野村胡堂
銭形平次捕物控(巻十)
目 次
猿蟹合戦
艶妻伝
夕立の女
猿蟹合戦
一
「日本一の面白い話があるんですが、親分」
ガラッ八の八五郎、こみ上げる笑いを噛みしめながら、ニヤリニヤリと入って来るのです。
六月になったばかり、明神様の森がからりと晴れて、ひさし振りの好い天気。平次は襷《たすき》がけにはたきを持って、梅雨《つゆ》中とじ込めた家の中の湿気《しっけ》と埃《ほこり》を、威勢よく掃き出しておりました。
「顔の紐のゆるんだのが、路地を入って来ると思うと、それが外ならぬ八五郎さ。なるほどそんなおもしろい相好《そうごう》で歩く人間は、日本中にも滅多にはねえはずだ」
「あっしのことじゃありませんよ、親分」
「まだ外に、ニタニタ笑いながら歩く人間があるのか」
「弱るなア、――笑いながら歩く話じゃありませんよ。火傷《やけど》をした話なんで」
「火傷をね」
「ただの火傷じゃありませんよ。真夏に股火鉢《またひばち》なんかやって、男の急所に大火傷を拵《こしら》えたと聴いたら、親分だって、それね、可笑しくなるでしょう」
「フ、フ、フ、妙なことを嗅ぎ出して来るんだね、お前という人間は。金《きん》を焼いた話なら町方は筋違いさ。そいつは金座役人の係りだ。御勘定奉行へ訴えるのが順当じゃないか」
「落し話じゃありませんよ、親分」
平次と八五郎は、いつでもこんな調子で筋を運ぶのです。
「いったいどこの誰がそんな間抜けな怪我をしたんだ」
「間抜けどころか、相手は江戸一番と言っても、二番とは下らない塩っ辛い人間なんだからお話の種になるでしょう」
「ヘエー、その昔噺《むかしばなし》は面白そうだね」
平次は襷を外して、火のない長火鉢の前へ来ると、煙管の雁首《がんくび》を延ばして、はるかかなたの挽物細工《ひきものざいく》の貧乏臭い煙草入れを引き寄せるのでした。
「親分でも掃除なんかするんですか。襷なんか綾取って、まるで敵《かたき》でも討ちそうな恰好ですぜ」
「忙しいときは、掃除も手つだえば、飯も炊くよ。よく見習っておくがいい。お前もいつまでも独身《ひとりみ》じゃあるめえ、あんまり女房に骨を折らせるばかりが、男の見得じゃないよ」
「ヘッ、相済みません」
首を縮めた弾《はず》みに、八五郎はペロリと舌を出すのです。
「ところで、お前の話はなんだっけ」
「忘れちゃいけませんよ、男の急所を焼いた話――ウフ」
「そうそう」
「春木町の浪人、金貸しでは江戸中にも何人と言われた、綱田屋《つなたや》五郎次郎を親分も御存じでしょう」
「知ってるとも、武家相手に高利の金を貸して、一代にびっくりするほどの身上《しんしょう》を拵えた男だ。札差にまで見放されたお武家が、綱田へ頼みに行くと、二つ返事で貸してくれるってね。その代り返さなきゃ組頭かお取締りの若年寄りに訴え出る。否も応もない、まごまごすると家名に拘《かか》わるか、こじれると腹切り道具になるから、女房や娘を抵当にしても返すというじゃないか」
その頃江戸中に横行した、悪質な高利貸の一人で、武家崩れの綱田屋五郎次郎は、人間が穏かで上品で、上役人にも通りがよく、いちおう話のわかる男でしたが、それだけに奸佞邪智《かんねいじゃち》で、一と筋縄では行かない人間として平次に記憶されております。
「その綱田屋が変な火傷をしたんだから、好い気味みたいなもので」
「人の災難を笑っちゃいけない」
「でも、あの男は茶の湯なんかやるんですってね。高利の金で儲けちゃ、恐ろしく高い道具を集めて、青黄粉《あおきなこ》のガボガボでしょう」
「青黄粉とは違うよ」
「だから綱田屋の主人の部屋には炉が切ってある、――もっともあの五郎次郎というのは、若い時の道楽が祟《たた》ってひどい疝気《せんき》だそうで、夏でもときどきは股火鉢で温める。奉公人は多勢いるが、口の悪いのは蔭へ廻ると、主人とも旦那とも言いやしません――夏火鉢――で通るんだそうで」
「お前の話を聴いて居ると、俺は横っ腹が痛くなるよ。よくもそんな馬鹿な話ばかり仕入れて来たものだ」
「これからが話の本筋ですよ、親分、――昨日はまた妙に薄寒かったでしょう。梅雨《つゆ》明けには、よくあんな天気があるんですってね。あっしのような達者な人間でさえ冷々するくらいだから、疝気持ちの綱田屋五郎次郎、下っ腹がキリキリ痛んで叶わない、茶を入れるから――とかなんとか、体裁の良いことを言って、炉に火を入れさして、さっそくの股火鉢だ。少しばかり良い心持になって、眠気がさして来ると、いきなりドカンと来た」
「なんだえ、それは?」
「炉の隅に、地雷火《じらいか》が仕掛けてあったんですよ。程よいところで口火に火が廻ると、五徳も鉄瓶《てつびん》も、灰も炉もハネ飛ばして、ガラガラドシンと来た。いやその凄かったことと言ったら」
八五郎の話には身振り手振りが入るのでした。
「炉の中に地雷火なんか潜り込むわけはないじゃないか、癇癪玉《かんしゃくだま》かなんかだろう、――もっとも両端へ節の付いた竹筒を埋めて置いても、それくらいの業《わざ》はやるぜ」
「そんな生やさしい物じゃありませんよ。綱田屋の主人が炉の真上にいたら、天井へ叩き付けられたかも知れないというくらいで」
「で?」
「綱田屋主人、命は無事だったが、股から上の火傷《やけど》だ、――悪戯者《いたずらもの》は家の中に居るに違げえねえ、引っ捉えて八つ裂きにしてやる――という腹の立てようだが、見渡したところ、娘も倅も居候も、多勢の奉公人も皆んな良い子ばかり。そんな大それた悪戯をしそうな顔もいないから、恥を忍んであっしに来てくれというわけで」
「お前は行って見たのか」
「行って来ましたよ。出入りの者から叔母さんへ頼みに来たんで」
「で、どういう鑑定だ」
「一向わかりませんよ。家の者には違げえねえが」
「心細い野郎だな」
「念のために部屋の灰と埃を掃き寄せた中から、形のあるものを少し拾い集めて来ましたがね」
八五郎はそう言いながら、懐中《ふところ》を探って何やら取出すのです。
「なんだえ、それは」
「部屋の片付けも済まないところへ行って、ともかくこれだけは集めて来ましたがネ」
鼻紙をひろげると、中から出て来たのは、灰と埃と炭の屑と、そして少しばかりの糊《のり》で固めた反古紙《ほごがみ》と、竹の片《きれ》と、串のようなものと、そして堅く捻った紐の一片だったのです。
「これは大したものだよ、八。良いものを持って来てくれた」
平次はすっかり夢中になって、その懐ろ紙の中の、得体の知れない雑物を選りわけております。
「でしょう、――これが銭形流のやり口なんで。ヘッ」
平次に褒められると、八五郎の低い鼻は蠢《うごめ》きます。
「これは、お前、花火じゃないか」
「ヘエ」
「両国の川開きなどで使う、打ち揚げ花火だよ。炉の中でこいつに爆《は》ねられてたまるものじゃない、――いやもっと小さい、早打ちの小玉だろう」
「ヘエ、大変なものを仕込んだものですね」
炉の中の花火玉、それは実に奇想天外の悪戯です。
「こんなものを拵えるのは、江戸では両国の鍵屋一軒だ。お前ちょいと行って調べて見るがいい。花火玉が紛《まぎ》れて外へ出るようなことはないか、それだけのことだ」
「親分は?」
「俺はほかに仕事があるよ。それくらいのことならお前一人でたくさんだ。手に了えなかったらそう言って来るがいい、悪戯者は直ぐわかるよ」
平次は至って手軽に考えました。が、それは大変な間違いで、思いも寄らぬ大きな事件に発展しそうとは、さすがの平次も全く予想しなかったのです。
二
それから五六日、梅雨晴れの爽やかな日は続きました。町の木立にも蝉《せみ》の声が繁くなって、心太《ところてん》と甘酒の屋台が、明神下の木蔭に陣を布くころ、八五郎はフラリとやって来たのです。
「どうした、八。気のない顔をして居るじゃないか」
「親分の前《めえ》だが、花火なんてえものは、厄介なものですね」
縁側へドカリと腰をおろすと、青葉の風に襟をくつろげて、首筋の汗を|やけ《ヽヽ》に拭きます。
「花火玉の見当はつかないのか」
「驚きましたよ、――花火というものは、公儀のお許しを受けて、焔硝《えんしょう》を使う商売だ。どんな小さい玉一つだって、外へ紛れ出て、それで済むというものじゃない、――と、鍵屋の親爺はカンカンになって居ましたよ」
「なるほどね」
「その上、――丹精をこめ工夫を凝《こ》らして拵えた花火玉はこちとらに取っては我が子も同様だ。揚げた花火が頭の上で炸《はじ》けたとき、自分の身体で、大事な花火玉に火の移るのを防いだという話もあるくらいだ。饅頭《まんじゅう》や団子じゃあるめえし、人様にポンポンくれてやってたまるものか――といやもう、大した勢いでしたよ」
そう聴けばそういったものらしく、
「では、どういうことになるのだ」
平次も思わず腕を組んでしまったのです。
ちょうどそんな話をして居る時でした。
「親分、ここでしたか」
元吉という日当たりのよくない男、八五郎が顎で使っている下っ引で、まだ二十四五の若僧が、格子の外から見通しの二人に声を掛けるのです。
「なんだえ、用事は?」
八五郎は兄哥《あにき》らしく鷹揚《おうよう》に首をネジ向けました。
「春木町の綱田屋から火急の使いで、銭形の親分を誘ってすぐ来てくださるようにとの口上ですよ。使いは朝のうちに来ましたが、親分が居ないので、いや捜したのなんのって――」
元吉は少し大袈裟《おおげさ》に自分の胸などを叩いて見せるのです。動悸《どうき》がして叶わないという格好です。
「何があったんだ」
八五郎は上がり框《がまち》に立ちました。
「相手は綱田屋だ、こちとらには話しちゃくれませんよ」
「よし、行って見よう、八」
平次はもう支度をして立上がっております。
八五郎と元吉をつれて、春木町の綱田屋――浪人者の金貸しのくせに、門構えの屋敷に住んでいる僭上《せんじょう》らしい家――へ行ったのは、やがて昼近い時分、中はひっそりとして、店には人っ子一人影も見えません。
「変に物々しいじゃないか、裏へ廻ってみよう」
庭木戸を押し開けて入ると、中は小大名の下屋敷ほどの豪勢さ、泉石の佇《たたず》まいも尋常でなく、縁側の隅《すみ》、座敷の隈《くま》に、二人三人の男女が、額を鳩《あつ》めて何やらコソコソと話して居るのです。
「おや、親分さん方」
最初に見付けたのは、番頭の仲左衛門でした。五十前後の恰幅の良い男で、これも昔は二本差したことがあり、用心棒から出世して算盤《そろばん》が取れるので、支配人にまで成り上がったということは後でわかりました。
昔は威張って暮したらしい真四角な苦りきった顔、話の一とくさり毎に、拵えたような愛嬌笑いを絞り出すのですが、これがなんとなく不気味に見えるほど、この男の顔には、冷酷さがコビリ着いて居るのです。
「なにか変ったことがあったそうだね」
平次はもう沓脱《くつぬぎ》から縁側へ、無遠慮に上がっておりました。
「主人はとんだ怪我をしました、――お待ちしております。――どうぞ」
先に立って仲左衛門、廊下を幾曲り、主人の部屋に案内してくれます。
平次と八五郎は互いに顔を見合せて、綱田屋の暮し向きの豪勢さに驚きながら、奥の一と間に通されました。
「何? 銭形の親分が来てくれた、それは有難い」
次の間付きの八畳、それは申し分のない贅《ぜい》を尽した寝間でした。絹行灯を部屋の隅に、青磁《せいじ》の香炉《こうろ》が、名香の余薫を残して、ギヤマンの水呑が、括《くく》り枕の側の盆に載せてあります。
朝の夏夜具を半分ハネさして、主人の五郎次郎は顔をねじ向けました。
「どこか怪我をなすったようで、――とんだことでしたな」
平次は、この増上慢が片腹痛いと思いながらも、職業意識でツイ折入った態度になるのです。
「肩を縫われましたよ。もう少し狙《ねら》いが確かだと、間違いもなく喉笛をやられるところだった――番頭さん、その刃物を」
主人五郎次郎は顎を動かします。せいぜい四十五六、小肥りに脂の乗った身体、少し張れぼったい顔で、細いが底光りのする眼、唇の色の悪い、鼻の高い――なかなかの立派な男振りです。
「これが窓の外から飛んで来ましたよ」
番頭が取り出したのは、鋒先《ほさき》を手拭に包んだ刃渡り五寸ほど込《こみ》が一尺以上もあるもの凄い槍の穂、なるほどこれは、喉を狙えば命を取ります。
「窓の外というと?」
平次は西窓を見やりました。そこには一間ほどの腰高窓があって、夏場は風を通すようになって居るのです。
「窓に凭《もた》れて、風に吹かれていると、亥刻半《よつはん》(十一時)過ぎでもあったか、不意にこれが飛んで来ましたよ。私は良い心持になってウツラウツラして居たかも知れない、ハッと気が付くと、肩先が火の付いたように痛くなって押えた手にベットリ血がついた」
五郎次郎は説明して行くのです。手傷と言っても、単衣《ひとえ》の上からで大したものでなく、この生活力の旺盛な男の元気には、さしたる変りもありません。
「ほかには?」
平次は静かに口を挟みました。
「言うまでもなく、すぐ窓の外を見て――誰だ――といちおうは怒鳴ったが、応《こた》える者もなく外は真っ暗だ。五日月はもう沈んで、一寸先も見えない」
それを聴きながら、平次は立って窓の外を見ました。
表の方の庭の広さに比べて、ここはまたわずかに三間ほどの空地で、その先は厳重に板塀があり、外には春木町の往来が走っております。
「よく乾いているから、足跡もない、――」
平次はもとの座に戻りました。
「親分、これは、武芸のたしなみのある者の仕業に違いあるまいな」
「いや、そうとも限りませんよ」
「それはどういうわけだ、親分」
「槍の穂が五寸か六寸、中子が一尺以上、なかなか重い、――これを投げれば、武芸の心得のないものでも、ずいぶん相手に怪我くらいはさせられるでしょう」
「?」
「それに、武芸の達人なら、居睡りしている相手を、二間や三間のところから槍を飛ばして、万に一つも仕損じるようなことはあるまいと思いますが」
「いかにも」
五郎次郎も承服しました。もとは武家の出だけに、多少の心得はあるらしく、武芸のこととなると、案外話がわかりそうです。
「それからこの槍の穂を御存じありませんか」
「それは、見覚えのない品だ。が、無銘ながら余程の名作らしい」
「物盗りや悪戯では、そんな名槍《めいそう》を投げ込むはずはないでしょうな」
「左様」
五郎次郎はちょっと苦い顔をしました。曲者が相当以上の名槍を投げ込んで、自分を害《あや》めようとしたとなると、これは容易ならぬことです。
「もう一つ、この間のお怪我は?」
平次の話は『男の急所』にも触れるのです。
「いやはや、話にもならぬて、――親分が花火玉と鑑定したそうだが、全くそれに相違あるまい。炉の中にあんな物を仕込まれては、気をゆるして茶も飲めない有様だ」
五郎次郎が苦りきるのも無理のないことでした。
「お怪我は?」
「それは大したこともなく、外科の手当で三四日で大方は治った。が、この次がどんな術《て》で来るか、悪戯者を捉まえぬうちは、気が気でない。頼みますぞ、銭形の親分。費用やお礼には糸目はつけぬつもりだが――」
一代に巨万の富を積んだ人間は、二本差しであったにしても、天下の事ことごとく金ずくで解決すると思って居る様子です。
三
平次はそこそこに外へ出ました。たった一足しかない庭下駄を突っかけて庭へ降りると後に残った八五郎は、置いてけ堀を喰《くら》って、縁側を右へ行ったり、左へ行ったり、ようやく自分の履物を見付けて、親分の側へやって来るのです。
「俺は帰るよ、八」
平次の様子は静かですが、長い間の経験で八五郎には一種の不安さを感じさせます。
「どうしたんです、親分」
「費用やお礼にゃ糸目をつけないとよ。良い稼《かせ》ぎになるぜ、八」
「?」
「お前は後に残って、狸の睾丸《きんたま》に火傷を拵えた下手人を捜すがいい」
「また腹を立てたんですか、親分は」
「当り前よ、――俺は金貸しの用心棒じゃねえ」
「弱ったなア、世間の御用聞は、そんなものじゃありませんよ」
その頃の岡っ引の生活は、町の旦那方の用心棒で、ボスの上前をハネて暮らして居たことは、文献の引合せを俟《ま》つまでもなく明かなことで、お上のお手当だけで暮す平次などは、まさに千百人中の一人と言ってもよかったのです。
「それじゃ、八。世間並みの岡っ引を頼めとでも言ってくれ」
背《そびら》を見せる平次の後ろから、
「どうしても帰るんですか、親分。だから親分はいつまで経っても貧乏するじゃありませんか」
八五郎は追いすがります。
「馬鹿野郎、俺は道楽で貧乏して居るんだ、――金が欲しきゃ、十手|捕縄《とりなわ》を返上して、とうの昔に金貸しでも始めているよ」
平次はもう妥協する心持もありませんでした。踵《きびす》を返してサッと庭木戸の方へ行くと、左手に円窓、コトリと開いて、
「あの、もし親分さん」
おののく声が、絶え入るように平次を呼び留めるではありませんか。
振り返ると、障子の蔭から、そっと顔を出したのは、十八九の初々しい娘、――平次はハッと息を呑んだほどの、それは抜群の美しさです。
大きい眼が少しうるんで、赤い唇に動く欷歔《なきじゃくり》、白い頬がほの暗い物の蔭に匂って、何十方尺の間まことに比類もしない雰囲気を作ると言った、世にもとうとい処女の姿でした。
「あれはなんだえ、八」
木戸のところまで追いすがって来た八五郎に、平次はさりげなく訊きました。
「娘ですよ、鳶鷹《とびたか》ですよ、――鬼の五郎次郎に、菩薩《ぼさつ》の玉枝――ってね、本郷中で知らない者はありゃしません。あんな娘の親に、あんな欲の深い人間があると思うと、こいつは神様の悪戯としか思えませんね」
八五郎ひとかどのことを言うのです。
「……」
「あの娘は泣いて居りましたぜ。どんな非道な親でも、娘から見れば――やっぱり親だ」
「もういいよ八。お前に講釈を聴こうとは思わない、――俺はもういちど思い直して、狸の睾丸を焼いた下手人を調べてみよう」
「本当ですか、親分」
八五郎が雀踊《こおど》りする間に、平次はもうスタスタと庭へ引返しております。
「銭形の親分さんが、なにか腹を立ててお帰りになるんじゃないかと、家の者が申しますので、びっくりしましたが――」
番頭の仲左衛門は少し息をきって飛んで来ました。武家出が鼻について、妙に慇懃《いんぎん》無礼なところのある男です。
「帰ろうと思ったが、八五郎に引止められて踏み留まりましたよ」
「有難うございます。今帰られちゃ、私が主人に叱られます」
「いや、もう大丈夫だ。追っ払っても帰る気遣はないが、――第一に訊きたいのは戸締りだ。この家は恐ろしく厳重そうに見えるが、外から入って来て、花火玉を炉に仕込む隙があるのかな」
「とんでもない、親分。戸締りはやかましい上、人の目が多いから、外からノコノコ入って来て、そんな細工《さいく》の出来るわけはありません」
「すると曲者は家の中に住んで好い児になっているわけだね。一人一人、家中の者の顔だけでも見て置きたいが」
「どうぞ御自由に――連れて参りましょうか」
「いや、放って置いてもらいたい。こう歩いているうちに、家中の者に出っ逢《くわ》すことになるだろう、――その代りどこへでも、自由に行ってよいということにしてもらいたいな、番頭さん」
「それはもう、親分の御自由に」
「それでよかろう。八、お前はいつものとおり」
「ヘエ」
八五郎は平次の顔色を読むと、なんにも聴かずに飛び出してしまいました。こんな時は、近所の噂を掻き集めて来いと言うにきまって居るのです。
四
「お嬢さんですね?」
平次は八五郎や番頭の仲左衛門に別れるともういちど引返して、丸窓の前に立っておりました。
思いも寄らぬ平次の顔が、窓の前へピタリと留まると、今まで平次の様子ばかり眺めて居たくせに、娘はハッと驚いて顔を引込めそうにしましたが、それより早く、平次の方から、退引《のっぴき》ならぬ声を掛けてしまったのです。
「あの、玉枝と申しますが――」
振り仰ぐと公卿眉《くげまゆ》が霞んで、パステルで描いた顔のように、額から頬へかけての、清らかな白さが、ボーッと四方の空気の中に溶け込むようです。
声はすこしうるんだ甘さで、身扮《みなり》は綱田屋の愛娘《まなむすめ》というにしては、清楚《せいそ》すぎるくらい。窓框《まどわく》に掛けた手――真珠色の小さい指で、――ほのかに顫えるのもいじらしくもありました。
