野村胡堂
銭形平次捕物控(巻十一)
目 次
仏喜三郎
桐の極印《ごくいん》
浮世絵師
お舟お丹《たん》
針妙《しんみょう》の手柄
仏喜三郎
一
「八、久しく顔を見せなかったな」
銭形の平次は縁側一パイの三文|盆栽《ぼんさい》を片付けて、子分の八五郎のために座を作ってやりながら、煙草盆を引寄せて、甲斐性のない粉煙草をせせるのでした。
「ヘエ、相済みません。ツイ忙しかったんで――」
「金儲けか、女出入りか」
「からかっちゃいけません」
「まさかあの案山子《かかし》に魔《ま》が差したようなのに凝《こ》っているんじゃあるまいな」
「なんです、その案山子に魔がさしたてエのは」
「しらっばくれちゃいけない、踊りだよ。水本《みずもと》賀奈女《かなめ》とかいうのが、大変な評判じゃないか。お前の叔母さんの近所に住み着いて、二年ばかりの間に町内の若い男をすっかり気狂いにしてしまったという評判だぜ」
「ヘッ」
「変な声だな、うっかり言い当てられたろう。――悪い事は言わないから、あれだけは止すほうがいいぜ。縮緬《ちりめん》の手拭なんか持って歩くと、野郎はだんだん縁遠くなるばかりだ」
「それですよ、親分」
「何がそれなんだ。眼の色を変えて膝なんか乗出しゃがって」
「その水本賀奈女師匠が、思案に余って銭形の親分さんにお願いして、ちょっと伴《つ》れて来てくれと――」
ガラッ八の八五郎は、急に居住いを直して、突き詰めた顔になるのです。
「御免蒙るよ、踊りの師匠の用心棒は俺の柄にないことだ」
平次は自棄《やけ》に煙管を叩くと、煙草の烟《けむり》を払い退けるように手を振るのでした。
「でも、水本賀奈女師匠が人に狙《ねら》われているんですぜ。幾度も幾度も変なことがあったんで――、怖くて叶《かな》わないから――」
「変なこともあるだろうよ。近頃は向柳原へ行くと、男達は皆んな魔がさしたようにソワソワしているっていうじゃないか」
平次はまるっきり相手になりません。
「親分」
「もうたくさんだ、帰ってくれ。――水本賀奈女にそう言うがいい、踊りの師匠の看板を外して、紅白粉《べにおしろい》を洗い落し、疣尻巻《いぼじりまき》にして賃仕事でも始めてみろとな。世の中に怖いことがなくなるぜ」
ガラッ八はスゴスゴと帰って行きました。まさに一言もない姿です。
しかし、事件はこれをきっかけに、大変な発展をしてしまいました。それから三日目の夕方――。
「さア、大変ッ、親分」
息せき切って飛び込んだガラッ八。
「今日の大変は荒っぽいようだな、何が始まったんだ、八」
平次は相変らずおどろく様子もなく植木の芽から眼を外《そ》らそうともしません。
「師匠が絞め殺されたんですぜ、親分」
ガラッ八は少し喰い付きそうです。
「水本賀奈女がかい?」
「だから言わないこっちゃない、あのとき親分が行って下されば――」
「怒るな八、殺されたのは気の毒だが、岡っ引が十手を突っ張らかして、評判のよくない踊りの師匠のところへ行けるか行けないか、考えてみろ。いったいどうしたんだ」
「可哀想ですよ、親分。――昼湯から帰って来て、大肌脱ぎになって化粧しているところをやられたんだ」
「誰もいなかったのか」
「内弟子のお秋は味噌漉《みそこ》しを下げて豆腐かなんか買いに出かけた留守。――曲者は表の格子を開けて入って、後ろから、そのまま裏へ抜けた様子で」
ガラッ八の話は手真似が入ります。
「ともかく行ってみよう」
平次は立ち上がりました。
二
「野郎ッ、来やがれッ」
「何をッ、お前《めえ》こそ逃げるなッ」
「その手を離せ、畜生ッ」
「誰が離すものかッ」
絡《から》み合い、啀《いが》み合いながら、旋風《せんぷう》のように路地を入って来た二人の若い男、銭形平次が出かけようとする出会いがしら、開けた格子の中へ二匹の猛獣のように飛び込んだのです。
「あッ、なんという事をするんだ」
さすがにひるんだ銭形平次。
「親分、この野郎だ、師匠を殺したのは」
「何をッ、人殺しはこの野郎に間違いはねエ、あっしがこの眼で見たんだから」
二人はまた歯を剥《む》き出して、新しい争いを捲き直すのでした。
「半次に助七じゃないか、こいつはいったいどうした事なんだ」
ガラッ八の八五郎は、二人の間へ割ってはいって、どうやらこうやら引離し、二頭の高麗犬《こまいぬ》のように平次の前に据えました。
「ね、八五郎親分。この半次の野郎が、師匠に振り飛ばされて、うんと怨んでいたことは、親分も知ってのとおりだ」
と助七、
「何をッ、師匠を死ぬほど怨んでいたのはうぬじゃないか」
とやり返す半次。八五郎はようやくそれを宥《なだ》めて、ともかくも二人の言い分を尽させました。
そのこんがらかった二人の言葉を整理して聴くと、半次は――ツイ先刻、賀奈女の家の木戸から庭へ廻って、何心なく声を掛けると、当の賀奈女は大肌脱ぎになったまま、鏡台の前に倒れ、助七が次の間――入口の三畳でまごまごしていたと言い、一方助七に言わせると、師匠に用事があって、縁側に半次がウロウロしていた――というのです。
それから騒ぎになって、折柄通りがかりの八五郎が飛び込み、銭形平次に報告されましたが、半次と助七は、日頃の割当筋《わりあてすじ》で、これをきっかけに憎悪が燃え上がり、「お前だ」「いやうぬだ」「何をッ」「銭形の親分のところへ来いッ」と、もつれ合いながら、とうとうここまで練り込んで来たと言うのです。
「よしよし、二人で相談してやったんでなきゃ、二人とも下手人じゃあるめえ。――少し落着いて話せ」
平次はようやくいきり立つ二人を宥めました。二人で相談して賀奈女を殺し、二人で相談してこんな芝居を打つという微妙な細工は、半次や助七の智恵では出来そうもなく、それほど深い巧みがないとすれば、お互いに疑われた業腹さで、相手より強く強くとのしかかって争いつづけていたのでしょう。
半次は床屋の下剃《したぞ》りで二十三、助七は質屋の手代で二十七、どちらも若くて無分別で、水本賀奈女の操る妖《あや》しい糸のまにまに、平次のいわゆる魔のさした案山子《かかし》のように踊っていた仲間です。
「ところで、二人が表と裏から入って行くとき、誰にも逢わなかったのか」
平次は改めて問いました。
「逢やしませんよ。――だからこの野郎が殺したに違げえねエと――」
半次がまくし立てると、
「逢ったのは、このひょっとこ野郎だけですよ、親分」
助七も負けてはいません。
「もういい、二人が喧嘩をしているうちに、本当の下手人はどんな細工をするか解らない――歩きながら聴くとしよう」
平次は半次と助七を引っ立てるように、薄暗くなりかけた街へ飛び出し、向柳原へ急ぎながらつづけました。
「――二人は別として、水本賀奈女をうんと怨んでいた者が他にあったはずだ。心当りはないのか」
「そりゃ、たくさんありますよ」
「例えば?」
「師匠と一年でも半歳でも一緒に暮した、伊勢屋新兵衛などは、良い身上《しんしょう》をつぶした上、女には棄てられ、女房には死なれ、日傭取《ひようとり》のようなことをしながらそれでも遠くへも行かず、賀奈女の阿魔《あま》が誰かに殺されるのが見たいと、恥を棄てて町内にかじり付いていますよ。なアに、ありようは、他所《よそ》ながら師匠の顔が見ていたいんで――」
助七はそんな事を言いながら、ニヤリニヤリと笑うのです。
三
向柳原の水本|賀奈女《かなめ》の家というのは、町の懐ろの中へしまい込んだような深い路地の奥で、小体《こてい》ながら裕福に暮していたらしく、磨《みが》き抜いた格子にも、一つ一つの調度にも、妙に艶めかしさと不健康な贅沢さとが匂います。
家は入口の三畳のほかに、賀奈女が殺されていた居間の六畳、あとは踊り舞台をおいた八畳と、納戸《なんど》がわりに使っている暗い三畳、それに台所だけ。灯りを一パイに点けて、ザワザワと人が集まっておりますが、あんなに喰い付いていた狼《おおかみ》達は薄情にも顔を見せず、町内付合いでしようことなしの老人達が、型どおりの仕度をととのえて検屍を待っているのでした。
「おや、銭形の親分」
ほぐれる人の渦の中へ、平次は入って行きました。死体はまだそのまま、鏡台はハネ飛ばされて、座布団の上から引摺《ひきず》りおろした恰好に、賀奈女の死体は横たわっております。
骨細ですが、よく引き緊った肥り肉《じし》、――いわゆる凝脂が真珠色に光って、二十五というにしては、処女のような美しい身体を持った女です。
首に巻いたものは、赤い扱帯《しごき》でもあることか、無残な荒縄。
「フーム」
銭形平次は死体の顔を一と眼、思わず唸りました。これが八丁荒しと言われた魅力の持主で、神田じゅうの若い男を気狂いのようにしたとは思われない悪相です。
「本性が出たんだね、親分。――怖いものじゃありませんか」
八五郎は囁きます。
「お前も講中の一人だったじゃないか――こうなりゃ仏様だ、悪く言っちゃ済むめえ」
平次はありあわせの浴衣を顔へ掛けてやって、神妙に双掌《もろて》を合せるのでした。
「そう思って、先刻からふんだんに線香を上げてますよ」
無駄を言いながらも、二人は念入りに家の中を調べ、死体の位置と、出入口の関係を見、集まった人達の噂などを集めました。
「なくなった物は一つもなし、――家の中には少し泥が落ちていた――もっともこれはわざとやったのかも知れない。――縄もどこにでもある、三つ繰《く》りの藁縄《わらなわ》だ。――後ろから近寄るのに気が付かないはずはないから、知ってる者に違いあるまい。――多分振り向きもせずに、鏡の中でニッコリしたんだろう。そこを――」
銭形平次は残された事情の上に、見事な仮想を組み立てながら、犯罪の現場を再現して行くのです。
「親分、下手人の見当は?」
「待て待て、――路地の外は天下の往来だ、人通りはたくさんある。夕方路地を入った人間をいちいち覚えている人はあるまいから訊いても無駄だ。庭から裏へ抜けると路地を通って横町へバアと出る。左手は横田若狭《よこたわかさ》様の塀か、五千五百石の御旗本だ。そこへ消える術《て》はない。――まず表から入って、賀奈女を殺して、裏へ逃げたと見るのが本当らしいな。すぐその後へ半次と助七が裏表から来て鉢合せをした。――ところで内弟子のお秋を呼んでくれ、少し訊きたいことがある」
「ヘエ」
間もなく八五郎に引立てられて来たのは、十六七の踊りの弟子というよりは、摘綿《つみわた》の弟子によくある型の、少し野暮ったい、そのくせ存分に気取った、頑丈な娘でした。
「お前か、お秋というのは?」
「ハ、ハイ」
「先刻あの騒ぎのあった時、どこにいたんだ」
「あの、豆腐を買いに出ました」
「その豆腐はどこにある」
「お勝手に置いてあります」
「よしよし持って来なくたっていい。――ところで、路地を入ったとき誰にも逢わなかったのか」
「え」
「家に入ったとき、一番先に眼についたのはなんだ」
「半さんと助さんが、にらみ合っていました。そして、気が付くとお師匠さんが――」
「泣かなくたっていい」
シクシクと手放しで泣き出すのを、平次は少し持て余し気味です。
「あの――」
「なんだ」
「殺したのは誰でしょう」
「そいつはわからないが、――お前には良い師匠だったのか」
「……」
お秋は黙り込んでしまいます。
「下手人を挙げるためには、いろいろ訊きたいことがある、正直に言ってくれるか」
「え」
「第一番に、師匠――賀奈女をうんと怨んでいたのは誰だ」
「伊勢屋さんですよ。往来で私の顔を見ると、師匠はまだ生きているか。――なんて言うんですもの」
「他には」
「さア」
「ここへ一番よく来たのは誰だ」
「半次さんと助七さんですよ。どんな日も一度ずつは来ました。多い時は二度も三度も――」
「たいそう精が出るんだな」
平次はガラッ八を振り返ります。これもどうかしたら日参した口かもわかりません。
「ヘッ」
八五郎はその視線を避けるように首を縮めます。この小娘が何を言い出すか、危なくて危なくてたまらない様子でした。
四
近所の衆から一と通り訊きましたが、なんの手掛りもなく、路地を入った者も出たものも、半次、助七、お秋のほかには見たものもありません。
それに、死人に対する遠慮があったにしても、水本賀奈女の評判はまことにさんざんです。
「これだけ評判が悪いと、死に花ですね。――皆んなをこんなに喜ばせるんだから」
ガラッ八はまたとんでもない事を言います。
「馬鹿野郎、なんという口をきくんだ」
「ヘエ」
ガラッ八の無遠慮な口をたしなめながら、その晩は引き揚げるほかはありません。
翌《あく》る日、朝の内に賀奈女の家へやって来た平次は、思いもよらぬ事を発見しました。
「八、ここは路地の奥でどこからも見えまいと思ったら、横田若狭様邸内の火の見|櫓《やぐら》から一と眼だね。――昨夜は暗くて気が付かなかったが――」
縁側に立った平次は、左手に近々と建っている、火の見櫓を見上げるのでした。
「賀奈女もそれを気にしていましたよ。でも、あの調子だから、火の見櫓から見下ろされるのを承知で大肌脱ぎかなんかで化粧していたんでしょう」
とガラッ八。
「横田様の火の番をお前知ってるか」
「喜三郎というのがいますよ。伊勢屋の死んだ女房の親爺《おやじ》で、仏喜三郎と言われる好い人間で」
「行って会ってみようよ」
平次はそこからすぐ、横田若狭の邸内――板塀とすれすれに建てた火の見の下にやって行きました。賀奈女の部屋から二十間とは離れていません。
八五郎に声を掛けさせると、気さくに、
「ほい、なんか用事かい」
そう言って裏木戸から顔を出したのは、五十七八の馬面《うまづら》の老人、大して賢そうではありませんが、そのかわりこの上もなく人は好さそうです。
「お前は喜三郎というんだね、あっしは、平次だが――」
「ヘエ、よく存じております。銭形の親分で」
「さっそくだが、きのう隣の踊りの師匠のところに騒ぎがあったんだが――」
「そうですってね、実はあっしも少し引っかかりがあって、あの師匠を怨んでいましたが、天罰と言っちゃ済まないが、――恐ろしいことですね」
「引っ掛りというと」
「なアに、大したことじゃありません。伊勢屋の死んだ女房が、私の娘で、ヘエ――」
「そうか」
平次も相手の正直さに、かえって話の腰を折られた形です。
「ところで、御用とおっしゃるのは?」
喜三郎は蟠《わだかま》りのない長い顔を挙げます。
「火の見からはよく見えるだろうと思うが、昨日なんか変ったことがなかったのか」
「いろいろ見えましたよ。私はこんな稼業《かぎょう》をしているくらいですから、年にしちゃ眼の良いのが自慢で、師匠が毎日昼湯へ入って来て、大肌脱ぎで化粧する図には当てられつづけておりますが――」
「きのうは」
「相変らず鏡の中の自分の容貌《きりょう》に見とれながらせっせと磨いていましたよ。そのうち、表から誰か来た様子で、師匠は坐ったままニッコリして、声を掛けると、男の人が入って来ましたよ――あの愛嬌は大したものですね。その先をよく見ていると私の手柄になるんですが、障子を半分締めているので、何が何やら解りません。しばらく私も眼を外《そ》らして、違った方角を眺めて、ヒョイと眼を返すと、頬冠《ほおかむ》りをした中年の男が座敷から庭へ飛び降りて、追っかけられるように裏の方へ駈けて行くじゃありませんか」
「その顔を見なかったのか」
平次は少しじれ込みます。
「色の黒い、背の高い頑丈な男で」
「身なりは?」
「茶がかった万筋《まんすじ》の古い袷《あわせ》のようでしたが」
「それっ切りか」
「その男が見えなくなると、半次さんと助七さんが裏表から入って、いきなり啀《いが》み合いを始めましたよ。あれは大笑いで、ヘッヘッ」
喜三郎の笑いは歪みます。
五
「色が黒くて、背が高くて、頑丈で、茶がかった万筋の古袷を着ているのは誰だえ」
平次は家へ入って来ると、近所の衆に訊きました。
「そいつは伊勢屋さんじゃありませんか。――師匠と一緒に暮した伊勢屋新兵衛そっくりですよ」
「その伊勢屋は今どうしているだろう」
「家は近所ですが、二三日見えませんよ」
口はたいてい揃います。
さっそく八五郎を出してやって、心当りを隈《くま》なく捜させましたが、伊勢屋新兵衛はどこへ行ったか、日が暮れるまでとうとう見付かりません。
この伊勢屋新兵衛というのは、かつては向柳原の大きな雑穀問屋で、三四代つづいた老舗《しにせ》でしたが、主人の新兵衛がお今という女房があるのに、水本賀奈女に夢中になり、一年ばかり一緒に住んでいるうちに、数千両の身代を費い果したうえ、賀奈女には小気味よく捨てられて、スゴスゴと自分の家へ帰った時は、女房のお今は重なる苦労に打ちひしがれ、もう起つことも出来ない重態だったのです。
その後まもなくお今は死にました。事情が事情だったので自殺だという噂も立ちましたが、事実はひどい懊悩《おうのう》と貧苦のために、癆症《ろうしょう》が重くなり『帰った夫』を迎えて、もう一度以前の平和な生活を楽しむことも出来なかったのです。
その日もなんの発展もなく暮れて、平次が引き揚げの支度をしている時、
「親分、伊勢屋新兵衛が来て、入口で威張ってますよ」
近所の衆が苦々しく取次いでくれます。
「構わないから、ここへ通そう」
「大丈夫ですか、少し酔ってるようですから、仏様の前で何を言い出すか、わかりませんよ」
「言わせるのも功徳《くどく》だろうよ」
ガラッ八は心得て行くと、まもなく三十二三の色の黒い頑丈な男を連れて来ました。――高い背、よれよれの茶万筋の袷――
「あ、銭形の親分」
伊勢屋新兵衛の顔には、一瞬躊躇の色が浮かびましたが、思い定めた様子で棺《かん》の側に近づくと、しばらく物も言わずに突っ立っておりました。やがてどっかと膝を突くと、線香を一とつかみ、ムラムラと立ち昇る煙の中にガックリ首を垂れました。
念仏一つ称えるでも、拝むでもありませんが、中年男の眼からは、大粒の涙がボロボロとこぼれます。
「みろ言わないこっちゃない――」
新兵衛の唇からは、罵倒《ばとう》というよりは、泣き言とも愚痴《ぐち》ともつかぬ言葉が突いて出ました。
「――俺があれほど言ったじゃないか。――私がいなきゃ、生きていられないという男が、町内だけでも十人はあるとお前は言ったが、――みるがいい、お前が死ねば、一人も顔を出しゃしない、皆んなこの先呑気に生きて行ける証拠だ。――俺はな、この伊勢屋新兵衛はな、お前がこんな姿になるのを、この眼で見たいばかりに、家も身上《しんしょう》も失くしてしまった町内に、恥を忍んで踏み止っていたんだぞ。――馬鹿なッ」
伊勢屋新兵衛は吐き出すように言い終って、線香をもう一とつかみ燻《くゆら》し、さて平次の方を振り返ってピョコリとお辞儀をするのです。
「伊勢屋、お前は泣いているじゃないか、やはり悲しいのか」
平次はそれを迎えて言います。
「悲しい? 冗談でしょう、馬鹿馬鹿しくって、可笑しくって、涙が出ますよ」
「そうかなア」
「私はね、親分。この女のために、町内一番の身上《しんしょう》をいけなくして、こんなざまになりました。皆んな私の不心得から出たことで、身上なんざ、どうなったって構やしません、私一人が恥さえ忍べば、また稼いで溜める工夫もあります。ただね、親分、――」
「……」
伊勢屋新兵衛はガックリ頭を下げると、またも黒く痩せた頬を、涙がハラハラと洗うのです。
「私の道楽を苦に病んで、死んでしまった女房が可哀想でなりません」
「……」
「親分、私は、金や身上なんざどうなったって構やしません。女房さえ達者で生きていてくれたら、死んだ気になってまた稼ぎ溜め、元の伊勢屋の半分でも三分の一でもこしらえて、あの――馬面のみっともない女房――そのくせ仏様のように気の良い女房に、安心をさせてやりたかった――、それが口惜しくて泣くんですぜ、親分」
「……」
「女の中にも賀奈女のような、自分の容貌と才智と愛嬌に自惚《うぬぼ》れ切って、世間の男を夢中にさせ、それが嬉しくてたまらない様なのもあれば、――みっともなくて、無口で無愛嬌で、自分の亭主へ意見一つ言うことも出来ず、そのくせ仏様みたいな素直な心持で、黙って死んで行くお今のような女もあります」
「……」
「賀奈女のために死んだ男や女は二人や三人じゃねえ。内弟子のお秋さんの許婚《いいなずけ》だって、やっぱりその一人――」
「何? お秋の許婚がどうした」
平次は聞きとがめました。
「そんな噂もありますよ。町内の衆だって、賀奈女の容貌と愛嬌と踊りには感心しながら、腹の中じゃ化《ば》け狐《ぎつね》だと思っている。――死んだって泣く者なんか一人もいねえ、ザマアみやがれ」
「……」
