野村胡堂
銭形平次捕物控(巻十六)
目 次
美男番付
五月人形
美しき鎌いたち
屠蘇の杯
美男番付
「親分、ウフ、可笑《おか》しなことがありましたよ、ウヘ、ヘ、ヘッヘッ」
ガラッ八の八五郎が、タガの弛《ゆる》んだ桶《おけ》のように、こみ上げる笑いを噛みしめ噛みしめ、明神下の平次の家に入って来ました。
「冗談じゃない、人の家へゲラゲラ笑いながら入って来やがって、水をブッ掛けて、酒屋の赤犬を|けし《ヽヽ》かけるよ」
「怒らないで下さいよ、あっしはまた、可笑しくて可笑しくて、横っ腹の筋がキリキリするほど笑っているのに、親分はまた、なんだってそんなに機嫌が悪いんで」
「盆も正月も無《ね》え野郎にはわかるめえが、今日は十月の晦日《みそか》だ、先刻《さっき》から何人掛取りを断わったと思う、こいつは洒落《しゃれ》や道楽で出来る芸じゃ無えぜ」
「相済みません、人の気も知らねえようですが、借金や掛けは払わねえことにきめていると、思いのほか気の軽いもので」
「呆れた野郎だ、だから伯母さんは、おまえの尻拭《しりぬぐ》いで苦労しているじゃないか、その気だから三十にもなって、まだ嫁に来手も、婿にもらい手もねえ始末だ」
「でももう少し放って置いて下さいよ、女房を持つと、急に人間がケチになって、爺々《じじ》むさくって人に意見ばかりするようになるから――おっと、親分のことじゃありませんよ、親分は女房持ちでも、パッパッと――」
「お世辞なんか止せ、お前の柄じゃねえ、ところで何がそんなに可笑しいんだ」
「ヘッ、その事、その事。あっしがいつまで独りでいるわけも、実はそこにあるんで、ヘッ、ヘッ、ヘッ」
「また笑い出しゃがる、気味の悪い野郎だ」
「実はね、親分、このあっしが、色男番付へ載《の》ったんだから大したものでしょう」
「色男番付? そいつはどこの国の番付だ、よもや日本じゃあるめえ」
八五郎のヌケヌケした報告に、さすがの平次も胆《きも》をつぶしました。名物の顎《あご》を二三寸切り詰めたところで、これは色男という人相ではありません。
「日本も日本、江戸の真中、神田向柳原で、洒落た野郎が『息子番付』というのを拵《こせ》えましたよ。表向きは『息子番付』だが、内々は『美男番付』の積りでね。もっとも去年は外神田の『娘番付』というのを拵え、瓦版にしてバラ撒いたのがありましたよ。そいつは師匠の文字花と、水茶屋のお幾が、自分たちを東西の大関に据える細工に、うんと金を費ってやった仕事とわかって、大笑いで済みましたが、今度は向柳原一円の若い者が集まって、相談のうえきめた番付だから、間違いも胡麻化しもありゃしません」
「物好きな人だな」
「今月は顔見世月で、芝い町の方もたいへんな景気だから、こっちでも一番素人芝居でも打って、江戸中の娘達の人気をさらってやろうと言う相談で、まず手始めに拵えたのが『息子番付』その実は『美男番付』その中から、立役も女形《おやま》もきめようという寸法で」
「で、その番付は?」
「東、大関は佐久間町の酒屋、丹波屋《たんばや》の倅清次郎、西の大関は棟梁《とうりょう》乙松の倅で辰三郎、東の大関は、米屋の下男で鶴吉――」
「番付を一々読上げられちゃたまらない、――大事なのはお前だ、三役にでも入ったというのか」
「なァに、そこまでは行きませんがね」
「前頭の何枚目というところか」
「それ程でもないんで」
「それじゃなんだ、年寄りか勧進元《かんじんもと》か」
「とんでもねえ、そんな爺々むさいのじゃありませんよ、正直に申し上げると、呼出し奴、いい役ですぜ――こう半開きの扇《おうぎ》を口に当てて」
「プッ、腹も立たねえな」
「さいしょからの申し合せで、役不足は言わねえことにしてあるんで、番付に載らねえ奴だってあるんだから、不服を言おうものなら、町内の息子付き合いが出来なくなります」
「それで嬉しがっているのは、お前の取柄だ、世の中が無事でいい、ところで話はそれっ切りか」
「その『息子番付』の両大関が、去年の娘番付の張出大関、師匠の文字花や水茶屋のお幾ではなくて、米屋の孫娘お芳を、三つ巴になって張り合っているから面白いじゃありませんか」
「そんな事は、面白くもなんともないよ」
平次はあっさり片づけてしまいましたが、これが大きな騒ぎの原因になろうとは、もとより思いもよりません。
江戸時代の閑人《ひまじん》の間に、『見立て』とか『番付』の流行《はや》ったことは想像以上で、今日に残る悪刷《あくずり》、洒落本などにその盛大さを伝えております。どこの町内にも七福神見立てや忠臣蔵見立てがあり、喰う苦労のない人間が集まれば、各種の番付が作られて、それが善意にも悪意にも利用され、噂話《うわさばなし》の種になったのです。
それから幾日か経って、まだお月様が丸くなりきらない頃、八五郎がうさんな顔をして、明神下の平次の家を訪ねて来ました。
「変なことがありましたがね、親分」
「何が変なんだ、おまえが急に出世して、息子番付の大関にでも据えられたというのか」
「そんな事なら、少しも変じゃありませんが――」
「大きく出やがったな」
「息子番付の大関、向柳原一番の良い男丹波屋の清次郎が、ゆうべ頓死《とんし》しましたよ」
「頓死?」
「頓死に違いありません、米屋の隠居藤兵衛の家の前で、倒れたっきりグウと伸びちゃったんで」
「変った話だな、清次郎の年はいくつだ」
「たった二十一、中気のあたる年じゃありませんね、――でも傷もなんにもなく、毒にやられた様子もないから、頓死とでも思わなきゃ、親達だって諦めきれませんよ」
「まァ、詳しく話してみるがいい、どんな様子だったんだ」
平次は乗気になりました。二十一の良い若い者が、ポカポカ頓死するような陽気ではなかったのです。
「さいしょから話さなきゃわかりませんがね、佐久間町の米屋の隠居藤兵衛というのは、もう六十を越した年寄りですが、老耄《ろうもう》して起居《たちい》も不自由なので、家の者とは別に住んでおり、孫娘のお芳とお種が介抱しております」
「……」
「ところがその孫娘のお芳というのは、神田下谷きっての良いきりょうで、番付面では張出大関だが、版元に金をやって、娘番付の大関になった、文字花やお幾とは、比べものにならないほどの綺麗な娘です」
「で?」
「そのお芳と言うのが、顔にも素性にも似合わないお転婆者で、講中は何人あるかわかりません。母親は義理のある仲、父親は店の忙しさで寄りつかないのをいいことに、隠居の見舞いということにして、若い男が入りびたりだから面白いじゃありませんか」
「ちっとも面白くないよ、そう言うお前も、講中の一人だろうが」
「講中といっても、あっしなんかは相手にされませんよ、遠くから吠えて見せるだけで」
「情けねえな」
「その隠居藤兵衛のところへ、酒屋の倅清次郎が見舞いに行った帰り――見舞いといったところで、馬鹿な話をして夜を更かして、孫娘お芳の顔をマジマジと見ながら、お月様の傾きかけた頃腰をあげて、孫娘のお芳に見送られて表の格子を出る、――またいらっしゃいね――とかなんとか愛嬌笑いを浴びて、格子の外へ出る、近頃はもう、夜風が少し寒いから、お芳は内から雨戸を閉めて、清次郎の足音がドブ板の上に鳴ったと思うと」
「たいそうト書《が》きが長いね」
「まア、我慢して聴いて下さいな、――戸を閉めるとまもなく、ちょうど清次郎が身づくろいをして、シャナリシャナリと歩きはじめた頃、ドタリグウと来た」
「なんだえ、そのドタリグウというのは」
「人間の倒れた音で、お芳は胆《きも》をつぶして、下女のお種をお勝手から呼んで表戸をあけさせ、ちょうど二階から飛び降りて来た、下男の猪之助――この男は米屋の搗《つ》き男ですが、病人と若い女ばかりでは物騒だというので、親の指図で米搗き男が交る交る泊まりに来ることになっております」
「で、三人が一緒に表へ飛び出したというのか」
「飛び出すまでもありません、戸を開けると、鼻の先に、ドタリグウの正体が転がっていますよ」
「?」
「抱き起こしてみると、清次郎はもう人心地もなく、まもなく息が絶えてしまいました。人間は弱いようにみえても、そう脆《もろ》いものじゃない、二十一の若い男が、雷鳴に打たれたように、ジタバタせずに死ぬのは変だと、さっそく同じ町内のあっしが呼び出されましたが、沈みかけた月の光で見ても、四方には人間の片《かけ》らもなし、清次郎の死骸には、針の先ほどの傷もないから、親分を呼びに来る張合いもなくなってしまいました」
「それは昨夜の事か」
「まだ死骸も酒屋の親元に引取ったまま、そのままにしてありますよ、どうしたものでしょう」
「行ってみよう、どうも腑《ふ》に落ちないことがある」
平次は珍しく、自分の方から乗出す気になりました。それほどの事件とも思わない、八五郎のほうが面喰ったほどです。
さいしょに佐久間町の丹波屋に行った平次は、一人息子を亡くして、悲嘆にくれている両親を慰めて、とにもかくにも、倅の清次郎の死体を見せてもらいました。
まだ葬《とむら》いの仕度も出来てはいず、仏様も床の上に寝かしたままですが、ひと眼にも痛々しさが胸を打ちます。病みほうけた死骸と違って、よく整った顔立、若者の脂の乗った、町内一番の息子が、虫のようにコロリと死んでいるのです。端正で苦悩の跡もない表情は、両親の悲しみを和らげるどころか、かえって深刻にして行くのでしょう。
身体には全く傷はありませんでした。いや、たった一つ、後ろの首筋に、皮下出血とも思える斑点《はんてん》がありますが、それも大したものではなく、皮膚の表にはなんの変りもなく、倒れるはずみに、下水のどこかで打ち――やがて息が絶えたために、際立っての生活反応を見せなかったのでしょう。
親達は、何を訊いても、一向に埒があきません、一人息子の清次郎が、どんなに働き者で、親孝行で、良い男であったかということを、くり返しくり返し聴かされるだけのことです。
外へ出ると八五郎が、
「死んだ子の可愛いいのは無理もありやせんが、清次郎はそんな心掛の良い息子だったとは思われませんよ」
とブチこわしなことを言うのです。
「なんか悪い噂でもあったのか」
「男っ振りがよくて、如才がなくて、人間が少し薄情に出来ていると、親の知らない罪を作りやすね」
「どんなことがあったんだ」
「娘番付の大関と、息子番付の大関が、同じ町内に住んでいるんだ、無事に顔ばかり眺め合っちゃいません」
「フーム、そこへ行くと、呼出し奴は無事でいいな」
「からかわないで下さい、世の中には、大関よりも呼出し奴のあっしの方が良いという娘もあるんだから」
「お前の惚気《のろけ》は、いずれ永日《えいじつ》として、丹波屋の清次郎の方はどうなんだ」
「あんな箒《ほうき》はありゃしません、町内の女の子はキャッキャッ言ってるが、男の子は一向面白くないんで、――まず手始めは文字花と変な噂を立て、それからお幾に鞍替《くらがえ》をして、こんどはお芳と変った」
「箸豆《はしまめ》な野郎だな」
「自業自得と言っちゃ悪いが、町内の綺麗なのを総嘗《そうな》めして、無事に百までも生きちゃ、天道様《てんとうさま》は無駄光りだ」
「あれッ、たいそう怨んでいるじゃないか、清次郎殺しの下手人は、八五郎、お前じゃなかったのかい」
「冗談じゃない」
八五郎は妙にプリプリしております。色男番付の大関は、死んでも罪障消滅しそうもありません。
米屋の隠居藤兵衛の家は、かえって喪中《もちゅう》のように鎮まり返っておりました。この家の前で、孫娘と親しかった若い男が一人死んだということは、あまり結構な噂の種ではなかったのです。
家はしもたや造りですが、なかなかの木口で、隠居が達者なころ、お茶などを嗜《たしな》んで、お数寄屋作りの真似事にもなっております。もっとも格子の前のドブ板までは、手が廻らなかったとみえて、恐ろしくチグハグ、その隙間から、フト覗いた平次の眼に、妙なものが見えるのです。
「ここを捜してみたか、八」
「一ととおりは見ましたが、清次郎の死骸の後首に打ち身を拵えたしろものでしょう」
「いや、そんなことじゃない、このドブ板の破れたところに、妙なものが落ちているんだ」
「おや手紙ですね」
八五郎はドブ板を剥がすと、手を突っこんで、その中から何やら取り出しました。天気つづきで水っ気がないので、幸い濡れてもおりません。
「天地紅の結び文は洒落ているね、いずれはお前の好きな色文かなんかだろう、開けて読み上げてみな」
「ヘッ、とんだ色っぽい勧進帳《かんじんちょう》で、おやおやおや」
「どうしたんだ」
「なんにも書いてありませんよ、白い紙の天地紅を、結び文にしたのはなんの禁呪《まじない》でしょう、疱瘡除《ほうそうよ》けのお護符《まもり》かな」
「そんなものじゃあるまい、どれ、俺が預かっておく」
平次は無造作に、それを自分の懐の中に滑らせました。
格子の外から声を掛けると、下女のお種が取次に出ました。四十前後の醜い女で、そのうえ出戻りで子供があって、情事《いろごと》よりは溜めることに一心不乱といった肌合いです。
「昨夜のことを訊きたいが」
平次は上がり框《かまち》に腰をおろして、そう言う下から、
「あの、私から申し上げますが」
とお種をおし退けるように顔を出したのは、見たところ、十九か二十歳《はたち》の美しい娘でした。柄は大きい方、嫣然《えんぜん》とした表情も大きく、名ある歌舞伎役者のような、派手な美しさです。
「お嬢さんが話してくれるのは有難いが、人一人の命に拘わることだから、何事も隠さずに言って下さいな」
平次は相手かまわず念を押しました。この娘は、若さも美しさも飛び越えて、性根の強《したた》かなところのあるのを、初対面の平次に感じさせたのでしょう。
「でも、清次郎さんは、病気で急に亡くなったのでしょう」
「頓死ということになっているが、腑に落ちないことも少しはある」
「そうでしょうか」
「清次郎はときどき此家《ここ》へ来るのかな」
「三日に一度、五日に一度くらい」
「お嬢さんとそんなに懇意なのかえ」
「いえ、お祖父さんの話相手で」
「お嬢さんと、なんか約束でもあったように言う人もあるが」
「とんでもない、そんな事が」
お芳は|にべ《ヽヽ》もなく否定するのです。もっともこの輝くばかりの娘の美しさの裏には、なんの陰翳《いんえい》も悲しみもなく、どう同情して見ても、恋人や許嫁を亡《うしな》った顔ではありません。
念のため中へ入って、隠居の藤兵衛にも逢ってみましたが、これはひどい老耄で、二十一歳の若い男――清次郎などの話相手になる老人ではなく、つまりは老人を慰めるという口実で、娘の逢引のだしに使われていたことでしょう。
家の中もいちおう見せてもらいましたが、なかなか贅沢で数寄をこらした普請の癖に、それがまた下品の凝り過ぎで、やや卑しくなっていることも特色でした。隠居と孫娘と下女は階下《した》に休み、交代で泊まりに来る男達は、二階の六畳に寝ることになっておりますが、その二階もなかなかに捻《ひね》っており、そのころの町家に珍しく、孟宗竹《もうそうだけ》の太い柱をつけた置床に、怪しげな山水の小幅が掛けてあります。
部屋造りの洒落た割合に、雇人の寝具や着物などが散らばしてあり、半纏《はんてん》も帯も、投げ出したまま浅ましい限りです。
外へ出ると、平次は家の周囲を一と廻りしました。一軒置いてお隣は師匠の文字花の家で、その家の隣には新築の家が、半分ほど出来上がっており、それから先、佐久間町河岸には、お幾の住んでいる水茶屋もあります。
この隠居所の本家、つまり藤兵衛の倅夫婦の商いをしている、升屋という米屋は表通りで、奉公人の五六人もいる、なかなかの店でした。
八五郎に言わせると、当主菊三郎は、隠居の藤兵衛の娘婿で、その娘――すなわちお芳の母親は十年も前に死んでしまい、後添えをもらって後に腹違いの男の子が二人もあるので、お芳は自然両親から遠ざかり、隠居の藤兵衛のところに、介抱という名で引き取られているということです。
年頃になって、輝くばかり美しくなったお芳が、若い男たちから騒がれるようになると、監督者のないままに、自然わがままにも放埓にもなって行くのは、また已むを得ないことだったかもしれません。取締りの大事な隠居は廃人で、母親は継《まま》しい仲、父親は義理がうるさいのと稼業に忙しいので、娘の身持などを考えてやる暇もなかったのです。
奉公人のうち、昨夜隠居所に泊まったという、猪之助に逢ってみました。米の粉だらけになった、着実そうな立派な体格の男で、
「昨夜のことを訊きに来たが――」
というと、
「私にはなんにもわかりません、宵から来て階下《した》でお嬢さんと面白そうに話していた丹波家の若旦那が、賑やかな暇乞いをして、お嬢さんに見送られて帰った様子で、格子が閉ると間もなく、ドブ板の上へドシンと倒れ、変な声を出したので、階下でお嬢さんとお種どんが大騒ぎになり、私も驚いて起き出し、二階から飛び降りるように、表を開けて三人ひとかたまりに飛び出すとあの始末で――ヘエ、その時は清次郎さんは正気もありませんでしたよ、気の毒なことで」
これだけのことを、淀《よど》みもなく話すのです。
「お前は、お嬢さんをどう思う」
試みにこう訊くと、
「大きい声じゃ言えませんが、若くて綺麗で、そのうえ叱り手がありませんから」
と奥歯に物の挟まったことを言うのです。
「お前は国はどこだえ」
「越後《えちご》でございますよ」
「ここへ来てから何年になる」
「もう七年になります。来年は取って三十五年になりますから、いちど国へ帰りたいと思いますが――」
「少しは金が出来たのか」
「いや、とんでもない、越後から来た当座、二年三年は給金も溜りましたが、江戸の水に馴れると、ろくでもない事を覚えますから、溜った給金も減るばかりで、ヘッ」
猪之助は頭を掻くのです。
猪之助と交代で隠居所に泊まるという、鶴松にも逢ってみましたが、これは息子番付の関脇になるという美男で、
「私はなるべく逃げて、隠居家には泊まらないようにして居ります、どうも夜が遅くて翌る日の仕事に差し支えるものですから」
そう言うのは、お芳のところへ張りに来る若い男達に妨《さまた》げられて、夜もおちおち寝られないための不満でしょう。
もっともこの男は近在のもので、升屋の遠縁にあたり、良い男のくせに堅いのが評判で、ともすれば開き直って人に意見などをやりたい癖があり、浮気娘のお芳には、あまり評判は良くなかった様子です、ほかに交代で泊まる小僧が一人ありますが、これは全然事件と関係がありそうもありません。
「どうだ、八、もう一つ伸《の》して、文字花とお幾に逢って見るか」
平次はまだ諦らめきれない様子です。
「そいつは難儀だが、ついでに親分に引き合せて置きましょうよ、あの文字花というのは厄介な女で、向柳原じゅうの若い男をフラフラにさせましたよ、それから掻き集めた冥加金《みょうがきん》だって、並大抵じゃありません」
「お前も講中の一人だろう、しっかり絞られたことだろうな」
「ご冗談で、あっしは逆様に振ったって、水っ洟《ぱな》も出ない方で、あべこべに文字花に貢《みつ》がれた口ですよ」
「大きな事を言やがれ、出枯《でがら》しの茶なんか何杯呑まされたって、貢がれたとは言えないぜ」
「たまには豆ねじや、金平糖くらいは貢がれましたよ」
「それ見な、皆んな白状しやがって」
二人は元の隠居屋の裏から、師匠文字花の御神灯の下に立っておりました。
「あら、八親分、ずいぶん久し振りね、私の家へいらっしゃるなんて、どんな風の吹き廻しでしょう」
格子につかまって、まともに朝の陽を受けた顔が、咲き誇った花のように、パッと匂います。二十五六の良い年増ですが、小柄で充実して、ホルモンでねり固めたような、魅惑と燃焼を感じさせる女です。
「今日は露払いだよ、銭形の親分が、お前に逢いたいとさ」
「まア」
文字花はさすがにたじろぎましたが、すぐに陣を立て直して、
「――どうぞこちらへ、銭形の親分さんが来て下さるなんて、まア、なんていう良いお日柄《ひがら》でしょう、さア、さア」
などと如才もありません。
「いや、ここで結構だよ」
「銭形の親分さんは、女ばかりの世帯ではお茶も召上らないんですってね」
少しばかり怨《えん》ずる色が、めっぽう仇っぽく見える女です。
「そんなことはあるものか、事と次第では暴れ飲みをして、カンカンノウを踊って見せるよ、今日は忙しいんだ、それ、例の良い男の清次郎の死んだことで――」
「本当にお気の毒ねえ、良い人でしたが、少し浮気っぽくて困ったけれど」
チクリと嚢中の針が出ます。
「師匠もたいそう昵懇《じっこん》だったということじゃないか」
「え、え、皆様ご存じだから隠しゃしません、昔はずいぶんなんとか言われましたよ、でも半歳足らずで鼬《いたち》の道じゃありませんか、どこへ行ったかと思うと、河岸まで同じお幾のところで、脂下《やにさが》っていたのもほんの二た月三月、近頃は素人衆がよくなって、米屋の御隠居の話相手ですとさ、あんな男に、未練もなんにもありゃしません、百文の香奠だって、出してやるものですか」
「おそろしく見限りやがったね、清次郎も浮かばれまいよ、ところで近頃はしげしげと猪之助が来るそうじゃないか」
「三日に一度は来ますよ。塩辛声で唄の稽古も目当てがあっての修行でしょうが、私はあんな人は嫌い」
「どうしたわけだ」
