野村胡堂
銭形平次捕物控(巻九)
目 次
花見の果て
生き葬い
小便組貞女
遠眼鏡の殿様
妾の貞操
花見の果て
菊屋伝右衛門の花見船は、両国稲荷の下に着けて、同勢男女十幾人、ドカドカと広小路の土を踏みましたが、
「まだ薄明るいじゃないか、橋の上から、もういちど向島を眺めながら、一杯やろう」
誰やらそんなことを言うと、一日の行楽をまだ堪能《たんのう》し切れない貪婪《どんらん》な享楽追及者たちは、
「そいつは一段と面白かろう、酒が残っているから、瓢箪《ひょうたん》に詰めて、もういちど橋の上に引返そう、人波に揉まれながら、欄干《らんかん》の酒盛なんざ洒落《しゃ》れているぜ」
そんな事を言いながら、気をそろえて橋の上に引返したのです。
暮れ残る夕暮に、大川の水面を薄紫に照らして、向島のあたりは花の霞のうちに、さながら金砂子《きんすなご》を撒《ま》いたよう。
橋の上は水の面《おも》も見えぬまでに、さんざめく船と船、これから夜桜見物に漕ぎ出るのでしょう。まことに『上見て通れ両国の橋』と言った、低俗な道歌も、今宵だけはピタリとした気分です。
「なるほどこいつは洒落ているぜ、サアサア店を拡げたり拡げたり」
欄干に銘々の杯を置いて、乙女達が人波に揉まれながら、その間を注《つ》いでまわります。
両国橋の上には、いろいろの物売りが陣を布いて、橋の上から水肌まで、桃の皮を剥《む》いて垂らした時代です。交通整理も何もあったものでなく、橋下の船の中の賄いと呼応して、庶民歓楽の立体図をそのまま、それはまことに、乱雑の中の秩序、無作法の中の美しさとも言うべき見物でした。
菊屋伝右衛門は、横山町の大きな金貸しで、五十年輩の酒肥りのした老人ですが、それを囲んで、欄干に猪口《ちょこ》を据えた一族郎党は、番頭の孫作、手代の伴造、遠縁の清五郎、隣の小料理屋――柳屋の主人幸七、その女房で良い年増のお角、出入りの鳶頭《とびがしら》文次、それに若くて綺麗なところでは、娘のお吉、若旦那の許嫁のお延《のぶ》、下女のお市、御近所の娘お六、お舟のともがらを加えてざっと十五人。
しばらく薄れゆく夕明かりを惜《おし》みながら、差しつ押えつ、欄干の饗宴は果てしもなくつづくのでした。往来の人達は、少し苦々《にがにが》しく、この放縦極まる酒宴を眺めて行きますが、当人達はさらに驚く様子もなく、わざと突き当ったり、押しのめしたりする往来の人と、威勢の良い悪口を応酬《おうしゅう》しながら、盃の献酬は、お互いの顔の見わかぬまで続きました。
やがて四方《あたり》が真っ暗になって、橋の上の人波もやや斑《まだら》になると、菊屋の同勢もさすがに酒も興も尽きます。
「さて、そろそろ帰るとしようか」
主人の伝右衛門が声を掛けた時でした。花見帰りらしい幾十人かの大きい団体が、揉みに揉んでドッと本所の方から橋の上へ襲って来たのです。
「危ない危ない」
「退いた退いた」
除《よ》ける間もなく、菊屋の同勢を押し包むように揉んで、西両国の方へ、どっと引いて行きます。
「なんということだ」
「ずいぶん乱暴な人達ねエ」
女達が不平たらたら、衣紋《えもん》や髪飾りを直していると、主人の伝右衛門が、
「ウーム」
恐ろしい|うめき《ヽヽヽ》声とともに、ガクリと欄干の上に崩折《くずお》れたのです。
「旦那、どうしました」
それを抱き上げるように覗き込んだのは、番頭の孫作と隣家の主人――柳屋の幸七でした。
「灯《あかり》、灯だ、――旦那がどうかなすったようだ」
幸七が声を絞《しぼ》りましたが、さてここに灯を用意しているはずもありません。
だが、遠縁の掛人《かかりゆうど》清五郎と、鳶頭の文次は早くも橋番所に駈けて行きました。その間に柳屋の幸七は、
「旦那、どうしました。気分でも悪いんですか、旦那」
後ろから抱き上げると、何やら|ぬらり《ヽヽヽ》と手に付くもの、わずかに残る薄明りにその手を透《すか》して見ると、
「あッ、血」
驚いたのも無理はありません。両掌《りょうて》から腕へかけて、生血でべっとり。
「何? 血?」
と孫作。
「大変ッ、旦那を突いて逃げた奴があるんだ」
幸七は年甲斐もなくひどく取り乱しておりましたが、思い直した様子で、
「灯《あかり》、灯だ」
提灯を持って行く人を呼びかけます。
だが、この時代の人はひどく掛り合いを恐れたもので、事件が容易でないと見ると、一度集った弥次馬も、バラバラと逃げ腰になってしまいます。
「仕様がないなア、怪我人があるんだ、灯を貸して下さい」
逃げて行く二三人を追い掛けた幸七は、五六間も追っ駈けて、ようやく提灯を一つ借りて来ると、惨憺《さんたん》たる現場がマザマザと照らし出されるのでした。
「あッ旦那」
「確《しっか》りして下さい、旦那」
番頭の孫作と柳屋の幸七は、左右から抱き起しましたが、主人伝右衛門は、一塊《いっかい》のボロ屑《くず》のように欄干に蹲《うず》くまって、もはや息があろうとも覚えず、生命の最後の痙攣《けいれん》が、わずかにその四肢《しし》に残るだけです。
傷は左の胸らしく、そこから噴出した血は下半身を染めて、橋板の上に流れておりますが、この凄まじい光景を取巻くのは、菊屋の同勢だけで、そこにはそんな大それた事をしそうな顔もありません。
「退いた退いた」
そこへ駈け付けたのは、清五郎と文次を案内に、橋番所の役人と、この辺を縄張りにして、花時の警戒に当っていたガラッ八の八五郎、それに弥次馬の一隊でした。
「ざっとこんな事ですよ、親分」
その晩遅く、親分の銭形平次のところへ辿《たど》り着いた八五郎は、お静の心尽しの暖かい晩飯を掻込みながら、両国橋の上に起った、怪奇な殺しを報告するのです。
「で、下手人《げしゅにん》はどうせその辺にマゴマゴしちゃ居まいが、それでも弥次馬の中に|うさん《ヽヽヽ》な奴でもいなかったのか」
平次は相変らず粉煙草をせせりながら、乗り出し気味です。
「怪しいと言えば、皆んな怪しいが、怪しくないと言えば、皆んな怪しくないので――」
「心細いなア、そんな事じゃ、いつまで経っても星は挙がらないぜ、――例えば、現場になにか捨てて行ったものでもなかったのか」
「匕首《あいくち》の鞘《さや》が一本、蝋塗《ろぬり》のありふれた品で、あんなのはどこにでもありますが、――それが六七間離れた橋板の上に棄ててありました」
「どっちの方へ離れていた?――」
「西両国の方へ六七間ですよ、――もっともあの人数じゃ人の爪先に掛って動いたかも知れません」
「匕首の鞘は真っすぐか、曲っているのか」
「かなり曲っていますよ、ちょいと不気味なやつで」
「曲りの強い鞘《さや》なら、人に蹴られても、わざとやったんでなきゃ、そんなに遠く転がって行くものじゃない」
「それにしちゃ、匕首のないのが変じゃありませんか。曲者は鞘だけ捨てて、血染の刃物を持って逃げたことになりますが」
ガラッ八もなかなかうまい事に気が付きます。
「川へ放ったんだよ、欄干の下は大川が流れているんだ。匕首一本くらい呑んだって、ビクともするもんか」
「なるほどね」
「ところで、殺された主人の隣には誰がいたんだ」
「左隣には菊屋の掛人で、遠縁の清五郎、右隣には柳屋の幸七がいたそうです。清五郎の左は五人の若い娘たち、幸七の右隣には、番頭の孫作や、鳶頭の文次、手代の伴造などがいたようで」
「その中に下手人がいると、まず誰だと思う」
「両隣にいる清五郎か幸七ですね」
「二人は真っ先に疑いがかかるわけだ――」
「すると、下手人は離れていた奴ですね」
「そう物事を手軽にきめてはいけない、――ところで、身体に血のついているのは誰と誰だ」
「幸七と孫作は死体を抱き起こしていますから、この二人は一番ひどく、若い女どもを除けば少しずつは皆んなが付いていましたよ」
「ほかに気の付いたことはないのか」
「それっきりで」
「お前にしちゃ、それでも行届いた方だ――」
「お前にしちゃ――ですかい、親分」
八五郎は少しばかり斜めです。
「不足らしい顔をするな」
「ヘッ」
「念入りに調べる者なら、傷口の勾配《こうばい》――ことに匕首の刃はどっちを向いているか、血がどこへどんな具合に付いているか――ただ付いただけでなく、飛沫《しぶ》いたのはないか、その日の花見で、どんな人に逢っているか、誰か後を跟《つ》けなかったか、始終見かけた顔はないか」
「……」
「まだあるよ、こいつは一番大事なことだが、両国稲荷の下に舟をつけて、一度陸に上がってから、暗くなるというのに、両国橋に引返して、橋の上から向島の遠見の花を見ようなどと酔興なことを言い出したのは誰か、――それを訊きたかったんだ」
「ヘエ」
ガラッ八はまさに一言もありません。なるほどそう言われるとそのとおりで、一応急所急所は突っ込んだつもりでも、平次の眼から見ると隙《すき》だらけです。
「まアよい、そこまで行届けば、お前も一本立の御用聞だ、十手一梃の主《あるじ》さ、――ところで菊屋伝右衛門は商売柄うんと諸方の怨《うらみ》は買っているだろうな」
平次は話題を転じました。
「評判のよくない親爺ですよ。ただの金貸しならあんなに人に憎まれもしないでしょうが、恐ろしく利息の高い金を貸して、血の出るような取立てをするくせに、妙に慈悲善根がかったことが好きで、町内の義理とか、氏神の祭礼などには、恐ろしく奮《はず》みやがるんで」
「フーム」
「氏神の玉垣を寄付する時も、親柱五本に菊屋伝右衛門の名を刻《きざ》ませ、檀那寺《だんなでら》の鯨幕《くじらまく》にも自分の名が入っているし、時の鐘の月掛けも、四文で済むところを、十二文と出すんだそうで」
「妙な道楽だな」
「欲が深いくせに、人によく言われたいんですよ。乞食に米をやって、町内中へふれ廻さしたり、金のあるに任せて、恐ろしく贅沢な真似をする。――金貸しの癖に初鰹魚《はつがつお》を買って、花見に屋根船を出すのは、江戸広しといえども菊屋の伝右衛門ばかりだろう――て評判ですよ」
「広しといえども――と来たね、どこでお前はそんな学を仕入れた」
「これがあっしの地ですよ、ヘッヘッ」
「いい気なもんだ――その怨んでいる者の中でも、うんと怨んでいる者は誰だ」
「外面《そとづら》のいい人間は、家中の者から怨まれているに決っていますよ。倅は勘当されて潮来《いたこ》にいるし、許嫁のお延は、下女のようにコキ使われているし、居候の清五郎は娘のお吉と娶合《めあわ》せそうにして、給金のない奉公人みたいに働かせるし、娘のお吉は芸人と駈け落ちしたのを引戻されて、二倍も年嵩《としかさ》の金持ちの親爺のところへ嫁にやられることになっているし」
「たいへんな親爺だな」
「まだありますよ、番頭の孫作は、うんと溜め込んだのを発《あば》き立てられて、三百両から吐き出させられ、手代の伴造は十年越しの給金を預かったきり返してくれそうもないのにシビレを切らしていますよ」
「なるほど、珍しい因業《いんごう》だ」
「それで自分だけ三度の膳に贅を尽くして、なんとか様へ寄付しては、でっかい札を建てさせるのばかり見得にしているんだ。さぞ後生がいいでしょうよ」
八五郎はひどくプリプリしております。菊屋伝右衛門の生活態度が、よくよく気に入らなかったのでしょう。
翌《あく》る日平次は、八五郎と一緒に横山町の菊屋を覗いてみました。主人伝右衛門の遺骸を納めて、葬《とむら》いの支度に大騒動ですが、家中の者の主人に対する反感のせいか、なんとなく空々しいお祭り気分のあるのを平次は見のがしませんでした。
番頭の孫作や、手代の伴造の追従顔《ついしょうがお》をするのをいい加減にあしらって、平次はまず主人伝右衛門の死骸を見せてもらいました。もっとも調べたのは胸の傷口だけ、刃の先が上の方を向いているのを確かめると、それ以上は見ようともしません。
「これはなんでしょう、親分」
ガラッ八の八五郎は、仏様の前に飾った机の上に、恭々《うやうや》しく供えた三方の上の、包み金に気が付きました。
「小判のようだね、いくら大仏様の好物でも、お棺《かん》の前に小判を飾るのは変だね」
銭形平次もこの判じ物にはおどろいた様子です。
「ヘエ、それは小判で五十両ございます。変な供《そな》え物ですが、それには少しばかりワケがございます」
番頭の孫作はもっともらしい調子で口を容《い》れました。
「三途《さんず》の川の渡し銭なら、六文と相場がきまっているぜ、五十両ありゃ憚りながら閻魔《えんま》の庁が素通りだ」
「黙っていろ、八」
「ヘエ」
平次は八五郎の不謹慎《ふきんしん》な舌の動きを留めながら続けました。
「そのワケというのはなんだ」
「お隣の柳屋の幸七さんが、昨夜《ゆうべ》という昨夜、不思議に無尽《むじん》が当って五十両の金が入ったそうで、この家の主人には古い借りがあって、毎日気にしていたが、死んだのをいいことにして払わないと思われちゃ、仏様に対しても済まないからと、先刻わざわざ持って来てお線香を上げながら、仏様に供えて行きました」
「そいつは固いことだね、――黙っていたら、知らずに済んだかも知れないのに」
八五郎はまた|さもしい《ヽヽヽヽ》口を挟みます。
「いえ、帳面がありますから、黙っていても、帳消しになるわけじゃございません」
番頭はまた番頭らしいことを言います。
「ところで、菊屋の身上《しんしょう》はどうだ」
平次は問いを変えました。
「大したものでございます、――現金が三千両、貸し金が一万両、地所家作は二三十ヶ所もございましょうか」
「家督はどうなる」
「いずれ潮来《いたこ》から若旦那の伝四郎様をお呼びすることになりましょう」
「すると、主人が死んで一番喜ぶのは誰だ」
「……」
孫作は黙ってしまいました。
「あれは誰だ」
中背のいい男――二十三とも見えるのが、何やら道具を持って土蔵から出て来ます。
「清五郎と申します。亡くなった主人の遠縁の者で」
「ここへ呼んでもらおうか」
「ヘエ」
孫作が行って何やら囁《ささ》くと、清五郎はちょっと眉をひそめましたが、思い直した様子でこっちへやって来ました。男っ振りの良いのに似ず、ひどく不機嫌な顔をした男です。
「御苦労様でございます、親分さん方」
挨拶だけは、思いのほか丁寧でした。
「ゆうべ両国の橋の上で一番酒を呑んだのは誰だえ」
平次の問いは予想を絶します。
「鳶頭でございましょう、幸七さんもよく呑んでおりました」
「呑まないのは」
「男どもでは私が下戸《げこ》で」
「その代り酌《しゃく》でもしたのか」
「酌はお市がやりました、――幸七さんもすっかり浮かれて酌をしていたようで」
「橋へ行って、遠くから花見をしようなどと、酔狂なことを言い出したのは誰だえ」
「そいつはわかりませんが、――誰か言い出すと、一も二もなかったようです。皆んな飲み足りなかったんですね」
清五郎の表情はようやく|ほぐれ《ヽヽヽ》ます。
「お前は主人を怨んでいたというが本当か」
平次は短兵急に突っ込みました。
「怨んでいたわけじゃございませんが――」
清五郎の顔にありありと苦渋の色の表れるのを、平次は見のがすはずもありません。
つづいて手代の伴造にも逢って見ましたが、これは三十四五の鼠のような男で、何を訊いてもヘラヘラと笑うだけ、馬鹿なのか利巧なのか、一向平次に要領を得させません。
「主人を怨む者?――とんでもない、家の中にそんな人間があるものですか、貸金の取立てこそやかましい人でしたが、慈悲善根というと、人一倍はずんだ方で、奉公人たちも皆んな心からお慕い申しておりました、ヘエ」
こんな事をヌケヌケ言える男です。
娘のお吉は二十歳というにしては初々《ういうい》しくさして美しくはありませんが、さすがにたった一人の父親を喪《うしな》った打撃に萎《しお》れ返って、何を訊いてもはかばかしい答もありません。
勘当された若旦那の許嫁お延は一つ歳下の十九、これは可愛らしい娘でしたが、屈従《くつじゅう》の生活に馴れて、なんとなく明るさを失っております。下女のお市は三十過ぎ、至って平凡な――その代り申し分のない働き者らしい女でした。
「昨夜《ゆうべ》、両国の橋の上へ行こうと、さいしょに誘《さそ》ったのは誰だ」
女どもを集めておいて、平次の最初の問いはこうでした。それを聞くと、お延とお市は妙に顔を見合せておりますが、容易に言おうとはしません。
「そいつは大事なことだぜ、橋の上へ誘い出して主人を殺す気だったかも知れないからなア」
注《ちゅう》を入れたのは八五郎でした。
「黙って居ろ、八」
平次は驚いてその口を塞ぎそうにしましたが、八五郎はもう言うだけの事を言ってしまい、そして女どもは田螺《たにし》のように口を閉じてしまったのです。
近所の娘、お舟とお六にも逢って見ましたが、これはなんにも知らず、最後にちょうど菊屋にやって来た、隣の小料理屋で、この事件には一番よい観察者の地位にいたはずの、柳屋幸七とその女房のお角を物蔭に呼んでみました。
亭主の幸七は四十五六、小意気な華奢《きゃしゃ》な男ですが、なんとなく正直者らしい愛嬌者で、女房のお角は小料理屋の女将《おかみ》らしく、垢抜《あかぬ》けのした、三十七八の、年にしては少し色っぽい女です。
「銭型の親分さん、御苦労様でございます」
幸七は如才なく小腰を屈めました。
「五十両の大金を仏様の前に供えたんだってね」
「ヘエ、お恥かしいことで。新店で資本《もとで》を入れ過ぎて、菊屋さんから、二年越し融通して頂きました。他様《よそさま》よりは利息も安く廻して下すったのに、無尽で五十両という金が入ったのを、黙ってはいられません」
「この無尽は?」
「町内の無尽で、ゆうべの籤引《くじびき》でございました。意地の悪いもので、たった一と晩の違いで、菊屋のご主人に喜んで頂くことの出来なかったのが残念でございます。――え、あの騒ぎで、私は参り兼ねましたので、無尽の発会に女房が参りました。女は妙に籤強いもので、へ、へ」
と言った調子です。
「ところで、昨夜の両国の騒ぎのことだが、お前には少しも下手人の心当りはないのか」
「一向気が付きませんが――」
「向島で一日中後を跟けた者が無かったのか。その時は気が付かなくとも、後で思い合せて、幾度も幾度も土手で逢った顔というのはなかったのか」
平次の質問はさすがに巧妙でした。
「そうですね、――そう言えば、一人、若い男が――頬冠《ほおかむ》りをした、意気な男が、幾度も土手《どて》で摺《す》れ違ったようですが、――背の高い、三十前後の――、私どもが船へ乗って帰るときまで、執念深く土手から見送っていたようですが――」
幸七の記憶は次第に喚《よ》び覚されて行きます。
「その顔を見なかったのか」
「なにぶん頬冠りをして、顔を反《そむ》けるようにしておりましたので――もっとも、あの背の高さは並大抵じゃございません、身体の恰好にも、見覚えがあるようですが、どうも思い出せません」
「他に誰か、その男に気の付いた者はないのかな、家の者はともかく、――鳶頭などはどうだろう」
「皆んな浮かれ切っておりました、ことに鳶頭は虎になって、往来の人をつかまえては盃を差していたくらいですから」
幸七は覚束《おぼつか》ない顔をするのです。
「有難う、そいつは大変役に立ちそうだ、ところで、ゆうべ西両国へ船をつけてから、もういちど橋の上へ行こうと言い出したのは誰だ――お前が一番気が付いたそうだが――」
「そいつは――」
「女ども――ことに下女のお市は知っていたそうだが、言わないよ」
八五郎は口を入れました。
「清五郎さん――いやあの人は呑んでいない。鳶頭だったかも知れませんね、まだ呑み足りない顔をしていましたから」
「そんな事でよかろう、――いや、足留めをさせて気の毒だったな、――八、鳶頭を捜して来てくれ」
平次は幸七夫婦に別れて、庭の方へ行きました。そこにはもう八五郎が、鳶頭の文次をつかまえて、話の口火を切っております。
狭い庭で、せせこましい植込の上へ、土蔵の庇《ひさし》と物干台が突き出し、厳重な忍び返しを打った黒板塀を隔《へだ》てて、近かぢかと隣家――柳屋のお勝手の煙口、物干台が見えております。
「鳶頭に聴くと、菊屋の関係の者で、恐ろしく背の高いのは、潮来《いたこ》にいる勘当された若旦那の伝四郎だそうですよ」
八五郎は早くも先を潜っておりました。
「その若旦那の姿を、きのう向島の土手で見掛けなかったかい、頬冠りをしていたそうだが」
「見かけませんね、――あっしは若旦那とは仲良しでね、少しくらい酔っていても、若旦那を見落すようなことはありませんよ。釣《つり》仲間の遊び友達――と言っちゃ失礼だが、どこへ行くんでも、お供はあっしでしたよ。若旦那が向島にいたものなら、三丁先から匂いでもわかりますよ」
こんな事を言う文次です。
「潮来《いたこ》から、江戸へ帰って来た様子はないのか」
「可哀想に一年越し潮来に島流しですが、預けられて居るのは乳母《うば》の家ですから、ときどきは御眼こぼしで、お延さんの顔を見に来るようです、――親旦那がなくなれば今度は大ぴらにこの家へ入って来るでしょうよ」
「すると、何だって勘当になったんだ」
「そこまではこちとらにはわかりませんが、――お延さんと滅法仲が良いくせに、道楽が過ぎたようで――女道楽じゃありません、絵も描く、雑俳《ざつばい》もやる、ことに芝居|狂気《きちがい》が大変で、素人芝居をして何百両と費い込んだり、ひいきの役者に引き幕を贈ったり」
「そんな事か」
平次は少し呆気《あっけ》に取られた様子です。
「あんな結構な若旦那はありませんよ。女と酒が大嫌いで勘当された若旦那は、神武天皇以来初めてだろうって町内の噂ですよ」
「もう一つ訊きたいが、昨夜、両国橋へ引っ返そうと言い出したのは、誰だえ」
「あっしだったかもしれませんよ、――いや待って下さいよ、誰か言い出したんで、あっしもついそんな気になって、真っ先に橋へ引返したが――」
「その言い出したのは男か、女か」
「男ですよ、――ハテ、誰だったかな」