「いろいろ訊きたいことがあるが――」
「お願いいたします。親分さん、あのままにして置くと、父は殺されそうで」
玉枝は、いじらしくも固唾《かたず》を呑むのです。
「誰か、ひどく親御を怨んでいる者でもありませんか」
「怨んでいる者ばかりでございます。安心のできるのは家の者だけ、門の外へ一と足でも出ると、町内の人達まで、変な眼で見ております」
一生懸命さがさせるのでしょう、玉枝の口は思いのほか滑らかに動いて、必死と平次を引き止めようとするのです。
「そのうちでも一番怨んでいるのは」
「さア、私にはよくわかりませんが」
娘心を脅《おび》やかすのは、まことに頼りない恐怖、――物の影のような呪《のろ》いだったのでしょう。
「お嬢さんに縁談はあるでしょうな」
「……」
「許婚――といったような」
「秋月勘三郎様――お隣りに住んでいらっしゃいます。でも」
「でも?」
「近頃は父と仲違いのようで」
それも一つの疑惑の種でしょう。玉枝はこう言いきるのが、精いっぱいと言った様子です。
「仲違いのわけは?」
「私にはわかり兼ねますが」
玉枝はひどく恐縮してしまいました。うっかり余計なことを言ってしまった悔《く》いが、処女心《おとめごころ》をさいなんでいる様子です。
平次はそれ以上に追求する気を失いました。悩み抜いている様子は、感情を隠すことの技巧をさえ知らない娘の顔に、雲のごとく去来して、声のない嗚咽《おえつ》が、後から後からと、処女《おとめ》の頬を洗う涙になって居るのです。この娘に取っては、父の命を救うことも大事なら、家中の者から、父の命を狙っていると思われて居る、許婚の秋月勘三郎の冤《えん》を雪《そそ》いでもらうことも、さらに大事だったに違いありません。
平次は玉枝に別れて、庭伝いにグルリと屋敷を廻りました。
ちょうど主人五郎次郎が投げ槍でやられたあたりへ来ると、急に庭が狭くなって、窓と塀の間はわずかに三間ばかり、真向うに一つの切戸があって、久しく人の出入りもなかったらしく頑固な錠前は錆付《さびつ》いたままになっております。
ここからは久しく人の出入りのなかったことは確かですが、何心なく見上げた平次の眼に恐ろしい疑惑を呼び起こしたものが一つあったのです。
それは木戸のちょうど真上あたり、忍び返しが損じて、手をやって動かして見るとグラグラになっており、その下の黒板塀には、明らかに人の足で摺《す》れた跡があることでした。
いや、そればかりではなく、その損じた忍び返しの真上に、外から覗くように冠《かぶ》さった椎《しい》の木の大枝があって、それを伝って来れば少し身軽なものなら、外の往来から、楽々と塀の上の忍び返しを越せることがわかったのです。
平次は思わず膝を打ちました。曲者が外から入ったとすれば、まさにここです、――がここから入ったとしても、木戸が錆付いて開きそうもなく、塀の内からは椎の大枝に飛び付くことなどは思いも寄らないとなると、忍び込んだ曲者は、どこから逃げ出したか、平次もそこまでは謎が解けません。
「ちょいと、若い衆」
「ヘエ、ヘエ」
お勝手口の方に、チラリと見えた若い男を平次は呼び留めました。
「お前は」
「喜八と申しますが」
下男には違いありませんが、二十七八のちょいと好い男です。
「昨夜《ゆうべ》の騒ぎの後で、庭のあたりを見なかったのか」
「よく見ました。私と粂吉《くめきち》さんと二人で、提灯をつけて、庭の植込みから縁の下まで」
「誰も居なかったのだろう」
「猫の子一匹おりませんでした」
「裏表の門か切戸が開いてはなかったのか」
「表門も裏門も、この切戸も、内から厳重に締っておりました」
「ところで、お前に訊きたいことがあるが――」
「ヘエ、ヘエ」
平次は四方《あたり》を見廻しましたが、ツイ右手にかなり大きな物置のあるのを見ると、そこに喜八を誘い込んで腰をおろしました。
物置は板敷で六坪くらいはあるでしょう、何やら道具類で奥の半分は塞がっておりますが、入口寄りのほうは綺麗に掃き清めて、一部には薄縁《うすべり》などを敷いてあり、南の方に小さい窓が切ってあって、頭の上は奥の方だけが頑丈な半二階で、そこにもガラクタが入って居る様子です。
「ここはたいそう綺麗じゃないか」
「旦那は細工物が好きで、ちょいとした指物師くらいはやります。二本差して居たころは、内職にやったものさ――と笑って居ますが」
喜八は面白そうに説明するのでした。食祿の少ない武家が、内職でそれを補うのは公然の秘密で、女は手内職から賃仕事、男は釣、細工物、中には稽古事から、芝居の下座で、三味線まで弾いたと言われて居ります。
綱田屋五郎次郎も、今でこそ江戸で指折りの金持ですが、かつて二本差しだった頃は、ずいぶん世帯の苦労もし、さんざん塩を嘗《な》めた揚句、武家が嫌になって両刀を捨てたのでしょう。
一度両刀は捨てても、小祿の武家生活時代に、世過ぎの足しにした細工物の面白さが忘れられず、物置の一部を細工場にして、手作りの箱などを指《さ》して楽しんだということは、この時代の空気を知って居る者には、なんの不自然さもなく享《う》け容れられることでした。
「ところで、お前はまだ若い――人の情事《いろごと》には、よく気が廻ることだろうな」
座が定まると、平次は妙なことを言い出します。
「なんかこう、からかわれて居るようですね親分」
喜八はニヤリとなりました。
「お嬢さんの許婚の秋月勘三郎さんが、此家《ここ》の主人と仲違いをしたそうだが、そのわけを聴きたいのだよ」
「ヘエ、そんな事が、情事《いろごと》とかかわりがあるんですか」
「あるよ」
「あっしはなんにも知りやしませんが、人の噂じゃ――お隣りの秋月様は、小身ながらお役付で御公儀筋に通りが良いので、旦那様がなんか請負《うけおい》仕事をお願い申したそうで、それが都合が悪くなって、大外れに外れ、元だけが損になったようで、自然こう仲違いなすったのじゃありませんか――私はなんにも知りませんがね」
私はなんにも知りませんが、と断わりながらこの男は、ペラペラと主人の非を鳴らすのです。世間並みの金持らしく、派手に高慢に暮している綱田屋が、奉公人の心まで囚《とら》えることの出来なかったのも無理ではありません。
「で、若いお二人は、どういうことになったのだ」
「可哀想でしたよ。秋月様は良い男だし、お嬢さんはあのとおりの|きりょう《ヽヽヽヽ》でしょう。生木《なまき》を割かれちゃ目も当てられませんや」
喜八はひどく同情します。二十七八の好い男の下男が、身分の隔てはあるにしても、主人の娘の情事に無関心で居るということは想像もされないことです。
「それっきり、二人は神妙に諦めて居るのか」
「とんでもない親分」
「坊主にも尼にもならずに」
「ヘッ、大きな声じゃ言えませんが、お二人は、繁々《しげしげ》逢引をして居るとしたらどんなもので――坊主と尼の夫婦雛《めおとびな》なんぞ御時世じゃありませんよ」
喜八は明らかに、二人の逢引に興味を持っている様子です。
「あの椎の木に登って、大枝を伝って忍び返しを越え、――それからお嬢さんの部屋の戸を叩くんだろう」
「親分、まるで見ていたようで」
喜八は肝《きも》をつぶしました。
「それから、男の帰る途はどこなんだ。まさか梯子《はしご》を掛けて、もとの大枝に飛び付かせるわけじゃあるまい」
「お嬢さんが裏門をあけて、名残を惜しみながらそっと男を出してやるだけのことですよ。ヘッヘッ」
「一伍一什《いちぶしじゅう》を見て居たのか」
「そんなわけじゃありませんがね、大方そんな事だろうと――」
喜八は大ヘドモドです。が、これで平次はようやく自分の築き上げた想像を完全な姿に書き上げたわけです。情事《いろごと》には疎《うと》い――と八五郎にからかわれ通しの平次は、そんなつまらぬ逢引の駆け引きまでは気が付かなかったのでしょう。
五
裏門から覗くと、道を距てて五六軒の武家屋敷が立ち並び、その一番近いのが、秋月勘三郎の父親、三百五十石の旗本、秋月勘右衛門の屋敷と、下男の喜八は教えてくれます。
「あれは?」
裏門を挟んで、庭の向うにある、小さい建物を平次は指しました。
「お浪人、宇古木兵馬《うこぎひょうま》様と、お嬢さんのお勝さんが住んでおります」
「なんだえ、それは?」
「旦那様の昔のお知り合いで、眼がお悪いのと、足もいけないので、お世話をしております。世間からはなんとか言われますが、旦那様はよくそんな事には気の廻る方で――」
自慢らしく喜八は言うのでした。
歩みを移して、その小さい建物の前に立つと、入口の掃除をしていたらしい娘が、
「あッ」
おもかげを残してサッと家の中へ飛び込んでしまいました。チラと見たところは、小鳥のように軽捷で、小鳥のように可愛らしいとは思いましたが、浅黒い顔と、紅い唇のほかにはまとまった印象もありません。
「御免下さい」
平次が訪ずれると、
「どこへ行ったのだ。お勝、お勝」
案外近いところから、少し錆びた声。娘の答がないのに焦《じ》れた様子で、自分で入口の障子を開けたのは、四十七八、綱田屋五郎次郎よりは少し老けた、品の良い浪人者でした。
「宇古木様でしょうな」
「ハイ、私が宇古木兵馬で、眼が悪いので、どなた様か、よくわかりませんが――」
宇古木兵馬は心もとない顔を挙げました。両眼|田螺《たにし》のように白く、あらぬ方を見詰めて探り手に敷居のあたりに腰をすすめるのです。
やつれ果てては居りますが、細面の引締った顔立ち、鼻が高くて、唇が締って、いかにも立派な浪人者でした。
「私は神田の平次というものですが――」
「ああ、銭形の親分で」
宇古木兵馬の表情は、一瞬ほぐれました。平次の名前に対して、日頃親しみを感じていたのでしょう。
「綱田屋さんの御災難を、いちおう調べに来ましたが、心当りはございませんか」
「いや、そんな事は頓《とん》と」
宇古木兵馬は、まだ四十台の若さなのに、年寄りらしく掌《て》を振るのです。
「でも、綱田屋さんを怨んでいる者の心当りくらいはあるでしょう」
「私のためには恩人ですが、世間の評判は良くないようで、――もう厄《やく》過ぎになると、人間は『あの世』の事も考えなきゃ――などと私も折にふれて意見がましい事も言っておりますが」
宇古木兵馬は苦笑いをするのです。物欲に陶酔しきった人の魂は、名僧智識といえども、どうすることも出来なかったでしょう。
「宇古木様と、綱田屋さんは、昔からの御知り合いで?」
「同藩でしたよ。綱田氏は御小姓頭、拙者は御馬廻り役――いや、そんな事を思い出すだけが、死児の齢《よわい》と申すもので、こう落ち果てては、未練がましい思い出ほど毒なものはない」
しみじみと言って、宇古木兵馬は見えぬ眼をそらせるのです。
「御浪人なさいましたのは?」
「かれこれ十八九年の昔、拙者の不始末で、綱田氏にまで迷惑をかけてな、――その節、危うく切腹を仰せ付けられるのを救って下すったのは綱田氏――かような姿になって、橋の袂《たもと》で下手な謡《うたい》を唸っているのを、拾ってくれたのも綱田氏だ。重ね、重ねの宏恩《こうおん》、いつの世に酬いよう当てもない」
宇古木兵馬は涙に濡れて絶句しました。狭くはあるが、住居はまことに清潔で、なんとなく満ち足りて居るのも、平次の眼にも快よく映ります。
あれほど評判の悪い綱田屋五郎次郎、『自分はもと武家であった。だから私は武家が憎い』と放言して、武家いじめの金貸しとして、悪名を謳《うた》われた彼にも、こう言った美しい一面が隠されて居ることが、妙に平次を考えさせます。
「今、ここにいらしったのは、お嬢さんでしょうな」
「勝と言いますよ。十六にもなるのに、とんだ人見知りで、――これよ、お勝。出て来て御挨拶せぬか」
大きな声で呼ばれると、ツイ障子の蔭に隠れて居て、知らん顔も出来なかったものか、恐る恐る半身を出して、頼まれたようなお辞儀をするのです。
十六と言われると、いかにもとうなずかれる初々しさですが、それにしても、この娘の新鮮さは、全く非凡の趣《おもむき》があります。小麦色の肌は、あまりつくろわぬせいで、キリッとした顔立ちに枝からもぎ取ったばかりの桃の実のような銀の生毛《うぶげ》、曲線《カーブ》のきつい、可愛らしい唇の反り、蛾眉《がび》、鳳眼《ほうがん》――というといかめしくなりますが、そういった上品な道具立てのうちに、言うに言われぬ可愛らしさが漲《みなぎ》るのです。
「お嬢さんの御縁談は?」
平次は押して訊ねました。娘はハッとした様子で顔を引っ込め、
「とんでもない。親の私は乞食のように、人様のお情けで命をつなぐ貧乏人じゃ」
と宇古木兵馬の声が洞《うつ》ろに響きます。
六
ほかに、昨夜は高輪まで主人の用事で出かけ、泊って今朝、早く帰ったという――掛人《かかりうど》の紅《べに》屋|粂吉《くめきち》というのが居りました。結構な身上を道楽でつぶし、昔馴染を辿《たど》ってここに転げ込んだ三十男ですが、いくらか算盤《そろばん》がいけるので、番頭の仲左衛門を援けて、帳合などをしてヘラヘラと暮して居るのです。
ヘラヘラと暮す――という言葉は、単に間に合せの形容詞ではなく、この男の日常とまで行かずとも、ほんの二言三言交えて居ると、世の中にこんな間に合せな、ヘラヘラした男があったのか――と、誰でも一応は感心させられてしまいます。
中低《なかひく》の杓子《しゃもじ》のような顔、色白でノッペリして、下唇が突き出して、本人は一かど好い男のつもりなのが、言葉の端々にまで現われて、まことにもってやりきれない人間です。
この男の話題は、儲かる話と持てた話で、損をした話と振られた話は、この男の口から出た例《ためし》もありません。
「粂吉さんというんだってね。どうだえ、近頃は。たいそう景気が好いようだが」
平次は縁側を通るのをつかまえて、脈を引きました。
「ヘッヘッ、大したこともございませんよ、親分」
「女の子の方は?」
「それもからっきし」
などと所作事《しょさごと》の一と|こま《ヽヽ》のように、なよなよと手を振るのです。
「お嬢さんは、お隣りの秋月さんと生木を割かれて泣いているそうじゃないか」
「それ程でもございませんよ、親分」
などと、人の情事《いろごと》は軽く見たがるたちです。
「お勝さん――あの宇古木さんのところの――あの娘《こ》は好い娘だが、なにか、噂はないのかな。お前なら知ってると思うんだが」
「ヘッ、情事の本阿弥《ほんあみ》と来ましたか、――ね親分、実はあの娘、家中で私が一番親しく口を利いているんですが」
などと言った調子です。生娘に心安くされるのは、軽くあしらわれて居るとは気のつかないほど、この男は甘く出来ているのでしょう。
平次は諦めて縁側を立ち去りました。
お勝手へ廻ると、そこには下女が二人。お今というのは四十年配の出戻りで、奉公ずれのした達者な女、お鶴というのは、二十歳くらいの小綺麗な女で、これは至って無口、きりょう好みの主人五郎次郎が、給料にも働きにも構わず、こんな女を雇《やと》って置くのでしょう。
何を訊いても、お互いに顔を見合せるだけで一向に埒《らち》があかず、平次もいい加減にきり上げて、門の外へフラリと出ると、近所の噂をかき集めて来た八五郎と、ハタと顔が合いました。
「どうだ、八。骨折甲斐はあったか」
「ありましたよ。――もっとも綱田屋五郎次郎の命を狙っているのは、十人くらいはありそうで」
歩きながら、八五郎は話し始めました。
「誰と誰だ」
「まず第一番はあの番頭の仲左衛門」
「ヘエ?」
「うんと取込んで、妾を二人も飼っていますよ。とんでもない黒鼠で、主人に帳尻を見られると、大変なことになりそうですぜ」
「……」
「それから掛人の粂吉。あれは馬鹿で横着で、図々しくて欲張りで、お嬢さんの玉枝さんに夢中で、養子になることにきめて居るが、二十三本と書き溜めた色文を見付けられて、主人にうんと叱り飛ばされ、盆の帳合が済めば、追い出されることになって居るんだそうです、――もっとも昨夜《ゆうべ》はたしかに高輪に泊ったようですが」
「それから」
「お嬢さんの許婚の秋月勘三郎、お嬢さんとの間を割かれて、気が変になって居ますよ。これは武芸も相当で、椎の木の上から槍の穂くらいは飛ばし兼ねませんね」
「あとは?」
「金沢町に住んでいる浪人佐久間佐太郎、中年者ですがね、綱田屋から金を借りて、切米《きりまい》切手を抵当に入れたはいいが、それが払えないばかりに表沙汰にされ、御家人の株まで召し上げられた気の毒な人ですよ、――こいつは何をやり出すかわかりゃしません」
「それっきりか」
「まだありますよ」
「早く総仕舞いにしな」
「下男の喜八、ちょいと好い男でしょう、――あの男が、宇古木様のお嬢さんのお勝さんを物置の後ろで口説《くど》いてるところを、奉公人仲間が詫びを入れて助かったそうで――」
「そんなに多勢の殺し手があっちゃ、ここで番をしていても無駄だろう」
「帰るんですか、親分」
「どうも、俺は気が進まないよ。うんと強い用心棒でも頼むように、お前から綱田屋の主人に進めて置くがいい」
平次はつくづくいやになったらしく、何のこだわりもなく、明神下の自分の家へ帰って行くのです。
「もう一つ親分、大事な聴き込みがありますよ」
「なんだえ?」
足を淀《よど》ませる平次の側へ、
「綱田屋の主人は四十五六でしょう」
「そんなところだろうな」
「あの年で、浮気が止まないんですってね」
「独り者だ、ちょうど|うるさい《ヽヽヽヽ》年じゃないか」
「ところが、あの主人と来たら、タチが悪いんだそうで、近頃は初物《はつもの》あさりで、眼の悪い浪人の娘――」
「宇古木兵馬さんの娘、お勝とか言った」
「あの娘にチョッカイを出して居るんですって、呆れ返るじゃありませんか、――もっともあのお勝という娘は大したものですね。紅も白粉もなくあれだけに見せるんだから、あっしも、最初はお嬢さんの玉枝さんびいきだったが、お勝の方に宗旨《しゅうし》を変えようかと思っていますよ」
「勝手にするがいい。お前の宗旨などに構って居られるものか、俺はもうイヤになったよ。金持と色気違いは、付き合いたくねえ」
「ヘッ、あっしはどっちの方で」
「自分できめろ、財布に四文銭が三つ四つ入って居ると、金持のような心持になる野郎だ」
平次は言い棄てて足を早めます。
七
一と月ほど経ちました。七夕《たなばた》が近くなると江戸を包む藪《やぶ》は、一日一日濃くなるばかり。甍《いらか》の波を渡る、真夏の風に煽《あお》られて、その五色の藪が、カサカサと鳴り渡るのも季節の風情でした。
町中を五色の飾り竹で埋め尽した江戸の七夕祭の盛んな姿は、名所図絵にわずかに名残りを留めるだけ、今は再現する由もありませんが、七夕からお盆へかけて、町中を有頂天《うちょうてん》にした行事の数々は、夏の暑さと闘い抜く江戸ッ子達を、どんなに勇気づけてくれたかわかりません。
それはともかくとして、春木町の綱田屋の騒ぎは、それっきり|なり《ヽヽ》を鎮《しず》めてしまいました。主人五郎次郎の肩の傷も、二た週《まわ》りほどで治って、相変らず因業《いんごう》な稼業をつづけながら、細工物などを楽しんでおりますが、お盆が近くなって、帳面の調べが頻繁になるにつれて、番頭仲左衛門と、主人五郎次郎の仲に、妙な|こだわり《ヽヽヽヽ》を生じて行くのが、誰の眼にもはっきりして来ました。
番頭は恐ろしく強気なくせに、一面ひどく逃げ腰なところがあり、主人は物柔かに見えていて、次第次第に攻め手を引締めて、追求の網を絞《しぼ》って行く様子です。
この二人の間に、大きな波紋が来るのは、眼に見えて居りました。が、その一歩手前でまた不思議な事件が突発したのです。
「わッ、親分、大変」
八五郎の大変が、二百十日の嵐のように、平次の閑居を襲いました。それは七月五日の朝のことです。
「驚くぜ、八。頼むからその大変だけは止してくれ。この二三日小遣の水の手が切れて、好きな煙草も買えねえから、でっかい虫が起きているんだ」
「でっかい虫ですって?」
八五郎は平次の懐中《ふところ》のあたりを覗くのです。
「お静は自分の袢纏《はんてん》を持って、横町のお蔵まで飛んで行ったよ。帰りに五匁玉一つと、一升ブラ下げて来る寸法さ。虫押えの禁呪《まじない》はほかにあるわけはねえ。日の暮れる前《めえ》に始めようぜ、八」
そんな事を言う平次です.
