野村胡堂
銭形平次捕物控(巻八)
目 次
六軒長屋
第廿七吉
詭計の豆
尼が紅
凧の糸目
六軒長屋
一
本郷菊坂の六軒長屋――袋路地のいちばん奥の左側に住んでいる、烏婆《からすばば》アのお六が、その日の朝、無惨な死骸になって発見されたのです。
見付けたのは、人もあろうに、隣に住んでいる大工《だいく》の金五郎の娘お美乃。親孝行で綺麗で、掃溜《はきだめ》に鶴の降りたような清純な感じのするのが、幾日か滞《とどこお》った日|済《な》しの金――と言っても、緡《さし》に差した鳥目を二本、袂《たもと》で隠してそっと裏口からのぞくと、開けっ放したままの見通しの次の間に、人相のよくない烏婆アが、手拭で縊《くび》り殺されて、凄じくも引っくり返っていたのです。
「あッ、大変、――誰か、来て下さい」
お美乃は思わず悲鳴をあげました。確《しっか》り者といっても、取ってたった十八の娘が、不意に鼻の先へ眼を剥《む》いた白髪《しらが》ッ首を突き付けられたのですから、驚いたのも無理はありません。
「なんだえ、お美乃さんじゃないか」
真っ先に応《こた》えてくれたのは、一間半ばかりの路地を距《へだ》てて筋向うに住んでいる、鋳掛屋《いかけや》の岩吉でした。五十二三の世をも人をも諦めたような独り者で、これから鋳掛道具を引っ担いで出かけようというところへ、この悲鳴を聴かされたのです。
「鋳掛屋の小父さん、た、大変ですよ」
「どこだい、お美乃さん」
お六婆アの家の表は、まだ厳重に締っているので、岩吉はお美乃の声がどこから聴えて来たか、ちょっと迷った様子です。
「お六小母さんが――」
「婆さんがどうしたというんだ」
岩吉は枳殻垣《からたちがき》と建物の間を狭く抜けて、お六婆アの家の裏口へ廻って仰天しました。
「小父さん、どうしましょう」
「どうもこうもあるものか、長屋中へ触れてくれ。それから、医者にそう言うんだ」
岩吉はそう言いながら、裏口の柱につかまって、ガタガタ顫えて居ります。中へ入って死骸の始末をすることも、死骸の側を通り抜けて、表戸を開けてやることなども、この中老人は出来そうもありません。
そのうちに、壁隣にいるお美乃の父親――大工の金五郎も飛んで来ました。二日酔いらしい景気の悪い顔ですが、これはさすがに威勢の良い男で、
「早く介抱してやるがいい。締められたくらいで往生するような婆アじゃあるめエ」
いきなり死骸を抱き起しましたが、石っころのように冷たくなって、もはや命の余燼《よじん》も残っていそうもありません。
「こいつはいけねエ」
金五郎は死骸を置いて表戸を開けると、そこには、岩吉の隣に住んでいる日雇取《ひようとり》の与八と女房のお石が、叱られた駄々ッ児のような、脅《おび》えきった顔を並べて立って居るのでした。
最後に金五郎の隣――与八夫婦の向うに住んでいる按摩佐の市の母親も出て来ました。眼の見えない佐の市を除けば、これで長屋総出になったわけですが、脅えた顔をそろえて、わけの解らぬことを囁き合うだけでなんの足しにもなりません。
「なにが始まったんだ。大変な騒ぎじゃないか」
木戸の外から声を掛けて、若い男が入って来ました。六軒長屋のすぐ外――表通りに住む雪之助という二十七八の男で、本石町の丸木屋の次男坊に生れながら、商売は嫌いの風流事が好きで、こんなところに別宅を建ててもらい、耳の遠い年寄りを一人使って、意気事と雑俳《ざっぱい》とにその日を暮す、雪江《ゆきえ》という筆名に相応《ふさわ》しい結構な若旦那でした。
「若旦那、大変なことになりましたよ」
与八は歯の根も合わぬ姿でした。
「またお前のところの夫婦喧嘩かい」
事もなげに笑う雪之助。
「そんな事じゃありませんよ。お六婆さんが殺されて死んでいるんで」
「へエ、あの婆さんでも殺されると死ぬのかい」
雪之助はまだ巫山戯《ふざけ》気分です。
「見て下さいよ。すごい人相ですぜ、若旦那。三途河《さんずのかわ》の婆アだって、あの顔が行くと驚きますぜ」
大工の金五郎はこんな時にも江戸っ児らしい剽軽《ひょうきん》さを失いませんでした。
「あれ、父さん、そんな事を」
お美乃はそう言う父親の口へ蓋《ふた》でもしたい様子です。
「なるほど、そいつは凄かろう。――ところで、届けるところへ届けたのかい」
「面喰っているから、なんにもやりませんよ」
と金五郎。
「それでは後がうるさい。なにを措《お》いても町役人と、真砂町《まさごちょう》の親分に知らせなきゃなるまい。お前ひと走り頼むぜ」
「へエ――」
日ごろ若旦那の雪之助に物を言い付けられている与八は、こんな時一番先に駆け出すように慣らされていたのです。
二
「こんなわけだ、――疑えば長屋中みんな怪しい。怪しくないのは、ゆうべ小石川の叔母のところに泊ったお美乃と、眼の見えない按摩の佐の市だけさ。何処をどう突いて、どう手繰《たぐ》ったものか、まるっきり見当が付かない。気の毒だが兄哥《あにき》の知恵を貸してくれないか、恩に着るつもりだが――」
真砂町の喜三郎は、翌る日の朝早く神田の平次を訪ねて、こう打ち明けて頼むのでした。
平次と同年配で、日ごろ平次の腕や人柄に推服している喜三郎は、十手|捕縄《とりなわ》の誼《よし》みを超えて、平次に親みを持っていたのです。
以前にも自分の縄張りの大根畠で、娘殺しの難事件が危く迷宮入りになりかけたとき、平次の助けで厄介な謎を解いたことのある喜三郎。もういちど平次の力を借りて、このお六殺しの不思議な事件を解決しようというのでしょう。
「それくらいのことなら、真砂町の兄哥《あにき》の前だが、蓋も底もあるまい。俺なんか顔を出す幕じゃないように思うが――」
喜三郎の素直な気性を知っている平次は、一応頼まれたくらいのことでは、容易に御輿《みこし》をあげて他人の縄張りに足を踏み入れようともしません。
「ところが、三輪の万七親分がやって来て、いきなり大工の金五郎を縛って行ったんだ」
「フーム」
またも憎まれ者の万七が、平次と仲の好い喜三郎への嫌がらせに、いち早くも下手人をさらって行ったのでしょう。
「それも、大工の金五郎が本当の下手人なら文句はない。俺は指をくわえて引込んでも居ようが、どんな証拠があったにしても、あの男が人などを殺すはずはない。喧嘩して相手に傷でも付けたというなら解って居るが、六十を越した烏婆アを殺し、臍繰《へそくり》を盗んで口を拭《ぬぐ》って居ようなんて、そんなことの出来る金五郎でないことは、この俺が一番よく知って居るんだ。第一親孝行で評判のお美乃が可哀想で見ちゃ居られねエ」
若い喜三郎が、平次の力を借りようとするのは、そんな関係もあったでしょう。
「三輪の親分が乗り出して、金五郎を縛って行ったのは、いずれ動きのとれない証拠があってのことだろう」
と平次。
「万七親分に言わせると証拠があり過ぎるんだ。――娘の留守に一杯呑んで寝たという金五郎が、すこしは酔っていたにしても、壁隣で人間が締め殺されるのを知らずにいるはずはない。それに金五郎は二年前女房に死なれた時、お六婆アから一両の金を借り、それを返せないばかりに、利に利がつもってひどい目に逢っている。ゆうべ娘のお美乃を小石川の叔母のところへやったのも日済しの払いが溜まって、お六に目の玉の飛び出るように催促を受け、思案に余っての工面だ。娘の留守に自棄酒《やけざけ》を呷《あお》った金五郎が、夜中にフラフラとお六を殺したくならないものでもあるまい――と、こう万七親分は言うんだ」
「なるほどね」
平次は一応感心するのです。
「それから、もう一つ悪いことに、お六婆アの家の裏口から入るには、金五郎の家の裏口を通るか路地の奥へ突き当って、お六婆アの家と寺の枳殻垣《からたちがき》の狭い間を通ってグルリと廻らなきゃならないが、枳殻垣の下は雪解けで、人間の足跡というのは、けさお美乃に呼ばれて、鋳掛屋の岩吉があわてて通ったのがあるだけ、あとは野良犬の通った跡もないんだ」
「表は?」
「お六婆アはうんと溜めて居るから、戸締りだけは馬鹿に丁寧だ。表の戸はけさ死骸を見付けた時、お勝手口から入った金五郎が、内から輪鍵を外して開けたに違いないと、自分でも言ってるんだから世話アない」
「ところで、金は盗られなかったのかな」
平次はいちばん重要なことに触れました。
「お六婆アの家に一文もないところをみると、下手人は婆アを殺して金を盗ったんだろう。お六婆アが肌身離さず持っている名代の大財布もないし、手文庫には証文だけ。火鉢の引出しの小銭まで無くなっている。恐しく行届いた奴だ」
「お六婆アは本当に金を持っていたんだろうか」
「三十年後家を通して、烏婆アとかなんとか言われながら溜めたんだから、三十両や五十両じゃあるまいと思うが、天井裏も床下も、糠味噌《ぬかみそ》の瓶《かめ》の中まで見たがないよ」
「六軒長屋の家捜しは?」
「手ぬかりなくやったが、金を持っているのは、按摩の佐の市だけ、それも五両か八両だ。あとはお美乃が叔母さんから借りて来た小銭の外には、百と纏《まと》まったものを持ってる家もないんだ。恐しく不景気な長屋だぜ」
「なるほど、面白そうだな。――たいした役にも立つまいが、とにかく行ってみよう。八、支度をするんだよ」
平次はいよいよ御輿をあげました。
三
菊坂の六軒長屋は、わけの解らぬ不安に閉《とざ》されたまま、町役人の監視の下に、お六の葬《とむら》いの仕度を急いでおりました。
平次はおそろしく用心ぶかい態度で、まず入口の木戸の前に立って、長屋全体と近所との関係を見渡します。
「右手は崖《がけ》――こいつは鵯越《ひよどりごえ》だ。越して越せないことはあるまいが、藪がひどいから犬が潜っても大きな音がする。まず夜中に忍び込む工夫はないな」
平次は眼を転じて左を見ました。
「こっちは旗本屋敷だよ、銭形の。忍び返しが厳重に打ってあるから、あの塀は越せまい」
喜三郎は左手を指します。
「すると出入口は木戸一つだ」
三尺の木戸、古くなった隙間だらけですが、それでも繕《つくろ》いが丁寧ですから、外からは開ける工夫がありません。
「こいつは誰が閉めるんだ」
「木戸の側に住んで居る佐の市の母親の役目になって居るが、あの晩おそく帰った鋳掛屋の岩吉が締めたそうだ。亥刻半《よつはん》〔十一時〕近かったというよ」
「朝開けたのは」
と平次。
「佐の市のお袋《ふくろ》が卯刻《むつ》〔六時〕前に開けた。輪鍵はちゃんと内側へ掛って居たそうだよ。辰刻《いつつ》〔八時〕時分にお美乃が帰って来て、お六の死骸を見付けたのは辰刻半《いつつはん》〔九時〕頃だろう」
喜三郎は詳《くわ》しく説明しました。
「すると、お六を殺したのは、長屋の者に違いないということになるね」
「木戸は内から締って居たし、ほかに入るところはないから――」
「突き当りの枳殻垣《からたちがき》は潜るか越すか出来ないものかな」
「潜るような穴はない。垣の上へ蒲団でも掛けたら、越せないこともあるまいが、向う側はお寺の境内で、霜解けがひどいから、この五六日人間の入った様子はない」
「あの晩は凍《こお》らなかったか」
と平次。
「二三日凍るような天気はなかったはずだ」
そう言われると、いよいよ下手人は六軒長屋の住人でなければならなくなります。
「親分、木戸を締めたまま、内から乗越せないでしょうか」
ガラッ八の八五郎は口を出した。
「やってみるがいい。請合《うけあ》い乗りつぶすから。柱が腐っているし、木戸もボロボロだ。よほど身軽な奴でも、この上に乗ると、大きな音を立てるよ。木戸のすぐ下に寝ている眼の不自由な者や年寄りがそれを知らずにいるはずはない」
平次の言うとおりでした。按摩《あんま》佐の市の家はすぐ木戸の側で、夜中に木戸を乗り越す者があれば、たった一と間しかない寝部屋の窓から枕に響かないはずはなかったのです。
「ともかく、入ってみようか」
喜三郎に誘われて、平次はまず木戸を入って左側の按摩佐の市の家をのぞきました。
「親分さん方、御苦労様で――」
按摩の佐の市はまだ二十四五の若い男ですが、眼が見えないだけに、早くも客の話し声を察して、丁寧に挨拶しました。
「佐の市さんだね。なにか気の付いたことはないかえ」
平次は水を向けます。
「なんにもございませんが――」
「昨夜《ゆうべ》あたり、なにか聴いたはずだと思うが、お前は勘《かん》が良いようだから」
「そんなでもございません。眼は見えなくても、若い者はやはり床《とこ》へ入るとすぐ寝付いてしまいます。それでも、親分さんがそう仰しゃると、夜中に眼を覚したとき、路地の中を犬や猫でないものが歩くような気がしました」
「裏口の方でなく、路地の中だね」
「へエー、路地の中に違いございませんが、それっきり私が眠ったのか、物音が止んだのか、覚えはございません」
「木戸を乗り越した音は?」
「それならすぐ解りますが、そんな音は一向聴きません」
「木戸を開けた音がしなかったかえ」
「大分前から金具が錆《さ》びていて、開け立てに歯の浮くような音を立てましたが、二三日こっち不思議にそんな音が聞えなくなりました」
佐の市の答えはハキハキして、思いの外の収穫がありそうです。
「有難う、たいそう役に立ったよ。ところで、この長屋中にお六を怨む者もあったろうな」
「よく思う者はありません。烏金《からすがね》を貸してひどい取立てをした上、口やかましくて、けちで、大変なひとでしたよ」
佐の市も大分悩ませられたらしく、歯に衣《きぬ》を被《き》せません。
「すいぶん評判が悪いな」
「本郷中の憎まれ者でしたよ。死んだ者の悪口を言うわけではございませんが」
盲人らしい一刻《いっこく》さで、佐の市はなおも言い募《つの》りそうにするのを、
「お前まア、そんな遠慮のない事を言っていいのかえ」
母親の|およの《ヽヽヽ》は路地から声を掛けながら入って来ました。
「構いませんよ。誰も盲人《めくら》の私が殺したとは思いませんよ」
佐の市はどんなにお六にひどい目に逢わされていたか、こうでも言わなければ、腹の虫が納まらない様子でした。
「よほどお六とは仲が悪かったとみえるな」
平次も苦笑いをする外はありません。
「親分さん方、何時でも倅はこうですよ。お聴き流しを願います。――なアに、仲が良いも悪いもありゃしません。あのお六さんという人は、ときどき高い利息のつく金でも借りて儲けさしてやらないと、機嫌の悪い人だったんです」
|およの《ヽヽヽ》は弁解らしく言うのでした。倅の佐の市が働き者で、お六の烏金などを借りるどころの沙汰ではなかったのです。
「ところで木戸を開けたり閉めたりするのは、お前さんの役目だそうだね」
平次は|およの《ヽヽヽ》に問いかけました。六十を越した一とつかみほどの老婆ですが、なかなか確《しっか》りものらしく言うことはハキハキして居ります。
「へエー、役目というわけでもありませんが、木戸の側にいるのは私とお向うの与八さん夫婦ですが、与八さんは暢気《のんき》者ですから、ツイ私が締めることになります。それにうっかり締め忘れたりすると、お六さんがやかましかったんです」
お六が木戸を警戒したのも、|およの《ヽヽヽ》が木戸を締める仕事を引受けているのも、持てる者の弱さだったでしょう。
「その晩のことを詳《くわ》しく話してくれ」
「鋳掛屋《いかけや》の岩吉さんが、本所の友達の祝事で遅くなるから、木戸は締めずにおいてくれと言いますから、そのままにして寝てしまいました。もっとも眠ったわけじゃありません。金五郎親方が酒を買って来たのも、岩吉さんが帰って来て木戸を閉めたのもよく知っております」
「他《ほか》に誰も入って来た様子はなかったろうな」
「宵のうちのことはわかりません、お勝手で仕事をしていますから。――戌刻半《いつつはん》〔九時〕から先は、金五郎親方と岩吉さんの外には誰も入って来なかった様です」
およのの言葉には疑問を挟むべき余地もありません。
「翌る朝は」
と平次。
「私が木戸を開けました」
「よく閉まっていたんだね」
「へエ、桟もおりていましたし、輪鍵も掛っていました」
「輪鍵には釘を差さないのか」
「差したり、差さなかったりですよ」
「その時は?」
「釘は差してなかったようです。そう言えば二三日前から釘が見えなくなって、輪鍵を掛けただけですよ」
およのは妙な事に思い当った様子です。が、平次がどうしてこんな細かいことまで聴くのか、見当もつかなかったのです。
「お六の家へ行ってみようか、銭形の兄哥」
喜三郎は少し面倒臭そうでした。
「いや、少し待ってくれ」
平次は木戸へ引返すと、もういちど念入りに調べ始めました。桟の具合、板の割目、それから木戸を吊《つ》った蝶番《ちょうつがい》の具合など。
「おや?」
平次は木戸の滑らかさが、蝶番に油を注《さ》してある為だとわかると、鼻を持って行って、クンクンと嗅いだりしました。
「親分、なんか匂うんですか」
とガラッ八。
「お前の良い鼻で、こいつを嗅いでみてくれ。ただの灯《とも》し油じゃあるめえ」
「良い匂いですね、親分」
「その匂いを覚えておくんだ。――あッ、人が来る、鼻を引込めろ、八」
四
「与八、ちょいと待った」
「へエ、これは真砂町の親分さん」
日雇取《ひようとり》の与八は、急に立止って、ヒョイとお辞儀をしました。喜三郎に声を掛けられなかったらそのまま知らん顔をして行く心算《つもり》だったでしょう。
「何処へ行くんだ」
「ちょいと、その」
「ちょいとその、何処だ」
「へエー」
「へエじゃないよ、うさんな野郎だ。来いッ」
喜三郎にピタリと腕首をつかまれると、与八は一ペンに悲鳴を挙げてしまいました。
「言いますよ、言ってしまいますよ。親分、勘弁して下さい。あっしのせいじゃありませんよ。三輪の親分が、誰にも言わずに、そっと持って来れば、褒美をやると言ったんで」
三十七八――無精髯に顔半分を包んだような、洗いざらしの半纏《はんてん》一枚の与八は、何もかもベラベラとしゃべってしまいそうです。
「何を持って行くんだ。出してみろ」
「これですよ、親分。――金五郎親分の裏の、崖の藪の中から拾ったんで」
与八は腹掛の丼から、古風な縞の財布を一つ出して見せました。
「それがどうしたんだ」
「お六の財布ですよ。こいつを首にかけて、婆アの癖に、ジャラジャラさせて歩いたことは、本郷中で知らない者はありゃしません」
「何?」
事の重大さに、喜三郎も平次も緊張しました。取りあげて見ると、中は空っぽですが、ひどく真っ黒な泥の付いたのを、無理に擦《す》って取った様子がありありと見えます。
「金五郎親分の裏口の藪に引っ掛っていたんです。――きのう一日誰にも見付けられないのが不思議なくらいでしたよ」
与八はすっかり観念しました。
「今ごろそんな細工をするようじゃ、油断がならない。――大急ぎで片付けよう」
平次は喜三郎を促《うなが》します。
「財布は?」
喜三郎は念を押しました。
「勝手にさせるがよかろう。金五郎が下手人だとしても、自分の家の裏口へ空財布を捨てるか捨てないか、万七|兄哥《あにき》にも判らないことはあるまい。そいつは与八の手柄にさしてやるがいい。藪に引掛っていた財布に、真黒な泥がどうして着いたか、それが判りさえすればいいよ」
平次にそう言われると、こんな財布にこだわるのが馬鹿馬鹿しくなります。
与八の家は空っぽ。左側の金五郎の家をのぞくと、娘のお美乃が一人、壁の方を向いて、何をするでもなく坐っております。
「お美乃」
喜三郎が声を掛けると、娘はわずかにこちらを振向いて目礼しました。
貧し気な様子の中に、たった一人取り残された十八になるお美乃は哀れ深くも美しい姿です。
「銭形の親分が少し訊きたいことがあるそうだ。話してくれ」
「ハイ」
お美乃は上り框《かまち》に手を突くように、泣き腫《は》らした眼で平次と喜三郎を迎えるのでした。
「親分、可哀想じゃありませんか、なんとかしてやって下さいよ」
八五郎は平次の耳許にささやきます。
「ところで、お六から借りた金のことだが、――いつ借りて、どんな催促をされて、いくら払って、残っているのはいくらだ」
平次はそんな細かい事を訊きながら、上り框《かまち》に腰をおろしてしまいました。
「二年前、母さんが死んだとき、一両だけ借りました。三月目に一両二分にして返す約束で――」
「恐ろしく高い利息だな」
「でも払えないとなると、毎日毎日ここへ来て、いやな事ばかり言いました。父さんは一生懸命働いて利息だけは入れた心算《つもり》ですが、それでも、二年目の今となっては、積り積って三両になったから、私を奉公に出すか、でなかったら、日|済《な》しにして返せと言われて、私は小石川の叔母さんのところへあの晩相談に行ったんです」
ボロボロとこぼれる涙を、粗末な袷《あわせ》の袖で拭いて、覚束《おぼつか》なくもお美乃はつづけるのです。
「太え婆アじゃありませんか、親分」
後ろの方で、ガラッ八は一人で腹を立てています。
「その婆アは殺されているんだ。黙って居ろ」
「へエ――」
「ところで親方は酒が好きかえ」
平次は変なことを訊きました。
「ハイ」