鳶頭の記憶もこの辺はすっかり朧《おぼ》ろになります。
平次は後のことを八五郎に任せて、いちおう引揚げることにしました。それを追っかけるように、
「潮来へ人をやって見ませんか、親分」
ガラッ八もそこまでは気が付きます。
「やって見ようと思う――が、そいつはたぶん無駄だろうよ、俺の見当では、橋の上に残った奴が下手人に間違いあるまいと思う」
「ヘエ?」
「向島の土手で、菊屋の同勢の跡をつけ廻した人間があるにしても、菊屋の同勢が船で両国へ着いて、すぐ引返すとは気が付くまい」
「心得た者なら、先へ廻って両国の船着き場で待って、橋へ一緒に引返す術《て》もありますよ」
八五郎はもう一つ知恵を絞りました。
「頬冠りの男は、船が出てからまで、向島土手で見送っていたというぜ、それから人混みの中を駈け出して、船より先に西両国の船着場に来る工夫はないよ、嘘だと思うなら、試《ため》しにやって見るがいい」
「なるほどね」
こう言われると、頬冠りの男が下手人でないことは、あまりにも明かです。
その晩、通夜の席へ、菊屋の倅伝四郎は帰って来ました。
「親の言い付けには反きますが、二三日前から江戸へ来ていたので、変事を聴いて駈け付けました。皆様、有難うございます」
近所の衆や親類達へ、丁寧な挨拶です。
もともと無理な勘当と知っているので、それを非難するものなどがあるわけもなく、その場から伝四郎は指導者とも喪主《もしゅ》ともなって、何くれと指図をしております。
それを迎えて一番喜んだのは許嫁のお延で、掛人の清五郎、伝四郎の妹お吉も、不幸中にホッとした様子です。
変死人のことですから、世間への聞えも如何《いかが》というので、半通夜で近所の衆は帰し、裏表の戸も締めさして、あとは近い親類だけが残りました。それも夜中過ぎは眠る人が多く、お勝手に一人残ってお茶番をしていた下女のお市も、夜半過ぎになるとすっかりくたびれて、他愛もなく、居眠っておりました。
翌る朝、一番先にお勝手へ来たのは、いつものように、朝の支度を手伝うお延でした。
「おや?」
土竈《へつつい》にもたれるように、下女のお市は変な恰好をして崩折れております。それは決してただの居眠りではなく、何となく不自然で不気味な姿態になっているのです。
近づいて見ると、わずかに漏《も》れる朝の光の中ながら、お市の顔色や表情の凄まじいことにすぐ気が付きます。その上首に巻きつけたのは、蛇のような斑《まだら》の紐――前掛の真田紐《さなだひも》ではありませんか。
「あっ、お市さんが――誰か来て下さい」
お延は悲鳴をあげてしまいました。
「なんだなんだ」
飛び出して来たのは、通夜の人たち――真っ先に立ったのは、ゆうべこの家に泊って、様子を見張っていた八五郎です。
騒ぎは一瞬にして煮えくり返りました。
「あっ、戸を開けるんじゃない、鍵が掛っていないか」
お勝手口を開けようとした清五郎は、八五郎に叱り飛ばされました。
「締ってはいるが、輪鍵《わかぎ》が掛っていませんよ」
「待ってくれ、俺はちょいと戸締りと外廻りを見てくる、――後は番頭さん、頼むぜ、――第一番は医者を呼ぶんだ」
お市の死体はもう冷たくなっていて、呼び生ける術《すべ》もないと見極めると、八五郎は水下駄を突っかけて、裏口からグルリと表口へ廻りました。金貸しの戸締りらしく裏も表も木戸も、輪鍵と閂《かんぬき》との二重締りで、鼠一匹入れそうもありません。
ふり仰ぐと土蔵の壁だけを残して、あとは厳重な黒板塀をめぐらし、真新しい忍び返しが、中空に不気味な尖端を並べて菊屋の安全を保証しております。
八五郎は大急ぎでお勝手に取って返しました。そこから奥へは一方口で、ツイ鼻の先には、お通夜の人も七八人いたのですから、店からも奥からも、その関所を通らずにここへ入る道理はなく、曲者はお勝手から入ったのでなければ、お通夜の人の中に交《まじ》っているわけです。
まもなく、町内の本道(内科医)が坊主頭を先に立てて来ましたが、冷たくなった死体ではどうしようもなく、医者の帰った後には家の者と泊り客が全部で十数人、お互いに白い眼で見張り合いながら、不気味な時が経つばかりでした。
それから半刻《はんとき》ばかりの後、使いの者と一緒に飛んで来た銭形平次の顔を見た時ばかりは、ガラッ八の八五郎、母親の顔を見た赤ん坊のようにホッとしたことです。
「八、なんとしたことだ、お前が見張っていて」
「ヘエ、面目次第もありません、――お勝手でワザをするとは気が付かなかったんで」
八五郎の腐った顔というものは――。
「でも、お前が泊っていたお蔭で、後の調べは助かるだろう。どんな様子だったんだ、詳しく話せ」
平次はそれでも、八五郎の腐っているのを引立てるように、こう話しかけました。
「御通夜にはなんの変りもありません。夜中過ぎからはお市も顔を出さなかったし、手洗に立った人の外には、皆んな居眠りをしていましたよ。ご近所の衆と、通夜の坊主は宵のうちに帰してしまったし、気の置ける人もいなかったんでしょう」
「小用に立ったのは、誰と誰だ」
「一度や二度ずつは皆んな立ちました」
「それから」
八五郎はそれに応えてお延が死体を発見してから、内外の戸締りを見て廻った事を話し、
「医者が来て、殺されたのは丑刻《やつ》(二時)に丑刻半(三時)よりは遅くあるまいということです」
「首を絞めていた前掛は――」
「私のでございました」
ガラッ八に、ジロリと顔を見られると、清五郎は尻を引っ叩かれたようにあわてて名乗って出ました。
「親分さん、――清五郎に間違いがあるはずはありません、それは私が引受けますが――」
口を出したのは背の高い三十男で、何となくこの家の空気にそぐわぬ闊達《かつたつ》な風格でした。
「お名前は?」
「あ、申し遅れました、私はこの家の倅の伝四郎でございます」
「そうか、お前は清五郎を庇《かば》いたいのか」
「庇うわけじゃございませんが、――清五郎は良い男でございます。私とは無二の仲で、それに、自分の前掛で人の首を絞めるような馬鹿な下手人もないだろうと思いますが」
伝四郎も少し出過ぎたのを後悔している様子ですが、しかし頭も人柄も――勘当息子らしくない良い男です。
「お前は一昨日向島へ行かなかったのか」
平次は全く別のことを訊ねました。
「いえ、どこへも参りません」
「どこに居たんだ」
「橋場の友達の家におりました――露友《ろゆう》という俳諧《はいかい》をやる男の家で、一日|碁《ご》を打ったり、本を読んだり、無駄話をしたり、そんな事で暮しましたが、二三人好きなのが集りましたから、お聞き下さればわかります」
これは結構すぎるほど結構な不在証明《アリバイ》です。すると、向島で一日菊屋の同勢を見張ったという、頬冠りの男はいったい誰でしょう。
「お延さんに訊きたいが――」
「ハイ」
人の後ろに小さくなっていたお延は引緊《ひきしま》った可愛らしい顔を、朝の光の中に出しました。
「お市はゆうべなにか言わなかったのか」
「いえ」
「一昨日、両国橋に引返そうと誰が言い出したか――お市はそれを知っていたと思う」
平次はいよいよ最後の問いを投げかけたのです。
「え、幾度も私になにか言いたそうにしていましたが、――まアまア言わない方が無事だろう、明日の天道様を拝んだらまた気が変るかも知れないが――と、とうとう言わずにしまいました」
「フーム」
平次はひどく残念そうです。
「親分、手掛りはそれですっかりなくなったわけですね」
八五郎は、狭い庭に降り立った平次の後を追って来ました。
「いや、手掛りはうんとあるよ、――鳶頭が来たようだ、もう一つあの男に当って見よう」
「何を当るんで? 親分」
「まア、黙って来るがいい」
木戸を出ると、忙しそうに入って来たのは鳶頭の文次です。
「お早うございます、親分」
「たいそう早いんだね、鳶頭、さっそくだが少し訊きたいことがあるが」
「ヘエ」
「菊屋の主人に女道楽はなかったのか」
平次の問いは相変らず八五郎の予想を絶します。
「ありましたよ。あの年で、その病気があるんで、ずいぶん諸方の怨《うらみ》も買ったようです」
「近いところでは?」
「大きい声では言えませんが、お隣りの柳屋の女将《おかみ》――あのとおり色っぽい――化けそうな大年増でしょう、もっともあんな具合に持ちかけて、元手を菊屋から融通《ゆうずう》さして居るんだとも言いますがね、そんな内証事《ないしょごと》まではわかりませんよ」
「よしっ、八」
「ヘエ」
「下手人はわかったよ」
「誰です」
「あの忍び返しを越して来た奴だよ」
「ヘエ?」
「向うの物干しから、こっちの物干しへ板を渡したのさ、達者な奴なら板でなく丸太でも渡れるだろう。物干台から物干台へ、せいぜい一間半位なものだ。忍び返しの上を楽に越せるじゃないか、二間くらいの板か丸太があったら」
平次と八五郎は隣の柳屋へ飛込みました。
そこにはしかし、朝の膳へ差し向いになって、寛々《かんかん》と暖かい味噌汁を啜っている幸七夫婦の太平無事な姿があるだけ、二間以上の板も丸太も見付からなかったのです。
「お早うございます、親分さん方、なんか御用で」
幸七のケロリとした顔には、嘲笑と侮辱《ぶじょく》が一パイに漲《みなぎ》っているではありませんか。
平次は黙って裏口へ廻りました。
「八」
「二間以上のものはありませんね、親分」
「……」
「干物竹じゃ猫の子が渡るくらいのものです」
八五郎はまた無駄を言っております。
「はち、この鋸屑《のこくず》はどうだ」
平次は新しい土に交って、塀の下に掃き寄せられた夥《おびただ》しい鋸屑を見付けたのです。
「ヘエ」
八五郎の勘の悪さ。
「二つ三つに引っ切った板か丸太があるはずだ、捜して見ろ」
「それならありますよ。四寸角の材木が三本、皆んな四五尺のですよ。物干から物干へは届きませんが」
八五郎は縁の下から、三本の材木を引張り出しました。
「それだ」
「切口が泥だらけですよ」
「匂いを嗅いで見ろ、新しい木の匂いがするだろう。泥も新しいじゃないか、その材木で物干台から物干台に渡って菊屋に行き、帰って来てすぐ鋸《のこ》で引切ったのだ。恐ろしく知恵の働く野郎だ」
「ああ、逃げ出した様子ですよ、親分」
「大きな声で怒鳴れ。真昼の横山町だ、逃げ了《おお》せるわけはない」
「御用ッ」
八五郎の蛮声が、逃げて行く幸七とその女房のお角の後を追います。
間もなく幸七夫婦は処刑され、伝四郎とお延は祝言をして菊屋を継ぎました。清五郎とお吉が一緒になったことも言うまでもありません。
大分経ってから八五郎のせがむままに、平次はこう説明してやりました。
「幸七は悪い野郎だが、恐ろしく知恵のまわる奴さ。女房のお角とぐるになって菊屋の主人から金を引出したが、だんだんそれが嵩《こう》じて妙に嫉妬《やきもち》を焼くようになり、大口の金をせしめて、菊屋を殺す気になったのだ。花見船で折りを狙ったがうまく行かず、両国橋へ引返してあんな事をした上、提灯を往来の人から借りると見せて鞘《さや》は五六間先の橋の上に捨て、匕首は川へ投り込んだのだろう。下手人は逃げうせたと見せるためだ。伝右衛門を介抱したのは、自分の腕に飛沫《しぶ》いた血を胡麻化《ごまか》すため、――それに幸七は、死体を抱き上げたとき、真っ暗な中で――旦那を突いて逃げた奴がある――と言ったそうだ。突いたか斬ったか、そんな事まで見えるわけはないだろう――語るに落ちたのさ」
「ヘエ」
「傷口が上向で、胸へ真っすぐに突き立ったのは、右側に居るものの仕業だ。左側に居ると傷口へ近いようだが、匕首を逆手《さかて》に持たなければ力が入らず、逆手に持つと、刃が上へ向かない――だからさいしょ左側が清五郎で、右側が幸七と聴いた時から、こいつは変だぞと思ったよ」
「……」
「それから、幸七が頬冠《ほおかむ》りの男の話をしたのは、若旦那の伝四郎に疑いをきせようとした細工だが、あれは大縮尻《おおしくじり》さ。若旦那は向島へ行っていないし、向島で船の出るのを見て、陸を飛んで来ては、両国の西詰へ船より先には来られない。下手人はどうしてもあの日花見船に乗った同勢の一人で、橋の上へ誘った者に違いないと睨んだよ」
「なるほどね」
「下女のお市を殺したのは口を塞《ふさ》ぐためだが、前の晩無尽で五十両の金が入ったのを、その翌る朝持って行って仏様に供えたのは、少し細工過ぎたよ、――いくら正直者でも二三日間を置いて番頭へ持って行くのが本当だ。それに通夜の晩の殺しはよっぽど悪党のすることで、あんな人間だからヌケヌケと仏様まで騙《だま》す気になったのさ。忍び返しを越す工夫さえ見付かれば、あとはもう文句はない、――もっとも鋸《のこ》で切る術《て》は考えなかったよ、恐ろしい奴だ」
銭形平次も舌を捲いております。そして最後にこうつづけるのでした。
「幸七は悪人だが、殺された伝右衛門もずいぶんイヤな人間さ、あんな人間とは付合いたくないな。倅の伝四郎は良い男だよ、馬鹿な道楽を少し封《ふう》じさえすれば」
生き葬い
「親分、向島の藤屋の寮で、今日生き葬《とむら》いがあるそうですね」
ガラッ八の八五郎は、相変らず鼻をヒクヒクさせながらやって来ました。
「俺はこれから、その生き葬いへ出かけるところよ。お前も一緒に行って見ないか」
銭形平次は嗜《たしな》みの紙入れを懐ろに落して、腰へ煙草入れを差すと立上がりました。
「御免蒙りましょう。親分のお供は有難いが、あっしは生き葬いを出す奴と、死に金を貯める奴が大嫌いで、ヘッ、ヘッ」
「いやな笑いようだな。どうせどっちにも縁はあるめえ」
「ヘッ、仰せのとおりで。あっしは江戸中の奴がびっくりするほど借金を残して死にてえ」
「その八五郎にビックリするほど金を貸す奴がありゃいいが」
「違げえねエ」
相変らず無駄ばかり言う二人でした。
「金があって暇があって死にたくない奴が考え出したことだろうが、生きてるうちに葬いを出すというのは考えて見ると妙なもんだね、――近頃は矢鱈《やたら》に流行《はや》るんだが――」
平次はつくづくそう言うのです。江戸の文化もようやく燗熟しかけて、町人階級に金があると、通《つう》にも粋《すい》にも縁のないのが、せめて生き葬いを出して馬鹿騒ぎをし、自分の人気を試して見るのが面白かったのでしょう。
「親分はまたなんだってそんなものへ出かけるんです」
八五郎にはそれが不思議でならなかったのです。御蔵前の札差《ふださし》で何人衆の一人と言われた藤屋の弥太郎が、道楽や贅沢にも飽きた末、自分の葬式を出してアッと言わせようという、アクの強い催しにノコノコ出掛けて行く日頃の平次ではなかったのです。
「御馳走があるんだよ。河岸《かし》を一日買いきったという話だ」
「冗談でしょう、そんな事で親分が――」
八五郎は頑固《がんこ》に頭を振ります。
「では、これを見るがいい」
平次は煙草入れを抜くと、かますの中から取り出したのは、小さく畳んだ紙片が一枚。粉煙草を払って、八五郎の鼻の先に突きつけるのでした。
「ヘエ、これならあっしにも読めそうだ。皆んな日本の字で書《け》えてある」
「日本の字だってやがる。それは仮名《かな》だよ」
「――何々(藤屋の生き葬いに大変なことがある、親分はこいつを見のがしちゃなるめえ)――なるほどね」
「どうだ、それを読んだらお前も向島へ行く気になるだろう」
「からかっているんじゃありませんか」
「そうかも知れない――が葉桜の向島土手を、ホロ酔い機嫌で歩くのは悪くないぜ」
「行きましょう親分」
八五郎もとうとうそんな気になりました。怪《あや》しい手紙を弁慶《べんけい》読みにして勃然《むつ》として闘争的になったのでしょう。
「御馳走に引かれて行くのでなきゃ、向うへ行っても飲食《のみくい》は止すがいいぜ」
「ヘッ、有難い仕合せで」
「十手を内|懐中《ぶところ》に突っ張らかして、ガツガツ食いあさるのは恥だよ」
「たまにはそんな恥も掻いてみてえ」
「馬鹿」
神田から向島へ、無駄話は際限もなくつづきます。
向島の三囲《みめぐり》の藤屋の寮は、江戸中の閑人《ひまじん》と金持と洒落《しゃれ》者を、総仕舞にしたほどの賑わいでした。
集ったのはざっと三百人、これでも厳選に厳選をした、一粒選《ひとつぶより》のを呼んだというのが、藤屋弥太郎の味噌で、その生き葬いの催しもまた、桁外《けたはず》れの大袈裟なものだったのです。
客というのは、藤屋の札旦那から、御蔵前の札差仲間、金持、通人、幇間《たいこ》、絵描きに胡麻すり俳諧師、芸人、芸者、――あらゆる道楽階級を網羅して、無駄飯を喰う人間の大集団と言ってもよいものでした。
寮の建物は数寄を凝《こら》している割りに狭いので、庭に朱毛氈《しゅもうせん》の縁台を並べ、よしずの掛茶屋を連ねて、酒池肉林をさながらに現出させました。その一方には踊屋台があって、葬《とむら》いの儀式が一わたり済めば、そこでは江戸中の人気者を集めた余興を、取っかえ引っかえお目にかけて、酒宴の興を添えようという趣向《しゅこう》です。
昼を少し廻ると、式はまず多勢の僧侶の読経に始まりました。その大合唱が、鐘と太鼓とあらゆる抹香《まつこう》臭い鳴り物を動員した交響曲とともに、隅田川の水に響いて、浅草の観音様まで聴こえたという話。
それはともかくとして、先刻《さつき》まで紋付姿で多勢の客に愛嬌をふりまいていた主人の藤屋弥太郎は、このとき麻裃《あさがみしも》に着換えて、正面壇上に据えた、檜《ひのき》の棺《かん》の中に納まりました。もっとも檜の棺は天井と底と三方だけで、正面は開いたまま、そこに身を入れると、一ときは揉んだ読経《どきょう》の声につれて、棺の上に掛けた白絹を、弥太郎自身の手で顔のあたりまで下げるのです。
儀式が済むまで、三百人の客に、マジマジと顔を見られるのがさすがに照れ臭かったのでしょう。
藤屋弥太郎はこの時ちょうど五十歳、札差の株を買っての一代|身上《しんしょう》で、脂《あぶら》ぎった顔――太い眉、厚い鼻、角張った顎《あご》に、戦闘力が溢れておりました。一と粒種の倅弥吉に、おおかた店の事は任せて、自分は若い妾《めかけ》のお吉と、月の半分以上はこの寮に暮し、蔵前|大通《だいつう》の一人と言われて、遊芸|三昧《ざんまい》にその日を送っている結構人で、フト自分の歳の事を考えたり、何時かは死ななければならぬ事を思い及んで、一番生き葬いを出して、自分の人気と威勢のほども見せ、一つは百まで生きる禁呪《まじない》にしてやろうと言った、他愛もない事を考える人柄でした。
棺の目隠しが下りると、読経の波はまた一としきり揉み上げます。荘厳な斉唱が初夏の空にひびき渡って、三百の会衆も、なんか遊び事でもないような、厳粛な心持に引入れられます。
棺の中の主人は霰小紋《あられこもん》の裃《かみしも》の胸から下が見えて、水晶の念珠が壇の灯《あかり》にキラキラと光ります。その時でした。
サッと一陣の昼の風が吹くと、棺のうしろの鯨幕《くじらまく》が動いて、何やら不吉な呻《うめ》き声――。
「……」
三百の会衆はゾーッと総毛立ちました。
もういちど恐ろしい呻き――苦悶に押しつぶされた声とともに、檜《ひのき》の棺はグラグラと揺れて、サッと壇の白絹を染めたのは、紅牡丹《べにぼたん》を叩き付けたような血潮ではありませんか。
「……」
壇に吸い付けられた六百の眼は、しばらくは氷のごとく凝っと静まりましたが、次の一瞬、怱然《こつぜん》としてそれが恐ろしい動揺に変ったのです。
「どうした」
「どうした」
縁側にいた身近の五六人は、群僧を掻きわけて壇に近づきました。
と、その中から潜るように飛び付いて、真っ先に棺の前に出たのは藤屋と無二の間と言われて居る、黒船町の利三郎でした。引きむしるように棺の白絹を剥ぐと、中から転げ出したのは、なんと麻裃《あさがみしも》に威儀を正して、坐禅姿になっていた、藤屋弥太郎の血潮に塗《まみ》れた姿だったのです。
「旦那様」
「藤屋さん、どうなすった」
五六人の手が、血潮の汚れも厭わず藤屋弥太郎を引き起しました。
断末魔の凄まじい苦悶が、藤屋弥太郎の全身を走ると、その脂ぎった肉槐は、黒船町の利三郎の手にドタリと転げ込んだのです。
見ると今まで藤屋弥太郎の入っていた棺には、背後《うしろ》の板を突き貫いて、血だらけの抜刀《ぬきみ》が五六寸、壇の灯を受けて、紫色になっているではありませんか。
「曲者は幕の後ろだ」
利三郎の声を待つまでもありません。ドッと幕の後ろに殺到した五六人、相手がなんであろうと、微塵《みじん》に掴みつぶしそうな意気込みでしたが、――そこにはもう曲者の姿もなかったのです。
おどろき騒ぐ僧俗の三百人、寮から庭へかけて、さながら煮えくり返るようですが、こうなってはもう、この恐ろしい恐怖と混乱から救いようもありません。
その時でした。
「お鎮《しず》まりください、――私は無事でございます。藤屋弥太郎はこのとおり無事に生きております」
縁側に立って際限もなく混乱をつづける群衆に呼びかけた者があるのです。
多勢の眼は、焦点を求めて焼き付くように、その顔を仰ぎました。
「あッ、藤屋さん」
「御無事で、まア、まア、まア」
おどろき呆れるのも無理はありませんでした。それはまさに、藤屋弥太郎の先刻のままの紋服姿で、少し取り逆上《のぼ》せてはおりますが、如才なさそうな微笑をさえ浮かべた顔ではありませんか。
「では棺の中の人は?」
三百人の疑問の眼は、もういちど壇上の血だらけの棺に向けられました。
「幇間《たいこもち》の善八でございますよ」
死骸を抱き起した黒船町の利三郎が言いました。
「これは一体どうしたわけだ」
あまりの事に、非難らしい囁きが八方から湧き起ります。
「お騒がせしてなんとも相済みません。が、これには深い仔細《わけ》がございます」
藤屋弥太郎は縁側に立ったまま、一応弁解をしなければならぬ位置に置かれました。わざわざ一日の暇をつぶして、生き葬いに参列した三百人を、そのまま帰すわけには行かなかったのです。