「私は賀奈女の死んだのさえこの眼で見れば、もう思いおくことはない。死んだ気になって働いて、もういちど伊勢屋の身上を建て直し、あの世の女房に見せてやりますよ。――女房はそればかり言いつづけて死にました。――私はこうなっても誰も怨みはしない。お前さんさえ元のお前さんになってくれれば、ただ私達の代になって伊勢屋をつぶしたとあっては、あの世へ行っても御先祖様に合せる顔はない。お願いだから、死んだ気になって働いて、元の身上の半分でもこしらえて下さい――って」
「……」
「私は坊主になった気で働きますよ、――賀奈女にもいよいよこれで縁切りだ。心の隅に残った未練も、さっぱりとなくなってしまいました。それじゃ親分」
帰って行く伊勢屋新兵衛、ガラッ八がいくら眼顔で知らせても、平次は縛ろうとも呼び戻そうともしません。
六
「お秋は? 親分」
「あの女じゃない、許婚がどうしたか知らないが、――あの女ではあるまいよ」
「師匠を殺しておいて、豆腐を買いに出たんじゃありませんか、その後へ半次と助七が来たとしたら」
八五郎もなかなかうまいところを考えます。
「あの女には、荒縄で賀奈女は殺せない。賀奈女の方が力も才智もある。――それに、師匠を殺して、豆腐を買って来る胆力《たんりょく》はあるまい。――豆腐はちゃんと買って来ている。――本当に殺す気なら、まだほかに折りがあったはずだし、もう少し騒ぎ立てるわけだ」
「そんなものですかね」
「それより、庭へ喜三郎が来ているじゃないか、――外へ出て話を聴こう――。八、お前も一緒に来るがいい」
平次は草履を突っかけて、大急ぎで庭へ出ました。生暖かい春の宵、朧《おぼろ》ながら屋並の上には月も出ております。
ポクポクと影を引く老人の後に跟《つ》いて、平次と八五郎は河岸っ端まで歩きました。
「親分さん、よく気が付きましたね」
「それは稼業だもの」
迎えるように立ち止って淋しく笑う喜三郎、平次はその影の前の捨て石に腰をおろしました。
「私はけさとんだことを申し上げてしまいました。――賀奈女を殺した者を見たなんて、あれは皆んな嘘でございますよ」
「……」
「私はあのとき火の見櫓から降りていました。なんにも見たわけじゃございません」
喜三郎老人の話はとんでもないものでしたが、それを聴く平次は、別におどろく様子もありません。
「そうだろう、お前の言うことはあんまり明瞭過ぎたよ。いくら眼がよくったって、火の見の上から鏡の中の賀奈女の顔がニッコリ笑ったのが見えるはずもないし、頬冠りの男の顔の色まで判るはずはない」
「私は伊勢屋が憎かったのでございます。あんな良い娘を悶《もだ》え死にさせた婿の新兵衛が憎くてたまらなかったのでございます」
「お前は伊勢屋を賀奈女殺しの罪に陥《おと》したら死んだ娘のお今が嘆くだろうと気が付かなかったのか。――お前の娘ながら、伊勢屋の女房は貞女だった」
平次の調子は低いが身に沁《し》みます。
「面目次第もございません。親分さん、私はさっき、庭に立って伊勢屋の話を聴いてしまいました。見下げ果てた男だと思った婿の伊勢屋新兵衛が、私などよりは余っぽど良い男と判って、私は穴へでも入りたい心持でございました。一たんの過《あやま》ちから、賀奈女などに溺れたのは、悪いには違いありませんが、死ぬほどの目に逢いながらそれを許してやった娘も立派なら、今となって娘の貞女に思い当り、死んだ気で働こうという伊勢屋も立派な男でございます。それに比べると、私は、私は――」
「あ、待った」
言う間もありませんでした。駱駝《らくだ》のような感じの喜三郎老人は、思いのほか敏捷に立ち上がると、平次と八五郎が留める間もなく、身を翻《ひるがえ》してざんぶと川の中へ――。
「八、飛び込め」
朧月《おぼろづき》の影を砕いて浮きつ沈みつする喜三郎。
「駄目だ、あっしは御存じの徳利で」
「仕様のない奴だ、泳ぎくらいは稽古しておけ」
クルクルと裸になった銭形平次は、場所を見定めて同じ春の水へパッと飛び込んだのです。
*
それから十日二十日と日が経ちますが、踊りの師匠水本賀奈女を殺した下手人はとうとう挙がらず、平次は神田ッ児と八丁堀の役人からさんざん小言を言われながら、尻をあげようともしません。
「親分、賀奈女殺しはどうしたんです?」
「解ってるじゃないか」
八五郎の鼻のキナ臭いのを、平次は面白そうに見ているのでした。
「ちっとも解りませんよ、下手人は誰でしょう」
「西国巡礼に行ったよ。――お前も餞別《せんべつ》を一朱|奮《はず》んだじゃないか」
「えッ、あの火の番の喜三郎?」
「野暮な声を出すなよ。聴いてるのは幸いお静だけだが――」
「本当ですか、親分。どうして縛らなかったんで」
「一度水へ飛び込んで亡者になったじゃないか」
「ヘエ――」
「誰にも言うな。――もっとも西国三十三ヵ所の霊場を廻って、どこで死ぬか判らないから、二度と江戸には帰らないと言っていたが」
「呆れたね、あれが下手人で、ヘエ――」
「何を感心するんだ。あの親爺は娘の敵を討つ気だったのさ。婿《むこ》の伊勢屋をあんなにして、娘を殺したのは、賀奈女の仕業と思い込んでいたんだ。その化け狐の賀奈女が、毎日ぬけぬけと昼湯へ入って、年寄りの喜三郎を馬鹿にしたように、眼の前で大肌脱ぎになって化粧しているんだ。この女のために、何人の男が身上《しんしょう》をつぶし、何人の女が命を捨てたかも知れない。この先もまだまだあの様子では罪を作るだろう。そう思うとたまらなかったんだろう。火の見櫓から降り、木戸を開けて庭に入って行くと、賀奈女は相手の気も知らずに、ニッコリして愛嬌を振り撒《ま》いたんだろう、そういった女だ。木戸の外には荒縄がうんとある。後ろ向きになって合せ鏡をするところを、喜三郎はムラムラとなって飛び込んで殺してしまったんだろう」
「ヘエ――」
八五郎は胆《きも》をつぶしてばかりおります。
「現場を見極めた証人(目撃者)だと思ったから、俺も最初は少しも疑わなかった。が、伊勢屋が憎くて言ったこしらえごとに、おやと思った」
「……」
「あとは知ってのとおりさ。――意見を言うわけじゃないが、容貌と愛嬌と才智だけでなんでもやり遂げようと思う女には気をつけろよ。ハッハッハッ、まアそういったようなわけさ。恐ろしく突き詰めた顔をするじゃないか、八」
平次はそう言ってカラカラと笑うのです。
桐の極印《ごくいん》
一
「親分、変な奴が来ましたよ」
ガラッ八の八五郎は、長んがい顎《あご》を鳶口《とびぐち》のように安唐紙へ引っ掛けて、二つ三つ瞬きをして見せました。
「お前よりも変か」
なんという挨拶でしょう。銭形平次はこんなことを言いながら、日向《ひなた》にねそべったまま、粉煙草をせせっているのです。
「ヘッ、あっしよりは若くて可愛らしいので」
「新造か、年増か、それとも――」
「どこかの小僧ですよ。――銭形の親分さんは御在宅でございましょうか――って、大玄関で仁義《じんぎ》を切ってますよ、バクチ打ちと間違えたんだね。水でも打《ぶ》っかけて、追い返しましょうか」
「待ちなよ。そんな荒っぽいことをしちゃならねえ。この平次を鬼のような人間と思い込んで鯱鉾張《しゃちほこば》っているんだ、丁寧に通すがいい」
「ヘエ――」
やがて、ガラッ八のいわゆる大玄関の建て付けの悪い格子戸をガタピシさして、一人の客を招じ入れました。
「今日は、親分さん」
敷居ぎわでお辞儀をして、ヒョイと挙げた顔を見ると、せいぜい十五六、まだ元服前の可愛らしい小僧でした。
正直らしいつぶらな眼も、働き者らしい浅黒い顔も、そして物馴《ものな》れないおどおどした調子も、妙に人をひき付けます。
「そんなに改まらなくたっていいよ。――この野郎に脅《おど》かされて固くなったんだろう。安心するがいい、お上の御用は勤めているが、人を縛るのが商売じゃねえ」
平次は八五郎と小僧を見比べながら、取りなし顔にこんな事を言うのでした。
「それがその――縛ってもらいたいんで、親分」
小僧は途方もないことを言います。
「縛ってもらいたい――誰だい、そいつは?」
平次はようやく居ずまいを直しました。可愛らしく膝小僧を二つ並べて、真っ正面から平次を見入る、一生懸命な二つの瞳を見ると、ツイこう生真面目にならずにはいられなかったのです。
「旦那を殺した奴を縛って下さい、親分さん」
「旦那を殺した奴? そいつは穏かじゃないな。――いったい誰が誰を殺したというのだ。落着いて話してみるがいい」
平次は雁首《がんくび》で煙草盆を引き寄せて、相手の気の鎮まるのを待つように、ゆるゆると二三服吸いつけました。
「私は、市ヶ谷田町の宝屋久八の奉公人で今吉と申しますが、主人の久八が五日前に亡くなって、もうお葬《とむら》いも済みましたが、その死にようが、なんとしても腑《ふ》に落ちません。お寺でも文句無しに引き取った葬式ですから、私|風情《ふぜい》が苦情を申したところで、なんの足しにもなりませんが」
小僧はちょっと言い渋りました。
「どうしてそれが定命《じょうみょう》でないと解ったのだ」
平次は追っ駈けるように訊ねます。
「旦那が亡《な》くなる前、うわ言のように――七千両、あいつにやられるか――と言いました」
「――七千両、あいつにやられるか――というのだな」
「ヘエ」
「それを誰と誰が聴いていた」
「私とお嬢様だけで」
「それっきりか」
「旦那が亡くなった後で番頭の善七さんが、(あの女がやったに違いない)と、独り言のように申しておりました」
「……」
「それから、離屋《はなれ》に住んでいる御親類のお安さんが、ゆうべ庭で番頭さんとひどい言い合いをして、――お前が殺したに違いない。お主殺しは磔刑《はりつけ》だよ――と大きな声で怒鳴っておりました」
「それから」
「それっきりですが、こんなことを聴くと、旦那の死んだのは、ただごとでないような気がします」
「それだけのことでは俺が乗り込むわけにも行くまいよ」
「でも親分さん」
今吉は若くて敏感な者の本能的な恐怖に引きずられてここへ来たのでしょう。いちおう平次が宥《なだ》めたくらいのことでは、容易に引き取りそうもありません。
「親分、そいつは変な匂いがしますね、行ってみましょうか」
傍から八五郎が、鼻をヒクヒクさせながら乗出します。
「待ちなよ、つまらねえことに十手を振り廻しちゃ、町方の恥だ。――ところでそれはお前一人の思い付きか」
「いえ、あの――」
今吉は背後の方――入口を振り向きました。
「八、小僧さんには連れがあるようだ。呼んで来るがいい」
「ヘエ」
八五郎は草履《ぞうり》を突っかけて外へ飛び出しましたが、その辺には今吉の連れらしい者は見付かりません。
「路地の中には誰もいませんよ、親分」
「そんなはずはない――ひどく犬が吠えていたようだ。あの犬は人に馴れているから滅多に吠えるはずはないが」
いつも路地の口に居眠りをしている、角の酒屋の赤犬が、先刻《さっき》けたたましく吠えたのを平次は思い出したのです。
「お嬢さんが一緒に来ましたよ。極りが悪いからって外で待っていましたが、――変だなア」
今吉も外へ飛び出しましたが、路地の中は言うまでもなく、広い往来へ出て、前後左右を見廻しても、それらしい姿はどこにも見えません。
「なんだって中へ入らなかったんだ」
平次は少しとがめる調子でした。
「黙って帰ったんじゃありませんか」
そんなことを言いながらも、平次と、八五郎と小僧の今吉は、手分けをしてそこいらじゅう探し廻りましたが、十八娘のお清は平次の家の前で、烟《けむり》のように消えてしまったのです。
二
「小僧さん、お前はすぐ市ヶ谷の店へ帰ってくれ。お嬢さんがどうかしたら、家へ帰っているかも知れない。急に用を思い出したが、改めてお前を呼び出すのも極りが悪いとかなんとか、若い娘にはありそうなことだ、いや、是非そんな事であってもらいたい」
「ヘエ」
今吉もすっかり萎《しお》れ返っておりましたが、急に元気付いて、帰り支度を始めました。
「八、お前は出来るだけ近所の人に訊いてくれ、若くてこんな様子をした娘を見なかったか、――と。きりょうは良いのか」
「ヘエ、十人並――と世間では言っておりますが」
今吉は昂然《こうぜん》として言いきりました。
「身扮《みなり》は?」
「襟の掛った黄八丈《きはちじょう》の袷《あわせ》に、麻《あさ》の葉を絞《しぼ》った赤い帯でございます」
「それだけ聴いたら、人ごみの中でもわかるだろう」
「それじゃ、親分」
八五郎と今吉は銘々の方角へ飛んで行きました。
「お前さん」
「なんだ」
お勝手から手を拭きながら出て来たのは、平次の女房――お静でした。
「そのお嬢さんなら、さっき路地の外で見かけましたよ」
「なんだ、お前も見ていたのか、早くそう言えばいいのに」
「口を出すと、岡っ引の女房が、お役目のことに口を出しちゃみっともないって叱られるんですもの」
お静は怨《えん》ずる色がありました。内気で優しいお静にとっては、ほど経てからでもこう言うのが精いっぱいだったのです。
「事と次第によりけりだ。冗談じゃない、その娘はどんな様子をしていたんだ」
「変な男と話していました。ひどく驚いた様子で――」
「変な男と――驚いた様子で――?」
「その男はずいぶん汚ない風をしていました。四十がらみの髯《ひげ》だらけの――いえ、物もらいではなかったようです」
「そいつは惜しい事をしたなア」
事件の背後になにか重大なものを感じたのか、平次はしきりに首を捻《ひね》っております。
それから半刻《はんとき》(一時間)ばかり経つと、ガラッ八は帰って来ましたが、黄八丈を着た若い娘が一人、路地の口に立っていたところまでは、近所の人も見ておりますが、その先は困ったことに誰も確かめた者がなく、右へ行ったという人も左へ行ったという人もあって、娘の行先はますますわからなくなるばかりです。
それからまた半刻ほども経ったころ、小僧の今吉は、寒天に大汗を掻いて飛んで来ました。
「親分、お嬢さんはお店へも帰ってはいません。御近所の懇意《こんい》な家を一と通り訊いて歩きましたが、どこへも行った様子はございません。きっと旦那を殺した悪者がお嬢様も誘拐したんでしょう、お願いですから捜してやって下さい、親分」
今吉はそう言いながら、畳の上へ手を落して、上眼づかいに二つ三つお辞儀をするのです。
「なるほどそいつは放って置けまい。八、一緒に行くか」
「先刻からもうウジウジしてるんですよ。親分が御輿《みこし》を上げなきゃ、引っ担《かつ》いでも行こうと思ってね」
「冗談じゃない――若い娘がどうかすると、お前の眼の色が変るから恐ろしいよ」
平次は冗談を言いながらも手早く仕度をして、ガラッ八と今吉をつれて市ヶ谷へ急ぎました。なんでもないような事件のくせに、妙に気掛りなものがあって、無精者の平次も、ジッとしてはいられなかったのです。
が、しかし、市ヶ谷の宝屋へ飛び込んだ平次も、今度ばかりは手の下しようもないのに驚きました。主人の葬《とむら》いは、三日も前に済んでいるし、神田へ行った娘のお清の帰りが遅いからと言ったところで、まさか銚子の伯母さんのところへ、人を出して問い合わせるほどの事件でもなかったのです。
主人の死んだ後の店を引き受けてやっているのは、善七という若い番頭で、せいぜい三十にもなるでしょうか、色白の優男で、少し上方訛《かみがたなまり》はありますが、客扱いは申し分ありません。
「御苦労様でございます。主人の亡くなったのはちょうど五日前で、町内の本道――蓼庵《りょうあん》さんのお見立てでは卒中ということでございました。ヘエ、ヘエ、少しお酒が過ぎましたようで」
こういった調子で、平次の問いにもハキハキと応えてくれます。
「後々のことはどうなるのだ」
「いずれお嬢様に養子をなさるのでございましょう、――御養子のお話はちょいちょいございますが、まだ決っておりませんようで、ヘエ」
「宝屋の身上《しんしょう》は?」
「まだ新しい店で、金貸しというと、たいそうな金持のように聞えますが、一貫や二分の小口が多いので、大したことはございません。まアせいぜい五百両か千両というところでございましょう」
主人久八が死にぎわに言ったという『七千両』とは大分|隔《へだた》りがあります。
「ところで、今日朝から外へ出た者はなかったのか」
「皆んな揃っております、――小僧の今吉とお嬢さんが出かけただけで」
「あと家にいたのは誰と誰だ」
「御新造《ごしんぞ》のお利栄さんと、私と手代の勘次郎と、下女のお万と、それっきりでございます。――それから離屋《はなれ》のお安さん」
「それはなんだ」
「御主人の遠縁の方で、ヘエ」
「そのお安さんに逢ってみたいが」
「御案内いたしましょうか」
「いや、それには及ばない――が身許をもう少し詳しく聴かしてくれ」
「誰も詳しいことは存じませんが、本人の言うことではなんでも以前はなんとか検校《けんぎょう》に囲われていたそうで――綺麗な人でございます。一年ばかり前から、この家に引き取られておりますが、ヘエ」
「なんとか検校――というと音曲《おんぎょく》の方か」
「いえ、鍼《はり》の方だそうで、――もっとも検校は嘘でございましょう。ただの鍼医者の流行按摩《はやりあんま》らしい話で、ヘエ」
この男は妙にお安という女に反感を持っている様子です。
平次はそういう番頭に別れて、庭伝いに離屋《はなれ》の方へ行きました。
「八」
「ヘエ」
八五郎はどこからともなく現われます。
「お前は町内の本道〔内科医〕の蓼庵《りょうあん》さんのところへ行って、死んだ主人の病気のことを念入りに訊いて来てくれ。それから医者なんてものはいろんな事を知っているものだ、如才《じょさい》もあるまいが、主人のこと、身内のこと、奉公人達のことも出来るだけ聴いて来るがいい」
「ヘエ」
八五郎は飛んで行きました。
三
「親分さん、御苦労様でございます。とんだ人騒がせをして」
離屋から転げ出すように、平次を迎えたのは二十四五の、これは眼のさめるような女でした。綺麗だとか、美人だという意味ではなく、派手で表情的で、肉体的にも豊かな感じがする上に、人を見るにも、いきなり瞳と瞳を合わせるといった無造作なことをせずに、斜《ななめ》に下から嘗《な》めるように見上げて、こうとろけるように|にっこり《ヽヽヽヽ》するといった、容易ならぬ表情の持主でした。
その上、物を言う調子が格別で、一つ一つの言葉を、口の中でこね廻して、特別上等の餡蜜《あんみつ》を付けて啜《すす》るといった具合で、それを聴いている方の悩ましさというものはありません。言葉に対して特別な感覚を持っている、眼の不自由な人に仕えて、自然にこうしたエロキューションを自得したのでしょう。それがまた、人に厭《あ》かれる原因にもなるのですが、自惚《うぬぼ》れが強くて才気走っているお安は、それを強大な武器のように、すべての人に振りまわさずにはいられない様子です。
平次は咄嗟《とっさ》のあいだにこんな事を考えているのでした。
「少し休ませてもらおう」
平次は離屋の縁側に腰をおろしました。少し横柄なのは、日頃の平次にない態度ですが、この女に白い歯を見せたら、さぞ厄介だろうといった、平次の潔癖さのためでもあります。
「どうぞ、親分さん、――実はお待ち申しておりました」
「何を話したいというのだ」
平次は出してくれた玉露《ぎょくろ》らしい茶には見向きもせず、いきなり用事に入って行きます。
「主人の急に亡くなったのが、どうも変でなりません、私はどうかしたら――」
お安の声は急に小さくなりました。
「番頭の善七が怪しいというのか」
「いえ、そう申すわけではございませんが、主人が死ねばあの人はこの離屋をもらって、私を追い出すに決っております」
「それはどういうわけだ」
「主人は三年前にこの離屋を建てました。行々《ゆくゆく》は隠居をして御自分で住むつもりだと言っていたそうですが、一年前に私がこの家へ来るようになってからは、恩人の娘だからと、私をここへ入れてくれました。若いとき私の親に世話になったんだそうで、酔《よ》うといつも、そんな事を申しておりました」
「それを番頭がかれこれ言うのはおかしいじゃないか」
「あの人は、主人が死ねばお清さんの後見人になって、跡継ぎの決まるまでは、この家を自由にすることになっております。そうなれば、平常から仲の悪い私を追い出して、ここに入ることになるでしょう。この離屋が気に入って、なんとかして私を母屋《おもや》に入れて、自分はこの離屋に住まおうとした人ですから」
平次は改めて、このたった二た間の離屋を、縁側から覗いたりしました。木口も大したものではなく、ただ頑丈に出来ているというだけで、打ち見たところは、洒落《しゃれ》た母家の普請《ふしん》などとは、比べものにならないお粗末なものです。