それで苦労をしているらしいお美乃は、極り悪そうに俯向《うつむ》くのです。
「酔うと機嫌の悪くなる方かい」
「いえ、そんな事はありません――どっちかというとよく眠る方です」
お美乃の敢然と振り仰ぐ顔。――浅黒い細面の品のよさは、身扮《みなり》も背景も超越して、なにか冒《おか》し難い美しさが輝くのでした。
「仕事の方は?」
「父さんはいつも仕事の自慢ばかりして居ます」
腕に覚えのある良い職人が、酒と狷介《けんかい》に煩《わずら》わされて、初老を過ぎて貧乏から脱けきれないみじめさは、平次にもよく解るような気がしました。
六畳の間に据えた仏壇には、先祖の位牌と、死んだ女房の新しい戒名《かいみょう》が飾られてあるらしく、貧しいうちにも、なにか折目の正しさが、人に迫るものがあるのです。
「親分さん方」
後ろから声を掛けた者があります。
五
「丸木屋の雪之助さんだよ」
喜三郎は平次に引き合せました。それは二十七八の若旦那型の華奢な男で、色の白さも、眼の涼しさも、唇の紅さも、――そして言葉の爽《さわや》かさも、申し分のない男でした。
「銭形の親分、お美乃さんが可哀想だ。一日も早く金五郎親分を助けてやって下さい。あの人は気性の激しい人には違いないが、曲ったことや間違ったことをする人じゃありませんよ。――こればかりは三輪の万七親分の鑑定《めきき》違いでしょう」
静かですが、反抗を許さない調子で、シトシトと弁解して行く雪之助の言葉を、平次は一句毎にうなずきながら聴きました。
「大きにそうだろう。私もそう思って居るが、困ったことに親分のためにならない証拠ばかりだ」
「例えば?」
「お六の財布が、けさ此家の裏口の藪の中に落ちていたそうだ」
「まア」
お美乃の方が蒼くなりました。
「そいつは証拠じゃありませんよ。金五郎親方が盗ったものなら、自分の家の裏口へ空財布を捨てるものですか」
雪之助は躍起《やっき》となって弁解しました。
「そうかも知れない、そうでないのかも知れない」
平次は自分に言い聴かせるように、こう深々とした調子で言うのでした。金五郎の向う側は、鋳掛屋《いかけや》の岩吉の家でした。行ってみると、これはすっかり脅《おび》えてしまって、昨日から稼業も休み、何をするでもなく、唯ワクワクと暮している様子です。
「岩吉というんだね」
「へエ――」
ガラッ八にきめ付けられて、岩吉はガタガタ顫え出しました。岡っ引が三人、狭い門を塞《ふさ》ぐなんて想像もしたこともない恐しい図です。
「お前も、お六には借りがあるんだろう」
平次は静かな調子ですが突っ込んだことを訊きました。
「ありましたが、払いましたよ。へエ」
「何時、いくら借りたんだ」
「一両二分、三年前に借りましたが、今年になってから皆んな返しました。――こ、このとおり、証文を返してもらいましたよ」
岩吉は大きな財布の中から、真新しくさえ見える自分の証文を出して見せるのでした。
「金は何時返したんだ」
「二三日、いえ、一と月ほど前でした」
「利息が高いから、うんと金高が嵩《かさ》んだろう」
と平次。
「へエ――」
「その金を何処から手に入れて返したんだ」
「友達が古い貸しを返してくれましたよ、へエ」
「何処のなんという友達だ」
「へエ」
「言えまい」
「へ――」
「八、その野郎を縛ってしまえ」
平次の命令は激しくて唐突《とうとつ》でした。
「あッ、お許しを願います。――お願い、どうぞ、御勘弁を――」
岩吉は這い廻りました。生活難に疲れきって、見る影もなく萎《しな》びて居りますが、何処かこの鋳掛屋には、悧巧《りこう》なところが残って居ります。
「さア、早く言ってしまえ。言わなきゃ、お六殺しの下手人にされるぞッ」
「と、とんでもない親分さん。私はあの家の手箱の中から、私の証文を一枚抜いて来ただけですよ」
岩吉はとうとう白状してしまいました。
「何とつまらない細工をするんだ」
と平次。
「でも、利息を払っても、元金は減《へ》りません。一両二分借りて、この三年の間に三両以上も絞られました。――お六が死んだ今となっては、手箱から証文をそって持って来ても、たいした罪じゃあるまいと――」
「馬鹿ッ」
「へエー」
「余計な事をするから物事が|こんがら《ヽヽヽヽ》かるじゃないか」
「へエー」
「その証文をもとの手箱へ返せ――と言うところだが、今度だけは許してやる。その代りなんでも言うのだぞ」
「へエ、どんな、どんな、事でも申します」
岩吉は平次の前に米搗《こめつ》きバッタのようなお辞儀をしました。
「お六といちばん仲の悪かったのは誰だ」
「佐の市でございます」
「その次は?」
「金五郎親分でしょうか」
「一番仲のよかったのは?」
「お六は仲の良い人間を拵えると、損が行くと思って居ましたよ」
「その中でも啀《いが》み合わないのがあるだろう」
「若旦那――雪之助さんくらいのものでしょうよ。男がよくて物柔かですから、お六婆さんだって、あんな解った人と話しているのは、満更悪い心持じゃなかったでしょう」
「お前は」
「良いような悪いような、へッ、へッ」
一向要領を得ませんが、それでも平次は必要な程度の顎《あご》は取った様子です。
六
お六の家には、町役人と雪之助と与八の女房が詰めて、葬《とむら》いの仕度をしておりました。平次はここに腰を据《す》えて調べるのかと思うと、勝手口の表戸の締りだけ見て、至って簡単にきりあげ、最後に路地の突き当りの枳殻垣《からたちがき》越しに、寺の境内の様子を眺めました。
「ひどい雪解けだね。二三日垣の側へ人間が歩いて来た様子はない――おや、この境内の土は真黒じゃないか」
独り言のように言って、平次はスタスタと菊坂の通りへ出るのです。
「親分、帰るんですか」
八五郎はあわてて追い付きました。
「そうだよ、もうあの長屋には調べることはない」
「下手人は?」
「解った心算《つもり》だ。――お前気の毒だが今日一日身体を貸してくれ」
「へエ、何をやらかしゃいいんで」
「耳を借せ」
「へエー」
何やら言い付けて、八五郎を飛ばしてやると、平次は改めて喜三郎の|けげん《ヽヽヽ》な顔を迎えました。
「真砂町の兄哥、今日陽の暮れる前に、此処へ皆んな集めてくれまいか」
「皆んなというと?」
「三輪の万七兄哥も、縛られた金五郎も一緒だ」
「それはわけはないが」
「その前に、番所へ行って金五郎に逢って、お六の表の戸の締りのことを聴いてもらいたい。――桟がおりていたか、輪鍵だけだったか、輪鍵に釘が差し込んであったか」
「そんな事ならわけはない、兄哥は?」
「俺は雪之助さんの家に寄って、良いお茶を一杯もらって飲んで、真っすぐに帰るよ。それじゃ頼むぜ」
「合点」
三人は三方に別れました。それは、ポカポカ暖かい日の昼少し前のことでした。
その日の夕刻、酉刻《むつ》〔六時〕少し前、六軒長屋の路地の中に、関係者が全部集まりました。脹《ふく》れ返った三輪の万七、萎《しお》れきっている大工の金五郎、大はしゃぎのガラッ八、それに|つままれ《ヽヽヽヽ》たような喜三郎、岩吉、与八夫妻、佐の市とその母親、美しいお美乃、そして長屋の外に住む雪之助が物好きにこの一団に飛び込んで、進行係のような役目を勤めていたのです。
「下手人は金五郎じゃないと言うのかい」
万七は小意地の悪い調子で平次に突っかかりました。路地の中にも夕映えが残って、妙に神秘的な気持のする刻限です。
「三輪の兄哥、気の毒だが下手人は金五郎じゃないよ。金五郎なら、翌る日わざわざ空財布を自分の家の裏口へ捨てておくはずはない。――それに、金五郎が本当にお六を殺したなら、表戸ぐらいは開けて置くだろうよ。裏口だけ開けて置くと、自分が下手人だという証拠を残して置くようなものだ」
「……」
万七は黙ってしまいました。
「下手人は岩吉でもない。――岩吉は臆病過ぎるし、お六を殺した覚えがあるなら、手文庫から自分の入れた証文だけを抜いて行くはずはない」
平次はつづけました。
「与八は?」
と喜三郎。
「これも正直者だ。働くのが面白い男だ。人の金に目などを付ける男じゃない」
「佐の市は盲目《めくら》だ。――あとは女ばかり」
こんどは喜三郎が言うのです。
「そのとおりだ」
と平次。
「すると、下手人は誰だ?」
万七は少し威猛高になりました。
「外から入って来たのさ。――長屋の衆じゃない、長屋の衆はみな貧乏だが働き者だ」
「そんな馬鹿な事が、――お六の家の表の戸は内から締って居るんだぜ。――その上木戸も輪鍵が掛っていたはずだ」
万七は抗議しました。
「下手人は宵のうちから前の空屋に忍んでいて、時分を見計らってお六の家へ入ったんだろう。多分金五郎が酒を買いに出たとき、――岩吉が帰る少し前だ。お六は知っている顔だから用心もしなかった。それを見込んで、不意に後ろから締め殺した上、有金を盗って、わざと勝手口を開けて、表からそっと出た」
「表は締っていたぜ」
万七は我慢のならぬ声を出しました。
「紐《ひも》一本で、外から締められるのさ。皆んな中へ入ってみるがいい、俺は外から輪鍵をかけるから」
平次はお六の家の戸の輪鍵の輪に、水で濡らした長い紐の端っこを絡《から》むと、その一端を戸の隙間から潜《くぐ》して表へ出し、自分は一尺ほど開けたところから外へ出て、戸を締めた上、静かに紐を引きました。紐は平次の手にたぐられると、その末端を濡らして絡んだ輪鍵が、受《うけ》の金具の上にカタリとはまりました。と見ると、絡んだ紐は独りでスルスルと輪がほぐれて、平次の手に納まるのです。
「あッ」
と驚き騒ぐ人々。
「木戸を外から締めたのもこれと同じことだ。佐の市が夜中に聴いた物音は、曲者が木戸から逃げ出す音だったんだ。見るがいい」
平次は木戸のところまで人々を誘うと、同じ方法で外から輪鍵を掛けて見せました。
「輪鍵が掛って、釘の差していなかったのは、外から細工をした証拠だ。お六の家の表戸も、釘が差していなかった。これは金五郎がよく知っている。うんと溜め込んで、用心ぶかくなりきって居るお六が、そんな戸締りをするはずはない」
「……」
皆んなしばらく黙ってしまいます。
「木戸の輪鍵の釘が近頃見えないのもそのためだ。下手人は二三日前にその釘を隠してしまったのだ」
「その下手人は誰だ」
三輪の万七も、さすがに兜《かぶと》を脱ぎました。
「仕事の嫌いな奴だ。――金が欲しくてたまらない奴だ。――金五郎や岩吉は、貧乏こそしているが仕事は自慢だ。人を殺して金を盗ることなどは、夢にも考えたことがあるまい。ところが、世の中には、ノラリ、クラリと遊んで暮して、贅沢したいばかりに、金を欲しがって居る人間がある」
「誰だ、そいつは、銭形の」
喜三郎は四方《あたり》を睨《ね》め廻しました。
「木戸の蝶番《ちょうつがい》に油を注《さ》して、開閉《あけたて》に音の出ないようにした奴だ。――その油は、日本橋の通三丁目で売っている、伊達者《だてもの》の使う伽羅油《きゃらゆ》だ。八、ここにいる人間の頭を嗅いでみろ」
「あッ」
あわてて逃げ出した一人は、早くも八五郎と喜三郎に引戻されました。
「御用ッ」
叩き伏せて、キリキリと縛ると、それはなんと、一番無害らしく見えた、丸木屋の次男で、意気事と雑俳に浮身をやつしている、若旦那の雪之助ではありませんか。
盗んだ金は三百両余り、寺の灯籠《とうろう》の中から平次が見付けました。その晩、お六の金をさらった雪之助は自分の家へ持込むのが不用心と思ったのでひとまず枳殻垣《からたちがき》越しに、財布を隣の寺の境内に投げ込み、翌る日の朝行って始末をし、金は灯籠に、財布は金五郎の家の裏に捨てたのです。
「驚いたね、親分。雪之助がなんだってあんな気になったんでしょう」
ガラッ八がこんな事を訊いたのは、ズッと後のことでした。
「ブラブラ遊んでいるから、無暗に金が欲しかったのさ。贅沢をするより外に能のない人間ほど恐しいものはないよ。――お前に雪之助の身持と、日本橋の店でも愛想を尽かしていることを訊き出させたのは、そのためさ」
「万七親分が乗出したのは」
「あれは雪之助の細工だ。三輪の兄哥はそう言わないが、あんまり早く手が廻り過ぎて変だと思ったよ。それから金五郎の裏口へ財布を捨てたりして、金五郎を無実の罪に追い込み、あとで頼《たよ》りないお美乃をどうかしようという企《たく》らみだったのさ。――俺が金五郎の家の裏に財布が捨ててあったというと、雪之助は空財布《からざいふ》と言い直したろう。――あれは語るに落ちたのだよ」
「悪い野郎ですね」
「申し分のない悪党だよ。――ところで、真砂町の喜三郎兄哥の祝言までに、お前も袴《はかま》と羽織くらいは拵えて置いちゃどうだ」
「そこまでは届きませんよ。親分」
「折角《せっかく》お美乃が嫁入りするんだぜ、その扮《なり》で高砂やアでもあるめエ。――これで間に合わなきゃ、またなんとかするぜ」
平次はそう言いながら、珍しく脹《ふく》らんだ財布を八五郎の膝小僧の上にそっと載《の》せてやるのでした。
第廿七吉
一
「親分、変なことがありますよ」
八五郎のガラッ八が、長んがい顔を糸瓜棚《へちまだな》の下から覗かせたとき、銭形の平次は縁側の柱にもたれて、粉煙草をせせりながら、赤蜻蛉《あかとんぼ》の行方を眺めておりました。この上もなくのんびりした秋のある日の夕刻です。
「びっくりさせるじゃないか、俺は糸瓜が物を言ったのかと思ったよ」
「冗談でしょう。糸瓜が髷《まげ》を結って、意気な袷《あわせ》を着るものですか」
ガラッ八はその所謂《いわゆる》意気な袷の衣紋《えもん》を直して、ちょいと結い立ての髷節に触ってみるのでした。
「だから、変なんだよ。糸瓜が髷を結ったり、意気な袷を着たり――」
「まぜっ返しちゃいけません」
平次とガラッ八は、相変らずこんな調子で話を運ぶのでした。
「じゃ、何が変なんだ、そこで申し上げな」
「その前に煙草を一服」
「世話の焼ける野郎だ」
平次は煙草盆を押しやります。
「恐しい粉だ。埃《ほこり》だか煙草だか、嗅《か》いでみなきゃ解らない」
「贅沢を言うな」
「相変らずですね、親分」
ガラッ八は妙にしんみりしました。江戸開府以来と言われた名御用聞の平次が、その清廉《せいれん》さの故に、いつまで経ってもこの貧乏から抜け切れないのが、平次信仰で一パイになっているガラッ八には、不思議で腹立たしくてたまらなかったのです。
「大きなお世話だ。粉煙草は俺が物好きで呑むんだよ。――それよりもその変な話というのは何なんだ」
「根岸の御隠殿裏《ごいんでんうら》の市太郎殺しの後日物語があるんで――」
「下手人でも判ったのか」
「あればかりは三輪の親分が一と月越し血眼で捜しているが判りませんよ」
「じゃ、何が変なんだ」
「親分に言われて、この間から気をつけていると、あの家の下女――お菊という十八九の可愛らしい娘が、毎日浅草の観音様《かんのんさま》へお詣りをするじゃありませんか」
「信心に不思議はあるまい。日参をして岡っ引に睨《にら》まれた日にゃ、江戸に怪しくない人間は幾人もいないことになるぜ」
「それが変なんで」
「娘が綺麗過ぎるんだろう」
「その綺麗過ぎる娘が、観音様にお詣りをするだけなら構わないが、必ず御神籤《おみくじ》を引くのはどうしたわけでしょう」
「毎日か」
「一日も欠《か》かしません。その上、引いた御神籤を八つに畳んで、仁王門外の粂《くめ》の平内《へいない》様の格子に結わえる」
「毎日同じことをやるのか」
「あっしがつけてから十日の間、一日も欠かしませんよ。降っても照っても」
「時刻は?」
「巳刻《よつ》〔十時〕から午刻《ここのつ》〔十一時〕の間で」
「待ちな、元三大師の御神籤《おみくじ》には忌日《きにち》があるものだ。日も時も構わず、毎日御神籤を引くのは、いくら小娘でも変じゃないか、八」
「だからあっしが変だと言ったじゃありませんか――糸瓜《へちま》に髷を結わせたり、意気な袷を着せたのは親分の方で――」
「そんなことはどうでもいい。――その娘は誰かと逢引をする様子はないのか」
「根岸から真っすぐに来て、真っすぐに帰りますよ。もっとも、ときどき、変な野郎が娘の後をつけている様子ですがね、振り向いても見ませんよ」
「変な野郎?」
「若くてちょっと渋皮《しぶかわ》のむけた娘の後をつけるんだから、どうせ|まとも《ヽヽヽ》な人間じゃありません」
「お前もそのまともでない人間の一人だろう」
「へッ」
「ところでその娘は、引いた御神籤をていねいに読むのか」
平次の問いは妙なところへ立ち入ります。
「丁寧にもぞんざいにも、見ようともしませんよ」
「フーム」
「そのまま八つに畳んで帯のあいだへ挟んで、御神籤所からだんだんを降りて石畳《いしだたみ》を踏《ふ》んで、仁王門《におうもん》を出て、粂の平内様のお堂の前ヘ立って、帯のあいだから先刻の御神籤を出して格子に結わえるんで」
「その手順に間違いはないだろうな」
「毎日同じことをやるんだから間違いっこはありません。よほど念入りな願をかけるんでしょうね」
「面白いな八、明日は俺が行って、娘の所作《しぐさ》を見極めよう。そいつはなんか理由がありそうだ」
「へエー、親分が乗り出すんですか。――三輪の親分が気を揉《も》んで、見境いもなく人を縛りますぜ」
「そんなこともあるまい」
平次は相変らず赤蜻蛉の乱れ飛ぶのを眺めながら、鉄拐仙人《てっかいせんにん》のように粉煙草の煙を不精らしく燻《ふか》すのでした。女房のお静は、貧しい夕食の仕度に忙しく、乾物《ひもの》を焼く臭いが軒に籠ります。
二
根岸は陰殿裏の武家出らしい母娘の家へ曲者《くせもの》が忍び込んで、用人あがりの中老人、市太郎というのを斬って逃げうせたのは、もう一か月も前のことでした。
母親の女主人は浪乃《なみの》といって、三十五六の少し陰気ではあるが立派な婦人。娘は十二三で、殺された市太郎老人は五十を越したばかり、そして美しい下女――というよりは、お腰元らしいお菊というのは、十八か九で、こればかりは五月の陽のような明るく美しい娘でした。
引越して来たのは去年の暮、ひっそりとした暮しようで、西国の武家出とばかり、氏《うじ》も素姓もわかりませんが、近所の評判もよく、店舗《みせ》も確かで、なんの仔細《しさい》もなく過しているうち、今からちょうど一か月前、ある夜曲者が忍び込んで、入口の六畳に休んでいる市太郎老人を斬り殺し、奥へ踏込むところを、折よく外から帰って来たお菊の声におどろいて、なんにも盗む隙《ひま》もなく、そのまま逃げてしまったというのです。
検屍も滞《とどこお》りなくすみましたが、下手人はなんとしても挙がりません。そのとき家の中に居たのは、殺された市太郎の外には、女主人の浪乃と、小さい娘の早苗《さなえ》と二人きり。娘は風邪《かぜ》の気味で早寝をしてなんにも知らず、奥にいた浪乃は怪しい物音に飛んで出ると、市太郎を殺した曲者は、裏口から入って来たお菊の声に驚いて取るものも取らずに逃げうせたのでした。市太郎の傷は前から頸筋を突かれた一と太刀で、お菊が帰ったときはまだ虫の息があり、断末魔《だんまつま》ながら、主人の浪乃を伏し拝むようにしていたということだけは解っております。
表の格子戸は内から乱暴に外され、六畳一パイの血の海です。土地の御用聞三輪の万七は、時を移さず乗込みましたが、まるっ切り下手人の見当もつかず、そのまま愚図愚図と一か月という月が経ちました。そのあいだ係りの同心の勧めで、銭形の平次は呼び出されましたが、一応現場を見ただけ、三輪の万七に義理を立てたか、あまり口を出さずに帰ってしまい、その後は三輪の万七にも内証で、子分の八五郎に、そっと見張らせて、情勢の変化を眺めていたのでした。
その八五郎が、美しい下女のお菊の動静を見張っているうち、浅草の日参と、御神籤《おみくじ》と、粂《くめ》の平内《へいない》様の格子の謎を見付けたのです。
「親分、出かけましょうか」
翌る日の朝、まだ飯も済まぬうちに飛んで来たのは、勢い込んだ八五郎でした。
「たいそう早いじゃないか」
「でも根岸から観音様に廻ると、昼近くなりますよ」
「そいつは正直過ぎるだろう、御神籤所を見張っただけでたくさんだよ」
だが、このガラッ八の馬鹿正直さが、平次のために、いろいろのことを発見してくれるのでした。
観音様にたどり着いたのはちょうど巳刻《よつ》〔十時〕頃、二人は絵馬《えま》を眺めたり、鳩に餌をやったり、ざっと半刻〔一時間〕ばかり待っていると――
「親分、来ましたよ」
ガラッ八はそっと平次の袖を引きました。
見るとちょうど仁王門を入って来るのは、平次にも見覚えのあるお菊という可愛らしい下女。鳩にも五重の塔にも眼をくれず、真っすぐに段を登って、大賽銭箱《だいさいせんばこ》の前に立つと、赤い紙入れを出して、小銭を摘《つま》んでポイと投げ、鈴の緒に心持触れて、双掌《もろて》を合せたまま、ひた拝みに拝み入るのでした。
「ちょいと、可愛らしいでしょう」
「黙っていろ」
鼻筋の通った、ふくよかな横顔をガラッ八は指します。
「親分」
「なんだ、うるさいな」
「あれがまともでない人間で――」