「ともかくご無事で結構だが、どうしてそんな事になったか。一応承りましょう、藤屋さん」
庭の多勢の中から、そう言った要望が三人五人の口で述べられました。
「申し上げましょう。私のつまらぬ物好きから、人一人の命をなくして、なんとも相済まぬことですが、それは幇間《たいこもち》の善八が、進んでやったことでございます」
「……」
聴衆は固唾《かたず》を呑みました。
「今日の生き葬いで、申すまでもなくこの私が棺の中に入るつもりでしたが、ここに居られる黒船町の利三郎さんが、どうも腑《ふ》に落ちない事があるから、止した方がよかろう――とこう言って下さるのです。しかし私といたしましては、こんなに皆様をお呼びして、形だけでも生き葬いをしなければ、私の顔が立ちません。何がなんでも棺へ入ると申しますと、利三郎さんは、そればかりは思い止ってくれと涙を流さぬばかりに止めるのでございます」
「……」
「それを側で聴いていた幇間の善八が、それでは私が代って棺へ入りましょう。身体も年恰好も似ているし、顔もいくらか似ないことはないから、顔のところへ巾《きれ》でも垂らしてもらえば、壇の上の供物や灯に紛《まぎ》れて、誰もわかるわけはないとこう申します。皆様をお騙《だま》しするようで、まことに済まないと存じましたが、善八がすっかり乗気になって、生き葬いを出せば縁喜が良いからと、進んで棺へ入ったばかりにとうとうこんなことになったので御座います」
主人、藤屋弥太郎の弁明はそれで終わりました。つづいて立った黒船町の利三郎は、主人の弥太郎よりは二つ三つ若く、四十七八にもなるでしょうか、弥太郎の脂ぎった丈夫そうなのに比べて、それは青白く骨高に痩せて、無二の仲というだけに、面白い対照を見せておりました。
「私が御主人の棺へ入るのを止めさせたのは、少しばかりわけがございます。――実は檜《ひのき》の一寸板で造ったという、この立派な棺が出来て届いたのは、三日前でございました。その時わざわざお使いを下すって、ここまで見に参りましたが、そのときは鵜《う》の毛で突いたほどの傷もない棺が、今日の日になって、いざ御主人がこの中へ入ろうというとき見ると、後ろの板――ちょうど中へ入った人の心臓のあたりに、巾二分、長さ一寸五分ほどの傷が出来ているのでございます。――その事はあまり恐ろしかったので、その場では御主人に申しませんでしたが」
「……」
群衆は動揺《どよ》みを打ちました。黒船町の利三郎の話が、思いのほかに根強い拠《よ》りどころを持っていたのです。
「その上、誰からともなく私は、今日なにか変ったことがあるかも知れないという噂を聴いておりました。檜の一寸板が、そう手軽に割れ目をこさえるはずもなく、妙な噂も出鱈目《でたらめ》なこしらえ事とは思われません。――そこで私は一生懸命主人の思い立ちを止めました。もはや棺へ入る時刻も迫っておりますので、御主人も私も途方に暮れておりますと、その話を小耳に挾《はさ》んで、幇間《たいこもち》の善八が進んでこの役を買って出たのでございます。善八にはまことに気の毒でしたが、これも一つの廻り合せと申すほかございません」
黒船町の利三郎の話はこれで終りました。
こうなるともう、三百人のお客たちも、御馳走どころの騒ぎではありません。空き腹を抱えて酒池肉林を後に、愚図愚図小言を言いながら、ゾロゾロと帰ってしまったのです。
「八、どうだ。あの手紙は嘘《うそ》じゃなかったね」
あの群衆の中にまじって、銭形平次もまた、一伍一什《いちぶしじゅう》を見聞しておりました。
「大変なことになりましたね、親分」
「来い、八。今のうちに見ておこう」
二人は大方客の帰り尽くしたのを見定めて、縁側に上がりました。
「鯨幕《くじらまく》の後ろを見るんでしょう」
「そうだよ」
が、しかし、それは無駄でした。鯨幕の後ろは、わずかに人間一人通れるほどの通路《みち》で、一方の口は群衆六百の眼玉の光る庭に開き、そして他の一方の口は、内廊下の――そこには藤屋の番頭や手代や、倅の弥吉や――多勢内輪の者のいるところに開いているのです。
「主人の弥太郎はここから出て来たようだな」
「そうですよ。主人の後ろから、倅や番頭が一緒に出て来たじゃありませんか」
「すると善八を鯨幕越しに刺した曲者はどこへ消えたんだ」
「わかりませんよ」
「鯨幕の蔭からあの騒ぎの中へ出て来た者はなかったか」
「気が付きませんね。何しろあの騒ぎでしょう」
「こっちへ出なければ、天井へもぐるか、床下へ入るよりほかに逃げ路はないはずだ」
「天井も床下も、あれだけ多勢で見張っていちゃ潜る工夫はありませんよ」
「……」
銭形平次もハタと当惑した様子です。曲者が棺《かん》へ脇差しを突っ込んで、逃げ出したとすれば、三百人の客の中へ――幕の端からパッと出て飛び込むか、弥太郎父子や番頭たちのいるところへ、極めて自然に、そして素知らぬ顔をして融《と》け込むほかはなかったのです。
「主人に逢って見ようか、八」
「それがいいでしょう」
二人はそこへ通りかかった手代を案内させて、奥の一と間に入りました。
「これは銭型の親分、とんだよいところへ」
主人の弥太郎よりも黒船町の利三郎が乗出します。
「とんだことだったね。お前さんがいてくれて、いろいろ訊くのに都合がいいよ」
「ヘエヘエ、どんな事でもお訊き下さい」
それも黒船町の利三郎でした。
「第一番に、藤屋さんが、ひどく人に怨《うら》まれるような覚えはないだろうか」
平次の第一の問いはあまりにも定石どおりでした。
「こんな商売をして居りますので、ずいぶん思いも寄らぬ怨みも買いますが、差し当って私の命を狙う者などの心当りはございません」
「藤屋さんが死んで得をするものは?」
「損をする者ばかりですよ、――私などもその一人で」
黒船町の利三郎は苦笑いをしております。ずいぶん藤屋には厄介をかけているのでしょう。
「幇間《たいこもち》の善八は、藤屋さんとはただの芸人と客と言った間柄か」
「いえ、善八の娘――お吉さんが、藤屋さんのお世話になっております。ここに居りますが」
利三郎が指さしたのは、二十七八の美しい年頃、泣き濡れてはおりますが、身扮《みなり》や容貌から言うと、ただの奉公人ではない様子です。
「ご主人とお前と善八と三人で、棺へ入る入らないの騒ぎをやったのはどこだえ」
「ここでございますが」
こんどは主人の弥太郎が答えました。
「その押し問答を聞いていた者は?」
「一人もございません、――誰にも聴かせたくなかったのでございます」
「そのとき、家の者はどこにいたんだ」
「皆んなお勝手で料理の指図やら、いろいろの世話をやいておりました」
「それから」
「麻裃《あさがみしも》を善八に着せると、私はここに残り、利三郎さんは棺の世話をして、幕の外へ出たはずで――」
「それからここへ来た者はいないのだな」
「鯨幕の後ろからは誰も参りません」
主人の証言には疑いを挟む余地もありません。
「ところで今度はお前に訊きたいが」
「ヘエ」
利三郎は気軽に膝を前へ進めました。
「棺を三日前に見た時は傷はなかったと言ったが――今日傷のあるのに気の付いたのは、いつの事だ」
「壇《だん》の上に載せてからでございます。壇の灯が棺の後ろへチラと見えたので、おや変だなと思いました」
「三日前から今日まで、棺はどこに置いてあったのだ」
「自分が入るつもりでは拵《こしら》えましたが、モノがモノですから、家の中へも入れられず、物置に入れておきましたが」
平次は黙ってうなずくと、今度は煙草入れの中から、例の粉煙草だらけになった、怪しい手紙を取り出しました。
「この筆跡に見覚えはないだろうか」
「ヘエ、ちょっと拝見いたします」
主人は手に取りましたが、見覚えがないらしく、ちょっと小首を傾《かし》げたまま、利三郎に渡しました。利三郎も打ち返したり横から見たりして居りましたが諦めた様子で、後ろの番頭の手に渡します。
「どうも見覚えはございませんが」
誰一人この下手《へた》っ糞《くそ》な仮名書きの手紙の筆跡を知っている者もありません。
「先刻《さっき》お前は近ごろ変な噂があったと言ったが、あれはどういうことだ」
平時はもういちど利三郎に訊ねました。
「この手紙と同じようなことを言い触《ふら》した者がございます」
「生き葬いに何にか変ったことがある――というのだな」
「ヘエ」
これだけではなんの手掛りにもなりません。
平次はそのまま外へ出ると、
「八、番頭を呼んで来てくれ。物置を一度見ておきたい」
八五郎は駈け出して行くと、やがて番頭の佐兵衛をつれて来ました。
「物置の戸を開けてくれ」
「錠も鍵もありませんが」
「なるほど、不用心なことだな」
平次は物置の戸に手を掛けて、無造作にガラリと開けます。
「この辺は田舎も同様で、物置へ入るような世知辛い泥棒もございませんので、ヘエ」
「でも、ここで曲者は棺の後ろへ穴を開けたんだぜ――それ見るがいい、檜の屑が落ちているじゃないか」
「ヘエ」
番頭佐兵衛の顔は見ものでした。
「鑿《のみ》で掘ったらしいな、槌《つち》は使わなかったはずだから、二分鑿のよく切れる奴だ」
「誰でしょう。そんな途方《とほう》もないことをしたのは」
ガラッ八の質問の気楽さ。
「それがわかれば苦労をしないよ。眼の前で人一人殺されたのを、この平次がわからなかったんだ――どうかしたら、あれを俺たちに見せびらかすために、あの手紙を書いたんだろう」
平時は苦笑いをします。ひどく自尊心を傷つけられた様子です。
番頭の佐兵衛というのは五十前後の穏かな男で、商売の事以外はあまり関心を持って居そうもなく、藤屋に取っては大事な人間であるにしても、平次に取っては大した役に立ちそうもありません。
その番頭を帰してブラブラ庭を歩いていた平次は、
「そうだ、見落したことがあるような気がする。もう一度あの棺を見ておこう」
いきなり座敷に入ると、正面から黙って壇を見詰めておりました。騒ぎに紛《まぎ》れてまだそのままに放って置かれているので、花瓶《かびん》は倒れ、燭台は曲り、まことに滅茶滅茶の姿ですが、血染めの棺だけ、もとのまま壇の上に据えられて居るのが、譬《たと》えようのない物凄さです。
「ここに坊さんたちが二た並びいて――一番先に飛び付いたのは誰と誰だったか、お前は知っているか」
「覚えちゃいませんよ。いずれ内輪のものでしょう、――棺から転げ出した善八を一番先に抱き上げたのは利三郎でしたが」
「それは俺も見た、――おやおや、妙なものがあるよ」
「なんです、親分」
「棺の穴へ、ちゃんと埋《う》め木がしてあったんだ、――細工は細かいな」
「ヘエ」
平次が、壇の上から拾い上げたのは、ちょうど脇差しを突っ込むまで棺の穴を塞《ふさ》いでいたらしい、厚さ二分、幅一寸、長さ一寸五分ほどの檜の木片ではありませんか。
「物置から壇の上まで棺を運ぶとき、あれだけの穴があっちゃ、気が付かないはずはない。どうも不思議だと思ったが、やっぱり穴は塞いであったんだ」
「恐ろしく気のまわる野郎ですね」
「それだけ気のまわる奴が、主人と善八と入れ替ったことを知らずにいるだろうか」
「?」
「ともかく、この木片で穴を塞いで見よう」
平次は血だらけの棺の中へ手を入れて、木片を穴に差し込むと、ちょうどピッタリとはまって、ちょっと見ただけでは、そんな仕掛けがあろうとは思われません。
「おどろきましたね、親分」
「おどろくひまに、幕の蔭へ廻って、指でその穴のあたりを押して見てくれ」
「ヘエ」
八五郎は鯨幕《くじらまく》の裾《すそ》を潜って、裏へ出ました。
「見当は付くかい、八」
「この辺でしょう」
手で撫でて見当をつけて、指の先で軽く押すと、木片はコトリと落ちて、その跡に脇差しを突込んだ穴が開くのでした。
幕を潜って、平次の前へ戻った八五郎は、
「親分、あっしは考える事があるんですが」
ひどく思い込んだ様子です。
「なんだ言って見ろ」
「笑っちゃいけませんよ」
「笑わないとも。お前が先刻《さっき》、あわてて御馳走を詰め込んで、鼻の頭へ金とんを付けた時だって笑わなかったじゃないか」
「ヘエ、つまらねエ事を覚えているんですね」
「だから気の付いた事があるなら言って見るがいい」
「じゃ言いますよ、――鯨幕の蔭から、棺へ脇差しを突っ込めるのは主人の弥太郎のほかにはないじゃありませんか」
「エライッ」
「あ、びっくりするじゃありませんか」
「すると主人は自分の背中へ、脇差しを突っ立てるために、棺の背後《うしろ》へ穴を開けたということになるわけだな」
「でも、善八が代って棺へ入ったじゃありませんか」
「善八が代らなかったらどうするんだ」
「棺へ息抜きの穴を拵えたということにして、誤魔化《ごまか》しゃいいわけで」
「だらしがないなア、お前の考えることは」
八五郎折角の智恵も、平次にこう言われるとローズ物になってしまいます。
それからもう一度寮に取って返して、そこにいる者に一と通り会って見ました。手代の伊介は三十一二、小意気な男で道楽強そうですが、これはお勝手の采配《さいはい》を振って事件には関係が薄く、もう一人の手代の源七は、逞《たく》ましい二十七八の男ですが、庭にばかりいて、これは事件の前後には一度も家の中へ入りません。
倅の弥吉は二十七八の典型的な若旦那で、一番下手人の可能性は濃厚ですが、棺へ穴を開けてまでもいろいろな細工をして親を殺すはずがなく、あとは下女二人、雇い女五六人、男たち七八人、いずれもお勝手や庭にいて、祭壇には近付いた者もありません。
「八、お前は黒船町へ廻って、利三郎の様子を詳しく調べてくれ。藤屋には恩があるというが、どんな恩かそれが聴きたい、――それから下っ引を二三人狩り出して、死んだ善八と娘のお吉のことも聴き込めるだけ聴き出してくれ」
「それから、藤屋の主人弥太郎のことは」
「それは言うまでもない事だ。妾のお吉のことから、倅との折合いがどうなっているか、番頭や手代の身持も一と通りは調べるに越したことはない」
残るところなく手を廻して、平次はその日は引き揚げました。
「親分、いろいろの事がわかりましたよ」
「どんな事が?」
ガラッ八の八五郎が、平次の家へ来たのはその翌る日の朝でした。
「第一番にあの番頭の佐兵衛が喰わせものですよ」
「フーム」
「十年のあいだにしっかり取り込んで、鳥越《とりごえ》に素晴らしい妾宅を持っているなんざ、太てえものでしょう」
「それから」
「倅の弥吉は養子で、本当の子じゃありません。それがまた大変な道楽者で、親の知らない借金で首も廻らない有様で」
「……」
「妾のお吉はあんな顔をしているが、恐ろしく喰えない女ですよ。弥太郎に喰い下って、しっかり取り込んでいますが、いずれ背後《うしろ》で親父の善八が糸を引いていたんでしょう。もっとも近頃は少し弥太郎に飽きられているようで――どうかしたら、あの女じゃありませんか。親父が棺桶《かんおけ》に入っていると知らずに――」
「女の手際じゃ五六寸も脇差しを打ち込めないよ」
「そうですかねエ。それから黒船町の利三郎、これもいい加減な野郎で――もとは暖簾《のれん》の良い札差だったが、道楽の末が十年前に株を売って黒船町でかれこれ屋をしていますよ。女房のお徳は良い女だが、こいつはもと藤屋の奉公人だったそうで、いずれ弥太郎のお下《さが》りかなんかでしょう」
「それから」
「まア、そんな事ですね。これだけ調べて、善八殺しの下手人はわかるでしょうか」
「わからないよ、ますますわからなくなったよ」
平次はそんな事を言いながら、相変らずの粉煙草をせせりながら、若い蟇《がま》仙人のように考え込んでおります。
「それから藤屋のお蔭で食っている人間なら、ずいぶんたくさんありますよ」
「例えば」
「第一が殺された善八、――もっともあの娘のお吉はあのとおり綺麗なくせに性《たち》がよくないので、近ごろ帰すとか帰るとか騒がれていますがね」
「それから」
「次は黒船町の利三郎で、あれは十年前店の株を一万両という大金で藤屋に売っていますが、大方は借金の穴埋めになって、近頃では藤屋から五十両、三十両と借り出して、かれこれ屋の損を埋めているようで」
「フーム」
「それに女房のお徳は藤屋の奉公人上がりですから、今でもときどきは行って手伝っていますよ。この間もお勝手に良い年増がいたでしょう」
「気が付かないなア――良い年増となると、お前は馬鹿に眼が早いから」
「手代や番頭にも、信用の置けないのが二三人いるようで、下手人には事を欠きませんよ。もっとも藤屋に死なれて困るのは利三郎やお吉で、死んでもらいたいのは、養子の弥吉や番頭の佐兵衛ですが――」
八五郎の報告はそんな事でおわりました。が、この報告の中からも、なんのヒントも得られません。
それから十日ばかり経ったある晩のこと、騒ぎも一段落になって、ようやく日頃の贅沢癖をとり戻した藤屋の弥太郎は、向島の寮に黒船町の利三郎を呼んで、昼から碁《ご》を打っておりました。
利三郎の方が一二|目《もく》強く、いつでもお世辞に負けたり勝ったりしている碁でしたが、その日は弥太郎の方が風向きがよく、二三番勝ち越してすっかり良い心持になってしまったころ、朝湯の好きな弥太郎が、その晩に限って、急に寝る前に一と風呂入りたいと言い出し、宵から焚《た》き付けさして、
「お風呂がわきましたが――」
お吉が言って来たのは戌刻半《いつつはん》(九時)過ぎでした。
「それじゃ一と風呂浴びて来るが、――その間によく考えておくがいい。その大石《たいせき》はどう考えたところで活《いき》はあるまいが」
すっかり考え込んでいる利三郎を奥に残して、弥太郎はそのまま風呂場へ行ったのです。
さっと温まって流しに降りようとした弥太郎、生温かい晩で、戸を開けたままの窓格子に背が向くと、
「あッ」
いきなり後ろからサッと突いて出た長いの。左肩胛骨《ひだりかいがらぼね》の下を狙われましたが、危うく身をかわして、脇の下を縫って流れました。
「泥棒ッ、――人、人殺しッ」
豪気な弥太郎ですが、不意の襲撃に顛倒《てんとう》して、流しの下に転げ落ちると傷口を押えて叫びつづけます。
「旦那様、どうなさいました」
一番先に飛び込んで来たのは妾のお吉でした。つづいて番頭の佐兵衛、倅の弥吉、そして奥座敷にいた利三郎まで、面喰って白の碁石を三つ四つ掴んだまま飛び込んで来たのです。
「どうしたのです御主人?」
「あの窓からやられた。見てくれ、弥吉」
が、倅の弥吉は顫《ふる》えていて物の役に立ちません。
「どれ」
さすがに利三郎は皆んなをリードして行きます。風呂場の廻し戸をあけて、いきなり跣足《はだし》のまま外へ――
がそれも無駄でした。格子の外に捨てて逃げた、長目の脇差しを一つ手に入れただけ。
「逃げ足の早い野郎で、――姿も見えません」
ぼんやり帰って来るほかはなかったのです。
主人弥太郎はさっそく傷の手当てをして、近所の外科を呼びましたが、幸い急所を外《そ》れて、命には別条がないとの見立てに、ホッとしたのはやがて亥刻半《よつはん》(十一時)頃でした。
「またやったそうだね」
そこへ思いも寄らぬ銭形平次と八五郎がやって来たのです。
「おや、銭形の親分、どうしてこんなに早く」
おどろきながらもイソイソと迎えたのは利三郎でした。
「一度あることは二度あると見て、手代の源七に頼んでおいたのだ。三囲《みめぐり》から柳橋まで予《かね》て用意した猪牙《ちょき》で漕がせ、柳原から一気に駈けて来ると、俺の家まで四半刻(三十分)で来られるよ。今度は曲者を逃さねえつもりだ」
そう言いながら、平次は八五郎とともに、風呂場からお勝手へ、居間へ奥座敷へと念入りに調べて行きます。
風呂場の外で見付けたのは、利三郎が見付けた脇差しの鞘《さや》が一本。それは外から窓の上、梁《はり》の下に突き差して、柄《つか》の先だけ出して置き、必要なとき中味だけ引っこ抜いて使えるよう仕掛けてあったのです。
「いつでも使えるように用意してあったんですね、親分」
「そのとおりだよ――おや、おや、この足跡は?」
平次は奥座敷から風呂場につづく泥足の跡を指摘しました。
「私でございます。曲者を追っかけて、風呂場から出て、血だらけな脇差しを拾って入った時、ツイ跣足《はだし》だったことを忘れて入りましたので」
利三郎は恐る恐る顔を出しました。
「この足跡で見ると、爪先は奥から風呂場の方へ向いているが」
「あわてて、あっちへ行ったり、こっちへ来たりしましたので、ヘエ」
「そんな事もあるだろうな。念のため足の裏を見せてくれ――おや、たいへん綺麗じゃないか。なに? 風呂場で拭いた、――拭いた足からあんな泥の跡がつくのか」
「八」
これだけで充分でした。待機《たいき》していた八五郎は、いきなり逃げ出そうとする利三郎に組み付いたまま、縁側から庭の闇へ転がり落ちたのです。
善八を殺し、弥太郎を刺した曲者は、黒船町の利三郎でした。
「少しもわかりませんよ。利三郎は、一度藤屋の主人を助けておきながら、なんだって殺す気になったんでしょう」
事件が落着してから、八五郎はこう平次に訊くのです。
「さいしょから利三郎は藤屋の主人を殺す気だったのさ。夜な夜な物置に忍び込んで棺に穴をあけ、その穴を塞《ふさ》ぐ仕掛けまで拵えたが、さて、いざとなると、あのとき弥太郎を殺すと、疑いは真っ向から利三郎に向けられると気が付いたんだ」
「ヘエ」
「で、一度はわざと弥太郎を助けて命の恩人になった。そうして置けばこの次に、本当に弥太郎を殺しても、自分へは疑いは来ないと見たのだよ」
「太《ふて》え野郎ですね、――たったそれだけの証拠を揃えるために、幇間《たいこもち》の善八を殺したんで?」
「そのとおりだ。幇間の善八はとんだ貧乏|籤《くじ》を抽《ひ》いて、利三郎の道具になったのだよ」
「鯨幕の後ろから棺へ脇差しを突っ込んだ利三郎が、どうして壇の前にいて善八を介抱したのでしょう」