「殺生だなア、そんな酒は呑めるもんじゃありませんよ、――姐さんも人が好過ぎる」
などと一かどの事を言いながら、五匁玉を一人で煙にして、一升の三分の二までは自分で平らげるのが、彼八五郎の習性でもありました。
「ところで、大変はどこへ来たんだ。路地の外へ立たして置いちゃ悪いぜ」
「ヘッ、相変らずの無精をきめたいんでしょうが、今日の大変は他所行《よそゆき》の大変ですよ」
「何が他所行だえ」
「春木町綱田屋五郎次郎、こんどは間違いもなく死にましたぜ。殺されたかどうか、まだわからないが、自害や病死でないことだけは確かで」
「どうして死んだのだ」
「あの物置の細工場で細工物をして居るところへ、頭の上から臼《うす》が落ちて来たんですって――昨夜のことですよ」
「頭へ臼?」
「暮れに餅を搗《つ》かせる大臼、三十貫もあるのが、あの頭の上の半二階へ載って居たんです。それが転げ落ちちゃ一とたまりもありませんや、綱田屋五郎次郎、首の骨を折って一ぺんにキューッと参った」
「まるで猿蟹《さるかに》合戦だ」
「猿蟹合戦?」
「始めは花火玉で、次は槍の穂で、こんどは臼だろう」
「ヘェ?」
「昔ばなしで行くと、どん栗と蜂と臼じゃないか、――念入りに企んだな。畜生、人を嘗《な》めた野郎だ。行って見よう、八」
二人はお静の帰るのも待たず、家を開け放したまま、隣の小母さんに声を掛けて飛び出しました。江戸市民生活の呑気さです。
春木町の綱田屋は、恐怖と焦躁を押し包んで、凄まじい静寂に占領されておりました。二人、三人と、ところどころに首を鳩《あつ》めながら、大きい声で物も言えないような、不思議な圧迫感は、家中の者をすっかり縮み上がらせて、不吉な風が、真夏の家中へ、隙間という隙間から、人々の肌に迫って居るのでした。
「あ、親分方」
平次と八五郎をむかえた番頭の仲左衛門は、土壇場《どたんば》に引きすえられた囚人《めしうど》のように、引きゆがんだ顔をしております。
「ともかくも仏様を」
平次は仲左衛門を追っ立てるように、いつぞやの主人の部屋、奥の八畳に案内させました。
半日以上経って居るので、まだ入棺前ではあるにしても、仏様の恰好は付いておりました。その部屋の隅に、絶え入るばかりに泣き伏しているのは、言うまでもなく娘の玉枝、とかくの噂があったにしても、この娘にとってはたった一人の親で、その鍾愛《しょうあい》もまた並大抵ではなかったらしく、悲歎に暮れる姿は、日頃の嗜《たしな》みも忘れて、まことに哀れ深いものでした。
それに付添って、宥《なだ》めて居るのは、宇古木兵馬の娘お勝、二人は若い者同士で、平常《ふだん》から仲がよかったのでしょう。
平次は線香をあげて、死骸をひと通り調べました。細工場でうつむいたままの後頭部をやられたらしく、脳骨を砕いて首が肩にめり込み、六穴《ろつけつ》から血を噴いて、まことに目も当てられぬ凄まじい死に様です。
「物置を」
いちおう死体を見終った平次は、庭下駄をはいて、心おぼえの裏へ廻りました。物置の中はまだ手が廻らなかったか、それとも検屍を待つためか、全く昨夜のままで、二階から落ちた臼は血潮と道具類の上へ、死の自若さで据えられております。
上を仰ぐと、ここから転がり落ちましたと言わぬばかりに口を開く二階。
「臼は横に置いてあったのかな」
平次は後ろに跟《つ》いて来た仲左衛門に訊ねました。
「そんなはずはないと思いますが、二階へ臼を載せた喜八に訊いて見ましょう」
喜八は間もなく呼び出されました。仲左衛門から、平次の問いを取次ぐと、
「とんでもない、そんな危ない物を横に置く者があるものですか。去年の暮れ餅搗《もちつき》が済んだ後で、鳶頭《かしら》に手伝ってもらって、梯子を滑らせながら、大骨折で押しあげましたが、その時は間違いもなく、埃が入らないように、伏せて置いたはずですよ。嘘だと思ったら、鳶頭に訊いて下さい」
喜八は少し躍起となるのです。頭の上の二階へ、大臼を横に置くということは、常識的には考えられないことで、これは喜八の言うのを信ずるのが当然でしょう。
「八、梯子を借りて来てくれ」
「ヘエ」
飛んで行った八五郎は、九つ梯子を引っ担いで持って来ました。
「少し長過ぎるが、二階へ掛けてくれ。おや、おや、梯子の足の跡があるじゃないか。土が乾《かわ》いているからよく見えないが、それでも二つ揃って三角にめり込んで居るのは、梯子の足のほかにない――それを除けて掛けるんだ」
「あっしが乗って見ましょう」
八五郎は、気軽に梯子を踏んで、二階を覗きました。
「大変な埃だろう」
下から平次。
「足跡だらけですよ。草履《ぞうり》の跡だから、人別はわからねえが」
「足跡の人別という奴があるかえ」
「臼はやっぱり竪《たて》に伏せてあったんですね、半年前の跡だから間違いはありません。その前に臼を横にした跡があって、二本の繩の跡が――」
「何? 二本の繩の跡、――降りて来い。俺も見ておく」
平次は八五郎と入れ替りました。物置の二階の板の間には、かつて竪に臼を置いた跡も、その前に倒した跡も、その臼を前へ転がして落すために仕掛けた縄の跡も、そして、心の乱れをそのままに焼きつけたような、乱るる草履のあともはっきり読めるのです。
平次はさっそく家中の草履を集めさせました。が裏金の雪駄以外は、どの草履も同じことで足跡のサイズには、なんの差別もありません。
八
銭形平次は全身の血が逆流するような感じでした。非道な金貸しを、花火玉で脅《おど》かしたのはまだ悪戯で済まないことはなく、つづいて起った槍の穂も、肩に浅い傷を負わせただけで、大した問題にする程のこともなかったのですが、最後の臼の詭計に至っては、許すべからざる企みの深さを思わせるのです。
それから、明らかに、猿蟹合戦の段取りで、子供の悪戯のような、人を喰ったやり方です。一番残酷な殺しを、用意周到に、万に一つの間違いもなく、陰険極まる方法でやり遂げてしまったのでした。
平次は最初から関係して居るだけに、自分が馬鹿にされて居るとしか思えず、何がなんでも、この下手人を挙げてやろうと、密かに心に誓ったのも無理のないことでした。
「綱はどこから引いたか見定めよう」
平次はもういちど梯子に乗りましたが、それは|わけ《ヽヽ》もなくわかってしまいました。二階の前、太い長押《なげし》が一本通って、その中ほどに埃の摺《す》れたあとがはっきりして居るのです。
「八、向うの青桐《あおぎり》の根元と、その枝を見てくれ。その辺から長押を越して、臼の向う側に噛ませた綱を引くと、臼は面白いように転がって落ちるよ」
「あ、青桐の大枝の皮が剥げて居ますよ、――土が乾ききって居るから、足跡はないが」
「よしよし、そんな事でたくさんだろう。こんどは綱を捜すばかりだ、物置の奥に投り込んであるだろう、青桐の幹に摺れて、青くなって居るところがあるはずだから、すぐわかると思うが――」
それは平次の言うとおりでした。物置の奥のガラクタの中から、その要領にはまった、手頃の綱――長さ五六間もあるのが見付かったのです。
「それから、親分」
「急《せ》くな、八、いろいろ仕事がある。一番先に気の付いたのは誰だ」
「あっしで、お勝手口に居ると、恐ろしい物音がしたので、飛んで来ましたが」
それは下男の喜八でした。
「顔を見なかったのか」
「そんなものは見ません」
「お前の次は?」
「びっくりして大きな声を出すと、お今さんとお鶴さんが飛んで来ました。それから宇古木さんが、四つん這いになって、――足が悪いでしょう、あの方は。それに眼が悪いから、邪魔になるだけで、大した役には立ちませんが、主人が臼に打たれて死んでいると教えると、しばらくジッとして物も言えなかった様です」
「施主《せしゅ》に死なれちゃ、この先の暮らしをどうしようと、考え込んだことだろう」
後ろから毒を言うのは、ヘラヘラの粂吉《くめきち》でした。
「なんて口を利きゃがるんだ、――今しがた覗いて見ると、あの武家は思い出したように時々涙を拭いて居たぜ。主人が死んでも、軽口を止さないお前のようなヘラヘラ野郎と出来が違わァ」
それは下男の喜八でした。この男の純情が粂吉の悪魔的な毒舌を封じてしまったことは言うまでもありません。
「昨夜《ゆうべ》は、家中の者は皆んな揃って居たのか」
平次は改めて一同を見渡しました。
「皆んなおりました――そうそう粂吉どんは三日前から小田原の貸金の取立てに行き、先刻帰ったばかりですが」
それは仲左衛門です。
「もっとも、仕掛けは前の晩でも出来るわけだが」
平次は自分の問いの馬鹿馬鹿しさに、気が付いた様子です。二階に置いた縦の臼が横になって居たところで、綱が一本、長押《なげし》の上を青桐の大枝まで、葉隠れに引っ張ってあったところで、並大抵のことでは気のつくはずもありません。
「私の娘が本所の叔母のところへ参り、泊って今朝戻りましたが――」
どこで聞いて居たか、静かに口を挟むのは宇古木兵馬でした。
「本所の伯母さんというと?」
「相生町《あいおいちょう》の小左衛門長屋、浪人前島左近の配偶《つれあい》じゃ――この前の騒ぎの時も娘は留守であったが」
宇古木兵馬の答にはなんの淀《よど》みもありません。
「ほかには?」
「番頭さんが湯へ行ったじゃありませんか」
それは喜八でした。
「あ、そうそう。そう言えばお前は、煙草がきれたと言って、しばらく出たようだが」
まさに仲左衛門のしっぺい返しです。
こうなると、完全な不在証明《アリバイ》を持って居るものは粂吉のほかにはなく、事件は相変らず混沌たる姿のまま、もとの振り出しへ戻るほかはありません。
「親分、まるで見当が付かなくなりましたね」
楽天家の八五郎も、事件の探索が、ハタと行止り路地に入ったことを感じないわけには行かなかったのです。
「いや、下手人の見当は付いて居る、考え抜いた企みだ、――猿蟹合戦の筋書きどおり、――一度綱田屋の主人に、柿の種と握り飯を換えられた者の仕業だ」
柿の種と握り飯、それはどういう意味になるでしょう。
九
「お隣り秋月様が、お悔《くや》みに見えましたよ、親分」
粂吉は、そっと囁きました。旗本秋月勘右衛門の総領勘三郎、若いが役付きで、聞えた美男でもありました。
父親の勘右衛門は老病で、この春隠居をし、秋月家は若い勘三郎が当主ですが、一度綱田屋五郎次郎の怒りに触れて、許婚の仲の玉枝と引割かれたとは言っても、こうなった上は、いずれは一緒になる運命でしょう。
「秋月様、少々物を伺いますが」
平次はその帰途を擁して、門の側で呼び留めました。
「……」
「私は町方の御用を承わる、神田の平次と申すもので、綱田屋さんの変死について、いろいろ取り調べておりますが」
「……」
秋月勘三郎は黙って平次を見据えております。すぐれて高い背、抜群の好い男振りで、恋故でなければ、人目を忍ぶようなことの出来る人柄とも思われません。
「ほかではございません。昨夜と六月五日の晩に、なにか御気付きのことはございませんか。お屋敷は塀隣りで、綱田屋主人の部屋は、庭の切戸の前になっておりますが」
「なんにも気が付かぬよ」
秋月勘三郎の言葉は噛んで吐き出すようでした。岡っ引風情に立ち入ったことを訊かれる不快さと、逢引の冒険の一埒《いちらつ》――武士としてあるまじき恥かしい所業を、いくらかでも嗅ぎつけて居るらしい平次の口吻《くちぶり》が癪《しゃく》にさわった様子です。
「奉公人のうちの一人が、ときどき夜分にあの青桐の枝を伝わって、この庭に忍び込む者があると申しますが」
平次はとうとう突っ込んでしまいました。
「それが拙者となんの関係《かかわり》があると申すのだ」
秋月勘三郎は平次に二の句を継がせませんでした。パッと袂を払うと、後をも見ずに、真一文字に自分の家の門に消え込むのです。
「チエッ、だから俺は二本差しが嫌いさ。女の子と逢ったら逢ったでいいじゃないか」
八五郎はブリブリして居ります。
「でも、白状したも同じことさ、顔色が変ったぜ。もう少し鷹揚《おうよう》な心持になって、あの晩庭で人影を見たとか、それが女であったとかなんとか話してくれてもよさそうなものだが、若いから無理もないけれど」
「忍ぶ恋路と来たね。あっしなら節をつけて、町内中を触れて歩く」
「だからお前には女が出来ないのだよ」
「違げえねえ」
またも話が埒もなくなります。
「こんどは佐久間佐太郎という浪人者だ。金沢町まで行くか、八」
「どこまでも行きますが、二本差しと来た日にゃ、こちとらの俎板《まないた》には載りませんよ」
だが、佐久間佐太郎は予想外でした。金沢町のとある路地の奥、二た間の長屋に膝小僧を抱いて逼塞《ひつそく》している四十年輩の浪人者は、よく来た――とばかりに、悪罵と呪いの嵐を浴びせるのです。
「いや、銭形の親分の前だが、綱田屋五郎次郎が殺されたと聞いて清々したよ。誰も殺し手がなきゃ、俺が殺すはずだったが、少し油断をして居るうちに先鞭《せんべん》をつけられて、あらた溜飲を下げそこねたわけだよ」
青髯《あおひげ》の凄まじい男、貧乏臭くて無精で、ちょっと寄りつけそうもない人柄です。
「たいそう御立腹ですね」
合槌を打つのが、平次にも精々。
「あんな悪党はないよ。昔は二本差しだったか知らぬが、強欲で恥知らずで、全く人面獣心とはあの男のことだ。拙者火急のことで切米手形を抵当にわずか五十両の金を借りると、期限前から催促だ。五日か七日約束の日に遅れると、恐れながらと、その切米手形を持込んで竜の口へ訴え出る野郎だ。親分も知って居るだろう、直参の切米手形は首から二番目の大事な品で、それを紛失しただけでも軽くて閉門、重くて追放だ。まして高利の金貸しへ抵当に入れて無事で済むわけはない。拙者切腹を仰せ付けられなかったのが、見付けものと言ってよいくらい。いや、この怨み骨髄《こつずい》に徹《てつ》して忘れるひまもない、いずれは叩き斬って溜飲を下げるつもりで居た拙者だ。親分の都合次第ではずいぶん拙者が下手人になってもよい、――拙者が綱田屋を殺したとなると、あの男のためにひどい眼に逢っている仲間は、いや喜ぶぞ」
手の付けようがありません。
「では、いずれ、また」
とかなんとか、平次と八五郎は、眼と眼で喋《しめ》し合せて、這々《ほうほう》の体で逃げ出すほかはなかったのです。
外へ出ると、
「これから、どうしたものでしょう親分」
八五郎は心細いことを言います。平次と一緒に仕事をして、こんな深刻な敗北感を味わったことはありません。
「まだ打たない手が三つ四つある」
「なんでもやらして下さい。あっしはもう、腹が立って、腹が立って」
「猿蟹合戦に敗けちゃ見っともない。いいか、八、三四人下っ引を狩り出して、今日中にこれだけの事を調べてくれ」
「ヘエ」
「綱田屋では、今年の川開きに行ったかどうか。行ったら、誰と誰が、どこで見物したか、まずそれを訊くんだ」
「それから」
「あの槍の穂はどこから出た品か、名槍《めいそう》だけに、いつかわかる折があると思う。その次は宇古木兵馬の身許を調べるのだ。相生町の小左衛門店の浪人前島左近という人に訊くがいい」
「それっきりですか、親分」
「まずそんな事だ、――槍の穂はお前が持って行って皆んなに見せるがいい」
「親分、それじゃ」
八五郎は悲愴な心持で、新しいスタートに立つのでした。
十
八五郎が報告を持って来たのは、その翌る日も暗くなってからでした。
「親分、皆んなわかりましたよ」
「そいつは大した手柄だ、まず腹でも拵《こさ》えながら話すがいい」
「ヘッ、思いやりがあるね、親分」
「お前のことだ、相変らず、空《から》っ尻《けつ》で飛び廻ったことだろう」
「お察しのとおりで、――ところで、大事の話から始めましょう。今年の川開きに、綱田屋は船を出しましたよ。川甚の小さい船、乗込んだのは、主人の五郎次郎とお嬢さんの玉枝さん、それに下女のお鶴に、あのヘラヘラ野郎の手代粂吉」
「船へ花火の不発玉が落ちなかったか、お前は訊かなかったことだろうな」
「下女のお鶴はそんなことも言っていましたよ。花火が揚がると直ぐ、舳《みよし》にどしんと落ちた物があったが、それっきり見えなかった。たぶん不発玉が落ちて、弾ね返って川へ落ちたことだろう――って主人が言って居たそうで」
「その舳に粂吉が乗っていたと思うが――」
「その通りですよ」
「よしよし、それから」
「槍の穂は宇古木家に伝わる、なんとかの名槍だそうですよ。相生町の前島左近の配偶《つれあい》――宇古木兵馬の義理の妹が言うんだから間違いはありません」
「それから?」
「宇古木兵馬も綱田五郎次郎も、九州のさる大藩の同家中で、無二の間だったと言いますが、宇古木兵馬が間違いを起して、危うくお手討ちになるところを綱田五郎次郎に助けられ、その恩義に感じて、許婚の娘を譲ったのが、後の綱田屋の女房で、玉枝の母親、十年前に亡くなったお幸という人だそうです。この人は綺麗だったそうですよ。玉枝そっくりと言いたいが、あれよりも立優《たちまさ》っていたと、叔母さんの言葉だから、これも嘘はないでしょう」
「よしッ、それでわかったぞ。来い八」
平次と八五郎は、春木町まで一散に飛んだことは言うまでもありません。
「ちょいと、平次だが、明けてくれ」
表の戸を叩くと、
「ヘエ、ヘエ、ちょいとお待ち下さい」
などと愛想よく開けたのはヘラヘラの粂吉でした。
「野郎、御用だぞ」
その肩のあたりをハタと打つ十手。
「あッ、私、私はなんにも知らない」
ヘタヘタと崩折れる粂吉の襟髪《えりがみ》を、八五郎が無手《むんず》と押えました。
「船に落ちた花火を拾って来て、炉に仕込んだのはお前じゃないか」
「それは悪戯ですよ、親分」
「悪戯も念が入り過ぎだ、まかり間違えば命にかかわる」
「でも、親分」
「そのうえ槍の穂を飛ばして主人に怪我をさせ、臼を落して主人を殺したのは、お前でないとは言われまい」
「違う、違いますよ。あのとき私は高輪の石沢様に泊って居たし、二度目は川崎の徳田屋に泊っていました。人をやって調べて下さい。私は一と晩一と足も外へは出ない」
悲しいことにそれは本当でした。平次はもう二三日前にそれを確かめて居たのです。
「では、主人を殺したのは誰だ、野郎」
八五郎の馬鹿力は、グイグイと粂吉の襟髪をさいなみますが、粂吉からは、これ以上絞れそうもありません。
「私は知らない、なんにも知らない。槍の穂が飛んだ晩と、臼が落ちた晩、この家に居なかったのは私とお勝さんだけだ」
「何? お勝が二た晩ともここに居なかったというのか」
「相生町の伯母さんのところへ行ったはずですよ。二た晩とも――それから、今晩も行ったようですが」
それは番頭の仲左衛門でした。
「そいつは初めて聴くぞ。――ね、番頭さん。あの宇古木兵馬という御浪人を、お前さんは昔から知って居るだろうな」
平次は番頭の仲左衛門を顧《かえり》みました。ドカドカと店に出た家中の顔の中に、それは一番分別臭くもっともらしく平次の眼に映ったのです。
「よく存じて居ります」
「あの人は、当家の主人を怨んでは居なかったのかな」
「とんでもない、口癖のように、生命の恩人だと申して居りました。もっとも、御当家の亡くなった御内儀は、昔、宇古木様の許婚だったと申すことで、本心のところはよくわかりませんが」
「あの人の眼は本当に見えないのだろうな」
「ほんの少し、隅の方から見えるということですが」
「足は?」
「足は中年からの骨の患《わずら》いで、ひどい跛足《びっこ》を引けば、歩けないことはありません」
「八、わかった」
平次は不意に立ち上がりました。
「なんです、親分」
「俺はあの眼に騙《だま》されていたのだ、瞳《ひとみ》に霞《かすみ》の入った眼だ。次第に悪くなるに決まって居るだろうが、その悪くなる途中で、隅から少しは見えることもあると――眼医者に話を聴いたことがある」
「すると、あの盲目《めくら》の浪人者が」
「綱田屋五郎次郎が柿の種をやって握り飯を取上げたに違いあるまい。握り飯は玉枝の母親のお雪さんという美しい女だ」
「……」
「粂吉が花火玉で悪戯をしたと知って、それに続いて槍を飛ばしたり、臼を落したり、猿蟹合戦をやって、昔の怨みを晴らす気だったに違いあるまい」
「……」
「槍の穂は、少しばかりの灯《あかり》を目当に投《ほう》って見事狙いが狂ったが、眼のまだ見えるとき見定めて置いた臼を使っての細工は、少し跛足でも眼が不自由でも出来る」
「娘のお勝を二た晩とも相生町に追いやったのは、その留守に仕掛けるつもりだった」
平次は言葉せわしく説明しながら、店から飛び出すと一気に裏へ廻るのでした。
が、裏へ出て驚きました。
「あッ」
銭形平次は一歩遅れました。そこへ立り竦《すく》んだまま、しばらくは呆気《あっけ》に取られるばかりです。
十一
宇古木兵馬は、その晩娘のお勝を相生町にやる時、その手に託《たく》して、母屋に居る綱田屋五郎次郎の遺子、玉枝に手紙を渡させました。手紙の文句には、どんな事が書いてあったかそれはわかりませんが、ともかくも玉枝は戌刻半《いつつはん》(九時)過ぎになって、そっと離屋に、宇古木兵馬を訪ねたことは事実でした。
「小父様、――あの私、玉枝」
玉枝の声は小さいが、実によく透《とお》りました。
「お、玉枝殿か、よく来て下すった」