「ケチで強情で、自惚れが強くて、賽銭惜しみをするから」
文字花はぬけぬけとこんな事を言うのです。
「棟梁《とうりょう》の倅の辰が、近頃お前のところへ来るそうじゃないか」
「あれは威勢の良い、胸のすく兄さんよ、でも、その辰さんだって、近頃は隠居所のお芳さんに夢中なんだもの、この節の素人衆は、油断も隙もありゃしない」
平次は八五郎に目配せして、そこを立退きました。こういった調子の女は、物馴れた平次でも、何よりの苦手です。
水茶屋、巴屋の茶汲女のお幾は、もう一段厄介な女でした。巴屋の裏の川に臨んだ母屋《おもや》に寝泊りしており、平次が行ったときは、もう昼近い日差しなのに、まだ顔も洗わず、寝乱れた恰好のまま、寝臭くなって出て来るのです。
「私に御用? なアに」
などと、娘番付の大関は、斑《まだ》らな顔を天道様《てんとうさま》に照らされて、見得も嗜《たしな》みもありません。
昨夜のことを話して、その反応を見ましたが、
「ま、清ちゃんが死んで? ま、可哀想に」
などとまだそれさえも知らずに、惰眠《だみん》を貪っていたのでしょう。
それから十二三日。
月の出がようやく遅くなったある晩のこと、真夜中過ぎの明神下の戸を、おそろしい勢いで叩く者があります。
「なんだ、八五郎か、あわてて来やがって」
銭形平次はその調子の乱暴さに、顔を見ないうちから、八五郎と鑑定したようです。
ガラリと戸を開けると、
「親分」
「皆まで言うな、――火事はどこだ、方角は?」
「佐久間町三丁目、来て下さい、清次郎とまったく同じ手口でやられましたよ」
「誰が?」
「棟梁の倅の辰の野郎が、こんどは間違いもなく首筋を折られて、こわれた人形のように、フラフラになって死んでいます。ドブ板の上には、こんどは師匠の文字花の自慢の櫛《くし》が落ちていましたが」
「よし、行こう」
平次は手っ取り早く仕度をすると、八五郎と一緒に飛び出しました。
現場へ行ってみると、路地の中は、ハミ出しそうな人だかり、それを押しわけて入ると、隠居家のドブ板の上には、若い男が一人倒れており、町役人や棟梁乙松の子分達の振り照らす夥《おびただ》しい提灯の中に、検死の役人の来るのを待っております。
「銭形の親分だ」
野次はまた寄って来ます、八五郎はそれを掻きわけた中に、
「親分、倅の死にようが、ただごとじゃありません、なんとか敵《かたき》を取って下さい、お願い」
と拝むのは、かねて顔見知りの棟梁乙松の興奮しきった顔です。
「なんか、辰|兄哥《あにい》を怨んでいる者の心当りでもあるのかえ、棟梁」
平次はさり気なく訊きました。
「それが少しもわかりませんよ、もっともなまじっか、男っ振りが良いとかなんとか言われて、この二三年は目にあまる道楽でした。師匠の文字花と一緒にしろと言ったと思うと、半歳も経たないうちに、水茶屋の女と妙な噂を立てられ、こんどは米屋のお嬢さんをもらってくれとせがんだり」
わがままいっぱいに育った、色好みの倅には、親の乙松も持て余していた様子です。
乙松の愚痴を聞きながら、平次は手早く死骸を検《あらた》めました。なるほど、提灯の明かりの下でも、威勢の良い男っ振りで色の浅黒い半纏姿《はんてんすがた》、キリリとした眼鼻立ちも江戸の町娘好みと言う柄です。
傷は清次郎の場合と同じく、見たところ一つもありませんが、首の後ろが青く痣《あざ》になって、首の骨をブチ折られたものか、フラフラになっているのも凄まじいことでした。
隠居藤兵衛の孫娘と、下女のお種に訊いても、この前清次郎が死んだときとまったく同じで、宵に遊びに来て、月が出たころ帰ると言い出し、外へ出たところで雨戸と格子を締めると、まもなくドブ板の上に、ドシングウと言う代りに、こんどはギャッ、ドシンと声が先で、音の方が後だったと言うのです。お芳と下女のお種と、二階に泊まっていた猪之助が、この前の時と同じように、三人一ぺんに外へ飛び出すと、月下にはもう曲者《くせもの》の影もなく、ドブ板の上には辰が虫の息で倒れていたというのです。
一応も二応もその辺を捜しましたが、家は庇《ひさし》のしたからドブ板まで一間あまり、すぐ側には天水桶があって、その上に二階の庇があり、二階の雨戸は格子の中に厳重に閉されて鼠一匹這い込む隙間もありません。
左右前後、近所の家という家は全部〆切って、もぐり込める路地もなく、第一その辺に大の男の首を打ち折るような、そんな武器は一つも無かったのです。
「八、お前はここで張り番をしていてくれ、俺はちょっと捜して来るものがある」
「なんです、親分」
「得物だよ」
平次は人波をかき分けて、路地の外へ出ると、裏から廻って、二軒置いて先の普請場《ふしんば》に入りました。その時はもう大体の建築は出来上って、冬の来る前に大急ぎで壁を塗ったり造作を入れたり、職人も二三人泊り込んでおりましたが、平次が入って来るのを見ると、野次馬の群の中から追っ駈けるように抜け出した男が、
「銭形の親分、なんか御用で」
と先をくぐります。
「内証《ないしょ》で少し聴きたいことがある」
「ヘエ、どんな事で」
「この普請場で、一と月――とは経たないかも知れないが、なんか無くなったものがありゃしないか」
「そう言えば、妙なものを盗られましたよ」
「なんだ?」
「土台を据える時に使った、金梃《かなてこ》なんで、十貫目近くもありますから、ありゃ盗んだところで玩具になるわけじゃなし、変な奴もあるものだと思っておりました」
「それだッ、有難う、それでわかったよ、人間の首を打ち折るような仕事は、素手《すで》では天狗でも容易じゃあるめえが、金梃なら出来ることだ、が、待てよ」
平次はフト考え込みました、金梃で人間の首を殴れば、骨も砕ける代り、皮も破れ、肉も裂け、血も飛び散るわけです。
平次は黙々として元の隠居所へ引揚げるほかはなかったのです。
隠居所の前には、八五郎と二三人の下っ引が、野次馬を追い散らしながら待っておりましたが、平次の顔を見ると、
「得物はわかりましたか親分」
八五郎は四方かまわず張り上げるのです。
「判ったような、判らないような」
平次はそんな事を言いながら、念入りに四方を見廻しておりましたが、小型の天水桶の上へヒョイと登ると、それを踏台《ふみだい》に、二階の庇の上へ、なんの苦もなく飛び移りました。
目の前に立ちはだかる厳重な格子、念のためにそれに手をかけて、揺ぶり加減に押してみると、格子は一間の框《かまち》ごと、なんの苦もなく外れるではありませんか。
その中の雨戸は、元より中から桟が落ちておりましたが、下にいる八五郎に合図をすると、八五郎は心得て家の中に飛び込み、お芳やお種のけげんな顔を尻目に、二階に登って雨戸を開けました。そのとき、米搗き男の猪之助の姿は見えなかったようですが、八五郎はもとよりそんな事は気にも留めません。
二階の雨戸を開けた八五郎と、庇の上の平次は、鼻と鼻が合うほどに立っておりました。
「もうわかったよ、八」
「何がです、親分」
「金梃の行方だよ」
部屋の中に立って、提灯を振り照しながら、ジッと見ていた平次、置床の柱、逞《たくま》しい孟宗竹に眼がつくと、両手をかけて、苦もなく外しました、なかなかの貫々です。
「見るがいい」
孟宗竹の柱を逆様にすると、中からゾロリと出たのは、なるほど、十貫目もあろうと思われる鉄梃でした。
「これで殴ったんですか」
「そのとおりだよ」
「すると血が飛び散りますが」
「いや藁《わら》か綿を巻いたんだ、たぶん、着物や褞袍《どてら》を何枚か巻いて――尖端《さき》の方だけでいい、帯か紐で括《くく》ったことだろう、うけ合い首の骨は叩き折れるが、傷はつかない」
「なるほどね、恐ろしい企みで」
「ところで、下手人は猪之助にきまったが、姿が見えないじゃないか」
「親分が外へ行ったとき、跟《つ》いて行ったようですよ」
「しまった」
「どこでしょう、親分」
「たぶん、文字花の家だろう、あの男は生まれながらの不粋だが、江戸育ちの浮気者の文字花に、すっかり打ち込んでいたらしい」
「行ってみましょう」
「来いッ」
平次と八五郎は、野次馬の頭の上を渡るようにして、一軒置いて隣の文字花の家に飛び込みました、が、その時はもう万事が終わっていたのです。
「あッ」
中は血の海、文字花は自分の居間で、出刃|庖丁《ぼうちょう》で喉をえぐられ、虚空をつかんで死んでいたのです。そばで逃げ出すことも出来ず、ただウロウロと泣いている少女に訊くと、
「猪之さんが、お師匠様を殺して逃げてしまいました。――猪之さんが一緒に逃げようと言っても、――お師匠様はお前だけ勝手にお逃げ、私は人殺しなんかした覚えはないんだから、どこへ出たって申し開きが立つよ、人の言うことを勝手に悪い方に取ったお前が悪いじゃないか――というと、猪之さんは、阿魔《あま》ッ、俺をだます気か、とお勝手から出刃庖丁を持って来て――」
少女は思い出したように、大きい声を立てて泣き出すのです。
猪之助は板橋で召し捕られ、三人殺しの罪で処刑になりました。米屋の娘お芳は、世間の悪評に居たたまらなくなって、近在の親類に預けられ、それで一件は落着したわけです。
その後八五郎のせがむままに、平次はこう話して聴かせるのでした。
「息子番付の三役にならなくて、お前はとんだ仕合せさ、素人《しろうと》が面《つら》や姿でなんとか言われちゃ出世の妨げだよ」
「……」
「何? 出世しなくてもいい? 罰の当った野郎だ、――一件の絵解きはなんでもないよ。文字花は浮気者の癖に、男を皆んなお芳に取られて、御布施《おふせ》がだんだん少なくなるのに気を腐らせ、少し人間の甘い癖に、文字花に夢中になっている猪之助を煽動《おだ》てて、筋書きまで拵えて、二人の男を殺さしたのさ。天地紅の色文や、文字花の櫛をドブ板の上へ落としておき、月の光の中でそれを見つけさせて、腰を屈《かが》めて拾い上げるところを、尖端《さき》を巻いた鉄槌で、力任せに叩きつけ、首の骨を折らせたのは凄いよ。ここを打って下さいと言わぬばかりに首を差し伸べて居るところを、二階から庇伝いに降りて、入口の戸袋の蔭に隠れていた猪之助が、力任せにやるんだもの、たまったものじゃねえ、着物を巻いた鉄槌は、音がしなく、血が出なくて、とんだ得物だったことだろう」
「なるほどね」
「さて二人は殺したが、バレそうになって逃げ出した猪之助は、文字花を一緒に伴《つ》れ出して故郷の越後へでも飛ぶ気だったろう。文字花に断わられると、カッとなって、それも殺してしまった」
「無分別なことですね」
「女から女へ渡り歩く男や、男から男へ渡り歩く女には、とんだ見せしめかも知れないよ――と、これはとんだ説教になったが」
「ヘッ、当て付けられているようで」
「何を、呼出しの奴のくせに」
「違えねえ」
二人はカラカラと笑うのでした。
五月人形
「親分、世間はとうとう五月の節句《せっく》となりましたね」
八五郎が感慨無量の声を出すのです。
「世間と来たね、お前のところは、五月節句が素通りすることになったのか」
平次は退屈そうでした。この十日ばかりは小泥棒と夫婦喧嘩くらいしかなく、平次の見張っている明神様の氏子は申すまでもなく、江戸の下町一帯は、まことに平穏無事な日がつづいておりました。
「あっしも男の子でしょう、それに間違いもなく独り者だ。鯉幟りや五月人形の贅《ぜい》は言わないが、せめて柏餅《かしわもち》くらいにありつけないものかと朝っから二三軒、男の子のありそうなところを当ってみましたが――」
「さもしい野郎だなア、生憎《あいにく》おれのところもお祝いするほどの男の子はねえが、謎を掛けられて季節の物を喰わせねえほどのしみったれじゃねえ、おい、お静、表の餅屋へ行って、柏餅を総仕舞いにしてな、臍《へそ》が欠伸《あくび》するほどの八の野郎に喰わせてやるがいい」
平次はお勝手にいるお静に声をかけました。
「じょ、冗談じゃありませんよ、そんな人の悪い謎々なんか掛けるもんですか、あっしだって、柏餅を買うお鳥目《ちょうもく》くらいはありますがな、大の男が柏餅の店先に突っ立って頬張るのも色気がなさ過ぎると思って、ツイ独り者らしい愚痴《ぐち》を言ったんですよ」
「喰い気ばかりかと思ったら色気もあるんだな、お前は。ま、安心しねえ、お静は気が小さいから柏餅を一両と買ってくる気遣いはねえ」
平次は前掛けを帯に挟んで路地の外へ駈け出して行く、お静の後ろ姿を見ながら、太平楽を言っております。
「ところでね、親分、近ごろ変なことがあるんだが」
「また変なことがあるのか」
「五月人形に怨みがあるのか、方々に人形荒しがあるんですよ」
「人形荒しというのは聴いたことがない話だな」
「いずれ、男の子に死なれて、気が変になった者の仕業でしょうね」
「どことどこだ?」
「大伝馬町の木綿問屋の伊勢屋、村松町の大黒屋、本町二丁目の呉服屋で田島屋、――皆んな金のあり余る大店《おおだな》で、――そんなことは内証にして置きたいでしょうが、人形荒しなどは珍しいから、若い奉公人の口からすぐ漏れて、半日経たないうちに、あっしの耳へ入りますよ」
「で、盗まれた物はないのか」
「なんにも盗まれなかったようで」
「フーム」
「金太郎の腹掛を毟《むし》ったり、鐘馗様《しょうきさま》の首を抜いたり、さんざんの悪戯ですが、物を盗った様子はありませんね」
「縁起物の人形をこわすとは、ふてぶてしいやり方じゃないか」
平次は苦々しがります。そう言った性の悪い仕事は妙に癇《かん》にさわるのでしょう。
「あっしの聴いたのは三軒ですが、ほかにもあるかも知れません、少し調べてみましょうか」
「無駄だろうよ、どこの親も隠したがるだろうから」
「でも」
「それより、その人形を買ったのはどこで、細工は誰か、一応訊いてみてくれ。金持だけがやられたのなら、いずれ細工の良いものだろう、――わけがわかれば、その辺じゃないかな」
「そんな事ならわけはありませんよ、ちょっと行って来ましょうか」
「待ちなよ、柏餅が来たじゃないか。お茶が入るだろう――おやおやこれで総仕舞いか、たった九つ、しみっ垂れた柏餅だなア」
平次は柏餅の数を顎《あご》で読みます。
「それだけありゃたくさんですよ」
八五郎はさすがにモジモジしております。
「柏餅が総仕舞いでなくて、巾着《きんちゃく》の中味が総仕舞いになったんだろう」
「お前さん」
お茶を持って来たお静は、平次の悪謔《あくぎゃく》に当てられて敷居際に立ち淀みます。
柏餅で腹を拵えた八五郎は、すぐさま出勤しましたが、半日経たないうち、詳しく言えば五月五日の暮れないうちに明神下の平次の家に戻って来ました。
「親分、五月人形の作人《さくにん》はすぐわかりましたよ」
相変らず突っ立って物を言う八五郎です。
「まア坐れ」
「ヘエ、ところでね、親分。面白いことがありましたよ」
「何が面白いんだ」
「あれから十軒店《じっけんだな》のお人形屋と、人形を荒された三軒の家と、人形作りの東洲斎栄吉《とうしゅうさいえいきち》という男の家を歩いてみると、呆れ返ったことに、どこまでも茶受けに柏餅が出るじゃありませんか、いやもう、柏の葉っぱの匂いを嗅いでもムッと来るほどで」
「気楽な野郎だ、それでお前の調べは皆んなか」
「とんでもない、調べは調べですよ、――親分が言ったとおり、人形を荒された三軒とも名題の大店《おおだな》で、人形も立派でしたよ。ところが三軒の人形がいかにも似ているから、それを買ったという十軒店の人形屋へ行って訊いて見ると、作人はすぐわかりました。東洲斎栄吉という鎌倉町の人形師で――」
「名前は知ってるよ、名人だそうだな」
「訪ねてみると、五十がらみの野暮な親爺で、倅を奉公に出しているとかで、弟子が三人と鰥《やもめ》暮し」
「フーム、その弟子は」
「三人とも留守でしたよ。五月五日はこちとらの薮入りだから、若いもののことだし、両国か浅草へでも行ってるでしょう。もっとも内弟子は一人だけで、倉松《くらまつ》とかいうそうです」
「その男の拵えた人形がこわされたことを本人は知っているのか」
「知っていましたよ、『あれは私が念入りに拵えた三組の五月人形で、ほかには、あんなに手の混んだ細工はありません』と言っていましたが」
「その人形を滅茶苦茶にこわされるわけがあるのか、作人の東洲斎には、心当りがあるだろうと思うが」
「それも突っ込んで訊いてみました。でも、本人の東洲斎には、どうも心当りがないんだそうで、――たぶん私の腕を憎んでいる、人形師仲間の仕業でしょう――と職人らしい自慢をして居りましたが」
「それは変だな」
「何が変です親分」
「念入りに拵えた、三組の人形の買われた先を知っていて、そこだけ狙って荒したのは変じゃないか、――これは決してまぐれ当たりや、出鱈目《でたらめ》な見当じゃないよ」
「そんなものでしょうか」
平次はいちおうの疑いを挟んだだけでした。これが思いも寄らぬ大事件になろうとは夢にも思いません。
八五郎が飛んで来たのはその翌る日、五月六日の、初夏らしいすがすがしい朝でした。
「またなんか、大変を仕入れて来たらしいぜ、気をつけろ、格子は開けておいたが、茶碗か煙草盆くらいは蹴飛ばされるから」
路地を入って来た八五郎は、長火鉢の前の平次からは見通し。
「親分」
「おっと、何があったんだ、まるで大変が暴風雨《しけ》を喰ったような顔だ」
「鎌倉町からひと飛びに駈けて来ましたよ。銭形の親分のお膝元の殺しだ、すぐ御輿《みこし》をあげて下さい、――あ、喉が渇く」
「勝手に手桶へ首を突っ込め、誰が殺されたんだ」
「人形師の東洲斎、絞め殺されているのを、遊び呆けて、今朝ぼんやり帰ってきた、内弟子の倉松が見つけて大騒ぎをしているところへ、ちょうど昨日のつづきを訊く気で、あっしが行って鉢合せをしましたよ」
「よしッ、行ってみよう、どうやら深いワケがありそうだ」
平次は手早く仕度を整えると、女房のお静の切火を浴びながら、八五郎を促して鎌倉町に向いました。
薫風《くんぷう》に素袷の袂を吹かせて、江戸の風物は一番嬉しいときですが、仕事となると、町々の青葉にも、山時鳥《やまほととぎす》にもこだわってはいられません。
「この家ですよ、親分」
お稲荷様の鳥居の裏、八五郎はザワザワしている、小さい家を指します。
「おや、銭形の親分だ」
顔見知りらしいのが言うと、近所の衆が、あわてて立上がりました。後に残ったのは若い男が二人だけ。
「私は此家《ここ》の倅の香之助と申します、――御苦労様で」
青白いが二十五六の良い男が、まず挨拶しました。
「お前は、此家に居なかったのか」
「ヘエ、本町二丁目の田島屋に奉公しておりますので、親父が死んでいるという、急の知らせで駈けつけました。まさか殺されていようとは」
香之助の声は濡れます。お店者《たなもの》らしい洗練された若者ですが、いかにも華奢で気が弱そうです。
「お前は?」
平次はその側にいる、三十近いこれは頑固な身体を持った、醜男《ぶおとこ》に話しかけました。
「倉松と申します、東洲斎の内弟子で」
「昨夜は?」
「三月の三日と五月の五日は休むことになって居ります。たまの骨休めですから、師匠に留守番をして頂いて、ヘ、ヘッ」
「どこへ行ったのだ」
平次は死骸の前でケラケラ笑って居るこの男の不謹慎さをとがめるように、きびしく追及しました。
「槇町《まきちょう》でひと晩過ごしました。相手をしたのは、お千代という、ヘッヘッ、とんだ良い女で――」
「馬鹿ッ」
八五郎はとうとうたまり兼ねた様子でキメつけます。親方が殺された晩、江戸で一番下等な売女を相手にした惚気《のろけ》を、死骸の隣でヌケヌケ言い出しそうにするのです。
「ところで仏様は?」
平次は八五郎を眼顔で押えて、さっそく仕事に取りかかります。
「こちらに、そっとしてありますが」
倅の香之助は、壁隣の六畳に案内しました。そこは主人の居間らしく、少しばかり調度が置いてあり、部屋の真中に、座布団が二枚、その座布団を滅茶苦茶に皺《しわ》にして、主人の東洲斎栄吉は絞め殺されているのです。
絞め殺されているのは、その顔のほんの少しの特徴で、平次にはよくわかります。が、その死骸の側には、縄も細引きもなく、死骸の首には紐の跡もありません。
「これはどうしたことでしょう? 親分、顔はむくんで、目玉が飛び出してるし、唇に傷があるところは、間違いもなく絞め殺されたのだが――」
八五郎は小首を傾《かし》げました。
「唇の傷は猿轡《さるぐつわ》のせいだが、紐の跡がなくて喉仏がやられてるのは、柔術《やわら》の絞め手だ」
「ヘエ?」
八五郎は胆をつぶしました。
「見ろ、身体は痣《あざ》だらけで、ところどころに火ぶくれがある。お前でも見当はつくだろう」
平次は丁寧に死骸を調べながら、全身にひどい皮下出血のあることや、手足に火傷《やけど》のあるのを指摘しました。
「何が何やら、少しもわかりませんね」
「死骸は羽織を着ているが、羽織の紐が取れているだろう、――このとおりとんでもない方に抛《ほう》り出してあるが」
平次は部屋の隅から、つくねるようにしてあった二本の紐を持って来ました。
「それをどうしたんでしょう?」
「手は後手《うしろで》にさして、右左の親指を二本並べて縛ったのさ。そうすれば、羽織の紐一本で、大の男が動けなくなる」
「あとの一本は?」