「あれはうまい手品だったよ、――棺の中からうめき声が聞えて、サッと壇の白絹に血が流れた、三百人の眼がそこに吸い付いているとき、利三郎は鯨幕の下を潜って、棺に飛び付く人たちの中に交ったのだ。幕の後ろにいたはずの利三郎が、真っ先にいたのも変だと思ったが、それより殺されたのが善八と知っている利三郎が、あんまり真剣に善八を介抱したのが後で考えると変ではなかったか」
「そう言えばそうですね」
「それは幕の下をくぐるとき、壇から流れる血を浴びたので、それを誤魔化すにも、善八を介抱するのが大事な仕事だったのさ」
「じゃ親分は、いつから利三郎が怪しいと思ったんで?」
「利三郎が最初――棺の後ろから、チラリと壇の灯《あか》りが見えたので、棺に穴のある事に気が付いたと言ったろう」
「え、え」
「ところが、その穴のことを、主人の弥太郎も善八も知らなかったらしいのだ。穴は埋木で塞《ふさ》がっているから、知らなかったのが本当だ。埋木の木の片《きれ》は棺の中に落ちているところを見ると、あれは脇差で突いたとき落ちたのだ、――その前に、棺の後ろにいて、穴から射す灯が見えたというのは嘘だよ」
「なるほどね」
「下手人は主人の弥太郎と倅の弥吉と、お吉と、番頭と、それから利三郎のほかにはない。二度目に主人を狙《ねら》った聴いて、これは利三郎だとはっきりわかったよ。あのとき一人でいたのは、奥座敷の利三郎だけだ。それに泥の足跡は風呂場の外へ廻って主人を刺し、大急ぎで取って返した時、あわてて下駄を踏み脱いで足を泥にしたためだ。利三郎はそれを誤魔化すために風呂場から跣足で外へ出たのだ」
「ヘエ、行届いた野郎ですね」
「それから弥太郎を狙うのに、一々刃物を持って歩くわけに行かないから、風呂場の窓の上に脇差しを隠し、中味だけ引っこ抜いて窓から突いたのだろう」
「ところで、なんだって利三郎は藤屋の主人を殺す気になったんでしょう」
八五郎の問いはもっとも至極です。
「十年前に自分の店の株を買った藤屋の、近ごろの繁昌が妬《ねた》ましかったのさ」
「ケチな野郎ですね」
「ほかにもあるよ。あんまり藤屋から恩を被《き》せられて、息苦しいような心持になっている上、近ごろ妾のお吉に飽きが来た藤屋が、今では利三郎の女房になっている、もとの奉公人のお徳を呼び戻そうとしていたんだろう」
「ヘエ」
「恋の怨みは怖いな。八、お前も気をつけろ」
「ヘッ、冗談で――ところでもう一つ、親分へ変な手紙をよこしたのは誰です」
「利三郎だよ」
「ヘエ?」
「悪知恵に自惚《うぬぼれ》のある奴は、ツイあんな事をして見たくなるのだ。銭形平次の眼の前で、人一人殺して見せたくなったのさ」
「おどろいた野郎ですね」
「棺の中でうめき声がして、敷いた白い布がサッと赤くなって、皆んなそれに気を取られている時、そっと鯨幕の裾を潜って出るのは、手品によくある術《て》だが、うまいことを考えたものさ。その上主人を一度救っておいて、二度目に殺そうとしたのは底の知れない悪党だ」
「ヘエ」
「だが、退屈で金があるからあんな事を思い立つことだろうが、生き葬いなどは増長の沙汰だよ。藤屋も悪いには違いない」
平次はそんな事を言って相変らず貧乏臭い粉煙草をせせるのでした。
小便組貞女
「親分、小便組《しょうべんぐみ》というのを御存じですかえ」
八五郎は長んがい顎を撫でながら、銭形平次のところへノソリとやって来ました。
いや、ノソリとやって来て、火のない長火鉢の前に御輿《みこし》を据えると、襟元から懐手を出して、例の長いのを撫で廻しながら、こんな途方もないことを言うのです。
「俺は腹を立てるよ、八。まだ、朝飯が済んだばかりなんだ、いきなりそんな汚ねえ話なんかしやがって」
平次は妻楊枝《つまようじ》をポイと捨てて、熱い番茶を一杯、やけにガブリとやります。
「てへッ、汚ねえどころか、それが滅法綺麗だからお話の種で」
「何をつまらねえ。容顔《かお》が美麗だって、垂れ流す隠し芸があっちゃ付き合いたくねえよ。馬鹿馬鹿しい」
平次がこう言うのも無理のないことでした。貞操道徳が全く弛廃《しはい》してしまって、遊女崇拝が芸術の世界にまで浸潤《しんじゅん》して来た幕府時代には、男の働きで妾《めかけ》を蓄《たくわ》えることなどはむしろ名誉で、国持大名などは、その低能臭い血統の保持のために、江戸屋敷の正妻のほかに国許に妾を置き、それを見ならう有徳《うとく》な武家、好色の大町人は申すまでもなく、はなはだしきに至っては学者僧侶に至るまで、公然妾を蓄えていささかも恥じる色がなかったのです。
この風潮に応ずるために、一方にはまた妾奉公を世過ぎにする、美女の大群の現われたのも当然の成り行きでした。もっとも、その美女の群が、まともな人間ばかりであるはずはなく、中には非常な美人で、たった一と眼で雇い主をすつかり夢中にさせてしまい、何百両という巨額の支度金を取って妾奉公に出た上、鴛鴦《えんおう》の衾《ふすま》の中で、したたかに垂れ流すという、大変な芸当をやる女もあったのです。
どんな寛大な好色漢も、したたかに寝小便を浴びせられては我慢のできるわけはなく、これは簡単に愛想を尽かされて、お払いになってしまいます。もとより一度やった支度金は、暇をやった妾から取戻すわけにも行きません。
こうして次から次へと渡り歩く美人を、貧乏で皮肉でおせっ介な江戸ッ子たちは、小便組と呼んで、嘲笑と軽蔑と、そしてほんの少しばかりの好意をさえ寄せていたのです。現に江戸の風俗詩|川柳《せんりゅう》に、小便組を詠《よ》んだ洒落れた短詩が、数限りなく遺《のこ》っているのを見ても、その盛大さがわかります。
ガラッ八の八五郎が、朝っぱらから持って来た話の種は、この美しき悪魔『小便組』の一人に関係した、世にも平凡で皮肉で、そのくせ捕捉し難き小事件です。
「ね、親分。その小便組の一人が、一向垂れないんで、騒ぎが始まったとしたら、どんなものです」
八五郎はまだ顎を撫でております。
話があんまり下卑《げび》ているので、平次の女房のお静も、さすがに恐れをなしたものか、熱い番茶を一杯、そっと八五郎の膝の側に滑らせて、黙ってお勝手に逃げ込んでしまいました。
「なんだか、ひどく間抜けな話だなア、――良い若い者が、色気がなさ過ぎるぜ。朝っぱらから小便の話なんか持込んで来やがって」
「そう言わずに、まア聴いて下さいよ。話の相手は浅草三間町の材木屋で若松屋敬三郎――」
「評判の良い男じゃないか」
「男がよくて腹が大きくて、情け深くて古渡りの俳諧《へえけえ》の一つも捻《ひね》ってみようという――」
「古渡りの俳諧という奴があるかい」
「近ごろの流行《はやり》の冠付《かんむりづ》けや沓付《くつづ》けじゃないから、多分こいつは古渡りだろうと思うんだが」
「無駄が多いな、それからどうした」
銭形平次もツイ膝を前《すす》めます。
「その若松屋が二年前に女房に死なれて、四十一の厄前《やくめえ》で独り者だ。後添えの口は降るほどあるが、二人の小さい子供を継母の手で育てるのも可哀想だからと、そのまま聴き流していたが、雇い人も多勢いることだし、なにかにつけて不自由で叶《かな》わない。そこですすめる人があって、三月前に無類飛びきりという入山形《いりやまがた》に二つ星の妾を雇い入れた、――その支度金大枚百両」
「入山形に二つ星の妾てえ奴があるかい」
「一々お小言じゃ困りますね。ともかく、大した代物《しろもの》だ。お扇《せん》といって年は二十一、骨細で、よく脂が乗って、色白で愛嬌があって――あッ」
八五郎は飛び上がりました。身振りが過ぎて、お静が置いて行った番茶の湯呑を引っくり返したのです。
「とうとう垂れ流しやがった。仕様のねえ野郎だ、――お静、雑巾《ぞうきん》だよ」
「ヘッ、ヘッ、これで支度金は丸儲け」
「馬鹿だなア」
掛け合い話は、こんな調子で運んで行くのでした。八五郎の話の筋だけを書くと、――その若松屋敬三郎の雇い入れた支度金百両という妾のお扇は、もとより生無垢《しょうむく》の娘であるはずはないのですが、美しさも抜群、立居振舞いも尋常な上に新嫁のように純情で、先妻の遺した二人の子供や、奉公人たちへのあたりもよく、まことに予想もしなかった良い女でした。
そのうち一と月、二た月と日が経ちましたが、お扇の勤めぶりは、日を経るにつれてますますよく、主人敬三郎の喜びは、何に比べようもありません。
このまま無事な日が続けば、まことに申し分のない仕合せでしたが、お扇が来てからものの一月とも経たぬうちから、若松屋の内外にいろいろの変ったことが起り、それが嵩《こう》じてとうとう人一人の命にかかわる破局までのし上げてしまったのです。
事件の最初は、主人敬三郎の寝間のあたりへ、毎夜つづけ様に石を投げることから始まりました。材木町寄りの往来から、黒板塀越しに礫《つぶて》を投げると、ちょうど主人の寝間を脅かすことになるのですが、狙《ねら》いの確かさから見て、それはよほど心得たものの仕業《しわざ》でなければなりません。
三日目、四日目の晩からは、奉公人たち――わけても下男の茂十に言い付けて、手ぐすね引いて曲者を待ちましたが、それは宵だったり暁方だったり、こっちの監視のすきを狙っての縦横無尽の活躍で、全く手のつけようがなかったのです。
礫《つぶて》が少し止むと、こんどは店先へ馬糞《ばふん》を投げ込んだり、裏の井戸へ猫の死骸を入れたり、全く手のつけようのない悪戯が始まりました。奉公人たちは躍起となって、その悪戯者を捉まえようとひしめきましたが、主人の敬三郎は世間の思惑《おもわく》のほうを恐れて、ことを荒立てることを好まず、奉公人たちをなだめて相手の疲れを待つような態度に出るのでした。
しかし、その悪戯は、恐ろしく性《たち》の悪いもので、さすがに寛大な敬三郎も、顔色を変えたほどです。
それは、若松屋の妾お扇は、名題の『小便組』だという噂を、執拗に小意地悪く言いふらした上、町の悪童どもに菓子などをやって、
おせんの小便、小便おせん
垂れろよ垂れろ、どんどと垂れろ、
旦那を流せ、枕ごと流せ。
こんな歌を、若松屋の前で歌わせるのでした。この戦術は全く我慢のならぬものでした。ワーッと囃《はや》して逃げ出す子供たちを追っかけて捉まえたところでなんの役にも立たず、いや、それどころではなく、かえって子供たちの反感を買って、翌る日はもっとひどい合唱を浴びせられるのを覚悟しなければなりません。
そんなことが続いた揚句、
「今朝、若松屋の裏の路地で、御朱印《ごしゅいん》の伝次郎という札つきの悪《わる》が、土手っ腹をえぐられて死んでいるじゃありませんか」
八五郎の話はようやく結論に入りました。御朱印の伝次郎というのは、――御朱印船にも乗ったことがあるというのを、唯一の自慢の種にしている船頭あがりの|やくざ《ヽヽヽ》者で、これが小便組の女王お扇《せん》の後ろで糸を引いているアパッシュだったのです。
「伝次郎は、お扇は俺の女房だと言っていたそうですが、そいつはあんまり当てになりません。もっともちょいと好い男で、浮気な娘たちには騒がれていますが、人間がろくでもないから、筋の通ったのは掛り合いませんよ」
「まるでお前とはあべこべだ」
「からかっちゃいけません。――ところでちょいと行って見て下さいな。三輪の万七親分が乗り出して、さんざん掻き廻した末お扇を縛るんだと言って、眼の色を変えて捜していますが、そのお扇が姿を隠してしまったんで」
「なるほどそいつは面白そうだな。三輪の親分に盾《たて》をつくわけじゃないが、話を聴いただけでも、余っぽど奥行がありそうだ。行って見るとしようか」
「ヘッ、有難てえ。親分が御輿を上げて下さりゃ」
八五郎は少し有頂天になって、平次が身扮《みなり》を整える間に、その草履などを直してやるのです。
「たいそう気がつくじゃねえか、――いったい誰に頼まれたんだ」
「若松屋の主人敬三郎――」
「嘘吐《うそつ》きやがれ」
「実はね、親分、――お扇の妹のお篠《しの》と言うのが、雷門前の水茶屋に奉公しているんですよ。まんざら知らない仲じゃありませんがね。その娘《こ》が若松屋を出て来る私を追っかけて来て――」
「わかったよ、もう。それも小便組の一人だろう」
「とんでもない、十八になったばかりで、しん粉細工のような綺麗な娘ですよ。お茶こそ汲んで出すが、小便なんか――」
「馬鹿だなア」
二人は髷節《まげっぷし》を揃えて路地の外へ出ました。初冬の江戸の町は往来の人までが妙に末枯《うらが》れて、昼の薄陽の中に大きな野良犬が、この施主《せしゅ》になりそうもない二人を見送っております。
三間町の若松屋は、材木屋といっても、銘木や唐木《とうぼく》を扱うのが主で、角店ながらなんとなく小綺麗な店構えでした。住居は裏の方に延びて、繞《めぐ》らした黒板塀も厳重に、忍び返しなど冬空を刺して物々しいくらい、御朱印の伝次郎風情が、容易に近づけないのも無理のないことでした。
店の前後、街のあちこちに、三輪の万七の子分の顔は見えましたが、平時と八五郎は|そ《ヽ》知らぬ顔で入って行きました。
「あ、銭形の親分、お待ち申しておりました」
主人の敬三郎は、立上がって真にいそいそと出迎えます。四十一の厄前と聴きましたが、典型的な江戸の大町人で、恰幅の見事な、目鼻立ちの大きい、美男型というよりは、むしろ純情型の、誰にでも好かれそうな爽やかな人柄です。
「とんだことで」
「おどろきましたよ、銭形の親分。御朱印の伝次郎とかいうやくざが、裏の塀側で殺されているんです。それを三輪の親分がお扇の仕業にして、八方に手を拡げて探しておりますが、肝心《かんじん》のお扇は昨夜《ゆうべ》宵の内から姿を見せません。逃げ隠れすれば、疑いが重なるばかりで、私も心配をして、心当りへ人をやって、一生懸命捜しておりますが――」
「……」
若松屋の主人敬三郎の顔は、絶望的に翳《かげ》るのです。
「親分の前ですが、お扇は人などを殺せる女じゃございません。もっとも悪者の手に操《あや》つられて、以前はずいぶん悪いと知りながら、不本意なこともさせられたそうですが、私のところへ来てから、ざっと百日の行いというものは、どんな立派な氏《うじ》育ちの奥方も及ばないような、それはそれは見事なものでした。私の口から申しては|のろい《ヽヽヽ》奴とのお笑いもございましょう。二人の子供がどんなになついているか、店中の者がどう申しているか、親分がお訊き下さればよくわかります」
「ところで、そのお扇は、前々から家出でもしそうな様子はあったのかな」
平次は果てしのない愚痴《ぐち》を押えて、敬三郎に訊ねました。
「この間からの悪戯を、お扇への厭がらせと判って、――私がここにいるために、皆様にも御迷惑をかけ、お店の暖簾にも疵《きず》がつきます、私はやはりここから出て行かなきゃ――と始終申しておりました。私はその度毎に、――何をつまらない、そんなことを一々気にしちゃ――と元気をつけておりましたが」
敬三郎が、こうまでもお扇に打ち込むのも不思議ですが、小便組という、女の最も不名誉な綽名《あだな》を取っているお扇が、そうまでも敬三郎に忠実だったことは、奇蹟というのほかはありません。
「昨夜からいないのだな」
「夕方まで、いや宵までは確かにおりました」
「行く先の心当りでもないのか」
「里の請人《うけにん》もない女で、どこを捜す当てもございません。もっとも雷門前にお篠という妹が、水茶屋に奉公しております。今朝になって人をやって訊かせましたが、心当りはないそうで」
敬三郎はたよりない顔をするのでした。
「そいつは心細いぜ、鳴物入りで迷子の迷子のお扇さんでもあるめえ」
ガラッ八がまた無駄を挟むのです。
「馬鹿野郎、黙っていろ」
「ヘエ」
平次は主人の敬三郎に引合せられて、店中の者に逢って見ました。主人の弟の源吉というのは三十七八の良い男で、これは別に世帯を持って、昼だけ兄の店に通う支配人格。老番頭の弥平は六十近い年寄りで、商売のほかにはなんの興味もなさそうな男。外に下女のお夏という中年女。先妻の遺した二人の子――敬太郎とお久はまだ子供で、事件となんの関係もあるはずはありません。
もう一人下男の茂十という中老人がおります。五十二三の忠実な男で、倅夫婦が川越在で百姓をしているので、自分一人だけ若い時分世話になった若松屋へ、返り新参で奉公をしてもう六年になるという奇特な人間です。
「お扇さんは大した人でしたよ。以前は悪い噂もあったということですが、この家へ来てからは早起き遅寝で、旦那様の世話万端から、二人の子供たちの寝起き、奉公人への心づかい、あんなによく届いた人はありません。自分のもらっている給金だって、百も身に着けはしなかったでしょう。気前は良いし愛嬌があるし、それで身仕舞がよくて、滅法綺麗と来ているんだから、全く非のうちようのない人でした。昔のかかり合いで、変な野郎につけ廻され、とうとう家出までなすったのは本当にお気の毒なことで――」
下男の茂十は心からお扇には推服《すいふく》しているのでした。
主人の弟の源吉は、
「亡くなった兄嫁は、身体が弱くて、兄も長いあいだ苦労をしました。それに比べると今度のお扇さんは、身体も丈夫だし、心掛けも申し分ないし、兄も喜び、敬太郎とお久もよくなついておりましたが、――いま姿を隠しちゃ、店中の難儀でございますよ」
こう心から言うのでした。小便組という札つきの妾が、こんなに良い評判を取るのは、一時の体裁や骨折でないことは明かで、恐らくお扇は世間の評判ほど悪い人間でなく、御朱印の伝次郎に操つられて、不本意の悪業を重ねているうち、フト若松屋の内部に入り込んで、主人敬三郎の人柄の立派なのにおどろき、さらに若松屋の店中の空気の良いのに打たれて、ここを永住の地と思い込み、精いっぱいの真面目な愛と光明に充ちた生活を営《いとな》もうと決心したのでしょう。それはお扇の持っている、本来の素質の良さの、偶然な発露であったにしても、まことに不思議な成り行きというの外はなかったのです。
平次は茂十に案内させて、庭から材木置場を一巡《いちじゅん》し、それから塀の外の御朱印の伝次郎の死骸のあった場所を見ました。そこはちょうど主人の寝部屋のあたりで、少しばかりの空地と厳重な塀《へい》をへだてて、その塀の外、末枯《うらが》れたわずかばかりの雑草を染めて、血潮のこぼれているのも浅ましい感じです。
「死骸は誰が見付けたのだ」
塀の下の二尺ほどの溝《みぞ》を跨《また》いで、平次は何やら念入りに調べながら訊くのでした。塀の正面、下から五尺ほどのところに、誂《あつら》えたように節穴が一つあるのが気になります。
「まだ薄暗いうちでした。往来の人が見付けて大きい声を出したので、驚いて私が飛んで出ましたが、その時はもう見付けた人の姿は見えませんでした。観音様へ朝詣りにでも行く人が、通りすがりに死骸を見付けて、思わず大きい声を出したが、後のかかり合いがうるさいので、そのまま行ってしまったものでございましょう」
茂十の話はなかなかよく行届きます。
「それから?」
「町役人や、三輪の親分が来てくれまして、死骸は一と先ず番所へ運びました。御朱印の伝次郎というと物々しく聞こえますが、賭場《とば》から賭場へと渡り歩いて、定まる家もないような厄介な人間だそうでございます」
茂十の話を聴きながら、平次は若松屋の外廻りを、グルリと一と廻りしました。店を中にして、左の方の狭い路地へ廻ると、そこは若松屋の広い庭の外で、その辺に溝はありませんが、往来に面していないので、思いのほか塀は古いらしく、所々に材木屋らしくない破損があり、一ヵ所などは四尺ほどの高さの大きい割れ目を、真新しい杉板で塞《ふさ》いだところさえあるのでした。
その下に硫黄付木《いおうつけぎ》が一枚と一とつまみの火口《ほぐち》が、濡れたまま落ちているのを、平次はそっと拾いながらつづけました。
「塀が少し濡れているようだな」
「子供衆の落書《らくが》きでございますよ。ろくでもないことをベタベタ書き散らすので、主人が気を病んで、昨日の夕方私に言いつけて洗わせましたが、なかなか落ちません」
茂十の弁解を聞き流しながら、平次は町内の自身番に向いました。
「おや、銭形の――親分が来たという話は聴いたが、下手人はもう挙げてしまったぜ」
油障子を開けると三輪の万七が、銀張りの煙管を脂下《やにさが》りに、ニヤリニヤリしているのです。その後ろには万七の子分のお神楽《かぐら》の清吉が、若い女を一人引据えて、肩肘《かたひじ》を張っております。
「そいつは大手柄だ。誰だい、下手人というのは?」
平次は蟠《わだか》まりのない調子でした。
「雷門前の水茶屋に奉公している、お篠という綺麗首さ。こいつは若松屋の妾のお扇とは、血をわけた姉妹だよ」
万七の得意そうな声に応ずるように、お神楽の清吉は、お篠の丸い顎《あご》の下に手を差し込んで、その白い顔をグイと明り先に振り向けるのです。
姉のお扇に似て、それは抜群の美しさでした。髪はひどく乱れており、手足にも頬のあたりにも、引っ掻きやら撲《う》ち傷やらありますが、丸ぽちゃの愛くるしい顔立ちで、素直な鼻筋、眉が霞《かす》んで唇が泣いて、つぶった眼の睫毛《まつげ》の長さが、妙にこの娘を痛々しく見せました。
「証拠は?」
「あの傷だ、顔も手足も――昨夜御朱印の伝次郎と揉み合った証拠じゃないか。そればかりじゃねえ、その時刻――亥刻《よつ》(十時)から亥刻半《よつはん》(十一時)過ぎまで雷門の家をあけているし、もう一つ動きの取れないことには、現場に鼈甲《べっこう》の櫛《くし》が落ちていたのだよ。こいつは二朱や一分で買える品じゃねえ。お篠が姉と対《つい》にこしらえて、自慢で持っていたことは、浅草中で知らない者がないくらいだ」
「フーム」
「この櫛を見せると、最初は自分の品じゃねえと剛情を張っていたが、それじゃ姉のお扇のかというと、今度は打って変って自分の品だって言やがる」