部屋は六畳と四畳半のたった二つ、それにお勝手が付いただけで、調度や建具も至って下品で、平次が見てはなんの取柄もない離屋ですが、善七とお安が、それに執着するのはどうしたことでしょう。
「お清が行方不知《ゆくえしれず》になったが、お前に心当りはないのか」
平次は改めて次の問に入りました。
「ね、親分さん。あの娘も可哀想じゃありませんか、たった十八や十九で」
「何が可哀想なのだ」
「宝屋の跡取りですもの、――あの娘がいなくなれば、ずいぶん得をする人もあるんですもの」
「婿《むこ》はきまっていなかったのか」
「身上目当てに、ずいぶん婿になり手もあったようですが、――それよりはいなくなってくれる方が手っ取り早いと思い直したんでしょう、可哀想にあの|きりょう《ヽヽヽヽ》ですもの、――もっとも、手代の勘次郎どんとは、近頃妙に仲が好いようでしたが」
そんな事を言うお安です。
平次はいい加減胸を悪くして離屋を引き揚げました。母屋へ帰って、女房のお利栄、手代の勘次郎、下女のお万などに逢いましたが、なんの手掛りもありません。
お利栄は四十二三の愚痴《ぐち》っぽい女で、夫の急死と娘の失踪に顛倒し、何を訊いてもしどろもどろですが、主人の前身については、
「亡夫は上方に長くおりましたが、請負《うけおい》仕事などをしていたようです。三年前から江戸に落着いて、こんな商売を始めましたが、大工や左官の心得はあっても、帳面の方は不得手で、善七どん任せのようでございました」
「その善七は何時から一緒にいるのだ」
「三年前、上方から連れて参りました」
「お安のほうは?」
「一年ほど前、不意に訪ねて来ました。それまでは話もなかったのですが、主人の遠縁の者だとか言いまして――」
お利栄にとっては、この若くて美しくて、悩ましくさえあるお安の存在は、相当不愉快なものらしく、こう話しながらも、醜い顔が異様に引き歪みます。
手代の勘次郎は、二十二三でしょうが、ただ平凡なお店者《たなもの》というだけ。
「旦那の亡くなったのは、なんかわけがありそうですが、私どもにはわかりません。それにつけても、お嬢様は可哀想でございます」
お清にだけ、この男の注意は集中している様子です。
下女のお万は、二十四五の達者な女で、働き者らしいかわり、深い考えはないらしく、主人の死にも、お清の行方不知にも大した関心は持っておりません。
「親分、無駄骨折りですよ」
そこへ帰って来たのはガラッ八の八五郎でした。
「何が無駄骨折りなんだ」
「町内の本道はなんにも知りませんよ。主人の死んだのは、確かに卒中で、これは間違いはない、万一見立て違いなら、この坊主首をやるという意気込みで――親分の前だが、あの汚い首なんかもらっても役には立ちませんね」
こう言った八五郎です。
四
それから十日十五日と無事な日が過ぎました。松が取れて正月も過ぎると、平次もさすがに忙しくなって、宝屋のことに掛り合って居られなくなりましたが、それでも、ときどき八五郎をやって、いろいろの情報だけは集めさせて置きました。
娘のお清は相変らず姿を見せず、宝屋の家の者でも近頃はお清のことなどを心配しているものはなく、母親のお利栄さえ、行方不知になった娘のことを、口にも出さないという有様です。
不思議なのはお安で、どう心境が変化したものか、あんなに仲の悪かった番頭の善七とすっかり仲直りが出来、
「ヘッ、見ちゃいられませんよ、夜になるとあの生っ白い番頭野郎が、離屋《はなれ》に入り浸って、ベタベタしているそうで、ヘッ」
ガラッ八は唾《つば》を吐きます。主人が死んだ後の宝屋は、にらみをきかせる者のないままに、相当乱脈になって行く様子です。
正月もあと二三日という日の朝、霜を踏んでもういちど小僧の今吉が飛んで来ました。
「親分さん、お願いいたしますが」
「何が始まったんだ、大変あわてているじゃないか」
「番頭さんが急にいけなくなって、今朝息を引き取りました」
「え、あの善七とかいった」
「お医者はまた卒中だと言いますが、私にはどうも腑《ふ》に落ちないことばかりです」
「?」
「番頭さんは離屋へ行っていて、急に悪くなりましたが、私が物音を聴いて駈け付けた時は、まだ息があって、主人の時と同じように――七千両、七千両――と繰り返しておりました」
今吉の報告には、なんか容易ならぬものが潜んでいそうです。
「よし、行ってみよう。お前も来るか、八」
「ヘッ、こんな事になるだろうと思っていましたよ」
八五郎は獲物を嗅ぎ出した猟犬のようにいきり立ちます。
市ヶ谷田町へ行くと、打ちつづく事件に、宝屋はさすがに無気味なまでに静まり返って、平次と八五郎の一行が入っても、迎える者もありません。
「仏様は?」
「離屋でございます」
今吉に案内されて離屋へ入ると、
「まア、親分さん方、困ったことになりました。番頭さんがせっかく私と仲直りしたのに、こんな事になって――」
六畳に型のごとく安置した善七の死骸を指して、お安はシクシク泣き始めるではありませんか。
「どうしたのだ、あんなに仲が悪かったじゃないか。こいつが定命でなきゃ、下手人は差詰《さしづ》めお前だぜ」
平次に睨《にら》まれながらも、八五郎はツイこうからかってみたくなりました。女の態度は、空涙にしても、あまりにも人を馬鹿にしております。
「いえ、それはどちらとも思い違いがあったからの事で、打ち明けて話してみると、悪く言うところも、言われるところもありません。――それどころか、私と善七さんはこの間から末の末まで約束した仲なんです」
何という臆面《おくめん》のなさでしょう。平次も八五郎もしばらくは開いた口が塞がりません。
平次はそれをいい加減に聴き流して、ともかくも善七の死骸を改めました。顔を覆った白い布を取ると、思ったより厳しい顔をしておりますが、なんの苦悩の跡もなく、顔にも身体にも、馴れた平次の眼で見ても、人に害《あや》められた形跡は露ほどもありません。
「傷はないな、八」
「耳の穴まで見ましたよ、蚤《のみ》にさされた痕もありません」
「舌も、眼瞼《まぶた》も、口中にも変りはない」
「やはり卒中ですかね」
「医者がそう言うから間違いはあるまいよ」
「でも――」
「お前もそう思うだろう。卒中が二人つづくのは、ないことはあるまいが、少し変だな。それにこの男はまだ三十そこそこだ」
平次はなおも念入りに調べましたが、怪しい節は少しもなく、お安の惚気《のろけ》まじりの弁解を、ただ長々と聴かされるだけです。
念のため、善七の部屋を見せてもらいました。母家の四畳半で、よく片付いておりますが、持物は思いのほか少なく、行李《こうり》が一つと夜具布団があるだけ、その行李の中にも、奉公人の持っている通り一遍のものばかりで、なんの変った物もありません。
「八、天井裏を見ようと思うが、提灯を借りて来てくれ」
「ここに裸蝋燭《はだかろうそく》がありますが、間に合いませんか」
「いいとも、それへ灯を点けてくれ」
押入れの隅に放り出してあった燃えさしの百目蝋燭――紙にもなんにも包まず、埃《ほこり》の中に転がっているのを拾って、
「おや、この蝋燭は変ですよ」
「どうしたんだ」
「古くなったせいか、恐ろしく重いんで」
「古くなって蝋燭が重くなる道理はあるものか、どれ」
その太い百目蝋燭の、半分ほどになった燃えさしを受け取った平次も驚きました。
「なるほど、こいつは変だぞ、八。――十手でこれを砕いてみてくれ、中になんか入っているようだ、――敷居の上でいいとも」
「おや、おや、おや、鉄ですね、これは」
「鏨《たがね》のようだ」
蝋燭の中から飛び出したのは、大人の小指ほどの、鋼鉄で作ったもの、その一端――平に磨いた方を見ると、五三の桐がありありと彫《ほ》ってあるではありませんか。
「親分、そいつはなんでしょう」
八五郎の眼はさすがに光ります。
「迷子札の極印《ごくいん》さ」
「ヘエ、やはり干支《えと》のようなもので」
「そうとも、太閤様の紋だから、申《さる》の歳といった判じ物だろう」
平次の言葉が、明らかに冗談とわかっておりますが、八五郎はいちおう感心してみせます。部屋の外には、誰やらそれとなく中の様子に耳をすましているのです。
「こんな物もありましたよ、親分」
行李の底から見付けたのは慶長《けいちょう》小判が二枚。
「そりゃ良いものが手に入った。落とさないように持っていてくれ――こんな時にでも小判というものに財布の底を覗かしておけ」
「ヘッ」
五
事件は思わぬ発展をしたのです。
善七の行李から見付けた二枚の慶長小判を持って、平次はすぐ金座の後藤へ廻り、当代の庄三郎に逢ってそれを鑑定させると、
「これはいけない。小判は紛《まぎ》れもなく上質の慶長小判だが、極印が偽物《にせもの》だ」
と言下に答えるのです。代々の後藤家は金座の御金|改役《あらためやく》として、天下の通貨を掌《つかさど》り、わけても祖先|後藤佑乗《ごとうゆうじょう》の打った極印に対しては、一種微妙な鑑定法が、一子相伝的に伝えられていたということです。
佑乗の極印が信用絶大であったのはそのためで、後藤の当主の鑑定には、全く疑いの余地もありません。
「真物の小判に、偽の極印を打つとはどういうわけでしょう」
平次も、この関係は呑みこみ兼ねました。普通の贋造《がんぞう》小判は、銅脈かなんかに偽の極印を打ったもので、真の小判に、偽の極印を打つというのは、ちょっと考えられない事件です。
「お勘定奉行でいちおう調べて頂くがいい。が念のため、私の心覚えを言っておくが、先年大阪城御修理のとき、石垣の間から豊家の残党が隠して置いたものとみえて、おびただしい慶長小判が出て来たことがある。その小判は後藤桐《ごとうぎり》の極印のないもので、ことごとく御上に引き上げたはずだが、ことによれば幾枚か、――いやどうかすると相当の数が、人足か請負《うけおい》の手で隠されたかも知れぬ」
「それでございますよ、旦那」
平次の疑いは、一ぺんに解決しました。大阪城修理の請負や人足の中に、宝屋久八が交っていないとは限らず、そのとき持ち出されて江戸へ運ばれた無極印の慶長小判も、五枚や十枚ではなく、あるいは七千両というおびただしい額に上らないとは限らないのです。
事は重大になりました。
平次は、さっそく与力笹野新三郎に報告し、その出役を願って、一挙にこの事件を解決しようとしました。
おびただしい人数がすぐさま市ヶ谷田町に繰り出され、遠巻に宝屋を取り巻くようにして、念入りな調べが始まりましたが、数十人の手で一日がかりの探索もむなしく、宝屋の店にある商売の資本《もとで》の外には、怪しい小判などは一枚も出て来なかったのです。
「怪しいのは離屋だ。あの建物を番頭とお安が執念深く奪い合っていた」
平次の号令で、番頭の死骸は母家に移され、離屋は徹底的に調べられました。天井裏も、床下も長押《なげし》の裏も、畳などは一々裂いて見ましたが、慶長小判はおろか、小粒一つ出ては来なかったのです。
「フ、フ、とんだ大掃除ねエ、煤掃きなら暮れに済んだのに」
ニヤリとするお安、この妖艶な女の毒舌は妙に人を苛立《いらだ》たせます。
「女、舌が長いぞ」
ガラッ八は喧嘩を買って出ました。
「怒ったの、まア、済まなかったわねエ」
「八、その女に掛り合う隙《ひま》に、もういちど番頭の死骸を調べてみるがいい。離屋をあんなに奪い合ったり、急に仲がよくなったり、考えて見ると変なことばかりだ。番頭が、本当に卒中で死んだのなら、俺は坊主になってみせるよ」
平次もツイ我慢がなり兼ねました。
「まア、銭形の親分が坊主に――ホ、ホ、とんだ可愛らしい新発意《しんぼち》が見られるでしょうよ」
「畜生ッ、待っていろ」
八は飛んで行きました。
が、善七の死骸をどう念入りに調べても傷らしいものは一つも見当らず、毒死の疑いも全くなかったのです。
「どれ、俺が見てやる」
とうとう平次もやって来ました。まだ三十を越したばかりの平次は、若くもあり血の気もあり、お安の挑戦に歯を喰いしばってはいられなかったのです。
が、それも結局は失敗でした。
「まだ生きているかも知れませんよ、フ、フ」
女はその傍に立って、冷たい笑いを笑っております。
「八、髷《まげ》を解いてみろ」
「女は元|鍼《はり》の名人の囲われ者だと言ったが、人の身体の鍼壺《はりつぼ》は六百五十七穴、そのうち命取りの禁断の鍼が一ヵ所あるということだ」
「あッ、ありましたよ親分」
八五郎は踊り上がりました。髷を解いた死骸の頭――毛に隠れて蚤に螫《さ》されたほどの小さい痕が、ありありと残って居るではありませんか。
「あッ、八。女が逃げるぞ」
「えッ、神妙にせい、御用だッ」
咄嗟《とっさ》の間に、飛び出そうとする女は、八五郎の馬鹿力に、無手《むず》と押えられたのです。
六
番頭の善七を殺したのは、間違いもなくお安の仕業でした。
善七と仲直りをしたと見せかけ、酒で性根を失わせて、急所に五寸という長い鍼を打ったのです。
ここまでは、スラスラと白状したお安が、慶長小判の隠し場所となると、知らぬ存ぜぬの一点張りで、なんとしても口を割りません。
「平次、まだ小判は見付からぬか」
ときどき笹野新三郎に、こんな事を言われるのも、平次に取ってはかなりの苦痛です。
「やはり千両箱に入っているのでしょうか、親分」
そんな事を言うのは八五郎でした。
「いや、大阪城の石垣の間から見付けて、東海道をはるばる人目につかぬように江戸まで運んだんだから――待てよ八、お前あの偽極印《にせごくいん》の小判を持っているかい」
「とんでもない。御奉行所へ差し上げましたよ、大事な証拠だ」
「ちょいと借りて来てくれ。明日でいいよ」
その翌る日、八五郎は南の奉行所から偽の小判を借り出して来ました。
「こう見ると、真物《ほんもの》と変りはないね、――もっとも、こちとらは滅多に真物に御目にかかることもないが――」
「偽でもいいから三日ばかり持ってみてえ」
「馬鹿だなア」
そんな事を言いながら、物尺を持ち出して平次は念入りに小判の寸法を測りました。
「親分、小判の寸法なんか取って、何をやるんで」
「安心しろ、贋物を造るわけじゃない――ところでお前は算盤《そろばん》がいけるか」
「二一天作の五でしょう、あいつは虫が好きませんよ」
「一と坪の壁へ、これを一枚並べに塗り込んだとしたら、何枚並ぶだろう、――慶長小判は横一寸三分の縦二寸三分五厘だ、壁の広さは五尺七寸四方として」
平次は算盤《そろばん》を出しましたが、こいつが面倒臭くなると、ガラッ八に手伝わせて、壁の表面へ小判を当てて、チュウチュウタコカイと勘定しましたが、結局、
「一と坪に千と三十二枚だ、親分」
ガラッ八は頓狂な声を出します。
「荒壁へ叩っ込むように小判をメリ込ませて、上塗りをすると、一坪に千三十二枚で、あの小さい離屋に七千両の小判を隠すのはなんでもないことになるね」
「ヘエ――驚いたね」
「小判というと、千両箱の事ばかり考えて嵩張《かさば》るものと思ったからいけなかったんだ。サア、行こう、八」
二人は市ヶ谷に飛びました。
*
離屋の壁の中から七千枚の小判が出て来た時は、八五郎は思わず歓声をあげました。
「これで何もかも済んだ。とんだ骨を折らせたな、八」
平次もさすがにホッとした様子です。
「まだありますよ、娘のお清はどこにいるんでしょう。まさか殺されたわけじゃないでしょうね」
八五郎は相変らず、娘のことばかり心配していたのです。
「心配するな、ピンピンしているよ」
「ヘエー? 親分は知っていたんで」
「いや、知っているわけじゃないが、――あの母親の顔を見るがいい、近頃はすっかり明るくなっているだろう」
「ヘエ?」
「あれが一人娘が行方不明になった母親の顔かよ、八」
「?」
「お清を隠した者が、そっとあのお袋に耳打ちしたのさ、――お清を此家《ここ》へおくと命が危ないから、しばらく私が隠しておきます――といった具合に」
「誰です、そいつは?」
「手代の勘次郎だよ、――あれはいずれ娘の婿《むこ》になるだろう、お清は不縹緻《ぶきりょう》だが、心掛けの悪い娘ではなさそうだ」
「ね、親分、私には解らない事ばかりですよ。いったいこれはどうした事なんで?」
八五郎はとうとうしびれを切らしました。
「よく解っているじゃないか、主人の久八と番頭の善七が大阪城で七千両の小判を盗み出し、蟻《あり》が物を運ぶように、少しずつ運んで江戸へ持って来たのさ。お安はたぶん以前は久八の妾かなんかで、七千両の経緯《いきさつ》をよく知っていたんだろう」
「主人の久八を殺したのは誰です」
「誰でもないよ、主人はやはり卒中で死んだのが本当だろう。それを善七はお安の仕業《しわざ》と思い、お安は善七の仕業と思ったのさ。最初から二人が相談してかかれば、知れっこはないのに、疑い合ったのが運の尽きだよ――勘次郎がこの様子に気を揉《も》んで、人を頼んでお清の後を踉《つ》けさせ、自分の叔母さんの家へ隠したので、騒ぎが大きくなったんだよ」
「ヘエ」
「離屋の壁の中に隠した小判は、極印がなくて使えないので、番頭の善七は鏨《たがね》の極印をこしらえて、その小判に打つつもりだったんだろう。見本に二枚だけ極印を打って見付かったが、七千両の小判が皆んなバラ撒《ま》かれたら大変なことだった。危ない話さ」
平次もホッとした様子です。
まもなくお安は処刑され、宝屋は閼所《けっしょ》になりましたが、勘次郎とお清は小さい店を開いて、幸福な日を送ったということです。そしてあの小僧の今吉も――。
浮世絵師
一
江戸の浮世絵は、菱川師宣《ひしかわもろのぶ》に始まって、喜多川歌麿に大成されたと思われており、事実それに違いありませんが、初期の浮世絵のうちで、どうしても筆者の見当の付かないのが、相当に流布されており、江戸の庶民の生活を彩《いろど》ってその喜びとなり、潤《うるお》いとなりながら、いまだに、名も素姓《すじょう》もわからぬ、隠れた天才が存在していたのです。
浮世絵は職人芸術であり、狩野派《かのうは》などの御用絵描きの物々しいポーズに対抗し、あくまでも消耗品的な立場を持したために、初期の肉筆浮世絵には、筆名の署名のないのが普通で、署名のあるものの多くは、後世の偽物か、ためにするところのある、画商などの細工と思われております。
その隠れた芸術家――初期の浮世絵師の中に、波多野清五郎という天才があります。月信と号していたのですが、ほとんど署名した作品がなかったので、今ではその事蹟《じせき》伝記を知る由もありません。あるいは寛政以前の歌麿と間違えられたり、宮川派の無名の才人と思われたり、まことにたよりないことであります。
だが、その美人画は、豊麗|優婉《ゆうえん》と申そうか、肉筆浮世絵の陥りやすい、泥人形のような無表情な死色《デッドカラー》を脱却して、いかにも血も通い、神経もピチピチする魅力的な女姿で、生命力が躍動しているのです。それは、月信の優れた天才のせいでもあったが、一つは異常にすぐれたモデルを持っていたためで、波多野月信自身がまた、そのモデルに打ち込んで全身全霊をあげて、モデルの美しさに|ひたり《ヽヽヽ》きったためとも言えないことはありません。
さて、前書きが長くなりましたが、本名を清五郎といった絵描きは、この事件の起こったころは、米沢町に住んでおりました。俗に薬研堀《やげんぼり》の先生と言われ、画壇的には軽蔑《けいべつ》されながらも、江戸の庶民の間からは、なかなかに慕われていたのです。
内儀のお八重さん――と言っても、主人月信の好みで、まだ眉も落さず、歯も染めず、娘姿のままで暮しておりましたが、それは世にも稀《まれ》なる美しさで、夫月信にとっては、掛け換えのないモデルであり、その夢のように霞《かす》んだ眉《まゆ》を剃《そ》らせ、真珠のように美しい歯を、タンニン鉄の臭い汁《しる》〔鉄漿《おはぐろ》〕で、黒々と染めさせるに忍びなかったのでしょう。
お八重は取って十九、人の女房にしておくのは、――勿体ないような、痛々しいような、エッ、畜生奴、腹が立つ――と八五郎は毎々そう言っては、銭形平次に笑われておりました。八五郎にとっても心の中のマスコット、触れることの出来ない神聖なベアトリーチェだったのです。
後の喜多川歌麿が、難波屋《なんばや》お北という素晴らしいモデルを持ったばかりに、あの千枚にも達しようという、素晴らしい美人画を作り、鈴木|春信《はるのぶ》は、笠森《かさもり》おせんを得て、浮世絵の世界に、不朽の大業績を残したように、波多野月信も、せめてもう五年か十年生き伸びていることが出来たら、春信、歌麿にも劣らぬ傑作群を遺《のこ》したかもわかりません。
「ね、親分、あんまり女が綺麗過ぎると、いろいろ祟《たた》りがあるんですね」
八五郎がそう言って来たのは、その年が明けて間もなくのある暖かい日でした。