主人の宇古木兵馬は、手さぐりに戸を開けて、娘の手を取らぬばかりに、もとの座に返るのです。
「なにか、御用? 小父様」
「ちょっと、お待ち下され。誰も聴く者はないか、外の様子を見て参る」
「お眼が悪いのに、大丈夫でしょうか」
「いや馴れて居るから、その心配は無用じゃ」
宇古木兵馬は、また手探りで外へ出ると、しばらく何やらやって居りましたが、間もなく引返して来て、灯の下に玉枝と相対したのです。
「小父様御用は?」
宇古木兵馬の突き詰めた顔を見ると、玉枝は少し怖くなった様子で、こう膝をすすめました。
「玉枝殿――父上綱田屋五郎次郎殿は人手に掛って非業の最期を遂げた。積悪《せきあく》の酬《むく》いじゃ、――かく言う宇古木兵馬も、今から十八年前、五郎次郎に欺《あざむ》かれて、主君の怒りを招き、危うく御手討になるところを、五郎次郎は自分の非を隠して拙者に恩を売り、命の恩人になりすまして、この兵馬の許婚を奪い取った――義理に絡《から》んでの悪企み、私ごとき智恵のない者では、施《ほど》こしようもなかった――」
「……」
「その許婚というのは、この兵馬と深く契《ちぎ》った女――玉枝殿の母親のお雪殿であったよ」
「……」
「五郎次郎のために、身分も家も許婚まで喪《うしな》った拙者が、橋の袂で謡《うたい》を歌って居るのを、五郎次郎は見付けて情《なさけ》らしく拾い上げた。その五郎次郎に怨みはあっても恩があるはずはない。いつかはこの怨みを思い知らせてやる気で、隙を狙っているうちに、眼病に取りつかれ、その上の足萎《あしな》えでは、恨みを晴らす見込みもなく、うかうかと今まで過してしまったのだ」
「……」
「玉枝殿、今はもう、おん身の父親、あの無類の悪人、五郎次郎も死んでしまった。――宇古木兵馬ももはやこの世に望みはない、せめて、せめて――」
「……」
「お雪殿の生んだ、怨敵《おんてき》五郎次郎の胤《たね》と、ここで最期をとげ、悪逆非道の裔《すえ》をこの世から亡ぼすのが、せめてもの望みだ。怨んでくれるなよ、玉枝殿」
「あ、ああれ、小父様」
玉枝は立上がりました。が、この時はもう、先刻宇古木兵馬が、離屋の八方に積んでおいた藁《わら》や柴《しば》や、存分な燃え草に放った火が、四方の窓、壁を燃え抜いて、二人の身辺にメラメラと迫るのです。
「お、火、火、明るいぞ。俺の眼が、不思議に見える。玉枝殿、――いや、お前はお雪殿ではないか。十八年前の、お雪殿そっくりではないか――逃げてはならぬ、一緒に死ぬのだ。一緒に、この兵馬と」
宇古木兵馬は逃げ惑う玉枝を引き寄せ、その細腰を抱いて、顔と顔を摺り寄せるように、見えぬ目を見張って、断末魔の迷いを呟《つぶや》くのです。
「小父様、――いえ、お父様、逃げはしません。母が十年前に亡くなる時、そっと私に言い遺しました。――お前は綱田五郎次郎の子ではない。実は、実は、私が十八年前に深く契《ちぎ》った、宇古木兵馬様の子――と」
「な、な、なんという、玉枝殿。それは嘘、嘘だ」
「お父様、今死ぬ私は嘘を申しましょうか」
「では、もっとよく顔を見せえ、お前には、――そう言えば、五郎次郎の刻薄無残な人相は少しも伝わって居ない」
「お父様、私は、私は死んでも嬉しい」
「いや、そう聴けば、滅多に死なせることではないぞ、――熱い、離屋の中はもう火の海だが、どこか逃げ道はないか。せめて、お前だけでも助けてやりたい」
四方の壁を燃え抜いた焔は、この時どっと襲いかかって、もはや助かる術《すべ》もないと見えました。
中はもう焦熱地獄、吐く息も焔になりそうで、新しい世界を見出した不思議な縁の父と娘が、ひしひしと相抱いたまま、瞬一瞬とせまる、死の手を待つほかはなかったのです。
「悪かった。私が悪かったのだ、人を呪い過ぎた、――罰は自分へ当たるのは構わないが、――なんとしても、玉枝、お前だけは助けたい」
「お父様、一緒に」
「いや、――死んではならぬ。この懐ろへ入れ、この私の身体は焼けても、お前だけは助けてやるぞ」
それはしかし空しい努力でした。焔は天井を嘗《な》め、床板を這って、ジリジリと二人の身近に死の舌を近づけるのです。
ちょうどそのとき、入口のあたりから、どっと一条の滝――と見たのは、手桶と、盥《たらい》と、竜吐水《りゅうどすい》と、一緒に動員した救いの水。
「それ、もう一と息」
外から高々と号令をかけて居るのは、銭形平次の勇ましい声でした。
十二
宇古木兵馬と玉枝は、ほとんど無傷のまま、平次の手に救い出されました。
「親分、助かって見れば、あの盲目《めくら》の浪人者を縛らなきゃなりませんね」
八五郎は、濡れ鼠になった兵馬玉枝の姿を哀れと見ながらも、職業意識に目ざめないわけには行かなかったのです。
「いや、俺は、離屋の中の二人の話を聴き過ぎて、危うく救いの手が遅くなる所だったよ」
「?」
「もういちどやり直しだ。――宇古木兵馬さんは下手人じゃない」
「すると親分」
八五郎はこの時ほど面喰った事はありません。
「手剛《てごわ》いぞ、八。逃げ出す奴を縛れ」
「誰です、それは」
「宇古木さんの槍の穂を盗み出した奴、武芸のたしなみのある奴、足腰の達者な奴、二た晩ともこの家に居た奴、主人の金をうんと費い込んでる奴、粂吉の悪戯を見抜いた奴、妾を二人も持ってる奴――あッ逃げだぞ、八」
パッと逃げ出す人影へ、
「野郎、神妙にしやがれ」
八五郎が無手《むんず》と組付きました。この争いは短かくて激しいものでしたが、平次が手伝って、灯の中に挙げさした顔を見ると、それはあの番頭の仲左衛門の歯を食いしばった悪相だったのです。
*
この事件は簡単で明瞭で、八五郎も絵解きに及ばず呑込んでしまいました。粂吉の花火の悪戯の悪魔的な思い付きに誘われて、猿蟹合戦に仕立て、深怨《しんえん》のある者の仕業と見せた仲左衛門の悪賢こさは、さすがの平次も舌を巻きましたが、解決して見ると、この上もなくあっけない事件です。ただ、槍の穂を盗まれた宇古木兵馬が、それを言わなかったのが手落ちでしたが、つまらぬ疑いを避けた兵馬の用心がかえって悪かったとも言えるでしょう。
玉枝は不義の宝を捨てて秋月家に嫁入り、宇古木兵馬と腹違いの妹お勝を引き取ったのは後の話です。兵馬は両眼を失いましたが、一度に二人の娘を儲けたような気がして、この上もなく幸福そうでした。そして下男の喜八は、やがて秋月家の家来に取立てられ、お勝と一緒になることに、誰も異存のある者もありません。
艶妻伝
一
「親分、あっしもいよいよ来年は三十ですね」
ガラッ八の八五郎は、つくづくこんなことを言って、深刻な顔をするのでした。
「馬鹿だなア、松が取れたばかりじゃないか。そんなのは年の暮れに出て来る台詞《せりふ》だよ」
平次は相変らずの調子で、相手になってやりながら、この男のトボケた口から、江戸八百八町に起った――あるいは起りつつある、もろもろの事件の匂いを嗅ぎ出すのです。
「こちとらは、大したお湿りがないから、暮れも正月も気が変りませんよ。これでうんと借金でもあると、暮れは暮れらしく、正月は正月らしい心持になるんだが――」
「相変らず間抜けな話だなア、どこの世界に八五郎に金などを貸すお茶人があるものか」
「有難い仕合せで。正月らしい心持にもならないかわり、首を縊《くく》る心配もないわけで」
「ところで、来年三十になったら、どんなことになるんだ」
平次は話の捻《より》を戻しました。
「来年は三十、さ来年は三十一でしょう」
「不思議なことに人間は一つずつ年を取るよ」
「三十に手が届こうというのに、女房になり手のないのは心細いじゃありませんか」
ようやく八五郎は結論に辿《たど》りつきました、そう言ってなんがい顎を撫でまわすほど、彼氏は臆面《おくめん》もなく出来上がっているのです。
お勝手の方で、その述懐を漏れ聴いてたまらなそうに笑っている者があります。言うまでもなく、平次の恋女房のお静、それはまだ若くも美しくもありました。
「呆《あき》れた野郎だ、俺のところへ、女房の催促に来たのか」
「そんなわけじゃありませんがね」
「それじゃ良い娘でも見付かって、橋渡しをしてくれというのか」
「娘なら親分に頼むまでもなく、小当りに当ってみるが、相手が人の女房じゃ手の出しようがありません。これぞと思う女がみんな亭主持ちなんだから、世の中が嫌になるじゃありませんか」
八五郎はとんでもないことを言い出して、大して悲観する様子もなく、ニヤリニヤリとするのです。
「馬鹿野郎、人の女房などに眼をつけやがって、水をブッかけて掴み出すよ」
荒っぽいことを言いながらも、平次はとぐろをほぐしそうもなく、自棄《やけ》に煙草盆を引寄せて、馬糞《まぐそ》臭いのを二三服立てつづけに燻《くゆ》らします。
「眼をつけたわけじゃありません。まア聴いて下さいよ。この世にあんな良い女房があると思っただけで、あっしは生きている張合いが付きましたよ」
「この世には、か――大きく出やがったな」
「鎌倉町の油問屋越前屋治兵衛の内儀《おかみ》でお加奈《かな》さんの噂は、親分も聴いたことがあるでしょう」
「知らないよ。越前屋治兵衛は大した身上《しんしょう》だというが、その内儀のことまでは詮索《せんさく》が届かなかったよ」
平次は突っ放したように言います。
「大した女房ですよ」
「そうですってね。綺麗で愛想がよくて、悧巧で、申し分のないお内儀さんだそうじゃありませんか」
お静はお勝手から合槌《あいづち》を打ちました。狭いお長屋で、どこからどこまでもお話が届きます。
「あっしも最初はただのお内儀だと思いましたよ。地味で控え目で、一向目立たない女なんだが、近ごろ主人の治兵衛と碁《ご》を打つようになって、ちょいちょい出入りしているうちに、広い江戸中にも、あんな女は二人とはあるまいと思うようになりましたよ」
「恐ろしく思い込みやがったな。気をつけろ、相手は亭主持ちだ」
「その父親ほども年の違う亭主に、癪《しゃく》にさわるほどよくしているんで、腹が立つじゃありませんか」
「なんだ、褒めたり腹を立てたり」
「二十七八でしょうかね。いい年増なんだが、娘のような若々しい肌と、柔かい声をしていますよ。ろくに紅白粉もつけず、少しもおしゃれなんかしないのに、身だしなみがよくて、なんかこうフンワリと花の匂いのするような女ですよ」
「フム」
「無愛想で素っ気なくて、滅多なことでは人に笑顔も見せないのに、どうかした弾《はず》みで、チラリと、恐ろしく色っぽいところが出るんです。――出たと思うとたんに消えちまって、もとの素っ気のない調子になるんだが、あっしはその稲妻より早く通り過ぎる、内儀の色っぽさを拝みたいばかりに、十日ばかり毎晩毎晩亭主の治兵衛のところへ碁を打ちに通いましたよ。負けるのを承知でね」
「いよいよもってお前と付き合いたくないよ。人の女房に惚れて、下手《へた》な碁などを打ちに通うとは、なんという間抜けな深草《ふかくさ》の少将だ」
「そうポンポン言ったものじゃありません。お蔭で私は大変なものを手に入れましたよ」
八五郎はそれが報告したかったのです。
「なんだ、筋のある話を持ち込んで来たのか、早くブチまけてしまえばいいのに」
平次は話が本題にはいると見ると、ようやく|とぐろ《ヽヽヽ》をほぐして、長火鉢の前にキチンとすわります。
「実は越前屋ではこの間から、変なことが続くんですよ」
「変なことというと?」
「なんでもないが、妙に不気味なことがあるんだそうで、箪笥《たんす》の中の脇差がそっと取り出してあったり、朝の味噌汁《みそしる》へ石見銀山《いわみぎんざん》がブチ込んであったり、物置の天井にあげて置いた臼《うす》が、主人が戸をあけると、いきなり頭の上へ落ちて来たり」
「まるで猿蟹《さるかに》合戦だ」
「あぶなくて叶わないから、ときどき来てみてくれという主人の頼みで、十日ばかり下手な碁打ちに行ったようなわけですよ」
「で、なにか変ったことでも見付けたのか」
「お内儀お加奈さんが、雪で拵えた人形のように、ヒヤリとするほど素っ気ない癖に、なんかの弾みで、たまらないほど色っぽいところのあるのを見付けたんで」
「それっきりか」
「ヘエ、今のところ、それっきりで」
「怒鳴る張合いもないよ、お前は」
銭形平次も苦笑いに紛《まぎ》らす外はありません。
二
しかし、事件はそれが発端《ほったん》で、越前屋は間もなく恐怖のドン底に追い込まれてしまったのです。
「親分、とうとう変なことになりましたぜ」
八五郎が飛び込んで来たのは、それから七八日経った頃。蔵開きも済んで、昨日が小豆粥《あずきがゆ》の十五日という月の良い晩の後でした。
「なにが変なんだ」
平次も何やら待ち構えていたような心持になっていたのでしょう。
「越前屋の娘――これは先妻の娘で、今の内儀とは継《まま》しい仲のお菊という十七になるのが、昨夜の十五夜のお月様を見るんだと言って、裏の物干台に登り、どう間違ったか、足を踏み外して、逆様《さかさま》に落ち、土蔵の入口の御影《みかげ》の土台石に頭を打って死んでしまいましたよ」
「こんな寒いとき若い娘が月見をするのか。正月だぜ、八」
平次はこの言葉の裏から、早くも大きな矛盾《むじゅん》を拾い出したのです。
「あっしもそう思って念を押しましたがね、物干台から落ちたことは間違いありませんよ。もっとも、近所の噂では、なんでも隣りの小間物屋の倅とできていたんだそうで、毎晩物干台に登っちゃ下屋根越しに隣りの物干台の上の男と、笑ったり泣いたりしていたそうです。隣同士のくせに親代々仲が悪くて、この縁談は纏まりそうもなかったんですって」
「まるで妹背山《いもせやま》だ、――ところで、物干台から落ちて死んだに間違いがなきゃ、下手人は腐った手摺《てすり》かなんかだろう。十手よりは出入りの大工の方に御用じゃないか」
平次はまだ気乗りのしない様子です。
「その手摺は腐って、新しいのと付け換えるために、二三日前に外したまま、物干台は坊主になっていますよ、――そんなことはともかく、誰の仕業《しわざ》か知りませんがね、お菊を殺したのは継母のお加奈に違いない、お加奈が後ろから突き落とした証拠がある――という手紙を三河町の伊太松親分に届けた者があるとかで、伊太松親分は越前屋に乗込んで、内儀を縛ってしまいそうな剣幕ですよ――いや今ごろはもう縛ったはずで」
「それが本当なら、仕方があるまい」
平次はまだ動きそうもありません。
「とんでもない、あの内儀がそんな虐《むご》たらしいことをするものですか」
「綺麗で色気のある女が善人とは限らないぜ」
「でもね、親分。継母が継娘《ままこ》をどうにかするというのは、世間に例のないことではないでしょうが、あの内儀は違いますよ」
「恐ろしく肩を持ったものだ」
「それに、そんな大外《だいそ》れたことをして、万一突き落とされた継娘のお菊が、死ななかったらどうします」
「待て待て、お前もなかなか良い智恵が出るようになったぞ」
「怪我をしただけで助かったとしたら、継母の悪事は一ぺんに露見するじゃありませんか。あの悧巧な内儀が、そんな馬鹿なことをするはずもなし、それに主人の治兵衛がそっと物蔭に呼んで、『女房のお加奈の肩を持つわけじゃないが、あの女は決してそんな悪いことのできる柄じゃない。俺にはそんなことを言い触らしたものもわかっているが、銭形の親分にお願いして、物事をはつきりさせ、助かるものなら女房を助けてやりたい』と手を合せるじゃありませんか。二十幾つと年が違って来ると、腹の底から女房がいとしいものと見えますね」
八五郎の言葉には、いろいろの含みがありそうです。
「よし行ってやろう。思いのほか、奥底のあることかも知れない」
平次は起ち上がりました。
「有難い、それであっしも、あの内儀へ義理が立ちますよ」
八五郎の甘さ、あの不思議な美しさを持った内儀のためには、それも大概のことはやり兼ねまじき意気込みです。
三
平次と八五郎が鎌倉町の越前屋に駈け付けた時は、騒ぎはまさに絶頂でした。物干台から落ちて死んだ、娘のお菊の死骸を挟んで、家の中の者が、源平二つに分れ、互いに睨み合いの形で、まだ仏様の始末もせずにいる有様です。
「銭形の親分、御苦労だね。だが、こいつはとんだ無駄骨折かも知れないよ」
三河町の伊太松は皮肉な微笑を片頬《かたほお》に浮べて迎えました。お菊の死を自殺で片付けたものか、それとも美しい継母のお加奈を縛ったものか、まだ思案も定まらぬ様子です。
「そいつは変じゃないか、八五郎に言わせると、三河町の親分は内儀を下手人として縛ったと聞いたが――」
平次は正直なところをブチまけました。伊太松という男は強気で負け嫌いであるにしても、性根は正直者で、腹の底では平次の叡智《えいち》に推服していたのです。
「縛る気になったのは本当だよ。ところが|イザ《ヽヽ》となって、とんでもない横槍が入った」
「ハテネ」
「物干台で向い合って、月の光に顔を見比べながら、何やら合図を交していた隣の小間物屋の倅房太郎が、あのとき油屋の物干にいたのは、間違いもなくお菊さんたった一人で、誰も後ろから突き飛ばした者なんかないはずだ――とこう言うんだ」
「なるほど、そいつは確かな証拠だ」
「だがな、銭形の親分。惚れた同士が逢引の真最中、男の眼の前で、物干から身を投げて死ぬ娘があるだろうか」
「間違っておちたんじゃないのかな。踏外すとか、眩暈《めまい》がしてヨロリとなるとか、――夢中になり過ぎてそんなこともありそうじゃないか」
「間違って落ちたのでない証拠があるよ。ともかく現場を見てから、よい智恵を貸してくれ」
三河町の伊太松は、うさんな顔をして見送る越前屋の家族には眼もくれず、狭い中庭から入って、お勝手の側の梯子を裏の物干の上に案内するのでした。
そこは南向きの屋根の上で、狭いところに建て込んだ下町には、よくある風景ですが、高々と上げた物干台は、地上ざっと三間あまり、上はほんの二た坪ほどの簀子張《すのこばり》ですが、夏はここで茣蓙《ござ》を敷いて涼みも出来、両国の川開きには、ここへ一銚子持ち込んで、遠い花火を眺められないこともありません。
手摺は腐りが来たので取り外したまま、危ないことこの上なしですが、それも新しいのと取替えるまでのことで、正月の寒さを物干の上で寒い逢引をする者のあるなど、もとより予想するはずもなく、これは決して不用心というほどのことではなかったでしょう。
狭い空地と物置の屋根を一つ隔てて、両側には同じような造りのお隣の物干があり、その間はわずか五六間ですから、月の良い晩などは、お互いに顔が見えないこともありません。
お菊と房太郎――家と家との関係で、添うことの出来なかった恋人同士が、ここに登って、五六間隔てたまま、寒い逢引を楽しんでいたというのは、まことに憐《あわ》れ深い情景でもあります。
物干の左右は屋根、後ろは登り口の梯子で、正面だけがきり立ったように屋根から乗り出し、そこから足を踏み外せば、間違いもなく下に落ちますが、その真下は柔かそうな土で、余っぽどどうかしなければ、命取りの場所になろうとは思われません。
「このとおりだ。間違って落ちたのなら、下屋根の上か、南側の柔かい土の上だ、足を折るか腰を打つか、怪我はしてもまさか命に拘《かか》わるようなことはあるめえ。ところが、こんなことになっているんだ」
三河町の伊太松は、先に立って物干台から降りると、狭い空地の前に建っている、土蔵の入口の段々――斑々《はんばん》として血に染んでいるのを指すのです。
「――このとおり、物干の真下からは二間以上も離れている。御影石で畳み上げた土蔵の入口の段の上に、真っ逆様に落ちて柘榴《ざくろ》のように頭を砕いて死んでいたんだ。こいつは足を踏み滑らして落ちたとは思えないじゃないか、そこへこの手紙だ――」
伊太松は懐中《ふところ》を探って半紙一枚に、覚束《おぼつか》ない仮名文字で書いた手紙を取り出し、皺《しわ》を伸ばして平次に見せるのです。
――お菊は継母に殺されたに違いない。証拠はいくらでもある。二人がどんなに仲が悪かったか、お菊が死ねば、この越前屋の身上《しんしょう》は誰の手に入るか、たったそれだけ申し上げただけでもたくさんだ。
手紙の文句はプツリときれておりますが、その意味は邪念に充ちて、拙《まず》い仮名文字までが、呪《のろ》いと怨みに引き歪められているのです。
「こいつは誰が書いたのだ」
「離屋《はなれ》の隠居のお冬婆さんだよ」
「……」
「越前屋の先の女房の母親で、死んだお菊の祖母さんだが、掛人《かかりうど》に違いないから、後添いの今の内儀《おかみ》とは、どうもしっくり行かない様子だ」
「なるほどね」
「どうだい、銭形の。これでも内儀を縛ったものだろうか」
伊太松は昂然《こうぜん》と顔を挙げます。貴公にも手が出まいと言った様子です。
「飛び入りの俺には、なんにもわかるわけはないよ、――このまま引揚げてもよいところだが、念のために、ひととおり店中の者に逢って行こうよ――それから物置の中も見たいな」
「無駄だろうが、やって見るがいい――ここへ呼んで来ようか」
「いや、いちおう仏様に線香でも上げてからにしよう」
平次はともかくもと言った軽い態度で家に入りました。
四