「なるほど」
「いったいお扇とお篠は苦労して育っているから、姉妹仲が好かったそうだ。お篠に言わせると、伝次郎の奴が姉にからみ付いて、せっかく幸せになった姉を、もとの泥沼に引きずり込もうとするから、――毎晩若松屋のあたりへ来て、たちの悪い悪戯をすると聞いて、雷門前の家を脱け出して三間町までやって来たというのだ。それから伝次郎に意見を言って、掴《つか》み合いになり、引っ掻きや摺《す》り剥《む》きを拵えたというが、掴み合ったくらいだからその揚句に殺さないとは限らないじゃないか――もっとも小娘が易々《やすやす》と大男を殺せるわけはねえから、伝次郎が節穴から中の様子を覗いているところを、不意に戻って来て背後《うしろ》から突いたのかも知れないよ」
「刃物は?」
「それがないから不思議さ。もっとも大川へでも投り込めば三年捜したって出る気遣いはないぜ」
三輪の万七はこれですっかり自分だけの論理を整え、お篠を下手人に決めている様子です。
「どうした、お篠。八五郎に頼んだ言伝ては聴いたぜ」
平次はお篠の傍に寄って、その肩に手を置きました。
「親分さん、姉さんが可哀想でなりません。どうぞ――」
お篠の言葉は涙に消えました。姉をどうしろというのか、平次にはその意味がはっきり掴めませんが、何やら呑み込ませられるものがあります。
「よしよし、心配するな」
平次はお篠の側を離れると、ツイ鼻の先に、投り出すようにして、二枚|屏風《びょうぶ》でかこってある御朱印の伝次郎の死骸に眼を移しました。
三十前後の小柄な好い男で、素袷《すあわせ》に銀鎖《ぎんぐさり》の肌守り、腕から背中へ雲竜の刺青《ほりもの》がのぞいて、懐中には鞘のままの匕首《あいくち》が、無抵抗に殺されたことを物語っております。
傷は左の脇腹を後ろから刺されたもので、多分心の臓を一と突きにやられたことでしょう。小娘の手並でこれくらいのことができるかどうか、平次はしばらく小首を傾げました。
「八、死骸の着物に溝泥《どぶどろ》がついていないか、濡れたところはないか、念入りに見てくれ」
「そんなのはついちゃいませんよ。飛んだ洒落男で、袷《あわせ》は唐棧《とうざん》の仕立ておろしですぜ――持物は一両二分入った財布と、煙草入れと火打ち道具」
八五郎は縛られているお篠の痛々しい姿に心|惹《ひ》かれながらも、死骸の着物や持物を念入りに調べております。
ちょうどその時でした。
「お願い、私を縛って下さい。伝次郎を殺したのはこの私です。妹なんかじゃあるものですか」
真に一陣の旋風《せんぷう》のごとく、自身番の中へ飛び込んで来たのは二十一二の眼のさめるような美しい女でした。
「お前はお扇じゃないか」
それを迎えたのは、入口の近くに陣取った三輪の万七でした。
「どこに隠れていたんだ。とんだ骨を折らせるぜ」
それに続いたのは、お神楽の清吉です。
「昔の友達のうちに隠れていたんです。私はこのまま遠くへ行って、一生この辺へは姿を見せないつもりでした。でも、妹のお篠が伝次郎殺しの罪を背負《しょ》って、縛られたと聴いちゃ黙っておられません」
お扇はすっかり興奮しておりますが、言うことは思いのほか筋が立ちます。地味な銘仙の袷に、黒っぽい帯などを締めておりますが、細面《ほそおもて》の華奢立ちで、臈《ろう》たけく見える品の良さ、これが百両の支度金を狙う小便組とは、いったい誰が気づくでしょう。
「お前が伝次郎を殺したというのだな」
三輪の万七は|うさん《ヽヽヽ》な眼を三角にします。
「そうですとも、私のほかに誰があの伝次郎の悪党を殺すものですか」
「証拠は?」
「お前さんが持っている、その鼈甲《べっこう》の櫛《くし》が証拠のつもりなら、それは私のものですよ」
「お篠も自分のものだと言っているぞ」
「妹は私を庇《かば》っているんです。そう言う生意気な妹なんです、――揃いにこしらえた自分の櫛は、半歳も前に落としてしまったくせに」
「あ、姉さん」
お篠は顔を挙げました。
「お黙りよ。お前の知ったことじゃない」
「でも」
「ね、親分さん方、聴いて下さい。事の起りからみんなお話しましょう」
お扇はそう言って、ともすれば力が抜けて倒れそうになる身体を、辛《から》くも柱に支えて続けるのでした。
「――私と妹は日本橋の大きい商人《あきんど》の子に生れました。親の名は勘弁して下さい、――私が七つのとき両親に死に別れ、親類に悪いのがあって、身上《しんしょう》を根こそぎ持って行かれた上、二人は往来へ投り出されてしまったんです」
「……」
「……」
「それを拾ってくれたのは、情深い年寄り夫婦でしたが、六七年経つうちに二人ともなくなり、私と妹は人手から人手に渡って、とうとう御朱印の伝次郎の父親、船頭の伝六という悪者の手に陥《お》ち、危うく吉原へ叩き売られるところでしたが、それよりは妾奉公をさせて、幾度も幾度も支度金を稼《かせ》がせた方が実入りになると知って、いやがる私を父子二人で責め折檻《せっかん》して――この二三年の間に支度金だけでも五百両近い金をもうけました」
「……」
「妹にも同じ稼《かせぎ》をさせようとしましたが、私は命がけで喧嘩をして、そればかりは思い止らせ、好ましくはないが水茶屋に奉公させました。それから一年ほど経って父親の伝六は死にましたが、倅の伝次郎は親に優る悪人で、いやがる私を半殺しの眼に逢わせては、あんな恥かしい妾奉公を続けさせました」
「……」
お扇の話は思いのほかに真剣でした。平次や八五郎は言うまでもなく、万七も清吉も、事情の異常さも忘れてすっかり聴き入ります。
「ところが、三月前、若松屋へ奉公に来て、私は生れて始めて眼を開きました。世の中には、御主人敬三郎様のようなこんな立派な男があるということを知ったのです。私はやっぱりただの女だったに違いありません。私は旦那のお情けにすがり、その袖の下に隠れて、これから本当に良い内儀《ないぎ》で暮したいと思い定めました。私は一生懸命でした。何もかも旦那に打ち明けた上、今までのことはみんな許して頂いて、本当に生れ変った気になって、どんな育ちの良い嫁にも負けないように、立派にやって行こうと思い定めたのです」
「……」
「ところが、伝次郎は私の心変りを知って、あらゆる嫌がらせをやり、もとのとおり自分のところへ帰って来いとせがむのです。妾奉公がいやなら、自分の女房にするとも言いました――でも私は伝次郎の女房になるくらいなら、大川へ飛び込んで死んでしまいます」
そう言ってお扇はいくらか気がさすものか、二枚|屏風《びょうぶ》の中の伝次郎の死骸をそっと振り返るのです。
「それから?」
平次は静かに促がしました。
「悪戯や嫌がらせがあんまりひどいので、私はゆうべの宵のうちでしたが、そっと家を脱け出しました。伝次郎が庭のあたりの塀の外に来て、なにか悪戯をしていると判ったので、思いきってぶつかって、話をきめようと思ったんです、――外へ出て見ると、良い月夜でした。見るとちょうど店の左のほうの庭の外の塀ぎわで、妹と伝次郎が掴《つか》み合っているじゃありませんか。飛び出して止めようと思ううちに、妹は諦めた様子で帰ってしまい、私と伝次郎は改めて顔と顔を見合せていたのです、――昨夜は良い月夜でした、お互いにどんなに憎み合っているか、たった一と眼でわかるような」
「……」
「二人は激しく言い合いました。が、言い合ったところで果てしの付くはずもありません。私はどんなことがあっても二度とお前のところへは帰らないと言うと、伝次郎は――それじゃ、とことんまでお前の邪魔をしてやる。まず手始めに若松屋に火をつけて焼き払い、それでもお前が帰らなきゃ、主人の敬三郎を殺してやる――と言います。それくらいのことはやり兼ねない伝次郎です。私は諦らめて――私の身さえ退けば八方円く納まるだろう、大川へ身を投げて死んでやるから――と口惜しまぎれに駆け出しました」
「それから?」
「伝次郎はニヤニヤ笑って見ていました。――死ぬなら死ぬがいい、新情夫《しんいろ》のできた女は容易に死ねるもんじゃねえ――と塀にもたれて、鼻唄なんか唄っているじゃありませんか、――あんまり憎らしいから、私は引返して、刺してやりました」
「どこを?」
平次は不意に問いを挟むのでした。
「胸だったか、どこだったかわかりません」
「なんで刺したんだ。刃物は?」
「匕首ですよ」
「そんな物を持っていたのか」
「え」
「それからその刃物をどこへやった」
「大川へ投り込んでしまいました」
「よしよし、そう来るだろうと思ったよ。ところで、場所は、店の左、庭の外の塀ぎわだと言ったな」
「え」
平次はここまで突っ込むと、二人の女にクルリと背を見せて、
「ね、三輪の親分、お聴きのとおりだ。この二人にはやくざの伝次郎は殺せないよ。もっともお扇の言ったことが途中までは本当だろう。伝次郎と言い争って、口惜しまぎれに身でも投げるつもりで飛び出した――というところまでは間違いあるまい。伝次郎は塀にもたれて、ニヤリニヤリとその後姿を見送ったことだろう」
「すると誰が殺したというのだえ、銭形の」
三輪の万七ははなはだもって平《たいら》かでない顔色です。
「男だよ、強い男の手だ。傷は背後から胸へ突き貫くほど深いものだ――多分、伝次郎を勝負事の怨みかなんかで付け廻していたやくざが、脇差しで突いたものでもあろうか」
「……」
「二人の女は許してやるがいい。なア三輪の親分」
「いや、俺にはまだ腑《ふ》に落ちないことがある。もう少し調べるとしよう」
「そうか、じゃ俺は帰るぜ」
「勝手にしな」
「それじゃ三輪の親分」
銭形平次は二人の美女に一瞥を与えたまま八五郎を促して往来へ出ました。
「親分、有難うございました。お蔭で二人は助かります」
後ろから声を掛けて、そっと近づいて来たのは、若松屋の主人敬三郎でした。
「若松屋のご主人か、ちょうどいいところだ。お前さんに伝次郎殺しの下手人を教えてやろう」
「ヘエ?」
キョトンとする敬三郎をうながして、平次はもとの若松屋の塀外、伝次郎の死骸のあった場所へ戻りました。そこは塀の内がすぐ主人の寝部屋で、伝次郎がよく礫《つぶて》を飛ばした場所です。
「伝次郎はここで、節穴からのぞいているところを刺された――と三輪の親分は思い込んでいるが、大嘘だよ」
「……」
「伝次郎は背が低いから、踏台《ふみだい》でもしなきゃあの節穴へ眼は届かない、――それに塀の下はすぐ溝《どぶ》だ。水は腐って泥が沸いているから、ここで刺されて倒れた人間は、間違いもなく着物に溝泥がつくはずだが、伝次郎の着物にはそれらしい跡もなかった、――伝次郎は他の場所で刺されて、死骸になってからここへ運ばれて来たのだ」
「……」
「お扇さんは、店の左のほう――庭の外の塀ぎわで伝次郎に逢ったと言っている、――訊かれもしないのに言ったんだから、嘘じゃあるめえ。すると伝次郎が殺されたのは向うの方だ」
店を左に見て、向うの狭い路地の中へ、平次は敬三郎を誘い入れました。
「ここだよ御主人、伝次郎は嫌がらせに火でも付けるつもりでここへ来て、お篠とつかみ合いを始め、鼈甲《べっこう》の櫛《くし》は物の弾《はず》みで伝次郎の懐ろに入り、死骸と一緒に向うへ運ばれたのだろう。その後へお扇さんが来たが、話が物別れになって、可哀想にお扇さんは死ぬ気で向うへ行ってしまった。それを伝次郎は、塀に凭《もた》れたまま、たかをくくって見ていると、――」
「……」
「塀の中――ちょうどこの破れ目から、力まかせに脇差しが飛び出して、伝次郎の背中を突いた。不意の深傷《ふかで》に、伝次郎は声も立てずに死んだことだろう、――塀越しに伝次郎を刺し殺した下手人は、切戸をあけて出て来て、死骸を向うの方に移した上、夜中ながら塀についた血を洗って、その上念入りに塀の割け目を、新しい板でふさいだ――板は商売物だが、少し新し過ぎたし、杉の糸柾《いとまさ》で塀の穴をふさぐ法はない」
「……」
「下男の茂十は昨日の夕方、落書を洗い落したと言ってるが、それは嘘に違いない。近所の人に聴いて見ればわかることだ。それから板塀の血はずいぶん念入りに洗ったつもりだろうが、夜の仕事だから、なんとしても木目の間に沁み込んだ血は綺麗にならない。伝次郎を殺した刃物は――井戸の中か、縁の下の土の中か、いや、いや、いつぞや材木屋で、銘木の洞《うつ》ろの中に物を隠しておいた例《ため》しがある。ここにもそんな隠し場所はたくさんあるはずだ」
「……」
「御主人、――これは一人の仕事にしては少し手重《ておも》だから、下男の茂十などが手を貸しているかも知れない。呼んで訊いて見ようか」
平次の論告は明快で行届いて、争う余地もありません。
「親分」
「待った。うっかり恐れ入ったりすると、懐ろの十手《じゅって》の手前、お前さんを縛らなきゃならない。お扇、お篠姉妹を喰い物にして、長いあいだ世の中の人を困らせて来た御朱印の伝次郎は、やっぱりやくざ仲間の出入り事で殺されたとしておく方が無事だろう」
「親分」
若松屋敬三郎の突き詰めた顔に、平次は不意に背《そびら》を見せました。
「それじゃ、お扇さんと仲よく暮しなさいよ。あれは珍しい貞女だ。昔のことなんざ綺麗に忘れて本妻に直してやって下さい。文句を言う奴があったら、この平次が引き受けますぜ」
平次は八五郎をうながして神田の家へ帰って行くのでした。傾く冬の夕陽の中に、後ろでそっと手を合わせたのは、若松屋の主人敬三郎の涙に濡れた顔です。
遠眼鏡の殿様
「ヘッヘッ、ヘッ、ヘッ、近頃は暇で暇で困りゃしませんか、親分」
「馬鹿だなア、人の面《つら》を見て、いきなりタガが外れたように笑い出しやがって」
「でも、銭形の親分ともあろう者が、日向《ひなた》にとぐろを巻いて、煙草の煙を輪に吹く芸当に浮身をやつすなんざ天下泰平じゃありませんか。まるで江戸中の悪者が種切れになったようなもので、ヘッ、ヘッ」
「粉煙草が一とつまみしか残っていないのだよ。芸当でもやらなきゃ、煙が身につかねえ」
「煙草の煙を噛みしめるのは新手ですね。もっともあっしなんかは、猫が水を呑む時のように、酒を嘗《な》めて呑む|て《ヽ》を考げえた。一合あると請合い一刻《いっとき》は楽しめますぜ」
親分も貧乏なら、子分も貧乏でした。八丁堀の旦那方をはじめ、江戸の岡っ引の大部分が、付け届けと役得で、要領よく贅沢に暮している中に、平次と八五郎は江戸中の悪者を顫え上がらせながらも、相変らず潔癖で呑気で、その日その日を洒落《しゃれ》のめしながら暮しているのです。
「呆《あき》れた野郎だ、そんなことをしたら呑む下から醒めるだろう。それより鼻の穴から呑んでみねえ、とんだ利《き》きが良いぜ」
「ところで、そんなに暇なら、少し遠出をして見ちゃどうです」
八五郎は話題を変えました。相変らず事件の匂いを嗅ぎ出して、平次を誘いに来た様子です。
「どこだえ。正灯寺《しょうとうじ》の紅葉《もみじ》には遅いし、観音様の歳の市には早いが――」
「いやに鬼門《きもん》の方ばかり気にしますね――、実は四谷伊賀町に不思議な殺しがあったそうで、弁慶《べんけい》の小助親分が、銭形の親分を連れて来るようにと、使いの者をよこしましたよ」
「四谷伊賀町なら裏鬼門だ。が、赤い襠《しかけ》とは縁がないな」
「その代り殺されたのは、山の手一番の色娘に、もとを洗えば品川で勤めをしていたという、凄い年増ですよ。曲者は綺麗なところを二人、虫のように殺して、こうスーッと消えた――」
八五郎の話には身振りが入ります。
「お前に言わせると、殺された女は皆んな綺麗で、無事に生きている女は皆んなお多福だ、――先ア歩きながら話を聴こうよ」
明神下から九段を登って、四谷伊賀町へはかなりの道のりですが、初冬の陽ざしが穏かで、急ぎ足になると少し汗ばんで来るのも悪い心持ではありません。
「ね、親分、もとはと言えば遠眼鏡《とおめがね》が悪かったんですよ。あんな物がなきゃ、二人の女が殺されずに済んだはずです」
「ヘエ――、遠眼鏡ね。そいつは年代記ものだぜ。遠眼鏡の人殺しなんてえのは」
「眼鏡で叩き合いをやったわけじゃありませんよ。こういうわけで――」
「……」
「四谷伊賀町に、三千石の大身で伊賀井大三郎様という旗本がありますがね、無役で裕福で、若くて好い男で、奥方が見っともなくて、道楽強いと来てるからたまりませんや」
「まるでお前とあべこべだ」
「その殿様が近ごろ和蘭《オランダ》舶来の素晴らしい遠眼鏡を手に入れ、二階の縁側から、あちらこちらと眺めるのを楽しみにしていた――というのがことの起りで」
「……」
平次も黙ってしまいました。話がどうやら重大らしくなって行くのです。
「その遠眼鏡の中へ、いきなり滅法綺麗な娘の顔が映ってとろけるようにニッコリしたとしたら、どんなもんです、親分」
「俺はそんな覚えはないよ」
「殿様はブルッと身ぶるいして、その晩から寝込んでしまった」
「風邪を引いたのか」
「この道ばかりは銭形の親分でも見立てがつかねえ、――手っ取り早く言えば、恋の病《やまい》ですよ。三千石の殿様が、町内の小間物屋の娘お君坊に惚れてしまったんだから厄介だ」
「たいそう古風なんだね」
「お君は山の手一番と言われた好い娘ですよ。年は十九で色白で愛嬌があって、色っぽくて、しん粉細工のように綺麗だ――裏へ出て洗濯か何かして、腰を伸ばして家の中の妹と話をして、思わずニッコリしたところを、二三十間先から遠眼鏡で見た殿様は、自分へ見せた笑顔だと思い込んでしまった、――恐ろしい早合点ですね」
「……」
「それから夢中になって、朝から晩まで二階に登って、遠眼鏡と首っ引きだ。奥方の弥生《やよい》様はあばたで大嫉妬《おおやきもち》と来てるからたまらない。早くも殿様の素振りに気が付いて、目当てが町内の小間物屋の若くて綺麗な評判娘とわかると、殿様の胸倉を掴んで、遠眼鏡をねじり合う騒ぎだ」
「早く筋だけ話せよ。お前の話には、相変らず無駄が多くてかなわない」
「筋だけ運んじゃ木戸銭になりませんよ。四谷は遠い、ゆっくり訊いて下さいよ」
「講釈の気でいやがる」
「殿様は人橋を架《か》けて清水屋に掛け合い、娘お君を奉公に出せという無理難題だ。奉公というのは、申すまでもなく手掛け奉公だが、清水屋には行く行くはお君と一緒にするつもりで、親類からもらった市太郎という養子がいる」
「面倒だな」
「その人橋の中には、伊賀井家へ出入りしている植木屋辰五郎の女房で、お滝という凄いのがいる。こいつはもと品川で勤めをしていた三十女で、以前は武家の出だというが、自堕落の身を持ち崩して、女の操《みさお》なんてものを、しゃもじの垢《あか》ほどにも思っちゃいない。伊賀井の殿様に悪知恵をつけて、八方から清水屋の父娘《おやこ》を責めさいなんだ。金ずく、義理ずく、それでもいけないとなると、今度は腕ずくで脅《おど》かした」
三千石の裕福な殿様が、吹けば飛ぶような裏町の小間物屋に加えた圧迫の手は、残酷で執拗《しつよう》で悪辣を極めたものでした。
品川の女郎上がりのお滝――恥も外聞もとうの昔にすりきらしてしまった凄い年増が軍師で、十九娘のお君が、好色の旗本の人身御供《ひとみごくう》に上るまでの経緯《いきさつ》は、平次にはよくわかるような気がするのです。
ガラッ八の話はまだ続きます。
「――一方では伊賀井の殿様の奥方――弥生の方は、御主人の気違い沙汰に取逆上《とりのぼせ》て、これは本当に気が変になり、一と間に押し込められて、体《てい》のいい座敷牢暮しをするようになった。それをまたいいことにして、いよいよ清水屋を説き落し、大枚三百両の支度金まで投げ出して、いよいよ明日の晩は、お君を伊賀井家に乗込ませると決った――昨夜《ゆうべ》になって、肝心《かんじん》のお君は自分の家の裏口で、植木屋の女房のお滝は、お湯の帰りをそこから一丁とも離れていない御仮屋《おかりや》横町の入口で、背中から一と突きにやられて死んでいるじゃありませんか。お滝なんぞいい気味だが――」
「なんと言う口をきくのだ」
「ヘエ、相済みません。お滝はどうせ百まで生きていたって、人様のためになる人間じゃないが、清水屋の娘のお君が可哀想でなりません。それを狙《ねら》って爪を磨《と》いだ旗本の殿様なんか穀《ごく》つぶしみたいなものだが――」
「少しはたしなめよ八、人に聴かれたらうるさいことになるぞ」
「相済みません。が、あっしは本当のことを言っているんだ――山の手一番と言われた娘を、十九で殺しちゃもったいなさ過ぎます。ね、親分。十手|冥利《みょうり》にこいつは是が非でも下手人をあげて、思い知らさなきゃ虫が納まりませんよ」
八五郎の拳骨は、冬の陽を受けて宙に躍るのです。
伊賀町の清水屋には、土地の御用聞、弁慶の小助が待っておりました。武蔵坊のような大男で、豪力無双と言われておりますが、根が人の好い方で、日頃銭形平次の逞《たく》ましい知恵に推服し、むずかしい事件があると、なんの痩せ我慢もなく、後輩の平次を引っ張り出して、その明智の裁きに享楽するといった肌合いの男です。
「おや、銭形の親分、よく来てくれたね。出不精の親分のことだから、どうかと思って心配したが」
弁慶の小助はニコニコしながら迎えました。
「弁慶の親分の手伝いなら、どんな無理をしても来るよ」
平次はなんの世辞もなく、心からこう言える気持でした。
「有難う、そう思ってまだ入棺《にゅうかん》もさせずにあるんだ。まア見てくれ」
小助は不安と焦燥《しょうそう》にかき廻されて、日頃の落着きを失っているらしい店の者や近所の衆をかきわけて、奥のささやかな部屋に平次を案内しました。
貧し気な調度の中に、二枚屏風を逆様にして、お君の死体は寝かしてありました。枕許には手習机を据えて、引っきりなしに香を捻《ひね》っている五十男は、お君の父親で清水屋の亭主の市兵衛でしょう。
