中国のためだけじゃない。中国の百姓が幸せになれば、それは全世界の百姓の幸せにもつながるんだよ。食糧問題の解決にもつながるんじゃないかい?」
粗野、というのとは違う。豪放磊落《らいらく》というのでもない。眼鏡《めがね》の奥の、どちらかと言えば細くて鋭い目に、悟性の強い光が宿っている。
この人は、私がこれまで会ってきた中国在住の日本人の誰とも似ていない──。
私は再会を約して、いったん日本に引きあげ、ひと月余りのちにまた上海に戻ってくることにした。今度は二週間ほど、永田さんが農園の同僚たちと暮らしている家に寝泊まりをさせてもらい、朝早くから日が暮れるまで農園に出るつもりでいる。
ところが、永田さんの農園ではとんでもないことが起きていた。
その話に入る前に、実は、私が上海を再訪するまでのひと月余りのあいだに、永田さんは所用で一度日本に来て、私とも会っている。事件が起きたのは、彼が上海に帰ってきた翌日であった。
日本での過密なスケジュールと寝不足のせいで、珍しく自宅で休みをとっていた彼のところに、農園から電話が掛かってきた。朦朧《もうろう》とした頭のまま出ると、かれこれ四半世紀もの付き合いになる、ベテラン職人にして唯一の日本人パートナーである勝村《かつむら》昭八郎さんからだった。
「従業員たちが昼飯のあとも食堂に集まったまま、仕事に出てこないんですよ。どうもストライキを始めたらしい」
「ストライキ」だって(!?)。永田さんは、我が耳を疑った。それも、俺が日本から疲労困憊《こんぱい》して帰ってきた直後を見計らうように仕掛けてくるとは……。
ストには、大卒の幹部社員五人を除いた社員二十五人と、テンポラリー・ワーカー(臨時雇いの労働者)二十数名全員が参加しているという。彼らの要求は、時短と超過勤務手当の支払いだった。中国政府は九五年五月に「週四十時間制」を打ち出し、二年の移行期間を経て、九七年五月から中国のすべての企業でこの規則を実施するように求めていた。つまり週休二日制の徹底ということだが、生きた植物を相手にする農園の仕事には休日は無きに等しい。永田さんにしても、農園を開いてから土日も休まずに働きつづけている。一般の社員やテンポラリー・ワーカーには日曜を休みとしてきたが、これからは土曜出勤の分にも超過勤務手当を支払えというのが、労働者側の言い分だった。
翌朝、永田さんが農園に顔を見せると、さっそく社員食堂での労使交渉が待ち構えていた。このときの労働者側の代表者の名前を私が尋ねると、永田さんのそばにいた幹部社員(といっても全員が二十代半ばなのだが)の中国人青年の一人が、
「毛という男ですよ。毛沢東の『毛』」
と言って、屈託なげに笑った。その毛なにがしという屈強な青年が、永田さんのほうに指先を突きつけて、
「あんたは法律違反なんだよ!」
と、いきなり糾弾してくるのである。「週四十時間制」に違反しているというのだった。
「俺は法律違反なんかしてない!」
永田さんも、滅多に出さない怒鳴り声で反論した。そもそも採用時に、超過勤務も含めて社員は八百元(このとき一元は約十五円)、テンポラリー・ワーカーは六百元と説明し、合意の上で雇用関係を結んでいるではないか。中国の最低賃金は三百十五元で、ほかの会社と比べても、うちの給料は悪くない。
「それにしても、なんでいきなりサボタージュなんだ?」
このことに、永田さんは一番腹を立てていた。前もって要求を出し、受け入れられなかったからストライキというのなら、まだ話はわかる。
「おまえらは、きのうから一日半もお花に水をやっていない。それは、俺の喉元《のどもと》にナイフを突きつけているのと同じなんだぞ」
永田さんがさらに語気を強めても、労働者側は法律論一本で押してくる。とうとう永田さんは、それなら役所の労働仲裁委員会に、どっちの言い分が正しいか聞いてこいと言い放った。売り言葉に買い言葉で、いきりたって労働仲裁委員会に出向いていった社員たちは、だが数時間後、落胆した面持ちで帰ってきた。同行した幹部社員の崔海峰君が証言する。
「労働仲裁委員会の担当者に、こう言われたんですよ。サボタージュする権利は君たちにはないし、賃金も経営者が決めるべきものだ、と。それで僕も、ストをしている社員たちに、『こんなことを続けても誰の得にもならないから、早く帰って仕事に戻ったほうがいい』と勧めたんです」
農業重視をはっきりと打ち出している中国政府筋の意向が、働いたのかもしれなかった。永田さんは、小平に次ぐ長老指導者だった陳雲の未亡人に招聘《しようへい》される形で、この農園の土地を紹介されている。李鵬首相夫人を始め共産党中央の政治局員たちや、上海の市長・副市長などもたびたび視察に訪れ、そのつど新聞やテレビもこぞって永田さんの農園の成功ぶりを報じてきた。
ようするに、決して無手勝流に中国進出を図ったのではなく、中国で事業を行う上で最も大切とされる権力者との「関係《クワンシイ》」は、しっかりと押さえてあるのだった。
「中国も農業で俺に成功してほしいし、俺を成功させたいわけさ」
と、永田さんにもしたたかな計算があったのである。
それでもなお、ストライキは終わらなかった。
「これからの将来のことを考えて」
と言いかけた永田さんを、リーダー格の毛青年はせせら笑った。
「将来のことなんかどうでもいいんだよ。カネさえもらえりゃ、それでいいんだ」
永田さんの感情を抑えていた何かが切れた。
「将来のことを考えないやつは、いますぐ辞めてくれ。俺は将来を見すえて、ずっと仕事をしてきたし、これからもそうするつもりだ」
即刻、毛青年に解雇を言い渡した。これで、ストに参加していた社員たちの意気は、にわかに消沈した。永田さんはストに加わった社員全員に始末書を書くように命じ、ストは二日で終結した。そして、永田さんには大きな失望感だけが残った。
「これまで人を育てようと思って一生懸命教えてきたのに、まさしくその社員たちに牙を剥《む》かれたわけだからね。裏切られたと思ったよ。それと、中国人は砂のようにばらばらの個人主義者だってよく言うけれど、違うんじゃないかと思った」
日本人に比べれば、はるかに個人主義的ではないか?
「いや、西洋的な意味での『個人主義』じゃない。一人一人が意見を持っているんじゃなくて、誰か力のある人間の意見に全員がなびいて、そこで結束を固めてくるんだよ。彼らのあいだでの暗黙のオキテを守って、寝返るやつが出てこない。あれは、ちょっと怖い感じがしたよね」
もし仮に労働仲裁委員会が労働者側支持に回っていたら、どうするつもりだったのか?
「そのときは、『はい、わかりました、じゃあやめます』と言って、中国から手を引こうと思ってた。俺は極端な話、中国に投資した七千万円のカネを全部とられたとしても、生活に困らないんだよ。騙されてカネを全部もっていかれるところまで、俺の計算には入っているんだ」
七千万円もの投資が回収できなくても、命取りにならない?
「というのは、俺、アメリカのカリフォルニアにも農園を持っているから。基盤はアメリカにあって、アメリカの市民権も取ってあるの。俺は正式には『アメリカ人』なんだよ」
思いもよらない展開になってきた。永田さんは、日本に生まれ育っていても、アメリカ国籍の持ち主だったとは。
「理由? それは単純で、年取った両親を日本からアメリカに呼び寄せて、一緒に暮らしたかったから。アメリカの市民権を取らないと、両親を呼び寄せられないんだよ。俺、長男だからさ。でも、アメリカ国籍だっていうことが、中国では俺の強みになっている。戦争の負い目を引きずっているほかの日本人たちみたいに、俺は中国の顔色を窺《うかが》わなくていいんだよ。俺はアメリカ人なんだから。それで、何でも言いたいことをばんばん中国に言ってんの」
なるほど、アメリカ国籍であることは、中国人の中でも「親米反日」(実態はむしろ好《ヽ》米侮《ヽ》日)の気分が濃厚な上海人には、はからずも有効な処世術となっているのかもしれない。
その一方で私は、「資本家」という永田さんの立場に対する労働者たちの視線に気づいて、はっとしたことがあった。農園内の汲み取り式の便所に入ったときのこと、縦穴にコンクリート板を渡しただけの、臭気で目が痛くなるほどの便所の壁に、ストのメンバーが書いたにちがいない、殴り書きの漢字が並んでいたのである。
「打倒美国老」
直訳すれば、「くたばれアメリカ野郎」である。
現在五十二歳の永田さんは、いわゆる“団塊の世代”、生まれも育ちも東京の中野区で、実家も農家ではない。農業を志向する気分は、いま以上に同世代の若者には希薄だったはずだ。けれども彼は、
「そうだなあ、中学生の頃から将来は百姓になろうと決めてたね」
そう言い切る。「中学生の頃から」というのが、また腑に落ちない。なぜだろう。繰り返し訊いても、本人にもよくわからないのだという。幼い頃、母方の実家がある福島に遊びに行って、当時まだ貴重品だった卵を食べたり、山羊の乳を飲んだりした記憶からなのか。
「やっぱり子供のとき、すごく貧乏だったというのが大きかった。親父はサラリーマンだったんだけど、職場を転々と変えるから、いつも家にカネがない。俺が小学六年のときに、とうとう生活保護を受けるはめになっちゃってね。母親は、それでノイローゼになっちゃうし……。いまは『貧乏だった』って平気で言えるけど、中学の頃は言えなかったもん。でもさ、そういうことが、いまじゃぜぇんぶ俺のバネよ。ハングリー精神っていうのかな、それは両親が俺に授けてくれた最高の資産だよ」
百姓になりたいとの思いは、一度も揺るがなかったという。希望通り、当時の東京教育大学(現・筑波大学)の農学部に進み、育種を専攻した。上海の農園に「上海教大《ヽヽ》農業科技有限公司」とわざわざいまはなき東京教育大学の略称を入れているのは、駒場のキャンパスで過ごした四年間がその後の人生を決定づけたことを、暗に物語る。
永田さんは、農学部の農場で育て終えた花々を、担当の教授に大目に見てもらって引き取り、リヤカーに積んで売りはじめたのである。やがて同級生や友人たちを仲間に加え、知人の好意で国分寺の土地を無償で貸してもらい、そこを拠点に花の栽培と小売りを手広く営むようになった。その売り上げが半端じゃない。シクラメンの季節などには、ひと月になんと二千万円近く。ちょうど「三億円事件」が起きた頃の二千万円である。
当時は学園紛争の最盛期だったが、永田さんにはまるで関心がなかった。
「だってさ、カネ儲けのほうがよっぽどおもしれえんだもん」
へっへっと偽悪的におどけた顔をしたが、本当は生きるために必死だったのだと言いたかったのかもしれない。
「学生服を着て売りに行くと、同情して買ってくれるんだよ。学生ということで、まず情を売っておいて、それから花を売る。で、多いときには三十人くらい学生を使ってたもん。それが、俺の“ずるさ”の始まりよ。人を使う“搾取”の始まりよ(笑)」
ここ上海に至るまでの長い付き合いとなる勝村昭八郎さんとの邂逅《かいこう》も、その頃であった。現在六十四歳になっている勝村さんは、上海の農園で、栽培中のシクラメンの様子を一鉢一鉢たしかめ、枯れた葉を摘んだり土を足したりする作業を続けながら、述懐した。
「荻窪市場(花卉《かき》市場)に、なんだかやけに背の高い若い人が来ていて、それが永田だったんですよ。私は競《せ》りをやってた。そこに『買参人《ばいさんにん》』として仕入れに来ていたんだね。礼儀正しい青年だと思いましたね。学生服を着てくることもありました。市場に来ている中じゃ、たぶん一番若いほうだったけど、礼儀正しいから年寄りたちにかわいがられてましたよ」
礼儀正しかった?
「いや、彼は礼儀正しいんですよ。崩れた姿勢を見せることもあるけれど、私にはそういう態度をとったことはいっぺんもない。人と接するときに、めりはりをつけるのがとてもうまいんですよ」
口数は少ないが、見るからに篤実《とくじつ》な勝村さんは、その後永田さんに招かれ、国分寺の農園でしばしば園芸教室を開くようになる。付き合いは、そこで終わらない。一回りも年下の永田さんが、新天地を求めてアメリカで農園を開けば、五年間もそこでの仕事を手伝い、永田さんが中国へ行くと言えば、還暦を過ぎているのに迷うことなく同行している。
「新しいものに挑戦していくというところが、僕と気が合うんですよ」
ぽつりと勝村さんは言うのだが、二人に共通の知人が語った次の言葉が、おそらく正鵠《せいこく》を射ている。
「あの二人はねえ、言ってみれば“戦友”なんですよ……」
永田さんがアメリカ行きを決めたのは、国分寺の土地の明け渡しを地主に促されたためだが、それ以前から自分の土地を持たないことには百姓はどうにもならないとは痛感していた。その思いは立ち退きでなおさら募り、農家の跡継ぎでない永田さんは、日本にいては到底買い入れられない農地を、当時知り合いのいたアメリカに求めたのである。
勝村さんとアメリカ各地の下見をし、最終的にロサンゼルス近郊で売りに出されていた農園を買収した。これが七七年、永田さん三十一歳のときのこと。以来、土地を買い足して、七千坪の農園と、小売店を兼ねた五千坪の園芸センターを所有し、プール付きの邸宅も手に入れた。年商は二百五十万ドル(約三億円)。アメリカ国籍を取り、念願かなって両親も呼び寄せ、何不自由のない暮らしである。にもかかわらず、五十を間近に控えて、永田さんはアメリカの農園と店を妻や従業員たちに任せ、二人の子供を残して、単身中国に渡ることを決意したのだった。
潤いのない上海の街を花で飾りたい、農業で稼げるところを中国の農民に見せてやりたい──。永田さんは中国行きの理由をそう話していたが、本当にこれだけだろうか。
「俺が黄色人種だっていうのもあったんだよ」
えっと、私は不意打ちを食わされた気分になる。
永田さんによれば、市民権まで取って「アメリカ人」になりはしたものの、黄色人種として“白人社会”アメリカで社会的上昇を続けていくことの限界を、アメリカに長くいればいるほど、そして社会的地位が上がれば上がるほど感じるようになったというのである。とりわけ、従業員同士のセクハラ騒ぎで部下の白人女性に、永田さんの経営責任を持ち出されて、裁判の末に大金をせしめられたとき、アメリカでの「非白人」の立場を思い知らされた。
「だから、アジアで何かをやりたいというのがあったよね。『黄色《きいろ》』でも差別されないアジアというのが……」
こういう経験をしてきた永田さんにとっては、上海でのストライキ騒ぎのとき、便所の壁に「打倒美国老」などと落書きされても、痛くも痒くもないにちがいない。なにしろアメリカで二十年近くも、白人やヒスパニック、チャイニーズといった異民族の従業員たちのあいだで揉《も》まれてきている。アメリカにいた頃、知り合いのユダヤ人商店主から言われた、
「ミスター・ナガタ、従業員の子供を抱くんじゃないよ。将来その従業員が君に対してよくないことをしたとき、情が移ってクビが切れなくなるからね」
この言葉を、彼はいまでも忘れていない。
中国行きを告げられたとき、妻の和代さんは、
「あの人は高校の頃から、一度言いだしたらもう聞かないから」
と、体のことを気づかった以外、何も言わなかった。二人は、そもそも都立高校時代の同級生なのである。
むしろ強く反対したのは、永田さんの友人たちであった。
「ふつう五十にもなったら、そろそろ人生守りに入ろうという頃なのに」
猛反対派だった友人は、呆れ顔で私に言ったものである。
「彼は攻めに出てる。それで、中国に攻め込んじゃった(笑)」
もう一人の反対派の友人は、中国の事前調査から帰ってきた永田さんがこう力説したのを、印象深く覚えていた。
「あのなあ、中国人は目がいきいきしてるんだよ。あの目が俺は気に入ったんだよ」
カエルとシシトウの炒めものが、大皿に盛ってある。私が永田さんの借りている一軒家に寄宿させてもらった第一日目の最初の食事が、これであった。まかないの中国人のまるまると太ったおばちゃんが、にこにこしながら私に勧めてくれた皿の上には、黒と緑のまだら模様の手足が十本、二十本。ぶらぶら皮のついた肉片もあって、まがうかたなきカエルだが、おばちゃんにとっては何よりのごちそうなのであろう。
「おばちゃん、あんたに食わせたくてカエル出したんだよ」
永田さんにそっと解説までされては、ひと切れだけで済ませるわけにはいかない。五切れを口に入れたが、そうと知らされなければフライド・チキンと勘違いしたはずだ。永田さんは、カエルはおろか、後日ヘビの切り身をまるごと唐揚げにしたものも、実にうまそうに何と八本も平らげ、骨にまでしゃぶりついていた。私も食べたが、やはりフライド・チキンのような味がした。
その晩から私が寝泊まりをさせてもらう部屋に案内されて、別の意味でぎょっとした。ピンクとクリーム・グリーンで色分けされた壁に、赤と青のド派手な電球。まるでデコレーション・ケーキの中にいるみたいで、目がくらくらする。この手の色使いはほかの中国の住宅でも実見していたから、最近の流行《はや》りなのだろう。こんな部屋が二階に三つ、一階にはリビングと食堂があって、日本的な感覚で言えば広めの4LDKといったところか。この比較的新しく建てられたらしい借家で、永田さんと勝村さん、それに前にも登場した幹部社員の崔海峰君が、三人で共同生活を続けている。
「日本には僕と同じ名前の囲碁のチャンピオンがいるでしょう。あの人は『林海峰』でしたっけ」
少年がそのまま大人になったような、ふっくらした顔の崔君が話しかけてきた。上海出身の二十五歳。家は農家で、父はいまも畑に出ている。中国でも若者の農業離れは著しく、数年前に衝撃を呼んだレスター・ブラウンの「だれが中国を養うのか」というレポートにも見られるように、中国の食糧自給に暗い影を落としているが、崔君は「中国での農業の可能性に賭けてみたい」と迷うことなく上海農業大学に進んだ。卒業後、園芸関係の貿易会社に一度は就職したものの、実地の農業の仕事に就きたくて悩んでいるとき、中国紙『新民晩報』の求人広告が目に留まる。
「大学農学部の出身者で、英語か日本語の堪能な青年を求む……上海教大農業科技有限公司」
面接で永田さんに会うまで、日本人と話したことは一度もなかった。それまでの日本人のイメージは、「勤勉」と「頑張り」。中国では地域によっては、おそらく日本人が想像する以上に、戦争中の日本軍の行為がもたらした反日感情が強いが、崔君には日本人のもとで働くことへの抵抗感はまったくなかったという。
「いま何年ですか。戦争が終わってから半世紀以上も経っているわけでしょう。そんな昔のことを言うより、これからのことを考えるべきですよ」
本心はどうあれ、すっきりした表情で、そう話すのである。
永田さんと仕事を始めて、聞きしにまさる日本人のハード・ワークぶりに驚嘆した。同期に入社した大卒者十五人のうち、仕事に付いていけず十人が退社し、いまは五人しかいない。永田さんに言わせれば、日本語ができることを売り物にして入ってきた社員ほど、「カネ、カネ、カネで根性が悪くて」早々と脱落していったそうである。辞めずに残っている五人の大卒社員たちは、いずれも英語で入ってきている。
「でも、あいつは」
と崔君を見やって、永田さんが言った。
「『あいうえお』を教えたら、たった十五分で覚えちゃったんだよ。覚えようと思ったら、日本語だってすぐ覚えるよ。アメリカの農場にいる連中より、ずっと優秀だな。それ見てびっくりしちゃって、俺はもう中国語おぼえなくていいやと思ったわけさ」
崔君は、中国語のまったくできない永田さんや勝村さんの通訳も兼ねて、この家に同居しているのだった。住宅不足が深刻な社会問題となっている上海で、家賃も食事もただということのメリットはあろうけれど、あの強烈な個性の永田さんと一日中一緒にいてくたびれないのか。
「そりゃあ、たまには逃げだしたくなりますよ」
崔君のあまりにも正直な答えに、私は思わず爆笑した。
「わかるでしょう。うまく息抜きをしないと、身が持たないですよ」
どうやって息抜きをするのかと問えば、「ときどきカラオケ」との返事。オッケー、今晩これから行こうじゃないかと、私も嫌いではないから誘うと、農園で働いている同僚の三人をすぐさま呼んできた。全員が二十代、ジーンズにゴムぞうりを突っ掛け、地元の何やらけばけばしい中華料理屋ふうの「拉OK《カラオケ》」に繰り込む。
真紅のソファーに沈み込むように腰を下ろすなり、中国でも大ヒットした「北国の春」のメロディがのどかに流れだし、崔君は「歌ってください、歌ってください」としきりに勧める。まず乾杯をと提案したのだが、そんなことにはおかまいなしに「赤とんば」「恋人よ」「ソーラン節」と、中国で愛唱されている日本の歌が脈絡なく続き、私は崔君の心遣いを無にするわけにもいかず、しらふのまま「一休さん」まで歌ってしまう(テレビ・アニメの『一休さん』が、ここでも大人気を博したのである)。
そのあとでようやく、中国の青年たちが代わる代わるマイクを握った。聞いたことのない曲ばかりだが、画面の歌詞を追っていくと、どれも切ない恋の歌で、やはり中国の二十代も失恋に「傷心」し、好きな人に会いたくて「悶々」としていることが、なんだかしみじみと伝わってくる。
閉店の十一時まで歌いまくり、当然、私が支払いをするつもりでレジに行くと、もういただきましたとの由。見ると、崔君が「きょうはノムラさんがお客さんだから」とにこにこしているではないか。彼が、さっき手洗いに立つふりをして、すっかり勘定を済ませていたのだった。
やるじゃないか。私はいたく感心してしまった。二十五歳の中国人青年が、こんな気配りを心得ているなんて、失礼ながら考えてもみなかった。“中国通”の日本人の中には、なにどうせ見返りを期待しているのさと勘繰《かんぐ》るむきもあろうが、たとえそうだとしても(私は断じてそうは思わないが)、手際が粋《いき》ではないか。
反面で、私はやられたとも思っていた。崔青年の行為は、私が最近の中国人全体に対して抱きかけていた、たとえば目先の利益ばかりを追い求める拝金主義者といった否定的なイメージを、さりげなく覆《くつがえ》してみせたからである。それに、「目先の利益ばかりを追い求める拝金主義者」と言うのなら、ついこのあいだまでバブルに狂奔し、いままた株価の上下に一喜一憂している我々日本人の自画像をこそ、まず引き合いに出すべきであったろう。
カラオケを出た私たちは、一緒に口笛を吹きながら夜の道を歩いた。
農園では、またひと騒動が持ち上がっていた。
上海でも盛大に行われる香港返還の祝賀行事に向けて育ててきた花々を、上海市の公園課が、値下げをしなければ買い取らないと言いだしたのである。公園課といっても、ひとつではない。上海市には行政区分によって園林局が十あり、それぞれの下に公園課がある。永田さんの農園には複数の公園課から注文が来ているのだが、そのいくつかが示し合わせたかのように、値引きせよ、さもなければキャンセルすると一方的に通告してきたのだった。
「そんなバカな話はないだろ。ちゃんと契約書を交わして、値段を決めて、その通りに作ってきたのに、いまになって値段を下げろと言ってくるなんて。市場《いちば》でものを値切るのとは、わけが違うんだよ」
農園の中にある三階建てビルの最上階の社長室で、永田さんは腕組みをし、憮然としている。デスクをはさんで反対側には崔君が、カラオケのときとは打って変わった深刻な表情で立ち尽くしていた。農園に出来具合を見にきた公園課の役人から、さんざんいやみを言われたらしい。
「おたくのベゴニアは高いし、セキチク(からなでしこ)は色がよくない。イメージしていた『赤』と違う。この花は小さいし、あの花は弱そうだって言うんですよ」
永田さんは顔色を変えず、声だけに怒りをにじませた。
「それなら、うちから買わなきゃいいだろ。あいつらは、お花の値打ちが全然わかっていないんだ。祝賀行事の日にちゃんときれいなお花が咲くように、それまでの日数を計算に入れて、いまは固く引き締まった状態にしてあるのに、お花が小さいとケチをつけてくる。色だって『赤』としか注文してこないで、お花が咲いてから『その赤じゃない』と言われたら、俺たちはどうすりゃいいの。市場と同じ感覚なんだよ。難癖をつけてまけろと揺さぶりをかけてきてるんだろ」
崔君が、早口の英語で提案した。
「いっぺん一〇パーセント値引きしてみたら、どうですか。まずエサに食いつかせて、それから交渉するのが、中国流のやり方ですよ」
「そんなら、お花を捨てたほうがましさ」
永田さんは、大きく首を横に振った。
「いま、うちが値引きしてごらん。うちがせっかく引き上げてきたお花の市場価格が、落っこちてしまうだろ。タネの値段も下がる。それで結局一番困るのは、中国の百姓たちだぜ。これは、長期的に考えたら、賄賂や汚職よりも中国人にとって問題だよ」
そこで唐突に、永田さんが自分の頭を拳でごつんごつんと叩いた。何をしようと言うのか。
「なっ、こうやって買い叩かれているうちに、中国の百姓はどんどん卑屈になっていくんだよ。いま向こうの言いなりになって、値下げしてみな。かさにかかって攻めてくるぞ。ますます買い叩かれて、俺たち花卉ビジネスの業者はみんなで食い合って共倒れになるんだよ」
柔和に見えた崔青年は、だが一歩もあとに引かず、食い下がった。
「アメリカや日本なら、それでいいかもしれませんよ。でも、ここは中国なんです。中国には中国のやり方があるんだから、売り手の論理だけでやっていたら、ほかの業者にお客を取られてしまいますよ」
上海には、花卉ビジネスの同業者が二十数社あって、そのうち大手は四、五社。ここの農園は広さから言えば上海最大だが、他社の追い上げも熾烈《しれつ》なのだと、崔君は説明した。
「買い手には選択肢がいっぱいあるんです。うちがこうしているあいだにも、ほかの業者たちはずっと安い値段で注文をじゃんじゃん受けているんです」
じっと目を細めて聞いていた永田さんは、おもむろに口を開いた。
「よそに取られてもいいんだよ。全部取ろうとするほうが危ない。君みたいに『イケイケ』でやると、必ず足元を見られて買い叩かれるぞ。引くことも、ときには大事なんだよ」
それから、なだめるような口調になって、
「君は正直すぎる。注文が欲しい、注文をくださいと顔に書いてある。でも、百姓は正直なだけじゃダメなんだよ。ずるいところ、ひねくれているところがないと、やられちゃうよ。まして、中国は買い手と売り手が対等じゃないだろ。買い手が強すぎて、売り手が弱すぎるんだ。君の言う通り、買い手には選ぶ権利があるさ。でもな、俺に言わせりゃ、売り手にだって買い手を選ぶ権利があるんだよ」
崔君が、なんでわかってくれないんだろうと言いたげに、首を左右に振る。議論は堂々巡りのまま、二時間に及んだ。顔を紅潮させて崔君が部屋から出ていくと、永田さんは大きな溜め息をついて、
「あいつもかわいそうなんだよ」
とつぶやいた。
「彼らの世代はきれいな育ち方をしてるのに、公園課の連中はみんな“文革世代”だろう。中国人が中国人を騙す、中国人が中国人を一番信用していない、そういう世代とやりあわなきゃいけないんだから、大変なんだよ」
一九六六年から七六年までの文化大革命の時代に青少年期を送った世代の人間不信が、中国人の人間関係ばかりでなく外国との交流も阻害しているという声は、ちまたに多い。ところが、正反対の評価もあることを、若手のチャイナ・ウオッチャーとして知られる上海在住の遊川《ゆかわ》和郎・日興リサーチセンター所長から聞いた。
「いま四十代から五十代の文革世代が第一線にいるからこそ、中国はまだ救われているんですよ。彼らには、極限の苦労を知っている強みがあると思うんです」
しかし、私は文革世代のすさまじい人間不信とニヒリズムがもたらす弊害の大きさばかりを見聞してきたのだが。
「いや、それは逆に見れば、彼らのほうが人間の本質を身をもって知っているだけ、若い連中より人間的に一枚も二枚も上と言えるんじゃないですか。若い世代は、現状だけを見て中国の将来を楽観視しているけれど、極限の状態を知らないぶん、いざというときには脆《もろ》いような気がするんですよ」
崔君は連日、あちこちの公園課を飛び回っていたが、毎日こづきまわされた子熊のような顔で、芳《かんば》しくない知らせばかりを持ち帰ってきた。値引きに応じなかったので、三万鉢(日本円にして百八十万円分)もキャンセルを食らってしまいました。五月一日のメーデー分の未払い金をもらいに行ったら、あした出直して来いとまた言われてしまいました。それで言われた通り翌日行ったら、担当の役人は地方に出張とかで……。
永田さんはいつも辛抱強く聞き、「またあした行ってみな」と励ましていたが、ある晩、頭から水を浴びたように汗をかき、憔悴《しようすい》しきって帰宅した崔君が、納品は全部済ませたのに代金は「いつ払えるかわからない」と追い返されたという話を聞いて、珍しく声を荒らげた。
「ナメられてんだよ。『いつ払えるかわからない』なんて、俺たちを小馬鹿にしている証拠だよ。これでまた納品してみろ。前に納品した分を“人質”に取られて、もっと買い叩かれるぞ。これからは、絶対に代金引き換えじゃなきゃ売るな。それがいやだと言ったら、もうあんたには売らないと言うんだ、わかったな」
それから、かたわらで押し黙ったまま聞いていた勝村さんのほうを振り向き、
「どうだろう、勝村さん。このへんで一歩引いてみて、『もう売らない』とやってみたほうがいいんじゃないかねえ?」
勝村さんは大きくうなずき、低い、静かな声で答えた。
「こっちは何一つ意地悪したこともいじめたこともないのに、そういう揺さぶりをかけてくるんだったら、もうそれしかないでしょうね」
裁判に訴えても長引くばかりで、しかも必ず勝てるという保証はない。中国ビジネスでは“常識”とされる賄賂を担当の役人に渡せば、事はうまく運ぶのかもしれないが、「中国と中国人のためにも」それはやりたくない(一般論として言えば、永田さんたちが受けている嫌がらせにしても、暗黙の賄賂請求とみることもできる)。かといって、後ろ楯になっている陳雲未亡人や、入れかわり立ちかわり視察にやって来た共産党の実力者たちに頼るのも、気が引ける……。
永田さんは、遅い夕食を一人でぼそぼそ食べている崔君のほうに向かって、
「中国人について、よくわかんないことがあるんだけどな」
と問いかけた。
「中国人には、社会主義イデオロギーがなくなったあと、何にも信仰がないだろ。いったい善悪の規範はどこにあるんだい?」
崔君が、箸を動かす手を休めて、答えた。
「儒教の教えは、目立たないけれど、庶民の考え方の底辺にはずっと流れていると思いますよ。たとえば、お年寄りを大事にするとか」
「そうかなあ。文革で全部破壊されたんじゃないのか」
「たしかに文化大革命の十年間がものすごい損失だったことは、中国人はみんなよく知っています。でも、僕ら若い世代にはほとんど影響は残っていませんよ」
永田さんは、それでも解せないといった顔で、続けた。
「俺は、日本にもアメリカにも長くいて、世界中いろいろ旅行で行ってみて、他人への思いやりとか、弱い者を助ける気持ちとか、そういったほかの国では宗教とか教育で自然に養われている規範が、この国にはあんまりないんじゃないかと思うんだよ。だいたいが『強きを助けて、弱きをくじく』ことばっかりじゃないか。中国人に“判官びいき”っていう感覚があるんだろうか。俺には、そう思えないんだけどな……」
崔君は、きょうはくたびれているんだからもう勘弁してよと言いたげな顔で、食事を終えると、冷めた日本茶でぶくぶくうがいをして、そのままごくんと飲み込み、風呂場に消えていった。
ところが、そのまま一時間近くも出てこない。心配になってノックをすると、やがて照れくさそうに出てきて、
「いやあ風呂の中で寝ちゃって」
と笑った。
崔君に対する永田さんの問いかけは、実のところ、私が中国人のみならず、日本人を含むアジア人全体に抱いていた疑問と、おおもとで重なり合う。それは、ひとことで言えば、日本を含むアジアが新たな文明圏を形成しつつあり、いまは停滞を余儀なくされているとはいえ、二十一世紀にはまちがいなく世界の中心のひとつになるとするなら、それを経済原理ではなく支える理念なり哲学なり倫理なりは、生み出されようとしているのか否か(あるいはその必要はないのか)ということである。
経済だけにとらわれてきたアジアの国々が、そうしたアジアをゆるやかに包むような非経済合理主義的な原理を求めようとするのではなく、世界の各地で頭をもたげてきた排外的ナショナリズムのほうに分裂・分散しかけているかのように思えてならないところに、私の懸念はある。中国でも先頃、江沢民国家主席みずからが、「中国共産党の愛国主義は中華民族・中国人民の愛国主義の最高の規範」などと演説で強調するような、私から見れば剣呑《けんのん》な動きが目立つ。
これからアジアへの旅を続けるうちに、私は永田さんが投げかけた疑問への答えを見出せるのだろうか。
「野村さん、雲南に行かないかい?」
不意に、永田さんが私に向き直って問うた。以前、上海のフラワー・フェスティバルで知り合い、彼の農園に来たこともある雲南省の女性業者から、ぜひ一度見にきてほしいと招待されているのだという。雲南は、ベトナムやラオス、ミャンマーと国境を接する中国西南部の省で、私はかねてより訪ねてみたいと願っていた。二つ返事で誘いに乗り、私は、永田さんと勝村さん、それに今回は通訳として崔君ではなく別の中国人社員と一緒に、上海から二時間半のフライトの雲南省へと向かった。
「省」といっても日本の国土とほぼ同じ面積の雲南省は、中国の花の一大産地で、まもなく中国初の「世界園芸博覧会」(通称“花博”)が省都の昆明で開かれる。永田さんの雲南旅行は、この山と水に恵まれた地方での花卉ビジネスの可能性を探り、ひいては中国全土へのビジネス展開を見通すためであった。
久しぶりの純然たる農村風景に、永田さんは子供のようにはしゃいでいた。
「あっ、川でおばさんたちがネギ洗ってる。上海のネギよりずっと大ぶりだな」
「おう、あの青年、天秤棒で肥桶かついでるよ。懐かしいなあ」
「脱穀も手でやってる。昔は日本もみんなこうだったんだよ」
しかし、花作りのほうでは、クルマで往復六、七時間もかけて行った韓国人経営の菊園でも、台湾からの資本でできた蘭園でも、景気のいい話はひとつも聞かれない。ある商品が儲かるとみるやいなや、同業者が殺到してたちまち供給過剰となり、市場価格を暴落させてしまうという、中国ビジネスであまりにもよく見られる現象が、花卉ビジネスの世界でも起きていた。永田さんを招待した周さんという五十がらみの女性業者にしても、おととしカスミソウを一束六十元で売ってかなりの利益をあげたと思ったら、またたくまに過当競争に巻き込まれて、いまでは一束一元、なんとおととしの六十分の一の価格でしかさばけないと嘆いている。眉毛が八の字の周おばさんは、それでなくても泣きべそをかいたような顔をしていた。
昆明の街なかは、ああ、ここも荒々しい建設と破壊の真っ只中で、街路樹が土ぼこりでレンガ色に変色している。
交通量の激しい通りを盲人の中年男性が横断しようとしているのに、誰一人として手を差し延べない。それどころか、横断の三、四歩目で立ち往生してしまったその人に、クラクションの怒号が浴びせられている。永田さんも、クルマの中からこの光景を見ていたらしく、
「悲しいかな、これがいまの中国なんだよ」
と声を落とした。
クルマの天井に頭をぶつけるほどの悪路を一日じゅう揺られて行ったり、炎天下を五時間も歩くような毎日を続けているうちに、永田さんにも疲れが目立ってきた。弱音は決して吐かないが、足取りが重い。並んで歩いていたと思ったら、いつのまにかはるか後方に取り残されている。風邪で熱があるらしく、一度だけ立ちくらみがすると洩らした。年配の勝村さんも、クルマの中でうたた寝をしていることが増えた。
おまけに、滞在五日目の最終日に予定されていた花博の責任者との会見が、見事にすっぽかされてしまった。私たちは無口になり、周おばさんの八の字眉毛はもう元に戻らないのではないかと思われた。
それでも、中国での礼儀だからと、永田さんは、付きっ切りで案内をしてくれた周さんを、最終日の晩餐《ばんさん》に招いた。そして、
「僕は、あなたが花卉ビジネスで失敗するのを見たくないから、はっきり言うけれど」
と前置きをして、本論に入った。あなたの農園には天幕を張って、日照時間を調節したほうがいいですよ。鉢植えには手を広げないで、いままでやってきた切り花を一生懸命におやりなさい。ただカスミソウはあくまでも脇役の花だから、主力はバラやカーネーションに切り換えたほうがいい。農園の借金の穴埋めのために、また借金を重ねることだけはおやめなさい。これから一年か一年半は苦しい時期が続くかもしれないけれど、そこを乗り切れば大丈夫、周さん、やってけるよ……。
永田さんは、円卓に出された海鮮料理(こんな内陸の山間部でも、中国料理でごちそうといえば海鮮料理なのである)にはほとんど箸をつけず、懇切丁寧なアドバイスを続けた。
「謝々《シエーシエー》、謝々、謝々」
小柄な周おばさんは泣きそうな顔で、感謝の言葉を繰り返している。私は、顔色のすぐれない永田さんの様子を案じていたのだが、二時間ほどで宴は無事に終わった。外に出ると、南国の、体にねっとりとまとわりついてくるような闇夜が広がっていた。周さんを見送ったのち、永田さんが、
「あれでよかったよね、勝村さん」
そう声を掛けると、永田さんの肩のあたりまでしか背丈のない勝村さんが、まるで兄が弟をいたわる目になって答えた。
「ええ、ええ、あれでよかったですよ。誠心誠意、立派に尽くしましたよ……」
上海に戻った私は、永田さんのところで一泊したあと、別の取材のために上海市内のホテルに移った。それから二日ほど置いて永田さんの農園を再訪すると、ビニール・ハウスの間道から、永田さんが白い歯を見せながらやって来た。何やら上機嫌である。
「ざまあみろってんだよ」
聞けば、香港返還の祝賀行事に向けて準備を急いでいた各公園課の役人連中が、大あわてで農園に駆け込んできたのだという。高値を理由にほかの業者に注文していた花々が、土壇場になって納期に間に合わないことがわかり、再び永田さんのもとに泣きついてきたのである。
「三万鉢もキャンセルしたやつまで、蒼《あお》い顔して飛んで来た。『おたくがキャンセルした分は、もう売っちゃったよ』と言ってやったよ。だって、本当に三十万鉢以上、一気にさばけちゃって、代金も全部回収したんだもん。『いつ払えるかわからない』なんて言ってたやつまで、カネを持って来た。いままでさんざん踏んだり蹴ったりされたけど、最後の最後には俺の技術と経験が勝ったってわけさ。胸がすーっとしたぜ」
三十万鉢としても、日本円にしておよそ千八百万円もの売り上げである。永田さんは悪戦苦闘を強いられながらも、生き馬の目を抜くここ中国・上海で、大きな利益をあげてみせたのだった。
「なんか、野村さんがいないほうが、いいことあるよ」
永田さんは、顔中くしゃくしゃにして呵々大笑している。私も軽口を返す。
「なーんだ、悲劇で終わるのかと思ったら、ハッピーエンドですか」
言うまでもなく、本当のハッピーエンドは、このさき同じような困難を何度もくぐり抜けた、その果ての果てに訪れるのだろうけれど。
永田さんは、花卉ビジネスがこのまま軌道に乗れば、野菜の栽培にも着手するつもりでいる。そうした過程で、中国の農業をこれから牽引していく若き指導者たちを、一人でも多く育ててみたい──、それが彼の、滅多に口には出さない夢のようだった。
黒アゲハが舞う色とりどりの花園をゆっくりと見て歩きながら、永田さんが問わず語りにこんな話をしたことがある。むかし二十代の頃、ひとかたならぬ世話になった恩人から、
「おまえが死んだあと、命日に墓参りに来てくれる家族以外の人が三人はいるように、いまから他人に尽くすことだよ」
と言われ、その言葉を忘れずにこれまで生きてきた、と。
だけど、これはとんでもなくむずかしいことだよ、家族以外の三人ということなんだからな、家族が来てくれるかどうかもわからない俺なんかには、とても無理かもしれない、と笑いつつ、彼は最後にわざと強がって見せるかのように投げやりな口調になって、こう言った。
「まあ、いいんだ。俺が死んだあと、俺の墓参りに来てくれる中国人が、一人だけでもいればいいや……」
ひとつの情景を、私は思い浮かべていた。
二十一世紀のある日、小さな墓標を前に、何人かの中国人がひっそりとたたずんでいる。いまはその墓に眠る日本人から、遠い昔に初めて育て方を教えられた花々を、手に手に──。
第二章 サイゴンの部屋貸します〈ベトナム〉
バイクの後ろにまたがって眺《なが》めるサイゴンの街は、まったく違った表情を見せる。
バイクのスピードが、めまぐるしく変化するこの街の速度に最もふさわしいからなのか、視線が街と完全に一体化するのである。
女子高生たちが、純白のアオザイ(民族服)を風になびかせて自転車を走らせていく。たまたまバイクの速度と合って、ぴたりと並走する形になったりすると、下心など少しもないのだが白鳥のようなうなじに見とれてしまう。女子高生たちは、私の視線にも気づかぬようで、澄んだまなざしをまっすぐ前に向けている。
シクロ(座席が前についた乗り合い自転車)に客ではなく、製氷室から切り出してきたばかりの氷を、なんとむきだしのまま乗せている車夫とも並んだ。氷の塊《かたまり》は、大汗をかいているかのごとく、すでにだらだらと溶けだしている。それをえっちらおっちら運ぶ車夫の褐色の頬にも、玉の汗が浮いていた。
誰もが「ホーチミン市」と言わず「サイゴン」と呼ぶこの街で、私は不動産屋の、どう言ったらいいか“見習い”ということになった。私の前に大きな背中を見せてバイクを駆っているのは、江田要《えだかなめ》さんという三十八歳の不動産アドバイザーなのである。
江田さんと初めて会ったとき、私はプロレスラーが来たのかと思った。百八十センチ、百キロ、真っ黒に日焼けした顔が、これまたプロレスラーみたいにごつい。華人が経営する不動産会社で、日本人顧客向けのアドバイザーをしているというので、仕事ぶりを見せてもらえまいかと頼んだら、駐車場に止めてあった旧式のホンダ・スーパーカブ50を引いて戻ってきた。それから後部座席をぽんぽんと手のひらで叩き、どうぞどうぞと勧めるではないか。初対面の相手のバイクにいきなり乗せてもらうのも気が引け、それに最初からタクシーで移動するつもりでいたので、その旨《むね》を伝えると、江田さんはなんだか勘違いをしたらしく、
「バイク、怖いですかぁ?」
にこっとして言った。その笑顔が、実によかった。いかつい顔がふにゃりと崩れて、ひとなつこさが溢《あふ》れ出んばかりだった。遠慮なく私は、バイクに同乗させてもらうことにした。
「ベトナムに来て三年で、十五キロ太りました。ベトナムに来て太ったの、僕くらいじゃないですか」
バイクを走らせながら、ほがらかに江田さんが話しかけてくる。
「野村さんは、何キロですか? 七十五キロ? それじゃ僕と合わせて、ベトナム人四人分だわ」
でへへっと今度は声をあげて笑うのだった。
平成の日本に突如として“ベトナム・ブーム”が巻き起こったのは、九三、四年だったろうか。「ベトナム沸騰」「メコンの奇跡」「地上最後の投資の楽園」……、ベトナム関連本が書店に並び、新聞・雑誌は競って特集を組んだ。私もその頃ベトナムで、何人もの在留邦人から「アセアン諸国に追いつくのは時間の問題」という声を耳にしている。次に訪れたとき、ベトナム・ブームはすでに一段落していたが、アメリカとの国交正常化直後でもあり、さあこれからが本番といった期待感がまだ漂っていた。
ところが先頃、二年ぶりに再訪したベトナムで会う日本人たちの口から洩れるのは、愚痴と溜め息ばかりなのである。
「もうこの国はダメ。上から下まで腐りきってる。永遠の三等国ですよ」
「資源大国も人材大国も、ぜぇんぶ幻想。識字率が高いといったって、そんなもん、単にABCが読めるだけ」(ベトナム語は基本的にアルファベットで記される)
「あーあ、なんでこんなとこ来たんやろ。ベトナム・ブームをさんざん煽《あお》ったマスコミにも、『どないしてくれんねん』と言いたいわ」
ブームの最中からベトナム研究者の多くは、ベトナムへの過剰な期待が裏切られた場合の反動を危ぶんでいたものだが、それにしてもこの落差はただごとではない。「どないしてくれんねん」と関西弁で嘆いていた中年男性は、日本円で三千万円を投資して飲食店を開業したものの、店はおろか持参金の大半までなくしていた。
「ホイロー(賄賂)」のひどさは、聞きしにまさるものだったという。店の建築申請から営業許可まで、そのつど監督官庁の役人たちに袖《そで》の下を渡さねば、物事はいっこう前に進まない。日本人のあいだで「ヤクザの地回りと一緒」と評判の悪い公安も、一回につき三十USドル(約四千円)ものコミッションをたかりにくる。住み込みのお手伝いさんの月給が四、五十ドルのサイゴンで、これは法外な金額である。
敵は外にあるばかりではない。開店前から、従業員たちが店の食器や米や食用油などを少しずつ少しずつ持ち出していた。買い出しのときなど、自分たちの家族が食べる分までちゃっかり買い込んでいた。
「ク・チ(ベトナム戦争中の地下トンネルで有名なサイゴン北西の村)と一緒ですわ。やつら、ク・チやなくてキッチンにも穴を開けよるんです(苦笑)」
レストランなどの個人営業を外国人が行うのはご法度《はつと》なので、この日本人男性もサイゴンで知り合ったベトナム人女性(早い話が愛人)の名義で店を出したのだが、商売が立ち行かないのを見るやいなや、彼女はにわかに冷淡になり、店の権利は自分のものだからどうしようと勝手だと言いだした。法律上はその通りなので、日本人には手出しのしようがない。結局、店を乗っ取られる形となり、彼は「なんでこんな目に遭わなあかんねん。わし、ベトナム人にそんな悪いことしたか」と慨嘆しつつも、しかしこのまま引き下がるのはどうにもしゃくだから、「元を取るまでは絶対に帰らん」とサイゴンに居続けているのだった(そうやって、さらに傷口を広げるものなのだが……)。
日本の大手企業ですら、たとえば工業用の松ヤニを目当てに松林の近くに工場を建てたら、その直後に松林を保護する通達が出され、松ヤニの採取ができなくなってしまったという笑い話のような実話がある。ベトナム側の意向はどうあれ、はなから工場を騙し取るつもりだったのかと日本側が思ったとしても当然であろう。ベトナムの投資委員会が指定してきた合弁相手が、経済事犯の犯人だったなどという信じがたい例も、私の知るかぎり二例あった。
「こっちにいる韓国人(進出企業の社員)がベトナム人(合弁相手や従業員)をぶん殴る事件が、よくベトナムの新聞に出るでしょう。まえは何やってんだかと思ってたけど、いまは韓国人の気持ち、よくわかるもん。もっとやれ、もっとやれと思いますよ」
ここまで言う日本人ビジネスマンもいるのである。
これでは外国投資は逃げていく。アジアの経済危機が現在のように深刻化する以前から、日本を含む外国からの投資総額は、大幅な落ち込みを見せていた。好況に沸くアメリカの企業ですら、自動車のクライスラーなど投資額ベスト・スリーの三社が、いずれも操業の中止や延期を決めている。
「外資が逃げていくことへの危機感は指導部にも多少はあると思うんだけど、指導者たちもその下の役人連中も、投資のときの賄賂でほくほくしている状態ですからねえ」
ベトナム在住歴の長い日本人経営者は苦笑して言ったが、こう付け加えるのも忘れなかった。
「賄賂の値段をつり上げたのは日本企業、とくに日本の商社なんですよ。商社で(贈賄を)やってないとこ、ないはずですよ。(ベトナム側の責任者)本人が受け取らないと、家族に賄賂攻勢をかけますからねえ。もともと汚れていた水を、もっと汚しているんです」
戯《ざ》れ歌の文句で言えば、「ぼうふらが人を刺すような蚊になるまでは、泥水飲み飲み浮き沈み」の悲哀を自ら招いているのである。かくして、ベトナムにいる日本人の間には、ベトナム・ブームが呆気なく過ぎ去ったあとの投げやりな気分と、それでも当面はここに張りつくしかないという、あきらめとも開き直りともつかぬ気配が混在しているかのように、私には見受けられた。
江田要さんは、ブームが過熱しかけていた九三年四月に、初めてベトナムにやって来た。それまでは、生まれ故郷に近い山口県岩国市の米軍基地で働いていた。土地柄、基地従業員は国家公務員なみの好待遇を受け、基地がなくならないかぎり“親方星条旗”の身分でいられる。だが、冷戦体制の崩壊をきっかけに、岩国の米軍基地もやがてなくなるのではないかという不安が頭をもたげてきた。それなら、まだやり直しのきく年齢のうちに、何かに自分を賭けてみたいと思っていた矢先に、雑誌やテレビでベトナムの活況を知り、まず旅行がてら香港のあとベトナムにふらりと立ち寄ってみたのである。
区画整理の行き届いたサイゴンの中心街には、大通りに沿ってすらりと伸びた大樹の並木が続き、南国の青空にもう少しで手の届きそうなところに深い緑を重ねている。
「この街路樹が好きになったんですよ」
出会った日の翌日、相変わらずバイクを軽快に走らせながら、江田さんが懐かしげにつぶやいた。
「木陰に入ると涼しくてねえ。ここで夕焼けを見ながら涼んでいたら、僕の好きなボサノバがすごく似合いそうな街に思えたんですよ」
あのブラジルの、ちょっと物憂げな音楽が?
「ええ、あのけだるい感じのボサノバが、夕方のサイゴンにはぴったりだなって」
それで、ここに住んでみたい、と?