振り返ると段の中程のところに立って、不精らしく懐手をしたまま、凝《じ》っと娘の様子を見ているのは、渡り中間《ちゅうげん》らしい様子をした中年男です。
「なるほど」
「あ、娘は御神籤を引いていますよ」
「しッ」
下女のお菊は御神籤を引くと、別段それを見るでもなく、八つに畳んで、もう一つ中程から折って帯のあいだへすべり込ませました。
そこから御堂を出て、石畳を渡って仁王門を出るまで、娘の取り済ました顔は、一度も四方《あたり》を見ません。段の中途からそれを見詰めていた人相のよからぬ男も、平凡な日程をくり返すような静かさで、どこともなく姿を消してしまいました。いや、どうかしたら、物蔭からそっと眼を光らして居るかもわかりませんが、境内にはざっと見渡したところ、怪しい人影もなかったのです。
お菊は粂の平内様の堂の前に立つと、これも事務的な冷静さで、帯のあいだから先刻の御神籤を取り出し、堂の格子へ器用な手付でざっと結びました。
「四方《あたり》を見ようともしない。――おそろしい胆《きも》の据《すわ》った娘じゃないか」
銭形平次がそう言った時、お菊はもう平内様の堂を離れて、伝法院《でんぽういん》の横の方へ、美しい鳥のように姿を隠すのでした。
そのとき何処からともなく現われた先刻《さっき》の怪しい男、お菊の跡を見え隠れにつけて行く様子ですが、お菊はそれを知っているのか知らないのか、相変らず振り向いて見ようともしません。江戸の賑いを集め尽したような浅草の雑沓《ざっとう》は、この意味もなくみえるささやかな事件を押し包んで、活きた坩堝《るつぼ》のように、刻々新しい沸《たぎ》りを巻き返すのです。
三
「ここまでみて、お前は引き揚げたんだろう」
平次はガラッ八の茫《ぼ》っとした顔を顧《かえり》みました。
「あの娘をつけてみましたが、御隠殿裏へ真っすぐに帰るだけで、なんの変哲《へんてつ》もありませんよ。江戸の真ん中じゃ、真昼の天道様に照らされて、どんな送り狼だって、業《わざ》はできません」
ガラッ八は長いあごを撫でるのです。
「何を言うんだ。娘のことじゃない。あれだよ」
「へエ――」
平次は粂の平内様のお堂を指しながら続けました。
「あの格子に、たくさんの御神籤が結んであるだろう。縁結びのまじないにされているんだ。古いの新しいの、勘定し切れないほどあるが、たった一つ変ったのがあるはずだ」
「?」
「端っこをちょいと紅で染めた御神籤だよ――天地紅の御神籤なんか何処のお寺へ行ったって出るものじゃない」
「へエ――」
「あの娘は観音様の本堂から此処まで来るあいだに、御神籤の端《はし》を染める暇がなかった筈だ」
「?」
「だが、あの御神籤は前には無かったことは確かだ。やはりあの娘が結わえたんだ。――間違いはない。いま引いた御神籤を、読みもせずに平内様の格子に結ぶはずはないから、やはり帯の間に細工があったに違いあるまい。あの赤い御神籤は、家から用意して来たんだろう」
「へエ――。手数のかかる細工ですね」
「それどころじゃない、娘は赤い御神籤を結ぶとき、前にあの格子《こうし》に結んであった、青い印《しるし》のある御神籤を解いて持って行ったよ。――それに気が付かなかったのか」
「本当ですか、親分」
ガラッ八は見事に十日間娘に馬鹿にされていたのです。
「赤い印や青い印の付いた御神籤は、何百何千の中でも一と眼に解るよ。俺は先刻ここへ来たとき、確かに見定めて置いたから間違いはない」
「へエー」
「驚いてばかり居ずに、あの赤い御神籤を解《と》いて来るがいい。青いのを見なかったのは手ぬかりだが、なあに、赤いのを見ただけでも、大体の当りはつくだろう」
そう言ううちにもガラッ八は、平内様の堂の格子から、お菊が結び捨てて行った、赤い印のある御神籤を解いて来ました。
「こいつは楽じゃありませんね、親分。皆んながジロジロ顔を見るんだ」
「心配するなよ、泥棒と間違えられっこはない。――男のくせに縁結びのまじないなどをするのは、どんな野郎だろうと思われるだけのことさ」
「なお悪いや」
「おやおや、やはり御神籤だ――たぶん昨日引いたのへ書き込んで今日持って来たんだろう。『第廿七吉、祿を望んで重山なるべし、花紅なり喜悦の顔、か。――病人は本服すべし、待人来るべし――』そんな事はどうでもいいとして、見事な筆跡《て》で書き入れがしてあるよ。『当方無事、あと三日のあいだ、命にかえて頼み入る』と」
「それはなんの事でしょう、親分」
「判らないよ」
「驚いたなア、親分が判らなかった日にゃ、天道様にだって判るわけはねエ」
「馬鹿なことを言え。――ところで、もう赤い御神籤を取りに来る刻限だろう。これを元のとおり格子へ結んでおいてくれ」
「へエ」
「いやな顔をするな。――精いっぱい縁結びに取憑《とりつ》かれているような顔をするんだ」
「驚いたなア」
ブウブウ言いながらも、八五郎は赤い御神籤を、元の格子に戻しました。
それからほんの煙草を二三服した頃、
「それみるがいい。お前みたいな、縁結びに取憑かれている野郎が来たじゃないか」
平次が指した粂の平内様の格子の前に、威勢の良い男がフラリと立ちました。まだ若そうな着流し、弥蔵が板について、頬冠《ほっかぶ》りは少し鬱陶《うっとう》しそうですが、素知らぬ顔で格子から赤い御神籤を解く手は、恐ろしく器用です。
「捕まえましょうか、親分」
「馬鹿、御神籤泥棒じゃ引っ立てばえもあるまい。――黙って後をつけるんだ。落着くさきを見極《みきわ》めさえすれば、わけもなく眼鼻がつくよ」
「それじゃ親分」
「抜かるな、八」
「なアに、二本差でなきゃ、多寡《たか》が知れていますよ」
八五郎はヒラリと身をひるがえすと、怪しの男が平内様の堂を離れるのと一緒でした。二人は仲見世の人混みの中を縫って、雷門の方へ泳いで行くのを、平次はなにか覚束《おぼつか》ない心持で見送っております。
四
その晩、平次の家へ戻って来たガラッ八の八五郎は、申し分なくさんざんの態《てい》でした。
「あ、驚いた。親分の前だが、あっしはまだ、あんな野郎に出っくわしたことはありませんよ」
自分の髷節《まげぶし》は横町の方に向いて埃《ほこり》をかぶり、意気な袷はしま目も判らぬほど泥に塗《まみ》れて、全身いたるところに傷だらけ、それがお勝手口からコソコソとでも入ることか、町内に響き渡るような声を張り上げて、平次のいわゆる大玄関に、立ちはだかるのです。
「なんという恰好だい、裏へ廻って泥だけでも落すがいい――お静、俺の袷を出してやれ、一番|野暮《やぼ》なのがいいよ、身につかないものを着るとろくなことはないから」
口小言をいいながらも、ともかくも男振りだけでも直して、長火鉢の前に据《す》えました。幸い傷は摺《す》り剥《む》きと引っ掻きだけ、生命に別条のあるのは一つもありません。
「驚いたの驚かないのって、こんな眼に逢うと知ったら、親分も一緒に行ってもらうんでしたよ」
ガラッ八の仕方話は始まりました。
赤い御神籤《おみくじ》を取った怪しの男をつけて行くと、駒形から、お蔵前を、両国へ出て、本所へ渡って、深川へ廻って、永代を渡って築地へ抜けて、日本橋から神田へ、九段を登って、牛込へ出て、本郷から湯島へ来ると、日はトップリ暮れたというのです。
「腹ごしらえはどうした」
平次は訊きました。
「呑まず食わずですよ。塩煮餅《しおにもち》を買う隙《ひま》もありゃしません。恐ろしく足の達者な野郎で、うっかりすると姿を見失います。でも半日歩きつづけて、上野へ来たときは二人ともヘトヘト、歩いてるんだか、這ってるんだか解りゃしません」
「馬鹿だなア」
それが平次の深甚《しんじん》な同情の言葉でした。
「谷中へ入った時、あんまり癪にさわるからとうとう武者ぶり付きましたよ。このまま続けた日にゃ、夜の明ける前に参って仕舞う。何糞《なにくそ》で、いきなり御用ッと来ましたね。――威勢よくやったつもりだが、口惜しいことに声が出ねえ。半日呑まず食わずじゃ、ろくな唾《つば》だって出やしませんよ」
「それからどうした」
「二つ三つねじ合ったと思うと、――口惜《くや》しいがこのとおり、手もなくやられましたよ。藪の中へ放り込んで、『あばよ』だってやがる。親分の前だが、口惜しいのなんのって――」
ガラッ八は手放しのまま、ポロポロと涙をこぼすのです。
「馬鹿野郎ッ」
平次の声は|りん《ヽヽ》としました。
「……」
「なんだって夜っぴて後を跟《つ》けなかったんだ」
「へエー」
「へエじゃないよ。齧《かじ》り付いたら、雷鳴《かみなり》が鳴っても離さないのが岡っ引のたしなみだ。見ればガン首も手足も無事じゃないか」
「へエ」
「それともなんか動きのとれない証拠でも押えて来たのか」
「お生憎様で」
「お生憎様てえ奴があるか、馬鹿だなア」
平次もとうとう吹き出してしまいました。
「もう一度行きますよ。親分。明日は姿を変えて平内様のお堂の前に頑張って、三日分ばかり兵糧《ひょうろう》を背負ってつけたらどんなもので――」
「勝手にするがいい」
ガラッ八は頭を抱えて飛び出しました。その晩のうちに、大阪へ行くほどの仕度を整え、翌る日早々浅草へ乗込んだことは言うまでもありません。
五
その翌る日、ガラッ八は見事に使命を果しました。
「親分、大変ッ」
大変の旋風《せんぷう》が飛込んだのは、戌刻半《いつつはん》〔九時〕少し廻った頃。
「さア来たぞ。今晩あたりはその大変が降りそうな空模様だと思ったよ」
平次はそれを期待していたのでしょう。
「昨日と異《ちが》って敵に覚《さと》られずに見事に後をつけましたぜ。相手が浅草から真っすぐに巣へ行ったんだから間違いはないでしょう」
「その巣は何処だ」
「本所|相生《あいおい》町の裏長屋で」
「それから」
「一日頑張ったが、それっ切り出て来ませんよ。あの風体だから、見落とすはずは無いんだが――」
「お前と同じことだ、姿を変えて出たんだろう」
「あっしもそれに気が付いて、いきなり飛込みましたよ。すると、大時代の婆アが一人、念仏を称《とな》えながら商売物の姫糊《ひめのり》を拵《こしら》えているじゃありませんか」
「それからどうした」
「さんざん脅《おど》かした末、とうとう口を割りましたよ。あの曲者というのは親分、驚いちゃいけませんよ」
「誰がおどろくものか。――二千五百石の大旗本、駒形にお屋敷を持っていま長崎奉行をしていらっしゃる、久野|将監《しょうげん》様の家来、先ごろ殺された用人進藤市太郎の倅勝之助という男だろう」
「どうしてそれを親分」
ガラッ八の驚きようは見事でした。
「お前が三十里も歩くあいだ、俺がジッとしているはずはないじゃないか。あのお菊という娘を脅かしたり、すかしたりこれだけのことを言わせるのに二日かかったよ」
「人が悪いなア、親分」
ガラッ八は少しばかり不服そうです。
「まア怒るな八、何でも判りさえすればよかったんだ。二人とも判ったんだから、怨《うら》みっこはあるまい」
「それっ切りですか、親分」
「まだいろいろのことがわかったよ。手っ取り早く言うと、主人の久野将監様がお役目で一年前から長崎へ出張、異人《いじん》との掛け合いに骨を折っているのに、駒形の留守宅では、叔父の深田|琴吾《きんご》というのが、家来の山家|斧三郎《おのさぶろう》と腹を合わせ、お妾のお新という女を立てて、奥方の浪乃《なみの》様を、いろいろ難癖をつけて屋敷に居られないように仕向けた。お気の毒なことに奥方の浪乃殿は、お里方が絶家して帰るところもなく良人《おっと》将監殿が江戸へ帰るまでは、滅多《めった》に死ぬわけにも行かない。跡取の謙之進《けんのしん》様――十歳になったばかりのを屋敷にのこし、十二歳のお嬢様|早苗《さなえ》様というのと、お腰元のお菊、それに用人の市太郎をつれて、根岸の御隠殿裏の貸屋に籠った――不義《ふぎ》の汚名《おめい》を被《き》せられ、親類一党から義絶された奥方としては、こうするよりほかに工夫はなかった」
平次の話はつづきました。
根岸に籠った奥方は蔭ながら屋敷にのこした倅謙之進の上を案じ、女の知恵に及ぶ限りの工夫をこらしてそれを守護しました。腰元のお菊と、用人進藤市太郎の倅で、屋敷に踏み止まった勝之助が、青と赤の印の付いた御神籤を交換して、わずかにお互いの無事を知らせ合い、いろいろしめし合せて来たのは、行届き過ぎる悪人どもの監視の眼をくぐり、その毒計に対抗して、家と若君との無事を計る苦衷《くちゅう》だったのです。
主人将監は長崎のお役目が済んで、いよいよ三日の後には帰ることになりました。その三日さえ無事に過せば、奥方の無実を言い解く道もひらけ、若君謙之進の身も安泰になるでしょう。が、悪人のあせりようも一段猛烈をきわめて、その三日を無事に暮せるかどうか、はなはだ覚束ない有様になっていることも事実でした。
「親分、そう聴いちゃ放っておけません、乗込んで行きましょう」
「馬鹿なことを言え、町方の岡っ引が、二千五百石のお旗本の屋敷へ乗込めるわけはない」
平次の悲しみはそこだったのです。いかに証拠が山ほど揃っても、武家屋敷の塀の中までは、町方の手は届きません。
「口惜しいじゃありませんか、親分」
「だが、たった一つ」
平次は深々と考え込みました。
六
明日はいよいよ主人将監が帰るという日、銭形平次はとうとう青い御神籤の曲者――実は久野|将監《しょうげん》の家来進藤勝之助を本所|相生《あいおい》町の隠れ家に突きとめてしまいました。最初はさんざん白っぱくれましたが、ぐんぐん突っ込んで行く平次の問いに追い詰められて、
「それじゃ、どうしろというのだ。――拙者はいかにも進藤勝之助、仔細《しさい》あって姿を変えたところで、町方役人に文句を言われる道理はあるまい」
意気な袷《あわせ》の前をキチンと合せて進藤勝之助は四角に坐るのでした。二十二三のまだ若いが苦味走った良い男、腕にも分別にも申し分のないのが、侍の地が出ると、さすがに犯《おか》し難いところがあります。
「進藤さん、そう打ち明けて下さると何よりありがたい――。あっしの申すことを聴いて下されば、あなたの親御――市太郎様を殺した相手も教えてあげましょう」
「父親を討ったのは、誰だ。まずそれから聴こうじゃないか」
「いえ、それは一番後で申し上げます。それより、親御様市太郎様は、奥方様の御味方ですか、それともお部屋様方ですか、あなたは御存じでしょうね」
「……」
勝之助の顔色はサッと変りました。
「私から申し上げましょうか。――父上市太郎様もさいしょは奥方様の御味方だったに相違ありません。が、フトしたことから悪人どもに悪い尻を押えられ、後には次第次第にお部屋様方に味方するようになり、亡くなる頃は、動きの取れない悪人方になっておりました。――あなたがそれを、どんなに心苦しく思われたかもよく解っております」
「……」
勝之助はジッと膝に眼を落しました。この一年間、悪人方に転落して行く、心の弱い父の姿を見ることが、どんなに凄まじい苦痛だったでしょう。
「ところが、亡《な》くなった後に残る、父上市太郎様の汚名はなんとなさいます」
「父の汚名?」
「悪人どもは悉《ことごと》く細工をしてしまいました。明日江戸御帰府の殿様に御覧に入れるため、あなた様の父上市太郎様を奥方不義の相手に拵《こさ》え御親類方にまで披露の手筈《てはず》になっております」
「それは本当か」
勝之助の顔はもう一度変りました。
「父上市太郎様の懺悔状《ざんげじょう》を作り、山家斧三郎がそれを持っております。今夜はたぶん深田|琴吾《きんご》、御部屋様などと顔を合わせ、最後の手筈《てはず》を定めることでございましょう」
「どうしてそれが解った」
「お菊の言葉や、父上市太郎様の最期の様子、奥方のお言葉の端々からそれくらいのことは察しました。それに駒形のお屋敷には一昨夜から、三人の諜者《ちょうじゃ》を入れ、出入りの商人はことごとく調べあげてしまいました」
平次の周到さは、たった二日一夜の間に、早くも事件の全貌をつかんでしまったのでしょう。
「……」
「あっしの申すことが本当か嘘か、今晩お屋敷の内のどこかに、三人の悪人が相談しているところを突きとめ、その話の様子が少しでもわかれば、何もかも分明になります。その上で、御隠殿裏の奥方様の御隠れ家にお出下されば、親御様の敵の名を申し上げましょう。――宜しゅうございますか、進藤様」
平次は念を押しました。この青年武士を用《もち》うるよりほかに、悪人どもの企みを知る工夫はなかったのでしょう。
「よし、確《しか》と引き受けた、その代り」
勝之助は青白い顔を挙げます。屈辱《くつじょく》と義憤に、ワナワナと頬が顫えます。
「万一私の申すことが嘘でしたら、平次の首を差し上げましょう――と申しても張合いのないような私でございます。こうしましょう。私の見込みが外れたら、今晩かぎり十手捕縄を返上し、この髷節を切ってお詫びいたしましょう」
「よし、確と言葉を番《つが》えたぞ」
勝之助はフラフラと立ちあがりました。
この後のことは、長々と書くと際限もありませんが、ざっと筋だけを通すと、その晩進藤勝之助は、深田琴吾、山家斧三郎の二人の悪者を取って押えて、御隠殿裏の奥方の隠れ家に飛込んで来たのでした。
「平次殿、――一言もない。まさに察しのとおり、悪人どもは亡《な》き父一人に悪名を負わせ、明日は帰府の殿を欺《あざむ》く企《たくら》みであった。あまりの事にその席に飛込んで、かくのとおり。残念ながらお部屋様は取り逃したが」
「とうとうやりなすったか、進藤様。――御心中御察し申します。しかしこれより外に、御家安泰の道は無かったでしょう。見事父上の過失を償《つぐな》われました」
平次は挙げかけた手を膝に置いて、奥方の方を振り返るのです。
「ところで、父の敵だ。約束どおり、教えてもらおうか、平次殿」
勝之助の膝は、きっと平次の方を向きます。
「申しましょう。――父上市太郎様の敵は、何を隠そう、父上御自身」
「何? なんと言う」
「父上市太郎様は、身を恥じて、自害をなすったのです。それを庇《かば》ったのは、ここに居られる奥方様と、お女中のお菊さん。万一自害と知れては、父上様の非を発《あば》くことになりましょう。咄嗟《とっさ》の間にお二人で相談して、刀を隠して格子戸を外し、曲者が外から入って父上を害めたことに取繕《とりつくろ》ったのです。それに間違いはないでしょうな」
「……」
奥方浪乃はうな垂れたまま涙を拭き、女中のお菊は眼をあげて、大きくうなずきました。
「よく判りました。親の敵を討とうとしたのは、この勝之助の浅墓さでございました。それでは、私はこのまま退転いたします。奥様方には、今夜のうちに駒形のお屋敷にお帰り遊ばし、明日は晴れて殿様の御入府をお迎え遊ばすよう」
勝之助は畳に双手《もろて》を落すのです。ハラハラと膝を洗うのは、若さと純情さに溢《あふ》るる涙でした。
「ありがとう、勝之助、何もかもお前のお蔭。――折があったら帰っておくれ。――殿様へは、私からよく申します」
奥方は蒼白い顔を挙げました。激情に顫《ふる》えますが、限りなく上品な美しさです。
「では、奥方様」
「お待ち、これは、せめてもの私の志」
奥方は手文庫から、持重《もちおも》りのする金包を出して、ひた泣く勝之助に押しやります。
後にはもらい泣きのお菊と平次。――ガラッ八の八五郎も隣の部屋で大きく鼻を啜《すす》っているのです。
*
翌る日は奥方浪乃、屋敷に帰って良人久野将監を迎え、事件の顛末《てんまつ》を、人を傷つけない程度に報告しました。妾のお新が、そのまま行方不知になったことは言うまでもありません。
一件落着の後、ガラッ八の八五郎は、
「市太郎は本当に自害したんですか、親分」
割り切れない顔を平次にブチまけるのです。
「自害なものか、立派な下手人があるさ」
「へエー」
「奥方だよ」
「ヘッ」
ガラッ八はさすがに胆《きも》をつぶします。
「用人の進藤市太郎は、さいしょ悪人に引摺《ひきず》られたが、美しい奥方と一緒にいるうち、本当に悪い望みを起して、奥方に無礼なことをしたのさ、――末期《まつご》の苦しい息の下から、奥方の方を拝んだと聴いて俺は大方察《おおかたさっ》したよ。それにあの格子戸は外から曲者があけて入ったんじゃなくて、内から無理に外したのだ。多分お菊の細工だろう。刃物を隠したのもお菊かな。あの娘は恐ろしく悧巧だよ。――それに味噌擂《みそすり》用人でもなんでも武士たる者が、正面から曲者に咽喉《のど》を刺されるという間抜な法があるものか。――誰も曲者の顔を見たものが無いというのも考えるとおかしなことだよ。――俺は最初からあの奥方が怪しいと思っていたんだが、素姓が判らないから手のつけようは無かったんだ。お前に見張らせたのはそれが知りたかったからだよ。あわてて奥方を縛るととんだことになるじゃないか」
平次はこう説明するのでした。お菊と勝之助とのあいだに青と赤の御神籤を通して結ばれた、ほのかな親しみの始末については、いずれ勝之助が久野家に帰参の上、平次の橋渡しでなんとかなることでしょう。
詭計の豆