奥の六畳に取り込んで床の上に横たえたお菊の死骸は、まことに無残なものでした。土蔵の土台石には、大した血の跡のなかったのは、多い髪を浸して、膠《にかわ》のようになったためでしょう。
十七というにしては、成熟しきった肉体で、やや派手《はで》な不断着に包んだ胸も、四肢《あし》も、ハチきれそうな豊満さです。化粧は濃く厚い方、目鼻立ちは派手で、先ずは美しいと言われる方のきりょうですが、肉感的で脂ぎって、娘の清らかさは微塵もありません。
身体にはどこにも怪我がないらしく、下半身にひどく泥の付いているのが気になりました。娘の死んでいた土蔵の入口は、かなりよく掃き清められて、こんなに泥の付くはずはないように思われるのです。
平次はそれを一と通り見終ると、振り返って縁側にいる主人の治兵衛と、継母のお加奈に挨拶しました。
治兵衛は五十をはるかに越した老人ですが、醜《みにく》くて精力的で、四角な顎と、細い眼と、高い頬骨が目立ちます。こんなのは老いを知らない漁色家《ぎょしょくか》によくある型で、物腰の柔和なのと、言葉の丁寧なのが、妙に不調和に見えるのでした。
内儀のお加奈は、八五郎があんなに大騒ぎをして報告したのに、これはまたなんという平凡な素っ気ない女でしょう。年の頃はせいぜい二十七八、夫の治兵衛に比べると、娘と言ってもよい若さですが、地味な髪形から、黒っぽい袷、少しの若さも身に着けない、物の影のような淋しい女です。色は青く澄んだ真珠色で、膝の上に揃えた手などは、十七八の娘のように、ほのかな桜色が差して、銀の粉が浮いている若さ、顔を挙げると生え際がかすんで、淡い太い眉、眼は大きくて、鼻は尋常、少し受け唇《くち》ですが、知的で引締って、いささかの媚《なま》めかしさもありません。
それどころか、全体の気分が恐ろしく冷たくて、雪で拵えた姉様人形のように、近づき難いものをさえ感じさせるのでした。
死んだお菊のことを訊くと、主人の治兵衛は、
「独りっ子で我儘をさせ過ぎましたが、お隣の増屋さんとは先代からの仲違いで御話などはもっての外と思い、こればかりは断わりつづけ、間へ入って口を利く者もありましたが、耳にもかけませんでした。それにどちらも独りっ子で、嫁にもやれず、婿《むこ》にももらえなかったのでございます」
「……」
頑固な父親らしい調子でこう始めました。
「――でもこんなことになるくらいなら、一緒にした方がよかったかも知れません。物干の上で逢引しようとは、私も気のつかなかったことで、薄々は知っていたらしい奉公人達も、私の心持を兼ねて、言ってくれる者もなかったのです」
「……」
「物干の手摺が腐って危ないと言うので、あれを取り外したのは、四五日前でございます。明日にも新しいのを取り付けてくれと、出入りの棟梁《とうりょう》に申しておりましたが――」
さすがに父親らしい深刻な悔《く》いが、広い額を曇らせます。
お菊にはほかに縁談がなかったか、追い廻している男がなかったか、特に仲の悪い者はなかったかという問いに対しては、
「お隣の倅と悪い噂が立っていたので、ほかに縁談の口もなく、――手代の久助が親切にしておりましたが、お菊は相手にもしなかったようです。お菊と仲の悪い者といっても――」
治兵衛は絶句したように口を緘《つぐ》みました。お菊と仲の悪いのは、継母のお加奈のほかにはなかったのです。
とうのお加奈はその言葉を引き取って、
「なんの因果《いんが》か、私との折合いがうまく参りませんので、ずいぶん苦労をいたしました。お菊も気のよい人で、決して私を憎んでいたわけでなく、私も精いっぱいのことをいたしましたが、――前世からの約束事でございましょうか」
この仏教的な割りきれない諦めのうちに、お加奈は長いあいだ苦しい思いをしたのでしょう。正直にこうも言いきって、そっと涙を拭《ふ》くのです。淋しい、が、それは冷たい姿でした。
平次はそれっきりで話を打ち切って、軽く挨拶して起ち上がりました。店の方へ行くとそこには二人の手代――一人は久助という三十男で、これがお菊を追い廻したというのでしょう。痩《や》せてヒョロヒョロで、青白くて面長で、まことに見る影もない男ですが、人間はそんなに半間《はんま》ではないらしく、物言いなどはなかなかハキハキしております。
「昨夜は十五夜でお得意廻りで遅くなり、小僧の寅松と一緒に亥刻《よつ》(十時)近くなってから戻りました。お嬢さんが物干から落ちたという騒ぎの半刻《はんとき》ほどあとで」
これは申し分のない不在証明《アリバイ》を持っております。
もう一人の丸吉というのは、主人の遠縁に当たる掛人で、これは二十四五の恐ろしく丈夫そうな男、血色の良い、恰幅《かっぷく》の立派な、眠そうな目鼻立ちですが、なかなかの男振りでもありました。
「私は町内の薬湯へ行って、帰って来たばかりのところでした。裏木戸を入るとあの騒ぎで、頭の上からお菊さんが落ちて来なかったのが不思議なくらいで――」
冗談らしくそう言うのです。裏の隠居部屋を覗くと、そこには先の女房の母親という、お冬婆さんが、主人の義弟で、店の支配をしている四十男の治八郎をつかまえて、なにかひそひそ話しておりました。恐らく仲の悪い後添いのお加奈の讒訴《ざんそ》かなんかでしょう。
「おや、銭形の親分さん」
治八郎は起ち上がって挨拶をします。日向《ひなた》の縁に腰をかけて、お冬婆さんの愚痴《ぐち》を聴いていた様子です。丸々と肥った商売上手の如才ない四十男、足がひどく悪くて、物干へ登る危ない梯子などは踏めそうもありません。
お冬婆さんは人相のよくない、邪悪な表情を持った六十二三の老女で、相手を高名の御用聞と知ると、遠まわしながら手厳しく、お菊を殺したのは、継母のお加奈に違いないと、繰返し繰返し言うのでした。
「お菊は良い娘でしたよ。あの娘が、継母をあんなに嫌ったんですもの、やはり虫の知らせというものでしょうね。それに夫の治兵衛は二十幾つも年上で、いずれは嫁より先に死ぬことでしょう。そうなると越前屋の何万という大身代が、みんなあの女の手に転げ込むじゃありませんか。どんな良い人だって、憎い継娘が邪魔になりますよ」
こういった調子で、あの三河屋の伊太松の持つている手紙と全く同じ意味のことを執念深くくり返すのでした。
「――あの人は怖い人ですよ、あんな綺麗な顔をして、虫も殺さないように取り済ましているけれども、腹の底では何を企んでいるかわかりゃしません。そのうちに夫の治兵衛を殺して、好きな若い男でも引摺り込むことでしょう。そうなればこの私だって、どこへ擲《ほう》り出されることか――南無阿弥陀仏、南無阿――」
と言った恐ろしい毒舌です。さすがの平次も尻尾を巻いて逃げるほかはありません。
裏口から外へ出ようとすると、
「あの、もし」
後ろから声を掛ける者があります。振り返って見ると、今まで隠居のお冬婆さんが、毒婦の見本のように噂していた、内儀のお加奈――淋しくも冷たい姿だったのです。
「あっしに」
平時は静かに振り返りました。三河町の伊太松は店に残り、八五郎は少し遅れて向うからやって来る様子です。
「みんな聴きました。お母さんはあんなに私を憎んでおります」
「?」
「どうぞ、お察し下さい」
たったそれだけでした。ほの白い顔を反《そむ》けて、かすかな表情の動き、――笑ったか、泣いたかわかりませんが、わずかに見せた心の隙間、一瞬にして消え去った媚態は、銭形平次をハッと立縮《たちすく》ませたのです。
それは実に、素晴らしい美しさでした。いや、美しさという言葉では尽くしきれません。女の全身的に燃え立った心の火、あるいは沸《たぎ》り返る媚態《コケット》を覗くと、毛ほどの隙間とでも言うか、――とにもかくにも、それは女が意識して自分の全部を覗かせる、恐ろしい角度ともいうべきものでした。
H・G・ウェルズの書いた。火星の世界を覗く不思議なコーナー〔『宇宙戦争』〕でも、こうまでは微妙で瞬間的で、多彩で刺戟的ではなかったでしょう。
厚化粧で満面の媚《こび》をさらけ出して歩く女は、これに比べると、まさに白痴《こけ》も同様です。冷たくて素っ気ないお加奈のような女に、こういった、恐ろしい武器のあることは、すっかり平次を面喰わせ、驚倒させ、そして考え直させたのです。
が、しかし、それだからと言って、お菊の不思議な死が、あの継母になんの関係があろうとも覚えず、
「や、親分、とんだ待たせましたね。済みません」
飛んで来た八五郎を機《しお》に、平次はそのまま立去るほかはなかったのです。
五
事件はしかしこれだけで済んだわけではありません。それから六日目、越前屋の主人治兵衛は、娘お菊の初七日の逮夜《たいや》の晩、同じ物干台の上で、後ろから脇差で刺されて死んでしまったのです。
三河町の伊太松も持て余して、今度は進んで平次に助け舟を求めました。
「サア、大変、そんなことになるだろうと思ったが――」
日頃にない平次の|あわて《ヽヽヽ》ようで、迎えに来た八五郎と一緒に、鎌倉町に飛んで行ったのは、まだ朝のうちでした。
「銭形の親分、こんどは間違いもなく殺しだ。自分の背中へ脇差を突っ立てて死ぬ人間はないからな」
伊太松はそんなことを言いながら、いつぞや娘お菊の死骸を置いてあった部屋に案内しました。
仏様はまだ入棺どころか、ろくに清めもせず、わずかに床の上に転がしてありましたが、後ろから一と突きに、心の臓をやられた治兵衛の死骸は、凄まじくも醜いものでした。
「ちょうど晩飯どきでございました。初七日の逮夜《たいや》で、親類方や御近所の方も見えるようになっておりましたが、主人は娘が死んだ物干の上で、逮夜の坊さんに一とくさり有難いお経でも上げてもらいたいと、昼のうちから申しておりましたが、その下検分のつもりでしょう、暗くなってから一人で物干へ登って行きましたが、しばらく経っても下りて参りませんので、私が小僧の寅松に手燭《てしょく》を持たせて、二人で行って見ますと、――あのとおりの姿で死んでおりました」
「……」
主人の義弟――支配人の治八郎は説明するのです。
「そのとき店にいたのは私と手代の久助と小僧の寅松の三人。お勝手では内儀のお加奈さんが下女のお徳を相手に、今夜の支度に忙しく、もう一人の手代の丸吉は、お寺へ使いに行ってまだ帰らず、物干などへ行って、主人の背後《うしろ》から脇差などで刺す者は、家中には先ずなかったはずです」
「隣の倅は?」
平次はフトそこに気がつきました。
「一応疑って見たが、困ったことにあの増屋の房太郎という倅は、お菊が死んでからがっかりして床に就いたっきりだよ」
伊太松は平次の疑いの先をくぐって、早くもそこまで手を廻していたのです。
「隠居は?」
「あの婆アは気違いのようになっているよ。また手紙だ、見てくれ」
平次は伊太松から渡された半紙一枚の手紙を開くと、相変らずの拙い仮名文字で、
継娘を殺したあの女とうとう自分の夫まで殺してしまった。私の言ったことには間違いはあるまい――
と邪気|沸々《ふつふつ》たる呪詛《じゅそ》の文句です。
「どうしたものだろう、銭形の親分」
三河町の伊太松はまったく手を焼いた様子です。
「昨夜逮夜の坊主の来た時刻は?」
「騒ぎがあってから半刻《はんとき》も経った頃でした」
治八郎は側から答えました。
「寺は近いのかな」
「ツイそこで――と申しましても、本郷五丁目の円満寺ですが――」
「丸吉は?」
「お寺様と一緒でした。ひどく待たされたそうで――」
平次はチラと八五郎の顔を見ると、八五郎は早くも呑み込んで飛んで行きました。
それから物干台に登って見ましたが、碧血《へきけつ》が新しい手摺から簀子張《すのこばり》を染めて、下の瓦《かわら》に及んでおります。
「かわらは古くなって、北側は苔《こけ》が生えているが、ひどく踏み荒しているようだな」
平次は妙なことに気が廻ります。
「手摺を換えたとき、職人が屋根を渡って歩きましたので」
治八郎はそれに注を入れました。
「いや、――職人はあんなに瓦を踏み荒すはずはない。それに――」
平次はそれっきり口を緘みました。
もういちど家の中に入って、内儀のお加奈にも逢いましたが、空々《そらぞら》しくないほどに萎《しお》れて、今日はさすがに、あの凄い角度を覗かせません。下女のお徳は平凡な四十女でこれは何にも知らず。
店にいる久助と丸吉と寅松にも逢ってみましたが、久助はひどくソワソワして、平次の問いに|ろく《ヽヽ》な答も出来ず、小僧の寅松は無関心で、何を訊いても要領を得ません。
丸吉は相変らず頑丈そうで、平常《ふだん》どおり少しの変化もなく、なにか掴もうとしてきた平次も、手持無沙汰に立ちすくんだ程です。
ちょうどその時、八五郎は飛んで帰って来ました。
「お寺で訊くと、昨夜の越前屋さんの逮夜《たいや》は前からわかっているから、支度をしてお使いを待っていたくらいだ――少しも使いの方を待たせはしないと言っていますよ」
「よし、それで判った。八、その野郎だ」
平次の指はこの時まで平然として、帳面なんか見ている遠縁の手代丸吉を指すのでした。
「御用ッ」
それは恐ろしい争いでした。非凡の体力を持った丸吉は二三度八五郎をハネ飛ばして、猛獣のように暴れましたが、伊太松が手を貸してようやく取って押えたことは言うまでもありません。
「丸吉の野郎がお寺へ迎えに行く前に、物干へ這い上がって主人の治兵衛を殺し、素知らぬ顔で寺へ行ったのはわかりますが、お菊を殺したのはどうしたんです」
「わかっているじゃないか」
その帰途、――下手人《げしゅにん》の丸吉は伊太松の手柄にさせて、平次と八五郎はこんな話をしながら明神下の家へ急ぐのでした。
「少しもわかりませんよ、――昨夜は月がなかったし、誰も見てはいないから丸吉はノコノコ物干台に這い上がって主人を殺して下りたでしょうが、七日前の晩は月が良かったし、向うの物干台で、合図をしていた隣りの倅も、お菊の外には、物干に誰もいなかったと、はつきり言ってるじゃありませんか」
「そのとおりだよ」
「すると、あのとき丸吉はどこにいたんです」
「物干の下の空地に立っていたのさ」
「ヘエ?」
「お菊の死骸は物干の下から二三間も離れている土蔵の石段の上にあったろう」
「ヘエ」
「そんなに遠く飛ぶためには、突き飛ばされたのでなければ、飛び降りたことになるが、実はな八、――そのとき物干台の上には罠《わな》が仕掛けてあったのさ、――物置の中には多分太い綱があるよ」
「ヘエ?」
「お菊がうっかりその罠の中へ足を入れた時、下から力任せに縄を引いたのだ。罠に足を入れたお菊は、手摺のない物干から石っころのように落ちたことだろう。力任せに足を引いて落されたから、お菊の身体は土蔵の段々のところまで飛んで行って、あの石の段に頭を打って死んだんだ――どうかしたら、柔かい泥の上へ落ちたのを、丸吉が抱いて行って、石の段々へ頭を叩きつけたのかも知れない、――それくらいのことはやり兼ねない男だ、――お菊の着物に泥が付いていたことはお前も知っているだろう」
平次の説明は間然とするところもありません。
「それ程わかっているくせに、親分はあのとき丸吉を縛らなかったので?」
「確かな証拠がなかったのだよ」
平次は憮然《ぶぜん》としております。つまらぬ遠慮から、もう一つの命を失ったのです。
「なんだって丸吉はお菊と主人とを殺したんでしょう」
「怨みがあるわけじゃない、――あの内儀の眼に引きずられたんだ」
「ヘエ?」
「お前でさえあの内儀に夢中になったじゃないか、あれは恐ろしい女だ――自分では大した悪気もなく、若い男がほんの少しの隙間から自分の心を覗かせれば、みんな夢中になることを知って、丸吉にもチョイチョイその術《て》を使ったのだろう。丸吉は火のような男だ、お菊が事ごとに継母に楯《たて》をついて、お加奈を困らせることを知ってとうとう殺す気になったのだろう。――お菊が手軽に殺されて自分へ疑いが来そうもないとわかると、今度は主人の治兵衛を狙《ねら》った。治兵衛を殺せば、お加奈が倖《しあわ》せになると思い込んだのだろう」
「……」
あまりのことに八五郎は二の句がつげません。
「治兵衛は年の三十近くも違う若い女房を可愛がり過ぎた。丸吉は豚に真珠を嘗《な》めさせるような気で、それを眺めていたに違いない。とうとう我慢がしきれなくなって、主人まで殺す気になった。内儀と相談したわけではあるまい」
「……」
「あんな女は恐ろしいよ。厚化粧で、色気たっぷりで、誰にでも愛嬌をこぼす女は多寡《たか》が知れるが、――自分の美しさを知り抜いて、それをチラリと覗かせると、男がどんなことになるかを楽しむ女は一番恐ろしい」
「驚いたね、親分」
「お前だって丸吉のようにあの女の側にいたらどんなことをやり出したかわかるまい」
「冗談で」
「女は思いっきり見っともないか、精いっぱい馬鹿か――そうそう煮売屋のお勘子《かんこ》のようなのが一番無事だぜ」
カラカラと笑う平次です。自分の女房のお静がどんなよい女ぶりかも忘れて。
夕立の女
一
江戸八百八町が、たった四半刻《しはんとき》のうちに洗い流されるのではあるまいか――と思うほどの大夕立でした。
「わッ、たまらねえ。どこかこう小鬢《こびん》あたりが焦《こ》げちゃいませんか、見て下さいよ」
一陣の腥《なまぐ》さい風と一緒に、飛沫《しぶき》をあげて八五郎が飛び込んで来たのです。
「あッ、待ちなよ。その|なり《ヽヽ》で家の中へ入られちゃたまらない――大丈夫、鬢の毛も顎の先も別条はねえ。雷鳴《かみなり》だって見境があらアな、お前なんかに落ちてやるものか」
平次は乾いた手拭を持って来て、ザッと八五郎の身体を拭かせ、お静が持って来た単衣《ひとえ》と、手早く着換えをさせるのでした。
全く焦げつきそうな大雷鳴でした。そうしているうちにも、縦横に街々を断ち割る稲光り、後から後からと、雷鳴の波状攻撃は、あらゆる地上の物を粉々《こなごな》に打ち砕《くだ》いて、大地の底に叩き込むような凄まじさでした。
「驚きましたよ。あっしはもうやられるものと思い込んで、四つん這いになってここへ辿《たど》り着くのが精いっぱい――どうも臍《へそ》の締りが変な気持ちですが、臍がどうかなりゃしませんか知ら――」
「間抜けだからな、自分の臍を覗いて見る恰好《かっこう》なんてものは、色気のある図じゃないぜ。第一お前の出臍なんか抜いたって、使い物にならないとよ。味噌《みそ》がきき過ぎているから」
掛け合い話の馬鹿馬鹿しさに、お静はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱えて笑いを殺しています。
よいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるような雨だけが、未練がましく町の屋並みを掃《は》いて去るのでした。
「それにしも大変なことでしたね。御存じのとおり、あっしは雷鳴様は嫌いでしょう」
「雷鳴は鳴る時だけ様をつけ――とね、雷鳴を好きだという旋毛曲《つむじまが》りも少ないが、お前のように、四つん這いになって逃げ出すのも滅多にないよ。あの恰好を新造衆に見せたかったな」
「さんざん見られましたよ。何しろ明日は神田祭だ、宵宮《よみや》の今晩から、華々しくやるつもりの踊り舞台にポツリポツリと降って来た夕立のはしりを避けていると、あの江戸|開府《けえふ》以来という大雷鳴でしょう」
「江戸|開府《けえふ》以来の雷鳴という奴があるかえ」
「ともかくも、そのでっかいのが、ガラガラドシンと来ると、舞台にいた六七人の踊り子が、――ワッ怖《こわ》いッ――てんで、皆んなあっしの首っ玉にブラ下がったんだから大《てえ》したもので、あんな役得があるんだから大《でっ》かい雷鳴もまんざら悪くありませんね」
「罰《ばち》の当った野郎だ」
「そのまま鳴り続けてくれたら、あっしは三年も我慢する気でいましたよ、――ところが続いてあの大夕立でしょう。ブチまけるようにどっと来ると、女の子はあっしの首っ玉より自分の衣装のほうが大事だから、チリヂリバラバラになって近所の家へ飛び込んでしまいましたよ。一人くらいはあっしと一緒に濡れる覚悟のがあってもよいと思いますがね」
「呆《あき》れた野郎だ」
「空っぽの舞台で、大の男が濡れ鼠になるのも気がきかねえから、川越えをする気分で、雨の中を掻きわけ掻きわけ、四つん這いになってここまで辿りつきましたよ」
「何が面白くて、空模様に構わず、手踊りの舞台にねばっていたんだ」
「六七人の女の子が、いきなりあっしの首っ玉にかじりつきそうな空合いでしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があったんですよ――女と女の大鞘当《おおさやあて》、名古屋のお三に不破《ふわ》のお伴《はん》」
「それは手踊り番組か」
「なアに、実は小唄の師匠のお園と、踊の師匠のお組《くみ》の掴み合いで、いやその激しいということは、親分にも見せたいくらいのものでしたよ。あっしも女と女の命がけの喧嘩というのを、生れて始めて見たが――」
「そいつも江戸|開府《けえふ》以来じゃないのか」