「いえ、働きたいと思ったんです。ここなら働けるなと思いました」
それから、「でもねえ」と私のほうを振り向きながら、
「最近はなんだかあわただしくて、夕焼けを見ながら風に吹かれているような時間は、なかなか持てなくなりましたけど」
むしろさばさばした口調で、そう言うのである。
バイクは、ある日本の食品会社事務所の前で止まった。チャイムを押し、
「不動産のことでお電話をいただきました江田ですが」
ドアホン越しに話しかけると、おもむろにベトナム人のガードマンが扉を《とびら》開けにくる。
「ちょっとバイクを見ててもらえますか」
と言い残して、江田さんは中に入っていったが、すぐに舌打ちをしながら戻ってきた。
「いま将棋やってるから待っててくれって。向こうが指定した時間通りに来て、これだもん」
ベトナムに限ったことではないが、日本企業の駐在員の中には、フリーランスで仕事をしている江田さんのような“定住型”の日本人を、露骨に鼻先であしらう人間がままいる。日本総領事館に電話をすると、決まって会社や部署の名前を尋ねてくるのも、在留邦人すべてを日本の企業社会の延長でしか見ていないからにちがいない。
「どうせ日本で食えなくなって来たんだろうとでも思っているんじゃないですか」
と、江田さんはべつだん気に掛けるふうでもないが、同じフリーランスの私はなんだか無性に腹が立つ。
五分、十分、十五分、将棋はまだ終わらないらしい。江田さんは、かたわらの車道をてんでんばらばらに走り行くバイクの群れを見るともなく見て、つまらなそうに言う。
「これ見て、日本人はよく『ベトナムは活気がある』って言うでしょう。“段取り”がないだけなんですよ。日本なら電話一本で済むところを、直接バイクで連絡しに行っている。しかも、まず最初にこれをして、次にこれをするという段取りがないから、何回も行ったり来たりしているんです。相当無駄なことをやってるんですよ」
二十分過ぎになってようやく、
「どうもすいません、お待たせして」
と、社名の入った上っ張りを羽織った支店長と社員たちが出てきた。どうせ賭け将棋でもしていたのだろう、そんな輩《やから》に口先だけで謝られても、炎天下、立ちっぱなしで待たされた腹の虫はおさまらないが、江田さんはにこやかに、
「では、参りましょうか」
着いたところは、米軍の枯れ葉剤散布が原因とみられる奇形児たちがホルマリン漬けになっている、「戦争犯罪記念館」の裏手にある五階建てマンションだった。出入口のついたコンクリート塀の上に、コカ・コーラの瓶などを砕いた破片がびっしり埋め込まれ、おまけに鉄条網まで張りめぐらされている。泥棒よけで東南アジアでは珍しくもないが、これを見るたび、私の気分も束《つか》の間《ま》ささくれだつ。
門扉《もんぴ》を開けてのっそりと顔を出したのは、軍服姿の小柄なベトナム人だった。くすんだ緑色の半袖シャツの両肩のところに、一方には赤地に黄色い星印のベトナム国旗の徽章《きしよう》を付け、もう一方には錨《いかり》のマークの入った徽章を付けている。江田さんが囁《ささや》いた。
「北ベトナム出身の海軍(軍人)でしょうね」
サイゴンの家主には、一九七五年の南ベトナム“解放”後に旧北ベトナムから乗り込んできた共産党幹部や軍人、あるいはその子弟が多い。この家主は、見たところ年長に見積もってもまだ三十代だから、北出身の党幹部か軍人の子息であろう。どこかおどおどした目つきなのは、押しかけてきた大柄な日本人たちに気圧《けお》されているからなのか。
少し遅れて、江田さんのパートナーのシンさんが到着した。シンさんは、ベトナム戦争が激しかった頃、日本に留学し東京大学に在籍したこともあるインテリで、完璧な日本語を話す。日本留学後、アメリカを経てフランスへ行き、パリで知り合った日本人女性と結婚して二人の子をもうけ、いまは江田さんと共に不動産アドバイザー兼通訳を担当している。
「すみません、遅くなっちゃって。前の打ち合わせが延びたものですから」
シンさんの見事な日本語に反応を示すでもなく(日本人と勘違いしたのかもしれないが)、支店長と二人の部下はそそくさと室内を見て回る。
「静かだね」「部屋もきれいだし」「クーラーも三つ付いてる」
ふんふんと自分の言葉にうなずきながら、支店長は屋上に上がっていく。屋上は物干し場になっていて、さつまいもが十六本も干してある。家主の妻のものだろうか、ピンクやブルーの派手な下着が、威勢よく風にひるがえっていた。江田さんが私のほうに寄ってきて、小声でぼやいた。
「お客を連れていくからって、あらかじめ電話してあるんだから、ちゃんと片づけときゃいいのに、これですからね」
それでも、支店長はここが気に入ったらしく、家賃の額を江田さんに確かめている。そうして、
「こっちもねえ、仕事の都合で二、三カ月おカネが入ってこないかもしれないんだよ」
前払い金をまけてくれないかと、のっけから値引き交渉である。
ベトナムで部屋を借りるには、日本のような敷金・礼金は要らない。その代わり、入居の予定期間が一年なら半年分、三年なら一年分、五年なら二年分の家賃を前もって入金するのが、慣例となっている。いま、この食品会社の支店長が、これから赴任してくる社員用に借りようとしている2LDK(といっても日本よりかなり広めだが)の家賃は、月千五百ドル(約十八万円)である。仮に三年契約とすると、日本円にして二百二十万円近くもの前家賃を納めなければならない。
軍服姿のせいでかえって貧相に見える家主が、ぼそっと言った。
「借金を早く返さないといけないので、前家賃をできるだけ早く入れてもらえませんか」
これにも多少、説明が要る。ベトナムは社会主義国なので、法律上、土地の私有は許されない。認められているのは土地の使用権とリース権、それに建物の所有権だけで、しかも銀行制度が未発達のため、土地を担保に銀行から借金をすることができない。そこでヤミ金融から調達することになるのだが、この利子が月一割もする。一年もしないうちに、借金は倍以上に膨らんでしまう。ヤミ金融には公安やチャイニーズ・マフィアも絡んでいるらしいのだが、ともあれ家主は一ドルでも多く前家賃を受け取り、それを借金の返済にあてたがる。
「ずばり、いくらくらい入れられますか、とりあえず手付金としてだけでも」
江田さんが打診すると、支店長は、
「いくらくらいなの?」
と訊き返す。江田さんの答えを聞くなり、
「三千(ドル)ねえ。いいですよ、それくらいなら」
請け負ったかと思うと、かたわらの経理担当の社員に、
「おい、三千だって。だいじょうぶだよな?」
小声で尋ねている。その様子を見ていた江田さんが、
「じゃ、とりあえず千(ドル)で家主に言ってみますから」
ベトナム流に大きく値切って、家主に持ちかけた。シンさんがベトナム語に翻訳する。さあ、これからが、サイゴンの市場《いちば》でおなじみの売り手と買い手の丁々発止の始まりと思いきや、ベトナム人の家主は浮かぬ顔で、
「家内に相談してみます」
ぽつりと答えるのみにとどまった。帰り際、この家主はシンさんに、
「ほかに部屋を探している人がいたら、ぜひ紹介してほしい」
と耳打ちしたそうである。もっと金払いのいい日本人を、ということなのだろう。
表通りに出ると、目の前に止まっているバイクの荷台に、奇妙なものがあった。金網を張った大きな籠《かご》が二段重ねになっていて、下の籠には黄緑色の重たそうなヘビが一匹とぐろを巻き、上の籠には緑色の皮膚にオレンジの斑点のある大トカゲが十匹余りも押し込められている。私はなんだかうれしくなって、これらの生き物が棲むベトナムの森の深さに思いを馳せていたら、江田さんがシンさんに、
「これ、食べるんですかぁ?」
いきなり即物的な質問をした。
「いえ、お酒に入れます」
シンさんの、これまた直截《ちよくせつ》な答えに、支店長と社員たちは無言のまま籠の中のものをじっと見ている。
ベトナムにやって来るまで、江田さんには不動産の取引など全然経験がなかった。そもそも不動産屋になるために、ベトナムに来たわけではないのである。
九三年四月の小旅行のあと、米軍基地での残務を整理して、翌九四年の二月、本格的に仕事を始めるつもりでサイゴンに戻ってきた。
「いなかもんが東京に働きに行くみたいな感覚でした」
と、このあたりが旧世代の日本人とはまるで違っている。日本の一地方(山口県)からアジアの一都市(サイゴン)にやって来るのは、彼にとって“上京”とほとんど変わらぬ感覚なのである。「日本を捨てた」といった悲壮感は、微塵《みじん》もない。
ベトナムで最初の日本人用レンタル・ビデオ店を開業するつもりだった。日本を出る前に、周防正行監督の『シコふんじゃった。』や藤田まこと主演の『必殺!』シリーズなど二百本ものビデオを、検閲を担当する国営の映像配給会社気付で送ってあった。ところが、その検閲で引っ掛かった。外国製ビデオの持ち込みは月に十本以内、検閲のためベトナム語に翻訳するのに一本あたり三週間はかかり、費用も一本につき百ドルは必要と通告されたのである。
翻訳料だけで当時のレートでも二百万円以上、全部訳し終えるまでに十何年もかかってしまう(!)。国営映像配給会社にはもちろん、日本ベトナム文化交流協会にも掛け合ったけれど、どうにも埒《らち》が明かない。とうとう江田さんは自棄《やけ》を起こした。
「ええい、そんなビデオ、ベトナムにくれてやるわい!」
あれは遠回しの賄賂の要求だったのだと、あとで気づいたときには、もう手遅れだった。
一方で、このビデオの持ち込み交渉中に、江田さんは繁華街に「キオスク」が二店舗、売りに出されている話を聞きつける。日本の駅にあるようなキオスクではなく、サイゴンで新聞や飲み物を商う、日本的に言うなら「スタンド」である。日本円にして百五十万円で二店舗を買い取り、まずここでかき氷やソフト・クリームを売ろう、ビデオの許可が下りたらそれを扱うのもいいなと夢をふくらませていたら、突如、冷水を浴びせかけられた。キオスク購入からわずか三カ月後に、その大通りからの「キオスク立ち退き命令」が出たのである。
江田さんは、地団太を踏んで悔しがった。そうか、そのことを知っていて、あのベトナム人は俺にキオスクを売りつけたのか……。
「ねっ、こすっからいでしょう。世界一こすっからい(笑)」
江田さんは別の例を引いた。田舎に行ったとき、道端で龍眼の《りゆうがん》実を売っていたので、試食してみた。どうせベトナムのことだ。粒が大きくて味のよいものを置いてあるのは、籠の上のほうだけにちがいない。そこで籠の脇から実を取って、皮をむき透明な果肉を舌に乗せると、思いがけず、ライチによく似た歯触りの甘酸っぱくてジューシーな味が口いっぱいに広がった。喜び勇んでひと籠買って帰り、家で食べてみたら、おいしい果実は籠の脇にあるものだけで、あとは売り物にならないような代物ばかり。ベトナム人物売りの策略は、騙されてなるものかという客の心理のさらに上をいっていたのである。
「こういう目にはさんざん遭いましたけど、不思議と日本に帰ろうとは思わなかったですね。仕事のほうも、いつか何とかなるだろうって。僕、わりと『ビジネス・ネタ』を考えるのが好きなんですよ、夢見るような感じで。ベトナムでの『需要と供給』を秤《はかり》に掛けながら、ビジネス・ネタを考えるんですよ」
まず洗濯板の販売を考えた。ベトナムにはないものだから、たらいを前にしゃがんで手洗いをしているベトナムのおばちゃんたちに大ウケするにちがいない。これはいいぞと日本から洗濯板を取り寄せ、試しに市場へ持って行くと、雑貨屋のおやじがつまらなそうな顔で頭上を指さした。そこには、ベトナムにはないと思っていた洗濯板が、ほこりをかぶったままぶらさがっていた。
めげることなく、次にハエ取り紙の発売を思いついた。ベトナムにはハエが多い。今度こそ大ヒットまちがいなしと、ハエ取り紙を実地に使ってみた。
「ところが、天井からぶらさげてもハエが引っつかないんですよ。よぉく観察してみたら、暑いせいか、ベトナムのハエって地べたに近いところしか飛ばないんですよぉ」
その後も、旅行会社、モデル派遣業、アニメやドラマの吹き替えをする声優のプロダクション、とアイデアは次々に湧いてくるのだが、どれもこれも事業ライセンス取得の段階で引っ掛かってしまう。日本で貯めた二百数十万円の貯金を食いつぶしていく日々が、一年余りも続いた。
不動産アドバイザーになったのも、江田さんの言う「需要と供給」を考え抜いた結果だった。ベトナムには推定で二千人の長期滞在の日本人がいるとみられるが、長らく住宅難に頭を痛めてきた。ベトナム流のせちがらい交渉術に不慣れな日本人は、相場の家賃より二、三割も吹っ掛けてくる家主たちに手玉に取られていた。それを見るに見かねてという気持ちと、モットーの「需要と供給」の原理とが、江田さんの中でひとつになった。ちょうど日本人向けの担当者を求めていた不動産会社の意向とも合致して、江田さんは九六年から日本人の長期滞在者およびその予定者とベトナム人家主とのあいだに入る仲介の仕事を始めたのである。
「ホーチミン市内で不動産をお探しの方へ
当方、常時一〇〇〇件以上の物件を
御用意しておりますので、いつでも
お気軽に御相談ください。
TUYEN PHONG不動産
担当・江田 要」
不動産物件の最新リストがびっしり印刷されたこんな広告が、いつしかサイゴンの日本人が集まる料理屋や喫茶店に貼りだされ、同じ文面のファックスが日系企業の事務所や日本商工会などにも舞い込むようになる。
ときは西暦二〇××年──。
ついに第三次世界大戦が勃発し、日本列島は第二次大戦時をはるかに凌ぐ戦火に覆われた。東京には猛烈な空爆が降り注がれ、大阪は史上初めて日本軍と外国の援軍が入り乱れる内戦の舞台となった。外国勢力からの武器や最新兵器を手に、日本人同士が血で血を洗う内戦は、断続的に三十年間も続いた。実に八百万人もの日本人が死に、十人に一人が身障者となり、一千万人もの日本人が何らかの精神障害に苦しめられることになった。戦争終結後、世界最貧国のひとつにまで転落した日本は、ようやく大胆な経済開放政策を打ち出したものの、戦争が残した傷痕はあまりにも深く、国家再建はいまだ軌道に乗らない……。
たとえて言えば、これがベトナムの現在である。戦死者などの数は、ベトナムでの実数を日本の人口に比例させて計算したものだが、こんな大雑把な書き方ではかえって誤解を招くかもしれない。実際のベトナム史は、この何千倍、いや何万倍もずたずたに引き裂かれ、閉じられることのない傷口が夜ごとに疼《うず》く、そのような時間の堆積であったろう。長い戦争の前にも、フランスの過酷な植民地支配があり、日本軍の侵攻があり、南北分断があった。三十年に及んだ戦乱が収まり、悲願の国家統一を果たしたあとにも、隣国のカンボジアや中国との紛争が相次いだ。戦争で家族の誰かを亡くしていないベトナム人は、皆無と言ってよい。かろうじて生き延びた人々のあいだには、自分と家族以外には誰も(ときには家族ですらも)信じられない、骨がらみの人間不信が残った。
経済の尺度でしか他国を判断しない日本人が、「地上最後の投資の楽園」「アジア最後の大市場」「二十一世紀の成長国」と景気よくまつりあげたベトナムとは、こういう国だったのである。
「日本のシナリオ作家の人たちは、一度ベトナムに来るといいですよ」
江田さんが、こんな言い方をしたことがある。
「かわいそうな話がいっぱいありますから。ベトナム人一人一人の話を聞いていったら、ほんとドラマになりそうな、かわいそうな話ばっかりですよ」
ぽつりぽつりと独白が続いた。
「言葉がわかるようになると、よけい胸に響くんですよ。僕も、かみさんの話を聞いて、何度も泣いたことありますもん……」
妻のクインフォアさんと出会ったのは、江田さんが本格的にサイゴンで仕事を始めて間もない頃だった。知り合いのベトナム人に連れられて行った大衆キャバレーで、江田さんの隣に座ったのが、ベトナム語で「あじさい」という名のクインフォアさんだったのである。
そのときの江田さんの風体が、悪かった。長髪を後ろで束ね、顎鬚《あごひげ》を生やし、派手な模様のアロハ・シャツを着ている。このスタイルが、ベトナム映画に出てくる悪党そのものだとは、サイゴンに来てまだ日の浅い江田さんは知らなかったのだった。江田さんの横に付いたクインフォアさんは、悲しげな顔でずっとうつむいていたが、とうとう泣きだしてしまった。江田さんは、初対面のベトナム人女性に急に泣かれて戸惑うばかりで、まさか自分の風貌のせいだとは思ってもみない。
「タクサン大キイ、ウシロ髪ナガーイ」
とクインフォアさんは、大きな目をいっそう見開いて、江田さんとの出会いを振り返る。「ものすごく体が大きいし、うしろ髪も長いし」怖くてたまらなかったそうなのだが、「ウシロ髪」なんていう単語を知っているのがおかしくて、私は思わず吹き出しそうになった。
ベトナムに限らず、アジアの多くの国では、占いや吉兆・凶兆が広く信じられている。クインフォアさんは、江田さんと会う数カ月前、占い師に「あなたは体の大きな外国人と結婚する」と告げられていた。それまで外国人とは口をきいたこともなかったから、本人も意外だったし、周囲からも「そんなことあるわけない」と笑い飛ばされたという。
江田さんと出会うことになる日の朝には、横になっていた彼女の足をゴキブリがかすって通った。ベトナムの言い習わしでは、ゴキブリが体に触れるのは吉兆である。
読者は一笑に付されるかもしれない。だが、アジア世界の最底辺で生きる人々にとっては、占いや吉兆は、すがりつけるかすかな希望そのものなのである。
二十三歳のクインフォアさんは、五歳で産みの母と死別し、故郷の村から出稼ぎに行ったきりの父とも離れて、親戚のあいだをたらい回しにされながら育った。鉛筆もノートも買ってもらえず、学校は小学校三年生までしか行けなかった。子供の頃から、天秤棒に重たい水瓶《みずがめ》を下げ、毎日何度も水汲みと水運びをさせられたので、いまも背骨が少しずれている。江田さんと初めて食事を一緒にしたとき、彼女は、
「おなかいっぱいになって苦しくなることって、こういうことなのねえ」
無邪気なくらい感動して、その様子が江田さんの胸を打った。
十六歳のとき、“口減らし”で見ず知らずの男のもとに売り飛ばされそうになったが、危うく逃れ、サイゴンに出てきた。後年、江田さんと結婚したのち、ベトナムでも空前の視聴率をあげた『おしん』を観て何度も号泣したのは、日本の明治・大正期を生きたおしんの少女時代の境遇が、自分と瓜二つだったからである。
知る人もいないサイゴンで手に職をつけねばと洋裁を習い、田舎から妹も呼び寄せて同じ仕事を始めさせたところが、その妹が頭部の感染症で入院してしまう。治療費をどうにかして工面しなければならない。やむなく「売春だけは絶対にしない」と心に誓って、「ビア・オム」(直訳すると「抱きビール」)と呼ばれるキャバレーに勤めるようになり、その二カ月後に江田さんと邂逅するのだった。
ほんとは好みのタイプの女性ではなかったと、江田さんは打ち明ける。
「どっちかって言うと、僕、ケバいのが好きなんで(笑)」
けれども、いつも寂しそうにしてほとんど笑わない彼女を見ているうちに、なんとかして助けてやれないものかと思い始めた。ビア・オムをやめさせて、新しい職場を紹介した。少しでも笑顔を見せてほしくて、扇風機やラジカセを贈ったり、外食に連れだしたりした。身の上話を聞いて一緒に涙するうちに、同情が愛情に転じた。
そして、子供ができた。江田さんの周囲は、堕《お》ろして別れろと口をそろえた。あんな不幸せそうなのとは切れたほうがいいよ、と。そう言われて初めて、江田さんは結婚を決意する。
「彼女は僕より十五歳も年下なんですが、よくお寺へ行ってお祈りをする子なんですよ。一度、何をそんなに祈ってるのか訊いたことがあるんです。そしたら、『あたしが今度生まれ変わりましたら、もっといい星の下に生まれますように』といつも祈ってるって。それ聞いて俺、怒ったんですよ。なんでそんなふうに考えるんだ、いつも未来を見て一歩一歩、自分で努力して生きなきゃだめだろうがって。俺だって、たった一人でベトナムにやって来て、未来を切り開こうとしているんだからって。そう言っていた僕が、もし赤ん坊を堕ろさせたら、彼女はこれから一生、堕ろした赤ん坊のことをお祈りしながら、寂しく生きていくんだろうなと思ったんですよ。それで、よし、頑張れば人生、道が開けることを、結婚して俺があの子に見せてやろうと決心しました」
生まれてきた子は男の子で、江田さんは日本人の誇りを持って生きてほしいと、「大和《やまと》」と名付けた。
今度の家主も、旧北ベトナム出身の軍関係者のようだった。
年配の、やや猫背の小男である。束にした鍵をじゃらじゃら鳴らしながらやって来て、愛想よく私たちを室内に招き入れたが、その目は笑っていない。江田さんとシンさんが案内してきた日本人客は、ベトナム駐在歴の長い大手建設会社の副所長ということだった。ゴルフ焼けした顔にふちなしの眼鏡、どこかタレントの上岡龍太郎に似ている。
六階建てマンションの三階の空き部屋を見せると、一瞥《いちべつ》しただけで「ここでいいよ」と即決し、前家賃一年分を主張する家主を、
「いまはどこも空き部屋ばっかりじゃないの。まけなさいよ」
シンさんの通訳で説き伏せて、半年分前払いに値切った。たしかにベトナム・ブームが去ったあと、新築のビルやマンションには空室が目立つものの、その値切り方が私には「ベトナムずれ」しているようで気になった。
翌日、シンさんの携帯電話に、家主から連絡が入った。双方で交わす契約書に、次の三項目を追加してほしいという。一つ目は室内で武器や弾薬を扱わないこと。二つ目は売春をしないこと。売春婦を連れ込むなという意味ではなく、その部屋で売春業を営むなというのである。三つ目が三人以上では住まないこと。それを聞いて、江田さんが苦笑した。
「どれも家主本人がやりそうなことばっかりじゃないですか。自分たちがベトコン(共産ゲリラ)だった頃、武器や弾薬を部屋に隠していたから、外国人もやるんじゃないかと思っているんですよ。売春やるなったって、日本人があんな部屋を売春宿にするわけないっちゅうの(笑)」
それでも家主本人の言い分を聞き入れて契約書を作り、二日後に持参したら、なんと、
「この話、なかったことにしてもらえんだろうか」
と切り出してくるではないか。昨日、別の不動産業者が連れてきた韓国人の客に、二年分の前家賃を払うと持ちかけられ、おカネも受け取ったので、そちらと契約することにしたと平然と言ってのけるのである。江田さんは、すでに前日「上岡龍太郎氏」から署名・捺印の入った契約書を受け取っている。
江田さんは頭を抱えた。シンさんが電話をして家主の急変ぶりを伝えると、「上岡氏」は受話器の向こうで、
「冗談じゃないよ!」
大変な剣幕だったという。シンさんはだが、「上岡氏」にも責任の一端があると、意外な指摘をする。
「あの人、『大蔵省発行の領収書が欲しい』なんて言ったでしょう。あのとき、家主が嫌な顔したの気づかなかった? だって、そんな領収書出したら、脱税ができないじゃない。家主はみんな、家賃の五割か六割、脱税したいわけだから。あのときから家主はきっと、もし他に借りる人がいたら、その人に貸そうと思っていたんですよ」
江田さんは江田さんで、「ついてない、ついてない」とこぼしている。
「昨晩、野村さんと別れたあとにも、ひとつトラブったんですよ。うちが紹介したベトナム人のセキュリティ(ガードマン)と家政婦の夫婦を日本人(の借り主)はオーケーしたのに、(ベトナム人の)家主がダメだって言いだしたんです。ベトナム人の夫婦を入れると、日本人が出掛けているあいだに部屋でセックスするから縁起が悪いって。たしかに、職場でセックスすると縁起が悪いっていう話が、ベトナムにはあるらしいんだけど、本音は家主が自分でセキュリティをやりたいわけです。そうすれば、家賃に加えてセキュリティの収入も入ってくるでしょう。結局、家主の主張が通っちゃって、家主はほくほく顔ですよ。かわいそうなのはやっと仕事が見つかったって喜んでた夫婦で、がっかりして帰っていきましたよ」
次の日、江田さんとシンさんは「上岡氏」のところに謝りに行った。こんなとき、私は身の置き所に困る。不動産屋の“見習い”ということで通してきたから、日本人客のほうもそれをつゆほども疑っていないのである。
そう言えば、江田さんのバイクが不調で、代わりに私が一人、タクシーで日本人客を案内したこともあった。内心はらはらしどおしだったけれど、中小企業のオーナー社長だというその中年男性は、私がよほど頼りなげに見えたらしく、
「まあ、こっちでのんびりやるのもいいですよ。こつこつやってりゃ、なんかいいことありますよ」
と、なぐさめ励ましてくれるのだった。
今回は、そうはいかない。江田さんは「胃が痛くて」と言いながら、しきりに汗を拭いている。汗かきの江田さんは、いつもズボンのポケットとアタッシェ・ケースに合わせて五枚も厚手のミニ・タオルを入れているのだが、きょうの汗は暑さのせいばかりではなさそうだ。重い足取りで、先方の事務所に着く。入口に、皮膚病で赤剥けになった野良犬が、だらりと寝そべっている。
さいわい「上岡氏」の怒りは、だいぶ収まっていた。
「困るよなあ。どうなってんのかねえ。契約書ちゃんと書いたのに、こういうことってよくあるわけ?」
江田さんは「はい」とうなずいて、もっと拗《こじ》れたケースを話しだした。そのときの日本人客の怒りははなはだしく、住居が見つかるまでのホテル代を六百ドル支払えと要求したが、家主はいっさい取り合わない。開き直ったその態度に、さすがの江田さんも腹を立て、裁判に訴えて争うと宣言したら、途端に家主の態度が卑屈になった。六百ドルの代わりに、
「別の部屋をお貸しして、そこには冷蔵庫と洗濯機を入れますから」
と代案を出してくる。
ところが、そこで家主の、いかにも“かかあ天下”らしい女房が(ベトナム人夫婦の常ではあるが)口をはさんできた。
「もっと安いホテルに泊まればいいんだわ。六百ドルなんて贅沢《ぜいたく》すぎるよ」
そのひとことに日本人客がまた怒りだし、家主は女房と日本人たちにはさまれておろおろするばかり。長談判の末、ようやく家主が別の空き室を貸し、そこに冷蔵庫だけを入れることで(ただしレンタルとして)決着した。このいきさつを聞き終えるなり、「上岡龍太郎氏」は、したり顔でひとこと、
「ま、ベトナムだからねえ」
思えば、その家主も旧北ベトナムの出身であった。
これには、わけがある。七五年の“解放”後、崩壊した南ベトナム政権の要人や軍人、官僚たちの所有していた不動産を、新政権が差し押さえた。実際は、共産党幹部や北ベトナム将兵らによる、獲物の分捕り合戦だったらしく、取り分の多かった党幹部や軍出身者たちは、“戦利品”の家屋をそのまま賃貸に出したり、新築マンションを建てて外国人に法外な値段で貸して、にわか成り金にのし上がっていったのである。貯め込んだUSドル(言うまでもないが、かつての仇敵の通貨である)に物を言わせて、海外に大名旅行に出掛けたり、サイゴンに妾《めかけ》を囲う者も多いと聞いた。
こうした旧北ベトナム出身者たちの行状を、南の住民はむろん苦々しい思いで見つめている。サイゴンっ子の嫌いな外国人は、中国人、韓国人、ロシア人(ロシア人嫌いは社会主義政権下でのソ連との付き合いが原因)で、これは人によって順番が異なるが、その上に必ず「バッキー」が来る。むかし阪神タイガースにいたピッチャーの名前ではない。文字通りの意味では「ベトナム北部」だが、サイゴンの住民たちは「北のクソったれ野郎」のニュアンスで「バッキー」と吐き捨てる。私は、あるカラオケ嬢が真顔で、
「バッキーのやつらを見つけたら、頭にピストルの弾を百発くらいぶち込んでやりたい」
と息巻くのを聞いている。警察や公安も事実上、北の出身者で固められ、日常的にその監視下に置かれているから、「バッキー」への憎しみは深く内攻する。少なくともサイゴン住民のあいだでは、七五年の南ベトナム政権陥落は決して“解放”などではなく、北ベトナム共産主義政権による「占領」、もっと彼らの実感に即した言葉で言うなら「蹂躙」《じゆうりん》もしくは「掠奪」《りやくだつ》であったことを痛感しないわけにはいかない。
旧南ベトナム政権に協力的だった者は、一兵卒に至るまで、中国の“反革命分子”と同様の、出身階層による厳しい差別に晒《さら》され、それは子や孫の代になっても、就学や就職、結婚などの際、執拗につきまとう。
サイゴン在住歴の長い日本人が、あきらめきった表情で、私にこう語った。
「俺はベトナム人と酒を飲まないようにしているんだよ。酒飲むと、人が変わったみたいに荒れるやつが多いから。きっと抑圧されてるからだろうね。ベトナムには、生まれつきどうやっても浮かび上がれない人間が大勢いる。その一方で、共産党の連中はますます金持ちになっていくわけだろう。自暴自棄みたいになって、その日暮らしをしている人間はたくさんいるよ……」
見はるかす限りの水田である。私は二十年来アジアを旅してきて、これほど果てしなく広がる稲の波を見たことは数えるほどしかない。江田夫人のクインフォアさんが子供のころ暮らした村へと至る田舎道の周りには、そんな風景が延々と続いていた。
ベトナムの豊かさを知りたければメコン・デルタへ行け、とよく言われる。たしかに、黄土色の水を満々とたたえ、途方もなく大きな怪魚が川底でまどろんでいそうなメコンと、その流域に開けた水田の規模は圧倒的だが、中部の古都フエから郊外に出たこの一帯でも、私は世界第三位の米の輸出量を誇るベトナムの底力を改めて見せつけられる思いがした。
それにしても、なんたる悪路か。雨期にスコールで何度もえぐられたらしい泥道が、乾期のいまはかちかちに干からび、自動車の通った形跡すらない。三時間以上走ったところで、ハイヤーの運ちゃんが音を上げた。クインフォアさんの話では、フエから船で川を下っても片道五時間、そこからさらに徒歩で一時間はかかるという。目的地の村には幼なじみがいるだけで、親戚はもういない。私たちはあきらめて引き返すことにしたが、江田さんは感に堪えないように、
「かみさんが、こんな“どいなか”から出てきたことがわかっただけでも、よかったですよ」
と言った。豊潤な田園地帯を見ていると、人口の八割が住む農村部の四人に一人以上が失業中とは信じがたい気がしてくる。だが、ベトナム戦争終結の前年に生まれたクインフォアさんの少女時代、農村の暮らしはいまよりもさらに厳しかった。
戦火と熱帯気候のせいで傷みの激しいフエ王宮の城址を散策しているとき、クインフォアさんは道端に生えている雑草に目を落としながら、ときおり少女時代の忘れ物でも見つけたかのように駆け寄っていた。
「この草の茎、ちょっと噛んでみて。ねっ、すっぱいでしょ。むかしスープに使ったのよ」
「こっちの草は、籾殻《もみがら》に混ぜて豚の餌にするんだけど、ごはんもおかずもないときは、これをお粥《かゆ》に入れて量を増やしたのよ」
「むかしはゴムぞうりも買えなかったから、裸足で働いてよくケガをしたわねえ……」
歌うように回想する彼女の声を聞いているとき、私はこの世のものとも思えぬ、美しい蝶が舞っているのに気づいた。黒アゲハの一種なのだろう。羽の中央に螺鈿《らでん》のごとく輝くコバルト・グリーンの紋様が入っている。しきりに感嘆していたら、江田さんが、
「ベトナムでよく見かけるチョウチョですよ」
と言ったので、私はいささか鼻白んだ。
数日後、サイゴンに戻った私たちはそろって、敬虔《けいけん》な仏教徒のクインフォアさんが毎月、旧暦の一日と十五日に必ずお参りに行くという寺に参詣した。スピーカーから流れ出る野太い読経の声と、もうもうたる線香の煙が、江田夫妻や、あとからあとから参拝に訪れるベトナム人たちを包み込む。江田夫妻は二千ドン(約二十円)で中華料理屋の箸ほどもある線香をひとふくろ買い求め、やけに金ぴかな弥勒菩薩《みろくぼさつ》や、キューピー人形が腰布を巻いたような生誕直後の釈迦像の前で、ベトナム式のお祈りを繰り返した。
合掌した手にたばさむように線香を三、四十本も立て、それを額の上に掲げて、瞑目し、おごそかに祈る。
クインフォアさんは、いつもと同じお祈りを唱えた。家族みなが幸せでありますように、一人息子のヤマトが元気で大きくなりますように、あたしたち夫婦が百歳まで仲良く暮らせますように……。
江田さんも祈った。かみさんは小さい頃から苦労ばかりしてきましたので、これからはずっとずっと幸せでいられますように、と。線香の煙にむせながら、小柄なベトナム人たちに混じって、一心に手を合わせる江田さんの大きな後ろ姿を見ているうちに、私は滅多にないことだが、神仏の加護がこの二人にだけはあってほしいと、心底から祈るような気持ちになっていた。
寺を出て、江田さんはちょっと照れたように言った。
「僕はベトナムにたった一人でやって来て、まだこれといった成果は出ていないけれど、うちの奥さんの笑顔が一日に一回は見られるようになったことが、こっちに来て一番よかったことかなあ……」
私が日本に帰る前夜のこと──、江田さんから小さな紙包みを手渡された。開けてみて、思わず江田さんの顔を見直した。古都フエの城址で私が見つけて、その美しさに歓声をあげた蝶が、小さな額に収められているではないか。コバルト・グリーンの紋様は、羽の先へいくにつれ、闇夜に光る蛍のように、はかなくも美しい。
「柄にもなく」と言いかけて、やめた。冗談にまぎらしてはいけないと思ったのである。
この心があるから、ベトナム人たちは彼を受け入れたのだと、そのとき私は初めて深く得心した。
第三章 アジアで一番幸せな国〈フィリピン〉
日本のリサイクル運動団体が、何らかの災害に遭ったアジアの国に古着やミシンを送ったりする。これは、よくある話である。その贈呈式を、アジアの被災地で行う。これも、よくあることだろう。
しかし、そこから先が、このときのフィリピン・マニラでは違っていた。受け取り側の代表としてスピーチに立ったマニラ在住の日本人神父が、拳を振り上げて何やら英語でまくしたてはじめたのである。
「俺、神父って穏やかでやさしくて、人の話をよく聞く人だと思ったんだよ」
岩手県盛岡市から、古着二万点と足踏み式ミシンなどを携えてやって来た馬場勝彦さんは、呆気に取られていた。
「そしたら出てきたのは、髭《ひげ》をはやした三船敏郎みたいに強そうな神父でさ(笑)。猛烈な早口で、口角あわを飛ばして演説するんだもんねえ」
通訳が、すまなそうな顔で日本語に訳してくれた。馬場さんらがスラム地域での大火事で焼け出された住民たちに持参した古着のことを、あろうことか、
「フィリピン人はフィリピン人の誇りにかけて、こんな物をもらってはいけない」
と訴えているのだという。さらに続けて、
「戦争中、日本人はフィリピン人にどんなひどいことをしたか。にもかかわらずフィリピン人が戦争直後、日本へ送った救援物資で日本人がどれだけ助かったことか。そういう過去をすっかり忘れて、成り上がりの金持ちになった日本人が、今度は日本で要らなくなった使い古しを、フィリピン人に『これを使え』と持ってきた。フィリピン人は乞食ではない!」
けれども、大火によりフィリピン最大のスラム地区トンドがこうむった被害は甚大で、住民には着るものすらない。「だから」と、憤然たる口調のまま、その日本人神父はスピーチを締めくくった。
「きょうだけは、ありがたくもらってやる」
そして、にこりともせずに、
「サンキュー」
短く言い放って、壇上から降りたのである。満場は、当惑の空気に包まれてしまった。
馬場さんには心外このうえなかった。馬場さんが会長を務める「盛岡市民福祉バンク」は、重度の障害者が働ける場を作るため、ボランティアと共にリサイクル運動を始めたのがきっかけとなって設立された事業団体で、そのときフィリピンに支援物資を送るまでに、すでに十五年の実績を積み重ねていた。二万点の衣類だって、夏物ばかりを選び、きれいに洗濯をしてからシャツはシャツ、ズボンはズボン、子供服は子供服と分別して段ボール箱に詰めてきたのである。
それなのに、いきなりあの言いぐさは何だ。われわれを“買春ツアー”に来るような日本人観光客と同一視しているのではないか。誤解されたままでは、とうてい引き下がれない……。馬場さんは、セレモニーのあとの懇親会で、自らその日本人神父のところに歩み寄った。ひとこと「あれはないでしょう」と言いたくて。
それが、西本至《とおる》神父との出会いだった。いまから十余年前、ちょうど時代が昭和から平成に移った頃のことである。
ところが、このときの衝突が、のちに予想外の展開を生んでいく。
マニラに長く住む日本人や、フィリピンに以前から関心を寄せる日本人で、この神父の名前を知らぬ人はいまい。ご本人には迷惑だろうが、日本企業の恐喝を生業《なりわい》にしてきたフィリピン通の自称「元犯罪者」も、こんなふうに記している。
「私のポン友で『マニラの赤ひげ』などとも呼ばれている西本至神父は、情にあつい人です。クリーンな神父様なので、成田の免税店で十万円くらいはり込み、高級スコッチを二本手土産にするだけで相談に乗ってくれます」(『宝島30』九五年四月号「日本人はなぜ、フィリピンで『死刑』になるのか?」)
高級スコッチ云々は余計で、そんなものにはおかまいなく、西本さんは手弁当で問題を抱えた日本人たちの面倒をみてきた。古くは、来日中のフィリピン・バンドのメンバーと恋仲になり、結婚を夢見てマニラに来てみたら、彼には妻子がおり、捨てられて苦界にまで身を落とした日本人女性。はたまた、儲け話にまんまと乗せられて身ぐるみ剥がれた日本人男性たちや、拳銃・麻薬の密輸で逮捕されたヤクザの“運び屋”の面々。最近では、日本人男性とフィリピン人女性との国際結婚の相談や手続きなど、およそありとあらゆる日本人がらみ、それもフィリピンの日本大使館が敬遠するような問題を、一手に引き受けてきたのである。その中には、マスコミの話題をさらった「若王子事件」の故・若王子信行三井物産マニラ支店長のような人もいる。こうしたさまざまな活動が評価され、西本さんは「マニラ名誉市民」に選ばれたり、「フィリピン大統領賞」を受賞したりしてきた。
だが、この人の本領はまったく別のところにあるのではないかと、私はかねがね思っていた。それはひょっとしたら、第一章でも述べた、日本人を含むアジア人全体が陥っている拝金主義と、この拝金主義とは裏腹の精神的な喪失感から抜け出す契機(少なくともヒント)を私たちにもたらしてくれるのではないか、と。
ちなみに、私はいまから二十年前、フィリピンに学んだ元留学生。当時から西本神父の名前と顔は知っていたが、対面するのは今回が初めてである。
で、会ってみたら、思いがけず“枯れた”印象の人物なのだった。トレード・マークの口髭にも顎鬚にも、白いものが目立つ。九三年、還暦を迎えてまもなく脳梗塞で倒れ、リハビリの甲斐あってだいぶ回復したものの、まだわずかに言語障害と左足の麻痺が残っているという。とはいえ、酒豪ぶりは健在で、飲むと、
「こっちで失敗して傷ついた日本人の男性がどこで泣くかというと、それはやっぱりフィリピン人の女性の肩で泣くんだよな」
などと、さばけたことをおっしゃる。近所で火事を目撃した話をしたら、
「うーむ、それは焼けたんだか(保険金目当てに)焼いたんだか」
と言って、「ウェッヘッヘー」とお人好しの山賊みたいな(形容矛盾だが)高笑いを響かせるのだった。カトリック神父に抱いていた堅苦しくて高踏的なイメージが、それで吹き飛んだ。
折しも、フィリピンはクリスマス気分一色であった。国民の八五パーセントがカトリックのこの国では、クリスマスは最大にして最も大切なお祝いで、早くも九月のうちからラジオはクリスマス・ソングを流しはじめる。
東京の丸の内にあたるようなマニラのマカテイ地区では、ビルというビルの壁一面を使っての、聖母マリアが生誕まもないイエスを抱く姿や、天上の光が束になって幼いイエスに注がれる絵柄のネオン・サインが、きらびやかに街を彩っていた。ひしゃげた街並みが続くスラム街も、このときばかりは大きな星型のランタンや色とりどりの豆電球で飾りたてられ、そしてどこへ行っても、街角やビルのバルコニーに、ニッパ椰子の葉などで葺《ふ》いた即席のちっぽけな小屋を見かける。何かと思えば、イエスが生まれた馬小屋を模したもので、クリスマス・イブの夜になると、この中に赤ん坊の人形を入れて祈りを捧げるのである。
まったくもってアジアの国とは思えない。アジア各地を歩いたあとフィリピンに来ると、その異質さに改めて驚かされる。
かつて留学生だった頃は、この非アジア的なキリスト教文化が鼻についてならなかった。スペイン人が植民地化の手段として持ち込んだキリスト教を、これほどまでにありがたがるとは、いったいどういう精神構造をしているのか。フィリピンの庶民がいつまでたっても貧しいのは、死後の天国行きを約束するこの宗教に目を眩《くら》まされているせいじゃないのか。貧困の大きな原因は、スペイン植民地時代から変わることのない少数の大地主による土地の独占だが、フィリピン最大級の地主はほかならぬカトリック教会なのである。私は、アジアの大学ならどこでもいいやという定見のなさから、たまたま留学した“アジア唯一のキリスト教国”フィリピンで、ますますキリスト教が嫌いになっていたのだった。
「私も、そのことでよく西本神父に議論を吹っ掛けるんですよ」
と、西本さんとは二十年来の付き合いという人材派遣会社社長の門司《もんじ》重治さんは、身を乗り出した。
「バチカン(カトリックの総本山)は詐欺師の集団で、神父なんてその手先じゃないかって。西本神父ですか? 困った顔をしてますよ。それで、『自分にはそういう部分があるかもしらんけど、ほかの神父さんは一生懸命、神に仕えていて、そういう部分はないんだよ』と言いますね」
おそれを知らぬ門司さんは、さらに突っ込む。カトリック神父が一生独身を通すなんておかしい。性欲はないのか、女は欲しくならないのか、と。
「そう訊いても『欲しくない』と言いますからね。『(女性と付き合う)そんな暇ないんだよ』って。この人、性的に未熟なんじゃないかと思って、一緒に風呂に入ったとき見たけれど、その物はちゃんとしてるんですよ(笑)。あの神父さん、酒は好きなんです。私とも何度飲みに行ったかわからんし、(東京での宿泊先の)教会に真夜中こっそり忍び足で帰っていく姿も見ているけれど、女性のいる店に行っても、ダンスどころか歌謡曲ひとつ歌わない。これだけ一緒に飲んでいるんだから、すきがあったらとっくに見せているはずですよ。一度、亀戸のクラブに連れて行ったとき、(ホステスと)踊らんかい、踊らんかいと仕向けたら、どうしたと思います? (女性の代わりに)椅子を抱えて踊っているんですよ(笑)」
神父といっても男だから、衝動が突き上げる時期は当然ある。現に私自身、神父を辞めて結婚したフィリピン人を何人か知っている。西本さんもカナダの修道院時代には修行として週に二晩、蝋《ろう》で固めたムチで自ら裸の上半身を打ち、手足と胴体を針金で締めつけて眠ったほど、欲望との闘いは熾烈を極めたが、神への貞潔の誓いは結局それにうち克ったということなのであろう。
「ちょっと宗教がかっちゃうけど」
と前置きして、西本さんが説明する。
「奥さんや子供がいたら、我々の仕事はできないんですよ。収入がゼロでもともとだし、二人の“主”に仕えられないからね。奥さんとか子供への未練が、どうしても出てくるでしょう。物質的にも精神的にも、家庭生活とは両立できないんですよ。独身だから、僕みたいに世界に散らばることもできるし、無謀というか大胆なこともできるわけでね。結婚しない『貞潔』と、教皇や司教といった目上に対する『従順』、個人の財産を持たない『清貧』──、この三つの基本はものすごく厳しく守っているんですよ」
そういう厳格さがなければ、フィリピンにいる日本人のヤクザや犯罪者とも付き合えなかったのかもしれない。拳銃密輸の容疑者の裁判で、頼まれて通訳をしていたときなど、事務所に銃弾を撃ち込まれたことさえある。余計なことはしゃべるなという脅しだろうが、西本さんは「命が惜しくては神には仕えられないから」と受け流したとか。
「ヤクザも、日本の組織から切り離されてしまうと、弱い一人の個人なんだよな。飲みに誘われたら徹底的に付き合ったし、飲むんだったら負けなかったからね(笑)。ヤクザをやめて、こっちで豆腐屋さんになった人もいましたよ。自転車で豆腐を売って回っているとき、日本人の奥さんに『一丁、いくら?』と訊かれて、五ペソ(現在は一ペソ=約三・五円)と言うつもりで手をぱっと広げたら、小指が半分しかないから四・五ペソになっちゃった(笑)。それからフィリピンでの豆腐の相場は、一丁四・五ペソになったんだよね」
どこまでが本当なのか、こんな話をして、「ウェッヘッヘー」と何やらアメリカン・バッファローが笑ったみたいな笑顔で、その余韻をいつまでも楽しむかのようにうなずいているのである。
フィリピン・サイドの取り締まりもあって、日本人ヤクザの姿はこのところめっきり減り、フィリピンで一文無しになったりトラブルを起こして(しばしばトラブルに巻き込まれて)西本さんを頼ってくる日本人の姿も少なくなった。こうした日本人を無償で助けてきたことやその風貌から、「マニラの赤ひげ」なる異名を奉られるようになったのだが、意外なことに西本さん本人は、
「僕のことを慈善家とか社会福祉事業家だと思っている人がいるんだけど、まったくそうじゃないんだよな」
と強調するのだった。
「僕は、あくまでも宗教家なんだよ。神から離れてしまった日本人の心を少しでも神のほうに向けさせたくて、日本人のお世話をさせていただくようなこともしてきたんだよね」
それは、こういうことである。またヤクザの話になるが、マニラ在住のある暴力団組員が麻薬不法所持の容疑で逮捕されたものの、関わり合いを恐れて仲間の誰も面会に行かない。留置場を訪ねて行ったのは、西本さんと、そのヤクザのもとで働いていたフィリピン人のドライバーやメイドたちであった。しかも、「あの人は日本食しか食べられないから」と、わざわざ日本料理店でおにぎりをこしらえてもらい、タクアンを付けて差し入れをしていたのだという。
「フィリピン人をふだんバカにしていた日本人が、弱い立場に立たされてみて初めて、フィリピン人の心のやさしさを知るんだよね」
次は、西本さん自身の体験である。マニラの街頭には、近年ますますひどくなりつつある交通渋滞を縫って、白いサンパギータ(茉莉《まつり》)の花の首飾りや、タバコをバラ売りで売り歩く少年少女が多い。西本さんも、そのような少年の一人から毎朝、新聞を買っていたので、あるとき家族のことを訊いたら、父親は出稼ぎで中東へ行き、家には六人の兄弟がいて、母親は病気とのこと。そのときは、「気の毒になあ」という気持ちと、「ほんとかな」という気持ちが半々だったと、西本さんは打ち明ける(私自身にも体験があるが、こういった子供たちは、その場の雰囲気やそのときの気分で悪意のない作り話をすることがある)。
そこで、母親の見舞いを兼ね、一度その子の家を訪ねてみることにした。クルマに少年を乗せて家に向かう途中、信号待ちのところで、物乞いのストリート・チルドレンが、あちこちのクルマに手を差し出しながら、そうしてそのたびに無視されたり追い払われたりしながら、こちらに近づいてくるのが目に入った。
西本さんにしてみれば、いつもの見慣れた光景である。じきに物乞いの子がクルマの横手に差しかかる。するとそのとき、隣の座席に座っていた新聞売りの少年が窓から身を乗り出して、さりげなく物乞いの子に一ペソ硬貨を握らせたのだった。
「あのときはほんとにはっとさせられた。二ペソしか持っていないのに、そのうちの半分をあげちゃったんだからね。僕は、その子の千倍以上のおカネを持っていたけれど、あげようなんてこれっぽっちも思わなかったのにね。あの少年は、苦しさとか貧しさを本当に知っているから、よその子の苦しさや貧しさもわかるんだと思ったんですよ」
このような体験や見聞を重ねるうちに、西本さんは次のような確信を持つに至る。フィリピンから見ていると、日本の社会は病んでいるのに、日本人はなかなかそのことに気づかない。それは、物質的には富み栄えた日本の社会にいるかぎり、日本人が自らの心を見つめ、その「貧しさ」に気づくのがきわめて難しいからではないか。本当はどん底かその瀬戸際にいるのに、いつでも代償や慰撫《いぶ》に逃げられるから、自分の置かれている場所がどこなのかわからなくなっている。そんな日本人がフィリピンに来て、何らかの事情で苦境に立たされ、もうにっちもさっちもいかないどん詰まりに追い込まれたとき、生まれて初めて自分と正面から向き合う。そして、豊かだと思い込んでいた自分を含む日本人の「貧しさ」と、貧しいと思い込んでいたフィリピン人の「豊かさ」を実感として知るようになるのではないか。
「そのときが、神のほうに目を向けてもらえるチャンスなんだな。フィリピン人の心の底の底には神に対する畏敬の念があるから、それにぜひとも触れてほしいんだよ」
この場合の「神」とは、西本さんによれば、「人間が『あなた』と呼びかけることができ、あちらも人間に対して『あなた』と呼んでくれる絶対唯一の神」で、「神からの声」はこの世の始まりから現在に至るまで変わることなく降り注いでいるのだという。よくわからんが、ここらあたりが信徒と私のような不心得者との分かれ目なのかもしれない。
「いま日本人は土の上を裸足で歩かなくなっているけれど、心もコンクリートで舗装されたみたいになっているんだな。ものすごくかたくなで、ここに神からの声というか神から蒔《ま》かれた種が入っていくのは、容易なことじゃないの。でも、フィリピンのような外国に来て失敗したり落ちこぼれたりすると、そのコンクリートにひびが入るんだよ。僕としては、そこに神から蒔かれた種が入っていってほしいわけだ」
そう話したあとで西本さんは、こちらの気持ちを見透《みす》かしたかのように、
「だからって、フィリピンに来た日本人に『失敗しろ』『落ちこぼれてくれ』と言いたいわけじゃないんだよ」
と、またいつものひとなつこい酔いどれの笑顔に戻るのだった。
西本さんのオフィスを辞しての帰り道、一人のすさまじい物乞いを見た。最初、私は彼が黒い着物を着ているのかと思った。そうではなくて、彼は全裸のままで、頭からコール・タールを浴びたかのように黒く汚れているのだった。髪の毛も髭も伸び放題である。見れば、まだ三十代か四十代ではないか。筋肉に、若さの名残《なごり》がある。しゃがんだ尻のあいだからは、老いた七面鳥の喉元《のどもと》みたいな睾丸が垂れ下がっていた。
だが、道行くフィリピン人たちは、彼に一瞥をくれても顔色ひとつ変えずに通りすぎていくのである。この界隈では“常連”の物乞いなのか。私だけが、落雷に打たれたかのようになって彼を見つめていた。
その夜、不思議な夢を見た。自分が、あの物乞いとまったく同じ姿で、マニラの街頭に投げ出されている。みじめなくらいに狼狽《ろうばい》して私は軒から軒へと逃げまどうのだが、人々は歯を剥きだして笑うばかりで、誰も助けてはくれない。
そこで突然、夢は途切れる。身が縮むほど恥ずかしくて心細い感覚だけが、妙に生々しく、目覚めたあとの私に残った。
クリスマス・シーズンのこの時期、西本さんは毎朝四時に起きる。クリスマス・イブまでの九日間、連続して早朝ミサがあるからで、このミサはフィリピン全国の教会ではもちろん、あちこちの公園や、近年マニラに続々と建ちはじめた巨大ショッピング・モールでも開かれている。
早朝ミサを九日間も続けるのは、まちがいなくキリスト教世界でもフィリピン人だけである。もともとルソン島北部の農村で、年の暮れに毎日早朝おこなわれていた収穫祭と豊作祈願の集まりを、スペイン人の宣教師がミサに取り入れたものといわれる。フィリピンにキリスト教がこれだけ根づいたのは、スペイン植民者が来るまでフィリピン各地で行われていた庶民信仰や精霊崇拝を巧妙に借用したからで、その結果フィリピンのカトリックはスペインのオリジナルとは相当にかけ離れた独特な信仰に変化している。
西本さんの早朝ミサの場所は、なんとゴルフ場であった。「ワクワク・カントリー・クラブ」というアジア最古のゴルフ場に毎朝集まってくる、おもにゴルフ場会員とその家族を前に、白い司祭服姿でミサを執《と》り行うのである。
イメルダ・マルコスがそのまま年取ったかのような貫禄十分のおばあさんも、先の大戦以来このかたGIカットのまま白髪《しらが》頭になってしまったかに見えるおじいさんも、ひざまずいて十字を切り、ミサの最後には行列を作って、西本さんの手から一人一人聖なるパンを口に入れてもらっている。
あのときどんな気分なんですか?