一
「親分、四谷|忍《おし》町の小松屋というのを御存じですか」
「聞いたことがあるようだな、山の手では分限《ぶげん》のうちに数えられている地主かなんかだろう」
銭形平次が狭い庭に下りて、道楽の植木の世話を焼いていると、低い木戸の上に顎《あご》をのっけるように、ガラッ八の八五郎が声を掛けるのでした。
「その小松屋の若旦那の重三郎さんを案内して来ましたよ。親分にお目にかかって、お願い申し上げたいことがあるんですって」
そう言えばガラッ八の後ろに、大町人の若旦那といった若い男が、ひどく脅《おび》えた様子で、ヒョイヒョイとお辞儀をしているのです。
「お客なら大玄関から――と言いたいが、相変らずお静が日向《ひなた》を追っかけて歩くから、あそこは張り板で塞《ふさ》がっているだろう。こっちへ通すがいい」
「へッ、そこは端近《はぢか》、いざま――ずっと来たね。若旦那、遠慮することはない。ズイと通って下さいよ」
八五郎の剽軽《ひょうきん》な調子に誘《さそ》われるように、身扮《みなり》の凝《こ》った、色の浅黒い、キリリとした若いのが、少し卑屈な態度で、恐る恐る入って来ました。せいぜい二十歳そこそこでしょうか、まだ世馴れない様子のうちに、妙に野趣《やしゅ》を帯びた、荒々しさのある人柄です。
「あっしは平次だが――小松屋の若旦那がどんな用事で、こんなところへ来なすったんだ」
縁側へ席を設《もう》けさして、平次は煙草入れを抜きます。調子は間違いもなく客を迎えながら眼はまだ庭に並べてある、情けない植木鉢に吸い付いて、その若い芽や、ふくらんで行く蕾《つぼみ》を享楽しているのでした。
「思案に余って参りました――私の身に大変なことが起ったのでございます」
「大変なことにもいろいろあるが」
平次の瞳はようやくこの若い客に戻りました。持物も、身扮《みなり》も、申し分なく大商人の若旦那ですが、物言いや表情や身のこなしに、一脈の野趣といおうか、洗練《せんれん》を経ない粗雑さの残るのはどうしたことでしょう。
「――私は、殺されかけているのでございます。親分さん」
「それは容易じゃないな、詳《くわ》しく話してみるがいい――が、その前に、お前さんの身の上を聴いて置きたいな。お前さんは小松屋の若旦那で、素直に育って来た人じゃあるまい。昨今田舎から出て来たのか、それとも――」
銭形平次の首はむずかしく傾きます。
「恐れ入りました。親分さん、私の身上には、人様が聞いても本当にはしないだろうと思うような大変なことがございます」
「その大変なことから話してもらおうじゃないか」
「……」
若旦那は、少しばかりモジモジして居ります。それは容易ならぬ重大事らしく、言ったものか、言わずに済ましたものか、ひどく迷っている様子です。
「言って悪いことなら別に聴こうとは思わないが――」
「いえ、良いも悪いもございません。皆んな申し上げてしまいます。親分さん」
「それが上分別というものだろう」
「何を隠しましょう、私は――」
「……」
「この私は、ツイ二年前までは、両国の橋の下を宿にして、使い走りから、日手間取り、たまにはあぶれて、人様の袖に縋《すが》った、なさけない宿なしだったのでございます」
若旦那は思い切った調子でこう打ち明けると、懐から手拭を出して、額口《ひたいぐち》の汗などを拭いております。
「それはまた変り過ぎているじゃないか」
平次もツイ居住いを直しました。木戸のところにぼんやり立っている八五郎も、四方《あたり》に気を配りながら、聴耳を立てている様子です。
二
「私はどこで生まれて、親がなんというものかそれも存じませんでした。さいしょは軽業《かるわざ》の南左衛門という親方のところで、玉乗りやブランコの稽古《けいこ》をさせられておりました。どうやら一通りの芸を仕込まれると――四つ五つから、十四五まで、関東から甲州、信州へかけて、旅から旅と興行を続けておりましたが、今から五年前、親方の南左衛門が江戸へ出て両国に小屋を掛けて興行をしたとき、贋金《にせがね》使いに掛り合って、親方の南左衛門は死罪、一座の者は遠島、追放、所構《ところがまえ》とバラバラになってしまいました。私はまだ前髪立ちで、親方の悪事などは夢にも知らず、お蔭で罪は免《まぬか》れましたが、その代り江戸の真ん中へ、頼る人もなく放り出されてしまったのでございます」
小松屋の若旦那重三郎の話は、世にも怪奇を極めます。
「江戸に知り合いが一人もなく、見世物や軽業は、今さらほかの一座に割込むわけにも行かず、よしんばまた私を使ってくれるところがあったにしても、あの仲間に戻るのは、私のほうで真っ平御免だと思いました。お猿や犬の太夫と同じように、食い物と鞭《むち》とで馴らされ、命がけの危ない芸当をさせられるくらいなら、私は餓死したほうが余っぽど優《ま》しだと思ったのでございます。
――私はなんの分別もなく両国の橋の下に潜り込んでしまいました。昼はあっちこっちの小屋へ行って掃除を手伝ったり、使い走りに飛んで歩いたり、夜は橋の下に帰って、同じ宿なしの仲間と筵《むしろ》を引っ張り合って寝ましたが、一年三百六十五日、もらいがあって、三度のものにありつけるとは限りません。どうかすると二日も三日も空腹を抱えて、往来の人の袖や袂《たもと》にも縋《すが》らなければならなかったのでございます。
――こんな事を申し上げるのは、本当に恥かしい事で、身を切られるように辛いことには違いありませんが、近ごろの私の身に起った、不思議なことを解って頂くためには、やはり皆んなお話した上で、親分の知恵を拝借するほかはございません。
――今から二年前、私が十八の年の春でございました。大店《おおだな》の番頭さんらしい人が、両国の橋の下にいる文吉と名差しで訪ねて来て――申し忘れましたが、私の元の名は文吉でございました――その番頭さんは、私を人のいないところへ連れて行って、いきなり――お前は元南左衛門の軽業小屋にいた文吉に相違ないだろうな――と申します。私がそのとおりだ、怪しいと思うなら、誰にでも訊いてくれ――と申しますと、それでよかった、実はお前の本当の身の上がわかったのだ。誠の親にも引き合せ、大家の若旦那の身分に直してやる。一緒に来い――とこう夢のようなことを申すのでございます。
――あまりの事にびっくりして、そんな馬鹿な事があるものか――と申しますと、いや馬鹿か馬鹿でないか、乗込んでみればわかることだ。どこへ突き出されたって、今より悪くなりっこはあるまいから、黙って一緒に来るがいい、とも申しました。
――後でいろいろ訊いてみると、私は四谷|忍《おし》町の小松屋の一人息子で、重三郎というのだそうですが、小さいとき悪者に誘拐《かどわか》されて軽業小屋に売られたものらしく、今まで行方がわからなかったが、フトした事から、南左衛門の一座にいた文吉というのが、その重三郎に違いないと、わかったということでございます。もっとも小松屋はその後|甥《おい》の吉太郎というのを養って、跡取りということにしておりましたが、この吉太郎が道楽を覚え、さんざん放埓《ほうらつ》の限りを尽した揚句、勘当されて相州|厚木《あつぎ》へやられているとも申しました。
それはともかくとして、番頭さんは私をつれて、すぐ四谷忍町の小松屋へ乗込むのかと思いましたが、そうではなくて、いきなり草鞋《わらじ》を履《は》いて、小田原へ参りました。そこには、かねて番頭の知合いの家があって、小さい旅籠屋《はたごや》をしていたのでございます。
――私はその旅籠屋に預けられて、一年のあいだ若旦那らしくなるように修業させられました。第一が言葉から、立居振舞、読み書き、着物の着よう――何より大事なことは、二三年の野天暮しで私の身体や顔が、すっかり陽焦《ひや》けがして、乞食臭くなっているので、それを世間並の人間らしく戻すには、どうしても一年はかかったのでございます。
――これでどうやらこうやら、若旦那らしく見えると折り紙を付けられて、今からちょうど一年前、私は小松屋へ乗込んで参りました。その時はもう小松屋の主人――私の父親の市太郎が亡くなって、叔父の安兵衛が店を支配し、手代小僧を使ってやっておりました。
――私を両国橋の下から拾いあげて、小松屋へ連れていったのは、小松屋の番頭の忠五郎と申す者でございます」
三
小松屋の若旦那重三郎の話は、なお続きます。
「番頭忠五郎は名前のとおり大の忠義者でございます。甥《おい》の吉太郎が放埓《ほうらつ》のために勘当になると、私の昔の乳母だった、お安という女を葛西《かさい》から捜し出して来て、いろいろ訪ねた末、そのころ私をさらった者の人相から、小松屋を怨む筋の者を手繰《たぐ》って、とうとう私が四つの年に軽業師の南左衛門に売られたということを突きとめ、それから、左二の腕に、火のような赤い痣《あざ》のあることを聴き出して、それを証拠に私を捜し出しましたが、橋の下から拾って行ったのでは、親類方も世間も承知しないだろうと、小田原へ一年預けて、どうやらこうやら昔の垢《あか》を洗い落し、小松屋へ乗込めるようにしたのでございます。
――そこまでは無事でございましたが、主人――私の父の市太郎が亡くなってしまえば誰に遠慮することもないはずだ、勘当といっても、一時の懲《こら》しめだから、甥の吉太郎を厚木から呼び寄せるのが順当だと申して、私には義理の叔父で、小松屋の支配人をしている安兵衛と申すのが、独りで頑張《がんば》って、とうとう甥の吉太郎を、店に呼び寄せたのでございます。
――これは私と同じ年の二十歳でございますが、長いこと小松屋の店に坐っておりましたので、算盤《そろばん》にも帳面にも明るく、その上男がよくて如才がなくて、叔父の安兵衛が贔屓《ひいき》にするのも無理のない男でございます。たとえ一度は勘当になっても、私に取っても従兄弟《いとこ》ではあり、なんとか身の立つようにしてやろうと、私も精いっぱい心掛けては居りますが、困ったことに、その従兄弟の吉太郎が帰って来てから、いろいろ面白くないことが起るのでございます。
――第一番にまず、お浜――これは遠縁の娘で、今年十八になるのでございますが、ええ、まアそういったようなわけで、最初は吉太郎に娶合《めあ》わせるつもりで、亡くなった父の市太郎が、親類からもらって育てて居りましたそうで、吉太郎が勘当された後は、自然――へエ、その私の許婚《いいなずけ》のような恰好になっておりました。申すまでもなく当人もそのつもりで、へエ、綺麗な娘でございました。細面の、少し華奢《きゃしゃ》な、なんとか小町と言われた|きりょう《ヽヽヽヽ》で、へエ。
――そのお浜が、可哀想になんということなく気分が勝《すぐ》れなくなり、一と月ばかりの間に、大した病気というでもなく、水の切れた生花《いけばな》のように、しおしおと弱って死んでしまいました。可哀想に、あんなに綺麗で優しかった、お浜が――医者は癆症《ろうしょう》だと申しますが、咳《せき》一つしない癆症というものがあるでしょうか、癆症は癆咳《ろうがい》と申しまして、咳のひどい病気だと聴いておりますのに。
――そればかりではございません。それから引続いてお安という女――これは私の小さい時の乳母《うば》で、私の左二の腕に、赤い痣《あざ》があると言ってくれた、私のためには大事な見知り人で、この世で一番大事な恩人でございますが、そのお安という五十過ぎの乳母が、番頭の忠五郎に葛西《かさい》の在にいるのを捜し出され、小松屋へ来て二度目の奉公をしているうちに、私の許婚のお浜と同じような病気にかかり、しおしおと弱って行って、七日ばかり前に亡くなったのでございます。
――それだけですと、物事の廻り合せと思い諦《あきら》めておりますが、今度は、肝心|要《かなめ》の番頭の忠五郎が、同じ容体になって、もう枕も上がらない有様でございます。申すまでもなく忠五郎は両国の橋の下から、私を拾ってくれた大恩人で、この世にかけ替えのない人間でございます。その上小松屋に取っても大黒柱で、忠五郎がいなくなっては、支配人といっても叔父の安兵衛では店は持ち切れません。私の力で出来ることなら、なんとしてもこの番頭の命を取り止めようと、いろいろ骨を折りましたが、今となってはどうにもなりません。
――私が小松屋へ帰ってから、だんだん聴いてみると、私の父親が亡くなったのも、同じ容態だったということでございます。その上、これは大事なことですが、近頃では、この私もなんとなく身体がダルく、ときどき嘔気《はきけ》がしたり、目暈《めま》いがしたり、どうも尋常ではございません。万一この私が寝込むような事があれば、小松屋の身上はどうなることでしょう。叔父の安兵衛も道楽強いうえ、甥の吉太郎と来ては一度勘当されたほどの遊び好きでございます。
――銭形の親分さん、重々無理なお願いだとは思いますが、私を助けると思って、一度四谷|忍《おし》町までお出でを願えませんでしょうか。銭形の親分さんのお顔を見たら、どんな太い量見の悪者でも、そんな無法なことは止すかもわかりません。私はなんとしても、番頭の忠五郎の命を助け、この私と小松屋の上に降りかかる恐ろしい災難を取り払いたいと存じます」
四
若旦那重三郎の話は、ずいぶん変わったものでしたが、平次は急所急所に極く短かい問いを挟みながら、なおもその話をつづけさせたのです。
「同じ容態で、幾人も幾人も死んで行くのが素人の私にも不思議でなりません。そこで町内の本道〔内科医〕の玄庵《げんあん》さんに訊いてみますと、そのお医者の申すには、私もそれは不思議に思っているが、確かな証拠がないことを、差し出がましく申し出でて、世間を騒がせるわけには行かない。が、三人の容態を見たところでは、最初にいちおう強い毒薬を呑ませて足腰の立たないようにして置き、それから毎日の食事なり飲物なりに弱い毒を仕込んで、ジリジリと殺して行くのであろう。その毒がどんなものか、それも良くは判っていない、と申すのでございました。
――それでは可哀想にお浜もお安も、一寸|試《だめ》し、五分試しに殺されたようなものでございます。どんな仕掛けで、そんな虐《むご》たらしいことが出来るか――私も一生懸命でございました。お医者の胸倉をつかむようにして訊きますと、今のところはっきりした事は言われないが、夜中に誰も気が付かないようにそっと起き出して、病人の部屋に忍んで行き、その病人の湯呑なり、水差しなり、または朝起きてすぐ呑む煎薬《せんやく》なりに、毒薬を投り込む者があるに相違ない。日中ならすぐに人に見とがめられるし、病人も気が付くから、これは、夜中人の寝鎮《ねしず》まった時の作業に相違ない、とこう申すのでございます。
――私はしばらくの間、夜の目も寝ずに、忠五郎の部屋の外に見張っておりましたが、私が見張っていたのでは、悪者に用心させるだけで、なんの役にも立ちません。そこで、いろいろ考えた末、これは人様から聴いた話でございますが、ほんの少しばかりの仕掛けをして、夜中誰が起き出すか、それを見付けようと思い立ったのでございます。
――その仕掛と申すのは、家中の者が別々の部屋に休んでおりますので、その部屋の出入口の敷居に、豆を一と粒ずつ置いたのでございます。御存じのとおりまめはよく動きますが放って置いたのでは、独りでは、転がりません。出入口の敷居に、戸の側にピタリと付けて、一と粒の豆を置けば、戸を開けるとその豆は必ず動きます。
――この仕掛はまことに手軽で、その上、夜中部屋の外へ出た者を、一ペンに見露《みあら》わしてくれます。それに、誰の部屋も一様の造りで敷居は外にあって、豆は外から置けますので私は誰にも知れないように、皆んな寝た後で家中の者の部屋の敷居に、一粒ずつの豆を置きました。すると、どうでしょう、翌る朝早く見廻ると、豆の動いているのは、甥の吉太郎の部屋と、死にかけている番頭の忠五郎の部屋だけだったのでございます。
――甥の吉太郎どんの事を、かれこれ申しては、私としては、誠に相済まぬことでございますが、忠五郎と私の命には替えられません。――夜中に小用に起きたかも知れないと仰しゃるのですか、とんでもない、十九や二十歳の若い者が、寒い時分ではないし、夜中に小用などに起きていいものでしょうか。
――それから、私の部屋には豆を置かなかったかと仰しゃるのですか。え、え、それは置きました。私も近頃は、ジリジリ毒害されているに違いありませんので、念のために私の部屋の敷居にも置いてみましたが、やはり私の部屋の敷居の豆も動いていたのでございます。――夜中に私の部屋へも入って来る者のあることは間違いもございません。私はまた若い者の癖に夜中に水を欲しがる癖がありますので、枕元には水差しを置いて寝るのでございます。
――それから私は、念のために、私の枕元に置いてあった水差しを、そっと封印《ふういん》して、町内の本道=玄庵さんに持って行って見てもらいました。するとなんと恐ろしいじゃございませんか、石見《いわみ》銀山鼠捕りが、ほんの少し、うっかり水を呑んだくらいでは気が付かないほど入っていたのでございます。玄庵さんは申しました。毒薬は極く僅かだが、あれを毎晩呑まされて居ては、とてもたまらない、と。恐ろしいことでございます。
――銭形の親分さん、なんとかしてこの恐ろしい下手人を縛って、忠五郎を助ける手段はございませんでしょうか。忠五郎ばかりではございません。この儘《まま》にして置くと、いずれは私も殺されるに決っております。現に私の部屋の敷居の豆は毎朝動いておりますし、私の気分は一日一日と悪くなって参ります。そのうちに私もどっと寝込むようになれば、誰が忠五郎を助けてやることが出来るでしょう。
――それだけでは、確かな証拠がないと仰しゃるのですか、――私の左二の腕をお目にかけましょう。この痣《あざ》――小さいが火のような赤い痣があったばかりに、それを見知っていた、乳母のお安は殺されてしまいました。可哀想に気の良い女でございました。近いうちに親類方がお顔を合わせることになっておりますが、お安にそれを言い立てられると、小松屋の跡取りは間違いもなくこの私ということになりますので、私を蹴落《けおと》す前に、まず生き証人のお安を殺したのでございましょう。
――お浜はまた少し綺麗過ぎました。亡《な》くなった父親が、なまじ吉太郎に娶合せようとしたのが仇で、吉太郎が勘当された後、私というものが乗込んで来て、お浜と天下晴れて許婚になると、吉太郎が厚木から帰って来て納まらなかったのも無理はないことでございます。吉太郎にすれば、お浜をこの私に取られるより、一と思いに殺した方が、どんなに晴々するかわかりません。
――親分さんお願いでございます。お浜とお安と二人を殺し、こんどは忠五郎を殺そうとしている極悪人《ごくあくにん》を、これからすぐ四谷忍町まで行って、縛って下さい、お願いでございます」
若旦那の重三郎は、縁側の上に手を突いてポロポロと涙を流しながら、銭形平次を伏し拝むのでした。
五
「親分、若旦那があんなに言うんだ。一とっ走り四谷へ行って、その下手人を挙げて来ようじゃありませんか」
ガラッ八の八五郎は、すっかり感激して、平次の前に突っ立っておりました。少々むくつけき感じですが、この若旦那は全く見掛けに寄らぬ雄弁です。
「よかろう、二人殺して、ヌケヌケと三人目を殺しにかかっている奴は、放っちゃ置けない」
「じゃ出かけましょうか」
八五郎はすっかりいきり立って居ります。長いあいだの習慣と、この男の正義感で、悪者が眼の前にヌケヌケとしているのは我慢が出来なかったのです。
「心配するな、曲者は四谷じゃないよ」
「えッ」
「そこに居るじゃないか、それ」
銭形平次の指は、ピタリと若旦那の重三郎を指して居るではありませんか。
「親分?」
八五郎の勘の悪さ。
「その男が下手人だよ、威勢よく、御用ッとやるがいい」
平次の言葉のおわるを待たず、重三郎はサッと身を翻《ひるがえ》しました。が、早くもその気勢を察して、退路を絶った八五郎。
「野郎ッ」
無手《むんず》と組んで行くのを、恐ろしい剛力で、ハネ飛ばして、一気に外へ。
「待て」
がつづく平次は、その前に立塞《たちふさ》がっていたのです。
「畜生ッ」
重三郎は兇暴《きょうぼう》極わまる曲者でした。長いあいだ軽業小屋で鍛《きた》えた強靭《きょうじん》な身体と、恐ろしい気転とで、ともすれば平次と八五郎の手を免《まぬが》れて逃げ出そうとしましたが、久し振りに銭形平次の掌から投げられた五六枚の銭に、その戦闘力をすっかり封じられて、
「野郎、骨を折らせやがる」
八五郎の手でどうやら縛りあげてしまいました。
縄付を下っ引に預けて、平次と八五郎が四谷|忍《おし》町に飛んで行くと、正に小松屋の内情は重三郎が言ったとおりでした。
迎えてくれた叔父の安兵衛は五十前後の着実な男、甥の吉太郎というのは、如何にも一と癖ありそうで正直者らしいうちにも、容易に重三郎の手には乗るまじき気魄《きはく》が見えました。
番頭の忠五郎は重態でしたが、毒を盛ったのが若旦那の重三郎と聴かされると、