「それで足の指を並べて、縛ったに違いあるまい。そのうえ猿轡を噛ませれば、どんな拷問《ごうもん》にかけても、グウとも言えないはずだ」
「拷問ですか、親分」
「身体中の傷と火傷は、そう思うほかはあるまいよ。ことに火傷は、煙管《きせる》でやったものらしい」
「ひどい事をしたものですね」
「さいしょは、向い合って坐って、穏かに話しをして来たことだろうな、話がつかなくなって、相手は東洲斎を手籠《てごめ》にし――声を出させないために、当て身くらいは喰わせたかも知れない、水落の急所が少しやられている、――それから猿轡で、手足を縛って、拷問に取りかかったのだ」
「ヘエ?」
「どうしても東洲斎は口を割らないから、喉笛を締めた。さいしょは殺す気がなかったのかもしれないが、腹立紛れに力が入って、とうとう落ちてしまった、――そのうえ悪いことには、いろいろ手を尽くしても生き返らなかったらしい」
「見ていたようですね、親分」
平次の推理のよく行届くのに驚いたのは、八五郎だけではなく、倅の香之助も、内弟子の倉松も、その後ろから覗く顔の、どれもが胆をつぶしております。
「すると、誰がこんな事をやったんでしょう、親分」
「そいつは、これから調べるほかはあるまいよ。ともかくも、五月人形が臭《くさ》い」
「ヘエ――」
「香之助さん、――今の話は聴いたことだろうな」
「ヘエ」
倅の香之助は、つままれたような顔を挙げました。
「お前の父親へ、誰がこんな事をしたか、見当くらいはつくだろうな」
平次は自信に満ちた調子で、倅の香之助に訊ねました。
「それが、一向に私にはわかりませんが」
「?」
「私は不器用で人形師になれそうもなく、親父も愛想をつかして、今から八年前、親父の仕事の上の金主でもあり、呑み友達でもあった、田島屋の先代の徳右衛門さんにお願いして、掛《かか》り人《うど》のような奉公人のような、店中の者に羨《うらや》まれる楽な奉公をさせて頂き、それから引続いて、今の御主人の厄介になって居ります。ときどきは親の家へもまいりますが、毎日側にいるわけでもございませんので、近ごろは親父が、どんな人と仲よくしているか、どんな人に怨まれているか、まるで見当もつきません」
香之助の言うのはもっともでした。人形師を嫌って、商人になった子には、名人|気質《かたぎ》の東洲斎が、大した親しみを持たず、そのため、立入った話をしなかったというのもうなずけます。
東洲斎というのは、まったくの江戸の職人で、きかん気らしい中老人ですが、身体はまことに貧弱で、これなら、相手はそんなに力や腕がなくとも、取って押えて拷問にかけられないことはありません。
「お前にはわからないのか、東洲斎は日頃どんな人と懇意で、どんな人と仲が悪かったんだ」
平次は内弟子の倉松に話しかけました。比丘尼《びくに》買いの惚気《のろけ》を言う三十男ですから、あまり賢そうではありませんが、この男がとんだ器用者で、師匠の東洲斎は、自分の倅の香之助よりも当てにしていた、と、これは後で聴いたことです。
「ヘエ、誰と言って、――田島屋さんの先代の徳右衛門さんとは、仲が良かったようで、人様に怨みを受けるような人じゃありませんが、仕事が上手で金に綺麗だったので、仲間からは邪魔にされておりました」
倉松の言うことは、これが精いっぱいです。
「昨夜お前は、一度も此家へは戻らなかったのか」
「ヘエ、槇町のお千代に訊いて下さればわかりますが、あの阿魔《あま》がすがり付いて離さなかったんで」
「……」
八五郎はムカムカするらしく、窓の外へペッと唾《つば》を吐きました。
通いの弟子二人は、このとき駈けつけて来ました。昨日の今日で、すっかり朝寝をしているところへ、これも急の使いであわてて飛んで来た様子です。鶴次郎と今朝松《けさまつ》という、十八に十七の若者、二人とも元服したばかりの、これは何を訊いても埒があきません。
平次と八五郎は、ひとわたり近所の噂も集めてみましたが、東洲斎には、殺されるほどの敵があるはずはなく、少し頑固ではあったが、江戸っ児らしい気前の良い中老人で、誰とでもすぐ仲よしになれたということでした。
昨夜は客があったらしく、珍しく大きい声で話をするのが聞こえたが、まもなくパタリと止んで、けさ死体が発見されて驚いたというだけのことです。
立った一人、町湯へ行った帰り、派手な羽織を着て、この暖かいのに、御高祖頭巾《おこそずきん》を冠った女が、東洲斎の家へ入ったのを見たという人がありました。
「それは間違いがありません。今時あんな羽織を着るのは辰巳《たつみ》の芸者衆でなきゃ女芸人でしょうよ。背の高い、――顔は見ませんが、そりゃ良い様子でした」
それは東洲斎の家の裏に住む女房でした。時刻は亥刻《よつ》(十時)少し過ぎ、それ以上のことはなんにもわかりません。
平次はそれから、人形をこわされた家というのを三軒、順々に廻って見ましたが、どちらも、五月になって、蔵から五月人形を取出し、子供のために飾ってからの出来事で、夕ぐれ時のドサクサに紛れ、曲者は人形を飾ってある部屋に忍び込み、手当たり次第に荒らしたというだけで、なんの証拠も残さず、盗られた物もないので、全くつかまえどころもありません。
だが、それから二日、事件は思わぬところに発展しました。人形を荒された、三軒のうちの一つ、本町二丁目の呉服屋、田島屋徳之助のうちで、主人の徳之助と、その義理の母親――つまり先代徳右衛門の女房で女隠居のお今が、毒を盛られて、主人は若くて元気なだけに助かり、年を取って、日ごろ身体の弱かった、母親のお今は、とうとう死んでしまったという事件でした。
「とうとうやりやがったな」
田島屋からの使いで、平次は飛んで行きました。日本橋の目貫《めぬき》の場所で、繁昌している田島屋の店、不気味な人殺し騒ぎなどがあろうとは想像もつかない堂々たるものですが、主人の徳之助は、ようやく命だけは取止めて、
「銭形の親分、とんでもない悪戯をされました。人形荒しはともかく、命まで狙われちゃ叶いません。どうか、下手人をつかまえて、思い知らせてやって下さい」
青い顔を挙げて、平次に頼むのです。
三十を四つ五つ越した立派な男前で、先代が死んで二年になりますが、今ではもう、大町人の跡取りの貫禄は充分、商売仲間からも立てられております。
精悍《せいかん》な感じのする良い男ではありますが、身体は小さい方、身の廻り調度もなかなか整っており、江戸の通人の一人として、近ごろメキメキと評判の高くなった男前です。
「どんな様子でした」
「私が代って申し上げましょう」
介抱していたのは、内儀のお光で、これは二十五六、脂《あぶら》の乗った、非凡の美しさですが、大町人の配偶《つれあい》としては少し意気過ぎ、前身に唯ならぬものを匂わせます。
「どうぞ」
平次は静かに促しました。
「私はお袖さんと一緒に――これは主人の妹の田島屋の娘でございます――祝事があって親類へ参り、暗くなって戻りました。その間に主人は一人で晩酌をやって夕食を済ましたそうで、何かその中に悪いものが入っていたのでしょう、まもなく苦しみ出しました。すると、しばらく経ってから隠居所の母親も、同じように苦しみ出し、主人はようやく助かり日ごろ身体の弱い母親は――」
お光は声を落とすのです。
「毒は何に入っていたのか、わかりませんかえ」
「先生のおっしゃる事は、石見銀山《いわみぎんざん》猫|いらず《ヽヽヽ》らしいということで、晩酌のときたべた、雲丹《うに》の塩辛がいけなかったようでございます」
「それは?」
「賢斎先生は調べてみるとおっしゃって、持って帰りました。主人はまたあれが大の好物で」
「御隠居さんも雲丹にやられたので?」
「いえ、隠居は雲丹が大嫌いで、これは田楽《でんがく》の味噌がいけなかったと申します」
「すると、御主人と御隠居と、別々に毒を盛られたことになるわけで」
「そんな事になりましょうか」
お光もそう言われると、はなはだ覚束《おぼつか》ない返事になります。
「親分、変な細工をする下手人じゃありませんか」
八五郎はキナ臭い顔をして見せます。
「行き届きすぎるな。ともかくも、御隠居の方を見よう」
平次は立上がると、お光は番頭の庄兵衛を呼んで案内をさせました。五十年輩の頑固そうな男、手燭を持って先に立ちます。
「大変なことだな、番頭さん」
「ヘエ、私も胆をつぶしました。私ども奉公人は、お勝手で一緒に食べましたが、これは一人も間違いはございません」
「そんな悪いことをする人間が、家の中にいるのか」
「とんでもない、主人や御隠居さまを怨む者なんか、あるはずもございません」
「お勝手は誰がするのだ」
「下女のお仲が一人で引受けております。もっとも忙しい時は、お嬢さんや御隠居さんが手伝いますようで」
「お内儀さんは?」
「ヘエ、まア、お嫌いのようで」
この家の空気は、番頭の言葉尻にも窺《うかが》えます。
隠居所は廊下つづきの、離れやになった六畳と三畳で、母屋の豪勢さに似ず、これは思いのほかに簡素です。
「銭形の親分さんで」
番頭が囁くと、死骸の上に泣き伏していたらしい娘は、ハッと顔を挙げました。二十歳そこそこの、これは初夏の花のような、爽《さわ》やかな美しい娘ですが、可愛そうにひどく足が悪く、そのため縁が遠い――とあとでわかりました。
娘は涙に濡れた顔を、無造作に袂で拭いて、部屋の隅に行膝《いざ》り寄りました。外から帰ったばかりの、晴着らしい赤い帯、頬が涙に濡れて、小《ちい》さめの顔が、本当に花のように匂いそうです。
母親のお今は五十というにしては、ひどく老けておりました。髪も半分は白く、苦労を刻んだ皺の深さも、この大家の隠居らしくはありません。
死骸は娘の手でいちおう清めてある様子ですが騒ぎに紛れたか、線香一本、水一つ供えず、あまり傍らへ寄りつく者も無さそうです。平次の馴れた眼で見ると、間違いもなく毒死で、前後の様子を聞くと、砒石《ひせき》の中毒ということがわかります。
「下手人に心当りはありませんか、お嬢さん?」
「……」
お袖は、こう訊かれても、黙って首を振るばかりです。泣きじゃくりの間から、止めどもなく流るる涙をせんすべもなく拭くのが精いっぱいです。
「お母さんを、怨《うら》んでる者があったでしょう、ね」
「……」
「確《しっか》りしてください、お嬢さん。お母さんの敵《かたき》は、お嬢さんでなきゃ、見つからない」
「でも、私にはなんにもわかりません、――母は、父が死んでからは、時々、死にたい、死にたいと言って居りました」
「これほどの大家の御隠居で、死にたいと言うのは変じゃありませんか」
「サア」
それは年寄りの口癖とも言うべきでしょうか。
「今日はどこへ行ったんです、お嬢さん」
「番町の親類へ、――店が忙しくて徳之助さんは行けなかったので、お光さんと私が参りました」
「お母さんは?」
「まだ五十そこそこですけれども、体が丈夫でないので、外へは出掛けません」
お袖は悲嘆のうちにも、これだけは話しましたが、日ごろ口数の少ない娘らしく、平次もこれ以上のことは、この娘からは引出せそうもありません。
番頭の庄兵衛は口の重そうな五十男で、商売の道には賢いかもしれませんが、調べの相手には骨が折れそうです。
「本当のことを言ってくれ。この家には、いろいろ厄介ないきさつがありそうじゃないか」
隣の三畳に引き入れて、こう訊くと、
「ヘエ、そんなこともございませんが」
一向に反響がないのです。
「お前さんは此家に何年奉公しているんだ」
「三十五年になりますが、もっともいちど暖簾《のれん》をわけて頂いて、山の手で同じ商売を始めましたが、商売がうまく行かない上に、女房に死なれて、またこのお店に戻り、取締りをいたしております」
「それは何時《いつ》のことだ」
「先代の旦那様がまだ達者なころで――十年にもなりましょうか」
「その先代の主人はいつ頃亡くなった」
「二年前でございます」
「今の主人は?」
「四年前から此家に入られました。お生まれは武家方で、――お嬢様のお袖様がまだ若かったので、縁組は後のことにしてただ御養子ということで、この家へ入りましたが、それから三年後で」
「待ってくれ、すると今の主人の徳之助は、あのお袖さんの婿《むこ》になるはずだったのか」
「ヘエ、そんな事だったかと思いますが、先代の旦那様が亡くなった時は、もう今の御主人はお内儀さんも子供もありましたようで、四十九日が済むと、あのお光さまを、坊ちゃんと一緒にこの家へ入れ、親類方や御近所、町内の主だった方へも御披露《ごひろう》いたしました」
「皆んな、それで黙っていたのか」
「口をきくような近い御親類もございません。それに、お嬢さまはあの身体で、至って内気ですから、御自分で進んで身を引いたような有様で、ヘエ、ヘエ」
番頭の庄兵衛も、今の主人の仕打ちには、よほど腹が立ったらしく、平次の問いに対して、さいしょの慎み深さとは違って、ずいぶんと思いきったことを言うのでした。
「番頭さんも、ずいぶん腹を据え兼ねた様子じゃないか、三十五年も奉公していて、なんにも言わなかったのか」
「なんと申しても私は奉公人で、かれこれ申す筋合いではございません、――もっとも近いうちに私もお暇を頂いて、もういちど小さい店でも持ちたいと思っておりますが」
庄兵衛が、御用聞の平次の前で、こう遠慮のないことをいったのも、理由のあることでした。
「ところで、この家の養子にした、徳之助の身許を、番頭のお前が知らないというのは変じゃないか」
「存じてはおりますが」
「言いたくないと言うのか」
「そんなわけじゃございません、――七八年前田島屋は御上の御用を勤めておりました、――御呉服所と申して、後藤縫之助《ごとうぬいのすけ》様の御支配で、孫店《まごだな》ではございましたが、見識のあった店でございます」
「フ?」
「その頃、少しの手違いで、御呉服所を御免の上、重いおとがめもあるはずのところを、係御役人の若手で、利け者の酒田万右衛門様が取りなし、御自分の手落にして身を引かれたのでそのまま大した祟《たた》りもなく済みました」
「……」
「その酒田万右衛門様が、田島屋に養子に入れられて今の旦那様となった、田島屋徳之助様でございます」
「なるほど、それでよくわかったよ」
「そんなわけで、御武家上りのご主人と、腹からの町人の私どもは、どうも|しっくり《ヽヽヽヽ》参りません。いずれこの騒ぎが済んで、代りの番頭が見つかりさえすれば、私は身を引くことにいたしております」
「ところで、その主人の徳之助と、隠居のお今さんを殺す気になるのは誰だろう」
「さア、そこまではわかりませんが」
番頭の庄兵衛は小首をかしげますが、何やら思い当たることがありそうです。
「大事なことだ、隠し立てをせずに、打ちあけてくれ。お前には三十五年越の恩人と言っていい女隠居の敵《かたき》じゃないか」
「ヘエ、それに相違ございません。当家には一四の歳から、海山の御恩で、私は御隠居様がお嫁に来られた時から存じております。――まことに良い方でございました」
「それ、そのとおりだ、――その御隠居と、一番仲の悪かったのは誰だえ」
「娘の婿になるはずだった、今の旦那様を横取りした、御新造のお光さんとは、うまく行かなかったようで」
「もっともなことだな」
「お嬢さんのお袖さんは、あのとおりの内気な方で、それにお足の悪い引け目もあるためか、御新造さんとは表向き仲の良い方でございますが――若い女同士というものは、また格別で」
「主人の徳之助さんの気に入りは――奉公人のうちで」
「さア」
武家出の主人徳之助が、店中の嫌われ者であったことが、庄兵衛の苦汁な顔によく現われます。
「それじゃ、主人と仲の良くなかったのは誰だえ」
「私などは、ひどく烟《けむ》たがられた方で、――もっとも、手代の香之助なども、暇を取りたがっておりましたが、あれはお嬢様に気があるので、我慢をしていたようで」
「香之助というと、人形師東洲斎の倅か」
「左様でございます。東洲斎も可哀想なことをしました、あれはまことに厄介な頑固者でしたが、御当家の先代の、徳右衛門様とは無二の間柄で、酒だ、碁《ご》だ、花だ、雪だと言っては呼び出しておりました」
「東洲斎と今の主人の徳之助とはどうだ」
「先代からの引継ぎで、ひととおりのお付き合いはいたしましたが」
武家の出と腹からの江戸の職人とは、やはり反《そり》の合わないものがあったのでしょう。
「その香之助はいるのか」
「まだ、鎌倉町の自分の家におります。父親が死んだ跡始末でしょう。もっともお店からは近いので、毎日一度や二度は参ります。今晩の騒ぎを聴いて、駈けつけて来ましたが、先ほど鎌倉町へ戻ったようでございます」
番頭の庄兵衛、無口らしく頑固らしい外貌《ようす》に似ず、思いきっていろいろのことを打ち明けてくれましたが、おそらくこれは、新主人に対する、日ごろの鬱憤を漏らしたものでしょう。
お勝手に廻って、下女のお仲を呼び出してみました。新造のお光は、主人の介抱に忙しく、近所の衆や親類達は、店で雑用に追われて、幸いこっちのことにはあまり気を取られていない様子です。
お仲は三十前後の働き者らしい女ですが、出戻りで、男を諦めた風体が、いかにも御粗末です。
「三度の物は、お前一人で拵えるのか」
「ヘエ、先頃までもう一人おりましたが、この三月の出代りから、私一人になってしまいました。もっとも掃除は小僧達が手伝ってくれますし、お勝手も、ご隠居さんとお嬢さんが、半分は手伝って下さいます」
「御新造は?」
「ヘエッ、ヘッ、飯の炊き方も知らないのが御自慢で、その代り芸事は大したものだそうですよ。昔はお留守居や御用商人を相手に、金の降るような盛り場で鳴らしたそうですから、――もっとも、そのまた大昔は、米の一升買いから、味噌漉《みそこ》しをさげて、おからまで買った様子ですが」
この女は、思いのほか口が悪そうです。主人徳之助夫婦の、奉公人に対する日頃の当りようが思いやられます。
「今晩の仕度の時も、ご隠居が手伝ってくれたのか」
「いつものことですから、気にもしませんでした。お膳立てから、煮物、焼物の世話まで」
「それから」
「私が、旦那様のお膳を運んで行くと、御隠居様は、ご自分のお膳を離れに持っていらっしゃいました。それからお勝手で私どもが揃って御飯にして、ザワザワしておりますと、急に奥の騒ぎで――」
「ご隠居の――?」
「いえ、急に旦那様が苦しみ出して、大声で、――早く、早く医者、医者を――と怒鳴ると、家中のものが皆んな旦那様の部屋へ飛び込み、その中で小僧の宗吉が、庭から跣足《はだし》でとびだして、町内の賢斎様のところへお迎えに行きましたが、あいにく御病家先へ行かれてお留守だったそうで、半刻《はんとき》(一時間)近くも待たされました。でも、旦那様は武家育ちでこんな事には心得があったそうで、食べ物を無理に吐いたようで、旦那様だけは助かりました」
「待ってくれ、そのあいだご隠居はどうしていたんだ」
「旦那様が苦しみ出したとき、家中皆んな旦那様のお部屋へ駈けつけました。その人数の中に御隠居様のお顔も見えたようですが」
「それは本当か、間違いないだろうな」
「間違いありません。家中でお頭《つむ》の白いのは御隠居様だけですから」
「すると、その後で御隠居は苦しみ出したのだな」
「左様でございます。しばらく経ってから、離屋の方で人の苦しむ声がするので、いって見ると――」
「そのとき御嬢さんは?」
「御新造さんと一緒に、それからしばらくして戻って来られました。お嬢様が帰ったときは、御隠居様はもう」
「いけなかったのか」
「本当にお気の毒でした」
「ところで、主人の徳之助は、この家に養子に入ったのは、お嬢さんと夫婦になるはずだったというが、そのいきさつお前は知っているのか」
「店中で――いえ、町内で知らないものはありゃしません。でも、旦那様が此家《ここ》へ入る前から、御新造《ごしんぞう》とは他人で無かったそうですし、二人の間には、子供まであったという位ですから、先代の旦那様が亡くなるのを待ち兼ねて、今の御新造様が入って来たのは、当り前のことじゃありませんか」
お仲はその頃の女のように、諦めたことを言うのです。
「お嬢さんは、それをなんとも思わないのか」
「でも、お嬢さんは、内気で、お身体も悪いし、――近頃では手代の香之助さんの方が良いようです」
「なるほど」
そう聴くと、平次自身も救われたような気になるのでした。
「まだ一つ訊きたいことがある、五月五日の晩、誰も外へ出たものは無かったか」
「出た者は一人もなかったはずです。でも若い人たちはときどき夜遊びに出かけますから、時々はそっと脱出《ぬけだ》すようで、私どもにはよくわかりません」
そう言われるとそれだけのことです。
あとは小僧達に一とおり当ってみましたが、大した収穫もなく、それくらいで見切りをつけて、夜半前に平次は引き揚げてしまいました。
そして、町内の本道賢斎老のところを訪ね、
「田島屋の主人と女隠居に盛った毒のことを伺いますが」
と訊ねると、
「あれはやはり砒石《ひせき》であったよ。砒石には味も匂いもないから、うんと盛られても気がつくまい、――たぶん石見銀山かな」
こんな事を言うのです。
「主人もずいぶん呑まされたでしょうが」
「よくあれで助かったよ、芯《しん》が丈夫なためだろう。雲丹《うに》の外に、汁にまでまぶし込んであったが」