「僕のほうが何だか引け目を感じるんだよね」
思いがけない答えだった。
「こちらのほうが、信仰の面で未熟なんじゃないかって。というのは、あの方たちは生まれたときからクリスチャンとして育てられていて、聖書についても信仰についても深く身にしみ込んでいるわけだな。頭から入ったんじゃなくて、体から入った信仰なんですよ。僕みたいに戦後十八歳か十九歳で改心した者が、あの方たちの前に出て話すのは、何だか恥ずかしい。僕のほうが逆に教えていただいているような気がするんだよね」
一九三三年(昭和八年)生まれの西本さんは、日本の敗戦後、それまでの教科書に墨を塗って使った世代である。戦前・戦中の絶対的な権威が一夜にして崩れる中、キリスト教とは縁もゆかりもなかった西本さんが信仰の道に入ったのは、ふるさと京都の山あいの町にやって来たカナダ人のカトリック神父との出会いゆえだった。
西本さんは少年の好奇心から、このカナダ人神父にくっついて歩いていたが、あるとき一緒のバスに乗っていた子供がクルマに酔って吐いてしまった。咄嗟《とつさ》にそのカナダ人神父は、嘔吐したものを両手の手のひらで受けとめ、あとで車外に捨てていたのだという。そのときだった、西本さんがあのカナダ人の神父さんのようになりたいと思ったのは。
上智大学からカナダの神学校に留学し、厳しい修行を経て司祭となった。フィリピンに来たのは七三年、ちょうど四十歳になったときのことである。「サバティカル」と呼ばれる宣教師の休暇を、フィリピンの大学での研究にあてる目的で、それが終わり次第、日本に帰るつもりでいた。が、帰国の挨拶で訪ねた大司教のハイメ・シン枢機卿《すうききよう》から、「観光司牧」としてこのままマニラに留まってもらえまいかと持ちかけられたのである。「観光司牧」とは耳慣れない言葉だが、ヨーロッパのように観光客が長期のバカンスを異国で過ごす地域では珍しくない。つまり、ヨーロッパの観光司牧同様に、日本からの観光客や在留邦人の「精神的かつ霊的な支え」となってほしいというのだった。フィリピン・カトリック教会の頂点にある大司教の依頼を、無下に断るわけにもいかず、西本さんは七五年に正式にオフィスを開く。
それから、はや四半世紀近くにもなる。仕事に追われ、父の死にも母の死にも立ち会えなかった西本さんが、帰国したおりに母親の遺品を整理していたら、母がフィリピンの我が子を思って歌ったらしいこんな短歌が見つかった。
土足もて 踏みにじられし フィリピンの
落ち穂ひろいに 命かけたる
フィリピン人との忘れがたい出会いと別れは、数限りなくある。
フィリピンに来てまもない頃、クリスマスの早朝ミサのためにマニラ近郊の田舎町にある古い教会を訪ねたときのことである。九日間つづくミサを始めて数日後、一人の老婆がミサのあと「ファーザー」(神父様)と話しかけてきた。
「神父様はお若いからご存知ないでしょうが、戦争のとき日本兵に殺されたフィリピン人の青年が五人、この教会の天井から吊るされたんですよ。見せしめのためということで、遺体を埋めてあげることさえできませんでした。その同じ場所で、日本人の神父様からミサを開いていただけるなんて感無量です……」
そう話しながら涙を流す老婆を前に、西本さんは胸を締めつけられるような思いで立ち尽くしていたという。
もう一人の忘れがたいフィリピン人は、東南アジアでも最大のスラム地区と言われるトンドに、日本のライオンズ・クラブの会長を案内したとき、応対してくれた地域リーダーの老人のことである。資金援助を申し出るライオンズ・クラブの会長に、彼はこう言ったのだった。
「そのお申し出はありがたいけれど、おカネが入ってくると、それに目が眩《くら》んで罪を犯す者が出てきてしまうかもしれません。私がいまお願いしたいのは、ここで一緒に座って、マニラ湾に夕日が沈んでいくあの美しい景色をながめてくださることなんですよ」
この言葉に深い感銘を受けた西本さんは、だがそれからしばらくして信じがたい知らせを耳にする。かの老人が、公費を着服していたとして、地域の若者たちにナタで首を切られて殺害されたというのだった。フィリピンの貧困の二重三重の根深さを、西本さんは改めて思わないわけにはいかなかった。
このような出会いと別れの中で、とりわけ長く親交を温めてきたフィリピン人が、けさもワクワク・カントリー・クラブの早朝ミサに出席していたエメリート・ラモスさんであった。自称「十九歳」だが、実は九十一歳で、後藤田正晴氏をかわいらしくしたような好々爺《こうこうや 》である。この人の名前は知らなくても、戦後最初にいわゆる「外米」を日本に輸出した人物と言えば、当時の外米の味を思い出す読者もおられることだろう。
ラモスさんは、まさに立志伝中の人物である。街頭にゴザを敷いて物売りをする子供だったラモスさんは、苦学のすえ国立フィリピン大学の教壇に立つまでになったが、おりしも太平洋戦争が起こり、フィリピンは日本軍に占領されてしまう。ラモスさんは抗日地下運動に加わったものの、仲間四人と共に日本の憲兵隊につかまり、四人は次々に処刑されていった。迫りくる恐怖の中で、ラモスさんは一計を案じた。彼に出された逮捕状の名前が、「エメリート」ではなく「エミリアーノ」と誤ってタイプされていることをとらえて、人違いであることを訴えつづけたのだった。奇跡的にもその訴えが認められ、ラモスさんは無罪放免となる。しかも、憲兵隊隊長からのじきじきの詫び状と、夜間の通行許可証まで添えられて。
この夜間通行許可証は、日本軍によって行動を厳しく規制されていた戦争中のフィリピン人の中で、ラモスさんを特権的な地位に押し上げた。ラモスさんは夜間と早朝を利用して魚の卸売りを始め、あとは民話のわらしべ長者よろしく成功を重ねて、ついには自分で銀行を経営するまでになっていったのだという。その後、マルコス大統領に疎《うと》まれ、マルコスの取り巻きにビジネスを食い荒らされた時期もあったが、いまだに富豪であることに変わりはない。
フィリピンで富豪と言えば、スペイン時代からの大地主の家系ばかりで、ラモスさんのように一代で財を成す例はごく稀《まれ》である。それもこれも、あのとき日本軍の憲兵隊隊長が自分を釈放し夜間通行許可証をくれたおかげとラモスさんは言い、日本人への恩返しを口癖のように繰り返すのである。日本人としては何とも複雑な気分になるが、ラモスさんはけさも「ドウモ、ドウモ」などと言いながら、にこやかに西本さんのミサが始まる合図の鐘を鳴らしているのだった。
いまから十年ほど前、西本さんの事務所が漏電による火災で全焼したことがある。カーラジオでそのニュースを聞き真っ先に駆けつけたのが、ラモスさんであった。西本さんの無事を確認して安心したラモスさんは、途端にいたずら小僧の笑顔になって、
「Poor Japanese!」
おおげさに声をあげ(言うまでもないが、poorには『貧しい』と『かわいそうな』の両方の意味がある)、
「日本人に一度、これを言ってみたかったんだ」
と、おかしそうに笑っていたという。それからただちに手を打って、自分が所有するビルの一階を空け、新たな西本オフィスに作りかえてしまった。ルネタ公園(かつての反マルコス集会で大群衆を集めた公園)近くのマニラの一等地で、通常なら毎月の家賃がおそらく七十万円以上はする事務所を、西本さんはいまも格安の料金で借り受けている。
クリスマス・イブの深夜のミサは、このラモスさんの邸宅で行われた。七十年近く連れ添ってきた奥さんが寝たきりの病床にあり、そのかたわらでのミサをラモスさんが懇願したのである。
それは、まさしく中世の宗教画の世界であった。スペイン風の洋館の一室に、明らかにスペイン人の血を引く顔だちの多い一族が集まり、天使がたわむれる模様のシャンデリアの下で、おごそかなミサが続く。祭壇のろうそくの煙が立ちこめる中、もはや意識も定かではないかのような奥さんの手をさすりながら、ラモスさんは、
「ファーザー・ニシモトがみえたよ」
そう何度も囁《ささや》きかけるのだった。
今年もまた、岩手県盛岡市からお年寄りを中心とした一行が、マニラにやって来る。
この人たちは、それぞれが毎年一万五千円を出して「里親」となり、一人の日本人の里親にフィリピン人の「里子」一人という組み合わせで、学資の援助を続けてきた「盛岡・マニラ育英会」の会員たちなのである。
十余年前、スラム火災の被災者たちに古着を持参して、感謝されるどころか逆に西本さんから痛罵された盛岡市民福祉バンクの馬場勝彦さんは、帰国後、盛岡とマニラとを結びつける活動に没頭した。その結果、さまざまな困難を乗り越えて実現にこぎつけたものが、大きく分けると三つある。
ひとつは、足踏み式ミシンを合計二百台も送って、マニラの大学やピナツボ火山の噴火で被災した農村にミシン教室を開き、スラムや被災地に住む女性たちの手に職をつけてもらう活動。二つ目は、盛岡からマニラに中学生たちを派遣して、若い世代の交流を深め、一方で、マニラからは学校の先生たちを盛岡に受け入れ、リサイクル運動や福祉の現場での体験学習を進める交換学習プログラム。この交換学習がユニークなのは、費用を全額盛岡サイドが持つのではなく、マニラの先生たちが自分で渡航費を払って参加してくることである。
そして、三つ目が「盛岡・マニラ育英会」という名の教育里親運動なのである。マニラで家族の暮らしを支えるため、街頭で物売りなどをしている小学生は、一年間に日本円にして一万円程度しか稼げないのに、そのせいで小学校にも通えず、途中で学業をあきらめてしまう場合が少なくない。教育を受けられなかったため、将来満足のいく仕事も見つからず、社会の最底辺に沈んだまま、やがて彼ら自身にも子供ができ、その子らも同様の境遇に置き去りにされ、かくして貧困は出口のない悪循環を繰り返す。それなら、その一万円を奨学金として送り、子供らが働かずに学校へ行けるようにしたらどうかという発想であった。事務などの経費を含めても年に一万五千円で、このくらいの額ならいまの日本の一般家庭にはさしたる負担にならない。
そのマニラでの拠点が、西本神父のオフィスなのである。西本さんはわざわざ別室まで設けて専属のスタッフを置き、「盛岡・マニラ福祉バンク」と名付け、自ら会長も務めているのだった。十余年前の衝突がどうしてこういう形に発展したのか、その経緯《いきさつ》は省くが、馬場さんの見方では、
「あのとき西本神父が本気で僕らに噛みついてきたから、よかったんだよね。あの人は、日本人サイドが物をやってそれで満足してしまうような援助を、とことん嫌っているから。寄付する側と寄付される側は、完全に対等なんだというのが、あの人の考え方だからね。マニラのオフィスにまで『盛岡』と付けてくれて、われわれは『盛岡』という名前に誇りを持っているから、いい活動をしなきゃいけないと思ったんだ」
ということになる。余談だが、馬場さんの家業は盛岡名物のわんこそば屋さんで、店のほうは奥さんに任せ、盛岡でのリサイクルと福祉の運動に奔走しているのである。
盛岡・マニラ育英会の会員で、毎年のようにフィリピン訪問ツアーに参加する一人に、七十一歳の鷹觜《たかのはし》誠二さんがいる。盛岡からやや南東に下った紫波《しわ》町で農業を営む鷹觜さんは、六十五歳のとき、たまたま立ち寄った盛岡市内の親戚の家で、教育里親運動のパンフレットを見せられ、その場で里親になる決心をする。紫波町の自宅で炬燵《こたつ》にあたりながら、鷹觜さんがぽつりぽつりと言葉を拾うようにして語るには──。
「まぁんず私も子供の頃、非常に貧乏で、とにかく学校は好きだったが、とびとびにしか行けず、合計三年間くらいしか行ってねえです。勉強は好きだったから、古本を先輩からもらったりして、独学でやっと足し算と引き算は覚えたけども、はぁ分数から先はだめです。だから、現在のマニラの子の話を聞いたれば、自分のつらかった頃を思い出して、マニラの子がとってもとっても気の毒でやんした。それに歳もとって、子供や孫がいるといっても、テレビ観てると孫に邪魔扱いされて、なんか心さみしくて、そういうことから、すぐ里親に申し込んだのす」
盛岡・マニラ育英会から紹介された里子は、マニラの聾《ろう》学校に通うテレシータさんという十四歳の、だが小柄でとてもその年齢には見えない女の子だった。里親は里子に奨学金を送り、里子は里親に年に四、五通の手紙を書く。これが、この会のルールと言えばルールである。育英会の手で訳され、鷹觜さんのもとに届いたテレシータさんの手紙には、こうあった。
「わたしを信じて学費の面からも、心の面からもサポートしてくださること、本当にありがとうございます。せいじさんのためにもわたしは学校の勉強をがんばります。神様がせいじさんに健康をお与えになることをお祈りしています。元気で長生きしてください。そして神様のご加護がありますように」
手紙の最後に、鉛筆で書いた手話の絵がひとつ。五本の指を広げて、そのうちの中指と薬指だけを折った形の絵で、鷹觜さんが手話のできる人に訊いたら、「私はあなたが大好きです」という意味だと教えてくれた。
「育英会から紹介されたときは、健常者であればよかったのになあという気持ちもあったのす。私は英語も知らないし、手話も知らないし……。でも、里親ツアーで最初にうちの子に会ったとき、話はできねえんだけど、すごく気のきく子だと思ったのす。みんなで公園を散歩しているとき、古ぼけた紙袋の中から日傘を出して、さしてくれたの。私は前に脳腫瘍を患って、抗ガン剤で毛がばさっと抜けてしまって、こういう頭なもんだから、『頭が暑いでしょう』って身振り手振りで言うわけさ。私、あんとき、ぐっときてねえ。それから公園に木の椅子があって、そこに行ったれば、私の座る場所ば、ハンケチで拭いてくれたりして、まぁんず現在のにっぽんの子がそんなことをするのは稀だと思いやんした」
この敬老精神はアジアで、ただフィリピンだけのものではない。ベトナムに長く住む初老の日本人男性も、私にこんなことを言っていた。
「日本にいるときは、年寄りに見られると損だから白髪を染めるけれど、ベトナムでは老人と思われたほうが大事にされるから、わざと白髪を染めないんですよ」
と。テレシータさんの接し方は、フィリピンではごく当然のことなのだが、初めてフィリピンに来た鷹觜さんには、ひときわ胸に染みるものがあったのであろう。
「それで里親ツアーが終わって、マニラのホテルで別れたときに、私が『体が弱いからいつまで支援が続けられるかわかんねえから』と言ったら、『いつまでも元気でおられますように、神様』と祈ってくれたわけよ。それから私の前で膝を折って、拝むようにして手のひらにこれをくれやんした」
マリン・ブルーの小さな十字架を、鷹觜さんは取り出した。プラスチック製で、マニラの教会前の露店などで売っている安価なものである。けれども、これが鷹觜さんの宝物となる。この十字架を見ては、将来は聾学校の先生になりたいというテレシータさんの顔を思い浮かべ、「うちの子」が学校を卒業するまでは「とってもとってもあの子を残して死ねない」、何とか生き抜いて奨学金を送りつづけねばと、そう自分を励ますのだという。
鷹觜さんの手帳には、一字一字ていねいに刻みつけた文字で、
「いいんですよ……ザッツオールライト」
「私はうれしい……アコアイマリガヤ」
「ありがとう……サラマッポ」
といった具合に、英語とタガログ語の訳が箇条書きしてある。一番最後のところに、次回のフィリピン訪問で通訳に尋ねるつもりなのか、まだ訳語のところが空白の文章が、同じ几帳面な文字で記されていた。
「子供の時学校に行けず……」
「マニラの里親に……」
「命のかぎり……」
西本さんがあいだを取り持って、教育里親運動を続けているグループは、盛岡にあるだけではない。東京の「サラマッポの会」と、京都の「マエセア国際教育里親の会」は、それぞれ二十年近くもの活動を続け、盛岡・マニラ育英会と合わせれば、六千人以上ものフィリピンの子供たちに学費を援助してきた。一年間だけでも、日本人の里親からフィリピン人の里子に送られる奨学金の総額は、優に七千万円を超える。これは大変な数字だが、
「みんなフィリピンの貧しい子供たちのためにやっていると、よく誤解されるんだけどねえ」
西本さんが、事務所の椅子に座って、長い耳掻きで耳をほじりながら言った。
「違うんだよな。僕の願いは、日本人の心が他者に向かうような心になってほしいということなんですよ。だから、日本人の里親とフィリピン人の里子を一対一で結んで、お互いの顔が見えるようにしているわけ。で、フィリピン人の子供の書く手紙が、とっても大事なんだよね。その文面には必ず神への感謝がにじみ出ていて、そのことに日本人が逆に感動させられるんですよ。こうして他者に出会った日本人が、もう一人の自分を突き進めていくと、その奥には神がいるんだよね。本当は『サラマッポ』(ありがとうございます)と言うのはフィリピン人じゃなくて、日本人のほうなんだよ。ようするに、日本人が一番大事にしているおカネと、フィリピン人が一番大事にしている神様を、たまには交換しようじゃないかということなんだよな(笑)」
ふと見ると、サンダルを履いた西本さんの片方の靴下に、大きな穴が開いている。耳掻きといい、靴下の穴といい、これがこの人らしいところだが、「神」が出てくると私にはまたつかみどころがなくなってしまう。
「前に日本人の心はコンクリートの道みたいだと話したけれど、僕はそれを砕いて、そこに神からの種が入っていってほしいわけだ。そういう意味で言うと、僕はコンクリートの『砕き屋』なんだよな」
とはいうものの、鷹觜さんのような日本人の里親や、盛岡市民福祉バンクの馬場さんが、西本さんから「神」を持ち出されて強要されたことは、一度たりともない。馬場さんは、こう考えている。
「僕らも、『あの人はキリスト教の神父だから』と言ったことは一度もないし、思ったこともないよね。彼が『神』と思うところを、僕はちょっとオーバーに言うと、この地球に生まれた『地球人としての使命感』と思っている。でも、そんな違いを議論するよりも、共通するところで力を合わせたほうがいいと思っているんだよね」
興味深いデータがある。香港の調査会社がアジア九カ国の国民に、「あなたは幸せですか」と尋ねたところ、「はい」と答えた割合の最高がフィリピンで、実に九四パーセントにのぼり、反対に最低は日本で六四パーセントだった。別の調査で、「おカネについて心配していますか」という問いにも、「大変心配」が日本人の七〇パーセントに対して、フィリピン人は三四パーセント──。幸せ・不幸せは主観の問題としても、この結果をどう見るべきなのか。
フィリピン人は、この世に生まれてきたことも、現に生きていることも、神様に感謝しているから、そのような結果になると言うこともできよう。逆に、何事も神様のおぼしめしと受け取るから、国民の七割が相変わらず貧困のままに置かれているのだとする見方もある。だが、いずれにしても、フィリピン人の幸福感の根底に、カトリック信仰があることは否めない。
私はこれまで、日本が江戸時代に鎖国政策をとり、キリスト教宣教師の布教を徹底的に封じ込めたことが日本の植民地化を防いだ最大の要因と高く評価してきた。が、宣教師を尖兵としたスペインに侵略され、三世紀以上ものあいだ植民地化されたフィリピン人が、侵略者のもたらした宗教でいまやアジアでも最高の幸福感にひたり、対照的に、鎖国で西洋列強の侵略に対抗した日本人が、経済成長の果てに心の空虚さとモラルの喪失に見舞われている現実は、歴史の皮肉と呼ぶべきなのか。ほかのアセアン諸国の活況からも取り残され、「アジアの病人」と冷笑されていたフィリピンが、東南アジアばかりか韓国や日本までも「病人」の仲間入りをしつつあるいま、精神面ではむしろアジアの先頭に立っているかのように見えるのも、皮肉と言えば皮肉であろう。さらに驚くべきことは、仏教離れが目立ってきているタイなどとは異なり、フィリピンでは若い世代のカトリック離れが一向に起きていない点なのである。
違う角度から見てみよう。ここ十数年、とりわけバブル経済の崩壊以降、フィリピンに“はまる”日本人が増えている。日本のパブやスナックで知り合ったフィリピーナのあとを追ってという例が大半なのだが、それにしてもごく平均的なサラリーマンが会社を辞め、全財産を遣い果たし、マニラの路上で生活するまでフィリピンにのめりこんでいくのは、いったいなぜなのか。そこには、単に女に溺れたというだけでは解釈できない、ある切実な“飢え”のようなものが感じられるのである。その飢えを、たとえいっときにせよ満たしてくれるものが、どうやらフィリピンにはあるらしい。
唐突なたとえで恐縮だが、フィリピンには「男はつらいよ」の世界が現存するのである。「フーテンの寅」はいくらでもいるし、さくらやおいちゃん・おばちゃんのような、落語で言うところの「親切の国から親切を広めにきたような人」にも、いつでもどこででも会える。失業者があふれ、犯罪も多く、家計はいつも火の車だが、それでも人々は楽天的で、少なくともわれわれ日本人よりは人生を楽しんでいるかに見える。そして、その背景にはつねに、「男はつらいよ」では笠智衆が演じていた聖職者の存在があるのだ──。
盛岡市民福祉バンクの事務局長で、宮澤賢治の研究家としても知られる牧野立雄さんが、こんなことを話していた。
「フィリピンに里親さんを連れて行ったりするたびに、僕はフィリピンで通用する宮澤賢治の言葉は何だろうって考えるんですよ。寒さの厳しい世界じゃないと通用しないんだろうか、と。それ考えてたら、賢治のことが書けなくなっちゃってね(笑)。ただ、賢治がフィリピンに生まれていたら、きっとああいう肩肘張った生き方をしなくてすんだろうし、あんな悲劇的な死に方はしなかったとは思いますね。賢治が考えていたのは、新しい人間関係をどう作っていくかということだったけれど、そのヒントが明らかにフィリピンにはある。というのは、あれだけアメリカナイズされたシステムの中で、家族形態やコミュニティーといった伝統的な組織はきちっと保っているでしょう。それも上から押しつけられたものではなく、下からできあがっているものなんですね。日本人はみんな孤独だけれど、フィリピン人は孤独じゃない。アメリカナイズされた社会をいかに幸福に生きるかというひとつの見本が、フィリピンにはあると思うんですよ。『幸せ』を測る物差しは、いろいろあっていいんだという見本でもありますよね」
そこで西本さんの果たしている役割は?
「あの人は、日本人が求めているひとつの親分像だと思います」
と、また牧野さんは意表を突いたことを言う。
「親分に見えない? でも、親分なんですよ。あの人くらい、スラムのむちゃくちゃに貧しい人たちから、とんでもない大金持ちまで、いろんな人間と付き合っている人はいないでしょう。それくらい人間的な幅の広さを持ちながら、いくつも『群れ』を作って、群れと群れとを結びつけている。人間が群れて生きていくにはどうすればいいかというのは、これからの大問題ですが、あの人は自分がリーダーだという意識を持たないで、いつのまにかいくつもの群れのリーダーになっているんですよ」
フィリピン全土に雷が落ちたかのような、すさまじい爆竹の音とともに、例年通りフィリピンの新年は幕を開けた。
大晦日の夜、午前三時まで大酒を飲んでどんちゃん騒ぎを繰り広げていたというのに、西本さんは朝十一時前、事務所にのっそりと現れた。さすがに気だるそうだが、私を見るなり軽く手をあげ、それから思い出したように、
「こないだ、あなたから訊かれたことだけどさあ。例の『人間的な執着』ということについてだけれど……」
と話しかけてきた。私は不届きにも、「肉親への執着がない。自分の母親の死も他人の母親の死も、受け止め方はそんなに変わらない」と語った西本さんの揚げ足を取って、そういう人に人間的な執着のただなかで生きている俗世の我々の気持ちが本当にわかるのかと言い募ったのである。
「人の痛みや悲しみはわかるんだよ。でも、人間的な執着、とくに身内への執着というのは僕らにはないんだよね……」
私の思いつきの質問をそれほどまで気にかけてくださったのかと、ひどく申し訳ない気持ちでいたら、突然オフィスの電話が鳴った。あしたフィリピーナとの結婚式を大至急あげたいのだがという日本人男性からの相談である。一月一日にこんな電話をしてくる輩《やから》の気が知れないが、西本さんはいつもの通り、ざっくばらんな調子で応対するのだった。
正月休みで人けのないオフィスに、西本さんの野太い声だけが響いている。
「だからさあ、急にあしたというのは無理だから、まず彼女がちっちゃい頃から通っていた地元の教会に、みんなを呼んで結婚式をしてあげるんだよ。その教会で花嫁姿になって結婚式をあげたいというのが、ちっちゃい頃からの彼女の夢なんだからさ。彼女の気持ち、あんた、わかるよなあ……」
アジア危機の中で
第四章 韓国大百貨店、本日開店〈韓国〉
一九九七年七月、タイの通貨バーツの急落に端を発した経済危機は、インドネシアから韓国へと飛び火し、九八年には日本を含むアジア全域に延焼を広げた。タイと韓国では政権が変わり、インドネシアでもスハルトの三十年以上に及ぶ長期独裁政権に終止符が打たれた。各国の通貨と株価は暴落し、企業の倒産とそれに伴う失業者の急増は、いまも続いている。つい最近までしきりに言われていた「二十一世紀はアジアの時代」との呼び声は、すっかり鳴りを潜めた感がある。
決して先見の明を誇るつもりではなく自著を引用するのだが、私は九六年半ばに上梓《じようし》した『アジア定住』(めこん刊)の中で、
「『二十一世紀はアジアの時代』とする通説には、私は悲観的ではないにしても、相当に懐疑的である」
と書いている。
「本来アジアには弱者救済の思想があり、社会システムに巧妙に組み込まれてきたのだが、それも最近の『カネが儲かりさえすれば何をしてもいい』という風潮の前に、ひどく影が薄くなっている。もし、この流れの行き着く先に“アジアの世紀”が来るのだとしたら、それはたとえ『アジアの経済の世紀』ではあっても『アジアの人間の世紀』とは呼べないだろう」
はからずも、「アジアの経済の世紀」に向けての動きは頓挫を余儀なくされたが、経済面でのみ見るなら「二十一世紀はアジアの世紀」との予測は、おそらく依然として正しい。この地域の資本の蓄積、人々の教育レベル、勤勉さなどを考え合わせれば、アジアが現在の窮状から立ち直れないとする見方のほうが、非現実的な判断であろう。問題は将来が「アジアの人間の世紀」になるか否かで、このたびの挫折が従来の行き過ぎた拝金的風潮に冷水を浴びせ、アジアの自制なき資本主義に内省と節度をもたらすならば、タイの政府関係者が述べていたように“知恵熱”の類《たぐい》と、あとになって言えるのかもしれない。
本章から、経済危機のただなかに投げ込まれた定住派日本人たちが、韓国、タイ、インドネシアの各国でどのように生きているかを見ていこう。そこには、「アジアの人間の世紀」につながる個人の生き方が、必ずや見出せるはずである。
最初は韓国──。私がソウルに発《た》ったのは九七年十月末、サッカーのワールド・カップ予選で日韓が激突する数日前のことであった。
その頃、日本の新聞各紙には、韓国の『東亜日報』を引用する形で、韓国国民の間から「韓日がともにワールド・カップに行けるように」今度の試合では勝ちを譲ってやれとの声があがり、いや絶対に勝たねばならぬと主張する“必勝派”との激論になっているという記事が掲載されていた。東京での日韓戦に勝ち、早々とワールド・カップへの出場を決めた韓国には、日本と日本人に対して今までにない「寛容さ」が見られるというのである。
「そんな雰囲気は全然ないですよ」
大久保孝さんは、ほうそんな記事が出てるんですかと、不思議そうな表情で語った。続けていわく、韓国人にとって対日本戦は特別なものなんです。何が何でも勝たなければいけないという雰囲気は、韓国に長くいないとわからんでしょう。
「それに韓国が負けたら、うちも困るんですよ」
異なことをおっしゃる。
わけを訊けば、大久保さんが韓国人の上司と共に陣頭指揮を取って完成した大百貨店「三星《サムソン》プラザ・盆唐《ブンダン》店」のオープンが、奇《く》しくもサッカーの日韓戦と同じ十一月一日に迫っているからなのだった。
「韓国が日本に勝って、お客さんに上機嫌で来てもらわないと困るんですよ。韓国が勝ったときのために、一階のロビーで五千人分のビールをお客さんに振る舞う用意もしてあるわけでねえ」
韓国最大の財閥のひとつ「三星」グループが満を持して百貨店ビジネスに乗り出した第一号店の開店が、十一月一日の午前十時半、そしてサッカーの日韓戦のキック・オフが午後三時なのである。開店のタイミングとしては最悪だが、何とか韓国人の喜ぶ試合結果になってほしい。
三星物産流通部門の社長に、外国人としては(とりわけ日本人としては)異例のヘッド・ハンティングで就任した大久保さんは、ほかの韓国在住の日本人とはまったくかけ離れたところで、サッカーの勝敗の行方にひとり気を揉んでいた。
大久保さんと最初に会ったのは、一九九二年のことである。人当たりの柔らかい、だが芯には確かな筋が通っていることをうかがわせる紳士で、そのとき大久保さんは長年勤めて店長にまでなったソウルの老舗《しにせ》百貨店を離れ、韓国初の外資一〇〇パーセントの流通コンサルティング会社を開業して間もない頃だった。
漢江に面したオフィスの壁に、自筆の「志」と「脱皮」という墨書が大きく掲げてあったことを印象深く覚えている。戦国武将の戦陣訓などを経営戦略に当てはめたがる、よくあるタイプの経営者かと内心興ざめしたが、そうではないことは言葉を交わしてみてすぐにわかった。そのさい大久保さんは、次男坊がソウルの延世大学に留学して、いま東京の西武百貨店にいるんですよと、うれしそうに話していた。
九七年一月、久方ぶりに再会したときは、その茂さんという次男と一緒だった。西武にいた茂さんを、自らが経営する「ダイアモンド・コンサルティング」という会社に呼び寄せ、親子ともどもソウルで仕事を始めたばかりであった。そのとき私は、おおげさではなく「ああ、時代は変わったのだ」と感嘆させられる光景を目《ま》の当たりにする。
大久保さん親子にしてみれば、日常のありふれた行為だったにちがいない。オフィスに向かうエレベーターの中で、大久保さん父子と韓国人社員の三人が、韓国語で談笑していたのである。通常このような場面では、韓国人社員のほうが日本人二人に合わせて、日本語で会話していたはずなのだった。
しかも、大久保さん親子は、韓国に生まれ育ったわけではない。大久保さんは四十五歳にもなってから苦学して韓国語を身につけ、茂さんのほうも二十歳を過ぎて延世大学の語学コースに学んだ、ネイティブでもバイリンガルでもない日本人なのである。そんな日本人の親子が、ごく当然のように韓国語で一人の韓国人と語らい合う姿に接し、私はこれからのアジアに生きる日本人の先駆けを見る思いがしたのだった。
この日は、大久保さんが三星から流通部門の社長への就任を初めて持ちかけられた、まさに当日でもあった。私はその晩たまたま大久保さん父子と焼肉をつついていて、大久保さんからさりげなく打ち明けられる。
「きょう、ある財閥の使者から『来ていただけないか』っていう話があってねえ」
その財閥が「三星」と聞き、私は目を丸くした。三星と言えば、規模こそ「現代」に次ぐ韓国第二の財閥だが、ステイタスやブランド性では文句なしに韓国ナンバーワンの企業群ではないか。
最近、韓国全土の大学生を対象に行われた調査でも、韓国の「三十財閥」と呼ばれる企業群のうち、「最も好感の持てる企業グループ」と「最も就職したい企業グループ」の両方で、大学生の三人に一人以上が名前をあげるほど絶大な人気を誇っている。試みに日本の企業にたとえようとしたのだが、三星に匹敵する存在が見当たらない。
その社長に、よりによって日本人がなるなどというのは、日本人と韓国人との交流史から見ても、サッカーの日韓戦をはるかに凌ぐ意味合いを持つ出来事と言ってよい。
茂さんも初耳だったらしく、えっという顔になり、
「(三星の社長職を)受けるの? そしたら、会社(コンサルティング会社)が大変だ」
実感がわかないのか、抑揚のない口調でつぶやいた。
「そりゃあ、なんとかおまえたちでやるんだよ。両方の兼務はとても無理なんだから」
酒をあまりたしなまない大久保さんも、この夜は梅酒で上機嫌だった。
「韓国で長くやってると、いろんなことがあるねえ。おもしろいもんだねえ、おもしろいもんだねえ……」
帰宅後、大久保さんは日本に国際電話を入れ、東京・国分寺の自宅にいる妻の保子さんに三星からの話を告げた。それを聞き終えると、保子さんはしみじみとした声になって、
「陽《あきら》が敷いてくれた道ですから」
心の底からの思いを言葉にした。
陽さんは大久保夫妻の三男で、その一年半前にわずか二十五歳の若さでガンにより亡くなっていた。夫妻の悲しみは、まだ癒《い》えることがない。その子の魂がきっと導いてくれたのだから、意のままにするのがいいのではないかしらと、保子さんはソウルにいる夫に勧めたのである。
それから半月後、熟慮の末に大久保さんは、社長に招聘してくれた三星物産の玄 明 官《ヒヨンミヨングアン》・副会長に会う。
「私は息子を亡くしたばかりです。神がかりみたいで恐縮ですが、その息子が『おやじ、やれよ』と言ってくれましたので、(社長職を)引き受けさせていただくことに致しました」
胸にこみあげてくるものを懸命に抑えて、そう伝えた。
三星からの誘いの話を聞いて、親友の姜宙《カンヂユフン》さんは強硬に反対した。たしかに三星の社長になることは大変な名誉だが、三星はその評価の厳しさにも定評がある。大久保さんにとっては不本意な形で、社長の座を退かねばならぬかもしれない。コンサルティング会社がせっかく軌道に乗ってきたときに、あえて火中の栗を拾わなくてもと、姜さんは危ぶんだのである。
「私は大久保さんをヒョンニム(兄さん)と思っていますから、それくらい家族の一員として心配したんです」
日本語で話しているのだけれど、いかにも韓国人的な表現で姜さんは言う。実の兄のように思うとは、日本人が考えるよりもはるかに濃密な人間関係を表すものだ。
姜さんが二十数年前に東京で大久保さんと出会ったとき、大久保さんは上野の「アブアブ赤札堂」やレストラン「東天紅」を経営する小泉グループの部長をしていた。三十三歳でアブアブ赤札堂の店長に推された大久保さんは、衣料品などの商品開発で韓国とのあいだを行き来するようになり、韓国企業の東京駐在員だった姜さんと知り合う。慣れない日本での暮らしに消耗していた姜さんを、大久保さんは食事に連れ出し、励ましたりした。
「私が日本で一番苦しいときに助けてくれた。だから、私の心に“負債”がありますね」
この場合の“負債”は、日本語では「恩」に当たろうか。
「心の負債を大久保さんにいつかお返ししたいんです。兄さんが苦労していたら、どんなことをしてでも助けたいと思うのが弟でしょう」
姜さんと日本で付き合っていた頃の大久保さんは、四十五歳になったらサラリーマン生活をいったん「棚卸《たなおろ》し」して、別の生き方をしてみたいと、いつからか、誰に言われたわけでもなく夢見るようになっていた。その四十五歳が近づいていたある日、取り引きのあったソウルの「新世界百貨店」という日本植民地時代に三越百貨店京城支店だったデパートから、誘いの声が掛かる。
韓国では七九年末にロッテ百貨店がオープンし、それまで韓国にはなかったサービスや品ぞろえで、新世界百貨店から業界ナンバーワンの座を奪っていた。ロッテ開店を事実上演出したのが、日本からスカウトされた流通マンたちだったこともあり、新世界側も日本人の力を借りて巻き返しを図ろうとしたのである。
八四年初め、真冬のソウル金浦空港に降り立った大久保さんは、空港からそのまま迎えの高級車で三千人もの社員が待ち受ける総会会場の体育館に連れて行かれ、ハングル文字の白たすきを掛けられて、壇上に立たされる。
「ものすごい拍手の嵐で、いやもう度肝を抜かれましたよ。こんなに歓迎してくれているのかと、非常に感激しましたね」
現在までの長きに及ぶ韓国生活の、それが始まりだった。ソウルに着任してまもなく、大久保さんは四十五歳になった。姜さんが回想する。
「大久保さん、あのときは韓国語、全然できなかったんですよ。それで毎日、会議、会議でしょう。私がもしフランスの会社に呼ばれて、一年間フランス語が全然わからないのに毎日会議だったら、うわぁーもう大変ですよ」
会議には社長も出席するから、“長幼の序”のお国柄、足を組むことも煙草を吸うこともできない。寝床に入っても、夢の中まで韓国語が追いかけてきた。韓国語のテキストを開いたまま眠りこけてしまう自分が、ただただ不甲斐なかった。
当時の唯一の息抜きは、“チョンガー”暮らしのアパートで煙草をくゆらせながら、日本から持参したカセット・テープを聴くことだった。大久保さんのお気に入りは、何と言っても石原裕次郎である。韓国で聴く裕次郎の歌声は、昭和三十年代に青春時代を過ごした大久保さんの胸にひときわ沁みた。
四十五歳から新たに外国語との悪戦苦闘を開始して二年後、大久保さんは日本人としては「異例中の異例」と言われた人事で、新世界百貨店の本店長に抜擢される。
「東京・日本橋の三越本店の店長に外国人がなるようなもんですから。それ考えたら、なんて韓国の企業は国際感覚があるんだろうと思いましたよ。ところが、韓国のマスコミはそうは受け取ってはくれない。こっちの新聞に大きく出たから、会社には抗議電話の連続です。『日本人が新世界の店長になるとはどういうことか』とか『日本の支配をまた許すのか』とか」
だけど、と大久保さんは言葉を接《つ》いだ。
「新世界の上の人たちは、一貫して私を支持してくれました。それにマスコミには叩かれましたけど、個人的に白い目で見られたり、いやな思いをしたことはいっぺんもないですね。いや、一度だけあったな。日本人同士で飲んでいるときに、離れたところにいた韓国人が立ち上がって『日本語を使うな!』とビール瓶を割ったことがありましたね。それくらいですよ」
それから、大久保さんはびっくりするようなことを言い放った。
「日本にいる韓国人よりも、韓国にいる日本人のほうがずっと親切にされてるんじゃないですか」
韓国人への配慮からきれいごとを言っているのだろうかと、当初は訝し《いぶか》んだ。しかし、韓国で数年から十年以上暮らしている日本人たちが異口同音に言うのは、
「韓国は居心地がいいんですよ。こんなに居心地よくていいのかなと思うくらいいいんです」
大方の日本人にとっては、にわかに信じがたい感想ばかりなのである。私が取材した、韓国生活の長い日本人十数人の韓国人観に共通するのは、次のことである。
韓国人の対日意識は、一個人の中で大きく二つに分裂しているらしい。「日本」という国家や「日本人」という国民に対しては、ほとんど条件反射的に「日帝三十六年」「慰安婦」「狡猾」「残忍」といったネガティブな単語が脳裏に浮かぶ。ところが、個々の日本人にはきわめて好意的で、しばしば同胞である韓国人よりも日本人のほうに信頼を寄せる。商取引の最中、
「日本人だから安心です」
といったことを韓国人から直接言われ、唖然《あぜん》とした日本人は少なくない。
大久保さんの子息の茂さんは、父親からソウルに呼ばれた当初、賃貸マンションを探すため飛び込みで七軒の不動産屋を回ったが、日本人と知って否定的な反応が返ってきたことは皆無で、知り合いの韓国人からも、
「大家はむしろ日本人に貸したがっているんだよ。部屋をきれいに使うし、金払いもいいからね」
と教えられたほどだった。日本の大家や不動産業者の、部屋探しにやって来た韓国人などの外国人に対する接し方とは、まさしく正反対なのである。それゆえ、
「韓国人の“反日”と日本人の“嫌韓”と、本質的にどちらが厳しいかと言えば、日本人の“嫌韓”のほうが厳しいんじゃないですか」
とさえ言う定住派の日本人もいる。
たいていの在韓日本人は、この個別の日本人への親切な対応と、集団としての「日本」および「日本人」に対する韓国人の固定観念との落差にとまどう。その上、前者と後者はきれいに二分できるものでもなく、個別の日本人として付き合ってくれているものだとばかり思っていたら、利害関係が絡んだ途端に集団としての日本人イメージを突きつけられ、それまでの親密な関係があっという間に瓦解してしまったりする。日本人が韓国でビジネスを始めて、なかなか大久保さんのように運ばないのは、そんな具合に極端から極端に揺れる韓国人の対日意識に振り回されてしまうことにも、大きな原因がある。
日本文化への対応も、日本人の目にはまったく奇異に映る。金大中大統領の来日で日本文化解禁の道が開けたとはいえ、公には“倭色《わしよく》文化”(つまり野蛮人の文化)の流入は好ましくないものとしていまだに自主規制されたままである。にもかかわらず、日本文化は実際には野放し状態で、「カラオケ」「テレクラ」「炉端焼き」は言うに及ばず、ティーンエージャーは「ルーズソックス」をはき、「X JAPAN」のファン・クラブができ、『新世紀エヴァンゲリオン』がブームを呼んでいる。『失楽園』や『脳内革命』ばかりでなく、塩野七生の『ローマ人の物語』のようなハードカバーもベストセラーになっている。
テレビ番組や人気商品の多くは、メイド・イン・ジャパンの露骨な“パクリ”である。私が取材の合間にコーヒーを飲みに入ったマクドナルドでは、後ろの席で幼稚園児らしい子供の誕生パーティーが始まり、何人もの母親と子供たちが手拍子に合わせて、人気アニメ「セーラームーン」の主題歌を韓国語で合唱していた。
韓国屈指の人気漫画家から、こんな話を聞いたことがある。
「僕は子供の頃、『鉄腕アトム』や『鉄人28号』を韓国の漫画だとばかり思って、夢中になって読んでいたんです。それで、将来は漫画家になろうと決心したんですよ。あとになって、あれは全部日本の漫画だったと知ったときは、ものすごくショックでした。いまの子供たちもきっと、韓国の漫画だと思い込んで日本の漫画を読んでいるんでしょうね。『ちびまる子ちゃん』も『クレヨンしんちゃん』も、会話のところは全部ハングルですから」
ちなみに、相撲漫画の『のたり松太郎』は、まわしをトランクスに描《か》き換えて、韓国相撲のシルムの物語になっている。
こうした「倭色まみれ」と言ってよい現状を、在韓日本人の新世代に属する大久保茂さんは、
「日本のコピー商品があふれているのに、日本のものだと知らせないことのほうが、韓国にとってよっぽど危機的なこと」
と、従来とは違う角度から批判する。
「日本のものを韓国のオリジナルと思い込んでいるうちに、韓国人の感性が知らぬ間にどんどん日本人化されているんですよ。逆に言えば、なしくずし的に韓国本来の文化が脇に追いやられているわけです。韓国独自の文化を育てようという動きの邪魔にもなっているんじゃないですか。これは韓国のものだけれど、これは日本から来たものだとはっきりさせたほうが、韓国人にはプラスだと思うんですよ」
だがしかし、韓国マスコミの日本報道は、十年一日のごとく「軍事大国化、ひいては韓国の再植民地化を虎視眈々《こしたんたん》ともくろむ警戒すべき経済大国」との枠にとらわれたまま、そこから一歩も出ようとはしない。日本の『朝まで生テレビ』をコピーしたような番組で、日本文化解禁の是非がテーマになったときも、ある韓国人の若者が「日本の文化もすばらしい」と発言したら、司会者が先頭になって「日帝三十六年」を持ち出し、その若者を袋叩きにする場面があった。
韓国のマスコミが「反日」を唱えつづけなければ、ほとんどの韓国人が「親日派」(韓国では“売国奴”と同義語だが)になってしまうからだという在韓日本人側の見方がある。いや、もともと“野蛮人”の日本人に文化をもたらしたのは韓国人なのだから、そんな野蛮な国から来た文化は楽しむだけ楽しんで使い捨てにしてやればいいと思っているのではないかと言う日本人研究者もいれば、「日本大嫌い」と「日本大好き」とがインドネシアの影絵のようにくるりくるりと交互に現れるのだと指摘する日本人フリー・ジャーナリストもいる。結局、落ち着くところは、
「最大の反日国にして、最大の親日国」(『産経新聞』ソウル支局長・黒田勝弘さんの話)
という二律背反《アンビバレンツ》の極致なのか。
大久保さんは親友の姜宙さんから、「韓国人の本音」と韓国通のあいだでは言われている、次のような告白を実際に聞かされたことがある。
「大久保さん、悲しいかな韓国人は戦争で一回日本人に勝たなければ、本当には心が晴れないし、自信も取り戻せないんですよ」
それくらい韓国人の心の傷は深いんです、そう言って大久保さんは押し黙った。
「戦争」いやサッカー日韓戦の話題で、韓国のマスコミは持ちきりだった。テレビ局三局が生中継し、その視聴率たるや九〇パーセントを超えるものと確実視されていた。
その日、十一月一日の午前十時半、大久保さんが店長らといっせいに金色のロープを引っ張ると、「三星プラザ・盆唐店」のゲートがするすると開き、ドライアイスの煙と同時に花火が勢いよくあがった。
どよめきと歓声はたちまち、入口に殺到する買い物客の人いきれに掻《か》き消される。地下一階の食品売り場へと向かうエスカレーターは、早くも行列待ちで立錐の余地もない。大久保さんのあとを追って地階に下りると、そこには日本で言うなら年の瀬の上野アメ横のような熱気があふれかえっていた。
大久保さんの狙いは的中したらしい。この食品売り場の改造のために、彼は社長の文字通り“クビを賭けた”のだったから。
実は、三星物産流通部門の社長に大久保さんが正式に就任した三月初めの時点で、店の器はほぼ完成し、電気の配線や水道の配管もあらかた済んでいたのである。だが、その設計図を一瞥するやいなや、大久保さんは、
「ダメだ、(競合店に)勝てない」
と呻《うめ》いた。これでは既成の百貨店と大差ないではないか。このまま店を開いたら、「新流通」を旗印に鳴り物入りで百貨店ビジネスに乗り出した三星の名がすたる。開店はしかし、半年後に迫っている。どうしたって間に合いっこない。
大久保さんは、思い切った方針転換を打ち出す。オープンを二カ月先に延ばし、地下一階の食品売り場を中心に、できるかぎりの大改造を指示したのである。試算したところ、二カ月の延期と工事のやり直しは、日本円にして二十億円以上の損失をもたらす。それでも、ここで変えなければ自分が社長を任された意味がないと、ためらう気持ちを振り切って決断した。
大久保さんが、いざというときはこうすればいいのだからと腹を切るまねをすると、韓国人の店長は、
「大久保さんがそうなったら、僕はこれですよ」
自分の首に片手を当てたので、大笑いになったという。
大久保さんは多くを語らないが、周囲の友人たちは「相当な抵抗が社内から出たはずだし、足を引っ張る動きもあったろう」と推測する。韓国社会は、日本以上の“肩書社会”と言われる。いくら三星副会長の強力な後押しがあったからとはいえ、突然わきから外部の人間が来て新社長の椅子に座ったあげく、既定の路線を大幅に変更したら、そのことをおもしろく思わない向きがあったとしても当然なのである。ましてや、その新社長が「日本人」ときては……。
「いや、日本人だから、ということは一切なかったです」
大久保さんは、強い調子で否定した。
「三星は国際企業ですから、日本人の顧問だけで百人くらいはいるはずだし、アメリカの三星にはアメリカ人の社長もいます。対日感情はまったく関係ありませんよ。日本人とかアメリカ人とかに関わりなく、外国人がぶつかる壁は組織をどこまで動かせるかということで、これは一朝一夕にできるものではないんです」
ただ最近「日本人として」ということを、ときどき考えるようになったとも打ち明けた。
「日本人として何としても実績を作りたいという気持ちが出てきましたよね。(韓国経済が)こういう厳しい状況にあるだけに、余計にね」
大久保さんの三星入りに猛反対した姜さんは、社長就任後しばらくして会った大久保さんの姿に、言葉を失った。
頬はこけ、髪の毛は寝癖がついたままで、めっきり老け込んだように見えたからである。大久保さんは連日の会議で、睡眠四、五時間の日が続き、おまけに毎週のように韓国と日本とのあいだを往復していた。それも三星専用の小型ジェット機で、この中でも副会長や幹部たちとの会議が開かれるのである。
過労で朦朧とした大久保さんを見て、姜さんの口から思わず激越な韓国語が飛び出した。
「おまえ、死ぬ気かよ!」
これは目上の人には絶対に言ってはいけない言葉なんですけど、私は言ってしまったんですね、兄さんがそんな姿になって本当に心が痛かったから、言ってしまったんですね、と姜さんは続けた。この話を大久保さんに確かめると、
「あれは、ほんとに気持ちのいい男でね。息子が死んだとき、私の手を握って泣いてくれたんですよ……」
のどに声を詰まらせながら、ぽつりと言った。三星社長室の広々としたデスクの上には、新調のスーツ姿でこちらを見ている、いまは亡き陽さんの写真が立てかけられている。
「息子が死んで、人生観が変わりましたね。いろんなことが怖くなくなりました。貧乏になることも怖くないし、会社の仕事がちょっとうまくいかなくても怖くないですし。……強くなりましたね。家内もずいぶん強くなりました……」
開店前日、三星プラザ近くの焼肉店で、大久保さんと一緒に遅い昼食をとっていると、顔なじみになっているらしい店員の太ったおねえさんが、焼きニンニクをどっさり盛った大皿を運んできた。大久保さんが風邪を引いているのを見て、
「社長さん、これいっぱい食べたらすぐ治るよ」
と、わざわざサービスしてくれたのである。
「あとでテンジャンチゲ(激辛の味噌煮込み鍋)を持ってくるから、食べなさい。風邪にいいから」
とまあ、なかば押しつけ気味なのだけれど、大久保さんは私に向き直って、
「これが、韓国人のいいところですよ。こっちも変に気を遣わなくていいから楽ですよ」
鼻をぐずぐずさせながら、笑っている。
「それにしても、この風邪はしつこいねえ。薬を飲みすぎて、舌が白くなっちゃった。日本じゃ、デパートのオープン前に管理職が誰か必ずぶっ倒れるっていうんだけど、うちもみんなくたくたですよ。いまのところ幸い、誰も倒れていないけどねえ」
食事のあと、まだ塗料のシンナーの臭いが漂う三星プラザに戻り、その九階にある大久保さんの社長室で話をしていると、不意に長身の肩幅広い男性が入ってきて、
「いまナマコ煮てますから」
開口一番、日本語で言った。「ナマコ」というのどかな単語が何だか場違いで、私は笑いだしそうになったのだが、この大柄な眼鏡の男性は、大久保さんが自分のコンサルティング会社から引っ張って、三星が常務のポストを用意した青山正人さんというベテラン流通マンで、大久保さんと青山さんの二人が日本人サイドの中心になり、店内の大改造を推し進めてきたのだった。
青山さんは、地下一階の“グルメ・コーナー”で販売する惣菜の調理具合をひととおり報告したあと、
「豆腐の許可がまだ下りなくてねえ」
大きな溜め息をつく。韓国で初めて、食品売り場内に豆腐の工場を作り即売するつもりでいるのに、中小企業育成上という理由から、
「役所の認可が遅れに遅れていまして。あした開店だっていうのに」
と、しきりにぼやいている。
この豆腐工場以外にも、“韓国初”はいくつもある。たとえば、地下に大掛かりな浄水装置を入れたこと。そのおかげで食品加工に水を使う段階から、清潔さを徹底することができるようになった。また、ほかのデパートや街の市場がソウルの魚市場から仕入れている海産物を、釜山《プサン》や木浦《モツポ》といった漁港からの産地直送に切り換えたのも、韓国では前例がない。最近の韓国人の“健康食ブーム”に合わせて、精肉コーナーよりも鮮魚コーナーに重点を置こうという発想からである。その肉にしても契約牧場からのもので、漢方薬好きの韓国人にアピールしようと、「漢方薬配合の飼料で育てた牛」をキャッチ・フレーズにしている。
大久保さんと青山さんがもう一箇所、力を入れたのは、四階の家具売り場だった。
「実地に韓国人のアパート生活の調査をしたことがあるんですよ」
と、青山さんが説く。