「悪いことは出来ません、皆んな私の至《いた》らぬことから起ったことでございます」
と苦しい息の下から懺悔《ざんげ》をします。その言葉によると、番頭の忠五郎は養子の吉太郎と折合いが悪く、いずれは店を追い出されそうになったので、亡くなった主人に、有ることないこと告げ口して吉太郎を勘当させ、その代りに乳母のお安を抱き込んで、お安の知合いの倅、両国の軽業小屋から流れ出した文吉を若旦那に仕立てて、小田原で磨きをかけた上、主人の死んだ後へ乗込ませたのです。
ところがこの重三郎の文吉は容易ならぬ悪者で、自分の言うことを聴かぬお浜をさいしょに殺し、つづいて自分の弱点を知り抜いているお安を殺し、それから自分の素姓を知っている番頭の忠五郎までも殺そうと企《たく》らんだのでした。
味方をまず殺してかかる恐ろしい陰謀で、悪賢こい忠五郎もそこまでは気が付かず、危うく一命を棒に振るところだったのです。
叔父の安兵衛は正直者で御《ぎょ》しやすいが、甥の吉太郎は頭も腕っ節もできているので、容易に手を下しようがないため、三人殺しの罪を負わせて、平次に処分させようとしたのが重三郎の重大な錯誤《あやまり》でした。銭形平次は重三郎の長物語の中から、幾つかの矛盾《むじゅん》を見出して、その場を去らせずこの曲者を縛ってしまったのです。
六
一件が落着してから、八五郎は訊ねました。
「どうして重三郎が悪者と判ったんです。親分」
「なんでもないよ――橋の下から大家の跡取りをさがし出したというのは、話が少しウマ過ぎたよ。あんなに手軽にわかるものなら、父親の市太郎は十五六年も放っておくはずはないじゃないか。それに本当の跡取りなら、少々|陽《ひ》に焼けていても、言葉遣いや折屈《おりかが》みが下手でも、すぐ小松屋へ伴れ込むのが本当じゃないか。わざわざ小田原まで連れて行って、行儀作法を習わせたと聴いて、お前は変だとは思わなかったか」
「へエ」
ガラッ八はどっちつかずの返事をしました。
「それに、重三郎はそんなたいした男じゃないし、なんとか小町に好かれそうな人柄でもない。江戸の町娘は見識が高いから、親の気に入らなくて勘当された許婚を、一年も経たないうちに忘れて、あんな埃《ほこ》りっ臭い荒っぽい男に惚れるはずはないよ」
「なるほどね」
ガラッ八もそれは簡単に承服しました。自分も埃っぽくない男のカテゴリーに編入されるつもりでしょう。
「もう一つ、こいつは大事なことだ、敷居へ豆を置いて、亭主の浮気を見破った、嫉妬焼《やきもちやき》の女房の話はおれも聴いたことがある――あれは面白い仕掛けだと思ったが――重三郎に、お前の部屋にも仕掛けて置いたのかと訊くと、仕掛けて置いたと言ったろう」
「……」
「その上、念入りに朝になると自分の部屋の敷居の豆も動いていたと言ったはずだ」
「……」
「自分の部屋の敷居の豆が、動いているか、動いていないか、自分にわかるはずはないじゃないか、――朝になって、それを見ようと思って、唐紙か障子を開けると、豆は必ず動くに違いない――どの部屋も同じ造りで、敷居は外にあって、豆は外から置けると言ったろう」
「あッ、なアーる程」
八五郎が、すっかり恐れ入ってしまいました。
「おまけがもう一つあるよ」
「へエ」
「お前も見たはずだが、重三郎の左二の腕の赤い痣《あざ》――チラと見せたが、あれは痣じゃない、朱の入墨だったよ」
「……」
「重三郎は間違いもなく偽者《にせもの》だ――お安を殺して、忠五郎も亡きものにしようとしたのは、偽者と知っている者を殺して、ぬくぬくと小松屋の跡取りになるつもりだったのさ。お安と忠五郎が生きているうちは安心が出来ないし、その上弱い尻を押えて居る忠五郎に絞《しぼ》られて、それがうるさかったんだろう。叔父の安兵衛は確り店を預かって、重三郎の儘にさせないから、自分の足場を確《しっか》りと拵《こしら》えた上で、こんどは安兵衛を殺す気になったかも知れない」
「それほどの太てえ奴が、なんだって親分のところへ来て、両国の橋の下から拾われたの、乞食までしたのと、余計なことをペラペラしゃべったんでしょう。黙って居りゃ知れずに済むことじゃありませんか」
八五郎には重三郎の打ち開けた態度が、藪蛇としか見えなかったのです。
「そう思うのもいちおうもっともだが、お前はあの重三郎を見て変だとは思わなかったか」
「へエ?」
「あれを、四谷忍町の小松屋の若旦那と聞いて、変には思わなかったかと訊いているんだよ」
「変でしたよ、何処か荒っぽいところがあって――身扮《みなり》も言葉遣も大店の息子らしくはしていましたが、顔の色が妙に陽焼けがしているし、声が少し塩辛《しおから》で、手足も妙に荒れていましたね」
重三郎には全く大店の若旦那らしい線の柔らかさというものがなかったのです。
「其処だよ――重三郎も自分でよくそれを知っていたのだよ、おれの眼は胡麻化《ごまか》せないと思ったから訊かれるとすぐ身の上を打ち開けて正直そうに持ちかけ、しんみりさせて自分を信用させるつもりだったのさ。隠していたところで、永い間にはいずれわかる事だし小田原へ人をやって、それからそれと手繰《たぐ》れば、両国橋の下の古巣まで露見するよ」
「なるほどね――そんな危ない橋まで渡ってなんだって、親分のところへ来たんでしょう。あんな具合にすぐ縛られちゃ、割が合わないじゃありませんか」
「忠五郎の口から、いろいろの事がバレそうになって居たんだろう。忠五郎も悪い奴で、重三郎に毒害されて黙って死んで行くような生優《なまやさ》しい人間じゃない――それに」
「それに?」
「悪党の自惚《うぬぼ》れだよ、悪党に自惚れがなきゃア、こちとらの仕事はあがったりだ。重三郎も多分平次の懐中に飛込んで、存分に躍《おど》らせてやろうと思ったんだろう。甘く見られたんだね」
平次はそう言って苦笑いをするのです。
尼が紅
一
「親分、変なことがあるんだが――」
「お前に言わせると、世の中のことは皆んな変だよ。角の荒物屋のお清坊が、八五郎に渡りをつけずに嫁に行くのも変なら、松永町の尼寺《あまでら》の猫の子にさかりが付くのも変――」
「止して下さいよ、そんな事を、みっともない」
銭形平次と子分の八五郎は、相変らずこんなトボケた調子で話を運ぶのでした。平次の恋女房のお静は、我慢がなり兼ねた様子で、笑いを噛み殺しながら、お勝手へ逃避《とうひ》してしまいました。
「何を言うんだ、そいつは皆んなお前が持って来たネタじゃないか。こんどは何処の新造が八を口説《くど》いたんだ」
「そんな気楽な話じゃありませんよ。三河町の吉田屋彦七――親分も御存じでしょう」
「うん、知っているとも、たいそうな分限《ぶげん》だということだ。それがどうした」
「三河町の半分は持っているだろうという大地主ですよ。その吉田屋の総領の彦次郎という好い息子が癆症《ろうしょう》で死んだのは去年の暮れだ――もう半歳になりますね」
障子の外の清々《すがすが》しい青葉を眺めながら、八五郎は不器用な指などを折ります。
「それがどうした、化けてでも出たか」
「そんな事なら驚きゃしませんがね。町内の評判息子で、孔子《こうし》様の申し子のような若旦那が死んだ後へ、言い交したという、若い女が乗込んで来たとしたら、どんなもんです。え? 親分」
「あ、乗出しやがったな八、まず涎《よだれ》でも拭きなよ。お前が死んだって、乗込んで行く女なんかありゃしないよ。第一|身上《しんしょう》が違う、三河町の吉田屋へ転がり込めば、相手が仏様になっていても、まさか唯じゃ放り出されない――まず欲得ずくだろうな」
「誰でも一応はそう思うでしょう。ところが大違いなんで」
「どこが違うんだ」
「女が泣きながら言うんだそうで――身上に眼が昏《くら》んだと思われちゃ女の一分《いちぶん》が立たないから、若旦那が死んだと聴いてから、泣きの涙で半歳我慢したが――」
「女にもその一分なんてものがあるのかえ」
「まア、聴いて下さいよ親分。その女が言うには、若旦那の位牌《いはい》を拝まして頂いて、大ぴらに墓詣りが出来れば、その上の望みはない、私は一生尼姿で暮らしますから、お長屋の隅でも物置でも貸して下さい、身過ぎ世過ぎは托鉢《たくはつ》をして人様の門に立っても、御迷惑はおかけいたしません――と」
「泣くなよ、八」
「若旦那と言い交した証拠はこれこれと、持って来た品々は、若旦那からもらったという髪の物から身の廻りの品々、それに若旦那から送られた恋文が、なんと四十八本」
「恐ろしく書いたね」
「身体も心も弱かった若旦那が、両親に隠れて言い交した女だ。滅多に逢う瀬もなかったことだろうし、いつ親たちの許しを受けて、家へ引き取れることか、その当てもなかった」
「素人《しろうと》じゃないのか」
「去年の川開きの晩、友達に誘われて、始めて逢ったという、水茶屋の女ですよ」
「それはまた変っているね」
大家の若旦那の相手なら、入山形《いりやまがた》に二つ星の太夫でも不思議はないのに、水茶屋の茶くみ女は少し物好き過ぎました。
「世馴れない若旦那の初恋だ。相手を選《よ》り好みするほどのゆとりはありゃしません」
「話はそれっきりか」
平次は先を促《うなが》しました。八五郎の話はサワリが多過ぎて、ときどき筋が通らなくなります。
「吉田屋の両親も、最初から泣かされてしまいました。倅が生きていたら、敷居を跨《また》がせる女ではなかったでしょうが、倅が死んで気が挫《くじ》けているところへ、四十八本の色文を持込んで、眼の前で髪の毛を切られたのですから、一も二もありません」
「それで、吉田屋では引き取ることになったのか」
「昔吉田屋の隠居が使ったという、裏の離屋《はなれ》に手入れをして、取りあえず其処へ入れました。まさか母屋《おもや》へ入れるわけにも行きませんが、そうかと言って死んだ倅の色文を四十八本も持っている、滅法綺麗な切髪の女を外へ放り出すわけにも行きません」
「それっきりか」
「それっきりには違いありませんが、両国の水茶屋で、弁天屋のお伝お半と並べて謳《うた》われた一枚絵の主が、死んだ若旦那の色文を四十八本も温めて、青坊主にはならないまでも、美しい髪の毛を切り下げにして、念仏三昧に日を暮らすのは少し変じゃありませんか。ね、親分」
八五郎に言わせると、水商売の女が四十八本の色文を使い紙にもせず紙衣も貼《は》らず、足を洗って行い済ましているのが、まことに不思議でたまらなかったのです。
「弁天屋のお伝とお半というのは噂に聴いた女だが、吉田屋に乗込んだのはどっちだ」
「お半の方ですよ。お伝はおとなしい娘でしたが、三月前に死んで、少し鉄火で綺麗なお半の方が紅白粉を洗い落して、吉田屋へ乗込んで来たんです」
「世の中は様々だ。水商売の女だから浮気と限ったものじゃあるめえ」
そう言う平次の女房のお静も、もとは水茶屋の茶くみ女だったことに思い当ったのでしょう。
「でもね、親分。あの仇っぽいお半坊が、被布《ひふ》の上へ輪袈裟《わげさ》かなんか掛けて、|※[#口へん+奄]阿牟伽《オンアボキャ》やる図なんてものは、ウフ」
「馬鹿野郎ッ」
平次はこの至極封建的な一喝を浴びせました。しかしこの事件自体は、八五郎が面白がるほど変ったことではないにしても、この後につづいた事件の真相に至っては、銭形平次の長い十手生活中にも、全く比類のない変ったものだったのです。
二
それから一と月ばり、藤や牡丹《ぼたん》や菖蒲《しょうぶ》が咲いて、世間はすっかり初夏になりきった頃のことでした。
「親分、やはり変なことになりましたよ」
「また変な事の押売りか、何がどうしたんだ」
フラリとやって来た八五郎は、少しつままれたような顔をしております。
「三河町の吉田屋ですがね」
「お半が還俗《げんぞく》して、お前のところへでも転げ込んだのかえ」
「お半に変りはありません。苅萱道心《かるかやどうしん》みたいに神妙にしておりますがね、昨日あの家のお内儀《かみ》さんが死んだんです。死様にも不思議はなく、持病の心《しん》の病と医者も見立てたんですが、困ったことに――吉田屋のお内儀の死んだのは変死に違いない。無事に葬《とむら》いを引き受けると、後日の難儀だろう――と檀那寺《だんなでら》に手紙を放り込んだ者があって、葬式を出せなくなってしまい、検屍をお願いする騒ぎです。親分もちょいと立会って下さいませんか。お係り同心の近藤常平様のお伝言《ことづて》ですが」
「よし、待って居な」
平次もこれは否応ありません。さっそく着換えをして、三河町まで八五郎と一緒に飛びました。
「お、平次、よく来てくれた」
年輩の同心近藤常平は、ホッとした様子で平次を迎えました。
「相済みません、遅くなりました。御検屍はもうお済みで」
「済んだばかりだよ。一応見て行ってくれ。町内の掛り付けの医者も、毒死や縊死《いし》ではなく、心の臓の持病で死んだに相違ないと言うのだ。身体には鵜《う》の毛で突いた程の傷もない。寺への投げ文は誰かの悪戯《いたずら》だろうよ。とかく金を持ち過ぎたりすると、町内の者に憎まれるから」
近藤常平は心得たことを言うのでした。
店の番頭に案内されて、奥の部屋へ通ると、内儀の死体はまだそのまま、検屍がすんでホッとした人々は、これから手分けをして葬い万端の支度をしようというところです。
「あ、銭形の親分、とんだお騒がせをして」
主人の彦七はまだ四十二三、頑丈そうな身体と、弱そうな神経を持った典型的な旦那衆で、検屍が無事に済んで、改めて配偶《つれあい》を喪《うし》なった悲嘆にさいなまれている様子です。
死体の枕元にジッと首を垂れて、恐ろしい悲しみを歯を喰いしばって我慢しているのは、神経質らしい小柄な美少年で、年は十七八でしょうが、ちょっと見は十四五にしか見えません。それは去年死んだ若旦那彦次郎の弟で、今は吉田屋の一粒種、文三郎というのとわかりました。
あとは手代の徳次二十五歳、番頭の喜代三の四十八歳など、いずれも神妙に差控《さしひか》えております。
内儀のお安の死顔には、明らかに苦悩の色を留めておりますが、それは若くて死ぬ人にあり勝ちの病苦の跡で、仏作った顔は四十そこそこの、極めて無事な相好《そうごう》でした。
口中にも、眼瞼にも、喉にも、胸にも、なんの変化もなく、なお念入りに見た耳の穴にも、水月《みずおち》にも、変死らしい様子は少しもありません。
「どうだ平次」
近藤常平は後ろから差しのぞいておりました。
「少しも」
平次は首を振りました。
「それで良し、葬いを出しても仔細はあるまい」
近藤常平に取っては、医者の検屍の上に、銭形平次の意見が必要だったのでしょう。それが済むと平次は、八五郎の眼に誘われて、裏の方に廻ってみました。
「お半に逢ってみましょう。主人はあのとおり弱気で、自分の思ったことも言えない人ですが、息子や奉公人たちがうるさくて、内儀の葬い騒ぎにも、あの女だけは母屋へ足踏《あしぶ》みもさせないのですよ」
八五郎はそう囁やくのです。
土蔵の蔭へ廻ると、もと隠居家に使ったという三間四方ほどの小さい離屋があって、半分開けたままの障子の隙間から、中の様子はよく見えます。
「……」
八五郎は黙って指しました。それはささやかな仏壇のまえに、キチンと坐って、一心不乱に読経《どきょう》している、輪袈裟《わげさ》を掛けた切髪の女の後ろ姿ではありませんか。
声を掛けようとする八五郎を押えて平次は、しばらく待ちました。立ち停ると首筋へ初夏の陽がほのぼのと射して青葉の風が爽《さわ》やかに頬を撫でます。
一とくさりの経が済むと、後ろの物の気配に誘われたものか、女は斜に後ろ手を突いて、静かに振り返りました。実に美しいポーズです。
「まア、八五郎親分」
そう言って頬を染めた様子、振り返る所作が切髪に波打たせて、額を撫でる艶《つや》やかさは比類もありません。
両国で一としきり鳴らした茶くみ女のお半は、銭形平次も満更知らない顔ではありませんが、紅白粉を抜きにして、白襟、黒っぽい袷、暗い紫の帯に、輪袈裟を掛けた清らかな姿は、全く予想もしなかった、神々しくも艶やかなものでした。世の浮気女に一と眼この姿を見せたら、自分というものの美しさを強調するために、十人の八九人まで、黒髪を切って袈裟を掛ける気になるかも知れません。
三
また次の一か月は過ぎました。端午《たんご》の幟《のぼり》が見えなくなって、川開きの噂が江戸ッ子の口に上るころ。
「わッ、大変ッ、親分」
とうとう八五郎の大変が飛込んで来たのです。
「こんどは何が始まったんだ。お前の大変が久しく来ないから、悪い風邪《かぜ》でも流行《はや》らなきゃいいがと思っていたが――」
「落着いていちゃいけませんよ、親分。お膝元に大変なことがあったんだ、しかも相手はピカピカするような綺麗首だ。勿体ないのなんのって――」
「あわてるな八、いったい誰がどうしたんだ」
平次は八五郎の逆上《のぼせ》あがったのへ水をブッかけるように、落着き払って動こうともしません。
「驚いちゃあいけませんよ、親分」
「驚かないよ、八五郎が大名になったって驚くものか」
「お半が自害したんですよ。あの吉田屋の離屋で、オンアボキアを唱っていた、切髪のお半が可哀想に匕首《あいくち》で胸を刺して、裸体になって死んでいますよ」
八五郎の報告の言葉から、平次はフト嫌なものを想像しました。それは離屋を急に改造した庵室の仏壇の前で、行《おこな》い済した姿の若い美女が、あられもない姿になって、紅に染んで死んでいる、恐しく冒涜的《ぼうとくてき》な情景です。
「行こう、八」
平次は勃然《ぼつぜん》として起き上りました。この間からの行きがかりで、なんか変った事が起らなければいいがと思っている矢先、お半の自害は聴きのがしにならなかったのです。
三河町の吉田屋はこの間のお内儀の死んだ時と違って、静まり返っておりましたが、店から入るとそれを待ち構えたように、主人の彦七が飛んで出ました。
「銭形の親分、重ね重ねの事で、本当に恐れ入ります」
「とんだ災難だね」
なんとなく落着きを失った主人に案内されて、平次と八五郎は土蔵の裏の離屋に行きました。
まだ検屍前で、二枚ばかり開けた雨戸から夏の光は一パイに入り、庵室の中の凄まじい情景を、残る隈なく照し出しております。
「あ」
銭形平次も、思わず足を駐《と》めたほど、それは冒涜的なものでした。
死んだお半の足で蹴上《けあ》げたらしく、滅茶滅茶に崩れた仏壇、燭台《しょくだい》の蝋燭《ろうそく》は不思議に無事で、これは半分ほどを残して消してありますが、その前に引っくり返ったお半は、このまえ見たときの神妙な姿とちがって、思いきり紅白粉の薄化粧をした上、輪袈裟《わげさ》どころか燃え立つような長襦袢《ながじゅばん》一枚になって、胸も肢《あし》も浅間しいまでに取り乱したまま、その左の乳のあたりへ、匕首を深々と刺してこと切れているのです。
「これはひどいな」
平次が唸ったのも、それは無理のないことでした。胸から腕へ、脛《はぎ》から股まで、思いおくところなく取り乱した姿は、八五郎が『裸で死んでいた』と報告したのも満ざら嘘ではありません。匕首は血に染んだまま、死骸の手の上に乗っておりました。固く握ったのではなくて、それは苦悶《くもん》に歪《ゆが》んだ指の上に乗っていたと言った方がいいでしょう。
「この死顔はどうです、親分」
血の気を失って、蒼白く引緊《ひきしま》った顔は、紅白粉のせいもあったでしょう。それは八五郎の好奇心をそそるほどの異様な魅力です。
「馬鹿ッ、死ねば仏様だ。念仏の一つも称《とな》えて、その顔と裾のあたりを隠してやれ」
「へエ」
平次に叱られて八五郎は、あわてて手洗の手拭を持って来て顔へかけてやり、押入を開けて、黒っぽい袷を見付けてその身体を覆ってやりました。
「八、お前はこれをどう思う」
「へエ?」
「自害する女は、こんなに取り乱すものかな。それに部屋の中には酒の用意もあるし」
「?」
平次は死骸の側の長火鉢と、その銅壺《どうこ》に突っ込んだまま水の如く冷たくなった酒を嗅いだりして居ります。
「これだけ自分の胸に突っ込んだ匕首を抜くのは、容易じゃあるまい、――抜いたとすれば、精いっぱいの仕事だから、匕首を固く握って居なきゃならないはずだ」
「?」
「まだあるよ、――暗闇の中で、長襦袢を着て自害する者はあるまいが、――蝋燭《ろうそく》の灯はいったい誰が消したんだ」
「なるほどね」
こう言われてみると、八五郎にもようやくお半の死に様の不合理な点がわかって来るのでした。
「こいつは容易ならぬ事だよ。八、主人を呼んでくれ」
「へエ」
八五郎は外へ出ました。さすがに遠慮してこの調べには主人も奉公人たちも立会っては居なかったのです。
四
「今朝、これを一番先に見付けたのは誰だえ」
平次の問いは穏かで定石どおりでした。
「下女のお作でございます。離屋の三度の食事は母屋《おもや》から運ぶことになっておりますので、今朝|卯刻半《むつはん》〔七時〕少し前にお作が朝食を持って行くと、雨戸が締っていて開かなかったそうで、しばらく叩いたり呼んだりしていましたが、とうとう手代の徳次が行って、道具まで持出して雨戸を一枚コジ開けて入ると、この有様でございました」