そのそばに小さくなってシクシクと泣いているのは、十六七の小娘で、眉目《みめ》美わしさや、抜群の可愛らしさから見ても、それはお君の妹のお吉でなければなりません。
お君の死顔は死の駭《おどろ》きさえも拭い去られて、世にも清らかな美しいものでした。『山の手一番』と八五郎の形容したのは、少しの誇張でもなく、血の気を失って青白くなった頬に、不思議にほんのりと桜色がのこって、霞《かす》む眉も長い睫毛《まつげ》も玉を彫《きざ》んだような柔かい鼻筋も、美しい唇の曲線もまさにこの世のものとも覚えぬ尊い清らかさです。
死骸を少し動かして、襟のあたりをはだけて見ると、左の背――ちょうど肩胛骨の下のあたりに、小さく肉の炸裂《さくれつ》しているのは、ここから心の臓まで、一とえぐりにした刃物の跡でしょう。
「八、この傷をどう見る」
平次は真っ白な娘の膚《はだ》に、不気味にはじけた傷痕を指さしました。
「棒で突いたようですね」
「いや、細身の刃物で、えぐったのだ」
「ヘエ、念入りなことをしたものですね」
「恐ろしい手際だよ」
死骸の玉の肌をもとのとおりに包んでやると、平次は少し席を退って線香の煙の中に掌《て》を合せます。
「何事も隠さずに言って下さい。娘さんが伊賀井家に上がるのを、はたからひどく嫌がった者があるはずだが――」
平次は父親の市兵衛を顧みます。
「みんな嫌がりました。娘は申すまでもなく、この私も、ここにいる妹も、倅の市太郎も」
「それほど嫌なものを、どうしてやる気になったのだ」
「親分、町人はよわいものでございます。金と権柄《けんぺい》と、いやがらせと、脅かしと、攻め手はいくらでもあります。同じ町内に住んで三千石の殿様に睨まれちゃ、動きがとれません」
市兵衛は娘をここまで陥し込んだ、大身の旗本の無情な要求を、娘を殺した下手人よりも憎んでいる様子です。
「昨夜《ゆうべ》のことを詳しく聴きたいが」
「私は帳場におりました、――このお吉の方がよく知っておりますが」
平次は妹娘のお吉の方を振り返りました。
「晩のお支度が済んだ時でした、――酉刻半《むつはん》(七時)の火の番の拍子木が通ったすぐ後だったと思います。外でなんか物音がしたと思うと姉は急にソワソワして、自分の部屋へ行っていつも好きで着るちょいちょい着の銘仙の袷《あわせ》と着換え、あわてて外へ出ようとするので、――姉さん今ごろどこへ行くの――と訊《き》くと、あのちょっとそこまで――と、ろくに返事もせずに出かけましたが、間もなく井戸端のあたりで、姉さんの声で私を呼ぶような、変な押し潰《つぶ》されたような声がするので、お仕事で使っていた手燭《てしょく》を持って飛び出して見ると――」
お吉はそこまで言って、さすがに絶句しました。昨夜の恐ろしい光景を思い出したのでしょう。この娘は見掛けの弱々しい可愛らしさに似ず、性根にしっかりしたものがあるらしく、昨夜の話も整然として筋も乱れません。
「お吉の大声を聞いて私も店から飛んで来ましたが、その時はもうお君はこと切れて、正体もありません。お吉は木戸の外にチラと人影が見えたようだと、すぐ往来へ飛んで出ましたが、まもなく戻って参りました。それから間もなく――」
父親の市兵衛もここまで話して来て、言葉は涙の洪水に押し流されるのでした。
「――そのとき死骸の側に、伝馬町の万次という野郎がウロウロしていたというんだ、――男っ振りは好いが、一向他愛のない安やくざだよ。その場から煙のように消えてしまったのだ。今朝になって、賭場《とば》で見付け出し、いちおう縄を掛けて自身番に預けてあるが、何を訊いても知らぬ存ぜぬだ」
弁慶の小助は側から|くち《ヽヽ》をいれました。
「刃物は持っていなかったのか」
「匕首《あいくち》を持っているよ、幅の広い出刃庖丁のような奴だ。もっともそれには血もなんにもついちゃいないがね」
「昨夜《ゆうべ》井戸端で見付けられたとき、なんにも言わなかったのかな」
平次はもういちど主人の市兵衛に訊くのでした。
「なにか変なことを申しましたよ、――お君が殺されているんだ、俺と逃げるはずだったが。畜生ッ、誰がこんな虐《むご》たらしいことをしやがったんだ――と言ったようで」
「養子の市太郎は?」
「そのとき、庭木戸から入って来たようです。よくはわかりませんが」
市兵衛の言葉には何か割りきれないものがあります。
「養子の市太郎と、娘のお君との仲は好かったのかな」
「決して仲が好いとは申されませんでした。市太郎は堅い良い男ですが、商売熱心で地味で、――若い娘などに好かれる男ではございません、――でも」
市兵衛はなにか続けようとして口を緘《つぐ》みました。遠い親類の次男で、商人の市兵衛が堅いのを見込んでもらった養子で、山の手一番の娘が気に入るはずもありません。
「その娘が、養子の市太郎を嫌って、やくざの万次と親しくなっていたのだよ」
弁慶の小助はそっと平次の耳に囁きます。
「世間の噂《うわさ》が私の耳にも入ります。人もあろうに、小博奕《こばくち》を渡世にしている、安やくざと懇《ねんご》ろになっては、娘の一生も台なしでございましょう。お旗本の妾《めかけ》に上げては、私の心持が済みませんが、それでもやくざ者の配偶《つれあい》にするよりは増しでございます。伊賀井様のお望みどおり、急に娘を奉公に差し上げる気になったのは、そんなことからで――」
小博奕打ちの女房にするよりは、まだしも三千石の旗本の妾にした方が――と言った考え方は、善悪はともかく江戸の町人のそれは常識だったのです。
平次はそこから昨夜娘が刺された場所――お勝手口の井戸端を廻りました。まだ宵《よい》のうちの出来事で、内外の戸締りもなく、庭は打ちつづくお天気に踏み固められて、足跡一つ残ってはおりません。井戸端に流れた血潮は洗い清めた所で、土が少し湿って居りますが、そんなのは平次の探索になんの役にも立たなかったのです。
「あれは?」
「養子の市太郎だよ」
弁慶の小助が引合せてくれたのは、二十五六の頑丈な男で、色も黒く、目鼻立ちも大きく、その上横肥りで、武骨で、全く女子供に好かれる|たち《ヽヽ》の男ではありません。
「ご苦労様でございます」
小腰を屈めて行き過ぎようとするのを、平次は呼び留めました。
「昨夜お前はどこへ行っていたんだ。お君が殺される少し前だ」
「ヘエ」
「はっきり言わないと面白くないことになるぜ。お前はお君を怨んでいたはずだし、――背後《うしろ》から一と突きして、外へ出て改めて引っ返して来る手もあるわけだ」
「とんでもない。親分さん」
「だから、どこへ行っていたか。はっきり言うがいい」
「申さなきゃなりませんか。親分さん」
「当り前だよ。隠しおわせることじゃあるめえ」
平次の態度は峻烈で少しの容赦もありません。
「私は福寿院《ふくじゅいん》の境内《けいだい》へ行って、半刻(一時間)ばかり人を待っておりました」
「誰を?」
「お二人――お君と万次を待っていました」
「?」
「お君が伊賀井様へ奉公に上がることにきまると、万次はお君に家を逃げ出すようにすすめました、――私はフトしたことで二人の相談を聴いたのですから、間違いはございません、――万次は小田原とかに叔母がいるそうで、そこまで行って、しばらく身を潜め、路用を拵《こしら》えて上方へでも行こうという話でした」
「?」
「こんなことを申してはなんですが、万次という男は信用のできる男ではございません。お君を騙《だま》して夜逃げなどをして、いつお君を捨てて金にするかあやしいものでございます」
「……」
「現に半年ほど前にも植木屋の辰五郎の女房――あの殺されたお滝ですが、――あの女と妙な噂を立てられ、殺すの生かすのと一と騒動をしたばかりでございます。それが納まると今度はお君にチョッカイを出し、なんにも知らないお君は、万次の男っ振りと口車に乗せられて、夜逃げまでする気になったのでしょう」
「……」
「明日はいよいよ伊賀井様に上がるという前の晩の昨夜、正|酉刻半《むつはん》に福寿院の境内で落ち合おうという約束をした様子でした。私はそれを胸一つに納めて、少し早目に福寿院の境内に参り、二人の顔の揃ったところで、よく話をして無分別な夜逃げなどを留めようと思ったのでございます。――ところが酉刻(六時)から酉刻半まで待ちましたが、二人とも姿を見せません。もっとも酉刻半の火の番の拍子木の通るのを聞くと一緒に、万次は来たようでしたが、四方《あたり》を見廻してもお君の姿が見えないので、舌打ちしてこっち――お店の方へ来たようでございました。私もその後から直ぐ参りましたが――」
「それからどうした」
「お君は殺されて、井戸端は大騒動でございました。そして万次はしばらくウロウロしておりましたが、さすがに名乗って出ることもできなかったものか、すごすごとどこかへ行ってしまいました」
「万次がお君を殺した様子はなかったのか」
平次は突っ込んだことを訊ねます。
「それは見ませんでした、――二人は逃げる相談をしていたくらいですから、万次が馬鹿でもお君を殺すはずはないと思いますが――」
市太郎の言葉はまことに穏当ですが、しかし万次が下手人でないという保証にはなりません。
「ところで、お君はお前をどう思っていた」
平次の問いはますます深刻になります。
「やくざ者の万次と夜逃げの相談をするくらいですから――もっとも私は諦めて居りました。どうせお君の気に入るはずはありません」
「……」
「父親もそれを気にして、お君はあのとおりの我儘者だから家に置いたところで、お前とうまく行くわけはあるまい。思い切って伊賀井様に差し上げて、お前にはこの店の暖簾を譲り、お吉が姉のような我儘を言わなければ、ゆくゆくはお前と一緒にしてやりたい――と」
こう言った市太郎は、言い過ぎに気がついたらしく、急に口を|つぐ《ヽヽ》んでしまいました。
自身番には、腰縄を打ったやくざの万次が預けてありました。二十五六のいなせな男で、物言いもハキハキして、いかにも若い町娘に好かれそうですが、才気走っておっちょこちょいで、あまり頼母《たのも》し気ではありません。
「お前は清水屋のお君を殺した疑いで縛られていることは知ってるだろうな」
平次は万次の顔を見ると、いきなりこう突っ込んだことを訊くのでした。
「親分、あっしがそんな馬鹿なことをするかしないか、よく考えて下さい。昨夜お君と夜逃げをして、小田原まで飛ぶつもりで、支度までした者が、その相手を殺してもいいものでしょうか。親分」
万次は泣き出しそうな声を出すのでした。
「それじゃお君を怨んでいる者の心当りがあるだろう、――お君は普段そんな話をしなかったのか」
「お君はそう言いましたよ。私を一番怨んでいるのは、伊賀井様の奥方だろう――と、私のために気が変になったというから、義理にも同じ屋根の下には住めない――とも言っていました」
「清水屋の養子の市太郎のことは、なんと言っていた」
「心の中では私を怨んでいるだろうが、顔色にも出さないから、あの人は気味が悪い、――でもあの人は、どうかしたら妹のお吉の方を好きかも知れない――そんなことも言っていました」
「お前が福寿院の境内でお君と会う約束のあったことを、誰か知っていたのか」
「誰も知ってるわけはありません、――それを知っている者があれば、あっしはお君を殺した疑いで縄なんか打たれずに済んだことでしょうが」
万次はことごとく萎《しお》れ返っております。これが筋彫の刺青《いれずみ》などを見栄にして、やくざ者らしく肩肘《かたひじ》を張っていたのが可笑《おか》しくなるくらいです。
「ほかにお君を怨んでいる者の心当りはないのか」
「伊賀井の御用人、竹林金吾という方が、ひどくお君を憎がっていたそうです」
「伊賀井様お屋敷内に、お君やお前が知っている方はないのか」
「女中のお初さん、――まだ若い働きものですがね、お屋敷の内外を一人で切って廻して、よく買物や用達しに出るので、お君とも懇意にしていたようです」
万次から訊き出せるのはこんなことでした。これだけではまだ、万次の縄を解いてやるわけにも行きません。
植木屋の辰五郎の家は、新堀江町寄りの裏店《うらだな》で、平次が行った時は、まだ女房のお滝の死骸もそのまま、辰五郎は死んだ女房の床の前に、大胡坐《おおあぐら》をかいて茶碗酒を呷《あお》っているところでした。
|ろく《ヽヽ》な親類もあるはずはなく、町内付き合いもいい加減で、合長屋の月番の老爺が、お義理だけの顔を出して、へべれけの辰五郎のお守《もり》を、迷惑そうにやっているという、いかにも惨憺《さんたん》たる有様です。
「御免よ」
「誰だえ、――悔《くや》みに来たのなら、ズイと入りな。線香だけはフンダンに用意してあるよ。もっとも夏に買って置いた蚊やり線香だが、仏は文句を言わねえから間に合わねえことはあるめえ」
「たいそうな元気だね、親方」
平次も少しタジタジでした。
「何を言いやがる、女房が死んでメソメソするようなお人柄じゃねえよ。年が明けて品川から駈け込んだのは三年前だ。お互いによくも辛抱したものだと、我ながら仏様の前《めえ》で感心しているところなんだ、――おっとどっこい、拝むのは御自由だが、香奠《こうでん》を忘れちゃいけねえよ」
「親方、あんまり威張ると引っ込みがつかなくなるぜ。銭形の親分が調べに来たんだ」
見兼ねた八五郎は、この自棄《やけ》で呑んでいるらしい植木屋の耳に囁きました。
「何? 銭形の親分? そいつは知らなかった、――相済みません。勘弁しておくんなさい、――お滝と来た日にゃ、大酒呑みで手が早くて、欲が深くて嫉妬《やきもち》で、生きているうちは始末の悪い女房だったが、死んだとなるとやっぱり淋しいや。ね、親分さん」
「長屋の奴等は薄情だから、鼻糞《はなくそ》ほどの香奠を月番の老爺に届けさせて、ろくに面《つら》も見せねえ。――そこへ行くと伊賀井様の人達は届くぜ、御用人の竹林さんは御殿様からという口上付きで香奠が一朱、自分のは別に二百文」
「……」
「三千石の大世帯で一朱はケチだと思うだろう、俺もそう思ったよ、最初はね。ところが驚いちゃいけないよ、奥方のお使いでやって来たお初さんは、ピカリと光らせたぜ。帰ってからそっと開けて見ると、小判で三両、外にお初さんの分が一分――山吹色のできたての小判だぜ。ね、親分、三千石の奥方はさすがに大気なものだろう」
辰五郎の繰言《くりごと》は際限もなく続きますが、平次はそれをいい加減にあしらって、お滝の死骸を一応調べました。
多分|昨夜《ゆうべ》のままらしく、血潮に染んだ袷のまま、床の上に横たえた死骸は、亭主の辰五郎と同年輩の三十前後、でしょうか。生きているうちは、ずいぶん美しかったに違いありませんが、すさんだ生活と気持が、その顔容《かおかたち》までも荒れさして、意思の働かない死面の凄まじさは、平次も思わず顔をそむけたくらい。蒼白く整った顔からは、芬々《ふんぷん》として妖気が立ち昇るような気がするのです。
傷はお君の場合と全く同様、細い刃物で背後《うしろ》から一と突きに突き上げたものですが、お君の場合は思い切り抉《えぐ》ってあるのに、これはただ突いただけで、同じく致命的なものであったにしても、大変な違いがあります。
「刃物は?」
「俺が預かってあるよ。これだ、――お滝の背中に突ったっていたんだ」
弁慶の小助は懐中からクルクルと紙に包んだ、細身の短刀を出して見せました。朱塗に螺鈿《らでん》を施した美しい鞘《さや》まで添えてありますが、御殿勤めの女中などの持った品らしく、脂《あぶら》が乗って曇ってはおりますが、作はなかなか良いものです。
「鞘はどこにあったんだ」
「お滝の死骸の側に落ちていたそうだよ」
弁慶の小助は答えてくれます。
「ところでこの短刀に見覚えはないのか」
平次は辰五郎の酔顔の前に、その斑々たる得物を突きつけました。
「知ってるわけはねえ」
「お滝の物じゃあるまいな」
「そんな物を持っていれば、とうの昔に質に置いて呑むよ」
手のつけようはありません。
お滝の殺された路地を見て、近所の人にも詳しく当って見ましたが、昨夜|酉刻半《むつはん》少し過ぎ、火の番の拍子木が通って間もなく、悲鳴を聞いて近所の人が駈けつけると、湯帰りらしいお滝が、ドブ板を枕にして、紅《あけ》に染んで死んでいたというだけのことです。
月がなかったので、誰も曲者の姿を見た者もなく、死骸を発見したのも多勢が一緒で、一番先に誰が駈けつけたのやら、そんなことは少しもわかりません。
「これは驚いた。この殺しには下手人はいないよ」
もとの清水屋へ帰って来た平次は、誰へともなくこう言うのでした。
「やくざの万次は?」
弁慶の小助は聞きとがめました。自分の縛った万次が無実では、少しばかり面目にかかわります。
「夜逃げの相手を殺すはずはないと思うがどうだろう、――お君はわざわざ着換えまでして、万次と一緒に逃げ出す気で飛び出している」
「市太郎は? 親分」
「あの男はもっともらし過ぎて怪しいが、お君はどっち道自分のものにならないと諦めている様子だ。それに福寿院の境内からも、万次の後で引揚げている」
「すると?」
「お君を殺したのと、お滝を殺したのは、同じ下手人らしいが、刃物の使い方に変ったところがある、――それに物盗りではないし、怨みと思ったところで、若い娘が相手だから、色恋の外にはない」
「……」
「お君を殺して直ぐお滝を殺せるのは、万次の外にはないことになるが、お君の死骸の側にウロウロしていた万次は、その足ですぐお滝を殺したとは思われない」
「……」
「どうだ八、こうなると下手人がなくなるだろう」
「ヘエ、やっぱり鎌鼬《かまいたち》かなんかで?」
「江戸に鎌鼬はいないよ」
「じゃ、どうするんです、親分」
「最初からやり直しだよ」
平次は深々と腕をこまぬくのでした。
「驚いたね。見当だけでもつきませんか」
「つくよ。お君を殺したのは、武芸の心得のあるものだということだけはね。細身の短刀でただ突き上げただけじゃ、あんな傷にはならないよ。下からえぐり気味に突いたのだ――ところが、お滝の傷はただ猪《しし》突きに真っ直ぐに突いている、――これはどういうわけだ」
「?」
「時刻も煙草三服とは違っていない。場所は一丁も離れていないし、――お君が殺された時分、万次と市太郎は、福寿院の境内にウロウロしていたはずだ。そして二人が清水屋の裏木戸へ来た頃、あべこべの方角の御仮屋横丁の入口でお滝が殺されているんだ」
「とにかくもう一度順々に、掛り合った人達に会って見よう」
平次は清水屋へ入って行くのです。
「親分」
「なんだ、八」
「清水屋の主人が、娘が死んだ上は三百両の支度金を留め置くわけに行かないから、あの金を伊賀井様にお返ししたいが、使いに行く者がない――とこぼしていましたが、あっしが行ってやっても構わないでしょうね」
「何を嗅ぎ出したんだ」
平次はこの八五郎の申し出の裏に、事情のありそうな匂いを嗅いだのです。
「なんでもありませんがね、お君を遠眼鏡で見たという、日本一の助平野郎の顔も見たいし」
「馬鹿なことを言うな」
「大嫉妬《おおやきもち》のあばたの奥方にもお目にかかりたいし、用人の竹林なんとか野郎の面《つら》も見て置きたいし、それから、女中のお初というのは、奥方が嫁入りの時ついて来た女で、良い年増で腕が出来て、その上忠義者と聴くと、ちょいと当ってみたくもなるじゃありませんか。お滝の背中に突っ立っていたのは、御守殿好みの細い匕首でしょう」
「そんなことに眼をつけたのか。修行のためだ、行って見るのもよかろうが、相手が悪いから気をつけろ。十手などをチラつかせると飛んだ目に逢わされるぜ」
「心得てますよ。清水屋の亭主の妹の姉の亭主の甥《おい》の伯父さんみたいな顔をして行きますよ」
八五郎はそんなことを言いながら飛んで行きました。
平次は克明に二度目の調べを始めたのです。その後からうさんの鼻をふくらませて、弁慶の小助がついて来たことは言うまでもありません。
お君の死骸はこのとき親類方やご近所の衆の手を借りて、入棺されるところでした。その前に一と眼、この清らかな死骸を見せてもらった平次は、念のため背中の凄まじい傷、――蝋化《ろうか》したような蒼白い凝脂に、痛々しくも残る傷を見て、多勢の人達を眼顔で隣りの部屋に追いやり、父親の市兵衛と一緒に残っている、妹娘のお吉に、ささやき加減に訊くのです。
「お前は確かに姉さんの声を聞いたのだな」
「え」
「そして手燭を持って飛び出した時は、姉さんはもう口をきけなかった?」
「井戸端の石の上に俯向《うつむき》になっていました。もう正気もなかったようです」
「姉さんの背中に、刃物が突っ立っていたはずだが――」
「あったようでした」
「それを誰が抜いたのだ」
「さア――」
お吉は黙ってしまいます。
「お前は木戸の方へ逃げて行く人影を見たと言ったそうだな」
「確かに見ました」
「着物か、人相かに覚えはないか」
「女のようでした」
「どうして女とわかった」
「ただそう思っただけで」
小娘の記憶はこれ以上にはよみがえりません。
「有難う、いろいろのことが解ったよ。もう皆んなここへ呼び入れても構わない――御主人にはもう少しききたいことがあるが」
平次は庭へ滑り出ました。後ろからついて来た小助と市兵衛。
「御主人、娘たち二人の仲は好かったのかな」
庭木戸のところに立止って平次は妙なことを訊ねます。
「仲の好い姉妹でした。世間様の褒めもので、――姉のお君はどっちかと言えばお人好しで、やくざの万次などにまで騙されましたが、妹のお吉は顔に似合わぬ気性者で、姉を伊賀井様に奉公に出すのも、万次|風情《ふぜい》と親しくなるのも、ひどく嫌がっておりました」
市兵衛の話はかなり平次の壺《つぼ》にはまった様子で、そこから弁慶の小助と二人、調べの筋をくり返して、もういちど自身番へ向ったことは言うまでもありません。
「万次、お前のような嫌な奴はないな」