「御隠居の方は」
「これは田楽だ、――女隠居は雲丹などを召し上らないことを承知だろうな、――気の毒なことに、これは手遅れで助からなかったが」
賢斎の話にはなんの含みもありません。
翌る日平次は一石橋《いっこくばし》の後藤縫之助の手代を訪ねて、五年前の田島屋の始末を訊ねました。
「銭形の親分では、隠しもなるまい。実は言いたくないことだが、田島屋は賄賂《まいない》を贈ったことがお上の耳に入り、一時は御呉服所御免の上、重いとがにもなるべきであったが、係り役人の一人、酒田万右衛門と申す方が取りなしてくれ、御服所御免だけの軽いおとがめで済んだ、――その代り半歳経たぬうちに、小役人の酒田万右衛門が、両刀を捨てて田島屋の養子になり、名も徳之助と改めたよ。世の中は至極調法に出来たもので」
手代は苦笑いしております。
「その賄賂を受けたお役人はどうなりました」
平次は重ねて訊きました。
「小坂膳兵衛と言ってな、至って小心で、清廉《せいれん》の人と思われていたが、魔がさしたというものであろうか、もっとも、騒ぎがまだ落着する前に、人に斬られて死んでしまったよ」
「下手人はとうとうわからず仕舞、たぶん仲間の役人でもあろうという噂であったが、町方の探索が入らなければ、武家方の内輪揉めは、かえってわからぬものでな、ウヤムヤに葬られてしまい、お内儀と子供達は、気の毒なことに行方不明になったようだ」
「左様で、――よくわかりました」
平次は丁寧に礼を述べて引き取りましたが、この事件の奥の奥は、容易ならぬものという暗示だけは受けました。
それから十日、
「わッ、親分、また大変なことになりましたよ」
本町あたりに下っ引を配置して、眼を離さないように頼んでおいた八五郎が、夜明けと一緒に飛び込んで来ました。
「田島屋になんかあったのか」
「そのとおり、こんどは内儀が――いやあの御新造と言わせている色年増のお光が、夜半《よなか》に小用へ行ったところを、窓格子越しに首筋を刺され、今朝になって息を引き取りましたよ」
「時刻は?」
「子刻《ここのつ》(十二時)前だったそうで、大騒ぎをしている最中、子刻の鐘が鳴ったと、これは手代の香之助の話です」
「よし、一緒に来い」
平次はともかくも現場へ飛び込んだことは言うまでもありません。
本町二丁目の田島屋は、重なる不気味な事件に、近所の衆も脅えたものか、あまり寄りつく者もなく、おそろしい緊張を孕《はら》んだ静けさで、白々と朝陽に照らされておりました。
「あ、銭形の親分、とうとうお光がやられたよ、なんとかして下手人を」
主人の徳之助は、精悍な顔を硬わ張らせて、平次を迎えるのです。
「お気の毒でしたね、ともかくも、御本人に」
案内されたのは、いつか来たことのある奥のひと間、内儀のお光の死骸は、そのまま床の上に持ち込まれて、血の気を失って横になっておりました。柄の大きい、色っぽい女でしたが、死んで見ると思いのほかで、血の気を失った顔色などは、青白く歪《ゆが》んで醜くさえあります。
傷は喉を横から一と突き、おそらく精いっぱいの業らしく、曲者は刃物もそのまま放り出して行ったと言うことですが、それが田島屋の箪笥《たんす》の中にあった、かつて主人の徳之助が酒田万右衛門といった時代の差料だったとは皮肉です。
「昨夜、夜半に、――滅多にそんな事はないのですが、小用に起きた家内が、階下《した》から大変な声を出すので、驚いて飛んで行ってみると、手洗場《ちょうずば》の中でこの有様だ」
「灯《あか》りは?」
「月があるので、手燭は持って行かなかった」
「寝巻きは? 襦袢《じゅばん》かなんか?」
「長襦袢の上へ、少し冷えびえするようだからと、私のどてらを羽織って行ったが」
「いつも夜半に小用に起きることはないと言いましたね」
「そんな事は滅多になかった。私は身体がどうかしているのか、小用が近い方で、夜も一度や二度は起きるが、家内は滅多に起きたこともないのに」
主人徳之助は口惜しがるのです。
念のため、便所を見せてもらいましたが、これは大町人の家によくある、なかなか贅沢に出来た上《かみ》便所で、いちおう洗い清めたと言っても、中はまだ惨憺たるものです。
格子は紙を貼《は》ってありますが、一ヶ所破れていて、そこから刀を突っ込んだものでしょう。こんな大家で、便所の格子の紙の破れを知らないはずはないのですから、おそらくその日の昼か、早くとも前の日あたり、曲者が準備行為として紙を破ったものらしく、破れも不自然で大きく、中へ入った人のちょうど首のあたりを破って置いたのもワケがありそうです。
庭下駄をはいて外へ出た平次は、二度びっくりしました。
「便所の外に足跡がありませんね」
八五郎でもそれに気づいております。
「その上、箒目《ほうきめ》まで入っている」
「手が届いたことですね、鞘《さや》はどこにあったでしょう」
「庭の中に捨ててありましたよ」
番頭の庄兵衛が教えてくれました。
「今朝、誰が庭から裏の方へ掃いたのだ」
平次は誰ともなく訊きました。
「この騒ぎのなかで、庭なんか掃いた者はありません」
それは番頭の庄兵衛です。
「それでは、昨夜のうちに、月明かりで掃いたのかな、――今朝早く、内儀が息を引き取る騒ぎのときかも知れぬて」
と平次は独り言をいっております。
「下手人の見当はつきますか、親分」
「傷は下から突き上げている。背の低い者の仕業さ」
「足跡がありゃ」
「それを見せたくなかったのだろう、――昨夜子刻時分に、外へ出た者はないか、一人一人当ってみてくれ。それから、今朝庭を掃いていたものか、物置の傍らから箒を持ち出した者はなかったか」
「やってみましょう」
平次と八五郎は手を廻して、家中の者の昨夜の動きを当ってみましたが、それぞれ立派過ぎるほどの不在証明《アリバイ》を持っていて、手のつけようがありません。
番頭の庄兵衛は二人の小僧と一緒に店二階に寝ており、手代の香之助は、その奥の三畳で、番頭と小僧たちの頭の前を通らなければ、階下へ降りる工夫はありません。
娘のお袖は、母親の女隠居が死んだ後、ひどく寂しがって、下女のお仲を自分の隣の三畳に寝かしているので、これもお仲をなんとかしなければ、その部屋を通って、ソッと外へ出ることはむつかしく、いや、一つ、窓の戸を開けて、庭へ飛び降りる術《すべ》はありますが、足の悪いお袖には、その軽業はまずむつかしく、そう調べて来ると、あのとき外へ廻って内儀のお光を殺せるのは、現在の夫の徳之助以外にはないということになります。
徳之助は放埓な男ではあったにしても、まだ充分に惚れ抜いている女房、しかも四つになる徳三郎という子まである女房を、そんな細工までして殺すはずはないと思わなければなりません。
「すると親分、下手人はなくなりますね。まさか鎌鼬《かまいたち》でも」
「馬鹿なことを云え、鎌鼬が刀を置いて行くものか」
いちおう八五郎を笑いましたが、平次もこの下手人は見当がつかないのか、さんざん調べた後、黙って引揚げる外はなかったのです。
それからまた十日、五月も末になって、夜は真っ暗になった頃のことです。平次は八五郎に言い含めて、絶えず田島屋の四方を警戒させておりましたが、女房の初七日が済むか済まないのに、もう遊び始めた徳之助の噂を聞くと、胸が悪くなって、あのあたりに行って見る気さえなくなった様子です。
ところが、ある朝、八五郎の何度目かの大変が鉄砲玉のように飛び込んで来ました。
「親分、とうとう」
「田島屋の主人が死んだんだろう」
先を潜られて、八五郎はしばらく二の句がつげません。
「そ、それを知っているんですか、親分」
「そんなことだろうと思ったよ。本町からでも駈けて来なきゃ、まだ朝のうちだ、お前のような達者な人間がそう汗を掻くはずはない」
「殺生ですぜ、親分、そうとわかっているなら、なぜ早く――」
「ま、待てよ八、俺も今まで、そこまではと、気を許していたんだ。お前の汗だらけの顔を見ると、しまった、田島の主人がやられる番だった――と気がついたのさ」
「冗談じゃない、あっしはまた親分が器用な占《うらな》いをするのかと思いましたよ、――ともかく、あの達者な武家上りの主人が、酔覚《よいざめ》の水を呑みに、夜遊びの帰り井戸を覗いて、落っこって死んだらしいんで」
「いや、過ちじゃあるまいよ」
平次は八五郎と一緒に、もういちど本町二丁目まで駈けて行きました。
重ねがさねの不祥事で、田島屋の者はさすがに脅《おび》えきってしまい、大きい声で物を言う人間もなく、あちこちに首をあつめて、ヒソヒソと話しておりますが、八五郎を先に立てて平次がやって来たのを見ると、
「あ、親分さんたびたびご苦労様で」
番頭の庄兵衛は、擽《くすぐ》ったいような、鬱陶しい顔をするのです。
「こんなことになりゃしないかと思ったが、俺が見張っていても、どうしようもなかったよ。何はともあれ、仏様は」
「今朝井戸から引きあげて、奥に寝かしてあります」
「どれどれ」
番頭に案内されて、奥の主人の部屋に通りました。濡れた着物だけは脱がせて、乾いたものに換えさせておりますが、髪の毛はグショグショで、精悍な額から頬へ疵《きず》だらけ、手足の爪まで剥がして、二た眼と見られぬ凄まじい形相です。
「たぶん這い上がろうとなすったことでしょう。このとおりのお気の毒な有様で」
這い上がろうとしたが、ひどく酔ってしまって、手足も自由にはならなかったのでしょう。その死に顔にも、おそろしい苦悩がコビリ付いて、まことに恐ろしい断末魔が思いやられます。
「主人は近ごろ、夜の外出は多かったそうじゃないか」
「お若い上に、御新造が亡くなって、淋しかったことでしょう、さすがに泊まることはありませんでしたが、毎晩のように、ひどく酔ってお帰りでした」
「時刻は?」
「亥刻《よつ》から子刻《ここのつ》になることも珍しくは無かったようで」
「昨夜は、井戸へ落ちたとき、音くらいは立てたことだろうが」
「なんにも存じません。井戸は裏の方で、私どもは表の店二階に休んでおりますから、それに武芸御自慢の主人は、井戸へ落ちたところで、キャットもスウとも、悲鳴はあげなかったことと思います」
「井戸は深いのか」
「あの辺の井戸にしては、珍しく、深い方で、水もよくて近所からもらいに来るほどでございます」
「主人は泳ぎの方は」
「武芸ひととおりは心得ているが、母親が大事にし過ぎて、水泳だけはやらなかったと、笑いながら話したことがございます」
「井戸へ落ちたら、泳ぎを知らない主人が人の助けくらいは呼んだことと思うが――」
「近ごろはお勝手の隣に休んでいた女中のお仲も、離屋のほうに休んでおりますので」
「では、井戸へ行ってみようか」
平次と八五郎は、お勝手から廻って井戸へ行って見ました。町家によくある、手頃の釣瓶《つるべ》井戸ですが、水は深くても、井戸そのものが浅いので、釣瓶は井戸側の外に引上げてあり、二間ほど下はもう水肌で、主人がさんざん中で動いたらしく、水はひどく濁って、不気味にさえ見えます。
井戸側は真新しく、なるほどこれに落込んだら、独りで這い上がるのはむつかしいでしょう。声を立てても聴きとれないとすれば、泥酔した大の男も、死ぬよりほかはありません。
「蓋《ふた》はないのか」
「ヘエ、坊ちゃんが危ないので、蓋もあります。用のない時は蓋をするようにと堅く申しつけて置きますが、若い者達はよく忘れますので、それに主人がお帰りになった時、よく釣瓶から酔覚めの水を呑みますようで、夕方蓋をして置いても、朝は蓋を投り出されていることもあります」
「昨夜は」
「蓋をいたしましたが、今朝は蓋が払ってありました。このとおり」
「井戸の端の向う側に、蓋は横に置いてありますよ」
八五郎が持って来てくれた井戸の蓋を、平次は受取って念入りに陽に透したり、埃《ほこり》を吹いたりしております。
「今朝、主人の死骸を見つけたのは誰だ」
「下女のお仲でございます。水を汲みに来て死骸が浮いてるのでびっくりしたそうで」
「ところで、昨夜、その時分外へ出たものはなかったのかな」
「さア、たいてい家の中に揃っていたようですが、手代の香之助どんは、鎌倉町の家へ夕方から行って泊りました」
それを聴くと平次は、チラリと八五郎の方を振り向きました。心得た八五郎は、鎌倉町の東洲斎の住んだ家へ飛んで行ったことは言うまでもありません。
それから平次は二人の小僧や女中にも逢って見ましたが、主人が毎晩ひどく酔って帰ることと、裏の井戸で、釣瓶《つるべ》から酔覚ましの水を呑むことは誰でも知っており、過って井戸に落ちて溺れたということも、一人も疑うものはなかったのです。
だが、平次は考えました、武芸自慢の主人が、酔って井戸へ落ちたというのも他愛がなく、これだけの井戸に落ちてさんざん|もがい《ヽヽヽ》たらしい主人が声を立てないというのも変です。
まもなく八五郎が戻って来ました。
「親分、あの手代の香之助の野郎ですよ」
「何? 香之助は鎌倉町の家にはいなかったと言うのか」
「宵に来たそうですが、亥刻《よつ》ごろ出かけて、しばらく経ってからまた鎌倉町へ帰り、夜があけてから、本町の店へ行ったそうです」
「そうか、そんな事だろうと思ったよ。ここへつれて来い」
「合点」
八五郎は飛んで行くと、おどおどした香之助の襟首《えりくび》をつかんで井戸端へ引摺って来ました。
「おいこの野郎、お前が下手人の証拠を見せてやる。井戸へ来て覗いて見ろ」
「あ、私は、なんにも知りません、昨夜は」
「その昨夜鎌倉町の家を一刻《いっとき》(二時間)もあけたそうじゃないか。その間どこへ行った。それを言わなきゃ、手前が主殺しの下手人だ」
八五郎の糞力《くそぢから》に引摺られて、井戸端の流しに崩折れた香之助は、男が良いだけに、まことにみじめな有様です。
「サア、親分、この野郎を縛ったものでしょうね」
「待て待て、一言だけ訊きたい。お前の父親東洲斎を殺したのは、お前の主人の田島屋徳之助に相違あるまいな」
平次の言葉は予想外でした。
「そのとおりです、親分、私の親父は、田島屋の大旦那、――先代の徳右衛門様から預かった、大事な書類を持っておりました。養子の徳之助にもしも不都合なことがあったら、それを上役人に見せてくれと頼まれていたのです」
「フ、フ」
「親父はそれを身近に置いては危ないと思い、五月人形の中に隠してしまいました。これを黙っていればいいのに、酔ったときツイ人に漏らしたらしく、主人の徳之助は、そのとき拵《こしら》えた三組の五月人形を、売った先に忍び込んで、一つ一つ滅茶苦茶にこわしました。そのうちの一組はここにあります。それもこわしたことは申すまでもありません――私にもそれがよく解っております。でも、とうとう書類がみつからなかったので」
「判っている。徳之助は女房のお光の着物を羽織り、お高祖頭巾まで冠って鎌倉町へ行き、五月五日は皆んな留守と知って、東洲斎を責めたのだ。うっかり首を絞め過ぎて、お前の父の東洲斎は死んでしまった」
「そのとおりです、親分。もうなんにも申し上げることはありません。さア、どうぞ」
香之助は自分の手を後ろに廻すのです。
「待って下さい。徳之助を殺したのは、香之助どんではありません」
娘のお袖が、不自由な足で井戸端まで飛んで来ました。
「お嬢さん、本人が白状するんだから」
それを押える八五郎に、
「いえ、香之助どんは、昨夜|亥刻《よつ》から子刻《ここのつ》まで、離屋の私の部屋におりました」
「下女のお仲は?」
「昼の疲れでなんにも知らなかった様子です。嘘だと思ったら、来て見て下さい。香之助どんは、いつも私の部屋へ窓から入るのですから、――」
平次と八五郎が、娘お袖の導くままについて行くと、その言葉のとおり、離屋の窓下は、男下駄の足跡で一パイ。
「もういい、もういい。その男を縛るまでもあるまい。主人の徳之助は、やはり酔覚ましの水を呑みすぎて死んだのさ」
「でも、親分」
「それより俺は見たいものがある。番頭さん、こわされたという、五月人形を見せてもらおうか」
「ヘエ、ヘエ」
番頭の庄兵衛は、土蔵から大きな箱を二つ三つ、お勝手に運ばせました。その中には、鐘馗やら、金太郎やら、竹内宿禰《たけのうちのすくね》やら、メチャメチャにこわされた五月人形が一パイ。
「東洲斎が書類を五月人形に隠したというが、どこに売られて行くかわからぬ人形に隠すはずはない」
「……」
「田島屋から誂《あつら》えられた、この一と組の人形に隠してあるに違いあるまい」
と言ったものの、こうこわされた人形では、もはや調べようもありません。
「八、鉈《なた》を借りて来てくれ。誰も気のつかない、隠せそうもないところに隠してあるに違いない。金太郎の腹掛や、竹内様の鎧《よろい》じゃないよ」
「?」
「鉞《まさかり》だ、八、その刃と刃の間を割ってみてくれ」
「あっ、これだ」
それは実に見事でした。無疵の大鉞の中ほどに鉈《なた》を入れて、一気に割ると、中から半紙二三枚に書いた密書が一通。
「どれどれ」
平次は黙読してそれを懐ろに入れると、皆んなの顔をしずかに眺めて、
「それじゃ、後を気をつけろよ。東洲斎を殺したのは、此家《ここ》の主人の徳之助で、その徳之助は酔っ払って井戸へ落ちて死んだのだ」
「隠居を殺したのは?」
八五郎は不足らしい顔で振り仰ぎました。
「食物の中へ、鼠かなんかが毒を落としたんだろう。それじゃ、仲よく暮らすんだぜ」
平次はもう後も見ずに引揚げるのです。
しばらく経って、香之助とお袖が女夫《めおと》になり、田島屋の後は無事に立ちました。そのころ八五郎が、
「あの一件は腑に落ちない事ばかりだ。絵解きをして下さいよ」
とせがむと、平次は、
「なんでもありゃしないよ。徳之助は悪い野郎で、賄賂《まいない》を取って田島屋の先代徳右衛門を罪に陥れ、それを救ったことにして恩を売り、同役を殺して口を塞いだうえ、田島屋の養子になって乗り込んだのさ。田島屋の先代徳右衛門は、薄々それを知ったが、荒立てると自分もただでは済まぬ。そこで徳之助の悪事を細々と書き遺し、日ごろ懇意にしていた東洲斎に頼んだことから、この騒ぎが始まったのだ」
「隠居を殺したのは」
「隠居が自分でやったのさ。娘に疑いをきせないために、娘の留守に徳之助に毒を盛り、それが利いたと知ると、自分も同じ毒を呑んだ。徳之助は助かったが、隠居の方がかえって死んだ。娘のお袖は、たまり兼ねて、徳之助が手洗所へ行ったところを刺す積りで、間違って背が高くて男の|どてら《ヽヽヽ》を羽織ったお光を刺した。月があっても夜だから。でもあの娘が、あの窓からよく出入りしたよ」
「窓の下を掃《は》いたのは」
「香之助の細工さ。娘の仕業と知って、それを助けてやるために、朝早く足跡を掃いた。――そのことから思いついて、徳之助が井戸で殺された時は、娘の方が窓の下に男下駄で足跡を拵えて香之助を助けた」
「ヘエ」
「でも、香之助が、主人の徳之助を井戸に突き落して殺したことに間違いはないよ。井戸の蓋には重い物を載せた跡や、泥が付いていたし、もう一つ、――窓の外の男下駄の足跡は、左の方がひどく深くて、右の方が浅かった。間違いもなく跛《びっこ》のお袖のつけたものだ」
「あ、なるほど」
「でも、あの二人を縛る気にはなれなかったよ。悪いのは徳之助さ」
平次は相変らず、縛ることの嫌いな男でした。
美しき鎌いたち
「いやもう、驚いたの驚かねえの」
八五郎がやって来たのは、彼岸《ひがん》過ぎのある日の夕方、相変らず明神下の路地いっぱいに張り上げて、走りのニュースを響かせるのでした。
「なにを騒ぐんだ、ドブ板の蔭から、でっかい蚯蚓《みみず》でも這い出したというのか」
平次は昼寝の枕にしていた、三世相大雑書を押し退けると、不精煙草の煙管《きせる》を取り上げます。
「そんな間抜けな大変じゃありませんよ、いきなり頭の上から、綺麗な新造が降って来たらどうします、親分は?」
「ヘエ、不思議な天気だね、三世相にも今年は新造や年増が降るとは書いてなかったが」
「両国の軽業《かるわざ》小屋ですよ、綱渡り太夫、この間から江戸中の人気を沸《た》ぎらせていたつばめ太夫という、若くて綺麗なのが蜀紅錦《しょっこうのにしき》の肩衣で、いきなり天井から落ちて来て、あっしにかじり付いたとしたらどんなものです」
「怪我はなかったのか」
「腰のあたりを打って目を廻しましたがね、幸いに命に別条はなさそうですが、その時はまったく驚きました」
「まるで粂《くめ》の仙人の逆を行ったようなものだ。下で口をあいて眺めている八五郎の男っ振りに気を取られて、思わず綱を踏み外したというのか」
「冗談じゃない、綱が切れていたんですよ、三間以上も高い綱の上から落ちて、死ななかったのは不思議なくらいのもので――」
「綱が切れていた? 綱渡りの綱は滅多に切れるものじゃねえが」
平次はこの事件から、早くも何やら腑に落ちないものを見出したのです。
「楽屋《がくや》の天井の、綱の結び目に、刃物が入っていたんだから、切れても不思議はありませんよ」
「誰がそんなことをしたんだ」
「そいつがわかれば、その場で縛って来ましたがね、皆んな神妙な顔をしているから、疑いの持って行きようがありません。ことに座頭の天童太郎の女房お崎などは、大金のかかった大事の太夫に、そんな悪戯《いたずら》をするのは放っちゃ置けない、この場で縛ってくれたら、三枚におろして、酢味噌で食おうと言った勢いでしたよ」