「政府の住宅政策が普及するようになって、まだ十五年くらいなんですよね。そういうアパートの中を見せてもらうと、結婚式のお祝いでおじいさんや親戚からもらった豪華なタンスがどーんとひとつだけ置いてある。ロココ調に猫脚の家具だけとか、とんでもない派手な色のソファーひとつだけとか。韓国人の若い夫婦の感性とはまるっきりズレているんですけど、結婚式のお祝いだから捨てるに捨てられないわけ(笑)。家具のコーディネーションという考え方が、まだほとんどないんですね。それを見て、この(家具の)マーケットは可能性があると確信を持ったんです」
部下の韓国人社員たちを日本に伴い、東京・渋谷の「東急ハンズ」を念入りに見せ、
「これはウリナラ(我が国)でも絶対にウケます」
との反応に意を強くした。そこで四階の家具売り場を広げ、韓国の2DKや3DKに適した小家具や“すきま家具”を多種多彩にとりそろえた。とはいえ、家具の大半は日本製ではなく韓国国産かヨーロッパ製で、これは価格上の問題からだけでなく、韓国人の好むデザインや色彩がむしろヨーロッパ的であることから判断したものだ。日本人と韓国人は、外見やライフ・スタイルで似通ってはいても、美意識はかくも異なる。
むろんブランドは、日本のケンゾーからイギリスのマークス&スペンサー、スポーツ専門店のオッシュマンズまで、日本のどの百貨店にも負けないくらい充実させている。韓国人女性のゴルフ・ブームに目を付け、ゴルフ用品専門のコーナーも設けた(ゴルフ・ブームはアメリカでの朴セリ選手の活躍で、さらに加速している)。
ソウルの中心から一時間足らずのここ城南市盆唐区には、ちょうど東京の多摩ニュータウンを連想させる高層団地群が広がる。ここに住む四十万人の、韓国人ホワイトカラーとその家族が、三星プラザ・盆唐店の中心購買層なのである。
「盆唐店は果たして大丈夫なんだろうかという声が、役員会でも出ております」
と、大久保さんの直属の上司にあたる玄明官・副会長は、全従業員を集めた集会で危機意識をあらわにした。
「韓国経済は非常に厳しい状況にあり、百貨店業界でも大幅な利益アップはなかなか望めなくなっております。この盆唐店でも、びっくりするくらいの売り上げは見込めないかもしれません。しかし、三星がこれから流通産業に乗り出していく以上、未来につながる“財産”をたくさん残していただきたい……」
開店直前、大久保さんは落ち着かないらしく、しきりに「マイルド・セブン・ライト」をふかしている。食品売り場にせよ家具売り場にせよ、韓国人がいままで見たこともない商品やその売り方が、現実に消費者の心をとらえるのかどうか、大久保さんにもまだ読み切れていないところがあるようだった。
開店三十分後の午前十一時、地階の食品売り場は大混雑を極めていた。特売券を販売するカウンターの前に長蛇の列ができ、ある所では二重三重になっている。この特売券を購入すれば、韓国人の好きな太刀魚《たちうお》が定価のなんと七割引きで買えるのだから行列はもっともなのだが、これでは買い物客全体の流れを妨げてしまう。満員電車の中をかきわけて進むように大久保さんが行列に近づき、突っ立っている韓国人社員に韓国語で注意した。
「カウンター、女の子一人でやってるじゃないか。四、五人はりつけてどんどん進めないと、身動きがとれなくなるぞ」
人波の向こうに長身の青山さんが見えたので、大久保さんが手招きする。
「なんとかなんないの? ほかに方法ないのか?」
眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、早口で問うと、
「ほかに方法ありませんっ。いま何とかしますから、待っててください」
青山さんも相当いらだっている。
「だって、レジ、女の子一人でやってる」
そう言いかけた大久保さんの言葉を、青山さんは遮《さえぎ》って、
「三人でやってます! そんなに文句、言わないでください!」
むっとした表情で、再び行列の整理に戻っていった。取り残された形の大久保さんは苦笑して、
「こんなことはしょっちゅうですよ。言いたいこと言い合って、あとはさばさばしてますから」
大久保さんたちのコミュニケーションも、知らず知らず韓国的になっているのではないかと、私はふと思う。
むんむんする熱気、飛び交う韓国語、「オンマー!」と母親を探す子供の絶叫。そしてここでも、韓国のオバちゃんパワーはすさまじい。メモをとっていた私は押され弾《はじ》かれ、ボールペンの文字が何度もあらぬ方向に飛び散る。カートを先頭に押し立て突っ込んできたり、乳母車を楯《たて》に突進してくるオモニもいて、これじゃサッカーでも日本人は当たり負けするはずだわいと、私は揉みくちゃにされながら納得する。
それに、スーツ姿の私を三星社員と勘違いして、質問や苦情をぶつけてくるオバちゃんの何と多いこと。日本人的な遠慮や逡 巡《しゆんじゆん》は、つゆほども見られない。
「アジョシ(見知らぬ既婚男性に対する呼称、意訳すれば「ねえ、ちょっと」)」
と、馴れ馴れしくもひとなつこく、まっすぐに呼びかけてくる。問い合わせがあまりにも多いので、私は、
「小生、イルボン(日本)のキジャ(記者)で、三星の社員ではありません」
と大書したボードを首から下げたいくらいだが、もしそんなことをしたら、
「なんでイルボンのキジャがこんなところにいるの!?」
さらなる質問攻めに遭うかもしれぬ。
鮮魚コーナーも大変な人気である。実演販売のにぎり寿司パックが、飛ぶように売れていく。そろそろキムチを漬けこむ季節なので、白菜や唐辛子の前にも黒山の人だかりができている。
「ミス・コチュジャン」のたすきをかけたチマ・チョゴリ姿の美女が、親指ほどもある大きな赤唐辛子を三キロ袋詰めで売っている。直訳すると「ミス唐辛子味噌」である。果たして「ミス」に選ばれた幸運を、妙齢の彼女は噛みしめているのだろうか。
日本語のできる社員が、真顔で私に話しかけてきた。
「早くサッカー、始まったほうがいいですよ。レジが混みすぎてますから、買わずに帰るお客さんがいるんじゃないですか」
大特売のみかんや白菜を大量に買い込んだ一家のあとにくっついて、駐車場に行ってみたら、トランクルームに白菜を満載したセダンが、閉じない扉を荷造り用のビニールひもでぐるぐる巻きにしたまま、ちょうど発進するところだった。クルマは、まるで半開きの大口に白菜を詰め込んだ恰好で、あっけらかんと走り去った。
いよいよ日韓戦キック・オフの午後三時、大久保さんは九階の社長室でソファーに身をもたせかけ、一息ついていた。何よりも心配していた買い物客の事故は、いまのところ起きていない。韓国でも人気の高いマイルド・セブン・ライトを深々と吸い込みながら、大久保さんが言うには、
「さっき売り場を回ったけど、(客足が)明らかに引いてますよ。この時間帯にしたら、異常ですねえ。普通はこれから混むんだから、やっぱりサッカーの影響、大きいかな。サッカーのあいだの売り上げは三割減とみているんだけどねえ」
サッカーにまるで興味のない大久保さんは、社長室のテレビをつけようともしない。店内を一巡してきた私が、一階ロビーに特別に設置された大スクリーンの前には、すでに千人近くが詰めかけ、太極旗も持ち込まれていると告げると、いやはやと首を振って、
「国をあげてこれですからねえ。(韓国が)負けたら大変ですよ」
そのとき、地鳴りのような歓声が響いてきた。一瞬、呆気に取られた。ここはビルの九階ではないか。
「すごいでしょう。一階からですよ」
大久保さんは呆れたように笑って、
「男はサッカー見ててもいいけど、女は買い物に来てくれんかなあ」
と、ひとりごとを言った。
ハーフタイム終了を見計らってロビーに下りると、そこはサッカー・スタジアムの一角をそのまま切り取ってきたかのような空間に一変していた。大画面の前に陣取った若者たちは、声をそろえてサポーター・ソングを歌い、節目節目でいっせいに拳を突き出し、雄叫《おたけ》びをあげる。民族舞踊に欠かせない鉦《かね》の音に合わせて、太極旗が右に左にうち振られる。
スクリーンの得点表示を見たら、ありゃりゃ、日本が2─0で勝ってるぞ。すると、さっき九階で聞いた歓声は何だったのかと思っていたら、画面上で韓国人選手が強烈なシュート(!)。瞬間、「ウォー!!」とも「ウワー!!」ともつかぬ吼《ほ》えるような大歓声があがり、吹き抜けの天井にまで響きわたった。が、シュートは逸《そ》れ、今度は千数百人分の溜め息が、太い束になって私の鼓膜を震わせる。これで逆転でもしたら、いったいどうなることやら。
テレビカメラが青一色の日本人サポーター席を映し出すと、ロビーからまたいっせいにブーイングが沸き起こる。画面を見れば、日の丸以外に、旭日旗を振り回している日本人の若者がいるではないか。かつての日本軍の軍旗を、よりによって韓国で振り回すその神経には、ただただ呆れ返るしかない。
呆れ返ると言えば、ここに座り込んで食い入るようにスクリーンを見つめている韓国の青少年たちも相当なもので、韓国人選手が悪質な反則で日本人選手を吹っ飛ばすと、「やったあ!」とばかりに鉦をカンカン鳴らして大喜び、倒れ込んだ日本人選手がなかなか起き上がれずにいると、「早く立て!」と全員で親指を下に向けてブーイング。まったく日韓の若い連中が、こんな有り様でどうするのか。
ほとほと情けない思いで、再び地階の食品売り場に下りたら、がらがらと思いきや、けっこう買い物客が入っていた。子供の手を引く父親やカートを押す青年もちらほらいて、サッカーに関心のない若い韓国人男性の姿に、私はなにがなし、ほっとさせられる。
試合は、そのまま日本の勝利に終わった。韓国の勝ち目がなくなるにつれ、人々は帰りはじめ、ロスタイムに入る頃には、韓国の得点用に持参した紙吹雪が、やけ気味にあちこちでぱっぱっと舞い上がる。終了のホイッスルと同時に、あたりは紙吹雪の乱舞となった。みな憮然とした表情だが、それでもおとなしく三々五々ひきあげていく。もし韓国が負けたりしたら、大荒れになるのだろうなと思い、それに日本人が一人まぎれこんでいることがばれたらどうしようかなどと気を揉んでいた私には、いささか拍子抜けの幕切れではあった。
そのとき突然、大久保さんの言葉を思い出した。そうだ、祝勝会用に準備してある五千人分のビールはどうなるのだろう。いや、それよりも、韓国の敗北で買い物客の足は遠のくのだろうか。
子息の大久保茂さんにとっては、実に六年ぶりの韓国であった。
この二年前、西武百貨店から父親の経営するコンサルティング会社に転職し、ソウルにやって来るとすぐ、茂さんは韓国で発行されている女性週刊誌を全部買い求めた。社会の変化を知るには、女性誌を見るのが一番手っとり早いというのが、西武で通信販売に長く携《たずさ》わった彼の経験則なのである。
案の定、びっくりするような変化が起きていた。たとえば、女子高生が「月に二百万ウォン(そのときのレートで約二十八万円)もらえるんだったら、水商売で働いてもいい」と平気で発言していること。水商売への偏見が厳しい韓国社会で、ましてや女子高生がこんなことを言うなんて、以前には考えられなかった。日本同様、“拝金主義”は明らかにエスカレートしている。
「街で喧嘩を見かけることが、ずっと少なくなりましたね。以前は一人対十人の喧嘩なんていうのがあったんですよ。日本では一対十というのは考えられないでしょう。それで一人のほうが、ぼこぼこにされていて、もう死ぬんじゃないかというくらいやられているんだけど、絶対に謝らない。喧嘩で謝ってる韓国人って見たことないですね。ああ、韓国人にとって『謝る』っていうのは、それくらい大変なことなんだなと思いました。いまは一対十の喧嘩なんて、まず見ないですもんね」
それに、以前は街なかでも女性を殴る男性を見かけたものだが、茂さんがいないあいだに韓国の男はずいぶん軟弱になったように見える。若い女性がつんつんしながら歩いていくうしろから、青年がへつらい笑いを浮かべて追いすがる姿も、いまや珍しくなくなった。
「まえは日本の男はモテたんですよ、やさしいし殴らないからって。いまは韓国人の男もやさしくなったから、もう日本の男はモテないです(笑)。それと、以前は地下鉄の中で日本人の友達と日本語でしゃべっていると、『日本のバカが……』とかボソボソ言う声がして、日本語を使うことに緊張感がありましたけど、いまはそういう緊張感はないですもんね。とくに若い世代のあいだでは、日本人も単なる外国人の一人になりつつあるのかもしれません。昔ほど日本が気になって気になって仕方がないという存在じゃなくなっているのは、いいことだと思うんですよ。一抹の寂しさもありますけど(笑)」
地下鉄と言えば、車内に貼ってあるステッカーに二種類おもしろいものを見つけた。一枚は、ガスマスクの絵のわきに、「毒ガスに遭遇したら、口と鼻を閉じて毒ガスの風上に逃げよう」と注意書きがしてあるもので、日本での「地下鉄サリン事件」のあと登場したという。
もう一枚は、白い猫が白い鼠たちに乳房を含ませているのだが、その中に一匹だけ黒い鼠が混じっている図柄である。なんのことかおわかりだろうか。「北韓(北朝鮮のことを、韓国ではこう呼ぶ)のスパイに要注意」と呼びかけるポスターなのだ。しかし、ソウル在住の私の友人などは、ここに韓国の自信の表れを見てとる。白い猫は韓国で、黒い鼠は北朝鮮なのである。猫と鼠の力関係の上に、猫は鼠に母乳という生きるための食糧まで与えている。猫が本気を出せば、鼠はひとたまりもあるまい。黒鼠の生殺与奪の権は白猫に握られていることを暗示しているというのだった。
こうしたステッカーが至る所に貼られている地下鉄を、大久保茂さんはふだんの移動に使い、父の孝さんは社用の高級車で通勤する。
茂さんは父親をいつも「社長」と呼び、私用で日本に帰っているとき、母親の保子さんと同席して私に会った際にも、「親父」「おとうさん」とは決して言わなかった。
「だってそうしないと、公私がごちゃごちゃになってしまうでしょう」
と、三十一歳の茂さんは言うのだけれど、どこかに父親と一線を画したい思いもあるらしい。韓国に留学したのも今回転職で戻ってきたのも、「社長」に声を掛けられたからだが、西武時代からいつか韓国で物を売ってみたいとの気持ちは強くあったという。
二世経営者の多い韓国では、当然のことのように父親のコンサルティング会社を受け継ぐものと思い込まれている。が、彼にそのつもりはまったくない。
「社長もそんな気は全然ないんじゃないですか。でも、『いずれ俺はビルかなんかを建てて引退するから、そのあとはおまえが使って会社をやれ』みたいなことを言ったりもする。じゃあ、俺はいったい何なのと言いたくなっちゃうんですよ。社長は僕がまだ親離れしていないと思ってるんです、とっくに親離れしてるのに。社長のほうが子離れしてないんですよ」
そう苦笑しつつも、茂さんは父親の心情がわかっているようだった。
「きっと社長は、(亡くなった)弟に何もしてやれなかったという思いが強いんですよ。それで、ああいうことを僕に言うんだと思います」
三人兄弟の末っ子の陽さんが腰痛を訴えだしたのは、大学を卒業してある大手のカード会社に就職してすぐの頃だった。入社直後の忙しさで医者に通えず、一向に引かない痛みに精密検査を受けたところ、すでにガンは各部に転移しており、「あと二カ月の命」と母親の保子さんは告げられる。父親は韓国に、長兄は広島にいるため、保子さんと茂さんが二人で、宣告からちょうど一年後の最期を看取るまで、陽さんの闘病に付き添った。
「他人《ひと》に話しても、あの時のつらさはわかってもらえないでしょう。弟が苦しんでいるあの姿を見たら、事故で死んだほうがずっと楽だったのにと思いましたよ。最後はモルヒネも効かないんです。モルヒネも使いすぎると、中毒症状が出るらしくて、何とも言えない不安感に襲われるらしいんですよ。居ても立ってもいられないくらい不安で、夜も眠れない。『あの気持ちは兄貴にはわからないよ』って言ってました……。でも、一年間、弟はものすごく頑張りました。自分の弟ながら、すごいやつだなと思いましたよ。こんなこと言ったらいけないかもしれないけれど、あいつなんか一番死ななくていいやつだったんです。それなのに、なんであいつが、という気持ちが僕には一番大きかった。死んだとき、おふくろは半狂乱で……。親父も日本にいないだけ、ほんとにつらかったと思います……」
そのとき初めて茂さんが「親父」と言ったことに、私は気づいた。
サッカーの日韓戦の終了後、客足は午前の勢いを取り戻し、この日の売り上げは三十一億六千万ウォン(当日のレートで約四億円)にのぼった。これまで韓国のあらゆる百貨店があげたオープン初日の売り上げ記録を塗り替える、文句なしの新記録である。韓国経済が、株価と通貨ウォンの暴落や財閥の相次ぐ崩壊で混迷を深める中、この数字は驚異的と言ってよい。もしサッカーの試合がなかったら、記録はどこまで伸びたことか。
大久保さんは、その日の深夜午前零時半すぎに、三星プラザ・盆唐店をあとにした。初日の反省会を兼ねた会議を一通り終え、さすがに喜びの色を隠せない三星の幹部たちと全員で拍手をして閉会した。
外に出たら、大陸特有の肌を刺す冷え込みである。前々日には、まだ十月末というのに雪が舞った。一人暮らしのマンションの自室には、もうオンドルが入っている。
大久保さんは黒塗りの韓国産高級車に乗り込み、さっそくマイルド・セブン・ライトに火を点けた。車窓からは、四十万人が暮らすニュータウンの高層団地群が、初冬の夜空にそこだけぽっかりと浮かび上がるように、暖かな光を放っている。
大久保さんは運転手に韓国語で呼びかけ、久しぶりにカーステレオに古いカセット・テープを入れてもらった。いまから十七年前、韓国に赴任してまだ言葉も習慣もわからなかった頃、繰り返し繰り返し聴いた裕次郎の歌声が、車内にゆっくりと流れはじめた。
第五章 バンコク食べ放題物語〈タイ〉
そのときにはわからないが、あとになってみて初めてどれだけ貴重な体験をしたかに気づくというようなことが、どなたにもあろうかと思う。
私にとっては、タイの「国民的英雄」と呼ばれる人物の家にひと月余り寄宿したことが、まさしくそれに当たる。日本で言うならかつての長嶋茂雄、アメリカならばバスケット・ボールのマイケル・ジョーダンかゴルフのタイガー・ウッズ。二十年ほど前のその頃、タイでのセンサク・ムアンスリンの人気と存在感には、それほどのものがあった。
国技ムエタイ(タイ式ボクシング)の無敵の王者から国際式ボクシングに転じて、わずか三戦で世界チャンピオンに駆け上がったスピード記録は、いまだに世界の誰にも破られていない。日本でもガッツ石松の挑戦を楽々ノックアウトで退《しりぞ》け、「タイの怪物」と呆れられたものだった。学生時代、あるボクシング専門誌でアルバイトをしていた私は、バンコクを訪ねたときに立ち寄ったセンサクの自宅で、「ホテルが決まってないなら、好きなだけ泊まっていけよ」と言われ、お言葉に甘えてちゃっかり居 候《いそうろう》を決め込んだのである。
間近で見たタイの国民的英雄は、破天荒《はてんこう》にして自由奔放な人物であった。家ではいつもブリーフ一枚で、夜になると居間に虎の毛皮を敷き、大の字になって寝ている。試合のときには、うがい用の水をがぶ飲みして、ぱんぱんに膨れたボディーを思いっきり打たせ、普通なら吐くかダウンするはずなのにけろりとしたまま、へらへら笑いながら相手を倒してしまう。練習は大嫌いだが、女は大好き。科学的トレーニングや規律正しい日常などとは、まるで無縁のやりたい放題。それでも、欧米や日本のトップ・クラスの挑戦者たちを、木のふしくれのような拳でなぎ倒すセンサクは、われわれとは次元の異なる生命力の持ち主に思えた。
センサクと並んで繁華街や空港を歩くと、そのたびに、人々が顔を見合わせ「センサク」と言い合う声が、さざなみのごとく広がっていったのを覚えている。その後、私はジャーナリストとして日本人の「大スター」と呼ばれる人々に何人も会うことになるが、こんな経験はあとにも先にもない。幼な子を抱いた母親は、その子をセンサクに抱き上げてもらい、強く丈夫に育つようにと願っていた。盲目の青年はセンサクの手を両手でしっかりとはさんで、眼に《まなこ》光が差すことをひたすら祈っていた。東北タイの貧しい農民の子から国民的英雄にのし上がったセンサクは、タイの黄色い大地が生んだ、モハメッド・アリ流に言えば「大衆のチャンピオン」そのものであった。
タイと言えば、センサク・ムアンスリンのことを私は思い出す。そして、このセンサクが引退後、行きつけにしているファミリー・レストラン・チェーンのオーナーが、今回の主人公なのである。
制服姿のウェイターが次から次へと運んでくる料理の大皿を、テーブル一杯に手際よく広げながら、福田千城《ちしろ》さんは、
「高級店をやったらと勧められたこともあるんですけどねえ」
と、九州弁のアクセントが強く残る口調で切り出した。
「でも、やっぱり僕は、タイの一般大衆が腹いっぱい食べられる店をやっていたい。一般大衆を相手にした、一般大衆が気軽に来られる、そして一般大衆が必要とする店。そうなったら最高やと思うんですよ」
福田さんが九州なまりで連発する「一般大衆」には、斜に構えたところも外連《けれん》もない。一年に五百万人ものタイ人が、福田さんの経営するレストラン「ダイドーモン」チェーンに足を運んでいる現実こそが、その「一般大衆」という言葉を生半《なまなか》でないものにしている。
「いまあるダイドーモンの七十五軒の店をいっせいに閉めたとき、『なんで閉めるの?』という声がタイの一般大衆のあいだからあがれば、それがダイドーモンの価値の証明やと僕は思うんです。少しはそうなってきてるかなあ。いや、まだまだですかねえ……」
目の前のテーブルには、ちょうど日本の焼肉店で出されるようにきちんと盛り付けされた牛肉、豚肉、鶏肉、牛タンのほか、エビ、イカ、ホタテ、さらに各種ソーセージやベーコン、野菜類が所狭しと並べられている。これらを焼肉の要領で焼き、その場でいただくのがダイドーモン流の食べ方である。
ダイドーモン登場以前には、客みずからが焼いて食べるというやり方は、タイの外食ビジネスにはなく、開店当初はウェイターやウェイトレスに「どうして焼いてくれないのか」と文句たらたらの客も多かったとか。でも今では、ほら、隣のテーブルでタイ人のおばあちゃんが二人、背を丸めながらシー・フードを焼いているではないか。
「うれしいですよね。ああいう年配のお客さんの姿を見ると」
福田さんは、眼鏡の下の丸い目を細めた。
「タイでは、ファミリー・レストランは金・土・日が勝負なんです。平日の一・五倍から二倍、お客さんが来ます。きょうは土曜日で、いま八割くらいの入りですが、これから入るんじゃないですか。この店は百坪あるんですよ。席の数は百九十席くらいかな。うちでも大きいほうでしょう」
数字をまじえた熱弁が続き、そのエネルギッシュな物言いに私は圧倒されるばかりだったのだが、料理の皿が運ばれ、十分が過ぎ、やがて二十分になろうかという頃になっても、福田さんは肉や魚をロースターの上に並べようとしない。先刻、初めて福田さんと会って名刺を交換し、そのまま案内されたダイドーモンの店なので、私は、ロースターがまだ温まっていないのか、それとも誰かほかに人が来るのを待っているのだろうかなどと思いを巡《めぐ》らしていた。すると、はきはきした口調で話しつづけていた福田さんが、
「あっ!」
と短く叫んだ。
「すいません。ついつい話に夢中になってしまって……」
何のことはない、福田さんは目の前の料理のことを、すっかり忘れていただけなのである。
いささか誇張して予想すれば、タイは瀕死の状態にあるのではないか。
九七年以来アジアを揺り動かしてきた経済危機は、そもそもタイが震源地であった。通貨バーツの価値は半分以下に落ち、チャワリット政権はぼろぼろになって崩壊した。失業者が激増し、「マイペンライ」(気にしない)を旨《むね》とする楽天的なタイ人のあいだにも自殺者が目立ちはじめた(タイ当局の発表によれば、経済危機が原因とみられる自殺者は一年で百十二人で、日本人的感覚では少ないが、タイ人気質から考えると異常に多い)。新築のオフィス・ビルはどこもがら空きで、タイの“ニュー・リッチ”たちのシンボルだったベンツやロレックスが投売り同然に処分されている。とまあ、こういうニュースばかりを詰め込んでバンコクにやって来たら、私と同じく拍子抜けすること請け合いである。
「負け惜しみで言うんじゃないんですけどね。この国で生活してますと、ここがほんとに経済が破綻した国かと思いますよ」
夜の繁華街を愛車のボルボで通り過ぎながら、福田さんが軒を連ねる露店にひしめき合う人々の姿を見やって、そう言った。
「ねっ、すごい人出でしょう。うちの店にだって、ちゃんとお客さん、入ってますしねえ。たしかに景気は悪い、景気は非常に悪いけれども……、ほらっ」
今度は高架の鉄道工事現場を、運転席から見上げて、
「こんな遅い時間なのに、工事やっとるでしょう。中断しているところもあるし、遅々として進まないようにも見えますけど、僕がこの国に三十年いさせてもらってわかったのは、タイという国は何か目標を定めたら、そこに到達するまでの時間はかかっても、必ず到達する国やということなんですよ」
いまから三十数年前、海外ヒッチハイク旅行の途中、降り立ったバンコクの港に、来ているはずの迎えのタイ人が来ていなかった、というところから福田さんのタイ物語は始まる。
あてどなくバスに乗り、終点で降りてうろうろしていたら、見知らぬタイ人のおばさんが手招きをする。そのまま連れて行かれたところは、タイでも名の通ったワット(寺院)で、中に入ってみると日本からの留学僧が四人もいるではないか。結局、日本人僧侶たちの托鉢《たくはつ》を手伝ったりしながら日を送り、その後はまたヒッチハイクを続けて日本に帰るのだが、一度味わった異文化体験の面白さは忘れがたかった。福田さんは上智大学を卒業し、就職先の大手企業も決まっていたのに、急遽《きゆうきよ》入社を取り止め、猛反対の両親をも押し切って、タイに舞い戻ってくる。まだ二十三歳になったばかりだった。
それから二十三年後、すでにダイドーモンの経営者に落ち着いていた福田さんは、日本での人生よりタイでの人生のほうが長くなったこの機会に、剃髪《ていはつ》して出家をしてみようと思い立つ。
振り返れば、学生時代に初めて訪れたタイで、導かれるままにバンコクの名刹《めいさつ》の門をくぐったとき、「俺の人生、決まったな」とつくづく思う。それに、あれは本当に偶然だったのだろうか。タイの男子の大半がある一定期間、仏門に入って修行を積むように、自分も人生の節目を僧院で迎えてみたい。
「なぁんて言うと、かっこいいんですけどね。実際は、相当だらしない坊さんで」
太い眉毛を八の字にして、福田さんは相好《そうごう》を崩した。
「お寺を選ぶときも、お経を全部おぼえとけとか、(仏典に用いられている)パーリ語も読めるようになっとけとか、そういう戒律の厳しいところはあかん、と(笑)。なるべく厳しくないお寺を会社の子に探してもらって、出家の期間も短めに十五日間。私の世話をしてくださったルンピー(先輩の僧侶)がまた話のわかる人で、『携帯電話、持ち込んでいいですか』とおそるおそる尋ねたら、『ああ、いいよ』って。それ聞いたときは、思わず『よっしゃあ!』って(笑)。『どうしても会社に出ないといかんのですが、いいですか』、『ああ、いいよ』、『あのう、うちに帰ってもいいですか』、『ああ、いいよ』。何でも『ああ、いいよ』なんですわ(笑)」
托鉢だけは欠かさなかった。毎朝、夜が明ける前に起き、黄衣に身を包んで、ほの暗いバンコクの通りから通りを、裸足のままてくてくと歩く。
「日によって(喜捨される食事が)少ないときがあるんですよ。けっこうおなか減りますからね。あのおばさんのところへ行けば必ずくれるから、よし、ほかの坊さんが行く前に先回りしちゃおうとか(笑)。そうやって、おばさんのところに間に合ったときには、『ああ、よかった』とほっとするんだけど、その途端に『ああ、俺はだめやなあ』と思ってねえ。こんないい加減な気持ちで坊さんになっちゃっていていいんだろうかと、あのときは本当に参りました」
世界の色が変わって見えるような体験もした。
得度式から、それは始まった。福田さんの頭髪にルンピーの剃刀《かみそり》の刃があたった瞬間から、取り巻くようにして見守っていたダイドーモンのタイ人社員たちの表情が一変したのである。どこか畏《おそ》れのこもった、おごそかな顔つきに変わり、中には合掌する者まで現れる。頭を丸め黄色い衣を着る前の自分とあとの自分とは、中身は何にも変わっていないのに、自分に対するタイ人の一挙一動には、まるで別人に接するがごとき変化が生じている。
ルンピーの許可を得て久しぶりに家に戻ると、タイ人の家政婦のおばちゃんが血相を変えて飛んできた。
「あら大変だ。奥さんに指一本でも触れたらダメですよ」
厳しい表情で言い、さらにそばで笑っている妻の保子さんにまで、きちんと合掌をするように促すのである。会社に顔を出したときも、異変は続いた。ふだんは社長の姿を見かけても、無言のままデスクの書類に目を落とすような社員ですら、黄衣姿の福田さんには手を合わせて挨拶に来るのだった。おいおい、よしてくれよと言おうとして、福田さんは息を呑《の》んだ。そのようなごく自然な、尊敬のこもった合掌は、ダイドーモン社長の自分にではなく、自分の僧形に向けられていることに気づいたからである。
「俺はタイ人のことが全然わかっていなかった」
タイに暮らして二十三年目にして、福田さんはそのことに思い至った。
ダイドーモンを始めるまでに、福田さんはいくつかの職に就いている。小さな貿易会社の社員、日系ゼネコンの下請け業者、ナイト・クラブのオーナー……。福田さんの顔と名前がタイの日本人社会に知れ渡るようになったのは、バンコクの「夜の日本人通り」と呼ばれるタニヤの近くで、クラブ「ボルサリーノ」を十五年も続けたからであった。
「あの頃の最高級クラブで、日本企業のお偉方や大使館関係者の社交場でした」
と、ボルサリーノのかつての常連たちは口をそろえる。歌手の尾崎紀世彦や奥村チヨ、美川憲一といった面々がステージに立ち、客席にいた俳優の天知茂が飛び入りで歌ったりもした。タイを訪問中の現職大臣やのちの首相経験者、社名を言えば誰でも知っている日本企業の社長たちが来店すると、福田さんは必ずそばに呼ばれ、「まあまあ、座って一杯いきましょうや」となる。あのとき学んだことは、いま大変な財産になっていると福田さんは回想するのだが、その一方で、
「こんなことやってていいのかなあという後ろめたい気持ちが、いつも半分はありました」
意外なことを打ち明ける。逆に言えば、そんなふうに水商売にずぶの素人だったことが、幸いしたのかもしれない。ホステスの連れだし、つまり店外でのデート行為をいっさい禁じたことも、店の格を高めていたと、常連組だった日本人駐在員は言う。
ボルサリーノは盛況をきわめ、シンガポールとマレーシアのジョホールバルにも店を出すようになる。ボルサリーノの近くには、タイ初のカラオケ・クラブも開業した。いずれはホテル経営もと夢は膨らんだが、タイとシンガポールとマレーシアの三店を行ったり来たりの生活を続けているうちに、無理がたたった。劇症肝炎にかかり、救急車で運ばれたときには、ひどい黄疸のせいで皮膚の色が黄色を通り越して緑色になっていた。胆嚢ポリープで開腹手術を受けたこともある。
精神的にも疲れ切っていた。シンガポールの店を乗っ取り同然の手口で失い、マレーシアの店も赤字で閉めた。バンコクの日本人学校に通っていた小学生の長女が、父親の商売のことでからかわれたのも、胸にこたえていた。
福田さんは日本に一時帰国したとき、学生時代から親交のあった上智大学のアメリカ人神父に、バーのカウンターで相談を持ちかけてみた。
「コンプレックスがどうしても抜けきらんのです。なんでタイくんだりまで来て、水商売をやってるのかわからなくなりました」
青い目の神父は、「フクダ、なに言ってるの」と肩を叩いた。
「一日の仕事を終えた人に安らぎとくつろぎの時間を与えるのは、立派な仕事ですね。教会の仕事と一緒ですね」
その一言でずいぶん胸の重荷が軽くなったと、福田さんは語る。だがしかし、私にはどうも腑に落ちない。なぜそこまで高級クラブのオーナーであることを「後ろめたい」と思うのだろうか。『カサブランカ』のハンフリー・ボガートと同じ仕事なら、私が引き受けたっていい(もっとも先立つものがあればの話だが)。そんな疑問を福田さんの妻の保子さんにぶつけたら、穏やかな口調で、
「それは、野村さんもナイト・クラブの経営をされてみたら、わかると思うんです。やっぱり酒と女を売らなければならない商売ですから」
やんわりとたしなめられてしまった(誤解なきように言い添えるが、この場合の「女を売る」とは売春の意味ではない)。たしかに伊達《だて》や酔狂では、十五年間もナイト・クラブを続けられはしまい。ハンフリー・ボガートに見立てること自体、お気軽な発想で、私は改めてわが想像力の貧しさを思い知らされたのである。
一九八三年十二月、ダイドーモンが「バンコクの渋谷」とも言われるサイアム・スクエアに開店したとき、福田さんはまだボルサリーノの経営者だった。そもそも焼肉店を始めようというのは、福田さんの発案ではない。まだシンガポールに店があったとき、馴染《なじ》みの日本人客からバンコクでの焼肉店の共同経営を持ちかけられたのだった。その人物の手腕を頼りにダイドーモンが誕生したのは、日本でテレビ・ドラマの『おしん』が爆発的な人気を呼んでいた年である(『おしん』はその後、タイでも空前の大ヒットとなった)。
ところがこの店、まるで客が入らない。さてどうしたものかと頭を痛めていた矢先に、件の《くだん》共同経営者が動脈瘤破裂で急死してしまう。同じ客商売でもレストランの経験がない福田さんは、途方に暮れた。真っ先に店舗の売却を考えたが、こんな流行らない店に買い手がつくはずもない。
「ダイドーモン」の店名を変えようかとも思った。これは故人となったパートナーが付けた名前で、日本にある焼肉店の「大同門」と混同されがちだし、大同門は北朝鮮の地名に由来するから、タイに住む韓国人の要らぬ警戒を招きやすい。そこでタイ人に意見を求めたら、「いや、とても覚えやすい名前だよ」。タイでも大人気の『ドラえもん』に、「ダイドーモン」は発音が似ているというのである。
店名はそのままにして、メニューの見直しに取りかかった。タイ人の社員や店員に、「お客さんが言ってることを、何でもかまわないから知らせてくれ」と頼んだら、思ってもみなかった声が続々と寄せられてきた。いわく、メニューに牛肉や牛の内臓の料理(ホルモン)がいろいろあるけれど、タイ人は牛をあんまり食べないんだよ。いわく、なぜここは日本料理の「サシミ」や「テンプラ」を出さないの。実際に、タイ人には仏教の言い伝えから牛肉を敬遠する人が多いことを、福田さんは初めて知る。それなのに、わがダイドーモンときたら、牛肉やホルモンを売り物にし、おまけに商標として牛がぺろりと舌を出しているマークを大きく掲げていたのだった。
営業不振のまま一年ほどが過ぎ、福田さんはすべてを引っ繰り返すことにした。まず日本的な「焼肉」の発想と、きっぱり縁を切ろう。店のトレード・マークになっていた例の牛が舌を出している絵を取っ払い、メニューからミノやホルモンをはずした。その代わり、タイのお客さんが食べたいというものなら、何でもお出ししましょう。焼きもの類にイカ、エビ、ホタテを採り入れ、てんぷら、のり巻き、餃子《ギヨウザ》もメニューに加えた。たちまち売り上げは、二割から二割五分も伸びたという。
タイ王宮に近いラーマ六世通りにチェーン店を開いたところ、チュラポン王女が夫妻で食事に来たこともあった。このとき福田さんは、タイ人が王室をどれほど敬っているかに驚嘆させられる。
「キッチンのコックたちが、手が震えてしまって料理が作れないんですよ。食器も、ほかの一般のお客さんと同じ物を出したら『不敬』に当たるんじゃないかって迷っている。僕は、ほかのお客さんと一緒でかまわんからと言って、同じ食器を出させましたけど」
現在、ひと月に仕入れる食材の量は、多い順に鶏肉が六十トン、豚肉が五十五トンから六十トン、そのあと各種シー・フードが続き、牛肉は十トンにすぎない。焼肉店だったはずのダイドーモンは、いつのまにか豚肉、鶏肉やシー・フードが中心のバーベキューと、手頃な値段の日本食が売り物の、タイ化された和風レストランに変わっていた。客数に占めるタイ人の割合も、最近の調査では九九・四パーセントにまで達している。
「タイ人に一番わからない日本料理の味って、何だかわかりますか? おすましの味なんですよ。日本人的な感覚から言うと、はっきりした味でないとタイ人は受け付けないんです。辛いなら辛い、甘いなら甘い。でも、日本語の『辛い』では表現できない、いろんな辛さがあって、奥が深いんですよ」
「それとタイ人は、一人一人が自分の好みの味をはっきり持っているんです。屋台でヌードル一杯食べるときだって、ナム・プラー(魚醤)やらマナオ(日本のスダチに似た柑橘類の果汁)やらパクチー(香菜)、きざみ唐辛子、ニンニクのすりおろしたものなんかを自分の好みに応じて入れてるでしょう。うちの社員を日本に研修に連れて行ったら、日本でも同じことをやるんですよ。ラーメン屋で、麺のゆでかたから、スープの味付け、上に乗せる具の中身まで、全員がめいめい違うことを主張しよる。『おまえら、ええかげんにせい』と言ったんですけど(笑)、いかにもタイ人らしいと思うんです。この自由さ、タイ語で『イサラ』と言うんですけど、これこそタイ人が一番大事にしているものなんですね。イサラなら『サヌック』(楽しい・気持ちがいい)なんですよ。イサラじゃなければサヌックじゃない。それがタイ人なんです」
タイ人の好みに合わせるため、ダイドーモンでも日本人客への特別な配慮は一切やめた。
「メニューを変えたことで、焼肉を期待してきた日本人のお客さんが文句を言っても、『はい、わかりました』と聞いとけ、『すいません、社長がアホなもんで』と言ってもかまわん(笑)、でも絶対に味は変えるなって、うちの従業員には言ってありました。結果的に日本人のお客さんは離れていきましたけど、これはしゃあない。うちはタイ人のお客さんを相手にすることにしたんだから」
ダイドーモンに出資している「IFCT野村ジャフコ・キャピタル」(野村証券系のベンチャー・キャピタル)副社長の藤江大輔さんは数年前、初めてダイドーモンで食事をしたとき、
「うーん、まずいですねえ」
と青汁のコマーシャルのような感想を述べて、福田さんを烈火のごとく怒らせたことがある。
「藤江さん、タイに日本人は何人いるか知ってますか?」
怒気をあらわに福田さんが問いかけてきた。
「三万か、せいぜい四万ですよ。僕は、六千万人のタイ人を相手にしてる。商売のマーケットが全然ちがうんだ!」
いったいダイドーモンの味は、どうなのか。嘘いつわりのないところを申し上げるが、私は五回ダイドーモンで食事をして、「まずい」と思ったことなど一度もない。バーベキューのタレは、日本人の口にはやや甘く感じられるかもしれないが、これは各種の薬味で好みの味に調整することができる。
いや、味のことをとやかく言う前に、料理の値段をご覧あれ。取材時の一バーツ=二・八円で換算して、たとえばカツ丼が百五十円強、天丼が百六十円、ビールの大瓶が二百円足らず、肉やシー・フードの“食べ放題”など二百八十円を切っているのである。福田さんによれば、一回の食事で客一人が使う金額は、ビールなどの酒類を含めても四百三十円余り、利益率は税引き後でわずか七パーセントにすぎない。日本とタイの物価の違いを差し引いても、これは相当に安い。
現在七十五店舗あるダイドーモンのうち、十五店ほどを私は見て回ったのだが、どこでも学生を始めとする若い客層のタイ人たちが、テーブルを囲んで“食べ放題”の肉や魚を焼き、うまそうに頬張っていた。
そうそう、忘れてはならないことが、ひとつだけあった。タイが、まちがいなくアジア最大の“外食王国”だということである。人口当たりの屋台の数はたぶんアジア随一で、バンコクでは一日の食事をすべて外食か、あるいは屋台でビニール袋に入れてもらった食事を持ち帰って済ませるタイ人が珍しくない。夫婦や家族でも同様で、家で調理するよりもそのほうが安くつくからなのである。
屋台であれ大衆食堂であれ、味のレベルはきわめて高い。個人的な好みで恐縮だが、タイ料理は中華料理よりもうまいと思う。タイ料理を研究しているある日本人女性によれば、タイに三年いて熱心に食べ歩きを続けてきたけれど、まったく未知の味に出くわすことがまだよくあるらしい。
タイはまた、日本から進出してきた大手外食産業が、軒並み討ち死にを遂げている、アジア屈指の激戦区でもある。台湾や香港でも成功を収めてきた牛丼の「野家」ですら、タイにあった六店舗を全部閉店せざるをえなくなった(タイ人の牛肉嫌いがその大きな要因であろう)。ほかにも日本全国に展開しているファミリー・レストラン、炉端焼き、持ち帰り弁当などのチェーンが、撤退や店舗数の削減を余儀なくされている。端的に言えば、安くておいしく、多種多彩で層の厚いタイの外食産業や、多民族国家アメリカでの競争を勝ち抜いてきた世界規模のファースト・フード産業に、日本勢は太刀打ちできないのだった。
そんなタイの外食産業の年商第五位に、福田さんのダイドーモンは食い込んでいる。ダイドーモンより上位に位置するのは、ケンタッキー・フライドチキン、“タイすき”(タイ風鍋物)のMKレストラン、ピザハット、マクドナルドで、タイ資本のMKレストラン以外はアメリカの巨大外食チェーンの独壇場である。定住派の日本人が経営するダイドーモンは、ひときわ異彩を放っていると言ってよい。
「外国人がタイのレストラン・ビジネスでここまで成功するというのは、ちょっと信じられないくらい大変なことですよ」
業界第二位のMKレストランを経営し、福田さんのライバルでもあるはずのリット・ティラゴーメン社長でさえ、このような絶賛を惜しまない。
だがしかし、「第二次世界大戦後、タイ最悪の経済危機」(AP電)は、福田さんのダイドーモンにも容赦なく襲いかかってきた。
いまにして思えば、予兆はすでに九六年の末からあった。タイや日本のビジネスマンの口から、銀行金利の上昇や経済成長率の下方修正といった言葉を、ときおり聞かされるようになっていた。ダイドーモンも次から次へとオープンさせたものの、以前のようには売り上げが順調に伸びない。そのうちバーツ切り下げの噂が伝わってきた。タイ屈指の財閥で、ダイドーモンの株主でも取引先でもある「サハ・パタナ・インターホールディング」社の総帥ブーンヤシット・チョックワタナ会長からは、
「これは、福田さん、バブルですよ。日本と同じことが、タイでも起きると考えておいたほうがいいですよ」
と、九七年の初めに忠告されている。だが、そのブーンヤシットさんにしても、九七年七月二日の突然の変動相場制への移行は、まったく予想していなかった。若き日に日本に数年滞在したことのあるブーンヤシットさんが、流暢な日本語で言う。
「あのとき、タイ・バーツの切り下げはないと、誰もが思ってましたよ。フローティング(変動相場制)にしたら、タイ国はめちゃくちゃになることがわかっているのに、政府はフローティングにしてしまった。僕は、ものすごい間違いだったと思っているんです。あのときの首相と大蔵大臣、それにタイ中央銀行総裁の責任ですよ」
バーツの暴落が始まった。それは福田さんの予想をはるかに超えて、タイ経済を壊滅寸前にまで追いやることになる。このときドル建てのローンを組んでいた経営者たちは、全員顔色を失ったが、福田さんは相撲の星取りにたとえるなら七勝八敗か六勝九敗ぐらいのところで、かろうじて踏みとどまった。四百万ドルあったドル建てのローンのうちの半分を、七月二日の直前にバーツに切り換えていたのである。
福田さんの読みは、こうだった。タイ政府がショッキングな経済政策を打ち出すとするなら、七月一日ではないか。なぜならこれまでのタイの政治家の行動パターンを見ると、七月一日の歴史的な香港返還に世界中の耳目が集まっているすきに、抜き打ち的に動く可能性がある。でも、確信は持てない。もし四百万ドル全額をバーツに切り換えたのに、バーツの切り下げがなかったら、ドル建てに比べて七、八パーセントも高い金利の負担を背負いこむ。かといって、全額ドル建てのままバーツの大幅な切り下げに直面したら、バーツで商売をしているダイドーモンは債務が一気に膨らんでしまう。そこで四百万ドルのローンのうち、半分の二百万ドルはバーツに切り換え、もう半分の二百万ドルはそのままにしておくという両面作戦をとることにしたのだった。
福田さんの誤算は、ふたつあった。ひとつは小さな誤算で、七月一日がタイの銀行の休日だったため、変動相場制への移行が翌七月二日に発表されたこと。もうひとつは大きな誤算で、バーツの下落が信じられないほどの急降下で進んだことである。バーツが半分以下に暴落したせいで、ドル建ての借金は倍以上になってしまった。しかし、福田さんとはボルサリーノ以来の付き合いという三菱商事系の「泰MC商事会社」副社長の松崎義宏さんに言わせれば、
「七月二日以前に福田さんみたいなことがやれた人は、九九・九パーセントいないですよ。すごいとしか言いようがない。それも、タイ政府が香港返還のタイミングを狙ってくると読んでいたっていうんだから、びっくりしましたね」
おりしも東京三菱銀行バンコク支店の若手行員が飛び下り自殺をする事件が起き、バーツ切り下げによる不良債権の処理が、彼の背中を押したのではないかと、バンコクの日本人社会では囁かれていた。
他社が一勝十四敗や十五戦全敗でのたうち回っているさなかに、福田さんの七勝八敗や六勝九敗は「大健闘」ではないか。私が二十数人に聞いたかぎり、こういった見方が、日本・タイを問わず福田さんを知る経済人すべてに共通していたのである。
タイの経済危機による被害をできるかぎり食い止めたとはいえ、九七年がダイドーモンにとって最悪の年だったことに変わりはない。税引き後の純益は、九六年の四千三百万バーツから二千九百万バーツに落ち込み、八十三店舗まで増やしたチェーンも、九七年後半から九八年にかけて八軒を閉店した。閉めた店の大半は、経済危機の影響が真っ先に及んだタイ東北部などの地方にあり、どうしてもやむをえない措置だったのだが、福田さんを心底落胆させた。
「イサーンの店をつぶしたときが、一番きつかったです。それはイサーンにあった二軒のうちの一軒で、ほんとつらかったし悔しかったです」
イサーンとは東北タイの通称で、冒頭にあげた元世界チャンピオンのセンサク・ムアンスリンがこの地方の出身である。土地が痩せている上に旱魃《かんばつ》が多く、タイの中で経済的に最も貧しい地域と言われて久しい。
「残した一軒も、経営のことを考えたら、閉めちゃったほうがいいんです。でも、意地でも閉めたくない。というのは、うちで働いている人の七割から八割は、このイサーンから来ているんです。彼らもいずれ故郷に帰るでしょう。そのときに小さくてもいいから、働く場を確保しておきたい。そういう考えもあるんですよ」
福田さんは、九七年七月からの経済危機でも従来通り、いまいるおよそ千二百人の社員を一人たりとも解雇しないと確約してきた。ある日の朝礼で、タイ人の副社長がそのことを告げると、社員たちから一斉に拍手が沸き起こったとあとで聞き、福田さんは涙がこぼれそうになった。
首切り同様、減俸もいっさいしないが、ただし幹部社員の給料は二、三割カット、社長の福田さん自らは半額ダウンと決めた。
パートも含めると千五百人近いダイドーモンの従業員の中に、日本人は福田さん一人しかいない。企業の駐在員から、ダイドーモンの日本人の数を訊かれて、
「私、一人ですよ」
と答えると、必ず、
「よぉくおやりになってますねえ」
目を丸くして感心される。その口調には往々にして、タイ人に経理を任せて大丈夫なんですかというニュアンスが込められている。そのことをはっきり口にする人も多い。実は、私も同じ質問をした。決してタイ人に対する不信感からではなく、アジア各国の日本人を取材していると、信頼を寄せていた地元出身者の背信や不正行為に泣かされている事例を、あまりにも頻繁に見聞させられてきたからだった。
ある週末、福田さん一家と共に、南部のリゾート地として名高いパタヤに向かう途中でも、こんなことがあった。運転席の携帯電話が突然鳴り、福田さんがタイ語で応じている。流麗で音楽的なタイ語も、福田さんにかかると、失礼ながら、ごつごつした九州弁のように聞こえる。電話はダイドーモン本社からで、次のような内容だった。
パタヤのある店の店長が、不正を働いているらしい。手口は単純で、団体観光客に出すビールの値段は一人につき七十バーツと決められているのに、その店長は観光客や添乗員が知らぬのをいいことに百バーツを請求して、差額の三十バーツをふところに入れているというのである。一人あたり日本円にして八十円ちょっとだが、観光客が百人単位で来れば、パート一人分の月給くらいにはすぐなってしまう。こうしてくすねたカネを、店長は店員三、四人にも口止め料として渡しているようなのである。
そこで「シャチョー」(福田さんは社員からこう呼ばれている)、せっかくの休日に大変申し訳ないけれど、リゾートから帰る道すがら、その店と、もう一軒うたがわしい店に立ち寄って、週末土曜・日曜の売り上げを回収してきてもらえまいかというのだった。
私は、福田さんのあとに付いて両方の店に入っていった。一軒の店の店長はすでにバンコクの本社に呼ばれ、経理部門の監査担当から調べられることになっている。もう一軒の店長は、福田さんの姿を見るなり、なんだかしょんぼりと猫背になってしまった。福田さんは叱るでも咎《とが》めるでもなく、事務的にレジから売り上げを回収し、淡々とした表情で、
「済みました。行きましょうか」
と私を促す。
「不正の調査も、あんまり重箱の隅をほじくるようにやり出すと、店長や店員の表情がぎすぎすしてくるんですよ。それは必ずお客さんへのサービスにはね返ってろくなことにならないから、(純益の)七パーセントのうちの一パーセントまでは、しゃあないと思っているんです。ちょろちょろした“水漏れ”は防ぎきれんですよ」
問題の二軒から回収した売り上げは、合わせて約三十万バーツ、八十五万円ほどにのぼった。
毎週月曜日の午前中に開かれるダイドーモンの定例取締役会議でも、店内での不正がいっとき話題になったことがある。バンコクのある店で、レジを故意に使わず、手書きで伝票を切っていたことが、コンピューター情報処理担当の女性取締役から報告されたのである。福田さんは、
「すぐ抜き打ち検査だな。そんなふざけたまねは許せんよ」
とタイ語で言ってから、こう補足した。
「だけど、システムがきちんとできていないから、ついつい不正に手を出してしまうというところも、あるんじゃないか。もちろん不正をするやつが一番悪いけれど、不正を招くようなシステムとか職場環境にも問題があると思うよ」
こんな話をしているあいだにも、その手元には経理からさまざまな小切手が届けられ、福田さんはすらすらとサインしていく。他日、社長室でも、積み重ねた書類にまるで目を通さず、サインを繰り返す姿を見たことがある。そのとき、福田さんはタイ語の会話はできても、読み書きはまったくできないということを知って、私は仰天した。この人は内容を全然知らずに、小切手や書類にサインをしているのである。
「信頼している副社長たち四人が目を通しているんだから、大丈夫ですよ」
福田さんはさらりと言うのだが、アジアでのビジネスの体験者なら、これがどれだけ大変なことかがおわかりいただけるだろう。もし側近の四人が共謀すれば、福田さんは会社はおろかタイでの財産の一切合切を失うことすらありうる。
このタイ人への信頼感の奥底には、だが、日本人に対する複雑な思いも潜んでいたようだった。
「ずっと日本人社会に対する反発があったんですよ。やっぱりボルサリーノで日本人とばかり付き合って、もううんざりしてしまったというのがありました。『ああ、あのボルサリーノの』とボルサリーノの名前を言われるだけでも、すごくいやでしたもん。その反動もあって、今度はタイの中だけで、タイ人だけを相手にして仕事をしたいというのが、ちょっと頑《かたく》ななくらい僕の中にあったんです」
ナイト・クラブで日本人駐在員組の本性を見てしまった?