主人の説明は用意されたように整然としておりますが、念のために呼び出された下女のお作は、四十前後の愚《おろ》かしい女で、主人彦七の話したこと以上には、一句も新しい事実はありません。
もう一つ念のために、手代の徳次を呼んで、雨戸を全部閉めさせましたが、ささやかな離屋にしては、贅沢な大町人の好みらしく、建築が恐しく念入りで、引いても叩いても雨戸の印籠《いんろう》ばめは外れそうもありません。
「こいつを外《はず》すのは骨が折れました。後で家の中へ入ってみると、念入りに桟をおろした上、心張り棒まで掛けてあったんです」
手代の徳次はそう言って、鑿《のみ》と金槌《かなづち》で引っ剥《ぱが》すようにして開けた、二枚の雨戸と敷居の傷などを見せております。
「八、その離屋を閉めきって、中から脱け出す工夫はないか。考えてみろ」
「へエ、やってみましょう」
八五郎は手代の徳次に雨戸を閉めさせて、中で何やらごとごとやって居りましたが、しばらくすると縁側からバーと顔を出しました。
「駄目ですよ、親分、鼠だって出られやしません」
「天井へ這い上ってみたか」
「天井も床下も、恐しく念入りだ」
「雨戸の上の欄間《らんま》はどうだ、その障子を外したら出られるだろう」
「とんでもない、子供か猿公でもなきゃ出られるわけはありません。あんなに狭いんだから」
八五郎のでっかい指は欄間を指しております。
「念のためだ、お勝手から踏台《ふみだい》を持って来て、欄間をよく調べてみてくれ。そこはたいてい埃《ほこり》の多いところだ、子供でも猿公でも、這い出せば痕《あと》が残るはずだ」
平次の注意はもっともでした。やがて台所から踏台を持出した八五郎は一間半の欄間を念入りに覗いて居りました。が、
「驚いたぜ、親分。この家にはどんな癇性《かんしょう》の人間が住んでいるか知らないが、雨戸の上の欄間まで嘗《な》めたように拭き込んであるぜ」
「どれ、俺に見せろ」
平次は縁側に飛び上ると、八五郎に代って踏台の上に立ちました。覗くとなるほど、欄間の上は綺麗に拭き込まれて、人間の這い出した跡などは、一間半の間に痕跡も残っては居なかったのです。
「八、帰ろう」
「へエ、何処へ行くんで」
「明神下の俺の家へ帰って、一日ゆっくり考えよう。俺アどうも判らない事ばかりだ」
「へエ」
「ここは誰かに任せて、お前も一緒に来い――それからお半の葬《とむら》いはなるべく早く出させるがいい」
平次は何を考えたか踵《きびす》を廻して、そのまま帰ろうとするのです。こうなるとガラッ八の八五郎は、黙ってその後に従って行くほかはありません。
「あ、お前は文三郎といったね」
店先にしょんぼり立っている少年に平次は注意を払いました。
「……」
黙って挙げた顔は、恐怖とも羞恥《しゅうち》とも、いいようのない不思議な表情です。
「少し訊きたいことがあるが」
平次が往来に出ると、少年文三郎は黙ってその後に従いました。
「お前はお半をどう思う」
前後に人のいないのを見ると、平次はこう問いかけるのです。
「あの人は悪い人でした、親分」
「でも、お前の母親は、確かに病気で死んでいるよ――お寺へあんな手紙を出したのはお前だろう」
文三郎はハッとした様子で顔を挙げました。その眼は脅《おび》えきっておりますが、平次の問いを肯定も否定もしようとはしません。
少し病身らしいが、その代り神経の鋭どそうな少年は、嘆願するように平次の顔を仰ぐのです。
五
「八、お前は両国へ行ってみろ。弁天屋《べんてんや》で訊いたら、お半と吉田屋の若旦那の仲が、まるっきりわからないことはあるまい。若い者の色恋は、当人同士が秘し隠しに隠しているつもりでも、思いのほか他の者が感付いているものだ」
「へエ」
「それからお半に言い寄った男が他にもあるだろうと思う。念入りに訊き出してくれ」
「親分は?」
「家で昼寝でもしているよ」
平次と八五郎は、それっきり別れました。明神下の自分の家に帰った平次は、本当に枕まで出させて、そのまま昼寝をしてしまったのです。こうして雑念に煩《わずら》わされずに、一筋に物を考えるのが平次のやり方の一つでもありました。
昼を大分廻ってから、八五郎は帰って来ました。
「面白いことがわかりましたよ、親分」
「お半と彦次郎が、恋仲でもなんでもなかったという話だろう」
「あ、どうして、それを親分」
「お前が飛んで歩いている間、俺はこんな夢を見ていたのだよ、――まア、そんな事にかまわずに覗き込んだだけの事を話せ」
「弁天屋の女将《おかみ》も、多勢の女どもも、お半と彦次郎の逢引しているのを見たこともないというんですよ」
「フーム」
「ところが、お半の仲好しで、三月前に死んだお伝というのが――この女は親分も知っているでしょう。お半よりも綺麗だと言われた、品の良い娘でしたが、――そのお伝が吉田屋の若旦那と出来て、親の眼を盗んで来る若旦那と、ときどき逢って居たということですよ」
「フーム」
「弁天屋の店へは手紙の来た様子はないが、お伝の叔母さんが柳橋に居るはずだから、そこへ行って訊いたら、なにかわかるかも知れないと言われて、――あっしはそれから柳橋の糸屋の後家《ごけ》を訪ねましたがネ」
「……」
「思ったとおり、お伝はそこで吉田屋の若旦那の手紙を受取ったんです。その手紙は一々お伝に渡したから、あとはどうなったか知らないが、二十本や三十本じゃないということでしたが」
八五郎の報告は思いのほか奇っ怪で、そして暗示《あんじ》的でした。
「お半の評判はどうだ」
平次は改めて訊きました。
「あれは利口者ですね。水茶屋などに奉公している癖に、決して男を拵《こさ》えなかったといいますよ。ことに貧乏人は寄せ付けなかったそうで」
「面白いな、八。貧乏人を相手にしない女は、こちとらには縁がないが」
平次はそう言いながら、お静を呼んで外出の支度を急がせるのでした。
「どこへ行くんです、親分」
「もういちど吉田屋へ行ってみようよ。俺はもう何もかもわかったような気がする」
「へエ?」
平次と八五郎は、暮れかかる陽を追って、もういちど三河町へ行きました。
吉田屋では、一応の調べが済んで、お半の葬いの支度にゴタゴタしておりました。素《もと》より赤の他人には相違ありませんが、一と月でも半月でも、離屋に置いたお半を、このまま犬猫のように葬《ほうむ》るわけにも行きません。
「御主人、お半が持って来たという、若旦那の手紙を見せてもらいたいが――」
「へエ、どうぞこちらへ」
主人の彦七はひどく迷惑そうですが、断るべき口実もないので、平次と八五郎を誘って、店の隣の別室に入りました。
「これでございますが」
用箪笥から取り出して、平次の前に押しやったのは、紐で束《たば》ねた四十八本の色文。
「この手紙をご主人は皆んな眼を通したのかな」
「いえ、とんでもない、――痛々しくて読む気になりません。――こんな事と知らずにいた親の私が責められるようで――」
彦七は面《おもて》を伏せるのです。
「そんな事もあるだろうな、――いや、それが間違いの元だったよ。御主人、このとおり四十八本の手紙は、出した方の――彦次郎という名前は書いてあるが、受取る方の名前は一つも書いてない、――これを見るがいい。受取人の名前は、一々|鋏《はさみ》で切り取ってある。鋏目がよくわかるだろう」
「すると、――?」
主人の彦七はハッとした様子で顔を挙げました。
「ちょうどいい、この間から昨夜までのことを、この平次が話してみよう、こうだ――」
「……」
平次は話し出しました。薄暗い四畳半、八五郎の外には誰も聴いている者もなく、主人の彦七は神妙に首を垂れて、平次の論告を待っているのです。
「お半は悪い女だ、あの女には色も恋も、義理も人情もない、――朋輩《ほうばい》のお伝が、若旦那の彦次郎と言い交し、四十八本も手紙をもらっているが、世上の取り沙汰や親の思惑を測《はか》りかねて、互に秘し隠しに隠していることを知り、若旦那の彦次郎が死ぬと、お伝を殺してその手紙を手に入れたのだろう」
「……」
「お伝の死んだのは病死だったかも知れないが、ともかくお伝を丸めてすっかり懇意《こんい》になり、お伝が死ぬと若旦那の手紙を手に入れてこの家へ乗込んで来た。吉田屋の身上《しんしょう》を狙ったことは言うまでもない」
「へエ、驚きましたな」
主人の彦七もさすがに舌を巻きました。
「お半が若旦那の本当の恋人なら、若旦那が死んで半歳も愚図愚図しているはずはない。――吉田屋へ乗込んだのは、殊勝らしく持ちかけて、あわよくば主人のお前さんを手の中に丸め込むつもりだったに違いないが、お前さんが思いのほか確《しっか》りしているので、死んだ若旦那の弟の文三郎を取り込もうと考えた」
「……」
「その間にお内儀が喪《なく》なった、――文三郎はそれを、お半の手に掛って毒害されたものと早合点して、寺へ手紙などを出したが、お内儀の死んだのは全くの病死だった」
「お半はその喪中にも拘《かかわ》らず、間がな隙がな文三郎に絡《から》み付いた。昨夜はそれが嵩《こう》じて、あのとおり薄化粧に長襦袢《ながじゅばん》のこの上もない艶《なま》めかしい姿で、酒まで用意して文三郎を引き入れた、――十八になった文三郎が、年増女の恐しい誘いを振り切ることも出来ず、多分ウカウカとあの離屋へ入ったことだろう。しかし、若い者は若い者の良いところがあり、例えば阿婆摺《あばず》れ女などの儘にならぬ清らかなところがある。一度はお半の誘いの手を振り切り兼ねて、離屋に誘われた文三郎も、兄の事や母親のことを考えると、お半の色っぽさが、恐しいものにも、疎《うと》ましいものにも見えた」
「……」
平次の説明の微妙さに、主人の彦七は黙りこくってしまいましたが、聴いている八五郎は、呆気《あっけ》に取られて鼻の穴をふくらませて聴き入っております。縁側にも物の気配、――誰やらが立ち聴きをしているのでしょう。
「お半はとうとう独り口説《くぜつ》に実が入って、匕首《あいくち》まで持出し、一緒に死んでくれとでも言って文三郎に絡み付いた事だろう。十八になったばかりの文三郎は、全身の血が火のように燃えて、カッとなったのも無理のないことだ。煩悩と憎しみと、口惜《くや》しさと酔い心地とが一緒になって、女の手から匕首を取上げると、サッと突いた――それは運の悪いことにお半の心の臓だったのだ」
「……」
主人の彦七はガックリとうな垂れました。
「文三郎は死んで行くお半の姿を見て、夢から覚めたように驚いたことだろう。一足飛びに母屋へ飛び込んで、父親のお前さんに知らせた。しばらくは泣いて口説いて、二人は相談したことだろう。そして父子はもう一度この離屋へ取って返し、お半の胸から匕首を抜いて、その右手に持たせる恰好にし蝋燭《ろうそく》を吹き消して――こいつはやり過ぎだったが、家持の町人はどんな場合でも火の用心は忘れない――」
「……」
「父親は先ヘ出た。文三郎は中から雨戸を念入りに締めきった上、年にしては身体が小さいから、欄間の障子を外してそこから脱け出し、後で気が付いて、一間半の欄間を皆んな拭いて置いた」
「……」
「どうだ御主人、これで間違いはあるまい。違ったところがあるなら言ってくれ。幸い縁側には文三郎も聴いているようだ」
平次の説明は行き届き過ぎました。
「親分さん、私を縛って下さい。父さんはなんにも知りません。皆んな私が」
障子を開けて転げ込んだのは、言うまでもなく次男の文三郎の、激情に押し負かされた哀れな姿だったのです。
「文三郎。お前は、お前は」
それを抱き起すように、父親の彦七。
「いいってことよ。お半は馬鹿な芝居を打ち損《そこ》ねて、それがバレそうになって自害をしたんだ。それで万事落着じゃないか。なア、八、帰ろうぜ、――誰も縛られる者はないはずだ――」
平次は互いに抱き寄る父子を尻眼に、そっとその座を滑り出るのでした。
江戸の町はもう夜です。何処からともなく夏祭の稽古囃子《けいこばやし》が面白そうに聴えて来るのでした。
凧の糸目
一
すべて恋をするものの他愛なさ、――八五郎はそれをこう説明するのでした。
「ね、親分、――笑わないで下さいよ――あっしはもう」
「どうしたえ、臍《へそ》が痒《かゆ》いって図じゃないか」
「臍も踵《かかと》も痒くなりますよ。二年越し惚れて惚れて惚れ抜いた同士が、口説《くど》きも口説かれもせず、思い詰めた揚句の果て、男の方も女の方もどっと患《わずら》いついたなんて古風な話が、今時の江戸にあるんだから――」
「それが可笑しいと言うのか、お前は?」
「止して下さいよ。大家さんが意見する時の顔そっくりですぜ。そんな尤もらしい顔は親分に似合いませんよ」
「似合わなくて気の毒だが、あいにく俺の顔は、これ一つしかないよ」
銭形平次と八五郎の話は、馬鹿馬鹿しく空廻りしながら、急所急所の要領をつかんで行くのでした。
「でもね、親分。恋患いとか片思いとか、昔から唄の文句にもあるが、惚れた同士が共倒れに患いついて、明日の命も知れないなんざ、馬鹿馬鹿しいと思いませんかね」
「思うよ。もっとも、羅生門河岸《らしょうもんがし》を一と廻りすると請合い五六人の岡惚れを拵える八五郎だって、考えようじゃ馬鹿馬鹿しくなるが――」
「一々あっしを引き合いに出さずに、まず話を聴いて下さい」
八五郎の話には、何やら含みがあって、ただの恋物語でもなさそうです。
「黙って聴くとも。お前も話の途中で、妙なところが痒くならないように――」
銭形平次は、お静の持って来た徳利を一本、銅壺《どうこ》の中にポンと入れて、膳の支度を待つあいだ、神妙に八五郎の話を聴く気になった様子です。
「場所は螢沢《ほたるざわ》の畑の中」
「千駄木坂下町だね。恐しく淋しいところだ。野駆《のが》けに若い女でも見かけると、昼狐の化けたのと間違える」
「無駄が多いね、親分」
「ホイ、これはお前のお株を横取りしちゃ済まねえ」
「その螢沢の畑の中、藪と流れを挟んで、立派な家が二軒建っていると思って下さい」
「思うよ――どうせ俺たちが借りて住むような家じゃなかろう」
「西のほうの二階屋は本町の呉服問屋、朝倉屋三五兵衛の寮で、倅の竜吉というのが、学問に凝《こ》って商売が嫌い、義理の兄の福之助夫婦と、中年者の女中を一人に小僧を一人使って住んでいるうちに、暇と贅沢が嵩《こう》じて、恋の病となった」
「……」
「東の方の平屋は、浪人立花久三郎の家だ。娘お妙と甥《おい》の富坂松次郎の三人暮し、母親がいないから、武家の娘でもお妙坊は近所の百姓の娘と同じように育った――」
「それが?」
平次は話のテンポの遅いのに業《ごう》を煮やして口を容れました。
「十八ともなると、どんな御粗末な風《なり》をさせても、女の子は綺麗にもなるし、品《しな》を作ることも覚える。ましてお妙坊は生れながらの美しい娘で、色白で、背がスラリとして、眼が大きくて、唇が赤くて――親分、どうです、眼の前に綺麗な娘がチラつくでしょう」
「馬鹿野郎、白の雌犬《めいぬ》だってチラつくものか」
「弱ったね。ともかく、若くて滅法綺麗になると、女の子はこう妙に物を思うでしょう」
「そうしたものかな」
「千駄木の螢沢と来た日にゃ、林と田圃と葱畑《ねぎばたけ》と、馬小屋ばかりだ。弁当持ちで探して歩いたって、ろくなひき蛙《がえる》もいねえ。ましてお妙の物思いの相手になるようなのは――」
「向うの二階家に、朝倉屋の息子がいると言ったじゃないか」
「えらいッ親分。銭形の親分はさすがに見透しだ。畑と藪を越して、二階の窓と階下の窓と、朝夕顔を合せてるうちに、二人はニッコリ笑ったり、首を振って見せたり」
「そんなに近いのか」
「遠いけれど、二人とも若いから眼が良い」
「そしてお互いに思い思われて、相対ずくで患いついたという話だろう、武家の娘と町人の倅だ。親達はやかましいことを言って、一緒にしてくれない――と言った話だろう」
「恐しく先をくぐりましたね親分、まさにそのとおり。銭形の親分の鑑定《めきき》に狂いはないが、此処に一つ困ったことが起った」
八五郎の話はようやく本題に入りそうです。
二
「朝倉屋の倅は恋患いと言っても、実は癆症《いたみしょう》で、これは寝たきりと言いたいが、実は寝ている方が多い容体。浪人立花久三郎の娘お妙さんは、足が少し悪くて、あまり外へは出られないが、ただのブラブラ病いで、これはたいしたことはない。毎日床の上に坐って、正月が近いから、羽子《はね》つきの稽古だ――」
「家の中で羽子つきをやるのかえ」
「お妙さんと来たら、羽子の名人ですよ。もっとも、それが向うの二階家の朝倉屋の寮から見えるから、独り羽子も思いのほか弾《はず》みがつくわけでしょう」
「八五郎の前だが――その話は面白くないよ。それッきり何処まで行っても恋患いの所作《しょさ》なら、もう少し日が長くなってから聴こうじゃないか」
平次はとうとうしびれをきらしました。十九になる息子と、十八になる娘の恋患いの話などは、どう潤色《じゅんしょく》したところで、大の男の話の種にはなりそうもありません。
「これからおもしろくなるんですよ、親分。――その息子と娘は、いつの間にやら、手紙をやり取りするようになった。文使いは朝倉屋の方は丁稚《でっち》の定吉で、浪人立花の方は、お妙の従弟《いとこ》で、これは十六になった富坂松次郎というので。十六にはなったが、知恵の遅い、団栗《どんぐり》みたいな背の低い不景気な男――朝倉屋の丁稚の定吉は十四だが背も高く、弁舌もうまく、こっちの方が年も上に見える」
「……」
「向うの家の窓の中で、お妙が床の上へ坐ったまま、赤い襦袢《じゅばん》の袖をチラチラさせて、羽子《はね》をついてるのを見ると、朝倉屋の倅の竜吉も我慢が出来なくなった。二年越し床に寝たっきりで、正月が来ても凧《たこ》を揚げる楽しみもなかったのが、どんなに口惜しかったことでしょう。竜吉はフト思いついて、定吉に古い凧を持出させ、その糸目を直して二階の窓から凧を揚げることを考えた」
「……」
平次は黙ってしまいました。十九と十八の若い恋人たちが、その恋のハケ口に因《こう》じ果てて、病床の中で羽子をついたり、病室の窓から凧を飛ばして僅かに慰め合う、あわれ深い姿を思いやって、ひどくしんみりしてしまったのです。
「螢沢の畑のなかの二軒家、正月近い淋しい空に、羽子の音が響いたり、窓から凧が揚がったりするのを、土地の人は小さい声で哀れがっていましたよ――こちとらの阿魔《あま》ッ子や倅だったら、手っ取り早く新田の田吾作《たごさく》にでも口をきかして、三日経たないうちに一緒にしてやるのに、二本差《りゃんこ》や大店《おおだな》に生れた娘や息子は、さぞつまらなかろう――って」
「ひどく悟ったことを言うじゃないか」
「これからが大変で――」
「お前の大変には驚かないが――酒はもうなくなったとさ。ロレツが怪しくなるからこの辺でおつもりとしようじゃないか」
「へエ、どうぞ御自由に」
「あれ、八の野郎が変な挨拶をしているよ。もう一本欲しいって謎《なぞ》だろう」
「この話はただで聴かしては勿体ないですよ。何しろ、朝倉屋の三五兵衛の倅、何不自由なく育った十九の竜吉が、凧糸を首に巻いて、自殺していたんだから、可哀想じゃありませんか」
「凧糸を首に巻いて――」
「その凧糸に羽子《はね》が一つ挟んであったとしたら、どんなものです」
「羽子を?」
「竜吉がせがんでやっと、文使いの定吉にもらわせた羽子と聴くと、親分でも、ちょいとホロリとするでしょう」
「凧の糸は細いものだよ。あれを巻いて、人間は首を縊《くく》れるかえ、八」
「そう思うのは素人量見で――凧は自分の名の竜の字を書いた六枚張り、この辺は畑ばかりだから、この節の西北の風が吹く時、小僧の定吉に外で手伝わせると、二階からでもよく飛びますよ」
「で?」
「糸だって撚《より》をかけた逞《たく》ましい麻糸だ。それを腕と拳《こぶし》とにかけて輪がねたまま竜吉の枕許に置いてあった。その輪がねた糸を自分の首へ潜らせ、傍にあった火鉢から、鉄の火箸を二本抜いて、輪がねた凧糸に突っ込み、自分で四つ五つ捻《ひね》っている。これなら誰でも死ねるでしょう、親分」
「火箸をどこへ突っ込んでいた。前か、後ろか、右か、左か」
「え――と、右ですよ。そのうえ凧糸へ水をフッかけて滑りを留めていたのは念入りでしょう」
「……」
「動けない病人だが、よく工夫したものですね。可哀想に――」
「首に巻いた凧糸は、何本くらいになっていた」
「三四十本、――どうかしたら五六十本あったかも知れません」
八五郎の答えはひどく頼りないものでしたが、ともかくも少ない数でなかったことは確かです。
「ずいぶん変った死にようだが、どうも腑《ふ》に落ちないことがあるよ」
「へエ?」
「それは何時のことだ」
「今日の昼少し前だったそうで。下女のお北が、昼の膳を持って行って見つけ、大変な騒ぎになったが、その時はもういけなかったそうですよ」
「ほかの者は?」