「そんなときは、一番荒っぽいことを言う奴が一番怪しいものだ、天童太郎の女房はどこにいたんだ」
「あっしもそれは気がつきましたが、詮索《せんさく》するまでもなく、表看板の下で、囃子《はやし》の三味線を弾いていたんだから、疑いようはありません」
「厄介なことがありそうだな、人一人の命に拘わることだから、放っても置けまい、行ってみようか、八」
「そいつは有難え、親分が行って下さればあの娘《こ》が喜びます」
平次が気軽に腰をあげてくれたので、八五郎は犬っころのように先に立って駈け出しました。
東西両国そのころの賑わいは、今日の様子からは想像もできません。見世物と軽業と、水茶屋と、そして大道商人と、隙間もなく押し並んだ中に、江戸の有閑人《ゆうかんじん》と道草の小僧と、そして田舎から出て来た人達が、浮かれ心と好奇心の動くままに、人波を作って、東から西へ、西から東へと流れるのでした。
天童太郎の軽業は、その中では半永久的な小屋掛けで、座頭《ざがしら》の天童太郎の芸達者と、娘太夫のつばめの美しさで、しばらくは人気の中心になり、一日何杯かの客を鮨詰《すしづめ》にしましたが、その日の昼過ぎ、つばめ太夫が傷ついて、客の目当てを失ったために、陽のあるうちから木戸を閉めて、沸き立ち返るような両国の賑わいの中に、寂然として静まり返っておりました。
裏へ廻って戸を叩くと、
「ヘエ、どなた」
まだ外は薄明るいのに、少し迷惑そうに中から開けてくれたのは、一座の弥太八、口上も言えば前芸もやる、貧乏くさいが重宝な三十男です。
「銭形の親分だよ、つばめが落ちたのを調べに来て下すったんだ」
八が恩に着せます。
「つい裏に親方の家があります。ここはあっしと久兵衛だけで」
その久兵衛というのは塩辛声《しおからごえ》の木戸番で、二十五六の真っ黒な男、煮締めて燻《いぶ》して、塩を利かせたような顔を、小柄な弥太八の後ろから、見越入道みたいに、ヌッと出します。
弥太八に案内されて行くと、小屋と背中合わせになった、二軒長屋の一つが、座頭の天竜太郎夫婦と囃子方で下女も兼ねているお幾の住んでいる家、壁隣りの家は、娘太夫のつばめとその母親のお高と、つばめの弟の与吉の三人が住んでいる家、母親のお高は楽屋の雑用をやっている三十七八の女ですが、昔は天童太郎の師匠で、この一座を背負って立った、元の座頭|久米《くめ》の仙八《せんぱち》の女房で、女の曲芸師としてその美しさを鳴らしましたが、亭主の仙八の死んだ後は、進んで楽屋の雑用を引き受け、近ごろぐんぐん人気の出て来た、娘のつばめ太夫の後見をしているということでした。
平次はまず二軒長屋の右の方、お高つばめ母娘《おやこ》の家を訪ねました。いそいそと迎えてくれたお高は、娘の怪我にすっかり面喰ったものか、気も心も転倒して、ただウロウロと埒もあきません。
家はたった二た間、その奥に娘のつばめが休んでおりました。打ち身の煉膏薬《ねりこうやく》の匂いが、プンとして、首から足まで、半身を繃帯で巻かれた娘の様子は浅ましい限りですが、それにもかかわらずこの傷ついた娘からは、言いようもない痛々しい艶めかしさと、汚され踏みにじられた高雅なものを感じさせるのです。
年は十八、まだ初々《ういうい》しさの残る、下っ脹れの可愛らしさも全身の痛みに歪んで見えますが、背はやや高い方、白粉は襟に残って、口紅の消えた唇は、蒼く見えるのも気の毒でした。
「どうだ、気分は?」
平次はそっと娘に遠くから声をかけました。夕明りが障子に残って、二本灯心の行灯《あんどん》が薄暗く見える中に、娘は辛《から》くも顔をねじ向けて、臆病らしく瞬くのです。
「銭形の親分さんだよ、お前――」
母親のお高は娘の寝返りを手伝いながら耳に口を寄せてささやくのでした。三十七八といっても世帯の疲れで老けては見えますが、この娘の母親らしく、昔はさぞと思わせる|きりょう《ヽヽヽヽ》――貧苦も奪いきれない底光りのする美しさが残って、妙に心を打つものがあります。
「お蔭様で」
娘つばめの口はわずかに動いたようです。
「幸い身体が鍛えてあるので、大した怪我はなかった――とお医者様も申します」
母親のお高が代って説明してくれました。
「それはよかったね、――ところで、綱が切られていたそうじゃないか、誰が、そんなひどいことを」
「いえ、弾みでございます、長いあいだ使った麻縄で、損《いた》んでいたのでございましょう」
母親のお高は真剣に、娘の怪我を過失にしてしまいたい様子です。
「誰か、お前を怨んでいる者はなかったのかな」
「とんでもない、娘を怨む者なんか、まだこんな子供ですもの」
母親は、娘の繃帯だらけの首を抱き上げて、頬摺《ほおず》りでもしたいような様子で、平次の疑いに抗議するのでした。
こういった母親の口から、なんにも引き出せそうもないことは、平次にもよくわかります。
「八、隣の天童太郎のところへ行ってみようか」
平次は諦めてしまいました。
「大事にするがいい、打撲傷《うちみ》は後が大事だというから」
そんな事を言って、外へ踏み出した平次は、薄暗くなった外で指をくわえてぼんやり立っている八つか九つの男の子に逢いました。
「この子は?」
「つばめの弟の与吉ですよ、九つだそうで、身体は相当ですが、知恵は少し遅い方で」
八五郎がズケズケこんな事を言うのを、少年与吉は大して気にする様子もなく、指をくわえたまま、黙って二人を見詰めております。顔立ちは姉や母親に似て、悪くない子柄ですが、釘一本足りないらしく、どことなく締りのないのも気の毒です。
天童太郎は晩酌《ばんしゃく》を始めていた様子でしたが、盃をほうるように、あわただしく迎えてくれました。
「銭形の親分さん、とんだ御手数をかけます、誰かのろくでもない悪戯でしょうが、なアに大したことじゃございません」
そんなことを言いながら、手を取るように平次と八五郎を迎え入れます。壁隣の二軒長屋と言っても、こっちは建て増して部屋の数も多く、調度も立派で、なんとなく豊かに見えるのも、勢力からも金からも見離された、先代の座頭、久米の仙八と、今を人気の上り坂にいる、今の座頭天童太郎との、栄枯《えいこ》の違いを見せつけられるようで、まことに異な心持になります。
「まア、親分さん方、何がなくとも、一つ召し上がって下さい、急のことで仕度もありませんが」
女房のお崎は、あわてて新しい膳を出したり、盃を並べて、銅壷にさわって見たり、一人で気を揉んでいる様子です。
亭主の天童太郎は四十前後の立派な男で、背は低い方ですが、顔立ちも精悍で、筋骨の逞《たくま》しさは、さすがに多年の鍛《きた》えを思わせます。
「構わないでくれ、少し話しを訊くだけのことだから」
「でも、まア、一つ召し上がってから――本当になんという悪い奴でしょう、あんなひどい悪戯なんかして、つばめは人気が大変ですから、いずれそれを妬《ねた》む者の仕業でしょうが」
そういうお崎は四十二三、亭主の天童太郎を差し措いてまくし立てるのです。
よく脂の乗った、中年の女らしい作り愛嬌、奔流のような多弁、ことごとく相手を辟易《へきえき》させますが、本人はそれが得意で、自分のような才女で人気者は、広い江戸にもたくさんは無いだろうと思い込んでいる様子です。
「ま、待ってくれ、妬むと言ったところで、一座に外に女芸人もない様子だ――外から小屋の中へ潜り込んで、楽屋の天井裏の、綱を切る隙でもあるというのか」
平次はともかくこの女の饒舌にブレーキをかけました。
「とんでもない、木戸から楽屋へは、人目が多くて来られません。裏口はお高さんがつばめの弟の与吉と一緒に頑張っているはずで」
天童太郎はあわてて口を容《い》れます。
「すると、一座の者の仕業ということになるが」
「それが、どうしても思い当たらないのです。お幾は女房と一緒に囃子方をやっておりましたし、久兵衛は木戸口を動かないはずですし、弥太八は、舞台の隅でなんか口上を言っておりました」
「親方は?」
「あっしは木戸の上の、ちょうど綱を切られた方とはあべこべの揚げ幕からそれを見ておりました。つばめが綱を渡りきって舞台に降りると、こんどは私が綱の上へ出て、物真似の道化をやることになっておりました」
「……」
「で、切っかけを待っていたのです。囃子が変ると私の出番で」
平次はこの説明を訊きながら、何やら考え込んでおります。
「つばめはあのきりょうだから、さぞ若い男から騒がれることだろうな」
「それが不思議で、――十八と言えば、もう一人前の娘盛りなのに、あの娘《こ》ばかりは一向取り合う様子もございません。小屋の客の中にも、あの娘を目当てに、毎日毎日見える人も三人や五人でなく、手紙をくれたり、物を届けたりする男もありますが、あの娘と来ては振り向いて見ようともしません」
女房のお崎が代わって、また饒舌《しゃべ》り始めました。まったく留めどもない舌の動きです。
「一座の中では?」
「人気者でございますよ、でも男っ気と言っては、口上の弥太八と、木戸番の久兵衛だけで」
「その二人のうち、特につばめに気のある男がいるだろう」
「若い久兵衛は道楽者で、小娘などには目もくれませんが、口上の弥太八は、つばめに夢中なようで、もっとも夢中だと言っても、もう三十ですから、無法なことをするはずもなく、それに、あの時はちょうど舞台で口上を言っておりました。綱を切る隙なんかなかったはずで」
お崎の話しを聴いていると、小屋の外にも内にも、綱の切り手はなくなります。
小屋の方は、楽屋の隅の薄暗い四畳半に、小道具と雑居して、口上の弥太八と、木戸番の久兵衛がとぐろを巻いて、寝るでも起きるでも無くゴロゴロしておりました。
「お前達は、毎晩ここに寝ているのか」
平次が入って行くと、あわてて飛び起きて、
「ヘエ、親分、今晩は、――あっしだって金さえありゃ、こんなところにくすぶっていたくはありませんが、前借だらけで、近頃は親方も良い顔をしてくれませんから」
と打ち明けた事を言うのは、道楽者らしい木戸番の久兵衛でした。
「お前はよく遊ぶそうだが、弥太八はどうだ」
「この野郎はつばめに夢中で小博奕《こばくち》の味一つ知らないという変わり者ですよ。何をするかと思うと、火鉢の灰をならして、火箸《ひばし》で、つばめ、つばめ、つばめと仮名文字の千文字を書いて、ホーッと溜息をつくんで」
「止せ、止さないか、馬鹿馬鹿しい」
弥太八はあわてて久兵衛の口を塞ぎそうにしましたが、相手は年こそ若いが、横着で人が悪くて、そんな事では口を塞ぎません。
「皆さんに申し上げた方がいいよ、手前が下手人でない証拠のようなものじゃないか、綱の切れたのは、舞台の真上の楽屋裏だが、その時お前は、綱の上のつばめに見とれながら、口上をとちっていたじゃないか」
「好い加減にしろよ、親分がびっくりするじゃないか」
弥太八は困じ果てて、照れ臭く顔などを撫で廻すのです。
「そんなわけで、つばめに怪我をさせたのは、あっしや弥太八じゃございませんよ、親方やおかみさんだって、金箱の娘太夫を殺す気になるわけはないし、あとはつばめの母親と、弟の与吉でしょう」
久兵衛は、なおも達弁に弁じ立てるのです。
「すると、下手人はないことになるじゃないか、――誰がいったい綱を切ったんだ」
平次も釣られるともなく、こんなことを言うほかはありません。
「この小屋には、悪い因縁《いんねん》が付き纏っているんですよ、あっしはそれが気になってならないから、折があったら飛び出して外へ行こうと思うんだが、そう思った時はいつも空《から》っ尻《けつ》で、動きがとれません」
「悪い因縁とはなんだえ」
平次は訊き返しました。
「いいってことよ、袖なんか引っ張らなくたって、銭形の親分が見透さずにおくものか」
「ね、親分、この小屋で、綱渡りの綱の切れたのは、これが二度目なんですよ」
「なるほど」
「悪い因縁じゃありませんか」
「……」
「さいしょの災難は今から三年前、前の座頭の、久米の仙八親方が、――これは綱渡りの名人でしたが――綱の真上から落ちて、脳天《のうてん》を打って即座に死んでしまいました」
「やはり綱を切られたのか」
「いえ、その時は鼠の悪戯とわかりましたよ」
「鼠?」
「綱の根元に、油が浸みていたのを、鼠がかじったんですね。その時の小屋は鼠の巣みたいでしたよ」
「そんなことで綱が切れるのかな」
「鼠だけのせいじゃないかもわかりませんが、そこまではこちとらの眼が届きませんよ、それっきりウヤムヤになってしまいましたが」
久兵衛の話には、妙な含みがありますが、三年前のことでは、平次も調べようがありません。
「この小屋では、毎日道具を調べないのか」
「三年前の事があってから、念入りに調べることになってはいますよ、今朝もあっしが調べたときは、なんの変りもなかったのですから、つばめが綱にかかる前に、誰かがあんなひどい事をしたんでしょうね」
久兵衛は独りで引き受けて饒舌《しゃべ》り立てますが、弥太八は黙りこくってそれを聴くだけ、異議を挟む様子もないところを見ると、それは恐らく全部が全部まで本当のことだったかもわかりません。
平次は弥太八と久兵衛を案内に、小屋の中を隈なく見せてもらいました。夜になりきってひどく不便ではありますが、八五郎と久兵衛の持った手燭《てしょく》が、案外隅々までも照らして、昼では気のつかないところまで、注意が届くという便利もあります。
つばめが綱から落ちた時の、一座の者の位置を、一つ一つ確かめて行きましたが、すべての人の部署は明瞭で、楽屋裏の天井に這い上がって、綱の元を切る者などは、どう考えてもありようはずはなかったのです。
つばめの母親は裏口に頑張っており、これは娘の生命に拘《かか》わるような人間をそこから通さなかったことは、あまりにも明らかです。天童太郎は切られた綱の反対側におり、あとは全部土間を埋めた観客の目に曝《さら》されていたのですから、そっと抜け出して、楽屋裏の綱に細工をする隙などはないはずです。
平次はこれだけのことを確かめると、危い梯子を上って、楽屋裏の天井、綱を切られた場所に行って見ました。さすがに、空中いろいろの芸当もするので、梁《はり》や柱は思いのほか丈夫に、その大柱から梁にかけて結んだ、綱の根本もしっかりしております。
その根元のスレスレに、張りきったところを切ったらしく、綱の切り残しが五寸ほど、少し段々がついて下がっているところを見ると、あまり良い手際とも言えません。
それにしても、ここから張り渡した古い幕にかくれて、舞台も客席も綱の行方も見えず、曲者は囃子の音楽に耳をすまして、綱を渡る人間のいる場所を、勘で定めて綱を切ったことでしょう。
「刃物はなんです、親分」
「張りきった綱だ、なんでも切れるよ」
「でも、これだけの綱を切るのは余っぽどの手際ですね」
「いや、そんなことはあるまいよ、ちょいと、その灯《あか》りを貸してくれ」
平次は八五郎の問いに答えながら、手燭を受け取って、しきりに四方を物色していましたが、目隠《めかく》しの幕の蔭に手をやると、ちょうど自分の腰ほどの高さの羽目板の隙間から、何やら引き出して灯りにすかしております。
「菜《な》切り庖丁ですね」
「これが得物さ、錆《さ》びてはいるが、張りきった綱なら切れるよ」
「誰がそんなことをしたんでしょう」
「騒ぐな、大方見当は付いたつもりだ」
「ヘエ?」
平次は八五郎を促して梯子を降りると、そこで待っている弥太八に、何やら囁いてサッサッと外へ出るのです。
「もう帰るんですか、親分」
「まだ寝るには早かろう、帰って一杯やろうよ」
両国から明神下へ着いたのは戌刻半《いつつはん》(九時)頃、八五郎を相手に一本あけたところへ、
「今晩は、御免下さい」
恐る恐る訪れたのは、天童一座の口上言い、弥太八の打ち沈んだ姿だったのです。
「ヤア入れ、一杯やっているところだ、お前も付き合いながら、ゆっくり話そうじゃないか」
弥太八は恐る恐る入って来て平次と八五郎の呑んでいる後ろに、亀《かめ》の子のように首を縮めました。
「お前はなんか知っているはずだ、――いや、お前はなんか、俺に言うことがあるはずだ。十手捕縄はしまい込んで、ただの平次になって、一杯呑みながら、お前の話を聴こうじゃないか」
平次は弥太八に盃を差して、二つ三つ立て続けにつぎながら、こう話しかけます。木戸番の久兵衛の饒舌に比べて、弥太八の極端な無口と、その考え込んでいる眼の色が、平次の腑に落ちなかったのでしょう。
「親分、私は、つくづく恐ろしいと思いました」
「何が恐ろしいんだ」
「きょう楽屋裏の天井に潜り込んで、あの綱を切ったのは、三年前に同じ綱から落ちて死んだ、久米の仙八親方の幽霊に違いありません」
「何を言うんだ、馬鹿馬鹿しい、久米の仙八の幽霊が自分の娘のつばめを殺そうとしたというのか」
「それに違いないから、私は不思議でたまりません。あのとき、舞台の隅にいた私が、フト上を見ると、揚幕《あげまく》の陰から、梯子を登って行くのが、間違いもなく死んだ仙八親方、――チラリと見えた柄が、仙八親方が死ぬとき着ていた赤い縞《しま》の入った青い袴《はかま》で、間違いの無い品でございました。変なことがあるものだと思うと、まもなく綱渡りが始まって、それからあの騒ぎです」
「……」
「忘れもしない九月二十八日の今日は、仙八親方の三年目の命日で、私は思わずゾッとしましたよ。もっとも考えてみると、仙八親方が迷って出るのも、無理のないことで――」
「何が無理がないと言うのだ、お前はもう少しいろんな事を知ってるだろう。皆んな言ってしまわないと、今後は仙八の幽霊がお前に祟《たた》るかも知れないぜ」
「冗談言っちゃいけません、私はなんにも怨まれる覚えはありません、怨まれれば、今の座頭の天童太郎親方の方で」
弥太八は平次の説き落しのうまさに引摺《ひきず》られて、とうとう大変なことを打ちあけてしまったのです。一つは久米の仙八の幽霊に脅かされて、それを言わずにいられない心持になっていたのでしょう。
その話によれば、今からちょうど三年前、同じ九月二十八日の夕刻、道化姿で綱渡りをしている先代の座頭久米の仙八が、綱が切れて土間の真中に落ちて死んだのは、どうも鼠のせいらしくないというのです。
いやそれどころではなく、その頃一座の花形で、仙八と人気を争っていた、天童太郎に相違ないという、根強い疑いを長いあいだ持っていたというのです。その疑いの根拠と言うのは、かなり確実なもので、仙八が綱から落ちたとき、その場にいなかったのは天童太郎だけで、それも楽屋の天井から梯子伝いに降りて来る姿を弥太八がこの眼で見たというのです。
鼠にかじられたと見せた綱の切口は、切出しで細工したもので、一気に鋭い刃物で切らなかったところに狡《ずる》さがあり、当時は誰も天童太郎の仕業と知らなかったのも無理のないことでした。
天道太郎が親方の仙八を殺した原因は、一座を自分のものにしたい野心と、もう一つはその頃若くもあり、非常に美しくもあった、つばめの母親お高に言い寄ってひどく弾かれた怨みで、その頃のお高は、三十四五の大年増ながら、まだ十四五の可愛い盛りの娘つばめを相手に空中の曲芸を演じ、女軽業師として、大した人気であったということは、弥太八の説明で平次や八五郎も思い出しました。
夫仙八の死後、お高は華やかな舞台から退いて、あのとおりの汚《きた》ない作りになり、もっぱら娘つばめの成長を楽しみに、裏木戸番で満足している貞女振りでした。一つは天童太郎にいどまれるのが、いかにも煩わしかったためでしょう。
天童太郎はその後一座を自分のものにしましたが、仙八の未亡人のお高ばかりは、どうしても儘にならずその後一年たって今の女房――おしゃべりで三味線の達者なお崎を迎え、今日に至ったというのが、弥太八の説明のあらましでした。
「それをどうしてお前はお高に話したのだ」
平次はいきなり弥太八に問いかけました。
「ヘッ」
「隠すな、亭主の仙八を殺したのは、天童太郎に間違いない、証拠はこれこれとお前は本当に話したに違いあるまい」
「相済みません、――ツイ一昨日の晩でした、私とつばめと仲よく話しているところを、母親のお高さんに見つけられ、さんざん油を絞《しぼ》られた上、お前は亭主の仙八を、誰が殺したか、知ってるに違いない、それを言わなきゃ、この先、たった一言も娘のつばめに口をきいてもらいたくない、と言われて、ツイ、三年のあいだ私の胸一つにしまい込んで置いた疑いの数々を打ち開けてしまいました」
「フーム、それは大変なことだ、今日は、仙八の三年目の祥月《しゅうつき》命日だと言ったな」
「お高さんもそれをくり返して言っていました」
「ところで、お前がここへ来るまでに、変ったことはなかったか」
「なんにもありません、久兵衛の野郎は、急に小遣いが出来たと言って、吉原《なか》へ冷やかしに出かけたようですが――そのお小遣いは、お高さんから借りた様子でした」
「つばめの容体は」
「もう大丈夫だということで」
「……」
「親分の天童太郎のところでは、おかみのお崎さんは女猩々《めしょうじょう》とも言われるくらいで、すっかり酔っ払って管を巻いておりましたし」
「お幾とか言った下女代りの女は?」
「見えなかったようです、――そうそう、それから珍しい事に白痴《はくち》の与吉が、なんか手紙かなんかを持って、壁隣の天童太郎親方のところへ行く様子でした」