「いや、僕自身に日系企業に対するコンプレックスがあったんですよ。彼らはあんなに恵まれているのに、自分は何でやというね。早い話が、日本の銀行だって、相手にしてくれなかったわけですから。そういうことへの裏返しの反発がありましたよ。最近は日本の企業のよさもだんだんわかってきたし、自分の実力を高めていったら日本企業も認めてくれることもわかってきたんですけどねえ」
海外に長く住む日本人には、自分の中の“日本”や“日本人”が純化され理想化の方向に向かう場合と、そうはならない場合とがあるが、福田さんは明らかに後者であろう。
「“日の丸”を背負ってという意識は、僕の中に全然ないですね。日本で死にたいとも思いません。死んだら、灰をメナムに流してもらえばいい。ダイドーモンをうちの子供たちに継いでほしいという気持ちも、まったくないです。子供は四人いますけど、それぞれがそれぞれの道を行けばいい。僕のあとの社長は、ずっと一緒に頑張ってきたタイ人の誰かに引き継がせたいし、引き継いでもらいたいです」
私が「将来お子さんが引き継ぎたいと言い出したら?」と尋ねたら、福田さんは間髪をいれずに答えた。
「それでも『いかん』と言います」
客の百パーセント近くが日本人だけの世界から、客の百パーセント近くがタイ人の世界へ。日本人経営者による日本人のためだけの世界から、いずれはタイ人の経営者によるタイ人のための世界へ。福田さんが本当にタイ人の社会に溶け込みだしたのは、そう思い定めたときからだったのかもしれない。
ダイドーモンに二人いる副社長の一人で女性取締役のカンチャノック・リキッシリサップさんは、高校を卒業してすぐボルサリーノの会計係として採用された。本当は大学に進みたかったのだが、少女時代に父と死別し養女に出されたカンチャノックさんは、早く働きに出て養母ばかりでなく実母にも仕送りをしなければならなかったのである。その有能さと勤勉さが福田さんの目に留まってダイドーモンに引き抜かれ、三十歳の若さで副社長に大抜擢された。
福田さんを含めて十二人いる取締役のうち、カンチャノックさんだけが高卒で、そのことに彼女はずっと劣等感を抱きつづけていたという。タイはある意味では日本を上回る学歴社会で、大卒以上でなければ国会議員に立候補できないなどという規定さえある。カンチャノックさんの、自らの負い目を猛烈な頑張りではねかえそうとする姿に、福田さんはどこかで、かつての自分を重ね合わせてきたのではないか。
「彼女がいなかったら、ダイドーモンはここまで大きくなっていなかったですよ」
福田さんが、ぽつりと洩らしたことがある。
このカンチャノックさんと私を伴って、福田さんはある日、日本ならさしずめ労働政務次官にあたる労働局局長を長らく務めたプラシット・チャイトンパンさんの自宅を訪ねた。いつもなら駐車場か外で待っている運転手のトォックさんが珍しく付いてきたのは、彼なりに並々ならぬ関心があったからだろう。
福田さんの古くからの友人のプラシットさんは、前労働局局長としてよりも、一種の“超能力者”としてのほうが、よほど有名なのである。気功のように手をかざして難病の患者でも治してしまうので、タイ全国から依頼が舞い込み、きょうも重い皮膚病の患者を治療して帰ってきたところだと、私たちを出迎えながら胸を張った。
外見は、タイのどこにでもいるようなおじさんである。目も鼻も口も大きく横に広がっているのが特徴だが、奇矯《ききよう》なところは少しも見当たらない。サファリ・ジャケット風の上着のボタンを喉元まできっちり留め、むしろ端然とした印象である。ところが、仏像が大小合わせて数十体も安置されている部屋に、私たちを招き入れるやいなや、にわかには信じがたいような“物体”を次々に取り出しては見せてくれるのだった。以下、信じるか信じないかはさておき、プラシットさんの摩訶不思議な物語をお聞きいただこう。
「こないだも私に“お告げ”があって、『ここからちょっと離れたところにある沼へ行きなさい、そこに大切なものが沈んでいるから』というんだな。それで、沼から引き揚げたものが、あれだよ」
と、小さな仏塔を指さす。今度は私に目配せをして、
「ねえ君、ちょっと持ち上げてごらん」
両手で持ち上げようとしたが、床から少し浮かせるのがやっとである。
「あっはっはっは、持ち上がらんだろう。見た目よりも、ずっと重い」
何ですか、これは?
「いまから六百五十七年前に中国で作られたもので、空を飛んでタイに来たんだな」
自信満々に断言するのだが、「六百五十七年前」という数字の細かさが、かえってアヤしい。それに、なぜ中国からタイに飛んできたのか。こう尋ねたら、そんなことどうでもいいじゃないかと言いたげな顔で、
「ま、中国ではもういらんということだろう」
と答えたので、私は吹き出しそうになった。それに気づいたのか、福田さんが口をはさんだ。
「アチャーン(先生)、日本人はそういう話をなかなか信じないんですよ。もっとほかにありませんかねえ」
プラシットさんは別だん気を悪くしたふうもなく、それならこういうのはどうかなと、空中からぽっと出てきたという虎の牙や、仏様に合掌していたら手の中から湧き出てきた小さな椰子の実、やはり手を合わせているとき授かった弾丸状の鉄の塊《かたまり》を、まるで少年が友達を驚かせようとして宝物をひとつずつ小出しにするかのように、私の表情を窺《うかが》いながら見せてくれる。
最後に披露した大きめの弾丸状の鉄の塊を、プラシットさんは「奇跡の鉄」と呼び、これさえ身につけていれば、事故にも遭わないし、たとえ銃弾が飛んできても絶対に当たらないと太鼓判を押した。
その「へんてこ」としか言いようのない物体を私はプラシットさんから受け取り、ためつすがめつしたあと、隣にタイ式の横座りで座っていた運転手のトォックさんに手渡す。トォックさんは神妙な面持ちで見つめていたが、短い合掌をすると、それを指でつまみあげ、口のところに持っていく。いったい何をしようというのか。
横座りのトォックさんは、ちょうど女性が口紅をさすように、自分の唇をゆっくりとなぞりはじめたのである。それから鼻、顎、顔全体にこすりつけ、さらに胸のちょうど心臓のあたり、最後に頭頂からうなじにかけてと、念入りに「奇跡の鉄」を体に這わせている。
私の顔からは微笑が引いていたと思う。不意に数日前タイでたまたま読んだ北ビルマの紀行文が、脳裏に蘇ったからである。かの地では、猪の牙がお守りとして大切に用いられ、「奇跡の鉄」と寸分たがわぬ霊力を発揮すると、いまも固く信じられているという。
「(北ビルマの山岳地帯に住む)カチン人は古くから猪の牙を御守りとして珍重してきた。ことに戦士や狩人の間では重んじられている。ゲリラのなかにも所持する人がいる。実際、至近距離で地雷が爆発したり、擲《てき》弾が炸裂したりして、軍服や装具はずたずたになったのに、体はかすり傷ひとつ負わなかったという例を何度も聞いた」
「護符となる猪の牙には、種としての猪が連綿と受け継いできた、生命の物語・歴史の結晶である魂が秘められている。人はその牙を通して、太古からいまにつらなる生物の、もっといえば森羅万象の源にある混沌の力の一端にふれ、ひと雫《しずく》の恵みを受けるのかもしれない」(吉田敏浩『宇宙樹の森 北ビルマの自然と人間その生と死』、ふりがなは原文のまま、括弧内注は筆者)
そこから私の連想は広がり、ダイドーモンの本社の向かいと敷地内にある菩提樹の木に引き寄せられていった。社屋から小道をはさんで向かいにある菩提樹は、天にも届かんばかりの巨木で、その根が道を隔ててきたのか、敷地の中にも若い菩提樹がすらりと伸びて、まだ柔らかい葉をつけている。
数年前、隣接する中華料理店が火事を出したとき、その知らせを電話で聞いて福田さんは愕然となり、延焼を覚悟したのだが、本社に駆けつけてみて我が眼を疑った。隣家は焼け落ちているのに、ダイドーモンの社屋と二本の菩提樹だけは、焦げあとひとつなく静かにたたずんでいたからである。
菩提樹は言うまでもなく、その樹下で仏陀が悟りをひらいたことで知られ、仏教が伝わったアジアの各地でいまも崇《あが》められている。福田さんは僧侶を招いて読経をしてもらい、菩提樹の周りにはタイのしきたりに倣《なら》って色とりどりの布を巻き、それらを神木とした。いささか神がかりめくかもしれない。だが、プラシットさんの「奇跡の鉄」とダイドーモンの菩提樹とは、どこかで結びついてはいまいかと、そのとき私は思ったのだった。いずれも大河メナムと同じくアジアの奥深い山脈と大森林の中に源を発し、漢字では「曼谷」とも「盤谷」とも書くバンコクのコンクリート・ジャングルの狭間《はざま》に、ふだんは埋もれている。けれども、それらは枯死や忘却の運命には断じて甘んぜず、一見都会人の姿をしたバンコクのタイ人たちの奥底にも脈々と生きつづけ、ときおり間歇泉《かんけつせん》のごとく噴き上げるのではないか。
私は、ほとんど確信している。なぜなら、そのような噴出の一端を、かつてタイの「国民的英雄」だった頃のセンサク・ムアンスリンとの日々で目撃していたからなのである。
「タイという国は、自然に殺されない国なんですよ」
未曾有の経済危機にもかかわらず、タイ人の表情にそれほどの陰りが認められないわけを問うたとき、福田さんはこんな答え方をした。
「だって、冬の寒さで凍死することも、食糧が足りなくて飢え死にすることもまずないでしょう。洪水はたまにあるけれど、人を殺すようなものではなくて、いつのまにか来て、いつのまにか引いていく洪水なんですね。自然が過酷ではないことが、この経済危機に対してもタイ人が切羽詰まったようにはならない一番大きな理由じゃないですか」
ひょっとすると、この自然がもたらす底知れない生命力に、福田さんは無意識のうちに魅せられてきたのではあるまいか。
先頃、福田さんは郷里の長崎でずっと病床にあった母堂を、バンコクに呼び寄せ、さらに現在は長崎の病院にいる父君も、いずれここに連れてくるつもりだという。
「おふくろのことは女房と娘とタイ人のお手伝いさんが看てくれています。しもの世話をするのは女房で、そのときは部屋に鍵をかけて、僕のことも入れてくれません。『私だったら、息子にそういう姿を見られたくないから』って、女房のその言葉を聞いたとき、やっぱり胸にじいんときました。なかなか(便が)出ないときには、ゴム手袋をして出してやっているんだそうです。あいつに比べたら、僕のやってきたことなんか、ほんと見せかけだなあ……」
私が自宅を訪ねた際、妻の保子さんは、
「まず、うちで一番大切な人に会ってくださいね」
と言って、福田さんの母堂が休んでいる部屋のドアを静かに開けた。保子さんがそう言ったことを、たぶん福田さんは知らない。
「僕がタイに行ったあと、うちの両親は、『息子さん、どちらに?』と人から訊かれて、『えらい遠いところに行ってしまって』と答えていたと思うんですよ。僕は、上に姉が二人いるけれど、一人息子ですから。これで親父が来れば、ようやく両親とまた一緒になれる。それで、ふたり一緒の部屋で逝《い》ってもらいたい。親父もおふくろも、僕はここで、タイのバンコクの自分の家で看取りたいんです……」
福田さんは、「奇跡の鉄」のプラシットさんに会ったとき、母親の病気のことを初めて詳しく話した。その場で治療を約束したプラシットさんは、おそらく母堂の生命力を励ますために、もうすぐ福田さんの家にやって来る。
第六章 経済危機から遠く離れた島にて〈インドネシア〉
海上に稲光が立て続けに走っている。
暗闇の中、目を凝らして懐中時計の文字盤を読み取ろうとした私は、その閃光でいまが午前一時過ぎであることを知った。船がジャワ島東部のバニュワンギ港を出たのが午後一時過ぎ。すでに十二時間が経っている。
「長栄丸(兵庫)」の文字が船腹にそのまま残っているこの船の甲板を、もし何も知らぬ人が見たら、海に漂う難民船と見まがうにちがいない。いま船が向かおうとしているジャワ海のカンゲアン諸島に住むバジョ人やマドゥラ人が、二百人ほどにもなろうか、多くは家族連れで雑魚寝《ざこね 》をしている。人と人の隙間《すきま》という隙間は、彼らが持ち込んだ米や唐辛子、甘く熟れた香りを放つ熱帯の果実、新品の自転車などで埋め尽くされていた。丁子《ちようじ》たばこのちりちりと焼ける匂いが、鼻孔をくすぐる。私は努めて休もうとしたが、アリや小さなゴキブリに何度も眠りを破られた。
汽笛が強く鳴った。いつのまにか船着場のあるスペカン島が、おぼろ月夜の下に黒々とした姿を見せていた。起伏の少ない小島で、深夜だから当然なのだけれど、灯火もほとんどなく、ずいぶん遠くに来てしまったという思いが強い。体調をいささか崩していた私には、心もとなさも募る。
インドネシアの首都ジャカルタから、飛行機とクルマと船を乗り継いで、足掛け三日に及ぶ長旅であった。船着場のスペカン島から、さらに高速艇で二十分余り夜の海を疾走し、私はようやく同行の高城《たかじよう》芳秋さんが経営するパリアット島の真珠養殖場に辿《たど》り着いた。
翌朝、まぶしさのあまり目覚めた。カーテンを開けたら、胸を突かれるほどの輝きで、エメラルド・グリーンの海が広がっていた。外に出て海を見ると、珊瑚礁の上をオレンジやマリン・ブルーの熱帯魚がのどかに泳いでいる。純白の水鳥が、海面すれすれをかすめるように飛び去っていく。私は、壮大なマジックを見せられたような気分になった。昨夜の暗く不安な海が、一夜にして姿を変えている。
そして、私がいまいる宿舎そのものも、トリックの道具立てみたいに思えてくる。海上に忽然と現れたペンションと言おうか、遠浅の海に数十本の柱を立てて足場を築き、その上に白い壁と緑の屋根の洋風家屋を載せたもので、豪華な高床式の建造物が海の上に突如として出現した姿を想像していただければよい。
私が泊まった部屋は、ホテルのスウィート・ルームほどの広さで、大きめのシングル・ベッドが二台あり、自家発電のおかげでクーラーや冷蔵庫も使えるうえに、バス・ルームでは熱いシャワーも出る。
リビングとダイニングを兼ねた大広間に行くと、高城さんがソファーに身を沈めてテレビを観ていた。
「また落ちましたよ。一ドル=一万二千五百ルピアです」
高城さんが、画面から目を離さずに言う。なんとここにはCNNなどの衛星放送まで入るのである。きょう三月十五日、インドネシアの通貨ルピアのドルに対するレートが、九七年七月時に比べ五分の一にまで下落してしまったことを、CNNは伝えている。もし仮に一ドルが六百円になってしまったら、我々日本人の生活はどうなることか。それなのに、この現実感の乏しさといったらどうだ。インドネシアのこの経済危機と、南海の離れ小島にいる自分とが、衛星放送でいとも簡単に結びつけられてしまう現実も、私にはバーチャル・リアリティ(仮想現実)のように思えてならない。
やがて画面に、ジャカルタの国立インドネシア大学でデモをしている学生たちの姿が映し出される。いったいぜんたいこれはどこの国で起きていることなのか。決して絶海の孤島にいるからではなく、私はジャカルタにいたときも同じ違和感を抱いていた。
日本を含む外国のメディアがさかんに報じる「インドネシア危機」と、インドネシアでの日常とのあいだには、私が日本で感じるメディアと現実との齟齬《そご》をはるかに上回るものがある。この隔絶は、どこから来るのだろうか──。
高城芳秋さんは、バリ島の北方かなたに散在するカンゲアン諸島で、「南洋真珠」と呼ばれる真珠を養殖している。養殖場の総面積は、日本の真珠の大産地として知られる志摩半島の英虞《あご》湾よりも一回り広く、インドネシア国内でも最大級の規模を誇る。加えて、養殖場のあるパリアット島には、
「インドネシアの養殖場で、これだけ施設が整っているところはないでしょう」
と自任する最高級の宿舎が建ち並んでいるのだった。
余談だが、ジャカルタにある高城さんの自宅の隣は、あのデビ夫人の住まいで、夫人宅のファックスが故障したときなど、老執事が高城さんの家にファックスを借りにきたこともある。デビ夫人は、ジャカルタの親しい日本人ママがいるカラオケで、「無法松の一生」を歌うのがことのほかお好きとか。
さて、以上の短い紹介から読者が連想される人物像と、高城さん本人とは、たぶん百八十度異なる。どちらかと言えば小柄な、飄々《ひようひよう》とした学究肌の人物で、四十七歳という年齢よりもずいぶん若く見える。歩く姿も飄々としていて、腕を脇につけたままほとんど振らず、肩も揺すらず、影のように歩くから、どこへ行ってもインドネシアの風景に溶け込んでしまう。高城さんと並んで歩くとき、街角や村里で所在なげに座ったりしゃがんだりしているインドネシア人の凝視を浴びるのは、決まって私のほうであった。
「学生時代に何度か旅行でインドネシアに来て、一九七五年からここにいるわけですが、ずっと旅を続けている感じかなあ」
他人事《ひとごと》のように、そうつぶやく。本当にやりたいことは別にあって、
「真珠屋さんは“仮の姿”」
というのである。その話は後述するが、「旅」の途上にしては、パリアット島に建設した施設は、ちょっと贅沢すぎはしまいか。高城さん自身は、ほとんどジャカルタにいて、この養殖場を訪ねることは滅多にないというのに。
「日本人の(真珠養殖の)職人さんがいま一人いて、もうすぐ二人になるんですよ。人生の貴重な時間を、あの島の空間で過ごすわけだから、できるだけ快適にしてあげたいと思いまして。私もむかし同じような島にいたとき、貴重な人生を楽しんでいないという気持ちが強かったので、私以外の人がそういうめにあったらいけないですから」
穏やかに語るのだけれど、当時の高城さんの体験を詳しく聞くに及んで、私は言葉を失った。
場所はインドネシア領だが、ジャカルタやバリ島よりもはるかにフィリピンに近いハルマヘラ島という、ねじ曲がったヒトデのような奇妙な形の島である。時は一九七五年、ベトナム戦争がサイゴン陥落で終わった年に、高城さんの「人生で最悪最低のとき」が始まる。
ハルマヘラ島には、その頃のインドネシアの大物将軍が経営する真珠会社の母貝集荷所があった。鹿児島から上京して大学を卒業した高城さんは、しばらく東京で働いたのちに、大学の恩師の紹介で、このインドネシアに拠点のある真珠会社に就職したのである。
ハルマヘラ島へ行くには、ジャカルタから早くても五日、遅ければ一週間以上もかかった。四国と同じくらいの大きさの島で、島内に広がる大密林にはマラリアが猖獗《しようけつ》を極めており、踏査した者は絶無に近く、海岸沿いに点在する集落にいくつかの民族がばらばらに暮らしているばかりであった。
インドネシアは、アジアでも屈指の多民族国家である。アメリカ大陸がすっぽり収まるほどの東西の広がりを持つこの国には、およそ一万三千の島々があり、言語の異なる二百数十もの民族がいて、大都市ジャカルタにスーツ姿のビジネスマンがいるかと思えば、ニューギニア島のイリアン・ジャヤには石器時代を彷彿《ほうふつ》とさせる裸族がいる。
高城さんが腰を据えたハルマヘラ島北西部の海岸には、歩いて十分くらいの所に半農半漁の生活をしている先住民の集落があったが、接触もあまりないまま、日本人たった一人の生活が続いた。南洋真珠の母貝となる白《しろ》蝶貝を島民のダイバーから買い付け、海に沈めて管理をする、それだけが仕事であった。
「文明や文化といったものからまったく遮断された土地で、ロビンソン・クルーソーみたいな生活をしてたんですよ。ニッパ椰子の葉で屋根を葺《ふ》いた掘っ立て小屋に住んで、井戸も自分で掘りました。夜明けとともに起きて、日没とともに眠る生活です。目の前にはコバルト・グリーンの海が広がっていて、聞こえてくるのは波の音だけ。トイレがないから、島の人と同じように浜辺に穴を掘ってウンコをするんです。月明かりの下で、シャバーッ、シャバーッ、サラサラっていう波の音を聞きながらウンコをしていると、天《あま》の川が手の届きそうなくらいに見える。なんだか宇宙と一体になっているみたいで、私はあのとき古代人の心を体験していたんだと思います。うらやましい? でも、これが来る日も来る日も続くんですよ。一番つらかったのは、任期に期限がないから、この生活が延々と続くんじゃないかということなんです。世界からぽつんと取り残された感じで、私の人生、この風景だけを見ながら終わるんだなと思いました」
この地には日本人の若い前任者がいたが、赴任中にガンになり日本で亡くなっている。彼の残していったトランクの中に日本語の本が二冊あり、読み物といえばそれだけだった。一冊は森鴎外の『青年』、もう一冊は同性愛に関する翻訳書で、トランクの底からは島民の裸の少年たちばかりを撮影した写真が何枚も出てきた。
高城さんは、対面することもなかったその日本人前任者のために小さな墓を作り、日本に住む遺族から分けてもらった遺髪を埋《うず》めた。
「私はもう寂しくて、こんなところはいやでいやで日本に帰りたくてしようがないんですが、会社の人たちに見送られて来たという手前もあるし、日本に帰ってもサラリーマンにはなれないと思ってましたから、ここで帰ったら自分はダメになると言い聞かせたんです。そのうちだんだん自分で自分を見失っていくんですね。いま振り返ると、精神的におかしくなっていたと思います。ひとりごとをいつも言って、ときどき笑ったりしていました。それから誇大妄想というか、俺はこの島の王様で、原住民たちの上に圧倒的に君臨しているんだと思いはじめる。十カ月島にいて、二カ月休みで日本に帰るというサイクルだったんですが、たまに日本に帰ると、逆にみんなが自分を見て笑っているような気がしてくるんですよ。鹿児島の家で食事をしているとき急に怒りだして、家族をびっくりさせたこともあったなあ」
島での食事は毎日ほとんど変わらず、タピオカという芋の一種やサツマイモ、あるいは大量に持参したインスタントラーメンを主食に、近海で採れた魚をおかずにしていた。
そのとき夢に見るほど食べたかったものは何かと、私は尋ねた。鹿児島の郷土料理や寿司、ラーメンといった返事を予想していたら、高城さんは即座に、
「野菜サラダですね」
と答えた。
「そのうち『瞬間移動』ができるようになりまして……。信じてもらえるかどうかわかりませんが、目をつぶって自分の行きたいところの光景を懸命に思い浮かべると、そこに行けるんですよ。たとえば、鹿児島の家の自分の部屋。あそこに行きたいと思って、神経を集中させてから目を開けると、私は鹿児島の自分の部屋にいて、天井の木目の模様とか畳やふすまの様子なんかも、実際に目で見るのとまったく同じように見えるんです。そうやって、おばあちゃんの家にも何回も行ったなあ。季節まで選べて、秋がいいなと思うと、近所の人が落ち葉を焼いている音や臭いまではっきり感じられます。これで三十分は楽しめますよ(笑)」
ある日、いつものようにぼんやりと海を眺《なが》めていたら、探検隊員がよくかぶるような白い帽子に白いサファリ・ジャケット姿の人物が、ボートに乗って浜辺のほうに近づいてきた。どうやら日本人らしく、高城さんの姿を認めると笑顔で歩み寄り、くしゃくしゃになった名刺を差し出した。名刺には「国立民族学博物館助教授 石毛直道」とあった。
文化人類学者として著名な石毛直道氏は、七六年末に民族学調査でハルマヘラ島を訪れ、その後『朝日新聞』に連載した記事(『サゴヤシの村から──ハルマヘラ調査ノート』七七年一月三十一日〜二月八日夕刊)の中で、この島の森に住むと言われる「透明人間」と「巨人」について触れている。
「透明人間」とは、十七世紀初頭にオランダの侵略がハルマヘラ島に及ぼうとしたとき、それを嫌ったある一族が魔法で姿の見えない人間に変身したというもので、以来ハルマヘラ島には何千、何万もの透明人間が暮らしている。一方の「巨人」は、「歯は斧のように大きく、体毛は鉛筆ほどの太さ」もある人間で、「いつも空を向いて歩き、人を食おうとするときだけ、下を向く」という。いずれも、島民たちに伝承されてきた話として紹介されているのだが、ハルマヘラに六年間もいた高城さんは、それらが実在しても少しも不思議ではないと感ずるようになった。
「あの島は、いまだに調査がほとんどされていないと言ってもいいくらいなんですよ。島民の子供がある日、行方不明になり、どこをどう探しても見つからない。サメかワニにでも食われたんだろうと諦《あきら》めていると、一年くらいしてぽっと帰ってくる。聞けば、透明人間に手を引かれて透明人間の国に行っていたというんですね。その国は、我々人間の国とまったく変わらないそうです。私自身、そういう体験をした二人からじかに話を聞いているんですが、嘘をついているとはとても思えない。巨人にしても、身長二メートル近い巨人族が少なくとも二百人くらいは本当にいて、彼らは青い目をしているというんですね。現代の世界にそんなものがいるはずがないと思うでしょう。でも、あの島に長くいた人なら、そういうこともありうると思うはずですよ」
現在ジャカルタの野村貿易に勤める柳川《やながわ》茂夫さんも、冒険物語のような体験をしている。ニッケル鉱山の調査で、ハルマヘラの熱帯林に分け入ったときのこと──。
「密林の中に入っていくと、一緒に行った島民たちが『森の主《ぬし》』がいるから、これ以上、奥に行かないほうがいいって言うんですよ。『なぁにが森の主だ』って、そこに倒れていた大きな木に片足を乗せていたら、その倒木がずっずっと動くんです。苔が生えた木だとばっかり思っていたのが、大蛇だったんですよ。直径は三十センチくらい、長さは十メートル以上はあったんじゃないかな。とにかくあの密林に入ったら、何がいるかわからないという気になりますよ」
高城さんはハルマヘラ島を「ミステリー・ゾーン」と呼び、
「インドネシアを凝縮したような島。インドネシアも、欧米や日本の常識ではまったく計り知れないミステリー・ゾーンなんです」
と言い切った。
高城さんと柳川さんには、インドネシアに長く住んでハルマヘラ体験を共有しているという以外にも、大きな共通項がある。二人の接点となるのは、「拓殖大学」というインドネシアとは縁もゆかりもなさそうな大学なのである。
柳川さんの父・柳川宗茂《もとしげ》さんは戦前、拓殖大学(以下「拓大」と略す)を卒業後、日本軍がオランダを駆逐して占領したインドネシアで「ジャワ防衛義勇軍」(通称「PETA」)を組織し、これが日本の敗戦後、再び侵略してきたオランダに対する独立戦争時の中核となった。失脚したスハルト前大統領もその一員で、『日本経済新聞』に連載された「私の履歴書」(九八年一月六日付)の中でも、
「上官の柳川宗茂大尉(故人)も厳しい軍人精神の持ち主だったが、彼らには我々への気持ちを感じた」
「PETAでたたき込まれた闘争精神、愛国精神抜きには、我々は再植民地化のため攻めてきたオランダを撃退できなかったと私は思う」
と記している。
高城芳秋さんもまた、柳川大尉とは世代にかなりの開きがあるものの、拓大のOBなのだった。そして、インドネシアで数多くの在留邦人に会うにつれ、私は拓大出身者が戦前から戦中・戦後、さらに現在に至るまで、一貫してインドネシアと深いつながりを持ちつづけてきたことを知る。
たとえば、一九六〇年代から七〇年代にかけて、拓大にはインドネシア語を学ぶ日本人の学生が、多いときで二、三百人もおり、インドネシアからの留学生もこれまでに千人以上にのぼっている。キャンパスでは、日本人とインドネシア人の学生がインドネシア語で会話する姿が、ごく日常的な光景になっていた。インドネシア人留学生の中からは、帰国後、政財界や官界で活躍する人材が輩出し、日本人がジャカルタの中央官庁の中を歩いていると、いきなり日本語で話しかけられ、それが元拓大留学生だったということも珍しくない。国公立・私立を問わず、日本の学校がアジアの特定の国と、これだけ長く深い関係を持続しているのは、おそらく拓大だけではないか。
石橋重雄・拓大大学院経済学研究科委員長によれば、拓大に「南洋語組」ができたのは大正時代の初めで、南洋語とはオランダ語とマレー語を指していた。卒業生たちの多くは当時「蘭印」と呼ばれたインドネシアに渡り、日系の銀行や商社、新聞社に勤め、ジャカルタ日本人会会長に選ばれた者もいる。日本はアジアの“盟主”としてインドネシア人を薫陶《くんとう》しなければならぬといった、アジア主義的な考えの持ち主も、当時は多かった。こうした拓大人脈は、戦中の柳川大尉らの時代を経て戦後にも引き継がれ、いわゆる「インドネシア賠償」では最も多くのインドネシア留学生を拓大が受け入れることになる。
なかでも熱心な日本人学生たちは、サークル活動として「インドネシア研究会」を作り、朝から晩までインドネシア語漬けの夏合宿が終わると、新入部員たちは初めて、紅白模様の拓大インドネシア研究会のバッジを着けてもらえる。赤と白のインドネシア国旗をかたどったバッジで、このインドネシア研究会の出身者が、現在インドネシアにいる拓大OBたちの中心になっている。
インドネシア最大の印刷インキ製造会社「P・T・チュマニー・トーカ」の社長を務める浅間久幸さんは、その代表格と言ってよい。インドネシアで発行されている新聞のおよそ九割、雑誌の五割が、浅間さんの会社のインキを印刷に使用している。
インキの仕事をしていると、多民族国家インドネシアの現実を思わぬところで実感させられるという。この国ではどこの会社や役所にも、大統領と副大統領の肖像写真が目立つところに掲げられているのだが、浅間さんがその印刷に携わったときのことである。仕上がった校正刷りを大統領の専属カメラマンに見せると、印刷物としては申し分ないものの、これでは大統領と副大統領の肌の色が同じではないかとクレームを付けられた。ジャワ島出身のスハルト大統領の肌の色は、スマトラ島北部出身のアダム・マリク副大統領(両者とも当時)とは、インドネシア人の目にはまったく違って見えるというのである。
カメラマン氏は、次のような細かい注文を出してきた。大統領の肌の色は、オランダのバンホーテン・チョコレートの色を黄色めにして紅を少し加え、ややくすんだ色合いにしてほしい。副大統領のほうは、これに赤みを強く出し、墨を多少さして、赤銅色のように仕上げてほしい、と。
「日本人の目には同じ褐色にしか見えないけれど、インドネシア人同士は、肌の色、眉毛の形や濃さ、顔だち、体型なんかで、民族の違いがわかるんですね。こういうインドネシア人同士の民族の違いに加えて、インドネシア人と華僑(華人)の問題があるわけですよ」
浅間さんは、三十年前に日本の親会社から派遣されたときから、意識的にインドネシア人の技術者を育て上げようとしてきた。いまも一人に年間一億ルピア(百ルピア=一・四円で換算してしまうと百四十万円だが、インドネシアの金銭感覚では数千万円に相当する)をかけて日本へ研修に送り、かくして現在二百八十人いる社員のほぼ四人に一人が“日本帰り”という、インドネシアの日系企業では異例の技術者集団を作り上げた。
華人の印刷会社経営陣は往々にしてインドネシア人を見下し、以前は浅間さんの会社から派遣される技術サービスのインドネシア人を寄せつけなかったものだが、いまではインドネシア人技術者が出向かなければ仕事が回らないため、華人たちのほうからインドネシア人技術者を催促するようになったそうである。
「日系企業のほとんどは、華僑資本と組んでいるでしょう。インドネシアに長くいて、インドネシア人側から物を見ていると、日系企業にいる日本人たちの目が、いつのまにか華僑の目になってしまっていることがよくわかるんですよ。華僑と同じ目でインドネシア人を見下しているんですね」
あくまでも一般のインドネシア人の視線に近づいて物事を見るというのは、私がインドネシアで会った拓大OBたちにほぼ共通する特徴で、大学時代に養われたものにちがいない。金銭的な利害関係抜きでインドネシア人と付き合えた学生時代に知った、インドネシア人のおおらかさやひとなつこさといった魅力が、彼らのインドネシア体験の原点になっている。
「拓大というと、『嗚呼《ああ》!! 花の応援団』的なイメージがあるでしょう」
高城さんが笑いながら言った。
「違うんですよ。少なくともインドネシア関係の拓大OBは、ソフトな感じの人ばかりですよ」
三月十日の夜、ジャカルタの日本料理屋で、久々にインドネシアに戻ってきた拓大OB二人の歓迎会が開かれた。
「もう踏んだり蹴ったりですよ」
「ここまで来ると、事業計画も立てられんのです」
「あと三カ月これが続いたら、(ゼネコンの)民間(事業)は焼け野原ですわ」
挨拶もそこそこに、背広を脱いだOBたちの嘆き節が続く。そんな中、きょうのゲストの一人で、インドネシア在住歴三十三年という中島光義さんが返礼の挨拶をした。
「私は六五年にもここにおりましたが、あのとき(スカルノ政権が倒れ、スハルトが権力の座に就いた激動期)と、いまは雰囲気がちょっと似てますね。何かあるぞ何かあるぞと肌で感じますよ」
当時を知るインドネシア人もみなそう言っていると、OBの何人かが口をそろえる。中島さんは淡々とした口調で続けた。
「えらい時代になってきてみなさん大変だと思いますけれど、ここでへこたれちゃいけないですね。拓大の本領を見せないといけない。みんなが『日経新聞』を読んで、同じ方向に行こうとしているときに、別の道を行く。“人の行く裏に道あり花の山”が拓大の本領ですから。この危機を乗り越えて、さすが拓大出身者というところを示していただきたいと思います」
同じ三月十日、スハルトは七選を果たし、正式に大統領に再任された。インドネシアのテレビはどのチャンネルもスハルト再選一色で、七十六歳の老大統領を持ち上げる議員たちの退屈な演説が、いつ果てるともなく続いている。
前日三月九日の朝、高城さんは迷っていた。ここ数日来ルピアの乱高下が続いてきたが、あしたの大統領就任でルピアはさらに下落するのか、あるいは持ち直すのか。それによって手持ちの円をきょうルピアに換えるべきか否か、決めあぐねていたのである。
その前夜、つまり三月八日の夜に報じられたスハルトの発言が、高城さんの決断を鈍らせていた。スハルトは驚くべきことに、先だって受け入れを表明したIMF(国際通貨基金)のインドネシア経済救済案に対し、「国家経済は家族的友愛に基づく共通の努力で運営する」という憲法の条文を引き合いに出して、IMFの改革案は憲法に反するので受け入れがたいと語ったのである。タイや韓国とは対照的に、IMFとは一線を画すと言明したのだった。
高城さんが、ぼそっと言う。
「スハルトも肚《はら》を括《くく》ったんじゃないかなあ」
IMFの第二次借款を受けない?
「インドネシアの内情がわかっていない外部の人間は、口を出さないでくれということですよ」
どうする気なのか?
「石油の値上げをちらつかせて、日本からカネを引き出す作戦じゃないかな。インドネシアがタイや韓国と違うのは、石油や天然ガスを持っているという自信があることなんですよ。インドネシアの石油に一番依存しているのは日本なんだから、そこを突いてくるような気がする。アメリカも、すでに了解済みなんじゃないかな」
ええっ!?
「アメリカ帰りのテクノクラートたちがインドネシアには大勢いて、アメリカとの間に太いパイプがあるんですよ。そのパイプを通じて、もうアメリカとは話がついているような気がします。スハルトはそんな単純な人間じゃないもん。海千山千でこれまで生き延びてきたんだから」
日本こそ、いい面の皮だ。
「そうですよ。でも、インドネシアの経済危機を生んだ最大の原因は、日本がバブルを輸出したからでしょう。『借りてください、借りてください』と言ってインドネシア側に借金をさせておいて、いまになって『早く返せ、早く返せ』と言ってくる。もちろん日本からのカネで潤った連中もいますが、まじめに仕事をしてきた政府の人間は、日本に対して堪忍《かんにん》袋の緒が切れかかっていると思いますよ」
高城さんは、日本の新聞記者やインドネシア通の友人・知人らとこまめに情報を交換しながら、インターネットでもインドネシア関連のニュースを検索しては目を通していた。知り合いからの電話によると、三月九日、朝八時の段階で、一ドル=一万二千五百ルピア。この数字を見てからジャカルタ中心街の東京三菱銀行を訪ねた高城さんは、円の交換レート表を前にしばらく考え込んでいたが、
「よし、やめとこう」
と、この日は円をルピアに換えることを見送った。円のルピアに対するレートは、午前中だけで五円も上がっており、ルピアはさらに下落すると高城さんは判断したのである。
ところが、事務所に帰ってインターネットを見ると、またもやショッキングな情報が寄せられていた。スハルトがまもなく「新為替管理法」を発表する公算で、その場合、外貨口座の引き出しや送金の一時的な停止もありうるというのである。情報源は「ブルネイ政府高官筋」とあり、これが事実とするなら、高城さんはあした円をルピアに交換することができないかもしれない。
「困っちゃったなあ。やっぱりきょうやっときゃよかったかなあ」
高城さんは頭を抱えた。だが、翌日もそれ以降も、「新為替管理法」なるものは発表されず(この類の“がせネタ”がインターネットには実に多い)、高城さんは翌三月十日に円をルピアと交換した。金額は教えてくれなかったが、スハルトが再任された次の日の十一日、ルピアは一ドル=八千五百ルピアにまで値を戻し、高城さんは、
「きのう換えといてよかったですよ」
胸を撫で下ろしたのである。その日の夜、別の取材を終えてホテルに戻った私に、高城さんから電話があった。
「知ってますか。橋本首相がインドネシアを緊急訪問することが決まったそうです」
私が驚きの声をあげると、電話の向こうから高城さんの、いかにも広い額に手を当てて考えている顔が思い浮かぶような、くぐもった声が聞こえてきた。
「やっぱり石油ですよ。日本への石油はちゃんと確保してほしい、その代わりカネは出すからということでしょう……」
両首脳のあいだで何が話し合われたのかはわからない。しかし、ときの日本首相は、インドネシア国民の人心をすっかり失っているスハルトへの明確な支持を表明して、内外の失笑を買うことになった。
再びカンゲアン諸島パリアット島にある真珠養殖場──。
目の前に広がる海のように、ここでは時間も凪《なぎ》のごとく揺蕩《たゆた》うばかりである。
「九四年に初めてここに来たときは、漁船を乗り継いで三十五時間もかかったんですよ。雨の日にはサロン(インドネシア人がよく腰に巻く布)を頭からかぶって、雨をしのいだりしていました。いろいろ大変な思いをしてここに来てみて、いけそうだなと思ったんですよ。波がないし、潮流もいいし、天然の貝もよく採れる。交通の便は非常に悪いんですが、ここでやってみようと決めました」
先住民のバジョ人を説得するのは難しくなかった。バジョ人はインドネシアの他の地域やフィリピン、マレーシアなどでは「バジャウ人」といい、「海の人」「漂海民」などとも呼ばれる。かつては屋根付きの小舟に家財道具一式を積み込み、国境など軽々越えて、家族単位で海を自由に行き来しながら生活していたが、インドネシアでは政府による定住化政策のため陸に上がるバジョ人が増え、このカンゲアン諸島では文字通りの「漂海民」はほとんどいなくなった。
「バジョ人やマドゥラ人と話していると、距離とか時間の感覚が我々と全然違うのに気づくんですよ。丸木舟に水と米と椰子の実を積んで、魚を釣りながら平気でオーストラリアやパラオ(ベラウ)くらいまで行ってしまう。もちろん不法入国ですから、強制送還になって帰ってくるんだけど、『生まれて初めて飛行機に乗れてよかった』なんて喜んでる(笑)。彼らは、『日本に行くのも簡単だ』って言いますよ。実際、丸木舟で簡単に行くでしょう」
ちなみに、丸木舟に積み込む椰子の実は、食糧としてだけではなく燃料にも使われる。
「バジョ人は、自分たちもよそへ行って世話になってますから、外の人をすんなり受け入れるんですよ。すぐ親しくなれたなあ。私が初めて来た頃も、村を歩いているとあっちこっちから『まあ寄ってけ』『めし食ってけ』『コーヒー飲んでけ』って声が掛かるんですよ。このコーヒーが“バジョ・コーヒー”と言って、すごくうまい。そうやって持てなしてもらいながら、村長に真珠の養殖の話をしたら、『それはぜひやってくれ、やろう、やろう』って。向こうのほうが積極的だった(笑)」
すぐさま事業に着手した。南洋真珠を採る白蝶貝は、ホタテ貝を武骨にしたような、だがホタテ貝よりもはるかに大きく子供の顔くらいもある貝で、中を開いた形が白銀色の蝶に似ているため、その名が付いたという。そこに「核」と呼ばれる、貝殻を丸く加工したものを入れて海に沈めておくと、核は白蝶貝の分泌物に包まれていき、二年ほどで真珠に生まれ変わる。
この核の由来が、実におもしろい。どんな貝殻でもいいわけではなく、なぜかアメリカのミシシッピ川にしか生息していない「ピッグ・トゥ」(豚のひづめ)という貝が最適で、長年の試行錯誤の末これを発見したのが、かの“真珠王”御木本《みきもと》幸吉なのである。
高城さんが核を白蝶貝に入れて、ようやく真珠が採れはじめたのが二年ほど前である。いまではこの海域に二つの広大な養殖場を持ち、過密な養殖を避けつつ十万個もの白蝶貝を育てるまでになったのだが、ハルマヘラ島の孤独地獄からここに至るまでも山あり谷ありだった。
ハルマヘラ島を離れたあとも、高城さんは真珠会社の社員として、ニューギニア島のイリアン・ジャヤやハルマヘラ島南のバチャン島といった島々に移り住みながら、白蝶貝の採集と管理を続けてはいたものの、疲れ果てて目標も見出せなくなり、一年間日本に帰っていたこともある。けれども、やはり忘れがたくてインドネシアに戻り、拓大の先輩が経営する会社に雇われるが、ここも性に合わずに辞めてしまう。その後、再び真珠養殖の仕事に復帰し、苦労を重ねて、やっと日本企業との合弁で真珠が順調に採れるようになった矢先、合弁相手とのあいだでトラブルが起きる。
「真珠養殖の合弁というのは、苦しいときはかえっていい関係が続くんですが、珠《たま》が出始めると必ずもめるんですよ。私の見てきたかぎり、合弁のところは全部もめてます」
トラブルの詳細には触れないけれど、このとき高城さんは、日本企業の権謀術数を身をもって味わわされている。
「こっちの日本人はよく、『インドネシア人は嘘つきで信用できない』『インドネシア人に騙された』って言うけど、日本人の騙し方のほうがずっと悪質ですよ。商社なんかでも、どんなことをしてでも利益を奪い取っていくという姿勢だもん。インドネシアの民主化のために、なんて考えている商社はどこにもない(苦笑)。年輩のインドネシア人と会うと、『日本人は変わった。むかしはもっと精神性があったけれど、いまはカネのことばかり』とよく言われるんですよ。インドネシア人がそう思う気持ちも、よくわかりますよ」
日本企業との合弁を解消し、高城さんが自らの采配で、カンゲアン諸島とジャカルタ湾の二箇所にある養殖場を動かせるようになったのは、ここ数年のことである。養殖場から出荷された真珠は、ジャカルタにある自分の工場で加工され、すべて日本に輸出されている。私は知らなかったのだが、世界最大の真珠輸入国にして、かつ生産国というのが、わが日本なのである。白蝶貝から生まれる南洋真珠には、稀少価値があるうえ、質の面でも伊勢志摩などのあこや貝から採れる国産真珠に優るとも劣らない。ただし、白蝶貝に核を入れても、商品になるのは四割程度、日本の宝石店のショー・ウインドーを飾るようになるものは二割足らずだという。
高城さんが実質的に経営する「マキシム・ムティアラ・インドネシア」(「マキシム・ムティアラ」とは「大きな真珠」の意味)という会社は、華人でインドネシア国籍を有する妻のノフィさんの名義になっている。ノフィさんとは友人の紹介で知り合い、十年近くの交際を経て結婚した。夫妻のあいだには、カトリックの小学校に通う女の子が二人いる。
「私の奥さんのいいところは、家族をものすごく大事にすることかな。一番大事なのは自分のおとうさん、おかあさん、次がおにいさん、おねえさん、その次に旦那の私が来る(笑)。いや、いまはおとうさん、おかあさんの次くらいに私が来るかもしれないな。だいぶ信頼されてきたから。結婚十三年目にしてこれですから、それくらい中国人は他人を信用しないけれど、一度信用したらものすごいですよ」
高城さんの身内でも、こんな話がある。たとえば奥さんのいとこが仕事で東京に滞在しているとき、急に一千万円単位の現金が入用になったとする。インドネシアの銀行から下ろしているひまはない。ジャカルタの高城さんの奥さんに電話をすると、東京在住のある華人のもとを訪ねるようにとのこと。言われた通り会いに行くと、その見知らぬ中国人は、「ああ、聞いてますよ」と、いっさい何も訊かずに一千万円単位の札束をいとこの目の前に積み上げるのだ。
「『闇金融』とか『蛇頭』とか言われると、なんだかおどろおどろしいけれど、これが中国人のネットワークの世界なんですよ」
高城さんはいささか呆れたような表情で、そう言うのだった。
ある朝、高城さんや従業員のバジョ人、マドゥラ人と共に、小型の高速艇で養殖場に出た。
私は、これほど波静かな海を見たことがない。波が岸に打ち寄せるという表現が、この海に限っては成り立たないのである。内海にあって、台風も来ない。あたかも深山に眠る湖のたたずまいで、その色だけがエメラルド・グリーンやマリン・ブルーという南の海の色彩そのものなのである。真珠の養殖には打って付けと言ってよい。
しばらく行くと海面に、ボウリングの球のような形をしたブイが数十個浮いていて、いくつかの列を成していた。日本の養殖場では「瓶玉《びんだま》」と呼ばれる、このブイの下に白蝶貝が吊り下げられている。ゴーグルを着けて潜ってみた。おや、体がなかなか水中に沈まない。海水を口に含むと、びっくりするくらい塩辛い。この塩分の濃度のせいで体が浮いてしまうのだが、それでも無理やり身を沈めると、白蝶貝は大きな簀《す》の子状のネットに挟《はさ》まれ、海中で宙ぶらりんになってゆらゆら揺れていた。煎餅《せんべい》を両側から挟んで焼く網があるが、あれを巨大にして煎餅を白蝶貝に見立てれば、おおよそ当たっている。
海から引き揚げてみると、これが予想以上に大きくて重い。成長したもので幅が二十センチから三十センチ、大きいものは一キロ以上もある。貝に付着した海草に巣くっていた小さな海老や蟹《かに》や小魚も一緒に引き揚げられ、甲板で勢いよく跳ね返っていたが、熱帯の陽射しに射られてまたたくまに動かなくなってしまった。
肌が焼けるほど熱いので、また海に飛び込む。日焼け防止用の長袖姿にサングラスの高城さんを誘ったら、おぞけをふるうように首を振って、
「もう海は見るのもいやなの。こういう景色が大嫌いでね。もう飽き飽きしてね」
と顔をしかめた。
高城さんによれば、真珠養殖場で働く「真珠屋」には三つの「階級」があり、上から順に「珠《たま》入れ」「海事《かいじ》」「陸《おか》」と呼ばれている。最上位の「珠入れ」は、真珠の素となる核を母貝に入れることのできる、いわば「特権階級」である。二番目の「海事」は、養殖場で母貝に付いた海草などを取り払い、海水に含まれる栄養分を母貝が十分に摂取できるようにしたりする仕事である。最下層の「陸」は、陸上での運搬や掃除などで、海での仕事はさせてもらえない。日本人の真珠養殖業者の世界では、この三階級の区別が厳然としてあり、中国人に珠入れを教えた日本人が「国賊」呼ばわりされたこともあったとか。
インドネシアでも、日本人が事実上経営する養殖場のほとんどでは、陸はインドネシア人、珠入れは日本人とはっきり分けられ、珠入れの際には幕を引いて、インドネシア人に見せないようにしているところすらある。「秘伝」と言おうか、特殊技能の世界なのだろう。
「いや、珠入れはスーパー・マリオよりも簡単ですよ。あまりにも簡単すぎるから、外国人に知られたくないんです」
しれっとした顔で、高城さんは暴論めいたことを言う。だが、本当に職人芸やカンとはまるで無縁なのか。
「肝心なのは集中力ですね。珠を入れるとき、雑念のないほうがいい。私の見るかぎり、金曜日の午後とか連休前とかに珠入れしたものの出来は、がくんと落ちるんですよ。翌日の休みのことに気を取られちゃって(笑)。雑念がない人がいいんです。それで私は来月から、これと見込んだインドネシア人三人くらいに珠入れを教えてみようと思っています。日本人の同業者からは非難囂々《ごうごう》でしょうが、ここはインドネシア人の国で、私たちはインドネシア人に商売をさせてもらってるんだから、別に問題ないと思うんだけどなあ」
養殖場から持ち帰った白蝶貝を開いて真珠を出す「珠出し」を、特別に見せていただいた。これも珠入れと同じく「秘伝」のようで、真珠業者ですら目の当たりにした人は少ないという。
高城さんは、作業場の椅子に腰掛け、譜面台のような器具に白蝶貝を挟んで固定すると、ライトの光を調節して当てた。左手に持ったペンチ状の器具で貝の口をこじあけ、右手でメスに似た器具を取っかえ引っかえしながら、真珠を掻き出し、そうしてピンセットでつまみ上げる。
瞬間、潮の香りが辺りに広がった。ちょうど歯医者が白蝶貝という患者の口の中を治療している恰好だが、口から出てきたのは虫歯ではなく、銀色に輝く真珠なのである。貝の中で起こる一種の新陳代謝の産物と理屈ではわかっていても、その人工的とも言えるほどの完璧な美しさに、私は、宇宙空間から青い地球を望見したときに、誰もが発するという感嘆を思い起こしていた。
「今度はゴールドですよ」
金色に輝く真珠が、姿を現した。貝を開けてみるまで、中に本当に真珠ができているか、それがどんな形で何色をしているか、こればかりはいくら年季を積んでもわからない。いま取り出されたような金や銀の真珠が、指輪やネックレスになって日本の宝石店に陳列されると、二十万から三十万の値がつくそうである。
作業場の冷房のない一角で、高城さんは頭髪がぐっしょり濡れるほど汗をかいている。
「はい、これは刺し身用」
「これも刺し身だな」
奇妙なことを、高城さんが言い出した。
「これもうまそうでしょう」
取り出した真珠の出来がよい白蝶貝には、また核を入れて海に戻すのだが、出来の悪いものは刺し身にして食べるというのである。
「食べたことないでしょう。うまいんですよ。中国人のあいだでは、フカヒレと並ぶ南洋の珍味と言われているんです」
その夜の食卓に、白蝶貝は出た。ただし刺し身ではなく貝柱の炒め物としてだったが、ホタテよりもずっと太くて肉厚の貝柱は、たしかに美味であった。
白蝶貝の貝柱をつまみに、インドネシアの辺境では滅多にありつけない、よく冷えたビールを飲みながら、インドネシアのテレビを観ていたら、高城さんが画面に登場するアナウンサーやタレントたちを指さして、
「この男性アナウンサーはジャワ(ジャワ人)」
「女性アナウンサーのほうは、メナド(スラウェシ島の北部に住むメナド人。ミナハサ人ともいう)とオランダの混血」
といった具合に、民族あてクイズのようなことを始めた。隣に座っている、高城さんとは二十年来の付き合いという真珠職人のバングンさんに確かめると、「その通り」とうなずいている。
「わかるんですか!?」
私には、どの顔も同じインドネシア人に見えるので、びっくりして尋ねると、
「わかりますよ。だって、全然違うもん」
事も無げに言い、またテレビのほうに視線を戻して、
「この人はスンダ(ジャワ島西岸に住むスンダ人)」
「これは、スマトラ島南部のパレンバンのほうの人」
と続けるのだった。
現在このカンゲアン諸島の養殖場には、日本人以外に六つの異なる民族のインドネシア人が、九十人余り働いている。耳慣れない民族の名前ばかりで混乱されるかもしれないが、六つの民族をここでの人数の多い順にあげると、バジョ人、マドゥラ人、ジャワ人、スンダ人、バタック人、メナド人である。
「私の目から見ると、みんな外人同士ですよ。ジャワ人がバジョ人に対して感じる外人意識と、ジャワ人が日本人に対して感じる外人意識は、ほとんど変わらないんです」
一括りに「インドネシア人」とされていても、彼ら同士は顔だちや皮膚の色、体つきから瞬時に相手が「外人」であることを見抜き、そこに緊張感が生まれているのだという。また同じジャワ人であっても、服装や態度、言葉遣いなどから相手の属している階級を即座にお互い読み取り、そこにも緊張感が発生する。こうした緊張感に絶えずさらされているのが、「インドネシア人」と総称される多民族の人間関係なのだと、高城さんは断言した。
しかし、これではインドと同じ“カースト社会”ではないか。
「そうなんですよ。ここは、カーストのない“カースト社会”なんです。極端なことを言えば、上層の人間が自分より下層の人間を殺しても、動物を殺したのと同じ感覚しか持たないようなところがある。インドネシアというとイスラムばかりが強調されるけれど、ここはある意味では『インド世界』なんです。『マハーバラータ』(古代インドの叙事詩)と『ラーマヤーナ』(やはり古代インドの英雄伝説)が社会の基層にしみこんでいて、あれっていうようなときに顔を出すんですよ。たとえば、スカルノ(元大統領)にスハルトたちが権力の委譲を迫ったとき、インド神話の登場人物の話を持ち出してスカルノに退陣を同意させたのは、インドネシアでは有名な話ですよね。つまり、スハルトは正式な近代法にのっとった手続きで、権力を継承していないんです。今度は、スハルトがインド神話を持ち出されて、権力の委譲を迫られるかもしれないですよ。基層のインド世界の上に、イスラム世界が乗っていると考えたほうがいいと思います」
もうひとつ日本人に見落とされがちなのは、インドネシアの広さである。なにしろ、ひとつの国に時差が三段階もある。直線距離を測ると、ハルマヘラ島からスマトラ島の西端までの距離よりも、ハルマヘラから沖縄までの距離のほうが短い。イリアン・ジャヤで大きな地震が起きると、ジャカルタの高城さんのもとに日本の家族が心配して電話を掛けてくるが、それは距離的に言えば、フィリピン北部で起きた地震のことを東京に問い合わせるようなものだと、高城さんは笑った。
ここに二億を超える民がいる。東南アジアに住む人間が十人集まれば、そのうち六人はインドネシア人ということになる。
民族の話に戻れば、このインドネシア人の中で多数を占め、政府や国軍の要職をほぼ独占しているのがジャワ人なのである。それゆえ「ジャワ中華思想」とか、「オランダ人の代わりに、ジャワ人が他の民族の土地を植民地化している」という声も出てくる。現に、石油や天然ガスはジャワ人の居住地域以外で産出するのに、その利益で潤うのはジャワ人ばかりなのである。このような構図に、さらに経済を牛耳る華人が加わるのだから、インドネシア全土で二百数十を数える民族が重層的に入り組んだ諸相は、我々日本人には最も理解しがたいものとなる。
私たちがメディアで「インドネシア危機」に接するとき、インドネシア人全員がインフレや失業に苦しみ、その鬱憤を華人に向けて暴動を引き起こし、スハルト退陣後も先の見えない将来に不安を募らせていると考えがちである。ところが、実際はまったくそうではない。インドネシアで流行語のようになっている「クリシス・モネテール」(通貨金融危機)にとりわけ深刻な影響を被っているのはジャカルタなどの都市部で、全人口の七、八割が住む農村部では、自給自足の度合いによって地域格差がきわめて大きいのである。
「クリシス・モネテール」という単語を知っているかどうか、私はある日、一緒に海に出たマドゥラ人たちに尋ねてみた。全員が「知っている」との答え。じゃあ、その意味は?