「相変らずお前の話は途方もないよ。女が綺麗で祟りがあった日にゃ、ずいぶん、気のもめる口もあるだろうが、それでもみっともないよりは諦めがつくだろう」
松は取れたばかり、纏《まと》まったお小遣いも、良い御用始めもなくて、平次は相変らず煙草《たばこ》に明け煙草に暮れ、脂《やに》臭い正月を持て余しておりました。
「もっともみっともないのも、化けて出るには都合がいい」
「お前はいったい何を話しに来たんだ」
「米沢町の波多野月信先生のお内儀、親分も御存じでしょう」
「聴いたことがあるようだ、たいそう綺麗なんだってね、――お静は近所で育ってよく知ってるが、お八重さんは観音様の化身《けしん》みたいだ)ともったいなことを言ってるよ」
「女もあれくらいのきりょうになると、一丁くらい先から来るのがわかりますね」
「嫌な野郎だな、鼻なんかヒクヒクさしやがって。俺のところの女房は、どうせ糠味噌《ぬかみそ》臭いよ」
平次は間髪を容れずに|きめ《ヽヽ》つけました。
「あら、まア」
お静はちょうど落しに首を突っ込んで糠味噌を掻き廻していたのです。お長屋風景は、八五郎なんかに遠慮をしてはおられません。
「相済みません。悪気で言ったわけじゃなかったんで」
「心やす立てに、落しなんか開けたりして、済みません」
平次の|からかい《ヽヽヽヽ》が連発しそうな空気なので、お静はあわてて井戸端へ避難《ひなん》してしまいました。
「その月信の女房のお八重さんは、三味線の名人と言われた、小舟町の勘次郎の娘ですが、一年前両親とも死んじまい、家の芸も人に譲り、望まれて月信のところに嫁入りしました。家にはたった一人、内弟子とも下男ともつかぬ和三郎という男が残っているのを、夫の月信が承知の上で米沢町に引き取り、自分は相変らずの娘姿ながら、すっかり世話女房になりきって、月信の世帯をくり廻しています。貧乏というほどじゃないが、どうせ筆一本の町絵描きだから、たいした金があるわけもありません」
「ところで、その祟りというのはなんだ?」
「そのお八重さんが、物干から落ちて怪我《けが》をしたんですよ」
「よくあることじゃないか、祟りや物の怪《け》じゃなくて、間違いだろう」
「間違いで物干の板がはずれるとしても、一寸以上も切り詰めてあったとは、どうです」
「なるほどな」
「下は石置き場で、落ちたらひとたまりもありゃしません。しん粉で拵《こせ》えて紅《べに》を差したような華奢《きゃしゃ》なお八重さんは、大きい声で脅かしても眼を廻しそうで、その痛々しさというものはありません。あっしの家からは新《あたら》し橋《ばし》を渡ればすぐだから、なんの気もなく行き合せて、その騒ぎを見たからいうのじゃありませんが、亭主野郎の月信が、涙を流しながら介抱していましたよ。あっしも、見る者の果報で、ちょいと覗きましたがね、白いあんよが二本、向こう脛《ずね》を少々|擦《す》り剥《む》いただけ、あっしなら、唾《つばき》でもつけて、二つ三つ撫でておくと、翌日は治ってしまいますが、――奇麗なものはヤワに出来てるんですね」
「……」
平次は黙って次を促《うなが》しました。なにか事件がまだまだ発展しそうな気がしたのです。
「月信にはお咲という妹があります。二十三の嫁《い》きおくれで、きりょうは悪いが、物事にぬかりのない親切者で、世間の鬼千匹《おにせんびき》という譬《たとえ》を嘘にして、嫁のお八重とそりゃ仲が好い」
「そんな例《ためし》もあるだろうよ」
「滅多にないことですね。ちょうどあっしが顔を出すと、兄嫁のお八重の脛の傷の手当てをしながら、自分の真っ黒な脛を叩いて『同じことなら、この脛と代わってやりたかったのに』と涙ぐんでいましたよ。物の怪や祟りだって、選り好みがあるから、あんな真っ黒な大根足には取憑《とりつ》かねえ」
「口の悪い野郎だ」
「もっとも、これだけのことじゃ十手にも捕縄《とりなわ》にも及ばないから、ひとつ見得を切って帰って来ましたよ。あっしが見ただけでも、あの家にはなんか祟りがあるに違いありませんよ。――お八重さんに間違いがなきゃいいが、それだけに心配で」
「まだほかに変ったことがあるのか?」
「下男の和三郎は、内弟子だか居候だか知らないが、猫の子のようにおとなしくて、気味のよくない野郎ですよ」
「向うじゃお前のことを、そう言ってるよ、気味がよくねえ岡っ引だ――とね」
「その和三郎というのは、お八重の親の寛次郎がまだ元気で売れっ子で、人気のあった頃、橋の袂《たもと》から拾って来た棄児《すてご》だったそうで。それから間もなくお八重は生れたが、せっかく拾って育てたものを棄てるわけにも行かず、三つ年下のお八重の兄のようにして育てたが、これがまたなんの因果《いんが》か生まれ損ないで、少しせむしで青瓢箪《あおびょうたん》で、貧乏福助のような野郎ですよ」
「なんという口だ、貧乏福助という奴があるか」
「相済みませんね、この綽名《あだな》はピッタリしますよ。ともかく、十八年もの間、あのお八重さんと一緒に育ったんですから、お八重さんの綺麗さも知り尽くしているわけでしょう。もっとも兄妹のように育って、子供の時は喧嘩もし泣かせもし、わがままを言い合いながら育っているから、どうというわけはありませんがね」
「……」
「その和三郎は、大きくなって下男とも居候とも、内弟子ともなく、三味線の寛次郎のところで育ちました。気味のよくねえ男で、しばらく小舟町におりましたが、寛次郎夫婦が死ぬと、行くところもないし、三味線よりは庭箒《にわぼうき》を持つほうが柄《がら》に合うから、ズルズルと米沢町の月信先生のところへ転げ込んでしまいましたよ。気はきかないけれどよく働くし、妹のようにして育ったお八重のこととなると、飼犬よりも忠義だから、月信もそのまま居候にしているようです」
「話はそれだけか」
「まだあります。これからが面白くなるんで」
「なんだ、下手な辻講釈《つじこうしゃく》みたいに」
二
八五郎の話はまだまだ続きそうです。
お静は塩煎餅《しおせんべい》を買って来て、お茶を二度も換えましたが、油の乗った長広舌《ちょうこうぜつ》は、なかなかに尽きそうもありません。
「もうたくさんだよ、八、若い嫁が向う脛に擦り剥きをこしらえたくらいのことで、お前と半日塩煎餅を付合わせられちゃかなわない」
「でも、ね、親分。あっしは、月信先生の描いた、尺五|絹本《けんぽん》とかの美人の図を見ましたが、たいしたものですよ。御新造のお八重さんを生写しで」
「一向つまらねえ話じゃないか」
「それが|つまる《ヽヽヽ》んですよ親分、――去年の夏ごろ描《か》いたものでしょうな、お八重さんが盥《たらい》の中に片手をひたして、肌脱ぎになって、化粧をしているところなんで。首筋から上の生えぎわの美しさ、顔を少し斜めに、右手で襟を洗っているが、――なんとも言えないのは、その腕の付け根から、お乳の上へかけて」
「馬鹿野郎ッ、涎《よだれ》を拭け」
「相済みません」
「その絵は月信先生も惜しんで人に売らないばかりでなく、滅多なことでは人にも見せませんが、私にだけ、――どうだ、こんなものはとそっと見せてくれましたよ。あの絵を売るのは、自分の恋女房を手離すような気がして、月信先生も思いきれないんでしょうね、無理もありませんよ」
「お前が買って来たらどうだ、それほどの執心《しゅうしん》なら」
「冗談じゃありません。金持の隠居が、五十両と積んだが、月信先生はウンと言わなかったそうで。もっとも、こんどは、月信先生一代の意気込みで、四季《しき》の美人を描くんだそうで、お八重さんを四通りに写すんでしょう。大変な張りきりようですよ。出来上がると、奈良茂とか紀文とか、大金持が買ってくれるそうですが、いざとなると、月信先生また手離すのが嫌になるにきまってますよ。女房を絵に描くのも考えものですね」
「それっきりか、――いよいよ塩煎餅もなくなったようだ」
「話はまだあるんですよ、親分」
「早くブチまけなよ。女房を絵に描いて脂下《やにさ》がるなんざ、結構な道楽じゃないよ」
「それをまた、魅入《みい》られたように、一日いっぱい眺めている人間があるとしたらどうでしょう」
「お前だろう」
「銭形の親分でも、見当がはずれましたよ。ほかならぬ居候の和三郎、墨を磨《す》ったり、絵の具を解いたり、膠《にかわ》を煮たり、横から眺めたり、縦から眺めたり、日がな一日、お八重さんと絵とを眺めている」
「つまらねえ話じゃないか、――両国の見世物の看板を半日眺めて暮らすお前だって、あんまり賢こくはない、馬鹿はどこにでもあるよ」
「へ、あっしも馬鹿の仲間なんで?」
「お前は馬鹿なもんか、馬鹿の取締りさ」
「なお悪いや、――ところがね、近ごろ変なことがあるんですよ」
「変なこと?」
「月信の名が高くなると、私を描いてもらいたいというきりょう自慢の女が出てくるわけでしょう」
「ありそうなことだな」
喜多川歌麿のモデル難波屋お北、高島屋お久、富本豊雛《とみもととよひな》の間にも、激しい競争があったかも知れず、鈴木春信のモデル、笠森お仙と銀杏《いちょう》茶屋のお藤の二人は地理的に遠過ぎて、なんの関係もなかったと思われますが、はるか後の世の亀戸豊国などは、相当の女出入りと、女鞘当《おんなさやあて》があったらしく思われるのです。それはともかくとして、その頃の波多野月信が、モデルの大群に攻め立てられて、相当問題があったにかかわらず、お八重という素晴らしい美女を嫁にした後は、女出入りやモデル競争もしばらくは跡を絶った様子です。
「今でも、執《しつ》こく月信に持ち掛けるのがありますよ。両国の水茶屋のお照、踊りの師匠のお雛《ひな》、わけても抜群の惚れ手は」
「わけても――抜群と来たね、お前の話を聴いていると、ときどき学《がく》が邪魔をして運びが悪くなっていけねえ」
「まったく凄い惚れ手ですよ。昔は小舟町でお八重と張り合った二人娘の一人、錺屋《かざりや》のお蝶《ちょう》というのが、お八重に負けて、清五郎の月信を取られたのが口惜《くや》しいと、――女の一念は怖ろしい」
「化けてでも出たのか、それとも呪《のろ》いの釘」
平次の受けも少し遊びが入りました。
「そんな古風なことはやりませんよ、今時の娘ですもの。――お八重の後を追っかけるように、浮世絵師波多野月信の隣の搗米屋《つきごめや》恩田屋六七のところへ嫁入りした」
「それはどういうわけだ」
「すこしでも月信の側に行きたいのと、間がよくば、お八重から月信を取り上げようという、深慮遠謀《しんりょえんぼう》だ」
「深慮遠謀と来たか、真田幸村《さなだゆきむら》みてえな女だ――お前の話はいちいち難波戦記みたいな道具立てだ」
「太《ふて》え女ですよ。惚れた男の隣へ嫁入りして、窓から覗いたり、お勝手から合図を送ったり」
「それをお前見たのか」
「ちょうど窓から顔を出してるところを見ましたがね、これもなかなかの好い女ですよ。変な様子をするのは、家中の者が皆んなそう言っていまさア」
「それっきりなら、なんでもないじゃないか」
「なんでもないことはありませんよ。そのお蝶という女は、月信にうまく取り入って、とうとう絵姿を描かせているから難儀じゃありませんか」
「どんな絵だ」
「鏡に向って、化粧をしているところ、――前を向いちゃお八重さんに済まないとかなんとか言って、大肌脱《おおはだぬ》ぎの後向き百銅磨《びゃくどうみが》きの大鏡に向いて、クネクネと品を作って描かせるんだから、こいつは見ただけでも難儀じゃありませんか」
「亭主がよく承知したことだな」
「米屋の六七は、働くほかに望みも思慮もない男で、女房をもらう時だけは、恩田屋の身上《しんしょう》を半分投げ出して、支度金から結納まで、たいした弾《はず》みようでしたが、あの綺麗なお蝶が自分の女房ときまると、もとの糠《ぬか》だらけの六七に還って、せっせと溜めることばかり考えていまさア」
「なるほど、そういう男もあるだろうな。恩田屋の身上はどうだ」
「昔はずいぶん良い暮しでしたが、お蝶を嫁にするについて、びっくりするほど費《つか》ったそうで、今じゃ搗《つ》き男にも暇を出し、亭主の六七が一人で働いていまさア」
「気の毒でもあるな」
「波多野月信の下男――と言っても居候のようにしている和三郎が、不思議に米屋の六七と仲がよく、日に三度も訪ねて行って、無二の仲になっていますよ」
「その和三郎が米搗きの手伝いでもするのか」
「冗談じゃありませんよ、青瓢箪のヒョロヒョロの和三郎に、あの思い唐臼《からうす》が踏《ふ》めるものですか。留り木につかまって、弾みをつけて、片足で踏むんだが、ありゃ力だけでも出来ず、馴れだけでも続きゃしません」
「たいそう詳しいんだな。お前にその心得はあるのか」
「百姓がヒマになると、越後から搗き男が江戸へ来て、冬中搗いて行きます。越後は米搗き、能登《のと》は三助、越中は薬売り、北国の者はよく稼ぎますね」
「その和三郎の話の続きはどうした?」
「和三郎と来ては、貧乏福助でヨチヨチしているから、居候なみの仕事も出来ませんよ。三味線も空《から》の下手《へた》だそうですが、不思議に器用な男で、小細工をしては、波多野家や、恩田屋から調法がられてるようで、人には一徳はあるものですね」
「俺達はその一徳もないから、十手捕縄にしがみついて暮らす」
平次は生れながらの不器用で、こう言って苦笑いするのです。
三
浮世絵師月信の一家、わけてもその若い女房のお八重のことは、銭形平次も、それっきり忘れておりました。八五郎の集めて来る、江戸の市井《しせい》の噂話《ゴシップ》の一つ一つは、忙しい平次には、取り合っている隙《ひま》もありません。
でも、恋女房のお八重を娘姿のままにして置いて、その夢見るような美貌と、匂うばかりの肉体に陶酔して、生命を賭《か》けて彩管《さいかん》を揮《ふる》う浮世絵師月信の姿は、平次にも想像されないことはありません。
隣の米搗き屋の女房がどうであろうと、水茶屋のお照や、芸子のお雛《ひな》が何をしようと、しばらくはこの鴛鴦《えんおう》の夢は破れそうもなかったでしょう。
ところが、妙なところから、妙な口火が点ぜられました。
「親分、ちょいと来てみて下さいよ」
八五郎が飛び込んで来たのは月が変ってから、ある生暖かい昼頃でした。この分では桜も咲くだろうと、庭先に出て、春の陽の喜びを、物の芽と共にホカホカと享楽している時でした。
「なんだ、どこへ行くんだ」
「米沢町の絵描きの家ですよ」
「その綺麗な女房がどうかしたのか」
「お八重さんでなくて仕合せで――あの月信先生の妹のお咲が死にましたよ」
「何が仕合せだ」
「相済みません。悪気で言ったんじゃないんで」
「悪い口だよ、お前は、――お咲さんと言ったね、気の毒じゃないか、たいそう心掛けの良い女だったというが」
「きりょうは悪いが、評判はよかったようで」
「災難で死んだのか、まさか――」
「殺されたわけじゃありません。過《あやま》ちですね」
「過ちで死んだのなら、俺が行くまでもあるまい」
「でも、気になることがあるんですよ。死にぎわに一度息を吹き返して――やられたッ、口惜しい――と言ったそうで」
「誰がそれを聴いた?」
「介抱《かいほう》した者は皆んな聴いていますが、あっしに教えてくれたのは、あの青瓢箪の和三郎で」
「行ってみよう、妙に腑《ふ》に落ちないことのある話だ」
平次がその気になったのは、月信をめぐるもろもろのモヤモヤに、妙に気になるものがあったからでした。
米沢町の波多野月信の家というのは、その頃の浮世絵師らしく、路地を入ったケチなしもたやで、鼻の先に、米屋の物置が突っ張っており、枕の側で、早朝から唐臼を踏む音が響き渡るといったところです。
でも、月信の家は、流行《はやり》の浮世絵師らしく、小体《こてい》ながら小ざっぱりと住んでおりました。裏にはかなり大きな物置があり、二階から庇《ひさし》つづきにその上に出られるようになっておりますが、問題のお咲は、昨日の夕方物干に洗濯物を取り込みに出かけ、物干の梁《はり》に打たれて、鼠落しの鼠のように、他愛もなく死んでいたというのです。
「銭形の親分、とんだ、お手数で」
迎えてくれた主人の月信は三十台の好い男でした。蒼白くて不健康そうですが、芸人や居職《いしょく》によくある、あまり日光の恩恵に浴さない、滑らかではあるが、痛々しい感じの男です。
「とんだ災難でしたね」
平次はそのまま奥ヘ通されました。奥といっても浅間な住居で、間取りの大部分は、月信の仕事部屋になり、その隣の四畳半に、お咲の死骸を取り込み、ささやかな供物を並べてあります。
「……」
その仏様の裾《すそ》のほうで、そっと顔をあげたのは、平次も驚きました。十八九の若々しい女、眉の霞《かす》んだ、歯の美しい――がそれは娘ではなくて、月信の女房のお八重であったことは、物腰でもわかります。
毛の多い、顔の小さい、なんともそれは不思議な顔でした。表情的な大きい眼と、顎《あご》から襟《えり》へ流れる線の美しさ、浮世絵の月信が、命がけで手に入れたというのも、決して単なる形容ではなかったでしょう。
身扮《みなり》は至って地味ですが、青い袷《あわせ》も、赤い帯も、自由自在に反色を駆使《くし》する、画家の夫の好みでしょう。
平次はそれに挨拶して、お咲の死骸を調べました。色が黒くて、少し骨張っているだけで、決して醜《みにく》いというほどの顔ではなく、兄嫁のお八重と対照して、あまりに見劣りがするので、大分損をしているのでしょう。身体はたいして頑丈ではありませんが、驚いたのは、恐ろしく不気味な表情です。恐らく、断末魔の凄まじい苦悩が、その醜いといわれる顔にコビリついたのでしょう。
傷は喉首《のどくび》を絞められた一ヵ所、これはすさまじいものでした。物干台の上の梁が落ちたくらいのことでこれは考えられない痛手ですが、死骸の喉笛はひどく押し潰されて、声も立てずに死んだことでしょう。
他に肩のあたりに、ちょっとした皮下出血もありますが、それはたいしたことではなく、致命傷というのは、梁に挟まれたという、喉笛の傷一つだけ。
「昨日の夕方でした。大きな物音がしたので、お隣の物置から、なにか落ちたのかと、気にもかけずにおりましたが、しばらく経ってから、妹のお咲がいないと言い出し」
「それを言い出したのは?」
「和三郎だったように思います。裏庭を掃《は》いていた和三郎が、お咲さんが見えないようだ――と外から声を掛けるので、家の中を見ましたが、それらしい影もないと思うと、これが――」
月信は女房のお八重を指さしながらつづけました。
「先刻《さっき》干物を取り込むのを忘れたと言って、二階の物干へ行ったようだと申しますので私が行ってみると、二階の物干で」
「……」
「お咲が物干の欄干《らんかん》に凭《もた》れたまま、上から落ちて来た梁に打たれて、死んでおりました。それから大騒ぎになり、下へ抱きおろして水を打《ぶ》っかけたり呼び起こしたり、いろいろ手をつくしましたが、のど笛をひどくやられたようで、正気が付きません。――やられた、口惜《くや》しい――と言った、と、和三郎は申しますが、それは物干から抱き起こした時のことかもわかりません。――家の中にも近所の衆にも、お咲を憎んでいる者なんかありませんから、死にぎわの譫言《うわごと》だったと思いますが」
月信は、昨夜《ゆうべ》のことを細々と説明するのです。
「折合いの悪い人なんかなかったわけで」
平次はチラとお八重を振り返りながら言いました。
「お咲と折合いの悪い人間なんか、あるわけもございません。――小姑《こじゅうと》には違いないけれど、これとは大の仲よしで、お隣のお蝶さんとも、妙に馬が合っていると、――皆んな申しております」
「それではともかく、物干を――」
平次は立ち上がると、月信は案内してくれます。二階の六畳は月信夫婦の部屋で、庇から突き出した物干は、江戸の下町にはよくある、簀《す》の子《こ》張りの二坪ほどのもの、頑丈な柵《さく》をめぐらして、上には、紐やら竿《さお》やらを渡すための、これは思いのほかしっかりした梁が横たえてあります。
その奥は五寸角ほど、もったいないほどの材木ですが、長いあいだ陽に晒《さら》されて、家の者も気が付かぬうちに、西の方の口から腐《くさ》れが入り、ぼろぼろに砕けて、柱からはずれて落ちたのもやむを得ないことです。
その梁が落ちて来て、物干の手摺《てすり》にもたれて、夕方の町々の景色を眺めていたお咲の首を打ったのでしょう。それにしても、お咲の傷は、首筋よりも顎の下のあたり、喉笛にひどいのは不思議ですが、何はともあれ上から落ちて来たこれくらいの梁を取り除け兼ねて、若くて達者な女が一人死んでしまうことなどは考えられません。
「八、その梁を持ち上げてみろ」
「こうですか」
八五郎は梁を持ち上げました。