「それは容易ならぬことだ、行ってみよう、八」
「どこへ行くんです」
まごまごする八五郎を引っ立てるように、平次と弥太八は、もういちど両国へ引っ返しました。九月二十八日、夜は漆《うるし》のように真っ暗で、町も大方は寝鎮まりました。
小屋は空っぽ、弥太八の部屋に入って、手燭を用意すると、平次は楽屋を一わたり見て廻りましたが、そこにはなんの変りもありません。
「さア、見当がつかなくなったぞ」
舞台にも別条はなく、そこから客席へ降りて、ちょうど真中ころへ来た時、
「あッ、これだ」
眼の早い八五郎は思わず大きい声を出しました。土間に板を置いて、薄べりを敷いただけの客席、そのちょうど中ほどに、座頭の天童太郎は、喉笛《のどぶえ》を刺されて、血の海の中に死んでいるではありませんか。
素袷《すあわせ》に、忍びの泥棒がん灯を持っておりますが、短い蝋燭《ろうそく》は、投げ出されたとき、消えたらしく、ほかには証拠になるべきものは一つもありません。
「真上から肩口へかけて喉笛を刺している不思議な手際だ」
平次も舌を巻いております。死骸は冷たくなりかけて、少なくとも半刻《はんとき》(一時間)以上は経ったらしく、もはや命の呼び戻しようもありません。
「こんな達者な男を、誰が殺したんでしょう」
八五郎は胆ばかりつぶして居ります。客席の真中、あたりは広々として、身を隠す場所もないのですから、よほど腕の出来る、天童太郎よりはるかに背の高い者が馴々しく寄って不意に上からやったと見るほかはありません。
「あれはなんだ」
平次は頭の上を仰ぎました。
「ブランコですよ、つばめの芸当の一つで、あれに飛び付いて離《はな》れ業《わざ》をやるんです」
ブランコは、低いのから高いの、幾段にも下っておりますが、天童太郎の死骸の真上、地上からざっと九尺ほどのところに、一番低いのがブラ下っております。その上に飛び付いて、いろいろの芸当をやるつばめは、すぐ下で口を開いて見ているお客様達には、一つの魅力だったに違いありません。
それを見ると平次は、
「八、もう帰ろうよ、町役人に知らせて、明日の朝でも検視をするんだね」
興味を失ったように死骸を見捨てて、さっさと外へ出るのです。
「親分、下手人《げしゅにん》は?」
「知るものか、鎌いたちかなんかだろう」
「ヘエ?」
八五郎もその後について行くほかはありません。
裏の二軒長屋のうち、天童太郎の家を覗くと、おかみのお崎は畳の上に引っくり返って大いびきを掻いており、下女のお幾はそれを介抱しようともせず、自分の部屋へ入って寝てしまった様子です。
隣のお高の家では、まだ何やら話し声が聴えます。障子の隙間から覗くと、つばめが眼を覚ました様子で、その枕元《まくらもと》に寝もやらずに介抱している美しい母親のお高は、娘に水などを呑ませているのが、静かながら、なんとも言えない哀れな風情でした。弟の与吉――あの少し足りない少年は、隣の室で夢でも見ていることでしょう。
その窓をそっと離れた平次はそこまでついて来た弥太八にこう言うのです。
「それじゃ俺は帰るよ、あとは土地の役人が宜しいようにしてくれるだろう――お前はお高とつばめの面倒を見てやるがいい」
それから幾月か経ちました。
軽業師天童の死は、それっきり誰の仕業ともわからず、女房のお崎は、寄る辺を失って退散し、その年の暮れ近くなった頃この一座は、怪我の癒ったつばめ太夫の名で花々しくふたを開けました。
一座の顔触れに、つばめ太夫の母親のお高が、三年目の帰り新参で、少しも衰えぬ美しさと若さと芸達者を見せてくれたことは、どんなに人気を引き立てたかわかりません。それに弥太八も久兵衛もお幾も昔のとおりで正月の景気のよさが思いやられます。
その噂をきいて、
「いったいあの綱を切ったり、天童太郎を殺したりしたのは誰なんです、親分、鎌いたちなんかじゃ胡麻化されませんよ、あっしは」
と、一生懸命に詰め寄る八五郎に対して、平次はこう説明してやりました。
「つばめの綱を切った人間は、どうしてもわからなかったはずだよ――たった一人、気のつかない人間があったのだ」
平次は全部の人間の配置を細かに説明してから、その時すべての人の陥った盲点を指摘するのです。
「誰です、それは?」
「白痴《はくち》の与吉だよ、――子供だし、知恵の遅い方だから、皆んなも気がつかなかったのだ、もっとも細工をして、与吉に綱を切らせたのは母親のお高だが」
「娘の乗っている綱を?」
「天童太郎が、あのすぐ後で道化姿で綱渡りをするはずだったのさ、それを与吉は、母親に言い含められた囃子を聞き違え、まだ姉のつばめが乗っているうちに、綱を切ってしまったのだ」
「ヘエ?」
「お高が弥太八にいろいろの事を聴かされたのは前の晩だ、お高は死んだ亭主の仙八の敵《かたき》を、倅の与吉に討たせる積りで細工をしたのだよ。仙八の袴《はかま》をはかせたのは、そのためだったに違いない。弥太八はそれをチラリと見て幽霊と思い込んだのも無理のないことだ」
「?」
「綱は張り切っていたから菜切り庖丁でも切れた。その菜切り庖丁が錆びだらけなのは、女世帯の刃物の証拠だ、菜切り庖丁を磨いてくれる人もないからだ。それから庖丁を隠せる場所がいくらもあるのに、ちょうど子供の肩のあたり、羽目板へ挟んであったのは、知恵の廻らない与吉のしたことに違いあるまい」
「ヘエ、すると、天童太郎を殺したのは?」
「お高は自分の手違いとは言いながら、娘が怪我したのまで口惜しくて仕様がなかった。その晩、仙八の三年忌の夜のあけぬうちに片づけるつもりで、久兵衛に小遣《こづかい》をやって外に出し、お崎が酔っ払ったのを見すまして、与吉を使って天童太郎をおびき出した。天童太郎は三年前の恋が成就すると思って、ワクワクしながら小屋へ行ったことだろう、人目につくとうるさいから、舞台で使う小道具の泥棒がん灯を持って行った」
「どうして、刺したのでしょう、不思議な傷でしたね」
「先に小屋へ入って待っていたお高は、昔の舞台姿の肉襦袢《にくじゅばん》一つで、あのブランコに飛びつき、膝でブラ下って逆様になっていたことだろう、匕首《あいくち》かなんか持っていた手が、九尺の高さから下へ差しかかった天童太郎の首筋にちょうど届く」
「そこで傷が、上から下へ――喉笛から肩口へ刺したわけですね」
「そのとおりさ、天童太郎の泥棒がん灯は足元しか見えないから、この美しい鎌いたちが天井からブラ下って、自分の首を狙っていることは気がつかなかったことだろう」
「なるほどね」
「わかったか、八」
「恐ろしい女ですね」
「でも、自分の長屋へ帰って怪我をした娘を、夜っぴて介抱《かいほう》している静かな姿を見ると、俺は縛る気がなくなったよ――余計なことを言うなよ、あの軽業小屋の人気に拘《かか》わることがあっちゃ気の毒だ」
平次はこんな気の弱いことを言うのです。
屠蘇の杯
「親分、大変ッ」
日本一の浅黄空《あさぎぞら》、江戸の町々はようやく活気づいて、晴れがましい初日の光の中に動き出したとき、八五郎はあわてふためいて、明神下の平次の家へ飛び込んで来たのです。
「なんて騒々しい野郎だ。今日はなんだと思う」
これから屠蘇《とそ》を祝って、心静かに雑煮の膳《はし》をとろうという平次、あまりの事にツイ声が大きくなりました。
「相済みません。元日も承知で飛び込んで来ましたよ――お目出度うございます。昨年中はいろいろ」
八五郎はあわてて弥造《やぞう》を抜くと、気を入れ替えたように世間並の挨拶になるのでした。
「――本年も相変わらず、――ところで何が大変なんだ。まだ雑煮も祝っちゃいめえ、よかったら屠蘇を流し込んで、腹を拵《こさ》えながら聴こうじゃないか」
平次は八五郎を呼び入れると、大急ぎで膳を一つ拵《こさ》えさせ、長火鉢を押しやって相対しました。
「さア、ひとつ――八さんが此家《ここ》でお屠蘇を祝って下さるのは、何年目でしょう」
お静は片襷《かただすき》を外して、そっと徳利を取り上げました。夜店物の松竹梅の三つ重ねが、一つは縁《ふち》が欠けて、
「お、とと、と」
八五郎が号令をかけるまでもなく、半分しか酒が注《つ》げません。
「お前もこっちへ膳を持って来るがいい。元日早々|立身《たちみ》のままで、お勝手で残り物を|あさる《ヽヽヽ》なんざ、結構な|たしなみ《ヽヽヽヽ》じゃないぜ」
客があるとツイ、お勝手で食事をすませるお静の癖が、平次には気になってならなかったのです。
「なるほど、そいつは気がつかなかった。あっしは縁側の方へ退きましょう。日向《ひなた》ぼっこをしながらお雑煮を祝うのも、とんだ栄耀《えよう》ですぜ」
「あら、八さん、そんなにして下さらなくとも」
お静もようやく一座に加わりました。半分あけた障子は、手細工の切張りだらけですが、例の浅黄色の空が覗いて、盆栽の梅の莟《つぼみ》のふくらみが、八五郎の膝に這っているのです。
「ところで、なんだっけ、八五郎が持ち込んで来た大変の正体は?」
「まだ話しませんよ」
「そうだろう、聴いたような気がしねえ、御用初めに聴いて置こうか、どうせ目出度い話じゃあるめえ」
「ところが、目出度いような、馬鹿馬鹿しいような、気の毒なような、おかしな話なんで」
「どこかの三河万歳で聴いてきた口上だろう、それは」
「殺しですよ、親分。元日早々縁起でもないが、あっしが見たところじゃ、豊島町の大黒屋徳右衛門、たしかに殺されかけたに間違いありません。何しろ杉なりに積んだ千両箱が頭の上から崩れて来て、屠蘇《とそ》の杯《さかずき》を持った、大黒屋徳右衛門を下敷きにしたんだから怖いでしょう」
「待ってくれよ、八。元日早々だから、話はでっかい方が目出度くていいが、千両箱はいったい幾つあれば杉なりに積めるんだ」
「百とはなかったようで」
「千両箱が百で、中身は十万両だ。大黒屋徳右衛門いかに金持でも、それ程は持っているはずはない」
「すると、三十もありましたかな」
「心細い算盤《そろばん》じゃないか――杉なりに積んだ一番下はいったい幾つあったんだ」
「確か十《とお》でしたよ。十畳の広間の床の間いっぱいに積んでましたよ」
「塵功記《じんこうき》という本に、杉なりに積んだ米俵や千両箱の勘定のことが書いてある。それによると、一番下が十《とお》で次が九つ八つ、一番上の一つまで勘定すると、ちょうど五十五になる勘定だ」
平次はざっと千両箱の数を出しました。
「ヘエ、五万五千両ですか。太《ふて》え野郎で」
「何が太え野郎だ」
「そんなに溜め込む奴があるから、こちとらには、正月だというのに、一貫と纏《まと》まった小遣が入らない」
「|やっかむ《ヽヽヽヽ》なよ。ところで、千両箱の下敷きになって、大黒屋は怪我でもしたというのか」
平次は改めて話をもとの出発点に引き戻しました。
「大黒屋徳右衛門とって五十五だ。大商人らしくでっぷり肥って、貫禄も充分だが、大黒|頭巾《ずきん》を被《かむ》って、杉なりに積んだ千両箱の前にどっかと坐り、元日の朝家中の者を呼び集めて屠蘇の盃をやる」
「大したことだ」
「一代に身上《しんしょう》を拵えると、人間はちょいと、そんな事をしてみたくなるんですね」
「それからどうした」
「家中一統のお祝を受けて、屠蘇の杯を口に持って行ったところへ、ガラガラと来た――床の間に積んだ五十五の千両箱が一ぺんに崩れたからたまりませんや。大黒屋徳右衛門グウ――と来た」
「危ないな」
「もっとも千両箱の下敷きで、少々くらいの怪我ですむならあっしも一度はそんな目に会って見たいと思いますがね」
「怪我はひどかったのか」
「肩と腰をやられましたよ。真っすぐに崩れると、間違いもなく脳天をやられて、いっぺんにギュウとくるところ――」
「だが不思議なことがあるものだな、八」
「ヘエ?」
「千両箱の重さは、一つはどうしても五貫目はあるぜ。それを杉なりに積み上げると、ケチな石垣よりは余っ程堅固なはずだ。大きな地震でもあればともかく、ちょっとやそっとでは崩れるわけはないぜ」
平次の疑問はもっともでした。普通千両箱というのは、幅五寸前後、長さ一尺二三寸、深さ二三寸の堅木で造って、厳重に金具を打ったもので、それに入る小判金は一枚四匁の千枚で四貫目、箱の重さを加えてザッと五貫目になるのですから、床板が落ちでもしない限り、これを四五十も積むと、全く磐石《ばんじゃく》のようなもので、少々くらいは突っついて揺すっても崩れるなどということは、想像も出来なかったのです。
「あっしは大黒屋の番頭に叩き起こされて、ともかくも飛んで行きましたよ。叔母さんが餅くらいは工面してくれますが、こちとらは盆も正月もありゃしませんよ。御用始めに千両箱の山の崩れたのを見るのも、ちょいと溜飲の下がる景色じゃありませんか」
八五郎は呑気なことを言っているのです。大黒屋で千両箱の山を眺めて、明神下の平次のところで屠蘇《とそ》にありつき、向柳原の叔母さんの家へ帰って、心尽しの雑煮を祝えば、八五郎の正月は満点的になるわけです。
「話はそれっきりかえ」
平次は屠蘇の杯を置いて、雑煮の出来るのを待ちました。
辰刻《いつつ》(八時)過ぎになると、江戸の下町ではもう、羽子の遠音も、紙鳶《たこ》の唸りも聞えます。
「それだけなら、ただ大笑いに笑って帰って来ますよ。金持が千両箱に押し潰されて怪我をしたなんてえ図は、滅多に見られる茶番狂言じゃありませんよ」
「お前はとんだ悪い口だな」
「それに企らんだ殺しは確かですよ。杉なりに積んだ千両箱の中程のところに二本の棒が噛ませてあって。ちょいと押せば、上が崩れるように仕掛けがしてありましたよ」
「そんなことで五十五の千両箱が崩れるのかな」
「床の間の後ろには、赤ん坊の頭が潜るほどの穴があいて、外から丸太かなんかで、わけもなく千両箱を突き崩せるとしたらどんなものです」
「誰もそれに気がつかなかったのか」
「千両箱は大晦日《おおみそか》の晩から積んであって、松のうちはそのままにして置くそうです。床の前は塞《ふさ》がっているから誰も気がつきゃしません。外へ廻ると、なるほど鑿《のみ》かなんかで掘ったらしい大穴が開いて、その上を古い板で隠してありましたがね」
「念入りだな」
「ともかくも、そこまでは見て来ましたがね。元日早々の御用初めは、親分に気の毒ですが、ちょいと覗いて見て下さいな。ここから豊島町一丁目までは、ちょうど良い雑煮腹の腹ごなしですよ」
「いやに恩に着せるじゃないか。豊島町の大黒屋徳右衛門は、評判のよくねえ男だ。町内の顔利きではあるだろうが、ケチで勝手で弱いものいじめで――」
「でも逢って見ると世辞の良い、人ざわりの悪くねえ男ですよ」
「一杯呑まされたわけじゃあるめえな、八」
「冗談言っちゃいけません。まだあっしなんか大晦日のうちだと思っていたくらいで」
平次は、でも手早く仕度をして、八五郎と一緒に飛び出しました。元日早々の御用は、まったく有難くなかったにしても、五十五の千両箱をひっくり返した曲者《くせもの》の企みは、放っても置けない重大な暗示を孕《はら》んでいたのです。
豊島町の一丁目、雑穀問屋の大黒屋徳右衛門というのは、評判のあまりよくない『町人のボス』の一人であったにしても、その金力と勢力は大したもので、まず神田から日本橋へかけて歯向う者もないほどの、恐ろしい潜勢力を持った男でした。
物柔かで戦闘的で、押しが強くて金があってそのうえ執拗《しつよう》無比な働きもので、大黒屋徳右衛門は、敵にとっては全く恐ろしい男だったかも知れません。その虚勢と年中行事を心得たものが、大晦日の晩ひと晩がかりで床の間のあたりに穴を開け、外から丸太で千両箱を突き崩すというのは、皮肉で馬鹿馬鹿しいうちにも、一種の悲愴味と、諧謔味《かいぎゃくみ》を帯びた企てとも言えるでしょう。
何はともあれ平次が、現場を見ようと決心したのには、相当以上の理由のあることだったのです。
大黒屋へ着くと、なんにも知らぬ年始の客が、素っ気なくあしらわれて、不思議そうに帰ってくるのが頻々《ひんぴん》とありました。その頃は言うまでもなく、幕府の規綱も民間風俗も、型にはまるだけはまりきった時代で、麻裃《あさがみしも》に威儀を正して、腰に一本きめ込んだ年始廻り。紺の香の真新しいお仕着の供の者を連れて、町人ながらも折り目正しいのが、出入りの職人と立ち交じって、町の権勢家の大黒屋の前は、まことに織るがごとき賑わいです。
それをよけて、いきなり庭口へ廻った銭形平次と八五郎は諸人の注視の裡《うち》を隠れるようにいきなり奥庭の縁側に立って居りました。
「これは親分さん方、主人が先程から待ち兼ねております」
番頭の忠兵衛、月代《さかやき》の光沢《つや》の良くなりかけた、四十七八の男に迎えられました。
「どうだえ、元気は」
八五郎は心得顔でした。
「もう大丈夫で、床の上へ起き直っております。元日早々こんな手の混んだ悪戯《いたずら》をされちゃ縁起が悪いから、とことんまで調べて頂いて、仕掛けた人をギューギュー言わさなきゃア――と、大変な元気でございますよ」
番頭はやや苦々しそうでもあります。千両箱の下敷きになったくらいのことは、内聞にしてしまいたいのが、事なかれ主義の忠兵衛の本心のようです。
廊下へ入って二つ三つ目、思いのほか深々とした構えで、主人徳右衛門は、そのまた奥の六畳に休んでいるのでした。
「銭形の親分さんと、八五郎親分ですが」
番頭が取次ぐのももどかしそうに、
「それは有難い。元日早々だから、銭形の親分も良い顔はしてくれないだろうと、今も女房と噂をしていたところでしたよ」
見るとなるほど床の上に起き直って、頭から肩へ繃帯《ほうたい》だらけになっているのは、五十五というにしては、ひどく若々しく元気な男。よく肥った丸顔、血色が鮮《あざ》やかで、眉が太くて、眼の大きいところは、いかにも大黒頭巾の似合いそうな人柄です。
「災難だったそうですね――もっとも千両箱に押し潰されるなら本望だと、この野郎は言っていますが――」
平次は八五郎を振りかえりました。充分皮肉な調子です。
「なんに潰されたって、怪我をしちゃつまらない。このとおり命は助かったが、もう左へ五寸寄っていると、間違いもなく脳天をやられるところだった」
徳右衛門は、太鼓腹《たいこばら》を揺すぶって、怪我人らしくもない大きい声で笑うのです。
「ところで御主人を怨んでいる者も、たくさんあることでしょうな」
平次は歯に衣《きぬ》着せずに言いきりました。大黒屋徳右衛門が人に憎まれていることは、界隈で誰知らぬ者もありません。
「こんな仕事をしていると、どこに敵がいるかわかったものじゃありませんよ。味方と見せて敵であり、敵と見せて敵であり、ハッ、ハッ、ハッ、ハッ」
そう言うと世間の人がことごとく徳右衛門の敵になります。
「その中でも一番仲の悪いのは?」
「亀井町の甲子屋《きねや》六兵衛かな。同業で、隣町で、お互いに意地っ張りだから」
大黒屋徳右衛門はこんな事を平気で言いきれるほど徹底した男でした。
「家の中には?」
「それはない。自慢ではないが、女房子をはじめ、奉公人はよくしてあるはずだ。嫌だと思う者は、勝手に出て行くがいい。いつでも暇をやると――日頃そう言っているくらいだ。家中の者は、私を怨むなどということは先ずあるまいと思う」
強大なる自信です。
「ほかには?」
平次は押して訊ねました。
「もう一つある。これは言い憎いことだが――」
「?」
徳右衛門はしばらく口を緘《つぐ》みましたが、思いきった様子で、
「恥を打ちあけるようだが、私の女房には、前に配偶《つれあい》があった。お蔵前の名ある商人《あきんど》だったが、勝負事に身を持ち崩し、一人の女房にまで別れて、気の毒なことにやくざ仲間に入っている。右馬吉《うまきち》と言ってな――銭形の親分も御存じだろう。その右馬吉の女房が、里方の親達に戻されて離縁になり、私のところに再縁したのが、今の女房のお種だ」
「……」
平次もこれははじめて聴きました。ずいぶん古い話で、まだ少年時代の平次には、そのいきさつがはっきり判らぬままに年を経たことでしょう。
「表面は他人で、右馬吉もこの辺へ姿を見せないが、人の噂によると、いまだに二十年前の怨みを忘れず、なんか愚痴《ぐち》らしい事を洩らしているということだ、――思い当るのは先ずそんな事だろう」
「ところで、千両箱の山が崩れたとき、家中の者が、御主人の前に揃っていたことでしょうな」
「それは間違いもなく揃っていたはずだ。女房のお種に、娘のお吉、倅の弥三郎、嫁のお村、番頭の忠兵衛に、手代の米松、小僧の友吉、皆んな居流れて屠蘇《とそ》を祝い、下女のお民はお勝手と座敷の間を、道具を運んだり、屠蘇を運んだり、雑煮の仕度をしたり、ちょっとの遑《ひま》もなく駈けて歩いていたはずだ」
徳右衛門は指を折って数えているのです。これだけの人数が主人の目の前に居流れて、吉例の屠蘇を祝っていたとすると、千両箱突き崩しの曲者は、間違いもなく外にいてワザをしたことになります。
最後に主人の怪我の程度を見せてもらいましたが、首から肩へ腰へかけて、数か所の打撲傷《うちきず》を拵えただけで、一時驚きもし痛みもしたことでしょうが、先ず生命に別条もなく血を流す程でもないということがわかりました。