やくざの万次の顔を見ると、平次はいきなり、唾《つば》でも吐きかけそうにするのです。腰縄は解きましたが、まだ小助の子分二人に付き添われて、自身番に留め置かれた万次は、平次の一喝《いっかつ》を喰って、
「何が悪かったでしょう、親分」
ヒョコヒョコと卑怯らしく頭を下げるのでした。
「お前はお君殺しの下手人にされているんだぜ。いいか、――お君を殺さないという確かな証拠は一つもねえ」
「?」
「お前は本当にお君と小田原へ逃げる気だったのか」
「それは、もう親分」
「お滝はそれを知っていたのか」
「えッ」
「隠すな、お前はお滝と変な噂を立てられて、一と騒ぎしたのはツイ半年前のことじゃないか」
「そんなことまで御存じで、――みんな申し上げてしまいましょう、――実はお君を伊賀井様へ上げることを考え出したのはお滝の知恵で、あらゆる手立てを考えて、あっしとお君の仲を割こうとしたのです。でも、とうとうあっしが勝ちましたよ。いよいよ明日はお君を伊賀井様へ連れて行くという前の晩、二人は道行をする段取りになったのです。でも狐のように疑い深くて、二人をつけ廻していたお滝は、それを嗅ぎ出さないはずもありません。お滝はどんなことをしても二人の道行を留めようとかかったのです。あの女が殺されなきゃ、どんな業《わざ》をしたか知れたものじゃありません」
万次――弱そうな色悪の万次は、胴ぶるいしながらこんなことを言うのでした。よくよくお滝には懲《こ》りた様子です。
「昨夜《ゆうべ》はお前はお滝に会わなかったのか」
「会いません。逃げて歩いていたんで」
万次は意気地なくも首筋などを掻いております。
平次は万次から引出せるだけ引出すと、順序を追ってもういちど植木屋の辰五郎の家へ。
「親分方、いらっしゃい。酒が集まっているから、こんどはただじゃ帰さないよ。ゲープ」
相変らず仏様の前に大胡坐で、茶碗酒を呷っている辰五郎です。
「少し訊きたいが」
平次はその前に腰を落しました。
「ヘエ、なんなと訊いておくんなさい。仏様にはとんだ供養《くよう》だ、どんなことでも白状するぜ」
「親方んところの神さんは、もと武家の出だと言ったね」
「言いましたよ。武家も武家、なんとかの守の御留守居で、一時は大名のような暮しもしたと、お滝は威張っていましたよ。それがなんでも悪いことをして腹を切らされ、母一人娘一人でたいそう苦労をした揚句、親孝行のために品川へ身売りをしたんだ――と言いましたが、嘘を吐きゃがれ、己《うぬ》が放埓で好きな女郎になりやがったんだろう――て言ってやりましたよ」
「それから」
「あのとおり良いきりょうでしたが、大酒呑みで嘘つきで、嫉妬《やきもち》がひどくて気違い染みていたから、客の方から逃げ出して、年が明けても落ち着く先もなく、着のみ着のままでここへ転げ込んで来ましたよ」
「で?」
「近頃はあっしの出入り先の伊賀井様に喰い込んで、清水屋のお君坊をお妾に世話して、たんまり纏《まと》まった礼をせしめるんだと言っていましたがね」
「ところで、そのお滝さんは、武芸がよくできたというじゃないか」
「自慢でしたよ。娘のころ江戸のお屋敷で長刀《なぎなた》の一と手、柔術《やわら》から小太刀まで教わり、家中でも評判の腕前だったってね。その代り亭主野郎のこのあっしが散々で、腹を立てて取っ組み合いを始めても勝てっこはねえから情けない。万次と変な噂を立てられた時だって、幾度むしり合ったか知れないが、負けはいつもこっちなんだ。ヘッヘッ、見っともなくてお話にもなりゃしませんや。仏様の前だから供養のために言うようなものだが――」
辰五郎の酔態は、まさに爛漫《らんまん》たるものでした。
「お前は先刻《さっき》、あの短刀を知らないと言ったが、――ありゃやっぱりお滝の持物じゃないのか」
平次はこの酔態へ釣り気味に訊ねました。
「まさにそのとおり、ありゃ女房の虎の子にしていた、お袋の形見だよ。何べん口説いても、あればかりは質に入れさせなかった品で」
「どうしてそれをお前は知らないなんて言ったんだ」
「面倒臭かったんですよ、親分。掛り合いで引張り出されると酒の味が悪くなるからね、――が、もう酒もたくさん、言うだけのことを皆んな言ってしまえば、あっしも気が軽くなるというもので。御免よ、親分方。あっしはちょいと横になるぜ」
辰五郎はコロリと横になると、女房の死骸の前に、大きなイビキのレクイエムを上げるのでした。
「ワッ、驚いたの驚かねえの」
八五郎は鉄砲玉のように飛んで来て、平次と鉢合せをしそうになって、クルリと廻って羽目板を力にようやく立直りました。
「何を大騒動するんだ。まるで四谷の伊賀町の路地へウワバミでも出たようじゃないか」
平時はそれを迎えてニヤリニヤリしております。後ろにキョトンとしているのは、何が何やら見当のつかない弁慶の小助の偉大な肉塊。
「いきなり引っこ抜いて、ピカリと来ましたぜ。あの用人の竹林というのは、年寄りのくせに恐ろしく気が早い」
「何をやって脅《おど》かされたんだ」
「この八五郎が、三百両の支度金を持って乗込んだところは、大した武者振りでしたよ、親分。見せたかったな」
「ピカリと来ると、逃げ出すようじゃ、拝見しない方が無事らしいぜ」
「用人の禿頭《はげあたま》に三百両を叩き返して、サテと改りましたよ、――遠眼鏡で町娘を御覧になって、奉公に出せなんて無理を言うからこんなことになるんだ。お君を殺したのは間違いもなく武芸の心得のある女だ――お君を生かして置きたくない人間が、このお屋敷の中にいるに違いない、その顔を見なきゃ一寸もここは動かない――とね、大した啖呵《たんか》だったぜ親分」
「そうだろうとも、見なくてとんだ仕合せさ。屁っぴり腰でガタガタ顫えながらの啖呵なんざ――ところで、お前はお君を殺した下手人は誰と見当をつけたんだ」
「あの用人の竹林でなきゃ、奥方付のお女中で、腕の立った忠義者のお初ですよ。それに決っているじゃありませんか、大事の大事の大|あばた《ヽヽヽ》の奥方を気違いにした町人の娘を、屋敷へ一と足も踏み込ませるものかと思ったに違いありません。女持ちの匕首なんか持出して、清水屋の井戸端でお君を一と突きに殺し、取って返して御仮屋横丁で、女衒《ぜげん》みたいなお滝を刺した、――鏡山の芝居だって、下女のお初は忠義者ときまっているじゃありませんか」
八五郎はまさに、そう信じきっているのでした。
「お前は伊賀井家へ乗込んで、そんなことを言ったのか」
「言いましたとも、相手は三千石の大身だ。脅かしかも分らないが、幸い三百両の餌《えさ》があるから、用人の禿頭を前にして、奥まで響くように精いっぱいの大声で立て読み一席やりましたよ。あれだけ張り上げれば、大川の向うへだって聞えまさア。遠眼鏡の殿様も大あばたの奥方も、一から十まで聴いたに違いない」
「それからどうした」
「無礼者、そこ動くな、ピカリと来ましたよ、首筋をかすったようだが、傷はありませんか、親分」
八五郎は自分の首筋へ唾などなすっているのです。
「馬鹿だなア」
「それから一目散に飛び出した。――懐中《ふところ》の十手を取り出すわけにも行かないから、逃げの一手だ。石灯籠《いしどうろう》を蹴散らして植込をくぐって、裏門を出るのが精いっぱい」
「呆れた野郎だ。だから俺は余計なことをするんじゃないと言ったろう」
「だって女二人まで殺してヌクヌクと――」
「誰が女二人を殺したんだ」
「あの味噌摺り用人でなきゃ、下女のお初」
「違うよ、八」
「ヘエ?」
「弁慶の親分も聴いてくれ、――俺は今、下手人の名を打ち明けるから、決して縛らないと約束してくれるか」
「そいつは変じゃないか、銭形の」
「じゃ、黙って俺は神田へ帰るばかりだ」
「約束するよ、――お君を殺したのは誰なんだ」
弁慶の小助も不承不承に平次の条件を容《い》れる外はありません。
「お君を殺したのは、辰五郎の女房お滝だよ」
「え、あれは大事の金の蔓《つる》じゃないか」
「その金の蔓が、自分の男を奪《と》って、小田原へ逃げ出そうとしている。お君と万次が道行をきめると、一番馬鹿をみるのはお滝だ。昨夜二人が逃げ出すと覚《さと》ったお滝は、湯へ行くと言いこしらえて、秘蔵の短刀まで持出し、清水屋の裏に忍んで、お君が着換えして飛び出したところを後ろから突き上げるように抉《えぐ》ったのだよ」
「なるほどね――すると銭形の親分の前だが、お君殺しの下手人は縛るわけに行かねえ――ところで、そのお滝を殺したのは誰だ」
弁慶の小助はすっかり感に堪《た》えます。
「お吉だよ」
「えッ」
「お君の妹のお吉さ、――あの娘は優しい顔をしているが大した気性者だ、――姉の悲鳴を聴いて手燭を持って飛び出すと、姉は井戸端で殺されて、曲者は木戸の外へ逃げるところだ。その顔か姿を、お吉はチラと見たに違いない。姉の背に突き立っている短刀を引抜いて追っかけ、御仮屋横丁でお滝に追い付いて、物をも言わずに後ろから刺し、そのまま逃げて帰ったところへ父親が来たのだろう。万次や市太郎が来たのは、それからまた後だ」
「本当ですか、親分。あの娘が、あの可愛らしい――」
「間違いはないよ。他にお君を刺した短刀を引抜いて、お滝を刺す人間はないはずだ。短刀はお滝の物だ。お滝は太《ふて》え女だがさすがにお君を殺したところへ、お吉が手燭を持って出て来たので、あわてて短刀を抜かずに逃げたのだろう――証拠はいくらもある。お君の背に刃物の突っ立っているのを見たのはお吉だけだし、下手人の逃げて行くのを見たのもお吉だけだ」
「ヘエ、あの娘がね」
「さア、帰ろうか八、――なに? もう一度お吉の顔を見てくる? 止せよ。ここからではもう遠眼鏡もきくまい、――それじゃ弁慶の親分、後は頼んだぜ。他の者なら、あんなことを言わないが、弁慶の親分だから、ツイ余計なことまで打ち明けてしまったよ。あとは神様のお白洲《しらす》にまかせようじゃないか、じゃ」
平次は弁慶の小助に手を振って、御見付の方へ引揚げて行くのです。後からはヒョコヒョコと八五郎が、――初冬の昼下がりの陽ざしはポカポカと首筋を暖めるのでした。
妾の貞操
「ウーム」
加賀屋勘兵衛は恐ろしい夢から覚めて、思わず唸《うな》りました。部屋一パイにこめているのは、七味唐辛子《なないろとうがらし》をブチ撒《ま》けたような、凄い煙で、その煙を劈《つん》ざいて、稲妻の走ると見たのは、雨戸から障子へ燃え移った焔《ほのお》です。
「火事だッ」
絶叫した声は、喉《のど》の中で消えました。眼、鼻、口から入る煙の|えぐさ《ヽヽヽ》、面《おもて》も挙げられない有様です。
「親分」
気が付いてみると、床を並べていた若いお妾《めかけ》のお関は、煙にさいなまれながらも、死力を尽して這い寄りざま、勘兵衛の裾《すそ》にわつわりついているではありませんか。
「裏へ出るんだ」
勘兵衛は夢中になって絡《から》みつくお関を振りもぎるように焔の来る方とは反対の、北向きの腰高窓に飛び付き、障子を開けて雨戸の棧《さん》を上げましたが、どうしたことか、雨戸は糊付けになったように敷居に固着して、押しても突いても、叩いてもビクともすることではありません。
幸い有明の行灯《あんどん》の火がまだ消えず、背《そびら》に迫る焔は、ときどき紅蓮《ぐれん》の舌を吐いて、咄嗟の間ながら、畳の目まで読めそうです。
「凍っている。畜生ッ」
勘兵衛は恐ろしいものを見てしまったのです。敷居に流し込んだ夥《おびただ》しい水が、二月初旬の珍しい寒さに凍って、雨戸はまさに地獄の門のように閉されて居るのでした。
「親分、どうしましょう」
後ろから、おろおろと這い寄るお関。肉体的にはこの上もない美しい娘ですが、命がけの危急の場合には、なんの役にも立ちません。
「騒ぐな、――こっちへ来い」
唐紙を蹴破って、飛び込んだのは次の六畳、――勘兵衛お関の寝ていた八畳と、その次の間の六畳、――離屋《はなれ》はこの二た部屋きり、そこも半分は焔で、南側の縁側から障子へ、天井へと、蛇の舌のような火焔が、メラメラと這い上がるのです。
勘兵衛は、東側の入口、三枚の雨戸の戸袋寄りの一枚に飛び付きました、――が、ここもまた、敷居の溝一パイに溢れる水が、暁近い寒さに凍ってしまって、叩いても、押しても貧乏揺ぎもすることではありません。
「畜生奴ッ」
勘兵衛はもういちど唸りました。火は離屋半分を包んで西側と南側には寄りつくこともならず、北窓と東の入口の雨戸が凍り付いては、中にいる者は完全に逃げ場を失って、焼け死ぬのを待つ外はなかったのです。
だが、加賀屋勘兵衛は剛健で戦闘的で、力も智恵も人並み優れた大親分でした。五十は越しておりますが、これくらいのことで、諦めて死んでしまうようなヤワな人間ではありません。
やにわに足を挙げて、東側の雨戸を蹴ると、三度目には大穴があき、五度目には横棧が飛んで、七つ八つ目にはどうやら人間が潜れそうな穴があきました。
「何をまごまごして居るんだ、来ないか」
煙に巻かれてウロウロしているお関の襟髪《えりがみ》を取って引寄せ、穴から押し出してやって、お尻をポンと蹴ると、続いて自分もその後から、暁近い庭の大気の中へ大した骨も折らずに飛び出してしまいました。
その頃になってようやく気が付いたらしく、
「それッ、火事だ」
「親分はどうした」
母屋《おもや》からバラバラと駈け付けたのは、若い者の喜次郎、有松、七之助。
「俺はここに居るよ。何をあわてるんだ」
親分の勘兵衛は、少しは取り乱しておりますが、それでも精いっぱいの落着きを見せて、子分達の前に立つと、後ろには妾のお関が、まだ驚きと恐れが去らないものか、寝巻の裾をかき合せながら、ガタガタ顫えている様子です。遠くで近くで競い打つ、擂番《すりばん》の音。
「お怪我はありませんか、親分」
「とんだことで」
言い捨てて若い三人は、火の方へ飛んで行きます。その頃から町が騒然と湧き立って、鳶《とび》の者も弥次馬も八方から集まるのでした。
この事件は早くも八五郎の耳に入り、いちおう現場を調べた上、親分の銭形平次に報告されたことは言うまでもありません。
「親分、世の中には、恐ろしく悪賢こい野郎があるものですね」
感に堪えると八五郎の顎《あご》が、もう一寸ほど伸びて見えるのです。
「どこにお前がびっくりするような利口な人間がいるんだ」
よく晴れた二月の昼下がり、今朝の寒さは忘れてしまったような、南縁の陽溜《ひだま》りに煙草盆を持ち出して、甲羅《こうら》を温ためながら、浮世草紙などを読んでいる、太平無事の平次の表情でした。
「本所番場町の加賀屋勘兵衛――親分も御存じですね」
「知ってるとも。評判のよくねえ男だが。あれでも人入れ稼業の大親分だ。小大名の二三軒は持っているということだな」
「その加賀屋勘兵衛の妾というのは、大した女で――」
「それが悪く賢こくて、さすがの勘兵衛も海月《くらげ》みたいにされて居るという話だろう」
平次は無造作に先を潜ります。
「大違いで。悪く賢いのは誰だかわかりませんが、ともかく、離屋《はなれ》に寝ている勘兵衛と妾のお関を焼き殺そうとした奴があるから大変でしょう」
「フーム」
「妾のお関というのは、中の郷の小間物問屋半兵衛の娘で、可愛らしくて親孝行で、本所中の評判者でしたが、去年の秋無理無体に加賀屋へ奉公に出され、それっきり好き者の勘兵衛の妾にされてしまったという話で――」
「加賀屋勘兵衛には女房がないのか」
「ありますよ。少し気が変で、化け損ねた雌猫《めすねこ》のようなのがね――勘兵衛は五十を越している癖《くせ》に女道楽が強く、金ずく力ずくで、取替え引替え妾をつれ込んで来るんですから、女房はあったところで置物同様で」
「それでどうしたというのだ」
「昨夜《ゆうべ》――と言っても今朝方ですがね。勘兵衛と妾のお関が寝ている離室へ、外から火を付けた野郎があるんです」
「確かに外から付けた火だろうな。過ち火じゃあるめえな」
「南側に積んで干してあった、冬囲いの藁《わら》に火をつけたらしいと言うんですよ。中に寝ている勘兵衛が気が付いた時は、南側から西側へ火が廻って、手の付けようはない。北側の窓へ飛び付いたが、ここは凍り付いて開かず、東側の雨戸も恐ろしく頑固に凍り付いていたが、勘兵衛はそれを叩き破って、おろおろするお関を蹴飛ばすように、自分もようやく這い出して、危うい命を助かったという話なんで――」
「昨夜は二月には珍しい寒さだったが、この十日ばかり雨も雪も降らないのに、雨戸が凍りつくのは変じゃないか」
平次の鋭い勘《かん》は早くもこの矛盾《むじゅん》に気が付いたのです。
「そこが曲者の悪賢こいところで」
「フーム?」
「行灯の灯《あかり》と、縁側から背後《うしろ》へ燃えて来た火でよく見ると、敷居に水を流し込んだ奴があるらしく、どの雨戸も暁方の寒さで、カンカンに凍り付いていたというから恐ろしいじゃありませんか」
「なるほど、それは恐ろしい新手《あらて》だ。雨戸を釘付けにして火をつけるという話はよく聴くが、中に休んでいる者に知れないように、雨戸に釘を打ち込めるわけはない。――寒い晩を選《よ》って、外から敷居に水を流し込み、一方から火をつけると、これは釘付けよりも確かなわけだ」
「ね、悪く賢こい野郎じゃありませんか」
「そんな細工をした火つけ野郎がわかっているか」
「わからないから困っているんで」
「心当りくらいはあるだろう」
「あり過ぎるんですよ」
「誰と誰だ」
「第一番に勘兵衛の女房のお角。これは妾のお関を怨んでいるわけだが、三十年近くもつれ添った亭主の性悪を知り抜いているし、今までも取替え引替え同じ屋根の下につれ込んだ妾が三人や五人じゃなく、諦らめきっている様子で、毛程も嫉妬《やきもち》らしい顔をしない女だそうですよ。――もっともこの女は掃除気違いで、朝から晩まで箒《ほうき》と雑巾を話さないという変り者で、男を汚《きた》ながって、自分の亭主も側へ寄せつけないというから怖いでしょう」
「それから」
世の中にはそう言ったヒステリー性の潔癖《けっぺき》から、男を寄せつけない女のあることを、平次も幾つか知っておりました。
「第二番目は、お関の|許嫁《いいなずけ》で、雪五郎という彫物師《ほりものし》。腕はなまくらで、ろくな物も彫れないが、そんな野郎に限って、ちょいと好い男で、生木《なまき》を割かれて勘兵衛をうんと怨んで、一度は加賀屋のあたりをウロウロして若い者に袋叩きにされていますが、いいあんべえに、親方の月斎と一緒に江ノ島の弁天様の欄干《らんかん》の修復に行って、十日も江戸へ帰って来ませんよ」
「それから」
「ほかに加賀屋には喜次郎、有松、七之助という三人の若い者がいますが、揃いも揃って一人者で、皆んなお関に惚れている」
「親分の妾にかえ」
「だろうと思うんですがね。親分の勘兵衛は五十二で、鰐口《わにぐち》に丁髷《ちょんまげ》を結《ゆ》わせたような醜男《ぶおとこ》だが、妾のお関は二十一、搗《つ》き立ての餅のように柔かくて色白で、たまらねえ愛嬌のある女だ。それが蔭へ廻って、時々シクシク泣いているのを見ちゃ、同じ屋根の下に住んでいる、若い男三人、天道様のせいにしちゃ居られないわけでしょう」
「そのうち誰が一番臭いんだ」
「喜次郎は三十五で、三人のうちでは兄分ですが、こいつは人間が甘いから、有松かな。無法者で力自慢だが、敷居へ水を流して、凍らせる智恵はありそうもない――となると二十三の七之助、いやにニヤニヤした、鼻の先に猿知恵がブラ下がっているような野郎かもしれませんね」
八五郎の鑑定ははなはだあやふやで、この三人の誰が怪しいか見当もつきません。
「それだけの事では、乗り込んで行っても手の付けようはあるまい。しばらくお前が見張っているがいい」
こうして事件の発展を眺める外はなかったのです。
加賀屋の離屋は焼けて、主人の勘兵衛も妾のお関も、少しずつの怪我はしましたが、それも少しの手当で癒ってしまい、後には大きな不安と怒り――心に受けた傷とも言うべきものが生々しくも残りました。
雨戸の敷居に水を流して、二月初旬の大寒空に、釘付けにしたよりも厳重に凍り付かせるという手段は、人間離れのした恐ろしい企《たくら》みで、それを実行に移す悪魔の心の持主は、勘兵衛にも心当りはなく、八五郎と話し合った上、命に賭《か》けてお関と勘兵衛を怨んでいそうな、雪五郎の動静を調べるために、江の島まで人をやりましたが、雪五郎は師匠月斎とともに、岩本院に籠《こも》って、島から一歩も外へ出ないとわかり、これは全く疑いの外に置かれました。
若い者三人、喜次郎、有松、七之助は、互いに疑い合い牽制し合って、面白くない日を送って居る様子ですが、これも取り立てて怪しい素振りがあるわけでなく、不得要領のまま二月の月は経ってしまいました。
諸方の桜の蕾《つぼみ》がふくらんで、なんとなく春めかしくなった三月の一日、離屋の火事以来母屋に移った勘兵衛は奥の六畳――納戸《なんど》の隣りの置き忘れたような部屋に御輿《みこし》を据えて、そこでお関と一緒に三度の食事も摂《と》っているのでした。
下女のお栄が膳を運んで来ると、縁側の障子を一パイに開けさせて、早春を胸いっぱいに吸いながら、遅い朝飯の箸を取った勘兵衛。
「あッ、待って下さい。そのお汁は少し変なようです」
お関は膳越しに飛び付いて、勘兵衛の味噌汁の椀を持つ手を押えました。
「どうしたというのだ」
勘兵衛はお関の態度の物々しさに、少し腹を立てております。
「私、一と口呑みましたが、そのお味噌汁の味が、そりゃ変なんです」
お関は胸が悪そうな、自分の襟もとのあたりを押さえました。
「何が変なんだ」
勘兵衛は味噌汁の湯気などを嗅いだりしましたが、お関が騒ぐほどの変ったことがあろうとも思われません。
が、そうして居るうちに、お関の容態が次第に悪くなりました。猛烈な吐《は》き気に襲われて、可愛らしい顔が石のように引緊まると、額口から油汗がタラタラと流れるのです。