「どうだ、それに打たれて死ぬか」
「あっしなんか、くしゃみ一つすると、こんな梁なんか、ハネ飛ばしてしまいますよ」
八五郎は気楽なことを言います。
「でも親分」
月信は後ろから声を掛けました。
「なにか?」
「その梁は前から一方だけ落ちて一方の端は東の方の柱の途中に引っ掛っていました。危ないと思いながら、女どもや私では手をつけられません。手摺の上へ、斜めになった梁を、そのままにしていたのへ、妹がなんだって首を突っ込んだのでしょう」
「首を突っ込んだ?」
「そうとしか思えません。梁が一方だけ落ちて、手摺の上へ三角の隙間《すきま》を拵《こさ》えていたのへ、お咲は首を突っ込んだ拍子に、梁が落ちて来て、お咲は喉《のど》を絞められて死んだことでしょう」
そんな都合のよい過失死があるものだろうか、実際の現場を見なければ、平次もおそらくは信用しなかったことでしょう。
「この物干の向うは何になっています?」
「お隣の恩田屋さんの搗き場ですが、ちょうど夕飯時で、六七さんも気が付かなかったそうです」
「四方《あたり》はもう暗かったわけで?」
「灯りをつけたばかりでした。外で働いていた和三郎も、家へ入って来て、灯りをつけていざ飯という時、お咲のいないのに気が付いたんで」
「そのとき、家の中の顔は皆んな揃ったわけですね」
「揃っておりました。――そう言った和三郎が先に立って二階まで覗いたそうですが、物干は気が付かなかったそうで。少し経ってお八重に言われて物干に気が付きました」
「そんなことでは、過ちというほかはないでしょうよ、どりゃ」
平次は立ち上がると、お茶の支度でもするつもりか、女房のお八重は階下《した》へ降りて行き、主人の月信もそれを追います。
「八、妙なものがあるよ、――これはなんだと思う」
平次が指さしました。顔を挙げると、お隣の米屋の屋根の上、ヒョロヒョロと伸びた梅の枝に、輪にした荒縄《あらなわ》が、ブラリと引っ掛っているではありませんか。
「新しい縄ですね、――子供の悪戯《いたずら》かなんかでしょうよ」
「だがな、八。下から抛《ほう》ったんじゃ、ちょうど縄の輪のところが、あんなうまい具合に引っ掛かるものじゃないよ。――それからもう一つ変なものがあるよ」
「なんです」
「庇の先に、竹の雨樋《あまどい》があるだろう」
「ヘエ」
「その中ほどのところに、光るものがあるが、ありゃなんだえ」
「待って下さいよ」
八五郎は庇を渡って、物干台の下から、雨樋のところへ行くと、その光るものを拾いました。
「なんだ、鏡のようだが」
「女の持っている懐中鏡ですよ」
「白銅《はくどう》の良い鏡だな、これがどうして庇の下へ落ちていたんだ。女はこれだけの鏡を落して知らずにいるはずもないが」
「お咲が死ぬ間ぎわに落したのかも知れませんね」
「こんな鏡は安くないよ。上等の紙入れにでも入れておくものだ。物干台の上に持って登るものか」
だがしかし、これは平次の負けでした。あとでお八重に訊いてみると、それはお咲が日頃大事にしている懐中鏡だったのです。
「もういいでしょうね、下へ降りて」
「待ってくれ――少し前に、お八重が物干から踏みはずして落ちたと言ったな」
「向う脛を擦り剥いたときでしょう。――ちょうどこの辺ですよ。床《ゆか》の簀《す》の子が傷んでいるんでしょう。素人細工で、和三郎が直したようだが、その中ほどの板が二枚、鋸《のこ》で引っ切ってあるはずです。その上を踏んで、お八重さんが、可哀そうに、|あんよ《ヽヽヽ》を」
「おや、この板はわざと切ったに違いないが、ひどく不揃いな鋸目《のこめ》だよ。俺よりも無器用な者のやった仕事だ」
「そうでしょうか」
「鋸使いの上手なものは、頼まれたって、こんな細工は出来るものか」
平次の調べはそれで終りましたが、確《しか》とした証拠もないので、お咲の死はやはり過ちと見るほかはなく、階下《した》に降りてお茶を入れてもらったりして、主人月信の自慢の絵を見せてもらったりしました。
大きい居間ですが、絵の道具やら絵絹を張ったワクがいっぱいで、主人も客も小さくなって相対します。
八五郎が取りなし顔に、絵を見せてくれとせがむと、主人の月信は恥じ入るような得意さと卑下《ひげ》したような尊大さで、裏返しになった絵のワクを次から次と表向きに見せてくれます。
「これが、御新造で」
八五郎は自分のことのように言いました。盥《たらい》に片手落した、よくある化粧美人のポーズで、美しい生えぎわから匂う肌色、まことにめでたい限りですが、その次の鏡の前の化粧美人を見せられたときは、平次も息を呑みました。後向きの半裸体で、鏡に映った自分の顔に、夢心地に陶酔する美人の表情は、お八重をモデルにした、安らかな盥の美人と違って、これはまた存分に嫌味ではあるが、絵絹から脱け出して、人に食い入りそうな媚態《びたい》です。
「どうも有難うございました」
平次はなにも言わずに、主人月信と女房のお八重に暇《いとま》をつげ、そのまま外へ――と思いましたが、念のため引返して、米屋の間を入ると、小さくて蒼白い男が、二倍もありそうな、恐ろしく頑丈な男と立ち話をしております。
「あ、銭形の親分」
向うは知っているらしく、あわてて身を翻《ひるがえ》しました。
「和三郎ですよ」
八五郎は耳打ちしました。それと話していたのは、間違いなく、米屋の六七でしょう。
「恩田屋さんに少し訊きたいが」
「ヘエ、どんなことでしょう?」
六七が平次の側へ進むのを|しお《ヽヽ》に、八五郎は和三郎を誘って米沢町の往来の方へ行きました。
「ほかでもないが――月信さんが描いている絵を、お前さんも知っているだろうな――鏡の中の美人だが」
「ヘッ、私も見せつけられました」
「すると、何もかも承知の上で」
「いえ、文句を言ったところで、手のつけようはありません。人の女房を絵に描いてはいけないという御法度《ごはっと》もないわけですから」
六七はにがにがしく舌打ちをするのです。
「いや、とんだ手間取らせて済まなかったね。仕事も忙しいだろうが」
「仕事はうんとありますが、私一人じゃどうにもなりませんよ」
越後からくる農閑期の米搗き人足も雇えないのでしょう。美しい嫁のお蝶をもらうために、身代を半分以上投げ出したと言われる恩田屋六七が、その美しい女房をモデルにした絵をにがにがしいことに思うのは無理もないことかもわかりません。
無口な六七を、それ以上|捉《とら》えても、なんの得るところもないとわかった平次は、八五郎を呼んで、米屋の裏から抜けました。
「親分、――そっと後ろを見て下さい。――あれですよ、あの女ですよ」
そう言われて振り返ると、米屋の家の窓から、白いものが|ほのめき《ヽヽヽヽ》ます。言うまでもなく若い女のはしたない隙見《すきみ》の顔で、赤い唇とゆらゆらと動く瞳《ひとみ》が、妙に煽情的《せんじょうてき》で、良い加減平次の胸を悪くさせます。それは言うまでもなく、六七の女房の――あの月信にまつわりつくお蝶という女でしょう。
四
「サア、大変ッ」
八五郎がやって来たのは、それから三日目。
「何をあわてるんだ。浮世絵師の女房がどうかしたというのか」
平次も時には先を潜《くぐ》ることもあります。あのお八重という女が印象が深かったので、隣の女房のことが、妙に気になっていたのでしょう。
「そんな事じゃありませんよ。あの浮世絵師の家に忍び込んで、あの鏡の美人の絵を、メチャメチャに切りこま裂いた者があるとしたらどんなもんです」
「人に怪我はなかったのか」
「人間よりも殺生じゃありませんか」
「誰がやったんだ」
「大方見当は付いていますよ。あの部屋には糠がこぼれているし、十二文半甲高のでっかい足跡もある。そんな悪戯《いたずら》をするのは六七よりほかにありゃしません」
「それでどうした」
「お届けがあるんだから放ってもおけません。あっしが見当をつけて出向くと、六七の奴この寒いのに片肌脱ぎで茶碗酒《ちゃわんざけ》を呑みながら――矢でも鉄砲でも持って来いという勢いだ。――女房の裸《はだか》なんかを描きやがって、間男も同様だ。本当なら重ねておいて四つにする奴だが――と手もつけられません」
「それで、どうした」
「引きあげましたよ。縛《しば》るわけにも行かないじゃありませんか。――もっとも、月信先生は気が弱いから、米屋の六七をどうすることも出来ず、そのままウヤムヤになってしまいましたが、その代わり」
「その代わりどうした」
「米屋の女房のお蝶が腹を立てて、一日いっぱい|ふて《ヽヽ》寝をしたうえ、月信先生のところへ押し掛けて行って、絹を張り換えて、――もういちど自分の絵を描かせることになったそうで、――こんどは風呂に入るところかなんか、鏡美人の上を越す凄い絵じゃあるまいか――と」
「誰がそんなことを言う」
「それは、|あっし《ヽヽヽ》の見当で」
「お前の智恵はそんなものだ。月信先生、グイと調子を変えて、十二単《じゅうにひとえ》かなんかの、有難い絵を描くかも知れないぜ」
平次と八五郎の話は相変らず埒《らち》もなく発展します。
五
この事件の終末は、思いのほかに早く、思いのほかのかたちで片づいてしまいました。
「あ、親分」
「待った、八、――大変ッ――はこっちで言う。米沢町の米屋で殺しがあったそうじゃないか」
「御存じですか、親分」
「米沢町の由三郎からの急の使いだ」
言うまでもなく由三郎というのは、両国を巣のようにしている下っ引で、事件と聴くや、明神下の平次のところへ駈けつけ、平次は取るものも取りあえず飛び出して来たのです。
「恩田屋の嫁が、唐臼で打ち殺されましたよ。あんな図は昔話では聴いたが――」
臼で打ち殺されるというのは、容易のことではありません。平次と八五郎はすぐ近くの恩田屋まで駈けつけると、弥次馬は表へ溢《あふ》れるほどの大賑わい。
「寄るな寄るな」
八五郎を先に、店から裏の物置に入ると、驚いたことに土間には敷物もなく、糠と埃《ほこり》の中に坐った亭主の六七は、膝の上に人心地もない嫁のお蝶を抱き上げて、涙とともに掻き口説《くど》いているのです。
「どうしたんだ、御主人?」
「おや、銭形の親分、これを見て下さい。――お蝶が臼の中に首を突っ込み、上から落ちた杵《きね》で、頭を打たれて死んでおりました。――私は朝のうちから掛けを取りに廻って、昼頃ちょっと戻ってみると、女房の姿はないじゃありませんか。念のため物置へ入ってみると、この有様で、――浮気っぽいので、手におえないお蝶でしたが、それでも自分で臼の中へ頭を突っ込むはずはなし、人に殺されるほどの怨みを受けるはずもありません」
六七は膝に抱いた女房の死骸を抱きあげ抱きあげ、声をあげて泣くのです。
臼は木を彫《ほ》ったもので、一度に何斗と搗くものでしょう。足踏みの唐臼は、横につかまって、勢いよく弾みをつけながら、片足で踏むもので、その先に木ではあるが何貫とも知れぬ逞《たくま》しい杵《きね》が付いており、巨大な横木に支えられているので、力任せに踏むと、人間の頭などは玉子の殻《から》のように砕けるにきまっております。
「どれどれ」
平次は六七を退《の》かせて臼の中に手を突っ込みました。米はありませんが、夥《おびただ》しく糠が付いており、お蝶が打たれた時の血らしく、臼を染めて、惨憺たる血飛沫《ちしぶき》です。
「おや?」
「なんです、親分」
「こんなものがあるよ」
糠《ぬか》の中、ちょうど臼の中ほどから、平次は小さい懐中鏡を見付けたのです。よく磨いた白銅で、短形なのは、紙入れなど女の化粧道具に入れるものでしょう。
「おや、懐中鏡じゃありませんか」
「お隣の庇の雨樋にもあったな」
「ヘエ」
「これは誰のだえ、御主人」
「女房のものに違いありません。この間からなくなったとか言って、捜しておりました」
六七は涙を払いながら言うのです。
「御新造の様子で、近ごろ気のついたことはないのか」
「腹の立つことでしたが、お隣の絵描きがまた女房を描き始めたそうで、しげしげお隣へ出入りをしておりました」
「ほかには」
「お八重さんが可哀そうだ――と和三郎さんが、そんなことを言っておりました。――その和三郎さんが、家のお蝶を呼び出す役で」
「……」
平次は黙って聴いておりましたが、四方《あたり》の様子をツクヅク見究《みきわ》めて、
「その唐臼の上――搗き手の後ろから窓をもぐると、お隣の庇へ出られるじゃないか」
庇の上は例の物干台になっているのです。
「癪《しゃく》にさわることに、お隣の絵描きに言いつけられると、あの貧乏福助の和三郎が、その窓からもぐって来て、お蝶を呼び出しました」
「もう一つ、その大杵《おおぎね》は使わない時は上へ釣っているのか」
「おや、杵を釣る縄が切れていますが」
重い杵は平常は臼の二三尺上のところに、丈夫な縄で釣ってあるはずなのが、その縄が、刃物で見事に切れているではありませんか。
「解ったよ、八」
平次はいきなり、こんなことを言うのです。
「何がわかったんで?」
「ともかくお前は和三郎を呼び出してこい。少し訊きたいことがある――俺は元柳橋の――いや薬研堀《やげんぼり》の辺りにぶらぶらしているから」
それはもう夕方でした。平次は多勢の人を騒がせるのも気の毒と思ったか、薬研堀の岸に立って、沈み行く夕陽を眺めていると、八五郎に追い立てられるように、ヒョコヒョコと貧乏福助の和三郎がやって来ました。
「親分、なにか御用で?」
「なにか御用じゃないよ、――俺はもう皆んな分ったつもりだ――お前を縛る前にちょっと訊きたい。なんだってお咲とお蝶を殺したんだ」
「親分、それは――」
「言いわけは聴きたくない。殺したことは疑いもないが、人間二人の命、ワケがなくちゃ殺《や》れるはずはない。それを聴きたい。――お前は命がけでお八重に惚れていた。お八重を殺すとか、その夫の月信を殺すというのならわかるが――」
平次は静かに問い詰めます。橋の袂には八五郎が頑張って、和三郎、羽があっても逃げられそうもありません。
「親分、私は、私は」
「わからねえ野郎だ、――物干台の床《ゆか》の簀子《すのこ》を切って、お八重に怪我をさせたのは、ありゃお前じゃない。あの鋸目の無器用さからみると、お八重が物干台に登る時刻を考えた、お咲の細工だ。お咲は兄をあんなに迷わしたと思い込んでいたらしいから、お八重が憎かった。おそろしく仲の好い小姑《こじゅうと》と見せて、実は、ひどい目に逢わせたいと狙《ねら》っていた。――殺すほどの気はなかったに違いない」
「……」
「お前はそれを見破って、お咲が憎かった。半分落ちかけた梁を縄で釣っておき、あの日の夕方お咲が物干へ取入れに来たとき、前からお前が庇の上においた懐中鏡を見て驚いたことだろう。白銅の鏡は女に取ってはなかなか大事だ。自分のものと気がつくと放っておけない。手摺と梁の間の三角になったところから首を出して、それを拾い取ろうとすると、隠れていたお前は梁を釣った縄をはずして、手摺と梁の間にお咲の首を挟み、用意の縄で手摺と梁を縛った。そしてあとで縄を外へ抛り出し、鏡を庇から突き落したが、縄は木の枝に引っかかり鏡は樋《とい》に落ちた」
「……」
「お前はそれから、米屋の新造も殺そうとした。お蝶の懐ろ鏡を盗んでおき、主人の留守を覗《うかが》って臼の中に入れておいた。お蝶はよくあの搗き場へくる――お隣を覗くためだ。フト臼の中に鏡があるので、手を入れて取ろうとした。それを見ると窓から潜り込んだお前は、お蝶に声をかけて油断させながら、杵を釣った縄を切って、唐臼を一つ、力任せに踏んだ。臼をかき廻していたお蝶はひとたまりもなかった」
「……」
「どうだ、違ったところがあるか、――お前はなんで、お咲とお蝶が憎かったのだ」
平次の論告はおわりました。その前に立っている和三郎は、
「恐れ入りました。それに寸分も違いはありません。でも、親分は、私の心持だけはわからなかったのです」
「?」
「お八重は私の妹として育ちました。私どもは兄と妹に違いないようですが、血の通わない兄妹は、兄妹だけでは済まされません。それにあのとおり、お八重は綺麗でございます」
「……」
「私はせめて、命がけで、お八重を守護してやろうと思いました。放っておけば、お咲はお八重を殺すかも知れませんし、米屋のお蝶は、月信先生を横取りするかも知れません。私はそれを見てはおられませんでした。――私はお八重に踏みつけられて、わがままをされ放題に育ちましたが、お八重の可愛さは、年をとっても少しも変りません。あの月信先生の絵を見るにつけても、お八重の愛くるしさが身に沁《し》みます。お八重の敵は、残らず殺さなきゃ、私の気が済みません。そして月信先生の筆のつづく限りお八重の美しさを描いて描いて描き尽くしてもらいたかったのです。米屋の女房お蝶などという、とんだ化け狐《ぎつね》の入る幕じゃありません」
和三郎は言いきって昂然《こうぜん》と顔を挙げるので、貧乏福助に似げない爽《さわ》やかな血色です。この男は十八年間お八重と一緒に育つうちに、気高くも美しいタブーに馴《な》れ、その人間離れのした美しさに魅《み》せられて、凄まじくも悲しいマゾヒストになりきってしまったのでしょう。それは諦めとも法悦《ほうえつ》ともつかぬ、不思議な姿です。
「だが、それでは済むまい。お前は二人の命を絶ったのだよ」
「そして三人目はこれで」
あっと言う間もありません。和三郎は身を躍らせて、夕映華《ゆうばえはな》やかに映る薬研堀へと飛び込んでしまったのです。
お舟お丹《たん》
一
「江戸は狭いね、親分」
八五郎はいきなり、こんなことを言うのです。銭形平次と相対した六畳の居間に、秋の陽《ひ》が暖かそうに這い上る、十月のある日のことです。八五郎がこんなことを言うのは、誰か知ってる人にめぐり逢った時にきまっております。
「広くて狭いのは江戸だよ、四里四方もあると言うのに、敷居を跨《また》いで外へ出ると、誰か知ってる人に顔をあわせる、お前も義理の悪い借金取りにでも逢ったのか」
平次は先を潜《くぐ》りました。
「いえ、借金取りには驚かねえことにしているが、江戸一番という綺麗《きれい》な女が二人まで、同じ町内にそろったのは驚くでしょう」
「なんだそんな事か」
「両国にこれだけそろったのは、江戸|開闢《かいびゃく》以来で、年代記にも書いてない」
「言うことが大きいな」
八五郎はこの事実を、富士山と琵琶湖《びわこ》が一夜にして生じたほどの騒ぎと思い込んでいる様子です。
「ふたりとも一枚絵になる首ですよ、それも、雲母摺《きららず》り上絵だ、お丹《たん》も綺麗だがお舟も美しい、どっちの肩を持ったものか、私も思案に困りましたよ」
八五郎はこんな他愛もないことを天下の大事件のように言うのです。
そのころの東西両国は江戸の繁昌《はんじょう》を集めて、各種の見世物、珍奇をきわめた催物《もよおしもの》の数々、まこと眼を驚かすばかり、わけても水茶屋の数々は、美女を揃えて、客の呼びこみに余念もありません。後の世歌麿が描《か》いた、お北もお久も、お藤もお仙も、場所は違ってもそんな人達であったに違いありません。
同じ東両国に軒をならべて、お丹とお舟が人気を張り合ったのも、決して無理ではなく、絵はがきも雑誌の口絵もない時代には、夥《おびただ》しい信者的ファンが、二人の美女をめぐって四里四方から集まったことは想像に難《かた》くないことです。
「お丹というのは江戸生まれ、|たんか《ヽヽヽ》が切れて伝法《でんぽう》で、ちょいと好い女ですよ、色は浅黒いが生え際が美しく揃って、歯なみが美しい」
「たいそうなことだよ、それで法螺貝《ほらがい》の上手《じょうず》でときどき行灯《あんどん》の油をなめる」
「よして下さいよ、お丹罰《たんばち》が当りますよ」
「お丹罰は良かったな」
「そのお丹が米沢町一丁目に、母親と二人で水入らずのねぐらを構えると、仇《あだ》っぽいのが客を呼んで、半歳と経たないに、江戸中の若い男がみんな行った」
「そんな噂《うわさ》も聞いたよ」
そういう平次も、お丹の評判は内々できいていたのです。
「ところが、同じ米沢町の一丁目に、お舟というのが現われた」
「はてね?」
「お丹の方は後楯《うしろだて》がないから、綺麗なだけじゃ矢玉がつづかねえ、半年越しお丹の茶屋で通していたのに、お舟の方は表通りに店を構え暖簾《のれん》にも大川屋と染め抜かせて、同勢三人」
「それが化け比べをやる」
「冗談じゃありませんよ、そんな事を言うとお舟罰が当る」
「両国というところは怖《こわ》い国だな」
「なにしろお舟というのは大変ですよ、生まれは名古屋だそうで、ちょいと訛《なま》りはありますが、それがまた愛嬌《あいきょう》で、色白のポチャポチャした娘《こ》で、その愛くるしさというものはありません。客あしらいが上手で、少し受け口で目許の美しい」