大黒屋徳右衛門が、千両箱の下敷きになったという部屋は、それからまた奥の、大黒屋で一番奥の、十畳の客間でした。この辺はもう長押《なげし》を打ち、床の間をしつらえて、町人ながら憚《はばか》るものもない武家風の造りです。
今朝の騒ぎに面喰ったものか、崩れた千両箱はそのまま、内儀のお種と、番頭の忠兵衛がときどき見に来るくらいのことで、手のつけようもなく放ってあります。一箱五貫目もある千両箱が、五十五も崩れては、女房のお種や、華奢《きゃしゃ》な半老人の忠兵衛では手がつけられず、そうかと言ってモノがモノだけに、奉公人任せで、土蔵へ運ぶこともならなかったのでしょう。
「ここへこう大黒頭巾かなんか冠って後ろに千両箱を杉なりに積んだ図は悪くありませんね、親分」
などと八五郎は散乱した千両箱の中に袖を突っ張って座ってみたりするのです。
「お前じゃ似合わないよ。貧乏神が世帯仕舞いをする恰好じゃないか」
「ヘッ、親分も口が悪い」
「ところで、千両箱の間に棒を喰わせてあったと言ったが、そんなものはないじゃないか」
平次は千両箱の間を探しましたが、そんなものは落ちてはいません。
「変だね、確かにここに、麺棒《めんぼう》が転がっていたんだが」
「すると麺棒は千両箱の一番下ではなくて、途中に噛ませてあったわけだね。現に下の三段くらいは少しも動いちゃいないようだ」
「そうかも知れませんね。壁の穴はちょうど千両箱の山の六七合目あたりだ、――もっとも一番下を突いたんでは、千両箱が重くて動かなかったかも知れない」
見ると床の間の中程よりだいぶ下の方に、膝っ小僧が潜りそうな穴があいて、その辺一面に、壁土が散乱しているのです。穴から覗くと、外は寒々とした庭の景色で、五六間先にあるのは、中庭を隔てた建物、同じ大黒屋のお勝手に当るでしょう。
「外へ出てみたか、八」
「念入りに見ましたが、あいにく天気つづきで、ろくな足跡もありませんよ」
平次はそれを聴きながら、庭下駄を突っかけて中庭のほうへ廻ってみました。八五郎が言ったように、そこは西側のよく踏み固めた中庭で、ろくな植込みも灯籠《とうろう》もなく、下女のお民が、陽を追って干物《ほしもの》を持ち廻るらしく、三叉《さんまた》と物干竿とが転がり、物干の柱が突っ立っているだけの殺風景さです。
「あれは?」
「下女のお民で、ちょいと良い娘でしょう」
八五郎が娘の鑑定《めきき》にかけてはまさに本阿弥です。十七八のぽちゃぽちゃした娘、健康そうで、紅も白粉も知らぬ肌は、少しは激しい労働に荒れてるにしても、羽二重餅に銀の粉を振りかけて、ほんのり紅を差したようで、見ようによっては、申し分のない健康美です。身体は大きい方ではないが、小づくりでよく肥って、本人が気にするほど丈夫そうですが、その代り誰の顔でも真っ正面から見る単純さと、少しのことでも頬を染める、清純なよさが溢れております。
「ちょいと――今朝、裏口は開いていなかったのか」
平次は声を掛けました。
「何時でも――昼は開いております」
「誰か入って来たのに気がつかないのか」
「忙しかったものですから」
「お勝手におれば裏口から入って来て中庭を床の間の裏へ廻る人間の姿が見えるはずだが」
「私はお勝手とお座敷の間を歩いてばかりおりました。いつも御新造さんかお嬢さんが手伝って下さるんですけれど、今日は元日ですから」
「お屠蘇《とそ》を祝うので、みんな奥の部屋に列んでいたわけだな」
「そうなんです」
「ところで此家《ここ》の住み心地はどうだ」
「皆さんよくして下さいます」
「給料は?」
「年一両のお約束ですが――」
「それより多いのか、少ないのか」
「たくさんのお心づけを頂きます」
並はずれのよさと、言葉に淀《よど》みのない賢こさが、この娘を一段と良く見せます。
「お前は遠方から来たものじゃあるまい。生まれはどこだ」
「江戸でございます」
「両親は?」
お民は黙って襟に顔を埋めました。正月元日の晴れ着でしょう、木綿物ですが清潔で可愛らしくて、赤い帯も素朴《そぼく》な魅力です。
「亡くなりました」
「そいつは気の毒な――元日早々つまらねえことを訊いて悪かったな、――ところでお前は桂庵《けいあん》〔周旋屋〕の手を通って来た娘とも思えないが、此家《ここ》となにか引っかかりでもあるのか」
「遠い親類だそうです」
「もう一つ、此家の人達はどうだ。一人一人の事を聴きたいが」
下女のお民の賢こそうなのと、その調子の明けっ放しなのが、すっかり銭形平次の気に入ったらしいのです。
「でも、私は」
「いや、お前がどう言ったから、すぐ縛るというわけではないよ」
「でも――」
「第一に、家の者は皆んな主人の徳右衛門を良く思っているのか」
「悪く思う者も、悪く言う者もありゃしません。誰にでもよくしてくれます」
「お内儀さんのお種さんは」
「気の弱い、やさしい方」
「お嬢さんは」
「そりゃ良い方」
この調子では、何を訊いても、この利口な娘からは、人の悪口などは引き出せそうもありません。
平次は裏庭から、無収穫のまま、もとの座敷に引き上げるほかはなかったのです。
「八、千両箱というものを抱いたことがあるか」
平次は床の間から座敷の三分の一ほどに散らばった、二十余りの千両箱を指しました。
「ヘッ、憚《はばか》りながら親分の前だが、そんなエテ物を抱くと、あの娘《こ》が泣きますよ」
「呆《あき》れた野郎だ――抱くといって悪きゃ、ちょいと担《かつ》いでみるがいい。そいつを二十三十動かすにはどんな力が要るか」
「担ぐ分には、もっこも千両箱も担ぎますよ。なんのこれしき」
八五郎は手当たり次第に一つ、双手をかけて担ぎ上げました。一つが五貫目ずつとなると、箱は小さいが相当の重さを覚悟しなければなりません。
が、八五郎はどうしたことか、ヨロリとして、ようやく踏み堪えました。千両箱は軽々と肩の上に。
「しゃんとしろ、腰の切りようが悪いんだよ」
「冗談じゃない。軽すぎるんですよ、親分」
「軽すぎる?」
「一つ担いで下さい。これなら二つ三つ持っても、大したことはありませんね」
「どれどれ」
平次は一つ持ち上げてみました。中味は五貫目と思ったせいか、千両箱を持った平次も、力負けがしてヨロリとしたのです。
「ね、親分」
「なるほど、精いっぱいが一貫目そこそこかな」
「中は玩具《おもちゃ》の小判じゃありませんか。お酉様《とりさま》の熊手にブラ下げる」
「馬鹿なことを言え」
平次は一応八五郎をたしなめましたが、念のため、そこに転がっている千両箱を、一つ一つ貫貫《かんかん》を引いてみると、どれもこれも、一貫目から二貫目そこそこで振ってみたところで、チャリンと言った音のするのはなく、ゴトリゴトリと異様な音を立てるだけです。
「ね、親分」
「なるほどこいつは考え直さなきゃなるまい。もういちど主人に会ってみようか」
平次も狐につままれたような心持でした。千両箱がせいぜい一貫目や一貫五百目そこそこでは、鐚銭《びたせん》か、石っころを詰めたくらいの重さもなく、これが大黒屋の身上《しんしょう》とはどうしても受け取れません。
部屋を見ると、廊下に立ってオドオドしているのは三十七八の良い女でした。眉の跡も青さを失って、やや縮緬皺《ちりめんじわ》の目につく年輩ですが、顔の道具はまことに端正で、細っそりした後ろ姿などは、病的に見えるほど弱々しいものがあります。
「お内儀《かみ》さんですよ」
八五郎はささやきました。
「とんだ御苦労様で」
「災難でしたね。ところでお内儀さん、あの千両箱の中味を、いちおう調べてみたいんだが」
平次は切り出しました。
「その千両箱は、崩れたままにして、誰も手をつけないことになって居ります。この騒ぎの中でも、番頭の忠兵衛さんと私が、ここから眼を離さないのはそのためでございますが――」
「それは誰がきめたのだ」
「主人の固い申し付けでございます」
「よし、では一つ御主人と話してみようか。八、お前は御苦労だが――」
平次は内儀の顔を見ながら、何やら囁きました。お内儀は遠慮して遠のきましたが、その耳には、内儀のもとの夫、お蔵前の右馬吉《うまきち》や、亀井町の甲子屋六兵衛の名が敏感に響きます。
「それじゃ親分」
八五郎は弦《つる》を離れた矢のように飛んで行きました。それを見送って平次はもとの主人の部屋――あの薄暗い六畳に引き返したことは言うまでもありません。
「親分、またなにか?」
主人は顔を挙げました。平次が出て行ってからは、またしばらく横になっていた様子です。
「妙なことに気がつきましたよ」
「妙なことと言うと?」
「御主人がとんだ命拾いをしたわけが、よくわかったので」
「?」
「つまり、あの千両箱が、皆んな本当の小判が千枚ずつ入っていれば、御主人は首筋や肩の負傷《けが》くらいでは済まず、今頃は弔いの支度でもしたかも知れないということですよ」
「……」
「御主人、五十五の千両箱の中味が、五万五千両でないとは直ぐわかったが、あの中にはいったい何が入っているのです」
「さすがは親分。よく見破りなすったな――恐れ入りましたよ、銭形の親分」
「貫々を引きさえすれば、誰にでも偽《にせ》の千両箱とわかりますよ」
「それですよ――だから私は、あの千両箱には誰にも手を掛けさせたくなかったんです――あれは親分、正直に申し上げると、小判なんか一枚も入っちゃいません。あの中に詰めてあるのは皆んな、砂利ですよ――中には風袋《ふうたい》だけの空っぽのもあるはずで」
「砂利?」
「土蔵から出すのも私一人の仕事、床の間に積むのも私一人の仕事、誰にも手を掛けさせないのは、そのためで、盗まれる心配のためじゃありません。実を言うとあの砂利詰の千両箱を盗ませて大笑いに笑ってやりたかったのです」
大黒屋徳右衛門の太々《ふてぶて》しさ、盗賊を一杯かつぐ気で、砂利詰の千両箱を並べ、その上で屠蘇《とそ》の杯をあげるなどは、いかにも人を喰ったやり方です。
「すると御主人――」
「銭形の親分――砂利詰の千両箱を積んだ私は、真物《ほんもの》の小判がない苦しさに、人前の見栄であんな事をすると思うでしょうが、とんでもない。小判は五十五両の千両箱にも余るほど持っていますが、近ごろフトした事から、盗賊につけ狙われていると感づいて、その裏を掻くつもりで、あんな悪戯をしてみました。小判と砂利を入れ換えたのは私一人の細工《さいく》で、誰にも相談したわけじゃありません。山吹色の小判は、別のところに五色の虹を吐いて、ほかほかと冬籠《ふゆごも》りしておりますよ、ハッ、ハッ、ハッ」
大黒屋徳右衛門は、また面白そうに笑うのです。
平次は大黒屋徳右衛門の気焔に中《あ》てられて、這々《ほうほう》の体でもういちど庭へ出てみました。この家を取巻く秘密は、なかなか容易ならぬ深いものがあると見て取ったのです。
「お前は?」
平次はフト、中庭にウロウロしている、小僧の後ろ姿を見とがめました。
「ヘ、ヘエ、友吉と申します」
「何をしていたんだ」
「掃除をしておくように、人が来るとみっともないからと、米松どんに言いつけられました」
「床の間へあけた穴を塞《ふさ》いだようだが」
「みっともないから、穴だけでも隠せと、若旦那さまに言い付かりました」
平次は床の間まで突き抜けた、羽目板の穴をもういちど調べてみる気になりました。小僧の友吉が塞いだのは、簡単な古い板で、それはすぐ外されましたが、羽目の穴はそのままで、その穴の中、棒か何かで、外から壁土を突き落したのも、そのままになっております。
「ここにあった物干竿は、お前が洗ったのか」
平次は掛け捨てた二本の物干の濡れているのに気がつきました。
「お民さんが、物干が汚れていちゃ困るから、よく拭いて置くようにというんです」
「一本の物干竿の元の方に、ひどく土がついていたが――」
「それも洗い落してしまいました」
「……」
平次は黙ってこの『やり過ぎ』の小僧の顔を見るほかはありません。見たところ十五六くらいには踏めますが、柄が大きい割りに年は若いらしく、なんとなく愚鈍《ぐどん》らしさが、ひどく相手を苛立《いらだ》たせます。
「お前はここにいつから奉公しているんだ」
「二年前からですよ」
「親許は?」
「小梅の百姓で?」
「住み心地はどうだ」
「?」
友吉は白い眼をするだけです。
平次はなんとなくからかわれているような心持でした。朝からもう一刻以上も経っているのに、千両箱の中味が砂利であったというほかにはなんにもつかんだものはありません。
その時。
「まだ掃除をしないのか、友吉」
廊下から顔を出したのは、二十四五のヒョロヒョロした若い男でした。神経質で口やかましくて、主人には適当に御機嫌を取り結ぶといった肌《はだ》の男――と、これは後で女どもから噂をきいたことです。
「お前は?」
平次はその前に立って見上げました。
「お邪魔いたしました。相済みません。私は米松と申すもので」
手代の米松は相手が悪いと思った様子で、ピョコリとお辞儀をしました。
「小僧に庭の掃除を言いつけたのは、お前に相違あるまいな」
「ヘエ、友吉がやらないと、私がやらされることになりますので」
「今日は元日だぜ」
「ヘエ」
「商人の家では、今日一日|箒《ほうき》を使わないと言うじゃないか」
「へ、なるほど。そいつは気がつきませんでした」
平次は一つやり込めて置いて、静かにこの男を観察したのです。が、ヒョロヒョロのペコペコで、一向纏まりが付きそうもなく、主人の命を狙ったり、五万五千両に眼をつける、大伴黒主《おおとものくろぬし》とも見られません。
家へ入ると平次は、次に養子の弥三郎に会って見ました。元日早々店に頑張っているような男で、体格も立派、口上も筋が通り、決して好い男ではありませんが、なんとなく強《したた》かさを感じさせる男でした。
「親分さん、とんだ御苦労様でございます」
丁寧に挨拶しながら、眼の隅では絶えず平次の様子を見ているといった、容易ならぬものを感じさせるのです。
「さっそく訊きたいが、あの床の間の裏へあいた穴を、小僧に言いつけて塞《ふさ》がせたそうだな」
「ヘエ、小僧に言いつけたわけじゃございません。何時までもあのままにしては置けないし、銭形の親分さんが調べてくだすった後だから、誰か塞いでくれるといいが――とこう申しました。友吉の奴が、不断ボンヤリしている癖に、妙なところへ気がついたもので、ヘエ」
若旦那の弥三郎は頭を掻いているのです。若旦那といっても嫁のお村とともに夫婦養子で、徳右衛門夫婦としっくり行かないところのあるのを、後になって平次は聞きました。
ちょうど暖簾《のれん》を覗いて、夫のことを心配したらしい、嫁のお村が顔を出しました。嫁といっても、取って十九になったばかり、下女のお民ほどのきりょうではありませんが、厚化粧で、笹紅《ささべに》まで含んで、正月化粧ではあるにしても、ここを先途といっためかしようです。
一つ二つ平次は当らず障《さわ》らずのことを訊きましたが、大黒屋の嫁という身分に満足しきって、他のことは少しも興味も関心も持たない、おぼこ嫁といった感じです。
もう一人の養女お吉というのは、嫁のお村よりは二つ三つ年上らしく、これはなかなかのきりょうですが、養い親達の気に入らなくて一緒になるはずだった養子の弥三郎に嫁をもらわれ、はなはだ面白くもない日を送っている様子でした。もっともわがままで浮気で、町内でも悪い評判が立つようになり、強気一点張りの養父徳右衛門の怒りに触れて、居候並に格下げになり、弥三郎には他から嫁をもらわれたのだということを、これも後になって人の噂に聴いたことです。
これが大黒屋の家族の全部でした。平次はなお帰りがけにお勝手を覗いて、下女のお民に、本当に小僧の友吉に物干竿を洗うように頼んだかどうか訊きましたが、お民の答えは予想外で、
「元日からお洗濯でもありません。でも物干竿がひどく汚れていたので、友吉どんに小言を言いました。あの人はよく犬を追っかけたり、屋根に引っ掛った凧《たこ》を取ったり、物干竿汚しの名人ですから」
そんな事をいうのです。
これがもし、人の生命をどうかしたとか、大金が失われでもしていたら、平次はもう少し突っ込んでしらべたかも知れませんが、真物《ほんもの》の五万五千両の隠し場所は、どんなに謎をかけたところで、主人の徳右衛門は打ち明けてくれそうもなく、そうかと言って元日に庭を掃《は》かせようとした手代の米松や、床の間の後ろの穴を塞がせた、若旦那の弥三郎を縛る気にもなれず、足ついでに八丁堀の組屋敷を一まわり、年始を済ませ、その日の昼過ぎにはもう、明神下の自分の家へ帰ってしまいました。
それから日の暮れるまで、
「元日というものは、どうしてこう日が長げえのだろうな、馬鹿馬鹿しい」
などと罰の当ったことを言っているうちに、どうやら夜になります。
「あ、くたびれた。冷たいのでもかまいませんから一杯」
八五郎は相変らず、喉を乾かして帰って来るのです。
「酒も飯も間違いなく出してやるが、それより甲子屋六兵衛はどうしたんだ」
「――昨夜《ゆうべ》をなんだと思う――馬鹿馬鹿しいという、もってのほかの挨拶ですよ。なるほどそう言えばそのとおりで、ひと晩店からひと足も動かねえ。夜が明けてから、トロトロとやっただけだ――とこうです」
八五郎の報告は声色《こわいろ》入りです。
「なるほどそんな事かも知れない――ところでお蔵前の右馬吉は?」
「大晦日の賭場《とば》で、毛だらけな脛《すね》まで張っていましたよ。この野郎を捜すのに、骨を折ったの折らねえの」
「どこにいたんだ」
「千住《せんじゅ》ですよ。褌《ふんどし》一つになって、元日の天道様に照らされているんだから、諦めた野郎で」
「話してみたか」
「一杯呑ませて訊くと、ペラペラとやってしまいましたよ。お種の阿魔は薹《とう》が立ったから、今さら毛ほども未練がねえ。こっちから千住へかけて、年が明けたらお前さんのところへ転げ込むというのが七人くらいはありますぜ――とこうだ。博奕《ばくち》は下手だが、まったく好い男でしたよ」
「大黒屋を怨みに思っていないのか」
「相手は大問屋の大金持ちだ。身上洗いざらいくれるなら話もわかるが、三両や五両の小遣い欲しさに、あの暖簾は潜れねえ――とこうですよ」
「すると大黒屋の中庭であんな細工をしたのが、お蔵前の右馬吉でもないわけだな」
「こればかりは間違いありません」
大黒屋の一埒《いちらつ》は、それっきり忘れてしまいました。五日の御用始めから、無暗に御用繁多で、平次も八五郎もそれに追いまくられ、砂利詰の千両箱や、その下敷になった徳右衛門のことなどは思い出す折もなかったのです。
「親分、変なことがあるんだが――」
八五郎は気のない顔をして入って来ました。
「なんだえ。松が取れるともう、借金取りに追い廻されているのか」
「そんな話じゃありませんよ」
「妙に思わせ振りじゃないか」
「どうにも見当のつかない話があるんですよ」
「はて、お前が見当が付かなきゃ、俺にだって見当がつくものか」
「昨夜《ゆうべ》は節分の豆撒《まめま》きでしょう」
「もう立春《りっしゅん》だよ。それがどうした?」
八五郎は首を捻《ひね》りながら、話は少しずつほぐれて行きます。
「豊島町一丁目の大黒屋徳右衛門、あの傷も大方癒って、昨夜は威勢良く豆撒きをやったんで」
「フーム、豆に滑って転んだ――と言う話じゃないのか、どうかするとあれは危ないことがあるが」
「先を潜っちゃいけません。――いったいその鬼というものは、本当にあるものでしょうか」
「むずかしくなったぞ畜生。お前の学《がく》でもそいつはわからねえのか」
「大黒屋徳右衛門、豆を撒いていると――」
「そこまではわかったよ。それからどうした」
「昨夜は、妙にポカポカしたでしょう。内の中をひとわたり鬼を追い出して、さて障子を開けて、闇の中へ顔を突き出し、「鬼は外」とひと掴み撒くと、庭から一本の真矢《ほんや》が、おそろしい勢いで飛んで来て、大黒屋徳右衛門の喉笛をカスめ、危ういところで残して、矢は後ろの唐紙へブスリと突っ立った。鷹《たか》の羽は少し虫喰いになっているが、こいつは間違いもなく真矢ですぜ。まともに喉笛に突っ立つと、大の男が手もなく成仏《じょうぶつ》だ」
「それから?」
平次もツイ乗り気になります。
「主人の声におどろいて、ともかくも、家中の者が皆んな外へ飛び出した」
「間違いもなく、家中のものが皆んないたことだろうな」
「間違いありませんよ。この前の千両箱で懲《こ》りているから、主人の徳右衛門は、すぐさまチュウチュウタコカイと勘定したんだそうです」
「飛び出すところを勘定したのか」
「内儀さんと娘と嫁は出やしません。その代り下女のお民も飛び出し、遅れ馳せながら、手代の米松も小僧の友吉も飛び出したそうです」
「庭には人がいなかったのか」
「南向きの狭い庭だから、人間が隠れていれば直ぐわかります。植込みは疎《まば》らだし、人間の姿は愚《おろ》か、弓らしいものもなかったには驚きましたね。鷹の羽を矧《は》いだ真矢が、弓がなくて射られるわけがありません」
「隣から射る手もあるぜ」
「隣は意地悪く二階建ての羽目板だ。蝸牛《かたつむり》でもなきゃ止まっていられやしません。それに裏の木戸は中から閉っていたし、店には大勢の人がいる。曲者に神変不可思議の術があったところで、あの庭からは弓を射込む工夫がありませんよ」
「その矢はどこから持ち出したんだ」