直ぐさま、町内の本道が呼ばれて応急の手当をしました。呑んだ味噌汁がたった一と口だったのと、よい塩梅に吐いてしまったらしいので、大したこともなく、昼頃にはもう元気になっておりました。
後で調べると、主人の椀にも、お関の椀にも、味噌汁のなかに、馬でも殺せるほどの毒薬――石見銀山《いわみぎんざん》鼠捕りという、砒石剤《ひせきざい》が入っており、お関が一と口で気が付いて主人の椀を取り上げたのは、全く命拾いというほかはありません。
これほどの騒ぎを起こした石見銀山鼠捕りは、どこからどうして二人の味噌汁へ入ったか、これも解くことの出来ない謎でした。
味噌汁は下女のお栄が作って、主人の部屋へ運んだのもお栄ですが、この女は三十五六の出戻りで、加賀屋には七年も奉公をしており、少し愚《おろ》かしくはあるが、正直一途でなんの企みのある人間でもなく、それに主人とお関の味噌汁のほかには、なんの異状もなく、早起きの若衆達は、半刻も前に朝飯を済ませて、鼻唄まじりに格子を洗っております。
もっとも勘兵衛とお関の朝飯が始まるまで、お栄はお勝手に頑張って居たわけではなく、曲者はお栄が部屋の掃除でもしている間に、そっと忍び込んで、仕掛けた味噌汁の鍋の中に、毒薬を抛り込む隙は充分にあるはずです。
この報告を八五郎から聴いた平次は、
「そいつはいよいよ厄介になりそうだな、――何より、お関の許嫁の雪五郎は、まだ江戸へ帰って居ないか、それを調べてくれ」
「それならわかって居ますよ。江の島の修復は、まだ十日くらいはかかるそうで、月斎と雪五郎が、江戸へ引揚げて来るのは、この十五日か十六日になるはずです」
「それじゃお前気の毒だが、加賀屋へ十日ばかり泊り込んでくれないか」
「ヘエ?」
「雪五郎が帰ったとわかればその悪戯《いたずら》も納まるだろう」
「変な話ですね、曲者は雪五郎に疑いを被《き》せたいに極まって居そうなものですが」
「いや、そんな浅墓な企みじゃあるまいよ。――ところで、内儀《おかみ》はどうしているんだ」
「相変らず、朝から晩までの掃除で、尻を端折って雑巾と相撲を取って居ますよ。掃除をして居ない時には、手を洗っている時で」
「変っているな」
「自分の食べ物でも膳拵《ぜんごしら》えでも、お仕舞いまで別にして、他の者には手もつけさせません。それに男を汚ながることは無類で、男便所の前は鼻をつまんで通るくらいですから、男のきり端にも触れるこっちゃありません」
「そんな女は時々あるということだよ。亭主運の悪い女や、後家などに珍しくないようだが」
「やっぱり、内儀が変じゃありませんか。あっしが行っても、ろくに顔も見せませんが」
「もう少し調べなきゃわかるまいよ。――ところで、これも大事なことだが、加賀屋勘兵衛ともあろう者が、奉公人や若い衆の食い荒らした味噌汁を、そのまま温め直して食うということはあるまい。別鍋に仕立ててお勝手に置いたことと思うが、それもよく調べてくれ」
「ヘエ」
「もう一つ。焼けた離屋には、南側か西側の雨戸に、臆病窓がきってあったと思う。それも訊いて置きたい」
「まだあるんですか」
「三人の若い衆のうち、誰が一番お関に逆上《のぼせ》ているか、お関と口をききたがるのは誰か。そっと聴き出してくれ」
「そんな事ならわけはありません」
「頼むよ、八。大事なのはあと十日だ。俺はほかに手掛けた仕事があって当分行っちゃいられない」
「大丈夫ですよ。加賀屋へ泊り込んで居さえすれば、変なワザなんかさせるこっちゃありません」
八五郎は張りきって、ドンと胸を叩いたりするのでした。
加賀屋の上に押しかぶさった不気味な呪《のろ》いはこれで終ったわけではなく、むしろこれをきっかけに、恐ろしい破局《カタストローフ》まで、噛み合う死の歯車のように、避けもかわしもならず押し進んで行きました。
それは三月十日の夜のこと、晩酌《ばんしゃく》が後を曳いて、思わず過ごした勘兵衛は、お関を側に引き付けたまま、口を割るようにした二た猪口《ちょこ》三猪口呑ませて、良い心持そうに何やら唸っておりました。
胸毛をのぞかせた湯上がりの丹前姿、頬から首へ、胸へと、朱を塗ったように色付いて、『楽しみは後ろに柱前に酒』片手に女で片手に盃の満悦境を、とろけるほど味わって居たのです。
「もう御飯になすったら?」
女房振りのお関は、こう言って立上がろうとするところを、手首を取ってギュッと引戻されました。
「待ちなよ。お前の顔を見ながら、もう一本」
グイと引くと、女は咲き過ぎた牡丹《ぼたん》のように、ぞろりと崩折れて、
「あれッ」
などと勘兵衛の懐ろに飛び込むのです。
と、それはどんな弾《はず》みであったか、お関の手か足が触ったらしく、安定の良いはずの行灯がバタリと倒れて、五六本打ち込んであった行灯の灯が、一度にぱっと消えたのでした。
「あ、怖い」
お関は思わず勘兵衛に獅噛《しが》みつきました。
「灯、灯を持って来い」
真っ暗な中で張り上げる勘兵衛、その声が合図だったのか、どこからともなく突き出された刃物、勘兵衛の脇腹をかすめ、その膝の上に居る、お関の袖を縫って前へ貫《ぬ》けた様子です。
母屋でも一番奥になって居るのと、間に納戸を挟んでいるので、容易に勘兵衛の声が聴えなかったのか、しばらくは誰も来る様子はなく、
「灯だ、灯を早く」
わめき立てる勘兵衛の声に応じたのは、
「付木《つけぎ》は見つかりました。待って下さい」
案外落ちついたお関の声でした。
やがて倒れた行灯を起して、火打から移した硫黄《いおう》付木の灯を入れると、
「あッ、これは」
おどろくべき光景が、厭も応もなく眼に沁みるのです。
それは勘兵衛の凭《もた》れていた柱の傍、唐紙を突き抜けてギラギラする笹穂を出しているのは、紛れもなく、隣りの納戸の長押《なげし》に掛けてあるはずの手槍ではありませんか。
「野郎ッ」
争気満々たる勘兵衛、当てもなく隣りの部屋に飛び込みましたが、そこは長四畳の大納戸で、ガラクタの堆積の中に、踏み台に乗せて、唐紙へ二尺ばかり突っ立てた槍があるだけ、見ると突き当りの窓格子は外されて、ここから逃げましたと言わぬばかりの十日月の光が、朧《おぼろ》に納戸の中へ射し込んでいるのでした。
「親分、傷の手当をなさらなきゃ、――ひどい血ですが」
もとの部屋へ帰ると、お関がおろおろしているのも無理のないことでした。唐紙越しに突かれた槍の穂にかすられたらしく、左脇腹の乳の下のあたり、一寸ばかりきり割かれて、丹前から座布団へ、畳へ、ひどい血が流れているではありませんか。
お関はようやく気を持ち直すと、店の方へ飛んで行って、家中の者を呼び集めました。若い衆三人――喜次郎、有松、七之助を始め、この間から用心棒に泊り込んでいる八五郎も飛んで来ました。
「どうしたんで、何が始まったんだ」
「八五郎親分、またやられましたよ。隣りの部屋から、唐紙越しの田楽刺《でんがくざし》だ。もうちょっと左へ寄っていると、命のないところさ」
勘兵衛はひどく苦々《にがにが》しい様子です。
「なんということをしやがるんだろう」
八五郎の器量の悪さ。
「お関に怪我はなかったのか」
「私は袂を縫われただけで無事でした。でもこのとおり」
右の手を挙げると、銘仙の袂は無残にも裂かれて、襦袢《じゅばん》の袖の紅《くれない》が、チラチラと艶《なま》めきます。
医者を呼ぶ間、八五郎は手燭を借りて隣の納戸に入りました。鼻の先に唐紙を突き貫いた六尺柄の手槍、それを踏み台の上へ載せて、水平に突き出したのは、たぶん狙いを定めるためでもあったのでしょう。
「……」
それよりも八五郎を驚かしたのは、その踏み台の傍に無造作に抛り出してあった、巨大な掛矢でした。この木造の大槌《おおづち》は建築か杭《くい》打ちでもなければ滅多に使うものでなく、少し泥などの付いたまま、納戸にあるのは、はなはだしい不調和です。
「こいつは平常納戸に置くのか」
後ろから跟《つ》いて来た、喜次郎に訊いてみました。
「とんでもない、そいつは物置の中にあったはずですよ。曲者が窓格子でも叩き破るつもりで持込んだんじゃありませんか」
喜次郎の説明は常識的ですが、何やら八五郎の腑《ふ》に落ちないものがあります。もっとも腰高の窓格子は、框《わく》ごとはずされて、掛矢との因果関係を物語り顔ですが、ここは道具がなくても楽に外れるように出来ており、掛矢の用途はそう簡単には説明されそうもありません。
「親分、こんなわけだ。あっしでは手に了《お》えそうもありませんよ」
八五郎はとうとう兜《かぶと》を脱いで、銭形平次のところへ事件を持込んで来たのです。
「面白いな、お前の腕で、そいつを調べ上げてみるがいい。大した手柄になるぜ」
平次は自若として動きそうもなかったのです。
「でも、下手人の見当もつきませんよ。雪五郎は江の島へ行ったきり帰らず、内儀は掃除に夢中で、自分の配偶《つれあい》が殺されかけても驚く様子はないし、三人の若い衆は、お互いに見張っていて、勝手なことは出来そうもありませんぜ」
八五郎はこの事件のむずかしさに押し負かされて、すっかり、投げている様子でした。
「でも、このあいだ俺が頼んだことくらいは調べてくれたことだろうな」
「調べましたよ。焼けた離屋の南側の雨戸は、親分が考えたとおり一尺四方ほどの臆病窓がきってあったそうだし、それから加賀屋の主人勘兵衛は食い道楽で、煮なおした味噌汁なんか食わず、自分と妾のお関の分は、別鍋に仕立てさせるということで――」
「それから?」
「若い衆が三人、お互いに見張っているが、三人ともお関に夢中なのは同じことで」
「ところでほかに変ったことはなかったのか」
「口惜しいけれど、それっきりですよ。窓の外には足跡もないし、三人の若い衆は店でなんかやっていたようだし、内儀は自分の部屋に籠って独り言をいっていた――とこれは下女のお栄が隣りの部屋で見張っているから、間違いはありません」
「すると鎌鼬《かまいたち》かな」
銭形平次はこんな事を言ってけろりとしているのです。
「冗談じゃありませんよ。鎌鼬が石見銀山や手槍を使ってたまるものですか」
八五郎は少しムキになりました。
「だがな八、よく考えてみるがいい。槍というものは、捻《ひね》りながら突くものだよ。踏み台の上に置いて、掛矢で石突を叩いて繰り出すという術《て》は、どんな流儀にもないことだ」
「あっしもそう思いましたがね」
「その納戸の窓寄りに、ムキ出しの梁《はり》が一本通っていると思うが、どうだ」
「そのとおりですよ。親分。いつの間に親分は加賀屋へ行ったんですか」
「行きゃしないが、物の理屈を考えただけのことだよ――それから、納戸の中に丈夫な細引があったはずだ」
「さア、それは気が付きませんが、これからすぐ引返して捜して見ましょう」
「もう隠してしまったよ。相手は容易ならぬ曲者」
「だから親分、ちょいと御輿をあげて下さい。この上ワザをされちゃ、あっしの顔は丸潰れだ。そうでなくてさえ加賀屋勘兵衛ずいぶんイヤな事を言いますよ」
「言わして置くがいい。――俺はいま手が離せないことがあるし、せめてこれだけでもお前の手柄にさしてやりたい」
「あっしの手柄なんかにしたかありませんよ」
八五郎は散々ねばりましたが、何を考えたか、平次は頑として腰をあげなかったのです。
「それじゃ、もう一つだけ念入りに調べてもらいたいことがあるが――」
「なんです、親分」
「妾のお関は心のうちから仕合せだと思っている様子か、許嫁の雪五郎と、全く手がきれているか、それを突っ込んで調べるがいい」
「それくらいのことなら、念には念を入れて調べてありますよ。憚《はばか》りながら、情事《いろごと》調べとなると、銭形の親分より、あっしの方が得手で、ヘッ、ヘッ」
「いやな笑いようだな。ではどうなんだ」
「そもそもですね、親分」
「そもそもと来やがったか、どうもお前という人間は学が邪魔をしていけねえ」
「相済みません」
「そのそもそもがどうしたんだ」
「加賀屋の勘兵衛というのは悪い男で、中の郷の半兵衛の娘お関に眼をつけると、少しばかりの金を貸して、その抵当《かた》に娘を巻きあげ、胆のつぶれるような高い利息をつけて、払えないように仕向けた上、とうとうお関を手籠同様に妾にしてしまったのだそうです」
「……」
「お関の親の半兵衛が、腹に据え兼ねて文句をつけに行くと、加賀屋に、ゴロゴロしている若い者が、袋叩きにして、追い帰してしまった。――それから半兵衛は腰抜けになって、寝たり起きたりの半病人だ」
「火をつけたり、槍を突っ込んだりしたのは、半兵衛ではないわけだな」
「お関の許嫁の雪五郎も、あまりの事に毎日加賀屋のあたりをブラブラしたが、たかが彫物《ほりもの》職人で、金ずくにも腕ずくにも、お関を奪い返す力はなく、そのうちに加賀屋の若い衆に見付けられて、引摺り込まれて散々に殴《なぐ》られたのは、ツイ二た月ほど前のことですよ。雪五郎は若いから、殴られたくらいでは病気にもならず、師匠の月斎が息抜きのつもりで江の島の仕事に連れて行ったというわけで」
「お関はそれを黙って見ているのか」
「あの女の心持ばかりはわかりませんが、諦めているんでしょうね。ジャラジャラもしない代り、あまり悲しそうな顔もしませんよ。もっとも以前はときどき一人で泣いていたと言いますが」
「よしよし、そんな事で大概わかるよ」
「そこで親分はちょいと加賀屋を覗いて下さるでしょう」
「いや、俺は止そう」
平次はまだ腰をあげそうもなかったのです。
それから四日目、詳しく言えば三月十四日の晩、事件はとうとう最後の破局まで落ち込んでしまいました。
「親分、大変ッ」
八五郎が明神下の平次の家へ飛び込んで来たのは、その翌る日――三月十五日の昼近い時分でした。
「さア、とうとう来やがった。お前の大変が来そうな空合いだと思ったよ」
悠然と煙草の烟《けむ》を輪に吹きながら、平次の調子だけはなにかを待ち構えていた様子です。
「とうとう、やられましたよ」
「加賀屋勘兵衛が殺されたんだろう」
「親分は、どうしてそれを」
「そう来なくちゃ、テニヲハの合わないことがあるんだ」
「一杯飲んで――、いい心持で寝たところを、匕首で喉笛をやられたんで、側に寝ていたお関が騒ぎ出した時は、曲者は縁側から庭へ飛びおりて雲を霞《かすみ》だ――」
「足跡を見たか」
「足跡は見ませんが、お関が言うんだから確かでしょう」
「匕首の持主は?」
「皮肉なことに、殺された勘兵衛のもので、いつでも枕の下に入れて寝ている品なんだそうで、――曲者は宵のうちから忍び込んでいて、二人が寝鎮まるのを待って部屋の中へ入り勘兵衛の枕の下から匕首を取って、喉笛を刺して逃げたんですね」
「時刻は?」
「お関が騒ぎ出したのは、亥刻半《よつはん》(十一時)過ぎでした」
「雨戸を閉めたのは」
「下女のお栄が戸締りをしたのは酉刻《むつ》(六時)ちょうど、勘兵衛の寝酒に付き合って寝たのは戌刻半《いつつはん》(九時)だったと、これはお関が言います」
「曲者はそれから亥刻半までの間に忍び込んだ様子はないのか」
「戸締りにはなんの変りもなく、店では三人の若い者が手弄《てなぐさ》みをして騒いでおりました」
「それで下手人の見当は付いたのか」
「少しもわかりませんよ。ところが、三輪の万七親分が乗込んで来て、滅茶滅茶に掻き廻した末、中の郷の彫物師雪五郎を、師匠の月斎の家から縛って行きましたよ」
「雪五郎は今日江の島から帰るはずだったじゃないか」
「三月十五日という日限でやった仕事が、思いのほか早く三月十三日に出来上がったので、昨日の十四日の朝、江の島を発って昨夜《ゆうべ》遅くなってから、中の郷の師匠の家へ、師匠の月斎と一緒に着いていますよ」
「それから雪五郎は外へ出たのか」
「本人も師匠の月斎も、江の島から十何里の道を歩いて来て、綿のように疲れて寝込んでしまったと言っておりますが、――それを拵え事に違いないと言って、三輪の親分が縄を打ったわけで」
「心配するな、雪五郎は下手人じゃないよ。直ぐ言いわけが立って帰されるだろう。十五日か十六日に江の島から帰るはずのが、一日早く十四日に江戸へ帰ったから、とんだ行き違いが起ったのだ」
平次は妙に呑み込んだことを言うのでした。
「下手人は誰でしょう、親分」
「俺にわかるものか、俺は現場を一と目も見ちゃいないんだよ」
「では、ちょいと行って見て下さい」
「止そうよ」
平次は相変らず御輿をあげる様子もありません。
それから一と月くらい経ちました。江戸の春がまさに爛漫《らんまん》という頃ですが、八五郎の胸には妙にこだわりがあって、いつものようには楽しみきれません。
「親分、加賀屋の勘兵衛を殺したのは、いったい誰だったんでしょうね。あっしはそれが気になってならないんだが――」
「わかって居るじゃないか。離屋の火事の時から変だとは思っていたが、石見銀山鼠捕りの時、俺ははっきり曲者の正体を見せられたような気がしたよ」
「なんだって、それを縛らなかったんで?」
「俺は縛りたくなかったのさ、――ところで、雪五郎はどうした」
「すぐ許されて帰りましたよ。江の島から江戸へ入ったのは夕方、中の郷の師匠の家へ着いたのは戌刻《いつつ》(八時)過ぎで、疑いようはありません」
「加賀屋はどうなった」
「勘当されていたはずの勘次郎が帰って来て、あの半気違いの母親と暮していますよ」
「お関は?」
「自分の家へ、身一つで帰って行きました。欲のない女ですね、手切れも手当も辞退したそうで――もっともその代り雪五郎とヨリを戻して、近いうちに改めて祝言するそうですから、本人はかえって本望でしょうよ」
「それでいい」
「ところで下手人は誰でしょう、親分」
八五郎は執拗に喰い下がりました。
「誰にも言わなきゃ教えてやろう」
「言やしませんよ」
「おどろくなよ八」
「おどろくもんですか。このあっしが下手人だと言われたって驚きゃしません」
「お関だよ」
「えッ」
八五郎は自分の耳を疑っておりました。
「妾のお関だよ、――お関は雪五郎との間を裂かれて、鬼瓦《おにがわら》のような勘兵衛のままになり、つくづくこの世の中がイヤになって、憎い勘兵衛と一緒に死ぬ気になったんだ」
「……」
「二月始めの寒い晩、北窓と東側の雨戸の敷居に水を流して凍らせ、南側の雨戸の臆病窓から手を出して、外に干してあった冬がこいの藁に火を付けたんだ」
「ヘッ、なるほどね」
「勘兵衛は五十過ぎても力もあり気も付く男だ。目を覚まして火事と見ると、愚図愚図するお関をさらい、雨戸を蹴破って飛び出してしまった。死ぬ気で細工をしたお関は助かってしまったが、この術《て》で勘兵衛を殺せば誰も自分の仕業と気のつく者はないということを覚えてしまった」
「……」
「二度目のは味噌汁の石見銀山鼠捕りだ。ここで勘兵衛を殺せば、別鍋に味噌汁を仕掛けていることだし、自分だけ助かっては、自分が疑われるにきまっている。と言って勘兵衛と一緒に死ぬのもイヤになり、急に気が変って、味噌汁を一と口呑んで、変な味だと言い出した、――誰が考えても勘兵衛とお関を一緒に殺そうとする者の仕業だと思うだろう」
「……」
「ところがだよ、八。石見銀山鼠捕りは、砒石が入っているが、砒石というものは、たった一と口|啜《すす》ったくらいのことでは、素人のお関にわかる道理はない、――この話を聴いたとき俺は、ハハアお関が臭いなと思った」
「槍は」
「あれもお関の細工だ。隣りの納戸から、自分と勘兵衛と一緒に居るところへ槍を突っ込んだのは、恐ろしい企みだ――が、考えて見ろ、槍は捻って抉《えぐ》るように突くものだ。踏み台の上へおいて、石突を掛矢で叩くものじゃない。俺は納戸の窓寄りに梁があるだろうといったはずだ」
「ヘエ」
「その梁へ掛矢を吊し、窓の方へ一パイに引っ張って置いて、細い糸を格子にくぐらせて、自分たちの居る部屋まで引っ張り、勘兵衛に知れないように、柱にでも結んで置いたことだろう」
「……」
「勘兵衛が酔った頃を見はからって、お関は行灯を引っくり返しながら勘兵衛の懐ろに飛び込みざま、その糸をきった。納戸の梁に吊った掛矢は、えらい勢いで飛んで来て、踏台の上においた槍の石突を叩いたことだろう。狙いはわずかに外れて、勘兵衛は脇腹を少し怪我しただけで済んだが、お関にとっては、それでよかったのだ。いつでも勘兵衛とお関と二人一緒にいるとき狙われると思わせさえすれば、自分へ疑いの来る心配はないわけだ――掛矢を吊った細引は、お関が店へ人を呼びに行くとき外してどこかへ隠したことだろう。が、重い掛矢を始末する隙がなかった」
「……」
八五郎は肩を竦《すく》めて、ヒョイと鼻面を撫でました。薄寒くなった様子です。
「雪五郎は十五日か十六日に江戸へ帰ると思い込んでいたお関は、十四日の晩は、どうしても勘兵衛を殺して、その手から逃れる工夫をしなければならない。雪五郎に万が一つの疑いでも掛けたくなかった。――お関はとうとう勘兵衛の枕の下から匕首を抜き出してやってしまった。この恐ろしい鬼の手から脱出するには、ほかに手段《てだて》はなかったのだろう」
「……」
「ところが、江の島の仕事は思いのほか早く片付いて、十四日の晩雪五郎は江戸へ帰って来てしまった。下手人の疑いは真っすぐに雪五郎の方へ行ったのも無理はないが、師匠の月斎と一緒だから、大丈夫許されるだろうと俺は多寡《たか》をくくっていた。――誰もお関を疑う者はない。お関は手当ても何も放り出して、裸一貫で親の家へ帰り、つづいて許嫁の雪五郎の懐ろへ飛込むだろう。雪五郎だって手籠同様に妾にされたお関を許してやることだろうし、八五郎だって、お関を縛ってつまらない手柄を立てるなどとは言わないだろう」
「親分は?」
「俺は、ここを動かなかったよ。何を知るものか」
「ヘエ、おどろいたね」
「だが、誰にも言うな、お関は自分を踏みにじった上、父親を片輪にし、雪五郎をひどい目にあわせた鬼の勘兵衛と、二度までも三度までも一緒に死ぬ気になっていたんだぜ」
こんな事を言う平次でした。
(完)