「とんでもない、あんなのは神武以来ですよ。最初はネチネチといや味の言い合いから、だんだん昂じて甲高《かんだか》い口喧嘩。それから触ったり、打ったり、引っ掻いたり、とうとう髪のむしり合いから、左四つに組んで水が入る騒ぎ――」
「なんだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ。天道様だって、あんなキナ臭い喧嘩は見ちゃいられませんよ」
八五郎の説明は、面白|可笑《おか》しく手振りが入るのです。
「そんな大喧嘩を始めるには、深いワケがあるだろう。言葉の行き違いと言った、手軽なことじゃあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ。食い物の怨《うら》みや酒の上じゃ、あんなにまで恥も外聞も忘れて、引っ掻いたり噛みついたり、命がけで揉み合えるものじゃありません」
「男のことか」
「図星、さすがは銭形の親分」
「馬鹿にしちゃいけねえ」
「情事《いろごと》になると、恐ろしくカンの悪い親分が、今度は当りましたよ。鞘当の目当ては、金沢町の平野屋の若旦那金之助――口惜しいがあっしじゃありません」
「で?」
八五郎の話術に引き入れられて、平次も少しばかり輿が動いたようです。
「それからガラガラドシンの、六七人|あっし《ヽヽヽ》の首っ玉にかじりついて匂わせの、大夕立と来たわけで、敵も味方もどこへ散ったか。あとは四つん這いの、借着の単衣《ひとえ》の、お先煙草の――ああ、熱い茶が一杯呑みてえ」
こんな調子で筋を語る八五郎でした。
二
昔の江戸は、非常に雷鳴の多いところで、甲州盆地や、上州の平野で育てられた雲の峰《みね》が、気流の関係で大部分は江戸の真上に流れ、ここで空中放電の大乱舞となって、三日に一度は夏の江戸ッ子の胆《きも》を冷やさしたのです。
電気事業の発達は、雷鳴や夕立を非常に少なくしたことは、あえて故老を俟《ま》つまでもなく、誰でも一応は知っております。
その雷鳴や夕立は、どんなに一般人の恐怖と尊崇のまとであったか、宝井其角《たからいきかく》が『三囲《みめぐり》』の発句《ほっく》を詠《よ》んで、夕立を降らせたという伝説が、真面目に信ぜられた時代の人達の心持は、今の人には想像もつかぬものがあったはずです。
蚊帳《かや》と線香と|くわばら《ヽヽヽヽ》の呪文《じゅもん》で表象される迷信的な江戸ッ子が、大雷鳴、大夕立の真最中に、冒涜的《ぼうとくてき》な言動、――わけても人殺しなどという、だいそれたことをやりそうもないことは、容易に想像され得ることで、ここで起った大雷鳴の真最中の犯罪が、どんな意味を持つかということは、この事件の大きな鍵《キー》の一つになるのです。
八五郎が踊り舞台の女の喧嘩の話を、面白おかしく続けているうちに、大夕立もようやく霽《は》れて、九月十四日の夕陽が、西窓から美しく射し込んで来ました。
「あれ、八五郎さん、まだお帰りじゃないでしょうね。今お燗《かん》がついたばかりですのに」
モゾモゾと腰をあげかける八五郎に、お静は声を掛けました。
「ヘエ、一杯御馳走して下さるんですか」
「不思議そうな顔をするなよ。俺のところだって年中粉煙草ばかりが御馳走じゃない――明日は年に一度の明神様の御祭りだ」
平次は盃《さかずき》を挙げました。大きい膳に並べた料理は、ひどく貧乏臭いものですが、お静の心尽しが隅々まで行亙《ゆきわた》って、妙にこうホカホカとした暖かいものを感じさせるのです。
「明神様の宵祭か――一升|提《さ》げて来るんでしたね、親分」
八五郎は鼻水を横なぐりに拭いて、盃を頂くのです。この涙もろい男は、どうかしたらもう湿っぽくなっているのかも知れません。
でも二つ三つ傾けると、陶然として、天下泰平になる八五郎です。
「親分、ちょいと来て下さい」
入口の格子を叩いたのは、顔見知りの隣り町の指物《さしもの》職人――というよりは、小博奕《こばくち》を渡世にしている、投げ節の小三郎という男でした。
「なんだ、何があったんだ」
平次は盃を置いて中腰になって居ります。小三郎の穏かな調子のうちにはガラッ八の『大変』以上の緊迫したものを感じさせるのです。
「横町の師匠がやられましたよ」
「横町の師匠?」
この辺は師匠だらけ、生花、茶の湯から、手踊り、小唄、琴、三味線、尺八まで軒を並べているので、平次もちょっと迷ったのです。
「小唄の師匠――江戸屋園吉のお園さんで」
「お園さんが殺された?」
八五郎は横から口を出しました。少しホロリと来ております。
「そうなんです、親分」
「お園が――? 先刻《さつき》、お組と掴み合いの喧嘩をしたぜ」
「気が立っていて、首でも縊《くく》りそうな見幕だったそうです」
「ともかく、行って見ることだ」
平次は手早く支度をすると、夕立の上がったばかりの街へ、足駄のまま飛び出しました。それに続いたのは、借着のままの八五郎と、投げ節の小三郎。
三
明日の神田祭を控えて、九月十四日の明神下――御台所町、同朋町から金沢町へかけては、全く沸《たぎ》り返るような賑わいでした。
日枝《ひえ》神社の山王祭とともに、御用祭または天下祭と言われ、隔年に行なわれたこの威儀は、氏子《うじこ》中の町々を興奮の坩堝《るつぼ》にし、名物の十一本の山車《だし》が、人波を掻きわけて、警固の金棒の音、木遣《きや》りの声、金屏風《きんびょうぶ》の反映する中を練り歩いたのです。
前夜の宵宮も、一種の情緒を持った賑わいで、江戸でなければならぬ面白さでしたが、その日は生憎の大夕立で出足を阻《はば》まれ、平次とガラッ八が出動する頃になって、残る夕映えの中に、ようやく町々の興奮は蘇返《よみがえ》って行く様子でした。
「ここですよ」
小三郎は小唄お園の家へ案内し、格子の前で立ち淀みました。中は内弟子と近所の衆で、何やら取留めもなく騒いでおります。
入口の格子の横手は少しばかりの空地でそこには手踊りの師匠、板東久美治《ばんどうくみじ》こと、お組の躍り舞台が掛けてあり、大夕立に叩かれて、見る影もなく塩垂《しおた》れております。
「御免よ」
平次と八五郎は、その中へ入りました。
「ま、親分さん方」
出迎えたのは五十五六の老母、それは殺されたお園の養い親で、お槇《まき》という因業《いんごう》な女――と八五郎は心得ております。
「師匠が、――気の毒だったね」
「親分、どうしましょう。私はもう木から落ちた猿で」
お槇は日頃の因業さをかなぐり捨てて、ひどく打ち萎れております。
たった三間の小さい家、その一番奥の六畳に、殺された師匠のお園が、血だらけの死体を横たえているのでした。
平次と八五郎の姿を見ると、弟子達も近所の衆も、遠慮して縁側に立去り、凄惨な死の姿が、覆《おお》うところもなく二人の眼に曝《さら》されます。
「こいつはひどい」
八五郎は音《ね》をあげました。
股《もも》や裾《すそ》は、母親の手でわずかに隠されましたが、床を敷いて掻巻《かいまき》を引っ掛けて休んでいるところをやられたらしく、斑々《はんばん》たる上半身を起してみると、首から顔へかけて、突き傷が三四ヵ所、盲目突《めくらづき》に突いた一と太刀《たち》が、偶然に頚動脈を切ったのが致命傷らしく、あとの傷は心得のない下手人が、駄目押しに突いたとしか思えない、無気味なものです。
死顔には、さしたる苦悩もなく、お園の美しさは、血の洗礼も奪う由はありません。引締ったクリーム色の肌、美しい生え際、大きい目は見開いておりますが、それは極めて無心な死の苦悩のないもので、ほのかに開いた唇から、真珠色の白い歯の見えるのも、妙な艶《なま》めかしさを感じさせるのです。
胸は少しはだけて、乳のふくらみのほの見えるのも、踏みはだけたらしい股に、血潮に染んで大きい掌《てのひら》の跡らしいものの残るのも、下手人の性格を暗示しているようで、歪《ゆが》んだ姿態《ポーズ》とともに、平次の注意をひきつけます。
「師匠が一人でいたのか」
あれほどの殺しを――いかに大夕立の中と言っても、隣りの部屋の者が知らないはずはありません。
「大変な見幕でした。あんまり怖いので、お弟子さん方も帰ってしまい、私もお隣りの菓子屋さんへ行って、夕立の止むまで無駄話をしておりました。外の雷鳴より、内の雷鳴の方が怖かったんです」
母親のお槇は言うのです。口辺に漂う苦笑を、あわてて掻き消して、精いっぱいの真剣な顔になるのは、かなりの見物でした。
お園の美しさと、その激しいヒステリーの発作のことは、平次も聴かないではありませんが、手踊りの師匠のお組と掴み合いの喧嘩をした後の凄まじい発作は、恐らく因業で聞えた母親さえも、三舎《さんしゃ》を避ける外は、なかったのでしょう。
「縁側は開いていたんだね」
平次は重ねて訊きました。
「あの娘《こ》は上気《のぼ》せると、雨だろうが風だろうが、閉めきってなんか置けない性分でした。風下の雨戸を一枚開けて、枕を出して横になっていたんでしょう」
腹を立てると起きてはいられない女――その激しいヒステリー性の怒りの発作が、この女を殺させる原因になったのかも知れません。
「刃物は?」
平次は四方《あたり》を見廻しました。そこにはこの女を突き殺したような、鋭利な刃物などは転がっていそうもありません。
「雨がやんでから、御近所の子供衆がこれを拾って来ました。庭に捨ててあったんだそうです」
母親は四つ折の手拭に畳み込んだ匕首《あいくち》を一本、縁側の隅から持って来ました。無気味なものを持った手が、少し顫《ふる》えているのも無理のないことです。
「……」
手に取って見ると、よく光っておりますが、泥と夕立に洗われながらも、血脂《ちあぶら》のベッとり浮いた、刃渡り六七寸の凄い匕首です。
「こいつは誰のだ。持主はわかっているだろう」
平次は物の気配に後ろを振り向きました。そこには、平次と一緒に来た『投げ節の小三郎』が、真っ蒼になって突っ立っているのです。
「……」
「お前のだろう」
「先刻踊り舞台の楽屋へ忘れて来たんです―あっしじゃありませんよ。師匠を殺したのは」
小三郎は、柄にもなく、タガが弛《ゆる》んだように、ガタガタしているのです。小作りですがちょいと好い男で、臆病なくせに遊びが好き――といった肌合らしく見えます。
四
「親分、妙なものが来ましたぜ」
八五郎が拇指《おやゆび》を蝮《まむし》にして、自分の肩越しに入口の方を指さすのです。
「誰だえ?」
「喧嘩の相手、踊りの師匠のお組が、お悔みに来たんだから大変でしょう」
八五郎は存分に面白そうです。この男の守り本尊の天邪鬼《あまのじゃく》が、どこかを擽《くす》ぐってでもいそうな顔でした。
「町内付き合いだもの、お悔みにも来るだろうよ」
平次は大して気にもしない様子ですが、入口の方では、ヒソヒソと声を忍ばせながらも風雲の唯ならぬものを感じさせます。
「でも、お前さんからお悔みを言ってもらう筋合いはありませんよ」
それは母親のお槇の声でした。
「私は悪うございました。師匠とつまらない喧嘩なんかして。でも、もともとつまらないことなんで、日頃仲の好かった師匠が死んだと聞くと、じっとしてはいられなかったんですもの、せめて、仏様の前で、一と言詫びを言わして下さいな、おっ母さん」
お組の声はすっかり萎れております。お園と張り合って、ちょっとも退《ひ》けを取らなかったお組にしては、それは思いも寄らぬ挫《くじ》けようです。
「おっ母さんなんて、言ってもらいたかアありません。先刻《さっき》掴み合いをしたばかりのお前さんを通しちゃ、娘だって浮ばれないにきまっている」
「でも」
「さア、帰って下さい。大夕立が来なきゃ、舞台の上で、お前さんが掴み殺したかも知れないじゃないか」
母親のお槇は、頑として関所を据えるのです。
「八、放って置くと、また何が始まるかわからない。お前が口をきいて、お組師匠を隣りの部屋まで通してもらうがよい」
平次は見兼ねて仲裁案を出しました。それから一と揉みの後、八五郎のとぼけた調子が、どうにか母親を撫《なだ》めて、お園の死骸のある隣りの部屋まで、お組は誘い入れられました。
「師匠、たいそうな萎れようだね」
平次は近々と膝を寄せました。
「でも、私と喧嘩をして、間もなく死んだと聴いて、私はもう、いても起ってもいられなかったんですもの」
お組は顔を挙げました。鬘下《かつらした》が露を含んだようで、浴衣《ゆかた》に染めた源氏車《げんじぐるま》が、重々しく肩にのしかかるのです。
殺されたお園より一つ二つ若くて、三十前後と聴きましたが、磨き抜かれた肌の美しさや、よく整った顔立ちは、どう見ても二十四五としか見えず、お園のややブロークンな道具立の魅力に比《くら》べて、それは端正な古典的な美しさとでも言えるでしょう。
「なんだってまた、女だてらに掴み合いの喧嘩なんかしたんだ」
平次は静かに言い進みました。
「お隣りの空地へ、躍り舞台を拵《こしら》えるのに、お園さんに挨拶をしないのが悪かったんです――でも、懇意ずくで、つい後で断わればよかろうと思ったのが、師匠の気に入らなかったのでしょう」
「それっきりか」
「あとは、髪へさわったとか、変な眼で見たとか、――女同士の喧嘩の種は、殿方《とのがた》にはわかりゃしません」
お組はさり気なく言って、ほろ苦く笑うのです。
「情事《いろごと》の揉めがあったそうじゃないか」
八五郎は横合いから口を出しました。相手が何人《なんぴと》であろうと、これを言わずにはいられない八五郎です。
「とんでもない、八五郎親分」
「いや、平野屋の若旦那を奪《と》り合って、事毎に啀《いが》み合っていたことは、町内で知らない者はないぜ」
「ひと頃は、そんなこともありました。でも近頃平野屋の若旦那は、許婚のお嬢さんと、いよいよ祝言することに決まり、お園さんが執つこく絡《から》みつくのを、ひどく嫌がっていました」
「……」
「平野屋の若旦那と仲の好いのは私の方で、そんなことで殺されるなら私の方が殺されなきゃなりません」
お組はこうはっきり言いきるのです。
五
「それに――」
お組はなおも続けました。
「私は雷鳴が大嫌いで、鳴り出すともう生きた空もありません。家へ帰ると雨戸を締めきって蚊帳《かや》を吊って線香を焚いてお念仏ばかり称《とな》えていたんですもの。人なんか殺すどころか、物を言う力もなく弟子達を追っ払って、死んだようになっていました」
お組はそう言って、自分の雷鳴嫌いを証明してくれる相手を捜すように、そっと四方《あたり》を見まわしました。
「気色が悪いぞ師匠。誰もお前さんが、お園師匠を殺したとは言やしない」
平次はさり気ない調子でした。
「それで安心しましたよ。嘘だと思うなら、私の家へ行って訊いてみて下さい。あの大夕立の間、私はもう死んだもののようになって寝ていたんですもの」
「お前の家というのは、ここから遠いはずじゃないか。よく濡れずに駈けて行ったことだな」
「表から廻れば遠いようでも、路地を抜けて、大家さんの家の庇《ひさし》の下を通してもらえば直ぐですよ。ピカリと来て大きいのが鳴るとすぐ、私はもう喧嘩も何も忘れて帰ったんですもの。家へ飛び込むとすぐ、あの大雨がどっと来ましたよ」
お組の報告は詳し過ぎます。
「ところで、師匠には心当りがあるだろう。お園を怨んでいる者は誰だ」
「第一番は投げ節の親分」
お組はそっと四方を見ました。匕首のことから話が妙になって、小三郎はもうそこには姿を見せなかったのです。
「それから?」
「御浪人の阿星右太五郎《あぼしうたごろう》様」
「お園を追い廻しているという噂があったな」
「平野屋の若旦那は、お園さんを怨んではいないが、邪魔にはしていましたよ。もっとも許婚のお夏さんは、心から怨んでいたようで」
「そんなことかな」
「お新さんだって、お円さんだって、お園さんを怨んでいないとは限りません。町内の若い男を皆んな手なずけて、狼《おおかみ》の遠吠みたいな声を出させるんですもの」
お組はチラリと鋒鋩《ほうぼう》を出しました。
「なんだとえ、狼の遠吠で悪かったね。そう言うお前こそ、案山子《かかし》に魔が差したのを教えているくせに」
母親のお槇は我慢のならぬ顔を次の間から覗かせるのです。
「もうよい。仏様の前だ。お互いに喧嘩はたしなむことだ」
平次はもう一度、この女同士――老いたると若い者との喧嘩を引分けなければならなかったのです。
「親分」
どこかを漁《あさ》って歩いたらしい八五郎が、縁側から顔を出しました。
「なんだ八」
「変なことを聴き込みましたよ」
「?」
「あの大夕立の真最中に、平野屋の若旦那の金之助が、お園に会いに来たらしく、濡《ぬ》れ鼠になって、そこから帰って行ったのを見た者がありますよ」
「そいつは手掛りだ。ちょっと平野屋まで行ってみよう」
「あっしも」
「待ちなよ、お前には用事がある」
平次は八五郎の耳へ、何やら囁きました。
「なるほどそいつは良い考えだ」
八五郎は話を半分聴いて飛んで行きます。
「師匠。せっかくここへ来たんだ、お袋と仲直りをした上、しばらく手伝って、仏様の始末をして行くがよい。あのままじゃ通夜《つや》もなるめえ」
平次は隣りの部屋の死体を痛々しく振り返るのでした。
「私もそのつもりで参りました。おっ母さんさえ承知して下されば」
お組はいそいそと立ち上がりました。生前の深刻な恋敵、ツイ先刻掴み合いの喧嘩までした仲ですが、生死の境を隔《へだ》てると、昔の昔の、幼友達のお組とお園になるのでしょう。血に塗《まみ》れた死骸の側に膝をついて、ツイ涙に暮れるお組を見つめると、平次はもう次の活動の舞台へ踏み出しておりました。
六
「あれは?」
夕明りの中にしょんぼり立っている十七八の娘、町の一角を、ほのぼのと明るくしたような、それは言うに言われぬ可憐《かれん》な姿でした。
「お園の内弟子で、お菊という娘ですよ。ちょいと良いでしょう親分」
八五郎は小戻りして教えてくれます。こといやしくも、若い娘の噂に関する限り、見過しも聞き過しも出来ないのがこの男の性分でした。
「お前はお組の家へ行ってくれ。急ぐんだ、あの女が帰る前に――」
平次は家の中にいるお組に気を兼ねて、八五郎の道草をたしなめます。
「お菊坊の口を開けさせることなら、あっしの方が心得てますよ、親分」
「わかったよ――俺は口説《くど》きもどうもしないから、安心して行くがよい」
「ヘエ」
八五郎が未練らしく姿を隠すと、平次は改めてお菊の前へ――精いっぱいさり気ない顔で立ちました。
「お前にちょいと訊きたいことがあるが」
お菊は顔を挙げました。隣り町に住んでいて、銭形平次の顔も知っており、その評判も心得ておりますが、名のある御用聞にこう声を掛けられると、十八娘の心臓が高鳴るらしく、道具の細々《ほそぼそ》とした顔が引締って、可愛らしい唇がおののきます。
この臆病らしい小娘から、筋の通った話を引出すのは、平次にしても容易ならぬ手数でしたが、でも、さんざん手古摺《てこず》らした末、よく遊びに来るのは平野屋の若旦那と、投げ節の小三郎さん、それに御浪人の阿星右太五郎様――などと覚束ない指を折って見せるところまで、心持がほぐれて行きました。
「そのうちで、師匠が一番好きだったのは誰だえ?」
「若旦那の金之助さんでしょうか知ら、――小三郎さんはよくいらっしゃるけど、嫌われてばかり、帰ると塩を撒《ま》いて掃《は》き出すんですもの」
などとお菊は可笑しがるのです。
「御浪人の阿星右太五郎様は、もう四十過ぎの年配じゃないか」
隣り町に住んでいる有徳《うとく》の浪人者、小金などを廻して呑気に暮らしている中年過ぎの男が踊りの師匠のところに出入りするというのは腑《ふ》に落ちませんが、先刻《さっき》小唄の師匠のお組が、殺されたお園を怨む者の名の中に、この浪人者を加えていたことを平次は思い出したのです。
「あの阿星右太五郎様の一人息子の右之助《ゆうのすけ》様は、師匠と好い仲だと言われておりましたが、今年の春お勤めの不首尾とやらで、甲府《こうふ》で腹を切ったとか聞いております。師匠もそれを話しては気の毒がっておりましたが」
平次もそれは薄々聴かないではありませんでしたが、お菊の口から改めて聴かされると、お園の死となにかしら、一脈の関係がありそうにも思えるのです。
「お前はあの雷鳴《かみなり》のとき、どこにいたんだ」
「お向うの店先に雨宿りをしていました。お師匠さんが怖かったんですもの、――大変な見幕で」
お組と掴み合いの喧嘩をしたあとの紛々《ふんぷん》たる忿怒《ふんぬ》は、全く雷鳴以上の恐ろしいものがあったに違いありません。
「お向うの唐物屋の店先から、お師匠さんの家はよく見えるわけだな」
「表の格子のところはよく見えます」
「誰か来たことだろうと思うが――」
「阿星右太五郎様が格子を開けかけましたが、思い直した様子で、木戸をあけて裏へ廻り、しばらくして出て来ました――まだ雨が降る前で、ひどく雷鳴が鳴っていました」
「傘はさしていたのか」
「お師匠さんの家を出るとザーッと降って来たので、阿星さんは傘をさして、大急ぎで帰った様子です」
「それから」
「若旦那の金之助さんが、格子から入ってしばらくして出て来ました。これは傘もなんにもなく、ひどい風をして、濡《ぬ》れ鼠になって帰って行きました」
「それっきりか」