「たいそうな効能書《こうのうがき》だぜ、夜中になると、首が抜け出しそうだ」
「叶《かな》わないなア、それで仲間が二人、お光にお照という、揃ったところで腕によりをかけるから大変だ、お丹の茶屋なんぞは一ペンに吹き飛ばされそうだが、御贔屓《ごひいき》はありがたいね、お丹でなくては夜も日もあけないと言うのが二三人はいる」
「お前はどっちだ、源氏か平家か、お丹の肩を持つ気か、お舟の方がありがたい口か」
「二人は別々に住んでいるから、口惜《くや》しいが比べようはない、お丹の方が綺麗だと言うのと、お舟にはかなわないだろうと言うのと、二た手に別れて、源平の闘《たたか》いだ」
「よくよく江戸は暇な人間が多い」
「そこで思い付いたのは、正灯寺《しょうとうじ》の紅葉《もみじ》だ。ありゃ、吉原へしけ込む口実と思ったら、たまには真面《まとも》から紅葉を見に行く人もあるんですってね」
「馬鹿野郎、そんなことを言うと正灯寺の罰が当るぞ」
「正灯寺や海晏寺《かいあんじ》の罰なら少しは当っても良い」
「仕様のない野郎だ」
八五郎の徹底した遊蕩《ゆうとう》精神に、平次も二の句がつげません。
「ね、話はこれからですよ、お丹とお舟の旦那方が三四人|施主《せしゅ》になって、明日は、下谷の竜泉《りゅうせん》寺の正灯寺まで、お丹お舟を歩かせ、紅葉見物としゃれて、立居振舞いから、化粧くずれまで見きわめ、どっちが本当に綺麗か見定めようと考え出した。正灯寺の帰りは吉原、古歌にもあるでしょう、『正灯寺どうだと言えば知れたこと』とね。私も向柳原に住んで、講中に違いないから、有無《うむ》を言わず一枚加わりましたよ、女どもはひと足先へ帰して、なぐり込む先は楽しみでしょう」
「呆《あき》れた奴らだ」
江戸の旦那衆は、ときどき途方もないことを企てました。お丹とお舟を歩かせて、後ろからやんやと言おうとするのもその一つ、化粧くずれの顔を比較して、お点をつけようというのもその一つ、お蔭でお丹の茶屋と、大川屋とは一日臨時休業することになりました。旦那衆に無理を言われると、それに楯突《たてつ》くほどの力はなかったのです。
二
あくる日は良いお天気、秋の日は平次の貧しい家もいっぱいに照らしました。早目の朝飯を済まして出かけようというとき、八五郎が息せき切って飛びこんだのです。
「親分、間に合いましたか、御用でお出掛けじゃないかと思って」
「どうした八、まさか正灯寺から駈けて来たんじゃあるまい」
「正灯寺の騒ぎじゃねえ、大変なんで、親分」
「お丹とお舟の鞘当《さやあて》でも始まったか」
「そのお舟が殺されたんですよ」
「なんだと?」
「朝早くの約束のが、三人の娘が一人も来ないから、手間取っているのかと思って、迎えに出るところへ、お光が蒼《あお》くなって飛んで来ました」
三人の茶くみ娘は、米沢町の裏に一軒の家を借りて、そこを根城に両国の店へ通っていたのです。水茶屋にもピンからきりがありますが、大川屋は葭簀張《よしずば》り同様で泊る設備がなく、女どもは店をしまえば、近い米沢町の家へ帰って、そこへ泊るようになっていたのです。
その前の晩はしゃぎきっていたお舟は、いつまで経っても起きて来ず、下女のお浅が何心なく行ってみると、四畳半の一人部屋へもぐり込んだお舟が、あられもない姿で死んでいたというのです。
「死んだものなら、今さら飛んで行っても仕様があるまいと、下っ引に任せて親分のところへ飛んで来ましたよ」
八五郎のやりそうなことでした。
「米沢町ならお前の縄張りだ、行ってみよう」
平次は気軽に飛び出しました。八五郎のためにも、ひと役買って出なければなりません。お舟の泊っている宿というのは、米沢町の裏でささやかな家でした。大川屋の経営者は本所の奥におりこれは隠居《いんきょ》仕事で、別に直接の関係はありません。
宿にはお舟を主に、お光、お照という娘があり、ほかにお浅という四十がらみの醜《みにく》い下女がおりました。これは三度の飯拵《めしごしら》えや、掃除のほかに用事がなく、女四人暮しで、戸締りはなかなかに厳重です。その女四人のうち、物の役に立つのは、下女のお浅と二十歳《はたち》くらいのお舟だけ、お光とお照はいずれも十五六の小娘です。
「なるほど、これは」
平次も物馴れた顔を反《そむ》けました。なんの怨《うら》みか知りませんが、お舟は床《とこ》の上で絞《し》め殺された上、あられもない半裸《はんら》に引き剥かれて、死後の恥まで残るくまなくさらしているのです。
案内にたったお浅は、四十前後のしっかりものらしい女でした。申し分なく醜いのも、お舟の美しさに対して面白い対照です。お光とお照はただおろおろするだけ、平次の間いにもハッキリした答えはありません。
「お前が見付けたのか」
「ハイ、雨戸を開けたのは、朝になってからでした。いつものとおり私が縁側から廻って雨戸を開け、――もう遅いから起きて下さいよ――と、声をかけると、なんの返事もありません。障子《しょうじ》を開けて部屋の中をのぞくと、この有様で」
「すると曲者は、障子を閉めて行ったのか」
「そんなことだと思います」
女の死体を半裸にして、障子を閉める曲者はちょっと考えられないことです。
「この家は恐ろしく戸締りはやかましいようだが」
「女ばかりですから」
雨戸には桟《さん》があるほかに、閂《かんぬき》も輪鍵《わかぎ》もあり、外からは簡単に開かないように出来ております。
「その雨戸は開いていなかったのか」
「いえ、どこの戸もみんな閉っておりました」
「大丈夫か、間違いはあるまいな」
「間違いありません、戸締りは、私がするのですから、皆さんがお帰りになったのは酉刻半《むつはん》〔七時〕頃、それからは、変な男や酔っ払いが来ますから、どんなに脅《おど》かされても開けてやらないことにしております」
四人の女が厳重に締め切って、ちょっとも油断のない戸締りでしょう。
「すると下手人は家の中にいたことになるが」
平次は大変な結論に導いたのです。誰も開けてやらない密室に、下手人は烟のごとく姿を隠したことになるのです。
「あれ、私はどうしましょう」
そう言われてお浅は蒼くなってしまいました。曲者が逃げ出したあとは必ず戸が開いているはずです。
「金はなかったのか――盗られたものはないか」
「なんにも盗られはしません、金は本所から毎晩店を閉める前に、親方が廻って来て、みんな集めて帰るそうです。それは、お光さんもお照さんも知っておりましょう」
お浅の言葉につれて二人の少女は首肯《うなず》いております。平次はそれを見定めて、改めてこの家を念入りに調べました。たった三間の家は、鉄の箱のような厳重な戸締りですが、なんの変化もありません。
ひと間は六畳、お光とお照はそこに寝るらしく、あとは廊下を距《へだ》てて四畳半、これは物置を兼ねて、美しかったお舟が一人で占領し、雨戸は閂まで差してあります。お舟を殺したのは緋《ひ》の匹田鹿《ひったか》の子《こ》の絞《しぼ》り、お舟が扱帯《しごき》に使っていたものでしょう。脱いだ平常着《ふだんぎ》は、いちおう袖畳みにしてあり、床も枕《まくら》も散らかって、自慢の色白の肌が半裸体にむき出しです。
洗いざらしの寝巻、少しよろけた帯、それもなんのたくみもなく、次の部屋は、窮屈な二畳で、これは下女のお浅の部屋、小さいながらもよく片づいております。その隣はお勝手、下駄を突っかけて平次は外へ廻ってみました。縁側にはひと纏《まと》めにして取り込んだらしい洗濯物があります。
「あ、私は大変なことを思い出しました」
下女のお浅は不意にいうのです。
「?」
「私はゆうべ夜中ちかく、干物《ほしもの》を出したまま忘れていて、一度外へ出たことを思い出しました」
「それは何時頃のことだ」
「亥刻《よつ》〔十時〕前だったと思います、――お勝手から水下駄を穿《は》いたまま飛び出して、干物を取り入れましたが、雨戸は開かないので、もとのお勝手に戻り、干物はそのまま板敷の上へ置いて、後になって縁側に移しましたが」
「それは大変なことじゃないか、干物を入れるのに、たいそう手間取ったのか」
「そんなことはありませんけれど、宵《よい》の買物でちょっと外へ出た時に入った曲者《くせもの》は、夜中に逃げ出すくらいのひまはあったはずです」
お浅はそんなことまで、行き届いたことをいうのでした。
三
平次は大変なことを聞いてしまいました。曲者は間違いもなく、この家に住んでいる者と思っている矢先、下女のお浅の言葉からまったく違った大きい暗示を受けてしまったのです。夜中にお浅が一度外へ出たとすれば、その時を利用して曲者も出ないとは限らず、まったく変った場所から、この無智で残酷な下手人をさがさなければならない事になるでしょう。
「親分、あっしは大変なことを聞きましたよ」
隣の部屋から八五郎が顔を出します。入れ違いにお浅はお勝手に引き下ったことはいうまでもありません。
「なんだ、八? お前はお光にお照とかいう二人の小女《こおんな》の相手をしていたじゃないか」
「あの二人は筋の通ったことをなんにも知りませんが、盛り場に育っているから妙なことを知っていますね」
「たとえば」
「お舟は主人の贔屓《ひいき》で大川屋の店を一人で切って廻し、家へ帰ってもずいぶん無理を言っていた話」
「それくらいのことはあるだろうな」
「たとえば、下女のお浅なんか、この女天下のお舟をひどく怨《うら》んでいたそうです。年が倍以上も上の者を、ずいぶんひどくこき使ったらしいようです」
「……」
「それから、平常《ふだん》はつましい人で、ずいぶん溜《た》めていたということ、あんな餅膚《もちはだ》で調子の柔かい女ですが、蔭へ廻るとまた別ですね」
「お前のようなわけには行かないよ、表も裏も人が好い」
平次は八五郎を相手に例の調子で話を運びます。
「その金はどこへ行ったでしょう。給金というほどの事もないが、お客様からのもらいが多いから、十両や二十両は持っているはずで」
「いずれは宝探しものだろうよ」
「それから、モウ一つ」
八五郎はまだねばっております。
「なんだ、まだ話があるのか」
「これからが大事なんで、お舟が生きているとき、目の敵《かたき》にしていたのは誰だと思います?」
「知らないよ」
「同じ両国で鳴らした、茶汲みのお丹」
「あれは今日一緒に正灯寺へ行くはずだったじゃないか」
「そのお丹を目の敵にして、二人の小女を使っていろいろの事を探らせていたんですよ」
「ありそうなことだな」
「女と女だ、そのうえ二人とも綺麗で、両国じゅうの評判になっている、お舟が勝つか、お丹が美しいか、こいつはどこまで行っても果てしのない喧嘩だ。一方が死ぬか、一方が他所《よそ》へ越さなきゃア収まらない」
「それで、お丹が怪《あや》しいというのか」
「負けず嫌いのお丹は、店の前を通ってお舟の様子を見るそうですよ。昨日《きのう》も横目で睨みながら、三度も通ったと二人の娘が言います」
「それじゃお丹は夜中に忍び込んで、お舟を絞めたというのか」
「絞めておいて、気が済まずに、お舟の死骸を裸にしたのは、意地の悪い女の仕業《しわざ》じゃありませんか」
「八五郎ならあんな事はしない、というのか」
そう言いながら平次はつくづく考えました。これは女の犯罪かも知れず、こんな意地の悪い殺しは、滅多にないことだけに、いちおう競争者のお丹が疑わしくなるわけです。
「それからもう一つ」
「まだ話があるのか」
「小柳《こやなぎ》の茂吉、――親分はあの男を知ってるでしょう」
「小柳街で生まれた男で、よく知ってるとも。業平朝臣《なりひらあそん》の後胤《こういん》みたいな顔をしているが、妙ににやけた男だ」
「あの小柳の茂吉がお丹とお舟の間に挟まって、だいぶ騒がれましたが、近頃はすっかりお丹に夢中になって、お丹の茶屋に入浸《いりびた》っているということですが」
「そんなこともあるのか」
「両国で知らない者はありません。銭形の親分は、女のことになると暗い」
「馬鹿なことを」
「お丹を調べるなら、小柳の茂吉も調べてみて下さい。あの色男は何をやり出すかわかりゃしない」
「心得た、八は女のことになると人違いがしたように明るくなる」
「それほどでもありませんが」
四
平次は寄って来た下っ引にお舟の家を任《まか》せて、あまり遠くない、お丹の茶屋に廻ってみました。下っ引どもに、
「どこかに、金が隠してあるに違いない。家の中から、外廻りをよく捜しておくように」
と一言注意したばかりに、家の中から往来まで、徹底的に荒されることはいうまでもありません。
しかし金らしいものはどこからも出ず、お浅の溜めた給金二三両と、お光とお照が買い食いの残り二三十文を持っていたに過ぎず、下っ引どもをがっかりさせた事はいうまでもありません。
それはともかく、平次と八五郎の二人は、同じ町内のお丹の家へ急ぎました。グルリと街角を曲って、ささやかなお丹の茶店、それがまだ戸を開けたばかりの様子です。
「お丹いるかえ」
八五郎が顎《あご》をしゃくると、遠出の装《よそお》いを解きながら、お丹の浅黒い顔が生々と微笑《ほほえ》みます。
「あら、八さん、今日の遠出は延びたんですってね、――お舟さんがまア、どうしたというのでしょう」
「お舟は殺されたよ、お前は知っていたのか」
「近所はたいそうな評判ですよ、あの人はしまり屋だから、さぞ溜めていたことでしょう。それだから、こんな事になるのだと、うちのおっ母さんも言いますよ」
女はチクリとした事を言います。
「お前は昨夜《ゆうべ》どこへも行かなかったのか」
「どこへも行きゃしません、おっ母さんと二人ですもの、今日の弁当をこしらえるのがいっぱい」
お丹はそこら四方《あたり》を見せるのです。
「馬に喰わせるほどの弁当じゃないか、これをみんな背負って行く気か」
「皆さんに上げるつもりですよ、商売|冥利《みょうり》に。それから小柳の茂吉さんがきて、夜中まで粘《ねば》るんですもの」
お丹はちょっと眉をひそめてみせました。小柳の茂吉に付きまとわれて、相当困らせられているらしくみえるのです。
「そいつは気の毒だ。小柳の茂吉は一生懸命だぜ」
「だからそう言ってやりましたよ。亥刻《よつ》過ぎまで頑張られちゃ、商売にならない、お前さんも江戸ッ児なら、江戸ッ児らしく胸のすくような事をやってくれ――とね、すると何をやらかしゃいいんだ、と言うから、大川に飛び込むとか嫌な人間を五六人叩き斬るとか――」
「お前は乱暴だね、――本当にそう言ったのか」
「あの人には出来っこはないのよ」
「それはそれとして、お前のおっ母に逢わせてくれ」
「お安い御用だけれど、まだ取り乱していますよ」
「安心しろ、口説《くど》くわけじゃない」
「そうね、八さんはまだ独り者ね」
こういうお丹です。母親のお近はそれを聞いたらしく、奥から顔を出しました。五十がらみの中婆さんで、お丹に似てなかなか元気そう。
「なんだえ、私になんか用事があるかえ」
そういう声も若々しく張りを持っております。
「おっ母、今日は」
「今日は、八さんらしい声だと思ったよ、今日は正灯寺がつぶれてお気の毒だね。お蔭で私のところは弁当の背負い込みさ」
「食い切れなかったら馬にでもやるが良い、馬が喜ぶぜ」
「冗談じゃないよ、馬は煮染《にし》めや油揚げを食いはしない」
「ところで、係りあいだ、勘弁《かんべん》してくれ、夕べお丹はどこへも出なかったのか」
「亥刻《よつ》過ぎまで客があって、あとは締め切って寝てしまったよ。ウソと思うなら、小柳の茂吉にきいてみるがいい、娘に追い出されたのは亥刻半《よつはん》〔十一時〕、それから半刻《はんとき》〔一時間〕ちかくあの男は往来でがん張っていたよ。年を取って、急には眠れないのが私の取柄さ、女の家の戸口につっ立って、半刻も粘る野郎があるんだから」
小柳の茂吉はそういった色男だったのです。
「悪いよ。そんなこと言っちゃ、私は人気商売だから」
お丹はその口を塞《ふさ》ぎそうにするのです。
「大丈夫だよ、店の開いてるうちは寄り付かない客だもの」
母親のお近は日頃の不平をこんなところでぶちまけるのです。
「ところでお丹、お前は平常《ふだん》からお舟を怨んではいなかったのか、日頃ひどく張りあっていたようだが」
「あの人も殺されちゃったけれど、名古屋者のくせに、江戸なんかに店を持つから悪いのさ、別に怨んじゃいないが、あの人と並べてなんとか言われるのは、あまり好い心持はしないよ。正灯寺行きだって、町内の旦那方の催《もよお》しでなきゃ断りたかったくらいだけれど」
江戸娘らしい強大な自尊を見せつけられて、店の外にいる平次をそっと八五郎は呼びました。葭簀《よしず》から手を出して、合図をするだけでよかったのです。
五
「どうです、親分」
「みんな聴いていたよ。俺が顔を出すより、お丹とお前だけの方が、馬が合いそうだから黙って聴いていたよ」
平次と八五郎は、お丹の茶店を出ると、こんな話をしております。あの程度の話は、八五郎一人の方が、はるかに面白く運びそうです。
「ところで、あの女はどうです」
「好い女だよ、江戸ッ児らしくて、|たんか《ヽヽヽ》が切れて」
「いえ、お舟ごろしの下手人の口は」
「違ったよ、お舟の知らないことだ。あの女はそんな意地の悪いまねをする女じゃない」
「すると?」
「小柳の茂吉の家へ行ってみよう、あの男が、昨夜《ゆうべ》の亥刻《よつ》から一刻《いつとき》ちかくのあいだどこにいたか聞きたい」
それは簡単なことでした。小柳の茂吉の巣は、そこからすぐで、幸いにまだ小原庄助さんのように、酔っ払って寝ていたのです。
八五郎に表口を叩かせると、この色男は眠そうな顔を出しました。
「おや、これは親分」
茂吉は急に業平朝臣《なりひらあそん》のような顔をしました。生《なま》っ白《ちろ》くてのっぺりして、それを資本《もと》に飯を食う男で、定まる稼業《かぎょう》もない独り者です。昔はこんな人間が、よく生きていたものです。腹が減れば、どこかに手伝いに行っても飯が食えたのです。
「やい、茂吉、お前はゆうべどこへ行った」
八五郎が口を切りました。こんな厄介な代物《しろもの》の相手には、八五郎が適役です。
「ヘエ、宵《よい》からお丹の茶屋へ参りました。あの女と私は夫婦約束をしておりますので」
嘘《うそ》を吐《つ》け、この野郎は小野の小町とも夫婦約束をするのでしょう。
「帰ったのは?」
「子刻《ここのつ》〔十二時〕近かったと思います、大家の親父さんに木戸を開けてもらいましたから」
木戸は宵に締めるのが習わしで「下駄提げて通る大家の枕許」とある川柳《せんりゅう》の風景もその一つでしょう。
「お前はお舟とは親しくなかったのか」
「ヘエ、あの女もやいのやいのと言いますが、私の方から寄りつかないようにしております。あれも一度は夫婦約束をした仲で」
こんなことをヌケヌケと言い切れる茂吉です。
「その仲をどうしてきれたんだ」
「あの女は、男より金が大事で、ヘッ、ヘッ、どうも私とは肌《はだ》があいません」
「そのお舟が、昨夜死んだのだよ」
「えーッ、昨日まで元気でしたが」
「殺されたのだよ。それでお前の話を聴きに来たのだ」
「私はなんにも存じません。あの女は雪女郎《ゆきじょろう》のような女で、金をためるほかには――」
「その女とお前は夫婦約束をしたと言うじゃないか」
「嘘です。とんでもない話で」
茂吉はとんでもないことを言ってしまって、あわてて取り消しに一生懸命です。
「お舟と夫婦約束をしたお前が、お舟にあきて殺したという事も考えられる」
「とんでもない、あの女は夫婦約束をする前に角の地面を買います」
茂吉はすっかり面喰《めんくら》っております。角の地面と見代えられた口でしょう。
「もういい八、その男には人は殺せないよ、ところで茂吉」
平次は八五郎を追い退けて、茂吉の前に立ちました。
「ヘ、ヘエ」
「お前は女のことを詳しく知っているようだ、夫婦約束のことは別として、あの女をうんと怨んでいるものはなかったか」
「ヘエ、みんな怨んでましたよ、きりょうは好いが、雪でこしらえた人間のような女だって。もっとも町内の旦那衆には評判が良かったようで、客扱いは上手だし、愛想は良いし」
「いざ夫婦約束となると、角の地面が良くなるのか」
「ヘエ」
「もう良い、八、帰ろうか」
平次は引き揚げようとするのです。お丹からお丹の母親へ、茂吉へと、平次は口占《くちうら》を引いて順々にこの無実を証拠立てて行くのです。
「これからどこへ行くんです、親分」
「医者の家だよ、お浅に聴かれちゃまずい、町内の死体を見た医者に逢って本当のことを言ってもらいたいのさ」
平次と八五郎は、茂吉の家から、まっすぐに米沢町に向いました。そこにはお舟の家もあり町医者の順竜《じゅんりゅう》先生の家もあったのです。