「丁稚《でっち》の定吉は使いに行って留守、腹|異《ちが》いの姉のお専はお勝手に、配偶《つれあい》の福之助は、階下の自分の部屋にいたそうです。この男はお専が好きで一緒になったが、芸事に凝《こ》って商売が身につかず、年中おさらいや素人芝居や、金のいることばかり追い廻して歩くので、朝倉屋の主人三五兵衛に愛想をつかされ、義理の弟の竜吉のお守ということにして、螢沢の寮に体の良い島流しになっている厄介な男です」
「……」
平次は黙って考え込んでおりました。
「ほかになにかありませんか」
「あるよ。その寮へ兄夫婦や奉公人に気がつかないようにして、出入りすることは出来ないか」
「そんなことはたぶん出来ないと思いますが」
「多分か――」
「だって畑の中の一軒家でしょう。どこから来たって、二三町先から姿が見えますよ」
「それから竜吉は右利きか左利きか」
「首の右の方の凧糸《たこいと》に火箸を突っ込んで捻《ねじ》っているから、間違いない右利きですよ」
「お前に訊いてるのじゃない。螢沢へ行って、朝倉屋の三五兵衛にでも訊いて来るんだ」
「へエ」
「もう一つ、二つ、――竜吉の側に水がなかったか――竜吉が死んでいたとき、凧がどこにあったか――畑の向うの浪人立花なんとかいう人の家には、誰と誰がいたか――この寒いのに、娘のお妙はやっぱり窓を開けて羽子をついていたか――これだけ訊いて来るんだ」
「へエ――」
八五郎の長談義も、結局急所急所が外《はず》れていたため、もういちど、螢沢へ行って確かめて来るほかはなかったのです。
三
その翌る日の夕方から、平次はまた五合ばかり用意して、八五郎の報告を待ちました。この江戸の片ほとり、千駄木と日暮里の間の、低湿な藪地と、起伏の多い畑地の間の、二軒家に起った、病弱な倅の自殺事件は、ひどく平次の好奇心を刺戟《しげき》した様子です。
八五郎が来たのは、もう暗くなってから。お静はお勝手で何やらやっておりますが、平次は、手伝い心に雨戸をしめたり、二三度舌打ちをしたり、銅壺《どうこ》のお湯の加減を見たり、さんざん待ちくたびれた頃。
「いや、馬鹿な目に逢って遅くなりましたよ、親分」
などと八五郎が、荷物を積み過ぎた駄馬のような鼻息で、一陣の風とともに戻って来ました。
その一陣の風が、少しばかりアルコール臭かったのを、平次は気がつかないはずもありません。
「馬鹿な目というのは、酒倉の番人でもさせられたのか」
「皮肉を言っちゃいけません。螢沢の朝倉屋の寮の方は、たった四半刻《しはんとき》〔三十分〕で調べが済みましたが、池の端まで帰って来ると、湯島の吉の野郎に逢って、久振りだから一杯つき合いねえと――」
「どっちが言ったんだ」
「あっしの方で、お天気はよしお小遣《こづかい》はふんだんにあるし」
「昨日百二三十文しかなかったじゃないか」
「気味が悪いなア、親分。あっしの懐ろをいつの間に読んだんで?」
「間抜けだなア、酔って帰るとき、敷居際で江戸一番の野暮な財布を落すと、中身は皆んな縁側に飛び出したじゃないか」
「あ、そうそう」
「俺は一日いっぱいお前を待っていたんだぜ、――万一だよ、朝倉屋の倅の倉吉が右利きだったり、浪人者の立花という人の娘お妙さんが、昨日から今日へかけて様子が変だったり、竜吉の枕許に水がなかったりしたら、気の毒だが、竜吉は自害したのではなくて、人に殺されたのだよ」
「あ、そのとおりです、親分」
「なんだと」
「竜吉は右利きで、枕許には水がなかったし、立花さんの娘お妙さんには、竜吉が死んだことを誰も知らせないはずなのに、昨日の昼頃から、ひどい沈みようで、誰が話しかけても口をきかず、それから物も食わないそうですよ」
「八、こいつは厄介なことになったらしいよ。お前じゃ少し心細い。湯島の吉を誘《さそ》って、仕事の途中で呑み歩くような心掛けじゃ」
「へエ、相済みません」
「明日は螢沢まで俺が行ってみよう」
「へエ、親分が?」
八五郎にはまだ、この事件の重大さが呑込めない様子です。
四
螢沢へ着いたのは、昼近いころ、平次は八五郎に案内させて、まず朝倉屋の寮《りょう》に向いました。
冬枯れの畑の起伏も面白く、林には冬の小鳥が人|懐《なつこ》そうに鳴いて、江戸の町の真中から来ると、命も伸びそうです。ここで有徳《うとく》の町人の倅が殺されたというのは平次の鑑定も嘘のような気がしてなりません。
少しばかりの木立に沿い、枯草の土手を繞《めぐ》らして建てられた朝倉屋の寮は、さすがにこの辺の風物を支配して、なんとなく豊かな感じがしております。
「銭形の親分だそうで、私朝倉屋の三五兵衛ですが」
出迎えた主人の三五兵衛は、はなはだ不服そうです。病身ではあったが、きわめて無害で善良な存在だった倅の竜吉が、人手にかかって死んだと言われては、店の名前に取っても甚だ面白くなかったのでしょう。
年の頃四十七八。倅の竜吉の痩《や》せ形の病弱なのに比べて、大町人らしい恰幅の、血色の良い男で、話の調子などもハキハキしております。
家はさして贅沢という程でなくとも、なんとなくありあまって、落着き払った生活振りを思わせます。
「お気の毒なことで。少し腑《ふ》に落ちないことがありますから、いちおう調べさして下さい。万一、人手にかかって死んだものなら、そのままにしてしまっては、仏様も浮かばれないことでしょう」
そう言われると、まさにそのとおりです。本当に倅の竜吉が人手にかかって殺されたものなら――と、万一の疑いが事実らしくなると、父親の胸にはやはり、復讐の欲望が火と燃えないわけには行きません。
平次はいちおう家の外観を見て廻りました。せいぜい四十五六坪の家ですが、冬のことで、窓も雨戸も閉めているところが多く、そのうえ冬|囲《がこ》いが家の北から西へ伸びて、家の後ろに走る土手に連《つら》なり、その外は千駄木の方へ木立になって、白昼でも、ずいぶん人眼につかぬように、町の方から近づかれないことはありません。
腹違いの姉のお専は、二十六七の派手な女でした。こんな田園的な風物のなかでは、化粧の濃さが気になります。芸好みの道楽者の福之助を、好きで配偶《つれあい》にしたというだけあって、この女にはなんとなく、気の知れない仇っぽさと、浮気らしいところの匂うのは、はじめて対応する平次にまで、焦立《いらだ》たしい媚《こび》を感じさせるのでした。
身扮《みなり》は赤いもののチラつく、思いのほかの派手さで、青ずんだ袷《あわせ》が、ひどく特色的です。
お専の亭主の福之助は、背が高くて色白で、少し鼻声で物を言う男。芸事ならなんでも心得ていそうですが、その代り何をやらしても御飯の足しになるものはなく、お専に生け捕られて朝倉屋に入っても、主人三五兵衛の気に入らなくて、単なる冷飯食いに過ぎない待遇です。それをたいした恥とも思わず、ノラリクラリと暮して、一向平気でいられるのがこの男の取柄でもあったのでしょう。
「福之助さんとか言ったね。昨日の昼前、お前さんは何処にいたんだ」
「へエ、自分の部屋におりました。二階の梯子《はしご》段の下の六畳で、三味線の具合が悪くて、ちょいと弾《ひ》いておりましたが――」
「昼前だぜ」
「この辺は立止って三味線を聴いてくれる人もありません」
どうも少しピントが外《はず》れそうな人柄です。
「坊ちゃんと、お前さんは、仲が好かったのかな」
「どうも、竜吉は学問の方に凝っているし、私は遊芸の方が好きなので、あまり仲が好いとは申し兼ねましたが」
「内儀《おかみ》さんは?」
平次は振り返って、女房のお専に訊ねました。
「姉弟ですもの、良いも悪いもありゃしません」
そう言って無用に品を作るお専の方は、亭主の福之助よりいくらか人間が賢こそうでもあります。
平次は八五郎をつれて、二階へ登ってみました。主人三五兵衛、福之助、お専夫婦は、遠慮して階下《した》に留まり、何やらヒソヒソと囁やいている様子です。
二階は六畳が二た間。その奥の方は倅の竜吉の部屋で大方取り片付けてはありますが、隅の方に三つ四つ本箱が重ねてあり、物の本などが机の上に積んであるのも哀れです。
「凧《たこ》は此処にありました――床はよく窓の外が見えるように、この辺で。凧糸は昨日あっしがそう言って、もとのようにしてあります。この糸を輪がねたのへ首を通して、火箸《ひばし》を入れてこじると、人間は死ねるでしょうか――もっとも糸へ水をかけて、ヨリが戻らないようにはしてありましたが」
八五郎はそう言いながら、部屋の隅に片付けてあった凧糸を持って来て見せるのです。
糸は麻を撚《よ》った、確《しっか》りしたもので、腕と挙とで輪がねた罠《わな》は、直径七八寸。これに首を突っ込んで絞めるためには、火箸でも挟んで、相当締めつけなければならなかったでしょう。
平次はそれらのものをひと通り見ると、窓に立って東の方をはるかに眺めやりました。美しく晴れた冬の日です。小さい藪と、畑のゆるい起伏を越して、浪人立花久三郎の家は、思ったよりも近々と見えます。娘お妙が、床の上で羽子をついたというのは、あの白々とした窓でしょう。今日は障子が締《しま》って、なんにも見せてくれません。
「八、下女のお北というのを呼んでくれないか」
八五郎は、あたふたと階下《した》へ降りましたが、まもなく四十五六の着実そうな中年女をつれて戻って来ました。
「私は北と申しますが、なんか御用で――」
慇懃《いんぎん》な態度はひどく素朴《そぼく》ですが、平次の巧《たく》みな質問に引き出されて、自分の在所は目黒、ここには、七八年奉公していること、御主人三五兵衛は結構な人だが、養子の福之助は道楽者の癖《くせ》にしみっ垂れで高慢で、まことに仕えにくいこと、御新造のお専は悧巧そうな馬鹿で、きりょうは相当以上だが亭主の言いなり放題になること、死んだ坊ちゃんの竜吉は、身体が弱かったが良い人で、立花様のお嬢様と、想い想われている仲を、生きている内は一緒にもなれず、親しく口をきく折もなかったことを、そればかりは可哀想と、この四十過ぎの女は本当に泣くのです。
竜吉の死んだのを発見した時の驚き、それも八五郎が報告してくれたほかにはなんにもなく、丁稚《でっち》の定吉は賢こい子だが、人摺《ひとず》れがして少し悪賢こくはないか――などと言い添えます。
なおも部屋の中を探した平次は、机の抽斗《ひきだし》から、綺麗に重ねて半紙に包んで、紐《ひも》までかけた手紙を二十四本も見つけ出しました。
「なんです、それは?」
差しのぞく八五郎の前へ手を振って、
「お前の見るものじゃない」
そっと自分の懐中《ふところ》に隠しました。それはやるせない処女心を、たどたどしい筆に托《たく》した恋文で、言うまでもなく畑の向うの立花久三郎の娘お妙が、精いっぱいの思いで竜吉の手もとに届けたものでしょう。
「あれは誰だ」
首を挙げた平次は、畑の中を此方《こちら》へ近づいて来る二人の少年を指しました。
「背の高いのは此家《ここ》の丁稚《でっち》の定吉で、背の低いのは、立花様の甥《おい》の松次郎ですよ」
ちょっと見はどちらも十四五と見えますが、背の低い、よく肥った松次郎の方は、年が二つ上と聴いております。身扮《みなり》も定吉は小気のきいた丁稚姿で、松次郎は粗末ながら武家の子らしく、短かいのを一本差して、小倉の袴《はかま》を裾短かに穿いております。
二人は此方をチラリと見ましたが、そのままきわめて無関心に階下《した》へ入った様子。主人の三五兵衛と、何やら声高に話しているのが、二階まで筒抜けに聞えます。
五
平次はいちおう定吉と松次郎に逢いましたが、二階から見た印象と少しも変らず、定吉は口賢こい才気走った少年で、十四というにしては、身体の発達もよく、性格的にもひどくませております。
「あのとき私は町まで買物に行って、日本橋のお店で、お昼を頂いて帰りました。坊ちゃんが死んでいるとは夢にも知らず――」
などと年齢にしてはよく舌が動きます。
立花家の甥の富坂松次郎はどん栗に袴《はかま》をはかせたような少年で、十六とはどうしても見えないほど発育が悪く、ニキビの盛大なのと、口の角《すみ》のあたりを白くしているのが、妙にこの男を愚鈍《ぐどん》らしく見せます。
「私は家にいたよ。霞網《かすみあみ》を借りに百姓家へ行くつもりで出かけて来ると、この家が騒ぎだ。畑の中の小道を此方へ小戻りして驚いたよ。竜吉さんが死んでいるというから――」
どこか連絡の悪い修辞法が、この少年の賢こくないところを説明しているようです。
二人の少年から、たいしたことを聴き出せないとわかると、平次と八五郎は連れ立って、畑の中の道を、東の方に見える立花家へ辿《たど》りました。
葱の青さ、抜き捨てた大根の白さなど、ところどころに色彩の変化はありますが、だいたいは霜解《しもどけ》と空っ風に荒された畑地で、歩くと不気味な足跡が一つ一つ印されるような土地です。
「ところで親分」
「なんだえ、八」
八五郎はフト思いついたらしく平次に尋ねました。
「竜吉という倅は、本当に人に殺されたんでしょうか。あっしはまた、病身で気が小さい息子だから、自分で首を縊《くく》って死んだような気がしてならないんですが」
「いちおうは尤もな疑いだが、俺はまだ、たった一つお前にも言わないことがあったんだ」
「へエ」
「検屍弁覧という本にも書いてあるし、立派な医者も言っていることだが――人間は自分の手では、自分の首を絞めて死ねないものだということだよ」
「へエ」
「嘘だと思うなら、手拭かなにかで、お前の手でお前の首を締めてみるがよい。苦しくなって夢中になって、いよいよ命がなくなるという時は、気持が茫《ぼう》としてしまって、自分で絞めている手拭を離すそうだよ」
「?」
「だから首を吊る者は、かならず長押《なげし》か梁《はり》か、木の枝にブラ下がって、茫となって絞め手を緩《ゆる》めないようにするのだ。もっとも箪笥《たんす》の抽手《ひきて》で首を縊ったためしもあり、自分の足で首を絞めた縄を吊って夢中になってもその縄が緩まない工夫をする者もあるそうだが、そんなのはまだ俺も見たことがない」
「でも、竜吉を絞めた凧糸は、火箸《ひばし》を罠《わな》に突っ込んで、ギュウギュウ締めてありましたよ」
「そこが、人にやられたのか、自分でやったことか、見わけのむずかしいところだ。俺は、火箸を罠に突っ込んでギュウギュウ締めて死ぬのだって、自分の手ではむずかしかろうと思うよ――苦しくなって茫としたとき、少し手を緩めると、火箸はすぐ戻るから、本人は息を吹き返すことになるだろう」
「そんなものですかね」
二人の話は結論に入る前に、もう立花家のお勝手に立っておりました。
低い生垣《いけがき》越しに見ると、西側に部屋の障子が少し開いて、若い娘の姿がチラリと動きます。それはたぶん、娘のお妙の好奇な顔でしょう。八五郎が形容した色の白さが、底に青澄んだ光を蔵した白さで、叡智か情熱か、ともかく異常なものを持った顔色です。
眼は大きくて、印象的に澄んでおりました。病弱のせいか、頬は細っそりと痩《や》せ、唇の赤さだけが、熟れたグミのように眼立つのは、虫のついた果物が、早く色づくと同じような不健康な魅力でした。
「御免下さい」
平次は静かに訪《おと》ずれると、奥で何やら言い争っておりましたが、しばらく経ってから、
「なんじゃ、用事は?」
五十前後のやかましそうな浪人者が、お勝手いっぱいに、通せん坊をするように立ち塞《ふさ》がりました。たぶん娘のお妙と、なにか一と悶着《もんちゃく》のあった様子です。
「私は町方の御用を承わっている、神田の平次と申すものですが、ちょいと、お嬢様にお目にかかって、伺いたいことがありますので」
「……」
継ぎ穂もなく苦りきっているのへ、平次は重ねて、
「実はお向いの朝倉屋の倅が亡くなったことについて、少しばかりお訊ね申したいので」
注を入れました。
「何? 御用聞? 銭形平次とかいうのはお前か――なんであろうと、朝倉屋は朝倉屋、拙者《せっしゃ》立花久三郎は立花久三郎だ。なんの拘《かか》わりも因縁も付き合いもない。娘に逢おうなどとはもってのほかだ。帰れ帰れ」
まことに剣もほろろの挨拶です。
が、この父親の、世間体を兼ねた強気一点張りの応答も、そっと袖を引く手にたじろぎました。
紫陽花《あじさい》のような感じのする娘お妙が、不自由な足を引摺《ひきず》ってお勝手へ出て来ると、父親の袂を引いて、その我武者羅《がむしゃら》な強気を牽制しながら、
「あの、竜吉さんは、本当に人手にかかって亡くなったのでしょうか」
涙を含んだ大きい眼が、平次を見上げて、父親の蔭からまたたくのです。
「お妙、引っ込んでいるがよい。お前の出る幕ではない」
父親は袂《たもと》を払って激しい言葉で叱りつけますが、そのあらぬ方を見た眼もまた、妙にうるんでおりました。
「でも、それだけは聞かして下さい。竜吉さんは、本当に人に殺されたのでしょうか」
処女の頬はもう濡《ぬ》れて、グミの唇が、激しい悲しみに、捻れたように歪《ゆが》むのです。
六
「お父様、お願い。この人に、少し物を訊かして下さい――竜吉さんは本当に、人手にかかって死んだのでしょうか」
重ねてお妙は、父親の腕にすがりつき、刀を抜こうとする手を拒んで、その前へ廻るのでした。
身体の不自由さは、長いあいだこの娘の生活を暗くしてしまって、陽の目を見ることの少い顔色は、不気味なほど蒼白くなっておりますが、それがまた、若さと情熱にかき立てられて、不思議な美しさを発散するのです。
「朝倉屋の竜吉は、気の毒ながら人に殺されましたよ。それについてお嬢さん、少しお話し下さいませんか」
平次は父親の忿怒《ふんぬ》の隙を狙って、この娘から、なにかを引き出そうとしているのです。
「勝手にするがよい、恥知らず奴《め》」
父親――立花久三郎は、娘の一生懸命さに圧倒されたものか、諦めた様子で袖を払いました。竜吉が生きていればこそ、嫁にやる、やらないの争いも続けたのですが、相手が死んでしまっては、あまり頑固《がんこ》らしいことを言い張るのも、妙に後ろめたかったのでしょう。
「どんな様子でした、竜吉さんの最期は」
父親がいなくなると、お妙は平次に縋《すが》りつきそうにするのです。畑を隔《へだ》てて、遠く遠く恋人と顔を見合せながら、とうとう契《ちぎ》る折もなかった十八娘は、もう恥も外聞も忘れて、最期の様子を聴くことに夢中だったのです。
平次と八五郎は、代る代る言葉を尽して、竜吉の様子を話しました。
「凧糸で首を巻いて――あの羽子《はね》を挟んで――」
熱心に、吸いついたような熱心さで、細かく細かく訊き返しながら、お妙はぬぐいも敢《あ》えぬ涙に濡れるのです。
「気の毒なことに、下女のお北が、少し早目のお昼の膳を運んで行ったときは、もう手の尽しようもなかったのですよ」
平次は、娘の涙を縫って、ようやく語り終りました。
「下女のお北は、どんな着物を着ていました?」
お妙は不思議なことを訊きました。
「地味な、焦《こ》げ茶色の、木綿物の縞《しま》の袷《あわせ》でした」
平次は答えます。
「他に女の方は?」
「姉のお専だけ、身扮は青色小紋の、派手な袷《あわせ》」
「……」
「それがどうしました、お嬢さん」
お妙は黙ってしまいました。深刻な悲しみがこの少女から、気兼も遠慮も、そして涙までも押し流してしまった様子です。が、しばらくすると、
「お昼少し前、――昼のお膳を持って行って――すると竜吉さんが殺されたのは巳刻半《よつはん》〔十一時〕私が羽子を突いていたころ、――松次郎さんをお使いにやって間もなくかしら――」
「松次郎さんを、どこへ使いに出しました」
「……」
お妙はそれに答えず、あらぬことを考えている様子です。
「ところでお嬢さん、――この手紙は、竜吉の机の引出しから持って来ましたが、これで、皆んなでしょうね」
平次は懐中から、可愛らしい絵封筒に入ったのや、天地紅の半切に書いて、そのまま結び文にしたのを取揃えて、二十四本の手紙をお妙の前に出して見せました。
「まア」
お妙は熱いものに触りでもしたように、出しかけた手をそっと引っ込めます。
「勘定してみて下さい。たいてい日を揃えてあるようですが――」
「……」
平次に重ねて言われると、自分の書いた手紙を二十四通、膝の上に置いて、身体を斜《なな》めにしたまま、極り悪そうに勘定しておりましたが、
「一本だけ足りないようです。一昨日松次郎が持って行ったのが――」
そう言うのがせいぜいです。
「松次郎がまだ行かなかったのでしょう」
平次は慰め顔になりました。霞網《かすみあみ》を借りに行ったはずの松次郎は、恐らくお妙の文使いが本当の目的だったことでしょう。
「その松次郎は?」
「朝倉屋へ行っていたようですが」
「私が逢いたがっていたと――そう言って下さいな」
お妙のそう言うのを、平次はうなずいて引き下がりました。
七
平次はその足ですぐ、もういちど朝倉屋に引き返しました。
「どこへ行くんです、親分」
八五郎はその後ろから、少しあわて気味に跟《つ》いて来るのです。
「あのお嬢さんの手紙が一本、どこかにあるはずだよ」
「それから?」