「駒形様の奉納の額から引っ剥がして来たんで」
「ちゃんと献立《こんだて》は出来ているね。行ってみよう、八」
事件が怪奇になると、平次も闘争心を煽《あお》られます。
大黒屋徳右衛門は、二度目の襲撃に、胆《きも》をつぶしておりました。
「銭形の親分、なんとかしてやって下さい。この曲者の正体がわからなきゃ、いつ寝首を掻かれるかわからないから、落着いて夢も見られやしません」
剛腹な徳右衛門が、こう言うのは、さてよくよくの事でしょう。
平次はそれをいい加減にあしらって、昨夜の現場へともかくも通りました。想像していたとおり、主人夫婦と養子夫婦、それに娘を加えて五人が、食事などをする六畳ほどの茶の間で、狭い南向きの温かそうな部屋、と言っても、町家の事で四方《あたり》がすっかり建て込んでおり、庭にヒョロヒョロの桃や梅をあしらい春の風情《ふぜい》を匂わせる程度の、ささやかな植込みがあるだけ、人間の隠れる隅も、弓を引く場所もあろうとは思われません。
「親分、矢はそのままにしてあるはずですが」
八五郎が指したのは、六畳の向う側の唐紙で、下から二尺ほどのところに、少し古くはなっているが、矢尻《やじり》のついた真矢が、ズブリと突っ立っているのも無気味です。
「豆は立って撒いたことでしょうな、御主人」
平次は主人を顧みました。
「鬼は外――と思いきり怒鳴ったんで、まさか坐っていちゃ出来ませんが――」
「それにしちゃ、唐紙に突っ立った矢が低すぎるようだが」
平次はもう第一の手掛りをつかんだ様子です。
「上のほうから射たのじゃありませんか」
主人もひとかどの考えを持っておりました。
「いや、お隣の羽目まで、庭の一番深いところで五間そこそこ。羽目には手掛りも足掛りもないし、屋根の上から弓を射たのでは拳下《こぶしさ》がりに狙っても、茶の間の奥の唐紙へは来ませんよ」
平次は矢の突き当たったところから、庭の方――お隣の屋根をすかしているのです。
「すると?」
「御主人、少し訊きたいことがあるが」
平次は四方《あたり》を見廻しました、
「では、どうぞ、こちらへ――」
主人が案内してくれたのは、主人の部屋、いつぞや怪我をして寝ていた六畳でした。
「あっしがそう言っちゃ変ですが、いろいろ噂を聴き集めると、御主人はずいぶん人に怨みを買っていますな」
座が定まると平次は、最初から思いきった調子でした。
「そういわれると面目次第もないが、ずいぶん勝手なことをしたかも知れません。だが、まさか、私の命を狙う者があろうとは――」
「本人はそう思っても、怨む者になると、せせら笑ったり、鼻であしらっただけでも、ずいぶん忘れられないことがあるかも知れません。世間の人様はともかくとして、この家の者――奉公人や養子嫁などに怨まれる覚えはありませんか」
「そんなことがあるはずはない。世間の人――と言っても私の商売敵や、歯向って来る者には、ずいぶん手きびしい事をしましたが、家中の者だけは、私に恩を受けているはずで――」
「例えば、若旦那の許嫁だった、養い娘のお吉さんは怨んでいるようなことはありゃしませんか」
「あれは、自分の不身持に恥じて、自分で身を引き、弥三郎には別の嫁をもらったほどで、私を怨む筋などありません」
「奉公人達は」
「皆んな世間並よりは手当てをよくして居ります」
すべての奉公人は、金さえ出せばと思っている様子です。
「手代の米松――あの男は人柄がよくないようですが」
「大違いで、あれは馴れた犬のような男で、主人にはこの上もない忠義な男ですよ」
「番頭の忠兵衛は?」
「この家に三十年もおります」
「小僧の友吉は」
「身許は確かな子で、間違いもありません」
「下女のお民は?」
「あれは親類の娘ですよ。十年も前に家が没落し、三年前に父親が死んで私が引き取ったのですが――もっとも父親というのは偏屈者《へんくつもの》で、身上《しんしょう》を潰したとき、店も家蔵も、みんな私が引き取ってやったのを、私が買いつぶしでもしたように思って、ひどく怨んで死んだということですが、私が放って置けば、死んだ後まで、大変な不義理を残したのを、妙にひがんで私のせいで没落したように思い込んだ様子です」
「その娘のお民はどう思っているでしょう」
「あれはとんだ良い娘で、私を怨んでいる様子もありません。もっとも放って置けば、父親の死んだ後で、借金の代りに叩き売られるところを、私は見るに見兼ねて少しばかりの金を出して引き取り、下女代りに使って居りますが、そのうちになんとかしようとは思っております」
「それでわかりました。あの五十五の千両箱も、お民の家から引継いだものでしょう」
「その通りで、空っぽの千両箱が五十もあったのを、物好きに私が引き取って来て、縁起物だから元日に飾って、あんなことをして居ります。いやもうお笑い草で」
「ところで御主人、あのお民という娘を、しばらくどこかへやって置きたいと思うのですが、良い場所はありませんか」
「え、あのお民が、あの、曲者《くせもの》だったというんで?」
「いや、そういうわけではない。お民が曲者とわかれば、直ぐさま縛って行くが、――この家には、お民をだしに使って、いろいろ細工をする者があるような気がしてならない。お民さえいなければ――」
「それじゃ、あの娘をしばらくのあいだ、本所の私の妹のところに預けて置きましょう。お民には身内も親類もあるわけはないので――」
徳右衛門はようやく承知しました。平次にお民の父親のことを言われた時は、なにか心に思い当るらしく、一度はギクリとした様子ですが、平次さえ縛る気のない娘を、今更どうするわけにも行きません。
「ところでもう一つ、家中に弓をやる者はありませんか」
「弓は知らないが、楊弓《ようきゅう》なら養子の弥三郎が自慢のようですよ」
「楊弓をね」
「あれが、まさか、そんな事を」
「早合点しちゃいけません。若旦那が真矢《ほんや》を飛ばしたというわけじゃないんで」
平次の問いはそれでお仕舞でした。
それから八五郎と一緒に、庭を一と廻り。
「南に二階家があるから、植木が皆んなヒョロヒョロですね」
八五郎がそのあたりじゅうを撫で廻すのを相手にもせずに、平次は縁の下や、物置などを念入りに見ておりましたが、
「庭の手入れでもするのかな、棕櫚縄《しゅろなわ》がうんと用意してあるが」
妙なことを言っております。
それから十日、節分から十一日目は、ちょうど二十日正月で、大黒屋の徳右衛門は、晩酌を少し早目に切り上げて、二度目の風呂へ入る気になりました。
その頃はまだ町家の風呂は珍しい頃で、まことに形ばかりのささやかなものであったにしても、大黒家はこれが自慢で、朝から大騒ぎで立てた風呂に、気が向けば二度入るのはよくあることで、良い心持になって風呂桶の中でうとうとして居りました。
「わッ」
それは実に恐しい衝撃でした。いきなり窓から突っ込んだ脇差が、徳右衛門の背中へしたたかに突っ立ったのです。
「わ、誰か、早く」
徳右衛門が必死にわめくと、二三人ひとかたまりに飛び込んで来ました。内儀のお種と、嫁のお村と、そして番頭の忠兵衛です。
風呂は狭い上に、恐ろしい湯気で、中の様子もわかりませんが、風呂から這い上がった主人徳右衛門の背中が、真っ紅に血に染んでいることだけは疑いもありません。
内儀は日ごろの内気さに似ず、甲斐甲斐しく働いて、ともかくも濡れた主人の徳右衛門に浴衣を羽織らせ、部屋に担ぎ込ませて傷の手当てをすると、小僧の友吉を走らせて町内の外科を呼ばせました。
「幸い傷は浅い。ほんのかすり傷だが、酒を呑んでいたのと、湯につかって逆上《のぼせ》ていたので、ひどく血が出たのだ。四五日もすれば癒るだろう」
外科は一応の手当てをすると、こんな気楽なことを言って帰ってしまいます。
傷の深い浅いはともかく、三度目の襲撃に、剛腹の大黒屋徳右衛門も腐りきってしまい、手代の米松を走らせて、夜中ながら銭形平次を呼びにやったことは言うまでもありません。
しかしこの十日の間に、銭形平次もまた、大黒屋のことを徹底的に調べたことは、徳右衛門といえども気がつかなかったでしょう。
「八、大変だ。早く来い」
大黒屋の使い――米松が主人が返事を待っているからと言うので、ひと足先に返した平次は向柳原に八五郎を驚かし、あべこべに『大変』をけしかけたのでした。
「待って下さいよ。まだ寝ているんで」
二階から顔を出した八五郎です。
「まだ宵だぜ」
「人間がどれくらい寝られるものか、昨日から通して寝ているんで」
「呆《あき》れた野郎だ。叔母さんが心配するぜ、――物も食わずに寝ているから、八の野郎たぶん恋患いだろう――って」
「そんな相手がありゃ、胸倉をつかんで口説《くど》きますよ」
無駄を言いながらも、八五郎は支度もそこそこに出て来ました。
「お前はそんな気でいるだろうが、世間には、本当に恋患いをやる人間がいるんだぜ」
「どこの国の話です。それは?」
「お前の住んでいる国の話じゃないよ。――女のためにはどんな事でもするという無分別は無分別のうちでも一番恐ろしい」
「な、なんの話です。それは、親分」
豊島町一丁目へはひと走りですが、平次は大して急ぐ様子もなく閑々《かんかん》として恋愛論を始めるのです。
「大黒屋徳右衛門が、またやられたよ――ツイ今しがた、手代の米松が飛んで来たんだ」
「ヘエッ」
「こんどは風呂場だ、――風呂につかってうとうとしているところを、外から脇差でやられたそうだ、――あの風呂場は俺もよく知っているが、狭いと言ってもひと坪はあるだろう。どんな手長島の手長猿が来たって、荒い格子の外から、風呂につかっている人間を、脇差なんかでは殺せないよ」
「脇差は?」
「捨てていったよ、格子の外に、――その脇差は大黒屋の箪笥《たんす》にしまって置いた品だ」
「するとどういうことになるでしょう」
「脅《おど》かしでなきゃ、ほかになにか企《たくら》みのある細工だ。――この前の庭から射込んだ矢だって、射られた徳右衛門は、五人張りの強弓で射られたように思ったことだろうが、あれもヒョロヒョロ矢で、主人の首をかすって、一間先の唐紙へ、二尺も下がって突っ立ったくらいだから、脅かしと思うほかはあるまい。あんなことで人は殺せないよ」
「ヘエ?」
「本当に力いっぱい絞って射た矢なら、狭い庭から射込んだ矢だって、五間と離れていない唐紙を突き抜けないはずはない」
「すると、どういうことになるでしょう、親分」
「もう大黒屋へ来たようだ。この眼で現場を見てからとしよう」
平次は店から入りました。
「なんかたいへん奥が騒々しいじゃありませんか、店は空っぽですぜ」
「変なことがあるものだな」
二人は無人の境を行くように、奥の主人の部屋に入って行きました。
「あ、銭形の親分さん。とうとうこんなことになってしまいました」
家中の者が集まった中から、内儀《ないぎ》のお種が飛んで出ると、平次の袂《たもと》にすがりつくのです。
「どうしたんです、お内儀さん」
「主人がとうとう」
見ると、外科の坊主頭が、手を引いて溜息をつくのです。
「心の臓をやられている。もういけない、お気の毒だが――」
先刻風呂場で、背中へ浅傷《あさで》を負ったと聴いた主人が、同じ脇差で背中から突き刺され、ひと太刀に心の臓をやられて床の上で死んでいるのです。
「私が帰って来ると、ちょうどこの騒ぎでした。よくよく運のない御主人で」
多勢の中から顔を出したのは、先刻明神下へ平次を迎えに来た手代の米松だったのです。
「見つけたのは」
「私でございました。――主人の怪我で遅くなった晩の食事の指図をして、この部屋へ戻ってくると、この有様で。向うへ向いたまま、脇差が背中へ突っ立って――」
内儀のお種は、その時のことを思い出したらしく、たどたどしい説明をするのです。
「この部屋へ入った者は?」
「一人もなかったはずです。皆んな膳について居りましたし、お民がいなくなって、嫁とお吉がお勝手におりました」
「友吉は?」
「ここに居ります、――私も若旦那や番頭さんと一緒に、お茶の間におりました」
友吉は顔を挙げました。自分へ妙な疑いがかかって来はしないかと心配している様子です。
「お村は?」
「私はお勝手で支度をして居りました。お吉さんと一緒に」
不在証明《アリバイ》は完全です。
「八、少しお前の知恵を借りたいが――」
平次はそっと八五郎を物蔭に誘い入れました。この時はもう土地の御用聞が駈けつけて、大黒屋の裏表を、蟻《あり》の這い出る隙間もなく見張っておりました。
「あっしの知恵も親分の役に立ちますか」
「遠慮するなよ、――お前の知恵も近頃は大したものだ」
「それ程でもねえが――」
「顎《あご》なんか撫《な》で廻す図は全く大したものだ――ところで、お前はこの下手人を誰だと思う」
「さっぱり見当もつきませんよ。殺された大黒屋徳右衛門でないことだけは確かで」
「お前も世上の噂はかき集めたことだろうが、徳右衛門を一番怨んでいるのは誰だ」
「あの可愛らしい下女のお民と、養女のお吉ですよ」
「主人が生きていて困るのは?」
「養子夫婦は何時までも身代が自由にならないし、手代の米松は、店の金をごま化して、遊びに費っているから、尻が割れそうでハラハラしていることでしょうね」
「ところで、千両箱を突き崩して、主人に怪我をさせたのは誰だと思う」
「それが解れば、すぐ挙げてしまいますが、あのとき縛って置けば、大黒屋徳右衛門は殺されずに済んだかも知れません」
「お前がそう言うだろうと思って、打ちあけなかったんだ。実はあのとき直ぐ、砂利詰の千両箱を突き崩した相手がわかっていたのだよ」
「誰です、それは?」
八五郎は果し眼になるのです。名前を打ちあけたら、猟犬のように飛び出すつもりでしょう。
「早合点しちゃいけない。千両箱を突き崩したのは主人殺しの下手人じゃないよ」
「ヘエ」
「たった一人、その座敷にいない人間があった――下女のお民だよ」
「あ、あの娘《こ》が」
「お勝手から奥は遠い。いろいろの物を運んできたが、少しくらいの隙はあった。お勝手口から忍んで出て、物干竿の元の方で、前の晩拵えておいた壁の穴から、床の間の千両箱の山くらいは突き崩せたはずだ。寒いから北窓は皆んな塞《ふさ》がっているし、誰も見ている者はない」
「すると」
「お民の父親は良い商人だった。大黒屋徳右衛門は遠縁だが、うまく騙《だま》し込んで身上《しんしょう》を潰させ、お民の父親が死んだあとでは、――これだけは残して置いた、千両箱を五十と取り込んでしまった。五十の千両箱は、大概空っぽだったが、幾つかは死に金に取って置いた中味があったに違いない」
「?」
「そのうえ恩に着せてお民を引き取り、年一両の給金で下女代りにコキ使った。お民は口惜《くや》しかったが、千両箱を取り戻す折もあることと思って、我慢をしていた。が、千両箱を杉なりに積んで、屠蘇《とそ》を祝う、主人の増長した姿を見ると、口惜しさいっぱいで、前の晩ひと晩がかりであんな細工をし、千両箱の山を崩して主人に思い知らせようとした。もとより主人を殺そうなどという腹はなかったことだろう、――千両箱は杉なりに積んであるから、後ろの壁や羽目の細工は誰にも気がつかなかった」
「ヘエ、そんな事ですかね」
「それだけなら、俺も自分一人で呑込んで知らん顔をする気でいたが、つづいて豆撒《まめま》きの晩、庭の闇から真矢《ほんや》を射込んだものがある」
「あれもお民ですか」
「いや、お民はお勝手にいたし、女の子が弓で悪戯をしようとは思いつかない」
「すると誰です」
「お民を庇《かば》った人間があるのだよ。千両箱の翌る日裏庭でマゴマゴしたり、穴を塞いだり、物干竿に付いた壁土を洗ったりした人間」
「あの小僧ですか」
「小僧と言っても、友吉はもう十五だ。いや十六かも知れないが、若さと一生懸命さで、お民を神様のように思っている。――二人は仲が好いようだから、お民に何か聴かされて、主人を怨んでいたのかも知れない。千両箱の山を崩したのをお民と知って、それを庇ってやったうえ、日頃、口やかましくて、不人情で、人使いの荒い上にケチな主人を思い知らせる気で、あの真矢《ほんや》の仕掛けをした」
「弓をどこから持ち出したんです」
「弓なんかありゃしない。小梅の百姓屋で育って、鳥|おどし《ヽヽヽ》の弓を拵えたことがあるから、庭に植えてある、ヒョロヒョロの桃の枝を、立ち木のまま|ため《ヽヽ》て弓を作り、駒形堂から盗んで来た真矢を射たのだ」
「そんな事が出来るでしょうか」
「出来るとも、立樹の桃の枝は、思いのほか柔らかいものだ。それを棕櫚縄《しゅろなわ》で張ると、弱くはあるが手頃の弓になる。そのうえ棕櫚縄は桃の幹や枝にまぎれて、夜ではとても見えない」
「でもあの庭は見通しで、隠れている場所もありませんが」
「もう一本、長い棕櫚縄で、木戸の方から引いたのだよ。たぶん木戸の柱に縛って、桃の枝をためた弓弦《ゆみづる》を留め、主人が顔を出したとき縄を切って矢を飛ばしたのだろう――その証拠には、矢がヒョロヒョロで、主人の首をかすめて、二間先の唐紙の裾《すそ》へ立ったほどだ。あれでは人間は殺せない」
平次の説明は明快でした。あとで物置から棕櫚縄を発見したことや、桃の枝の皮の剥げたの、木戸の柱の縄のあとと、改めて説明するまでもありません。
「すると、風呂場で主人を刺したのは?」
「あれも友吉だ――お民が叔母さんのところに預けられて、それっきり主人が安泰では、曲者は、お民ときまったようなものじゃないか。そこで、お民には罪がないと知らせるために、風呂場の窓から脇差を突っ込んだのさ。風呂に入っているものを、三尺以上も離れた窓の外から、短い脇差で刺し殺せるわけはない。肩先をチョイとかすって、血が出たのが精いっぱいだ」
「それで、誰も気がつかないから、ついでに主人を殺したというわけでしょう」
「いや違う、主人を殺したのはまったく違った奴だ」
「誰です、それは?」
「ツイ今しがたまで、俺とお前の話を立聴きしていた人間だよ。それ、あわてて逃げ出したろう」
「どこです、親分、追っ駈けましょうか」
「いや、もう裏口のあたりで、言い含めて置いた湯島の吉がつかまえたようだ」
「親分、誰です」
「あれだよ、吉が縛って来るじゃないか」
そのとき庭木戸を押しあけて、裏から廻ってきた人間の顔を、ひと眼。
「あ、あの野郎ですか」
それは、手代の米松の、臆病そうな偽装《ぎそう》をかなぐり捨てた、猛悪無残な顔だったのです。
平次と八五郎は、下手人の米松を湯島の吉に送らせて、夜更けの街を明神下へ辿《たど》っておりました。
「下手人が米松とは驚きましたね。あの野郎がまさか?」
「考えてみるがいい。あの時――主人が殺された時だよ、家の中に姿を見せないのは、米松たった一人だったぜ」
「ヘエ?」
平次は相変らず八五郎のために絵解きをしてやるのでした。
「俺を迎いに来た米松は、主人が俺の返事を待っているからと、ひと足先に帰ったはずだ。それから俺は支度をして出て、お前を誘ってさんざん手間取ったうえ、無駄を言いながら豊島町へ行ったろう」
「ヘエ?」
「その間どうしても四半刻《しはんどき》(三十分)は経っている。つまり米松は俺達より四半刻は早く大黒屋に帰っているはずだ――それが俺達のひと足先、騒ぎの真っ最中に帰ったというのは変じゃないか」
「なるほどね」
「米松は、主人に知られて悪いことをたくさんやっている――俺達より四半刻も早く帰った米松は、店から入らずに、いきなり庭木戸を開けて、主人の部屋を縁側から覗いたことだろう。主人は俺の返事を待っていたのだ」
「……」
「見ると主人は向うを向いたままうとうとしていたかも知れない――騒ぎの最中で、閉め忘れた縁側から膝行《いざ》り込んだ米松は、そばにある血染めの脇差を見ると、フト魔がさした。ここで主人を殺してしまえば、誰も皆んな、主人を殺したのは、千両箱を崩したり、矢を射かけたり、風呂場で肩を刺した人間と思い込むに違いない」
「何千両かの費い込みを誤魔化すのは、この時より外にはないと思い込んだことだろう。幸い側にあった血染の脇差、それをスヤスヤ眠っている主人の背中、心の臓の急所へ届くほど打ち込んで逃げ出したことだろう」
「悪い奴ですね」
「それから外へ飛び出して心を鎮め、家の中が騒ぎ始めて、医者の駈けつけるのを見極め、主人が間違いもなく死んだと判った頃、もう大丈夫と素知らぬ顔で帰って来たに違いあるまい」
「驚きましたね。悪い野郎もあったもので」
「主人を殺した米松は磔刑《はりつけ》だろうが、殺された主人も結構な人間ではないよ。金の力と押しの強さで、人を人臭いとも思わぬ人間は、いずれ大きな受取りを突きつけられることがあるのだよ」
「お民は? 友吉は?」
「洗い立てると罪になるだろうが、二人とも主人を殺す気はなかったのだ。俺は黙っていることにきめたよ――養子の弥三郎は良い男だ。よく話してやって、お民の身の立つようにしてやろう。友吉は――」
平次は苦い顔をしました。十五の少年の感傷は、どう始末したものでしょう。年と共に、それは少年の心から消え去るかも知れず、生涯忘れられない記憶になるかも知れないのです。
「妙な気持ちですね、親分」
「小格子を冷やかして歩くお前から見ると、十五の友吉の心持はわからないよ」
「……」
二十日月が出たようです。江戸の往来は二人の影法師を呑んで、静かに更けます。
(完)