「そりゃあ、カネがなくなるということだろうなあ」
乱杙《らんぐい》歯のいかにも人のよさそうな青年が、のんびりと答えた。すると横にいた、「水戸黄門」の佐野浅夫にちょっと似ている年配のマドゥラ人が、
「いや、それだけじゃないぞ。いままでは女房が二人持てたけど、これからは一人しか持てないということだ」
と言ったので、一同大笑いとなった。みなどこ吹く風といった表情で、陰りも屈託も見られない。たしかに米の値段は一年間で倍に跳ね上がったが、米が買えなくなったら、もうひとつの主食であるトウモロコシを食べればよいというのである。私も、トウモロコシの粉を餅状にしてバナナの葉で包み焼きにしたものをごちそうになったが、トウモロコシ独特の香ばしさがほのかにして、ついお代わりをしたほどだった。
「ポイント・オブ・ノー・リターン」
不意にこの言葉が脳裏をよぎった。国際経済の枠組みにまだほとんど組み込まれていない彼らは、いつでも昔に引き返せるが、我々日本人は幸か不幸か、もはや引き返せないところにまで来てしまっている。バジョ人やマドゥラ人のおおらかな笑顔を見るにつけ、人間は通貨や株価の上下にいちいち右往左往させられる、そんな情けない生き物ではないという、東京やジャカルタにいてはまず感じられない人間への素朴な信頼感のようなものが湧き上がってくるのだった。
「やっぱりインドネシアはミステリー・ゾーンなんですよ」
ハルマヘラ島を表現するときに使った言い回しを、高城さんはもう一度繰り返した。
「ジャワ暦では、一週間が五日で、一年が三百五十四日なんです。時間の観念からして違うわけですよ。ここは、アングロサクソンが作りだした科学とか経済理論が、通用しないところなんです。だから、インドネシア政府がIMFに対して言っていることも、わかるもん。私から見ると、IMFはインドネシアと“異種格闘技戦”をやろうとしているんです。ルールが全然違うんだから、噛み合いっこないの。国際経済の理屈が通用するのはジャカルタの一部だけで、インドネシアの経済を握っている中国人だって、いまだに『大福帳』の世界なんですから」
ところで、「真珠屋さんは“仮の姿”」で「ずっと旅を続けている感じ」と語っていた高城さんが、本当になりたいもの──、それは映画監督なのである。
もともと学生時代、四年間で千本もの映画を観たという映画青年で、その後も映画の勉強を続け、ここインドネシアを舞台に、インドネシア人の俳優を使って映画を撮影する計画も、徐々に進めてきた。すでに資金はある。ストーリーもファースト・シーンも決まっている。それらはまだ公開できないけれど、私が高城さんから聞いた体験談の中で、最も映画的だったのは次のシーンである。
高城さんが高速艇で地方に出掛け、緑の海岸線に沿って帰ってくると、突然、蜃気楼のように高層ビル群が眼前にそびえ立つ。それがアジア有数の大都市ジャカルタなのだが、彼の目には芝居で使う「張りぼて」にしか見えない。高速艇に乗っている彼に圧倒的な迫力で迫ってくるのは、ジャカルタ湾で押し合いへし合いしながら魚をとっている数百隻もの小さな漁船の群れのほうなのだ……。
船の上で揺られながら、この話を聞いた。ふと視線を海に向けると、ぎょっとするくらい大きな海蛇が、黒と黄色のまだら模様を海面に光らせながら、われ関せず焉《えん》とでも言いたげに、すいすいと泳ぎ去っていくのが見えた。
アジア新世界へ
第七章 日本人僧侶の“タイ焼き・タコ焼き作戦”〈カンボジア〉
「男ハ発情シマス」
カンボジア人のかわいらしい少女にやぶから棒にそう言われて、椅子から転げ落ちそうになっていたら、今度は隣にいたカンボジア人の青年から、
「日本人ハ飲ミ屋ガ好キデスカ」
と尋ねられた。はい、好きです。でも、その場合は「日本人はお酒を飲みに行くのが好きですか」にしたほうがいいですよ。
「体ニ絵ヲカクノヲ何ト言イマスカ」
次の質問である。入れ墨、ですね。
「入レ墨ヲスルノガ、カンボジア人ノ男ハ好キデス。日本デハ、ヤクザガシマス」
よぉく知ってるなあ。
「仲間ノタクサンイル人ヲ、英語デ『ボス』ト言イマスネ」
ええ。けれども、それは「仲間」じゃなくて「子分」ですね。
「子分デスカ。子分、子分、子分……」
ボスのことは「親分」と言います。
「親分デスネ。親分、親分、親分……」
そんなことは覚えなくていいです(笑)。
「カンボジアデハ偉イ人ノ息子ガ親分デス」
へぇー、偉い人の息子が悪いことをするんですか。
「ハイ、偉イ人ノ息子ガ悪イコトヲシテイマス」
とまあ、こんな会話を続けていると、坊主頭の渋井修さんがにこにこしながら入ってきた。
ここはプノンペン市内のウナロム寺という寺院にある日本語図書館──。渋井さんは日曜日を除いてほとんど毎日欠かさず、ここで日本語をカンボジア人の生徒たちに教えている。
私が、生徒たちの日本語が達者なのに驚かされたことを告げ、
「いったい『発情』なんていう単語、どうして知っているんですか」
と訊くと、渋井さんは、
「あっ、そんなこと言いましたか」
豪快に笑って、答えた。
「猫が発情期に『発情する』と教えたら、『人間ニモ使イマスカ』と訊くんで『使います』と答えたら、『発情』っていう言葉が生徒たちのあいだで流行っちゃったんですよ。『彼ハイマ発情シテイル』とか言って(笑)」
私は、この日本語図書館の規模にも、目を瞠《みは》った。日本の学校の教室を二つほど合わせた広さのところに、壁一面の本棚があり、二千冊以上もの日本語の本が整然と並べられている。渋井さんの友人・知人が寄付してくれた絵本や童話が大半だが、蔵書のおよそ三冊に一冊は漫画と劇画で、渋井さんの世代を思い起こさせる作品群がずらりと揃《そろ》っている。つげ義春全集、白土三平『忍者武芸帳』全巻、ちばてつや『あしたのジョー』全巻……。
「壮観ですね」
と言ったら、渋井さんは照れくさそうに、
「いや、老後の楽しみにとっておこうと思ってね」
とつぶやいた。
私は、九三年にも同じウナロム寺で渋井さんと会っている。自衛隊のPKO(平和維持活動)と日本のNGO(非政府組織)を取材しているときに、日本人のお坊さんがいると聞き、じかに訪ねていくと、黄衣に身を包み、頭も眉もきれいに剃った渋井さんが飄然《ひようぜん》と顔を出した。ちょうど国連ボランティアの中田厚仁さんが殺害されて日の浅い頃で、渋井さんは中田青年を荼毘《だび》に付したことを淡々と語った。
「私も含めて、ここで死ぬかもしれないということは、いつも考えてなきゃいけないでしょうね。そういう覚悟がなければ、この国にはいられないですよ」
そのときの取材ノートを繰ると、渋井さんの発言が目に飛び込んでくる。
「この国では情熱なんて役に立ちません。希望も役に立たない。じゃあ何が役に立つかというと、ひたすら持続するエネルギーだけですね。とにかくあきらめないで、やり続けることしかありません。それには好きじゃなきゃできないです。僕も、望みなんてとっくの昔に断ち切られてますよ……」
それから五年後──。久々に東京で再会した渋井さんは、かなり太ったように見えた。頭は相変わらず丸坊主だが、眉毛が黒々と伸び、黄衣ではなく作務衣《さむえ》を着ている。渋井さんは、十年間つとめた上座部《じようざぶ》仏教(いわゆる「小乗仏教」のことだが、これは大乗仏教側からの蔑称なので、ここでは使わない)の僧職を離れて還俗《げんぞく》していたのだった。日本での僧籍はそのままなので、眉毛は伸ばしても頭だけは丸めているのである。
つくづく思うのは、眉毛ひとつで人の印象ががらりと変わってしまうことだ。以前はどこから見てもカンボジア人のお坊さんとしか思えなかったが、いまは濃い眉毛で顔が引き締まり、体型もふくよかになっているから、まるで別人の趣がある。
毎朝、二枚刃のカミソリで剃り上げるという頭を撫でながら、渋井さんは、
「今度これをやろうと思うんです」
バッグの中から、何やらもぞもぞと取り出した。四角い鉄板に、魚の形の窪《くぼ》みがついている。なんとタイ焼き器ではないか。
「いくらすると思います? 三千四百円ですよ」
きょう浅草の合羽橋《かつぱばし》へ行き、買ってきたところなのだと言う。
「カンボジアで、タイ焼きと、それからタコ焼きをやろうと思いましてね。タコ焼きには、タコの代わりにイカを入れて、『タイ焼き・タコ焼き作戦』ですよ(笑)」
冗談を言っているわけではない。カンボジアには、地雷で手足を失った人が三万人もいると言われ、職もなく生活苦にあえいでいる。彼らが車椅子のまま乗れて運転もできるオート三輪(オートバイの横や後ろに台車を付けたもの)を作り、タイ焼きやタコ焼きの道具を積み込んで商売に出られるようにしたら、自活への道が開けるのではないかという、独自な発想からなのだった。
「それがうまくいったら、次にパン工場を作ろうと思ってます。カンボジアには(フランスの植民地だったため)フランスパンはあるけれど、ブドウやナッツの入ったおいしいパンとか、スポンジケーキみたいなものはないですからね。日本からパン作りの職人さんを呼んで、作り方を車椅子の人たちに教えてもらうんですよ。そうして彼らだけでパンが焼けるようになったら、パンのケースをオート三輪に積んで、ダーッと売りに行ってもらおうと思ってます。この工場を、まずプノンペンに作ってですね。それからカンボジアの全州に一箇所ずつ作っていけばですよ。将来はきっとカンボジア全国にですねえ……」
心は東京からすでにプノンペンに飛んでいるかのように、渋井さんは話しつづけた。
この章から、アジアとの新しい関わり方を模索している定住派日本人たちにご登場いただこう。共通項をあえてひとことで言えば、「ボランティア」である(だが、この言葉が帯びている一般的なイメージとは、ひとまず切り離して考えていただいたほうがよい)。
NGOやNPO(非営利組織)を含む日本の諸団体から派遣されてきたボランティアではない。あくまでも個人でボランティア的な仕事を続ける日本人たちのことである。
おそらく彼らには「ボランティア」という意識はないかもしれない。だが、ラテン語の「自発」「志願」を語源とするこの言葉の最も忠実な実践者は、たとえばこれから詳述するカンボジアの渋井修さんのような人ではないか。
九五年の阪神淡路大震災で、「悲劇の中の光明」と注目を浴びたのは、個人のボランティアの活躍であった。誰に頼まれたわけでもない。自分の意志で、自分なりに、自分のできることを行う。そのような動きの底流は、高度経済成長期以降の日本人のあいだに徐々に生まれつつあったのだろうが、地下水が湧き水となって溢《あふ》れ出るように、はっきりと目に見える形で現れたのは、私の見るところバブル経済の崩壊後である。
カンボジアで「タイ焼き・タコ焼き作戦」のようなユニークな発想をする渋井さんは、そのような日本人の先駆者の一人と言えるかもしれない。
ユニークと言えば、渋井さんの半生もユニークなことこのうえない。
一九四七年、東京・渋谷に四人兄弟の末っ子として生まれた渋井さんは、どうしてそうなったのかは本人もわからないのだが、中学生の頃にはすでに、“一流大学”から“大企業”へというような人生だけは歩むまいと固く決意していた。
学生時代には芝居にのめり込み、大学を中退して新劇の役者になった。当時はベトナム戦争のさなかで、一緒に反戦運動をした役者仲間に、いまや個性派俳優として知られる蟹江敬三と石橋蓮司がいた。
三年間役者を続けたものの目が出ず、「やっぱり『食う』という人間の基本から始めたい」と、沖縄の西表《いりおもて》島に飛んで、農業を始めることにした。「日本のアマゾン」と呼ばれる原生林が広がる日本最南端の島々のひとつで、丸太小屋を建て、サトウキビを作り、牛や山羊を飼った。気が向けば、山で猪を追い、海で魚を突く。たった一人の「自由奔放、勝手気ままな生活」を、実に六年間も続けた。
「この西表島での生活がなかったら、カンボジアでの生活はできなかったですよ」
と渋井さんは振り返るのだが、そんな西表島での生活にも次第に行き詰まりを感ずるようになる。
「あの島にいると、圧倒的な自然の力を前にして、人間がいかに無力な存在であるかがよくわかるんですよ。なんだかんだ言っても、台風が来てサトウキビ畑をなぎ倒していくのを、人間は止められないわけです。そういう自然の中で暮らしているうちに、何があっても動じない自分、確固たる自分を作り上げたいと思うようになったんですよ。それができるのは、僧侶になることじゃないかって。もうひとつは、ああいう好き放題の生活をしていると、逆に自分を律するものが欲しくなるんですよね。戒律のような枠組みの中で生きてみたくなったんです」
仏教の中でも空海の教えが好きで、山岳修験道に心ひかれた。早い話が、山伏になりたかったのである。それも、西表島で覚えた山遊びの楽しさが忘れられなかったからというのが、いかにもこの人らしい。
七七年、三十歳で得度をして東京の品川寺に入り、秩父山地などで山伏の修行をした。当時、カンボジアはすでにポル・ポト時代である。ポル・ポト政権が極端な鎖国政策をとっていたため、内情はほとんど伝わってこなかったが、やがて八百万人の国民のうち百数十万とも二百万とも言われる人々が処刑や飢餓で死んだ、戦慄すべき大虐殺の実態が明らかになっていく。
その知らせは、かつてベトナム反戦運動に加わったこともある渋井さんの胸を突き刺した。ヒットラーのユダヤ人虐殺もスターリンの大粛清も、自分が物心つく前の出来事だったが、ポル・ポトの大虐殺は違う。自分が東京の寺で読経をしたり、箸でご飯を口に運んだりしていたまさにそのときが、カンボジアでの虐殺の一瞬一瞬だったのだ……。
「自分はせっかく僧侶になっているのだから、カンボジアへ行って、亡くなった方々の供養をしてさしあげたい」
思い立ちはしたものの、つてもなければ知り合いもいない。おりよく品川寺にタイ人の僧侶が留学していたので、まずはタイで上座部仏教の僧侶となり、それから機を見てカンボジアに入ろうと心に決めた。
日本でタイ語を学び、タイ人の僧侶に紹介されたバンコクの寺に赴いたのが、八七年、ちょうど四十歳のときである。その二年後、カンボジア行きを決意して十二年目にして、渋井さんはカンボジアの土を初めて踏んだ。
このように渋井さんの半生は起伏に富んでいるが、二十歳、三十歳、四十歳、五十歳と十年ごとに転機が訪れている。孔子の『論語』になぞらえれば、次のようになろうか。
吾《われ》、十有五にして、自由に生きんと欲す。二十にして、大学をやめ役者を目指すもかなわず、沖縄の西表島に移り住む。三十にして、東京に戻り、真言宗の僧侶として得度。四十にして、タイに渡り上座部仏教の僧侶となる。
そして、五十にして「天命を知る」じゃなかった、カンボジアで還俗するのだった。この節目を区切ったかのような転機は、決して偶然によるものではあるまい。
プノンペンは一国の首都とはいえ、人口百万人程度のこぢんまりとした街である。都市としての規模だけを比べたら、東南アジアのほとんどの首都よりも小さく、日本のたいていの地方都市に及ばない。オートバイに乗れば、あっという間に中心街を一巡することができる。
雨期のプノンペンには、いつもドブ臭さがかすかに漂う。あちこちにできた水たまりをぴょんぴょんとよけて歩くものだから、私のスニーカーやジーンズは泥のはね《ヽヽ》だらけだ。水たまりには、車輪をつたって流れ出たガソリンの油膜が浮き、泥水をときおり虹色に光らせて見せる。その水たまりはまた、泥水をぺちゃぺちゃとなめる皮膚病の犬の浮き出たあばら骨を、さびしく映しだしたりもしている。
おや、珍しくロング・ソックスをはいた男性がやって来ると思ったら、片足に義足をつけた、おそらくは地雷の犠牲者であろう。知り合いと談笑しながらこちらに歩いてくるのだが、ピノキオみたいな足の運びが痛々しい。
渋井さんのいるウナロム寺の隣に広がるカンダール市場に差しかかったとき、甘く熟れきったような、一種ぬかみそにも似たにおいが鼻を突いた。ドリアンの市が立っているのだ。あばら屋の軒下に、ラグビー・ボールほどもある果実が、下のほうは泥まみれになって積み上げられている。
「キノウココデ人ヲ殺シマシタ」
えっと言って振り返ると、声の主は、渋井さんの教室で日本語を学んでいるテアリー君という青年であった。冒頭で日本のヤクザや入れ墨のことを尋ねてきた生徒で、祖父の代にカンボジアに来たという華人の三世である。まさか彼が殺人を犯したわけでもあるまいから、
「誰が誰を?」
と訊けば、
「失恋シタ女ガ男ヲ殺シマシタ。ソシテ自分モ殺シマシタ」
つまり、こういうことらしい。別れ話に逆上したカンボジア人の女性が、きのうこの市場で男性を殺し、その直後に自分もピストルで命を絶った。カンボジアでも珍しい、女性の側からの無理心中事件なのである。男をナイフでめった刺しにしたあと、ピストルでとどめを刺したというのだから、なんとも凄まじい。
こんな事件が身近で起こるのが、カンボジアの悲しさである。銃器は誰でも簡単に手に入る。私が前に通訳兼ドライバーを頼んだカンボジア人の青年も、運転席のそばにピストルをつねに忍ばせていた。一家に一丁は銃を持っているという街の噂は、誇張でも何でもない。
テアリー君が話していた「偉イ人ノ息子ガ悪イコトヲシテイマス」のほうも、すぐにそれを裏付ける事件が起きた。九八年六月末、私がプノンペンに入る直前に、地方でイラン人男性の惨殺死体が発見されたのだが、その犯人の一人として、間近に迫った総選挙にフン・セン第二首相の人民党から立候補を予定していた高級官僚の息子が逮捕されたのである。殺人の動機は、偽造パスポートの取引のもつれだった。
総選挙が近づくにつれ、街の治安は明らかに悪くなっている。私が前日その前を通った遊園地の人込みに、いきなり手榴弾が投げ込まれ、一人が死に十数名が負傷する事件もあった。
渋井さんも、夜間の外出はなるべく控えている。夜九時過ぎまで私と外食をしたときなど、そのレストランに乗りつけたバイクを近所の教え子の家に預け、ウナロム寺まで歩いて帰っていった。突然ピストルを突きつけてオートバイを奪う強盗を警戒してのことである。
「寺の中が一番安全なんですよ。(強盗たちも)ここだけは襲わないという暗黙の了解があるんです」
なるほど、なるほど。でも、毎晩取材を終えて、すっかり暗くなった夜道を、ウナロム寺から一泊十二ドルの安宿まで歩いて帰らねばならない私の安全は、いったいどうなるんでしょうか。とかなんとか、ぶつぶつ言いながらも、途中のビア・ハウスに今夜も引っ掛かってしまう、ダメな私ではあった。
タイの名刹より地味で落ち着いた伽藍《がらん》と、アンコール・ワットを思わせる彫刻が美しいウナロム寺は、カンボジア上座部仏教の「総本山」と言ってよい。この寺の住職を務めるテップボーン大僧正は、事実上カンボジア仏教界の頂点にあり、最高権力者のフン・センですらこの老僧の前では額《ぬか》ずく。渋井さんは、最初からテップボーン大僧正のお気に入りで、たいがいの希望は聞き入れてもらえるようになっている。
ウナロム寺に入って二年余りのあいだに、渋井さんはカンボジア全土を巡り、ポル・ポト時代に虐殺された人々が埋葬されている四十箇所もの地で、ねんごろに供養をした。ただし、多くの場所では遺骨が埋葬されておらず、吹きさらしのまま山積みにされたり、頭蓋骨が無造作に並べられたりしていた。そこで手を合わせお経を唱えていると、目の前の数百、数千の髑髏《どくろ》たちが、じっと耳を澄ませて経文に聞き入っているかのように思えてくる。子細に見れば、ある者は口をあけて何かを叫んでいるようでもあり、ある者は黙して深い思いに沈んでいるようでもあり、髑髏のひとつひとつがまったく違う表情をしていることにも、渋井さんは気づいた。
虐殺の地に立つたびにこみあげてくるのは、なぜこのようなことが起きてしまったのかという疑念だったが、その答えは、渋井さんの内部で徐々に、かつて日本にいた頃には思ってもみなかった形となって像を結ぶことになる。
ひとまず慰霊の旅を終えた渋井さんは、ウナロム寺で日本語教室を開こうと思いつく。そこで、寺に住み込み日本語を勉強する生徒を公募したら、たちまち百家族以上ものカンボジア人が子供を連れて押しかけてきた。当時、日本政府は米中とともにポル・ポト派を含む野党連合への支持を変えておらず、そのため日本語教室の開催にカンボジア政府側はよい顔をしなかったのだが、渋井さんはともあれ十八人の生徒を選んで、日本語教室を開始する。
カンボジアで最初の本格的な日本語教室(少なくともポル・ポト時代以降では)を始めたのは、「単に日本語を教えてみたかったから」である。
渋井さんの行動パターンは、いつもこうだ。考えてから走るのではなく、走りだしてから考える。理屈はあとで付ければよい。このときの理屈は、カンボジアの若い世代が日本語の学習を通じて、カンボジア以外の文化や価値観を知り、それをカンボジア社会のために生かしてもらいたいというものである。いずれは日本への留学生も送りだしてみたいと、渋井さんは漠然と夢見ていた。
渋井さんが、カンボジアの地方から来た子供たちを預かってみて感ずるのは、むかしの日本の子供らを見ているような懐かしさである。笑うときも泣くときも大声で、すこぶる元気がよい。大勢の兄弟に揉まれて育っているから、集団の中での自分の位置をわきまえている。その代わり、躾《しつけ》はまるでなっていない。田舎には便所がないところも多いから、そこでの習慣をそのまま持ち込んで、戸外やベランダにウンコをしてしまう。
喧嘩は日常茶飯事で、たいていは年上の子が年下の子に掃除や皿洗いを押しつけ、下の子が文句を言うと上の子がポカリとやる。それで大泣きとあいなるのだが、そのうち渋井さんは泣き声だけで誰が泣いているのか見当が付くようになった。
「ワーン、僕ばっかりにやらせる、ワーン、僕ばっかりにやらせる」
と泣いていたら、タイ国境の近くから来た小学校二年生のソチュットである。一度泣いてから、
「ずるいよ、僕たちばっかりにやらせて。おまえなんか、便所に落ちて死んじまえ」
と反抗して、またポカリとやられて泣いていたら、プノンペンの西方から来た小学校一年生のコムである。つまり、ソチュットは泣いている時間は長いけれど一回きりなのに、コムのほうは断続的に泣くのである。
こういう子供たちの中から、開講早々、渋井さんの期待に応えてくれそうな生徒が現れた。とにかく語学のセンスがずば抜けていて、授業以外のときにも独学でどんどん先に進んでいく。渋井さんを訪ねてきた日本人の女性客が帰ったあと、そっと近寄ってきて、何を言うのかと思えば、
「彼女、乳房《チブサ》ガ大キイデスネ」
小学生のくせにびっくりするような日本語を使う。
あるときは半ズボンの股間のあたりをぼりぼり掻きながら、
「ウーン、睾丸《コウガン》ガカユイ」
なんてひとりごとを言っている。
渋井さんが「ダントツ小僧」と名付けたこの少年と対照的なのが、ポン君というアンコール・ワットのほうから来た少年と、ポーキー君というウナロム寺近くの親元から通ってくる少年である。二人とも真面目すぎるほどの堅物《かたぶつ》なのだが、不器用で機転もきかない。それが七年後のいま、ポン君は渋井さんの代わりに日本語の初級コースの先生を任せられるまでに成長し、ポーキー君のほうも日本語ガイドの試験に合格して、日系の旅行会社に就職している。
かの「ダントツ小僧」はどうなったかというと、途中でいわば「失速」してしまったのだった。抜群にできることを鼻に掛け、寺での共同生活のルールを守らなくなったのである。掃除はさぼるわ、料理は人に押しつけるわ、渋井さんの計らいで英会話学校にも通っていたのだが、その学費までゲームセンターに注《つ》ぎ込んでしまう。渋井さんが叱ると、殊勝な顔で、
「本当ニ申シ訳ナイコトヲシマシタ。親ノヨウニ可愛ガッテクダサッタ先生ノ恩モ忘レテ、勝手ナコトヲシテシマイマシタ」
ほれぼれするような日本語で言う。
それでもさぼり癖は直らず、渋井さんは最後通牒を突きつけた上で様子を見たのだが、懲りずに悪さを繰り返したので、とうとう寺から放逐《ほうちく》したのだった。最後には本人も観念しきった様子だったと、渋井さんはむしろ冷静に回想するのだが、寝食を共にし大きな期待をかけた子供に自ら引導を渡した、その悔しさはいかばかりだったか……。
さて、いざ日本語を教えるといっても、カンボジアには教材がまったくない。
渋井さんは、まず手元にあった一冊の日本の辞書をばらばらにして、どんな具合にページを束ね、糊づけし、糸で結んでいるかを丹念に調べた。表紙が薄いものと厚いものとの違いも、細かく検討した。こうして実地に製本の仕方を身につけてから、日本語の教科書や辞書をコピーしたものを一冊の本に綴《と》じていったのである。渋井さんが自分一人で製本した書籍の数は、わずか四カ月で三百冊以上にのぼった。
今度は、それらの本を収納する場所が要る。大工仕事は役者時代の大道具・小道具以来のお手の物なので、本棚をいくつも作り、ついでに日本語教室の机や椅子、黒板から下駄箱や傘立てに至るまで、楽しみながらこしらえた。
それで私は合点がいった。日本語図書館にある椅子の中に、背もたれが異様に高いものがあり、てっぺんに意味不明の水車がついていたり、扇風機を取り付けた板が、どう見ても漫画の『デビルマン』の姿にそっくりだったりしたからである。
「同じものばっかり作っていると飽きるから、変化をつけているんです。単なる遊び心ですよ」
と、渋井さんはとぼけていたが、まあ子供みたいな人ではある。
おりしも、ウナロム寺のテップボーン大僧正から、ポル・ポト時代に破壊されたこの寺の「仏教学院」を、日本からの援助で再興してもらえまいかとの依頼が舞い込む。
かつては全国に六万五千人もいた僧侶は、ポル・ポト時代に殺されたり還俗を強制されたりして、わずか三千二百人にまで激減した。ウナロム寺でも、六百人いた僧侶が、ポル・ポト時代が終わったときには、たったの二十三人になってしまった。その後、僧侶の数は急速に持ち直したものの、パーリ語の経典を学んだりする仏教学院は、ポル・ポト時代に破壊されたままになっている。
渋井さんも、カンボジアの復興は仏教の再興なくしてはありえないと思っていたから、テップボーン大僧正の意を受けて日本に帰り、高野山を中心に千二百万円の寄付を集めて、プノンペンに戻ってきた。カンボジア人の大工に混じって、自分でもセメントを練り、かなづちを振るって、二階建ての立派な仏教学院を新築した。机や椅子はもちろんのこと、窓や扉なども渋井さんと若い僧侶たちの手作りである。
おまけに、このとき余った資材で、渋井さんは図書館まで建ててしまった。おもてのよく目立つところには、日本語で、
「日本語図書館 よい子文庫 海賊館」
と大きく記した看板を掲げた。「海賊館」と名付けたのは、無断でコピーした海賊版の本が多いからだが、「よい子文庫」としたわけは、渋井さんにもよくわからない。ただなんとなく勝手に「よい子文庫」にしてしまったのだという。
かくして仏教学院と日本語図書館を完成させ、図書館の上の階には子供たちの勉強部屋兼寝室まで作り上げた渋井さんは、新たに木工と鉄工のできる作業所を設け、現在はそこで「タイ焼き・タコ焼き作戦」用のオート三輪を製作中である。この作業所の上には、広島県のNGOの基金で、原爆とポル・ポト大虐殺の史料館を建設することがすでに決まっている。
日本語教室からは一年余り前に、第一回の卒業生を送りだした。そのうちの六人は、すでに日本語ガイドの資格を得て、アンコール・ワットなどを訪ねる日本人観光客のよき案内役となっている。今春には、念願かなって、二人の若いカンボジア人女性が日本の専門学校に留学する。
九〇年二月、文字通りの徒手空拳でウナロム寺に入った渋井さんは、短期間にこれだけの仕事をカンボジア仏教の総本山でなしとげたのだった。
「最初のうちは彼も、ジェットエンジンでスクリューを回して、自分で走ろうとしていたと思うんですよ」
神奈川県平塚市にある宝善院の住職で、渋井さんとは四半世紀の付き合いという松下隆洪さんが、おもしろい譬《たと》えを使った。
「ところが、いまは浮き一つで流されるまんま(笑)。カンボジア人みんなと一緒に、なんとなく漂っている。そのほうがよい仕事ができることに気づいたんでしょうね。あの国では、ジェットエンジンで船を走らせることはできないんだとわかった。それで流れ流れていった末に、いまの彼があるわけです」
アジア人の中で、カンボジア人はその行動原理が、日本人にとって最もわかりにくい人々ではないか。今回を含め五度のカンボジア滞在で、私はそんな思いを強くしている。
初めての訪問のときに、英語の通訳を頼んだカンボジア人青年がいた。ポル・ポト時代の後遺症らしく、慢性的な頭痛に苦しんでいたので、同行の編集者が帰国後、約束通り十分な量の薬とビタミン剤を送った。が、確かに受け取ったとの返事もなく、私たちは通訳の青年のその後を案じていた。それで翌年、私が単身で再訪したとき、通訳の青年を探し出したのである。
薬やビタミン剤はちゃんと届いていた。彼の健康を気づかう編集者からの手紙にも目を通していた。それなのに、感謝の言葉はひとこともない。あまつさえ、彼は私との別れ際に、今度はCDラジカセを送ってくれまいかとねだるのである。
PKO取材の際にも、同様の見聞をした。あのときの自衛隊による道路や橋の補修が本当に必要だったのかはさておき、私が唖然としたのは、近隣の村人たちの振る舞いであった。自衛隊の機材や隊員たちの私物を、無断で持ち去っていくのである。もとより作業を手伝うこともしない。そして、自衛隊が工事を終えて撤収すると、彼らは道路や橋の両端で、ドライバーたちから通行料を取りはじめたのだった。
七〇年代後半から八〇年代前半にかけてインドシナ難民として日本で暮らすようになったカンボジア人が、仕事先の同僚や上司にさんざん世話になったあげく、ほかに給料が高い職場が見つかると、何も言わずにさっさと辞めていき、周囲の日本人たちはただただ呆気に取られるといった話は、当時からよく聞かされたものである。
この類のことを、渋井さんほど体験してきた日本人はいまい。
たとえば、日本語教室を開いたあと、寺で預かった子供たちの親や家族が、渋井さんのところに挨拶に来たことは、一度たりともない(ちなみに、子供たちの中に孤児はいない)。あるいは家庭訪問のとき、子供の親に二百ドルをカンボジア通貨のリエルに交換してほしいと頼んだら、手数料を六千リエル(当時のレートで約十ドル)も差し引いたものを寄越《よこ》した。渋井さんはいささか意地悪な気持ちから、親が手数料を取るかどうか試したのだが、案の定、ふだん子供が学費も寄宿費もただで世話になっている寺の僧侶からも、しっかりと手数料を差し引くのである。
ときには、見ず知らずのカンボジア人が、子供を連れてやって来るなり、
「ここで預かって、日本語を教えてやってください」
唐突に切り出す。子供の身の回りの物まですっかり用意して来ているのは、その願いが聞き入れられるものと天から信じきっているからだろう。そこで、子供たちをもう受け入れる余裕がないからと断ろうものなら、親の表情は「信じられない、なんてひどい坊さんなんだ」と一変するのである。
教え子たちにしても、日本人の常識では考えられないようなことを平気でしでかす。渋井さんのところで何年も暮らした青年など、遊ぶカネ欲しさに、渋井さんが日本から取り寄せた高価な木工機械を売り飛ばしてしまった。渋井さんが、少しでも働く場を確保しようと、ウナロム寺の一角で始めた土産物店に雇った教え子の女性も、売り上げをごまかしてふところに入れていたことが発覚した。
私が半ば呆れ半ば感嘆させられるのは、こんなことをした教え子たちを、渋井さんはいまだに受け入れていることなのである。木工機械を売り飛ばした青年は、渋井さんが始めたばかりの植林用の苗床で働いているし、売り上げをくすねた若い女性は、いまも毎日ちゃっかり日本語教室に通ってきている。
私の取材中も、かつて教え子だった女性が、ビルの一室を購入したいので四万ドルもの大金を貸してほしいと、渋井さんのもとに日参していた。
こういったうんざりさせられるような体験を繰り返すうちに、渋井さんは彼らの行動原理がわかるようになっていった。
つまり、日本人から見れば「礼儀をわきまえない」「恩を仇で返す」「恥知らず」な行為の数々を、彼らは“持たざる者”の“持てる者”に対する当然の権利とみなしているようなのである。ここではただで得をすることは無条件によいことで、受けた恩などは存在しないらしい。あとは金品を寺や僧侶に寄進して、「得」ならぬ「徳」を積めば、幸せな転生が保証されると信じている。逆に言えば、持たざる者は持てる者からの施しを受けることで、持てる者に徳を積ませてやっているとも考えがちなのである。
もうひとつの特徴は、慈悲の心ですべてを許すことが絶対善とみなされている点である。盗みをしようが、たとえ人殺しをしようが、罪を認めて許しを請えば、罪はきれいに清算される。こうした考え方からは、「責任」や「反省」といった概念は生まれにくい。本来ならその人物の責任が問われ、反省が求められているのに、当人はひたすら相手の慈悲にすがって許しを請い願う。結果的に自分の責任問題を相手の慈悲の問題にすりかえて、自己正当化をはかろうとするのである。
前者の「徳」も後者の「慈悲」も、際限のない依存体質と、「長い物には巻かれろ」式の極端な受動性に結びつきやすい。だが、その両者がともに上座部仏教に深く結びついていることに気づいたとき、渋井さんはポル・ポト時代に思いを馳せざるをえなくなったのだった。
カンボジアの現状を見るがいい。
賄賂や裏金なしには日々の暮らしを支障なく送ることもできず、学校の入試ですら持参金の多寡《たか》が合否を決める。私自身、学校の校長が、外国の支援団体から生徒たちに送られてきた義援金の一部を、窓口になったことへの当然の報酬のつもりなのか、生徒たち一人一人から平然と徴収する場面に出くわしたことがある。
賄賂や裏金の一部(ときには全部)は、下から上への無数のパイプを通じて、最終的には権力者のもとに吸い込まれ、そのカネで権力者は道路を作り、橋を架け、学校を建てる。この国に「フン・セン橋」や「フン・セン小学校」のなんと多いことか。税制が成り立っていないため、こんな形で“公共事業”がなされているのである(カンボジアだけでなく、アジアには税制がまともに機能している国は少ない。もっとも日本の税制も良好とは言いがたいが)。余談だが、反対勢力に対しては自作自演のテロも辞さないと、カンボジアでは恐れられているフン・センは、自民党の総裁候補だった故・渡辺美智雄代議士と親しく、その左目の義眼の手術も、渡辺の特別な計らいで日本の病院で受けている。
フン・センを頂点とする、持てる権力者や資産家の慈悲にすがって、持たざる大多数の人々は施しを受ける。持たざる人々はその一方で、なけなしのカネや食べ物を寺や僧侶に寄進し、心の安らぎを得る。寺や僧侶も、その金品がたとえ不正に入手されたものであろうと、むやみに詮索することなく受け取り、しかも布施が多ければ多いほどよき信者の証《あかし》となるから、冷酷な悪党でも金持ちほど尊敬されるのである。
ポル・ポトが登場する以前のカンボジアも、似たり寄ったりではなかったかと、渋井さんは推測する(事実、当時のロン・ノル政権の腐敗ぶりは、目に余るものがあった)。このような歪んだ社会を改革するには、まず国民の意識を変える必要があるが、その最大の障害となっているのが、ほかならぬ上座部仏教だと、ポル・ポトらは考えたのではないか。渋井さんも、カンボジアの仏教界は、ときの権力者の厚い保護を受けながら、持てる者と持たざる者とのあまりの格差を是正するどころか、むしろそれを温存する役割を果たしてきたのではないかと思うときがある。
ポル・ポトが政権を奪って真っ先にしたことは、寺に人々を集め、みんなの見ている前で、上座部仏教の体現者である僧侶の首を切り落とすことだったという。これが、カンボジア人の中枢神経を断ち切り、一種の思考停止状態に追い込んだことは、想像に難くない。各地の寺院は、たちまち監獄や処刑場と化した。
では、なぜカンボジア人たちは、ほとんどなす術《すべ》もなく、ポル・ポト政権によって殺されたり餓死や病死に追い込まれたのか。
渋井さんは、驚くべき意見を述べた。多くのカンボジア人は、転生を固く信じている。ポル・ポト兵に逆らって結果的に人を殺すことになったりしたら、地獄に落ちるか畜生に生まれ変わるかもしれないが、そのまま殺されるなら来世で幸せに生きられるかもしれない。それなら殺すよりも殺されたほうがいいと考えたところも、彼らにはあったのではないかというのである。おそらく殺すほうのポル・ポト兵たちは、階級の敵を抹殺することが“理想社会”へ至る道と信じ込んでいたのだろうから、これはグロテスクな利害の一致と言えなくもない。
そして現在、ポル・ポト時代の終焉からわずか二十年余りしか経っていないというのに、大虐殺はカンボジア人自らの手で歴史の闇に葬り去られようとしている。信じがたいことだが、最近改訂された小中学校の教科書には、ポル・ポト時代に関する記述が一行もない。現政権のフン・セン本人が、そもそもポル・ポト派からの離脱者で、ポル・ポトの犯罪を掘り下げると我が身にも類を及ぼしかねないからだとする見方もある。
だがしかし、本当の理由は、カンボジア人があの時代を「なかったことにしたい」からではないかと、渋井さんは考える。実際、大虐殺の真相究明や責任追及はおろか、ポル・ポト時代の過酷な体験を後世に伝えることにすら、カンボジア人は熱意も執念も示してこなかった。
渋井さんは、カンボジアの行く先々で、カンボジア人と数限りなくこんな問答を繰り返してきた。
「この村で何人の人が殺されましたか」
「大勢です」
「大勢とは何人くらいですか」
「わかりません」
「なぜポル・ポト派は、村の人を殺したのですか」
「わかりません」
「なぜこんな残虐な殺し方をしたと思いますか」
「わかりません」
「どうしてあなたは生き残れたと思いますか」
「わかりません」
上座部仏教では、疑問を持つことは煩悩につながるとして敬遠されがちなのである。それに、あのポル・ポト時代に、自分の手を汚さず生き延びたカンボジア人の大人は、ほとんどいなかったにちがいない。こうした後ろめたさもあって、ポル・ポト時代の体験者は本音を決して言わず、親の世代は子の世代に何も伝えず、子も学校で何も教えられぬまま、いつのまにかポル・ポト時代をまったく経験していないカンボジア人が、全人口の半分以上を占めるまでになってしまった。
このように考えていくと、渋井さんは、僧侶としては我が身を引き裂くに等しい、次のような結論に至らざるをえない。すなわち、「ポル・ポト」という怪物を生んだ最大の要因のひとつは、上座部仏教にあったのではないか、と──。
私は、愚問と知りつつ、万一悪条件が重なれば、カンボジアで将来ポル・ポト時代の悪夢が再現されることもありうるのだろうかと、渋井さんに問うた。渋井さんは、珍しくしばらく考え込んでから、
「ありうるでしょうね。七、八割は……」
と答えた。
ここまでの記述で、カンボジア人の「異常さ」ばかりが読者の胸に刻みつけられたとしたら、まったく私の本意ではない。持てる者と持たざる者との関係を宗教が温存したり助長したりする構図は、たとえばフィリピンのカトリックにも、インドネシアのイスラムにも、インドのヒンドゥーにも見られる。また、日本人には「礼儀をわきまえない」「恩を仇で返す」「恥知らず」としか思えない行為の根底にある、持たざる者の権利意識も、“拝金教”以外に大多数が帰依《きえ》する教義を持たない中国も含む、アジアの多くの国々に共通している。比率で言うなら、そのような行動原理で動く人々のほうが、アジアでは大多数を占め、そうではない日本人は明らかに少数派なのである。
これまで美化されがちだった“アジアの民衆”の実像は、カンボジアの民衆にそのデフォルメされた形が現れていると言っても過言ではない。アジアの民衆と付き合うとは、好むと好まざるとにかかわらず、このような行動原理で一般的には動く人々と付き合うことを意味している。それは、アジアの持たざる人々の文字通り“板子一枚下は地獄”の切羽詰まった日常に、自らを巻き込んでいくことでもある。
ポル・ポト派による大虐殺についても、上座部仏教はあくまでも要因のひとつで、ポル・ポト派の権力基盤の弱さ、中国の文化大革命の歪んだ影響と中国によるポル・ポト派支援、歴史的に王権への服従を旨としてきたカンボジア人の横のつながりの希薄さといったさまざまな要因が、重なり合い、悪しき相乗効果を起こしてあのような事態を生んだと、渋井さんが考えていることを強調しておきたい。
この辺で、渋井さんの日本語教室の優等生二人をご紹介しよう。
ひとりは、前述したポーキー君で、不器用ながら地道な努力が実って、いまでは日本語ガイドとして活躍している青年である。
「『グリコノポーキー』ト覚エテクダサイ」
とおどけていた彼は、毎月給料日になると、渋井さんの好きなタバコを一カートン持ってウナロム寺にやって来る。わけを訊けば、
「ホンノチョット」
指先でつまむような仕草をして、
「恩返シノ気持チデス」
と言うではないか。私は正直に言って、感心するより驚きが先に立ってしまった。こういう発想をするカンボジア人に、私は会ったことがない。
──恩返しとは?
「大変オ世話ニナリマシタ。(自分の胸を指さして)渋井サン、神様ノ心デス」
──どんなことでお世話に?
「考エ方デス」
──考え方?
「知恵デス。生キル知恵デス」
たとえば、渋井さんは子供たちに一カ月分の食費を前渡しする。子供たちは、渋井さんから一日ずつ均等に分けて使うように言われているのだが、最初に肉をどっさり買い込んで豪勢な料理を作ってしまうので、そのうち野菜のおかずが増えだし、月の最後にはトゥクトライ(魚醤)をご飯にかけて食べるだけの情けない食事となる。そういう失敗を通じて、おカネを使う「知恵」を体で覚えることができたと、ポーキー君は言うのである。
渋井さんは、ポーキー君が怒るのを見たことがない。借金をしてやっとの思いで買ったオートバイを、後輩に貸しているあいだに盗まれてしまったときも、ポーキー君は後輩を責めず、ただただ悲しげな顔で立ち尽くしているだけだった。
「あれは神様のような男ですよ。ある意味で、僕は彼を尊敬しているんです」
と、教え子を滅多にほめない渋井さんが言った。
私にとって印象深い、もうひとりの優等生は、高校に通う十八歳のソッカーさんである。日本語の上級クラスで学ぶ彼女こそ、日本への留学が決まっている二人のうちの一人なのである。
けれども、ソッカーさんは、最近渋井さんが自分に厳しく当たるような気がしてならないと、私にこぼす。漢字のテストで間違えた箇所を何度も書き直させられたので、ふてくされて答案を突き返したら、渋井さんは両手で机をバンと叩いて、
「やる気がないなら、来なくていいです!」
と大声を出した。ソッカーさんは、そばにあったトイレット・ペーパーを破って目に当てると、そのまま部屋から出ていってしまった。泣いていたのだろう。
翌日、図書館のある建物のベランダで、渋井さんと私がカンボジア産のビールを飲んでいると、ソッカーさんが不意に現れた。何か言いたげに、大きな目を上目遣いにして渋井さんを見つめている。
「何でしょうか」
「私ハ、キノウ過失ヲシマシタ」
「何の過失ですか。ウンコでも漏らしましたか」
「オーイ、渋井サンハマタソウイウコトヲ言ウ(渋井さんは生徒たちに「先生」と呼ばせていない。「なんだかこそばゆいから」だそうである)」
「どんな過失をしましたか」
「渋井サンニ悪イ態度ヲシマシタ」
「反省しましたか」
「ハイ」
「わかりました。もうそのことはいいです」
「渋井サンハ、反省シマスカ」
「いつも反省しています。私の人生、反省ばかりです」
「違イマス。渋井サンモ、私ニ大キナ声ヲ出シマシタ」
「それは、あなたが日本に勉強に行ってから困らないためです。日本の社会は厳しいんです。こういうことは、まだあなたにはわかりません」
「ワカリマス」
「いえ、わかりません。あなたがわかる頃、私はもうこの世にいません。天国で天女たちと遊んでいます」
この表現の意味が理解できず、カンボジア語に訳してもらうと、ソッカーさんはぷっと頬をふくらませて、
「ゴ愁傷様デシタ!」
びっくりするような日本語を口にし、それからカンボジア語で、
「私が渋井さんの棺桶を用意してあげます」
と言い放つと、ふくれっ面のまま出ていった。
円《まる》い蓮の葉が、湖水をおおいつくしている。一面の緑の中から、白や桃色の花が浮き出るように咲いていて、その合間に少女を乗せた小舟がぽつんと浮かんでいる。蓮の実を採っているらしい。岸辺では二人の少年が、すくい網を両側から持って、そろりそろりと魚を追い詰めようとしている。カンボジア人の画家が描く水彩画そのままの光景に、私はしばし見とれていた。
湖の名前を運転席の渋井さんに問うと、
「これは湖じゃないんですよ」
ふだんはありふれた池や沼が、雨期のいまは広大になり、湖のように見えるだけだというのである。
この日、渋井さんは高野山の国際交流センターから年に一回送られてくる奨学金を、プノンペン近郊の寺で暮らしながら学ぶ子供らに手渡すために、クルマで八箇所の寺院を訪ねることになっている。同行者は、ウナロム寺にいる仲良しの僧侶とその後輩、それに私で、渋井さんの運転するワゴン車は、ひどい泥濘《ぬかるみ》に何度か立ち往生しながらも、八時間をかけて寺から寺へと回った。
最初に行った寺では、大きなマンゴーの木の下にゴザを敷いて、村の僧侶と三十人余りの子供たちが出迎えてくれた。
ウナロム寺から来た黄衣の僧侶が、一段高いゴザの上にあぐらをかき、若いほうの僧侶が大声で名前を読み上げると、呼ばれた子供は僧侶の前に進み出て、独特のお辞儀をしたあと奨学金を受け取る。
もう少し具体的に描写すると、年上の僧侶はあぐらをかいたままで、リエル札の束、日本円にして一万三千円を輪ゴムで括ったものを、子供の前にぽいっと投げ出すのである。すると子供は、横座りの姿勢になって合掌し、合わせた手を額に持っていってから、今度はゴザの上に両手を付いて頭《こうべ》を垂れる。この動作を三回繰り返した末に、やっと両手で札束を取り上げるのである。私の目には、僧侶のいかにも「くれてやる」といった態度は尊大に映るし、札束を受け取る子供の姿もなんだか卑屈で好きになれないのだが、これが普通のやりとりで、こんなところにもカンボジアでの持てる者と持たざる者の振る舞い方が、かいま見える。
渋井さんは遠巻きにながめているだけで、万事をウナロム寺の僧侶たちに任せている。奨学金の配付が済むと、年嵩《としかさ》のほうの僧侶が子供たちに向かって何やら話しだした。説法かと思いきや、
「きょう渡した金額は、円安のせいで去年より二〇パーセントくらい目減りしているから、そのつもりで」
と、ずいぶん下世話めいた内容なのである。
五番目に訪ねた寺で、昼食となった。僧侶や見習い僧らが講堂の板の間で食べたあと、私のような俗人がそこより一段低い板の間で、座卓を囲み残り物(といっても、ほとんど手つかずの食事)をいただく。渋井さんも、還俗したいまは、上座部仏教の世界では俗人の一人である。
焼いた川魚、目玉焼き、ヘチマと鶏肉の煮物、豚肉の入った野菜炒め、竹の子のココナッツ・ミルク煮など、品数も量もふんだんにあるおかずを、粘り気のあるカンボジア米にかけて、ゆっくりと食する。意外だったのは、僧侶も村人も素手で食べる者が一人もおらず、全員がフォークとスプーンを使っていたことだ。
私の気づいたかぎり、この寺には聾唖の子供が四人いる。頭を短く刈った老婆も五、六人いて、ここで晩年を静かに過ごすのだそうである。この寺に限らず、カンボジアの寺院には、福祉施設の役割を兼ねているところが多い。渋井さんは、上座部仏教と寺院の否定的な側面を厳しく指摘しつつも、その反面で、
「カンボジアの寺はすごいですよ。信仰のよりどころや村の中心としてだけじゃなくて、教育や福祉の場にもなっている。実によく頑張ってますよ」
と賛辞を惜しまない。それにひきかえ、と日本の寺に対する慨嘆があとに続いた。
「日本の寺の閉鎖的なことと言ったら、ひどいですよ。第一、門を閉めちゃって、外の人を入れないんだから。日本の寺は、もう本来の寺じゃない。住職が鈴木さんという人だったら、鈴木さん個人が所有する寺になっているんです。カンボジアの寺みたいに、その日にぱっと行っても泊めてくれる寺が、日本のどこかにありますかね。まず泊めてくれないでしょう。それでやっていることと言ったら、葬式と法事と墓地の管理ぐらいで、すっかり形骸化しちゃっている。カンボジアから見ていると、日本人の心はかなり荒廃していて、信仰を求めている人はたくさんいるはずなのに、日本の寺はまったく応えていないし、応えられないんですよ……」
寺を巡回した帰り道、渋井さんが問わず語りに言った。
「僕も十年間は(上座部仏教の)坊さんをやるつもりだったけど、八年目くらいで嫌になっちゃってねえ」
なぜ、ですか?