「もういちどあの凧《たこ》の糸を見よう」
平次は言葉少なに応えて急ぎました。
朝倉屋に着いて、福之助とお専に黙礼した平次は、いきなり二階へ登って行くと、そこには小僧の定吉と、浪人立花久三郎の甥《おい》松次郎が、何やらしめやかに話しながら、竜吉の死骸を看ているのです。
「二人で何をしているんです」
平次は少しとがめる調子になります。
「坊っちゃん一人じゃ淋しかろう――って、松次郎さんが言うんですよ」
小僧の定吉でした。
「朝倉屋の主人は?」
「用事があって日本橋の店へ帰りましたよ。番頭さんでもよこして、何彼《なにかれ》の支度もしたいんですって」
「兄さん夫婦もいるじゃないか」
「薄情なものですね。死人は気味が悪いって、二人とも寄りつきませんよ」
小僧の定吉は思いのほかに皮肉でした。富坂松次郎は、それを黙って聴いているだけです。
「ちょいと用事があるが、二人とも、階下《した》へ行ってもらいたい――」
「それじゃ、しばらく頼みますよ」
定吉といっしょに立上がる松次郎を、少しやり過して平次は呼び留めました。
「松次郎さん、ちょいと」
「私にか?」
松次郎は振り返りました。あまり賢こくなさそうでも、武家の子だけに、何処か折目の正しいところがあります。
「立花さんのお嬢さんが、竜吉へやる手紙の文使いを頼んでいたそうですね」
「……」
松次郎は、黙って白い眼をしております。
「手紙は二十四本、一々竜吉の受取った順でしまってありましたが、一昨日の一本だけが見当らないのはどうしたことでしょう」
「知らぬ――と言ったら」
「そんなことはありません。立花様のお嬢様が、たしかに松次郎さんにお頼みしたと、こう申します」
「……」
「人一人の命にかかわる、大事のことです。拝見できませんか」
平次は少し執拗《しつよう》に追及するのでした。
「不本意だが、お目にかけよう。これだよ――お妙さんの名前に拘《かか》わると思って、私の手にあるうちに、揉みくちゃにして捨てようと思ったが――」
従姉《いとこ》の名前のために、そう考えたのも無理ないことですが、それにしても今までに運んで来た、二十四本の恋文の始末をつけなければ、最後の一通を隠しおわせたところでなんの足しにもなりません。
松次郎はその間に自分の懐中を探っておりましたが、やがて、絵封筒から抜いた、揉みくちゃの手紙を出すと、ポイと平次の方に投《ほう》って、トントントンと定吉の後を追います。
「ひどく揉みくちゃですね、親分」
「そのうえ念入りに千切ってあるよ、――可哀想に、竜吉はこの手紙も読まずに死んだことだろうが」
文句は悲しく甘いだけのこと、素より大の男の読むようなものではありませんが、半切へ書いた長い手紙が、むしり取ったように捻《ねじ》切られたうえ、最初の半分ほどは滅茶苦茶になって、所々破けたところもあり、よじられて小皺《こじわ》が寄って、見る影もなく痛んだところもあるのです。
「ところで、この死骸を見ると、竜吉の身体はよっぽど悪かったらしいな」
骨と皮になった少年の死骸から、痛々しそうに平次は眼を反けました。
「?」
八五郎は、平次の思惑《おもわく》を測り兼ねて、ジッと見上げました。
「これだけ弱っていると、自分の首に巻いた凧糸の罠を、自分の手で絞って死ねるだろうか」
「……」
「手拭や紐で、自分の首を絞めては、どうしても死ねないのが本当だ――これは前に言った。でも、箪笥《たんす》の引手でもよい、逞《たく》ましい火箸《ひばし》でも構わない、そんなものを使って絞めさえすれば、自分で自分の命を絶てないこともないというのが、首縊りの言い伝えだが、この竜吉というのは、病み呆《ほう》けて、力も元気もうせ果てている。自分の首に巻いた凧糸を、火箸や棒切れで絞って、本当に死ねるだろうか。水は一箇所だけ付いていたはずだ、――糸が皆んな濡れていたわけじゃない、――いや一箇所も――火箸を首の右の方で突っ込んで絞ったとすると、そのあべこべの、左の方だったと思う、水は――」
「どこにもありませんよ、親分」
「その土瓶《どびん》が空っぽになっていたはずだ。病人はときどき水を欲しがるから、その土瓶の中には、少しは水が残っていたはずだと思う。竜吉が死んだとき――自殺だか、人に殺されたかわからぬが――ともかくその水を首へ巻いた凧糸へ、土瓶の口から直かにこぼしたに違いあるまい」
「自分の首へ凧糸を巻いて、その凧糸の上から、存分に水を滴《たら》し込んだというわけでしょう、――冷たいことだね」
「そらからもう一つ、松次郎がお妙の手紙を持って、誰にも見つからずに来る道があるに違いないと思う。お前は少し身体が重くて、文使いの所作には不向きだが、その窓から出て庇《ひさし》を渡り、冬囲いの柱を伝わって外へ――土手の蔭を林へ抜け、畑の途中から道を取って返して、向うの道の途中まで行ってみてくれ」
「へエ、こいつはわけもありませんよ。誰も見てさえいなければ」
八五郎はもう、足袋《たび》を脱いで懐中へ入れると、物々しくも十手を横|哺《くわ》えに、窓から庇へ、スルリと滑って出ました。
八
その夜、竜吉の姉のお専が、小用に起きて帰りが遅いので、夫の福之助が手燭《てしょく》を持って探しに行くと、便所の前の板敷に、長々と伸びているのが見つかりました。
が、見つけたのが思いのほか早かったのと、手当てが行届いたせいか、お専はまもなく息を吹き返しました。幸い夫の福之助が、ノラクラ者のくせに、若いとき医者の玄関に住込んでいたことがあり、応急手当のひと通りくらいは、心得があったのです。
急報を受けて、平次と八五郎が駆けつけたのは、翌る朝の辰刻半《いつつはん》〔九時〕頃、その時はもうお専は、すっかり元気を取り戻し、日頃の媚態《びたい》へ輪をかけたような表情で、事細かに昨夜の一|埒《らつ》を話してくれました。
「びっくりしました。いきなり闇の中から飛び出した者が、私の首へなんか引っかけてギュウギュウ締めるんですもの。夢中になって藻掻《もが》いたが、手掛りもなんにもありゃしません。そのうち気が遠くなって、――眼を開いた時は、うちの人と定吉とお北が、大きな声で呼んでいました。――まだ喉《のど》のあたりが、変な気持ですよ。喉の仏様でも、どうかしたんじゃありませんか知ら」
この饒舌《じょうぜつ》の中からは、平次もなんの手掛りもつかめません。
「なんで首を締めたんだ」
「これですよ――仏様の始末で、階下《した》へ置いたので」
お専の亭主福之助が取り出したのは、なんと一日前弟の竜吉を殺した、あの凧の糸ではありませんか。
「……」
平次も思わず黙り込んでしまいました。あまりの無気味さ、畳の上へほうると、ゾロリととぐろを巻く凧糸の輪がねた一とかたまりは、糸目から外して、二度人の命を狙った兇器だったのです。
「私も油断しました。でも、子刻《ここのつ》〔十二時〕過ぎに小用に起きたんですから少しはぼんやりしていたことでしょう。首へそれを投げかけられた時なんか――手拭掛けが首へ絡《から》まったくらいに思っていたんです。すると、払いのける前に、それがギュウギュウ締ったから驚くじゃありませんか」
お専のような達者な年増が、首に凧糸を引掛けられて、ギュウギュウ締められるのは、あまり賢こいことではありません。
「八、こんどは凧糸は濡《ぬ》れていないようだな」
「濡らさなくたって、これならよく締めつけられますよ。曲者もだんだん巧者になるから」
「いや、竜吉殺しとは別の人間かも知れないよ。いずれにしても、亭主の福之助と、小僧の定吉と下女のお北に一番疑いがかかるわけだ――外へ出てみよう、此処《ここ》は外からでも楽に入れる」
畑の中にある朝倉屋の寮は、ろくに締りというものをしていないので、外からでも楽に入れるのが一つの特色です。
「八、あの足跡をどう思う」
畑の土は長いあいだの霜柱で脹《ふく》れ上がって、そのうえ春になってからの天気続きによく乾いておりました。その乾ききった土――柔かく脹れ上がった土の上へ、点々として下駄の跡が、向うの道へ続いているのです。
「昨日まではなかった足跡ですね」
「そのとおりだ」
「ひどくよろけていますが、男下駄じゃありませんか」
「もう少し気のつくことはないか、八」
「さア」
八五郎の観察は、そのくらいのところで行詰ってしまいました。
「よく見るがよい、下駄の跡が行きと帰りと二た筋あるが、往き帰りとも、一方が深くて一方が浅いだろう」
「へエ」
「一方の足に力が入って、一方の足は浮くような歩き方だ」
「……」
「もう一つ、足跡と足跡の間が、右と左が違っている。浅い方が幅が狭くて、深い方が幅が広い。そしてその幅を揃えるのに、ときどき立留って足を引摺っている――」
「跛者《びっこ》だ――親分」
「そのとおりだよ、――この辺に足の悪いのは?」
「あの浪人者の娘――でも男下駄は変ですね」
「女が男下駄を履《は》いて悪いという法はないよ」
「なるほどね、――すると、お専の喉を絞めた曲者は、わかっているじゃありませんか。行ってみましょうか」
「いや、早合点しちゃいけない」
平次はたいして急ぐ様子もなく、寛々《ゆるゆる》とした足取りで、浪人者立花久三郎の家に近づきました。
九
もう昼近い日射しです。娘のお妙がたった一人、縁側でしょんぼりと、朝倉屋の方を見ているのが、八五郎の太い神経にも、わびしく映ったのでしょう。
「あの娘がね、親分。あんな顔で」
「黙っていろ」
たしなめて平次は、庭木戸を押しあけました。
「お嬢さん」
「あ、平次親分、向うから来るのがよく見えましたよ」
「お父様と、松次郎さんは?」
「二人とも留守ですよ」
娘の顔には、昨日の絶望的な色はありませんが、大きい屈託《くったく》が、その弱い身体を押しひしぐらしく、日蔭の花のような痛々しさと、言うに言われぬ、病的な美しさを感じさせるのです。
「ちょうどよいあんばいで――少し伺いたいことがあるんですが」
「……」
娘は黙って、縁側に座布団を二つ持ち出しました。娘の方にも、なにか聴きたいことがある様子です。
「昨日朝倉屋の内儀《おかみ》が殺されかけました。御存じでしょうね」
「松次郎さんが、そんなことを申しておりました」
お妙は静かに答えて、少しも取り乱した様子はありません。
「ところで、そのことについて、お嬢さんに打ち明けてもらいたいのですが」
「?」
「昨夜、お嬢さんは、畑の中を朝倉屋の寮へいらっしゃいましたね、――道のないところに、足跡がついておりましたよ」
平次は至って平坦な調子で、こう言いきったのは、不意の言葉から受ける、相手の反応が見たかったのです。
「え、参りました、――子刻《ここのつ》〔十二時〕少し前でした」
お妙の答えにはなんのわだかまりもありません。
「……」
平次は黙って先を促《うなが》しました。
「一度――私は竜吉さんに別れを惜しみたかったのです。丈夫な頃、逢ったきり、もう一年も話をしたことはありません」
「……」
「昼では父が見張っていて、私を外へ出してはくれません。思いきって暗くなった畑の中を、真っすぐに参りました。朝倉屋はいつでもろくな戸締りをしないことがわかっております。そっと二階へ登って、あの人の死に顔に逢って参りました。お灯明はありましたが、お気の毒なことにお通夜をする人もなく、皆んな銘々の部屋へ引き取って休んでいる様子でございました」
お妙はせぐり上げる涙に、ときどき絶句しながら、思いのほか雄弁にこう続けるのです。誰に打ち明けることも出来なかった激情が、平次という同情者を得て、相手の身分かまわずに爆発したものでしょう。
十八の処女、病弱な上に足の悪い娘が、二町ばかり隔《へだ》てた畑の中を、言い交した若い恋人の死骸に、最後の別れを惜しみに通った光景《シーン》は、本人の口から聴くと、また格別の無気味さです。
「その時、その時ですよ、お嬢さん。朝倉屋の内儀――竜吉の姉のお専には逢わなかったのですか」
「逢いました」
「?」
「私が二階の部屋で、竜吉さんの死骸に別れを惜しんでいるとき、階下《した》で変な物音がしておりましたが、帰りに梯子段の下をのぞくと、遠い通夜《つや》の灯りで、あの人が板の間に倒れているのを見ました」
お妙の言葉は、あまりに平静であまりにも無造作に聴えます。
「どうしてその時、大きな声を出さなかったので?」
「……」
「お嬢さんが、朝倉屋の内儀殺しの疑いを受けても、あの畑の中の足跡を残しては、弁解の道がなくなりますよ」
平次はようやく此処までお妙を追い詰めたのです。その返事一つでは八五郎が飛びかかって、このか弱い処女に縄をうったかも知れません。
「では、皆んな申しましょう、――これだけは、誰にも漏らさないはずでしたが――」
お妙は陽を避けて、斜《ななめ》に平次と対しました。病弱な娘は、その知恵も、心情も、世の常の娘よりは発達が早いらしく、――虫喰いの果物が、早く色づくのと同様、この娘には十八か十九とは思えぬ、考え深さと美しさが、不具らしい成熟を遂げているのでした。
「聴きましょう、お嬢さん」
「竜吉さんと、あのお姉さんは、姉弟と言っても母親が違い、日頃仲が悪かったことは御存じでしょうね」
「……」
「内儀さんは弟と仲が好いように申しておりました。でも、竜吉さんのお手紙には、姉さんを怨む言葉のないことはなかったのです」
「……」
「その竜吉さんは、長い病気で姉夫婦にどんなに持て余されていたことでしょう。でも、腹違いとは言っても、本当の姉のお専さんが、弟を殺す気になったとはなんとしたことでしょう」
「姉が弟を?」
平次もこの言葉にはさすがに胆を潰しました。
「私はこの眼で、この部屋から、確かに見ました。青い袷《あわせ》を着た女の人が、竜吉さんの側へ寄って、後向きになって、たぶん私の手紙でしょう――何やら読んでいるところへ、首へ白いものを引っ掛けたのです――私はまさか、姉が弟を殺すところとも知らず、そのまま他のことに気を取られて、眼を外《そ》らしてしまいました。しばらく経って向うの家の二階を見ると、何やらただならぬ騒ぎで、人が登ったり降りたり、外へ飛び出したりしておりました。そしてしばらく経って松次郎さんが、竜吉さんが死んだと教えてくれたのです」
「それはお嬢さん、あなたの夢ではなかったでしょうね」
「皆んな本当のことです。毎日毎日向うの二階を眺めているので、私の眼は、遠眼鏡のように遠見がききます、竜吉さんを殺したのは、青い袷《あわせ》を着た、女の人に間違いもありません」
「……」
「昨夜、竜吉さんに別れを惜しみに行った時、その人が梯子《はしご》の下に倒れて気を失っておりました。首には凧糸が巻いてありました、――私はその人を――竜吉さんを殺した相手を、助けなければならなかったでしょうか」
お妙は顔を挙げて、涙に曇った眼で、ジッと平次を見詰めるのです。
十
「親分、お専を殺しかけたのは、やっぱりあの娘じゃありませんか」
もういちど朝倉屋へ引返す途中、八五郎はこんなことを言い出すのです。
「いや、違う、あの病身の娘に、達者過ぎるほど達者なお専の首が締められるわけはない。それに、畑の足跡は、跛足《びっこ》ではあるが、往きも帰りも少しも乱れてはいない、若い娘が人一人殺して、あんな同じ足取りで歩けるはずはないだろう」
「なるほどね」
「俺には、竜吉を殺した下手人も、お専を絞めた曲者も、大抵わかったような気がするよ。ともかく、もういちどお専に逢ってみるとしよう」
平次と八五郎が訪ねて行くと、ちょうど竜吉の弔《とむら》いの支度で家の中はゴタゴタしており、近所の衆の中には、定吉などと一緒に、雑用をしている松次郎の姿も見えます。
平次は定吉を呼んで、ちょいと内儀《おかみ》のお専に、顔を拝借したいと言うと、
「あら、銭形の親分さん」
などと、お専は品《しな》を作りながら、物蔭に待っている平次のところへやって来ました。
「内儀さん、少し訊きたいことがあるんだが――」
「あら、そんなに改まって――私はまアどうしましょう、こんな風をして」
などと、昨夜眼を廻して、諸人に醜体《しゅうたい》を見せたことなどはもう忘れております。
「ほかじゃないが、竜吉が死んだ時――死骸を見つけた時だよ、――内儀さんは、どんな着物を着ていたのだえ」
「この袷《あわせ》ですよ、私はこの青い小紋が大好きで――」
「真実《ほんと》かえ、こいつは大事のことなんだが、少しの間も脱がなかったのだな」
「そう言えば、ほんの半刻ばかり、脱いで二階の陽当《ひあた》りの良い欄干《らんかん》へ乾していましたよ。お勝手で水仕事をして、袖のところを少し濡らして、その乾く間だけ、黒っぽい縞の袷を着ていましたが」
「乾した場所は?」
「東側の縁の外で」
「そこは畑の向うの立花さんの家からは見えないだろうな」
「見えませんよ。この家は少し東の方へ向いているから」
「それで、青い小紋の袷と着換えたのは何時だ」
「竜吉が死んだ騒ぎの後、いろいろの人が来るので、黒い縞《しま》の袷を脱いで、また青い小紋と替えました、――その時はもう袖口の濡れも干《かわ》いたので」
「その黒い袷と着換えたのを、誰か知ってる者はないのか」
「お北は、――あら、その黒い縞の方もよく似合うじゃありませんか、などとお世辞を言っていました。竜吉が死んでいることを見つける少し前です」
お専の応《こた》えには、なんの渋滞もありません。
「八、曲者の正体はわかったよ」
平次の声は自信が充ちました。
「誰です、親分」
八五郎は弾《はず》みきっております。
「あれだ、畑の中を、飛んで行く奴」
「あ、あの野郎」
「気をつけろ、刃物を持っているから」
「なんの」
八五郎は疾風《しっぷう》の如く飛んで行くと、畑を突っきって逃げて行く男の後ろから、無手《むず》と組みつきました。
平次が駆けつけるまでもなく、争いは簡単に埒《らち》があきました。八五郎に縄を打たれて引っ立てられたのは、憤怒と絶望に歪《ゆが》む、富坂松次郎の顔だったのです。
*
下手人の松次郎は、浪人と言っても武士の子だったので、いちおう厄介な手続きを済ませ、平次と八五郎が神田に引き揚げたのは、もう夜でした。
「どうしてあの松次郎が下手人とわかったんです」
八五郎は晩酌《ばんしゃく》につき合いながら、平次の解説をせがみます。
「松次郎は従姉《いとこ》のお妙に夢中だったのさ。折があったら竜吉を殺そうと狙《ねら》っていたことだろう。殺して置いて、自殺と見せかけようとした。凧糸で首を絞めただけでは、自殺は出来ないが、火箸を突っ込んで捻ると、ずいぶん死ねないこともあるまい。うまい術《て》を考えたものだよ、――もっともそれも丈夫な人間に出来ることで、病身の竜吉には先ずむずかしいと見なければなるまい。それに自分の首へ巻いた凧糸を、火箸で捻るとしても、右利きの竜吉が、首の右側でやったのは変じゃないか。これは右利きなら、左側の首の方が楽だ」
「なるほどね」
八五郎は自分の首のあたりに手をやって試してみたりしました。
「それから、土瓶《どびん》の水をわざわざ凧糸の一方に滴《た》らすのも変じゃないか。やってみるがよい、凧糸を皆んな濡らしてやるなら楽だが、首へ巻いた凧糸に土瓶で水を滴らすのは、ずいぶんイヤな心持だぜ――春といってもまだ薄寒いし、そんなことをしたって、なんの役にも立たないじゃないか、ただ自殺と見せかけるだけのことだ」
「……」
「それから、松次郎はお妙に頼まれた恋文をまだ竜吉に渡さなかったと言っているが、その二十五本目の恋文は、半分千切れて、縄かなんかで絞ったようになっているじゃないか。竜吉がその恋文を読んでいるところを、松次郎がいきなり背後《うしろ》から首へ凧糸《たこいと》の輪をかけて絞めたんだ。読んでいた手紙もメチャメチャになったが、証拠を残したくないので、死骸からむしり取って行ったのだろう――凧糸に羽子《はね》を挟《はさ》んだのは、竜吉の床の側にあった羽子を使って、自害と見せかけた細工だ」
「……」
「そして竜吉に逢わなかったと言ってるが、土手と林と冬囲いにかくれて、庇《ひさし》から二階へ誰にも見られずに入れるし、仕事は手っ取り早く片付いたに違いない。もっとも、その前に東側の欄干《らんかん》からお専の青い袷《あわせ》を外して来て、上から羽織ったのは賢こいやり方だ。お妙ほどの悧巧な娘も、竜吉殺しの下手人をお専と思い込んでしまった」
「お専を殺そうとしたのは?」
「やっぱり松次郎さ。お妙の後をつけて朝倉屋へ行き、お妙が二階で死骸に逢っている間に、下に隠れていたことだろう。その辺に凧の糸の輪がねたのがあって、お専は小用場から出て来て、後ろ向きになって手を洗ってる――」
「……」
「松次郎は、女物の袷を羽織って、竜吉を殺した現場を、お専に見られたと思い込んでいたことだろう。お専はぼんやりで、そんな細かいことに気のつく女ではないが、これは松次郎が自分の知恵に負けたのだ。独り角力《ずもう》を取って背負投げを喰ったようなものだ。幸いお専は助かったが、竜吉は可哀想に――」
平次は暗然とするのです。幸いほかの者に怪我がなかったのが、せめてものこの事件の慰めでした。
(完)