「三人目は小三郎さんで――これは雨が小止《こや》みになってから、格子の中へ入ったと思うと、大きな声を立てて、気違いのようになって出て来ました。お師匠さんが殺されているのを見て、びっくりしたんですって」
お菊は表情的な眼を大きく開いて、びっくりして見せるのです。
「唐物屋の店に、そのとき誰もいなかったのか」
「大変な嵐《あらし》でした。雷鳴と稲妻と、雨と風と、――家中の人は皆んな奥へ引っ込んで、蚊帳の中へ入ってしまって、私だけ店に取り残され、大戸をおろして、臆病窓からこっちを眺めていたんです」
「ほかになんにも見えなかったのか」
「雨がひどかったんですもの。でも、どしゃ降りの中で――」
お菊の眼は、空を仰ぐように、庇から屋根へと見上げるのです。
「何があったんだ」
「私の眼の迷いかも知れないんですもの」
お菊はぞっと自分の胸を掻《か》い抱くように、それっきり口を緘《つぐ》んでしまいました。
「どんなものを見たんだ」
平次は重ねて訊きました。が、娘の閉じた口を開かせることは、平次の智恵でも、十手捕縄でも出来ることではありません。
「変だと思うことがあったら、そっと俺に話してくれ。今でなくてもよい、明日でも、明後日でも、気が向いたら。それにお前は、なんだってこんなところに立っているんだ」
若い娘が、いつまでも門口に立っている不自然さに平次は気がつきました。
「だって、私、怖《こわ》いんですもの」
十八娘のデリケートな神経は、血だらけな死骸に脅《おび》やかされているのでしょう。その死骸は、たとえ大事な師匠であったところで、仏様らしく始末をしてくれるまでは、娘に見せるような生易しいものではなかったのです。
七
平次はそこから直ぐ、金沢町の平野屋へ行ったことは言うまでもありません。今までに調べたところでは、お園を殺し得る機会を持った者は、浪人阿星右太五郎でもなければ、平野屋の若旦那金之助でもなければ、投げ節の小三郎のほかにはないことになります。
平野屋は地主で家作持ちですが、先代が亡くなってからは、若旦那の金之助は手綱《たづな》のない若駒のようなもので、母親のお早の言うことなどは耳にも入れず、放埓《ほうらつ》の限りを尽した上、この半年ばかり前から、踊りの師匠のお園と、小唄の師匠のお組を手に入れ、江戸一番の色男のような気になって、有頂天な日を暮らしていたのです。
どちらも、金が目当てだったことは言うまでもありませんが、それでも、お園とお組が、掴み合いの大鞘当をするだけあって、若旦那の金之助は、なかなかの美男でもありました。
色白で、面長《おもてなが》で、ひどく撫で肩で、下唇が突き出して、いささか舌っ足らずで――こう条件を並べただけで、おおかた若旦那金之助の風貌は想像がつくでしょう。
母親のお早は持て余した揚句、親類中での褒《ほ》めものの娘、お夏という十九になるのを娘分けにしてもらい受け、厄《やく》が過ぎたら金之助と娶合《めあ》わせるつもりで、朝夕の世話までさせることにしました。
お夏は可憐で楚々《そそ》として、充分に美しい娘でしたが、性根もなかなかにしっかりしており、その上智恵も逞《たく》ましく、近頃は道楽者の金之助も、しだいにお夏の良さに引摺られる恰好になって来ました。でも一度女道楽の味を覚えた金之助は、三十年増のお組やお園の、濃艶極まる魅力が忘れられず、ときどきは発作的な情熱に駈られて、二人のうちの、どっちかに通う癖は止まなかったのです。
「若旦那はいるかえ」
平次が店からヌッと入ると、出会い頭の可愛らしい娘が、ヒラリと奥へ姿を隠してしまいました。金之助の許婚お夏というのでしょう。
素よりチラリと見ただけですが、これは実に、馥郁《ふくいく》たる乙女《おとめ》でした。碧《あお》い単衣《ひとえ》に赤い帯も印象的ですが、それよりもほの白く清らかな頬や、眉や、少し脅えてはいるが、聡明らしい眼が、咄嗟《とっさ》の間ながら、平次に素晴らしい印象を与えてくれたのです。
「おや、銭形の親分。まア、どうぞ」
などと、お夏と入れ替りに出て来た、若旦那金之助は如才がありません。
「あっしの用向きはお察しだろうが。ね、若旦那」
隣り町の付き合いで、十手捕縄の手前はあるにしても、平次にも少しは遠慮があります。
「ヘエ」
「お前さんは、あの大雨の中で、ズブ濡れになって、お園の家へ行き、間もなく雨の中へ飛び出したということだが――」
「そこですよ、銭形の親分――乾いたものと着換えて、さて落着いて考えてみると、黙っていた私が悪かったと思います。やっぱりこれは、銭形の親分にでも申し上げて、良い智恵を拝借するのが本当だった――とようやく覚《さと》りました」
「それは? どういうわけで?」
「私は、お園の死骸を見て、驚いて飛び出したのですよ」
平次は黙って先を促《うなが》しました。何もかも見通しているような態度です。
「始めから順序を立てて申しましょう――私はあのとき明神様へ行っておりました。空模様が怪《あや》しくなったので、大急ぎで帰ろうとすると、鳥居をくぐった頃からもう|どしゃ《ヽヽヽ》降りでお台所町へ下りた時は、先の見通しもつかない程の大雨です。その上にあの大雷鳴ですから、日頃雷鳴嫌いのお園がどうしていることかとぐしょ濡れの姿ですが、雨宿りかたがた覗いて見る気になりました」
「……」
平次は黙って先を促します。
「声を掛けても返事はないし、少し心配になりましたので、ザッと入口の雑巾《ぞうきん》で足を拭いて、濡れてボトボト雫《しずく》の垂れるまま、奥へ入って見ると――」
金之助はその時の凄まじさを思い出したらしく、ゴクリと固唾《かたず》を呑みました。
「お園は血だらけになって死んでいるじゃありませんか。その時はもう夢中で、息が通っているかどうか、見定める暇もありません。薄情なようですが、追っ駈けられるような心持で、大雨の中に飛び出し、無我夢中で家に戻りましたが」
「お園の寝ているのを、部屋の外から覗いたのだね」
「そうなんです。唐紙を開けると、たった一と眼であの姿が見えました」
「部屋へも入らず、向う側の――雨戸の開いていた縁側へも廻らなかったことだろうな」
「それどころではございません。一と眼見て、四つん這いになるようにして、もとの入口へ戻りました」
「どうしてそれを今まで人に話さなかったんだ」
「私は怖かったのですよ、親分」
若旦那金之助はその時のことを思い出すと、歯の根も合わない心持になるのでした。
「曲者は裏の方の縁側から入って、後向きになって寝ているお園を殺し、もとの縁側から外へ出ている。お前さんは入口の格子を開けて入って、廊下から唐紙を開けて、中の死骸を見、胆《きも》をつぶしてもとの入口に戻った」
「……」
「裏と表の二つの足跡は、部屋の入口から死骸のところまでで縁が切れている。お前さんは表から入って表から出たことは、見ていた者があって確かだから、お園を殺したのは、ほかの者ということになるのだ。畳の上をひどく濡らした足跡が、お前さんの命を救ってくれたよ、若旦那」
平次は自分へ言い聴かせるように、こう言いきるのでした。
「私の言うことに間違いはありません。ね、親分。もういちど行って見て下さいな」
若旦那金之助は重荷をおろした心持でひどくはしゃぐのです。
「いや、そんなことに見落としがあるものか――一応は見て置いたが、いずれ乾《かわ》くまでには間があるだろう。もういちど誰かに見せて置くとしようよ。ところで――そのとき、裏の縁側の方になんにも見えなかったのかな」
「あわてていたんで、なんにも見ませんよ。でも、庇のあたりに、チラリとしたものを見たような気もしますが――」
それはしかし、はなはだ頼りない証拠です。取り込み忘れた干し物かも知れず、雨に驚いて飛び込んだ、小鳥だったかも知れないのです。
「ところで、若旦那は、お園とお組と、二人の師匠にチヤホヤされていたということだが」
「面目次第もございません」
「今でもなにか、あの二人に引っ掛りがあったのかな」
「私はもう、あんな女達に掛り合うのを懲々《こりごり》しておりました」
「それが、どうしてお園のところへ寄る気になったのだ」
「雨宿りで、場所の選《よ》り嫌いは言っていられませんでした。それに、お園は恐ろしく雷鳴が嫌いだったので、フト覗いてやろうという気になったのです」
「お組は?」
「あれは、雷鳴を好きではなかったにしてもお園ほどは怖がらなかったようで」
「すると、若旦那は、あの二人の女と手を切っていたのか」
「いえ、改めて手を切るとなると、また一と騒ぎですから、別にそう言ったわけではありません」
蛇の半殺しで、愚図愚図に二人の女から遠ざかって、良い子になろうという金之助の態度に、潔癖《けっぺき》な平次は、ちょっと胸を悪くしました。
八
遊びくたびれた若旦那の金之助は、二人の年増女に遠ざかって、あの新鮮で清潔で馥郁たる魅力の持主――お夏に興味を持っていることは事実で、二人の師匠が、鞘当筋《さやあてすじ》で喧嘩をしたとしたら、金之助にとって、それはまことに、迷惑千万なことだったに違いありません。
平次は平野屋をきり上げて、店口から出ようとして、何心なく振り返りました。店暖簾《みせのれん》がパラリと動いて、あわてて姿を隠した女――それはお夏が心配して、二人の話を聴いていたのでしょう。白い額《ひたい》と赤い唇だけが、平次の眼に美しい残像として残ります。
次は、同じ金沢町の浪人、阿星右太五郎の家へ――と思いましたが、フト八五郎のことが気になって、もういちどお台所町に引返して、お組の家を覗いて見る気になりました。
お園の家とは隣り路地の背中合せで、急造の舞台はその間に挟《はさ》まって空地を塞《ふさ》いでいるのです。平次は狭い路地を入っていくと、
「ブルブル畜生奴、ひどいことをしやがる」
飛び出して来た八五郎と、鉢合せしたようにハタと逢いました。
「どうした、八」
「どうもこうもありゃしませんよ。このとおり」
八五郎の髷《まげ》から肩へかけて、ひどく濡れているではありませんか。
「夕立は半刻も前に上がったはずだが――」
「水をブッ掛けられたんですよ。とんでもねえ女だ。犬がつるんだんじゃねえ、やい」
「そこで啖呵《たんか》をきったって物笑いになるだけよ。どうしたというのだ」
「親分に言いつけられたとおり、お組の留守を狙ってあの家へ忍び込みましたよ。あの女の家の中に、夕立でズブ濡れになった着物があれば、まず間違いもなく、お園殺しの下手人《げしゅにん》だ。ツイ夕立の来る前まで、お園と掴み合いをした女だ。それくらいのことはあるに違げえねえと思ったが」
「あったか」
「ありませんよ。濡れた足袋《たび》一足ありゃしません――だからあの女は気が強くなってお園の仏様の世話をして帰ると、風呂場にマゴマゴしているあっしを見つけて、いきなり手桶の水を一パイ、頭からブッかけて――泥棒――はひどいでしょう」
「そいつは大笑《おおわれ》えだ」
「笑いごとじゃありませんよ。頭から水をブッかけられて御覧なさい」
「怒るな、八――それからどうした」
「あっしと気がつくと、あら八五郎親分、済まなかったわねえ――と来やがる。その後がなおいけねえ――私にそっと会いたいなら会いたいと、そう言って下さればよいのに、まさか八五郎親分が風呂場に隠れていると気がつかないから水なんかブッかけたじゃありませんか――なんて人を喰った女じゃありませんか」
「でも、お組の家に、濡れた着物が一枚もないとわかれば、それでいいのだよ。あの大夕立の中で、お園を殺して逃げた者は、間違いもなくズブ濡れになっているはずだ」
「もっとも、白縮緬《しろちりめん》の湯もじが一枚風呂場の盥《たらい》に浸けてありましたよ」
「それくらいのことはあるだろう」
「あの年で、緋縮緬《ひぢりめん》でないのが気障《きざ》ですね」
などと、また他愛もない掛け合いになりそうです。
「ところで、喧嘩の後でお組は、どこを通って自分の家へ帰ったんだ」
「あの女が言ってるとおり、路地の突き当たりの木戸を開けて、大家の庇の下を通してもらい、自分の家へ駈け込んで蚊帳《かや》を吊《つ》って線香を焚《た》いていたことは間違いありません。近所の衆は、お組が大騒ぎをしながら雨戸を締める音も聞いたし、線香を一と束ほど燻《いぶ》して、長屋中を匂わせたことも、皆んなよく知っていましたよ」
八五郎の答えは水も洩らしません。
九
八五郎の肩の濡れは、立話のうちに大分乾いてしまいました。
二人は予定の順序を踏んで、もういちど金沢町に取って返し、浪人者、阿星右太五郎の家を訪ねたのです。
「銭形の親分か――いや先刻から待っていたよ。いずれ親分が来るだろうと思ってな」
有徳の浪人阿星右太五郎は、ひどく心得顔に、平次と八五郎を迎えたのです。
どこでどう金を溜めたのか、阿星右太五郎はなかなかの富を貯《たくわ》え、高い利子でそれを運用して、気楽な生活をしている浪人でしたが、そんな蓄財癖が、この人を浪人にさせたのだという噂も、決して火のないところの煙ではなさそうです。
四十五六――充分に円熟した肉体と智恵の持主らしく、如才ないくせに、いかにももっともらしい阿星右太五郎でした。
「打ち開けてお話し下さいますか、阿星様」
平次はひどく下手に、掛引きなしに持ちかけました。
「それはもう銭形の親分。あの女が死んでしまえば、誰はばかる者もない」
「何を仰しゃりたいので? 阿星様」
「私は――何を隠そう、あの女を殺そうと思っていたのだよ」
「え?」
それは実に、銭形平次も予期しない言葉でした。後ろで聴いている八五郎の口が、拳固《げんこ》が一つ丸ごと入るくらい、ポカリと大きく開いたほどです。
「驚くだろう。銭形の親分、――口惜しいことに、誰かが先を潜《くぐ》ってあの女を殺してしまった――私はこんな手持無沙汰な心持になったことはない」
阿星右太五郎はこんな途方もないことを、苦《にん》がりともせずに言ってのけます。
「それはまた、どういうわけです、阿星様」
「聴いてくれ。私には、たった一人の倅があった。右之助《ゆうのすけ》と言ってな、まず十人にも優《すぐ》れた若者であった――と申しても、決しておや馬鹿の言い草ではない。ところで、この私が十年前に浪人したのは、私の不徳のせいでいたし方もないが、せめて倅をもとの武家にしてやりたさに、今から二年前二千両という大金を積んで、御家人の株を買わせ、ともかくも直参に取り立てられた」
「……」
「どうせ株を買った御家人だから、さいしょから良い役付を狙《ねら》うわけにいかない。閑職の甲府《こうふ》勤番になるのも、出世の梯子段《はしごだん》の一つと思い、充分教えもし励ましもして、甲府へ差し立てた」
「……」
「が、禍《わざわ》いはどこにあるかわからない。甲府から江戸へ、御上の御用で幾度となく往来するうち、――年頃の倅を一人で置いたのが親の手落ちであったが、右之助はフトあのお園という女に迷い、夥《おびただ》しく御用金に手をつけ、進退|谷《きわ》まって――今から半年前腹を掻き切って死んだのじゃ」
「お気の毒な」
平次もツイこう言わなければならなかったのです。この上もなく厳《いか》めしく構えた阿星右太五郎は、自分の言葉に感極まって、ポロポロと泣いているのです。
「父親の私に打ちあけてくれさえすれば、それは一応は小言を申したかも知れぬが、多寡《たか》が千や二千の金、なんの苦労もなく出してやったものを――こう思うと、あの出来の良い褒めものの倅を、腹を切るまで迷わせた女が憎くなるのは当り前ではないか」
「……」
「千万無量の怨みを包んで、私があの女に接近したのは、折を見て一刀の下に切り捨てようためだが、折はあっても、売女《ばいた》一人の命と引換えでは、この私の命が惜しい。人知れず葬《ほうむ》る工夫はないものかと、卑怯《ひきょう》なようだが折を狙っているうちに、気の早いのが、あの女を殺してしまったのじゃ」
浪人阿星右太五郎の述懐は、想像も及ばぬ奇怪なものでしたが、その真実性は、顔にも涙にも溢れるのでした。
いや、そればかりでなく、隣りの部屋で啜《すす》り泣く声が次第に大きくなって、やがてそれは押えきれない嗚咽《おえつ》と変り、平次と八五郎を驚かすのです。言うまでもなくそれは、阿星右太五郎の内儀――腹を切った右之助の母親で、お円という中年女でした。
阿星右太五郎が雨の寸前にお園の家を覗いたのは事実ですが、腹立ちまぎれに横になっているお園は、右太五郎が縁側から声をかけても、返事もしなかったので、そのまま帰ったという言葉に恐らくは嘘はなかったでしょう。
十
翌る朝になりました。昨日の夕立に洗われた町の朝は、申し分なく清々《すがすが》しく明けて、平次は井戸端で歯を磨いていると、
「あ、親分。た、大変ですぜ」
竹の木戸につかまって、八五郎は張り上げるのです。
「なんだえ、相変らず騒々しい野郎だ」
「殺されましたよ。あの綺麗なのが――」
「誰だえ」
「お菊ですよ。お園の内弟子、あの可愛らしい娘が、昨夜のお通夜の後で、路地の奥で絞め殺されているのを、今朝早く見付けて大騒ぎになり、あっしが見張らせて置いた下っ引の忠吉が飛んで来て教えてくれましたよ」
「なるほど、それは大変だ」
「ね、親分。こいつが大変でなかった日にゃ」
「よし、わかった」
平次は猿屋の楊枝《ようじ》を井戸の柱に突っ立てると、支度もそこそこ、朝飯のことばかり心配するお静の声を背《そびら》に聴いて、一気に現場に駈けつけました。
「寄るな寄るな見せ物じゃねえ。あんまり見ていると目が潰れるぞ」
下っ引の忠告が精いっぱい骨を折って、弥次馬を追っ払っている中へ、平次と八五郎が飛び込んだのです。
弥次馬が容易に動かないのも無理のないことでした。若くて可愛らしいお菊の死は痛々しくも色っぽく、眼にしみるようなものを感じさせたのです。
「可哀想に、なにか掛けてやりゃよいのに」
平次は死骸に近づくと、大手を広げて、多勢の眼から、それを庇ってやりたい気になりました。
露の深い路地、下水に半分未を落して、乙女の身体は斜に歪み、裳《もすそ》の紅と、蒼白くなった脛《はぎ》が、浅ましくも天に冲《ちゅう》しているのです。
首に巻いたのは、真新しい手拭、顔は痛々しく苦悩に歪んで、その端正さを失いましたが、それがまた一つの破壊された美しさで、弥次馬の同情と好奇心をかき立てるのでした。
「八、ここに置くまでもあるめえ。家の中へ入れてやろう、手を貸せ」
平次は膝を折って、娘の首にそっと腕を廻しました。
十一
お菊の死骸は家の中へ担《かつ》ぎ込まれ、お園の棺の前へ静かに寝かされました。日頃目鼻立ちの細かい可憐そのもののような娘姿が、一と晩の夜露に晒《さら》されて、蝋人形のように蒼白く引締って見えるのは、言いようもない痛々しさで、さすがに無駄口の多い八五郎も、謹《つつ》しみ慎《つつ》しんで何やかと世話をしております。
「親分、憎いじゃありませんか。こんな小娘に、怨みがあるはずはないのに」
「お菊はなにか知っていたに違いないよ。昨日の夕方、この家の入口で俺と会ったとき、なにか言いかけて急に口を緘んでしまったじゃないか」
「すると、この娘を殺したのは、お園を殺した人間の仕業《しわざ》ですね」
「先ず、そうきめて間違いはあるまいよ」
平次の胸の中には、しだいに下手人の仮想図が、はっきりと浮かんで来る様子です。
「ところで、親分。お菊を締めた手拭は、投げ節の小三郎の持物とわかりましたよ」
「その小三郎が昨夜《ゆうべ》家へ帰った時刻を調べるんだ。大急ぎで頼むぜ」
「ヘエ」
八五郎は飛んで行くと、平次はその辺にいる一人一人をつかまえて、昨夜のお通夜《つや》の模様を念入りに調べ始めました。
「半通夜で、お経が済んで、ひとわたりお酒が出て、亥刻《よつ》(十時)過ぎには、皆様に引取って頂きました。残ったのは私と内弟子のお菊と、遠い親類の物が二三人だけ」
お園の母親のお槇が説明するのです。
「小三郎は」
「なんか御用があるとかで、そわそわしておりましたが、亥刻少し前――皆様より一と足先に帰ったようでございます」
「その小三郎の側にすわっていたのは、誰と誰だったか、覚えているだろうな」
「若旦那の金之助さんと、お組さんの間に挟まっておりました」
「あの手拭を持っているのに気がついたことだろうな」
「柄《がら》の変った手拭で、誰でもが気がつきます」
大きく『鎌《かま》』と『輪』と『ぬ』の字を染め抜いた手拭、それはひどく意気なつもりで、実はこの上もなく野暮ったい手拭でした。
「その手拭を、小三郎は持って帰ったことだろうな」
「いえ、忘れて帰りました。座布団の側に落ちていたのを、お菊が見つけて後を追っ駈けたようですが、もう見えなくなってしまったとやらで、そのまま持って帰って、入口の隅に置いたようでしたが、それからどうなったか、私も気がつきませんでした」
母親がこれだけでも記憶していたのは見つけものでした。が、その上り框《かまち》のあたりに置いた手拭を、誰が持ち出して、お菊を絞め殺したか、そこまではわかりません。
「それから?」
平次は糸をたぐるように、静かにその後を促します。