「できることと、できないこととが、はっきりしてくるんですよ」
できないこと?
「坊さんのままだったら、こんなことできないです」
と、ハンドルを握った手に目をやった。上座部仏教の戒律では、僧侶が乗り物を運転したりすることは許されない。
「だから、植林なんてとても無理なんですよ」
このところ、渋井さんは植林活動にも情熱を傾けているのである。
「カネを渡して、この苗木とあの苗木を買ってきてくれと頼んでも、注文通りに買ってこれるかわからないし、カネを持って逃げちゃうかもしれない。いや、トラックごと消えちゃうかな(笑)。本当にそういうことが多いから、人任せにはできないんです。自分でクルマを運転できないことには、どうしようもないんですよ」
他日、苗床に案内された。
ウナロム寺からクルマで三十分余りのところにあって、例の渋井さんの木工機械を売り払った教え子が、へらへら笑いながら顔を出す。一緒に出てきた垂れ目の雑種犬が、しっぽを振り切らんばかりにして渋井さんに飛びついてきた。
「これっ! ダメ太郎! これっ!」
ダメ太郎っていうんですか(笑)。
「そう。ダメな犬でねえ。泥棒が来ても誰が来ても、全然吠えないの(笑)」
ラワン系の木の苗木など一万四千本が、大きな溜め池の脇にびっしりと植えられ、南風にそよいでいる。鉄条網で囲っているのは、近所のカンボジア人が放牧している牛が苗木を食べにくるからだという。苗床の上には日除《よ》け用の黒いビニールが、おおいのように張りめぐらしてある。
このときは、高野山真言宗企画室から来訪した、学生時代に造林学を研究していたというお坊さんが一緒だったのだが、
「思ったよりもすばらしい苗畑ですねえ」
と、いたく感心している様子で、渋井さんはしきりに坊主頭に手をやっていた。
植林の技術も、渋井さんは独学で身につけている。この人は、何でも独学である。
いま育てている苗木のうち五、六千本は、一年後に近くの寺院の敷地に移植するつもりでいる。それがうまくいけば別の寺にも苗木を植え、そうして各地の寺に植林を広げていきたい。
お寺の境内に新たに森を作ろうというので、名付けて「鎮守の森作戦」──。乱伐により急減しつつあるカンボジアの森林が、将来に向けて再生される一助にでもなればいいと、渋井さんは思う。
「カンボジア人への啓蒙的な意味なんて、全然ないです。使ったものは返していくという考えでやっているだけでね。僕なんか、木をたくさん使ってきた人間だから、自分が使った分くらいは、次の世代にお返ししておきたい。そうしなけりゃ、単なる破壊者ですよ。僕はもう『お返しの年代』に入っているんだからねえ」
ここはポチェントン国際空港に近く、苗床のあいだにある廃墟の壁には、七五年に首都に乗り込んできたポル・ポト軍と政府軍との攻防戦の跡が、無数の弾痕となって残されている。その直後から、あの四年に及ぶポル・ポト時代が始まったのだった。
いまそこに、一人の日本人僧侶が育てた緑の苗床が広がっている。
「この木は建築資材になるくらいの木だから、ぐーんとでっかくなりますよ。その頃、我々はこの地上にいないです。天国で天女たちと遊んでいます」
そう言って大笑いしている渋井さんの足元で、犬のダメ太郎がひとつ、小さなくしゃみをした。
第八章 マレーシアが“電脳都市”を夢見るとき〈マレーシア〉
マレーシアで夢のような計画が持ち上がっていることをご存知だろうか。
名付けて「マルチメディア・スーパー・コリドー」計画(以下、MSCと略)、意訳すれば新しい時代の先端を行くマルチメディアのコリドー(回廊)を、首都クアラルンプールの近くに創《つく》ろうという壮大なプロジェクトである。
九六年十一月、マハティール首相が公式に発表した計画内容によると──。
まず、首相官邸を筆頭に全省庁をここに移し、「電子政府」を築く。
高速通信インフラを張りめぐらせたこの未来都市で、さまざまな実験を試みてから、それらをマレーシア全土に広げていく。たとえば、身分証明書や運転免許証、パスポートなどの機能をすべて含んだ「多目的ICカード」を発行し、離れた所にいる患者をコンピューターを通じて治療する「遠隔医療」を行い、同じく遠隔地の子供たちをコンピューターで結んで教育する「スマート・スクール」を開く。
このマルチメディアのユートピアには、全世界から情報産業の優良企業が集まり、情報技術とマルチメディアの専門家が一堂に会することになる。そのためのニュータウンも建設しよう、マレーシア人のエキスパートを育てる「マルチメディア大学」も開校しよう……。
すなわち、マレーシアの中心産業を、すでに頭打ちになっている製造業から情報産業に切り換え、二十一世紀の先進国入りを目指そうというのである。マハティール首相は「ルック・イースト」政策(日本を始めとする東アジアに学べ)で知られるが、これは「ルック・イースト」から「ルック・シリコンバレー」への大転換とも言える。さらに、マハティール首相は、首都移転とMSCを完成し、マレーシアを情報産業国に一変させて先進国の仲間入りをする目標年度を二〇二〇年と定めた。
『日経マルチメディア』(九七年七月号)は書いている。
「世界広しといえども、一国の指導者が先頭に立って、マルチメディア関連プロジェクトを国策として動かしている国は他にない」
「いまマレーシアは、アジアの、いや世界の情報化の最先端を走っていると言っても過言ではない。アジアのIT(情報技術)の輝ける彗星《すいせい》だ」
この文章の筆者は会津泉さんといい、一部では「インターネットの伝導師」などと呼ばれている。日本で最初にパソコンを使いだした草分けの一人で、日本のパソコンやインターネットの世界で会津さんの名前を知らなければ、「もぐり」と馬鹿にされかねないほどの有名人なのである。
ただし、この人、先端業界に多い口舌の徒ではない。マレーシアのMSC計画やアジアでのインターネット普及に何かの役に立ちたいと、本当に仕事の拠点を東京からクアラルンプールに移してしまったのだから。
私も、かねてより会津さんの名前は聞き及んでいた。数年前にインターネット関連の取材でインタビューを申し込んだことさえある。運悪く海外出張中で会えなかったのだが、その御本人がマレーシアに移住していたとは思いもよらなかった。
初めてシンガポールのファイブ・スター・クラスのホテルで対面したとき、会津さんは五つ星ホテルのロビーには何だかそぐわない恰好で現れた。半袖のポロシャツに短パン、足には革のサンダルを突っ掛け、リュックサックまで背負っている。実用本位で、体裁を気にしない、ひょっとしたらオタク的な人物なのかもしれないというのが、私の第一印象であった。
けれども、このとき、会津さんは奥さんと三人のかわいらしいお嬢さんを伴っていた。三人はそれぞれ大学生、高校生、中学生で、この上に日本で就職している長女がいるという。三人のお嬢さんは、私と目が合うと、ちょっと恥ずかしそうに会釈をした。
いったいどういう人なんだろう。オタクで、マイホーム・パパ?
もうひとつ、意表を突かれたことがある。通訳並みと言っていいくらい流暢な英語を話すのに、留学したことも海外で暮らしたことも一度もないというのである。なにしろ初めての海外生活の場が、ここマレーシアなのだ。
じゃあ、すべて独学ですか?
「東京でサラリーマンをしていた頃、夜間の英会話学校にちょっと通ったくらいで、あとは仕事の中で身につけていったというか……。そういうのも、やっぱり『独学』っていうのかなあ」
ひとごとのように話すのだが、どうも腑に落ちない。
ただ、人が何と言おうが我が道を行くことだけはわかった。会津さんは、東京大学への入学者数でいつも上位にランクされている私立の進学校で学んだにもかかわらず、日本の大学のあり方に疑問を感じてどこの大学も受験せず、そのまま小さな印刷会社の印刷工になっていたからだ。
私も高校二年のとき、受験体制に抗議すると称して、試験をすべて白紙で提出したことがある。たった一人の反抗だったのだが、結局、孤立無援の厳しさに耐えられず、情けないことに再び大学を目指すのだから、余計に会津さんの選んだ道の険しさが身につまされるのである。
原点《ヽヽ》についてはよくわかるけれど、現在《ヽヽ》についてはよくわからない。そんな初日の印象から、会津さんへの取材は始まった。
ともあれ、こういう“理の人”は、青年期からの思考過程を順に追っていったほうがわかりやすい。
一九五二年(昭和二十七年)生まれの会津さんは、“全共闘世代”よりもいくらか年下だが、六〇年代後半から七〇年代にかけての学園紛争の時代の影響を、もろに受けている。知的に早熟だったこともあろう。高校一年のときには早くも大学には行かないと宣言し、中高一貫教育を売り物にする受験校で、級友たちと授業をボイコットしたり、毎学期おこなわれていた成績優秀者の表彰を取り止めさせたりしていた。全共闘運動が投げ掛けた「大学解体」や「自己否定」といったスローガンを、大学生たちよりも純粋に受け止めていたのだった。
高校を終え、宣言した通り大学には進まず、街の印刷工となった会津さんは、ここでもまた日本社会の矛盾とぶつかる。勤め先の印刷会社は障害者の積極的雇用で知られていたが、その陰で社長は会社におりる雇用奨励金を流用していたのである。会津さんらは「社員の生活を守る会」を作って会社と対立したものの、障害を持った社員が失業に追い込まれるおそれを考えると、ストライキに打って出ることはできなかった。
「かなりの挫折感がありましたよ」
と、会津さんは感慨深げに言う。取材が進むにつれて知ったのだが、周囲からは強気一本槍で他人に弱みを見せたがらないと思われている会津さんにしては、まったく珍しい物言いだった。
「高校のときも本当は挫折感を感じていたんですよ。学校で僕らがいくら頑張っても、周りの生徒たちは同調してくれないわけですから。僕らより上の全共闘世代だって、ほとんどが大学を卒業して、あれだけ批判していた独占資本に擦《す》り寄っていったわけでしょう。印刷屋でも、ストをやったら会社がつぶれて、僕ら自身が飯も食えない状態になってしまう。破壊はできても何も生み出せないんだと思ったら、それはやっぱり挫折感を感じましたよ……」
当時、幼なじみの女性と二十歳の若さで結婚した彼は、二十一歳にして父親となり、実生活とも向き合わねばならなくなっていた。
次の転職先も印刷会社で、大手の自動車メーカーなどのカタログやセールス・マニュアルを英文で作るのがおもな仕事だった。夢中で仕事に打ち込んでいるうちに、やがて企画から翻訳、印刷、プロモーションに至るまでのすべての過程を任されるようになる。コミュニケーションへの興味が芽生えたのはその頃で、ここから奇しくも会津さんの人生の歩みが、日本のパソコン史と重なり合っていく。
「コミュニケーションに興味が出てきたのは、そのころ僕はアメリカのコピーライターたちと仕事をしていて、立場上、板挟みになることが多かったからなんですよ。日本人とアメリカ人との板挟み、日本語と英語との板挟み。人と人とのコミュニケーションについて考えざるをえなくなったわけです」
八〇年代の初め、アメリカでは“パソコン革命”が起きていた。“新しもん好き”を自任する会津さんは、さっそく会社に頼んでワープロを購入してもらう。ワープロはその頃「ワープロ」ではなく「メモリーつき・フロッピーディスクつき・タイプライター」と呼ばれ、二台でなんと一千万円近くもした。それから会社の内外でパソコンの勉強会を始め、ここでも凝り性をいかんなく発揮してパソコンの説明書を自前で作り、わざとわかりにくく書いてあるのかと文句のひとつもつけたくなるような従来のものとは違うその説明書を、逆にメーカー側が採用するまでになった。会津さんは知らず知らずのうちに、日本のパソコン革命の最前線に加わっていたのである。
こうした仕事上の必要から、彼の英語力は飛躍的に向上する。それで会津さんが先ほど言っていた言葉の意味が、私にもわかった。学校に頼らないという意味では「独学」なのだが、日々のコミュニケーションによって英語の力をつけていったという点では、決して「独学」ではないのである。以後、このパターンは基本的に変わらない。
つまり、あるひとつの集団に属しているわけでも、たった一人で何かをしているわけでもなく、日本的な人間関係とは別のネットワークに支えられ、また自らもそれを支えようとしている。ここらあたりに、日本人にはなかなか掴《つか》みにくい、この人の個性がよく現れている。
会津さんの考え方は、当時から現在まで首尾一貫している。あくまでもユーザーの立場から発言すること──。日本の企業社会の例に洩れず、コンピューターの世界でも、送り手の側があまりにも優位に立っているので、受け手の側からこのアンバランスさを少しでもただそうとしてきたのだった。
八五年、コンピューター関係の新規事業を興して経営陣と対立した会津さんは、十五年間のサラリーマン生活に終止符を打ち、フリーランスとなる。
すぐさまアメリカへと旅立った。パソコンの先進国アメリカで、ネットワーク活動を繰り広げている人たちを訪ね歩いた。
たとえば、ある退役軍人は、朝鮮戦争とベトナム戦争への従軍経験者だったのだが、パソコン・ネットワークを新たな“武器”として、地方議員の選挙や税金問題などの議論の場を作り、いままでにない草の根民主主義を育てようとしていた。会津さんが会ったアメリカのネットワーカーたちは、誰もがパソコン・ネットワークを使って、会社や学校、軍隊などの組織を内側から変えようとしたり、新しい市民運動や教育のあり方を模索していた。
どうしたらパソコンが商売につながるかということばかりに気を取られている日本にはない人間同士のつながりが、パソコン・ネットワーク上に生まれている現実に、会津さんは震えるほどの感動を覚えた。これまでとは全然違うやり方で世界を大きく変える可能性が、そこにはあると思った。
「きざな言い方に聞こえるかもしれないけれど、十代の頃から探しつづけていた“青い鳥”をやっと見つけたような気がしましたね」
うーむ、“青い鳥”って、わかったようでわからない。
「『双方向性』という概念が、青い鳥だったんですよ。一方的な受け手ではなく、自分も送り手になればいいんだということなんです。パソコンが出てくるまでは、権力を持たない人がメディアを持つなんていうことはまずありえなかったけれど、パソコンによって権力を持たない一般の人でも、自発的に発信できるようになったわけです。発信もするし、受信もする。この双方向ということがとても大切で、僕にとっては身近にありながら気づかなかった青い鳥だったんですね」
インターネットの本質もまったく変わらないと、会津さんは語気を強める。
「権力を持たない人たちが手にした、双方向のメディアなんです。こう言うと理屈っぽくなっちゃうから、カラオケと一緒だと思ってください。いままでプロの歌ばかり聞かされてきたけれど、自分もマイクを持って歌いたいんだ、と。マイクの代わりにキーボードを叩くのがインターネットなんですよね」
えっ、マレーシアのマルチメディア・スーパー・コリドーの話はどうなったんだって? もうしばらくお待ちいただきたい。インターネットの基本的なところを押さえておかないと、話は先に進まないのである。
おそらく「インターネット」の単語を見ただけで敬遠される向きもあろうが、インターネットの威力を物語るこんな実話がある。
ある通信社で、PLO(パレスチナ解放機構)のアラファト議長が住んでいる自宅の写真が大至急、入用になった。が、写真部に問い合わせても、中東に強いジャーナリストやカメラマンに訊いても、そう言われてみるとアラファト議長の自宅の写真など見たことがないと口をそろえる。
少し前なら、ここで探索は終了である。もはや打つ手はない。けれども、インターネット出現後は、ここからが違っている。その通信社はインターネットを通じて、アラファト宅の写真の保有者がいないかと全世界に呼びかけたのである。すると、「持っている」との返事が一件だけ、やはりインターネットを通じて寄せられてきた。かくして通信社は首尾よくお目当ての写真を手に入れることができたという。
会津さんがインターネットの底知れない可能性に初めて瞠目《どうもく》したのは、九二年に神戸で開催されたインターネット協会主催の国際会議でのことだった。このとき会津さんは「ネットワーキングデザイン研究所」というシンクタンクの代表として、コンピューター・ネットワークを日本に広げるべく精力的な活動を続けていたが、インターネットは関心外にあった。漠然と、学者や研究者の道具にすぎないと思い込んでいたのである。ところが、別段期待もせずに参加したこの会議で、会津さんは強烈な衝撃を受ける。
会場にはアフリカの民族衣装を着た人たちの姿が目立ち、世界の人口や食糧などの問題に、インターネットをどのように活用できるかが、真剣に話し合われていた。会津さんが強く胸打たれたのは、たとえばアフリカで旱魃や飢餓に苦しんでいる地域からインターネットに何らかの要請があった場合、いかに早く、そしていかに安く、緊急に必要な情報や知識を伝えるかという具体的な議論が、出席者のあいだで盛んに交わされていたことだった。
非常に高度な技術でも、インターネットによって安価に、できれば無料で提供し普及する。この「インターネットの思想」に、会津さんは魅了されたのである。日本では情報検索のための便利な道具としての側面が強調されすぎているが、インターネットの本質は、パソコン通信と同様、人と人との新しいコミュニケーションを作ることなのだと、そのとき初めて深く理解したのだった。
「アジアでも貧困の問題は、まだまだ解決されていないですよね。たとえば、バングラデシュで若い世代が貧困の解消のために何かをしようとしたとき、必要な情報や知識を自分で手に入れて自己学習するのに、インターネットはものすごくいい手段だと思います。インターネットは、貧しくて学校に行けない子供たちが多い地域で、若い世代を育てていく基礎的な手段になるんじゃないかな」
インターネットに関してこんな発想をする人に、私は会ったことがない。日本以外のアジアに拠点を移した理由も、もとを辿ればこの辺にあるのだろうか。
「ええ。僕は、アメリカからネットワークに関して本当にいろんなことを教えられてきたけれど、それで満足しちゃってていいのか、自分がいるアジアのためにも貢献しなきゃいけないんじゃないかと思っていたし、アメリカの友人にも『もっとアジアのために仕事をしたら』と言われていたんです。その一方で、日本のシステムがいわば“成人病”に罹《かか》っていて、自分自身も含めて脂肪がつきすぎていることもわかっていました。でも、こういうことをいま日本で議論しても、堂々巡りになっちゃうでしょう。だから一度日本の外に出て、アジアの中でこれからどうすべきか考えてみたいと思ったんですよ」
アジアに出るならシンガポールと、当初は考えていた。コンピューターの普及度やインフラの充実ぶりを考えれば、常識的にはそうなる。
だがしかし、隣のマレーシアを訪ね、シンガポールとの比較検討を進めるうちに、見方が徐々に変わっていった。
シンガポールの情報産業はすでにほとんどできあがっているし、インターネットへの検閲など政府の管理や規制が厳しすぎる。移住したあとの現実問題として、住居やオフィスの家賃や人件費、もろもろの生活費が相当に高い点も、気になった。
「それとシンガポールで知り合った連中で、『シンガポールに来いよ、絶対いいよ』と言ったのが、一人もいなかったんですよ。『シンガポールはやりにくいよ』という声ばっかりでね。逆に『これから来るならマレーシアだよ』と、シンガポールの人間が勧めるんですよ。もうひとつ、いろんな人から言われたのは、『シンガポールは嫌われてるよ』って。アジアで何かをするとき、シンガポールよりもマレーシアのほうが受け入れられやすいんじゃないかというんですね」
最終的にマレーシアを選ぶ決め手になったのは、むろんマルチメディア・スーパー・コリドー計画であった。人口二千万のアジアの小国が、インターネットを中心とするマルチメディアで新たな国づくりをする現場に立ち会いたい。そこから、アジア全体のネットワークづくりにも関わりたい──。
九七年四月、会津さんは正式にクアラルンプールにオフィスを構える。オフィスの名前は、直截に「アジアネットワーク研究所」とした。
会津さんのマレーシア移住計画に、妻の麻美子さんは反対どころか、むしろ積極的に後押しをした。たぶん会津家の気風によるのだろう。東京にいた頃から訪問客や泊まり客の多い家で、インドネシアからの女子留学生を何人かホームステイさせたりもしていた。麻美子さん自身、インドネシアの学生たちとの暮らしに新鮮な発見があった。
「インドネシアの子って、大していい明日があるかどうかわからないけれど、とにかく明日を信じているところが好きでしたね。『明日が来るぞォ』っていう感じ(笑)。自分の運命を信じているんですよね。その信じ方の強さは、イスラムを信じているからというのじゃないような気がしました。インドネシアの子も、『インドネシアにいたときは、インドネシアがいいなんて思ったことなかったけれど、日本に来て初めてインドネシアのことが好きになった』って。それを聞いて、私もすごくうれしかった。そういうこともあって、同じイスラムのマレーシアにもすんなり溶け込めたと思うんです」
会津さんがアジアネットワーク研究所を開設したひと月後の九七年五月、マルチメディア・スーパー・コリドーの起工式が、その中核都市となる「サイバー・ジャヤ」の予定地で華やかに催され、会津さんも出席した。
「サイバー」とは「電脳」、「ジャヤ」とは「勝利」「繁栄」といった意味で、英語とマレー語をつなぎあわせた造語である。自国の近未来都市の名前に「サイバー」という、本来SF小説から生まれた英語を持ってきたところに、マレーシア側の高揚した気分がうかがえるではないか。
「サイバー・ジャヤ」と言っても、クアラルンプール南方の、油椰子やゴムの林が鬱蒼《うつそう》と広がる地域の一角を切り開いただけの、赤土がむきだしになったままの更地である。
それでも起工式では、精一杯サイバー的な仕掛けが披露された。恒例のカウント・ダウンに続き、マハティール首相がスウィッチを入れるやいなや、離れたところにあるドリルが自動的に作動して、大地に穴を穿《うが》ちはじめたのである。会場にはコンピューターの合成音声が流れ、マハティール首相が軽く手をかざしただけでスキャナーが指紋を読み取って動きだすロボットも登場した。
千人を超える来賓の中では、NTTの宮津純一郎社長ら日本企業関係者の姿がひときわ目を引いた。というのも、MSC計画の最初の青写真を実質的に描いたのは、当事者のマレーシア側ではなく、経営コンサルタントの大前研一氏やNTTといった日本人および日本企業だったからである。そればかりではない。具体的な計画から、進出企業の誘致、人材の派遣や養成といった実務まで、日本人と日本企業なしには、この一大プロジェクトは成り立たないと言っても過言ではない。とりわけNTTは、マレーシア内外の企業の中で、最も早くから最も深くMSCに関与してきた。
背景には、NTTの国際戦略がある。マレーシアのNTT関係者によれば、海外進出に後れを取り、アメリカやイギリスはおろか香港の大手電信電話会社にも知名度で劣るNTTが、マレーシアの国家事業と組むことで一躍世界的な“ブランド”を獲得する狙いがあったのだという。
日本国内の閉塞状況も一役買って、MSC計画は日本の関係者の注目を集めた。
だが、日本よりもはるかに鋭い視線を注いでいたのは、隣国シンガポールである。シンガポールは、お蔵入りしかけていた情報化計画を再び持ち出し、MSCよりも早く西暦二〇〇〇年には「インテリジェント・アイランド」を完成させるとぶちあげたのだった。
日本にいるとわからないが、もともとひとつの国家だったマレーシアとシンガポールとのあいだには、ときに「近親憎悪」と呼びたくなるほどの過剰な相互意識が働いている。ことにマレーシアのほうに、その傾向が強い。一例をあげると、MSC計画の予定地の広さは当初六百平方キロだったのだが、シンガポールの国土面積よりも少しでも広くしたいがために、途中で七百五十平方キロに拡張してしまった経緯がある。
その上で、マレーシア側は、シンガポールが全国を高速通信ネットワークで結ぶなどと豪語していても、MSC予定地よりも狭いではないかと揶揄《やゆ》する。かたやシンガポールは、マレーシアみたいな“後進国”にマルチメディアのユートピアなんてできるわけがないと、はなから冷笑している(こんなふうに、ASEANの中で“先進国”風を吹かせるから、シンガポールは嫌われるのである)。
両者の対立に、実はもう一枚加わる。この地域では抜きんでた大国と言えるインドネシアまでが、急ごしらえでマルチメディアによる国づくり競争に参入してきたのだった。インドネシアには大国意識とマレー民族の本家意識が強烈にある一方で、それとは背中合わせに、経済成長でシンガポールにもマレーシアにも大きく水をあけられてきたことへの複雑な思いがある。
この三者の屈折した関係、どこかで思い当たる節はありませんか。私は、日本と韓国と中国との関係にそっくりではないかと思う。会津さんは、
「マレーシアとシンガポールとの関係は、東京と大阪の関係に似てますよ」
と言っていた。とするなら、インドネシアは「京都」ということになろうか。
マレーシアでは、会津さんが移住する前から、インターネットを使ったネットワーキングを行っている日本人のグループがあった。
彼らのホームページは、日系の広告代理店に勤める山森淳さんが同僚と趣味で作った「Jalan Jalan」(マレー語で「ぶらぶら散歩」といった意味)というもので、九六年二月にオープンして以来、ほかのアジア諸国に比べ日本人からの関心が低いマレーシアの情報を流しつづけてきた。
私は、Jalan Jalanへのアクセス数を聞いて、仰天した。わずか二年半ほどで十八万件にものぼるというのである。
「日本からが六割、マレーシア国内からは四割といったところでしょうか。日本からのもので最近すごく多いのが、『マレーシアで働きたいんだけれど、どうしたらいいですか』という日本の若い女性からの問い合わせなんですよ。旅行で来てマレーシアが好きになったから、ここで働いてみたいというわけで、そうやってこちらで就職した人も何人かいます。彼女たちは、インターネットを人生の道具みたいに使って、自分の世界とか人間関係をどんどん広げようとするんですね」
続けて山森さんが言った言葉は、日本の若い世代がインターネットに向き合う姿勢の一端を鮮やかに伝えている。
「なんか彼女たち、インターネットで生き方の情報を拾っている《ヽヽヽヽヽ》ような感じがするんですよ」
ところが、ホームページを続けるうちに、山森さんは遊び半分ではすまされないものを感じるようになった。ホームページで知り合った日本人の男女が結婚することになり、その結婚式に招かれて新郎新婦の親御さんからお礼を言われても、
「何だか実感が湧かないし、どうしてこんなところまでJalan Jalanは来ちゃったんだろうか」
と内心とまどってしまうのである。
九七年末、インドネシアの森林火災による煙害で、在留邦人の一部が避難したり日本に帰ったりしていた時期には、もっと当惑させられる出来事があった。その頃マレーシアで設定された大気汚染指数に鑑《かんが》みて、それが三〇〇を超えたら日本人学校は休校になるという話を我が子が学校から聞いて帰ってきたので、そのままホームページに流したところ、翌日学校の教頭から電話が掛かってきた。Jalan Jalanを見た父母から、問い合わせの電話が学校に殺到しているので何とかしてほしいというのである。
そんなにも大勢の在留邦人がこのホームページを見ていることに、山森さんは驚愕した。うれしさよりも、言いようのない気の重さがこみあげてきた。ミニコミ的な趣味感覚で始めたのに、日本人社会に必要な情報が少ないマレーシアでは、いつの間にかマスコミ並みの影響力を持ってしまったのではないかと、気持ちがひるんだ。
「もう中途半端に止めるわけにはいかなくなっちゃいましてね。昼間は仕事がありますから、ホームページのメインテナンスをするのは夜なんですが、接待なんかで帰りが遅くなると、メインテナンスに夜中の三時過ぎまでかかるんですよ。日本に帰っているときも、つねにやんなくちゃいけない。もう何がなんだかよくわかりません(笑)。池に軽く投げた石が、思いがけない波紋を広げていく感じで、正直言ってこの先どうなるんだろうと不安になるときがありますよ。もうボランティアの範囲を完全に超えちゃっているんです」
自分の楽しみで始めたホームページが、そこに多くの人たちが参集するにつれ、だんだん負担になり、ボランティアの範囲を超えて私的な時間をも侵食するようになっていくのは、インターネットの世界では珍しいことではない。ボランティアとビジネスとの兼ね合いは、実は会津さんが抱えているジレンマでもある。
マレーシアのインターネット事情にも詳しい山森さんに、マレーシアが国家の威信を賭けて進めているMSC計画について訊いてみたら、しばらく考えてからおもむろに口を開いた。
「マレーシアのインテリのあいだでは、ネガティブな意見が多いですね。国民の生活からかけ離れたところで進められている計画なので、それが国民一人一人にどんな利益をもたらしてくれるのかが全然わからない。水道や電話回線も満足に敷けていないこの国で、MSCだけが先に進みすぎているんじゃないかと、マレーシアのインテリたちは言っています」
私は会津さんのクルマで、MSCの予定地をほぼ一日をかけて見て回った。
会津さんはきょうも家族同伴で、助手席にいる私に説明をしようと脇見運転をするたびに、後部座席のお嬢さんたちから、
「パパ、前見てぇ!」
「またよそ見してるぅ!」
と黄色い悲鳴があがる。
「こわがりだなあ。大丈夫だよ」
にこにこしながら応じている会津さんは、どう見てもマイホーム・パパなのである。家族がまもなく日本に帰るので、それまでにいろいろなところを見せておきたくて、と私に言ったが、その口調に弁解がましさはなく、家族を大切にすることを夫の義務とみなすアメリカのインテリの話を聞いているような気がした。
さて、MSCの印象はと言えば、残念ながら「拍子抜け」のひとことに尽きる。
起工式から一年以上が経つというのに、工事はほとんど進捗《しんちよく》していない。“目玉商品”と言ってよいサイバー・ジャヤの予定地には、まだレンガ色の地肌が露出したままで、近所の農民が牛を放牧しにくるらしく、黒々とした牛糞がぼたぼたと無数に落ちているばかりだった。夜になると、野犬やコブラも出るという。
いったいどうしたことなのか。このままでは、夢物語のような計画が本当に夢物語になってしまう。
Jalan Jalanの山森さんはマレーシアのインテリがMSCをネガティブに見ていると語っていたが、日系企業のほうがはるかに辛辣な見方をしているかもしれない。
MSCに深く関わってきたある日系コンサルティング会社の社長の口からは、激越な批判が飛び出した。
「だいたい金型ひとつ自前で作れない国が、いきなり高度情報産業に飛びつくというのが無理な話なんですよ。マハティールさんはこれまでうまく国の舵取りをしてきたと思うけれど、なんで人材教育にもっと力を入れてこなかったんだろう。本当に人材不足ですよ、この国は。ITマルチメディアの知識のある人間が、ほとんどいない。MSCは人材育成を外国人や進出企業に頼るつもりらしいけれど、そんな甘い考えでいるからいつまで経っても人間が育たないんです。製造業でも何でも、これまですべて海外に頼って自前の産業を育ててこなかったのに、情報産業だけが一人歩きして発展するなんていうことは、絶対にありえないですよ。とにかく背伸びしすぎなんだよなあ。もっと足元を固めてからにしたら、と言いたいですよ」
人材不足と並んで、日本企業の関係者が一様に指摘するのは、マレーシアのインフラの劣悪さである。
「水道や電話も満足に敷けていないのに、なにがマルチメディアだ」
といった声を、何度耳にしたことか。
「それなのに、MSCの予定地は、地価が近隣の工業団地の二倍から三倍もするんですよ。きっと不動産開発で儲けたいんじゃないですか」
件《くだん》の日系コンサルティング会社社長はそう疑問を呈していたが、これはあながち勘繰りではない。以下は、MSCの中枢で動いてきた人物が、私に語った内実である。
……MSCの中核都市となるサイバー・ジャヤの予定地は、本来別の場所にあった。それがマハティール首相の“鶴の一声”で引っ繰り返り現在の場所に決まったいきさつには、マハティール首相の開発利権が密接にからんでいる。一方、サイバー・ジャヤの隣にあり、各省庁が移転してくる予定の新行政都市「プトラ・ジャヤ」(「プトラ」とは「子供」「王子」の意味)の利権を握っているのは、マレーシアの大蔵省と、この国最大の石油会社ペトロナスと言われている。クアラルンプールに世界最高の高さを誇る「ツイン・タワー」を建て、世界的にも勇名を馳せたペトロナスは、国策会社ながらマハティール首相のコントロールが完全にはきかない唯一の企業と目されている。MSCでは、こうした利権をめぐる綱引きが、いまなお水面下で繰り広げられているのだ……。
マレーシアの地域研究を続けてきた日本人研究者も、匿名を条件にこう語る。
「ネポティズム(縁故主義・血縁支配)やクローニズム(身内びいき)というと、最近ではインドネシアのスハルト・ファミリーの専売特許みたいだけれど、マハティールも相当なものですよ。実業家の長男が株に手を出して、日本円にして四十億円もの大損をしたんですが、このときマハティールはペトロナスに働きかけて、長男の持っていた会社の一部を買い取らせたと言われている。これは表沙汰になってさすがに非難囂々《ごうごう》だったけれど、表に出ない部分でのマハティール・ファミリーの蓄財がどれくらいあるかは見当もつきません。この国くらい、外から見る姿と中に入って見る姿とが違う国は、アジアにはないですよ」
マハティール首相には、欧米にも臆せず物が言える親日的なアジアのニュー・リーダーというイメージがあるが、内から見るとその強権や腐敗ぶりばかりが目につくらしい。タイやインドネシアの混乱に隠れて目立たなかった経済状況の急速な悪化が、こうした現体制の負の面を浮き彫りにしつつある。
九八年九月、マハティール首相の後継者だったはずのアンワル副首相兼蔵相が解任され、続いて逮捕までされた事件は、経済政策の失敗以外にマハティール首相との利権争いが大きな原因とみられている。マレーシアの抱える不良債権の総額は、九七年のGDP(国内総生産)の半分にも達すると言われ、経済危機はさらに深まると、ビジネスに携わる日本人もマレーシア人も戦々恐々なのだった。
経済危機はMSCにも大きな影を落としている。MSCへの進出を決めた日系企業は、同じ系列企業を別に数えても十社に満たず、大半はまだ様子見の状態にある。マイクロソフト社のビル・ゲイツ会長にしても、MSCの国際顧問委員会に名を連ねていながら、進出には慎重な姿勢を変えていない。
「少なくともサイバー・ジャヤは、一回頓挫すると思います」
MSCの内部事情を打ち明けた前述の関係者は、いっそさばさばした表情で、こう断言した。
「(進出を見込んでいた)外国企業は全滅状態ですから、もうちょっとすれば破綻しますよ。だけど、計画そのものを投げ出すのは国家の威信にかけてもできないわけだから、一回頓挫したあとどうやって建て直すかということじゃないですか。その方法? 私は、カジノを作ったらいいと思う。これ、冗談で言っているんじゃなくて、そうでもしておカネを呼び寄せないことには、どうにもならないですよ」
きょうも、高層ビルが林立するクアラルンプールの空は、薄墨が広がったような色で覆われている。
熱帯の太陽すらも、あの目を射る輝きを失い、だいだい色の、まんまるい切り紙細工のように見える。インドネシアの森林火災で発生した煙霧は、旱魃のせいもあって予想以上に長引き、経済危機でくすんだマレーシア人たちの表情を、いっそう暗く気だるげにしている。
MSCを巡回したあと、私は会津さんに、
「ここに、本当に(未来の情報都市が)できるんですか」
率直に問うた。会津さんは、私のほうに努めて顔を向けようとしながら、そしてそのたびに後部座席のお嬢さんたちから「パパ、前見てぇ!」と非難を浴びながら、答えた。
「この国は、何でも始めると速いんですよ。道路でも建物でもあっという間にできちゃう。それは、びっくりするくらいですよ。ただし……」
ただし?
「おカネが続けばの話だけれど(苦笑)。いまは政府も民間もおカネがない。これで外資が引き揚げたらどうなるのかと思いますよ」
やはりカジノでも開くしかないのだろうか。いや、それ以前に、水道や電話などのインフラもろくにできていないマレーシアが、マルチメディアなんておこがましいという声すら、日系企業の関係者にはあるのだが。
「日本では持続的成長がもてはやされて、マレーシアのような蛙跳び式の発展の仕方は邪道のように言われるけれど、それは先進国の勝手な理屈じゃないかな。日本人はすぐ『物には順番がある』と言いますよね。まず食えるのが先で、次に水道を敷いて電気を通して、と。でも、それじゃあ途上国はいつまで経っても先進国に追いつけないですよ」
ふだんの穏やかな表情に、青年時代の客気《かつき》がよみがえった。
「電気のない村に、インターネットの回線を敷くことは、本当に無意味なんだろうか。そうじゃないと僕は思うんですよ。インターネットが入れば、電気のない村が世界とつながることができるんですよね。インターネットが先で、電気があとでもいいじゃないかというのが、僕の考え方なんです」
そう言ってから、会津さんはぐさりとするひとことを放った。
「MSCを見ていると、いまの日本人にこれができるだろうかと思うんですよ。まったく何もないところに新しい首都を建設して、未来を考えたシステムを作れるんだろうかって。いまの日本のエリートたちに、果たしてそれだけの構想力と実行力があるんでしょうか……」
会津さんはいままでに、MSCを詳細に研究した報告書や、MSCとシンガポールの情報化計画との比較レポートなどを出版し、NTTを始めとする日系企業や団体に配付してきた。これら十社ほどの企業や団体からの資金で、会津さんのアジアネットワーク研究所は財政的に支えられている。MSCなどに関する報告書は、会津さんが各企業や団体に約束したいわば“ノルマ”で、その内容如何《いかん》では出資が打ち切られる場合もないわけではない。
会津さんを含め合計三人の日本人スタッフを抱えて、マレーシアで研究所を維持するには、年間ざっと四千万円はかかるという。会津さんが全力投球で中身の濃いレポートを出してきたのは、第一に完全主義者の矜持《きようじ》ゆえだろうが、出資企業がひとつでも抜けると研究所の運営に支障をきたしかねないからでもある。
会津さんが携わるMSC関係のもうひとつの仕事は、MSCへの進出や参画をすでに決定したり、もしくは関心を示している日系企業との勉強会を企画し運営することである。日本人参加者たちの話によると、九七年七月の大々的なフォーラムでは、進出企業への優遇措置についての質問が相次ぎ、関心の高さが感じられたのだが、私の帰国後に開かれた二回目のフォーラムでは、現状と今後に対する厳しい意見が飛び交い、マレーシア側の責任者が反論する場面も見られたという。
MSC関連以外の会津さんの活動には、「iznews」というホームページにしても、クアラルンプールの日本人会にある「ネットワーク研究会」の幹事役にしても、ボランティア的な色合いが濃い。
MSC計画の立案時に深く関わり、会津さんにマレーシアへの進出を熱心に勧めたトゥンク・アズマン=マレーシア電子システム研究所社長は、会津さんを端的に「予言者」と呼んだ。
「こういう(MSCのような)仕事をしていると、外国からの『予言者』が必要になるんですよ。外国から来た予言者の話には、みんな耳を傾けるんですよ。予言者は、文化や出身が同じだったりすると、まず歓迎されないんですがね」
きわめて保守的とされるマレーシア人にMSC計画を受け入れさせるため、会津さんを利用しているとも思える発言だが、そんなこちらの気分を知ってか知らずか、アズマン社長はにやりと笑って、
「だから、会津さんにはマレーシアで予言者になっていただきたい。私が言いたくても言えないことを、会津さんなら言えるんです。私の言うことを誰も聞かなくても、代わりに会津さんが言ってくれれば、みんな聞くんですよ」
と言うのだった。
ところが、MSCがらみで苦戦を強いられている日系企業の関係者のあいだからは、MSCを進めるマレーシア当局ばかりではなく、会津さん本人に対しても批判の声があがっている。
いわく、「あの人は所詮、評論家ですよ」「風来坊だよね、腰がすわってないもん」「マレーシアで本当は何をしたいのか、全然わからないですよ」「我が道を行くのはいいけれど、もうちょっと周りのことも考えないと」……。
実のところ、会津さんには日本にいた頃にも同様の批判が向けられがちだった。会津さんの印刷会社時代の部下で、その後も仕事を共にしてきた平野澄子さんは、会津さんを弁護してこう言う。
「『評論家』と言われちゃうのは、人がとてもできないと思うことを言うからなんですね。でも、会津さんと一緒に仕事をしてきて、とてもできないと思われたことが形になっていくのを何度も見てきた私からすると、会津さんは自分で本当にできると思っているから、周りの人にもそう言うんだと思うんですよ」
平野さんは、仕事仲間によくこんなことを言われたそうである。会津さんが先頭を切って駆けていくので追いかけると、角のところで急に曲がってしまう。あわててその角まで行くと、会津さんはもう次の角を曲がっていて、影も形も見えず、ただ砂ぼこりしか残っていない。
「そこで砂ぼこりにまみれたり疲れ切ってしまった人は、会津さんのことをよく言わないかもしれないですね」
と言って、平野さんはおかしそうに笑った。
会津さんが以前所属し今も籍を置いている国際大学グローバル・コミュニケーション・センターの公文俊平所長は、会津さんを日本人には珍しい「強い個人」と規定した。
「会津君という人は、所属している組織のレッテルで人間を判断する日本人にはきわめてわかりにくいけれど、外国人にはきわめてわかりやすい存在なんですよ」
公文さんは、明治維新を引き合いに出して、独特な譬え方をした。維新の志士たちが脱藩して新しい時代を切り開こうとしたように、いま同じようなことをするなら「脱国」するしかないというのだった。ちなみに、公文さん自身も、東大教授からの「脱藩組」なのである。
「その意味で、会津君も完全に『脱国』してしまうのも手かもしれない、マレーシアの日本人社会からもね。いま国外で活動する非日本的な組織が、会津君にとっても、日本にとっても必要だと思うんですよ。いずれ十年もしたら、日本が彼みたいな人間を絶対に必要とする時代が、まちがいなくやって来るわけですから。彼にいまさら『伝統的な日本人のようになれ』と言ったって、それは無理なわけで(笑)、もしそんなふうにさせたら逆に日本にとっても損失なんですよ」
当の会津さんは、批判にもどこ吹く風といった様子で、こう語る。
「“根無し草”みたいに言われるのは、自分でそういう生き方を選んできたからで、これは変えようがないし、変えるつもりもないんですよ。地縁や血縁とは関係ないところで、人間関係を作ろうとしてきたわけでね。人と人とのあいだに橋を架ける仕事を根無し草的にやっていくのが僕のやり方で、そこに自分なりの価値観を見出していくのが楽しくて、そういう生き方をしてきたんです」
そして自ら、ボランティア的な活動の仕方に触れ、
「ある意味で、経済とつながりのないことをしようとしてきたんですよ。本当はもっとおカネのない国のプロジェクトを手伝いたいんです。マレーシアでも半分はボランティアのつもりでやっているから、こっちの日本企業の人には遊んでるみたいに見られるのかなあ」
と苦笑した。
この“根無し草”の「強い個人」を支えているのが家族なのである。それはだが、決してかつての家父長的な家族ではない。たとえば、会津さんと二番目のお嬢さんとは、お互いを「きみ」と呼び合う。私は最初、違和感を覚えたものだが、その「きみ」という言い方が、次第に英語の「you」のように聞こえてきたとき、二人の関係がすとんと胸に落ちたのだった。
私が帰国した翌日、会津さんはアメリカに所用で旅立ち、アメリカ滞在中に送られてきた電子メールを、日本の私にも届けてくれた。
吉報だった。アジア太平洋地域のインターネット事業者や個人の団体である「アジア太平洋インターネット協会」が、役員会で会津さんを事務局長に選出したというのである。私は、電子メールではなく、すぐお祝いの電話を入れた。
「マレーシアでの仕事の時間を半分くらい取られちゃうかもしれないけれど、やりがいはあると思いますよ……」
受話器の向こうから、相変わらず理性的な、しかしどこか喜びが感じられる会津さんの声が聞こえてくる。アジアにインターネットを広げ、とくに貧しい地域の人たちに役立ちたいと願ってきた会津さんにとって、これは大きな一歩であるにちがいない。たとえ、それが大半の日本人には、さしたる意味を持たないように今は見えていたとしても。
私は、クアラルンプールの会津さん宅の仕事場に掲げてある貼り紙を思い出していた。そこにはたしか、高校に通う三番目のお嬢さんが半紙に毛筆で書いた「成功」の二文字が、元気よく躍っていたはずである。
第九章 黒帯先生、インドをゆく〈インド〉
炎天下のアスファルトの道に、カラスが前のめりに倒れて死んでいる。その数、二羽、三羽……。
暑さに朦朧《もうろう》とした頭で、そう言えば日本でカラスの死骸を見たことなんかあったっけとつぶやき、だがすぐ正気に戻って、カラスさえ耐えきれぬ熱波のただ中にいる自分に慄然《りつぜん》とする。
ここは、インド北西部のパンジャーブ州アムリッツァル──。温度計の目盛りは、五十度で止まったまま動かない。前日まで私が滞在したデリーは、五月としては実に五十四年ぶりの熱波に見舞われていた。インド北西部を中心に死者は全土で三千人を超えると発表されたが、カラスの死にざまを見ていると、実際にはその倍以上の死者が出ているという地元のインド人たちの噂を、私は信じないわけにはいかない。
こんなところで、本当に日本人が柔道を教えているのだろうか。
でも、ほら、ドライヤーのような熱風に乗って、若い元気な掛け声が聞こえてくるではないか。
「オオウチガリ(大内刈り)・アンド・セオイナゲ(背負い投げ)。オッケー、な? ディス・イズ・コンビネーション・テクニック。アンダスタンド、な?」
体育館中に響く声で話をしている三浦守さんは、インドで柔道を教えてもう十三年になる。
身長は百七十センチ足らずだが、体重は百二十キロを超え、誇張して言うとビヤ樽が白い柔道着を着て黒帯を巻いているように見えなくもない。巨体の上に、ちょっと垂れ目のいがぐり頭が乗っかっている。
「いいか、柔道はバランス・ゲームなんだ。相手がヘビー級でも、バランスを崩しさえしたら、零キロになることだってある。止まって足を踏ん張っていたら百キロや二百キロの人間でも、動いてバランスを崩せば零キロになるんだ。どうやって相手のバランスを崩すかが大事なんだよ。アンダスタンド、な?」
日本人の先生も個性的なら、その話を食い入るように聞いているインド人の生徒たちも、一人一人が実に個性的である。頭にターバンを巻いた少年が何人もいる。その色も、燃えるような赤、インド洋を思わせる青、大陸の落陽みたいなオレンジとさまざまで、簡易ターバンと言おうか、髪の毛を束ねて照る照る坊主のようにくるんだ少年の姿も、ちらほら見える。
柔道着を着ている子もいるし、着ていない子もいる。その柔道着がまたばらばらで、テント地を縫い合わせたものもあれば、襟《えり》や袖《そで》が破れているものあり、なぜか「りらなさ」という意味不明の日本語を刺繍したものもある。
きょう稽古に来ている二十三人のうち八人は少女で、全員が髪を三つ編みにしていた。
そんな子供たちが、いま三浦さんから教わったばかりの大内刈りから背負い投げへの連続技を、一心不乱に稽古している。
「はーい、やめー! ハッピー・タイム!」
三浦さんの大音声を聞くなり、インド人の少年少女たちは、いっせいに体育館から飛び出していく。あわてて追いかけると、近くの井戸に飛んでいっては、我先に喉を鳴らして水を飲んでいた。これすなわち「ハッピー・タイム」──。
体育館の一段高い舞台にどっかり腰を下ろして貧乏ゆすりをしている三浦さんのもとにも、アルミ製のコップになみなみと注がれた水が、教え子の手で運ばれる。それを一気に飲み干すと、三浦さんは、
「けっこう(言葉が)通じるもんでしょ。ブロークンな英語を、ブロークンな男がしゃべってねえ」
目尻をいっそう下げて、なんとも愛嬌のある笑顔になった。
愛嬌があるのも、むべなるかな、三浦さんは元コメディアンなのである。
高校柔道日本一に輝いたこともある熊本の名門・鎮西高校を卒業後、大学進学を目指して上京し、銀座の工事現場でアルバイトをしているとき、見知らぬ男性から声を掛けられた。
「兄ちゃん、いま昼休みか。だったら、ちょっと芸能人に会わせてやるから」
連れていかれた先は東京宝塚劇場の楽屋で、鬢《びん》付け油の匂いが立ち込める中、八の字眉毛をした中年の男が、大鏡の前であぐらをかき、おしろいを塗っていた。
「親父さん、若いの連れてきました」
「あ、いいよ、明日からでも来いよ。着替えと免許証持ってな」
「わかったか、三浦。おまえ、明日から親父さんのお世話になるんだぞ」
あのう、でも、僕、大学に行くつもりなんで、と言いかけると、三浦さんに声を掛けた男がすかさず、
「大学なんかやめとけ、やめとけ。芸能界のほうがずっといいぞぉ。腹いっぱいめしも食わせてやるからなあ」
まるで相撲部屋に弟子入りするみたいに、それから足掛け八年に及ぶ三浦さんの付き人生活が始まったのである。その八の字眉毛の芸能人が、喜劇界の重鎮・由利徹であるということもつゆ知らずに。由利徹さんの回想──。
「三浦の顔は、とにかくおかしいよ。愛嬌があるよ。それに存在感があるんだよ。千昌夫ショーで、あいつが上野の西郷さんの銅像の役で出たこともあったなあ。あいつが着物きて、眉毛かいて、犬つれたら、そのまんま西郷さんだから(笑)。存在感はあるんだけど、芝居がうまいと思ったことはないな。その頃うちにいた、たこ八郎と一緒でな。器用じゃないんだよ。三浦の思い出? そうだなあ、大飯食らいと大いびき(笑)。でも、あいつのいいところは恩義を忘れないことだな。いまでも、ときどき顔を出すよ。一番来てもらいたいときは、正月前の大掃除のときなんだけど、そんときは来ないで正月になると必ず来るんだよ。それでちゃっかりお年玉だけもらって帰るんだよ(笑)」
二十七歳、初めての外国旅行がインドだった。
深い理由があったわけではない。楽屋での雑談で、先輩の役者たちから海外旅行の話を聞いて、一番わけがわからなかったのがインドだったからである。大好きになるか、大嫌いになるか、その両極端しかない。どちらが本当なのか、自分の眼で確かめてみたくなった。
師匠から暇をもらってインドへ行ったのは、八五年六月のこと。カルカッタは酷暑のさなかだった。
「大事に持っていったナポレオン(ブランデー)を、空港の係官から『ギブ・ミー』って取り上げられたのが、そもそもの始まりですよ。やっとのことで空港から出たら、今度は客引きが両手両足を掴《つか》んで放さない(笑)。くそ暑いし、乞食はしつこいし、カレーは(香辛料がききすぎて)まずいし、とんでもないところに来ちゃったと思いました」
インドは自分の実力がはっきりわかるところだと、三浦さんは断言する。
「そのときは自分が情けなかったですよ、こんなことしかできないのかって。カレーは食えないわ、英語はできないわ、汽車の切符一枚まともに買えないわで、俺はこの程度の人間なのかって。叩きのめされて、自分が何にもできないということを思い知らされたんですよ」
ほとほとくたびれてカルカッタを離れようとしていたとき、
「ユー、ジャパニ(日本人)、ジュードー?」
と、耳のつぶれたインド人に話しかけられる。三浦さんの耳にも、激しい稽古の勲章と言うべき耳だこができている。三浦さんがうなずくと、男は自分も柔道コーチであると自己紹介し、「カルカッタ・ジュードー・クラブ」に明朝来てもらえまいかと熱心に誘う。
こんなところにも柔道場があるのか……。高校以来、遠ざかっていた柔道への思いに、ぽっと灯がともった。
翌朝、約束通り迎えのクルマが来て、案内されて行った柔道場では、インド全国大会に向けてのカルカッタ地区予選が開かれていた。
初めて目にするインドの柔道は、これが柔道かと思わせるような代物だった。基本の摺《す》り足も体さばきも、まるでなっていない。アマレス出身が多いらしく、レスリングもどきの大技を連発するのだが、それよりも何よりもびっくりしたのは、観戦している選手や見物人の熱狂ぶりであった。一本勝ちともなれば、選手は飛び上がって大喜び、周りも総立ちで踊りだす者までいる。こんな大騒ぎは、日本では見たことも聞いたこともない。唖然として突っ立っていたら、観客の一人が三浦さんを指さして、
「ジャパニ、ネクスト、ユー、シアイ(試合)!」
と叫び、満場がどっと沸いた。
冗談じゃない。柔道三段といったって、十年近くも黒帯を締めていないのだ。こんな所で日本人の代表みたいな顔をして、もし投げ飛ばされでもしたら、とんだ日本人の恥さらしになる。
ところが、三浦さんが「ノー」と言えば言うほど、会場の「ジャパニ・コール」は激しくなるばかり。その声に押し出されるようにして、三浦さんは久しぶりに柔道着に腕を通すはめになった。
相手は、百八十センチを優に超える大男である。
「とにかく相手の技を受けるのが精一杯で、息切れがしちゃってねえ。でも、咄嗟《とつさ》に出した背負い投げが決まって、どうにか一本勝ちしたんですよ」
そのあと起きたことは、三浦さんの想像を絶していた。
「観客や選手が次から次に寄ってきて、手で僕の足にさわってくるんですよ。あとで知ったんですけど、インドでは先生とか目上の人に対する尊敬のしるしなんですね。でも、そのときは何するんだろう、この人たちは、と思いましたよ。僕の黒帯をつかんでお祈りする人もいるしねえ。なんだか鳥肌が立つみたいで、ぞくぞくしましたよ」
三浦さんが投げた相手は、インド選手権の無差別級優勝者なのだった。その大男も含め、何人ものインド人がやって来ては、口々に、
「三浦センセイ、ここで柔道コーチ、プリーズ」
と言う。日本では付き人稼業の俺が「センセイ」だなんて……。しかし、これが三浦さんのインドでの柔道コーチ人生の始まりになるのだった。
いま「嘉納《かのう》治五郎」と聞いて、ただちに「講道館柔道の創始者」とひらめく日本人は、どれほどいるだろうか。ましてや、その顔を思い浮かべられる日本人は、ほとんどいないのではあるまいか。
だが、柔道とは縁もゆかりもないと思われがちなこの国で、柔道に少しでも接したことのあるインド人なら、嘉納治五郎の名前はおろか、顔を知らぬ者もまずいない。なぜならインドでは、どんな田舎の柔道場に行っても、嘉納治五郎の写真や肖像画が、花輪に飾られたり、ヒンドゥー教の神様やシーク教の聖者の像と並んで掲げられ、稽古の始めと終わりには必ずそちらに向かって全員で拝礼がなされているからである。
現在、三浦さんが柔道を教えているアムリッツァルの学校の体育館にも、嘉納治五郎の写真が、「PRO JIGORO KANO」(嘉納治五郎先生)と書かれて、観音開きの戸棚の中に安置されている。生徒たちは、
「ショーメイ(正面)、礼!」
の声とともに、まずその写真に深々と頭を下げ、それから、
「センセイ、礼!」
の声で、三浦さんにも同じ仕草を繰り返す。嘉納治五郎の誕生日にあたる十月二十八日になると、日本人は知る人も少ないであろう北西インドのこの町で、「嘉納治五郎杯」が開かれ、試合のあとにはささやかな誕生パーティーが催されている。
「いや、僕が来るずっと前から、インド人はこうやって嘉納治五郎を尊敬してきたんですよ。インド人の柔道家にとって、嘉納治五郎は“グル”ですから」
ヒンドゥーやシークの聖者と一緒に尊ばれているのは、そういうわけなのだった。
「いま日本の学校で道場に嘉納治五郎の写真を飾ってあるところなんて、ほとんどないんじゃないですか。日本人の少なくとも若い連中よりは、彼らのほうがずっと礼儀正しいですよ」
三浦さんの言葉を待つまでもなく、彼らの礼儀正しさには心あらわれるような思いがした。柔道場に出入りするときは必ず一礼し、靴やチャッパル(古タイヤなどでできたサンダル)をぬいできちんとそろえてから、右手の甲を床につけて、その手をそのまま左胸や額のあたりに持っていく。三浦さんに対する挨拶も同じで、右手の甲で三浦さんの足の甲や脛《すね》や膝に軽く触れ、それから右手の先を自分の左胸やおでこにさっとつけるのである。
稽古の「ハッピー・タイム」の際、頭に簡易ターバンを巻いた少年が、私のところにも水を持ってきてくれた。インドでの客人のもてなしは、まず何はともあれ水で、それからチャイ(インド式のミルク・ティー)となるのが通例である。水もチャイも、こちらが断らないかぎり、何杯でも出てくる。
さて、この水を運ぶ少年の様子をじっと見ていた、こちらは本格的なターバン姿に白い髭をたくわえた老人が、私のほうに歩み寄り、なにやら憮然とした表情で、
「私は恥ずかしい」
と囁くのである。
「あの馬鹿者は、お客様のあなたに、片手で水を渡しおった。ちゃんと両手で持つか、片手で渡すにしても、もう一方の手を添えて差し出すのが当然の礼儀なのに、まったく近頃の若いもんときたら……。あの馬鹿者の失礼をどうかお許しください」
かえってこちらが恐縮してしまうほど、白い口髭を震わせて怒っておられるのである。
万事がこうだから、柔道場を物珍しげにのぞいていた近所の子供たちが、ついつい土足のまま上がり込んだりしたら、大変だ。生徒の誰彼から怒鳴りつけられ、ホウキで叩き出されても文句は言えない。三浦さんいわく、
「柔道場は彼らの“聖地”ですから」
ところが、この聖地、どこも切なくなるくらい、外見はぼろぼろなのである。
日本式の畳がある柔道場など、インド全体でも数えるほどしかないという。このパンジャーブ州アムリッツァルの体育館にある柔道場は、中身の飛び出した体操用のマットを三、四十枚敷き詰めたものの上に、洗い晒したモス・グリーンの大きな布をかぶせただけで、夕方の稽古が終わったあとには、地方の村から出てきた宿のない人々が、寝泊まりをする場所になっている。
マットが薄っぺらだから、投げられるたびにひどい音がする。もうもうたるほこりも舞い上がる。マットとマットのあいだがすぐ開いてしまうので、しょっちゅう両側からマットを寄せて溝を埋めなければならない。三浦さんのような指導者にとって頭が痛いのは、柔道の基本中の基本である摺り足を教えられないことだ。
それでも不揃いの柔道着を着た子供たちは、毎日、早朝と夕方、モス・グリーンの布地に汗をしたたらせながら、黙々と稽古に励んでいる。
「いいですねえ。日本の子供たちに見せてやりたいですよ」
感に堪えず私がそう言うと、
「いいでしょう。『体の知恵』というか、そういうのがここの子供たちにはありますよ」
体の知恵?