順竜先生は平次ときいて、すぐ通しました。蘭方《らんぽう》の研究がやかましかった頃で、かつては長崎で修業した壮年の堂々たる国手《こくしゅ》〔名医〕です。
「先生、折り入ってお話を承りたいと存じますが、御町内のお舟は、死んで何刻《なんとき》)ぐらい経ったものでございましょう」
平次は、こんなことを訊きに、順竜先生を訪ねたのです。
「あの下女のお浅は、亥刻《よつ》過ぎのように言っているが、それでは時刻がひどく喰い違うようだ、私の見当では宵のうち、戌刻《いつつ》〔八時〕と思うが」
「……」
「隣の女の子二人は早寝で、寝入りばなかも知れないが、お浅という下女はまだ起きている頃だ」
「あの殺しは、色恋の沙汰ではありませんな」
「左様、水茶屋の女でも、お舟は名題のしまり屋だ、色恋の沙汰などで命を失うはずもない、それに、絞め殺したのは平常締《ふだんじ》めの緋鹿《ひか》の子《こ》の扱帯《しごき》だ」
「有難うございました。それだけ承ってだいたい見当が付きます」
平次と八五郎は、順竜の家を出て、まっすぐにお舟の家へ行きます。その時はもうお舟の死体をとり入れ、お浅が主になって、お仏様らしく飾り、お光とお照が、近所の衆の相手をしております。
本所から大川屋の主人も来てくれましたが、これは資本家であるほかにはたいした役にも立たず、お浅が先に立って、なにかと世話を焼いております。
六
お舟の家は、裏通りの狭い家で、平次と八五郎が入って行くと、そのまま、裏から飛び出しそうです。
お浅は主人らしく二人を迎えて、六畳のひと間に対します。お舟の在所は名古屋の近所、急場には間に合い兼ねるので、検屍《けんし》の上お骨にして送るほかはあるまいと大川屋の主人も言っております。
お浅は昨夜の疲れがひどく、すっかり昂奮して、眼を赤くしております、少し狐顔で、見るかげもない女ですが、妙に主人顔をしております。
「それから妙なことを聴きましたが」
八五郎は外から入ると改めて言うのです。
「なんだ八、まだ言いのこすことがあるのか」
「二人の女の子が、入口で袖を引き合って、なんか言っているから、そっと呼んできくとこんな事を言いましたよ」
「?」
「ゆうべ二人は早く寝たけれど、あんまり早過ぎ、しばらく寝つかれなくてモジモジしていたそうです。するといつものことで、お舟|姐《ねえ》さんと、お浅がなんかやり合っているのをきいたそうです。若い二人はすぐ寝ついたと言うけど、その事が妙に気になるから話そうか止そうか、言い合っていたそうで」
「誰がそんなことをいうのだ」
「お照とかいう娘《こ》です。もっともお舟はあんな気性だから、腹が立っても滅多に大きい声はしなかったそうで」
「お浅は?」
「あれは下女だから、叱られれば黙っていたそうで」
「二人があんまり仲のよくなかったことは本当だろうよ」
平次は合槌《あいづち》を打ちました。
お浅もちょうど隣の室に行っており、大川屋の主人という禿頭《はげあたま》の大親爺《おおおやじ》もそこにはおりません。
「親分、大変なことがありますよ」
庭から怒鳴《どな》るのはお浅の声です。お浅はなにか用事を思い出したらしく、先刻《さっき》から庭へ降りております。狭い秋の庭、土は相当に濡れております。
「どうした、お浅」
「足跡がありますよ」
「何、足跡がある?」
平次は先刻《さっき》繰り返して見た庭へ降り立ちました。二三日は天気つづきですが、数日前に降った雨は乾ききらずに、物蔭の多い狭い庭は、斜めにすかしてみると斑々《てんてん》として足跡が見えるのです。
「今まで気が付きませんでしたが、これは間違いもなく男の足跡でしょう」
おそろしく巨大な男下駄の跡が、庭石をめぐって勝手の方へ、そこからまた引返して、どこともなく消えているのです。
平次はお浅に示されて、念入りにそれを見ておりましたが、別に批評を加えず、黙ってうなずいてばかりおります。
足跡はおそろしく雄弁でした。生《なま》じめりのお勝手に廻って、そこから家の中へ入り、芥溜《ごみため》を横ぎって、そこから隣の間を抜け、往来へ悠々《ゆうゆう》と逃げてしまったに間ちがいもありません。
それを見極《みきわ》めると、平次は縁側へ帰りました。八五郎はそれに従って出たり入ったりしております。
「八、この家は念入りに調べたはずだな。天井も床の下も」
平次は訊きました。
「下っ引が二人、人足を集めてずいぶん念入りに調べたそうですよ。親分と私がお丹の茶屋へ行っている間に」
「家の外は」
「なんにもありゃしません。京、大阪まで見通しだ」
「有難うよ。ところで八、お前の手柄《てがら》にしてやろうと思うが、その隣の家の前の芥溜をあさってみないか、たしかに二三十両は隠《かく》してあると思う」
「脅かしちゃいけませんよ、芥溜に二三十両あるなら、仏壇には千両箱が入っている」
「この家の者はみんな信心気がないから、ろくな仏壇もない」
「ヘエ、まあ、待って下さいよ」
八五郎は庭下駄をはいて飛び出しました。芥溜は一間に三尺ほど、みんな掘り返しても多寡《たか》が知れております。
「あ、あった」
八五郎の声は突っ走ります。三十枚あまりの小判が、怪し気な古手拭《ふるてぬぐい》につつんで芥溜深く、突っ込んであったのです。
「八、下手人の方が大事だ。早く、その女を縛《しば》れ」
平次は縁側に立ったまま、物蔭で様子を見ているお浅――あの下女のお浅を指差すと、八五郎が飛び付いた事はいうまでもありません。お光とお照はただおろおろしてすくんでしまいます。
*
事件が落着して、下女のお浅は言いのがれの方法はなく、処刑《しょけい》されました。冬が近い頃です。
「いったいあの女がなんだってお舟を殺す気になったんでしょう」
八五郎は平次の暇そうな顔を見て尋ねました。
「女同士の金のいさかいだよ、その上お舟は美しくて主人からチヤホヤされ、事ごとに主人風を吹かせて、お浅を口惜《くや》しがらせた事だろう」
「ヘエ」
「あの晩、宵のうちにお舟とお浅は争《あらそ》いをはじめた、お光とお照の眠った後で、お浅はお舟を絞め殺し、フト、お舟が金を持っていることに気が付いて、三十両の金を盗《と》る気になった」
「女の浅ましさだ」
「下手《へた》な洒落《しゃれ》だ、――ところがあの女はおそろしく利口だ、家が鉄の箱のように締め切ってあったと言った、家を締め切っては外から曲者の入りようはない、――そう言い切ったのはあの女の喰えないところだ、その後で干物《ほしもの》を外へ忘れて取りに行ったと言った、こいつはよく出来た細工だ、それがあれば曲者は外からも入るし、内からも出られる」
「……」
「だが、干物といったところで二三枚、よく乾いているし、あの干物には少しも洗った様子はなかった、汚れた物をひと纏めにして縁側に積んであるだけだ」
「あ、そこまでは気が付かなかった」
「洗ってない洗濯物は変だろう――それはそれにしておいて、お丹とお近と、茂吉に逢ったが、あの三人は人など殺せるはずはない、殺すはずもなく殺すわけもない」
「ヘー」
「お舟の家へ帰って来て、お光とお照の内緒話《ないしょばなし》をきき、それから、お浅が庭に大きい足跡があると言い出した。先刻まで男の足跡がなかったはずの庭だ、俺がそんな事を見落すはずはない、庭に降りてみると確かに大きい足跡がある。調べるまでもない、この家には男はいないはずだが、隣に男もいるし、境《さかい》の芥溜に鼻緒《はなお》の怪しくなった、摺りへった男下駄が二足ある、江戸ッ児は履物《はきもの》がぜいたくだから、少しでも磨り減った下駄をポンポン捨てる、悪い癖《くせ》だ」
「相すみません、これからあっしも下駄ははけるだけ履《は》きます」
「お前に小言《こごと》を言っているのじゃない、見ると、その芥溜に捨てた下駄に、新しい土が付いてるじゃないか」
「あ、なるほど」
「下駄の跡がそこで絶えてるのも変だ、お前に芥溜を漁《あさ》らせて済まなかったな。金を隠した場所はほかになかったのだよ」
平次は言い終ってカラカラ笑うのです。大川屋はそれっきり水茶屋をよしてお丹の茶屋だけが繁昌《はんじょう》したという話。
針妙《しんみょう》の手柄
一
本石町《ほんごくちょう》三丁目に時の鐘があった頃の話。
ツイその鐘の下、十軒店《じっけんだな》寄りに、大地主の近江屋連三郎が住んでおりました。慈悲善根《じひぜんこん》を積んで、世渡りにも如才《じょさい》がなく、まことに申し分のない地主でしたが、身代が太って次第に金が溜ると、思いも寄らぬ疝気筋《せんきすじ》の怨《うら》みも買わなければなりません。
「今日は、親分。江戸中は噂《うわさ》の種も不漁《しけ》で、ろくな事はありませんが、聴いてくれますか」
八五郎がこんなことを言ってくるのは、よくよく天下|静謐《せいひつ》なのでしょう。
「たいそう遠慮するじゃないか。どこの猫が喧嘩をしたんだ」
平次は縁側の陽だまりにとぐろを巻く八五郎に声をかけました。
「猫の喧嘩じゃありませんよ」
「俺は早合点をしたのさ。お前の眉間《みけん》に引《ひ》っ掻《か》きがあるじゃないか、そいつは猫の喧嘩の仲裁でもしなきゃ、受ける傷じゃない」
平次がそう言うのも無理のないことです。八五郎の額には生々しい傷跡《きずあと》があり、これが世が世ならば、何百石かになる、手柄の向う傷になりそうです。
「人間同士の果し合いに飛び込んで、向う傷を受けたんで、当の相手は桜の根っこですが、それじゃ尻《しり》の持って行きようもありません」
「だらしがないなア」
「こういうわけで、まあ聴《き》いておくんなさい」
八五郎はそのつまらぬ事件を説明するのです。
その頃は隅田川の支流や、諸方の小さい溝のような小流れからも、あらゆる花見舟が出た時で、向島の繁栄は言語に絶しました。日本橋本石町の同勢も、地主の大分限《だいぶげん》近江屋連三郎の音頭で、威勢よく花見舟を出したことは言うまでもありません。
その人数はざっと女交じりの三十人、町内の師匠が三味線を持ち込み、そろいの花見手拭、赤いものをまくし立てて、朝から酒と唄です。大川橋をくぐったのは昼頃、水神《すいじん》までひとめぐりで、帰り舟を白鬚《ひらひげ》へ寄せたのはもう夕景でした。
酒が尽き興も尽きて、花見の帰り舟はまことに白々しいものです。白鬚で降りた人達は、夕風に吹かれて八方に散りましたが、近江屋連三郎は六十を越した年寄りでもあり、一同も世話をしてやらなければなりませんので、後に残って茶店で一服しております。
その時は用心棒の由松も側におらず、連三郎は珍しく一人になって、水を渡ってくる金竜山《きんりゅうざん》の鐘に聴き入っていたのです。
「もう酉刻《むつ》〔六時〕かな、薄寒くなる前に帰りたいものだが――」
吸殻《すいがら》をポンと叩いて、連三郎はこんなことを言っております。昔は一かどの男でしたが、年を取って金が出来ると、妙に要心ぶかくなります。女どもはさすがに遠くも離れず、疲れを知らぬ人達は、花の下で鬼ごっこが始まり、遠くから師匠の三味線も聴えております。
その時でした。桜の蔭から疾風のように飛び出した男、腐ったような素袷《すあわせ》、手拭を頬冠りにして連三郎の後ろから近づくと、
「己れ、親の敵《かたき》ッ」
匕首《あいくち》をひらめかして、ガブと突っかけたのです。が、連三郎には油断がありませんでした。着物を引っ裂かれただけでわずかに避けました。
「お前は何だ、何をするッ」
連三郎は銀煙管《ぎんぎせる》で向いました。六十歳といっても、なかなかの腕前です。
「伊勢屋の倅《せがれ》初太郎だ。親父がお前に殺されたのを知らないとは言うまい」
「何? 俺は覚えがないぞ、言いがかりを言うなッ」
「野郎ッ」
それは思いもよらぬ騒ぎであり、側にいるのは女ばかり、しばらくは駈け付ける人もありません。
初太郎は三度襲撃して三度しくじりました。いかにも痩せてヒョロヒョロしている上に、連三郎は鍛え抜かれた老人で、これくらいは物の数ともせぬ掛引き上手だったのです。
その時、近所にいた八五郎が飛び出しました。花見の一行とはなんの関係もないのですが、一方は富裕そうな立派な老人で、それに切りかけるのは、風態《ふうてい》のよろしくない、貧乏くさい男です。
「ま、待った、何の意趣《いしゅ》か知らないが」
八五郎は十手も抜かずに飛びこむと、物の見事に初太郎に突き飛ばされたのです。
「何を、お前の知ったこっちゃない、邪魔だ」
弾《はず》みを喰って、八五郎は桜の根へ抱きつきました。
「その時の向疵《むこうきず》なんで、ヘエ、あんまり威張れませんよ、もっとも、そのとき多勢の者が駆けつけ、初太郎は袋叩きにされ、土地の役人に引き渡されそうになりましたが」
「それじゃ引き渡されなかったのか」
平次は訊きました。
「当の連三郎がまあまあと入って、こいつは、初太郎にも一理はある、親を亡くした子には、それくらいの怨みはあるだろう。こっちに悪いことはない積りだが、親孝行の倅を役人に引き渡してはすむかい――と、そのまま許してやりましたよ、本人がそんな気になるんだから、こっちで文句の言いようもありません」
「それっ切りか」
「ヘエ、それっ切りで、一向つまらないでしょう」
八五郎は澄ましております。
二
話はこれからが本筋に入ります。
八五郎が花見の騒ぎを報告してから五日目、江戸は行楽《こうらく》に草臥《くたび》れて、やや日頃の落着きを取り戻したころ、八五郎の大変が飛び込んだのは思いのほかでした。
「た、大変、親分、御府内で鉄砲を打つとどんなことになります」
「何を言やがる、そいつは磔刑《はりつけ》ものだよ、相手は誰だ?」
そのころ何より恐れられたのは火器で、うっかりこれを持っただけでも大変なことになります。猪《いのしし》や熊《くま》を狩る山家《やまが》の猟師《りょうし》なら知らず、諸藩の道具調べにも、鉄砲を一々届け出たくらいです。
「それが日本橋の真中、近江屋連三郎の家でドカンと鳴ったとしたらどんなもので」
「馬鹿なことを言え」
「もっとも、鉄砲を持っていた申し訳は立ちました」
「?」
「古い火縄筒で、鳥脅《とりおど》しの役にしか立ちはしませんが、その鉄砲で主人の連三郎が狙われたとしたら、物事は穏かじゃないでしょう」
「なんだと?」
居間で金の勘定をしているところを、障子越しに狙われ、もう一と息でどんと来るところを、針妙《しんみょう》のお金という女が見付け、物差しで火皿へ立てた線香を叩《たた》き折った。放ってもおけないから届けて出たわけで、鉄砲を持っていることが、それでわかってみれば、近江屋には大した科《とが》はない。
「そいつはむずかしい、詳しく話してくれ」
「親分が御自分で本石町まで行っちゃどうでしょうか。この間の喧嘩といい、こんどの騒ぎといい、近江屋には変なことがあります。狙《ねら》われているのは、たしかに主人の連三郎で」
「それでは、ちょいと覗《のぞ》くとしようか」
平次がこの事件の真中へ、首をつっ込んで見る気になったのは、こんな経緯《いきさつ》からでした。
近江屋というのは、本石町の時の鐘の下で、その頃では町々に時を知らせる、なくてはならぬ設備の一つだったのです。時の鐘の代金を一銭ずつ老人が集めて歩いたのは、そんなに古いことではなく、明治の末までも続いたくらいですから、徳川時代には、これがかなりの役をつとめたことはいうまでもありません。上野や浅草の名鐘は今でも江戸の誇りになっておりますが、名もなき鐘は町々に幾つあったかわかりません。
近江屋では銭形平次の出張と知って、なんとなく色めき立ちました。これほどの事件に、平次が来るとは思いも寄らなかったのです。
「これは銭形の親分、御苦労でございます」
主人の連三郎は、太々《ふてぶて》しいが慇懃《いんぎん》でした。
「大変なことだってね、御主人」
平次はともかくもその鉄砲を見せてもらいたかったのです。
「鉄砲は恐しく時代もので、物の役に立ちません、それに台座《だいざ》もこわれており、このままでは照準《しょうじゅん》もつきません、届け出なかったお叱りは受けましたが、別にお科《とが》めにもなりません」
主人の連三郎は、用箪笥の中から、筒だけになった鉄砲を取り出して見せました。赤銅《しゃくどう》で唐草を象嵌《ぞうがん》した短筒《たんづつ》で、素晴らしい道具ですが、このままでは狙《ねら》いも付けられません。
「なるほど、立派な品だが」
「武田信玄公が使ったものかも知れません。今時は鳥おどしにもならない道具で」
連三郎はニヤリとしてみせるのです。少し肥った、眼のぎょろりとした、町のボスによくある型の人間です。
「それを」
「こちらへいらっしゃいまし、私の居間の隣の机の上に仕掛けてありましたんで、居間の机に凭《もた》れて、細かい勘定《かんじょう》をしていると、障子ごしにこの鉄砲でやられるところでした。この鉄砲に二つ三つ石ころを詰め、煙硝《えんしょう》の代りに、玩具の花火から抜いた煙硝をつめ、火皿へ線香を立ててあったそうで」
連三郎は事もなげに説明しますが、内心はなかなかに安からぬものがあったのでしょう。
「それを見付けたのは?」
「お金と申します、針妙《しんみょう》と申してもまだ若い女で、子供の時から、ひどく足が悪く、下女の役にも立ちませんが、針を持たせるとなかなかの器用で、一手に多勢の仕事を引き受け、引っきりなしに仕事に追われております」
針妙というのは、吉原のお針で、廓言葉《くるわことば》を嫌って江戸の良家ではこれを針妙と言いました。「針妙は尻の重きを可なりとし」「針妙は返事の時にツイと抜き」などという川柳が残っております。
「?」
平次は黙って聴きました。
「線香の匂《にお》いがしたので、お金はびっくりしたのでしょう。部屋の中へ入ると、鉄砲の火皿に線香を立てたのが、机の上にあったと言います。前後の考えもなくその線香を打ち折って、私を呼んだと申します。それからは大騒動で」
連三郎は息を呑《の》むのです。花火から抜いたあやし気な煙硝に小石を詰めた鉄砲でも、隣の部屋から発射すれば、人の命を楽に取ります。連三郎はまさに、命を狙われたに違いありません、針妙のお金の働きでわずかにそれを免れたのでしょう。
三
針妙のお金というのが、平次の前に引き出されました。少し嫁《とつ》ぎ遅れの二十五六ですが、いかにもみじめな女です。ひどい片輪《かたわ》で歩くのが精いっぱい、今でいう小児麻痺でしょう、片っぽの足はものの役にも立ちません。
しかしそれにもかかわらず、お金は美しい女でした。婚期を逸した、虫くいの桃のような、病的な美しさは、二つの大きい眼にも、色づいた頬《ほお》にも溢《あふ》れて、なんという不思議な魅力でしょう。背は低い方、言葉はハキハキする方、足の弱いのにくらべて、精神力は異常な強さを持っていそうです。
「お前はお金というのだな」
「ハイ」
だが、片輪者であるにしても、折屈《おりかが》みの美しい女でした。小じんまりと坐っていると、名ある人形師の精魂こめた名作のようで、その一挙手一投足にも女らしい美しさが漲《みなぎ》ります。
「昨夜《ゆうべ》のことを詳しく話してくれ」
平次は相手の気持をほぐすように静かに訊《き》きました。
「私は足が不自由で、宵のうちに大抵の用事はしてしまいます。昨夜も床を敷く前にざっと掃き出そうと思いまして、廊下と障子をあけると妙な匂いがいたします」
「……」
「香りは、線香の匂いでした。旦那様は仏様はお嫌い、滅多に線香などを燃やす事はございません。何心なく二た間三間の先を開けてみると、お居間の隣の部屋で、線香がいぶっているではございませんか」
「それで?」
「見ると――いえ廊下のあかりで、見当くらいはつきます。机の上に短筒《たんづつ》が載せてあって、その火皿に線香が立って、燃え付きそうになっているではありませんか。筒口は隣の居間に向いております。もし短筒に煙硝や弾丸《たま》が入っていたら、隣の居間にいらっしゃる旦那は一とたまりもあるまいと、持っていた箒で、思い切り線香を叩き落しました。火のついた線香は飛んで、焼《や》け焦《こが》しを拵《こさ》えたようで――とんだ粗相《そそう》を致しました」
お金はつつましく一礼するのです。一生をお仕事にささげ、針一本に委《ゆだ》ねて送ろうという女は、こんな事を話すのも遠慮しいしい、悪いことでも見付かったようにおどおどしているのです。
「夜のことだとすると、悪戯者《いたずらもの》は家の中にいるにきまっています。一と通り皆さんに逢わせて下さい」
「家の者を一人ずつ呼び出すことにしましょう」
連三郎はお金を使いにやって、さいしょの人、この家の養子で、今では跡取りになっている幸吉とお琴の若夫婦を呼びました。幸吉というのは主人の連三郎の甥《おい》で、いかにも気の強そうな男です。