「小三郎さんが帰ったのは一番先で、それから皆さんが帰り、若旦那の金之助さんと、師匠のお組さんが一番後まで残りましたが、それも帰ってしまったのは、亥刻《よつ》少し過ぎだったと思います。若い人たちが眠そうで可哀想ですから、床を敷かせて、あちこちに休ませ、一番お仕舞いにお菊が、路地の木戸を締めに外へ出たようでございます。――木戸は今朝たしかに内から締っておりましたから、あのときお菊が締めたに相違ございませんが、木戸を締めてから、家の中へ入ったのを、確かに見たというのは一人もないようで、多分木戸を締めて入ろうとした時、そこで暗がりから出た者に、不意に殺されたことでございましょう――」
母親のお槇は思いのほか記憶もよく、時間と事件の関係など、極めて要領よく話してくれます。もっとも年頃もまだ四十七八、昔は芳町《よしちょう》あたりで嬌名《きょうめい》を馳せたことがあると言われ、お園が小唄の師匠として一本立ちになってからは、その蔭に隠れて、お園の成功に大きな役目を果していた母親だったのです。
近所付き合いで、お組もお園も平次はよく知っておりますが、今から五六年前までは、この土地では先輩のお組は手踊りの師匠として鳴らし、多勢の弟子も取っておりましたが、お園がここへ移り住んで、小唄の師匠の看板を上げ、無用な競争を避《さ》けて、両虎互いに傷つかずに、二年三年と過して来た仲でした。
十二
「ところで、銭形の親分さん」
「なんだえ、おっ母さん」
お槇は四方《あたり》を見廻して、突き詰めた顔になりました。
「お菊は昨日、銭形の親分のことばかり申しておりましたよ」
「?」
相手は十七八の女の子、恋でも物好きでもないないはずとわかっているだけに、平次は変な気持ちになりました。
「お菊は、昨夜《ゆうべ》のお通夜に、銭形の親分が見えたら、――私の知っていることを皆んなお話して、考えて頂くんだ――と言っておりました。あの娘は、なにか心配で心配でたまらない様子でしたが」
「……」
「きっと、なにか大変なことを知っていたに違いありません。どうかしたら――」
「お園を殺した下手人を知っていたとでも言うのか」
平次はさすがに気が廻ります。
「これは私だけの考えですが、あの大夕立のとき、娘が腹を立てて寄りつけないので、私はお隣りへ逃げて行き、お菊はお向うの唐物屋さんの店先で、雨の止むのを待っておりました」
「?」
「私は少し耳が遠いので、雷鳴様のほかにはなんにも聴きませんが、お菊は往来の向うから、なにか見るか聴くかしたに違いないと思うのです。それを、後の祟《たた》りが恐ろしいので、胸一つに畳んでいたが、我慢出来なくなって、銭形の親分さんに打ち明けようとし、下手人はそれを嗅ぎつけて、お菊を殺したのじゃございませんか知ら――」
お槇の智恵のよく廻るのに、平次は褒めてやりたいような心持でした。恐らくたった一人の、杖とも柱とも思う娘お園を殺された、大きな悲歎の底から、一世一代の智恵の灯が燃え立ったのでしょう。
「そんなこともあるだろうな」
平次は、それ以上のことまで考えているのですが、四方《あたり》の聴く耳に遠慮して、お槇の報告を軽くいなしました。
「でも、私は、見す見す娘を殺した相手がいるのに、それをどうすることも出来ないようでは、娘も行くところへ行けないと思いまして――」
お槇は母親の愚《ぐ》に返ってサメザメと泣くのです。
「まア、心配しない方がよかろう。人を二人まで殺して、百まで生きていられるはずはない――ところで、お園を怨んでいた者が、二人や三人はあったようだが」
「それは、あったことでしょう。あのとおりの気性者で、どうかすると、生みの母親の私でさえ、側へ寄れないこともあったくらいですから」
「御浪人の阿星右太五郎さんも怨んでいたし、やくざ者の投げ節の小三郎も怨んでいたかも知れない。商売|敵《がたき》の師匠のお組だって、好い心持でなかったことだろう」
「そう言えば、夕立の来る前、お組さんと掴み合いの喧嘩をしていたそうですが、――娘とあの人は敵《かたき》同士のようなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことで揉《も》め、踊りの仮舞台をこのうちと、お組さんの家の間の空地へ建て、一言も挨拶をしなかったと、ひどく怒っておりました」
そんなことはしかし、お槇が説明するまでもなく、平次はことごとく承知しております。
「話は違うが、今朝、お菊の死んでいるのを見つけたのは、お前さんだと言ったね」
「ハイ、格子を開けて、いつものように木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が――可哀想に首に手拭を巻いたまま、下水に半分落ちて居りました」
「木戸は締っていたのだな、間違いもなく」
「間違いはございません。私がこの手で開けたのですから」
「もう一つ、お菊の首を締めた手拭は、確かに小三郎のものだと言ったね」
「あんな変な柄《がら》の手拭など、滅多に堅気の人は持って歩きません」
「その手拭を――」
「ゆうべ、小三郎さんが忘れて行ったのを、お菊は持って追っ駈けましたが、追いつき兼ねて、この上り框の隅っこに置いたはずですが――おや、おや、これはどうしたことでしょう」
入口の沓脱《くつぬぎ》の間を覗いたお槇は、そこに落ちていた手拭を拾いあげて、思わず眼を見張ったのも無理はありません。
これは紛れもなく昨夜投げ節の小三郎が忘れて行った、『鎌』『輪』『ぬ』と染めた手拭に紛れもなかったのです。
「どれ」
平次はお槇の手から手拭を受け取りました。切り立ての手拭ですが、いくらか皺になって、隅っこの方に、『小三郎』と墨で小さく書いてあるではありませんか。
十三
お菊の死骸の首に捲きついていたのは、同じ『鎌』『輪』『ぬ』の模様ですが、それは死骸の首から外して、別に証拠の一つとして、町役人に預けてあるので、それが沓脱の下に紛れ込むはずもなく、ここで明らかに不思議な柄の手拭が二本現われ、その一筋は間違いもなく昨夜小三郎が忘れて行ったものとなるわけです。
「今朝小三郎が来なかったのか」
「まだ薄暗い時間に――私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見つけて大騒ぎをしている時、ちょっと顔を見せましたが、――その辺をウロウロしてすぐ帰ってしまいました」
そう聞くと、もし小三郎が昨夜この手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑いは、真っすぐに手拭の持主の小三郎に懸って行くことになるでしょう。
手拭を忘れて行ったばかりに小三郎は、この恐ろしい疑いから免れて、おそろしく智恵の廻る下手人が、小三郎と同じ柄の手拭を買って来て、お菊を絞め殺したという結論に導かれるのです。
『鎌』『輪』『ぬ』の柄は好んで手拭にも浴衣にも染め、中には刺青《ほりもの》にまでしたもので、やくざ、遊び人、のらくら者、と言った肌合いの人達は、好んでこれを用いもしました。
「親分、いろいろ面白いことがわかりましたよ」
そんな中へ、八五郎は飛んで来ました。
「たいそう早かったじゃないか、どこを歩いて来たんだ」
「どこも歩きゃしません。投げ節の小三郎に逢って、一ぺんにわかったわけで」
「何が――?」
「第一にまず小三郎は昨夜亥刻《ゆうべよつ》少し前に自分の家へ帰って、亥刻半《よつはん》(十一時)には佐竹の賭場《とば》へ潜り込み、暁方まで裸体《はだか》に剥がれていますよ。証人が十人もあるから、こいつは嘘じゃありません」
「それから?」
「これからが大変で、――一昨日《おととい》の大夕立の真最中、往来には人っ子一人いず、家と言う家は、雨戸も窓も皆んな閉めきっているとき、自分の家の物干から屋根へ飛び降り、躍り舞台の足場を渡って、この路地へ飛び込み、開けたままの縁側から忍び込んで、向う向きになって、ウトウトしていた、師匠のお園を刺し殺した者があったとしたらどんなものです」
「誰がそんなことをしたというのだ、誰にしてもグショ濡れになるはずだが――」
「曲者は裸体《はだか》だったとしたら」
「?」
「大夕立に叩かれて、曲者の身体は人魚《にんぎょ》のように綺麗だったそうですよ。もっとも、湯もじ一つだけは締めていたが――」
「小唄の師匠のお組が下手人だというつもりか、お前は?」
「ほかにお園を殺しそうな人間はないじゃありませんか、――お組の家を捜しても、濡れた着物はなかったはずで――裸体でやったんですもの。三十になったばかりの脂《あぶら》の乗りきった良い年増が、大夕立の中を、素っ裸で屋根を渡り――口にこう匕首なんかくわえて、怨み重なる女を殺しに来るなんて図は、たまりませんね、親分」
八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩を縮《すく》めたり、膝を叩いたりするのです。
「誰がそんなことを言ったんだ」
「もっぱら世間の噂ですよ」
「町内の人が皆んな口を開いて眺めていたわけじゃあるめえ。お前は口留めされたんだろう」
平次は早くも八五郎にこの話を吹っ込んだもののことを考えている様子です。
「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見ていたんですよ」
「お菊が?」
「この家の前で、親分に話そうとしたが、奥にお組がいるから――私は怖い――とかなんとか言って、口を緘んでしまったでしょう」
「フーム」
「それを、娘の心の中に畳み兼ねて、昨日うっかり人に話してしまい、それがお組の耳に入って、昨夜この路地で殺されたんでしょう」
「お菊を殺したのも、お組だというのか」
「そうとしか思えませんよ。木戸《きど》は締っているが、お組はもと、踊りの師匠をしたくらいで、恐ろしく身軽だから、板塀に飛びついて、躍り舞台の足場に登り、大夕立の時と逆に、自分の家へ帰り、そ知らぬ顔をしていたんでしょう」
「……」
「小三郎が忘れていった『鎌』『輪』『ぬ』の手拭を持ち出したのは、細工が過ぎて憎いじゃありませんか」
「だが、待てよ、八」
平次はようやく八五郎の懸河《けんが》の達弁《たつべん》を封じました。
「あの大夕立の中を、裸体で屋根を渡って来たにしては、昨夜のお組の髪は、少しも濡れてはいなかったぜ」
「そこはそれ、風呂敷かなんか冠って」
「風呂敷や手拭であの夕立が凌《しの》げるものか、まるでブチまけるようだったぜ」
「ヘエ?」
「若い女が、あの大雷鳴《おおかみなり》の中を、裸体で屋根を渡るのは容易なことじゃないぜ」
「もっとも若い女は、それ程でもない癖に、雷鳴嫌いを見栄にしていますよ、――それに若旦那の金之助は言ったでしょう、お園はひどく雷鳴は嫌いだが、お組はそれ程でもないと、――ね、雷鳴嫌いのお園さえ、横になってツイうとうとやったぐらいですもの、お組が裸体で屋根を渡ったって、雷鳴様だって面喰って、臍《へそ》は取りませんよ」
八五郎は大いに弁じますが、平次は黙って考え込んでしまいました。
十四
「そいつは一応面白そうだ。お組のところへ行って臍が無事かどうか、訊いて見ようじゃないか」
平次はもうお園の家を出て路地に立っておりました。袋路地の入口、一方は板塀で、躍り舞台の足場が、塀の上へ高々とくみ上げてありますが、ここからお組の家へ行くためには、路地の奥の木戸を開けて、大家《おおや》の庇の下を通してもらうか、猿《ましら》のように足場を攀《よ》じ登るか、でなければ、表通りをグルリと廻るほかはありません。
平次と八五郎が行った時は、お組は一と息入れて、これからまたお園の家へ出かけようという時でした。
どこかで祭の太鼓、まだ朝のうちだというのに、樽神輿《たるみこし》を揉んでいるらしい、子供たちの声などが、遠くの方から揺り上げるように聴えます。
「あら、親分。なんか御用? こんなに早く」
などと、お組の磨き抜かれた顔は如才もない愛嬌がこぼれます。引締った三十女、古典的な眼鼻立ち、お園のような不均整な顔の道具から来る魅力はありませんが、いかにも自尊心に満ちた人柄です。
「どこかへ出かけるのか師匠」
「お園さんが死んでしまって、あの躍り舞台をどうしようもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張りきっているし、娘たちの支度も大変でしょう、――お園さんのお母さんと相談して、ともかくも恰好だけはつけることにしました。せめて今一日だけでも、あの舞台で皆んなを躍らせれば死んだお園さんもかえって浮べるというものでしょう」
お組はホロリとするのです。
「掴み合いの喧嘩までした師匠がねエ、たいした心掛けじゃないか」
「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ」
「えらいな師匠。ところが、その気持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知っているお菊までも、絞め殺して口を塞《ふさ》いだと言ってる者があるんだがね」
平次はとうとう言うべきことを言ってしまいました。
「まア、それは本当ですか、親分。誰がそんなことを――第一あの大夕立の中を――」
お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの仕種《しぐさ》も、これほどまでには効果的でなかったでしょう。眼を大きく見張って、唇の色までがサッと変ったのです。
「あの大夕立の中を、お前は腰巻一つの裸体《はだか》になって、物干から屋根に降り、隣りの空地に建てた仮舞台の足場を渡り、あの楽屋から小三郎が忘れて行った匕首を持って、板塀を越してお園の家の裏から入り、お園を殺して帰って来たというのだよ――昨日お前に逢ったとき、少しでも髪が濡れていると、俺もそう思ったかも知れない」
「まア、そんなことが――」
「お前の家に濡れた着物が一枚もなかったと聴いて作者がそんなことを拵《こさ》え上げたのさ」
「それで、あのとき八五郎親分が、私の家の風呂場でウロウロしていたわけなんですね」
お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなっている八五郎を睨めました。
「まア、怒るな。八に風呂場を見るように言いつけたのはこの俺だ」
「そんなことが出来るかどうか、考えても見て下さい。いくら大夕立の中だって、真っ昼間の屋根の上を、若い女が裸体で渡れるものかどうか、私はこれでも三十になったばかり、まだ独り者よ」
「それはわかっている」
「第一、家の屋根と来たら、家主が|ケチ《ヽヽ》でトントン噴《ぶ》きが腐りかけているんだもの、物干の下なんか猫が歩いても踏み抜きそうよ。嘘だと思ったら、八五郎親分、あの屋根を渡って見て下さい。首尾よく舞台の足場に辿《たど》り着いたら、私は黙ってお園さん殺しの下手人になり、ずいぶん処刑台《おしおきだい》の上へこの首を載っけて、都々逸《どどいつ》の一つくらいは歌って上げてもいいワ、ずいぶん人を馬鹿にしているのね、畜生ッ」
お組の爆発する嬌瞋《きょうしん》の前に八五郎はまことにさんざんです。
「わかったよ、師匠。お前が怪しいと思えば、わざわざやって来て、こんなことを言やしない――ところで」
平次はいちおう憮《なだ》めて置いて、まだ訊きたいことがあったのです。が、お組はなかなか引っ込んではいません。
「お菊さんが殺された時だって、私は若旦那の金之助さんと一緒に帰り、若旦那をここへつれて来て――恥を言わなきゃわからないけど、撚《より》を戻したわけでなく、いよいよ手を切るつもりで名残りを惜しむため、若旦那を一と晩ここへ泊めたじゃありませんか。お通夜の帰りの情事《いろごと》で、こんなことは言いたくないけれど、人殺しなんかにされちゃ叶《かな》わない」
「それはもういい。が、一つだけ、小三郎が踊り舞台の後ろの楽屋へ、匕首を忘れて来たと言ってるが、それを師匠は見なかったのか」
平次はお組の怒りをやり過して、新しい問いを持ち出しました。
「見ましたよ。多勢いる前で、帯を締め直すんだとか言って、不気味な匕首を取り出し、皆んなに見えるように葛籠《つづら》の上に置いたようでしたが、それっきり、もとの懐中《ふところ》へしまい込んだのを見ませんでした。匕首はいつまでも葛籠の上に載っていたようです、――私がお園さんと喧嘩をして、大夕立が来そうになって、驚いて家へ帰るまで――」
「お前は本当に雷鳴が嫌いなのか」
「好きじゃないが、そんなに嫌いでもありませんよ。でも、若い女が雷鳴が怖くないなんて、平気な顔をしていると、色気がなくて変じゃありませんか」
こんな秘密までは、平次も気がつきません。
十五
「八、どうだ、見当はついたか」
お組の家を出ると、平次は面白そうに八五郎を振り返りました。
「驚きましたね、あの女が下手人じゃないんですか」
「どうも、そうらしくないよ。お園の死骸の股《もも》のところに、血染めの手形が付いていたが、あれはずいぶん大きかったようだな」
「女の下手人が、自分の掌《てのひら》を動かして、わざと、あんな大きな手形をつけたんじゃありませんか」
「動かしながらつけた手形なら、指先の渦巻きや、てのひらの筋の跡が消えるはずじゃないか」
「すると、どんなことになりましょう」
「お前にお組が下手人に違いないと教えたのは誰だ」
「小三郎ですよ、――賭場《とば》から裸に剥がれてぼんやり帰って来たという投げ節の小三郎に、昨夜お通夜の人達より半刻も早く帰ったから、どこへ潜り込んだか訊くと、――実は、お組が下手人に違げえねえと教えてくれたんで」
「そんなことだろうと思った――おや、お園の家へ小三郎が来ているようだ。お前は外で待っていてくれ。いいか」
平次は何やら八五郎に囁やくと、路地の外へ出してやり、自分の手で木戸を閉めて、さて、お園の家の外から声をかけるのでした。
「小三郎|兄哥《あにい》、ちょいと来てくれ。見てもらいたいものがあるんだが」
「ヘエ? 銭形の親分ですか、ちょいと待って下さい」
小三郎は殊勝らしく仏様の前で線香などを上げておりましたが、麻裏《あさうら》を突っかけて気軽にヒョイと顔を出しました。
「小三郎兄哥、お組の家の屋根は、すっかり腐っていて、人間は歩けそうもないぜ」
「えッ?」
「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見ていた、――それを俺に教えようとしたとき、俺の側にいて眼顔でとめたのは、小三郎兄哥、――お前じゃなかったのか」
「……」
「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ拭き取っていないはずだ。お前の手と比べて見ようか」
「親分。そんなことが、と、とんでもない」
「お前がお通夜の席から帰ったのは亥刻《よつ》前で、佐竹の賭場へ行ったのは亥刻半《よつはん》だ。その半刻の間、お前は路地の暗がりに隠れていて、皆んな帰った後で、木戸を閉めに出たお菊を殺し、塀を乗り越えて逃げ出したはずだ」
「……」
「自分の匕首を楽屋に忘れて来て、それを皆んなに見せておき、後から行ってその匕首を持ち出してお園を殺し、夕立に濡れたのを誤魔化すために、夕立が晴れきらぬうちに、皆んなに見えるようにお園の家を覗いて、大声で騒ぎ出したのは細工が細かいな」
「……」
「お菊を殺すために、手拭を二本用意し、一本をわざと忘れて出たのも巧い手だが、今朝早くお園の家を覗いて、忘れた方の手拭を持ち出そうとして見つからなかったのは天罰だよ。手拭は入口の沓脱の間に落ちていて、お前の眼にも見つからなかったのだ――お前のような悪い奴はないぞ。なまけ者で小博奕うちで、お園もお組も相手にしないのを怨み、お園を殺して、その疑いをお組に着せるつもりで、細々《こまごま》と仕組んだに違いあるまい」
平次の論告は峻烈《しゅんれつ》でした。それを黙って聴くと見せた小三郎は、隙《すき》を狙ってサッと塀に飛びつくと、かつてお園やお菊を殺して逃げたときと同じ道順を、舞台の足場に飛びつき、猿《ましら》のごとく渡って、隣りの路地へポイと飛び降り、そのまま逃げ出そうとしましたが、どっこい、
「野郎、神妙にせい」
そこに待機していた八五郎が、むんずと組みついたのです。
この捕物は少しばかり汗を掻かせましたが、それよりも神田祭の人手が宏大な野次馬群になって、十重二十重《とえはたえ》に路地を塞《ふさ》いだには驚きました。
*
「でも念入りに|イヤ《ヽヽ》な野郎さ。女に嫌われてそれを殺すのに、あんなに細工をするというのは」
事件が落着してから、平次はツクヅク言うのでした。
「でも、あの大夕立の中を、神田一番の綺麗な年増が裸体《はだか》で屋根を渡って人殺しに行ったと聴いた時は、全く、そいつを見たら孫子の代までも話の種だろうと思いましたよ」
「馬鹿だなア」
「安やくざの小三郎が下手人じゃ、一向つまりませんね、親分」
「その代り、神田一番の結構な年増が、とんだ侠気《おとこぎ》な、良い女とわかったじゃないか」
「そこで、あっしもこれから踊りの稽古でも始めようか知ら」
そんなことを言って、長いがん顎を撫でる八五郎です。
(完)