「田舎の子でしょう。みんな子供のうちからよく歩くし、家の手伝いもよくするんですよ。基礎体力は日本の子供よりもあるんじゃないかな。田舎もんだから、涙流しても頑張るド根性がある、僕とおんなじで(笑)。磨けば光る子はいっぱいいるんです。それに、柔道着も満足に持っていない子が多いから、僕が日本でいらなくなった柔道着をもらって来るんですよ。日本で一度死んだ柔道着が、ここでまた命をもらうんですよね」
吹き出す汗をそのままに、柔道着姿の三浦さんは目を細めるのだった。
初めて訪れたインドで柔道を教えることになった三浦さんは、そのままカルカッタでふた月を過ごしたのち、日本に帰り元の付き人生活に復帰する。だが、もはや芸能界への関心は薄れるばかりだった。楽屋にいても、ぜひまたインドに指導に来てほしいと目を輝かせていたインド人たちの顔がちらつく。「インド、インド」と熱に浮かされたような三浦さんに、師匠の由利徹さんは、「おまえ、インドに女でもできたのかぁ?」「インドはそんなにカネ儲かるのかぁ?」と訝《いぶか》しげだった。
カネが儲かるどころか、三浦さんはインド人に柔道を教えて一パイサも(日本的に言えば「一銭も」)もらったことはない。東京で土木工事や警備員などをして貯金をし、旅費ができたらすぐさまインドに飛んで柔道を教える。平均すれば、日本に五カ月、インドに七カ月、毎年その繰り返しなのである。
「日本に帰ったとき、『インドでボランティアしてるんですね』と言われて、ああ、俺のやってることってボランティアなのかなあと思ったくらいで」
と、三浦さんにもカンボジアの渋井さん同様、ボランティアの意識はまったくない。けれども、本書の冒頭に掲げた、アジアに蔓延《まんえん》する「拝金主義」という名の経済至上主義を、いかにして克服するかとの問い掛けに対するひとつの答えが、こうした個人のボランティア活動(当事者にボランティアの意識があるか否かにかかわらず)にはあるのではないか。その意味で、ここまで述べてきた「ボランティア」とは、他者のための「奉仕」や「貢献」ではなく、自己を生かすことがそのまま他者を生かすことにもなる「自発的な無償の行為」と定義することができるかもしれない。
三浦さんは、請われるままにインド各地で指導を続けるうち、カルカッタを皮切りにデリー、ムンバイ(かつてのボンベイ)、ゴマ、マドラスと、インド中の主だった柔道場を巡ることになった。
パンジャーブ州の州大会会場で、本場・日本から来た「ジュードー・ワーラー」(柔道家)のデモンストレーションを見せてほしいと所望されたときのことである。この手の実演にはすでに慣れっこになっていた三浦さんは、少々凝った演出で会場を沸かせてやろうと思い立った。
相手となるインド人の柔道選手には、五人登場してもらう。そのうち四人は大男の見るからに強そうな猛者《もさ》ばかり、あと一人は柔道を習いたてのあどけない少女という顔ぶれで、三浦さんが四人の巨漢を千切《ちぎ》っては投げ千切っては投げしたあと、最後に出てきた可憐な少女に三浦さんがぶん投げられるという筋書きである。ただし、相手となる五人には前もって何も知らせず、ぶっつけ本番でいく。これなら大ウケまちがいなしと久々にコメディアンの血が騒ぎ、三浦さんはインド人の主催者と顔を見合わせてほくそえんだ。
いざ本番。予定通り、三浦さんは四人の大男どもを軽く投げ飛ばし、最後の少女との対戦では逆に投げ飛ばされて見せた。さあ爆笑の渦だぞと、寝ころんだまま客席を見回すと、意外にも水を打ったように静まりかえっている。やがて思い出したように拍手とどよめきが沸き起こり、それはまたたくまに会場全体に広がった。
なんだか様子がおかしい。大会の役員たちまでが大騒ぎをしているし、きょとんとした顔の少女も新聞記者の質問攻めにあっている。インド人の主催者はと見れば、彼だけが妙に引きつった顔をしているのだ。
パンジャーブ州柔道協会の会長が、ターバンを振り立てながら真顔で尋ねてきた。
「ミスター・ミウラ、あの女の子、将来はオリンピックの金メダルを狙えますね」
三浦さんが答えに窮していると、白い顎鬚を伸ばした会長は、
「あなたにパンジャーブ州代表柔道チームのコーチを正式にお願いしたいのだが」
興奮さめやらぬ口調で会長が言うには、小さなインド人の女の子が日本の大きな柔道家を投げ飛ばすのを見て、教え方次第ではインド人もいくらでも強くなれると確信したというのである。
こうして三浦さんはパンジャーブ州代表チームのコーチに就任し、その後、インド全国大会での金メダリストを十人、二十人と育て上げるようになる。パンジャーブ州の中でも、三浦さんが腰を落ち着けることにしたアムリッツァルでは、柔道のレベルが格段に上がり、アムリッツァル地区予選を勝ち抜けば、パンジャーブ州代表にも選ばれ、パンジャーブ州代表に選ばれれば全国大会でもメダルをとれると言われるまでになった。
アムリッツァルが気に入ったのは、素朴な人情があること、それから料理がうまいことである。食いしん坊の三浦さんにとって、これは欠かせない条件なのである。
「日本では、ご飯を何杯もお代わりしなきゃ男じゃないみたいに言うでしょう。ここでは、ご飯じゃなくてチャパティなんですよ。チャパティを一枚しか食べないと、『なんだ、男のくせに一枚か』って馬鹿にされる。三枚、四枚食べると、それでこそ男だみたいに言われる。でも、よそのうちに行って七枚も八枚も食べる奴は、『大飯食らい』って嫌われるんです(笑)」
アムリッツァルの人々はよく、デリーの水なんかまずくて飲めたものではないと顔をしかめる。タンドリーにするチキンだって、ラッシー(日本的に言えばヨーグルト・ドリンク)を作るミルクだって、アムリッツァルのほうが段違いにうまい。第一、ミルクは水牛のミルクでなくっちゃ。デリーなんか、牛乳を水で薄めて出すんだから。
「ここの人は、一日に一人で二リットルもミルクを消費するというんですね。ミルクそのもの以外にも、ラッシー、ヨーグルト、バター、チーズと本当によく乳製品を食べますよ。日本の味噌・醤油と同じ感覚ですよね。だから、みんな体がでかいでしょう。インド人というと痩せているイメージがあるけど、ここの人間はみんなでかいですよ」
たしかに、百九十センチ・百キロなんていう大男のインド人がごろごろいる。
「それから郷土意識がものすごく強い。デリーの人間はずるいし、ボンベイの人間はキザで冷たいし、カルカッタの人間は手で物を食う野蛮人だって。でも、ボンベイに行くと、逆に『パンジャーブの山猿』って馬鹿にされてる(笑)。僕らの言い方で言うと“ヤンチャ”な人間が多いですよ。パキスタンとの国境が近いから、どうしても気性は激しいです。体が頑丈で気性が激しいから、格闘技に向いているんですよ。インドの中では男女差別が少ないほうだから、女の子のあいだでもスポーツが盛んなんです」
三浦さんがこれまでに育て上げた最高の選手も、ソニアさんという女性なのである。マレーシアでのASEANオープンで堂々銀メダルに輝き、これはインドの柔道選手が国際大会で獲得した初のメダルとなった。姉の影響で十二歳から柔道を始めたソニアさんは、十五歳のとき三浦さんと出会う。
「インド人のコーチとは全然違いました。インド人のコーチは柔道着に着替えないけれど、三浦先生はいつも柔道着に着替えて、技術的にレベルの高いことを直接教えてくださるし、インド人のコーチみたいに自分が目を掛けた選手だけを見るといった依怙贔屓《えこひいき》なんか絶対にしません。心がやさしくて、みんなに同じように目を配ってくださるんです」
みんなに同じように目を配る。ごく当然のことと思われるかもしれないが、インドでは二つの大きな理由から通常そうはならない。ひとつは宗教の違いから、そしてもうひとつはカーストの違いから……。
少年少女たちの乱取りを見ているとき、三浦さんに話しかけられたことがある。
「ねっ、気づきませんか。何となく嫌がって組まない子がいるでしょう。僕が『はい、おまえとおまえ』って言うと、しょうがなくて組んでいる。カーストが違うからなんですよ。放っておいたら、いつも同じような組み合わせで乱取りすることになっちゃう。僕が『柔道場の中に入ったら、みんな同じ人間なんだから』と言いつづけてきても、まだこうですから。インド人のコーチは、カーストの下の人間には教えません。だから、僕のところだけなんですよ、カーストの上の人間も下の人間も来ている柔道場というのは」
私も、何とはなしに気づいていた。三浦さんが乱取りの相手を代えるように指示すると、次々に新しいコンビができるのに、何人かはうろうろするばかりで、自分からは誰にも近づこうとしない。三浦さんに指名されておずおずと組むのだが、乱取りのさなかにも何やら気詰まりな様子がうかがえる。
カーストによる身分差別はインドの憲法で禁止されてはいるものの、三千年ものあいだ続いてきたと言われるこの階級制度が、そうすんなりと消えてなくなるはずもない。
サンジャイ君とパラス君(ともに仮名)というアムリッツァル出身の教え子が、三浦さんにはいる。二人とも柔道ではすでに現役を退き、サンジャイ君は裕福なビジネスマンに、パラス君は薄給の下級警察官になっているが、二人はカーストでも上下関係にある。
私は、二人に何度も会い、双方からたびたび食事に招かれもした。
パラス君はずんぐりむっくりとした冗談好きの青年である。美人でしっかり者の奥さんが何よりの自慢で、利き腕に彼女の名前を入れ墨している。
「うちのかみさんのダル(豆の入ったカレー汁、日本の味噌汁に当たろうか)は最高だから」
と何回も勧めるのでごちそうになったら、本当にスパイスがきいてコクもあり、なるほど彼が胸を張るだけの味だった。
彼の父親は、自宅の軒先でこぢんまりした雑貨屋を営んでいるが、店のほうよりも、産毛《うぶげ》のような白髪《しらが》が生えている禿頭《とくとう》にたかってくるハエを追うのに忙しそうである。三浦さんが家の前を通るたびに、
「おーい、チャイでも飲んでいかんか」
と決まって声を掛けてくるのは、暇を持て余しているからだろう。私という初めての来訪者を見るやいなや、にこにこしながら若い頃パキスタンとの戦争でもらったという勲章を持ち出してきて、その謂《い》われを得々と説明してくださる。三浦さんは大あくびをして、
「親父よォ、お客が来ると決まってその勲章を出してくるけど、それ、ほんとは市場で買ったんじゃねえの。パキスタンとの戦争のときは、逃げてばっかりいたんだろ」
そんなふうに冷やかされても、親父さんは息子そっくりの太鼓腹を揺すって大笑いをしているのだった。
サンジャイ君も、三浦さんが「こんなに性格のいい人間は珍しい」と言うほどの好青年である。その性格が災いしたものか、柔道のほうはぱっとせず、三浦さんに言わせれば、
「もったいなかったですよね。バネはあるのに気が弱いから、本番でびびって腰が引けちゃうんですよ」
サンジャイ君の父親は、現在のパキスタンに生まれたヒンドゥー教徒で、パキスタンがインドから分離した一九四七年に、イスラム教徒に追われてインド領に逃げてきた難民の一人だった。インドとパキスタンの国境は、ここアムリッツァルからクルマでわずか三十分足らずのところにある。
サンジャイ君は現役時代に膝を傷めたとき、三浦さんが日本から湿布薬を持ってきてくれたことに、いまだに恩義を感じているようで、三浦さんの顔を見ると、
「うちに食べにきてください」
と、穏やかな口調で誘う。
「三浦先生から柔道を習って、自分に自信が持てるようになりました。三浦先生はインド人の柔道コーチとは違って、おカネを全然受け取りません。ただで教えてくださるのだから、僕らがごちそうするのは当然ですよ」
髭のそりあとの濃い生真面目な顔で、サンジャイ君はそう言うのである。
三浦さんはパラス君とサンジャイ君が子供の頃からよく知っているのだが、昔はそれほどカーストの違いを感じなかった。二人はお互いの家にも始終遊びに行き、柔道の合宿の記念写真にも仲良く並んで写っている。ただ、いつの頃からかパラス君が、
「サンジャイのお父さんはうるさいからいやだ」
と言いだしたことが、三浦さんには何となく気になっていた。そんなに口やかましい親父なのかと思っていたのだが、そうではなかった。サンジャイ君の父親は、息子が下のカーストの子供と親しく付き合うのを快く思わず、それを態度で示すようになったのである。
二人が長じるにつれ、三浦さんはサンジャイ君の友人たちとパラス君の友人たちとが、身なりから態度、果ては顔つきまで違うようになってしまったことに気づく。サンジャイ君はもうパラス君を相手にせず、パラス君もサンジャイ君には近寄らない。
つい最近、三浦さんは二人が完全に別の世界の住人になってしまったことを思い知らされる体験をした。
アムリッツァルから北東にクルマで六、七時間ほど行ったところに、ダルムサラという町がある。ダライ・ラマのチベット亡命政府で有名なこのヒマラヤ山脈の町に、三浦さんがサンジャイ君とパラス君、それに柔道コーチになっているもう一人の弟子を連れていったときのことである。食堂に入る際、サンジャイ君がパラス君に、
「おまえは外で食べな」
と言っているのを小耳にはさんだのだった。
少年時代の合宿では同じ釜の飯を食った仲なのに、いまではカーストに則《のつと》ったそういう対応をするようになっている。このときは三浦さんが取りなして一緒に食事をしたのだが、パラス君は気が重くなったのだろう。急用で三浦さんだけがデリーに向かうと、パラス君はサンジャイ君たちと同じバスには乗らず、一人でヒッチハイクをしながらアムリッツァルまで帰ってきたというのである。
私の知るかぎり、パラス君もサンジャイ君も、ひとなつこくて好感の持てる青年である。にもかかわらず、二人のあいだには背中にひんやりとしたものを感じさせるような一線があり、サンジャイ君はパラス君に平然と、
「おまえは外で食べな」
と言ってのける。そして、この隔たりは、年を経るにしたがい深まるばかりなのである。
インドのカースト制から私は、日本でもベストセラーになった『女盗賊プーラン』にも見られる、上位カーストによる下位カーストの奴隷化を想起していたのだが、サンジャイ君とパラス君のようなカーストの上下関係には理解が及ばなかった。
「僕も十年ちょっと彼らと付き合ってきて、だんだん見えてきたんですよね」
三浦さんが、寂しさの入りまじった顔になって言った。
「パラスはこんな目に遭っているけれど、熱心なヒンドゥー教徒なんですよ。ヒンドゥーの神様を信じてるって、はっきり僕に言いますもん。だから、この国では“アメリカン・ドリーム”のような“インディアン・ドリーム”というのは、まずありえないんです。生まれたときに、おまえはいくら頑張ってもここまでだというのが決まっていますから、そのカーストの中でもがくしかないんですよ」
しかし、三浦さんはこうも考える。逆説的に言えば、カーストがあるからこそ、インドの九億五千万もの人口がどうにかまとまって国家の体を成しているのではないか、と。
「いま突然カーストをなくしたら、インドは目茶苦茶になるでしょうね。これだけ貧富の差がひどいのに、犯罪がその割に多くないのは、カーストのおかげとも言えるんですよ。こそ泥とかスリは多いけれど、人を殺して物を奪うというのはそんなにないでしょう。カーストのがっちりした縦社会に組み込まれているから、たった五ルピー(約十七円)で自転車をえっちらおっちらこいでお客を運ぶリクシャー(この場合は自転車つき人力車)の運ちゃんがいたり、毎日文句も言わずにゴミ掃除だけをしている掃除夫がいるんです。カーストの上の人間にとっては、こんなに都合のいい制度はないですよ」
では、このカースト社会で三浦さんの位置はどこにあるのか。
「インド人によく訊かれるんですよ、『あんたのカーストは何か』って。そんなもんないでしょう。だから『ない』って答えると、不思議そうな顔をしてますよ。でも、カーストがないから誰とでも稽古ができるし、誰にでも教えられる。カーストの上の家にも遊びに行けるし、下の家にも遊びに行けます。インド人よりも日本人の僕のほうが、いろんな階層のインド人の暮らしを見てますよ。インド人同士は案外お互いのことを知らないし、そもそもお互い無関心なんです」
そうして三浦さんは、
「カーストがないことが、僕の強みでもあるんです」
きっぱりと言うのだった。
オリンピックの金メダリストで国民栄誉賞を受賞した山下泰裕さん(現・東海大学体育学部教授)は、ある日、聞き覚えのある声の電話を受けた。
「俺のこと、わかるかなあ?」
「わかるよぉ」
やがて十数年ぶりに山下さんの目の前に現れた三浦さんは、少しも印象が変わっていなかった。二人は同い年で、中学三年のとき練習試合で初対戦し、三浦さんの記憶では「あっという間に内股《うちまた》で背中から叩きつけられた」そうである。山下さんの脳裏には、高校柔道の九州大会で同僚が一瞬のすきを見せたとき、見事な足払いで一本勝ちを決めた三浦さんの姿が、いまだに焼きついているという。背丈こそないが、機敏に動き回る、元気のいい柔道だった。
三浦さんの持ち出した話は、これからインドに柔道場のある「日本・印度友好協会」(日印友好協会)の会館を建設しようと思うので、賛同人に名を連ねてもらえまいかというものだった。そのとき初めて山下さんは、三浦さんが高校卒業後、由利徹さんの付き人になったこと、最近はもっぱらインドに行って柔道を教えていることを知る。三浦さんは、こんな話をした。
いま自分は、インドとパキスタンの国境近くにあるアムリッツァルという町にいる。おもに学校を回りながら柔道を教えているが、ここには畳のある柔道場がひとつもない。なんとかしてインドの子供たちに、畳のある柔道場で稽古をさせたいんだ。
インドの人たちは日本にものすごく関心を持っていて、日本のことなら何でも知りたがる。それに、アムリッツァルはパキスタンへ行く日本の旅行者もよく通る交通の要衝だから、ここに柔道場のある日印友好協会の会館を作って、インド人には柔道を始めとする日本の文化を伝え、ここに立ち寄る日本人旅行者もインドとの交流を深められるようにすれば、友好と親善のシンボルになるんじゃないか。教え子やインドの柔道関係者もみなこの計画に大賛成で、熱心に後押ししてくれている。自分としても“ライフワーク”のつもりで、ぜがひでもこの会館を完成させたいんだ……。
山下さんがこの話を九州時代からの旧知に相談すると、こぞって反対された。やめとけ、やめとけ、あんなのとは関わらんほうがいいぞ、と。
「とにかく悪かったんですよ、あいつは、ものすごく」
山下さんは苦笑しつつ言い、それは三浦さんも、
「あの頃は馬鹿やってましたから」
と認めるところではある。鹿児島の中学時代からの喧嘩三昧。鹿児島実業高校二年のときには、悪友と酒盛りをしているところを警官に見つかり、退学処分を食らっている。柔道が続けたくて熊本の鎮西高校へ行き、門前払いされて途方に暮れているところを、運良く柔道部の監督に呼び止められ、その人の家に寄宿して、学業と柔道に専念する約束で編入を認められたのだった。
その人こそ、「柔道日本一」の木村政彦(のちにプロレスに転向して力道山と対戦した)と共に鎮西高校柔道部を支えた船山辰幸氏(故人)で、三浦さんは他の柔道部の部員たちと船山家で起居を共にし、「三浦、気合ばいれんか!」の叱咤を背に猛稽古に明け暮れることになる。そして、この船山先生と三浦さんは、後年まったく思いがけない形でインドで再会を果たすのである。
一方、周囲に反対され、山下さんはどうしたのか。
「僕は人を見抜く目なんてないけれど、彼がいきいきしているのだけはわかったんですよ。人間って、自分が何らかの形で役立っているとき、いきいきするもんでしょう。自分がこれまで助けられてきた柔道で何かの役に立ちたい、そしてお世話になってきた人たちに恩返しをしたいという彼の気持ちは本物だと思ったんですよ。それで、自分が何かの形で役に立てるなら役立ちたいと思って、あいつにもそう言いました」
山下さんらの助力もあって日印友好協会は九二年に設立され、三浦さんのアムリッツァルの下宿が本部となる。物見遊山でインドにやって来た三浦さんがここまでインドに深入りすることになったきっかけは、恩師・船山先生との思ってもみなかった「再会」であった。
初めてインドを訪ねたとき、カルカッタで出会ったインド人の柔道家から黒帯を見せてもらった三浦さんは、思わず我が目を疑った。そこには、鮮やかなオレンジ色の刺繍で、
「贈 船山」
の文字が、黒帯に浮かび上がっていたからである。どうしてこのインド人が船山先生の黒帯を持っているのか。
聞けば、日本に昇段試験を受けに行って合格したとき、かわいがってくれていた日本人の柔道家からお祝いとしてもらったものだという。その日本人柔道家が、偶然にも鎮西高校柔道部の三浦さんの先輩なのだった。
これは奇跡だ、と三浦さんは思った。日本とインドには合わせて十億人以上の人間がいるというのに、高校時代の恩師とインドのカルカッタで再び巡り会うことになろうとは。
「でも、この話には続きがあるんですよ」
と、三浦さんは意外な事の顛末《てんまつ》を語る。
「インドで会ったインド人の中で一番ワルだったのが、その船山先生の帯を持っていたインド人なんです。僕も十万円かっぱらわれましたから(笑)。そいつですか? いまは日本のある有名な宗教団体のインド支部に取り入って、しょっちゅう日本に行っているみたいですよ。仏教発祥の地のインドに支部を持ちたいという日本の新興宗教の虚栄心を、そのインド人はよく知っていて、うまく利用しているんです」
三浦さんは、だがこうも言うのだった。
「むかしの悪かった頃の自分を見ているような気がしましたよ。船山先生にあれだけお世話になりながら、期待を裏切るようなこともしてましたから……。それにしても、すさまじいでしょう。船山先生の帯を見てすっかり安心した僕から、カネをかっぱらうんだからねえ」
このとき胸に刻んだ教訓を、三浦さんはその後もたびたびインドで噛みしめることになる。その教訓とは、
「インドでは、いつ“どんでん返し”があるかわからない」──。
河の流れの淀んだところに、黒い岩が無数に突き出ている。と思いきや、それは何十頭もの水牛が、熱波を避けようと河に身を沈め、首だけを水面にもたげて息をついている奇妙な光景なのだった。
インド史上に残る記録的な暑さは、なおも続いている。地元紙によれば、五月二十四日のアムリッツァルの気温は四十六・七度で、インド北西部で最高を記録した(ただし日なたでは五十度を超える)。夜になっても三十五度以下には下がらないから、レンガやコンクリートの家に住むアムリッツァルの住民たちは、道端やベランダに木製の簡易ベッドを出して眠りにつく。
そんなある日、私たちは、ガンジス河上流の聖地として知られ、またインド音楽に傾倒していた頃のビートルズが滞在した土地としても名高いリシケーシュとハルドワールへ、三浦さんの教え子たちと旅することになった。その顔ぶれが決まったいきさつがいかにもインド的だったので、ここで触れておきたい。
主人公は、カースト制のところでも登場した下級警察官のパラス君である。
事の発端は、三浦さんとパラス君と私の三人で、ダライ・ラマ亡命政府のあるダルムサラへ夏合宿の下見に行く途中、グルダスプルというやはりパンジャーブ州にある大きな町に立ち寄ったことだった。ここにも三浦さんの教え子が大勢いて、何人もが警察官の出世コースに乗っている。
インドの警察でも、スポーツの成績と昇進・昇給とが正比例する場合が多い。そのエリート警察官の一人が、あさってからガンジス河の聖地へ巡礼に出掛けるので一緒にどうかと私たちを誘ったのである。彼も含め同行者の大半は、シーク教徒だった。
「インド人」と聞くと、私たちはすぐ「ターバンを巻いた人」を連想しがちだが、彼らはヒンドゥー教徒ではなくシーク教徒なのである。実際には、インド全人口の二パーセント足らずにすぎない。それなのにどうしてターバン姿のシーク教徒の存在が目立つのかと言えば、ヒンドゥーのカーストの枠組みにとらわれない彼らが、活躍の場を海外に求めたためと言われている。プロレスのアントニオ猪木と激闘を繰り広げたタイガー・ジェット・シン(ご記憶の読者も多いだろう)が、アムリッツァル出身のシーク教徒である。
シーク教は十五世紀に誕生した比較的新しい宗教で、ヒンドゥー教の改革派とみなされているが、イスラム教の影響も色濃く受けている。ヒンドゥー同様、輪廻《りんね》や解脱を信じる一方で、カースト制度や偶像崇拝を否定するところはイスラム的なのである。
シーク教徒が近年もっとも世界中から注目されたのは、インディラ・ガンジー首相の暗殺犯としてであった。この事件の衝撃はすさまじく、たとえば前述のサンジャイ君の母親は暗殺後、食事が二日間のどを通らなかったという。
三浦さんが八〇年代末にアムリッツァルにやって来た頃には、インドからの分離独立を主張するシーク急進派のテロの嵐が猛威を振るっていた。三浦さんも、子供たちがぼろきれで覆面をし、おもちゃのピストルでテロリストごっこをしている姿に度肝を抜かれた。パラス君など、自宅の二階から近所のおじさんが射殺されるところを目撃している。
パンジャーブ州は人口の六割をシーク教徒が占める、インドでシークが最大の影響力を誇る地方で、パンジャーブ州柔道協会の会長もシークなら、州警察の長官もシークである。八〇年代後半から九〇年代初めにかけてのテロと暗殺の時代が過ぎたあと、パンジャーブ州のシーク教徒とヒンドゥー教徒は、表面上は平穏な関係を保っている。
アムリッツァルのような街中では、シーク教徒とヒンドゥー教徒が隣り合って暮らしていても、異教徒同士の結婚は滅多にない。柔道の稽古のときにも、カーストの違いに加えて、このシーク教徒とヒンドゥー教徒との色分けが、いつの間にか無言のうちにできあがっていることに私は気づくようになっていた。つまり、ターバンを巻いた子の相手は、たいていいつもターバンを巻いた子なのである。
シーク教徒とヒンドゥー教徒が、珍しく結束することがある。それはパキスタンとイスラム教徒に対峙するときで、ちょうど私がインド滞在中にパキスタンの核実験があったものだから、シーク教徒もヒンドゥー教徒も口をきわめてパキスタンをののしっていた。インドが先に仕掛けたにもかかわらず、彼らはこう言い張る。パキスタンは以前から中国の支援を受けて、核開発を行ってきた。インドは対抗上やむなく核実験に踏み切ったのであり、そうしなければ中国とパキスタンの挟み打ちにあって、インドは国家としての発展を封じ込められてしまうのだ、と。
さて、グルダスプルでシーク教徒のエリート警察官から聖地巡礼を持ちかけられたとき、パラス君は、
「アムリッツァルからも誰か連れていきたいなあ」
と、もごもご言っていた。そのときは別段気にもとめなかったのだが、私たちがアムリッツァルに戻って来てから、例のインド名物“どんでん返し”が起こる。
パラス君がグルダスプルに電話をして、急用で聖地巡礼には行けなくなったと嘘をつき、顔見知りのアムリッツァル出身者と私たちだけで聖地巡礼に出掛ける手はずを勝手に整えてしまったのだった。パラス君を含む三人がヒンドゥー教徒で、シーク教徒は一人だけ。しかも、自分よりカーストの低い少年を荷物持ちとして連れていくという。
三浦さんは、呆れて物も言えないという顔つきになっている。
「これで自分に都合のいいメンバーになったわけですよ。グルダスプルのよそ者はいないし、自分より出世しているシーク教徒の警官もいないし、カーストが高い人間もいない。グルダスプルの連中と一緒に行ったら、自分が荷物持ちをやらされるかもしれないけれど、今度は代わりに荷物持ちを連れていくというんでしょう。日本人たちを連れてきたのは俺なんだぞと威張ることもできる。あいつなりに一生懸命考えたんでしょうねえ」
私は、パラス君が以前サンジャイ君から差別扱いをされて、ヒッチハイクで帰らなければならなかった、あのときの無念をこういう形で晴らしているのだと思った。
ところが、“どんでん返し”はさらに続く。
出発前夜に、顔ぶれがまたがらりと変わってしまったのだ。細かい事情は省くが、その夜、同じく三浦さんの弟子で柔道のコーチをしているシーク教徒の青年が、聖地巡礼を聞きつけて、それならまだ一度も聖地を訪ねたことのない門下生たちを連れていってもらえまいかと、三浦さんに頼み込んだのである。
結局、パラス君が選んだ三人の代わりに、十代の生徒が七人も行くことになった。ヒンドゥー教徒三人、シーク教徒四人の顔ぶれだが、全員がパラス君の子分のようなものなので、彼にさしたる不満はないらしい。
「いや、むしろ結果的にあいつにとって一番居心地のいいメンバーになったわけですよ。子供相手に主導権が完全に握れるんだから、大喜びでしょう。逆に、パラスが声を掛けて、すっかりその気になっていた三人は、がっかりしてますよ。でも、これがインドなんです。いつ何が起こるかまったくわかったもんじゃない(苦笑)」
聖地までの道中、車内は大騒ぎであった。インドで大人気の「SUMO」というランドクルーザー(インドの自動車会社が日本の相撲から名付けた)に、総勢十二人がぎゅうぎゅう詰めになって乗り込み、カーステレオからのけたたましいインド音楽に合わせて大声で歌うわ、手拍子足拍子はするわ、ふざけあってげらげら笑うわ、聖地までの片道十時間、ほとんど途切れることのないお祭り騒ぎが続く。
「靴は日本製、ズボンはイギリス製、帽子はロシア製、だけど心はインド製」
なんていうむかし流行ったヒンドゥー語の歌を歌いだす者もいる。アジアでは例外的に、インドでカラオケがまったく流行らない理由が、私にはわかったような気がした。
車窓から吹き込む風は、相変わらずサウナ風呂の熱気と同じで、息苦しいほどである。これだけ暑いと、空気も何だか焦げたような臭いがする。
道路沿いに広がる田園のあちらこちらには、北海道のサイロみたいな形をした塔が見える。牛糞をホットケーキ状に丸めて円錐形に積み上げたもので、乾燥して赤茶けた牛糞は貴重な燃料になる。私が感じた焦げ臭さは、そこから漂ってくるのかもしれない。家々の壁も、牛糞と同じレンガ色をしている。
ようやく辿り着いた聖地ハルドワールには、人があふれかえっていた。インド各地からやって来た善男善女に、行者や乞食、物売り、大道芸人、それに痩せこけた牛や野良犬までが一緒くたになって、これがインド的混沌と言うのか、照りつける太陽のもと、目まいがするほどの熱気を放っている。
江戸川乱歩ならさしずめ「蜘蛛《くも》男」と名付けたにちがいない、胴体が異様に短いのに手足だけが異様に長い物乞いが、地べたから声をからして叫んでいる。直射日光を浴びながら、野良犬が眠るように死んでいた。死臭は、まだない。そのそばで、行者が二人あぐらをかいているのかと思ったら、片方は銀色の毛並みをした大きな猿で、見物人の嬌声にもぴくりとも動かず座りつづけている。
人いきれで、線香と糞尿と何かの腐った臭いが蒸し返され、私は思わず咳《せき》こんだ。
石灰を溶かしたような乳白色の水を満々と湛えたガンジスの河岸では、半裸の男たちやサリー姿の女たちが沐浴をしている。だが、そこには私が想像していた宗教的なおごそかさよりも、まるで海水浴にでも来たかのような休日の喜びが感じられるのだった。
柔道の子供らにしてみれば、まさに海水浴の気分らしく、ヒンドゥーの子もシークの子もパンツ一枚になっては河に飛び込み、手をつないで下流に流されていきながら歓声をあげている。三浦さんも、デカパン姿でざんぶと水に入った。パラス君も肥満体を躍らせて飛び込み、子供らと手をつないできゃっきゃっとはしゃいでいる。
その様子を見ていた三浦さんが、ぽつりと、
「あいつ、あんなに喜んでる。ガンジスの中じゃ、みんな平等だからねえ……」
と言った。
数日後、満十八歳以下の柔道選手が出場するジュニア選手権アムリッツァル地区予選が開かれた。
その日時と場所が決まる過程も「インド的」としか言いようがなく、二日前に大会開催の連絡があり、時間と場所が最終的に決まったのは前日の真夜中だったのである。連絡網から漏れて大会の開催を知らなかった選手がいたことも、あとでわかり、
「こんなことで柔道選手の運命が左右されちゃ、たまんないよ」
と三浦さんを嘆かせた。
男女四十人ほどが参加して八階級で代表の座を争うのだが、どのチームのコーチも三浦さんの教え子なのだから、選手全員が三浦さんの“孫弟子”と言ってもよい。私としては、足しげく通った体育館で、ぼろぼろのマットにつまずきながら稽古していた少年少女たちを、どうしても応援したくなる。彼らの何人かとは、ガンジス河の聖地を一緒に訪ねた仲でもあった。
花柄のパンジャービー・ドレス(ゆったりとした丈の長い上衣に、ゆったりとしたパンツというパンジャーブの民族衣装)を着た女性審判の、
「ハジメ!」
の声で、トーナメントが開始される。
顔見知りの生徒たちの中では、私がひそかに「アケボノ・ガール」と名付けた少女が圧倒的に強い。元・横綱の曙に顔も体つきも似ているからで、すでに四つの大会で優勝した実力者だとか。ほかの子供たちが勝っては飛び上がり、負けてはマットを叩いて悔しがっている中で、この少女だけは勝って当たり前とばかり顔色ひとつ変えない。彼女の妹も抜群に強く、すべて一本勝ちで難なく代表の座を射止めた。
情けないのは男子勢である。稽古で身につけたはずの技が、まるで出ない。腰を極端に引き、腕を棒のように突っ張る体勢で、相手が技を掛けてきたときの返し技ばかりを狙っている。
「自分から技を掛けるのも、場外近くだけでしょう。それですぐ場外に逃げようとする。さっきの女の子(アケボノ・ガールのこと)なんか、堂々と中央で投げてましたよね。自信があるからなんですよ」
そう解説してくれていた三浦さんも、歯がゆさがだんだん苛立ちに変わっていくようで、
「この馬鹿が! 下がってばっかりいる。でかいのに頭下げちゃって。こういうのが一番嫌いなんだよ」
いまマットの上では、一緒に聖地へ行ったシーク教徒の少年のターバンがほどけ、肩までかかるざんばら髪がゆさゆさと揺れている。
「なんで下がるんだっちゅうの! どうして腰引くんだろう。ダメだよ。気が弱いやつばっかりだよ」
格闘技にその人間の性格がよく現れるとすると、ここの男子は気の弱いお人好し、女子は強気の負けず嫌いが多い(もっともこれは世界の男女に共通の普遍的なパターンなのかもしれないが)。
三時間を超える熱戦の末、私が応援したチームからは、八階級のうち男子が二人、女子は六人もアムリッツァル地区代表に選ばれた。帰国後、インドの三浦さんから逐次はいった連絡によると、パンジャーブ州大会でアムリッツァル勢は四階級で優勝し、さらに全国大会ではアケボノ・ガール姉妹が見事インド・チャンピオンと最優秀選手に輝いたという。
地区予選があったその日の夕方、いつものように体育館へ行ってみたら、柔道着を着た男の子たちが、中二階からロープを下げて、懸命によじのぼっていた。きょうの試合で、筋力不足をつくづく思い知らされたから、こうやってよじのぼろうとしているのだという。
その中に一人、試合のときはふさふさしていた髪の毛を丸坊主にしてしまったシーク教徒の少年がいる。勝てる相手に惨敗したのを恥じて、自分から頭を丸めたそうである。直情径行と言ってしまえばそれまでだが、まっすぐな思いを体で表すところが私の目には何だかまぶしい。
稽古の前、三浦さんは全員を集めて、きょうの試合の講評をした。まず女子の活躍ぶりをほめたあと、男子のほうに向き直って、
「こら、そこのおまえとおまえとおまえ!」
三人を指さして、呼びつけた。
「なんで逃げるんだ。なにが怖いんだ。相手も同じレベルなのに、怖がる必要なんかないじゃないか。あれだけ稽古した内股をなんで使わんか!」
怒声と同時に、猛烈なビンタが飛んだ。三人はいっせいに頬をおさえて、たじろぐ。男子は一様に、目を伏せて押し黙ってしまった。女子のほうはと目をやれば、あれ、くすくす笑っている子が何人もいるじゃないか。
「おまえら、稽古のときはいいんだよ。ベリー・グッドなんだ。試合でも同じようにやれよ。オッケー、な? もう怖がるなよ。アンダスタンド、な?」
三人のうち一人は、目に涙さえ浮かべている。
ビンタはアジアではタブー中のタブーである。日本兵のビンタを思い起こさせるし、公衆の面前で相手のプライドを傷つけたら、復讐に何をされるかわからない。そんな話をアジアの各地で耳にしてきた私は、しかし三浦さんのビンタに不思議と違和感を覚えなかった。教え子たちにビンタができるほど彼がインド人の中に深く溶け込んでいる様子に、私はむしろ羨望のようなものさえ感じていたのである。
三浦さんは、私にこんなことを打ち明けている。
「日本に帰るのが、ずっと苦痛だったんですよ。飛行機が成田空港に降りるときが、一番苦痛でね。逆に、インドへ行くときは張り切っているんです。でも、それは日本から逃げてインドへ行っているだけなんじゃないか、柔道をやりたいがためにインドに逃げているだけなんじゃないかと思うようになったんですよ。日本の現実から逃げて外国に住み着くようなまねだけはしたくないと思っていたのに、まさにそれをやっているんじゃないかって。というのは、日本に自分の居場所がないからなんです。インドで『センセイ、センセイ』なんて言われていい気になってるけれど、日本に帰ったら何にもないということがわかったんですよ」
三浦さんは、悩み抜く決心をした。悩みに悩んだ末、日印友好協会の発想が浮かんだとき、自分の中のわだかまりがゆるゆると溶けていった。
「それでいまは、日本とインドとをつなげるのが僕のライフワークだと、はっきり言えるようになってきたんですよねえ……」
アムリッツァルの下宿前の庭に、三浦さんが長椅子を持ち出して昼寝をしていると、誰かが自分の首にさわろうとする。目を開けたら、そこには地方遠征から帰ってきた教え子たちのきらきらした笑顔があって、各々が獲得したメダルをひとつずつ三浦さんの首に掛けてくれるのだった。
「こういうのが一番うれしいですよ」
そう話す三浦さんの目が、心なしか潤んでいる。
そのとき、赤茶けて乾ききったインドの大地が、彼の周りでだけは黒く輝いているように、私には見えた。
エピローグ
“どんでん返し”には、もう驚かない。
そう思い定めていた私を驚かせる知らせが、長い旅を終えたあと、アジアから幾度かもたらされた。一例をあげよう。
ある日、中国で花の栽培を続ける永田英夫さんから、私の事務所に電話が入った。日本に一時帰国したのかと思ったら、そうではなくて、いま雲南省の昆明から電話をしているのだという。永田さん自身、体調を崩したり、“花博”(世界園芸博覧会)の中国側責任者に約束をすっぽかされたりして、ろくでもない思い出しかない昆明に、いったいまた何をしに行っているのか。
聞けば、昆明で開かれる花博の「オフィシャル・グローワー」(公式栽培者)に選ばれ、シンボル・タワーから全体の構成までを任される総責任者になったというのである。私も同道した最初の訪問のあと、あれやこれやの遣り取りの末、中国側の全面的な信頼を得るに至ったらしい。
すごいじゃないですか、私は唸《うな》った。これで、永田さんが中国からさらに世界のフラワー・ビジネスに打って出る足掛かりができたのだから。
ところが、この朗報にも、アジアならではの“どんでん返し”が付きまとっていた。永田さんが昆明での花博の準備に掛かりきりになっているあいだに、上海の農園にいた愛弟子の崔海峰君が“ヘッド・ハンティング”で他の業者に引き抜かれてしまったのである。四倍もの給料を提示されては心が動くのもやむをえないが、永田さんには言い知れぬ寂しさばかりが残った。
もうひとつ、“どんでん返し”があった。昆明に永田さんを招き、懇切丁寧なアドバイスを受けて感激していた八の字眉毛の周おばさんが、昆明から上海に出てきて、なんと永田さんのライバル業者の一人になってしまったのである。
「ほんと中国じゃ何が起こるかわからないもんだよ」
と永田さんは受話器の向こうで苦笑していたが、私は「やさしくして、よく理解を示した人ほど、中国人は騙す」と言っていた上海在住の日本人の言葉を思わないわけにはいかなかった(そのような決めつけに、私はいまでも反発を感じているのだが)。
本書に登場したほかの八人の日本人たちには、いまのところ、これほどの“どんでん返し”は起きていないようである。
だがしかし、アジアでは、いつでも、誰の身の上にも、それ《ヽヽ》は起こりうる。
「日本からアジアへの投資は『長い目で見て』とよく言われるでしょう。でも、『長い目で見て』いるアジア人なんかほとんどいないんですよ。たいてい目先のことだけで、利益をできるだけ早くあげることしか考えていない。だから、日本人のほうもボクシングの“ヒット・アンド・アウェイ”みたいに打っては離れ打っては離れで、その時その時の利益を回収していくような投資しかできないところがあるんです」
ある日本人経済アナリストが嘆いていたとおり、それほどにアジアでは先が読めない。にもかかわらず、本書の主人公たちは、日本以外のアジアに惹《ひ》かれ、アジアに生きる場を見出した。
“どんでん返し”という「ハイ・リスク」に見合うだけの「ハイ・リターン」を、彼らが享受しているからにちがいない。そのような「ハイ・リターン」とは何か。
答えは、すでに彼ら一人一人が自らの生き方で、何よりも雄弁に物語ってくれたはずである。
あ と が き
本書は、月刊『文藝春秋』の一九九七年十一月号から九八年九月号まで連載されたノンフィクション「アジア新世界へ」の中から九編を選び、構成の変更と大幅な加筆をおこなったものである。
いまのアジアを最も的確に見つめ、そして最も深く知る人々は、誰で、どこにいるのか。
そのような人探しから、私のアジアへの旅は始まった。予備取材を含めると足掛け三年にわたる旅のあいだに、私はアジア各地に暮らす百五十人を優に超える日本人に会っている。その中から浮かび上がってきた九人の主人公たちの、おのおの半月からひと月ほどの行動に寄り添って見聞きした、いわば「伴走記」が、本書とも言えよう。しばしば寝食を共にしての取材にも、嫌な顔ひとつせずに応じてくださったこれらの方々のご協力がなければ、本書は成り立たなかった。改めて深く感謝したい。
本書の取材と執筆のあいだに、アジアの情勢は激変を遂げた。
その最たるものは、言うまでもなく、九七年夏のタイ・バーツの切り下げに端を発したアジア通貨金融危機である。タイに次いでインドネシアが、さらに韓国までもが財政破綻《はたん》の瀬戸際に追い込まれ、その狂瀾《きようらん》は穏やかな安定を誇ったマレーシアさえ飲み込もうとしている。
通貨金融危機に背中をひと押しされるようにして、インドネシアのスハルト大統領は長期政権の座から転がり落ちた。一方、韓国には民主的な選挙による初の政権交代で金大中大統領が誕生した。香港が中国に返還され、インドとパキスタンの核実験が世界に波紋を広げたのも、私がアジアを旅しているあいだの出来事であった。
地理の用語で「鳥瞰図《ちようかんず》」という言葉があり、それに対する「虫瞰図」(虫が地を這うようにして描く地図)という造語もあって、私はかねてからアジアの鳥瞰図と虫瞰図とを同時に描きたいと願ってきた。
激しく揺れるアジアをその渦中で目撃することができたのは、ジャーナリスト冥利《みようり》に尽きるけれど、反面、私の視点が虫瞰図に偏したものにならぬように心がけたつもりである。アジアに生きる日本人たちと共に荒波に揺られ、あたかも「同乗漂流」をしているかのような感覚が、本書からは伝わるのではないかと思われるが、同時に、それぞれの物語を読み進むにつれ、ジグソー・パズルがひとつずつ埋まっていくように、現在のアジアの全体像が読者の目の前に立ち現れるなら、著者としてこれにまさる喜びはない。
ところで最近、アジアに長く滞在している日本人たちと話していると、「いまの日本は灰色に見えてしかたがない」といった声をよく耳にする。たしかに、長引く不況から抜け出せず、さまざまな分野での変革も遅々として進まない現在の日本が、海外からそのように見えたとしても不思議ではない。しかし、天《あま》の邪鬼《じやく》で言うのではないが、私の目には以前ほど日本が灰色には見えなくなっている。灰色の中にカラフルな色彩が散見されるからである。
たとえば、本書の九つの物語の主人公たちが、その最もよき実例であろう。私がアジアに関心を持つようになった二十年以上前には、彼らのような存在はアジアにほとんど見られなかった。彼らを生み出す土壌が、日本にも、またアジアにもできあがっていなかったのである。
本書で「強い個人」と呼ばれたような、日本的な集団主義にからめとられない日本人たちが、アジアの各地で精彩を放っているのは、そうした彩りの素地が日本に広がりつつある何よりの証左ではないか。
アジアの「新しい物語」は始まったばかりなのである。
二〇〇〇年のちょうど一年前に
野村 進
単行本
一九九九年一月 文藝春秋刊
登場人物たちの年齢や肩書きは、取材時のままとした。
文春ウェブ文庫版
アジア 新しい物語
二〇〇三年一月二十日 第一版
著 者 野村 進
発行人 笹本弘一
発行所 株式会社文藝春秋
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郵便番号 一〇二─八〇〇八
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