「お金の知らせで、私も後で覗《のぞ》きました。店にいたのでございます」
言うことはしっかりしておりますが、血色よい首をちゃんとあげて、利《き》かん気らしさは一と眼に受けとれます。嫁のお琴はこれも二十台、
「お勝手におりました、多勢の女達と笑っておりましたが――」
これはただの若女房、きりょう好みでもらったらしい、柔和《にゅうわ》な女です。
二人が退くのを見送って、
「幸吉さんといいましたね、いかにもしっかり者らしいが、折合いはいかがで」
平次はそっと囁《ささや》きました。
「気が付いたことでしょうが、あまり好い親子とは申されません。あのとおり気が強くて、隠居料に私の手へ残しておいた物まで、すぐにも渡せと申します。子飼いの甥ですから、わがままを言うにも無理はありませんが」
連三郎はこぼすのです。これも気の強い親父らしく、話を聴いただけでは、どちらが良いとも言い切れません。
「もっとも嫁のお琴はよく出来た女で、これは申し分はありません」
とも付け加えるのです。
つづいて番頭の小七と甥の勇次が呼び出されました。小七は四十五六、虱に喰い荒されたような男で、若いくせに皺《しわ》だらけで、眼のしょぼしょぼしたいかにも情《なさ》けない男、地所のもめごとで夕方から外に出ており、騒ぎのあとで帰ったのは、店の者は皆んな知っております。
もう一人の甥の勇次は、手代代りの二十八九、少し無駄に肥ったような鈍重《どんじゅう》な男、口だけは達者に動きますが、主人の連三郎も軽く扱っていそうです。
「私は店におりました。若旦那も御存じのはずで、――ヘエそうおっしゃると、線香の匂いをきいたようですが」
一向頼りがありません。
ほかには用心棒代わりに、主人が連れて歩く由松、これは植木屋職人だったのを、下男代わりに引き入れて、今の仕事をしている男、腕っ節が強くて、人相に凄味《すごみ》があるほかには大した特色もありません。これは騒ぎの最中、お勝手にいたという話。
あとは小僧の相次郎、十八になったばかり、下女のお春にお秋、お勝手で無駄話をしていただけのこと、なんの関係もありません。
これが本石町近江屋の全員でした。養子の幸吉のほかには、連三郎の命を狙うほどの激しい男はありませんが、伊勢屋の初太郎のように、どこに曲者が隠れているか見当も付きません。
「親分、あの家のことを、近所で訊きましたが、ありゃ大変な家ですよ」
その帰り途、八五郎は言うのです。平次は調べの邪魔《じゃま》にならぬよう、いつものように、八五郎を外に出して、近所の噂を集めさせたのでした。
「連三郎という男は、一代にあれだけの身上《しんしょう》をこしらえたんだ。ずいぶん無理をしたことだろうよ」
平次はその噂を引き出しました。
「金をためる野郎は無理をします。あっしのように空尻《からっけつ》だと世渡りにも無理はねえ」
「何を言やがる、借りだらけの癖に」
「ヘッ、違いねえ」
「まず、近江屋のことを話せ」
「十八年前に、先代は野垂死《のたれじ》にしたそうですよ」
「なんだと?」
「先代は伊勢屋といったそうで、本石町の地主で大した勢いだったそうですが、贅沢《ぜいたく》過ぎた上、お上の思し召しに反《そむ》くことがあって、江戸構いになり、その後はことごとくお上の没収にもなるべきはずのところ、番頭だった連三郎がそっくり後を引き受け、そのうえ、主人の伊勢屋を訴人とかで跡目を許され、おびただしい御褒美《ごほうび》まで頂戴《ちょうだい》し、暖簾《のれん》を代えて近江屋となりました」
「フーム」
「当座は御近所から白い眼で見られ、人の噂にものぼりましたが、世間は忘れやすいもので、七十五日も経つと、ケロリとして金のあるところにお世辞《せじ》もつかいます。先代の伊勢屋の倅初太郎は、抛り出されたように育ち、酒と勝負事が好きで、幾度も連三郎を狙いましたが、用心堅固で物にならず、相変らず白鬚の騒ぎみたいな事をやっております」
「可哀想に、初太郎が近江屋を狙うのも無理はないわけだ」
「あっしは親の敵は疝気《せんき》で――これじゃ付け狙いようもありません」
「呆《あき》れた野郎だ」
無駄を言ううちにも、平次は明神下へ着きました。
四
それから三日経ちました。春もようやく老《お》いて平次も矢鱈《やたら》に忙しくなった頃。
本石町の近江屋から、すぐ来てくれという急の使いです。八五郎が来たら直ぐ追っかけて来るようにと、伝言を残して平次は飛んで行きました。何が何やら見当も付きません。
本石町へ行ったのはまだ朝のうちでした。番頭の小七はうろたえた小鼠のように、店の外で待っておりました。
「これは、銭形の親分、大変なことになりました」
「どうしたのだ、番頭さん」
「主人は二階から落ちて、半死半生でございます」
「そいつは大変だ」
平次は表から飛び込みました。取次などを待っている隙もありません。
階下の六畳に床を取らせて、主人の連三郎はまったく半死半生の有様でした。全身|打撲傷《だぼくしょう》で、頭も上らない中にも、
「銭形の親分、今度という今度は、私もひどくやられましたよ。敵《かたき》が討ちたい、曲者を捜して下さい」
連三郎はかかる中にも復讐心に燃えているのでした。
「どうなさいました」
平次は床のわきに這い寄りました。
「話にもなりゃしません。ゆうべ夜中すぎに階下でいきなり『火事』といわれて、二階に寝ている私は飛び起きて梯子《はしご》へかかると――梯子は一つしかありません。私の二階の部屋からは、直ぐでございます」
「さいしょに火事を見付けたのは」
「梯子段からあまり遠くないところに寝ている、針妙《しんみょう》のお金でした――驚いて飛び起きると、二階は真っ暗で足もとの見当も付かないのに、梯子段の一番上に一尺に三尺ばかりの薄い板が置いてあったのです。その薄板の上に足をかけると、一とたまりもありません。板は止めずにあったので、私はずってんどうと引っくり返って、九つの梯子段を、逆様に落ちてしまいました」
「それはひどい」
「梯子の一番上に遊び板を置いたのは、曲者の仕業で、踏めば落ちるようになっておりました。そのうえ梯子の段々には、一々油が塗ってありました。油雑巾《あぶらぞうきん》をうんと湿して、梯子段いっぱいにぬってあったようで、お蔭で行灯《あんどん》は皆んな空っぽになっていたそうで、よくよくたちのわるい悪戯《いたずら》で、私だから無事に助かったようなものの」
連三郎は全身の打ち身でうめきながらも、腹が立ってたまらない様子です。
「廊下に灯があったので」
「手燭《てしょく》を柱に打ってあるはずが、奥の廊下にはなかったと言います。曲者が吹き消したのでしょう」
「火事の跡は」
平次はそれが気になった様子です。
「障子を二枚焼いただけ、お金とお琴が消してくれました。その辺に立てかけてあったはずですが」
なるほど部屋の隅《すみ》には、さんざんになった障子が二枚だけ立てかけてあります。紙はいうまでもなく骨まで踏み荒されて、まことにさんざんの体、火事は消さなければならず、主人の命は助けなければならず。
八五郎はその時やって来ました。
「親分遅れて済みません。近江屋にはまた変なことがあったようですね」
「変なことじゃない、人殺しの卵が、この家にいるんだ、――お前は家中の者の草履《ぞうり》の裏を調べてくれ。梯子ばかりじゃない、廊下も縁側も油だらけだ」
「ヘエ、そんなことならわけはありません」
八五郎は安うけ合いに飛び出しました。そんな気軽なことで曲者が発見されれば、わけもなく事件は解決するでしょうが、悪い事をした奴は案外早く気がついて、草履を穿き代えていたかも知れず、平次はそこをいい加減にして、梯子段に近づくと下から上へ、いとも念上りに調べはじめました。
「親分見当がつきましたよ」
八五郎が顔を出したのは、それからしばらく経った後でした。
「どうした、油のあとが付いていたのか」
「家中の者の草履は、皆んな油だらけで、しばらくこの家は歩けませんよ」
「誰の草履だ」
「一度は二階へ行っていますから、まさか滑って転げはしないが、皆んな滅茶滅茶で、ことに倅《せがれ》の幸吉や、嫁のお琴はひどかったようで」
「……」
「奉公人では、針妙のお金がひどかったようで、もっともあの女は片っぽの足は使いませんから、ひどい油は片っぽだけで」
「なんだ、つまらねえ」
平次は八五郎の言葉から、なんにも得られません
「ところで親分の方は、梯子段を調べていたようですが」
「俺にもわからない事ばかりだよ――ちょいと顔を貸してくれ」
「ヘーエ」
八五郎は長《な》んがい顎を縁側へ持って来ました。主人の連三郎の寝ている部屋は外へつき出したようになって、春の本石町にも存分に外気を味えるようになっておりました。もっともいつもはこの部屋に寝るのではなく、老人の一人者らしく、二階に休んで、不慮《ふりょ》の災難《さいなん》に逢ったわけです。
「なア、八、俺は妙なことを見付けたのだよ。油だらけの梯子を登ると、だんだん一面に錐《きり》で突いたように傷が付いているのだが、幾つあるのか勘定をしたわけではないが、油がしみているけれど傷は新しい、容易ならぬ傷だ」
「ヘエ、いかにも傷らしいものがあります」
「こんな家の梯子が、傷や節《ふし》があるはずはない。誰がいったいそんなことをしたのか、俺はそれが知りたいと思うよ」
油だらけの梯子は、要心して登らないと、今でも滑りそうで、うっかり出来ません。
五
平次は、八五郎に後を頼んで、一人ふらりと外へ出ました。ツイ近所にある時の鐘が妙に気になる様子です。それをぐるりと一廻りして、本石町まで来て、埃溜《ごみため》などを念入りにあさっておりましたが、時の鐘の番をしている、老人の中へ入って、若いくせに無駄話一席、それから近江屋に帰って、間取りを念入りに調べたうえ、主人の連三郎に逢って、何やらしばらくささやいておりました。平次の勘にピンとさわった物がある様子です。
結局、近江屋連三郎を梯子から落した曲者は、平次のせんさくでもとうとうわからず、夕方には八五郎をつれて、神田明神下へ帰るほかはありません。
「あの養子の幸吉を縛らないんですか」
口惜《くや》しがるのは八五郎だけです。
幸いにして連三郎の受けたのは、打撲傷だけで大したことはなく、当分二階へ休むことだけを止しにして、何事もない体にするほかはありません。
連三郎を滑らせた薄板というのはどこにもある品で、その板の上に、一面に油を塗ってあるだけ、証拠になる品ではありません。近江屋の物置にも、こんな品はいくらでもあったのです。
そのうえ養子幸吉は、一番先に駈けつけたというだけの話、火の付いた障子とは反対側に、お琴と一緒に寝ていたのですから、まったく問題になりません。
帰り途、平次は妙なことを言いました。
「俺はちょいと、お奉行所に行ってくる、書き役に逢って見せてもらいたいものがあるから」
「あっしもお供しましょうか」
「お南《みなみ》に良い新造《しんぞ》なんかいないよ。お前は向柳原へ帰るがいい」
「そうですか、あっしがいないと不自由しますよ」
「変なことに気付いたのさ、――この曲者は思いのほか早く知れるかも知れない」
そう言われてみると、八五郎でも後を追うわけに行きません。
その晩思わぬ事件が起こったのです。
二階から落ちた連三郎は、倅夫婦《せがれふうふ》やお金の介抱で、大したこともなく、昼頃になると寝たり起きたり、暢気《のんき》に暮せるようになりました。
夕刻からは、晩春の良い月夜で、まだ節々《ふしぶし》の痛いのを我慢して、月を眺める気になり、障子をいっぱいに開けさして、外の景色などを眺めておりました。時候はずれの月見も、本石町に住む人の、思いもよらぬ春の眺めです。
連三郎は二つの居間兼寝部屋を持っていたわけです。二階は昨夜で懲《こ》りましたが、階下《した》にはまた階下で、良い眺めがあったのです。まだ宵のうちで手を一つ叩けば隣の部屋から誰かやって来てくれるはずです。
連三郎は本当に満ち足りた心持でした。怪しい曲者に付きまとわれてはいるが、金があって地所があって、江戸の真中に家作を持って、こんな仕合せなことはないと思っていたのです。おまけに月がよくて、酣《たけなわ》の春は朧《おぼろ》のままに逝《ゆ》かんとしております。
その時でした。
「あッ」
どこから飛んで来たか、一条の匕首《あいくち》が連三郎の小鬢《こびん》をかすめて、枕の上へざぶりと突っ立ったのです。
「誰だッ」
連三郎は立ち上りました。小鬢を少し切られて、血がたらたらと流れます。
「どうなさいました、旦那様」
隣の部屋から、足の悪いお金が、転げるように飛んで来ました。
「どうかしましたか」
少し離れたところにいる、倅幸吉と嫁のお琴がつづきました。まだ寝ていなかった奉公人達も飛んで来ました。
近江屋の内外は、一瞬にして、引っ掻き廻されるほどの騒ぎになったのです。しかし家の内ではあり、大方は店やお勝手や、自分の部屋にいて、外から匕首を飛ばす者などはありません。
匕首は直刃《すぐば》の凄《すご》いものですから、至って小さく、五六寸にも満たないでしょう。これを抛ることはなかなかの業《わざ》ですが、よほどの手練《しゅれん》を要することでしょう。
「俺は助かったよ。銭形の親分の言うことを聴いて、床を一尺ばかり引っ込めた上、俺の身体も二三寸引っ込めたのだ」
連三郎は、謎のようなことを言っております。床の真中に寝て、床を敷居寄りに敷いていたら、間違いもなく喉笛《のどぶえ》をやられたことでしょう。
暁方《あけがた》神田へ使いを走らせて、平次と八五郎を呼びました。騒ぎのうちに夜は更けて、大した間違いでもないのに、御用聞を呼ぶまでもあるまいという、連三郎の遠慮もあったのです。
平次と八五郎はさっそく飛んで来ました。
「この家で、誰かいなくなった者はありませんか」
妙なことを平次は言うのです。
「皆んな揃《そろ》っておりますが」
連三郎は落着いて答えるのです。小鬢の疵《きず》は手当てを加えて大したことではなく、倅夫婦をはじめ近江屋の者はたいてい揃っていそうです。
「それならいいが――」
平次は黙ってしまいました。
「なんか心当りはあるでしょうか」
「いや、大したことではない。今晩から当分のあいだ私が泊りましょう」
平次はそんな事を言って、いろいろ調べておりますが、なんにもわかったわけではなく、ただ匕首は日頃ねらいを定めておいて、主人連三郎が階下へ移ったところを、窓の外の物干から飛ばしたとわかっただけの事です。
しかし物干は高く、屋根の外へ突き出しており、この上へ登るだけでも容易でなく、降りるにしても、お勝手へ廻らなければなりません。
一向平次の調べも埒《らち》があかず、昼になって平次は外に用事もあり明神下へ帰りました。曲者は見当も付きません。
六
その晩、近江屋からの急の使いで、平次はまた本石町まで飛びました。何が何やら使いの者の口上ではわけが解りません。
「銭形の親分、針妙のお金がいなくなりましたよ、少しばかりの荷物と一緒に」
「やはりそうでしたか、放っておきましょう」
平次はけろりとして、こんなことを言うのです。
「引き受け人も、金でこしらえた人で、なんにも知りません、心当りを捜してみましょうか」
連三郎と倅の幸吉は、犇《ひしめ》き立てるのです。
「いや、そのままにして置きましょう、こっちにも思い当ることがあるわけですから」
「……」
「でも、旦那を狙った曲者はこれっ切りでお仕舞になりますよ。十八年前の四月十五日、江戸構いになった、伊勢屋の怨みですよ。私は奉行所の書き役に頼んで、その日まで調べてもらいました」
「それは、親分」
連三郎は不足らしい顔をしております。
「曲者はあの女だということを、念のためにお目にかけましょう」
平次は夕ぐれの外へ飛び出しました。何やら捜しているようでしたが、やがて何やら手に持って戻って来ました。
「親分、あっしも手伝いましょうか」
八五郎はのぞきます。
「俺一人でたくさんだ。あの女は皆な残して行ったよ、第一に時の鐘の裏に埃溜《ごみため》がある、その中に草履《ぞうり》が一足、一方はひどい油がしみているが、一方は真新しい草履だ。びっこが履いた草履だ。その上に一寸もある釘を隙間もなく打ち込んである。この草履をはいて歩くと、床板に傷はつくが、油の上を歩いても滑るようなことはない」
「その草履を穿いて梯子を登り降りしたのですね」
「あの女はこの草履を穿いて梯子段へ油を塗った。その後で草履を捨てたが、遠くへ行くわけにも行かないから、時の鐘の裏の埃溜へ棄てた、それがあの足では精いっぱいだったに違いない」
「ヘッ、太え女で」
「いや、太いか太くないか、あの女は三度も連三郎さんを助けている。鉄砲の時も楽に打てるはずだが、わざと自分が見付けた事にして助けている、――一つは障子越しに鉄砲で撃っても当るか当らないかわからず、それよりは旦那を助けて恩を売った方がいいと思ったのだろう」
「ヘエ」
「二度目にも、梯子から落ちて目を廻した連三郎さんをすぐに刺《さ》し殺せたはずだ。刃物《はもの》は用意していたが、刺そうとした手を留めて旦那を助けた」
「……」
「あの女は、怨みは怨みでも、人を殺す気はなかったのだ、三度目は物干から匕首を飛ばした」
「危いことで――」
「直刃《すぐば》の匕首は真っすぐに突っ立った。あの女はそれを稽古《けいこ》していた、針妙やお針さんなどは不断坐ってばかりいるから、妙な芸当を修業するものだ。お金も近江屋さんに怨みがあるから、人知れず匕首を飛ばす稽古をした。百発百中の腕前だったに違いない。でも、物干の上から、近江屋さんを殺す気にはなれなかった」
「あの女は優しいところがありましたよ」
八五郎は注を入れます。
「でも、小鬢をかすって、枕に突っ立てた。兄にせがまれて、思い知らせるためだ、――兄というのは、それ伊勢屋の倅初太郎さ、お前も顔くらいは知ってるだろう」
「ヘエ、いやな野郎で」
「擦りむきをこしらえた怨みだろう――とにかく、お金は物干から匕首を飛ばし、柱を伝わってするするとこの隣の部屋の前に滑りおり、転げるようにこの部屋に飛び込んだ。現に、あの柱は古くて棘《とげ》だらけで人間の滑り降りられる代物ではない。お金が降りるとき、着物を引っかけてさんざんに衣物の破れをこしらえている。有難いと思ったら、それをお前の守袋へ入れておけ」
赤いの青いの、女の着物から破れたらしい小ぎれを平次は二つ三つ取り出すのです。
連三郎も感にたえ、幸吉もお琴も黙ってしまいました。平次の説明で、連三郎が訴人《そにん》をしたために、十八年前江戸構いになった、伊勢屋の子供達が、仇討《あだうち》を企てたのでしょう。伊勢屋の主人は、旅先で死んだとやら、子供にしては、百年経っても忘れられないものがあったでしょう。
*
「ところで、あのお金という針妙はどこへ行ったでしょう」
帰る道々八五郎はまだこんなことを言っております。
「良い女だったな、あれは初太郎の妹、奉行所の調べ書にも、伊勢屋には二人の子があったと書いてある。今月の十五日は、父親が江戸構いになった日だ。その日に間に合わせるために、お金は、たいそう急いでいたよ」
平次は言うのです。
「で、どこへ行く積りでしょう」
「上方へ行く気かも知れない。あの足では道中がむつかしいから、舟で行くことになるだろう、両国まで送ってやろうか、八」
「ヘエ」
平次は初太郎兄妹を見張って、先々へと見当はつけていたのです。初太郎が舟へ渡りを付けたことも、両国から、伝馬《てんま》の出ることも、明日江戸から舟出する舟のあることも知っておりました。
二人は両国橋へたどり着くと、まだこの辺は宵でした、幾十の舟が出入りを急いで、なんとなく活気付いております。
「舟だよ八、柳橋《やなぎばし》の方を見るがいい。お金は舟で来て、ここで大きい舟に乗り換えるのだ」
「ヘエ、兄貴の初太郎は?」
「安心しろ、二人とも揃っているよ。初太郎はなんか怒っているようだ。お金は言い訳をしているだろう、十八年も前の仇を打つ気がしなかった事や、連三郎を助けた事を話しているのだろう――それでよかったのだよ」
「ヘエ」
「仇討などは武士のする事だ。町人や女のやる事じゃないと言ってるかも知れない」
「でも、あの女は良い女でしたね、優しくて行き届いて」
「それから、仇まで許して、――おやこっちを見上げるじゃないか。夜目遠目《よめとおめ》だが、お前や私のいることがわかったかも知れない、勘の良い女だね、手を振ってるじゃないか」
「江戸へ留めて置きたい女ですね、親分」
「黙っていろ、舟はもう出る。江戸にいると縛らなきゃならない女だ。それでいいのだ、それで」
平次は夕闇の中に、首を垂《た》れました。
(完)